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[25115] ラピスの心臓     【立身出世ファンタジー】
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2013/07/07 23:09
※※※この物語は、小説家になろうでも投稿しています。



【ご挨拶&ご連絡】
※2013/07/07
おひさしぶりです。
体調もほぼ改善し、ここのところはとても健やかに日々を送ることができています。ご心配をおかけしました。
次回更新は、今週の金か土あたりに再開する予定です。
いつも間があいてしまうので、次回から定期更新にチャレンジしてみたいと思っています。
そのぶん一度の投稿量は減ってしまいますが、どうかご了承ください。



※2013/04/27
更新間隔がかなり空いてしまっていて申し訳ないです。
肺炎と花粉症のダブルパンチでダウンしていました。
花粉症のほうは楽になってきましたが、いまだに止まらない咳に悩まされている状況です。連絡が遅れてごめんなさい。

現在、少しずつですが続きを書くことを再開しました。
もうしばらくかかると思いますので、目処がたちしだいにご連絡します。

ここまで待っていただいている方には、本当にありがとうという気持ちしかありません。
かならず続きをお届けできるようにがんばります。



※2012/12/14
謹慎編第2話を投稿しました。


※2012/11/29
次回、謹慎編第2話は、12月14日投稿予定です。

 

※2012/11/09
謹慎編1話を投稿しました。



※2012/11/03
謹慎編、11月9日金曜日の夜に投稿予定です。


※2012/10/07
みなさん、こんにちは。
引っ越しも無事に終わり、ゆっくりと落ち着きを取り戻しつつある状況です。

現在、新シーズン開始へ向けて、書き終わり分を見直しつつ、完成に向けて日々書き続けている段階にあります。

いまのところの予定としましては、11月上旬頃からのスタートを予定しています。
細かな日程が決まり次第、ふたたびこちらのほうでご報告させていただきます。




※2012/06/19
こんにちは、毎度おなじみで投稿の間隔があいてしまい申し訳ないです。
私事ですが、遠方へ引っ越す事が決まり、現在その準備のために慌ただしい日々に翻弄されています。
次回から投稿予定だった謹慎編は、全体のほぼ半分ほどが完成している状況で、何回か投稿するだけの量はストックできているのですが
今の段階で投稿を開始してしまうと、また物語の途中で投稿が止まってしまう事態が容易に想像できるので
引っ越しを終えて、生活が落ち着いた後に改めて投稿スタートをしたいと考えております。
続きを楽しみにしていただいている方には、本当に心苦しいのですが、そのときまでしばしお時間をいただければ幸いです。



※2012/02/17
感想欄で教えていただいた各話の誤字などを修正しました【プロローグ、無名編1、3、4、5】
また、一部言葉が足りず誤解を与えてしまう文章になっていた部分を修正しました【無名編第4話、食事についての説明分】


※2012/02/12
息抜き編2を投稿しました。





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【まえがき】

※2010/12/27

 子供の頃、大河ドラマの『秀吉』という作品が好きでした。
 平凡な農民だった秀吉が、己の才覚と努力でどんどん出世していき、やがては天下人の地位にまで昇りつめる。そんなストーリーにワクワクしたのを覚えています。
 その時の事が影響しているのかはわかりませんが、それ以来主人公が出世したり、王様などの責任ある立場に抜擢されるようなお話が大好きになりました。
 そんなわけで、この度自分でそんな物語を書いてみたいと思うに至り、無謀にも長編オリジナル物語にチャレンジしてみよう、ということになりました。

 この『ラピスの心臓』のテーマは、組織の中での出世です。
 もちろん、戦い、戦争、恋愛などなどのお約束は多々入ると思いますが、あくまでも物語の中心核は主人公が出世し、上へと昇っていく事です。
 組織というのは、そこにたくさんの人々が集まり、それぞれの思惑を持って生きています。そんな人々と主人公が交わる人間関係などもお見せできれば、と考えています。

 自分の未熟な文章でどこまでやれるかわかりませんが、主人公が上へ上へと昇っていく爽快感を楽しんでいただけると嬉しいです。
 初回はプロローグを含めた三話分を公開させていただきます。





【この物語は、以下のような要素を含みます】

▼サクセスストーリー
▼戦争
▼恋愛 (嫉妬・修羅場的要素強め)
▼主人公TUEE
 (作中の主人公は、戦闘に関してはかなりの強さを誇ります。が、この物語は勇者的な主人公が巨悪を討ち滅ぼすストーリーではなく、あくまで出世という部分にスポットを当てていますので、肉体を用いた戦いに強い、というだけでは解決できない場面が多々あります)



【この物語に以下のような要素はありません】

▼レイプ、陵辱等の性暴力
 (シーンがないのはもちろんですが、それを匂わせたり、想起させるような展開、描写もいれません)

▼寝取られ
 (ヒロインが主人公以外のキャラに奪われてしまうかも、といったドキドキな展開はありません)





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【更新履歴】
2010/12/27 ▽プロローグ ▽無名編第01話 ▽無名編第02話
2010/12/31 ▽無名編第03話
2011/01/31 ▽無名編第04話
2011/02/28 ▽無名編第05話
2011/03/27 ▽息抜き編1
2011/10/01 ▽従士編第01話
2011/10/22 ▽従士編第02話
2012/01/14 ▽従士編第03話
2012/02/12 ▽息抜き編2



[25115] 『ラピスの心臓 プロローグ』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2012/02/17 17:38
   『ラピスの心臓 プロローグ』










 子供の頃の記憶を辿っても、覚えていることはいくつもなかった。
 
 暗く不潔な街の裏で泥水をすすり、残飯をさがして一日が終わる。
 気がつけばそんな毎日を送っていて、どうして自分がこんな状況にあるのかもわからなかった。

 親がいない。守ってくれる大人もいない。一人ぼっちの孤独を噛みしめるだけの日々だった。
 


 街の表通りに出ると、たくさんの人通りで賑わっていた。
 人々はお喋りをしたり買い物に夢中になっている。幸せそうに見えた。
 だけどなぜか、皆自分と目が合うと途端に顔をしかめて遠ざかって行った。
 屋台や露店の商売人達からは、客が来なくなるからどこかへ行けと怒鳴られた。

 ある日、水たまりに映った自分の姿を見て理由がわかった。
 そこには右目と、その周りの皮膚に大きな火傷の跡があった。
 火傷の痕はズタズタに爛れていて、酷く醜い。

 ――ああ、そっか。

 漠然と納得する。
 自分が一人ぼっちなのは、きっと親に捨てられたからだ。
 この醜い姿を見て自分を嫌いになったに違いない。
 そう思った。



 自分の目が他の人間より優れているのを知ったのは、まったくの偶然だった。

 コキュという人の血を吸う素早い羽虫がいる。
 普通の人にはまともに目で追うこともできないこの虫が、自分には姿形や羽の動き、空中を飛び交う軌道まで見る事ができた。
 この虫を大人達の前で捕まえて見せると、皆驚いて褒めてくれる。
 ご褒美だと言って食べ物を分けてくれる事もあったので、それが自慢だった。
 


 凍えるように寒い夜。
 昼頃から降り始めた雪で、辺り一面うっすらと白い雪に覆われはじめている。
 この日は食べる物が見つからず、街外れのゴミ捨て場を漁っていると、表通りのほうから数人の男達が走ってくるのが見えた。
 全員が薄茶色の服を着て、腰に剣をさげている。
 どうやら街の警備兵らしい。
 彼らはあわただしく裏道に散っていったが、その中の一人が、自分の存在に気づき声をかけてきた。

 「坊主、ここらで妙な奴を見なかったか?」
 
 髭面の警備兵は、ここまで走ってきたのか少し息をきらせている。

 「みてないよ」

 「少しでも変だと思う者を見かけたら教えろ。知らせてくれたらなんでも好きなものを食わせてやるぞ」

 警備兵はそうまくしたてて、足早に路地の奥へと消えていった。

 好きなものを食わせてやる、という言葉が強烈に耳に残る。
 街の表通りで見てきた屋台で甘酸っぱいソースをつけて焼いた骨付きの肉や、甘い菓子をほおばる自分を想像すると、口いっぱいに涎があふれた。
 どのみち今日の収穫はゼロなのだ。
 ご褒美にありつける可能性に賭けて、周囲一帯を探してみることにした。



 小一時間ほど裏道を歩きまわった。
 寒さはさらに増し、凍える空気に長時間さらされた手は感覚がなくなるほど冷たくなっている。
 捜索をあきらめようかと思ったその時、建物のあいだにわずかにあいた隙間に、雪の上に点々と続く赤い染みに気づいた。
 近づいてみると赤い染みの他にも、雪で消えかかった足跡のようなものまである。

 足跡と赤い染みを辿っていくと、下水の入り口に辿り着いた。
 赤い染みは奥へと続いている。

 下水には一度も入ったことがない。
 恐ろしかったが、なんでも好きな物を――という言葉が頭の中で蘇り、勇気を振り絞って中へ入ることにした。

 風がない分、下水道は外より多少暖かかったが、澱んだ腐敗臭が漂っていて不快だった。
 少しおいて、暗闇に目が慣れてくる。
 外から漏れてくるわずかな光だけでも、なんとか地形を把握できた。

 赤い染みは下水のさらに奥深くへ続いているようだった。
 人の血を好むコキュが、赤い染みに群がっている。そこで初めて染みの正体を知った。
 
 ――血だ。

 だとすれば、この血が出るほどの怪我を負った誰かは、さきほどの警備兵達の探していた人物かもしれない。
 
 下水のさらに奥へと続く血痕を辿る。
 床に落ちている血はだんだんと量が増している。
 生きているとしたらかなりの重傷のはずだ。

 少しすると血の跡が唐突に途切れた。

 次の瞬間、突風のようなものが頭のすぐ上を物凄い早さで通り抜けた。
 
 ――なんだろう、今の。

 カサリ、と服がこすれるような音が耳に届く。
 
 「そこにだれかいるの?」

 「……子供?」

 暗闇に響いたのは女の声だった。
 声質は高く透き通っていて、若く聞こえた。

 硬い物を叩く音がして、目の前で火があがる。
 小さな焚き火が闇を照らした。
 焚き火の後ろには、腹を押さえてうずくまるように壁にもたれかかる者がいた。

 ――女の人。

 女のまっすぐに伸びた黒髪が、揺れる炎に照らされて赤く染まって見える。
 細目で端正な作りの顔には、脂汗がにじんでいた。
 
 「どうしたの坊や。こんなところで」
 
 「あ、あの――」

 正直に答えることができず、咄嗟にうまい言い訳も出てこない。
 
 「こっちにおいで。そんな格好じゃ寒いでしょ、火にあたるといい」

 女の声音は穏やかで、そのせいなのか不思議と警戒心はなくなっていた。

 進み出て焚き火の前に座り込む。女とは正面を向き合う位置だ。
 凍えていた手を揉み込みながら火でとかした。
 
 「坊やは何歳?」

 「しらない」

 「そう。まあ………見たところ六、七歳ってところかな」

 「……おばちゃんは、だれ?」

 問いかけにかえってきたのはゲンコツだった。
 
 「いたッ」
 「私は ま だ 二十代。お姉さんって言いなさい。もしくは、アマネさん」

 アマネ、というのが女の名前らしい。
 また叩かれるのは嫌なので、名前で呼ぶことにする。

 「アマネさん……はどうしてこんなところにいるの?」

 「仕事でね、無様に失敗してこの様」
 
 アマネが腹に当てていた手をあげて見せると、服がびっしょりと血に濡れて赤く染まっていた。
 
 「どんなしごと?」

 数瞬ためらってから、アマネは答えた。

 「ヒトゴロシ」

 「えッ?」

 アマネの言葉に驚いた。
 冗談ではないという意思表示なのか、アマネが真剣な顔でこちらを凝視してくる。

 「〈赤無しの死神〉といえば、西側ではそれなりに名前が通っているんだけど。東側の、それも坊やみたいなチビスケに言ったところで知ってるはずがないよね」

 「アマネさんはつよいの?」

 仕事柄、強くなければ勤まるはずがない。
 ろくに世間を知らない子供の自分にとっては、強い人間というのは筋肉だらけの大男くらいしか想像ができない。
 そのイメージと比べると、アマネは女性らしい華奢な体躯でどこからみても人を殺して金儲けができる人間には見えなかった。
 
 「強いよ、とってもね」

 アマネは言ってから自嘲気味に笑う。

 「でもこんな様じゃ説得力ないね」

 「向こうのほうがつよかったの?」

 言った途端、周囲の空気が変わったような気がした。
 アマネの目が鋭くなり、不機嫌そうに眉をひそめる。

 「ハメられたの。たいした相手ではないと聞いていたんだけど……相手は極石級の化け物だった」

 「きょ、く、せき?」

 「化け物みたいに強い人間のことだよ」
 
 それからしばらく、アマネは何か考えこむように黙りこくってしまった。
 焚き火の枝がはじける音だけが聞こえる。

 気まずい沈黙に絶えられなくなり、自分から話題を変えた。
 
 「さっき、兵隊がだれかさがしてたよ」

 「探してるのはきっと私だね。坊やがここに来たとき、てっきりそいつらが来たのかと思って咄嗟にナイフを投げたんだけど、危うく坊やに当ててしまうところだったよ」

 ここへ来て、アマネに気づく寸前に頭の上を何かが通過したことを思い出した。
 一陣の突風かと思ったそれはナイフだったらしい。一歩間違えれば突き刺さっていたかもしれず、考えただけでゾッとした。
 
 「じゃあ、さっきのは……」

 「背が低かった事に感謝だね。大人だったら心臓を一突きで今頃あの世逝き」
 
 その光景を想像して身が縮こまった。
 そんな自分を見て、アマネは盛大に笑った。



 「それにしても、さっきからまとわりついてくるこの虫はなに……。火で追い払ってもすぐ戻ってくるし、すばしっこくて叩く事もできないし」
 
 アマネの周囲には無数のコキュが飛び回り、好きをみては血に染まった服に群がろうとしている。

 「コキュっていうんだよ。人の血を吸うの」

 「それで……こんな嫌な虫は西側にはいなかったのに」

 アマネは苛立たしげな表情で、何度もコキュを手で追い払った。
 だがその程度のことで血が大好物なこの虫はあきらめたりしない。

 「つかまえてあげるよ」

 「捕まえるって、坊や……こんなすばしっこい虫をどうやって」

 集中する。
 途端にコキュの姿形や飛ぶ動作を目が捉える。
 飛んでいるコキュは、早すぎて虫網をつかっても捕まえるのが困難な虫だ。
 だが、自分にとってはコキュが高速で移動している様子が、ゆっくりと緩慢な動きとして視認できる。

 左手を伸ばして一匹、右手を伸ばして二匹。その動作を何回か繰り返して、アマネの周囲を飛び交っていたすべてのコキュを掴み殺した。
 今まで何度も繰り返した事で、自分にとっては歩いたり食べたりするのと同じようにあたりまえにできる事だ。
 
 「はい」
 
 手のひらを広げて、握り潰したコキュをアマネに披露する。
 何匹かはすでに血を吸い終えていたようで、潰れたコキュの体からアマネのものらしき血が飛び出している。

 ――褒めてくれるかな。

 そんな打算もあったのだが、アマネはただきょとんとしているだけだった。

 「いまのどうやって……」

 「見て、つかまえた」

 「そうじゃなくて! ろくに見ることもできないような素早い虫を、どうやったらこんなに正確に捕まえられるの?」

 「よく見れば、簡単にとれるんだもん」

 「よく見れば捕まえられるって、今のはそんな簡単なことじゃ―――そうだ、これ」
 
 胸ポケットから取り出されたのは一枚の銀貨だった。
 
 「この銀貨は西側のとある王国で昔使われてたもの。これを上にはじくから、表面にある模様がどんなのか言ってみて。正解したら良い物あげる」

 「ほんと?」

 「約束する。じゃ、いくよ――」
 
 金属をはじく音がして、アマネが親指で銀貨を上にはじき上げた。
 銀貨は勢いよく高速で回転して上昇していく。
 虫を見る要領と同じように、集中して回転する銀貨を見る。

 ――見る、絶対に見える。

 さらに集中を深める。
 空中で高速回転する銀貨の動きは、しだいに緩慢な動きになり、表と裏の模様を確認することに成功した。
 
 銀貨がアマネの手の中に戻った。
 
 「さて、どう?」

 「片方は小さな花びらがたくさんついた大きな木。反対側は頭が鳥みたいな四本足のどうぶつ」

 「……正解。いったいどんな動体視力してるのよ」

 アマネは心底関心した様子だった。
 なんとなく自分がみとめられたような気がして誇らしくなる。

 「ねえ、いいものくれる?」
 
 なにをくれるのか、もしかしたら今投げた銀貨かもしれない。期待に胸が躍ったが、返事は期待していたものとは違った。

 「坊や、孤児よね?」

 緩慢に頷く。

 「誰か面倒をみてくれてる人はいるの?」

 素早く首を横に振る。

 「じゃあいいか――――坊や、私と一緒に来ない?」

 「え?」

 「私は古い戦闘術を受け継いでいてね、それを活かして今の仕事をしているの。この技を師匠と呼べる人から仕込まれたとき、一つだけ約束させられたんだよ」

 「どんなやくそく?」

 「受け継ぐこと……。私が受け取ったものを、また次へ渡すことを。そして私は、次へ伝える相手にあなたを指名したい」

 「どうして、ぼくに?」

 「あなたのその目は尋常じゃないわ。動体視力っていってね、動いている物体を視る力をそう呼ぶの。あなたはきっと強くなる。私なんかよりずっとね」

 「よく、わからない」

 孤児として、ただ目的もなく生きてきた自分にとって、アマネの言ったことの意味が理解できなかった。
 強くなる――そのことに意味などあるのだろうか。
 
 たゆたう炎を見つめながら、必死に自問自答した。

 「私はね、この出会いに運命を感じてる」

 「うんめい……」

 「初めて受けた東側の仕事で、はじめて失敗して、はじめて逃げ込んだ先で、坊やのような子と出会った。坊やは孤児で、私は受け継いだものを渡す相手を探していた。ね?」

 「……わからないよ」

 「じゃあ、これならどう? この話を受けてくれるなら、あなたが独り立ちできる大人になるまで家と食べ物をあげる」

 我ながら現金だと思うが、このアマネの提案には心が動いた。

 「ほんと?」

 「本当よ。ただし、これだけは言っておくね。あなたにやってもらう稽古は、ここでこのまま孤児として一生を終えたほうがましだったと思えるくらい辛いものになる。けど、それに耐えてくれるなら、家も食べ物も、私の知りうるかぎりの教養も与えてあげる。つまり、これは契約ね」

 「けい、やく……ぼくと?」

 「そうよ、互いに得るものがあるのだから。坊やが約束を守ってくれれば、わたしもさっき言ったことは全部守る。そういう契約。―――返事はもらえる?」

 アマネの提案をよくよく吟味してみると、ほとんど自分に得があるように思えた。
 だが、フェアな条件を提示できるような立場でもなく、出口のない迷路の中にいるような孤児としての現状を思えば、アマネの申し入れを断る理由は微塵も浮かんではこなかった。
 
 「アマネさんと、いく」

 どこか不安そうな面持ちでこちらを見ていたアマネは、その言葉を聞くと花が咲いたような笑顔を見せた。

 「よかった。後悔はさせないわ」

 アマネは微笑んで、その場から勢いよく立ち上がった。
 
 「アマネさん、おなかの怪我は?」

 「ここに来てからすぐ血止めの塗り薬をたっぷり塗っておいたから。とっくに傷はふさがってるの」

 「え? でもさっきまで」

 アマネはたしかに苦しそうに腹を押さえて座り込んでいたはずだ。
 
 「あれは演技。ああして弱っているように見せておけば、相手が油断するでしょ?」

 「アマネさん、ずるい……」

 「隙がない、と言ってほしいな。―――ところで、そのアマネさんってのはもうなし。今から私のことは師匠って呼ぶこと」

 「ししょう?」

 「そうよ。これから坊やを鍛えてあげるんだから、ケジメはつける。だから私は師匠、あなたは弟子」

 「ししょう……」
 
 師匠、という言葉を口にするだけで、奇妙な幸福感を感じた。
 ずっと孤独でいた自分に、やっと特別な関係の人間ができたからかもしれない。

 「よしよし。それじゃ行きましょう」
 
 アマネは焚き火に水をかけて消した。
 こちらの手をとり、一歩を踏み出しかけたとき、おもむろに一時停止する。

 「おっと、大事なことを聞いてなかった。――坊やの名前は?」

 「しらない。ずっと一人だったから」

 「なるほど…………それじゃ、坊やは今日からシュオウって名乗りなさい」
 
 「シュオウ?」

 アマネに与えられた名前は、あまり聞き慣れない響きのものだった。

 「……気に入った?」

 「うん!」

 この瞬間、師匠であるアマネは、同時に自分にとっての名付け親にもなった。

 「よしよし、素直でよろしい」

 アマネが満足気に頷いた。

 「でも、どうしてシュオウなの?」

 「え"ッ!?」

 アマネの顔が引きつった。

 「えっと、まぁ、気が向いたら教えてあげる――――さぁ、追っ手に見つかっちゃう前に出発!」

 ごまかすように急ぎ足になったアマネを、追求することはしなかった。

 誰かに必要とされる事の嬉しさと、これからの希望に満ちあふれた人生を思うと、まるで足に羽根でもはえたのではと錯覚するほど、足取りは軽やかだ。

 暗く湿っていて悪臭の漂う下水は、お世辞にも快適な場所とはいえなかったが、シュオウは今まで生きてきたなかで最も晴れやかな気分で、アマネと共に歩む人生の最初の一歩を踏み出した。

 





















           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










                      十二年後








           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇






















 深界のほとり、灰色の森。
 果てしなく続く灰色の世界は、歩いているだけで気が滅入る。
 遙か高くそびえたつ灰色の木々は、曇り空のわずかな光さえ遮断してしまう。
 視界に広がる暗く鬱屈した世界を俯瞰した。

 ――空気が、重たい。

 水の匂いが鼻をくすぐる。

 ――雨、か。

 まもなく、粉のように細やかな霧雨が降り始めた。
 シュオウにとって歩き慣れたこの森も、雨が降ると状況が一変する。
 〈狂鬼〉と呼ばれている、凶暴な獣や虫たちが活発に食べ物をもとめて動き始めるからだ。
 
 〔ヴォォォォォォォォォォオ!!〕

 森の各所から、狂ったように猛る獣の咆哮があがった。

 シュオウは灰色の大木に身を寄せ、外套で体を覆った。
 草木のように自然に、そして石のように動かずに、ただ時がすぎるのを待った。

 目を閉じる。

 昨日から、あの時のことが繰り返し頭をよぎる。

 ――泣いていた。

 常に飄々としていて、掴みどころのない人だった。
 十二年前、偶然の出会いから共に人生を歩むことになった女性を想う。
 文字を教わり、生き方を学んだ。戦い方を伝授され、強く鍛えてもらった。
 師であり、恩人であり、名付け人であり、育ての親でもあったあの人を、泣かせてしまった。

 『本当に行くつもり?』
 『あなたにはまだ早いわ』
 『傷つくにきまっている。人の世界はそんなに優しくないんだから』
 『どうしてって、そんなの心配だからに決まってるじゃないッ!』
 『……もういい。好きにしなさい』

 冷たい風にあおられて、体がぶるりと震えた。
 どのくらい時間がたったのか、今が夢か現かもはっきりしない。
 落ち着いて被っていた外套をはずし、周辺を観察する。
 一面の真っ暗闇。
 雨はやんだようで、森は静けさを取り戻していた。

 ――歩こう。

 この森は頑なに人が生きる事を拒絶する。
 元々はこの場所も、人が住み普通に暮らしていた土地だったのだと師匠に教わった。

 遙かな昔、この地に灰色の木が生えるようになった。それは時間を経るごとに少しずつ確実に数を増やし、やがて人の住む場所を奪うほど急拡大したのだという。
 灰色の木は森を形成し、その森には人を襲う凶暴な生物が住み着いた。
 生活の場所を追われた人々は、逃げるように山や高所に避難していくことになる。
 だが奇妙なことに、灰色の木は平地より高い場所には一本も生えなかった。
 こうして出来上がったのが、見えない境界線で区切られた今の世界だ。
 平地は灰色の森、山や高所は人間が住まう地となった。
 こうした灰色の森で覆われた世界を、人々は〈深界〉と呼び、人間の暮らす山や高所を〈上層界〉と呼んで区別していた。

 灰色の森の歩き方は、子供の頃から師匠に叩き込まれている。
 気配を殺し、体臭を消し、足音を封じて歩く。
 十二年、そうした修練を積んだ結果、いまでは狂鬼に悟られることなく森を歩くことができるようになっていた。
 健康な成人男性であっても、深界の森に入れば三十分と命を繋ぐことは難しい。
 人にとって地獄に等しいこの世界を、自由に闊歩するのは容易ではない。
 つねに気を配りつつ歩かなければいけないため、精神、肉体ともに疲労が激しかった。

 暗い森を歩きながら、装着した革製の眼帯にさわる。

 『これを持って行きなさい。その顔の痕は人里だと悪目立ちするから、できるだけ隠しておきなさい』
 
 師匠から渡されたのは、黒革製の手作りの眼帯だった。
 シュオウの顔には子供の頃から右顔面に大きな火傷の痕がある。
 このおかげで皮膚が癒着して右目を開くことができず、見た目にとても醜い。
 師匠から贈られた眼帯はそれをすべて覆い隠すように出来ていた。
 素材は丈夫で良質な皮。シュオウの顔の形にフィットするように作られていて、眼帯というよりは仮面に近いかもしれない。
 はじめ、旅立ちを反対していた師匠も、弟子の巣立ちを予期してこれを用意してくれていたのかもしれない。

 唐突に森がばっさりと途切れた。
 生気のない灰色の森の空気が途切れて、途端に命の息吹を強く感じる緑の自然の香りを感じる。
 見上げると天にも届きそうな山々が、シュオウを威圧するかのようにそびえ立っていた。

 十二年もの時をすごした灰色の森へ振り返る。

 『行ってらっしゃい、シュオウ』
 
 最後にはそう言って送り出してくれた、師であり育ての親を想いながら、深く一礼する。

 ――行ってきます、師匠。



 目的地までは、もう目と鼻の距離だった。



[25115] 『ラピスの心臓 無名編 第一話 ムラクモ王国』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2012/02/17 17:38
   『ラピスの心臓 無名編 第一話 ムラクモ王国』










 シュオウは長い間、人里から離れて生活を送っていた。
 その間、師から様々な事を教わり、学んだ。
 だが、文字や言葉で知った事では、あまりにも味気ない。
 灰色の森の歩き方や狩りの方法について学んでいたときも、話で聞いて教えられたときよりも、実地で直接訓練をした時のほうが、遙かに経験値は高かった。
 そういった事もあり、シュオウの中で実際に己の目で、耳で、鼻で世界を感じたいという欲求は日増しに強くなっていき、結果として、ほぼ強引に師匠であり育ての親である人の元から、逃げるようにして家を出てきてしまった。

 灰色の森をようやく抜けると、そこは白い石を敷き詰めて作られた街道だった。
 別名〈白道〉と呼ばれるこの街道は、〈夜光石〉という特殊な鉱石を切り出し、加工した物を敷き詰めて作られている。
 
 夜光石は空気中の湿気に反応して、白くぼんやりとした光を放つ特性がある。
 この夜行石の放つ光は、灰色の森の浸食を防ぐ効果があり、狂鬼もこの光を避けて通ろうとする傾向がある。
 理由は不明で絶対の効果があるわけではない。
 それでも白道の上を行くかぎり、ある程度の安全は約束されるので、人々にとっては重要な交通手段となっている。

 白道の上を歩く。
 白道は表面こそザラザラしているが、どれも綺麗に真っ平らだった。
 これなら馬車の車輪も難無く通過することができ、流通もスムースになる。

 灰色の森は複雑に絡み合った植物等で最悪の足場だったが、白道は人間が人間のために用意した道というだけあって歩きやすかった。
 足取りも軽く白道を進むと、地面が少しずつ上へと登り始めるところで白道が途切れた。
 この辺りから、この土地の者達が定めた安全地帯ということだ。
 
 高所へとゆるやかに傾斜している道を進むと、目の前に石造りの外壁に囲まれた街が見えた。

 この世界には、東西南北に連綿と連なる山脈がある。
 〈ムラクモ王国〉は東の山脈に位置する大国だった。
 豊富な鉱物資源を活かした武器製造で国庫は潤い、人々の生活も豊かだ。
 
 〈王都ムラクモ〉

 街の入り口ではためく旗にそう書かれていた。旗の中心には翼のある蛇のような生き物が描かれていた。
 
 ――懐かしい、のかな。
 
 自分の子供時代、浮浪児として生活をしていた国の名前がムラクモ王国だと師から教わってはじめて知った。
 この王都ムラクモは、まさにシュオウが子供時代をすごしていた場所でもある。
 十二年ぶりに感じる街の匂いは、郷愁にも似た気持ちと、孤児として生きていた苦い記憶を沸き上がらせた。

 現在の時間は夕暮れ時。
 街は仕事帰りの男達や、夜食の買い物に出てきた女達で賑わっている。
 街ゆく人々が、時折シュオウの顔をチラチラと覗いてくる。
 それが顔の半分近くを覆う大きな眼帯のせいなのか、見慣れない格好のせいなのかわからなかった。

 なんとなく落ち着かない気分で、シュオウは表通りから離れた。
 少し裏道にそれると、辺りはひっそりとした住宅地で、ここなら少し落ち着けそうだった。

 シュオウの持ち物は、狂鬼の虫の歯で作った短剣、狂鬼の獣の皮で作った外套、それと数日分の携帯食だけだ。
 食べ物は狩りをすればどうとでもなる。睡眠も野宿でしのげる。生きていくだけならそれだけで十分だが、人間の世界というのは何かと金が必要になってくる。
 長年、隠遁生活をしてきたシュオウであっても、まともな宿で休んだり、その土地のものを食べたり飲んだりしてみたい、という欲はあたりまえにあった。

 世界を見るという目的がある以上、各国を渡り歩くためにもやはり金は絶対に必要だ。

 都合のいいことに道の隅に〈職業斡旋ギルド〉と書かれた立て看板が目に入った。
 仕事をして金を稼ぐ、という当たり前の行為も、今のシュオウにとっては新鮮で、考えただけで胸が躍った。

 

 看板の案内に従って街を歩き、ギルドにあっさりとたどり着いた。
 土地勘のない余所者だったなら迷ったかもしれないが、シュオウは子供の頃に、この街の裏道を行ったり来たりの生活を送っていたため、迷う心配はない。

 「おや、いらっしゃい」
 
 ギルドに入ってすぐ、カウンターにいた初老の男が話しかけてきた。

 「看板を見て来たんですけど、ここで仕事を紹介してもらえますか」

 「ふむ」

 男はシュオウの靴から頭のってっぺんまで視点を動かした。
 
 「なるほど。で、どんな仕事をお望みだね」

 「長期間拘束されず、できるだけ稼ぎのいい仕事を」

 「短期間で儲かる仕事……か。ううん、難しいね」

 男は口を下に曲げて、難しい表情で手元の資料をパラパラめくった。

 「難しいですか」

 「いやね、夏頃だったら他国からくる隊商の荷運びの仕事が、人手がいくらあっても足りないくらいあるんだが、冬を目前にした今の時期はどこも人手を欲しがってるとこなんてないからね。今紹介できそうなのは、どこも長期で人手を募集している所ばかりだね」

 「そうですか……」
 
 どうやら仕事の少ない時期と重なってしまったらしい。
 あきらめて今後の事を考えようかと考えていた矢先、男が何かに気づいたように眉をあげた。

 「お、一つだけ紹介できそうなのがあったよ。王国軍の従士志願者の募集だ」

 「軍の従士、ですか」

 体は鍛えてあるし、戦うことについても師に血反吐を吐くほど鍛えられてきたのでそれなりに自信もある。
 なので体を使う仕事への躊躇はないが、軍隊ともなると長期間拘束されるのは避けられない。
 
 「長期の仕事は困ります」

 「いやいや、それがね違うんだよ」

 「違う?」

 「これは軍の従士候補を選抜する試験の参加者を募集するものでね、たとえ試験に合格しても、その後に軍に入るかどうかは本人の意志が尊重される。そのうえ合否にかかわらず、試験後に高額の報酬を受け取れるんだよ」

 「随分と、条件が良い」

 「ううん、だけどねえ……」
 
 男は良いにくそうに唸ってから、言葉を続けた。

 「この試験は彩石持ちの貴族の子らが通う〈宝玉院〉の卒業試験も兼ねているらしいんだ。この試験内容が危険なものらしくてね、従士志願者のうち半分以上が毎年この試験で死んでるって話だよ」

 「そんなに……」
 「まあね。貴族様と違って、俺達みたいな濁石持ちの平民は、自分を守る術が腕っ節と運しかないからね」

 この世界の生き物は、一部の植物等を除いて、みなが〈輝石〉と呼ばれる石を体の一部に持って生まれる。
 輝石は人間の場合、左手の甲の部分に埋め込まれたような形で存在する。

 輝石には〈彩石〉と〈濁石〉という種類がある。
 濁石は、輝石が灰色に濁って見える様からそう呼ばれていて、多くの人々があたりまえに持っている石がこれだ。
 輝石が灰白濁している事以外に、なんら特別なものはない。
 一方彩石は、青や緑などの鮮やかな色をした輝石のことを言い、これらの輝石は水や風などの様々な自然を操り、干渉する力を有していた。

 彩石は遺伝によって確実に継がれていくので、どの国でも彩石を持つ人間は特権階級に属している。
 もちろん、ムラクモ王国も例外なく彩石持ちの人々は貴族階級にあった。

 「こっちから言っておいてなんだけど、これはやめておいたほうがいい」

 「試験の期間は?」

 「うちが預かった資料によると、一ヶ月ほど、とあるね」
 
 拘束される期間が一ヶ月、生きて帰れば多額の報酬を貰えるうえ、軍への加入は強制ではないらしい。
 条件としてはシュオウの希望に叶っている。
 試験は死が隣り合わせな危険なもののようだが、シュオウはそれを突破する自信があった。

 「その仕事でいいです。紹介してください」

 「本気かい?」

 「問題ありません」

 「まあ、うちとしてはこの仕事を紹介すれば、軍からそれなりに報酬が出るからありがたいんだが……」

 半信半疑な男の目を見て、頷いてみせた。

 「覚悟はあるようだね。わかった、そういうことなら紹介状を出そう」

 「ありがとうございます」
 
 男が取り出した紹介状は、ギルド名と紹介者のサインの書いてある紙だった。最後にギルドの紋章が入ったろうそく印を押して完成した物を受け取った。
 
 「お前さんは旅の人だろ。今日の泊まるところは決まってるのかい?」

 「いえ、金がないので野宿でもしようかと」

 「野宿って、こんな寒い時期にかね」

 「慣れてますから」

 子供の頃でもどうにかして真冬を生き延びたのだ。成長し、体力もある今なら街中での野宿などたいして苦にならない。
 
 「よかったらここで泊まってくかね? たいしたものじゃないが、パンとスープくらいならご馳走できるよ」

 「いいんですか?」

 「なあに、お前さんみたいな上客を外で寝かせたりしたら、うちのギルドの名折れだからね」

 
 気を遣わせてしまったかもしれない、と申し訳なくも思ったが、シュオウはこの好意に甘えることにした。

 夕食の席でだされた暖かいスープとパンは、とても美味しく森からここまでに溜めた疲労が癒されていくようだった。
 また、この街で最近起きた出来事や、仕事で経験した事などを聞くこともできて、とても楽しく有意義な時間を過ごすことができた。

 ギルドの奥にあった簡易ベッドを借りて、シュオウは疲れた体をようやく落ち着けることができた。

 ――出足は、まずまず好調かな。

 自分でも思っていた以上に疲労を抱えていた体は、そのまま飲まれるように睡眠へとおちていった。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 翌朝、ちゃっかりと朝食までいただいたシュオウは、適度に満たされた腹をなでながら、従士募集の受付所のある兵舎を目指した。

 募集要項にある〈従士〉というのは、濁石保有者の平民が軍に入った際に与えられる階級であり、左手の甲で鈍く光を反射している灰白濁した輝石を持つシュオウは、これに該当する。
 彩石を持つ人間が軍人となった場合、その階級は〈輝士〉と〈晶士〉の二つに分けられると聞いた事があるが、自分に関わりのない事だと思っていたため、あまり詳しくは知らなかった。

 シュオウは彩石を持つ人間には、まだ一度も会ったことがない。
 自分を含め、浮浪児だった頃に目にした大人達も、師匠のアマネも濁石保有者だった。
 この世界のほとんどの人間は濁石を持つ、なんら特別な力を持たない人々だ。
 普通に街で生活を送っているかぎり、そうそう彩石保有者を目にすることもない。
 彩石を有する貴族やその子女達は、その力を遺憾なく発揮するため、ほとんどが人生で一度は軍に所属するらしい。
 
 ――楽しみだな。

 色付き輝石を操る人間の話は、師からたくさん聞かされた。
 風を刃にして飛ばしたり、水の球で人間を吹き飛ばしたり。
 そんな不思議な力を操る人間は、どれほどの強さを秘めているのか。シュオウの好奇心は尽きない。

 渡された地図を見るまでもなく、目的の兵舎までたどりついた。
 軍の施設というだけあって、外から見ただけでも頑丈そうな建物が敷地いっぱいに建てられていた。

 兵舎の堅牢な門をくぐる。
 素っ気ない中庭を通り、奥へ進むと、立派な石造りの建物が姿を現した。
 建物の入り口に武装した兵士が二人、見張りに立っている。
 二人の兵士はシュオウが建物に近づくのを待ってから、厳しい目をこちらに向け問いかけてきた。
 
 「何者か、なんの目的があってここへ来たのか、簡潔に答えなさい」
 
 兵士は腰の剣に手をかけている。

 「ギルドから紹介を受けて、従士志願者として来ました」

 ギルドからの紹介状を見せると、兵士は途端に表情をゆるめた。

 「なんだ……。ここから左脇に入った中庭に仮設の受付テントがある。そこへ行って手続きをすませなさい」

 「どうも」

 指示通りに行ってみると、そこには芝生の生えたそこそこの広さの中庭があった。訓練用なのか、人型のカカシがいくつか置いてあり、その近くに木剣や木槍なども見える。
 仮設の受付テントというのは、メインの大きな建物から別館へ移動する外廊下のすぐ近くにあった。
 ただでさえ空気が冷え込むこの時期に、わざわざ外に受付所を設ける必要があるのだろうか、と疑問に思う。それもなにか事情があるのだろう、と一人で勝手に納得することにした。

 仮設テントに近づくと、中から複数の男達の声が聞こえた。
 中を覗くと、三人の兵士が小さなテーブルの上でコインゲームに興じているのが見えた。
 入り口を見張っていた従士とは違い、この三人は青と白の高そうな布地でできた軍服を身に纏っている。
 それぞれの手の甲には、青、緑、橙色の輝石が見える。あきらかに士官クラスの軍人達だ。

 「すいません」
 
 声をかけると、三人の男達の視線が一斉にシュオウに集中した。
 
 「あ?」
 
 男達のうち、もっともシュオウの近くに座っていた男が、気怠そうに立ち上がり、歩み寄る。

 「ギルドから紹介されてきました。こちらで従士志願者を募集しているとか」

 「ふん、やっとか。運が良かったな、お前で定員達成だ。この用紙に名前と試験への参加に同意する項目に署名しろ」
 
 色付きの輝石を持った人間との、最初の遭遇は最悪なものだった。
 他人を見下したような目。へらへらと締まりのない下卑たにやけ顔。
 目の前の青い軍服に身を包む男は、ひとを不愉快にさせる才能を、生まれ落ちた時から持っていたのではないかと思いたくなるほど感じが悪い。
 男は傍らから紙とペンを取り出し、それをシュオウの右脇の地面にわざわざ放り投げた。
 
 後ろで座ったままの二人の男は、こちらの様子を伺って奥でへらへらと笑っている。

 「それとな、採用試験に参加する奴の財産は、一度こちらですべて預かることになっている。金、武器、食料。最低限の着る物以外はここに出せ」
 
 「………理由は?」

 「はあ? おまえ、軍に雇われたくてここへ来てんだよな? だったら大人しく言うことを聞いていればいいんだよ」

 男の態度がますます強硬になる。
 なんの保証もなく持ち物を提出しなければならない、という命令に対して疑念は一切晴れていないが、軍人を相手に揉め事を起こすのは避けたい。
 シュオウは渋々ながら従うことにした。

 机の上に持ち物を並べていく。
 携帯食料。武器。外套。
 結局この程度の物しか、財産とよべる類の物は持っていなかった。

 「おい、ふざけてんのか? 金を出せ、銅貨一枚でも隠したらゆるさねえぞ」

 「金はない。疑うなら調べてもらってもいい」

 「ならその場で飛び跳ねろ。音がなにもしなければ信じてやる」

 シュオウは言うとおりに従って、その場で数回飛んでみせた。が、言った通り一銭も持ち合わせがないので、相手の男が期待した音はなにも聞こえなかった。

 「ち、本当に無一文かよ」

 ――金があったらこんなところにくるものか。

 心の中で悪態をついているうちに、後ろにいた男達までシュオウの目の前にやってきて、机の上に置いた物を物色しはじめた。

 「さっすが平民、ろくなもん持ってないな」
 
 「なんだこれ、干した肉……? こっちの短剣はまともに刃もついてないぜ」
 
 「この外套は悪くない。なんの皮で出来てるかわからんが、質はよさそうだ」

 この時、シュオウの疑念は確信へと変わった。
 この男達はこうして仕事を求めてやってきた平民達の物を、都合よくとりあげて自分の物にしているのだろう。
 おまけにまだシュオウが目の前にいるにも関わらず、それを隠そうともしてない。
 彼らがこうした行いを、あたりまえの日常としていることの現れだ。
 
 「そうだ」

 はじめに対応した男が、シュオウの顔を見つめて顔を醜く歪めた。
 
 「お前のその顔につけてるのもよこしな。見たところそれなりの作りじゃないか。売れば多少でも金になるかもしれない」

 「お断りだ」

 ――例え裸にされたとしても、これだけは渡せない。

 「おかしいな、よく聞こえなかった。……もう一度言ってくれよ」
 
 男は耳に手を当てる、大袈裟なジェスチャーをした。
 横にいる男達が、それを見て腹をかかえて笑う。

 「これは大切な人から貰った物なんだ。欲しければなんでも好きにもっていけばいい。だけど、これだけは渡せない」

 男達の笑い声が途絶える。
 対する男は、唇を震わせ、血走った目でシュオウを猛烈に睨みつけた。

 「ふざけんなよッ! 俺が出せと言ったらおとなしく出せばいいんだよッ! ただの糞平民風情が、輝士であるこの俺に楯突くなんてありえねえんだよッ!」

 烈火の如く怒りだした男は、腰に下げていた長剣を鞘から抜き取り、切っ先をシュオウへ向けた。

 「お、おい、いくらなんでもやりすぎだ。騒ぎになったら色々めんどうなことになるぜ」
 
 さっきまで横で笑っていた男が止めに入った。
 だが、怒りで頭に血が上った男は、武器を納めようとはしない。
 
 「黙ってろ。こいつは他国からのスパイだった、そういうことにする」
 
 「する、って……」
 
 「この糞平民は俺達に反抗したんだ。こういう奴は、見逃したら調子にのって、後で俺達のことをチクるかもしれねえ」

 「それはまずいよ。こんな事してるのがバレたら……」
 
 二人の男のうちの一方の顔が青ざめた。

 「やるしかないか」

 二人の男も剣を抜き取った。
 
 シュオウは仮設テントから後ろ歩きで、ゆっくりと距離を置いた。
 それに続くように、抜剣した男達がテントを出る。

 ――言うことを聞かなければ口封じ、か。思考が短絡的すぎる。

 やたらと好戦的な男に、不正がばれることに怯える取り巻き達。この三人、叩けばどれだけホコリが出てくるか。
 それとも、ムラクモの軍人がすべてこうなのだとしたら、失望するしかない。
 
 シュオウは気づかれない程度に嘆息した。
 こうなってしまっては、どう転んでも面倒ごとは避けられそうにない。

 三人の男達は前方からシュオウを覆うような位置をとり、剣を構えた。
 一連の動作はあきらかに素人のそれとは違い、訓練した兵士特有の血なまぐささを想起させる。
 中央に陣取った男が、全員に諭すように声をあげた。

 「あやしい平民を見つけ、声をかけたら抵抗してきて、仕方なく殺してしまった。そういうことでいいな?」

 左右の二人が無言で頷く。
 攻撃は、まず左にいた男から始まった。
 勢いをつけた走り込みからの横なぎ払い。

 ――視る。

 シュオウの目は、火傷が原因で右目を使うことができない。にも関わらず、唯一無事な左目は、常人とは比べものにならないほど、優れた動体視力を持っていた。
 しかし、その類い希なる動体視力を発揮するためには集中力が不可欠だ。
 子供の頃は、平常心を保てる場合にのみ、この並外れた視る力を発揮することができたのだが、荒事や精神が不安定な状況下では、集中が散漫してしまい、うまく視ることができなかった。
 だがそれも、師匠に鍛えられたおかげで、生死を賭した状況であっても冷静を保っていられる。
 今のシュオウにとって、多少訓練を積んだ程度の軍人が剣を振りかざしたところで、躱すことなど児戯に等しかった。

 横切りにシュオウの腹を狙った剣線を、軽く後退して絶妙なタイミングで躱す。

 「なっ!?」

 剣を振りかぶった男が、間の抜けた表情で自分の剣とシュオウに視線を数度泳がせた。
 本人は切ったつもりで、剣に血がついていないのが不思議だったのだろう。

 「なにやってんだ、このヘタレ!」

 「い、いや、だってよ」

 「もういい! 俺達二人で一気にとどめを刺すぞ」

 中央の男は剣を袈裟懸けに振り上げ、右側の男は刺突の構えで同時にシュオウに襲いかかった。
 この攻撃もまた、さしたる労力を使うこともなく、体をひねってすべて躱した。

 ――剣の腕はたいしたことないな。

 灰色の森には、予備動作もなく稲妻のような早さで爪を振り回す狂鬼がいる。
 そうした化け物を相手にしてきた日々を思えば、彼らの繰り出す鈍い攻撃など、訓練にもならないお遊び以下の領域だ。

 それからも数度、男達はかわるがわるに剣を振り上げてはシュオウに一撃を浴びせかけた。
 だがそれらすべての攻撃も、シュオウは難無く体捌きだけで躱してしまう。

 「畜生、あたらねえ……なんなんだこいつ」
 
 男達は息を切らせて剣を地面に突き刺し、杖がわりにしてゼィゼィと激しく呼吸している。

 「もういい。晶気を使う……本気でやるぞ」

 「わ、わかった」

 「了解……」

 晶気というのは、彩石保有者が使う力を指して使う言葉だ。

 ――力を使う気か。

 シュオウははじめて緊張感をもって身構えた。
 彩石保有者の使う晶気については、知識としてはそれなりに理解している。だが、シュオウにはそれを実際に目の当たりにした経験はない。
 
 左の橙色の輝石を持つ男が、地面に手の平を向けると、地面の土が少しずつ空中に持ち上げられて集められ、しだいに太い矢のような尖った物体を形成した。
 続いて中央の緑色の輝石の男は、手を上にかざして手の平に鋭く回転を続ける風の刃を作り出している。
 右側の男も、いつのまにか胸の前で激しく唸る水球を溜め込んでいる。
 
 見た瞬間にわかった。
 それぞれの力が、一撃で人体を破壊してしまうだけの威力を秘めている。
 
 ――もらったらタダじゃすまないな。

 覚悟をする。
 晶気を視るのはこれが始めてことだ。
 たとえ目で捉えることが出来ても、躱すことはできないかもしれない。
 そもそも視ることさえ出来るかどうかわからない。
 だから、覚悟をする。命を賭けることを。
 
 ――死ぬかもしれない。

 中央の男の合図と共に、それぞれの晶気が一斉に放たれた。
 風の刃はシュオウの足を狙い、土の矢は胸を、水球は顔を狙って飛んでくる。

 ――なんだ…………簡単じゃないか。

 あまりにもあっけなく、シュオウの目は各攻撃を的確に捉えていた。

 足をあげて風の刃をやり過ごし、右に体をずらして土の矢を躱し、最後にしゃがんで水球を避けた。

 感じたのは、達成感などではなく失望感に近い。

 師から聞いていた話では、晶気は恐ろしい力だという風に聞いていた。
 それを聞き、畏怖すると同時に興味も強く抱いていたシュオウにとって、この力を労せず処理できてしまったことが悲しかった。
 
 「なんなんだよおまえッ! ありえない、ありえないありえないありえない。ただの平民に、晶気を躱すなんて芸当、できるはずがないんだッ!!」
 
 中央の緑の輝石の男が、顔を真っ赤にしてわめきちらす。
 左右の男達は、いま起こったことが信じられないとでもいうように、互いに口をぽかんと開けて後ずさった。

 怒り狂う男は、一人で罵詈雑言を喚き散らしている。
 冷静さのかけらも垣間見えぬその様子から、この男は正確に相当難を抱えていそうだ。
 そんな事を落ち着いて考えていたシュオウが気に入らなかったのか、男はさらに怒気を深めて叫んだ。

 「濁り野郎のくせに、余裕かましてんじゃねえよおお!!」

 緑の輝石の男が、両手を天に掲げた。
 時間をおかずして、すぐに手の平に風の刃が形成される。その大きさはさきほどの晶気の二倍以上もあり、周囲の空気が切り裂くような鋭い音と共に吸い込まれていく。
 
 それは、あまりにも予想外の出来事だった。

 突然この場一帯に凍えるような冷気が発生し、吐く息が白く曇る。
 視界に収まるすべての範囲の地面が瞬時に凍結し、薄氷で覆われた。
 全員が不意をつかれ、風の力を溜め込んでいた男も、集中が切れたのかあれだけ溜め込んだ晶気をすべて散らしてしまっていた。

 「そこまでじゃ」

 声がしたほうを見ると、そこには雅やかな軍服を身に纏った、人形のように冷たい無表情で佇む、一人の少女がいた。



[25115] 『ラピスの心臓 無名編 第二話 氷姫』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2012/02/17 17:39
   『ラピスの心臓 無名編 第二話 氷姫』










 凍てつく風が吹き荒び、雨粒が雪にかわるこの季節は、アミュ・アデュレリアにとってお気に入りの時期だった。

 小さな体で背伸びをして、執務室の窓を開ける。
 冷えきった早朝の空気が部屋を満たしていき、急激に室温を下げていった。
 薄紫色の長い髪が風に揺れた。

 「あのう、ちょっと寒いんですけどぉ……」

 同室で待機していた部下が、自分の体を抱えるようにして寒さを訴えた。

 「我慢せよ」

 アミュは部下の訴えを、無情に斬って捨てた。

 「氷長石様におかれましては、ご機嫌がいまひとつのご様子で」

 「突然仕事を押しつけられてはの。……今日は久方ぶりの余暇を満喫できるものと思っておったのじゃがな」
 
 貴重な休暇を無慈悲に奪った部下へ、アミュは軽く睨みをきかせた視線を送った。
 本当なら今頃、自分の領地で好物のパイを食べている頃だ。

 「申し訳ありません。ですが、王括府より直々の通達でありましたので」

 「宝玉院の卒業試験のことであろう」

 宝玉院とは貴族の子弟が通う軍学校のことである。
 毎年、この時期になると卒業試験が行われ、今年はその担当責任者として自分が指名された。

 「はい。例年よりも今年は従士志願者の集まりが悪いようで、予定日をすでに一月近く延長しております」

 「採用試験は命を危険に晒すものじゃからの。集まりが悪いのも致し方なかろう」

 「ええ、そういった噂も広まり、年々志願者の数は減ってきているようですねぇ」

 宝玉院の卒業試験は、伝統的に従士志願の平民も連れ添って行われる。
 未来の士官としての適正を判断するためのものだが、試験は命に関わるほど危険なので、これに参加する平民には高額の報酬を用意していた。
 しかし、だからといって簡単に命を危険に晒す者は少ない。とくにムラクモ王国は平民といえど、生活に困窮することはないほど豊かなのでなおさらだった。
 なので、かなり前からこの従士志願者の条件には、国籍や出自、前科などといった要素はすべて排除して募集している。
 そうしてどうにか、毎年必要な数を確保しているのである。

 「今の段階であと何人足りぬ?」

 「こちらでも正確なところは把握できておりません。なので、これから現地へ確認をしに行こうと思っておりました。氷長石様もよろしければご一緒にいかがでしょうか」

 「うむ、お前を往復させても時間の無駄じゃからな。……じゃが、輝称はよせ。軍務中である」

 「失礼致しました、重将閣下」

 恭しく頭を下げる部下を尻目に、アミュは執務室の扉に手をかけた。

 「行くぞ、カザヒナ」

 面倒ごとは早く終わらせたい。
 アミュは急ぎ足で目的地へと向かった。



 人間が左手甲に持って生まれる輝石には、複数の種類がある。

 〈軟石級〉と区分される、なんら特別な力を持たない灰濁した輝石、これを濁石という。
 〈硬石級〉と区分される彩石は、それを有する者の意志で自然を操り、干渉する特別な力を発揮する。

 最後に、〈極石級〉と区分される燦光石がある。

 この燦光石は、彩石の中でも突出した力を発揮できる輝石に与えられた名だ。
 燦光石を持つ者が晶気を使えば、その力は天災規模で発揮される。

 人口の多い大国であっても、燦光石を有する者は極わずかしかいない。

 自然と、人間社会の中で希有な燦光石は、特別な名前で呼ばれるようになっていった。
 ムラクモ王国のアデュレリア一族が代々受け継いでいる《氷長石》もまた、そんな燦光石の一つである。

 燦光石の持つ特性は、ただ扱う力が強大だというだけではなく、肉体の老化がゆるやかになり、寿命が伸びるという特長がある。
 老化の速度や寿命の延び具合は、石の保有者の素質により変化するため、程度には個人差が生じる。
 
 アミュは十二歳の頃に、曾祖父より《氷長石》を継承した。
 以来長い年月、体躯はその頃からまったく成長していない。
 声も体も幼い子供のままのアミュは、それでもアデュレリア公爵家の当主であり、ムラクモ王国軍の片翼、左硬軍《氷狼輝士団》の頂点に君臨していた。
 


 「ここか」
 
 「第十一兵舎。ここで間違いないようですね」

 部下のカザヒナに案内されたのは、主に従士達の訓練施設や待機所などが併設されている兵舎の一つだった。

 アミュの訪問に気づいた、建物を警備していた従士達の慌てぶりは凄まじく、大慌てで一人がこの兵舎の責任者らしき男を連れてきた。

 責任者らしき男を中心に、総勢二十人ほどの男達が一斉に地面に平伏した。

 「重将閣下のご来訪であるにもかかわらず、お迎えにあがることも出来ず、まことに申し訳ございません」
 
 中年の責任者らしき男が、慇懃に謝罪した。

 「よい。急な用件じゃ。全員おもてをあげよ」

 許しを出したにも関わらず、この場で平伏した者達は誰一人として顔をあげはしなかった。
 それどころか、さらに顔を地面にこすりつけるように深く頭を落とす。

 これが、燦光石を持つ者と、それ以外の者との大きくて埋めることのできない隔たりだった。

 この場でアミュが、出迎えがないとはなにごとか、と一言いってしまえば、ここにいる者全員が打ち首になってもおかしくない。
 平伏している者達はそのことを知っていて、怯えて手が震えている者までいた。
 
 ――いまいましいことじゃ。

 必要以上に恐れられるというのも疲れるものだ、とアミュは思った。
 
 「宝玉院卒業試験に付随する従士志願者特例採用試験の状況を確認しにきた。受付はどこでおこなっておる」

 「はッ。この先の中庭に通じる渡り廊下のすぐ近くにて、特設の受付所を設けております」

 「担当官に話しを聞く。しばし施設内を歩かせてもらうぞ」

 「お、お待ちください閣下ッ! すぐに案内の者を―――」

 「いらぬ。お前達は仕事に戻るがよい」

 この時になってやっと顔をあげた中年の男が、まだ食い下がりそうな気配を見せたので、命令だと一言追加しその場を後にした。

 「皆さん、大層な恐がりようですねぇ」

 受付所へ向かう途中、カザヒナがほがらかに笑った。
 アミュにとっては笑い事ではない。
 
 「……蛇紋石の禿頭のせいじゃ。あれが昔、目の前で茶をこぼした従士を処刑して以来、氷長石の名まで一緒くたに恐れられる。同じ燦光石を持つ身とはいえ、人格まで同じはずがあるまいに」

 「彼らにしてみれば、蛇紋石も氷長石も同じに見えるのでしょう」

 「サーペンティアと同一視されるなど、まったく不愉快極まりない」

 「全面的に同意致します」

 お喋りをしている間に、目的の場所が見えてきた。
 どう見ても適当に用意された仮設のテントがある。
 そこへ歩み寄ろうとしたとき、様子がおかしい事に気がついた。

 遠目に三人の軍人達が、一人の平民らしき青年を取り囲んでいるのが見える。

 「揉め事でしょうか」

 「そのようじゃの」

 軍人の男達は、青い軍服を身に纏った輝士階級の者達だ。
 一方の騎士達に囲まれている平民の男は、濁石持ちのごくありふれた平民のようだった。
 だが、見た目は随分と個性的で、ムラクモではめずらしい灰色の髪と、顔の右半分を覆うマスクのようなものを装着している。
 
 軍人の一人が、怒鳴り散らしながら剣を抜いた。 
 
 「あらまあ……止めますか?」

 カザヒナが一歩踏み出し、アミュを見た。

 「あの男、三人の輝士を目の前にして、焦っている様子がまるでない」

 灰色の髪の男は、あくまで平静に見える。
 構えることもせず、見る者によっては怯えていると捉えてしまうほど静かだ。
 が、それなりに長い時間を生き、多くの強者を見て来たアミュにはわかる。
 青年のとった足の位置、相手との間合いは、すでに臨戦態勢を整えた状態にある事を。

 青年の落ち着きはらった態度、冷静に状況を見据える視線は、熟達した剣士の風格すら漂わせている。
 
 始まってみれば一瞬の出来事。

 輝士達がそれぞれ繰り出した剣を、平民の青年は最小限の動作だけで軽々躱してしまった。
 
 「あら、まあ…………」

 カザヒナが感嘆の声をあげた。

 攻撃動作がすべて徒労に終わった輝士達が、それぞれに輝石の力を行使しはじめる。

 「馬鹿者どもが、平民を相手に晶気を使うつもりのようじゃ」

 「今度こそ止めましょう」

 「もう間に合わぬ」

 輝士達が使ったのは、単発で晶気を発するまでに要する時間の少ない、威力の弱いものだ。だが弱いといっても、それはアミュから見たもので、普通の人間の身体に風穴を開けるくらいはたやすくやってのける威力は十分にある。
 素早く練り上げられた晶気は、止める間もなく早々に放たれた。

 この後に起こるはずの光景を想像して、カザヒナは咄嗟に目を閉じて顔をそらした。
 アミュも、体に穴が開き血を流してうずくまる青年のイメージが咄嗟に沸く。
 だが、次の瞬間に目に飛び込んだのは信じられない光景だった。
 青年は放たれた三種類の晶気を、一つ一つ的確に躱してみせたのだ。

 ――ありえぬ。

 「え? あれ、どうして……」

 視線を戻したカザヒナは戸惑っていた。
 アミュも心の中で同調する。
 
 輝士の扱う晶気は、ケチな剣での一撃などとは次元が違う。
 多少腕に覚えがあって身軽だからといって、晶気を、それも三発も同時にすべて躱してしまうなど神業の領域だ。
 しかも、その神業をやってのけたのは平民ときている。

 輝士の一人が相手を罵倒するような事を叫びながら、両手をあげて晶気を集中しはじめた。
 輝士の両手に研ぎ澄まされた空気が、悲鳴をあげつつ風の刃となって集まっていく。

 「あれは、まずい」

 まずいのは標的にされている青年ではなく、輝士のほうだ。
 自分で扱いきれる以上の量の晶気を練ってしまっている。
 力が暴走すれば、自分を傷つけるだけではなく、まわりの者まで巻き込んで木っ端微塵になってしまうかもしれない。

 アミュはカザヒナを置き去りにして、力強く地面を蹴り出した。
 揉め事の渦中へ走りつつ、輝石の力を行使する。

 アデュレリア一族が持って生まれる輝石は、氷結を主とするムラクモではめずらしいものだ。
 その力は空気中に漂う水分から氷塊を創造したり、触れたものを凍らせたり、といったものだが、アミュの持つ氷長石は、行使する力の内容も威力も桁が違う。

 アミュは咄嗟に周囲の気温を極寒の領域にまで下げた。
 空気が青くなったと錯覚するほど、一瞬で大気が凍てつく。
 次に精一杯加減して、地面を氷で覆った。
 音もなく静かに、氷は瞬きをする間に視界に入る大地すべてを薄氷で白く染めた。

 「そこまでじゃ」

 三人の輝士と、平民の青年の視線がこちらに集まる。
 不意打ちが功を奏し、輝士の一人が集めていた暴力的な晶気は、放たれることなく霧散していた。

 「ひ、ひひ、氷長石様!?」

 輝士の一人が素っ頓狂にそう叫んだ。

 いつのまにか後ろから追いついていたカザヒナが、稲妻のように鋭い怒声をあげた。

 「無礼者! 一輝士が、許しもなく閣下を輝称でお呼びするとは何事か!!」

 よく言う、と思ったが黙っておく。
 カザヒナは二人きりの時はそれなりに砕けた話し方をするのだが、他の軍人が同席する場合には忠実で厳格な部下という姿勢を崩さない。
 こうした融通の利く性格を好んで、アミュはカザヒナを自分の副官に指名していた。

 「し、失礼致しました」

 三人の輝士は慌てて平伏の姿勢をとった。
 地面にはアミュが極力手加減をして張り巡らせた薄氷があるので、彼らはその上に手足をくっつける形になる。
 一方、平民の青年のほうはその場に突っ立ったままで、戸惑った表情でアミュとカザヒナを交互に見ていた。
 
 「なにゆえ平民を相手に晶気を使った」
 
 アミュは冷厳な態度で問う。

 わずかな沈黙の後、風の晶気を使った輝士が、顔をあげないまま言葉を選ぶように喋りはじめた。

 「この男が、我々の指示に従わず、抵抗をしたため、しかたなく……」

 「そして武装もしていない平民を相手に、三人がかりで晶気を使った、か」

 輝士達の体がわずかに動いた。

 やましいことがある、と背中に書いてあるのではないかと問いただしたくなるほど、彼らは怯えてみえた。
 案の定、視線を仮設テントへ移すと、中にあきらかに輝士達の所有物ではないであろう武器や袋、衣類などが積まれて置いてあった。
 仮設テントまで歩み寄り、受付のテーブルの上に置かれていた外套を手に取る。

 「あ」

 平民の青年が声を漏らした。

 「そなたの物か?」

 青年はこくりと頷いた。

 「騒ぎの原因はこれじゃな」

 大方、従士志願としてきた者の金品を奪おうとし、それにこの青年が抵抗した、というところだろう。
 アミュがそう指摘すると、輝士達は一斉に顔をあげて口々に言い訳をはじめた。
 
 「これは違うんです、一時的に預かっていただけで」

 「そう、あとですぐ返そうと思っておりました!」

 輝士として、あまりに無様なその姿に、アミュは軽蔑と怒りの感情を同時に感じる。
 アミュのまわりにコントロールを失いかけた冷気が漂いはじめていた。

 「黙るがよい。こうして志願者達から私物を集めていたようじゃな。持ち物を奪った者の名をすべて明かせ。すべて持ち主のもとへ返す事ができれば、命に関わるような罰だけは許す」

 「そ、そんな……」

 カザヒナが、なおも自己弁護に勤しもうとする彼らを見下ろし、冷酷な声で告げた。

 「ムラクモ王国軍の規則では、非戦時の無抵抗の平民への晶気の使用は堅く禁じている。これを破れば死罪。貴様達の卑しい命を救おうという閣下のご慈悲を無下にしたいというのなら、好きなだけ汚い口を動かすがいい。そのときは即刻その首を落としてくれる」

 カザヒナはおもむろに剣を抜き、刃を輝士の一人の首に当てた。

 「お、おゆるしを、なにとぞなにとぞ……」
 
 「では、閣下のご命令を即時実行せよ」
 
 カザヒナが輝士の一人の頭を思い切り蹴り飛ばすと、全員が大慌てで奪った荷を持てるだけ抱えて飛び出していった。

 カザヒナがアミュのほうに振り返った時には、さきほどまでの威厳ある軍人としての姿はすっかり形を潜め、飄々としたいつものカザヒナに戻っていた。
 この変わり身の早さだけは、尊敬に値する。

 「これでよろしいでしょうか、閣下」

 「うむ。今後はこの施設の責任者に事情を説明し、あの者達の行動を監督させよ」

 「かしこまりました。彼らに科す刑罰はどのように?」

 「まかせる。二度とこのような愚かな事を思いつかぬよう、厳しい処罰を用意するように」

 「そのようにいたします」

 「――さて」

 指示を終えて、アミュはあらためて平民の青年のほうを向いた。
 遠目ではあまり意識しなかったが、近くで見ると青年はスラリと背が高い。
 見た目には完全な子供であるアミュは、彼を見上げる格好になった。

 「そなたには申し訳ない事をしたな。ここに居たということは、従士志願に来たのじゃろう」

 青年は黙って頷いた。
 彼の左目は、あきらかにこちらを警戒していた。
 その眼光は鋭い。
 
 「そなたにまだその気があるなら、このままこちらで受験者名簿に名前を入れよう。どうじゃ?」

 「あの、いいんですか。こんな揉め事をおこしたのに」

 荒事に対処していた姿と、見た目の印象から勝手に粗暴なイメージを抱いていた。だから青年の落ち着いた冷静な声を聞いたとき、意外だと思った。

 「非はこちらにあったのじゃ、先ほどの事でそなたに責任を問うことはない」

 「……なら、最初の目的通り、従士採用試験を受けることを希望します」

 青年はこちらを真っ直ぐ見据えて言った。

 氷長石の名の元に、ほとんどの者達はアミュの前に平伏する。
 なのに、この青年は怯えた様子も見せず、立ち振る舞いは堂々としている。
 それはとても新鮮なことで、アミュにとっては驚くに値する出来事だった。
 そのせいで、返事をするときに言葉が詰まりそうになる。

 「う、うむ、そうか。では誰ぞ呼んで案内させよう。待っている間に受付用紙に記入をすませるがよい」



 カザヒナが呼びにいった施設の者に青年を預け、アミュは彼の去っていく背中を見つめていた。
 
 「なんだか不思議な男の子でしたね。あんな立ち回りを見せたっていうのに、なんにもなかったみたいに落ち着いていて」

 「そうじゃな……」

 落ち着いている、はたしてそうだろうか、とアミュは思考する。
 一介の平民が、輝士三人に取り囲まれ、晶気を使ってまで命を狙われた。
 だというのに、事後の青年はカザヒナの言うとおり心穏やかであったように見えた。
 だがあの目は違う。
 冷静ではあっても、あの眼光鋭い左目は煌々と燃え上がっていた。
 あの目に睨まれて、落ち着いている、などという感想を抱くのは不可能だ。
 
 ――見極めようとしていたのだとしたら。

 青年がアミュやカザヒナを見る目には、探るような気配を感じた。
 それ自体不愉快ではなかったが、直前まで命のやり取りをして、直後に極石級たるアミュを目の前にしても尚、相手を見極めんとするだけの度胸は並ではない。
 
 ――面白い。

 青年の書いていった用紙に目をおとす。
 そこには、綺麗な字で〈シュオウ〉と書いてあった。

 「シュオウ、か」

 「閣下?」

 自然と頬がゆるんだのを、カザヒナが目ざとく見つけた。
 アミュはわわてていつも通りの無表情を作る。

 「あの者のこれからの動向を知りたい。内々に調査せよ」

 「かしこまりました。……気になりますか?」

 「さてな。じゃが、もしかすると拾いものになるやもしれぬ」

 あるのはただ漠然とした期待感。
 この出会いが、後の縁となるかどうかはわからないが、何かがある、そんな直感めいたものがたしかにあるのだ。

 アミュは振り返り、居並ぶ無機質な建物を見上げた。
 中で、先ほどの件を知って、石床に頭がめり込みそうなほど低頭した責任者の男が待っている。
 これからバラエティーに富んだ謝罪と言い訳を、耳にたこができるほど聞かされるのだろう。
 うんざりする気持ちを堪えながら、アミュはこの場を後にしたのだった。



[25115] 『ラピスの心臓 無名編 第三話 ふぞろいな仲間達』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2012/02/17 17:40
   『ラピスの心臓 無名編 第三話 ふぞろいな仲間達』










 石のように硬く握った右手の拳を、小指から一本ずつこじ開けるようにして広げた。
 まるで水で手を洗った直後のように、手の平が汗でじっとりと濡れていた。
 さっきから体が小刻みに震えている。
 それが寒さのせいなのか、シュオウにはわからなかった。

 ――あの少女が。

 氷長石、と呼ばれていた。

 極石級、燦光石、名を得た輝石。
 
 いつか読んだ古い本には、燦光石の保有者が、たった一人で一国を滅ぼしたという記録が記してあった。
 その話を師匠にしたら、おとぎ話だと笑われた。
 
 シュオウの脳裏に、はじめて師匠のアマネと出会った時のことが浮かんだ。

 『相手は極石級の化け物だった』

 あの時の師匠はたしか、そう言っていた。

 ――ムラクモ王国の極石級。

 あの少女が、師匠に傷を負わせたその人なのだろうか。

 だとすれば納得がいく。狂鬼も裸足で逃げ出すようなあの人に、逃げの一手をとらせたことも。

 三人の輝士が放った晶気を難無く躱すことができたとき、シュオウは失望感と同時に、全能感にも似た驕りに一瞬心が震えた。
 ムラクモ王国軍が誇る輝士達ですら、師匠に鍛えられた自分にとってはたやすい相手ではないか、と。
 だが、あの少女が放った極寒の晶気は、シュオウに芽生えた僅かな高ぶりを一瞬にして冷ましてしまった。

 ――腹立たしい。

 あの少女にではない。
 ほんの一瞬でもまわりを見下そうとした自分に腹が立つのだ。

 一度開いた右手が、無意識のうちに再び強く握られていた。



 「――――いたぞ――――――だ」

 不意に耳に届いた声で、シュオウは顔をあげた。

 思考と現実が混濁し、そのズレの修正にわずかに時間を要した。

 「おい、大丈夫か?」

 見れば自分の案内を任された兵士が、訝しげにこちらを伺っていた。
 どうやら考えこんでいたせいで、兵士の言葉に無反応で返してしまったらしい。

 「大丈夫です。少しぼうっとしていただけで」

 「ならいいが。……二回目になるが、ここが待機所だ」

 見上げても全体を把握できないほど大きな建物が目の前にあった。
 言われるまで気づいていなかった自分も、どうかしている。

 「大きいですね……」

 「ふだんは雨天の時の訓練場として使われている。ここ最近は、従士志願者達の寝泊まり待機所としてしか使ってないがな。―――これが、あんたの番号だ」

 小さな番号札を渡される。
 札には数字で十七と書いてあった。

 「これは?」

 「くじ札だ。箱から番号札を抜いて、同じ番号の者達を一隊として扱う。あんたには悪いが、これが最後の一枚なんで直接渡させてもらった」

 「それはかまいませんが」

 巨大な建物の入り口は、左右に引いて開けるドアだった。
 その隙間から喧噪が漏れ聞こえてくる。
 兵士が引き戸を開けると、喧噪はより一層強くなった。
 
 建物の中は想像していたよりも遙かに広く、天井も高くて開放感がある。
 その広い場内を埋めつくすように、大勢の男達がひしめきあっていた。

 「ちょっと待ってな。――――おおい! 誰か十七の番号札を持ってるやつはいるかー?」

 兵士が大声で怒鳴ると、すぐに奥のほうから手があがった。

 「ここよー!」

 怒鳴った兵士に負けず劣らずのバカデカイ声が返ってきた。
 奥で伸びた手は、こっちへ合図を送るように左右に振られている。
 ただ肝心の手の持ち主は、人混みに隠れてここからではよく見えなかった。

 「ほら、あそこへ行くといい。これから今回の採用試験について、監督官からの説明があるはずだ。あとの細かい事は同じ隊の奴に聞いてくれ」

 兵士はそう言って、足早に去っていった。
 シュオウはあわてて兵士の背中に礼を言った。

 改めて建物内を見渡すと、律儀にもさっきの手の持ち主が、継続してこちらに合図を送ってくれていた。
 人混みをかき分けながら急ぎ足でそこへ向かう。
 
 一人一人かきわけながらどうにか手の主の元までたどり着いた。
 合図を続けてくれた事に礼を言おうとした瞬間、シュオウは、あッと言いかけて固まってしまった。
 
 目に飛び込んできたのは、筋骨隆々の大男と、その隣で佇むカエル人間だった。

 カエル人間のほうは〈蛙人〉と呼ばれる種族だろう。
 この世界には、人類とほぼ同じくらいの知能を持っているとされる他種族がいくつかある。
 蛙人はその中の一種族で、地方でひっそりと生活を営んでいるらしい。
 また、文化や言葉の違いから人間社会との交わりはほとんどない。

 はじめて見る蛙人は新鮮だったが、シュオウを驚かせたのは大男のほうだ。
 雲突くような長身と溢れんばかりに隆起した筋肉に、鏡になりそうなほど磨き上げられたスキンヘッド。
 そして、そのたくましい容姿からは意外なほどに穏やかな微笑を見せる顔には、べっとりと濃い化粧が塗りたくられていた。

 「ちょっとぉ、大丈夫? 気持ちはわかるけど、いきなり目の前で固まられちゃったらこっちだって困るわよ」

 大男はシュオウの顔の前で、正気をたしかめるように手を振った。
 
 「あ、いや、ちょっと驚いて」

 正確にはまだ驚いている最中だった。そのせいで馬鹿正直に言ってしまったことをすぐ後悔する。

 「あはは、正直ね~。そんなにオカマがめずらしかった? それともこっちのカエルかしら?」

 大男は蛙人のほうを見ながら笑った。
 シュオウはオカマです、と口走りそうになるのをどうにか堪え、引きつりそうになる顔をどうにか抑えるのに必死だった。

 女のよう話す大男は、声が見事に野太いせいで、さらに独特な個性が強調されている。

 「いえ。すいません、失礼な事をしてしまって」

 いくら不意打ちの衝撃だったとはいえ、初対面の人を相手に失礼極まりない態度だった。

 「気にしないで、慣れてるから。それより、あなたもしかして従士志願者?」

 「そう、ですけど」

 「やっぱりぃ~! ってことは、十七の番号札をもらったから、アタシ達を呼んだって事かしら?」

 シュオウはすぐに頷いて、握っていた十七の番号札を大男に見せた。

 「よかったぁ。もしかしたらアタシとこのカエルの二人だけで試験に参加させられるかもって聞かされてて、ちょっとへこんでたのよぉ」

 大男はそう言いながら、大きな手を空中でかき寄せるように泳がせた。
 その仕草は、妙齢の女性が噂話をするときによくするジェスチャーに似ている。

 「ということは、あなた達と一緒に試験を受けることになるみたいですね」

 「そうよ。アタシの名前はクモカリっていうの、こっちのカエルは―――」

 クモカリに視線を送られた蛙人は、この時になってはじめて口を開いた。

 「ジロの名前は、ジロ……みたいな~」

 蛙人の口から出た自己紹介には、奇妙な語尾がついていた。

 「え?」

 「ジロって言うらしいわよ、このカエル。それにしても言葉使い変でしょ? アタシとの初対面のときからこの調子なのよ」

 クモカリの言葉に、ジロは怒りをあらわにした。
 半眼でクモカリを睨んで、抗議の言葉を早口でまくしたてる。

 「カエルじゃないし! ジロだしッ! まじむかつく!!」

 ジロの表情を見るかぎり、それなりに真剣なのはわかった。
 が、あきらかに人のものとは違う、くたびれた足の裏のような声で発せられるおかしな言葉のせいで、まったく迫力がない。

 「うるっさいわね。あんた、あたしと初対面のときにキモイって言ったでしょッ!? だからあんたなんてカエルで十分よ、かえるかえるかえるー!」

 負けじと応戦したクモカリは、そのままジロと口論をはじめてしまった。
 ただでさえ目立つ二人が大声で言い合っているせいで、しだいに周囲の注目が集まりはじめる。

 「そのくらいにしておきませんか」

 シュオウは二人の間に割って入って、どうにかその場を治めた。

 「ふん、今はこれでかんべんしてあげるわ」

 「こっちのセリフだしッ」

 どうにか休戦状態に落ち着き、シュオウはほっと一息ついた。

 「ところで、あなたの名前はまだ聞いてないわよね?」

 「シュオウ、です」

 「シュオウね。覚えたわ。これからよろしくね」

 クモカリがそっと手を出したので、シュオウは握手でこたえた。
 ジロも続き、四本指の手を差し出してきたので、ぎこちないながらもこちらも握手を交わした。

 「こちらこそ、よろしくお願いします」

 「ちょーーーーっとまったッ!」

 クモカリが突然、胸の前でバツ印を作る。

 「え?」

 「さっきからあなたのその敬語、気になってたのよ」

 「敬語、ですか」

 「それよ、それ。今のもまさにそう。これからしばらくの間一緒にすごすのよ? いちいちそんなかしこまってちゃ肩が凝っちゃう」

 クモカリの指摘で、自分の話し方が普通から少しはずれているらしいと自覚した。
 
 ――そういえば。

 子供の頃、師匠と深界の森で共同生活をはじめてすぐ、しゃべり方がなまいきだと、その都度ゲンコツをもらっていた。
 そうして十二年あの人に調教された結果、丁寧に喋る癖がついてしまっていたようだ。

 「よろしく…………これでいいか?」

 シュオウが言い直すと、クモカリは堪えるように吹き出した。

 「今度は急にぞんざいになるのね。面白い子ねぇあなた」

 「人と接する機会の少ない場所で暮らしていた。だから、普通に会話するだけでも距離感がわからないんだ」

 子供の頃からろくに人と会話する機会もなく、その後の唯一の話し相手は、師弟という特殊な間柄であったため参考にならない。
 シュオウの場合、生い立ちが原因で、等しい間柄の人間を相手にしたときの話し方がわからなかった。

 「へぇ、よっぽど田舎の出身なのね」

 「ジロは話し方、上手っぽい」

 ジロが唐突に割って入った。

 「どこが上手なのよ。そんな変なしゃべり方する奴を見たのは、あんたがはじめてよ」

 改めてジロに注目する。
 顔には大きな目と大きな口がある。身長は小柄な人間と同じくらいで、体の線がほっそりしているのでこじんまりして見えた。
 ジロの皮膚は綺麗な乳白色で、シュオウが想像していた黄緑色や茶色の蛙人とはかなり違っていた。
 買えばそれなりに高そうな革製の服を着込んでいるが、靴ははいていない。
 そして左手の甲を見たが、そこに輝石はなく、右手も同様だった。
 輝石の位置は人間とは違うらしい。
 少なくとも、今シュオウから確認できる位置に、輝石を見つけることはできなかった。

 「言葉はどこで習ったんだ?」

 蛙人と人間は使う言語がまるで違う。
 ジロの話し方は違和感があるが、滞りなく意志の疎通ができるレベルで言語を習得しているようだ。

 「ジロの住んでたとこに物を売りにきてた行商人の女の子っぽい。いつもこんな風に喋ってたしぃ。全然おかしくないっぽい~」

 ジロに言葉を教えたその人間が、本当にそんな喋り方をしていたのだとしたら、彼は教えを請う相手選びを致命的までに失敗したのかもしれない。

 ジロの言葉にクモカリが再度抗議を入れ、再び小さな小競り合いがはじまったが、向き合って口喧嘩をしている二人の間には、よくよく見れば険悪な空気は感じなかった。
 シュオウが来る前から、こうして彼らなりにコミュニケーションをとっていたのだろうか。

 

 説明会が始まる時間になり、部屋の奥にある壇上に小太りで中年の男が現れた。
 続いて壇上にあがった者の姿を見て、場がざわめきだした。

 「あれは―――」

 豪奢な青の軍服を纏い、体をすっぽり覆う事ができる純白の外套をたなびかせ、薄紫色の霧雨のように細かな髪をゆらしながら、さきほどまで目の前で話をしていた、あの少女が壇上にあがった。
 少女の透き通った藤色の輝石は、まるで雪の結晶のように美しく煌めいていた。

 ――氷長石、か。

 まだざわつく場内をそのままに、最初に壇上に上がった中年の男が、大声で話し始めた。

 「あー、んん。この度、従士採用試験への参加を決めてくれた諸君らにまずは感謝を言っておこう。私は監督官を務めるイベリコだ。これから今回の試験内容についての最終説明を行うが………あー、特別に今回の採用試験の最高責任者である、アデュレリア重将閣下が同席されることになった」

 監督官の言葉で、ざわめきがどよめきに変わった。
 場内を埋め尽くした男達の中には、その場で平伏しはじめるものまでいた。
 一瞬にして混乱状態一歩手前である。

 「ま、待て待て、閣下は通常通りの進行を望まれておられる。いないものと思うようにとのご命令なので、全員そのつもりで。伏している者は起立をするように」

 「なんだか、あのおっさん疲れてるわね」

 クモカリの見立てにシュオウも同意した。
 遠目でわかるくらい、監督官は憔悴しているようだった。
 時折ハンカチで汗をぬぐったり、目頭を押さえたりしている。

 「まぁ、無理もないわね~。あの氷姫が横にいるんじゃ」

 「氷姫?」

 「あら、まさか知らない? ムラクモの氷姫といえば、氷長石のアデュレリア公爵様のことよ。あんなに幼く見えるけど、中身は百歳越えた婆様よ、ばあさま」

 「あれで百歳………」

 氷長石の容姿は幼い。
 背は小さいし、顔や手のパーツも小さい。なのに目がくりくりと大きいせいでさらに幼さに拍車がかかってみえる。
 だが、だからといって未熟な印象は微塵も伺えない。
 シュオウは実際に、あの少女が力を行使した場面に立ち会い、会話もしている。
 見た目は子供でも、立ち居振る舞いや話し方には他者を屈服させるような威厳と、同時に包容力もあった。

 「間違っても目なんかあわせちゃだめよ」

 「なぜ?」

 「昔ね、氷姫の前でお茶をこぼした平民を、一族もろとも氷漬けで処刑したって逸話があるの。そしてついた渾名が冷酷無比な氷姫。市井じゃ有名な話よ」

 ――なるほど。
 
 クモカリの話を聞いてみれば、この場にいる志願者達が怯えたように俯いているのも無理はない。
 だが、あの少女がそのくらいの事で人を殺すだろうか。
 たとえ身内であろうと、シュオウを不当に害そうとした輝士達を裁いた、あの氷長石が。

 壇上の少女へ視線をやると、彼女は静かな面持ちで佇んでいた。

 
 「えー、では試験内容の説明と、今日のこれからの予定。そして試験後の報酬について説明をはじめる。―――明日から諸君らにやってもらう試験の内容は、深界の森の踏破試験である」

 監督官のその言葉に、建物内の空気が揺れた。

 無理だ。無謀だ。どうしてそんな。大金もらったって割に合わない。いまから参加を拒否できるのか。できるわけがない。死にたくない。

 皆が口々に後ろ向きな言葉を吐いた。

 「あー、まちなさい。踏破といっても、なにも森を諸君達だけで奥まで抜けろとは言っていない。試験に使うのは大昔に利用されていた古道で、途中にある休憩所を目標として設定してある。それに、諸君らには我が国の誇る輝士、または晶士の卵である宝玉院の生徒が同行することになっているので安心してもらいたい」

 うまく言うものだ。
 今の監督官の言いようでは、まるで試験にたいした危険がないように錯覚しそうになる。
 だが、聞いたことをよく噛みしめてみれば、試験に使うのは今は誰も使う者のいない古道だ。
 灰色の森の浸食を防ぎ、狂鬼除けとしての効果もそれなりにある白道。
 それに使われる夜光石は、質にもよるが長く置いておくほど、発光する力が弱くなっていく。
 古道と言っているくらいだから、夜行石の効力はとっくに消えているか、弱まっていると見るべきだ。
 ただでさえ狂鬼に対しての白道は完璧な効果のない防護策で、それが古道ともなれば危険は何倍にも増す。

 ――のんきだな。

 監督官の言葉ですっかり安心してしまっている男達が愚かに見えた。

 監督官の説明は続く。

 「試験は明日早朝、王都の西門を出た先、上層界と深界の境目から開始される。
 西門は一般人の立ち入りは厳禁とされているが、諸君らは今回特別に通行を許可されている。
 今日はこの後、諸君らに同行する輝士達と顔合わせしておき、その後、こちらが指定する宿に泊まってもらう。
 食事、飲み物はすべて無料。その他、諸君らが試験に必要だと思う物があれば、係の者に言えばこちらで用意する。ただし食料はこちらが用意した物以外、試験への持ち込みは厳禁とする。
 今、外で同行する生徒達が番号クジを引いている。諸君らの持つ番号札と、生徒達の引いた番号が一致すれば、それをもって一小隊として登録される。
 諸君らと番号を同じくした輝士達は、試験中一蓮托生の間柄となる。そのことをよく自覚するように。
 ―――以上だ。質問がなければ説明会はこれで終わりとする」

 「報酬はどうなってるのー?」

 突然のクモカリの大声で、一度引き上げかけた監督官はあわてて元の位置に戻った。

 「おっと、いかん、そうだった。あー……報酬は試験後に参加者全員にカトレイ金貨十枚を約束する」

 わっ、と歓声が上がった。

 「ふぅん、話通り結構な額じゃない」

 クモカリは満足気に頷く。

 「この報酬は高いのか?」

 生まれてこのかた金を使ったことがないシュオウは、カトレイ金貨十枚の価値を把握できなかった。

 「カトレイ金貨のこと? そうねえ、物価にもよるけど十カトレイもあれば、食べ盛りを抱えた五人一家が数年働かずにお腹一杯食べられるわね。小さな土地なら買っておつりがくるし、大きな土地だって頭金としては十分すぎるわ。それくらいには高額ってわけ、わかった?」

 だとすれば、これはただの平民に支払われる額としては破格なのだろう。
 そして金貨の価値の分だけ試験の危険度が高い、ということだ。

 
 監督官はさらに質問者がいないことを確認し終えると、壇上を後にした。
 氷長石である少女もまた同様で、いつのまにか場外へと姿を消していた。


 建物のドアが勢いよく左右に開かれた。
 外から、水色の制服姿に身を包んだ十代後半くらいの男女が中に雪崩れ込んでくる。
 
 宝玉院という、貴族の子女が通う軍学校がある、と仕事を紹介してくれたギルドの男は言っていた。
 そこで人の上に立つ者としての振る舞いを学び、馬術や剣、学問や晶気の使い方などを訓練するらしい。

 彼らが持つ色とりどりの鮮やかな輝石が、目に眩しい。
 なるほど、とシュオウは彼らを眺めながら思う。
 宝玉という名を冠しているだけあって、生徒達の持つ色彩豊かな輝石は、まさに宝石のように綺麗だった。
 
 貴族の子女達は、引き当てた番号を口々に叫びながら、しばらくの間を共に過ごす事になる者達を探し、合流していく。
 
 「十七、だれか十七の札を持ってる者はいないか」

 喧噪の中、シュオウ達の番号を叫ぶ女の声が聞こえてきた。

 「ここよー!!」

 クモカリが手をあげて大声で返す。
 よく通る野太い声は、がやがやとうるさい場内でも一段とよく響いた。

 やがて、クモカリの送る合図をたよりに、二人の女生徒が姿を現した。
 金髪で眉目の整った女生徒が、クモカリを視界に入れた途端に硬直する。
 目を大きく見開きぼうぜんと立ち尽くす女生徒を見ていると、さきほどの自分もこんなだったのだろうか、と可笑しくなった。

 「ま、まさか、お前達が……」

 クモカリ、シュオウ、ジロの三人はいっせいに十七の番号札を女生徒の前に突きつけた。
 それを見た女生徒が青ざめた表情で項垂れる。
 
 「そんな、こんなのあんまりだッ!!」

 金髪の女生徒が盛大に嘆いた。
 
 もう一人の女生徒は、制服の色とよく似た水色のウェーブがかった髪が特徴的な子で、気怠そうによそを向いて、まるでこちらに関心がにない。
 その女生徒が出した最初の一声は、乾いた砂のようにサバサバとしていた。

 「アイセ、うるさい」

 「なんだとッ!? シトリ、お前はこれを見てなんとも思わないのか?」

 シトリと呼ばれた女生徒は、眠たそうな双眸でシュオウ達を一通り見回した。

 「べっつに。どうでもいいじゃん」

 「よくないッ! ―――デカイおかま! カエル! そのうえ顔を隠した根暗男! なんなんだこのサーカス一座です、みたいな面々はッ」

 アイセと呼ばれた金髪の女生徒は、ご丁寧にシュオウ達を一人ずつ指さして率直な感想を述べた。

 なんとなく気持ちはわかるのだが、初対面の小娘に根暗呼ばわりされるのは、あまり愉快な事ではない。

 「まあまあ、決まってしまったことを嘆いていたって仕方ないじゃない? ここは気を取り直して―――」

 クモカリが金髪の女生徒を宥めようと声をかけたが、相手は怒気をはらんだ目を尖らせて、冷たく言葉を言い放った。

 「黙れッ。平民が気安く私に口をきくな」

 「………はいはい、わかりました」

 傲慢な言いようだ。
 最初から相手を見下し、平民だからとそれ以上見る事も考える事もしない。
 どうやら、あの三人の輝士とこの傲慢な女は同種のようだ。
 もう一人の女生徒のほうは、最初から興味なしの態度を貫いている。
 やたらと威張り散らすもう一方と比べれば、こちらのほうが何倍もましだ。

 急に人混みから二人の男子生徒が歩み出て、金髪の女生徒に声をかけた。

 「よう、アイセ。どうやらハズレを引いたみたいだな」

 そう言った男子生徒の声には、からかうような色が含まれている。

 「なんの用だ」

 興奮気味に喚いていた女生徒の声と表情が、不意に硬くなった。

 「成績優秀な我らが主席様、モートレッド伯爵令嬢が引き当てた平民はどんなものかと興味があっただけさ。それにしても―――笑える面子だな。シトリと組まされただけでも不利だっていうのに」

 二人の男子生徒が嘲笑する。

 「……言いたいことはそれだけか?」

 「ふん。僕らが引き当てた連中を見てみろよ。全員が元傭兵団にいた奴らで、今は深界を渡る隊商の護衛で食ってるらしい。規則がなければ、お前のとこのクズと一人交換してやりたいくらいだよ」

 彼らの後ろを見ると、顔や体に無数の傷があるいかにもな男達が、こちらを伺っていた。

 「なるほど、口だけ君のお前達にはお似合いの子守というわけだな」

 「なんだとッ……」

 「私は自身の実力だけでこの試験を突破してみせる。やる気のないパートナーと珍妙な平民達も、きちんと使いこなしてみせてやるさ」

 「ちッ。今言ったことを覚えておけよ。かならず後悔させてやるからな」

 男子生徒は言い終えると、そそくさと元居た場所へ戻っていった。

 「ばっかみたい。ねえ、アイセ、顔は見せたんだしもう行ってもいいでしょ? さっさと寮に戻って休みたいんだけど」

 水色髪の女生徒が、自らの巻き毛に指をからませながら言った。

 「……いいだろう。私ももう用はない。―――お前達は試験に備えて早く寝ろ。明日から死ぬ気で働いてもらうからな」

 女生徒は目もあわせず、投げてよこすようにそう言って去っていった。


 「勝手にまくしたてて、勝手に大騒ぎして、勝手に宣言していったわね」

 「ジロ……あいつら嫌いっぽい。偉そう。まじウザイ」

 「あはッ。初めて良い事言ったじゃない、アタシも同感よ」

 
 からからと他人事のように笑うクモカリとジロを横目で見つつ、シュオウは今更ながらに仕事選びを間違えたのではないかと後悔しはじめていた。



 シュオウ達は兵舎を後にして、三人揃って指定の宿へ向かっていた。

 後ろを見ると、武装した従士が二人、ずっと後をつけてきていた。
 試験を放棄して逃げるのを防止するためなのだろう。
 途中放棄を警戒するのはいいとして、ここまでするところをみると、よほどこの試験への参加者集めに苦労しているのかもしれない。

 宿までの道のりは、簡単な地図を渡されているので迷う事はないが、兵舎からはそれなりに距離があった。

 冷えた空気を運ぶ風が枯れ葉を踊らせる。
 空はどんよりと曇っていて、暗い色の雲を見ていると陰鬱な気分に拍車がかかった。

 「ねえ、ほんとにこっちの道で大丈夫?」

 地図を見ながら、シュオウは近道のために裏道へ入った。
 表通りと違い、入り組んでいて人気のない裏の路地を歩いている。
 土地勘のないクモカリが心配そうにあたりを見回している。

 「大丈夫だ。こっちの道を通ればかなり時間を短縮できる」

 「そう? まあいいけど。まだ時間には余裕があるんだから、そんなに急いでいく必要もないわよ」

 「人混みも避けられるからな」

 人混みを歩くのは疲れるし、なぜかシュオウには道行く人々の視線が集まりやすく、それも嫌だった。
 クモカリ、ジロと連れだっている今、人通りの多い道を歩いてヒソヒソ話をされるのはごめんだ。

 裏路地の細い道を左へ右へと曲がっていくうち、突然大きく開けた土地に出た。
 
 広大な広場に、規則的に並んだ無数の墓石。
 色の薄い冬の景色と相まって、辺りに漂う寂しげな空気感がより一層強調されている。
 
 しばらく墓地の外側を沿うように歩くと、石の祭壇の前に集まった人々の集団に出くわした。
 その横を通り過ぎようとしたとき、奥の建物から数人の男達によって棺が祭壇の前まで運ばれている光景を目にした。

 「あれは……」

 「お葬式みたいね」

 ――葬式、あれが。

 立ち止まり、様子を伺っていると、集団の中から一人初老の男がこちらへ歩み出てきた。

 「おまえさんがた、故人の知り合いかね?」

 「いえ、違います」

 「そうかい。―――まあこれも縁だ、よかったら返魂儀に立ち会ってくれんかね」

 「ですが、部外者の自分達が……」

 「亡くなった爺さんは人好きだった。送ってくれる人が一人でも多いほうがきっと喜ぶよ」

 横にいたクモカリがシュオウを肘で突いた。

 「どうするの? アタシはかまわないわよ。さっきもいったけど時間は平気だし」

 「ジロはどうだ?」

 「ジロは人間の葬式見たことない。だから微妙に見てみたいっぽい」

 「わかった。―――では、参加させてもらいます」
 
 シュオウ達は葬儀に集まった人々の最後方に立ち、儀式を見守ることにした。
 この場にいる者は、シュオウ達を除いて皆黒い喪服を厳かに着込んでいる。
 普段着で参加した自分達はかなり浮いている気もするが、一番後ろにいるので誰も気にしていない。

 棺が開けられ、中から顔に深い皺を刻んだ老人の遺体が現れた。
 棺を運んできた男達が、かけ声と共に老人の体を持ち上げ、祭壇の上にある磨き上げられた黒石の台座に乗せる。
 血の気の失せた老人の体は、見上げるように天を仰いでいた。
 
 この老人とシュオウは、当然ながらなんの面識もない。
 だがきっと、たくさんの人たちに愛されていたのだとわかる。
 集まった人々の間から、悲痛に漏れてくる嗚咽がそれを証明している気がした。
 
 まだ年若い青年が前へ出て、老人の遺体の右手を胸の上に、左手を台座の上の置いた。
 この黒石の台座は、左手だけを乗せることができるよう、そこだけ出っ張った作りになっている。

 これから返魂儀を行う旨が説明され、老人に向けた最後の言葉が、参列者の中の遺族らしき人達によって読み上げられる。

 死んだ人間の輝石を砕き、天へと返す儀式のことを〈返魂儀〉という。
 輝石はそれを持つすべての生物にとって、ただの石というわけではない。
 輝石には、中心奥深くに存在する〈命核〉という小さな核が内包されている。
 この命核が砕かれたとき、その輝石の持ち主の肉体はサラサラとした砂や灰のように崩れ落ち、雲散する。
 この時に肉体が分解されて出来る粒子を〈光砂〉という。

 輝石の命核は命に直結している。
 それが砕かれる事により、生命は光砂となって天へと返る。
 それがこの世界のあたりまえの現実だった。

 送る言葉が終わる。
 老人の手を台座に乗せた青年が、儀式用の先の尖った鉄槌を手に持ち、祭壇にあがった。
 青年は鉄槌の尖った部分を老人の輝石に当て、そのまま上に大きく振り上げた。
 高く掲げた鉄槌が振り下ろされる。
 鉄槌の先が老人の手の甲に食い込み、輝石が砕ける硬質な音が空気を揺らした。
 輝石の命核を砕かれた老人の遺体は、瞬きをする間もなく発光する粒子に分解され、光砂となって天空へ舞った。
 白く光り輝く光砂の中には、時折、赤や黄などに輝く美しい粒も混じって見える。

 そのあまりに美しく荘厳な眺めに、シュオウは息をするのも忘れて見入っていた。

 数多存在する生物の中でも、人が放つ光砂の光はとくに美しいという。
 愛や喜び、憎しみや悲しみ等の多くの矛盾する感情が混ざり合い、せめぎ合う事で人間という一個の生命を構築している。
 互いに相容れようとはしないそれらの要素が、常に対立を繰り返す事で命の光が磨かれていくのだとしたら、人のそれが美しいことに、なんら疑問を抱く必要はないのだろう。
 
 返魂儀、人間の光砂の輝き。それらの事はいつか読んだ書物に書いてあった。
 だが、実際の自分の目で見たこの光景を、言葉や文字で語り尽くすのは難しい。
 己の目で、肌で感じなければわからない事が、この世界にはたくさんある。
 その事をシュオウは強く想った。

 空に舞い上がった光砂は、やがて雲に溶けるようにしてその姿を消した。

 今、この瞬間までそこにあったはずの老人の遺体は最初からなにもなかったかのように消えてなくなり、黒石の台座の上には砕かれた輝石だけが、老人の生きた証として儚げにそこに在るだけだった。




 「良いお葬式だったわね~」

 墓地を後にして、一行は目的の宿屋に向かい、それほど時間もかからずに到着していた。
 宿はかなり大きく、内装も綺麗で居心地も良い。
 宿の女将によると、今日明日と軍によって貸し切りになっているらしい。
 
 宿の一階部分は食事や酒を楽しめる空間となっており、実際に寝泊まりするのは二階と三階部分に分かれている。
 シュオウ達は二階の奥にある三部屋を与えられた。

 今は一階でテーブルを囲み、注文した食事と飲み物を堪能している真っ最中だ。
 
 「ジロはどうだった?」

 「勉強になったっぽい」

 ジロは魚のバター焼きに舌鼓を打ちつつ、相槌を打った。

 「ふーん、見かけによらず勤勉なのね、このカエル」

 それはそうだろう。
 この白い蛙人は、多少変ではあっても、自分のものとはまったく違う言語をモノにしたのだ。
 それだけで相当な努力家だとわかる。

 外はもう完全に暗くなっている。
 宿の一階は、採用試験の参加者達で溢れていて、酒とご馳走に酔いしれた愉快な笑い声で満ちていた。
 
 出された料理についてクモカリやジロと話をして、部屋に戻ってゆっくりと休める、はずだった。
 だが、さきほどの説明会のときにいた傭兵くずれの男達が、シュオウ達のテーブルの前までやってきたことで空気は一変した。

 「おい、そこの変態。おまえだオカマッ! さっきっからきしょくわるい喋り方しやがって、酒がまずくなるじゃねえか」

 からんできた傭兵くずれの男は目が座っている。
 いつから飲んでいるのかわからないが、かなり出来上がっているようだった。

 クモカリは男の挑発には一切反応せず、マイペースを決め込んで飲み物をあおった。
 
 「無視よ、無視。ほっとけばそのうちどっか行くから」

 シュオウとジロにだけ聞こえるように、クモカリは囁き声でそう言った。

 「聞こえてんのか、こるぁ! だいたい男のくせに化粧なんてしやがって、気持ち悪いんだよコノヤロウ」

 『気持ち悪いな。しっしっ、あっちいけ』

 傭兵くずれの言葉に誘発されて、脳裏に過去に聞いた言葉が蘇った。

 『なんだこのガキ。飯がまずくなるから顔を見せるな』
 『不気味な子ね、きっとあの顔のせいで捨てられたんだわ』
 『かわいそうにな、顔のソレさえなければもらってくれる人もいたかもしれないのに』
 『客が来なくなるからうちの店には近寄らないでくれ』
 
 孤児だった醜い自分を見る、大人達の視線。
 嫌悪、同情、蔑み、嘲笑。
 それらの色を含んだ眼が、シュオウを見下ろした。

 ――やめろッ、そんな目で俺を見るな!

 「化粧臭い変態にカエルと一緒たぁ、そこの坊主も苦労するなぁ? 同情するぜ。ぶぁははは」

 傭兵くずれが嗤う。

 シュオウは無意識に顔の眼帯に触れていた。この下には、醜く爛れた顔がある。

 「………楽しいか?」

 「あ、なんだって?」

 「ちょっと、シュオウッ」

 クモカリがとめようとしている、だが、無理だ。
 負の感情が脳内をめぐり、自分を抑制できない。

 「ひとと違う外見をしている者が、そんなにおかしいかと聞いたんだ!」

 気がつけば、シュオウは怒鳴っていた。
 周囲の喧噪がぱたりと止み、険悪な雰囲気が漂いはじめる。

 下卑た嗤いを続けていた男の顔が険しくなった。

 「ああ、可笑しいぜ、だから笑ったんだ。それをてめぇみたいな若造にとやかく言われる筋合いはねぇな」

 男がゆっくりシュオウの席まで歩み寄り、手に持っていた酒をゆっくりと、シュオウの頭の上に注いだ。
 アルコール臭漂う液体が、シュオウの髪を濡らし、顔をつたって服まで届く。

 シュオウは椅子を後ろへ飛ばし、テーブルを思い切り強く叩いて立ち上がった。

 「……やろうってのか?」

 互いの視線が交差する。
 だが、場の空気は突然の乱入者達によって一気に冷めた。

 「お前達、なにをしている!」

 騒ぎを聞きつけた軍の従士達が雪崩れ込んでくる。

 「くそッ」

 従士の姿を確認した傭兵くずれの男達は、そそくさと店の奥へ消えていった。

 「アタシ達も上に行くわよ」

 シュオウ達もテーブルに料理を残したまま、二階の自室へ引き上げた。
 割って入った従士達には顔も見られているが、何も追求はされなかった。
 彼らにしてみれば、騒ぎを静められればあとのことはどうでもいいのだろう。
 
 二階へ上がったシュオウ達三人は、とりあえず一番近いクモカリの部屋に入った。

 「あーもう、びしょびしょじゃない」

 部屋に入ったシュオウは、クモカリに強引にタオルで頭を拭かれていた。
 頭から酒をかぶったせいで、髪から苦いような甘いような気持ち悪い匂いがする。

 「もういい。自分で出来る」

 タオルを奪おうとするが、クモカリは譲らなかった。

 「いいから、まかせておきなさいって。アタシ達のために怒ってくれたんだし、このくらいはさせてよね」

 ――違う。

 シュオウは奥歯を噛みしめた。
 あれは仲間のために怒ったのではなく、すべて自分のためだった。
 過去のいまわしい記憶をさらって、その鬱憤を外へぶちまけただけだ。

 「ねぇ、その顔につけてるのも取っちゃいなさいよ。それも濡れてるじゃない―――」

 クモカリがシュオウ顔に手を伸ばす。が、シュオウはその手を思い切り払いのけてしまった。

 「え……」

 手を叩く乾いた音がして、気まずい空気が流れた。

 「…………すまない。後のことは自分でやる」

 シュオウは引き留める声を無視して部屋を飛び出した。
 そのまま自分の部屋に入り、髪や服を濡らしたままベッドに体を沈めた。

 体は鉄塊のように重く、指一本動かしたくない。何も考えたくない。
 深界の森の中を一日中歩いても、これだけの疲労感を感じたことはなかった。
 
 そのままシュオウは飲み込まれるように眠った

 ムラクモに到着してから二日目の夜は、こうして終わった。
 











           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇












 翌朝、早朝から叩き起こされて、試験参加者達は街の西門を出てしばらく山を下った集合地点まで歩かされた。
 朝の新鮮な空気も、寝不足でふらふらとする体にはなにも恩恵がない。

 山から平地へとかわる寸前、そこがスタート地点らしい。
 目の前に広がる深界の森には、何本かの細い白道が見えた。
 
 「シュオウ、あれ見て」

 クモカリに促されたほうを見る。
 そこには、昨日の傭兵くずれ達の小隊があった。
 彼らもこちらに気づき、威嚇するように睨む視線を送ってくる。
 立たされた位置がシュオウ達と近いところをみると、もしかすると同じ白道を行かされるのかもしれない。



 また、面倒なことが起こりそうな予感がする。
 
 シュオウは誰にも聞かれないように、小さく嘆息をもらした。


































_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

 ●あとがきのようなもの


 ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
 今回は動きの少ないシーンばかりで、退屈じゃないかなと心配しています。
 
 この第三話には、ラピスの心臓の設定の中でもとくに重要なものを紹介するシーンがあります。
 読んでくださった方はすぐにわかったと思うのですが、シュオウ達が偶然遭遇したお葬式のシーンの事ですね。
 この世界の人々にとって、輝石がただ手にくっついただけの石ではない、という事を表現できていればいいのですが。

 次回からは、無名編のクライマックスに入ります。
 動きのあるシーンも多くなり、活躍する強い主人公をお見せできるかと思います。
 それでは、また。



[25115] 『ラピスの心臓 無名編 第四話 狂いの森』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2012/02/17 17:40
   『ラピスの心臓 無名編 第四話 狂いの森』










 王都の西門を出た先の山の麓に、従士志願者は集められた。
 時刻は早朝。皆、無理矢理叩き起こされたせいで寝惚けた顔をしている。
 途中、飲み過ぎたせいなのか、胃の中のものをすべて吐きだしている者までいた。
 ここから見える景色の先には、灰色の森が視界一杯に広がっている。
 世界を見るために森を出てきたのに、なんの因果か再び森へ入ることになったシュオウは、なんとなく納得いかない気持ちを抱えていた。

 「しまりのない顔だな」

 合流した貴族の娘が言った、最初の言葉がこれだった。
 寝不足、かつ昨日の疲労が顔に出ていたシュオウを指して言ったのだろう。
 露骨にこちらを見下したような視線に、なにか言ってやりたい気分にもなったが、ほうっておけ、と心の中で呟くのに留めた。
 
 宝玉院の生徒達は試験官の元に集められ、何かの説明を受けている。
 ここからでは何の話をしているか聞こえないが、生徒達は緊張した面持ちで話を聞いていた。
 試験官が説明を終えると、各生徒達に茶色い背負い袋が手渡されていった。
 荷物を受け取った生徒達から、自分の小隊の元へ戻っていく。
 シュオウの小隊の生徒達も、重そうに背負い袋を抱えて戻ってきた。

 「お……まえたち、さっさとこれを受け、取れッ……」

 金髪の女生徒が、一番重そうな袋を押しつけるようにしてシュオウに渡した。
 受け取ってみて、袋のあまりの重量に驚く。
 袋は硬くて大容量の何かでパンパンに膨れていた。袋の底がやぶけてしまうのではないかと心配になるくらい重い。

 「重いな、何が入ってるんだ」

 「試験官は食料だと言っていた。試験開始まで中を開けるなともな。―――こっちの袋もそうだ」

 金髪の女生徒は、背負っていたもう一つの袋をクモカリに渡した。

 「これは、それほどでもないみたいね。シュオウ、交換する?」

 「頼む」

 体格も筋力もクモカリのほうが優れているので、素直に申し出を受け入れた。
 重たい袋を、クモカリが受け取った袋と交換する。
 さすがに軽々とはいかないようだったが、クモカリは重たい袋を肩に背負って、まだ余裕がありそうだ。特盛りの筋肉は伊達ではないらしい。

 「わたしのも持って」

 そう言って最後の一袋をクモカリに投げたのは、水色髪の女生徒だ。

 二つ目の袋を受け取ったクモカリは、最初それをジロに手渡そうとしたが、しばらく荷物とジロを交互に見て、手を戻した。
 背負い袋はかなり大きく、小柄なジロに持たせるのは酷だと思ったのだろう。
 結局、シュオウが一つ、クモカリが二つ、袋を運ぶ事に決まった。

 「それから、食料の支給品以外の持ち込みは不可だと言われた。もし持っていたら今ここで出せ―――まず、お前だ」

 金髪の女生徒がシュオウを指さした。

 「ない」

 昨日の夜までは数日分の携帯食を持っていた。食料の持ち込みができないという話は事前に聞いていたので、すべて宿の人間に預けてきている。

 「本当だな? この後試験官が全員の荷物を検査する。その時になって私に恥をかかせるなよ」

 次に女生徒はクモカリを見た。

 「アタシも持ってないわ。信用できないなら、体中まさぐって調べてみる?」

 「だ、黙れ汚らわしいッ。もういい、最後にカエル、お前も持っていないだろうな?」

 問われたジロは、なぜか気まずそうに目をきょろきょろ動かしている。

 「………ジロ、魚の骨持ってる。これもだめっぽい?」

 ジロは懐から、魚まるまる一匹分の骨を取り出した。
 
 「あんた、それって昨日の?」

 クモカリが呆れた様子で聞くと、ジロは目をそらしながら一回頷いた。

 「まだ身が残ってたから、口に入れて持ってあがった」

 昨日の騒ぎの最中、そんなことをしていたらしい。見上げた食い意地だ。

 「たとえ骨だけでもダメだ。今すぐそのへんに捨ててこい。まったく、先が思いやられるぞ」

 ジロは、まだ味があるのに、と呟きながら渋々骨を捨てに行った。


 
 女生徒の言葉通り、複数の試験官達が各小隊の荷物検査をしてまわった。
 ポケットやズボンの中まで調べられ、先ほど渡された三つの背負い袋の中まで細かく検査をしたのだから、徹底している。
 荷物検査を受けた従士志願者の中には、ポケットにクッキーのかけらが入っていた者がいて、それだけで試験官はかなり厳しい口調で注意していた。

 準備を一通り終えて、全小隊が即時出発できる状態を整えた。
 さて、このまま一斉に試験開始か、と身構えていたのだが、どうも一本の白道につき、一隊ずつを時間差で出発させるらしい。
 シュオウ達の小隊は二番手に出発する組となった。
 
 試験場となる深界の森には、九本の白道が見える。
 そのうち、最も北側に位置する白道は、整備が行き届いていて状態も良く、道幅も広い。
 この状態の良い最奥の白道は、試験官達の移動と、試験後の帰り道に使われる。
 残り八本の白道は、外から見える箇所だけでも、どれも同じくらい状態が悪そうだった。
 


 次の出発時刻までの空いた時間で、小隊員達の簡単な自己紹介が交わされた。
 
 金髪で、高圧的な態度の女生徒の名前は、アイセ・モートレッド准輝士候補生。手の甲には淡い緑色の輝石がある。
 身長は女性としては平均的なくらいで、高くも低くもない。しかし、引き締まった長い足と、小顔のおかげか、全体的なスタイルは抜群と言っても過言ではないくらい見栄えがいい。
 胸の大きさはそれほどではないが、だからといって男性的な印象はなく、洗練された都会的な女性の雰囲気を漂わせている。
 整った眉目と厳しい表情が、その印象をより強調していた。
 彼女は、小隊の隊長でもある。

 水色髪の気怠いオーラを纏った女生徒のほうは、シトリ・アウレール准晶士候補生、と投げやりに言った。
 常に眠そうな瞳は、夢と現のどちらを見ているのかはっきりしない。
 だがそんな昼行灯な性格からは不釣り合いな、ふくよかな胸と女性的な魅力に満ちたやわらかそうな肢体のおかげで、チラチラとシトリに視線を送る男が後を絶たない。
 一般的な市井の女性なら、自分が異性にもてることを喜ぶものだが、彼女からそんな印象は一切受けかなかった。
 シトリの手の甲には淡い青系色の輝石がみえる。おそらくは、水を操る彩石だろう。

 アイセとシトリは、どちらも背格好は大差ない。
 なのに、両者から受ける印象はまるで違う。
 アイセは触れれば切れてしまう鋭い刃物のようであり、シトリのほうは水面に映った曇りの日の月明かりのようにぼんやりしている。
 アイセは肩先まで直進する真っ直ぐ伸びた金髪。シトリのほうは腰くらいまであるフワフワとした水色の癖毛だ。
 性格が髪質にまで現れるものかと、シュオウは一人感心していた。
 二人の服装は、水色の上等な制服だ。
 貴族の子弟が通う軍学校の制服だけあって、質は素人目にも上等だとわかる。
 上は男女共に、白いシャツの上に水色の上着を羽織っている。
 下は男子が紺色のズボンで、女子は同色のスカート、その下に厚手のタイツをはいている。
 靴は膝下くらいまである黒のブーツだ。
 
 「その格好で参加するつもりか?」

 シュオウは思わずそんな事を聞いてしまった。
 宝玉院の制服が、深界を歩くのに適していないわけではない。
 彼らが身につけているものは、平民の一張羅より良品質、かつ丈夫そうで、強度の面では心配はいらないだろう。
 だが、深界を歩くにはあまりに綺麗すぎて、汚してしまうのはもったいない気がしたのだ。

 「当たり前だ。お前達はともかく、私たちにとっては卒業試験なのだからな」

 案の定、アイセはシュオウの発言を一蹴した。

 
 
 シュオウ達の小隊が出発する時間となった。
 開始地点に、横一列に八組の小隊が並ぶ。
 シュオウの小隊は、最奥の試験官移動用の白道から四番目の白道を指定された。
 同じ道に、昨日シュオウに酒を浴びせた傭兵くずれと、アイセ達にからんできた男子生徒のいる小隊が先に入っている。
 試験官が剣を抜き、上に掲げて振り下ろした。

 スタートの合図だ。

 横一列に並んだ小隊が、各白道へ向けていっせいに駆けだした。
 勢いよく走りだしたアイセに引きずられるように、シュオウ達は小走りで後を追った。

 いまはもう使われていないという古道は、入り口からは若干広く見えたが、実際に中に入ってみると、奥に行くほど道が狭くなっているのがわかる。
 古道の入り口に入ってすぐ、シュオウは全員を止めた。

 「待て」

 「なんだ、忘れ物なら今更無理だぞ」

 スタート時の勢いそのままに奥へ走り込もうとしていたアイセは、煩わしそうにシュオウを睨んだ。

 「渡された荷物の中身を調べていない。本格的に奥へ行く前に把握しておきたい」

 「そんなこと、もう少し先へ行ってから休憩のときにでも―――」

 シュオウはアイセの返事を待たずに、自身の背負っていた袋を降ろして中身を確認した。
 クモカリも地面に二つの袋を降ろした。
 言うことを聞けと喚くアイセを無視して袋を開ける。
 シュオウの持っていたほうには水を入れた革袋が入っていた。雨の多い森には、あちらこちらに水溜まりがあるので、補給の心配はいらないだろう。
 他に、パン、干した肉や乾燥した豆料理、蜜漬けの果物が入った小瓶等の保存食が詰められていた。
 クモカリの持っていた袋の一つには、折りたたみ式のテントと、寝袋、ロープやランプ、火おこしの道具といった野外向けの寝具や雑貨が入っている。
 野宿をするには、まあまあの装備といっていい。

 問題は、最初にシュオウが渡された底が抜けそうなほど重い袋だった。
 中には丈夫そうな太った袋が入っていて、そこに手を突っ込むとジャラジャラと細かい粒の感触がした。

 「米、か」

 「けっこうな量みたいね。これだけあれば五人で一ヶ月、食べるのには困らなそうよ」

 クモカリが米を手で掬い、上からさらさらと落とした。

 「当たり前だ、この試験の目的は目標地点までの踏破であって、参加者を飢え死にさせるものじゃないんだからな」

 米は栄養もあって腹持ちもいい。
 炊かずに置いておけばすぐに腐ることはないし、旅の主食としては贅沢なくらいだ。
 だが、シュオウは解せない気持ちを抱えていた。
 
 「目的地まではどれくらいかかる?」

 シュオウの質問にアイセは眉間に皺を寄せた。

 「試験期間は今日から一ヶ月だが、毎年早い小隊で二週間くらいで目的地まで辿りつくらしい。遅くても三週間もすれば、一通りの小隊は指定地点まで到達すると聞いている」

 目的地までは最速で二週間、遅くても三週間はかかるらしい。だがどちらにしてもこの米の量は多すぎる。
 米は火を使って炊かなければ、まともに食べる事ができない。
 シュオウ達の行く古い白道は、夜光石の効力も弱まり、道幅も馬車一つ通るのがやっと、というくらい狭い。道の左右には圧迫するように灰色の森が迫っていて、この先を行けば、奥はこれ以上狭くなっている可能性もある。そんな状況で火を使えば、匂いで狂鬼を呼び寄せてしまう危険もでてくるのだ。
 上層界の生き物とは違い、狂鬼は火を怖がらない。むしろ、本来森にないはずの臭いから人の気配を察知して襲いかかってくる。そのため、深界を行き来する仕事をしている者達は、臭いのでにくい特別な木材を使ったりと、それなりに工夫して火を使っている。当然、試験参加者達に、そんな特別な道具は渡されていない。

 「この米は置いていく」

 そう言うと、全員が驚いてシュオウを見た。

 「なにを勝手なことを言っているッ! さっきから調子に乗って仕切ろうとしているが、この小隊の責任者はこの私だ。大事な食料を置いていくなど、そんな勝手は許さないぞ!」

 アイセはヒステリックに怒鳴って、米の入った袋を指さした。

 「米は食べるために火が必要になる。森で不用意に火を使えば狂鬼を呼び寄せる。それを知っていて、わざわざこんな重たい物を運ぶ必要はない」

 「火が狂鬼を呼ぶだと? 深界については私もそれなりに習っている。白道の上で火を使ってはいけないなんて、教わったことはないぞ」

 「それは白道がまともな状態で、さらにそれなりの準備ができている場合の話だ。これから俺達が行くのは、狭くてまったく整備されていない古道だ。常識は通用しないと思っておいたほうがいい」

 アイセは少したじろいだ。はじめて迷いの色が見える。

 「だ、だが……」

 「俺も、お前と同じ試験の参加者だということをを忘れるな。自分が死ぬかもしれない状況で、勝算のない意見を提案したりはしない。どうしても持って行きたいのなら好きにしろ。俺はここで抜けさせてもらう」

 アイセは難しい顔で米袋を睨み、何事か考え混むように黙った。
 信じて貰えないのならそれまでだ。ここで判断を誤るような人間と、この試験を共に乗り切る自信はない。

 「ねえ、ちょっと待って」

 クモカリが手をあげてシュオウに問いかけた。

 「なんだ」

 「深界で素人が火を使うのは危ないっていうのは聞いたことがあるからわかるんだけど、お米を置いていくとして、残りの食べ物だけで最後までやっていけるの?」

 乾燥した硬いパン、肉や豆、甘い果物などの保存食は、そこそこ節約して食べても一週間もつかどうかの量しかない。相当切り詰めれば二週間分は捻出できるかもしれないが、体力面で心配がでてくる。

 「米を抜いた手持ちでは、だいたい一週間、どんなに努力しても二週間で底をつくだろうな」

 「だろうな、だと。まるで他人事みたいな言い方だが、森を抜けるまでに食料が尽きたら全員飢え死になんだぞ」

 アイセの表情が一層険しくなる。
 試験途中に食べ物がなくなってしまうのと、豊富な食料を抱えて狂鬼に襲われるのとでは、はたしてどちらがましなのだろうか。この試験を管理している側が、この二択を意図的に用意したのだとしたら、なんとも意地が悪い。

 「食事の度に狂鬼に襲われる心配をしているくらいなら、少ない食料が尽きる前に森を抜けてしまうほうがいい。さっき言っていたな、二週間で試験を終わらせる小隊もいる、と。なら、できるだけ食べる量を節約しつつ、二週間以内を目標に森を抜ければいい」

 アイセはわずかに思案して、ようやく答えを出した。

 「………わかった。自分でもどうかしてると思うが、お前の案を受け入れよう。だけど、食料が尽きる前に森を抜けられそうになかったら、お前から食べる量を減らしてもらうからな」

 シュオウは大きく頷いた。
 その程度の約束で納得してくれるなら、安いものだ。

 アイセはまだ完全には納得していない様子で、すぐにシュオウから視線をそらした。
 クモカリは微笑んで頷いている。ジロは黙っているが不満を抱えている様子はない。
 シトリは何事もなかったかのように、眠たそうな視線を遠くへ向けていた。



 小隊は灰色の森の狭い白道の上をかき分けるように進んだ。
 出発した時はまだ午前中だったが、今はもう日が落ちそうな時間になっている。
 ただでさえ狭い白道は、所々欠け落ちてしまっていたり、隙間から雑草が伸びていて心許ない。
 同じような色のない景色が延々と先まで続いていて、墓場の中を歩いているような気味の悪さを感じる。
 まるで死者の行列のように立ち並ぶ灰色の木々が、不気味な空気をより一層強めていた。
 
 唐突に空気が静まりかえった。
 小さな虫や動物の声が消えて静寂が訪れる。
 遠くのほうから、地鳴りのような重たい音が、一定の間隔で聞こえてくる。
 その音は、徐々に大きくなっていった。

 「この音はなんだ……」

 先頭を歩いていたアイセが、足を止めた。
 小隊全員が緊張した面持ちでその場にしゃがみ込む。
 地響きのような重低音が、皆の不安な気持ちを煽った。

 前方右側の森の中から、黒い巨大な虫の足が伸びた。
 歪な形をした足が、尖った先っぽを地面に降ろすたび、ズシンズシンと大きな音を鳴らしている。
 足がシュオウ達の目の前に一本、二本と出てきて、ソレは姿を現した。

 ――オウジグモ。

 巨大な虫型の狂鬼で、その形は蜘蛛によく似ている。
 しかし、体の大きさは大きな二階建ての家くらいあり、黄色と黒の縞模様をした硬い外皮の上には細かい体毛がはえている。
 このオウジグモは、捕食するときに粘着質の糸を出して獲物の動きを封じ、捕食する。灰色の森の食物連鎖の中でも上位に位置する狂鬼だ。
 てっきり、シュオウ達に狙いを定めて現れたのかと思ったのだが、様子がおかしい。
 こちらを目の前にしても、オウジグモの歩行はゆるやかで、ただこの場を横切ろうとしているだけのようだ。
 こちらに気づいていない、というより、興味がないというのが適切だろう。
 悠然と歩を進めるオウジグモの口元をよく見ると、人間の服の切れ端らしい布地がひっかかっていた。

 食べたのだ。

 おそらく、試験参加者の一人だろう。
 すでに腹がふくれているオウジグモは、それ以上に余分な栄養を欲してはいない。
 ならば、このままやりすごすことができる。

 「全員動くな」

 シュオウは囁き声で言った。
 だが、遅かった。

 「うあああああああああッ!!」

 アイセが叫び声をあげながら狂鬼めがけて突進していく。
 その手には、緑色に光り輝く剣の形をした晶気が握られていた。
 状況を一切考慮していない、完全な暴走だ。

 「待てッ!」

 咄嗟に止めようと声をあげるが、アイセはそのままオウジグモの足の一本に、晶気の剣で思い切り斬りかかる。
 オウジグモの足に触れたアイセの晶気の剣は、オウジグモの硬い外皮にはじき返された。
 結局、体毛をわずかに剃りおとしただけで、オウジグモの足には傷一つついていない。

 オウジグモの歩みが、止まった。

 シュオウは尻餅をついたアイセの元まで走り、後ろから抱えるようにして少しずつ後ろへ引きずった。
 アイセの手にあった剣状の晶気は、すでに消えている。
 抱きかかえたアイセの細い体は硬直し、震える体からカチカチと歯が鳴る音が聞こえた。
 
 オウジグモは少し周囲を探るように頭を動かした後、再びゆっくりと歩き始めた。
 やがて、巨大な狂鬼の姿は見えなくなり、地鳴りのような足音も聞こえなくなった。
 周囲の空気が元に戻る。
 オウジグモが通った後の白道には、足の形に穴が穿たれていた。
 ジロ、クモカリはすでに立ち上がり、白道に空いた狂鬼の足跡を見物している。
 だが、シトリは顔面蒼白で地面にうずくまり、アイセはシュオウの腕の中で、捨てられた子犬のように震えていた。
 どうやら、この狂鬼との遭遇は、彼女たちにとっては想像を絶する体験だったようだ。



 オウジグモとの遭遇から、魂が抜けたように大人しくなってしまったアイセに影響されて、小隊の進行速度は重くなってしまった。
 辺りも暗くなりはじめていたので、寝床の用意をはじめることにした。

 折りたたみ式のテントは風を通さない丈夫な布で出来ていて、中に入ればそれなりに寒さをしのげそうだ。
 そのテントを二つ、狭い道のど真ん中に向かい合うように設営した。
 脇に落ちていた木の丸太を椅子がわりにして、ようやく一息つく。
 
 シュオウは一日目の食事として、小瓶に入った蜜漬けの果物を選んだ。
 甘い物には心を落ち着かせる効果も期待できる。
 全員が同じ量を少しずつ口に運び、初日のわびしい夕食が終わる。

 シュオウは空いた瓶を軽く洗い、水を注いだ。
 それから古くなった白道の一部を手に取り、地面に落ちていた石で細かく砕いていく。

 「なにしてるの?」

 クモカリがシュオウの手元を覗き込んだ。

 「最低限の灯りを確保する。白道は、それ自体がただの加工した夜光石だからな。細かく砕いて水に浸せば、発光する力も少しは戻るはずだ」

 シュオウは壊れた白道の破片を、砂利になるくらいまで砕き、それを水の入った小瓶に入れた。
 水に浸かった夜光石が、ぼんやりと白く発光する。
 炎のような暖かい光ではないが、暗闇を照らすには十分な光量だ。
 この光は狂鬼よけとしての効果も僅かに期待できる。
 即席のランプを、二つの天幕の中心に置く。
 夜光石の光が、仲間達の姿をぼんやりと照らした。
 ジロは、まださっきの蜜漬け果物をモゴモゴと口の中でころがしている。
 シトリは膝を抱えてうずくまり、アイセは無表情に地面を見つめて微動だにしない。

 「いつまでそうしている気だ?」

 シュオウはアイセに向けて声をかけた。
 出発前とはまるで別人だ。
 オウジグモとの遭遇から一言も話さず、虚ろな目で下ばかり見ている。

 「………ほっといてくれ」

 アイセは絞り出すように、ようやく声を出した。

 「そうもいかない。明日からの事も含めて相談したいこともある」

 「相談?」

 「全員の武器、持ち物。とくに貴族のお前達は、晶気でどんなことができるのか把握しておきたい」

 「…………」

 アイセの返事はなかった。
 自分の手の平をじっと見つめて、なにか考え込んでいる。

 「え、えっと、それじゃあアタシから―――」

 クモカリが不自然なほど明るい口調で声をあげた。

 「クモカリの得物は重斧だな」

 クモカリが取り出した武器は大きくて重そうな両刃の斧だ。
 今朝、宿を出発した時から、クモカリはこの重そうな斧を背負っていたので、いやでも目についた。

 「アタシのいた村のホラ吹きジイさんがね、若い頃これで狂鬼を狩った、なんて言ってたのよ。それで軍の仕事の出稼ぎに行くって言ったら持ってけって言うじゃない? それでなんとなくね。まぁ、見ての通り力はあるほうだから、それなりに使いこなせると思うわ」

 「ジロのはコレっぽい」

 ジロは天幕の中から小剣と小さな丸い盾を取りだして見せた。
 剣は刃の部分が小さく、一般的なサイズの剣の半分くらいしかない。
 盾は丸い形で、焦げ茶色の木材に、部分的に鉄で補強されている。

 「お前はどうなんだ。さっき、剣のような晶気を使っていたな」

 シュオウはアイセに問いかけた。

 「ああ……これの事か」

 アイセが左手を空中にかざすと、手の中に緑色に光る晶気の剣が現れた。
 晶気の剣は大人が使う長剣と同じくらいの長さで、刃となる部分からは風が振動して高音を鳴り響かせている。

 「これは……」

 「風の剣だ。私が最も得意とする晶気の形だな」

 「晶気は手から離して使うものだと思っていた。こんな使い方もあるんだな」

 シュオウは先日の三人の輝士を思い出していた。各々が使う晶気はばらばらだったが、全員が力を飛ばす使い方をしていた。
 アイセが作り出した風の剣は、普通の剣と同じように相手に斬りつけるようにして使うのだろう。晶気を投げて使うものと比べれば、もったいない力の使い方のような気もするが、もし風の剣に鉄剣のような重さがないのだとしたら、それは戦いにおいて十分な利を得ることができる。

 「輝士なら誰でも、晶気をある程度思う形に構築することができる。でも、得手不得手というものはある。私の持つ輝石の力は風に属するものだが、同じ力を持っている輝士の中にも、投げて使うの形が得意な者もいれば、砂埃をまきあげて相手を攪乱するような小技が得意な者もいる。私は、たまたま得意とする晶気の形がこれだったんだ。平民だって、弓が得意な者もいれば、剣が得意な者もいるだろ」

 「つまり、他の輝士達もその晶気の剣を使えるのか」

 「これと同じ物を構築すること自体は誰でもできる。だが、構築と持続は別だ。構築した晶気を投げるようにして使うタイプは、晶気を構築してから、溜めて、放出するまでの手順がすぐに終わる。しかし、手元で常に晶気を維持し続ける剣のような形状は、晶気を一定量で維持し続けなければいけなくて、これはちょっと難しい。これと似たような感覚で――――」

 アイセは晶気の剣を空中に放るようにして消した。
 すぐに両手を前に突き出す。
 そこからアイセの手の前に大きくて幅のある風の壁が構築される。

 「―――こんなことも出来る」

 「すっごいわね、まるで盾みたい」

 クモカリが小さく拍手した。
 それに気をよくしたのか、暗い表情で淡々と話していたアイセの表情に明るい色が戻る。

 「そ、そうだろう? これは晶壁といって輝士なら誰でも使える力だが、私はこれを長時間維持できるのが自慢なんだ」

 「輝士なら誰でも、ということは、そこの青髪の女も同じ事ができるのか」

 シュオウはうずくまって顔を膝の間に沈めているシトリを見て言った。

 「シトリは晶士だ。急速な構築が必要になる晶壁のような力は向いていない」

 「その晶士という役割は、輝士とは随分違う仕事をするものなんだな。ただの軍での階級だと思っていた」

 軍の階級として、輝士と晶士というものが存在することは知っていたが、その二つの明確な違いは知らなかった。

 「輝士と晶士は全然違う。輝士は剣も使うし、前に出て戦うために素早く晶気を構築できる素質がなければ勤まらない。晶士は逆に、晶気をじっくり練って溜め込み、高威力、または広範囲で打ち出せなければならない。輝士、晶士のどちらになるかは自分で選択できない。これらの適性は生まれついてのものだからな。晶士としての素質を持つ者は少なくて――――」

 アイセが饒舌に解説を続けようとした時、シトリの不機嫌な声が、それを止めた。

 「うるさいな……」

 シトリが顔をあげ、アイセを横目で見た。

 「朝まであんなに偉そうにしてたくせに、急にペラペラと仲良く喋りはじめちゃって、気持ち悪い」

 「私は別に……。ただ、これからのために必要な説明だと思ったから」

 アイセの語気がだんだんと弱くなっていく。

 「それで、いつもの傲岸不遜な主席のアイセが、平民相手に輝士と晶士の違いを説明してたの? アイセ、いっつも平民は使えない、貴族とは違う生き物だって見下してたじゃん」

