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[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査(GS×ネギま! 2スレ目) 2018/2/22 お知らせあり
Name: スパイク◆b698d85d ID:a9535731
Date: 2018/02/22 23:06
お知らせ。
長らく手をつけられておりませんでしたが、プロットは完成しました。
ただリアルで時間が取れないため再開に関してはまだ未定です。
別作品で「エタったと言ってくれた方があきらめがつく」とまで言われてしまい、待ってくださっている方には大変申し訳ない。

代わりと言っては何ですが、現在「小説家になろう」様の方で、「ネイミス/スパイク」の名義でオリジナルを展開中。
単にシステム面での使いやすさ故の選択でしたが、埋もれるのが速すぎて箸にも棒にもかからない状態に(笑)

この作品を待ってくれている方に「今は代わりにオリジナルを」というのもある意味失礼なのかも知れませんが、少し違ったスパイク作品群を片手に、もう少々おつきあいいただければ幸いです。



どうも、スパイクです。

拙作「麻帆良学園都市の日々」が、かなりの話数になってまいりましたので、
新規にスレッドを立てたいと思います。

1スレ目のURLを貼り付けておきたいところですが、
業者対策でURLの貼り付けができなくなった、と聞きましたので、
1スレ目「麻帆良学園都市の日々」をご覧になりたい方は、
「麻帆良学園都市の日々」あるいは「スパイク」で検索してください。


簡単に注意点のおさらい

・第一に「物語重視」のお話です。
 この物語の中での設定と、原作の設定が矛盾した場合は、
 この物語の設定を優先します。ご了承ください。

・上記にはアクションシーンに対する「強さ」も含まれます。
 原作を読み比べた場合、一部のキャラクターの強さが、
 上乗せ、あるいは削減されている場合がありますが、ご了承ください。

・なるべくオリジナルキャラクターは出さない方向で進みますが、
 やむを得ず出す場合もあります。ご了承ください。

・原作設定への独自解釈を含みます。

とりあえず大まかな注意点です。
とはいえ、「これを了承できない方はブラウザバック」というつもりはありません。
さまざまな考えの方が、この作品を読んでどういう風に思うのかを知りたくありますし、
できるだけ多くの方が楽しめる作品作りを目指したいと思います。


余計な蛇足を付け加えてしまったような気もしますが、
では拙作「麻帆良学園都市の日々」2レス目、
「麻帆良学園都市の日々・中間考査」
お付き合いくださいませ。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「将来」
Name: スパイク◆b698d85d ID:a9535731
Date: 2011/02/26 20:28
344:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 22:58:55 ID:kdis8t73k
>315 ネットアイドルと言えば“ちう”たん一択で
あのロリ加減と大胆さにクラクラ来た香具師は多いはず

345:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:25:02 ID:s938iglsg
>344 通報しますた

346:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:25:50 ID:lc9237uks
>345 はえーよwww
つかマジレスするとちうたんっていくつよ?

347:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:04:37 ID:s938iglsg
小学生じゃね? ……ハァハァ

348:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:05:12 ID:lc9237uks
>347 通報しますた
見た目的にそれはないとは思うが。中学生か?
ひょっとして最近出てこないのって関係者がタイーホされたからとか言わんよな

349:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:07:55 ID:ow83ugnsh
>348 今からそいつを殴りに行こうか

350:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:08:11 ID:763sugsud
>349 もちつけwww
タイーホは無いだろ。ちうたん「エロ」直球のコスプレはしてなかったし。あくまで「大胆」で、「可愛い」感じの奴
女性ファンも割かし多かったと記憶している。

受験とかじゃね?
つっても、確かに突然ぱったり出て来なくなった気はする
病気とか事故とかじゃないことを祈る

351:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:09:15 ID:yshfsbs7u
親にバレて続けらんなくなったんだよ。今から俺が親父を説得に行く

352:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:10:22 ID:sigs736ds
俺の妹がこんなにry
キモオタばっかり食いつくから醒めたんだよ

353:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:11:19 ID:v928sig83
>353 つ鏡

354:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:12:41 ID:98sfes7wi
うちのクラスにちうたんにそっくりなクラスメイトが居る件

355:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:13:19 ID:p98sgduek
>354 お前いくつだよw
厨房はさっさと寝ろ
もしくはそのクラスメイトの画像うpれカス

356:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:14:59 ID:98sfes7wi
>355 だ が 断 る

357:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:15:11 ID:sbgsfjd8w
お前そのクラスメイトと友達なのか? だったら本人か聞いてくれ
安価キボンヌ

358:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:17:25 ID:98sfes7wi
>357 この流れで安価は無理ぽ
ぶっちゃけ本人じゃないかと思ってる
けど近頃少し様子がおかしいのは確か

359:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:17:44 ID:p98sgduek
うpれカス
うpれカス
うpれカス

360:コスプレ好きの名無しさん:20××/05/25 23:19:25 ID:usfdhgkjsf
>359 お前黙れ
様子おかしいってどういうことだ?
鬱病にかかったとかそう言う奴か? だとしたら普通にどうにかしてやれよ




 かたん、と、キーボードを打つ手が止まった。
 薄暗い部屋の中、ノートパソコンに向かっていた少女は、小さく息を吐き、眼鏡の位置を直す。

「んなもん、私の方が聞きたいっての……」

 その苛立ちを含んだ声は、決して大きなものではなかった。しかし、空調とパソコンの放熱ファンが回る音のみが響くこの静かな部屋の中では、その声は存外に大きく響いたらしい。
 薄暗がりの中、パソコンの光に照らされた彼女の後ろ姿に、眠そうな声が掛けられる。

「ハルナ……? まだ起きてるの? 目、悪くなるよ?」
「あ、ごめん……うるさかった?」
「別に良い――電気付けても良いよ?」
「あんた確かネギ先生の手伝いで今日もバタバタしてたんでしょ? そんな健気なルームメイトの安眠を、妨げるような真似はしませんよ」
「そう……? ごめん、じゃあお休み……あんまり無理しないでね」

 普段ならば、こんな言い方をすれば、いかに開き直った感のあるルームメイトといえど、照れくささのあまり沸騰して噛みついてくるに違いない――が、今はそれ以上に眠いのだろう。あっさりと布団の中から手を振り、眠りの世界へと戻っていく。
 それを視界の端に収めつつ、彼女――早乙女ハルナは、小さく息を吐き、未だ好き勝手な議論が繰り広げられる電子掲示板へと目線を戻した。
 そして彼女は、再び小さな吐息を吐く。
 普通はため息と呼ばれるだろう類のその吐息は、誰も聞く者がいないまま、麻帆良女子寮の一室に溶けて消えた。




 麻帆良学園本校女子中等部三年A組に在籍する早乙女ハルナは、色物揃いと評されるそのクラスの中にあっては普通の少女であった。
 怪しげな漫画やアニメが大好きで、つまりは“オタク”気質なところがあり、時折そう言うものに対する興味が昂じて前が見えなくなることがあるが――持ち前の明るい性格に救われてか、周囲の友人達は皆、そんな彼女を柔らかな苦笑と共に見守っている。
 ――時折そう形容できる程度を越えているのは、まあ、ご愛敬と言うべきだろう。しかしそれでも、その程度の事は十分“普通”の範疇に収まるだろう。こと、あのクラスに関して言えば特に。
 そんな彼女はその日、一人で麻帆良の中心街に買い物に出かけていた。
 とんでもない事になってしまった修学旅行から半月ばかり。安堵と疲労からだろう、お祭り騒ぎが日常である我らが三年A組にも静かな日々が続いていた――と言うのも、ここ数日までの話であり、持ち前のバイタリティからか、彼女らは既に元の元気を取り戻しつつある。
 そしてこの早乙女ハルナはと言えば、旅行の直後から、既にかの事件の事を引きずってはいなかった。
 一時はフェイトと名乗る謎の少年によって石にされてしまったというのに、何ともはや剛気である、と言うことも出来よう。もっとも、クラスメイトの朝倉和美らと違い、ほとんど訳がわからないまま最初に石化の魔法を受けてしまった彼女は、恐怖と、なにより現実感を感じる暇が無かっただけかも知れないが。
 とはいえ――休日のセンター街を一人で歩く彼女に、全く心にのしかかるものが無いかと言えばそうではない。どれだけ脳天気に見えても微妙な年頃の少女である。悩み事の一つや二つ、無いはずはない。
 しかし果たして、彼女の悩み事とは、先の事件のような非日常的なものではなく、もっと現実的なものではあるのだが。

「はあ――」

 知らず、物憂げなため息が喉からこぼれた。彼女が持つ手提げ袋の中で、荷物が硬い音を立てる。
 その荷物というのは、画材である。
 彼女の漫画好きはクラスメイトの皆が知るところであるが、彼女自身が創作活動にも手を付けている。今日麻帆良のセンター街に足を運んだのは、それらを制作するための画材を補充する為であった。
 漫画を描くことは彼女の趣味であり、大げさな言い方をすれば“生き甲斐”でもある。
 しかし、近頃その事実が、彼女の心を悩ませているのも事実であった。いつもならそこはかとなく心躍る趣味のためのその買い物も、今は逆に心に重い。
 大概自分が漫画を描く時にアシスタントとして徴収する連中――ルームメイトの宮崎のどかや、友人の綾瀬夕映は、そんなことを聞けば何と言うだろうか。怒るか呆れるか――あるいは心配されるだろうか。
 詮もない事を考えながら、ハルナは麻帆良の街を歩く。

「あれ?」

 そんな彼女がふと、見覚えのある姿を見かけたのは、麻帆良の中心街から寮へ戻ろうと、市電の駅がある麻帆良駅前のターミナルに足を踏み入れた時のことだった。

「お前……いつまでそうやってふて腐れてるつもりだよ」
「別にふて腐れてなんかない」
「全く久しぶりに会ったってのに、友人に対して冷たい奴だな。俺がお前に何かしたか?」
「僕はお前みたいな友人を持った覚えはない」
「さすがにそれは酷くね?」
「やかましい。何でお前は本当に――久々に会った早々に世の中の格差って奴を思い知らされなきゃならんのか」
「……さっき声かけてきた女の子の事言ってんのか? いや、あれはお前――まあいいや、どうせお前に言ったって聞く耳持ちゃしねーんだから……」
「あん?」
「いや何でも」

 二人組の青年だった。二人ともかなり背が高く、整った中性的な顔をしているので、傍目に見れば割合絵になる。
 ただし、レザージャケットを纏った黒髪の青年――ハルナにとっても見覚えのある彼が、どんよりとした負のオーラを背負っていなければ、の話であるが。

「大体お前――それこそこれから女の子とデートしようって時に、くだらないことでウジウジしてんじゃねーよ。だからタマモちゃんにキモいって言われんだよ」
「別にあの人に好かれようなんて思ってないよ。それにデートって……僕と楓さんはそう言うんじゃなくて」
「じゃあどう言うんだよ。あんま変に遠慮すんのも相手に失礼だぞ」
「大体彼女はまだ中学生だぞ?」
「俺らだってまだ十八じゃねーかよ。結局は四つしか違わないんだ。もうお前ら付き合っちゃえば良いんだよ。俺に突っかかる癖に何に躊躇ってんのか知らねーけどさ」
「お前みたいな人生勝ち組的な奴にはわかんねーよ」
「……お前そのうち夜道で刺されても知らんからな?」
「何で僕が刺されなきゃなんないんだよ」
「うっせ。このままだと俺の方が馬鹿みたいじゃねーか。もういいよ、近寄んなバーカ」
「こっちの台詞だこのバカ、バーカ!」

 ――訂正、二人ともが、まるで小学生のような遣り取りをしていなければ、と言った方が良いだろうか。彼女は一瞬、この二人に声を掛けていいものだろうかと悩みはしたが、彼女が乗るべき市電の乗り場は、この馬鹿げた二人が立っている向こう側にある。京都の一件で黒髪の青年は、彼女にとって恩人と言えなくもないわけで――他人の振りをして脇を通り抜けるのもどうかと思った彼女は、結局かの青年に声を掛けた。
 ――だが仮に、この場で他人の振りをしたところで、誰も彼女を攻めは責めはすまい。

「あの――」
「うわまた言ってる側から逆ナンっすか。さすが真友君、そこに痺れる憧れる。大学でハーレム作ってる男は違いますな」
「見ず知らずの人の前であること無いこと言うんじゃねえ!!」
「……ええと……藪守さん、でしたよね?」
「え? 僕? この無邪気な顔して女を毒牙に掛ける犯罪者予備軍じゃなくて?」
「ちょっと待てよお前」
「――たまたま通りかかったら姿が見えたもので――お邪魔でしたか?」

 さすがのハルナも顔を引きつらせつつ応える。普段ならそれなり以上の美青年の二人組であれば、脳内の妄想が駄々漏れになりそうなところではあるが――さすがに彼らの一部始終を見ていれば、そう言う気にはなれない。

(あるいはそれはそれでアリなのかも知れないけど。気心の知れない仲――うん、中々良いかも知れない。結局お耽美系って、リアリティないモンだかんね)

 ――結局、自分の立ち位置がまだまだ未熟なせいなのだろうと――彼女のルームメイト辺りが聞けば、慌てて訂正しそうな解答を己の中に導き出す。むろん、それを表に出すことはないけれども――

「ならどっちが受けかしら」
「は?」
「い、いえっ……こっちの話です」

 ぽろりとこぼれ出た何かを、ハルナは首を左右に振ることで誤魔化した。
 果たして、最初は怪訝そうな顔をしていた黒髪の青年――藪守ケイは、そこで自分に声を掛けてきた少女の顔を思い出したらしい。

「あ……あーあー、えっと、確かシロさんのクラスメイトの」
「はい、早乙女ハルナです。修学旅行の時は……その、お世話になりました」
「いや、こっちも仕事だったし――結局大した事は何も出来なかったし……」

 言葉尻だけを捉えれば普通の謙遜であるが、その時彼の顔に浮かんでいたものと言えば、作家の卵であるとは言え、まだ人生の経験値が浅いハルナには、到底形容出来ないものだった。反射的に、その話題にこれ以上触れるのは良くないのだろうと考える。自分の理解の範疇外であったこともあって、彼女は話題をすり替える事にした。

「きょっ……今日は、どうしたんですか? また、麻帆良でお仕事ですか?」

 『美神さんやめてください僕はにーちゃんじゃないから死にます』などとわけのわからない事をぶつぶつ呟いていたケイは、どうにかその一言で我に返ったのだろう。
 どんよりと曇っていた瞳に光が戻り、俯き気味になっていた顔が持ち上げられる。

「あ、いや、今日はオフで――なんて言ったら良いんだろう」
「素直にデートって言えよ」
「違うっつってんだろこの犯罪者予備軍が!」
「デートですか? 楓ちんと?」
「ちょっ――何であっさり!?」
「いや、何でって言われても」

 近頃忍んでいない忍者もどきから、何やら妙な空気が発散されているのはクラスの皆が知るところであるし――その上、修学旅行のあの夜に実況中継された“クチビル争奪云々”の事は、今更言うまでもないだろう。
 ただ、ケイはあの出来事が三年A組に実況中継されていた事実を知らない。
 果たしてそれは知らない方が幸せなことなのだろうか。

「いやあの早乙女さん。こいつの言うことは無視して良いから。デートなんて勘違いして浮かれてたらそのうち痛い目を見るって言うか楓さんにも悪いって言うか」
「こちらの方は?」
「ちょっとその辺りの事スルーしないでくれると助かるんですが――こいつ? えーと、犯罪者予備軍?」
「いい加減怒るぞてめえ」
「……こいつは真友康則っつって――まあ、昔からの腐れ縁」
「……どうも、紹介に預かりました真友です。よろしく」
「あ、は、はい、よろしく」

 少し色素の薄い綺麗な髪に、洒落た眼鏡がよく似合う中性的な顔。ケイよりいくらか身長は低いが、それでもすらりとした長身に、タイトジーンズを履いた長い脚。
 嫌味のない――と言うよりも、ケイとの先ほどの遣り取りが、逆に取っつきにくさを打ち消す要因になった。好青年であり、それを鼻に掛けている様子もない――そんな彼に軽く頭を下げられて、ハルナは自分の頬が熱くなるのを感じた。

「まーたフラグ建築かこの野郎」
「自己紹介しただけじゃねえかよ。大体そう言うことはお前にだけは言われたくねえ。お前自分が影で“フラグ回収率ゼロパーセント男”とか言われてんの知らんだろ」
「喧嘩売ってんのかお前? 立てたフラグがゼロなら回収ゼロなのは当たり前だろうがもう死ねこのバカ」
「お前の頭がいい加減どっかイカレてんのには、付き合って長いから今まで黙ってきたけどな、いい加減俺もキレても良いんじゃないかと思うんだ」
「マジで喧嘩売ってんのか?」
「そりゃこっちの台詞だ。脳みその中身が幸せなのは結構だが、そりゃ自分一人で勝手にやってやがれ」
「ああ? さっきから聞いてりゃ訳のわからないことをグチャグチャと――」

 果たしてそれが原因なのか、突然目を細めてにらみ合いを始める二人に、当然ハルナはついて行けない。この二人は真剣に仲が悪いのだろうか? それとも、気心が知れているが故に遠慮が無いだけなのか?
 彼女としては後者だと思いたいが、言葉に込められた殺気のせいですんなり納得できない。
 “オタク”などと言うイメージからは縁遠い、明るく飄々とした彼女ではあるが、さすがにこういうときにどういう行動を取ったものかまではわからない。おろおろしながら二人の青年の間に視線を彷徨わせ――

「早乙女」

 誰かに名前を呼ばれて、ハルナは振り返った。

「――ちうっち」

 そこに立っていたのは、ボーイッシュな格好の少女だった。
 いや――そういう風に彼女を形容するのは、少しばかり適当でないかも知れない。何と言ったら良いのだろうか、とにかく頭の先からつま先まで、彼女は少年の様な出で立ちだった。
 年頃の少女が、活発なイメージでボーイッシュな格好をすることはままあるだろう。時折犬塚シロが見せる、己の師匠を模した格好などが良い例だ。しかしそんな彼女でもそれはあくまでファッションである。自分なりのアレンジを加え、女性らしさを醸し出している。
 そう――詰まるところ“ボーイッシュな格好”というのは、逆説的に女らしさを強調する格好でもある。
 ――のであるが、彼女の場合は違った。
 野暮ったいだとか、地味だとか――そう言えば言い過ぎかも知れない。コーディネートとしては、センスが悪いわけでもない。
 ただそれは、彼女に“合わない”。
 つり目がちではあるが可愛らしい顔立ちと、それなりに女性らしいスタイルを持つ少女に、その服装は似合っていない。何というか、“らしくない”。
 ハルナは一瞬、自分の眉が、自分の意識とは無意識に動くのを感じた。

「どうかしたか? その人達は?」
「え、いや、この人達は――」
「……そこのオニーサン方、私の友人に何か用ですか」

 ハルナの答えを聞くより先に、少女――長谷川千雨は、ぶっきらぼうに言った。
 その目は鋭く細められ――ケイと真友を睨み付けている。

「……なあ真友、ひょっとして僕ら、出来れば勘弁して欲しい類の誤解されてる?」
「そうだろうな――全くお前のせいで」
「何でそうなる!? 元はと言えば――」
「これ以上話をこじれさせたくないなら、ちょっと黙ってろ――ああ、ごめん。早乙女さんは、こいつと仕事で知り合ったらしくて、ちょっと挨拶をね」

 そっぽを向いてぶつくさ言っているケイを尻目に、真友はにこやかに少女に言う。
 そこではたと我に返ったハルナも、慌ててその言葉に乗っかる事にした。

「そ、そうなの! ほら、京都の事件の時――ちうっちも覚えてるでしょ? ほら、旅館で朝倉が――」
「ああ――ごめん、私興味無かったからさ、さっさと寝ちゃってて」

 その言葉で何か納得したのか、千雨が纏っていた冷たい空気がかき消える。
 彼女は帽子を脱ぎ――一つ咳払いをしてから、青年二人に対して丁寧に頭を下げる。

「すいません、私、この娘の友達で、長谷川千雨と言います。知らなかったこととは言え、クラスメイトがお世話になった方に、失礼しました」
「あ、ああ……うん、別に何にも気にしてないから、そんな、頭、上げてよ」

 ケイがそう言うと、千雨は頭を上げ、帽子を被り直す。

「早乙女も、勘違いして悪かった。邪魔になってもアレだから、私もう行くから」
「あ、待ってよちうっち! 私も――私、この人達とここで会ったのはたまたまなんだ」
「――そうなのか?」

 ポケットに片手を突っ込み、踵を返した千雨は、ハルナの言葉に足を止め、振り返る。

「うん――ここ最近、ちうっちと一緒に出かけることなかったし、午後は二人でどっかブラつかない? 女二人ってのが、ちょっと色気のない話だけどさ」

 千雨の顔は、半分ほどが帽子のつばに隠されて、ハルナからはよく伺えない。ただ、自分がここで彼女を誘う事は、別に不自然ではないはずだ。一人で出かけた街角で、知り合いと出会った――ただ、それだけのことの筈である。
 しかし果たして、千雨は一呼吸置いてから、首を横に振った。

「悪いけど私、ちょっと用事があるんだ。遊びに行くのは、また今度な」

 振り返った彼女の表情は、自然なものだった。
 申し訳なさそうな――しかし“軽い”表情。こちらの“軽い”誘いに、相手もまた、それほど申し訳ないと思うでもなく、軽く返す。
 その、筈なのに。自分の中に淀みのように広がっていくこの感情は何なのだろうと、ハルナは思う。

「あ、うん――あの、ちうっち」
「うん?」
「私、今度さ――ううん、ちょっと、ちうっちに相談があって。出来たら――」

 言いかけた彼女の言葉は、しかし横合いからの声に遮られる。

「あ、真友君もう来てたんだ。ごめんごめん――そこでばったりこの娘と会ってさ」
「ケイ殿――ごめんなさい、待った?」

 長身の二人の女性であった。明るい金髪のパンツルックの女性と、黒髪をポニーテールにした、ワンピースの女性――先にこの場にいた青年二人は、彼女たちに対して否定の言葉を返す。その際に、またしても小学生が口げんかをするような遣り取りに流れかけたのは、もはやご愛敬と言うべきだろう。
 しかし青年らの影にいたハルナはと言えば、そうはいかない。友人に対して何かを言いかけたのを飲み込んでしまったのに加えて――彼女は今、自分がどういう顔をしているのかにも気がついていないだろう。

「――か、楓ちん?」
「……はっ!? は、ハルナ、殿っ!?」

 呆然と喉からこぼれた言葉に、あちらも気がついたのだろう。ワンピースの女性は、その細めの目を目一杯に開いて驚愕する。

「そ、それに――長谷川殿!? なっ……なんで、ここに!?」
「何でって――ここ、普通に駅前だし、私らが居たって何も不思議は――いや、ごめん、それ言うならこっちも同じなんだけど――なんつーか……うん、ごめん、いつものイメージと全然違うもんだから」
「はうっ!? い、いえっ――この格好は、折角だからと、その、千道さんがっ……! せ、拙者、女の子らしい格好など、その、あまり持ってないでござるから!」
「おお……その恥ずかしがってる仕草に不覚にも萌えた!? 誰も似合ってないなんて言ってないから、ね、藪守さん?」
「何で僕に振るの!?」
「はあ?! 何でって、ここで気の利いた言葉の一つも掛けてやるのが男ってモンでしょ!?」

 何故かケイの襟首を掴んで振り回す勢いのハルナと、彼女の剣幕に目を白黒させるケイ。楓はと言えば、恥ずかしいのか、その長身を小さく縮こめようと無駄な努力を試みる――そんな騒がしい様子に、金髪の女性――タマモはため息をついて、頭を掻いた。

「……タイミングを間違えたかしら?」
「いや、この状況を予測できてたら、タマモちゃんはノストラダムスを名乗って良いと思う」
「それも凄く微妙だと思うけど」

 苦笑混じりの真友の言葉に、タマモの顔にもまた、柔らかな苦笑が浮かぶ。

「お待たせ、真友君」
「今来たところだから――とは言わないけど。そんなに待ってないから気にしなくて良いよ。ケイの奴がまたアレんなってちょっとウンザリしてたけど」
「うわ……あいつもう最悪」
「いつもの事だから気にしてないけどね。でもどうして埼玉まで来て遊ぼうって? まあ……何となくわかるけど」
「あー、うん。多分それで正解。ケイの“彼女”がね……この間の仕事で、私あの娘に借りがあんのよ。中学生に迷惑賃だとか払うわけにもいかないし――そういう意味合い込めて、“みんなで遊ぼう”を名目に、おねーさんが一肌脱ごうかってね」
「タマモちゃんが? 似合わねー……」
「ほっときなさいよ――ん?」

 ぐったりとしゃがみ込もうとするケイの後ろ襟をひっ捕まえ、その場から逃げ出そうとする楓の腕を掴み――ハルナのヒートアップは続く。日頃から自重しろと友人によく言われる彼女ではあるが――年頃の女子中学生として、この場面で自重することに何の意味があるだろうか?
 自分の中で折り合いをつけた彼女は、もはや遠慮などしない、鼻息荒く、友人の方にも同意を取ろうとする。

「もう何このラブ臭発散しまくる萌えキャラ共は!? ね、ね、ちうっちもそう思うでしょ――ちうっち?」

 しかし、周りを見回してみて――彼女は、自分の友人の姿がないことに気がつく。

「帽子の娘だったら、用事があるから先に失礼しますってさ」

 苦笑混じりのタマモにそう言われ――ハルナの手から、力が抜けた。




「しかし、あの楓ちんにオトコがねー。私はてっきり、あんたの事、頭に脳みその代わりに何か別の体組織が詰まってるんじゃないかと思ってたんだけど。ほら、どっかの中華娘みたくさ」
「……それはもしかしなくても拙者をバカにしているのでござるか?」
「そう思うなら普段の行動を顧みなさいな」
「……そう言われると、反論が出来ないでござるが」

 週が明けて月曜日、麻帆良学園本校女子中等部、三年A組。
 昼休みになって、ハルナは珍しい相手と昼食を共にしていた。つまり休日に遭遇した級友、長瀬楓である。大概彼女と昼食をとっている鳴滝姉妹はと言えば、学生食堂の方で何かイベントがあるとかでそちらに行ってしまい、ここには居ない。
 ――楓にしてみれば、孤立無援であることに気がつく前にそちらに行くべきだったのかも知れないが、今更何を言っても後の祭りである。実に都合が良い、と、ハルナは思う。

「……ケイ殿と拙者は、まだそういう関係ではござらん」
「楓ちんならそう言うと思ったけどね、でも、“まだ”って事は、満更でもないんでしょ?」
「それは――……そっ……そうなので、ござるが」

 頬を染めて俯く忍者娘に、この娘はこんなに可愛かっただろうか――などと考えつつ、ハルナは弁当のおかずを頬張った。

「拙者とケイ殿は――友達で、ござる。正直、そこに女としての気持ちが全くないかと言えば、嘘になるでござるが……それでも、拙者の勝手でケイ殿をそういう風に言うのは、ケイ殿に対して失礼でござるよ」
「えー……あれはどう見たってあっちも満更じゃないと思うよ?」
「それに拙者はまだ中学生で、あちらは高校を卒業して――」
「柿崎の彼氏って確か大学生だったと思うけど」
「う」
「世間体とか気にしてんの? 楓ちんらしくもない。私らだってもういい加減子供じゃないんだし、相手が年上って言ってもさ、五歳も違わないんだよ?」
「う、う……せ、拙者とケイ殿の事は、ハルナ殿には関係ないでござろう? 拙者もケイ殿も、ハルナ殿を満足させるために居るわけではござらんし」

 そりゃまあそうだろうけど、と言って、ハルナは笑う。
 とは言え自分は微妙な年頃の小娘で、確かに自分は日頃ラブ臭がどうだとか、人一倍そういうものに敏感な方ではあるけれど、誰でも気になる話題ではあるだろう。
 そうでなければ、芸能界の交際事情がどうだとかに、ああまでマスコミや一般大衆が騒ぎ立てる筈はない。

「結局私も恋に恋するお年頃って事でさ、羨ましいのと自分の参考にしたいのと、後単純な興味本位と――そう言うのに興味があることは悪くはないと思うんだけど」
「ハルナ殿の場合、多少なりとも人より興味を“持ちすぎ”であるとは思うが」
「ま、そりゃ否定しないッスけどね――もうエッチした?」

 その一言に、楓はお茶を吹き出して咳き込む。
 その様子を、たまたまその瞬間に教室に戻ってきた龍宮真名が見て、目を丸くしている。そう言えばかつて、楓は彼女と、もう一人那波千鶴と並んで、このクラスに於いて年齢詐称疑惑が出るほどの大人びた少女であった。
 それがここ最近、彼女に対してもはや“年齢詐称”などと言う声は聞かれない。

「いくら何でももう少しオブラートに包むでござるよハルナ殿!?」
「あはは、じょーだんじょーだん。楓ちんがそんなムキになってんのに、そこまで進んでるわけないよね――柿崎の方はどうなんだろ?」
「……拙者も興味がないわけではござらんが――さすがに聞くのははばかられる」
「まーね。後で朝倉に聞いてみよう」
「彼女がどう答えても、非常に微妙な気がするのは拙者だけでござろうか」

 楓は疲れたようにため息をついて、あさっての方に視線を遣った。
 そう言う仕草を見ていると、やはり彼女はどれだけ見た目が大人びていようが、やはり自分と同じ、大人と子供の間にいる少女なのだと、ハルナは思う。

「いい加減拙者ばかり恥を掻いている気がするでござるが」
「気のせいだよ。つか、仕方ないじゃん。私彼氏とか居ないし」
「意中の男性も居ないのでござるか?」
「あのね楓ちん。ここ、女子校。楓ちんや柿崎がどういう経緯で彼氏作ったのか知らないけど、普通そんな恵まれた奴なんてそうそういないのよ」
「……あれは恵まれたと言っても良いのでござろうかなあ」

 遠い目になりつつ、楓は呟く。その言葉にハルナは眉を動かし、その言葉尻を捉える。

「結果的に恵まれてんじゃん。今更藪守さんと出会わない方が良かったとは言わせないよ」
「それはもちろんそうでござるけれど」
「この際馴れ初めとか、おねーさんに話してご覧なさい」
「絶対にごめんでござる」

 悪かったのは自分の方であったとは言え――と、ぶつぶつ呟く楓を、ハルナは満足そうに見遣った。今ここで彼女を虐めたところで、これ以上は悪趣味になだけだ。彼女とて、それくらいの良識は持ち合わせているつもりであった。

「そう言えば」
「何でござるか」
「そう睨まないでよ。ふと思ったんだけど――楓ちんは、中学卒業したらどうすんの?」
「何でござるか藪から棒に」
「だって、藪守さん東京で仕事してんでしょ? もうこの際、東京の高校に行くつもりなのかな、って」
「拙者恋愛の為に進路を決めるほど軽い女ではござらん。が――ケイ殿と出会ったお陰で、ゴースト・スイーパーという仕事に興味が出てきたのでござるよ。以前は、自分には関係のない事だと考えていたけれども――」
「ぶっちゃけこれ以上ないほど楓ちんに合ってそうだね。でなきゃ京都のシネマ村にでも就職するとかさ」

 ひらひらと手を振りつつハルナは笑い――ふと、思い出したように言う。

「あ、そしたらアレだ。シロちゃんが前に通ってた学校。六道女学院。霊能科で有名なんでしょ?」

 何せ日本最高難度を誇る国家試験に於いて、毎年合格者の三割を輩出する――などと言われる超名門校である。楓がその道を目指すと言うのなら、当然耳には入れている筈だ。
 だが――その名前を聞いた瞬間、楓の顔色が変わった。

「……」
「……ど、どったの?」
「その話は――既に、犬塚殿に一度相談したことが。盛大にからかわれはしたが、親身に応えて貰ったでござる」
「……だったら何でそんな顔してんのさ」
「――ハルナ殿は、このクラスで拙者が何と呼ばれているかご存じか」
「あー……成績的な問題ね……シロちゃんああ見えて頭良いもんねえ」
「普通科ほど難易度は高く無いとの話ではあったが――正直拙者の成績では、とても手が出せるような学校ではなく」

 どんよりと影を背負って俯く級友に、ハルナは何と声を掛けて良いのかわからない。彼女自身、程良く勉強が嫌いな普通の女子中学生である。まさかここで教師のようなえらそうな事を言ってやれる筈もない。

「ま、まあ、まだ一年近くあるわけだし? 中二の期末試験、ネギ先生の特訓で、あんたら最下位脱出したんでしょ? 頑張りなよ!」
「……」
「つか、漠然とでも今から将来の事が見えてるって、私には結構羨ましいわよ? 目標が定まってたら頑張れる事もあるだろうし――見事合格してみなよ。どうせ向こうでも一人暮らしか何かだろうし、藪守さんと毎日イチャつけるわよ?」
「そこでケイ殿の事を引っ張り出すなでござるよ」

 楓はぐったりと、まるで骨が抜かれてしまったかのように机に突っ伏し――ややあって、力のない動きで顔を上げた。

「そう言うハルナ殿は? やはり、高等部に進学するのでござるか? それとも――」
「……」

 その問いに、一瞬ハルナは言葉に詰まる。
 自分には、目指したいものがある。大げさに言えば、将来の夢という奴が。
 恐らく、そう言う意味で言えば、目の前の楓よりも明確なビジョンが。
 だが――多くの若者が悩むのと同じに、彼女もまた、あっさりと目の前の道を歩くことは出来そうになかった。

「んー……私はね……」

 自然に視線が、ある方向に向かう。
 その先に存在している、一つの机――その席の主は、今、この場所には居なかった。




「早乙女殿と長谷川殿は、喧嘩でもしているので御座ろうか?」
「え? いや、そう言う話は聞いたこと無いけど――何で?」

 埼玉県麻帆良市郊外、横島邸。
 その日の放課後、中間テストに向けて学習する少女達の姿が、そこにはあった。
 新学期以来何となくつるむようになった犬塚シロ、朝倉和美、雪広あやかの三人に加え、あやかに引っ張ってこられた神楽坂明日菜と、彼女のルームメイトの近衛木乃香。そして更に彼女に引っ張ってこられた桜咲刹那の六人である。
 和美とあやかは、この横島邸の奇妙な居心地の良さがすっかり気に入ってしまったらしく、時折こうして放課後のひとときを、シロの自宅でもあるこの家で過ごしている。今日も今日とて、皆で集まって試験勉強をしようと言う段になって、真っ先に候補に挙がったのがこの場所であった。
 彼女らがそういう風にしている事に対して、家主である横島忠夫がどのように考えているのかは――まあ、今更言うほどのことでもないだろう。
 ただ最近、玄関の門扉に頭を打ち付けて倒れているのを回収せねばならない頻度が上がった――と、ため息混じりにもう一人の同居人、芦名野あげはが語っていたという事実がある。

「先週の土曜日に、修学旅行で迷惑を掛けたとか何とか――そう言う話にかこつけて、うちのバカ狐が長瀬殿を呼び出したので御座るが」
「バカ狐――ああ、千道さんの事やな?」

 そう言ったのは木乃香だ。彼女は、机に広げられたワークブックを覗き込んだまま固まった親友の頭に顎を乗せ、彼女にもたれかかるようにシロの方を見る。
 クッションか抱き枕のようにされた刹那は、それでも動かない。彼女もまた、馬鹿レンジャーと言われる面々に肉薄する成績である事を、ここに付け加えておく。

「犬塚さん、あまり年上の人を馬鹿にするものではありませんよ? ――どうしてあの方が狐なのでしょうか?」

 あやかは窘めるように言ったあと、素朴な疑問をシロにぶつける。
 彼女に関して言えばまさか本当の事を言うわけにもいかず、シロは曖昧に言葉を濁した。

「かこつけて、って――ひょっとして長瀬さんと藪守さんのこと?」

 顔を上げて、明日菜が言う。彼女の手元のワークブックもまた、文字が書き加えられた形跡すらないが――刹那と違い、彼女はもう無我の境地にあるのだろう。もっとも、それは決して褒められた事ではないが。

「ああ、何かその気持ちわかるわ――最近楓見てるとさ、こう何というか――無性に首筋の辺りを掻きむしりたくなるって言うか、リア充死んでしまえこの野郎って言うか」
「本音はもう少し心に秘めるべきやと思うんよ、和美」
「仕方ないじゃないの! 最近もう、見舞いに行くたびにさよちゃんのあの勝ち誇った顔が! あああもう、腹立つぅ!」
「まあまあ、気持ちはわかるけど堪えて貰えんやろか――そのうちあの娘、ウチのおばあちゃんになるんやから」
「……木乃香はそれでいいわけ? まあ、あんたが良いならもうあたし、何も言わないけど――だったらあの娘のドヤ顔はり倒してきてよ」

 拳を突き上げて喚く和美を、シロは苦笑しつつ宥めてやる。
 “麻帆良のパパラッチ”の異名を持つ情報通である彼女に、今聞きたいのはそれとは関係のない事である。

「ごめん、ちょっとエキサイトした。んで、何?」
「早乙女殿と長谷川殿の話で御座る」
「あ、そーね……別に喧嘩したとかそう言う話、聞いたこと無いよ? んー……強いて言うなら千雨ちゃん、ウチのクラスがアク強すぎるとかって孤立しがちなところあるけど――別にそれを気に病んでる風はないし、そう言う意味ではエヴァちゃんの方がよっぽど問題だったしね」
「左様で御座るか――いや、その日の夜に、タマモとケイ殿が帰り際にウチに寄った際に、気になった――ような事を言っておったので」

 シロの問いに、和美と明日菜は首を傾げる。

「このちゃん……太陽の温度は五百度くらいやろか」
「せっちゃん――今までウチの話聞いてはったん? 馬鹿なん? 死ぬん?」

 いい加減一杯一杯であるらしい木乃香と刹那を意識の外に追いやり、シロは続けた。

「いや、話を聞くだけでは、長谷川殿には何やら用事があったようなので、別段気になると言うほどでは御座らぬが――タマモは何か気になったと言うておった。あの馬鹿は普段おちゃらけているようで、割合見るところは見ておる故に――非常に納得行かぬが」
「あー、千道さんってそう言うところあるよね。色々突っ込みどころはあるけどさ、正直私、ああいう大人の女の人に憧れるわ」
「明日菜殿、人生を棒に振るのが嫌ならば、もう少しマシな大人に憧れる事をお勧めいたす」
「シロちゃんもあの人には遠慮が無いわねー。あの人ってシロちゃんの何?」
「何と言われても――まあ、仲間で御座るよ。昔の、拙者のバイト先の」

 遠い目をしつつ、シロは応え――何かを振り払うように頭を振る。
 当然その行為の意味は、目の前の友人達にはわかるまいが、わからない方が良い。

「では、あのお二方には別段変わったところは無いので御座るな?」
「うん――あ、でも――去年の夏から、千雨ちゃんちょっと変わった気はするかな、そう言えば」
「あ、ひょっとして、アレ? 夏休みにあの娘が事故って入院してた奴」
「事故?」

 瞳を細めるシロに、和美は説明してやった。
 昨年の夏休み、長谷川千雨は、帰省中に交通事故に遭い、二学期の半ば程まで入院生活を余儀なくされたという。
 バス停でバスを待っていた彼女の所に、カーブでスピードを出しすぎた車が突っ込むと言う不運な事故で、車にはねとばされた彼女は全治二ヶ月の重傷――一時期は意識不明の重体であった。

「あれから暫く、あの娘ちょっと落ち込んでてさ。無理もない話だとは思うけど――」
「あ、そうそう。掛け持ちで入ってた手芸部と漫画研究会も辞めちゃったんだよね。ああ、うん、その時漫研のアレでハルナが凄く心配してて――うん、そう言うことは確かに、あったけれども」
「相手の車の運転手はどうなったのでござるか?」
「どうなったって言ってたっけ? 死んじゃったんだっけ?」
「相当酷いことになったと聞きましたが、詳しくは――何せ、話題が話題ですし、本人に聞けるような話でもありませんし」

 ふむ、と、シロは顎に手を当てる。
 それだけ大きな事故にあったのだから、それ以来人生観が変わる、というのはままあることだろう。以前の千雨の人となりをシロは知らないが、今の彼女がとりたてて“おかしい”とまでは思わない。
 ならば――一体何が、タマモとケイの霊感に触れたというのだろうか?

「シロちゃんはどう思うの? やっぱり――あの娘がどっかおかしいって思うの?」
「拙者は今の長谷川殿が、特におかしいとは思わぬ。どちらかといえば――」

 言いかけた言葉を、シロは慌てて飲み込んだ。長谷川千雨が“変わっている”というのなら、もはや変人の程度を超越した人物が、我らが三年A組にどれだけいるというのだろうか。

「……何考えてるか大体わかるけどさ、シロちゃんそれって自分を棚上げしてるよ」
「拙者の何処が変人というので御座るか」
「あんた本気で言ってる?」

 着物の胸元を押さえて堂々と言うシロに、和美の呆れた視線が突き刺さる。

「でも霊能力者の直感って奴が、もの凄く侮れないものだってのは――さよちゃんの事件の時によくわかったし」
「私は未だにオカルトの事はよくわかんないけどね……そしたら和美はアレ? 読んだら寿命が縮むオカルト新聞とか作るの?」
「何でそうなんのよ。てか、古いわよ明日菜。あんたいくつよ」
「高畑先生が昔の漫画持ってたのよ。もう、小さい頃はアレが怖くて怖くてね、余りの怖さに押し入れの中に放り込んだら、後日ボロボロになって出てきたことがあって。叱られるのが怖くてまた――ああ、やっぱり怖いわ、あの漫画」
「それは怖さのベクトルが間違っていると思いますが」
「せっちゃんは会話に聞き耳立てとらんと、さっさと次の問題を解きや」

 果たして勉強会というには、少しばかり騒がしい会話が始まり――そんな時、廊下で電話が鳴ったので、シロは着物の裾を押さえて立ち上がる。
 皆に一言断ってから廊下に出て、電話の元に向かう。そこで電話のディスプレイに表示された着信を見て、おや、と、彼女は思った。
 相手は、彼女らの近しい知り合いである。だから、電話を掛けてくる可能性がゼロではないのだが――しかし今、一体何の用事なのだろうと、それが予想出来ないのも確かである。
 とはいえ、逡巡する必要もない。彼女は、受話器を取った。

「はい――横島です」
『ああ、シロちゃんかい』

 優しそうな中年男性の声が、受話器の向こう側から響く。

「ご無沙汰しております、唐巣神父――本日は、如何なされました?」
『ああ、うん――どう言ったものだろうか。そこには誰か他に人がいるかい?』
「この場、で、御座りますか? ……一応拙者の他には誰もおりませぬが、言いにくい話で? 申し訳御座らぬが、先生は今、所用で家を空けておりまして」
『いや……彼の耳にも入れておいて方が良いかも知れないが、彼に用があるというわけではない。むしろ、私が聞きたかったのはシロちゃん、君に対してだ』
「拙者に?」

 シロは首を傾げる。はて、一体彼が自分に用とは、何事であるのだろうか。
 彼とは近しい知り合いであるけれども、己の師匠に比べてみれば、自分と彼の接点は薄い――少なくとも、電話で名指しされるような用件は思いつかない。
 そんなことを何となく考えていた彼女は、次の唐巣の声で、思わず目を見開いた。

『シロちゃん、君の知り合いに――“長谷川千雨”という女の子はいないかな?』










「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」

友人の情報で知って、ネタに使用しました。

個人的な感想。
「俺の妹」全然かわいくねえ……
むしろ「俺」がいい人過ぎて萌えた!!

ちなみに作者、リアルに妹がいます。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「自分」
Name: スパイク◆b698d85d ID:bd856bc6
Date: 2011/04/10 21:35
――目が覚めたとき、自分は、自分ではなくなっていた。

 昔の自分がどういう人間だったのか、思い出すことは難しい。
 この“自分”に刻まれた記憶に押し流されて、時々忘れそうになる。
 けれど、それでもやはり、自分は“この娘”とは違う。

 ただ生きているだけで、周りを騙している。そんなのはもう、限界だった。
 “昔の自分”と思しき誰かのことは、すぐにわかった。
 その事には、あまり感慨はなかった。
 申し訳ない気分にはなったけれど、自分が思っていたほど、変わった事は何もなかった。

 ただ一つだけわかった事実はと言えば――
 自分は既に死んでいるという、ただそれだけの事だった。




「ちうっちは、中学卒業したらどうするの?」
「どうって――ここの高等部に行くよ。何も考えてないわけじゃないけど、それでも私には、将来のことは――今はまだ、考えられそうにない」

 その日の放課後――三年A組の教室で、早乙女ハルナは、一人帰る準備をしていた友人――長谷川千雨に声を掛けた。
 中学三年生の一学期である。何もしなくとも、麻帆良学園本校は、ほぼ中高一貫校に近い形態を持つ学校だ。いくらかの生徒が、家庭の事情や自分の将来のために別の道に進むとはいえ、その大半が麻帆良学園高等部に進学する。もちろんその際に簡単な試験は行われるが、普通の高校よりもその垣根は低い。
 とはいえ、そろそろ中学生活の終わりが見えてきたこの時期にあって、その質問は何ら不自然なものではなかっただろう。

「しかし突然だな。また漫画にばっかかまけて、成績落ちてるんじゃないだろうな?」
「あんたは私のお母さんか――そ、その事は、まあ改めて検討を要するとして」
「政治家かよ」

 苦笑を浮かべつつ、千雨は鞄の口を閉じる。

「早乙女がどうして、私の進路なんて気にするんだ?」
「どうしてって……友達の進路を気に掛けちゃ悪いの?」

 千雨の言葉に、ハルナは口をとがらせる。その表情をどう捉えたのか、彼女は“悪かった”などと、あまり反省した風になく手を振って、立ち上がり掛けた椅子に座り直す。

「でも、進路を気に掛けるもなにも――私は一応、つつがなく学生生活送ってるつもりだけど? 今のところ成績が悪いと悩んでるわけでもないし、そのほかに目立った問題があるわけでもない」
「いやま……そりゃ、そうかも知れないけどさ。でも――」

 私の気のせいだったら悪いけれど――と、前置きしてから、ハルナは言った。

「何かちうっち、さ、近頃元気がないって言うか、そんな気がしたから」
「……何でそう思った?」

 千雨は一瞬、その言葉に反応したようだった。しかしすぐに、肩をすくめて小さく息を吐く。うつむき加減に彼女を見ていたハルナには、それが何か意味のある事だったのか、推しはかるのは難しい。

「だって、最近ちうっち、話しかけても何かつれないし」
「早乙女の言葉を借りるわけじゃないが、女同士でベタベタしたって気持ち悪いだけだろ」
「ほら、そう言う言い方をする。私さ、これでも結構真面目な話してるつもりなんだよ?」
「そうか? いや、だったら申し訳ないな。や、なんつーか、近衛の奴がさ――近頃私の目の前で、桜咲とその、アレなわけよ。まあね? 私も別に、個人の趣向に口を出そうとは思わないんだけどさ、あいつの席、私の真ん前だし――ちょっと過敏になってるのかも知れないな。うん」
「近頃気づいたんだけどさ」

 ハルナはそこで腕を組み――一つ大きく息を吸ってから、言った。

「私愛情に性別は関係ないって思ってたんだけど――ひとしきり木乃香と刹那さんの事で興奮した後、でも思ったのね。“女同士”って意外に萌えない。だってほら――最終的にファイナル・フュージョンできないじゃん。男同士ならほらさ、その辺は問題ないんだけど――」
「お前一回頭の病院行ってこい」
「はっ!? い、いや違うのよ!? つ、つうか、ちうっちが悪いんじゃんか! そんなクラスメイトを生け贄にするようなこと言うから!」
「……私が悪いのかな」

 疲れたようにため息をつく千雨を見て、ハルナはしまった、と、思う。この流れでは、何を言ってもふざけた風にしか取って貰えない。
 想像――友人に言わせれば妄想――の世界とは無限であり、それを根源にする創作の種は、日常のあらゆる所に存在している。日頃からそう信じて疑わない自分ではあるが、彼女は今に限っては、その道を究めようとする自分が憎たらしかった。

「いや、その理屈はおかしい」
「何でさ。ちうっちだって言ってたじゃんか。何でウチの制服はセーラー服じゃないんだろうって。セーラー服の存在無くして、女子中学生が語れるのかって、わざわざ――学生服のお店に採寸に行ったじゃん。コスプレ用じゃ安っぽくてダメだって、お店の人にすっげえ怪訝な顔されて――」
「――わかった、創作活動に掛ける熱意って奴に、私がどうこう言う資格がないのはわかったから、大声で人の黒歴史を掘り返すのはやめてくれ」
「ほら、それだよ」

 げんなりした顔で手を振る千雨に、ハルナは言う。

「それって?」
「漫画にせよ、コスプレにせよさ――そういうオタクっぽいことは、今の私には関係ありません、みたいな、その態度」
「……」

 彼女は、机に手を付き、千雨の方ににじり寄った。その剣幕に押されたのだろうか――千雨は椅子の背に手を当てて、後退ろうとする。しかし彼女の席は教室の一番後ろであり、逃げ場所は何処にもない。

「怒ってんのか?」
「何でそうなるの? 私は――“心配”してるんだよ」

 ちうっちがさ――と、ハルナは言った。

「ちうっちが、そういうオタク的な事に興味が無くなったんだって言うなら――私、別にそれについてどうこう言うつもりはない。そりゃ――オタク仲間としては、ちょっと淋しいけどさ」
「私は別に――早乙女の趣味は、単なる“オタク”って言うんじゃなくて、なんつうか……立派な“夢”の一つなんだと思ってる」
「ちうっちのコスプレはそうじゃなかったの?」
「……」
「そりゃ、ちうっちがどういう事を言おうが、そのホントの事を知ってるのはちうっち本人だけだよ。でも、私には――あの時ちうっちが言った言葉が、そんな形だけの自分に酔った挙げ句に出てきたものだとは思えない」
「早乙女、ちょっと落ち着け――私には何も悩みなんてないし、早乙女に心配されるような事は何もない。私は結局、早乙女と違って無気力な今時の子供って奴で――」
「だからそうやって、逃げないでよ!」

 ハルナは強く、机の天板を叩く。
 教室に残っていた何人かが、その音に驚いて、こちらに顔を向ける。だが、少女達のその視線も、彼女を止めるには至らない。

「……私さ、正直に言うと、悩んでるんだ。麻帆良の高等部に進学するか――それとも、美術の専門分野に進んで、本格的に漫画家を目指そうかって」
「それは――」

 何かを言いかけて、千雨は言葉を切った。
 ややあって彼女は小さく息を吐き、ハルナの目を見つめて、口を開く。

「それは――早乙女には申し訳ないけれど、私が口を出して言い問題じゃない。アドバイスは、出来る。けど、最後にそれを決めるのは早乙女だろ? 私みたいな半端な奴の言葉じゃ、逆に早乙女を迷わせるだけだ」
「なんでちうっちが半端なのさ」
「それは――早乙女には夢があって、私はただの中途半端なオタクだったって」
「誤魔化さないでよ」

 ハルナは、千雨の肩を掴んだ。鼻先が触れ合いそうな距離で、唾が飛ぶのも構わずに、彼女に言う。

「何でそう言う事言うの? 私がこれでいいって言ってくれたのは、ちうっちじゃんか! ただの気持ち悪いオタクの私が、それでも欲張って夢を持って良いんだって思えたのは、ちうっちのお陰じゃんか!」
「それはそう思えた早乙女が凄かったってだけだ。私のこと――そんなに買いかぶるなよ」
「――ッ」
「そうだよ、早乙女。今の私は、お前が思うような奴じゃない。早乙女が――ここ最近、私のことを気に掛けてくれたのは、わかってた。でも、私は――私には、お前が気に掛けてくれるだけの資格なんて、無い」
「そんな言葉が聞きたかった訳じゃないよ! ああそうですかって、それで引き下がれると思う!?」
「……私は私で、自分の悩みは解決する。わかった、その後でなら――きっと、早乙女の相談に乗ってやれると思う。胸を張って、“長谷川千雨”として」
「……ちうっち――あんた、まさか」

「ちょ、ちょっと、ちょっと落ち着きなよ、パルも、千雨ちゃんも――どうしたって言うのよ、いきなり!?」

 呆然と二人の遣り取りを見つめていた明石裕奈が、そこで二人の間に割ってはいる。
 それをきっかけに、クラスに残っていた数人が、彼女たちの周りに集まった。
 しかし今のハルナには、自分を宥めるクラスメイトの声はほとんど聞こえない。興奮しすぎて、涙でにじんで見える視界の向こう側で――長谷川千雨は、何処か困ったような優しげな笑みを浮かべていた。

「……ごめん、明石――みんなも、喧嘩してたわけじゃないんだ。早乙女が私のこと心配してくれてるのに、私が適当なこと言って逃げようとしたから」

 違う。そうじゃない。
 最後に彼女が言わんとしたのは――そう言うことではない。ハルナには確信がある。
 今の千雨の顔は――“あの時”と同じだったから。
 泣いて喜ぶ皆の前で――そしてハルナの前で、申し訳なさそうに、苦しそうな声で言ったあの言葉――その言葉を紡いだときの顔と、同じだったから。

「適当な事って……長谷川、何言ったのさ?」

 ハルナを抑えながら問うた柿崎美砂の言葉に、千雨は少し躊躇ったようだが――ややあって、口を開く。
 その瞳は、まっすぐにハルナを見ているようだった。

「何ってわけじゃない」
「いやそんな――私、パルがここまで怒ってるの初めて見たよ? 頭の中身が腐ってるとか、脳みそまでゴキブリになっちゃったのかとか――人格否定されるようなこと言われても、笑って下ネタで返すパルが、だよ?」
「……何気にひでえな、オイ」

 美砂の言葉に、千雨は引きつったような笑みを浮かべたが――すぐに、ハルナに向き直る。

「――早乙女が怒るのは、わかる。でも、お前は目の前の事実から目をそらしてるだけだ。わかってるだろ? 今の私に何を言っても――それは、何の意味もない事なんだって」
「ちうっち――あんた、まだ、そんなことを」
「でもさ」

 彼女の口から紡がれる言葉の意味は、クラスメイトにはまるでわからないだろう。皆が皆――二人を落ち着かせようとした格好のまま、首を傾げるばかりである。

「この前の休日に――早乙女と駅で会っただろ? 私あの時、早乙女には用事があるって言ったけど。あれで――少し、希望が見えた気がするんだ」
「希望だって?」
「そう――もうすぐ早乙女の前に、“長谷川千雨”が帰ってくるんだって――そういう話さ」
「――あんた――っ!」
「おふっ!?」

 その一言で、ハルナは爆発した。自分を宥めようとする裕奈を振り払い――その際に振り回した肘が彼女の顔面に当たったのだが、彼女はまるで無視して、千雨の襟首を掴んだ。

「あんた――それ、二度と言うなって言ったよな!? あんたが、あんたが生きててくれて、私が、みんなが、どれだけ嬉しかったか――なのにそんなふざけたこと言うなって、私はそう言ったよな!?」
「お、落ち着きなさい、パル――ゆーな、大丈夫!?」
「めっ……目が、目があ――ッ!」
「よしあんたは平気だな!? いいから落ち着けって――ちょっ……だ、誰か先生呼んできて!!」
「そこまでで御座る、早乙女殿」
「あんたは黙って――ッ!?」

 その瞬間、ハルナの視界が回転した。自分の意思とはまるで関係なく視界が天井を捉え――一瞬の、浮遊感。自分が投げ飛ばされたとは、最後まで理解できなかった。
 ただ、床にたたきつけられる事だけは本能的に理解できた。彼女は思わず目を固く閉じて――

「――少々手荒であったが、頭は冷えたで御座るか?」

 いつの前にか目の前に立っていたのは、銀髪を三つ編みにしたクラスメイト。そして宙を舞っていた筈の自分は――いつの間にか、ちゃんと床に立っていた。

「び、びっくりした……」
「え? え? 今、犬塚さん何したの? てか、パル、空中で一回転しなかった?」
「何今の!? 柔道!? 合気道!? カンフー的なアレ!?」

 突然の事に目を白黒させるクラスメイトを余所に――シロは、顔を押さえて倒れている裕奈に手を伸ばす。

「こちらはどうにか落ち着いたようで御座る。明石殿――怪我は?」
「――そっ――ごっ、ごめん、ゆーな! 私、ついカッとなっちゃって――思いっきり肘、入っちゃったよね!?」

 それを見て我に返ったハルナは、慌てて彼女に謝った。
 幸いにも、彼女の額が頑強だったのか、当たり所が良かったのか――彼女は、額を抑えて涙目になりながらも、ハルナに手を振って見せた。
 安堵の吐息が木霊する。美砂は、千雨の肩に手をやったまま、がっくりとうなだれる。

「犬塚さん――たすかったぁ……」
「いえ、こちらこそ割って入るのが遅れてしまって申し訳ない。よもや早乙女殿が、あそこまで怒りをあらわにするとは思いもよらなんだもので」
「――ご、ごめん。ごめんなさい、私、私――」

 頭が冷えてくると、自分が一体何をしたのか、と言うことが理解できてくる。
 千雨の言葉は、自分にとって許せないものであった。それは間違いない。
 けれど――自分が爆発させた怒りも、また理不尽なものであったことを、ハルナは理解する。謝ろうとするが、誰に何を謝ればいいのかわからない。
 ざわめく教室の中で――犬塚シロの吐息が、やけに大きく彼女には聞こえた。自然に、肩が小さく震える。

「早乙女殿、長谷川殿――事情を聞いても宜しかろうか?」
「犬塚――すまん、迷惑掛けたな。でも――悪いのは私一人だし、早乙女を責めないでやってくれないか?」
「委細承知。されど――拙者もまた、何の理由も無しに早乙女殿がこうまで怒るとは思えぬ故」
「……悪いが、犬塚には関係ない。言ったところで――」
「不躾で申し訳ないが――それはもしや、長谷川殿が先日、唐巣和宏神父の元に持ちかけた相談に関係した事で御座るか?」
「――」

 千雨の瞳が、大きく見開かれた。

「……何で犬塚が?」
「あのお方には、拙者にも縁がある――安心なされよ。かのお方は軽々しく秘密を口外するようなお方では御座らん。ただ長谷川殿が己のことを“麻帆良女子中”と――拙者と同じ学校であると申したのが気になったらしく、拙者に連絡を」
「……そっか。それじゃ、犬塚は知ってるのか?」

 シロは、首を横に振る。
 それを見た千雨が、小さく息を吐いた。それは何から来たものだったのだろうか――ハルナには、安堵のように思われた。

「……拙者は、話してくれと言えるような立場では御座らんが」
「そうだな。敢えて話したいような話じゃない。けど――早乙女に聞くだろう?」

 シロはその問いに、否定も肯定もしない。

「私から言うことは、何もない。どうせ、言っても信じてくれるとは思わない」
「……」
「――今日はもう帰る。みんな――ごめんな」

 千雨は鞄を持つと、彼女らを呆然と見守るクラスメイトをかき分けて、振り返りもせずに教室から出て行った。
 ――ハルナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
 シロが、自分に困ったような目線を向けているのは、わかる。けれど――今の自分は、彼女に何を言うべきなのか。
 それが――わからなかった。




「そうですか、早乙女さんと、長谷川さんが――すいません、僕からは特に、二人に何か変わった様子があるようには見えませんでしたから……」
「それは拙者達とて同じで御座るが――あの、ネギ先生? とりあえずネギ先生は大丈夫なので御座るか?」
「何故僕が? 今問題になっているのは、早乙女さんと長谷川さんの方でしょう?」
「いや――その顔を見れば、誰でも気になると思うが」
「顔? ああ――お見苦しいところを。大丈夫ですよ――せいぜいが、三日寝ていないくらいですから。何でもアメリカでは十日間眠らない実験が行われた事があったそうですが、被験者の健康状態に異常は無かったそうですよ?」
「だめだこいつ早く何とかしないと……」

 シロと共に職員室を訪れた神楽坂明日菜が、顔を手のひらで覆って天井を仰ぐ。
 彼女らの担任教師であるネギ・スプリングフィールドの顔には、明らかな疲労が現れていた。具体的には、いつもは血色の良いその肌は心なしか青ざめ、目の下にはハッキリと隈が浮き出ている。

「そうですか? でしたら明日菜さんは、ワークブックの二章から三章を、次の英語の時間までにやって来てくれませんか? 担任として褒められた事でないのは理解していますが、何でしたら寮での勉強にも付き合いますよ? ええもう、あなた方の成績がもう少しばかり上向いてくれたら、僕も枕を高くして眠れるもので」
「――正直スイマセンデシタ」

 感情の全てをそぎ落としたようなネギの視線に晒されて、果たして先程彼のことをあきれ顔で見ていた明日菜は、さっさとシロの後ろに引っ込んで白旗を揚げた。
 いつも通りと言えば、いつも通りのこと――だが、今は馬鹿らしいことをやっている場合ではないと、犬塚シロはため息をつく。

「あ、いや、すいません……実際、少し疲れているのは確かなもので。教師が弱音を吐いたらいけないってのは、わかってるんですけど」
「ネギ先生はもう少し加減というものを覚えなされ。どれだけ根を詰めて計画を立てたところで、先生が倒れてしまったのでは、何の意味があろうか」
「頭ではわかっているんですけど」

 ネギがここまで根を詰める原因もまた、彼女たちにはわからなくもない。
 京都の修学旅行が不完全な形で幕を閉じ、“リベンジ修学旅行”が提案された。その為に夏期補習の一部が犠牲になり、それを圧縮する形で授業計画を組まなければならない――ネギの苦労は必然だろう。
 しかしそれ以上に、彼はそうなってしまったことの責任のいくらかは、自分にあると感じているのだろう。
 自分が――“魔法先生”たる自分が、このクラスの担任でなかったとしたら、彼女らはあんな目には遭わなかったかも知れない。むろん、直接狙われたのは彼ではなく近衛木乃香であったのだが、果たして当初は多少の“トラブル”を覚悟で決められた京都行きだった。
 責任感の強い彼がどれほどの事を思っているのか、想像には難くない。

「明日菜さんも、ごめんなさい。少し仕事が滞ってイライラしてました――それで、早乙女さんと、長谷川さんが?」
「早乙女殿――話して貰っても、良かろうか? 今は、辛いと思うが――」

 シロの言葉に、彼女の後ろに立っていたハルナは、力なく首を横に振った。




 職員室では何だから――と、進路相談室に場所を移した後、ネギを前に、ハルナはぽつりぽつりと語り始めた。

「ネギ先生や犬塚さんは知らないと思うけど――私、中二の時分までは――自分で言うのもなんだけど、暗くて気持ちの悪い子だったと思うんだ」

 ネギの視線が、明日菜に向けられる。彼女は慌てて、首を横に振った。
 それが彼女なりに気を遣っての事だと言うことは――ハルナには、良く分かる。自分を貶めるわけでもなんでもなく、単純にそう思うのだ。あの頃の自分は、ただの根暗なオタクであったと。

「早乙女さん、自分を――そんなに、悪く言ったらいけないと思います。早乙女さんは――昔はどうあれ、今は素敵な人だと、僕は思います」
「ありがとうネギ先生。お世辞でも嬉しい。自然と女の子のこと持ち上げてくれるのは、やっぱり英国紳士としての嗜みなの?」
「い、いえ――そう言うわけでは」

 言われたネギは、居心地が悪そうに頭を掻く。徹夜続きの疲れた顔では全く様になっておらず、明日菜などは露骨に嫌そうな顔をしていたが。

「いやこいつね、お風呂が嫌いだって――三日徹夜したってことはどうせあんた、三日風呂に入ってないんでしょ。頭掻くな。フケが散るから」
「う……い、今は、それは、ともかく」
「帰ったら委員長の所に放り込んで磨いて貰う事にするわ」
「明日菜、それはやめときなよ……猛獣の檻に兎を放り込むに等しい行為よ、それは?」

 苦笑しつつ、ハルナはその言葉尻を捉えた。
 その時明日菜の顔に浮かんでいた表情を見るだけで、彼女が自分に対して気を遣っているのだろう――と言うことがわかる。
 確かに、自分を知る彼女からすれば、先程までの自分は信じられるものではないだろう、と、彼女は思った。

「さ、早乙女さんはそう言っていますが――明日菜さんは、どう思うんですか?」
「昔のパルの事? うーん……本人目の前にして言うのもアレなんだけど……」
「私は気にしてないから、いいよ」
「……そりゃ、その――明るい子じゃ、うん……無かったよね。いつもクラスの端っこのほうで、怪しげな漫画読んでたみたいな」
「まあね、私あの頃は何て言うか、自分の想像の世界にだけ生きてたからね。現実逃避って言ってもいいと思う。ただただ漫画とかアニメとかの世界に憧れてさ――でも、心の根っこでは、そんな風に逃げてちゃダメだってのはわかってたんだけど。やっぱり、私みたいな根暗な娘が“中学生日記”をやるのは、怖かった」

 俯いて、ハルナは言った。
 あの頃の事は、確かにあまり思い出したくない。
 そのころからA組は毎日がお祭り騒ぎのようなクラスで――けれど、そんな場所には入っていけないと思っていた。そう言う場所で明るく振る舞う事の出来る人間は、きっと自分のようなタイプとは正反対の人間であろうと思っていたし、その中心にいる明日菜やあやかや、そんな彼女らが理解できないと思っていた。
 だから彼女は、いつも自分の空想の世界に生きていた。
 漫画やアニメの中に展開される奇想天外な世界に胸を躍らせて、非日常の恋愛にときめいて。
 そういう世界にのめり込むうちに、いつしか彼女の中にも、自分の空想の世界が広がっていった。
 漫画を描き始めたのも、その頃からだった。
 自分の世界を形にすることは楽しかった。
 けれど、そうすればするほど――彼女は、世の中は漫画のように上手くは行かないのだと考えるようになった。
 自分が生み出した漫画の主人公は、結局自分ではない。現実の自分は、明日菜の言うとおり、教室の隅でただ漫画を読んで押し殺した笑みを浮かべているような――何も出来ない、気持ちの悪い“オタク”なのだ。

「……ごめん、私――あの頃パルが、そんな風に思ってたなんて、知らなかった」

 申し訳なさそうに、明日菜は言う。
 けれど、彼女が謝る必要は何処にもない。
 彼女にはそれを察する義務はないし、彼女たちに対して壁を造っていたのは、むしろ自分の方なのだから。

「ネギ先生――先生は、知ってるよね? 私が漫画家目指してるって事――馬鹿だとは思ったけど、この間の進路希望の用紙に書いたし」
「進路きぼ――ああっ!?」

 ネギが絶望したような表情で、頭を抱える。

「授業計画に気を取られて忘れてた!? 確かアレは明日には整理して新田先生に出さないと――うぁぁああぁあ……」
「……明日菜」
「う、うん……私に手伝えることがあったら、出来るだけのことはするよ」

 こほん、と、ハルナは一つ咳払いをする。
 我に返ったネギは、もの凄い勢いで彼女に頭を下げた。

「ご、ごめんなさいっ! いえ、決して皆さんの進路の事を軽んじていたわけじゃないんですっ! けれど仕事が忙しくて授業の合間にやったあれの事をすっかり忘れて――い、いえ、言い訳する訳じゃなくて、悪いのは全部僕なんですけど!」
「あ――……わかった、改めて言う。私ね、漫画家目指してるの」
「は、はい……立派なことだと思います」

 苦笑して言い直したハルナに、ネギは恐縮して頭を下げる。

「ぼ、僕も日本の漫画は大好きですから――ああいうことが出来るのは素晴らしいと思います」
「そう? ありがとう――ま、正直――今は迷ってるんだけどね」

 漫画で喰っていける人間など、結局才能と幸運に恵まれた一握りの人間だけだ。自分には必ずそれだけのものがあると自惚れることは、彼女には出来なかった。
 あるいはそれが出来ることが、条件の一つなのだろうかと、そう考えてみた事も無くはないが――やはり、それは自分には難しいのである。

「でも――とりあえず“そこ”までは吹っ切れた。ウジウジ暗いだけのオタクなんてやってらんないって、そう思えた。私は漫画家をやりたいのか、どうかって。“悩める”ところまでは、来た」

 ハルナは一つ息を吐いて、ネギに視線を戻す。

「多分それは――ちうっちの、お陰だから」




 ネットアイドル“ちう”が、最初にネット上に登場したのは二年ほど前。某動画投稿サイトに、本人が投稿したとある動画であったという。
 ――と言うのは、ハルナ自身はその辺りのことを知らないからだ。
 いくら自身をオタクと自称していても、彼女はアイドルオタクではないし、彼女自身、年頃の少女である。自分とそれほど年の変わらない少女が、画面の中で振りまく愛嬌など、見ていて面白いものでもない。
 だから、彼女がそれを見かけたのは、本当に偶然だった。
 ネットサーフィン中にとある電子掲示板で、あまりにも議論が白熱していたので、何となく眺めていたのだ。
 自分も気持ち悪いオタク娘を自称しているが、こいつらも大概である――などと、半ば自嘲めいたことを考えつつ、そこに貼り付けられた画像を見て――吹き出しそうになった。
 自分のクラスメイトが、見たこともないような可愛らしい――それも妙に露出度の高い服装で、満面の笑顔を浮かべて画面に踊っていれば、当然と言える。
 さすがに一度は人違いだとか他人のそら似だとか思っては見たが、見れば見るほど、その少女は自分のクラスメイト――長谷川千雨本人であるような気がしてくる。
 彼女が髪を切った翌日に、ネットアイドルの“ちう”もまたショートカットになっていた段になって、ハルナは確信した。
 意外だった。
 長谷川千雨という少女は、自分ほどではないが、どちらかと言えばあの馬鹿騒ぎが日常のクラスの中では、物静かな方である。
 麻帆良の非常識に頭を抱え、クラスで巻き起こる馬鹿騒ぎにため息をつく、そんな彼女が。
 ただ――何となく、納得してしまった部分もある。
 彼女はハルナと同じく漫画研究会に所属している。しかしどちらかと言えば、その活動に積極的には参加してこない。
 けれど、ただ部室に来て漫画を読んでいるだけ――そんな“やる気のない”部員とは、明らかに何かが違っていた。

「だから、ストレートに聞いてみたんだよね。あんた、ネットアイドルの“ちう”じゃないのか、って」

 その瞬間にハルナは首根っこを引っ掴まれて、人気のない階段裏に引っ張り込まれたと言う。
 どうやら表では常識人を自称している千雨にとって、ネットアイドルとして活躍しているという事実は、隠したいものだったようである。

「でも、それっておかしいよね。アイドルって結局、自分を見て欲しいわけじゃない? 私だったら外も歩けないような格好で、誰が見てるかもわからないカメラに向かってポーズして――なのに、バレたら恥ずかしいって、おかしくない?」
「ハルナが外も歩けない格好って――あの娘どんなカッコしてたのよ」

 明日菜にとっては、ハルナ以上に理解しがたい世界なのは間違いない。半ば呆れたような顔で、彼女は問うた。

「少なくとも――街角に立ってたら間違いなく逮捕される格好」
「……」
「あ、ごめん、勘違いしないで。ちうっちは別に露出狂じゃないから。漫画のキャラクターのコスプレだったんだよ。明日菜は知らないだろうけど、コミケのコスプレエリアとか、もう凄いよ? これ大丈夫なの? みたいな人がいっぱいいるから」
「――出来れば一生知りたくないわ」
「まあそう言わずに――次のコミケに付き合わない?」
「少しいつもの調子が戻ってきたみたいで安心したけど、遠慮しておく」

 顔の前で手を振る明日菜に苦笑を浮かべ、ハルナは話を続ける。
 疑問を投げかけた彼女に対して、千雨は言ったのだという。自分にとってコスプレとは、単なる趣味以上のものなのだ、と。
 聞きようによってはただのおかしな人である。
 けれど、その時の彼女を見て、ハルナはそれを茶化そうとは思わなかった。
 驚きはしたけれど、果たしてネットアイドル“ちう”は、同性である自分から見ても可憐で、引きつけられるような何かがあった。

「私は、別にちうっちが何をやっていようと文句はなかったし、隠しておきたいならバラそうって気もなかった。ましてや、ちうっちの事を馬鹿にしようとなんて」

 けれど、彼女もまた、ハルナのことをよく知っているわけではなかった。
 ハルナが“オタク”であることも、知らなかったのだろう。そんな千雨から、彼女はどう見えたのか。少なくとも世間一般で、コスプレ等という行為がどう見られているか――それを、千雨は理解していた。

「馬鹿にしたけりゃ勝手にしてくれって、ちうっちは言ってた。ただ、クラスメイトには言わないでくれって」

 その顔は、自棄になったようには見えなかった。
 馬鹿にするならそうすればいい。ただハルナがそうしたところで、自分の意思は変わらない――言外にそう言っているように思えた。

「……今にして思えば、恥ずかしかったのか、目立ちたくなかったのか――どっちなんだろうって思う。あと――ほら、漫画やアニメのキャラクターって、結構過激な格好が多いからね。中学生のちうっちがそう言う格好して――学校にバレたら何言われるかわからないし」
「う、うーん……私はやっぱり、その辺の事よくわかんないなあ」
「拙者も――長谷川殿には悪いが、何処の誰とも知らぬ輩の目に肌を晒して、それがどう思われているのかなど――寒気がするで御座る」
「まあ、そう言う余計な心配されたくないんじゃないかってね。でも――その辺のことは安心して良いと思うよ? 確かに世の中、エロい事ばっかり考えてるような気持ち悪いオタクは多いけどさ、何て言うか――後でちうっちのコスプレ写真見たらいいよ。どんだけ大胆な格好でもね、そう言うんじゃないんだ。見てくれたら多分、私が何言いたいかわかってもらえると思うから」

 何というか――ネットアイドル“ちう”は、とにかく輝いて見えるのだと、ハルナは言う。
 男にこびたようなアイドルではなく、露出狂まがいの自己満足でも、もちろん無い。

「何て言うか――全身から何かを伝えたいって言う気持ちが、ガンガン伝わってくるって言うのかな」

 ハルナの言葉に、明日菜とシロは顔を見合わせ、ネギは少し難しい顔になる。

「だから、私勢いで言っちゃったんだ。私もオタクなんだけど――って」

 その言葉が、どれほどの意味合いを持って千雨に届いたのかはわからない。
 ただ後日、ハルナはありったけの勇気を振り絞って、自分の描いた漫画を彼女に見せたのだ。馬鹿にされても、笑われてもいいと、その時は思っていた。きっかけは偶然だったとは言え、千雨の秘密を知ってしまった自分には、それくらいでフェアというものだろうと思っていた。

「そしたらさ、ちうっち――真面目な顔して言うんだよ。『すごいな早乙女』――って」

 それから二人は、友人になった。
 友人であり――世間には認められにくい夢を持つ、同志になった。

「ちうっちは、本当に凄いよ。コスチュームって結局、飾りなのね。人を引き立ててみせる、飾り。それをホントの意味で理解してるって言うか――たとえば漫画を読んだら、その“見せ方の意図”を、ちうっちは理解しちゃうの。その上でコスプレするから、本当に“うは、これテラ本人”みたいなすっげーのが出来ちゃうのよ」
「は、はあ……」
「よ、よくわかんないけど――何かすごそうね?」
「そうですね――……あ、いえ、本当にそう思ってますよ? でも」

 ハルナの力説に、いまいちついて行けていない三人は、それでもどうにか、長谷川千雨という少女がいかに凄いのかを理解しようとしたのだろう。
 しかしふと、ネギが言った。

「その、長谷川さんが凄いというのは何となく分かりましたけど――どうして、早乙女さんと喧嘩になんてなったんですか?」

 何処か輝いた顔で話をしていたハルナのその顔に――その言葉と共に、影が差す。
 むろん、彼女は、千雨の素晴らしさを説くためにここに来たわけではない。
 話さねば、ならないだろう。シロや裕奈には、実際に迷惑を掛けてしまったのだ。それにあの場でクラスメイト達が止めてくれなかったら――彼女はその“素晴らしい”友人に、殴りかかっていたかも知れない。

「それは――」

 目を伏せ、拳を握りしめて、ハルナは言った。

「……あの娘が、自分はもう死んだんだとかって――フザケた事、言うから」

 その言葉にネギと明日菜は驚きの表情を浮かべ――シロはその瞳を、薄く細めた。




『そう――“自分はもう死んだはずの人間であって、長谷川千雨というこの娘ではない”と――彼女はそう言ったよ』

 場所を移して、夕刻――午後六時過ぎ、麻帆良学園都市郊外、横島邸。
 電話の向こう側で、優しげな声の男――唐巣和宏神父は、そう言った。
 その言葉を受話器から聞いたシロは、自分で何かを納得するように唇に指を当て――小さく頷いた。
 話の発端となった早乙女ハルナは、今現在台所で、神楽坂明日菜、近衛木乃香と共に夕食の準備をしている。
 話が“こういう”事態になってきた以上、一度唐巣神父に事の次第を告げておこうと提案したのは、先日彼から連絡を受けたシロだった。ハルナ本人もまた、オカルトじみた話には縁遠い普通の少女である。何か助言が出来るならと同行し、明日菜もまたそれに付き添った。
 ネギは手伝いたい様子だったが、本来の仕事が山積して動くことが出来ず、今日は新田教諭のサポートを受けて、彼の自宅で溜まった仕事を片付けるのだという。必ず報告をすることを約束して、別れた。彼の“使い魔”を自称するオコジョ妖精も、何を思ったかそちらに向かっているから、結果として寮の部屋には木乃香一人が残される事となる。
 彼女を一人にするのも何だか申し訳がないと明日菜が言ったのと、こういうときには人数が多い方が安心できるだろうという適当な理由付けから、彼女もまたこちらに来ている。

「唐巣神父は、どう思われるので御座るか?」
『正直なところ――私には判断が付けられない、と言うべきだろう』

 霊視はしてみた、と、彼は言う。
 しかし長谷川千雨という少女の魂に、おかしな波動は感じられなかった。それはシロも同じ意見だ。人間には感知できない、魂の微細な匂いまでをも感じ取る、人狼のずば抜けた霊感をもってしても――彼女が“おかしい”とは、思えない。

『シロちゃんがそう言うのなら、彼女は霊的には全く問題ないと言うことになる』
「では――単純に、拙者らの範疇外の仕事で御座ろうか?」
『いや――これは私の勘だがね。そう単純なものでは、無い気がするのだよ』

 聞けば、千雨は以前、生死の境をさまよう程の大事故に遭った。
 そういう大変なことを経験して以来、少し様子がおかしい――などというのは、オカルトに関係なく、ままある事である。死ぬような目にあって人生観が変わったというのもあるし、あるいは単純に、事故の心的外傷から、今までと違った行動を取り始めるだとか。
 そうであれば、霊能力者の出る幕などではない。精神科医かカウンセラーの世話になるのが、道理だろう。

「はあ――しかしそうとなれば、拙者らにはどうしたものか」
『横島君ならあるいは、と、思ったのだがね』

 唐巣の言葉に、シロの整った眉根に、僅かに皺が寄った。

「神父――恐縮で御座るが、先生は既にゴースト・スイーパーを退いた身。拙者が言うことでは御座らんが――便利屋のように扱われても、些か宜しいものでは御座らん」
『――……すまなかった。つい――こんな事を言うのは愚かな事なのだろうが、どうも自然と――ね。全く君の言うとおりだ。我々はどれだけ、あの心優しき青年を頼れば気が済むというのだろうか』
「いえ――もしも拙者が神父の立場であったならば、同じ事を思ったで御座る――否、正直に申せば――拙者も、真っ先に先生を頼ることを……考えた」

 シロは歯を食いしばる。奥歯が立てた嫌な音を隠すために、彼女は受話器を遠ざける。

『――シロちゃん。私が言えた義理ではないが――君がそうやって苦しんでも、きっと彼はいい顔はしないだろう』
「……はい。それは――重々承知。いえ――先生は、御尊父様に仕事の関係で呼ばれて、暫く不在にすると」
『そうか――いや、もう一度謝らせて貰う。すまない』

 話を戻そう、と、唐巣は言った。

『では、彼女が言う“自分は既に死んだ”――とは、一体どういう事なのだろう?』
「ふむ……時に神父、神父が長谷川殿の言葉を、ただの思いこみの類ではないと判断した理由は何で御座るか?」
『彼女は言ったよ。今の自分が、“長谷川千雨”という少女が、事故の衝撃によって作り出した別人格のようなものではないかと、そう考えた事もある、と』

 確かにそのようなものであれば、ハルナの言葉には納得できる。
 自分が「死んだ」と強く思いこんだが故に、千雨自身が生み出した別人格――大きな事故を経験したという彼女であれば、あり得なくはない話だ。

「しかし彼女は、そうではないと結論づけた――と」
『そうだ。彼女は言ったよ。自分は――』

 唐巣が続けた言葉に、シロは何か変なものを飲み込んだような顔になった。

『自分は目が覚めたとき――“無意識にひげ剃りを探していた”と』
「……は?」




「――蜂蜜は万能調味料なのです。いえ、調味料というカテゴリには収まりきらない、そんな崇高な存在なのです」
「だからと言ってひじきの煮付けに蜂蜜はどうかと思うわよ、あげはちゃん」
「そうよ、ここは思い切ってこのマヨネーズを行っちゃいましょう」
「ハルナはちょっと黙ってて」
「まあまあ……自由な発想も料理には大事なことやと思うで? せやけど――自分で作ったモンは責任持って完食しいや? お残しは――許しまへんで?」
「どうしよう木乃香の目がマジだ。助けて、高畑先生助けて」

 台所の方から聞こえる喧噪が、何処か遠くに感じられる。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「自我」
Name: スパイク◆b698d85d ID:e44970d4
Date: 2011/04/16 20:03
『お、ニンジャ――いや、“クノイチ”の姐さんは、第一希望が六道女学院か。こりゃあ本格的に、あのノッポの兄さんに惚れ込んだんでしょうかね』
「うーん……理由はともかく、正直ちょっと厳しいな。長瀬さんは二年生の最後から、少しずつ成績が上がってきてはいるんだけど――中間テストの成績次第じゃ、ちゃんとした面談の機会を作らなきゃ」

 午後九時。麻帆良学園都市某所、新田教諭宅。
 その客間に書類を積み上げて、我らが三年A組担任教師、ネギ・スプリングフィールドは職務に追われていた。現在彼が目を通しているのは、先日クラスで集めた、希望する進路を書き記したプリントである。
 大方の予想通り、クラスの大半が、麻帆良学園本校高等部への進学を希望している。
 しかしそれに混じって、専門学校や就職、あるいは麻帆良以外の高校への進学を希望する生徒も存在していた。

『こっちは――う、吸血鬼の姐さんかい』
「エヴァンジェリンさん? ――麻帆良学園本校高等部? これは――本気だと思う? カモ君は」
『さて……俺っちにはさすがに、あの姐さんの心の内だけは読めやしねえや。“悪党”としての格の違いって奴ですかい』
「思えばあれ以来、ほとんど顔を合わせてないんだよね……何というか、顔を合わせづらくて」

 ネギは困ったように言う。あれ以来――とは、京都の一件以来と言うことだ。あれ以来、自分の立ち位置に一定の線引きが出来るようになった彼ではあるが――やはりそれでも、エヴァンジェリンは苦手である。
 担任として、今のように彼女に苦手意識を持ったままでは宜しくない――と言うのは頭ではわかっているのだが、実際に歩み寄る機会も訪れない今、そのもやもやとした気まずさをどうすればいいのか、ネギは未だに考えあぐねていた。

『……まあ、時間が解決することもあるでしょうや。今は無理に動く事でも無いと思いますが――あり得ないとは思いますが、あの姐さんが進路相談でも持ちかけてきた日には、逃げ出さずに相談に乗ってやる事にしませんか』
「どんな皮肉だよ、それ。生意気言うなって、酷い目に遭わされそうだよ」

 ネギは苦笑して――プリントの束を捲る。
 そこから現れた名前に、ネギの動きが止まった。
 ――プリントに記されるのは『長谷川千雨』の名前。
 第一志望に、麻帆良学園本校高等部。第三志望まで記入すべきそのプリントの、そのほかの欄は空白であった。

『例の嬢ちゃんですかい』
「うん――ねえ、カモ君はどう思う?」

 ネギは一つ、伸びをする。凝り固まった体をほぐすうちに、その指先に何かが触れた。
 それは、彼の杖だった。京都の一件で、半ばからへし折れてしまったが、やはり捨てることも出来ずに持ち帰り、詠春のつてで、応急処置を施した。折れた部分に白い布が巻かれたその杖は、今は彼の呼びかけに応えることはない。
 詠春は、本格的な修理が出来る人間を捜すと言っていたが――ネギは自然と、杖が直らなくても別に良いと思えるようになっていた。
 父から譲られた杖を折ってしまった事は、確かに心に重くのしかかる。
 けれど――何故だろうか、杖が折れた時から、今でも父が何処かで生きていると、そんな確信を抱くように、ネギはなっていた。彼が父親からこの杖を受け取ったという事実は、事実として存在する。だから、今はただの木の棒であるこの杖には、自分の過去を証明するもの――それ以上の意味は、ない。何時か必ず父を見つけ出し、そして自分の言いたいことを言えば良いだけの話なのだ。
 そんなことを考えつつ――今日の夕刻、犬塚シロらから受けた連絡が、頭を過ぎる。
 この杖を父から受け取った記憶は、確かに自分のものとして、自分の中に存在する。
 けれど所詮、それは誰にも証明できない、彼の頭の中にある虚像でしかない。
 もちろん、それをただの虚像と思わないから、人は誰しも、自分自身として生きているわけであるが。

「僕が本当にネギ・スプリングフィールドなのか。それがわからなくなったら、僕はどうするんだろう」

 杖を両手に持って、ネギは言った。
 その肩の上でカモは『哲学ですねえ』などと呟く。
 俄には信じがたい話だった。
 “長谷川千雨”という少女は既に死んでいて――今“長谷川千雨”として生きているのは、別の人間なのだという。
 その“別の人間”本人が、そう言ったのだと言うのだ。

『そいつは――どうにもならんでしょうや。俺っちだって、そうだ。だが少なくとも俺っちは、自分がアルベール・カモミールだと思ってるし、周りの人間もそう思ってくれている。何と言うんですか“我思う、故に我あり”という奴ですよ』
「デカルトだね――詳しくは知らないんだけど」
『……兄貴の年頃じゃ、その名前がぱっと出てくるだけで十分でしょうや』
「でも、長谷川さんはそうは思えない。自分が自分じゃないと、思ってる」
『兄貴は、狼の姐さんの話が本当だと思うんですかい? いや――彼女は嘘を付く必要はありませんから、その自称、“偽・長谷川千雨さん”の話を』
「信じないでいる事は簡単だけど――疑ったって仕方ないよ。むしろそれが嘘だって言うなら、その方が良い。どうして嘘を付いたのかって、それを考えて相談に乗る方が、よっぽど楽だろうしさ」

 考えてみれば、それは恐ろしいことだと、ネギは思う。
 自分が自分である――それを証明する方法など、何もない。デカルトの言葉が正しいのかどうかなど、ネギにはわからないが――仮にそういうものもあるとすれば、自分が自分でないと思っている彼女は、一体何だというのか?