 「そ、それは………」

 「そうやって口を動かしてればさっきの事がなかったことになると思ったの? 恐かったんでしょ、素直に認めなよ」

 シトリの挑発的な言葉に、アイセはその場から立ち上がった。

 「そんなわけがあるかッ! 私はちゃんとあの狂鬼に……一太刀浴びせた。なにもせずにじっとしていたお前に言われる筋合いはないッ」

 静かな森に怒声が木霊した。

 「そのくらいにしておけ」

 シュオウが一言そう言うと、二人は少しの間睨み合って、互いに顔を背けるように座った。

 「もう寝る。わたしのぶんの寝袋をちょうだい」

 シュオウは袋から寝袋を一つ取り出し、それをシトリに渡した。
 シトリは寝袋を抱えてテントの中に入っていった。

 「………私も寝る」

 アイセもそう言い残し、シトリと同じテントに入っていってしまう。

 「やれやれね。アタシももう休ませてもらうわ。―――あんたはどうするの?」

 クモカリは疲れた顔でジロに聞いた。

 「微妙っぽい」

 「ハッキリ言いなさいよ」

 「疲れたっぽい……」

 ジロは自分の肩をトントンと叩いた。

 「そ、じゃあアタシたちも寝ましょうか。シュオウはどうするの?」

 「俺は、もう少しここにいる」

 シュオウはアイセとシトリが寝ている天幕を見た。
 シトリの言い方はきつかったが、たしかにアイセは自分を見失っているように思えた。
 今朝までの自信に満ちた瞳は、いまや虚ろで視点も定まらない。
 あの大きな狂鬼との遭遇が、彼女の自尊心を打ち砕いてしまうほどの出来事だったのだとしたら、よほどの温室で育てられてきたのだろうか。

 後ろの天幕からクモカリのイビキが聞こえてくる。
 貴族の娘達も含め、彼らには見張りをする、という考えも浮かばないらしい。

 シュオウは砕いた夜光石を小瓶に入れた。
 こうして一晩中、少しずつ足していかないと、すぐに光は弱くなってしまう。
 この時期、夜になると平地にある深界でも寒さが厳しい。
 不安のせいか、シュオウは眠気を感じなかった。あるいは、慣れ親しんだ森の空気のおかげかもしれない。
 シュオウは外套を目深にかぶり、暖をとった。
 こうして、このまま夜明けがくるのを待つだけだ。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 試験二日目の早朝。
 曇り空がわずかに明るさを帯び始める頃、正面のテントからシトリが目をこすりながら起き出してきた。
 
 「早いのね」

 シュオウはまともに寝ていない。そのことを知らなければ、たしかに誰よりも早起きしたようにしか見えないだろう。

 「まだ暗い。出発はもう少し明るくなってからだ。その時になったら全員起こすから、もう少し横になっていろ」

 シトリは天幕へは戻らず、シュオウの横にピッタリとくっつく形で座り込んだ。
 女性特有の甘い香りが、シュオウの鼻孔をくすぐった。

 「それで、君は一番最初に起きてみんなを起こす係? それってお人好しすぎ」

 シトリが下から覗き込んでくるように言った。
 どこを見ているのかはっきりしない、ぼんやりとした青い双眸が、上目遣いでシュオウを見る。
 シトリは、全体的に見た目が青い。
 髪も目も青系色で、着ている制服もそうだ。おまけに左手の輝石までが淡い水色をしている。
 そんなシトリをまじまじと見つめていると、まるで深い水底に引きずり込まれていくような感覚に囚われる。
 それは、シトリが女性的な魅力に溢れていることも、一因なのかもしれない。

 シュオウは平常心が揺らいでいるのを自覚し、咄嗟にシトリから距離をとり、対面に座した。

 「いきなりそれって失礼じゃない」

 シトリは下唇を噛みながら、半眼でシュオウを見た。

 「突然他人にくっつくのは失礼じゃないのか。それとも、こんなことが当たり前になるくらい、日常的に男の側に座るのか」

 「やめてッ。そんなことあるわけないじゃない、気持ち悪い」

 「だったら――」

 「胸や腰ばかり見てくる男なんてキモイだけじゃん。でも、君は近くにいてもわたしの体をジロジロ見たりしなかったでしょ? なんとなくだけど、君は他の男達とは持ってるものが違う気がする。空気が違うっていうか」

 「空気が違う……」

 「だから、生まれて初めて色仕掛けっていうのをやってみてもいいかなって思っただけ」

 もし、シトリがシュオウに対して安心感を抱いたのだとしたら、それは大いなる勘違いだ。
 シトリに体を寄せられたとき、その色香に心がグラついた。
 シュオウも男としての欲求は当たり前に持っているし、それを意図的に隠すつもりもない。
 シトリから距離をとったのは、ただ単純に、女に慣れていないからだ。
 子供の頃は論外として、思春期を共に過ごした女性は師匠のアマネだけ。
 アマネは育ての親として、また師として敬愛していた相手で、異性として強く意識したことはなかった。
 
 「ちょっと待て、どうして俺に色仕掛けをする必要がある?」

 「君に、お願いしたいことがある」

 ぽやぽやとしたシトリにはめずらしく、真剣な視線を向けてくる。

 「……なんだ?」

 「聞いてくれる?」

 「聞くだけなら、な」

 シトリは軽く咳払いをする。そして、小声で突拍子もないことを言った。

 「わたしを王都まで連れて戻って欲しいの」

 なにを言われるかと身構えていたシュオウだったが、これには流石にとまどった。

 「ここまで来て、今更なにを――」

 「わたしはこの試験を棄権したい。最初から、こんなバカみたいな試験参加したくなかったんだけど、パパが世間体を気にして、どうしても出てくれってウルサイから仕方なく出ただけ。昨日みたいな、あんな大きな化け物が出るって知ってたら、こんなところ絶対にこなかった」

 初めて見た時からやる気のなさそうな様子だったが、本当にやる気がなかったようだ。
 試験に参加したくないという気持ちが、昨日の狂鬼との遭遇で一気に噴出したのだろう。
 シトリはあくまで冷静に、余裕を持って話しているように振る舞っているが、しきりに唇を噛んだり、体をゆすったりして、精神的に不安定になっているのが見てとれる。

 シトリが縋るように言葉を紡いだ。

 「お願い」

 「どうして俺に?」

 「アイセがいない時に、二人きりで話せているから、というのもあるけど、君は言動を見ていると深界にすごく慣れていそうだから。昨日のあのでかいのに会ったときだって、アイセを助けるくらい余裕があったのは君だけだった。だから、ここから王都までわたしを護衛するくらい簡単でしょ? もし、このお願いをきいてくれるなら、君が貰うはずだったお金の二倍、ううん、三倍払う。だから―――」

 「断る」

 「どうして!?」

 「信用できない。会ってまだ間もない。おまけにまともに話したのはこれが初めて。そんな相手の言葉を信じられるわけがない。言われるままに王都へ連れて行って、お尋ね者にされるのは困る」

 「でも――」

 「この話は終わりだ。そろそろみんなを起こすぞ」

 ――厄介だ。

 小隊のうち四人は深界については素人。
 そのうち二人は貴族のお嬢様。一人は自慢の鼻を折られた自信過剰な女で、もう一人は始めからやる気のないうえに、途中棄権を希望している、軟弱で協調性のかけらもないお姫様。
 はたして、彼らと共に、無事森を抜けることができるのだろうか。

 朝日が薄雲を照らし、辺りは明るくなりはじめている。
 いまだにテントの中でのんきに眠る三人を起こして、ここを出発する頃には丁度良い時間になっているだろう。



 午前中はなんら代わり映えしない、森の景色の中を歩き続けた。
 主導権を握ろうとするアイセは先頭を歩き、シュオウに途中棄権の手伝いを依頼したシトリは、重そうな足取りで最後尾を歩いている。
 
 時刻が正午をまわる頃、これまで出発してからずっと一本道だった白道が、突如二股に分かれる地点にさしかかった。
 道は左右に分かれていて、どちらを選択するかによっては状況が大きく変わってくるかもしれない。
 
 「最初の分かれ道、か」

 アイセは腰に手を当て、左右の道を見比べている。

 「目標地点まで一直線じゃないんだな」

 シュオウがそう言うと、シトリは当たり前だ、と言って返した。

 「そういえば地図を渡されていたんだった」
 
 アイセは服の内ポケットから、古ぼけた皮に書かれた地図を取り出した。

 「その地図の通りに進めばいいのか?」 

 「残念ながら、そんなに簡単にはいかない。この試験で使われる古道は長い年月をかけて少しずつ森に浸食されている。だから、地図に書いてある道でも、途中で森に塞がれていたりするらしい。この地図は自分達の現在位置を知るのに使えるくらいだな」

 アイセから地図を受け取る。
 インクがぼやけ、すでに消えかかっている箇所もあるが、まだ全体を見ることができる。
 はじまりの部分から八本の道が大きく描かれている。道が左右に分かれている最初の分岐路が現在地だ。この二つに分かれる道の先には、さらに分岐地点がある。その様はまるで出来損ないの蜘蛛の巣のようでもある。
 選ぶ道によっては行き止まりになってしまうあたり、自然の作り出した迷宮のようなものだ。

 「これほど道が分岐しているのは想定外だ。もし選んだ道の先が森で塞がれていたら、時間を大きく消費してしまう」

 「別に大したこともないだろ。道を間違えたら戻ればいいだけだ」

 「忘れたのか、俺達は試験開始時点で食料を置いてきている」

 「あッ……」

 アイセの顔に陰りが差した。

 もしも道の選択を間違えた場合は大幅に引き返さなければならない。その分にかかる余計な時間は、小隊の食料事情を考えると大きな痛手となるだろう。
 シュオウ一人なら森の中を突っ切ることはできる。だが、慣れない同行者四人を連れて森の中を歩くのは自殺行為だ。
 森の中には、鉄を溶かすほど強力な酸を吐く植物や、動物の鼻や耳から進入して中から内蔵を食い荒らす虫のような、危険な動植物がたくさんいる。
 安全な上層界で日常生活を送るほとんどの人間にとって、灰色の森の中は、入れば命を落とす死の世界への入り口に等しい。

 「……明日から、食事は夜だけにしよう」

 「朝食は硬いパンをちょっとと、一口くらいの大きさの干し肉だけだったのに、これ以上減らすの? ……そんなに深刻?」

 クモカリは胃の上に手を置きながら、不安げに聞いた。

 「その通りだ。行き止まりの道を選んでしまった場合に備えて、食料は少しでも確保しておきたい」

 「仕方ないみたいね……はぁ、頭では納得できるけど、お腹はそうもいかないわね」

 クモカリの腹が、グウと大きな音を鳴らした。
 クモカリほどの巨体を維持するには、現状の食事量では足りないのだろう。気の毒に思う気持ちはあるが、仕方がない。

 気がつくと、全員の視線がシュオウに集まっていた。
 その表情は一様に暗く、不安に満ちている。
 シュオウの緊張した表情と声が、彼らにも伝染してしまったのかもしれない。
 
 「心配するな。まだ悲観するような状況じゃない」

 アイセがゆっくりと強く頷いた。

 「うむ。今はとにかく行けるだけ先に進もう。―――ところで、右と左、どちらの道を選ぶべきだろうか」

 「今の段階では、どちらを選ぶのが最良なのか判断できない。だから、好きなほうを選べばいい」

 「……私がか?」

 「隊長なんだろう」

 「む、そうだな。それじゃあ、左だッ。左に行くぞ!」

 アイセは宣言して左の道への一歩を踏み出した。が、すぐに倒れ込むようにしてその場にしゃがみこんでしまう。

 「痛ッ――」

 「どうした?」

 シトリを除いた三人が、アイセの元に駆け寄った。

 「怪我か?」

 「足が………いや、なんでもない」

 アイセの額には脂汗がにじみ出ている。

 「ちょっと、どうみても大丈夫そうには見えないわよ。休んでいったほうがいいんじゃ―――」

 クモカリがしゃがみ込んで、アイセの様子を心配そうに伺う。

 「必要ないッ。私のことはいいから、早く行こう。―――お前達、先に行け」

 「はいはい………まったく心配してあげてるのに」

 クモカリとジロは渋々先頭を歩きはじめた。シュオウもそれに続く。
 振り返ると、アイセが必死の形相で足を一歩ずつ踏み込んでいた。
 貴族として不自由なく育ったお嬢様の割には、泣き言を言わないアイセに、シュオウは少し感心を覚えた。
 本当なら、すぐにでも休憩を入れるべきなのかもしれないが、自身に甘えを許さない彼女に敬意を払い、この場は黙って先を行くことにした。



 小隊は二日目の夜を迎えていた。
 シュオウ達の現在位置は、地図上で見たところ全体の三分の一にようやく届くかどうか、といった所だ。だが、これも大雑把な見立てにすぎない。
 今は寝床の用意もすませて、全員が束の間の休息で体を休めている。

 「く――ッ」

 アイセが苦しげに声を漏らし、右を抑えた。
 その対面に座るクモカリが、気遣うようにアイセに声をかける。

 「ねぇ、痛いんでしょ?」

 「足の裏が少しチクチクするだけだ。たいしたことはない」

 「たいしたことないって………嘘だってバレバレよ。顔が青ざめてるし、変な汗だってかいてるじゃない……」

 アイセは日中、痛みを堪えてよく歩いていた。
 結局、シュオウはその事に気づいていながらも、最初に見逃してしまったことで、再び声をかけるタイミングを逸してしまった。
 この自信過剰で強情なお嬢様に半端な同情をかければ、意固地になってしまうのではないか、という心配もあった。
 だが、それにしても無理をさせすぎてしまった。

 シュオウはアイセに向き合い、言った。

 「脱げ」

 「………は?」

 全員の視線がシュオウに集まった。
 アイセは目を丸くして聞き返した。

 「い、今なんて言ったんだ」

 「脱げ、と言ったんだ。その靴と、脚に履いているものだ。怪我を見てやる」

 「お、脅かすなッ」

 シュオウはポケットから一輪の花を取り出した。

 「花?」

 「ボルタレンという、深界にだけ咲く花だ。どこででもすぐに見つかる物じゃないが、偶然道ばたに咲いているのを見つけたから摘んでおいた」

 アイセの青ざめて見えた顔が、瞬時に火照ったように紅潮する。

 「ま、待てッ、会ってまだ間もないというのに、いきなり花を贈られるというのは―――」

 「この花が出す蜜には鎮痛効果があるんだ。妙な勘違いをするな」

 真面目な顔でシュオウがそう言うと、アイセの顔面が凍り付いた。

 「あ、アハハハハ、冗談だ、今のは冗談……。準備するから、少し向こうをむいていてくれ。お前達もだ、絶対見るなよ」

 アイセはクモカリとジロにも念を押した。

 「いやねぇ、女の体になんてこれっぽっちも興味なんかないわよ」

 「ジロも、人間のメスに興味なしなし」

 二人はぶつぶつ言いながらも、テントの中に入っていった。

 「―――いいぞ」

 準備を終えたアイセは、こちらに背を向けたままだったので、シュオウは反対側にまわった。
 アイセは左足を前に投げ出し、その上に右足を乗せている。
 しゃがんでアイセの右足の裏を見ると、皮が擦りむけて固まった血でガビガビになっていた。見ているだけで痛々しい。

 「ひどいな。一度水で綺麗に洗ってから処置しよう」

 シュオウはアイセの傷ついた足をそっと水で洗った。
 傷口に触れる水とシュオウの指で相当痛いはずだ。
 アイセは苦痛に顔を歪めながらも、シュオウの手を止めることはしなかった。

 ボルタレンの花を取り出し、花を逆さにして絞る。すると、そこからトロリとした透明な蜜が指の上に落ちてくる。
 このボルタレンという花は、自らが分泌する蜜で小さな虫を誘い、蜜に含まれる麻痺性の毒で痺れさせて捕食する食虫花だ。
 蜜は人体にもわずかながら効果があり、痺れさせる成分が、強力な鎮痛効果をもたらす。
 こういった深界のものに関する知識は、すべて師匠からの受け売りだ。

 「お前は、深界に詳しいんだな。出発してすぐの火の件もそうだが、怪我のときに使える花を知っているなんて、まるで医者か学者みたいだ」

 アイセは神妙な面持ちで、傷口を洗い流すシュオウに語りかけた。

 「俺を育ててくれた人が詳しかった。その人から色々と学んだからな」

 「育ててくれた、というと、お前は孤児だったのか?」

 「そんなところだ」

 「そうか……」
 
 火山のように赤くはじけた足の裏にこびりついた血を綺麗に洗い流し、小指に塗ったボルタレンの蜜を丁寧に患部に塗布していく。
 すると、アイセが体を強ばらせ、妙な声をあげた。

 「あッ――」

 「痛かったか?」

 「ち、違う。痛くはないけど、触り方が優しすぎてくすぐったいんだ」

 「我慢だ。すぐ終わらせる」

 シュオウは処置を続けた。
 アイセは唇を噛み、目を摘むって身悶えている。
 右足だけは固定しているので、蜜を塗るのに困ることはないのだが、さっきからアイセが体をくねらせているせいで、スカートの中から伸びる白い太股が、シュオウの視線を誘ってくるのが誤算だった。
 目の前で繰り広げられる、艶めかしい光景に、その気はなくとも口の中に唾液が溜まり、ゴクリと喉を鳴らしてしまう。
 シュオウはもっと見ていたい、という誘惑を振り払い、傷口を凝視して作業に集中した。
 頭を冷やすために、必死で別の事を考える。

 思い出したのは、子供の頃の事。
 シュオウがひどい傷を負う度に、師匠がこうして傷を洗ってボルタレンの蜜を塗ってくれた。
 そこだけを考えると美しい思い出だが、よくよく思い出すと、シュオウの体に出来る傷や怪我の原因は、師匠その人からもたらされたものだった。美しい思い出というよりは、恐ろしい思い出といったほうがいい。

 「終わった。あとは綺麗な布を巻いて、明日までできるだけ負担をかけないよう、安静に」

 探してみると、雑貨の入った袋の中に包帯があったので、それをアイセの右足に丁寧に巻いた。

 「……痛みが消えた。すごいぞ! あんなに痛かったのに、なにもなかったみたいに痛くない」

 アイセは靴を履いて地面を何度も踏み、喜びの表情でシュオウを見た。

 「蜜には鎮痛効果はあっても癒す薬としての効果はないからな。あまり無理はするなよ」

 「あ、ありがとう……」

 「え?」

 「ち、ちょっと中で着替えてくる。汗をたくさんかいたからな―――」

 アイセはシュオウと目をあわさず、あわてた様子で自分の天幕へ入っていった。

 シュオウの耳には、たしかに、ありがとう、という言葉が届いていた。
 初対面のときは、互いに良い印象を持ってはいなかったはずなのに、不思議なものだ。
 今のシュオウは、アイセに対してそう悪くない感情が芽生え始めている。
 
 シュオウは地面に腰を下ろした。
 すると、突然ぬるりと横から足が伸びてきた。
 今この場にいるのはシュオウと、そして朝出発してから一度も口を開いていないシトリだけだ。

 「なんだ、これは」

 「足だけど」

 「見ればわかる。というか、居たんだな」

 「酷いこと言うんだね。さっきからずーっとここにいるのに」

 「黙って俯いてばかりいたから、存在をすっかり忘れていた。―――で?」

 シトリは依然として足をシュオウの前に投げ出したままだ。

 「わたしも足が痛いの。アイセにしたことと同じ事をして」

 「だめだ。ここに来るまで普通に歩いてただろ。怪我をしているようには見えなかったぞ。それに、蜜はさっきので使い切った」

 「ふうん……ねえ、もし、わたしが怪我をしたら、同じように治療してくれる?」

 「さあな。するんじゃないのか。同じ花があれば、だが」

 要領を得ない会話に苛立ちを感じて、投げやりに言った。

 「冷たいね。アイセには妙に優しくしてるのに。もしかしてご機嫌とり? アイセに取り入って、将来雇ってもらいたいとか? わたしを王都へ連れて帰ってくれるなら、パパにお願いして仕事を紹介してあげる。アイセの家ほどじゃないけど、うちだって子爵家で、それなりに裕福なんだから」

 「余計なお世話だ。これからのために必要だから怪我を見てやった、それだけだ」

 「ふーん……あっそ」

 シトリはふてくされたように足を引っ込めて、ぷいと余所を向いた。
 結局、そのままだんまりを決め込んでしまったシトリが、いったいなにをしたかったのか、シュオウには解らないままだった。



 この日の食事は、ほんの少しのパンと赤ワインで煮込んである豆料理の保存食だ。
 パンは長期保存用に、乾いていて硬く、味も素っ気ない。
 豆料理のほうは細切れにした野菜と一緒に煮込み、調味料をくわえてあるので味はまあまあだ。
 全員に同じ分量を分配し、少しずつそれを食べる。
 昨日までとは違い、皆の間に自然と会話が交わされて、和やかな空気が満ちている。
 それは、硬かったアイセの態度が軟化したのが大きな要因なのかもしれない。
 
 「みんなに言っておきたいことがある」

 皆が食事を終えて間もなく、アイセが姿勢を正して、注目を集めた。

 アイセは座ったまま、深く頭を下げる。

 「どうしちゃったのよ急に」

 クモカリは唖然として声をあげた。

 「私の性格が頑固で融通が利かないというのは、よく言われる。だが、自分の失敗を認めるくらいの余裕はあるつもりだ。昨日、シトリが言っていた通りだ。お前達が平民だというだけで知りもしないで一方的に見下していた。それが間違いだったと知った。そこの―――」

 アイセはシュオウを見て言い淀んだ。
 直感で、シュオウはアイセの望んでいる言葉を咄嗟に思いつく。

 「シュオウだ」

 「―――シュオウのおかげだ。お前は私よりよほど物を知っている。言うことや行動も的確で、私なんかとは全然違う。平民にもこんな人間がいるのかと思ったら、それを見下していた自分が、なんだかくだらない存在に思えてきてしまった」

 「たまたま深界についての知識があっただけだ。俺にも知らない事は山とある」

 「だとしてもだ、お前は頼りになるじゃないか。落ち着いているし、冷静だ。そんな姿を見ていると自分と比べてしまって情けない気持ちになるんだ」

 しゅんと弱気になってしまったアイセを前にして、シュオウは二の句が継げなくなってしまった。
 僅かな沈黙が訪れる。

 「アタシの故郷は鉱山街でね―――」

 不意に、クモカリがゆっくりと自分の事を話し始めた。

 「―――アタシも小さい頃から採掘を手伝って、けっこうな重労働だったから、気がついたらこんなに筋肉もついちゃったのよ」

 クモカリは腕に力を入れて、たくましい筋肉を披露した。

 「なにが言いたいんだ」

 「要するに、掘る事に関しちゃ、アタシの知識と経験はちょっとしたもんなのよ。この中で採掘なんてしたことある人いる? いないでしょ。つまりそういうことよ。誰にでも出来る事と出来ない事があるの。自分に出来ない事があって、側にそれを出来る人がいるなら、その人に助けてもらえばいい。でも、自分はその人に出来ない事ができちゃったり、知らないことを知ってたりすることもあるんだから」

 「助け合い、ということっぽい」

 ジロはキリッとした表情で頷いた。

 「そうか……その通りだな。私も精々この試験の間に学ばせてもらおう。いいか?」

 アイセはなぜかシュオウを見て言った。

 「知っている事なら、な」

 「さっそくだが、一つ教えてほしい事がある」

 シュオウは黙って頷き、続きを促した。

 「昨日の、あのでかい狂鬼の事だ。正直、恐ろしくて考えないようにしていたが、これから先も、あんなのがウヨウヨしているのか?」

 「ここの白道は狭いうえに古い。狂鬼除けの効果も期待できないから、これから狂鬼と遭遇する可能性は、一般的な白道とは比べものにならないくらい高くなるはずだ」

 アイセは自分の手の平を見つめて、自問するかのように呟いた。

 「あの狂鬼には私の晶気が通用しなかった。もし、またあんなのに遭遇して、こちらを狙ってきたらと思うと………」

 「虫型の狂鬼は外皮の硬い種類が多い。獣型の狂鬼の大半は、単純な鉄剣でも傷はつけられる」

 「そうか。なら、私にも名誉挽回の機会はあるかもしれないな。先のことはわからないが、できるだけ順調な旅になるよう祈ろう。―――今日は先に休ませてもらう。話せてよかった」

 アイセが天幕に入り、シトリも無言で続いた。
 クモカリとジロも寝袋を抱えて寝床に入って、夜の一時は解散となった。
 皆、あまり口にはしないが、一日中歩きずくめで疲れきっているはずだ。

 シュオウも、クモカリに休むように促されたが、後で休むと言ってやんわり断った。

 外套を深くかぶり、体を抱え込むようにして丸くなる。この姿勢で目を閉じているだけでも、、体力を温存できる。
 静かで長い夜を、そうして孤独に過ごした。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 「やっぱり起きてた」

 早朝、といってもまだ夜中といってもいいくらい辺りは暗い。
 小瓶に夜光石のかけらを追加していると、シトリが目をこすりながら起き出してきた。

 「まだ寝ててもいいぞ。今日もかなりの距離を歩くことになる」

 「もう十分。下がゴツゴツしてて、寝てても体が痛いだけだし」

 それに返事はせず、黙々と作業を続けた。
 空気は身を切るように冷たい。
 シトリはシュオウの正面に座り、手持ちの上等な外套を羽織って、手を擦りながら暖かい息を吹きかけた。

 「なにか喋って。もう、いまさら連れて戻れ、なんて言わないから」

 シトリのぼんやりとした碧眼が、シュオウをじっと見つめる。

 「他の奴がいないとよく喋るんだな。話し相手が欲しいなら、俺よりクモカリやアイセのほうが向いてるだろ。普段から積極的に話しかけたらどうだ」

 「いやよ。集団で馴れ合うのってダルいだけじゃん。昨日のアイセとかさ、突然良い子ちゃんになっちゃって、ほんとにバカみたい」

 シトリは抑揚のない声で淡々と言った。感情がこもっていないので、どこまで本気で言っているのか把握しにくい。

 「見ているかぎり、アイセにきついようだな。嫌いなのか?」

 「だーいっ嫌い。いっつも自分は正しいです、みたいな態度でさ。真面目で努力家で、ほんと見てるだけで暑苦しい」

 「真面目で努力家なのは良い事だろ」

 シュオウが言ったことを受けて、シトリの表情が険しくなった。

 「ふーん……アイセをかばうの?」

 「そうじゃない。けど、必死で努力をして頑張っている人間を笑うようなことはしたくないだけだ」

 「つまんなあい。―――もう少し寝るから、時間がきたら起こしてよね」

 そう言ってシトリはさっさと天幕へ戻っていってしまった。

 ――なんなんだ。

 シトリとはまともに会話が続かない。
 なんとなく腑に落ちない物を感じながら、シュオウは一人首をかしげた。



 午前中、全員が起きてテントを片付け、早々に出発した。
 今日から朝食は抜くことになっている。
 空腹に耐えるように、クモカリとジロが腹を押さえていた。
 夜のわずかな食事だけで体力がもつか心配だが、今は仕方がない。
 アイセの足は昨日より状態が良いようで、蜜の鎮痛効果も継続しているのか、足取りも軽やかに元気よく先頭を歩いている。
 
 歩き出して間もなく、道の先が二股に分かれる分岐路にさしかかった。
 だが、徐々にそこに近づくにつれ、シュオウは尋常ではない気配を感じ取り、皆の足を止めた。
 
 「待て、様子がおかしい」

 「どうした?」

 アイセが立ち止まり、こちらを振り向く。

 「臭いだ…………森とは違う臭いがする」

 微風に乗って、わずかに届く微かな違和感。

 ――空気が苦い。

 そう感じた瞬間、記憶からこの臭いを思い出した。

 「火、か」

 「火だと? ―――そうか、先に入ったあいつらか。もう追いついてしまったんだな」

 シュオウ達の行く白道は、出発前に先に入った小隊があった。
 アイセにからんだ貴族の男子生徒と、シュオウ達に喧嘩をふっかけた傭兵くずれ達がいる小隊だ。
 途中道が二つに分かれていたが、彼らも同じ道を選択したのだろう。
 それなら火の臭いがしても不思議はない。
 だが、シュオウの不安は晴れない。
 風で運ばれてきた火の臭いの中に、かすかに血の臭気が混じっていたからだ。

 「全員ここで待っててくれ。俺はこの先の様子を調べてくる」

 「奴らを警戒しているのなら心配無用だぞ。森の中での試験参加者同士の敵対行動は禁止されている」

 「それは心配していない。―――ただ、気になるんだ」

 「気になるって、なにがだ?」

 「この先から嫌な気配がする。先に行ってたしかめてから合図を送る。それまで待て」

 緊張が必要な事態だと教えるために、強い調子でアイセに告げた。

 「わ、わかった」

 「クモカリ、俺の荷物を頼めるか」

 「まかせて」

 シュオウは背負っていた袋をクモカリに手渡した。

 「全員、身をかがめて静かにしていてくれ」

 シュオウは単身で、臭いのする道の先をめざした。
 身を低くし、足音を殺して少しずつ前へ進むごとに、血の臭気は強くなっていく。

 緊張が高まる。

 シュオウの視界に飛び込んできたのは、焦げた臭いを放ちながら散らばる無数の焼けた枝。
 その周辺に飛び散った大量の血と、血だまりの中に悲壮にころがる、ちぎれた人間の左腕。
 少し離れたところでうつぶせに横たわった男の姿。
 大地を抉ったような大きな爪痕が、ここで起きた出来事を物語っている。

 狂鬼に襲われたのだ。

 シュオウは感覚を研ぎ澄ませて、周囲の気配を探った。
 眼で全景を見渡し、耳で世界の音を聴く。
 鼻はだめだ。焦げた枝の臭いと、濃厚な血の臭気で役に立たない。
 
 ――狂鬼の気配はない。

 狩りはすでに終わっている。
 シュオウの経験が、そう断定してもいいはずだと告げていた。
 
 腰をかがめたままの状態で、倒れている男の元に駆け寄った。
 横たわって微動だにしない男の首元に手をあて脈を確認する。

 ――生きている。

 ドクンドクンと、力強く命の音は脈動している。
 ゆっくりと男の体を仰向けに起こす。
 男の顔を確認したとき、シュオウは少し戸惑った。
 試験開始前日の夜、シュオウの頭に酒をかけた、あの傭兵くずれだったからだ。

 「おい、しっかりしろ」

 男の頬を軽く叩いて、シュオウは何度か呼びかけた。
 すぐに男は絞るように呻き声をあげて、意識を取り戻した。

 「……あ……う……………」

 「しっかりしろ。わかるか?」

 「……おれ、は……生きているのか……?」

 「そうみたいだ。仲間を呼んでくる―――そこで大人しくしていろ」

 シュオウは男をそっと地面に寝かせ、離れたところで待機している小隊へ手を振って合図を送った。
 間もなく、シュオウに追いついた小隊の面々は、この場の惨状に酷く怯えていた。
 血だまりと千切れた腕を見たアイセとシトリは口と鼻を抑えながら、潤んだ瞳で辺りを見渡していた。

 「酷いわね……」

 「クモカリ、水を――」

 「あ、はい」

 クモカリから水袋を受け取り、傭兵くずれの元まで戻った。
 皆もシュオウに続き、横たわる男を囲むようにして集まった。
 衰弱した様子の男を抱き起こし、水を与える。
 男はゆっくりと確実に水を飲み下し、息を吐いた。

 「ぷはぁ―――」

 「話せるか?」

 「全身が痛いが、口は、動かせそうだ」

 「なにがあった?」

 傭兵くずれの男は、息を切らせながら、ゆっくりと説明しはじめた。

 「狂鬼に襲われた………休憩中、飯を炊いていたんだ。そしたら、突然二匹の赤い狂鬼が現れて、仲間の一人を食った。俺は咄嗟に手をつかんだんだが、狂鬼はそれを噛み千切りやがった。俺はその後すぐに吹っ飛ばされて、たぶん意識を失ったんだな………他の奴はどうなった? 貴族のぼっちゃん共ともう一人平民の男がいたはずだ」

 「今の話にあったこと以外の痕跡は見あたらない。おそらく逃げ出したんだろう」

 「へッ、ははは………あいつら、俺の生死も確認しないで置いていったのか………流石は貴族様だぜ、反吐が出るほど割り切ってやがる、ごほッごほッ」

 男は激しく咳き込んだ。

 「もういい、事情はわかった。とりあえずここから離れよう。血の臭いにつられて、また狂鬼がくるかもしれない。―――歩けるか?」

 「無理だな、右足が折れちまってる。………俺の事は置いていけ、どのみち森のど真ん中で身動きできなくなった時点で運命は決まっちまってたんだ」

 男は投げやりに言った。
 男の硬そうな髪にはわずかだが白髪が混ざっていて、外見から四十前後くらいの年齢に見える。
 ヒゲをはやした年期の入った顔には、無数の傷跡が刻まれていた。
 この場で命乞いをしないのは、傭兵として場数を踏んできたからなのかもしれない。
 自分を置いていけ、と言ったその顔に、恐怖や怯えの色は微塵もない。
 あるのはただ死を受け入れ、命をあきらめた中年男の姿だけだ。

 「この男を連れていく」

 シュオウの言葉に、皆が難色を示した。

 「気持ちはわかるが、ただでさえきつい道のりなんだぞ、なのに、その………」

 アイセは言い辛そうに語尾を切った。
 シュオウの意見に反対するということは、すなわち目の前の男を見殺しにすることになるからだ。本人の前ではっきりと否定し辛いのだろう。

 「無理なら最初から提案しない。とにかく、今はこの男を連れて先に進もう」

 まわりの返事を待たず、シュオウは男を強引に背負った。
 立ち上がるとき、男の重さで膝が震えた。横幅があってかなり重い。

 「お、おいッ。俺はいいんだ、おろせッ!」

 「黙ってろ、無駄に体力を消耗するだけだ」

 暴れてずり落ちそうになった男を、アイセが後ろから支えた。

 「よし、お前がそこまで言うなら信じるぞ」

 「くそッ………」

 男は観念したのか、それきりおとなしくなった。

 「この先は分岐路になってる。どっちを選ぶんだ?」

 地面をよく見ると、わずかに人が踏み荒らした後のような形跡が、右の道のほうへと続いている。

 「ここから逃げた生き残りは、右の道を選んだみたいだな。狂鬼がそれを追っている可能性もある」

 地図では、この分かれ道はどちらを選んでも同じ道に繋がっている。なら、より安全である可能性が高いほうを選ぶのは当然だ。

 「左へ行こう。―――いいか?」

 念のためにアイセにも確認をとったが、アイセは即答で承諾した。

 シュオウ達は、足の折れた傭兵くずれを加え、六人でこの場を後にした。
 去り際、シュオウは後ろを振り返り、血だまりに視線を送った。
 千切れた腕の手の甲にある灰色の輝石が、血に濡れて赤黒く見える。
 側にいれば助けることが出来たのだろうか、という考えが頭をよぎって、直後にその思考を否定した。
 人にかぎらず、輝石を持つすべての生き物は、輝石なくしてはこの世界で生きてはいけない。
 あの腕の持ち主も、輝石のある左腕を千切られてしまった時点で、死という運命からは逃れられなかったのだ。

 シュオウはやり切れない気持ちを残しつつ、この場を立ち去った。



 「嘘だろ………」

 日中休まず歩き続けて、夕方を迎えて森は薄暗くなっている。
 にもかかわらず、シュオウ達の前に広がる光景は、まるで今日の努力を嘲笑うかのような一面の灰色の森だった。
 古い白道は完全に森に飲み込まれ、この先に道があった痕跡すら探すことができない。
 漂う悲壮な空気の中、アイセが膝をついて座り込んだ。

 「右への道が正解だったみたいだ……すまない」

 いたたまれない気持ちになり、シュオウは謝罪を口にしていた。

 「いや、あの状況では正しい判断だった。このことで誰を責めたりもできない。私も同意したからな」

 アイセが力ない声で、シュオウをかばうように言った。

 「そうよ、これはただ運が悪かっただけよ。―――でも、今日はこれ以上歩くのは無理そうね」

 クモカリは暗くなった空を見上げた。

 「ああ、今日はここで休むしかなさそうだ」

 辺りはこうして話している間に、どんどん暗くなっていく。
 明日は今日来た道を引き返さなければいけない。
 そのせいで消費する時間と体力が、歯がゆかった。



 夜になり、夜光石の頼りない光を囲みながらの夕食は、これまでにないくらい暗い雰囲気を漂わせていた。
 皆、疲れている。食事量は最低限だし、日中は休みなく歩き続けている。
 そのうえ、今日のあの出来事は、皆の心に暗い影をおとした。
 人の死を目の当たりにし、怪我人を連れて行くことになり、おまけに道半ばで引き返さなければいけない。
 傭兵くずれの男は、ここへ来てすぐにテントの中で眠ってしまった。
 ジロも疲労の色が濃く、早めに食事をすませて寝袋に入った。
 残った四人は、重たい空気の中で食事を口に運んでいた。

 「アタシだって、この試験が命がけってことは知ってて参加したけど、実際に死っていうものを直視してしまうと、急に恐くなってくるわね」

 クモカリは食事の手を止めて、難しい顔で不安をこぼした。

 「私もそうだ。あの、血だまりの光景が頭から離れない。あそこに転がっていた腕が、もし自分のものだったら、という考えが浮かんで見ていられなかった」

 アイセはパンを口に運ぶ手を止めて、視線をおとした。

 「こんな危険な試験になんの意味があるのかしら。最初は命がけなのは平民だけかと思ってたけど、貴族の生徒達だって危ないんじゃない?」

 「ああ、実際その通りだ。毎年、宝玉院の卒業試験での死者は、従士志願者として参加する平民だけじゃない。多いときで両手で数えきれないくらい、生徒にも死者が出る。平民は参加者の半分以上が死ぬと聞いている。そんな思いをしても、この卒業試験で合格基準に達するのは極数人なんだ」

 聞けば聞くほど不可解な話だった。
 いくらでも替えがきく平民とは違い、彩石を持つ貴族の数はかぎられる。
 強力な晶気を操る彩石を持った貴族の軍人は、そのまま国の軍事力となるはずだ。
 その貴重な卵である軍学校の生徒達を、あえて命を落とすかもしれない危険な深界に放り込むのはどういう意図があるのだろうか。

 「一つ、聞きたい」

 シュオウはアイセに疑問を投げた。

 「なんだ?」

 「さっき言っていた、試験の合格基準についてだ。平民の参加者は、試験に参加するだけで報酬が約束されているが、軍学校の卒業試験として参加している生徒達は、なにをすれば合格扱いになるんだ」

 アイセは何かを言いかけて、わずかに固まった。
 そして、苦虫を噛み潰したような顔で話し始めた。

 「………連れて帰ることが出来た平民の数だ。三人のうち、二人以上を連れて目標地点にたどり着ければ合格。その条件を満たせなければ、たとえ一番で目標地点に到達できたとしても不合格だ」

 「まるでゲームの駒扱いね……」

 クモカリにしてはめずらしく、険のこもった声だった。
 アイセは何も言い返すことができず、気まずそうに視線をはずした。

 「こんな試験、なんの意味もない。みんな本心ではおかしいって思ってるよ」

 突如、シトリが吐き捨てるような口調で言った。

 「おいッ!」

 「本当のことじゃん。アイセだって、何年か前の試験でお兄さんを亡くしてるんでしょ? 本当はこんなのおかしいって思ってるんじゃないの?」

 「おまえッ―――」

 激高して立ち上がったアイセだったが、クモカリが鎮めるように絶妙な間で問いかける。

 「ね、ねえ、お兄さんを亡くしたって本当なの?」

 「………兄、といっても腹違いだし、一度も口をきいたことがなかった」

 アイセは落ち着きを取り戻し、元の位置に戻った。
 険悪になりかけている場の空気を読まずに、シュオウは無遠慮に疑問をぶつけた。

 「話を聞くほど違和感を感じるな。親交がなかったとはいえ肉親を失って、それでも黙って試験に参加するのか? 他の貴族の生徒達だって、この試験で家族を失った経験をした者もいるんじゃないのか」

 アイセは渋々、といった様子で答えた。

 「この試験は、貴族の家に生まれた者なら全員が参加している。ある種の成人の儀式もかねているんだ。それに、卒業試験に合格することは名誉なんだ。軍で大きな仕事を与えられ、未来の出世も約束される。そうなれば家名もあがるし、親や親族は社交界で自慢できる。毎年の合格者は片手で数えられる程度だからなおさらだな。だから、試験の危険度などに不満をもっていても、それを堂々と言ったりする者はいないんだ」

 「なら、合格できなければどうなる? もう一度挑戦できるのか」

 「いや、機会は一度だけだ。合格をもらえなければ辺境の冴えない仕事に飛ばされたり、事務や警備などの地味な仕事しか与えられない。当然、この手の仕事で出世は望めないから、出世欲のある者は試験に必死の覚悟で挑んでいる。数日前の私のように、な」

 「たった一度の失敗で、その後の人生が左右されるのか。それでよく不満がでないな」

 「我々貴族は、全員が一度は軍隊に入らなければならない義務がある。女なら五年、男は十年勤めれば死ぬまで年金がもらえるし、この試験で合格する者は極わずか。合格すれば羨望の的だが、不合格だからといって笑われたり、見下されるということはない。それに―――」

 アイセはあからさまに言葉を切った。

 「それに?」

 「いや、なんでもない」

 アイセはそれ以上話す意思がないと言わんばかりに、夕食のパンにかぶりついた。
 
 それにしてもおかしな話だ。
 試験に合格するための条件は、同小隊の三人の平民のうち、二人以上を連れて目的地まで辿り着くこと。
 一見簡単そうに見えるこの条件も、食料という問題が壁となって立ちはだかる。
 五人小隊に与えられる食料は、わずかな携帯食と、食べるのに火が必要となる米だ。狭く、本来の効力を発揮できなくなった古い白道で火を使うのは自殺行為。
 本来自然界にあるはずのない火は、その独特な臭いで狂鬼を呼び寄せてしまう可能性が高まる。
 その結果を、今日シュオウ達は目の当たりにした。

 そして、そこそこの量のある米袋は、重い。
 それを背負って長時間歩くのは、体格の良い大人であっても、相当な負担となり、小隊の進行速度にも影響する。
 つまり、その点では試験がはじまってすぐに米を捨てていったシュオウの判断は正しかったことになる。
 だが、次に問題になるのが時間だ。
 米を捨てた場合、手持ちは量の少ない携帯食だけ。それが尽きる前に目標地点までたどり着くことができなければ、狂鬼に襲われなかったとしても、いずれ餓死してしまう。
 道は途中でいくつも分岐し、運が悪ければ行き止まりに当たって時間を大きく消費してしまう。

 食料をすべてかかえて行けば、餓えることがないかわりに、狂鬼に襲われる危険が高まる。
 そして食べるために火が必要になる米を捨てていけば、狂鬼に襲われる確率が減り、身軽になるかわりに、食料が尽きる前に目的地までたどりつかなければならなくなる。
 後者のやり方を選んでも、先を行く道が森に浸食されていれば、後戻りしなければならず、それにかかる時間により、少ない食料はさらに減る。

 つまり、この試験はリーダーの責任感が強く、かつ合格することに意欲のある者ほど、苦しむ仕組みになっている、とも考えられる。

 この試験は、とことん意地が悪く、参加者を苦しめるように出来ている。
 このルールを最初に考えついた人間は、相当にひねくれ者で意地が悪い。

 「この試験はいつからやっているんだ?」

 「かなりの大昔からだぞ。ムラクモの伝統行事だからな」

 「その長い歴史の中で、この試験内容を問題視する人間はいなかったのか?」

 「もちろんいた。子煩悩な親などは、この試験に子供を参加させることを嫌がる者もいた。だけど、その都度―――」

 まただ。さっきと同じように、アイセは中途半端なところで言葉を切る。

 「言いにくいことか?」

 「びびってるんだよね」

 シトリがアイセを嘲笑した。
 
 「シトリッ」

 「吸血公が恐くて、名前を出すのも嫌だって正直に言えばいいのに」

 「吸血公……」

 氷姫と同じような俗称なのだろうが、吸血とは穏やかではない。

 「勘違いするな、別に恐くて言えなかったんじゃない。シトリが言ったのは、ムラクモ王国軍元帥にして内政も一手に取り仕切る王轄府の長、そしてムラクモが誇る燦光石の一つ《血星石》を持つグエン・ヴラドウ元帥閣下の事だ。吸血公というのは、昔から影でそう呼ぶ者達がいるだけで、別にグエン様が人の血を吸っているから、というわけじゃないぞ」

 「聞いた事があるわ。数百年に渡って生き続け、ムラクモ王家を支え続ける吸血公グエン。その男は老いから逃げるために夜な夜な若い女の生き血をすするって……」

 クモカリはわざと声を震わせて、芝居がかった身振りでそう言った。

 「そんなわけあるか。吸血公というのは、グエン様の持つ血星石の力がどんなものなのか、一切の情報がないせいで誰かがふざけて想像した話が広がってしまっただけなんだ。石の名前に血という言葉が入っていたせいで、適当に恐そうな話をでっちあげられたんだろう」

 「やぁねぇ、アタシだってそれくらいわかってるわよ。悪いことをしたら吸血公に血を吸われるぞ~っていうのは、ムラクモでは定番の子供を怖がらせるお話だものね」

 話がそれはじめているような気がして、シュオウはその修正を図った。

 「話を戻したい。そのグエンという人物が、さっきの試験の話とどう繋がるんだ」

 「うむ………グエン様は昔からこの卒業試験を強く推しているんだ。優秀な人材を探すためには命がけの試練が必要、というのがグエン様の主張だ。過去それに反対を表明した有力な貴族もいたが、ほとんどが押さえ込まれたか、強硬に言い張った者は家ごと潰されたと聞いたことがある。そのこともあって、試験についての不満を語るのは、貴族達の間ではどこか禁句のようになっている」

 「ムラクモの王は、この件について何も言っていないのか」

 グエンという男が、軍と内政を取り仕切る立場だとしても、立場上はあくまで王の臣下だ。
 試験に反対する有力貴族達が、過去に王に進言したりはしなかったのだろうか。

 「グエン様は三百年以上前の歴史書にも名前が出てくる。それくらい長くムラクモを見守ってきたという事もあって、王家に絶対の信頼をよせられている。それに、前女王陛下はすでに病で亡くなられ、今現在、王座は空席だ。次期王位継承者だった方は事故で命を落とし、残されたサーサリア王女殿下が現在唯一の王位継承者だが、当時まだ幼かった殿下を心配して、王家の燦光石である《天青石》の継承を、グエン様が先延ばしにされている。燦光石を持つ人間は、肉体の老い方がゆるやかになるからな」

 「燦光石というのは、持って生まれる物ではないのか?」

 大規模な自然災害級の力を発揮するといわれる燦光石。
 この特別な輝石は、彩石と同じように血によって受け継がれると聞く。
 今の話では、生後、それも時期を選んで継承できる、というふうにもとれる。

 「燦光石はそれを持つ家の血を引く者のみが受け継ぐことができる特別な石なんだ。だが、その継承方法については有力貴族家の者でも知らされていない。燦光石の保有者が死ぬと、次の継承者が選ばれて、ある日突然、燦光石の新しい保有者になっている。その詳細については謎だらけだ」

 「燦光石を受け継いだかどうかの基準はどうなる。言われたままに信じるのか」

 「見ればわかるぞ。明らかに並の彩石とは気配が違うからな。それに、輝石はその力が強いほど重く、硬くなる性質がある。考えるだけでも不敬なことだが、その気になれば調べるのは簡単なことだ。実際に調べさせてください、なんて言う愚か者はいないがな」

 「……なるほど、な」

 グエンという男は、大昔からこの国の中枢で軍事と政治の両方に深く関わり、王家からの信頼も厚く、さらには燦光石の保有者でもある。これほどの傑物に意見を述べるなど、並の人間なら最初から考えることすらしないだろう。
 現在は王が不在。次期王位継承者は燦光石の継承をしておらず、まだ年若い。それらを考慮すれば、件の男は現在のムラクモにおいて、圧倒的な権力を有していることが容易に考えられる。

 「話してくれて助かった。色々と理解できた」

 「うん。なにか参考になったか」

 「この命がけの無茶な試験は、この国の偉い人間が好んでやっていることだ、ということがわかった。それだけで十分だ」

 強大な権力を手に入れた者は、ある程度自分の思い通りに生きることができる。わがまま、ともいえるが、力さえあれば、そうした事も許されてしまうのが人の世の常だ。矛盾だらけに思えるこの試験も、そうした権力者の趣味だといわれれば、いっそ楽に納得できる。

 後ろの天幕から、傭兵くずれの大きなイビキが聞こえてくる。
 食事中だったのだが、話している間、皆なんとなく手が止まっていた。
 シュオウも、腹が減っているはずなのに、手元にあるチーズを少し囓っただけでおいてある。
 正面右側に座っているシトリが、少しずつ口に運んでいたパンを食べ終えて、チーズに手をのばした。
 だが、掴み損なったのか、指先ではじかれたチーズが地面に落ちて転がってしまう。

 「あッ………」

 普段、感情の色をあまり見せないシトリだが、この時は意外なほど落ち込んだ表情を見せた。

 シュオウは落ちて砂埃や石粒のついたチーズを拾って、かわりに自分の食べ残していたチーズをシトリの手の上に置いた。

 「いいの………?」

 「ああ。俺が一口囓ったのでよければ」

 シュオウは落ちたチーズの汚れを適当に払って、口に放り込んだ。
 腐汁のでた残飯にがっついていた子供時代を思えば、ほんの少し汚れただけの食べ物に抵抗感はまったくない。

 「シトリ、私のと交換してやろうか? まだ口をつけていないんだ」

 アイセは自分のチーズを見せつつ、シトリに聞いた。

 「いい」

 「でも、男の食べかけは抵抗があるだろ、こっちのと交換したほうが―――」

 「いいっていってるじゃんッ! しつこくしないで」

 「わ………わるかった」

 シトリはシュオウの渡したチーズの塊を一口で頬張り、飲み込んでしまった。

 この日の夜は、これ以降一度も会話することなく終わった。
 最後に小さな諍いをおこしたアイセとシトリは、それっきり互いを視界に入れようともしなかった。
 冬の寒さが体に染みる深界の夜にあっても、その二人の周辺だけはさらに凍えるような空気が漂っていたような気がした。


 







           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 人間は、生きていくうえでいくつもの試練に遭遇するという。
 いつか読んだ本でそれらしい言葉と共にそう綴られていた。
 物語に登場する英雄達もまた、そんな試練を乗り越えて栄光の道を駆け昇る。
 悪者を打ち倒し、人々に賞賛され、お姫様と結婚してその国の王になる。
 そんな人生を夢にみたこともあった。
 だというのに、現実の自分に与えられたこの試練は、あまりにも地味で苦しい。

 ――重い。

 背中に背負った傭兵くずれの事だ。
 見た目以上に身が詰まっているらしい。
 とにかく重い。それに硬い。
 元傭兵というだけはある。なかなか鍛えられた筋肉だ。これが女性のふわふわとした柔肌なら、どれほどいいかと考えても無駄な努力でしかない。
 そして、臭い。ただでさえ男臭いのに、トドメに汗臭さまで漂わせている。
 
 ――眠い。

 出発して早四日目となるが、その間まともな睡眠をとっていないせいで目蓋が重かった。
 
 ――疲れた。

 道中、歩きながらクモカリやアイセ、時折ジロやシトリと交わす会話は楽しかったが、それでも日が出ている間は歩きっぱなしで、体力にはそこそこ自信のあるシュオウでも強烈な疲労に襲われる。なれない人付き合いと、寝不足もその一因である。

 早朝から来た道を戻り、昼前には昨日のあの惨事があった場所まで戻ることができた。
 血だまりはあいかわらずそこにあったが、ころがっていた腕は消えていた。
 おそらく、森の生き物に食われたのだろうが、考えるだけで気が滅入りそうだったので、だれも口にはしなかった。
 分岐路の右の道を行き、そこからさらに奥へ歩を進めた。
 ここまでシュオウは、昨日の傭兵くずれの男を背負って歩いてきた。
 クモカリが自分が背負うことを申し出たが断った。重斧を背負い、かつシュオウが持っていた分とあわせて袋を二つ預けている。
 シトリは荷物を持っただけで崩れてしまいそうなほど華奢だし、アイセは足を怪我している。ジロは体格の問題で無理。というわけで、実質荷物持ちとして勘定できるのは、クモカリしかいない。シュオウが荷物を受け持った場合、斧と背負い袋二つを持つのは無理だ。そうして必然的に、シュオウが男を背負うことになるのである。

 シュオウの首筋に、一筋の汗が流れた。

 「おい」

 背後から、男がシュオウを呼びかける。

 「なんだ」

 「降ろせ、もう十分だ」

 「断る」

 朝から何度したかわからない問答だ。いいかげんうんざりする。

 「さっきから息があがってるじゃねえか………もういいんだ。ろくに歩けねえ怪我人をつれていけるほど、深界は甘くはねえぞ」

 「甘くないのはよく知っている。いいから黙って背負われててくれ」

 「………わかってるんだろ、あの夜、俺がお前達にからんだ張本人だってことは」

 「ああ」

 「なんでなにも言わねえ。俺はお前の頭に酒をかけたし、そこのデカイのや蛙人をバカにした。そんな俺をなぜ助ける」

 「全部、過ぎたことだ」

 「どうしてそう思える……憎くないのか、俺が。あの時、怪我をした俺を嗤いながら見捨てていくこともできたはずだ」

 「出発前日の夜の事は、たしかに気分の良いことじゃなかった。でも、それが命と釣り合うほどの事だとは思えないんだ」

 男は沈黙して息をのんだ。

 「それに、助けるのが無理だと思ったら最初から連れてきたりしない。ただ、自分の手に持てるモノは持って行く、それだけだ」

 「……ちくしょう、わかったぜ、俺の負けだ………あの時の事はすまなかった。俺はどうにも酒癖が悪くて、飲むと気が大きくなっちまうんだ。今となっちゃ後悔しかねぇ………本当に悪いと思ってる」

 「許すさ―――そうだろ?」

 シュオウはクモカリ、ジロの両名を見て言った。

 「もちろんよ、あんなの慣れっこだし、最初から気にしてないわ」

 「ジロはそんなことより、早く帰って魚を食べたいっぽい……」

 ジロはベロを出して溜め息を吐いた。

 「だ、そうだ」

 「ありがてえ。俺はボルジってんだ、呼び捨ててくれてかまわねえ。ぶっちゃけた話ができたから言っておきたいんだが、もし俺がいることでお前達が本当にどうしようもないくらい苦しくなっちまったら、ためらうことなく俺を置いていってくれ。俺はな、お前らに見捨てられなかった事が内心嬉しかったんだ、だからよ、これがせめてもの礼としてだせる俺の覚悟みたいなもので――――」

 早口でまくし立てるボルジの口を、シュオウは止めた。

 「ボルジ」

 「んあ? なんだよ、まだ話は途中で」

 「そろそろ黙ってくれないか。さっきから口が臭くてたまらないんだ」

 「んぐッ」

 「ぷッ」

 小隊全員が吹き出した。
 先を黙って歩いていたアイセも、後ろをのっそり歩くシトリも、全員が笑い声をあげていた。
 嘘を言ったつもりはなかったが、シュオウの言葉に不機嫌そうに口を閉じたボルジが可笑しくて、シュオウもこらえきれずに笑いがこぼれた。
 状況はなにひとつ好転していない。なのに、こうして皆と笑っていられる時間が、たまらなく楽しいと感じる。
 シュオウ達は歩き続けながら、その後もしばらく色々な話に花を咲かせた。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 五日目の昼過ぎ、道が大きく二つに分かれる分岐路にさしかかった。
 一方は左にほぼ真横に伸びる道。もう一方はこのまままっすぐ前に伸びる道だ。
 特徴的なこの分かれ道は、地図上でも確認しやすい。
 地図でおおまかに把握できる程度だが、かなり目標地点まで近づいているのがわかる。順調にいけば、二日ほどで森を抜けられるかもしれない

 「どっちを選ぶ?」

 アイセが疲れを滲ませた顔でシュオウに聞いた。

 左へと続く道は別の大きな道へ続いている。その先に森を抜ける事ができる道があればいいが、行き止まりしかなかった場合は、またここへ戻ってこなければならない。
 地図上では、このまま真っ直ぐ進むルートを選択した場合、フォークのように三つに分かれる最後の別れ道がある。そこから伸びる三つの道はすべて目標地点まで繋がっているが、途中で森に塞がれている可能性もあるのだ。別れ道すべてが塞がれていた場合も、またここに戻ってこなければならない。
 食料は節約しているが、ボルジの分も加えて一人あたりの配分はさらに少なくなっている。

 「どちらを選んでも、先の事は未知数。運にまかせるほかないが、あえて二つの道の差を探すなら―――」

 シュオウは左へ続く道を観察した。
 よく見てみると、左への道には古くなり壊れた白道の隙間からはえる雑草に、踏まれたような形跡がある。

 「ボルジを置き去りにした連中は、左の道を選択したかもしれないな」

 「あいつらが………そうか。なら私達は真っ直ぐ進もう」

 「あら、迷ってたのにあっさり決めちゃうのね」

 クモカリが意外そうに言った。

 「連中は狂鬼に襲われているし、仲間も見捨てた。そんな奴等と同じ道を行くのは縁起が悪いような気がしたんだ」

 「縁起って………ババ臭いわね」

 「う、うるさいッ。皆、よければ行くぞ!」

 照れたように背を向けて、アイセは歩き出した。
 その選択に文句をいう者はいなかった。
 今のところ、どちらを選ぶにしても運にまかせる以外にない。
 アイセのいう、縁起というものを判断材料にして進むのも、悪くはないだろう。



 分かれ道を出発してからたいして時間もたたないうちに、薄暗い森の中から奇妙な音が聞こえてきた。

 チッチッチッチッチッチッチッチ――――

 舌を小刻みにならしたような高い音。

 トットットットットットットットットット――――

 今度は少しだけ低音になった音が、やはり小刻みに鳴り響く。

 「なんの音だ………」

 皆が足を止め、アイセが緊張した面持ちで周囲を見回した。
 チッチッチ、トットット、という不気味な音は左右から交互に聞こえてくる。

 「気味が悪いっぽい……」

 ジロは小振りな剣と盾を構え、身を低くした。
 それを合図にしたようにアイセも身構え、クモカリは荷物を置いて重斧を手に持った。

 「やつらだッ、またあいつらが来たんだッ」

 シュオウの背中に背負われているボルジは、震える声で言った。

 森の草木が音をたてて揺れた瞬間、左右から同時に赤い狂鬼が姿を現した。
 炎のようにたゆたう長い体毛。安定感のある四本足の先には、鋼のように頑丈そうな爪がある。頬まで裂けた口からは、ズラリと並んだ鋭い牙がのぞいていた。
 そして額の上には、人が持つ物の三倍はある、白濁した輝石が鈍く光を反射している。
 形こそ犬や狼とそっくりだが、その大きさは前足の長さだけでシュオウの身長と同じくらいある。
 レッドアゲート、と名付けられたこの狂鬼は、シュオウのいた森にはあまり生息していなかった。
 姿を見たことはあるが、そのときは安全な場所で遠目から見ただけで、これほど近くで相対するのは初めてである。

 「こいつらだ、まちがいねえ! 俺の隊を襲った二匹の狂鬼だッ」

 レッドアゲートは群れで行動する獣の狂鬼だ。彼らは二体以上の群れをつくり、連携して獲物を狩る。
 レッドアゲートのような獣型の狂鬼は、その行動に計算が含まれている。虫型狂鬼のように丈夫な外皮こそ持っていないが、素早さと狡猾さは侮れない。

 「よ、よしッ、わ、わ、私にまかせておけ!」

 アイセはそう叫んで、晶気の剣を構築した。
 レッドアゲートはシュオウ達の前と後ろに立ちはだかり、少しずつ後ろに間合いをとっている。
 小隊の隊列は、前にクモカリとジロ。中央にアイセとシトリ。後方はボルジを背負ったままのシュオウがいるだけだ。

 トルトルトルトルトルトル――――

 ツツツツツツツツツツツ――――

 あの不気味な音が、前後の狂鬼から聞こえてくる。

 ――会話しているのか。

 二匹の狂鬼は、舌を鳴らしてあの音を出している。互いにしかわからない方法で連絡を取り合っているのだ。
 おそらくは、狩りの手順を。

 ――どうする。

 後方に陣取った狂鬼は、徐々に後退している。なぜか殺気は感じなかった。

 急な事態を迎えた場合、咄嗟に最善の手を判断するのは難しい。
 こうした場合、もっとも頼りになるのは経験だ。
 森や狂鬼についての経験はそれなりにあるが、それはすべて自分一人だけで対処する場合で、仲間がいたり、怪我人を背負っている今のような状況での経験はない。
 なにをどうすればいいのか、咄嗟に考えが浮かばない。

 ――どうすれば。 

 対抗策を考える間もなく、前方の狂鬼は動く。
 後退をやめ、ジグザグに道を縫うようにこちら目がけて疾走した。
 アイセは晶気の剣を構えるだけで、恐怖でヒザがわらっている。これでは頼りにすることはできそうもない。

 「防御だ!」

 シュオウは叫んだ。
 咄嗟のことだったが、クモカリは重斧の平らな部分を前にだし、ジロも盾を両手でしっかり持って攻撃にそなえた。
 目の前まで迫ったレッドアゲートが、前足の爪でクモカリとジロに襲いかかる。
 振りかぶられた前足は、クモカリの斧に当たり、ギィィィィと金属をひっかく嫌な音をたてた。
 レッドアゲートは即座に爪を離し、素早く後退して距離をとった。

 ――おかしい。

 クモカリは並の人間よりはるかに筋肉質で、斧も盾として使うのに、強度は申し分ない。
 だが、それにしても今の一撃は軽かった。本当なら斧ごと飛ばされそうになっていてもおかしくない。なのに、爪が軽く触れただけで狂鬼は攻撃の手を止めた。
 まるで様子をみているか、獲物を嬲っているようだ。
 後ろに陣取って動かないもう一体のレッドアゲートは、近いとも遠いともいえないような絶妙な位置でこちらを伺っている。
 そのレッドアゲートの赤い眼が、シュオウを視ていた。

 ――狙いは俺……いや。

 レッドアゲートの視線はシュオウとは重ならない。その先にあるのは、シュオウの背にいる怪我人。

 ――本当の狙いはボルジか。

 はじめから、彼らはこの人間の群れの中でもっとも弱っているものに狙いをつけた。
 だとすれば、一方が陽動するようにやる気のない攻撃体勢を見せ、後方の一体がなにかを待つように動かない理由も理解できる。
 レッドアゲートのように群れで行動する狂鬼は基本的に臆病なのだ。
 できるだけ狩りの危険度を減らし、欲張らずに標的と定めた獲物のみを得ようとし、狩りの方法はもっぱら追い込み役と獲物に襲いかかる役に分けられている。
 彼らは待っている。
 弱って楽に獲得できそうな獲物に隙ができるのを。あるいは、シュオウ達が足手まといになりそうな仲間を置いて逃げるのを。

 前方の一体が、再び加速をつけて突進してきた。
 レッドアゲートが次に攻撃をしかけたのはジロだった。
 振り下ろされた前足を、ジロは器用に盾でいなし、後退する。
 一瞬動きの止まったレッドアゲートに対して、クモカリが重斧を振る―――だが、驚異的な反射神経ですばやく反転し、難無く躱されてしまった。

 「どうするのッ、このままだと押し込まれるわ! 後ろのも一緒にこられたら―――」

 クモカリが興奮気味に叫ぶ。
 狂鬼に対して冷静に対処できているが、顔には怯えが色濃くでていた。

 「よ、よし、次こそは私の風の剣で………」

 アイセは一歩前にでた。
 晶気の剣をそれらしく構えてはいるが、腰は完全にひけている。

 トットトトト、ツッツツツ――――

 前後の狂鬼がなにかの意思を交わした。

 唸り声がして、二体が同時に動き出した。
 二回の様子見の攻撃で、与しやすい相手と判断したのかもしれない。
 二体は本気で獲物を捕りに動き出した。一糸乱れぬ完璧な動きで、ジグザグに迫り来る。

 「同時にきた!? ど、どうすれば―――」

 アイセは前後に首を動かして、晶気の剣を前へ後ろへとふらふら動かしている。

 「アイセッ!」

 ――すまない。

 シュオウは心の中で謝りながら、アイセの背中を前に思い切り蹴飛ばした。

 「……え?」

 シュオウに押し出されたアイセは、クモカリとジロを追い越して、一人突出する形となる。
 猛烈な勢いで迫る狂鬼の前で戸惑っているアイセの背中に、シュオウは大声で叫んだ。

 「アイセ、盾だ! 晶壁を!!」

 「え、あッ―――」

 アイセは晶気の剣を消し、咄嗟に晶気の壁を前面に展開した。
 それとほぼ同時に、二体の狂鬼が小隊に襲いかかる。
 前方の一体が繰り出した一撃は、アイセの晶壁によって完璧に防がれた。
 後方から襲い来る狩り役の狂鬼は、やはり迷わずシュオウを狙ってきた。
 もう一体の今までの攻撃とは比べものにならないくらいの強烈な右前足の一撃が、シュオウを襲う。

 ――大丈夫。

 シュオウにはすべて見えていた。
 レッドアゲートの最後の踏み込みから、右前足を高く持ち上げる様子。舞い上がった砂塵と石粒。
 なぎ払われる前足の爪が、シュオウの上半身を狙っている。
 躱すのは簡単だが、あえて寸前まで体を動かさず、爪が届くギリギリの距離まで待ってから、わずかに立ち位置をずらし、激烈に空気を切り裂きながら迫る鋭利な爪の一撃を躱した。

 仕留めた、と思ったはずだ。

 飛び散るはずだった血しぶき、そこから漂う血の臭い。そのどちらもなく、爪はむなしく空気を切り裂いただけだった。
 狩り役のレッドアゲートは一瞬の戸惑いをみせた。
 舌で鼻を濡らし、血の臭いを探す。
 まばたき一回分ほどの短い時間だったが、シュオウの眼はその瞬間を見逃さなかった。
 狂鬼の直前まで距離を詰め、左前足の一番小さな足の指を、今出せるすべての力をこめて踏み砕く。
 木が折れるような乾いた音がして、レッドアゲートが甲高い悲鳴をあげた。
 後ろに飛び退いて、背中から地面に転がり苦しげに息を吐いている。

 ――これでしばらくは時間を稼げる。

 シュオウは振り返り、アイセ達のいるほうを見た。
 アイセが展開した風の晶壁に、前足での一撃を阻まれたレッドアゲートは、後退することなく、そのまま晶壁に前足と爪を押し当てていた。

 ――踏み抜く気か。

 アイセの晶壁は幾重にも折り重なった緑色の風の晶気で構築されている。岩をも切り裂きそうなほどの鋭い爪の一撃を、完璧に防いだその力は、見事といっていい。だが、問題はそれを扱う人間のほうだ。

 「くうッ―――」

 アイセは次第に狂鬼の勢いに押されはじめて、立ち姿勢を保てなくなってきている。少しずつヒザは折れ曲がり、ついには地面に片膝をつく形となってしまった。

 「クモカリ、ジロッ! 前足を狙え!!」

 二人は互いに顔を見合わせた後、頷いてから前に出て、武器で痛烈な一撃を叩き込んだ。
 クモカリが振り下ろした重斧は、晶壁を押さえ込むレッドアゲートの右前足に食い込み、ジロの小剣での一撃は、体を支える左前足に突き刺さった。
 両前足に傷を負ったレッドアゲートは悲鳴をあげて転がり、這いずるようにして森の中へ逃げていく。

 一体は片付いた。
 しかし、後ろから感じる気配はまだある。
 シュオウが振り返った瞬間、

 「間に合った」

 というシトリの声が耳に届いた。
 見ると両膝を地面につき、両手の中に大きな水球を抱えるシトリの姿があった。
 シトリは晶士だ。扱う晶気は高威力だが、放つまでに時間を要するのだという。
 これまでの修羅場の中、一人静かに力を溜め続けていたのだろうか。
 普段の言動から、戦力としてまったく期待していなかったシュオウは驚いた。
 
 残った狂鬼は左前足を浮かせつつ、こちらを睨みつけている。牙を向きだし、尻尾をあげて臨戦態勢は解いていない。
 そこに目がけて、シトリが青白く輝く晶気を放った。

 「水球、放つッ」

 放たれた大水球は、目算を誤ったのか狂鬼の少し手前の地面に衝突した。しかし、その威力は凄まじく、地面を大きく抉り、水球の衝撃で砕かれた古い白道は、つぶてとなって狂鬼に襲いかかった。
 轟音が鳴り響き、土埃が盛大に舞う。
 視界が晴れると、そこにはヨタヨタと体を震わせながら立ち上がるレッドアゲートの姿があった。
 完膚無きまでに痛めつけられた狂鬼は、血まみれになった体を揺らしながら森の中へと姿を消した。

 「やった………………やったんだッ!!」

 座り込んでいたアイセが飛び上がり、クモカリとハイタッチを交わした。

 「勝ったっぽい、やったっぽい!」

 ジロもぴょんぴょん跳びはねて、喜びを全身で表現していた。

 「信じられねえ……一人の犠牲者もださずに、あの狂鬼を追い払っちまうなんて」

 シュオウの背にいるボルジは、臭い息を吐きながら感嘆の声を漏らした。
 危険な状況を脱することができたので、ボルジを地面に降ろす。

 シュオウは地面に尻餅をついたまま放心したように虚空を見るシトリに声をかけた。

 「大丈夫か?」

 「……たぶん」

 涼しく見えるシトリの顔には、うっすらと汗が見えた。
 シュオウは手を差し出した。

 「凄かったな」

 シトリはシュオウの手を取り、はじめて見せる花の咲いたような美しい笑みを浮かべた。

 「ありがと」

 そう言って、シュオウに体重を預けて立ち上がる。

 「あッ」

 勢いよく引っ張ったせいか、シトリは立ち上がるのと同時にシュオウの胸に吸い込まれてしまった。
 甘い香りと、柔らかなシトリの胸の感触が服越しに伝わり、心臓がドクンと跳ね上がる。

 「ごっほん!」

 シュオウがギギギと錆び付いたかのように固まった首を動かすと、にやにやと視線を送る仲間達と、目を尖らせてこちらを睨みつけるアイセがいた。
 その視線に気づいた瞬間、シュオウは一歩後ずさり、照れ隠しに咳払いを一つした。

 「シトリのことは優しく抱き留めて、私には蹴りをくれるのか……」

 いつもより半音低い声でアイセが言った。

 「あれは、そうするのが一番だと思ったからだ」

 「だとしても、女の背中を足蹴にして、狂鬼の前につき出したんだぞ。一言くらいあやまったっていいじゃないか」

 「あやまった」

 「いつだ? 聞いてないぞ」

 そういえば、と思い出してみると、たしかに口には出していなかったかもしれない。

 「あー、いや………」

 冷や汗が背中をつたう。

 「ほらみろッ! さあさあ、謝れ。遅れた謝罪でも受け入れるぞ。私の心は広いんだ」

 本当に心の広い人間はそんな事を言わないと思うのだが、火に油なので黙っておく。

 「とにかく、全員が無事でよかった。一休みしたら、暗くなるまでまた歩こう」

 「こら、勝手にまとめるなッ、ちょっと、おい―――」

 シュオウにまとわりつくアイセをネタに笑いつつ、小隊はわずかの間休息をとった。
 大きな危機を皆の力で乗り越えたことで、小隊の雰囲気は良好だ。

 シュオウは空を見上げた。
 昨日まで薄い灰色だった雲が、今日は一段色が濃くなっている。
 降り出す前に目標地点まで辿り着くことができればいい。
 シュオウはしばらくの間、重たい曇り空を見つめていた。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇









 
 深界踏破試験、六日目。
 すでに日が出て時間がたっているのに、前日よりもさらに濃くなった雲に覆われて、辺りは夕方のように薄暗い。
 まるで黄昏の世界に囚われたような感覚に、例えようのない漠然とした不安を感じた。

 かつて一人で森の中に居たとき、これほどの不安を感じたことがあっただろうか。
 あの頃の自分と違うこと。それは行動を共にする仲間達の存在だ。
 彼らを守りたい。
 無事に森を抜け、それまでの苦労を皆で笑いながら話したいと思っている。
 だが、頭の中では常にそうはならない未来も想像してしまう。
 もし、小隊の仲間達の一人でも失うことがあれば、もうこれまでの共に過ごした時間を、良質なものとして心に留め置くのは難しくなってしまう。

 ――結局、自分が大事なだけか。

 この不安な気持ちの根源は、仲間を失うことではなく、仲間を守れずに自分の心が傷つくのを恐れているにすぎない。

 シュオウは空を見た。
 雲は薄灰色の部分に、ほとんど黒に近い濃い灰色の雲が混ざりあっている。こうした色の雲が出るときは、激しい大雨が降りやすい。

 雨が降れば狂鬼は狂う。その理由を人間は知らない。

 狂った狂鬼は、空腹でなくとも敵と定めた相手を手当たりしだいに捕食しはじめる。生気のない灰色の世界の中、血肉を貪るその姿は、まさに狂気の沙汰。
 その間、脆弱な人間にできることといえば、怯えて逃げ惑うか、じっと動かず雨がやむのを待つくらいだ。
 今のシュオウにできる事は、雨が降り出す前に森を抜けられるよう祈ることくらいだ。

 朝の冷えた空気で、吐く息が白くなる。
 けして軽いとはいえない人間一人を背負って歩くのは、本当に疲れる。
 だからといって速度を落とすわけにはいかない。
 途中、息があがるたびに、自分を置いていけとわめくボルジの言葉を聞き流した。
 シュオウにも意地はある。
 拾っておいて、疲れたから置いていく、などとは絶対に言いたくないのだ。

 「はぁ、はぁ―――」

 疲労で息が荒くなる。鼻で呼吸する余裕がなくなり、冷たい空気を口から出し入れした。

 「おい」

 「置いていく気はないぞ」

 ボルジに声をかけられたシュオウは、二の句を待たずに言った。

 「ちげえよ。………これを、預かってほしいんだ」

 ボルジは服の内ポケットから、宝石のついた指輪を取り出してシュオウに手渡した。

 「指輪?」

 「王都の〈鳥の頭〉って酒場で、給仕をやってる女がいる。隊商の護衛で東側に来るたびに、その店に寄って話してたら惚れちまってな。今回のこの試験で金を稼いで結婚を申し込もうと思ってたんだ」

 ボルジは照れくさいのか、頭をボリボリと掻いた。

 「そんな大事な物なら自分で持っていたほうがいい」

 シュオウは指輪を返そうとしたが、ボルジはそれを手の平で突き返した。

 「ここまで順調に来ることができたのは奇跡みたいなもんだ。俺っていうお荷物を背負わせたまま、無事に森を抜けられるなんて甘いことは考えてない。だから、もし俺になにかあったら、この指輪を女に渡して欲しいんだ。店に行って、俺の名前を出せば相手はすぐわかるはずだ」

 「……しかし」

 「お前を信用してるから、これを渡すんだ。頼む」

 わずかにためらいながらも、シュオウは指輪を受け取り、胸ポケットの底にしまった。

 「一応預かっておく」

 「……ありがとよ」



 昼をすぎた頃、三股に分かれる分岐路に差し掛かった。
 直線に伸びる道と、左右に大きく分かれる二つの道が見える。 

 「ねえ、これって」

 クモカリは期待に満ちた顔でシュオウを見た。

 「地図では、これが最後の分かれ道みたいだな」

 地図上で見る、フォークのように三つに分かれる道は、そこから試験の目標地点まで、かなり近いところにある。
 もし正解の道を当てることができれば、半日とかからずに森を抜けることができるかもしれないが、三つの道すべてが行き止まりになっている可能性も十分あり得る。

 「真ん中の道はダメっぽい」

 どの道を選ぶか、相談しようとした矢先、ジロがそんなことを言った。

 「どうした?」

 「ここから見えるギリギリのとこ、塞がってるっぽい。ジロは、人間よりちょっと視力良い感じだし」

 目を細めて道の先を見ると、たしかに奥のほうで道が途切れ、森に浸食されている様子をわずかに見ることができた。

 「本当だな。そうなると、選べる道は二つ。右か左、どっちを選ぶか」

 シュオウはアイセに視線を送った。

 「私が決めていいのか?」

 「隊長が決めればいい」

 アイセは自嘲気味に笑った。

 「隊長……か、いまさらな気がするけどな。―――よし、右へ行こう。この先が塞がれていないことを祈って」

 アイセの言葉に全員が頷いて、力強く一歩を踏み出した。



 遙か上空にある雷雲が、グググと音を鳴らした。
 周囲の空気は、午前中より重くなっているような気がする。
 逢魔が時。
 視界の先は、強欲に道を飲み込んだ、灰色の森で埋め尽くされていた。
 
 「行き止まり、か」

 「すまない、ハズレをひいてしまったようだ……」

 「気にするな。幸い、ここまでそれほど距離はかかっていない。明日には挽回できる」

 「うん。でも、今日はそろそろ休んだほうがよさそうだな。夜が近いし、雨も降りそうだ」

 太陽は沈みかけている。厚い雲に覆われた森は、まもなく漆黒の世界へおちるだろう。

 「そうしよう。できるだけ道の真ん中にテントを用意して―――」

 シュオウが指示を出そうとしたとき、シトリの震える声がそれを遮った。

 「ねえッ」

 一番後ろにいたシトリは後ずさりながら、来た道の先を指さした。

 「あれ、なに………」

 道幅いっぱいに横一列に並んだ大きな影が見える。影はゆっくりとこちらへ迫ってくる。
 影の正体に気づいたとき、シュオウは固唾を飲み込んだ。
 数にして十体以上。赤毛の狂鬼、レッドアゲートが低く喉を鳴らしながら、こちらを睨んでいる。

 ――数が、多すぎる。

 「もしかしなくても、私たちを狙っているんだろうな」

 絶体絶命の状況にあっても、アイセは落ち着きを保っていた。狂鬼を前にしただけで震えていたこれまでの姿が嘘のようだ。
 クモカリもジロも取り乱した様子はない。
 前日のレッドアゲート二体を追い払った事で、自信に繋がったのかもしれない。
 しかし、これだけの数を相手にするのは無謀だ。昨日の二体は慎重だった。それ故に、シュオウ達にも勝機を見いだすだけの余裕があったのだ。
 今回のように多数の群れで現れたレッドアゲートは、数を頼りに力任せに襲ってくるはずだ。そうなってしまえば、全員が無事にこの危機を乗り越えるのは不可能になる。

 ――考えろ。

 いくつもの想像が浮かんでは消える。
 どうすれば、仲間に犠牲をだすことなく、この危機を乗り越えられるのか。

 ――戦う。

 否。勝てたとしても必ず犠牲者がでる。

 ――自分を囮に。

 否。すべてを引きつけられるという保証はない。

 ――逃げる。

 どうやって?
 うまく全員がすり抜けられたとしても、レッドアゲートの足からは逃げ切れない。
 後ろは森に囲まれている。
 自分一人なら森に入ってやり過ごすこともできる。だが、知識も経験もない仲間達にそれは期待できない。

 ――考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。

 不意に、後方から流れてきた風が、冷や汗で濡れたシュオウの首筋を撫でた。

 「風?」

 風は森で塞がれた道のほうから流れてくる。
 高い木々で囲まれているこの場所では、本来こんなに低いところに流れるような風はこない。

 ――もしかしたら。

 一瞬の閃きから沸いた希望に縋るように、シュオウは森で塞がれているはずの道の奥を見た。
 巨大な灰色の木々の間から左奥へ伸びる白い道が、かろうじて視界に入る。

 「クモカリ、残った食料をすべて地面に蒔いてくれ」

 「え?」

 「たのむ」

 「わ、わかったわ」

 クモカリは食料の入った背負い袋を逆さまにして、中身をすべて地面にぶちまけた。
 食料といってもわずかなものだ。
 パンにチーズ、豆などの保存食。小隊にとって命綱でもあるそれらが、すべて道の上に散らばった。

 「全員聞いてくれ。塞がれた道の先に小道がある。これから一斉に走ってそこを目指す。合図は俺がだす」

 聞き返す者などいなかった。
 シュオウの短い言葉だけで、全員がその意を汲み、ここから逃げ出すために身構えて足腰に力を入れる。

 行け、というシュオウの言葉を合図に、全員が地面を蹴った。

 レッドアゲートの群れは、シュオウ達が走り出したのと同時に一気に距離を詰めようと駆け出す。
 地面に捨てた食料は、レッドアゲートの気を引くためのものだが、たったあれだけの食べ物で彼らが見逃してくれるはずはない。

 欲しいのはわずかな時間。

 臭いで注意が一瞬でも散漫になれば、小道に逃げ込むだけの時間稼ぎになってくれる。
 生きるために、必死に駆け走る。
 その最中、レッドアゲート達が地面に捨てた食料の臭いを嗅ぐために一瞬足を止めているのが見えた。

 小道は、そこへ近づくほどはっきりとその姿を視認できた。
 二本の巨木の間に、人間一人が通れるくらいの狭い白道が奥へと伸びている。
 捨てた食料に早々に興味を無くしたレッドアゲート達は、全速力で追跡を再開した。
 一番に小道に辿り着いたアイセが、二本の巨木の間に入った。シトリ、ジロがそれに続く。

 「シュオウッ!」

 クモカリは小道の入り口の前で、ボルジを背負っているせいで遅れていたシュオウを待ち、先に入れと促した。
 レッドアゲートの群れは、すぐそこまで迫っている。
 シュオウは勢いそのままに小道に飛び込んだ。
 それを確認して、クモカリも小道へ飛び込む。

 「きゃあッ」

 小道に入ったはずのクモカリが、尻餅をついて後ろへ引きずられていった。

 「クモカリッ!!」

 シュオウは背負っていたボルジを降ろして、クモカリの足を掴んだ。
 物凄い力で引きずられそうになるが、地面に落ちたボルジがシュオウの足を掴み、そのボルジの体を先に入っていたアイセ達が掴んで、どうにかつなぎ止める。
 見上げると、巨木の狭い隙間から、頭だけ突き入れて、クモカリの持つ背負い袋に噛みついたレッドアゲートが見えた。
 レッドアゲートは唸り声をあげながら、クモカリを外へ引きずり出そうともがいている。

 「袋だッ、背負い袋を肩からはずせ!」

 クモカリはするりと、背負っていた袋から腕を抜いた。
 入り口へ引きずる力がふっと軽くなる。
 シュオウはすぐに起き上がり、クモカリの足を持ったまま中のほうへ引きずった。
 直後、再びレッドアゲートがこちらに頭を入れ、牙を向き出しにして、何度も噛みつく動作をする。その度に血臭のする生暖かい息が届いた。
 すこしして、レッドアゲートは頭を引っ込めた。

 「あ、あきらめたのかしら……」

 クモカリがおそるおそる立ち上がった瞬間、ぬうっと鋭い爪を光らせる赤い前足が伸びてくる。
 前足はクモカリの頭上まで届き、瞬きをする間もなく振り下ろされた。
 シュオウは爪がクモカリに届く寸前、服を後ろに引っ張った。
 爪は小指ほどの距離でクモカリには届かず、空を掻いただけに終わった。

 呼吸は乱れ、心臓はうるさいくらい鳴っている。
 ほんの少し、なにかを間違えば、クモカリはシュオウの目の前で引き裂かれていたかもしれない。
 その後も、隙間からレッドアゲートの前足が、何度も獲物を掻き出そうとして暴れていた。

 「奥へ行こう。ここは危険だ」



 森の中に伸びる小道は、三股に分かれていた道の、中央の道がある方向に向かって進んでいた。
 道幅の狭い白道の左右には、灰色の木々が隙間無く立ち並び、自然の作った壁のようになっている。息苦しさを感じるが、今は壁となって害敵から身を守ってくれる灰色の木々が頼もしい。

 夜の暗闇の中で頼りにできるのは、足下の硬い白道の感触と、仲間達の存在だけだった。
 しかし、荷物をすべて失ったことで、その仲間達からは意気消沈した気配しか伝わってこない。
 まだ希望はある。この小道が別の道まで続いていれば、そこから一気に森を抜けられるかもしれない。

 ――途中で行き止まりだったら。

 考えたくもない。
 食料も、休む場所さえもない状況で、今まで来た道を戻るのは、精神的にも肉体的にも負担が大きすぎる。



 「みんなは、どうしてこの試験に参加したんだ」

 暗闇の小道を行く途中、アイセが唐突に聞いた。
 話をして、心細い気持ちを紛らわせたいのだろう。
 暗い中を黙りこくって歩くよりは、よほど健全だ。

 「クモカリはどうなんだ?」

 最後尾を行くクモカリは、わずかに間を置いて話し始めた。暗闇でほとんど姿が見えないが、声でたしかにそこにいるのがわかる。

 「報酬で王都に自分の店を持とうと思ってるわ。アタシは孤児院の出身でね、子供のいなかったパパとママに拾われたんだけど、当時から男の子に恋をしたり、女の子の服を着たがったりしてたアタシを、なにもいわずに養子にしてくれたの。ママは少しして病気で死んじゃったけど、パパはそれから男手一つで育ててくれて…………今も鉱山で重労働してるわ。せめてもの恩返しに楽させてあげたくて、商売でもはじめようかって。そんな感じね」

 クモカリの口調は、ついさきほど死線をくぐったとは思えないほど穏やかで、優しかった。そのことで、彼の育ての親に対する暖かい気持ちが伝わってくる。

 「……そうか。ジロは、どうだ?」

 「ジロは旅をして、人間や色んな世界を見たかったぽい。いっぱい反対されたけど、後悔はしてないっぽい。でも、人間の世界はお金いっぱい必要だし。いろんな魚料理を食べるために、これに参加したっぽい」

 旅の目的の大部分が食い意地に支配されてそうなジロの言葉に、皆がくすりと笑った。

 「ボルジはどうして参加したんだ」

 「惚れた女がいる。結婚を申し込むのに、まとまった金とまともな職が欲しかった」

 シュオウの背にいるボルジは、短く言った。

 「皆、いろいろあるんだな。シトリは―――」

 「わたしにそれを聞くの? こんなほぼ強制参加のバカみたいな試験。パパに泣きつかれてなかったら、出たりしなかった。早く帰って暖かいベッドに入りたい」

 シトリは無愛想な声で返した。

 「アウレール子爵が泣きついた、のか………あんまり想像できないな」

 「しないであげて。ああみえて、一応は強面で通ってるんだから」

 「そうだな、ここだけの話にしておこう。―――シュオウ、お前はどうして参加した。金か? それとも従士に志願したかったのか」

 問われて、考えた。

 ――俺は、どうして。

 最初の目的は金だった。
 ジロと同じように人々が暮らす世界を見て回りたくて、そのための金が欲しかった。
 でも今は違う。
 金のためにはじめたことが、今は仲間と共に無事森を抜けたい、という目的に変化していた。
 仲間と共に過ごしたこの数日間は、もはやシュオウにとって、何ものにも代え難い大切なものとして心にある。
 それを説明するのは気恥ずかしいので、シュオウは照れ隠しに一言だけ告げた。

 「金だ」

 シュオウの言葉があまりに素っ気なさ過ぎたせいで、アイセは呆れた様子で笑った。

 「つまらんやつだな」

 「そっちはどうなんだ」

 「私は与えられた道の中で、精一杯努力するだけだからな。この試験も、これから先の人生の中での小さな壁くらいにしか思っていなかった。でも、今はこの試験に参加できて―――いや、お前達と同じ小隊になることができてよかったと思っている。疲れてふらふらするし、空腹で腹が鳴る。足も痛い。なのに、不思議と今の瞬間を愛おしく感じている。まだ終わってほしくないとすら思うんだ」

 はじめて会った頃の傲慢で刺々しい話し方をするアイセを、今思い出すのは難しい。彼女もまた、この短い間に悩み、成長したのかもしれない。
 シュオウも、たった数日で金のためが、仲間のために、という考えに変わっている。
 無愛想で無気力だったシトリも、時折微笑んでみせたり、少しずつだが皆と言葉を交わし始めていた。
 仲間と築いていく絆には、人を変える力がある。シュオウは、それを身をもって実感していた。

 アイセが話を終えたのとほぼ同時に、シュオウの頬にぽたりと水滴が当たった。

 ――雨。

 本格的に降り出した大粒の雨。すべてを捨てて逃げてきたシュオウ達にとっては、これ以上ない追い打ちだった。

 「こんなときに雨なんて……止むまで待機したほうがいいんじゃないのか?」

 激しく降る雨は、周辺の木々や地面を叩き、ザァザァと大きな音をたてている。
 アイセが叫ぶようにして言った言葉でも、雨音に打ち消されてかすかに聞き取れた程度だった。

 「だめだッ、この雨は体温を奪う。少しでも歩いて、雨宿りできそうな場所を探そう」

 まわりにこれだけ木があるというのに、雨よけの傘になってくれそうなものは一本もない。雪になってもおかしくないくらい冷たい雨に長時間さらされれば、最悪凍死してしまうか、よくても風邪をひいてしまうかもしれない。どちらにしても、深界の中で孤立する小隊にとっては致命傷になる。

 「ねえ、道が―――」

 暗闇の中でクモカリの声がして、足下を見ると、雨水に濡れた白道がぼんやりと光を帯び始めていた。そのおかげで、ほとんどなにも見えなかった周囲の様子がぼんやりと照らされて浮かび上がる。
 豊富な水分を受けた白道は、まるで白蛇のような姿で幻想的な光を放っていた。
 道は長く先まで続いている。
 
 「行こう、この先へ」

 ここが別の道へと続いていれば、まだ希望を持てる。
 
 激しく降りしきる雨の中、朧気な光の道を行く。
 森のどこかから、狂鬼の猛った咆哮が聞こえたような気がした。



 歩き始めて一時間もしないうちに、シュオウ達はあっけなく小道の出口まで辿り着いた。

 「ここは……」

 「三股の分岐路の真ん中の道だな」

 小道を出た先は、これまで歩いてきた道と同じような古道だった。
 小道は右の道から斜め左方向に、ほぼ直線上に伸びていた。そこから考えて、この古道は、最初に塞がれていた中央の道でまちがいない。シュオウ達は、塞がれていた道の先へと辿り着いたのだ。
 道のずっと奥を遠望したとき、シュオウは少しの間言葉を失った。

 「みんな……あれを」

 シュオウはそこへ向けて指さした。
 長く一直線に伸びる白道のさらに先に、森の切れ間があり、そこから煌々と輝く白い光が見える。
 道の奥から漏れる光は、整備された新しい白道の放つ光に違いない。

 「夢じゃないのか……」

 アイセは自分の頬をつねった。

 「幸いなことに現実だ」

 夜以外休まず歩き続け、少ない食事量で我慢して、狂鬼との命がけの戦いに勝利し、その後命からがら逃げてきた末に、ここまで辿りついたのだ。
 仲間全員で勝ち取ったこの瞬間が、夢であるはずがない。

 気づけば、言葉もなく皆で駆け出していた。
 雨で濡れた体は凍えるように冷たくなっている。にもかかわらず、どこからともなく力が沸いてくるのだ。
 アイセも、ジロも、シトリもクモカリも、そしてシュオウも、皆が希望に満ちた顔で走った。
 アイセは試験官達の驚く顔を想像して笑い、シトリは暖かいベッドを望み、ジロは想像の中で魚料理に舌鼓を打っていた。
 このまま、これまであったことを笑いながら、森を抜けられる、そう思っていた。

 二体の大型狂鬼が、目の前に立ちふさがる直前までは。

 左右の森から、かき分けるようにして現れたのは二体の狂鬼。
 左から出てきた一体は、森に入ってすぐ遭遇したオウジグモ。
 右の森から出てきたもう一体の狂鬼の名はソウガイキ。地域によってはジルコンとも呼ばれるこの狂鬼は、亀によく似ている。緑色の胴体の上に、青い甲羅を背負い、その動きは緩慢だが、長い尻尾は威力、素早さ共に驚異的だ。
 両者とも巨体を誇る大型の狂鬼で、人間くらいの大きさなら一飲みで食べてしまう。
 オウジグモとソウガイキは、口からだらしなく涎をこぼしつつ、その目はシュオウ達を捉えて離さない。
 小隊の仲間達の間に、諦めに近い雰囲気が漂い始めた。

 「ハ、ハハハ―――誰か、これは夢だと言ってくれ」

 アイセは乾いた笑いをはき出して、地面に崩れ落ちた。
 ジロもクモカリも、アイセもシトリも、戦闘態勢をとろうともしていない。当然だ。勝てるはずがないと知っているのだから。

 「あの小道に戻れば、どうにかなるか?」

 アイセは後方の小道への入り口を見て言った。

 「無駄だな。あれほどの大きさなら、木をなぎ倒してでも追ってくる」

 「じゃあ……」

 アイセの言葉は、そこで終わった。がっくりと項垂れて、立ち上がろうともしない。
 ついさっきまで、喜びで輝いていた表情は、受け入れがたい死の運命を前にして、暗く濁ったものになっていた。
 仲間達のこんな顔は、見たくない。

 「ボルジ、降ろすぞ」

 「あ、ああ。そうだな、もう背負ってもらったって意味はなさそうだ」

 ボルジはシュオウの背から降りて、そのまま地面に座り込んだ。

 「行ってくる。ここで待っててくれ」

 豪雨の中、狂鬼に向かってシュオウは駆け出した。
 背後からそれを止めようとする仲間達の声が聞こえる。
 彼らから見れば、シュオウは自殺に等しい行動をとったように見えたに違いない。あるいは、一人で逃げ出そうとした、か。
 だが、そのどちらでもない。
 シュオウは今まさに、確実な勝算を持って二体の狂鬼に挑もうとしている。

 レッドアゲートのような比較的小型の狂鬼は、群れで獲物に襲いかかる事が多い。仲間を守りながらの行動に尽力しなければならなかったこれまでは、積極的に狂鬼と戦う事ができなかった。だが、今回のような大型の狂鬼はその動きも緩慢で、ある程度その動作に予測がたちやすい。
 くわえて森には雨が降っている。捕食本能に狂う狂鬼は、普段の動きを忘れて猪突猛進に獲物を狩る。オウジグモの場合、獲物と定めた相手に粘着性質の糸を出して動きを封じてから狩りをはじめるのだが、じりじりと走り寄るシュオウに対して、未だに糸を出してくる気配はない。雨のせいで狂い、糸で獲物の動きを封じるという行動を忘れているのだ。
 つまり、狂鬼は雨の中で猛り狂う状況にあるからといって、かならずしも普段より危険度が増すというわけではない。
 しかし、それも一定の水準で狂鬼と対することができる者にかぎるので、力ない者達にとっては、狂鬼が狂っていようとそうでなかろうと、その差はほとんど意味をなさないだろう。

 オウジグモの尖った前足が、シュオウめがけて振り下ろされる。
 凝視してそれを回避する。空振りした前足が古道に突き刺さる。
 シュオウはオウジグモの直下に潜り込んだ。
 巨大な本体から伸びる六本の足がある。前から二番目の足は、体が崩れないように支える重要な部分だ。
 オウジグモは全身に硬い外皮を纏っている。そのせいで、人の持つ一般的な武器などで致命傷を与えるのは至難の業。だが、足の関節は横方向へひねる動作に極端に弱い。
 本体を支える足を抱え込む。オウジグモの体重を支える重要な部位だけあって、この足を攻撃に使う事はない。
 シュオウは自らの足を崩れた白道の一部に引っかけて固定し、抱え込んだ狂鬼の足を力一杯右回転にずらした。
 オウジグモの間接が砕ける嫌な音がして、狂鬼の悲痛な咆哮が森に響き渡る。

 足を壊されて体重を支えきれなくなったオウジグモは、その巨体を地面に沈めた。
 シュオウはすかさずオウジグモの体毛を掴み、体の上へよじ登って、立ち上がろうと必死にもがくオウジグモの上に立つ。
 胴体と頭の繋ぎ目近くにある、白濁した特大の輝石の前まで歩み寄り、腰に差した武器を抜いた。

 師匠のアマネは、この奇妙な武器を〈針〉と呼んでいた。
 白い先の尖った刃を木製の柄に取り付けただけの単純な武器だ。
 斬りつけることもできず、ただ突くことのみに特化したこの刃の部分は〈コクテイ〉という狂鬼の割れた歯の破片で出来ている。
 コクテイの歯は硬い。岩だろうが、鋼鉄だろうが、たやすく噛み砕いてしまう。

 輝石には、それを所有する者の有する能力が高いほど、硬く重たくなる性質がある。オウジグモの輝石の硬さは、並の人間のそれを軽く凌駕するが、コクテイの歯の強度はそのさらに上にある。
 シュオウは針を下向きに両手で持って、オウジグモの巨大な輝石の上に構えた。

 輝石を砕くうえで重要になるのが、大きさと安定だ。人間やレッドアゲートのように、小さめの輝石で本体が素早かったり、不安定だったりするものを、激しい戦いの中で砕くのは難しい。しかし、このオウジグモのような大型狂鬼の場合、そのどちらの条件も満たしている。

 振り上げた針で輝石の中心を貫いた。
 刃は狂鬼の輝石に食い込み、中心奥にある命核を砕く。
 輝石が砕ける硬質な音がして、今ここにあったはずのオウジグモの巨体は、浅黒い光砂となって空中に四散した。

 オウジグモの体が崩れる寸前、シュオウはソウガイキのいる右奥方向へ飛び出した。

 ――あと一体。
 
 着地の瞬間に一回転して衝撃を減らし、勢いを殺さずに間合いを詰める。
 胴体よりも長いソウガイキの尻尾がシュオウを狙ってなぎ払われた。当たれば一撃死は確実な攻撃を、絶妙なタイミングで飛び込んで躱す。
 振り払われた尻尾を戻す際の二撃目が、シュオウを再び襲った。一撃目と同じ動作でそれを躱す瞬間、針を突き刺して、振り回される尻尾を乗り込むようにして掴んだ。
 ソウガイキが突き刺された針の痛みに苦痛の声を漏らした。尻尾が異物を振り落とそうと縦横無尽に振り回される。

 シュオウは、尻尾が上へ高く振り上げられた瞬間、針を抜いて空中に飛び上がった。

 ソウガイキは、高く真上に舞い上がったシュオウを完全に見失っていた。
 この、亀によく似た狂鬼は、青い甲羅の下に輝石を隠している。その位置は甲羅の中心。高所から見下ろせる今のような状況なら簡単に位置を特定できる。
 空中での上昇が終わり、重力に引きずられて、雨を背負いながら下降していく。

 命がけの状況にあって、シュオウの心は場違いなほど落ち着いていた。

 落下していく最中、師匠に鍛えられた十二年間の記憶が頭の中を駆け巡る。
 森に放り込まれては何度も死にかけ、鍛えるためだといっては血反吐を吐くまで殴られた。何度逃げだそうと考えたかわからない。それに耐えたあの日々が、今のシュオウを形作っている。

 下持ちに構えた針がソウガイキの甲羅に届く瞬間、シュオウは笑っていた。

 ――無駄じゃなかった。

 死ぬ思いをして獲得したすべての技術や経験が、今、この時、この瞬間、仲間を守る力となって発揮できる。
 そのことが、なによりも嬉しかった。

 一条の雷光が大地を穿ち、遅れてきた轟音が大気を揺らした。

 高所からの勢いと、振り下ろした腕の力が、刃先の一点に集中して青い甲羅に突き刺さり、下に隠された輝石ごと豪快に破砕した。
 ソウガイキの巨体は光砂となって天空へと舞い上がり、その命は世界に溶けていくかのように消え去った。

 ソウガイキの体が崩れ去り、唯一残された砕けた輝石と一緒に、シュオウも地面に着地する。

 シュオウの背後にそびえ立つ巨木に、雷が落ちた刹那、世界が白く染まった。

 仲間達の元へ戻ると、皆が目を大きく見開いて呆然と立ち尽くしていた。
 アイセはなにか伝えようとして口を開くが、ぱくぱくと動かすだけで声になっていない。

 シュオウは胸ポケットの中にしまっていた指輪を取り出した。

 「ボルジッ」

 濡れた地面に座り込んだ、ボルジの手元に指輪を投げる。
 それを受け取ったボルジは、シュオウと指輪を交互に見た。

 「え……お、おい」

 戸惑うボルジに、シュオウはこう言った。

 「自分で渡せ」



 過酷な深界を行く旅も、もうすぐ終わる。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇









 先日の夜、あの騒ぎの後、小隊は無事に森を抜けて、目標地点への到達を果たした。
 真新しい白道が敷き詰められた、だだっ広い道のど真ん中に、試験官達が寝泊まりする砦があり、そこの門を叩く頃には夜中近くになっていた。
 まさかこんなに早く試験を終わらせてしまう小隊があると思っていなかった彼らの慌てようは凄まじく、仲間達は皆苦笑していた。
 砦に入った後は、乾いた予備の服を借りて、暖かいベッドの中で泥のように眠った。
 翌日、起床して食事をもらい、昼近くになった頃には馬を借りて王都に戻る事になった。
 あれほど苦労したここまでの道程も、試験官が行き来に使う整備された白道を馬で行けば、半日もかからずに王都へ戻れるという。

 アイセは今、王都を目指して馬を走らせる道中にあった。
 意外な事に、馬に乗れないというシュオウは、これまた意外なことに、馬が得意だというジロの後ろに乗って先頭を走っている。ジロは得意だというだけあって、その乗りこなしは見事なものだった。
 アイセ、シトリはジロから少し離れて後ろを併走している。
 クモカリは背にボルジを乗せて、すぐ後ろをついてきている。

 「昨日の……凄かったな」

 アイセは興奮気味に言った。
 二体の大型狂鬼を一人で片付けてしまったシュオウ。
 あのときの光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
 何度その話をしようかと思ったかわからない。だが、あまりにも落ち着き払ったシュオウの雰囲気に飲まれてしまい、あの時の事には触れられなかった。

 「そうね」

 クモカリの反応は、アイセが期待していたよりもあっさりとしていた。

 「どうしたんだ、あんな立ち回りを見ておいて、それだけなのか?」

 「正直、あまりにも驚きすぎて、びっくりする感情が一周しちゃったのよね。それに、彼ってなんとなく並じゃない雰囲気を匂わせてたじゃない。だから、あれだけ凄いことをしても、そのくらいできちゃいそうだな、なんて不思議と納得しちゃったのよね」

 クモカリの背後でしがみつくボルジが、言葉を挟んだ。

 「ありゃすげえなんてもんじゃねえ。一生に一度お目にかかれるかって神業だぜ。彩石持ちでもない、ただの平民が、たった一人であの大きさの狂鬼を倒しちまったんだ。しかも二体だッ。まったく、とんでもない野郎に命を拾われたもんだぜ」

 ボルジは指を二本立てて、二体、というところを強調した。

 「そうなんだッ! 凄いんだ! あいつは凄い。あのでっかい蜘蛛の足を、こう―――」

 アイセは身振り手振りで昨日のシュオウの動作を一つ一つ再現した。
 あの二体の狂鬼が目の前に現れた瞬間、アイセは確かに死を覚悟した。
 そんなアイセの覚悟を、たやすく吹き飛ばしてしまったのはシュオウだ。
 あれだけの事を成して、最後に雷を背負うようにして立っていた、あの時の姿は神々しくさえ見えた。あの時の光景を、一生忘れられそうにない。

 「彼、これから大変なんじゃない」

 クモカリのその言葉が、アイセの妄想を断ち切った。

 「どうしてだ?」

 「あれだけの事をひょいっとやって涼しい顔をしてられるような人なのよ? そんな凄い人材、国や軍が放っておくのかしら。あれだけの腕があるって世間に知れたら、彼を雇いたいって大商人や傭兵団だって掃いて捨てるほど出てくるわ。なにせ、白道を行き来する商売は、儲かるけど安全性に難あり、ってのが商売人達の悩みの種だしね」

 「なるほどな」

 たしかに、とアイセは思う。
 軍は常に優秀な人材を欲している。シュオウのような人材なら、各国、各領主などが喉から手が出るほど欲しがる逸材だ。
 もし、ムラクモが彼を雇い入れたらどうなるだろう。
 うまくすれば、同じ隊の所属になれるかもしれない。
 そうすれば、またあんな姿を見せてくれるのだろうか。
 もっと色々な話をして、今よりもっと仲良くなれるだろうか。
 そんな前向きな想像が頭を駆け巡り、心が自然と浮き立った。

 「シトリはどうだったんだ」

 すぐ横を走るシトリに声をかける。が、シトリは前のほうへ視線を固定させて返事をしなかった。

 「シトリッ」

 「―――え?」

 今気づいた様子でシトリがアイセを見た。

 「昨日のシュオウの事を聞いたんだ。なにか思わなかったのか?」

 「………べつに、なんとも」

 そっけなくシトリはそう言って、また視線を遠くへやってしまう。

 この時のシトリの態度に少し違和感を感じながらも、アイセは再びクモカリやボルジとシュオウの話をする事に没頭し、あまり深くは考えなかった。



 馬を飛ばして、夜のそこそこ遅い時間に、王都に到着した。
 シュオウ達、従士志願者組は出発したときの宿に泊まる手筈になっていて、これから朝まで飲み明かすのだと騒いでいる。
 街の門をくぐってすぐ、彼らは早々に宿へ向かった。
 アイセとシトリも誘われたが、行けそうだったら、と曖昧な返事を返すに留めた。

 「シトリは参加するのか?」

 「するわけないじゃん。帰ってお風呂に入ってゆっくり寝たいし」

 「そうか」

 「アイセはこれから大変なんじゃないの」

 シトリは、アイセの手元にある一枚のカードに視線をやった。
 アイセの小隊が前代未聞の早さと、同行する平民を全員と別の隊の怪我人を一人加えて試験を無事に終えたことは、昨夜のうちに知らせが送られている。
 父親のモートレッド伯爵の耳にも当然届き、アイセが王都に到着するなり、待ち構えていた家の者にパーティーへの招待を知らせる招待状を渡された。
 モートレッド伯爵家の血族、および社交界の貴族達を大勢招いた、アイセの祝勝パーティーが開かれているらしい。
 アイセはこのまま家に戻って支度をして、主賓として参加することになっている。

 「まあ、どうにかこなすさ」

 「アイセなら、そうでしょうね。―――わたしはもう行くから。おつかれさま」

 「あ、ああ……おつかれ」

 ――おつかれ、か。

 シトリからねぎらうような言葉をもらうのは、これがはじめての経験だ。
 なんとなくむず痒いものを感じつつ、アイセは家族の待つ館に向けて馬を走らせた。



 雅な宝飾の数々で彩られた黄色のドレスを身に纏い、色鮮やかなカクテルを片手に持つ。
 天井の高いダンスホールに、食べきれない量の豪華な食事が並んでいる。
 綺麗で贅沢な衣服を身に纏う人々は、中身のない美辞麗句のやりとりに必死だ。
 なんてことはない。見慣れた貴族達の世界が、そこにはある。
 
 ――つまらない。

 自分を褒めそやす言葉も、尽きることなく新しいものがでてくる料理も、甘い飲み物も、目に映るなにもかもが、無価値なものに見えてしまう。
 試験に参加する前の日まで、自分はこの世界に満足していたはずだった。
 母や父、その他の人々が自分を認め、賞賛してくれることが、なにより嬉しかったはずだ。
 それなのに、深界の灰色で生気のない風景が、今はなんとなく恋しい。
 一口で食べ終わった質素な食事。築いてきた自信を、一瞬で打ち砕いたあの狂鬼。ゴツゴツとしていて寝苦しかったテント。落ち込んだ自分を気遣って話しかけてくれた仲間。そのどれもが、ここにはない。
 わずか六日間に濃縮された数々の出来事が、いまはすでに懐かしい。

 アイセは足にまかれた包帯を見た。
 家に戻ったとき、包帯を替えようと言ってくれた使用人の提案を断ってしまった。
 傷を負った足を綺麗に洗って、優しく花の蜜を塗ってくれたシュオウを思い出し、顔には自然と微笑みが浮かんでいた。
 
 「――セ―――アイセ」

 考え事に集中していたところに、父の言葉が現実へ引き戻した。

 「……失礼致しました。お父様」

 「なに、疲れているのだろう。無理をいっているのは私のほうなのだから、気にする事はない」

 いつも厳格な態度を崩さない父は、ほどよく酒も入って、めったに見せないくらい機嫌が良い。
 宝玉院の卒業試験の結果は、貴族としての今後の人生を大きく左右する。その試験に、アイセはかつてない好記録で合格した。
 娘の出した成果に、父は誇らしい気持ちで一杯なのだろう。
 挨拶に集まってくる貴族達は、優秀な子供を育てたモートレッド伯爵を羨み、祝いの言葉を絶やすことなく浴びせている。その度に父の鼻は高くなっていった。

 「アイセ、そろそろ皆さんに挨拶をしてもいい頃だろう」

 「……はい」

 ホールの中心に置かれた小さな演壇の上に立つ。
 静粛を求める使用人の呼びかけで、人々は雑談を切り上げて、視線をアイセに集中させた。

 「本日は、私のような若輩者のために、これだけの方々にお集まりいただいたこと、本当に嬉しく思っております。モートレッド家を代表し、お礼を申し上げます」

 アイセが優雅に一礼してみせると、会場から拍手がおこった。
 拍手がおさまるのを待って、言葉を続ける。

 「父は、この度の試験の成果を、私の実力だと褒めてくださいました。ですが、それは違います」

 人々の間から、ざわめきが起こる。

 「私は弱くて、そして愚かだった。頼りになる仲間達がいなければ、今、私はここでこうして話をしていることはありませんでした。私は、小隊を率いる責任者として、その役割をほとんど果たせなかった……」

 「アイセッ、いったいなにを言い出すんだ」

 急ぎ足でアイセの元まで来た父を真っ直ぐ見据える。

 「お父様、今日だけは、どうか私のワガママをお許しください。―――私は行きます」

 「行くって、どこへだね!?」

 アイセは演壇を降りて駆け出した。

 はじめから、仲間達と共に行くべきだったのだ。
 ここにはなにもない。
 皆を気遣うクモカリの声も、不機嫌そうなシトリの顔も、おかしな言葉で笑わせてくれるジロも、そして、静かに皆を見守っていてくれた彼の姿も。
 空っぽの箱から出て行く間際、呆然と見送る父に言葉を残した。

 「仲間達の元へ!」

 アイセはドレス姿のまま、上着も羽織らずに外に出た。
 乗ってきた馬に跨って、仲間のいる宿を目指して走り出す。
 吐いた息が、白煙のように尾を引いて後ろへ流れた。

 表通りを駆け抜けて、慣れない市街地を右へ左へ曲がる。

 あらかじめ聞いていた場所を頼りに、アイセはどうにか目的の宿へ辿り着いた。

 建物から暖かい光が漏れて、中から楽しげに語り合う、聞き慣れた声が耳に届く。

 入り口のドアに手をかける。
 緊張で高鳴る胸を押さえて、扉を開けた。

 建物の中でテーブルを囲んでいた仲間達がアイセに気づいて、大喜びで迎え入れてくれた。

 仲間達に向けて、アイセは子供のように無邪気に微笑んだ。

 ジロが魚を咥えたまま椅子を運んできて、クモカリが後ろから背中を押す。ボルジは座ったまま酒の入ったコップを掲げて笑っていた。

 そして、これまでと変わらず、一人落ち着いた表情でアイセを見るシュオウがいる。参加しないと言っていたシトリが、なぜかちゃっかりその隣に陣取っているのが気になるが、今は置いておこう。

 今はただ、苦楽を共にした仲間と過ごすこの時間が、嬉しくてたまらないのだ。



































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 ●あとがきのようなもの


 ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございます。
 今回は無名編の山場となるシーンを書きました。
 無名編は次回くらいで終わる予定で、その後は短いヒロイン視点のストーリーをちょこっとだけ書いてから、次章に入る予定です。


 感想欄で、輝石が体から離れたり、輝石のある部位が体から離れたらどうなるのか、という質問をいただいたのですが、今の時点で言えることは、かならず死を迎えることになる、ということまでです。この部分に関しては、作中でも結構重たい設定に関わるところなのですが、詳細については、もうしばらく先のお話で触れることになるとおもいます。


 それでは、また次回に。



[25115] 『ラピスの心臓 無名編 第五話 握髪吐哺』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2014/05/13 20:20
   『ラピスの心臓 無名編 第五話 握髪吐哺』










 試験前日の夜に寝泊まりした宿の一階は、客もほとんどなく閑散としているにも関わらず、にぎやかな話し声と楽しげな空気に満ちていた。
 試験参加者が報酬を受け取れるのは試験終了後の予定となっている。
 それまでは、ここで自由に寝泊まりして飲み食いまで無料であるという説明を受けて、ボルジを筆頭として平民参加組はとても喜んだ。シュオウもそうだ。師匠の元を飛び出してから、はじめて本当にゆっくりとできそうなので嬉しかった。

 宿に到着してからすぐにテーブルを囲んで食事会となった。
 ジロはさっそく魚料理を全種類注文して、ボルジは米から作った濁り酒をガブ飲みしはじめ、クモカリは料理を小皿にとって配ったり、ジロの口元をまめに拭いてやったりしていた。
 食事をするだけで、それぞれにこれだけ個性があるのだから面白い。

 暖炉から漏れる暖色の光に照らされたテーブルの上に、出来たての料理やツマミが所狭しと並んでいる。
 なにせ食べた分はすべて国が支払う事になっているので、宿の女将がこれでもかと頼んでいない料理まで運んでくる。
 イモを甘辛い味付けで煮込んだムラクモでは定番の家庭料理をかじりつつ、シュオウは冷たいミドリ茶を喉に流し込んだ。

 「最後に別れたときには、たしかこの集まりに参加するつもりはないと言っていたような気がするのだが、いったいこれはどういうことなんだ、シトリ」

 絢爛豪華なドレス姿で合流したアイセが、シトリを問い詰めた。

 「俺達がここに到着して、たいして時間もたたないうちに来てたぞ」

 シュオウは親切心のつもりで説明したのだが、正面に座っていたクモカリが、誰にも気づかれないように自分の足を軽く蹴ったことで、言ってはまずかったのだろうかと後悔した。

 「ほほう……」

 アイセはじっとりと湿った視線をシトリに送る。

 「気が変わったの」

 シトリはアイセと視線を交えることなく、抑揚のない声で言った。

 「うッ」

 まだ追求をあきらめていなかった様子のアイセだが、シトリの言葉には何も返せなかった。
 気持ちが変わった、といわれればそれまで。これ以上の追求は無意味だと悟ったのだろう。
 まんまとアイセの問いかけを一言ではね除けたシトリは、甘い飲み物にちびちびと口をつけていた。

 シトリはシュオウの左隣の席に座り、椅子をぴったりとくっつけている。わずかな時間の間に風呂に入ってきたらしく、シトリのふわふわとした水色の髪からは、ほんのりと甘やかな香りが漂ってくる。服装は黒のシンプルなドレスに、肩から真紅のショールをかけている。ドレスは体の線を美しく強調するようなデザインになっていて、しっかりと凹凸のある女性的な肢体が放つ魅力を、さらに倍増させていた。

 途中からこの集まりに参加したアイセは、シュオウの右隣に椅子を置いた。目に眩しいほどの鮮やかな黄色のドレスが、アイセの金色の髪とよく合っている。いつもの鋭い印象が、気品漂う高潔さへと見事に昇華されていた。

 期せずして両手に花状態のシュオウの戸惑いは大きかった。両脇に華やかな女子達が、肩が触れそうなほど近くにいるせいで落ち着かない。
 せめてもの救いは、視界に入る巨体のクモカリと、一心不乱に魚料理にがっつくジロ、それに特大のコップで酒を流し込むボルジ達の存在だった。彼らが近くにいるだけで、アイセとシトリから漂ってくる桃色な気配をどうにか軽減してくれる。

 「それにしても……」

 アイセはシトリのほうへ身を乗り出して、ふんふんと鼻を鳴らした。

 「もしかして香水をつけてるのか?」

 シトリが少し体を動かすたびに、そこから花のような香りが流れてくる。アイセはそれを指摘した。

 「……つけてるけど、なんで?」

 「いや、めずらしいと思っただけだ。普段、香水どころかそんな服だって着ないじゃないか」

 「いいでしょ、べつに。制服の替えがなかったから、仕方なくよ」

 「そう……なのか」

 話が終わると、二人は無言でそれぞれ皿に取った料理を食べる作業に戻る。
 さっきから、アイセがシトリの行動や服装等をチクチクと指摘しては、シトリがさらりとそれに返答する、というやり取りがシュオウを挟んで何度も続いていた。その度に少しずつ沈黙が入るのも困りものである。
 どうにも息苦しさを感じ始めていた頃、この微妙な空気をぶち壊してくれそうな救世主が現れた。
 酔っぱらったボルジである。

 「うぃっく―――おい、ショロウ」

 「シュオウ、だ」

 到着早々に酒をガブ飲みして、すでに呂律が回っていないボルジが、片足立ちでシュオウの元までやってきた。手にはたっぷりと酒が注がれたコップを持っている。

 「おらぁな、すげえとおもってんだって言ってたんどはああ」

 ボルジはシュオウに顔を近づけて、酒臭い息を盛大に吐きだした。
 すぐ隣に座っていたシトリが、ううッと声をあげながら、距離を置く。

 「ちょっと飲み過ぎじゃないのか」

 「うるへえ! こんなのまだまだ序の口よう。ショロウを見てると若い頃をおもいらすんら! おめえはすげえやろうら! わかってんのかコノヤロウッ」

 ボルジは怪我をした足をかばって、ただでさえ安定しない片足立ちである。さらに酒も手伝ってグニャングニャンと揺れている。視点も定まらず、かなり酔いが回っているようだ。

 「わかったから、座って水でも飲んだほうがいい」

 「いいや、おめえはぜんっぜんわかってれえ。よしッ! おれがどんだけ感謝してるかってやつの証拠をみへてやるぁ」

 ボルジは手に持っていたコップをシュオウの頭上まで持っていき、ゆっくりと傾けて中に入っている酒を注いだ。
 
 「祝い酒だぁッ! とっとけシュロウッ!」

 ほろ苦い酒が頭の上からトクトクと注がれる。それを黙って受け止めつつ、シュオウは、こんなことがつい最近あったな、等とのんきに懐かしさを噛みしめていた。

 「こらッ! なにをするんだッ――」

 ボルジがシュオウの頭に酒を注ぐ光景を呆気にとられながら見ていたアイセが、立ち上がってボルジを突き飛ばした。
 不安定な姿勢で押されたボルジは、そのままテーブルの上に置いてあった料理を手に引っかけ、床に倒れ込む。
 サラダや肉料理などが床に派手に散乱した。
 運ばれてきたばかりの汁物も倒れて、中身がシュオウのふとももにかかった。

 「大丈夫か、シュオウ」

 「心配ない。濡れただけだ」

 「濡れただけって、湯気のでてる汁物までかかってるじゃないか、はやく脱がないと火傷するぞ」

 「大袈裟だ。こんなの、ちょっと温い程度だろ」

 アイセは訝しんで濡れたズボンの上を触って、やっぱり熱いじゃないか、と言った。
 そのまま有無を言わさぬ勢いでズボンを引きずり下ろして、シュオウの太股を確認する。

 「ほら見ろ、真っ赤になって…………ない、な」

 シュオウの太股は、なんら変わりなくそこにあった。肌はわずかに赤くすらなっていない。まったくの平常である。

 「ちょっと心配しすぎなんじゃないの。普通、熱かったらもっと大騒ぎしてるわよ」

 クモカリが苦笑してアイセに言った。

 「うん……それもそうだな。ちょっと待っててくれ、店の者に拭くものをもらってく―――」

 アイセがそう言い終わる寸前、隣で静観していたシトリが、物凄い勢いで椅子から飛び出して店の奥へ走り出した。

 「って、ちょっと待てこら! 最初に言ったのは私だぞッ」

 先行したシトリを追って、アイセも走り出す。服を引いたり、手の平を顔に押しつけて前に出ようとしたりの激しい競争が繰り広げられていた。
 二人の事も気になるが、シュオウは床に倒れ込んだボルジを心配して声をかけた。アイセに突き飛ばされてから、ぴくりとも動いた気配を感じない。

 「おい、大丈夫か」

 返事はない。
 心配して立ち上がったクモカリが、ボルジの元まで歩み寄った。

 「……寝てるみたいね」

 クモカリが、うつぶせに倒れたボルジを仰向けにすると、がぁがぁと大きな寝息が聞こえてきた。

 「そうみたいだな」

 「にしても、学ばないオヤジよねえ…………邪魔だから奥に転がしておきましょ」

 「ジロも手伝うっぽい」

 ジロも魚を咥えたままやってきて、クモカリと共にゴロンゴロンと奥の壁までボルジを転がしていく。
 これだけされても、まったく起きる様子がないボルジは、壁にぴったりと背中がつくまで転がされても、安らかな寝顔をこちらに向けていた。

 「よく寝てるわねえ、よっぽど疲れてたのかしら」

 濡れた髪もそのままに、シュオウは床に散らばった皿や料理を片付けていた。
 落ちてしまった食べ物は、少し汚れてしまったが食べられないほどでもない。
 もったいないので口に入れてしまおうかと考えていた矢先、クモカリが生野菜を細長く切ったサラダを渡してほしいと言ってきた。

 「なにに使うんだ」

 「ちょっとね、食べ物を床に落とした責任をとってもらおうかなって」

 シュオウから皿を受け取ったクモカリは、細長い野菜スティックを一本手に取り、それを眠るボルジの鼻の穴に差し込んだ。

 「――んごッ」

 ボルジの体がびくりと跳ねる。しかし、一向に起きる気配はない。

 「オッサン起きないわね。それじゃあもう一本……」

 クモカリはもう一方の鼻の穴にも野菜スティックをゆっくりと挿入していく。
 隣でその様子を見ているジロは、魚をくわえたまま、真剣な表情で見守っていた。
 床に横たわる中年男の鼻の穴に、野菜スティックを差し込む巨体のオカマと、それを助手のように真剣なまなざしで見つめる蛙人という図が目の前にある。
 これは、いったいなんのゲームなのだろうか。
 本人達はいたって真剣なので、シュオウは黙ってそれを見守ることにした。
 そして、慎重に作業を進めていたクモカリは、無事に作戦を完遂させた。
 
 「入ったわ―――でも、なんかもう一つ足りないのよね」

 「目が寂しいかんじっぽい」

 ジロは皿の上に乗っていた、薄切りにした丸い形の野菜を、ボルジの両の目蓋の上に貼り付けた。
 鼻の穴から長い二本の棒が伸び、その隙間からはピイピイと情けない笛のような音を鳴らしながら空気が漏れている。両目は薄く輪切りにされた白い野菜で飾られていて、鼻が塞がれたせいで口は大きく開いている。
 そこには、かつてボルジと呼ばれていた男の成れの果ての姿があった。
 一仕事終えたクモカリとジロは、互いに顔を見合わせて、うんうんと頷いた。

 「またせたな、拭くものを借りてきたぞ」

 アイセとシトリが手にタオルを持って戻ってきた。
 二人はボルジだったモノを一瞥して、何も見なかったかのようにすぐに競うようにシュオウの頭と体を拭き始めた。



 床で眠るボルジに毛布をかけて、一同は再び穏やかで暖かい時間を取り戻していた。
 それぞれに料理や飲み物に手を伸ばしながら、試験であった色々な出来事を語る。
 話の内容が、試験の終わり頃の事になった時、クモカリが慎重な口調でシュオウに質問した。

 「ねえ、シュオウ。聞いてもいいかしら」

 「ああ。答えられることなら」

 「最後の狂鬼を相手にしたときの、あの戦い方のことよ。どこであんな事を覚えたの?」

 クモカリの問いかけに、アイセが同調した。

 「私も聞きたいと思っていた。深界で狂鬼を狩る人間もいるとは聞いたことがあるが、それは何十人も人を集めての事だろう。彩石を持たない人間が、それも一人であれだけの狂鬼を相手にして傷一つ負わずに退治してしまうなんて、前代未聞だぞ」

 どこまで話すべきなのだろうか、と考えながら、少しずつ言葉を選ぶ。

 「アイセには、たしか話したな。深界については俺の育ての親から教わったと。孤児だった頃、その人に拾われた時に一つ約束をしたんだ」

 「約束?」

 「約束の内容は、その人が受け継いだ、とある古い戦闘術を受け継ぐ、というものだった」

 シュオウの言葉に、アイセが身を乗り出した。

 「その戦闘術というのが、あの狂鬼を一撃で倒した、アレなのか?」

 「あれは違う。森の事や狂鬼の対処の仕方は、その戦闘術を仕込むついでに教わったオマケみたいなものだ。もっとも、そのオマケのほうがよほど使い道がある、と俺の育ての親は言っていたけど」

 「あれで、オマケなのか………その戦闘術、というものはどんなものなんだ?」

 「ん……」

 どう説明したものか、と悩み言葉が詰まる。それを言いにくい事だと勘違いしたのか、アイセが困惑した様子で両手を振った。

 「いや、言いにくいならいいんだ、無理に聞こうとは思ってない」

 「言いたくないわけじゃない。ただ、人間を相手にした戦い方、というくらいしか今は言葉が出てこない」

 師匠から受け継いだ戦闘術は一風変わったものだった。それを咄嗟に説明するとなると、うまく言葉を選ぶことができない。戦闘術、などと大袈裟にいっても、そうたいしたものでもないのだ。シュオウ自身、時間をかけて教わる課程で、どれほどそれが役に立つのか疑問に思っていた。人の世界に出てきた今でも、実戦で技を使った事は一度もない。

 「そうか、ならいいんだ。ただ、いつか見せてもらえると嬉しい」

 アイセはそこで言葉を終わらせて、それ以上は何も聞かなかった。
 いつか見たいと言ったアイセの期待には、正直なところあまり応えたくはない。
 人間を相手にその技を使うような場面は、控えめに想像しても穏やかな状況ではないだろうからだ。

 その後も楽しい時間は続いた。
 クモカリの一発芸に大笑いして、ジロのこれまで食べた色々な魚料理の講釈がはじまったり、皆で将来の夢を語り合ったりして、時間はあっという間にすぎていく。
 そして、テーブルの上の料理を粗方食べ終える頃には、全員が座ったまま眠ってしまっていた。
 時刻はすでに深夜。
 シュオウは、自分の脇に肩を入れて支える誰かに、二階の寝室まで連れてこられた。
 目を開けるのも億劫なほど疲れていたので、そっとベッドに寝かせてくれた誰かに感謝する。
 こうした気遣いをする人間は、おそらくクモカリだろうと、寝惚けた思考で予想をつけて礼を言った。

 「クモカリ、ありがとう……」

 暗がりの部屋の中、礼を言った相手からすぐに言葉が返ってくる。

 「どういたしまして。だけど、わたしの名前はシトリです」

 そう聞こえた瞬間、暖かくて柔らかい感触の何かが、ドサリと自分の上に乗り込んだ。
 漂ってきた甘やかな香りに、ぼやけていた意識が一気に覚醒する。

 「シトリ!?」

 目を開けると、ぼんやりとした蝋燭の小さな灯りに照らされたシトリの姿が目の前にあった。

 「せいかい。ご褒美にわたしのファーストキスを……」

 目をつぶり、軽く唇を突き出して顔を近づけてくるシトリをどうにか押し戻す。

 「ちょッ―――待て」

 「どうしたの?」

 「こっちのセリフだ………なんのつもりだ。他のみんなは?」

 シュオウの問いに、シトリは妖しく微笑んだ。

 「下で寝てる。わたしが眠れないときに飲む薬を、少しずつ飲み物に入れておいたんだけど、あのオジサン以外なかなか効いてくれなくて、すごく焦れったかったよ」

 「眠り薬を、飲ませた、のか……」

 「わたしと君の以外に、ほんのちょっとだけ」

 どうりで、と得心する。
 あの不自然なほどよく眠っていたボルジは、眠り薬のせいだったのか。

 「どうしてこんな事を」

 「君が欲しいからに決まってるじゃん。だからお邪魔虫達には、しばらく静かにしておいてほしいだけ」

 試験中、側で見てきたシトリとはまるで別人だった。
 普段どこを見ているかわからないぼやけた瞳は、シュオウを鋭く捕らえて一瞬でも離そうとしない。呼吸が荒く、口からは甘くて熱い吐息をもらしている。
 
 「自分が何をしているのかわかっているのか」

 「君の上にまたがってるんだよ」

 シトリは蠱惑的な表情でこちらを見下ろしながら言った。
 両手をシュオウの服の下に滑り込ませて、ヘソから胸へすこしずつずらしていく。冷たくて柔らかい指の感触が体をなぞる。はじめて経験する奇妙な感覚に、体が震えた。
 シトリは微笑みを浮かべながら上唇を舐める。
 その妖艶な姿に、心臓が大きく跳ねた。

 「たしか、男なんて気持ち悪いって―――」

 「君は気持ち悪くなんてない。試験中からなんとなく気になってた。心細くて、深界に詳しい君を頼りにしたいって気持ちだと思ってたけど、最後のあの化け物を簡単に倒してみせたあの姿。あれを見てから、心臓の鼓動が早くなって、お腹の下が熱くなった。枯れた木みたいだったわたしの心が、こんなに動いたのははじめてなんだよ。だから……責任をとって」

 今の言葉に嘘偽りがないことを証明するかのように、シトリの視線はまったく揺るがない。
 蕩けた微熱な表情で迫るシトリに、例えようのない薄気味悪さと、男としての欲求が同時に沸いた。二つの感情は、睨み合う剣士のように対峙する。しかし、あっけなく後者が勝利した。
 頭が熱湯をそそいだみたいに熱くなり、心臓が早鐘のように鳴っている。体全体が熱を帯びて、もはや理性を思い出す余裕すら与えてくれない。

 とろんとした双眸がじっとこちらを見つめて、熱でほんのりと赤くなったシトリの顔が、徐々に近づいてくる。
 だが、シトリの手がシュオウの顔の眼帯に触れた瞬間、沸き上がった熱気が一瞬にして冷めてしまった。シトリの手を掴み、自分から遠ざける。

 「すまない……おりてくれ」

 熱くなるのも一瞬なら、冷めるのもまた同じ。いわゆる性欲という本能は、不便なもののようで状況によっては笑えるくらい柔軟でもある。
 もっとも、今のこの状況はとても笑い飛ばせるような軽いものではなかった。

 「どうして」

 「理由はない。とにかく、冷静になってくれ」

 「それに触ったから?」

 シトリはシュオウの眼帯を見て聞いた。

 「………そう、だな」

 図星をつかれ、ごまかす気力もなくなっていたシュオウは、正直に認めた。

 「見られるのが怖い?」

 「……怖い。一度でも隠してしまえば、それをさらけ出す事に、たくさんの勇気が必要になるみたいだ。親しくなった相手には、とくに、な」

 眼帯の下に隠した醜い火傷の痕。これを見せたからといって、仲間達が自分への態度をころりと変えてしまうとは思っていない。
 だけど、もし…………そう考えてしまうと、ほんの僅かな勇気ですら干上がった井戸のように枯れ果ててしまう。知られずにすむのならそのままでいい。安全な場所に留まって、心に余計な傷を増やしたくはないと思ってしまう。
 逃げの思考に体が動かなくなる。
 皆が恐れる化け物にすら、単身で挑むことができる自分がこの有様とは、なんとも情けなく笑える話だと思った。

 「その眼帯の下がどうなっていても、君への気持ちは変わったりしないって断言できる。だけど、無理に見たいとも思わない。もし、君がいいと思うときがきたら、そのときは見せてくれる?」

 シトリの言葉は、心底シュオウを気遣ってのものだった。
 今までどこに隠していたのかと思うほど、その表情は真剣で温かい。

 「ああ、約束する」

 シトリは上から降りて、そのままシュオウの横に寝転んだ。

 「あーあ、覚悟してたんだよ」

 恨めしそうに横目で睨むシトリに、本気で申し訳ない気持ちになる。

 「……ゴメン」

 謝ると、シトリは笑った。

 「なんだか、急に幼く見えるんだね。君って不思議。偉そうにしてるのかと思えばたまに優しいし、物凄く強いところを見せてくれたと思ってたら、意外に繊細だし」

 「こっちだって、同じだ」

 「同じって?」

 「育ての親に拾われてからは、ほとんど他人と接する機会がなかったから、歳の近そうなシトリやアイセのような異性は自分とは違う生き物に思える」

 シトリは、ムッとした表情でシュオウを睨んだ。

 「アイセの名前はださないで――――でも、歳が近いっていうのは気になる。わたしは今年で十八になったけど、君もそれくらいなの?」

 「二十歳になった……たぶん」

 「たぶんって」

 「わからないんだ。孤児だった頃は自分の年齢もわからなかった。師匠――育ての親にはじめて会った時に、六歳か七歳くらいじゃないかって言われて、それが十二年前のことだ」