『もう少し単純に考えてみたらどうですかい?』
「と言うと――どういう事?」
『いつだったか、横島の兄さんが言ってた事、兄貴は覚えてますかい?』

 相坂さよを助けた一件の折、彼は言った。
 人間と魂の関係は、ロボットとその操縦者のようなものだとイメージしても差し支えない、と。
 あの時、霊的に衰弱した人間の危険さについて、彼はそのようなたとえ話をした。
 人間が霊的に衰弱すると言うことは、ロボットの操縦者が衰弱しているようなものである。ともすれば、悪意を持つ何者かによって、弱った操縦者が狙われ、ロボットが奪われないとも限らない、と。それをすなわち“霊に取り憑かれる”という。

『いっそあの嬢ちゃんの言うことを信じるならだな、そう言う状態を思い浮かべてみたらどうでしょうや? 今“長谷川千雨”というロボットを操っているのは、“長谷川千雨”の魂じゃなく、別の何かだと』
「何のために? そりゃ――悪霊が人間に取り憑こうとするとかなんとか、そう言うことはあるって横島さんや犬塚さんは言ってたけど、その“悪霊”が、自分は悪霊ですって吹聴する意味はあるの?」
『そりゃ――まあ、そうだが』
「それに――そんな状態だとしたら、犬塚さんが気がつかないかな? 犬塚さんの霊感は、ゴースト・スイーパーの中でも相当なものだって、横島さんが」
『霊能力者ねえ――魔法使いから見ても、何て出鱈目な連中でしょうかね』

 カモの言うことは、筋は通っている。
 ネギはオカルトの事には疎いが、それくらいの想像は出来る。しかし――ネギの言うこともまた、正しい。仮に千雨が“何者か”に取り憑かれているとしても、その“何者か”がその事実を周囲にこぼす意味がない。
 結局――今ここで、ネギとカモがどれだけ議論を交わしたところで、正解にたどり着くのは難しいと、結局そういうことなのだろうが。

「――仕事ははかどっていますかな、ネギ先生」

 ふと声を掛けられて、ネギは振り返った。見れば、ゆったりとした和装に身を包んだ新田教諭が立っている。人生の年輪を重ねた壮年である彼には、その落ち着いた格好は実によく似合っていた。

「あ、はい――すいません、どうも、本当にご迷惑をお掛けして」
「構いませんよ。困ったときはお互い様だ――それにネギ先生が生徒のために尽力しているというのは、見れば良くわかる。修学旅行の件は、私にも思うところはある。これは私の単なるお節介ですよ」
「でも、ここまでしてもらうというのも――確かに仕事が間に合わないと言ったのは僕ですけれど、お家にまで呼んで貰って、手伝いをしてもらって……」
「私もただの同僚にそこまでする義理はないが――“ネギ君”のような子供にお節介を焼くのもまた、年長者の特権という奴でね」

 そう言って新田は、ネギの隣に腰を下ろす。

「――それは進路志望調査ですな。どうですか?」
「はい――ほとんどが、高等部への進学を希望しています。そうでない生徒には――個別に進路相談をする必要があると思いますが」
「ふむ……学年主任として、そちらには一応顔を出しましょう。ここ数年の生徒の進路を纏めた資料もある。あとで参考までに見ておくのも良いでしょう」
「助かります。こちらで調整が付けば、新田先生にも」

 ネギは礼を言って、プリントを束に戻し、机の上で軽く角を揃える。

「そう言えばネギ先生――今日、犬塚と神楽坂――それに早乙女でしたか、放課後にネギ先生の所に来ていたようだったが、何かあったのですか?」
「それは……いえ、その――進路の事で相談があると」

 ネギは、一瞬考えた後、そう取り繕った。
 新田は何を思ったのか、暫く机の上に乗ったプリントの束を眺めていたが、ややあって納得したのだろうか、小さく頷く。
 ところで、と、彼は言った。

「家内が風呂の用意をしているので、仕事はそのくらいにして入ってくると良い、ネギ君」
「う」

 ネギは中途半端に腰を浮かしたまま、固まる。
 本音を言えば断ってしまいたいが――今の状況で、それは難しいだろう。カモがするりと肩から下りるのを見て、彼は何となく裏切られた気になった。




 ほぼ同時刻、麻帆良学園本校女子寮。
 消灯時間も近くなった頃になって、ようやくその自室のドアをくぐる生徒の姿がある。長谷川千雨――その人が。今まで寮に帰ってきていなかったのか、未だに制服姿で、学生鞄を抱えたままである。
 ただいま、という彼女の声に応える者は居ない。
 彼女はクラスメイトのザジ・レイニーデイと同室であるのだが、この不思議な留学生の少女は、割合平気で外泊をする。
 ――と言うよりも、ほとんど部屋に帰ってこない。何でも彼女は学園内でサーカスの巡業を行っているという、とんでもない団体に所属しているのだが、どうやら学校に通う以外はほぼそちらの方に入り浸っているらしく、寝泊まりもどうやらそちらでしているらしい。
 女子中学生としてはどうなのかと思われるが、千雨はそれを注意する立場にはないし、またするつもりもない。その団体にしても、存在の突飛さは別にしても、学園にも正式に認められたものである。
 ともかく、そう言った同室のクラスメイトが何も文句を言わないので、千雨はこの寮の部屋をほとんど一人で使っている。
 部屋の玄関の電気を付ける。果たして蛍光灯の光に照らし出されたのは、寮の他の部屋とは随分と様子の違う室内。
 もちろん、基本的な間取りや家具などは他の部屋と変わらない。
 しかし、不織布でカバーをされた衣装掛けが、部屋のあちこちに置いてあり、まるでファッションモデルの控え室のような様相を呈しているのだ。
 千雨は黙って玄関で靴を脱ぐと、その衣装掛けの間を抜け――そのままベッドに倒れ込んだ。ブラウスのボタンを一つ外した以外は、服を着替えようとも思わない。
 枕に頭を鎮め、何をするでもなくうつぶせに横たわる。
 悲しいわけでも、そもそも何かを考えていた訳でもないのに、その瞳から、涙がこぼれ落ちた。横になっているとそういうことはままあるものだ――そんなことを考えたのか、制服の袖が、乱暴に涙を拭う。
 この部屋に、いつも同居人がいないことは、彼女にとって幸いだった。
 今はもちろん――ネットアイドル“ちう”として活躍していた頃、そう言った姿を見られずに済んだというのは、もちろんのこと。
 けれど今は――どうしてだろうか、あの無口で無愛想な同居人であっても、何故か側にいて欲しいと、彼女はそんな風に思えていた。
 部屋のあちらこちらに、無機質に、乱雑に存在する衣装掛けが、何だか自分にのしかかっているように感じられる。けれどもう、今は立ち上がりたくもない。
 彼女は枕を頭に乗せ――強く、強く目を閉じた。




――ちうっち――ちうっち! よかった――ほんとに、よかった――

 誰かの声がする。
 自分の耳に響くその声が、自分自身のものであることに気がつく。薄ぼんやりとした意識のなかに、ゆっくりと見えてくる光景。
 簡素な病室の中、包帯で全身を覆われ、機械に繋がれた痛々しい姿の少女が、ベッドに横たわっている。ほとんど唯一自由に動くのだろう彼女の瞳が、自分の方に向けられた。
 自分は――“その光景の中にいる自分”は、包帯が巻かれ、乾いた血に汚れた小さな手のひらにそっと自分の手を重ね――ただ、彼女が生きていることを喜ぶ。
 そして“自分”はそれを、何処かからじっと見つめている。
 そうか――これは、自分の記憶だ、と、彼女は思った。
 これはきっと、夢なのだろう。自分に刻まれた記憶が、自分に見せる、夢。
 人間は記憶の整理を行うために夢を見るのだという。そんな話を、彼女は聞いたことがある。では――自分は、この記憶を“整理”したいのだろうか。何のために? どう“整理”を付けるのか? それは、わからない。
 やがて、記憶の中でベッドに横たわる彼女の――その傷だらけの小さな唇が、言葉を紡ぐ。

――ごめんなさい――“俺”は――

「……」

 何かを言いかけた状態で、早乙女ハルナは目を覚ました。いつしか自分の手は、そこにはない何かを求めるように、虚空にのばされていた。
 その先に見えるのは、見慣れない和風の天井と、そこからぶら下がった電灯。ここは一体何処だっただろうかと、彼女はぼんやりとした頭で考える。
 自分の隣で、亜麻色の髪の少女と、黒髪の少女が、布団にくるまって小さな寝息を立てている。クラスメイトの、神楽坂明日菜と、近衛木乃香――そこまで考えて、ハルナはようやく、自分が何処にいるのかを思い出した。
 ここは当然、学生寮ではない。
 麻帆良学園都市の郊外に建つ、横島邸。クラスメイトの犬塚シロの下宿先でもある。
 そうだ――夕べは、彼女らに相談に乗ってもらって、そのままこちらに泊まり込んだのだった。
 壁に掛けられた時計に目をやれば、その針は午前五時を指している。今日は土曜日であり、中学生である彼女らにとっては休日である。目を覚ますには、少しばかり早すぎる時間。

(……明日菜は……今日はバイトは無いのかな?)

 隣で寝息を立てる勤労少女に眠い目を向けて、ハルナは体を起こした。
 春先のような張りつめた寒さのない、早朝特有のさわやかな空気の匂いと、普段使われていない布団に染みついた防虫剤のかすかな匂いが感じられる。
 それはどちらかと言えば不快なものではない。
 休日の朝である。いつもならば、布団に残る暖かさの誘惑に負けて、今暫く眠りの世界へと戻っていくところであるが――今朝はどうにも、そう言う気分にはなれなかった。
 寝覚めの悪い夢を見たからだろうか、何となく頭が重い、そして、気分も重い。
 ぼんやりと霞む夢の世界で――自分は、何を言いかけたのだろうか? 頭を振って思い出そうとしてみるが、途端に襲ってきた不快感に、彼女は小さく呻く。
 髪の毛を掻き上げつつ、借りたパジャマの襟を整える。
 一年でも最も寝心地の良い季節の筈であるが――随分と寝汗を掻いている事に、彼女は気がついた。

「うー……」

 自分でもよくわからない声を出しながら、立ち上がる。着替えてしまいたいが、汗で湿った肌の上に、新しい服を来たくはない。さりとてこのまま汗が引くのを待つというのも――ハルナは自分の腕に鼻を寄せて、小さく顔をしかめる。

(……シャワー借りようっと……)

 着替えと、念のため持ってきていた予備の下着を荷物から引っ張り出し、未だ夢の世界にいる友人達を起こさないように、ハルナはそっと部屋から抜け出した。
 随分日が長くなってきたせいだろうか、既に薄明かりが差し込む横島邸の廊下を、彼女は歩く。ひんやりとした板の感触が、裸足の足に心地良い。
 ふと、水音が聞こえた。
 薄暗がりの中で、廊下に響く水音――普段ならば薄気味悪いと思うかも知れないが、半分寝ぼけている彼女は、怖いとも思わなかった。
 水音がするのは洗面所――これから彼女が向かうべき浴室の隣である。
 ためらいなくドアを開けると、白銀の髪が翻った。この家の住人である犬塚シロが、驚いたようにこちらを見る。

「早乙女殿? ――まだ起きるには早い時間だと思われるが」
「ん……おはよ、シロちゃん」

 タオルで顔を拭きながら言うシロに、ハルナは応える。

「何か……目、覚めちゃって。ちょっとシャワーでも借りようかと思って……シロちゃんこそ、こんな朝早くにどうしたの?」
「いやその――拙者も、どうも眠りが浅くて。やはりもはや拙者先生がおらぬと……」

 言いよどむように言って、一つ咳払いをするシロ。ハルナは首を傾げる。普段ならば呟くようなその台詞を耳ざとく聞き取って彼女に詰め寄るだろうが――今はまだ眠気が頭の芯に残っている。
 きっとそうであったことは、犬塚シロには幸いだっただろう。閑話休題。

「おほん――ともかく、拙者も目が覚めてしまったので、“軽く”散歩にでも行こうかと」

 そう言うシロは、夕べ風呂上がりに着ていたパジャマ姿ではなく、タンクトップに、下はショーツをはいただけの格好だった。なるほど、散歩をしてきた後に軽くシャワーでも浴びたのだろう。
 ハルナは口元に手を当て――わざとらしく笑ってみせる。

「フヒヒ……眼福眼福」
「……何処を見ておるので御座るか。女同士で何を馬鹿らしい」
「何を言っちゃって。女の子の醸し出すエロスってのはね、性別なんて余裕で越えちゃうんだから。いやもちろん、私にもそのケはないよ? 木乃香と違って。でも、何て言うかなこう――ほら、さ――わかんないかな、この線引き」
「和美殿と同じ冗談を聞きたくはない。それと木乃香殿がそれを聞いたら怒るで御座るよ」
「えー、だからつまりさあ…………シロちゃんノーブラ? おお、ちょっと谷間強調してみてよ」

 彼女の言葉に、シロは胸元を押さえて一歩後退る。ハルナは苦笑しつつ、彼女に向けて手を振った。全くこの少女は、大胆なのだから繊細なのだかわかりはしない。
 もっとも「それ」が可愛いのだけれど――などと、詮ないことを考えつつ、彼女はその場を茶化した。

「全く――先生がおらぬからと、だらけた格好をした拙者が間違っておった」
「あれ? 逆にそうした方がシロちゃんにとっては良いんじゃない? ふとした時に見せるシロちゃんの色気に、横島さんは――とかって展開があるかもよ?」
「……近所迷惑になるので残念ながらそういうことは――」
「近所迷惑っ!? シロちゃんそんなに大声出しちゃうの!?」
「何を想像しているので御座るか早乙女殿!? そ、そう言うことではなく――」

 馬鹿げた遣り取りの中で幾分目が覚めてきたハルナの脳は、平常運転を開始したようだ。自分の中で何か歯車が噛み合わさったような感覚を、彼女は感じる。
 ――我ながら年頃の少女としてそれはどうかと思わなくもない、が、別段それを恥じることをしようとも思わない。
 しばらくのち、シロは洗面台に手を付いて疲れたように俯き、ハルナはそんな彼女を見てニヤニヤと笑っていた。

「……何か軽い朝食を用意するので、早乙女殿はその間にシャワーを使うと良い」
「睨まないでよ。これでも私、一応シロちゃんの恋路は応援しようかなって思ってるよ?」
「何で御座るかその“一応”というのは」
「だってあげはちゃんもいるし――もうあの子ヤバいくらいに可愛いよね? つか、お持ち帰りしたい。お持ち帰りして全力でかわいがり倒したい」
「拙者、クラスメイトが逮捕されるのは気が引けるでござるよ? それよりも、見た目に騙されると後で痛い目を見る。あれはそんなにかわいげのある子供では――しかし早乙女殿は、昨晩は眠れなかったので御座るか?」
「あー……」

 ふと投げかけられた質問に、ハルナは困ったように頭を掻く。
 馬鹿げた話でうやむやになったかと思っていたが――どうやら目の前のクラスメイトは、彼女が思う以上にお節介であるらしかった。
 もっともシロの場合――それが決して欠点にならないのが羨ましいところだ、と、ハルナは何となく思う。

「……ちょっと、ね。昨日みんなと話し合ったからかな……嫌な夢見ちゃって」
「――長谷川殿の事で御座るか?」
「ん。シロちゃん、昨日はごめんね? ありがとう、私を止めてくれて」
「礼を言われる事ではない。拙者こそ、乱暴なやり方となって申し訳ない」
「大丈夫だよ。お陰でレアな体験しちゃったしね」

 クラスメイトに放り投げられて空中で一回転した事を、果たして“レアな体験”で済ませていいものだろうか――とは、自分でも思う。
 が、それを深く気にすることもなく、ハルナは言う。

「……嫌な夢……ってのも、違うかな。ねえ、シロちゃん――幽霊が誰かに取り憑いてさ、その人が変わっちゃう事って――結構あるの?」

 ハルナの問いに、シロは真面目な顔になって、彼女の方に向き直る。

「霊障の中では、割合多い事例で御座る」
「……そう言う時って、どうすればいいの?」
「拙者はゴースト・スイーパーと言っても戦うことが専門で――儀式的なやり方での除霊はあまり詳しくないので御座るが」

 そう前置きして、シロは言う。
 「悪霊が人に取り憑いた」などと、都市伝説や怪談でもおなじみのシチュエーションである。当然、ゴースト・スイーパーのもとにも、そう言った相談は多く舞い込む。
 その解決法も、取り憑いた幽霊を説得するようなものから、それ専用の破魔札を叩きつける強引なやり方まで色々とある。
 取り憑かれた方の霊体も気に掛けなければならないので、自分のような素人があまり乱暴に行うわけにはいかないが、その道のプロなら難しい事ではない、と、彼女は続けた。

「それじゃ――仮に、今のちうっちが本当に“幽霊”なんだとしたら――そうすれば、全部解決?」
「いえ――しかし一つ、気になることが」
「……」

 「霊が人に取り憑いた」というのは、それこそままあることだ。
 しかしそう言う場合――大前提として、その「霊」は、自ら進んで誰かに取り憑くのである。

「……? 変な言い方だけど……まあ、そうなるの?」
「左様。霊に取り憑く意思がなければ、当然人に取り憑く事などあり得ぬ」
「それが――どうしたの?」
「わからぬで御座るか? 自分が長谷川殿で無いと言い、本来の長谷川殿に体を返したいとまで言う――そんな霊が、何故彼女に居座ったままなので御座るか?」
「あっ」

 ――言われてみれば、その通りだ。ハルナは思わず、口元に手を当てた。

「仮に――仮に、今の“長谷川殿”の言うことが嘘でないとして、ならばその誰かの霊が、長谷川殿の体から出て行けば良いだけの話では御座らぬか。何故その誰かは長谷川殿の体に居座り、しかし何故彼女に体を返したいなどとのたまうのか――その意図が、拙者らにはわからぬ」
「……シロ、ちゃん」
「……大丈夫で御座るよ」

 瞳の奥が、熱くなるのを感じる。そんなハルナの気持ちを感じ取ったのか、シロは彼女の肩に手を置いて、柔らかな表情で彼女に言った。

「今唐巣神父が――長谷川殿が相談を持ちかけたお方が、親身に方法を探しておる。なに、心配は要らぬ。何せかのお方は、日本最高と言われるゴースト・スイーパー――美神令子の師匠で御座るよ? ちと風変わりな“自称幽霊”の相談程度、朝飯前で御座る」
「……シロちゃん、私――」
「とりあえず今は、シャワーで目を覚ますのが良かろう。タオルの場所は昨日言ったとおりで、洗濯物はそちらの籠に――先生の下着に手を出してはならんで御座るよ?」
「出すかっ!? シロちゃんあんた一体私を何だと――……あ、ごめん、反論出来ないや」
「出来ないので御座るか!?」




「……真面目な話、さ。私――ちうっちのこと、ちゃんと見てなかったのかな」
「と、言うと?」

 午前五時半、横島邸。
シャワーを浴び、居間で卓袱台に向かってトーストを囓りながら、ハルナは呟いた。
 彼女の向かいで、自分のトーストにジャムを塗っていたシロは、顔を上げる。

「いや、さ……私、あの娘の事を親友だって言いつつさ……自分で勝手に、自分の中に“長谷川千雨”って像を造って――それを見てきたのかな、って」
「それは……拙者が軽はずみな事を言える筈はないが、大なり小なり、誰でも同じ事で御座ろう?」

 他人から見て、相手の全てを理解するなどということは、不可能だ。
 どのみち、人間は自分以外の相手を、自分の物差しでしか判断できない。
 だから、すれ違う。けれど、相手を思いやる事も出来る。
 一概にそれは、悲観するだけのものでもない。

「でも、“親友”だもん。それなりに――それなりに、相手の中身、見たいじゃん」
「――そういうもので、御座るかな」
「シロちゃんみたいに、底抜けに相手の事を信じられます――みたいな娘には、こういう悩みは無いのかも知れないけど」
「早乙女殿、拙者もそこまで大した人間では御座らんよ」

 苦笑しながら、シロはトーストを囓る。
 その仕草を見て、ハルナは単純に、やはり彼女は大人びた雰囲気がする、と思う。

「……拙者とて我を張っているだけの部分があって。時々――何もかも忘れて、幼子のように先生に甘えてみたい時がある」
「シロちゃんが?」
「いえ、何でも御座らぬ。忘れてくだされ」

 シロは首を横に振る。
 ハルナは一つ息を吐いてから、続けた。

「言ったでしょ? 私――ちうっちは、凄いって。だから――ちゃんと見てあげられなかったのかな。ちうっちは、私なんかよりずっと凄い。凄いから――悩みなんか無いって。そんなわけないのにね。シロちゃんが――なんて言うか、シロちゃんにしかわからない悩みを抱えてるのと同じでさ」
「拙者は所詮早乙女殿とそう変わらぬで御座るよ。事情があって“背伸び”をしているだけで」
「それでもね、よそから見れば、結構凄いって思えるよ」

 ハルナはカップスープにパンを浸す。あまり行儀の良い食べ方ではないが、テーブルマナーがどうこう言うような場ではない。シロも幾分行儀悪く――大口を開けて、残りのトーストを頬張った。

「考えてみれば――事故の後、目を覚ましたときから――ちうっちは、どこかおかしかったんだ。でも私はそれが、単なる“事故のショック”からだと思って――それ以上は何も考えなかった。あの娘が漫研と手芸部辞めた時に、私は心配はした。けどそれを、単なる心境の変化だって、思ってた」
「誰だってそう思う。誰が“幽霊”などと馬鹿げた可能性を考慮する必要があろうか」
「そこまでは考えなくても――私が昨日怒ったのだって、結局は――あの娘が苦しんでるのを、知らなかったからなんだし」
「彼女の言い分を信じるなら、彼女は長谷川殿ではなく“幽霊”で御座る。長谷川殿の友人である早乙女殿が、それを気に病む必要は御座らん」
「……それじゃ私は、幽霊の事をちうっちだと思いこんで、何の疑問も持たなかったって事になるよ」
「ならばそれは、理由はともあれ早乙女殿を騙していた“幽霊”のせいで御座ろうに」

 これ以上は何処まで行っても堂々巡りで、ならば気に病む必要はない――そう言って、シロはミルクティーの入ったカップを傾ける。未だにコーヒーは苦くて飲めないと、彼女は言った。

「騙すって言うか……」
「むろん、その“幽霊”に何らかの事情があったなら、その言葉は適当でない。早乙女殿らに気を遣っていたと――そう言うことかも知れぬ」
「……」
「何にせよ――自身が“幽霊”かどうかと言う根っこの部分は抜きにしても、拙者にも長谷川殿が嘘を付いているようには見えなかった。ならば――彼女は彼女で、どうにか問題を解決しようとしているので御座ろう。事は簡単ではないが――悲観する必要も御座らん」
「……そんなもんかな」

 シロの言葉には、完全に納得は出来ない。
 納得できないけれど、それ以上に、今の自分自身には、彼女のために出来ることが何もない。
 ハルナはため息をつき、最後のトーストを手に取ると――シロに言った。

「納豆無い?」
「……夕べも思ったが、早乙女殿、味覚があげはと同レベルで御座るよ……白飯に蜂蜜を掛ける人間と」
「え? そう? 納豆美味いよ? 納豆トースト。いつだったか私新聞で読んでさ、試してみたら――のどかは真っ青な顔してたけど」
「それは宮崎殿に同情するで御座るよ……そういう組み合わせは、せめて人の見ていないところで試していただきたい」
「いやさ、ホントだって。ヌメヌメが気になるんだったら、一度水洗いして、チーズとかと一緒に……」
「それ以上言わないでくだされ……もう何か喉奥にこみ上げるものが…………ッ!?」

 突然、シロが立ち上がる。

「ど、どったのシロちゃん? そんなに納豆嫌いなんだったら、私……」
「いえ」

 その口元が、弧を描く。

「あるでは御座らぬか。少々“乱暴”であるが――長谷川殿の言葉の真偽を確かめる方法が」




「ん……んん? いけね、あのまま寝ちまってたのか……」

 長谷川千雨が目を覚ましたのは、もう寮の窓から昼間の日差しが差し込む頃に鳴ってからだった。時計を見れば、午後一時。寝坊という程度を既に通り越している。いくら休日だからと言っても――口元を手のひらで拭いながら、彼女はベッドから起きあがった。

「ヤバ、涎が――枕カバー洗わねえと……女子中学生としては、いかんよなあ、これは」

 自嘲めいた笑みを浮かべつつ、枕からカバーを抜き取る。
 それを洗濯機に放り込んだところで、自分の格好に改めて気がつく。

「あー……制服が皺に……どうすっかな、今からクリーニング屋に持って行って……」

 そう一人呟いたところで、携帯電話が鳴った。
 彼女は小さく息を吐いて、それを取り上げる。ディスプレイに踊るのは、「早乙女ハルナ」の文字。
 千雨は暫く迷ったようにそれを眺めていたが、ややあって携帯を開き、耳に当てる。

「もしもし……あ、うん……今起きたトコ。――……寝過ぎだって? わかってる。目が覚めてちょっと驚いた――――五時から起きてる? それはそれでどうなんだ――――うん…………え?」

 彼女の表情が、かすかに曇る。

「だから――――うん……昨日の事は、私が悪かったと思ってる。早乙女が謝る必要はない――――そうじゃない。そう言うことが言いたいんじゃないんだ。ただな、やっぱり――――これ以上は――もう、無理だ」

 相手に見えるはずも無いだろうに、彼女は首を横に振った。

「わかってる――わかってるよ、そんなことは。自分は結局、“長谷川千雨”の思いこみが作ってる人間なんじゃないかって――……だから――早乙女が――――何?」

 電話口で何を言われたのか――彼女は時計を見た。

「いや、でもさ――……お前がどうこう言うんじゃなくて、私の方が、その――合わせる顔が――……って、おい、切るな!? 早乙女! もしもし!?」

 切れた電話の画面を眺めて、千雨は今度こそ、盛大に息を吐いた。
 学校近くの公園で、一時間後に待っている。電話の相手――ハルナは、それだけを簡潔に伝えて、電話を切った。
 千雨は一つ、舌打ちをする。喉の奥から、押し殺したような声がこぼれる。

「――今更どの面下げて、あいつに顔を合わせるって言うんだよ――ああもう、くそっ!」

 しかし今更電話をかけ直すわけにもいかないだろう。千雨は苛立ったように最後に叫ぶと――一晩寝ていたせいで皺が寄ってしまった制服のブレザーを、ベッドの上に放り投げた。




「……あなたは」

 Tシャツにジャケット、腰履きのカーゴパンツという、何処から見ても少年にしか見えないような出で立ちで待ち合わせの公園に現れた千雨は――そこに立っていた人物を見て、明らかに驚いたようであった。
 やせ形で割合高い身長を、黒を基調とした服装にきっちりと包み――柔和な顔を際だたせる丸い眼鏡。随分頭髪が薄くなった頭には、黒い帽子が乗っている。一見して何処から見ても、優しい神父様――そんな出で立ちで、唐巣和宏その人は、そこにいた。

「やあ、長谷川さん――調子はどうかな?」
「い、いえ……調子はと言われましても――何故神父がここに?」

 一見して、何処にでも居そうな中年の男である。
 しかし、実際の所の彼は、見た目通りの冴えない男ではない。かの美神令子の師匠にして、自身も日本有数のゴースト・スイーパーであるのだ。
 かつて、人を助けるために教会の戒律に反した儀式を行い、教会から破門され――しかしそれからも信仰を捨てることなく、他の営利目的のゴースト・スイーパーとは違い、霊障に困窮した人たちを無償で救い続けた。
 そのせいで彼自身の生活が困窮することが多々あったと言うが――最近その実力と功績が認められ、日本ゴースト・スイーパー協会の客員理事として就任。彼の名声は、更に広がり続けている。
何でもこの昇進の影には、彼の弟子である国際警察官の尽力があったと言うが――
 果たして本人は、その地位に驕ることなく、今まで通りの活動を続けている。
 食うに困らなくなったのは良いことだが、その分個人個人に顔を向ける事が出来る時間が減って困っている――とは、彼の弁。
 そんな彼に、千雨が相談を持ちかける事が出来たのは、だから果たして、幸運な偶然だった。彼は基本的に来る者を拒むことはないが、彼一人で膨大な数の相談者を受け持つ事が出来るはずもない。
 彼の高潔な人柄と名声を知って、それこそ教会からの破門覚悟で、彼の元には見習い神父や修道女達が集まりつつあり、共に民衆の救済活動を行っているという。
 その事に関しては教会も目をつぶっているようではあるが――ともかく、彼の教会を訪れた大方の相談者の相手は、そう言った志を持つ若き聖職者達が担当する事になる。だから千雨が彼ら彼女らではなく、唐巣本人に相談を持ちかける事が出来たのは、本当に幸運だった。
 つまるところ――かつて以上に、唐巣和宏は多忙である。
 そんな彼が東京を離れて、こんな麻帆良の片隅に足を伸ばしても良いのだろうか?

「何、教会の方には優秀な弟子達がいるから問題はないよ。私には不釣り合いな程のね――たまたまピート君がこちらに戻ってきていてね。留守は自分が受け持つから、たまには横島君らの様子を見に行けばいいと――残念ながら、彼は出張でここには居ないようだが」

 帽子を被り直し――見ているだけで心が癒されるような、優しげな笑みを、唐巣は浮かべる。

「おっと、気を悪くしないでくれ。確かに私がここに来たのは、私事の“ついで”かも知れないが、長谷川さんの相談を忘れているわけではない」
「あ、い、いえ……あの唐巣神父にそう言っていただけるだけで、私は――犬塚達の知り合いだったんですか?」

 彼は小さく頷き、側に立っていたシロらに目をやる。

「彼女や、彼女の“先生”――横島君とは、長い付き合いでね。横島君の師匠の美神君も含めて――まあ、その――本当に、色々とあってね……」

 遠い目をしながら語る唐巣と、それを引きつった顔で見つめるシロ。その行動の意味は、当然他の人間はわからない。千雨はもちろん、一緒に来ていたハルナ、明日菜、木乃香とも、揃って首を傾げるしかない。
 彼の薄い頭髪が、何故だか妙に儚げに感じられたのは、気のせいだったのだろうか?

「ま、まあとにかくだ。私のことは気にしなくて良い。長谷川さんがシロちゃんの友達だからと言って、特別にひいきをしようと思っているわけではない。結局私は、自分が出来ることを、ただやるだけだからね」
「あ、はい――それは、全然――結構なんですけど」

 千雨が、その場にいた全員を見渡す。
 全員が――唐巣を含め、揃って視線を逸らした。

「何で私――公園のベンチに縛られてるんですか? これ、何かの儀式ですか? 映画である悪魔払いのアレみたいなんだったら――すんません、ちょっと心の準備が出来ていないんですが」

 そう――何故か、千雨の体は、公園の片隅にあるベンチに縛り付けられていた。呼び出されてここにやってきた途端、ハルナと一緒に来ていたシロと明日菜に取り押さえられ、木乃香によって縄で拘束されたのである。
 何故こんな事になっているのか、彼女でなくてもわかりはしないだろう。
 ここで映画さながらの悪魔払いの儀式が行われるというのなら――相談を持ちかけたのが自分であるとは言え、勘弁して欲しいところであると、千雨は思う。

「心配はないよ。危険なことは何もない」
「あの……すいませんけど、私の目を見て言ってくれませんか?」
「別に危険は無いで御座るよ? 本当に」

 シロが一歩、前に出る。その手には、何やら片手で持てるくらいの紙包み。
 そして何故か――彼女は、それを持つのと反対の手で、鼻をつまんでいた。

「……あの、犬塚――それ、何?」
「とあるオカルトアイテムで御座る」
「何でお前……鼻つまんでるの?」
「拙者人一倍鼻が効くので――出来れば近くにすら寄りたくは無いので御座るが」

 彼女は言いながら、紙包みの開いている方を、千雨に向けて見せた。
 その中に入っていたのは――

「……ハンバーガー? 何でハンバーガー……っ!?」

 その瞬間、千雨にも、彼女が鼻をつまんでいた理由が理解できる。
 普通のハンバーガーから漂うべき芳香が、そこには存在しない。“それ”から漂ってくるのは何というか――甘ったるいような酸っぱいような、形容しがたい臭気。

「うおっ!? ち、近づけんな犬塚! それ、絶対腐ってんぞ!?」
「大丈夫で御座るよ。別に腐ってはおらぬ。ものがものだけに、毎朝新鮮な材料を使って作られておると聞いたので」
「新鮮な材料って、一体何だよ!? 何をどうしたらこんな臭いの代物が出来るんだよ!? それ絶対食い物じゃ――って、何でそれ近づけんの!?」
「苦しいのは一瞬で御座る。さあ、覚悟を決めて――“がぶり”といかれよ」
「そっ――それを、喰えっつうのかテメェは!? ちょっ……は、はなせっ! この縄を、今すぐほどけ! 犬塚――俺に死ねって言うのか!? 唐巣神父、助け――」

 涙目で視線を送った先に立つ、神の僕は――目を閉じて、無言で胸の前で十字を切る。

「神よ――この哀れな子羊を救い給え」
「さくっと見殺しにしようとしてんじゃねえ!? お前ら――かっ、神楽坂!? 近衛!? 何で俺の頭を――お、おい、離せ! 頼む! お願い、離してください! 何か本能レベルで危険を感じるんだってば!」

 もはや恥も外聞もなく騒ぐ千雨の口に――無情にも、その“ハンバーガーらしきもの”が押し込まれる。
 刹那、口の中から鼻に抜けた、えもいわれぬ臭気――喉奥から一気に、何か熱いものが逆流してくるのを、千雨は感じた。
 一瞬と遠のいた意識を必死につなぎ止め、彼女はそれを飲み込み――そして、叫ぶ。

『フザケんなテメェら――一体何のつもりだ!?』

 しかしその“魂からの叫び”に、目の前に立つシロは――小さく、微笑んだ。

「お初にお目に掛かる――さて、拙者はお主のことを、何と呼べば良いのであろうか? ――“長谷川殿に取り憑いた幽霊”よ」

 はっとして――“長谷川千雨”は、“自分”を見る。
 目の前に――がっくりとうなだれる、少女の後頭部。これは――“長谷川千雨”だ。ならば、何故自分がそれを見ることが出来るのだろうか? 慌てて自分の体を確認する。
 目の前にある“長谷川千雨”の体とは別に――半ば透き通った、薄い影のような体が、そこには存在していた。

『これは――』
「俗に言う“幽体”で御座るよ」

 シロが言う。ハルナ達にはどうやら、この“自分”は見えていないらしく――ぐったりと脱力した千雨を見て、心配そうに何かを言っている。
 その中で――目の前のシロと唐巣だけは、“千雨”ではなく“自分”に目をやっていた。

「どうやらお主の言っていた事は本当であったようで御座るな――多少手荒なまねをした事は詫びようが、では――お主の言葉、しかと聞かせていただきたい」

 二人の目には、確かに見えていた。
 “長谷川千雨”と同じ格好で――呆然と彼女の背後に立ちつくす、一人の青年の姿が。




「何が起こってるのかウチらには見えへんけど――成功したんやろか?」
「そうじゃないの? シロちゃん達には見えてるみたいだし……アレって何なの?」
「明日菜……私の見間違いじゃなかったら、何かパンに……魚とあんことチーズが挟まってた」
「……何それ?」

 彼女らが知るよしもないそのオカルトアイテムの名は“チーズあんシメサババーガー”。
 かつて鈍器で頭を殴ると言う、非常に危険なやり方で“幽体”を体から引き抜いていた霊能力者達が、こぞって買い求めた、奇跡の産物である。










原作設定にこだわらないのが身上のこの作品ですが、
千草さんの時に匹敵するオリジナル要素が入りました、今回のお話です。

受け入れられるのか少々恐ろしい面はありますが、
本当の意味での「長谷川千雨」は今後登場予定であるのと、
お話の構成を特訓する上での暗中模索とご理解ください。

原作の設定を、二次創作の重要な要素と解釈する方には、
まことに申し訳ありません。
どうか、お話そのものだけでも楽しんでいただければ幸いです。

できれば一言でもご感想をいただけるとありがたいです。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「未来」
Name: スパイク◆b698d85d ID:bd856bc6
Date: 2011/04/24 21:23
 何かに、苛立っていた。
 何に苛立っていたかはもう、思い出すことが出来ない。自分がどういう人間で、どういう生活をしていたのかさえも、もはや曖昧だ。
 けれど、その瞬間の事だけは良く覚えている。
 “彼”は――何かに、苛立っていた。その苛立ちが、彼の判断を鈍らせた。
 「危ない」と思った瞬間には――もう、彼の乗っていた車は、そのカーブを曲がれるような速度では無かった。
 ブレーキを踏み、ハンドルを回す。けれど、車体は曲がらない。
 その先には、バス停がある。少女が一人――呆然と立ちつくしたまま、こちらを見つめている。
 ほんの一秒もない程の時間だった。けれど、やけに周りの景色がゆっくりと見えて――視界の中で立ちつくす少女と、確かに、目が合った。
 そして訪れる衝撃と、暗転。
 目が覚めたとき――彼は、“彼”では無くなっていた。




 ――××年八月二日。県道四十八号線○○バス停で、近所に住む男性会社員が運転する乗用車が、カーブを曲がりきれずに路肩にあったバス停に突っ込んだ。車はそのまま路肩の用水路に転落し、横転して大破炎上、男性は三〇分後に救急車で近くの病院に搬送されたが、死亡が確認された。
 バス停にはバスを待っていた十三歳の女子中学生がいたが、巻き込まれて意識不明の重体。現場は見通しの良い片側一車線の道路で、警察では車を運転していた男性がスピードを出しすぎて、運転操作を誤ったものとして調査している――

「では君は、このときに車を運転していた男性だと言うのだね?」
「多分――間違いありません」

 午後三時十五分――埼玉県から西へ向かう高速道路の車の中で、唐巣和宏神父は、後部座席に座る少女に問うた。少女――“長谷川千雨”は、その質問に小さく頷く。
 八人が乗ることが出来る古びたミニバンには、運転席に唐巣が座り、後部座席に五人の少女達が乗り込んでいる。すなわち長谷川千雨と早乙女ハルナ――付き添いとして犬塚シロ、神楽坂明日菜、近衛木乃香の三人。
 唐巣の隣の助手席には、シロの同居人である芦名野あげはが乗っている。彼女は単純に、出発した彼らが夜までに戻ってこられるかどうかわからないというので連れ添う事になった。今は初夏の日差しを受けるその場所で、眠気を堪えている。
 彼女がそう言う気の抜けた雰囲気を振りまく後ろ、二列目のシートには、重苦しい空気が満ちている。
 うなだれて、自分の膝を見つめたままシートに座る“千雨”と、彼女の隣で、形容できないほど辛そうな表情で拳を握りしめているハルナである。
 「幽体離脱」が自由に出来るオカルトアイテム「チーズあんシメサババーガー」によって姿を現した、自称・長谷川千雨に取り憑いた幽霊――その“彼”によってもたらされたのは、衝撃的な事実であった。
 彼は昨年の夏――車を運転していて、事故に逢った。
 彼自身はその事故でそのまま帰らぬ人となり、そしてその場でたまたまバスを待っていた“長谷川千雨”もまた、その事故に巻き込まれた。
 そして気がついたとき――彼は、“長谷川千雨”として、目を覚ましたのだという。

 その事実を知らされたとき、早乙女ハルナは最初――その“彼”に怒りを爆発させそうになった。
 何故親友を殺しかけた男が、よりにもよってその“親友”として生きているのか――彼女が怒る気持ちは、至極まっとうなものである。
 “彼”もまた、その怒りを受け止める覚悟であった。
 けれど――出来なかった。中途半端に、“千雨”の襟首を掴んだまま、ハルナはうなだれ――そして、何も出来なかった。
 “彼”に責任がない、とは言わない。元を辿れば、全ては彼が起こした事故のせいである。
 しかし、彼は既にその事故で死亡している。
 彼が千雨を殺した殺人者だというのならともかく、それはただの不幸な事故であった。その事故で彼自身が死んでしまった以上――それ以上彼を責めても意味はない。責めたい気持ちは、ある。けれど、何をどう責めれば良いのか。責めて何が変わるのか。
 残酷ではあるが、その行為に意味はなかった。
 それより何より――“彼”の言葉を否定したのは、ハルナ自身だった。

――ごめんなさい――“俺”は――“俺”は、長谷川千雨さんじゃないんです――

 事故の昏睡から回復したとき、“千雨”は――安堵の涙を流すハルナや、彼女の両親を前に、そう言った。
 自分は何者かわからない――けれど、“長谷川千雨”という少女でないことだけは確かである。“彼”は確かに、そう言った。
 その言葉を全く信じようとしなかったのは、ハルナの方だ。
 彼女は、千雨が事故のショックでおかしくなっているとしか考えなかった。
 あんたは“長谷川千雨”以外の何者でもない。ふざけたことを言うな――ハルナは、“彼”にそう言った。
 自分たちがどれだけ心配したと思っているのだ、と、言った。
 そんな自分たちにそんなふざけた事は、二度と言うなと――彼女は、そう言ったのだ。
 彼女だけでなく、他の誰もが、“彼”の言葉を聞こうとしなかった。
 祝福の言葉と花束で、千雨の退院を出迎え、麻帆良に連れ帰り――友人としての日々を、再開させた。

 千雨が漫画研究部と手芸部を辞めた事を、ただ心配して見つめていた。
 事故の後――あの時ベッドの上で見せたような表情を時折見せる彼女に、それを良くない傾向だとお節介を焼いた。
 何が――何が、“長谷川千雨”の親友だ。
 結局自分は、都合の良い事しか見ようとしていなかっただけではないか。事情が事情であるとは言え――目の前の“親友”が、本当に彼女であるかさえも、結局自分にはわからなかったのだ。
ハルナは膝の上に置かれた拳を、強く強く握りしめる。

 先程唐巣神父に改めて伝えられた事故の詳細は、“彼”が持っていた新聞の切り抜きによるものだった。
 “彼”の記憶は、曖昧だった。
 事故の衝撃がそうさせるのだろうと、唐巣神父はそう言った。おまけに、“長谷川千雨”の肉体の方は、全くの健康体を取り戻している。
 魂はまた、肉体にも影響を受ける。
 たとえば記憶は、脳と魂、両方に刻まれる。最新の心霊学の研究では、一度脳に蓄積された記憶が、その都度その都度魂にも刻まれるのではないかと言われている。
 幽霊が、脳を含めた肉体の全てを失いながらも、その人間の外見や記憶を備えている理由が、そこにあるのではないか――むろんハルナにはまるで意味がわからないし想像さえ出来ないが、ともかく“そういうもの”であるらしい。
 だから“彼”は、長谷川千雨の肉体に影響を受け続けた。
 知らないはずの彼女の記憶、自分のものでない筈の彼女の肉体。それらが全て、自分のものだとして魂に“認識”されようとする。
 彼が確固たる自我を持って千雨に取り憑いたと言うのならともかく、彼は気がついたときにはいつの間にか、彼女の体に収まっていたのである。自分が誰であるのか――それを、思い出せないままに。

「何度も、自分は“長谷川千雨”なんじゃないかって――ただおかしくなった彼女の意識が作り出した幻なんじゃないかって、そう思いました」

 “彼”はそう言った。
 けれど、そのたびに――事故の瞬間の記憶が、頭を過ぎった。
 あの時見た少女の姿が、鮮烈に思い出された。
 それだけが――“彼”の自我を支えていた。

「……辛かっただろう」

 唐巣神父は、優しく“彼”に言った。
 自分以外の全てが、自分のことを、自分ではない人間として見ている。
 ――否、それだけならまだ良い。
 自分でさえも、自分が“自分”であると思うことが出来ない。
 記憶が、心が、肉体が――“自分”を構成する全てのものが、“彼”を、彼の思う“自分”ではなく、“長谷川千雨”なのだと、責め立てる。
 その責めに屈していれば、どうなっていたのだろうか。
 きっと彼の魂は“彼”ではなくなり――“彼”でも、“長谷川千雨”でもない何者かになっていたのではないだろうか。
 彼はそれに耐え続けたのだ。
 今ならばハルナにとて――それが、どれほど辛いことであったのかはわかる。
 けれど――今の今まで、それを信じることの出来なかった彼女には、何も言うことが出来ない。だから、彼女はじっと下を向いて、拳を握りしめる。

「いえ――もっと早くにこうしていれば――専門家の方に相談していれば。結果としてみんなを騙すような事には、ならなかったと思います」
「それでも、勇気のある決断だ。君は既に死んだ人間だという。ならば、長谷川さんに体を返すと言うことは、本当の意味での君の死を意味する。そのような決断など、中々出来るものではない」

人は皆、死ぬのが怖い。
 オカルトという新たな学問の発達が、死後の世界に光を当てて尚――人間は、死を恐れ続けている。
 そして、“彼”が千雨に肉体を返すと言うことは、彼自身は今度こそ本当に“死ぬ”ということになる。それがわかっていて、それでも彼は、決断した。

「今の君には陳腐な言葉になるだろう。だが、敢えて言わせてくれたまえ。その決断を下した君を――神はきっと祝福してくださる」

 唐巣の言葉を最後に、車内には沈黙が満ちる。
 県境を示す看板が、車窓の外を流れていった。目的地までは――あと一時間と言ったところだろうか。




 そこは、高速道路の出口からほど近い、片田舎の道だった。千雨の実家は、ここから更にバスに乗って向かう、近隣の住宅街にあるらしい。
 田んぼの中を貫く、広くも狭くもない道。丁度そのカーブの場所に、そのバス停はあった。事故のせいで立て替えられたのだろう。真新しい木材と金属の支柱で作られた簡素な待合所が、古びたバス停の目印の脇に建っていた。
 安全な場所に駐めた車から降りた瞬間――唐巣とシロ、それにあげはの顔つきが変わった。

「……何か、あるの?」

 恐る恐る明日菜は、周囲を見渡す。田植えが終わりつつある田んぼと、新緑が目にまぶしい山の緑――何処から見ても、のどかな片田舎の風景である。
 しかしふと――木乃香が、明日菜の袖を掴んだ。

「……木乃香?」
「……ウチ……何や、気持ち悪い。何か……目には、見えてへんのに、何かがあるのが――わかる」

 驚いた顔で、明日菜は彼女を見た。
 そう言えば彼女は、京都の事件の時にはそれが原因で誘拐されたほどの、オカルトの才能を持っているという。彼女自身はオカルト関係の馬鹿記事が大好きなただの少女でしかないが――潜在的に、本能に感じる何かは、明日菜よりも鋭いのかも知れない。

「な、何か――あるの?」

 恐る恐る、明日菜はその“何か”が見えているらしい彼らに問うた。
 その問いに答えたのは、唐巣だった。いや、その言葉は、彼女の問いかけに応えたものではない。
 彼はただ小さく――押し殺すように呟いたのだ。

「……神よ……」




「……長谷川殿」

 シロが、言った。

「――長谷川殿!」

 彼女はそう広くない道路を渡り、その“少女”が立っているのだろう場所に向かう。
 ハルナから見れば、彼女は何もない場所に向かっているようにしか見えない。何も知らなければ、何とも奇妙な光景に見えただろう。
 だが、今の自分は、その光景を奇妙だとか、滑稽だとか言うことは出来ない。
 “長谷川千雨”――本来そう呼ばれる筈の少女は、彼女のすぐ後ろで、もはや蒼白な顔でそちらの方を見ていたからだ。

「見えるの?」
「……」

 彼女は――いや“彼”は、ハルナの問いには言葉を返さない。
 その代わり――壊れた人形のような動きで、一度だけ頷いた。
 彼女には、“霊感”などは無いはずだ。ならばハルナと同じで、シロや唐巣らに見えているものが、見えるはずはない。
 それでもそれが見えるというのは、どういう事なのだろうか。あの怪しげなオカルトアイテムによって、“霊体”が半分はみ出したままになっているとでも言うのか。
 それとも――そこにいるという“彼女”はまた、“彼”と同じ存在であるから――だから、“彼”にはそれがわかるのだろうか。
 ハルナは歯を食いしばる。
 もどかしい――その“彼女”を見ることさえ出来ない自分には、本当に何も出来ることがない。
 目の前に、自分の親友であると思う、そんな相手がいるというのに。
 道の向こう側で、何もない空間に向かって何かを問いかける――そんなシロの姿を見やりつつ、ハルナは――
 ふと、彼女の頭に何かが過ぎった。
 彼女は急いで車に戻ると、先程まで“千雨”が座っていた席の足下を探る。
 紙包みに包まれたそれは――まだそこにあった。

「ハルナさん、何を――」

 彼女の行動に気がついたあげはが振り返る。振り返って、驚いた表情を浮かべる。
 無理もない。自分でも馬鹿げた行動をしている――とは、思う。しかしこのまま、自分には全く分からない場所で全てが終わるのは、我慢が出来なかった。
 紙包みをめくり、“千雨”が囓った跡のある「それ」に――ハルナは息を止めて、思い切りかぶりついた。
 脳みそが頭から引き抜かれたような感覚だった。少なくともハルナはそう思った。
 幸か不幸か、形容しがたいその味が舌に感じられたのは、ほんの一瞬であった。次の瞬間には、同じく形容しがたい感覚と共に、彼女は自分の体から“何か”が引き抜かれたような奇妙な感覚を覚え――気がついた時には、足下に“自分”が倒れているのを見た。
 それに、半透明の、影のような煙のような、そんな姿をした、自分の体が見えた。

「無茶なことをする人です。そんなことをしなくても、一応方法が無いわけではなかったのですが」

 不快緑色の光沢を持つ、不思議な色の頭髪――そんな頭の少女が、ポーチに手を入れたまま、呆れたようにこちらを見ていた。
 芦名野あげは――犬塚シロと同じく、横島忠夫の家で下宿をしている小学生。
 今の自分が見えていると言うことは、彼女もまた“霊能力者”であるのだろう。
 彼女の言葉から察するに、これ以外にも何かしら方法はあったらしい。ハンバーガーに齧り付いたまま、白目を剥いて地面に倒れている“自分”を見れば、一抹の後悔が過ぎるが――今は些細なことである。

「ちょっ――パル!? 木乃香っ! パルが!」
「千雨ちゃんのアレ食べたんか!? 何でまた――」

 明日菜と木乃香が、驚いた表情で彼女の方を見る。明日菜は突然の事に慌てふためくが、木乃香は何かに気がついたようだった。

「まさか」
「そのまさか、だろうね――それに進んで齧り付いた人間を、私は初めて見たよ」

 唐巣神父が、脱力したハルナの体を抱え上げて、車のシートに横たえる。

「え? え? ちょ、ちょっと、パルは大丈夫なんですか?」
「毒ではないから問題はないよ。それに――本来の効果は、既に発揮している」
「“幽体”を体から引き抜く――でしたっけ? それじゃ、“パルの幽霊”がもう、ここら辺にいるわけ?」
「君の隣だよ」
「ひい!?」

 気味の悪いものを相手にしたように飛び退る明日菜の態度には、思うところが無いわけではない。が、幽体が見えていないらしい彼女が飛び退った方向は、丁度“ハルナ”が立ってた場所であったのだが。
 だから今、彼女と明日菜は、半ば重なり合うような状態になっている。

「ああ、気のせいかしら、何だかゾクゾク寒気がするような――」
『……あげはちゃん、こいつわざとやってんの?』
「いえまあ……それが一般人の反応と言うものでしょうし……」
「唐巣神父――ハルナのやりかたは、正しいんですか?」

 木乃香の問いに、唐巣は苦笑しながら頷いた。ハルナとしても、藁にも縋る思いであったが、その“やり方”はともかくとして、結果は間違っていないようである。
 ふと顔を上げた彼女の目には――その場所に立つ少女の姿が、見えた。

「普通の人間には、ただの霊魂は中々見えない。だが、“幽霊”に幽霊が見えない道理はない。慧眼と言うべきだろうね。――普段我々が目にしているのは、実は目から入ってきた光が脳で処理された光景だ」
「赤ん坊には、音や光が大人の何倍にも感じられると言います。僅かな光や細かな反響にも、赤ん坊は反応すると。しかし成長するにつれて、人はそれらの過剰な情報を“不必要なもの”として切り捨てる能力を身につけます」
「そう、パピ――あげは君の言うとおり。人の目は“幽霊”を捉えられる。しかし、脳がそれを“イレギュラーな視覚のバグ”として捉えてしまうから、結果として幽霊は見えない。見えないはずなのに写真に写ったり、視界の端に何かを感じたりするのは、それが原因だ――心霊医学では、一応そう言う見解が出ている。まあ……そのフィルターを意図的に外す事を、我々は“霊視”と呼ぶわけだが――むろん、肉体のない“霊体”には――」

 明日菜と木乃香に説明をしてくれているのだろう唐巣とあげはの声は、ハルナには聞こえない。それこそ――理屈など、今の彼女にはどうでも良いことだった。
 “それ”が見えてしまった、今の彼女には。
 新しくなったバス停――その片隅に立つ、小柄な少女。
 白いワンピースを身に纏ったその少女の瞳はうつろで、何処も見ていなかった。
 小柄で華奢なその少女の体は、作りかけのジグソーパズルのように、あちらこちらが欠けていた。
 だからその少女は――明らかに、生きた人間ではあり得なかった。
 そしてその彼女の、一部が欠けたその顔は――青い顔で、彼らの後ろに立ちつくす少女と、同じ顔をしていた。




『ちうっち!』

 思わず、ハルナは駆け出していた。
 ふわふわと頼りなく漂う脚は、地面を蹴っているという感覚はない。しかし、「そこに行きたい」と強く思った瞬間、彼女の「体」は、既に動き出していた。

『ちうっち――ちうっち!』

 たまらず、目の前の少女を抱きしめる。
 感覚がない筈の腕に、確かに感じられた彼女は――とても、冷たかった。
 彼女は、抱きしめられても何も反応しない。顔の右側が大きく欠けて、その内側はがらんどうで、何もない。何も知らずにただ目の前の彼女を見れば、ハルナはきっと、それを壊れた人形だと思っただろう。
 残された左の瞳は――何も見ていない。ハルナのこともまた、映していない。

『ちうっち――しっかりして! ね、私のこと、わからないの!?』

 少女は――“千雨”は、何も言わない。ハルナの言葉に、応えない。
 どれだけ叫んでも、どれだけ強く抱きしめても――彼女はただ、そこに立ちつくすだけ。本当に壊れた人形のように、ただただそこに、立っているだけ。
 悔しさと、無力感がハルナの胸に溢れる。胸の内側が熱くなる。今の自分は“幽霊”だというのに――涙が、こぼれそうになる。どうしてだろう? 唐巣らの言うことが正しいなら、今の自分は、視覚を通してものを見ているわけではないはずなのに――その視界が、熱くゆがむ。

『……ごめん――私、ちうっちの事、何も見てあげてなかった』

 欠けた体を抱きすくめ、ハルナは言う。

『あの人の言うこと、全然聞こうとしなかった。自分に都合の良い物差しでしか、私、友達のことを見ていなかった』

 頬を、熱い滴が伝う。
 涙と言えるのかどうかすらわからないそれは、地面にしたたり落ちることなく、儚い煌めきとなって、虚空に消えていく。

『ちうっちが――ずっとこんなところで苦しんでたのに。あの人が、どうしたらいいのかもわからずに、それでもちうっちを何とかしてあげたくて、頑張ってたのに。もう私――偉そうに、ちうっちの親友だなんて言えないよね』
「自分を責めるのはそのくらいにしておくで御座るよ、早乙女殿」

 ごく自然に、ハルナの肩に手が置かれた。
 いや、今の彼女は、物理的に何かに干渉出来る程の存在感を持っていない。だからその手の持ち主は、目で見えた輪郭に、手を“添わせた”だけなのだろうが――不思議とハルナには、その手のぬくもりが感じられた気がした。

「ハルナ殿は、何で御座るか? 拙者らのようなゴースト・スイーパーではなく、霊能力すら持たない普通の中学生では御座らぬか。霊能力者など元々、人が信じられぬ事を相手にする身の上。常識はずれで胡散臭くて――されど、だからこそ「ゴースト・スイーパー」という職業が成り立つ」

 その手の主――シロは、慰めるような口調で、ハルナに言う。

「拙者や、唐巣神父でさえも、一息に解答にまではたどり着けなんだ。なのに、オカルトの知識の欠片すら持たぬハルナ殿を、誰が責められようか?」
『でも、だって――だって、私は』

 彼女は何かを言いかけて――そこで、言いよどんだ。
 ここでシロに反論したところで、今更何の意味もない。結局どういう言葉を並べても、自分が許されたいだけなのだと、ハルナは気がつく。自分の身勝手さを悔いて――しかしそれが千雨の助けになる筈もない。
 自分は、彼女に許されたいのだ。親友を語るのが馬鹿らしい程に、相手の何も見ていなかった事を。

「だからと言って自己嫌悪に陥ったところで、長谷川殿は喜ばぬ」
『……わかってる――でも私――最低だ』
「今の拙者には、早乙女殿に掛けられる言葉は見つからぬ。ただ――」
『いい。今は私のことはどうだって――それより、ちうっちは? ちうっちは、助かるの?』

 ハルナの言葉に、シロは僅かに表情を歪めた。

「……今この状態の長谷川殿を、肉体に戻したところで――恐らく、意味はない」
『じゃあ、どうすればいいの? どうしたら、ちうっちを助けてあげられるの?』
「……」
『ねえ、教えて? シロちゃん……その道のプロなんでしょ? だったら、わかるよね? どうすればいいの? ねえ――教えてよ?』
「早乙女殿――申し上げにくいが」
「魂の欠損は、肉体のそれと違って、自分の意思とは無関係に治癒するわけではない」

 シロの言葉を遮ったのは、いつの間にか近くまで来ていた唐巣神父だった。その表情は帽子と丸眼鏡に隠されて、よくわからない。ただ、彼がいつも口元に浮かべているような柔和な笑みは、そこにはなかった。

「魂が受けたダメージは、本人自身の“治そう”とする意思と、その意思によって魂の根源から引き出される力――“霊力”によってのみ治す事が出来る。外部から手助けは出来るにしても、結局は自分自身がどうにかして霊力を上げ、それでもって治すしかない」
『……どういうことですか?』

 ハルナは彼に問うた。
 唐巣は、暫くの沈黙のあとで、彼女に言う。

「……自分の意思でどうにかして霊力を上げられる状態に、彼女が見えるかい?」
『――!』

 体のあちこちが欠け落ち――何も見えずにただ佇む、千雨。
 今の彼女に意識があるとは思えない。当然――そんな彼女が「霊力」とやらを絞り出せるとは、到底思えない。
 それは、すなわち――

「俺の――せいだ」

 唐巣の脇で、“長谷川千雨”の姿をした“彼”が――頭を抱えて、膝をついた。

「俺が――俺がもっと早く決断していたら。もしかしたら――」
「我々は君を責めることは出来ない。そうすることに意味はない」

 唐巣は、そんな彼の背中に優しく手を置いた。

「本来なら、事故の結末は、二人の人間が犠牲になっていたのかも知れない。その責任は確かに、君にあるのかも知れない。だが、今ここで君にその責を問うのは我々のすることではない」
「でも――でもっ! 俺は、俺は結局、彼女を死なせてしまった! 何で――どうして、こんなっ――!」
「仕方ない、で済ませられる問題ではないだろう。だが君には、どうすることもできなかった」
「何で、何でのうのうと俺が生きてるんだ――あの時ちゃんと、俺が死んでいれば良かったんだ! そうすれば、そうすれば――」

 地面に拳を叩きつけ、泣き喚く彼の姿を見下ろして――ハルナはぼんやりと、以前テレビで見た交通事故のドキュメンタリーを思い出した。
 その時は、ただ悲惨な出来事は、世の中にどうしたってあるものだと、それくらいのことしか感じなかった。
 あの時テレビの中で涙を流していた人たちは、どれだけ悲しんだのだろうか?
 図らずも人の命を奪ってしまった人たちは、どれだけ悔やんだのだろうか?
 “彼”を許そうとは、思わない。
 けれど、責めることも自分には出来そうにない。
 ましてや――“千雨”自身がどう考えているのかなど、今となっては――

「いくら悔やんだとて、現実は変わらぬよ」

 その言葉に、ハルナは肩を跳ね上げた。
 しかし果たして、そう言ったシロは、彼女の事を見てはいなかった。

「お主がいくら悔やんでも、時間は巻き戻せぬ。拙者には軽々しく口を出す権利は無いが――その言葉は、いただけぬ。今ここで拙者がお主の首を斬り落とせば、長谷川殿が喜ぶとでもお思いか?」
「そう言うことが言いたい訳じゃ――」
「ならば何が言いたいので御座るか? 現実から、逃げるでない」

 自分とて、最初に事故を起こした“彼”に憤りはある――と、シロははっきり言った。

「だが、それは既に起きてしまった事。お主に罪を償う意思があるのなら、軽はずみに命を捨てるような事は、申されるな」
「だからと言って、俺がこの娘として生きていればいいってわけでもないだろう! 俺がどれだけ悔やんだってもう遅いって、そんなことはもうわかってるよ! けど、けどな――これだけは言わせて貰う! 俺がこうやってただ生き続けていたって、それはこの娘への冒涜じゃないのか!? この娘が生きる筈だった人生を俺が代わりに生きて、それがこの娘に対して何になる!? 馬鹿にしてるだけだろ! 周りがどう言おうが、そんなの関係あるか! 何故って――『俺ならそう思う』からだよ! 俺とこの娘の立場が逆なら、間違いなく、俺はそう思うだろうって、わかるんだよ!!」
「……」

 彼の言葉に、シロは口をつぐんだ。
 彼女とて自分と変わらない――シロの言葉が、ハルナの中で実感を持った瞬間だった。
 犬塚シロは、結局今この場では、自分と同じ――何も出来ない傍観者に過ぎない。“彼”や千雨に、何かを与えてやれるわけではない。
 シロの言わんとした事は、それとは違うのかも知れない。けれど、“彼”に反論されて言葉を無くした彼女の瞳の奥に――ハルナは、自分と同じ、弱々しい光を見た気がした。

「――どうすればいいかは、君が決めることだ。だがもはや――結果として、彼女の命は君の中に受け継がれた事になる。君はそれを真摯に受け止め、罪を償い――そして、自分の生き方を決めなければならない」

 厳しいことだが、と、唐巣は言った。

「そうするほかに、君に出来ることは何もないのだ」




 犬塚シロの右腕から、わき上がるように白銀の燐光が伸びる。霊視能力のない明日菜や木乃香にも、それはハッキリと見える。それほどまでに高密度に練り上げられた、魂の力――“霊力”の顕現。
 業界では“霊波刀”と呼ばれるその霊能力を扱えるのは、霊能力者の中でもほんの一握りの人間だけだ。もしくは、彼女のような――

「私から、せめて祈らせてもらおう」

 唐巣は、懐から聖書を取り出すと、朗々と祈りの言葉を紡ぐ。
 優しく、そして力強い声が、辺りの空気を震わせる。

 本来、体から切り離されて剥き出しにされた霊体は、脆いものである。簡単なきっかけがあれば変容して悪霊となるし、その悪霊に取り込まれてしまう事も多々ある。
 だが、幸いにして、このバス停のすぐ側には、小さな地蔵が奉られた祠があった。
 その場所が持つ僅かな神域――結界が、このバス停の周囲にまで及んでいたのである。だから、ここに無防備のまま立ちつくしていた千雨の霊体は、悪霊となることもなく、悪霊に取り込まれることもなく、ただこの場所に居続けた。
 そう――結果として、霊体の損傷を治す事も出来ず、ただただ朽ち果てていくに任せて。
 これ以上、彼女を放置する事は出来ない。
 だが、もはやこうなってしまった彼女を蘇らせる事は難しい。唐巣は一瞬、あげはのポーチに目をやったが、彼女は無言で、首を横に振った。

「……“これ”は、あなた方が思う程万能ではありません。今の私には、それがわかります。もしも――もしも、これがあなたの思うような代物であったら、きっと……」

 そこまで言って、あげはは小さく息を吐き、首を横に振った。
 その言葉の意味は、麻帆良の少女達にも“彼”にもわからないものである。ただ、シロと唐巣が、その言葉に対して何か思うことがある。それだけは、二人の表情から見て取ることが出来た。
 ともかく――千雨をこのままにしても、ただ朽ちていくだけである。
 ならばいっそ、ここで“成仏”させてやるくらいしか、今の彼らが彼女にしてやれる事はない。
 “介錯”の役割は、シロが引き受けた。
 明日菜や木乃香、ハルナ、そして“彼”には、むろんそんなことは出来ない。しかし、間違っても進んで引き受けたい役回りではないだろう。

『……シロちゃん』
「……申し訳ない。拙者――力業でしか、霊を浄化する事は出来ぬ。級友に、刃を向けるなど――見ていて、愉快なものではなかろうが。気分が悪いならば――」
『大丈夫。ほら――今の私、ユーレイだし』

 そう言って、ハルナはその場で一回転してみせる。
 それが強がりであることは、誰の目にも明らかだった。彼女の姿が見えない筈の明日菜や木乃香でさえも、泣き出しそうな表情で、シロの方を見つめている。

「何か――長谷川殿にかけてやる言葉は御座らぬか?」
『でも、ちうっちは』
「拙者はそれが愚かな行為とは思わぬ。本人がそこにいないからと言って、墓に手を合わせて祈りを捧げる事を、誰も愚かで無駄な行為だとは言わぬ」
『……私自身を納得させるため?』
「いえ――納得など、出来るはずも無かろう。ただ、思いの丈を口に出すだけでも、何か……」

 シロはそこで、視線を“彼”に向けた。

「……お主は何か、長谷川殿にかけてやる言葉は御座らぬか?」
「――今の俺は、正直、もう、何をしたらいいかわからない。けどいつか、いつになるのか分からないけれど、必ず罪を償う道を見つけて――そうしたら、彼女に何かを伝えられると思う」
「……結構」

 シロは両脚を軽く開いて立ち、霊波刀を水平に持ち上げる。
 誰かが息を呑むのが、聞こえた気がした。
 彼女の視線を受けて、ハルナは小さく頷き――そして、言った。

『……変に堅苦しい事とか――慰めるようなこととか。私からちうっちに言っても仕方ないから、そう言うのは無しにしとくね』

 だから――と、彼女は大きく息を吸い、千雨を正面から見据えて、言う。

『――コスプレアイドル“ちう”たんに朗報! 「僕と魔法少女の方程式」二期放映開始決定!!』

『だあああっ!』と、全員がその場に崩れ落ちる。そして――

『マジかよオイ――漲ってきたぞ!! “ドリーンたん”新作コスチューム希望ッ!!』

「「ちょっと待てぇええぇええっぇ!?」」

 突如として奇声じみた台詞を吐いた千雨に、その場にいた全員の声――いや、全員の心が一つになった。




『……あれ? なんで私こんなところに――げっ!? な、何で私がもう一人!? ど、ドッペルゲンガーとかって奴かこれ!?』
『ちうっち、あんたいっそ一回成仏しなよマジで』

 霊力とは、魂の力。
 魂を震わせる力というのは、人によって異なるものである。

 犬塚シロは、己の思い人の力の源が「煩悩」であることを、この場で言うつもりは、死んでも、ない。
 そしてその思い人の上司が――かつて千雨と同じような状態から、彼の吐いた暴言――「このシリコン胸」ただの一言で復活した事実を、彼女が知らないのは、きっと幸せなことなのだろう。
 彼女の隣で、「おお神よ……」と、天を仰ぐ壮年の男にとっても、また同様に。




『何というかもの凄く思うところはあるんですが……良かったことに代わりはないだろうから。ほんと、ヨカッタデス』

 復活した“千雨”に体をあけ渡した“彼”は、引きつった笑みを浮かべながら、彼女に向かって頭を下げた。

「あ、い、いえ……こちらこそ、ほんとうに、ありがとう」

 千雨はと言えば、彼女もまた、今更ながら何か思うことがあるのか、頭を掻きつつ、彼に向かって礼を言う。

『礼を言われるような事はないよ。元々は、俺の起こした事故が原因なんだ』
「でも――事故だろ? 今更私はあんたを責めるつもりはないし――あんたが私として生活してた事に関しちゃ、尚更だよ。そうしなきゃ、私は本当に死んでたわけだから」

 霊体の無い体は、ただの肉の塊である。たとえ助かる可能性が残されていたとしても、結局人間は、魂を抜きにしては生きられない。
 千雨がその辺りのことをどの程度理解しているのかは定かではないが、少なくとも、彼女が“彼”を恨んでいる様子は無かった。

『けど――』
「うっさい。グダグダ言ってると告発するぞ? あんた、私の体に入ってたって事は、私の言えること言えないこと、全部知っちゃったって事だろ? はっ……近頃の世間は、ロリコンには厳しいって言うぜ?」
『ちょ――人を犯罪者みたく言うなよ!? こちとら、その体に入ってた時は、“これが自分”なんだってガンガンに責められてたんだぞ!? そんな馬鹿げた事を考える余地があるわけ――』
「冗談だよ、冗談。まあ、何て言うか――私はもう、あんたの事は許そうって思う。だから――あんたも、あんまり気に病むなよ」

 何とも気だるげにそう言った千雨に、“彼”は何を思ったのか。
 驚いたような表情を浮かべた跡――果たして“彼”は言った。

『お前――凄いな』
「でしょ? ちうっちってば、そう言うトコナチュラルに凄いんだよね」

 それに応えたのは、千雨ではなくハルナだった。胸を張ってそう言った彼女に、千雨は照れくさくなったのか、軽く肘打ちをする。

『生きてるうちに出会ってたら――そのうち告ってたかもな』
「でしょでしょ? 私もちうっちが男だったら、絶対告ってる。この際私が男でも可」
「……ちょっと待てそこの変態共――何でお前らが意気投合してんだよ!?」
「何でって……ああ、私この人と、「ちうたん親衛隊」でも作ろうかと」
「いきなりすぎんだろ!? 意味わかんねーよ!?」

 ひとしきり穏やかな時間が流れた後で、いまだハルナに噛みつく千雨を背後に、“彼”は唐巣に頭を下げた。

『……色々と有り難う御座いました』
「いや――私は本当に何もしていない。結局は君の言うとおり、彼女が“凄かった”だけの話じゃないか」
『……本当に、そうですね』

 ハルナにチョーク・スリーパーを掛ける千雨を見て、“彼”は目を細める。
 その彼に、唐巣は言った。

「君はこれからどうするつもりだね? 目的が果たされた幽霊は――普通は、成仏できるものなのだが」
『そう……なんですか?』
「あるいはこの世に未練が残っているのかい?」
『未練――いえ、俺はもう、生きていた頃の事はほとんど何も思い出せないし……そんな俺が、未練と言われても』

 ふむ、と、彼は顎に手をやった。
 むろん、この場で強制的に彼を成仏させてもいい。彼自身やシロ、あげはにはそれが可能である。些か乱暴な方法になるかも知れないが、それは仕方ないことだろう。
 ただ何となく――無機質に彼を祓ってしまう事に抵抗を感じるのは、単なる感傷ゆえだろうか。

「まあ、幽霊が演歌歌手としてデビュー出来る世の中です。成仏できない何かがあるのなら、それを探してみるのもまた一興ではありませんか? 何でしたら、そう言ったことに詳しい人を紹介できますが」

 そう言って携帯電話を開くあげはに、彼は思案するような態度を見せる。
 当然と言えば、当然だ。突然「祓われるか成仏できるのを待つか選べ」と言われて、即答できる人間などそうそう居ない。
 ふとそんな彼に気づいたのか、千雨が言う。

「……あんた、世の中に未練でもあんの?」
『いや――自分ではそうは思わないんだけれど。案外ネチっこい性格なのかもな』
「だったら、私と一緒にちうっちのファンクラブを……」
「それ学校で言ったらお前、本気でブチ殺すぞ」

 軽口を叩くハルナを睨み付け――彼女は何かをひらめいた様子で、唐突に言った。

「よしあんた、私の専属マネージャーになれよ」
『……は?』
「仕方なかったとは言え随分ブランク出来ちまったし――そもそも、私がここに来てたのって、親にこの道に進むべきか相談するためだったんだよな。でもまあ、ここまで来たら何か吹っ切れた気がするし――やること他にないなら、手伝ってくれよ」
『いや、しかしだな――』
「私は結構、あんた以外に適任はいないって思うけどな? だってあんた、私のこと何でも知ってるじゃん。それこそ――下着の色からトイレの回数まで、な? そんな奴が他にいるか?」
『居てたまるか!? もう少し言葉は選べよお前!』

 彼の言葉を軽く無視し――千雨は笑顔で、「で、どうなんだ」と、選択を迫る。
 “彼”が白旗を揚げたのは――その暫く後だった。




987:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:15:08 ID:i8sjg73si
ち う た ん 復 活 キ タ コ レ !

988:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:16:08 ID:lsfdi39t0
ソースキボンヌ

989:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:16:08 ID:mmsdje728
>987kwsk

990:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:16:09 ID:op20dkg8t
>987kwsk

991:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:16:09 ID:kkjgi38vu
詳細sk規模ン

992:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:18:59 ID:lwosgirl9
>988-991
 スタンドが発動してるw
>991
 とりあえず落ち着けw
 日本語でおk

とりあえず拾ってきた。これか?
www.○○○○video.jp.watch/sm××××……

993:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:21:10 ID:logsh98u6
>992 はえーよwwwww
    どんだけ普段から張り付いてんだw

GJ

994:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:28:10 ID:yhfsi37nh
>992 素晴らしい

やっぱりちうたんにはただのレイヤーとは違う何かがある件。
つか、やっぱり全員見入ってたのな。時間が……

995:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:30:44 ID:xh8264ujg
>992 最高だ……他に言葉がない

996:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:33:11 ID:g82ds9ivb
割と気持ち悪いこと言ってる自覚はあるが、
ちうたんは明らかに普通のレイヤーとは違うよな。
俺は基本的に媚びたアイドルとか大っ嫌いなんだよ。むしろああいうビッチどもとちうたんを、同じ「アイドル」って括りで纏めて欲しくないくらいだ。
長々失礼。

997:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:34:26 ID:p28gs75bj
>996 禿同
昨今のアイドルはちうたんを見習うべき

あと私女だけどちうたんになら掘られてもいい。

998:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:36:11 ID:juedk98yr
1000なら明日から本気出す
>997 姐さん落ち着けよ。意味がわからんw

999:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:38:39 ID:cbfsutksj
1000ならちうたんは俺の嫁。

1000:コスプレ好きの名無しさん:20××/06/04 21:38:58 ID98sfes7wi
1000ならちうたんは永遠に不滅




「おっけ! 私ってばグッジョブ!」

 薄暗い部屋の中で、早乙女ハルナはパソコンのディスプレイに向かい、手を打ち鳴らして何かを喜んだ。
 はたと何かに気がつき――後ろを振り返る。
 暗闇の中で、ベッドの布団にくるまったルームメイトは、身じろぎもしない。
 今ので目が覚めなかったのは幸いであるが、むしろその事に一抹の不安を覚えつつも、彼女は小さく息を吐き、キーボードを叩いていた指を、音を立ててほぐす。

「そんんじゃま――ささやかだけど、ここに我々の第一歩を記すとしますか」

 そしてハルナの細い指は、まるで別の生き物のように、再びキーボードの上を滑る。
 果たしてその後には――画面には、新たな文字列が生まれていた。

【コスプレ】新生ちうたんの門出を祝うスレ【アイドル】

「そして投稿――と。さて、一癖も二癖もあるネットアイドルが芸能界を騒がせる事になるのは、その暫くあとであった――なんてね」

 眼鏡のブリッジを人差し指で軽く持ち上げ、彼女は形容しがたい笑みを浮かべて見せた。少なくとも背後のルームメイトやクラスメイトの前では自重した方が良いだろう、そんな笑みを。
 そんな彼女のノートパソコンの脇には、一枚のプリントが広げられている。
 少し前に彼女らに配布された、進路希望調査のアンケート用紙である。既に集められて、担任であるネギらの資料となっている筈のものであるが――ハルナは無理を言って、それを書き直させてもらうことにした。
 果たして、その第一希望の欄に記されるのは――










前回補足
千雨とザジが同室>
寮の部屋割は、原作を見てわかる範囲の部分は原作準拠、
それ以外の部分は勝手に組ませていただきました。
(資料集などに記載されているが、原作に出てこない部分は、筆者の想像ですべて補います)

千雨は当初一人浮いていたのですが、
感想掲示板で「コスプレ娘はザジと同室」という指摘があったような気がしたので、
そちらを採用しました。

ご了承くださいませ。

>「僕と魔法少女の方程式」
一応適当なものではなく、前スレ47
「麻帆良学園都市の休日・猫と忍者の後日談」にて、
ケイと楓が見に行った映画の原作、という設定です。

ここのオリジナル版に投下してやろうかと思うくらい、
無駄にプロットを組みましたが……時間がないので今は断念。

>幽霊や霊体に関する解釈
GS原作を参考に、ほぼ独自解釈。
「欠けた幽体」
「暴言で復活」等は、
アシュタロス編の美神さんをほぼそのままモチーフにしてみました。

大幅に書き方を変えて、とりあえず一つの「章」が一区切り。
引き続き、ご意見ご感想お待ちしています。
一言でもかまいませんので、是非にどうぞ。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「目標」
Name: スパイク◆b698d85d ID:bd856bc6
Date: 2011/06/25 22:29
 はじめは確かに、ふざけ半分だった。
 けれど、そんな始まり方が悪い訳じゃない。
 ようは、最後に自分がどう思うか、だ。
 残った結果すら、関係はない。それを決めるのは、自分の気持ち、ただ一つ。

 結局そう言うものだろう。夢だの恋だの――人生という、手合いは。




「それで、長瀬さんは――第一希望が、六道女学院霊能科と言うことですが――これは、ゴースト・スイーパーを目指すと言うことでいいんでしょうか?」
「正直に申せば――まだ、そこまでの決意が決まったわけではござらん。しかし拙者には、特にやりたいことがあったわけではない。ならば――自分が少しでも興味が持てることに進んでみるのも悪くないと、そう思ったのでござる」

 六月――空気に蒸し暑さが感じられるようになってきたある日。
 麻帆良女子中の進路相談室では、そんな遣り取りが行われていた。
 応接机を挟んで、一人がけのソファに腰掛けるのは、長身の少女、長瀬楓。その対面の大きめのソファには、プリントを手に持って彼女に質問を投げかける、彼女らの担任教師、ネギ・スプリングフィールド。
 そして彼の隣には、腕を組んでその遣り取りを見つめる壮年の男――学年主任の新田教諭の姿がある。

「長瀬、ゴースト・スイーパーというのがどういう職業なのか、お前は知っているのか?」

 不意に、今まで黙っていた新田が口を開く。
 生徒達に“鬼の新田”と陰口を叩かれる強面の教師は、当然楓にとっても得意な相手ではない。一拍おいてから、彼女は言った。

「そちらの業界の知人から――少しは」
「少しか……」

 眉をひそめ、新田は息を吐く。

「ゴースト・スイーパー――対心霊現象特殊作業従事者資格は、恐らく今の日本では最難関の国家試験だ。知識だけでなく、並はずれた資質が必要な危険な仕事だ。厳しい言い方になるが、お前にはそれに挑むだけの気持ちがあるのか?」
「……拙者は――少し前までは、自分とは無縁の世界だと思っていたでござる。されど――ここ最近、ある人物を通して、その働きを知って――少しでもその人の手伝いになることがあれば――」
「その人物が誰なのかを、私は問うつもりはない。だが、それだけのことで、危険で厳しい世界でやっていけると思っているのか? 憧れだけでは――時に現実とは厳しいものだぞ」
「しかし――」

 睨み付けるような彼の視線に、楓は僅かに怯む。
 しかし――彼女とて、遊び半分でその道に足を踏み出そうとしたわけではない。
 確かに新田の言うとおり――一言で言えば、自分がゴースト・スイーパーに興味を持ったのは、彼女の知人――ゴースト・スイーパー助手の藪守ケイに憧れたからだ。
 その人となりを知れば知るほど、彼という人間は魅力的に思えてくる。
 優しくて、情けなくて、ちょっと間が抜けていて――でも、自分が守ろうとする者が居れば、何処までも必死になって。
 そんな男が身を置く世界。

「拙者は、昔から故郷に伝わる……その、“古武術”を学んできたでござる。今までは、ただそれが楽しくて――それ自体をどう使おうなどとは、考えたことがなかったのでござるが、もしもそれを使える場所があるというのなら――」

 そこまで言いかけて、楓ははたと、口をつぐんだ。
 自分がこの世界に触れたのは、ケイと出会ったから。
 自分の力の使い道――と言うよりも、その力に“使いどころ”があるなどと気づいたのは、修学旅行の一件から。
 ただ、それを新田の前で言うのはどうかと思う。一応、自分はあの時、木乃香の実家で大人しくしていた――と言うことに、なっている筈だから。
 ならば、どう言葉を継ぐべきか。楓は考える。
 結局ケイの事を無くして、自分がゴースト・スイーパーに興味を持った事は語れない。けれど、新田はそれを“憧れ”と言った。

「そう、長瀬の言うことは、今の段階では漠然とした憧れの域を出ていない。……むろん、将来に憧れを抱くことは大いに結構なことだ。その憧れが無ければ、人は足を踏み出すことが出来ん。だが、本気でその道に進みたいと思ったら、「憧れ」だけでは足りないのも、また事実だ」

 彼女の心中を察したように、新田は言った。

「普通ならば、そういうこともまた、成長する中で自然とわかっていく。私も普通ならば、今はまだ焦るような時期ではないと思う。だが――普通と違う生き方をしようとすれば、そうはいかない。長瀬、お前が選ぼうとしているのは、そういうことだ」
「新田先生」

 ネギが、横から割って入る。

「長瀬さんは、その判断を軽々しくしようとしているわけじゃ――ないと思います」
「……ネギ先生はこうおっしゃっているが、長瀬、どうなんだ?」
「……」

 楓は、その言葉に応えられない。居心地の悪い時間が流れる。進路相談室の壁に掛けてある時計の針が動く音が、五月蠅いほどに感じられる。

「――まだいくらか時間はある。私にはこの程度の事しか言えんが――よく考えることだ。私たちに報告する言葉など選ぶ必要はない。ただ、お前自身が後悔せんようにな」
「……はい」

 新田の言葉に、楓は頷いた。

「それと――お前の喋り方は少しばかりに気になる。長瀬、お前はそうすることに何か拘りでも持っているのか?」
「い、いや――そう言うわけでは、ござらんが」
「誤解するな。それが悪い訳じゃない。それもまた、お前の個性だろう――だが、世の中はそう言うわけにも行かん。私達と違って、お前を知らない人間からすれば、その喋り方はおかしなものにしか聞こえん。矯正しろと言うつもりはないが――せめて場面によっては、普通に話せるようになっておけ」
「あ、それだったら――」
「ん?」
「――な、何でも、ござらん」

 言いかけて、楓は慌てて口を押さえた。
 それこそ、言えるわけはない。もともと、子供が格好を付けるのと同じ感覚で身に付いてしまった口調だ。珍妙と思いつつも気に入っている事は確かであるが、いくら何でも面接試験などで、開口一番に「拙者は――」などと切り出すつもりはない。
 それが証拠に、かの藪守ケイに対しては――

(そんなことを今ここで言えるわけないじゃないっ!)

 大丈夫なのは、大丈夫なのであるが。
 その“実例”を挙げてみることには、さすがに抵抗がある。楓は頬を染めて、首を横に振る。当然、ネギと新田は奇妙なものを見る目で、彼女の行動を眺めていた。
 ややあって、ネギが一つ咳払いをする。

「あ、あのー……長瀬さん」
「はっ!? し、失礼――何でござろうか」
「え、ええ……先程も言いましたけれど、まだ時間はあります。長瀬さんが突然進路を変えた事には、長瀬さんなりの考えがあるんだとは思いますが――」
「今のお前にとって、それが先を見据えた判断であるとも、私には思えん」
「それはっ……」

 新田の言葉を、楓は慌てて否定しようとする。
 ――だが、出来ない。
 今の彼女にとってゴースト・スイーパーは、自分の力を活かせるかも知れない、“彼と同じ場所”というだけのものだ。
 それでも、中学三年生の判断としては十分かも知れない。自分の力を発揮できそうな場所を見つけた事の、何が悪いと言うのだろうか。そう言う反論は、確かに出来る。
 だが、楓本人が――それを、否定する。自分はまだ、彼ら“ゴースト・スイーパー”というものを、確かに、何も知らない。

「お前の第一志望は、東京の六道女学院だな――ネギ先生」
「はい――少し調べてみたのですが、これを」

 そう言ってネギは、机の上に何かのパンフレットのようなものを置いた。
 果たしてそこには、“六道女学院高等部”の文字と共に、校章であろう文様が刻まれている。
 楓はそれを何気なく受け取り――ネギの方を見た。

「実は、この週末に、その六道女学院のオープン・スクールがあるそうなんです。詳細はそのパンフレットに。もし長瀬さんに時間があるのなら、こちらから電話予約を取っておこうと思うのですが――どうしましょうか?」




「新田先生――何も、あんな言い方をしなくても」

 楓が去った後の進路相談室で、資料の片付けをしながら、ネギは――彼にしては珍しく、非難するような口ぶりでそう言った。
 新田という教師は、生徒に恐れられ、疎まれている。しかし彼は敢えて、そういう教師を演じることで、生徒達を導いている立派な教師だ。少なくともネギはそう思っている。
 その彼にしては――先程の言い方は、妙に意地が悪かった。
 楓がどの程度本気かなどは、現時点では彼女にしかわからない。けれど新田の言い分は、彼女の目指しているものは、ひとときの憧れでしかないとそれを切り捨てた。彼女は本気でそれを将来の夢としているわけではなく、言ってみれば浮ついてその気になっているだけだ――と。
 そんなネギの言葉に、新田は苦笑しながら応えた。

「何――心配要りませんよ」
「ですが」
「あいつが本気なら、私の言葉など何の障害にもなりはしないでしょう。それに――これは単なる予感ですが。あいつはきっと大丈夫だと、そう思いますよ」

 彼の言葉に、ネギは小さくため息をつく。

「だったら――何故わざわざ意地悪を言うんですか。そんな風だから“鬼の新田”なんて、生徒から嫌われるんじゃ」
「親だの教師だのそういう手合いは――往々にして、目標の前に立ちふさがるものです」
「だから――」
「だがもう一度言う。本気の目標を前にしては、そんなものは何の障害にもなりはしない。親や教師に反対されたから――それが果たして、自分の目標を諦める理由になりますか? 当然我々には、それを反対するなりの理由はある。けれど結局」

 新田は、ネギに振り返る。

「最後にそれを決めるのは自分自身だ。後からあれこれ言ってみたところで、それは結局言い訳程度の事でしかない。長瀬は――そこまで“可愛らしい”性格をしているようには、見えませんでしたがな」

 そう言って彼は――歳の割に随分若々しく見える笑顔で、楽しそうに笑った。




 その週末――東京都某所、六道女学院。
 都市が丸ごと“学校”である「学園国家」――麻帆良学園都市には到底及ばないものの、名門と言われるその学校もまた、一つの学校としては相当な規模を持っている。
 幼稚園から大学までの全ての学校を擁し、通う学生の総数は数千人に及ぶ。
 一般には「お嬢様学校」のイメージが非常に強いが、専門性の高い学部やコースを備え、積極的な就職活動を推薦するなど、単に箱入り娘が通うための学校、というわけではない。加えて、大学に関しては、近年男女共学化もされている。
 とはいえ――実際にその場に立ってみると、楓は自分が、酷く場違いな場所にいるような気分になってきてしまう。

(と言うか……迷った)

 事前に、級友であり、この六道女学院中等部に通っていた経験のある犬塚シロに話を聞いて、わかったつもりになっていたのがそもそもの間違いだったのだろう。彼女の説明が不十分だったわけでも、楓が気を抜いていたわけでもないのだが――気がつけば彼女は、オープン・スクールと言うことで、こぞって見学者に声を掛ける在校生達の集団から追い回され、知らない場所に立っていた。
 在校生のクラブ活動などにしてみれば、入学式に次ぐ部員獲得のチャンスである。訪れた人間が全てこの学校に入学するとは限らないとはいえ、印象を植え付けておくに越したことはない――楓自身が、麻帆良学園に入学したときに経験した事であった。
 もっとも、団体行動の苦手な彼女は、自分で“さんぽ部”なるもはや部活動とも言い難い団体を、ルームメイトと共に立ち上げ――気ままな放課後を過ごしているのだが。

(あんなに寄ってたかって追い回したら、逆効果な気がするんだけど)

 気持ちはわからなくもないが、各々の部活のチラシを手に迫り来る女学生達の目には、鬼気迫るものがあった。自分だけではない。その場にいた学校見学の少女達は皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すほかになかったのだから。
 あわよくば、そうやって逃亡した誰かに出会う事が出来ないだろうかと、楓は地図を片手に校舎の中を歩く。
 犬塚シロから受け取った見取り図を見る限り、今自分が居るのは中等部の「どこか」である。
 見るべきは高等部の設備であるので、とりあえずこの区画から一旦出るべきなのだろうが、靴を履き替える前だったので、校舎の中を通ることが出来ない。今の彼女にこの場所は、巨大な壁で仕切られた迷路も同じだ。
 とりあえず、見かけた誰かに声を掛けることにしよう――と、人知れず嘆息して周囲を見回すと、たまたま、セーラー服を来た女学生が近くを歩いていた。

「あの、すいません」

 楓は小走りに彼女に走り寄り、声を掛ける。

「せっし……私、オープン・スクールで学校見学に来ていたんですが、迷ってしまって――高等部の校舎は、どっちに行ったら?」
「あ、はい、高等部だったら、そこの駐車場の脇を抜けて、「第二校舎」って書いてある看板のあるところを――」

 彼女の言葉と地図を照らし合わせてみれば、行くべき方向は何となくわかった。
 再びあの恐るべき集団に遭遇しないことを祈りつつ、少女に礼を言ってその場を立ち去ろうとしたところで、彼女は不意に不可解な事を言った。

「でも今日は結構人が来てますから、はぐれてしまったのなら校内放送で呼び出して貰った方が早いかも知れませんよ? 私、職員室まで案内しましょうか?」
「はぐれ――? あの、何のことですか? 私は今日一人でここに来たんですが?」
「え? だって――」

 首を傾げる楓に、少女は不思議そうに言う。

「だって――保護者の方ですよね?」

 楓の表情が、固まった。
 今まで高校生――下手をすれば大学生に間違われることも、多々あった。
 加えて今の自分は、シロを通じて知り合った知人――千道タマモより、“お礼”と称して贈られた、少々大人びた私服に身を包んでいる。
 しかし――しかし、言うに事欠いて――彼女の肩が、小さく震える。

「あ、あの……私、何か妙なことを言いました?」

 突然俯いて震えだした彼女に、怪訝な表情で、少女は問う。
 楓はそれに対して大きく息を吸い込み――これ以上ないほどに魂の籠もった声で、彼女に叫ぶ。

「拙者は――“まだ”中学三年生でござる――ッ!!」

 その瞳には、うっすら涙がにじんでいたという。




「だからごめんって言ってんじゃん――え、ええっと……私からしたら羨ましいよ? 私なんて、背も低くてスタイルも良くないんだから――その――」
「情け無用でござる……無駄な情けなど、自分が惨めになるだけでござる」
「いや、私も、“保護者”って言うには随分若いなとは思ったのよ? で、でもほら、あるじゃない。もしかしたら、お姉さんが妹の付き添いで来てるのかも知れないし――」
「……」
「……すいませんでした。反省してます」
「いえ――そちらが謝る事ではござらん。拙者が老け顔なのは、どーせどうにもならぬことでござるから」
「完全にブルー入っちゃったよこの娘。いやさ、あなた顔だけ見たら十分年相応なんだけど――その身長とスタイルは、正直反則」
「……不便なだけでござるよ。着られる服は限られるし、大概の場所で中学生料金が使えないし」
「嫌味にしか聞こえねえ」

 それから暫くして――楓と少女は、目的地である高等部近くの中庭に据えられたベンチに、並んで腰を下ろしていた。よく手入れされた花壇には、初夏を彩る花々が咲き乱れ、目を楽しませてくれる。
 少女が言うには、ああいう部活の勧誘は、見学に来た“ところ”を狙って行うのが常である。来校者が一段落する昼前にでもなれば少しは落ち着くだろう――とのことで。
 それなりに規模のある六道女学院のオープン・スクールでは、もはや恒例行事である――とはいえ、巻き込まれた人はご愁傷様、と、少女は軽く笑いながら言った。
 さて、彼女が楓と行動を共にしているには理由がある。
 彼女が楓に対して、特大の“失言”をした詫びに、校舎を案内している――というのはもちろんあるのだが、それ以上に――

「でも、まさかあなたシロちゃんの転校先のねえ……世の中は狭いっつーか……それでそんな喋り方してるんだ?」
「拙者の喋り方は、犬塚殿がどうこう言うのではなく、昔からでござるよ。麻帆良は時代劇の世界でも“忍術学園”でもござらんし」
「それはそれで――世の中に『ござる口調』の女子中学生が二人も居ることが驚きでならんわ」

 そう、彼女はかつて、犬塚シロがこの学校に在学していた時の友人であったという。楓の特徴的な喋り方に、ついこぼれたのだろうその名前を、楓は聞き逃さなかった。

「あの娘元気してる? 転校してから全然顔を合わせてないから、心配してたんだよ」

 少女の言葉に、楓は小さく頷いた。そう言えば彼女が転校してからこちら、ネギとエヴァンジェリンの喧嘩だの、相坂さよの一件だの、修学旅行だの――大騒動の連続であった気がする。そして、彼女は常にその中心にいたのだ。友人に会いに東京に戻ろうという時間は、無かったかも知れない。
 今の時代、携帯電話やパソコンでリアルタイムに連絡は取れるだろうが、やはり長く顔を見ていないと、心配にもなるのだろう。

「そっか。よかった――くーちゃんやゆずっちも、少しは安心するかな」
「犬塚殿は少々変わったところはあるが――あれで誰にも好かれる人柄でござるから、心配のしすぎではござらんか?」

 ほっとしたように言う少女に、楓は苦笑で返した。

「そりゃそうよ。なんたってあの娘は、みんなの可愛いマスコットなんだから」
「……それを本人が聞いたら複雑であると思うが」
「そう? だって可愛いじゃない。マスコットって言うか……座敷犬って言うか」
「それは余計に酷い」

 いつも自身を侍だの狼だの自称しているあの少女が、その評価を聞けば何というのか。彼女は今頃、埼玉の地でくしゃみでもしているのではなかろうかと、楓は思った。

「そうかなあ。あの娘見てると、他に形容の仕方が思いつかないけどなあ。明るくて楽しくて可愛らしい、みんなのワンちゃん」
「……」

 ふと――楓は、少女の言葉の中に微妙な違和感を覚える。
 彼女の知る犬塚シロという少女は確かに、明るく快活な少女だ。相手が誰だろうと臆する事無く分け隔て無く接するし、自然と人の心の中に入り込んでくるような、そんな得難い才能を持っている。人付き合いが苦手とは言わないが、決して社交的とは言えない楓にしてみれば、少々羨ましくもあるくらいだ。
 だから、少女の言っていることは間違っては居ないのだが――何と言うのか。彼女の語る言葉から受け取るイメージと、自分の中にある“犬塚シロ”という人間像に、微妙な差があるように、楓は思った。

(でも――あの犬塚殿が、転校したのをきっかけに自分の“キャラ”を変えようなんて――そんな風には、思えないし)

 だから彼女は、聞いてみた。

「実は拙者――ここに来ようと思ったのは、彼女の縁に寄るところが大きいのでござるが。単純に気になってのことであるが――ここにいた頃の犬塚殿は、どのような人間だったのでござるか?」
「え?」

 少女は少し驚いたような顔で、楓を見た。
 彼女も、気がついたのだろうか。自分の語る友人像が、目の前の相手の中のそれと一致していない――その微妙な違和感に。

「どうって……何、そっち行ってからシロちゃん、何かあったの?」
「いやいや、そういうわけではござらんが」

 単純な興味で御座る、と、楓は誤魔化した。
 それが誤魔化しであると相手に伝わっても、別に構わないと、そう思いつつ。

「――そうねえ……やっぱりあの娘を一言で言い表すなら――可愛いワンちゃん、かな」

 何か引っかかるものを感じると、少女の表情は言っていた。だが結局、彼女は顎に人差し指を当てつつ、楓の問いに答える。

「何に対しても一生懸命でさ、言っちゃ悪いけど馬鹿みたいに前向きで――あ、この辺本人にはオフレコで頼むね? やっぱり、照れくさいじゃない」
「承知でござる」
「照れくさいと言えば――あの娘にはそういう感情あるのかなって言うくらい、他人に対して優しくて、自分の気持ちに素直で。笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣いて――シロちゃんの知り合いに横島さんってのがいるんだけど」

 少女は、苦笑じみた笑いを浮かべつつ、続ける。

「もうあの人の前では、ホントに犬みたいにベタベタに甘えちゃって。見てるこっちが恥ずかしいくらいに――あー、結局シロちゃんの事を話すなら、あの人の事を避けては通れないか。知ってる?」
「元ゴースト・スイーパーの横島忠夫殿の事で御座るか? まあ……それなりには」

 応えつつも、楓は内心、驚きを隠せない。
 少女の言葉の程度は、楓にははっきりと推しはかる事は出来ない。けれど――単純に彼女の言うことを聞いただけでも、先程まで感じていた違和感は、はっきりと形を帯びたものとなってくる。
 確かにシロは、明るく前向きな少女だ。臆面もなく、横島の事が大好きだと言ってのける。
 けれど――楓の中には、子供のようにはしゃぎまわって、かの青年に甘えるシロの姿が浮かび辛い。
 “あの”犬塚シロが――だ。
 一癖も二癖もある麻帆良女子中三年A組の中で、落ち着いた態度で時には皆のまとめ役となり――私生活は私生活で、和服をきっちりと着こなし、とても自分たちの同年代とは思えない手際で、家事を切り盛りする。正直なところ――見た目はどうあれ――自分をまだまだ子供と思っている今の楓からすれば、相当に大人びた少女である。

(一度エヴァンジェリン殿とネギ坊主がどうこう言うときに……横島さんに縋っていたけれど。あれは甘えるって言うよりは、心配が行きすぎてああなっちゃったんだろうし……)
「元……ってことは、やっぱりあの人、ゴースト・スイーパーやめちゃったんだ……」
「……彼らの事を、何か存じているのでござるか?」
「いや……それは、その……」

 少女が口ごもる。
 楓は、慌てて顔の前で手を振って見せた。

「いえ、話してくれと言っているわけではござらん。個人的な事情に立ち入る趣味はござざらんゆえ――その辺りの事は、犬塚殿が話してくれる機会があれば、そちらを待つでござるよ」
「あ、うん。そうね、そうしてくれた方が良いと思う。私も、詳しく知ってる訳じゃないし。ただ――横島さんに何かあったって時に、あの娘相当ヘコんでたから――そっちで元気でやってるなら、本当、よかったよ」
「左様で」

 ともかく――楓には、子供のようにはしゃぎ回るシロ――と言うのが、いまいち想像できない。しかし少女の口ぶりからするに、どうやら彼女にとっては、楓の知る“今の”シロこそが、変わったと言うべきなのだろう。
 自分にとっても、彼女は既に縁が浅いとは言えない間柄だ。気にならないと言えば、嘘になる。しかし――楓は小さく息を吐いた。それは、今ここで、目の前の少女を問いつめるような事柄ではないだろう。

「ゴースト・スイーパーと言えば……」

 だから彼女は、敢えて話題を変えた。

「犬塚殿の友人で、ゴースト・スイーパーの横島殿の事を知っていると言うことは、霊能科の志望で?」
「ん? 一応ね。シロちゃんと横島さんの事に関しちゃ、私らの学年で知らない子はいないと思うけどさ」

 楓がネギから受け取った資料に寄れば、六道女学院の中等部は、専門分野が別れていない。麻帆良学園と同じ、エスカレーター式に近い就学形態を持つ学校ではあるが、それでも義務教育期間である中等部では、当然かも知れないが。
 だがそれでも、楓が今ここにいるのと同じで、中学三年の夏ともなれば、進学の進路くらいは大まかに見えてきている筈である。

「何故霊能科を? やはり、ゴースト・スイーパーを目指しての事でござるか?」
「いやー、ジョーダン。私に悪霊と体一つで戦えなんて、無理無理」

 だが、意外にも、少女は頭を掻きつつ、首を横に振った。

「私さ、小さい頃から“見える”のよ」
「見える――霊が、で、ござるか?」
「そ。まあ、こんな事改めて言うと、何だか胡散臭い人みたいで嫌だけど」
「そんなことは――霊能科に進もうかという人間が、今更でござろう」
「そう? ありがと。でまあ――専門家の人が言うにはね、そういう“霊的感受性”の高い子は、悪霊に取り憑かれたりしやすいんだって。『見えてるだろう』って怪談、聞いたこと無い?」

 半ば都市伝説じみた怪談である。町中に血だらけの人間が立っていて、けれど誰もそれには気がついていない。唯一それに気がついてしまった者は、見なかったふりをしてその側を通ろうとするのだが――その時、その血だらけの人間は言うのだ。「見えているだろう」と――
 言ってみれば「よくある」怪談である。子供時分ならいざ知らず、中学三年生になってまで怖がるような話ではない。
 しかし――実際に“その関係”の人間が口にする話には、リアリティがある。犬塚シロにせよ、横島忠夫にせよ――そして目の前の少女にせよ。楓は、自分の背筋に、気味の悪い震えが広がるのを感じた。

「だから、私が霊能科に進むのは、自分の身を守るため。霊能科って言ったって、六道の高等部はそれなりの進学校だし、事情を話せば特別進学クラスの授業も受けられる」
「はあ……人それぞれ、と言う奴でござるなあ」
「そういうあなたは? ゴースト・スイーパーになりたくて?」
「あ、まあ……一応」

 口に出しておいて、楓は少しばかり自分に嫌悪感を抱く。
 ゴースト・スイーパーは、日本最難関の国家試験。仮にもそこを目指そうというのなら、“一応”などという心構えで切り抜けられるものではない。

「そっか。応援するよ――同じシロちゃんの友達だし――来年からは、同じ学校でやっていく仲間だし」
「う……」

 明るい笑顔が、正直なところ楓には心苦しかった。
 クラスで“馬鹿ブルー”の異名を取る彼女は、今の成績では六道女学院霊能科への進学は、かなり厳しいと言わざるを得ない。
 悩んだ挙げ句に彼女は、恥ずかしそうにそれを口にした。

「だったら、それこそシロちゃんに勉強教えてもらいなよ。言ったら何だけど、あの娘、入学したときの成績なんて、そりゃもう酷かったんだから。でも先生に呼び出されて居残り勉強ずっと続けて――気がついたら抜かされてました」
「犬塚殿が――」
「そう言うところはねー……こういう事言うのも愚痴っぽくて嫌だけど、あの娘にはかなわないなあ。十三歳とか十四歳の小娘がさ、苦手な勉強頑張れって言われて、わかりました、なんてあり得ないでしょ」

 もっとも、そう言うことを言っているから、自分は成績が良くならないのかも知れないけれど――と、少女は言った。

「……拙者も」
「ん?」
「拙者も一生に一度くらい――死ぬ気で勉強してみるのも、悪くないかも知れないでござる」
「んー……それが受験生って事なんだよね」

 スカートを払い、彼女は立ち上がる。

「ま……私はエスカレーター組だから、一般入試組よりはハードル低いんだけどね」
「けしかけておいてそれでござるか!? ――ずるいっ!」

 口元に手を当てて、嫌味な笑みを浮かべる少女に思わず掴みかかる楓であったが――今の彼女らが正々堂々と試験を受けたところで、その結果など火を見るより明らかであろう。

「私――有田絵里って言うの。よろしくね?」
「長瀬――長瀬楓でござる」




「霊能科の専用施設って言ったら、まずそっちに専用体育館とトレーニングルームがあるわけよ。で、特殊教室棟に、工作室と実験室がある。工作室の方は普通科の商業コースと共用だけどね」
「……随分と立派な施設が揃っているのでござるな」
「そりゃあ、GS試験合格者輩出数トップの名門だからね。それなりに充実してるわよ」

 思わぬところで“案内役”を見つけた楓は、かつてこの学校でシロの級友であったというその彼女、有田絵里と名乗った少女と共に、六道女学院高等部の校舎を回っていた。
 さすがに現在この学校の中等部に在学し、霊能科進学を目指している彼女は、ここの施設には詳しい。
 聞けば、霊能科の特別授業を見学したり、施設を使わせて貰ったりすることもあるという。

「ちょっとズルい気もするけど、こればっかりは仕方ないわね」
「まあ……その程度で文句をつもりはござらんが」
「そうは言うけど、ゴースト・スイーパー資格って本当に狭き門だからね。エスカレーター組と一般入試組の確執みたいなのも、無くはないみたいよ?」
「……」
「そう言うことになったら、あなた、フォローよろしくね?」

 “きしし”と、妙な笑い方をする彼女に、楓は苦笑を返す。

「ま……半分は冗談だけれど。霊能科ってそれだけみんな必死って事だから。私みたいな自分勝手な動機で進学する人間には、不安もあるわけよ」
「自分勝手と言えば、皆が皆自分勝手でござろうに。他人のためにゴースト・スイーパーになろうかと言う人間も居ないでござろう」
「それはもちろん、ね。そう言えばシロちゃんなんて、霊能科の先生に相当惜しまれてたんだよ?」

 そう言うこともあるかも知れない、と、楓は思った。シロは知識や経験と言った部分はともかくとして、資質や戦闘能力では、あの歳で既に現役ゴースト・スイーパーに匹敵するものを備えている。ここが霊能の名門であるというのならば尚更、彼女がその道を諦める事は惜しまれるのだろう。

「長瀬は、何でゴースト・スイーパーになろうと思ったの?」

 その問いに、楓はすぐには応えられない。
 ケイへの憧れと言えばそうだし、自分の力の使いどころを見つけた気がしたと言えば、それも間違いではない。
 けれど今の彼女には、そう言ったことが全て“言い訳”であるような気がしていた。
 たまたま、憧れた人が立っていた場所がその場所で。
 その場所に立つための要素が、自分に合っていたような“気がした”から。

(そう――本当に私は、ゴースト・スイーパーに“なりたい”の?)

 それが、今の楓にはわからない。
 今までの動機は結局、受け身のものでしかなかったから。
 何かがあったから、周りがどうだったから――そう言うことではなく、自分自身がどう思っているのか。その気になるのは結構な事だが、そこに自分の意思はあったのだろうか?
 悪霊や人ではないもの、そう言ったこの世の闇の部分と戦って、人々を守る仕事。
 自分は、そういうことが“したい”のか?
 だから――新田の意地の悪い問いかけに、応える事が出来なかった。

(……ひょっとして新田先生は、そう言うところがわかってたのかな? だとしたら……どうしたらいいのかなあ)

 それが、わからない。
 わからないながらも、自然に口は、ぽつりぽつりと語っていた。

「ふうん……色々悩んでるんだ。現役のゴースト・スイーパーに憧れて、ねえ。長瀬ってその人のことが好きなの?」
「そもそも男だと言った覚えすらないのでござるが」
「女の勘よ。何となく、ね」
「言っておくが、否定も肯定もせんでござるからな」
「そうかたくなにならなくたって」

 やっぱりみんな考えてるのね、と、絵里は言った。

「有田殿の志望動機とて、別に不純なものではないでござるよ。将来に備えてくだらぬ憂いを取り除けるならば、それだけの価値はある」
「そう言ってくれると少しは気が楽になるけどね」
「むしろ拙者の方こそ――一口にオカルトの世界を目指すと言っても、色々あるのだと――考えさせられたでござるよ」

 考えてみれば、皆が皆、崇高な意思を持ってゴースト・スイーパーを目指しているわけではないだろう。
 高額な報酬が目当てのものもいるだろうし、実家が大きな寺社なり何なりで、家業としてそれを継がねばならないというものもいる。中には、ただ合法的に“強い敵”を相手に暴れられるから、等という無茶苦茶な動機のものまでいるらしい。
 そういった連中の中にあって、楓の“憧れ”という動機は、まだ「まとも」なものであると言えるだろう。

「ここに来る前に、うちの先生に言われたでござる。憧れで将来を決めるのは悪いことではないが、それにはそれなりの覚悟が要ると」

 結局はそう言うことだったのだろうか。
 “覚悟”などと大層な言い方をするから、わかりにくかった。
 果たしてそれは、動機など関係なく、ただ本気でそれになりたいと思うかどうか――その気持ちであるということ。
 崇高な理由があるから、覚悟があると言うのではない。考えてみれば当然で、簡単なことなのだが――自分と同じものを、違う立ち位置から見つめる他人に出会うまで、楓はそれに気がつかなかった。

「ふうん……長瀬の学校にはいい事言う先生がいるんだね」
「生徒達の間では、“鬼の新田”と恐れられ、嫌われているでござるがな」
「何それ。怖いの?」
「それはもう――宿題を忘れたら、剥き出しの尻を竹刀で叩かれるなどと、まことしやかに言われている程でござるよ?」
「いや、それってセクハラっつうか、犯罪じゃん。長瀬んところも、女子校なんでしょ?」
「ただ――その本人が竹刀など持っているところを、拙者は見たことがござらんが」
「あー……」

 つまりは「そういう」教師なわけだと理解したのだろう、絵里は苦笑を浮かべる。

「うちの担任とかさー、成績のこと口うるさく言うだけで――いや、悪い人じゃないのはわかるんだけど。そういう立派な先生の話とか聞いてると、やっぱり羨ましいって思うなあ」
「拙者は有田殿の担任教師を知らぬので何とも言えぬが――どちらかと言えば新田先生やネギ坊主が、今時の教師の中では特別なのでござろう」
「ネギ坊主? 何それ、先生の渾名? 坊主頭なの? 何でネギ?」
「何と応えたらいいものか……」

 まさか、魔法の国から修行にやって来た、まだ十歳の英語教師です――などと、正直に言うわけにも行かないだろう。楓とて、こんな場所にやって来た上で、救急車を呼ばれたくはない。
 はたしてどう言葉を誤魔化そうかと考えていると――遠くの方でガラスが割れる音と共に、誰かの悲鳴が聞こえた。

「……何?」
「ただのアクシデント……というのなら、どういう事はないのでござるが」

 これだけの騒がしいイベントである。不慮の事故で、校舎の窓ガラスを割ってしまう事故くらいは、起こりうるかも知れない。
 しかし同時に腰を上げた二人の少女は――空気に張りつめる何かを、直感的に感じ取っていた。










 先の注意事項「オリジナルキャラは出さない方向で。しかしやむを得ない場合は出す」のルールに従い、必要だと判断いたしましたので、登場いたしました有田女史。
 命名規則(笑)に乗っ取り、例によって上山先生(弟)の作品をモチーフに。
 名前だけ出ている「くーちゃん」「ゆずっち」は、上山先生(兄)の作品をモチーフに。

 六道女学院に関する設定は、完全に作者の想像です。
 もしかすると椎名先生は、この学校を単なる「女子高」として描いたのかも知れませんが。一応矛盾が出ないようにしたつもりです。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「助言」
Name: スパイク◆b698d85d ID:a9535731
Date: 2011/08/21 18:56
「姿を消す妖怪?」

 長瀬楓と有田絵里が、その場所にたどり着いてみれば、そこは既に大騒ぎになっていた。
 オープン・スクールのイベントに模擬店を出していた生徒達が右往左往するなかで、簡易型の除霊装備を身につけた女学生と、教師だろうスーツ姿の男が、何やら指示を飛ばしている。
 オカルト現象を専門に扱う彼ら彼女らの存在のお陰で、突如として起こったこの騒ぎは、それほど酷く拡大してはいない。
 だからと言って、原因を突き止めてそれを排除しない限り、終息もまた難しいだろう。
 聞けば、騒ぎの始まりは、校舎に突然迷い込んできた不思議な動物を、面白半分で生徒が追いかけたのが始まりだったという。
 その動物はひとしきり校舎の中を逃げ回った後、捕らえられそうになった。
 しかしその瞬間、あろうことか動物の姿はかき消え――足音と“破壊の痕跡”だけが、校舎の中を移動し始めた。
 その異常事態に、六道女学院霊能科の教師が付けた見当が、“姿を消す事が出来る妖怪”であったのだという。

「どう思いますか――習志野先生」
「日本固有の妖怪に、“姿を消す”事を主な特徴とする妖怪は、実のところあまり多くありません。生徒達の話を聞いただけでは、何とも言えませんが、外来種か、あるいは――私の、ような――」
「ふむ……それほど危険な力を持っているわけでもなさそうですが――厄介ですね。素早い上に姿が全く見えないとなると……ああ、ここに犬塚がおったらなあ」
「シロちゃんがどうかしたんですか?」

 不意に、スーツを姿の青年と、同じくスーツ姿の女性の会話が、楓と絵里の耳に入る。
 彼らは、この学校の教師なのだろうか? そして何故、シロの名前がここで出てくるのだろうか? 彼女を知っていると言うことは、もしかすると彼らは霊能関係の――
 楓がそんなことを考えているうちに、絵里の方が二人に声を掛けた。

「何や、ここは今――ん? 中等部の――有田、やったな」
「はい。シロちゃんの友達です。気になってこっちに来たら――名前が耳に入ったもので」

 スーツ姿の男女が、顔を見合わせる。
 楓は、絵里に問うた。

「このお二方は、知り合いでござるか?」
「あ、うん――高等部霊能科の鬼道政樹先生。私が事情持ちで霊能科志望ってことで、時々進路相談受けてもらってるの」

 なるほど――ならば、彼が話にあった、“シロの転校を惜しんだ教師”なのだろうか。そんなことを考えていると、彼は頭を掻きつつ、絵里に言う。

「それはともかく、や。何でお前がここにおるんや? 見ての通り、こっちは暫く立ち入り禁止やで。全く、霊能科がある学校のオープン・スクールで、妖怪が騒ぎを起こしたっちゅうて、笑い話にもならんわ。そっちは――見たことのない顔やけど、お前のオカン――にしちゃ、若いなあ。姉御さんか?」

 その言葉が、今日再び楓の胸を深く穿った事は、今更言うまでもない。
 さすがに不自然だとは思ったようだが、それでも、「母親」――「母親」……
 比喩でなく胸の辺りを押さえてよろめいた楓を見て、絵里は慌てたように言う。

「違いますっ! この娘は、シロちゃんの転校先の学校の生徒で――長瀬楓さん。見た目のことは気にしてるんだから、そう言うこと軽はずみに言っちゃダメ!」
「あ、ああ……そりゃ、すまんかった。せやけど、当の本人がお前の言葉でだめ押し喰らっとるようやが――ええんか?」
「え? あ、ご、ごめんっ! 悪気があった訳じゃないのよ!?」
「……あったら拙者は、有田殿のことを絶対に許さぬ」

 自分の容姿の事は、言っては何だが諦めている。得をする事もあるし、スタイルが良いと言うのは悪いことではないのだ――と、日頃から自分に言い聞かせている。そんな自分ではあるが――何故にこうまで、無関係な所からダメージを受けねばならないのか。
 少しばかり麻帆良から出ることに、暗澹たるものを感じる彼女である。
 ならばいっそ、自分のクラスの年齢詐称疑惑筆頭を連れ出してくるべきか――などと、詮ないことを考えるそばで、鬼道と名乗った若い教師は、絵里に言った。

「いやまあ、教師が軽はずみに生徒を当てにするんもアレなんやけど――犬塚は別格やろ。資格こそ持ってへんけど、そこらのゴースト・スイーパーより余程腕が立つ上に、人狼の超感覚持ちや。今回みたいな相手には、うってつけやろ」
「あ、シロちゃんの“ラブラブノーズ”の事?」
「……何やその、全身の力が口から抜けていきそうなネーミングは」
「だってあの娘、『先生の匂いなら十キロ先からでも嗅ぎ分けられるでござる』って」
「……確かに言われてみたら、あいつなら出来そうな気もするなあ」

 ま、何にしろ――と、軽く言って、鬼道教諭はポケットを探る。引き抜かれたその手には、楓には理解できない、不思議な文字のような文様が描かれた札。

「そないオオゴトにする気は無いけど、ここは危ないさかい――お前らは下がっとき。ガラスの破片で怪我でもしたら、“こと”やからな」
「あ、でもでも――そう言うことなら、私はきっと、役に立てますよ?」
「……どういうことや?」

 何かを思いついたような表情で手を挙げた絵里に、鬼道教諭は怪訝な顔をする。
 彼女は少し得意そうな顔で、上げた手を胸元に当て、言った。

「私の霊感覚って、普通の霊視とはちょっと違うんです。私には――“霊体の世界が見える”んですよ」

 楓には、その意味がよくわからない。霊視とは、すなわち幽霊が見えることではないのだろうか。その上で「霊体の世界」とは一体何のことなのか。
 果たして、プロである鬼道教諭にも、その意味はよくわからなかったようで――首を傾げつつ、絵里に聞き返す。

「何て言ったら良いのかなあ……普通の霊視って、『目には見えているけど頭で見ないようにしているものを見る』ことでしょう?」

 幽霊は、実際に「目に見える」。
 心霊写真などにはハッキリ映ったりするのだから、ただの機械であるカメラに捉えられるものが、目に見えない筈はない。
 ならばどうして一般人に幽霊は見えないのか。
 それは、一言で言えば「見えないと思っているから」である。
 幽霊が目に見えても、頭が「そこにそんなものが存在するはずがない」と思ってしまう。だから、脳で処理された『目に見える世界』には、幽霊は映らない。
 そしてその脳のフィルターを外す事を、業界では「霊視」と呼ぶのだ。
 ――と言うことを、鬼道教諭と一緒に居た女性が、楓にそれとなく教えてくれた。
 クラスで「馬鹿レンジャー」の名を恣にする彼女が、それを何処まで理解できたかは、この際さておくとしても。

「あ、私、習志野愛子って言うの。ここの系列の大学で助教授やってるんだけど……シロちゃんとは私もお友達だし、気構えなくて良いよ?」
「は、はあ……」

 半ば脳みそが焼き付きかけている楓には、曖昧な返事しか出来ない。
 ちょっとした非日常の世界をのぞきかけただけで「これ」なのだ。果たして自分に、この世界でやっていくことが出来るのだろうか? 楓の中に、茫漠とした不安が漂う。

「だから結局、普通の霊視じゃ、目に見えてないものは見えないでしょ? でも、私は違うの。目に見えて無くても、霊は見えるの」
「……何やて?」

 たとえば、サーモグラフィーという技術がある。
 温度を色で表す技術であるサーモグラフィーは、通常目には見えない「温度」というものを、可視化する。
 空気の温度がそこだけ違っていれば、たとえ目に見えていなくても、それがはっきりとした違いとなって現れる。
 絵里が言うのは、そういうことだ。
 彼女は通常の霊視――「霊をシャットアウトするフィルターを視界から外す」事が出来るのではない。
 「霊を見ることが出来るフィルターを、視界に掛けること」が出来るのだ。
 対象物が何であれ「魂を持っている」限りは、彼女の霊視能力から隠れ通す事は出来ない。

「そら……確かに、凄い能力や。霊能力者の中でも、そんな能力を持っとる人間は、そうそうおらへん筈や――」
「でしょ? 褒めて褒めて」
「……でもそれだけじゃ足りないわね」

 腰に手を当てて誇らしげに鼻を鳴らす少女は、苦笑混じりに言った愛子の一言にたたらを踏む。

「な、何でですかっ!?」
「それじゃあなた、動物園から逃げ出して町中を飛び回るカンガルーを、追いかけ回して捕まえる事が出来るかしら? 今逃げ回ってるアレ――カンガルーどころじゃないほどすばしっこいわよ」
「う」

 楓とて、時折ワイドショーをにぎわせるその手のニュースは知っている。話に出たカンガルーだとか、猿だとか、あるいはイノシシだの何だとのと――町中をかけずり回る警官や動物園関係者の姿は、必死を通り越して滑稽でさえある。ましてや女子中学生一人に、彼らの真似事でさえ出来るものだろうか。

「どちらかと言えばそれは拙者の得意分野でござるが――相手が見えぬ事にはどうにもならぬ」

 そう言って楓は嘆息する。
 そう――自分には、少なくとも「十分だ」とタマモに評されただけの身体能力がある。
 実家に伝わる秘伝の古武術――“氣”と呼ばれる、人体の神秘の力を制御する技術。それをもってすれば、カンガルーどころか熊と殴り合っても、すんなり負ける気はしない。
 だが、“霊能力”に於いては別だ。
 概念的には、何となくシロ達のそれを見てわかっている。
 だが――それが“氣”とどう違うのか。どうすれば扱えるものなのか。そもそも、資質として自分に備わっているのか、それはわからないのだ。

(ああ……私って、浮かれてたのかな)

 形を持った不安に、自分の立っている場所がわからなくなってくる。
 ふと楓は、自分は今――少し前のネギ・スプリングフィールド――自分の所に迷い込んできたときの彼と、同じような顔をしているのではないだろうかと思った。
 今更そんなことを考えても――しかし自嘲しつつ顔を上げた時、彼女は自分に集中する視線に気がついてはっとする。

「……な、なんでござるか? 先も言ったように、相手が見えぬ事には、捕まえることなど――」
「姿さえ見えれば捕まえられるの?」
「ま、まあ一応……その自信はあるが」

 とまどいがちに言った彼女の肩に手を置き――愛子は笑った。

「十分よ」




「急ごしらえの札やったけど、うまく働いたみたいで良かったわ」

 そう言って、鬼道は楓の背中に張られていた一枚の札を剥がす。
 途端に、形容しがたくブレて見えていた彼の姿が元に戻り、楓は大きく息を吐いた。
 彼女らから少し離れたところには、動物を入れるためのケージが置いてある。
 そしてその中には、犬のようなタヌキのような、そんな外見を持った小動物が、怯えるようにうずくまっていた。
 改めて見ると、割合愛くるしいその姿に、目を輝かせる女学生達が、ケージに群がっている。

「こらこら、あんまり刺激すんやないで。元はと言えばお前らがそいつを怖がらせたのが原因の騒ぎやないか」

 鬼道が手を叩きつつ、彼女らを散らす。少女達は口々に文句を言いつつも、散らかってしまった飾り付けや、割れたガラスを片付けるために持ち場に戻っていく。

「まだ頭がクラクラするでござる……」
「今まで霊視の「れ」の字も知らんような奴が、いきなり本職以上の仕事をしたんやからな。頭がついて行かんで、酔ったみたいになっとるんやろ――我慢できんようやったら、保健室に連れて行くで?」
「いえ――少しめまいがするだけなので、大した事はござらん」
「さよか――ほんなら、改めてお礼を言うわ。ショボい事件とは言え、うちの学校で起こった事で迷惑かけてもうて、ほんまにすまなんだ。お前のところの学校には、あとで俺らからちゃんとお礼を言っとくさかいに」
「そんな大層な事をする必要はござらん――いや、本当に。気が済まぬと言うのなら、照れくさいのでやめてくれと正直に言うでござるが」
「はは――謙虚でええ娘や。せやけど、謙虚も行きすぎるとあかんのやで? ま……お前がそう言うなら、そうするわ。体調がおかしかったら、すぐに言いや――犬塚二号」

 言いたいことはわかるが、犬塚二号は勘弁して欲しい、と、楓は憮然とした顔をする。
 言われた鬼道は、あまり反省していないような顔で彼女に詫びると、片付けの手伝いをするために、彼女と絵里を愛子に任せて行ってしまった。
 彼らが取った作戦は、シンプルなものである。
 絵里は妖怪の姿が見えるが、捕まえる術がない。
 楓は妖怪を捕まえること自体は出来るが、それが見えない。
 ならば――絵里が“見た”妖怪を、楓が捕まえればいい。
 かつて強大な魔神の手先と戦ったゴースト・スイーパー達は、全員の感覚をひとまとめにすることでお互いを補い合い、地力の差を埋めたことがあるという。
 そうした経験は、ゴースト・スイーパー業界の中で研鑽されてきた。今回は何も、この場にいる全員の感覚を統合する必要はない。ただ絵里に見える世界を、楓が知ることが出来れば良いだけの話だ。
 急ごしらえだが――と、鬼道が作った札が、その為のものである。
 意味が分からないまま、それを背中に貼り付けた楓であったが、絵里が同じものを額に貼り付け、彼が短く気合いを入れて、その札の力が働いた瞬間――見えている世界が、一変した。
 自分の見ている世界に重なって、他人の“魂”が見える。淡い光のように、人間だけではない、そこに存在する、生き物全ての魂が――“見える”。
 これが――絵里の、霊感覚。
 霊能力者が見る、世界。
 目が捉える光景の中、何もないはずの場所に蠢く光を、彼女は見つける事が出来た。
 それさえ出来れば――ただ姿を消すことが出来るだけの小動物など、彼女の相手ではなかった。

「お疲れ、長瀬」

 突然頬に冷たい何かを押し当てられて、楓は「ひゃ」と、間の抜けた声を出した。
 振り返れば、缶ジュースを持った絵里が立っている。
 どさくさに紛れてそこの模擬店から貰ってきたんだけれど、と、言わなくても良いことを口にしながら、彼女は楓にジュースを渡した。

「すごかったねー、長瀬! ワイヤーアクション見てるみたいだった! 人間って、壁とか天井とか、走れるんだ!」

 缶のプルタブを開けながら興奮したように絵里は言う。
 それが普通の人間の認識なのだろう――と、楓は改めて思った。麻帆良には、彼女以外にもその気になれば“そういう”事が出来てしまう手合いが割合大勢居るので、時折忘れそうになってしまうが。
 苦笑しつつ、楓もまた、缶のタブに指をかける。

「……世の中というのも、ままならぬものでござるなあ……」

 自然と、そんな言葉が喉からこぼれた。
 はたと気がついて隣を見れば、絵里は缶を口に当てたまま、不思議そうな顔でこちらを見つめている。
 さて、何と言葉を継いだものか――楓が何か言おうとしたところで、彼女の頭上から声が降ってきた。

「若い身空で、随分と年寄りじみた事を言ってるわね?」

 見れば、休憩所の椅子に腰掛けていた彼女たちを、スーツ姿の女性が見下ろしている。
 先程、鬼道教諭と一緒にいた、習志野愛子とか名乗っていた女性だ。
 楓と絵里に声を掛けた彼女は、そこで笑顔の一つでも浮かべる――つもりだったのだろうが、椅子に腰掛けたまま、突然俯いて影を背負った楓に気がついて、ぎょっとしたように一歩後退る。

「……あー……長瀬、ひょっとしてトドメ刺された?」
「……拙者はこの学校に通うに当たって、鋼鉄のハートをいくつ持っていればいいのでござるか?」

 楓の言葉に――新しい友人は、沈黙した。




「なるほど、進路についての悩みねえ……青春だわ……」

 何故か妙に満足そうな表情を浮かべつつ、一人頷きながら、習志野愛子は頷いた。
 ややあって彼女は思い出したように、楓らに向かって振り返る。腰程までもある長い黒髪が、鮮やかに翻る。
 それなりの大学で、助教授という責任ある職にあるのだから、それなりに年齢を重ねている筈だが――その容姿と言い仕草と言い、彼女はあまりにも若々しい。
 服装や化粧次第では、我らが麻帆良女子中“年齢詐称疑惑組”よりも――

「――? どったの、長瀬?」
「いえ――何でもござらん」

 もはや自分に余力など残っているものかと――そんな表情で、楓は力なく左右に首を振った。
 愛子はそれに対して一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、すぐに腰に手を当て、小さく頷く。

「将来の夢に悩む若者と、その悩みを分かち合おうとする教師――素晴らしき青春の一こまね……それにしてもまさかこの私が、“教師”の側で、こんな青春の一場面に立ち会うことが出来るなんて。ああ……なんて素晴らしき人生」
「習志野助教授」
「愛子でいいわよ。私は公私の区別はしっかり付けるタイプなの」
「自分トコの大学の教授を名前で呼ぶの事って、“公私の区別”とかいう問題なんスか……? まあ、なら……愛子さんがそう言うなら」

 それじゃ愛子さん、と、少々引きつったような顔で、絵里が言った。

「何かしら」
「とりあえず鼻血拭いてください」
「……失礼」

 黒髪の美女は上を向いて鼻をつまみ、絵里からもらったティッシュペーパーで鼻の辺りを拭う。何とも、絵にならない光景である。

「他人の悩みで悦に入ってた事に関しては、素直に謝るわ。どうも私、こういうシチュエーションになると、昔から抑えが効かなくて――それで一度は退治されかけたわけだし」
「は?」
「い、いやいや。こっちの話」

 鼻血を拭いたティッシュを丸めてくずかごに投げ捨て、彼女は笑って見せた。どうやらもう血は止まったらしい。この女性、一体どういう体のつくりをしているのか――楓は喉まで出かかった疑問を、結局飲み込んだ。

「それで長瀬さんの話に戻るけれど――あなたはつまり、今日ここに来て、騒ぎに出くわして――自分がこの道を進んでいけるのかどうか、不安に思ったわけね?」
「……」

 楓は黙って俯いた。彼女の手に力が込められ、握られていた缶が、乾いた音を立てる。

「確かにね、六道女学院霊能科は、その道のエキスパートが通う学校だわ。高い霊的資質が求められるのはもちろんのこと、能力だけを見れば、既に一人前のゴースト・スイーパに匹敵する才能を開花させている子もいる」

 そんなサラブレッドの群れの中にあって、未だ霊能力が“ある”のか“ない”のか。それを判断するところから始めなければならないと、そう言う段階の楓は、一歩で遅れた立ち位置であると言わざるを得ない――愛子は、そう言った。

「そんな――いや、そうかも知れないけど、長瀬は」

 彼女のハッキリとした物言いに、絵里が思わず口を挟む。

「いえ――愛子殿の言うとおりでござる」
「でも、でもさ――長瀬はあんな、アクション映画みたいな事ができるじゃない! あんな事が出来る中学生が、世の中にどれだけいるって――」
「ゴースト・スイーパーは“対心霊現象特殊作業従事者”を指す言葉よ。霊を相手にするのに、強くて困ることは無いにしても――その手の手合いに、物理的な強さだとか、力のあるなしだとか――そういう理屈は通じないわ」

 反論にかぶせられたその言葉に、絵里は言葉を失ってしまう。
 ゴースト・スイーパーには、確かに戦う強さ――悪霊と戦って生き延びるだけのサバイバビリティが必要不可欠である。だから最終的に、一部の例外を除いて、ゴースト・スイーパー資格の最終試験は、受験生同士の真剣勝負などという、危険極まりないやり方が採用されている。
 けれどそれは、あくまで必要条件のうちの一つでしかない。どれだけ腕っ節が強かろうと、それだけでは“心霊現象”に対して、何の役にも立ちはしない。

「とはいえ」

 ふと、愛子が肩をすくめる。
 絵里は俯きかけていた顔を上げた。

「長瀬さんはどう考えてもフツーじゃないわよね。私は体育教師じゃないけれど――あの動き。あなたは体格に恵まれている方だと思うけれど、それでもあれは、そんな華奢な体で出来るような動きじゃないわ」
「――あれは、“氣”と呼ばれる力を使った、拙者の里に伝わる……その、“古武術”でござる」

 口で説明することは難しいが、人体に秘められた神秘と力とでも言えばいいのか――楓は言った。それを使うことによって、人間は生物として出しうる事が出来る以上の力を振るうことが出来るのだと。
 それを聞いた愛子は、納得したように頷いた。

「東洋の神秘って奴ね。興味深いわ」

 口元に手を当てて頷くその仕草に、己の担任教師が重なったように、楓には感じられた。いつだったか、彼もまた同じような事を言っていた。あれは確か――

「ともかく」

 記憶の書架を漁りかけていた彼女は、愛子の一言で我に返る。

「霊能力は魂から引き出される力――心霊学ではそんな風に言われているけれど。言い換えれば、“魂”を持つ生き物なら、“霊能力”が使えない道理はない。結局霊能力のあるなしなんて言ったって、それがどれだけ器用に扱えるかの違いでしかない」
「え……そうなんですか?」
「理屈の上ではね」

 だから、と、愛子は続けた。

「結局霊能力も、そういう言葉では表しにくい本能的な能力だから――ね。根拠はないけど、私は何となく、長瀬さんは霊能力者としても、かなり化けるんじゃないかと思う」
「ホントですか!? 凄いじゃん長瀬っ!」

 唐突に“プラス”に転じた彼女の言葉に、絵里は自分のことのように目を輝かせ――隣に座る楓の背中を、ばしばしと叩く。
 楓としては、もう既に脳みその容量が限界に近い。自分の事であるはずなのに、何処か現実味を感じさせない言葉の羅列に、目を白黒させるしかない。自分が評価されているのかどうかさえも、わからない。

「でもさ」

 しかし愛子は、そこで――意地の悪そうな笑みを、浮かべて見せた。

「そう言うのって、青春っぽくないじゃない。あなたの悩みって、結局そういうところなんじゃないかと、私は思うんだけど?」

 その言葉に――楓は弾かれたように、顔を上げた。




「私の友達にね、業界じゃ相当に名の知れたゴースト・スイーパーがいたの」

 愛子は目を細め、そんなことを言った。
 それこそ高校生と言っても通じるかも知れないほどに若々しい顔に、その時浮かんでいた表情は――何かを懐かしむような、“大人”にしかできない表情だった。

「霊能力者としての実力は、悪霊どころか悪魔くらいなら地力で倒せるくらいだったし、歴史的に見ても稀少な能力の使い手だった。本人はその事を鼻に掛けたりなんてしない――っていうか、自分に自信がなさ過ぎて、自分の実力をわかってなかったみたいだけど」
「あ、悪魔って――」
「彼の中じゃきっと、ゴースト・スイーパーを名乗る人間は悪魔くらい“倒せて当たり前”なんじゃないかしら? それが出来る霊能力者なんて、世界にどれだけいるかって話なんだけれど」
「当たり前ですっ!」

 オカルトに馴染みの薄い楓には、その“悪魔”と呼ばれる存在が、どれほどの強さを持っているのかわからない。ただ、絵里の尋常ではない驚きようを見るに、それを察する事くらいは出来る。

「そう。彼は霊能力者であることに、自信なんて持ってなかった。自分が一番信用できない、なんて、胸を張って馬鹿なことを言う人だった。でも、彼は霊能力者であり続けようとした。強くなりつづけようとした」

 そんな彼が――と、愛子は言った。
 そんな彼が目指した夢とは、一体何だっただろうと、楓と絵里に問いかけた。
 二人の少女は顔を見合わせるが、その答はわからない。並はずれた資質を持ちながら、それを特別だと考えることが出来ず。
 けれどどこまでも高みを目指す――楓の中には、何処までも己を高めようとする侍のような人物が浮かんでくる。恐らく絵里も、同じような人間像を思い浮かべているのだろう。
 そんな二人を満足そうに見やり、愛子は言った。

「この間その彼と飲む機会があったんだけど――現時点での彼の夢は、“美人の嫁さんを貰って退廃的な生活を送ること”らしいわよ」
「「え」」

 いたずらが成功した子供のような表情で、愛子は笑う。
 唖然とするしかない楓と絵里に、彼女は続けた。

「未来を選ぶことに、きっと正解なんてありはしない。だから、私たちは悩むのよ」
「――お、仰ることは何となくわかるのでござるが」
「そのもの凄く突っ込みどころ満載の“彼”について、詳細希望」
「たとえばの話だけど」
「「いやそこスルーするべきじゃない」」

 綺麗に域の揃った少女達を無視して、愛子は言った。

「長瀬さんに実は、どんなゴースト・スイーパーでもかなわないような霊能力の資質があったとするわね? 当然、あなたはこの学校に入ることに何の不安も無いでしょうし、誇りと自信を持ってゴースト・スイーパーの道を歩んでいけるわ」
「……」
「それは果たして“正解”かしら?」

 微笑と共に、彼女は言う。
 しばし彼女の言葉に付いていく事が難しかった少女達ではあるが、とりあえずその問いかけに対する答えを導こうとする。

「当然それは間違った選択ではないわ」

そんな少女達を見遣り、愛子は言った。
「自分の資質を理解して、それを最大限に活かせる場所があって、そこを選ぶ。少なくとも、それを間違いと言う要素は、何処にもない」
「はあ……」
「それじゃ逆に、長瀬さんには霊能力の資質が全く無かったとしたら――同じ道を選ぶことは、果たして間違いかしら?」
「――それは」
「自分がやりたいことと、自分に備わっている才能――それが一致している事って、本当に幸運なことだと、私は思うのね」

 小さく息を吐き――愛子は言った。

「本当なら、みんながみんな努力して、夢を叶えたらいい。叶えられたらいいと、私は思う。けれど、本当に残念だけれど、そんなことはあり得ない」
「……」
「どうしていつも、そうなのかしら。どれだけ頑張っても届かない場所を見上げながら、大勢の人が人生を終えていく。そしてその人の中には、別の誰かが欲しがってやまない原石が眠り続けているかも知れない。でも、望まれない宝石の原石は――結局石ころと同じなのよ――長瀬さん、有田さん――あなたたちは、その現実をどう思う?」

 楓も、絵里も、その問いにすぐさま応えることはできない。
 たかだが十四、五歳の少女達にとって、その問いかけはあまりに重すぎる。
 どれほどの沈黙が流れただろうか。ふと――愛子が、口を開いた。

「でもね。私は、その現実を嘆きたくはない」

 楓と絵里が、顔を上げる。

「本人が石ころだと投げ捨てたダイヤモンドの原石は、輝く宝石になれないかもしれない。けれど、砕け散ったそれは、何か別の宝石を磨き上げる事ができるのよ」

 もちろん、それは単なる強がりかも知れないけれど――と、愛子は言った。

「私の知っている彼が強くなろうとして、そして強くなれたのは――まさに、そのためだった。自分が恋い焦がれる人を振り向かせたいため、ただそのために、彼は嫌で嫌で仕方なかった戦いの世界に、その身を置き続けた」

 楓の脳裏に、ほんの一瞬、誰かの顔が過ぎった気がした。

「自分の歩いている道が正解かどうかなんて、わからない。正解があるのかどうかもわからない。でも――長瀬さんは、どう思うの? “正解じゃないから諦める”なんて――悔しいと、思わない? そんなのって、青春じゃないわ」
「……」

 愛子の言葉は、強く楓の胸を打った。
 彼女は無意識に、拳を握りしめ、歯を食いしばる。

「……教育者が言うには、少しばかり無責任な言葉でござる」
「そうね。そうかも知れない」

 果たして楓がようやく言い返した一言に、愛子は軽く笑って見せた。
 彼女の言っていることはただの理想論だ。言葉一つでどうにかなる問題であるなら、悩む人間などこの世には居ない。たとえば新田教諭ならば、同じ教育者として、彼女の言葉を批判するかもしれない――楓をこの場所に導いた、彼ならば。

「拙者の中にある何かの原石を、もしも拙者が求めていなかった――そんな時、拙者はどうすればいいのでござるか?」
「“それ”で他の何かをピカピカに磨き上げて――思いっきり自慢してやりなさい。どれだけ夢に破れようが、その一つがいつか見つけられるなら、それでいいじゃない」
「ならば、もしもその一つが見つけられなかったら」

 彼女の問いかけに、暫くの間をおいた後、愛子は言った。

「そうね――でもきっと、そうやって歩き続けたあなたの人生は――今まで磨いてきた宝石で満ちあふれたものになっているはずよ」




「何だかわかったようなわからないような、そんな気分にさせられたわね。習志野助教授って多分、人をその気にさせる天才か――そうでなかったら、無責任も良いところのダメ人間か、どっちかだと思うわ」

 夕刻――お祭り騒ぎの一日が終わり、都内某所、六道女学院近くのコンビニエンス・ストア。その駐車場の車止めに腰掛けて、絵里は楓に言った。

「もとより、ただの言葉で納得が出来るなら、拙者は六道女学院に来ようとは思わなかったでござるが」

 スカートのまま遠慮無く地べたに腰を下ろす絵里を窘めながら、楓はコンビニの壁に背中を預け、足を組む。長身の彼女がそうする様は割合格好が付く。絵里は何かしら思うところがあったのか、多少不満げな表情を浮かべながら、スカートの中が見えないように、鞄を自分の前に移動させた。

「結局一生掛けても答は出ぬのでござろうなあ。拙者が自分なりに人生を生きていって、どこかでそれを、正解だと言われても間違っていると言われても――多分拙者は、納得など出来ぬでござろうし」
「そうだね。誰にそれを言われたって、結局他人にそんなこと言われたかないし――自分自身には、自分自身の生き方の正しいも間違ってるも、結局判断できない――つか、したくないだろうしね」
「左様」
「……長瀬ってさ、成績が悪いとかって嘆いてる割に――色々考えてるよね? ひょっとして、シロちゃんと同じタイプ?」

 その言葉に、思わず楓は、絵里の方を見下ろした。
 その時彼女は、自分の方を見ては居なかったけれど。

「……何を馬鹿な。拙者、自分のクラスでは“馬鹿ブルー”と、もっぱら呼ばれているで御座るよ?」
「……ブルー以外にも居るの? それ」
「レッド、ブラック、イエロー、ピンクと」
「長瀬――あんた自分で言ってたけど、一生に一回くらい猛勉強しても、バチ当たんないわよ」

 私が言う事じゃないけどさ、と言って、絵里は苦笑した。

「あー、何かウチの担任の言いたいことがわかっちゃった気がするなあ。私らの将来には、何が正しいのかもわかんないくらいに、たくさん分岐がある――勉強なんてしたくないけど、それだけで選択肢が増やせるなら――仕方ないよね」
「……塾にでも通うでござるかなあ。実家の方に連絡を入れねば――気でも触れたと心配をされなければいいのでござるが」
「どんだけよあんた」

 そう言って笑う絵里に、楓もまた苦笑を返す。
 ややあって――彼女は、腰を払いながら立ち上がった。

「長瀬、今日はどうするの? 明日日曜だし、こっちに泊まるの?」
「その予定は無いでござるよ。夕方の電車に乗れば、そう遅くない時間には麻帆良に戻れるでござるから」
「そう? そんじゃ――これでお別れかな。次には――お互いクラスメイトとして会えたらいいね」
「……左様で、ござるな」

 少し淋しそうに、絵里は言う。楓もまた、この新しい友人との別れは惜しいと思う。東京と埼玉はそれほど離れては居ないし、彼女らには犬塚シロという共通の友人も居るが――それでも奇妙な縁で結ばれた二人は、それを近い距離だとは思えない。

「あ、そうだ。忘れてた。私のアドレスを――」

 鞄に手を突っ込み、何かを言いかけて、絵里は小さく身震いした。

「……ごめん、先にトイレ行っていい?」
「しまらないでござるなあ。拙者もその間に、何か飲み物でも買っておくでござるよ」




「……運命の神様という奴は、とことん拙者に平穏な時間を過ごさせる気は無いらしいでござるなあ」

 商品棚の影に隠れながら、楓は大きくため息をついた。
 その向こう側では、覆面やヘルメットで顔を隠した男が三人、コンビニの店員に向かって刃物を突きつけ、何かを喚いている最中である。
 彼女と絵里がこの店に入ってすぐに、店の入口の真ん前に、突然男達がスクーターで乗り付けたかと思えば、この有様。そう――彼女は今まさに、コンビニ強盗の襲撃に遭遇している真っ最中であった。

(思えば期末テストだと思えば謎の石像に追いかけ回され、修学旅行に行けば同級生が誘拐され、オープン・スクールでは妖怪騒ぎに巻き込まれ、挙げ句――お払いにでも行った方が良いのかしら)

 それとも、ここはそれこそ、犬塚シロか千道タマモあたりに相談してみるべきだろうか。しかしさすがの彼女たちでも、自分のトラブル吸引体質、その原因が運命の神に嫌われているのだとすればお手上げだろう。むろん、そうでないことを祈りたい。麻帆良女子中三年A組に舞い降りる数々の珍事件は、何も彼女だけが原因というわけではない。
 楓はもう一つため息をつく。
 さりとて、今は己の身の上を嘆いても仕方あるまい。
 商品棚から窺えば、怯える女性店員にサバイバルナイフのような刃物を突きつける犯人は、覆面で顔を隠してはいるが、かなり若い。高校生――通っていればであるが――くらいだろうか。怯える店員や客を脅して愉快そうに笑っているあたり、緊張感がない。

(どうせ純粋な意味で“金に困って”と言うわけでもないんでしょうに――悪い奴らは何処にでも居るって言うけれど)

 自分とそう変わらないだろう年頃の犯人達を見て、楓は首を横に振る。
 彼女自身がそう思う道理は無いのだろうが――色々悩んでここにやってきて、愛子の話など聞いて思うところがあった今の自分には、彼らの姿はあまりにも度し難い。
 連中はきっと、楓のような悩みなど考えたことも無いに違いない。周りのことも考えず、ただ自分のやりたいように今までやって来たのだろう。彼女は自分の中に、ふつふつとわき上がる何かを感じた。
 彼女は商品棚にあった「もの」を掴むと――無造作に立ち上がった。
 犯人達と、客の視線が、彼女の長身に集中する。

「何だてめえ?」
「……」

 楓は応えずに、レジの前まで歩みを進める。
 当然、半ばカウンターに腰掛けるようにして店員を脅していた犯人は、慌てて彼女に向けてナイフを構え治す。

「おい、コラ、てめ……」
「これください」
「ぅごっ!?」

 何の予備動作も無しに、彼女は手に持っていた「もの」――“激辛カレーパン”と銘打たれた紙包みを、男の顔に思い切り押しつけた。ほぼ同時に、指を「起こし気味」にした拳を、男ののど元に叩き込む。
 形容しがたいくぐもった呻きと共に、パンの袋を顔に貼り付けたまま、男は床に倒れて悶絶する。
 それを見た彼の仲間が――反応する暇はなかった。
 いつ放たれたかもわからない蹴りで、彼が持っていたバットは宙を舞い――それが床に転がるより、そもそも彼が蹴られた痛みを感じるよりも先に、彼の意識は暗転する。自分が無様に商品棚をなぎ倒して転がったことに、彼は気がつかなかっただろう。

「う……っ!?」

 突然仲間の二人を倒された強盗犯の最後の一人は、バットの男を蹴り飛ばした体勢から体を起こした楓を見て、たじろいだ。まさか反撃を受けるとは思っていなかっただろう。ましてや、わけがわからないままに仲間が昏倒させられるなどとは。

「……無駄な抵抗はやめて、武器を捨てるでござる」

 楓の冷たい声に、フルフェイスのヘルメットで顔を隠した男の手が、びくりと震えた。
 恐らく彼は、意図して楓に武器――その手に握られたナイフ――を向けたのではないだろう。理解できない脅威を前に、本能的に体が動いてしまっただけだろう。
 しかし今の彼女に、そんなことは関係ない。

「もう一度言う。痛い目に遭いたくなければ、武器を捨てろ」
「う――うるせえ! なん――だっ……何だお前は!」
「応える義理はない。早くそのナイフを捨てるでござる。これ以上は、冗談が冗談では済まないでござるよ?」

 男は動かない。震える手で楓にナイフを向けたまま――それが動かないのか、それとも動けないのか。
 楓は小さく息を吐いて、一歩脚を前に踏み出す。そのどちらであろうと、容赦をしようとは思わない。

「ふん――思い通りに事が進まないのは初めてでござるか?」

 彼女は言った。

「あ……ああ?」
「見たところ、明日の暮らしに事欠く程金に困っていると言うことではなかろう。どうせ良く聞くところの、遊ぶ金ほしさにと言う奴であろうが――そこでコンビニ強盗というのが選択肢として選ばれる程度なら、お主らの身の上などたかが知れる」
「ばっ……馬鹿にしてんのかてめえ! あぁ!?」
「どうせ誰の言うことも聞かずに馬鹿なことばかりを繰り返し、周りに愛想を尽かされたのを、自分たちに恐れを成したのだと勘違いし――おおかた “この程度”の悪事は、自分たちにとって大したものではないと、そう思ったのであろうが――生憎でござったな」
「てめえに説教なんてされたくねーんだよ! 何だてめえ、調子のってンなよ!?」
「は――お主のような輩に説教をするほど無駄な時間、拙者は持ち合わせておらぬよ。ただ、人が珍しく真剣に悩んでいようかと言うときに、お主らのような、頭に脳みその代わりに豆腐でも詰まっているような連中を相手にする羽目になるとは――拙者もほとほと運がないと苛立っているだけでござる」

 楓は小さく――本当に嫌々、と言う風に息を吐く。
 当然相手の男はそれを挑発と受け取るだろうが、既に仲間の二人を苦もなく倒されているのだ。下手に動くことは出来まい。さりとて、このままじっとしているわけにもいくまい。
 もはや意味もよくわからないことを喚きちらす男に向かって、楓はゆっくりと一歩を踏み出し――

「やあ、スッキリしたぁ。もうちょっとで人間の尊厳が破裂するところだった……って、あれ?」

 場に全くそぐわない清々しい顔で、店の奥のトイレから絵里が顔を出した。

「……えーと……何が起こってるの?」
「ばっ……あ、有田殿っ! 早くドアを閉めるでござる!」

 この場の状況が全く分かっていないのだろう彼女に、楓は思わず叫んだ。同時に即座に男を昏倒させるべく床を蹴るが、呆けている彼女に、男が掴みかかる方が一瞬早い――!
 楓が思わず歯を食いしばったその刹那――
 男の体は窓をぶち破り、盛大にガラスの破片をまき散らしながら、店の外の駐車場に転がった。

「……」

 楓は勢いをそがれてたたらを踏んだような格好のまま、呆然と破れた窓と、駐車場に昏倒する男を見やる。
 今のは――絵里が? いや、相変わらず彼女は呆然としたまま、破れた窓の方を見つめていた。では一体、今何が起こったというのか?
 楓が店内の方に視線を戻してみると――彼女の視線に気がついて、慌てて体勢を整えた一人の女性が居た。
 具体的には、「割れた窓に向かって突き出していた拳」を背中に引っ込め、口元に手を当てて、上品そうに笑う、一人の若い女性。

「や、やーねえ。わ、私は何もしてないわよ? ただちょっと慌てて小突いちゃったら、その人派手にすっ転んじゃって――床にワックスでも残ってたのかしらね?」

 “そんなわけがあるか”――呆然と彼女に集中する、店内の視線。その主達の心は、その時一つになったのだろう。かくいう楓も同じだったから、それは十分にわかる。

「――えっと――何? リアル殺人事件?」

 未だ状況が全く飲み込めないのだろう言葉を呟いたときの彼女の顔は、昏倒する犯人達ではなく、その女性の方に向けられていた。




 程なく店員が呼んだ警察が到着し、犯人達は意識のないままパトカーに乗せられ、運ばれていった。普通なら、いくら犯罪者とは言え、救急車の一つでも呼んでやるべきではないだろうかと楓は思ったのだが、今更彼らに同情することなど一つもない。そう思い直して黙っておいた。
 決して絵里が小さく呟いた「六道がらみのあれこれで慣れてんだろうし」という言葉の意味を考えるのが恐ろしかったわけでは無い。
 何かお礼がしたいというコンビニの店長に、ならばお礼代わりにと警察への対応をまるまる押しつけて、楓と絵里はそそくさとその店を後にした。

「でも、何でこんな逃げるみたいに――警察だって、あの状況じゃ長瀬にボーリョク云々とか言うわけ無いじゃん。むしろ表彰される事はあってもさ。「女子中学生・コンビニ強盗を撃退!」的な見出しで新聞に載ったりしてさ、格好良くない?」
「拙者はあまり目立つのが好きではござらんし、面倒ごとも嫌いでござる」
「やっぱりその辺は忍者なんだ」
「な、何のことでござるかな?」
「無駄なボケはいーからさ。でも長瀬、あれだけのことが出来るなら――ゴースト・スイーパー以外にも色々出来ることあるんじゃない? 羨ましいなあ」
「あれは才能と言うよりは鍛錬の賜でござるよ。一朝一夕にとは言わぬが、有田殿とて修行を積めば、ある程度の事は出来るようになるでござる」
「女子中学生にナチュラルに“修行”とか言われても――何か重石くくりつけて滝に打たれろとか言われそうだからヤダ」
「はっはっは。そこまでの無茶は言わないでござるよ。滝に打たれる時に重石など付けていては危険極まりない」
「滝に打たれる事自体はあるんだ」

 気づけば、初夏の長い昼間もそろそろ終わりに近づき、梅雨が訪れる前の澄み通った空にはあかね色が広がりつつある。
 途切れた会話に居心地の悪さを感じることはない。二人の少女は、ゆっくりと駅への道を歩く――

「あ」

 曲がり角を曲がったところで、彼女たちはばったりと出くわした。
 思わず足が止まり、間の抜けた声が、喉からこぼれる。

 肩の辺りまで伸ばされた黒髪に、つり目がちだが何処か優しげな顔。ラフな服装に身を包んだ、すらりと背の高い若い女性――
 強盗犯の一人を、最後に店の外に殴り飛ばした筈の彼女が、そこに立っていた。










 コンビニ強盗のくだりの一部は、映画「Cowboy Bebop 天国の扉」の冒頭から。
 店内での立ち回りというのがうまくイメージ出来なかったので、参考にさせていただきました。反省が必要ですね。
 絵里の霊能力と鬼道の札。
 多少反則気味かとは思いましたが、ベースはGS原作アシュタロス編で、タイガーを中心にやっていたアレ。完全な創作ではないと言うことでご了承くださいませ。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「世界」
Name: スパイク◆b698d85d ID:52f561cb
Date: 2012/04/01 14:35
「――なんかなし崩し的について来ちゃったけど――大丈夫かな?」
「別に取って喰われるわけでなかろうし、結果として有田殿はあの方に助けられたわけでござるから――心配する事も無いとは思うが」

 楓と二人して、コンビニ強盗を撃退した女性――気がつけば、彼女もまた現場から姿を消していたというが、その彼女と路上でばったり再会してから十数分後。彼女らは連れだって、そこからほど近い場所にあったマンションの入口をくぐっていた。
 何故こんな事になったのだろうかと、楓は思い返してみる。果たしてそれは、女性の勢いに押されたからだろう。強盗を撃退した楓の事をひとしきり褒めたかと思えば、彼女は何故か妙に嬉しそうに、二人を誘うのである。

「実はあの人、何処かの国の秘密諜報部員とか。さっきのコンビニであんな事があって、咄嗟にアクションを起こしてしまったけれど――それを見てしまった私たちの口を、どうにかして封じようとしている、とか」
「有田殿、下手なテレビドラマの見過ぎでござるよ。彼女が拙者らの口を塞ごうとか考える輩であるなら、そもそもコンビニでお主を助けようとはしなかったでござろうに」
「それもそうか。んじゃなんで、あの人あんなに嬉しそうに私たちを誘ったわけ?」
「それは――拙者にも良くわからぬが」

 何となく彼女の勢いに押されて、彼女の自宅であるというこのマンションにやって来てしまった二人は、“お茶でも淹れるから”の言葉と共に通されたリビングにて、そこに鎮座していたソファに並んで腰掛ける。
 首を傾げながらも楓が言うように、あの女性は間違っても悪人というわけではないだろう。彼女らを自宅まで連れてきた事に、何か裏の意味があるとはとても思えない。
 絵里もなんだかんだと言ってはいるが、それはわかっているのだろう。彼女があの女性に助けられたという事実もあるが、二人を自宅へと誘った彼女の表情。つまり、本当に、何故この場でそう言う表情が湧いて出るのかわからないが――その時彼女の顔に浮かんでいたのは、本当に嬉しそうな、楽しそうな表情で。
 だから楓も絵里も、気がつけば彼女に誘われるがままに、このマンションの一室にやって来ていたのである。

「あの人って、長瀬の知り合い?」
「少なくとも、拙者の方に見覚えはないでござるよ?」

 むろん、楓は、女性の顔に見覚えはない。“特技”の関係上、他人の顔を覚えることには多少の自信があるつもりだ。そしてどれだけ記憶の奥を漁ろうとも、彼女らしき顔は出てこない。
 ただ――

(ただ――何だろう。見覚えはない。見覚えがないのは確かで、もちろん会って話をしたことも無いはずなのに、何だか、こう――)

 既視感、とでも言うのだろうか。初対面であるはずなのに、楓はどこかで、彼女と言葉を交わしてような気がしてならないのだ。果たしてそれがいつだったのだろうかと、そう思って再び記憶の海を“さらって”みるのだが――

「……やはり、覚えはない――で、ござるな」
「真剣な顔で言わないでよ。長瀬がそういう顔すると、プレッシャーが半端無いんだけど」
「むむ、平静を装っていても、やはり少々“気”が漏れていたのでござろうか。拙者もまだまだ、修行が足りぬ」
「だからナチュラルに“気”とか“修行”とか言うのやめてってば」

 そんなに自分は厳しい表情をしていたのだろうか。だんだんと本気で恐ろしくなってきたらしい絵里に、楓は一度肩をすくめてから、微笑み返して見せる。

「――拙者らの考えすぎでござろうよ。彼女はどう見ても悪人ではなかろうし、あのようなことがあった後でござる。拙者らの姿を見つけて、何というか、安心したのではござらぬか?」

 確かに彼女は、あの強盗犯を一撃でノックアウトした“つわもの”である。とはいえ、これは楓自身にも言える事であるが――そう言うことが出来る力があることと、誰かと戦えることは、イコールでは結べない。
 彼女には何か武道の心得でもあったのかも知れない。絵里の危機を前に、咄嗟に体が動いてしまったのかも知れない。かといって、まさか軍人でも警察官でもないであろう彼女が、あのような場面に慣れていたというわけではないだろう。
 突然の出来事に、自然と体の方が先に動き――恐怖が後からやって来る。そういうことは、ままあるのではないか。
 ならば彼女が、いつの間にかあの場から姿を消し――偶然出くわした楓と絵里を前に、妙にはしゃいだように二人を自宅に招いたという“おかしな”行動にも、説明はつく。

(……私にしたって……ね)

 そう、そう考えればしっくり来る。楓は、己の実体験として、そういう事を知っている。
 少し前に――麻帆良の山中で、鬼のような化け物と対峙した時がそうだった。
 あの時、幼い頃から鍛え上げてきた自分の体は、自分の意思を裏切ることなく、ちゃんと動いてくれた。紛れもなく、命を落としていたかも知れない戦いにおいて、結局はただの女子中学生でしかない自分に“それ”が出来たことは、果たして僥倖だったのだろう。
 ただ――その後暫く、悪夢に魘されることからまでは、逃れられなかった。
 夢の中で、自分は何度となく、あの鬼の金棒に叩き潰された。目が覚めてみたら、寝間着が汗でぐっしょりと濡れていた事もある。
 幸いにして、あの時の自分は――

「なるほど、そういうのも、無くはないのかもね。さすがは現役女子中学生忍者」
「何のことでござるかな」
「現役女子中学生忍者って、なんかアレだよね。深夜アニメあたりに出てきそうな。私、友達に長瀬の事話しても、多分信じて貰えないだろーね」
「犬塚殿の友人であるお主が、何を今更」
「あ、そーか。あの娘自称“侍”だもんね」
「有田殿自身とて霊能力者でござるから、人のことを言えたものではないでござる」
「えー……私、長瀬やシロちゃんほど変なキャラじゃないよ?」
「本人を目の前に言うなでござるよ。他人から見れば五十歩百歩でござる」

 楓は腕を組み、わざとらしく鼻を鳴らしてみせる。
 それでいくらか緊張感が取れたのだろうか。やおら絵里は、楓の肩を軽く叩いて、笑みを浮かべてみせる。

「ま、何かあったら私、長瀬を盾にして逃げるわね」
「お主は拙者のことを何だと思っているのか」
「だから中学生忍者」
「中学生日記的なノリで言われても」
「いざって時のために持ってないの? 手裏剣とか、煙玉とか――」

 何か言い返そうと思った楓だったが、悲しいことに旗色はよろしくない。常日頃から、制服のブレザーの内側やスカートの下に何かしら“そういうもの”を携帯している自分である。
 ひょっとして自分は、学生として踏み越えてはいけない一線に立っているのだろうか? 彼女の脳裏に――何故かとても良い笑顔を浮かべ、それぞれの“獲物”を抱えて手招きをするクラスメイト達の姿が浮かんだ。
 具体的には――龍宮真名だとか、桜咲刹那だとか、犬塚シロだとか――

「……長瀬? どったの、凄い汗だよ?」
「有田殿。拙者、もし六道学園に受かったら――東京の有名どころで小物など揃えてみたいのでござるが、案内してもらっても?」
「……そりゃ、構わないけどさ? 何で急に」
「東京の女子高生と言えば、原宿あたりを散策しつつ、クレープでも食べ歩くものではなかろうかと」
「あんたの中の東京のイメージって何なのよ、埼玉県民」

 不思議そうに首を傾げる絵里を前に、楓は何気なくジーパンのポケットに手を這わせ――指先に触れた感触に、少しだけ安堵の息を漏らした。

(“これ”はまあ――武器というか、ね)

 何となくお守り代わりに持ち歩いているその“カード”もまた、非日常の代物であることには間違いはないのだが。
 それは手裏剣だの“くない”だのとは別に考えるのは――年頃の少女としては“正常”なのだろうと、楓は納得することにした。

「待たせちゃってごめんなさいね。年頃の女の子が家に来るなんて滅多に無いことだから――紅茶には、お砂糖いくつかしら?」

 気持ちが変われば、他人の声がこうも違って聞こえるものか。
 純粋に“楽しげ”だと聞こえる声が――“暖簾”の掛かったキッチンの方から、二人の耳に届いた。




「――ゴースト・スイーパーを目指して六道女学院に、ねえ……でも、あなたは今、埼玉の麻帆良の中学校に通ってるんでしょう?」

 ティーカップを片手に、柔らかな表情のまま、彼女は言った。
 今更何を考えているのかと、楓は自問するが――目の前に座る女性を見て、彼女は素直に美人だな、と、思う。つり目がちだが何処か可愛らしいと思える瞳、すっと通った鼻筋に、小さな口、シャープな顎のライン。
 年の頃は、二十代後半と言ったところだろうか。楓とさして変わらない長身は、細身ながらもしっかりと、女性としてのメリハリに富んでいる。小顔なのも相まって、かなりの頭身だ。モデルのような、とは、彼女のような事を指すのだろうと、楓は思った――実際、モデルだと言われても納得は出来る。
 羨望の眼差しで絵里がそういう風に言えば、お世辞がお上手ねと、彼女は笑った。
 聞きようによっては、それは嫌味にも聞こえてしまうだろう。さすがに彼女にそう言う意図はないのだろうけれど――

(ただ、何だろう。やっぱりこの人――初めて話す気がしない)

 彼女の知り合いで、似たようなタイプ――横島やシロのように、初対面で気兼ねなく話が出来てしまうとか、そういう意味ではない。気のせいかとも思ったが、再びこうして彼女を前にすると、そう思ってしまうのだ。
 緊張感が幾分取れて、彼女という人間を観察する余裕が出てくると、余計に、である。

「麻帆良学園都市と言えば、日本一の学術都市だとか。おおよそ学校と名の付くものは、何でもあるって話だけれど」
「はあ、一応先生にも調べて貰ったんですが……」

 もっとも、今はそれがわからなくても大した問題ではないだろう。単純に気のせいかもしれないわけである。楓は、紅茶で唇を潤してから、女性の問いに応えた。
 “学校”と名の付くものなら大概揃っている麻帆良であるが、彼女の疑問の通り、オカルトを専門に学ぶ学校というのが、かの地には意外と少ないのだ。単純に“オカルトを学ぶ”場所ならなくはないが、ゴースト・スイーパーを目指そうかとなれば、求められるのは学術的な知識ばかりではない。

「でも何だったかしら、埼玉には他にも霊能科がある学校がいくつかあったはずよ? 麻帆良からだったら――近場では確か大宮あたりに」
「え、そうなんですか?」

 初耳である。ネギや新田も、それらしいことは言っていなかった。
 もっとも、六道女学院はゴースト・スイーパー試験合格者数では右に出る者のない超名門校である。楓が“本気で”その道を目指そうとして名前を出したのだと彼らが受け取ったのなら、決して怠慢というわけではないだろうが。

「てゆーか、詳しいですね? もしかしてお姉さん――ゴースト・スイーパーの人?」
「いいえ、私はスポーツ・ジムのインストラクターをしているわ。そう言うことに関しては……ちょっと、調べる機会があってね」

 絵里の疑問に、女性は何故か苦笑するような表情で応えた。

「ジムのインストラクターですか――それであんな、拳法みたいなの知ってたんですか?」
「あれは何というか……咄嗟に体が動いちゃっただけって言うか――ま、まあ、昔取った杵柄っていうか、ね。今私がやってるのは、普通に奥様方相手のダイエット講座だけど」
「へー……それでお姉さんみたいなカラダになれるんだったら、私も始めてみようかな」
「何を言ってるの。あなたみたいな年頃の子は、余程太りすぎて無い限りダイエットなんて考えない方が良いのよ。とかく年頃の女の子がそういう風に考えるのは否定しないけど、女の子の体ってのは、本人が思う以上にカロリーを必要としてるんだから」
「えー……何かお姉さんみたいな人に言われると、説得力ないですよ」

 口をとがらせて、絵里が言う。
 そんな彼女を横目で見つつ――楓は思う。彼女は先程“昔取った杵柄”と言ったが、一体その“昔の彼女”とは、何をしていたのだろうか?
 “氣”と呼ばれる神秘の技術を使い、ただの人間として出せる以上の力を操る楓だから、気がついた。あれは、いくら武芸を修めていようが、彼女のような細腕から繰り出せる威力の技ではない。
 そんな彼女は――ただの、ジムのインストラクターだという。
 余計に、謎だ。本当に彼女は――一体何者だろうか? 楓には、わからなくなる。

「私のことはとにかく――コンビニ強盗を撃退するのを見てたけど。やっぱりゴースト・スイーパーになって、悪霊を相手に戦いたいの?」
「いえ……これは何と言いますか、うちの里に伝わる古武術みたいなもので――今になって修めていて良かったと思えますが、特に昔から、ゴースト・スイーパーを目指していたわけじゃ」
「好きな人が業界にいるから、一緒に戦いたいんだよね?」

 思わず紅茶を吹き出してしまった楓を、誰が責められようか。咳き込みながら女性に詫び、テーブルの上に飛び散った飛沫をハンカチで拭いつつ、彼女は背中をさすろうとする絵里の手を払いのけた。

「ひどい。ホントのことじゃない」
「仮にそうだとしても、見ず知らずの人の前で言うことでござるか!?」

 絵里を怒鳴りつけてからもう一度女性の方に向き直ってみれば――彼女はさも愉快だ、と言う風に、目を細めて笑みを浮かべていた。
 ああ――もしかして、彼女もまた、この新しい友人と同じタイプの人間なのだろうか。

「何を何を――コイバナが嫌いな女の子なんて、いるわけないでしょ?」
「さあ、どうでしょうかねえ。何かウチのクラスとか、そう言う手合い、結構いそうですけどねえ」

 具体的には三度の飯より戦うことが好きな中国人留学生だとか、お金に目がない甘党スナイパーだとか、何かに没頭し始めたら髪の毛から異臭がしても気づかないマッド・サイエンティストだとか。じっとりした目線を思わず女性に向けてしまった楓は、当然そこまでは口に出さないけれども。

「とにかく、私だってそこまで――自分の将来を、軽く決めてる訳じゃ」
「私はそういうの、悪くないと思うけれど?」

 楓が言いかけた言葉を遮って、女性は言う。

「確かに私にはあなたが、将来のことを軽々しく決めてるようには見えないわ。けれど同時に、それが誰しもを唸らせるような、そんな“立派な”理由である必要はないと思う。ううん――恋も憧れも、十分立派な理由じゃない」
「そんな――でも、私はちゃんと真剣に」
「“真剣に恋した”あなたを、誰が笑えるって言うの?」

 そう言った女性の瞳には――間違いなく“真剣”な光が宿っていた。

「自分の能力を活かしたいだとか、世のため人のためだとか――確かにそういうのは、真剣で立派な目標だけれど。結局それだって利己的な理由でしかない。自分の能力を活かして、何をしたいの? 世のため人のためになる仕事が出来れば――あなたにとって、メリットは何?」
「……それは――そんなの、わかんない、です」

 そう応えたのは、楓ではなく絵里だった。
 彼女もまた、自分の進路に悩む若者なのだ。彼女の場合――まず自分自身が先に進める地盤を造らなければならない。周りを見ることすら、今は出来ない。そんな彼女だから、その女性の言葉は、心に響いたのかも知れない。
 立派な目標は、確かにある。ただその裏にある、自分への利益――そんなことを堂々と口に出せるほど、二人の少女は大人でない。

「ごめんなさい――別に、意地悪が言いたかった訳じゃないわ。老婆心って奴かしら。あなた達より無駄に人生を生きたオバサンの――ね」

 彼女はそう言って、「おばさん」などというには余りに若々しい笑みを浮かべ、ティーカップを傾ける。そして幸せそうな吐息を一つこぼすと、それじゃあがらりと話題を変えて、と前置きして、楓に向き直った。

「その“業界にいる好きな人”――彼との馴れ初めなんかを、聞かせてもらえないかしら?」
「ちょっ――そこに戻るんですかっ!?」

 テーブルを叩く勢いで、楓は叫ぶ。顔が酷く熱いのが、自分でもわかる。多分今の自分は、首筋の辺りまで真っ赤になっているに違いない。が、それを自覚したところで何が出来るでもない。