 「七歳としたって、それじゃ一年足りなくない?」

 「二十歳になったら自由にしてやるって言われていて、自分は早く外の世界を見て歩きたかったから、無理矢理二十歳になったことにして出てきたんだ」

 「適当だね。だけど、その見立てはそれほどはずれてないと思う。君の見た目の雰囲気は、わたしの同級生の男子達とそう離れていないみたいだから」

 「そうか……なら………よかった」

 少しずつ、目蓋が重くなっていく。
 試験を終えた日に、そこそこの睡眠をとることができたとはいえ、疲れはまったく解消されていない。
 試験中、ほとんど寝ずの番で夜をすごし、途中からはボルジを背負ったまま歩きずくめだった。
 気を遣われるのが嫌で隠していたが、仲間の前でも立っているのが精一杯なほど足腰にも疲れが溜まっている。
 こうして柔らかいベッドの上で横になっている今、シトリの淡々とした話し声が、子守歌のように聞こえて心地良い。

 「眠そうだね。ねえ、起きるまで一緒にここで寝てもいい?」

 シュオウは寝返りをうって、シトリに背を向けた。

 「好きにしてくれ」

 目を閉じる。
 暗闇に飲み込まれていくような感覚に酔いしれる。
 意識は途切れ途切れになり、シュオウはほどなくして眠りに落ちた。





 シトリは寝息をたてはじめたシュオウの背中を軽くつついた。
 完全に眠ってしまったのを確認して、一人溜め息を吐く。

 「ほんとに寝ちゃった……」

 だけど、眼帯の下を見せるのが怖いと言っていたのに、こうして無防備に眠ってしまったのは、少しは信頼されているのだろうか。
 シトリはシュオウを後ろから抱きかかえるように腕をまわして、目をつむった。

 ――温かい。

 さきほどまで火照っていた体は、心地良い温度に落ち着いて、何物にも代え難い安心感を与えてくれる。
 ほんの数日前まで、男を視界にいれるのも嫌だと思っていたのに、人生とはわからないものだ。今は一人の男の事が頭から離れない。
 夢でもいい、もっと一緒にいたいと願いつつ、シトリもまた眠りへとおちていった。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 「聞こう」

 アミュ・アデュレリアは机ごしに向かい合うように立っているカザヒナに発言を促した。

 「試験開始から二週間がたちますが、例年通り、とくに目立った混乱もなく進行しております」

 的外れな説明をする部下に対して、アミュは軽い苛立ちを覚えた。

 「それはわかっておる。聞きたいのはあの青年についてじゃ」

 試験開始前日に、偶然の出会いを経験したあのシュオウという青年。彼の所属した小隊は、たったの一週間で随行した平民全員を連れて帰るという快挙を成し遂げていた。その知らせを聞いたときには驚いたものだが、あの青年がいる小隊だと聞いたとき、浮き立つような不思議な気持ちを感じた。ちょうど、乗馬レースで応援していた者が勝利する、その瞬間に感じる優越感のようなものを。

 「それが………」

 カザヒナは言い淀む。

 「言いにくい情報でも見つけたか」

 「いえ、それならまだよかったのですが。影狼を使ったにも関わらず、知人や出身、ムラクモへ来た経路などの一切の情報を得ることができませんでした。わかった事といえば、彼に仕事を紹介した王都のギルドくらいで、そこでも大した情報はなにひとつ……」

 カザヒナが暗い表情で差し出した報告書は、ほとんど白紙の状態だった。

 「ふむ……」

 「申し訳ございません。あの青年の容姿、特にあの灰色の髪から北方の出身を疑いましたが、ターフェスタから最近ムラクモへ入国した者の中には、あの青年の容姿と合うような人間を見たという情報はありませんでした」

 青年の灰色の髪は、ムラクモではめずらしい。
 しかし、北方の国々では貴族、平民を問わず灰色の髪を持つ人間は多い。となれば、そこに出身地を予想するのは当然のことである。
 ターフェスタ公国は東と北を繋ぐ入り口のような国だ。
 他に道がないわけではないが、道幅が大きい事と、途中休憩に使えるような街や施設が充実していることから、東と北を行き来する人間のほとんどがターフェスタを経由する。
 北方で灰色の髪はめずらしいものではないが、あの大きな黒い眼帯は、一目でわかるほど特徴的なので、その目撃情報が一切ないというのは気になる。

 考え混んでいたアミュに、カザヒナが頭を下げた。

 「この失態は、命令を受けた私にあります。どうか、調査にあたった影狼の者達には寛大なご処置を」

 さっきから妙に神妙な態度だとは思っていたが、そんなことを心配していたようだ。

 「気にするでない。あの者達が調べてこれなら、本当に情報がないのじゃろ」

 影狼は、アデュレリア公爵家が私費で保有している諜報組織だ。
 その主な仕事内容は情報収集だが、時には裏工作や汚れ仕事をさせる事もある。
 構成員の多くは平民で、一部の貴族も秘密裏に所属している。偉そうにふんぞりかえっている家柄の良い輝士達よりよほど優秀な彼らが、白紙の報告書を提出したということは、これが答えなのだろう。

 しかし、人が深界を渡るには、かならず白道を通らなければならない。
 各国は他国との境界近くや、自国の領土内であっても、白道を行く者達を調べることができるように関所として砦や要塞を設けている。
 それはもちろん、ムラクモも同様である。
 その時の状況によりけりだが、彩石を持たない平民であれば、それほど厳重な取り調べを受けずとも通行料を払えば関所を通過することができる。
 とはいっても、あれほど特徴的な容姿をしている青年を、誰も見ていないというのはおかしな話ではある。

 「ありがとうございます。今のとは別に、アイセ・モートレッド准輝士主席候補生のほうから試験中の出来事をまとめた報告書を受け取っています」

 渡された報告書の束に目を通す。
 そこには試験開始から終わりまでにあった事が詳細に記載されていた。
 中身はかなりわかりやすく書いてあるのだが、どうにもシュオウという青年について書いてある部分だけが、強く感情のこもったような内容になっている。
 とくに最後の大型の狂鬼二体をたった一人で相手にしたというあたりまでくると、物語や詩のような表現が増えて、青年がまるで白馬に乗った王子様であるかのごとく描写されている。これを書いた准輝士候補生の気持ちが透けてみえるようで、おもわず吹き出しそうになってしまった。
 報告書の最後には、ムラクモが青年を雇い入れることで得られる利を、びっしりと文字を敷き詰めて訴えている。

 「お前は読んだのか?」

 「はい、すでに何度か」

 「ふむ。色々と気になることはあるが、最初に食料の大半を捨てていったというのは、剛胆じゃな」

 報告書には、青年の提案で開始早々に米をすべて捨てていったとある。
 この試験で食料として重たい米袋を持たせるのは、輝士の卵である生徒達の思考の柔軟さを見るためのものだ、と聞かされている。
 過去にこの試験に合格した者の中には、米を五人分に分けて持ち運んだ生徒もいたが、大半の生徒達は貴族特有の傲慢さが邪魔をして、自分達にまで負担がおよばないように、平民にだけ無理をさせる傾向が強い。

 米を捨てさせた青年の言い分では、火の臭いが狂鬼を呼ぶから、とある。これはまったくその通りだ。
 だが、火を使ったからといってかならずしも狂鬼に襲われるわけではない。状況は常に流動的で、風向き一つでも結果は変わる。

 「火を使うことを警戒したことは理解できます。あえて重たい荷物を捨てて、進行速度を優先したというのも、選択としては十分に効果を期待できるものかと」

 「うむ。じゃが、すべてを捨てていく事はなかった。深界では何があるかわからぬ。せめて一週間分でも分けて持っていけば、不測の事態にも備えられたはずじゃ。一指揮官としては、まだまだ頭が固く、安全性への配慮が足りない」

 「閣下、お忘れのようですが、この小隊の隊長はアイセ准輝士候補生です」

 「む……そうじゃった」

 報告書を読んでいると、どうみても決定権を有していたのは平民である青年のほうで、いつのまにか隊の責任者という目で見てしまっていた。
 アミュは報告書を読み進めながら、さらに続ける。

 「途中、別の小隊が見捨てた怪我人を一人拾っているな。これは軽率な行動じゃ。少ない手持ちの食料で、すぐに森を抜けられる確たる根拠がないにも関わらず、食べ物を必要とする人間を無計画に増やすような行動は控えるべきじゃった」

 「彼は正規の軍人というわけではなく、歳もまだ若いですから。計算をして命を捨てていくというような割り切り方はできなかったのでしょう」

 「であろうな。―――それにしても、森を抜ける直前での狂鬼二体を相手にしたという、この話だけは簡単には信じられぬ」

 狂鬼という生き物は、人間にとっては天敵のような存在である。
 人数を用意して準備を重ねてから狩る事もあるが、人間一人がおいそれと相手をできるようなものではない。
 それも、シュオウという青年は彩石を持たない平民なのだ。

 「私も、あれを見るまでは信じていませんでした」

 カザヒナは部屋の隅に重ねて置いてあった、二つの大きな木箱を運んできた。
 中身を確認すると、たっぷりと敷き詰められた藁束の上に、巨大な砕けた輝石が乗せられていた。
 一つは暗い灰色。もう一つは濃い紺色をした輝石だ。

 「灰色の輝石は、オウジグモと呼ばれる狂鬼の物で、もう一つのほうはソウガイキという狂鬼の物です。彼らが試験を終えて間もなく、回収させました」

 砕けた輝石を集めてみると、どちらも中心に尖ったものを穿たれたような痕跡がある。

 「これが証拠というわけじゃな………はじめて見たとき、並外れた運動神経をしているとは思ったが、ここまでとはな」

 深界に詳しく、一人で大型狂鬼を倒せてしまうほどの腕と、輝士の放った晶気を躱してしまう身のこなし。
 そして、その出自は不明。
 なんにせよ、シュオウという青年が百年に一度出会えるかどうかの逸材であるのは間違いない。

 この才能は種のようなもの。放っておいてもいずれどこかで芽吹くだろうが、それでは面白くない。
 自分の手の中でたっぷりと水を与えて、いずれ花咲くその日まで見守りたいという気持ちが沸いてくる。
 この種を誰よりも早く見つけた幸運に喜びつつも、頭の中にはわずかな不安もよぎる。

 ――もし咲いたのが手に負えないような花なら。

 アミュは自分の右手をじっと見つめて、強く握りしめた。

 「件の青年に会いにいくぞ」

 「はい……ですがどのような用件でしょう」

 「決まっておる。我が軍に勧誘するのじゃ」

 アミュが言うと、カザヒナは目を見開いて聞き返した。

 「勧誘、ですか。それは左硬軍にということでしょうか」

 ムラクモ王国には大きく四つに分かれる軍がある。
 一つは、国事を司る王轄府固有の兵力である〈近衛軍〉
 アデュレリア公爵家が保有する、通称〈氷狼輝士団〉とも呼ばれる〈左硬軍〉
 ムラクモに存在する燦光石の一つ《蛇紋石》のサーペンティア公爵家が保有する、通称〈風蛇輝士団〉とも呼ばれる〈右硬軍〉
 最後に、治安維持を目的とした警備隊や、一般従士の多くが所属し、戦争時においては傭兵団を組み入れることになる〈第一軍〉
 これら計四つの軍で、ムラクモは諸外国から領土を守ってきたのである。

 「他になにがある」

 「ですが、閣下は試験の内容に不満を述べておられたように思うのですが」

 「不満ではない。報告内容を自分なりに評価したにすぎぬ。人間のすることである以上、完璧はありえぬからな。この者達が無事に試験を終えられたのは運によるところも大きい。じゃが、運を呼び寄せるのも、またその人間の行動力である。それに、我が何よりも件の青年を評価するのは、類い希な運動神経をしているからでも、狂鬼を一人で屠ることが出来るほどの腕があるからでもない」

 カザヒナは軽く首を傾げて聞いた。

 「では、なにを見込んで閣下自らが勧誘に向かうと?」

 「人間性、といっても漠然としすぎているやもしれぬな。自尊心の塊のような貴族に対して、自分の意見を述べたばかりか、それを受け入れさせた。あげく、この報告書から見てもわかるように、随分と准輝士候補生に気に入られているようじゃ。人間は強い者に惹かれる。他者を魅了し、引っぱっていけるような人間を、我は欲する。この青年を、つまらぬ退治屋等にするのではなく、アデュレリアの重要な戦力となるような未来の将官候補として迎え入れるつもりじゃ」

 「………そこまでの期待をかけておられるのであれば、異存はありません。では、これから会いに行くついでに彼の出自等についても直接本人から聞き出してみましょう」

 「特殊な事情があるのだとしたら、強引に聞けば警戒心を持たれてしまう。軽い質問を投げてみて、まずは出方をうかがう。時間はいくらでもあるのじゃ。焦る必要はない」

 カザヒナは恭しく一礼した。

 「承知致しました」

 「うむ。では、外出の支度をせよ。身分を隠していくので、市井の者達が着るような服と輝石を隠せそうな上着もな」





 ドアをコンコンと叩く音がして、微睡みから意識が覚醒する。
 閉めきったカーテンの隙間から漏れてくる光の加減で、時間はだいたい夕方頃だろうと予想する。
 少し蒸し暑さを感じて、かけていた毛布を蹴ると、そこからでたホコリが漏れ入る光を浴びて砂塵のように空中に舞った。

 「シュオ、起きてるっぽい?」

 扉の向こうから聞こえたのはジロの声だった。
 ジロはシュオウ、と最後まで言わず、シュオと短く自分を呼ぶ。

 試験を終えて王都に戻ってから一週間。その間、疲労から夕食を食べる時以外ほとんど部屋で寝たまま一日をすごしていた。
 途中、あれやこれやと贈り物を持って訪れるアイセとシトリ以外の仲間達は、自分に気を遣って夕食の時間以外はそっとしておいてくれる。
 この時間にジロが呼びにきたということは、常ならざる事態と考えたほうがいいのだろう。

 「今起きた」

 ベッドに座ったまま、返事をする。

 「シュオにお客さんっぽい。辛かったら帰ってもらうっぽいけど」

 客、と聞いて不思議に思う。
 アイセとシトリならこんな言い方はしない。では誰なのか。
 シュオウには、自分を訪ねて来るような知人の心当たりはなかった。

 「いや、大丈夫だ。こっちから会いにいく」

 「一階で待ってるっぽい」

 ジロの気配が遠ざかっていく。
 誰かはわからないが、待たせるのも悪いと思い、寝起きのままに部屋を出た。
 階段を下りると、一階の出入り口付近に佇む子供と大人の女の姿が見えた。二人とも、目深に薄茶色のフードをかぶっている。
 二人に近づき、その顔を確認したシュオウは驚いた。
 試験開始前日、柄の悪い三人の輝士達を叱りつけた、氷長石ことアデュレリア公爵とその付き人らしき女輝士が、そこにいた。

 「あなた達は―――」

 続きを言う前に、アデュレリア公爵が人差し指を口元に当てて、しーッと言った。

 「正体を知られたくないのじゃ。そなたの部屋があるなら、そこへ案内してもらいたい」

 「はあ……」

 戸惑いながらも、シュオウは二階の自室へ二人を案内した。
 ろくに掃除もしていない薄暗い部屋に二人を入れて、扉を閉める。

 「這いつくばって、頭を下げるべきでしょうか」

 「いらぬ。それに、そんな気はないと顔にかいてあるぞ」

 なんら悪気をこめずに言ったつもりだったが、見た目はどこからどうみても少女であるアデュレリア公爵は、不機嫌そうな様子だった。
 目の前にいる人物は、非常に希有な存在である燦光石の継承者で、軍のお偉方でもあり、王に次ぐ爵位を持つ大貴族でもある。
 あまりにも自分とは世界の違いすぎる人間を相手にして、どのような態度をとるべきなのかが、まったくわからなかった。
 シュオウの部屋には小さなテーブルと椅子がある。客人にそこへ座るように促して、自分はベッドの上に座った。

 「それで……この訪問の理由を聞かせてもらえますか……アデュレリア公爵、様」

 「この場ではアミュと呼ぶがよい。非公式の訪問じゃ」

 目の前にいる少女は、長い薄紫色の髪、クリクリとした濃い紫色の大きな瞳。体は小柄で、ムラクモで師匠に拾われた頃のシュオウと同じくらいの背丈だ。小さなテーブルと椅子が、彼女が腰掛けているだけで大きく見えてしまうあたり、本当にどこからどう見ても子供である。
 だが、この少女がただの小さな女の子ではないということは、手にある異様なほどの存在感を放つ藤色の輝石と、アミュの後ろで姿勢良く立っている女輝士が証明している。

 女輝士の容姿は、目尻が少し垂れていて大人しそうな印象を受ける。二の腕くらいまである青が混ざった薄紫色の髪の先は、外側にくるんと跳ねている。女性の平均よりは少し高めな身長と、完璧なまでの姿勢の良さから、優秀な軍人としての雰囲気を漂わせていた。
 思い出してみれば、この女輝士は初対面のときに三人の輝士達に怒鳴りつけていたので、その場面が強烈な印象として残っている。しかし、今は落ち着いた表情で静かに立っているだけで、顔には微笑をうかべていた。
 女輝士と目があうと、なごやかな口調で話しかけてきた。

 「会うのはこれで二度目になりますね。私の名前はカザヒナ、家名はアデュレリアです」

 「アデュレリア……」

 「アミュ様とは血族の関係にあたります」

 「なるほど―――」

 どうりで、と思う。
 髪の質感や目の色、その他にも、アミュとカザヒナの見た目の共通点は多い。

 「自分は、シュオウといいます」

 シュオウも名乗ると、アミュがうんうんと二度頷いた。

 「うむ。互いに自己紹介をしたところで、本題じゃ。実は、個人的にそなたに興味があってここへ来た。さしつかえがなければ、少し話をしたいのじゃ。よいか?」

 「話すくらいなら、もちろん」

 「うむ。しかし、ここはちと寒い。火を入れてはもらえぬか」

 シュオウの部屋には備え付けの暖炉がある。
 陽も徐々に落ちていっている時間で、いわれてみればたしかに少しだけひんやりとしている。

 「下から種火をもらってきます」

 「では、ついでに熱い飲み物をもらえると嬉しい」

 アミュがそう言った後ろで、カザヒナもにっこり微笑んで人差し指を立てた。

 「私もお願いします。ここに来るまでにすっかり冷えてしまって」

 二人の要求に、あつかましい等とは思わなかった。
 むしろ、親しい友の家に訪ねてきたような力の抜けた態度に好感を抱いたくらいだ。
 シュオウは了解したことを伝え、二人を残して部屋を出た。





 部屋を出て行ったシュオウを見送ったアミュは、早口でカザヒナに声をかけた。

 「いまのうちじゃ、部屋の中を探るぞ」

 「え? もしかしてそれを狙って彼に頼み事を……」

 カザヒナがきょとんとして聞き返した。

 「あたりまえじゃ。なんの考えもなしに、突然訪問しておいてあれこれ要求するものか」

 家捜しをしたいわけではないが、これから軍へ勧誘するにあたって、少しでも情報が欲しい。
 それがどんなに小さい事でも、人間を相手にするうえでは、次の扉を開くための鍵になることもある。

 部屋の中を見回すと、窓際の椅子にかけられた黒い毛皮の外套が目にとまった。
 手にとってみると、平民が持つものとは思えないほど良質だ。売り物なら相当に値の張る物だろう。
 表面はしなやかで柔らかいのに、押せばしっかりとした弾力がある。いったいどんな動物から作ったものなのか、アミュの持つ知識では思い当たるものはなかった。

 「外套、ですか。見るからに上質な素材で出来てますね」

 「うむ。これほどの物を買って手に入れたとは考えにくい」

 だからといって降って沸いてくるようなものでもなく、かならずこの毛皮の元となった動物を狩った者と、材料を加工した者がいるはずである。
 あのシュオウという青年が作ったのだろうか。
 これ以上の推理は無駄なことと判断し、アミュは別の手がかりを探した。
 なにしろ時間はかぎられている。

 「他にもっと何かないのか」

 「あのう、ベッドの毛布の下に、こんなものが……」

 カザヒナが照れた表情でさしだしたそれは、男物の下着だった。しかも、へなへなとくたびれていて、どう見ても使用済みだ。

 「こ、こらッ、何を考えておるッ」

 こんなものを直接目にする機会のほとんどないアミュは心底戸惑った。
 恥ずかしいやら、興味があるやらでチラチラと下着に目がいってしまう。

 「毛布をめくったとき、これが置いてあって、なぜだかそこから良い匂いが……」

 カザヒナはおもむろに下着に鼻をつけて、くんくんと嗅ぎだした。
 竜巻の如き勢いで下着の臭い成分を吸収したカザヒナは、普段見せたことのないほど艶っぽくうっとりとした表情で息を吐いた。
 なんとなくの背徳感におそわれたアミュは、顔が熱くなっていくのを自覚していた。

 「お前にそんな趣味があったとは……どうりで嫁のもらい手がないはずじゃ」

 「ほっといてくださいッ。それに趣味じゃありません、こんなこと初めてなんですから」

 「手慣れているように見えたがの」

 「自分でも変なことをしているとは思うのですが、なんかこう、癖になる香りというか……アミュ様もいかがですか?」

 そう言うと、カザヒナはまるで高貴なデザートでも捧げるかのような手つきで、シュオウの使用済み下着を粛々と差し出した。
 馬鹿なことをするなと怒鳴りそうになりながらも、アミュは言葉を飲み込む。そのついでに湧いてきた唾液も飲み込んだ。
 これまでの百年以上の人生のなかで、男の下着の匂いを嗅ぐ等といった、はしたない行為はしたことがない。カザヒナのうっとりとした表情を見ていると、そんなにかぐわしいものかと好奇心をそそられたが、どうにか堪える。これに手を出せば、これまで築いてきた威厳やその他の様々なものが崩壊してしまうのでは、と思ったからだ。

 「いらぬ……自分一人で堪能するがよい」

 「そうですか? それではお言葉に甘えてもう一嗅ぎ―――」

 カザヒナは下着に顔を埋めるほどの勢いで匂いを嗅ぎはじめた。
 一嗅ぎするごとに、はあはあと顔を赤くして蕩けた瞳で息を吐いている。
 そんな姿を呆れながら見守っていたアミュは、自分の有能な部下の将来がふと心配になってきた。

 「おい、それくらいにして―――」

 そろそろ止めようかとしたその時、ガチャリと奥の扉が開く音が聞こえて、部屋の主が戻ってきた。

 「宿の人が買い出しに行っていて、道具の用意にてまど―――」

 ドアを開けたシュオウは、くたびれた下着の匂いを楽しんでいたカザヒナを凝視して固まった。それはもう見事に、糊で固めたかのようにぴくりとも動かない。
 カザヒナも同様で、朱に染まっていた顔は血の気が引いて青ざめていた。

 「あ、あああああのッ、これはち、ちが―――」

 錯乱状態一歩手前のカザヒナの手から、下着がぽとりと床に落ちる。
 変質者でも見るような目でカザヒナをじっとりと睨むシュオウと、平素みることもないくらい慌てふためいて言い訳を重ねるカザヒナの後ろで、アミュは密かに溜め息を落とした。
 探りをいれるための貴重な時間を、部下の特殊な趣味を満たすために使ってしまった後悔に頭痛がしてくる。

 しばらくして恐る恐る部屋に入ってきたシュオウは、暖炉に火を入れてから、慣れない手つきで茶を入れてくれた。
 シュオウが運んできたのはアカ茶という飲み物で、アミュが好んで毎日飲んでいるものと同じだった。茶葉は西方のイベリス産の高級品で、品質は申し分ない。
 飲み物を受け取る際、アミュへの態度は普通だったが、シュオウのカザヒナへの態度は明らかに取り繕っているのがわかる。カップを受け取るときに、カザヒナは羞恥心からずっと下を向きっぱなしで、シュオウはそんなカザヒナに同情するような生ぬるい視線を送っていた。

 熱いアカ茶をフーフーと冷ましてから喉に流し込む。思っていた以上に体は冷えていたようで、五臓六腑に染み渡る美味さだった。
 暖炉に火も入って、それなりに落ち着ける空間になってきたが、アミュは目的があってここに来ている。ほっと一息ついている暇などないのである。

 「では、本題に入りたい」

 アミュは椅子を移動させて座り直した。今はベッドに腰掛けるシュオウと向かい合う形になっている。
 こちらの意気込みが伝わったのか、カザヒナの件で落ち着かない様子だったシュオウも、しっかりと背筋を伸ばして座り直した。

 「どうぞ」

 「そなたの参加した試験の目的を知っておるか」

 「宝玉院という軍学校の、卒業試験だと聞いています」

 「うむ、その通りじゃ。じゃが、もう一つ別の目的もある」

 「試験に参加した平民を、従士として採用する、でしたか」

 シュオウは、どこか揶揄するような口調で言ったが、それも無理はない。この試験は平民を従士として採用するというのが主目的ではなく、高額な報酬を餌にして、あくまで危険な試験を運用するための必要人員を確保するための方便であるとわかっているのだろう。

 「端的に言う。そなたを従士長待遇で軍に迎えたいと思っている」

 アミュの言葉に、シュオウのみならず、後ろで待機しているカザヒナも息を飲む気配が伝わってきた。コネも実績もない平民を、いきなり士官待遇で雇い入れるというのは、前例がないことだ。

 軍の階級は、大きく二つに分かれている。平民である従士の階級と、貴族である輝士の階級がそれにあたる。

 貴族の軍での階級には、さらに輝士と晶士の二つに分かれて存在し、以下の順で上にあがっていく。
 〈候補生〉〈准輝士〉〈輝士〉〈硬輝士〉〈重輝士〉
 〈候補生〉〈准晶士〉〈晶士〉〈硬晶士〉〈重晶士〉
 貴族は軍学校を卒業後、自動的に士官となるため、原則として貴族の軍での階級に下士官は存在しない。
 階級に硬、重という言葉がつくのは、力を増すほどに硬く重くなる輝石の性質からきている。
 重輝士、重晶士より上の階級からは将官となり、〈准将〉〈重将〉〈元帥〉という順で階級が用意されている。
 重将は、その国の歴史ある大貴族や王族などが世襲によって受け継ぐもので、通常、普通の輝士や晶士が望める出世の最高位は准将までである。
 准将からは司令官としての役割を担うため、総じて准将から重将の階級にある者は将軍と呼ばれることが多い。
 また、輝士は貴族にとって最下位の爵位でもあるため、晶士であろうとも、一般的には輝士と呼称されることが多い。

 平民である従士の階級は以下の順で上がっていく。
 〈見習い〉〈従士〉〈従士曹〉〈従士長〉〈百砂従士長〉〈千砂従士長〉〈砂将〉
 従士曹、従士長の階級からは小隊ほどの人数をまとめる事となる。従士長から千砂従士長までは士官階級となる。
 砂将は将官階級で、准将と同格だが、貴族を優遇する傾向が強いムラクモでは、今現在砂将の位を持つ軍人は一人もいない。

 アミュとしては、用意できる最大の待遇を提案した。従士長ともなれば給料もそこそこいい。
 それに、若い男であれば、一度は戦場で部下を指揮する事に憧れるものだ。
 てっきりこの厚遇ぶりに歓喜して飛びついてくるものと思っていたのだが、その期待はたやすく崩れた。

 「正直にいって、あまり興味がありません」

 「……なぜか、聞いてもよいか」

 「世界を、見て回りたいと思っています。この試験に参加したのも、そのための金を稼ぐためでした。自分を従士長に、という話はありがたいですが、受けることはできそうもありません」

 シュオウはアミュを真っ直ぐ見据えて言った。それはとても真摯な態度で、断られたというのに好感すら抱く。
 年長者として、若者が旅立ちを望んでいるのなら、それを引き留めるべきではない。
 だが、ここで見逃してしまえば、いずれシュオウの才能を見いだす者はかならずどこかで現れる。それが自分ではないということが、アミュにはひたすら面白くない。大好きなオモチャを誰にも触られたくないという、一種の独占欲のような感情に囚われそうになる。
 なので、一度断られたからといって、簡単にあきらめる気にはならなかった。口説き落とすためにも、なにか一点でいい、突破口になるものが欲しい。
 相手は地位や金に執着しない。だからといって、欲しいものはかならずあるはず。世界を見たいと言っていたように、他にもこの青年の欲求があるとすれば、それを満たしてやることができる何かを、かならず提供できるはずである。

 「そうか……ところで話は変わるが、そなた達の試験中にあった出来事については、こちらでもすでに把握しておる。色々と驚かされもしたが、大きな狂鬼二体をたった一人で片付けてしまったそうじゃな。たいしたものじゃ」

 シュオウは軽く頷いた。
 褒めたつもりだったが、その事でとくに自慢気にするわけでもなく、淡々としている。
 普通ならこれだけの事を成せば自信過剰になったり、高く鼻を伸ばすものだ。とくに若い者には、調子に乗りやすいという特技がある。
 だが、シュオウからは褒められて特に喜んでいる様子もなかった。

 「報告書には、風変わりな武器を使っていた、とあった。先の尖った物だったとか。さしつかえがなければ、見せてはもらえぬか」

 シュオウは快く了承した。
 ベッドの脇に置いてあったベルトを持ってきて、白い棘のようなものを取り付けた武器を取り出す。

 「針、といいます」

 「ほう。これはめずらしい得物じゃな……」

 受け取ると、思っていたよりもずっと軽い。作りも単純で、本当にこれで狂鬼の輝石を打ち砕いたのかと疑問が沸いてくる。
 めずらしいものなので、カザヒナもこちらに身を乗り出して覗き込んでいた。

 「この刃の部分はなんじゃ? 金属、ではないな、軽すぎる。……骨か」

 針の刃の部分は、先にいくほど細く研磨されているようだ。形状は細長い円錐形である。

 「コクテイ、という狂鬼の歯から作られています」

 「コクテイ……はじめて聞く名じゃな。カザヒナ、お前は知っておるか?」

 「いいえ、聞いた事がありません」

 「黒くてデカイトカゲだと、師匠は言っていました。自分も見たことはありません」

 「師匠、といったか。それは、そなたに狂鬼との戦い方を教えた人物か?」

 「自分を拾って、育ててくれた人でもあります」

 シュオウは孤児だったらしい。報告書には書いていなかった事だ。

 「なるほど。さぞ優秀な人物だったのじゃろうな。弟子を見ればわかる」

 シュオウは、いえ、と言って後ろ頭をかいた。表情には僅かに微笑みをうかべている。
 その態度から、育ての親、そして師への愛情が深いと推察できる。口説き落とすための材料としてはまだ弱いが、心に留め置く価値はあるだろう。

 「狂鬼を一人で相手にできるほどの腕前なら、さぞかし剣の腕も立つのであろう」

 「いえ、剣は……ほとんど触ったこともありません」

 「ほう、そなたの師匠殿からは教わらなかったのか?」

 「針以外の武器の扱いは何一つ。棒きれを持っただけで怒られましたから」

 なにかを思い出したのか、シュオウは視線を遠くへやって笑った。
 しかし、これは意外なことだ。
 大型狂鬼二体を倒したという報告を見たとき、あまり考えることもなく剣の腕も立つものと思っていた。この世界で武人にとっての剣の扱いは、基本中の基本である。もちろん腕の上下はあるが、ムラクモでは下っ端の従士ですらそこそこに剣は扱えるのだ。
 思い出してみれば、はじめて会った時も帯剣していた様子はなかった。
 この話題を続ければ、剣を使えないことを馬鹿にしているととられかねないと思い、アミュは話題を変えることにした。

 「よければ、そなたの出身を知りたい。さきほど、拾われた、と言っていたが」

 シュオウという青年の存在は、依然として謎めいている。狂鬼を相手に出来る腕前。それを教えた師の存在。なにか隠したい事があってもおかしくはない。答えを嫌がるようなら、この質問はすぐに取り下げるつもりでいた。
 シュオウは少し間を置いて、じっくりと言葉を選んで言った。

 「ムラクモです。物心ついた頃には、この王都に独りぼっちでした」

 アミュは一瞬、言葉を失った。

 「……ムラクモの、しかも王都の出とは」

 アミュの背後で、カザヒナが、あらまあ、と驚きの声をあげた。
 他国の出身を疑っていた相手が、自分達の国の出身者だったとは、なんとも滑稽な話だ。

 「あるとき、偶然師匠に拾われて、それから遠くの、その…………田舎のほうで育てられました」

 シュオウは場所を説明するのを渋っているようにみえる。師匠と呼ばれている人物は、もしかすると訳ありなのかもしれない。
 詳しく問いただせば、せっかくの会話が絶たれてしまうかもしれない。アミュはあえてそのことには触れなかった。

 「そうか。そなたの灰色の髪から、てっきり北方の生まれかと思っていたのじゃが」

 「北には、自分と同じような髪をした人達が?」

 「うむ。あちらではそれほどめずらしくなかろう。なにがあったのかはわからぬが、両親か、もしくは片親が北方人だったのかもしれぬな」

 「そう、ですか……」

 シュオウは黙り込んだ。
 空気が重たくなってしまった。アミュは焦って次の話題を用意した。

 「アイセ准輝士候補生は、そなたを随分と気に入っていたが、それほどの腕があるなら、試験中に他の人間達を疎ましくは思わなかったか?」

 「最初の頃は、少し。ですが、今ではあの仲間達と共に試験を経験できてよかったと思っています」

 シュオウが仲間について語った瞬間、表情がゆるみ、幼さをみせたのをアミュはめざとく見つけた。隙といってもいい。はじめてみせる油断した、年相応の男子の顔である。

 ――仲間、か。

 「仲間は大切か?」

 「そう、ですね」

 「じゃが、その仲間達もそれぞれに生きる道が分かれてしまうぞ。試験が完全に終わり、報酬を受け取れば離ればなれになってしまう。寂しくはないか?」

 「……少しは」

 シュオウの表情が陰る。
 仲間という言葉に関わる話になった途端、あきらかに感情が揺れ動いている。
 突破口を見つけたかもしれない。そう思った。

 「仲間とは不思議なもの。血は繋がっていないのに、苦難を共に乗り越えることで強い絆で結ばれる。軍で共に歩むこととなる同僚、部下、上官も同じことじゃ。皆、仲間であり戦友であり、そして家族になる」

 「家族……」

 「組織というものは、そこに所属している者達を絆という見えない糸で結ぶ役割をする。そなたがもし、仲間を欲するのであれば、我はその場を提供することができるぞ。もう一度問う、軍に入る気はないか。そなたは世界を見たいと言ったな。ムラクモも、そして軍隊も、世界の中の一つであることに違いはない。まずは手近なところから見て、知るのはどうじゃ。そなたがムラクモに残れば、喜ぶ者もおるじゃろう」

 シュオウは沈黙して、深く考え込んだ。
 悩んでいる。
 これまでにない手応えを感じて、アミュはさらに攻勢にでた。

 「今回の試験と同じように、軍に入れば友と呼べる者も増えよう。もし、入ってみて気に入らないと思ったなら、辞めるのはそなたの自由じゃ。無理に縛ろうとも思わぬ。どうじゃ」

 シュオウはアミュの一言一言にしっかりと頷いて、答えを出した。

 「…………経験をさせてもらえるというのなら、お願いします。自分が、一つ所に居続けることができる人間なのかは、まだわかりませんが」

 「そうか、そうかッ。心配するな、我の元で働くかぎり、他国との関わりは嫌というほど経験することになる。そなたが望んでいた世界を見るという目的の一部もかなうに違いない。誘いを受けてくれたこと、嬉しく思うぞ」

 アミュは立ち上がって、シュオウの手を取りブンブンと振り回した。
 まるで子供のように無邪気に喜びを表現してしまったが、勧誘に成功したことが嬉しくて気持ちを抑えられないのだ。

 これからどうするか、さっそく考えを巡らせる。
 まず、周囲からあやしまれないように適当な出身地を用意してやるべきだろう。その点では、影狼を使えばたやすく実行できる。関所でシュオウの目撃情報が一切ない不自然さも、こちらで適当に目撃情報をでっちあげてやればすむことなので、万が一、王轄府などが探りを入れてきたとしても心配はいらない。

 あとはそう、剣を使えないと言っていたので、師を与えてやるのがいいかもしれない。軍での剣の腕は、その人間の有能さを示す判断基準ともなる。そんな事で卑屈な思いはさせたくないので、一流の腕を持つ剣士を指導に当たらせるのがいいかもしれない。幸い、アミュの部下の中でもかなり剣の腕の立つ者がすぐ後ろにいる。シュオウの運動神経がずば抜けて優れていることは証明済みなので、さほど苦労もなくモノにしてしまうかもしれない。

 アミュに手をふりまわされるシュオウは、少しだけ困った表情で微笑していた。

 まずは入り口に立たせることには成功した。そこから先の事は、導く人間の資質も重要になってくる。つまりは自分だ。責任も感じるが、今は楽しみな感情のほうが圧倒的で、目の前の青年が、いずれはカザヒナと共に自分の右腕として実力を発揮してくれるのではないかと、期待は尽きなかった。




 





           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 王都の北に〈スイレイ湖〉と呼ばれる湖がある。
 春になると流れてくる山頂付近の雪解け水を、堤を設けて塞き止め量を調節している。この人工的に作り出した湖は、半透明の美しい青の水で満たされていて、湖の中心に用意された島には〈水晶宮〉という名の王宮がある。
 水晶宮の外壁のほとんどは、切り出した夜光石で作られていて、夜になると周囲の湿気を吸収してぼんやりと光を放つこの王宮は、それを見た人々の間で光宮や青光宮とも呼ばれていた。高価な夜光石を採掘できる鉱山を、自国の領土に多く有しているムラクモ王国だからこそ出来る、贅沢な作りの建物だ。
 水晶宮への道は、巨大な石造りの橋があり、たっぷりと余裕をもって設計された道幅のおかげで、たくさんの人々や物資が同時に往来しても窮屈さをまったく感じない。
 橋を渡った先にある、三日月のような形をした美しい水晶宮を初めて見た者は、静かな青の湖を背負って建つその神秘的な姿に、うっとりと溜め息をもらすので、この橋を〈溜息橋〉とも呼ぶのである。

 水晶宮内の中心奥にある水翼の間という名の謁見の広間に、多くの人間達が集まっていた。
 広間には、白い柱が奥の玉座に向かって林立していて、柱の間には王家の紋章である翼蛇を金糸で刺繍した真っ青な大きな国旗が連続して吊られている。

 室内の中心には水色の制服に身を包む宝玉院の生徒達が整然と隊列を組んで並んでいた。
 中央で並ぶ生徒達の両側は、宝玉院の制服よりも濃い色の青の軍服を身に纏った輝士達が、規則正しく整列している。
 ムラクモの軍服は、階級があがるほど青色が濃くなっていく。並んでいる輝士達の軍服の色は、玉座のある奥のほうへいくほど色が濃くなっていき、最も奥のほうにいる輝士達の軍服は、黒と見間違うほど濃い紺色をしていた。

 試験が始まってから一ヶ月と十日の時が流れていた。
 宝玉院の生徒達からは十一人の死者が出て、多くいた平民の参加者は、その数の七割もの大量の死者を出して、試験は幕を閉じた。

 シュオウは今、試験の閉幕式と、宝玉院の卒業式、そして輝士の卵達が輝士爵を授かる叙爵式とをまとめて執り行う、めんどうな式に参加している。
 宝玉院の生徒達はもちろん強制参加だが、共に深界を歩いた平民達は、式への参加は自由意思が尊重される。つまりは、来ても来なくてもどっちでもいい、ということである。
 すでに報酬は受け取っていているので、このような催しに執着する必要はないのだが、水晶宮の中を見ることができる絶好の機会でもあったので、ジロやクモカリ、ボルジも連れだって全員で参加していた。ちなみに、アイセとシトリの二人から、式を見に来てほしいと頼まれた、というのも理由の一つだ。

 重たい太鼓の音が繰り返し鳴らされて、水翼の間は静まりかえる。
 玉座の右横の青い袖幕から、一人の少女と、初老の男が現れた。
 少女のほうは、シュオウも知る氷長石ことアデュレリア公爵である。もう一人、一緒に現れた男のほうは、初めて見る人物だ。

 「サーペンティア公爵様ね。あれが《蛇紋石》よ。ムラクモでは吸血公の血星石、氷姫の氷長石と並ぶ、名高い燦光石の一つ。蛇紋石は風を自在に操る燦光石で、サーペンティア公爵は、別名〈風蛇公〉とも呼ばれているわ」

 シュオウの横に立つクモカリが、まわりに聞こえないような小声でそう説明してくれた。
 
 サーペンティア公爵の第一印象は、平凡、である。
 立ち姿はどこか頼りなく、背筋もしんなりと曲がってみえる。おでこから頭の天辺まで禿げ上がった髪がどこか哀愁のようなものを誘い、黒くてテカテカとした高そうな軍服を着ていなければ、どこにでもいる街中のくたびれた中年、といった風貌だ。かといって人の良さそうな雰囲気は皆無で、蛇のように無機質な緑色の瞳がギョロギョロと忙しく動いていて、はっきり言って不気味である。

 隣にいるアミュからは、幼くみえても権力者であることを納得させられてしまう気品がある。その横でおちつきなく目を動かしているサーペンティア公爵は、彼自身にとって、蛇紋石の継承者という看板は重荷ではないのだろうかと心配してしまうほどの小物臭が漂っていた。

 氷長石、蛇紋石の両公爵は、シュオウから見て玉座の左側の少し後ろに位置を決めて立ったまま静止した。

 太鼓の音が消えて、管楽器の甲高い音色がファンファーレを奏でた。
 水翼の間にいる貴族達が、全員左手の甲を前にして、握った拳を胸の前にかざす、軍の敬礼の姿勢をとった。

 まず現れたのは、体格の良い武人風の男。長い髪は白髪で、後ろで一本に束ねている。強面な顔には皺も目立つが、老人と呼ぶにはあまりに体格も姿勢も良い。黒の軍服には、はみ出してしまいそうなほどの数々の勲章が飾られていて、左肩から青いマントをたらしている。左手の甲には、血のように赤黒い色の輝石。
 クモカリの説明を待たずに、咄嗟に理解する。
 まちがいなく、この男こそが血星石の保有者。アイセの話していた、長くこのムラクモという国を支え続けているという傑物、グエン元帥であると。
 次いで登場した人物を初めてみたとき、この場にいる者達全員の、息を飲む音が聞こえたような気がした。

 「王女様よ。はじめて見たわ。綺麗ね…………」

 女にはあまり興味を示さないクモカリも、我を忘れて見入っている。
 クモカリの言った、綺麗、という言葉が耳にこびりついて離れなかった。
 奥が透けてみえるのではと錯覚してしまうほど、絹糸のようにきめ細やかな黒髪は、膝に届きそうなほど真っ直ぐ長い。身に纏った純白のドレスに負けないくらいの白い肌。真蒼の輝石。すこし伏し目がちな蒼色の瞳は、かすかに潤んでいるようにも見える。なにより完璧なまでに整った眉目は、名だたる芸術家達ですら再現不可能なのでは、と思わせるほどの美しさだ。
 若さから醸し出される儚さと、女としての色香が混在している。老若男女を問わず、皆が見とれてしまうのも無理はない。

 初めて見る王族、サーサリア王女は、絶世の美女と呼ぶに値する女性であることは間違いなかった。
 だが、シュオウは強烈な違和感も感じていた。

 ――あれは、人間なのか。

 この世に、完璧な人間など存在しない。
 誰もがうらやむような容姿をした者でも、細かく見ていけばかならずどこかに欠点と呼べるものはある。
 サーサリア王女には、少なくとも見た目の点では一切の歪みがない。
 だが、彼女に対して抱く美しいという感情は、無機質な宝石を見て思う感想と同質のもののような気もするのだ。
 シトリとは違った種類の無表情さで、蒼色のガラス玉のような瞳は虚ろだった。たったいまこの場でこれは人形でした、と言われても納得できる。それほどに、命の気配が感じられなかった。

 サーサリア王女はゆっくりと玉座に腰掛ける。
 前を歩いていたグエンは、サーサリア王女の少し後方に立ち、険しい顔で正面を見つめていた。

 ムラクモ王国でも遙か高みに存在する四人の貴人が揃い踏みとなった。
 式の最中にひざまずくことは禁じられているため、シュオウ達平民の参加者達も、皆立ち姿勢で見守っている。

 試験前日の説明会のときに見た監督官が、生徒達の名前を呼び、卒業証書と正式に輝士爵を与える言葉が贈られていく。左胸に准輝士の階級章をつけられた生徒は、敬礼の姿勢をとりながら、王女に向けて一礼する。それを受け、サーサリア王女が軽く頷く。
 それを人数分繰り返した後、最後に残されていたアイセとシトリの番がきた。

 「いよいよね」

 「ああ」

 クモカリの表情が綻び、シュオウもつられて微笑んだ。

 今年の試験での合格者は、アイセとシトリの二人だけ。二人は同小隊の所属だったので、つまりこの試験で合格条件を満たした小隊は、たった一つだけだったことになる。たしかに聞いていた通り、この試験の合格者という肩書きはそれなりに価値があるらしい。

 二人の名前を呼んだのはサーサリア王女だった。見た目通りの美声は、すこしかすれていて力を感じない。だが、静寂が保たれた水翼の間では、よく響いて聞こえた。
 呼ばれて、玉座の前まで歩み寄ったアイセとシトリは、片膝をついて左手を胸の上に置いた。

 「アイセ・モートレッド准輝士候補生。シトリ・アウレール准晶士候補生。両者とも、過酷な試験で優良なる結果を出したこと、王家の者として誇りに思う。今後の忠誠に期待し、そなた達に剣と杖を贈る」

 サーサリア王女は、グエンから複雑な文様が装飾された鞘に収められた剣を受け取り、それをアイセに手渡した。同様に、シトリには頭に大きな青い宝玉が埋め込まれた焦げ茶色の木製の杖が手渡される。この杖は、一点に力を集中することを特に必要とする晶士のための武器で、晶気を練り、溜め込むことを補助するらしいのだが、それにどれほどの効果があるのかは、シュオウにはわからない。
 最後に王家の紋章が入ったマントが手渡され、二人は一礼して後ろへ下がった。

 その後、サーサリア王女から死者への手向けの言葉が贈られ、全員で黙祷を捧げた。そして無事に帰還した者達をねぎらい、試験の終了が宣言され、水翼の間は人々の拍手で埋め尽くされた。
 進行係から式の終わりが告げられて、サーサリア王女を先頭に、氷長石、蛇紋石、血星石の三人も退場していく。

 静々と歩くサーサリア王女と、その後ろをついて歩くグエンを可能な限り観察しつつ、シュオウは彼らを見送った。
 いつまでともわからないが、この国の軍に入ると決めた以上、国主の姿を目に焼き付けておくくらいのことは、しておくべきなのだろう。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 「どういうことじゃッ!」

 アミュの怒声に、カザヒナが肩をすくめた。
 式への出席を終えた後、仕事場に戻ってきたアミュに届けられた一報は、我を忘れて怒鳴り声をあげてしまうほど不愉快なものだった。
 王轄府からグエンの名義で届いた書簡には、シュオウという平民の人事については王轄府の管轄であり、左硬軍への入隊は認めない等といった文言が綴られていた。

 「私も、すぐにグエン様の側近を通じて何度か理由を尋ねたのですが、王轄府の決定に口出しは無用、という回答を非公式にいただいてしまいました」

 カザヒナの言葉を聞いて、アミュはさらに激高した。

 「なぜじゃッ! なぜ平民一人の人事で口出しをする。この身は公爵であり、重将でもあるのじゃ。であるのに、なぜ人一人を我が軍に欲しいという要求が拒絶されるッ。ありえぬぞ!」

 怒りにまかせて、大きな仕事机を両の手の拳で叩いた。

 「ありえない、とおっしゃられるのであれば、閣下のようなお立場の方が、特定の人物を強く求める事自体がありえないことでは―――」

 カザヒナが最後まで言い切る前に、アミュは強く睨みつけた。

 「―――出過ぎたことを申しました」

 「ふん、お前の言いたいこともわかる。それよりじゃ、シュオウを我が軍へ迎え入れるにはどうすればよい。何か手はないのか…………そうじゃ、提出させた軍への入隊希望届けを取り下げさせてから、我が個人的に雇い入れるというのは―――」

 「それには賛成いたしかねます。彼の入隊希望届けは、すでに王轄府によって正式に受理されています。それに対して下手に横槍を入れれば、アデュレリアが王家に対してよくない感情を持っている、ともとられかねません」

 「む……」

 カザヒナの言うとおりだ。王轄府は王を頂点とした組織である。王のいない現状では、グエンが長としての役割を担っているが、王轄府へ異議を露わにするということは、結果的に王家への反逆と見られても文句はいえないのである。

 「では、内々に異議申し立てをするのはどうじゃ。波風をたてたくないのは王轄府とて同じはず。非公式の抗議であれば、あちらもわざわざ表沙汰にすることはあるまい」

 アデュレリアは、ムラクモの国力を大きく支える大貴族で、その名は他国まで知れ渡っている。自国に夜光石等の貴重な鉱物資源を多く抱えるムラクモは、長い歴史の中で、何度も他国の侵攻を受け、それをはねのけてきた。今現在も、国境沿いの情勢は常に不安定で、いつ何時戦争状態になったとしてもおかしくない。そんな状況で、王家とアデュレリア公爵家の関係が悪化している、などといった情報は、たとえ水一滴分ほどであっても漏らしたくないのが王轄府の本音だろう。
 
 「それには強く反対いたします」

 カザヒナの以外な返答に、アミュは目を丸くした。

 「なぜじゃ」

 「非公式にとはいえ、閣下の名前で平民である青年の人事権を求めたとなれば、かならずどこかからその情報が漏れ伝わります。そうなったとき、彼のムラクモでの生活が心配です。氷長石である閣下が熱望する才能、という話が一度でも広まってしまえば、いらぬ嫉妬も受けるかもしれません」

 アミュは部下の言葉をよく噛み砕いたあと、溜め息を一つついた。

 「手はないのか……あれほどの才能を、正当に評価してやれぬとは」

 「彼の試験中での実績は、すでに王轄府も知るところのようで、グエン様の耳にも届いているとか。そのことが原因となってか、彼の階級が見習いを飛ばして正式な従士としての採用が決定しています。なんの後ろ盾もない平民の若者に与えられる待遇としては、十分破格であるかと」

 「我なら従士長として迎えたものを……それに、なにより気にくわんのは、シュオウの任務地じゃ」

 受け取った書簡に記載されていた、予定されているシュオウの任務地候補は、アベンチュリンとの国境沿いにある、中規模の砦である。国境沿いとはいえ、ムラクモよりもさらに東側に位置するアベンチュリンは、ムラクモのお情けで国としての形を保っている属国である。軍事力を含めた国力に乏しく、ムラクモが建国して間もなく、その軍門に下った弱小国家――このような重要性に乏しい場所へ送られるなど、軍人としては出世の道を絶たれたのと同じ事だ。

 「今は様子見の姿勢を維持するのが賢明と考えます。運命が再び交差するようなことがあれば、我が軍へ迎える事ができる機会も訪れるかもしれません」

 「運命、か……」

 「閣下には、他に考えていただかなくてはならないことがたくさんあります。今はどうか、このことを胸の奥に……」

 カザヒナは神妙な面持ちで頭を下げた。

 「……わかっておる。じゃが、シュオウへ謝罪の文を書く時間くらいはもらうぞ。直接勧誘しておいてこのていたらく。本人に会って詫びたいが、今は情けなくて会わせる顔もない」

 アミュは暗い顔で筆を取った。
 シュオウ宛に、簡単な経緯の説明を書いていく最中に、不満が再燃してしまう。
 たった一人の人間を、自分の軍へ入れることもできない事への怒りもある。だが、もっとも腑に落ちないのは、アミュの要請を強引につっぱねるグエンの態度だ。あげく、使える人材であるとわかっているにもかかわらず、平和な任務地に送って飼い殺すような真似をしようとしている。

 ――グエン殿は、いったいなにを考えておるのか。










           ◇       ◆   ◇  ◇   ◆       ◇










 水晶宮の長い廊下に、大股で歩く靴の音が響いている。
 左右の壁には、水で満たされた青色のガラス瓶が埋め込まれ、そこに入れられた夜光石がガラス越しに夜の湖のような深く青い光を放ち、壁や床を照らしていた。

 「グエン様」

 人気のない廊下で、女の声がした。

 「イザヤか」

 グエンは副官の姿を認めると、ついて来い、という意思をこめて人差し指を振った。
 少しだけ遅れてついてくるイザヤを、横目で見る。短くカットした茶色い髪。やや浅黒い肌。茶系色の輝石。どちらかといえば小柄で、少し手を伸ばせば大柄なグエンの手が頭にのってしまう。猫のようにくっきりとした目は、ほとんど瞬きもせずに前を見据えていた。よく見れば、目元に小さな小皺のような線がある。

 ――三十年、か。

 過去、南方諸国との戦いの最中に、一時的に制圧した小さな街の領主館で、一人生き残ってしまった幼い女の子を拾い、イザヤと名付けて手元においた。なんの気まぐれだったのか、その後もグエンはイザヤに食べ物と教育を与えて育て、気がつけば重輝士として活躍するほどの人間に成長していた。
 イザヤは知っている。このムラクモ王国という国が、自分の本当の家族を死の運命へ追いやった存在だと。しかし、それを知っても尚グエンを実の親のように慕い、国に尽くしているのだ。

 人の命は短い。
 こうして息をして歩いているだけで老いて朽ちていく。
 いま後ろをついて歩いてきているイザヤも、そう長くないうちに死んでいくのだろう。
 自分を残して。
 だが、それを悲しいとは思わない。
 大砂丘の如く長き時の中を生き続けているグエンの心は、とうに乾き、枯れ果てているのだから。
 しかし、だからといって立ち止まることはできない。ただ一つの生きる目的を果たすまで、なにがあってもグエンは生にしがみつかなければならない。

 「式中、なにかかわった事はあったか」

 「いえ、これといっては。あえて申し上げるとすれば、左硬軍のカザヒナ重輝士より、シュオウという名の平民のことで、何度か問い合わせがありました」

 「アデュレリアの小娘か……氷長石にせっつかれでもしたか。平民一人をそこまで欲しがるとはな」

 「同行した准輝士候補生の報告書は読みました。事実であれば、かなりの手練れと思いますが」

 かなり、などという言葉では足りないだろう。一人で狂鬼二体を冷静に処理してしまえる平民など、探して見つかるものではない。まずまちがいなく天賦の才にめぐまれた人間である。そのうえ、その腕か人柄のためか、自尊心の強い貴族の娘を虜にしている。他者を圧倒する実力、そして惹きつけるだけの魅力。どちらも備えているとすれば、それはいずれ人の上に立つ一角の人物になるのは間違いない。

 「知っている。であるからこそ、無駄に氷長石にくれてやる必要もない」

 「ですが、我らの手元に残したとしても、配置先があそこでは……対北方、南方の要塞にでも配置するのが妥当であると考えますが」

 才に恵まれた若い男。すでにムラクモでも上位の権力者である氷長石が目を付けている。これ以上の活躍の場を与えれば、その名はどんどん売れていくはず。それはグエンの望むところではない。力のある者は、それが強ければ強いほど、たとえ一時は従順にみえたとしても、隠れて牙を磨き爪を研いでいるものだ。グエンは長く生きた時の中で、嫌と言うほどそれを学んでいる。

 ――この国に、英雄はいらない。

 シュオウという青年はまだ若い。飼い慣らすことができる可能性もあるかもしれないが、それは確実ではなく、そんなことにかまけている余裕もない。
 必要なのは無能でも従順な者達。自分の手の中で好きに転がせる駒以外は不要だと言い切れる。大国であるムラクモは、ただ一人の天才を探し頼らなければならないほど弱くはないのだ。

 強引に追い払えば氷長石が拾うのは目に見えている。それでは意味がない。国と各領主達の力関係は絶妙なバランスを保っている。たかが一人の人間であれ、飛び抜けて有能な者が一領主につけば、その均衡はたやすく崩れ去ってしまうかもしれない。そうなれば、東方の安定は保たれなくなる。それがどんなに小さな種だっとしても、なにが芽吹くかもわからないようなものを捨て置くことはできない。

 せいぜい平和な僻地で飼い殺し、退屈にまみれて、この国に失望して出て行ってくれればよし。他国で成り上がろうと、あとは好きにすればいい。強引に殺してしまうという手もあるが、そこまで強硬手段にでなければならないほどの人間ではない。すくなくとも今は。それに、氷長石に気取られれば面倒になる。グエン個人としては件の青年になんら恨みはないし、才ある人間は好ましく思っている。なにごとも穏便にすめば、それが最良である。

 「すでに決定したこと」

 短くそう言うと、イザヤは畏まった。

 「失礼致しました……。閣下は、これからどちらへ」

 「王女殿下の元へ行く。今日はひさかたぶりにお姿を見せられたとはいえ、諸侯らは直接の謁見を望んでいる。石の継承も、これ以上引き延ばせばろくでもない噂もたつだろう。――――他に報告がないのなら下がれ」

 「はッ」

 イザヤは敬礼して、その場に停止した。
 グエンは副官に見送られながら、最上階へと続く階段を一段ずつ昇った。





 天窓から入る薄雲に濁った月明かりだけが、ひんやりと冷たい部屋を照らしている。
 乱暴に靴を脱ぎ捨てて、シルクのシーツで覆われた絢爛たるベッドに、逃げ込むようにして転がり込む。
 花を焦がしたような甘苦い香りが、部屋に舞った。

 部屋の入り口から人の気配がする。俯せに横になったまま、視線を送った先には、よく見知った男の姿があった。

 「グエン、部屋に入るときは声くらいかけて」

 白髪の大男。ムラクモの父と称され、今この場で床に根をはったように立ち尽くすこの男は、すでに五百年以上もの時を生きている化け物だ。生まれた頃から自分を知っているグエンは、幼い頃に両親を亡くした自分にとって、唯一の身内と呼んでもいいほどに関わりの深い人物でもあるが、昔から小言の多いグエンに対して、あまり良い感情を抱くことができずにいた。あたりまえの関係に例えるならば、小言が多く煩わしい祖父のようなものだ。

 「殿下。せめて服を着替えてから横になったほうがよいのではありませんか」

 「余計なこと。あのくだらない式に出てあげたのだから、これくらい見逃したらどうなの」

 「……ムラクモの未来を担う若者達の門出となる大事な式です。次期国主である殿下が出席なさるのは、当然の義務でありましょう」

 「その未来を担う若者を、毎年無駄に死なせているのは誰だったかしらね」

 無茶な内容の試験を強行する、グエンに対しての皮肉を言った。

 「………………」

 効果はあった。グエンの小言を一時は封じることができたらしい。
 次の発言を許す間をあたえず、サーサリアは呼び鈴を鳴らした。
 すぐに、女官の一人が現れる。

 「アレを」

 これ以上の言葉など不要である。いつもの要求に、女官も黙って頭を下げた。

 「待て」

 グエンが女官の前に手を出して行く手を阻む。

 「〈リュケインの花〉をまだ続けておられたのか」

 「それが、なんだというの」

 「あの花の煙は精神を強く蝕むのだと知っているはず。前回の忠告のとき、やめていただけると約束したのをお忘れではありますまいな」

 「うるさいこと……。今日は人前に出て疲れたのだから、少しくらいいいでしょ―――さあ、はやく行きなさい」

 足止めされている女官を睨みつけて促す。が、グエンはなおも外への通路を塞ぎにかかった。

 「ならん」

 グエンは女官を睨みつけ強く言った。
 女官は怯えたように身を竦めて、足を止めてしまう。
 サーサリアは、自分の命令を最優先に実行しない事に、しだいに苛立ちを感じ始めていた。

 「なにをしているの、命令したのは私よ」

 「で、ですが………」

 女官は、グエンとサーサリアを見比べて、なおも動こうとしない。

 「もうよい。私の命令が聞けない者に、ここにいる資格はないわ」

 サーサリアは左手をかざして、晶気を構築した。
 部屋の入り口に、濃厚な青霧が充満していく。
 女官のすぐ側に立っていたグエンは、化け物じみた動作で霧の届かない部屋の隅まで退避した。

 「クカッ………ガッ……ハッ………」

 青霧の中に一人残された女官は、喉を押さえて地面に倒れた。悲痛にのたうちまわり、口からはだらしなく涎をたらしている。その姿があまりに情けなくて、サーサリアの顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

 ムラクモ王家の者が使う毒の霧。この力をもって、ムラクモ建国女王は、当時はまだ一国家であり、互いに小競り合いを続けていたアデュレリアとサーペンティアを支配下においたと聞かされている。
 王家の燦光石である天青石の継承をしていないにも関わらず、生まれ持ってのこの力は、たやすく人を殺めてしまえる。
 女官に吸わせたのは麻痺性の毒霧。肉体の自由を瞬時に奪い、呼吸する力すら徐々に奪っていく。地上で溺れるようにゆっくりと苦しんで死んでいくこの霧は、自分にさからった愚か者に与える死としては上等なものになるだろう。

 「で、んか…………なに、とぞ………おゆる、しを……」

 息をするだけでも精一杯のはずなのに、女官は出せる力を振り絞って命乞いをする。

 「殿下、どうかそのくらいに」

 「グエン、お前がいけないのよ。でも、そうね…………口出しをやめると約束するのなら、許してもよい」

 グエンは沈黙したまま、ゆっくりと頭をさげた。
 それを確認して、サーサリアは晶気を消した。
 正常な呼吸を取り戻した女官は、激しく咳き込みながら体を起こした。

 「これが最後。命令されたことを今すぐやりなさい」

 脱兎の如く駆け出していった女官は、すぐにリュケインの花びらを詰めた袋と、道具一式を持って戻ってくる。小さなテーブルの上に置いた球根のような形をしたガラス瓶に花びらを入れ水を注ぐ。それを下から蝋燭の炎で炙り、徐々に熱されて出てきた花の煙をガラス瓶の先端に繋いだ管から、ゆっくりと吸い込む。
 甘苦い花の香りが、口の中いっぱいに広がった。

 目の前がぐらりと揺れるような感覚がして、ベッドの上に大の字で横たわる。

 リュケインの花からでる煙には、多幸感を伴った強力な幻覚作用がある。高い依存性があり、使用者の多くは常習してしまう。煙の効果が持続している間は、幸せな妄想に頭が支配され、そこにないものが見えたり、聞こえるはずのない音が聞こえたりといった、幻覚、幻聴効果ももたらされる。

 ――忘れたい。なにもかも。

 王家に生まれたこと。
 一国を背負わなければいけないこと。
 誰一人親しい者がいない孤独。
 失望の眼差しで自分を見るグエン。
 両親の死。
 そして、あの時の、あの光景。

 辛い現実など、消えて無くなればいい。

 しだいに正気は失われていく。

 煙の匂いが、心の奥底に沈殿した記憶を根こそぎに拾い集めていく。
 まだ両親が生きていた頃。
 幼かった自分の頭を優しくなでて、子守歌を歌ってくれた。
 今だけは、あの頃と同じように無邪気に笑う事ができる。

 「で――――し―――――か――――」

 グエンが、何かを言っている。

 ――グエン……? この男は…………誰だっけ。

 さっきまで話をしていた相手のことを思い出せない。

 しかし、そんなことにもすぐに興味はなくなった。

 天井に視線をうつすと、キラキラとした星粒たちが賑やかにダンスを披露していた。

 その様子があまりに楽しそうで、サーサリアは天井に向けて手を伸ばした。

 星粒たちはサーサリアの手に集まって、そこでまた楽しげに飛び跳ねて、喜ばせてくれる。

 「ふふ」

 理性的な思考は氷のように、少しずつとけていく。

 ふらふらと定まらない視線を泳がせながら、サーサリアはわらった。

 ――ああ、きもちいい。






[25115] 『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 プレゼント』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:5a017967
Date: 2014/05/13 20:19
   『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 プレゼント』










 深界で行われた卒業試験を無事に終えて、王都に戻って仲間達と盛り上がった夕食会の次の日の朝。
 大急ぎで家へ戻ったアイセを待っていたのは、いつもの何倍も不機嫌そうな顔で出迎えた父だった。

 客の前で失礼な態度を取ったこと、勝手な外出、朝まで戻らなかったことなど、たっぷりと小言をもらったが、試験を終えたばかりで疲れていることを盾にして、どうにかやりすごした。
 安心できる家の中で人心地がつき、高揚した気持ちでどうにか塞き止められていた疲れがどっと押し寄せてきたので、それから丸一日を睡眠で潰した。
 翌日、早朝に目を覚ましたアイセは、いつも通りの宝玉院の制服を着て、ゴソゴソと屋敷の中を家捜ししていた。

 ――会いたい。

 起きてからこんなことばかり考えている。
 この気持ちが恋なのか、友情なのか、もしかしたらただの強い者への憧れの気持ちだけかもしれない。
 だけど、今はただシュオウの顔を見て、あの落ち着いた、安心を与えてくれる声を聞きたかった。
 
 もし、これが恋愛感情だとしたら。
 同年代の女子達が、誰が好きだの、キスをしただのとヒソヒソ話す内容にはうんざりしていた。
 自分達は国の未来を預かる軍人になるのだから、勉強すること、鍛えなければならないことがたくさんある。
 だから、自分にそうした機会が訪れるのは、もっと先のことだと思っていた。

 「あった……」

 倉庫部屋の中にうずたかく積まれた木箱の一つを手に取る。
 これで、シュオウに会いに行く口実ができた。



 昼過ぎになり、アイセは徒歩でのんびりとシュオウが滞在している宿を訪れていた。
 誰に会うこともなく、二階に昇って、あらかじめ聞いていたシュオウが泊まっている部屋のドアをノックする。

 「私だ」

 「…………」

 しかし、ドアの向こうは無反応。

 「おーい、シュオウ。いないのか」

 さらに強くドアを叩くが、やはり反応はない。
 あきらめきれず、最後だと決めて声を張り上げて、さらに強くドアを叩いた。

 「おーい! いたら開けてくれ!」

 扉の向こうから人が動く気配がする。
 少しして、ガチャリ、とドアが少しだけ開いた。
 隙間から顔を出したシュオウは、目を細めて不機嫌そうな顔をこちらへ向けている。
 どう見ても起きたばかりといった様子だった。かろうじて目を薄く開いていて、灰色の髪は寝癖であちこち飛び跳ねていた。

 「…………なんだ」

 「もしかしてまだ寝てたのか? もう昼過ぎだぞ」

 困った弟を注意するような口調でアイセが言うと、シュオウはますます不機嫌そうに眉をひそめた。

 「……用件はそれだけか」

 「いや、じつは試験中に色々世話になったお礼にと思って、贈り物を持ってきたんだ」

 抱えてきた木箱の上蓋をはずしてシュオウに見せる。
 アイセは中に入っている物を、自信満々に胸を張って披露した。

 「父の領地で作っている土産物で、金箔を貼った木彫りの熊だッ――」

 バタン! と、ドアは勢いよく閉じられた。
 扉に押し出されて舞い上がった風に、アイセの金色の前髪がふわりと浮いた。

 「…………え?」

 ――あ、あれ。

 何度もドアを叩いてシュオウを呼んだ。が、返事はまったく返ってこない。ついさっきまで普通に応対していたのだから、これは意図的に無視されているのだろう。
 なにか怒らせるようなことを言ったのだろうか。
 持ってきた贈り物は、買えばかなり値の張るものだ。てっきり喜んでくれるものと思っていたのだが、期待ははずれてしまった。
 アイセは木箱をかかえて、なにがいけなかったのか吟味しながらとぼとぼと帰宅した。



 翌日、アイセはリベンジに燃えていた。
 わざわざモートレッド伯爵家と縁の深い商人を呼び出して、オススメの最高の品を買い付けた。
 昨日と同じくらいの時間に、必死の思いでそれをかついで持って行く。
 部屋の前で何度か呼びかけてみて、ようやくシュオウは応じてくれたが、昨日と同じように寸前まで眠っていた様子で、強引に起こした形となってしまったせいか、機嫌はすこぶる悪そうだった。
 また逃げられてしまう前に、今度こそと意気込んで持ってきた物を見せたのだが、シュオウは昨日と同じように無言でドアの向こうへ消えてしまった。

 「そんな……」

 持ってきた物がだめなのだろうか。
 今回用意したのは、高価な赤い宝玉を目に埋め込んだ、酒樽をかついだ大きなタヌキの置物だった。
 自分としては、かなりセンスの良い物を選んだと自信があったのだが、受け取ってはもらえなかった。

 二度目の敗戦に、ふと嫌な考えが頭をよぎる。

 ――もしかして、嫌われて……る?

 いや、そんなことはないはずだ、と自分に言い聞かせて首を振る。

 結局、それ以降まったくシュオウから反応が返ってこなかったので、あきらめてタヌキの置物を担いで一階へ下りた。
 すると、偶然紙袋を抱えて宿に入ってきたシトリとバッタリ出くわした。

 「シトリ、どうしたんだ。誰かに会いに来たのか?」

 「べつに」

 シトリは、なんとなくはぐらかした態度でそっぽを向いた。
 アイセはシトリが抱えた紙袋が気になってしかたがない。

 「それ、贈り物……か?」

 シトリはかすかに頷いた。

 「ひょっとして、シュオウに……か」

 そうでなければいい。そんな甘いことを一瞬考えた自分が情けなかった。

 「だとしたら、なに」

 やっぱりそうなのか。この瞬間、アイセは明確に理解した。
 いままでの態度を見ていて、なんとなく感じていたことだが、どうやらシトリもシュオウに対してなにかしらの好意を抱いているらしい。
 ならば、目の前にいる無愛想な同級生は、同じ得物を狙うライバルとなるのだろう。

 彩石を持つ貴族社会では一夫多妻の重婚は当たり前の文化だ。
 輝士や晶士の数と質は、そのまま国の軍事力として大きく影響するので、貴族は多く子供を作ることを推奨されている。
 とくに優秀な能力を持つ輝士や晶士ともなれば、結婚相手を探すのにあまり困ることはない。

 アイセの父にも、五人の妻がいる。
 ただ、複数人と結婚をしたからといって、正妻や側室といった考え方はない。爵位を持つ貴族家などでは、生まれた子の中で最も優れた者を後継者に選ぶのが一般的だからだ。
 優秀な血を多く、そしてより確実に残すために必要な手段でもあるのだが、基本的に一夫一婦の結婚しかしない平民からは、奇妙な目で見られているらしい。

 シュオウは平民だ。
 異性との付き合いに関する考え方なども知らず、どのような結婚観を持っているかもわからない。
 下手をすれば、一つだけの椅子をシトリと争わなければならない事態も予想できるのだ。

 もともと負けず嫌いのアイセは、僅かな時間の間に、シトリを敵として改めて認識した。
 今の段階ではシュオウへの思いをたしかなものとして自覚しているわけではないが、春の訪れを予感させる新たな感情の芽生えの気配くらいは感じている。
 ひょっとすると、一生に一度の何かに巡り会ったかもしれないのに、それを易々と他人に渡してやるほどお人好しでもない。
 目の前にぶらさがっているチャンスは、かならず掴むのがアイセという人間なのだ。

 「無駄なことだぞ。シュオウはあまり贈り物が好きじゃないらしい」

 アイセが高みから見下ろすように言うと、シトリはムッとした表情を作った。

 「ほっといて」

 だが、シトリの視線がアイセの横に置かれたタヌキの置物に移ったとき、嘲笑をこめた表情へと変化する。

 「もしかして、それ、プレゼント?」

 「む……そうだが」

 「プッ」

 「なぁッ!?」

 あの感情をほとんど表に出さないシトリが笑った。しかも、自分を小馬鹿にしたように。

 「そんなモノで彼の気を惹こうなんてバカすぎ。どうせ受け取ってもらえずに帰るとこだったんでしょ」

 カーッと頭に血が上っていく。

 「う、うるさいッ! そういうお前は受け取ってもらえたのか」

 「ムッ」

 シトリは再び不機嫌そうに顔の色を消した。

 ――なんだ、シトリも同じなんじゃないか。

 だからといって安心もしていられない。
 今回は何を持ってきたのか知らないが、自分より先にシュオウがシトリの贈り物を受け取ってしまえば、それは後れを取った自分の負けを意味し、我慢ならないほどの屈辱である。
 それから両者は、互いに火花が飛び散らんばかりに睨み合って、それぞれの行く道へ別れた。

 もっとなにか、シュオウが喜んでくれるようなものを探さなければ。



 さらに翌日。
 残り少ない小遣いをはたいてまで購入した高価な置物を持ってシュオウの部屋を訪問したアイセは、再びものの見事に玉砕していた。
 今度は持ってきた物の説明すらさせてもらえず、シュオウは一瞥しただけでドアを閉めてしまったのだ。
 さすがのアイセも、これには気落ちした。
 いくら持ってきたものが気に入らないからといって、あの態度は酷いのではないだろうか。

 帰る気力すら湧かず、宿の二階から一階へ続く階段の途中で座りこみ、一人溜息を落とした。

 「あら、こんなとこでなにしてるの?」

 声をかけてきたのは、外から戻ってきたクモカリだった。

 「いや、ちょっとシュオウに会いに来たんだが…………」

 続く言葉が出てこなかった。
 シュオウのあまりに冷たい態度に、厳しい訓練にも耐えてきた鋼の心ですら、濡れた紙のようにしんなりと萎えてしまっている。

 「もしかして、プレゼントを持ってきて受け取ってもらえなかったとか?」

 「……なんで、わかる」

 「そりゃ、荷物を脇に置いて落ち込んでるのを見たらなんとなくね。シトリも似たような感じで贈り物をつっぱねられたみたいだし」

 「そうか」

 シトリもまた失敗したらしい。少しだけ安心してしまったが、どうしようもなくむなしいだけだった。
 クモカリはアイセの隣に座った。体が大きいので、一枚壁が出来たみたいに存在感がある。

 「気を惹きたくてプレゼント攻撃ってところは、いかにも貴族様の発想よねえ」

 「わるいか? 好きな相手へ高価な贈り物をするのは、どれだけ本気なのかを相手に知らせるのにてっとりばやいじゃないか」

 アイセが口を尖らせながら言うと、クモカリはワガママを言う子供を諭すような口調で言った。

 「あのねえ、異性から物を貰うのってけっこう重いのよ。そりゃ貰える物ならなんでも、なんて人もいるけど、シュオウって結構真面目そうじゃない? なんでもかんでもホイホイ受け取ったりなんてしないわよ。それに王都に家があるわけじゃなし、そんなかさばる物を渡そうってのは論外ね」

 「……そうか」

 言って聞かせるようなクモカリの言葉を受けても、怒りは湧いてこなかった。
 最初に見たときは、その独特な容姿から特に考える事もなく気持ち悪い人間だと決めつけていたのだが、共に旅をして苦難を乗り越えた今となっては、クモカリのまわりを気遣う細やかな優しさをきちんと見て理解することができていた。
 まるで面倒見の良い姉に見守られているかのように、心が安らぐ。

 「にしても、これ何? ずいぶんと重そうだけど」

 クモカリは布でくるんだ置物を手に取った。

 「ベリキン様という南方の神様の置物らしい。これを売ってくれた商人が、あっちでは土産物として人気があると言っていた。表面に金箔が貼ってあって綺麗だろ」

 クモカリは布をはがして中身を確認した。そして顔を盛大に引きつらせた。

 「なによこれ……顔はぶっさいくだし、腹は出てるし、角みたいなのも生えてるし、神様ってよりお伽噺にでてくる鬼かなんかじゃないの」

 「失礼な事を言うな。向こうでは民草の間で崇められていると聞いたぞ」

 「ねえ、聞くのが怖いけど、これいくらで買ったの?」

 アイセは買った金額の数字を、指を立てて見せた。

 「それって銀貨、よね?」

 「……金貨」

 「あんたって……結構バカ子だったのねえ」

 「なぁッ!?」

 クモカリがアイセに送る視線は同情一色だった。

 「絶対騙されてるわよ。こんなもんがそんなに高いはずないじゃない」

 「……そう、だろうか」

 「そうよ。まったく、悪徳商人を儲けさせただけだったわね」

 「はぁぁぁ――――」

 情けなくて溜息がこぼれてしまう。
 今までたいして使いもせずに溜め込んできた小遣いを、ほとんどつぎ込んでしまった。
 これから正式に准輝士として働けばそれなりに給料を貰えるが、それもまだ少し先のこと。
 未だにシュオウが喜んでくれるような贈り物を選ぶことができていないというのに、これは完全に失敗してしまった。

 「そのブサイクな置物、銀貨一枚でよければ買い取るわよ」

 「欲しいのか?」

 「ぶっちゃけ欲しくはないけど、今度だそうと思ってるアタシの店の隅っこに置くのもいいかなってね。キンキラしてて魔除けになりそうだし」

 「ならゆずる。私はもう見たくもない……」

 クモカリから銀貨一枚を受け取り、ベリキン様の像を渡した。少しでも必要としてくれる人のもとへ渡るなら、異国の神様も本望だろう。

 「お礼っていうのも変だけど、一つだけ助言してあげるわ」

 「うん」

 「シュオウの事。もし彼の態度が冷たいからって落ち込んでるなら的外れよ」

 「どういうことだ?」

 「知らないでしょうけど、彼、試験中ずっと寝ずに夜の番をしてくれてたのよ」

 「えッ……?」

 それは完全に初耳で、クモカリの言った事を理解するのに、僅かに時間を要した。

 「三日目くらいの夜だったかしら……夜中に喉が渇いて起きたら、シュオウが一人で夜光石の即席ランプに少しずつ砕いた石を入れてたのよ」

 「そんなことをする必要があるなんて、一言も言わなかったじゃないか……。知っていたら順番を決めて交代したのに」

 「アタシも言ったわよ。だけど、一言で断られて、みんなには黙っておけって言われたわ。アタシも疲れてたから、ついつい甘えちゃったけど」

 「どうして……」

 シュオウが頼ってくれなかった事が悲しかった。信頼されていなかったのだろうか。

 「みんな今みたいに打ち解けてなかったしね。それに、なにかあったときにすぐに動けないと困るからって言ってたわ。今ならわかるけど、狂鬼相手にあれだけの事ができるなら、自分一人でどうにかしたほうがいいって思うのも無理ないわよ」

 「そうだとしても――」

 シュオウを責める気持ちよりも、彼が一人で苦労を背負っていたことに気づけなかった事がくやしかった。

 「だから、こっちに帰ってきてからはほとんど一日寝っぱなし。途中からは大人一人を背負ってずっと歩いてたわけだし、相当疲れ溜まってるみたいよ。だから、ちょっと彼の態度がそっけないからって変な誤解はしないであげて」

 重たい荷物を持たせ、食べ物の管理をまかせて、怪我の面倒まで見て貰い、夜の見張りを一人でさせて、最後には命まで守ってくれた。
 結局自分は、最初から最後まで彼に頼りっぱなしだったのではないか。戻ってからくたびれ果てた体を癒すため、誰に泣き言を言うでもなく一人で眠り続けているシュオウを思うと、心に穴が空いてしまったかのように悲しくなった。

 「……うん。わかった」

 「それじゃ、部屋に戻るわ。もしどうしてもシュオウに何かあげたいなら、小さくてかさばらないものにしたほうがいいわよ。それと、会いにくる時間は夕方くらいにしたほうがいいわね。彼、夕食を食べる時間だけは起きてくるから」

 アイセは礼を言って、クモカリと別れた。
 明日こそ、と気合いを入れて立ち上がる。
 過ぎたことを引きずってもしかたがない。アイセは塞ぎかけていた気持ちを素早く切り替えた。
 シュオウが黙って引き受けていた苦労を労う意味でも、やはり彼に喜んでもらえるような贈り物を用意するのは、意味のある行為だ。そう考えれば、いつまでも鬱々と悩んでもいられない。
 アイセは顔をあげ、前を見ながら帰路についた。



 次の日は朝から王都の市場へと足を運んでいた。
 そこそこの商人が経営しているような大きな店はだめだ。商売っ気が強すぎて、こちらが伯爵家の人間だからと高くて、無駄に大きな物ばかりすすめてくる。
 アイセはこれまであまり来たことがなかった、普通の人々で賑わう普通の市場で、シュオウへの贈り物探しをすることに決めた。

 市場には肉や野菜、果物などがカゴに山盛りで置かれ、あちこちに隙間なく並べられている。工芸品や日用品、アクセサリーを売る店もあり、品質にこだわらなければ、ここだけで生活に必要な物はほとんど揃ってしまいそうだ。
 各店の主達は大声で客寄せをしていて、どこもとても活気に溢れていた。

 お金を入れた袋を逆さまにして中身を手の平に落とす。
 いまある手持ちは銅貨が十二枚と銀貨が二枚だけ。軍資金としてはどうにも心許ない。
 だがとにかく、シュオウに受け取ってもらえそうな物を探さなくてはならない、のだが、意気込んで市場をぐるりと一周してみたものの、結局これといった物は見つけることができなかった。

 アイセはがっくりと肩を落として市場を出た。
 街中をふらふらと歩きつつ、手ぶらで会いに行ってもいいのだろうか、と自分に問いかける。最初はただ会いたかっただけなのに、今ではすっかり目的がすり替わってしまっている気がする。
 アイセをこれだけ焦らせている一因はシトリだ。もし、自分よりなにか良い贈り物を用意して、シュオウがそれを受け取ったら。彼はきっと、喜ぶに違いない。そして礼をしたいといってシトリを部屋に招き入れ、良い雰囲気になった二人はそっと抱き合い――

 「ああッ、もうッ」

 アイセは綺麗に整えた金色の髪を、ガシガシとかき乱した。

 ――イライラしている。落ち着かないと。

 心を鎮めるために深呼吸をする。
 何度か深く息を吸って吐いてを繰り返していると、鼻の奥をくすぐるような甘い匂いが漂ってきていることに気がついた。
 しかし、周辺を見渡してみても、匂いの元となるようなモノはなにもない。
 アイセは匂いが濃くなっているほうを探して少しずつ裏路地のほうへ進み、丸い菓子を焼いている小さな屋台を発見した。

 半球形にいくつもくぼんだ鉄板に、黄色い生地の元となる液体を流し込んで、そこそこに焼き上がったところで針のような道具を使ってひっくり返している。そうすることで、まだ生の状態で中心に残っていた生地の元が、もう半分にも丸い形で広がって焼き固められていく。
 完成したまん丸い黄色の玉をしばらく冷まして、中心に穴の空いた先の尖った器具を玉に差し込み、餡を少しと生クリームを注入して完成する。
 王都では平民達の間で昔からよく知られている、シュータマという甘いお菓子だ。

 嫌な想像を巡らせて頭が疲れていたアイセは、屋台から泳いでくる甘い香りに誘われるように前まで進んだ。

 「いらっしゃいませー!」

 屋台の中から元気の良い女の子が出迎える。

 「こんにちは」

 アイセが顔を見せて言うと、女の子は目を見開いてとても驚いた表情をした。

 「お、おかあさんッ」

 「はいはい」

 屋台の奥で材料の用意をしていた、女の子の母親らしき女性が腰をあげた。

 「あら、まあ……こんなところに輝士様が、いったいなんのご用でしょうか……」

 女の子の母親は怯えた様子でアイセに聞いた。その足下では、不安な様子で母親の服を掴んでいる女の子がいる。

 「あ、いや」

 「もし商売の許可証のことでしたら、私たちのような者にはとても……どうか、これで見逃してはもらえませんか」

 母親はそう言って、店の儲けであろう何枚かの銅貨を差し出した。

 「ちがう! 私はただ、売り物を見に来ただけだ。変な勘違いはしないでくれ」

 「はぁ……」

 母親はきょとんとしていた。
 見ると、目の前にいる二人の親子はみすぼらしい格好をしている。
 ムラクモは豊かな国で、男手であればたいした技術がなくても、夜光石を掘る鉱山や石切などの高賃金の仕事がたくさんある。
 平民とはいえ、この親子の着ている服はボロすぎる。もしかすると、父親のいない家庭なのかもしれない、とアイセは想像した。

 それにしても、あまりにも自然に賄賂を渡そうとした事が気にかかった。
 市場や路上での商いは、国から許可を取る必要がある。その辺りを現場で監督しているのは第一軍所属の警備隊だろう。
 ひょっとすると、彼らの中に許可申請を取る事が出来ず、こっそりと商売をしているような弱者から金をせびっている者がいるのかもしれない。だとしたら、それは非常に残念なことだ。

 「よければ、作っていることろを見せてもらいたいのだが」

 「は、はい。それはもちろんでございます」

 シュータマが目の前で一から作られていく。
 ただのトロトロとした液体が、少し手を加えただけでコロコロと丸い形になるのが面白かった。

 「あの……よかったらどうぞ」

 女の子が、出来たてのシュータマを一つ差し出す。

 「いいのだろうか」

 受け取ったアイセは、念のため母親にも確認した。

 「どうぞ、貴族の方のお口に合うかはわかりませんが」

 「なら、一ついただく」

 シュータマ一つはそれほど大きくない。アイセは一口でまるごと放り込んだ。

 「美味しい……」

 口の中で薄皮がはじけて、中からドッシリとした甘さの餡と、濃厚かつ爽やかな生クリームの食感が混ざり合い、絶妙な甘さと歯触りを醸し出している。
 家や宝玉院の寮で出てくる洗練された菓子と比べると、たしかに少しチープではあるが、一口で食べられる気安さと一粒で二度美味しい食感はやみつきになりそうだった。

 ――シュオウは、甘い物は好きだろうか。

 シュータマを食べて美味しいと思った気持ちを彼と共有できたなら、きっと楽しいはずだ。
 どうせ手ぶらなのだし、食べ物でもなにもないよりいいかもしれない。
 アイセは袋から銀貨を一枚取り出して、屋台の主に手渡した。

 「これで――」

 買えるだけすべて欲しい、と言いかけてやめた。
 どっさりと買い込んでいって、またシュオウに拒絶されれば無駄になるだけだし、クモカリに言われたように、無闇にかさばる贈り物を持参するのは、考え直したほうがいい。

 「一つだけ欲しい」

 シュータマは十個を一セットとして販売している。
 欲張らずに、それだけを貰うことにした。

 「あ、ありがとうございます。あの、ですけど、銀貨一枚に用意できるお釣りがなくて……」

 「……いいんだ、釣りはいらない。驚かせてしまった詫び代とでも思っておいてくれ」

 何度も頭を下げる親子に別れを告げて、アイセはシュオウのいる宿までの道を一人で歩いた。
 お釣りをもらわなかったことは、傲慢だったかもしれない。手持ちには細かい銅貨もあった。シュータマの代金をぴったり払うこともできたのに、銀貨を渡してしまった。子供を抱えて裏路地でこっそりと商売をして生きている、あの女性に同情してしまったのだ。

 あの親子にとって、アイセの渡した銀貨は相当な儲けとなったはずだ。
 きっと喜んでいるだろうが、少しも良い事をしたという気にはならなかった。
 自分で稼いだわけでもない金を寄付したところで、それを誇ることなどできそうもない。

 以前なら見えなかった事や、考えもしなかった事が心にある。
 これもやはり、シュオウ達とすごした深界での様々な経験による変化なのかもしれない、とアイセはしみじみ思った。

 考え事をしている間に、あっという間に目的地まで到着していた。
 時間も、ちょうど夕暮れ時。暗くなりかけていた気持ちを切り替えて、再びシュオウのいる部屋まで行き、ドアを叩いた。

 「シュオウ、起きてるか?」

 今日はすぐに反応があった。
 ドアが開いて、シュオウが目を擦りながら顔を出す。
 まだ起きて間もないといった雰囲気だが、これまでのようにおもいきり不機嫌な様子はない。

 「どうした。もし、またクマやらタヌキの置物だったら――」

 「ちがうちがう! ちょっと、な。近くに用事があったから寄ってみたんだ」

 会いたかった。話がしたかった。顔を見たかった。
 言えたらどんなにすっきりするだろうと思っていても、恥ずかしくて言葉が出てこない。

 「なら、もうすぐ夕食だから一緒に食べていったらどうだ」

 「あ、ああ。そうしよう、かな……。ところで、これ、来る途中で買ったんだが、よかったらどうだ」

 アイセはシュータマをシュオウに差し出した。
 断られてもダメもとだ。
 いらん、とつっぱねられるのを覚悟していたのだが、意外にもシュオウはシュータマをじっと見つめて興味をしめした。

 「これ……」

 「シュータマ、というんだ」

 「一つもらってもいいか?」

 「もちろんだッ」

 シュオウはシュータマを一つ摘んで、恐る恐る口に運ぶ。
 そして、一噛みした途端、その表情が一瞬にして子供のように頬を柔らかくして微笑んでいた。
 初めて見る、完全に油断したシュオウの顔がそこにある。

 「……美味い。とくに、この中身のクリームみたいなのが」

 「もしかして、生クリームが好きなのか?」

 「わからない。今初めて食べたから。だけど……本当に美味しいな」

 シュオウは念入りに舌を動かして、口のまわりについたクリームを舐めとった。

 「これ! よかったら貰ってくれ」

 シュオウはアイセが差し出したシュータマを見つめて、少し悩んだ様子を見せながらも結局は受け取った。

 「……ありがとう」

 ――やった!

 ついに、贈り物をシュオウに受け取ってもらえた。
 手を小さく握り、笑みがこぼれないように顔を無理矢理引き締める。
 しかし、誰からも見えない想像の中の自分は盛大にガッツポーズを作り、満面の笑みで飛び跳ねていた。

 「えっと……一つ、頼みがある」

 心の中で小躍りしていたアイセに、シュオウが神妙な面持ちで言葉をかけた。

 「なんだ、なんでも言ってくれ」

 「俺が、その……こういうのが好きだって事、内緒にしてほしい。なんとなく恥ずかしいから」

 なにが恥ずかしいのかはわからないが、アイセにそれを断る理由はない。むしろ誰にも教えたくなんてなかった。
 シュオウの好物を、ライバルに先んじて知ることができたのだから。これはかなり優勢なのではないだろうか。
 そんなことを考えていただけで、自然と顔が綻んでしまう。

 「わかった、誰にも言わない! じゃ、今日はこれで帰る。また近いうちに寄らせてもらうから」

 「夕食は食べていかないのか?」

 「うん、いいんだ。今日のところは、目的は果たしたから」

 別れの挨拶もそこそこに、アイセはシュオウの元を後にした。
 軽やかにスキップしながら宿を出ると、またシトリと正面から出くわした。なにやら大きな荷物を両手で抱えている。

 「シトリ、良い夜だな」

 「……まだ日、おちてない」

 「そうか、あっはっは、まあいいか」

 アイセはかつてないくらい朗らかに笑った。

 「なにか変な物でも食べたんじゃないの」

 「ヌフ」

 シトリの一歩先を行っている優越感から、にやけ顔を抑えられない。

 「キモ……ねえ、なにがあったの?」

 「内緒だ。シュオウと約束したからな」

 「……それってどういうこと」

 「悪いけど、言えないんだ」

 追求されても困るので、アイセはさっさとその場から離れた。
 勝利の美酒に酔うアイセは、後ろから苛ついた様子で自分を呼び止めるシトリの声をさらりと聞き流し、歩幅を大きくしていく。
 鼻歌を歌い、勝者としての貫禄をふりまきながら家路についたのだった。





 おかしい、あの態度はなんだ。
 にやけたマヌケ面で立ち去って行ったアイセが気になる。
 前に見た時はどこか自信なさげで、おどおどとしていたのに、次に会ったら見たこともないくらい幸せそうな馬鹿面でスキップまでしていた。
 シトリはその理由を瞬時に推理する。そして、稲妻のような直感が頭を打った。

 ――負けた、の……。

 「ありえない……」

 これまではアイセに対して、剣で劣っても、馬術で負けても、なんら腹は立たなかった。
 しかし、やっと出会えた思い人にちょっかいをだされるのだけは許せない。

 シトリのなんとなくの予想では、アイセはこの手の恋愛沙汰には疎いのでは、という油断もあったので、今まではある程度安心できていたのだが、もし仮に、あの上機嫌の原因が、自分よりも先に彼への贈り物を渡す事に成功した事からきているのだとすれば、これは由々しき事態だ。

 不安な気持ちに背中を押されるように、シトリはシュオウのいる宿の二階まで急ぎ足で向かった。
 息を切らせながらドアを叩くと、中からここ数日で一番すっきりと目覚めているシュオウが出てきた。

 「どうした、慌てて」

 「アイセ! もらった!」

 「え?」

 気持ちが焦って、訳のわからないことを言ってしまった。

 「――じゃなくて、アイセから何かもらったの?」

 「あー……」

 シュオウの返事は煮え切らない。

 「ねえ、どうなの」

 「もらった、けど」

 「……やっぱり」

 あのアイセの態度は、勝ち組としての余裕からきているものだったのだ。

 「ねえ、何をもらったの?」

 シトリがこれまで持ってきた物は、最高級品質の剣、立派な馬が買えそうなほど高い毛皮のフード付きコートや、葉巻などなど。自分なりに男の好みそうな物を考えて選んだつもりだったが、無理矢理起こされて機嫌の悪そうだったシュオウは、無言でドアを閉めてなにも受け取ってはくれなかった。

 「……言いたくない」

 シュオウの答えは素っ気ない。この様子では、アイセに口止めされているかもしれない。シトリは素早く思考を切り替えた。

 「じゃあ、これ受け取って」

 アイセは綺麗な青い鳥籠を差し出した。
 中には青銅で作られた小鳥の置物が入っている。
 王都の大きな輸入品店で見つけて買ったもので、かなり高かった。

 「気持ちは嬉しい。けど、こんなに高そうな物は受け取れない。それに、もらっても持って歩けないだろ」

 「う……」

 どうも、シュオウは気軽に物を受け取ってくれるような性格ではないらしい。
 そんなところも好意的に思えるが、アイセが贈り物の受け渡しに成功していることを考えると、このままでは平常心を保っていられる自信がない。

 ――こうなったら、奥の手。

 「うッ、うう…………ひどいよ、君の事を想ってがんばって選んだんだよ……それなのに……」

 鳥籠を大袈裟に床に落として、顔を下に向けて泣いてみせる。
 もちろん、嘘なのだが。
 えーんえーん、と子供の頃でもこんな泣き方はしなかったが、ここは勝負所だと決めて必死に泣くふりをした。

 「あ、いや……泣かせるつもりは……」

 顔を落としているから正確なところはわからないが、シュオウからは明らかに狼狽した気配が伝わってくる。
 母から聞かされていた通り、男は女の涙には弱いらしい。
 こうなればしめたもの。
 主導権を握ったシトリは、シュオウには見えないように小さく舌を出して仕上げにかかる。

 「……う、うッ……デート」

 「え?」

 「デート、してくれたら、許してあげる……じゃないと――」

 さらに大きな声で泣くぞ、と脅してみせる。

 「わ、わかったッ。わかったから泣くのはやめてくれ」

 こっそり顔をあげてみると、心底まいったように視線を上げて、後ろ頭をボリボリと掻いているシュオウが見えた。
 少しやりすぎてしまっただろうか。なにぶん、こうした事にまるで経験がないので、さじ加減が難しい。

 「ほんと?」

 「約束する。だけど、金もまだ入ってないし、そういうことには経験がないからよくわからないけど、いいのか」

 「いい」

 シトリは即答した。

 奢ってもらったり、金のかかる遊びを一緒にしたいわけじゃない。ただ、誰にも邪魔されずに一緒に居られる時間が欲しいだけだ。
 シュオウから数日後の昼頃から一緒に出かける約束を取り付けて、シトリは宿を後にした。

 帰り道、暗くなった街中を歩いている途中で、シトリは小さくガッツポーズした。

 ――作戦、成功。



 待ち遠しかった初デート当日は、念入りに支度を調えている間にすぐにやってきた。
 シュオウが気疲れしない程度にカジュアルな服が見あたらなかったので、けっきょく着慣れた水色の制服を選んで、迎えにいく。
 気持ちが焦って約束より少し早い時間に行ってしまったが、シュオウはきちんと準備して待っていてくれた。

 さっそく二人連れだって外に出た。
 シトリはこの日のために、事前に独自の調査をして、王都の恋仲の男女が共にでかける人気の場所を把握していた。
 なかでも、溜息橋と呼ばれている、王宮へ続く大きな石橋が人気があるらしい。
 シュオウの手を引いて、さっそくそこへ案内した。

 見渡すかぎりの青い湖。
 湖面は静かだが、溜息橋はたくさんの人で溢れていた。
 橋は途中まで自由に行き来ができるようになっていて、遠目ではあるがここから王宮も見る事ができる。
 他国や地方から、商売などのついでに観光に来た人々でそこそこ賑わっていて、道の両側には、許可をとって商いをしている露天や屋台が並んでいた。

 「すごいな」

 「うん。人がいっぱい」

 溜息橋は、途中いくつかの支柱で支えられていて、そこだけ道が広くて丸い作りになっている。
 二人は王宮に近い橋の真ん中あたりまで進んで、木製のベンチに腰掛けた。

 「それにしても、王宮がこんなに近いのに随分と開放的なんだな。もっと緊張した雰囲気だと思っていた」

 「何代か前の女王の時に、吸血公が橋の半分近くまで自由に出入りできるように開放させたみたい」

 「なるほど」

 一陣の冷えた風が、二人の間をすり抜けていく。

 「さむい……」

 シトリは体をかかえて、縮こまった。

 「これ、よければ使うか」

 シュオウは、自前の黒くて立派な外套を摘んで見せた。

 「ううん。それじゃ君が風邪ひいちゃう…………一緒に入れて」

 シトリは隙をみて、一瞬の早業でシュオウが着ている外套の中に潜り込んだ。
 すべては作戦通り。わざわざ出かける際に薄着で来たのはこのためだ。
 外套の中はシュオウの熱がこもっていて、ぽかぽかと温かかった。
 べったりとシュオウにくっついて、わざと自分の胸が当たるように体を押しつける。
 シュオウは咳払いをして、緊張した面持ちで照れ隠しをしているように見えた。

 「ねえ」

 「うん」

 「こんな事、初めてするんだからね」

 シトリは囁くように、シュオウの耳元でそう言った。

 「俺だって初めてされた」

 「わたしの気持ち、気づいてるよね」

 「……ああ」

 「どう思ってるのか聞いてもいい?」

 時折、体を近づけてみたりすると望んだとおりの反応が返ってくることがあるが、それはおそらく男としてはあたりまえの反応で、相手が自分だから特別そうなのだ、などという甘い事は考えていない。
 深界での濃密な時間をすごしたせいか、出会ってから随分と長い時間が経過しているように感じられるが、実際はまだお互いの事をほとんど知ることもできていないほど、この関係は極浅いものなのだ。
 彼の気持ちが、真っ直ぐこちらを向いていない事もわかっている。だけど、それでも聞きたかった。

 「……正直、嬉しい、と思ってる。だけどすぐにどうにかするのは難しいだろうな」

 「どうして?」

 「どうしてって、俺には家もないし職もない。家庭を持つには準備が足りなさすぎるだろ」

 シュオウは少し呆れた声音でそう答えた。

 「真面目なんだね。女としては嬉しい気持ちもあるけど、ちょっとだけ手を出して遊んでみたい、とか思わないの?」

 「後が怖くて、その覚悟がまだ持てない」

 「いくじなし、って言いたいかも」

 「言われてもしかたないな」

 抱き合った形のまま、二人の間に明るい笑い声がこぼれた。

 思い出したようにたまに吹く強い風に髪を撫でられながら、目を閉じる。
 少し離れたところから聞こえる人々の喧噪。
 空を泳ぐ鳥たちの鳴き声。
 のんびりとたゆたう水の香り。
 隣にいるシュオウに寄りかかり、温かくて少しガッシリとした体に頭を預ける。

 ――しあわせ。

 少し前までの深界での辛い試験が、まるで夢の中の一時だったかのように、今は身も心も蕩けてしまいそうなほどの平和な空気を満喫している。
 微睡みに手招きされるように、シトリは意識が軽くなっていくのを感じていた。

 「だけど――」

 シュオウの硬い声が、うとうとしかけていたシトリを呼び覚ました。

 「――現実の話として、ちょっと難しいんだろうな」

 「なんのこと?」

 「身分、っていうのか。その……」

 シトリは貴族、シュオウは平民。つまりは、そのことを言いたいのだろう。

 「さあ。でも、ママは全部知ってるよ」

 そう言うと、シュオウは驚いた様子で聞いた。

 「知ってるって……今日、俺と会う事を、か」

 「うん」

 「それでよくここまで来られたな。よく知らないけど、貴族っていうのはその手のことにはうるさいんじゃないのか」

 「それは家による。私の家はパパもママもあまりうるさくないから。でも、さすがにパパは相手が貴族じゃないって知ったら腰をぬかしちゃうかもね」

 子爵である父が自分に望んでいる事といえば、無難な相手を見つけて結婚し、子供を産むことくらいだろう。
 自分は晶士という、軍ではどこの国でも貴重でありがたがられるような才能を持って生まれたが、軍人としての資質がまるでないことを両親はよく知っている。
 今回の試験で合格したことも、喜んだというより、エリートとしての道に乗せられてやっていけるのだろうか、と心配されてしまったくらいだ。
 優秀な彩石を受け継いでいくことを重視する貴族家では、女であろうと才に優れる者が当主として選ばれることはある。だが、それもシトリの性格やこれまでの怠惰な様子から、ほとんど期待はされていない。

 「お母さんは、なにも言わないのか?」

 「…………わたしのね、ずうううっと前のご先祖様は貧しい踊り子だったんだって」

 シトリは唐突に言った。
 シュオウはきょとんとして聞き返す。

 「でも、たしか子爵家だとか」

 「それはパパのほう。今の話はママのほう」

 「へえ」

 シュオウの受け答えは軽かったが、興味がないといった感じではなく、あまりに突然の話に戸惑っているようだった。

 「それでね、そのご先祖様は、生まれも育ちも苦労ばっかりで、それでもとびっきり見た目がよかったから、運命的な出会いをして、真面目で良い旦那様を見つけて幸せになったんだって」

 シトリの話に、シュオウは真剣に頷いて耳を傾けていた。

 「すこしして、その二人の間にも女の子が生まれて、ご先祖様はその子に強く言い聞かせて育てたの。女の幸せは男で変わる。だから、お前はお父さんより良い男を捕まえなさい、って。そんなことを言い聞かされて育てられた女の子は、大人になってお父さんよりもちょっと稼ぎの良い優しい夫と結婚したの。それで、また女の子が生まれて、自分が言われて育った事を、またその子にも言って育てた」

 「ちょっと、おとぎばなしみたいだな」

 「うん。わたしが子供の頃から、寝かしつけるときに毎晩聞かされたんだから――――それで、そんなことが何代か繰り返されていくうちに、ご先祖様の血を受け継いだ女達は、しだいにたくさんお金を稼ぐ商人や、彩石を持っている輝士と結ばれて、ついにわたしのママの代になって爵位持ちの妻になった。わたしの中には、男を見る目で成り上がってきた女達の血が流れてるんだって」

 「面白い話だな。だけど、それって――」

 「そう。わたしのママが言うには、あなたの見つけた男なら、きっと間違いないって。その男をものにするためなら、なんでもしなさいって背中まで押されたんだから」

 「それは……随分と過大評価されてる気がするけど」

 シュオウは苦笑して視線を流した。

 「わたしにもよくわからないし、今まではどうでもいい話だと思ってたけど、そんなことで君との仲が公認になるなら、むしろ歓迎したいくらい。でも、だからって、君に期待を押しつける気なんて全然ない。ただ、側にいたいだけ。今話したのは、わたしを知って欲しいと思ったから。変な話だから、いままで誰にも言ったことないんだよ」

 日々をただなんとなく生きてきたシトリには、強くアピールしたい自分というものや思い出が少ない。
 なので、うんざりするほど母から聞かされた今の話くらいしか、自己主張できることがなかったのだ。

 「……わかった。覚えておく」

 「うん」

 それから二人の間には、一時の静かな時間が流れた。
 目をつむり、心地良い水の音を聞いて、相手の温もりを確かめ合う。
 またこんな風にできたらいいな、などと考えていたとき、大事な事を聞き忘れていた事を思い出した。

 「ねえッ、そういえば、君は試験が終わったらどうするか決めたの?」

 「ああ、一応」

 「それで?」

 「軍に入ることになった。ずっとかどうかは、わからないけど」

 シトリはほっと胸をなで下ろした。軍に入るということは、ムラクモに残るということだからだ。

 「よかった。もし旅に出るなんて言ったら、急いで支度しないといけなかった」

 「……ついてくる気だったのか」

 シュオウの声は、呆れたような、退いたような、複雑な色が混ざっていた。

 「あたりまえじゃんッ。でも、どうして軍に? あんまり興味なさそうだったけど」

 「誘われたんだ。色々と、まあ説得されて、ちょっとだけ興味が湧いた」

 「まさか、アイセに……?」

 シトリは眉根を寄せた。
 アイセの説得でムラクモに残る事を決めたのだとしたら、素直には喜べない。

 「いや、違う人だ。誰かっていうのは、ちょっと言えないんだけど」

 「ふうん」

 軍の人間だろうか。
 彼の試験中での活躍が耳に入ったのだとしたら、それも十分ありうる。
 だがとりあえず、アイセでないのなら一安心だ。

 「そろそろ帰ろう。今から歩いたらちょうど暗くなる頃だろ」

 「うん。ねえ、今日は一緒に夕食を食べていってもいい?」

 「問題ないだろ。むしろ、宿の女将さんが喜ぶ。儲けが増えるって」

 寄り添ったまま、来た道を辿って橋を歩いた。
 橋の入口近くに差し掛かった時、道の脇にある屋台のほうから漂ってくる良い匂いがシトリの食欲を刺激した。
 ぐぅぅ、と腹の虫は状況を考えずに自分勝手に恥ずかしい音を鳴らす。

 「腹が減ってるのか」

 「べつに……」

 本気で恥ずかしかったので、シトリは顔を見られないようにシュオウから視線をそらした。

 「一つ食べていこう。帰っても夕食の時間まではまだ少しあるから」

 シュオウの声はどこか気遣うようだった。
 本人は無自覚かもしれないが、相手を思いやるときのシュオウは反則的なまでに声音が穏やかで優しくなる。普段は突き放したような、少し冷たい態度なので、その落差で余計に心に突き刺さるのだ。
 まるで優しい兄に甘やかされる妹のような心地になり、シトリの羞恥心はさらに倍増した。

 「いい……おなか、減ってないから」

 「俺が食べたいんだ」

 シュオウはシトリに外套を預けて、串刺しに焼いた鳥肉を売っている屋台に寄って、スパイシーに香るボリューム満点の串焼きを二本買って戻ってきた。
 差し出された湯気のあがる串焼きを受け取って、感謝の気持ちを伝える。

 「ありがと……お金、払う」

 「いい。クモカリに少し借りてきたから余裕があるし、報酬が出たらすぐに返せる。それに、今日ここに来たおかげで気分転換ができたから、そのお礼だ」

 「うん……ありがと」

 シトリは、シュオウの気持ちのこもった串焼きを頬張り、幸せな気持ちも噛みしめた。
 だが、シュオウは自分の串焼きになかなか手をつけようとはせず、視線を少し遠くへやっていた。
 視線の先を見ると、さきほどの串焼きの屋台を、少し離れたところからじっと見つめる、孤児らしきみすぼらしい格好の痩せた男の子の姿があった。
 ムラクモは比較的豊かな国ではあるが、なんらかの事情で親を失った子供をきちんと保護できるような施設や法に乏しく、街中を歩いていると、そうした子供達を希に見かけることがある。

 「……ちょっと待っててくれ」

 シュオウは孤児の男の子の元まで行き、まだ湯気が出ている串焼きを差し出した。
 男の子はそれを恐る恐る受け取って、小さく頭を下げて走り去っていく。
 シトリの元に戻ってきたシュオウは、悲しそうな声で、独り言のように言った。

 「わずかな食べ物が、一瞬の餓えを満たすだけにすぎないって事はわかってるんだ。だけど、ほんの少しでも美味しい物が食べられたら、あと一日生きてみようって、小さな希望になるから」

 シュオウは去っていく男の子の背中を、酷く辛そうな顔で見つめていた。
 孤児だった彼の、実体験からくる憐憫の情なのだろうか。
 なにに不自由することなく育てられたシトリには、その気持ちを共有するための手がかりすら見いだせず、ただ黙っていることしかできなかった。

 預かっていた外套をシュオウの肩にかけて、また二人で寄り添うように歩き始めた。

 隣に立ちたいと思っている人の、心の内をもっと知りたい。
 
 シトリは強く決心をこめて、シュオウの手を力強く握りしめた。




[25115] 『ラピスの心臓 従士編 第一話 シワス砦』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:80ba2569
Date: 2011/10/02 18:21
   Ⅰ シワス砦



 味気ない灰色の森が覆う世界に、忙しなく足を踏み鳴らす音が響いている。
 乾いた冬の空気を胸いっぱいに吸い込み、幼いシュオウは一歩、また一歩と師であるアマネ目掛けて、小さな拳を突き出した。
 アマネは、シュオウの手を自身の持つ小振りな木の棒で叩きつけた。右手に走った鮮烈な痛みに、おもわず小さな悲鳴が漏れる。
 「殴るという選択肢は選びうるものの中で最悪の一つ。人の拳はなにかを叩いて平気でいられるようには出来ていない」
 アマネは淡々と言った。
 間合いを置く。
 呼吸は乱れ、乾燥した空気を吸っては吐いてを繰り返し、口の中は真昼の砂漠のように乾いている。
 殴ってはいけない。シュオウの頭が理解した言葉の意味はそのくらいのことだった。
 拳は使えない――なら、足を使えば良いはずだ。
 再び間合いを詰め、左足でふんばり、出せるかぎりの力をこめて蹴りあげる。が、アマネはシュオウの軸足を軽く棒で振り払った。結果支えを失い、無様に地面に尻をつく。
 「足は根を張る大樹のように。無闇に地面から離さない。戦場での機動力は最も重要なものであると心得なさい。人の体は目や耳、指先や足の小指一本に至るまですべてが消耗するのだということも」
 アマネの教練は、シュオウの頭にほとんど届いていない。言っていることの半分以上は理解ができないし、それになにより空腹で頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。
 『食べ物が欲しければ、自分に一打を当ててみろ』――師のそんな言葉から〈教え〉は唐突に始まった。
 この日に至るまで、食べるものが少ないからとほとんどろくな物は与えられていなかった。約束が違うと抗議したくても、子供であるシュオウは、自分を拾ってくれた大人である彼女に対して、まともに何かを要求する勇気も力もない。きっと本当に食べ物が少ないんだと納得して空腹に悲鳴をあげる腹を押さえてきた。
 その結果がこれだ。
 限界に近いほどの飢餓感に襲われるなか、食料を餌にして戦い方とやらを仕込まれてもいっこうに頭に入ってはこない。あらゆる思考は食べる事への渇望と、目の前の女に対する恨み言で溢れていた。
 地面に落ちている木の枝を手に取る。アマネの持っているものより長く頑丈そうだ。
 これならば――そう思い、不意打ちのつもりで勢いよく立ち上がり、目をつむってがむしゃらに棒を振り下ろした。が、なんら手応えはなかった。
 うっすら目を開くと、片手で軽々とシュオウの繰り出した木の枝を掴む、アマネの姿があった。
 「武器は使わない。失せてしまえば探し、壊れた瞬間無防備になる。手にした得物の長さと強度の分、人は自らが強くなったと過信する。だから、最初から所持する事を考えない」
 言って、アマネは掴んだ木の枝を折って捨てた。途端、彼女は初めて反撃に転じる。
 短い棒を自在に振り回すアマネの攻撃。シュオウの生まれながらに持つ類い希なる動体視力を持って、迫り来る木の棒の軌跡と表面についた皺の数まで捉える事が出来た。だが、見えている事と、それに対応できるか、という事はまったくの別問題だった。幼いシュオウには、高速に迫り来る予測不能な攻撃を避けるだけの身体的な能力が圧倒的に不足している。
 木の棒はシュオウの頬を、腹を、頭を小突く。どれも手を抜いたもので致命傷にはなりえないが、的確に強烈な痛みだけは与えてくる。
 苦痛から逃れるため、シュオウはジリジリと後ずさった。
 「周囲のものはすべて自身の利得として利用する。相手が勝手に転けたなら、その分体力の消耗を節約できる」
 突如、視界が揺れた。古くなり、欠け落ちてしまっている地面に足を取られたのだ。意図的にこの場所へ追い込まれたのだと、この時のシュオウでも理解できた。
 アマネは木の棒を放り捨て、こちらへ向けてゆっくりとにじり寄る。言い知れぬ恐怖がシュオウの心を覆った。
 「誰かと対峙した時。その相手に対して最も単純かつ明快に勝利を得る方法は、相手をこの世から葬り去る事。けれど、複数の相手を同時にするような場面で、いちいち相手を殺していては時間も体力の消費も増え、効率の低下を招く。この戦い方を最初に興し、戦場で実践した男の考えたことはそんなところ。では、どうすれば損耗少なく戦いに勝利する事が出来るのか。答えは簡単。可能なかぎり僅かな労力で相手の戦意を失わせる最適な行動を選択する。――老若男女、痛みはあらゆる人間が平等に持って生まれる重要な感覚の一つ。それに対する耐性は鍛えることが難しく、精神力なんていう曖昧なもので乗り切れる度合いにも限度がある」
 アマネは転んだシュオウの手を取り、体をうつ伏せに地面に押しつけた。
 尖った小石が頬にめり込む。
 左腕だけが背中にまわされ、軽く身動きをとっただけで肩から手首にかけて強烈な痛みが走る。まるで、これ以上動いてはならないと体が悲鳴をあげているかのように。
 「まず身をもって方法を体感しなさい。これから教える様々の苦痛のうち、これが最初の一つ。頭にしっかりと焼き付けなさい。そして耳の底にこびりつけなさい。これが――」
 もしも、木の枝が石のように硬かったなら。その枝を折った際には、こんな音がするに違いない。
 アマネは言った。『これが、人の心が折れる音』だと。
 左腕をあってはならない方向にへし折られたシュオウの悲鳴は、静かな森の空気を盛大に震動させる。
 周囲の森から、驚いた鳥達が一斉に空へ飛び去った。
 苦痛にもがくシュオウを前にして、アマネは平素と変わらぬ涼やかな微笑みを見せていた。この時、この瞬間、はじめて知ったのだ。優しさから自分を引き取ってくれたと思っていた目の前の女が、ただの心優しい人間ではなかったということを。
 腕を伝って脳天にまで、落雷のように伝わった激しい痛みによる恐怖。
 気づけば、シュオウはアマネに向かい必死に命乞いをしていた。殺さないで、と。
 彼女は酷薄な笑みを浮かべ、言った。
 「命に執着していられる今を精々喜んでおきなさい。これから私の元にいるかぎり、次の瞬間には心底殺してくれと願うようになっているだろうから」
 考えたくなかった。やっと出会えた、共に生きてくれる人に対して猜疑を抱くということを。しかし、今のシュオウの心には、はっきりとあの日の出会いに対する後悔の念が渦巻いている。
 ――あの時のほうが、ましだった。
 まるで見透かしたように、アマネは柔らかい声で言った。
 「汚水溜めで寝て、その日の食事だけを探して生きる人生に戻りたい?」
 今や恐怖の対象でしかないアマネを見上げ、シュオウは痙攣したように小刻みに頷いた。
 アマネはシュオウを見下ろしつつ、ひんやりと冷たい手でシュオウの頬を撫でた。
 「だめ、約束したでしょ? それに、ここは灰色の森に囲まれた魔境の世界。森での生き方を知らないあなたは、自力ではどこにも逃げられない」
 師はシュオウを抱き起こして、優しく頭に手を置いた。
 「シュオウ。あなたには、私が受けた教えのすべてを叩き込む。この歳になるまで、私にもその理念を体現することは出来なかったけれど、あなたの持って生まれた天賦の才は、それを存分に活かすことが出来るかも知れない。……元々弟子なんて取るつもりはなかったんだけどね。恨むなら、私に欲を出させたその目を恨みなさい。そして強くなりなさい。私から受け継いだ物を使ってどう生きるかは、あなたの好きにすればいい。だけど、約束を果たすまでは、私の元から絶対に逃がさないから。まあ、気が向いたらこの森の中で生きていく方法もついでに教える機会もあるかもしれない。きちんと習得すれば、自分の意志でここを出て行ける時も来るかも、ね」
 初めて出会った時のような優しげな眼差しで、アマネは優しくシュオウの頭を撫でる。折られた腕はまだ痛い。それなのに、温かな羽毛にくるまれているような安心感が心を包む。
 シュオウの頬に一筋の涙が伝った。
 この日以降、文字通り死んだほうがましだ、という時間を積み重ねることになる。残酷だと思っていた彼女の言葉が、それでもなお控えめな表現だったと知るのは、さらに後の事となる。



 無味乾燥とした灰色の世界。人が〈深界〉と名付けたそこは、かつては普通に人々が生活を送るありふれた世界だった。しかし、突如発生し、増殖を始めた灰色の不気味な木々は、徐々に平地を浸食し、世界は不気味な灰色の森に覆われた。灰色の森には人間を捕食し、害をなす生物が誕生し、それらは爆発的に繁殖する。人類は死の世界と化した平地から逃げ、灰色の森の侵攻が届かない山や高地へと逃げ延びた。
 やがて、人は森の浸食を退ける効果を持つ石の存在を知る。水気を受けると暗闇で発光するそれを〈夜光石〉と名付け、その石を加工した素材で作る道を〈白道〉と呼ぶ。
 一度は逃げ延びた深界。しかし、人類は白道によって道を繋いだ。
 閉ざされた文明は再び開かれ、遠く離れた人々の間に交流が生まれた。それにより、人類は多くの恩恵を受けることになる。だが、それは異文化間での争いの火種を生む結果にも繋がった。
 幾度となく繰り返される戦。
 古い王国は倒れ、新たな王が立つ。その繰り返し。転んでは立ち上がり、泣き、笑い。その繰り返し。
 終わることのない進歩と衰退を繰り返し、人はそれでも尚、前を向いて歩くことをやめなかった。



 白道という名の街道が、深界の森に一条の線を穿つ。その道を塞ぐように、ぽつりと一つ、赤茶けた石造りの建物がある。
 〈シワス砦〉
 東を統べる大国、ムラクモに数多存在する軍事拠点の中でも、最も後方に位置するこの砦は、隣国であるアベンチュリン王国との国境を守護する重要拠点である。
 シワス砦では日夜、国境の警備と国家間を行き来する者達の対応に追われ、そこに勤める従士達は多忙を極めている、ということになっていた。
 だが、実際にはなんら軍事的脅威となりえないアベンチュリンに対しての警備業務はかぎりなく無意味に近く、砦で働く従士達の間には、怠惰な雰囲気が恒常的に立ちこめていた。
 そうした退屈を享受する二人の従士が、深夜から早朝にかけての周辺警戒のため、見張り塔に詰めていた。
 そのうちの一人、小太りで垂れ目の男の名をサブリという。村を出て一発当ててやると豪語し、その手始めにと石掘りの仕事を始めたが、すぐに手のマメが潰れて半日で仕事を投げ出し、半べそをかきながら現場放棄したという逸材である。自他共に認める根性なしだ。
 もう一方、痩せ形で無精ヒゲを生やした男の名をハリオという。剣の腕一筋に傭兵として身を立てると言い村を出たが、剣を握って勇ましく敵を葬っていたはずの骨張った手は、塩辛い木の実入りの革袋の中をまさぐる事くらいにしか使っていない。自称、出身村一番の剣豪である。
 ここに来て半年ほどの二人は、シワス砦に配属されてからの微睡みに似た退屈という名の日々を、ほぼ強制的に満喫させられていて、そうした日々にもすっかり慣れてしまっていた。
 「なぁ、ハリオ……」
 「なんだよ、サブリ」
 見張り塔の内壁にぐてんと体を預けた姿勢のまま、サブリは相棒であるハリオに声をかけた。
 「俺達、これでいいのかなぁ」
 「なにが」
 「なにがってさ、俺達今年でもう二十九、来年には三十だぜ。こうして辺境の警備隊でぼーっと過ごすだけの毎日でさ、いいのかなって思うんだよ」
 「いいじゃねえかよ。一日に何時間か言われたことやってるだけで、寝るとこもあって飯も出る。使う当てのない金は貯まる。これ以上の仕事なんて探したってそうはないぞ。北方や南方に近い拠点じゃ、しょっちゅう殺し合いしてるってのに、ここはそういう血なまぐさい出来事からも無縁だしな。まあ、俺としちゃあ、鍛え上げた剣術を活かせる機会がなくて、ちっと退屈なんだがよ」
 ハリオは剣の腕には自信があるようで、日頃からよくそのことを自慢していた。サブリはそうした話はすっかり聞き飽きていたので、さらりと流して対応する。
 「でもよお、俺がなにより嫌なのはさ、ここじゃ女との出会いが全然ないってことなんだよ。ガキの頃遊んでた奴らなんてよ、みんな二十歳すぎたくらいの頃には嫁さん貰って一家の長になってるんだ。俺だってさ……」
 「ぶっさいくな面してよく言うぜ」
 「ハリオには言われたくないよ……」
 サブリは顔をしかめ、ハリオはにへらと笑った。
 「けどな、まじめな話、田舎の若い女どもはみーんなさっさと相手見つけちまうし、その他でまともな女と知り合いたいってんなら、王都かそれ以外の都市にでも行くしかないだろ。そこで生活していくとして、仕事はどうするんだ? つるはし持って汗臭い男達と、窮屈な穴に潜って石掘りして暮らすなんて、俺ぁごめんだね。お前だって親から貰えるもんがありゃこんなとこでこんな時間に俺とくっちゃべってないだろうがよ」
 「それは、そうだけどよう」
 「それにこの砦にだって何人か女の従士がいるじゃねえか。ほら、従曹の孫のミヤヒ従士なんか結構美人だろ? あれ……ちょっと待てよ、そういえば誰かさん、ここに来てすぐあの女に告って剣でボッコボコにされたんだっけ?」
 思い出したくない過去を掘り出され、サブリの顔は真っ赤になる。
 「お、おおお、おま、おまッ!」
 「へへ、悪かったよ、落ち着けよ」
 ハリオになだめられ、サブリは両手で後ろ頭をワシワシと掻いた。
 「はぁあ……」
 それからしばらくは二人とも口を開かなかった。
 しんと静まり帰った夜の世界。時折、思い出したように鳴くフクロウの声に耳を傾ける。
 静かな空気が苦手なサブリは、どうにかして話題がないものかとネタを思い出した。
 「なぁ、ハリオ。聞いたかよ」
 「なにがだよ」
 ハリオは無精ヒゲを生やしたままの顔をぽりぽりと掻いて、革袋から塩辛い木の実を一つ取り出し、口に放り込んだ。
 「このあいだ配属された新入りのことだよ」
 「ほんなのひたっけか?」
 ハリオは口の中で木の実を噛み砕きながらもごもごと返事をする。喋りながら余った木の実の皮を吐き出す事も忘れない。
 「あんだけ目立つやつもそう居ないだろうよ。とにかくさ、今シワス砦はその新入りの話で持ちきりなんだぜ」
 シワス砦のある位置は辺境と呼んでもさしつかえないほど、ムラクモ王国の中でもすみっこのほうにある。大貴族が統治するような都からは遠く、周辺には小さな農村が点在しているのみ。当然遊んだり、鬱憤晴らしをできるような店もなく、唯一の楽しみはムラクモとアベンチュリンの二国間を行き来する商人達からの情報や嗜好品を買うくらいなものだ。
 そんな彼らにとって、王都の軍司令部から直接の指示で配属された新入りの話は、その奇抜な見た目との相乗効果もあり、大きな関心事となっていた。
 「そもそも、なんでここに寄越されたのかも不思議なんだがよ、その新入りが来て以来、王都から早馬でしょっちゅう荷物が届くんだと」
 「それがどうしたよ。辺境勤務の軍人に、実家から差し入れが届くのなんて珍しくもないだろうが」
 ハリオがそう言うと、サブリはしめたと言わんばかりのしたり顔で反論する。
 「それがなぁ、送られてきた荷袋があんまり上等だったもんで、受け取った奴らが差出人を見たらしいんだが、そこに書いてあった名前が〈アウレール〉だったんだと」
 ハリオは木の実へと伸ばしていた手をぱたりと止め、体を起こした。
 「アウレールっていや、お前それ――」
 「そうだよ、ムラクモでもそこそこ中堅の貴族。子爵様の家だな」
 しかし、ハリオは一笑に付す。
 「ばっかやろ、かつがれてんだよ。どこの世界に平民の若造に物を送る貴族がいるってんだ」
 「この話はヒノカジ従曹の耳にだって入ってるんだ。荷を直接受け取ったやつの話によると、荷札にアウレール子爵家のロウ印も押してあったらしいんだぜ。間違いねえよ」
 力説するサブリの顔の贅肉がぷるんと揺れた。
 「まじかよ……」
 「この話はまだ終わりじゃねえぞ。そのアウレール子爵家からの荷が届けられた翌日なんだが、またその新入り宛に荷が届いたんだと」
 サブリのもったいつけたような話し方に、ハリオはすでにのめり込んでいるようだった。さきほどまで大切に抱いていた革袋を手放して、顔をサブリのほうへ寄せている。
 「また、その貴族から送られてきたのか?」
 「それが違うんだ。こんどの差出人に書いてあった名前は〈モートレッド〉だったらしいんだな」
 「今度は伯爵家かよ……どうなってるんだ、その新入り。でもよ、肝心な話が抜けてるな」
 「そこ、そこなんだよぉッ! 一番重要なのはッ」
 ふだん自分の話を真面目に聞いてくれないハリオが、真っ直ぐこちらに興味を寄せることにすっかり気をよくしているサブリは、声を荒げて身振り手振りで話を盛り上げた。
 「届いた荷に書いてあった差出人の名前は家名だけじゃない。それを見たやつによると、二つとも女の名前だったらしいんだ」
 「てことは、なんだ……その……」
 異性へ宛てた贈り物。それが何を意味しているのか、銹びたノコギリ並に鈍い者でも、想像はつくというものだ。
 言葉に詰まるハリオを尻目に、サブリは腕を組んで一人納得するように頷く。
 「そういうことなんだろうな。簡単には信じられねえけどよ。その二人の貴族のお嬢から荷が届いて、その後も二、三日おきになにかしら、同じ差出人達から届いてるらしい」
 「誰かその新入りに詳しく聞いた奴はいないのかよ?」
 「いねえよう、そんな奴。みんな気味悪がって声もかけてねえって話だ。俺も同感だね」
 定員はとっくに溢れているシワス砦に突如配属され、それを追いかけるようにして届く二人の貴族令嬢からの贈り物。
 いくらシワス砦の従士達が平和呆けしているとはいえ、件の新入りになにかあると考えるのが妥当であり、小心者の彼らはそうした出来事に巻き込まれるかもしれないと、目を合わせることすら避けている始末だった。
 ハリオはどこか遠くを見つめるように目を細める。
 「くそッ、いいよなぁ……貴族の娘ならきっとすっげえ美人なんだろうな……」
 ムラクモの特権階級層の多くは、西から渡ってきた移民の子孫だ。その詳しい経緯については、長い歴史と共に一般の人々の間で忘れられてしまったが、ムラクモが立国して間もなく、利権や新たな領地を期待して渡ってきたのではないか、というのが詳しい者達の間で語られている説である。
 西側の人々は色白で目鼻がくっきりとした顔立ち。それに多種多彩な髪色が特長的で、見栄えの良い容姿を持つ者が多い。黒髪や濃い茶系の髪色が多く、彫りの浅い顔立ちが一般的な東方の土着の民にとっては、しばしば畏怖と共に憧れの眼差しで見られることがあった。
 「よし、次の交代時間がきたらそいつを見に行くぞ」
 好奇心に駆り立てられたハリオが、柄にもなく瑞々しい声で言った。
 「本気かい?」
 「どうせ他にやることもないしな。で、その新入りがまかされた仕事場はどこなんだよ」
 「ない」
 サブリはきっぱりとそう言った。
 「は?」
 「だから、ないんだよ何も。まだここに来てなんにも振り分けられた仕事がないらしい。日に何度か中庭のほうで体を鍛えてるのを見かけた連中が居たみたいだけど」
 「ほお、そいつはけっこうなご身分だな。あとで遠巻きに冷やかしてやろうか」
 根本的に性格がひねくれているハリオは、他人をバカにしたり、からかったりすることが大好きだった。しかし、今回ばかりは相手が悪い。
 「やめとけって、あの新入り、そういう雰囲気じゃねえ」
 「なんだよ、雰囲気って、えらく中途半端な言い方だな」
 「うん、なんていうか、近寄りがたいんだよ……なんとなく、だけどさ」
 「ほお。そりゃ、ますます見るのが楽しみだ」
 空はうっすらと光が差し始め、砦で飼われている鶏が目覚まし代わりにコケコッコウと喉を鳴らしている。
 砦の中がざわめきに包まれるまでのほんの一間。
 黎明の時。
 風に揺られ、しゃらしゃらと枝を震わせる灰色の木々に囲まれた、平和で退屈だけが取り柄のシワス砦に、いつもと同じ朝が訪れる。



 白く硬い地面を踏みしめながら、砦の中庭をぐるぐると走る。
 薄ぼんやりと明るい静かな早朝。
 シュオウは身を切るような真冬の空気を吸い込み、白い息を小気味良く吐き出しながら、自分はいったいなにをしているのだろう、と数え切れないほど自問した。

 出生不明の孤児であったシュオウは、ある夜の出会いから師に拾われ、通常、人が暮らせぬ深界という、人にとっては死の世界のまっただ中で育てられ、鍛えられた。
 十年以上の歳月を経た後、外の世界への好奇心から師の元を飛び出したシュオウは、幼い頃に孤児として残飯を漁り、泥水をすすってどうにか生きていた街、ムラクモ王国王都へと向かった。そこで旅の資金調達のため、貴族の子女達が通う学校の卒業試験に同行し、皆と共にいくつかの試練を乗り越え、はじめての友と呼べる、仲間達との絆も築く事が出来た。
 その後〈氷長石〉との異名を持つ大貴族からの勧誘を受け、ムラクモ王国軍に入ることを決めたシュオウだったが、どういうわけか、今現在シュオウのいる場所は、当初の予定からはほど遠いものとなっていた。