「あ、私もそれはちょっと聞いてみたいかも」
「有田殿は少し黙るでござるよ」

 もはやこの場に自分の味方は居ないのかも知れない。隣に座る少女など、先程まで目の前の女性を危険人物扱いしていたのではなかっただろうか?
 さりとて、白旗を揚げてしまうと言う選択肢は、楓にはない。自分と“彼”の馴れ初めなど、自分自身が思い出したくもないものだ。彼女の脳裏に、顔を真っ赤にして慌てふためく青年の姿が、鮮やかに蘇る。
 そんなことを、目の前の彼女らに言えるはずもない。

「そんな必死に隠すような事でもないじゃん。何て言うかアレ? 一目惚れとかって奴?」
「あらまあ」
「あの状況で目の前の相手に一目惚れが出来るなら、拙者はただの痴女でござるよ……」
「は?」
「いや――何でもござらぬ――何でもござらぬから!!」

 今更ながらに、あの時の軽率な行動を悔いても意味はない。
 少し前に級友の早乙女ハルナから、“結果として今の自分は恵まれているのだから文句を言うな”と言った意味合いの言葉を賜ったりもした。
 だがどうしても、あの頃の自分はどうしてああも慎みに欠けていたのだろうかと、そんな風に思うことが、最近多く感じられるのだ。

(ああ……これが俗に言う、黒歴史と言う奴なのかしら――)

 半ば現実逃避気味に顔を手で覆い、机に突っ伏すように上半身を折り曲げてみる。彼女の長身では、それにさしたる効果は無いだろうが。

「いいわねえ、何て言うか、青春の悩みって奴ね」
「昼間にも似たようなフレーズを聞きましたけど――青春ってのは厳しいんですね」
「当然よ。ま、人間いくつになっても青春だとかキラメキだとか、何の喩えでもなくそういうものは確かに存在すると思うのだけれど――それでもやっぱり、あなた達の年の頃って言うのが、一番毎日が輝いて見えるんじゃないかと思うのね。だからこそ、子供なら何にも思わなくて、大人ならくだらないことだと笑い飛ばせるような事も、あなた達は全力で悩まなきゃならない」
「はあ……何か良いこと言ってるのはわかるんですけど、目の前でこんだけ悶えてる人間を見ると、何か複雑です」

 好き勝手にものを言う二人を意識の外に追い出し、楓はどうにか、自分の中で過去の記憶に折り合いを付けようと、無駄に努力を費やすのであるが。女性はそれを満足そうに見やると、カップに残っていたお茶を喉に流し込み、立ち上がった。

「さて、いい加減おしゃべりに興じすぎて良い時間になっちゃったし――折角だから晩ご飯でもご馳走しようかしら?」
「え、いや――さすがにそこまでお世話になるわけには」

 当然、その誘いに、絵里は遠慮気味に手を横に振る。
 先程まで悶え苦しんでいた楓も、彼女と目を見合わせて、小さく首を横に振った。まだ頬が少し赤いのは、ご愛敬と言うものである。
 女性が怪しい人物でないというのはある程度はっきりしたが、だからといってそこまでして貰う義理も、楓と絵里にはなし、第一気が引ける。

「私も、そろそろ電車の時間が」

 終電までにはまだまだ時間があるし、楓は電車の指定席を確保していたわけではない。ただあまり遅くなってしまうと、麻帆良に戻ってから寮までの道のりが億劫になってしまうのも、また確かだ。
 誰が何と言おうがまだ中学三年生の自分が、深夜の町中を歩くというのも、あまり褒められたものではないだろう。麻帆良の自警団にでも見つかれば、聞きたくもないお説教に付き合わされる危険性だってある。

「そう? 遠慮はしなくて良いし、何だったら泊まっていっても良いのよ? いやね、パートタイムの主婦の日常ってのは結構殺伐としててね。ほら、あなた達みたいな若い子とおしゃべりしてると――何だか若返った気分になれるのよ」
「お姉さんが言うと何か嫌味に聞こえるんですけど……失礼ですけど、歳はいくつですか?」
「ふふ……ひ・み・つ」

 呆れたように言う絵里に、女性は口元に人差し指を当て――悪戯めいたウインクをする。
 ――のだが、当然えも言われぬ沈黙が、場の空気を支配した。

「……思ったより――その……歳、いってるんですね」
「出来れば今のは忘れて頂戴」

 さすがに冗談とはいえ、自分がどういうリアクションをったのか。遅れて理解したのだろう彼女は、小さく咳払いをする。楓には何だか、その心中が理解できた。したくもなかったが。

「あんまりはっきりは言いたくないんだけれど――世の中で“おばさん”って呼ばれる年齢なのは、確かね」
「さっきはああ言いましたけど、見えないです。下手したらその、長瀬の方が――って、痛い痛い痛い!? あ、頭が潰れるっ!? 本気で出る、何か中身が出るっ!?」
「キジも鳴かずば撃たれまいって言うけれど――これが若さかしらねえ。ほらほら、こっちの子も悪気があって言ったわけで無し、あなたの握力じゃ、ホントに頭蓋骨に穴が開いちゃうわよ?」

 仲が良いのは結構だけれど、などと言いながら、女性は手を打ち鳴らし――苦笑しながら続けた。

「本当よ。これでも私、いい年の息子がいるし――そうだ、遅くなるのがアレだったら、あの子が帰ってきたら、車で送らせるわ。それならあなたも、安心でしょう?」
「いえ、ですからそこまでして貰うわけには――……はあっ!?」

 絵里の頭を握りしめたまま、楓は素っ頓狂な声を上げた。
 この女性は、今何と言った? 息子に車で自分たちを送らせる? それはつまり――言い換えれば、「車を運転できる歳の子供」が居ると言うことになる。最低でも、彼の年齢は十八歳。
 目の前の女性が、たとえ二十歳前後で子供を産んだのだとしても――

「り……理不尽――世の中は、何という理不尽でござるか……!」
「理不尽とか格差社会って言うなら、私も長瀬には色々言いたいことが――あるから、とにかく、頭離して――今、こめかみの辺りが“めき”って音立てた……」

 ひとしきり騒いでいると、玄関の方から物音が聞こえた。
 ややあって、廊下をやって来る足音が。先の話に出た“息子”だろうか? 何にせよ、この女性の家族が帰宅して、見知らぬ少女二人が喧嘩まがいの事をしていたら、もはや不審であるとかそう言う話ではない。楓は慌てて、絵里の頭部から手を離し、身なりを正そうと――

「――何やってんの母さん、そんなバタバタ騒いでたら下の階に響いて――あ?」
「え?」

 扉の影からひょいと顔を出したのは、一人の青年。果たして彼の顔を見て、楓と、当の青年と――双方の動きが、凍り付いたように止まった。
 何故なら、その青年というのが他ならぬ、

「か、楓さん?」
「けっ……ケイ、殿? な、何で――」

 慌てて女性の方を振り返ってみれば――彼女は、それこそ悪戯が成功したときの子供のような、満面の笑みを浮かべていた。




「ふふっ――だから謝ってるじゃない。それに、あのコンビニで鉢合わせたのは、本当に偶然なのよ? だからこそ、ついからかってみたくなっちゃって。それは素直に反省するけれど」
「……いえ、別に私も、怒ってるわけじゃありませんから」

 口ではそういう風に言いつつも、内心のやるせなさは隠せない。具体的には、入浴後の火照りとは別の朱を頬にさしたまま、気持ち唇をとがらせるように、楓は目の前に座る女性に視線を向ける。
 彼女の“友人”であるところ、ゴースト・スイーパー見習いの青年――藪守ケイの母、藪守美衣に対して。
 彼女は最初からわかっていたらしいのである。今自分の目の前に座るこの少女が、時折――時には少なからぬ騒ぎを伴って――藪守親子の話題に上った“長瀬楓”であることに。
 道理で彼女と話したときに、初めて出会った感じがしないわけだと、楓は嘆息する。
 確かに、直接彼女と顔を突き合わせるのは初めてだ。しかし楓は以前、美衣と偶然に、電話越しに会話をしたことがある。そう言う意味で言えば、彼女が何者なのかに気がつかなかった自分の方が悪いのかも知れないが。

「途中からあまりにも面白くなっちゃったものだから。趣味が悪かったのは素直に認めるわ――それに、フェアじゃ、ないしね?」
「……?」
「だって、あなたは声以外で私の事を何も知らなかったわけでしょう? けれど、私はそうじゃないもの。あなたのことを――ウチの息子から、そりゃもう色々と聞かされてますから」
「――!」

 一気に顔が熱くなるのを、楓は感じた。肩から首筋の辺りを、電撃が走り抜けるような錯覚。ああ――自分は今、どんな顔をしているのだろうか? せめて目の前の彼女に、“見せられる”ような顔であればいいのだが。

「大丈夫よ。今のあなた――とっても素敵な顔をしてるもの。それがうちの息子に向けられたものだと思うと、母親としてはとても鼻が高いわ」
「あ……う……そ、その……私は」

 もはや、自分が何を言いたいのかがわからない。
 今この場にケイが居ないが幸いだった。こんな所を見られたら、自分は今すぐこのマンションのベランダから飛び降りたくなるに違いない。
 彼は今――わけがわからないままに絵里を家まで送り届けている最中だろう。
 あの後、どれほどの騒ぎがここ藪守家のリビングで繰り広げられたのかは、あえて言うまい。具体的には、長瀬楓という少女の名誉のために。
 気がついたときには、楓がここで一泊することがなし崩し的に決められ、反論する暇もないままに、ケイは絵里を送っていくことを命じられた。果たして目の前の彼の母親、藪守美衣女史によって。

「あ、あの――有田殿と、ケイ殿は――お知り合いだったんですか?」
「あら? あの娘から聞いていないの? だってあの娘――シロちゃんのお友達でしょう?」

 ああそうか、と、楓は納得する。
 シロの友人であるという事は、当然ある程度、彼女の交友範囲にも顔が利くと言うことだ。絵里は彼女の“先生”であり、思い人でもある横島忠夫の事も知っていた。ならばその彼女が、彼と家族同然の付き合いであるというケイの事を知っていても、別に不思議ではない。

「――気になる?」
「え? 何が――ですか?」
「うちの馬鹿息子の交友関係とか、その他諸々。おキヌさんやシロちゃんの事もあって、ああ見えて意外と、異性の友人は少なくないから」
「う」

 楓は思わず、言葉に詰まる。そう言われてしまえば、気にならないわけがない。
 とはいえ――目の前でニヤニヤとした笑みを浮かべる彼の母親に、そんなことを素直に聞ける程、楓は剛胆な神経の持ち主ではない。
 だから、ふと思い出した疑問を、代わりに彼女にぶつけてみることにする。

「その割には」
「ん?」
「その割には――ケイど……ケイさんは、随分女の人に対して卑屈になってるように思いますが」
「ああ――まあ、それは――否定できないわねえ」
「何でも、凄くモテるお友達がいるとかって」
「真友君の事? まあ確かに――あの子はね。実際、大学に通いながら芸能事務所にも所属してるって聞いてるし。今はまだ雑誌のモデルに毛が生えたみたいなものだとか、何だとか――それでも、普通の人からすれば十分“イケメン”だと思うけど」

 その言葉自体には、楓も納得する。
 少し前に、タマモの発案で、彼女と自分とケイ――それに、その“真友”なる人物と顔を合わせた事がある。
 その彼の印象はと言えば――一言で“いい男”だった。
 まだ中学生、それも、お世辞にも一般の感性を持ち合わせているとは言えない楓にだって、そう思えた。すらりとした長身、中性的な美形、センスの良い服装にヘアスタイル。おまけに、性格には嫌味の一つもなく、自身の容姿や活躍を、鼻に掛ける事もない。
 タマモと並び立てば、思わず溜め息がこぼれそうな好青年だったと、お世辞でも何でもなく、楓はそう思う。

「とはいえ――その真友君から愚痴を聞かされたことは、一度や二度じゃ無いけどね」

 苦笑しながら言う美衣に、楓は顔を上げた。

「それはつまり――」
「身内の自慢をする訳じゃないけれど――うちの息子もね、ああ見えて人並み以上に、女の子から人気はあるのよ?」

 ただね、と――突然影を背負ったように調子を落とした彼女に、楓は思わず言葉を飲み込んでしまう。

「……本人が絶望的なまでにアレだから、あの子は自分がどう思われてるかなんて、ホント、全く何もわかってないんでしょうけど。真友君がウチの子を見てて胃が痛くなってくるって言うのも、何となくわかるわ」
「何でまた――い、いえ――決して、自覚して欲しいわけじゃないですけど」

 腕を組んで、何やら頷いている美衣に、楓は遠慮がちに問うしか出来ない。
 ただ、疑問に思うのも当然である。楓は以前、ケイに対して、自分では気づいていないだけで、彼に好意を寄せる女性は居るのではないか、と、言ったことがある。あの時は、まだ、明確に自分の中に存在する気持ちに気がついていなかったから、特に憚ることも無く口にすることが出来たが。
 藪守ケイという青年は、楓が言うのも何だが、見た目は悪くない。
 中性的というよりは女性的で、何処かあどけなさを残す顔が、その長身とのアンバランスを感じさせるきらいはあるが――それでも、美男子と形容できるかはともかく、容姿に限って言えば及第点だろう。
 性格に関しては、言わずもがなである。見た目以上に人の好みを選びそうな性格であるとは言え――少なくとも、自分は彼の見た目ではなく、中身に惹かれたのだと、楓はそう思っているのだから。

「……原因と言えそうなものは、無い訳じゃないのよ」

 小さくため息をついて、美衣は言った。

「一つは横島さんが――あの子が兄と慕うあの人が、あまりにも魅力的だから」
「……」

 楓自身は、彼の本当の魅力はわからない。ただ一見して、面白そうな人だと思う程度である。だが、実感できないまでも、納得はできる。美衣が言うほどの人物でないならば、ケイがあそこまで彼を慕い、シロがああまで彼に恋い焦がれる理由がわからない。
 何となれば、ケイもシロも――非常に癖は強いながらも――とても魅力的な人間だから。楓から見て、素直にそう言える人物だからだ。

「横島さんに寄せられる女性からの好意が、あの人の側にいたケイには、“異性からの好意”の基準になっちゃってる節があるのよ。あの人は特別製だって、あの子も頭では理解してるんでしょうけど――」
「ああ……それは、もう」

 楓は思わず、額に手を当てそうになって、慌ててそれを押さえ込んだ。
 犬塚シロにせよ、芦名野あげはにせよ、氷室キヌにせよ――横島忠夫の周りにいる女性が、彼に寄せる思いは、もはや言葉にする事など出来ないほどのものである。
 巷に溢れる愛だ恋だの手合いが、決して全て薄っぺらなものであるとは言わない。けれど――もしもケイが、そういうものの基準を彼らに見ているのだとすれば。

「世の中の人間、どれだけ世紀の大恋愛を経験してるのよ」
「そうですね……」
「もっとも――あの子にそれが出来るのなら、是非にという所なんだけれどね?」
「……あの、意味深な視線を向けるのはやめてください」

 美衣の目が、すうっと細められる。楓は何だか、自分が肉食獣の檻にでも放り込まれたような気分になった。

「それともう一つは――あの子自身の問題――かしらね」
「ケイ殿自身の、問題ですか?」

 楓は、突然変化した美衣の雰囲気に、努めて気がつかない振りをしながら、オウム返しに訊ねてみる。ややあって――彼女は静かに、口を開く。

「あの子はね――自分の事を、幸せになっちゃいけないって思ってる。そんな節が、あるからね」




 一夜が明けて、翌土曜日。午前九時。
 楓の姿は、それほど離れていない駅に向けて朝の道を走る、一台の軽自動車の中にあった。彼女の隣で車のハンドルを握るのは、果たして藪守ケイその人である。
 近頃の軽自動車の快適性は、一昔前とは別次元の進歩を遂げている。とはいえ、やはり長身の彼にとって、その運転席は少しばかり窮屈そうに見えてしまう。
 やたらとその事を彼が気にして、この自動車が母親である美衣のものであることを強調していたのを思い出す。何というか、彼がそう言うことを気にするのは意外だった。男が軽自動車に乗るなどみっともないと――あるいは彼は、そう言った前時代的な事を気にする性格なのだろうか?
 それはそれで、何だか可愛らしい気がしなくもないけれど。

「昨日はよく眠れた? 何だかごめんね――うちの母さん、突っ走り始めると歯止めが効かないところがあるから。近頃その傾向が一段と強くなってる気がするんだよね。何かもう、昔と比べたら別人だよ」
「そうなの? まあ……色々からかわれたりはしたけれど、私、お義母さんの事は、嫌いじゃないよ?」
「……何か、今とんでもないこと言った? いやその……言葉のアクセントとか何とか――まあいいや」
「私は枕が変わっても何処でも寝られるから平気。でも――昨日の夜中、一体何を騒いでいたの?」
「い、いや……あれは、その――」

 何故か頬を染めて、ケイは首を横に振る。もちろん安全は確認しているのだろうけれど、運転中にそのリアクションはいただけない。

「……母さんがそのさ、さんざん人をからかうもんだから」
「ああ……ケイ殿も被害者なのね」
「楓さんが浸かった後のお風呂に興奮しちゃダメよなんて言うもんだから」
「それは――ケイ殿も、そんな馬鹿な話にムキにならなくてもいいのに」

 一体人が寝ている間に、藪守親子の間にどれほど馬鹿げた遣り取りがあったというのだろうか。楓は呆れ半分に、無意味に苦悶に満ちた表情を浮かべるケイを見遣る。
 しかし果たして――楓は昨晩、彼が帰ってくる前に、美衣から聞かされた話を思い出していた。

 ――幸せになってはいけないと思いこんでいる――ケイ殿が、ですか?』

 思わず、楓は問い返した。
 この場には――そして、あの青年には、まるで似つかわしくない、重苦しい言葉である。一体何がどうして、そんな言葉が、目の前の彼の母親から飛び出したのだろうか?
 美衣はじっと楓の顔を見つめ、ゆっくりと、言葉を紡いだ。

『あなたは、あの子から何処まで聞かされてる? ゴースト・スイーパーの、横島忠夫さんの事を』

 どこまでと、言われても。
 かの面白い青年は、ケイの兄貴分のようなもので、シロと同様、随分長い付き合いであると――その程度である。
 そして彼が何故今話に出てきたのか、楓にはわからない。

『私とあの子はね、ずっと前に、彼に助けられた事があるの。もののたとえでも何でもなく、差し迫った命の危機から』
『――』

 突然、命の危機とは――何とも穏やかではない。けれど、美衣の瞳は真剣だった。

『私たちは――ある事情を抱えていてね。あるいは、あの時私たちの前に現れたのが彼でなかったとしたら、きっと私もケイも、今頃この世にはいなかった』
『……』

 ケイがかの青年を慕っていることは知っていた。だがまさか、彼らの間にそこまで重い過去があったとは思わなかった。

『私達が私達であるというだけで向けられていた悪意から、あの人は私達を守ってくれた。そしてあの子は、自然と彼の背中を追うようになった。あの人の辿った道を、自分も目指すようになった』
『それは、ゴースト・スイーパーになると言うことでしょう? それが、何か……』

 美衣は、口をつぐんだ。
 自分が幸せになれないと思っている――そんな馬鹿げた意識を、ケイが持っていると言う事実。そして、彼ら親子が以前、その横島忠夫という男に命を救われたという事実。それがどう繋がるのか、楓には、到底分からない。
 それがわかるだけの何かを、美衣はまだ話していない。

『……本当の――一番、奥にある部分は。いつかきっと、あの子の口から、あなたに話すことになると思うわ』

 どれだけか流れた沈黙の後に、美衣はそれだけ言った。

『だから、今から言うことの、それが“どうして”なのか、あなたにはわからないと思うけれど』

 そう言って、彼女は――うつむき加減で、口を開く。
 その冷涼な美貌に、いくばくかの苦しみを湛えた表情で。

『あの子が彼の背中を追うと言うことは――あの子がかつて、自分に振り下ろされそうになった刃を、今度は他人に向ける。そう言うことに、他ならないから』

 彼女は、言った。

『あの子は、彼ほどには“誰からも”好かれる性格じゃないし、常識もある。何よりも、ただの一人の男の子でかない。出来ることには――限界が、あるの』

 限界などとは、主婦が口にするには大層な物言いである。
 しかし――楓は思う。そんなものは、誰だって同じだろう。どんな人間からも好かれる人間など、恐らくこの世に居ないだろう。出来ることに限界がない人間など――言わずもがなである。どうしてそれが、いけないことなのか?

『かつてあの子が脅かされた力を――今は自分が使うことに、あの子は心の奥底で怖がっている。ゴースト・スイーパーを続けるうちに、自分でも気がつかないうちに、罪の意識に苛まれているの。自分が――こんなに幸せでいて、いい筈がない、って』
『わかるんですか?』
『わかるわよ。だって私は、あの子の母親ですもの』

 楓は、俯いた。もたらされた情報はあまりに少なく、そして意味がわからない。
 ケイが、自分にはわからない何かに苦しんでいる。それだけは何となく伝わったけれど、正直なところ、これだけを聞かされて、一体自分に何が出来るというのだろうか。
 だから、陳腐な言葉を、美衣に返した。

『どうしてそれを――私に聞かせようと?』
『息子とあなたが、とても仲が良さそうだから、じゃあ、ダメかしら?』
『さすがにこんな話を聞かされた後に、お茶目な振りで誤魔化されても……』
『本当に、他に理由は無いんだけれどね。強いて言えば――母親の直感、よ』
『直感?』
『そう。あなたなら――あの子の助けになってもらえる。迷惑な話でしょうけれど、私、直感的にそう思っちゃったのね』

 迷惑などとは言うつもりはない。だが、根拠のないその期待に、応えられる自信もまた、楓にはない。

『私は一体、どうしたら?』
『何もしなくていい』
『え?』
『ただ思うがままにあの子の側にいて、やりたいようにしてくれればいい。もしもそれであの子に嫌気が差したなら、私としては残念だけれど、きっぱり別れてくれていい』

 別れるも何も自分たちはまだ付き合っているわけでは――と、慌てふためく楓の様子は、無視された。けれど願わくば、と、美衣は続ける。

『でも今は、ただあの子の手を握っていて欲しいの。いい年して息子離れ出来ない親バカだとは、自分でも思うけれど。お願いしても――いいかしら?』

「――さん、楓さん」
「は? あ……な、何?」
「いや、急にボーッとしてどうしたのかなって、車に酔ったんなら、何処かに駐めるけど」
「あ、いや……そういうわけじゃないの。少し、考え事をしていて」
「そっか。まあ、受験の事でこっちに来てたんだから、そりゃ考えることもあるよね」

 回想から引き戻された楓の様子に、ケイは一人納得する。
 ……こういうところを見ていると、本当にこの朴念仁は、と、思ってしまうのは悪いことだろうか? 自分で言うのも何であるが、楓自身は、自分の感覚が世間一般の女子中学生から大きくズレていることくらいは、自覚している。
 その自分をして、こんな風に思わせてしまうこの男は――いや、それも、昨日の話にあった心の闇とやらのせいなのか?

(……多分、コレに関しては違うんだろうなあ……)

 ケイに気取られないように、楓は小さくため息をつく。
 二人を乗せた車は、程なく駅の駐車場へと滑り込むのだった。




 間もなく発車する電車のデッキに立ち、楓は後ろを振り返る。ドアの外、ホームには、何となく寂しそうな笑顔で立つ、ケイと――有田絵里の姿。
 気を利かせて、美衣が彼女に連絡を入れたらしい。昨日出会ったばかりだというのに律儀な事だと思ったところで、楓は思い出す。そう言えば目の前の少女は、犬塚シロの友人であった。
 あの誰の心の中にも、自然と入っていける、不思議な少女の。

「それじゃ長瀬――勉強、頑張ってね?」
「あと半年以上もあるんだから、楓さんなら楽勝だよ」

 純粋な二人の言葉が、地味に胸に痛かったりはする。が、それは仕方ないだろう。
 引きつった笑みと共に、楓は手を振る。

「ケイ殿――有田殿。また――また近いうちに、必ず」
「大げさだって。電車でちょっとじゃん? 私今度、麻帆良に遊びに行くから」

 発車のベルが鳴り響く。絵里は、僅かに電車に歩み寄る。楓がそれを危険だと制止しようとしたところで、彼女は不意に言った。

「……でも、ホントに、楓がケイさんと知り合いだったなんて。凄い偶然」
「犬塚殿の共通の友人であるのだから、不思議ではなかろうと思うが」
「ちぇー、ケイさんと私じゃ、露骨に喋り方変えちゃってさ」
「……麻帆良の友達にも言われたけど、やはり変でござるか? どうにも……」

 いやまあ、それは別に良いけど、と、絵里は悪戯めいた笑みを浮かべる。
 ベルが鳴り終わり、車掌の笛が響き――ドアが閉まる寸前に、彼女は楓にささやきかける。

「私たち――ライバルだかんね」
「!?」

 楓はその切れ長の目を精一杯に見開く。
 今のは――一体、どういう意味だ? 同じ学校を目指し、目的は違うとは言え同じ道を歩こうとする若者同士――そう言う意味合いだろうか? いや、それは普通、ライバルとは言わないだろう。
 彼女は思わず聞き返そうとするが、既にドアは閉まっていた。
 窓ガラスに顔を押し当てる勢いでホームを見れば、わざとらしくケイの腕にしがみつき、手を振る友人の姿。
 かの青年はと言えば――困ったような顔で、力なく、また彼女に向かって手を振っている。
 何かを叫ぼうとも、既にドアは閉じられ、電車は動き出した後。

「あ……有田、殿ぉ――!?」

 楓の絶叫は、ただ電車のデッキに虚しく響き渡った。




 何だか精神的に非常に疲れた、一泊二日の小旅行を終え、楓は麻帆良駅の出口で大きく息を吐く。

(なるほど――本人は気づいていないけれど、あれでウチの息子は人気がある、かあ)

 気づきたくもない事実だったが、どのみち自分が六道に通うようになれば、嫌でも思い知らされるだろう。そう――嫌でも。
 何だか暗澹とした気分で、早く帰りたいと思った。しかし寮に戻ればあの双子を宥め賺す役割が待っている。もともと昨日のうちに、学校だけを見て帰ってくるつもりだったから、土産物などは用意していない。
 日頃見た目にも精神的にも中学生には見えない彼女らの姉貴分を気取ったりはしているが、今はそのことに、多少の後悔を覚えていたりもする。
 しかし帰らないわけにもいかないのである。重い足取りで市電に乗り換え、麻帆良女子寮近くの駅で下車した彼女だったが――そんな彼女に、声を掛ける者が居た。

「お、楓」

 振り返れば、褐色の肌に、太陽のような金髪と、溌剌とした表情。
 クラスメイトである中国人留学生の古菲(クー・フェイ)が立っていた。ジャージに身を包み、額の汗をタオルで拭っている所を見ると、またぞろ、得意とする中国拳法の鍛錬に精を出していたのだろう。

「夕べは何処いてたアルか? 鳴滝の双子、随分騒いでいたアル」
「……志望する高校の見学でござるよ。本当なら夕べ戻ってくる筈だったのでござるが、少し知り合いに出会って。そのことは電話であの二人には伝えている筈でござるが?」
「それでも何となく想像、つかないアルか?」
「ありありと目に浮かぶから困るのでござるよ……」

 肩をすくめて、楓は首を横に振る。

「そう言う古こそ、日曜日と言うのに鍛錬でござるか?」
「何を言うアルね楓。こういうのは一日サボる、取り戻すに三日かかる、アルよ」

 そう言われて楓は、自らの事を思い出す。もう随分と、キャンプと称した山中行軍は行っていない。
 “氣”を扱える彼女は、身体能力がずば抜けているとは言え、一般人の域を出ていない古に比べれば、体力の衰えは少ないだろう。だが、それでも鈍っている可能性は否めない。
 ゴースト・スイーパーを目指すのであれば、学力だけでなく戦う力を鍛える必要もあるだろう。幸いにして、そちらの方向に関しては、楓は恵まれている方なのだから、伸ばさない手はない。
 いつもはあまりに気性が激しすぎて、相手にするのを躊躇ってしまうこの留学生の相手も、暇を見てしてやっても良いかも知れない。彼女はそんなことを考えつつ――

「それに真っ向から“あの人”打ち倒すに、怠けてらんないアル」
「……あの人?」
「ホラ、修学旅行で、アレ、アルよ。朝倉の……ああ……楓は、思い出さないが、よかたアルか?」
「……出来れば忘れて欲しいでござるが、あれがなにか?」

 ポケットの中の感触を手で確かめながら、楓は顔を赤くする。

「その藪守サンアルよ」
「……え?」
「私あの時、少なくとも、“試合”レベルでは手、抜かなかたアルね。目潰しとか、金的とか、そう言う事まではしなかたアルが……それをあの人、全く本気も出さないで軽く私を……ん……イカせたね」
「それを言うなら“いなした”でござる」

 確かに目の前の少女は日本人ではないが――あまりにあまりな言い間違いに、楓は自然と、頬が引きつるのを感じた。

「あの人間とも思えない体捌き、身のこなし――感じたアル……」
「待て古、お主本当に言い間違えて居るのでござろうな?」
「だからっ!」

 何故か頬に手を当て、艶めかしく腰をくねらせるクラスメイトに、楓は細い目を更に細めて、冷たい視線を向ける。だが相手はそれがわかっているのかどうなのか、何故か楓に向けて、人差し指を突き出しながら、彼女は言う。

「私、あの人を目標にする、決めたアルよっ! 次に会ったときには、絶対に前みたいには、いかないアルね! 真正面からブッ倒して、私の事、認めさせる、アルっ!」
「……」

 ああ、ひょっとしてそうなのか。
 そう言うことなのか。見方を変えてみれば、自分の周りはこうも変わって見えるのだろうか。
 それは単なる思い違いなのだろうか? 否、昨晩美衣の言葉を聞いた楓には、とてもそうは思えなかった。

「古」
「ん? どしたアル」
「いや、拙者もしばらくは勉学に気を取られて、体を動かしておらんと思ってな。この後鍛錬に付き合ってはくれぬか?」
「……それ、もちろん大歓迎アル……が、どしたアルか? いつも私が勝負を挑んでも、やる気がない楓が……?」
「いやなに」

 楓は荷物が入った鞄を肩に掛け、古に微笑みかけてみせる。
 もっともその笑みがどのような類のものであったのかは――彼女の名誉のために、伏せておいた方が良いのだろう。

「鈍っていると感じていたのは確かでござるし――古のそのような姿を見せつけられては、じっとしてはいられまいよ」
「おおっ! そういうことなら、勝負アルよ、楓っ!」

 幸か不幸か、純真な中国人留学生は、その笑みの裏に隠された、彼女の気持ちに気がつかない。

 麻帆良市近郊の山中に、とある留学生の絶叫が響き渡るのは、それから一時間後の話であった。










 腕が鈍っているのは作者の方だと小一時間(略)お久しぶりです。
 言いたいことは上記の言葉に集約されますが、書きたいことがありすぎて禁断症状を起こす寸前でした。

 とはいえオリジナルに近い美衣さんの扱いには手を焼いて。
 ケイの扱いにしても、僕と同じで漫画家の上山兄弟のファンである方なら、「あれが元ネタか」と思うオマージュがあったりしますけれど。

 亀の歩みですが、前々から述べている通り更新停止はしませんので、よろしくお願いします。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「再会」
Name: スパイク◆b698d85d ID:52f561cb
Date: 2012/04/28 22:00
 季節は六月。本格的な梅雨の到来を前にして、埼玉県麻帆良市は、乾いた暑さの中にある。
 暑いと言えば、確かに暑い。気温は三十度を越える日もあるし、もはや暑さを通り越して“痛み”を感じる日差しが、容赦なく降り注ぐ。
 しかし、本格的な夏の空気は、未だ春の名残によって押しとどめられたまま。何処に逃げても追いかけてくるような、あの湿り気を帯びた暑さの季節には、まだ幾ばくかの時間がある。
 少し足を止めて、何処かの店の軒下や、あるいは街路樹の落とす木陰に身を隠せば、それだけで涼しい風が頬を撫でていく。
 あるいは一年の中で、最もこの時期が好きだ、と言う者も居るのでは無いだろうか。肌寒さも蒸し暑さも感じることはなく、目に鮮烈な透き通った青空。しかし季節は、これから訪れる最も激しい時間を予感させ、同じように風に涼しさを感じる秋口のような寂寞感はない。
 また、ここは学生によって構成される“学園国家”麻帆良である。夏にはまた、学生時分にのみ許された、長いお祭り騒ぎの時間――つまり“夏休み”がある。そして祭りはその時そのものよりも、その準備期間の方が、概して胸の高鳴りは大きいものなのだ。
 ――そんなわけで、中間考査を終え、暫く後に訪れる特別な時間に思いを馳せ。麻帆良学園都市は、いつも通りの活気に満ちあふれていた。

「夏とか――夏、とか。具体的には、カップルとかみんな爆ぜて死んだら良いと思う」

 その麻帆良市の郊外に建つ、一件の日本家屋。
 表札に「横島」とあるその家の縁側で、一人の少女が、今この街を包むさわやかな活気を真っ向から否定するような言葉をこぼしていた。
 麻帆良学園本校女子中等部、三年A組――朝倉和美、その人である。
 普段はそれこそ、頭に“美”を付けても構わないだろう、明るく快活な少女である。ただ、タンクトップに短パンという自宅でくつろぐような格好で縁側に転がり、天井から吊された電球を眺めながら、死人のような表情で物騒な事を呟く彼女に、その面影はない。

「あんたはいきなり何を――あー……午前中さよちゃんの所に行ってきたんだっけ?」

 地を這うように耳に届いた声に、卓袱台にノートを広げて唸っていた、亜麻色の髪の少女――神楽坂明日菜は、鬱陶しそうな目線を和美の方へ向ける。
 クラスメイトの相坂さよと、麻帆良学園学園長である近衛近右衛門の関係が因縁浅からぬものであることは、明日菜も知っている。そして他ならぬ和美自身、二人の因縁に巻き込まれた紆余曲折を経て、さよと友人に――親友と言い換えてもいい関係になったのだ。
 だから和美は――口では色々と言っているが、結局はさよの幸せを願っている。
 学園長の事にしても、納得は出来無いながらも、頭の何処かで理解することは出来ているのだろう。そうでなければ、そもそも彼が相坂さよに近づく事自体を、何としてでも阻止するはずだ。
 麻帆良のパパラッチと呼ばれる割に、自称ジャーナリストが聞いて笑うだろう。だが、朝倉和美とは結局、そう言う少女なのである。

「あんたもいい加減、学園長に突っかかるのやめなさいよ。近頃学園長と見ればちょっかい出しに行く和美の方が、見ててどうかと思うわよ? ――木乃香のお爺ちゃんだし、間違っても悪者ってわけじゃないし。そりゃまあ、私も正直、さよちゃんの趣味って最悪だと思うけど」
「あんたもその学園長に学費援助して貰っておいて、酷くない?」

 天井を眺めていた和美は、ごろりと半回転してうつぶせの姿勢になり、顔を上げて明日菜を見る。だが相変わらず体の方は脱力したままであり、べったりと地に伏せって顔だけを上げた様は、まるでアザラシか何かのようだった。
 そのままの体勢で、和美は盛大にため息をつく。

「チクショウ、あたしとあの娘の何が違うってーかな。あたしだってこう、花も恥じらう年頃の乙女だってのに」
「花も恥じらう年頃の乙女が、そんな格好でモテない引きこもりの男みたいなこと言ってるかしらね」
「明日菜の格好だって大して変わんないじゃん」
「言いたかないけど、あんたブラもショーツも全開で見えてるわよ。いくら横島さんが出張で居ないからって、人の家でくつろぎすぎじゃない?」
「横島さんなら逆に喜ぶんじゃない? ホラあの人、自称“永遠の煩悩少年”とかって」
「否定はしないけど、そういうのシロちゃんに聞かれたら殺されるわよ?」
「拙者がどうしたので御座るか?」

 突然開かれた襖に、明日菜と和美は思わず背中を跳ね上げる。見ればそこには、話に登ったばかりの犬塚シロの姿。今日はいつもの和装ではなく、ラフなポロシャツとカットジーンズを身につけて、汗を掻いたグラスとスナック菓子などお盆に載せて立っている。

「あ、いや、何ね――今日は暑いなあって話」
「左様で御座るな。まだ湿気がないので助かるが、これで本格的に夏になればどうなることか。それで和美殿は、暑さに参って勉強が出来ないと申すつもりか?」
「いや、単なる休憩中。この世の格差って奴を嘆いてただけッス」

 悪びれる様子もなく、和美は腹筋に力を入れて起きあがる。
 シロは苦笑しつつ、麦茶が入ったグラスを、明日菜と和美に手渡してやる。礼を言ってそれを受け取った二人は、ふとお盆の上、シロの分のグラスの隣に置かれた物体に気がつく。

「……シロちゃん、それって」
「あー、いや。こう暑いと……水物ばかり腹に入れていては体調を崩しかねない故」
「だからって今出してくるかねえ。あたしあの時はもう、シロちゃんの頭がおかしくなっちゃったんじゃないかと思って、本気で心配したんだよ」

 彼女のグラスの隣に置かれていたのは、一個の缶詰だった。ただし、それは人間が食べるためのそれではない。缶のラベルには、鮮やかな文字と共に、一頭のゴールデン・レトリバーの写真が踊っている。
 話は暫く前のこと。学校帰りにふとコンビニに立ち寄ろうとした和美は、偶然シロがそこから出てくるのを見かけて、声を掛けようとした。
 その時のシロは妙にソワソワと言うか、わくわくした様子で、ビニール袋の中から何かの缶を取り出すところだった。あの彼女がああも興奮した様子で、一体何を買ったのだろうと近づいた和美は――思わず、固まった。
 シロが袋の中から取りだしたのは、果たしてドッグ・フードの缶詰だった。
 ……これは何だ? どういう意味だ?
 割合聡明である和美の頭脳を持ってしても、容易に答は出なかった。はて、彼女の家では犬など飼っていなかっただろうし、何処か余所の犬に餌でもやっているのだろうか。そう言えばクラスメイトの絡繰茶々丸は、時折公園で猫に餌をやっていると聞いた。
 あの期待に満ちた――ともすれば初めて見るほどに期待に満ちた表情は意識の外に置き、和美はとりあえずシロに声を――掛けられなかった。

 喜々としてその缶詰を開けた彼女が、躊躇うことなく――その中身を、口に運んだから。

 まさに、至福の表情。
 そんな顔で犬の餌を貪るクラスメイトに、果たして普通はどうやって声など掛けたものか。いまだ十五年ほどしか生きていない少女には、いささか難しすぎる問題であった。

「ついあのコンビニで新商品を見かけてしまって――拙者、和美殿にはいつか話す時が来るだろうとは思っていたで御座るが――ああもくだらない原因で、自分の出自を明かす事になろうとは、夢にも思わなかったで御座るよ……」

 遠い目をして、シロは呟く。
 結果、和美はそうして、シロが純粋な人間ではなく――狼の血をその体に宿す特別な存在――“人狼”であることを知ったのだ。
 シロは自身の血統に誇りを持ち、以前までの桜咲刹那のように、それを隠そうとしていたわけではなかった。だが、だからといって、こんなきっかけで友人にそれを打ち明ける事になろうとは。
 その時シロは、京都で涙ながらに友情を確かめ合ったと言うクラスメイト二人が、無性に羨ましくてならなかったという。

「いや、刹那さんみたく、“自分が人間じゃない云々”みたいな理由で悩み抜くよりはよっぽど良いと思うけどね?」

 苦笑しながら、そう言ったのは明日菜だ。彼女としてはフォローしたつもりなのかも知れない。和美としても、その言葉には同意であろうし。

「……ねえ、シロちゃん。それって美味しいの?」

 馬鹿馬鹿しい思い出に浸って、生暖かい視線をシロに向けていた和美は――ふと、唇に指を当てながら、そんなことを言った。

「ちょっと、和美?」
「いやいや、あたしも別に進んでドックフードが食べたいわけじゃないけどさ。シロちゃんがあんまり美味しそうに食べるもんだから、つい」
「……拙者そこまで顔に出ていたで御座ろうか?」
「や、今更自分で言っててわからんかなって、突っ込み入れたくなるくらいにはね?」
「ふむ――普通の人間の味覚に合うかは、正直微妙で御座るよ? 薄味と言うにもアレで御座るし――拙者もコレに関しては、味覚より本能が求めているのでは無かろうかと、時々思うくらいで御座るし」
「そう言えばシロちゃんって、普通に料理も出来るんだもんね」
「まあ、気になると言うのなら、一口つまんでみるで御座るか?」
「え? いいの?」
「和美! よしなさいよ!」
「いいじゃないの。別に毒じゃないんだから。単なる知的好奇心だって――」

 何だかんだと言いつつ、皆が皆、年頃の少女である。三人寄れば姦しい、などと、彼女らの年頃の少女に対しては、今更言うような言葉ではない。
 ただ――馬鹿げた談笑に興じる彼女たちは、気がつかない。開け放たれた襖の向こう側。たまたま廊下を通りかかった、緑色の髪の少女が――形容しがたい表情を浮かべていた事に。

「……たまたま通りかかって見れば――女子中学生が三人、ドッグフードをつつきあっていたのです……私は一体、何を思うべきなのでしょうか?」




「大体自分がカップル爆発しろだとか、学園長もげろだとか言う前に――そもそもあんた、好きな人がいるの?」
「う」

 暫く後――今日の勉強会はとりあえず一段落だと、麻帆良の街をぶらつく少女達の姿があった。ヨーロッパの古都に迷い込んだような錯覚を受ける麻帆良の町並みは、ただ散策するだけでも目を楽しませてくれる。
 散歩には少々五月蠅いと自称するシロをして曰く、故郷の山々や、東京の騒がしいながらもどこか安心するような町並みも嫌いではない。しかし、一見して真新しさと懐かしさが混在するようなこの不思議な町並みを散策する事は、こちらにやってきてから既に楽しみとなっている、と。
 “散策”というくだりに、彼女の保護者である白髪の青年が、何やら疲れたような淀んだ目で遠くを見ていたという事実は、さておくとして。
 ドッグフードの口直しにと称して、コンビニで買ったアイスを口にしつつ、明日菜は和美に言う。ちなみに味の方は、意外にも食えたものではないということはない。が――進んで口にしたいと思うものではなかった、とのことである。
 閑話休題。

「私もインターネットとかで、今のあんたみたいなこと喚いている人がたくさん居るのは知ってるけどさ。アレ見る度思うんだよね。そりゃ、恋人の居ないバレンタインだとか、クリスマスだとかは寂しいかも知れないけどさ、カップル妬む前に、あんたら好きな人がいるのかって」

 好意を寄せる相手が居て、その思いが届かない。あるいはもっと単純に、容姿や性格や趣向の問題で、異性にモテないのだと言うのであれば、まだ同情は出来る。だが、明日菜にはそうは思えなかった。そういう理由を持った者も、連中の何割かは居るのかも知れないが、その大半は、自分が誰かに思いを寄せる――その大前提を吹っ飛ばして、ただ単に仲むつまじい恋人達に嫉妬しているだけではないか。
 言っては何だが――矛盾していると、彼女は思うのだ。

「そ……そうは言うけど、ウチ、女子校じゃん? そりゃ、ちょっとばかりみっともない事言ってた自覚はあるけど、あたしだって憧れるわけよ。愛だの恋だのって奴に」
「だったら世の中のカップルを呪う前にすることあるんじゃない? もっと建設的な事がさ」
「馬鹿レッドのくせに“建設的”なんつう難しい言葉を……」
「喧嘩売ってんならいつでも買うわよ?」

 額に青筋を浮かべて肩に手を置く友人を前に、和美は首を横に振って白旗を揚げる。相手も本気ではないのだろうが、“あの”三年A組でも上位に食い込む身体能力の持ち主に、喧嘩をふっかけて勝てる気はしない。口喧嘩なら話は別だが。

「和美殿、そのような事を言うものではないで御座るよ。明日菜殿は先の中間テストで、それなりの結果を出している故に。もはや“馬鹿レンジャー”という汚名を返上する日も近いと」
「ま、まだまだ赤点に怯えずに済む程度ではあるけどね」

 少し照れくさそうに、明日菜は言う。だが、その言葉は純粋に驚きだ。彼女がこの数ヶ月で地道な努力を続け、これ以上ないほどの低空飛行を続けていた成績が徐々に上向いて来ているのは知っていた。

「明日菜殿は元々、単純に頭が悪いわけでは無いので御座るよ。綾瀬殿と同じで、“勉強”という行為が嫌いなだけで」
「そりゃまあ……中学の勉強レベルで、頭が良い、悪いっつったって、結局はそういうことなんだろうけど――」

 しかしだからこそ、と、和美は思う。
 彼女ら時分の年頃で、学校の成績が良いとか悪いとか言っても、結局それは、多少要領よく勉強が出来るかどうかと言う程度の差しかない。難しい学問を修める学者になろうと言うのならまだしも、中学生レベルの勉強などその程度のものである。つまりは“誰にでも出来る”のだ。
 とはいえ――だからこそ、彼ら彼女らには、差が出来てしまう。
 勉強の要領が悪いから、勉強が嫌いになる。そうすると余計に、授業に追いつけなくなり、他人よりもやるべき事が増えてしまい、それを処理しきれないうちに、ますます勉強が嫌いになる。
 そう言う悪循環を繰り返すうちに、成績が悪くなり、“馬鹿レンジャー”が生まれてしまうわけである。

「何て言うかその――シロちゃん見てると、勉強が嫌だ嫌だって逃げてた自分が馬鹿らしくなるっつうか……」

 頬を掻きながら、明日菜は空を見上げる。本人を目の前には、言いにくいのだろう。

「謙遜をなさるな。それは拙者がどうこう言うのでなく、単純に明日菜殿の努力の賜で御座るよ」
「よせやい」

 そう言って腕を振る明日菜の言いたいことが、和美にはわかる。
 何と言えばいいのだろうか――犬塚シロという少女は、とにかく純粋なのだ。何事にも一生懸命だし、正直だ。
 それを見ていると――子供のように駄々をこねているだけの自分に気づかされるのだ。
 勉強が出来ないのは、頭が悪いから仕方がない? そんな筈がない。やれば誰もが出来る事をやっていないのは、単なる己の怠慢だ。
 自然と、そういう風に思ってしまうのだ。

「そう考えたら、シロちゃんって結構完璧超人だよねー……可愛いし、スタイルいいし、勉強も家事も出来て……シロちゃん日頃から悩んでるみたいだけどさ、焦る必要ないんじゃない?」
「褒めすぎで御座るよ明日菜殿。所詮拙者とてただの小娘。至らない所など山ほどある。焦る必要――とは?」
「だから、横島さんのことよ」

 明日菜の言葉に、シロは足を止める。同じく和美も――何と無しに、シロの方を見る。

「横島さんって自分で、可愛い女の子が大好きだ、みたいなこと言ってるじゃない? そしたら、普通シロちゃんみたな子をほっとかないでしょ。年の差の事を結構気にしてるみたいだけど、そんなのシロちゃんが成長するまでの時間の問題でしょ。横島さんっていくつ? 二十代半ばくらいでしょ? 十歳違いの夫婦なんて、ザラにいるよ?」
「あ、明日菜殿」
「大体シロちゃんの言い分じゃないけどさ、あの人変なところでカタいよね? 自分のこと馬鹿でスケベで、とか言ってる割にさ。そりゃあげはちゃんの手前、あんまり露骨な事すんのもどうかと思うけど、それでも横島さんって、シロちゃんのこと、嫌いだってわけじゃないんでしょ?」
「あ、う……そ、あの、それは、そうだと、思いたいで御座るが」
「なによー、そこはもっと自信持ちなさいよ。さっきの話じゃないけど、そう言うのってシロちゃんらしくないよ? “どうせ拙者には”とか“今はまだ”とかって、全っ然!」
「いや、明日菜、殿――その、目が、怖……」

 何やら何処かのスイッチが入ってしまったらしい明日菜は、シロの両肩を掴んで、鼻先が触れ合いそうな距離にまで顔を寄せる。

「よしなさいよ」
「あたっ」

 そんな明日菜の後頭部を、和美が軽く叩く。
 それで我に返ったらしい明日菜は、わざとらしく頭をさすりながら、目を細めて和美を睨んだ。

「だってさ……私から見たら、シロちゃん幸せすぎるもん。まぶしすぎるもん」
「高畑先生の事言ってんの?」
「……」

 口をとがらせ、僅かに頬を染めて、明日菜はあさっての方を向く。
 彼女がかつての自分たちの担任――高畑・T・タカミチ教諭に好意を抱いているのは、クラスの皆が知るところである。
 無理もない、孤児である彼女をここまで育てたのは、他ならぬ彼であるのだから。さしずめ彼は、明日菜にとっての“足長おじさん”と言ったところか――別に正体がわからないわけではないが。
 その気持ちもわからないではないが、それは幼子が父親に抱く気持ちと大差無いのではないだろうか? 一瞬そんな考えが、和美の脳裏を過ぎる。

(……でもそれを言ったら、さよちゃんと学園長も似たようなモンか。シロちゃんと横島さんにしてもそう――)

 結局は、と、和美は小さくため息をつく。

(この娘らの気持ちが、何処まで本気で、何処まで強いのかって――そういうことなんでしょうけど)

 顔を赤くして言い合う二人の少女の姿は、見ているとこちらの力が抜けていきそうである。だが――彼女たちの気持ちが本気でない、とは、間違っても言えない。
 所詮、自分たちはまだまだ子供なのだろう。彼女らが仮に、それぞれの思い人を振り向かせることが出来たとしても――それは決して近い将来の事とは言えないだろうなあ、と、和美は一人、彼女たちには聞かせられないような事を思った。

「好きな人、かあ」

 そこに戻れば。
 自分はまだ、憧れる世界のスタートラインにも立っていない、ただの子供。気弱な言葉の一つも出ようかと言うものだ。
 それに気がついたのか、シロが和美に言う。まだ少し、その顔は赤い。

「和美殿――このようなことで、焦る必要は無いで御座るよ。和美殿は拙者から見ても魅力的な女性。必要のない焦りを感じて、自分の安売りをするような真似はよしてくだされ」
「ん? まさか、そこまではね。自分で言うのも何だけど、“朝倉和美”はそこまで安い女じゃないわよ」

 ただね、と、彼女は言う。

「あんたらみたいなの見てると、単純に羨ましいって思っちゃうのは仕方ないじゃない? 出会いがないことをずるいとは言わないけど――なんて言うか、さ」

 絵になる出会いなど望むべくもないが――結局自分は、やがて進学して、合コンだとかサークルだとかで知り合った異性と恋に落ちるのだろうか? それが薄っぺらなものだとは言わないが――目の前の少女達を見ていると、何だか、そう、言いようのない羨望のようなものを感じるのだ。
 この際、隣の芝は青く見えるだとか、そう言うことがあるかも知れないにしても、である。

(好きな人――かあ)

 和美はもう一度、心の中で呟く。
 何気なく、洋服のポケットに突っ込んだ手の先が、硬いものに触れる。それは彼女の携帯電話だった。昔のアニメのキャラクターをかたどったストラップがついた、使い慣れた携帯電話。
 滑らかに塗装されたその表面を撫でる指が――僅かに、引っかかる。
 それは、小さな傷だった。特に機能には影響のない、ただ塗装の一部が剥げ落ちただけの、小さな、傷。

「……」

 和美は、携帯電話の表面を撫でた指が感じた違和感のように、心に小さな引っかかりを感じた。
 そして――ただ黙って、手をポケットから、引き抜いた。




「そう腐らないでよ。麻帆良学園本校は、高等部から共学だし、それなりに出会いってやつもあるんじゃない?」
「何かその言い方、すっげえムカつく。何その余裕。自分だって高畑先生に相手にされてない癖に」
「何だとこの野郎」

 麻帆良学園女子寮からもほど近い公園。そのベンチに並んで腰掛けた明日菜と和美は、相も変わらず不毛な言い合いを続けていた。それをやんわりと止めてくれるだろう犬塚シロは、公園の隣にあるコンビニにトイレを借りに行ったため、この場には居ない。

「大体そんな理由で進学を決めるかっての――あたしはそこまで馬鹿じゃない」
「女にとっての学校は夫を探す場だって――とある恋愛映画で見たわよ?」
「どこのイギリス貴族の話だっての。明日菜、あんたは本気でそう思ってるわけ?」
「そうじゃないけど、オトコとの出会い云々で言いたいように言われるのは、私としてもあんまり愉快じゃないのよ」

 口をとがらせてそう言う明日菜に、和美は少しやりすぎたかと、素直に詫びる。

「で、どーなの、実際」
「何が?」
「高畑先生と。ちょっとは進展あったの?」
「……」

 明日菜の表情を見てみれば、その答は聞かずともわかる。そもそも、かの高畑教諭はと言えば、現在研修の名目で、海外に出張中だという。もともと彼の出張が増えることで、担任としての役割が果たせなくなる事を理由にしての、ネギの三年A組着任であった。表向きの理由ではあるが、そう言った面も実際に、いくらかは存在している。

「さよちゃんはどうやって学園長を落としたんだろうね」
「……いやあ、あの子の場合なんてーのかな、落とした、って言っても良いのかな」

 考えてみれば彼女の境遇は、明日菜に似たところがある。親の顔も知らない孤児で、教師に引き取られて育ち、その教師に恋心を抱いた。けれど――

「高畑先生と学園長じゃ、キャラ違いすぎない?」
「どうかな。あれはあれで――ああいうキャラ演じてる節もあるんじゃない? アレで昔は――その――腕利きの“魔法使い”だったんでしょ?」

 多少言いにくそうに、明日菜は言う。和美はもはや、麻帆良の裏の顔と、魔法使いの存在を知っている。だから今更、何を隠す必要もないのではあるが。
 とはいえ、自分がそういう事を口に出すのに、何の抵抗も無いわけではないのだろう。自分とて、そうだ。相坂さよの一件や修学旅行での騒動がなければ、まるで現実感のない話である。
 現実に存在する“魔法”に“魔法使い”。自分とは文字通り、住む世界が違う人間達。

「何にしても、私にはさよちゃんみたく振る舞うのはちょっと無理」
「恥ずかしいの?」
「和美に言ってわかって貰えるとは思わないわよ」

 苦笑混じりに彼女はこぼした。
 あれだけ大好きで、いつも一緒に過ごしていた相手だというのに――自分の心の中に芽生えた気持ちに気がついた瞬間、どうして自分はこうも臆病になってしまったのか。
 さすがにこの年になって、一緒に風呂に入ったり一緒のベッドで眠ったりと、そう言う真似は出来ないだろう。だが手を繋ぐことにすら、どうして躊躇う気持ちが生まれたのか。あまつさえ、恥ずかしくて彼の顔を直視することすら出来ないとは。
 そんな風にこぼす明日菜の気持ち。その気持ちは実感を伴っていないまでも、理解は出来る。そう、和美は思う。

「その辺複雑な乙女心って奴じゃないの? 思春期の、さ。あんたも順調に成長してるってことでしょうよ、女として」
「微妙に上から目線っすね」
「他人事だからね。さよちゃんの言葉を借りれば、こちとら恋もしたことのないお子様だから――はぁ、何かアレだなあ。自分の安売りするつもりはない、っつっても、周りがこんだけ幸せそうだと、やっぱ独り身は寂しいっつーか。長瀬さんとかホントうまくやったよね? 横島さんの友達にさ、イケメンで性格良くて稼ぎもいいオトコとか居ないのかしら」
「それ横島さんが聞いたら発狂するわよ。あと私の現状をシロちゃんとか長瀬さんと同列に語らないで。何か悲しくなってくるから」

 奇しくも、かつてエヴァンジェリンの“親友”が呟いたのと同じような言葉を、溜め息混じりに和美は呟く。むろん、明日菜がそのような事実を知るはずもない。明日菜の半ばげんなりとした返事が返ってくるのを何となく受け止め、彼女は小さく呟く。

「……だって今更……横島さんは、さ」
「何か言った?」
「いや、別に」

 何となく気まずい沈黙が、二人を支配する。

「そこのお二人さん――今、暇してる?」

 そんな二人に投げかけられたのは――酷く、軽薄な声だった。




 埒が開かない、と、明日菜は思った。
 二人に声を掛けてきたのは、若い男の集団だった。彼女たちより少し年上――高校生くらいの少年が、数人ばかり。髪を金色に染めた者や、耳だけでなく眉や鼻にピアスを付けた者、シャツの袖からタトゥーのような模様が覗くものと、一見して柄が良くない。
 明日菜も和美も、町中を歩いていて男に声を掛けられる――いわゆる“ナンパ”されたことはある。だがこうまで、“酷い相手”は初めてだった。

「ですから、私たちは人を待ってるんです。この後の予定もあるんで、遊びに行くとか、無理です」
「あっれ、つれないの」

 少年の一人おどけたように肩をすくめれば、何がおかしいのか、仲間の少年達も声を上げて笑う。
 この手合いには、やんわりとした拒絶など帰って逆効果だ。それを知っているから、明日菜も和美も、割合遠慮無く拒絶の言葉を口にしているのだが――少年らはどうにも、その程度では引き下がらない。
 先に限界を超えたのは、和美だった。

「いい加減にして。あたし、ナンパなんてしてくる男、嫌いなのよ」
「ははっ――俺らそんなんじゃないよ?」
「そうそう――タカちゃんとか、身持ちチョー硬ぇし」
「身持ちの意味わかってんのかよ」
「ああ? 少なくとも俺、前の彼女ン時から、女に手ェ出してねえし」
「二ヶ月しかたってねーだろ。しかも孕ませた挙げ句に捨てたとかって奴」
「マジウケんべ、はは」

 面白くもない――嫌悪感すら感じる話に、いちいち声を上げて笑う少年達。その視線までもが、自分たちにまとわりついてくるようで気持ちが悪い。

「そういうトラウマ持ちが居るもんでよ、今の俺たち、マジ紳士よ?」
「紳士がナンパなんかするわけないでしょ。もう良いから早くどっか行ってくれない?」
「嫌われてんなオイ」
「だったらアレだ。アキくん呼ぼうぜアキくん。あいつこういう女がタイプじゃん?」
「マジかよオイやめとけよ。あいつ変態過ぎて俺でも引くべ?」
「そーゆーわけだからお姉ちゃん、よ。遊ぶなら紳士な俺らにしとくべきだと思うぜ?」

 先頭にいた少年の手が――和美に伸びる。思わず明日菜は、それを横合いから振り払った。

「痛って、マジ痛って。やべ、骨折れたかも」
「明日菜――ッ!」
「暴力は良くないってよ、警察に教わんなかったか?」

 和美は明日菜の前に立とうとした――が、少年の一人がその間に立ちふさがり、身動きが取れなくなる。
 明日菜はまとわりつくような視線に耐え――強く、拳を握りしめた。
 彼女は中学三年生の少女にしては、規格外の身体能力の持ち主である。しかし――それもあくまで、普通の人間としてみれば、だ。
 当然彼女には、エヴァンジェリンのような魔法は使えないし、長瀬楓や古菲のような武術の使い手でもない。目の前の少年一人が相手なら、なりふり構わぬ取っ組み合いになれば何とか勝てるかも知れないが――

「……なあ、姉ちゃん。俺ら優しいからよ、オオゴトにはしたくねえべ? けどそれには――誠意って奴を見せてもらわねえと」
「――うっさい、黙れ」
「ああ?」
「さっさと帰れっつってんのよ! この変態共――同じ馬鹿のスケベでも、あんたらよか横島さんの方が千倍はマシだわ!」
「こいつ、何言って――誰よ、横島って」
「明日菜――挑発に乗んなっ! シロちゃんが戻ってきたら、こいつらくらい――」

 和美の言葉が、そこで途切れる。少年の一人が、彼女の髪を掴んだからだ。

「痛ッ――こ、こら、離せ、この――」
「あんまお高く止まってんなよ? 良いか、俺ってキレたらわけわかんなくなるからよ」
「和美――あんたら、いい加減に」

 明日菜は、視界が赤く染まるような錯覚に襲われる。もう、いい。自分にはこの不良少年達を圧倒できるほどの力はない。だが――時間稼ぎくらいなら、出来る。シロが戻ってくるまでの時間を稼げれば――いや、そんな思考より先に、体の方が動いていた。和美の髪を掴み上げる少年の肩を押さえ、振り向きかけたその顔に――

「やめや」
「えっ?」

 明日菜の視界が、黒く遮られた。同時に響く、鈍い音。
 端と我に返れば――和美の髪を掴んでいた少年は、膝から地面に崩れ落ちていた。その顔面は血に汚れている。よくよく見れば、彼の鼻がおかしな具合にひしゃげているのがわかっただろう。が、さすがに明日菜も、血だらけの相手――それも自分が殴ろうとしていた相手の顔を、まじまじと観察したくはない。

「髪は女の命や――言うのを、知らんのかいな。全く、無粋な連中やで」
「えっ……え?」

 明日菜も和美も、何が起こったかわからないままに、慌てて一歩引き下がる。
 そして――ほぼ同時に、同じ言葉を叫んだ。

「「もう一人増えたっ!?」」

 その言葉に――“もう一人増えた”と形容された相手は、困ったような顔をする。
 切りつめたように丈の短い学ランに、ダボついたズボン、派手な柄のシャツに、ニット帽を被り、首や腕には髑髏をかたどったアクセサリー――
 先の少年達と趣が違うまでも、間違いなく“不良少年”の出で立ちをした一人の少年。

「……一緒にすんなや。てか、あんたらとは一度顔合わしとるはずやろ?」
「え?」
「は?」

 少年の言葉に、思わず顔を見合わせる明日菜と和美であったが、二人の疑問よりも先に少年に言葉を投げかけたのは――先に二人を取り囲んでいた“不良少年達”の方だった。

「おい、何だよてめえ。何チョーシこいてくれちゃってんの。ムカつくんだけどよ」
「……少しはそこでブッ倒れとる仲間の心配でもしてやりや」
「てめえに言われたくねえよ。つか何だよその格好。昭和のツッパリかよ。マジウケるわ」
「は――この美学がわからんとは情けない奴や。せやけど、群れんと吠える事も出来ん野良犬共には、当然かも知れへんな」
「意味わかんねえよ。つか――マジ、調子んのんなよ?」

 タンクトップにカーゴパンツ、露出した肩にはトライバル模様のタトゥーと、こちらも“不良”と言うにはいかにもな格好の少年が、学ランの少年の襟首を掴む。

「お前どこの学校だよ。ああ、まあ応えなくていいわ。俺、お前のこと覚えたからよ。そのうち挨拶にでも行ってやるわ。俺らにちょっかい出した件については――まあ、そん時にゆっくり聞いてやること決定」
「何悠長な事言うてんねや。話やったら、今ここでしたらええやないか」
「寝ぼけたこと言ってんなよ。ここの詫びはここできっちりして貰うに決まってんべ。ただお前、俺らに手ェ出してよ、ここだけで済むと思ってんのか? ああ?」
「生憎、俺は男と待ち合わせする趣味はあらへん――言いたいことがそんだけなら離さんかい。このフケ顔が。口臭いんや。顔近づけなや」

 その言葉に、入れ墨の少年は小さく眉を動かし、ほぼ同時に――

「――っがぁあぁっ!?」

 奇声を上げて、地面に倒れ伏した。
 学ランの少年はそれを、冷ややかな目で見下ろす。

「喚くなや、鬱陶しい。ちょいと小突いただけやろ。膝の皿砕くトコまではやってへんで」

 今彼は――一体、何をした? 明日菜には、一歩を踏み出そうとした相手の膝を、学ランの少年が素早く自分の足で押さえ、そして強く踏み込んだ。そうしたようにしか、見えなかった。とてもああまで、相手が痛みに悶えるような事をしたようには――

「おいおい、そらやりすぎやろ」

 学ランの少年の言葉に我に返った明日菜は、“不良少年”達の方に目をやり――息を呑んだ。和美が小さく、悲鳴を上げる。
 金髪の少年が懐から抜いたもの――それは、小振りなナイフだった。グリップの中に刀身を折りたためる、いわゆるバタフライ・ナイフである。刃渡りこそ大したものではないが、喧嘩で殴りかかる勢いでそれを振り抜けば、下手をすれば相手を殺してしまう。
 サバイバル・ナイフのような汎用性があるわけでなし、格好を付けて懐に持ち歩くとしても、ひとたびそれを抜けば、相手を傷つける事にしか使えない刃物。
 その鈍い輝きに宿る殺意に、明日菜は思わず、目をつぶりそうになる。

「しゃあないな――あんな兄ちゃん――“相当痛いから、覚悟せえや”?」

 その殺意を前に――学ランの少年は、淡々と言った。

「は――なんだてめえ、何か格闘技でもやってんのかよ。なら残念だったな、実は俺もな、喧嘩でナイフ持たせたら最強だって、この辺りじゃ――」

 何が起こったのか、全くわからなかった。
 先程まで、ナイフを突き出して口上の途中にあった少年は――いつの間にか、地面に倒れていた。
 恐らく彼自身も、今、自分が何をされたのか全くわからなかったのだろう。彼から少し離れたところにいた明日菜でさえも、学ランの少年が何をしたのか、見えなかった。
 わからなかった――ではない。“見えなかった”のだ。気がつけば、金髪の少年は、地面に引き倒され、そして――

「しばらくケツ拭くにも難儀するで。せやけど――悪う思うなや」

 学ランの少年は、躊躇することなく、ナイフを握ったままの彼の手を、思い切り踏みつけた。




「い、一応助けて貰った――の、かな?」
「近寄らない方がいいわよ、和美」

 少々青い顔色で、学ランの少年に手を差し伸べようとした和美を――明日菜は、背中に庇った。
 確かに結果を見れば、自分たちは助けられたのかも知れない。
 だが、あの少年はどう考えても、まともではない。何せ躊躇無く、他人の手を踏み砕く事が出来る人間である。ナイフのグリップごと、おそらく手首から先を粉砕骨折しただろう金髪の少年の絶叫は、未だに明日菜の耳に残っている。未だに和美の顔色が良くない理由もまた、それだろう。
 不良少年達は、必死の様子で散り散りに逃げ去った。が、果たして危機が去ったと言ってもいいものだろうか。

「で――あんたは、何。私らと顔を合わせた事があるって? あの単細胞の仲間じゃないの?」

 歯を剥き出しにして、まるで猫のように威嚇をする明日菜に、少年は苦笑して、勘弁してくれ、と、言った。

「しゃしゃり出るつもりもなかったんやけどな。さすがに黙って見てもおれんっちゅうか――あんたらと顔を合わせた事があるのは、嘘やないで? あん時とは格好も違うし、コレかぶっとるから、わからんでも無理はないけどな」

 そう言って、彼は被っていたニット帽を脱ぐ。目の上辺りまでを目深に隠していた帽子の下から現れたのは――無造作に跳ねたような、少し長めの頭髪。
 明日菜は、はたと気づく。確かに、彼の顔には見覚えがある。あれは、確か――

「明日菜殿、和美殿――お待たせして申し訳ない。そこのコンビニのトイレが思いの外混んでおって、仕方ないと店内で――?」

 そこにハンカチで手を拭いながら現れたのは、シロだ。
 明日菜が安堵するより先に、学ランの少年は彼女に向かって、悪戯っぽい笑みを浮かべながら手を振ってみせる。和美の方もわけがわからず、少年と彼女の両方に、視線を行き来させている。

「え? え? 何――こいつ、シロちゃんの知り合い?」
「知り合いっちゅうか……久しぶりや、な、ゴースト・スイーパーの犬塚シロ」
「……お主は――」

 シロはハンカチをポケットにしまい――目を細めて、少年を見た。

「お主は、京都で、天ヶ崎千草と――」
「せや。やっと思い出したか――……って、な、何やその目は? 何で、顔を赤くするんや? ちょ、こ、こっちに目ェ合わさんかい!」
「……シロちゃん? 何その反応。ねえ、こいつ一体誰なの?」
「いや……何というか――修学旅行の騒動の折りに――この男は、その――ケイ殿と――何というか――」
「え? な、何で言葉濁すの? ちょ、え? 待って、もしかしてその、パルが大好きな展開的な、あれ?」
「ちょっと待てやそこの姉ちゃん!? 何か今、ものごっつ妙な勘違いされとるような――そっちの姉ちゃんは何で吹き出してんねや!?」

 ただしその視線は、少年を捉えないように宙を彷徨い――その頬は、僅かに赤く染まっている。
 そこで彼女の口から、とある長身の青年の名前が出となれば――和美の一言に、思わず吹き出してしまった明日菜を、誰が責めることが出来ようか。

「いやその――拙者らも天ヶ崎千草の事情はあれから知るところであるし――お主のことも、その、同情はしているでござるよ?」
「同情とか――お前はわざと言っとんのかいな!? 何やそこの二人、ドツボにはまっとんねんで!?」
「……うら若き乙女の前で、あのような戦いを繰り広げるのが悪いので御座るよ」
「何被害者ヅラして言うとんねん!? あのような戦いってどのような戦いになっとんねや!? ああもう、そこの二人、耳かっぽじってよう聞けやっ!!」

 学ランの少年は大きく息を吸い込み――そして、言った。

「俺は犬上小太郎――あんたらが京都に旅行に行った時に、千草の姉ちゃんと組んでちょい悪さをしてもうて――そこの銀髪のお仲間に、金的――はぶぁ!?」

 彼のあまりにもといえば、あまりにもな絶叫は、唐突に途切れる事となる。

「女の子の前で、何大声でとんでもないこと叫んでんのよこの子は」

 いつしか彼の背後には、一人の女性が立っていた。
 後頭部を押さえてうずくまる彼に向かって、拳を振り抜いたまま――そんな体勢で。










楓編の時と登場の仕方がかなりカブっている小太郎君と謎の女性(仮)ですが。
言い訳じみたものにはなるんですけど、とあるスキルアップのための布石になってもらいました。内容的に、どうしても流れが似てしまうんで、それはもう、謝るしかない。最低限、シチュエーション的なものは変えたんですがね。
 そのスキルアップの内容自体とはあまり関係ないんですが、新たな問題点も浮き彫りとなる。自分、「モブキャラ」を書くのが苦手みたいです。今回のチャラ男君達なんて単なる舞台装置の一種なのだから、もう少しそれらしく振る舞ってくれたらいいのに。
 どうも脇役に余計な事を考えすぎている模様。日々精進。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「矜持」
Name: スパイク◆b698d85d ID:519a7d14
Date: 2012/11/03 09:15
「保護観察?」

 頭をさすりながら立ち上がった改造制服の少年――彼が唇を尖らせながら言うところが、それだった。
 当然、シロも明日菜も和美も、オウム返しに彼が口にした言葉を繰り返す。

「せや――俺は自分の事を善人とも悪人とも言うつもりはない。全ては傭兵としての、自分の生き方のためや。せやけど、この国でそう言うことが、特に俺のようなガキにとって認められとるかっちゅうと、聞くまでも無いやろ?」

 犬上小太郎――シロ達三年A組を、京都で襲撃した“天ヶ崎千草”の一味として現れた少年である。その血にシロと同じような人外、“狗族”の力を宿し、代々裏の世界で傭兵として名を馳せてきた一族の末裔でもあるという。
 京都では藪守ケイの“反則技”の前に破れたとは言え、その力は、大層な肩書きに見合うだけのものである。
 ただ――いや、だからこそ。その彼が“保護観察”などと言う処分を喰らって目の前に居ると言う事実は、どうにも信じがたいものであった。

「犬塚、あんたの知り合いの暁光寺っちゅうあのオッサン――あれにとっ捕まったのが運の尽きや。裏の世界の事なんぞ何にも知らん筈やのに、全くええ性格をしとるわ。“犬上”の顔にここで泥を塗るか、表向きただの不良学生のように振る舞って、やんちゃ坊主がお仕置きを喰らうのとどっちがええか――笑顔で選ばせよった」
「はは、暁光寺殿らしい。拙者らのような年端もいかぬ子供では、あのお方と渡り合うのはちと無理があろう」

 いかにも思い出したくもない記憶だ――と、言わんばかりの表情で語る小太郎の言葉に、シロは苦笑する。

「しかし意外で御座るな? そこで家名を選ぶとは」
「あんたが俺をどう見とるんかは何となくわかるが――俺はあくまで“傭兵”や。自分の意思で、自分が決めた相手と共に戦う事が誇りや。それが“犬上”の家っちゅうか、俺の信念っちゅう奴やからな。理非なく暴れ回るんは、傭兵のする事やない」
「そいつがいい具合に中二病こじらしてるってのは何となくわかったけど――そっちの人は?」
「ちょ!? そこの姉ちゃん、俺の熱弁を何やと!?」

 そこで彼は、堂々と胸を張る予定だったのだろうが――ばっさりと和美に切り捨てられて、思わずたたらを踏む。
 そんな彼を、彼の隣に立っていた女性――年の頃は三十歳そこそこだろうか? 品の良さそうなスーツに、腰ほどまである長い髪を、リボンでひとまとめにした、少々目を引く髪型が特徴の彼女は、何故か満足げに見遣る。

「暁光寺さんと知り合いなら話は早いのだけれど。私は麻帆良でのこの子の身元引受人よ。聞けばこの子、大阪の中学校に通っては居たけれど、両親とも死別してほとんど不登校で、くだらない喧嘩に明け暮れてばかりだって言うじゃない?」
「……あんたはあんたで、うちの家業を“くだらない喧嘩”扱いかいな……」
「事実でしょう」
「断固認めん」

 彼女の簡潔な言葉に、小太郎は腕を組んでそっぽを向く。彼女がそんな彼を、ますます満足げに見下ろしているのは、きっと言わない方が良いのだろう。

「その後は話は早くてね。修学旅行中に事件に巻き込まれた麻帆良学園本校関係者のつてで、ここ麻帆良が、栄えあるこの子の更生指導の場所に選ばれたってわけ」
「それじゃお姉さんは、施設の先生か何かですか?」
「いいえ、ただの主婦。ちょっとしたつてから話を聞いて――何だかこの子の事が他人のようには思えなくて。それで下宿先の提供と、身元引受人に名乗りを上げたんだけれど」
「他人のようには思えない――ですか?」

 首を傾げる和美に、女性は笑ってみせる。

「そ――中二病に罹ってた昔を思い出すって言うか。ほら、あれよ。社会への反抗というのか――盗んだバイクで走り出したくなる年頃というか」
「何でお前らは、そうまでしてうちを中二病の家系にしたがるんや?」
「「事実だもの」」

 女性と和美の声が、綺麗に重なった。
 二人は顔を見合わせ――何となく、ハイタッチを交わす。小太郎はそれを見てがっくりと肩を落とし、明日菜とシロは、それを非常に生暖かい目線で見守った。

「で」

 不意に女性は、小太郎の方に向き直る。

「今度は何をしでかした?」
「別になんもやっとらへんわ」

 腕を組み、小太郎は憮然とした表情で言う。

「嘘おっしゃい。いくらあなたがこの子達と顔見知りだって言っても――いえ、顔見知りだから、かしらね。あなたのことだから、“また会ったな”とばかりにすり寄っていくとは思えない」
「あんたは俺のオカンかいな。何でそんなことがわかるんや?」
「馬鹿でもわかるわよ。そんなのは――で? 何をしたの? 私への意趣返しに、この子達をナンパでもしようとしたの?」
「んなわけあるかい! こいつらをナンパしようとしとったんは――」

 彼はいかにも心外だという風に振り返り――そこで、己の過ちに気がついたのだろう。舌を鳴らし、口をへの字に結んで、そっぽを向く。

「ん。まあ、か弱き乙女を暴漢から守ったところまでは褒めてあげる。けど、その為にあなた、結局暴力を振るったわね?」
「……あんな、オバちゃん。俺は偽悪者ぶる気はあらへんが、それでもあんたらの言うような“立派な教育”は心底好かんねん。右の頬を打たれたら左の頬を云々みたいなことを、喜々としてあんたは言うんか? 俺はそこまでドMやないで」
「私はそんな理想を語るほどおめでたくはないわ。けれど、誰かを守るために誰かを殴ってたんじゃ、堂々巡りよ?」
「知った事かいな。もともと傭兵っちゅうんは、そう言うモンやろ」
「誇り高い傭兵が、必要のない暴力を振りかざして満足なのかって――あたしはそう言ってンのよ」

 必要のない暴力――その言葉に、少女達の表情が、僅かに動く。

「私には、傭兵がどうとか、そういう中二病臭いことはわかんないわ。その“本当のところ”も含めてね。けれど、これだけはわかる。あなたには、ただの不良少年と言うには、あまりにも過ぎた力がある。この子達を助けた事は、素直に褒めてあげても良い。けれど、その力は、その程度の事に使うほどのものかしら?」
「……いい加減にせんと、俺でも怒るで、このババア」

 憚る様子もなく舌打ちをして、小太郎は下から睨むようにして、女性に向き直る。先程までとは違う、低く響く気迫のある声に、喉の奥から声がこぼれそうになったのは、明日菜だ。

「あんた、俺にどないせえっちゅうねん。俺がやっとることは、今の平和なこの国で褒められた事やないくらい、俺自身にもわかっとるわ。せやけどな、世の中全部、あんたら“立派な教育者”の物差しで測れると思うなや? 世の中、道理がまかり通らん不条理な事なんぞ、腐るほどある。そこであんたの言葉っちゅうのは――ケツ拭く足しにすら、なるんかいな」

 正しい言葉は耳に優しく、過ぎたことはどれだけでも悔やめてしまう。
 だが結局、世の中はそこまで完璧ではない。明日菜は目の前の不良少年の言葉が、自分の心を打った気がした。
 何となれば、彼女は一度は――クラスメイトに。優しき電子の心を持つ少女に、打算にまみれた殺気を向けたことがあるのだから。
 しかし当の二人は、そんな彼女の様子などお構いなしに睨み合う。

「俺がガキなんも、褒められた性格やないんも、百も承知や。せやけど、あんたのような何も知らへんババアに、好きなように言われるんは勘弁ならん。自分だけの、自分だけが気持ちの良い物差しで、人の誇りを踏みにじっておいて――許されると、思うなや」
「落ち着かれよ」
「お前には関係あらへん。黙っとらんかい、犬塚」
「左様。むろん拙者には何の関係も無いことで御座るが――正直、今のお主は見苦しい」
「お前にどう思われようが、俺の知った事やない。すっこんどれや優等生。俺はお前らのように上品には出来てへんのや」

 犬上小太郎という少年は、確かに何者に対しても、理非をわきまえない暴力を振るうような人間ではない。
 ただ――酷く、独善的だ。
 自分の言っている事にしても、彼が怒りを抱いた目の前の女性と、そう変わったものではない。“傭兵”などと言う特殊な矜持が、そうそう他人に理解できるようなものではないことくらい、少し考えればわかりそうなものだ。
 彼の言う、耳に優しい立派な言葉が、いつも正しいわけでは、当然ない。だが、彼が誇りとする世界のプライドにしても、それは同じ事。
 だから結局――彼は、自分勝手で我が儘で、そして短絡的だ。多くの“不良少年”達が、そうであるように。

「よ、よしなよ――私は、あんたに助けて貰って感謝してるよ?」
「感謝してもらいとうて、割って入ったわけやない。お前の事なんぞ、どうでもええわ」

 シロの制止と、和美の言葉を無視して――女性の胸元に手を伸ばし掛けた小太郎であった。が、その腕は、彼女自身の腕によって振り払われる。

「気安く触ろうとするんじゃないわよ、ケツの青いクソガキが」
「……ああ?」
「女の胸に気安く触るなっつってんのよ。私にそうして良いのは、この世でたった一人だけ」
「言うこと気持ち悪すぎやクソババア。身持ちの堅い年増なんぞ、絵にもならんわ」
「あんたみたいなガキが女を語るんじゃないわよ」
「女がみんなオノレのような化石ババアと思っとるんかいな?」
「おやおや、このクソガキは、女を抱いた数をひけらかして悦に入る類の男かしら。全く一から十まで、馬鹿なガキにありがちなパターンじゃない?」
「死ねやババア」
「笑える冗談ね」

「……どうしようか、シロちゃん」

 疲れたような様子で、和美がシロに助けを求める。

「拙者に言われても――非行少年を更生させるというのは、存外に骨が折れる仕事であるのだと思い知ったで御座るよ」

 溜め息混じりに、シロは肩をすくめた。
 ただの喧嘩であれば、大概の相手なら彼女は止めることが出来る。が、目の前の少年相手にそうはいくまい。
 それに自分が喧嘩を止める手だてなど、それこそ喧嘩の手段とそう変わらないものであしかない。頭に血が上っている相手には有効だが、目の前の女性のように、理性を持って静かな怒りを燃やす相手に、果たして効果など期待できるものか。

「……犬上、お主の怒りには共感できる部分もあるが、よすでござる。お主の力では、喧嘩の前に相手の命に関わる」
「人の話を聞いとったんかい犬塚。心配無用や。俺はこう見えて加減は上手なつもりやからな――このババアが予定よりちょいと早くに、総入れ歯になるくらいで勘弁してやるわ」
「馬鹿言いなさんな。これでも生まれてからこちら、虫歯の一つも無いんだから。クソガキの喧嘩で無くしてやるほど、私の歯は安くはないわよ」
「あの、そっちの人も火に油注ぐのやめてくれませんか。仮にもこいつの保護観察引き受けたんじゃなかったんですか? ……ほら明日菜もボーッと突っ立ってないで止めてよ。あんたそう言うの得意でしょ?」

 それでも放っておけるわけではないと、シロと和美は二人の間に割って入ろうとする。
 そこで明日菜ははたと我に返り、慌てて二人を手伝うべく何かを言いかけて――

「こんな往来で、何をやっとるんだ貴様らは?」

 低く、存在感のある男の声。
 突然その場に響いた声に、明日菜は振り返る。振り返って――身を、硬くした。

「に、新田、先生?」

 彼女がとみに苦手な教師が――腕を組んで、そこに立っていたから。




「え――新田先生が、こいつの身元引受人!?」

 思わず和美は素っ頓狂な声を上げたが、それに関しては明日菜とて同じ気分だった。世の中は狭いと言うべきだろうか。しかし仮にも、この少年は雇われていただけとはいえ、彼の教え子を誘拐しようとした人物である。
 新田教諭が魔法使いだの何だのと、世の中の裏のことを知っているとは考えにくい。だが、彼が捕まったその理由に関しては、暁光寺からある程度の事は聞いているはずだ。
 そも――

「新田先生、暁光寺さんと知り合いだったんですか?」
「いいや、そうではない。ただ私も京都での修学旅行の後、何度か事情聴取と言う格好で彼と顔を合わせる事になってな。その時に話に聞き及んだのが、こいつのことだ」

 公園の休憩所に腰掛け――ブラックの缶コーヒーを傾けながら、新田教諭は言った。話を向けられた小太郎は、ベンチの上に足を組み、仏頂面であさっての方向を見つめている。

「でも何でまた――」
「こいつにはこいつの事情があるのだろう。聞けば大阪の中学校で、手の付けられない不良として名が通っているそうではないか。なあ?」
「……そないチンピラとして名を売った覚えはないで。向こうが勝手に突っかかってくるだけや」
「それで新田先生は――義憤に駆られたと言うことで御座るか?」
「いいや、義憤というのは少し違う」

 彼は首を横に振るが、それ以上の事は何も言わない。応えるべき解答を、彼もまた持っていないのかも知れない。そうなってしまえば、成績のこともあって、彼のことがクラスメイトに輪を掛けて苦手な明日菜には、言葉を継ぐことは出来ない。

「まあ、近所に身よりもなく、場末のアパートに下宿して日々を無為に過ごしていると言うので、な」
「俺には俺で稼ぎがある。親父とお袋の残した遺産っちゅうか、そない大層なモンでもないけど蓄えもある。生きて行くには困っとらん。お節介や、言うとんね」
「私は最初からそう言っている。保護観察など、そういうものだ」

 小太郎がこぼした愚痴に、新田は涼しい顔で言った。

「家内のそれとは少し違おうが――お前がそう言う通りに、これは私の身勝手だ。どうもお前を見ていると、放っては置けない。そう思ってしまうのだ」
「大きなお世話や、言うとんねん。何や、オノレも俺の事を中二病家系やと、そう言いたいんか?」
「“中二病”? それは何のことだ?」
「わからんならええわ」

 大まじめな顔を向けてくる彼に、小太郎は疲れたように手を振った。どうやら、先程わき上がった怒りは新田の登場によって霧散したようであるが。

「でも本当に世間は狭いというか――あなた達まで、この人の教え子だったなんて」

 可笑しそうに、女性が言う。
 そんな彼女に――いつも不機嫌そうに引き締められた新田の口元が僅かに動いたように、明日菜には感じられた。

「いや、私としては新田先生にこんな若い奥さんが居たことが驚きなんですけど――つか新田先生、結婚してたんですね」
「朝倉。お前は私を何だと思っている? ――まあ、自分がそういう男女の機微に向いている男かどうかと言うくらい、自覚はあるが」

 咳払いをしながら新田は言うが、和美は面白そうに口元を歪めるだけだ。全く彼女の――“麻帆良のパパラッチ”のバイタリティには恐れ入る。成績の面では、確かに彼女は新田のお叱りを受ける心配はあまりないかも知れないが、それでもかの“鬼の新田”をからかう様な物言いが出来るとは。