 胸に感じる強い圧迫感を合図に、自身の限界を悟ったシュオウは、走る速度を少しずつ緩めて、転がり込むようにして地面に体を横たえた。
 汗で張り付いた衣服の下に感じる、冷たくて硬い地面の感触が心地良い。
 四方に広がる赤茶色の壁は、外にいるにも関わらず絶えず不快な圧迫感を与えてくる。木箱の中に閉じ込められた動物の気持ちはこんなだろうかと考える。そろそろ見慣れてもいいはずのこの光景を、未だに好きになれそうにはない。
 なんの因果でか、ムラクモ王国の中でも最も東に位置するシワス砦に配属されてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた
 こうなってしまった経緯を、シュオウを軍に誘った氷長石ことアデュレリア公爵は、丁寧な謝罪の言葉を含めて手紙で説明書きを寄越していた。その文面からは真摯に謝る姿勢が伺えたため、その事で相手を恨むような気持ちはなんら持ち合わせてはいないのだが、さすがにシワス砦での退屈極まりない日々は予想の範囲外であり、自問自答を繰り返し心の中で唱えてしまうに十分な、無意味に思える時間が、ただ淡々と過ぎていく。
 シワス砦には多くの人間が勤めている。今現在も、見張りや食事の支度、馬の手入れ、掃除などの様々な雑用で複数の従士達が蟻の巣のように砦内でうごめいているのだが、シュオウのいる中庭には、自分の吐き出す荒い呼吸音しか聞こえず、この退屈な世界に独りぼっちになってしまったような錯覚すら抱いてしまう。
 呼吸を落ち着かせるために吐き出した大きな溜息には、自虐的なものが少なからず含まれていた。
 「新入りのくせに、いっちょまえに悩み事か?」
 唐突に中庭の空気を揺らしたのは、聞き覚えのある女の声だった。
 シュオウは仰向けに曇り空を見上げたまま、声の主に返答する。
 「悩みがない人間なんているんですか」
 上機嫌とはいえない精神状態だったこともあり、険のある声になってしまった。
 「おうおう、そんな態度でいいのか? もったいなくも先輩従士たるこの私が直々に新入り宛への荷物を持ってきてやったというのに」
 ――またか。
 シュオウは体を起こし、背後から近づいてくる声の主のほうへ振り返った。
 無風の日の雨のように真っ直ぐな黒髪を静かに揺らしながら歩いてくるのは、このシワス砦に長く勤めている女性従士で、名前をミヤヒという。
 鼻は少し低く、切れ長で意志の強そうな目元。顔の一つ一つの部位はどれをとっても平凡そのものだが、美人と呼ぶに相違ないくらいには整っていて、身長もスラリと長い。着慣れた様子の従士の茶色い制服は、女性用のものを支給されているらしく、男のものと比べて胸元から腰にかけて、ゆったりとした造りになっている。言葉使いが少し乱暴な点を除けば、おそらく異性からの注目を集めやすい部類の人であるはずだ。
 一度年齢を聞いた際に、彼女が物凄く不機嫌な顔で黙ってしまったのを見て以来、詳しく知る機会はなかったのだが、おそらく二十歳くらいの年齢である自分より、五から十くらい上であると予想している。黙っていれば落ち着いた三十代くらいの女にも見えるし、快活に明るく喋っている姿を見れば、二十代前半に見えることもある。どちらにせよ、シュオウにとっては先輩従士にあたるため、目上の者に対する態度を取る理由としてはそれで十分だった。
 「ほれ」
 ミヤヒはシュオウの前で軽く膝を折り、綺麗な布でくるまれた二つの荷を地面に置いた。
 「……ありがとうございます」
 荷にはそれぞれ送り主を示す小さな荷札がついているが、確認するまでもなく誰からのものかはわかっている。
 「あんたのそれ、すっかり噂になってるよ」
 ミヤヒは荷を指さして言った。
 「噂、ですか。どうして」
 「当然だろ。送り主の名前に貴族の名前が入ってれば、誰だって不思議に思うよ」
 シュオウはなるほど、と言って頷いた。
 この世界の人類社会では、人間は大きく二つの種類に分けられる。手の甲部分にある〈輝石〉という命にも直結した石に、多彩な色が付いた物を持っている側と、そうではなく、白く濁ったような石を持つ側の二種である。
 色のある輝石は〈彩石〉と呼ばれ、自然を操る等の超常的な力を持つ者に与える。一方の色のない輝石は〈濁石〉といい、それにはなんら特別な力はない。
 両者の差は埋めがたく、彩石を持つ者は人類社会の中で自然と権力を得るようになり、彼らは貴族階級を占めるようになった。
 そんな貴族の娘達が、彩石を持たない平民階級であるシュオウに対して頻繁に贈り物を寄越している状況は、常識のある者から見れば異常事態といって過言ではないのである。
 「あんたの出生にまつわる秘密から、貴族の令嬢達をたぶらかした経緯まで、根も葉もない噂の数は今わかってるだけでも両手で数え切れないほどあるけど、聞きたい?」
 「やめておきます」
 もう一度大きな溜息をつきたくなったが、自重する。
 深界を踏破する試験を共に乗り越えた仲間であるアイセとシトリという二人の貴族の娘達。彼女達はどういうわけか自分に対して良い印象を持っているようで、試験を終えて王都に戻ってからは、出会って間もない頃の棘のある態度が嘘のように、競い合うようにシュオウに対して好意的な態度で接してきた。
 王都から離れた場所での仕事が決まり、離ればなれになってから、すぐに送られてくるようになった二人からの贈り物も、始めの頃は嬉しかった。が、今やシュオウのささやかな人生に刺さる小骨となって悩みの元となっている。
 シュオウが甘い物に感心がある、という事を知っているアイセは、見たこともないような色とりどりの菓子を頻繁に寄越し、シトリのほうは使い道に困る置物や、高そうな防寒具などをせっせと送りつけてくる。
 自分に対してこれほど良くしてくれることに感謝の念は尽きないが、それが二日おき、三日おきの間隔で届くとあっては、もはや嫌がらせ一歩手前だった。
 「その様子じゃ、あんまり喜んでもいないみたいだね」
 ミヤヒは苦笑しつつ、地面に尻をついたままのシュオウの顔を覗き込んだ。
 彼女は面倒見がよく、シュオウに対してもなにかと声をかけてくれたり、気を遣ってくれている。シワス砦に配属されて以来、周囲から孤立してしまっている状態の自分にとっては、貴重でありがたい存在となっていた。
 シュオウが孤立状態になってしまっているのには、いくつか理由がある。
 一つはシトリ、アイセ、両名から頻繁に届く贈り物。もう一つは、配属されて一ヶ月たつにもかかわらず、ここで自分に割り振られた仕事が何一つないからだった。
 周辺の農村で、親から継ぐ物がない二男、三男が年金を当て込んで軍に入り、配属されるのがこのシワス砦なのだという。砦内部はすでに飽和状態で、見張りの任務ですら交代間隔が極端に短く、水汲みから掃除まで、ありとあらゆる細かい雑用にまでそれを担当する者がいるのだ。
 それほど人が余っている場所にシュオウが配属されたことも不思議だが、当然のようにここで突如現れた新入りが預かれるような役割はなく、食事以外することがないシュオウは持て余した時間をひたすら基礎体力訓練に消費していた。
 いくら運動で体力を減らしても、働かずに食べる食事は味もわからず、奇異の目を向けてくる他の従士達の視線もあって、ここへ来て気が安らぐこともない。
 シュオウの扱いは完全に腫れ物で、お客様であり、蟻の巣にまったく別の虫が迷い込んでしまったかのような居心地の悪さを日々噛みしめていた。
 「貴族が何を考えてるかなんて興味もないけど、それの送り主に悪気はないんだろ。邪険にするのもかわいそうだよ」
 「邪険になんてしてないです。ただ、ちょっと疲れるってだけで」
 シュオウは眉根を落としてそう呟いた。
 「それにしても、あんたがねえ……お嬢様を二人も籠絡出来るような色男には見えないけど」
 ミヤヒは下からシュオウの顔を覗いて言った。
 「ほっといてください」
 シュオウが顔を背けると、ミヤヒはからかうような口調で言う。
 「ぷッ、いっちょまえに拗ねた?」
 本当のところは違う。拗ねたのではなく恐いのだ。
 シュオウの顔の半分ほどを隠す黒い眼帯。この下がどうなっているのか、といつ興味を示されるかと思うと、反射的に相手の視界からはずれてしまいたくなる。自分でも病的だと思うほどの過剰反応は、過去の顔に纏わる苦い経験からきていた。指をさされ、醜い顔だと笑われたり、意味のない同情を浴びせられたり、気持ちが悪いと言って罵倒されたり。そうした経験が心に深く傷を残し、それは大人になった今でも、シュオウが背負う重荷の一つとして、暗い影を落としている。
 空気が重たくなったことを感じ取ったのだろう。ミヤヒはさっさと話題を変えて、声を張り上げた。
 「まあ、ここのところ退屈してるみたいだし、ちょっと付き合いなよ」
 シュオウの返事を待たずに、ミヤヒは中庭の角に立てかけられていた二本の木剣を手に取った。
 「子供の頃からじっちゃんに鍛えられてたから、これでも剣の腕はちょっとしたもんなんだ」
 ミヤヒは誇らしげに言って、片方の木剣をシュオウに向け放り投げた。
 狙い良く胸の前まで飛んで来た木剣を受け取る。見た目の印象よりもずっしりと重い。
 「重たいですね」
 「軍で使ってる訓練用の本格的なものだからな。中に重りが入ってて実剣とほぼ同じくらいの重量に調整されてるんだ」
 「それで――でも、どうしてこんなもの?」
 「今からあんたの腕を見る。新入りの腕試しを先任がやるのは砦の伝統なんだ。他の連中がなにもしようとしない腑抜けばっかりだから、あたしが筋を通してやるよ」
 ミヤヒは重たい木剣を軽やかに振り上げ剣先を胸の前に突き出して構えた。
 構えるまでの動きは音もなく流れる水の如く。まったく剣に対して知識がないシュオウでも、ミヤヒがそれなりに使える相手だと、瞬時に悟った。
 「待ってください、剣なんて一度も――」
 「問答無用!」
 ミヤヒは素早く一歩を踏み出す。構えた木剣を頭上まで持ち上げ、勢いそのままにシュオウのいる位置まで振り下ろした。
 ――うそだろッ。
 立ち上がって後退する余裕はないと判断したシュオウは、体を右へ振り、地面を転がって木剣を躱す。鋭利な風切り音が頭の後ろを通りすぎた。
 「反応良いね」
 ミヤヒがわずかに後退したのを確認し、シュオウはゆっくりと立ち上がった。
 「話を聞いてください。こんなもの、一度も使った事がないんです」
 「冗談にしては笑えないよ。剣も使えないようなのが軍に入れるわけないだろ。もしかして、勝負から逃げたいからってそんなこと言ってるのか?」
 ミヤヒの顔面があからさまに不機嫌そうに歪んでいく。ここへきて以来、彼女のこんな表情を見るのは初めてだった。
 「嘘は言ってません」
 シュオウは真顔でそう通すが、ミヤヒに納得した様子は見られない。むしろ、目の色はさらに怒気を増したような気がする。
 「わかった。負けた後にそう言い訳してもいいから。だから今はきちんと相手しな。どうしても嫌だってんなら、先任からの命令ってことにしてもいい」
 ――聞く耳持たずか。
 思惑がどうであれ、あまりに短慮な先輩従士の振る舞いに、怒りを通り越して呆れる心地がする。
 シュオウの胸中など知った事ではないミヤヒは、足早に間合いをつめて二度目の剣撃を振り放つ。狙いは右肩から腹にかけて、上から斜め下に切り裂くような一撃。シュオウは左足を擦るように後退する。最小限の動作でこれを躱し、ミヤヒの木剣はむなしく中空を切り裂いた。
 適当にいなせば冷静になってくれるだろうか。そう考えたシュオウの期待は空振りに終わる。
 今の一振りに自信があったのか、ミヤヒは一瞬の動揺を見せた。が、すぐに意識をシュオウに戻し、突進しつつ横薙ぎに剣を振り払った。当然、シュオウはこれも躱そうと予備動作に入る。だが、そこで猛烈な違和感を覚えた。
 ――体が重い。
 右手に握ったままの木剣はシュオウにとっては異物でしかない。実剣と相違ない重さの木剣が、いつも通りの動きを阻害している。即座に、戦闘行動に不要な物だと判断してその場に木剣を放棄する。身軽になった分さらに軽快に足をずらし、腰を引いて際どい位置で回避行動を取る。
 ミヤヒの剣先がわずかにシュオウの従士服をかすめた。
 相手の次の行動は――そう思考した瞬間、襲ってきたのは剣ではなく怒声だった。
 「なんだよ今のはッ!」
 「え?」
 「え、じゃないッ! さっきから危なっかしい避け方ばかりしやがって。ちゃんと剣の背で受け止めろよ! おまけに途中で放り投げるし……今の本物だったらどうするんだ?」
 「はあ……」
 シュオウは気の抜けたような返事をした。 
 どう説明すればいいのかわからない。この状況で何を言っても、おそらく聞いてはもらえないだろう。血走った彼女の目を見れば、そうとしか思えなかった。
 「いいか、次はきちんと剣で受けるんだぞ」
 ミヤヒが拾って再び投げて寄越した木剣を受け取り、見よう見真似で構えてみた。その途端に立ち方すら忘れてしまったかのように、猛烈な違和感に襲われた。
 手の平が汗ばむ。
 「やあッ!」
 ミヤヒの攻撃は最初と同じ、頭上から振り下ろす重たい一撃。
 縦の攻撃を防ぐためにとる行動は、剣を横に構えて前へ突き出せばいい。経験では圧倒的に劣っていても、腕力でなら男でもあり、鍛えてきたシュオウに利があるはずである。
 受け止めるくらいのことは出来るという漠然とした自信がたしかにあった。だが――
 「ッ――」
 ガチンと木剣がぶつかり合う耳障りな音がして、シュオウの手元からジインと衝撃が両腕と肩にまで響いて伝わった。その拍子に指先に痺れるような痛みが走り、強く握っていたはずの木剣は、カラカラと音をたてて地面に落ちていた。
 「…………悪かったな、無理をさせて。あんたがここまでよわっちい奴だなんて思ってなかった」
 ミヤヒは落胆した様子で目も合わさず、木剣を元あった場所へ片付けに向かう。
 呆然とその様子を伺っていたシュオウは、そこではじめて複数の視線を肌に感じた。
 見上げてみると、見張り塔の上や建物の窓など、あちらこちらから砦の従士達が自分を見下ろしていた。皆一様に、にやけた顔で口を動かしている。退屈に溺れる彼らの好奇心を満たす、一時の見せ物となっていたのだろうか。
 「ガキ共ッ、飯の時間だ。遊んでないでさっさと食え」
 二回の窓から顔を出した白髪の老人が怒鳴るような口調で二人に声を浴びせた。
 「だってさ」
 ミヤヒはそう言ったきり、一人でさっさと中庭を後にした。
 シュオウも一歩を踏み出そうとして、渡された二つの贈り物の事を思い出す。食堂に行く前に、まずは自室に荷を置いてこなければならない。
 場違いに上等な布でくるまれた箱を持ち上げると、腹がぎゅるぎゅると間の抜けた音を鳴らした。
 憂鬱であろうとなかろうと、呪わしいことにかならず腹は減るらしい。
 ――俺は、何をしてるんだろう。
 ここへ来てもう何度目になるかわからない大きな溜息を吐いて、シュオウは頼りない足取りで中庭を後にした。



 「あんた達、いつまでも窓に張り付いてないでさっさと食っちまいなッ! これからどんどん集まってくるんだ。急がないと後が詰まっちまうよッ!!」
 食堂に、野太く豪快な老婆の声が轟いた。
 一喝された従士達は、蜘蛛の子を散らしたような勢いで残してきた食事にがっついていく。
 「大声あげると皺が増えるぞ」
 ヒノカジは、左耳に指を入れてきゅるきゅると奥をほじくりながら言った。
 「うるさいね。ちょっと声を荒げたくらいで老けるような繊細な顔はもってないんだよ」
 老婆は濡れた手を割烹着で拭いながら、ヒノカジが陣取る窓際まで歩み寄る。
 シワス砦の台所を管理している彼女の名前はヤイナという。五十歳の頃ここへ来て二十年以上が過ぎた今になってもそれほど老けて見えないのは、ほどよくついた贅肉のおかげで皺が目立たないからだろう。性格は剛胆で怒らせると手に負えないほどに恐ろしいが、面倒見の良い性格と美味い家庭料理を、長年砦に勤める従士達のために作り続け、皆からは母親や祖母のように慕われている。
 ヤイナの夫であり、シワス砦の最古参兵であるヒノカジは御年七一歳になる老人だ。黒かった髪は朽ちた老木のように白くなり、古い切り傷が多く刻まれた顔には、年相応の深い皺も刻まれている。軍に入ってから地道に仕事をこなし、新兵の世話や訓練をよく見た。戦場等でこれといった功績を残していないにもかかわらず、ヒノカジが従曹の階級にあるのは、そうした実直な管理能力を買われてのことだった。
 「そんなことより、さっきから何をそんなに熱心に覗いてるのさ。庭に金銀財宝でも転がってるのかい」
 「ミヤヒが小僧に剣の勝負をさせとった」
 ミヤヒはヒノカジとヤイナのたった一人の孫だ。幼くして両親を亡くしたミヤヒを引き取り、ここまで二人で大切に育ててきた。
 「またかい。まったく、見た目ばっかり女になっちまって、中身は子供の頃のままだね」
 まったくだ、とヒノカジは渋い調子で同意した。
 ヒノカジはそれなりに剣の腕が立つ。若い頃は道場経営などもしていたくらいだ。
 孤児になってしまった孫を引き取った当時、幼くして両親を亡くしてふさぎ込んでいたミヤヒを心配して、本格的に剣術を教えたのがまずかった。護身術として武術をたしなむ女は少なくないが、ミヤヒはそうした領域を軽々と飛び越え、次第にその腕は、大人の男を軽々とのしてしまえるほどの域に達した。本人にも剣術には並々ならぬ思いがあるようで、仲間の従士を捕まえては剣の勝負を挑み、ほとんどすべてに勝利している。
 黙っていればおしとやかな女に見えるが、一度口を開けば男か女かわからないようなぶっきらぼうな口調が目立ち、剣を握れば餓えて暴れる猛犬の如く手に負えない。そうした性格のせいで適齢期を過ぎた今となっても浮いた話の一欠片すらなかった。
 「それで、どっちが勝ったかね」
 「勝負にもなっとらん。ミヤヒが小僧の剣をたたき落として終いだ」
 「ほう……あの坊や、腰抜けかい?」
 がっかりしたような口調のヤイナを一瞥し、ヒノカジはゆっくりと首を横に振る。
 「いんや、ありゃミヤヒが強引に剣の勝負を持ちかけたからだ。俺の目から見たら、あの小僧の体捌きはこなれたもんに見えたがな。まあ、ただ……剣に関しちゃ、ずぶの素人以下なのは間違いねえ。棒きれも振った事がないってくらい所在なさげだったわ」
 「あんたがそう言うならそうなんだろうね。でもまあ、剣がだめなんていうんじゃ、ミヤヒは面白くないだろうさ」
 「ああ、わかりやすくヘソをまげとった」
 ミヤヒが怒るのも無理はない。ムラクモの平民達の間では、農民であれ、子供の頃から親や道場で〈ムラクモ刀〉という片刃で背にふっくらと金属を盛ったような独特な造りになっている剣を使い、剣術を習う風習がある。あるいは、そうした事を教わる事が出来なかった生い立ちだったとしても、男の子なら棒きれをもって剣術の真似事くらいは経験があるはずだ。ヒノカジが小僧と呼ぶ新入り従士の青年シュオウは、それすら経験がないのではないかというほど、木剣を渡されてからの様子が頼りなかった。
 「あの坊やの事、どうするつもりだい。まだ仕事もやってないんだろ」
 二人が目で追う先にはシュオウがいる。ちょうどミヤヒから渡された荷を手に、中庭から出ていくところだった。
 「やらせる仕事がまったくないわけじゃねえんだが。どうしたもんかと思ってな」
 なんの前触れもなくシワス砦に配属されたシュオウという青年は気になる点が多くある。所属は第一軍という扱いになっているのに、配属命令書に押されていたロウ印は、ムラクモ王国軍を取り仕切る近衛軍司令部のものだった。それだけでヒノカジの不審を煽るに十分だが、実際にやってきた青年は、あきらかにムラクモの人間ではない灰色の髪。おまけにどこの大山賊だといわんばかりに目立つ眼帯までしており、どこにでもいるような若者という存在からは逸脱していた。
 シュオウという名前もおかしい。東方の平民的な面影を覗かせる響きをしているが微妙に違う。かといって貴族的というにはどこか気品に欠けている。おそらく、ムラクモにシュオウという名を持つ人間は彼だけだろう。
 さらに、後を追いかけるように届く、貴族の娘達からの贈り物の件もある。
 たった一つでも、シワス砦では浮いてしまうというのに、こうも珍しい状況が重なれば、皆が遠巻きに噂話ばかりしてしまうのも無理はない。
 その生い立ち。どういった理由で軍に入り、どうしてここへ配属されたのか。貴族の娘達とどんな関係にあるのか。
 知りたい事は尽きないが、年老いてすっかり慎重になってしまったヒノカジは、そうした質問を一つとして直接ぶつけられずにいた。シュオウが貴族と関わりがあると知ってからはなおのことだ。
 「かわいそうに。あの坊や、ここへ来てからどんどん元気をなくしちまってるよ。なんとかしておやりよ」
 ヤイナは女性らしい心遣いで、今やすっかり孤立状態のシュオウを心配している。口にはしないが、その想いはヒノカジとて同じだった。
 「少し前に小僧の進退に関する質問状を王都に送っといた。その返事があるまでは様子を見る」
 どこからともなく現れた謎めいた新入り従士の配置が書類上の誤りなのではないか、と思いその旨を問う内容の書状はすでに送付済である。一介の従曹からの質問を軍上層部がまともに取り合うかもわからないが、なにもしないよりはましだろう。

 ほどなくして食堂に現れたミヤヒは、黙ってヒノカジと同じ食卓についた。
 シュオウはミヤヒから少し遅れて入ってきて、食器を手に座る場所をさがして視線を泳がせていた。それに気づいたヒノカジは、シュオウを自分の座る食卓へ手招きした。
 「いいですか?」
 シュオウは確認をとって、ミヤヒの隣の椅子に腰掛けた。
 「災難だったな」
 ヒノカジのその一言で、シュオウは一瞬だけミヤヒに視線を流した後、いえ、と否定した。
 「ミヤヒは剣のこととなると頭に血が昇りやすくなる。まあ、通り魔にでも遭っちまったと思って忘れるこった」
 そう言うと、ミヤヒはすぐに不満を表明した。
 「ひとのことを辻斬りみたいに言わないでよ、じっちゃん!」
 「似たようなもんだ。いきなり木剣渡して勝負しろ、なんて女のするこっちゃねえぞ」
 「う……でもさ、こいつ、いつもこれみよがしに体鍛えてたりしたから、期待しても仕方ないって」
 シュオウが鍛錬を見せびらかせていたのではなく、やることがなく仕方なしといった風だったのをヒノカジは知っている。
 「勝手な期待を押しつけたあげく、勝手に失望してりゃせわねえぞ」
 祖父からの説教で機嫌を損ねたらしく、ミヤヒは顔をそむけて唇を尖らせた。
 静かに汁物を口に運ぶシュオウは、伏し目がちで覇気のかけらもない。その原因の一端が自分にもあるような気がして、ヒノカジはうっかり口を滑らせた。
 「小僧、どうだ、ここには慣れたか」
 馬鹿な事を聞いたものだと、心中で自分自身を怒鳴りつける。
 案の定、まだ年若い青年の表情はみるみる曇り、片方だけ開かれた頼りない瞳は、うらめしげにヒノカジを映していた。
 「仕事をください。自分一人だけがなにもせずにこうやって食べ物をもらっても、ここの一員になれたような気が、少しもしません」
 シュオウの言葉に切羽詰まったような色を感じ取ったヒノカジは、それを軽く受け流すことなどできなかった。
 「んむ……」
 シワス砦には諸事情もあり、近隣の農家の子供達が多く勤めている。本来の許容量はとっくに超していて、関所と国境警備の業務をこなすには、現状の半分の人数も必要ないほどだ。そのため、砦の中の仕事はあらゆる方面で細分化され、それに時間交代制まで導入されている。廊下に転がっている小石を拾う係まであるほどだった。
 だからといって新入りの従士に対して本当に一切の仕事がないかというとそうではない。たとえば人の多さから砦の手洗い所は衛生的に汚れやすい。その清掃と、水洗用の水を井戸から汲む作業は重労働であまりやりたがる者が居ないため、新入りに宛がうには丁度良い仕事ともいえるが、それを謎めいた目の前の青年に対して、まかせてもいいのだろうかという奇妙な考えに囚われる。
 どんなに想像をめぐらせても、砦の雑用をせっせとこなしているシュオウの姿を思い描くことができない。絶対にぴたりとハマる事のない積み木を手にしているような、そうした収まりの悪い疑念がまとわりつく。
 つまるところ、自身に生じるためらいの感情の出所がわからないヒノカジは、ただただ戸惑っているのだ。突如として現れたシュオウという新入り従士の扱いを。
 どう返事をすべきかを迷っていた一瞬の間――
 「従曹ッ!」
 ヒノカジが口を開く前に食堂に飛び込んできた従士の一言が、突然に状況を一変させた。
 「どうした」
 「それが、アベンチュリン側から人が来てるんですが、それがちょっと……」
 「いつも通り、簡単に荷を調べて通せばいい。俺に報告が必要な事か?」
 「いえ、それが、来てるのはどうも全員アベンチュリンの貴族みたいで、その中の一人が、自分はアベンチュリンの王子だ、なんて言ってるもんで……」
 ざわついていた食堂の雑音がぴたりと止まった。
 「王子、だと?」

 食堂を出てすぐの廊下に、複数人の従士の靴音が重なり合っている。食堂に詰めていたほとんどの従士達が、頼んだわけでもないのにヒノカジの後を追って来ている。退屈を払拭できそうな出来事を前にして、皆じっとしてはいられなかったのだろう。
 「本当に王子と名乗ったのか?」
 ヒノカジは報告に来た従士に再度確認をとった。
 「ほんとうですって!」
 「お前、アベンチュリンの王族を見たことがあるのか?」
 「い、いやないですけど……けどッ! 輝士を三人もつれてたし、間違いないです!」
 「まあ、嘘をつく理由も思いつかんか。しかし……」
 アベンチュリン王国は、今から五百年以上の昔にムラクモの前に屈服した敗戦国である。
 本来ならば領地の没収と王位の剥奪をされているところだが、アベンチュリンは自国で産出している豊富な食料を差し出す事と、軍隊を保有する権利を放棄する条件で、王家の存続を許された、いわばムラクモの傘下に収まった属国だ。
 アベンチュリンの王族が国外へ出ることを禁じられてはいないだろうが、越境する場合には、ムラクモからの許可が必要のはず。しかし、今回そのような予定があるという話は微塵もシワス砦には届いていなかった。ヒノカジが降って沸いたように訪れた王子訪問を不思議に思うのはそうした理由があるからだ。
 階段を駆け下りて、勢いそのままに中庭に出る。
 アベンチュリンからムラクモへは、砦の内部を通っても、もちろん通り抜けることができる。だが通常、両国を行き来する人間を通すのは、直接入口から通じている中庭を使う。
 中庭にある東側の頑丈な門を開くと、その先には四人の男女が佇んでいた。
 左から男が二人、その隣に若い女が一人。その三人を従えるように中央にいる青年が一人。全員が左手甲に黄色系の彩石を持ち、アベンチュリンの〈地装束〉という黄色いツナギの民族衣装によく似た軍服を纏っている。
 青年を除いた三人は、顔つきや長剣を腰に帯びていることからも、容易に輝士階級の者達であることがわかった。
 〈輝士〉というのは彩石を持つ者が軍で与えられる階級の呼称である。国により多少のバラつきはあるが、たいてい輝士階級にある者はそれと同時に士官としての資格も有する。社会での彼らの位置は、彩石という生まれながらの才に恵まれ、なおかつ国の中枢に近い選ばれた者達だった。
 中央にいる青年が前へ歩み出る。
 ――王子、か。
 薄茶色の髪、前髪の片側を三つ編みにして垂らし、後ろ頭は刈り上げている。彫りの浅い顔立ちは、印象こそ薄いが、表情は粒の細かい砂のように滑らかで気品が漂う。
 輝士三人を平然と背負う立ち居振る舞い。報告に来た従士が、間違いないと言ったのも頷ける。
 「シュウ・アベンチュリンです。はじめまして。突然このような形でお騒がせしてしまいまして、申し訳ありません」
 王子はそう言って、深々と頭をおとした。
 「あッ……いえッ」
 ヒノカジはもちろん、後ろから様子を伺っていた従士達も息を飲んだ。
 属国とはいえ、彩石を持つ人間、それも王族が平民に向かって頭を下げるなどあるはずがない。そう思ったのは、ヒノカジだけではなかったらしく、すぐに同行する輝士の一人が声を張り上げた。
 「殿下ッ! そのような――」
 頭を上げた王子は、手の平を見せて輝士を制した。
 「不作法を承知のうえでまいりました。失礼ながら、ここの責任者の方でしょうか?」
 王子の問いかけに、ヒノカジはたどたどしくも答えた。
 「シワス砦国境警備隊所属、ヒノカジ従曹であります。現場を監督しておりますが、現在ここの最上級責任者はコレン・タール男爵であります」
 「では、これを、その男爵殿にお渡し願いたい」
 王子が差し出した金色の筒を、ヒノカジは恭しく受け取る。
 「書簡、でありますか」
 「女王陛下からの直接の申し入れです」
 「アベンチュリン女王陛下からの……。ですが、今ここには――」
 コレン・タールは不在である、そう言いかけると、近くにいた従士が歩み寄り、ヒノカジに耳打ちをした。
 「いるのかッ? いったいいつのまに」
 「昨夜遅くに……コレを連れて部屋に閉じこもってますよ」
 従士は小声で囁きつつ、小指を立てた。
 ヒノカジは姿勢を正して王子へあらためて向かい合う。
 「しばし時間をいただきたい。ご一行はこのまま帰国されるご予定でしょうか」
 「陛下からは返事を急ぐよう言われています。ご迷惑でなければ、ここで返答を待たせていただきたいのですが」
 ヒノカジは王子に承知したことを伝え、急ぎ部下に指示を飛ばす。
 「六名残れ――他はついてこい」
 殿下の称号を持つ人間を外に放置したままにするのは気が引けるが、門から先はムラクモの領内となるため、勝手な判断で入れることは出来ないので仕方がない。
 ヒノカジはここへ来た時以上の勢いで、砦の三階にある執務室へと急いだ。
 砦内部の一階と二階部分は、四六時中従士達が行き交っているため賑やかだが、三階部分からは少々趣が異なる。
 三階には、ほとんど使われることのない会議室や、高価な荷や武器を預かるための鍵付きの部屋があり、奥にはかなり広い造りになっている士官用の執務室が設けられている。
 他の者達を二階に残し、一人執務室の前まで向かうと、部屋の前には二人の武装したコレン・タールの私兵が険しい表情で立っていた。
 「男爵閣下はこちらにおられるか」
 ヒノカジが聞くと、男達は腰の剣に手を置いて、制止を促した。
 「そこで止まれ。閣下は職務中につき多忙を極めておられる。用向きがあるならここで聞こう」
 多忙とはよく言ったものだ、とヒノカジは心中で毒突いた。
 「アベンチュリンより使者としてシュウ王子殿下が来訪中である、と。女王陛下よりの書簡も預かっている。急ぎ男爵に子細を報告したい」
 男達は焦った様子で顔を見合わせた。
 「ま、待ってろッ」
 一方の男が素早く扉を叩き、中に入る。僅かな間を置いて部屋から出てきた男は、ヒノカジに入れ、と入室を促した。
 執務室の中に入った途端、異様な臭気がヒノカジの嗅覚を刺激した。
 強烈な酒臭さ。その中に混じった男と女の淫靡な臭い。それに葉巻の苦い香りが入り混じり、今まで嗅いだこともないような独特な異臭を作り出している。
 ヒノカジはこみあげる吐き気を堪え、部屋の窓をすべて開け放ってしまいたい衝動に蓋をした。
 室内の窓はカーテンでほとんど覆われている状態で、ただでさえ曇り空で薄暗い外よりもさらに空気が重たかった。まるで空気穴のない箱に閉じ込められた心地がして、どうにも落ち着かない。
 小さな燭台に照らされて見えたのは、寝台に横たわり、裸の女の肩を抱いて葡萄酒をあおるコレン・タールの姿だった。
 頭の天辺は薄くなり、腹は三段に折り重なるほど肥えている。左手甲にある泥水のような色の輝石がなければ、酒場で飲んだくれている五十路前後の中年男といった風采だ。
 こう見えて、コレン・タールはムラクモ王国軍の正式な輝士である。もっとも、シワス砦に配属されている時点ですでに出世の道からは大きく逸れているのだろうが。
 酒色に溺れる怠惰な輝士。その姿にまったく尊敬に値するところはなく、視界に入れるのも不快な人物ではあるが、シワス砦の長官は数年おきに入れ替えがされるため、ヒノカジとしては特に気にもとめていなかった。
 むしろコレン・タールは、砦の業務によけいな口を出さず、定期的に自身の別荘から妻の目を盗んで愛人との逢瀬に執務室を使っているくらいで、どちらかといえば無害なほうに分類される。
 ヒノカジが寝台の前に立ち、敬礼をすると、コレン・タールは気怠そうにもそもそと口を開いた。
 「アベンチュリンの王子が来たとか」
 「はッ。輝士三名を連れ、現在も門外で待機しております。アベンチュリン女王陛下からの書簡に対する返事を求めておられますが」
 ヒノカジは懐に入れていた金色の筒を取り出して見せる。
 「砂金石、か……。いったい何の用だ。王都にではなく、ここへ宛てたものに間違いないのだろうな」
 〈砂金石〉というのはアベンチュリン王家が継承してきた〈燦光石〉の名である。燦光石は特別な力を有する彩石よりもさらに別格の石として認識され、その力は天変地異の領域にまで及ぶ。
 多くの国々では燦光石を有する一族が玉座に座り、王、あるいは大貴族として政をこなしている。燦光石はそれを有する者に不老や長寿を与えることもあり、人々はその石を特別な名で呼び神格化していた。
 「そのような話は聞いておりませんが」
 コレン・タールは二重顎に手を当てて、充血した目を上に寄せた。
 「よし、許可する。中身を確認して教えろ」
 「私が、でありますか」
 「暗がりで視界が悪い。お前の立ち位置ならいくらか外の光が当たるだろう」
 王族からの書簡を最初に開くのが、ただの平民である自分でいいものかとも考えたが、半酔っぱらいを相手に抗議したところで無駄なことだろう。
 ヒノカジは慎重な手つきで筒を開き、中に丸めて入れられていた羊皮紙を広げ、内容を確認した。
 「どうした、なんと書いてある」
 「これは…………」
 二の句を継げなくなってしまったのは、書簡に書かれた内容を理解するのに時間を要したからだ。
 「女王陛下よりの招待状のようです。日頃、国境を守護する兵達に対する感謝と労いを伝えたい。代表としてシワス砦の従士数名を城に招待し、夜会にてもてなしたい、と。そういった旨が書かれておりますが……」
 言いながら、語尾は少しずつ力を無くしていく。
 王族が一般の従士を労いたいなど、荒唐無稽な申し出にもほどがある。それも、他国の王が、である。
 「なんだ、それは。本当にそんなことが書いてあるのか?」
 コレン・タールは寝台から裸足のまま降り、ヒノカジから書簡を取り上げて目を通した。
 「ふむ……間違いないようだな。浮ついた行動をとる人物であると噂には聞いていたが、これほどとは……」
 「王都の司令部にどう対処すべきか連絡を入れたほうがよいのでは」
 ヒノカジの真っ当な申し出に、コレン・タールは強く反発した。
 「馬鹿を言うな。これしきのことでいちいち上を煩わせていては、私の評価に影響する。ただでさえ予算は減らされているというのに、これ以上この砦の役立たずさをひけらかしてもなんの得にもならんッ」
 コレン・タールは愚痴るようにまくしたてた。
 「ですが、この書簡の内容に答えるにしても、我が軍の兵が許可なく越境する事になります」
 「ムラクモとアベンチュリンとの関係は周知の事。属国に入るのにいちいち許可などとっていられるか。それに、今回はあちらからの招きだ。気にすることもなかろう」
 「もしや、この申し出を受けるおつもりですか」
 「慰労のための招待なのだ、断る理由もないだろう。なに、どうせ臣下の前でムラクモの軍人に大層な料理でも振る舞い、器の大きさを見せたいのではないか。一つや二つ愚痴を聞かされるかもしれんが、そのくらいで王族の歓待が受けられるなら安いものだろう」
 「まさか……私に行けと?」
 冗談であってほしい、というヒノカジの願いは、コレン・タールのまくしたてる醜い声にかき消された。
 「お前以外、この砦は若造だらけではないか! 期待はしていないが、最低限失礼のないよう応対しろ。残りの者の人選はまかせる。私はこれからやらねばならない仕事があるから、後のことはまかせたぞ」
 コレン・タールは顎をしゃくって見せた。出て行けということだ。
 この馬鹿げた提案を、現場の判断だけで承知してもいいとは到底思えない。しかし、ヒノカジとて軍人である。上官から命令されれば、それに従わなければならない。
 意見を述べたところで、傲慢な貴族を相手に無駄であることは、それなりに軍の中で生きてきた経験が教えてくれる。ヒノカジには守るべき部下達と家族がある。無茶をして無駄に目をつけられるような事は出来ない。

 二階に下りると、心配そうに見つめるミヤヒと妻のヤイナがいた。そして砦の従士達が好奇心を込めた表情で自分を待っていた。
 ヒノカジは、ぽつぽつと事情を説明した。
 最初に勢いよく食いついてきたのはミヤヒだった。
 「それって、色付きがあたしらを招待して、もてなしてくれるってこと? そんなのあるわけないよ」
 色付きという表現は、平民が影でこっそりと貴族の事を呼ぶときに使われる。こうした呼び方をする人間は、往々にして貴族をよく思ってはいない人物である事が多い。
 それまでは、子供のように無邪気な表情で話に聞き入っていた従士達も、他に同行者が必要であるという部分にまで話が及んだ途端、ヒノカジから視線をそらして俯いてしまった。
 彼らは、そのほとんどが農民の子供達だが、だからといって皆が惰弱で臆病者というわけではない。だが、ことが貴族に関わるとなると途端に尻込みをしてしまう。
 今回の話がどこぞの大商人からのものであったなら、我先に自分をつれていってほしいとせがんだだろうが、相手が貴族、それも一国の王となれば話は別だ。正直、ヒノカジとて本音は王都にいるそれなりの地位にいる人物に丁重に断りの文を出してほしいと願っている。
 本音がどうであれ、結局はこう言わねばならない。
 「誰か他に、アベンチュリンまで同行する者はいないか。うまい飯にありつけるかもしれんぞ」
 自らの言葉にまったく自信がないのは、それすらあるかどうかもわからないからだ。下手をすれば、王族や貴族の前で馬鹿にされ、晒し者にされるくらいのことはあるかもしれない。
 率先して手をあげる者などいるはずがなかった。つい最近までここの一員ではなかった、とある青年を除いて。
 「はい! 行きますッ」
 元気の良い宣言と共に高らかに手を挙げた人物に向けて視線が集まった。
 「小僧……」
 声の主は、王子一行が書簡を持って砦に現れるまで、ヒノカジの一番の悩みの種であった青年、シュオウだった。
 シュオウの目には強い輝きが見えた。初めて年相応に思える幼さすら伺わせる。
 「あたしも行くよ」
 今度はそう言ったミヤヒに視線が集中した。
 「い、いかんッ。何があるかわからんところに、お前を連れてなど――」
 「そんなところに、じっちゃん一人を行かせるほうが心配だよ。大丈夫だって、あっちが何をしたいかわからないけど、ムラクモの軍人に手を出せばどうなるかくらいわかってるはずだろ? もしかしたら、本当にあたしらに美味い食べ物でもご馳走したいって思ってる酔狂な女王様かもしれないよ」
 ミヤヒの言った通り、いくら王族といえどもアベンチュリンの人間がムラクモの軍属に手を出せば、最悪戦争にまで発展しかねない大事となり得る。当然、アベンチュリンにそんなことをする利はなにもなく、独自の兵力も軍も持たない件の国が、ヒノカジ達におおっぴらに危害を加えるようなことをするはずがない。
 ヒノカジは所在なさそうに俯く従士達を見渡した。誰もが自分を指名されることを恐れている。怯える人間を連れて行き、むざむざ笑いものにされるネタを提供してやるのも賢い行動とはいえないだろう。士気の低い兵は、いるだけ役立たずどころか、足を引っぱる場合すらある。
 もう一度、ミヤヒに視線を戻す。意志の強い瞳はだれに似たのか。言い出したら聞かない頑固さは妻のヤイナによく似ている。
 大切に育ててきた孫娘を、状況の予測が立たない地へ連れて行く事への抵抗感は非常に強い。しかし、ここでミヤヒを置いていくと宣言し、他の従士を指名して連れて行くようなことをすれば、孫娘に対して特別扱いをしていると取られても言い訳ができない。時間をかけて築いてきた信頼が、それだけの事で崩壊したとしても、なんら不思議はないのだ。
 ――なんとか、なるか。
 覚悟を決めたヒノカジは、じっとこちらを見つめる孫娘に問う。
 「きっと、楽しいことばかりじゃねえぞ。それでも行くか?」
 顔と声に凄みを効かせ、脅すようにミヤヒを睨みつけた。
 「行くよ。それにいい機会じゃない。こんなに近いのに、あたしはアベンチュリンに入ったことないし」
 異国への旅は商売人でもないかぎり、たしかにそうある機会でもない。今回の件を良い方向へ考えれば、孫に貴重な経験をさせる好気ともいえる。
 「小僧、旅の経験はあるのか」
 ヒノカジはシュオウに向けて聞いた。
 「それなりに」
 シュオウはまっすぐヒノカジを見つめた。そこには躊躇いも不安もない、ただ期待だけが満ちているように見えた。
 「よし。小僧とミヤヒを連れて行く。支度が終わり次第中庭に集まれ。他の連中は通常業務だ。俺がいないからって手なんて抜きやがったら、戻ってから尻を百回叩いてやるから覚悟しておけよ!」
 少し戯けた声音で檄を飛ばすと、後ろめたそうにしていた従士達も元気を取り戻して、それぞれの持ち場に散って行った。砦の仕事は簡単なものばかりだし、数日ヒノカジがいなくても支障はないだろう。ミヤヒとシュオウもそれぞれに支度のために足早に去って行った。
 「あんた…………」
 最後にその場に残ったヤイナは、何かを言いかけて、結局言葉は出てこなかった。
 「心配するな、ミヤヒは無事に連れ帰る」
 「あの新入りの子もだよ。まだ若い。なにかあっちゃ気の毒さ」
 「ああ、もちろんだ」
 「あんた自身も、ね。勝手におっちんじまったら許さないからねッ」
 ヤイナは昔から照れやで、自分を心配するときはきまって乱暴に言葉を濁す。そうした癖は、いくつになっても変わらないものらしい。
 「若い連中を連れ帰らんといかんからな。それまでは這いつくばってでも生きて戻るわいッ」
 ヒノカジもまた、照れ隠しに顔を背け、吐き捨てるように言った。
 結局のところ、自分たちは似たもの夫婦なのだろう。



 旅の支度を調えたシュオウは、はずむ足取りで中庭を目指していた。
 ここへ来て初めて心が躍っている。
 突如降って沸いたアベンチュリン王国への同行者を求めるヒノカジの提案に、シュオウは有無を言わさぬ勢いで立候補した。
 まだ行ったことがない国を見に行く事ができるという状況は、シュオウが師の元を飛び出した動機にも叶うからだ。
 時刻は正午を迎えようかという頃合いだが、空に浮かぶ雲は一層濃さを増し、辺りは薄暗かった。冬の空気は冷たいが、王都のある山や高所などにくらべれば遙かにマシで、南からの緩い空気が入るここらでは、雪もめったに降ることはない。
 跳ねるような勢いで中庭に出ると、そこにはすでにヒノカジとミヤヒが待機していた。見送りのためか、ヤイナやその他の従士達も出てきている。
 「小僧、支度はすんだか」
 「はい。いつでも出られます」
 頷いたヒノカジは東門の前で佇む王子に向き合い、敬礼する。
 「そちらがよろしければ、この三名で同行させていただきます」
 王子は満足気に頷いた。が、その後ろにいる強面で体格の良い輝士が前へ出て、不満をこぼした。
 「これだけか? 最低でもあと二人。そこから倍の人数でもかまわん。とにかく三人では少なすぎる」
 威圧的にわめく輝士をなだめるようにシュウ王子は口を挟んだ。
 「これで十分ですよ。元々陛下の急な思いつきで無理を言っているのです。了承していただけただけでも良かったと考えなければ」
 シュオウは目の前で愛想笑いを浮かべている王子を不思議に思う。
 王族という高貴な身分にありながら威厳はなく、よく言えば優しそうで、正直に言えば腑抜けて見える。
 シュオウが王族を見るのはこれが二度目。一度目はムラクモ王都にある水晶宮で遠くから見た姫様だったが、あちらもまた一癖ある独特な雰囲気を帯びていた。
 「砦の業務に支障のない人員を選びました。数に問題があるのであれば、また日を改めてということにしてもよろしいのですが」
 ヒノカジがそう言うと、強面の輝士は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをした。
 「この人数に不満はありません。アベンチュリンでの滞在は、私が責任を持って案内をしますので、観光だとでも思って気楽にしていただきたい。途中休憩する予定の町には温泉もありますよ」
 未知の世界を見て回れるというだけでも楽しみな気持ちは尽きない。そのうえ、案内人が殿下の称号を持つ人物なのだから、これはもう一生に一度あるかないかの機会といえる。
 だが、ここへ来てようやく時が動き出し、心の弾むシュオウとは逆に、ヒノカジの横顔は険しく、なにかしらの不安を抱えているような、そんな暗い雰囲気を漂わせていた。

 疾走する馬上。周囲の景色は前から後ろへ引っぱられていく。ムラクモのものより半分もないであろう白い道は、古びてひび割れや欠損が目立つ。それ以外はなんということはない。どこも似通っている深界の中を行くかぎり、同じような景色が続いている。
 前を行く四頭の馬には、シュウ王子と付き添いの輝士三人が乗っている。その後方、三馬身ほど離れたところから、シワス砦の従士三人を乗せた二頭の馬が後を追って走っていた。
 シュオウは一人で馬に乗ることが出来ず、その事をヒノカジとミヤヒに伝えると、二人は驚き、呆れているようだった。
 シュオウは幼い頃から一人ぼっちだったうえ、物心がついた頃には師に連れられ、灰色の森にかこまれた異世界とも呼べるような特異な環境で育った。そうした人生の中で、一度たりとも馬を必要とするような状況がなかったため、馬に乗るという技術の習得機会を逃していたのだ。その事を恥じてはいなかったが、これまでの周囲の反応から学ぶかぎり、馬術の心得がないという事は一般的な人間からみて奇異に映るらしい。
 結局、ヒノカジの馬に三人分の荷を乗せ、シュオウはミヤヒの後ろに乗ることになった。
 馬上でミヤヒの細く引き締まった胴に手をまわしながら、シュオウは所在ない心地を持て余していた。
 「すいません」
 「ん? どうした」
 出発してからずっと黙って手綱を握るミヤヒに、シュオウは謝罪の言葉を投げかけた。
 「後ろに乗せてもらってることです……。それに、朝の事も」
 早朝にミヤヒに無理矢理剣の勝負を持ちかけられたことについては、自分に落ち度があったとは思っていない。しかし、それ以来態度が刺々しいことと、なし崩し的に自分を乗せることになった事で、相当機嫌が悪いのではないかという懸念があった。
 皮肉の一つでも聞く覚悟はあったが、予想ははずれて、思いの外穏やかな答えが返ってきた。
 「もう気にしてないよ。それに今はどっちかというと感謝してる」
 「感謝……?」
 「あんたさ、じっちゃんがアベンチュリンへの同行者を募集した時、真っ先に手上げてくれただろ? 他の連中が行きたくなさそうにしてたし、あのまま誰も手をあげなかったらじっちゃんが無理矢理誰かを選ばなくちゃいけなかった。そうなったら空気悪いしさ。そしたらあんたがさっさと行きたいって言ったから、あたしも勢いがついたっていうか……。うまく説明できないけど、とにかく感謝してるし、見直したよ。根性あるんだなって」
 正確には根性ではなく好奇心。退屈を払拭したいという、どちらかといえば不純な動機からこの旅路に臨んだのだが、それをあえて言う必要はないだろう。
 ミヤヒはシワス砦で得た、数少ない関わりのある人物であり、この先の旅程を数日間共にする相手には、できるだけ上機嫌でいてもらったほうが安心できる。
 「だけど、あの王子様の態度、どこまで本気なんだろうね」
 ミヤヒは王子の背中に軽く顎をしゃくって見せる。
 「優しそうな人、ですね」
 本来抱いた感想より、かなり柔らかい表現の言葉を選んだ。
 「そうだよな。貴族を見たのは両の指で数えられるくらいだけど、それでもみんな無愛想か横柄な態度だった。あの王子様の腰の低い態度を初めて見たとき、てっきりからかわれてるのかと思ったけど、見てるとお付きの輝士達にも同じように接してたし、ああいう性格なのかな」
 ミヤヒは腑に落ちないものがあるのだろう。首を横に傾げていた。
 「アベンチュリンは女王の治める国なんですよね? ということは、あの王子は女王の息子、か」
 「んー、いや、どうだったかな……」
 ミヤヒは答えに窮した。
 「弟君だ。別腹のな」
 いつから聞いていたのか、少し前を走っていたヒノカジがミヤヒに代わって答えた。
 「弟、ですか」
 「なにか気になるのか」
 ヒノカジは渋い表情でシュオウに聞いた。
 「いや、ただ次のこの国の王様があのシュウ王子になるのかと、そう思っただけです」
 まったく大きなお世話だろうが、物腰柔らかなシュウ王子に、一国を背負うことなどできるのだろうか、とふと心配になったのだ。
 「それはないだろう。先王が無くなった際に、王子は早々に継承権を放棄し、それをムラクモも認めたと聞いた事がある。そのせいかは知らんが、女王は唯一の肉親である弟君を可愛がっているようだという噂はよく聞いた」
 間髪入れず、ミヤヒが声を弾ませた。
 「そんな可愛い弟を直接迎えに寄越したってことは、歓迎してくれるって話も本当かもね。温泉もあるって言ってたし、ちょっと楽しみになってきたよ」
 無邪気に妄想を膨らませる孫娘とは対照的に、祖父であるヒノカジの声は重かった。
 「どうだかな。あんまり期待はせんほうがいいだろう」
 たまらず、シュオウは聞いた。
 「なにかあるんですか?」
 「王都までの途中、交易所のある町に寄ると言っとった。まあ、そこに行けば透けて見えてくる事もあるかもしれん」
 丁度そのとき、前を走る輝士の一人が手を挙げて口笛を吹いた。
 「どうやら急ぎたいらしいな。ついていかにゃならん。できるかぎり飛ばすぞッ、やぁッ!」
 ヒノカジは言い残し、一気に加速を強めた。
 「こっちも飛ばすよ。もっとしっかりつかまってな」
 遠慮がちに捕まっていたミヤヒの腹に、シュオウは思い切りしがみついた。両腕を簡単にまわせるほど細い腰の感触を、慣れない馬上で喜んでいられるような余裕はないが、日頃口調の乱暴なミヤヒもたしかに女なのだと実感する。
 冬の空気を切りながらの疾走で耳は千切れそうなほど冷たくなっていたが、心なしか、シワス砦に居たときよりも空気は暖かくなっているような気もする。
 わずかな距離しか進んでいないはずなのに、そこはたしかに異国の地であった。


















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 ●あとがきのようなもの


 皆様、おひさしぶりです。ここまで読んでいただいてありがとうございました。
 前回の更新からかなり間が空いてしまって申し訳ありませんでした。

 今回からスタートする従士編では、前回の無名編冒頭で師匠に拾われた主人公が、いったいどんな事を教わったのか。そして、単身で人の社会に入り込んでしまった主人公が、これからどのようにしてそこで生きていくのか、という指針のような物をお見せしたいと思います。特異な環境で狂鬼という怪物を相手にしたお話が、前回のメインでしたが、今回は徹頭徹尾人の世界でのお話となっております。
 今回は地味で重ためな展開が続きます。ヒロイン成分がからっきしだったりで、これでいいのかと悩みましたが、結局思った通りに書くことにしました。

 従士編は完結まで、今回を含めて全体で3~4回くらいの更新を予定しています。できるだけ完結まで間が大きく開かないように頑張りたいと思ってます。
 それと、今回から縦書き用ソフトを使った環境で書いてます。これまでのようなセリフと地の文の間に改行をあえて入れませんでした。その点でちょっと読みにくいと感じる方が多いのではないかと心配してます。

 それでは、また次回。



[25115] 『ラピスの心臓 従士編 第二話 アベンチュリンの驕慢な女王』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:80ba2569
Date: 2014/05/13 20:32
   Ⅱ アベンチュリンの驕慢な女王


 
 曇り空がほんのりと赤く染る夕暮れを迎えた頃。一行はシワス砦とアベンチュリン王都の中間に位置する小さな宿場町に到着していた。
 アベンチュリンの人々が暮らす土地は、起伏の小さな山並みが西から東に向かって長く連なった場所にある。春から秋にかけて暖かくてほどよく湿った空気が南から運ばれ、比較的なだらかな地形を活かせる事もあり、昔から農耕が盛んに行われていた。
 国土のほとんどが寒地で、高地に生活圏を持つムラクモとは、米や野菜、果物等の収穫量が比較にならないほど豊かな国でもある。

 ゆるい傾斜が続く地系を削ることなく、ほとんどそのままに利用した町並みは壮観だった。低いところから高い所へ、連なるように木造藁葺き屋根の建物が建ち並び、その間を縫うように水田や畑が多く目に止まる。
 しかし、地系を含めた町全体の景色は目に新鮮だが、町中の空気は閑散としていて、とぼとぼと歩く人々もどこか虚ろに視線を落とし、頬が暗く痩けているのが気になった。

 シュウ王子らは、この街へ入る前に長い袖を引っぱって手の甲の輝石を隠し、庶民的な粗末なフード付きの外套を目深に被った。その様子を奇妙に思っていると、高貴な身分である事を悟られないようにとの配慮なのだろう、とヒノカジが言った。

 「お二人は我が国への来訪は初めてとか。よろしければ町の中を見て回られてはいかがですか。もう少し上まで昇れば工芸品や土産物を商っている店もあったはずです」
 物珍しげにキョロキョロと視線を動かしていたシュオウとミヤヒに、シュウ王子はそう提案した。
 「あたしは行ってみたい。どうせ使う機会のなかった給料も貯まってるし」
 そう言ったミヤヒに、シュオウもついて行くことに同意した。
 珍しい物を見られるかもしれないし、頻繁に贈り物をくれるアイセやシトリに対するお礼の品を探すのにも丁度良い機会だと思ったのだ。
 町の入口近くにある歴史のありそうな宿で荷を下ろし、腰を叩きながら宿で待つと言ったヒノカジを置いて、シュオウとミヤヒはさらに上を目指した。

 砂利っぽい土を踏みしめながら歩く。途中、何度も畑を通り過ぎた。
 土の畑には冬でも生育可能なイモ類や葉物の野菜がぽつぽつと植えられていた。だが、季節のせいなのか、どれも生育状況は貧弱としかいいようがなかった。

 町の坂は見た目にはなだらかでも、入口から奥までの距離を歩いていると結構な高さまで来ている事になる。シュオウにとっては軽い散歩程度の運動でも、ミヤヒは少し息をあがらせていた。
 「なあ、さっきから、ちょっと、変じゃないか?」
 呼吸を乱しながらミヤヒはシュオウに聞いた。
 「なにがですか?」
 「なんかさ、たまに町の人達からジロジロ見られてるような気がするんだけど」

 言われて理由に思い当たる。見られているのはミヤヒではなく自分であると。
 アベンチュリンの民は、ムラクモの平民と同じく黒髪が多く、他にも濃い茶系色の髪に掘りの浅い顔立ちという特長もある。夜の雪のようにくすんだシュオウの灰色の髪はどうしても浮いてしまうのだ。
 ムラクモ王都で、またシワス砦でもそうであったように、周囲と大きく異なる容姿から常に人々の関心を集めていたせいで、すっかりそうした視線にも慣れてしまっていたのかもしれない。

 「気のせいですよ」
 理由を話して暗い気分を共有したくはないシュオウは軽く流して返答した。
 「そうかな……なんか刺々しい視線を浴びてる気がするんだけど」
 ミヤヒは納得がいかない様子で、何度も首をひねっていた。

 しばらく歩いていると、唐突に街並みの雰囲気が変わる。
 民家や田畑がなくなり、職人達の工房が目立つようになってきた。
 細長く伸ばした麺のような狭い路地がいくつか並んで見える。中央の一番広い通りには、派手な模様のついた提灯が並んでいて、そこには露店が所狭しと並んでいる一角があった。シュウ王子の言っていた場所はここに間違いないだろう。

 「あったあった。はやく見にいこうよ!」
 ここまで辛そうに歩いてきたばかりだというのに、表情も晴れやかにミヤヒは一人で露店まで足早に向かった。
 路地に入ると外から見た印象より、まるで活気を感じなかった。
 隙間なく店舗が並んでいるが、半分以上は木板で塞がれて休業状態。開いている店や露店も、並んでいる商品が少なく、店主の姿がない所も散見される。
 一人先を行っていたミヤヒは、布地や服を置いている露店の前でしゃがんでいた。

 「良い物がありましたか」
 「あんまり、だね。縫い目は綺麗だけど、生地は品質がいまいち……」

 ミヤヒの横顔は真剣そのものだった。剣を握っていた時とは別種の迫力がにじみ出ている。
 シュオウも店先でしゃがみ、カゴに折りたたんで置かれている服や寝巻きを手にとってみた。細かい品質などわかるはずもないが、どの商品も庶民的な物ばかりで、華やかな容姿をした貴族の令嬢達に、とても喜んでもらえるとは思えなかった。
 手に取った薄紅色のツナギを眺めながら唸っていると、いつのまにか隣にいるミヤヒがじっとこちらを見つめていた。

 「ひょっとして、例の貴族達へのお返し物とか考えてる?」
 そう言われて驚いた。
 「どうして――」
 シュオウが真顔で聞こうとすると、ミヤヒは腹を抱えて吹き出した。
 「そりゃ、真剣な顔で女物の服ばかり見てりゃ誰でもわかるって」
 「……そうか」

 行動を見透かされていた事への羞恥心から顔を逸らすと、急に真剣な声になったミヤヒが尋ねてきた。
 「なあ、ずっと聞こうか迷ってたんだけど、あのしょっちゅう届いてた荷の送り主達とはどういう関係なんだ? もし答えにくいことだったらいいんだけどさ」
 彼女達との想い出は大切なものだ。しかし、かといって隠すようなことでもない。聞かれた以上は正直に答えるべきだし、そうしたからといって失うものも何もない。
 「ムラクモの貴族が通う学校……名前は忘れたけど、そこの試験があるのを知ってますか」
 「知ってる! 宝玉院だっけ。あたしらの中には貴族を嫌ってる連中も多いけど、あの無茶な試験をやらなくちゃ一人前扱いされないってのには同情的なんだ。大昔の古い白道を長期間歩かせるなんてさ。あれで毎年子を亡くす親も多いみたいだし、ちょっと気の毒だよな……でも、待てよ、ということはあんたあれに参加したの?」

 シュオウは頷いて、深界を旅した事、仲間達との出会い等について大雑把に説明した。
 店を離れ、他の様々な品を置いている露店を見て回りながら話を続ける。興味津々といった様子で聞いていたミヤヒは何度も頷いていた。
 雑貨を置いている店先で二人でかがんで品物を眺めていると、ミヤヒは感心したように呟いた。

 「そっか。貴族と一緒に旅をして、仲良くなるなんてこともあるんだな」
 「そうみたいです」

 親しくなれるまでに相応の苦労はあったが、その甲斐はあったと思う。
 気心のしれた仲間と食べた食事は美味しかったし、慕ってくれる異性と歩いて心が浮くような心地も経験した。自分を拾ってくれた師以外との新たな人間関係こそが、シュオウが独り立ちをして得た最も大切な物となっている。

 「でも、そんな理由があるなら最初からどんどんまわりに言っておけばよかったんだよ。みんなあんたの経歴を勝手に想像して、貴族のお嬢様に手を出して、そのせいで飛ばされてきたんじゃないか、なんて適当なこと言って、巻き込まれるのは嫌だって近寄りがたい空気作ってたしさ」
 「そんな話が――」

 シワス砦では、すれ違うほとんどの従士達がシュオウから目をそらした。それが自身の容姿のせいではと思っていたが、それだけが理由ではなかったようだ。
 もしも、最初からすべてを話していれば。もっと普通に接する事も出来たのだろうか。

 「みんな怖かったんだろうな、あんたが」
 「俺が?」

 恐怖心を抱かれるような事をした覚えは何もなかった。むしろ、シュオウは集団の中に後から入った新参者であり、普通どちらかといえば怯えるべき立場にいるのは自分のほうだ。

 「連中、体つきはしっかりしてるくせに臆病者揃いだからな。それに、あんたについて知ってる奴が誰もいなかっただろ。知らない、わからないって事はすごく怖いんだ」

 その言葉の意味を考え、反芻していると、ミヤヒはおもむろに店先に並んだ品物を一つ手に取り、シュオウに向けて突き出した。
 瞬間、息をのむ。
 ――短剣?
 かろうじて目で捉えたその姿を確認した時には遅すぎた。完全に油断していたせいで躱す余裕もなく、しゃがんでいたせいもあって足は固まり、咄嗟の回避行動も取ることができない。
 ミヤヒの突き出した短剣の切っ先は、シュオウの胸の中心を抉るように狙っている。剣術の腕があるだけあって、その所作に淀みがない。
 短剣の刃が胸に突き刺さる瞬間、肉を抉る刃の感覚が記憶の奥から引きずり出された。
 位置は心臓の真上。的確に急所を狙った一撃に致命傷を覚悟する。が、見た目には刃は確かに体に食い込んだはずなのに、いっこうに痛みはやってこない。
 緊張状態のまま、シュオウが尻餅をつくと、ミヤヒは短剣を見せて刃を指で押し込んだ。すると、刃の部分はするすると柄の中に収納されていく。

 「おもちゃだよ」
 ミヤヒは悪戯を成功させた子供のように無邪気に笑った。
 「……心臓に悪いですよ」
 額に溜まった汗を拭いながら、シュオウは抗議した。

 「悪かった。だけどわかっただろ? これがおもちゃだって知らないと、本物の短剣に刺されるみたいでおっかないけど、偽物だと知っていれば、実際に突き刺されてもちっとも怖くない。あたしは、人と人の関係もこれと同じだと思うけどね」

 ミヤヒが手にしているおもちゃの短剣を改めて見ると、刃先は鈍く、素材もおそまつだ。最初からよく見ておけばそれが偽物であるとすぐに気づいただろうが、不意をつかれれば真贋をたしかめるだけの余裕はない。
 ミヤヒが差し出した手を掴み、立ち上がる。

 「知らないから怖い。だけど、最初からわかっていれば怖くない……そういうことですか」
 シュオウは尻についたホコリを払いながら、ミヤヒの言った言葉を簡潔に言い直した。
 「まあね。現実にはもっと色々とめんどうがつきまとうけど。とりあえず、相手の事を何も知らないと怖いし、勝手な想像もする。場合によっては自分の身を守るために敵ってことにしちゃう場合もある。だから相手を知ろうとする努力も大切だけど、相手に自分を知ってもらう努力ってのも大事なんじゃない」

 これは、人生を自分より長く生きている相手からのささやかな助言なのだろう。
 考えてみれば、わけもわからずシワス砦に配属されてから、周囲に対して壁を作ってきたのは自分だったのかもしれない。積極的に誰かに話しかけるという選択肢を排除し、仕事がもらえないことを心の中で愚痴りながら、ひたすら一人きりの時間を基礎訓練に費やしてきた。

 砦の従士達の態度には辟易していたが、それでも自分から説明する場を設けるなりしていれば聞いてくれる耳くらいはあっただろう。
 考えるたび、思い出すたびに、いくつもの後悔が浮かんでは消えていく。
 遅すぎるということはないはずだ。シワス砦に戻れば、きっとまだやり直す機会はいくらでもある。

 「ありがとうございます」
 シュオウはミヤヒに向け、小さく頭を垂れた。
 「うんうん、せいぜい先輩の言葉をありがたく受け取りなさいよ」
 ミヤヒは大袈裟に戯けて見せた。照れているのかもしれない。

 陽は徐々に落ち、辺りは暗くなりはじめていた。
 いくつかの提灯に火が入れられ、情緒のある赤い光が周囲を照らす。
 宵の訪れを知らせる鳥の鳴き声が聞こえた。

 「そろそろ戻ろうか?」
 「先に戻っていてください。もう少し何か探してから追いかけます」
 「それって貴族のお嬢達のための物だろ? だったら選ぶの手伝うよ」

 ミヤヒの申し出はありがたかった。なにせ、女性に贈って喜ばれそうなものを選ぶのに頭を悩ませていたからだ。
 しばらく商店路地をうろうろと見てまわっていたミヤヒは、装身具を扱った店に目をつけた。

 「お金に余裕があるならだけど、このへんが無難じゃない。他の店の物はどれもぱっとしないし」
 ミヤヒが返事を待たずにするすると店に入って行ってしまったので、シュオウもそれに続く。
 立ち寄った店内には、この辺りには不釣り合いな見栄えの良い首飾りや耳飾りが多く置かれていた。さすがに高価な品を置いているためか、シュオウ達が店に入ると、すぐに店主が奥から現れた。

 「いらっしゃい」
 「見せてもらってもいいですか」
 聞くと、細身の店主は快く了承してくれた。

 ミヤヒは煌びやかな装身具の数々に目を奪われているようで、一人感嘆の声を漏らしている。
 「すごい。こんなに綺麗な飾り物、ムラクモでもそうそう見られないよ」
 ミヤヒの言葉に店主は気を良くしたようだった。
 「そう言ってもらえると作った甲斐があるよ」
 「言ったら悪いけど、こんなとこでこれだけのものを売ってて儲かるの?」
 店主は苦笑いを浮かべた。

 「一つも売れとらんさ。ここに並べてる物は例年なら北方の交易都市に卸すんだが、今回はちょっと理由があって輸送隊の出発が遅れていてね。こっちも予定外だったから、しかたなくこうして並べてはいるんだが、まあわざわざこんな田舎町まで買い付けにくるような商人はみな食い物が目当てだ。こうした贅沢品を買っていってはくれないからね。そのうえ季節がこれだろ――」

 店主は勢いがついてしまったらしく、ミヤヒにあれやこれやと愚痴をこぼし始めた。
 その隙に、シュオウは目的の通り、お礼のための品を物色する。
 一通り視線を滑らせて目についたのは小さな青い宝石で飾られた首飾りと、透明な緑色の宝石を冠した指輪だった。
 青いほうはシトリ、緑のほうはアイセの持つ輝石の色を連想させる。両者がこの宝飾品を身につけている姿を想像してみると、これが不思議なほどにしっくりと当てはまった。

 「なになに、どれにするか決めたのか?」
 ミヤヒはシュオウの手元を覗き込んだ。
 「この二つにします。なんとなく気に入ってくれそうな気がするので」
 「へえ、趣味は悪くないとおもうけど……でもやめといたほうがいいんじゃない?」

 ミヤヒはなぜか、シュオウの手元で光る二つの装身具を見つめ、顔をしかめた。
 「どうして?」
 「だってさ、一つは指輪でもう一つは首飾りだろ? 貰った側が自分達の物を見比べたら、差をつけられたって気分を悪くするかもよ」
 そうなのだろうか。シュオウの抱いた感想は、どちらもそれぞれに魅力があるように思う。
 結局、ミヤヒの忠告を吟味したうえで、シュオウは自分の考えを通すことに決めた。

 「大丈夫ですよ、たぶん――この二つをください」
 シュオウの差し出した二つの品を受け取った店主の表情が、一瞬で綻ぶ。
 「買ってくれるのかい? 本当に? いやぁ助かるよ、実入りがほとんどなくて困ってたところなんだ。二つでこのくらいになっちゃうけど大丈夫かい?」
 店主は揉み手でもしそうな勢いで手で数字を表した。
 けっこうな値段だが、シュオウの懐には試験で得た報酬がある。いつか旅に出た際の資金にとっておきたい金ではあるが、良くしてくれる相手へのお礼のためなら、このくらいの出費は致し方ないだろう。

 「これで払えますか」
 懐から取り出した、ずっしりと重い金貨を一枚手渡した。
 「カトレイとは……いやいや、わからないものだね、こんなとこで上客に縁があるなんて。ちょっと失礼するよ」
 店主はことわってから金貨の真贋をたしかめる。すぐに納得のいく結果が得られたらしく、上機嫌でカトレイ金貨を懐にしまい込んだ。

 店主が釣りを用意している間、ミヤヒは外で待っていると言い残して店を後にした。
 「お客さん。買ってもらったお礼っていうのも変だけど、一つだけ忠告したいことがあるんだがね」
 はい、とシュオウは頷いた。
 「いやね、別段言うようなことでもないかもしれないんだが、あんた達ムラクモの軍人さんだろ? さっきちらっと服が見えたんだ」
 ミヤヒもシュオウも厚手の外套を羽織っているため目立たないが、下には薄茶色の従士服を着ていた。
 「そうです。シワス砦の」

 「やっぱりそうかい。実はね、この辺りじゃ最近の強行な税の取り立てで満足に食べられないような家が増えてるんだよ。役人どもはムラクモが食料の要求量を増やしたせいだなんて嘯いてるけどね、本当のところは女王の度をこした贅沢のせいで、国庫がひっぱくしてるのが現状らしい。だってのにその責任を全部ムラクモにおっかぶせて国民に伝えるもんだから、生活に余裕のない農家の連中はムラクモを一方的に逆恨みしてるんだよ。私らみたいな外との繋がりがある商売人ならある程度の事情は透けてるからわかるんだけどね。そうじゃない連中は自分で考えようとせず、てっとりばやく敵を決めつけたがる。その相手は自国の女王より、直接普段関わりがないムラクモにしておいたほうが楽なんだろう。まあ、だからって連中があんた達になにかするとは思えないんだが、それでも一応気をつけておいたほうがいいよ」

 シュオウは釣りと品物を受け取り、礼を言って店を後にした。
 ミヤヒと合流して、すっかり暗くなってしまった夜道を歩く最中も、店主の忠告について考えていた。
 贅沢のために税の取り立てを厳しくする女王は、民の不満の矛先をムラクモに向くように操作している。そのため彼らの怒りと不満はムラクモ、ないしはその国民に向けられている。こうなると、ミヤヒの言っていた視線の正体は、シュオウに向けられていたものではなく、時折見えるムラクモの従士服に向けられていたのかもしれない。

 事情を知ったせいか、周囲への警戒を強めるほどに、どこかから見られているような視線を感じる。
 薄明かりを漏らす民家の隙間から。あるいは真っ暗な物陰から。出所ははっきりとしないが、じっとりと湿った感覚に、後ろ髪を引っぱられているような錯覚を感じた。
 気のせいであればいいと思うが、念のため、警戒を強めておいたほうがいいのだろう。


 到着した宿は、シュオウ達以外に誰一人として客のいない、お化け屋敷のような雰囲気を漂わせていた。
 収穫期になると、商いのために訪れる人々で賑わうらしいのだが、冬のちょうど今頃はそうした客も少なく、宿を経営している老夫婦がひっそりと生活するための住まいとして利用しているだけなのだという。

 引き戸を開けて入った広い玄関には、小さな提灯が一つ置いてある。それが真っ暗な建物の中を僅かに照らしていた。一人きりで歩くことを考えると少々不気味かもしれない。
 薄暗く長い廊下は、どこからともなく外の空気が流れてくる。冷たい風が時折首の後ろを撫でるので、落ち着かない心地に一層拍車をかけた。

 出迎えた老婆に案内されて、それぞれ部屋に通される。
 ミヤヒはヒノカジと同じ部屋で、シュオウはその隣の一人部屋を用意されていた。場所は階段を上がってすぐの所だ。
 シュウ王子には一階の最も上等な部屋が用意され、護衛の輝士達はその部屋の左右に陣取っているのだという。
 ヒノカジは一足先に温泉につかり、ぽかぽかと湯気を漂わせながら夕涼みをしていた。

 極ささやかな夕食をいただいた後、シュオウは一人で温泉へ向かった。
 宿の敷地内の離れにある湯殿は、そこだけ上質な木材が使用され、丁寧な造りになっている。僅かに周囲を照らす提灯の赤い明かりが、情緒ある良い雰囲気を漂わせていた。

 脱衣所で服を脱ぎ、石壁で囲まれた温泉の引き戸を開けると、中から漂ってきた柑橘系の果物の香りが鼻孔をくすぐった。一つ呼吸をするたび、温かい湯気が鼻を通り、爽快な果物の臭気が肺を満たしていく。
 髪と体を大雑把に洗って湯船に入る。熱い湯に体をひたすこと自体ひさしぶりの事だったが、それ以上に足を思い切り伸ばせるような風呂に入るのは初めてのことで、未体験の心地に身も心も癒された。きめ細かい布地でくるまれた果物の皮をぎゅっと絞り、香りを際立たせる事も忘れない。

 ほっと一息つく間もなく、湯殿の入口のほうから人の気配を感じた。聞こえてくる音から察するに服を脱いでいるようだ。
 ミヤヒかもしれない。そう考え、急いで眼帯を装着し、下半身に手を伸ばして股の間を隠す。
 風呂に入ってきた人物を見て、シュオウはガッカリしたのと同時に驚いた。

 「王子、さま?」
 素っ裸で前を隠しながら入ってきたシュウ王子。その後ろから衣服を纏い帯剣したままの女輝士まで入ってきた。
 「お邪魔でなければご一緒させてください」
 「それは、いいんですけど……」

 シュオウが女輝士へちらちら視線をやると、シュウ王子は微笑み、なんでもないことのように言った。
 「彼女の事はお気になさらず。私に張り付いているのが仕事なんですよ」
 そう軽く言ってせっせと体を洗い始めた。
 護衛の女輝士は入口の前に立ち、真っ直ぐ空中を見つめている。真冬の格好のままなので額には汗が浮かんでいた。手は剣を押さえるように置かれ、いつでも抜くことができるよう臨戦態勢を維持している。

 「あの砦には、勤めて長いのですか?」
 たわしで体をこすりながら話すシュウ王子の声が、背中ごしに聞こえる。
 「まだ配属されたばかりです。軍にも入ったばかりで」
 「なるほど、それで」
 シュウ王子はじっくりと噛みしめるように言った。

 「どういう意味ですか?」
 互いに顔を合わさずに、シュオウは背中ごしにシュウ王子に聞いた。
 「失礼かもしれませんが、あの砦であなたを見かけた時から、浮いて見えたというか、まわりの方達とは何か違うな、と思ったものですから。ああ、もちろん見た目のことを言っているのではありませんが」

 体を洗い終えたシュウ王子は、綺麗に編み込んだ髪は洗わず、シュオウに向かい合うような形で湯船につかった。体を落とすたび、湯がもわもわと煙をたてながらこぼれていく。
 人心地が付いてから、シュウ王子はゆっくりと溢れるように息を吐き出し、話を再開した。

 「いかがですか、私たちの国は」
 「……えっと」

 答え辛い質問だ。というのも、現在地であるこの町を見た限りで、特別褒めるような部分はないと思っているからだ。気の利いた人間ならここで王子様を相手に世辞の一つも言うのだろうが、今の自分にそんな器用さは期待できない。

 「ここで生活している人達からは活気を感じません。町全体にも元気がないような気がします。ムラクモと比べて、ですけど」
 シュオウは真っ直ぐシュウ王子を見つめて言った。
 「いやあ、アハハ……正直な方ですね」
 シュウ王子は乾いた声で笑った。

 「すいません。言葉を選ぶ事に慣れていないので」
 「いえ、いいんですよ。私の場合、あけすけに接していただいたほうが気が休まりますから」
 自国に対する低い評価を聞かされても、シュウ王子は朗らかに笑んでいた。人の良い人物を演じているのではないか。そうした疑念が一瞬湧きもしたが、目に笑い皺を刻んだ人の良さそうな顔を見ていると、この人は心底こういう性格なのかもしれない、と思った。

 「あなたは本当に変わった方ですね」
 唐突にシュウ王子が放った言葉に、シュオウはどきりとした。
 「あまりいないんですよ、私を真っ直ぐ見る人というのは」
 「そうなんですか」

 「弱小国のとはいえ、これでも一国の王子ですからね。私と対する相手にはそれがどうしても頭にこびりついてしまうようで、酷い時には地面に伏してしまわれたり……。ご同行いただいている他のお二人も、あまり態度には出しませんが、私とは一度も目を合わせてくれません。それなのに、あなたは初めて見た時から真っ直ぐこちらに視線を向けてくる。それは私にとってとても好ましい事で、同時に驚いてもいます」

 それは、シュウ王子の本音のように聞こえた。
 王族の心の内など知った事ではないし、細かい感情の機微などを察して慰めの言葉を用意してやれるような話術も持ち合わせてはいない。ただ、目の前の人物が、王族としてではなく、ただの年の近い男同士として話したがっている、という事だけは朧気に理解した。
 シュウ王子の毒気のない顔を見ているうち、のぼせる寸前くらいまでは付き合ってもいいかもしれない、と思い始めていた。

 「他人の目をじっと見つめるという行為には、敵対感情を持っている事を示す場合もありますから」
 「では、あなたも私になんらかの敵意を持っていらっしゃる?」
 「そういうわけじゃ」
 揚げ足をとるような物言いに僅かな苛立ちを覚える。
 シュオウは迷うことなく不快感を顔に出した。

 「あ、いや、怒らせるつもりではありませんでした。いけませんね、私の悪い癖なんです。生い立ちが原因で、ついつい出会う相手が敵か味方かを知りたくなってしまう」
 シュオウは小さく溜息を吐いた。
 「ほとんど初対面の相手に好きも嫌いもないです。俺はただ……」
 ――ただ、なんだろう。
 言葉は意味を失い、途切れてしまう。

 シュオウは、一般的な人々と比べても物怖じしない性格をしている。一国の王族を前にしても怯えや恐れを抱くような事もなく、淡々と接することが出来る。
 輝石に色のついた者達を、そうではない平凡な人々は恐れるが、自分はそうではない。あるのはただ未知の事象への好奇心だけだ。
 彩石を有する貴族達は、特別な力で他者を害することが出来るのだろうが、シュオウにすればそれよりも遙かに恐ろしいのは自分を鍛えた師や、一撃で生物を屠る事ができる狂鬼であり、どこからともなく現れる水の塊や風の刃ではない。

 言い淀むシュオウを前に、シュウ王子は続きを促すことはしなかった。
 「あなたはどうしてムラクモの軍隊に入ったのですか? 子供の頃からの夢だった、とか」
 「自然の流れです。どうしてこうなったのか、自分でもよくわかってませんから。たぶん、ただなんとなく流されてここまで来てしまっただけなんだと思います」

 「では、私と同じようなものですね」
 シュウ王子はそう言って、自嘲するように口元を歪める。
 「王子でいることが?」
 その問いに、彼は苦笑しつつ首肯した。
 「〈開拓士〉という仕事をご存知ですか?」
 シュオウは首を横に振る。

 「深界を切り開き、白道を敷いて道を造り、未開の高地や山へ続く新たな世界を開拓する仕事をする者の事です。それこそが私の子供の頃からの夢、なんですよ」
 「なら、今からでもそれをすればいい」
 相手は王族だ。シュオウの持つ個人的な印象では、他の人々よりも自由に生きることができる力を持っているように思う。
 しかし、シュウ王子は黄昏るように遠くを見つめて否定した。

 「私にそんな自由も権限もありません。深界は脆弱な生き物を拒みます。次代への子孫を残すという義務が私にかせられている以上、そうした危険な仕事への従事は許されません。それに、開拓業は膨大な資金が必要になる。姉上の贅沢ですきま風が吹く我が国の国庫では、とてもそんな贅沢は許されないのです」

 湯煙で霞む湯殿の入口から、女輝士の咳払いが聞こえた。
 「おっと……今言った最後の部分はお忘れください」
 シュウ王子はおどけて肩をすくめた。

 「でも、そんなに金がかかるうえに命の危険まであるのに、開拓士なんて仕事は成り立つんですか。そんなことを進んでやりたがる人間がいるとは思えない」
 小さな疑問をぶつけると、シュウ王子はこぼれんばかりの笑顔で対応する。

 「そこが、この仕事の面白いところです。遙か彼方の大昔、人類は灰色の森に追いやられるように山や高地へ逃げていきました。その後、森に閉ざされた人々は孤立し、独自の文化を育み、あるいは守ってきた。今では当然のように白道で各所を繋いで交流する事ができるようになりましたが、それでも世界のほんの極一部にすぎません。開拓士達は未開の土地を探し、未だに孤立したままの人類文明を探しているのです。そこから発見される文化、食料、武器、道具等、どこから金の卵が見つかるかわかりませんからね。一種、博打のようなものですが、夢があります」

 夢中になって手振り身振りで話をするシュウ王子の表情は、幼い子供のように輝いていた。気づけば、つられるようにシュオウの表情もゆるんでいる。
 「面白そうですね」
 「そうでしょう! 通常開拓士達はギルドに所属していて、国や富豪からの出資を受け、開拓業に勤しみます。大きな発見があれば権利は出資者のものとなりますが、それに見合うだけの莫大な報酬が受け取れるのですよ。アベンチュリンも、ムラクモに降伏する前の時代には開拓ギルドの出資者になり、効率の良い紙の製法や高地に強い野菜の種などを発見したこともあるのです。今となっては夢物語ですが、ね――」

 それからも、シュウ王子の夢の話は続いた。
 どれほど話し込んでいたのか、気がつけばシュウ王子の顔は熱した石のように赤くのぼせ上がっていた。
 「殿下、そのくらいにしてください。これ以上はお体にさわります」
 女輝士が厚手の手ぬぐいを差し出しながら言った。
 「残念ですが、ここまでのようですね。お話できて楽しかったです」

 ほとんど話していたのはシュウ王子で、自分は聞くばかりだった気がするが、シュオウも当たり障りのない言葉で返し、真っ赤に茹であがったシュウ王子を見送った。
 二人が出て行ったのを確認して、シュオウも湯船から上がる。シュウ王子のように湯だってはいなかったが、随分と長く湯につかっていたせいで、手の指は皺くちゃになっていた。

 通気口から外に視線をやると、蝋燭の頼りない灯りに誘われた一匹の蛾が、たゆたゆと頼りなげな羽で空中を泳いでいるのが見えた。
 曇り空の夜は漆黒に塗られ、遠くから聞こえる雷の音が、不穏に外の空気を揺らしていた。


 湯殿を出て、部屋へ戻る途中にミヤヒとすれ違った。
 「温泉、どうだった?」
 手ぬぐいを持って、長い髪を留め、うなじを見せるミヤヒの姿が妙に艶っぽい。
 「気持ちよかったです。綺麗だったし」
 シュオウはミヤヒの色香を含んだ女性らしい姿に、一瞬動揺した気持ちを隠すように、声を硬くして答えた。
 「へえ、風呂は悪くないんだ。たのしみたのしみ」
 ミヤヒは、ほっこりとした笑顔で手を振った。が、去りかけにシュオウを呼び止める。
 「そうだ、さっきじっちゃんが、あんたを見かけたら自分とこに呼べって言ってたよ」
 「ヒノカジ従曹が?」


 廊下を駆け足で歩き、シュオウは二階のヒノカジとミヤヒの部屋まで向かった。
 古い引き戸の前まで来ると、隙間からわずかに灯りが漏れているのが見える。
 コンコン、と軽く戸を叩くと、中から声がかかった。
 「あいとる」

 部屋へ入ると、ヒノカジは宿が用意した寝巻きに袖を通し、自分の手で頭をささえながら横になっていた。
 「ミヤヒさんに聞いて――」
 「まあ座れ。茶を入れたところだ」
 ヒノカジは起き上がり、部屋の隅の食台の上に置いてあった急須を取り出した。床の上にあぐらをかいて座ったシュオウに湯飲みを差し出し、暖かいミドリ茶を注ぐ。シュオウは礼を言って、ほろ苦い茶を一口すすった。

 「あの、これを飲ませるために?」
 ヒノカジは口元を引き締めて否定した。
 「いんや。ミヤヒからお前の話を聞いてな。軍へ入ったきっかけは例の貴族の学生がやらされる試験だとか」
 その問いに頷いて見せる。
 「旅の資金のために」
 「無茶をする……だが、まあ、貴族の娘達との繋がりがあるのも、それで得心がいった。あの試験はそれなりの時間を貴族と平民が共に過ごす。それだけの経験をすれば、たしかに多少の顔なじみにはなるんだろうが。まあ、だからといって貴族の娘に惚れられるなんざ、聞いた事もない話だがな」

 ヒノカジは複雑な表情で苦笑いし、自分の湯飲みにも茶をそそいだ。
 「惚れられたというか……色々と偶然が重なって、少し仲良くなったというだけです」

 「そうだとしてもだ。そんなことはまずあることじゃない。人の世は手にくっついた石っころに色があるかどうかというだけで、空に浮かぶ雲と地べたを這いずるミミズくらいの差がある。それなのに、自尊心の塊のようなあの連中が平民の男なんぞ――」
 しだいに口調が荒くなっていくヒノカジを、シュオウがぽかんと見つめていると、彼は頭を強く左右に振った。

 「――いや、まあいい。そんなことより、一つ聞いておきたい事があった。小僧、お前はどうしてシワス砦に来た? 毎年の宝玉院の試験を終えて、特別な入口から軍へ入る者がいる事は知っとる。だが、お前さんを含めてそういった連中は余所者や大金目当て、その他の事情のある者がほとんどだ。ムラクモの国民なら、適当な体力測定の試験を受けるか、それなりに立場のある者からの紹介状があれば軍へ入る事自体はそれほど難しくはない。そうして軍に入った人間は、大抵の場合自分の出身地の近くにある拠点に配属される。俺達の働いているシワス砦の従士の大半は、そう遠くないところに実家があるからな。普通ではない手段で軍に入った人間は、危険な他国との国境付近の拠点なり、王都の警備隊やらに回される。わざわざ人で溢れとる辺境の拠点に送ったりはせん。シワス砦への配属を指示されたとき、なにか事情を聞かされなかったのか?」

 ヒノカジの疑問はもっともだと思った。シュオウ自身もどうして自分が件の砦に行かされたのか、ずっと不思議に思っていたのだ。
 「わかりません。軍に入る事を決めたと思ったら、突然シワス砦に行け、と指示されただけですから」
 ヒノカジはううんと唸る。

 「お前、なにかやったか?」
 「なにかって、なにをですか?」
 「それがわからんから聞いとるんだ」

 なにかをやったかと問われれば、色々とやったような気もするし、何もやっていないような気もする。思い当たるとすれば、灰色の森に巣くう恐ろしい人食い生物の狂鬼を適切に対処した、という事実はあるが、それが左遷されるように辺境の砦へ送られた理由としては結びつかなかった。
 自らが狂鬼を屠る技術を持ち合わせているということは、ヒノカジの問いかけである何かをやったのか、という部分に当てはまるのかもしれない。しかし、それを正直に答えるべきか否か。迷いが生じた。

 狂鬼という存在は、人間にとっては天敵にも等しい。通常の獣はよほど餓えているか、自身が優位である場合を除いて、人間を食料として見る傾向は薄いが、狂鬼は違う。雨に濡れる事で狂ったように餓えて暴れる謎の多いこの生物は、人間を食料として積極的に襲いかかるのだ。
 大勢の人間が集まって協力しても、狂鬼の退治は容易ではない。それを単身で狩る事ができるシュオウは、人の世の常識からは大きく逸脱している。
 実際に現場での狩りを見せることなく、ヒノカジに自分は一人で狂鬼を相手にできます、などと言ったところで、信じてもらえるとは思えなかった。

 「心当たりは、ありません」
 結局は、そう言うしかない。
 「そうか……」
 ヒノカジはまだ何かを考えている様子だったが、それでも同じ話題をこれ以上続けるつもりはないようで、残っていた湯飲みの茶を大きく音を立てながら飲み込んだ。

 「明日は女王との謁見がある。小僧、何か武器は持ってきとるか」
 ヒノカジにそう聞かれるが、意図までは理解できなかった。
 「これくらいしか」
 シュオウは腰に差していた〈針〉という武器を取り出して見せた。

 「なんだ? 短剣ではないようだし、先が尖ってるのか。なにか動物の骨で出来ているようだが」
 「針、という武器で、その……獣を狩るのに使います」
 針の本来の使用目的は狂鬼に対する際の一撃必殺を目的としている。鋭く尖ったこの武器を使い、狂鬼の持つ輝石の命に繋がる重要な部分〈命核〉を貫くための代物だ。

 「これで狩りをするのか?」
 ヒノカジは困惑した様子で針を睨みつけていた。無理もない。

 シュオウは自身の生い立ちについて、常識の範囲で理解してもらえる情報のみを伝えた。物心ついた頃にはムラクモ王都に独りぼっちだった事。そこで偶然出会った人に拾われて、ここまで育てられてきた事など。話し終えると、ヒノカジは、そういうことだったのか、と感心したように呟いた。

 「育ての親に教わった事か。それにしても、弓ならわかるが、こんな物で獣を狩ろうなんざ、随分と変わった人間に拾われたもんだな」
 「はい、本当に」

 シュオウは自身が言うのもおかしいと自覚しているが、あれほど風変わりな人間を他には知らない。人の世の理を無視して深界の中に定住し、狂鬼を狩る技を知り、なおかつ遙かな大昔から伝わっているという珍妙な戦闘術とやらの継承者でもある。弟子に殺さずに相手を制圧する技術を教えておきながら、アマネの職業は依頼を受け、人を殺して報酬を得る刺客のような真似をして生計を立てていたらしい。時折、ぽつぽつと昔の事を話す機会もあったが、生い立ちなどの核心に触れる部分については、ついに聞くこともなくアマネの元から離れてしまった。

 「聞くまでもなさそうだが、剣の類は持ち合わせてはいないようだな」
 シュオウは首肯した。
 ヒノカジはおもむろに立ち上がり、すみに置いてある荷物の中から、一本の剣を取り出した。背が盛り上がった独特な鞘の形から見てムラクモ刀のようだ。

 「これを貸しておく。若い頃から持ってる予備の刀だ。ろくに使ってこなかったから状態は良い。ちと刀身は短いがな」
 ヒノカジはムラクモ刀をシュオウに差し出した。
 「剣は使った事がないですから」
 差し出されたムラクモ刀を受け取らず、躊躇っていると、ヒノカジは強引にムラクモ刀を押しつけてきた。

 「んなことはわかっとる。剣を腰に差しておくのは、軍人としてのたしなみのようなものだ。謁見時に帯刀が許されるかわからんが、それでも一応外面を取り繕っておいても損はせん。それに、お前が持ってる針という得物だがな、否定するわけじゃないが、ああいった先の短い物しか持っていないと疑われるぞ、兇手ではないかとな。他国は知らんが、少なくともムラクモでは剣をそこそこ使えて一人前扱いされるんだ。軍にいて剣を使えない、ではまわりから尊敬も得られん」

 シュオウは受け取ったムラクモ刀を見つめ、沈黙した。自分を否定されたようで、意気が消沈していく。
 「本当に、ろくに使った事もないのか?」
 「まったく。本物のムラクモ刀を触ったのも、これが初めてです」
 笑われるか、呆れられるか。身構えていたシュオウに対して、ヒノカジは意外な事を提案した。

 「お前にその気があるのなら、シワス砦に戻ってから剣術を教えてやる。これでも昔は道場主もやっとった。教える事には慣れてるが、どうだ?」
 ヒノカジは言って顔を逸らした。落ち着かない様子で口の中でもごもごと舌を動かしている。
 俯いたシュオウの顔には微笑みが浮かんでいた。照れている様子のヒノカジがおかしかったというのもあったが、剣術指南の申し出が心底嬉しかったのだ。
 「お願いします。是非」
 シュオウは頭を下げた。
 そうか、と言ったヒノカジの声は、心なし弾んでいるような気がした。

 「話は変わるが、さっきミヤヒと町中へ出ただろう」
 シュオウは頷いた。
 「といっても、露店の出ている所までの一本道を歩いただけですけど」
 「……どうだった?」
 「空気が澱んでいる、と思いました。暮らしている人達の表情は暗いし、それに土産物を買ったときに店の人からこんな話を聞いて――」
 シュオウは装飾品店の店主から聞いた、アベンチュリンの現状と注意についてヒノカジに説明した。
 「やはり、か」
 ヒノカジの反応は予想の範囲内であったかのようだった。
 「知っていたんですか?」

 「砦を通る旅商人からちらほらとは聞いていた。女王の無理な課税が原因で、民が疲弊しているとな。随分昔にムラクモが許可を出して、アベンチュリン国民に自由な交易を認めて以来、毎年このくらいの時期には、アベンチュリンの平民らが自発的に発足させた隊商がシワス砦を通って北方の交易都市に向かう。それが今回は随分と遅れているとは思っていたが、お前から聞いた話も合わせると、もしかすると売り物がないのかもしれんな」

 話を聞いているうち、拭うことのできない違和感を覚えた。
 「そんな状況で、わざわざ他国の従士を招いた女王は何がしたいんでしょうか」
 「そうだな。今回の話はどうにも収まりが悪い」
 ヒノカジは腕を組んで唸る。

 「そういえば、シュウ王子も女王の金遣いについて少しだけ漏らしていました」
 シュオウがそう話すと、ヒノカジはギョッとして表情を強ばらせた。
 「王子と話したのか?」
 シュオウはさきほどの湯殿でのシュウ王子とした会話についておおまかに説明した。
 「開拓士に、な。あの王子がそんな事を……。貴族として生まれていれば、と考えたことのない平民はいないだろうが、彩石を持つ人間の中にも、似たような事を考える者はいるということか。この歳まで生きても、世の中にはわからんことがまだまだある」

 ヒノカジは感慨深そうに深く息を吐いた。
 ヒノカジの言ったこと、そして店主の警告とシュウ王子が漏らしていた話。それぞれを噛み砕いて思考していると、唐突に不安を覚える。
 このまま女王の元まで行くことが、正しい選択なのか。この国の現状が透けて見えるほどに、慰労のために他国の従士を招きたいという女王の言葉が、まるで重みを感じなくなってしまう。
 出発の前に不安気な表情をしていたヒノカジを思い出し、あのときの心境は今の自分と同じだったのではないか、と思った。

 「いいんですか? このままついて行っても」
 「わからん。ここまで来て今更帰りたいとも言えんし、それに俺達は上からの命令で動いている。それがどんなに馬鹿げた事だったとしても従わなければならない。それが軍で飯を食っている者としての限界だ。だが、まあ覚悟だけはしておくことだ」
 覚悟という言葉を聞いて体が強ばる。
 「なにかされるかもしれないんですか?」
 真剣に問うと、ヒノカジは声音を和らげた。

 「ん? なにを心配しとるか知らんが、捕まって殺されるような事を心配しているのなら、それは無用だ。向こうもそんなに馬鹿じゃねえ。ただ、連中は潜在的に支配者と隷属者という間柄になっているムラクモに不満を抱えているし、彩石を持つ者は濁石持ちの平民を根本的な部分で見下しとる。だからな、罵詈雑言や嫌味をしこたま浴びせられるくらいの事は覚悟しておいたほうが無難というもんだ。知っておけば、心の準備くらいはできるからな」

 諭されるように言われ、シュオウは頷いた。
 投げられるのが剣や槍ではなく、言葉だけですむのなら、一時を我慢すればそれですむ。そのくらいの事でこの旅を無事に終える事ができるのならそれでいい。慣れない人間を連れて深界の中を歩き、ろくに眠る事もできなかったあの時を思い出せば、体に受ける負担も遙かに少なくてすむ。

 ほかほかに温まったミヤヒが温泉から戻ってきたのきっかけに、シュオウは退室した。
 自室に戻ると、しんと冷えた空気が身を包む。
 風呂上がりに熱い飲み物を体に入れていたということもあって、寒いとは感じなかった。
 早々に寝巻きに着替えたシュオウは、そのまま薄い布団に入り、目を閉じた。
 手の中にあるずっしりと重たいムラクモ刀の感触に触れながら思うのは、これからの旅の無事と、戻ってからヒノカジに教えてもらえる事になった剣の扱い方についてだ。
 頭の中で色々な想像をめぐらせているうち、シュオウは間もなく、眠りへと誘われていった。


 明朝早くに寂れた町を出立し、馬を走らせて一行は太陽が真上に昇る頃にアベンチュリン王都に到着した。
 近隣でも一番大きな山の中腹まで広がるアベンチュリン王都は、山の形を削ることなく、傾斜の緩い斜面に沿うようにして街並みが広がっている。街の最上層には〈砂城〉と呼ばれる城があり、高い城壁と共に街を見下ろしていた。
 活気に溢れる人々や賑わう市場、行き交う人々の喧噪。おおよそ都というもに対するそうした印象は、脆くも崩れた。

 「ねえ……ここ本当に王都?」
 馬に乗ったまま坂を上る途中、ミヤヒが恐る恐るヒノカジに聞いた。
 「……俺が若い頃に見たときにはもう少し活気があったがな。これじゃ、まるで捨てられた街のようだ。昨日どこかに攻め落とされたと聞いても信じられる」

 街の中央から城へと続く大通り。その道を挟み込むようにしていくつも商店が建ち並んでいるが、ほとんどの店には商品もなく、無人だった。
 時折住人とすれ違うが、目に生気はなく、顔や腕を見る限り、相当に痩せ細っている。ふらふらと力なく歩いているその姿は、正気を失っているようでひたすら不気味だった。

 生ぬるい風が吹く。
 シワス砦では凍えるような寒さだったというのに、アベンチュリンは東へ行くほど空気が湿り暖かくなっていく。それでも十分に寒いのだが、このくらいであれば身一つでの野宿をするのに不安を感じないくらいの気温だ。

 ようやく辿り着いた城の大きな城壁には、何かで抉ったような傷跡があちこちに残されていた。等間隔で並んでいる矢狭間も、原型を止めていないほど大きく欠け落ちた部分が目立つ。シュウ王子が言うには、過去にムラクモに攻め入られた際の傷跡らしく、当時の戦の激しさを物語っている。今の時代になっても補修していないのは、敗戦国であることを知らしめるために、ムラクモから現状維持が命じられているのだという。

 城門を二つくぐり、城内へ入ったシュオウ達は驚いた。
 寂れた外の世界とは打って変わり、城に入ってすぐの広間は豪華絢爛、目に眩しいほどの金銀宝石で仕立てられた宝飾品の数々が並べられていた。
 シュウ王子は支度を整えるといって城の奥へと消えていく。代わりに女官に案内されて謁見の間へと続く小さな小部屋へ通された。

 「中から声がかかるまでこちらでお待ちください」
 女官は短く伝え、入口に控える。
 小部屋の中は広間よりもさらに豪奢な造りになっていた。
 灯りはクリスタル型に切り出された夜光石。天井には金と宝石をちりばめたシャンデリアがつり下がり、壁には高価な甲冑や宝剣が、来る者を威圧するかのように飾られている。

 「どうしよ……緊張してきた」
 ミヤヒは革張りの椅子に腰かけながら、体を揺すっていた。顔には引きつった笑みが張り付いている。
 「怖いですか?」
 シュオウは落ち着き払った声で聞いた。
 「そうじゃないけど……あたしらみたいなのが女王と謁見なんて、やっぱりおかしいよ。実際にここまで来て、こういう部屋を見せられるとさ、なんか急に自分が場違いなところにいるのを実感しちゃって」

 ヒノカジは黙っていた。一見落ち着いているようにも見えるが、注意深く様子を伺ってみると、額にはじんわりと汗が浮かんでいる。
 「少しの我慢だ。なにを言われても黙っていろ。女王陛下への返事は俺がする」
 そう孫に言い聞かせるヒノカジの唇は、ぱさぱさに乾いていた。

 ほどなくして、外からシュオウ達を呼び入れる声がした。
 慎重に扉を開いて出た先の謁見の間を見たシュオウは、呼吸を忘れるほどに圧倒される。
 これまで見て来た豪華な宝飾品が、ただの前座であったことを思い知らされた。

 謁見の間の天井は空に届きそうなほど高く、左右と奥行きは馬で数十人が競争を出来るほどだだっ広い。
 床には躓いてしまいそうなほど分厚い赤い絨毯が敷かれ、左右にはどうやって運び入れたのかわからないほど大きな石像が建ち並び、その他にも所狭しと巨大な宝飾品の数々が並べられている。盗賊がこの光景を見たなら、たらした涎で溺れてしまうかもしれない。

 しかし何より目を引くのが、玉座の後ろに置かれた天井に届きそうなほど巨大な砂時計だった。精巧に作られた大きなガラスの容器の中には、小山が出来そうなほど大量の砂が入っている。ただの飾りなのか、それとも実際に使用するものなのかはわからないが、これを本来の使用目的で使う場合、砂をどうやって逆さにするのか、と不思議に思った。

 一歩進むごとに、幅の広い玉座に体を横たえた女王の姿が徐々に鮮明になっていく。
 色白の肌。すらりとした肢体。豊満な胸をさらけ出しそうなほど開いた白いツナギを身に纏い、肩のあたりで短く切りそろえた焦げ茶色の髪は光が反射して見えるほど艶々しい。長く伸ばした爪には黒い爪化粧がこってりと塗られている。細長い瞳はシュウ王子とよく似ているが、隙間から覗く鋭い眼光は似てもにつかない。
 左手の甲で圧倒的な存在感を持って煌めくのは、砂金色に輝く輝石。それこそが、真実彼女が一国の主であることの証明である。

 先頭を行くヒノカジは膝を折り、深々と叩頭した。シュオウとミヤヒもそれに続く。
 「まずは、遠路はるばるご苦労と言っておくわ。私が砂金石が主にして、極東を統べるアベンチュリンの国主、フェイ・アベンチュリンである」
 女王の硬質な声が響き渡る。
 少し間を置き、ヒノカジが重々しく口を開いた。
 「この度は身に余るようなお招きを頂き、まことにありがたく――」
 言い終える前に、女王は冷たい一言でそれを制した。
 「よい。言葉は無用」
 シュオウ達はおもわず顔をあげた。

 いつの間にか女王のすぐ近くに立っていたシュウ王子が視界に入る。左側奥には家臣達とおぼしき一団が居並び、仏頂面をこちらへ向けていた。
 女王は戸惑うヒノカジを一瞥し、妖しく微笑んで、指を高らかに鳴らした。それを合図に右奥にある扉が開かれ、そこからゾロゾロと集団が現れる。明らかに場違いな見た目、服装。どこにでもいるような一般的な平民達だ。彼らの服装は途中に立ち寄った町で見かけた人々のものと同じだった。おそらく、アベンチュリンの農民達だろう。

 彼らはこちらに気づくと、瞳を輝かせて口々に感嘆の声をあげた。
 「おお、本当に……本当に女王陛下のお言葉どおりじゃ」
 痩せこけた老人が、そう大きく声をあげた。
 「陛下、これはいったい……」
 ヒノカジが思わず立ち上がろうとした時。後方に待機していた数名の兵士が駆け寄り、有無を言わせぬ勢いでシュオウ達を取り押さえにかかる。
 抵抗するかどうかの判断もつかぬまま、三人は床に顔を押しつけられ、両腕を強く拘束された。

 「なん、だ……どうしてッ、離れろッ」
 二人の兵士がシュオウの首を上から押さえつけ、体重を思い切り乗せてくる。腕も押さえられ、身動をとれるような状況ではなくなった。
 「陛下!? これはどういう事ですかッ」
 困惑したシュウ王子の声が頭上から聞こえる。
 「口を閉じていなさい、シュウ。すべては予定通りの事。この件への口出しは、あなたといえども許さないわ」
 シュウ王子が息を飲む気配を感じた。続く言葉は聞こえない。

 「顔を上げさせなさい」
 女王の命令により、兵士はシュオウの髪を掴んで強引に持ち上げた。同様にミヤヒとヒノカジも顔を強引に持ち上げられる。押さえどころが悪かったのか、ヒノカジは苦しそうに咳を漏らしていた。
 「こ、このような……大事になりますぞ。ムラクモへの謀反をお考えか」
 ぜいぜいと息をしぼりながら、苦しげにヒノカジは訴えた。
 「謀反など、そのような大袈裟な言葉はいらない。これは正当な抗議活動である」
 女王の態度はあくまでも冷静だった。

 「いったいなにをお考えか……ムラクモの従士を騙して招き入れ、このような蛮行を働くことの意味をおわかりではありませぬかッ」
 微笑みを浮かべていた女王の表情が凍り付く瞬間を、シュオウは見た。
 「お黙りなさい。砂金石たる我が身への説教など、それこそが恐れを知らぬ蛮行と心得よ――親衛隊ッ!」

 怒気のこもった女王の一声を合図に、五人の輝士がこちらに向かって歩み寄る。内三人は、シュウ王子と共にここまで同行した輝士達だった。
 彼らはにやけた顔を貼り付けながら、ヒノカジを見下ろし、足を持ち上げて一斉に蹴り降ろした。
 顔、腹、背中。ヒノカジの老体を汚れた靴が蹴り、踏みつけにする。
 「じっちゃんッ!」
 「やめろッ!!」
 ミヤヒと共にシュオウも叫び、咄嗟に止めに入ろうと藻掻く。が、両の腕を押さえられているせいで、わずかに前のめりに倒れ込んだだけに終わった。体勢はさらに悪化する。

 赤い絨毯のチクリとした感触を頬に感じながら、横向けに飛び込んだ光景を見て、シュオウは絶句した。
 はじめ、それを見たとき、すぐには理解できなかった。痛めつけられるヒノカジを見て手を叩き、嗤い、涎を垂らしながら熱狂し、手を振り上げて、暴虐に老人に危害を加える輝士達を、必死の形相で応援するアベンチュリンの人々。彼らの双眸は夜の谷底より暗い色に染まっていた。

 ――なんで。
 わからなかった。一方的に痛めつけられている者を見て、どうして彼らがこれほどまでに喜ぶことができるのか。
 聞こえるのは、苦しそうに嗚咽を漏らすヒノカジの声と、人々の嘲笑。同時にあってはならないはずの二つの音が無遠慮に耳の奥を犯す。
 ――なにが面白いんだ。
 わからない。
 自身の胸に去来する未知の不快感を処理することができず、無意識のうちにこみ上げてきた胃液を無理矢理飲み下した。
 こんな時だというのに、シュオウの眼はこの気味の悪い光景をつぶさに捉えて頭へと送る。瞬きすら忘れた血走った両目。口々に汚い言葉を吐き出す口の動きと、そこから飛び散る唾液の粒。目を閉じることすら忘れ、シュオウは彼らの姿に釘付けにされていた。

 「そこまでに。いま死なれては困る」
 女王の制止に、輝士達はようやく足を納めた。
 「じっちゃんッ! じっちゃんッ!!」
 ミヤヒは必死にもがき、ヒノカジに声をかける。だが、その体はぴくりとも動かない。口からは血反吐を吐き、顔の皮膚はアザが出来て色が変わっている。生きていれば儲けものだと思えるほどに酷い有様だった。

 「本題に入りましょう――」
 女王は玉座から立ち上がり、こちらを睥睨するかのように視線を高く、細長い瞳を向ける。
 生きているかどうかも解らないヒノカジに、半狂乱で暴れるミヤヒ。床に頭をこすりつけ、一点を見つめて固まるシュオウ。誰一人とてまともに話しを聞ける状況にはないというのに、女王はおかまいなしに言葉を紡ぐ。

 「――ムラクモが我が国の食料を徴収している事は知っているでしょう。米、野菜、酒やその他もろもろ。強欲にも毎年その取り立ては量を増し、ついには愛しい我が国民が飢えるにいたるほどに苛烈になっている。そこな者達は飢えて苦しむ各町村の代表達よ」

 だから年老いた人達が多いのか、と未だ戸惑いの中にいるシュオウは漠然と納得していた。

 「こうした現状をどうにかしたい、そう思い、税を減らすよう親書にしたためたが、ムラクモは返事一つ返してこなかったわ。屈辱だけれど、私のことはどうでもいい。けれどね、未だこの冬を乗り切れるだけの食料も用意できない国民達はどうすればいいのかしら。世に不満を声高に叫んだとしても、食べる物は空から降ってはこない」

 そうだそうだ、と興奮気味に同調する叫び声が部屋に響く。
 「そこで、我が国民のために、しかたなく横暴なるムラクモに対して、強攻策をとることにしたの。今日ここにいるムラクモの従士のうち二人を人質に取り、一人には私の親書を直々に責任ある地位の者へ届けさせる。それに対してまともな回答が得られなければ、人質の命は拷問にかけた後、国民の前で公開処刑とする――その親書を届ける役には、そうね――」

 女王は視線を滑らせた。
 「そこのおかしな見た目の男でいいわ――お前の事よ、聞いている?」
 おそらく、この驕慢な女王は自分に話しかけている。だというのに、シュオウは顔を持ち上げる気にも、返事をする気にもなれなかった。
 「貴様、陛下のお言葉を受け、無視を決め込むつもりかッ!」

 聞き覚えのある声がシュオウを罵倒する。
 ――この声。
 そうだ。シワス砦に来た時から、特に眼光鋭く、シュオウ達を睨みつけ、高圧的な態度で接してきた男の輝士。名も知らないが、まとわりつくような不快な視線と険のこもった嫌味な声だけは覚えている。
 「おい、聞いているのか? こいつ……怯えて声も出せないのか」
 あの女王も、この輝士も、自分に話しかけているのだ。なにかしらの応答をしなければならない。まとわりつく不快感を引きずったまま、ようやくの思いで顔をあげる。
 見えたのは、女王の姿ではなく靴の裏だった。

 故意か偶然か、輝士の降ろした左足は、シュオウの下顎を強烈に蹴り飛ばした。無防備な状態で頭を激しく揺さぶられ、一瞬で意識が朦朧とする。
 ――だめ、だ……いまは。
 正気を保つため、咄嗟の判断で下唇を強く噛む。犬歯が皮膚を破る新鮮な痛みを上書きし、どうにか遠くなりかけた意識を引き戻した。
 「あ……ぐッ……」
 定まらない視界の中で、ちかちかと激しい火花が飛び散っている。
 「解放なさい――」
 女王のその言葉で、両腕を拘束していた兵士がシュオウを放した。

 自由になった両手で四つん這いに体を支える。噛み切った唇から零れる鮮血が、赤い絨毯に染みこんでいった。
 「話は聞いていたはず。二度は言わないわ。この親書を持って早々にムラクモへ向かいなさい。制限時刻は、今よりきっかり七日の猶予を与える」
 言って、女王は金色の筒に入った書簡をシュオウの目の前に放り投げ、悠然と左手を高く掲げた。その手にある砂金石が、黄土色の光を放つ。

 次に起こった光景に、この場にいる者すべてが息を飲んだ。
 玉座の後ろにある巨大な砂時計の砂が、轟音をたてながら上へと昇っていく。流れ落ちる滝の水が逆流しているかのような、異様な光景だった。
 真ん中の細い管をすべて通り抜けた砂は、砂時計としての本来の役割を果たすように、刻々と時を刻み始めた。
 「王家に伝わる七日時計は正確よ。この砂がすべて下に落ちきるまでに良い返事を持ってここへ戻らなければ、人質の命は無残に散りゆく――さあ、行きなさい」

 床に転がる書簡を一瞥し、横で拘束されたままの二人を見る。意識を喪失し微動だにしないままのヒノカジと、押さえつけられたままのミヤヒの首元には剣の刃が当てられていた。
 平常時の十分の一も働かない思考は、とにかく立ち上がることだけを促している。
 ――書簡をムラクモの偉い人間に渡す、そうすれば。
 二人は戻る。皆でシワス砦に戻ることができるのだ。
 書簡を弱々しく掴み取り、シュオウは立ち上がった。
 まだ血の止まらない唇を押さえ、玉座を見上げると、砂金石を見せびらかせるように、左手を顎に置いた女王と目が合った。切れ長で焦げ茶色の双眸は、狡猾に感情を隠している。なのに、シュオウには彼女が心底楽しそうに、笑っているように見えた。



 「なんという、なんということをッ!」
 シュウは、生涯でかつてないほどの怒鳴りを上げる。
 「静かになさい、シュウ。そう大声をあげては、せっかくの厳粛な空気がだいなしだわ」
 アベンチュリン女王、フェイはあくまでも平静に答えた。

 「出立前、ムラクモとの良好な関係維持のために、現場で働く人々を招いて歓迎したいと言っていたのはすべて嘘だったのですか? 実際に料理の用意と宴の支度までしていた。あれを見たからこそ私は伝達役を了承したのですッ」
 「半分は嘘ではないわ。支度させていた料理と宴会は、集めた長達にふるまったのだから。へらへらと喜んで飲み食いしていたわよ」
 微笑を浮かべながら、フェイは言った。

 「なぜそう冷静でいられるのです。ご自分がなにをなさったのか、おわかりではないのですか!? 宗主国の国民、それも軍属に手を出し、人質にとったうえ、その引き替えに無理難題を押しつけるなど」
 強引に書簡の届け役に任じられた青年が謁見の間を後にして、まだ半時もたっていない。その間に集められた各町村の長達は退出し、残されたムラクモの二人の従士は牢獄へと連れて行かれた。

 謁見の間が静まる。
 今も絶え間なく落ちる砂時計のさらさらという音だけが、シュウの耳に届いている。
 家臣達が退出するのを待って、シュウは姉であるフェイに対し、はっきりと抗議を口にした。だが、フェイはまるで意に介してはいないようだ。
 「軍属といっても所詮は平民ではないの」
 「そういう問題ではありません。アベンチュリン王家はムラクモの温情により生かされている現状を姉上もご存知のはずです。この件、ムラクモの上層部に承知のこととなれば、どのような報復を受けるか、その可能性を僅かにでも考えての行動なのですか」

 さきほどから脂汗が止まらない。
 フェイは、幼い頃から奔放でワガママな性格だったが、一国を背負って立つ立場となったからには、越えてはならない一線というものを踏まえているものとばかり思っていた。さきほど繰り広げられた無意味で残虐な出来事を見た今でも、そうであってほしいと心底願っている。

 「どうでしょうね。今回の事で、ムラクモはきっと何も言ってきやしないわ」
 「いったいなにを根拠にそんな」
 「払ってないのよ」

 子供が悪戯を白状するような口ぶりで、フェイはさらりと言った。

 「は? いったい何を言って――」
 「秋からの収穫食料の規定分を、ムラクモに渡していないと言ったの」
 「ッ…………」
 フェイの言葉を聞いたシュウは言葉を失った。
 戦いに敗れ、それでもどうにか王家存続を許された、その要とも言える条約が毎年二回に分けての、自国で収穫された食料の引き渡しである。長い年月の中でも、アベンチュリンは律儀にその義務を果たしてきた。だからこそ、未だにムラクモという大国の庇護下にあって、王国という面子は保たれている。だというのに、フェイはなんでもないことのように約束を破ったことをさらりと言ってのけたのだ。

 「ちょっと欲しい物があったのよ。けれどすぐに使えるお金がなかったから、民から集めた食料をこっそり売らせてお金に換えたの」
 「まさか……そんな」

 去年から今までの一年間の収穫量は例年と比べると非常に頼りないものだった。それでもムラクモへはかならず一定量を納めなければならず、国民に多少の無理を敷いても税として食料を集めなければならない。だが、それでもなお目標には届かず、しかたなしに厳しい取り立てを行ったことは知っていたが、よもやそれが、姉の物欲を満たすためだけにされていた所行だったとは、微塵も知らされてはいなかった。
 フェイは自身の贅沢のため、強引な徴収をし、その責任をすべてムラクモに押しつけたのだ。

 「ムラクモのグエン様は聡いお方よ。きっと引き渡しが遅れている事情もご存知のはず。私としてもムラクモの怒りに触れたくはない。だから、不満を溜めた民の溜飲を下げるために、こうして各町村の長達を集めて、憎いムラクモを貶める芝居を見せてやったの。あの者らは今日見たことを故郷に戻って話すでしょうね。私の評判は上がり、そうすればこれからさらなる税を徴収したとしても、不平不満はムラクモへ向かうでしょう? きっとグエン様なら、今回の件を大事にするより、丸く収めたほうが得、そうお考えになるはずよ。結果として規定の税を納める事ができれば、それでいいとも、ね。そのためになら、あの国をちょっと悪者にするくらいの事は許容範囲内というもの」

 フェイは微笑んだ。子供の頃、シュウの服の中に蛇を入れて笑っていたあの頃と同じように。その幼い無邪気さが、シュウの不安をこれ以上ないほどに煽る。
 「シワス砦へ赴く途中、この目で民の暮らしを見てきました。彼らは痩せ衰え、日々を生きるのもやっとの状態です。これ以上の無理な課税をすれば餓死者が大量に出ます」
 「平民なんて掃いて捨てるほどいるでしょ。濁った石に価値なんてないわ」

 寸前まででかかった言葉を飲み込む。今、フェイに対して思いのすべてをぶちまけてしまえば、きっと彼女は機嫌を損ねるだろう。
 あくまで冷静に、現状を把握するためにもっと話を引き出さなければならない。
 「あの従士に渡した親書の内容は?」
 「今回の食料引き渡し遅延への謝罪と、納める食料の規定量を半分にして欲しいという旨がしたためてある」
 「そんなこと、ムラクモが認めるはずが――」
 フェイはシュウを小馬鹿にしたように笑って言う。
 「そんなことわかっているわ。ムラクモがアベンチュリンからの要求を飲むはずがない。これまでもそうだったように」
 「ではなぜ」

 「あの親書が真っ当にムラクモのお偉方の元まで届く保証なんてないからよ。たった一人の従士が、一国の王から親書を受け取ったと言ったところで相手にされるはずがない。仮に信用されたとしても、これまでと同じように無視されるのが目に見えるわ。それにあの男の風貌を見たでしょう? あの薄暗い雨雲みたいな髪の色。きっと純粋なムラクモの国民というわけではないでしょう。どこかから流れてきた傭兵くずれか……いずれにしても、今頃は逃げ出す算段でもつけているでしょうね。そういうわけで、渡した親書の中身になんと書こうが、結果は変わったりしない。どうでもいいことよ」

 フェイはくるくると空中で指を回した。

 「なら、捕らえた二人の従士を即刻解放しましょう」
 シュウの提案に、フェイは表情を引き締めて首を振る。
 「それはだめよ。あの二人は宣言通り、七日の期限後に国民の前で処刑する。卑しい民草の一時の憂さ晴らしに丁度良い見せ物になるでしょう」

 ――見誤っていた。
 血を分けた姉は、奔放で少々無理を通そうとする、その程度の悪癖を抱える人物だと思っていたが、実際には自身の得を狡猾に追求する、ずる賢いキツネのような女だった。
 「聞いてはくださいませぬか、姉上」
 シュウの言葉に、もはや力はない。
 この状況を覆すだけの手段を、自分はなんら持ち合わせてはいない。王の石を継いだ姉と、それを戦わずして放棄した自分。その現実が、ことさら身に染みる。
 あきらめの感情を、もはや受け入れつつあることをシュウは自覚していた。

 「安心なさい、捕らえた者達には死なない程度に水と食料は出すわ。殺すまでだけど、ね」
 こんな酷薄な物言いを、表情一つ変える事なく言ってのけるフェイを見て、シュウは思った。もはや人ではないと。
 最後の勇気を振り絞り、もはや手の届かぬ所にいる姉に吐き捨てるように言う。
 「あなたは、愚かだ……」
 フェイは微力な抵抗を続ける弟を睨め付ける。

 「そうね、私は愚かだわ。でもね、ムラクモの顔色を伺いながら、自分の城を好きに修復すらできない。持つことを許されたのは城を守る僅かな兵と十人にも満たない輝士達だけ。こんな惨めな王がアベンチュリンを除いていったいどこにいるというの? 私は愚かだけど、同時にかわいそうでもあるわ。城の外を好きに飾れないというのなら、中をどこよりも豪華に。欲しい物は全て買って、私の思う通りにするの。それくらいの自由は認められて当然のはずよ」

 「その代償に、我が国の民が餓え、死に行くとしてもですか」

 「あなたは私を愚かというけど、今日集めたあの連中を見たでしょ? 用意された心地良い嘘に群がって酔いしれる浅慮な木っ端共を。私が愚かなら、民はさらに愚かで救いようがない。そんな者達を慈しむほど、私は偽善に興味はないのよ」

 ささやかでも、安定した治世を行ってきた先祖を想う。代々の王が座ってきた玉座を見つめると、フェイはからかうように声を弾ませた。

 「この座を捨てた事が惜しくなった? いまさら遅いわ。難しい事は考えず、あなたは早く子供を作りなさい。私は誰とも結婚するつもりはないのだから、このままでは血が絶えてしまうわ。あなたの孫になるか、その次の子になるか。この身の時が尽きるのがいつになるかわらないけれど、候補だけはきちんと用意しておかなくてはね」

 もはや返事をする気力もない。シュウが眉根を寄せて俯いていると、玉座の間にフェイの親衛隊の一人が入ってきた。
 「陛下、例の物、今しがた届きました」
 「そう! 急いでここへ」
 「は」

 間もなく使用人達が運び入れた物を見て、シュウは愕然とした。
 「……これは、なんですか」
 大人の背丈三人分はある巨大な黄金像。頭には角が生え、表情は禍々しく歪み、腹は樽のように膨らんでいる。
 「聞いていた通り見事な出来ね。見てごらんなさい、シュウ。南方のベリキンという鬼神だそうよ。向こうの人間は本当に鬼を神として崇めているのね、面白い。――約束通り、残りの半金を渡してやりなさい」
 フェイは輝士の一人にそう命令し、黄金の鬼神像をなめ回すように観察する。

 「まさか、これを買うために――」
 聞いておきながら、その答えを耳に入れるのが怖かった。シュウの願い通り、フェイは答えをはぐらかし、新しいぬいぐるみを渡された童女のように微笑んだ。
 「長旅ご苦労様。自室でしばらく休んでいるといいわ。そうね……すくなくとも七日の間は」
 「姉上……」
 フェイは親衛隊にシュウの軟禁を暗に命じた。
 無力さを噛みしめつつ、輝士に促されるままに玉座の間を後にする。
 背後から聞こえてくるフェイの声は、自らのしでかした事の重大さをまるで理解していないように、軽やかに弾んでいた。
 


 誰かが呼ぶ声に起こされて、重たい目蓋を開く。
 ぼやけた視界が徐々に整って、目に涙を溜めて自分に縋る、愛する孫娘の姿が見えた。
 口を開こうとして感じた痛みに体を丸める。溜まった血を吐き出し、ようやくの思いで一つ、深い呼吸をした。

 「ここは……」
 「地下牢だよ。じっちゃん、あいつらに酷い目に遭わされて……呼んでも返事がないから、心配したんだから……」
 背中からミヤヒの泣き声が聞こえる。
 こんなに元気のない声を聞くのはいつ以来だろうか。死んだ両親を想い、こうして消え入りそうな声で一人で泣いていたのが、昨日の事のように思える。
 「もういい歳なんだ、泣いてんじゃねえ」
 ぶっきらぼうなヒノカジの叱咤に、すぐさまミヤヒは歯を食いしばって涙を納めた。
 こうでなくてはいけない、泣いたところで、状況は何一つ変化しないのだから。

 体を起こす途中、無意識のうちに苦痛の声が漏れた。
 目蓋は腫れ、口の中はいくつも切り傷があり、胸や腹にも圧迫されているような痛みが持続して襲ってくる。おそらく服の下はアザだらけだろう。
 「小僧は……シュオウはどうした」
 「あいつは――」

 ミヤヒはヒノカジが気を失ってからの出来事を語って聞かせた。シュオウに与えられた命令と、自分達がここから出られる条件についても。

 「そんなことに」
 「ねえ、大丈夫……だよね? ここから出られるよね、あたし達」
 慰めの言葉はいくらでも頭に浮かぶ。しかし、一時凌ぎに現実逃避の希望を見せる事が、良いことだとは思えなかった。
 「難しいだろう」
 「そんな……」
 ミヤヒの顔は痛々しいほどに青ざめていた。

 「まず、小僧が女王に言われた通りに動くかどうかわからん」
 自分達二人の命を背負わされたシュオウとは、知り合ってまだ一月ほど。仲間ではあるが、昔からの知り合いというわけでもなく、出会ってからの共に過ごした経験もほとんどない。そんな人間が、僅かな間同じ建物で生活してただけのヒノカジとミヤヒのために奔走してくれるとは、到底思えなかった。

 「それに、小僧が無事に砦まで戻ってこの件を報告したところで、上がまともに取り合うとは思えん」
 シワス砦の現責任者はコレン・タールである。彼はヒノカジの知るかぎり、半ば左遷された状態であるにもかかわらず保身には熱心だった。
 得体のしれない他国からの招待に、きちんと確認もとらず従士を送り込んだのはコレン・タールであり、彼がそのことを上に知られたくないと考えるのは容易に想像がつく。
 下手をすれば、戻ってきたシュオウに対しても何をするかわかったものではない。
 仮にコレン・タールがこの事を軍上層部へ報告したとしても、希望的な未来を予測する事はできなかった。ムラクモという大国が、たかだか平民二人を熱心に取り戻そうとする姿など、微塵も思い描くことが出来ないからだ。

 気になるのはアベンチュリン女王の態度だ。これだけの事をしておいて、シュオウを使って自らの行いを喧伝するような真似をしている。
 現女王が即位した際には、その性格に難ありという噂を少なからず耳にはしていたが、だからといって自らが窮地に陥るような事態は易々と招いたりしないだろう。勝算があってしていることだとすれば、それこそ一切の希望はない。おそらく自分達は――
 「生け贄、か」
 ヒノカジは思わずそうこぼした。
 「じっちゃん……」
 落ち着き欠けていたミヤヒは、ヒノカジの発した言葉で不安になってしまったのか、再び目に涙を溜めた。

 「そんな顔をするな。この世はなにがあるかわからん。俺も若い頃にはいくらか無茶をしたが、それでもこうしてこの歳まで生き残った」
 言って、ミヤヒの柔らかい黒髪に手を乗せ、わしわしと撫でつける。
 「うん、きっとなんとかなるよ。あいつ、以外と根性あるし、絶対に砦に戻ってちゃんと報告してくれるって」
 「……そうだな」
 頭では反対の事を思う。

 シュオウという青年はまだ若い。この事態に巻き込んだ責任は、連れて行くことを決めた自分にあるのだから、自分達を救うために何もしれくれなかったとしても恨む立場にはないだろう。
 ただ、こんなことで孫を死なせるような事にはしたくなかった。まだ自分の家族も持っていない、たいした経験も喜びも知らないうちに命を落としてしまうことになる。それに、二人の家族を同時に失う妻の気持ちを思えば、ひたすら申し訳なかった。

 薄暗く冷たい牢獄の中。
 二人は身を寄せ合うように目をつむった。
 痛みにこらえながら小刻みに呼吸をするヒノカジの胸中には、ここに至るまでのあらゆる事への後悔の念が渦巻いている。
 過ぎた時間は二度と取り戻す事は出来ない。だというのに、もしも、という言葉が、とめどなく頭の中で繰り返された。
 飲み込んだ唾液は、苦い血の味がした。



 アベンチュリン王都からシワス砦まで伸びる白道には、大粒の雨が降っていた。 
 夜道を一人で走る。雨に打たれながらも、シュオウは足をがむしゃらに前へ出した。

 頭の中では、これからの行動をどうするべきか二転三転して定まらず、答えがでないままに、とにかくシワス砦を目指している。
 皮肉な事に、シワス砦での退屈な日々で鍛えていたおかげで健脚を維持し、なおかつ雨降りで、水に濡れると光を放つ性質を持つ白道は、シワス砦までの道筋を示す一本の光を形成してシュオウを導いている。

 混乱、不快感、怒りや迷いが混沌として胸にざわつく。
 流されるままに退屈な箱の中に閉じ込められ、ようやく解放されたかと思えば、今度は一方的に他人の命を背負わされて、小間使いのようなことをさせられている。
 城から放り出されてから、胃の中のものがこみ上げてくるような吐き気が収まらない。

 ――あの時。
 無抵抗なヒノカジが暴行を受け、その様子を笑って心底嬉しそうに喜んでいた人々の顔が、頭の中にこびり付いて離れなかった。
 ――気持ちが悪い。
 あんなものを見たくて、自分は師の元を飛び出したのではない。堰から溢れ出した水のように、惑いが思考を埋め尽くしていた。しかし、感情とは裏腹に、足は迷う事なくシワス砦に向けて走り続けている。

 ふいに、欠けた道の段差に足を取られた。
 夢中で走っていたせいで受け身もとれずに、シュオウは雨に濡れる白道に体を投げ出す形となる。
 「つう……」
 全身に軽い痛みを感じる。立ち上がれないほどの怪我はしていないはずなのに、体を起こす気になれなかった。

 徐々に激しくなっていく雨に打たれながら見た先には、暗い深界の森が広がっている。
 風と雨に揺れる木の枝が、帰ってこいと手招きをしているように見えた。
 ――逃げよう。
 常人には無理でも、自分には灰色の森を歩く術がある。この忌まわしく、馬鹿げた人の世に、いつでも背を向ける事ができる権利を持っているのだ。

 自分が逃げればどうなるのだろう、とシュオウは考えた。
 ヒノカジとミヤヒは、女王の言った通り殺されるのだろうか。
 ――どうでもいい!
 目に見えない世界で何かが起こっていたとしても、それを目で見て、耳で聞いていなければ、自分にとってはないのと同じではないか。

 生と死の混在する灰色の森。かの地はシュオウを拒まない。
 奇異の目を向ける者もなく、多くの人々の中にあって孤独を感じることもなく、無理難題を押しつける理不尽も存在しない。
 帰ってしまいたかった。居心地の良い自分の世界に。

 心は自らの保身と逃避へ傾いていく。

 落としてしまった荷袋を拾うため手を伸ばすと、柔らかい袋の中にある硬く長い感触に違和感を覚える。手を突っ込んで取り出すと、それは一本のムラクモ刀だった。
 剣を教えてくれると言っていた、ヒノカジの顔を無意識に思い出す。砦の従士達との付き合い方をそれとなく諭してくれたミヤヒの顔も、同時に頭をよぎった。

 「くそッ」
 握った拳を地面に叩きつける。
 これから先、どこにいても、何をしていても、きっと自分は思い出す。命を見捨てた彼らの事を。
 ――知らせるだけ、それだけすれば十分だ。後は国がなんとかする。
 言い聞かせるように、シュオウは心の中で後ろ向きな決意を固めた。

 力なく立ち上がり、濡れた荷袋を背負って、重たいムラクモ刀を強く握る。
 冬の冷たい雨にあたって、体は急速に熱を奪われていく。肩は震えて指先の感覚は鈍くなりつつある。
 ――走ろう。
 せめてそうしている間は、体温を保てるはず。
 力強くとはいえないが、とにかく前へ向かって足を動かす。
 未だ尾を引く不快感はねっとりと胃のあたりにまとわりついていた。



 「なあサブリ、見てみろよ、これ」
 ハリオは人差し指につけた黒い点をサブリの目の前に突き出した。
 「……なんだ、これ?」
 「俺の鼻糞、デカイだろ」
 「きたねえなぁ……見せないでくれよ、そんなもん」
 サブリがハリオの手を払うと、彼はおかしそうに笑い、見張り塔の外へ大きな黒点をはじき飛ばした。

 時刻は日付が変わってから小一時間ほどが経過した深夜。シワス砦の周囲には弱い霧雨が降っている。
 「いいのかなぁ、俺達こんなことばっかりしてて」
 日頃からあまり真面目に仕事をしていない両者は、砦の実質的な責任者であるヒノカジが留守なのをいいことに、仕事場にこっそり酒とツマミを持ち込んでいた。

 さらさらと降る雨の音に耳を傾けながらの酒は旨いが、さすがにこれはやりすぎなのではないかと居心地が悪い。
 基本的に小心者であるサブリをよそに、酒を持ち込んだ張本人であるハリオはご機嫌に鼻歌を歌いながら、酒瓶をあおっていた。

 「いいじゃねえかよ、小うるさい爺さんが居ないことなんて滅多にないんだし、他の連中だってふらふらと手抜いて仕事してるじゃねえか。うぃっく……だいたいよぉ、こんな糞田舎でこんな夜中に通行人なんて来やしねえんだ、ほら、見てみろよ――って、あれ……?」
 立ち上がり、アベンチュリンのある東側へ視線を送ったハリオは奇妙な反応を見せた。すかさずサブリも立ち上がり、同じ方向を見る。

 「あれって、人か?」
 遠くのほうから、ぼんやりと光る白道の上を走って向かってくる人影のようなものが見えた。真っ暗闇の中、雨が降っていなければ気づかなかったかもしれない。
 「おい。あれ、従曹について行った例の新入りじゃねえか?」

 霧のような雨に遮られてぼんやりとしているが、たしかにハリオの言うとおり、灰がかった髪と黒い眼帯のようなものをつけた男の姿が見える。
 「だなぁ……でも、どうして走ってるんだろ、それに従曹とミヤヒ従士は?」
 「知るかよ。とにかく、他の連中に報告したほうがいいな」
 「他って、だれに?」
 「夜仕事で起きてる奴ら一通り。それに食堂のばあさんはすぐ起こしたほうがいいんじゃねえか」
 ハリオはそう言うと、自分だけさっさと下へ降りるはしごに足をかける。
 「おい、お前はどうするんだよ」
 「コレン輝士に報告するんだよ。あの様子はただ事じゃなさそうだしな」
 そう言い残して足早に去って行ったハリオを見送り、サブリも慌てて後を追った。

 中庭の東門の前に大勢の人間が集まっていた。コレン・タールとその私兵二人を先頭に、夜勤の従士達、それに食堂を管理するヤイナ。皆の視線が開かれていく門に釘付けにされている。
 開放された門の先には、さきほどサブリとハリオが見たとおり、新入りの青年がいた。
 全身をびしょびしょに濡らしながら、両手を膝に置いて体をささえ、痛々しいほどに疲れ切った表情で激しい呼吸を繰り返している。その姿を見て、ヤイナが真っ先に駆け寄った。

 「坊や、いったいどうしたってんだい? ……うちの人とミヤヒは?」
 ヤイナに聞かれて、新入りの青年は息も絶え絶えに話し始めた。
 「アベンチュリンに……女王に監禁されて、それで――」

 青年が続けて言った話に、皆は驚き戸惑った。ヤイナは口元を抑えて言葉を失っている。
 だが、皆の様子とはまた違った反応を見せている人物がいた。この砦の最高責任者であるコレン・タールだ。彼の斜め後ろに立っていたサブリから見たかぎり、その顔色は徐々に色を無くしていっているように見えた。