「は――若いっちゅうても、三十過ぎのババアやろが」
「ケツの青いガキに言われたかないわよ」
「よさんか二人とも――まったく、これではどちらが子供かわからんな」

 新田は困ったように言う。やはり、明日菜には少し意外だ。
 むろん、鬼の新田などと言われる彼とて、ただの教師である。そのスタンスをどう取るかは彼次第であろうし、授業や生活指導以外での彼の姿など明日菜は見たことがない。だから意外に思うのも当然なのであるが――何があろうとも眉間に皺を寄せている姿しか思い浮かばない彼女は、その事を少しだけ恥じた。
 そうとも――確か彼は、修学旅行で木乃香が無事に戻ってきた時、彼女を抱きしめて号泣していたではないか。そんな彼が、明日菜の想像する張りぼてのような人間であろうはずもない。

「まあ、そういうわけでだ。休日にまで何を五月蠅く言うつもりはないが――教師の私生活にまで首を突っ込んで楽しもうとは関心せんな、朝倉」
「いや、そういうんじゃなくて、単なる興味ですってば」
「私などに興味を向けてどうする。若くて人気のある先生とて、うちには大勢居るぞ? 瀬流彦先生だとか――ネギ君だとか、な」
「またまた、普段とのギャップがこう萌え要素って奴じゃないですか。ねえ明日菜?」
「私にはお前の言っていることがまるで理解できん。神楽坂、朝倉が何を言っているのかわかるか?」
「あはは……わ、わからない方がいいんじゃないですか?」
「クラス一のオヤジ好きが何を言って――いや、何でもないっ! 何でもないから、笑顔で靴脱いで振りかぶらないでっ! あんたは何処の昼ドラか!?」
「萌え要素ねえ……まあ確かにこの人の仕事と私生活のギャップには、思うところがあるけれど」
「お前も何を言っている」
「ふふ――何だと思います? 普段のあなたを見る機会があったら、鬼の新田が聞いて呆れるって――そう言う話」

 女性――新田夫人の言葉に、和美はますます瞳を輝かせ、小太郎は疲れたようにため息をつく。
 三割程度の本気を伴って靴を脱いだ明日菜は、それを戻しながら、さてこの場の混沌をどう収めるべきなのかと思案する。むろん彼女にそんな責任はない。無いのだが――何というかネギが彼女たちの所に居着いてからこちら、彼女の中には妙な責任感が育ちつつあるようだった。

「んん――私と家内のことはともかくとして。犬上」
「……なんや」
「家内とお前の反りがあわないのは最初からわかっていたことだ。だからこそ、私はお前の身柄を引き受けようと思ったわけだがな」
「その悟ったような上から目線は心底好かん」
「だが、私と家内とて、お前の知らない世界を多く知っている。私はお前に尊敬されるような生き方をしてきた自信などはないが、それでもお前より年を取っているのは明白だ。その有り余る時間をただ遊んでいたわけではないとは、胸を張って言うぞ」
「――オッサン、世の中には割り切れんモンがあるやろ。理詰めでどんだけ正論を言うたかて――メッカのど真ん中で“神は死んだ”とは叫びとうないで」
「世界の縮図を語るには、お前では歳が足らんな」

 さりとて私が言えた義理でもないが、と、新田は首を振る。その仕草に、明日菜は思わず自分の頬が熱くなるのを感じた。

「明日菜――よだれ、よだれ」
「え、うそっ!?」
「あんた新田先生のこと苦手だって公言してたじゃない? それともオヤジなら誰でもいいわけ?」
「そういう訳じゃ――でもいい男に振り向いちゃうのは、女の義務なのよ!?」
「……まるで先生のような言い分で御座るな――なるほど、明日菜殿と先生と、気が合う訳で御座るか」
「ちょ、シロちゃんまで!? 私は別に横島さんのことは――趣味じゃないしさっ!?」
「そう言うことを言っている訳では御座らぬし、もしそうなら――」
「こ、怖っ!? シロちゃん殺気! 殺気駄々漏れになってる! 冗談抜きでそれチビりそうになるから、やめてって!」

 あれはどうでもええんか、と、疲れたように言う小太郎に、新田は小さく、年頃の娘は難しいと応えた。女子中学校の教師が言うには不適当な台詞かも知れないが――かの麻帆良女子中に勤めていては、そうこぼしたくなるのも当然かも知れない。むろん、普通の大人が“年頃の少女”に抱くのとは別の意味合いで。

「出たよ、明日菜お得意の棚上げが」
「……少なくともあんたらに比べたら私、常識人だと思うけど?」
「千雨ちゃんみたいな物言いね」
「そういうあの娘も吹っ切っちゃったけどね――知らなかった?」
「詳しい経緯は首突っ込んで良い感じじゃなかったけど――まさかこのあたしがあの子を被写体にカメラマンの真似事をするとはね」

 明日菜は少し赤い頬のまま、咳払いをする。それをどう受け取ったのか、小太郎は言った。

「俺はどっちかというと馬鹿やと思うわ」
「ふん、馬鹿なら馬鹿らしく、その辺りの連中とつるんでいれば良い」
「せやけど、傭兵として――考えることを放棄しとうはない。それをしてしもうたら、俺は自分をのうなしてしまうからな。せやけど、考えたところで俺は馬鹿やから、堂々巡りになってまうっちゅう、話や」
「ほう、現状に不満を感じているのは若者の特権だ。十分に悩むと良い。ただし――お前の場合は、それが出来るまでにまず「普通の生活」を学ばねばならんな」
「……」

 新田は軽く、小太郎の頭に手を置いた。小太郎は気だるそうに――しかし、すぐにその手を振り払おうとはしなかった。




「それで――なんでこうなってんの。てか、どうなろうと良いけどさ、なんであたしらここにいんの」

 しばらくのち――一行の姿は、いくつかの学校が共有しているという格技場の中にあった。柔道場や剣道場、弓道場などの他に、各種トレーニング施設も備えているという、本格的なものである。
 シロ、明日菜、和美の三人が立っているのは、そのうちの一角。板張りの道場の片隅である。通常は空手や剣道などの練習に使われる場所らしく、壁には「気合い」だとか「忍耐」だとか、それらしい言葉が力強く書かれた掛け軸や旗がいくつも掲げられている。

「乗りかかった船という奴で御座ろうよ」
「そりゃま、チンピラに絡まれて乱暴されるよか千倍増しだけど――でもここ、汗くさくて嫌なのよ。クーラー無いし――どうしてくーちゃんとか桜咲さんとかは、こういう場所で平気で練習出来んのかしら」

 わざとらしく鼻をつまみながら、和美は左右に手を振る。それほど風が抜ける場所でもなく、この季節。まだ湿気がないとは言え、汗だくになって練習に励む学生達が日頃使っている場所である。

「シロちゃんも剣道的な何かやってたんでしょ? 経験者として、どうなのよ」
「拙者とて汗の臭いが好きだと言うわけでは御座らぬが――それもまた風情と言う奴で御座ろうよ。こういうところに居る際には、拙者自身汗だくで御座る故、あまり気にならぬと言うか」

 いい汗かいたと言う奴で御座ると、シロは笑う。そんなものだろうかと明日菜も思う。しかしかすかに籠もる汗の臭いに、これから早朝とは言え新聞配達が辛い時期になる――と、彼女は一人憂鬱になった。

「そりゃやってる方はそうかも知れないけど――ああ、暑い暑い」
「和美殿、だからといってスカートをまくり上げて風を送るのはどうかと――」
「良いじゃん別に、誰も見てないし」

 そして今、いつもはそれこそ、武道に励む学生達の汗と熱気に溢れているだろうこの道場には、彼女ら三人しか居なかった。
 と――そこへ、入口の引き戸が開く音がする。そこで和美は慌ててスカートを抑える。

「だから言ったで御座るよ」
「うっさいなあ――あたしはあんたらと違って、体育会系じゃないんだから、しょうがないじゃない」

 とは言え彼女のバイタリティは体育会系云々を凌駕するだろうに――とは、さすがに明日菜は口に出さない。口喧嘩で勝てる道理がないのだから。むろん、それを発言して自分を棚に上げていると言い返されたら反論できないというのも、無くはないが。

「麻帆良っちゅうのは何でもアリやな――こんな道場、ウチの近所じゃ、市の大きな施設でも行かんと無かったわ」

 入ってきたのは、柔道で着用するような胴着に着替えた小太郎だった。当然、それは借り物なのだろう。彼の小柄な体格には少し大きめで、帯も白帯である。もっとも彼の場合、実力はどうあれ帯の色で強さを推し測れるような世界には、身を置いていないのだろうが。

「お、似合ってんじゃん。何かこう、胴着に着られてる感じだけど」
「やかましわ。俺はそもそも、こういうのは性に合わんねん」

 和美の言葉に、小太郎はそっぽを向く。

「準備は出来たか? 折角ここのコーチに無理を言って、一時間だけ貸し切りにしてもらったんだ。お膳立てとしては、十分だろう」
「俺が頼んだわけやない」
「そう言うな、気分の問題だ」

 そう言って彼に続けて入ってきたのは、同じような胴着に身を包んだ新田である。ただしこちらはあつらえたかのように彼の体に合っており、帯も黒帯――もしかすると、彼の私物なのかも知れない。それはそれで意外だが。数学教師であり、いつもはスーツに身を包む彼の姿を見慣れている彼女らには、とりわけ。

「ああいうのも悪くないわね――」
「シロちゃんがいなかったら、あんたと横島さんってベストカップルな気がしてきた」
「何か言った?」
「いや、何も」
「犬上」

 小声で何かを言い合う明日菜と和美に一瞬目線を向けてから、シロは小太郎に言った。

「こういう事になった以上拙者は口を出すまいが――」
「わーっとる。ちゃんと加減はする。言うたやろ? 俺はこう見えて、加減は上手いんや」

 言われた小太郎の方は、肩をすくめてみせる。氣や魔法と言った、人智を越えた力が飛び交う世界の裏側で、力を頼みに生きる傭兵である小太郎の身体能力は、見た目からでは推し測れないものである。それは“見た名以上に”という程度ではない。恐らく彼は、本気になれば完全武装――それも銃火器を装備した集団すら圧倒できるはずだ。
 そんな彼が丸腰の、防具すら身につけていない壮年の男に同じ力を向ければ。その結果はどうなるか明らかであろう。

「加減とは、大きく出られたな。これでも年の割には頑丈だと自負しているのだが」
「年寄りの冷や水や」

 その遣り取りが聞こえたのだろう新田が言うが、小太郎は顔の横で手を振る。
 逆にそれを見て、明日菜もシロも安心した。どうにか彼には理性が戻っている。これなら新田が大けがをすることは無いだろう。

「オッサン、まあ、俺はそれなりに加減はしてやるつもりやが――やめるなら今のウチやで? オッサンは、俺の言う“傭兵”の矜持っちゅうもんを、言葉の上では理解しとるんやろ? 兵隊の戦いっちゅうんが、空手や柔道みたく生ぬるいモンやと思うとるんなら、後悔するで?」
「ふん。空手や柔道とて、もとは戦場で生き抜くために編み出された技術だ。私が修めているものはそういうものではないにせよ――軽率な侮辱はせんことだな。それはお前が言うところの“傭兵の矜持”とやらにも悖る」
「……さよか」
「さて――こんな場所で漫談と言うのも何だろう。早速教えて貰おう。お前の言う“矜持”とは何なのか――そして、教えてやる。私が何を言いたいのかを」

 小太郎は何も応えない。彼らはゆっくりと、道場の中央に足を運び、数メートル離れて対峙する。
 そこで新田は、静かに彼に頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 あくまでこれは、教育――“授業”の一環だとでも言うつもりだろうか。小太郎は暫く黙っていたが、ややあって小さく、頭を下げた。

「……よろしくお願いします」

 そして二人の男は、思い思いの構えを取る。小太郎は新田に対して半身になり、左手を軽く前に突き出した姿勢。対する新田は同じような姿勢ながら、左肩がかなり下がった――そのまま彼の方に突進しそうな姿勢である。
 そもそも何故この二人が、この場にこうして対峙する事になったのか。それは先に起こった顛末――明日菜達を小太郎がかばい、不良少年達と喧嘩をしたところからの顛末を、新田が聞いたところから始まった。
 彼女たちを助けるためとは言え、結局必要のない暴力を振るった事を認められない新田夫人と、それを綺麗事と吐き捨てる小太郎の主張は、平行線であった。
 しばらくはそれを黙って聞いていた新田だったが、ややあって、やおら立ち上がると言ったのだ。

「犬上――稽古を付けてやる」

 ただ、そう一言。

「改めて考えると、新田先生そうとう怒ってるんじゃないの?」

 明日菜は二人を見遣りつつ、恐る恐るそう言った。
 新田教諭は実際、麻帆良では“鬼の新田”の異名を持つ、生徒に恐れられる教師である。「口うるさい」のではなく「恐れられている」のだ。彼女たちのような女学生ならばともかく、男子学生の間でも。
 彼は数学教師として教鞭を振るう一方で、広域指導教師として生徒の指導にも当たっている。それは明日菜の思い人である高畑教諭がしているのと同じ、時には暴力に訴え出る事もある、持て余された“若さ”を矯正する仕事である。当然、言うほど簡単な事ではない。
 宿題を忘れたら尻を叩かれるなどと噂される彼であるが、そんなものはただの冗談であるとわかっている。だからこそ、目の前の光景が、明日菜には恐ろしい。
 “魔法”という命の遣り取りを目前にした彼女でさえ――何故か新田が“怖い”と思ってしまう。
 隣を窺えば、シロは難しい顔で腕を組み、和美は何を考えているのかわからない表情だった。

「どうした、いつでもいいぞ」
「いい加減面倒になって来たわ――教え子の前で無様に這い蹲ることになるやろけど、悪う思うなや」

 新田の言葉に、小太郎が、動いた。
 明日菜には、その動きが目で追いきれない。床板が踏み抜かれたと思うほどの大音響の後に、小太郎の姿はもう、新田の目前にある。そして、振りかぶった拳を彼に向けて――

「――ふんッ!!」
「ッ――!?」

 先程に倍する大音響が、連続して響く。それは人の体に打撃が加わったような、そんな音ではなかった。たとえるなら交通事故にでも遭ったような強烈に硬質な音が響き――次の瞬間、小太郎の小柄な体は、道場の壁に背中から叩きつけられていた。

「がっ――か、かはっ!」
「筋は良い――が、加減にも程があるぞ、馬鹿者」

 シロも和美も、当然明日菜も絶句する。和美など、口が半開きになっていたくらいである。
 直接見た訳ではないが、小太郎の強さを、明日菜たちは知っている。人智を越えた力が飛び交う、あの京都の一夜。その一角に立つことが許されていたというだけで、彼がどれほどの力を持っているのか、彼女たちには実感としてわかる。
 確かに彼は、加減をしていたのだろう。直撃しても、せいぜいが、昏倒するくらい――その程度の力に、攻撃の質を落としていたのは確かだ。だが、それでも。

「私も加減はしたつもりだが、嫌な具合に入ったか? だとすれば、急いで医者に行った方が良い」
「な――ナメんなや、オッサン!」

 背中を押さえて咳き込んでいた小太郎は、その一言に跳ね起きる。

「……確かに、完全に油断しとったわ。オッサン――“氣”の使い手か?」
「……犬上。私は何というか、子供は勉強ばかりしていればいいと、そんな馬鹿げた事を言うつもりはないが――漫画の読み過ぎで空想と現実の区別が付かなくなると言うのは、どうかと思うぞ?」
「ちょ――何をフザケた事言うてんねや!? “氣”も使わんと、ただの体当てがそんなアホみたいな威力、あるわけないやろ!?」

 西洋魔術と対を成す、東洋の神秘の力――“氣”。生き物の体から発せられる超常の力を練り上げ、奇跡を起こす技術である。当然、世界の裏に秘匿され続けてきた技術ではあるが――その威力は、人間が出せる力の限界など、軽く凌駕する。
 そうとも、新田がどれだけ武道の経験があるのか知らないが、普通の人間は、体をぶつけたくらいで、相手を数メートルも吹き飛ばす事など出来るわけがない。

「そうは言われてもな」
「ええい、ならオッサンのそれは一体何やねん!? 空手でも柔道でもないやろがっ!」
「最初はただの空手か何かかと思っていたんだがな――場所も沖縄だったしな」
「ああ?」

 新田は顎の辺りに手をやり――何かを思い返すように呟く。
 しかしややあって、顔を上げ、小太郎の方を見て首を横に振った。

「言うなれば――結局我流なのだろうな。私に基礎を教えてくれた先生にも、お前には資質がないし筋も悪いとよく笑われた」
「……その先生って何モンやねん……」
「今となっては私にもよくわからん。だが――跳ねっ返りの悪ガキを相手にするには、過ぎた力だろう?」




「はあ……何や、力抜けてもうたわ――俺って自分で思うより、ガキやったんやろか」
「……そう言うのは私の横で呟かれても困るのよ。せめてシロちゃんに言いなさいよ、そう言うことは」

 初夏の長い一日も終わりが近づき、随分と太陽が西の空に傾いた頃。麻帆良市の住宅街の一角にある、新田邸。
 典型的な一昔前の住宅とでも言うべきだろうか。和洋折衷の、それほど広くないその家の居間に寝転がって、小太郎は大きく伸びをした。その隣には、座椅子に腰掛ける明日菜の姿がある。
 シロと和美は、新田夫人と共に夕食の支度をするとかで、ここには居ない。料理と言えば木乃香に任せきりになっている明日菜には、何故こんな事になっているのだろうかと、何度目かの問いかけを心中で繰り返すしかない。

「それにあんた、自分で自分の事ガキだガキだって言ってたじゃない。言葉の責任は取りなさいよ」
「……ぐうの音も出えへんな」

 Tシャツにジャージのズボンという、ラフな出で立ちに着替えた小太郎は、大きく息を吐いた。
 結局道場での“稽古”は、彼の惨敗であった。
 ケイを圧倒した“狗族”と言われる人外の能力を結局使わなかったとはいえ、素の状態の腕力でも新田に劣っていたとは思わない。単純に、技量の差である。散々殴られ蹴られ――“吹き飛ばされ”までして、起きあがる気力すら失せた小太郎に、新田は胴着の襟を正しながら、頭を下げた。
 「ありがとうございました」と。
 それに返事が出来ただけでも、自分の事を褒めてやりたい気分だと、小太郎は言った。

「……せやけど、あのオッサンの言いたいことは、わかった気がしたわ」
「独り言のつもり? ま……私最近面倒見が良いから、聞いてあげるけど」
「あんたも大概上から目線やな」
「だってあんた中二でしょ? 私の方がお姉さんだもの」
「……さよけ」

 ため息をついて、彼は続ける。

「京都の一件は――千草の姉ちゃんに同情したとはいえ、あんたらには悪いことをしたと思っとる」
「……私はそれについてはもう何も言わない。どうせなら、木乃香に謝って」
「それはまあ、追い追いにな」

 それで、と、明日菜は言った。

「それを理由にするつもりはあらへんけど――仮にあんたらが俺をただのチンピラやと思うても、それはもう、しゃあないわ」
「開き直ったって何があるわけじゃないでしょ」
「せやけど、俺には俺なりの矜持がある」
「散々繰り返してたアレのこと? それってどういうものなのよ、結局」
「俺が千草の姉ちゃんの悪巧みに乗ったんは結局――そこに姉ちゃんなりの“信念”を見たからや」

 両親の命を奪った伝説の化け物。それを倒すことで、両親の存在を証明しようとした、天ヶ崎千草。その為に彼女が取った行動は、決して容認できるものではなかった。
 けれど――そんな彼女を全く否定できたかと言えば、そうではない。明日菜は自分のことを馬鹿で情にほだされる愚か者だと、そんな風に思ってはいる。が、それでもそれ自体は間違っていないはずだ。
 親友である木乃香に手を出した事は許せない。許せないけれど――もしも自分が彼女の立場だったらと、そう思ってしまうのは間違っているだろうか?

「傭兵は金次第で、敵と味方を変える――身も蓋もない言い方をすればそうや。せやけど、それが全てやない。俺のオヤジが言うとった。いくらでも金は出すと言われた事は、一度や二度やない。せやけど、結局そこで戦うかを最後に決めるのは自分なんやて――多くの人々と生死を分かち合ったけれど、主義主張もない犯罪者と戦うのは御免やて」
「……でもそれじゃ――ねえ、あんたどうして、たとえば警察や自衛隊に入ろうと思わないの?」

 そうすれば、実際に正義の下で力を振るう――いや、活かすことが出来る。金で雇われ、金のために人と戦い、人を殺す――そんな陰口を叩かれる事もない。
 だが、小太郎は首を横に振った。

「それは、自分が見いだした信念やない」

 国家とは結局、意思の総体である。それらは果たして、国民の意思一人一人の結実するものかも知れないが――明確な主体を持っているわけではない。

「国の利益で正しさなんちゅうもんは変わる。防衛やとか、災害救助やとか、犯罪者の逮捕やとか――そう言うのも結局、大ざっぱには国のためや。もちろんそれが悪いわけやない。せやけど、俺がしたいのはそういうことやない。自分の信念を、訴えを、叫びを――それが声にもならん誰かの、その必死の声を背負って、俺は戦いたいんや」
「……正直、私には全然わかんない」

 明日菜は言った。

「けどその為なら――偽悪者にもなれるって?」
「俺自身が頭の悪いチンピラなんはまあ、否定出来んわ。高尚な事言うとったオヤジとお袋が、あっさり飛行機事故で死んでもうて――半分グレてもうた時期があってな」
「真面目に振る舞えとは言わないけどさー、あんたもうちょっと他人の事考えながら生きても、バチ当たんないわよ?」
「……何でやろな、言っとることは正しいんやけど――激しく“お前が言うな”言うて思うんは」
「失礼ね」

 明日菜は小さく鼻を鳴らして、そっぽを向く。
 暫くリビングには沈黙が訪れるが――ややあって、小太郎が口を開いた。

「せやけどあんたの言うとおり――結局それは我が儘なんやろな」
「……」
「今日、新田のオッサンにブチのめされて――何や、わからんくなってもうた。負けたから、逆にわかった。あそこで俺は、結局あのオッサンをブチのめして、自分が正しいって証明したかったんや。あのババアに吐いた啖呵の、な」
「ババアって――新田先生の奥さん、まだそんな歳じゃないでしょ。見た目結構若いし」
「俺らから見たら十分ババアやろ?」
「そりゃ十四歳のガキからみたら大概そうよ」

 それはまあどうでもええわ、と、小太郎は首を横に振る。

「せやけど、そのオッサンにボロ負けしたら――それは結局、オッサンの方が正しかった、言うことになる。他でもない、俺の理屈やと――そうや」

 正しいことをただ正しいのだと、そう喚いても何にもならない。それには裏打ちが必要だ。傭兵の矜持をそう形容するならば――それは、自分の力だと言うことになる。
 けれど自分の理屈で、相手を同じ土俵に引っ張り上げてその結果敗北したら――もう、何も言い訳ができない。自分は、生ぬるい理想論を説く連中に、自分の言う「正しさ」で敗北したのだから。

「だからそれって自業自得でしょ」
「……せやから柄にもなくヘコんどんやないか」
「しばらくはそうやってればいいんじゃない?」
「言いたい放題言ってくれよんな、ええと――」
「神楽坂明日菜。明日菜で良いわ」
「……ふん」

 小太郎は腹に力を入れて上体を起こす。その顔は何か言いたげな表情を浮かべていたが、自分でも何を言うべきかがわからないのだろう。
 明日菜を横目で見つつ頭を掻き――そんな彼に、声が掛けられた。

「犬上――風呂が沸いたぞ」

 見れば浴衣に着替えた新田が立っている。小脇に洗面用具を抱えた格好で。

「やだ、イカス」
「……」

 明日菜からぽろりとこぼれ出た何かを、心底気持ち悪そうな目で見遣ってから、小太郎は言った。

「俺は後でええわ。そんな気分やないしな」
「そんな汗の臭いの残る格好で食卓に座られると迷惑だ。良いから行くぞ。私が背中を流してやる」
「何や気持ち悪い――俺は男に背中を流されて喜ぶ趣味はあらへんで?」
「奇遇だな、私もだ。わかったらさっさと立て。食事に間に合わなくなる」
「……わかった、ほな、ご一緒させてもらうわ――なあ、明日菜。俺はノーマルやから、そんな心底羨ましいみたいな目で見られても困るんやけど」




「ごめんなさいね、女の子を差し置いてどうかと思ったけど、あの二人汗くさくってもう」

 風呂場に向かった男二人を見送った明日菜に、声を掛ける者が居た――他ならぬ新田夫人である。シロや和美と違い、ろくに食卓の手伝いが出来ない明日菜は、心底居心地が悪い。
 そんな彼女の様子に気がついたのか、新田夫人は快活に笑う。

「いいのよ、今日び、女の子は料理ができなくちゃならないってわけでもないでしょうし――私があなた時分の頃はもう、ね。まともに食べられる料理が出来るようになるまで三年掛かったわ」
「いえ……出来るようになった方が、とは思ってるんですが――ルームメイトがその、キッチンは自分の城だと言って譲りませんで」
「あら――女子校に通ってるのが勿体ない。今時そう言う子、凄くモテるわよ」
「はは……それは……どう、でしょうかね」

 明日菜の引きつった笑顔に、新田夫人は首を傾げる。さすがに自分の親友に、同性愛疑惑が持ち上がっている事を――この場では言わない方が良いだろう。木乃香本人も、一応、必死で否定していたことであるし。

「そっ……それより、新田先生って、すごく、強かったんですね?」
「ああ」

 あからさまな話題の変更だったが、特に気にした風でもなく、彼女は応えた。

「若い頃に、とある理由で沖縄に出かけて、そこで出会った武術の達人に教えて貰ったとか――最初は眉唾だったけど」
「今日のアレ見たら、納得というか。奥さんも?」
「最初はね。口ばっかりやかましくて、結局それだけなんだろうって、そう思ってた」
「……」

 明日菜は、その口ぶりに引っかかるものを感じた。
 それを感じ取った新田夫人から、答がもたらされる。

「ああ……あの人ね、私が中学生だったころの、担任だったのよ」
「いっ!?」
「あ、誤解しないでねっ!? ちゃんとしたプロポーズは、私が高校卒業してからだから――べ、別にあの人の趣味がアレなわけじゃ、ないからね!?」

 さすがに教え子に手を出すような教師だと思われたくはなかったのだろう。新田夫人は必死になって明日菜に訴える。両肩を掴まれてただならぬ迫力に、明日菜は素直に頷いた。
 すると今度は――自分の中の気持ちが、むくむくと首をもたげてくるのがわかる。何せ彼女はある意味、明日菜の目指す夢を叶えた女性なのだ。

「奥さんは、新田先生の何処が好きになったんですか?」
「何処が、って言われてもねえ――気がついたら好きになってた、ってとこかしら。興味ある?」
「はい、すごくっ!」
「……えらい気合いの入り方ねえ。まあ、深くは聞かないけど」

 そう言って、明日菜の抱える事情など知らない新田夫人は口を開く。

「近頃さ、ゆとり教育がどうだとか、学級崩壊がどうだとか、モンスターペアレントがどうだとか――色々教育問題って、あるじゃない」
「はあ……」

 確かに、そう言う話は聞いたことがある。しかし、明日菜には実感が湧かない。自分たちの学級に関しては無縁の話であるし、麻帆良にも不良は居ると言っても、それはごく一部の若さを持て余した連中のこと。そんなものは、何処にでも居る。

「何だかんだ言われてるけど、結局今は平和な時代なのよ。教室でシンナーを吸う奴は居ないし、廊下をバイクで走る馬鹿もいない。いいえ、そんな連中はいわゆるハシカみたいなモンだとしても、警察に向かって火炎瓶を投げた挙げ句に、仲間をなぶり殺しにする学生も、今はいないでしょう?」
「……」
「でもね、たかだか何十年か前に、そう言う時代は確かにあった。私の頃はもう、そう言う頃に比べたら随分落ち着いては居たけれど、今とは比べものにならないくらい、色々と荒れてるものがあったのよ」

 そう言う時代が確かにあったと、彼女は言う。戦後の復興から立ち直り、高度な成長を遂げた日本経済。しかしそれはやがて歪みと淀みを生み――言い知れない不安と欲望の中に放り出された若者達は、知らず、また歪んでいった。
 そう言う学生達の暴走を、単に時代にせいにしようとは思わない。最終的には、彼ら自身の責任の問題である。けれど、

「そんな時代――私もそれなりに変わった子でね。何というか――盗んだバイクで走り出すくらいの」
「……奥さん、不良だったんですか?」
「平たく言うとね。まあ、後にして思えば後悔先に立たずと言う奴なんだけど――後々恥ずかしい思いをするのは、あの時馬鹿をやった代償だと思うしかないわね」

 想像できる? 自分のものはとうに処分したが、世の中にあの頃の自分が載っている卒業アルバムがまだ存在する――その事実の何と恐ろしいことか。
 遠い目をしながら言う新田夫人に、明日菜は掛ける言葉が見あたらない。

「まあ、そう言うときにあの人は私の担任になったわけだけど。そう――あなたのイメージで構わないわよ? あの人、若い頃からああいう感じだったから」
「“鬼の新田”ですか?」
「当時はそんな風に素直に怖がってくれる学生は少なかったけれどね。何処ぞの歌じゃないけれど、従うってのは負ける事なのよ」

 何となく、頭の中に古風なセーラー服を着たエヴァンジェリンが浮かんだが、多分そういうのとはまた違うのだろう。色々な意味で。

「最初は――馬鹿な人だって思ってた。何かって言う度に口やかましく叱りつけて。相手が優等生だろうが札付きの不良だろうが関係なく。何て言うか、自分を棚に上げて不器用な人だって、そう思った」

 何せ気に入らないものと見れば、教師だろうが平気で殴る蹴る、そんな不良共を相手に一歩も退かないのだ。それはもちろん、ある意味では立派なのかも知れない。けれど、それはそれで馬鹿のすることである。
 やり方を考えることすらせずに、真っ正面から一人、そんな連中にぶつかって。
 当然当時の彼には生傷が絶えず、頭に包帯を巻いて授業を行うことさえざらにあったと言う。そしてそうまでしても結局、大概の不良が変わるわけではない。
 明日菜には、よくわからない。けれど、理解は出来る。テレビドラマの熱血教師が、いつもいつも問題を解決できるほど、この世の中は甘くない。そう言うことは、何となくだが理解している。

「でも――もちろん私も、あの人の言葉を素直に聞こうなんて全然思わなかった。ただ、心の何処かできっと、この人は何かが違うのかも知れないって思い始めていたわけよ。私が当時敵だとしか思ってなかった、親や先生や他の大人や――そう言う人たちとは」

 それまでに色々あったけれど、と、新田夫人は言う。
 麻帆良に勢力を伸ばそうとしていた暴力団だとか、海外の闇組織を一人で壊滅させただとか――そういう話はさすがに尾ひれの付いたフィクションだと、明日菜は話半分に聞いておくことにしたけれども。単に実話だとしたら恐ろしすぎるというのもあるが。

「そう言うことが出来る力があるのに、学生同士の喧嘩に首を突っ込むとなるといつもボロボロにやられて、怪我を作って――そういうところを見てると、嫌でもあの人の本気は、わかるしね」

 そう――新田は確かに恐ろしい教師であると、そう噂されている。けれど実際、新田の“被害”にあったという話は聞かないのだ。宿題を忘れたら、女学生だろうが尻を竹刀で叩かれるらしいと、そんな風に言われているにもかかわらず、とうの彼が竹刀を持ち歩いている所を見たものは、誰もいない。
 たとえば明日菜の思い人である高畑教諭もまた、麻帆良の不良からは「デス眼鏡」などと、恐ろしいのか何なのか良く分からない渾名を付けられ、畏怖の対象となっている。だがそれは、実際に彼に刃向かえば、完膚無きまでにたたきのめされる――見た目からは想像も付かない彼の強さを、皆が知っているからだ。彼はポケットに片手を突っ込んだまま、札付きの不良を手玉に取ることが出来る。明日菜は、それを知っている。
 では――新田はどうか?
 あれだけの実力者である。誰しも、彼に正面切って喧嘩を売ろうとは思わないだろう。
 だが――むろん喧嘩を売ろうという意味ではないが――彼の教え子であり、彼を恐れていた明日菜自信はどうだ? 彼を恐ろしいと思っていたのは、「そういう」ところか? そうではない。彼の力を、明日菜は今日初めて知った。
 噂される苛烈な体罰を恐れてのことか? それも違う。自分でもそういう風なことを言っておきながら、彼女は新田の体罰に関する噂など、所詮噂に過ぎないと理解していた。

(確かに新田先生は、その、怖いって思う。けどそれは――)
「その辺りのことは――大人になってから思い返してくれたらいいわ。あの人は、自分が大変な事をしているだなんて、生徒に思われるのはごめんだろうから」

 考えを見透かされた様な気がして、明日菜は顔を上げた。そこには、はにかむような笑みを浮かべた新田夫人の姿。

「だからさ――私は結局、誰にでも本気のあの人が、私にだけ本気になって欲しいって。そう思っちゃったのよ」
「……でもよく、新田先生を振り向かせる事が出来ましたね?」
「本当に、本当に長い道のりだったけれどね――こう、真綿で首を絞めるようにねちねちと」

 前髪に顔を隠して、手の指を「わきわき」と動かす彼女には、何だか良く分からない迫力があって、明日菜は思わず顔を引きつらせる。
 その辺りのことを後学の為に聞いておくべきだと、頭の中で小さな自分がわめき立てている。さあ――どう切り出したものか。ここはひとまず――

「やっぱり色仕掛けとかですか?」

 直球勝負に出てしまった。自分でも、馬鹿だと思う。これでは馬鹿レッドと呼ばれても仕方のない事である。
 しばしあっけにとられたような顔をしていた新田夫人は――ややあって、おかしそうに笑い出す。

「あんまりお勧めはしないわね。所詮教え子としか思ってない相手だもの。いきなりそんなことやったって、からかってるとしか思われないわよ」
「そ、そう……ですか?」
「それをやりたいなら、それこそ全裸にリボンでも巻いてベッドに入らないと駄目よ。けど、うちの人とか、高畑先生みたいな人には、かえって逆効果だと思うけれど」
「いや、さすがにそこまでは――……え? ちょ、な、何でそこで高畑先生が!?」
「ふふ……何でかしらね」
「だって、そんなこと、奥さんが知って――あ、朝倉!? シロちゃん!? あ、あいつらあっ!!」
「おほん――麗しき友情ね」
「あいつら絶対ぶっ殺す! 止めないでください奥さん、武士の、武士の情けっ!!」
「はいはい。怒らない怒らない。あの子達を許してあげる代わりに、先達の話をゆっくり聞く権利を進呈してあげるから、ね? そうだ――」

 彼女がそう言いかけた時だった。玄関の方で、物音がする。
 彼女らが成り行きで新田邸の夕食に招かれたと言うことで、どうせならとばかりに呼びつけた木乃香、ネギ、あげはの三人が到着したのだろうか? 余談だが和美のルームメイトである春日美空は、場所がかの“鬼の新田”邸であることを知った瞬間、その誘いを辞退している。日頃悪戯を好む彼女としては、間違ってもお呼ばれしたい場所ではないだろう。
 廊下を歩く足音がやってきて――なにげなく、ひょいと顔を上げた明日菜は、固まった。

「ただいま戻りましたえ――おや、何処かで見たような顔ですなあ」

 彼女の前に現れたのは――かつて、彼女の命を奪おうとした相手だった。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「明日」
Name: スパイク◆b698d85d ID:519a7d14
Date: 2012/11/03 09:29
 腰程まである色素の薄い頭髪に、線の細い眼鏡。まるで何かの衣装かと思うようなゴスロリファッション――忘れたくても忘れられない。全身から冷や汗が吹き出すのを、明日菜は感じた。

「あっ……あん、た」
「ああ――思い出しました。あの時の“坂本龍馬”はんですな? その節はどうも――ご迷惑をお掛けいたしました」

 にこやかに手を振るその少女に、明日菜は動けない。
 月詠――そう名乗っていた、天ヶ崎千草の手先だった少女。しかし彼女は、主である天ヶ崎千草や、先程言葉を交わしていた犬上小太郎とは、明らかに違う人間。
 一言で言うなら、人間として大事なものが、切れているとでも言うべきか。あの時シネマ村で、シロの助けが一瞬遅ければ、明日菜は彼女の“気まぐれ”によって、首を斬り落とされていた。
 そんな相手が――何故、ここにいる?

「明日菜殿、どうか――お主」

 奥から顔を出したシロもまた、一瞬で体を緊張させる。

「……何故お主がここに? よもや拙者への意趣返しと言うわけでも御座らぬであろうが」
「ご冗談を。ウチはもう、そんなつもりはありませんえ?」

 対して少女――月詠の表情は、緩い。もともと見た目には可憐な少女である。だが、油断は出来ない。小太郎とは違い、彼女は本物の戦闘狂だ。戦いに取り憑かれ、精神が完全に壊れてしまった者。
 強い者との戦い――それも命の遣り取りに快感を見いだす、異常者である。そんな彼女に、明日菜は――

「遅いお帰りね。何処で道草を食っていたの?」
「ちょっ……お、奥さんっ!?」

 腰に手を当てた新田夫人が、警戒する様子もなく彼女に近づいた。身長差から見下ろされるような格好になった月詠は、上目遣いに彼女を見上げる。

「人聞きの悪い。道草なんて食ってませんよ――ああ、これが世に言う嫁いびり、言う奴なんやろか……」
「しな作ったって可愛くも何ともないわよ。今主人の教え子に台所手伝って貰ってるから、あんたもそっちに加わりなさい」
「……教え子? 人狼のお姉さんが、ですか?」
「……いかにも、拙者、新田教諭の教え子で御座るが」
「あれまあ――何というか、世間は狭いですなあ。まさかこんな形で人狼のお姉さんと再会することになるなんて」

 相変わらずにこやかな微笑みを顔に貼り付けたまま、彼女は言う。
 それを見た新田夫人の眉が、小さく動いた。

「――あなた達、こいつの知り合い?」
「知り合いというか――何と言いますか」
「深い深い間柄どすえ」
「せいぜいが“不快”な仲で御座るよ」

 シロは首を横に振り、言う。

「それで、まだ返答を聞いておらぬが? 何故お主が、この麻帆良に居るので御座るか?」
「何故と言われましても――運命と言う奴でっしゃろか」
「真面目に応えよ」
「ウチとしては十分真面目なつもりなんですが……まあ、アレですわ。犬上君と同じで、暁光寺はんのつてで、こちらのお宅に保護観察処分と言う奴で」
「お主がか?」
「意地を張っても仕方ありませんし、張る理由もありませんしなあ」
「……ま、何でも結構で御座るよ。あの時のように、拙者らに刃を向ける事が無ければ」

 シロの言葉に、明日菜の喉が鳴る。全く、火鉢の側で火薬遊びをするようなものだ。そんな緊張感が、この空気にはある。

「その事を気にしよりましたん? それこそ犬上君と同じやないの。ウチにはもう、お姉さんと戦う理由がありませんよ?」
「は――何を抜かすか。あの時の拙者に向けられた粘つくような殺気、早々に忘れられぬものでは御座らぬよ?」
「ああ――そのことですか」

 何せ彼女は言った。自分は殺し合いが好きなのだと。美しい相手と命を賭けて戦うことが何よりも好きなのだと。シロや刹那に向けられていた視線を、明日菜は覚えている。全身にからみつくようなあれは、今日絡んできた不良達の、劣情に駆られた視線よりもずっと、気持ち悪くて恐ろしかった。
 そんな明日菜とシロの視線を受け、月詠は――

「ごめんなさい人狼のお姉さん――京都ではお姉さんに愛の言葉を呟きましたけど――あれは、間違いやった」
「は?」

 深々と、シロに向かって頭を下げる。
 当然シロは意味がわからず立ちつくし、明日菜もそれは同様である。
 だが何故だろうか、そんな月詠の後ろ姿を見て、彼女は思った。これは、何だか――

「あれからウチは、真実の愛に目覚めたんです。せやから――思わせぶりな事を言うてもうて、ホンマにごめんなさい。せやけどウチ、お姉さんの事はもう」
「……いや、お主一体、何を言っているので御座るか?」

 何だか――そう思った明日菜は、思わずぽつりと呟いた。

「え……シロちゃん、フラれたの?」
「どっ……どこをどう解釈すればそうなるので御座るか明日菜殿!? 拙者はそっちの気は御座らんと言うか常日頃から横島先生一筋であると申しておるが!?」
「あ、いや……それはわかってるんだけど、何か今のそいつとシロちゃん見てると、そんな言葉が浮かんだ」
「明日菜殿は拙者を一体何だと!?」
「お姉さん……お姉さんの気持ちは、重々わかります。罵ってもろうても、結構です。せやけどウチは、もう、自分の気持ちに嘘がつけへんのです」
「だからお主も何を寝ぼけた――」
「ところでご主人様は何処ですか?」
「聞くでござるよお主!? 一体何が――ご主人様?」

 普通に生活していたのではまず聞き慣れない言葉――何処か趣味生の強い店にでも行けば話は別かも知れないが――に、思わず顔を真っ赤にして、もはや油断も何も無しに月詠に掴みかかろうとしていたシロは、動きを止める。
 そんな彼女に構うことなく、月詠は辺りを見回し――ふと、何かに気がついたように、持っていた買い物籠をテーブルの上に置く。

「お風呂場で汗を流しとる所ですな? こうしちゃいられませんえ、さっそくウチもご一緒して、お背中を――」
「ちょっと待てやそこの小娘」

 新田夫人が、月詠の襟首を引っ掴む。首に布地が食い込んだ彼女は、咳き込みながら涙目になりつつ、彼女を振り返る。

「何ですの」
「どうもうこうもあるか。あんた今何をしようとした」
「せやから湯浴みにご一緒して、お背中をお流ししようかと」
「寝言は寝て言え」
「こんな事冗談で言えますかいな。そんなかりかりしとらんと――小じわが増えますえ?」
「余程命が要らないと見えるわね小娘」
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってください奥さん!?」

 もはや火鉢の側でダイナマイトという騒ぎではない。原子炉の制御棒のクレーンゲームである。明日菜は慌てて止めに入ろうとして――指先に力が入らない事に気がつく。
 殺されかけたことへの、恐怖。普通の女子中学生ならまず体感する事のない、その度を超した負の感情が、明日菜の体を縛り付ける。顔から血の気が引くのがわかる。胸焼けに似た、吐き気のような感覚までもが――

「その辺りにするで御座るよ、お二方」

 そんな中に、ごく自然に、シロは割って入った。

「月詠――と言ったか。お主のことは後で嫌でも聞かせて貰うで御座るが、ここで睨み合っても良いことなど何もない。丁度拙者らが待っておった豆腐を買ってきてくれたので御座ろう?」
「……まあ、そうですなあ。腹が減ってはなんとやらと言いますし――ほならウチは、買い物籠を置いて参りますえ」

 そう言って、踵を返した月詠は、暖簾の向こうに消えていく。
 その後ろ姿を見遣って――シロは、明日菜に言った。

「……大丈夫で御座るか?」
「あ……あ、う、うん……平気」
「奴の真意は未だ知れぬが、保護観察という話が本当なら、ここで馬鹿な行動には出るまいよ。少なくとも、先程の遣り取りで、彼女からは殺気を感じなんだ」
「……あの、シロちゃん――私」
「普通の中学生なら、それが当然の反応で御座るよ。何――あれは確かに嫌な記憶ではあるが、たとえば交通事故にあったとて人は死ぬ。トラックに轢かれ掛けて命拾いをしたとでも思えば、割り切れる」
「……」
「安心されよ。拙者の目の黒いうちは、拙者の大事な親友――あのような輩には、指一本触れさせぬで御座るよ」

 心の底が凍り付くような、冷たい感覚はまだ消えない。だが、シロの笑顔は、明日菜の心を、ほんの少しだけ温めてくれた。だから、彼女も――まだ、ちゃんと笑えている自信はないが、シロに笑い返す。

「ん……お願い。私何だかんだ言って、ただの女の子だから。友達にこういう事言うのも何だけど――横島さんの次くらいでいいから、助けてくれたら、嬉しいな」
「愚問で御座るよ。拙者――」

「うぉおおっ!? つっ――月詠!? お前は一体、何をしているっ!?」
「おわあああああ――何考えとるんや月詠の姉ちゃん!? 男子入浴中やっ! 俺かておるんやでっ!?」
「ウチはご主人様のお背中を流しに――犬上君もそない騒がんでもええやないの。ウチは犬上君がおっても気にせえへんで?」
「俺は気にするわいっ! ええから向こう向けやっ! ほんでちっとは隠さんかいっ!」
「結局てめえは諦めねえのかこの色ボケ小娘が――良い度胸だ表に出ろ二度とそんな気起こらねえようにしてやっからよお!!」
「お前も落ち着け口調がいろいろと昔に戻っている――とにかくこの子を引っ張り出して――まとわりつくなあああ!!」
「うふふ――赤くなってもうて、ほんに、かわいらしわあ……」
「――てめえマジ殺す」

 風呂場の方から響いてきた喧噪に、明日菜とシロは顔を見合わせる。

「……ねえシロちゃん、ホントに一体、何が起きてるの?」
「……それは拙者に問われても。どう思うで御座るか、麻帆良のパパラッチを自称しながら我関せずを決め込んでいる和美殿」
「やめてよシロちゃんそのキラーパス。あたしだってさすがに首突っ込みたくない場面だってあるわよ――具体的にはこういう時とか」




「せやからウチは、真実の愛に目覚めたんよ」
「順を追って話すで御座るよ」

 体にバスタオルを巻いて――というよりもバスタオルに簀巻きにされたような格好で、新田夫人に首根っこを引っ掴まれた月詠が言ったのが、それである。むろんそれに対するシロの返答は、もっともなものだと言うべきだろう。

「お恥ずかしいですけど、ウチは京都の古流剣術――神鳴流を修めた人間の中でも異端視されとりました」
「あれだけの危険思想の持ち主なのだから、当然で御座るな」

 神鳴流は本来、人間の世界の裏に蠢く魑魅魍魎――人智の及ばない存在から、人々を守るために編み出された、超人の剣術である。達人ともなれば雷の如き速さで大地を駆け抜け、その刀の一振りは、巨大な鬼をも一撃の下に斬り捨てる。
 そして月詠という少女は――その強さに魂を捕らわれてしまった人間であった。

「刀を振り回して鬼退治なんて、言い方は悪いけどただの作業ですわ。せやけど、人間同士の戦いは違う。負ければ死ぬ、極限の戦い――研ぎ澄まされた技と、鍛え上げた体、戦士としての直感、相手を出し抜く極限の思考――そのぶつかり合いの、何と美しい事」

 その命の遣り取りは、何よりも美しい。そして自分が勝利を収めるその瞬間――相手の命を刈り取る必殺の一撃を繰り出すその瞬間の快感と言ったら、言葉には出来ない。それが自分を戦いに駆り立てるのだと、月詠は言った。
 明日菜は、自分の拳に力が入るのを感じた。こいつは――間違いなく、狂っている。
 何をして人として正しいか間違っているかなど、所詮流動的な尺度である。高らかにそう言うことが言えるほど、自分が偉いとも思わない。けれど、理屈などどうでも良い。こいつは確かに、間違いなく、完全に狂っている。明日菜は、そう思った。

「お主の言うこと、理屈としてはそう言うこともあるかも知れぬ。以前にお主が言うておった、日本刀がただの武器でありながら、こうも美しいのはかくなる故と」

 刀は、人殺しのために存在する刃物である。どれだけお題目を唱えたところで、その事実から逃れられるわけではない。
 しかし――今更それを念仏のように繰り返す理由も、また存在しない。

「左様――刀を美しいと思うことが、悪いわけではない。そこに人を斬る事を結びつけないことが生ぬるいならば、それはそれで良いでは御座らぬか。今更それを恥じようとは思わぬし――お主の考えを、拙者は胸を張って否定するで御座るよ」
「人狼のお姉さんなら、まあそう言うと思っとりましたわ」

 あくまで軽い物言いに、シロの眉が小さく動く。
 だが――月詠は、すぐに首を横に振った。

「でもま、今はもう、そう言うことはどうでもええんよ」
「……?」
「せやかて――命を奪い合う戦いやない。相手を守り、育て、時に諫め――そう言う戦いがこの世の中にはあって、それがあない美しいものやなんて……ウチ、知らんかったもん」

 うっとりとした顔で言う月詠に、明日菜もシロも、首を傾げるしかない。

「……そこの悪ガキと同じやり方が、思いっきり裏目に出たのよ」

 解答をもたらしたのは、疲れたような顔で呟いた新田夫人だった。
 実のところ、小太郎がこちらに来たのは手続きの都合で今日――たまたま明日菜達に出くわしたのがその帰りであるらしいが、彼女、月詠がこちらに来たのは、それより一週間早かった。
 しかしそれでも一週間である。あの狂った少女をただの一週間で、何がこうまで変えたのか?
 それは、彼女がこちらにやってきた日にまで遡る。
 小太郎とは違い、月詠は自分のことを、暁光寺ら京都府警には一切語ろうとしなかった。もとい、今も自分の出自に関しては口を開いていない。そんな彼女を小太郎と同列に扱って新田の下に送るには、暁光寺も難色を示したと言う。
 それは刑事としての直感だろうか。彼女が――不良娘などと言うには生ぬるい「危険人物」であることを、見抜いたのは。
だが結局、そちらについても論拠があるわけではないのだ。果たして月詠は新田に引き取られる事が決まり――その段になって、彼女は何も変わっては居なかった。人を斬る事に快楽を見いだす“狂人”のままだった。

「何となく想像は付いたでござるが――」
「いくら新田先生にメタメタにやられたからって、これだけイカレた奴がそう簡単に変わるもんかしら? いや――今もまともになったって訳じゃないけどさ」
「まあ、ウチかて変われば変わるもんやと自分でも思いますえ? せやけど、こればっかりは、それを自分の事として経験したウチ自身やないとわかりませんよ。まあ、今日めでたく同じような目に遭った犬上君なら、少しはわかるかも知れませんけど」
「妙な目線を向けるんやないわ。多少思うところはあったにせよ、自分が月詠の姉ちゃんの同類とは思いとうない」

 バスタオルで頭を拭きながら、げんなりと言う小太郎。言葉通り、彼としては色々思うところがあるのだろう。
 ともかくその“狂人”は、その日新田に完全に敗北した。獲物が真剣でなく木刀だったとはいえ、それは考慮する必要はないだろう。それでも当たり所が悪ければ人は死ぬし、「獲物を選ばず」と言われる神鳴流に、素手で挑んで相手に音を上げさせる事実に比すれば、些細なことである。

「ウチはあの時打ちのめされて――多分、一度死んだんやと思う。剣士としての、狂人、月詠としてのウチは――あの時に」

 頬を染め――小さく笑みを浮かべて、月詠は言う。
 顔だけ見れば見惚れるほどに可憐だが、格好のせいで台無しである事は、この際言うまい。

「そんな、骸になってもうた――からっぽのウチに、ご主人様は教えてくれたんよ。ウチらが持つ力の意味を――この世で生きていくことの、素晴らしさを」
「えらく持ち上げてくれるが、それは結局一時の感傷に過ぎんよ。私はそれほど大層な事を言った覚えはないし、今日の犬上との事にしても、私の自分勝手と言い換えても良い。決して褒められたやり方では――」
「はいはいはいはい。あなたは黙って引っ込んでいてくださいな。これ以上話をややこしくしないでください。ね? ねっ!?」

 夫人に引きずられていく新田を、それでもうっとりとした視線で見送って――月詠は言う。

「人狼のお姉さんは、京都でウチに言いはったよね? 自分には「先生」言う人との間に子供を作るて言う――大事な努めがあるて」
「……シロちゃん……」
「シロちゃんなら納得って気もするけど――ねえ、それ横島さんが聞いたら、さすがにヒクんじゃない?」

 生暖かい目線を向けられたシロがわたわたと慌て、小太郎が心底疲れたような溜め息を吐き――そんな様子を見遣りつつ、月詠は言う。

「ウチは人狼のお姉さんが言うこと――今なら、わかりますえ?」
「……いやシロちゃん、そこで“我が意を得たり”みたいな顔しないでよ。さすがに私だってまだ、こいつへの警戒やめたわけじゃないよ?」
「お姉さん方には、わかりませんの?」

 相手が相手であるということも忘れて胸を張るシロはともかくとして――明日菜と和美は、顔を見合わせる。
 突き詰めれば好きな相手が居るのであれば、シロの言葉は一つの夢の形なのかも知れない。けれどいくら何でも、それは色々と駆け足が過ぎると言うものである。

「別にそれが全部やありまへん。ウチらには皆、ウチらの夢があって、幸せがあって――そう言うモンがあるんや。誰でもそういう心の中のキラキラした宝物みたいなものを大事にして、毎日を生きとる――そうやって生きてる人間言うんは、自然と輝くものなんよ」
「……あんたが言うと説得力無いわね。この間のあんたは、その「キラキラ」をぶち壊すのが大好きだって、そういう感じだったじゃないの」
「せやから、それが間違いなんよ。ウチは、人間が――少なくともウチらみたいな人間が一番輝くんは、生きるか死ぬかの戦いの中やとそう思っとった。せやなかったら、ウチやご主人様みたいな力は、ただの人間には過ぎたもんや」

 せやけど、と、彼女は言う。

「自分一人には持て余す力でも、誰かを守れるとなれば話は別や。世の中は無限に広うて、どれだけ力があっても足りへん。よう、過ぎた力は人を惑わせるとか言うけれども――誰かを守ろう思たら、そんなことはあらへん」
「……」
「そうやって、頑張って、守りたい思うて守った「キラキラ」は、いつかまた花を咲かせるんや。ウチはそうやって、みんなの花を咲かせて回る。もしかしたら、ウチに助けられた誰かも、また誰かを助ける事になるかも知れへん。そしたら、そしたら何時か世界は、お花で一杯になるんやないの? それは――自分が一人で、誰かを潰して気持ちようなるよりも、ずっとずっと幸せな事やと、ウチは、気づいたんよ」

 ああ、と、明日菜は気がつく。
 彼女はやはり、何処か壊れているのだろう。結局彼女の物差しは、自分がどれだけ幸せでいられるか――その一点に集約する。今の彼女の言にしても、聞こえは良いがただの身勝手だ。
 けれど――そんな壊れて居るほどに純粋で単純な彼女だから――あっさりと「それ」が出来る。
 少なくとも自分には、そんな馬鹿げたこと、と、鼻で笑ってしまう事を、心の底から信じることが出来る。
 あっけにとられているような顔をしているシロと和美を見遣り、何やら頭を抱えている小太郎に視線が移り――明日菜は、思う。自分は、何処までも、普通の少女なのだろうと。そう思ってしまうと、先程までの話とは何の関係も無いはずなのに、憧れた背中が酷く遠いものに感じてしまう。

「……まあ、それはそれで結構な事で御座る」

 明日菜が、言いようのない感覚にとらわれている事など知るよしもなく、シロは腕を組んで、月詠に言う。

「しかし、それではお主が新田先生をそうまで慕う理由にはならぬ気がするが?」
「何言うてますのお姉さん。ご主人様はウチに、こんなに素晴らしい事を教えてくれはったんやで?」
「恩を返すために自分を捧げようと言うのならやめておくべきで御座るよ。新田先生はそういうやり方を喜ぶお人では御座らぬ」
「ううん、そう言うんやないよ。ウチは、ウチがそうしたいからそうしとるだけや。お姉さんかて、理由があって“先生”の子供が欲しいわけや無いんやろ?」
「う……そ、それはもちろん、そうで御座るが――」
「あかん、その辺にしとけや犬塚。殴り合いならともかく、頭がアレな人間相手に、お前みたいな奴の問答が通用するとは思えんわ」
「それはちょっと失礼やないの犬上君。ウチはやな――」

 目の前のやりとりが、何だか壁を一つ隔てた向こうの世界の事であるように、明日菜には感じられた。




 誰かの話し声が聞こえた気がして、明日菜は目を覚ました。
 徐々に覚醒していく意識の中で、ここは何処だっただろうかと考える。見慣れない天井、壁、押し入れの引き戸――そうだ、ここは新田教諭の家の客間である。
 首を横に向ければ、並んだ布団の上で、シロと和美が小さく寝息を立てている。その向こうには、誰の手によってとは言わないが、ロープと布団で作られたボンレスハムのような物体――もとい、月詠である。果たしてあれで眠れるのものか。普通の人間ならば窒息していてもおかしくはないが――結局明日菜は寝ぼけたせいにして、深く考えるのをやめた。

(――何だろ)

 体を起こす。少し暑さを感じるせいもあって、もう一度布団に戻ろうとは思わなかった。客人用に用意してあったと言う浴衣の襟元を整えて、明日菜は立ち上がる。とりあえず、目が覚めて感じた尿意を解消しておこうと思った。
 左隣に寝ていた木乃香を起こさないようにして、廊下に出る。用を足してから余計に目が覚め、さてどうしようかと考えたところで、先程は気がつかなかった事に気がつく。
 自分たちが寝ていた客間――その向かいにある部屋の扉が、少し開いている。
 あの部屋では確か、ネギと小太郎が寝ていた筈である。千客万来となった新田邸――ネギ達がここを訪れたときの驚きようは、敢えて割愛するが――果たして新田夫人の薦めで、皆でこの家に一晩厄介になることにはなったが、寝る場所と布団の確保にも一苦労だった。結局一番小柄なあげはは、新田夫人と同じ布団にくるまっているはずだ。
 覗き込もうとも思わなかったが――何となく見えた部屋の中には、二組布団が敷かれている。その奥の方、タオルケットをはだけて寝こけているのは小太郎だ。
 その手前の布団には、誰もいない。

「……ネギ?」

 見れば、小太郎の更に向こう側、縁側の方に抜ける窓がある。風通しを良くするために、今は網戸になっているその向こう側に、小さな背中が見えた。
 明日菜は何気なく、そちらに足を向けてみる。寝相の悪い小太郎を蹴飛ばさないようにと思っていたら、もう少しで枕元に丸まっていたカモを踏みつぶすところだった。内心でほっと息を吐き、彼女は網戸の前に立つ。

「ええ――はい」

 小さく、話し声が聞こえる。どうやら彼は、誰かと電話で話しているらしい。右手には、京都で買った土産物のストラップが付いた携帯電話。存外、彼女はそれを見た記憶が少ない。電話をするよりまえにまず魔法で連絡を取ろうとするようなイメージが、目の前の少年にはあった。

「――大丈夫です。今週中には必要な区切りまで進みましたから――ええ、はい――これでどうにか落ち着きそうです。さすがに、のどかさんにテストの準備を手伝って貰うわけにはいきませんでしたから」

 相手はどうやら、彼の教え子であり――“従者”でもある、あの物静かで恥ずかしがり屋な少女らしい。と言っても修学旅行からこちら、彼女は変わったと言うべきだろう。
 常に顔を覆うような髪型が、明るく開放的なものに変わったのを皮切りに――何となく、彼女は以前より明るくなったように思う。
 むろん、前が暗かった、と言うわけでもない。ただ、引っ込み思案で恥ずかしがり屋だったその性格が、随分快活な物になったように感じられるのだ。
 人の機微などに疎い明日菜でさえそう思うのだから、クラスメイトとてきっと同じ事を考えているのだろう。そして、彼女をそういう風に変えたのは、きっと目の前の少年であるに違いない。

「いえ、そういうわけでは――……のどかさんも、夜更かしは駄目ですよ? ――僕が言うと説得力がない――いえ、今日はその色々あって、目が冴えてしまったというかその――い、いえ、そういうわけじゃないんですが――」

 ネギの声は、明るい。
 何となく、出会ったすぐの頃を思い起こさせるような声だ。出会ってすぐの――思い出すとその後頭部を蹴飛ばしたくなってくるので、明日菜は努めてそれを忘れることにした。

(ま……一時期こいつ、相当参ってたみたいだもんね。立ち直れたって言うなら、それもまあ、よし、か)

 電話に夢中になっているのだろう彼は、明日菜の事に気がついていない。まるで日本人がするように、電話を耳に当ててお辞儀をする姿に、自然、彼女の口に苦笑が浮かぶ。

「はい――はい。それじゃ、また月曜日に。おやすみなさい――っ、の、のどかさんっ!? も、もう――あまりからかわないでください! それじゃ、もう、切りますからねっ!」

 妙に慌てたような仕草で電話を切るネギ。一体電話の向こうの少女に、何を言われたというのだろうか? 明日菜は腰に手を当て――そして、言った。

「この不良教師。いつのまに本屋ちゃんとそんなに仲良しになったのよ?」
「わあっ!? あ、明日菜さんっ!? いつの間に!?」

 面白いくらいに肩を跳ね上げて、ネギはそのまま縁側から落ちそうになる。明日菜は無意識に彼の手から離れた携帯電話を空中で受け止め――反対の手でネギの細い腕を掴み、部屋の中に引き上げる。

「そのリアクションは何よ。教師と生徒がイケナイ話してたって、朝倉に告げ口するわよ?」
「ち、違いますっ!! そんな――ちょっと、ちょっと目が冴えてしまって――何気なく携帯を見たら、のどかさんからのメールが来ているのに気がついてっ!」
「ふうん――あんたいつの間に、あの子を“ファースト・ネーム”で呼ぶようになったわけ?」
「――ッ!!」

 自分でも、そんな自覚は無かったのだろう。ネギは思わず、口元に手を当てる。
 明日菜はそんな彼にじっとりとした目線を向けつつ――自分も浴衣の裾を抑えながら、縁側に座る。

「で、どうなの?」
「な、何が――ですか?」
「とぼけんじゃないわよ。あんた――あの子の事、好きなの?」
「いっ……いや、のどかさんはその――僕の“魔法使いの従者”ですし、成り行きでそうなったとは言え、僕は、あの――いや、だからと言って彼女が嫌いだとか、義務感だけで主従関係を続けようとか、そう言うのではなくてですね!?」
「私に言い訳してどうすんのよ」

 わたわたと手を振り回すネギを、片手であしらいながら、明日菜は言う。

「そこで寝てる小動物の話じゃ、今時“魔法使いの従者”って、恋人探しの口実に使われるくらいなんでしょう?」
「それはあくまでそう言うこともある、と言うことです! 魔法使いと従者は、強い絆で結ばれるものですから、異性に対してそれを頼むと言うことはですね!?」
「わかったからあんまり騒ぎなさんな。みんなが起きてきても知らないわよ?」

 そこでネギはまた、ビデオの巻き戻しのような動きで口を覆う。
 全くこいつは、こういうところでは何も変わらないと、明日菜は思う。

「……やっぱりあんたは、そう言う方が良いわ」
「あ……その――明日菜さんと木乃香さんには、迷惑を掛けたと、思っています」

 自覚はあるのだろう。自分が一時期、負のオーラを振りまいていたと言う自覚は。けれど見方を変えれば、それだけかつての自分を客観視できている、と言うことでもある。
 それも当然か、と、明日菜は思う。彼が自分たちの所にやってきてから、色々な事があった。出会ってすぐに魔法使いである事を知らされ、クラスを巻き込んだテストの時の大騒ぎ。
 進級したかと思いきや、すぐに“悪の魔法使い”であったエヴァンジェリンと大喧嘩をやらかし、相坂さよの一件を通じて魔法使いという生き方に対して酷く悩み――そして京都への修学旅行で、彼は吹っ切れた。
 彼はそんな毎日を、乗り越えてきた。この数ヶ月を、振り返る事が出来る場所にやって来たのだ。

「……何か、あんたが遠く見える」
「明日菜さん?」

 翻って、自分はどうだ。
 色々と考えさせられる事はあった。ネギを通じて、知らなかった世界を目の当たりにした、自分には。
 けれど――その世界を見て、自分はどうなった?
 確かに、色々と考えた。考えはしたけれど、それが今の自分に結びつくだろうか?
 自分は、和美や木乃香のように、事件の当事者にはなっていない。ただ、それを傍観していただけだ。シロや楓、のどかのように、自分から事件に深く首を突っ込もうとさえしなかった。
 むろん、ネギのせいで巻き起こる、魔法云々関係の大騒ぎは、自分には本来関係のない物だ。そもそも、彼を自分の所に押しつけられたという事実だけでも、十分すぎるかも知れない。
 けれど――いつの間にか自分は彼の、彼女たちの背中を追っている。そんな気が、する。

「……何か、困ったことでもあるんですか?」
「別に――ただの気まぐれ。私もたまには、そういう柄にも無いことを考えたりするのよ」

 そう言って明日菜は首を横に振る。

「何でこんな急に、こんな風に思ったのかは、私にもわからない」

 だが何にせよ、と、彼女は思う。
 自分は、変わりたいのか? 身の回りにいる皆のように――明らかに、今までの自分とは違う何かに、なりたいのか?
 そうではない。きっと今は、嵐のように移りゆく日常を前にして、焦っているだけなのだろう。
 ネギは変わった。自分の友人達も変わった。ならば自分は、今のままで居ても良いのだろうか? そんな風に思うのだ。
 実際のところ、自分の周りが変化することは、自分にとっては関係のないことだ。影響を受けねばならない理由など、どこにもない。
 夜風を受けた彼女の亜麻色の髪が、ふわりと流れる。

「気まぐれついでに――ねえ、私、仮契約って奴してあげようか? あんたと」

 ネギは、その言葉に固まった。

「そうしたら、私はもう少し、あんたの役に立てるかも知れない。そうしたら――あんたにとっても、悪い話じゃないでしょう?」

 かつてカモは、そうすれば明日菜は“戦力”になれると、そう言った。
 魔法使いによって資質を底上げされ、専用の武器を与えられ――嫌でも、ただの中学生だった自分とは違う何かになる。そうすれば――そんな風にして微笑む明日菜に、ネギは言った。

「僕には――少なくとも今の僕にはのどかさんが居ます。明日菜さんの気持ちは、たとえ気まぐれだろうが何だろうが嬉しいけれど、その必要は、ありません」
「……」
「明日菜さん」

 ネギは言った。

「僕は、明日菜さんにとても迷惑を掛けてきました。謝っても、許して貰えるとは思いません。明日菜さんにとって、ハッキリ言えば僕は、嫌な奴だろうと思います」
「あんたね……それじゃ私が悪者みたいじゃないの。言ったでしょ? 本当にあんたのことが嫌いなら、とっくの昔に部屋から追い出してるって」
「だから僕がこういう事を言う資格は無いのかも知れませんが」
「だから聞けって」
「先生として――明日菜さんの悩みを、僕は聞きたい」
「――」

 僕は、と、ネギは続けた。

「僕は明日菜さんにとって、頼りない先生だと思います。でも、先生なんです。その事実が存在する限り――僕は、明日菜さんを、助けたい。結果としていつも僕が助けられている。けれどそれでも、手を伸ばしたい」
「……ネギ」
「大きなお世話だって、明日菜さんは言うでしょう。けれど、僕は――何度でも、向かい合います。先生、だから。今度は、今度こそは――それは嘘じゃ、ない」

 エヴァンジェリンと「喧嘩」をしたとき――結局ネギは、逃げてしまったのだろう。
 形としては、立ち向かった。けれど。それは立ち向かうという形を取れば「逃げていない」と証明が出来るから。そんな理由だったに違いない。
 何せ中身が空っぽだったのだから。そんな自分があの時エヴァンジェリンに何が言えたのだと、ネギは言った。

「……ネギ、私――本当に、そんなに大層な悩みを抱えてる訳じゃないのよ?」
「なら、なおのことじゃないですか。どうでも良いくらいの悩みならきっと、どうでも良いような担任にぶちまけたって、悪くはないと思います」
「……」
「さあ、遠慮せずに」

 ネギはそう言って、大仰に胸を張ってみせる。
 その様子に目を丸くする明日菜だったが――何だか、何処からともなく笑いがこみ上げてきた。口元に手を当て、こぼれる笑いを押し殺す。

「――くっ……くくっ……ああ、もう……何だかなあ」
「?」

 しばしの間、笑いを堪えていた明日菜だったが――ややあって、笑いすぎて目元にたまった涙を指で拭いながら、ネギに言った。

「ねえ、ネギ――この間の進路相談の事なんだけど」
「あ、はい……明日菜さんは確か、麻帆良の本校高等部に進学希望でしたよね? いくらなんでもそれが無理だとは思いませんが」
「それどういう意味だおい」
「い、いえ――他意はありませんよ!?」
「……まあ、いいや。ね、私――何となく今、自分のやってみたいことが見えた気がする。随分遅くなっちゃったけど――進路相談、乗ってくれる?」

 ネギは驚いたように、明日菜の顔を見た。
 しかし、すぐにしっかりと頷いた彼に、明日菜は、口を開く。

「決めた――私、学校の先生に、なりたい」

 そして少女達の日常は――少しずつ、変わっていく。
 彼女たちが大人に近づくのと、歩みを揃えながら。










いつから新田先生が普通の人だと勘違いしていた? ――最初からそうは思っていなかったというあなた、大正解。
とはいえ、彼は結局「普通の人」だと、僕は思ってます。かれはただの教師であり、強かろうが弱かろうが、それが教師としての彼に何か関係があるわけではありませんし。

翻ってうちの明日菜さんは本当にどこまでも普通の女の子。
修学旅行編が終わってまだアーティファクトを持っていない彼女というのも、ネギまSSでは割と珍しい気はします。

そして前回の投稿から半年程度。
その間に書いたオリジナル小説を、今度投下してみようと思います。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「DAY1 雨音」
Name: スパイク◆b698d85d ID:519a7d14
Date: 2013/01/13 01:58
 きっかけは、きっと小さな物だったに違いない。
 ほんの少し、あの時の「彼」とは違う行動を誰かが取った。あるいは、取らなかった。そんなほんの些細な事だったに違いない。何故ならば、彼もまた「彼」であることに違いはないのだから。
 けれどそんな些細なことで、歩く道先は大きく変わってしまうのだろう。
 それは確かめようのないことだ。選ばなかった未来を、誰しも知ることは出来ないのだから。
 けれど何となく、そう言うことはわかる。
 だからあの時、彼女は言った。

「何があったのか知らないけれど――こんな女は私とは別人よ」

 決して思い出すことの出来ない、消し去られた記憶の中で、彼女は確かに、そう言った。
 あるいはその事を彼女が覚えていたとしたら、彼が覚えていたとしたら。
 彼らの歩く道は、また違った物になっていたのだろうか。
 彼らの歩く道が分かれたのは、一体いつのことだったのだろうか。




 一日目。月曜日。
 東京都内某所、美神令子除霊事務所。
 今日も今日とて、業界に名声を響かせるその一流ゴースト・スイーパーの事務所では、変わらない日常が流れていた。
 一度の依頼で億単位の金が動く、そしてその金額に似合うだけの素晴らしい成果を残す――業界に於いて知らぬ者の居ないその事務所は、一見してそのように見ることは難しい。都内の某所に立つ、赤煉瓦の古びた建物。しかしその実は耐震・対火・対霊建築技術の粋を集めた、人工霊魂によって管理される、一種の砦である。
 元・渋鯖男爵邸、現・美神令子除霊事務所――その、地下ガレージ。
 地上の外見から受ける印象よりもかなり広いその場所には、所員達の愛車が収められている。
 持ち主の如く、その艶めかしく大胆なフォルムをこれでもかとばかりに誇示するシェルビー・コブラ。
 エッジの効いた、自動車というよりもはや戦闘機を思わせる凶暴なシルエットのランボルギーニ・ガヤルド。
 見た目は愛らしいコンパクトカーである筈なのに、そこに佇むだけで異様な存在感を放っている新型フィアット500。
 存在感と言う意味ではそれらの車に及ばないが、細部にまで手が入れられた事が一見して伺える、凛々しいたたずまいを見せる日産、R34スカイラインGTターボ。
 そう言った堂々たる(一部何かがおかしいにせよ)車が整然と並ぶ空間の片隅に蠢く、怪しげな人影がある。
 並べられた所員達の車や、メンテナンス用の工具が所狭しと並ぶガレージの中で、その一角は妙にすっきりとしている。それも当然である。このスペースには、所員達の愛車の中では唯一の二輪車が収まっている。
 精悍な漆黒のフルカウルを纏う、リッタークラスのスーパー・スポーツ。カワサキZX-10R初期型。
 近づいてみればその黒は塗装ではなく、実はカーボンの地肌が剥き出しになっている事に気づく者もいるだろう。当然ながら――純正品ではなく、そもそもが国産量産車のボディに使われる事などあり得ない素材である。それも当然だ。ものが二輪車レースの最高峰――MotoGPに於いては、外装だけで数百万円の費用がかかると言われる最高級の素材である。
 そんなよく見れば明らかに普通ではないバイクの側には、よく見なくとも明らかに怪しい人影が、二つ。大きいのと、小さいの。どちらも薄汚れた作業ツナギに身を包み、手をオイルまみれにしながら、何やら作業に没頭している。

「ああもう――ケイお兄ちゃん、また適当にいじったでしょ。同調おかしくなってるし、変なバイブレーション起こしてるよ」
「そう? この間京都に行ったときに変な息付き感じたから、それを直そうとしただけなんだけど」
「もう」

 そう言って、小柄な方が腰に手を当てて立ち上がる。
 年の頃は七、八歳と言った所だろうか。背中の真ん中程まである特徴的な赤毛を、無造作に一つに束ねた髪型の、眼鏡を掛けた可愛らしい少女である。その整った顔立ちは、彼女がやがて多くの衆目の視線を集めるだろう未来を予感させるが――エンジンオイルに汚れ、大きな瞳を分厚い眼鏡の奥に隠したこの状態では、それも台無しである。

「何度も言ってるでしょ? この子は、並のエンジンじゃ無いんだから。この間暖気サボってオイル漏れ起こしたでしょ。これで何度目?」
「う……反省してます、ひのめちゃん」

 美神ひのめ――世界最高のゴースト・スイーパーと名高い、美神令子の実の妹。
 何でも彼女が生まれたとき、彼女の母親である美神美智恵は、長女である令子の失敗を繰り返さぬ事を心に決め、夫である美神公彦と共に育児に専念したという。
 むろんその「失敗」に関して、とうの美神令子は反論したそうだが、果たして孤立無援であることに気がつき、やけ酒に走ったという経緯には触れるべきではないだろう。
 その結果次女、ひのめ嬢の教育に関して、美神夫妻が成功を収めたかと言えば――作業ツナギを着て仁王立ちする彼女と、その年端もいかない少女に向かって頭を下げる藪守ケイ――その光景に集約する。敢えて、それがどうだとは言うまい。

「タイヤも結構いってる感じだし――これ、ちゃんと曲がるの?」
「まあそこは強引にねじ込んで言ってる感じで――だってこの間換えたばっかりだし、そんなにお金無いし……」
「ふん――いい? ケイお兄ちゃん」

 オイルが眼鏡のブリッジに付くのも構わず、ひのめは人差し指で眼鏡を押し上げてみせる。

「近頃のバイクってのは、走るだけなら相当頑丈に出来てる。けど、全部を使い切ろうと思ったら、そうはいかない。美味しいところは――」

 中途半端に下げられていたケイの額を、その人差し指で小突く。

「ほんの、少し」
「……」
「忘れちゃ駄目だよ? 悪魔のように繊細に、天使のように大胆に――魔性の女を扱うかの如く、ね?」
「それなりに……善処します」

 ケイのその返答は、彼女にとって満足するものだったのか。ツナギの袖を大きく捲った細い腕を組み――ひのめは首を振る。

「ま、ケイお兄ちゃんなら、そんなもんか」
「……あれ? 何か僕、馬鹿にされてる?」

 いつからこんな風になっちゃったんだかな、少し前まで、普通に可愛い赤ん坊だったのにな、と、ぶつぶつ呟き始めたケイを見遣って、ひのめは言う。

「ほうら、そこで腐ってないで、早く作業終わらせちゃうよ! 私は今日学校お休みだし、ケイお兄ちゃんも仕事が入ってないし――“この子”のメンテ代代わりに、午後は“デート”に連れてって貰うんだからねっ!」
「はいはい」
「よろしい、それじゃ――」

 満足そうにひのめが何かを言いかけた、その瞬間だった。
 けたたましい音と共に、事務所からガレージに通じるドアが開け放たれる。ともすれば蝶番が外れたのではないかと思う間もなく、その中から転がり出てくる金色の影。
 もとい――美神除霊事務所所属ゴースト・スイーパー、千道タマモその人である。黙って立っていれば誰もが振り返るであろうその美貌は、今は見る影もない。スーツを着崩し、汗を拭こうともせずに立ち上がるその姿に、ケイもひのめも、何も言えない。

「よしこれで少しは――あ、ケイ、ひのめっ! 丁度良いところに、あんたら――」
「――何処に行くおつもりですか?」
「げっ!? もう追いついて来たっての!?」

 呆然と立ちつくす二人に何やら勝手なことを言いかけて――次いで響いた、ぞっとするほどに冷たい声に、タマモは慌てて踵を返す。すぐ側にあった自分の車に急いで乗り込み、イグニッション・オン。
 五リットルもの排気量を持つガヤルドのエンジンが目を覚まし、凶暴な排気音がガレージの中に木霊する。

「人工幽霊壱号! シャッター開けなさい!」
『はあ……しかしタマモ様、何処に逃げたところで結局は先延ばしにしかならないのでは』
「だからって座して死を待つのも御免よ! いいからさっさとなさい!」
『……』

 半地下のガレージから、地上に繋がるスロープの先にあるシャッターが、誰の手も触れずに巻き上がっていく。当然、この古めかしい建物に、電動シャッターが備え付けてあるわけではない。
 渋鯖人工幽霊壱号――この館そのものに宿る、作られた魂である。館に存在する全てのものは、彼の手足も変わらない。
 駐車には十分なスペースがあるとはいえ、広いとは言えないガレージである。さらに大柄なタマモの車には窮屈な空間である。しかしそんなことはお構いなしとばかりに、派手にタイヤを滑らせながら、ガヤルドは急発進――

「それで逃げられるおつもりですか? 喰らいなはれ、京都大文字焼――」

 膨大な熱気が、辺りを支配する。その熱量に、“とある理由”からひのめは目を丸くし、ケイは純粋な恐怖から思わず手で顔を庇う。車両用の燃料や石油類が大量に存在するこの空間に、突然現れた巨大な火球――下手をすれば、この建物が更地になってもおかしくはない。
 だが、そんなことは杞憂であった。巨大な火炎はタマモの車を一瞬で包むが――その塗装をすら焼くことはない。その代わりに――

「なっ……え、エンジンがっ!?」

 ガヤルドのエンジンが、静かに停止する。エンジンストール――そんな馬鹿な、タマモほどの腕を持つドライバーが、クラッチミートをミスする筈もない――だが、その僅かな時間で、彼女自身はその理由に行き着いたらしい。

「――まさか、あんたっ!?」
「さすがのウチも、その車に追いつくのは骨ですからなあ――せやけど、車のエンジンっちゅうもんは、存外ウチに相性がええのんですわ」
「エアインテーク周辺の酸素を、狐火で奪い尽くして――嘘でしょ!? そんな器用なこと、ただの妖狐に出来るわけが」
「ただの妖狐やありませんえ? これでもウチ――それなりに、車は好きなんよ」

 運転席で呆然とするタマモににっこりと、眼鏡を掛けたラフな格好の女性――天ヶ崎千草は、微笑みかけた。

「ほなら、行きましょか? ええ加減、千道はんと所長さんには、節税と脱税の違いをわかってもらいませんと――折角情状酌量で豚箱に入らず済んだウチが、脱税で捕まったなんちゅうて、笑い話にもなりませんからなあ」
「そっ……それなら、私をこんなところまで追いかけてきている暇なんか無いわよ! あの守銭奴、もといウチの所長が、悠長にあんたの説教なんて――」

 襟首を掴まれ、今まさに連れ去られようとするタマモは、それでも必死の抵抗を試みる。仮に所長である美神令子が目の前の女性から逃げおおせたところで、それで自分に何か救済があるわけではない。憚ることなく利己主義者を自称するタマモにとっては、らしくない言い訳である。
 だが――そんな苦しい言い訳を口に仕掛けた瞬間、大地が、揺れた。
 否、これは上層階からの振動である。ほんの一瞬、まるで地震のような揺れが、美神令子除霊事務所を襲ったのだ。

「上の方でもカタがついたようですなあ」

 タマモの襟を片手で掴んだまま、千草はジーパンのポケットから携帯電話を取り出す。

「花戸はんですか? 首尾は――ああ、上々ですなあ。ほなら仕上げに例のアレを――ええ、それくらいやらんと止まるようなお方ですかいな。一文字はんもそちらにおりますの? ほなら、よろしゅう頼みますえ?」

 電話口の向こうから、『私は引田天功か――ッ!?』という美神令子所長の絶叫が聞こえたような気がしたが、事務所の上階で何があったのか、それを問う勇気はない。ケイにもひのめにも――もちろん、タマモにも。

「ほなら逝きますえ? いい加減世界最高のゴースト・スイーパーと、伝説の九尾の狐のお二方には――社会常識言うもんを、知ってもらわなあきまへん」
「社会常識云々はともかくとして、あんたいまとんでもないこと言わなかった!?」
「はあ、主旨は同じやさかい」
「否定してよそこは!? ちょっ……け、ケイっ! ひのめっ! 助けて! たすけ……」

 ばたり、と。
 古めかしい音と共に、ガレージの扉が閉じられる。
 その場に残されたのは、中途半端な位置でドアが開いたまま放置される車と、呆然と一連の出来事を見守っていた青年と少女のみ。二人はしばらく、閉じられたドアを見つめていたが、ややあって、

「……それじゃシャワー浴びて、用意しようか、ケイお兄ちゃん?」
「え!? 今の無かったことにする気?」

 何事もなかったかのように、花が咲いたような笑顔を浮かべた少女に、ケイは顔を引きつらせながら振り返る。

「だからって、私たちがどうこうできるものじゃないし――しようとも思わないし。お姉ちゃん達にも、たまには良い薬でしょ」

 手遅れかも知れないけれど、と言って、ひのめは笑う。実の姉に対して、それは何とも酷薄なのではないだろうか――そう思わないでもないケイであるが、それを口に出す勇気はない。第一、心底彼もそう思う。

「まあ、千草さんをスカウトするって言い出したのはタマモさんだし、採用を決めたのは美神さんだし――言い方としてはおかしいけど、自業自得と言えなくもないか」
「そう言うこと。あの二人にしたって、いい加減オトナになってもらわなきゃ。そう言う意味では、図らずもベストな人選だったんじゃない?」
「……ひのめちゃんって、僕より年下だよね?」
「そう見えないなら病院に付き添ってあげるけど、折角の休日をそんな風には過ごしたくないかな?」

 いまだ人間としても、この業界に身を置くプロとしても青二才である若造だと、ケイは自分を評価している。自虐するわけでもなく、その評価に間違いはないだろう。だが、そんな彼の半分も生きていない少女が浮かべたその表情に、彼は何だか背中を妙な物がはい回るような錯覚に襲われた。

「結局あの姉にしてこの妹あり、か……」
「私、お姉ちゃんの事は嫌いじゃないけど、一緒にされたくはないよ? 時々本当に私と血が繋がってるのかなって、そう思うときがあるし」
「絶対に間違ってないと思うよ? キミが生まれた所に立ち会ってない僕でさえそう思う」
「それ、どういう意味?」
「いや、深い意味は」

 じっとりとした目線で見上げられて、ケイは思わず目をそらす。
 同時に――また、事務所が揺れた。
 果たして二人は押し黙り、細かなホコリが落ちてきた天井を見上げる。

「……さて、シャワーでも浴びようか」
「そだね。ここでこうしてても仕方ないし――一緒に浴びよ?」
「嫌だよ」
「……照れるでもごまかすでも無くハッキリ『嫌だ』ってケイお兄ちゃん……さすがに私、ちょっと傷ついたんだけど」
「僕はいろんな意味でまだ死にたくないってだけさ」

 可愛らしく頬を膨らませる少女を尻目に、ケイは閉じた扉のノブを回す。
 扉を開き、階上へ通じる通路へと一歩足を踏み入れる。ふと、彼の動きが止まった。

「ケイお兄ちゃん?」

 その後ろからついてこようとしたひのめは、怪訝な顔をして彼を見上げた。
 彼はそんな彼女の様子に気がつき――何でもないと、首を横に振る。

「いつの間にか雨――降ってきたみたいだ」




 同時刻、東北地方某所。
 辺りを見回せば、天をつく程に高く聳え立つ山々の間を、目が眩むほどの深い谷が縦横にはい回る。ここは本当に日本なのだろうかと疑ってしまうほどの急峻な山脈地帯のただ中に、その場所はある。
 谷間に建てられた、高く聳え立つ塀。それを見ただけで、思わず歩みを止めてしまうほどの圧迫感。それを越えて中に入ろうと――もとい、その「内側の世界」を想像させる事すら諦めてしまいそうな堅牢な城壁。
 唯一開かれた朱塗りの扉は、どちらかと言えば大陸風の拵えである。どのような木材を使用したのかとあきれかえりそうな巨大な門には、恐ろしい形相をした鬼の顔が二つ、左右の門扉に堂々と据えられている。
 そしてその扉の両脇には、首のない、筋骨隆々とした男の石像が、まるで門番のように立っている。気の弱い人間ならば、この光景を見ただけですくみ上がってしまうだろう。もっとも、そのような人間が、この険しい山道を抜けて、この場所までたどり着くことが出来るとは到底思えないが。
 その扉の前には、立て札が立っている。刻まれた文字は果たして――