 「――それで、これを」
 青年は荷袋の中から金筒の書簡を取りだし、コレン・タールに差し出した。
 その場で直接書簡を受け取り中身を確認したコレン・タールの表情は、みるみるうちに険しくなっていく。

 「捕らえろ」
 書簡を手にしたまま、コレン・タールはそう呟いた。それを聞いて、この場にいる全員が耳を疑った。
 「この者を捕らえろといったのだ! 今すぐに!」
 コレン・タールの命令に従ったのは、二人の私兵だけだった。慌てて、今にも倒れてしまいそうな青年の両脇を拘束する。それを受けて、彼は声を荒げるような事もせず、どうして、と呟いた。

 「ちょっと、どういうことなんだい! この子の話の通りなら、すぐに王都に連絡を――」
 ヤイナが勇敢にも強い調子で叫ぶ。だが、コレン・タールはそれをさらに大きな怒声で遮った。
 「うるさいッ!! 黙れ! この者は嘘をついている。拘束して真実を問いただす。それまで牢に閉じ込めておけ!」

 そうまくしたてると、二人の私兵は青年を引きずるように抱えながら、ほとんど使われていない地下牢へ向かった。
 動揺する砦の従士達を余所に、コレン・タールは書簡を懐にしまって、さらに命令を飛ばした。
 「中を見張る人間がいる。お前と……そこのお前」
 コレン・タールは近くにいたハリオと、その次にサブリを指名した。
 「お、俺ですか?」
 サブリは確認を込めて自分を指さして聞いた。
 「そうだ。私が許可を出すまで、あれを見張っておけ。一切の口を聞かず、中には誰もいれるな。いいな」
 返事を待たず、コレン・タールは足早に建物内に入って行く。

 「あんた達……」
 ヤイナがこちらに向けて何か言いかけたが、コレン・タールの私兵の声がそれを遮った。
 「お前達、はやく来い! 牢へ入れるのを手伝え」
 ハリオとサブリは渋々後をついて行く。
 「はあ、めんどくせえことになったなあ」
 ハリオが渋い顔でそう漏らした。サブリも心底それに同意したい気分だった。


 地下牢は一度として使われていたという記憶がない。少なくともサブリがシワス砦に来てからは一度も使用されていないはずだ。だというのに中は小綺麗で、蜘蛛の巣一つ見あたらない。誰かがここの掃除を担当し、きちんとこなしていたからこその結果なのだろう。こういう所は、さすがに過剰な人員を擁するシワス砦、といったところだろうか。
 コレン・タールの私兵に囚われた青年は、ほとんど抵抗する様子も見せず、強引に引っぱられるままに牢獄の中に放り込まれた。

 「お前達はここで見張ってろ。コレン男爵の言った通りにしていろよ」
 私兵の一人がそう言い残し、牢獄にかけた鍵を手に外へ出ていく。
 残された二人は粗末な椅子に腰かけて、凍えるような地下の空気に耐えるように、体をさすっていた。
 同僚から一転、虜囚となった青年は、石で作られた粗末なベッドに体を横たえている。こちらに背を向けているので顔は見えなかった。

 「なあ、お前。さっきの話、本当なのか?」
 「おいッ、話すなって言われただろうが」
 聞いたサブリにハリオが注意する。が、事が事だけに聞かずにはいられなかった。
 「…………ほんとうです」
 青年は顔も向けず、ぶっきらぼうに言った。

 「んだよ、ふてくされてんのか? 俺達はお前の先輩なんだから、もう少しまともな態度で接したって罰はあたらねえだろ」
 話すなと言っておいて、今度はハリオが積極的に言葉をかける。
 「……ここの人達は、心配じゃないんですか。あの二人の事が」
 酷く力ない青年の声が、冷たい牢獄の中で反響する。

 「そりゃ気にはなるけどよ、俺達にどうしろってんだよ。だいたい話はコレン輝士に通ってるんだ。あとはあっちでなんとかするんじゃねえか?」
 楽観的なハリオの言葉に、サブリは異議を唱えた。
 「それはないって。こいつをこんなところに閉じ込めたんだぜ? 捕まった部下を助けよう、なんて考えてる人間の行動じゃないよ。あの焦った表情から見ても、きっとここで話を止める気だと思うんだ」

 「そんなもんか? まあ仕方ねえよ。貴族のすることに俺らが口出しできるはずねえしな」
 ハリオは話に飽きたのか、懐から木の実入りの革袋を取り出して中を探り始める。
 「なあ、お前なんて名前なんだ?」
 サブリが青年に聞くと、少しの間を置いて、小さな返事が戻ってきた。
 「……シュオウ」
 「プ、変な名前だな」
 ハリオが嘲笑を込めて言うと、気のせいかも知れないがシュオウの肩が機嫌を悪くしたように縮んで見えた。

 「俺はなサブリってんだ。で、そこの俺より品がないのがハリオだ」
 「おいッ」
 文句を言いたげなハリオを無視して、サブリはシュオウに話しかける。

 「なあ、ちょっと話さないか? 聞きたいと思ってたんだけどよ、お前に贈り物寄越してた貴族の娘らとはどうやって知り合ったんだよ?」
 聞いた内容について、シュオウからの返事はなかった。
 「なあ、聞いてるのか?」
 「ほっといてください」
 シュオウの不機嫌な声に、サブリは一瞬たじろいだ。だが、好奇心のほうが勝り、さらに話題を変えて話しかける。

 「じゃあさ、ヒノカジ従曹達が捕まったときのことを詳しく聞かせてくれよ。それくらいいいだろ?」
 シュオウはすべてを拒むように、体を丸めて両手で耳を塞いだ。これ以上話しかけて欲しくはないという気持ちを態度で表したのだろう。
 「ちぇ、なんだよ……」
 座った椅子に傾けながら、鉄格子に寄りかかる。そうしていると、背中からぼそっと小さく呟く声が聞こえたような気がした。
 「もうどうでもいい」

 首だけを動かし、後ろを振り返ると、相変わらずじっと体を横たえるシュオウの姿がそこにある。顔は見えないのに、その背中はとても辛そうに前のめりに丸まっていた。
 もっと話をしたい。静かな空気が苦手なサブリはそう思ったが、穴蔵で冬眠する動物のように会話を拒否するシュオウを前に、それ以上かける言葉が見つからなかった。


 どれほど時間がたったのか、サブリはいつの間にか座ったまま眠りに落ちていた。
 夢の中の自分は、ヒノカジと共にアベンチュリンへ同行し、そこで女王から見たこともないような豪華な食事を振る舞われていた。甘く香ばしい蜂蜜ソースがたっぷりとかけられた薄切りの肉に箸を出すと、そこで自分の手をアベンチュリンの輝士が掴む。それに驚き、箸を落としたところで夢は唐突に終わった。どうせなら食べ終わるまでを見せてくれればいいのに、夢はいつも肝心な所で終わってしまう。

 乾燥した口のまわりを舌で濡らしながら、サブリは鉄格子に寄りかかっていた体を起こし、目を開けた。
 そこで気づく。左のほうから聞こえてくる、カチャカチャという金属音に。
 見ると、涎を垂らしながら眠りこけるハリオの横で、ヤイナが牢獄の鍵穴に古びた鍵を差し込んでいる真っ最中だった。

 「ばあちゃん!? だめだって!」
 サブリは思わず大声で止める。それに驚いたハリオが目を覚まし、椅子から転げ落ちた。
 「んあッ!? いっつつ……なんだよ」

 当のヤイナはさほど気にした様子もなく、さらに鍵をせっせと動かしている。
 「うるさいね、静かにしなッ!」
 そう言ったヤイナの声のほうがよほどうるさかった。

 「え? おい、ばあさん何やってんだよ!? こんな事バレたらやべえって」
 ヤイナの持つ鍵に手を伸ばしたハリオの手を、ヤイナがぴしゃりとはたく。
 「邪魔するならただじゃおかないよ」
 ヤイナのドスのきいた声に二人は震え上がった。女性の、しかもそれなりに年老いた彼女のどこからこんな声が出てくるのだろう。
 この騒ぎに、今までじっとしたまま動かなかったシュオウも体を起こしてこちらへ顔を向ける。目の下には真っ黒なクマが浮かび、憔悴しきっているようだった。

 「この合い鍵は古いから使えるか心配だったんだけどね……よし、開いたッ」
 ヤイナが威勢よく叫ぶ。ガチャンと小気味良い音がして、堅牢な扉は開放された。
 「ヤイナ、さん」
 シュオウの枯れた声を聞いて、ヤイナは目に涙を溜めながら歩み寄る。

 「悪かったね、遅くなっちまって。あの馬鹿貴族の従者どもが外をうろちょろしてたもんだからさ」
 ヤイナは膝を折り、ベッドに腰かけたままのシュオウの手を包み込むようにして握った。
 「こんなに冷たくなって……。うちの人とミヤヒのためにここまで必死に走ってきてくれたんだね。ありがとうよ……」
 ヤイナは大切な物を扱うように、シュオウの手を何度もさすった。
 「すいません。結局、何もできなくて」
 シュオウが謝ると、ヤイナは頭をぶるぶると大きく振った。

 「十分やってくれたさ。どれだけ長い間走ってくれたのか知らないけど、疲れ切った顔をして……それなのに、あんた達は毛布の一つも用意しないなんてッ」
 急にヤイナの矛先がサブリとハリオに向いた。
 ハリオはぶつぶつと何か言いながらふてくされ、サブリは後ろめたさを感じて首の後ろを掻いた。

 「まあいい。とにかく、あんたは早くここから逃げな」
 ヤイナの提案に、二人の表情が蒼白となる。
 「ちょ、いくらなんでもそれはダメだろ。コレン輝士にばれたら俺達がやばいって!」
 めずらしく余裕のないハリオの声を聞いて、サブリも不安になってきた。

 「そ、そうだよ、いくらなんでもこれはやりすぎだ、ばあちゃん」
 「逃げられたとか、なんでもいいから適当に言い訳を考えな。あの馬鹿貴族、頭の中は自分の身を守る事で一杯だ。このままじゃこの子の命が危ないんだよ。協力するならよし、しないなら今後あんた達の飯はなしだよ」

 ヤイナはきっぱりと言い切った。
 「そんなあ……」
 嘆くサブリを無視して、ヤイナは、さあ、とシュオウの手を引っ張り上げる。が、シュオウは立ち上がろうとはしなかった。

 「だけど、このままじゃヒノカジ従曹達が……」
 ヤイナの表情が渋くなる。
 「そうだね。こうなったらあたし一人でアベンチュリンまで乗り込んでって、女王に文句の一つでも言ってやるよ。そのせいで殺されたっていいさ。どのみち、家族がいないんじゃ生きてる意味もないんだからね。上はまったくあてにならないし……せめて軍の偉いさんに顔がききゃまだ望みはあるかもしれないけど。そんなの、あたしら平民にゃ縁遠い話ってもんさ」

 ヤイナの投げやりな言葉に、シュオウはハッとして顔をあげた。
 「俺の荷物は?」
 シュオウの視線の先にいるのはサブリだ。突然話しかけられて、慌てながらも答える。

 「えっと、たしかここに来た時にコレン輝士の従者がそこらへんに放り投げてたけど……えっと、あったぞ」
 部屋の隅に無造作に放り出されたままになっていた荷袋を手渡す。それを受け取ったシュオウは、必死に中を探り、一通の手紙を取り出した。
 「もしかして、それ貴族の娘からのやつか?」
 ハリオが興味津々にシュオウの手元を覗く。サブリも強く興味を惹かれ、気がつけば二人ともが牢の中まで入っていた。

 「違います。これ――」
 シュオウは手紙の差出人が書いてある面をよく見えるように掲げた。そこにあった名前を見て、シュオウを除く三人は声を失った。
 「おい……これ、アミュ・アデュレリアって書いてあるのか?」
 ハリオは平素では見られないほど、飾り気のない驚きを見せた。
 「その名前って、アデュレリア公爵家の氷長石様の事なんじゃ」
 サブリもまた、驚きをもってシュオウの手にある手紙を凝視する。
 「坊や、まさか氷姫様と顔見知りなのかい?」
 ヤイナが聞くと、シュオウはたしかに頷いた。

 アデュレリアは、ムラクモに暮らす者のみならず、他国にもその名が知れ渡るほどの大貴族だ。アデュレリア一族は代々氷長石という名を持つ燦光石を受け継いでいる。現アデュレリア当主は、齢百年を超えていまだ壮健との噂で、公爵位と、軍では元帥に次ぐ重将の階級をも担っている。別名で氷狼輝士団とも呼ばれている大規模な軍組織、左硬軍の長でもあるアデュレリア公爵の存在は、平民にとって雲の上の存在である並の貴族からもさらに一線を画す存在として認知されていた。
 また、現当主は気性が荒いという噂があり、粗相をした平民を氷漬けにして殺したという噂も広まっていた。そのため、民草の間では氷姫の愛称で恐れられてもいる。

 「この人に軍に誘われたんです。予定が狂ってしまって、ここへまわされたんですけど」
 「こいつぁ驚いた」
 ハリオが漏らした飾り気のない言葉に、サブリは無言で何度も頷いた。謎めいた新入り従士の出所が、まさかムラクモでも王家に次ぐ歴史ある名家アデュレリアに関連していたとは、砦の皆が知ればさぞ驚くことだろう。
 サブリは今すぐ駆け出して、この話を皆に触れ回りたい衝動で一杯だった。これだけのネタを持って聞かせれば、当分の間はちやほやしてくれるかもしれない。

 「今回の話を聞いてもらう相手が、アデュレリア公爵くらいの人だったら、何か良い解決法をみせてくれるかもしれない」
 シュオウの言った言葉に、ヤイナは困惑した表情で静かに頷く。
 「それはねえ、そうだろうけど。氷姫様はこの国でもグエン様の次にご長寿なお方だよ。あたしら平民が願ったからって、簡単に会って話を出来るようなお人じゃないんだ」

 「何かを頼んで、それを聞いてもらえるかはわからない。けど、会うくらいならきっとなんとかなります」
 シュオウは強くヤイナに言った。依然として疲れた顔からは生気を感じないが、消えかけた蝋燭にわずかに灯った炎は、かろうじて燃ゆる事をあきらめてはいない、そうした印象を受ける。

 「今回みたいな事にならないとはかぎらないんだよ? あんたの命だって危ないかもしれない。知り合って間もない人間のために、命がけで行動する気持ちが本当にあるのかい?」
 「命がけなんて大袈裟な気持ちはないです。ただ、出来ることがまだあるのに、このまま逃げ出したらきっと後悔する。本当に命が危ないと思ったら、這いつくばってでも逃げだします」

 ヤイナは瞳の奥を揺らし、一度深く顔を落としてから、シュオウの前にひざまずいて手を強く握った。
 「お願いするよ。出来るかぎりの事でいい。亭主とミヤヒのために」
 そんなヤイナを、複雑な表情で見つめていたシュオウは、彼女から僅かに目を逸らしながら頷いた。
 「……やってみます」

 次の瞬間、めそめそとしていたヤイナは突如元気良く立ち上がった。
 「よし、事が決まったんなら暗くなっててもしょうがない。坊や、あんたここを出る前に馬に乗れないって言ってたね?」
 シュオウは鷹揚に頷いた。

 「たいして役にも立たないだろうが、この二人を連れて行きな」
 ヤイナはそのへんに落ちている石ころでも指さすような気軽さで、サブリとハリオを指名した。
 当然のごとく、ハリオは猛烈に拒否する意志を表明した。

 「ばあさん、それはねえよ。こうしてるだけでもどうなるかわからねえってのに、こいつと一緒に、会えるかどうかもわからない貴族のために王都に行けって? 冗談じゃねえって。だいたいよ、本当に公爵とこいつが顔見知りかどうかもわからねえんだぞ。手紙一枚見せられたって、俺らじゃそれが公爵が書いたものかどうかすらわからねえんだ。こいつがここから逃げたいためだけに適当な事を言ってない証拠がどこにあるんだよ」

 ハリオの毒気のある饒舌さは、こういう時には頼もしい。サブリも影ながら激しく首を振って応援した。だが、地鳴りのような低いヤイナの声は、歴戦の勇将の如き安定感をもってそれに応戦する。

 「ハリオ、あんたたまに台所に置いてある調理用の酒に手だしてるだろ」
 「うぐッ」
 次に、ヤイナの厳しい視線がサブリを串刺しにする。
 「ひッ」
 「サブリ、剣もダメ、体を動かす事もダメ。これといった特技もない。そんなあんたをシワス砦に迎え入れてやるために、あんたの母親に頼まれて推薦状を書いたのは誰だったっけね」
 「……ヒノカジ、従曹です」
 互いに泣き所を突かれた二人は、しょんぼりと顔を落とした。

 「あたしはね、恩着せがましいのは大嫌いなんだ。けど、家族の命がかかってるって時ならそんな事はおかまいなしだよ。今言ったことだけじゃない、他にも聞きたけりゃ何枚でも恩を着せてやるからね」
 ヤイナは少しずつ二人の元へ歩み寄る。頭を思い切り叩かれるような気がして、サブリは反射的に手で頭を防御した。だが、ヤイナはしゃがんでサブリとハリオの顔を覗き込んでから、小さく頭を下げる。

 「頼むよ。ここから王都まで、走り続けたって結構な距離になる。この坊やを向こうまで送ってやるだけでいいから」
 僅かな沈黙が流れ、ハリオが突然勢いよく立ち上がった。
 「わあったよ、行くよ。送るだけでいいんだろ。ばあさんに言われると母ちゃんにどやされてるみたいで落ちつかねえ……サブリ、お前はどうする?」

 いきなり心を変えた裏切り者のハリオを一瞥して、サブリはなおも返事に困った。心の中では絶対にめんどう事に巻き込まれたくはないという気持ちと、日頃世話になっているヤイナの頼みを聞きたいという気持ちがせめぎ合っている。

 「でもなあ……王都まで連れて行くだけなら、一人いりゃ十分だしよ……」
 やらない理由をあれこれと探していると、すっと目の前に手が差し出された。
 「ハリオ?」

 「来いよ。お前の事は別に好きでもなんでもないけどよ。俺の軽口を聞いてくれるやつがいないとつまんねーだろ。俺が王都の良い店紹介してやる、そこで嫁さん候補でも探せよ」

 「ハリオぉ……」
 サブリはめずらしく自分が必要とされているという状況に感動していた。この手を握れば、ハリオとももっと仲良くなれるかもしれない。そう、堂々と友達だと言えるくらいに。
 サブリはゆっくりと、慎重にハリオの手を取るため、汗で温かく湿った自らの手を伸ばした。だが、もう少しで手と手が触れあうという直前、ヤイナの鋭い張り手がサブリの後頭部を強烈に打ちはたいた。

 「いてえッ」
 「うっとうしいね。行くならいくでさっさと決めな」
 「……行くってば、もう」
 ひりひりする頭の天辺を撫でながら、サブリも同行することに同意した。
 「よし、そうと決まったら――」
 さて、ここを出ようかという空気になった時、シュオウがそれに水を差した。

 「待ってください。アベンチュリン女王の書簡は?」
 「それって、お前がコレン輝士に渡してたやつか?」
 ハリオが聞くとシュオウは頷いた。

 「あれがないと、これまであった事を何一つ証明できない」
 「それなら、コレン輝士が懐にしまい込んでたのを見たよ」
 サブリが覚えていたことを話すと、場の空気は静まった。だというのに、シュオウだけは気にした様子もなく、すっくと立ち上がる。
 「行きましょう」
 「どこにだよ?」
 重たい声で聞いたハリオに、シュオウは淡々とした様子で答える。
 「もちろん取り返しに。あの輝士の所まで案内頼みます」
 「こっそり取ってこうなんて考えてるなら無理だぞ。きっと見張りがいる」
 怯えるサブリの横を、シュオウが通り抜けていく。その途中に彼が言った一言が、サブリの耳にかろうじて届いた。
 「なんとかします」


 シュオウ、サブリ、ハリオの三人は砦の三階を目指していた。ヤイナは馬を用意しておくと言って別れたが、すんなりと目的の書簡を取り戻して厩まで向かう事ができるのか、サブリにはまったく自信がなかった。
 シュオウは疲れがまるで抜けていない様子で、時折歩きながらふらついている。足下はおぼつかず、表情もまるで頼りない。その姿が、不安をより一層煽る。

 こんな奴の言うことを信じて、そのうえ上官に逆らってまで王都へ送り届ける手伝いをしていいものか。いまだ迷いは晴れていなかった。
 砦の一階から二階へ昇る階段を目指して歩いていると、自分達の後ろが妙なことになっているのに気づく。すれ違った従士達が、後をぞろぞろとついて歩いてきているのだ。

 「なあ、ハリオ」
 「なんだよ」
 「なんかさ、みんなついてくるんだけど、なんでだろ」
 「こいつと一緒に歩いてるんだから当然だろうが。従曹達が捕まった話はとっくに砦中に広まってるんだろ」

 ハリオは親指を立ててシュオウの背中を指す。

 「だったらさ、もっと目立たないようにして来た方がよかったんじゃないのか」
 「……そうだな。今気づいたぜ」
 「たのむよ……」
 「ひとのこと言えるのかよッ」

 前を行くシュオウが突然足を止めた。余所見をしていたサブリとハリオも、慌ててその場に立ち止まる。興味本位に後をついてきていた従士達も、少し距離を置いて様子を伺っている。
 じっと前を見つめるシュオウの視線の先には、コレン・タールと二人の私兵がいた。強ばった表情でこちらを睨みつけるコレン・タールの様子に、サブリの肝は縮み上がった。

 「牢に入れておけと命じたはずだ。どうしてこやつが普通に外を歩いているッ!」
 「ひぃぃ」
 コレン・タールの怒声に、サブリは身を縮めた。
 この場にいる者のほとんどが怯えたように眉根を落とす。普段強気なハリオも、猛る貴族を前にして、緊張したように手で服の端を握っている。

 だが、シュオウだけは違った。憔悴した体をふらりと揺らしながらも、後ろから僅かに覗く横顔に、怯えの色は一切見えない。サブリはそれを不思議に思った。

 「アベンチュリンの女王から渡された書簡を返してください」
 シュオウは気負い無く言い放つ。あまりに堂々とした物言いに、砦の従士達を含め、サブリとハリオの二人も呆然とシュオウの背中を見つめた。
 「返せ、だと。なにを馬鹿な事を。お前のような下っ端従士が、あれを持っていてどうするつもりだ」

 「あなたでは話にならない。王都に行き、もっと上の人間に報告します」
 「は……は……話にならんのは貴様のほうだッ!! それが上官であり、輝士であり、男爵位も持つ私に対する態度なのか? だいたい王都の人間が一介の従士が持ち込んだ余田話を聞くはずがないだろうが。だが、まあいい。寛大な処置を検討してやろうと思っていたが、上官へ反抗した罪により、この場で相応の罰を下してくれるッ。他の者らも見ているがいい、これが輝士に逆らった者の末路だッ!」

 猛烈にまくしたてたコレン・タールは、その場で両手を大きく広げた。
 「おいッ、コレン輝士が晶気を使うぞ!」
 後方から様子を見ていた従士達の中から、悲鳴にも似た叫びがあがる。
 たいして時間もたたないうちに、コレン・タールの手元には人の頭くらいある水の球が出来上がっていた。ふよふよと浮かぶそれは、当たればただではすまない威力があることを、皆が知っている。

 「伏せろ――今すぐこの場に伏せろッ!」
 誰かが叫んだその声に、サブリとハリオも咄嗟に床に体を伏せた。
 恐怖から目を強く閉じると、目の前にあったはずの人の気配が、不意に消える。ドタドタと走り出したような靴の音がして、それは徐々に遠ざかっていった。

 「ぐごばッ」
 動物の断末魔のような奇妙な音が聞こえた。それと同時にゴツン、という鈍くて重たい音が聞こえたあと、ドサリと重たいないかが床に落ちる音が聞こえ、次にまた一つ、ゴツンと鈍い音がした。
 「なんだよ、お前……やめろ、くるなよ!」
 聞き覚えのあるこの声は、コレン・タールの私兵の一人だったはず。切羽詰まったような彼の声を聞いて、サブリは奇妙に思った。聞こえてくるのは、水の塊に吹き飛ばされたシュオウの苦悶に満ちた声であるはずなのに、と。

 もう一度、さらに強く重たい音がして、場は静まりかえる。
 サブリが恐る恐る顔をあげると、そこにあったのは血まみれに横たわる若き従士の無残な姿ではなく、顔にこすったような擦り傷を残し、潰れた鼻から大量に血を流しながら白眼をむいて横たわる、コレン・タールと二人の私兵の姿があった。

 床に伏せったまま顔だけ上げ呆然とシュオウを見やる従士達。いつのまにかハリオも顔をあげて様子を伺っていた。
 シュオウは何事もなかったかのような態度で、気を失って倒れたコレン・タールの服の中をごそごそと漁っている。
 「あった」
 金筒に入った書簡を手に、シュオウはサブリとハリオに向け、声をかけた。
 「行きましょう」
 そう言って、厩のあるほうまで小走りで駆け出す。
 「お、おい待てよ!」 
 ハリオが即座に立ち上がり後に続いたのを見て、サブリも慌ててそれを追いかけた。



 走り去っていく三人の背中を、シワス砦の従士達は呆然と見送っていた。
 誰かが思い出したかのように言う。
 「おい、追いかけなくていいのかよ」
 そんな声があがると、従士達は鼻血を垂らしながら気を失っている、無様な輝士の姿を見た。
 そして、それぞれに近くにいる者達と顔を見合わせながら、誰ともなしに、ぽつぽつと漏らした――
 「だれが?」
 「どうやって?」
 ――と。
 それに答える言葉は、だれからもあがらなかった。



 砦の一階から厩へ続いている廊下を走りながら、ハリオは爽快に声を張り上げた。
 「うっひょー! 見たかよ、さっきの?」
 聞かれたサブリは、首を振って否定する。
 「い、いや、目閉じてたから」

 「こうさ、突然走り出したかと思ったら、コレン輝士が晶気を使う寸前に身を低くかがめてよ、いきなり後ろに回ったかと思ったら頭を後ろから思い切り壁にドーンッと押しつけて……。ミヤヒにボコられてたのを見た時はただのヘタレだと思ってたけど、あの度胸は半端じゃねえよッ」

 興奮気味に喋るハリオの説明を聞いても、実際にそれを見ていないサブリにはいまひとつピンとこなかった。輝士を相手に、ただの従士が本当にそんな立ち回りをできるのだろうか。だが考えるだけ無駄だとすぐに思い直る。ハリオの話した通りの結果を、サブリはたしかに自分の目で見たのだから。
 廊下を抜けた先、薄暗い厩に入ると二頭の若い馬の手綱を引いて、ヤイナが待機していた。

 「ばあさん、すげえんだこいつ、さっきさ――」
 いつも捻くれた態度で冷めた事しか言わないハリオが、少年のような顔で興奮している。一瞬で人を変えてしまうほどの光景をシュオウが披露したのだとしたら、それを見逃した事が今更惜しくなってきた。

 「誰かが後を追ってきてるかもしれない、急がないと」
 シュオウはハリオの言葉を遮った。
 「そうだね、早くお行き。女王の言った期限からもう今日で三日目なんだろ。大急ぎでも間に合うかわからない。馬は若いのを二頭選んどいた。ちょっとくらいの無理には耐えてくれると思うんだけどね」
 ヤイナの言った通り、用意されていた馬は比較的若く、健脚なものが選ばれていた。

 「それと、こいつを――」
 ヤイナはシュオウの荷袋を持ち上げて渡した。
 「にぎりめしをいくつか入れておいたよ、昨夜の残り飯だし、急ごしらえで味は保証できないけどね。道中の腹ごしらえに使いな。あと、悪いとは思ったんだが、袋を開いたときに見覚えのある物を見つけてね」
 ヤイナは言って、一本のムラクモ刀を見せる。実際に普段から腰に差すものと違い、刃の少し短い予備刀であるようだった。
 「それは……アベンチュリン王都へ行く前に、ヒノカジ従曹から借りたままになっていて」
 シュオウはヤイナの握るムラクモ刀を見つめてそう説明した。
 「そうかい。あの人が若い頃から持ち続けてたもんだ。これを預けたってことは、あんたの事を信用してたんだろうね」
 ヤイナはムラクモ刀をシュオウに差し出す。
 「でも、これは……」
 「いいんだよ。あの人だって、たぶん坊やにあげるつもりだったんじゃないかと思うんだけどね。使えなかったとしても、売れば多少のたしにはなる。いざってときのために持っておいき」
 シュオウは躊躇いを見せた後、緊張した表情で受け取った。
 
 「さて、行こうぜ! 時間ないんだろ」
 ハリオはしんみりとした雰囲気を払うように声を張り上げながら黒鹿毛の馬に跨った。サブリは体格の良い鹿毛の馬に跨る。
 「お前はどっちに乗るんだよ」

 問われたシュオウは迷わずサブリのほうを選択した。
 だが――
 「…………ねえ。これ、おかしくない?」
 シュオウがよっこいしょと乗り込んだのは、サブリの後ろではなく前だった。丁度サブリがシュオウを抱きかかえるような形となる。
 「別におかしくはないんじゃないか」
 ハリオが目を細めながらそう言った。

 「おかしいって! 普通こうやって乗せるは女子供だよ。なにが悲しくて三十を目前にして馬の上で男を抱きかかえなきゃならないんだよ」
 サブリは半べそ気味に訴えた。

 「凄く疲れてて、背中を預ける所が欲しいんです……」
 眠たそうな目のシュオウが後ろを振り返り、サブリに詫びるように小さく頭を下げる。今にも倒れてしまいそうなほど元気をなくしたシュオウを見て、サブリはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 「しょうがねえな……ハリオ、後で交代しろよな」
 「休憩する暇があればな」
 ハリオはくつくつと笑っていた。間違いなく交代してやろうなどという優しい事は考えていない顔だ。

 「くっちゃべってないで、準備ができたならさっさと出な」
 ヤイナは二頭の馬の腹に触れる。
 シュオウはヤイナを見て、最後の言葉をかけた。
 「出来る限りのことはやってみます。だから――」
 「ああ、頼むよ。けど、無茶はいらないからね。無理だと思ったらあたしらの事なんか忘れて、どっかに逃げちまいな」
 ヤイナは軽く笑ってそう言うが、本音では藁をも掴む心地だろう。

 厩を後にして、門をくぐる。夜まで降っていた雨は止み、周囲の空気は湿気をほどよく含んで、砦内を走り続けで火照ったサブリの体を冷ましてくれた。
 一直線に休まず西を目指せば、半日ほどで王都に近づく事ができるだろう。

 馬上でのシュオウは、出発してまもなくサブリに体を預けて、寝息をたてはじめた。首をがっくりとおとし、それでも両手でしっかりと鞍の出っ張りを掴んで離さない。
 「器用なやつだなあ。普通こんな状況で眠れるか?」
 サブリが言うと、ハリオも同意する。
 「ああ、変わってるよこいつ。見た目も、中身もな」
 「めんどうな事になったよ……」

 一日前まで、何事も平穏なシワス砦の中で、寝て起きて食って、簡単な仕事をこなしているだけの日々だった。それが今では上官に逆らい、雲の上よりさらに天高くにいるような大貴族に会うために王都へ向かっている。

 「本当にな。けど、ちょっと面白そうだよな」
 押し殺したような笑みを浮かべながらハリオは言った。
 「うん……まあ、そうかもな。ちょっとだけ」
 これまでの人生の中で、これほど心臓が強く鼓動する瞬間をサブリは知らない。
 腕の中でのんきに寝入るシュオウの重みを感じながら、サブリは強く手綱を握りしめた。




[25115] 『ラピスの心臓 従士編 第三話 残酷な手法』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:82df30cd
Date: 2013/10/04 19:33
   Ⅲ 残酷な手法










 その男は、奇妙な人物だったのだという。
 どんなところがですか。そう問うと、一瞬の間を置いて答えが返ってきた。

 その男は医術を修めていた。
 性格は実直で勤勉。忠義心に厚かった男は、敬愛する主君の助けになるのならと、傷ついた兵を癒すために戦場へ赴いた。
 やりがいのある仕事だった。
 負傷兵を癒しては送り返し、また重傷者も明日の戦力になると信じて懸命に処置を施した。

 だが、命の危険も顧みず自らの仕事をこなすうち、男はそれだけでは満足できなくなってしまった。
 劣勢に立たされる主君のため、自身の手で戦いたいと強く願ったのだ。
 使命感のようなものにかられた男は、自身の素養と経験、そして長らく兵達に付き添って得た観察結果を活かして、独自の戦い方を考案する。

 男の活躍は凄まじかった。武器を持たず、身一つで敵陣へ乗り込み、たった一人で常軌を逸した戦果を残した。
 当然、人間が一人で大群をすべて制する事などできるはずがない。だが、英雄的な活躍をする男を見た味方の兵達は大いに勇気づけられ、彼を象徴として熱狂的に高まった士気により、最終的に華々しい勝利を得る事になったという。

 その話を聞いたとき、きっと自分の目は輝いていたに違いない。
 人々を魅了し羨望の眼差しを集める英雄物語。だが、かたりべの表情はとても不愉快そうに歪んでいた。

 「勝利を得た国にとって、この男が英雄的な行いをしたのは間違いない。けどね、その方法を初めて知ったとき、私はなにより心地が悪いと感じたんだよ」

 戦場を縦横無尽にかけ巡り、たった一人で大きな成果を残した男は、しかしただの一度も人を殺めるということをしなかったのだという。
 正確に迅速に、男が体得し実行したのは、自分の体一つで相手を殺すことなく無力化するという風変わりな手法だった。

 男が通った後には、戦意を失い一時的に行動力や判断力を失った敵兵達が残されていく。そんな彼らを生かしたままにしておけば後に再び戦力となって現れるのは必至である。
 翼をもがれた鳥達は、ただ地面をのたうちまわるだけだった。

 「戦に死はつきもの。けどね、この男は自分がやりたくない事をすべて他人にまかせたんだ。命を弄び、勝者としての義務を放棄した」

 勝利を得るという事は、同時に敗者の命を背負う事でもある。
 自然の理がそうであるように、人もまたそうでなくてはならない。
 かたりべは、めずらしく熱心な口調で自身の考えを語った。

 「この話を私に聞かせた人は、この男の事を褒めそやしていた。とても慈悲深い人だとね」

 虫の羽をもいで喜ぶ子どものように、その男は、人が生きるための力を、そして戦う意思と心を奪って、戦場に置き去りにした。
 男のしたことに慈悲などない。ただ自分の想いのために、成果と効率を求めて行動したにすぎない。
 その理念には一切の迷いがなく、そして残酷であった。
 
 「私は思ったんだ、反吐がでるような話だとね」
 最後にかたりべはそう言って、口元だけで笑ってみせた。










 ムラクモ王都は完璧なまでの雪化粧でシュオウ達を迎えた。
 きちんと除雪された街路。そこを行き交う人の多さと活気に、なつかしさすら感じる。物珍しさからシュオウに送られる視線もまた、同様であった。

 「うっへえ、相変わらずだよな、この人の多さは」
 街の中心へ続く大通りを眺めながら、ハリオが呆れたようにこぼす。
 「この、鬱陶しい虫もッ! 王都に来るとこれが嫌なんだよ――こいつ、よそにいけッ」

 人の血を吸う虫〈コキュ〉を、サブリは苛立たしげに手で追い払う。
 コキュは通常、人間の手に余るほど素早く飛び回るが、元来ずば抜けて動体視力の良いシュオウにとっては、対処するのに難儀はしない。

 「お前は肥えてるからな、旨そうな血の臭いでも漂ってんじゃねえのか?」
 ハリオはからかう調子で言った。
 「そんなのあるわけないだろ……ああ、もう、なんで纏わり付くんだ。俺虫は苦手なのに、もうッ」

 サブリは本当に不快な様子で、目でまったく追えていないコキュを遠ざけようと、手をがむしゃらに振り回している。
 シュオウは手をサッと伸ばして、サブリにまとわりつく数匹のコキュを瞬時に握り潰した。手の中で潰れたコキュを払って捨て、その様子を言葉もなく見ていた二人に声をかける。

 「行きましょう」
 先導するように前を歩き始めると、背後から二人のぼそぼそと話す声が聞こえてきた。
 「あの虫って、掴み殺せるようなもんだったのか……」
 「やっぱ、あいつ変わってるな」

 内緒話なら聞こえないようにしてほしい、とシュオウは思った。


 王都の中心に位置する、円系に大きく広がる広場には、より一層多くの人々が行き交い、あらゆる食べ物の露店が並んでいる。
 商店や屋台が多く立ち並ぶ区画まで来ると、不意に離れた所から自分を呼ぶ声が聞こえた。
 「シュオウ!」
 覚えのある男の声に反応して振り返ると、人混みの中でぽつんと一つ出た、派手なつるつる頭を見つけた。
 「……クモカリ?」

 人をかき分けるようにして出てきたのは、共に深界踏破試験を経験した仲間、巨体に厚化粧の男、クモカリであった。

 「やっぱり! 珍しい髪の色だからもしかしてって思って声かけたんだけど、間違いなかったみたいね。どうしたのよ、こんなところで? それになんだか酷い顔……」

 安定感のある落ち着いた声音と、優しく気遣うような眼差しを受けて、ひさしく感じていなかった安堵が心に染みていく。
 目頭の奥にほんのりと熱いものを感じていたシュオウに、ハリオとサブリが無神経にも水を差した。
 「なにこれ、でかッ!」
 ハリオはクモカリを見上げながらそう叫び、
 「うえ、オカマ!?」
 サブリはそう言ってハリオの背中に隠れた。

 初対面にも関わらず、まったく遠慮のない物言いの二人を前に、クモカリの人となりを十二分に承知しているシュオウは、あまり良い気分はしなかった。

 「なによ……このムカデと饅頭みたいなの。あなたの連れなの?」
 不愉快な気分を押さえ込んだように、小声でクモカリが聞いた。
 「ここまで送ってもらったんだ」
 「ふうん、そう。まあいいけど。それより、ちょっと休んでいきなさいよ。ゆっくり話もしたいし」
 クモカリはそう言って、後ろにある店の看板を指さした。
 「あれは?」
 「あたしのお店、よ」

 立派な鉄製の看板には、白い蜘蛛の糸の絵の上に〈蜘蛛の巣〉と書かれている。

 「すごいな。もう自分の店を」

 「都合良くここにあった店が建物付きで売りに出ててね、幼馴染みの夫婦とお金を出し合って買ったのよ。といっても高かったから頭金ぎりぎりで残りの返済もたんまりとあるんだけどね。さすがに一等地だし仕方ないわ。ちょっとしたお茶や軽食を出す予定だけど、これからガンバってガンガン稼ぐつもり。……ねえ、寄っていきなさいって、あたし達の練習にもなるからお金の事は心配しなくてもいいのよ」

 クモカリのたくましい腕がシュオウの手を引く。シュオウは足に力を入れ、抵抗した。
 「悪い、今は無理なんだ」
 クモカリは一瞬きょとんとするが、真剣なシュオウの顔を見つめて、微笑み、手を放した。
 「わかったわ。あたしで力になれることがあったら――」
 最後まで聞かず、シュオウは駆け出した。去り際、ありがとう、と告げて。

 慌てて後を追いかけてくる二人は、何度かクモカリのほうを振り返っていた。
 「いいのかよ? 知り合いなんだろ」
 聞いたハリオに、シュオウは頷いて答える。
 「いいんです。また会えますから」

 あれ以上側にいると、きっと頼ってしまいたくなってしまう。
 自分を知る人間が側にいてくれるというのは心強いものだ。だが、クモカリも新たな人生を歩み出している。そんな彼の邪魔はしたくなかった。

 「あのオカマさん、飯おごってくれるって言ってたんじゃないか? 俺腹減ったよ」
 サブリはぷっくりと出た腹を押さえながら呻いた。

 二人はシュオウに付き合い、シワス砦から時間をかけて馬を飛ばしてきた間、乾いた握り飯しか食べていない。シュオウも小さな飯の塊を僅かに食べただけだ。本来なら空腹に悲鳴をあげてもよさそうな頃合いだが、それでもなお、空腹感をいっさい感じない事が不思議だった。

 胃のあたりには、どっしりと重い不快感が居座っている。
 ――この感覚。
 胃をわし掴みされているような気持ち悪さ。アベンチュリンを出て以来、それがずっとつきまとって離れない。

 ちょうど大広場を抜けた頃、サブリの腹がぐるぐると低い音を奏でた。
 食欲のないシュオウはかまわないが、流れで付き合わされている二人にいつまでも食事を我慢させるのは心苦しい。

 「ここで別れますか?」
 足を止め、二人に問いかける。
 「なんだよ。ついてくるなってことか?」
 ハリオは眉根を寄せた。
 「二人とも疲れてるだろうし、腹も減ってるみたいだから」
 「腹減った」
 間髪入れず言ったサブリに、ハリオが怒鳴る。
 「黙ってろよ! ――俺達はついて行くぜ。お前の話が本当ならアデュレリア公爵に会えるかもしれないんだろ。ちょっとおっかねえけど、そんな機会一生に一度の事だしよ」
 「俺は怖いよ……だって、あの氷姫だぜ」
 「まあ聞けよ、サブリ」

 ハリオはサブリを呼び寄せ、シュオウから少し距離をおいてひそひそと相談を始めた。
 本人達は内緒話のつもりなのだろうが、特別地獄耳というわけでもない平凡なシュオウの聴覚でも、二人の打算に満ちた話し声はまる聞こえだった。

 「あのな、俺達は上官に逆らってここまで来たんだ。それも囚われてたあいつに協力までしちまった。わかるか?」
 「わかってるよ、そんなこと……」
 「つまりだ、俺達はお尋ね者も同然。このままシワス砦に戻ったって、これまで通りに仕事ができるわけがない。あの冷たい牢獄に放り込まれるのがオチだ」
 「そうだな」
 「そこで、だ。どうせだから、このままアデュレリア公爵に顔を売って、もっとましな仕事にありつくってのはどうだ」
 「まじかよ……でも、氷姫様みたいな人が俺らなんかにかまうわけないんじゃ……」
 「その点ではあいつに賭ける」

 ハリオはこっそりとシュオウを指さした。隠しているつもりなのだろうが、全部見えていた。

 「賭けるって?」
 「あのよくわからん新入りは、少なくとも公爵から軍に誘われて個人的に手紙まで貰うような間柄だ。で、俺達はあいつをなんの得もないのにここまで送り届けた恩人、だろ」
 「そう言われれば、たしかに」
 「今のとこ、あいつの話がほんとかどうかもよくわからねえけどよ、とりあえず最後まで付き合う価値はあるんじゃねえか? ひょっとして、ご褒美にうまい飯でも食わせてくれるかもしれないしな」
 サブリは活発に何度も頷いた。
 「うん、そうだな。そうかもしれない。よし、そうしよう」

 シュオウの元まで戻ってきた二人は、心底満足気な様子だった。どうすればそこまで自分達に都合の良い考えができるのかと思う。
 「もういいんですか」
 「いいんだけどよ、公爵ってどこにいるんだ?」
 「水晶宮の近くに邸があるような事を聞いた事があります。誰かに聞ければいいんですけど」

 水晶宮のある山頂方面へ歩きながら、時折すれ違う警備隊の従士に聞くと、公爵家別邸の場所は簡単に知る事ができた。
 すぐ側に左硬軍の兵舎があるらしく、別段場所を秘密にしているというわけでもないらしい。

 時刻は夕暮れを間近にしている。真っ白な雪が薄紅色に染まり始め、仕事を終えて帰路につく男達と頻繁にすれ違うようになった。

 公爵家別邸は敷地へ近づくにつれ、一目でわかるほどの大きな邸と建物を包み込むようにして広がる立派な中庭が見えてきた。
 さらに奥には兵舎のような建物も伺える。

 公爵家の敷地の前には屈強な警備兵達が多数いる。全体が広いこともあり、それを警備するための人員も相当な数がいるのだろう。
 ざっと見渡しただけで、アベンチュリンの城を守っていた兵の数を遙かに超える兵員が置かれていた。

 シュオウ達が別邸の入口に近づくと、警備兵達は露骨に殺気立った視線を向けてきた。しだいに距離が縮まり、声が届くところまで距離が縮むと彼らの警戒はさらに強くなる。

 「そこの三人、止まれ! 許可があるまで一歩も動くな」
 零れんばかりの警戒心を発しながら、腰の剣に手を当てて近づいて来る警備兵。
 物々しい空気に、軽い緊張を感じる。

 「その格好……お前ら軍の人間か。顔に見覚えがないところをみると左硬軍の所属ではないな。ここへなんの用だ」
 「アデュレリア公爵に会わせてください」

 直球に言ったシュオウを、この馬鹿は何を言っているんだといわんばかりの呆れた顔で警備兵は睨め付けた。

 「馬鹿かお前は。望んだからといって、ほいほい会えるわけがないだろう」
 シュオウはアデュレリア公爵から渡された手紙を差し出した。
 「なんだ?」
 「公爵からもらった物です。これで証明になりませんか」

 知り合いであることの証として見せたつもりだったが、警備兵の警戒心は頂点に達したようだった。中身を確認するまでもなく、跳ねるように一歩下がり、剣の柄を握りしめる。

 「なんのつもりだ。ムラクモでも三指に数えられるの大貴族、アデュレリア公爵様が、一介の従士に文を出した等と……閣下に近づくための嘘にしては随分とお粗末だな。その髪の色からしてあやしいと思っていたが、北方の間諜ではないだろうな、貴様」

 様子がおかしくなった事を察した他の警備兵達も足早に駆けてきた。
 「おい、まったく信用されてないみたいだぞ。やばくないか、これ……」
 シュオウの耳元でハリオがそう囁いた。
 「信じてください。公爵とは顔見知りなんですッ。大切な用があって、今すぐにでも相談したいことが――」

 焦燥感に駆られて一歩を踏み出すと、警備兵はいよいよ剣を抜いた。

 突然、サブリとハリオがシュオウの両脇を抱える。
 「すいません、こいつ寂しくなると嘘をつく癖があって」
 ハリオが軽いノリで言って頭を下げる。
 「放せ――嘘じゃないッ」
 両腕にまとわりつく二人を引きはがそうと暴れるが、ろくに食べていないせいか、力はなく、思う通りに体は動かなかった。

 「おい、やめとけって。こいつら聞く耳まったくないみたいだ」
 ハリオは必死にシュオウを宥め、この場から一時的に立ち去る事を勧めた。だが当然、それを素直に受け入れるつもりは毛頭ない。この場から逃げたところで、他の方法で公爵に会う方法がわからないからだ。なにより、時間は限られている。

 「この手紙の確認だけでも!」
 「まだ言うのか。いいかげんにしろよ、立ち去る気がないのなら、この場でお前達の身柄を抑えて王都警備隊本部に突き出すぞ」

 一色触発の緊張した空気が張り詰める。なかば諦めかけていた、その時だった。

 「騒がしいぞ」
 凜とした女の声がした。すると、殺気立っていた警備兵達は即座に姿勢を正して、その場に直立する。
 「あ、あやしい男達が重将に会わせろなどと騒いでいたもので」

 警備兵達の間から現れた人の姿を見て、シュオウは安堵を覚えた。

 「カザヒナさん?」
 「あら?」
 姿を現した女輝士は、シュオウに気づくと厳しかった表情を和らげた。
 おっとりとした垂れ目に、二の腕あたりまである青が混ざった薄紫色の髪。すらっとした身長と、目を惹かれるほど美しい姿勢。
 アデュレリア公爵の副官であり、また血縁者でもあるという彼女に会うのは、これで三度目になるだろうか。

 「うわ、輝士だ……」
 カザヒナに気づいたサブリとハリオは、抱えていたシュオウを解放する。

 「こんなところでどうしました? たしか、シワス砦の配属になったと記憶していますが」
 カザヒナは落ち着いた声音で、不思議そうにシュオウを見た。
 いきり立っていた警備兵達は、親しげなカザヒナの態度を見てぽかんとしている。

 「アデュレリア公爵に今すぐ会って話をしたいんです」
 「アミュ様なら、丁度これから近場を散歩するとおっしゃられて――」

 カザヒナが後ろを振り返りながら言うと、モコモコの防寒具に身を包みながら、小さな体でとことこと少女が歩いてきた。
 その人を見て、シュオウは声をあげた。

 「アデュレリア公爵!」
 周囲で呆然と佇んでいた警備兵達が、シュオウの声に反応したかのように叩頭した。
 「ん?」
 氷長石有するアデュレリア一族の当主であるアミュ・アデュレリアは、突然の訪問に驚いている様子だった。

 しかし、この場の空気を意にも介さないサブリとハリオは、場を凍り付かせるような言葉を吐き出す。
 「アデュレリア公爵だって? これが? 嘘だろさすがに」
 とサブリが言って、
 「ちっさ!」
 とハリオが声を張り上げた。

 シュオウは当然、警備兵やカザヒナ、当のアデュレリア公爵もまた、瞬きも忘れて二人を見つめる。
 この瞬間、シュオウの頭にはある考えが浮かんでいた。

 ――この二人、いつか絶対口で失敗する。

 ある意味では勇者かもしれない二人を、アミュはとりあえず無視することに決めたようだった。

 「……ひさしいな。こんなところでの再会はちと驚かされたぞ。最後に見かけてそう時もたっておらぬが、少し髪が伸びたように見えるな」

 アミュの親しげな挨拶に安堵する。心のどこかでは、もう自分を相手にしてくれないのではないか、という不安も少なからずあったからだ。

 「聞いてほしい話があって来ました」
 挨拶もろくに返さず、シュオウは真剣な顔で言った。
 「うむ。その様子を見るに、世間話をしにきたというわけでもなさそうじゃな。まあまずは邸に入れ」

 来た道を戻るため、振り返ったアミュの小さな手を、シュオウは咄嗟に掴んでいた。その瞬間、地面に伏していた警備兵達が体を起こして剣の柄に手を当てる。

 「騒ぐな」
 アミュが厳粛に言うと、彼らは手を納めて頭を落とした。
 「急いでいるんです」
 シュオウは小さな手を放して、懐から金筒の書簡を取り出す。
 「これを見てください」
 目の前に出された書簡を不思議そうに見つめた後、アミュはそれを受け取った。

 「アベンチュリン……女王からの――」
 中身を開いて確認するうち、アミュの表情は険しさを増していく。
 「これを直接受け取ったのはそなたか?」
 「はい」
 「これを受け取って、今日で何日目じゃ?」
 「……四日目です。夜になれば、すぐに五日目になってしまう」
 「なるほどな。とにかく中へ入るがよい。外は冷えるでな」
 「待ってください! 時間がないんですッ」

 シュオウは精一杯の気持ちで叫んだ。それと同時に失望も感じる。のんきにしているアミュを見て、この人も頼りにならないのではないか、と思った。

 「それは理解しておる。じゃが、今すぐにどうこうできる問題でもない。事を起こしたのが一国の主である以上、これは国と国との問題じゃ。我に頼ってくれた期待を裏切るつもりはない。借りを返す好機でもあるからの。とにかく、まずは入って体を温めよ。口元の傷の手当てもしたほうがよいじゃろうな――カザヒナ」

 アミュの呼びかけに、カザヒナは姿勢を正して即座に返答した。
 「はい。そのように」
 「うむ。それともてなしの支度もせい。当家は客人としてこの者を受け入れる」
 アミュがそう言うと、後ろで呆然と様子を伺っていたサブリとハリオが、声をあげた。
 「あ、あの……俺たちは……」
 アミュはじっとりとした視線で二人を見た。
 「こやつらはなんじゃ?」
 アミュはそう言ってシュオウを見る。
 「シワス砦の人達です。ここまで無理をして送ってくれました」

 そう聞くと、アミュは品定めするように二人を観察して、言った。
 「まあよかろう。イチオウ客人として受け入れる。王都にいる間の滞在を許そう」
 アミュはそう言い残してさっさと邸へ足を運んだ。
 サブリとハリオは互いに顔を見合わせて、こぼれんばかりに笑顔を浮かべていた。

 邸へと続く広大な中庭を歩く。
 夜が近づき、暗くなる前に使用人達が忙しなく水を溜めた透明な容器に、夜光石の塊を落としていた。

 シュオウ達三人はカザヒナの後を付いて歩いている。
 少し離れてついてくるハリオとサブリは、いまだ興奮冷め止まぬといった様子で言葉を交わしていた。

 「やっべえ、まじで俺たちアデュレリア公爵に招待されたんだな」
 「こんなの、故郷の連中やシワス砦のやつらに言ったって信じないよ。でもさあ、俺たちろくに頭も下げてなかったけど、いいのかな?」
 サブリは不安を含めて小さく呟いた。
 「しょうがねえだろ、まさか公爵があんなちびっ子だなんてこれっぽっちも頭になかったんだからよ。俺はてっきり皺だらけで腰の曲がった偉そうなババアが出てくるもんだとばっかり思ってたからな」

 そんな失礼な物言いを続ける二人の声を聞いていると、カザヒナが苦笑しつつシュオウに声をかけた。

 「変わった人達を連れてますね」
 「なんか……すいません」
 むしょうに恥ずかしさを覚えたシュオウは、思わず謝ってしまう。
 「あなたが謝る必要はないでしょう。まあ、彼らが私の部下なら、即座に怒鳴りつけて気絶するまでこの辺りを走らせているところですけど」

 カザヒナは戯けて言うが、明るい紫色の双眸はけっして笑ってはいなかった。
 それを受け、シュオウは引きつった笑みを返すに止める。
 カザヒナが若い輝士達を勇ましく怒鳴りつけている光景を見たことがあるシュオウには、カザヒナの言っていることが冗談を言っているようには聞こえず、薄ら寒いものを感じたのだ。

 アデュレリア公爵家の邸に近づくほどに、その姿に圧倒された。外観は光沢のある美しい水色の石を正確に積み上げた建築様式の二階建て。大きな玄関には馬車をそのまま迎え入れる事ができるよう、巨大な屋根が設けられている。青い色の陶器の屋根は、雪が溜まらないよう急な傾斜がつけられていた。
 建物の入口には、剥きだしの鋭い歯で氷に食らいつく狼という、アデュレリア公爵家の紋章をあしらった旗が掲げられている。

 全体的に派手さは抑えられているが、造りそのものはしっかりしていて、おそらくシワス砦よりはるかに堅固だろうと思わせる。
 邸宅というよりは、要塞といったほうが適切な雰囲気さえ漂わせていた。

 若い女の使用人達に導かれ、建物の中に入る。
 外の印象より中は一層地味だった。
 内装は最低限の飾りがほどこされている程度で、これといって目を惹くような物はない。が、天井はほどよい高さで、建物の中だというのに不思議な開放感があった。
 最初に通された部屋は控え室のような場所で、長椅子と暖炉が設置されている広々とした空間だった。

 そこでシュオウ達三人は着替えを促される。別段臭うということもないはずだが、着っぱなしの従士服はすっかり汚れていたので、大人しく従うことにした。
 渡されたのは白の肌着と、ゆったりとした白いズボンだ。着心地は凄まじく良好だった。やや薄手なところを見ると来客用の寝巻きなのかもしれない。

 ハリオは葡萄色のを、サブリは鼠色の上下に着替え、着ていた物を若い使用人の少女達へ手渡した。
 シュオウも着ていた物を求められ、手渡そうとした時、それを部屋の入口で控えていたカザヒナが止めた。
 「それは私が――」
 シュオウの着ていた物一式を、カザヒナが横からするっと掠う。
 「カザヒナ様がそのようなッ」
 少女は慌てたようにカザヒナの手からシュオウの着ていた物を奪おうとする。が、カザヒナは巧みに一歩下がり、するりと躱した。
 「気遣いは無用ですよ。あなたはその服を洗濯室へ。これは後から私が持っていきます」
 カザヒナは使用人の少女へ微笑んでみせる。
 「あの、でしたらついでにそれも――」
 少女は再びカザヒナの手元に手を伸ばした。
 「最近運動不足なので、このくらいは後で持って行きます。あなたはそこの二人を食堂へ案内してください」

 カザヒナはしれっとした表情で言って、少女を手で制する。
 有無を言わさぬ妙な迫力が込められたカザヒナの様子に、少女は怯えた様子で頭を下げ、サブリとハリオの二人を連れて退室した。

 「さあ、こちらへ。傷の手当てを」
 カザヒナは手に持っていたシュオウの衣服をいったん置いて、用意してあった治療用の道具一式を見せた。
 「カザヒナさんが?」
 「これでも戦場へ出る身ですから。簡単な傷の処置くらいは習得しています」

 呼ばれるままに椅子に腰かける。
 カザヒナは消毒用の薬液を清潔な布へ垂らし、シュオウの口元へ当てた。
 「いっつ」
 傷口に走った浸みるような痛みに思わず声が漏れた。
 「少し膿んでいますね。これ以上悪化する前に処置ができてよかった」

 カザヒナは慎重かつ手早く処置をすませていく。
 傷口を消毒していく行程は痛いが、最初からわかったうえでしてもらっていることなら、いくらでも我慢はできた。

 「公爵は?」
 「アミュ様でしたら、調理場であれやこれやと指示をされている頃だと思いますよ」
 カザヒナはくすりと笑む。
 「突然来て、無茶を言ったりして、迷惑に思われてないでしょうか」

 「あなたについては、迷惑だなどとはかけらも考えておられないと思います。軍へ誘っておきながら、自分の手を離れてしまい、あなたに迷惑をかけたと気にされていましたからね。……それにしても、あなたもなかなか面白い方ですね」

 カザヒナは処置を続けながら、そう言った。

 「俺が、ですか?」
 「初めて見かけたときは、とても勇ましい様子で若輩の輝士達と対していました。かと思えば、次にアミュ様と会いに行った時には、風のない日の湖面のように静かで。そして今回で三度目の対面となりますが、今のあなたはとても怯えて見える。会う度にまるで別人のように見えるのですから、これは面白いという感想を抱いたとしても無理はないと思うのですよ」

 火の入った暖炉から、パチパチと木片がはじける音が鳴った。

 返す言葉が見つからず、シュオウは黙ったまま目を逸らした。
 カザヒナの言葉の通り、今の自分は、師の元を飛び出した頃とは似てもにつかないだろうということくらいは自覚している。
 視線は前ではなく下へ向き、背骨がどこかに消えてなくなってしまったのではないかと思うほど、背中も丸い。

 アイセやシトリ達が、今の自分を見たらどう思うのだろうと考えると怖かった。きっとカザヒナと同じような感想を抱くに違いない。
 ――失望するだろうか。
 定まらない心は不安を呼び、不安は恐怖や猜疑の心を招く。
 自身の精神状態がとても不味い状態であることだけは間違いない。
 どうにかしなければと思いながらも、そこから抜け出す方法がわからなかった。

 「さて、こんなところでしょうか」
 ぼうっと考え事をしている間に、カザヒナは傷の処置を終えていた。
 傷口をそっと手で触れると、ぬるりとした感触が指先に伝わる。おそらく、軟膏のようなものを塗られたのだろう。

 「ありがとう、ございます」
 「このくらいのこと、お気になさらず」
 カザヒナはシュオウの礼を軽く受け取って、治療に使った道具を片付けた。そのまま部屋の扉に手をかけると、姿勢を正してシュオウに向き合う。

 「それでは、食堂へ案内させていただきます。過度に畏まる必要はありませんが、多少の緊張感を心のすみに置いてください。アデュレリアの当主が直々に会食の相手をする機会は、そうそうあることではありません」
 神妙な面持ちで承知した事を伝えると、扉はゆっくりと開かれた。


 案内されて、だだっ広い部屋に通される。
 部屋の中心には、大きな長方形の食卓がぽつんと置かれていた。
 机の上に一列に置かれている蝋燭が、温かい橙色の炎で机上を照らしている。
 ずらりと並べられた高そうな食器には、まだなにも乗せられていなかった。

 食卓のすみで、居心地の悪そうに肩を縮めて座っているのは、サブリとハリオの二人だった。あまりにも身分違いの状況に今更萎縮してしまっているようだ。

 食卓の一番奥にちょこんと座っているのはアデュレリア公爵だった。子どもにしか見えないその小柄な体のせいで、部屋に入ってすぐには姿を見つけられなかった。

 シュオウが怯えて縮こまる、サブリとハリオの近くに座ろうとしたとき、アデュレリア公爵がそれを止めた。
 「そこでは話ができぬ。こちらへ」
 後方で待機していたカザヒナに軽く背中を押され、シュオウはアデュレリア公爵のすぐ近くの席に腰をおろした。

 「あの、色々と――」
 あらためてお礼の言葉を述べようとしたとき、アミュの小さな手の平がそれを制した。
 「礼には及ばぬ。急ぎ料理を支度させているが、まだもうしばらくかかるであろう。それまでに、事の子細を聞いておきたいが、話せるか?」
 「はい。そのためにここまで来ましたから」

 見た目には、どこからどう見ても幼い少女である目の前のアデュレリアの当主に、シュオウは起こった事、見た事聞いた事のすべてを話して聞かせた。
 アミュは黙ってシュオウの話を聞いて、時折頷いたり、考え混むような仕草をみせていた。

 「なるほど。だいたいのことは理解がいった。馬鹿なことを……」
 アミュは深く息を吐いた。
 「それで……なんとかしてもらえるんですか?」
 「それは、そなたがどうしたいかにもよる」
 「……どういう意味ですか」

 アミュのクリクリとした大きな紫色の瞳が、シュオウを正面から捉える。

 「囚われた従士達を助けたいのか。もしくは、今回の件を忘れて身の安全を保証してもらいたいのか。つまりはそういうことじゃ。それによって、こちらもどのような行動を選ぶべきかを考えねばならぬ。後者であればたやすい事。そなたの身はアデュレリアの名に賭けてかならず守りきってみせると約束しよう」

 そう聞かれて、シュオウは急に湧いてきた生唾を飲み下した。
 シュオウがここまで来た目的は、女王に囚われたヒノカジとミヤヒを救出のための力を借りるためだ。なのに、アミュにどうしたいかを改めて問われて、彼らを助けたいのだと即答できなかった事に、戸惑いを覚えていた。

 「俺は、あの人達……ヒノカジ従曹とミヤヒさんを助け出したいと思ってます。そのためにここへ来ました」
 伏し目がちに言ったシュオウの顔を覗き込むように、アミュはしばらくじっとシュオウの顔を見つめていた。

 「うむ、承知した。我の管轄外の事ではあるが、囚われた従士を取り戻すために尽力することを約束する。じゃが、一つだけ言っておかねばならない」
 もったいつけたような言い方に、シュオウは返事をして続きを促す。
 「はい」
 「言いにくいことではあるが、そなたの望んでいる事を成すのは簡単な事ではない。そうするために努力をするとは言えるが、絶対に助け出すことができるとは言えぬのが現状じゃ」

 そう聞いて、疑問を覚えた。

 「待ってください。アベンチュリンという国はムラクモに屈服している国だと、そう聞いています。そんな国が、いくら女王とはいえ、勝手にムラクモの人間を監禁して、それをこの国が黙って見過ごすなんて……」

 声を荒げるシュオウを冷静に見守り、アミュは一つ頷いた。

 「うむ、もっともじゃ。じゃがな、そなたが渡された書簡を見るに、あれは正式な文書として通じるだけの説得力を有しておる。筆跡、署名、押されている印からして、どこへ出しても真実アベンチュリン女王直筆のものであると言って通用するであろう」

 「それが?」

 「つまりじゃ、これだけの事をして、なおかつそれを公式に喧伝するような文まで書いているということは、今回の件がムラクモの上層部に知られたとしても、なんら問題はないと計算したうえで、こうした行いをしている可能性が高いということじゃ。本来であれば子どもの悪戯にはガツンとゲンコツを落としてやるところじゃが、事が一国を相手にしている場合はそう簡単にはいかぬ――カザヒナ」

 アミュは視線を後方へ流して、傍らで静かに佇んでいたカザヒナを呼んだ。
 カザヒナは一歩を前へ出て、アミュから話を引き継ぐ形で語り始めた。

 「現在のムラクモは南方、および北方諸国と国境を挟んで緊張状態にあります。各国がそれぞれの思惑で牽制し合い、戦を仕掛ける好機を狙っている。そんな状態でムラクモの内部で乱ありという情報が外へ流れれば、それを好機と見て南、北の国々が呼応して攻めてくる事も考えられます。ですが、幸いな事に北方諸国と南方諸国は宗教的な根強い対立状態にあるので、そう簡単に彼らが手を結ぶとも考えられませんが、だとしても、僅かにでも自国に不利を招くような可能性を、おそらくグエン様は嫌われるでしょう」

 聞き覚えのある名前が飛び出し、シュオウは思わず呟いていた。
 「グエン……」
 カザヒナが話を終えると、アミュが再び言葉を継いだ。

 「この国の最長老であるグエン殿を、他国の者らは影の王などと呼ぶこともある。このムラクモの黎明期より王の元に仕える生きた伝説。かの人物は有能であり、民からの信頼も厚いが、石頭で融通がきかぬ。あの方が従士二人の命と国の安定を天秤にかければ、選ぶのは間違いなく後者であろう。過敏すぎるのじゃ、あの方は。いつも些細な事を気にかけ、それを理由に進むべき時にでも足を止めてしまう」

 「そんな……それじゃあ」
 絶望の淵がちらつき、顔から血の気が引いていく。

 「そんな顔をするな。状況はすべてにおいて不利というわけではない。このムラクモでは年に数度、四つの燦光石を持つ人間が集い、内々に国事を協議する四石会議というものが存在する。多くは国の行く末や、大きな決定事への事前の調整が主ではあるが、そこで出される議題になんら制限はない。我は今回の話を、その場で出してみようと思うておる」

 カザヒナが焦った様子で言葉を挟んだ。
 「閣下、ですがそれでは――」

 「みなまで言うな。現在ムラクモの王座は空位。次期継承者である王女殿下は未だ天青石をお継ぎになられていない。つまり、我を含め、会議への出席者は血星石のグエン殿、そして忌々しい蛇紋石のサーペンティア一族の当主。この三名で話し合いがされている。先に言っておくが、アデュレリアとサーペンティアは犬猿の仲じゃ。我がなにかを提案したとて、あのハゲ頭はとくに考えることもせず反対側に回るであろう」

 アミュは苦虫を百回は噛み砕いたような顔でそう言った。

 「でも、それじゃ結局」
 「そうじゃ。グエン殿の賛同を得なければならないのは同じ事。どのみちあの方を口説かねば解決策は引き出せぬ」

 無理なことをしようとしている。そう思ったが、アミュの表情は思いの外晴れやかなものだった。

 「心配するな、とまで言えぬが、こちらにもそれなりに策はある。正道ばかりが世の常ではない。そのための手段を惜しむつもりはないからな。会議は三名の都合が合致する時期を見計らって行われる。そして都合の良い事に、次の四石会議は明日の深夜の集合となっておる。その点でいえば、運はまだそなたを見放してはおらぬようじゃな」

 シュオウにはもはや頷くことしかできない。アミュが何をしようとしているのか、その結果がどうなるのか、シュオウの主観ではすべてが闇の中であり、そこから抜け出すための小さな灯火すら見いだすことができないのだ。

 まるで話に一段落つくのを待っていたかのように、粛々と豪勢な料理が運ばれてきた。
 見た事もないような高そうな素材が使われた汁物。まるまると太り、香ばしく焼き上げられた魚や肉料理が所狭しと並べられる。よく見ると、食卓の中央には時期外れの甘い果物までが豪勢に皿に盛りつけられていた。外国から取り寄せたのだとしたら、これだけでも相当値が張るに違いない。

 これだけの歓待に、すっかり怯えきっているのではないかとサブリとハリオの様子を探ってみたが、二人ともさきほどまでの様子が嘘のように目を見開いて豪華な食事にがっついていた。
 気楽なものだと愚痴の一つも言いたくなったが、一心不乱にむしゃぶりつく幸せそうな二人の様子に、僅かながら癒されるような心地もした。

 「当家がこの別邸でなせる最高の食事を用意させたつもりじゃ。遠慮はいらぬ、好きなだけ腹に放り込むがよい」
 アミュはそう言いながら、皿に取り分けられた料理に品良く箸を伸ばした。
 「……いただきます」

 一番近くにあった肉料理を口に頬張る。甘やかな上品な味付けと、ほどよく油を含んだ良質な肉だ。本来なら頬が落ちるほど旨いのだろうが、いくら噛んでも野草をそのまま噛み砕いているような味気なさしか感じない。

 ――美味しくない。

 そうした感覚は、なにを食べても変わることはなかった。
 頭の中は囚われている二人の事でいっぱいになっている。
 アベンチュリン女王の、あの横暴な振る舞いを見る限り、きっとろくに食事も与えられていないはず。そう思うと、どうして自分だけが安全な場所で美味しく料理をいただけるのだろうと、ばつの悪さが胃袋を鷲掴みにするのだ。

 

 夜更けに、ふと目が覚めた。
 食後に案内された客用の寝室で、大きなベッドに体を横たえてからどれだけの時間がたっただろう。

 とめどなく溢れてくる雑多な考え事と、浅い眠りに訪れる一時の夢とも区別がつかない時間をすごしているうちに、時間の感覚がわからなくなってしまった。

 暖炉の炎は消えかかり、真冬の夜の冷たい空気が指先の動きをわずかに鈍らせている。
 少しでも眠りたいという意思とは逆に、目蓋は時間が経過するほどに軽くなっていく。
 なにもせずにいる一人きりの時間が、途方もなく息苦しい。

 ここ数日ですっかりくたびれてしまった革靴を履いて、シュオウは一人冷たい廊下へ歩を進めた。
 邸で働く人々の姿はない。皆が寝静まった頃なのか、周囲からは物音一つ聞こえなかった。

 自らの足音だけを耳に入れながら、ふらふらと邸内を歩いているうち、雪の降り積もる庭園までたどりついていた。

 風もほとんどない雪の降る夜。
 月明かりもないのに、純白の冷たい絨毯は、ぼんやりと夜の庭園を白光で照らしている。

 広い庭園の中央にある屋根のついたテラスが目に止まった。
 風がないためか、そこだけほとんど雪も当たっておらず、石造りの長椅子が、ここで休んでいけといわんばかりにシュオウの目を惹いた。

 寒さで氷のように冷やされた椅子に腰かけても、それを苦痛には思わなかった。
 ひんやりと硬い感触に背を預けて、ふゆふゆと降りてくる雪をじっと眺める。そうしていると、現実感が失われ、幻想の世界を垣間見ているような心地に囚われた。
 非現実的な世界に迷い込んでしまったかのような感覚が、今の自分にとってはなんともいえず心地良い。

 唐突に感じた人の気配が、シュオウを現実に引き戻した。

 「眠れぬか?」
 ふかふかした紫色の外套に身を包み、そう声をかけてきたのはこの邸の主であった。
 「そうみたいです」
 「他人事のように言うのじゃな」

 アミュは自身の小さな体を放り込むようにして、シュオウのすぐ側に腰かけた。

 「どうして、自分がここにいるのかわからなくなります。もっと色んな事を知りたいと思って旅に出た。そうするための第一歩を踏んで、それを無事にこなすこともできた。それでまた次の一歩を踏み出した、そう思っていたんです。だけど――」

 「踏み出した足が雲でも踏みつけたような気がするか? そう言われると、そなたをこちら側へ引き込んだ我の責任ということになるのであろうな。嘘偽りなく、申し訳なくおもうておる」

 アミュが叱られた子どものような表情でそう言ったので、シュオウは狼狽した。

 「いや……自分で決めたことですから、誰かのせいだとか、そんなことは思ってないです。そういう事だけじゃなくて、色々とわからないことが多くて」
 「わからないこと、か。よければ話してみよ。こう見えてそれなりに長く生きている。出せる答えもあるかもしれぬぞ」

 アミュは手の平に、はあっと温かい息を吹きかけた。

 「もやもやとしていてはっきりしない事が多いんです。たとえば、アベンチュリンの女王の事。あの人が多くの人を統べるような立場にある事はわかっている。けど、今回あの人がしたことにいったいなんの意味があるんですか。かなえて欲しい要求があるのだとしても、今回のような乱暴なやりかたを通して、相手がそれを鵜呑みにすると本当に思っているんでしょうか」

 「細かな事情はわからぬが、少なくとも要求が通ると思ってしたことではないのかもしれぬ。ムラクモは他国からの要求をさらりと飲むようなお人好しな国ではない。我が国の従士を捕らえた場に、自国民を集めて見せ物のような事をしていたことから考えるに、強い女王の姿を見せるためにやった芝居のむきもあるのじゃろう。じゃが、それだけが理由なら、公式に通用するような書簡を持たせてまでそなたを解放した事への疑念は晴れぬがな」

 「他に目的があるということですか」
 シュオウの問いかけに、アミュは口元を引き締めて答えた。

 「であろうな。フェイ女王を遊び人の愚か者とみる風潮は根強いが、我はそこまであの者を過小評価はしていない。先王が崩御した際に、男系王族への石の継承を強く訴える家臣達を黙らせ、乱をおこすことなく早々に玉座についた手腕は評価しておる。……これは我の勝手な想像であるが、女王は量っているのではないかと推測しておる」

 「……いったいなにを?」

 「アベンチュリンという子の悪さを、ムラクモという親がどこまで許すのか。今回のようなあまりにも無茶な事を平然とやってのけたのを、我が国の近隣諸国間との不安定な情勢をみこしたうえでしている事だとすれば、まったくの無策というわけでもない。たとえそれがムラクモにとって些末な出来事であったにせよ、足場がゆるんでいると見られれば、他国は士気高く我らの領土を侵犯するやもしれぬ。であればこそ、今回のような子の悪戯にはしかたなしに目をつむる必要もある。この件がすんなりと軍の上層部に知られていたとしても、黙殺されていた可能性が高い。そうなれば今度、どの程度の悪戯をムラクモが許容するかの指標ともなるであろう。まあ、ほとんどが我の個人的な想像ゆえ、確実にそうだという話ではないがな」

 アミュの話を聞いたシュオウは、小さく息を吐き出した。
 「そんなことのために……」

 「この世界の国主すべてがそうだというわけではないが、政などというものは、そうした地味な事の繰り返しじゃ。的外れな事をする者も少なくはないがの。件の女王にしても、ただの暇つぶしで事を起こした可能性も捨てきれぬ」

 シュオウは視線を泳がせた。
 「まだ何かすっきりとしない顔をしておるな。そんなにフェイ女王の事が気にかかるか」
 「それは、別にもう。ただ、あのときの……」

 ふいに、いくつもの顔が頭をよぎった。
 考えないようにしていた事。思い出さないようにしていた事。
 今まで見た事もないような醜い表情で、暴行されるヒノカジを罵っていたアベンチュリンの民。彼らの血走った目が、今も頭から離れない。

 シュオウの様子を不思議に思ったアミュは気遣うように聞いた。
 「どうした」
 「顔です」
 「顔、とは?」
 シュオウは下唇を噛みしめた。

 「血走った目や歪んだ口元。痛めつけられる人を見て、喜んでいた人々の……。わからないんです、ただ無抵抗に嬲られていた従曹を見て、どうしてあんなに興奮して、喜んで、楽しんでいられるのかッ」
 語尾を投げ捨てるように言って、シュオウは立ち上がってアミュに背を向けた。
 今の自分の顔は、きっと泣きじゃくる幼子のように情けない顔をしている。そんな所を見られたくはなかった。

 「随分とよくないものを見たようじゃな。しかしな、その者達の気持ちも多少なりと理解はできる」
 アミュの言葉に、シュオウは慌てて振り返る。
 「苦しんでいる人を見て笑っていられるような人達の事をですか」
 シュオウの言いようには、わずかながら挑発的な色が混じっていた。

 「加虐的な行為を見て愉悦を覚えるのも、人の持つ一面でもあるのじゃ。そうと知っていれば納得はいかずとも理解はできる。その場にいたアベンチュリンの民らも、なにも元々が残虐な行いを見て喜びを感じるような趣味は持ち合わせておるまい。彼らがそれほど熱狂しておったのは、ムラクモの国民が傷つけられていたからこその事であろう」

 「どういうことですか」

 「事の始まりはムラクモがアベンチュリンを征服した頃まで遡る。この国は圧倒的な武力でアベンチュリンを手中にしておきながらも、奇妙な事に主権を奪うことをしなかった。まるで生殺しのように、彼らから軍事力だけを取り上げ、律儀に生ぬるい税だけはきっちりと納めさせた。宗主国と属国という関係は長く続き、そなたの知っている通り、今もってなおその関係は維持されておる。自国を守る力をなんら持たず、それでいて税は徴収される。そうしたことからアベンチュリンの国民は潜在的にムラクモに対して劣等感を抱くようになった。自分達の身の不幸はすべて悪辣なる宗主国ムラクモのせいだと決めつけるような傾向が目立つようになり、憎しみの感情は止めどなく膨れ続ける――」

 アミュは一度区切って、憂いを帯びた表情で息を吐いた。

 「――そもそもは、アベンチュリンを制した時に自国の一部として組み入れてしまえばよかったのじゃ。ムラクモはアベンチュリンに対して、柔軟ではないが、けして無理のない税の徴収しかしていない。その負担はむしろムラクモの国民よりずっと少ないくらいなのじゃが、小さな世界で生きている彼らにはそれが理解できんのかもしれん。あの女王はアベンチュリン国民の抱える根深い不満を利用し、自分の政に対する国民の鬱憤の捌け口として利用したのであろう。さながら、ムラクモの国民を痛めつけ苦しめる女王のは姿は、救世主のようにも見えたかもしれぬな」

 「あの人達も苦しんでいる、だから許せということですか」
 アミュはシュオウの言葉に、くすりと笑む。だが、それは決して馬鹿にしたり、見下すようなものではなかった。

 「許す許さないの問題ではない。理解し、それを頭に置いておくことができるかどうかじゃ。それが出来ていれば、少なくとも今のそなたのような状態にはならぬであろうな」

 アミュは小さな腕を伸ばし、シュオウの頬を小さく弾いて微笑みを浮かべた。
 シュオウは弾かれた頬に触れながら、小声で答えた。
 「そうできるようになるでしょうか」

 「若いうちは心で物事を考える。じゃが、年をとるにつれ、次第に人は経験や蓄えた知識で行動を決めるようになる。そなたが望まずとも、いつかはそうなるであろう。想い悩むのは若者の特権のようなもの。恥じる事なく存分に苦悩するがよい」

 アミュは勢いよく立ち上がった。

 「ここらでお開きとしよう。そなたには心外かもしれぬが、我にとっては楽しい時間であった。礼を言うぞ」
 立ち去ろうとするアミュを見送りながら、シュオウは咄嗟に声をあげた。
 「こっちこそ。押しかけたあげくに、話まで」
 「よい」
 そう言い残して、アミュは建物の中へと消えていった。

 再び、庭には自分以外の誰もいない静寂の場へと戻った。
 時間にすれば、話をしていたのはほんの一時の間。それでも、アミュと話をする前までの心にかかった霧は少し薄くなったような気もする。

 手すりにふっくらとたまった雪を手に取り、硬く握りしめた雪玉を目標もなく放り投げた。雪の塊は白い絨毯に吸い込まれるように消えて、わずかに暗い足跡を残した。
 シュオウは、来た時より僅かに軽くなった足取りで自室へと引き上げた。



 「起きてください」
 優しげな声と、体を揺する手に起こされた。
 開くのもやっとというほど重たい目蓋を持ち上げると、パリっとした輝士服に身を包んだカザヒナがこちらを覗き込んでいた。

 「カザヒナ、さん?」
 シュオウは鈍重な動作で体を起こした。
 外はまだ暗い。
 眠りについてからたいして時間もたたないうちに起こされたのだろうかと、訝しく思った。

 「なにかあったんですか」
 カザヒナは神妙な顔つきで頷いた。
 「先日お話した通り、会議の時間が近づいています。アミュ様はぎりぎりまで寝かせておいてやれとおっしゃっていたのですが、流石にまる一日なにも食べていないのでは辛いのではないかと思いまして、少し余裕をもって起こさせてもらいました」

 「まる……一日って、それじゃあ今は」
 シュオウは跳ねるようにベッドから飛び出した。

 「大丈夫ですよ。アミュ様は今朝方より秘密裏にグエン様と事前交渉をされ、無事に終えています。詳しい事は私も聞かされていませんが、アミュ様がおっしゃるには、状況はそれほど悪くはないようです。ただ、グエン様の提示した条件として、今回の件を会議の場で直接当事者からの報告を聞いて、最終判断を下す事になったそうなので、寝耳に水の事でしょうが、あなたには急遽、四石会議への出頭命令が出されました。時間にはまだ少し余裕があります。従士服は綺麗にして乾燥もすんでいますので、それを着て、軽く食事をすませておいたほうがいいでしょう」

 突然降って沸いた役割に緊張を覚えながら、シュオウは迅速に支度を整えた。
 言われた通り、卸したてのように綺麗になった従士服を着ると、簡単な食事というわりには随分と質も量も高級な食事を、ほんの少しだけ無理矢理飲み下す。
 そうしている間に、会議の行われる水晶宮へ向かうため、邸を出なければならない時間はあっというまにやってきた。

 庭に用意されていた馬車に乗り込むと、先客がいた。
 「よく寝ていたな。そなたがあまりにもじっとして動かぬゆえ、朝食を運んだ者が慌てておったぞ」
 アミュはそうちゃかすように軽く言った。

 「疲れているときに寝ると、なかなか起きられなくて」
 「顔色を見るに、十分に回復できたようじゃな。話はカザヒナより聞いていると思うが、そなたにはグエン殿に直接事の詳細を報告する必要ができてしもうた。出来るか?」

 そう聞かれ、シュオウは即答する。
 「大丈夫です」
 「うむ。では向かおう」

 アミュは馬車の外で騎乗していたカザヒナに手で合図を送る。が、カザヒナは出立の指示を出さずに馬を降り、アミュの顔近くで小声で告げた。

 「閣下、四石会議の場にサーペンティア公爵の付き添いとして、ジェダ・サーペンティアが同席するとの報告が今し方入りました」
 そう聞かされたアミュの表情が瞬時に凍りつく。
 「不愉快じゃ。あれの顔を目に入れなければならぬとはな」
 「いかがなさいますか」
 「どうすることもできまい。今回にかぎっては優先すべき事が他にある」

 カザヒナは了解を告げ、馬上に戻って御者に出立を指示した。
 すぐにカラコロと音をたてながら、馬車は水晶宮へ向かって進み始めた。
 向かい合うアミュの表情は、怒りや不愉快を存分に溜め込んでいるように見える。僅かな間にここまで人の心を沈ませたのが、いったいどんな人物であるのか気になって、シュオウは率直に聞いてみることにした。

 「誰ですか?」
 顔をあげたアミュは、小さく息を吐いてそれに答える。

 「ジェダ・サーペンティア。蛇紋石を継ぐサーペンティア当主の末子であり、右硬軍の輝士でもある。それなりに優秀であることは認めるが、あの者は血肉を好む。敵兵を殺す手段が残虐きわまりなくてな、悪名と共にその名を知る者も多く、血なまぐさい噂話も後を絶たぬ。蛇紋石と顔を合わせるというだけで十分すぎるほど不愉快だというのに、加えて血臭の漂うあのような者まで同席するとはな。……こちらが不快に思うと知っていてわざとしているのではないかと勘ぐりたくもなる。優れた人物は出自を問わず好むところじゃが、血を浴びて笑いながら殺戮を楽しむような人間は、その範疇ではない」

 話を聞いただけで、アミュがこれほど不快感をあらわにするのに十分納得がいった。
 シュオウとしても関わり合いたいとは微塵も思わない人物だ。

 「同席を拒否することはできないんですか」

 「できぬな。四石会議では、それぞれの副官、もしくは従者一名の同席が許されておる。ジェダ・サーペンティアが同席するという報が入ったということは、すでにグエン殿も承知済のことであろう。であれば言うだけ無駄なことじゃ。まあ、そなたが気にする事でもない。かの者は狂い人というわけではないからな。ただ我にとっては、視界に入れるのも不愉快だというだけの話じゃ」

 「そうですか」

 続けて会議での振る舞いや、何を重点的に話すべきかなどの相談をしているうち、馬車は長い橋を越えて水晶宮に到着した。
 時刻は深夜にさしかかる頃。馬車を迎えた衛兵達の顔も、どこか薄惚けて見える。
 ヒノカジ達が囚われてからすでに七日目を迎えた事になるはず。
 日の出を迎え、もう一度夜が訪れた時、おそらく砂時計の砂はすべて落ちているだろう。

 ――もう時間がない。


 水晶宮の中は穏やかな夜光石の灯りに包まれていた。
 アベンチュリンの城で見たような高価な宝飾品が所々飾られてはいるが、各々が邪魔にならない程度に品良く飾られているくらいで、むしろ目に心地良い。
 長い階段をいくつも昇り、上階に設けられた会議用の部屋へアミュと共に入室した。
 その瞬間に、シュオウは肌に突き刺さるような緊張感を感じた。

 広いとはいえない小さな部屋に用意された円卓。中央の奥に鎮座する人物を見た。
 獅子の体躯と猛禽の顔面、豹のように鋭い目をした白髪の老人。手にある輝石の色は赤黒く、異様な色味を発している。

 一度だけ遠目に見たことがあるその人物は、巨木のように微動だにせず、そこに居た。
 ――吸血公。
 いつか聞いた呼び名が咄嗟に頭に浮かんだ。

 視線を横に滑らせると、落ち着きなく目を動かしているハゲ頭の中年男が居た。手の甲で光る明緑色の輝石が、おそらく蛇紋石と呼ばれる燦光石であろう。
 この人物も、シュオウは一度だけその目で見た記憶がある。アミュがその口で語るときにいつも憎々しげに表情を歪める、サーペンティア公爵だ。

 サーペンティア公爵は病人のように背を曲げて、値踏みするようにシュオウをギョロギョロと睨みつけていた。
 例えようのない嫌悪感を感じたシュオウが彼から視線を逸らすと、サーペンティア公爵の後ろに佇んでいた人物と目があった。

 淡い黄緑色の長く伸ばした髪。切れ長の瞳にほっそりとしたしなやかな体。顔の造形は女神を模した芸術作品のように美しい。一瞬の間、シュオウは呼吸も忘れてその姿に見入った。だが――
 「僕の顔になにかついているのかな」
 見た目からはまったく想像も付かないような、どっしりとした野太い声だった。その衝撃に、おもわず後ずさりそうになってしまったのをどうにか堪える。

 「別に……」
 戸惑うシュオウは、そう返すのが精一杯だった。
 「ジェダ、ここをどこだと思っている。許可無く口を開くな」
 サーペンティア公爵がすかさず注意を促すと、ジェダと呼ばれた美青年はシュオウに一瞬微笑みかけて、一礼して口を閉ざした。

 ――ジェダ?
 サーペンティア公爵が呼んだ名を聞いて、ここへ来る途中に聞いた話を思い出したが、そのときに語られていたジェダ・サーペンティアという人物と、目の前にいる絶世の美女としか形容できない男が、とても同一人物だとは思えなかった。

 やや遅れてカザヒナが入室し、シュオウから見て左側に着席したアミュの後ろに佇むと、扉は静かに閉じられた。
 「いくつか決めなければならない事があるが、まずはアデュレリア公爵から提案された事案について片付けてしまいたい」

 重々しい語り口で、グエンが口火を切った。

 「その事ですが、私が本件を耳に入れたのはつい今し方の事。思案の時間もあたえられず、急に答えを求められるような状況は、あまり愉快とはいえませんな。せめてもう少し早く知らせてはいただけませんでしたか」

 サーペンティア公爵が上擦った声でそう言った。

 「そちらが王都へ入ったのは夜が更けてからのことであろう。それより以前にどうして伝えることができるというのか。こちらは出来るかぎりの配慮をしたつもりじゃ」

 アミュが不機嫌に言うと、サーペンティア公爵は目尻をぴくんと震わせた。

 「事前報告が遅れた事と別に、由緒ある四石会議の場に、このような下級の従士を同席させる事などあってはならないことです。聞けば、今回の話を持ち込んだ従士だとか。証言のために連れてこられたのでしょうが、私としては神聖な場が汚された心地です。グエン様も同様の思いなのではありますまいか」

 サーペンティア公爵は部屋の入口で所在なく佇むシュオウを一瞥した後、グエンに訴えかけるように顔を向けた。

 「曇りのない情報を聞いて判断するために、当事者への出頭を命じたのはこの私だ」
 グエンにそう聞かされたサーペンティア公爵は焦ったように早口でまくしたてる。
 「あ、い、いや、そういうことでしたら私としても、その、とくに不都合があるというわけでは」

 しだいに小さくなっていく背を黙って見ていたシュオウには、この人物が本当にこの国の大貴族であるのか疑わしく思えてきた。
 「サーペンティア公は納得した様子。そろそろ話を進めてはいかがか。我々が一堂に会する事の出来る時間はかぎられている」
 アミュがそう促すと、グエンは静かに頷いた。
 「異存はない。従士、発言を許可する。この度の一件の経緯を報告しろ」
 「……はい」

 シュオウはグエンにそう返し、一言ずつ慎重に言葉を選びながら、経験したことを語った。
 シワス砦へアベンチュリンの王子が来訪した事。アベンチュリンへの道中に立ち寄った宿の事。そして、アベンチュリンの城であった、女王の行いの数々と発言。
 すべてを報告し終えた時、グエンは目蓋を落とし、なにかを考え混んでいるように黙りこくっていた。

 そうした静寂がしばらく続き、堪えきれなくなったアミュが声をあげる。
 「我が軍の、そしてムラクモの国民が、理不尽な理由により監禁状態におかれている。その命にあたえられた制限時間は、こうしている間にも減り続けておる。早急に解決への手段を考えるべきであろう」

 サーペンティア公爵が、その発言に対して異論を唱えた。

 「お待ちいただきたい。この一件、そもそもが始まりからして不確かな事が多すぎます。いくらあの女王とはいえ、なんの脈絡もなしに我が国の兵に手を出すようなことをするでしょうか。この話が事実であるとすれば、かの砂金石のしでかしたことはムラクモに対する謀反に等しい。おそらく、女王からのものであろうという不確かな親書と、国籍もよくわかないような怪しい従士の報告だけで、すべてを事実として取り扱うのは危険ではありませんか」

 サーペンティア公爵の言を受け、アミュは眉間に皺を寄せて反論した。
 「言葉を慎むがよい、この者はれっきとしたムラクモの従士であるぞ」

 「そのくすんだ灰髪を見て、簡単に納得するようであれば、私は爵位を捨て隠居の身にならねばなりませんな。この者、どこをどう見ても、北国の出ではありませんか。私とて、今回の報告をあげてきた人間が十年、二十年と軍に仕えた人間であったなら、その言葉に疑いを持つようなことはしません。ですが、出身地も曖昧なうえ、軍に入って間もない一従士の言葉を鵜呑みにはできません。まずは、シワス砦への調査団を派遣し、アベンチュリンへ正式な使者を立てて真実を確認。そして、その従士の身元調査の実行を提案致します」

 地の底から這い出てきた蛇のような狡猾な瞳がシュオウを捉えた。
 アミュの小さな握り拳が、円卓を思い切り叩きつける。
 「時間がないと言うたのをもう忘れおったか、この蛇頭ッ!」

 「なッ……と、取り消していただきたい。私はただ慎重に事をはこぶべきであるという当たり前の事を言っているだけです!」

 サーペンティア公爵も、興奮した様子でつるつるの頭を抑えながらまくしたてた。

 「ふんッ。いくらか昔、宮内で道に迷って泣きべそをかいていたそなたには、まだ可愛げというものがあったがな。あの時手をさしのべてやった恩も忘れ、我の言うことにいちいち異論を唱えるのは、いささか恩知らずというものではないのか」

 「そのような大昔の事を……今思い出しましたが、あの時、まだ小さな子どもだった私の手を引いて、凍える地下倉庫に置き去りにしたのは、誰でもないあなたではありませんかッ」

 サーペンティア公爵は恨みのこもった視線をアミュに送りつけた。

 「はて、そのような昔の事は忘れてしもうた。なにか別の人物からされたことと混同しておるのであろう」
 アミュは冷めた表情で顔をそらした。

 過去の事で子どもの喧嘩のように言い合う二人。その姿は人間味に溢れ、特別な爵位や階級を持っている者でも、やはり根本の部分では普通の人々とそう違いはないのだということを教えてくれるが、その二人を仲裁する、人間味のかけらも感じさせない淡泊な声が響くと、部屋には再び厳粛な空気が戻った。

 「お二方とも、昔をなつかしむのはそのくらいに」
 グエンが手をかるくあげて制すると、二人の公爵は途端におとなしく口をつぐんだ。

 「まず、今回の件がすべて事実であるということで話を進める。そう仮定するだけの材料は十分であると判断している」
 グエンが言うと、アミュは大きく頷いた。

 「ムラクモの従士を偽るような形で招き、暴行を加えたうえで監禁した。そのうえで捉えた従士の命を盾にして都合の良い要求をつきつけた。この事自体はれっきとした反逆行為。かの国を支配下におくムラクモとしては、相応の対処を考えなければならないところだが、私は現状では見過ごすのが妥当であると考えている」

 グエンの言葉に、心臓が跳ねた。胃に重しがつけられたように不安が押し寄せる。
 「待ってくださいッ! それじゃあ仲間を見捨てるつもりですか!」
 押さえがきかず、シュオウは必死の形相でグエンを怒鳴りつけていた。
 「貴様、誰に向かって――」
 サーペンティア公爵がシュオウを怒鳴りつけようと腰を浮かしたが、グエンがそれを押さえた。

 「従士となって日が浅い者にはわからん事かもしれないが、北、南の諸国とムラクモの間には緊張状態が長く続いている。とくに南側とはここ数年で小競り合いの数も増加している。このような状況下で、アベンチュリンになんらかの制裁を加えるような事をすれば、ムラクモの足下が揺らいでいると、相手国の開戦を望む者達を勢いづかせる結果を招く恐れがある」

 あくまでも冷静さを崩さないグエンに、シュオウは強く反論した。

 「戦えばいい! ムラクモは強国なんでしょう」
 強く睨め付けて言ったシュオウに対して、グエンの視線がわずかに力を帯びた。

 「戦えば多くの国民は命を落とす。蓄えてきた金は消費され、食料は無尽蔵に失われる。ムラクモと境界を面している相手は一つではない。南が攻め込んでくれば、好機とみて北も動きを共にする可能性が高まる。絶対に勝てるという状況ではない時に自ら進んで戦をはじめるのは愚者の行い。今回のアベンチュリンに纏わる話は、その始まりからすべてを封殺する。我が国の従士が許可なく他国へ侵入した事。無様にも罠にかかり囚われの身になったこと。そして我々がそれを知りつつアベンチュリンへの制裁をなんら行わない事を」

 「すべてなかったことにするつもりですか」
 「然り」

 グエンからは感情の揺らぎを一切感じ取ることができなかった。
 どこか超然とした態度を貫くグエンに対して、シュオウの心は苛立ちはじめていた。

 「囚われた二人を見捨てろというんですか。彼らが濁石持ちの平民だから」

 「石の色などどうでもいいことだ。私が案ずるのは、この国を支える多くの民の未来の安寧。物事には優先順位というものがある。二人のムラクモ国民がフェイ女王の軽挙により命を失うのは残念に思うが、その救出のために今のムラクモが腰をあげることは、国益を大きく損なうことになると私が判断している」

 「それじゃあ……」
 「問うてばかりいるが、お前はなにを望んでここにいる」
 突然のグエンの問いかけに、シュオウはたじろいだ。
 「なにをって……それは、あの二人を助けて欲しくて……」

 「そうするつもりがないことはすでに話した。囚われた者達の命は救えないが、お前の身の安全は保証しよう。本来であれば当分の間は監視をつけて軟禁しておきたいところだが、特別に事の詳細を黙っている事と引き替えに、王都での仕事と住まい、生活にこまらないだけの金を支給しよう。軍をやめ新しい事を始めたいというのであれば、支度金の用意も検討する」

 シュオウの身分ではありえないような厚遇だった。
 グエンの話を聞く限り、本来は口止めのため、シワス砦でそうされたように幽閉されていてもおかしくはない。なのに、これだけの良い条件を提示されているのは、アデュレリア公爵との関わりがあるためなのだろうか。

 この申し出を受けるべきだ。頭の中で繰り返される声はそう言っている。
 すべてを忘れ、新たな地で再出発ができる。金の心配も住む所の心配もなく、あの退屈なシワス砦からも縁を切ることが出来るのだ。

 石ころをつめこんだように重たい胃の上に手を当てると、グググ、と自分にしか聞こえない程度の小さな音で、腹の虫が鳴いた。

 手を伸ばせば届く所に、安全でより良い未来がそこにある。

 シュオウは自嘲するように鼻で笑った。
 ――出来るわけがない。
 ほんの少し首を動かして見た先には、心配そうにこちらを伺うカザヒナとアミュの姿があった。

 シュオウは覚悟を決めて、正面からグエンを見た。
 「お断りします」
 この時、グエンは初めて眉根を寄せて不可解そうな表情を見せた。

 「なぜだ。これ以上の条件はないはず。シワス砦に配属されてまだ日も浅いだろう。囚われた者達への情もさほどないはず。それでも見捨てる事に抵抗を感じるか」

 シュオウは揺るぎない視線でグエンを見据えて、言った。
 「食べ物が、まずいんです」
 緊張した空気が消し飛んでしまうほどの間の抜けた発言。部屋にいるすべての人間が、呆気にとられた様子でシュオウを見つめた。

 「なにを――」
 「あの二人が囚われて、その命を背負わされた時から、なにを食べても土を噛んでいるみたいに味がないし、なにを飲んでも乾きが癒されない。こんな不快な状態のまま生きていくのは嫌です。だから二人を助けるために力を貸してください。どうしてもダメだというなら、自分一人でもアベンチュリンへ戻ります」

 グエンは目元を脱力させ、小さく笑みを漏らした。
 「ふッ――」
 瞬き一回分にも満たない僅かな間、グエンはたしかに表情を緩めた。その様子を驚いたように、二人の公爵が凝視していた。

 「――飯が不味くなるから、この私に考えを曲げろと言うのか」
 シュオウはためらいなく頷いた。
 グエンは視線をアミュへと流す。見間違えでなければ、微かにアミュがグエンに対して頷いてみせたように見えた。

 グエンが、紙を――と言うと、サーペンティア公爵は不満げに言った。
 「グエン様、まさか……」
 グエンはさらさらと手慣れた様子で文字を書いていく。
 「監禁されている従士達の解放、そして本件を口外しない事を条件に、遅れている食料引き渡し分の期間延長を認める。その分、税を納める民の負担にならないよう、分納も特別に許可しよう」

 「……え?」
 急に態度を変えたグエンに、シュオウは言葉を失った。
 「ただし、事が大袈裟になることを避けるために使節の派遣はしない。アベンチュリン女王より砂城へ戻る事が許されている者のみで、この親書を届ける事が最低条件だ」
 つまり、渡された書簡に対する返事を持って戻ることを命じられたシュオウただ一人で、事を成せと言っている。

 「行きます」
 当然の如く、シュオウはこの条件を了承した。
 「さらに、この場において元帥たるこの身に対して反抗的な態度をとったこと、許可なくムラクモ軍人として越境したことの罪と合わせて、シワス砦での任務を解除し、当面のあいだ謹慎を命令する。この親書を受けとった時点で、これらの事を了承したものとみなす」

 グエンは言って、三つ折りにした薄っぺらい親書を差し出した。
 シュオウはそれを受け取るために一歩ずつ歩を進めた。
 自身になんら不徳がないにもかかわらず、罰を与えられる事に不満も抱いたが、それだけの事でヒノカジ達を助ける事ができるのなら、安いものだと思えた。

 「預かります」
 シュオウはグエンの目の前で親書を受け取った。
 「お待ちください」
 アミュが立ち上がり、シュオウの受け取った親書の中身を確認した。

 「氷長石殿、なにか不都合があろうか」
 「文面にはとくに。ただ、一国を相手にした約定書としては、この紙切れ一枚ではいささか信憑性に欠きましょう。許可をいただけるなら、アデュレリア当主の名にて一筆添えたいと思いますが、いかがか」

 「……許可しよう」
 グエンが了承を伝えるとアミュは頷いてさらに続けた。
 「もう一つ、提案があります」
 「聞こう」
 「この従士が帰還した後の謹慎期間中は、アデュレリアで身柄を預からせていただきたい」
 この申し出に過敏に反応したのはサーペンティア公爵だった。
 「グエン殿は処罰として謹慎を申し渡したはず、ケジメとして地下牢にでも押し込めておくのが妥当でありましょう」

 「無駄なことじゃ。働き盛りの若い者を狭い場所へ押し込めておくくらいなら、我が領地にて雑用でもさせておいたほうがましじゃろう」
 「雑用係を欲するほど、アデュレリアが人材に困窮しているとは知りませんでした。あなたの本当の目的はなんなのです」

 「どういう意味か」

 「この従士に随分と目をかけておられるご様子。アデュレリアはここのところ人材の収集に躍起になっていると、サーペンティア領内にも噂は聞こえてきます。つい最近も、王都の有能な鍛冶職人を一族丸ごとアデュレリアへ引き抜いたそうではありませんか」

 「アデュレリアは質の良い鉱石を得やすいうえ、王都より地価も安い。ただそれだけの事であろう。この従士に縁があるのは事実であるが、かくたる証拠もないのに意図的に有能な者を手元に集めているかのような物言いは不愉快じゃ」

 アミュは氷のように冷めた瞳でサーペンティア公爵を睨んだ。
 両公爵の鼻息が荒くなってきた頃、グエンが一人冷静な声音で告げた。

 「氷長石殿の提案を受け入れる。従士の次の配属を決めるまでの間、身柄はアデュレリアの管理下におくことにする」
 アミュは素早く居直り礼を言った。
 「感謝します。それと、今回の件の元々の原因を作ったシワス砦の責任者であるコレン・タールにも相応の処分をくだすべきでありましょう。非公式にでも許可をいただければ、左硬軍ですべてかたずけますが」
 「……まかせよう」

 グエンの書いた親書を受け取ったシュオウは退室を命じられた。
 部屋から出ていく寸前、グエンはシュオウを呼び止めた。
 「従士、生きていれば飯が不味くなるような事はいくらでも身にふりかかる。それを忘れるな」
 説教めいた発言をして、グエンは出ていけ、と手を振った。
 最後に小さく礼をして、シュオウは会議部屋の戸を閉めた。



 「シュオウは」
 四石会議を終えて、水晶宮の出口へ向かう途中、アミュはシュオウの所在をカザヒナに尋ねた。
 「入口で待たせてあります」

 深夜ということもあって宮内は人気もなく静かだ。
 階段を下りて入り組んだ廊下を歩く。
 アミュの小さな歩幅に合わせるため、カザヒナは歩く速度を極端に落としていた。

 「それにしても、グエン様が笑顔をお見せになった事には驚きました。軍に入ってからあの方が表情を崩されるのを見たのはこれが初めてかもしれません」
 「我も同じじゃ。長いことあの仏頂面を拝んできたが、一瞬でもグエン殿が笑ったという記憶がとんと浮かばぬ。あの蛇頭も大層驚いておったな」

 ほんの一瞬の出来事ではあったが、グエンが吹き出したように笑ってみせたことは、彼を知る人間からすれば月が落ちてくる事に等しいほどの驚きだった。

 「気に入られた、のでしょうか」
 誰のことかは言わずともわかる。アミュが気にかけている青年、シュオウの事だ。
 「そうは見えなかったがな。そうだとすれば、アベンチュリンへの対応ももう少しマシなものを用意していたはずであろ。結果として、あの者を再びアベンチュリンへ送り出さねばならん」

 「その件についても驚きました。グエン様が一度言ったことをすぐ覆すなんて。いつも慎重にすぎるあの方なら、従士二名の命と引き替えにしても、波風をたてない結末を望むものだと思っていました」

 「最終的な決着をどうするかまでは言及されなんだが、元々の段階で交渉はすませてあった。我が提案した交換条件と引き替えに、出来る限りの譲歩を求めたのじゃ。もっとも、我が求めたのは力による解決で、フェイ女王の意向に沿うような軟弱な解決方法ではなかったがな」

 「何と交換を? グエン様の意見を曲げるほどのものとなると、聞くのが恐ろしくなりますけど」
 「グエン殿の長年の悩みの種を一つ預かる事にした。当面のあいだ、アデュレリアにてサーサリア王女の身柄を預かる」

 カザヒナは立ち止まった。
 「王女殿下を……」
 アミュは歩みを止めてカザヒナへ振り返る。

 「ムラクモの上層に位置する者なれば周知の事であるが、王女殿下は幼い頃より酷く心を病んでおられる。ここのところは悪い薬に夢中となり一層酷い有様であると聞いているが、どこからか漏れたそうした噂が、周辺国を勢いづかせる一因となっている。諸侯らとろくに顔も合わせぬ始末で、国外のみならずムラクモにおいても不安を言う声は大きくなってきておる」

 「アデュレリアが引き受けてどうにかなる問題でしょうか」
 「根本からどうにかしようなどとは思ってはおらぬ。ただ、サーサリア王女が遊学という形で我が領地に滞在するとなれば、多少でも健全さを装う事ができよう。我としても、王女の資質を身近で観察するのに良い機会を得られる」

 「なるほど。納得がいきました」
 「忙しくなりそうじゃ。王女のみならず、どさくさでシュオウの身柄も預かれる事になったしな」
 「はい」
 弾んだ声を、アミュはからかうように指摘する。
 「嬉しそうじゃな」

 「そうですね。初めて見たときのような猛々しい姿も面白いと思いましたけど、先日ここへ駆け込んできた時の彼は怯えて逃げ惑う小動物のようで、ついつい背中をなでてあげたくなるような可愛さを見せたり。他にも色々と興味は惹かれます。でも、なにより彼からはなんともいえない良い匂いがするんです……」

 祈るように手を合わせて瞳を潤ませるカザヒナを見て、アミュは呆れ気味に言った。

 「ほどよくお前の事は見てきたつもりじゃったが、まさかそんな趣味があったとはな」
 「私も知りませんでしたから」
 くすくすと笑いをこぼしながら、二人は再び歩き出した。

 廊下の奥にある最後の階段に差し掛かった時、王族用居住区画のある上階から人が降りてくる気配がした。
 一歩ずつ、不確かな足取りで階段を下りてくる、長い黒髪の女。白く最上級の寝巻きに身を包み、さだまらぬ視線でふわふわと現れた人物を見て、アミュとカザヒナは硬直した。

 「お……王女殿下?」
 たしかめるように声をかけても反応はなく、サーサリア王女は何もない暗がりの廊下を指さして楽しそうに笑っていた。
 「ふふ、綺麗なお花畑……ねえ、見て」
 サーサリア王女は朧気な笑みを浮かべて後ろを振り返る。が、当然そこには誰もいなかった。
 慌てた調子の靴音が上階から響く。
 駆け足であらわれた女官が、あわてた様子でサーサリア王女の肩を掴んだ。
 「殿下ッ! こんなところにお一人でッ」

 女官はサーサリアを連れ戻そうと支えながら誘導するが、王女は虚ろな瞳で廊下のほうを見つめていた。
 「まって、向こうに綺麗なお花畑があるの……」
 言いながら白く細い指先で指し示すが、女官は相手にしない。
 慣れた手つきで階段まで連れて行き、アミュとカザヒナに頭だけで一礼しながら上の階へと王女を引きずっていく。

 再び静寂が訪れた頃、呆然とこれまでの様子を伺っていた二人は、顔を見合わせた。
 「……ちと、はやまったかもしれんな」
 後悔のこもったアミュの言葉に、カザヒナは深く頷いて同意した。



 特別にアデュレリア公爵専用の軍馬が貸し出される事になった。
 先に乗っていたカザヒナに支えられながら体格の良い馬の背に跨る。
 雪は降っていないが、深夜の強風は身を切り刻むように冷たい。
 羽織った外套を寄せて首元を隠すような姿勢でいると、カザヒナが気遣うように声をかけてきた。

 「寒いですか?」
 「いえ、これくらい我慢できます」

 弱音を吐くことが許されるような立場ではないと自覚していた。
 自分が、アミュやカザヒナにとって面倒事を持ち込んだ事は間違いない。
 身内なのだから助けてもらう事は当然だと、どこかで持っていた甘い考えは、ここのところの経緯を見ているうちにどこかへ消し飛んでしまった。

 ムラクモという国家を根本から動かしている人々は、自分には見えていないような状況や理由を抱えている。
 そうした事情を吹き飛ばし、シュオウは幸運にも望んでいたものに限りなく近いモノを手に入れた。
 グエンが急遽用意した親書と、内容を保証するアデュレリア公爵直筆の文を収めた書簡は、シュオウの懐に大切にしまいこまれている。

 どこかへ姿を消していたアミュは、ほどなくして六人の騎乗した輝士を引き連れて現れた。
 「輝士小隊を預ける。これをもって速やかにシワス砦を制圧せよ。コレン・タールを捕縛した後は、おって沙汰あるまでカザヒナ重輝士を長官代行として据え置く」

 アミュはテキパキと指示を出した。集まった小隊員達とカザヒナは敬礼して了承を伝える。

 「コレン・タールの処罰はどうしましょう」
 カザヒナが問うと、アミュは眉を怒らせる。
 「爵位と階級の剥奪くらいでは気がすまん。他国に部下を差し出すような愚か者に相応しい罰を用意する。フェイ女王から金品を受け取ってはいないか、他にどんな些細な事でもかまわん。すべてを洗い出して丸裸で牢に押し込めておくがよいッ」
 「抵抗した場合は?」
 「かまわん、その場で石を落とせ」

 姿に似合わない酷薄な物言いに、シュオウは初めてアミュに対してゾッとするような印象を持った。

 「シュオウ――」
 とことこと歩み寄ってきたアミュは、シュオウのズボンの裾をくいくいと引っぱる。

 「――その書簡でフェイ女王の望んでいたものは十分に得られるじゃろう。じゃが、それですべてが丸く収まるかはわからぬ。もし、それでも女王がゴネた場合、二人の命はあきらめてそなただけでも戻ってくると約束せよ。でなければ、我がここまでしたことはすべて無意味になってしまう」

 シュオウは決意を込めて答える。
 「約束します。絶対に戻って、きちんとお礼を言わせてもらいますから」
 「うむ、では行くがよい!」
 「あの、すいません、最後に一つだけ」

 小気味良いアミュの出発の合図をカザヒナが打ち消した。

 「なんじゃ、忘れ物か」
 首をかしげるアミュに、カザヒナは頷いて見せ、待機中の小隊員達に向けて声を張り上げて命令した。
 「小隊、目を閉じて耳をふさげッ!」
 カザヒナの命令に、小隊員達は戸惑いながらも従った。

 次の瞬間、カザヒナは後ろへ振り返り、勢い良くシュオウの胸の中に顔を埋めた。
 「スーハー、スーハー」
 「ちょ……え?」
 状況がよく理解できないシュオウは、自分の腰に腕をまわしてしがみつくカザヒナにただただ当惑していた。
 どこぞの鼻の効く動物のようにシュオウの臭いをしこたま吸い込んだカザヒナは、満足そうな笑みを浮かべて顔を持ち上げて言った。

 「ぷはー……すいません、ずっと我慢していたもの――でッ!」
 カザヒナが言い終えるのと同時に、どこからともなくカザヒナの頭上に現れた氷塊が、鈍い音と共にカザヒナの頭をゴツンと殴りつけた。
 落ちてきた手の平大の氷塊は、すっぽりとシュオウの手の中に収まった。

 「カ、カザヒナッ! お前はいつから男の臭いを嗅いでうっとりするような女になったッ」
 本気で怒ったアミュの怒声が深夜の王都に響いた。
 「わ、わかりませぇん……」
 両手でコブを押さえながら悶えるカザヒナは、息も絶え絶えにそう答えた。
 「もうよい、さっさと行けこの馬鹿者が」
 アミュが背伸びして馬の尻をペシペシと叩くと、馬は渋々といった様子で足を出し始める。

 カザヒナはすぐに姿勢を正して、命令通り耳と目を閉じたままの小隊員達に指笛で合図を送った。
 「行ってまいります」
 平素のように整えた声で一礼して、カザヒナは馬を出した。

 あわてた様子で後に続く小隊員を引き連れて走り出すと、見送るアミュの姿はあっと言う間に小さくなっていった。
 街中の中央広場に差し掛かった頃、カザヒナは馬の速度を落として、小隊員達に指示を飛ばす。

 「私は可能なかぎり先行し、コレン・タールを押さえる。貴様らは後からついてこい」
 小隊員達が了解したことを確認する間もなく、シュオウとカザヒナの乗る馬は急激に速度をあげた。
 後ろへ引きずられていると錯覚するほどの早さ。耳が千切れそうなほど冷たい空気を切り裂きながら直進する。
 「ちょっと早すぎませんか」
 「このくらい、この子には準備運動にもなってません。それにこのくらいでないと間に合わなくなってしまいます。白道に入ればさらに速くなりますから、今のうちに覚悟を」
 少しずつ激しくなる揺れに耐えるように、シュオウはカザヒナの体に思い切りしがみついた。



 「カザヒナさん、これを見てもらえますか」
 シワス砦へと続く白道を、尋常ではない速度で疾走している。経験したこともない早さに肝が冷えたが、小一時間も走っているうちに徐々に慣れてきた。
 シュオウが片手で差し出して見せたのは、出発前にカザヒナにつっこみを入れた氷塊である。手の中に飛び込んできてから、なんとなく捨てる機会を失って持ってきてしまったのだ。
 氷塊は両手で包み込める程度の大きさで、よくよく見てみると、その形はただの塊ではなく、精細に彫り込まれた狼の頭の形をしていた。

 「それは……さっきの?」
 カザヒナは手綱を握りながら、視線を流して確認する。
 「これってアデュレリア公爵が作ったんですよね」
 「それは、もちろん。それがどうかしましたか?」
 「……こんな事、晶気を使える人間ならだれでもできるんでしょうか」
 牙を剥きだしにして口元に皺を寄せる狼の頭。一級の工芸品としても通用しそうなその出来に、シュオウは舌を巻いた。

 「まさか、一瞬でそれだけの造形物を作り出すことは、燦光石を有している方々にとっても難度の高い技なんですよ」
 「それって、アデュレリア公爵が特別優れているって事ですか」

 「アデュレリアは氷長石の継承者を一族の中から広く選出します。我々の一族は個人の力や才を特に重視していますので、当主の座が空位となった時、その時代の中で最も優れている者が継承者として選ばれるんです。アミュ様のお姿を見ればおわかりと思いますが、あのお方は、物心がついてたいしてたっていないにもかかわらず、氷長石の継承者として長老方に選ばれました。そうなった理由は、あの方が幼い頃から傑出した才能を有していたためなのです」

 カザヒナはどこか誇らしげに語った。

 「……凄いんですね」
 「元々の才能に加えて、氷長石の力を継承されたのですから、それはもう。――ところで燦光石の力はとても大味だということをご存知ですか」
 「いえ、初めて聞きます」

 「あの特別な石は膨大な力を秘めています。当然持つ者は相応の力を得るわけですが、そのあまりに強大な力は御すだけで精一杯になってしまい、自在に操るのには元々の才能や修練が必要になる。大きな事象を引き起こす事はできても、その氷の塊のように力を一点に集約させるのには、本当に高度な技術が必要になるんです」

 聞いていくうち、シュオウは安堵を覚えていた。
 手の中にある氷塊を、アミュが瞬時に作り出してみせたとき、なんら特別な動作なくそれを行った事にも驚いたが、その氷の塊が微細な部分にまで作り込まれた造形物であったと知ったときに、怖いと思ったのだ。同じ人間でありながら、こうまで出来る事に差があるか、と。

 アイセやシトリのような若輩の輝士にさえそれに似た思いを抱いたことはあるが、アミュのそれとはやはり次元が違った。
 アイセ達並の輝士は、晶気を使う際になんらかの予備動作がかならず見てとれた。
 万が一にもそれらに対する場合に、的確に対処する方法を模索できるが、アミュのようになんの予兆もなく人の頭上に氷塊を降らせる事が出来る相手に対しては、どう対処して良いのかまったく想像ができない。

 ――馬鹿馬鹿しい、子どもじゃないかまるで。

 シュオウは自嘲する。
 出会う相手すべてに戦いを挑んだ時の事を考えるなんて愚かだ。人の世界は腕っ節がすべてではない。

 燦光石を持つ者が、すべてあのような技術を持ち合わせているかもしれないと考えると焦燥を感じたが、それも無駄な事だと自身に言って聞かせる。

 「なにか得るものがありましたか?」
 黙っていたシュオウに対して、カザヒナがそう聞いた。
 「はい。アデュレリア公爵が凄い人だということがわかりました」
 「ふふ、アミュ様が聞いたらきっと喜ばれると思いますよ。結構単純なお方ですから」
 カザヒナはアミュが褒められたのを自分の事のように喜んでいた。

 「王の石とも呼ばれている燦光石。あの石は国家を代表する旗であり、民の誇りであり、敵を寄せ付けない最後の砦でもある。ですが、それを持つ者もまた普通の人間であることを忘れないでください。敬う事をしても、卑屈になったり恐れる必要はありません」

 手の中の氷狼の頭をもう一度だけ見つめて、シュオウは森に向けて、力いっぱい放り投げた。
 「そういえば……」
 暗闇に飲まれていく氷塊を眺めていた時に、なんの脈絡もなく唐突に思い浮かんだ二人の男の顔。
 アデュレリア邸に到着してから長く眠りこけていたせいですっかり忘れていた、サブリとハリオの事を今更思い出した。

 「なにか?」
 「俺と一緒に来たあの二人の事を忘れてて。彼らは?」
 「ああ……」
 カザヒナの声は一段低くなった。
 「なにか、あったんですか?」
 恐る恐る聞くと、カザヒナは脱力した声で答えた。

 「あの最初の晩の後の事です。どうも食後に酒が欲しいと調理場の人間に頼んだようで、その者が、アミュ様がシュオウ君に対して賓客として迎えると宣言したのを、あの二人にも当てはまると勘違いしたらしく、地下の酒造部屋へ案内してしまったらしいのです」

 続きは聞かなくてもほとんど予想がつくが、シュオウもげんなりとした調子で聞き返した。
 「……それで?」
 「アデュレリアが来客用や贈答用として用意していた名だたる名酒を、あの二人が一晩かけてお腹に入れてしまったようで、それを知ったアミュ様はそれはもうお怒りに」
 「でしょうね……」
 「ちょうど当面の間左硬軍でシワス砦を管理することになったので、今回の件も含めて報告書の作成のため、飲んだ分は書記の手伝いをさせる、とアミュ様はおっしゃっていました」

 ――よかった。
 あの二人の図太さには呆れるが、おそらくアミュなら悪いようにはしないだろう。

 たくさんの人達の努力や想いが込められている小さな書簡を胸に、シュオウは想う。
 ――あの二人を連れ戻して、かならず戻ろう。
 と。

 空にはうっすらと明かりが差し始めていた。



 朝陽が昇りきる頃、シュオウとカザヒナはシワス砦の門前にまで到着していた。
 めずらしく曇りのない空は、容赦なくギラギラとした陽光を浴びせかけてくる。
 陽の光を感じるのが、随分と久方ぶりのように感じた。

 「ここまで来ているのに、なんの反応もないなんて……」
 カザヒナは失望したように嘆息した。

 シュオウの知っている範囲では、深夜時間帯でもきちんと当直の従士が仕事をしていたはず。だが、外から見える範囲には、見張り台等に人影は一切見られない。

 「まさか、この時間まで全員寝ているなんてことはないですよね?」
 カザヒナは当惑した様子でシュオウに聞いた。
 「この時間なら食事をすませて、それぞれ担当部署で働き始めている頃なんですけど」
 「だといいんですけど――」
 カザヒナは胸一杯に空気を吸い込んだ。
 「――開門せよッ!!」
 雷が落ちたかと思うほどの分厚い怒鳴り声。コロコロと態度を急変させるカザヒナのこうした一面には、いまだ慣れることができない。

 僅かな間をおいて、扉の奥から声が返ってきた。
 「現在シワス砦は封鎖中である。一端引き返し、後日改めての訪問を」
 「王都よりの使者である。アデュレリアの輝士をこのまま門外に放置するつもりかと責任者に問うがいい!」
 すると、対応した従士の焦った声が返ってきた。
 「お、お待ちくださいッ!」
 扉の奥から感じる人の気配が遠ざかっていく。

 反応を待っている間、シュオウは気になっていたことを聞いた。
 「たしか、アデュレリア公爵はシワス砦の制圧を、と言ってましたよね。手荒な事になるんですか」
 「砦の従士達がコレン・タールをかばいだてるような事になれば、そうなります。あなたから見て、コレン輝士は人望の厚い人物でしたか?」
 そう聞かれ、保身に走り、シュオウを牢に閉じ込めるように命じたときのコレン・タールの顔を思い出した。

 「……いいえ。その心配はないと思います」
 扉の奥から忙しなく駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
 「す、すぐに開けさせますッ! お、おい早くしろ馬鹿共がッ」
 上擦った中年男の声がそう言った。
 両開きの重たい扉がじわじわと開かれていく。
 丁度馬一頭が通れるほどの隙間が出来た瞬間、カザヒナは掛け声と共に馬を進め、そのまま一気に中庭まで突っ切った。
 中にいた男達は突然の事に驚き、尻餅をつく。

 慌てて後を追ってきた男達の先頭には、コレン・タールがいた。
 顔中に擦り傷があり、シュオウが押しつぶした鼻は赤く腫れ上がり、ぬめぬめとした軟膏のようなものが塗られている。

 騒ぎを素早く聞きつけた砦の従士達は、皆で中庭まで出てきていた。シュオウ、カザヒナ、コレン・タールを取り囲むように人の輪が出来ている。
 コレン・タールはヒィヒィと息をきらせながら、ぎこちなくカザヒナに敬礼した。

 「こ、このような辺地に……い、いったい王都から何用で――」
 上げた視線がシュオウと合う。
 「――お、お前ッ!」
 断末魔でもあげそうな形相でシュオウを指さした。
 それとほぼ同時に、カザヒナは長剣を抜き払い、切っ先をコレン・タールの喉元に差し出す。

 中庭に集まった従士達の間にどよめきが起こった。
 「シワス砦長官、コレン・タールは貴様か」
 額に脂汗を浮かべながら、コレン・タールは答えた。
 「わ、私ですが……」
 「アベンチュリンとの間に起こった一連の騒動に心当たりはあるだろうな」
 「さ、さあ、なんのことか――」
 「とぼけるな!」

 カザヒナの怒鳴り声に、驚いたコレン・タールは盛大に尻餅をついた。

 「ひぃ……あ、あの……」
 「アデュレリア重将閣下は貴様のしでかしたことに大変お怒りである。すでに元帥閣下の承認を得て、左硬軍取り仕切りによる貴様の捕縛命令が下された。大人しく従うか?」
 だが、コレン・タールはあきらめなかった。
 「そんな、なんの調査もなく、い、いきなり罪に問われるのか。それはあまりにも……」

 カザヒナは冷酷な瞳で見下ろし、冷笑を浮かべる。

 「不服か? 抵抗したいのなら止めはしない。腰にさげたものが錆び付いていないのなら今すぐ抜くがいい。だが一つだけ言っておく。私は貴様の拘束に際して生死を問わずという命令を受けているぞ」
 脂ぎった中年輝士の顔は、しだいに青ざめていく。

 ゆっくりとした動作で、コレン・タールは剣を抜いた。
 事態を見守る従士達の間に緊張が走る。
 だが、コレン・タールは立ち上がる事なく剣を地面に置き、頭を垂れた。
 「従います……重将にはなにとぞ、なにとぞよしなに……」
 「協力的だったと伝えよう」

 コレン・タールが無抵抗の意を示すと、カザヒナは素早く身柄の拘束を命じた。
 誰にと指名されたわけではないのに、砦の従士達は我先にとコレン・タールを押さえにかかる。従士達の中には恨みのこもった表情で、コレン・タールの小太りの体をグイグイと地面に押しつけている者までいた。

 この砦の長から、カザヒナの登場により突然無抵抗な虜囚になった彼の姿を見て、シュオウは僅かながらに同情を感じていた。

 誰かが持ってきた縄で、後ろ手に縛られたコレン・タールは、私兵二人と共に地下へ連れて行かれた。おそらく、シュオウが入れられた牢獄と同じ場所に入るのだろう。
 一仕事終えたカザヒナは、馬上で集まった従士達に状況を説明していた。

 「これより、しばらくの間は私が当拠点の長官代理を務めるッ」
 高らかにそう宣言すると、従士達の間からオオオと地鳴りのような歓声が沸いた。皆の表情は明るく、男達が多い事もあって、急遽やってきた美人の女輝士を歓迎しているようだった。

 「連絡は以上。それぞれの業務にとりかかれ。私の管理下で怠惰な振る舞いは許さない。急げ!」
 カザヒナの一喝。従士達は慌てた様子で散って行く。
 シュオウを気にして残っていた従士達が数名いたが、カザヒナに睨まれるとそそくさと退散していった。

 「ふう……」
 人心地ついたカザヒナに、労いの言葉をかける。
 「おつかれさまでした」
 カザヒナは微笑みを返し、
 「いえ、これからですよ。シワス砦の現状について細かく調べあげて報告をあげなければ。すこしすれば部下も追いつくでしょうから、これから彼らを使って一仕事です」
 と肩を叩きながら言った。

 「あなたは、このままこの子に乗ってアベンチュリンへ向かってください」
 カザヒナは馬を降り、馬上にシュオウ一人を残した。
 突然一人ぼっちになったシュオウは、寒さを感じると共に不安から両手で馬の腹を掴んだ。

 「無理です、馬は……」
 「この子は健脚なだけでなくとても賢い。一度背に乗せた相手を振り落とすような真似はしません。私がしていたように、見よう見まねでも目的地まで運んでくれますよ。夜までにはアベンチュリン王都に到着できるはずです」
 ――本当か。
 どこか血走ったようにも見える馬の瞳が、見上げるようにシュオウを見つめている。公爵の軍馬だけあって気位は高そうだが、どことなく乗せてやってもいいぜ、と言っているようにも見えた。

 おそるおそるつま先を鐙に乗せて、軽く腹を蹴ると馬はとぼとぼと前へ進み始めた。
 一人での騎乗は不安だが、何度か人の後ろに乗ってきた経験もあり、体は対応できつつある。
 カザヒナが歩きながら手綱を引き、東側の門へ誘導する途中、なにげなく見上げた建物の中から、心配そうにこちらを見つめるヤイナがいることに気がついた。
 互いの視線が重なった瞬間、シュオウは一回だけ強く頷いてみせる。
 ヤイナも同じく頷き返して、両手を祈るように組んで目を閉じた。

 「残念ながら、私が同行できるのはここまでです」
 カザヒナはアベンチュリン側へと通じる扉の前で、歩みを止めた。
 「ありがとうございました。色々と、本当に……」
 「最後まで付き添いたいところですが、私には一本の線を自分の意思で越えることができません。こんなときは、立場というものが嫌になりますね」
 カザヒナは下唇を噛みしめて、視線を落とした。
 「十分すぎるほどしてもらいましたから」
 馬上にいなければ、しっかりと頭を下げたいほど感謝していた。が、またここへ戻れば、いくらでも礼を言う機会はあるだろう。

 「無事を祈ります」
 カザヒナは姿勢を正して敬礼した。
 どうしてだか、敬礼で返す気にはなれなかったシュオウは、頷くのみに止めた。
 「待っててください」
 そう言い残し、履いた鐙を強く蹴ると、馬は力強く地面を蹴って走り出した。

 もう何度目かになる東に向かって延びる一本の道を、一人行く。
 これが最後になれば良いと願いつつ。



 アベンチュリン王都、夜の砂城。
 女王であるフェイ・アベンチュリンの私室の戸を叩く音がした。
 「入りなさい」
 「……失礼致します」

 静々と入室してきたのは、先代から勤めている老宰相のエキだった。齢八○にも届きそうな年寄りではあるが、めぼしい後継者がいないこともあり、未だに細々と政に携わっている。ここのところ城に出てくる日もまばらだが、今日は重要な取り決めを片付ける必要があったため、朝から城に来てあれやこれやと雑務をこなしていたのだ。

 フェイはエキの事などおかまいなしに、手にとった泥のパックを顔に塗りたくる。
 「あによ、しなければならないことはすべてすませたはずでほ」
 泥パックに皺を作りたくないフェイは、口をなるべく動かすことなく言った。結果、間の抜けた喋り方に聞こえる。

 「姫様、それがその、珍客の訪問がありましてなぁ……」
 エキはフェイが子どもの頃から身近にいた。その時からの癖で、王位を継いだ今となっても姫、と時々口から出ているが、特段それを咎めようとも思っていない。

 「こんな時間に?」
 フェイは泥を塗る手を一瞬止めた。が、僅かに考えてすぐに手を動かす。
 「明日にさせなさい」
 「いえ、それがどうしたものか」
 ふわふわと定まらないエキの態度に、初めて不信感を覚えた。
 「なによ、誰が来てるっていうの」

 フェイは完全に手を止め、かしこまって佇むエキのほうへ振り向いた。

 「もう六日か、七日ほど前になりますか。陛下がムラクモの従士達にした事を覚えておられましょう」
 「……当然だわ」
 本当は思い出すまでに僅かに時間を要したが、当然そんなことはおくびにも出さない。

 「ええ、それがその、その時に陛下が無理難題――ではなく、ムラクモへの要求をしたためた親書を渡した男の事は」
 「そうね、たしか妙な格好の男だったかしら」
 「その者が、まいっております」

 フェイは首を傾げた。

 「見間違えではないの?」
 「見た者の記憶に痕を残す容姿です。その者に見覚えのあった者らが確認をしたので、まず間違いなく」
 「そう――」

 フェイはめずらしく困惑していた。
 仲間を痛めつけ、無理矢理書簡の届け役に命じた男の事は覚えている。たしかに期日を設けて戻ってくるように言いはしたが、本当にその通りにするとは思ってもいなかった。
 命の危機を感じ、逃げ出したにしろ、事の次第を上に報告したにしろ、再びその姿を見ることはないと思っていたのだ。

 「仲間と一緒に死にたい、ということかしら。それとも偽りの回答でも用意した、とか。それか、金品で機嫌をとって仲間を返せ、とでも言うつもりかしら」

 捕らえた二人の従士は、宣言した通り、祭の催し物として処刑してしまおうと考えていた。その場に一人追加されるとしても、とくに不都合はない。どのような結果にせよ、役立たずの平民の死体が一つ増えるだけだ。

 「それが……件の従士はムラクモのグエン公からの親書を持ってきたと言っているのです」
 フェイは失望を感じた。
 「なによそれ、もうすこしマシな嘘をつけないのかしら。アベンチュリンからの公式な親書にさえ返事をいただけなくなって久しいというのに……まったく、平民とは愚かな生き物だわ。無駄なことだけど、中身は確認したのでしょうね」

 エキは首を振った。

 「いえ、陛下に直接渡すと言うものですから。この後の事は、姫様の判断をうかがってからと思い、今は見張りをつけて謁見の間にて待たせてあります」
 「いいわ、会いましょう。どんなしたり顔で嘘をついてみせるのか、楽しみになってきた」

 フェイはすっくと立ち上がり、赤い薄手の外套を一枚羽織った。
 「お待ちください、その格好でいかれるおつもりで」
 寝支度をすませていたため、フェイの格好は人前にでるのに相応しいとはいえないものだった。
 自慢の黒髪には香油を塗り、専用の丸い帽子を被せている。服は薄い桃色の寝巻きで、顔には泥が塗りたくってある。
 客観的に見れば仮装遊びででもしないような珍奇な格好だが、あいにく、フェイは自分を客観的に見るということが大嫌いだった。

 「いいでしょべつに、体裁を気にするような相手ではないわ」
 「せめて、お顔のものを落としてからでは……」
 「いやよ。肌を美しくするイベリス産の泥なんだから。高かったのよ」
 エキはそれ以上注意をあきらめたのか、黙ってフェイの後に続いた。
 足をはずませながら自室を後にしたフェイの心中には、突然舞い込んできた珍事に対する期待が膨らみつつあった。



 どうにか慣れない馬にしがみつきながら、シュオウは夕陽が落ちてからしばらくしてアベンチュリン王都に到着していた。
 衛兵に事情を説明すると、驚いた様子で老宰相が応対した。敵地に乗り込んできたつもりのシュオウにとって、初対面となるはずのこの老宰相の態度は意外なものだった。威圧的というわけでもなく、まるで孫の苦労話を聞く好々爺のように耳を傾けていた。

 一通りの話を終えると、不快な思い出しかない謁見の間に通された。
 悪趣味な調度品の数々は相変わらずのようだ。
 広大な空間に一人佇んでいると無性に居心地の悪さを感じる。