『この扉をくぐる者、汝その一切の望みを捨てよ ――管理人』

 何の冗談かと辺りを見回しても、すくみ上がるような圧迫感は変わらずに存在する。知らぬ者ならば、ここは一体何なのだろうと頭を抱えたくもなるだろう。
 だがそのような者は――少なくともここを訪れるのに者には、存在しない。ここを訪れる者は皆、ここがどういう場所であるかを理解し、高い志と鋼の覚悟を持ってして、その扉を叩くのである。
 妙神山修行場――その場所は古来より、そう呼ばれていた。
 地球上に点在する、この世界とは別の世界を繋ぐ扉のうちの一つであり、この場所を治めるは、れっきとした「神」と呼ばれる存在。そう――ここは、己の命さえ賭する覚悟と引き替えに、神々の試練を受けることが出来る、そんな奇跡の場所なのである。
 そしてその奥――今日も今日とて、修行を積む者達の声が、響き渡る。

「そら、どうした! その大層な口は飾りかっ! そうでないなら声を出してみろ、このウジ虫共がっ!」
「「「サー・イエス・サー!!」」」
「弾よけにもならんクソッタレ新兵共め、それなら牧場の雌豚の方が余程良い声で鳴くわ! もっと人間らしい声を出さんか!!」
「「「サー・イエス・サー!!」」」

 ――訂正。
 確かに鍛錬には違いないのだろう。だが、「修行」と言うには、些かベクトルのずれた光景が、このところの妙神山では展開されている。

「ようしそこの貴様! 名前は何だ、言ってみろ!」
「三原一等陸曹であります、サー!!」
「だらだらと弛みやがって貴様にそんな大層な肩書きは必要ない! 俺は今から貴様をクソ虫と呼ぶ、わかったかこのクソ虫が!」
「サー! イエス・サー!!」

 揃いの迷彩服を身に纏い整列する、数十人からの男女。彼らは皆一様に直立不動であり、浴びせられる罵声に、壊れたレコーダーのようにただただ同じ文句を返し続ける。
 そんな彼らの間を歩き回りながら、耳を覆いたくなるような罵声を投げかけ続けるのは、一人の若い男である。だが彼は、一見して、ただの人間ではない。
 オリーブグリーンの軍服姿に身を包み、ベレー帽を被ったその人物は、一言で言えば優男であった。口汚い言葉に似合わぬ恐ろしいほど整った顔立ちに、流れるような銀色の髪。
 しかし――その耳は鋭く尖り、肌は人間にはあり得ないほどに青白い。
 彼の名はジークフリート。人間とは違う、邪悪な存在が棲まう世界――「魔界」の軍隊に所属する、人外の軍人であり――北欧の神話に登場する、れっきとした神の一柱でもある。

「貴様ら俺が憎いか! そうだ、存分に憎め! 俺は貴様らを一人前になるまで徹底的にいたぶってやる! そうすれば貴様らは俺を憎む! しかし、憎めば憎んだだけ成長する! ありがたくて涙が出るだろう、どうだ!?」
「「「サー! イエス・サー!!」」」

 もっとも唾を飛ばしながらどこぞの映画に登場する鬼軍曹のような事を喚き散らすその姿に、神話に登場する神の神々しさを期待できるかと言えば――その回答は難しいだろうけれども。
 ふと――罵声を浴びせられ続ける男女のうち、一人が小さく呟く。

「自己満足野郎が、偉そうに吠えやがる」

 その声に、人外の青年士官が立てる靴の音が、止まる。

「……誰だ? 上等だ。中々面白いことを言ってくれる――」

 そう言って、彼はすぐ隣に立っていた男の胸ぐらを掴む。

「貴様か!?」
「サー! ノー・サー!!」
「ならば貴様か!? 返事をしろっ!」
「サー! ノー・サー!!」

 次には、その後ろに立っていた女性。しかし彼女もまた悲鳴をあげるでもなく、ただ、自分の知っている言葉はそれだけだとばかりに、声を張り上げる。
 果たして――少し離れた所に立ってた大柄な男が、小さく言った。

「サー・今のは自分であります、サー!」
「ほう」

 ジークフリートは、踵を返し、その男の前に立つ。
 白人系の大柄な男である。背丈だけで言えば、長身の部類に入るだろうジークフリートよりも更に高く、体の“厚さ”など、もはや比べようもない。
 そんな彼を――まるで逆に見下すような目線で、ジークフリートは言う。

「良い度胸だ」
「サー・光栄であります」
「よし――気に入った。家に来て姉上をファックしていいぞ」

 そのまま男の腹に、拳を叩き込むべく彼は――

「サー! 大変光栄でありますが、それは遠慮させていただきたく思います!!」
「何だと? ……貴様、姉上の何が気に入らんと言うのだ?」
「サー! 自分はワルキューレ少佐をお慕いしております、ですが、後ろをご覧ください、サー!」
「……?」

 言われて振り返ったジークフリートの動きが、そこで止まる。
 いつしか彼の背後には、何処か彼と似通った――恐ろしいほどの美貌を持つ、しかし彼と同じように人にあらざる肌の色をした女性軍人が立っていた。

「面白い事を抜かしてくれるな、ジーク。我が家で誰をファックしてもいいと?」
「あ……姉上――いつからそこに?」
「貴様らが飽きもせず何処ぞの映画の真似事を始めた時からだ。全く何度目だ。情報戦部隊に追いやられたお前が、久方ぶりに力を振るえることにはしゃぐのはわかるが、よくもまあ――それで、だ」

 不気味な色の――しかし底冷えがするような色気を感じる唇を歪め、彼女――ワルキューレは、言う。

「お前は誰をどうしていいんだと?」
「いえ、姉上ですからこれはものの弾みと言いますか、予定調和と言いますかそのですね。大体姉上だってさっき言ってたじゃないですか映画の真似事だって、それがわかってるなら――……」




「あらワルキューレ、もうこちらに来ていたのですか。先程までジークが訓練の指揮をしていたはずですが」

 ひょいと、奥の方から顔を出した若い女性が――しかし頭髪の間から見え隠れする角が、彼女もまた人間でないことを物語っている――先の女性軍人に声を掛けた時、彼女の足下にはモザイクが掛かったような何かが横たわっていた。
 どうやら彼女には、その物体が何なのかは判断できなかったようである。




「ヒャクメの奴はまだ報告書に掛かっているからこちらに来るには暫く時間が掛かろうが――結論から言えば、我々が追っていた反デタント主義者とテロリスト共は関係がなかった」

 妙神山宿坊――主に修行者達が寝泊まりする、それなりに広い敷地を持つその建物の一角。表の巨大な門と同じく、こちらも中華風の建造物であるが、その片隅にある一室。
 そこで二人の女性が、漆が塗られたテーブルに置かれたお茶を前に、向かい合っていた。
 一人は、怜悧な美貌を持ち、妖艶な魅力を秘めた肢体を軍服に包んだ人外の軍人、ワルキューレ。つい先程何だか良く分からない物体と成り果てた魔界正規軍士官、ジークフリートの姉でもある。

「そうですか――やはりそう簡単に尻尾を見せるような相手ではありませんね」

 難しそうな表情を浮かべて湯飲みを傾けたのは、この妙神山修行場の管理人でもある小竜姫である。
 見た目は小柄で華奢な、せいぜいが二十歳にもならないような少女にしか見えないが、頭髪から伸びる角が示すとおり、彼女もまた見た目通りの存在ではない。それこそ人間など塵芥も変わらないほどの膨大な力を持つ竜の化身――“龍神”の一族であり、千年以上もの時間を生きてきた正真正銘の神様である。
 かたや北欧神話の戦乙女、かたや古より大陸に伝わる伝説の竜。
 見るものが見れば腰を抜かすだろう彼女たちがこうして顔を突き合わせているには、訳がある。
 この世界は、聖なる力と悪しき力のせめぎ合いによって、バランスが保たれている。
 それは何処ぞの思想を表すような比喩でなければ、単純に彼女たちのような強大な力を持つ存在がぶつかり合えば、ただでは済まないなどというわけでもない。後者に関してはそう言った意味合いもまあ、無くはないが。
 しかし、神とは、魔物とは何であるのか、それを考えて見れば、事は力の持つ危険さなどには収まらない。
 たとえば彼女、ワルキューレは、神話の存在が具現化したものである。言ってしまえば神だとか悪魔だとかいう存在は、概念が、形を持って、そこに存在しているのだ。
この世界を構成する概念が、まるっきり神と魔物に分けられるというわけではない。しかしそれらが争った結果どちらかが勝つと言うことは――負けた方の概念の「消失」を意味する。
 今までそこにあって当然だったものが、無かった事にされる。世界を世界たらしめる何かが、欠け落ちてしまう。そうなったとき、世界はきっと今の姿を維持できない。
 だから彼らは、手を取り合い、しかし、対立する道を選んだ。
 秩序ある対立――「デタント」と言われる状態である。
 神と魔物は対立する。相反する。しかし、そうしている限り、世界は存在することが出来るのだ。
 むろん――それが理想の状態であるとは言えないのかも知れない。けれど、神の目からしても、歪ながらも立派に成長したこの世界を成り立たせるのに、少なくともベターな選択肢ではある。
 だから当然、そんなことをしていれば跳ね返りが現れるのも当然である。
 かつてその茶番に、茶番の中で悪役を演じるしかない運命に耐えられなかった一人の男が、悲壮な覚悟と共に立ち上がったのはそれ故に。しかしその話は――今は、語られるべきではないだろうが。
 ともかくワルキューレは、このデタントに反対する過激派の悪魔が、中東のテロリストを手引きしているという情報を得て、現地に内偵調査に出向いていたのだった。高位の魔物である彼女は、いくら世界にとって危険な状況であるからと言って、人間の世界に於いてそれほど自由には動けない。その任務は楽な物ではなかっただろう。
 その割に――自分の仕事を空振りだと言う彼女の表情に、疲労はない。

「だが――一つ、気になる噂を耳にした」

 彼女が言うには、本来の任務は空振りに終わったという。テロリストを指揮していたのは、悪魔などではなく、単に欲に目が眩んだ人々だった。それはそれで許すことの出来ないものであるにせよ、彼女にはもう、そんなことは関係ない。

「気になる噂、ですか?」
「中東のオカルト組織を探っていた時のことだ。小竜姫、お前は、“ムンドゥス・マギクス”という言葉を知っているか?」
「……いえ、聞き覚えはありませんね」

 何となれば横文字が苦手な東洋の女神は、小さく咳払いをしてお茶を啜る。

「こちらの言葉に言い換えれば――“魔法世界”と言ったところか」

 湯飲みを持ち上げた小竜姫の手が、止まる。

「ふん――詳しくを言うまでもなく、お前には引っかかるところのある言葉ではないか?」
「……それは、横島さんの」
「そう、戦友・横島の赴いた地――あそこは、その“魔法使い”を牛耳る者ども。つまりは“魔法使い”の治める土地だと。魔鈴はそう言っていたな」
「……」
「当然、それ自体は戦友・横島とは何の関係も無いことだ。戦友・横島とパピリオ――今は“あげは”だったか。今のあの二人にとって、あの土地はあつらえたかのように都合が良い。むろん最良の環境をと言うのなら、どうにか私が魔界の上層部に掛け合って、実際に“あつらえた”場所を用意してやるのだが」
「しかしそれでは」

 そう、と、小竜姫の反論に、ワルキューレはため息をつく。

「デタントに縛られた我々にそうそう出来る事ではないし、仮に出来たとしても、あの連中がそれを喜んでくれるとは思えんがな。どうせこういう話が出たとき、神族の側にも似たような意見はあったんだろう? 先の大戦の功績がどうだとか、神魔交流のテストケースであるパピリオの存在がどうだとか、色々と理由を付けてな」

 その言葉に、竜の女神は返答を返さなかった。生真面目で優しい彼女の事である。言葉を濁すことが出来なかったのだろう。つまりは、それは肯定に等しい。
 むろん、彼女の人となりを知る魔性の戦乙女にとって、もはやそのような事を気にするまでもないが。
 話を元に戻そう、と、ワルキューレは言った。

「どうやらその世界も色々と話題には事欠かんようでな。特に過激な連中の動きが、近頃活発なのだそうだ」
「……“魔法使い”が元々人間である以上、我々は過度に首を突っ込む事は出来ませんが――その彼らの動きが、我々の追っている者にたどり着くと?」
「その内容までは、知ることは出来なかった」

 だが、と、彼女は言う。
 整った怜悧な容貌が、僅かに歪む。

「奴らは少し前に――この日本。もっと言えば京都で、とある人物に接触をしたらしい」
「……?」
「そいつは少し前に“魔法世界”の戦争で活躍した英雄の息子だそうだ。その英雄は大戦の後に行方不明となり、死亡説も流れ。そんな中注目を一心に浴びるその息子に接触した跳ね返り共――まあ、そう言うのは何処にでもある話だろう。話題性は十分だし、さりとて、取り立てて我々が騒ぐ事ではない」
「はあ」
「……だが小竜姫――その英雄の名は“ナギ・スプリングフィールド”と言うそうだ」
「!?」

 その瞬間、強大な力を誇る竜の女神の顔に浮かんだのは――隠しようもない、驚愕。
 彼女はその名前を――いや、それによく似た名前を、ここ最近目にしたことがある。
 定期的に妙神山に送られてくる、神魔交流――いわば留学生の様な存在として、彼女に身柄を預けられていた少女の報告書。
 今はかつての名を捨て、“芦名野あげは”を名乗る彼女の記した書類に、その名前はあった。

“ネギ・スプリングフィールド”

「そう――戦友・横島の所に無理を言って転がり込んだあの人狼の娘――犬塚シロと言ったか。あの娘の通う学舎の教師はな。その英雄の、一粒種だ」
「ワルキューレ――」

 戦乙女は、その震える声に、応えない。
 細められた瞳は、部屋の窓――その向こうに見える、妙神山の修行場に向けられていた。

「……ジークを叩き起こしてくる。今の今まで、さっきのような悪ふざけばかりをしていたわけでもないのだろう。なあ、小竜姫。連中は、どの程度使えるようになった?」

 その問いかけに、小竜姫は少しの逡巡の後で、応える。

「十分な備えがあれば――人間界で“動ける”程度の奴らには、ひけは取りません」
「上々だ」

 少なくともそれは、ワルキューレにとって満足できる返答だったのだろう。彼女は小さく、しかししっかりと頷くと――何かに気がついたように、顔を上げる。

「……一雨来そうだな」




 同日午後、埼玉県麻帆良市某所。
 とある大手ファーストフード店のボックス席にて向かい合う、一組の男女の姿がある。片方は、短めの髪を側頭部でひとまとめに括り、活発な印象を受ける少女。そしてもう一人はと言えば――ボックス席の脇に杖を立てかけた白髪の青年。言わずもがな、我らが横島忠夫その人である。

「だーかーらー、そうじゃないって言ってるじゃん。どうしてわかんないかな横島さん、この線引きが」
「どうしてって言われてもなあ……」

 ラージサイズのドリンクカップを両手で抱えた少女は、鼻息も荒く横島に言う。対する彼は、はっきり言うなれば弱腰である。
 目の前の少女はと言えば、あどけなさを残してはいるが、それでもそれなりに整った顔立ちと、幼さを残す顔とは正反対に自らの女性を主張するスタイルが目を引く――つまりは“美少女”である。
 いつもの彼ならば骨抜きになることはあっても、今のようにコーヒーを片手に苦笑を浮かべるようなことはしないだろう。たとえ彼女が、彼の好みの年齢から少々下方向に外れ気味であると言っても、である。

「もう一度言うけど、私はファザコンって言われても開き直るくらいには、お父さんの事が大好きなの。でも決して、人の道を踏み外して禁断の恋心を抱こうとは思わないわけよ」
「そりゃそうだろ。もしそうなら俺は発狂するよ。しかし何とも羨ましい話じゃねえか。世の中のお父さんはすべからく、年頃の娘の扱いに苦慮して居るというのに――事もあろうにこんな美少女にっ!! 裕奈ちゃん、俺の娘になってくれんか!?」
「そう言うの本末転倒って言うんだと思うよ横島さん。娘に手は出せないんでしょ?」
「俺は煩悩の塊やが外道やないわ。まあ……偶然を装って風呂場のドアを開けるくらいはするかも知れんが」
「割と最低だと思うよそれ」

 腕を組んで深々と頷く横島に、少女――明石裕奈は、冷たい視線を向ける。言うまでもなく、いくら父親好きを公言する彼女であってもそんな父親はごめんだろう。

「だから、そう言うことはシロちゃんにやりなって」
「やった瞬間に喰われるわ性的な意味で」
「煩悩の塊なら望む所じゃないの?」
「せやから俺は外道やないっちゅうねん。裕奈ちゃんが言ったんじゃねーかよ。お父さんが大好きだってのは、そういう禁断のアレコレの意味じゃねーって」
「だってシロちゃんはそうじゃないでしょ」
「あん?」

 そもそもどうしてこの二人が、こんな場所で顔を突き合わせて居るのかと言えば、数十分ばかり前のこと。学校帰りに近くのコンビニに立ち寄った裕奈が、そこで時間を潰していた横島と出くわしたのだ。
 具体的には――人目も憚らず、成人向け雑誌のコーナーで、目を血走らせて熱心に立ち読みをしていた彼と。
 どう考えても声を掛けたい相手ではない。彼女のような年頃の少女なら尚更だ。だがだまって通りすぎるには、彼はあまりに目立ちすぎる。一見して若々しい顔立ちであるにもかかわらず、色素の抜け落ちた白い髪――そして、体を支える為の障害者用の杖。
 その特徴は、この春、彼女のクラスに転入してきた少女の「保護者」に一致する。
 何故にそのような人物の事が、すんなりと頭に湧いて出るのであるかと言えば――言うまでもないだろう。言わぬが華と言うべきかも知れない。主にその転校生の少女――“犬塚シロ”に取ってみれば。
 幾ばくかの葛藤の後に、裕奈は彼に声を掛けた。

――いやあかん、これはちゃうねん!? この間おキヌちゃんにお宝画像を消されてしまったからとかそう言うワケや――せやからワイを汚物を見る様な目で見んといてえな!? このままやと『二十代くらいの男が猥褻な本を持って少女に声を掛ける事案が発生』とか防犯ネットに書かれてまうねんで!?――

 その時にどのような場面が展開されたかはあえて割愛する。

「シロちゃんにとっての横島さんは、“お父さん”じゃないでしょ? って、そう言う話」
「あー……」

 そこまでストレートに口に出して、ようやくこの青年には通じたようである。
 場所をこのファーストフード店に移してから延々数十分――明石裕奈という少女は、目の前の青年がどれだけ乙女心と言うものを理解しない男であるか、骨身にしみて理解したと言う。

「せやかて、しゃーないやん……俺みたいなブサメンが、女の子からどういう目で見られとるかくらい、理解してるっつーの」
「別に横島さんって不細工じゃないと思うけどにゃ。でもそれってあり得ないっしょ。そこいらの女の子はともかく、シロちゃんの気持ちくらいわかってるんでしょ? 私、あの子のことも横島さんの事もよく知らないけど――あの子、本気だよ? 関係ない筈の私が、初対面の横島さんに、こういうことズケズケ言っちゃうくらいには」
「……」
「ホントだよ? 最近もう、クラス全員一喜一憂するんだから。シロちゃん、面白いくらいに思ってること顔に出るから。嬉しそうなときは先生が、先生がってもう――その逆も然りで」
「あいつはクラスで何をやっとるんじゃ」

 少なくとも悪い風には言ってないよ、と、裕奈は言った。

「だからこそ、クラスみんなあの子の事応援したくなっちゃうんだけど」
「――勘弁してくれよ」
「そう言う言い方無いと思うな。で、どうなの横島さん? シロちゃんのこと――嫌いなの?」
「んなわけねーだろ」

 案外にすんなりと、横島は首を横に振る。

「そう言う言い方は卑怯だぜ裕奈ちゃん」
「女の子とはずる賢い物なのですにゃ」
「心底そうだとは思ってるよ。どうしてとは言わないがな」

 彼は苦笑してこの際だから、と言い、カップに残っていた飲み物を氷ごと口の中に流し込んで、奥歯で氷を噛み鳴らす。それを見た裕奈は思わず頬を両手で押さえた。

「ん? 裕奈ちゃん虫歯でもあんの?」
「今はちゃんと治してるよ。けどそういうの見てたらそれだけで奥歯に染みそうって言うか詰め物が剥がれそうだって言うか――じゃなくてっ!」
「ち」

 はぐらかそうとしたってそうはいかないよ、と、裕奈は年の割に豊かな胸を張る。その仕草に対面に座る男が反応することくらいはまあ、承知の上なのだろうが。
 ともかく会話の誘導に失敗した横島は、それを穂悔しがる様子も見せず、一つ息を吐いた。

「あいつが俺をどう思ってるかくらい、わかってるつもりだよ。出会ってからこっち、ろくな事してやった記憶がねーっつうのに、いつまでも俺を先生、先生、ってな。ああ、先生ってのは、霊能力の先生の事なんだが。才能だとか霊的センスだとか、そう言うのにかけちゃあいつの方が俺より数段上だって言うのに、笑えない話だ」
「その辺の事はよくわかんにゃい」
「だろうな。俺も裕奈ちゃんみたいな美少女相手に愚痴っぽい事は言いたくねえから、まあ、この辺はオフレコで頼むわ。けどよく考えたら、そもそも俺が裕奈ちゃん相手にこんな懺悔みてーな事する必要もなくね?」
「今更そう言うこと言わないでよ」

 だったらこういうのはどう? と、裕奈は言った。

「横島さんに出会ったのは偶然だけど、割かし気が合うみたいだし、何か年の離れたお兄さんと話してるようで楽しい感じもする。で、私もあのクラスの一員だから、シロちゃんの事は応援したいって思ってる。悪戯半分に首を突っ込もうとは思わないけれど――だから、横島さんの気持ちって奴は知りたいんだよ」

 心配しなくてもシロちゃんにはオフレコだから、と、彼女は付け加える。

「だからこそ、か?」
「そういうこと」

 間違っても裕奈は、ここで横島と話した事をシロに伝える気はない。
 だからこそ――彼女を素直に応援できる。
 ややあって、横島はかなわないな、と、肩をすくめて見せた。

「さっきの話――正直シロに慕われてる事に悪い気はしねえよ。多少は変わってるが呆れるくらいに根は良い奴だし、正直まあ……見た目も悪くないしな」
「あれを悪くないとか言うかにゃあ横島さんは。同性から見たら羨ましいですよあの美貌とスタイルの良さは」
「55のDだとよ」
「カップで互角だけどアンダーがっ!? スレンダーだとは思ってたけどあの子ってば!? 私あの子に勝ってるところなんて一つもないじゃない!?」
「いや、そこは太ってる痩せてるっつうよりは骨格の問題だから裕奈ちゃんが卑屈にならんでも……と言うか十四歳でDは反則だろ……反則だろ……」
「赤い涙は気持ち悪すぎるからやめてください」
「裕奈ちゃんは俺が今どれほどの苦悶を味わっているかわからんだろう。キミが高校生なら一度は封印したルパンダイブを復活させても悔いはないくらいだ」
「それは正直捕まるからやめといたほうがいいよ」

 でもそれなら、と、裕奈は言う。

「何でシロちゃんの恋人になってあげないの?」
「俺とあいつはそういうんじゃねーって」
「なればいいじゃん」
「ならねーよ」

 迷い無く言う横島に、裕奈は頬を膨らませる。
 むろん――そんな彼女の反応を、彼はわかっているのだろう。ややあって、首を横に振った。

「……色々あるんだよ、俺にもな」
「色々って何?」
「今の俺が無理してあいつと――恋人なんかになったとして。きっとろくな事には、ならんからな」




 いつしか、麻帆良の空には鈍色の雲が厚くたれ込め、今にも雨粒が落ちてきそうな空模様であった。傘を持ってこなかった事を後悔しつつ、しかしまだ間に合うかも知れないと、裕奈は寮への道を足早に辿る。
 刻まれて間もない記憶を――頭の中で反芻しながら。

(でもま――)

 彼が言っていた事の、深い意味は結局彼女にはわからなかった。けれど、何となく彼女は思ったのだ。

(何だかんだ言って――シロちゃん、脈アリ?)

 自然と、頬が緩む。女子高に通っていて、未だ異性に好意を向けた事のない自分の身の上を振り返って、級友が羨ましいと思わないわけではない。が、それ以上に、シロの事は応援してやりたいと思う。自分だけでなく、クラスの大半がそうだろう。

(横島さんも面白い人だし――こりゃ、楽しくなりそうだ)

 結局最後には苦悶のあまり奇妙な踊りを踊っていた白髪の青年を思い出す。果たしてげんなりとした表情で、寮まで送っていこうかという彼の申し出を辞退したのだが――この空模様である。その言葉に甘えてしまってもよかったかも知れないと、今になって思う。
 もっとも、今更それを言っても仕方がない。ともかく寮に戻ったら、まずは友人にこの出来事を――

「Excuse me.」
「!?」

 突然、声を掛けられた。盛大に肩を跳ね上げつつも振り返れば、そこには一人の初老の男性が立っている。見上げるような長身に、夏場だというのにきっちりとスーツを着こなし、ステッキを突いて帽子を被った、まるで映画に出てくるような風貌のその男は――

(ヤバい、明らかに国産じゃない)

 裕奈は身構える。彼女はそれほど英語の成績が悪いわけではない。とはいえ、受験にしか使えないと悪名高い日本の英語教育を受ける中学三年生の語学力など、たかが知れたものだ。彼女らの英語の授業を担当してるネギは生粋のイギリス人であるから、他の中学生より幾分恵まれた環境ではあるかも知れないが――

(だからっていきなり外人と英会話しろとかレベル高すぎだよお!?)
「Sorry. Please tell me the way to――」
「お、おおっ? 確かその言い回しはアレだ定番の――何だっけ!? じゃ、ジャスト・ア・モーメント!?」
「ああ、これは失敬、お嬢さん。ここは英語の通じる国では無かったのだね」
「……は?」

 こうなったら往来で「ヘルプミー!」とでも絶叫してやろうかと、半ば錯乱しかけていた裕奈であったが、果たしてそんな彼女に気がついたその男は、にこやかな笑みと共に――流暢な日本語で、彼女に語りかけた。

「すまないが道に迷ってしまってね。麻帆良学園理事棟というのは、どっちに行ったら?」
「……」

 ぽたり、と。
 空から落ちてきた滴が、彼女の頬に触れた。










何だかんだ言ってはいますが、シロのスリーサイズなんて知りません。
中学生時分の少女の平均サイズも。つか知ってたら自分が嫌だ。

以前友人(♀)に
「男は大抵女性の胸のサイズを語る時、トップ+カップで語るけど、普通サイズの表記はアンダー+カップなんだけどどうしてだろうスパイク」
と言われたのを思い出したので女性主観表記に。
男ってのはたぶんインパクトが大事だから数字は大きいほどいいんだと思うよわが友よ。
そういう言い方したら男ってホントに馬鹿な生き物だとおもうけどもw

あんまり深く考えてもアレなのでその辺りは適当です。
身長とか体重とかキャラクターのデータを考えるのが一等苦手な当方に、女性のスタイルのことなんて聞かないでくれw



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「DAY1 招待状」
Name: スパイク◆b698d85d ID:519a7d14
Date: 2013/01/13 03:45
 議会は踊る。されど進まず。
 皆が皆、進んで重石を背負いたいわけではない。とかく日本人は消極的だ何だと言われるけれども。その原初の気持ちが人間の中にある限り、生まれ育った環境など、大した問題ではない。




「私は反対です」

 月曜日午後七時。夏の長い一日もようやく終わろうかと言う頃、麻帆良学園理事棟大会議室に於いて、厳しい面持ちで顔を突き合わせる面々の姿があった。
 麻帆良の自治権は、当然ながら埼玉県麻帆良市にある。ついでここが全国的に見て比類無き規模の学術研究都市であることから、教育機関にもかなり大きな発言権が与えられている。
 しかしここに集うのは、そう言った麻帆良の表の顔とは違う、表沙汰に出来ない組織を動かす面々――“関東魔法教会”に所属する“魔法先生”の会議であった。
 その中にあって、渋い顔で口を開いたのは、眼鏡を掛けた黒人の男性である。
 その名をガンドルフィーニという彼は、見た目と名前から察することが出来るとおりに日本人ではない。だが日本人が聞いても違和感の無いほど流暢な日本語を操り、それでもって語学の担当教師を務めている。
 その彼の発言に、会議室の奥――最も上座と言えるであろう部分に座っていた、まるで仙人のような容貌の老人が応える。

「ふむ。何か問題があったじゃろうか、ガンドルフィーニ君」
「私としては何処に問題がないのかをお聞きしたいのですが、学園長」

 麻帆良学園学園長――近衛近右衛門は、僅かばかりに苛立ちを含んだその声を聞き流しつつ――周囲に目をやる。
 そこに顔を揃えた教師達――敢えて“魔法先生”と言い換えるべきなのだろう彼ら彼女らの表情は、一様に厳しい物である。どうやらこの会議の席に於いて、程度の差はあれ、近右衛門に味方はいないらしかった。
 だが、彼はそれをまるで気にした風もなく、笑みを浮かべてみせる。果たしてその仕草にまで噛みつく者は居なかったが、部屋の空気が悪くなったような錯覚を覚えることは、容易かった。

「はて、儂は現状を鑑みて提案を行っただけじゃ。そしてこの提案には額面以上の意味はない。しかし不満があるならば遠慮無く発言を行って貰いたい」
「では僭越ながら」

 対するガンドルフィーニは、机上に並べられた書類を一瞥して眼鏡をかけ直し――幾分疲れたような声で言った。

「麻帆良学園都市を防衛するメンバーから魔法先生・魔法生徒を外し――その大部分を外部に委託するとは、どういうおつもりでしょうか?」

 改めて声に出したことで、彼の中でわだかまっていた何かが再び首をもたげたのだろう。凛々しい知的な光を湛えた目元を細め、彼は言う。
 再び、近右衛門は周囲を見渡す。目は口ほどに物を言うとは、このことか。いちいち考えを聞いて回るまでもない。そこに席を並べる彼らがどのような事を考えているのかは、一見して明らかである。

「言葉通りの意味じゃ」
「理由を――」
「理由などと、聞くまでも無かろう。その書類に記した事実が全てじゃ」

 言葉尻に噛みつきかけた彼を、近右衛門は一蹴する。

「麻帆良学園都市は、埼玉県麻帆良市の大部分を占める広大な学術研究都市じゃ。単純にそれだけを考えても、ガンドルフィーニ君、君は埼玉県警麻帆良署管内に、どれだけの警察官が勤務しておるか知っておるかね?」
「単純に、人手が足りないと?」
「それも一つの要因ではある」

 彼は言った。

「現在、麻帆良学園都市の警備に関しては、“魔法先生”をリーダーとして、各々が優秀であり、実力的に適当であると判断できる“魔法生徒”複数名と共にローテーションで行われておる」

 規模と人数――そして麻帆良を取り巻く“危険”を考えるならば、それは決して潤沢な人数とは言えない。だが、この町は別に彼らの人海戦術によって守られているわけではない。
 当然通常の犯罪者は警察官が対処する。魔法先生が出張るのは、彼らでは対処できるはずもない、裏の世界の脅威に対してである。
 具体的には――麻帆良を守る魔法の結界に、悪意を持って侵入しようとする者である。
 関東魔法教会の本拠地であり、関東一円の地形的エネルギーが集中する場所であり、更にそう言った土地柄、貴重な資料や財宝なども多く保管されている――そんな麻帆良を狙う脅威は多い。
 そう言う脅威に対し彼らは、教師や学生の有志によって行われている夜間警備の名目に紛れて、当然彼らでは対処できないそれらの脅威に立ち向かっているのだ。

「根本的な事をきちんとご理解しているようで幸いです」
「そこまで耄碌はしとらんよ」

 ガンドルフィーニの軽い嫌味にも、近右衛門は笑ってみせる。

「ですがそれをご理解しているのなら、何故このような事を? 確かに麻帆良という都市の規模に対して、我々は数の上では潤沢とは言えない。しかし事は空き巣や変質者を相手にするのとは違う。頭数だけ揃っていれば良いと言うものではない」

 彼の指摘はもっともなものである。普通の人間に、魔法使いが相手をする常識外の脅威の対応が出来るとはとても思えない。犯罪者相手には百戦錬磨の京都府警機動隊が、天ヶ崎千草というたった一人の術者が呼び出した妖怪達の群れに、手も足も出なかったように。多少腕っ節に地震がある程度の人員など、いくら集めても意味がないのだ。

「儂も適材適所という言葉の意味くらいはわかっておる。じゃが、世の中には様々なプロがおる。近頃は便利な世の中で、大概の困ったことには対応してくれるプロがおる。おあつらえ向きに、“世の中の怪異”に対応してくれるプロというものも、な」
「それは――」
「新世代の魔法使い――ゴースト・スイーパーじゃ」

 刻まれた皺の奥――“何故だか”以前より随分若々しさを感じる瞳を愉快そうに細めて、近右衛門は言う。

「ガンドルフィーニ君。そして皆の者。君らの気持ちは十分にわかる。君らがどれほど、魔法使いとしての理想に燃えておるのか、どれだけこの麻帆良の地を守れる事を誇りにしておるのか。それは重々に、の」

 何せ彼自身、若き日は腕利きの“魔法先生”として、学園の防備に当たった過去を持つ。その言葉には十分な説得力があった。しかしだからこそ、何故彼がこのようなことを言い出したのか、それがわからない。

「ゴースト・スイーパー――対心霊現象特殊作業従事者を名乗る業者は、自ら怪異と渡り合う術を編み出し――高額な報酬と引き替えに、常人には対処出来ない仕事をこなす」

 そう言ったのは、褐色の肌を修道女の格好に包んだ、怜悧な美貌を持つ女性――シスター・シャークティ。彼女は皆の疑問を代弁して、続ける。

「彼らの皆が皆、金に目が眩んだ利己主義者だとは言いません。そもそも彼らが言うところのオカルト現象に対処するためには、相当な金額が必要経費として掛かってくる。報酬が高額になるのは当然ですし、それを職業にする彼らとしてみれば、下手な同情や妥協を持つことはプロとして認められない」

 それは、彼女自身頭では理解していた。ゴースト・スイーパーは、その業務を行うためには莫大な経費が必要となってくる。だから自然と報酬は高額なものとなってしまうし、何となればその高額な報酬は、依頼を処理するゴースト・スイーパーの“命の値段”でもあるのだ。
 最悪、命さえも――もっと言えば「魂」の欠片さえも残らないかも知れない危険な仕事。
 むろん、ゴースト・スイーパーと言っても色々あるだろうが、普通の人間ならば目の前に札束を積まれたところで、自分の命を危険に晒せと言われれば二の足を踏む。

「報酬の事なら心配はせんでええ。麻帆良は常に怪異に縛られる土地。その事実があれば、自治体から国を通して補助が出る。国選ゴースト・スイーパーを麻帆良の経費で揃える事も可能じゃ」
「私が言いたいのはそう言うことではありません!」

 思わずシスター・シャークティは、声を大きくする。

「麻帆良学園都市――関東魔法協会の中枢であるこの場所を、我ら志を持った魔法使いが守ることに、学園長、あなたは意義を感じないのですか!?」

 そうなのだ。
 学園長が突然議題として持ち上げたこの案件――麻帆良の守備を、魔法使いからただの一般人にシフトさせる。その事自体は、何故にそれが今まで取り上げられなかったのかと疑問に思うほどに、当然の要求である。
 ただしそれは――その守備を行う魔法使い自身の意思を無視すれば、と言う但し書きがつく。
 何となれば、この麻帆良という地を守るという行為には、それ自体が“権利”だという側面がある。たとえばこの日本という国が、それ自体の防衛に『自衛隊』という組織以外を、たとえ名目上であれ認めていないように。
 確かに、魔法先生、魔法生徒の負担は小さいものではない。危険もある。だが――

「魔法使いとは職業ではない――“生き方”を指す物ではないのですか? ならば、安易な効率化を喜ぶものが何処にいると!?」

 強い調子で、彼女は続ける。
 ここに集う皆が皆――程度の差はあれ、彼女と同じ気持ちなのだろう。それは近右衛門にもわかっているはずだ。
 その彼は、シャークティの言葉を真正面から受け止め――そして、言い返す。

「なれば、問う。生き方としての魔法使いとは、何じゃね」
「無論魔法という技術を研鑽し、それでもって誰かの助けとなる事でしょう」

 黒いスーツに身を包み、頭髪をオールバックに撫でつけ、サングラスを掛けた強面の男が言う。黙っていればその筋の人間にしか見えないが、当然彼も麻帆良の魔法先生の一人である。

「そも、その人を指しての“魔法使い”とは実にシンプルな形容である。魔法を使うから、魔法使い――突き詰めれば魔法とは、単なる技術に過ぎません。なれば、我々はその強大な力を何に使うのか、自らの意思で見極めねばならない」
「ふむ。では、神多羅木君の思う“それ”は何じゃね?」

 神多羅木と呼ばれた強面の男は、サングラスのブリッジを中指で押し上げると、小さく息を吐いた。

「むろん――言葉にすると陳腐ですが、自らの思う正義の為――そうなるのでしょうな。残念ながら世の中には、どうしたて悪しき者が現れる。悪しき者にとて、魔法という技術は身につけることが出来る。ならば我々が正しき心を――それは非常に難しい話になりますが、せめて自分の良心に恥じないやり方でもって魔法を扱わねば、一体何の魔法使いだと言うのでしょう」
「さて、それは儂のような馬鹿者にはわからぬよ。儂には偽善も、虚栄心も、煩悩とてある。君のような若者ならばともかくとして、このジジイが今更ソクラテスの真似事が出来るとも思えんしのう」

 しかしだからこそ――と、学園長は言った。

「終ぞ“立派な魔法使い”を名乗れなんだ儂じゃから、敢えて開き直らせて貰うことにする。諸君らの魔法使いとしての志、誠に素晴らしきものじゃ。しかし――儂は敢えて、その志を顧みぬ。いや、その志が時として、麻帆良を救うこともあるかも知れぬが。詮ずるところ――」

 誰かが喉を鳴らした音が聞こえたような錯覚。それをそこにいた全員が感じ取る。

「この素晴らしき麻帆良の学舎を、そこで未来を目指す若者達を守るためならば、儂は手段など選ばぬ。仮にその時、魔法使いであることが枷になる事があったとすれば――儂は迷わず、“魔法使い”を切り捨てようぞ」




 月曜日午後十時。麻帆良の街にも夜の帳が下りきった頃。
 その日の麻帆良は、昼間から降り出した雨が、夜になっても続いていた。天気予報は梅雨前線の発達を告げ、この雨が暫く降り続くだろう事を告げている。
 そして生徒の姿が無くなり、当直の警備員や教師を残して大人の姿も消えた麻帆良学園本校は、静寂の中にある。時折窓を叩く雨滴の音以外には、古い歴史を持つ重厚な石造りの校舎に飲み込まれてしまう。
 その麻帆良学園本校の奥――麻帆良学園理事棟もまた、宵闇に包まれていた。
 否――その片隅に、光のこもれ出る一部屋がある。
 『宿直室』のプレートが掛けられたドアの向こうには、六畳ほどの和室と、簡便なキッチン、トイレがある。むろんプレートにあるとおりには、ここは本来、理事棟に泊まり込んで見回りを行う警備員の為の部屋である。
 今宵、雨音がかすかに響くその部屋の中には、一人の男が座っていた。
 年の頃は四十歳程。眼鏡を掛け、あまり整えられていない髭を生やした中年の男である。しかしスーツの上からでも何となくわかる鍛え上げられた体と、キッチンの椅子に腰掛けて煙草をくゆらせる姿が妙に絵になるその風貌は、彼を見た目よりも随分若く感じさせる。
 ふと――ただ漠然と煙草の煙を目で追っていたその男は、何かに気がついてドアの方に目をやった。彼にはそれがわかっていたように、ドアが開く。

「校内は全館禁煙の筈じゃがのう」

 入ってきたのは、彼よりも随分若い青年だった。年の頃は三十前と言ったところ。すらりとした長身を仕立ての良い和服に包み、頭髪を後頭部でひとまとめにした優男――実は“オカルト技術”により、数十年前の姿に若返った麻帆良学園学園長、近衛近右衛門その人である。
 むろん、簡単に表沙汰にできる所以ではなかった。ゆえに、彼は普段、これまた“オカルト技術”によって作られた変装道具により、己を老人と偽っている。
 もっとも年齢的に彼が老人である事には変わりないので、もはや何と言うべきか。

「まだ何か仕事が残っていたのですか、学園長先生」
「これで学園長というのも中々忙しい仕事での。おまけに残業代も付きはせん」

 それに――と、青年・近右衛門は、男の側にあった小さな机に、行儀悪く体を預けた。

「どうにも、夜に降る雨は苦手じゃ」
「後でご自宅までお送りしましょう」
「言葉に甘えさせて貰おうか、高畑君。しかし――」

 高畑と呼ばれた壮年の男が、煙草を携帯用の灰皿にもみ消すのを横目で見遣り、近右衛門は言った。

「“出張”から戻ってきたばかりの君が、どうしてわざわざ当直に?」
「僕の予想が当たっていたからですよ」
「と、言うと?」
「しがない英語教師が、誰の目も気にせずに学園長と話をするというのは中々難しいものでしょう」
「君は儂を何だと思っとるのかね」

 それこそ自分が若い頃は、用もなく学園長の部屋に押しかけては、勝手にコーヒーでも淹れていた――と、近右衛門は苦笑する。

「そうでもないでしょう。その姿を晒せるまでの状況というのも、そうそうありはしない」
「木乃香には思いの外評判が良かったのう。孫に格好が良いと言って貰えるとは――ああ、生きていて良かったと思えるわい」
「……何故、あんな事を?」
「賢いやり方だとは思っておらん。じゃが、儂の本心をと言えばああなる。高畑君。儂は――もはや、身内と腹の探り合いをするのは御免被る」

 麻帆良の魔法使いは馬鹿ではない。だが時として、魔法使いとしての高潔な理想が、彼らの視野を狭める事になるかも知れない。数十年前の近右衛門達がそうだったように。ならば彼らの耳に優しい言葉を選び、自分の思うように学園の舵取りをする事は、今の近右衛門になら可能かも知れない。
 いや――麻帆良学園都市を治める人間として、“そう”でなければ困るのだ。

「高畑君、今更儂一人がどう思われようと構わぬ。それこそ、清濁併せ呑むなどと言い訳をして、他人に対して誇れぬような事もやって来た。そんな儂が今――皆を傷つけたくないなどとは――君は儂を軽蔑するかね?」
「……いえ」
「魔法先生の志がどれだけ高潔なものであろうが、その志に酔ってはならぬと――あの時気がついた筈だったのじゃが。そう、犠牲の上に成り立つ平和など、あってはならぬ。仮に平和を築くために犠牲が避けられぬものであったとしても――そんな時代は、とうに終わりを告げておるのじゃ」

 高畑は、一人言葉を紡ぐ彼に何も言えない。
 彼とて――大切な誰かを守るために、自分を犠牲にしてきた人間なのである。だから、ただこう言い返した。

「学園長。あなたは、魔法使いとしての生き方を選んだことを後悔しているのですか?」
「そうは言わぬ」

 はっきりと、近右衛門は首を横に振る。

「儂の人生は、思い返せば間違いだらけもいいところじゃ。じゃが、どう足掻いたとて過去は変わらぬし、今こうして、儂はここに立っておる。懺悔しきりの人生じゃからと言って、儂は今更過去をやり直したいとは思わぬし、別の人間になりたいとも思わぬ」

 責務でもなく、後悔からでもなく。ただ自分がここにいるという事実を持ってしてそう思う、と、彼は言った。

「まあ――ジジイの戯言はどうでもええ。ともかく儂は、多くの魔法使いが傷つく事を強いられる現状を、これ以上黙って見ている事は出来ん。魔法使いとは、イコール戦士ではないのじゃよ」
「理想のために強くあれ――“立派な魔法使い”を志す人間には、受け入れがたいでしょう」
「戦うための強さなど、大した問題ではない。本当の強さとはそういうものかね? 高畑君、君とてそういう風に思っているわけではあるまい。我々から見ればちっぽけな脅威に立ち向かう世の人々は、果たして“弱い”のかね?」
「学園長の言いたいことはわかりますが――しかし今のやり方では」
「単なるジジイの気まぐれ、我が儘と、そう取られるじゃろうな」

 あるいは、と、近右衛門は目を細める。

「木乃香や相坂君の可愛さに目が眩んで、形振り構わず戦いから逃げようとしていると、その評価は決して的はずれではあるまいよ」
「それが何かいけないことですか?」

 高畑は火のついていない煙草をくわえ、強い調子で言った。

「それは僕にしても同じ事だ。何せ“あの子”が平穏に暮らすことが出来ればと、だから僕は、あの人は――」
「落ち着け、高畑君。儂の言い方が悪かった」
「……」
「いかんのう、どうもこういう夜は――考えが纏まらぬ。何にせよ――」

 ――力をなくして理想は語れない。それは残酷な現実だよ。

 ぞくり、と、背中を何かがはいずった様な錯覚を覚えた。一瞬にして近右衛門と高畑は、部屋のドアから距離を取り、全身を緊張させる。

 ――あるいは君たちの言葉は、耳に優しい。運命に抗う孤独な人々を、誰も笑うことは出来ないだろう。だが、その結末は大抵、悲劇と呼ばれるものとなる。

 落ち着いた、年齢を感じさせる男の声だった。その声は柔らかく、低くしかしよく通り、優しささえ覚えるものである。しかし、その場の空気と言えば――まるで肉食獣の檻の中に閉じこめられたかのようなものであった。

 ――悲劇は良い。魂の底からの慟哭は、私にとって非常に甘美だ。だが、ただ恐怖に震える子猫を踏みつぶしたところで、果たしてそれが悲劇と言えるかね? 私としてはそのようなものは、胸焼けがする。

 廊下で、何か小さな音がした。その音が何なのか、部屋の中にいる二人にはわからない。今ドアを開けて確認するには、危険が大きすぎる。
 高畑は油断なく構えを取りつつ、自然に近右衛門を庇える位置に立つ。

 ――なれば、私の手で私好みの悲劇を書き上げてみようと思ったのだよ。今宵はその招待状を持参した。私が作り上げる悲劇を堪能してくれることを、心から期待している。

「……何者じゃ」

 近右衛門の問いかけに、声の主は柔らかく笑う。

 ――慟哭を糧に生きる、しがない悪魔だよ。

「生憎儂は、娯楽の基本はハッピーエンドじゃと疑っておらんでな。さて悪趣味な悪魔とやらよ。儂の持論を聞いていくといい」

――残念だが、今宵は挨拶に伺ったまでだ。しかし君と趣味について語り合うのも悪くはない。そうだ――こういうのはどうだろう?

 高畑と近右衛門の表情が、小さく動く。

――私はこれより、私の悲劇を完成させる。君らはそれを、喜劇なりハッピーエンドになり書き換えら得られるよう足掻いてみると良い。私と君と、どちらの持論が納得できるのかは、その果てにわかるだろう。

 もっとも――と、声は言う。

――変えられぬ運命を前に無駄なあがきを繰り返すと、そういうのもまた、悪くないと私は思っているのだがね?

 その声を最後に、部屋の空気が一変した。呼吸をするのも忘れるほどの重苦しい重圧は、まるで嘘だったかのように消え去り、部屋の中には先程までと同様に、静かな雨だれの音が響くのみ。
 近右衛門は小さく息を吐き、無造作に足を踏み出した。
 高畑が我に返ってそれを止めようとしたときには、既に彼は廊下へ通じるドアを開いていた。当然――と言うべきか。ドアの向こうには、誰も居ない。
 ただ、一枚の封筒に入った何かが、床の上に落ちている。近右衛門は、それを拾い上げた。

「学園長、うかつに――罠かも知れません」
「これが罠なら打つ手はありはせんよ。それに、この場で罠を仕掛けるようなやり方は、どうも奴さんの好む所では無さそうじゃしのう」
「しかし――それは、一体?」

 封筒の中に入っていたのは、便せんだった。流麗な筆記体で、何かの英文が書かれている。高畑も、元は近右衛門も英語の教師であり、それ以上に出自からすればそれを読むことに問題はない。
 そこに目を通そうとしたところで、近右衛門は封筒の中に、何かもう一枚別の紙が入っている事に気がついた。
 それは果たして――一枚の、写真だった。




 目の前を、白銀の塊が行ったり来たり。それを何となく目で追いながら、白髪の青年はぽつりと呟いた。

「そりゃま……色々思うところはあるけどよ」
「? 何か言ったで御座るか、先生?」

 その呟きに、犬塚シロは振り返る。台所で夕食の支度をしつつ、機嫌が良いのか「今夜は中華スープ」云々と調子はずれの歌を口ずさみつつ、手元では味噌汁に入れる具を刻む。
 その格好は、Tシャツにハーフパンツを履き、その上からエプロンを付けただけの簡単なもの。いつもの和服姿でないのは、今日は体育があって汗を掻いたと、帰ってきてすぐにシャワーを浴びたからである。いくら落ち着くと言っても、この季節、一度汗を流した後で風通しの悪い格好に着替えたくは無かったらしい。
 先程から横島が目で追っていたのは、シャツとハーフパンツの境界線から顔を出してゆらゆらと揺れる、彼女の尻尾である。

「つうか久々に見たな“それ”――タマモにあれこれ習って消せるようになってたんだろ?」
「その時の馬鹿狐の顔と言ったら、今思い出しても殺意が湧くで御座るが」

 歯ぎしりをしつつ、シロは言う。彼女は翼を持つクラスメイトの少女とは違い、自分が誇り高き神狼の血をその身に宿す一族であることを誇りに思っている。とはいえ、彼女が人間ではないその証拠――腰から伸びる、頭髪と同じ白銀の尻尾は、人間の日常に於いてはそれなりに邪魔になる。
 つまり、収まりどころに困るのである。感情が高ぶると半ば自分の意思と無関係に動く事も多々あるそうで――それに関しては横島とて何となく彼女を見ていればわかるが――そんな時に、女学生の制服であるスカートは殊更都合が悪い。
 だから彼女は、以前に不倶戴天の敵である筈の少女に頭を下げてまで、どうにかそれを誤魔化す術を会得していたのである。何せ相手は、“獣の姿”ならば自分の体ほどもある巨大な尻尾を跡形もなく消し去るどころか、どのような姿も思いのままに取れる、変化のエキスパートである。
 シロと同じ人狼の一族が、狼から人間に“変身”するのは、一種の生得的な本能であり、妖狐の“変化”とは似て非なるものであるが、やっていることは根っこの部分では同じ。果たして――“オカルト技術”と、人間はそれを呼ぶ。

「とはいえ、家の中でくらい時には気を抜かねば――何というか落ち着かぬので御座るよ」
「ふうん……そんなもんかね」
「ヨコシマにだって覚えがあるはずですよ?」

 そう言ったのは、床に寝転がってテレビを眺めていたあげはである。彼女はさほど熱心に見ても居なかったテレビ画面からあっさり視線を外し、転がるようにして上半身を起こす。

「何で俺が? 俺には尻尾なんてありゃしねーぞ」
「ほら、あれですよ。よく言うじゃないですか。男の人はアレの置き場に時折困ると、その名もずばり」
「ギルティ」
「はぶっ!?」

 にやにやしながら何かを言おうとした彼女の顔面を、横島の振り抜いた紙製鈍器――「ハリセン」が殴打する。彼がそれを何処から取り出したのかは、多分聞かない方が良いのだろう。

「女の子がそーゆー事を言うもんじゃありません」
「むう、自称煩悩の塊にだけは、そう言うことを言われたくはありません。大体その程度可愛いものではないですか。家族の間ではよくあることです」

 大したダメージは無いだろうに、大げさに鼻を押さえて、あげはは不満げに言う。

「せ……拙者の尻尾が、先生の――い、いやそれは――……新たな何かに目覚めそうで御座る……」
「目覚めんでええわいっ!! お前も何を訳のわからんことを言っとるか!?」
「中々に高度なプレイですね。人狼限定尻尾――」
「頼む、お前もう喋るな」
「拙者はあげは程頭の中身がアレでは御座らぬが――」
「喧嘩売ってるならいつでも買いますよこの繁殖欲丸出しの発情狼が」

 自分で横島をからかう分には構わないが、他人から言われると不条理な怒りを覚えるらしいあげはが、口を尖らせて睨み付ける。それを涼しい顔で聞き流し、シロは包丁を振るいながら言う。

「先生の口と行動が一致せぬのは前々からの事であるとは、拙者も思っているで御座るよ?」
「俺が煩悩の塊だって割には身持ちが堅いってか? それこそ喧嘩売ってんのかお前は。モテないのと身持ちが堅いのは違うだろうがよ」
「先生はそれを本気で仰っておられるか?」
「本気でも冗談でも悲しくなるわ。何で俺がお前ら相手に格差社会を感じなきゃならんのだ――俺知ってんだからな、お前六女に通ってた頃、他校の男からラブレター貰った事あるだろ」
「丁重にお断りいたしたが」
「あげはだってこの間男の子と帰ってきただろ。小学生で異性と下校とか……あり得んだろ……」
「二人っきりならともかく他にも友達が居たのを見てなかったんですか? そもそも、私は子供に興味はありません」
「そんなお前らに俺の気持ちがわかってたまるか。俺だってこんな身持ちの堅さなんぞさっさとブチ壊してしまいてーよ。おい、もうちょっとしたら俺はネギとは別の意味で“魔法使い”になっちまうぞ?」

 とん、と、シロの手元で包丁が立てる音が止まる。果たして彼女は、花が咲いたような笑みと共に振り返った。

「拙者であればいつでも、先生が“魔法使い”となるのを阻止する助力を致しますが? 何なら今夜にでも、その“身持ち”とやら、拙者が崩して差し上げようでは御座りませぬか」
「俺は犯罪者にはなりたくねえっつの」
「ミカミへの覗きがバレては近所の交番のお巡りさんに“またお前か”と言われていた男とは思えない言いぐさですね」
「やかましい。あの魅力的すぎる肢体がいかんのじゃ」
「犯罪者にはなりませぬよ。何となれば先生、その手の犯罪は親告罪故に。拙者が黙っておれば何の問題も無いのです」
「何でお前はそんなことを知っている」
「いい加減ヨコシマがそれを理由に言い訳をするのも聞き飽きましたし。まあ女性を襲う不逞の輩が居ることを考えれば良し悪しな法律である気もしますが、若年層の自由恋愛まで国が制限する事ではないと考えれば、妥当な落としどころでしょう」
「法律家にでもなったらどうっすかあげはさん。いや、だってお前らなあ……」

 ふと、何かを言いかけて。
 横島の言葉が途切れた。いつもなら、顔を赤くした彼が喚き散らして、シロとあげはが便乗して悪のりをして――そう言う流れになるはずの所である。

「先生?」
「ヨコシマ?」
「……あ、いや――何でもねえ」

 彼が言葉を止めたのは、今日の昼間の事が頭を過ぎったからである。昼間に出会って、とりとめもない事を話したあの少女――シロのクラスメイト。
 彼女との会話の中で結局、横島は言ってしまった。“それ”を、言葉に出してしまった。
 自分は、一つ屋根の下に暮らすこの少女達の気持ちに、気がついている。それはもう、誤魔化しても仕方がない。それこそ脳に重度の問題を抱えていない限りは、気づかない方がおかしい。方々でどう言われていようが、結局の所横島は“まとも”なのだ。
 けれど、少なくとも今――シロを、もちろんあげはもであるが――恋人にしようとは、思えない。いや、思うことが、出来ない。

(……俺は)

 辛い、別れがあった。
 かつて己の上司や同僚の少女には、間違いなく男として好意を持っていた。それが薄っぺらなものであったわけではない。馬鹿馬鹿しいけれども、胸を張ってそう言える。
 けれど――彼女に抱いた想いもまた、本気だった。血の涙を流してまで一度は彼女の元を去ろうとしたのは、何のためだった?
 本気で、好きだった。ずっと一緒にいたいと、想っていた。けれどそれは叶わなかった。

(……)

 けれどそれは、吹っ切った。
 忘れられない。忘れられるはずがない。けれど、それが何かいけないことなのか? あの思い出を忘れることが正しいと言うのならば、彼は敢えて間違いを選ぶ。
 過去は、変えられない。忘れることだって出来ない。けれど――自分は今、生きている。
 あの日々を糧に、僅かばかりの力を得て、どうにか次の未来を目指し、守りたい者だって出来た。
 そんな今を悔いることはしない。今を悔いて過去に縋るなど、馬鹿げたことはしたくない。
 けれど、彼女たちから見ればどうなのだろうか。

(結局何が違うんだって、そう言うだろうな)

 だから、そう言うことではないのだ。この、命を賭けても守りたくて、自分のような馬鹿でスケベな男のことを、臆面もなく好きだと言ってのける彼女たちを――それでも、男として見られない――いや、“見たくない”のは。

「――あー、風呂わいてたよな? 飯の前に入ってくるわ」

 だが、それを彼女たちの前で言う事に意味はない。言うべきではない。そんなものは、自分らしくない。何を馬鹿なと言われるかも知れないが、それは存外、横島にとっては大事なことであった。
 無理なんかすることはない。いつも自分らしく、自分の思うようにしていればいい――
 改めて自分の現状を思い知った事で調子が狂ったが、まだ、許容範囲であるはずだ。




「何か釈然としないものを感じますが――背中、流してあげますね」
「妙な義務感なら要らん」
「私がそうしたいからするだけです」
「……なら、頼むわ」
「はい、喜んで」
「……うぐ……」

 少なくとも少し前までならあり得なかった横島の返答に、あげはは満面の笑顔で頷き――反面台所のシロは、柄が砕けそうな程包丁を握りしめて悔しげに彼女を睨む。

「どうしてこうなった」

 あれは確か、京都での一件。ネギ達を助けに行くことに、あげはがゴーサインを出す条件が“それ”だった。つまりは「一緒に入浴して体を洗って欲しい」というのは。そうそれは、ただの条件の筈だった。
 そこでどれほどの騒ぎがあったのか、敢えては記さない。結果に関して、シロがあげはの叱責を受けたのは、致し方のない事だった。彼女自身、いつも彼自身の事を気遣いながら、あれはあってはならない事故だったと、思う。
 ただ――その後が問題だったのだ。

「……どうして……こう……なった……っ!」

 いや、問題があったようで無かったというべきだろうか。シロにとっても、あげはにとっても。
 そんなこともあって、半ば強引にそれは強行された。だがむしろそれは、「男女の混浴」などという、何処か色気のある字面とはほど遠い、どちらかと言えばただの“介護”に近いものであった。
 そしてそれが――いけなかったのだろう。
 麻帆良に帰り着いてからこちら、あげはは自然に“それ”を行うようになった。
 そしてシロも横島も、それを止められなかった。実に馬鹿馬鹿しい理由によって。

――ヨコシマが私の体に興味が無いというのは残念ですが――それなら、何の問題が?

 一度は“出来てしまった”事だ。ここで無理に拒否をすれば、やはり横島はロリコン――そうでなくても、あげはに対して何かしらのよからぬ思いを抱いているという証明になる。
 実際彼女はまだ子供なわけで、なら何の問題がある?
 拒否したいならすればいい。無理にとは言わない。だが――そうするならば、“認めた”と考えて良いのだろう? と。
 神の名を持つ魔物の娘は、笑顔で選択を迫った。
 果たして結果がこれである。当然、問題となるような事は何も起きていないし、実際毎度毎度、色気のあるようなものではないらしい。あげは曰く、であるが。彼女としては不満らしいが。
 彼女がもう少し成長すれば問題も出てこようが、逆に言えばそれまでは、理屈では彼女を止められないのだ。犬塚シロにしてみれば。

――いやそれ、何か色々麻痺してない? いいの? 確かに駄目じゃないのかも知れないけどさ、え? いいの?

 彼女の友人であるところの朝倉和美などは、幾分困惑気味にそう言ったが、シロにだってどうすればいいのかわからないのだ。
 横島はもうこの事に関しては慣れてしまったようで、だからシロにとってもあげはにとっても――『問題はないがだからこそ問題なのである』わけだ。その言葉は二人にとって正反対の意味ではあるが。

「……あげは、お主――」

 横島が先に脱衣所に向かい、鼻歌を歌いながらタオルの用意をしているあげはに、シロは腹の底から絞り出したような声を掛ける。ただ、常人なら――少なくとも友人達なら顔を真っ青にするだろう彼女の殺気が、目の前の少女に通じるかと言えば、答は否だ。

「私としては残念ですが、シロが思うような事は何も起こっていませんから。横島がロリコンでないと言うのもまあ――“確認済み”ではありますし」
「ちなみにその確認とはいかなる手段で?」
「いやですね、それを乙女の口から言わせますかシロは」
「堂々と“○○ポジ”がどーとか言う奴に言われたくは無いで御座るよ!? ああもう拙者にもその“確認”させては下さらぬか先生!?」
「……シロは何だか近頃ヨコシマに似てきましたね?」
「ああもう、ああもう! 拙者があの時超回復で幼年期をすっ飛ばしてしまったが故に! 拙者だって子供の大義名分で先生と混浴とかアレコレとかしたかったで御座るのにっ!! 」
「いやあの、それってあなたにとっては大事件だった筈ですよね? あなたがそうならなかったら、多分あなたもヨコシマも死んでますよね? 私が言うのも何ですが、お父上が草葉の陰で泣いていますよ?」

 頭を抱えて床に突っ伏すシロに、呆れたような視線を送り、あげはは溜め息混じりにタオルを持って立ち上がる。どうやら本気で悔し涙にくれているらしいシロに、彼女は――

「……? シロ」
「何で御座るか!? 拙者は今この世の不条理に――」
「馬鹿を言ってる場合ではありません。あなた――“匂い”ませんか?」
「……申し訳御座らん。泣いたせいで鼻が詰まってしまって」
「本当に肝心なところで役に立ちませんねこの駄目犬は!?」

 あげはは目を閉じ――小さく息を吸ってから、意識を集中させる。
 途端、何処からともなく十匹ばかりの蝶が姿を現した。薄く緑色に、蛍火のような燐光を放つ蝶――当然、何処かに隠れていたわけではない。
 あげはが腕を一振りすると、その蝶は部屋から飛び去っていく。障子や窓があろうとも、幻のようにその中に吸い込まれていく。
 それを見てシロは慌てて立ち上がると、包丁を台所に戻し――とりあえず、台所のキッチンペーパーで思い切り鼻をかんだ。この際、同居人の冷たい目線は気にしない。人狼の嗅覚――魂の波動さえ捕らえる彼女の霊感覚が、周囲の状況を――

「? 特に、おかしな匂いはしないで御座るが……」
「……気のせいでしょうか? 辺りに妙な物はありませんね。しかし今、確かに――ん?」

 あげはは何かに気がついたように、小さく眉を動かした。

「何でしょうこれは……手紙?」




「おお……こらうまい。ホンマ、こっちメシは味が濃ゆうてたまらんから、救われた気分やわ」
「味付けの問題やさかい、こっちの料理が塩気が濃い、言うワケでも無いんやで?」
「俺が健康に気ィ遣っとるように見えるか? こっちに来てからうどんも蕎麦も食えたもんやないからなあ……今度ウチ来て蕎麦でも作ってくれへんか?」
「何で当たり前のようにあんたがウチにいんのよ」

 同日午後七時。麻帆良学園本校女子寮。神楽坂明日菜・近衛木乃香の部屋――何故だかそこに居て夕食に同席している関西弁の少年――犬上小太郎に、明日菜はじっとりとした目線を向ける。
 場所は女子寮である。男の彼が入って良いような場所ではないし、そもそもどうして彼がここで、自分と一緒に木乃香の作った夕食を食べているのか。変わらずのほほんとしたその同居人本人は、料理を褒められて満更でもないようだが。

「文句があるんやったらそこの子供先生に言うてくれや。俺は連れてこられただけやで」
「はあ? ネギ、何だってこいつを? あんたわかってないかも知れないけど、こいつ結構な不良よ? そんなのを女子寮に入れるって――」
「新田先生には連絡を入れていますし、寮母にもそちら経由で許可は取っています。迎えには月詠さんが――僕はただ、彼に言いたいことがあっただけです」
「どういう話をしたんか知らんが、それで易々と男の俺がここに入れるのもどうかと思うけどな。まあ、お前がここに間借りしとる事実に比べたら些細なモンか。せやけど何やねん。京都の話やったら、俺は謝らんで」

 つまらなそうに言う小太郎に、ネギは首を横に振る。

「あの時は――僕も普通じゃなかったから。君に何かを言えるような立場じゃないよ」
「せやったら何やねん」
「僕はただ、君の行動に納得がいかないだけだ」

 明日菜はテーブルの上で、彼専用の小皿に盛られた料理にがっついてるカモに目をやったが、彼はただ黙って首を横に振った。
 果たしてその問いに答えたのは、木乃香だった。

「何や、麻帆良の“魔法生徒”と喧嘩したんやて」
「喧嘩と呼べるようなモンでもないわ」

 もはや木乃香は魔法世界の事を知っているから、この場で隠し事をするような必要はない。苦笑しながら言う彼女の言葉に、小太郎は鼻を鳴らした。

「何。また何かやったわけ? この間新田先生にボロ負けしたってのに、まだ懲りてないの?」
「あれは俺かてまだ全力やのうてやな」
「そういう中二病臭いのはいいからさ」
「中二病言うなや! ことある事にお前らは、ウチの実家になんや恨みでもあるんか!?」
「そう言うよりはあんた個人にかな。ネギはどうだか知らないけど、京都の一件では私、思うところが無くはないのよ」
「うぐ……」

 京都で彼は、自分の信念に従い、天ヶ崎千草に手を貸した。自分を納得させられるだけの理由はあった。けれど結局、それは褒められるべき事ではない。

「と、ともかくや。俺はあんな連中と喧嘩するほど暇やない」
「だったらどうしてあの人達ともめていたのさ」
「イチから説明すんのも面倒なんやけどな……俺が名目上“保護観察”で、あのオッサンの所に厄介になっとるのは知っとるやろ? その都合でな、俺、この間から麻帆良自警団に顔出しとんねん」

 食事を口に押し込みながら、小太郎は言う。

「まあ、つまらん仕事やわ。月詠の姉ちゃんは喜々として出かけて行きよるが――俺はあのアホとは違うて、マトモな神経の持ち主やからな」
「何を言うのさ。月詠さんは立派な志の持ち主じゃないか。一度は道を踏み外しかけたって、彼女はきちんと前を向いて歩き始めた。それは責められるべきじゃない」
「……お前な」
『まあ、兄貴はそう言う奴なんだ。あんたに理解できるとは思ってねえが』
「お人好しここに極まれりやな」

 カモの言葉に、彼は首を横に振る。

「それでこの間の事や。俺がまあ面白うもない“夜回り先生”の真似事をしよったら――何や、ただごとでない気配を感じてな。急いで行ってみたらまあ、俺とそう年の変わらん“魔法生徒”とやらが、化け物と戦っとったわけや」

 ごくりと、明日菜の喉が鳴る。
 麻帆良は、関東魔法協会の本拠地。そして、関東一円の地形的エネルギーが収斂する場所。そこを狙う不逞の輩は多く、その力に引きつけられる魑魅魍魎もまた、数多い。
 そんな麻帆良の裏の姿を知ることになった明日菜と木乃香の表情は、軽いものではない。

「言っておくが、今回俺は何も悪いことはしとらんで? そいつらの代わりにサクっとその化けモンを退治して、その場はまあ面倒やったからそのまま帰ったんやけどな。今日になって、戦っとったそいつらとばったり出くわして」
「何でそれで喧嘩になんのよ」
「せやから俺は喧嘩なんぞしたつもりはないっちゅうねん」

 最初は、相手も小太郎に対して友好的だったという。自分たちの窮地を救ってくれた相手なのだから、当然だろう。

「俺は本当の事を言うただけや。お前らのような雑魚が身の丈に合わん相手に真剣勝負なんざ、命がいくらあっても足りへん、言うてな」
「……あんたね」
「俺がそない上品な物言いが出来る男に見えるんか?」

 ため息をつく明日菜に、小太郎は肩をすくめる。

「言うとるのはホンマの事や。あいつら自分の実力もわかってへん。自分が退いたら麻帆良は、言うて、退くことさえままならん。退かんかったとて、自分らがやられるだけやったら何の変わりもないっちゅうねん。そんなこともわからん連中にアホ言うたかて、ホンマの事やん?」
「だけど、言い方があるだろう。京都のことをあまり言いたくはないけど――」

 そう前置きして、ネギが言った。

「君の言葉は間違ってない。けど、正しいわけでもない。それをわかっているのに、君は相手の事を何も考えずにものを言う。それが相手にとってどういう意味を持つかも考えずに」
「せやから、何で俺がそこまでやってやる義理があるんや?」
「魔法使いには、信念がある。僕は今でこそ、それを守り抜く方法は一つじゃないと気づくことが出来た。けれど君はあの時、魔法使いはただの乱暴な生き方に過ぎないって、そう言った」
「俺がそう思っとるだけや。お前が違う思うなら、それでええやんか。何やお前は、俺の事を嫌っとる割に、俺を釈迦か何かと勘違いしとるんか?」

 少なくとも自分なら、嫌いな奴の言葉にそこまで重みは見いだせないと、小太郎は言った。相手の事を批判する割に物言いが悪いなど――単なる言い訳ではないか。彼はお茶を啜ると、乱暴に湯飲みをテーブルに置いた。

「そもそもあいつら、何がしたいんやねん? 魔法使いっちゅうのは、何やねん? 魔法っちゅうのはただの技術ちゃうんか? そこで何がしたいのかは、そいつの勝手やろ? 俺はそのやり方が間違っとる、言うてやっただけや。感謝こそされても、責められる道理はないっちゅうねん」
「確かに――うん、僕みたいなのに言われる筋合いは無いだろうけれど――“彼女たち”が君に抱いた怒りは、理不尽なものだったかもしれない」

 ぴくりと、カモの耳が動く。
 同時に、明日菜も思う。
 本当にこいつは全く――変われば変わるものである、と。以前の彼なら、同じように小太郎の乱暴な態度を批判したとしても、どう出るかは全く違ったものであっただろう。

「けど君は、あそこでああいうことを言えば彼女たちがどういう風に思うか、わかっていたはずだ」
「……せやから、何で俺がそこまで――」
「僕が言いたいのは、“そこ”だ。君はずっとそうなんだ」
「……あん?」
「僕が言いたいのは、君が言っている様な事じゃない。魔法使いがどうだとか、状況がどうだとか――そんなことは、どうだっていい」
「な、何を――言うとるんや?」
「君は、君にとっての正解がわかっていた。なのに敢えて、喧嘩に持って行こうとした。それが僕は認められない」

 君は不良だ、と、ネギは言った。

「社会に、親に、教師に反抗して非行に走る――僕のような子供が、彼らの抱える闇を一概には否定できない。けれど、今回僕はやっぱり認められない。君が――“君自身の正しいと思う心”にすら反抗し続ける君の態度が、教師として僕は認められない」
「は……い、いや……“魔法生徒”連中のアレコレは――」
「僕のような半人前で、しかも子供の魔法使いが、“魔法使い”の信念ややり方になんて口を出せるわけがないだろう。そういう事に対しては、しかるべき人がそうすればいい。でもこれは、教師として、僕自身として譲れない。どうして、どうして君は――もっと、自分に素直にならないんだ!?」

 小太郎は、目線で二人の少女と一匹の小動物に助けを乞うた。
 同時に、目をそらされた。
 魔法“先生”として何かのスイッチが入ったネギは――京都で戦った“魔法使い”だった頃の彼よりも、余程の強敵であるらしかった。

「あら木乃香。ポストで何か音がしたわ。手紙が来たんじゃないかしら?」
「ホンマかいな? せやけどウチ、食後のお茶を淹れようと思ってたんやけど」
『だったら俺っちが取って来ますよ』

「何を華麗な連係プレーしとるんやオノレらは!?」

 わめき散らす小太郎の脇を抜けて、白いオコジョは明日菜の元に、ポストに入っていたのだろう手紙を持って走る。明日菜はそれを芝居がかった様子で受け取り、カッターナイフで恭しく封を切る。
 そして――

「――ネギっ! 木乃香っ――! 私――警察呼ぶから、みんなに伝えて!!」

 中に入っていた“もの”を見るなり、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
 木乃香もカモも――喚いていたネギと小太郎も、呆然と彼女のほうを見つめる。
 明日菜の手の中には、握りつぶされた一枚の写真があった。
 腰程までの水かさがある、水牢のような場所。そこに打たれた杭に、鎖で縛り付けられた、下着姿の少女。
 目隠しと猿ぐつわ、濡れた彼女自身の頭髪で、顔が半分隠されているが――それでも、見間違える筈もない。それは、彼女たちのクラスメイトだったから。
 麻帆良学園本校女子中等部、三年A組出席番号2番――明石裕奈の姿が、そこには映し出されていた。










なんだか文字入力が安定していない気がします。
一応見直しはしていますが……

誤字脱字はあまり気にせずに読み飛ばしてくれると助かります。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「DAY2 指揮官」
Name: スパイク◆53179107 ID:1c2c1e95
Date: 2014/09/07 21:43
 悪魔とは、人間に害をなす異形の存在である。普段は魔界と言われる異世界の深淵に潜み、時折人間の世界に現れて、人心を誑かして破滅に誘い、時にはその強大な力をもって暴虐に荒れ狂う――恐ろしい、闇の存在。
 それはつまり、彼らの原初のあり方である。世界の闇を司り、恐怖と混沌が実体として形を成した彼らはまた、そうやって世界を裏で支えていると言えなくもない。
 果たして人智の及ばない存在が、この世界を是が非でも存続させようと考えている今――彼らはまた、幾ばくかの選択を突きつけられた。“神”の名を持つ魔物ですら、容易に受け入れる事が出来なかった選択を。
 すなわち――“悪魔”として振る舞うことを、強制されて。
 彼らにとって許される選択肢はたったの二つしかない。
 暴悪な悪魔であることを自覚して振る舞うか――己の思うがままに悪魔として振る舞うか。
 本能のみをたよりに生きる獣に立ち戻るか、そうでなければ道化を演じるか。更には、そのどちらを選ぶにしても行うべき事に大差はなく、その上、そうするべきである人間の世界に於いては手枷足枷を付けられ、録に動くことも出来ず、過当な魔物を操って玉座にふんぞり返るのが関の山。
 果たして調和のための暴虐とは、かくも歪なものである。




「――埼玉県警麻帆良署とは、連絡が取れています。現在女子寮と、明石教授宅へは捜査員が詰めていると。念のため、宅配業者と建物のメンテナンスを装ってはいますが」
「犯行声明から半日以上が立って、警察関係についての指示が何もない。犯人はそうなる事を織り込み済みで動いているのでしょう。今更気にしても仕方ない。マスコミの方は?」
「高畑先生が警察の方と一緒に。報道協定が結ばれました。事件解決までは、伏せられます」
「宜しい。では、生徒への対応は」
「本校女子中等部三年生は、本日を臨時休校にして寮で待機。詳細は伝えておりませんが……“被害者”と同室の子がおりますし、そもそも警察への第一報はスプリングフィールド先生が行ったと言うことですから……恐らく」

 夜が明けた午前七時。その日は朝から雨が降りしきっていた。
 いつもなら、部活の朝練を監督する仕事があったり、あるいは当番の為出勤を早めた教師くらいしか姿のない麻帆良学園本校女子中等部には、既に職員室に全ての教職員が顔を揃えていた。
 そして彼らを纏めるのは、女子中等部三年生学年主任の新田教諭である。
 彼は終始冷静に自体を把握しようと努めているが――否応なしに、その包帯が巻かれた両手が目に入る。
 こと、生徒の指導に関しては人一倍熱心であり、何よりも生徒の事を考える彼の事である。昨晩遅くにもたらされた一報――“生徒の一人が何者かに誘拐された”という報告を受けて、どれほどの思いが今、彼の中に渦巻いているというのか。
 何せ本校女子中等部三年A組――かのクラスは、修学旅行中にも一人、生徒が“誘拐”されたのだ。立て続けに大切な教え子をいいようにされて、平静でいられるはずはない。だが果たして目の前の男は、冷静に教師陣の指揮を執る。両の手を、酷く傷つけた姿で。

「新田先生――」
「幸い、先だっての修学旅行で警察関係者への“つて”が出来まして――生徒への対応に関しては、彼に相談してみることにします」

 それはどれほどの精神力を持って放たれた言葉だったのだろうかと、新田に声を掛けた若い教師は、続けようとした何かの言葉を飲み込んだ。『先だっての』とはつまり、彼は自嘲しているのだろうか? 僅かに赤が滲む包帯に、目線が移る。

「午前九時より、麻帆良学園本校男子・女子中等部の生徒を対象に、高畑先生より注意事項が。その後各担任は通常授業に戻る前に、生徒に注意の徹底を」
「はい」
「高畑先生は?」
「先程学園長先生と一緒に、自警団の監督をされている先生方との緊急会議に」
「後で私の所においで下さいと伝えてくれませんか。聞けば昨晩はお休みになられていないご様子で。このままだと倒れてしまいます」

 学園国家、麻帆良。その麻帆良の地を、自分たち自身で守ろうとする彼らの間で、畏怖の対象ですらある高畑・T・タカミチ教諭。その彼が、少し前までは自分が担任であった教え子を守ることが出来なかったとあれば、その苦悩はどれほどのものか。

「スプリングフィールド先生は、まだ女子寮に?」
「はい。学園長先生より――精神的な負担が大きいので、女子寮に残ってこちらとの連絡役を務めて欲しいとの指示がありまして」
「……」
「……新田先生?」
「ああ、いえ」

 新田は、自分のデスクにある椅子を引き、腰掛ける。粗末な事務椅子が、軋んだ音を立てて彼の体重を受け止めた。

「……何やら、嫌な感じだ。魂に喚き立てられるとは、こういう事か」
「は?」
「ああ……いえ」

 呟きを聞かれた事に気がついた彼は、少し苦笑するような表情を浮かべ、手のひらを振った。

「恥ずかしながら、私も護身程度に武道を嗜んでおりまして」
「存じております」
「いえ、本当に。私のそれなど単なる護身術です。ですが私にその手ほどきをしてくれた方がおりましてな。その方の教えなのですよ。魂は、自分が思っているよりもずっと敏感だ。だから常に魂の存在を感じ取り、魂が騒ぐときは、そのささやきに素直に耳を貸せと」
「はあ……そのお方はあれですか、ゴースト・スイーパーか何かですか?」

 魂だの何だのと、彼の口から出た言葉は、普通の人間にしてみればあまりに胡散臭い。
 しかし、新田がどういう人物か知っている若い教師は、彼が伊達や酔狂でそんなことを言っているわけでは無いだろうと思う。

「はは……琉球空手だとか、合気道だとか……そう言う類だと思っていたんですがなあ……何というか世の中は広いというか」
「はあ」

 何故か遠い目をして何処かを見つめる新田を、若い教師は不思議そうに見つめる。

「我々に出来ることなど、たかが知れている。もはや後のことは警察に任せて、我々はただひたすら祈るしかない――だが、その祈りを捧げる事が、何故か酷く滑稽な気がしてならんのですよ」




 会議は、紛糾した。
 しかしそこで何が出来るわけでもない。何処かのドラマではないが、現実に、事件は会議室で起きているわけではないのだ。
 会議に際しては、一部から近右衛門の先見性を評価する声までがあがった。この“魔法先生”によって行われる麻帆良の舵取りにおいて、“魔法使い”をないがしろにするような意見を出した男に対して、である。
 現実に、生徒が誘拐された。それも、間違いなく“魔法関係”の相手によって。
 それはすなわち、この麻帆良の守りが万全ではないことを意味する。
 いや――それは、わかっていた。場当たり的な守備が今まで続けられて来たのには、それなりの理由がある。それが、“魔法使い”という人々の特殊さだ。一般人の中に於いて、その存在の秘匿を強制される魔法使いであるが、それは当然敵にも言えること。
 平和的な解決手段を放棄して実力行使に訴え出た上で、“魔法の秘匿”という、ある意味では信念のような部分は律儀に守ってくるのだから、何とも歪である。しかしそれが魔法使いの常識であったから、今の今まで“魔法使い”によって麻帆良を守ることが出来た。
 そう、相手は“魔法使い”だったのである。
 だからこそ逆に、信念の異なる“魔法使い”を相手に、こちらは雇われ警備員をあてがおう等という意見に、反対する者が現れるのもまた当然だったわけだが。

「今は左様な事はどうでもいい」

 近右衛門はただ一言、そう言った。

「この地に麻帆良という都市が築かれてからこちら、幾度となく出てきた意見であった。じゃが、それは机上の空論じゃったのじゃ。今の時代に至るまでは、な」

 魔法使い相手には、魔法使いである自分たちでしか戦えない。
 守備を固めたくても、それを任せられるものが居ないのだ。
 魔法使いと渡り合えるだけの戦闘力を持ち、魔法の世界という裏の世界の事を知り、それを秘匿する事に異議を挟まず、しかし自信は“魔法使い”ではないなど――そんなふざけた人材が、居るはずもない。
 対価と引き替えに、己の命を剣に怪異を払う――“新世代の魔法使い(ゴースト・スイーパー)”という彼らが、現れるまでは。

「昨晩、儂らとスプリングフィールド先生の所に届いた脅迫状じゃ」

 近右衛門は、静まりかえった会議室で、その手紙を広げて見せた。
 手紙には、こうある。
 ――来る今週末、麻帆良学園都市に魔法を掛けよう。誰もが悲劇に酔いしれ、慟哭を上げる魔法である。一縷の望みに掛けたくば、英雄と言われる宿命の少年よ、その杖に掛けて、不可能に立ち向かう悲劇を演じるのだ――

「それと共に、誘拐された明石教授のご息女の写真が入っておったが――それに関してはこの場で見せるようなものではないのでの。警察に証拠として提出させて貰った」
「が、学園長!?」

 彼に近い席に座っていた、恰幅のいい男――弐集院と言う名の魔法教師が、戸惑ったような声を上げた。

「十中八九、犯人は“魔法使い”か――その関係者でしょう」

 彼の言葉の跡を継いだのは、昨晩の会議で近右衛門に相対した教師、ガンドルフィーニであった。

「そのような者を相手に、警察組織に何が出来るとも思いません。軽率な行動は、かえって魔法の秘匿に縛られた我々の足かせになる。その事を理解しておいでですか」
「ほう、ならばガンドルフィーニ君。我々がこうしてここで雁首を揃えておることで、何ぞ事件が解決するとでも?」
「私に嫌味を言われても仕方がないでしょう。ですが――」
「そもそも、明石教授の意向により、ご息女には“魔法使い”の事は知らされておらんそうじゃ。彼女を我々の手により救い出すとなれば、もはや“魔法の秘匿”などとは言うておられん」
「馬鹿な。我々と警察では――」
「あながち馬鹿げた策とは思えません。ガンドルフィーニ先生、弐集院先生」

 今までずっと、椅子に背を預け、腕を組んでいた高畑が、そこで会話に割り込んだ。

「相手は魔法使いとして――実のところ魔法使いであるかどうかもわからないが――相当の手練れだ。脅迫状などという馬鹿げたものまでこちらに回してきていると言うのに、我々は相手が何処にいて、明石君がどういう状況に置かれているのかさえ、わからない」

 ふと、彼は顔を上げた。その瞳がまっすぐに、ガンドルフィーニの視線を捉える。

「我々がどう動くにせよ、今はどんな些細な情報だって欲しい……たとえば、警察には犯人の“魔法使い”と戦う事は難しいかも知れない。だが、相手の情報を掴むことならば、出来るかも知れない」
「しかし魔法の秘匿に縛られた我々がどうやって」
「では我々が明石君を救出するにあたって、彼女にどう“魔法の秘匿”を押し通すつもりじゃね? 既に何らかの魔法が使われておる可能性がある。これだけの事態じゃ。記憶の改竄とて、ほころびが出るぞ」

 近右衛門の言葉に、ガンドルフィーニは嘆息した。
 一体彼は、何を言っているのか。自分が言いたいのは、警察という表の組織への、自分たちの存在の漏洩である。そこで問題になってくる事象と、明石教授の娘への魔法の露見。そもそも、問題としている事が違いすぎると――

「同じじゃよ」

 学園長は、それを斬って捨てた。

「明石君を無事に救出するには、もはや誰かに対して魔法が露見する事は避けられぬ」

 そこには当然、“魔法先生”が動くならばと言う但し書きがつくが、ここで動かないという選択肢は、彼らには無い。近右衛門とて、それは当然のことだろう。

「どうせ明石君に魔法の事がバレてしまうのならば、いっそ警察に我々の存在を暴露して、共同捜査に当たってはいかがかな?」
「学園長――」
「やれることは何だってやるべきじゃよ」

 近右衛門は強い調子で言った。

「厳しいことを言うが、諸君らは少し甘く考えておるのでは無いのかね? 我々が成すべき事は何じゃ? 麻帆良の安寧を守り、生徒を守るための“魔法先生”なのじゃろう? 魔法の秘匿と生徒の命。天秤に掛けられるはずも無かろう」
「それは当然のことです! ですが――」
「構うものか。それで明石君が無事に戻ってくるのなら、我々の立場なぞドブに捨ててしまえ。そうでもせんと、彼女を助け出すことなど出来はせん。此度の相手は――そう言う手合いじゃ」

 会議室は静まりかえっていた。声を出せる者は、誰もいない。
 魔法先生の誰もが誰も――“魔法使い”としての常識と、誘拐された生徒の命など、天秤に掛けるまでもないことはわかっている。
 それでも反論が口をついて出たことを、恥じるべきだろうか? だがそんな倫理観を語り合っている時間など、今の彼らにはない。

「……決まりじゃの。誰でもいいから、至急警察に連絡を。それと警察を通して、ゴースト・スイーパー協会とオカルトGメンにも連絡を入れた方が良いじゃろう。ただ我々が『魔法使いが力を貸します』などと言ったところで、笑いものになるのが――」
「会議中に失礼します」

 近右衛門の発言は、唐突にドアを開けて現れた一人の教師によって遮られる。近右衛門は知らず早くなっていた呼吸を落ち着けるため、大きく息を吐いた。

「何じゃね」
「学園長先生宛に、お電話が入っております。何でも――この事件に関して、至急であると」
「……相手は」
「――麻帆良学園本校女子中等部三年A組――エヴァンジェリン・マクダウェル」

 ざわめきが、爆発したように会議室に広がった。だが彼の言葉には、更に続きがあった。

「直接には、ですが――彼女を通して、横島――横島忠夫と名乗る、男性からです」




 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは不機嫌だった。
 今日も今日とて、退屈な一日が始まると、ベッドから体を起こして身支度を仕様としたところで、従者である絡繰茶々丸に引き留められた。学校から連絡があり、本日は臨時休校になった為、自宅にて待機せよとのことであると。
 これ幸いとばかりに二度寝を決め込み、制服を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだはいいが、何となく寝付けなかった。

(今日は“リベンジ修学旅行”とやらの話し合いがあるはずではなかったか? それを――)

 枕に顔を伏せて何となく考え――彼女は慌てて頭を振った。

(馬鹿を言え! 何故私がそんなことに付き合わねばならんのだ!?)

 確かに、京都での修学旅行が不完全燃焼であった事には、彼女とて不満が残る。だが、進んであの馬鹿げた小娘共に付き合う必要はないのだ――と、エヴァンジェリンは自分に言い聞かせた。
 大体にして、修学旅行の不満だった部分は解消出来たはずだ。
 少し前の週末――彼女は一人、新幹線で京都に旅立った。麻帆良の魔法先生達が聞けば腰を抜かすだろうが、何も言ってこなかった所を見ると、茶々丸経由で情報は把握していたのだろう。
 時間は潤沢とは言えず、首輪付きとも言えた旅であったが、それなりに満足だった。
 金閣寺では彼女のいかにも西欧人と言った容姿が幸いして、頼みもしないのに色々と講釈をぶってくれた観光客がいたし、シネマ村ではマスコットのカラス天狗と握手をし、写真も撮って貰った。むろんクラスメイトには絶対に見せられないだろうが。
 だから今更、馬鹿騒ぎに付き合う義理はないのだが――

(何故だろうな、私としてはとうに目的を果たしているのに――それこそまだ“リベンジ”が出来てないと感じたのは――)

 そこまで考えて、彼女は思いきり枕に頭を突っ込んだ。
 どうにも、調子が出ない。
 最近は、いつもこうだ。全く“闇の福音”が聞いて呆れる――が、自分はもはやそのような称号にも興味はない。
 「光に生きてみろ」と、勝手なことを言ったあの男の真意は未だにわからない。結局、先は見えない。同じ時間を繰り返させられている事に辟易していた自分ではあったが、結局長い時間を生きる吸血鬼にとって、“先に進める”事に何か意味があるというのか。
 無限の時間を生きたその果てに、何があるというのだろうか。

(馬鹿らしい)

 エヴァンジェリンはベッドの上で転がった。それもこれも、こうも唐突に退屈になったからなのだろう。学校に行っていれば、つまらないながらも退屈などとは――

(いいや、鬱陶しいだけだ)

 彼女は一人、ため息をつく。しかし――その時、自分の顔に浮かんでいた表情がどういったものであるのか。彼女は気がついていない。むろん、それを見ることの出来る人間が居るわけではないが。
 数百年に渡る極限の時間を生き抜いてきて、今更子供と一緒に机を並べて勉強など、面白いはずもない。そこらの人間を捕まえて、明日から幼稚園に通えと言うようなものだ。むろんそれを当然だと受け入れられる人間は居ないだろう。だが――

(実に――厄介だ。人間の、心という奴は)

 誰にもわからない自身の心の内の、更にその何処かで、エヴァンジェリンはそのように思うのだ。
 自分が吸血鬼に“された”のは、彼女が見た目通りの年の頃だった。
 今の彼女は、見た目はその頃と何ら変わる事はない。しかし、実際に彼女はその目で、自分を置いて流れていく数百年の時間を見つめてきたのである。果たしてそんな自分の心の中に――こうやって言い表せない感覚に悶々と悶える、“ただの子供”のような部分が残っている事は、彼女自身にとって意外だった。
 そして厄介なところはそこなのだ。その事実は彼女にとって意外であり、また面白くないモノであったが、近頃何となく思うのだ。それは――

「……」

 彼女は仰向けに寝転がり、枕を顔に載せた。優秀な従者によっていつも清潔に保たれている布地からは、爽やかな洗剤の匂いと、暖かな太陽の匂いがした。
 体から、力が抜ける。その脱力感のままもう一度眠りに就いてしまおうかとそう考えたとき――寝室のドアが、ノックされた。この家にそれが出来る者は、一人しかいない。

「――茶々丸か、何の用だ?」
「お休みのところ申し訳ありません――マスターに、来客です」
「来客? 恵子の奴は先日東京に戻ったばかりだし、一体」
「横島忠夫様です」
「……何?」

 エヴァンジェリンの頭に、すぐさま一人の青年の姿が浮かぶ。
 馬鹿で明け透けで、自分とはどうやっても反りがあわないだろう愚か者。しかしどこか不思議な空気を纏っていて、興味深いと思ってしまう、奇妙な白髪の青年。
 そんな彼が一体――今の自分に、何の用だと言うのだろうか?

「マスターが寝室に戻られていたので、失礼かとは思ったのですが。一応、玄関でお待ちいただいておりますが、如何致しましょうか?」
「……ふん、通してやれ」

 エヴァンジェリンはベッドから体を起こし、乱暴に上等なパジャマを脱ぎ捨てた。
 どうせ退屈をしていたところだ――誰にともなく、そんなことを内心で呟きながら。




「それで貴様は――」
「お初にお目に掛かります、ミス・マクダウェル。僕はピエトロ・ド・ブラドー――現在国際警察オカルトGメン東京支部に在籍中の者です」

 見惚れるほどの美貌を持った金髪の青年は、そう言ってエヴァンジェリンに頭を下げた。
 年の頃はまだ二十歳そこそこ――オカルトGメンの制服なのだろう、日本の警官のそれによく似た濃紺のスーツに身を包んだ彼は、あくまでにこやかに笑う。

「……来客は横島忠夫だと聞いていたが――“混ざり者”が私に何の用だ」

 そんな彼に対して、エヴァンジェリンは瞳を細める。
 混じり者――彼女の本能が告げている。彼は、自分の同族――間違いなく吸血鬼である。しかし純粋な吸血鬼ではない。人間の血が混ざったハーフ――所謂“ダンピール”と呼ばれる特異な存在である。

「はっは――見たかピート。世の中にはお前のニコポが通じん女性だって居るんだぞ。そのまま無力感にうちひしがれているが良い」
「私には貴様が何を言っているのか全くわからんが横島忠夫――それで貴様は、わざわざ私の安眠を妨害するためだけにこの混ざり者を連れてきたというのか?」
「まさか。エヴァちゃんのベッドルームにお邪魔するんなら、こんな思春期以降の男の敵を連れてくるもんかよ」

 そして彼の傍らで、いつもの調子を貫く車いすの青年――横島忠夫が、この半吸血鬼の青年を連れてきた事は間違いないだろう。どうやら二人は、旧知の仲であるらしい。

「ふん、その心がけは褒めてやるが、貴様は私の趣味ではない」
「つれない事言ってくれんなよエヴァちゃん。この間はあんなに熱烈なお誘いをしてくれたじゃねーか?」
「ちょっ――横島さん!? あなた何を考えてるんですかこんな小さな娘を相手に!?」
「落ち着けピート。この娘が言ってるのは出来れば勘弁したい類の、雪之丞的なアレだったって――しかしこの世には便利な言葉があってな、そのものずばり合法ロ――」
「お前の血と脳漿でこの部屋の模様替えをしたくなかったらさっさと事の次第を話せ」

 ――無論それよりなにより、興味深いと言っても、この男が自分の神経を逆なでするようなタイプの人間である事には違いないのである。こめかみに血管を浮かび上がらせ、エヴァンジェリンは極寒の瞳で横島を睨む。
 その本気の殺気が籠もった視線に――金髪のダンピールは僅かに反応したようだった。だが、とうの横島は、小さく息を吐いて肩をすくめるしかしない。その仕草が自分にどう受け止められるか、彼はきっとわかっている。

「さっきも言ったが、こいつはオカルトGメン――つまりは警察官だ」
「混ざり者とは言え、誇り高き闇の一族が官憲の犬とはな――待て、ブラドーと言ったか? その名前は聞いたことがある。たしかあれは」
「出来ればその先は口に出さないで頂けませんか」

 ピエトロ――ピートを名乗る青年は、強い調子でエヴァンジェリンの言葉を遮る。
 無意識にエヴァンジェリンの眉が動き、それに気がついたのだろう横島が口を挟む。

「まあ、あれだ――こいつは確かに吸血鬼だけどな。いくら吸血鬼なんて言ったって、十把一絡げには出来んだろうよ。それにこいつは、多分エヴァちゃんの知ってるこいつの親父とは特に折り合いが悪くて」
「父の事は今は関係ないでしょう!」

 吐き捨てるように、ピートは言った。
 果たして言葉を飲み込んでしまったが――エヴァンジェリンは思い出す。確か昔、地中海に居を構えるブラドー伯爵なる吸血鬼の噂を聞いたことがある。数少ない自分の同族――強力無比な、闇の眷属。その力を持ってして、中世ヨーロッパの世界に少なくない恐怖と混沌を振りまいた存在。
 なるほど――何がどうなって彼の息子が警察官となったのかは知らないが、少なくとも“そうあろう”とした彼にとって、愉快な話とは思えない。

「まあそうムキになんなよ。あのオッサンには俺も思うところがあるが、それでも最近はのんびり島で隠居生活だろ?」
「……横島さん――この間、ですね。島の皆さんに勧められて、父に認知症のテストを受けさせてみたんですよ。その結果が――」
「……」
「……」
「……ああ、うん、俺はもう何も言わんわ。正直すまんかった」
「……いえ、僕も――急に怒鳴ったりしてすみませんでした」

 目の前で繰り広げられた会話を、エヴァンジェリンはとりあえず無かったことにした。

「と言うわけでエヴァちゃん」
「何が“と言うわけ”なんだ。貴様ら本気で何処かおかしいんじゃないか? 頭の医者にでも診て貰うか? 何なら今ここで、私が直々に貴様に開頭手術でも施してやろうか?」
「ああ、俺って馬鹿だから多少はマシになるかも知れんがな――とりあえずそれは本題が終わってからにしてくれねーか?」

 そう言うと横島は、その瞳を細めてみせる。
 その表情は――果たして、普段の彼にはとても似つかわしくないものだった。

「――エヴァちゃんのクラスの明石裕奈ちゃんが誘拐された。昨日だ」
「――」

 声は出なかった。
 出なかった筈である。しかし、その言葉が耳に入り、脳がその言葉の意味を認識した瞬間――エヴァンジェリンは、喉奥から言葉に出来ない何かがこぼれ落ちたような錯覚を覚えた。
 その何かが何だったのか――考えたくはない。考える必要もない。
 果たしてエヴァンジェリンは、細い指を口元に当て――少し、目を細める。
 むろん、自分の人となりを――その隠したい部分まで含めてある程度知っている相手を前に、このような姿を見せるのは自分らしくない。それもまたわかってはいるけれど。

「……ふん」

 ややあって、彼女は鼻を鳴らす。
 だがそれが――いつものように、高慢で自信に満ちたものであったかどうか。その結果を、彼女は考えないことにする。

「修学旅行で近衛木乃香の一件があって――まだいくらも経たないうちにこの体たらくか。あの坊やを責めるのは酷だとしても、全く麻帆良というのは救いがたい阿呆共の集団だ」
「相性だとか、そう言うもんだってあるだろうよ。そもそも魔法使いったって結局は人間だ。俺が今ここでエヴァちゃんと殴り合いしてみたところで、逆立ちしたって勝てやしねえのと同じでさ」
「……何だと?」

 エヴァンジェリンの眉が動く。

「そんなことより――エヴァちゃんも何だかんだ言って、ネギの事は買ってるんだな?」
「悪ふざけも度が過ぎると後悔しか生まんぞ横島忠夫。私は物の道理というものを貴様より少しばかり知っている。もとい、どうにもならないことを嘆かない趣味でな。あのような出来損ない――“英雄の残滓”などに出来ることなど最初から何もない」

 翼のない人間に空を飛べない事を責めても仕方がないだろう――そう、彼女は言った。

「だが――それで貴様はどういうつもりだ」

 彼女は、まだ何も聞いていない。
 何故目の前の男が、わざわざ自分の前にやって来たのかが、わからない。
 自分に言わせれば、彼は偽善者――その様に呼ぶのも違和感があるが、果たして彼が独善的でお節介であることは間違いない。
 彼の被保護者であるところの犬塚シロの級友が誘拐されたなどと聞けば、黙っていられずに首を突っ込もうとするだろう。それは今までの彼を見ていれば何となく想像は付く。自分にしてみれば反吐が出そうなあり方ではあるが――逆に、そこに文句を言っても無駄なことである。その様な労力、払わないに越したことはない。
 ただ――その様な馬鹿なお節介が、“居ても立っても居られなくなった”と――ならば何故、“ここ”にいるのか?

「言っておくが私は貴様の友達とは違う。明石裕奈に――」

 一度、そこで言葉を切る。
 それは彼女自身にも、意図しないことだった。

「明石裕奈に何があろうと、何も出来ることはない。そう言う意味で言えば、貴様には色々とコネがありそうだな。隣の混ざり者の事と言い――ふん、ならば勝手に、一人で好きなようにやりたいことをやればいい」
「……」
「それでここに来て、私に何か用があるのか? そんなことをしている暇など、貴様にあるのか?」
「連絡網だ」
「悪ふざけは時と場所を選べと言ったはずだ。今日の自宅待機なら、既に連絡は受けて居るぞ。貴様程の馬鹿はどうだか知らんが、これでも私は、電話という文明の利器の扱い方くらいは知って居るぞ」
「そりゃ茶々丸ちゃんの事じゃねえのか? ――わかってる。まあ馬鹿は、この程度だ」

 彼女に睨み付けられて、横島は軽く両手を挙げた。

「ただ、“連絡網”ってのもまるっきり悪のりってワケじゃない。何せ俺は――“連中”に“連絡”を取ろうにも、その術が無いんだからな」




 その変化は、一瞬だった。
 学園長宛の電話――それを取り次いできたという教師の腕から、“影”が弾けた。
 否、正確にはその携帯電話からである。当然彼は驚いて携帯電話を取り落とす。そこからまた、黒い何かが迸る。
 まるで風船に無理矢理詰め込まれた真綿のように周囲にまき散らされたそれは――果たして、漆黒のコウモリの群れであった。それらは今まさに鳥かごから解き放たれたように、縦横に辺りを飛び回り始める。

「こ、これは――」
「エヴァンジェリン!? い、いやしかし、彼女の魔力は、今はまだ封印されているはず――」

 思わず手で顔を庇った“魔法先生”の口から、そんな言葉が漏れる。そう、どう考えてもこれは、普通の現象ではない。そして彼らは、その現象から容易に連想されるあるものをよく知っている。
 影に溶け込むようなコウモリを従え、満月に照らされた真夜中、その月が照らす影に紛れてこの世の深淵をさまよい歩き、人の生き血を啜る化け物――即ち「吸血鬼」である。
 やがて虚空からわき出たコウモリの乱舞は唐突に終わりを告げる。部屋中を覆い尽くす勢いで飛び回っていたコウモリが、一斉にある一点に集中し、真っ黒な塊のようにさえ見えたその瞬間――すでにそこにコウモリの群れなどはおらず、まるで幻のように、一人の男が立っている。
 濃紺の制服に身を包んだ、金髪の青年が。

「――お騒がせしてしまって申し訳ありません、麻帆良学園の皆様」

 見た目通りに良く通る声で、そして見た目にそぐわぬ全く違和感のない日本語で、その青年は言った。

「……何者だ。悪いが今は緊急を要する職員会議の最中で――部外者は立ち入り禁止なのだがな」

 そう言って一歩前に進み出たのは、サングラスにオールバックの強面の男――神多羅木教諭は言う。指で僅かに持ち上げられたサングラスの下には、鋭い眼光が宿っている。
 だが、すぐに彼の表情が動く。それは軽い驚きによって。彼がさりげなく自分の影に隠そうとしたまさにその相手――麻帆良学園学園長、近衛近右衛門が、警戒する様子もなく彼の前に歩み出たからだ。

「お初にお目に掛かる。儂は近衛近右衛門――この麻帆良学園の学園長、責任者の立場に立たせて貰っておる者じゃ」
「存じております、お噂はかねがね」

 金髪の青年は、小さく頭を下げる。

「はて――儂は、儂の知人――友人であるところの横島忠夫君、そして儂の生徒であるエヴァンジェリンからの連絡を受けた――そう聞いて居たところだったのじゃがな」
「礼を失した登場は、重ね重ねお詫びします。ですが、とうの彼らから、あなた方の前に立つには今を置いて他にないと、そう言われたもので」
「――?」
「学術研究都市、麻帆良――水面下でこの場所を本拠地とする関東魔法協会。そこに所属する“魔法先生”方が一同に会する――その機会はそうはない、と」

 彼の言葉に、幾人かの“魔法先生”が動く。明らかに彼を敵として警戒する動き――しかし、近右衛門は軽く右手を挙げて、そんな彼らを牽制する。

「――申し遅れましたが、僕はこういう者です」

 彼がスーツの内ポケットから取り出したのは、革製のパスケースのようなものだった。果たして彼がそれを開くと、その中には見慣れないエンブレムと共に、その彼の顔写真が印刷された身分証のようなものが収まっている。

「国際警察オカルトGメン日本支部所属、怪異現象捜査官――ピエトロ・ド・ブラドー。麻帆良学園学園長、近衛近右衛門教諭以下、麻帆良学園教師の皆様――現時刻を以て、皆様方には国際警察オカルトGメン――及び、埼玉県警麻帆良警察署の指揮下に入っていただきます」




「――しかし取るべき手段がいくつもないとは言え、良いのかねえ……突然しゃしゃり出てきた相手にでかい顔をされたんじゃ、麻帆良の“魔法先生”としては面白くねーだろうに」
「ふん――それを織り込み済みで私の寝起きを騒がせた貴様の言うことか」
「日本人は本音を心に秘めるモンなんだよエヴァちゃん――しかし手伝ってくれる気になるとは思わなかったぜ。向こうの反応は何となく想像がつくが――ま、後はピートが上手くやるだろ」
「麻帆良という地にあぐらを掻く木偶の坊共には、たまにはいい薬だ。自分たちがカビの生えた過去の遺物だと言うことを、いい加減思い知ればいい」

 その言葉を聞くなり、そう言う喧嘩はごめんだ、と言って、白髪の青年――横島忠夫は首を鳴らす。
 その様子をつまらなそうに見遣って、エヴァンジェリンはため息をついた。

「……それに私は、騒がしいのは好きではないからな」
「まあ確かに。エヴァちゃんが“被害者の同級生”とかって顔にモザイク入れられてテレビに出るのも想像出来ねーな……しかし待てよ、エヴァちゃんにモザイクか……何だそのけしからん響きは」
「その響きが気に入らんなら耳をえぐり取ってやっても良いんだが?」

 いちいち茶々を入れなければ話しも出来んのか貴様は、と、エヴァンジェリンは盛大に息を吐く。むろん――どれだけ苛立ちを募らせたところで、あるいは本気の殺気をぶつけたところで、目の前の男がそれに反応してくれるとは思えないのであるが。

「それで――まあ、“魔法先生”共の事はあの混ざり者に任せればいい。木偶の坊とは言え、こういう状況にはいくらか使える能力を持った奴も居るだろう」

 彼女は乱暴に、リビングのソファに腰掛けると、背もたれに体重を掛けて天井を仰ぐ。

「だがどうせ貴様のことだ――あちらに全てを任せて静観する気は無いのだろう?」
「どうしてそう思うよ」
「この私を伝言板の代わりにするその蛮勇が、何処から湧いて出たのかを考えてみただけだ。ふん――貴様と明石裕奈の間に大した接点などは無いだろうに。貴様はあれだな。ただのお人好しと言うにも違う――心底愚か者だと、今はそう呼ばせてもらおうか」
「俺が馬鹿なのは生まれたときから承知してるよ――蛮勇ついでに、もう一つ頼み事をしてもいいか?」

 自分は今見せられた顔ではないのだろうと――天井を睨み付けてエヴァンジェリンは思う。むろん、目の前に男に気を遣う必要など無いし、今更彼の前で格好を付ける必要もないのであるが。

「……私に何か見返りがあってか?」
「今度メシでもおごってやるよ」
「欠食児童か私は……そう見えるなら貴様の血を満腹になるまで吸ってやる。光栄に思え」
「俺が貧血になるくらいなら喜んで――薄々気がついてるかも知れんが、ほら、ネギの事だよ」
「……」

 今度こそ遠慮無く、彼女は口をへの字に曲げた。
 彼女の担任であるネギ・スプリングフィールド――自分をこの麻帆良の地に幽閉した魔法世界の英雄、ナギ・スプリングフィールドの息子。しかしその実、かの英雄と性格は正反対もいいところ。
 感情の浮き沈みが激しく、それはもはや病的で――先の京都での一件から何かを吹っ切ったようだが、それもいつまで続くものか。自分としては、もはやそんな相手に構うこともないだろうと思っていたのだが――

「あのガキを私にどうしろと言うのだ。私が奴にとって何かの足しになるとは思えんし、そもそも私自身、もはやあのガキに関わるのは御免被る」

 彼がまた暴走しかかっているのだろう。それは何となくわかる。何せ京都の一件があった、まだその余波もさめやらぬうちの今回の事件である。誰もが少なからず動揺を隠せない今の状況下にあって、あの彼が何もせずじっとしていられるとは、とても思えない。
 そんな彼に、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――不倶戴天の敵と言っても良いだろうこの自分が、一体何が出来るというのか? する気もないけれど。

「夕べピートを呼んだすぐあとに――明日菜ちゃんと木乃香ちゃんから連絡があった」
「あのガキがまたぞろおかしくなったと言う話か? 今度は何をしでかした。事件は会議室で起きて居るんじゃないと――そんな風に喚いて部屋から飛び出したか?」
「むしろそれは俺の方だ。廊下でずっこけてあげはにハリセン喰らって目が覚めた」
「……貴様は何をやっているんだ……」
「事情は道中説明する。ただ――エヴァちゃんは、“ネギより強い魔法使い”だろう? 今はとにかく――“それ”が必要なんだ」










……前の更新が一年以上前とかないわ……

いろいろ考えることの多かった一年。これからも少しずつでもいいから、自分のやりたいことが続けられたらいいのだけれど。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「DAY2 その裏で動く」
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/10/05 03:51
 人は誰しも、今より強くなりたいと思っているものだ。
 だが、結局何をして強くなれたのかと、疑問に思うのも良くある話しである。
 傍目にどう見えていようが、自分自身は決してごまかせない。だから、人はいつだって今より強くなりたいと思っている。
 それが果たして何を意味するのかも、わからないまま。




 病院の食事は味気ない、と、よく言われる。
 考えてみるまでもなく、それは当然のことである。余程健康を気にしているのでなければ、日常の食事で最も優先されるべきは自分の好み、そこに基づいた味である。病院の食事は味は二の次とまでは言わないだろうが、最も優先するのは体力を回復させること。弱った消化器に負担を掛けないよう、また、過剰な塩分や脂が内臓にダメージを与えることが無いように。
 そう言うことから逃げられない以上、恐らくそれを作ったのが一流レストランのシェフか何かだったとしても、結局病院食は「味気ない物」になってしまうだろう。

「ご飯と魚、じゃがいもの味噌汁――素晴らしい組み合わせですね」
「あなたは本当に美味しそうに食べるわねえ……いや、良いことなんだけれどね?」

 その、世間一般には“味気なくて美味しくない”と言われる病院食を猛然と掻き込む白髪の少女に、それを運んできた看護師は、微笑ましいのと呆れたのが混ざったような、生暖かい目線を向ける。

「それだけ喜んでくれたら、栄養士の先生と調理師さんも救われるわ。近頃の特に若い人は、病院食なんて不味くて食べられないとか言って、残すだけならまだしも、勝手に食べ物持ち込もうとするんだから――この間も見舞いの子に、カレーパンと牛乳とか」
「カレーパンと牛乳!? ああ勘弁してくださいよ、退院したら食べたい物がまた一つ……」
「ありすぎて困るわけね」
「幸せな悩みだって本当に思います。だって昔はお米や味噌だってろくに手に入らなくて、お腹がすいてたらもう味なんて気にしていられないけど、闇市の“すいとん”なんか、きっと今は食べられたものじゃないですよ?」
「……まるで見てきたように言うのねえ……おじいさんかおばあさんの体験談? それとも近衛先生かしら」
「あ、ええと……そうです、近衛先生が昔はそうだったって、あはは」

 何かを誤魔化すように少女――相坂さよは、笑う。まさか自分が、実際にその時代を生き延びた“戦災孤児”である事を、目の前の看護師に教える必要もない。第一、信じて貰えるとは思わない。この病院でそれを当然と知っているのは、院長の柳井医師以下、数名のスタッフだけである。

「いつもおかわりしようと思うんですけど――もうちょっとで体重も四十キロまで戻りそうだし。柳井先生、体重が四十キロ越えたら退院の日取りも考えられそうだって」
「まだちょっと消化器が弱ってるのかしら――食べると気持ち悪くなるとか?」
「いえ、単純に昔からそれほど量が食べられなくて……すぐお腹が膨れるんです」
「……そいつは幸せね!?」
「な、何で怒ってるんですか?」

 看護師と馬鹿げた遣り取りをしていると――ふと、病室の扉がノックされる。先の看護師に目配せしてから「どうぞ」とさよが言うと、入ってきたのは無精髭を生やした、中年の眼鏡を掛けた男だった。

「高畑……先生?」
「やあ、相坂君。元気そうで何よりだ――失礼、僕は高畑と申しまして、去年までのこの子の担任をしていた者です」

 そう言って高畑は、看護師にことわりを入れる。看護師はそれに応えて一礼し、食事が終わった頃にまた来ると言い残して、部屋から出て行った。

「あ……ごめんなさい、私、こんな」
「いや、食事時というのを承知で来たんだ。学園長先生に頼まれてね」
「……近衛先生に?」
「学園長先生本人でなくて残念だろうが、そこは勘弁して貰いたい。彼は今、君一人のために行動できるような状況じゃないからね」

 箸を握る手に、自然と力が籠もってしまう。目の前の男が何を言いたいのかはわからないが――しかし、何かただごとではない事が起こっている。それくらいは、彼女にも感じ取れた。

「――言いにくいことだが、落ち着いて聞いてくれ。君のクラス――三年A組の生徒が、昨日、何者かに誘拐された」
「――!!」

 彼女の赤みがかった瞳が、目一杯見開かれる。
 言葉は、出なかった。ただ病室で寝ていただけの自分が、その事実に対して――紡ぐ言葉など、今ここで見つかる筈もない。

「だから学園長先生を含めて麻帆良の先生方や警察の方々が、一生懸命動いてくださっている。誘拐された子は危険な状態にあるが、それでも一応無事である事は犯人から知らされている。この事実を君に伝えるべきかは迷ったが――」
「いえ」

 さよは、首を横に振る。

「教えていただいて、ありがとうございます」

 自分はまだ、あのクラスの仲間である――などとは、胸を張って言えないけれど。
 あまつさえ、その事実を知って何かが出来る――などとも思わないけれど。
 それでもその事実を知らないで居た方が良かったかと言えば、それは間違いなく“否”である。

「……横島忠夫という人を、覚えているかい?」

 唐突に、高畑は言った。さよは、頷く。自分を長い眠りから目覚めさせてくれた恩人であり――クラスメイトである犬塚シロの保護者でもある。自分で自分の事を馬鹿でスケベな男だと吹聴する明るい青年で、軽くない障害を負っているらしいが、それを感じさせる事はない。
 その彼が、一体どうしたというのか?

「実は、その彼の“つて”で、この誘拐事件の捜査に、国際警察のオカルト専門家が協力してくれることになった。僕らは今、彼の指示に従って動いている」
「オカルト専門家……あ、あのっ……もしかして犯人はその――“魔法使い”なんですか?」
「……」
「いえ、その、無理に――応えて欲しいワケじゃ」
「それはまだわからない。“魔法使い”などと言う言葉で表せるものなのかどうかも」

 言いよどんださよに、高畑は首を横に振った。
 どうやら目の前の彼が、つまりは“魔法使い”であるらしいと――その事は、近右衛門の話から知っている。そして恐らく彼の方も、自分の経歴を知っているに違いない。自分が――相坂さよと言う少女が、“魔法使い”に因縁のある過去を持っていると。
 むろん、それを理由に――今更近右衛門や高畑、麻帆良の“魔法先生”達を責めようとは思わないけれど。

「犯人からの要求らしいものはまだない。だが――“要求”と言えるのかどうか、犯人は名指しで、僕らに告げてきたことがある」
「……」
「さすがにそれを君に教える訳にはいかないが――どうやら犯人は、僕らのことをよく知っている。何故なら僕を含めて、その“要求”に関わりのある人間に、犯人は脅迫状を送りつけてきた」
「脅迫状、ですか?」
「ああ」

 高畑は、頷いた。

「君は学園長先生に繋がりが深い人間だ。当然――犯人が君のことを知っている可能性はある。状況からして君が狙われる可能性は低いだろうが――それでも、用心はするべき“程度だ”と、横島君の知り合いの刑事さんからは、忠告を受けていてね」

 言いながら彼は、スーツのポケットから何かを取り出した。
 それは、お守り袋のようだった。紫色の小さな巾着のようなもので、模様はなく、簡素な作り。中には何か、丸いビー玉のようなものが入っているのだろう事が、手触りからわかった。

「それはオカルト技術で作られたお守りだそうだ。持っていれば最低限、身の安全は保証される」

 さよは受け取ったその袋に目を落とす。指先に感じる、硬い感触を、握りしめる。自分の腕は、もうそこまで動く。

「近衛先生――大丈夫、かな」

 小さく呟いたその言葉に――高畑は、応えなかった。




「ほんで中学生は、部活も返上でガキのお守りかいな――やっとられんでホンマ」
「愚痴っては居るけど、お前は帰宅部じゃないか、犬上」
「保護者やっとるオッサンの強権でな――無理矢理自警団やらされとる。これでも勤労青年やっちゅうに」
「ボランティアだけどな、あれ」

 午前十時――その日の中等部以下の生徒には、全校集会の後自宅待機が命じられた。果たして初等部は集団下校であり、中等部はその引率である。
 果たして小学生の少年少女に聞き分けを持てなどと言っても詮なきこと。たとえ今以て何が起こっていようが、降って湧いた休日にはしゃぐなと言う方が無理なのである。
 だからとりあえず自宅なり寮なりに押し込めば、後は両親か管理者の仕事ではあるが。それまでの引率を押しつけられた中学生の苦労はいかばかりのものか。自分自身が少し前まであの中に居たのが信じられない程である。
 そしてそんな中、改造制服を着た一人の小柄な少年――犬上小太郎も、いかにも疲れたと言わんばかりの表情で道を歩いていた。

「大体帰宅部言うなら、お前もそうやないか、日向(ひゅうが)」
「何を言う。俺は天文部という立派な部活動に所属している」
「部員がオノレだけの部活なんぞ、部活言えるもんかいな」

 隣を歩くのは、小太郎よりもかなり背が高く、しかしほっそりとした少年である。こちらは学校指定のカッターシャツとスラックスをきちんと身につけている。隣を歩く小太郎が、改造ズボンに上は派手なTシャツという出で立ちであるから、普通の格好の彼が妙に真面目に見えてしまうのは仕方ない。

「まあ、こういう事があったんじゃ仕方がない。実力テストも近いんだ、大人しく家で勉強でもするさ。犬上は中間の結果、どうだったんだ?」
「お前は目の前の不良少年が勉強出来るように見えてか」
「不良少年ねえ――」
「おお、何やお前馬鹿にしとるんか。喧嘩売っとんなら、いつでも買うで?」
「まさか、それこそ時間の無駄って奴だろう。俺は無駄な事はしない主義でな」
「……――なら俺とつるんどるのはええんかいな」
「ん?」

 溜め息混じりに、小太郎は長身の友人を振り返る。

「お前、頭ええんやろが。いい加減こっちが呆れるくらいにまあ――頭の出来がええんやったら、俺みたいなのと付き合っとったらどう言われるかくらいわかるやろが」
「お前――俺は男と付き合う趣味は無いぞ?」
「奇遇やな俺もや――真面目に喧嘩売っとるんか?」

 肩をすくめ、日向と呼ばれた少年は笑う。その表情は、小太郎にとって気に入らない。明るく快活で、授業態度も真面目な目の前の彼が、いかにもわかりやすい不良の自分とつるんでいて、周りからどう思われているか――近頃、彼の周りには友人の姿は少ない。

「不良――なあ」
「何や」
「別に――お前の言う不良って奴は、チンピラに絡まれた同級生を助けたりするほど気まぐれを起こすのかと思ってな」
「……せやからあれは、単なるイライラのはけ口っちゅうか……ああもう、ハッキリ言うたるわ、あれを恩に思とるんやったら、単なる勘違いや」
「よしわかった。俺も友達とこういう話しはしたくない。はいはい、もうやめ」
「お前は何を言うとるんや……?」
「俺はともかくとして、お前の方こそこっちに来てからずっと一人じゃないか」
「転校生なんぞそう言うモンやろ。大阪と違うてこっちには知り合いかて……」
「……すまん、俺……この間お前の携帯、偶然触っちまった」
「……」
「……」

 気まずい沈黙が、二人の少年の間に流れる。
 小太郎は大阪に居る間、表向きただの不良中学生だった。だがその境遇と自身の性格のせいで、恐れられる事はあったが、仲間と“つるむ”と言う事が出来たかと言えば――彼は舌打ちをして、大股で歩き始める。

「おい、待てよ。悪かったって」
「そこで謝るなや腹立つ――お前、寮は向こうやろが!」
「せっかくだしお前の家で勉強でもと」
「……月詠の姉ちゃん目当てかいな?」
「まさかそんな! ……なあ、犬上。俺たちは友達だよな?」
「あのなあ日向――ええか、この際その言葉は否定せんわ。俺は、今この瞬間、友達であるお前の事を思うて真剣に言うたる――あの女だけは、やめとけや?」
「犬上――ひょっとして、俺たちはライバルか?」
「その勘違いだけは勘弁や! 俺はたとえ世界中で月詠の姉ちゃんしか女がおらへんかったとしても、あの女だけは勘弁や! ええか日向、お前はあの女の見た目に騙されとるだけや! 頼むから目ぇ覚ましてくれや!?」
「騙されるとは犬上――あの人がそんなことをするわけが無いじゃないか。いいか、彼女はな――ん?」

 日向少年は胸元に手を当てて、大仰に何かを語り始めるところだったが――何かに気がついて、足を止めた。

「何や?」
「あれ、何やってんだ? こんな時に、掃除?」
「あん?」

 彼が顎で指した先には、一人の少女の姿があった。何故か大きな箒を両手で持ち、落ち着かない様子であたりを見回している。年の頃は自分たちと同じくらいだろうか。
 だが果たして、小太郎は彼女を見て小さく舌打ちした。

「……犬上?」
「ああ……何でも。あいつなら知った顔や……何やその目は」
「いいや、別に、何でも」
「お前が思とるような夢のある話は一切無いで。関わり合いになると面倒やし、さっさと行くで」
「え? いいのか?」
「ええ、ええ。どうせまたぞろ――」

「ここで何をしているのです。中学生には自宅待機の指示が出ているはずですが?」

 冷たい声が、少年達の背後から投げかけられた。




「あ、いや――自分たちはその、帰り道の途中で」

 日向少年は、彼らに投げかけられた声の主に、戸惑いながらも応える。
 彼らに声を掛けたのは、長身の少女だった。どこか西欧の血が混ざっているのだろう、日本人離れした美貌に、すらりと長い手足。金色の長い髪。身に纏っているのが、何処かの学校の制服でなかったら、恐らくもっと年上に見えたに違いない。
 萎縮――と言うのではないが、ごく普通の中学生でしかない日向少年が気後れしてしまうのは仕方がないだろう。

「なら、早く帰りなさい。今麻帆良で何が起こっているか、知らないわけではないでしょう?」

 だから、だろうか。日向少年は気がつかない。目の前の長身の少女が放った言葉が、何処か妙な物であったことに。

「あれはええんか」

 小太郎が背後を指さす。そこには先程の少女の姿がある。しかしこちらに近寄ろうとして――明らかに、踏みとどまった様子だ。

「……愛衣は麻帆良自警団の一員です。私たちには」
「それなら俺も自警団やで。なあ、その辺の事は、よう知っとる筈やけどな、姉ちゃん」
「お、おい――犬上!」
「そうとも――俺は今この麻帆良で、何が起きとるか、よう理解しとるつもりやで?その上で言わせてもらうが、こんな今やからこそ、姉ちゃんらのような“か弱い女学生”は、家に籠もっとるのが賢いんちゃうか?」
「あなた――」
「犬上! よせって――! す、すいません、こいつ何か虫の居所が悪いみたいで。俺からよく言って聞かせますんで」

 ただならぬ雰囲気に、はっとして日向は二人の間に割って入る。相当に勇気を振り絞ったのだろう、彼の声は半分裏返っていた。

「……まあ、姉ちゃんの言う通りや。俺ら中学生は大人しゅうに家に籠もっとるさかい――好きにやったらええわ」
「犬上!」
「行くで、日向。今外は物騒言うし――こんな連中とおっても、時間の無駄や」
「いや、お前ちょっとおかしいぞ? この人達も自警団のメンバーなんだろ? お前の仲間なんじゃないのか?」
「反吐が出るわ。少なくとも、俺の知っとる“自警団”っちゅうんは、自殺志願者の事や無いからな」
「……お前……何を言って――?」
「……待ちなさい」

 金髪の少女の手が伸びる。その細く白い手が、小太郎の肩を掴んだ。

「ああ、すいません! あのこいつ、見た目通り遅れてきた中二病に罹ってるっていうか」

 その援護射撃自体が無駄だとわかっているだろうが、どうにか日向が二人を引き離そうとする。
 だが、小太郎は友人の声など聞こえていないとばかりに、金髪の少女を睨む。

「離さんかい、痛いやろが」
「私は――そう、あなたにそう言われたら、何も言い返せないわ、でも」
「オノレの耳は飾りかいな。俺はあんたらに絡む気はない。好きにせえ言うとる――何や文句があるんかいな。睨む相手が違うんちゃうか、ああ?」
「でも――でも、あなたにだって、そう言うときがあるでしょう? あなたがあそこにいたのは結果論で、もしあの時、私が」
「……あかんわ、日向、この姉ちゃんどっかおかしい――家で試験勉強でもしとるんが千倍マシやな。今度の試験範囲、ちょいと俺に教えてくれや」

 乱暴に少女の手を振り払い、小太郎は言う。
 手を振り払われた少女は――ただ黙って、俯いた。その拳はきつく握りしめられ、日向少年でなくとも、彼女が“普通だ”とは思えないだろう。だが、小太郎が言うところの“おかしい”と――彼がここまで、彼女を敵視する理由もわからない。
 ややあって、はあ、と――小太郎は、わざとらしく大きなため息をついた。

「今度の誘拐事件、犯人は身代金目的やろかな?」
「……?」
「仮に犯人が、明日までに一億円用意せえと――そう言うたら、あんたはそれを払うか?」
「それは、きっと――でも、犯人からの要求はまだ無いって、先生方が」

 少女の声に、ぴくりと、小太郎の眉が動く。

「ただのたとえ話や。つまりそう言うことがあったとしたら――あんたは、人質の命を一億で買うた事になる」
「それは――そうかも、知れない。でも、そう言う言い方は――」
「……少なくとも“そこ”に噛みついとる間は、あんたはその程度やろな」

 今度は、小太郎は振り返らなかった。日向は少し考えたようだったが――ややあって、金髪の少女に小さく頭を下げ、友人の後を追う。

「おい――お前、一体どうしたって言うんだよ!?」
「どうもこうも無いわ。あの姉ちゃんとはどうにも馬が合わん――お前かてそう言う相手はおるやろ?」
「あれはどう見たってそういう感じじゃなかったぞ? お前、あの人達と何かあったんだろ?」
「……まあ、俺が素直や無い、言うのも――認めるけどな」

 不意に、小太郎はポケットから携帯電話を取り出す。手慣れた様子で電話帳を呼び出して耳に当て――

「……俺や。例の話しやけど気が変わったわ。今から――……あん? 誰やお前。ああ――って、何でお前があの子供先生の電話に出るんや?」




『埼玉県警麻帆良署と、麻帆良学園の“魔法先生”とは話が付きました――指揮権は僕と、近衛近右衛門学園長に集約できます』
「おお――汚れ役ご苦労さん。針のむしろの座り具合はどうだった?」
『わかっててそれを聞きますか横島さん――まあ、それも僕の仕事なんですけどね』
「警察なんてそう言うモンだろ。美神さんへの覗きで一週間留置所に入れられた事は決して忘れん」
『完全に自業自得じゃないですか』
「すまんがそっちはもう暫く針のむしろに座っててくれ。なんならそこに代役で西条あたりを据えてもいいんじゃないか」
『さっきも言いましたが、僕の仕事は“こういうこと”です。西条主任管理官の手を煩わせるようなことはしませんよ。それより――』
「ああ、うん――俺もこういうことは得意じゃないし、気乗りはしない。ただ他に誰も出来る奴が居ない以上、仕方ねえだろ」
『しかし』
「忘れたかピート、俺は美女と美少女の為なら命さえ惜しくねえ。これでこの事件が片付いたとなれば、裕奈ちゃんからの俺への評価はうなぎ登りだ」
『……そうかも、知れませんね――今夜あたりおキヌさんが枕元に立っても知りませんが』
「おいちょっと待て最後に怖いことをさらりと言うんじゃ――おい、おい!? くそ……切りやがった」

 午前十時過ぎ、麻帆良市郊外、横島邸。
 口をへの字にしながら電話を切った横島に、呆れたような視線が突き刺さる。果たしてその視線を送ってきたのは、アイスブルーの冷涼な瞳。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルその人である。

「お前は本当に――いちいち馬鹿を挟まんと会話も出来んのか」
「シリアスなんざ十分も続けたらぶっ倒れる自信があるぜ」
「えらそうに言うことか! 大体貴様――」
「先生、エヴァンジェリン殿――平常心を保って居られるのは結構で御座るが、今は時間が惜しい」

 そのままくだらない掛け合いに移行しそうだった所を、紫陽花柄の着物を身に纏った、銀髪の少女が止める――犬塚シロが。

「よし――そんじゃまあ、状況を整理する。ホントに俺ってこういうの苦手なんだけどな……」

 頭を掻きながら、横島は言った。

「とりあえず麻帆良の警察と、“魔法先生”方が動いてくれている。懸念してた魔法の云々も、まあピートをねじ込めたし、学園長が居れば問題はねーだろ」

 果たしてその場所――横島邸の居間には、ネギ、明日菜、木乃香の三人と、エヴァンジェリン、茶々丸の主従、そして“横島家”のシロとあげは――そしてネギの“従者”であるところの、宮崎のどかが居る。エヴァンジェリンと茶々丸に関しては、横島の友人であるピートを介入させるために必要だったわけであるし、ネギ達に関しては――

「ただ――厄介なことに、“ここで俺たちが動かない”“警察と魔法先生にお任せする”というもっともな方法は、どうやら許されない」

 彼は言った。
 脅迫状が送られてきたのは三カ所――横島邸、麻帆良寮の明日菜と木乃香の部屋、そして、たまたま近右衛門と高畑が詰めていた、麻帆良学園の宿直室である。
 これは、偶然ではあるまい。犯人は“彼らが何者であるか”を理解したうえで、脅迫状を渡してきた。ならば犯人は、“彼らに何らかのアクションを求めている”と考えるのが自然である。
 そしてそのアクションとは、間違っても「事態を警察に丸投げして自宅で待機」というようなものではないだろう。

「一つ気になるのですが――」

 ふと、今まで黙っていたあげはが言った。彼女は夕べ、横島邸に送りつけられた脅迫状の封筒を発見した張本人である。中には学園長や明日菜・木乃香の部屋に送りつけられたのと同じ文面の手紙と、同じく捕らわれた裕奈の写真が入っていた。

「ネギ先生の所に脅迫状が送られたのはわかります。この犯人が、ネギ先生に因縁のある人物だった――と言うのも、何ら不自然ではない」

 果たしてネギ・スプリングフィールドのネームバリューとはそれほどのものである。結果的に何もアクションが起きなかったとは言え、彼が修学旅行の引率で京都に行くと言う話しが出ただけで、関西呪術協会という大きな組織が騒ぐ程なのだ。そうでなくとも、魔法の世界に於いて彼の名を、そして英雄“ナギ・スプリングフィールド”の名を知らぬ者はいない。
 犯人の真意がどこにあるにせよ、ネギにちょっかいを出してくる事自体――意図が読めなくとも、納得は出来てしまう。

「学園長先生の所に脅迫状が送られるのもわかります。麻帆良と言う組織は、彼を抜きにしては語れない。では――ヨコシマは?」
「私とそこの坊やとの喧嘩――そして京都での一件。それを通じてここは、坊やにとって繋がりの深い場所となっている。脅迫状の文面が他の二件と同じだった事を考えても――それほど深い理由があるとは思えないな」

 エヴァンジェリンは言った。

「とはいえ貴様らは魔法使いにとっては異質の存在――それがわざわざ麻帆良に来ているのだ。もともと目立って無いとは言えないだろう。あわよくば、坊やにかこつけてその内情を知りたいと――その程度の事は考えているのかも知れない」
「……ヨコシマ」
「まあ、それを今考えても仕方ねえ……って事か」

 横島は疲れたように息を吐く。その仕草に、シロとあげはは何か言いたげだったが、結局その場では無言だった。

「ともかく、ネギ」
「はいっ!」
「あ……いや、俺はお前に指図が出来るような立場にいねーし、そもそもそういうの期待するだけ無駄だから……あんまり気負うな」
「……」

 そこでムキになって噛みつかないだけ、彼は成長したと言っても良いのだろうか。
 横島は続ける。

「ある程度こっちの動きは、向こうに筒抜けだと思った方が良いだろうな。実際、犯人の姿は見当も付かない。修学旅行の時よりも、状況は悪い」
「ふん――では、どうする?」
「とりあえず、ネギに“努力”してもらう」
「……ど、努力……ですか?」
「ああ。脅迫状はネギを名指しで来てた。裕奈ちゃんを取り戻したいなら、ネギに何とかしてみろと。犯人がネギを煽って何がしたいのかイマイチわからんが――少なくとも今は、その言葉に乗るしかない」
「しかしその言葉に乗ると言っても――具体的に何を?」

 不安げに言ったのはのどかだ。横島はそんな彼女を安心させんと――何かを言おうとしたようだったが、同居人の冷たい目線に耐えかねたのだろう、両手を挙げる。

「もちろん、相手の要求に乗ってるように見せかけて、その実自分の有利になるように」
『しかし言うは易し、行うは難し、ですぜ?』
「お、いたのか小動物」
『最初っから兄貴の肩に居たでしょうがッ!?』
「いや、モノローグにも出て来なかったかし、もういい加減イギリスかどっかに帰ったのかと……」
『わけのわかんねえことをさも当然のように言わんでくださいよ! いくら何でも傷付きますよ!?』

 冗談だよ、と、横島は手をひらひらと振る。

「まさか奴さんが、この作戦会議まで覗き見してるとは思わん」
「何故そう言い切れる?」
「もしそうなら、俺たちにはガチで打つ手がねえ」

 だからとりあえず、“そう”考えるしかないと、彼は言う。
 それを聞いたエヴァンジェリンが、呆れたようにため息をついた。

「俺やネギはただの人間だ。多少妙ちくりんな特技があろうが、大概の事をやろうと思えば出来ちまうエヴァちゃんとは違う」
「……」
「ただ、それがまるっきりの希望的観測だとも言わん。もし俺たちが最初っから奴さんの釈迦の手のひら状態だとするなら、どうだ? 俺なら、こういうまだるっこしいことはしねえよ。向こうがネギに何の魅力を感じてるのか知らんが――もっと好き放題をするね。ネギ自身を狙って直接的に」
「しかし、それはあくまであなたの仮定でしょう?」
「ああ。だが仮に違っていたとしても、俺たちの行動が全て筒抜けじゃない――それは確かだろうぜ? そうでなきゃ、そもそも俺たちはこうやって雁首揃えて作戦会議は出来ねえだろうよ。相手がこっちの全部をコントロールできるようなとんでもねえ奴なら、尚更な」

 のどかの問いにそう答え――エヴァちゃんあたりならわからないか、と、彼は続ける。

「そう――脅迫状と言い、裕奈ちゃんのけしからん写真と言い――間違いなく犯人はこの状況を“楽しんで”る」
「……」

 誰かの喉が、鳴った気がした。

「明日菜ちゃんに木乃香ちゃん。たとえば君らはこれから新しくテレビゲームを始めようかって時に、攻略本や攻略サイトをみっちり用意してから臨むか?」

 話を振られた少女二人は顔を見合わせ――ややあって、首を横に振る。
 当然だ。大概の人間は、ゲームをプレイするのにそんな馬鹿げた事はしない。最初から何が起こるかわかっていて、それに対してどう対処すればいいのか――それがわかっていて、“何のため”のゲームだと言うのだろうか。

「相手がネギを煽って何がしてーのか……その辺はよくわからん。が、やり口からするなら、こういうところは“フェア”に行くはずだ」
「……先生」
「……というのをだな、ピートを通じて西条のクソ野郎の所に状況を伝えてみたら、言葉尻ごとの俺への暴言と共にそういう解答が返ってきた」
「ああ……」

 シロとあげはが、同時に眉間を指で押さえる。
 西条というのが、他の面には何者かなどわからないだろうが――彼らのリアクションを見るだけで、その答としては十分だろう。

「ああ、西条っつうのはピートの上司な。オカルトGメン東京支部の主任管理官――まあ実質のトップだ」
「国際警察の――ですか?」
「ついでにとんでもねえ女たらしでな。おまけに腹が立つことに仕事が出来てツラが良くて話しが上手いモンで――……よしちょっとあの野郎ブチ殺してくる」
「いや、そういうのもういいですから」

 顔の前で手を振りつつ、明日菜が横島を止める。

「こいつの馬鹿は放っておくにしても――ふん、ある程度筋は通る。状況から見れば納得も出来る。むろん、納得できると言うだけで、何か確証があるわけではない」

 だが、それ以上は神ならぬ人間にわかるはずもない。エヴァンジェリンはそう言って、形の良い顎を指で押さえる。

「ならば結論として――そこの坊やには“頑張って”もらわんといかん」
「えっ」
「ふん――貴様一人で明石裕奈の奪還などとても期待は出来ん。だが、“そうすること”を目指してもらわんと――犯人はそれをご所望だと言うことだ。そうして無駄なあがきをする貴様を見るのが楽しみだと。中々いい趣味の持ち主じゃないか」
「……」
「せやけど、頑張る言うても、具体的にどうするんや?」

 俯いたネギを気にしつつ、遠慮気味に言ったのは木乃香である。その彼女に、エヴァンジェリンは薄い胸を張る。

「相手が明石裕奈を奪い返しに来いと言うのなら――実際はともかく、それが出来るかも知れないと、そう思わせる程度にはなってもらわんとな」
「でも――脅迫状の期日は週末だったわよ? 今日が火曜日で――たった数日で、何が出来るって言うの?」
「そのあたりのことは心配するな、神楽坂明日菜」

 明日菜のもっともな問いに、エヴァンジェリンは鼻を鳴らす。

「幸いにも、おあつらえ向きなものがうちにある」




「う、うわあ……」

 そこには、一つの“世界”が広がっていた。
 水っぽい熱帯の青空には入道雲がわき上がり、目の前には何処までも広がっていそうな大海原が広がっている。背後を振り返れば、これまた広大なジャングル――湿気に霞んで見える遙かに遠くには、万年雪を頂いた壮麗な山脈が見えている。
 そしてそのジャングルの中に、現実感を失わせる程の巨大で、美しい城が建っていた。

「ここ――本当に、あの水晶玉の中の世界なんですね」

 麻帆良学園女子中等部の制服の上から、“図書館探検部”の装備を身につけた少女が、呆然と呟く。
 彼女は既に、魔法という非日常の世界に足を踏み入れた筈だった。
 けれど、どれだけこれは“そういうもの”だと自分に言い聞かせたとしても――目の前の景色に頭の処理が付いていかない。隣でその城を見上げる愛おしい少年とともに、ただただ立ちつくすしかない。
 ただただ、そうして言葉を失うしかない二人の背後で、

『――ケケケ』

 蠢く影が、あった。












高音ファン・愛衣ファンの方々ごめんなさい。

一応言い訳しときますと、よくアンチでは「頭の固い魔法使いのテンプレ」として槍玉にあげられる二人ですが、
個人的にはそんなに嫌いじゃない。

ただ……小太郎をメインにしてこういう話に持っていくと、なんというかどうしても「そういう」役割が必要で。

……ごめんなさい真っ先に適任に浮かんでしまいました。
ファンの皆様申し訳ない。
これも「中年はかっこよく書きたい」というこの手が! 手が!
結局は誰かが貧乏くじ引かなきゃならなかったんでしょうが……ここでオリキャラ使うとどうも弱いし。

一応ああいうテンプレにならないように、それなりの考えはあります。
安心はできないかもしれませんが。



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「DAY2 対価」
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/10/26 20:32
「こうするしかない」という場面に出くわしたら。大概の人は絶望するだろう。
当然、自分が望まざる道を強制されているのだから。
だったらいっそのこと、開き直れ。
自分が臨まぬ道を進んでいるのは、それを強いた誰かのせいだと、徹底的に押しつけて。
そうしたら後は、自分が行きたい方向への曲がり角を待てばいいだけだ。
そしてその時には、決して躊躇うんじゃないぞ。




 ――朝帆良市郊外、エヴァンジェリン宅。
 そのリビングに据えられたソファに腰掛け――その家の主であるエヴァンジェリン・マクダウェルははしたなく足を組む。どうせこの場に、それを注意するような人間は居ない。いたところで、それを聞き入れるつもりも、きっと彼女にはない。
 これからきっと忙しくなる――それも、“悪の魔法使い”である自分としては面白くない方向に。
 エヴァンジェリンは天井を睨み付け、大きく息を吐き、刻まれて間もない記憶を思い起こした。




 明石裕奈誘拐事件において、犯人は何故かネギに、事件を解決できるように足掻いてみろという。それが不可能に近い事は誰にも理解できるが、さりとてだから何もしない、と言うわけにはいかない。犯人は“不可能に挑む悲劇”を望んでいるのだという。
 ならば――本当にそれを不可能と悲観する訳にはいかないが、今はそれを演じてみせるしかない。あちらとて、こちらがその様な道化に成り下がるとは思っていないだろうけれど。その裏で何かを考えている事くらい、お見通しだろうけれど。

「さて、その趣味の悪い犯人は、ネギに何を望んでいるかと言うことだ」
「不可能に挑むと言うのですから……ネギ先生にこの事件を解決してみろと、そう言う意味でしょう?」
「最終的にはな」

 のどかの問いに、横島は首を横に振る。

「だが、過程無くして結果が出るわけではない」

 そこに、エヴァンジェリンが割り込んだ。横島は何も言わない。彼女がある程度を語ってくれるのならそれに越したことはない――そう思っているのかも知れない。

「その為にはどうするか――あるいは坊やが、警察官に協力して、サスマタ片手に藪を突いてみるか? 不可能に挑む悲劇がどうのという趣味の悪い輩が、そう言うことを望んでいるとは思わんな」
「それは――」
「でもそれならさ、今警察とかがやってることは全て無駄ってこと?」

 不満げにそう言ったのは明日菜だ。

「そりゃ、相手が魔法使いとか何とか――そう言うのだったら、警察が普通のやり方で捜査したって無駄かも知れない。けど、オカルトGメンとか、イマイチ信用できないけど“魔法先生”だって居るんでしょう」
「せやせや。京都でウチが浚われた時かて、結局天ヶ崎さんのところにたどり着けたのはシロちゃんの知り合いの刑事さんのお陰で、化け物を倒したのは自衛隊やったやん?」

 木乃香もまた、そんな彼女に援護射撃をする。彼女の場合は自分の祖父が、今現在捜査の中心にいることもあるのかも知れない。何だかんだと言っても、木乃香はそれなりに、祖父として近右衛門の事を慕っている。

「“杖にかけて”――これがなきゃな。あるいはそう――俺としてもそうした方が良いとは思うんだが」

 そんな二人に、なるべくやんわりと横島は言う。
 脅迫状の中には“杖にかけて”という一文があった。見る者が見ればそれはすぐにわかる。魔法使いの英雄の息子であるネギが、魔法使いの象徴である杖にかけて――そう、犯人は“魔法使いネギ”に、この事件を解決してみろと言っている。

「俺はネギのオヤジさんの事はよく知らん。だが“千の呪文の男(サウザント・マスター)”とか言う大層な渾名が付いてる所を見たら、指揮官タイプじゃなく、自分で戦う、それこそおとぎ話の“英雄”みたいな奴なんだろう?」
「当たらずとも遠からずだな――当の本人は英雄と言うにはほど遠いが、周りがそう言う目で奴を見ているという点では」

 横島の言葉に、エヴァンジェリンも頷く。いかにも不愉快だと言った様子で。

「早い話が奴さんは、“魔法使いネギ”に、“魔法使い”としてこの俺様を止めてみろと、そう言うことが言いたいわけだ」
「魔法使いとして――」
「そう。正しくは――魔法使いとして戦って、この事件を解決してみろ――そういう事だ」

 エヴァンジェリンの言葉に、一番に反応したのは明日菜だ。
 彼女はきっと思い出しているに違いない。エヴァンジェリンとネギの“喧嘩”――そして、京都での一件。
 現代日本という平和な世界で育った彼女にとって、戦いというのは忌避されるべきものである。
 しかし魔法使いという人々は、明日菜が考えるような平和を目指しつつも、結局戦いのための牙を研ぐのである。“敵と戦う”為の魔法を研鑽し、それでもって“魔法使い”を名乗る。
 いまだそれを許容できない明日菜に取ってみれば、その言葉は重い。

「そこでわかりやすいポーズとして、坊やには特訓をしてもらう」
「特訓?」
「ネギ、お前日本の漫画が好きなんだろ? 強敵に対して主人公がする事と言えば何だ。お決まりのように“修行”だろうよ」

 横島やエヴァンジェリンが言いたいことの真意がいまいちわからない――そんな表情のネギに、彼らは言う。

「坊や、貴様はどうにも、頭は悪くないが馬鹿正直で善人過ぎるきらいがある。子供にあれこれ高望みするのは馬鹿のする事にしてもだ。今の状況はそれを考慮してくれん」
「……理解しているつもりです」
「上出来だ」

 麻帆良の馬鹿共はその当たり前の事すら忘れている節があるが――などと呟いているエヴァンジェリンを尻目に、横島が言った。

「今回の犯人を相手に悪巧み――まあよく言えば知謀のやり合いで張り合おうとするのは、お前にはまだ無理だ。だからお前はこの際、犯人の要求に対する“見せ金”に徹しろ」
「見せ金? 誘拐事件なんかが起きたときに、警察が犯人に対して身代金を用意したと“見せかける”――あれですか?」
「知ってるなら話しは早え」

 犯人の要求に対して用意される、一種のトラップである。大抵は、身代金としてナンバーが記録された紙幣などが用意され、それが使われることで、犯人逮捕の手がかりとして機能する。

「お前は今から、悪い魔法使いと戦うために特訓をする――その力は強大だろうが、だがそれでも“僕は諦めずに戦うんだ”と、その為にな。いやもう、見せ金とか余計なことは何も考えるな。ネギ、お前は犯人をブッ倒してその場で事件を解決してやるって、それくらいの意気込みで居ろ」
「……」
「出来るな? 実際、それでもいいんだ。こんな要求をしてきた以上、指定の時が来れば、相手は必ずお前に対してアクションを起こす。その時にお前がそいつをブッ倒してしまえば、全部解決だ――」

 もう一度言う、余計なことは考えるな。
 横島は繰り返した。

「裕奈ちゃんの為に、命がけで悪者をブッ飛ばせ――出来るな?」
「――はい!!」

 明日菜の視線に気がついていないわけではないのだろうが――しかしネギは、しっかりと頷いた。
 そこでエヴァンジェリンが用意したのが、彼女曰く“おあつらえ向きのもの”――“特訓をする場所”の提供である。
 そこは簡単に言えば、水晶やガラスのボトルに閉じこめられた十分な広さを持つフィールドである。何でもかつて自分が根城にしていた城砦を、そっくりそのまま移築しているのだとか何だとか――更にはこの水晶の中と外では時間の流れ方が違っている。一度中に入れば、二十四時間経たなければ外に出ることは出来ない。しかしその間、外では一時間しか時間が経過していないと言うのである。
 つまりこの中で“特訓”をするなら、一日中に入っているだけで、一ヶ月近い時間の猶予を稼ぎ出すことが出来る。犯人の言う“週末”――土曜日までは、あと三日半ほど。それまでずっとこの中に居れば、三ヶ月ほどの時間を“特訓”に費やすことが出来るのである。

「まあ――むろん、問題が無いわけでもない。体感時間がどうこう言うのでなく、実際に流れる時間を加速してあるから――その分“年を取る”とかな。ワインを寝かせたりするには便利なのだが」
「つっても三ヶ月だろ。多用は出来んだろうが気にする程じゃ――……」
「どうした?」

 口元を押さえた横島を、エヴァンジェリンが見上げる。

「いや、何でも。ただ何でかわからんが、その効果を聞いた途端に変な寒気がしたような……?」
「ほほう……そのフィールドの中にいれば、つまり二十四倍の速度で時間が流れるわけですね――それは、それは」
「突然何を言い出すので御座るかあげは――ところで拙者は十ヶ月後には高校生になるわけで御座るが? つまり――ふむ、二週間弱……と」
「いきなりしゃしゃり出てきて何をわけのわからんことを――おい横島忠夫、そこのガキ共の世話は貴様の管轄だぞ?」
「……真面目な話、していいか?」
「当然だ。そこの馬鹿共の事は貴様がどうにかするべき問題で、私には何の関係もない。髪の毛の先程もな」

 つい先刻、準備を整えて水晶玉に消えていったネギとのどかを見送って、横島はエヴァンジェリンに言う。同居人達の視線はとりあえず、気にしない事にするのだろうが。
 まあ果たして、そう言うのを問題の棚上げと言うのだろう――エヴァンジェリンはそんな風に思ったが、当然口には出さない。

「――さて、坊やの方はこれで良いだろう。坊やに“適当”と思われるものは既に用意してあるし、一応中の様子は私にもわかるようにしてある。ただの“見せ金”には破格の対応だが」
「裕奈ちゃんを助けるためなら、出来ることは何でもやらねーとな」
「……ふん、私の周りで何処の馬の骨とも知らん奴に好き勝手やられるなど、到底勘弁が出来ん。それだけの話――お、おい、何だその目は! 近衛木乃香に神楽坂明日菜――こ、こらっ! 近寄ってくるな! 頭を撫でるな!」

 エヴァンジェリンは必死で従者に助けを乞うた。
 が――近頃この従者がこういうときに、自分を助けてくれた事が皆無であった。事が片付いたら絶対精密検査に出してやると心に誓いつつ、エヴァンジェリンは明日菜の手をふりほどこうと、必死にもがく。




「……思い出すんじゃなかった」

 眉間に皺を寄せ、エヴァンジェリンは盛大な溜め息を吐いた。

「エヴァちゃん――ネギはそれでいいとして、私たちはどうすればいいの?」
「あん?」

 天井を仰いでいた彼女は、明日菜に声を掛けられて、そちらに顔を向ける。

「だから、ネギは犯人の要求通り“特訓”してればいいとして――私たちは?」
「……貴様、自分がこの件で何か役に立つと思ってか?」
「なっ……そ、そういう言い方ってないでしょ?! そりゃ私は魔法使いじゃないけど、それでも――」
「じっとしておくことがもどかしいのはわかるが、ならただの中学生に何が出来るというのだ。これが普通の誘拐事件だったとしても、同じ事だぞ?」

 何もせずじっとしておくのが無理なら、部屋の掃除でもしていれば気が紛れるだろう、と、エヴァンジェリンはひらひらと手を振った。
 その態度に明日菜は何か言い返そうとするが――事実、返す言葉がない。
 身の回りにネギや横島、エヴァンジェリンという、この非常事態に“何か”が出来る人間が揃っている者だから、つい勘違いしそうになる。しかしとうの明日菜本人は、単なる中学生でしかない。
 エヴァンジェリンの言うとおり、何か事件が起こったからと言って――程度の低いドラマではあるまい、ただ被害者の友人と言うだけの子供に、何が出来るのか?

「第一“戦うこと”などいけないことだ――普段から戦うことなど考えていては馬鹿らしいと、私にそう言ったのは貴様ではないか、神楽坂明日菜」
「うぐっ……で、でも、あれは――その、違うじゃない!?」
「何がどう違うと言うのだ。貴様はあれだな。平和平和と馬鹿の一つ覚えのように唱えては、地震でもあったときには普段邪魔者扱いしている軍隊に必死に縋る、この国の馬鹿者共と同じだ」
「い、いくらなんでもそんなのと一緒にしないでよ! 私だって、自衛隊は必要だって思ってるわよ!?」
「たとえ話に噛みつかれてもな――あの時貴様は私に大口を叩いたが、実際問題、どうだ? 京都で近衛木乃香が危険に晒され、そして今回――貴様の言う平和など、結局絵に描いた餅ではないか」
「まあまあ、エヴァちゃん――そう、明日菜をいじめてやりなや?」

 そこで助け船を出したのは木乃香だった。
 エヴァンジェリンは不満そうに鼻を鳴らすが――しかし果たして、彼女は言った。

「せやったら、ウチはどうや?」
「はっ?」
「ちょっ……木乃香?」
「ウチにはようわからへんけど――京都でウチが天ヶ崎さんに狙われたんは、“それ”が原因なんやろ? ウチの中には――ようわからん力が、ようさんあるて」
「まあ……それは間違いではないのだが」

 エヴァンジェリンは眉をしかめる。
 確かに彼女の言うとおり――近衛木乃香という少女には、途方もない潜在能力がある。その力の総量を正確に知ることは出来ないし、またその意味もないが――潜在的な魔力をただの燃料タンクのようなものだとするならば、彼女のタンク容量は、かの英雄ナギ・スプリングフィールドをも上回る。
 さすがに“闇の福音”として恐れられた、全盛期のエヴァンジェリンと比べるのは酷だろうが、それでも彼女の持つ力は、人間としては破格のものだ。
 だが――

「しかし魔力は魔法として消費できなければ意味がないぞ。そして貴様は魔法使いではない」

 魔法とはただの技術であり、誰しもがある程度は扱える。しかしそれでも、一朝一夕に身につけることは出来ない。だから魔法使いは強力な存在であるし、だから魔法は秘匿される。

「せやったらウチも、あの“別荘”を使えば」
「いくらお前に才能があったところで、あの坊やと同じレベルで魔法が使えるようになるにはそれこそ十年やそこらは掛かる。そこまで敵が気長とは思えんし、そこを頼み込んでどうにか待ってもらえたところで、貴様はただの友人のために十年を捨てられるのか?」
「うぐっ……ゆ、裕奈が無事に帰ってくるなら、それくらいはっ! そ、それにいざとなったら横島さんもおるし!?」
「え、いや、学園長に使ったあれは菅原のオッサンに無理言って頼んだもんで……」
「貴様も律儀に応えてやらんでいい。どうせ時間がないのは本当だ――まあ、私としては、取り返しのつかぬ時間に貴様が後悔したときに、どのような見苦しい争いが待っている事やら。それが楽しみだがな?」
「――」
『――そうだ姐さん方、いい手があるぜっ!』

 木乃香が何かを反論しかけたとき――テーブルの上に寝そべっていた白い小動物が顔を起こす。さすがにネギの特訓に付き合わせるわけにはいかないと、待機組に回されたカモである。まあ、実際彼自身に何が出来るわけではないだろう。今のような状況では、彼のずる賢さも使い道がない。
 そう思っていたのだが。

「いい手? 何やのカモ君――」
『仮契約――仮契約だよ! それさえあれば――って明日菜の姉さん、無言で俺っちを握りしめるのはやめてくれやせんかっ!? べ、別に今回は裏があってそう言ったワケじゃありませんよ!?』
「ん? 仮契約? 何だそりゃ」

 この小動物がこの提案をする時にロクな事はない――条件反射で明日菜は、カモの細い胴体を握りしめたが――そこに食いついたのが、横島だった。
 溜め息混じりに、明日菜は彼に説明してやる。仮契約とは、魔法使いの主従を結ぶ契約のことで――しかし本契約ではない、いつでも破棄が可能な契約である。しかしその効果は、本契約に比べて多少の劣化はあるにせよ、ほぼ同じものである。従者には専用の武器が与えられ、主従の間には魔法のラインが形作られて、力の遣り取りをすることが出来る。

「ああ――ネギの奴とのどかちゃんの――俺はてっきり、あの二人には何か事情があってのことだと思っていたが。――……それならそれでネギの野郎、ガキだと大目に見ていたがあいつ」
「だからそういうのはもういいですってば」
「すまん、言わずにはいられなんだ」

 明日菜の疲れたような言葉に、横島は軽く返した。

『悪い話しじゃないでしょうや。今回に限っては――使えるものならあった方が良い。違いますか?』
「まあ……決して悪い提案ではない。が、現実的でもない」

 期待に満ちた目で立ち上がった木乃香に、エヴァンジェリンは溜め息混じりに制した。

「近衛木乃香――私が今からアサルトスーツとサブマシンガンを用意してやるから、特殊部隊と一緒に何処かのテロリストを始末してこい」
「は?」
「何だその間抜け面は。こいつが言っているのはそう言う類の事だ。“魔法”だの“魔法使い”だのというから現実味が薄いだけで、結局は敵と戦うスキルと、その為の装備だ。装備だけ与えられても、貴様らがただの中学生と言うことに代わりはない」
「う、うー……」
「……そういう事よカモ、理解できたかしら? 私は前に、そう言ったわよね?」
『へ、へえ――出過ぎた真似でした』

 明日菜が溜め息混じりにカモをテーブルに戻し――

「……では、拙者では如何か?」
『!?』

 不意に響いた声――横島に付き添っていた犬塚シロの声に、一同の目線が、そちらに向く。

「以前、カモ殿は拙者に、ネギ先生の従者となってはくれぬかと頼んだことがある。拙者はあの時はお断り致したが――聞けば、その契約はあくまで主従の“つながり”を作ること。では、拙者と横島先生ならば?」
「あっ!」

 思わず明日菜も声を上げる。
 仮契約の本質は、その言葉に騙されがちではあるが、“魔法使いの手下”を作ることではない。魔法使いと従者の間に魔法のラインを作り、それでもって力の遣り取りを行い――そこに付随して専用のアイテムが得られる。そういうものである。
 だから、極論を言えばそのラインが作られる対象は、“魔法使い”である必要はない。従者だけではなく、主でさえも。
 犬塚シロという少女が、横島に心酔しているのは明日菜もよく知っている。だからあの時断られたのは当然と思っていたが――相手がその横島ならどうだ?
 彼女は、強い。少なくとも、ネギでは相手にならなかったエヴァンジェリン相手に、本気の喧嘩が出来るほどには。そこに“魔法の力”が上乗せされ、専用のアイテムが手に入る――それは、決して悪くないのではないだろうか?

『そ、そうだ、“サムライ”の姐さんならっ! 怪異と戦うって意味じゃ百人力――』
「大変申し訳ないのですが――それは無理ですね」

 しかし、カモの弾んだ声を、今度はシロの逆隣に居た少女――芦名野あげはが遮る。
 彼女の言葉は、シロも予想外だったのか、小さく眉を動かす。

「何故で御座るか?」
「……この場で詳しくは言えません」
「――いくらお主であっても、馬鹿らしい嫉妬に駆られての事ではあるまいな?」
「先の見えた勝負で私が嫉妬する理由がありませんが?」
「お主それはどういう意味で御座るか」

 言葉通りの意味です、と、あげはは言う。だがシロが何かを言いかけたとき、彼女は強い調子で言った。

「何にせよ――シロは、ヨコシマ以外と“主従契約”など結ぶ気は無いでしょう。相手がネギ先生か、そこの吸血鬼あたりなら、止めはしませんが」
「……それは――しかしそもそも、ネギ先生は今拙者が申し出た所でお断りになるで御座ろうし、エヴァンジェリン殿と言っても」
「右に同じだ。思うところはあるが、私もそこの馬鹿シルバーと仮契約などとは、考えたくもない」
「……あげは?」

 とうの横島忠夫はと言えば――腰掛けた車いすから、軽く視線を上げて、あげはを見る。
 黒い瞳と、深緑の瞳が交錯する。

「……無理、か?」
「……ええ。あるいは下手をすれば――」
「――すまん、カモ。悪くない提案だが、そいつは却下だ」

 唐突に横島に頭を下げられ、さすがのカモも残念より先に困惑が来たのだろう。目を白黒させながら、頭を上げてくださいと、ただ彼に言うしか出来ない。

「よ、よくわかんないけど、その案は却下でいいわけね?」
「でも、せやったら――ウチ、もどかしい。もどかしくて、たまらんわ。何でこんな――」

 よくわからないまま、妙な空気が漂う中――唐突に、軽快な電子音が鳴り響く。果たしてそれは、部屋の隅に置かれたネギの荷物からだった。彼は一通り身の回りのものを揃えては来たが、麻帆良での身分証明書や授業用のスーツなど、必要のない者はひとまとめにしてこちらに残している。
 その中で、どうせ使えないからと残されたものの一つ――彼の携帯電話であった。
 明日菜が何となくそれを引っ張り出してみれば、見覚えのない番号である。名前も表示されないから、ネギもまた知らない番号なのだろう。
 エヴァンジェリンが小さく顎をしゃくった。とりあえず出てみろと、そう言うことなのだろう。

「一応通信の記録は取っています」

 視界の隅で茶々丸が頷くのを見て、明日菜は通話ボタンを押した。

『……俺や。例の話しやけど気が変わったわ。今から――』
「あんた……犬上?」
『あん? 誰やお前。ああ――って、何でお前があの子供先生の電話に出るんや?』
「ちょっと事情があってね。それより――気が変わったって、どういう事?」




 更に時間を遡り――前日夜。
 明石裕奈が誘拐されたと判明してから、麻帆良学園女子寮は、蜂の巣を突いたような騒ぎとなっていた。
 脅迫状が明日菜と木乃香の部屋に送りつけられたのは既に夜になってからだったが、裕奈と同室である綾瀬夕映は、それほど彼女の事を心配していなかった。何故なら、彼女は寮に入ってはいるが、実家はこの麻帆良市の郊外にある。麻帆良市内の大学で教鞭を執る明石教授が、彼女の父親である。
 男手一つで育てられた裕奈は結構なファザコン――もとい彼を慕っていて、時々掃除や洗濯など、男やもめで荒れがちになる実家の手伝いをしている。だからその日、夕映はルームメイトの帰りが遅いのも、ただいつもの通りそうやって手伝いでもして、今夜は実家に泊まるのだろうと思っていた。
 果たして明日菜達の呼んだ警察が寮に到着し、ほぼ同時に脅迫状が送りつけられたのだという学園長と高畑教諭が合流し――当然他の生徒には、無断で部屋から出ないようにとの通達があった。
 それが数十分前の事である。

「……何や月詠の姉ちゃんを待っとるのもアレやし――俺はそろそろフケるわ」

 背中に派手な刺繍がされたジャケットを羽織り、小太郎は立ち上がる。

「ちょっと――部屋からは勝手に出るなって言われてるのよ」
「逆に俺がここにおるのもどうかと思うで? まあ堂々と玄関に向うて、面倒な連中に咎められるんもアレやし――そこのベランダからでも」
「完全に不審者じゃないのソレ。あのゴスメガネが来るまで大人しくしてなさい」
「ゴスメガネ――なあ明日菜。オノレはそのゴスメガネと、二人っきりで夜道を歩く気になるんかいな?」
「あんたの気分なんて知った事じゃないわよ――私は死んでもゴメンだけど」

 そういう事や、と言って、小太郎は本当にベランダの窓を開けようとする。明日菜はため息混じりにそれを見送ろうとしたが、そこに声を掛けたのはネギだった。

「小太郎君、ちょっと待ってくれないか」
「何や――まだ何ぞあるんかいな。お前の説教は暇なときに聞いてやるわ。せやけど今はそれどころやないやろ?」
「……犯人は“魔法関係者”だ」
「……」

 小太郎は動きを止め――そして、ネギの方を振り返る。

「まあ、十中八九間違いないやろな。それで?」
「君に心当たりは無いか?」
「何やお前――俺を疑っとるんか?」
「そうじゃない、けれど――」
「そうね――そういう線もあるかも知れない。何せあんたには“前科”がある。私たちのせいで麻帆良に送られてきた、その意趣返しかも知れないわ」
「なるほど」

 ネギと違い、明日菜は遠慮無しに言う。しかしその彼女の態度の方が、小太郎にとっては悪くないものだったのかも知れない。瞳に浮かんでいた冷たい光が消え――大仰に、肩をすくめてみせる。

「せやけど、俺のアリバイは他ならぬあんたらが証明しとる」
「単独犯とは限らないわ」
「俺があのカミナリオヤジの所に放り込まれて、月詠の姉ちゃんの尻ぬぐいに奔走して――そんな暇があると思うてか? 言うてちょいと悲しくなって来たけども」
「……ま、まあ……そうね、一応は信じてあげるわ」

 突然影を背負ったようにどんよりとした表情を浮かべた小太郎に、明日菜は半ば引きつり気味に頷いた。

「だからって面倒になってきたから帰るって――ちょっと酷いんじゃないかしら?」
「いや、せやかて――俺はここにおっただけやし――誘拐された明石、言う奴の事かて、顔合わせた事さえ無いわけやしな?」

 気持ちはわかるけれども、と言って、小太郎は頭を掻いた。
 確かにそうである。彼と自分たちの間にはそれなりの因縁があるが――それでも、知り合いとして深い付き合いがあるというわけではない。しかしそれなら何故、自然と彼を引き留めようとしてしまったのか。
 そこで、明日菜は気づく。
 彼は――“魔法使い”の関係者だ。確かに一度は敵であったし、そのせいで苦労もさせられた。しかしだからこそ――妙な感覚ではあるが、ずっと一緒にいて、ずっと振り回されてきたネギよりも頼りになるように見えてしまうのである。さすがの彼女とて、それをネギには言えないと思うが。
 ふと――彼女は思い出した。

「あっ……そうだ、あんた、裏の世界の何でも屋なんでしょ!」
「そこはきちんと“傭兵”言うてくれんかなあ、明日菜」
「同じようなもんでしょ。ねえそしたら――裕奈を助けるの、手伝ってよ!」
「は、はあ?」

 明日菜の言葉に、小太郎は困惑したような表情を浮かべる。

「せ、せや――ウチ、今からお爺ちゃんに言うてくる」
「いや、ちょい待ちや。お前ら俺を何やと思うてるんや? 事は“誘拐”やで? 俺一人に何が出来るわけや――」
「そうですね。小太郎君は裏の世界の事をよく知ってる。犯人が魔法使いだと言うのなら、あるいは何かわかるかも」
「ちょっとは人の話を聞けやお前らは!?」

 拳を振り上げて、小太郎は言う。

「既に警察やら何やら――“魔法先生”まで動いとるんやろが!? そこに被害者の顔もロクに知らん、京都ではお前らと大喧嘩やらかした俺がノコノコ出て行って、まともな話しになると思うんかいな!?」
「話しが出来ればそれでいいって言うなら、僕が間に入る」

 しかし破れかぶれにそう言った彼の言葉も、目の前の少年は真正面から受け止めた。

「悔しいけど――とても、悔しいけど。今の僕には何も出来そうにない。けれど」
「俺なら何か出来るっちゅうんか? お前――頭おかしいんと違うか!?」
「うん――冷静だとは、とても言えないさ。けど――出来ることなら何だってしたい。それがたとえ馬鹿だと言われる事でも」
「……」
「行こう、小太郎君。あるいは追い返されるだけかも知れないけれど――僕に力を貸して欲しい」

 そのネギに言われて――彼は一つ、ため息をついた。

「俺は傭兵や。傭兵を雇おうと思うなら、それなりに用意するモンがあるやろ」
「何――あんた、お金取ろうっての?」
「俺を“何でも屋”て言うたのはそっちやろ? この状況で俺が手を貸すなら、それくらいの要求は当然や。それとも――」
「わかった、払おう」
「ちょっ……ネギ!?」

 小太郎の眉が、動く。
 先程とは違う――重い声で、彼はネギに言った。

「……高いで?」
「安いとは思ってないよ。今すぐには無理かも――いや、何とかする。お金を払えば、君は僕らに協力してくれるんだね?」
「……」

 小太郎は、暫く何も言わなかった。しかし――暫くの時間沈黙が流れ、彼はネギに背を向ける。ひらひらと、片手を振りながら。

「冗談や。いくら俺でもこんな場面で商談もあらへん――せやけど――申し訳ないと思わんでも無いが、他を当たってくれや。俺に誘拐事件の捜査ができるとは思えんし――ほんで金だけもらっとったら、ソレは傭兵やのうて、単なる詐欺やろ」

 そして、現在――ネギの携帯電話を耳に当てた明日菜は、眉をひそめる。

「……気が変わったって言うのはどういう事よ。あんた、誘拐事件の捜査なんて出来ないって、自分でそう言ったわよね?」
『ああ――そうや。俺に事件の捜査は出来へん――せやけど、犯人をブチのめす事なら出来るで?』
「……何ですって?」
『結局あの子供先生、明石言うんを浚った変態と一戦やらなあかんのやろ? せやけど麻帆良の“魔法先生”共が雁首揃えて警戒ビンビンの相手に、あのガキがまともにやりあえるとは思えへんなあ』

 明日菜は小さく舌打ちをした。ソレが相手に聞こえている事くらいは、承知の上だ。

「何が言いたいの。あんたらならその変態の顔面に、一発ブチ込んでくれるって?」
『少なくとも子供先生よりは可能性がある筈や』
「新田先生にボロ負けしたあんたが?」
『今度はハッキリ言わせてもらうで明日菜。俺は――そこらの物好きでお人好しなオッサンを、いきなり総入れ歯にしてやるほどの悪党やない――そういう事や』
「何よ――男のツンデレなんて気持ち悪い。でも――あんたが乗り気なら、何も言わないわ。正直今は少しでも、ほんの少しでも良いから、役に立つ何かが欲しいの」
『さよか――ほなら、ちょいシビアな事を言わせて貰うで?』
「あんたを雇うお金のこと? 何よ、いくら?」
『……』
「黙り込まないでよ。もったいぶってる時間が惜しいんだから――いくら!?」

 携帯電話を耳から離し――それに向かって怒鳴りつけるように、明日菜は言う。
 しかし何故か――意地の悪そうな事を言ってきた割に、電話口の向こう側で小太郎は何も応えず――小さく、押し殺したような笑い声が聞こえた。

「あんたフザケてんの!? 悪戯なら、もう切るわよ!?」
『あ、ああ……すまん、すまん。その金額やけどな――四万五百二十五円で手を打つわ』
「あんたが犯人ブチのめしてくれるなら――は、はあ? 四万――いくらだって?」
『四万五百二十五円、や。前金で用意してもらうさかい、しっかり勘定して待っとりや』
「ちょっと、何なのそれ――もしもし、もしもし?」

 切れちゃった――と、明日菜は携帯電話のディスプレイを見下ろす。
 むろん、その場にいた全員が――頭の上に疑問符を浮かべていたのは、言うまでもない。




「おい、ちょっと待てよ犬上――さっきの人たちはいいのかよ、あの人は――」
「喜べ日向――お前が以前から希望しとった天文部の天体望遠鏡――新しいのが用意出来そうやで?」
「……はあ?」




「さて……エヴァンジェリンさんは、とりあえず中に入れば必要なものは用意してあるって言ってましたけど」

 水晶球に封じられた世界の中で、ネギは辺りを見回した。
 彼が今立っている場所は、砂浜である。すぐ背後には澄んだ波が打ち寄せ、エメラルドグリーンの浅瀬が遠くまで続いている。遠くの方で白く波が砕け、その向こう側は深い蒼。更にその向こうでは、海の蒼が丸みを帯びて、空の蒼と混ざり合っている。
 そして自分たちが立つ砂浜の、すぐその先には密林が広がっている。数百メートル先までは、椰子の木がまばらに生い茂る南国の浜辺であるが、その向こう側は昼なお暗そうな鬱蒼としたジャングルである。
 そのずっと向こうの方には、万年雪を頂いた山脈が高く連なり、それを背景に、神秘的な美しさを持った城砦が聳えている。
 エヴァンジェリンはここを、魔法の力によって切り取られた空間だと言った。広さはそれなりにあるが、例えれば箱庭のようなものである――ただ実際にそこに立てば、とてもそんな風には思えない。

「……とりあえず、あのお城の方に行ってみましょうか?」

 制服にリュックサックを背負い、ハーネスを身につけ、腰にはロープ。肘と膝にスポーツ用のプロテクターを着け、グローブを装着したのどかが、ネギを促す。彼女はネギの“魔法使いの従者”としてここにいる。
 最初ネギは、彼女がここに来ることに難色を示していた。しかしネギ・スプリングフィールドという魔法使いが“従者”を従えているのなら、それを戦力と数えずして、相手は納得するのか――のどか本人の事に、最終的に彼は折れた。彼女の能力はお世辞にも直接的な戦闘に使えるような物ではない。果たしてその力を活用するならば、むざむざ彼女を危険な目に遭わせるのは愚の骨頂である。最終的にその事実が後押しとなった部分は、少なからずあるけれども。

「そうですね――しかしあのジャングルを徒歩で抜けるのは時間が掛かりそうです。杖で一気に抜けましょう」

 そう言ってネギは、自身の荷物に突き刺すようにして持ってきていた杖を引き抜く。折れてしまった、彼の父の形見ではない。それは現在関西呪術協会の方で修理して貰っている最中で、これは詠春から借り受けた代用である。
 日本古来の呪術に於いて、西洋魔法のように杖を媒体とする呪術師はそれほど多くない。この杖は、その呪術師達が西洋魔法を研究するその一環として実験的に作られたものであると聞いていた。しかしその“実験用”というのが幸いしてか、込められた力は非常に素直で癖が無く、魔法使いとしての才能に長けたネギならば、問題なく扱うことが出来た。

「乗ってください。多分あそこに行けば何かが――」
『おいおい――テメエらここに観光でもしに来たつもりで居るのかヨ?』

 冷たい声が、響いた。
 杖に跨り、のどかに声を掛けたネギは――背中に氷柱を押し当てられたような錯覚に襲われた。咄嗟にその場から飛び退き、声が聞こえた方向――のどかの背後に向けて杖を振り抜こうとする。

『遅エよ、のろま』
「えっ……きゃっ!」

 彼女の悲鳴と共に、砂がまき散らされる。
 果たして彼女は――足首を掴まれて、逆さ吊りにされていた。

「なっ……何、は、離して!?」
『観光っつうノハ皮肉のつもりだったが――ハイキングくらいには思ってたのかこのガキは? そんなヒラヒラした格好でマア』

 逆さ吊りにされたせいで、捲れ上がってしまうスカートを必死に押さえるのどかに、彼女の足首を掴むその人物は、酷薄な笑みを浮かべる。
 古びたローブを身に纏った、小柄な少女だった。背丈はのどかとそう変わらず、顔つきも何処か幼い。ただ――誰かによく似た緑色の頭髪と、あどけなさを残しながらもはっとするほど整ったその顔は、何故だか酷く薄っぺらに見えて、人間味を感じさせない。
 そんな少女が、地面から数メートルほど浮かび上がったところで、同じくらいの体格の少女を片手で吊り上げている。

「くっ……だ、誰だ! のどかさんを、離せっ!」
『下が砂地とは言え、この高さデ頭から落としても良いのかヨ? このトロくさそうなガキに体操選手張りの着地が期待できるカネ?』

 少女は逆さまになったのどかの顔を見下ろし、唇の端をつり上げる。

『そんでお前は何を安心してンだよ。この状況で股隠して何になる? ビビって小便でも漏らしたカ、あ? そうなら早めに言ってクレ。俺アこう見えてきれい好きナンダ』
「ひゃああっ!?」

 まるで重さを感じていないというように――少女は無造作に、吊していたのどかを放り投げた。ネギは慌てて杖を放り出し、彼女を受け止める。だがいくら彼女が小柄とはいえ、数十キロの質量と慣性を、魔法も無しに更に小柄なネギが受け止められる筈はない。もつれ合うようにして、砂浜の上を転がった。
 するりと、少女が音もなく砂浜の上に降り立つ。
 彼女はそのアイスブルーの瞳を細め――砂を吐き出しながら立ち上がろうとする二人に言った。

『テメエらよ、ナメてんのか、あ?』

 その声には、明らかな苛立ちが込められていた。

『俺ぁな、一応コレデ身構えてたんだゼ? さあテメエがどう出るかと――それが何だ杖放り出して無様にズッコケて、テメエら俺を馬鹿にしてんのか? あ?』

 ああくそ――と、彼女は頭を掻く。

『あの御主人がフヌケんなってるのはある程度想像が付いた。それはそれで、ブッチャケ良い傾向かも知れン。――だが、だがな、まあ俺様も安く見られたモンだ。何が悲しくてこんなクソガキ共のお守り何ゾ――これなら茶髪の大学生でもバイトに雇う方がイクラかマシだ。俺はベビーシッターじゃネエンダヨ。子守が欲しかったらタウンページにでも電話シトケ』
「あ、あなたは――一体」

 まだ口の中に残る砂の感触に顔をしかめつつ、ネギが問う。
 少女は眉間に手を当てて大きく息を吐き――暫く黙っていたが、ややあって口を開いた。

『……家庭教師ダ。せめて、その程度は期待サセロ』
「……えっ?」
『俺様はテメエらにとって最高の家庭教師だっツッテんだ。 三ヶ月もネエこの時間だが、悲しくもお人形は御主人には逆らえネエ――せいぜいテメエら小便垂れを、立派な“悪の魔法使い”に仕立てテやる――感謝シロヨ?』




「そういえばエヴァちゃん」
「何だ神楽坂明日菜――エヴァちゃんと呼ぶな」
「私や木乃香が一朝一夕に魔法使いにはなれないのはわかるけど――“魔法使い”のネギをそんな簡単にパワーアップさせる方法なんてあるの? いくら数日を三ヶ月に延ばせるからって」
「言ったはずだ。あの中には適当と思えるものを用意してある。正直忌々しいが――まあ、役には立つはずだ」
「忌々しいって……何を用意したって言うのよ」

 明日菜のじっとりした目線に、エヴァンジェリンは溜め息混じりに、首を横に振る。
 彼女はふと、視線を隣に立つ少女に向けた。電子の魂を持つ己の従者――絡繰茶々丸へ。

「言ってみればこいつの“姉”とも言える人形だ」
「茶々丸さんの?」

 茶々丸は一見して人間と見分けが付かないほど精巧な作りをしているが、ロボットである。では彼女の姉とは――彼女より先に作られたロボットと言うことだろうか?