 さらさらと流れる砂時計の中の砂を見つめて、シュオウは安堵した。
 砂はまだ落ちていない。
 残された量は僅かではあるが、たしかにシュオウは言われた通りの制限時刻までに戻ることに成功したのだ。

 玉座を正面から捉えているシュオウから見て、左奥の扉が開かれた。
 シュオウにあれこれと説明を求めた老宰相を連れて現れた女王、フェイ・アベンチュリン。その姿は異様の一言につきる。

 ――なんのつもりだ。

 物腰だけは優雅に、横長の玉座に腰かけて、足を組んでみせる。
 さらに後から入ってきた四人の輝士達が玉座の横に控えた。
 輝士達には全員見覚えがある。四人のうち二人はシュオウ達をアベンチュリンへ案内した女輝士と強面の輝士だ。
 シュオウを見る彼らの表情は、一様に見下したようににやけている。それを不快に思いながらも、黙って受け止めた。

 フェイは泥のようなものを塗りたくった顔で、あまり口を動かす事なく喋りはじめた。
 「おやまあ、本当に戻ってきたなんて――」
 フェイの言葉はドタドタと響く足音に遮られた。
 謁見の間の入口から、駆け足で現れたのはシュウ王子だ。シュオウの姿を確認して、とても驚いているようだった。

 「ほ、ほんとうにッ!?」
 シュウ王子の大きな声が部屋中に木霊する。
 「シュウ……まったく、だれから聞いたの。黙っていられるのなら同席を許すわ。静かにしていなさい」
 シュウ王子はなにか言いたげに唇を噛んだ。が、結局姉の顔色を伺い、黙ってシュオウの傍らに立ちすくんだ。

 「水をさされてしまったけど、続きといきましょう。なにか持ってきていると聞いているわ。早く渡しなさい」
 「渡す前に――」
 シュオウは懐に大切にしまい込んでいた書簡を取り出して見せた。
 「――人質になっている二人の無事を確かめたい」

 フェイの親衛隊の輝士達が顔色を変えた。一介の平民であるシュオウが条件を突きつけた事が面白くないのだろう。

 「もったいつけるわね。いいわ、ここへ戻った勇気に報いましょう」
 フェイは輝士の一人に、囚われた二人を連れてくるように指示を出した。

 それからすぐに連れてこられた二人は、家畜にでもするように首に縄をかけられ、両手を拘束された姿で現れた。
 ヒノカジは輝士達に痛めつけられた時の傷が、痛々しい痣となって顔中に残り、ミヤヒのほうは目立った傷跡などは見られなかったが、最後に見た時からは想像もつかないほどやつれていた。

 二人は、すぐにシュオウの存在に気づいた。
 ミヤヒは目に涙を溜めて力なく笑顔を浮かべた。
 一方ヒノカジのほうは、喜んでいるというより狼狽しているように見えた。
 僅か七日間。その間幽閉されていた彼らは、一年間牢獄に放り込まれていた囚人のように痩せ衰えていた。
 きっとろくな食事も与えられていなかったに違いない。

 「満足かしら」
 無神経なフェイのその言葉に、シュオウは強く苛立ちを感じた。
 手にしていた書簡を突き出すと、輝士の一人が受け取るために前へ歩み出る。が、シュオウはそれを無視して、玉座にのさばるフェイに向けて書簡を放り投げた。
 「あッ」
 書簡は狙い良くフェイの手元まで届いた。
 輝士達はシュオウを睨んだが、むしろ睨みつけたいのはこちらのほうだ。
 フェイもまたシュオウの態度に機嫌を損ねたようだが、それでも好奇心のほうが勝ったらしい。

 「まあいいわ。いったいなにを持ってきたのやら――」
 フェイは親書の入った筒を開けて中身を取り出した。
 にやけた顔で簡素な紙を眺めるフェイ。そこに書かれている内容を確かめていくうち、しだいにその表情が険しくなっていった。

 「なによ、これ」
 余裕のないその声に、謁見の間にいるすべての人間の視線がフェイに集中する。
 「陛下、どうかなさいましたか」

 玉座の傍らに控えていた老宰相が歩み寄ると、フェイは険しい顔つきで親書を突きつけた。
 老宰相は目を細め、顔を遠ざけながら中身を確認する。

 「なんと……」
 「まさか、本物ということはないでしょうね」
 「見たところ押されている印はたしかなもの。それに、この滑らかな筆筋はたしかに見覚えがあります」
 フェイは苛立たしげに親指の爪を噛んだ。

 「いったいなにが書いてあるのですかッ」
 痺れを切らしたシュウ王子が叫んだ。
 フェイは玉座から立ち上がった。
 「遅れている食料の納入分を分割で納める事が許されたわ。それもグエン様直々の裁可によってね」
 どよめきが走った。

 「そんなまさか」
 シュウ王子も驚愕して眼を見開いている。
 ――そんなに驚くようなことなのか。
 彼らの様子を見て、シュオウは奇妙に思った。
 フェイはシュオウを指さし、怒鳴りつけた。
 「どういう事か説明しなさい!」
 だが、シュオウは首を傾げる事しかできない。
 「いったいなにを?」

 「何代にもわたり、アベンチュリンはムラクモに対して幾度となく交渉を繰り返してきた。その歴史の中で、ムラクモが我々の要求を聞き入れた事が何回あると思っているの。アベンチュリンの願いをあの国が了承したことなんて、ただの一度すらなかった。それがなぜ、たかだか平民二人を人質にとったからといって、突然これほどの好条件を提案したのか。説明しなさいと言っているのよッ」

 「あなたから渡された親書を王都の人間に渡し、仲間を助け出すために協力を頼んだ。それだけです」
 「そんなことだけで、あの国がこれほどの決定を下すはずがない。なにかあるはずよ、そうきっと何か裏が――」
 フェイがまくし立てるのを、老宰相が止めた。
 「陛下、入れ物中にもう一枚ございました」

 手渡された文に目を通したフェイは、晴れ渡った空のようにスッキリとした声で言った。

 「そう、そういうこと……。エキ、信じがたい事だけど、どうやらその男、アデュレリア公爵のお気に入りのようだわ」
 渡された文を受け取り、確認した老宰相は、ほう、と感心しながら呟いた。
 「わからんもんですな」
 「ええ、でもこれでわかった。お前、アデュレリアに縁のある者だったのね」

 アデュレリア公爵が、文になんと書いたのか、正確なところをシュオウは知らなかった。

 「どういう意味か――」
 「わからないはずがないでしょう。公爵からの文には、グエン様の約定を保証する内容と、なにがあろうとお前の身の安全を保証するように、と書いてある。ただの従士に対して、なんら関係がないのにその身を守るような文言をアデュレリアの当主が書くはずがない」

 ――そんな事を書いたのか。
 ありがたいと思う反面、囚われた二人についてはなんら触れていない事に、不満も感じる。彼女もまた、本質的な部分では二人の従士の命になど関心はないのかもしれない。

 「まあいいわ。どちらにせよ、これで事情は大きく変わったというわけね」
 フェイはグエンからの親書と公爵の書いた文を老宰相から取り上げて、再び元の入れ物の中にしまい込んだ。

 「やり直しよ。こんなに簡単に要求が通るのだと知っていれば、もっと大きな譲歩案を求めていたわ。もう七日猶予をあげるから、もう一度アデュレリアへ泣きつきなさい」

 そう告げて、フェイは書簡をシュオウの足下へ投げつけた。
 カランコロンと無機質な音をたて転がる入れ物を、シュオウはただ呆然と見つめる。

 「陛下、どうかここまでで満足なさいませ。あのムラクモから譲歩を引き出せただけで十分でございましょう。グエン公よりいただいたご提案は、我が国の現状には非常にありがたいものです。それに、これ以上ムラクモの名に泥を塗るようなまねをすれば、さすがに見過ごしてはもらえぬやもしれません」

 老宰相は主君に対して窘めるように言った。
 だが、我の強い女王の耳には、まったく届いていないようだ。

 「この後に及んで何を言っているの。ムラクモが大事になる事を嫌っているのは火を見るよりあきらかだわ。それに、目の前に極上の宝石が吊されているというのに、手を伸ばさないなんて私には無理。主導権はまだこちらにあるんだから」

 フェイは呆然と佇むシュオウを指さして、告げた。
 「内容を改めた親書を渡す。もう一度それをムラクモに届けなさい」

 ――もう一度。
 繰り返せとい言っているのだ、同じことを。
 ――いやだ。
 目の前に転がる、たった一通の紙切れを受け取るまで、多くの人々の助けがあった。
 最終的な決定権を有していたグエンが、この件への介入を嫌っていたことも知っている。
 仲間を助け出すための一手を得られたのは、水面下でのアデュレリア公爵の努力の賜であろうことも知っている。
 自分の立場や身の安全を捨てて、シュオウの脱出に協力してくれた二人の従士もそう。
 シュオウが女王に渡したものは、所詮モノにすぎないが、多くの努力や覚悟が詰まっているのだ。
 それを、アベンチュリンの女王は投げ捨ててやり直せと言った。
 ――ふざけるなッ!
 沸々と沸き上がる怒り。
 押さえがきかなくなった感情を、もはや心中に止めておく事などできるはずがなかった。

 「ふざけるな」
 低く重たい声で吐き出すと、周囲の空気は凍り付いた。
 「……今、なにか言った?」
 空耳でも聞いたかのような素っ頓狂なフェイの声。
 シュオウは声を張り上げる。
 「ふざけるなと言った。やり直しなんて絶対にしない。今すぐ二人を解放しろ」

 フェイは後ずさり、呟く。
 「なんですって……」
 すかさず、輝士の一人がシュオウに詰め寄った。
 「貴様、誰にものを言っているのかわかっているのか!」
 睨みつけられた視線を、それ以上の怒気を含めて睨み返す。

 輝士の左手が伸びた。

 その手がシュオウの襟首を掴んだ瞬間、輝士の手首を捻り上げ、素早くしゃがみ込んで相手の肘を肩に乗せる。そのまま肩を支柱として、本来肘の関節があってはならない方向へ思い切り力を加えた。

 「ああッあああああ!!」
 グシャリという感触とともに、輝士の腕はぶらんぶらんと力無く空中に揺れる。
 輝士は左腕をかばうように倒れ込み、床の上を転がりながら悲鳴を上げていた。
 その様子を見下ろしながら、シュオウは思った。

 ――脆い。

 師の手によって幾度となくこの身に叩き込まれてきた数々の手法。それを実際に自らの手で他人の身にためしたのは、これが初めての経験だった。
 関節を逆方向へ極められる痛み。骨を折られる苦しさは身をもって経験してきた事だ。床の上で転げ回る輝士の苦しみは痛いほどよくわかった。

 突然起こった出来事に、皆瞬きも忘れて沈黙している。
 ――やってしまった。
 今になってようやく自分のしでかしたことを認識できる程度には冷静さが戻りつつある。
 ――だけど。
 アベンチュリンの輝士に手をあげるという暴挙をしてしまったというのに、驚くほど心は軽くなっている。

 圧倒されるほどの広く感じていた謁見の間。
 今になって、あらためてそこを見渡した。

 ――こんなに狭かったのか。

 人生の大半を深界で生きてきたのだ。
 ここは所詮人の作り出した場所にすぎない。
 どんなに広くても、どんなに豪華な装飾がされていても、壁も床も天井も、人の常識が収まるよう作られた、ただの箱にすぎないのだ。
 シュオウは一つ、ゆっくりと深呼吸をした。鼻を通って肺を満たす香油の甘い臭い。

 ――ここの空気の臭い。今はじめて気づいた。

 転げて呻く輝士を見下ろして、シュオウは思った。

 ――いつからだ。

 輝士に逆らってはいけない。
 言われた通りに行動しなくてはいけない。
 女王に無礼を働いてはいけない。

 自覚もないままに、いつのまにかしてはいけないという自戒の楔を、心の中に撃ち込んでいた。
 呆然とシュオウを見る、ヒノカジとミヤヒに視線を流す。目に入った薄茶色の従士服を見た時、シュオウは朧気ながら理解していた。

 ――そうだ、あの服を着たときから。

 軍という組織に入り、制服を着せられて従士という役割を負わされた瞬間から、気づかぬうちに〈新入りの従士〉という役を演じてしまっていたのだ。

 見知らぬ土地へ行ったにも関わらず、どこかで古参従士のヒノカジを頼りにし、自身で警戒することも怠っていた。

 ――もっとうまくやれたのに。

 ボロボロな姿でくたびれはてた二人を見るうち、女王への怒りではなく、自分への後悔の念が湧いた。
 彼らがこんなめにあっているのは自分のせいだ、と。

 シュオウは決意を込めてフェイを見据えた。その後ろにある巨大な砂時計は、未だに時を刻んでいる。流れ続ける砂と同じように、時は待ってはくれないのだ。この僅かな間に次の一手を思考しなければならない。

 このまま二人を解放してもらい、自分も含めて無事に城を出して貰える可能性は。
 ――ありえない。
 シュオウは女王の部下に手を出した。今更どう取り繕ったところで、彼女の怒りを買うのは必至だろう。
 ――それなら、力尽くで。
 もっともわかりやすく単純明快な答えが導き出される。
 それが正しいかどうかも考える余裕のない状況で、シュオウは素早く行動に移した。

 「言われた事はやった。約束通り、今すぐ二人を解放しろ」
 あえてぶっきらぼうに言い放つと、女王の細長い瞳が揺れた。
 「な、なにを……お前、誰を相手にしているのかッ――」

 最後まで言わせる事なく、シュオウは人差し指をフェイに向けて、挑発するように声を張り上げた。
 「お前に言っている! 王としての矜持がかけらでもあるのなら、約束を守れアベンチュリンッ!! それもできないのなら、お前はただの嘘つきだ」

 女王の顔が醜く歪んだ。と、同時に顔面に塗りたくられた泥がビシビシとひび割れていく。
 「おのれ、ゆるさんッ! 殺せ! 殺しなさい、今すぐにッ!!」
 そう怒鳴り散らしながら靴を踏みならすと、三人の輝士達は慌てて剣を引き抜いた。

 一人目の輝士が先頭をきってシュオウに斬りかかるが、その動きは緩慢だ。
 本来なら三人同時に攻撃をしかけてこなければならないような状況だ。しかし、シュオウが彩石を持たない一従士であるということが彼らの油断を誘っている。それが現状にあって、これ以上ないほどに有利な条件を生み出していた。

 両刃の剣による袈裟懸けの攻撃。シュオウは半身を後方へずらし、体を細めるようにしてこれを躱す。そのまま相手が次の行動を取る前に、すばやく剣を持つ右手をひねりあげ、切り込んできた勢いをそのまま利用して地面に引きずり倒した。

 ガッチリと掴んだ手首を捻り上げると、輝士は苦しげに声をあげて剣を手放した。
 脱力した腕を一本の棒のようにひっぱり、肘の部分を踏みつけにして、そのまま手首を天井に向かって持ち上げる。ゴキリ、という鈍い音が響いて輝士は悲鳴をあげた。

 ――一人目。

 突然襲った猛烈な痛みと、自らの体の一部を破壊されたという恐怖。その恐ろしさからくる混乱をシュオウは知っている。腕をへし折られたこの輝士も、しばらくの間は立ち上がる気にさえならないだろう。

 幼い頃から多くの苦しい修練と引き替えに得た技術。
 人体の根幹を成す骨子。骨や関節に痛打を与えることで、殺さずして瞬時に相手の戦意喪失を狙う方法。
 生かしたまま多くの敵を制圧する、という理念の本、受け継がれてきたこの技の基本的な形は、敵の攻撃を待ってこれを最小の労力で躱し、反撃に転ずるという事だ。
 人体は痛みになにより弱い。
 体が苦痛を感知すると、生存するための機能は素早く働く。集中力は散漫となり、無意識のうちに手は患部を守るように動く。結果大きな隙が生じる。
 足は擦る事で安定を維持し、手は瞬時に敵を掴むことができるよう自由でなくてはならない。
 身一つで、武器や盾を持たずに敵と相対するため、躱すという行動が特に重要視される。

 師が幼かった頃のシュオウの才に気づき、後継者に選んだ時の気持ちが、今になってよくわかった。
 並外れた動体視力を持つシュオウにとって、躱すという選択肢は自身の能力を最大限生かすことのできる技術なのだ。
 時間がゆっくりと流れているとさえ錯覚するほどの眼の力は、未熟な実戦経験を補ってあまりあるほどの優位さを発揮している。

 後にこの技術を伝えた初代は、人の心を読むことに長けていたのだという。次におこす相手の行動を予測して攻撃を躱し、勝機を得たという話だが、あまりにも昔の話なので信憑性はない、と師は笑いながら話していた。

 どこかで余裕を見せていた輝士達の顔色が変わった。
 次に向かってきたのは女の輝士。その顔には見覚えがあり、アベンチュリンへの案内役として動向していた輝士の一人だった。
 
 女輝士は手に持った細剣の利を生かし、慣れた動作で鋭い突きを放つ。
 鳥でさえ落としてしまえそうなほどの素早い一撃だったが、狂鬼の放つ人間離れした攻撃でさえ躱すことのできるシュオウにとっては、胸の中心を狙った一突きをすれすれで避けることに、なんら労力を必要としない。
 逆に一歩を踏み出しながら攻撃を躱したシュオウは、素早く女輝士の懐に潜り込み、両手で髪を掴んで引きずり倒した。

 「きゃあッ!?」
 女性らしい悲鳴が聞こえ、一瞬の戸惑いを覚えたが、手は止めない。
 女輝士の左手を捻りあげ、左肩に手を置いて全体重をかける。その体が痙攣したように悶えると、大木が真っ二つに割れるような感触が伝わり、女輝士の体から魂が抜け出てしまったかのように力が抜けた。あまりの痛みに気を失ったのだろう。

 ――二人目。

 残す一人を睨みつける。
 最後の一人、シュオウにとってもっとも印象深いその男は、七日前のあの時に自分の顔面に蹴りを入れた強面の輝士だった。
 ここへきてようやく、目の前にいるのがただの従士ではないと気づいたのか、強面の輝士は左手を翳して晶気を使う動作に入る。だが――

 ――遅い。

 すべてが遅いのだ。始めからシュオウを過小評価して戦いを挑んだ時点で、勝利は得たも同然だった。
 輝士として活かせる最大の武器を今更抜いたところで、相手は所詮あと一人だけ。

 屈んだ姿勢のまま、シュオウは晶気を練る輝士まで一瞬で間合いを詰めた。
 晶気を使うと見せればシュオウが怯えるとでも思っていたのか、逆に立ち向かってきた事に驚いた強面の輝士は、晶気を放つどころか、混乱してそのまま後ろへ倒れ込んでしまった。

 輝士を見下ろすシュオウ。

 二人の視線が合わさると、強面の輝士の表情に強い怯えの色が浮かんだ。
 相手の生死を握る立場になった途端、された事への仕返しをしてやりたいという幼稚な欲求が芽生えた。
 輝士の顔面目掛け、足を踏み上げる。

 「やめ――」

 心底恐怖する輝士の顔を見た瞬間、頭の中は薄暗い欲望から漏れ出てくる快感で満たされていた。
 本来、拳や足での殴打はするなと言われてきた。戦闘時に重要な手足を差し出すような真似は、手傷を負う機会を無駄に増やすことになるからだ。

 だが、まだ若いシュオウにとって、復讐の鉄槌を振り下ろす事になんら躊躇はない。
 全力で踏み降ろされたシュオウの足は、輝士の顎を踏み砕いた。
 強面の輝士が白眼を剥いて気絶したのを確認したシュオウは、深く息を吐き出した。

 ――三人目。

 女王を守る四人の輝士は制圧した。が、敵をすべて封じたわけではない。この場でもっとも手強い相手であろう砂金石を持つフェイ・アベンチュリンは、未だ健在なのだ。

 ――どうしよう。

 フェイに対する対処方法をなんら考えていなかったシュオウは、一仕事やり終えた爽快感とともに呆然とした。
 唯一の救いは、シュオウが披露してみせた一連の出来事に、信じられないものでも見たように、フェイが絶句して佇んでいる事だ。彼女もまた予想していなかった事態を迎えて混乱しているのだろう。

 戦うか、逃げるか。二つの選択肢が頭に浮かんだ。
 砂金石という名の燦光石。その石にどれほどの力があるのか、シュオウは知らない。
 砂時計の中にあった大量の砂を持ち上げてみせていた事と、砂金石という名から察するに砂に関連した晶気を持つのだろう。だが、その規模や早さ、正確さ等については適当な想像すらできないほど情報が不足している。

 女王のいる玉座までの距離は短いとはいえない。どれだけ全速力で詰め寄ったとしても、反撃を思考するだけの余裕は与えてしまうだろう。

 問答無用に二人を連れて逃げ出したところで、手負いで体力も落ちている人間二人と共に無事に逃げ出せる保証もない。

 ――手詰まり、か。

 最後の手段として、決死の覚悟での突撃を考えたときだった。
 ちらりと流した視線の先で呆然とシュオウを見つめるシュウ王子の存在に気づいた。
 考えるまでもなく、シュオウの足は動いていた。

 一歩、二歩、三歩。

 大股で全力疾走し、ただ立ち尽くしていたシュウ王子を羽交い締めにする。
 慌ててフェイは手を伸ばすような仕草をしたが、遅かった。

 「二人を今すぐ解放しろ。逆らえば、王子の命をこの場で断つ」

 シュウ王子の手を背中へ回し、動きを封じた後に、シュオウは右手で王子の首を締め付けた。最初はゆるく、徐々に締め付けを強くして気道を塞いでいく。
 フェイは怒りに震えながらヒステリックに声をあげた。

 「王族に手を出してただですむと思っているのか!」

 ――さあ、どうする。

 頭の上から溶岩でも吹き出しそうなほどに猛るフェイとは逆に、シュオウは氷のような落ち着いた心でフェイの動向を見守っていた。

 これは最後の賭けだ。弟を人質に取られたフェイが、彼の命をかけらも惜しまなかったとしたら、彼もろともに命を狙われる可能性もある。
 予想できる未来には二つの結果しか思い浮かばない。

 ――生か死か。

 シュオウの顔には、無自覚に微笑が浮かんでいた。

 我ながら、これほど不確かな状況で戦いに望んでいることが可笑しくなったのだ。
 場違いな笑みを見せたシュオウに対して、フェイは困惑したように後退った。

 最後の決断を煽るため、シュオウはシュウ王子の首を絞める手にさらに力をこめた。すでに正常な呼吸を妨げるだけの締め付けを与えている。

 「ぐぐ……がッがが……」
 拘束された王子は、それでも必死に苦しみから逃れようと、苦しげな声を漏らしながら藻掻いた。自由なままの右手が首を締め付けるシュオウの右手に重ねられる。

 フェイは歯を食いしばり、いまだ迷いの中にいた。

 「陛下、ここまでで十分でしょう。王子殿下が命を落とすような事になれば、事態はより悪化し隠しておくことも難しくなる。ムラクモも今回の件を知らぬふりで通すことができなくなります。そうなれば、我が国の歴史はあなたの代で終いになるかもしれませぬぞ」

 フェイの傍らにあって、静かに事態を見守っていた老宰相は諭すように言った。

 「ただの平民に、王族を殺す度胸などあるはずがないッ」
 フェイはまるで自分自身に言って聞かせるように呟いた。
 「姫様……目の前をよくご覧ください――」
 老宰相は前方で腕を押さえて芋虫のようにもがく二人の輝士と、完全に気を失い微動だにしない二人の輝士を指し示して、言った。

 「――ただの平民が、これだけの事を一人で成したのです。現実から目をそむけるのはおやめなさい。王子の命と引き替えにしてあの者の命を奪ったとて、得るのものはなく、失うものは大きすぎる」

 フェイは目の前に広がる光景をゆっくりと視界に納めた後、苦しげに藻掻く弟を見た。
 下唇を破けそうなほど強く噛みしめたフェイは、急に脱力してしまったかのように玉座に座り込んだ。

 「二人の従士の解放を認める。追っ手は出さないから、好きになさい……」
 シュオウはその言葉を聞いて、シュウ王子の首に巻き付けていた手を離した。
 「げほッ、ごほごほッ――」
 王子は苦しげに何度も咳を吐いた。

 シュオウは王子を拘束したままヒノカジとミヤヒの元まで行き、二人を拘束していた縄を解いた。
 「大丈夫ですか」
 気遣うように聞くと、ヒノカジは縄の後がついた手首をさすりながら、答える。
 「あ、ああ……」
 どこか余所余所しい態度を不思議に思いながらも、同様にミヤヒにも声をかけた。
 「私は大丈夫。それよりあんた――」
 「話は後で。はやくここを出ましょう」
 「うん、そうだねッ」
 ミヤヒは力強く頷いた。
 「二人は先に出てください」

 ヒノカジとミヤヒが先に謁見の間を後にしたのを確認し、シュオウは王子を引き連れたまま、後に続く。

 部屋を出る間際、女王がシュオウを呼び止めた。
 「待ってッ! シュウを……王子を解放しなさい!」
 「安全を確保できるところまでは連れて行く」
 「追っ手は出さないと言ったはずよ!」
 不満を漏らすアベンチュリンの女王を睨みつけ、シュオウは言った。
 「信じると思うのか」
 そう問われたフェイは言葉を失った。

 その瞬間、フェイの後ろで時を刻んでいた砂時計は、すべての砂を落としきった。

 最後まで警戒を解かぬまま、シュオウは忌々しい箱の中から脱出した。

 城の外で待っていた二人と合流した。
 抵抗するかもしれない、と思いながらもシュオウはシュウ王子を解放した。
 始めからどことなく敵意を感じなかった事もあるが、いざとなっても制するだけの自信があったからだ。

 両手が自由になったシュウ王子は地面に手をついて盛大に咳をした。
 「すいませんでした」
 謝罪を述べると、シュウ王子は頭を振った。
 「い、いえ……謝らなければならないのは、こちらの、ほうですから……」
 敵意がないことに安堵しつつ、シュオウは四つん這いの王子へ手を差し伸べた。だが、シュオウの手を見たシュウ王子は、蒼白な顔でそれを振り払った。

 「あ……」
 気まずそうに自分で立ち上がったシュウ王子は、悲壮な表情で城門の左奥を指さした。
 「あちらに皆さんの馬を停めてあります。姉に追っ手を出させるようなことは絶対にさせませんから。どうかお気を付けて」
 シュオウは頷き、ヒノカジに肩を貸して、一度も振り返る事なく厩を目指した。

 結局、シュウ王子は解放されてから後、一度たりともシュオウと目を合わせようとはしなかった。



 月光を背負い、白道の上を馬で疾走する。
 来た時と同じように、ヒノカジが一頭に跨り、シュオウはミヤヒの後ろに乗っていた。

 筋状に薄く伸びた雲が膜を張ったように月を朧に見せていた。
 雲の波が通るたび、揺れて見える月は、湖の中を泳いでいるようだった。

 シュオウをここまで運んできた軍馬は、無人でありながらきちんと後をついてきている。カザヒナの言った通り本当に賢いのだと感心した。
 ミヤヒはしばらくの間、緊張からか黙りこくっていたが、アベンチュリン王都から大分距離が離れると次第に落ち着きを取り戻していった。
 「なにから聞けばいいのかわからないけど、あんた本当にシュオウ、だよね?」
 シュオウは苦笑しながら答える。
 「当たり前じゃないですか」

 「そうだよな。でも、なんだか別人みたいに見えるよ。とにかく、シワス砦に戻ったら色々聞かせて貰うからな。あーあ……さっきあんたがした事をみんなに話したって、信じてもらえないだろうなあ」

 ミヤヒは先の事を考えているようだが、それはおそらく訪れる事はないだろう。
 シュオウはシワス砦での任を解かれている。ムラクモへ戻り次第、とりあえずは王都へ向かわねばならないだろう。

 ヤイナの食事や、ミヤヒにかまわれる事がなくなるのだと思うと、一抹の寂しさも感じるが、それもしかたのないことだ。

 シワス砦という名の小さな箱の中。そこは、シュオウの居場所ではなかった。
 求めるものは知識や経験。
 欲しい物はこれから探せばいい。
 軍には所属しているが、そこを出ることは自由だ。シュオウには自力で脱するだけの力がある。

 ――もうしばらく、もう少しだけ。

 あと少し、この国を見てみようと思った。それに、恩を返さなければならない人もいる。 砦での生活に未練はないが、ただ一つ、剣を教えてくれると言っていたヒノカジの事を思うと、心残りだった。
 王都を出てから一度もシュオウと目を合わせようとはしないヒノカジ。
 今は背中しか見えないが、後で事情を説明し謝らなければならないだろう。
 









     『その後』










 ムラクモ王都。
 サーペンティア公爵家別邸の執務室にて、若き輝士、ジェダ・サーペンティアは父であるサーペンティア公爵に呼び出され、顔をつきあわせていた。
 「急用だとか、王都を出る寸前でしたよ」
 「頼みたい事がある」

 サーペンティア公爵は重苦しい声で言った。

 「父上直々に、とは。またいつもの仕事なのでしょうね」
 「今回にかぎってはそうとも言い切れないが、やっかいであることは間違いない。四石会議で見た大きな眼帯をした従士を覚えているだろうな」
 「忘れるわけがありませんよ。グエン公に真っ向から意見を述べる人物というのを、氷長石以外で見たのは初めてでしたから。それも、食べ物が不味くなるから言うことを聞けと言ってのけたのですからね」

 ジェダは薄く笑んだ。

 「あの従士、どうにも気にかかる」
 「アデュレリアが肩入れしている事がですか」

 サーペンティア公爵は頷いた。

 「あの方が、今更従士二人の命を心底惜しむはずもない。なのに今回アデュレリアは平凡な従士二名の救出のために多くの労を背負い込んだ。それはなぜだ」
 「あの従士が、それを望んだからでしょう。本人もそのような事を言っていましたし」
 「そうだ、望みを叶えたのだ。大国ムラクモでも屈指の大貴族が、素性もはっきりしない従士一人の願いを聞いた。それほどのなにかが、あの従士にあるのだとしたら、それを知らずに捨て置くわけにはいかん」

 「僕に調べろと? たしか、彼の次の行き先は」
 「アデュレリア」
 他人事のように軽く言う父を見て、ジェダは苦笑した。

 「サーペンティアである僕に、単身で氷犬共の巣へ行けというのですか。裸で敵地のど真ん中へ行けといわれたほうがまだマシだと思える命令ですよ」

 「……アデュレリアには当分の間、サーサリア王女殿下もご滞在なさる。滅多に外と触れあわぬ殿下に顔を売る好機になろう。お前の容姿ならば、良い印象を得られるかもしれないし、無駄にはするな」

 ジェダは深い溜息を吐いた。

 「北方方面の砦へ緊急時のための援軍として詰めろと言われたときには、ひさしぶりに楽な仕事だと喜んだのですけどね」
 ジェダは嫌味を込めてそう言った。
 「……仕方のないことだ。北へはお前の兄姉達から適当に選んで送ればすむ」
 目を逸らした父に、ジェダは呟いた。
 「また、伯母上からの命令ですか」
 「黙って行けッ!」
 突然激高したサーペンティア公爵は、執務机の上にあるものを盛大に払い落とした。
 ガサガサと騒がしい音をたてながら、ペンや紙が部屋中に散らばる。

 「拝命致しました。折を見て報告を入れましょう」

 ジェダは微笑を浮かべ、息を荒げる父に向けて敬礼した。
 これから行かねばならない先は、この世でもっともサーペンティアの名を忌み嫌う者達の本拠地なのだ。
 ある意味、死地へ赴くに等しいほどの仕事といえる。
 だというのに、ジェダの整った顔から微笑が損なわれる事はなかった。





 アデュレリアの当主、アミュは怒りにまかせて文を破り捨てた。
 「よろしいのですか、アベンチュリン女王からの書簡にそんなことをして」
 破り捨てられた紙片を拾い集めながら、カザヒナはそう聞いた。

 「かまうものか! この後におよんで何を言ってくるかと思えば、働き手が減ったからシュオウを寄越せと言ってきおった。まったく馬鹿馬鹿しいッ」
 アミュはまくし立てながら執務机を拳で叩きつけた。
 カザヒナは破かれた文をすべて拾い集め、元の形に繋ぎ直して文言を確認する。

 「重傷が二名。他二名の内、一人は精神的な問題から輝士としての職務を放棄。もう一人は一生涯固形物が食べられないかもしれず、再起可能かも定まらず……ですか。なにをすればこうなるんでしょうね」

 「単身で狂鬼を屠る男じゃ。そのくらいは当然であろう」
 アミュはそう言い、満足気に頷いた。
 シュオウが戻ってから早半月。
 シワス砦で送り出してから、シュオウが二人の従士を救出して戻ってきたのは翌早朝の事だった。
 なぜだかスッキリとした表情で戻ってきた彼は、多くは語らず、ただ一悶着あったとだけ説明していた。
 今は王都の別邸にて、アデュレリアへ立つ日を待つ身だ。

 カザヒナは文をさらに読み進めた。
 「女王陛下は、高給を用意して彼を護衛官として雇いたいと言っていますね。これって凄いことなんじゃ」
 「復讐したさに蜜をちらつかせているだけかもしれん。どちらにせよ、あれがただの護衛官などに収まるものか。間違いなく、シュオウは多くの者達の先頭に立つような人物になる。安月給で砂の城に押し込めておく理由など微塵も見いだせぬわ。かまわん、そんなものはさっさと捨ててしまえ」

 一国の主からの文を、そんなものと言い捨てる上官を可笑しく思いながら、カザヒナは言われた通りに破かれたアベンチュリン女王からの書簡をくずかごの中に入れた。

 「閣下の望まれた通りになりましたね」
 「うむ」

 明後日には、王都での仕事を終えて故郷であるアデュレリアへ向かう事になる。その後からサーサリア王女も来ることになっているため、迎えのための支度に骨が折れそうだと今から覚悟せねばならないだろう。

 「滞在中、シュオウの世話はお前にまかせるぞ」
 「かしこまりました。建前では謹慎中ということになっていますが、どのように応対すればよろしいのでしょうか」

 「好きにさせればよい。媚びる必要はないが、あの者が望んだモノはすべて与えよ。金や手間を惜しむ必要もない。まだ未熟さが残る今だからこそ、恩を売って売って売りまくれ。時が経った後、本人が望んでも返しきれぬほどに、な」

 「おおせのままに」

 アミュはシュオウの忠誠を求めている。はっきりと言いはしないが、そういうことであるとカザヒナは理解していた。
 意図して貸しを与えるのなら、まだ若く汚れのない今が絶好の機会になるだろう。

 親愛の情を得るのはたやすいこと。そう思いながらも、心のどこかでは、一国の主をやり込めて涼しい顔で戻ってきたシュオウに、手綱を付けることなど出来るのだろうか、という不安も湧いてくるのだった。





 「あの時は……助けてくれて……どうも、ありが――」
 慣れない手つきで文字を書いている孫を見つけ、ヒノカジは怒鳴りつけた。
 「ミヤヒ! その手紙、だれに書いてる」
 「誰にって、そんなのシュオウに決まってるだろ。戻ってからお礼を言う暇もなく出て行っちゃったからさ、せめて手紙でもって」
 ミヤヒがそう言うと、ヒノカジは目を剥いて書きかけの文を掴み、くしゃくしゃに丸めた。
 「ちょっと、なにすんだよ!」
 「いいか、二度とあの男に関わろうと思うな」
 「なんで?」
 「なんでもだッ」

 「別に手紙の一枚くらい……あたしらを助けるためにシワス砦をクビになったらしいしさ、ちゃんとお礼くらい言っておきたいよ」
 ミヤヒは懇願するようにそう言った。
 いつもは口やかましく言っておきながらどこか孫に甘いヒノカジだが、今回ばかりは認めなかった。

 「お前、まさか惚れたんじゃあるまいな」
 ヒノカジが聞くと、ミヤヒは咄嗟に視線を逸らして黙り込んだ。これでは認めているのと同じ事だ。
 自分の孫の不器用さと単純さを可愛く思いながらも、ヒノカジは眉根を寄せながらミヤヒの肩を掴んだ。

 「忘れろ、あれはお前にどうにかできるような男じゃねえ」
 「……でもさ、じっちゃん、いつも早く男見つけろって」
 「あれはもういい。あんなもんに肩入れするくらいなら一生独り身のほうがましだ。いいな? 何度でも言うぞ。二度と関わろうと思うな」

 祖父の態度を不審に思いながら、ミヤヒはぶつくさと言いながら自室へ引き上げていった。
 ヒノカジは食堂に残り、残しておいた酒をあおる。

 ――笑っていたんだ。

 自分が小僧呼ばわりしていた新入りの従士。
 女王の前で輝士を相手にし、生死を賭けたあの場面で、うっすらと笑顔を浮かべながら戦っていた。

 ありえないと思った。
 自分以外になんら頼れるものがなかったあの状況で、どうしてあれほど堂々とした振る舞いをとれるのか。

 シュオウは平民と貴族の間にそびえる大きな壁を、軽々と飛び越えてみせた。
 目の前で輝士達を倒していく姿を見て、年甲斐もなく興奮も覚えたが、同時に湧いた恐怖のほうが勝ったのだ。

 ヒノカジにとっては、傍若無人に振る舞う輝士達よりも、平民であり年若い従士の身でありながら、あれほどの振る舞いをして見せたシュオウのほうが理解の外にいる生き物だった。

 助け出された事には心底感謝していた。
 しかし、それ以上に関わり合いになりたくないという気持ちのほうが常に勝ってしまう。

 ――剣を教えるだと?

 あの夜の事を思い出して自嘲するように嗤った。
 あれだけの事が出来る人間に、凡夫である自分がいったいなにを教えられるというのか。

 今にして思えば、シュオウに対して貴族の娘達が頻繁に贈り物を寄越していた理由にも思い当たる。
 おそらく、彼女達は知っていたのだろう。シュオウという人間の本質を。

 ヒノカジの胸に、ちくりと苦い針が刺さった。

 ――なんなんだ、この気持ちは。

 自分では絶対に手が届かないものを持つものに対する羨望。

 嫉妬を覚えるにしては、ヒノカジはすでに老いすぎている。
 どう処理することもできない感情を抱え、ヒノカジは途方に暮れる。
 今はただ、酒を腹に流し込んでごまかすことしかできないのだった。























_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

 ●あとがきのようなもの


 ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました。

 お話の途中で間が空いてしまって申し訳ないです。
 おそくなりましたが、2012年もよろしくお願い致します。

 今回で従士編は完結となります。
 従士編は、新人ヒラリーマンシュオウの苦悩と開き直りをテーマに書かせていただきました。
 今回のことを経験した主人公は、今後組織の中にあってもワガママに生きていくことができる下地のようなものを手に入れたのでは、と思っています。
 悩みつつも思った通りに書いた結果として、ヒロイン成分がからっきしの色気のないお話になってしまいましたが、その部分は次の謹慎編で補えると思います。

 この後は、無名編のヒロイン二人が登場する短いオマケストーリーを一本書いた後に、次のシリーズに取りかかります。

 謹慎編は、お姫様と主人公の二人の関係をメインテーマしたお話になる予定です。
 あのラリ姫様に、シュオウがどう接するのかを楽しみにしていただければ嬉しいです。

 それではまた次回。



[25115] 『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 蜘蛛の巣』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:c54b774c
Date: 2012/02/12 08:12
     『蜘蛛の巣』





 夕陽のまぶしさに目を細めた。
 夜よりも暗い鉱山の中から外へ出た瞬間、人界の世が放つ臭気に目眩を覚える。

 都の名はムラクモ。人々が日常を過ごす区画からは遠く隔離された地区に、大規模な採掘場がある。そこでは交代制で休むことなく人々が働き、夜光石の採掘と切り出し作業が行われていた。

 作業員達が集まる拠点では、夜時間勤務の若い作業員達が、配給された食事を手に天幕の下で小さな焚き火を囲っている。なにがそんなに楽しいのか、彼らの表情は一様に明るく、栄養はあるが決して美味いとは言えない飯を喰らいながら、上機嫌に未来の夢などを語り合っている。

 そんな彼らを横目で流し見ながら思った。
 あと一○年もここにいれば、疲れ果て陽の光を避けて手を翳すように、希望に満ちた新入り達の笑い声を疎ましいと思うようになるのだ、と。
 彼らの姿は過去の自分であり、今の自分は彼らの未来なのだ。
 足取りは頼りないし、肩は岩のように硬いし、膝は歩くたびにギシギシと軋む。
 お前達もこうなるんだと心中で嘲笑う。だが一方では彼らを羨ましく思う自分がいることも自覚していた。

 脳天気な喧噪を背に、市街地へと続く道を歩く。
 背の高い針葉樹が夕陽を遮り、ただでさえデコボコとした道は、暗がりで尚歩きづらい。

 途中、採掘場の監督官である貴族を乗せた馬車とすれ違った。
 くたびれ果てた足に鞭打って、端へ避けて頭を垂れる。
 かがんだ姿勢のせいで酷使した腰が悲鳴をあげた。その苦痛に思わず眉を歪めた。

 馬車から漏れるぼんやりとした明かりが、排水溝の中で立派に張られた大きな蜘蛛の巣を浮かび上がらせる。
 綿密に張られた巣の糸には、小さな羽虫が数匹かかっていて、どうにか逃げだそうと必死に藻掻いていた。

 貴族を乗せた馬車は、じっと頭を落として待っている身の事など考えず、ゆっくりと進んでいく。

 自分は朝からろくに休憩もせず働いているのに、たいした努力もなく責任者の席に座る貴族の監督官は、たまに思い出したかのようにふらりと現場にやってきては、あれをしろ、これはするな、と指示を投げて去って行くだけだ。
 楽な仕事だな、と愚痴りたくもなるというものだ。

 排水溝の中の巣に囚われた羽虫が、家主である蜘蛛に囚われ、腹の中へ収まっていく。その様子を眺めているうち、食べられていく羽虫の存在を自分と重ねてしまい、惨めな心地に囚われた。
 捕食者たる蜘蛛の存在は、人の世の貴族そのものだ。
 採掘場という名の巣をはりめぐらせ、後はそこにかかった得物に手を伸ばすだけ。
 自分など、彼らを肥え太らせるためだけの存在にすぎないのだと思うと、体中に粘る糸が絡みついているような嫌悪感を感じて小さく身震いをした。

 馬車が通り過ぎ、道ばたが再び暗がりに包まれると、さっきまで目の前にあった蜘蛛の巣は、もうすっかり見えなくなっていた。


 王都の中央広場まで辿り着いた頃、周囲はもうすぐ夜を迎える時間帯となっていた。
 家へ帰れば妻と子が迎えてくれる。
 稼ぐ金のほとんどは、将来静かな田舎に土地を買うための資金として貯蓄している。普段の生活にまわせる金は僅かだが、幸いなことに家族仲は良好で、もうすぐ一○になる娘もすくすくと育っている。

 歳をとり経験を積むほどに、給料の額は僅かながらにだが増えている。あと十年も働けば、地方で田畑を耕して生活していけるだけの土地建物を買えるくらいの蓄えが出来るはずだ。
 年頃になった娘に健康な婿を迎えれば、老いてからの心配もいらないだろう。

 人生を呪うほどの不幸を背負っているわけではない。
 しかし、日々単調で疲労の溜まる仕事を繰り返していると、たまにどうしようもなく逃げ出したくなってしまう事がある。
 下を見れば自分より辛い境遇の人間など掃いて捨てるほどいる。が、ふとした瞬間に上を見上げてみると、そこには多くの不公平が転がっていて、そこにいる者達は一歩ずつ前へ進む自分を見下して嘲笑っている。

 左手の甲にある白く濁った石を見る度に溜息が漏れる。
 生まれながら、石に色があるかないかだけで、どうしてこれほどまでに差が生まれるのだろうか。
 考えたところで無意味な不満だ。が、それが一度噴き出すと、様々な後ろ向きな思考まで一緒になって引きずり出される。

 自分が少しでも楽に死ねるように努力している間、石に色があるだけで貴族としての立場が約束された人間達は、綺麗で立派な邸の中で、座っているだけで出てくる上等な食べ物と美味い酒をかっくらい、夜会でくだらない噂話に花を咲かせている。

 手の皮が擦りむけて痛むのも、足が棒のようになって膝がきしむのも、いつものこと。
 それなのに、今日のように暗闇の迷路をさまよっているような気持ちに囚われた日は、身に降りかかるすべてが忌々しい。
 乾いた空気、髪をゆらす冬の風、人々が行き交う喧噪、夕暮れ時の鳥の鳴き声、夕飯の匂い。すべてなくなってしまえばいい。

 ぷっつりと糸が切れたように、広場の長椅子に腰かけた。
 家族が心配する前に早く帰らねばと思いつつも、立ち上がる気力はどこからも湧いてこなかった。

 「ねえ、ちょっと」

 唐突に後ろから声をかけられた。
 それが自分に対するものだと瞬時に判断できたのは、その時たまたま周囲に自分以外の人の姿が見えなかったからだ。
 分厚い声のわりには、どこかナヨっとした喋りの声の主のほうへ振り返るが、そこにあると思っていた頭は見えず、分厚い胸板とたくましい両腕だけが見えた。
 嫌な予感を感じつつ見上げてみると、厚塗りの化粧をした厳つい男の顔が、そこにあった。

 「――ひッ」
 思わず漏らしてしまった小さな悲鳴を聞いて、化粧をした男はにんまりと微笑む。
 「ずいぶんと暇そうね。いいお店があるんだけど、よかったら寄っていかない?」
 「あ、いや、あの……」

 すぐに断りたいのに恐怖で舌がまわらない。
 地方では、悪質なヤクザ者達が、あやしい店に無理矢理客を引っ張り込んで法外な金額を要求するという恐喝まがいの商売があるという。
 もしかすると、この化粧男もそうした商売を生業とした恐い人なのではないか、という想像が一瞬で脳裏をかすめていた。

 男の身でありながら、派手な化粧を塗りたくり、若い女が好むような可愛らしいエプロンをかけている人物。
 一般的にオカマと呼称される人を前に、二の句を継げず、熊のような巨体を呆然と見上げる事しかできなかった。

 「さ、たってたって、すぐそこだから」

 強引に引っ張り上げられ、オカマの前に立たされると、自分の顔はちょうど彼の胸のあたりにくるくらい身長差がある。左右に見える腕の筋肉は、屈強な石掘りでもそうはいないというほど頑強そうだ。

 本能が告げていた。いま目の前にいる存在に逆らってはならないと。

 手首をつかまれ、されるがままに引っぱられていった先には〈蜘蛛の巣〉と書かれた看板をかかげた店があった。
 外観は思ったよりも小綺麗で暖かみのあるものだったが、店の名前を見た瞬間、先ほど見た羽虫が蜘蛛に食われる様子が頭の中で生々しく描写され、身も凍るような恐怖が体を貫いていた。
 食う者と食われる者。店の名の通り、この建物は弱者を罠にかけて捕らえる巣そのものではないのだろうか。

 「あ、あ、あ、あの、あの……」
 入りたくない。そう言いたいのに、どもって口を動かすのが精一杯だった。
 「いいからいいから、さあ、入って。歓迎するわよ」

 背中を押され、鈴を鳴らしながら扉を開くと、真っ先に出迎えたのは、キンキラと主張の激しい、鬼のような形相をした奇怪な生物の像だった。
 「ヒィィィッ!?」
 不意打ちをくらった形で不気味な像と対面し、溜め込んでいた恐怖が一気に溢れた。
 後退ろうとして足をとられ、尻餅をつくと背中から、クスクスと笑う声が聞こえてくる。

 「大丈夫? それブッサイクでしょ。魔除けで置いてるただの置物だから気にしないでね」
 無理だ、気にするにきまっている。そう思いながら、差し出された無骨な手を取った。

 店の奥へ進むほどに、ほんのりと香ばしい茶の香りや、甘い香りが漂ってくる。
 内装は半円を描くような形の机が中央に置かれており、半円卓の内側には台所としての機能が施され、店の人間が目の前で接客できる、洒落た造りになっている。
 店内はランプで照らされてほんのりと明るく、飾られている品々や装飾品の類も家庭的な雰囲気を漂わせるものばかりだ。
 すっかり怪しい雰囲気の店内を想像していたので、その点では拍子抜けの気分だった。

 内の様子から見て、どうやらこの蜘蛛の巣という店は茶屋のようなところらしい。
 恐る恐る椅子に座ると、巨体のオカマは、手慣れた手つきで洒落た皿とカップを並べた。

 「お客さん運が良いわよ。丁度あたしの店の新商品の準備が出来たばかりの日に来るなんて」
 「は、はあ……」
 運が良いどころか、今日という日は思い出せるかぎり、もっとも悪運を背負った日になりそうな予感がしていた。

 オカマの店主が、目の前のカップの中にさっと何かを放り込んだ。
 小さな白い塊のようだが、よく目を懲らして見ても、それがなんだかわからなかった。

 「ご注目」

 言うなり、湯気の上がった茶器を取り出して、カップの中に薄桃色の液体を注いでいく。すると、カップの中に置かれていた白い塊は、水分を吸ってふやふやと膨らんでいく。その形が手の平のように広がった時、白い塊の正体が美しい花であるとようやく気づいた。
 冬を越し、春を迎えて、硬いつぼみがゆっくりと花開くまでの様が一瞬のうちに展開される。それに思わず見とれてしまった。

 「ああ……すごい」
 「お茶のほうも凄いのよ。アイドリア産の花茶で質もなかなか上等。これを見つけるまでにお腹が水浸しになるくらい、お茶ばっかり飲んでたくらいなんだから」

 カップに注がれたのは茶だったようだ。花茶などというものは未だかつて飲んだ経験がないが、薄桃色の茶から、ほっとするような華やかな香りが湯気とともに昇ってくる。

 膨らんだ花びらを唇に感じながら花茶をすすると、すっきりとした喉越しとほっとする温かさに、強ばった肩の緊張がゆるんでいく。
 かろやかに喉を通り抜けた法悦感は、腹に届いて冷たくなっていた体をほっこりと温めてくれた。

 「んぅまい」
 世辞ではない率直な感想が思わず口から出ていた。
 店主は満足そうに微笑んだ。

 「はい、これもどうぞ」
 「なんですか……?」

 皿に盛られた焦げ茶色をした細長い物体。質感からして食べ物なのは間違いないようだ。葉巻のように生地をくるんだ状態で、表面は硬そうな印象を受ける。

 「米で作った生地で甘いジャムを包んで揚げたものよ。パリっとした香ばしい皮と甘酸っぱいジャムが美味しい、うちの一押し商品候補の一つ。召し上がれ」

 随分と手の込んだ甘味のようだ。他国からわざわざ取り寄せた茶といい、冷静になるにつれ、いったいどれだけの料金を要求されるのだろうかと不安が押し寄せてきた。
 財布の中身を思い出してみても、安い茶一杯分ですら払えるかわからない。

 もし、払えなかったらどうなるのだろう。

 この巨体を活かし、家まで押しかけてあれこれ金品を要求するのだろうか。苦労してこつこつと貯めてきた金にまで手を出されるようなことになれば、家族に申し訳がたたない。だがすべては、まんまと捕食者の罠に引っかかった自分の落ち度だ。まっすぐ家に帰っていればこんなことにはならなかったのだろうが、今更後悔しても遅い。

 がっくりと肩を落として考え事をしていると、店の入口のほうから来客を知らせる鈴が鳴る音が耳に届いた。

 「邪魔するぞ」
 「うぇ……なにこのキモイの」
 「そ、そうかぁ? わ、私は悪くないと思うが」
 「ありえないから……」

 かしましい二人の女の声。彼女達の姿を見たとき、思わず身を竦めた。貴族階級の人間であるとすぐにわかったからだ。

 「あんたたち今頃来て……招待状を出してから音沙汰ないから届いてないのかと思ったわよ」

 オカマの店主は慣れ慣れしい口調で彼女達に話しかけた。その事にも驚きを感じた。

 「しかたないだろ。あれこれとする事は多いんだ。気にはなっていたが、なかなか二人一緒に手空きになる機会がなかった」

 凛々しい出で立ちで輝士服を纏った金髪の娘が、椅子に腰かけながら愚痴るようにそう言った。
 後に続いた眠そうな表情の水色の髪の娘もまた、金髪の娘から椅子一つ分を空けて腰かけた。

 「飲み物が欲しい……朝から立ちっぱなしでくたくた」

 水色髪の娘は机の上にぐてんと体を預けて目をつむった。
 自分から見て右側の少し離れた席に座った貴族の娘達。
 普段同じ空間にいることすら希なのに、話し声が丸聞こえなほどの距離にいる事で居心地の悪さを感じつつも、内心ではその話の内容に強く興味を惹かれた。なにしろ、若い貴族の娘達の日常会話というものを聞くのは、これが初めての経験だったからだ。

 「あんたは相変わらずね。ちゃんと仕事してんの?」
 「ほっといて……」

 水色髪の娘が気怠そうに答えると、金髪の娘が呆れた調子で言う。

 「真面目どころか、放っておくと一日中家から出てこようとしないんだ。今日だって、遠回りなのに私がわざわざ起こしに行ったくらいだからな」
 「頼んでないじゃん……。だるい宝玉院がやっと終わったと思ったのに、こんどはアレをやれコレをやれって、毎日違うことばっかり。もういやッ、早く結婚してずーっと家の中にいたい」

 オカマの店主は二人の話に耳を傾けながら、自分にしたようにカップに白い塊を入れ、茶を注いでいく。

 「へえ、面白いな、一瞬で花が咲いたみたいだ」

 金髪の娘が感嘆の声をあげた。

 「特別な方法で乾燥させた花を使ってるの。元々はどっかの国の儀式用に使う物らしいんだけどね。あたしの考えなんだけど、いい演出でしょ。この花茶も西方産のなかなかの一品よ」
 「うん、味も香り良い。これなら店の名物になるんじゃないか?」
 「うちの主力に、と思ってはいるんだけどね。問題は安定した仕入れと、儲けをだせるのかってところかしら――シトリはどう?」

 聞かれた水色髪の娘は、だらんと体を前に倒したまま、行儀悪く茶をすすっていた。そして、口を離すと端的な感想を告げた。

 「いいんじゃない」
 「そう、よかったわ」

 店主はほっとした様子で頷いていた。
 喉を潤した水色髪の娘は、さらに深くぐてっと上半身を倒してアクビをした。もう一人のほうも、一見ではしゃっきりと背筋を伸ばして気丈に振る舞ってはいるが、顔色には疲れがはっきりと現れている。

 「仕事、そんなにきついの?」
 店主が濡れた食器を拭いながら聞いた。
 「金勘定から資材や軍馬の頭数管理、その他諸々の雑務やら……毎日違う部署にまわされてこき使われているからな。忍耐はあるほうだと思っていたが、さすがに少し弱音を吐きたくなってきた」

 金髪の娘は言いながら自分の肩をとんとんと叩いた。

 「あんた達、一応輝士なんでしょ? そういうのって文官かなんかの仕事なんじゃないの」
 「一応は余計だ――ムラクモは武官文官の境界があいまいだからな。この国で貴族階級でいるためにはかならず軍に属さなくてはならないし、そのせいで宝玉院を卒業した新人達は、この時期各適性をみるためにあちこちに飛ばされるんだ。私とシトリの場合、卒業試験に合格してしまったから、まわされる部署の種類も多岐に渡っているし責任も重い。将来の国の重職や将の候補者として、できるだけ多くの経験を積まされるんだ」

 「めんどくさい……」
 水色髪の娘が目をつむったままこぼした。

 「今の時点で根を上げていたらこれからが大変だぞ。特使やらの危険な任務をまかされる可能性もあるし、諸外国との情勢によっては前線に配置させられるかもしれない」
 「そのときはアイセ一人でどうぞ」
 「お前は……。国を守るのは貴族たる者の最低限の使命だ。辛くても面倒でも危なくても、軍にいて給料を貰っている以上、逃げる事は許されないんだからな」

 彼女達の会話に耳を傾けていた店主がしみじみと言った。
 「貴族も色々大変なのね」

 その言に、こっそりと心中で同意していた。
 貴族というものは、生きているだけで恵まれた地位や財産が約束された人生を送っているものだと思い込んでいたが、聞いているかぎり、彼らにも相応の責任や苦労はあるらしい。

 「私としては輝士として一隊を預かるか、宝玉院で馬術の教官でもやれれば、と思っていた。けど、試験の合格者という椅子に座ってしまったということもあって、一○年やそこらでぽんぽんと階級が引き上げられているかもしれない。実際、今の王家親衛隊の隊長は試験の合格者で、若くして重輝士の階級に抜擢されているし」

 「そうなると、あんたって偉くなるのかもしれないのね」

 「どうだかな。あくまでも予定だし、そのあたりの事も含めて、上から色々と値踏みされる時期ではあるのだが」
 金髪の娘は遠くを見るように目を細めて言った。

 会話が途切れたほんの一時の事。二人の娘がほとんど同時に深い溜息を吐き出した。その種類は温かい飲み物で一息ついたというより、どこか憂いの色を帯びていた。

 「なによ二人して。仕事で嫌なことでもあったの?」
 店主の問いかけに、金髪の娘がぽつぽつと答える。
 「ある場所へ荷の配達を頼んだんだがな、受取人がいないからと返ってきてしまったんだ。それも二回もだぞ。拒絶されているのかもしれないと思うと……」
 「――アイセも?」
 「も、て……シトリお前まさか」

 しまった、というような表情で水色髪の娘が視線を逸らす。

 「あんた達、まさかまたシュオウに何か送りつけてたんじゃないでしょうね」
 店主の指摘に金髪の娘は狼狽した。
 「わ、悪いかッ。地方じゃろくな物は手に入らないと思って、これでも気をつかってだな――」
 あわてて取り繕うように説明する金髪の娘に、オカマの店主は母親が娘に言い聞かせるような口調で説教を始めた。

 「あんたね……シュオウはただでさえ目立つんだから、余計な注目を浴びるような真似は彼にとっては迷惑でしかないのよ? 贈り物だって、受け取る側の事を考えないのはただの自己満足なんだから」

 叱られた形になった金髪の娘は不満気に唇を尖らせて俯いた。

 それにしても、この店主はいったい何者なのだろうか。輝士である彼女達を前にして堂々たる振る舞いだけでも驚きに値するというのに、平然と叱りつけるような事までして無事ですんでいる。
 オカマの厚化粧と筋肉には、生まれながらの立場の差を埋めてしまうだけの魔力でもあるのだろうか。

 「シトリ、あんたもよ。自分の事じゃないみたいな態度はやめなさい」
 他人事のようにそっぽ向いていた水色髪の娘は、小さく抗議するように呟いた。
 「だって……どこかで繋がってないと不安……」
 こっそりと彼女の顔を覗くと、眠たそうな目の奥がうっすらと濡れているのが見えた。

 枯れかけた花のような二人を見て毒気が抜かれたのか、店主はやれやれといった調子で言った。

 「まあ、その気持ちもわからないでもないけどね。――ほらほら、二人ともしゃきっとしなさい、今良い物あげるから」

 そう言って、店主は封書のようなものを二つ差し出した。

 「なんだこれ?」
 彼女達は出された物を不思議そうに見つめている。
 「シュオウから、あんた達によ」
 店主が言った途端、二人の手が目にも止まらぬ早さで伸びた。
 「来てたの? いつ?」
 だるそうにしていた水色髪の娘は、すっくと起き上がり、必死の形相で店主を問い詰める。これまでとはまるで別人のように、目に力が宿っていた。

 「あんた達に招待状出した翌日くらいかしらね。その数日前に一度前の広場で見かけて声はかけたんだけど、なにか急いでたみたいでさっさと行っちゃって。それから何日後かに落ち着いた様子でひょっこり店に寄ってくれてね。配置換えされるからって言ってたけど、どうしてって聞いても詳しくは言えないって。――帰り際にそれを二人に会ったら渡してくれって言ってたわ」

 店主の説明もろくに耳に届いていない様子で、二人は中に収められていた文を取り出し、かじり付くように読み進めていた。
 その様子を見ているだけで、彼女達にとって手紙の送り主がどういう存在か、透けて見えるというものだ。

 「なんて書いてあるの?」
 店主の問いに、金髪の娘がやや暗い声色で答える。
 「贈り物への礼が書いてある……それと、当分何もいらない、とも――」

 そう聞くと、店主は、ほらみたことか、といわんばかりの表情で苦笑いした。

 「――しばらくの間、アデュレリア公爵の世話になるとも書いてあるな……どういうことなんだ。そっちはどうだ?」

 聞かれた水色髪の娘は渋い顔で頷いた。

 「同じ。理由は書いてない」

 「あの氷姫のところに、ねえ……きっとまた何かあったんでしょうね」

 先ほどからいったいなんの話をしているのかわからなかった。シュオウと呼ばれている人物が何か奇妙な状況に置かれているらしい。いったいこのオカマと貴族の娘達と件の人物との間にどんな関係があるのか、想像するほどに気になってしかたがない。

 「ん? まだ何か入ってるみたいだ――」
 金髪の娘が封書の中を覗き込み、トントンと手の平に中身を落とす。
 「――指輪だ」

 思わず手に入った贈り物に、金髪の娘は目を輝かせていた。
 その様子を伺っていた水色髪の娘も、あわてて封書を逆さに振る。が――

 「指輪………………じゃないッ」
 彼女の手に落ちたのは、上品な青い石で飾られた首飾りだった。それを確認するなり、金髪の娘の指輪と自分の手の中にある物を、何度も複雑な表情で見比べている。

 「あらまあ良かったじゃない」
 そんな二人を見ながら店主は微笑んだ。

 「私たちの輝石の色に合わせて選んでくれたみたいだな――」
 金髪の娘が、うっとりと指輪を眺めて呟いた、その時だった。蛇が獲物に牙を立てて襲いかかるように鋭く、彼女の手の中にある指輪にするりとか細い手が伸びた。

 不意の攻撃を受けた金髪の娘は、害敵に襲われた貝のように硬く手を握り、指輪を華麗に死守する。

 僅か一瞬の間に展開された人間離れした攻防。
 店内に緊張した空気が漂い始め、こっそりと固唾を飲み込んだ。

 「なにをするんだッ」
 「それ、欲しい」
 水色髪の娘の率直な要求に、金髪の娘は呆れかえった。
 「ほし……って、ダメにきまってるだろ。シュオウは私にくれたんだ」
 「間違えたのかも」
 「そんなわけないだろ! てこら、だから取ろうとするなってッ。交換する気はないからな!」
 「交換するなんて一言もいってない。彼から貰った物を手放すわけないでしょ」
 「お前……あいつの事になると人間変わってないか!?」
 「なら貸して。ちょっと見るだけならいいでしょ」
 「嘘だ、手に入れたら二度と返さないって顔に書いてあるぞ!」

 幼い姉妹が喧嘩をしているような幼稚なやり取りが続き、両者は指輪の所有権を争ってついには椅子から転げ落ちてしまった。

 水色髪の娘はもう一方の上に跨り、服を腹からめくって顔をうずめる。両手は生々しい動きでワキや横っ腹に這わされた。

 「あッちょっとこら! くすぐるなって――あひッアハハ――ヘソに空気を送るな、バカッ!」
 「そろそろ諦めたら?」

 眉目麗しい貴族の娘達。二人がもつれあう姿は妙に色気があり、恥ずかしくなって思わず目線を逸らしてしまった。
 収拾が付かなくなってきた時、大きな雷が落ちた。

 「あんた達いい加減にしなさいよ!! 他にお客さんだっているんだからね」
 オカマの店主は素早く彼女達の元へ駆け寄り、猫にでもするように服の襟を掴み上げた。
 「ごめんなさいね、この子達、バカ、だから」

 オホホと上品に笑って、店主がこちらへ頭を下げる。

 「い、いえ、いいんです」
 貴族を一喝する威風堂々とした姿に、恐怖を越して畏敬の念すら感じていた。テカるつるつる頭の後ろから後光が差しているように見える。今なら有り金を出せと言われても、ためらいなく差し出してしまえるかもしれない。

 「もう、あんた達そろそろ帰りなさい。明日も早いんでしょ」

 店主はぜいぜいと息を切らせて睨み合う二人の娘達に退店を促した。

 「そ……そうだな……明日は王轄府でシュオウの事を聞かねばならないし」

 金髪の娘は言って、ふらふらと出口へ向かった。もう一方の娘のほうは、そんな彼女の背中に強い視線を送っていた。どうやらまだ諦めてはいないようだ。

 「あ――すまない、支払いを忘れていた」
 金髪の娘は慌てて財布を取り出した。
 「あら、気をつかわなくったっていいのに」
 店主はそれでもちゃっかりと両手の平を差し出していた。
 貴族の娘がさらりと取り出したのは一枚の金貨だった。

 「ちょっと……いくらなんでも、こんなの出されてぱっとお釣りなんて用意できないわよ」
 「とっておいてくれ。本当なら祝いになにか用意しなくてはならないのだろうが、正直言ってどんなものが喜ばれるかまったくわからないんだ。けして財をひけらかしているわけじゃない。家の金ではなく、自分で働いて得た金だからな」

 店主はしばし考えた後、表情を引き締めて金貨を受け取った。

 「ありがたく、いただいておくわね」
 「わたしの分もアイセと一緒ってことにして」
 水色髪の娘がしたたかに便乗する。
 「お前な、茶代くらいは払えるだろ」
 「アイセが無理矢理起こして家から引っ張り出したんでしょ。お金を持ち出す余裕なんてなかった」
 「ううん……なら貸しにしとくか」

 貴族の娘達は、店主にまた来るように念を押され、ぶつくさと言い合いながら店を後にした。

 店内が静けさに包まれる。
 まるで嵐が去ったようだ。
 思わぬ形で訪れた、若い貴族の娘達を身近で観察するという貴重な時間を過ごしているうち、結構な時間が過ぎていたらしい。
 小さな窓から見える外の様子はすっかり暗くなり、気温も一段と冷え込んでいる。さすがにこれ以上遅くなっては、そろそろ家族が心配する頃だ。

 「あ、あのそろそろ……」
 「あら……そうね、もういい時間かしら。だけどお客さん、お菓子に手つけてないのね。一口だけでも食べていったら?」

 出されたまま、貴族の娘達に気を取られてすっかり忘れていた菓子を、店主は一つつまんで、こちらの口元まで差し出した。
 特別食べたいとも思っていなかったが、こうまでされて断る勇気など、もちろんない。

 丸太のような腕で差し出される細長い菓子にかじりついた。
 パリパリという音と、サクサクとした食感。香ばしさが鼻孔一杯に広がったかと思えば、鮮烈な甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がり、頬が美味でとろけそうになる。

 「ふまひ」
 飲み込むのすら待てず、そう感想を述べていた。
 「でっしょう? 作ったのはあたしじゃないけどね」
 店主はかっかと笑った。

 すべてを飲み込んだとき、満足感と共に不安も残っていた。
 いったいいくら要求されるのだろうか。

 「あの、勘定なんですけど……」
 持ち合わせがほとんどないことを告げようとした時、店主は首を振って言った。
 「いいのいいの。あたしが無理矢理連れてきたんだから」
 「え、あ? いや、でも――」
 咄嗟に舌がうまく回らず、どうして、と聞くのが精一杯だった。
 「そりゃさ、この世に未練なんてありません、てな顔で座り込んでる姿を見ちゃったら放っておけないわよ」
 「……そんな顔、してましたか」

 自分の顔に思わず触れていた。

 「生きてれば色んな事があるわ。嫌なことがあったなら誰かに話せば楽になるし、疲れたら温かい飲み物と、甘い物でも食べて一休みすればいいのよ。あたしの店ならどっちも出来る。だから、仕事帰りにちょっと疲れを癒したいってときは寄っていってちょうだい――って、これじゃ宣伝のために引き込んだみたいよね」

 店主は朗らかに笑った。
 落ち着いた心でよくよくその顔を見てみれば、けばけばしい化粧の奥にも暖かな眼差しが伺える。
 輝石の色で区別される人間社会と同じように、自分もまた、見た目が変わっているからという理由で始めからこの人を区別していたのかもしれない。
 そう考えると、勝手に想像を膨らませて怯えてすごしていたこれまでの時間が、どうしようもなくもったいないと思えてきた。

 もう一度店内を見回してみると、内装や使われている食器等、入口の置物を除けば、どれも趣味が良い。酒場のような粗野な雰囲気は皆無で、これなら安心して家族を連れてくることもできそうだ。

 「あの、図々しいお願いなんですが」
 「なあに?」
 「さっきの菓子、残ったのを貰っていってもいいでしょうか。娘にも食わしてやりたいんです」
 「もちろん、おやすいご用よ。余らせたって仕方ないしね」
 店主は残った菓子を綺麗な布でくるんで渡してくれた。
 「ありがとうございます……また、今度は家族と一緒におじゃまします」

 深々と頭を下げ、店を後にする。
 振り返ると、店主が大きな手をこちらに向けて振っていた。
 胸の辺りにじんわりと温かいものを感じつつ、手を振り返して家路についた。

 頬に当たる風は痛いくらい冷たいし、体中の節々は相変わらず痛いままだ。なのに、不思議と足が軽い。
 歩調を早め、駆け足で家へ急いだ。
 一刻も早く、家族の顔が見たい。

























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 ●あとがきのようなもの

ここまで読んでいただいてありがとうございました。
感想や誤字報告などにもいつも本当に感謝しています。

今回はひさしぶりの息抜き編になります。
ささやかなものですが、無名編で登場した仲間の人生のほんの一欠片を、普段関わりのない人物からの視点で書いてみました。
このお話の中での登場時間は本当に短かったですが、今回出てきた3人はもちろん、カエルさんオッさんの二人も、話が進んでいくほどに主人公との関わりも再び増えてくると思います。

次回からの謹慎編の準備は順調なのですが、投稿予定などはまだまだ宣言できる状態ではないです。
スタートしてから更新が滞らないようにある程度書き溜めをしてみようかと思っているので、もうしばらくお時間をください。

それでは、また次回。



[25115] 『ラピスの心臓 謹慎編 第一話 アデュレリア』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:9620ba8d
Date: 2014/05/13 20:21
     Ⅰ アデュレリア










 色褪せた灰色で塗りつぶされた世界がある。
 そこで育まれた暴力的とすらいえる生命は、絶えず生存競争という戦いを繰り返していた。
 退廃を思わせる灰色の木々で覆われた世界を、人は深界と名付け、またそこで芽吹いた独自の生物たちを総称して、狂鬼と呼んだ。
 凶暴なまでに増殖を続ける灰色の森に対して、人の知恵は森を退ける夜光石という石を見つけ出し、人の欲は夜光石で敷き詰められた道を世界各地へ巡らせた。

 白道と呼ばれるその道を、武装した一団が列をなして亀の歩調に等しいほどゆっくりと進んでいた。
 翼蛇の紋章を刻んだ銀の胸当てを装着し、軍馬に跨がる王国親衛隊輝士達の表情は険しい。
 枝を蹴り飛び上がる小鳥のはばたきにさえ注意を払い、風に揺れる木々のざわめきにすら緊張に顔を強ばらせる。

 長い行列の中央、周囲を厳重に警護されながら進む、一台の馬車がある。
 繊細な金細工を施した当代随一の職人に作らせた馬車が乗せるのは、東方一帯を統べる大国ムラクモの王女、サーサリアである。

 あまりにもゆっくりとした進行具合に苛立ちを感じ、サーサリアは自身の長く美しい黒髪に指をからめて唇を噛んだ。
 馬車の中に備え付けられた呼鈴を鳴らすと、親衛隊の一人が即座に騎乗したまま窓から顔を出した。

 「ここに」
 「進みが遅い」

 眉をひそめ、サーサリアはこれ以上ないほどの不快感を露わにした。

 「はい、ですがこれ以上速度を出せば車体が揺れます。御身にも負担になりますので、どうか」
 必死にこちらを宥めようとしている輝士の声が酷く耳障りだ。
 サーサリアとって臣下の心遣いなど、他の多くの物事と同じく、どうでもいいことの一つでしかない。

 「いいから、いそがせて」
 「ですが……」
 「このままで行って目的地にたどり着くまでにどれだけかかるのか。まさか、また関所砦の粗末な部屋で一晩をすごせと言うつもりなのか」

 輝士を睨み付けるように言うと、相手は怯えたように視線をそらした。

 「仮にここから目的地まで、できうる最大速度で向かっても、到着は早くても深夜か早朝になります。夜の深界を行く危険は避けたいので、道中の小領地に宿を用意させてあります」
 「それならそれでいい。一刻も早く到着するよう対処して――あと、この馬車の内装はどうにかならなかったの」
 「は……なにか、不都合でも」

 サーサリアはうんざりとした表情で車内を見つめた。
 あちらこちらにふっくらとした革張りの枕のような物が取り付けられていて、外から見る姿より、中は想像もできないほど狭いのだ。

 「狭いし、ふかふかした物ばかりあって暑苦しいのよ……」
 「殿下をお守りするために特注した物です、こればかりはどうか辛抱ください」

 子供を諭すような耳障りな言い方だった。だが、抵抗したところですぐにどうにかなる問題ではない事はさすがのサーサリアも理解していたので、さっと話題を変える。

 「……残りの花は?」
 「木箱に半分ほど」
 「それだけッ!?」

 半ば怒鳴るように声を荒げたサーサリアに、輝士は恐る恐る答える。

 「王都から持ち出した物の大半は、アデュレリアの領主邸に前もって届けさせておりますので」
 「ならなおのこと急いで。明日は早朝から出立できるようカナリアに伝えなさい、今すぐに!」
 「あ、は、はいッ、ただちに!」

 離れていく馬蹄の音を耳に入れながら、サーサリアは輝士の去った後に残された、薄暗い灰色の風景に視線を落とした。

 人類は山や高地といった隔絶された世界に追いやられていた弱小な存在だった。だが、深界を行き来出来る白道という移動手段を得た事で、再び世界との繋がりを得る事に成功する。しかし、一見自由を得たようでいて、深界を行くかぎり、狂鬼という化け物の存在に常に怯えを抱いている。

 現在、ムラクモにおいて最も高貴な血を継ぐ希少な存在である自分。その身が乗る馬車は、外に広がる弱肉強食の世界との境界線なのかもしれない。
 たくましく羽ばたく鳥たちに視線をやり、サーサリアはふと自分が檻の中に閉じ込められた囚人になったような気持ちに囚われた。

 「深界は嫌い」

 誰にでもなくそう言いこぼし、現実から目を背けるように視界から外の風景を追い出した。










   Ⅰ アデュレリア










 王都から西側に位置する領地アデュレリア。
 ムラクモ王都に匹敵するほどの、広大な土地に広がる町並みを一望できる高台に建てられた、アデュレリア公爵家本邸の執務室は、そこだけ一風変わった建築方法がとられていた。

 全体が頑丈な石造りで、邸というよりは城塞といったほうが適切な本邸の中にあって、執務室だけは木造で、全面の壁が引き戸になっており、それらをすべて収納すると白い砂利石を敷き詰めた美しい庭にかこまれる造りになっている。室内の床には乾燥させた長身草を精巧に編み上げた床材が敷かれ、部屋に入る際には靴を脱ぐのが決まりとなっていた。

 そうした風変わりな執務室の中に、三人の人間が詰めていた。
 一人は薄紫色の髪をした小柄な少女。もう一人は少女の傍らで仏頂面で正座をする壮年の男。そしてもう一人、この部屋に客人として招かれている男は、少女が座る執務机を眺めつつ、呆れたように言葉を漏らした。

 「いや……それにしても見事なものですね。これではまるで机の上に雪でも積もったかのようだ」

 低音にかすれた男の声が、どこか揶揄するような調子でそう言った。

 「これまでほとんど人前に姿を見せなかったサーサリア王女の初めての遊学ともなればな。この機会に顔を売りたい者達の気持ちもわかるが、さすがにこれだけの量を目の当たりにすると、いちいち中を確認するのにもうんざりする」

 希少輝石として知られ、所有者に膨大な力を与える燦光石。その一つ、《氷長石》を有するアデュレリアの当主アミュは、どっしりとした大きな執務机の上に積まれた封書の山を見て溜息をこぼした。

 差出人はムラクモ国内の各地方の貴族達で、そのなかに、ほんのわずかながらにだが豪商らからの物も混じっている。その内容はといえば、前者は拝謁を希望する似たような文言が綴られ、後者は貢ぎ物の目録と共に、控えめな言葉で拝謁を望むという申し出が書いてある。

 彼らへの対応は、表向き遊学という形で引き受ける事になったサーサリア王女の身柄を預かる身として、避けては通れない義務というものだ。
 もちろん他の者にまかせてしまえる仕事ではあるが、相手への礼儀として直筆で返答を用意することに、アミュは意味を感じていた。

 「ご愁傷様です」

 執務机を差し挟んで向かい合う男が苦笑交じりにそう言った。

 「同情心をそそられたのなら、そなたに返事を書かせてやってもよいがな」
 「氷長石様の代筆という任務は大変光栄に存じますが、残念なことに一介の硬輝士であるこの身には、片付けなければならない雑務が詰まっておりますので」
 「ふん」

 軽口を交わし、アミュは気の抜けたように笑む男を見て、苦笑した。

 口では嫌々といったふうのアミュではあったが、慣れた手練で紙に届いた書への返答を綴っていく。すべて内容は同じであり、王女滞在中のアデュレリアでの滞在を歓迎する、という文言を事務的に書き付けていくだけである。

 そんな単調な作業を、淡々と茶を飲みつつ見守っている男の名はシシジシ・アマイという。
 彼は古い時代に多くの名官吏を排出してきた一族の人間で、階級は硬輝士の身分にあり、所属は王轄府となっている。
 元々、戦場より書庫が似合う血筋の出ということもあり、若い頃は宝玉院で教師として生徒達に教えていたのだが、ここのところはなぜか教職から退き、危険の伴う諸外国への使者としての役を請け負っているのだという。

 アマイは背をしなった弓のように曲げ、まだ湯気の残る熱いミドリ茶をずるずるとすすった。
 白湯気が、彼のかけた丸眼鏡を曇らせる。しだいに曇りがとれていくにつれ姿を現した、眼鏡の奥にある細長い瞳がじっとこちらを見つめていた。
 作業の手をそのままに、下からちらりと視線をあげて、アミュは聞いた。

 「で、今日は何用でまいった」
 「以前お会いした際の約束通り、アデュレリア公爵家の墓所を見せていただきにまいりました」
 「……墓、か」

 アミュがアマイと最後に顔を合わせた際に、研究のためにと一族の墓を見せてほしいと頼まれた事があった。その時はたまたま機嫌が良かった事もあり、軽く了承する返事をしてしまっていたのだが、実際に見せてくれと言われると、どうにも収まりの悪い心地を覚えた。

 「あのような場所を見てなんになるというのじゃ。我ら一族は死後にまで物を持とうとする性根はもちあわせておらん。置いてあるものといえば、代々の当主の名を刻んだ古い石碑と先祖を祀った小さな祠があるだけじゃ」

 アミュが遠回しに、見る価値などない事を告げると、アマイはむずがゆそうに表情をゆがめた。

 「それこそ、まさに私の求めている物ですから。土着の文化風習は、時間の彼方に姿を消してしまった過去の出来事を掘り起こす重要なとっかかりとなりますからね。それに、国内ではアデュレリアほど東地の伝統を重んじている地はありませんから、見せていただけるのであれば、私にとってはこれ以上ないほどの収穫が見込めるのです」

 アマイはそっと視線をアミュの纏う装束に移した。
 実際のところ、彼の言うとおりアデュレリアは東地元々の文化を色濃く受け継いでいる数少ない地である。アミュが故郷で過ごす際に羽織るのは、簡素な黒い軍服ではなく、氷服と呼ばれる薄紫色から青系統の微妙な色合いの生地を重ねて仕立てる独特な装束を着て過ごす事が多い。

 そうした傾向は市井の者にも見られ、王都の人間達が西方式の肌着やズボン、外衣を好んで着るのに対し、アデュレリアの人々は淡い色に染めた氷服を日常生活の中で着用している。

 ムラクモは、王都に近づくほどに東地独自の文化の色が薄くなっていく風変わりな国なのだが、そうなった経緯の一つとして、建国後まもなく渡来した西方諸国の貴族達が持ち込んだ文化の影響を強く受けたから、と考えられている。

 そうしたなか、アデュレリアが自国の文化を色濃く現在に至るまで伝えてきたのは、ひとえに一族の血に流れる頑固さが原因に違いない、とアミュは常々考えていた。

 「そうまで言うなら好きにせよ。立ち入り許可を証明する印付きの署名は渡すが、一族の者を同伴させるぞ」

 アミュは手にしていた筆で手近なところにあった下書き用の簡素な紙に、一時的に墓所への立ち入り許可を与える旨をしたためた。

 「ええ、それはもちろん。ですが、できれば同伴者はカザヒナ君をお願いしたいのですが。昔の教え子の中でもいちにを争う出世頭に挨拶もしておきたいですからね」
 「ふむ。あれは……しかしな」

 カザヒナの話を出され、アミュは言い淀んだ。

 「そのご様子、どうやら手空きではないようですね。まあ、王女殿下来訪という一大事の直前でもありますから、彼女にはなにかと忙しい時期でしょうか」
 「いや、あれには王女滞在に関する役は振ってはおらん。今は当家で預かっている客人を専属で世話させておるところじゃ」

 言うと、アマイは戸惑ったように眉をあげた。

 「ムラクモの次期国主を差し置いて、氷長石様の右腕を宛がうほどのお客人、ですか」
 かみしめるように言うアマイに、アミュは探るように聞いた。
 「気にいらんか」
 「いえいえ、とんでもない。ただ、ふっと心当たりが浮かんだものですから……。もしかその人物というのは、先だっての砂国とのいざこざの当事者となった風変わりな従士なのではありませんか?」

 アベンチュリンの女王が興した一連の暴走事件に関して知る者は少ない。にもかかわらず、その事をさらりと口に出したアマイに対して、アミュは不快感を露わにした。

 「世の中には知らぬですませたほうがよいこともある。そなたが好奇心の塊で出来ている男であることは知っておるが、ほどほどにしておくがよいぞ」

 重々しく言葉を吐きだすと、それとは対照的にアマイは素頓狂な微笑みを返してきた。

 「ご忠告、ありがたく」
 そう言いつつ、彼は拳を握って胸の前に置いた。その仕草がどうにもうさんくさい。

 「……氷狼の長たるこの身には面倒事が待ち受けておる、用がすんだならさっさと行くがよい。カザヒナなら今頃は中庭で客人に稽古をつけておる頃であろう。本人の了承が得られれば、案内役を頼むがよい。もし叶わなければ以後はあれの指示を仰げ」

 手ではらう仕草をして追い出しにかかったアミュに対し、アマイはうっかりしていたとばかりに左手の平を右手の拳で叩いて立ち上がった。

 「失念しておりました。土産を持参したことを忘れていた」
 言ったアマイが懐から一通の封書を差し出す。
 「これは?」
 アミュはそれを受け取りつつ、開く前に確認をとった。

 「北方の交易都市からの交渉要請です。なんでも、あちらで春先に採れる予定だった食用の霧貝が水病で壊滅的な被害を受けたようで、その話を聞いた折に、たしかアデュレリアの湖で大層な量の水貝が養殖されていた事を思い出したのです。ということで、誠に勝手ながら個人的なよしみを利用して、少々売り込みをしてまいりました」

 「で、これか――」

 中を確認してみると、アマイの言うとおり、食用として水貝を大量に買い付けたい旨が書かれていた。署名されている名と印を見るに、アミュの記憶にもある北方でも名の知れた大商人一族の者であるらしい。ざっとあちらが求めている量で値段を安めに見積もってみても、相当な臨時収入になることは間違いなさそうだった。

 「……それで、そなたはなにが欲しい」
 直截な問いに、アマイは少し困ったように後ろ頭をかいた。

 「さすがにはっきりとおっしゃいますね。では、こちらも駆け引きなしにお頼みします。私はこれから北方諸国の一つ、ターフェスタへの使者としての任務をはたさなければならないのですが、今回はそう長くはかからない予定です。そこで、帰国の折には、是非とも王女殿下に拝謁する機会を与えていただきたいのです」

 ――なにを言うかと思えば。
 アミュとしてはやや拍子抜けした気分だった。
 アマイの持ち込んだ利の良い急な商談と比べれば、造作もない頼み事といえる。

 「王女にも出席を願う晩餐会の場にそなたを当家から正式に招待しよう。それでよいか」

 すると、アマイは困ったような表情を見せた。

 「形式的に紹介される有象無象の一つとして、殿下に拝謁したいわけではないのです。残念ながら現在の当家にはこれといった爵位もなければ地位も名誉もない。加えてなんら後ろ盾のない状態で殿下に顔をお見せしたところで、記憶の片隅にも残らないのは明白。私の望むのは殿下との一対一での謁見の場です」

 「つまり、そなたの望みは王女との直接の対話というわけか」
 アマイは慎重に頷いた。

 たしかに、アマイの立場を考えれば王女との直接の面談などたやすく叶うものではない。ただでさえ引きこもりがちであったサーサリアは、相応の立場にある者ですら望んだからといって拝謁が叶う機会はほとんどなかったのだ。
 だが、今回ばかりは事情が違う。
 突然のことで公爵家当主であるアミュが責任者となり、サーサリアを遊学という形で預かり、とかく悪い噂がたちはじめていた王女の対面を取り繕うことが、滞在期間中の大きな目的だと心得ている。

 そうした事情から、王女の滞在中の予定はある程度アミュの意思が通る事になっているため、ほんのわずかな労力でアマイに対して王女との個人的な謁見の場を設けてやるくらいの事は叶うはずだ。

 アマイはそうした事情をあらかじめ了解したうえで、こうして交渉に来たのであろう。つまるところ、この要求こそが彼の真の目的であったと考えて間違いないだろう。

 「一つ聞く。なぜ王女との対話を望むのか」
 その問いに、アマイは若干の間を置いて、彼にしてはめずらしく神妙な様子で語り始めた。

 「お恥ずかしい事ですが、今更ながらに出世を望んでおります」
 「……つまり、王女に直接の取り立てを希望するというのか」

 しれっと頷いたアマイを見て、アミュは呆れた。

 「出世と一言で片付けるには語弊があるかもしれません。若い時分にわがままを通した事により、私は一族の期待を裏切って教職の道を選びました。ですが、欲深なことに年をとるにつれ、家名のための出世を捨てたことを後悔するようになりました。焦った私は今になって軍務への復帰を取り付けましたが、多方面への知識が災いし、宛がわれるのは危険が伴うだけで手柄をたてる機会に乏しい外交使者としての任務だけです」

 「その状況を打破するために王女へ直談判したところで、良い方向への変化が得られると思うておるなら、将の座を夢見る子供よりも浅はかであると言わざるをえん。国軍の上位階級は、王家の人間に頭を下げたところで急に得られるほど甘いものではないでな」

 アミュはアマイの願望を一刀両断するように、きつい言葉を浴びせた。

 「まさしくおっしゃる通り。ですが、サーサリア王女殿下の独断によって得られる席はあります」
 「……親衛隊、か」

 王族付きの親衛隊の隊員は、その選定に王族個人の意思が強く反映される。代々選ばれるのは良家の中でも特に有能な者達や容貌に優れた逸材であり、将来の出世に向けての大きな足がかりにもなる名誉ある役職といえる。
 だが、アミュの記憶するところによれば、本来親衛隊を選ぶべきサーサリア自身が、王女としての職務を放棄した状態にあるため、その選定は王轄府、すなわちグエンが取り仕切っているはずである。

 さすがにそうしたことは、軍務にある者にとっては知っていて当然といえる程度の情報であるため、アマイが知らずに口にしているわけでないのは、言うまでもない事であった。

 「良き未来への階段に、足を掛ける事すらできなかった男の戯言と笑ってください。私の用意した商談は、夢を見るための小さなクジ券のようなものなのです」

 「ふむ」
 アミュは渡された書面をじっと見つめた。
 それが目の前に吊されたニンジンであると理解しつつも、安っぽい矜恃を楯にして断るにはあまりにもったいない話だ。

 アデュレリア公爵家は多方面との商いを行っているが、そのほとんどが国内の各領地を相手にしてのこと。この商談をうまくとりまとめれば、最近羽振りが良いという噂を頻繁に耳にする北の交易都市との今後の商いの繋がりを得られる絶好の機会でもある。

 「よかろう、そなたの望む場を用意する。アデュレリア一族の当主としての名と、氷長石の名に誓おう。じゃが結果までは保証せぬぞ」
 「承知しております――感謝致します、閣下」

 アマイは深々と頭をおとすが、下げて見えなくなった顔には、きっとしたり顔の笑みが張り付いているに違いない、と思った。彼にしてみれば、こちらが絶対に手にしたくなるような最高級の札を用意して見せたのだから。



 「よく黙って聞いておれたな」
 からかいを込め、アミュは傍らでじっと黙って控えていた男、クネカキ・オウガに声をかけた。
 「は……御館様が客人として迎えたということでしたので」

 アミュが重将として統括する左硬軍、その准将の地位にあるクネカキは、この世でもっとも苦い薬でも噛みつぶしたような仏頂面で言った。
 クネカキの容姿はお伽噺の鬼のそれを彷彿とさせる。黒混じりの白髪は天をつくように堅く、顔にきざまれた無数の傷跡と深い皺。感情が高ぶると顔は紅潮し、血走った双眸は見る者を強烈に威圧する。

 彼は代々アデュレリア公爵家の家臣として忠誠を誓う、由緒ある土着貴族の出である。
 そのクネカキにしてみれば、先ほどまでアミュと比較的砕けた態度で接していたアマイ等は、顔面に鉄拳を数発おみまいし、泣いて謝るまで小突き回してもまだ足りないほどの不敬な人間に見えていたに違いない。

 「存外、思うていたよりも度胸のある男じゃったな。鼻の穴を膨らませて睨むお前を前にしても、平気な顔で茶をすすっておった」
 「所詮、荒事を避け書庫に逃げ込んだ男です、御館様が目をおくほどの価値などありますまい」

 「戦ばかりが戦いの場ではない。あれも没落した家にあって、それなりに世渡りに苦労しておる口であろう」

 アミュがかばうように言うと、それが面白くなかったのかクネカキは口を尖らせて反論した。

 「ですが、王女に直接会わせろなどと、一介の木端役人が望んでよいこととも思いません」
 「たしかに……ではあるが、最大限こちらの望む物を用意して交渉に臨むだけの気配りはできておる分、可愛げはある。あれの持ってきた土産は、王女との面会を取り付ける事の対価としては、ちと貰いすぎなほどじゃ」

 アミュはアマイに渡された書状に再び視線を落とす。

 「その話、お受けになりますか」
 「言われるまでもない。まとまれば、近年にないほどの大きな取引相手を得られるかもしれん……お前は気にいらんか」

 クネカキは声を落とし、慎重に意見を述べる。

 「は、いえ、いまのところ内容に不満はありません。ただ、アデュレリアがあのような落ちぶれ貴族に借りを作るのは、どうにも収まりが悪いと感じます」

 「金儲けに相手は選べん。蓄えはいくらあっても困ることはなく、貯め込んだ金もいつまでも同じ所にはない。この話、まとめるぞ」
 「はッ、お決めになられたのであれば異存はありません。早急に影狼を使って裏をとらせます。正式な交渉はその後ということで」

 自分の意見として反対はしても、やると決めてからのクネカキの行動は迅速かつ的確であり、アミュはそうした部下の一面を高く評価すると共に信頼していた。

 「よい」

 了承を伝えると、クネカキは立ち上がり一礼した。そのまま退室しようとした大きな背中を見ているうち、ふと不安を覚えて呼び止める。

 「まて、まさかあの男を追いかけて説教する気ではあるまいな」
 そう本気で聞いたが、クネカキは冗談を言われたと勘違いしたらしく一人吹き出した。
 「まさか、私もそれほど若くはありません。想像の中で奴の顔面に拳をたたき込むだけで我慢しておきます」

 「それほどシシジシ・アマイが気にいらんか? シュオウを紹介した折には、そこまで苛立たしげにはしておらなんだじゃろう」

 アミュは自身が一時的に身柄を預かっている青年の名を口にした。
 彼の態度はいつもどこか力が抜けていて、アミュに対して接するときも近所の顔見知りに挨拶でもするように気楽なところがある。

 「あれには武人としての気骨のようなものが見えましたし、目上の者を前にして作り笑いも見せません。それに、御館様の人を見る目は信頼しております。でなければ、私はここにおりませんからな」

 それを聞いて、こんどはアミュが吹き出した。
 「ふ、たしかにそうじゃな」

 今度こそ退出したクネカキを見送り、アミュは卓上に積まれた書状の山を見た。
 「さて――」
 終わりの見えない雑務を片付けるのにはうんざりするが、それも人より長い人生の中のほんの一瞬の事にすぎない。
 サーサリア王女という大きな荷物を背負い込む寸前の、ほんの一時の静かな時間を楽しもう、とアミュは前向きに今を過ごすことにした。



 激しく、上下に景色が揺れる。
 必死に堪えつつも、体は縦横無尽に揺さぶられ、ついに視界に映った光景は真っ逆さまに反転した。
 「いっつぅ……」
 もう何度目になるか、こうして悲痛なうめき声をあげた回数も数えるのがばからしくなってきた。
 積雪が片付けられた湿った土の上で尻餅をついたまま、シュオウは落馬した時にぶつけた肩を押さえつつ立ち上がった。

 「無理に言うことを聞かせようとするからそうなるんですよ」
 苦笑を交えたカザヒナの注意が耳に痛かった。
 「だけど、この前借りた馬はこれで言う事を聞いてくれたんです」
 「あの子は特別です。賢い馬は乗せた人間に気をはらいますけど、そんな名馬はそうそう手に入る物ではありませんから。この子くらい気性の激しい馬を乗りこなせたほうが、馬術としては上達が早いんですよ」

 神経質に首を振って後ずさりしようとする荒馬の手綱を握りながら、カザヒナがそう説明した。
 「だからって、この馬はいくらなんでも酷すぎですよ……」
 覚えているだけで、すでに二十回以上は振り落とされ、後ろ足で蹴られそうになったのも片手では数えられないほどだ。

 「弱音は聞き入れません。そもそも乗馬を教えてくれと頼んできたのはあなたのほうですから」

 カザヒナに駄々をこねる子供をあやすように言われ、気恥ずかしさを感じた。
 そう、彼女の言うとおり、頭を下げて訓練を頼んだのは自分のほうからだった。

 ムラクモ王国の隣国アベンチュリン女王のお巫山戯に巻き込まれてから後、その影響でシュオウは理不尽な通告を言い渡され、無期限謹慎処分を申し渡された。
 普通であれば、狭い独居房にでも監禁されかねない状況であったが、ムラクモ王国の大貴族、アデュレリア公爵の申し出により、シュオウの身柄は一時的に彼女の預かりとなっていた。

 雑用係や下僕としての扱いくらいは覚悟していたのだが、シュオウに用意されていたのは、アデュレリア公爵家本邸での自由な時間と豪華な客間だった。そのうえ、公爵家当主アミュの副官であるカザヒナがシュオウの専属世話係として宛がわれ、どうにも自身では納得のいかないほどの厚遇を受けているのが今現在の状況だった。

 ここへ来て、まっさきにアミュに言われたことを思い出す――
 『やりたい事、見たい物、食べたい物、飲みたい物。なんでも好きなことをカザヒナに言うがよい』

 そこで戸惑いつつもシュオウが要求したものの一つが自身が苦手とする乗馬の訓練であり、その他にも暇を見つけて剣の稽古や礼儀作法など、この国の貴族が学ぶような事を教えてもらえるよう頼むと、カザヒナはそれを快く了承してくれた。

 まだ教えを受けてそれほど日にちは経過していないが、こうして近くで接していて、カザヒナについて分かった事がある。彼女が、決して妥協しない性格ということだ。
 例えば、食事での所作を教わっているときでも、一つの事を完璧に近いほどの精度でやり遂げないかぎり、訓練終了を許してくれない。

 シュオウに対しては、これまで比較的柔和な態度で接する姿ばかり見てきたため、こうして教えを乞うにあたり、どこかで彼女を舐めてかかっていたことに気づかされた。
 乗馬の訓練にしても、表情ではにこやかに、優しい淑女然とした仕草は崩していないのに、休憩を求めることすらためらわせるような筆舌につくしがたい威圧感のようなものをひしひしと感じている。

 「ッつう――――」
 再び盛大に落馬したシュオウは、地面にぶつけた体をしならせて、無様に呻いた。
 「もっと器用になんでも出来そうな印象を持っていたんですけど……どうにもこれは苦手みたいですね」

 失望したというより、困りはてたという様子でカザヒナは横たわるシュオウの元へ歩み寄り膝を落とした。
 首を傾げてこちらを見つめる彼女を前に、次第に申し訳なさに襲われる。きっと、今の彼女は出来の悪い生徒を前にどう教えればいいのか、心底悩んでいるのだろう。

 「どうすればいいんだ……」
 思わず独り言のように呟くと、自分に言われたと勘違いしたのか、カザヒナが、そうですね、と合いの手を入れた。
 「あなたの場合、どうも馬に乗ること自体を怖がっているようなので、慣れるために馬の背にお腹から乗ってみるのはどうでしょう、こんなふうに――」

 カザヒナは言って、体を前のめりに折り曲げて見せた。

 「そのほうが危なくないですか」
 「意外に安定しているものですよ。本当は幼馬に人を乗せる訓練の一環として行う方法なんですけど、人間にとっても馬に乗る恐怖心を減らすのに役立つかもしれません」

 それでは、となんとなくノリで根拠の薄い訓練方法を試してみることになった。
 鼻息も荒く足をばたつかせる馬を、カザヒナが押さえているうちに、シュオウはさっと飛び込む要領で強風の日の湖面のように荒れ狂う馬の背に腹から飛び込んだ。

 「うわッ!?」

 初めは振り落とされそうになり恐怖を感じたが、これまでのように普通に座り込んでいた時と違って、この体勢ではちょっとやそっと揺れたからといって落とされることはなかった。むしろ、手と足で馬の腹を押さえ込むことができるうえ、視界もこれまでより低い位置にくるため、カザヒナの言うとおり恐怖心がだいぶ和らいでいる。

 「どうですか?」
 「い、いいです!」

 漠然とした手応えを感じたシュオウが元気良く叫ぶと、カザヒナも幼子のように声を弾ませて喜んだ。

 「あっはっは!」
 ふいに、背後から盛大な笑い声が聞こえてくる。

 その瞬間、カザヒナから緊張した様子が伝わってきた。
 「アマイ、先生?」
 驚きを含んだカザヒナの声。どうやら来客のようだが、馬の背にしがみついたままのシュオウには声しか聞こえない。

 「おひさしぶりですね、カザヒナ君」
 「はい。お元気そうで安心致しました」
 「かつての教え子とゆっくり挨拶を交わしたいところではありますが、とりあえず彼を下ろしてあげたほうがいいのではないですか」

 「あ……」
 カザヒナの両手がそっとシュオウの腰に当てられ、そのまま支えられながら地面に足をつけた。たしかな大地の感触を足の裏に感じて、ほっと人心地を得る。

 「あの、はじめまして。シュオウといいます」
 柔らかい表情でこちらを見つめる、丸眼鏡をかけた男を前にして、シュオウは初対面の挨拶をすると、彼もそれに即座に応えた。

 「シシジシ・アマイです。さきほどはついつい笑ってしまって申し訳ありませんでしたね、どうにも聞き知っていた人物とは随分印象が異なっていたものですから」
 アマイはぼりぼりと後ろ頭をかきつつ、謝罪した。

 シシジシ・アマイと名乗った目の前の人物は、明るい紺色の軍服を纏っていることと、左手の甲にある輝石が濃い水色をしていることからも、輝士階級にある貴族であると容易に推察できる。それと、カザヒナを教え子と呼んだ事と合わせると、彼がどういった立ち位置にいる人物なのかなんとなく想像はつくが、自分の事を知っている風な物言いだったことが少し気になった。

 「初対面、ですよね」
 こちらの反応は予想していたようで、アマイは柔らかく微笑みを返してきた。

 「ええ、もちろん。あなたの事は、ほんの噂程度に耳にしていまして。隣国の暴君を負かした従士がいる、と。その折に複数人の輝士を相手にして無事に戻ってきたどころか、相手を再起不能にまでしたと聞いていたもので、てっきり荒ぶる猛獣のような人物を思い描いていたんです。なので、つい」

 「はあ」
 軽く頭を下げるアマイに当惑していると、シュオウを助けるようにカザヒナが割って入る。
 「先生、彼を困らせないでください」
 「おや……なにかしくじってしまいましたか?」
 「急に初対面の相手から噂話を引き合いに話しかけられたって、普通は対応に苦慮すると思います」
 「なるほど、そういうものですか」

 なぜだか、ふと違和感を覚えた。
 自分とついさきほどまで会話していたカザヒナの様子がガラリと変わり、アマイに話しかける彼女は無表情で淡々と言葉を紡いでいるように見えたのだ。まるで、灯っていたろうそくの明かりが、音もなく消え去ってしまったかのように。

 「ところで、今日はどういったご用件で当家に? かつての教え子の顔を見に来た、というのはなしにしてくださいね」

 どこまでも抑揚のない声でカザヒナが言った。

 「君の性格も相変わらずですね。今日の用件はまぁ、端的に言えば願望を叶えるため、といったところでしょうか」

 アマイは三つ折りにした一通の飾り気のない書状を取り出して、カザヒナに渡した。

 「墓所への立ち入り許可証……ですか。先生のほうこそ、相変わらずですね」
 カザヒナにそう言われ、なにが嬉しいのかと思うほどアマイは破顔一笑した。
 「まったくです。氷長石様には同行者を連れて行くよう言われているので、よければ案内役をお願いしたいのですが」

 「これからですか……私はご当主様の命令で彼の世話役としての任務についているので、一存で離れるわけには」
 そこでカザヒナとアマイの視線がシュオウに集まった。
 「それなら、俺も一緒に行けば、全員の目的に沿うんじゃないんですか。その墓所という場所へ自分が入ってもいいのなら、ですけど」

 そう提案すると、今度はアマイとシュオウの視線がカザヒナに集中する。
 「と、彼は言ってくれていますが、どうでしょうね」
 「シュオウ君であれば立ち入りに問題はないと思います――」

 そうカザヒナはあっさり許可を出した。ただ、その後に続く言葉を聞いたとき、シュオウは顔面から血の気が引いていくのを感じていた。

 「――あ、そうだッ、ついでですから馬の訓練をしながら向かいましょうか」



 整えられているとは言い難い山道を登りながら、シュオウは安堵していた。
 今、自身が跨がっている馬は、子供を守る母熊のように荒れ狂う暴れ馬ではない。アデュレリアが所有する厩舎の中でも、有数のおとなしい雌馬に跨がって、手綱はアマイが引いてくれている。

 乗馬に不慣れなシュオウを暴れ馬に乗せて連れて行こうとしたカザヒナに対し、アマイが諭してくれたのだ。

 「それにしても、乗馬を習い始めたばかりの人間に、あの馬はあんまりでしょう。いったいどこから連れて来たんですか?」

 呆れつつのアマイの問いに、カザヒナは淡々と回答した。

 「場末の居酒屋です。暴れ馬を乗りこなす演し物として使われていたのを買い取りました。気まぐれに挑戦した常連を蹴り殺したとかで処分に困っていたので、格安で手に入ったんです」

 それを聞いてシュオウは呻くように呟いた。
 「殺した……」

 アマイは一度天を仰いで大仰に肩を竦めた。
 「殺処分されてしかるべき駄馬に初心者を乗せたのですか……君は教師に向いてないのかもしれませんね」

 じっとりと湿った二人分の視線を受けたカザヒナは、気まずそうに視線を反らした。
 「いい考えだと思ったんです」

 「やれやれ、まあ人には向き不向きというものがありますからね――」
 アマイは教え子から視線をシュオウに移した。
 「――馬に乗るということを難しく考える必要はありません。訓練された馬であれば、乗って走らせるだけなら初心者でもそれほど大変な事ではない。排除すべきなのはまず、緊張と怯えですね」

 「緊張、ですか」

 「そう、今の君の状況こそまさにそうですね。体が硬くなりすぎていて、乗せている馬にとっては重たい石塊でも背負っているような気分でしょう。それに馬は感情に敏感な動物です。人間だって、側にいるのは怖がっていたり、悲しそうな相手より、楽しそうな人の側にいたいと思うものではありませんか」

 「……そう、ですよね」
 見ると、自分を乗せる馬の首にはじんわりと汗が浮かんでいた。
 怯え不安が伝わるのだとすれば、この馬は今さぞかし不快な心地を味わっているのかもしれない。

 ――わるかった。

 気持ちを切り替えるため、心中でそう呟き、意識して肩の力を抜いた。
 不思議なもので、そうすると馬の歩調から生ずる心地良い振動に全身が包まれる。心構え一つでこれほど違うものか、と感心せずにはいられなかった。
 向上心というものも、かならず良い方向へ作用するものではないらしい。なにかを新しく身につけようとして、過剰に覚える事、得る事を意識しすぎていたのかもしれない。場合によっては捨てる事も重要であることを、遠回しにアマイから教わった気分だった。

 さきほどよりもずっと落ち着いたシュオウの様子を見て、アマイはご機嫌に高い声をあげる。
 「そうそう、素晴らしく覚えが良い」
 調子の良いアマイの褒め言葉は少々大袈裟だと思ったが、けっして悪い気分はしなかった。


 高所へ登っていくにつれ、山道はより細く、険しさを増していった。
 太陽光を阻むほど密集して生い茂った針葉樹林の中を進んでいると、木々の連なりが途切れる崖っぷちが見えてきた。目的の場所に行くには少し遠回りとなるが、カザヒナに誘導されて向かうと、そこはアデュレリアの街並みが一望できる絶好の場所だった。

 「これはこれは……」
 アマイは感嘆の溜息を漏らした。
 「絶景ですね」
 シュオウもまた、眼下に広がる光景に心を奪われた。

 「ここほど街全体を視界に納める事のできる場所はありません。子供の頃から私のお気に入りの場所だったんです」
 カザヒナは少しだけ得意げに説明した。

 アデュレリアの街並みは、背の低い建物が多く密集した形で立ち並んでいて、造りは丈夫な草を砕いて泥と混ぜた壁材で造られ、屋根は藁束を被せて斜線に削ったものがほとんどだった。
 等間隔で石造りの建築様式が多く建ち並ぶ王都とはまるで違う光景が、目の前に広がっている。

 「同じ国なのに、王都とはまるで様子が違う」
 独り言のようにシュオウが漏らすと、アマイは目を見開いてシュオウに同調した。
 「そう! よくぞ指摘してくれましたッ」
 「えッ?」
 流れるような所作でシュオウににじり寄り、手をつかんでじっとこちらを見つめてくるアマイに戸惑っていると、側にいたカザヒナが眉をしかめるような表情を作った。一瞬の事だったが、シュオウの左目が捕らえた彼女の顔は、しまった――と言っているように見えた。

 「我々人類は灰色の森とそこに巣くう狂鬼に追いやられて以来、多くの時間を孤立した世界の中で過ごしてきたのは知っているでしょう?」

 まくしたてるアマイの勢いに押されつつ、シュオウはコクコクと頷いた。

 「隔絶された人類社会は、他とは一線を画するような文化を育みました。特に顕著なものが、料理や衣類、建築や風習などで、我々の暮らす東地においても、隣り合う領地の民でまるで真逆の価値観を持っていたりする事もあるくらいでしてね。そうした文化の違いから往々にして国家間の争い事の火種となることも少なくはありませんでした」

 アマイは一呼吸おいて、視線をシュオウから眼下に広がる街並みへと移した。

 「アデュレリアの人々は、氷型や氷服という青系色の染め物をした着物を好んで着用します。それに比べて王都の民は西方文化の色が濃い簡素な無地の衣類を好む……おかしいとは思いませんか?」

 自身に問いかけるようにアマイはそうこぼした。その視線の先には、豆粒ほどの大きさに見える人々が日常生活を営む姿が見える。

 「それは、西から渡ってきた貴族階級の人々からの影響が強く及んだからではないのですか」
 カザヒナの回答にアマイは首を横に振った。

 「通説ではそうです、そしておそらく事実でしょう。ですが、それはきっかけに過ぎない。我が国の自国文化への愛着のなさは異常です。ここアデュレリアなど、一部の領地を除いては多くの領地が王都から伝播する西方文化を容易く受け入れている。ムラクモ刀を用いた東地独自の武芸の伝達も、それを伝える者の数は大幅に減少しています。あらゆる国家が宗教的思想を掲げ神を信仰しているにもかかわらず、ムラクモは宗教はもとより、信仰心という概念すら存在しない。これは違和感などという言葉では片付けられません。にもかかわらず考えようとする者は少なく、そもそも興味すら持たれていない」

 やり場のない怒りを溜めたように、苛立たしげに唇の皮を噛みながら、アマイは眉に力を込めた。
 唐突に歴史に埋もれた謎を聞かされたシュオウとしては、なるほど、という感想以外出せようがない。そもそも、一般的に知っていて当然とされるような知識ですら、把握していない事が多くあるくらいなのだから。

 「先生、そろそろ動かなければ。夜道を歩く支度はしてきていないので」
 カザヒナに促され、アマイは我に返ったように表情を和らげた。
 「ああ……また悪い癖が出てしまったようだ。では続きは歩きながらということで」
 そう聞かされ、目だけで天を仰ぎ見たときのカザヒナの表情がおかしく、シュオウはしばらく笑いをこらえるのに苦労した。


 アデュレリアの墓所へ向かう道中は、先へ進むほどにその険しさを増していった。
 乗っていた馬を気遣ってしまうほどの急な道が続くようになり、馬を下りて手綱を引くことにした。
 その間もアマイは自身の考えを話し続け、シュオウは度々相づちを打つ役割を無難にこなした。カザヒナは過去に同じようなめにあった経験でもあるのか、巧みにアマイの語り解説を聞き流していた。

 彼の話す事の多くは、シュオウにとって縁遠い話ばかりだったが、唐突に身に覚えのある話をふられ強く興味を惹かれた。

 「私も教鞭をとっていた事がある宝玉院、その卒業試験は知っているでしょう」
 知っているどころか、参加者であったシュオウにとっては、今でもありありと思い出せるほど強く印象に残っている思い出である。

 「知っています」

 「文化、というものに因習はつきものです。合理性に欠いた風習や行いはどこにでも一つや二つあるものですが、ムラクモは自国文化への執着を捨てるのと同時に、各地方に伝わる祭や風習も排除してきた痕跡が見受けられる。我が国の強さは他国にはないそうした合理性にこそあると言えなくもないのですが、そうした事を鑑みた後に改めて見てみると、成人の儀もかねたあの卒業試験という愚行が抱える矛盾が顕著にその姿を晒す事に気がつきませんか」

 その言葉に、シュオウはかつて共に深界を旅した仲間の言っていた事を思い出していた。

 「国を守るための人材を、わざわざ意味もなく危険な場所へ送る……そういうことですか」

 「まさしく、的確な解答です。国家防衛の要となる輝士や晶士の候補生達。彼らの育成には莫大な予算がつぎ込まれ、我が国の輝士の質は他国と比べても見劣りしないどころか、とても優秀な部類に入ります。その貴重な命を、指揮官としての適正を見るという名目で死地へ送る矛盾。これには多くの者達が疑念を抱いていながらも、長年なんら是正はされていません……なぜなら、卒業試験を強行に推し進めている人物が世界有数の長寿を誇る大人物だからです」

 シュオウは場の空気が緊張を帯びていくのを感じ取っていた。
 これまで我関せずを通していたカザヒナは足を止めて振り返った。
 「なにをおっしゃるつもりですか」

 「事実ですよ。多大な権力を有していながら私欲を貪ることをせず、民草をいたわり、王不在の状態で国家の安寧を維持する治世を行うだけの力量を有していながら、いたずらに未熟な若人の命を奪う行事に固執する……多くの謎と共に、時にその行動に誰が見てもおかしいと思うような矛盾を抱えたグエン・ヴラドウという人物に関して、彼がどのような印象を抱いているのか、聞いてみたいと思いましてね」

 言いながらこちらを見つめるアマイに対して、シュオウは戸惑った。
 シュオウをかばうようにカザヒナが堅い声でアマイに釘を刺す。

 「この国で、かの人物を批判する事の危険はご存知のはずです。話す相手、場所によっては家名と共に命すら失うほどの覚悟が必要だということも」
 「相手や場所は選んで言っているつもりですよ――」

 アマイは改めてシュオウと視線を合わせた。

 「――あなたは当事者として、グエン公の不可思議な言動を目の当たりにしたはずです。実質的に属国の地位にあるアベンチュリン女王に対してのそれに、違和感は感じませんでしたか?」

 アマイの言わんとしているところを理解できぬまま、シュオウはアベンチュリン女王を中心とした一連の出来事に思いを巡らせた。

 「政とか、難しいことはわからないけど、あの女王がしたことに対しての、あの人の対応は少し優しすぎるとは……思いました」

 どうやら求めていた答えが得られたらしく、アマイは数度小気味よく頷いた。

 「ほっとしましたよ、この国にいるとこうした違和感に曝されているのが自分だけなのかという錯覚に囚われてしまうのでね」

 さきほどからアマイが言わんとしている所が見えてこないシュオウは、少なからず苛立ちを持ちながら問う。
 「結局、なにが言いたかったんですか」

 「私が言っていることは、先ほどから一環して同じことですよ。違和感や矛盾といった言葉でくくることができる、この国の歪な部分へ通じる糸をたぐりよせてみると、その先のほとんどが件の人物へ行き当たる。そして、ここ最近でそうした傾向が二つの事象として顕著に現れた。一つは君がその身をもって経験したアベンチュリンへの処遇です。ムラクモの軍属を騙し討ちの形で拉致監禁するという暴挙は、長年過去の約定を理由にその存在を認められてきたアベンチュリンという国家を併呑するまたとない好機となっていても不思議ではありませんでした。この国の益、また東地という地方全体として見た場合でも、ムラクモがアベンチュリンを飲み込むことは理にかなっています。学生にすらわかりそうなそうした事情をあの方がわからないわけがない。ですが、とられた処断は相手方の要求を受け入れ、事を一切表沙汰にしないという産湯にすら満たない生ぬるいものでした」

 話を遮るように、カザヒナが異を唱えた。

 「ですが、国家間での約定はおいそれと放棄できるものではありません。相手が王とはいえ、たった一人の暴挙によって即座に戦を始めるようでは、今後ムラクモの言葉に信がおかれなくなる不利益が生じるということを、先生は無視されていると思います」

 カザヒナのアマイへの言葉には、これまで同様に感情の色彩に乏しかったが、その中にほんの僅かに避難と軽蔑の色が混ざっていることに、シュオウは気がついていた。
 ――いづらい。
 ほんの一瞬、カザヒナとアマイ両者の間に流れた沈黙が、そう思わせる。

 風が通り抜ける音ですら耳障りに感じるほどの静寂。

 気まずい空気が流れ始めたなかでも、アマイは柔和な笑みを浮かべ、落ち着きを維持したままに口を開く。

 「そうした事が重要であることは否定しません。辛苦の中にあって、律儀に約束をはたすことが、後々に大きな意味をもたらすことがあることも理解しています」

 だったら、と言いかけたカザヒナを、あくまでも冷静な所作でアマイは遮った。

 「それらをすべて踏まえたうえで言っているのです。私としてもこれまではいくつかの違和感をかかえつつも、なにかしらの理由を思い描いて自身を納得させてきた。しかし、シュオウ君が当事者として関わった砂国との事件を発端とした、サーサリア王女殿下の王都外への遊学をグエン元帥の一存で決めたことを知った時には、さすがにおかしいと思いましたよ」

 「王女殿下が臣下の領地へ遊学することがそれほどおかしいことでしょうか」

 カザヒナの問いに、アマイはこれまで見せていた柔和な表情を引き締めた。
 シュオウは誰にも気づかれないほど僅かに後ずさった。なぜなら、丸いメガネの奥から見えたアマイの双眸に、これまでの彼の態度からは想像がつかないほど暗く濁った感情の色を感じ取ったからだ。

 「それをおかしくないと思う人間は、おそらく王家への忠誠を持たない人物でしょう。サーサリア様は、たった一人残された純血なるムラクモ王家の血を継ぐ東地で随一の高貴なお方です。なのになぜ、わざわざ安全な王都を出て深界を行く危険を冒してまで外へ出る必要があるというのです。それがいかに殿下の悪評への対策のためとはいえ、万が一が起こった際のムラクモが失うものの大きさを考えれば、この度の遊学という選択肢はまったくの論外であると、私は言い切ることができる。そして、同時に私はある疑念を抱かざるをえなくなる。すなわち、グエン・ヴラドウなる人物は王家を、そしてムラクモという国家を軽んじているのではないかと」

 「それは――」

 反論するためのとっかかりを咄嗟に用意することができなかったのか、カザヒナはそれきり言葉を失ってしまった。
 沈黙の中、その原因となった男は、自身の不始末を取り戻すために不自然なほど明るい声をあげた。

 「出口のない話をして教え子を困らせるのはここまでにしておきましょう。ですが、私がこの場でこんな話をした理由についてはご理解をいただきたい」
 そう話すアマイの瞳は、まっすぐにシュオウを捉えていた。
 「俺、ですか?」

 アマイはじっくりと頷いた。

 「俺はただの従士です。偶然関わることがあったからといって、雲の上にいる人間達の話を聞かされても、なにも思うところはありませんよ」

 「アデュレリア公爵直々に客人として本邸に迎え入れられるただの従士が、いったい他にどれほどいるのか興味深いところではありますが、まあ調べたところで結果は見えているでしょう。公爵閣下の君への処遇は、従士としてではなく、シュオウという人物の値打ちを証明しているのです。君にはなにか特別なものがあって、そしてその証拠となるいくつかの結果もすでにある。彩石を持たない従士の身でありながら、奸計を胸に秘めた一国の女王を相手にして平然と戻ってきたシュオウという名の若者に、私は期待せざるを得ないのですよ。さきほどしたような話や意見を、互いに交わせる日がくるのではないのか、とね」

 「ひどく買い被りすぎだと思いますよ」

 「それを決めるのは先にとっておきましょう。今日の事は、私の種まきだと思って軽く受け流しておいてください。人の世は繋がりで出来ている。いつかこの日の繋がりが、互いにとって有益なものとなることを祈っておきましょう」

 言いたいことをすべて吐き出したアマイは、呆然とするシュオウを前にして一人で墓所への道を進み始めてしまった。
 その背に氷のように冷たい視線を送る、初めて見るカザヒナの姿にゾっとするものを感じながら、シュオウは先を行くアマイの後を追いかけた。


 「まるで世界を睥睨するかのように高所に設けられた墓所、まさしくここは王者の墓ですね」

 心底感心したように呟いたアマイの言葉が、周囲を巨大で無骨な石柱でかこまれたアデュレリア公爵家の墓所に木霊した。
 柱を並べたかのように、しかし不規則な置き方で、人工的に切り出した長方形の石柱が突き立てられている墓所は、周辺を木々で囲まれてかろうじて光が届く程度の薄暗い場所だった。

 雰囲気は陰気で、あまり丁寧に管理されている形跡もない。ここがアデュレリア一族の墓だとすれば、彼らがどれほど死に対して興味を持っていないのかがありありと想像できるというものだ。

 墓というよりはむしろ遺跡や神殿といったほうが適切な雰囲気を帯びたここへ到着してからは、アマイはまるで十歳の子供に戻ってしまったかのようにはしゃいでいた。
 各所に置かれた石の材質を調べ、また雪の下にある土をすくって容器に入れるなど、研究者としての彼の血を沸き立たせるのに、このアデュレリア一族の墓所は十分すぎるほどの価値があったらしい。

 「そんなに面白いものですか」
 少々呆れ気味にシュオウが聞くと、アマイは即座に返答した。
 「私のような人間にとっては面白いという言葉ですら足りない、これは至福の時間ですよ」

 我を失う勢いではしゃぐアマイに、冷静なカザヒナの声が水をさした。

 「私たち一族は死後になにかを期待していません。墓所は歴代の当主達の石碑をその証として残していくだけで、ここには砕かれた輝石の一欠片も埋葬されていませんよ」

 「古い、というだけで私のような人間には積み上げられた金塊よりも高価値に見えるものなのですよ。それにここは美観を気にして管理されている形跡もなく、原初の雰囲気を維持している。この墓所の価値は、見るものが見れば涎をふくのも忘れるほどの場所といって大袈裟ではない。いや、しかし……これは……」

 アマイがとある石碑に刻まれた文字に目を通しながら、大きく首を傾げた。

 「どうしたんですか」
 「いえ、なにかの碑文が書かれた物のようで、これだけは他のものとは違い墓としての意味合いはないようですね。古文字でなにか文章が掘られているようですが、ほとんどが削れてしまって読むことができません。いや、所々は繋がりを意識すれば読める部分もあるようだ……」

 説明していたはずのアマイの口調が、しだいに独り言に変わっていく。彼は書かれた文字を必死に読み解き始めた。

 「我ら……燃ゆる……静か……真なる……に…………だめですね、重要な部分はほとんど形すら残っていない」

 「見えない部分を想像することはできないんですか?」
 試みにそう聞いてみたが、アマイはゆっくりと首を横に振った。

 「無駄でしょうね。さきほど読んだ部分でさえ、ほとんど意味をなしていない文をなんとなく補填して読んだにすぎません……ですが、ここ、この部分だけは辛うじて単語として読み取ることのできる文字が残っている」

 アマイが必死に指さす部分に視線をやると、たしかに彼の言うとおりその部分だけが文字としての形状をギリギリのところで保っていた。

 「なんて書いてあるんですか」
 「これは…………シン、ゾウ?」
 「え?」
 「心臓、ですね。間違いなく」
 「心臓って、あの?」

 「どうでしょう、実はこの心臓という言葉、見るのはこれが初めてではないのです。東地の各所、とくに歴史ある場所を見てまわった際に、なにかしらの形でこれと似た石碑のようなものを見ることがありました。ほとんどがこれと同じように内容の把握が難しいほど劣化し傷ついていましたが、時折読み取れる部分を解読してみたさいに、同じく"心臓"という単語がでてきたことがあったのです。もちろん心臓といえば人体の重要な臓器の一つを思い浮かべますが、我々にはもう一つ第二の心臓といっていい重要な器官があることも忘れてはなりません」

 「輝石、ですよね」

 「そう、正確には輝石の中にある命核という部分です。傷つくことで存在ごと消滅してしまう我々にとってもう一つの命ともいえるそれを、第二の心臓として見る考え方は世界で共通して見られる。そして、北から西に大きく広まっている宗教では、我々の持つ輝石を神からの賜り物であるとする教義が一般常識として流布されている。そして、彼らは輝石の事を、時にこう呼ぶのです――ラピスの心臓、と」
 「ラ、ピ、ス……の心臓……」

 聞き慣れない言葉を耳にして、シュオウは首を傾げた。

 「ラピスとは神世の時代の言語で石を意味する単語であるという説、また神の名であるという説等、諸説語られています。これが東地各所にある石碑に散見される心臓という単語になにかしら由来する事なのか、判断するには材料に乏しすぎますが、ひょっとすると東地にかつてあったかもしれない何かしらの信仰をしめす面影なのかもしれませんね」
 


 墓所を離れ、本邸に戻った頃には茜色に空が染まる夕暮れ時となっていた。

 「疲れましたか?」
 肩を押さえながら腕をぐるぐると回すシュオウを見て、カザヒナがそう聞いた。
 「はい、馬術の訓練よりずっと」
 少し戯けて言うと、カザヒナはさきほどまでとはまったく別人のような朗らかな笑顔でくすくすと笑った。

 本邸に到着して後、カザヒナはアマイに夕食をどうかと誘ったが、それが社交辞令にすぎないことはシュオウにもすぐにわかった。そんなことを知ってか知らずか、アマイは早々に仕事があるからと断りをいれ、現れた時と同様にいつのまにか邸を後にしていた。

 一見して柔和そうな表情と話し方に騙されてしまいそうになるが、突然顔を出し、言いたいことを吐き出して、見たいものを堪能し、終始自分の調子を貫ききった態度からして、初対面の時に抱いた感想は改めるべきなのかもしれない。

 ともかく、上流の人間に漂う独特な横柄さは感じなかったものの、シシジシ・アマイという男が側にいて、心地良いとは思わない種の人間であることは、カザヒナの彼に対する態度からしても間違った分析ではないだろう。

 「アマイ先生が、教師としてはとても優秀な方だったのは間違いありません。ですが、思想に関しては少し極端なところがあって。たまにそれを披露する悪い癖があるのが困りものだったんですけれど、今もそれは変わっていなかったみたいです」

 「思想ですか。あの王女がどうとか言っていたことですよね」

 「ええ。先生が言っていたように、グエン様はとても有能で希有な才覚をお持ちの大人物です。そんな方ですから、貴族の中でもあの方に傾倒している人間は多い。ですが、王家に絶対の忠誠を誓う貴族家の中には、少なからずそうした状況に不満を抱いている者もいるのです」

 「それが、あの人のような?」
 「はい。この国で、もはやグエン様に直言できるような人間は片手で数えられるほどです。ですから、不満を抱いていたとしても表だってそれを口にする者なんて、普通はいないのですけどね」

 それはつまり、アマイという人物が相当な変わり者であるという事でもあるのだろう。シュオウのような一平民を捕まえて、長々と持論を述べてみせるあたり、それは間違いないのだろうが。



 夕食の時間になり、シュオウはそこで居合わせた者達を見て、二度驚いた。
 まず一つ、食堂に料理を運んできた男二人が、見知った顔であったことだ。

 「いたんですか」

 思わずそう呟いてしまったのは、つい最近までシュオウの任務地であった、シワス砦の先任従士であるサブリとハリオの二人が目の前に現れたからだ。

 「いたよ! お前がここに来る前からな!!」
 目尻を尖らせて喚くのは、長身で細身、地味な顔立ちの男でハリオという。

 「俺たち、公爵様に気に入られて領地で働かないかって声かけられたんだよ」
 そんなことをしれっと言った男は、小太りで、意志薄弱そうな雰囲気をしているサブリという男だ。

 二人とも、大変な時に助けてもらった恩人とも呼べる相手である。だがまさかこんな場所でこんな再会をするとは少しも考えていなかった。

 「本人を目の前にして嘘を言うでない阿呆共! こやつらはな、我が長年をかけて贈答用に溜め込んでいた酒蔵を荒らしたのじゃ。しかもよりによって高価なものばかりをたいらげおった……。罰として軍務から退かせ、その身をもって代価を支払わせておるところじゃ」
 相手を射殺してしまいそうなほど鋭い眼差しで、アミュは酒泥棒二人を睨み付けた。

 「それって、働いて返せる額なんですか」
 気になった事をそのまま聞くと、アミュは遠くを見つめて、そうじゃな、続けた。
 「――子孫三代にわたってここで働いて貰うことになるであろうな」
 「鬼!」
 泣き出しそうな顔で、命知らずにもハリオが怒鳴り、手にしていた汁物の中身を床にこぼした。
 「黙れ! 極刑に値する不敬をこの程度で許されている幸運を喜べぬとは、正真正銘の阿呆共じゃ!!」
 「ひ、ひぃッ……」
 見た目、十にも満たないような少女に怒鳴られて、ぶるぶると震える男達の姿が、そこにあった。

 「わかったらさっさと給仕をすませて出て行くがよい。もちろん床にこぼした汁はきちんと掃除していけよッ」

 二人は渋々といった様子で運んできた食事を並べ、こぼした汁を拭くために布巾を持って床に這いつくばった。
 「俺らより後から軍に入ったお前が客扱いされて、俺たちは床に這いつくばって雑巾がけかよ……これが人生というものかッ……」

 ハリオの小声で呟くような怨嗟の声が聞こえてきた。
 あまりにも小さな声だったので、聞こえなかったふりをしようとしたのだが、彼らの現在の雇い主である公爵の耳にも、それはしっかりと届いていたらしい。

 「庭に飾る氷像になりたいか?」

 冗談抜きにそれを実行できる彼女の言葉はさすがに重かった。
 だるそうに仕事をしていた二人の手は、地面に落ちた小銭を拾うかの如く機敏になり、さっさと仕事を終えて小走りで食堂を後にした。

 そんな二人の背に視線をやると、これまであえて視界に入れないようにしてきた、シュオウを驚かせた二つ目の原因が嫌でも目に入る。

 食堂の長卓に並びに並んだ少女達の顔、顔、顔。

 皆カザヒナやアミュのそれとよく似た面立ちをしていて、左手の甲には全員似たような薄い紫色の輝石がある。数にして八人もの似たような雰囲気の少女達の瞳は、退屈そうに四方を眺めていた。

 「あの、彼女達は?」
 たまらず聞くと、アミュは今思い出したかのように答えた。

 「ああ、あの阿呆共のせいで失念しておった。皆一族の年若い女達じゃ。普段は宝玉院の宿舎で過ごしておるが、今回サーサリア王女を迎えるにあたって、信頼の出来るものを警護と世話役に当てるために特別に呼び寄せた。王女も無骨な男達に近くをうろつかれるよりは、このほうがくつろげるかもしれぬと思ってな」

 シュオウは、そうですか、と相づちを打ち、一応の礼儀として立ち上がり、頭を下げた。

 「シュオウ、といいます」

 しかし、初対面の挨拶をしても彼女達からの反応はいっこうにない。
 シュオウは見た目ですぐにわかる通り、貴族ではない。手の甲にある石は白濁していて、表向きはどこにでもいる平民の一人として分類される種類の人間だ。アミュやカザヒナの態度のせいで勘違いしてしまいそうになるが、本来自分のような人間に興味を持たない彼女達のような貴族のほうが、圧倒的に多いのであろう。

 気まずい空気をどう処理しようか、考え始めた矢先、カザヒナの重く低い一言が食堂に響いた。
 「ご当主様直々のお招きによる賓客ですよ」
 その途端、即座に立ち上がり、深々と頭をたれた少女達は、いっせいに歓迎を意を表す言葉を口にした。

 急変した彼女らの態度に戸惑う余裕すらないままに、カザヒナが順に紹介をしていく。そして名前を呼ばれた者が、その度に一人ずつ顔をあげていった。
 「左から、アシユ、アカリ、アサカ。キユリ、トヤト、ナツヒ、レンカ。最後に――」

 最後に残された少女は、カザヒナが名を呼ぶ前に顔をあげた。
 くりんと大きな瞳が特徴的な少女の放つ、独特な涼やかな雰囲気に、一瞬目を奪われる。

 「――私の妹のユウヒナです」
 「カザヒナさんの妹……」
 妹である、と紹介されたことに驚きを感じつつ、シュオウはカザヒナの面影を強く感じる少女と、少しの間視線を交わした。



 時折吹く強い風が、窓枠を振るわせる。
 外は極寒に包まれる夜の世界となっていた。
 だが、シュオウのいる本邸の客室は、大きな暖炉に灯された炎と、純度の高い夜光石を用いた照明のおかげで、朝方と同じくらいの明るさに照らされていた。

 夜光石の放つ青白い光の下、書庫から借りてきた本に目を通すのが、ここへ来てからの就寝前の日課となりつつある。
 本の種類は多岐にわたり、物語、歴史から地理。馬術から剣術など多彩なものを用意してもらっている。

 子供の頃、師であるアマネと共に深界で暮らすようになってから、大人になるまでの間。かたよった状況と知識の中に置かれていたシュオウにとって、本から得られる何気ない情報の一つ一つが、ありがたいものであり、有益なものでもあった。

 ――アデュレリア、か。

 ふと雑念に囚われ、本を片隅に置いて大きなベッドの上に寝そべった。
 夕食の席で藪から棒に紹介されたアデュレリア一族の少女達は、初め自分になんら興味を抱いてはいないようだったが、当主であるアミュの直々の招きであると聞かされた途端、彼女達の強い関心をいただいてしまったらしく、食事中、隙をみてはじろじろと視線を向けられるという、なんとも居心地の悪い思いをした。

 ――無理もないな。

 高貴な身分にない自分が、客として公爵家に招かれ、毎日の豪華な食事と、街中で大枚をはたいたところで得られないであろう豪勢な部屋を与えられ、軍では重将という地位にあるアミュの副官が、自分の専属の世話役として当てられている今の状況は、尋常な事ではない。

 それを証明するように、邸で働く使用人達や警護役の人々がシュオウに送る視線は、ひかえめにいっても、珍獣でも見つけた子供のように無遠慮な好奇心を投げかけてくる。
 それはアミュやカザヒナ以外のアデュレリア一族の人々にとっても同じらしく、どうやらアミュはシュオウに対する厚遇の理由を、周囲に細かく説明はしていないらしい。

 もっとも、その恩恵にあずかっている自分自身が、なぜここまで良くしてくれるのかという理由について、正確なところを把握していないのだから頼りない。
 そんなことを考えていると、扉を控えめに叩く音が、現実へと引き戻した。こんな時間に自分の部屋を訪ねてくる人間などかぎられているため、シュオウは確認もせずに入室を促す。

 「どうぞ――」
 失礼します、と言いながら入ってきたのは、ふわふわとした白い寝間着に身を包んだカザヒナだった。
 「――どうしたんですか、こんな遅くに」

 起き上がろうとしたシュオウに、カザヒナは手の平を見せてそれを制した。
 「疲れているでしょうし、そのままでいてください」
 カザヒナは横になったままのシュオウに薄い毛布と羽毛布団をかぶせ、自身はベッドの片隅に腰掛けた。
 「明日になってしまう前に少し、謝っておきたいことがあったので」
 カザヒナは視線をはずし、そう呟いた。
 「こんなによくしてもらっていて、別になにも……」

 「そんなことはないんですよ。特に妹たちがあなたにとった態度は、とても失礼なものでしたから」
 「ああ。いいんですよ、慣れてますから」

 奇異の目を向けられる事には慣れている。それはまったく嘘のない言葉だった。
 浮浪子として街中をさまよっていた頃は、顔面の右半分近くにも広がる大きな火傷の跡が原因で煙たがられ、大人になり再び街に戻ってからは、大きな眼帯と東地では珍しい灰がかった銀髪のおかげで、やはり人々の視線を受ける事が多いのだから。

 「よくはありません。アデュレリア一族の名を負う者としても、また未来を担う輝士候補生としても恥ずべき態度でした。申し訳ありません。何度その場で叱ろうかと考えたか思い出せないくらいですが、場の雰囲気を壊してしまっては、かえって失礼だと思って見逃してしまいました」

 神妙に謝罪するカザヒナに、シュオウは慰めるように声をかけた。
 「本当に気にしてないですから」

 「そう言っていただけると楽になります。でも、一応のケジメとして、あの子達には十年は忘れられないくらいのお説教をしておきましたので、それでどうか納めてください」

 ぱっと花が咲いたような笑顔でそう言ったカザヒナに対し、シュオウの頬に一筋の汗が流れた。
 これがごく普通の優しげな女性が言ったのであれば、冗談に聞こえる部類の発言なのだが、カザヒナの場合、以前にも何度か別人のように恐ろしい態度で部下や他人に怒鳴りつけている姿を目の当たりにしたことがある。

 十年の間忘れられないほどの説教がどれほど恐ろしいものか、考えたくはないが、自分のためにそのような体験をした少女達に、同情すると共に謝罪したい心地がした。

 そんな事を考えながら、カザヒナと視線が重なる。
 朗らかに笑む彼女を見て、唐突に気になっていたことをぶつけていた。
 「カザヒナさんは、たまに別人のようになるんですね」
 「え?」

 脈絡もなく聞いたせいか、カザヒナは驚いたように眉をあげる。

 「気になっていたんです。俺と話しているときのあなたは、すごく穏やかで優しいのに、接する相手によっては突然人が変わってしまったように態度が変わるから」

 カザヒナはなぜか、自嘲気味に微笑を浮かべてみせた。

 「私の癖、というべきでしょうか……子供の頃からこうなんです。ある人に対してはとてもおとなしくて口数も少ない子供であり、また別の人の前では快活でおしゃべりな子としての姿を見せる。あまりにも相手によって態度が豹変するので、同世代の子供達の間では不気味がられてしまって、あまり楽しい思い出もありません」

 「それって、人によって自分を演じ分けている、ということなんですか」
 「いいえ、私自身は決して演じていたり、嘘の自分を作り上げるようなことなどしているつもりはありません。ただ意識せずに、相手と状況次第で別人のように態度を変えてしまうんです」

 そう聞かされて、シュオウは今日の昼間の出来事を思い出していた。
 あのシシジシ・アマイという男が現れてからのカザヒナの態度は、これまで見たこともないような寡黙で凍えるように素っ気ない人間のように振る舞っていた。

 それが意図的なものであると思って疑いはしていなかったので、僅かな違和感を覚えながらもそこまでおかしいとは思っていなかったのだが、カザヒナの話を聞いてから考えると、たしかにあの場にいたカザヒナという人物は、シュオウの知っている彼女とは根本からなにかが違っていたような気もする。

 「カザヒナさんの生まれ持っての特性、のようなものなんでしょうか」

 人には良いものであれ、悪いものであれ、先天的に持って生まれる資質や欠点があるものだ。シュオウにとってのそれは、時が止まっていると錯覚するほどずば抜けた動体視力を有する眼であり、カザヒナにとってのそれは、相手によって器用に人格を変えてしまう癖なのかもしれない。

 「そうかもしれません。こんな私ですから、親しい友人もめったに出来ないし、一族の中でも変わり者として見られていたんですけど、アミュ様だけは随分と私のこの癖を気に入ってくださいました――お前はまるでお伽噺に出てくる魔鏡のようだ。その生まれついての悪癖は、向き合った相手の臨む姿を映し出す。側に置いておけば、自分自身を俯瞰するための良い材料となる――そうおっしゃって」

 「そう、だったんですか」

 カザヒナがアミュの副官として置かれている理由の一端に触れ、シュオウは素直に感心していた。もっとも、アミュが彼女を側に置いている理由が、それだけだとは当然考えなかったが。

 「さて、お話はこれくらいにして、そろそろ眠ってください。明日からは少し、騒がしくなるとおもいますから」

 カザヒナは立ち上がり、水に浸された夜光石を専用の器具で取り出して、厚手の布でくるんだ。
 強く青白い光が消え、残された淡くほんのりと温かい炎の明かりが部屋を照らし、壁にカザヒナのほっそりとした影がおとされる。

 「この国の王女が来るんですよね」
 カザヒナは頷き、表情を引き締めた。

 「今回の件は事情もあって市井の人々には知らされていません。そのため裏道を使っての本邸への来訪になりますが、最上級の要人を迎えるにあたって、邸の者全員で出迎える事になっていますので、申し訳ないのですが、シュオウ君にもその場に出席してもらう事になるとおもいます」

 「これだけ世話になってますから、それくらい」

 言葉通り、自身が受けている待遇を思えば、敷地内すべてを一人で掃除しろと命令されたところで払いきれないほどのものを貰っている。王女の出迎えの一人として、片隅に佇んでいることくらいなんら苦労の内に入りはしないというものだ。

 それに、一度だけ遠目に見たことがある陶器のように生気がなく、しかし美しかった王女を間近で観察できる機会は、そう得られるものではない。
 このぬるま湯の風呂につかるような生活に投じる、一石の好奇心としては贅沢すぎる日になりそうな予感がしていた。

 感謝を述べるカザヒナが退出しかけたその一瞬、根拠もなく感じた違和感を頼りに彼女を呼び止めた。
 「ちょっと待ってください」
 カザヒナは立ち止まる、がなぜか振り向こうとはしない。
 「な、なにか」

 急ぎ周囲を観察して違和感の正体を探る。

 「ない」
 「な、なにが?」
 「今日一日履いていた靴下です……」
 「へ、へえ……」

 カザヒナの声は震えていた。

 「あの、振り向いてもらえますか」
 がっくりと肩を落としたカザヒナは、観念したのか、あっさりとこちらを向いた。その手にはしっかりと、シュオウが履き汚した靴下が抱えられている。
 「せ、洗濯場に持っていこうと思って」
 「明日、自分で持って行きます」
 「で、でも……」

 シュオウは強い意志を込めて視線を送る。さあ、それを手放せ今すぐに、と。
 そもそも、洗濯物を持って行かれるくらいなんでもないのだが、相手がカザヒナともなると事情は変わってくる。彼女がこうした行動に出た目的が薄々想像できるせいで、あの汚れた靴下がどういう目的でここから持ち出されるのかを想うと、全身をくすぐられているような羞恥心を覚えるのだ。

 「さあ」
 シュオウはこちらへ放ってくれと言わんばかりに手を差し出した。
 だがカザヒナは挙動不審に目を泳がせてあたふたするばかりである。よく見ると目にうっすらと涙が貯まっていた。
 「い、いいじゃないですかこれくらいッ!」
 「……え?」

 きょとんとするシュオウを置いて、カザヒナは猛烈な勢いで走り去ってしまった。もちろん、例のブツを手にしたままに。

 ――色々と台無しです、カザヒナさん。

 溜息を落としつつ、シュオウはあきらめてそっと目を閉じた。
 嬉しい事でもないが、追いかけて奪い取るほど嫌というわけでもない。だが、今度から身近な衣類の処理などには注意しようと決意した。

 元々疲れていたせいもあり、それから深い眠りに落ちるのに、そう時間はかからなかった。



 王女、サーサリアを守護する親衛隊。その隊長を務める女輝士カナリア・フェースは、呼吸も忘れるほどの緊張感と共に、部隊を率いて仄暗い深界を進んでいた。
 王女の突然のわがままにより、急遽滞在していた宿を後にして、予定よりも随分と早くアデュレリアへの旅程を再開することになったのは、ほんの数刻前の事。

 ほんのりと赤みの入った金色の前髪が目にかかっても、整える心の余裕すらない。後方では王女を乗せた馬車と、隊列を組んだ輝士達が、通常ではありえないほどの速度で自分の後をついてきている。
 馬蹄が白道を叩く音の他に、深夜の深界からは時折、獣の咆哮や巨大な虫の狂鬼が木々の間を通り抜けて行くざわめきが聞こえる。その度、体の芯から底冷えするような恐怖心にゾっとする思いがした。

 「今更ですけど、戻るべきではありませんか。借金背負って儲けを焦る若い商人達ですら、じっとおとなしくしてる時間ですよ」
 併走している年若い隊員が、カナリアにそう声をかけた。
 「本当に今更だな。正直なところ私もそうしたい気分だけど、これ以上殿下のご機嫌を損ねるようなことはしたくない」

 ムラクモの王女、サーサリアという人物に関して、カナリアはよく知らない。
 そもそも主君を一個人として見る事は、輝士として褒められた行いとは言い難い。仕える相手の過去を知り、心根を分析するような真似は、上下関係を忘れさせ結果的に越えてはならない線に足を踏み込んでしまう愚行である、とカナリアは認識していた。

 身近にあって、その身を守る者として必要な情報といえば、サーサリア王女が、とても気性が荒く、精神状態が常に不安定であるというくらいのことで、実際カナリアの仕事といえば、王女の機嫌を損ねないように努める、という親衛隊としての存在意義を失いかねないほど低俗なものなのだ。

 「実際、もしここで王女殿下になにかあったとしたら、自分達はどうなるんでしょうね」
 「もしもの話でいうのなら、私も含めた親衛隊は全員死罪のうえ、家は取り潰しになるくらいは当然でしょうね」
 カナリアは軽口のつもりで答えたのだが、話をふった隊員は真剣に青ざめた様子で声を震わせた。
 「家名まで失うなんて……」
 「心配するな。狂鬼の一匹や二匹、撃退できるくらいの戦力はある。私たちが誇りあるムラクモ王国軍の中でも精鋭を集めた集団である事を忘れないで」
 「は、はい……そう、ですよね」
 カナリアの励ましに、若い隊員は多少自信を取り戻したようだった。顔をあげ、周囲の警戒に一層力を入れている。

 ――だけど。

 カナリアは一人、不安を拭えないままに固唾を飲み込んだ。
 突如、理由も聞かされないままに、サーサリア王女が王都を出て、アデュレリアで滞在するという話を聞かされた時には、本当に困惑したことを覚えてる。
 現在、王家の血を継ぐ最後の一人となっているサーサリア王女を、あえて危険な旅路に送り出す理由も納得に至るほどのものを得る事はできなかったが、現状で王女が王族としての役割を放棄しているため、最終的な意思決定権が王轄府を統括しているグエンにゆだねられているという理由から、隊長としての立場にあるカナリアにも、王女遊学に関する是非すら問われなかったという経緯がある。

 部下への軽口として、王女の身に万が一があれば、自身の命と家名を失うと脅かしたが、実際にそうなった場合、その程度ですめばまだましなほうだといえるだろう。
 王家という象徴を失った国がどうなるか。ムラクモには実質的に政の長として振る舞うグエンという人物が存在しているが、すべての貴族家が件の男に心底付き従っているわけではない。国家の傘の下に集う貴族達の多くは、王家への忠誠を誓う者達であり、その彼らが唯一残された王の血統たる姫の命が失われた事を知れば、国は混沌とした内戦状態を迎える事になる、という予想を立てるのは飛躍した考えと一笑に付すこともできない。

 そうなったとき、これまでは小競り合いですんできた他国とのいざこざも、時期が良いとみて一斉に攻め込まれる危険にまで曝されることになるのだ。
 背負っている物の責任があまりに重いという事実。それを自覚している隊員がどれほどいるのか、と考えずにはいられなかった。

 「隊長!」

 伝令役の隊員が慌てた様子で自分を呼びに来た。
 どうした、と聞き返すが、実のところ、彼が何を言いに来たのかは予想がついている。こうしたことは一度や二度ではないからだ。

 「殿下がお呼びです。いそげ、と」
 「やれやれ、今度はどんな無茶を聞かされるのかしら――」
 カナリアは馬の手綱を引き、速度を緩め、命令を出す。
 「――全隊へ通達。部隊を一時停止状態とする。隊列を重警護の形とし、周囲警戒を厳に行え」


 「カナリア、参りました」
 王女を乗せた馬車に向かい、カナリアは馬上から頭だけで礼をして話しかける。すぐに窓が開かれ、中から額に汗を浮かべた、しかめっ面のサーサリアと目が合った。
 「急ぎすぎよ。馬車が揺れて気分が悪いわ……」
 「は、ですが少しでも早く着けるようにとのご命令でしたので」
 「だからといって限度があるでしょ。そもそも、きちんと花が届いていなかったお前の失態が原因でこうなっているというのに、その態度はなに……」

 これについては、カナリアの失敗であることに間違いなかった。
 王女が嗜む幻覚作用のあるリュケインという花がある。サーサリアにとってはそれが水や食べ物よりも大切なようで、定期的に摂取しなければ体調の悪化を招く事もあるらしい。
 そのことも重々承知していたカナリアは、事前に滞在予定先にいくつもの樽いっぱいに用意した花を届けさせていたのだが、手違いがあり、花は一足早くアデュレリア公爵邸に届けられてしまったのだ。

 僅かな携帯用として用意していた物は、休憩のために立ち寄った滞在先で二時間ともたずに消費されてしまい、それでは到底満たされなかった王女は、花をもとめて少しでも早くアデュレリアを目指すようにカナリアに命令をくだした。その結果、日の出を待たずしての出立となってしまったという顛末だった。

 「はい……申し訳ありません。部隊に速度をゆるめるよう伝えます」
 「そうしなさい」
 言いたいことを伝えた王女が窓を閉めようと手をかけたとき、カナリアは思わず呼び止めていた。
 辛そうに玉の汗を浮かべる王女を気遣って、ハンカチを差し出すと、不機嫌な態度を隠そうともしないサーサリアは奪い取るようにして、それを受け取った。
 王女が窓を閉めたのを確認し、カナリアは即座に部下に命令を与えていく。なかでも特に重要なのが、アデュレリアへの通達だった。

 「一名を選び、アデュレリアへ報告を。修正した到着予定時間を伝えて」

 王女の体調を気遣い、速度を落とさなければならなくなったため、休憩地を出立した頃に早馬で出した使者の情報を上書きする必要があるのだ。
 アデュレリアは王女から見て臣下にあたるとはいえ、決して軽んじてよい相手ではない。現アデュレリア公爵は、グエンとも肩を並べて意見を述べる事ができる大貴族である。王女出迎えの支度をしているであろう先方に、待ちぼうけをさせるわけにはいかないのだ。
 ここへ来るまでにかなりを速度で進んでいただけあり、アデュレリアへ通じる関所砦まではそう遠くない所まで来てる。
 ――あと少し。
 自分に言い聞かせるように呟いて、カナリアは再び部隊の先頭を走り出した。



 早朝のアデュレリアは全体を浅い霧に覆われていた。
 霧は、春の到来を予感させるこの時期に多い気象状況で、時には数歩先すら見渡せなくなるほどの濃霧に覆われる時もある。

 ちょうど陽が昇り始め、うっすらと景色が明かりを帯び始める頃。市街地では市場が賑わいを見せ始める時間帯になって、ムラクモ王国の次期女王となる、サーサリア・ムラクモを乗せた馬車隊が、裏道を経由してアデュレリア本邸の前門へと到着していた。

 門から敷地内へ続く中庭には、邸内のすべての使用人、警護役の従士達、公爵家の私兵、そしてアデュレリア一族とその眷族達が、王女を出迎えるためにずらりと居並んで待機していた。

 シュオウもまた、そのなかの一人となり、中庭から本邸の表玄関へと続く階段の下、右脇で待機していた。この位置は、階段の上で待機しているアデュレリア一族に近い位置にあり、自分の他にすぐ側に並んでいるのは、いずれも公爵家の重鎮とも呼べる使用人や軍人達だった。

 周辺から、静かなざわめきが広がった。
 門をくぐって入ってきた、美しい銀の鎧を纏った輝士達が見え、その後を亡霊のように心もとない足取りでふらふらとついてきたのは、まごうことなきこの国の王女、サーサリアである。

 派手な音楽もなければ、来訪を知らせる声をあげる者もいない。
 葬式かと思うほど静まりかえった邸内で、サーサリアは頭を垂れる使用人達の間を、まるで見えない鎖に引きずられているかのような足取りで進んでいく。

 シュオウにとってひさしぶり、二度目になる今回の王女の姿を見て、やはりその群を抜いた美しさに目を奪われた。

 絹糸のような黒髪と、深く透き通った青い瞳。生者であることを忘れさせるほど白く濁りのない肌は、朝日に照らされて煌めいているようにすら見える。
 左手の輝石は、水底に沈んだ真蒼の宝石のようで、石の放つ圧倒的なまでの高貴な輝きが、それを持つ者の身分を真実偽りなく証明していた。

 ほっそりとした純白のドレスに青い毛皮の外套を羽織って、左手には儀式用の黒い短杖を握り、右手にはなぜか、場違いな一枚のハンカチを握っていた。
 王女が自分に近づいてくるにつれ、シュオウは自身が彼女に対して感じていた事が、やはり間違ってはいないことを自覚していた。
 定まらない視線と、力なくおとされた肩。足取りは街中で見かけるよぼついた足取りの老人のほうがまだたしかに大地を踏んでいると確信できるほど頼りない。

 そんなサーサリアの行進を眺めているうち、シュオウは生気のない人形が引っ張られて歩いている様を思い描いていた。

 サーサリアがちょうど自分の前を通る頃になり、シュオウとその周囲の者達は一斉に頭を下ろした。

 「――?」

 サーサリアが最初の階段の前まで来た時、なにかのはずみか、さきほどまで彼女が握っていたはずのハンカチが、ひらひらと目の前に落ちてきたのだ。
 頭で考える余裕すら持たないままに、シュオウは反射的にかがんでそのハンカチへ手を伸ばしていた。だが、その瞬間――
 「どきなさいッ!」

 一瞬、なにが起こったか理解に苦しんだ。

 人並み外れた動体視力が、ほんの一瞬で捉えた姿は、王女が左手で握っていたあの黒くて頑丈そうな短杖である。

 ――避けないと。

 思考は反射的にそう命じるが、まるで無防備でいたこの状況で、それを実行に移すだけの余裕はすでにない。
 ガコン、という鈍い音がして、シュオウは顔を押さえてふらふらと後ずさる。猛火に当てられたように顔がひりついて、鼻からは一条の鮮血がこぼれ落ちた。

 周囲にどよめきがおこるが、サーサリアは何事もなかったかのように、ハンカチを踏みつけて階段を登りだした。
 離れた場所から、アデュレリア公爵が王女を歓迎する言葉をちらほらとかけているのが聞こえた。

 周囲の刺すような視線に曝されながら、シュオウは起こった事の整理がつかないままに鼻の根元を強く押さえつける。
 ツンとした痛みが脳天を突き抜け、しだいに自分がとても理不尽な目にあったということを、いまさらながらに自覚しつつあった。

 アデュレリアに来てからの、ぬるま湯の中でたゆたうような安穏とした日々は、しかしサーサリア王女という熱湯が注がれた事でいともたやすく終わりを迎えたのかもしれない。

 地面に貯まった小さな血だまりを眺めながら、そんなことを考えていた。





[25115] 『ラピスの心臓 謹慎編 第二話 深紅の狂鬼』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:32d04fae
Date: 2013/08/09 23:49
   Ⅱ 深紅の狂鬼










 「花がないとはどういうこと!?」

 半狂乱に等しいサーサリアの怒鳴り声が応接室に響いた。
 威圧のこもった彼女の視線を、しかしこの邸の主であるアミュ・アデュレリアは、少しも臆することなく対応する。

 「はじめまして、と言ってよいでしょうな。同席する機会は幾度かありましたが、覚えているかぎりまともに言葉を交わすのはこれが初めてとなりますので」

 「そんなことッ――私は花について聞いてるいる! 王都からここへ運ばせた物が随分前に届けられているはずなのに、それが一つもないなんて」

 「まず挨拶を交わす事が最低限の礼儀と心得ますが、よろしい……殿下がお望みの物はすべてこちらで処分致しました」

 アミュの言葉に、サーサリアは青ざめてふらついた。
 「処分って……」

 「あの花は人の心を惑わす作用を生む忌むべき物。我が領地では、そうした堕落を呼ぶ物の存在は認めておりませぬ」

 サーサリアの表情がさらに険しさを増していく。だが、それも当然の事で、アミュは今本人を前にして、遠回しにサーサリアの習慣を批判したのだ。

 「だったらかまわない、王都から追加ですぐに届けさせればすむことよ」
 無駄な抵抗を続けるサーサリアに、アミュはさらに無慈悲な言葉を浴びせる。
 「同じ事。花が領内に入りしだい、焼却処分と致します」

 うっすらとくまの浮かぶサーサリアの瞳に、怒気を越えた濁った感情の色が混じる。

 「……お前、誰を相手にしているのかわかっているのか」
 「その言葉をそのまま返そう、サーサリア殿――」

 アミュは立ち上がり、胸を張ってサーサリアに強く睨み付けた。

 「――我はアデュレリアが当主にして燦光石を継ぐ者。王族として生まれただけの小娘を相手にお前呼ばわりをされる筋合いは微塵もない。くわえて言うと、そなたの処遇に関してはグエン殿より一任され、書面と共に言質もとってある。当家での滞在中は、当主である我の指示に従っていただく……公爵たるこの身を口頭で従わせたければ、早々に体調を整えられ、天青石と共に王位を継承されるがよかろう」

 突然高圧的な態度をとったことで、サーサリアは怒りを鎮め、怯えた猫のように体を縮めて視線をそらした。

 サーサリアは逃げるように無言で出口へ向かう。その背中を見送り、退出するのを確認した後、アミュはどさっと椅子に体を放り投げた。

 「非礼をお詫び致します、閣下」

 すっとアミュの前に現れて深々と腰を折ったのは、部屋の片隅で静かに待機していた親衛隊の隊長である、カナリア・フェースだった。

 「謝罪は不用。あの態度に頭にきて、ちと言い過ぎてしもうた」

 「サーサリア様に対してあれだけ堂々と説教される人物を初めて見ました。僭越ながら、さすが氷長石様だと感服しております」

 心からの尊敬の眼差しを送るカナリアに対し、悪い気はしなかった。
 「そうか。じゃが、王女にはグエン殿がおろう」

 日頃から手を焼いている様子が度々見受けられた男の名を出すと、カナリアは表情を暗くした。
 「あのお方は……口ではとても厳しいことをおっしゃるのですが、肝心な部分でどこか殿下には甘いところがありますので」

 話が脇に逸れてしまいそうな雰囲気を察して、アミュは本来サーサリア本人に伝えるべきであった用件を、カナリアに告げる。

 「すでに聞いておろうが、滞在中のサーサリア王女と親衛隊の衣食住については、すべてこちらで保証する。本邸に隣接された宿舎を開放するゆえ、好きに使うがよい」

 カナリアは再び、頭を落とした。

 「お計らい、ありがとうございます」
 「うむ。しかしな、ざっと見たところ、こちらが思うていたよりもちと部隊の人数が多いように見える。全員が寝泊まりできるだけの場所を確保できるのか、と心配でな」

 「それなら問題はありません。殿下の護衛のために少々無理をして大規模な編制をしましたが、ここからは日常警護に必要な人数だけを配備する事になりますので。ただ、ここまで同行した者達の多くは寝る間もほとんどなくの任務でしたので、順番に王都へ戻して待機中の隊員と交代させたいと思います。その間、警護が手薄になりますので、左硬軍からの支援をいただきたいのですが」

 「よかろう。人員を見繕い一時的にそなたに預ける」

 再びカナリアは丁寧に礼を述べた。若くして親衛隊隊長の座を得ただけあり、所作や立ち居振る舞いはどこへだしても恥ずかしくない域にある。
 事務的なやりとりをすませ、アミュは個人的な話題をふった。

 「お父上、フェース侯爵は壮健か」
 話題が私的な事へ移ったことに、カナリアは一瞬戸惑いをみせたが、すぐに花が咲いたように笑顔を見せた。

 「はい、近頃は新種のブドウを育成するための大規模な土地の開墾に集中しているとかで。あの様子では、私に家長の座が回ってくるのも随分と先の事になりそうです」

 カナリアの家、フェース侯爵家は国内でも有数の富豪である。果物の栽培に適した広大な土地を有しており、質の良いジャムや酒類の製造で安定した収入を得ている。

 「それはよい。フェースの葡萄酒はアデュレリアの名産品である水貝に合う。今度、その新種とやらで造った酒の出来を試したいと侯爵に伝えておいてほしい」
 「はい、父も喜ぶと思います」

 「ところで、そなたはカザヒナの同期生であったな」
 「あ、はい……ご存知でしたか」
 「思い返せば、幾度かそなたの名を聞いた覚えがある。旧交を温めるには、今回の王女の遊学は良い機会ともなろう」
 「実は、それを楽しみにしておりました。あの子に会うのも随分とひさしぶりの事ですから」

 柔らかく笑むカナリアを見て、アミュもまたつられるように微笑みを返した。
 若い輝士達の羨望を集める親衛隊、その隊長である彼女が背負う重圧は並大抵のものではないだろう。

 「今後の細かな予定は追々詰めていくとしよう。今はまず、そなたも身を休めよ」
 「そうさせていただきます。それでは――」
 「まて」

 退出しようとしたカナリアを引き留めた。
 「はッ、なにか?」

 怪訝な表情でこちらを伺うカナリアに、神妙に声をおとして言う。
 「先ほど、王女が殴りつけた者がおろう」
 そう切り出すと、カナリアは眉をあげた。
 「あッ、はい……」

 「あれは我が個人的に預かり世話を見ておる者でな。相手が誰であれ、ぞんざいな扱いをされるのは不快である」
 カナリアがすっとんきょうな表情で驚きを見せたのも当然で、アミュは王族といえども、平民である青年に無礼は許さない、と釘を刺したのだ。

 「……承知致しました。以後、あのようなことがおこらないように勤めます」
 凜々しい出で立ちで深々と辞儀をして退出していくカナリアを見送り、アミュは密かに感心していた。
 よけいな事は聞かず、淡々となすべきことをしようという姿勢は、理想的な軍属、輝士としての在り方である。
 ――惜しいな。
 あの王女の専属として働かせるには、カナリアはあまりにもったいない。そう思った。



 「いッてて……」
 消毒布で、鼻にできた切り傷をぐりぐりと擦られ、シュオウはたまらず声をあげた。

 「避けるっていう発想はなかったんですか」
 熱心に手当を行いながら言ったカザヒナの声は、若干あきれているようにも聞こえる。
 「考える間もなかったんですよ」

 王女サーサリアが到着して後、落とし物を拾おうとした無意識の親切心が仇となり、シュオウは顔面に堅い短杖での一撃をいただいてしまった。
 王女が邸内に入るのを待ってすぐに駆け寄ってきたカザヒナに、自室へ連れられ現在の治療を受けている状況に至る。

 「サーサリア様の態度は甚だ非常識ではありますが、王族の行進中に身を乗り出したあなたにも責任はあるんですよ。場合によっては、親衛隊に剣を突きつけられていても文句は言えないのですから」

 「……気をつけます」
 憮然としながらも、シュオウは納得したふりを見せた。
 カザヒナの言い分はもっともなことだったが、理性や常識からははずれた所に貯まった汚泥のような怒りを、いまだに片付けられるにいる。

 ――どうして。
 そう思わずにはいられない。

 そうした感情を隠しきれていなかったのか、カザヒナがこちらを伺いながら微笑した。
 「怒っているのが自分だけだと思わないでください。私や、アミュ様もまた大変お怒りを抱いているご様子でしたよ」
 「あの人が、ですか? そんな風には見えなかった」

 「あの場で騒ぎにすれば、あなたに対する注目が集まってしまう。話がややこしくなる前に流してしまうのが皆にとって有益である、とお考えになったと思います」
 それを聞いて、よけいな気遣いをさせてしまったのかもしれない、と考えると頭から冷水をかけられた心地がした。

 「……すこし、頭を冷やします」
 「そうですね。今日は親衛隊の輝士方を集めての敷地内の説明等が行われます。あちらこちらで騒々しくなると思いますので、訓練はまた明日からということにしましょう」

 「継続してもらえるんですか?」
 聞くと、カザヒナは不思議そうに首を傾げた。
 「どうしてしてもらえないと思ったんですか?」

 「あ、いえ。王女が来て、忙しくなるんじゃないかと思ったから」
 「私はあくまで、あなたの専属として任務についていると、何度も言ったはずですよ。ここいいる間、なにも遠慮はしないでください」

 「ありがとうございます」
 感謝の気持ちを伝えると、カザヒナは微笑み、手当の道具を片付けて部屋の入り口へ向かう。
 「今日は慌ただしくなるので、食事はここへ運ばせます。明日は早朝から剣術の教練を行うので、早起きでお願いしますね」
 シュオウもまた微笑みを見せて頷き返し、退出するカザヒナを見送った。



 一夜明け、早朝の訓練を終えたシュオウは朝食を求めて調理場へと向かっていた。

 いつもなら食堂で座って待っていれば食べ物が運ばれてくるのだが、現在は王女、そして親衛隊の隊員達が来たことにより生じた雑務におわれ、アデュレリア公爵とは同時間に食事にありつくことはほぼ不可能な状況にある。

 そうした理由もあって、朝食は自室に運ばせるように伝える、と聞かされたシュオウはこれを固辞した。
 ただでさえ忙しない空気のなか、たいして役にもたっていない自分のために労力を使わせるのが心苦しかったのだ。

 それでもなお、自分が運ぶとカザヒナは言い張ったが、表向きシュオウの世話役としての任務を与えられている彼女の元には、あちらこちらから問い合わせや確認を求める声が入る。それはつまり、アデュレリアでの彼女の立場がとても重要な位置にあることの証でもあり、そんな人を自分の世話のために独占している状況に無理を感じたシュオウは、なかば押し切る形で、こちらにかまう必要はないと距離をおいた。

 それが良いことであったかどうかはわからないが、自分自身、あれだけの人物に身近でかしずかれるような生活に疲れていたのか、調理場へ向かう廊下を歩く最中、肩の荷を下ろしたような身軽な気分を味わっていた。

 アデュレリア公爵邸の調理場は戦場と化していた。
 大規模な料理屋がすっぽり収まるほどの大きな空間の中に、所狭しと調理器具や食材が置かれ、そこで一心不乱に調理をする料理人達が奏でる包丁の音や、現場を監督している者の怒声が飛び交っている。

 調理台の上に一斉に並べられた盆の上には美しい見栄えの料理が並べられている。これらはおそらく、来訪している親衛隊の輝士達に振る舞われるものだろう。
 真剣な表情で働く彼らを前に、一瞬このまま帰ろうかとも思ったが、グググっと鳴った腹の音に背中を押された。

 ――腹が減った。
 なにせ、早朝の訓練でたっぷりと体を動かしたばかりなのだ。

 「あのお!」
 なるべく注目を得られるように声を出し、配膳の用意をしている者に声をかけるが、返事どころか見てももらえず、相手は何事もなかったかのように忙しなく作業を繰り返していた。

 例えようのない居心地を悪さを覚え、後ろ頭をかく。
 「おい、なにしてんだよ」
 声のした方を見ると、大きなザルの中に大量のジャガイモを積んだハリオとサブリが、真っ赤になった鼻をすすりながらこちらを見つめていた。

 「朝飯をとりにきたんですけど、みんな忙しいみたいで」
 ハリオは機嫌悪く口元を歪めて言った。
 「はあん、俺たちが朝っぱらから働いてるのに、お前は優雅に貴族の飯ってわけか、いいねえ領主様のお気に入りはよ」

 拗ねたように視線を反らしたハリオにならってか、後ろにいるサブリまで同じような態度を見せる。
 毒気のある言葉を浴びせられはしたが、不思議と悪意は感じなかった。
 とくに考える事もせず、シュオウはハリオの持つ重そうなザルに手を伸ばしていた。
 「手伝います」


 「――でな、石頭の給仕長に向かって俺は言ってやったんだよ、それはおかしいんじゃないかってな」

 シュオウを含めた三人は、調理場から少しはずれたところにある薄暗い小部屋の中でせっせとイモの皮むきをしていた。
 むいたイモを箱の中に放り込む音と、ハリオがアデュレリアへ来てから経験した出来事を聞かされながら、シュオウは慣れた手つきで目の前にジャガイモの皮の山を築いていった。

 部屋の中は吐いた息が白くなるほど冷たい。
 二人は井戸水でイモを洗ってきたのか、痛々しいほど手が赤く腫れていた。

 「こういうことを毎日しているんですか」
 「お、俺たちは別に調理場の下働きってわけじゃないんだけどさ」
 あまり慣れていない手つきで、おそるおそる皮を剥きながらサブリがそう答えた。

 「これといった特技がないからってよ、特定の場所へ配属されずに適当に扱き使われてんだよ。見ろよ、これ――糞寒いなか芋洗いまでさせられて手の皮が切れまったぜ」

 ハリオは同情を誘う表情で手の平をつきだした。
 「大変ですね」
 シュオウは率直に同情の意を表した。

 「大変だよ! 誰かのせいでな!」
 二人がこうした状況に置かれたのは、公爵の酒を盗んだ彼らの責任である。だが、元をただせば二人が王都の公爵邸に来ることになったのは自分が彼らの助けを得たからでもある。
 今はまず、言わねばならない言葉がある。

 「ありがとう」
 「……は?」
 二人はぽかんとした表情で顔をあげた。
 「感謝しているんです、本当に。あの時二人に助けて貰えなければ、どうなっていたかわからない。ありがとうございます」

 シュオウの感謝の言葉を受け、ハリオはキョロキョロと落ち着きなく視線を泳がせた。
 「ふ、ふうん、まあな。詳しくは教えてもらえなかったけど、お前を氷姫のところに届けたからヒノカジ従曹やミヤヒが助かったんだろ?」
 「はい」
 「……ならいいんだよ。なあ、サブリ」
 話をふられたサブリも、うんうんと大きく頷いた。

 凍てつくような空気はそのままに、しかし少し温かくなった心地で、シュオウは二人の愚痴や自慢話に耳を傾けていた。
 しばらしくして、再び空腹を訴える音が鳴り、二人の視線はシュオウの腹に集まった。

 「そういや、お前は食い物取りにきたって言ってたな」
 シュオウは頷いて答える。
 「早朝の訓練からなにも食べていなかったので。ただ、目の前にいる人に話しかけても相手にしてもらえなくて」

 「ああ、そりゃあな――」
 ハリオの言い方には含みがある。シュオウはそれとなく探りを入れた。
 「なにかあるんですか」
 「いやな、ぶっちゃけた話、ここで働いてる連中の間でおまえ評判よくないんだよ」
 「嫌われるようなことをした覚えたは……」

 「突然やってきて領主と肩を並べて飯を食う若造がいて、輝石の色は真っ白けときてる。ここの連中が気味悪がるのは当然ってもんじゃねえのか。自覚がないみたいだけどな、お前がここにきてからずっと、邸で働いてるやつらの間じゃお前の噂話でもちりきだよ」

 「……そうだったんですか」
 ハリオの言ったことにうんうんと頷くサブリが付け加えるように言う。

 「それと、みんな焼き餅やいてると思うんだ。あいつだけ特別扱いされてるってさ。調理場にいたやつらも、たぶんわざと無視したんだとおもうよ。あとでなにか言われたって聞こえませんでしたって言い張ればすむことだしさ」

 少し視線をおとし、シュオウは黙り込んだ。
 自分が特異な存在として注目を集めている事に自覚はあっても、悪感情まで持たれているとは考えていなかった。知らず、ここで働く人々の感情を逆なでするような行動をとっていたのだろうかと不安がよぎる。

 「そんな顔するなよ、しかたねえから、寂しかったら俺たちがいつでも話し相手になってやる」
 少し的外れな申し出だったが、照れ隠しをしながらそう申し出てくれたハリオの言葉はありがたかった。

 「そうさせてもらいます」
 うっすらと笑むシュオウを見て、サブリが肘で小突いた。
 「いいやつぶってるけどさ、ハリオのやつ、お目当てはこうやって仕事を手伝わせる事なんだぜ」
 「おいッよけいな事言うなよ!」

 とっくみあいを始めた二人を見て、苦笑する。そうしていると、自分を忘れるなといわんばかりに腹の底から重低音が鳴り響いた。

 咄嗟に腹に手をあてるが、それで出て行った音が戻るわけもない。
 音につられて喧嘩をやめた二人は、きょとんした表情でこちらを見た。

 「そうだった、飯がまだだったんだよな。そういうことなら――」
 ハリオとサブリの二人はどこからともなく食べ物を取り出してシュオウに見せる。

 「こっちは焼きたてのパン、それに俺らが一生働いても食えないような高級魚の卵の塩漬けもある」
 とハリオが説明すれば、負けるものかという勢いでサブリも得意げに米や肉料理を披露する。

 「それ、どうしたんですか」
 シュオウの問いに、二人は一度目を合わせてからにんまりと笑って言った。
 「全部ちょろまかしてきた!」

 あまり記憶にないくらいに、シュオウは盛大に笑った。

 まったく反省していない二人を前に、空腹を満たすための分け前をいただく。それを口に入れた途端共犯になることはわかっていながらも、楽しそうに収穫を自慢する二人を見ていると、それも悪くないと思い始めていた。



 徒歩で市中を行きながら、ジェダ・サーペンティアは人々の注目を一身に集めていた。
 それはジェダが一目で輝士階級にあるとわかるから、というだけではなく、生まれもっての美貌にも原因がある。
 春の日の草原のような淡い黄緑色の髪をかきあげると、周囲の女達から溜息が漏れた。

 サーペンティア一族とは犬猿の仲といえるアデュレリア一族の本拠地を歩きながら、街並みを観察する。

 ――それにしても。
 ジェダは思う、なんという活気だろうかと。

 行き交う人々の表情は明るく、商売人達の威勢の良いかけ声がそこかしこから聞こえてくる。子供達の笑い声と、井戸端会議に夢中になる女達の明るい話し声。どこをみても、このアデュレリアという街には希望に満ちあふれているように見えた。

 街中を一通り歩き、ジェダは目的地であるアデュレリア公爵邸へ向かう前に、市場へと立ち寄る事にした。

 市場は、すんと嗅ぎ慣れない魚の臭いに包まれ、店先には干した貝や魚があちこちにぶら下げられている。

 目に新鮮な光景を眺めながら歩き、土産物の下調べをしていると、ふとめずらしい物を置いている小さな露天に興味を誘われた。
 店の前で立ち止まり、商っている物を観察するに、ここは薬を扱っている店のようだ。

 「おや、輝士様がこのようなむさくるしいところにお見えとは、めずらしいですな」
 白髪の老店主は、長い白髭をなでつけながらジェダに応じた。

 「旅先で土産物を買うのが趣味なのでね」
 「そうでございますか。それにしても、ここのところ街中でよおく他の領地の貴族様をお見かけしますな。わたしら市井のもんには知らされとりませんが、領主様のお邸でなにかあるんでしょうな」

 老いた分だけの抜け目なさというべきか、店主は輝士であるジェダに向かって探りをいれるように世間話を切り出した。

 「そんなに大勢来ているのかい」
 ジェダは質問に答えず、さらに質問で返した。
 「ええ、そりゃあ。各地の領主様方や家来方も大勢来てるもんで、宿場は大賑わいです。貴族様の従者や下僕が旅行気分で買い物に来るもんで、市場も滅多にない好景気で皆喜んどりますわ」

 「そうか。それなら僕も便乗して商品を見させてもらおう、かまわないかな」
 「はい、それはもう。ですが、高貴なお方のおめがねに叶うような品は、なにも」

 たしかに店主の言うとおり、置かれている品は効能の怪しいような、出来の悪い薬剤や虫やトカゲを閉じ込めた飲み物などが数点置かれているだけである。だが、そのなかで一点、ジェダにも見覚えのある珍しい物があった。

 「これは?」
 ジェダは干されて薄茶色に変色した一輪の花をつかみ取った。その瞬間、店主の顔が青ざめる。

 「あの……それは……」
 「色が変わっているけど、僕の記憶が正しければ、これはリュケインの花だ。たしか、アデュレリアでは禁制品の指定を受けていたはず」

 ジェダは鋭利な刃物のような視線で店主を見つめた。

 「どうか、どうかお見逃しを。たしかにここではこの花の取り扱いは禁じられとりますが、それは人の心を惑わす効能に対しての事でして、干した物を砕いて腹に収めると関節痛によく効く薬になるのです。まあ、副作用でひどい吐き気と頭痛を伴いますが」

 最後に付け加えられた事を聞くに、本当に薬として役に立つのかと疑問に思ったが、ジェダはそれよりも気になった事について質問を重ねた。

 「ここでこれを手に入れるのは苦労したのではないのかい。外から仕入れるにもアデュレリアの関所砦の荷調べは厳しい」

 店主は手を大仰に振って答えた。
 「いえいえ、こりゃアデュレリアの山中で採れたもんでして」
 「へえ、リュケインの花がこんなところで採れるなんて知らなかった」

 「そりゃ、ここいらのもんでも知っとるもんは少ないです。代々跡目を継いできた薬師一族の者なら、それぞれ秘密の採集場所を持っとるもんでして」
 「なるほどね」

 ――面白い事になるかもしれないな。

 ジェダは手にした花をまじまじと見つめた後、店主に言った。
 「これを貰っていくことにするよ」

 「は、はあ、わかりました。ですがね、そりゃ劇薬の部類に入るんで、よくわかっとらん者が使うのはちょっと……」

 「かまわないよ、別に薬として欲しいわけじゃない」
 「それならまあ。でしたら、それはさしあげますので、どうかこの件は内密に、どうかどうかッ」

 店主は折れ曲がってしまいそうな背筋をさらに曲げて頭を下げた。

 「いいだろう。だが代金は支払う。その代わりといってはなんだが――」
 本来の額より遙かに高い金を差し出し、目を丸くする店主に向かって、ジェダは有無を言わさぬ凄みを込めて聞いた。
 「――この花を採れる場所を教えてもらおう」
 


 一夜明け、早朝に一帯を覆う霧が晴れる頃、カザヒナに見守られる中、シュオウはアデュレリア公爵邸の庭で剣術の稽古に励んでいた。
 剣の扱いにおいては、棒きれを握ってごっこ遊びをする子供にすら及ばない自分に与えられた課題は、ひたすら木剣を振るうという基礎訓練であった。

 縦、縦、横、突き。と一定の間隔で同じ動作を繰り返す。基礎体力訓練を日常としてきた自分にとって、たいして苦労のある訓練方法とはいえないが、シュオウは手を抜く事なく必死に剣を振り続けた。

 頭の中にこびりついて剥がれないシミのような記憶。初めての職場で先任従士であるミヤヒに剣で完敗した時の事が、後悔と羞恥心と共に今も胸をざわつかせるのだ。

 あの時、彼女にもたれた失望は、その後の行いによって払拭されているのは間違いないが、剣術という枠の中において、自分が負けたという事実が消えたわけではない。

 いつか再戦の機会に恵まれた時、軽やかに勝利を得て努力したのだと胸を張りたい、という気持ちが向上心となってシュオウの背中を押していた。

 庭のあちらこちらでは、洗濯物を並べる者達や、庭仕事にせいをだしている者達が見える。初めの頃はめずらしがられてよく視線を送られていたが、今では表向き、彼らは無関心な風を装いつつ自分達の仕事に集中していた。

 訓練中は体を動かしやすいよう薄着になる。
 時折、肌に痛いと感じるくらい冷たい冬の風がすり抜けていくが、そこそこ体を動かして汗ばむくらいになってくると、これが逆に気持ちよく感じられてくる。
 ほどよく体が温まり、寒さを忘れてきた頃。カザヒナが唐突にシュオウに訓練を止めるように指示した。

 「まだ始めたばかりですけど」
 「いえ、それが」

 カザヒナが軽くアゴをしゃくった先を見る。そこには手を振りながら歩み寄る、親衛隊輝士の姿があった。

 「ひさしぶりね、カザヒナ」
 「おひさしぶり、カナリア」
 凜とした出で立ちの女性輝士、カナリアは鼻に皺を寄せて満面の笑みを浮かべた。

 「見ないうちに随分と出世したわね。その歳で重輝士まで駆け上がったうえに左硬軍重将の副官まで務めるなんて」
 「親衛隊隊長に抜擢されておいて、その言いぐさはないと思うけど」

 カザヒナはむずがゆそうに微笑した。

 「どこかの誰かが主席の私を差し置いて先に出世してしまうものだから、嫉妬の炎にお尻を焼かれて予定より早く親衛隊筆頭の席を得る事ができたんじゃないかしら」

 二人の女輝士は、じっと見つめ合った後、吹き出すように笑った。互いに抱き合い、かみしめ合うように再会を喜ぶ様子を見るに、二人の関係が良好なものであったのが窺える。

 「本当にひさしぶり。今回の事は唐突だったけど、カザヒナに会えるかもしれないと思うと、殿下のおもりの憂鬱さを少し忘れられたのよ」
 「おもりだなんて、聞かれるとまずいんじゃない」
 「旧友と話してるときくらい本音を言う権利はあるでしょ。あなたのほうこそ、絶賛おもりの真っ最中みたいだけど?」

 カナリアの視線がシュオウをまっすぐに射貫く。
 まだ整っていない呼吸のまま、シュオウは初対面の挨拶をすませた。
 「そう、私はカナリア・フェース、こうみえて親衛隊の長を務めている、よろしく」

 赤みのある金髪が印象的なカナリアは、春の日差しのように暖かな笑顔を向けてくる。先日のアマイとは違い、まったく嘘を感じない人柄に、つられるように微笑みを返していた。

 「こちらこそ」
 「カザヒナとは親しい様子だったけど、あなたは彼女の弟子かなにかかしら」
 「いや、滞在中に剣の訓練を頼んだだけで、師弟関係とまでは」

 シュオウの説明にカザヒナも頷いて同意した。

 「そう、カザヒナの直接の剣術指南を受けられるなんて、やっぱり氷長石様が特別扱いをするわけね」
 カナリアは一人、納得した様子で頷いていた。

 「あの?」
 「こっちのことよ。それより、剣の稽古なら私が特別に差しで相手をしてあげましょうか」

 カナリアは突然そんなことを言いだし、シュオウの返事を待たずして傍らに置いてあった予備の木剣を手に取った。

 「まだ基礎訓練を始めたばかりで、試合ができるほどじゃ――」
 カナリアは木剣の切っ先をシュオウに突きつけ、勝気な双眸を向けて言う。

 「本当にいいの? 剣の腕ならカザヒナより上で宝玉院では主席の座を維持し続けた私が直接稽古をつけるといってるのに」

 返答に苦慮していると、カザヒナがこちらを手招きしているのに気づく。近づいて顔を寄せると、カナリアには聞こえないように静かにささやかれた。

 「彼女、自分からの誘いを断られるとすごく拗ねるので受けてあげてください。実際腕が一流なのはたしかですし、初心者相手にほどほどに手加減もしてくれるはずですから」
 世話になっているカザヒナから願われる形で言われれば、断るわけにもいかない。

 「……わかりました」

 「さあ、どうするのッ!」
 落ち着きなく剣を振り回してこちらを挑発するカナリアの姿をみて、この人はなにか鬱憤でも貯めているのではないのかと疑わずにはいられなかった。
 「やります。というより、お願いします」
 軽く頭を下げたシュオウを見て、カナリアは満足げに頷いていた。


 カナリアに誘われるままに、石畳の敷かれた庭の中央部に場所を移す。
 湿り気のある土の上よりもずっと安定感のあるこの場所は、試合形式の練習の場としては妥当な選択といえる。だが、シュオウとしてはあまり良い心地はしなかった。

 なにしろ、ここは目立つのだ。
 その効果は早々に発揮され、木剣を構えた自分と親衛隊の隊長という構図は、身近で働いていた使用人達だけにとどまらず、話を聞きつけたカナリアの部下達までもこの場に集結してしまっていた。

 集まった人だかりが、また他の人間の注意を惹いていく。
 四角形の石畳のまわりを多くの輝士達が囲み、またその周りを遠慮気味に邸で働く者達が集まってこちらを注目していた。

 またにしませんか、とでかかった言葉は、涼しい顔で体をほぐしているカナリアの顔を見て引っ込んでしまった。
 彼女の様子に嫌味な所は一切見受けられない。
 注目の集まるなか、ここで逃げ出せば自身の評判と共に、シュオウを預かり手厚くもてなしてくれたアデュレリア公爵の名にも泥を塗ることになるだろう。

 覚悟は決まった。

 間近でこちらを観察する若い輝士達。彼らの表情に緊張感はない。むしろこちらに向かって同情的な顔を向ける者もいる。

 ――そんなに見たいのか。
 シュオウはカナリアへ向け、そっと剣を構える。
 ――おれが負けるところを。

 カナリアもまた、シュオウとまったく同じ条件の木剣を手に構える。
 間に立つカザヒナが手をあげ、開始の合図をとる前にカナリアに小声で話しかけた。

 「これが訓練だという事を忘れてないでしょうね」
 カナリアは短く返す。
 「愚問よ」
 カザヒナが最終確認といわんばかりに目線を送ってきたため、頷き返した。

 ほどなくして、合図の手は下ろされた。
 開始が告げられた瞬間、虚空を貫くカナリアの剣先が、シュオウの胸を狙って鋭く繰り出された。

 ――手を抜いてくれるんじゃなかったのか!
 抗議の言葉を発している暇などない。

 おそらく、自分でなければ決まっていたかもしれない一撃を、一瞬の判断で体をよじって躱す。そのまま堅い石畳を蹴って間合いを置くと、周囲からはどよめきがたった。

 カナリアの顔からは驚きが窺える。が、彼女は間を置くことなく次の一手に出た。細身の木剣を活かした空気を抉るような鋭い突きが再びシュオウを襲う。

 並の者であれば怯んで眼を閉じてしまうような一撃だ。が、シュオウは瞬きも忘れて剣の動きに集中していた。

 恐怖心はなく、心は平静を保っている。
 ミヤヒを相手にして始めて剣の試合をしたとき。手に持った重さ、体に乗った違和感にふりまわせれ、心を乱していた頃の自分ではない。

 ――こんなにも違うものなのか。

 突きという点での攻撃に対して、シュオウは半身を後ろに下げてこれを躱した。
 本来目にもとまらないような早さの一撃は、しかしシュオウの目にはとまっているのと同義である。

 突き出された木剣。それを握るカナリアの手首が隙だらけの状態で目の前にある。
 剣を放り出し、カナリアの無防備な細い手首を掴んでしまいたいという誘惑にかられた。
 今、これを掴んでしまえば、完全な勝利を得る事ができる。この間合いは、自身が命がけで体得した戦意を挫く技の最も得意とする間合いだからだ。

 瞬間、脳裏によぎった誘惑をシュオウはふりはらった。代わりに前のめりとなったカナリアの足を払い体勢を崩す。
 一転してシュオウは攻めの姿勢をとる。右手に持った木剣を振り上げ、左手を添えて体勢を崩したままのカナリアの肩を狙って振り下ろした。

 よろけた相手に対し、完全に優位な状況で放った一撃。だがカナリアは焦った様子もみせず、剣を持ち上げて進んでシュオウの一撃を受けた。

 ――押せる。

 体勢は優位、腕力ではこちらが勝っている。さらに力を込めて振り下ろした剣は、しかし手応えをまったく感じる事なく石畳を叩いた。
 カナリアは素早く間合いを置いて、膝についたホコリを払う。

 ――すごいな。

 あの一瞬、カナリアは剣を壁として使い、振り下ろされた剣の力を利用して自身の崩れた体制を整えた。腕力や体躯で完全な有利を得ているというのに、逆にこの状況を活かした戦い方をしている。

 「過小評価していたわ」
 ほどよく距離をとったカナリアが神妙な表情のまま、こちらを見つめている。
 「あやまるべきですか」

 「ここまでの動きをみて剣を始めたばかりだと言われても、ちょっと信じられなくなってきているかもしれない。もし熟練者である事を隠してこの試合に臨んだのだとしたら、そうね、一言謝ってもらいたい気分よ」

 「嘘は言っていません。剣術に関しては、ほんとうに始めたばかりですから。ただ……剣に関しては、とだけ付け加えておきます」

 「そう……そういうこと」
 納得が得られたのか、カナリアはそれ以上の追求をやめる。

 「再開しましょう、実力がわかった以上、私も相応に相手ができる」
 頷きを返し、互いに再び剣を構える。

 今度はシュオウから仕掛けた。
 振り上げた状態から縦に繰り出した一撃を軽くあしらわれ、すぐさま一線を描くような横へのなぎ払いを見舞う。が、これは早々に体を後方へ退かれて躱されてしまった。

 「本当に初心者なのね、躱す術と間合いの計り方は一流なのに攻撃があまりに正直で単調すぎる――」

 カナリアは言うやいなや、右足を踏み込んで突きの体勢に入った。
 ――単調なのはどっちだ!
 シュオウは相手の先を予想し、素早く回避の体勢に入る、が――
 ――消えた!?

 真っ直ぐこちらへ向かってくるはずの木剣の姿を見失う。カナリアの肩から腕の動きを追い、その先を見ると、剣は下段からこちらの手首を狙って切り上げられている真っ最中であった。

 その剣先は、すでにシュオウの手元に到達しようという頃合いである。
 貪欲に勝ちを貪るような一撃。ほんの一瞬の間にこれだけの事を行える研ぎ澄まされた技術に、刹那状況の忘れて見惚れていた。

 シュオウは握っていた木剣を、あえて手放して手首を狙ったカナリアの切り上げを躱した。
 カナリアが戸惑いを覚える間もあたえぬまま、手放した木剣を空中で再び掴み、無心のうちに右足を踏み込んで突きの姿勢をとっていた。

 カナリアは点の攻撃に備えて体をひねろうとする。それは、わずかな猶予の中で彼女がとれる最善の回避行動であったはずだ。

 だが次の瞬間、シュオウの木剣はカナリアの手首を打ち付け、カナリアの剣は石畳の上に落ちて、からころと乾いた音をたてた。

 一瞬おりた静寂は、カザヒナの言葉によって打ち消される。
 「それまで!」

 口をぽかんと開けて絶句する輝士達とは真逆の反応を見せたのが、邸で働く使用人達だった。遠慮がちに試合を見物していた彼らは、どよめきにも似た歓声をあげて興奮した様子で手を叩いている。見上げれば、拍手の音と歓声は邸の二階の窓から顔を覗かせていた者達からも聞こえていた。

 視線を戻せば、神妙に見守る輝士達に囲まれたカナリアが居る。彼女は呆然と地面に目を落とし、赤く腫れ上がった左手首を押さえていた。

 「カナリアさん……」
 相手をしてくれた事に礼を言えるような雰囲気ではなかった。カナリアはシュオウの言葉を待たず、独り言のように呟く。

 「子供の頃から、毎日かかさずどれだけの時間努力してきたとッ――」
 カナリアは顔を上げ、うっすら涙を溜めた目でシュオウを睨み付けた。
 「――再戦を!」

 そう言った直後、公爵邸に隣接された建物のほうから、女の悲鳴と共に窓ガラスが割れる音がした。
 音のしたほうを見ると、地面に割れたガラスと壊れた椅子が散乱していた。
 静観していた輝士の一人が、興奮の収まらない様子のカナリアに声をかける。

 「隊長、おそらく殿下になにか」
 カナリアは乱れた髪を整える。一つ深呼吸をして落ち着いた声音で応じた。
 「確認したつもりだったけど室内に蜘蛛でもいたのかしら。様子を見にいく――」

 彼女の視線が再びシュオウを捉える。一度口を開きかけたカナリアは、躊躇した様子で口を閉じ、急ぎ足で別館のほうへと走り去ってしまった。

 カナリア率いる親衛隊の面々がいなくなった後、騒然とした場はカザヒナの一声で静けさを取り戻していた。

 「おつかれさまでした」
 ずっと握りっぱなしだった木剣と引き替えに渡された汗ふきで顔を拭う。

 「よかったんでしょうか」
 カザヒナは首を傾げて聞いた。
 「なんのことですか」

 「手を抜いてもらったとはいえ、人前で俺が勝ってしまって」
 「……彼女、手を抜いてなんかいませんでしたよ」
 「だけど――」

 「初心者を相手にした稽古としての立ち会いは前半だけです。後半は、私が見たかぎりではカナリアは正真正銘、本気で挑んでいました」

 「じゃあ、俺は……」
 熟練の剣士を相手に勝利を得たという実感は急には沸いてこなかった。

 両手の平を見つめると、部分的に皮が厚くなり始めているところがあるが、この程度なのだ。皮膚が破けてそこにさらに厚い皮ができるほど、シュオウは訓練を重ねてきたわけではない。

 「ただ、彼女が限定した条件の元で勝負をしていたことは事実です」
 カザヒナの冷静な言葉に、シュオウはハッと顔をあげた。
 「そうか、晶気を使っていない」
 カザヒナは一つ頷いて、
 「そうですね。優秀な輝士が近接戦闘を行う際には、武器と合わせて晶気を有効活用することは常といえます。けど、あえて限定した条件下で戦っていたのは、シュオウ君も同じでしょ」

 シュオウは控えめに首を縦に振った。
 カザヒナは淀みなく柔らかな表情で言う。

 「互いに剣での戦いという約束の元勝負をして、あなたはそれに勝った。もっと自信を持って嬉しそうにしてもいいくらいですよ」
 「そう、ですよね」

 言いながら微笑みを返すが、それは心からの笑顔ではなかった。
 勝負に勝った喜びよりも、負けたときのカナリアの悲痛な表情が脳裏をかすめ、小さなトゲのように心に刺さる。

 去り際言っていたように、彼女は剣術というものに対して長年真摯に努力を重ねてきたのだろう。それは実際に対してみた今、誰に言われずとも確信できる事だった。

 自分はどうだろう。
 誰にでもできるような素振りを数日行ってきただけだ。
 熟練の剣士と相対し、勝利を得る事ができたのは、シュオウの持って生まれた個性である眼の良さに頼っての事。

 ずるをしたという気持ちは持ち合わせていないはずなのに、もやもやとした気持ちは晴れないままだった。
 片付けをすませ、邸に戻る途中、カザヒナの言った言葉がそうした気持ちをさらに加速させた。

 「ほんの短期間でこれだけ剣をものにするなんて、正直驚いています。天才、とそう言い切ることができるくらいの結果を、あなたは残したんですよ」

 ――ああ、そうか。

 ずきりと嫌な感覚を胸に抱え、この不快な感情の正体に、シュオウはようやく思い至った。
 それが、罪悪感であるということに。



 訓練後、ほどよく腹もすいてきたこともあり、前日と同じく一人、調理場を目指して長い廊下を歩いていた。

 ――なんだ?
 周囲の様子がいつもと違う。

 すれ違う使用人達が、男女を問わずこちらと目を合わせて軽く会釈をしてくる。彼らは普段、遠巻きにこっそりと視線を送ってくる事はあっても、これだけ近距離で愛想良く振る舞われたことは今まで一度もなかったので、シュオウは大いに戸惑った。

 そして、そうした戸惑いは調理場に入った途端にさらに増した。
 昨日と同様、忙しそうに働いていた料理人達は、シュオウが入ってきた事に気づくと、一斉に手を止めて地鳴りにも似た歓声をあげたのだ。

 昨日とはあまりに違う彼らの対応に困惑していると、まだ見習いであろう若い料理人の一人が盆に乗せた豪華な食事を持って前に立つ。
 「あの、これ料理長があなたにって」
 「あ……ありがとう」

 両手で料理を受け取ると、見習い料理人の後ろで強面の料理人が小さく手をあげているのが見えた。

 「さっきはすごかったです! あんな偉い輝士様を剣で圧倒してしまうなんて、俺すごく感動してッ!」
 顔を火照らせながら、まだ少年といったほうが適切であろう若い料理人が、興奮したように叫ぶ。手を休めている周囲の者達も同調するように頷き合っていた。

 「あの、これすごく美味しそうです。ありがとうございますッ」
 調理場全体に届くよう、シュオウは大きく声をはりあげた。

 豪勢な食事を手に、去り際料理人達の拍手を背負いながら、シュオウは調理場を後にした。
 自室に引き上げる途中、若い女達に挨拶をされたり、きゃあきゃあと黄色い声援をもらいながら歩くことになり、シュオウは彼らの豹変ぶりに終始首を傾げずにはいられなかった。



 皆がほっと一息つく昼下がり。
 食休みを終えたシュオウは、読み終わった本を別の物と交換するために一人廊下を歩いていた。
 本というものにたいして、どこかジメジメとして古くさいという印象を持っていたのは、時折育ての親である師のアマネが持ってきた本が、どれもぼろぼろの古い物ばかりだったという体験からきているのかもしれない。

 だが、そうした負の印象は、公爵邸の書庫を見て一変してしまった。ほどよく陽も入り、専属の司書まで置かれた広い書庫には、管理の行き届いた清潔な書籍がずらりと並べられていて、ある意味絶景ともいえる光景が広がっていた。

 書庫へ入る。
 入り口近くに置かれた老齢の司書の椅子は空だった。

 いきなり目的の達成が危ぶまれる。ここへ来たときに自由にしていいと公爵から許可は貰っていたが、責任者不在の書庫から無断で本を持ち出すのはさすがに気が引けた。

 ――戻すだけなら。
 返却するぶんには、とくに不都合はないだろう。
 ずっしりと重たい本を担いだまま、奥の書棚のほうへ向かう。ふと、かすかに届いた紙をめくる音が耳に入り、足を止めた。

 ――誰かいるのか。

 だとすれば、おそらく司書の老人であろう、と決めつけたシュオウは無駄足にならなかった事を喜びつつ人の気配のするほうへと向かった。

 「あッ」
 「あ……」
 出会い頭に、シュオウとその相手、カナリア・フェースは同じような声をあげて沈黙した。

 カナリアは長方形の古ぼけた書を手に、驚いた様子でこちらを凝視している。
 「朝は、どうも」
 シュオウは当たり障りなく声を掛けた。

 「こちらこそ。知り合って間もないのに、いきなり相手をさせてしまって。情けない事に自信満々に勝負を持ちかけておいて、あっさり負けてしまったのだから、笑われたってしかたないわね」

 「あれは訓練の一環でした。あなたが手を抜いてくれたことも承知してます」
 カナリアは困ったような笑みを浮かべ、首を横にふった。

 「正直にいって、経験の浅そうな君を軽くへこませてやろうって、そのくらいに考えていたのよ。だけど始めてみると、身のこなしが並ではないとはすぐにわかった。その後は知っての通り、むきになって本気を出してみたものの、あっさりと返り討ちにあってしまったというわけ」

 戯けていうカナリアは、少々無理をしているようにも見えた。

 「……そうですか」
 「そんなに気を落とさないでって、私が言うのもどうかと思うけど。思い上がっていた事を自覚させてもらえた分、感謝すらしているくらいなのよ」

 なにも言わず、シュオウは頷いた。下手なことを口にすれば、彼女の自尊心を傷つける事にもなりかねない。

 「ところで、見たところ本を返しにきたようだけど」
 カナリアがシュオウの手にある本の束を見て尋ねた。

 「読み終わったので、新しい物と交換しようとおもったんですけど、ここの人が不在のようだったのでとりあえず返すだけでもと思って」

 「そう、偉いのね。ここにいたおじいさんなら、さっきまで居たんだけど、食事にいくからって出て行ったのよ。持ち出したいものがあれば紙に書いて置いておけばいいって言われているから、君も同じようにすればいいんじゃないかしら」

 「なるほど、じゃあそうします」
 カナリアの提案をありがたく受け入れることにしたシュオウは、さっそく本を元の位置に戻す作業にとりかかった。

 一冊、また一冊と片付けて手元が軽くなっていく。
 カナリアはさきほどから同じ本を手にとったまま、中身を静かに読みふけっていた。

 「なにを読んでいるんですか」
 好奇心に背を押されたシュオウは、邪魔になるかもしれないと思いつつも遠慮を振り払って聞いた。

 「アデュレリアの地図よ。とても古いものだけど、王都と違ってアデュレリアは地形をあまりいじらないそうなので問題はないと聞いているから」
 「地図、か」

 カナリアの手元の本をのぞき込むと、たしかにアデュレリア領地のものと思われる地形が詳細に描かれていた。
 顔をあげると、カナリアがじっとこちらを凝視していた。
 「なにか?」

 「聞いていい事かどうかわからないけど、君はどう見ても北方の人間よね。その歳で傭兵として雇われていた風でもないし、ムラクモで軍属をしている経緯を不思議に思って」
 聞かれ、シュオウは可能なかぎり嘘の少ない返答を用意した。

 「俺は王都育ちです、孤児だったので自分の出生についてはわからないんですけど。軍に入ったのは宝玉院の卒業試験に参加したことからの流れっていうやつで。ここへ来る事になったきっかけについては、口止めされているので言えません」

 「そう、ありがとう。それだけ教えてもらえれば十分だわ。ただ、氷長石様が君に肩入れしている理由について気にならないといえば嘘になるけどね」
 シュオウは答えに窮した。
 「すいません」

 正直に自分の出自について明かすことができないのは、とてももどかしい。そう思ったのは一度や二度ではなかった。

 「突然だけど、これから予定はあるのかしら」
 「いえ、これを返しにきたくらいですから」

 シュオウは手元に残った数冊の本を掲げて見せた。

 「だったら、ちょっと付き合ってもらおうかな」
 「いいですけど、なににですか?」
 「ちょっとしたお散歩に、ね」
 カナリアは手にしていた古い地図を見せながら、シュオウを外出に誘った。



 カナリアが散歩、と言った通り幸いにも徒歩での移動となった。
 広大な中庭を通り抜け、表側の門から外へ向かう途中、別館の前に散らばったガラスを、親衛隊の輝士達が回収している姿が目に入った。

 「あれって朝の?」
 カナリアは渋い表情を見せて、
 「ええ、サーサリア様は時折ああいう事をなさるので」
 「暴れるってことですか」

 「意味もなくというわけではないのだけれどね。あのお方は虫がお嫌いで。皆気をつけてはいるのだけれど、箸の先くらいの小さな虫でも部屋にいようものなら、半狂乱で周囲の物を投げとばしたり、酷いときには無差別に晶気を使われるようなこともあったりで」

 「……ひどいな」

 シュオウがサーサリア王女に対して、まるで人形のように生気がなく無気力であるという印象を持っていた。だが、突然自分を殴りつけてきた事と、たった今カナリアから聞かされた事とを合わせて考えると、不安定で気の荒い一面も持ちあわせているようだ。

 一瞬とはいえ、王女の不安定な部分での被害を受けた自分としては、目の前にいるカナリアの日頃の苦労に対して同情の念がふつふつと沸き上がってくる思いがしていた。
 カナリアはふっと破顔し、空を見上げる。

 「情けない事にすっかり慣れっこになってしまっている自分もいるの。滞在中は精々殿下のご機嫌を損ねないようにしたいと思っているけれど、氷長石様はサーサリア様に対して厳しく接するおつもりのようだから、間に挟まれる身として覚悟はしているつもりだけどね」

 「俺に手伝える事があったら言ってください」
 目の下にうっすらとクマを浮かべていう彼女を可哀想だと思ってしまったのか、シュオウは意識せずにそんなことを口走っていた。

 「そんなこと、軽く言うと後悔することになるわよ」
 意地悪くにやりと笑うカナリアを見て、シュオウは引きつった笑みを浮かべた。
 「ひ、暇を持てあましてますから」

 後悔があからさまに表にでていたシュオウの反応を見て笑うカナリアからは、気負いのないただの年相応の美しい女性にしか見えなかった。


 門を抜けた先には、市街地まで繋がる緩い坂が続く。その途中には枝別れたした道がいくつもあった。
 カナリアは持ち出した地図を片手にいくつかの細道を選んで歩き、その先の様子や地形の観察を熱心に行っていた。

 太陽が最も高く昇る頃、カナリアが新たに調査のために選んだ道は、大物物資の運搬に利用される幅の広い道だった。
 この道はアデュレリアが管理する北南の両方の白道にも通じている。目的からいってもよく整備されている道ではあるのだが、カナリアはそこから山奥へ通じている脇の小道へと入って行った。

 「こんなところまで見るんですか?」

 「必要な事なの。敵が潜む事のできそうな場所や、外から入ってこられそうな経路を見つけたり。それに敵は外から来るだけともかぎらないから、緊急時に逃げるための手順は頭に入れておかなければいけない。君も覚えておきなさい、慣れない場所に長時間滞在するような状況になった時、逃げ道だけはまっさきに頭にたたき込んでおくって事を」

 カナリアが選んだ道は先へ行くほど細く、道も獣道のように険しくなっていった。積雪が深いところでも足首のあたりまでしかないため、歩くのに困難しないギリギリの線といった状況である。

 唐突に道は行き止まりとなった。
 水の流れる音と、ドドドッと落ちた水がたたき付けられる激しい打音が耳に届く。

 「滝だ」
 行き止まりの先は崖になっていた。そこから眼下に広がる風景は、一目で印象に残りそうなほどの幻想的なものだった。

 巨大な岩山のてっぺんから流れ落ちる一条の白い滝。その足下では飛び散った水滴が苔を濡らし、表面に小さな粒の水の球を無数にちりばめて光り輝いている。

 周囲には黒くごつごつとした岩が入り組んだ迷路のように散乱し、奥へ続く道を形成していた。
 シュオウが景色に見とれている間、カナリアは同じものを見ながらもずっと現実的な思考によって観察していたらしい。

 「この下に広がる空間の奥がどこまで通じているのか気になるけど、今の装備でここを降りるのは難しいか」
 「戻りますか?」
 「ええ、暗くなる前に元の道まで戻りましょう――」

 しかし、カナリアは言っておきながら戻ろうとはせず、足下に何かを見つけて雪の中に手を伸ばした。

 「ちょうどいい長さね」
 カナリアは長めでしっかりとした枝を一本手に取った。それを剣に見立てて、姿勢を正して突きや素振りをはじめる。

 「君との対戦がどうしても忘れられない。あの時の流れを頭の中で何度も再現したけど、最後の一手だけはどうしても納得がいかないのよ」
 カナリアは自身が握る物と似たような長さの枝を見つけて、シュオウに放り投げた。

 「まさか、これで今から再戦しろなんて言わないですよね」
 「それを求める権利はあるはずよ。改めて問うけど、君はいったい何者なのかしら」
 「別に何者でも……今はただの謹慎中を言い渡された従士です」

 カナリアは堅く声を張り上げた。

 「ただの従士に負けるような鍛え方はしていないッ。朝の勝負で私が放ったのは、だましを起点として相手に守りの隙を生じさせる必勝の一手だった。君はそれを躱したうえに直後にまったく同じように模倣してみせた。対してみて、君が剣に不慣れであることは知っている。だからこそ、あれだけの短い間に熟練した剣技を模倣できるなんて普通はありえない。ムラクモに残された唯一無二の王家の血を守護する身としては得体のしれない者が殿下のお側にあることを許せないのよ」

 カナリアの表情は険しい。それが決して冗談ではないことを知り、適当な言い訳が許されるような状況でない事をシュオウは悟った。

 「見える、と言って信じてもらえますか」
 「は?」
 「見えるんですよ、集中していると物体の動きを明確に捉える事ができる。おれの体が、ただ生まれつきそういう風に出来ているっていうだけの事で――」

 言い終える直前、目の前に拳ほどの大きさの石が鼻先目がけて迫り来る。一瞬の出来事に混乱しながらも、石が顔面に当たる間際にさっと顔を避けて躱す事に成功した。

 「……嘘じゃないのね」
 カナリアは驚きを隠せない様子で佇んでいた。
 今更、さきほどの石つぶてを誰が投げたなどと聞く必要もないだろう。

 「信じてもらえたならいいですけど、不意打ちはやめてください」
 抗議を口にすると、ようやくカナリアは表情を緩めて肩の力を抜いた。
 「謝るわ。だけど確認はしなければ、言葉だけで簡単に信じられるような事でもないもの。だけど、そう……それじゃあ君はあの時私の動きを見てそれをそのまま真似したっていうことなのよね」

 頷いて肯定すると、カナリアは溜息をこぼした。

 「ただ真似るにしたって簡単な事ではないけれど。それができるくらいの身体能力が備わっているからこそなのでしょうね」
 「ずるをしたと、思いますか」

 「いいえ、才能を活かす事をずると言うほど落ちぶれていないわ。どうりで初手から私の攻撃に動じないはずよね……たいした才能だけど、でも調子に乗らないで。君は片眼という不利を負っている、常人より見える範囲に限りがあるはず。元からして一度にすべての方向を見渡すことなんて人間にはできないんだから」

 言って、緩慢な動作でカナリアはこちらに剣を突き出した。
 それを奇妙に思いながらも、躱す事になんら苦労は必要としない。半身を後方へひねろうと足に力を入れたその時だった。

 「なッ!?」
 ずるりと右足が沈み、足を取られて背中から地面に倒れ込んでしまったのだ。
 背中の痛みを感じつつ、見上げるとカナリアがしてやったりの笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

 「よく見てごらんなさい」
 カナリアが指を指した先、シュオウの足下を見ると、そこだけ地面がドロドロに溶けたような状態になっていた。そこに、シュオウの足はずっぽりとはまってしまっている。
 「カナリアさんの輝石の力、ですか」
 「輝士の剣は、本来晶気との複合技として扱われるもの。一方にだけ集中しているとこういうことになるという事を分かってもらえたかしら?」

 シュオウは苦笑いを浮かべ、言う。
 「十分すぎるくらいに、教えに感謝します、先生」
 少し皮肉を込めて言うと、カナリアは気まずそうに口元に手を当てた。
 「やられっぱなしなのも悔しいのよ」

 互いに笑いながら、シュオウはカナリアから差し出された手を取った。だが、体を起こす時に視界に入った違和感に気づき、そのままカナリアを引き寄せた。
 「ちょっと!?」
 「静かに」

 シュオウの緊張した様子に、カナリアは即座に口を閉じて頷いた。
 違和感の元を探る。茂みの中から見える二つの鈍い光が、その正体であった。
 ――目?
 カナリアをその場に残し、ゆっくりと茂みに近づく。正確に対象の姿を捉えられるようになり、シュオウは緊張を解いた。

 「動物の死骸か……」
 こちらをじっと見つめるものの正体は一頭の死んだ雌鹿であった。
 「何事かと思ったわ。このあたりまで来るとほとんど山の中なのだから、生き物の死骸くらいめずらしくないでしょ」

 「でも、少し様子がおかしいですよ、これ――」
 シュオウは手にしていた木の棒を使い、鹿の死骸をよく見える場所まで移動させる。
 「――捕食された形跡がないのに、中身が抜かれたみたいにへしゃげてる」
 「ええ、たしかに」

 鹿の体は骨と皮だけが余っているように、棒でつついても肉の手応えを一切感じなかった。目や舌は綺麗なまま残り、ざっと全体を見ても腐敗した様子もない。

 不意に背後から、空気をつんざくカラスの鳴き声が聞こえて、二人はぎょっとしたままに後ろを振り返った。
 死に群がる黒い鳥がじっとこちらを凝視している。

 「戻りましょう、暗くなる前に」
 不気味な空気に気圧された様子で、カナリアは一人来たほうへ向けて歩き出した。
 ――怖いのか。
 決して口にはだせない感想を胸に秘めたまま、シュオウも彼女の後を追いかける。
 振り返ると、いつのまにか複数に増えたカラス達が、死んだ鹿の遺骸に残された暗く濁った眼球を必死につついている真っ最中であった。



 翌日を迎え、夜のアデュレリア公爵邸は喧噪に包まれていた。
 玄関には次から次へと豪華な馬車が到着し、大勢の従者と土産物を伴った身分の高い人々が押し寄せる。
 貴族のための控え室と従者のための控え室は、それぞれに許容量を超えるほどの勢いだ。

 この度の晩餐の主催者である当主のアミュ・アデュレリアは、全体を取り仕切るために奔走していた。

 「湖底エビを香草と共に蒸し焼きにして、薄口のタレをかけたものです」
 料理長の提示した料理を少し摘まみ、味見をする。
 「悪くない、透き通るような香草の香りが湖底エビの臭みを消している。しかし味付けに少しおもしろみがないな……もう二種、味に個性のあるタレを用意して自由に選べるよう工夫せよ」

 いくら当主とはいえ、普段ここまで細かく振る舞われる料理に口出しはしない。だが今日は希にあるかないかの特別な日なのだ。

 王女を目当てにした各地の領主や大商人達が押し寄せるこの日。アデュレリアが用意する料理に使う食材は、そのほとんどがアデュレリア産の物なのである。その目的はもちろん宣伝にあり、酒や果物、米や魚介の物をふんだんに使い、試してもらおうというのである。

 実際、想定していたよりも現場は混乱状態にあり、シュオウの専属としての役をあてていたカザヒナを急遽現場の監督に呼び出す事態にまでなっていた。当主自らがあちらこちらへ出向いて細かな指示をとばしている理由はここにもある。

 ――情けない。

 ひさしく大規模な晩餐会の取り仕切りなど行ってこなかった事もあり、大人数の賓客を捌く事への勘が鈍っていたことを、アミュは悔いていた。

 次の現場へ足を運ぶ途中、腹心の家来であるクネカキが声を荒げて駆け寄ってきた。
 「なにごとじゃ」
 「御館様、お耳を――」
 耳打ちを許可し、報告を聞いたアミュは目を大きく見開いた。
 「サーペンティアの小倅じゃと……」


 地下に設けられた牢のある部屋に降りると、そこには一族の若い男達にかこまれて薄ら笑いを浮かべる男、ジェダ・サーペンティアがいた。
 後ろ手できつく縛られ、ジェダは堅く冷たい地面に膝をついた状態で拘束されていた。

 「薄汚い蛇の子が、よくも我が邸へ土足で踏み込んだものじゃ」
 怒気と怨念の籠もった目で睨み付けるも、ジェダは涼やかな余裕のある表情は崩さず、まっすぐアミュを見つめて応じた。

 「訪れて早々の歓迎がこれとは、少しくらい嫌味を聞く覚悟はありましたが、突然縛り付けられてこんな所に押し込められるのは、さすがに予想を大きく上回りましたよ」

 だまれ、と周囲から怒号が飛んだ。
 ジェダを取り囲む男達は、皆一族の若い男達であり、手練れの輝士でもある。血の気に余る彼らに囲まれ睨み付けられているジェダは、しかし額に一滴の汗も浮かべてはいない。作り物のように整った眉目と合わさり、一層不気味な空気を醸し出していた。

 「今宵はサーサリア王女が始めて公の場で臣下と接する重要な舞台じゃ。申請もしていない者が訪れれば、王女の身を案じて対応するのは当然のことといえよう」

 「申請はしています」
 しれっと言うジェダを前に、アミュは聞き返した。
 「なに」

 「先日、父サーペンティア公爵の名で私を家の代表としてこの場に出席を求める旨をしたためた書状はアデュレリアへ届けさせました。一介の輝士にすぎないこの身が一族代表として出席する事への許可として、父がグエン公から許しを得た書状もそえてあるはずなのですが」

 「まさか」
 嘘をつくな、とも思ったが、相手の様子を伺うに思いつきで言っている様子はない。一応の筋を通しての訪問であれば、いくら相手が因縁のある一族の者とはいえ、大きな理由もなしに同国人の訪問を断る事は難しい。

 だが、もちろんアミュはサーペンティア公爵からの書状など目にしてはいない。そうした失敗のないように、自らが時間をかけて一通ずつ返事をしたためていったのだ。
 この場にいる者達をなにげなく見回していると、一人が露骨に気まずそうに視線をそらした。一族の若い男達の中でも、特に普段からサーペンティア一族への敵意をむき出しにしている男だ。

 ――なるほど。

 この場で確証は得られないが、おそらくこの男がサーペンティアという差出人の書状を見て、捨てるなり燃やすなりしてしまったのだろう、とアミュは推察した。

 「そのご様子、どうやら手違いがあったと認めていただけるようで」
 なおもこちらを食ったような態度で余裕を見せるジェダに、アミュの傍らに控えていたクネカキが怒鳴り声をあげた。

 「黙れジェダ・サーペンティア!」
 「僕のような一介の輝士の名をご存知とは光栄ですね」

 「なにを誇らしげに! 残忍な方法で人を殺す貴様の名は、血臭と共に噂となって嫌でも耳を汚すのだ。王国軍の名を貶める貴様のような存在がこの地を踏んだというだけで、我が主の名に傷がつく。そのにやけた顔を納めぬようなら、即刻そのほそっ首を握りつぶしてくれようぞッ!!」

 言った事を本当に実行しそうな勢いで前へ出ようとしたクネカキを止める。
 「待て」
 「……はいッ!」

 頭に血が昇っていても、そこは忠実なる家臣である。即座に頭を下げ、クネカキ・オウガは一歩退いた。

 「アデュレリア重将閣下、どうやらこの場で冷静な判断が下せるのは私と閣下だけのようです。今すぐ解放していただけるのであれば、蛇紋石の主サーペンティア公爵の名代として、今回の不幸な誤解は忘れる事にいたしましょう」

 慇懃無礼なジェダの態度に皆の目つきはさらに険しくなるが、アミュの心はすでに冷めつつある。いくら相手が因縁深い間柄の家の人間とはいえ、越えてはならない一線はある。それに今回の件については、おそらく不手際はアデュレリアの側にあるのだから、これ以上の諍いは無意味であり、一歩間違えば一族に多大な不利益をもたらす事も考慮しなくてはいけない。

 「よかろう。じゃが謝罪はせぬ。当家も王女の滞在という大事にあって、少し過敏に反応しすぎたが、王女殿下をお守りするための措置として必要であったと理解を求める」
 「この状況で謝れなどと無粋な事は言いませんよ」

 アミュは頷いて返し、目線でジェダを拘束している男達に合図を送った。
 渋々といった様子だが、当主の命令に彼らが逆らうことはない。押さえつけていた手を離し距離をとった。

 流麗な動作で立ち上がったジェダは、なおも後ろ手に縄で縛られている。それを解くように命令する、が――ジェダは縛られていたはずの両手を前へ回して縄を引きちぎってしまった。

 「貴様、はじめから拘束を解いていたのか」
 クネカキが重々しく言った。
 ジェダは口元だけで微笑する。

 「抗うことは容易かった、とだけ言っておきましょう。僕の役目はサーペンティアの名をサーサリア王女の記憶の片隅に置いていただくことだけですから。あえて抵抗をしなかったという事実をもって誠意と受け取ってもらえると、両者のためになると思うのですが」

 ジェダは案内役の従者につれられて部屋を後にした。
 残された者達は彼の置き土産となった、ちぎられた縄に注目していた。

 さして太くもない縄に、軽く力をかけるだけで千切る事ができるほど、絶妙な長さで鋭い切り込みが入れられている。後ろ手に縛られ見る事もできず、並の者であれば集中して晶気を操ることのできる状況ではなかったはず。

 ――風蛇の影を背負うだけの実力、か。

 冷静な判断力と度胸、輝士としての実力。どれをとっても一流といっていい。ジェダ・サーペンティアという人間が、生まれる家が違えば褒め言葉の一つもかけていたところだが、残念なことに彼はアデュレリアにとって最も忌むべき一族の人間である。

 「クネカキ」
 「は、承知しております」
 ジェダの目的が真に王女への機嫌とりだけにせよ、危険な人物に鈴をつけておかないわけにはいかないだろう。



 アデュレリアが、集まった賓客のために用意した会場は、思い描いていた貴族達の夜会の舞台としては、少々狭く感じる造りであった。
 だが、それは決して狭い空間しか確保できなかったというわけではなく、社交が目的のこうした場においては、適度に人が密集する狭さが、逆に目的にかなうという利点がある。

 会場には少し前から集った上流の人々が通され、賑わいと強い香水の香りがあたりいったいに充満していた。

 シュオウは今、その場に一人佇んでいる。

 世界中探した所で、自分にとってこれほど場違いな空間は存在しないはず。そう思えるほどシュオウは浮いた存在となっていた。

 周囲からじろじろと視線を向けられているが、平民とは違い表向きだけでも見ている事を隠そうとしているところが、やはり社会の上位に位置する人々の矜恃というものなのだろうか。

 なんらこの場に目的のない自分が、夜会に出席した理由は一つ、見学である。
 出席者として参加してみないか、とアデュレリア公爵に誘われた時は、即答で断りをいれたが、めったに経験できることではないと聞かされた途端に気持ちが揺らいだのだ。

 そう、たしかに公爵の言うとおり、煌びやかな衣装と色とりどりの輝石を持つ人々に囲まれるというのは、まったく希有な経験であったことは間違いない。だが、シュオウはこの場に出ることを決めた自分の決断を早くも後悔していた。

 ひょんなところから救世主は現れた。
 銀装に身を包んだ輝士を従えて登場したサーサリア王女である。
 奏者達の和やかな演奏が鳴り止み、かわりに厳かで重厚感のある音が会場を包んだ。

 王女が奥へ向かってゆっくりと歩を進めていくなか、場を埋め尽くしていた人々の視線はすべて彼女へと集まっていた。
 シュオウとしては、この舞台の主役が登場したことにより、自身への注目が和らいだ事に心底安堵を覚えていた。

 部屋の中央奥に用意された簡易の玉座に、サーサリア王女が腰掛けると、人々はよく訓練された軍隊のごとく、列をなして隊列を組み、早々に先頭の者から挨拶をかけ始めていた。

 この好機を逃すのは惜しい。
 人気のなくなった食台から、腹を満たすことのできそうな食べ物をいくつか見繕った。
 始めに目についた光沢の良い肉を頬張ったところ、不意にすぐ近くから男に声をかけられた。

 「おいしいかい」
 シュオウは口に含んだ肉を噛みながら、声の主を見た。
 口の中の食べ物を飲み込むまでに、相手が誰であったかすでに思い出していた。

 「たしか、ジェダ……」
 「サーペンティアだよ。僕の名前を知っていたとは意外だね」

 絶世の美女と見紛うばかりの容姿を持つ目の前の男、ジェダは、一切の淀みのない微笑を浮かべてこちらを見ていた。

 「なにか用でも?」
 社交辞令のために声をかけてきた雰囲気ではない、と察した。それはアミュやカザヒナから、目の前の男に関して決して良い話を聞いていなかったから、という理由もある。
 警戒心を表に出し過ぎたせいか、ジェダは不自然に薄く笑みを浮かべた。

 「君は用心深い性格のようだね。別にとって食おうというつもりで近づいたわけじゃないさ。あのグエン公に向かって啖呵を切った平民がどんな人間なのか、身近なところから観察してみたいと思っただけなんだ」

 そういえば、この男はあの場にいたのだと今更ながらに思い出す。

 「なら目的は果たせただろう。用が済んだのなら離れてくれ」
 無意識に、シュオウはジェダに向かってトゲのある言葉を選んでいた。
 「僕は友好的に接しているんだ、もう少し愛想良くしてもいいんじゃないかな。こちらは上級士官としての態度で君と接する事もできるんだよ」

 シュオウは手にしていた皿を置き、正面からジェダと向き合って睨み付ける。
 「好きにすれば良い。ただ、こっちも態度を変えるつもりはない」

 ジェダは嘲笑するように鼻を鳴らした。

 「ふ、氷犬一族に囲われて貴族にでもなったつもりなのかな。だけど、甘い幻想は捨てた方が良い。アデュレリアの当主は有能な人材を好み、多く登用してきた人物だ。下々の者から能ある者を引き上げるといえば度量の広い人間のように聞こえるが、実際は我欲で人を選び金で買い集めているだけの悪趣味な商人にすぎない。君もまた、彼女の所有欲を満たすためだけに選ばれた商材にすぎないんだよ」

 ジェダの物言いを耳に入れ、怒りを感じて一歩詰め寄る。

 「あの人には世話になっている。恩人を侮辱するなら、この場でお前を組み伏せる理由としては、それだけで十分だ」
 「サーペンティアの名を知りながらの暴言か。それとも、本気で僕に勝てると思っているのかな」

 シュオウは答えなかった。ただ、相手の目を微動だにすることなく射貫くように見つめるのみである。
 不穏な空気を感じ取ったのか、王女に関心を向けていた周囲の者達の中で、こちらに視線を向ける者達が増えてきた。

 再び向けられた好奇の視線を受けて、シュオウはやや冷静さを取り戻す。
 謹慎という身であり、アミュに身柄を預けられているこの状況で騒ぎを起こせば、公爵とこの家に迷惑をかけてしまう。

 シュオウはジェダから視線を外し、この場から離れるために一歩を踏み出した。
 「おや、大層な事を言っておいて逃げるとはね」

 挑発的なジェダの物言いが耳に届いた瞬間、二の足を止めてしまったが、必死に感情を抑え込む。そのままジェダの横を通り抜けようとした時、わざと前へ出されたジェダの足に引っかけられて盛大にこけてしまった。

 王女にいただいた鼻の傷跡を再び強打し、痛みに呻きながら立ち上がると、周囲からくすくすと嘲笑する笑い声が聞こえてきた。
 シュオウは精一杯冷静さを装い、そのまま振り返る事をせずに、早足で庭に続く扉のほうへと向かった。



 なにがそんなに楽しいのだろう。
 ムラクモの王女サーサリアは、次々と現れこちらの機嫌を伺う人々を、消えかけた蝋燭のようなうつろな瞳で眺めていた。

 家名と共に差し出される貢ぎ物の目録を受け取る。が、当然中身など見ないし、気にもならない。
 すぐ側で、カナリアが現れては消えていく有象無象の名や経歴を耳打ちするが、一言たりとも頭の中に残りはしなかった。

 ――いらいらする。

 頭の中で何十匹もの蠅が飛び交えっているような不快感を抱え、サーサリアは大声で叫び出したい気持ちを必死にこらえていた。

 自分が決して良質な人間ではないことくらい、自覚はある。
 心一つで周囲に当たり散らしたり、脅しをかけたりする事など日常茶飯事だが、この場でそれをすれば自身の立場が悪くなるのは明白である。

 しばらくの間大人しくしていれば、あの子供にしか見えない底意地の悪い公爵が、気持ちを変えて花を運び入れる事を許してくれるかもしれない。
 そうした打算を持って、サーサリアは辛うじて正気を維持していた。が――
 「――で、ですな。この間私が仕留めた獲物などは、大の大人が二人がかりで両手を広げても届かないくらいでして」

 初老の男がくどくどと話す自慢話は、ぎりぎりのところでせき止められていた不満を爆発させるのに十分すぎた。

 ――いらいらする!

 男の話を遮るように、サーサリアは勢いよく立ち上がった。
 慌てて、カナリアが声をかけてくる。
 「殿下、まだ伯爵閣下のお話の途中です」

 慌てておろおろとする男に横目を流し、サーサリアは背を向けた。
 「休ませて」

 多くの人々の視線を一身に受けつつも、サーサリアは避難先を求めて歩き出した。
 どこがいいかと見回して、庭へ続く扉が視界に入った。
 扉を開けた瞬間、すーっと冷たい風が体を通り抜けて行く。外は厚着をしていても寒いくらいの気温だが、苛立ちを抱えて火照った体には心地良かった。

 当然の如く、頼んでもいないのにカナリアを先頭とした親衛隊はぴったりと後をつけてきている。
 サーサリアはたっぷりと不快感を込めて怒鳴った。
 「ついてこないで! あの馬鹿みたいな催し物には付き合うわ。だから、今は少し一人にして!!」

 カナリアは戸惑いの表情を見せながらも親衛隊に停止を命じた。
 頼んだからといって一人きりにはしてくれるわけもないが、気分を害していると知れば、視界に入らないくらいの配慮はするだろう。

 ようやく偽りの孤独を手に入れ、さらに腰を落ち着ける事のできる場所を探す。
 少し歩いたところに、休憩のために用意された長いすが置かれていた。
 暗がりでよく見えなかったが、近づくほどに見えてきたその場所には、先客がいた。

 薄暗い灰色髪をした男。顔を覆う大きな黒い眼帯をしていて、なんとも不審者のような風体である。
 長椅子の前に立ち、そこで腕を組んで遠くをぼうっと見つめている男に告げた。
 「どきなさい」

 男はゆっくりと視線をこちらへ向ける。
 「え……」

 男にあまりにも鋭い視線を向けられて、サーサリアは一瞬たじろいだ。だが、すぐに怒りのほうが勝る。
 「どけって言ったでしょ!」

 男は眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
 「いやだ」
 「おまえッ、わたしがだれだか――」
 男はサーサリアの言葉を強い調子で遮る。
 「知っている。先に座っていたのは俺のほうだ」

 この国の王女であり、唯一の王位継承者である自分を知っていて尚この態度なのか、と強く困惑した。
 おかしな風体の男は再び視線をはずし、遠くへ視線を移した。どういう理由があるにせよ、このまま何か言い続けた所で、この男が立ち上がるとは思えなかった。ここが王都で水晶宮であるならば、晶気を用いて藻掻き苦しむまで痛めつけてやるところだが、不幸なことに今は機嫌を損ねたくない相手がいる。

 かといって他に休憩をとれるようなめぼしい場所も見当たらなかった。それに、このまま自分が立ち去ってしまえば、目の前の不敬な男に負けてしまったようでくやしい。
 サーサリアは覚悟を決め、長椅子の空いている側へと腰掛けた。
 すこし間は開いているが、突然となりに腰掛けたにもかかわらず、男の反応はなにもない。

 月明かりに照らされた朧な世界。
 風の音しか聞こえない。

 前をじっと見ているように装いながら、こっそりと横目で男を覗くと、小刻みに左足が揺すられていた。

 「お前は異国の人間なの?」
 好奇心などという感情は、長い間身近に存在し得ないものだった。だが、自分を敬う事も恐れる事もしないこの男の事が気になったのだ。

 「……覚えてないのか」
 男は呆れた表情でこちらを見つめた。
 サーサリアは首を傾げる。
 「なんのこと……」

 男は盛大に溜息を吐いた。
 「アベンチュリンのアレといい、王族ってのは変なやつばかりなんだな」

 アベンチュリンの、と聞いて何のことを言っているのか、やはり気になった。
 ――聞いてみたい。
 好奇心に押され口を開きかけるが、その前に男はすっと立ち上がってどこかへ歩いて行ってしまった。

 男が壁になっていたのか、突然横から届いた冷たい風に身が震える。
 月明かりの元、風の音だけが聞こえる世界。
 さきほどとなにも変わっていないはずなのに、どこからともなく降って沸いた孤独感に心が小さくしぼんでいく。

 そろそろ戻ろうか。そう思い始めた頃、どこからか輝士の制服に身を包んだ男が目の前に現れた。
 「殿下、少しお話をお許しいただけるでしょうか」
 男は膝をついて頭を落とし、そう言った。
 首を左へ動かすと、近くでこちらを見張っていたカナリア達親衛隊がじっとこちらの様子を伺っているのがわかる。

 サーサリアは視線で強く睨みをきかし、近寄るなという意思を見せた。
 立ち上がり、輝士を見下ろして言う。
 「くだらない紹介なら後でまとめて聞く」
 そう宣言してさっさと立ち去ってしまうつもりだったが、おもむろに輝士が差し出したモノを見て、サーサリアは再び腰を下ろした。

 「これ……」
 「乾燥したリュケインの花です。街中でこっそりと売られていた物を手に入れました。薬としての効能があるとかで、ささやかな土産物になれば、と」
 「そう……」

 輝士の手の平にあるリュケインの花に、吸い寄せられるように手を伸ばす。が、輝士は突然軽く手を握って花を隠してしまった。
 「なにを――」

 言いかけたところで、男はすっと顔をあげて言った。
 「ジェダ・サーペンティアと申します」
 「サーペンティア……」
 よく知っている名を聞かされて、はじめて輝士の顔を見る。見れば一目で印象に残るほどの美形だが、サーサリアにとっては彼の手の中にある花のほうが何倍も興味をそそられる。

 「名前は覚えておく。早く、それを見せて」
 「どうぞ、殿下のために骨を折って手に入れた物ですから」
 男は手の中の花を差し出した。

 受け取った物を見るに、すでに萎れてしまっていて、サーサリアの望む使用方には耐えないだろう。それに、どのみちこれっぽちの量では到底満足できるはずもない。花による幻覚作用を得るには、両手いっぱいの量が必要になるのだ。

 僅かに抱いた期待が砕かれて意気消沈していると、ジェダと名乗った輝士が小声で話しかけてきた。
 「実は、それを商っていた男が語るに、リュケインの花はこのアデュレリア領内でも採れるのだとか」

 サーサリアは食いつくように声をあげた。

 「それはほんと!? くわしく……詳しく教えてッ」
 容姿の良い輝士の顔が苦くゆがむ。その口から紡がれる言葉に耳を傾けるため、サーサリアは身を乗り出して話を聞いた。



 夢も見ていなかったはずである。

 深い眠りについていたにもかかわらず、なにかに呼ばれるようにして目を覚ました。
 こうした感覚は、僅かに懐かしさを覚えるものでもある。

 狂鬼ひしめく深界の森で一人夜明け待っていた頃の感覚。危険な狂鬼の接近を肌で感じ取る野生的なひらめきと直感。狂鬼に怯える心配もない今となっては縁遠いものとなってしまった鋭敏な危機感が、シュオウの体に起きろとたしかに命じたのだ。

 上体を起こす。
 氷室のように冷たく乾燥した空気の中、強い乾きを感じた。

 部屋の外へ顔を出すと、いつもと違う空気を感じた。自分自身それがなにであるのかはっきりと理解しているわけではなかったが、大きな石の下で無数の蟲が蠢いているような、ざわめきを彷彿とさせる気配だ。

 寝間着のまま廊下に出ようとしていたのをやめ、シュオウは普段着に着替えて外套を羽織って部屋を出た。

 なんとなくの感覚が、確信に変わったのは邸の玄関近くを通りかかった頃だった。微かに耳を誘うざわめきを辿って庭まで出ると、銀装を纏った輝士達が慌ただしげに馬の用意をしているのが見えた。

 ――こんな時間に?

 ぼんやりと彼らの様子を眺めていたシュオウに、一人の輝士が歩み寄ってきた。厚い外套を羽織っていたため、一瞬誰かと思ったが、赤みがかった金色の髪が見えて相手がカナリアであると気づいた。

 「起こしてしまった? 音には注意していたつもりだったんだけど」
 カナリアが声を発する度、もわっと白く色づいた息があがる。
 「水を飲みにきただけなので、偶然ですよ」

 カナリアの次の言葉を自然と待っていたが、彼女はなにも話そうとはしなかった。というより、シュオウがこの場に居合わせた事に困惑している様子だ。

 無言の時を嫌い、シュオウは極々当たり前の質問を投げた。
 「こんな時間に何を?」
 「……それが」
 カナリアは歯切れ悪く返事をためらい、黙って後方へ視線をやった。

 その先を追うように見ると、暗がりの中にぽつんと一つ造りの良い馬車がある。それを取り囲むように騎乗した四人の輝士が警護についているのを見るに、中に誰がいるのかは考えるまでもない。

 「王都に戻るんですか?」
 カナリアは渋い顔でシュオウの問いを否定する。
 「だったらよかったんだけど。殿下の命令で、これから山奥に向かう事になったのよ」

 あまりにも漠然とした話に、シュオウはぽかんと口をあけた。
 「山奥って、どのあたりまで?」
 「さあ、ただ行けと命令されてしまったから」
 「断れないんですか」

 「無理ね。殿下は普段からわがままの多い方で、だいたい気まぐれな時と、なにか強い目的を持って主張なさる時とがあるけど、今回は後者みたい。押しても引いても行くの一点張りで」

 ――むちゃくちゃだな。

 サーサリア王女のあまりにも身勝手な振る舞いを見ているうち、シュオウはとある女王の姿を思い出していた。吐き気にも似た苛立ちに胃を抑えるうち、生まれ持っての権力を振りかざして周囲の人間を振り回す行為への嫌悪感に襲われた。

 「やめさせるべきですよ――」
 シュオウは怒りと苛立ちを込めて強く言った。
 「――朝まではまだまだあるし、ここの所早朝にかかる霧も濃さを増してるんです。深界ではないけど、夜の山道は視界も悪くて危険ですから」

 分をわきまえぬ物言いだったが、カナリアはそれを咎めることなく、礼を言った。

 「ありがとう、すべてあなたの言う通りね。けど、これは仕方ないのよ。臣下の立場では間違いを指摘することまではできても、最終的な主君の判断に否とは言えない。殿下を守護するのが私の勤めだから、あの方が行く以上私もついて行くのは絶対だから」

 「この時間に外出することを公爵には?」

 「伝えていない。きっと良い顔はされないから、という殿下の指示よ。ただ、昨日から私たちの補佐についてくれている若いアデュレリアの輝士候補生には事情を説明して、同行を認めてもらったわ。ちょうど交代要員を王都に返したばかりで人手不足だったから大助かりで」

 輝士の中に混じって、見覚えのある年若い少女が馬の支度をしていた。彼女が、前に紹介されたカザヒナの妹であることを思い出す。
 他の洗練された輝士達とはあきらかに違う、幼さの残る彼女を見るうち、一人で行かせる事への不安がよぎった。

 「俺も行きます」
 シュオウの申し出に、カナリアは驚きつつもほっとしたような表情を見せた。
 「気を遣わないでっていう余裕はないから、甘えるわよ?」
 「すっかり目も醒めたし、気になるので」

 王女の事などどうでもいい。カナリアには同情するが、彼女はこうした不意の出来事には慣れっこだろう。シュオウが気になるのは、アデュレリアの若き姫の無事である。恩あるアデュレリア公爵の身内でもある彼女が、王女のわがままに巻き込まれて危険にさらされるような事になれば、ここで見過ごした事を後悔することになるだろう。

 「殿下も外の空気を堪能すれば満足されるはずだから、明るくなる頃には戻れるでしょう。できるかぎり早く出発したいから、急いで支度をお願いするわ」
 了承したことを伝え、シュオウは駆け足で自室へと向かった。


 念のために手持ちの装備を一通り袋に詰めて自室を後にする。
 できるかぎり音をたてないように走り、急いでカナリアの元まで戻ろうとしたが、玄関へ向かう途中、調理場の近くをうろうろしていたハリオに呼び止められた。

 「なにしてんだよ、こんな時間に」
 ハリオは酒瓶のような物を手に、口につまみの乾物を咥えていた。

 「王女の外出の護衛を手伝いに行くところです」
 「ほぉ、王族ってやつはこんな真っ暗闇の中を散歩するもんなのか。物好きなこったぁな」
 「俺もそう思います」
 本来であれば不敬といえるハリオの物言いに、シュオウは心底同意した。

 「じゃあ、急いでるので――」
 挨拶もそこそこに、立ち去ろうとしたシュオウをハリオが呼び止める。

 「待てよ、この時間外はくそ寒いぞ。この前夜中に物資の搬入を手伝わされたからわかるんだ。これ、もってけよッ」
 ばさりと放り投げられた皮の外套を受け取る。それはハリオが寸前まで纏っていた物で、独特なすえた臭いと酒臭が鼻腔を刺激した。

 「いいんですか?」
 「貸しといてやるよ。安物で生地も薄いけど、お前のその上等な外套の下に羽織るにゃ丁度良いだろ」
 言われた通り、シュオウは纏っていた外套の下に借りた薄手の外套を纏った。
 少し臭いことを無視すれば、暖かみが増して心強い。
 シュオウは先輩従士の気遣いに礼を言い、すぐ戻る事を伝えて外へと向かった。



 時間がたつごとに濃度を増していく霧の中、サーサリア王女とそれを守護する親衛隊に同行したシュオウは、余りの馬を借りて覚えたての馬術を頼りに馬を走らせていた。

 一行はサーサリア王女の指示に従い、邸から遠く離れた山道を進んでいた。
 道幅は馬車がぎりぎり通れるくらいしかなく、整備された道ではないため、無遠慮にのびた枝をよけながら走るしかない悪路である。

 あたりはしんと静まりかえっている。
 ――気味が悪いな。
 夜の世界に慣れている自分がそう感じてしまうほど、あたりは静かだった。

 普通なら、夜行性の鳥や動物が活動する物音が、大小あれどかならず耳に届くはず。にもかかわらず、周辺から生命の鼓動を一切感じ取ることができなかった。

 途中、いくつかの別れ道を進む。
 王女の根拠のない指示に従い、あちらこちらの道を適当に進んでいくうち、さらに濃くなっていく霧も手伝って、狂っていく方向感覚に不安を覚えた。

 唐突に、開けた空間へ出た。
 木々の連なりが途切れ、平面に広がる空間は、地面も見えないほど霧が充満していた。
 明かりとりの夜光石は、霧に阻まれて役割を果たすに足りていない。

 ――なんだ、この空気。

 白く煙る檻の中、漠然とした不安に心臓を鷲づかみにされた。
 シュオウは、馬車の中から指示を飛ばすサーサリアの相手をしていたカナリアに詰め寄った。

 「カナリアさん、戻りましょう。なにかおかしい――」
 驚いてこちらを見るカナリアとは別に、馬車の中からヒステリックな声があがる。
 「だめよッ! まだ見つけていない!!」

 いったいなにを、そう聞こうと口を開いた時だった。
 空気を震えわせる鈍い振動音が耳に届く。ぞくぞくとした悪寒が背中を走った。
 同じく、素早く異常を察知した馬たちは、輝士らが宥めるのもきかず、怯えたように首をばたつかせた。

 次の行動を考える間もなく、それは来た。
 空中を自在に泳ぐ六枚の羽根。暗く底光りする血色の瞳。石ですら噛み砕く堅い大顎。おぞましく伸びた長い六本の足。巨体の男ほどの体躯で、触覚の先から尻尾まで赤で染まった深紅の狂鬼。

 ――アカバチ!?

 シュオウは深界での生き方、狂鬼を狩る術を師であり育ての親であるアマネから学んできた。中には見たら逃げろ、と交戦を許されなかった狂鬼も少なからず存在する。
 アカバチという名の狂鬼は、その一つである。

 天空を自在に駆り、群れで獲物に襲いかかる無敵の戦士。その生態もほとんど解っていない。姿を見たのも、以前に遠くから飛んでいる姿をちらりと眺めた程度だった。

 数にして三匹。霧の中から羽音と共に浮かび上がってきた紅の身体を見せつけるようにして、こちらへと急加速で迫り来る。
 どうしてここに狂鬼が、という疑問は、怖気と共に走った恐怖で塗りつぶされた。

 「逃げろッ!」
 叫んだのも束の間、三匹のアカバチは驚くほど静かに着地した。

 混乱の中、身動き一つとれずにいた先頭の輝士を、アカバチの前足が貫く。位置は肩口、致命傷を避けたはずなのに、輝士はそのまま馬から転げ落ちて身動き一つとらなくなった。だが、輝士の瞳は涙をたたえてきょろきょろと周囲の様子を伺っている。

 ――麻痺毒か。

 半狂乱になった馬はすでに足枷でしかない。逃げ去ろうとして暴れる馬を捨て、シュオウは大地に転がった。
 最初にやられた輝士の剣を手に取り、別の者に注意をとられている一匹のアカバチに斬りかかった。

 胴体を狙い、振り下ろした剣は、寸前で躱されて空を切った。
 あきらめることなく、一歩を踏み出して突きを見舞う。が、刃がアカバチの身体に触れる瞬間に猛烈に羽ばたく羽根に阻まれ、手にしていた剣を吹き飛ばされてしまった。

 紅い複眼が、じっとこちらを睨み付けていた。
 ――眼が良いのはお互い様か。

 一挙一動を完全に把握されている。シュオウがそうであるように、彼らは種として生まれ持って優れた動体視力を有しているのだろう。

 降って沸いた最悪な状況の中、輝士達は果敢に王女の馬車を囲んで守りを固めていたが、尋常ならざる生物を前にして恐怖に怯える者もいた。

 悲鳴をあげ、一人の輝士が馬車から離れて逃げ出す。が、その姿がふっと突然かき消えてしまった。
 狂い叫ぶ悲鳴が、引きずられるように地の底へと消えていく。

 一部始終を見ていたカナリアが絶句する。
 「そんな――」
 彼女と同じく、シュオウは気づいていた。
 この先が、崖っぷちであるということに。

 ――まずい。

 気づいた頃には時すでに遅かった。
 さきほどから遠慮がちにこちらを威嚇していたアカバチは後方に陣取り、こちらは崖を背にした不利な状況に陥っていた。白煙に視界を阻まれるなか、どこまで地面があるのかもわからないあやふやな状態である。

 カチカチカチカチ、とアカバチが顎を鳴らす。
 鼓膜を打つ不気味な音に耐えかねた馬が、ついに制御不能に陥った。

 馬車につながれた二頭の馬は我先にと足を前に出し、懸命に手綱を引くカナリアもろとも、底の見えない崖下へと転落した。

 残された輝士達は暴れる馬に振り落とされ、身もだえするなか、アカバチの前足に突き刺されて行動不能に陥っていく。

 なおも威嚇音を発しながらこちらを威嚇する二匹のアカバチとは別に、もう一匹のアカバチは身動きのとれなくなった輝士の首元に口から出した透明で鋭い針管を差し込んだ。
 「アヮアヮ……」
 針管を刺された輝士から言葉にならない不気味な呻きが漏れる。

 やがて、輝士の体は人のそれとはおもえない動きで痙攣を始めた。
 すぐに事切れたように動きが止まったのとほぼ同時に、差し込まれた透明な針管に紅く染まった液体のような物が流れ、アカバチの体内に吸い込まれていく。

 ゾっとするような光景が眼前に広がっていた。
 輝士の体はしだいに中身を抜かれてしまったかのように萎れていく。その姿をみて、シュオウは先日カナリアと共に見た鹿の遺骸を思い出していた。

 ――兆候だったのか。

 それを見逃した事への後悔を感じるより先に、まずは生き残る術を思考しなければならない。

 サーサリア王女とカナリアは共に奈落へと消え、他の輝士達も半死半生の身。自身の命を最優先に考え、すべての技術を活かして逃げるべき時である。
 そう考えた、まさにその瞬間であった。

 アカバチの前足から這うように身を躱し、死にものぐるいで逃げ惑うカザヒナの妹、ユウヒナの姿が目に入った。

 ユウヒナは目や鼻、口から出せるかぎりの恐怖の汁を垂らしながら、にじりよるアカバチから尻をこすりながら逃げ惑っている。
 ふっと、ユウヒナの身体が後方へ傾いた。その先にあるのは行き先不明の崖の底だ。

 ――まずいッ!

 後先を考えぬまま飛び出していた。

 すでに身体の半分以上が空中に投げ出されていた放心状態のユウヒナの身体を掴んで引き寄せる。
 無事に大地のあるほうへとユウヒナを引き戻せた事と引き替えに、シュオウの身体は濃霧に隠れた常闇の底へと投げ出されていた。




[25115] 『ラピスの心臓 謹慎編 第三話 逃避の果て.1』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2014/05/13 20:30
     Ⅲ 逃避の果て





          1





 底も見えない絶壁を真っ逆さまに落ちていく。
 空中に投げ出された少女を救う代わりに、シュオウの体は霧に隠された闇の底へと投げ出された。
 判断を誤った事を後悔する。救ったはずの少女はアカバチが狩りを行っている真っ直中に残されたままなのだ。彼女がこれからどんな目に遭うのか――
 シュオウはすべての後悔を振り払う。思考力のすべては今自分が生き残るための判断へとまわされた。

 高所から落下しているこの状況においても、高速に流れる景色の中に活路を見いだすのは、それほど難しい事ではない。
 絶壁から伸びる太い根のようなものがお辞儀をするように垂れ下がっていたのを、シュオウは目聡く見つけた。

 見える光景はゆるやかでも、判断は一瞬の事。世界をゆるやかに認識できるからといって、体を動かせる範囲は人に許されたものでしかない。
 ここしかないという所で手を伸ばす。シュオウは文字通り命綱となる根っこを掴み取った。

 「ぐッ」
 落下の勢いを殺しきれず、肩と背中が壁面に激突する。目の前に星がはじけ飛ぶような衝撃を受けながらも、必死に手だけは離さずにしがみついた。
 崖の途中にぶら下がっているという頼りない状況ではあるが、死出の旅路からはとりあえず逃れる事ができたようだ。

 だが安堵している暇はない。足場すら確保できない場所で、腕力だけでいつまでもぶらさがっていられるわけもないのだ。
 壁面から、簡単に抜き取る事ができそうな手頃な石を手にとって下にむかって放り投げる。微かに、ゴコン、という音が聞こえた。音が耳に届くまでにかかった時間はほんの一瞬だった。地面が近いと判断して間違いない。

 ここで一つ、勇気を必要とした。見えない場所へ足を下ろすというのは危険な行為だ。地面の状況や地形すらわからないなか、支えも無しに身を投げ出すというのは、下手をすれば命の危険にさらされる行為でもある。しかし、結局とることができる選択肢は一つだけだ。
 できるだけ衝撃が減るように意識し、命綱を放す。思いの外着地の感触は早く得られた。
 じゃりっというきめ細かい砂の感触がして、シュオウは二本の足を地面に降ろした。

 周囲はうっすら雪に覆われていて、大きな岩がぽつぽつと散見される。雪の下は踏んだときの感触と音からして砂で被われていると見て間違いない。下りた場所が岩の上だったなら、足を痛めていただろう。

 ずきずきと肩が痛むが、身を案じる前にシュオウは惨い光景をその眼に捉えた。
 体を横たえたまま身動き一つしない輝士達と数頭の馬。横倒しになった馬車は車体が半壊状態で、中の人間がどうなっているのかたやすく想像できる状況だ。
 点在する大きな岩には、血糊がたっぷりと付着している。飛び散った脳漿のようなものまで散らばっていた。

 足を引きずりながら歩み寄り、横たわる輝士達を見て回るが、ある者は両目を見開いたまま絶命し、またある者は直前まで命があったらしく、地面を這ったまま絶命していた。なかには体の骨が肉の壁を突き破って外にでてしまっている者もいる。あまりにも痛々しい光景に、即死であったことを無意識に願った。

 死屍累々の中、見知った人物の姿を見つけて慌てて駆け寄る。
 「カナリアさん……」
 気高く、美しい輝士であったカナリアは見るも無惨な姿となって横たわっていた。口から血反吐をこぼし、片腕がおかしな方向へねじ曲がっている。
 一見死んだようにしか見えなかったが、よく見ると呼吸により体がわずかに動いている事に気づく。
 試みにそうっと彼女の肩に触れると、カナリアの口から苦しげにうめき声がもれた。
 うっすら開いた瞳がシュオウを見る。虚ろな視線だが意識ははっきりとしているようだった。

 「う、あ……くうッ」
 「酷い怪我です、無理をしないでください」
 頭上から鈍い羽音が響く。咄嗟に見上げるが、霧に阻まれてどうなっているのか判断がつかない。
 ――降りてくるつもりか。

 たしかにかなりの人数が下へ落ちてしまったが、上に残された者達だけでも、狂鬼にとっては十分な量の獲物となったはず。にもかかわらず、彼らはどん欲にすべてを得るつもりなのだろうか。羽音はこちらに向かって音量を増しているような気がした。

 「狂鬼が来るかもしれません、逃げますよ」
 一秒が惜しい状況だ。しかし、カナリアはシュオウを引き留めるように首を横に振った。
 「ひッ……ひめ、さま……を」

 痛みに耐え苦悶の表情を浮かべて言ったカナリアの言葉。促されるように落ちて壊れてしまっている馬車を、シュオウは見た。
 「あんな状況で――」
 助かっているわけがない、と言いたかったが、それでも一心にこちらを見つめるカナリアに負け、急ぎ状況を確かめに向かう。

 車体がへしゃげてしまった馬車の中を隙間から覗くが、暗くてどうなっているのか外からの確認は難しかった。全体が歪んでしまったせいで役目をはたせなくなった扉をどうにかこじ開けると、そこにはまるで傷を負っていないように見えるサーサリア王女が横たわっていた。

 「うそだろ……」
 サーサリアは本当に傷一つ負った様子がなかった。馬車の中はぶかぶかした緩衝布のようなもので覆われている。考えるまでもなく王女の身を守るための工夫なのだろうが、これを設計した人間はその腕を誇るべきだろう。

 元々生気を感じさせない陶磁器のような顔は、意識がないと尚更生きているようには見えなかった。
 頬を軽く叩くが、反応はない。
 こうしている間にも頭上から届く羽音は大きくなっていく。もうあまり時間がない。

 サーサリアの上半身を起こして、シュオウは耳元で大きく声をかけた。同時に肩をつかんでグンッと揺さぶる。

 「あ……」
 ぼんやり開かれた蒼い双眸がシュオウの視線と重なると、サーサリアは驚きに眼を見開いて口を大きく開いた。
 咄嗟に、シュオウは彼女の口を塞ぐ。
 「聞いてくれ。ここから逃げる必要がある。叫ばれると状況が悪くなる、だから静かにしていてほしい。わかったら頷いて」
 余計な言葉は省き、今必要な情報だけを伝える。サーサリアは未だ混乱が晴れないようだったが、こちらを見つめたまま小さく二度頷いた。

 手を引いてサーサリアを外へと連れ出す。彼女は、そこに広がる光景を前に小さく引き攣った悲鳴をあげた。
 シュオウはサーサリアから手を離し、半死半生のカナリアの元へ戻った。
 「王女は無事です。今からあなたを背負ってここを離れます。しばらく我慢してください」
 カナリアからの答えはなく、ただこちらを見上げて頷いた。



 重傷を負ったカナリアは、シュオウの背に体を預けた状態で、歩く時の震動が伝わる度に押し殺したようなうめき声を漏らした。
 すぐ後ろからは、サーサリアが慣れない足取りで後を付いてきている。
 崖底から少し歩いた先から伸びていた緩やかな坂を上り、先に広がる森林地帯を目指した。

 木々の密集度の薄い森の中は幸いな事に積雪は少なく、歩く事にそれほど難儀はしなかったが、それでもわずかに足をとられた。
 シュオウ自身、肩や背中を痛めた状態で人一人を担いでの移動は楽ではない。

 「ねえ……ちょっと、待ちなさい」
 息を切らせながら、サーサリアが立ち止まった。
 「待たない。少しでもあそこから離れておきたいんだ」
 「だけど、もう……歩けない!」
 そう投げやりに言うと、どっと膝を落としてしゃがみ込んでしまった。

 ――こいつ。
 沸きかけた血が頭に昇る。誰のせいで、と言いかけた言葉を飲み込み、シュオウは冷静さを維持するよう強く自戒した。
 「どのみち、怪我人をこんなところで休ませるわけにはいかない。落ち着ける場所を見つけるまで、もう少しがんばってくれ――いや、ください……」

 ほとんど懇願するようなシュオウの言葉に、サーサリアは不満な気持ちを隠そうともせず、こちらを威圧するように眉をひそめて唇を結んだ。
 彼女は黙って立ち上がると、一歩ずつ足を前へと出し始める。とりあえず了承はしてくれたらしい。

 とにかく雨風を凌げる所が必要だった。小さな洞穴のような場所があれば理想だが、まったく不慣れな土地で望んだからといって簡単に見つかるものではない。そんな事を考えているうち、無音の山中に、空気を奮わせるアノ音が轟いた。

 「あれって」
 耳の後ろに手を当てたシュオウの様子から、サーサリアもすぐに音に気づいた。
 「アカバチの羽音。近づいて来る……どうして?」

 どこへ居ても付いてくる虫の羽音。こちらを追ってきているのは間違いないのだろうが、違和感が拭えない。捕食が目的であったにしては、彼らは十分な食料を得たはずだ。崖の上に取り残された輝士達に、底に落ちて絶命してしまった者達。このうえ、逃げたわずか三人の命を求めるというのは、どういった意味があってのことなのか。
 アカバチという狂鬼の生態をろくに知らないとはいえ、野生の生き物のとる行動にしてはやはり不可解だ。

 不安げにこちらを見るサーサリアと視線が重なる。
 ムラクモという大国に残された唯一の王族。この女の価値はいかばかりだろうか。
 ――まさか、な。
 突拍子もない発想を振り払う。人の世界の事情等知りようがない狂鬼が、高貴な生まれの人間だという理由で執拗に追いかけてくるとも思えない。

 「急ごう」
 促すが、しかしサーサリアは立ち止まって固まったまま動かなくなってしまった。視線は一点を見つめ口をぱくぱくと動かし、しだいに呼吸が浅く激しくなっていく。
 彼女の視線の先には、朽ちかけた大木があった。ぼろぼろになった幹の隙間から、ぞわぞわと小さな無数の虫が這い出ている。おそらくアカバチの羽音に怯えて半狂乱に陥っているのだろう。

 だが、正気を失ったのは虫達だけではなかった。
 サーサリアがのけぞるように尻餅をつき、大声で悲鳴をあげたのだ。
 「おい!」
 急いで止めようとするも、カナリアを背負っているため間に合わず、辺り一帯にサーサリアの甲高い悲鳴が盛大に広がり、山彦となって反響した。

 途端、微かに耳に届く程度だった羽音が一気にその大きさを増していく。
 「見つかった」
 そう判断したシュオウは強引にサーサリアの手を掴んで立ち上がらせ、駆けた。が、すでに位置を把握された時点で、天空を自在に飛び回るアカバチに人の足がかなうはずがない。

 道を塞ぐように、空から二匹の狂鬼が降り立った。
 カチカチ、カチカチと歯を鳴らし、顔を左右に振りながら、こちらの様子を伺っている。その姿を見たサーサリアは、もはや悲鳴すらあげられない様子で蒼白となった顔面でガタガタと震えていた。

 雪で覆われた白を背景に、真紅の狂鬼が暴力的なまでに圧倒的な威圧感を放つ。
 二体の狂鬼は動き出した。
 一体は空から、もう一体は複数の足を駆使して高速で大地を蹴って迫り来る。その狙いは、サーサリアだった。

 地面を這いずるアカバチの針がサーサリアを襲う瞬間、シュオウは彼女の肩を蹴って強引に守った。
 突然蹴り飛ばされ、体勢を崩したサーサリアを拾いあげるようにして服を掴んで引き起こし、走れ、と叫ぶ。
 生き残りを賭けた事態であることをようやく理解したのか、サーサリアはこれまでとは別人のような健脚で大地を蹴った。

 シュオウもカナリアを背負ったまま、できるかぎりの力で走った。
 上空で待機していたアカバチの様子を伺おうと空を見上げた時だった。突然ふわりと足元が軽くなり、視界がぐらりと揺れ、前を走っていたサーサリアと共に、シュオウは急な斜面となっていた坂道を転がり落ちた。
 三人分の体重により崩された斜面の雪は、小さな雪崩を起こし、氾濫した川のような猛烈さでシュオウ達を押し流した。



          *



 サーサリア王女がいなくなった、という知らせをアミュが受け取ったのは、目を覚まして身支度を始めてすぐの事だった。
 その直後、アデュレリア領主邸は粛々と厳戒態勢を迎えた。

 「なぜ誰も言わなんだ。あの姫がここまでの愚か者であったと」
 小さな頭を抱えてうずくまってしまいたい気持ちを堪え、アミュはさして意味のない愚痴をこぼした。

 執務室の中、正座でじっとこちらを凝視する者達を見回す。
 「……あらためて皆で現状を確認する。報告をせい」
 クネカキを筆頭とする信頼のおける家臣達、それに副官のカザヒナがいる。彼女と目が合うと硬い声で報告をあげた。

 「昨夜遅く、サーサリア王女は親衛隊を連れ立って山中奥に向かったものと思われます。今朝早く、献立の相談に向かった者が別邸に誰もいない事に気づき、事態を把握するに至りました」
 「目的はわからぬのか」
 カザヒナは首を振る。
 「いいえ。ただ庭のぬかるみについた馬蹄や車輪の跡から、おおよその向かった方向が推測できるのみです」

 それだけの人間がごっそりと移動をしたにも関わらず、別邸の持ち主である自分達がそれを知ったのがあまりにも遅すぎた。
 アミュは苛立ちにまかせ声をあげた。

 「ええいッ、クネカキ!」
 強面の輝士、クネカキ・オウガが膝をついたまま前へ進みでる。
 「はッ」
 「関所を通り、王都に戻った可能性はないのじゃな」
 「南門はもとより、北門、裏門を含めた領内の大小各門を通過したという報告はあがっておりません」

 「であればじゃ、あの大馬鹿姫はいまだ領内にいるとみて間違いはないということじゃ。山奥に入ったという見立ては的外れではない」
 ここには極一部の一族の者と、アデュレリアに忠誠を誓う古参の家臣しかいない。王族を大馬鹿と呼んだ事を咎める者は誰一人いなかった。

 「王女には親衛隊がついておりましょう。待っていればいずれか戻ってくると思いまするが。あまり過敏になるのもいかがなものかと」
 家臣の一人がそうこぼす。
 「大規模な捜索隊を組織し大々的に山を探せばよろしい」
 また、ある老いた家臣はそう提案した。

 彼らの意見を、アミュは一蹴する。
 「ならん!」
 ドン、と机を拳で叩くと、意見を述べた二人は肩をびくんと奮わせた。
 「まず戻ってくるかどうかを問題にはしておらん。こちら側の誰一人として今現在の王女の居場所を把握しておらんという事が問題じゃ。それに、各地の諸侯らが領内に滞在している今、王女の身を預かっている我々がその所在を探すために右往左往する姿など見せれば、アデュレリアの名は地に落ちる事になろう。今はまだこのことを誰にも知られるわけにはいかぬ」

 アミュはすっと立ち上がり、矢継ぎ早に指示を飛ばす。
 「まず客人らに予定変更を告げる。王女の体調不良を理由にし、代わりに当家の主催による宴に招待する。極上の酒と食い物で連中の機嫌をとれ。うまい商談をちらつかせてもよい」
 年輩の家臣らを睨みつけて言うと、彼らは神妙に頷いた。

 「クネカキは各門の出入りを厳重管理せよ。人と物、すべてを事細かに記録し、情報をすべて迅速によこせ」
 「はッ」
 クネカキは強く頷いた。

 「カザヒナ」
 信頼に足る副官は立ち上がって敬礼した。
 「閣下、ご命令を」
 「この件を見知った者らを穏便に軟禁せよ。個々に部屋を与え、他との接触をすべて断て」
 「かしこまりました」

 「影狼の中からできるだけ山に詳しい者を集め、王女一行の足取りを探らせる。言うまでもないが、隠密にじゃ」
 カザヒナが了解したことを確認し、アミュは集まった者達に指示を実行するよう促した。

 皆が急ぎ退室していくなか、副官にだけ残るよう告げた。
 「昨夜、王女付きの役を受けていたのは誰か」
 カザヒナは言葉を詰まらせた。
 「……ユウヒナです」
 アミュは眉間を指で押さえた。
 「あやつは一族の者が王女の近くに置かれていた理由をわかっておらんかったようじゃな」
 「申し訳ありません!」

 カザヒナはユウヒナの姉だ。もっとも近い位置にいる身内の失態に、自分の事のように頭を下げた。
 ユウヒナは幼いとはいっても馬鹿な娘ではない。自分に王女につけられた鈴としての役割があったことはもちろん承知していたはずだ。
 どこかでムラクモ王国の王女を神聖視していたきらいがあったのかもしれない。そうした心根が、家から与えられた役目よりも、王女の言葉に高い優先順位を付けてしまったのだろう。

 アミュとしても複雑な心地を抱えていた。あたりまえの事をきちんとこなす事ができなかった者への怒り。非常識な、わがままという名の命令をまきちらし周囲をふりまわす王女。そしてまた、一族の若き少女の無事も気がかりだった。
 「もうよい。すみやかにすべき事をなせ」
 カザヒナは顔をあげないまま、部屋を後にした。



          *



 天井の隙間から差す、ほんのりと温かい陽光がシュオウの顔を照らしていた。
 慌てて体を起こすと、両手に冷たい雪の感触があった。
 周囲を見回すと、そこは薄暗い洞窟のような空間だった。

 一滴ずつ水がしたたる音。じめじめとした湿気と澱んだ冷気。頭上から降りてくるわずかな明かりがなければ、真っ暗でなにも見えなかっただろう。
 天井はぽっかりと中身をくり抜いた栗の皮のようにガランとしている。

 眼が慣れてくるにつれ、周囲の詳細な様子と共に、横たわる二人の女の姿が見えた。
 雪のうえで気を失っているサーサリアと、離れた所でごつごつとした地面の上に転がるカナリア。シュオウは即座に重傷を負っているカナリアの元へと駆け寄った。

 彼女の怪我は一層酷さを増していた。無防備な状態で放り出されたせいで、傷口からはさらに血が噴き出し、分厚い服を生暖い血液で濡らしている。
 触れるのもためらうほど痛々しい姿となったカナリアを抱きかかえ、なるべく平らになっている床の上に移動させた。

 サーサリアは軽く気を失っていただけで、今回も擦り傷を負った程度ですんでいた。だが、その強運を喜ぶ者はここにはいない。
 シュオウは命に関わる怪我を負ったカナリアの様態を心配しつつ、現状把握に努めた。

 自分達を押し流した雪崩は、そのまま壁となって入口を塞ぎ、この空間に蓋をしていた。
 この辺りの雪が溶けかけていたせいか、雪壁は適度な水分を繋ぎにして押し固められ、鋼鉄のようにその強度を増していた。もはや雪の壁というより、重たい氷の壁と言ったほうが適切な状態だろう。

 シュオウは腰に履いていた針という武器を取り出した。その名の通り大きな針のような形状をしたそれは、狂鬼の歯を元に作り出された強力な刺突武器である。
 針を思い切り氷壁に差し込むと、ざくりという小気味良い音と共に、先が壁の中へと食い込んだ。

 相当な時間と体力を消耗するが、その気になれば穴を穿って外へ出る事ができるかもしれない。
 突如、頭上からブブブ――と鈍い音が轟いた。その音が洞窟内で反響を繰り返して空気を奮わせる。
 恐怖による目覚めだろうか。気を失っていたサーサリアがガバッと体を起こし、おろおろとしながら口を大きく開いた。

 シュオウは、彼女の口の動きを凝視した。横に大きく開いて、そのまま縦に広がっていく唇。綺麗な白い歯がわずかに覗いた瞬間、手を伸ばしてサーサリアの口を塞ぐ。
 「ふぐううううう!」
 塞がれて押し殺された叫び声が、生温かい息と共に指の隙間から漏れていった。

 人差し指を立てて静かにしろと意思を伝える。
 サーサリアの蒼い双眸は、怯えと混乱を抱いたままこちらをじっと見つめていた。
 やがて、上空から聞こえていたアカバチの羽音は、しだいに遠ざかっていき、洞窟内には水のしたたる音だけが残された。

 「行ったな」
 シュオウはサーサリアの口を覆っていた手を離した。
 「ぶれいものッ!」
 直後、サーサリアは怒りにまかせた怒鳴り声をあげた。
 キンキンとした女の声が、洞窟内に響く。

 「静かにしろ。またアレが戻ってくるかもしれない」
 上を指さしてシュオウが言うと、サーサリアは慌てて口元を自分で塞いだ。
 ――ずっとそうしていてくれ。
 この期に及んで責めるように睨むサーサリアを見て、そんな不遜な言葉が浮かんだ。

 王女である彼女は酷く世間知らずらしい。現状がどれほど危険な状況かまったく理解できていない。
 いずれにせよ、これ以上相手にしてはいられない。

 シュオウは横に寝かせていたカナリアの元まで行き、様子を伺う。その時背後から小さくサーサリアの悲鳴が聞こえた。
 「カナ、リア?」

 太陽は刻一刻と傾き、今は丁度、温かな毛布のように差し込む陽光がカナリアの体を優しく包み込んでいた。
 深い傷をあちこちに抱え、複数箇所の骨折も負っている。華やかで、美しい輝士だった頃が嘘のように。その姿は、まるで踏みにじられた一輪の薔薇のように哀れで、醜かった。