「純粋に“人形”だ。こいつのように訳のわからん機械仕掛けで動いているわけではなく、純粋な魔力の産物だ。もっとも私の力が封印されている今、動けるのは魔力が満たされたあの別荘の中だけだがな」
「じゃあその人形が、ネギに魔法使いとして修行を付けてくれるわけね……何でそんなに不機嫌そうなのよ?」
「単純に私はあの人形が気に入らん」

 鼻息荒く、エヴァンジェリンは言う。

「エヴァちゃんが作ったんでしょ?」
「エヴァちゃんと呼ぶな――私とて人形遣いと呼ばれるほどだが、失敗作もある」
「そんな失敗作がネギの修行って、大丈夫なの?」
「……あれは失敗作――確かに失敗作だが、それは結果論だ。何というか……作製そのものが失敗したわけではない。むしろこれ以上ないほど手間を掛けて、出来映えだけなら私の最高傑作だろう」
「じゃあ何が気に入らないのよ?」
「それを何故私が貴様に教えなければならん」

 そりゃそうかもしれないけど――呟きつつ、明日菜は口を尖らせる。
 エヴァンジェリンは目を細めて、そんな彼女を一瞥し――小さく、呟いた。

「あいつには――零には嘘が付けない。だから、嫌なんだ」










 チャチャゼロ登場。
 原作に習って(大多数のSSと同じように)台詞をカタカナ表記にしようかと思ったけれど、書きにくいし読みにくいだけなので省きました。その代わりわかりやすく癖は付けてある。何処か違和感のある喋り方をすると思ってください。
 見た目その他は例によって魔改造。原作通りの小さな人形の姿だと、不気味と言えるかも知れないけど文章媒体では非常に動かしにくい……それだけの理由でここまで外見を変えるのもどうかと思うけれど、やってみる。
 外見的には中学生くらいの茶々丸(アンテナや関節の繋ぎ目はなし)を想定している。今回はイラストには起こさないけれど。
 ……え? そもそも茶々丸は表向きは中学生だって? それはほら三年A組って大多数が年齢詐称とry

 あと望遠鏡の金額は(けいおんパロディの方でああいう話を書いておきながら)相場がわからなかったので、「望遠鏡 趣味 価格」で検索して出てきた通販サイトで、「一番人気」だった商品の価格を記載しました。
 自分双眼鏡は持ってるけど、あれって爺さんの形見だからいくらするか知らないんだよな……



[26235] 麻帆良学園都市の日々・中間考査「DAY2 HOW TO」
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/10/26 20:41
 人間どんな状況に置かれても“面倒臭い”と思ってしまうときがある。
 きっと極限の状況下に於いて、生きるために足掻くことが“面倒臭い”と思ってしまったとき――それが、致命的な瞬間なのだろう。
 そうは言っても、足掻くというのはしんどいことだ。
 あるいはどぶ沼のようなどん底で、ろくに呼吸すら出来ない状態で。人間という物はいつまで、そこから抜け出そうとあがき続けることが出来るのだろうか。




『コイツはクロドクシボグモ――別名をバナナ・スパイダー。間の抜けた名前の割ニな、毒蜘蛛の中でも最強の毒を持ってるってウワサだ』

 広げられた小さな少女の手のひらの上を――同じくらいの大きさがある巨大な蜘蛛がゆっくりとはい回る。その少女の言葉が正しければ、素手でその蜘蛛に触れるのがどれだけ危険であるか。いや、仮にその蜘蛛に毒が無かったとしても、これだけの大きさの蜘蛛を涼しい顔で触れる少女など、そうそういない。

『マア、ここは御主人の魔力で作られた“箱庭”だ。コイツが実際に存在している“バナナ蜘蛛ちゃん”と何処まで同じカ――おい坊や。試しに噛まれてミルカ?』
「え、遠慮しておきます」

 青い顔でその様子を見ながら、ネギは首を横に振る。ローブを着た緑色の髪の少女は、にやにやとした笑いを顔に貼り付けたまま、ゆっくりとその蜘蛛を木に捕まらせる。

『慣れれば可愛いもんだゼ。こういう生き物は自分が這ってる場所を地面と感ジル。まさか地面に噛みつく馬鹿はいねえ――手を地面だと思ってそっと扱ってやりゃ、そうヤタラと噛みつくもんじゃネエんだよ』
「そ、そう、ですか……勉強になります」

 隣に立つのどかが蒼白な顔をしているのを横目で見つつ、ネギはかろうじて返事をする。その返事が相手にとって愉快な物であるかどうか。もはや考える余裕はない。
 唐突に現れて彼らを攻撃した挙げ句、自分は彼らの「家庭教師」だと名乗る少女に連れられ――ネギとのどかは、鬱蒼としたジャングルの中を歩いていた。

『実はコイツは蛇やサソリにも言える。この水晶球とは別に、御主人が持ってるボトルの中ニハ、砂漠っぽい箱庭もあってダナ。そっちには確かサソリが居たと思うが』
「勉強になりますが、僕らはその……“魔法使いの修行”をしに来たのであって。有毒生物の扱いは、またの機会に」
『マアナ、今のは暇に飽かしてため込んだ無駄知識ダ。俺もそんな事で教師ヅラしようとは思ワネエ――馬鹿馬鹿しすぎるダロ』

 だが、と、少女は言った。

『じゃあテメエの言うところの“修行”っつうのは、何ダ?』
「それは――魔法使いとしての戦い方を身につける事です」

 そう。そのはずだ。ネギは反芻する。
 犯人の要求は、ネギが魔法使いとして、犯人自身と戦うこと――そのはずである。だから少なくとも、それが出来るくらいの強さを身につけなければならない。だからこそ、自分たちはここに来た。
 結局それが、誘拐事件で言うところの“見せ金”であっても――いや、それはもう考える必要はない。今はただ、戦うための強さを手に入れる、それ以外のことは考えなくて良い。

『……坊や、そのテメエが言う戦いってのはアレか。お互いにリングに上がって“お願いします”から始まっテ、勝負はテンカウントで決まるのか』
「……」
『“参った”と言エバそれで相手は止まるノカ? “もう打つ手がありません”で、攫われたっつう奴は無事にモドッテ来るのカ?』
「そ、れは……」
『ナア小便臭エ坊や。テメエは戦うって事がドウイウ事か、わかってネエんだヨ』

 ああ――と、少女は首を横に振る。

『あのボケ御主人からテメエの事前情報はモラッテル。テメエがそれなりに苦労して生きて来たって事は、まあ、俺も汲んでヤル。たかが十歳のガキ相手に、えらそうな事言ってる俺も相当滑稽ダロウよ』

 腕を組み、彼女は言った。

『だからテメエらにとって、それが無理も無茶も承知で言う。テメエらは――戦い方云々以前に、“戦う”って事がドウイウ事か、理解出来てネエ。まずは、ソコカラダ』
「ま、待ってください」
『アン?』
「確かに――理解というのは、出来てないかも知れないです。でも――今の僕が、そうしなくちゃいけないなら」
『……』

 ネギは拳を握りしめる。思い出すのは、京都での戦い。何も出来ず、ただ己の無力を噛みしめるしか出来なかった、苦い記憶。
 しかしそれを悔いても始まらないのである。
 こういう状況に於いてなお、戦いは忌避されるべきだとネギは思う。のどかのような少女が危険な目に遭うことなど、本来あってはならないことである。けれど、それでももし“こんな事”が起きてしまったなら。
 何も出来ないなら、悔やむしかない。けれど、何でもいい、何かが出来るなら。
 自分にも、何かが出来るというのなら。それこそが“戦うこと”ではないのか。彼はそう思うのだ。

『……思った通りダ』

 だが、少女は冷たい声で言った。

『戦うッツウのは、そうスッパリ割り切れるモンじゃネエ』
「わかってます。怪我をするかも知れないし――もしかしたら、死ぬかも」

 ネギは言った。

「その事に覚悟を持つことも、慣れてしまうことも――どちらも、間違っているのかも知れない。でも、いざ戦うという」
『黙れよ、坊や』

 果たしてネギの言葉を、少女は遮る。

『俺はそんなお題目を聞いてルわけじゃネエ。戦いがわかってネエってノハ、もっと単純な問題だ。俺は哲学者に足し算を問う趣味はネエ。まあ――今のテメエらにそれを説いた所で、意味ハねえか』

 小さく嘆息し――彼女は言った。

『今はこの話しは、テメエらには難しすぎるようダナ――だが悲しいことに時間もネエ。御主人の言いつけもアル――何とか形にして見せラアナ』

 不意に、少女がネギに向かって手を伸ばす。

『その杖をよこせ』
「……」

 ここで拒否しても仕方がない。ネギは黙って、彼女に杖を渡した。

『……まあ、情ケは掛けてヤルか……おい坊や、チビ女もだ。荷物をそこに置いて、ソコカラ十歩、右に動ケ』
「――?」

 少女の意図は、わからない。だが言われたとおりにするしかない。
 ネギとのどかは荷物を地面に下ろすと、彼女の指示に従って移動する。

『よしそこでじっとシテロ――氷結・武装解除(フリーゲランス・エクセルマティオー)』
「えっ!?」

 少女の口から紡がれたのは、紛れもない呪文。
 相手の武器や防具を凍り付かせ、粉々に砕いて破壊してしまう術である。至近距離から不意打ちを受けた状態で、ネギにそれを防ぐ術はなかった。たちまちネギとのどかの服は凍り付き――

「わわわわっ!?」
「い、いやあああっ!?」

 極寒の冷気を伴った風に、全て吹き散らされてしまう。いくらこの場所が、お互いの“パートナー”と目の前の少女以外に誰も居ない場所であるとは言え――全裸にされてしまったのどかは体を隠してうずくまり、ネギもネギで真っ赤になって手で前を押さえる。

「い、いきなり何をするんですか――!!」
『……まあ、そうなるわナ――これ以上虐めても今はしかたネエ』

 少女は小さく呟く。ふわりと、その体が宙に浮いた。

『感謝シロヨ? 御主人なら雪山で同じ事をやりソウダ』

 裸にされてしまった二人を見下ろして――彼女は楽しそうに笑う。

『それじゃまずは、あそこに見えてる城までたどり着きナ――頑張れば今日中には何とかナルだろ――“今自分たちがドウイウ状況にあるのか”――しっかり考えて忘れンなよ』
「ちょ、ちょっと待ってください! いくら何でもこのまま――の、のどかさんだけでも!」
『あと念のため言っトクが――そんなカッコだからって、盛ルなよ?』
「さか……?」
「へ、変なこと言わないでください! え、ちょ、この状態でどうしろって――ちょっと待って――!?」

 そのまま飛び去っていく少女の姿を――二人は呆然と見送る事しかできない。やがて彼女の姿が完全に見えなくなり、ネギはのどかの方を伺おう――として、慌てて顔を逸らす。

「ど、どうしましょう――のどかさん、その、着替えとか」
「エヴァンジェリンさんが必要な物は一通りあるからって……探検部の装備以外には。ネギ先生は?」
「あ、はい……実は、僕も」
「……」
「……」
「「あっ、あの!」」

 沈黙には耐えられない――そう判断はしたのだが、結局二人の気持ちは良くも悪くも同じだったようだ。
 まくし立てるように、ネギが言う。

「こ、この状態で、あのお城まで行くのがその、修行の一環だって言うなら――」
「は、はい……考えてみたらここはジャングルだし、一種のサバイバルというか――かも、知れないですね?」
「ええと、のどかさん」
「あのネギ先生――その、こ、こっち見てもいいですよ? さすがにこのままじゃ何も出来な」
「だ、駄目です! 絶対、駄目です! ぼ、僕は男だし子供だからのどかさんの方がその――いや決して見てくれと言うワケじゃないんですけどね!?」




「……甘ったれには良い薬かも知れんが、相変わらず零の奴は性格の悪い――」
「? エヴァンジェリン殿、何か仰ったか?」
「いいや、ただの独り言だ」

 麻帆良市郊外、エヴァンジェリン宅。
 ソファに腰掛けたまま何事か呟いたエヴァンジェリンに、シロが聞いた。彼女は何でもないと、顔の前で手を左右に振る。
 明日菜と木乃香、茶々丸は、助力を申し出てきた「自称・傭兵」を出迎えに行き、横島とあげはは学園長と指揮に当たっているというピートに連絡を取ると言って席を立ったから、この場には彼女とシロしか居ない。

「……エヴァンジェリン殿、この事件、犯人は一体何者で御座ろうか?」
「ふん、私もそれを考えてみたが――現状で解答が導き出せるほど、ピースは揃っていない」

 ただ、と、彼女は言う。

「あの坊やに因縁のある人物であることには間違いなかろう」
「京都の一件のように、明石殿自身が狙われていたと言う可能性は?」
「ゼロではないが、その可能性は薄い。明石裕奈の父親は麻帆良の“魔法先生”だと言うが、それ以上でもそれ以下でもない。とりわけ名が通っているワケでもない凡庸な魔法使いだ。さらに明石裕奈はその父親の方針により、どうやら魔法の存在すら知らんらしい」
「……木乃香殿の御尊父様といい――人間の世界に暮らす魔法使いとは、そういうもので御座ろうか?」

 シロは首を傾げた。
 時代が変わったとは言え、魔法が秘匿されるに至った理由など、簡単に想像が付く。誰しもが扱える、人智を越える超常の力である。それこそ世界に広まれば、中世の魔女狩りが復活していたか、現代の文明の有り様を変えていたか――それが良いか悪いかは別として。
 しかしそれは、内側の人間にとっても同じなのだろうか?

「誰しも力の暴発というのは恐れる事態だろう」
「木乃香殿や明石殿が原因で、何か大事が起きるとは、拙者には思えぬが」
「あるいはその原因は魔法使いの歪さか。以前も言ったが、魔法使いは己を、人間とは違う存在だと自称する。ただの人間でなく、魔法使いだと、高慢に」
「……」
「魔法という技術が存在するだけなら、あるいは秘匿も何も馬鹿げた話しかも知れん。だが、魔法使いにしか魔法を扱わせる事は許さない――その言葉の裏にはそういう考えが見え隠れする。そうなると、どうだ? ただの技術でしかない魔法と、それを扱える人間でしかない魔法使い――そこには、思惑が生まれてくる」
「……拙者はそれほど頭が良くない故に、難しい話までは理解出来ぬが――」
「単純な話だ。近衛木乃香や明石裕奈を“魔法使い”に仕立てれば、その瞬間から否応なしにその“思惑”の中に、奴らは放り出される事になる」

 いかにもくだらない――エヴァンジェリンはそんな風に言った。

「最初からそれを知っていれば、それが“当たり前”になってしまう。選ぶことさえ許されん。自分もまた、魔法使いであることが当たり前になる」
「……」
「“魔法使い”でなければまだマシだろう。たとえば貴様は人狼だ。生まれた瞬間からもはやその事実を変える事は出来ん。しかし貴様の場合、自分が人狼だから何だというのだと、そう開き直る事も出来る」
「魔法使いにはそれが出来ないと?」
「そういう事だ。近衛詠春や明石教授が、どの程度の事を考えて真実を伏せて居たのかは知らんが――何もしない限りは問題がない筈だった。何せ魔法使いは、その存在を秘匿しているのだからな。あるいは今の世界に於いては、そういうものを知らずに生きていく方がいいと思っての事かも知れん。何せ魔法使いというのは」
「……“思惑”で動いている」
「実にくだらん話だろう?」

 肩をすくめてみせるエヴァンジェリンに、シロは首を横に振る。魔法使いではない彼女に、それを“くだらない”などと言い捨てる権利はない。

「ともかくそう言うわけで、明石裕奈が人質に選ばれた事に、とりわけ理由などないだろう。私はそう考えている」
「では」
「犯人にとって彼女は単なる手段――目的はあくまであの坊やだ」

 とはいえ、と、彼女は続ける。

「英雄ナギ・スプリングフィールドは、魔法世界では知らぬ者の居ない魔法使い。その息子であるあの坊やの知名度は実のところそれほどではないようだが――ここで飼い殺しにされていた私でさえ、あっさりと目を付けるに至ったんだ。坊やのことは調べればすぐにわかるし、それを“どう”扱いたいかは別にして、目を付ける人間などごまんといる」
「やはり――今はまだ何も言える段階ではない、と」
「……貴様はどう思う。まあ、貴様に名探偵を名乗れと無茶を言うつもりはない。せいぜいが“迷”探偵止まりだろう」
「う……拙者頭脳労働は専門外というか――事務所でも美神殿や先生の指示に従っていただけで――その」
「サムライが聞いて呆れる。ゴースト・スイーパーは腕っ節だけで務まる職業ではないと聞いていたのだがな?」
「いやその拙者、見習いで御座ったし? 結局試験も受けておらぬし――」
「私に見栄を張っても仕方あるまい」

 シロは視線を宙に彷徨わせる。
 彼女は昔ほど、猪突猛進の考え無しというわけではない。だが、本質的にはそう言う人間であることは否定しようがないとも思っている。
 ある程度成長した、とは思う。けれど、結局犬塚シロは犬塚シロなのだ。正々堂々と真正面から、己の思いを相手にぶつける――そう言うのが一番似合っている。

「……だが、一つ引っかかっている事がある」

 エヴァンジェリンはそんな彼女に目を細めて見せた後、天井を仰いで呟いた。

「貴様の所の雌ガキが言っていたことだ」
「あげはの事で御座るか?」
「そう。貴様らのところに、何故脅迫状が届けられたのか」
「しかしあれは……」

 一度結論が出たはずだ。シロは思い出す。
 望んでいたわけではないが、結局今の自分たちは、麻帆良ではある程度目立つ存在なのだろう。ネギとエヴァンジェリンの喧嘩に首を突っ込み、京都の事件を力業で終息に導き――“魔法使い”としてみれば、目を付けない方がおかしい。

「そんな拙者らの出方を窺うと言うか――あわよくば、拙者らの立ち位置や実力を見ておきたかったのではと。そこに大した意味が無いと言ったのは、他ならぬエヴァンジェリン殿では御座らぬか?」
「それなんだがな……どうも一致しないんだ。今回私がイメージできる犯人像と」
「……と、申されると」
「貴様らの出方を窺う――まあ、それはありだろう。それ自体は不自然ではないが――脅迫状の文面を覚えているか?」
「今週末に凶行を行うのを、ネギ先生に止めて見せろと」
「まるであの坊や以外に興味はない。そう言いたげな文面じゃないか」

 シロの動きが止まる。
 確かに――そうだ。
 相手はある程度のリスクを冒してまで、この状況を楽しんでいる。その目的は、あくまでネギにある。
 そうでなければあの脅迫状に意味はない。麻帆良でもなく、魔法使いでもなく、ネギ個人。彼が“足掻く”事こそが、犯人の望みである。

「それが、どう動くかもわからん貴様らの“出方を窺う”――仮に、そういう事があったにしても、だ。私にはその犯人の像が見えてこない」

 もしかすると――と、エヴァンジェリンは言った。

「今回あの坊やを名指しできた犯人とは別に――別の思惑を持った何者かが居る。私にはそんな風に思えてしまうのだがな」




『おいおい――それをわざわざ僕に聞くのかい。君も色々あってからこちら、ただの突撃馬鹿から多少成長して賢くなったと、そう思っていたのは僕の買いかぶりか』
「うっせえよこの道楽公務員。あと俺が馬鹿なのはこの際認めるが、何処の誰が突撃馬鹿だ。さすがに雪之丞だとかうちのシロだとか、そう言うのと一緒にされたくはねえぞ」
『そう言うな。伊達――いやさ“弓”君はともかく、シロちゃんは随分とお淑やかになったじゃないか。君の周りではしゃいでいた彼女を知る僕らからすれば、あれはもはや別人だよ』
「……あいつもTPOっつうか、そう言うのをわきまえただけだ。中身は一切変わってねえから安心しろ。非常に不本意ではあるが」
『そうかい? いやはや全く――彼女が何処かの馬鹿白髪以外眼中に無いと言うのでなければ、是非食事でもご一緒したい程だがね』
「おいそこのロリコン野郎あいつに指一本触れてみろ。その暑苦しいロン毛を文珠で『不』『毛』ってしやるからな。絶対やるぞ、おお? テメエのような女の敵にウチの娘は――」
「あの馬鹿犬が誰かとお付き合い出来るとはとても思えませんから。話を先に進めてください」

 エヴァンジェリン邸の庭先で、オープンマイクにした携帯電話に向かって口汚く罵る白髪の青年――もとい、横島忠夫に、あげはは疲れたように口を挟む。

『あげは君か。全く君も苦労するね。そんな奴の側にいたのでは、折角の君の人生が台無しになってしまうよ?』
「ヨコシマと一緒なら、それもまた良し、です。西条さんがうちの馬鹿犬をご所望ならば、のしを付けてお渡しいたしますが――どうせ後々あぶれるのは目に見えていますから」
『まあ、僕はこういう事に関してはそこの馬鹿白髪に張るほどの馬鹿だと思っているがね――それでも外道に落ちたくはない。ふむ、そこの彼も同じ事を言いそうだが』
「ほっとけ!」

 電話口の相手は愉快そうに笑う。
 国際警察オカルトGメン東京支部、主任管理官――西条輝彦。紛れもなく一つの組織のトップである、その男は。

「……色々無理を通して、ピートをこっちに回してくれた事には感謝してる」
『その辺りを君が気に病む必要はない。こちらの業務の範囲であるし――実際僕らにとって、“魔法使い”という連中はゴースト・スイーパー以上に厄介なんだ……まあ、この辺りは君に愚痴りたくはないから、この辺りにしてくれ。ピート君は上手くやっているか?』
「今のところはな。“魔法使い”さんの総体がどうだか知らんが、俺が見たところ麻帆良の魔法使いってのはそう馬鹿でも無能でもねえ。その辺学園長のジイさんが上手くやってるのかも知れんが……今のところは上々だろうよ。まあそこにピートをねじ込めたのは、エヴァちゃんに感謝だがな」
『“闇の福音”エヴァンジェリン・マクダウェルか――事前情報とは随分違うようだが』

 ともかく話を元に戻そう、と、電話の向こうで西条は言った。

『まあ君が何を思って僕にそう言うことを聞くのか知らないが』
「……うっせえ。こちとら金勘定以外の頭脳労働は専門外だ。俺がいくら頭絞ったってたかが知れてる。正直テメエなんぞに死んでも頼りたくはねえが――生憎俺は美少女の為なら死ねる男だ。“専門家”の意見ならありがたく拝聴するさ」
『なら僕も、君が目の敵にしている“西条輝彦”ではなく、一人の刑事として述べさせて貰う――恐らく、君の直感は正しい』

 その言葉に、横島とあげはは、小さく反応した。

『あげは君は違和感を覚えたようだが――そもそも、脅迫状が送られた場所が妙だ』
「本命のネギのところ、学園長の所――そして俺の家か」
『そして犯人と思しき人物が、直接接触を図ったのは、本命のネギ・スプリングフィールド君の所ではなく、近衛近右衛門学園長のところだった。状況を考えれば不自然ではない――だがやはり、妙だと言わざるを得ない』

 まず一つ、と、西条は言った。

『まず――君の所に脅迫状を送るのは、本当に自然なことか?』
「……あの吸血鬼は、麻帆良に入り込んだ異物であり、それなりに目立つ行動をしてきた私たちの出方を見るのは不自然ではないと」
『不自然ではない――“闇の福音”もまた、“おかしい”とは思っていると言うことだ』

 あげはの言葉を、彼は否定する。
 当然彼は――今は隔てた場所で、シロとエヴァンジェリンが交わす会話など、知るよしもないわけである。

『確かに、横島君――君は少しばかり、麻帆良で目立ちすぎた。それは確かだ――魔鈴君があれだけ忠告してくれたというのに、全く何をやって居るんだこの馬鹿は』
「……ちっ、うっせえな、反省してまーす」
『だが、それは単純に君の身内――犬塚君がそこに関わっていたからに過ぎない。彼女はその体にアルテミスの血脈を宿す稀少な人狼だが――』
「わかってます。シロは、ただの馬鹿ですから」

 あげはの言葉に、電話の向こうから押し殺した笑いが聞こえる。

『その通り――いや、彼女が馬鹿と言って居るんじゃないが。結局犬塚君は“それだけ”だ。彼女は元々何かの思惑を持っているわけではない。横島君の側で尻尾を振っているのが一番の幸せだとそう言うだろう、そんな彼女が――“魔法使い”の思惑に絡む筈がない』
「……シロをネギのクラスに放り込んだのは、ある程度の思惑があったのかも知れねーけどな。事実、学園長は俺をスカウトに来た」
『時間の無駄だったと言っておこう』

 まったくだ、と、横島は言う。その言葉に、暗い感情は無い。

『そう――君は実際、麻帆良の魔法使いとは“関係がない”んだ』
「……」
『魔法使いが統べる、麻帆良という土地――ハッキリ言ってゴースト・スイーパーには旨味がない。そこに敢えて君が来た事を邪推する――なるほどそう言う考え方も出来なくはない。実際、君はそこで起きたいくつかの事件に関わった』

 だが、と、強い調子で西条は続ける。

『そんなものは、ただの偶然だ』
「それはわかってます。けど、偶然にしても目立ちすぎて」
『魔鈴君が――と、僕はさっき言った。けれど実のところ僕は――恐らく隊長も令子ちゃんも、そして魔鈴君本人でさえも、“そのこと”はそれほど気にしていなかった』
「……ヨコシマ?」

 あげはが不安そうに、彼の方を振り返る。
 そんな彼女の頭を撫でてやりながら――横島は応えた。

「まあ、あの人達の事だからな。ホントに心配してるなら、何か別のやり方を無理矢理編み出してでも、俺たちを麻帆良には行かせなかったろうよ――美神さんってアレで俺に甘いからなあ、ふふ――これはきっと痛ってえええ!?」
『よくやったあげは君――寝言は寝て言うと良いよ。ま、今の君がどういう状態にあるか――それがあまりにも、明白すぎる』
「い、今こいつ、肋骨を」
『君が既に霊能力者として“終わって”いる――そんなことは、見ればわかる』
「……」

 腹を押さえつつ――彼は言葉をつぐむ。

『君の明確な思惑は、知らぬ人間にはわからないだろう。だが実際に“思惑”と呼べる物はない。麻帆良という場所が君にとって都合が良かった――それが全てだ』
「――」
『確かにそれを証明する術はない。何だかんだと犬塚君も事件に関わっている――だが、それがどうした? 今の君に、この麻帆良で、何が出来る? 何をする必要がある? そこで魔法使いの思惑に絡む何かなど、逆さに振っても出てくる筈がない――だから魔法使いは“ゴースト・スイーパーの横島忠夫”に声を掛けたが、それ以上は何もしなかった。当然だ。君にそれほどの価値は、もはや無い』
「……どうにもイラッと来る言い方だが、まあ、いい」
『そんな男の所に今更脅迫状を送りつけて、出方を見る――何のために?』
「やっぱり、そうだよなあ……」

 横島は頭を押さえて空を仰ぐ。エヴァンジェリン邸のログハウス――その軒先から、雨の滴がしたたり落ちている。麻帆良に降る雨は、未だ止まない。

『その上犯人は英雄の息子、ネギ・スプリングフィールドにご執心だという。その事実が――どうにも、一致しない。ただ――学園長の所に現れた“悪魔”とやらを鑑みるに、その犯人が、君の所に脅迫状を送った――それもまた事実だろう』
「犯人が俺や学園長の所に脅迫状を送りつけたのは間違いない。けど、あくまでそれはついでだった?」
『問題はその“ついで”は、何故もたらされたのか、だ』
「……」
『少し調べれば君が人畜無害で――しかし下手に手を出せば我々のような仲間がいる。そう言うことはすぐにわかるだろうに――この軽率さは、犯人の余裕だろうか? そのくせ、状況からして犯人のネギ君に対するご執心振りは、本物だ』

 西条は言った。

『君も薄々気づいているのだろう――犯人には妙な二面性がある。あるいはこの事件の犯人は――“悪魔”の他にも、居るのかも知れない』




『ん? オオ――意外と早かったナ』

 時間を遡り、エヴァンジェリン邸水晶球内部――その中での一日は、外での一時間にしかならない。時間は潤沢とは言えないが――それでもその中にいる彼らは、外からすれば足踏みするような時間を過ごしている事になる。
 ともかく、その内部――とても魔法によって作られた世界、ただそれだけの物とは思えないような場所――密林に立つ城砦の門の前。ビーチチェアに寝ころんで、何処から調達してきたのか女性向けの雑誌を眺めていた緑色の髪の少女――エヴァンジェリンからは“零”と呼ばれていた彼女は体を起こす。
 見ればジャングルの中から、ドロドロに汚れた、裸の少年と少女が現れる。別に狼少年だとかそういう野生児的なものではない。他ならぬ零に、身ぐるみを剥がされたネギと、彼の従者のどかである。

『いい年して電車ゴッコか? 俺が言うノモなんだが馬鹿ミテエだぞ?』
「ほ、ほっといてください!」

 ネギが前を歩き、その両肩に手を置くようにしてのどかが続く――二人で考えた苦肉の策である。何のために、とは言わない。主に、ネギの名誉のために。
 確かにこうしていれば、直接のどかの裸を見てしまう事はない。そして自分の裸も――少なくとも前側は。男の自分が何を馬鹿なと言われそうだが、彼にとっては切実な問題であった。むろん自分が男である事も子供であることもネギはわかっている、見られるだけなら別にそれはそれでいいと割り切ることも。ただ――両肩に触れるひんやりとしたのどかの両手。どうしても時折触れてしまう柔らかな肌の感触。
 直接見ていないから、逆に想像をかき立てられてしまう。まだ異性に対して免疫などあるはずのない彼には、もはやそれは――

『ほほう――ガキでも立派にオトコはオトコ、って事カ? その股の間の粗末なモンが精一杯の自己主張』
「わ――っ!? わ――っ!? 違うんです僕は決して! 決してっ!!」
『何、坊やもしっかり成長シテルって事ダロ? 良かったなア、従者のチビ女』
「ね、ネギ先生が、ネギ先生が……その、私の、私で――あわわ」
「いや、違っ――いえそののどかさんはもちろん魅力的だと思ってますが、僕はそういう――そういう――ッ!」
『……焚きつけた俺モ俺ダガ……まあ、コイツらある意味大物カモなあ――』

 苦笑いをしつつ、零は指を鳴らす。
 小気味の良い音と共に――ネギとのどかの体が黒い影に包まれた。驚く暇もなくその影は形を変え――いつしか二人は、影がそのまま布地になったような、漆黒のローブに身を包んでいた。

『臨戦態勢の所を悪いが坊や。そのままおっ始めラレルとさすがに困るんでナ。そいつの出番はまたの機会にトットイテくれ』
「り、りんせ――あの、ネギ先生、私はその……い、嫌じゃないんですけど今は非常事態ですし!? そういうのはやっぱり、その段階があって!」
「落ち着いてくださいのどかさん!! いやだからっ! そう言う事実はっ! と――ともかく変なことを言わないでください! 大体、こういう物を用意しているなら、何でわざわざ僕らを裸にする理由が!?」
『大した意味はネエヨ――つっても、俺にテメエらのナニを鑑賞する趣味があるト思われるノモ御免だしなあ』

 すたすたと、軽い足取りで零は二人に近づき――何気なく、のどかの向こうずねを蹴飛ばした。
 と言ってもそれはごく軽く――つま先が触れる程度のものであったが。

「痛っ……!」

 だが、彼女は足を押さえ、その場にうずくまってしまう。はっとしてネギが振り返ると――彼女の足は、その部分が紫色に腫れていた。

『まあ、ンな格好で、あの中を歩いてくれば当然ダワナ』
「のどかさん!? ど、何処かにぶつけたんですか?」
「へ、平気ですっ! 歩けない程じゃ……ちょっと段差を越えたときに、石にぶつけたみたいで」
『地面の状態が悪いジャングルだ。何があっても不思議ジャネエ。そのくらいで済んで良かっタナ? もっと足をざっくりイッちまうか――そうでなくても肌が露出してンだ。草木で切れるカモ知れネエし、毒虫に噛まれるカモ』

 彼女は何処からか試験管のような物を取り出し――中に入っていた液体を、のどかの足に振りかける。すると、まるで絵の具を水洗いするような簡単さで、彼女の足の腫れは引いていった。

『面白エ話をしてやるよ。世の中には何でソンナモンがアルンダヨって言いたくなるような植物がアッテナ? たとえばニュージーランドには、触れただけで二年は痛みがツヅク葉っぱがあるんダト。うっかりソレでケツを拭いチマッタ奴は、自殺したソウダ』
「――ッ!」
『スタート地点から大体六時間カ――一度くらいは“ブッシュ”のお世話にナッタダロ? 良かったなア、ショットガンが無い事を悔やむ事態にナラナクテよ』

 踵を返し――零は言った。

『コイツはテメエの落ち度ダゼ、チビ女のご主人様ヨ?』
「……」
『テメエらお互いの状態もろくにワカラネエのに、夢中で歩いてキタってカ? ある意味、褒めてヤルヨ。普通そうも言ってラレネエだろうに――無駄に初期スペックだけは高エのな、テメエら』
「そ、それは――」
『あの時――テメエらに武装解除仕掛けた時ダッテそうだ。テメエ何で俺をむざむざ見送っタ?』
「ッ! それは、あなたが僕の杖を取り上げて――おまけに服まで」
『“武装解除”は立派な魔法ダロウヨ? ごく戦闘向けのナ。それは坊やだってワカッテんダロ? ああ確かに、俺は優しい優しい家庭教師ダ。だがそうじゃない時はドウスル? 杖を奪われた、服をはぎ取られた――テメエがするべき事は、股の粗末なモンを隠す事カ?』

 彼女はネギの額に人差し指を当て――強く押す。

『ソノ選択肢は、バッドエンドだな。テメエの目出度い頭でもわかるダロ?』

 ネギには反論は出来ない。彼女の言葉は非常に乱暴で、理不尽だ。けれど、この場でその言葉尻を捉えて反論が出来るかと言えば――それだけは、否である。

『そこのチビ女も同じダ。この状況で乳だの尻だの、後生大事に守って何にナル。でなきゃソノ貧相な乳がデカくなる希望すら持てず、テメエあの世行きだぜ?』

 思わずのどかは、ローブの上から体を押さえた。やっと肌を隠すことが出来てひと心地が付けた筈なのに――零の視線は、そんなものを関係なく見透かしているようで。

『俺は御主人に、テメエに戦い方を教えるように言われた。少なくとも犯人に、少しはヤレルって所を見せラレルくらいには――だが、ママゴトを教えるのは、仕事の範囲外ダゼ?』

 零は持っていた雑誌をビーチチェアに投げ捨てる。

『甘エ――とにかく甘エんだよ、テメエらは!』

 もちろん――ここは平和な日本である。銃弾が飛び交う中東の戦地でなければ、ともすれば剣と杖が喉に突きつけられる魔法世界の辺境でもない。
 だからその覚悟は、本来は無用の物だ。コンビニに買い出しに行くのに、まさか防弾チョッキを身につけて狙撃に備えるというのも馬鹿な話である。

『その辺は俺にダッテわかる――だが、テメエらは違う。テメエらが今から“やりてえ”ッツウのは、そう言うことダロ!?』

 そう、その二つの常識は、相容れない。
 極限状態での心構えを平和な日常で抱くことが馬鹿げているのと同じで、その逆にしても許されたことではない。ネギとのどかは、半ば無理矢理とはいえ、自分の意思でその一線を越えようとしているのだ。

『だから“そこ”は切り替えてモラウ。文句は聞かネエ――甘ったれのテメエが! フル××で敵に殴りかかれる暗いニハな!?』
「フル――のどかさん、それってどういう意味ですか? 日本語?」
「あ、いや、それはその――」
『おい聞いてンのかクソガキ共――これでまだ文句がアルなら、もう一回裸に剥いて今度は雪山に投げ落とすゾ、ああ!?』
「ひい!?」
「ご、ごめんなさい、あの話を聞いてなかったわけじゃ――と、とにかく、これからは気を引き締めますから――」
『そうする為の時間は十分与えてヤッタッツッテんだろ、マジでブチ殺すぞテメエら!?』
「「あわわわ」」

 歯を剥き出しにして、零は凄む。ネギは必死に踏みとどまったが、のどかなど耐えきれずにその場に尻餅をついてしまったくらいである。
 だが――ややあって、彼女は言った。

『おい坊や――テメエが一番“怖え”のは、こういうモンか?』
「え?」
『俺ミテエに大声上げて脅してくる輩が、テメエは一番怖いノカ? そう聞いてンダヨ』
「――」

 問いかけの意味が――ネギにはわからなかった。
 彼が言葉を探している間に、零は更に続ける。

『坊や。お前は人質の為に戦わなきゃナラねえ――ソレはもうどうしようもネエ。だから俺もテメエらのフヌケッぷりにはある程度目をつぶってやるし、あのボケた御主人の命令も聞いてヤル。その上で――当のテメエに聞く。テメエはそうやって戦う事を、どう思ってる?』
「ど――どう、ですか?」
『テメエの甘ったれは心配すんな。ドンだけ泣き喚こうが俺が“教育”シテヤルよ。だが――その後テメエは、どう戦う? 戦って、テメエはどうしたい?』
「もちろんそれは――裕奈さんを助け出す」

 その質問には、よどみなく答えることが出来た。
 今の自分が、目の前の少女を怒らせるほどに気が抜けていと言うなら、もはやソレに反論は出来ない。しかし、ことその目的に関しては、疑問など有り様がない。

『その言葉、忘れンなよ?』
「はい、決して――僕自身の、存在意義に掛けても」
『……フン。そう言う奴に限って、存外――ヲ取り違えてヤガル――』
「え?」
『まあいい、その辺りの事ハ追々教えてやる――いいか』

 零はネギに振り返り、酷薄な笑みと共に、宣言した。

『そこまでの醜態を晒したテメエらに、失う物は何もネエ筈だ――テメエら纏めて、立派な“悪の魔法使い”にシテヤルよ。“悪の魔法使い”を相手に“戦おう”なんて考えがどんだけ愚かか――その悪趣味な悪魔のド低脳に、トラウマにナルまで刻み込め!!』










ここまで書いて。

まあネット上でいろいろ小説を読んできたから、昨今の「戦う覚悟(笑)」のまずさはわかるつもりなんだけれど。
(※ただしそれを書ききる技量があれば何の問題もない)
技量がないほどそれにはまりそうになるというのはわかる。

あとどこまで踏み込んだら下品になるのか。

ただそういうことを考えてるうちは、まだまだ自分の技量が足りてないってことなんだろうなあ。



[26235] 朝帆良学園都市の日々・中間考査「DAY2 今できること」
Name: スパイク◆55d120f5 ID:a60301a9
Date: 2014/11/08 23:15
『とは言え――時間は有限だ』

 顎に手を当て――零は言う。その仕草は、彼女の“主”であるところのエヴァンジェリンと、よく似ているように見えた。

『坊やは魔法そのものには及第点を与えてヤッテモイイ。しかしソレを活かして戦うとなると相当厳しい。良く御主人とガチで喧嘩して生きてたモンだな』
「……いえ、それはその――自分でもそう思います」

 ネギは俯いて、零から視線を逸らす。
 結果的に手も足も出なかったとは言え、自分はエヴァンジェリンの前に立った。それが今こうして、彼女の作り出した“もの”を相手に講釈を聞けていると言うのは、幸運であると言わざるを得ないのだろう。彼は、そう思う。

『経験が足りネエのを嘆いても始まらネエ――それと、間合いを詰められたら終わりダナ。テメエ自身に近接戦闘能力がマルデねえ上に、本来ソレを埋めるべき従者の能力が、トコトン戦闘向きジャネエ』
「ごめんなさい……」

 申し訳なさそうに、のどかが言う。しかし彼女にも責任はない。“魔法使いの従者”に与えられる専用武器「アーティファクト」。それは従者の特性に合った物が現れるが、どういう物が現れるか自体は、従者にも主にも選ぶことは出来ない。
 対象の心中を読み取ることが出来るのどかのアーティファクト――「いどの絵日記」と名付けられたその不思議なノートは、使い方次第では恐ろしいほどの効果を発揮するアイテムである。
 しかし、こと“戦うことそのもの”においては、絶望的に向いていない。

『魔法使いに二つのタイプがある――聞いた事はアルカ?』
「“魔法使い”と、“魔法剣士”の事ですね?」
『テキスト通りの知識には強いなテメエは。俺の嫌いな優等生タイプだ』
「はっきり“嫌い”とか言わないで欲しいんですが……」

 ネギの抗議を無視して、零は続ける。
 そう――魔法を使って戦う人間は、二つのタイプに分けられる。
 一つは強力な攻撃魔法をひたすらに放ち続け、まるで砲台のごとく敵を攻撃する“魔法使い”タイプである。歴戦の“魔法使いタイプ”は、まさに城砦そのものと言って良いだろう。敵が近づくことさえ許さずに、圧倒的な力でもって全てを押しつぶす。
 もう一つは“魔法剣士”タイプ。一般に“魔法使い”タイプほどの圧倒的な攻撃力は持たないが、しかしそれは力が弱いという事ではない。言ってみれば、魔法使いが周囲にばらまいていた力を全て自分に集中しているだけのことだ。こと戦闘となれば、“魔法剣士タイプ”はまさに無敵の戦士となる。ただの一撃に必殺の力が宿り、しかし魔力に守られた肉体には弱点など存在しない。
 そのどちらが優れているというわけではない。それに魔法使いとしての格が上がるにつれて、その二つの区別は曖昧となる。最終的には、無敵の戦士でありながら広域を一人で殲滅できる――まさしく人間兵器の完成である。

『テメエはそれ以前の問題だ。まず“魔法剣士”は無理だ。テメエの使える魔法にはそれなりの威力がアルが、懐に入られチマウともう何も出来ネエ。さりとて“魔法使い”と言うにも足りネエ。経験がネエから力の使いどころや加減がワカラナイ。肝心の魔法にしてみても、それなりたあイエ、一線級の魔法使いに比べりゃドウイウ事はネエ』

 零の言うことは正しい。
 正しいのだが――得てしてそういう言葉は耳に痛いものである。自分の立ち位置をある程度理解して、以前よりは紳士に人の話を聞けるようになったネギであっても、その容赦ない言葉には気持ちが折れそうになる。

『妥当な線で考えレバ――だ。防御に使えるアーティファクトを持った従者をドッカから見つけて来て――どうにか懐に入られないヨウ、射程距離を保って相手を攻撃する』
「……」
『おい坊やテメエなんて顔してヤガル。耳を塞いでもソレが事実ダロウガ――第一、そう言う正攻法を使うには時間が足りネエ――付け焼き刃でテキスト通り。そんな馬鹿ミテエな小細工が通じる相手でもネエ』

 魔法使いは戦士タイプと砲台タイプ――魔法剣士と魔法使いに分けられる。しかし目の前のひよっこはそれ以前に問題である。零はそう言って腕を組み、溜め息を一つ。

『だから、そう言う事を言っても始まらねえ』
「えっ?」

 慌ててネギは顔を上げる。
 零はそんな彼を、疲れたように半眼で睨んだ。

『「え?」ジャネエよ。その年でボケでも始まってんのかテメエは』
「し……しかし、犯人は、それでも僕に戦えって言うんでしょ?」
『だからテメエは何もワカッテねえッツッテんダロ? テメエは無理を承知で“犯人の言うとおり”に、こうして修行してやってンじゃネエか。目的は果たしてる』
「それは、横島さんやエヴァンジェリンさんが言っていた――」
『“見せ金”としてのパフォーマンスか? マアソレもあるが――まさかこの期に及ンデ、そんな楽が出来るとは思ってネエよな?』

 第一パフォーマンスというのなら、この水晶の中に入ってきただけで十分である。さすがにエヴァンジェリンの目を欺いてまで、外部からこの中の様子を窺うことは出来ないだろう。
 ならば、“中で何かただならぬ特訓をしている”――そう思わせる事は十分だ。

『テメエが足掻くだけで犯人としてはそれなりに満足かも知れネエが――その為に骨を折ってる俺は面白くネエ』

 むろん、ネギとのどかは彼女を満足させる為にここにいるわけではない。が、ソレを言う勇気はない。
 城砦の一室――無駄に豪奢な装飾が施されたその部屋の中で、しかし絨毯に直接正座する二人の前で、椅子に足を組んで座り、零は言う。

『大体“魔法戦士”と“魔法使い”にしタッテ、乱暴なカテゴライズに過ぎネエ。そんな単純に物事が分けられるナラ、世の中どれだけハッピーか』
「接近して格闘戦を行うか、遠距離から魔法を撃って戦うか――確かに、魔法を使って戦うって、そんなに単純な事じゃないんでしょうけど」

 魔法使いのことを何も知らないのどかは、首を傾げながら言う。

『そうそう、そこの“魔法使いの常識”でガッチガチに固まった坊やには、チビ女のような門外漢の思考は案外マッチしてるのかもナ。まあ何にしろ――坊や、テメエはレベルが低すぎて、“戦い方”がどうこう言える立場ジャネエ』
「うぐ」
『いちいち落ち込むんじゃネエ鬱陶しい。実際テメエくらいのガキにしてみたら、十分すぎる位だとは思うゼ? ただ悲しくも、今回テメエは、王様から竹竿と百ゴールド貰った状態で、その足で魔王に挑まなきゃナラン』
「それって……あの、勝ち目なんてないですよね?」
『いいや?』

 ロールプレイングゲームに例えればそうなると、零は言う。同居人の影響かそれなりにサブカルチャーにも造詣があるのどかは、その場面を思い浮かべ――呆れたように言う。しかし、零はそんな彼女に、意地悪そうに笑う。

『近頃ならネットからチートデータでも落としてクリャ万事解決だ――マア俺はそう言うのは好きじゃネエが。もっと馬鹿な話、頭に来てコントローラーを放り投げりゃ、ソレでゲームは終了だ。主人公が立ち止まり続けりゃ、魔王は決してそれ以上先に進めネエ――何せそいつは、主人公の勇者に“良くここまで来たな”というのが仕事ダカラナ?』

 つまり、と、彼女は言う。

『今テメエらが出来る事と言えば、そう言うやり方ダ。まさか卑怯だとか言い出す馬鹿ハネエだろうな?』
「そ、そんなことは……でも、さっき零さんが言ったのはあくまでたとえ話でしょう?」
『相手は自分を悪魔って名乗ったンだろう? 悪魔って奴アあながち――まあいい、こいつは希望的観測ッテ奴だし、今のテメエらに油断する隙ナンゾ一ミリたりとも存在シネエ。要は――敵はあまりに強大で、テメエらはあまりに弱く、しかし意地でも勝ちは収めなきゃならねえ――そう言うコトダ』
「……弱音を吐くつもりはありませんが、そんなことが本当に――」
『出来るかな? ジャネエ――やるんだよ。何処ぞのノッポさんも言ってタロウ?』
「ノッポさんはそんなこと言ってませんよ!? 言ってませんからね!?」

 「ケケケ」と、わざとらしい笑い声を上げ――零は腰に手を当て、立ち上がる。

『まあその為に何をヤルかとナリャ――ソレを考えるのが俺の仕事ダカラナ。さしあたり、坊やにはわかりやすい修行を用意してアル。早速今からだ。チビ女は暫くこの部屋で大人しくシテロ――何かあったら叫んでクレや』
「嫌すぎる呼び出し方法ですねそれ……」
『ア、便所はその右のドアな。ちゃんと水洗で紙もアル――紙もアル。ケケケ』
「何で二回言ったんですか!? いや、言わなくて良い――言わなくて良いですからね!?」




「何やお前、大口叩いといて、結局支払いは犬塚んトコの兄ちゃんやないか」
「う――うるさいわね! 大体中学生が財布に何万円も入れてうろついてるわけないでしょ!? それに、立て替えて貰っただけで、後でちゃんと私が……」
「あー、気にすんな明日菜ちゃん。言っただろ? 俺は美女と美少女の為には投資を惜しむつもりはねえ。俺も昔と違ってそれほど金には困ってねえしな」
「俺が言うのも何やが普通に気持ち悪いで兄ちゃん……そのアホ面で美少女がどうやとか金がどうやとか――そのうち手が後ろに回っても知らんからな?」
「はっ――てめえに言われるまでもねえぜ似非ヤンキー……取り調べでの弁解には慣れてるつもりだ」
「えらそうに言うことかいな!? 思いっきりアウトやんかそれ!?」

 とはいえその小太郎と一緒に思わず一歩後退ってしまった明日菜を、誰も責めることは出来ないだろう。例え彼の協力に対する“対価”である、現金四万円強をすぐに用意することが出来ず、それを立て替えたのが他ならぬ彼――横島忠夫であったとしても。

「しかし何の因果かは知らぬがお主は――どういう風の吹き回しで御座るか?」

 馬鹿馬鹿しい遣り取りはいつものことと――犬塚シロは腕を組み、小太郎に問う。

「不都合があるわけやないやろ? まあ強いて言うなら――確かに俺とお前らには因縁がある。俺が保護観察喰らってあのオッサンの所に放り込まれて、それだけで完全に信用せえと、そう言うつもりもあらへん。ただ――やっぱり俺は、傭兵の矜持を捨てるつもりも無いっちゅう話や」

 彼の言葉に、シロは視線を明日菜に向ける。亜麻色の髪の少女は、軽く肩をすくめて見せた。シロから見れば、割合馬が合うようにも見える明日菜と小太郎であるが、さすがに彼の思惑までもがわかるはずもない。

「自信満々に語ってるところ悪いが似非ヤンキー」
「どうでもええけど似非ヤンキー言うなや犬塚の兄ちゃん」
「俺だってそいつの兄貴じゃないからその呼び方はやめてくれ」
「左様で御座る。先生は拙者の婚約者」
「寝言は寝てから言ってください馬鹿犬」
「……収拾付かなくなるから今は黙っててくれないか」

 形容しがたい目線を向けてくる小太郎に、横島は言う。

「まあ、あれだ。俺は美少女への投資だったら破産しても一向に構わんが、貴様のようなモテない男の敵の匂いがするガキに甘くしてやる言われはねえ」
「モテない男が何やて? ……兄ちゃん、オノレの両サイドに立っとるんは何や?」
「シロとあげはがどうしたって?」
「……あの、犬上? こういう人なのよ……その事には触れないで頂戴。いくら何でもシロちゃんとあげはちゃんが可哀想で」
「お。おう……」

 いきなり小太郎の両肩を掴んで、涙目で顔を寄せてきた明日菜に、さすがの小太郎の一歩たじろぐ。その時のシロとあげはの表情を、彼女は努めて見ないようにしていたようだった。

「俺は別に女にモテた事はあらへんけどな……彼女がおった事はあったけども、あれはどっちかというと俺にとっちゃ――」
「ああ? お前確か中二だったよな。オイコラ世の中ナメてんのか。あん?」
「鏡ならそこにあるで兄ちゃん。慣れへんツッコミをやらせんでもらえるか」
「まあ明日菜ちゃんに免じてそっちの追求はその辺にしてやる――しかし金額がアレとは言え、そこまで大きく出ておいてお前、何か展望はあんのかよ?」

 いかにも不承不承、と言った風に言う横島に思うところが無いわけではない――小太郎の表情はそう言っていた。しかしこれ以上藪を突いて蛇を出すのも御免だろう。

「いや、“金額がアレ”だからこそ――か? 裏の世界の傭兵ってのは、それこそそんなに甘いモンじゃねえよな? わざわざ明日菜ちゃんを焚きつけて“はした金”をせびる辺り、お前にはお前の考えがあるのかも知れん。まあこんな所でそれを暴露しろと言っても無駄だろうが――どうなんだよ」
「……底抜けのアホかと思うとったら、案外頭の切れる兄ちゃんやな」
「ばーか。現役の商社マンが、中学生にズル賢さで負けてたまるかよ」
「……考えは、ある」

 小太郎は言った。

「相手がそれに乗ってくるか、保証はない。せやけど、今までの相手の出方を見とったら――」
「可能性は高い、か?」
「俺はそう思うとる。それこそ、確証があっての話やない。ただ――」
「そうか。ならお前はお前で好きにやれ」

 横島の言葉に、小さく彼の眉が動いた。彼の両肩を掴んだままだった明日菜も、振り返る。

「横島さん――良いんですか?」
「美神さんやウチのクソ親父に聞いたところによるが、裏の世界の傭兵を雇おうと思ったら、それこそ中学生の小遣いでどうこうなるような代物じゃない。……あの人らが何でそんな相場を知ってるのかは考えない事にしても」

 わざとらしく自分を抱いて身震いすると、横島は息を吐く。

「間接的には裕奈ちゃんへの投資だから、俺はもう何も気にはせん。それに俺だっていい大人だ。ヤンキーに小遣いせびられたくらいでどういう事はねえし、ましてやその程度でそいつを頼ろうとも思わん。だから好きにしたらいい、って言ったんだ」
「……えらく舐められたもんやが――な。まあ、仕事は仕事や。兄ちゃんがそういう風に割り切ってくれとるんなら、話は簡単でええ。ほな――」
「可能なら定期的に経過を報告しろ、それと――」

 ちらりと――彼は、自分の傍らに立つ少女を見上げた。

「シロ。こいつと一緒に動け」
「え?」
「あ?」

 小太郎は“すとん”と顎を落とし――シロは、さすがに驚いたように目を丸くする。まさか横島からそんな指示が来るとは、当然彼女は思っていなかった。
 そんな状態で、何とかシロより先に再起動を果たしたらしい小太郎が、首を横に振りながら言う。

「首輪のつもりかいな?」
「俺にはそう言う趣味はねえよ」
「“拙者に”と言うことなら、やぶさかでは御座らんが」
「お前最近本当に遠慮無くなってきたな、俺でも引くわ」

 冗談はさておき、と、シロは言う。
 小太郎に対して監視をする意味が、彼女にはわからない。確かに彼は京都の一件では敵対したが、それは彼の特殊な信念がそうさせた物であって、彼個人にこちらに対する敵意があるわけではない。それをシロは理解している。
 それに最悪――彼が誘拐犯の一味だったとしても、こちらの行動を妨害してくる以上の事は出来ないはずだと、彼女は思う。今の麻帆良は厳戒態勢が敷かれている。下手な真似など出来はしない。

「と言うより――俺には現状、そう言うしかしてやれん」
「と――申されると?」
「裕奈ちゃんの為に何かがしたくてたまらないのは、何も明日菜ちゃんや木乃香ちゃんだけじゃねえ――そう言う話だ」
「――!」

 横島は、彼にしては固い調子でシロに告げる。
 現状――彼らが動けることと言えば何か。既に警察関係者と魔法関係者の間に、無理矢理パイプをねじ込んだ所で、彼の出来る事は全てだったと言える。そのうえ犯人の本来の“要求”であるところのネギに関しては、本来彼は門外漢の筈だったが――それに関して、エヴァンジェリンは破格の働きをしてくれたと言っても良い。つまり、これ以上は何かをしようとしても、彼とて明日菜や木乃香と言った、ただの中学生と何も変わらないのである。

「俺が“できる”のはその辺りまでの話だし、実際に捜査に首を突っ込んだって、ピートの邪魔にしかなりゃしねえ。ましてや俺は魔法使いじゃねえからな。“修行”に関してネギにアドバイスが出来るわけでもねえし、それはシロも同じだろ?」
「……」
「何だかんだで、俺が何年お前と一緒に居ると思っている」
「この先の話であれば――死が二人を分かつまでと」
「そう言う話をしてるんじゃねーし、お前の場合何か手を打って置かんと俺が地獄に堕ちてもついて来そうなんだが」
「愚問で御座るな」

 いやいやそう言う話じゃない、と、横島は手を振る。

「お前が裕奈ちゃんの為に何かしたいなら、俺からじゃこれ以上の指示は出せん。で――その上でそこのガキに何か考えがあるって言うなら、お前もそれに乗っかれ。おいガキ――コイツは頭はアレだが腕は立つ。邪魔になるか?」
「いきなりそないな事言われてもな……」
「お前と同じで犬神系の妖怪だぞ?」
「それは知っとるが――……まあ、ほんなら多少は役に立って貰おか? せやけど報酬は出んで?」
「拙者はお主とは違う。学友を助け出すのに己の利益を考える気はない――強いて言うなれば、明石殿が無事に戻ってくる事のみが報酬で御座る」

 別に、小太郎の事を侮蔑しての発言ではない。彼としても、今の自分から敵意を感じることもないだろう――そう、シロは思う。しかし――

「ヨコシマの事なら心配は要りません。私が付いていますから」
「だから心配なので御座るが?」




『それで――お主は拙者に何か恨みがあってか?』
「アホ抜かせ。もともと俺一人でやろうとしとったことに、首突っ込んで来たのはお前らの方やろ?」
「私も何て言うか……慣れちゃったのかなあ、こういうのに。いや、この間和美と一緒にドッグフード食べたのがまずかったのかしら?」
「も……もふもふ、もふもふやぁ……あ、あかん、あかんて……ウチにはせっちゃんの羽が。ああでも……シロちゃん肉球触らせてもろてもええ?」

 それから一時間後――エヴァンジェリン邸の前にて。
 傘を差した小柄な少年の隣に佇むのは、白銀の毛皮を持つ精悍な一頭の犬――もとい、狼。何を隠そう、これが犬塚シロである。彼女は誇り高き人狼の一族であり、その姿を自在に、人間と狼とに変えることが出来る。実は同じような“オカルト技術”は、小太郎も使えるのだと言うが。
 果たして友人が目の前で狼に姿を変える所を目の当たりにした明日菜と木乃香は、そう冷静でも居られない――筈だったが。
 明日菜はネギがやって来てからこちら、非日常が続いたせいか、自分でも不思議な程に驚きを感じなかったし、木乃香はと言えば――狼の姿になったシロを見て、何やら両の手のひらを開いたり閉じたりしている。
 小太郎が、彼女に対して出した指示はシンプルだった。“少し外を回るから、付いてこい”――ただし、狼の姿で、という条件付きで。

「何ならお前らも来てもええで? 多少目立つくらいが丁度ええ――ただし俺が線引きを判断したら、警察かそこの兄ちゃんの所に逃げ込めや」
「……まあ、そう言うことならついていくけど。横島さんの代わりにあんたがシロちゃんに変なことしないか見張ってないといけないし」
「今更お前に友好的になってくれとは言わんが、いざという時に足だけは引っ張ってくれるなや?」
『こ、木乃香殿――申し訳ないがこの姿の時には、腹はその、腹側はデリケートで』
「固いこと言わんといてえなあ、うわあ、スベスベやのにふあふあや……指がふわあって」
「もう一回だけ言う。足だけは、引っ張ってくれるなや!?」

 “きゃんきゃん”と喚く木乃香とシロに、額に血管を浮かべる勢いで小太郎は言い――肺の中身が全て抜けてしまえとばかりの溜め息と共に、踵を返した。慌ててシロは、ソレを追う。

『犬上、これから何処へ?』
「せやな――ちょいと街を回る。まずは学園の方、学園長に脅迫状が届けられたっちゅう場所、そのものに行ければええんやけど――さすがに俺らが警察をどかす事も出来んやろし、まあそのあたりで“うろうろ”や」
『……?』
「何を――言う顔しとるな。今ここで全部言うのも面倒やし――すぐにわかると思うで? お前のところの兄ちゃんが、さっき何処ぞに電話しよったからな」
『先生が? 先生は、お主が何をしようとしているか知っていると?』
「ああ見えて結構切れそうやしなあ」
『ああ先生、時折見せるその凛々しいお顔が、もう堪らぬで御座るよ』
「……お前もう黙っとれや。何かだんだんわかってきたで、お前の扱い」

 果たして「そのうちわかる」とだけ口にして、小太郎は歩き出す。仕方なくシロはその後を付いていく。毛皮に触れる霧雨のような雨滴が、今は心地よく感じられる。

「……!? ちょ、ちょおっとシロちゃんストップっ!」
『明日菜殿?』
「ど、どないしたん明日菜、そない血相変えて?」
「何や明日菜。怖じ気づいた――っちゅうわけや……っ? お、おい、何を!?」
「いいから犬上あんたは向こう向いてろ! シロちゃん、駄目! そのカッコ、絶対、駄目!」

 小太郎の首を押さえ、シロの方に向き直り――霧雨に濡れるのも構わず、傘を放り投げた明日菜は、彼女の方を指さした。

『……拙者の姿に、何か問題が?』
「ああもう、言わなきゃわかんない!? 犬上あんた耳塞いでそっちに行って!」

 何で俺が、と、ブツブツ言いながらも小太郎は言われたとおりにする。こういう時の明日菜に逆らっても詮ない事であると思っているのだろう。むろん、今はまだ彼女の多少の我が儘程度、彼にとって影響が無いからかも知れないが。

「明日菜、シロちゃんこんなかわええやん。何かあかんの?」
『この姿の時は可愛いよりは凛々しいとでも言って欲しいで御座るが。ああ、先生は別で』
「暢気な事言ってないでよ――あのさ、シロちゃん今――裸じゃん!?」

 腰に手を当て――高らかに、明日菜は言う。
 その場の空気が、凍り付いた。確かにシロには、そう感じられた。

『あ、あの……明日菜、殿?』
「よう考えてみたらその通りやん!? う、ウチ今シロちゃんのお腹触っとったで? い、犬のお腹言うたら――アレやんか!?」
『木乃香殿まで!? いやさ、拙者確かにデリケートとか言ったで御座るが、そーゆー意味では――あと拙者は狼でござ――』
「尻尾! シロちゃんそれだけは駄目尻尾振ったら絶対駄目! だ、大事なところ、全部見えちゃうからっ!!」
『明日菜殿やめてくだされ往来で! 大丈夫! 大丈夫で御座るからっ!!』

 そもそも、人狼が人間の姿から狼の姿になる――あるいはその逆を行うとき、実際に体がどういうことになっているのかは、よくわからない。骨格も内蔵の位置もまるで違うだろう。ならば人間の姿の時のそれらの配置がそのまま移動なり、変形なりしてそうなっているのかと言われれば――それもわからない。ただ、狼の姿では狼の姿として機能するとしか、言いようがない。その辺りは実際“オカルト技術”であり、概念的な説明は難しい。
 そして人間の時に身につけていた服がどうなるのか。一見して消えてしまったように見えるが当然消えてしまったわけではなく。果たしてどうなっているのか――シロ自身にも説明は付かないのであるが――とりあえず、明日菜の言う“見えてはいけない物”が露出するような事はないと、彼女は自分の尊厳の為に述べておく。もしかするとそれがあるいは、“服”の名残なのかも知れない。

「……おおい、横島の兄ちゃん――おたくの所の馬鹿犬、返品してもええやろか……」

 ぎゃあぎゃあとわめき続ける女子中学生三人――と形容してもいいものか――を引き連れて、傭兵・犬上小太郎――彼の麻帆良での初仕事は、幕を開ける




 同日午前十一時――麻帆良学園本校女子寮。
 中学生以下に自宅待機命令が出ている現状ではあるが、そのロビーにはほとんど人がいなかった。とりあえずは安全な自室で、気心の知れたルームメイトと一緒に過ごすほうが、あるいは気が楽なのかも知れない。
 だからそのロビーのソファに一人腰かけ、難しい顔で据えられた大画面のテレビに流れるニュース映像を眺める長身の少女――龍宮真名の姿は、ことさらに目立つ。先に述べたとおりロビーにはほとんど人がいないから、その姿に気を留める人間がいれば、の話であるが。
 ややあって彼女はやおら顔をしかめると――ソファの背もたれを支えに体を仰け反らせるようにして、背後に声を掛けた。

「さっきからウロウロと鬱陶しい――冬眠に失敗した熊か何かかお前は」

 そこで彼女の背後の通路を歩いていた人物――“ほとんど”人が居ないロビーで、そのほとんどに該当しない少女が足を止める。彼女のルームメイト、桜咲刹那である。

「近衛がネギ先生と一緒に出て行ったのがそんなに不安か。全くお前はあれだな、子離れできない過保護な母親でもあるまいし」
「――しかし、だな!」
「この状況で、ネギ先生自身に何が出来るとも思えん。仮にエヴァンジェリンが気まぐれで何かアクションを起こしたとしても、それが近衛に何の関係が?」

 当初教員寮の空きがない故の間に合わせ――そうであった筈の、ネギの木乃香と明日菜の部屋への間借りは、今も続いている。部屋の主である二人は、それなりにネギに情が移っているからそうしているのだろう。明日菜あたりはきっと否定するだろうが。

「今のところ私の所には大した情報が来ていないから何とも言えんが――仮にお前の心配するような、魔法関係の云々だったとしたらどうだ。近衛も先の一件で自分の立ち位置は理解した筈だ。安易に首を突っ込むような真似はしないだろう」

 あるいは以前ならわからなかった、と、真名は言う。しかし今の彼女は、魔法世界の何たるかと――何故自分の周りであんな事が起きたのか、それを理解している。
 仮にネギが何かをしようと目論んで居ても軽々しく手を出すことは出来ないだろう。彼女は魔法使いではないし、魔法使いと“仮契約”すらしていないのだ。

「まあ、そういうお前の気持ちがわからないでもない――ああ、あくまで一般的な友人として、な。生憎と私はお前のように、近衛に友人以上の感情は抱いていない」
「どういう意味や!? う、ウチかて、このちゃんは大事な友達やと思うとるけど、そっ……と、とにかく変なことは考えとらん!!」
「冗談だ。だからそうムキになるな――人が少ないと言っても気でも触れたと思われるぞ」
「……誰のせいでそうなったと」

 口を尖らせながら、刹那は真名の隣に乱暴に腰掛ける。この少女も随分変わったものだと、真名でなくともそう思うだろう。むろん彼女はそんなことは口に出さないし、第一それは歓迎されるべき変化である。

「しかし少し前に、部屋に戻ったときにお前が近衛に抱きつかれて痙攣していた事があっただろう……いや、勘違いするな? 私はお前達のプライベートに口を挟むつもりはない。挟むような立場でもないが――念のためお前や近衛の家族は」
「勘違いしとんのはどっちや!? あ、あれはっ……せやからあれはウチの――!! ともかく変な気を回さんでもらえるやろか!?」
「そうムキになって言い返すから余計に疑惑が深まるんだ。それはともかく、気になるならどうしてお前はそうしている」
「……何が言いたい」
「近衛に連絡を入れて一緒に行動すればいい」
「私はもう、おじょ……このちゃんの護衛じゃない。そう言う立ち位置なら絶交や! と、このちゃんに言われてしまったし」
「誰もそんなこと心配するものか。見ればわかる――睨むな。悪い事じゃないだろう?」

 肩をすくめた真名に、刹那は首を横に振る。

「ともかく私はもうそういう役目じゃない――このちゃんがネギ先生と一緒にいるからって、それをやめろとは言えないし……」
「だから気になるなら、いっそお前も一緒に出たらどうだと言って居るんだ」
「だ、だって、このちゃんから私には何の連絡もなかったし! こっちから連絡を入れるのもその――どうかなって思うし、何て連絡したらいいのか……」
「……おい、お前は私にツッコミでもやらせたいのか? 好きな子に電話するのに緊張している男子中学生かお前は――近衛は寮生だし携帯くらい持ってる。実家に電話して『私は木乃香さんの友達の桜咲と言うものですが』とか言う必要はないぞ」

 反論は許さん、と、褐色の少女は心底疲れたという顔で言った。

「私も自分の事を普通の中学生とは口が裂けても言えないが――お前のルームメイトとして、中学生なりに相談には乗ってやっても良いが?」
「……私のことは、今はどうでもいい。明石さんの事を考えたらこんな馬鹿を言い続けるのも不謹慎だ。ああ、そう言う意味ではネギ先生とこのちゃんには、自重して欲しいと思うけれど」
「ならそういう風に直接言え。出がけに神楽坂が、犬塚の保護者が相談に乗ってくれると言っていた――そう、ゴースト・スイーパーの彼だ。まだ詳細はわかっていないが、彼の繋がりで――どうやら、魔法先生を丸ごと警察側に引き込んだらしい」
「……何だって?」
「そう、少なくとも魔法関係者ならそういう反応をするだろうな。何があったのかは詳しくは知らん。だが――そういうわけだから、ネギ先生も近衛も神楽坂も、無茶はせんだろうと言ったんだ」

 “魔法の世界”を知るものの常識で語れば、あり得ないことだ。犯人が魔法使いならば、魔法使いが事態の解決に当たって然るべき――当然、魔法使いであるネギもそれは同じ。だから彼の側で行動を共にすると言うのは、相応のリスクがある。だから刹那はこうも落ち着かない様子だったのだろう。

「だが事情が変わった。国際警察のオカルトGメンも出張ってきているそうだ。例えネギ先生が何を考えていようが、まだ十歳の子供が、そう簡単に“捜査”に首を突っ込ませて貰えるとは思えん」
「……」
「ま、私としてはどちらでもいい。どうせ私に依頼は来ていないからな。麻帆良の魔法先生が何を考えていようと私には知らぬ話――お前だって似たようなものだろう? どういう風の吹き回しかは知らんが、現状では危険と言える事はない――“できない”と言うべきだろうか?」

 だからとりあえず、近衛木乃香本人と連絡を取る位したらどうなのだ、と、真名は言う。少なくとも友人であるならば、それは決して不自然な行動ではない。
 ややあって、刹那が大きく息を吸い――ポケットから携帯電話を取り出したのを見て、やれやれと彼女は嘆息する。

「そういうわけだから――そこの馬鹿ブルーも、いたずらに騒ぎを大きくするのはどうかと思うぞ?」
「!?」

 弾かれたように、刹那が顔を上げる。
 するとロビーに据えられた自動販売機の影から――ばつが悪そうに、真名と同じくらい背の高い少女が顔を出す。

「気づかれていたでござるか……拙者もまだ修行が足りないでござる」
「いや、そもそもここは寮のロビーでな? そんなところで忍者ごっこをする意味がわからんのだが」
「せ、拙者はその、忍者では」
「あのな楓。私だって今が大変な事態だと言うのはわかっている。要らないボケで無駄な体力を使わせようとしないでくれ」
「……」

 その長瀬楓の言葉をぴしゃりと遮り、真名は言う。有無を言わさず黙らされた楓は、黙って彼女の隣――彼女を挟んで刹那とは反対側に腰を下ろした。これでもう一人、某中国人留学生が居れば“三年A組武道四天王”が勢揃いである。“魔法使い”という裏の世界の事を知っていると言う意味では、全員が。

「よくまああの双子の所から抜け出してきたな」
「実家に連絡したい事があると言って――さすがにいつもの元気は無かったでござるから」
「その実、どうなんだ?」
「……」

 携帯電話を握ったまま俯いた楓に、真名は言う。

「藪守さんのところか」
「……その」
「楓、気持ちはわからなくもないが」
「わかっている――わかっているで、ござる」

 楓は目を閉じ、首を横に振る。
 ここで彼に助けを乞うても、その彼を困らせるだけ――というのはわかっているのだ。
 ケイは確かにゴースト・スイーパーかも知れないが、あくまで美神令子除霊事務所の見習いである。オカルトGメンでさえ手を焼く事件を彼一人がどうこう出来る筈もなく、第一彼の独断で本来の職場を空けるわけにもいかないだろう。

「消極的かも知れない。少しでも何か出来そうな事があって、しかし手をこまねいて見ているだけ――それがもどかしいのはわかる。だが、誘拐事件というのはお前達が思う以上にデリケートだ」

 真名は言う。仮に――あくまで仮に、楓や刹那に、誘拐犯をねじ伏せるだけの腕っ節やらがあったところで、事件が解決するわけではない。ではどうすればいいのか、その辺りのことを、彼女たちは知る筈もない。

「私だって――ここでこうして詮もない事を言い合うしか出来ない自分に、思うところが無いわけじゃない」
「……」
「だがだからこそ逆に――今は動けるような時じゃ無いとも思うんだ。あるいはいずれ、お前達の協力が必要になる場面があるかも知れない。気休めではなくな」

 彼女の小さな呟きに――楓と刹那は、はたと、顔を見合わせる。




「ねっ……ネギ先生!? 大丈夫ですか?! 生きてますか!?」
「あ……はい、のどかさん……何とか。時にのどかさん、人間、ダメージを受けすぎるとちょっと気持ちよくなってくるんですね――知りませんでした」
「ネギ先生駄目です! そっちは、そっちは足突っ込んだらいけない方に突っ込んでますから?!」

 “別荘”の時間で初日の夜が更けようかという頃――ネギが“特訓”をしている部屋に案内されたのどかは、そこで干からびたような状態で倒れ伏すネギを目の当たりにして、思わず駆け寄って彼を抱き起こした。

『大した事はシテネエが』
「この現状でその言葉に信憑性があるとでも!?」
『あろうが無かろうガ、テメエらにはそれに従うしかネエだろ?』

 相変わらず意地が悪そうな笑みを浮かべ、零は言う。

『マア大した事じゃない――三十キロのウェイトを付けて、目隠しと耳栓をして――周囲から襲いかかってくる敵を倒すだけの簡単な訓練ダ』
「殺す気で掛かってますよねえ、それ!?」
『馬鹿言うな。俺は家庭教師ダト言ったダロウ? 殺しやしねーヨ』

 まあ、ネギ達の実力があまりに足りなければ結果としてそうなるかも知れないが……と、物騒なことを彼女は呟く。

『俺も加減はシテルしな。テメエらも、まあこれくらいはヤレルと信じてルさ。もしこの程度でも無理だッツウんなら――悪魔になぶり殺しにされるクライなら、ひと思いに俺が楽にシテヤルよ――とは言え、さすがにソレは遠慮シテエだろ?』
「当たり前です!」
『ケケケ、そうなるな。で、チビ女――テメエの方はまさかサボっちゃイネエだろな?』
「……もちろんです。ただ――あれがどんな意味があるのか」
『ソレを教えたラ特訓にナラねえ。まあ自力で気がつく分には問題ネエから、頑張って回答にたどり着いてミロ。なに、残り時間がヤバくなったら教えてやるよ』

 そう言って零はしゃがみ込み――のどかに抱き起こされたネギと、視線を合わせる。

『ケケケ、お疲れさん――今日の特訓はおしまいだ』
「……えっ?」
『これ以上は何をヤッタってマイナスにしかなりゃシネエ。超回復っつって聞いたことネエか? 訓練の目的って奴はソレだ。根性だけで何処までもヤレルッツウのは、大昔のスポ根漫画くらいで十分だ』

 確かに特訓と言えば、がむしゃらに体を鍛えれば良いという物ではない。ひたすら鍛錬を続けて休みも無し。果たして強くなれるかと言えば、その前に体を壊してしまうだけだろう。
 結局トレーニングというのは、負荷と休息を繰り返す事で成り立つのである。
 ただ――頭ではそれを理解出来ていても、焦りという物はある。時間は潤沢とは言えないのだ。極端な話、今日は百回素振りをした――それが百一回だったら、また結果は違ったのでは無いだろうか? そんな風に考えてしまうのだ。

『もちろんその辺りのさじ加減は俺がヤル――信用ナラねえカ?』
「いえ……そんなことは」

 首を振りながら立ち上がるネギに、零は言う。

『信用とかじゃ無く――納得出来ネエか。顔にそう書いてアル』
「……」
『安心シロ――特訓ッツウのはな、何も殴り合いヲシタリ、トレーニングしたりと、ソレだけを指しテルワケジャネエ。肉体的な特訓は一旦休憩だが――特訓自体に、休む暇があると思うナヨ?』
「肉体的ではない特訓、ですか?」
『言ったダロ、お前らとにかく甘ェってな。実際ガキなんだからしょうがない――ナンテ相手は待ってクレねえんダ』

 ではこれからは、つまり精神的なものを鍛える特訓が始まるのか。
 魔法使いの特訓と言えば、即ち戦い方の事であると――それしかわからないネギには、一体彼女が何を考えているのかさえわからない。得体の知れない不安に、喉が鳴る。

『さて坊や、テメエは今から体を休めて――しかしその鬱陶しい程ピュアな性格トハおさらばしてモラウ』
「はあ……そう言われても、何をすればいいんですか?」
『とりあえずは風呂ダ。坊やの相手をしてた木偶人形共が用意してくれテル』
「は、はい。あ、でも、それじゃのどかさんから」
『いかにも英国紳士ッツウ気障ッぷりだな坊や』

 ケケケ、と、またわざとらしい笑い。
 実際、零の魔法か何かで、ジャングルを裸で歩いてきたときの汚れは消えている――しかし、そう言う状態になったと言う事実が消えたわけではない。さっぱりしたいのはのどかも同じだろうと――当然の選択として、ネギはのどかに先に入浴するように促す。
 ――が、

『ケケケ――だがその気障ったらしさ、すぐにメッキを剥いでやる――風呂は全員一緒だ。拒否は許さネエ』
「……えっ? ……えっ?」
『何だお前ホント馬鹿ミテエなツラしやがって……今からここにいる三人で風呂入るぞっつったンダヨ』
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってください! だって」
『だって、何だよ。今更ダロ? テメエらが数時間前にドウイウ醜態晒したか、まさか忘れたワケジャネエよなあ?』
「だからってそれはどうかと思いますよ!? た、確かに僕はその、は、恥ずかしいとか、そういう……極限状態ではくだらないと、そう言えるかも知れない事を考えて、結果のどかさんを危険に――いやでもそれはですね!? 大体――」

 今の状況で、よもや異性に慣れることが自分にとって必要とは思えない。仮にこの先、ネギが女性関係で身を持ち崩すだとか――そう言う馬鹿げた可能性があったとして、その為に何らかの対策が必要だったとしても、まさか今その対策をしても意味がないだろう。
 だがネギの言葉を、零は鼻で笑う。

『言い訳を並べ立てるンジャネエよ。結局テメエ“恥ずかしいから嫌です”って言ってるだけジャネエか。なんつーかテメエのそのウブさ加減つうのか童貞臭ッツウのか、もう見ててイライラするレベルなんだよ』
「そ、そんなのネギ先生は子供なんだから当たり前です! 十歳児相手に無茶苦茶言わないでください!」

 胸の前で拳を握り――顔を赤くして、のどかが反論する。零はそんな彼女に手を振りつつ、唇の端を持ち上げてみせる。

『それじゃチビ女よ。テメエ、“お姉さん”としてはどうなんだヨ? そう言うのは嫌ナノか?』
「えっ」
『……』
「……」
『――さてそこのムッツリスケベのお姉さんの許可も取れたコトダし、さっぱりするとしようぜ?』
「いや、違っ……! 違いますからねネギ先生! 私、そう言うんじゃ無いですからね?! 勘違いしないでくださいね!?」
「お、落ち着いてくださいのどかさん、僕は別にそんなことは……」
『良いからさっさと行くぞムッツリ主従』
「「勝手に偏見にまみれたキャラ付けをしないでいただけますか!?」」

 ただの三か月――まだ幼いネギにとってみても、あまりに短いその特訓の期間は、まさに今始まったばかりである。










 ……なんか近頃過疎ってる気がする……まあ原作終わってだいぶ経つから仕方ないといえば仕方ないけれど。
 とりあえずこのまま記事が上がりっぱなしだと、更新かけても気づかれない(記事数も結構伸びてきてるし)ように思うので、タイトルに更新情報入れることにする。

 ネギの「戦闘訓練」は、例によって上山道郎先生の「怪奇警察サイポリス」で、主人公がやっていたのを参考に。そういえば意図はしてなかったけど、彼もまた「三か月で十倍強くなれ」とか無茶振りされてたなあ……しかも「できなかったら殺す」というおまけつきで。
 その辺の話は機会があればご一読ください。ほかにも参考にさせてもらった部分があったり。この話でなく、ちょっと前にね。


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