 サーサリアを無視し、シュオウはカナリアの服のボタンをそっとはずして中の様子を伺った。
 きめ細かい美しい肌があったはずのそこには、内出血で紫色の染みがあちこちに見受けられる。外だけではなく、内にもかなりの傷を負っていた。

 満身創痍とはまさに今のカナリアを指す言葉だ。一目見ただけで、彼女が息をしているだけで奇跡であるような状態なのがわかった。
 出来る事は少ないが、手持ちの荷物の中から痛みを止める塗り薬を取り出し、傷を負った場所に塗り込んでいく。

 出来るだけ丁寧に優しく肌に触れるよう勤めたが、薬を塗った指でなぞる度、カナリアは苦しげにうめき、顔を歪めて呼吸を荒らげた。
 折れてしまっている腕に薬を塗ろうとした時だった。カナリアの細い手が、シュオウの腕を力なく掴んだ。

 「ここ、は……? じょう、きょうを……」
 すきま風のような頼りなさで、カナリアは断片的に言葉を吐いた。
 「狂鬼に追われる途中、偶然入り込んでしまった洞窟の中です。入口を塞がれた状況で逃げ道も確保できてません」

 不安か、それとも痛みからか、カナリアの瞳が涙を溜めた。
 「ひめ……さまは?」
 シュオウはそっと背後に視線を送った。
 肩を抱き寄せ、怯えた様子でこちらを伺うサーサリアの無事な姿を見て、カナリアは涙をこぼした。

 「ありが、とう。ありがとう……ありがとう」
 カナリアは何度もそう呟いた。
 一心に見つめられ、感謝を述べられたシュオウとしては、複雑な思いである。一国の王族の命は、若く洗練された人物が、自身の命を心配するのも忘れるほどの価値があるというのだろうか。
 嘘偽りなく、心から感謝を述べるカナリアに、シュオウは一言、
 「いえ」
 としか返す事ができなかった。



 救世主のように差し込んでいた太陽光は、時を追う事に赤みをましていき、やがて夜が訪れた。
 カナリアに言われ、彼女が携帯していた夜光石と、それを入れるためのガラスの容器を使って一応の明かりは確保できた。
 だが、夜光石は元々小さかった物が、落下の衝撃でさらに砕けて細かくなっていて、あまり長時間の使用には耐えられそうもない。水を溜める事ができる小さなガラス瓶が無事であった事を、いまは幸運だったと思うべきだろう。
 むしろ、焦っていたとはいえ、この程度の支度を怠っていた自分を恥じた。

 洞窟内にはいたるところに天井からしみ出してきた水が溜まっている。汚れもなく、害を心配する事なく飲み水が確保できることは救いだった。
 だが、食料問題は切実だ。

 実際の所、生き残ったシュオウ達三名の手元には、一切の食べ物がなかったのだ。
 シュオウは師のアマネに極限状態で、深界に幾度となく放り出された経験がある。自分一人でならどうにか生き残りを賭けて逃げる手段を模索できるが、怪我人と役にたたないお姫様を連れた状態では、身動きもとれない。

 だが、この問題はおもわぬ所から救いを得る。
 カナリアにかけるために用意した、ハリオから借りた外套の中から、塩をたっぷりとまぶした木の実の袋詰めがでてきたのだ。
 思い起こせば、ハリオはよくこの塩漬けの木の実をガリガリと頬張っていた。彼の好物なのだろう。もちろんシュオウ達がこうした状況に陥る事を予想して入れていたわけではなく、たんなる取り忘れなのだろうが、今はこの幸運にただ感謝するのみである。

 真っ先にカナリアに食するよう勧めたが、彼女の体調は刻一刻と悪化していて、とても食べ物が喉を通る状態ではなかった。
 側仕えである臣下がこれほどの大怪我を負っていても、心配する様子もなくただ怯えて震えるサーサリアにも、シュオウは木の実を差し出した。しかし、温室育ちの王女様にとって、塩漬けの木の実などというものは食べ物として認識すらされなかったらしく、サーサリアはシュオウの手の平の上の木の実を思い切り払い捨て、なにかわけのわからない事をしきりに怒鳴っていた。

 あまりに自分勝手な態度に、顔が引きつるほどの苛立ちを感じたが、シュオウはぐっと我慢をして、落ちた木の実を今日の食料として頬張った。



 夜間、少ない夜光石を節約し、明かりを落とす。
 天井の隙間から零れる月明かりの助けを借り、時間が経つほどに真っ暗だった洞窟内の光景も、うっすらと形を把握できる程度にはなっていた。

 「で、殿下は――」
 痛みに悶えながら、サーサリアを心配するカナリアの様態は眼に見えて悪くなっている。
 「大丈夫、寝息が聞こえてきます」
 サーサリアは抱え込んだ膝に頭を乗せて眠り込んでいた。普段大勢の人間達に守られ、大切に扱われてきた王女にとって、硬い岩肌の上で座る不快感よりも、疲れのほうが勝ったようだ。

 近頃暖かくなってきたとはいえ、まだ冬を抜けてない時期だ。夜の寒さは生半可ではないが、風の直撃を避けられるぶん、それぞれが手持ちの外套にくるまっているだけで、どうにか夜は越せそうだった。

 「ごめんなさい、巻き込んで……」
 この期に及んで、他者を気遣うカナリアを、シュオウは痛々しい思いで見つめた。
 「……あなたのせいじゃ」
 薄暗くてはっきりとしなかったが、カナリアが微かに首を振ったように見えた。

 「主の無理な要求を諫める勇気が、私にはなかった。そのせいで多くの部下を死なせ、守るべき人の命も危険にさらしている。アデュレリア公爵にも、どれほどの迷惑をかけることになるか……私の家、フェースの一族にも……」
 カナリアの声がくしゃくしゃと歪んでいく。暗闇の中にいるおかげで、気高く美しい輝士であった彼女の泣き顔を見ずにすんだ事に安堵を覚え、自己嫌悪する。

 「姫様さえ……殿下さえご無事なら……」
 まるで念仏のように、カナリアは何度もそう呟いていた。
 「眠ってください。 明日は、ここから脱出する方法を考えます」
 シュオウの言葉は、どこか自分に言い聞かせるようだった。

 重傷を負ったカナリアを抱え、まったく協力的ではない王女を連れて、洞窟から脱出して山下りをする。
 ――簡単にはいきそうもないな。
 シュオウは、思わず逃げ出したい気持ちに駆られた。が、それも無理はない。すべて淀みなく最高の結果を望もうとするのなら、そのために乗り越えなければならない問題は山のようにある。

 いつのまにか静かになったカナリアの横で、シュオウは眼を閉じた。
 ――体が痛い。
 ふかふかで、暖かく、包み込まれるような感触のアデュレリア公爵邸の寝台が恋しかった。好きなだけ使える上等な夜光石と、好奇心と暇を満たしてくれる本も欲しい。
 ――弱くなった。
 ほんの束の間味わった贅沢な日々。シュオウの心と体は深界で鍛えられた過酷な毎日を忘れてしまっていたようだ。
 ――思い出せ。
 強く自分に言い聞かせる。
 今、この状況で必要とされているのは、あの頃の自分なのだ。



[25115] 『ラピスの心臓 謹慎編 第四話 逃避の果て.2』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2014/05/13 20:30





          2





 蛇の舌に撫でられたような感触が頬に触れた。
 ゾッとしつつも、それがただの風であると気づく頃には、すっかり目も覚めていた。

 「いたッ」
 サーサリアは腰や背中に走った、今まで感じたこともない痛みと不快感に声をあげた。
 目が覚めたそこは、柔らかい寝台の上ではなく、ゴツゴツとした岩壁で囲まれた殺風景な洞窟の中だった。

 ――夢じゃ、なかった。
 眠りに就く前に、ほんの少し抱いていた期待が、まるで無意味だったことを知る。
 外は朝陽に包まれているらしい。天井の隙間からは真新しい陽の光が差し込み、洞窟の中を薄く照らしていた。

 少し離れた場所では、満身創痍のカナリアが横たわっている。隣には座り姿勢で眠る灰色髪の男の姿もあった。
 この男の事を、サーサリアはまるで理解していなかった。

 そもそも誰なのか、どうして自分の側にいるのか。なぜ反抗的な目で自分を睨むのか。髪の色からして異国人のようだし、顔を覆う大きな眼帯も気味が悪い。

 ――かえりたい、かえりたい、かえりたい。
 昨日まではリュケインの花の事で頭がいっぱいだった。が、今となっては暖かく安全な場所で体を休めたいという願いしかない。

 カナリアを起こし、自分の意思を伝えようと思った。実際には命令という形でだが、ムラクモの王族たる自分が要求を伝えれば、それを断る事ができる者は少ないのだ。
 そう、なにかと口やかましいグエンがそうであったように、カナリアの隣に座るこの男のような人間は、サーサリアにとって異例中の異例なのである。

 音を立てないようそっとカナリアへ近づいた。心のどこかで、灰色髪の男に対する警戒心があったのだ。
 「カナリア?」
 横になったまま微動だにしない肩に触れ、名前を呼んだ。

 昨日のカナリアはとても疲れているようだった。傷も負っていたようだが、一日ぐっすりと眠ればきっと回復しているにちがいない。
 自分が呼べば、いつも通りに、
 『はい、殿下』
 という声が返ってくるものと、サーサリアは信じて疑わなかった。

 だが、いっこうにカナリアからの応答はない。深く眠っているにしても、なんともいえない違和感があった。
 「――ッ!」
 体を乗り出し、横たわるカナリアの顔を覗いて、サーサリアは悲鳴を上げて尻から倒れ込んだ。
 変色した唇。色を失った肌。うっすらと開いたまま少しも動かない瞳。

 「うそ……うそッ」
 騒がしさから、隣で寝ていた男が顔を上げた。
 「どうした?」
 彼は腰を抜かしたサーサリアを見ると、すぐにその視線の先にあるモノに気づいて飛び上がるように立ち上がった。

 「カナリアさん!?」
 男はカナリアの名を何度も呼び、肩を揺さぶった。
 カナリアは動かない。そこらに転がっている石と同じように、そこに命の痕跡を見る事はできなかった。
 カナリアを呼ぶ男の声が悲痛な色に染まりだす。サーサリアは耐えきれず、耳を塞いだ。



          *



 事切れたカナリアの顔を隠し、遺体の隣で腰を下ろしたまま、シュオウはただ無為に時をすごした。
 どうしてこうなったのか、他にできたことがあったのではないか――。そうしたとりとめのない後悔に取り憑かれ、陽の傾きにより伸びていく影を、ただぼうっと眺めていた。

 ――俺のせいじゃない。
 悲しみと後悔に打ちのめされそうだったシュオウの心が行き着いた答えが、それだった。
 耳を塞ぎ、遺体に背を向けてすべての現実を拒絶するサーサリアを見て、嫌悪感を抱く。

 人の状況などおかまいなしに、自然はただあがるままだ。
 外からは温かな日差しが暗い洞窟の中を照らし、微かに届く小鳥の鳴き声が、途方もなく牧歌的な空気を演出していた。

 だが、そうした呑気な雰囲気を打ち消すアノ音によって空気は一変した。
 「いや、いやッ!」
 それは耳を塞いでいたサーサリアの耳にも届いたのだろう。
 ヴヴヴ、という震動音。シュオウ達をこの状況に追い込んだ紅い狩人が、ふたたび上空を飛行し始めた。

 アカバチの羽音は、しだいに小さくなって静けさを取り戻した後、また少しするとこちらへと戻ってきた。それを何度も繰り返している。
 ――巡回?
 まるで警備兵のように、この辺りを警戒するような行動を取っている。この出来事が、シュオウの中に大きな疑問を生んだ。

 アカバチの目的は食料を得るための狩りではなかったのか。今の見回りをするような行動は、襲われた時の生き残りである、自分達を探しているとしか思えない。
 だが、そこでまた新たな謎が生まれる。それは動機だ。
 ――なぜ。

 ここが深界であるならば、糧として弱小な存在である人に執着する事に理解は持てる。だが、ここは人が治める彼らにとって縁の薄い世界だ。
 時に人里に狂鬼が紛れ込み、多大な被害を与えたという事例は少なくないが、ある特定の相手をしつこく追い回したという話は聞いたことがない。そもそも狂鬼という存在が、個人としての人間を識別できているとは思えなかった。

 それでも、アカバチの行動が明らかに自分達を狙って捜している様子なのは間違いない。この周辺は彼らが自分達を見失った地点である事から、そう判断できる。
 ありえない、という言葉を抜きにして考えてみるのなら、彼らの目的はいったいなんなのか。

 シュオウの視線は、怯えて震えるサーサリアの背中に釘付けになった。
 命を落としてしまったカナリアを入れて、ここへ逃げ延びたのは三名。この中でその存在自体に”特別な”とつけることができる人物はただ一人、大国ムラクモを統べる王族、サーサリア王女その人である。

 雪崩に巻き込まれてしまう前、アカバチが真っ先に狙ったのは怪我人を背負って不利な立場に見える自分ではなく、サーサリアだったのを思い出す。
 そう考えると、なぜ自分達が襲われ、追われているかがしっくりときた。これまでシュオウが聞いてきたムラクモという国で、サーサリア王女の存在価値を鑑みれば、この状況に対する不信感が和らぐのだ。

 アカバチという名の狂鬼は、なんらかの目的を持ってサーサリア王女の捕獲、または抹殺を目的としている、という仮説を根拠とした結論を、シュオウは一時的に受け入れる事にした。
 どのみち、これから自分がしなければならない事に、なんら変わりはない。

 しかし、覚悟しなければならない事がいくつかあった。
 外との通路を塞がれてしまった洞窟内は、これ自体牢獄のようなものだが、現状はそのおかげで安全地帯を手に入れている。できれば救助を得られるまで、もしくは狂鬼が捜索をあきらめるまで中に隠れていたいところだが、手持ちの食料は小さな袋に入った塩漬けの木の実が少しあるだけで、長期の遭難にサーサリアが絶えられるとも思えなかった。

 アデュレリアを統率する公爵は有能な人物だ。この事態を知れば早急に必要な対策を講じるだろうが、自分達が狂鬼に襲われた現場を早急に特定できるかどうかは未知数だ。

 火を起こして煙を出し、位置を伝えるという方法もあるが、燃料に乏しい状況で狂鬼にも位置を知らせてしまう事を考えると、あまり現実的な案とはいえない。外殻で装甲した狂鬼ならば、多少の氷の壁など突破してしまうだろう。

 つまり、現状を打破するために待ちの手段をとる事は難しい。
 大切なのは、この洞窟からの迅速な脱出である、とシュオウは決断した。

 天井から入る風は、洞窟の奥へ続く細い道へと抜けている。奥へ進めば別の出口を見つけ、そこから脱出できる可能性はあるし、まったく別方向の出口から出られるなら、アカバチの眼から逃れられるかもしれない。

 ――よし。
 シュオウは顔を上げ、まっすぐ立ち上がり、隣で冷たく横たわる遺体を見下ろした。
 腰に手をまわして針を取り出し、カナリアの左手が置かれている位置に移動して屈む。

 ごそごそした雰囲気を察知したのか、サーサリアがこちらに不安げな視線を送っていた。
 ここから移動すると決めた以上、カナリアの遺体を放っておくことはできない。無事に逃げ延びたとして、土地勘のない自分が同じ場所に戻ってこられるという保証はないし、なにより、輝くような美貌を持っていた女性が、ここで一人寂しく朽ちて消えていくことが絶えられなかったのだ。

 シュオウは、針の先をカナリアの美しい輝石に当てた。
 「なにを……するき?」
 サーサリアの問いを無視して、シュオウは行動を持って答えを返す。
 狙いをつけ、振り上げた針でカナリアの輝石を打ち付ける。石を打つ硬い音が鳴るが、先端は歪な形の輝石に滑り、手の甲のはじを傷つけただけに終わった。

 その行為を見て、サーサリアは悲鳴をあげた。
 見つかってしまうかもしれない、という不安がよぎったが、シュオウはサーサリアを注意する事はしなかった。その余裕がなかったのである。

 額には玉のような汗が浮かんでる。心臓は早鐘のように鳴り、平常心は遙か彼方へ消え去ってしまった。傷つけてしまったカナリアの手。そこに差し込んだ針から伝わる肉の感触に手が震えた。

 シュオウはもう一度、同じ動作で針を下ろす。だが、同じように輝石を砕く事ができる点に、上手く針を穿つことができなかった。
 何度も失敗を繰り返し、洞窟内にはサーサリアの嗚咽と、針が輝石を打つ音が響いた。

 「やめて! おねがいだからやめて!!」
 懇願するサーサリアの声が耳障りだ。
 ――ごめんなさい。
 針を下ろす度、シュオウはその言葉を頭の中で繰り返した。
 自分のせいではない。そう思っていても、この言葉が頭にこびりついて離れない。
 ――ごめんなさい。
 助けられなかった事を、そして綺麗な手を傷つけている事を。
 ――ごめん、なさい。
 やけくそで一層高く振り上げた針を下ろした時、ついに輝石は砕け、針の先端は命核を打ち抜いた。

 キィンという硬い音が響いた瞬間、カナリアの体が砂のように崩れさる。カナリアであった光砂が、輝きを放ち天へと昇っていく様子は、抑圧されていた人々が解放される瞬間に放つ歓喜の雄叫びのように、自由だった。

 騒いでいたサーサリアは途端に押し黙ってそれを見送り、シュオウもカナリアの放った命の光を、なにも考える事なく見つめていた。

 後に残ったのは、カナリアが身につけていた衣類や剣、そして砕かれた輝石だけとなった。
 見知った人間の死を前に、途方もない悲しみが心を鷲掴みにする。だが、最後までシュオウは涙を流さなかった。



          *



 生き残りが見つかった、という報告を受けた時、アミュはしばし身動きがとれなかった。なによりその言葉が、想定していた最悪の事態に陥ってしまった事を証明していたからだ。

 「……誰が見つかった」
 そう問うも、そこから返ってくる答えが望む物でない事は、副官の顔を見れば一目瞭然だった。

 「ユウヒナです。本邸からそう離れていない場所で倒れている所を発見、保護されました」
 「あれが……。事情を聞き出したのであろうな」

 カザヒナは神妙に頷いた。
 「酷く怯えていて、きちんとした会話が出来る状態ではありませんでしたので、断片的に得られた情報のみになりますが」
 「かまわん」

 すべてを受け入れる覚悟を決め、アミュは両目を閉じて眉間に力を込めた。
 「王女の命令により、親衛隊は深夜の散策に赴いたようです。その後、一行は空を飛ぶ複数の狂鬼に襲撃され、親衛隊は壊滅状態に――」

 報告の途中でアミュは眼を見開いた。
 「狂鬼、じゃと……?」
 「――はい。急襲によりサーサリア王女を乗せた馬車もろとも、多くの輝士達は断崖の底へ落ちていったそうです」

 この場に誰もいなければ、頭を抱えて叫びだしていたかもしれない。いったいどれほどの不運が重なれば、王女の突然の外出に合わせて人の世界に狂鬼が現れるというのだろう。

 「それほどの状況で、ユウヒナはよくも生きて戻ったものじゃ」
 「それが……」
 カザヒナは言いにくそうに口元を歪めた。

 「このうえまだ言葉を選ぶほどの報告があるか」
 「ユウヒナが言うには、自分が崖から落ちそうなった瞬間に、ある人物に助けられたと。その人物は灰色の髪に大きな眼帯をした、当主様の客人だったそうです」

 アミュは、はッとして顔を上げた。
 「まさか、同行しておったのか?」
 「聞いてすぐ確認をとりましたが、どこにも姿が見えません。ユウヒナの言葉と特長からいって、シュオウ君に間違いないと思います」

 「それでッ」
 アミュは続く報告を促した。
 「件の人物はユウヒナの身代わりになる形で空中に投げ出された、と。落ちていく姿を見届ける余裕もなく気を失い、目が覚めた頃には死して無残な姿になった輝士達の中に一人取り残されていたそうです。無我夢中で逃げまどっているうちに再び気を失い――」

 「発見されたというわけか」
 カザヒナから言葉はなく、ただ頷くのみであった。
 「王女が襲われた現場の特定は?」
 アミュは僅かな期待を込めて聞いた。

 「当時、山中は濃霧に覆われていたため経路の把握は困難であったようです。ユウヒナが逃げ延びる最中も霧が残っていたため、道順もわからないままただひたすらに走っていたようで」

 目印を付けるくらいの気をまわせなかったのかと、一瞬怒りが湧いたが、ユウヒナは正式な輝士でもなく宝玉院での卒業試験すら経験していないのだ。すべての平常心や判断力が吹き飛んでしまうほど恐ろしい思いをしたのだろうと思うと、同情する気持ちのほうが強く残った。

 「今がどのような状況か、把握しておるであろうな」
 アミュは強く副官を睨みつけた。
 「アデュレリアの存亡に関わる自体であると認識しております」
 「うむ……それでよい。ここから後、一つでも選択を誤ればアデュレリアは東の地に孤立する」

 ムラクモ王国において、サーサリア王女は唯一無二の存在である。国家の象徴たる天青石と王位を継ぐことが許された、ただ一人の人物だからだ。
 アデュレリアは王女を遊学という形で正式にその身を預かった。その最中にサーサリアが命を落としたとなれば、その責を追求されるのは当然の事。

 アデュレリアが国でも希有な名家とはいえ、ただ一人残された王族の命を守れなかったという責任は重い。さらに、犬猿の仲であるサーペンティア一族は、好機と見て全力を持ってこちらの責任を追求するだろう。王位を簒奪するため、わざと姫を暗殺した、などと嘯くに決まっている。

 最終的な判断を下すであろうグエンは、時に憎たらしいほど冷徹で合理的な裁定をする男でもある。国の柱を失う事から生じる国民感情や諸侯らの不安を受け、それに見合うだけの罰をアデュレリアに科す事は容易に想像ができた。

 そのうえ、今現在確認がとれている生存者が一族の者であった事が特にまずい。最終的に生きている人間がユウヒナだけとなった場合、身内である彼女の証言にはなんら信憑性は生まれない。この件が王女の言い出したことによって招かれた事であると、外の者達に信じてもらうには、相応に立場のある人間の証言でなければならないのだ。

 「王女を含めた者達すべての死を確認した者はおらぬ。まずは事の起こった場所を特定するのが急務である。せめて、あの馬鹿姫がなにを目的として深夜の山奥へ向かったのかがわかれば、具体的な予想が立てられるというに」

 思索するアミュに、カザヒナが告げる。
 「その事で、少し気になる報告を受けております」
 「姫に関してか?」
 「はい。ジェダ・サーペンティアの事を覚えておいでですか」
 「老人扱いはよすがよい、忘れてたまるものか。まさか、サーペンティアが噛んでいるとでも言うつもりか」

 「そこまではわかりませんが、夜会の時、あの男が王女に近づき話をしていたと、つけていた鈴から報告があがっております。途中まで王女は興味がない様子でしたが、なにかを渡されてから様子がおかしくなった、とも」

 その話が今回の一件にからんだ事なのか自信は持てなかったが、なにしろあのサーペンティアである。それだけで、アミュにとっては疑う理由としては十分すぎた。

 「クネカキにジェダ・サーペンティアが領内から出ていないかどうか確認を取れ。まだ内におるようであれば、ただちに拘束してここに出頭させよ。抵抗した場合の処置はまかせると伝えておけ」
 カザヒナは首肯する。
 「ただちに」



 意外にも、領内でもかなり質素な宿場を取っていたというジェダは、予想に反してなんら抵抗することなく出頭に応じた。

 「きさま、先日の晩餐会で王女になにかを渡していたそうじゃな」
 怒りの形相で睨むアミュに動じる事なく、ジェダは飄々として答える。
 「ええ、花を一輪献上しましたよ。といってもすっかり萎れていましたけどね」
 それがどうしたと言わんばかりの態度だった。

 「なんの花を渡した」
 投げた問いを受けた途端に、ジェダの口元が軽薄な笑みに歪んだ。
 「リュケイン、ですよ」
 一瞬で頭の血が溶岩のように沸き上がった。王の石たる氷長石を天へ掲げ、怒りにまかせて力を解放する。一瞬のうちに部屋の中は強烈な冷気に包まれ、同席していたカザヒナは怯えた様子で後退った。

 槍のように尖った氷の柱が床と天井から伸び、ジェダの周囲に突き刺さる。わずかでも避けるような行動をとっていれば体に風穴が空いていた所だが、彼は眉すら動かすことなく屹立していた。

 わずか一瞬のうちに、ジェダは歪な形をした氷の牢獄に囚われた。
 アミュの左手にある氷長石は、青白い強烈な光を尚も放ち続けている。

 「その口で王女を拐かしたか!」
 腕を動かすことも、膝を折る事も出来ない狭い空間の中で、ジェダは依然、心を動かした様子なく語る。
 「アデュレリア領内であの花がとれるという情報を、土産話としてお伝えしただけです。しかし、そのご様子からして、殿下になにか不測の事態でもあったようですね」

 完全に命を握られた状態においても、ジェダは本当に一切感情の色を見せなかった。淀みなく、ただ薄ら笑いを浮かべているのみである。

 ――こんな人間が。
 やや冷静さを取り戻しかけていたアミュの思考は、怒りを通りこしてジェダという人間の人格に疑問を感じていた。

 「領内にあのような汚らわしい花は存在せぬ。我らが治める各門においても、花びら一枚とて通過することを許してはこなかった」
 「嘘は言っていませんよ。市場で商いをしていた薬師から薬剤として売られていたあの花を買い、その際に領内の山中に採取できる場所があることを聞いたんです」

 アミュは逡巡する。これらの話が本当であれば、王女が襲われた場所のおおよその特定ができるかもしれない。

 「嘘偽りないと誓えるのじゃな」
 「言葉で信じてもらえるのなら、いくらでもそうだと答えますよ」
 「よかろう、その薬師とやらが見つからなければ、その身を凍り漬けにして氷室の飾りとしてくれる」
 「お好きなように」
 脅しではなく本気で言ったつもりだったが、やはりジェダは焦った様子などは微塵も伺わせはしなかった。

 薬師の特長を聞き出した後、アミュはカザヒナに捜索を命じた。
 不安に頭をかかえ、怒りにまかせて力を解放したばかりだというのに、先ほどよりずっと肩が軽くなっていた事が不思議だった。

 ――シュオウ、か。
 その名が頭の中で幾度か繰り返される。
 自身が目を掛けるあの青年が、王女と共に居たという話を聞いてから、どこか根拠のない安堵のような心地がある。
 これまで、不可能を可能としてきたその名が、窮地に立つアデュレリアの領主にとって小さな希望の灯火となりつつあった。



          *



 月明かりすら届かない真の暗闇の中、夜光石の放つ僅かな明かりだけを頼りに進んで行く。
 洞窟は、奥へ行くほどむせかえるような水の臭いがした。

 道幅は広いとはいえないが、人が二人並んで通れるくらいの余裕はあり、平坦にならされた道をよく見ると、意図的に整地したような痕跡が見られる。ここは人がなんらかの目的で使用していた洞窟なのかもしれない。それなら、この先はやはりどこか別の出口に繋がっている可能性は高いだろう。

 「大丈夫か?」
 後ろをぼそぼそと付いてくるサーサリアを気遣い、シュオウは声をかけた。

 サーサリアは不快そうな目線をこちらへ向けながら一言も返事をよこさない。
 「言いたいことがあるなら――」
 責めるような視線に苛立って声を荒らげると、サーサリアは怯んだように一歩後退った。
 「――いや、なんでもない」

 何度悩んだか思い出せない。話しかけても無言、指示を伝えても反応するのは同じ事を繰り返し言ってから。かけらでもこの状況を打破するために協力をしようという気概を見せないサーサリアに対して、置いて行きたいと思う衝動に打ち勝つにはそれなりの理性を要求された。

 死の間際にあっても、あれほど王女の命に執着心を見せていたカナリアの事も頭にあったが、それ以上に、このまま王女の命が失われて一番の迷惑を被るのがアデュレリアの人々であると思った時に、一切の迷いを振り払ったのだ。

 世話になった相手への恩返しとしては、あまりに妙な状況だが、ただ一人窮地に置かれた王女の側にある者として、彼女を無事に連れて戻る事こそが、今の自分に与えられた使命なのかもしれない。

 再び前を見据えてゆっくりと歩き出すと、渋々といった様子でサーサリアも後を付いてきた。
 カナリアの輝石を砕き、その身を光砂として天に送ってから、シュオウは彼女の砕け散った輝石を可能なかぎりかき集め、残された衣類でそれを包んで手荷物に加えた。腰にぶら下がっていた輝士の長剣は、ベルトと共に今はシュオウの肩にかけられている。

 人一人が生きてきた証は軽くない。まだカナリアの血の臭いが残る外套を手に持ちながら、不安な気持ちを押し殺した。

 同じような景色が続く。巨大な虫や化け物の腹の中はこんなだろうか、と呑気な想像を巡らせていた時だった。背後から小さく悲鳴が聞こえ、どさりと倒れ込む音がしたのだ。
 振り返ってみると、こけたサーサリアが顔面から綺麗に地面に倒れ込んでいる。よほど痛かったのか、弱った子犬のような鳴き声で唸っていた。

 「ダイジョウブカ」
 まったく心のこもっていない声で聞くと、恨めしそうな顔で目に涙を溜めたサーサリアがこちらを見上げた。
 「早く起こしなさい!」
 傲慢な物言いと態度に、すでに我慢の限界だった。
 「自分で立て。小さな子どもでもそうする」

 サーサリアがこちらを見つめる力が、より強さを増す。
 「誰のせいでこんなことに――私に向かってこれ以上の不敬な態度は許さぬぞ!」
 おもむろに、サーサリアは左手を突き出した。突然胸が苦しくなり、呼吸がままならなくなる。喉の内から気道を握られたような圧迫感。空気が通らなくなり、シュオウは悲痛なうめきをあげた。
 「ァァ――ッ!? グガッ」

 目の前で火花が散ったようだった。苦しくて声も出せず、喉を押さえて藻掻き苦しむ。命の根底を握られている感覚。苦しさ以上に、この不快感は尋常ではない。

 考えるより早く、身体は原因の排除に努めた。膝をついたままのサーサリアの上半身を蹴り飛ばす。彼女が悲鳴をあげて転げたのと同時に、ようやく肺に空気を届ける事ができた。

 「はぁ、はぁ………………ふッざけるなよ」
 シュオウは転がったまま衝撃で身動きしないサーサリアの上に跨り、細い喉を掴んで叫ぶ。
 「よく聞け! 次にまた同じ事をしたら、首から下を二度と動かせないようにしてここに置き去りにしてやる!」

 感情をそのまま吐き出せば、殺してやると怒鳴りつけてやりたい気分だった。これほど不快な感情は、あのアベンチュリンの女王にすら感じなかった。

 サーサリアは動かない。こちらを凝視ししたまま言葉もなく、小さく震えていた。
 吐いた脅しは本気の言葉だった。自分の息の根を止めようとする人間を誰が助けようというのか。そうした気持ちがようやくわがままなお姫様にも伝わったのか、目の色にこちらに対する怯えが混じっていた。

 小休止をとり、かつてないほどの殺伐とした空気を抱えたままシュオウとサーサリアは洞窟の奥を目指して行進を再開した。
 明かりを持った自分が後ろを歩くわけにもいかず、あまり心地良いものではなかったが、先ほどまでと同じようにサーサリアは後をゆっくりとついてきている。

 歩けば歩くほど水の臭いがより強くなっていく。
 背後から前方へ抜けていく風が、突然拡散するように広がった。
 窮屈な道を抜けた先にある光景は一面の湖だった。

 波立つ事もなく、あちこちから沸いて出る透明な水は、完全にシュオウ達の行く手を遮っている。
 手持ちの夜光石のかけらが放つ明かりが届く距離は頼りない。奥まで照らすほどの力はないが、薄ぼんやりと湖の向こう側に続く道のようなものを視認できた。

 「渡るしかないな」
 「わた、る?」
 独り言のつもりで呟いた言葉に、サーサリアはさっと反応をしめした。

 「他に道もなかったし、ここを泳いで渡るしか向こう側へ行く方法がない」
 さっきまでとは打って変わり、サーサリアはあれほどこちらを睨みつけていたのに、今度は一瞬でも目を合わせようとしなくなった。
 苦手意識を植え付けてしまったのだろうか。
 極端に態度を変えられるのも心地良いものではないが、堂々と命を狙われるよりは随分ましだろう。

 「でも……」
 気弱に言い淀むサーサリアに、シュオウは聞いた。
 「泳げないのか?」
 彼女は小さく頷き、
 「泳いだことがない、から」
 と不安げに指先をもじもじと絡めた。

 「おぶっていくしかなさそうだな」
 湖は深そうだが、奥行きはそれほどない。端へ泳ぎ切るまでに要する体力も時間もたかがしれている。ただ一つ、問題があった――
 「よし、脱ぐぞ」
 「あ……え?」

 真顔で言ったシュオウを見たサーサリアの表情は、初めて見る彼女の素の感情を浮かべていた。完璧で作り物のようだった顔が、初めて幼子のように動揺している。

 「服を無駄に濡らしたくない。泳いで渡る間、服や持ち物が濡れないように頭に乗せてもらうからな」
 そう言うと、サーサリアは何も言わず、ただ困惑した様子で頷いた。

 ――急に大人しくなったな。
 身を守るためだったとはいえ、一国の王女を蹴り飛ばし、脅したのはやりすぎだったかもしれない、と多少の後悔もあった。突然人が変わったように従順になった様子からして、それほど怖い思いをさせてしまったのかもしれない。

 無駄に考えながら、サーサリアに背を向けて服を脱ぐ。体温でほかほかと温かい服や下着を畳んだ。体の間を抜けていく風に身が縮むが、今は耐えなければならない。
 背後からは布ずれの音がする。当然の作法として、シュオウは後ろを振り返ったりはしなかった。

 「脱いだら畳んでおれの服の上に。それを持ったままこっちへ来てくれ」
 無言だが、気配からサーサリアが指示に従って動いているのがわかった。
 シュオウは一足早く湖に足を入れた。数万の針に刺されるような痛みを伴う冷たさが両足を襲う。おもわず叫び出したくなる衝動を噛み殺した。

 「じゅ、準備はできたか?」
 「……できた」
 「じゃあ背中に乗って。服や荷物はできるだけ濡らさないよう注意を」

 分厚い外套を含む衣類だけでもけっこうな重さがある。加えてシュオウの手荷物と、カナリアの長剣も加われば馬鹿にできない重量となる。それに人を一人背負って泳ぐのだから、そう簡単にはいかないだろう。ずっしりとした重さがのし掛かるのを覚悟した矢先――
 「ひッ」
 シュオウは情けない悲鳴を漏らした。
 肌で感じたのは重さではなく、温かくふんわりと柔らかい肌の感触だった。
 ――俺は……バカだ。

 サーサリアという人物を、どこかで役柄として見ていたのかもしれない。一国の王女であり、わがままで憎たらしい高貴な血を引く人間だと。
 だが、背中から伝わる生温かい柔肌の感触は、背負っているモノがただひたすら女であることを主張していた。おまけにドクドクと激しい鼓動が背中から伝わる。サーサリアが今どんな思いでシュオウの背に体を預けているのかを、激流のように激しいその脈動がすべて物語っていた。

 あれこれと言った手前、今更服を着ろというのも気恥ずかしい。
 ――これがバレたら不敬罪で殺されるな。
 どうやって口止めをしようか、と姑息な考えが浮かんだのを振り払い、シュオウは行くぞと声をかけた。

 「水はかなり冷たい、少しの間だけ我慢してくれ」
 返事はなかったが、背中から伝わる感触からサーサリアが頷いた事がわかった。肩の辺りで揺れるやたらと柔らかいモノの正体がなんなのか、なるべく考えないよう努める。

 夜光石の入った容器を口に咥えてゆっくりと水に体を入れていく。命の危機を感じるほどの冷水に肩まで浸かり、両手と両足を動かして溺れないよう必死に水をかいた。
 シュオウと同じだけの冷たさをその身に感じているサーサリアは、右手で荷物を支えながら、左手をシュオウの胸にまわし、両足は腹のあたりを挟み込むように回していた。冷たさに耐えているのだろうが、耳元でハァハァと荒い呼吸を繰り返している。
 ――考えるな、何も考えるな。

 雑念から逃れるように、シュオウは強く水を掻いた。
 「はうッ」
 跳ね飛んだ水しぶきがサーサリアの顔に当たる。驚いたのか、甘ったるい声が耳元で囁かれた。
 ――誰か、助けて!
 咄嗟にシュオウの本能は防衛行動をとった。意識を別の事に集中させてこの場を乗り切るという手段に出たのだ。

 ――そうだ、クモカリ。あいつがいい。
 浮かんだのは、男でありながら厚塗りの化粧をした友人の姿だ。筋骨たくましい体を包むピチピチの服が少しずつやぶけていき……
 ――違う、そっちじゃない!
 取り返しのつかない光景を思い描く前に、防衛本能は危険な妄想からの救いの手を差し伸べた。

 結局、向こう側へ辿り着くまでに要したのは、労働者が朝食を早食いする程度の時間にすぎなかったが、その何倍もの時間が経過したように感じられた。
 例えようのない敗北感に、シュオウは四つん這いのまま、しばらくの間身動きが取れなかった。



 湖から出て、ガタガタと震える体を支えながら、乾いた自分達の服を使って体を拭く。
 唇が紫色に変わり、寒さで体の震えが収まらないサーサリアを見て、シュオウはこの場での休息を決めた。

 外の様子がまったくわからないせいで時刻の把握は難しいが、自分の体の感覚を信じるなら、すでに夜を迎えてかなりの時が経っているはずだ。
 濡れた服を乾かしながら下着だけを身につけ、二人は温かい外套を体にかけて硬い地面の上に寝転がった。

 夜光石の明かりを落とす。
 寂寞たる暗闇が場を支配した。

 視力以外の感覚が鋭くなり、鼻は強烈な水の臭いを感じ、耳は天井からしたたる水の雫が湖面を打つ甲高い音を拾う。

 少し離れた所で横になっているサーサリアからは、寝息すら聞こえてこない。
 あれこれと文句が飛んでくる事も覚悟していたのに、不気味なほど彼女は口をつぐんでいる。この状況を望んでいたはずなのに、いざ完全に沈黙されてしまうのもなんとも居心地が悪いものだ。

 そうした考えが漏れたわけではないだろうが、隣から不意にごそごそと身動きをする気配がした。
 「眠れないのか?」
 聞くとやや間を置いて、
 「うん」
 というか細い声が返ってきた。

 シュオウは起き上がり、夜光石の明かりをともした。
 ぼんやりとした青白いに光が周囲を照らす。まっさきに目に映ったのは、薄くて白い肌着だけを身に纏った、無防備なサーサリアの美しい肢体だった。
 「おい」
 咄嗟に顔を背ける。
 「あ……」
 と、どこか気の抜けたような声をあげて、サーサリアは厚手の外套で前を隠した。

 その後、二人はとくに何を言うでもなく、夜光石の明かりを囲むように座った。
 両者とも目も合わせず、わざわざ眠りを中断してまで起きたわりには、無為な時間がすぎていく。
 突然、グググ、と低音が響いた。
 「え? えッ!?」
 なにが起こったのか理解ができないサーサリアは、突然自分の腹から鳴り響いた音に戸惑った。こぼれていく音を拾い集めようとして、必死に腹のあたりで手をばたつかせている。

 「腹が減ってるみたいだな」
 「……どうして?」
 「その音が証拠だろ」
 「お腹が減るとお腹から音がする、の?」
 シュオウは後ろ頭を掻いた。
 彼女の立場を思えば無理もない。つまり、餓えたという経験がないのだ。

 「本当に、大切にされてきたんだな」
 王女として一時の餓えすら感じる間もなく食べ物を与えられてきたのだろう。その事が羨ましくもあり、それを少し哀れにも思った。

 荷物をあさり、塩漬けの木の実を一つ差し出した。
 「まともな食料はこれしかないんだ」
 手の平に転がるしわくちゃな木の実。昨日のサーサリアはこれを拒絶したが、今度は恐る恐る手に取った。
 「これは、本当に食べ物?」
 「たしかに特別上等な物でもないけど、悪い物でもない」

 サーサリアはゆっくりと木の実を口に運び、リスのように歯で少しだけ表面を削って噛んだ。
 食料として認識する事ができたのか、一粒丸ごとを放り込み、こきみよい音を立てて食べ始める。

 「食えるだろ」
 「でも……美味しくはない」
 とは言うものの、サーサリアの形相は必死だ。すべて噛み終えた後に物悲しい顔をしてこちらを見つめるので、シュオウは四粒ほどの木の実を渡した。塩気があるとはいえ、たいした大きさもないので、これくらいなければ最低限の満足感は得られないだろう。

 「こんなものですら、もうたいした量は残ってない。あと二日、せいぜい三日分。それもお前一人で食べた場合の話だ」
 「それじゃあ、あなたの分が……」
 「おれは――」
 言われて空腹を思い出す。考える事や不安が多すぎて食欲を忘れていたが、自分も小さな木の実を一つ放り込んでから何も食べていない。

 近くを見渡して、ごろんとした体格の良い石を見つけた。
 不思議そうに見つめるサーサリアに、シュオウは人差し指を口元に当てて見せ、大きな石を転がした。そこに現れたのは一匹の蜘蛛だった。子どもの拳ほどの大きさで、薄茶色の体には、びっしりと細かい毛が生えている。その蜘蛛を咄嗟に掴み捕った。

 シュオウの手の中から八本の足がもぞもぞと蠢く。それを見てサーサリアは悲鳴をあげた。
 甲高い声があちこちに反響する。

 「ただの虫だ。あの狂鬼とは違って人に害を及ぼすだけの力もない」
 サーサリアのほうは半狂乱だ。一心にシュオウの手の中の蜘蛛を見て、肉食動物の前に放り出された草食動物のように怯えている。

 尻餅をついてじたばたと暴れているせいで、羽織っていた外套がめくれてすらりと伸びた足や下着が丸見えだった。
 「落ち着け、別に脅かしたくて探したんじゃない」
 「じゃ、じゃ、じゃあ、なんでッ?!」
 「食うんだ」
 言うと、サーサリアの顔から血の気が引いた。
 「た、たべッ!?」

 説明も面倒になり、シュオウはそれを実演してみせた。生きたまま蜘蛛を口に入れ噛み砕いていく。毛の生えた石を口に入れたような食感。上下の歯がくっついてしまいそうなほどネバついた体液は、酸味を含んでいるうえ酷く苦い。腐った落ち葉のような臭いが口の中いっぱいに広がった。

 ほどほどに咀嚼《そしゃく》した後、食事を終えたシュオウは思わず言葉を漏らした。
 「…………まずい」
 こちらを見るサーサリアは涙目になって口をぱくぱくと動かしていた。
 「だ、大丈夫、なの?」
 蜘蛛の姿が消えた事で少し余裕が生まれたのだろう。サーサリアはこちらを心配する言葉をかけた。

 「大丈夫じゃない。虫の中にも食えるやつもいるが、蜘蛛は毒持ちが多い。だからこれも一緒に腹に入れる」
 荷の中の小袋に入った、小さな黒い丸薬を取り出す。

 「それは?」
 「シエーロ丸。深界の植物から作った丸薬で、よく噛み砕いて飲めば、胃の中で特殊な粘膜を張って消化の難しい食べ物を体に取り込むのを助けてくれる。それにこれ自体が毒のようなもので、体内の働きを鈍らせて悪い物が体に廻るのをある程度抑えてくれるんだ。ただ――」
 サーサリアは首を傾げた。
 「ただ?」
 「めちゃくちゃ苦いッ!」

 意を決して、シュオウはシエーロ丸を噛み砕いた。顔面が崩壊するような苦みに襲われ涙が止まらない。理想では湯に溶かして飲むのが一番良い方法なのだが、それができない今、よく噛み砕いて唾液で少しずつ腹に送るしかない。

 この殺人的な苦さを持つ薬に頼るのは、本当に極限状態に追い込まれた時だけだった。食料に窮した時に、毒キノコや奇怪な虫を無理矢理消化するために用いるのだ。しかし、毒を完全に中和できるわけではなく、可能な限り素通りさせるだけの効果しかないため、多用は体への負担を蓄積してしまううえ、あまりに強すぎる毒が相手では丸薬の効果は及ばない。つまり、完全に信頼できるような代物ではなかった。

 薬を丁寧に歯ですり潰し、腹に納める。涙が滝のように溢れ、シュオウは激しく咳き込んだ。
 「はぁ……」
 こちらを見つめ、同調するように苦しい表情を作るサーサリアが妙に可笑しかった。
 シュオウは口の端を指で引っかけ、サーサリアに歯を見せる。
 「まっくろ!」
 愉快そうな声でサーサリアが声をあげた。
 視線を交わす二人は、どちらともなく吹き出した。
 初めて見るサーサリアの笑顔は、すべての憂いが消え失せてしまったかのように朗らかだった。



 ほんの少し腹が満たされた事が良かったのだろうか。少し前まで殺伐とした空気しか流れていなかった二人の間に、ふんわりと温かい焼きたてのパンのような優しい空気が混じるようになった。
 自然と、両者の間には少しずつ会話が生まれ始めていた。

 「そこまで虫が嫌いか?」
 和らいでいたサーサリアの表情が強ばった。
 「うん…………子どもの頃の事だけど、お父様が使者として他国へ向かう事になって、大事な席だからって私もお母様も一緒に出席する事になった。少しお仕事をしたら三人でめずらしいものを見よう、美味しい物を食べようって言ってくれて――」

 サーサリアの言葉に濁りが増していく。すがるように自分を抱きしめて、視線は地面を見つめて動かない。

 「――深界を馬車で進んでいた時、突然大きな虫の狂鬼が二匹現れて、お父様と護衛の輝士達が一匹は倒したけど、二匹目にお母様が捕まって……。あの虫は、怯えて一歩も動けなかった私の前でお母様を……食べた。お父様はそれを見て冷静さを失った。狂ったように虫に向かっていって……」

 「辛い思いを、したんだな」
 聞くだけで悲しくなるような話だった。小さな女の子が、目の前で親を食われるという光景は、どれほど心に傷をつけたことだろう。彼女が異常なまでに虫を怖がる理由にも得心がいった。

 「一番忘れたい事なのに、あの時の空気の臭いや空の色まで思い出せるの。正気でいると、お母様が泣き叫ぶ声がずっと頭の中で繰り返されて、だからッ――」
 「だから?」
 サーサリアは言葉を失い、ごまかすように話題を切った。

 「あなたはだれ? 名前も知らないし、容姿も珍しい。私を女官の娘のように扱うし。それに、さっきはお父様のように私を叱ってくれた」
 俯き気味なサーサリアの口元がゆるんでいる。

 ――叱った?
 輝石の力で呼吸を止められそうになった時、シュオウが彼女を蹴り飛ばして馬乗りで怒鳴りつけた時の事を言っているのだろうか。だとしたらとんでもない思い違いだ。あの時、シュオウは心底殺意に似た感情を持って脅しにかかったのだから。

 「ここでこうするより前に、何度か顔を合わせている」
 サーサリアは信じられないという顔をした。
 ――そうだろうな。

 「一度目、お前がアデュレリアに来た時の出迎えの場で、棒で思い切り顔を殴られた」
 「…………あッ!」
 サーサリアは口元に手を当てて目を見開いた。
 「二度目は夜会の最中に中庭の長椅子で俺の隣に座った」
 「……覚えてる。思い出した」

 「はじめまして、と言わずにすんでよかったよ。だけど一応名乗っておく、シュオウだ」
 サーサリアは両手の指先を合わせて口元に当てた。
 「そう、シュオウ。あなたはアデュレリアの領民?」
 「違う」
 「じゃあ」
 「俺は……孤児だった。物心がついた頃にはムラクモの街で残飯を漁るような生活をしていて、その後は運良く人に拾われて育ててもらった。成長して王都に戻り、金目当てに国の仕事に関わって、流されるままに今はこの様だ」

 自虐するようにシュオウは言葉を吐き捨てた。
 ――本当にどうしてこんな。
 人を理不尽に殴っておいて、それをすぐに忘れていた事。それに無意味に死んでいった多くの輝士達。傷だらけで苦しみながら命を失ったカナリアの悲痛な顔が頭に浮かぶ。

 うやむやに忘れそうになっていたが、今の状況を招いたサーサリアに対する怒りが再び沸き上りつつあった。
 サーサリアが、前屈みに体を寄せてくる。
 「私と一緒。かわいそう……」
 差し伸べられる白い花びらのような手が顔に伸びる。
 「触るな!」
 伸ばされた手を、シュオウは強く弾いて拒絶した。

 驚き、胸の上で手を合わせて戸惑うサーサリアに強く言う。
 「同情なんていらない、俺は恵まれていた! 育ての親に拾われ、生きる術を教わり、一人で世界を歩く事ができる力を与えてもらったんだ。多くの人から守られて、その事に一切の感謝もなく、言葉一つで無意味に人を死に追いやるような人間と一緒にするなッ」

 「あ、あの――」
 慌ててなにか言いかけたサーサリアを待たず、シュオウは最も知りたかった事を聞いた。
 「どうしてあんな時間に山に入った? あれだけの人間の命を賭けるほどの、なんの目的があったんだ」

 結局、その問いへの答えを得る事はできなかった。
 ほんの僅かな間に流れていた楽しげな雰囲気は、すっかり霧消していた。
 一平民である青年に怒鳴りつけられた大国の王女は、なにかを言いかけては口を閉じ、結局俯いて顔を上げようとしなかった。

 「疲れが溜まっている。明かりを落とすぞ」
 夜光石を入れた容器から水を抜くと、ゆっくりと明かりが落ちていった。
 シュオウはさっと体を投げ出して、サーサリアに背を向けて眠りの体勢にはいる。

 洞窟の中が再び暗闇で埋め尽くされたその時、どさっと重たい感触を背中に感じた。甘い花のような香りが鼻をくすぐる。

 「……なんのつもりだ」
 サーサリアが隣に座り、寄り添うように背中に体を預けてきたのだ。シュオウは、正直戸惑っていた。

 「さっきみたいな虫が、他にもいるかもしれないって思ったら――」
 「あれは無理矢理引きずり出しただけだ……だから、離れてくれ」
 うっとうしい、という意思表示のため、シュオウは背中に力を入れて寄りかかるサーサリアを押す。
 しかし背後から、
 「おねがい……」
 という消え入りそうな懇願が届き、これ以上離れろと言うのも残酷な気がした。
 「もう、いい」
 言った途端、ぎゅっと背中を握る感触が伝わってきた。

 「温かい。寂しくて一緒に寝てくれた時の、あの時のお父様の背中みたい。私をサーサと呼んで、優しく頭をなでてくれ……た……」
 そこで言葉は途切れ、すぅっと寝息だけが聞こえてきた。
 ――もう眠ったのか。

 あれだけ強く責められて、その直後にこれだけベタベタとすり寄ってくるサーサリアに違和感を覚える。言葉がまるで耳に届いていないような手応えのなさ。怒りと苛立ちは一周して薄気味の悪さに変わりつつあった。
 サーサリアという人間を、シュオウは把握しかねていた。






[25115] 『ラピスの心臓 謹慎編 第五話 逃避の果て.3』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2013/08/02 22:01





     3





 深夜、アデュレリアの会議室には、殺伐とした空気が漂っていた。
 「愚か者、顔を上げよ」
 怯えて震える老人へ、アミュは容赦のない言葉を浴びせた。

 薬師の老人の所在は簡単に割れた。日常的に市場で商売をしていたのだから、当然といえば当然といえる。すでに王女失踪の事情は聞かされ、その原因の一端が自身が商っていた禁制品と、ジェダ・サーペンティアに伝えた情報にあるかもしれないと知らされた老人は卒倒しそうな勢いで狼狽していた。

 周囲をアデュレリア一族の武官や重臣達に囲まれ、老人は平伏したまま、額を床に擦りつけた。
 「ご、ごご、ご領主様ッ……氷長石様ッ! なにとぞ、なにとぞご慈悲を……」
 アデュレリアの領主アミュは、一領民である老人を睥睨して唾を飛ばした。
 「顔を上げよと言うたぞ!」
 「はひい!」

 余裕なく激昂するアミュを見て、周囲にいる家臣や血族者達も狼狽していた。
 年齢、性別、立場を問わず、自身が領民を威圧する事は希だ。弱者に対して意味もなく力を振りかざすという行為を、これまで最も嫌悪してきたのだ。だが、今のこの状況は仁徳ある公爵が常の心がけを忘れるほど切迫していた。

 ようやく顔を上げた老人は、みっともなく鼻水を垂らして怯えきっていた。
 「禁制品を商っていたようじゃな。よりによって心を腐らせる汚らわしい代物を堂々と我が地で売りさばくとは!」
 「で、ですが、扱っていたのは、よく天日干しした後の悪効のないものでして……」
 「言い訳は聞かん。その花を買い求めた男に花の採集場所を教えたというが、間違いはないのじゃな」

 老人は視線を泳がせながら、
 「あ、あのお」
 と言葉を詰まらせた。
 「違うのか?」

 「それが、その、嘘を、申しました。薬を商う者にとっては、薬材の採集場所は食べていくための重要な情報でして……正確な部分は濁して……その、伝えました」
 アミュは一枚の地図をひれ伏す老人の前に落とす。
 「一言一句、あの者に伝えた内容を説明してもらおう。後であの男にも裏をとるゆえ、嘘は申すな。その後は捜索隊に参加して直接案内をしてもらうぞ」

 「は、はぁ……ですが私もその、腰をやってからというもの、あまり山深い所へは行っておりませんで……」
 老人は視線を逸らして明瞭な答えをよこさない。その事で、苛立ちはさらに倍増した。
 「息子夫婦は王都で薬師業に励んでおるらしいな。そなたの孫はもうすぐ一○になるとか」
 老人の顔がさっと青ざめる。
 「これより発する言葉、行いのすべてが、貴様の想う者達の命運を握っていると思え」



 「アミュ様、温かくて甘いアカ茶です」
 カザヒナが、あえて柔らかな態度で接している事がわかる。
 「うむ」
 熱い茶を小さじ一杯ほど喉に流し、不安げに佇む家臣達を見た。
 「笑うがいい。燦光石を有し、大領地の主としてあるこの身が、年老いた領民一人を相手に感情を抑える事ができなんだ」

 即座に、居並ぶ者の中から一人が前へ出る。クネカキだ。
 「御館様! ここにいる誰が主を笑うというのです。一同現状をよく理解しております」
 クネカキの発言に集まっている者達が全員頷いた。
 「そうじゃな。取り繕うより先に、今はすべきことをせねばならん。幸いな事に、ユウヒナがもたらした情報と、あの薬師の話を合わせ、王女が襲撃を受けたという場所のおおよその位置は想像できる」

 部屋の中央に置かれた縦長の卓にある一枚の地図を指さす。それを追うように、自然と人の輪ができた。
 「第十五山道の北外れ、ですか」
 カザヒナは地図をなぞりながら言った。
 「この身が生まれるより前に、谷間に橋を架けた深界と通じる道があったようじゃが、北からの侵攻があった場合、アデュレリア防衛の脆弱部になると判断されて廃路にされたと聞いた事がある。王女一行がここを進んだという事は、いまだ馬車が通れる程度の道が残っていたという事であろう。まずはここを目指す」

 「捜索隊の指揮は私におまかせください」
 まっさきに名乗りを上げたのはクネカキだった。経験豊富、冷静さも合わせ持ち武人としての腕はたしかだ。まさに適任ではある、が――
 「大所帯の贅肉をかかえた部隊で向かえば、かならず足は鈍る。捜索隊は少数の精鋭を連れて我が直接指揮をとる」

 場が一斉にどよめいた。
 「なりません! 氷長石様の身に万が一があれば!」
 老臣の充血した懇願に満ちた目がこちらを見た。
 他の者達も、主君を諫める言葉を口々に吐く。

 「重視すべきは王女の命。我はまだ、それを諦めきれておらぬ――」
 この場にいる者達の大半が、ユウヒナの話を根拠にすでに王女は事切れていると考えていた。彼らにとっての大事は、この先起こりうる困難に直面した時、必要不可欠である王の石を持つアデュレリア当主の命なのだ。

 老いの運命から逃れた身とはいえ、燦光石を持つ者も所詮は人である。狂鬼を前に力で遅れをとる気はさらさらないが、命を失う危険は常に付きまとう。
 「アデュレリアの当主自らが捜索に向かったという事実は、後々役に立つかもしれぬ。こちらの必死さを汲んで、誠意であると見てくれる者も出るであろう。またそれを証明するために他家の人間を同行させる」

 「それは、もしや……」
 アミュは、言ったカザヒナに頷いてみせた。
 「ジェダ・サーペンティアを連れて行く」
 室内はより一層の喧噪に包まれた。
 「この大事に蛇の子を連れていくなど冗談じゃない!」
 「それもよりによってご当主様に同行させるなど!」

 特に血族の男達のいきり立ち様は凄まじかった。
 アデュレリアの者はサーペンティア一族を憎しみを持って嫌悪している。それは向こうも同じで、この構図は長い間、血と共に受け継がれてきた。二家の関係はもはや伝統といってもいい。
 アミュは手を二度叩き、皆の注意を引き戻した。

 「同行させる相手がサーペンティアであるからこそ価値がある。我ら一族と奴らの仲は国中が知るところ。そのサーペンティアの口であるからこそ、当主自らが王女の捜索に出向いたという話には信用が生まれる。この一件、あの男に責任の一端もあるゆえ、証言を拒むことはすまい」

 口々に不満を漏らしていた者達は、それを聞いて押し黙った。まだ損得の計算が及ぶ程度には冷静さを保っている。

 「万が一、狂鬼が街中に現れた場合を想定し、守備隊を密に配置する。クネカキは引き続き各門を厳重管理せよ。外からのものは受け入れ、内からは石ころ一つとて外に出すな。王女の生死を把握するまで、中から漏れる情報を完全に封鎖するぞ」
 「おう!」
 クネカキは威勢よく声をあげた。

 続いて、確証が定かではないが、王女が狂鬼の襲撃を受けたと予想される、第二、第三の候補地へ、一族の若い武官達を派遣するよう命令を下した。

 「カザヒナ」
 「はい」
 「当主代行を命ずる。全体の状況判断をして留守中の指揮をとれ」
 この言葉は、実質的な後継者の任命と同義であった。これを聞いたアデュレリアの若狼たちは、複雑な感情を見え隠れさせている。
 カザヒナは間をあけず、左手を胸に当てて頷いた。
 「お引き受け致します。ですが、どうかご無事でお戻りください」
 憂いを必死に隠す副官の手をそっと握る。返す言葉は出てこなかった。



          *



 アデュレリアの領主が率いる第一捜索隊は、夜明けを待たずして出発した。
 合計で十二頭の馬が連なって深夜の山道を駆け抜けていく。速度はかなり速い。
 捜索隊を指揮するアデュレリア公爵は中央で馬を駆り、前後左右にはぴったりと彼女を守るように男達が壁を作っていた。

 アデュレリアの当主が同行者として選んだのは、十人の顔を隠した武人達だった。手甲の石を見るに、それぞれが輝士としての素養を持っているのは間違いないが、ひらひらと軽そうな黒い服や、目以外を覆い隠す妙な頭巾をかぶっているところからしても、堅気の者達でないのは間違いない。

 ――同類の臭いがする。
 先頭を行くジェダ・サーペンティアは、追い立てるように後ろを走る彼らを見てそんな感想を持った。

 ジェダはアデュレリア公爵直々に捜索隊への同行を求められた。本来部外者の中でも特に忌み嫌われている一族の自分に同行を、と言った事情は察することができる。この件の証言者として使われるのだろう。

 同行に際して、案内役として強制的に連れて行かれる事になった、薬師の老人の守り役としての仕事もついでとして宛がわれた。それ自体に不満はないが、老人を馬に乗せて運ぶ事にはあまり良い気はしなかった。二人乗りの状態では、馬を自在に操る事ができないからだ。

 「はぁ……なんでこんな事になったのやら」
 ジェダの背で共に馬に揺られる老人が、しんみりと呟いた。
 「それは、暗に僕のせいだと言いたいのかな」

 「そりゃそうですよ。花を売ってちょっとした土産話を聞かせただけなのに、それがまさか王女様の失踪、なんてとんでもない話に繋がってしまったんですから。聞けば、全部あなたが私の話を吹き込んだのがきっかけだっていうじゃないですか」

 「随分と言うじゃないか。元はといえば君が僕に嘘を吹き込んだのが原因だ。ついた嘘の大きさに今更責任転嫁をしているようじゃ、君もたいして良い歳のとり方をしていないな」

 「好きなだけ言ってくださいよ。よりによって氷姫様に目をつけられた今となっちゃ、怖いもんなんてありゃしません。あとは精々息子に迷惑かけんように、大人しく言われた通りにするだけです……」
 老人は肩を落として力を抜いた。軽そうな頭が馬の歩調に合わせてガクンガクンと揺れている。

 「まさか、領民の家族を盾にして脅しをかけているなんて思いもよりませんでしたよ、公爵閣下。見た目にそぐわぬ良い趣味をお持ちで」
 馬の蹄が奏でる大きな音に負けないよう、ジェダは後ろを振り返って声をあげた。

 「黙れ!」
 アデュレリア公爵が怒鳴るのと同時に、周囲に付き添う者達がギロリとこちらを睨んだ。
 ジェダと共にこっそりと後ろを振り返っていた老人は、肩を竦めた。

 「なんなんです、あの恐い人達は。彩石持ちのようですが、格好からしてとても輝士様とは思えませんが……」
 「たぶん、アデュレリアの暗部を担う者達。影狼とかいう部隊の人間だろうね。わざわざ公爵が選んで連れているくらいだから、その中でも彼らは最精鋭と見ていいはずだ」
 ジェダの説明に、老人は大袈裟に首を振る。
 「あああ! 冗談じゃないですよ、こんな歳になって知りたくもない事が勝手に耳に入ってくる」
 「聞いたのは自分じゃないか」

 刻々と落ち込みを増していく老人を、ジェダは楽しんで観察していた。彼もどこかでわかっているのだろう、アデュレリア公爵が連れる彼らの仕事が、王女捜索だけではないという事を。

 ――サーサリア王女の無事が確認できなければ。
 横目を後ろへ流す。顔を隠した男達の鋭い眼光は、こちらへ一心に向けられている。
 ――その時は、精々あがいてやるさ。
 ジェダは口元に微笑を貼り付けた。



 曲がりくねった道を行き、いくつかの別れ道を吟味しつつ通過した。
 道中アデュレリア公爵は、こんな道をよく通る気になったものだと呆れ気味に関心していた。

 突然に、風の雰囲気が変わった。
 圧力のある風が前方から吹き荒び、その中に混じる臭いに、誰からともなく馬の足を止める。
 ジェダは振り返り、アデュレリア公爵に声をかけた。

 「この臭い、お気づきでしょう」
 公爵は不安気な気持ちを隠そうともせず、自身の唇を噛んだ。
 「脳天まで届く異臭。場所の見立てに間違いはなかったか……」
 「見にいかいないのですか?」
 「みなまで言うな。二名の斥候を出す」

 公爵が言うと同時に、黒装束の男達は指先を使った手話を用いて物見役を選んで送り出した。姿を隠し声すら発しない彼らは、なんとも不気味だ。あの趣味の悪い黒装束の中には、それなりに名を馳せた人物も混じっているのではないかと考えた。

 送り出された者達は早々に戻り、公爵に耳打ちをした。
 「行くぞ」
 鈍い声、苦い顔。先にあるモノは、決して心地良いモノではないのだろう。

 ジェダを先頭とした一行は、常歩で馬を進めた。
 「日の出が近いですな」
 老人のその言葉で見渡してみると、確かに少しずつ視界が良くなってきている。
 道の両端から伸びる枯れ枝が、あちこちで折れて歪な形になっているのが見てとれた。

 進むほどに臭気は濃くなる。
 朝陽によって宵闇の世界が浄化され、同時に周囲はゆるやかに薄霧に覆われつつあった。

 突風が吹き、ジェダは目を細めた。
 突然に開けた空間が現れ、そこには馬や人の死骸が散乱していた。
 自分を乗せる黒鹿毛の馬の首には、じんわりと脂汗が滲んでいる。

 馬を近くの木に繋ぎ、それぞれに目の前に広がる惨憺たる光景を観察した。
 恐る恐る着いてくる老人は、惨い光景を目の当たりにして嘔吐いている。
 戦場に出た経験のあるジェダは死体には慣れていたが、転がっている者の何人かは、どうにも様子が普通ではないモノが混じっていた。

 髪や服はそのままに、しかし中身がそっくり抜け落ちてしまったかのような死体。人の形をした服があればこんな感じなのかもしれないが、輝石が左手の甲にきちんと残っている所から見ても、コレを元人間だと断定して間違いはなさそうだった。

 革手袋をはめて、おかしな死体の感触を確かめた。ぶにぶにとした皮の感触はあるが、中の肉の手応えは一切無い。かろうじて骨の手応えが何カ所かに残っているが、それも完全な状態ではなかった。

 「何か、まだ聞いていない情報があるようですね」
 額に汗を溜めて光景に見入っていた公爵に聞く。
 「サーサリア王女一行は狂鬼に襲われたという。この目で見るまでは、いまいち実感が持てなんだがな」
 公爵がそう言うと、汚した口元を拭いていた老人が悲鳴にも似た声をあげた。

 「狂鬼!? まさかこんなところで」
 「珍しいが、ない話でもないぞ」
 そう返事をした公爵も、もはや自分が誰と話しているのか把握していない様子だ。

 「狂鬼か、なるほど。恐らく食べたあとの残りカスなのだろうね、コレは」
 ジェダは中身のないペラペラの死体を持ち上げて、揺さぶって見せた。公爵や老人はもちろん、ソレを見た無言の武人達もまた、目元に集まった皺が嫌悪と怯えを伺わせる。
 ――彼らも人の子か。

 その様子をしっかりと楽しんだ後、ジェダはペラペラの死体を放り投げた。
 「それで、どうするんですか。見たところ王女を乗せていたという馬車は見あたりませんが」
 「馬車はその先の崖底へ……落ちたと聞いている」

 言った公爵は身動き一つ取ろうとはしない。普段の気勢を思えば別人のように萎れてしまっているが、この先にあるモノによっては、アデュレリア一族は窮地に立たされるだろう。

 ――無理もないな。
 黒装束の武人達は、自ずからはあまり動こうとしない。ぴったりと公爵の周囲に立ち、無言で壁を作っている。
 しかたなしに、ジェダは自ら進んで崖底を覗き込んだ。止める者は誰もいない。

 「たしかに、半壊した馬車と、輝士達の死体らしき物が見える」
 「……そうか」
 公爵は未だに指示を出すことなく、微動だにしない。ジェダは立ち上がって手を払いつつ、怯えて腰を抜かした老人を見た。

 「この下へ降りる道はあるのかい?」
 「あ、あるにはありますが、馬も使えないし、今からじゃ昼を過ぎてしまいますな」
 ジェダは一つ息を吐いて公爵と目を合わせた。
 「だそうです。じっとしていても意味がないのではないですか」

 返事を濁していた公爵に、護衛役の一人が耳打ちをした。
 「縄を下ろして直接底に向かう」
 そう言った公爵に、ジェダは肩をすくめて聞いた。
 「それは僕もですか」
 「あたりまえじゃ! 一番に降りてもらおう」
 ――やれやれ。
 ジェダは心中で嘆息した。



 縄を使って底へ降りていく作業は、思っていたよりもずっと簡単にすんだ。きちんとした道具が用意されていたおかげもある。
 一番最初に下へ降りたジェダは、真っ先に半壊した馬車の中を見た。

 公爵は護衛役に背負われて降りてきている。ジェダは彼女が底に辿り着くより前に声をあげた。
 「おめでとうございます、閣下。王女の姿は見あたりませんよ」
 頭上から、
 「ほ、本当か!?」
 という余裕のない声が返ってきた。声の調子がいつもより見た目相応に幼く聞こえる。
 公爵は底に辿り着くや、まっさきに馬車にかけよって中を見た。

 「……いないな」
 ほっとする彼女に、ジェダは先に得ていた情報も告げた。
 「指揮官の姿も見あたらない。共に逃げたみたいですね」

 公爵は、はっとして周囲を見渡す。
 「あの者は、シュオウはおらぬか」
 「シュオウ? ああ、彼も同行していたのですか」
 「あの髪じゃ、死体にまぎれておったならとっくに気づいていたはず。やはり生きておったか」

 「王女と共に、フェース重輝士に救い出されたのでしょう」
 公爵は首をかすかに振った。
 「おそらく逆であろう――」
 「は?」

 疑問をぶつける前に、公爵は護衛役に指示を飛ばす。
 「誰か選んで、これまでの経緯をカザヒナに伝えよ。遺体の回収に関しては指示を仰げ。王女らはここから奥へ逃れたとみて間違いないであろ。残りの人員でさらに行方を追う。案内役が必要ゆえ、薬師の老人もここへ降ろせ」

 指示を受けた男が、また手話をつかって上の人間へ指示を伝え始めた。
 「野営のための支度はあるのでしょうね」
 問うと、公爵はぽかんと口をあけてこちらを見上げた。
 「なにを言う……どのような結果であれ、王女の所在を掴めるまで眠る暇など考えてはおらぬ」

 ジェダは笑った。
 「流石ですね。この件を指揮しているのが私の父であったなら、今頃はまだ本拠地でぬくぬくと酒を入れたグラスを揺すっている頃ですよ」
 公爵は怪訝な顔をした。
 「我の前で父をあざけるか。まさか、この身に安い世辞が通用するとは思っておらぬであろうな」
 「まさか。よく言われるんですけど、僕は世辞で時間を潰すのが得意ではありません。この先王女が無事であればよし、そうでなければ、僕はあなたに殺されるのですか」
 公爵は口をつぐんだ。
 「沈黙は是、ですか。ご心配なく、今更逃げ出そうなんて考えてはいませんよ」

 「今後、状況によって我々一族が進むべき道を決めねばならぬ。いくつかの思い描く未来にそうした選択がないとも言えぬが、すべてが丸く収まる未来も、まだ諦めてはおらん。信じぬかもしれんが、そなたの命など今はどうでもよい」

 神妙に言う公爵に、ジェダは聞いた。
 「生きているとお考えですか?」

 「上のモノと、ここにある死体の中でも捕食された形跡があったのは少数じゃ。つまり狂鬼は腹を満たしていると考えるのは妥当。であれば、すでに目的を遂げて深界に帰っているかもしれん。王女らが狂鬼に追われていないのであれば、生き延びている可能性は十分にある。それに、王女にはおそらくあの者が……シュオウが付いている」

 「シュオウ、ですか。あなたほどの方が、一平民の存在に縋っているような言い方をするのですね。あの人間に、それほどの価値があるものでしょうか。彼は輝石を操る力もなければ、輝士としての訓練も受けていないのですよ」

 公爵はしばし黙考した後、答えを寄越した。
 「人としての素養と、石の色は別であると思っている」
 それを聞いたジェダの顔から微笑みが消えた。言った公爵の顔を凝視し、ぼうっと見つめていると彼女は不思議そうに首を傾げた。

 「どうかしたか?」
 「あ、いえ…………ただ、珍しい考え方だと思っただけです」

 「たしかに、彩石は持って生まれた才でありそれはそのまま力であるが、この世で人の持つ力がただの一つであると誰が決めた。石についた色の他にも、人は多くの可能性を秘めておる。生まれだけでその可能性をすべて否定するのは、愚者の思い込みであろう」

 言葉によって対峙する少女は、やはり老獪な長老であるのだと確信する。でなければ、堂々と平等を訴えるような思想を吐けるはずがない。人の世では、貴人達にとって石の色は絶対なのだ。そこには地位や名誉、富や権力といった様々な力が内包されている。むろん、より良い未来を勝ち取るための資格もそこに含まれている。

 ジェダはあえて戯けた仕草で腹を押さえた。
 「少し、腹が減りました」
 公爵の顔が呆れた様子になる。
 「少しじゃが支度はさせてある。歩きながら食べられる携帯食でよければ用意させよう」
 「助かりますよ」
 ジェダは再び微笑を浮かべた。咄嗟に出たごまかしの言葉だったが、ここからの徒歩での道行きを考えれば食事をすませておくのも悪くはないだろう。


 
 崖底から伸びる緩やかな坂を上り、その先にある小さな森へ向かった。
 おそらく、サーサリア王女達は狂鬼から逃れるために隠れられそうな所を探したはずだ。他に逃げ込むのに適しているような場所がなかったため、勘頼りではあるが、見立てとしてはそれほど的外れではないだろう。

 森の中は雪解けが進んでいるようで、うっすら残った積雪も部分的に溶けて暗い色の地面がむき出しになっている箇所もある。
 少し歩くと、大した時間もかからず森は途切れた。先には広大な山の景色が広がり、稜線の奥から昇った起きたばかりの太陽は、ようやく仕事を始めようかという頃合いだ。

 この辺りは未だに積雪も多く残されている。足跡でもあるのではと期待したが、小量の降雪でもあったのか、それらしい痕跡はなにもなかった。

 「ここまで人が休息をとっていた雰囲気はどこにも見えなかった。このあたりに身を落ち着けられそうな場所はないのか」
 公爵は薬師の老人にそう聞いた。

 老人は古ぼけた地図を取り出し、唸りながら現在地周辺をなぞる。
 「そういえば、大昔に山仕事をする者らが使っていた細長い洞窟があったような……」
 「どこじゃ! どこにある?」
 「たしか、ここからそう離れてはおらんかったと思います、行ってみましょう」

 老人はひょいひょいと身軽に歩を進める。先頭を行くジェダを追い越して、皆を先導し始めた。これまでに少しずつ入ってきた情報を元に、どうも薬師の老人はムラクモの王女を救うという使命感を抱いたらしい。

 「老体で無理はよくないよ。僕は腰を壊した老人を背負って山歩きをするのはごめんだ」
 ジェダが軽口をかけると、老人はひょひょっと笑った。
 「たしかに弱りはしましたが、老いたとはいえ、何年もこの山を歩いてきたんです。私にとっちゃ庭を散歩するのと大差ありませんよ」

 その言葉に偽りなく、老人は雪で隠れてみえないような場所まで、きちんと歩きやすい道を選んで踏みしめていた。若く健康なジェダですら追いかけるのがやっとの速度で進んで行く。

 「ううん、おかしいぞ」
 しばらく歩いた後、老人は足を止めて周辺を睨んだ。
 「どうした」
 公爵が少し不安げに聞く。

 「おかしいんです、このあたりまでくれば坂の下に洞窟の入口が見えるはずなんですが」
 「見えんのか」
 「はい、雪崩でもおきて雪に隠されちまってるかもしれませんな……」
 「雪崩、か……他に雨風を凌げそうな場所はないのか?」
 老人は首を振る。
 「私が知るかぎりは、ございません」

 「……手がかりを失った、か」
 ジェダは想い悩む公爵に提案する。
 「ここから二手に分かれて捜索を続行するのはどうです」

 しかし、公爵はそれを即否定した。
 「見立てを失った状態で、少人数で捜索を続けるのは効率が悪い。この辺りに陣を設け、人を集めて手当たり次第に探す他ないか……ん?」
 公爵は突然言葉を止め、空を見上げた。ジェダや周囲の者達もそれに倣い、辺りを警戒する。

 「この音――」
 それは羽音だった。近づいてくる重たい震動音と共に、空から真紅の巨大な虫が近づいてくる。
 「件の狂鬼か!」
 公爵が叫ぶや、武人達が剣を抜いて主の周囲を円状に囲んだ。 

 紅い狂鬼は滑空して一直線にこちらへ迫り来る。ジェダは咄嗟に輝石の力”晶気”を行使した。
 生み出すのは風の刃。思い描くのは世界に一本の線を引く光景。肉眼では確認できないほど精巧な細い風の糸は、極限にまで風刃を圧縮した形でもあった。右手を薙ぎ、風糸を狂鬼に放つ。

 ――殺った。
 放った晶気を気取られた様子はない。ジェダはこの一撃には自信があった。だが、狂鬼は風糸が胴体を真っ二つにしようかという寸前、滑空を止めてこれを躱した。

 「さすがは化け物か」
 狂鬼は再び降下を始めた。それはほとんど落下といってもいい速度で、地面に追突するかという寸前に羽根を動かして着地の衝撃を和らげる。
 紅い狂鬼は黒光りする複眼で睨みをきかし、歯をカチカチと鳴らして威嚇の姿勢を見せている。

 ジェダの背後で公爵を守る男達も黙って見てはいなかった。十本の氷柱が狂鬼目掛けて飛んでいく。が、地に足をつけても尚、自在に大地を駆けて、予め予測していたかのようにそのすべてを躱してみせた。

 ――見えているのか、すべて。
 体は動いた。自身が操る風刃を、あえて広く拡散させ周囲の積雪を巻き上げて即席の面紗を作り出す。突然目の前を覆う白のカーテンに目隠しをされれば、こちらの挙動は気取られないはず。ジェダはすかさず、先ほど放った物と同じ鋭く編み上げた風糸を薙ぎ払った。

 ――手応え、無し。
 正面からは虫の断末魔も、身体が崩れ落ちる気配もない。その逆に異様に静かだった。そこで気づく、視界を失ったのはこちらも同じである事を。頭上から剣が吊されているような落ち着かない感覚。白のカーテンの向こうから紅く細長い前足が伸ばされた。

 「ちぃッ」
 輝石の力で造る晶気の盾、晶壁を貼るだけの余裕はない。咄嗟に身をよじるが、前足の先から伸びる鋭い爪の一撃に右肩の肉を抉られた。生温かい血が腕を伝う。

 「一歩下がれ!」
 背後からした少女の声に従い、ジェダは後退する。
 舞い上げられた雪が消え、紅い狂鬼が悠然と構えてそこに居た。その足元から音もなく突然複数の氷の手が伸びる。氷手は虫の足を絡め取ろうと指先をくねらすが、不意打ちであったにもかかわらず狂鬼は空へ退避しようと羽ばたいた。が、無数に地面から伸びる氷手の一つが、狂鬼の前足を一本掴み捕っていた。囚われた狂鬼は振り払おうと藻掻くが、氷手のほうも根を張ったように微動だにしない。すぐに諦めたのか、狂鬼は逆の前足を使って氷手に握られた部位を自ら斬り落とし、天高く飛翔した。

 再び背後から公爵の声がする。
 「戻ってくるようならッ」
 片方の前足を失った狂鬼は、体液を漏らしながらしばらく滞空していたが、すぐに退避行動を選択する。
 背を向けて、高度を上げながら、狂鬼は羽音と共に姿を消した。

 ジェダは傷ついた肩を押さえてへたりこんだ。すぐに治療を受けたいところだが、恐怖のあまりに気を失って白眼を剥いて倒れている薬師の老人には期待できない。

 ――手玉にとられた。
 痛みを通り越し、苦い悔しさが心に滲む。どんな相手であれ、真剣勝負には必ず勝利を得てきた。ジェダにとって、相手が狂鬼であったとしても、敗北や引き分けという結果は許容できるものではなかった。
 「手ひどくやられたな、ジェダ・サーペンティア。悪名と共に耳に入っていたほどの実力はなかったようだのう」

 声の主、アデュレリア公爵を睨みつけて言う。
 「あなたのほうこそ! なぜ殺さなかった。あなたならあの虫を仕留められたはずだ」
 「相手の出方を見たかったのじゃ。あの狂鬼がどのようにして戦うのかも興味があった」
 「結果として、ただ相手を見逃しただけではありませんか」
 「逃がしたのじゃ。アレがどの方角に向かうのか把握しておきたかったのでな」

 公爵は鮮血が流れるジェダの肩を見て人を呼んだ。
 「蛇の子に治療を」
 血止めの処置を受けている間も、公爵の話は続く。

 「あの狂鬼、相当に賢い部類と見た。こちらをためすような戦い方といい、分が悪いと判断して早々に退散した判断力といい、ただ本能に従って生きている下等な生き物とは格が違う。今回の王女襲撃も偶発的に起こった出来事ではないのかもしれぬ」
 「奴らにとっては、あそこで気を失っている老人も、氷長石を持つあなたも同じ生物という存在でしか見ていないはずだ。狂鬼が狙って特定の相手を襲うなんてありえませんよ」

 痛みと苛立ちで否定の言を吐き捨てる。幼子のように見える公爵はしゃがんでジェダの顔を覗き込んで言った。

 「王女が深夜に突然山奥へ入るという愚行を犯すなど、ありえぬと思った。あったとしても側に仕える者らが諫めぬわけがないと思った。そして狙いすましたかのように人の世界に狂鬼が現れる等、ありえないと思っておった。あるはずがない、という言葉は時に真実を遠ざけ、大いなる失敗を招く。そうした思い込みこそが、あってはならぬと思わんか」

 一時も視線をはずさない公爵の言葉に、ジェダは両手をあげて降参の意を示した。
 「わかりましたよ。ただそこまで言うからには、氷長石様の考えを聞かせてもらえるのでしょうね」
 アデュレリア公爵はしゃがんだまま頷いた。

 「あの狂鬼は食料を得るために高地まで乗り込んできたのだと思っておったが、だとしたらその目的はとうに果たされていると考えて間違いない。じゃが、糧として得たはずの輝士や馬の死骸は大半がそのままの状態で放置されておった。あの狂鬼が王女の行方を追っていた我らと鉢合わせになった事と合わせて考えると、奴らの目的は捕食ではなく狩りか捜索であると見たほうが納得がいく。高地を嫌う狂鬼が今までのこのこと滞在している所を見るに、逃げ延びた王女を未だに捜している、と考えるのはそこまで的外れだと思うか?」

 ジェダは首を捻った。
 「なんともいえませんよ。ただ、なにも手がかりがない現状を思えば、なんらかの取っかかりになるかもしれない」
 公爵は笑みを浮かべて頷いた。

 「であろう。それに、いま言った考えが正しければ、王女の死は狂鬼共にとっても確認できていないという事になり、我々としても希望が持てる。今はそれがなにより心強い」
 アデュレリアの領主は、はにかみながら笑顔を作った。そうしていると、本当に見た目相応の少女に見える。

 「我々は伝達役を一人残し、あの狂鬼が逃げた方角へ向かう。少々賭けではあるが手がかりを得られる可能性はある。異存はなかろうな」
 ジェダは血止めの処置を受けた肩をすくめて戯けて見せた。
 「はじめから僕の答えなど聞く気はないのでしょう」
 公爵は立ち上がり、腕を組みながら言った。
 「当然じゃ!」


          *






 狭くくねった細道が続く洞窟の中を、どれほど歩いただろうか。
 外の様子がまったくわからないという状況下、すでにここへ入ってからどれだけの時間がすぎたのか、感覚が麻痺しつつある。

 頼りになるのは、空腹感と体が覚えているおおまかな時間感覚だけだ。それを頼るなら、今の時刻は夕陽が沈む頃か、月がおぼろにその姿を現している頃のはず。
 崖底へ落下する途中に痛めた体は、重傷というほどではないにしろ、今も鈍い痛みを抱えている。

 硬い岩肌の上で眠る事で体は休まらないし、まともな食事はすべてサーサリアに渡しているため、自分は時折手に入れる得体の知れない虫や毒々しい色のキノコを、丸薬と一緒に腹に放り込んでいるだけだ。当然、腹は満たされない、どころか多少なり体に取り込まれる毒性のおかげで、目のかすみや手先の震えに耐えている状況だ。

 ――だけど。
 シュオウは思う。この程度の状況は、アマネのしごきに耐えてきた自分にとっては、日常の延長でしかない。
 深界のど真ん中に放り込まれ、生き残る事を強要されてきたこれまでの生き方は、こうした状況下で途方もなく役に立つ。だがしかし、そうした時には、いつも一人だったという事を無視する事はできないのだが。

 「大丈夫か?」
 シュオウは後ろからヨロヨロとついてくるサーサリアに声をかけた。
 「うん、平気」
 うっすら微笑みを返してくるサーサリア。洞窟の中を共に歩き出してからの、彼女の態度の豹変ぶりには大いに困惑していた。
 好意を持たれている事は理解しながらも、彼女から寄せられるそうした感情があまりにも極端だった事が引っかかる。

 ここまで歩いてきた地面は、決して平坦ではない。段差が多く、ゴツゴツした岩だらけの部分も多々ある。
 小さな湖を越えてから、サーサリアは一つの愚痴もこぼさずに付いてきているが、無理をしているのではないかとふと心配になった。深界を旅したとき、貴族の娘であるアイセが足を痛めていた事を思うと、尚更そう思えた。

 「今日はここまでにしておこう」
 荷物を降ろして言うと、サーサリアは静かに首肯した。

 あくまでも落ち着いた風に寝支度をするが、じつのところ呑気に休憩をとっていられるような状況ではない。唯一の明かりである夜光石は、その数を順調に減らしていき、残りはもう丸一日分あるかないか。たどりつく先もわからない今、明かりを失った時に真っ暗闇の中を手探りで歩くというのは、精神的にも体力的にもこたえるだろう。

 側で寝場所を整えたサーサリアに手を差し出す。
 「足を見せろ」
 「……どうして?」
 「長い間歩いてきたから痛めてるんじゃないか。あまり無理をされても後々困る事になる」

 「そんなことない、けど」
 否定しつつも、サーサリアは靴を脱いで足を差し出した。俯いて少し照れている様子だが、シュオウはおかまいなしに様子を伺う。
 「傷はない。綺麗、だな」
 言いつつ、足首を捻ってサーサリアの表情を見るが、痛がっている様子は微塵も見せなかった。本人の言葉通り、本当にたいした事はないらしい。

 ――丈夫な女だ。
 ここへ来る前までは、足を気にした様子で歩いていたが、悪路を歩きつつ直ってしまうような負傷だったのだろうか。
 一人首を捻りつつも、お荷物の王女様が、やせ我慢をしているわけではないという事は確認でき、ひとまずシュオウは安堵した。これなら背負って歩く心配はしなくていい。



 明かりを消し、眠りにつくまでの一間、サーサリアは暗闇の中でしきりに話をしたがった。
 育ての親の話や、ムラクモで従士をする事になった経緯、アデュレリア公爵の世話になるきっかけ等に関する質問が立て続けに投げられ、あまり眠くなかった事もあり、シュオウもその一つ一つに真面目に答えていった。

 サーサリアは終始楽しげに話を聞いていたが、話題が広がって家族の事に及んだ時、彼女の気勢は露骨に小さくなっていった。

 「お父様やお母様に会いたいとは思わない?」
 サーサリアのなにげない問いかけに、闇の中で心が震えた。
 「……思わなかったといえば嘘になる。けど、物心もついていないような子どもを置き去りにするような人間なら、今更顔も見たくないな」

 自分がムラクモという街に一人ぼっちでいた理由については、幼かったため知る事はできない。気がつけば残飯を漁り、誰に頼る事もできないような生活を送っていたのだ。なんらかの理由で否応なしに親とはぐれてしまったのかもしれないが、いつもどこか思い描く想像は負の方向へと傾いていた。

 闇の中で、シュオウはそっと眼帯に手を当てる。この顔の醜さが原因で捨てられたのだとしたら、そんな理由で子を捨てるような人間を親と呼ぶ事ができるだろうか。

 「そっちはどうなんだ」
 底のない闇を落ちていくような思考から逃れるため、シュオウは質問を返した。
 「そんなの……」
 サーサリアは言葉に詰まり、溜息を吐いた。

 ――ばかな質問だったな。
 会いたくないわけがないだろう。共に親がいない境遇とはいっても、その愛情と温かさを知る彼女と、元より親の声や姿すら知らない自分とでは、抱えている気持ちも、想う事も何もかもが違うのだ。
 互いにぶつけあった無神経な問いかけ。だが、世界から隔離されたこの空間の中では、それが許されるような気がした。

 「兄姉はいなかったのか? 俺の知っている貴族の娘は、母親の違う兄姉がいると言っていた。貴族なら普通の事だろ」
 「お父様は、お母様以外の思い人は作らなかったから」
 言ったサーサリアの声はどこか誇らしげにも聞こえた。
 「おかしな話だな。ただでさえ少なくなっていたムラクモの王族が、積極的に子供を残そうとしなかったなんて」

 「無理矢理に見合いを続けて、思いを結ぶ事ができる相手と作れるだけの子を残していた時代もあったみたいだけど、大昔に、枝葉のように別れる王家の血族者達が、玉座を巡って酷い争いをしたことがあって、それでたくさんの血が流れて、それから、王族は自由な恋愛をして結婚をするようになって、無理に子どもを作らなくなったって聞いた事があるけど」

 それが事実であるとすれば、ムラクモの王家がとった手段は大いに失敗であったと断言ができる。なにしろ、その貴重な血を引く人間が、今シュオウの隣で危機的な状況に置かれているサーサリア一人きりになってしまっているのだから。

 サーサリアは話を続ける。
 「人間に与えられた真実の愛を語り合える機会にはかぎりがあるって、よくお母様が言っていた。実際に、私たちは思いを重ねた相手でなければ子を残すことはできないけど、お母様はそれとも違う意味で言っていたような気がするの。あなたは――」
 細く冷たいサーサリアの指が、腕に触れた。
 「――あなたには、もうそんな相手がいる……の?」

 「俺は……」
 言い淀む。出会った女達の中には、自分への好意をはっきりと態度でしめす者もいる。彼女達への自分が抱く感情は、いったいなんなのだろう。そんな自問をし、返事をできずにいると、腕に触れていたサーサリアの手が、しだいに力を込めて握りしめられていった。

 「今はそんな事を考えていられるような立場じゃない。自分の家もない、金もないで、誰かと人生を共にする事なんて、無理に決まってるだろ」

 強く握られていたサーサリアの手から、ふっと力が抜けた。
 「そう……そうなの」
 静かだが、はずむような声音。サーサリアはそのままこちらに体を預けてきた。伝わってくる女の柔らかい感触は悪くはない。じんわりと伝わる体温に、すこしほっとする心地がした。
 クモカリやジロ、二人の貴族の娘達にシワス砦の同僚達を想う。彼らに言って信じるだろうか。自分のような人間が、お姫様と並んで眠ったなどという話を。
 かけあう言葉は消え、二人はどちらからともなく眠りについた。



 「よかった」
 前方を照らす日差しを見て、シュオウは安堵の溜息を漏らした。
 「出口……なの?」
 サーサリアは幻でも見ているかのように虚ろな瞳を細める。
 「ああ。このあたりに人が出入りしていたような形跡があったから、間違いないとは思っていたけど」

 くたびれていた両足に力が戻る。サーサリアの手を引いて、無心で外へ出た。
 温かい陽光のまぶしさに手で傘を作る。季節が移り変わる頃を予感させる爽やかな風が吹き、新鮮な山の空気を胸一杯に吸い込んだ。真上に昇った太陽が積もった雪をギラギラと照りつけている。

 最後に眠り、目を覚ましてから恐らく半日ほど歩いただろうか。夜光石が尽きる前に、どうにか細道で繋がった洞窟を制覇できたようだ。
 最も身近な不安が晴れたおかげで顔が綻ぶが、同行者である王女の表情は不思議と曇ったままだった。

 「どうした? あとはここから――」
 言いかけ、咄嗟に言葉を切る。聴力より早く訪れた不安感に身構えた。
 ――くそッ。
 耳朶に響く鈍い震動音に、シュオウは心中で毒突いた。
 「中に戻る!」
 「えッ」
 有無をいわさず、サーサリアを腕で抱え上げて、薄暗い洞窟の入口へと駆け込んだ。
 サーサリアを抱えたまま、岩場の影からこっそりと空を見上げると、青空の中を悠然と行進する紅い狂鬼が目に入った。

 「まだ捜していたのか」
 あまりのしつこさに辟易とする。自分達が洞窟の中を彷徨っていた間中、こうしてあちこち巡回して廻っていたのだろうか。以前にした想定通り、アカバチ達の目的がサーサリアだとしたら、この状況は非常にやっかいだ。

 アカバチは、周辺をぐるぐると規則正しく飛び回り、しばらくして来た方向とは逆の方角へ飛んでいった
 光が届く程度に入口から離れ、抱えていたサーサリアを降ろしたシュオウは、どっかと座り込んだ。

 肺に溜まっていた空気を緊張と共にすべて吐き出すと、サーサリアが不安げに聞いてきた。
 「ここで助けがくるのを待つ?」
 「食料が残り少ない。水だけでもしばらくは耐えられるかもしれないが、消耗との戦いになるな」
 「そう」

 アデュレリアの領主はとうにこの事態に気づき、それなりに手は打っているはず。しかし、シュオウはすでに事件現場から遠く離れた場所まで来てしまった。この洞窟の反対側の入口はいまだに硬い雪で覆われていて、発見は難しいだろう。
 なんら手がかりもない状況で、捜索隊に自分達を見つけてもらおうという考えは、あまりに都合が良い考え方だ。
 望みの薄い希望にすがってしまえば、体力だけを消耗し、なんら手を打つこともできない事態を招きかねない。

 サーサリアの虚ろな瞳が、淡々とこちらを見つめている。
 「少し考える」
 言って、シュオウはかかえた膝に顔を埋めた。一人で生き残りを賭けて深界を歩いた際に、よくこの姿勢で眠ったものだ。
 結局、シュオウとサーサリアは、この日も洞窟内の冷たく尖った地面の上で床についた。



 サーサリアは夢を見ていた。
 若く麗しい母と逞しく眉目の整った父。乳母に預けられる事もなく、両親の愛を受け何不自由なく育てられた幼少期の光景が、泡のようにゆらゆらと浮かんでは弾け飛んでいく。
 何度も見た夢。その度、サーサリアは思い出を内包した泡を守ろうと必死に手を差し伸べていた。だが、今のサーサリアの華奢な両手は胸の上に置かれている。

 それは不思議な感覚だった。
 はじけて消えていく数々の思い出を安らかな心で看取る事ができる。二度と手に入らないと思っていたモノ。しかし、今は寛大な気持ちですべての結果を受け入れる事ができる。

 「いつからだろう」
 夢の中で発した声は、幾重にも反響し、再び自分の中へと戻ってきた。

 すべての泡が弾け飛んでしまった後に、どこからともなくふわふわと小さな泡が現れた。その泡だけは弾け飛ぶでもなく、ただサーサリアの前にあって静かに漂っている。サーサリアは、その泡にそっと手を伸ばし、手の平の中に包み込んだ。

 「あたたかい」

 心の中に、ふと灰色の髪をした風変わりな男の姿が浮かんだ。
 ――彼は。
 偽りなく、ムラクモの王女に接する不思議な男。怯えず、怒り、真実を口にする。死んでしまった両親の他に、そんな態度で自分の前に立てるような人間が、どれほどいただろう。

 「いなかった。グエンでさえ……」

 長らく王家を見守るあの男。口うるさく注意はするが、どこか気が抜けていたように思う。愛を持って接してもらった記憶などなく、ただただ自分を王女という役柄でしか扱わなかった。

 「あの人は違う」

 ひさしく感じていなかった、対等に扱われるという感覚。恐れや怯えのない、まっすぐな視線。下心もなく心配をしてくれる声。時にくったくなく笑うあどけない表情。
 「会いたい」
 彼を思い出すたび、腹の底がそわそわと疼いた。
 ここには思い出しかない。すぎてしまったモノ。もう手に入らないモノ。泡のように消えていくだけのモノ。ここには何もない。

 閉じた世界に、あの男はいない。
 飛び散った泡の残滓は、水たまりのように地面に落ちて揺らめいていた。サーサリアは柄になく地面を蹴って飛び出した。水たまりを飛び越え、後ろを振り返る事なく駆け出していく。

 心はすでに、先にあるモノにしか興味がない。
 サーサリアの顔には、長らく忘れていた満面の笑みが浮かんでいた。



 寝起きにさっと体を起こし、すぐに周囲を見渡す。殺風景な岩肌に囲まれる洞窟の中にいるはずの曇り空のようなあの髪を探した。
 「あ、れ……?」
 心臓にずきりと痛みが走る。
 目を覚まして一番に見たかったあの姿がどこにもない。眠りから覚める度、おはようと声をかけてくれた人の姿がどこにもないのだ。

 跳ねるように立ち上がり、体を包んでいる温かい外套を脱ぎ捨てて半狂乱で周囲を探るも、やはりシュオウの姿はどこにもなかった。
 ――行って、しまった?

 鼓動がうるさい。

 狂鬼が飛び交う危険な場所に置き去りにされた恐怖より、シュオウが黙って一人で行ってしまったという現実が、千本の矢となって胸に突き刺さった。
 洞窟の入口で、サーサリアは途方に暮れてへたり込んだ。

 外は静かだ。
 頭の中で、なにがいけなかったのかという自問が繰り返される。嫌われないよう、疲れているのも隠して必死について歩いた。言われた事はすべてそれなりにこなしたはずだ。それでも、シュオウは自分を足手まといであると判断したという事なのだろうか。

 「いやッ……もう……」
 両手で長く伸びた黒髪をかきむしる。忘れていたはずの吐き気やむかつきがぶり返し、目から冷めた涙がこぼれ落ちた。

 ――みんないなくなる。私の中から消えていってしまう。こんなの、もういや。

 サーサリアは考えもなく立ち上がり、ふらふらと外へ出た。
 空を見上げ、ぼうっと呟く。
 「もういい……」

 もとより、生への執着などなかった。ただ生きたいと思わないのと同じように、いままで特別死にたいと考えた事もなかった。しかし、今となってはどうでもいい事だった。自分を守る唯一の男に見捨てられた今となっては、どうしたところで行き着く運命は決まっている。人の世界で誰もがひれふすような権力を持っていても、山の中で一人生きていく術は持っていないのだから。

 再びここに狂鬼が現れるのなら、いっそ食われてしまったほうが早く死ねるはず。そうすれば、ようやく手に入れたと思っていたモノが、するりと手からこぼれてしまった悲しみからも解放されるだろう。

 縋るような心地で空を見る。あれほど恐怖していた存在を待ち望んでいる自分が可笑しかった。

 サーサリアはぐるりと体を回し、周囲に広がる空を見た。その時、洞窟入口の真上あたりの岩陰に、束になって咲く見慣れた花を見つけた。
 ――あれ、は。
 投げやりな心に咲いた一輪の好奇心に誘われて、サーサリアの蒼い瞳はその花に釘付けにされていた。



 洞窟から少し山を下った先にある森の中。シュオウは一歩ずつ足場をたしかめるように慎重に歩を進めていた。
 積雪は深い所でも足首が少し埋まる程度で、これなら走れないというほどの難はない。周辺は背の高い針葉樹で囲まれ、所々朽ちた大木が倒れて適度な障害を作っていた。

 ――悪くない。
 森の中で小さな崖のように段差になっている落ちくぼんだ地形を見つけ、シュオウは一人頷いた。

 早朝、明るくなる前に、シュオウは眠っているサーサリアをそのままにして周辺の地形を把握するために外に出ていた。
 一晩中寝ずに、アカバチ達が巡回をしている間隔を計っていたのだ。

 実際のところ、アカバチの連携は見事だった。彼らはほぼ同じような間隔を空けて飛んでくるのだ。練度の高い統制された軍隊のような動きに関心しつつも、この包囲網を突破するのはたやすい事ではないことを改めて把握する。

 アカバチ達が交代制で見回りをしているかどうかへの確証はなかったが、観察していた所、飛んでくるアカバチの中に前足を欠いた個体がいた事から、シュオウは確信を持った。
 つまり、たとえ一体に何かがあったとしても、その事に残りの二匹は気づく事ができるように予定が組まれているのだろう。

 一晩悩み、シュオウはいくつかの脱出方法を模索していた。
 一つに、彼らの巡回の隙をついて脱出するという手段だ。うまくいけばもっとも安全に逃げる事ができる方法だが、自分の現在地もわからず、この山の地形に不慣れな状況では現実的な案とはいえない。サーサリアを連れての移動となれば尚更だ。

 さらに、アデュレリアからの捜索隊を待つという手もあるが、自分達が身を隠す洞窟もいつアカバチ達の捜索の対象になるかわからない。洞窟の入口は幅が広く、巨体の狂鬼が中へ入ってくるだけの余裕は十分にある。ろくに灯りも確保できず、食料もほとんどない今、再び洞窟の奥へ戻るというのも、まるで解決を得ない方法だ。

 自然、思考の行き着く先は真っ向勝負という最も単純で、そして最も損害を被る可能性の高い手段だった。しかしすべてが上手く運べば、その分見返りに揺るぎない安全を得る事ができる。

 だが、そのためには覚悟と同行者の協力が必要になるだろう。
 ――話してみよう。
 あれだけ虫を怖がっていたサーサリアが、自分の提案に頷いてくれるかどうかは心配だったが、反対されても説得しようと思えるだけの気力はまだ残っていた。



 洞窟まで戻ると、サーサリアが入口の近くでうつ伏せに倒れ込んでいた。
 シュオウの顔面から血の気が引いていく。
 「おいッ!」
 駆け寄り、背中に触れると苦しげなうめき声が漏れた。

 「う、う……」
 「なにがあった?」
 見れば、サーサリアの両手の平は傷だらけだ。周辺には季節外れの花が散らばっていて、あちこちに嘔吐物らしきものがある。
 ただうめくだけのサーサリアを仰向けに動かすと、口元に一枚の花びらが張り付いていた。

 「まさか、食べたのか?」
 サーサリアの虚ろな瞳がうっすら開く。
 「置いて行かれた、って……」
 「それが、どうして花を食べる理由になるんだ…………わけがわからない」

 どこから見つけてきたか知らないが、この花には何か特別な効能でもあるのだろう。これだけ手を痛めてまで調達してきたのだから、彼女はそれを知っていたはずだ。
 水を用意し口の中をゆすがせる。幸い飲み込んでしまったモノは、ほとんどが吐き出されているようだ。

 サーサリアは酷い吐き気に見舞われているようで、何度も嘔吐いていた。
 少しでも楽にさせてやろうと、シュオウは自身が背もたれとなって彼女を支え、ハリオから借りた外套を上からかけてやった。

 太陽が高く昇る頃になると、ようやくサーサリアも落ち着きをとりもどしていたが、軽く発熱しているようで、かかえている体がじんわりと熱い。

 「ここまで一緒に来て、いまさら置いていくわけがないだろ」
 責める気持ちに呆れが混じり、シュオウは腕の中のサーサリアにそうこぼした。
 「でも、突然いなくなったから……」
 苦しそうに、かすれた声でサーサリアは反論した。
 「荷物がそのままだっただろ」
 「わからない、そんなの……」
 「はぁ」

 このお姫様の身の回りの世話をしていた人間に、大いなる同情心が芽生えそうだった。ただ世間知らずのわがままな女だと思っていたが、単純に馬鹿なのではないだろうか。
 どこか幼稚な所があるのは、彼女が辛い体験をしたその日から、心の成長を止めてしまったせいなのかもしれない、と考えた。

 サーサリアはくるりと体を回転させ、顔をシュオウの胸にうずめた。そのまま、めそめそと声をあげて泣きじゃくる。
 それにどうしていいかわからず、ただ背中をさする事しかできなかった。

 「苦しい思いをしたり、泣いたりできるのは生きているからだ。それすらできなくなった人達のことを、すこしくらい考えてるか」
 サーサリアの鳴き声がぴたりと止まる。

 「親の愛で生まれ、長い時を学ぶ事に費やして、辛い修練に耐えて鍛えても、死ぬときは一瞬だ。死ねば全部なくなる、苦労や努力は無になるんだ。俺は死にたくない。まだ見たいものも、したいこともたくさんある。だから、生きて帰りたい」

 サーサリアに語りかける言葉は、自分への言葉でもあった。
 ――生きていたい。
 人に嘲られながら腐った飯を漁っても、死ぬよりも苦しい修練にあけくれていても、常に自分はこの想いと共にあった。

 「お前は、どうなんだ」
 その問いに、間を置いてサーサリアは伏せたまま首を振った。
 「わからない……」

 彼女の肩を支え、強引に顔をあげさせる。
 子どものようにくしゃくしゃに歪んだ泣き顔を、強く睨みつけた。
 「俺は生きたいんだ。それに、お前も無事に連れて帰りたい。だから、そのために力を貸してくれ。手伝ってほしい事がある」
 下唇を噛み、鼻水をこぼしながら涙目で、サーサリアは一度、二度、三度と頷いた。



 耳が痛くなるくらい静寂に覆われる山の中で、サーサリアの荒い呼吸音だけがやたらと耳についた。
 当然といえばそう。彼女は今、もっとも苦手としている生物を誘き寄せるため、一人無防備に佇んでいるのだ。

 周囲は背の高い山々に囲まれ、サーサリアが背負って立つ森は生物の息吹もなくただ静かだ。
 温かな日差しが降り注ぐ、途方もなく穏やかな世界。

 シュオウは森の中で横倒しにされた大木の影に隠れていた。手にはカナリアの持ち物であった長剣が握られている。
 数刻前、シュオウは狂鬼と戦う意思がある事をサーサリアに告げた。一匹ずつを誘き出し、少しでも有利に戦う事が出来る、障害物の多い森に引き込んで戦おうという案だ。

 しっかりと休息はとらせたつもりだが、サーサリアは頭痛や微熱を引きずっている状態で、はっきりいってかなり無理をさせている。だがそれとわかっていても、シュオウは強引に彼女の了承を取り付けた。それはなにより、今回のこの遭難は、これから時間との勝負になるという強い予感があったからこそだ。

 「きたッ」
 空に浮かぶ紅い虫。もう何度も聞いた不快な羽音も、すっかり耳慣れしてしまった。
 「おッ………………おぉーい!」
 サーサリアは手順通り、手を大きく振って狂鬼の気を惹く。当然、長らく探していたはずの獲物を見つけた狂鬼は即座に滑空の体勢をとった。

 ――釣れた。
 あとは手はず通り、サーサリアが森の中に逃げ込み、シュオウの隠れる大木を跨いで奥まで逃げればいいだけだ。狂鬼が獲物に気を取られてこの大木の上を走り去る瞬間、下から思い切り剣で突き刺せば、死角から勝利を得られるはずだ。

 辺りを覆う木々は幾重にも重なり、天然の要害となって飛翔を妨げる。アカバチの持つ特性の中でも一番やっかいな眼の良さは、視界の外からの不意打ちによって脅威ではなくなるだろう。

 しかし、なにごとも予定通りにはいかないものだ。
 サーサリアはもたもたと足をばたつかせるばかりで、あまりにもその歩みは遅かった。
 ほぼ落下する形で狂鬼が舞い降りる。着地した後、即座に足をつかって尋常ではない速度でサーサリアに襲いかかった。

 サーサリアはどうにか森の中に逃げ込むが額には玉のような汗が浮かんでいる。視線は明後日の方へ泳ぎ、恐怖に硬直した体は足をもつれさせ、無防備に体は地面に横たわった。
 「くそッ」
 予定変更だ。勢い良く大木の影から飛び出し、転んだサーサリアを掴み上げて引き上げる。歯をカチカチと鳴らしながら迫り来るアカバチは、寸前までサーサリアがいた地面に、鋭い爪を突き立てた。間一髪である。

 呼吸も浅く興奮状態に陥ったサーサリアを抱きかかえ、シュオウは走った。
 大木をまたいで飛び、木々の隙間を縫うように走り抜ける。
 なにもない場所であれば、アカバチの足に瞬時に追いつかれていたはずだが、ここは入り組んだ森の中だ。事前におおまかな地形を把握していたシュオウにとっては、それが多少有利に働いた。

 アカバチは威嚇音を発しながら、障害を避け、小さな木をなぎ倒しながら追ってくる。
 シュオウは見覚えのある地点を見つけ、そこでサーサリアを降ろした。

 「ここから真っ直ぐ走って逃げろ!」
 言った途端、サーサリアは無言で走り出した。それは何か考えを持って動いているような動作ではなく、ただ本能に突き動かされているような、そんな走り方だった。

 シュオウは振り向き、剣を抜いた。
 すぐ目の前まで追いついてきたアカバチは、一瞬歩みを止めて首を回した。

 「やっぱり、狙いはあいつなのか? 理由を聞いたって教えてくれるわけはないよな」
 輝士の長剣を両手で構え、長い切っ先を突き出す。
 狂鬼は、しかしこちらを無視してサーサリアを追う姿勢を見せた。

 一歩前に出された紅い足を、シュオウは剣で思い切り薙ぎ払う。風を切る音。アカバチは寸前で前足を上げ、何事もなかったかのように躱してみせた。

 カチカチ、カチカチッと威嚇音が鳴った。
 「そうだ、目の前にいるのはお前の敵だ! 獲物まで辿り着きたかったら俺と戦え!」
 人語が通じる相手でないことはわかっている。が、言葉は伝わらずとも、挑発する意思は伝わったらしい。アカバチは突如怒りに咆哮をあげ、二本の前足でこちらに襲いかかった。

 喉を狙った前足の爪を逸らして躱し、足を狙った二撃目を後ずさりで躱す。
 ――目が良いのはお互い様。
 だが狂鬼は人とは違う。所作に油断はなく、こちらが攻撃を躱してみせたことに驚く様子もなくすぐに次の手に打って出る。尾を腹のほうへくるりと巻いて、槍のように鋭い針を尾の先端からぬるりと突き出した。

 伸縮自在な槍の一撃。尾針の先端からは透明な雫が溢れ出ている。獲物を生け捕りにする麻痺毒だろう。
 尾針の一撃は強烈で早かった。身体を使って避けるにはあまりに分が悪い。咄嗟に剣を構え、尾針をはじく。凄まじい力に押し負けそうになる寸前、膝を折ってうまく身体を反らしてみせた。

 尻餅をついた状態で周囲を見渡すと、あちこちの木につけた目印が見えた。アカバチを相手にするのに適した場所であると、自分でつけた印だ。

 身体を曲げて後転し、勢いよく立ち上がる。
 刹那、再び尾針の一撃が見舞われた。
 ――ここだ。
 シュオウは大地を這う木の根にわざと足を引っかけ、背中から盛大に転けた。

 目に写る世界は緩やかに流れていく。毒液のしたたる尾針が、自分の胸を突く間際、身体はまっすぐ後ろへ倒れて行き、尾針はただ虚空を貫いた。
 森のなかにできた小さなくぼみに、シュオウの身体は放り出され、勢いそのままに突進を継続した狂鬼はこちらの頭上を跨ぐような形になる。この時、シュオウは初めてアカバチの視界の外に出た。

 「俺の勝ちだ!」
 片腕で身体をささえ、無防備に晒されたアカバチの腹を目掛け、カナリアの長剣を突き刺す。勢いを殺し切れていないアカバチは、腹に剣を刺したまま自分からその傷口を大きく広げた。銹びた車輪のような悲鳴が轟き、アカバチは盛大に体液をぶちまけて、そして絶命した。



          *


 真っ直ぐ逃げろと言われたサーサリアは、愚直なまでにその言葉を実行していた。
 もはや自分の考えなど、なにもない。
 紅い狂鬼の姿を見た途端、巨大な虫の口の中で苦しみながら死んでいった母の姿が頭に浮かび、冷静さと共に思考力のすべては消え去った。目に写る世界はすべて薄暗い灰色に覆われ、圧倒的な存在感を放つ狂鬼をも同色に塗りつぶした。

 サーサリアの脳は、恐怖を呼ぶすべての光景の受け入れを拒否したのだ。空気の臭いも、激しく繰り返される呼吸の音も、なにもわからない。だから、サーサリアは気づいていなかった。狂鬼の羽音が背後から迫っている事に。

 森を抜け、寝泊まりしていた洞窟の入口を通り過ぎ、ゴロゴロとした白い岩が転がる平原を駆け抜けた先に、サーサリアは崖っぷちへと辿り着いた。目眩のするような高さ。底から吹き上げてくる風が死出の旅路に誘う手招きのようだ。

 太陽は沈みかけ、空はあかね色に染まりつつある。
 振り返ると、そこには一匹の巨大な虫がいた。
 瞬きも呼吸も忘れ、サーサリアはただその虫を見つめていた。
 鋭い爪を備えた前足が持ち上がる。不思議と恐怖はない。
 虫の前足が振り下ろされる寸前、突如目の前に男の背中が現れた。途端声が耳に届く。
 「何度も呼んだんだぞ!」

 シュオウは狂鬼の前足を剣で払いのけ、サーサリアの手を引いて間合いをとった。
 輝士の長剣を携え、豪快に身体を動かしてシュオウが狂鬼に立ち向かう。
 時にあと一歩の所まで踏み込み、抉るような狂鬼の反撃も軽やかに躱してみせる立ち回りは、荒事にまったく知識のないサーサリアから見ても見事なものだった。

 だが形勢は少しずつシュオウにとって悪い方向へと進んでいく。狂鬼の放つ爪の一掻きに押され、変幻自在な尾針の攻撃を剣でいなすのがやっとの状態だ。
 シュオウが一瞬の早業で相手を追い詰めたかと思えば、狂鬼は猛烈に羽根を動かして爆発的な風をまき、即座に形勢を立て直す。

 ――私の、せい?
 ここはあまりに開けている。狂鬼にとっては、その巨体を存分に暴れさせる事が出来る最適な場所だ。彼が今、不利な状況で戦っているのは自分のせいなのだろう。きっとまた、なにかをしくじったのだ。

 視界はより不鮮明になっていく。
 自分にとっては都合の良い逃避。あるがままの現実を受け止めるだけの力すら失ってしまったのか。
 「※※ろ!」
 彼がなにかを言ったような気がした。だけどわからない、聞こえない。

 その時、狂鬼の尾針がシュオウの肩をトン、と突いた。その瞬間に、糸が切れた操り人形のようにシュオウの体が崩れ落ちる。多くの輝士達にしたように、麻痺毒で身体を冒したのだろう。

 狂鬼は彼にトドメを刺そうとはしなかった。崩れ落ちたまま微動だにしないシュオウを跨いで、一心不乱にこちらへ向かってくる。
 サーサリアは崩れ落ちるように雪の上に腰を下ろす。父や母にしたように、この虫も自分を食べるのだろうか。

 音は遮断され、視界はぼんやりと霞んで色すら認識ができない。
 サーサリアは自嘲する。幻を見せる花に依存し、あらゆるものから逃げてきた人生だった。たいした努力もしてこなかったが、逃避の果てに、ついに心と体は恐怖を完全に遮断する術を体得したらしい。これを克服と呼んだら、きっと彼は怒るにちがいない。

 首を落とし、項垂れる。目を開けている意味はもう感じない。
 終わりを待つだけだった。なのに――
 「※※※※※※!」
 なにも聞こえないはずなのに、何かが聞こえた。人の声。男の声だ。大切な音だ。
 「前を見ろ! サーサ!!」
 懐かしい響きだった。それが耳に届いた時、世界が突然に広がった。
 目に写る灰色の世界が、すべての色を取り戻していく。
 美しい白の世界に落ちた一点の紅い染み。狂鬼は今まさに目の前まで迫り来る瞬間だった。

 人の世界にあってはならない異物を睥睨する。
 サーサリアは左手を前に突き出した。念じる意思はただ一言だけ。
 ――動くな!
 狂鬼が頭から地面に崩れ落ちる。晶気によって生み出した紫色の毒霧が、そのまわりにまとわりついていた。しかし、すぐにサーサリアの呼吸は乱れる。これだけの大きさの相手を殺しきるだけの力は、自分にはないのだ。晶気を操るための努力をなんらしてこなかった今の自分には、ほんの僅かな足止めしかできなかった。

 毒霧はしだいに濃さを失っていく。狂鬼はすぐに正常な身体機能を取り戻し、サーサリアの前で両前足を振り上げた。
 サーサリアは咄嗟に両手を構えて防御の姿勢を取る。狂鬼を前にしてあまりに無意味な行為ではあったが、それは何より生きたいと心が望んでいる証拠でもあった。

 「………………あれ」
 狂鬼は前足を振り上げたまま動かない。翳した手の隙間から覗くその身体には、頭がなかった。
 そのままの体勢でどさりと横倒れになった狂鬼の後ろで、剣を振り下ろした姿勢のままで固まるシュオウがいた。

 「シュオウ!」
 「よく、やったな」
 シュオウはぎこちなく笑みを作る。だが様子がどこかおかしかった。勝ちを得たはずなのに、剣を振ったままの体勢で指一本動かそうとしない。サーサリアが手を差し伸べようとすると、シュオウは剣を握ったまま、どさりと後ろに倒れ込んでしまった。そこでようやくカナリアの長剣が手から離れた。

 思い出す。そもそも彼は身動きがとれないはずなのだ。
 即座に駆け寄りシュオウの顔を覗くと、左目から大量に涙が零れていた。
 「どうして……?」
 シュオウは、にぃと歯をむき出しにする。見える歯はすべて黒く塗りつぶされていた。
 「お前に追いつく前にあるだけ全部口に放り込んでおいた。戦ってる最中に少しずつ唾で溶けるから、苦くて死にそうだったよ。あいつに刺された瞬間に全部噛み砕いて飲み込んだから、それからずっと涙が止まらない。でもそのおかげで、ほんの一瞬体を動かせるくらいの効果はあったみたいだ。運が良かった」

 どこか大人びた笑みに釣られるように、サーサリアも笑みをつくる。
 「だいじょうぶ?」
 「じゃ、ないな。もう指一本動かせない。ただ、首から上はかろうじて自由が残ってる。いっそ気を失ったほうがましだったのに」

 「でも、生きていられた。あなたのおかげで」
 晴れやかな心で言うが、シュオウは苦笑いを浮かべた。
 「安心するのは早い」
 シュオウは空に向かって顎をしゃくった。その方向を見ると、空を滑る紅い虫の姿があった。

 「そんな……」
 「最後の一匹を相手にする余力はないな。さっきのあれ、もう使えないのか?」
 サーサリアは首を振って答える。
 「私の力じゃ、仕留めきれない。できても一瞬の足止めくらい」

 「そうか――」
 シュオウは固唾を飲み下した。
 「――逃げろ、と言っても、どこにも逃げ込めるような場所はないか」
 サーサリアは、シュオウの心臓の上に頭を乗せた。
 「あっても、あなたを置いて逃げたくない」
 その言葉に対しての返事はなかったが、代わりにトクントクンと静かに脈打つ心臓の鼓動が耳に心地良かった。

 狂鬼はすでに目前にまで迫っている。
 あれほど恐怖を感じていた羽音も、いまではどうでもいいただの鈍い音に聞こえた。
 「死にたく、なかった」
 彼の言葉が胸に突き刺さる。

 ――ごめんなさい。

 ひさしく考えた事もなかった謝罪の言葉。それは心の中でだけ唱えられた。変わる別の言葉など、今は一切思いつかない。

 向かってくる最後の狂鬼は、なぜか前足が一本欠けていた。
 空を泳ぐ狂鬼は羽根をたたみ、尾針を突き出してそのまま滑空して向かってくる。一撃でこちらを仕留めようというのだろう。

 あと数秒で届こうかという距離になって、狂鬼は突然羽根を広げて速度を落とした。次の瞬間、音も無く現れた四匹の氷の狼達が狂鬼の足に食らいついていく。狂鬼は力一杯羽ばたくが、氷狼達の重さによって少しずつ高度を落としていった。囚われた狂鬼の判断は速かった。自ら四本の足を引き千切る形で氷狼の拘束から逃れ、そのまま脱兎の如く彼方へ逃走して行った。

 あとには何も残らない。ただ空と、世界があるのみ。
 三匹の紅い狂鬼の襲撃から始まった騒動は、こうして静かに幕を閉じた。



 事の顛末を見届けたシュオウは、鈍りかけていた思考でようやく助けが来たことを理解した。眠気に誘われるような感覚を抱え、すでに意識は途切れかけている。

 ひょっこりとこちらを覗く見慣れた少女の顔をみて、全身に安堵が染みわたっていく。
 「うい、まえん」
 すでに、舌にまで毒が浸透しはじめたらしい。
 「すまぬ、アデュレリアはそなたに一生の恩ができた」

 小さな顔に涙を溜めて、アミュ・アデュレリアが握った手をそっと胸に置いた。
 「すぐに薬師をここに呼べ! 容体を見て中継地までこの者を運ぶ。誰でもよい、先行して国一番の医者を用意させておけ!」
 アミュはシュオウから離れ、次々と周囲に指示を飛ばしていった。

 交代するように、再び見知った顔がこちらを覗く。
 ――ジェダ・サーペンティア、だったか。
 「随分お疲れのご様子だ。ごくろうさま」
 上から見下ろすようなジェダの言葉にむかつきを覚える。

 「途中森の中で死んだ狂鬼を見たよ。聞かなくても、あれをやったのは君なのだろうね」
 ジェダはすぐ近くで頭を失って絶命したアカバチへ視線を送って目を細めた。

 「化け物がなぜそう呼ばれているか、知っているかい?」
 舌が機能せず、答えることができないシュオウは突拍子もないジェダの質問に対して眉根を寄せて不快感を表明した。
 「僕は人の手に負えない相手をそう呼ぶのだと思っている。であれば狂鬼とはまさに化け物と例えるのにうってつけだが、その化け物を生身で屠る君は、いったいなんなのだろうね」

 人を舐めるような視線。ジェダはにやついた笑みを貼り付けてくすくすと笑った。
 ――うるさい。
 体が動くなら、首根っこを押さえ込んでやりたかった。

 「怒るなよ、褒めてるんだ。それに同情してほしいくらいだよ。おそらく、これから僕は君を担いで山歩きをさせられる。ここまでろくに眠る事もできなかったのにね」
 苦笑いで頭をかくジェダの目の下には隈があった。それを見て、シュオウは少し溜飲が下がる思いがした。

 目蓋が重い。
 サーサリアは無事に保護されただろうか。
 ここにアデュレリアの主がいる以上、もう何も心配をする必要はないだろう。
 もう、眠ってもいいはずだ。





          *





 アデュレリア本邸の中庭は、冬の残り香が残していった真新しい雪に覆われていた。
 夜の帳が下り、純白の雪はくすんだ闇に溶かされ、天空から降り注ぐ月明かりを受けて銀色に輝いている。
 葉の落ちた木々の枝は、するりと抜けていく風に揺られてざわざわと音を立てていた。

 「座ってもいい?」
 「……ああ」
 中庭に置かれた長椅子に腰かけていたシュオウの隣に、サーサリアが座る。その出で立ちは外出着のままだった。

 「戻ったんだな」
 「うん」
 「フェースは、どうだった」
 「フェース侯爵は……とても悲しそうだった。謝ったけど、それが娘の仕事だったって。あなたには特に感謝してた。綺麗なまま娘を送ってくれて嬉しいって」
 「嬉しい、か」
 シュオウは自嘲して顔を歪めた。

 「こんな所まで一人で歩いてきていいの?」
 「あれから半月もすぎてるんだ。いいかげん体力を戻さないと」
 サーサリアは腰を横にずらし、シュオウにぴったりとくっつく。シュオウはすかさず同じように腰をずらし、先ほどと同じくらいの距離を空けた。

 同じような事を何度か繰り返し、サーサリアはようやくシュオウを椅子のはじまで追い詰めた。
 シュオウが盛大に溜息を漏らす。

 サーサリアは、彼の手にそっと触れた。
 「無理はしないで」
 「……わかってる」
 シュオウは言ってそっぽを向いた。

 「ねえ――」
 サーサリアはシュオウの腕を絡め取り、寄りかかった。
 「――もう一度呼んでほしい。あの時みたいに」

 シュオウは顔をそらしたまま、ぶっきらぼうに答えた。
 「いやだ」
 「どうして? だって、あの時は――」
 「あれは、ぼうっとしてたお前の注意を惹くために呼んだだけだ」
 サーサリアはしゅんと肩をおとし、唇を尖らせた。
 「なら、おまえ……でもいい」

 拗ねるように言ったサーサリアに、シュオウが席を立ってひざまずいた。
 「邸の中に戻りましょう殿下。このままではお風邪を召してしまいます」

 しばしの静寂。

 多くの臣下達と同様に振る舞うシュオウを前にして、サーサリアの瞳には少しずつ涙が溜まっていく。しかし、よくよく監察してみれば、シュオウの肩は小刻みに揺れていた。
 堪えきれず、シュオウは自分の柄ではないと吹き出した。

 「もう……」
 溜めた涙を拭いながら、サーサリアはささやかに抗議する。
 「冗談だよ。半人前以下のお姫様には、お前でも十分すぎるだろ」
 「うん」
 シュオウの話し方は冗談めかした調子だったが、サーサリアはその言葉を真摯に受け止めた。

 「もう少し、ここにいてもいい?」
 「好きなだけ」
 シュオウはさっきとは逆側に座った。距離を置くためかと思ったが、そこは風が吹いてくる方角である。
 身に染みるような冷たい夜の風は、もうサーサリアには届かなかった。
































*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*
あとがきのようなもの



ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
謹慎編は今回で無事にクライマックスまでの展開を終える事が出来ました。
今回の投稿分は二回に分けてだす予定だったのですが、勢いをつけて読んでもらいたい部分だったのでこういう形になりました。
今後も、長かったり短かったりになると思いますが、なるべくきりの良い部分で区切ろうと思ってます。

謹慎編はラピスの心臓を始めてからの、3つめの大きな節目となりますが
後半の主人公は、ほぼサーサリアだったといっていいくらい出番が多くなりました。
薬に溺れるラリ姫として物語にデビューしたサーサリアは、生まれや過去の経験を含めて、結構ややこしい内面をもった人物像を設定しています。
彼女が主人公に対して抱いた感情は、恋愛の枠を遙かに超えているもので、出会いから短期間の関係だったわりには、とんでもなく重たいです。
例えるなら、長い間砂漠をさまよっていて、餓えと渇きで弱り切っている所に
目の前によく冷えた綺麗な水が出る蛇口が突然現れたような、そんなイメージです。
対する主人公はというと、モンスターと有利に戦うための釣り餌として使えてしまう程度の冷めた感情しか持っていません。
この二人の噛み合わない関係が、後々ストーリーにどう影響してくるのかという部分も、楽しみにしていてください。

次回は謹慎編のまとめとなるエピローグを投稿します。
その後は息抜き編を挟んで、主人公が初めて戦場で活躍する4つめのお話「初陣編」に入ります。
血と汗と野郎共がひしめきあう男臭いお話です。



[25115] 『ラピスの心臓 謹慎編 第六話 春』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2013/08/09 23:50
     Ⅳ 春










 シシジシ・アマイは思いがけず舞い込んだ幸運を前に、当初の予想よりも遙かに大きな覚悟を必要としていた。
 国境を面する北方の国へ使者としての任務に向かう途中、ムラクモの王女を預かる事となったアデュレリア公爵に土産を用意し、その対価として王女と一対一の会見の場を求めてから、すでに一月を越える時間が流れている。

 出世の足がかりにと、アデュレリア公爵に言った言葉に偽りはない。自分としては王女の機嫌をとり、親衛隊の末席にでも取り立てて貰えれば御の字だと思い、そのための種をまいたつもりでいた。

 だがしかし、自身が北方に赴き要人との会談に臨んでいる間に、王女は未開の山中にその身を投じ、狂鬼の襲撃にあって命からがら救出されるという前代未聞の事件が起こり、そしてその事をアマイが知る頃には、すでに事態は王女の無事な生還という形で無事に片が付いた後だった。

 他に変わる者のいない王位継承者が無事に戻った事も重要だが、この場合、アマイにとって同じくらい重要だったのが、親衛隊を率いていた若き指揮官の死であった。
 知らぬ相手ではない、カナリア・フェースという人間の死を悲しんでいないわけではないが、アマイの関心は、かつての教え子の死よりも、空席となった輝かしい名誉をちりばめた椅子に注がれていたのだ。



 「……それで、だれなの」
 東地を統べるムラクモの次なる王、サーサリア・ムラクモは低頭する目の前の男にそう聞いた。
 「王轄府所属、硬輝士、シシジシ・アマイと申します。サーサリア王女殿下に拝謁致します」
 メガネをかけた痩身の男、シシジシ・アマイは深々と頭を下げて、簡易に自己紹介を述べた。

 アデュレリア公爵邸の午後。別邸に宛がわれたサーサリアの仮住まいの小部屋には、温かい日差しが窓辺から差し込み、心地良いそよ風がレースのカーテンを揺らしていた。
 非公式な会談ということもあり、サーサリアは寝台に腰を降ろした緩やかな姿勢でこの場に臨んでいる。

 「アデュレリアの当主直々の申し出だったから仕方なく許した。けれど、見知らぬ相手と二人きりの会談は、あまり気分のよいものではない。用件があるのなら早くするがよい」

 きつく睨まれ、アマイは固唾を飲み込む。サーサリアには王位継承権を持って生まれた者にある、独特な気品と威圧感があった。高位にある者達との謁見には場慣れしていたつもりだったが、その経験が役に立つ相手ではないということを今更に認識させられる。

 「それでは、面倒をはぶいてはっきりと申しあげます。私を殿下のお側にお取り立てください」
 サーサリアの表情に険しさが増す。
 「ここのところ、体調があまりよくないの。言いたいことがそれだけなら、これ以上の我慢を期待するな」

 寝台から立ち上がり、部屋を出て行こうとしたサーサリアの前に、アマイは咄嗟に平伏して道を塞いだ。
 「お待ちください!」
 激高したサーサリアは声を荒げた。
 「アデュレリアにどんな縁故があってこの場を設けたのか追求はせぬッ。私は未熟な人間だけど、頭を下げられただけで地位を約束するほどの愚か者ではないぞ!」

 アマイは口元を引き締め、覚悟を決めた。
 「いいえ、殿下は無類の愚か者です」
 分を越えたその言葉に、サーサリアはたじろいだ。
 「な……に」

 「王家が政務の中枢より遠ざかって後、あまりにも長い時が過ぎました。本来、早々に王座についておらねばならなかった殿下は不義の薬に心を奪われ、その間に国家の政のほとんどはグエン・ヴラドウとあの男を信奉する者達に掌握されてしまいました」

 サーサリアはゆっくりと後ずさり、元いた寝台の上に再び腰を落とした。アマイは平伏したまま続ける。

 「殿下を愚か者と申しましたが、私はそれを責めているのではありません。一度として失敗をしない人間等、どこにもいないのです。しかし、お心を惑わし、間違った方向へ堕落した主君に、誰も手を差し伸べなかった事には、強い憤りを感じております」
 アマイは言って、大袈裟に床に額をこすりつけた。本来であれば、ここまでの言葉だけでも命を失う覚悟が必要になる。

 しかし、返ってきたサーサリアの言葉は穏やかだった。
 「顔を、あげなさい」
 サーサリアの表情は苦かった。
 ――変わられた。

 その成長と共に、離れた所から時折見るサーサリアは、いつも無表情で生気を感じなかったが、今目の前にいる王女の顔には、悔恨や悲哀の色がありありと浮かんでいる。
 サーサリアの心境にここまで激変をもたらした切っ掛けは、恐らく狂鬼に襲われたという、山の中で経験した遭難が大きく影響を与えたのだろう。

 サーサリアは左手の甲にある輝石をさすりながら視線を落とした。
 「時間に人、思い出の世界に逃げ込んで、なまけている間に、私は多くのものを失った。これまで自分の足で赴いて、私のせいで亡くなった者達の家に謝罪をしてきたけれど、誰一人責める者はいなかった。きっとみんな、私が憎かったはずなのに」

 それは当然の事といえる。サーサリアは唯一の王族。自然次の王になる事が決められた人物であり、臣下はその未来を思い描いて、彼女の前ではただ怯えて縮こまるか、可能なかぎり機嫌をとろうとするだけだ。

 「アマイ、といったな」
 「はい」
 「お前のように私の前で本音を語る者はあまりいない。そんな人間が私の側に居たいという。その言葉の正直な目的を言って」

 恐らく、これはサーサリアの最後通告だ。ここで若き王女の心を掴めぬのなら、アマイのもくろみは、泡沫の夢として消えゆくだろう。

 「私を親衛隊にお取り立てください。その目的は一つ、王家の再興に尽力するためにございます」
 「私は口先だけで多くの輝士達を無意味に死なせた。心を腐らせる薬に溺れて、それを断ってもなお、長い間花に蝕まれていた体が悲鳴をあげている。八つ当たりで女官達の息を止めて、苦しむ姿を見て、それを楽しんで眺めていた事も一度や二度ではないわ。そんな人間のために、側に仕えられるの」

 諭すように言うサーサリアに、アマイは話す言葉に熱を入れた。

 「我らアマイ一族は、古くは宰相を勤めたリリクを輩出し、王轄府とその下の各室に多くの官吏を生んだ、王家に忠誠を誓う東地土着の名家でした。しかし、いつの頃からかアマイの名は国家の中枢から遠ざけられ、領地はとうの昔に失い、異邦出身の有力貴族に奪われました。王家の再興を夢見る言葉に偽りはありません。ですが、叶うならばその功績を持って、私は再びアマイの名を世に知らしめたいのです」

 アマイは頭を落とし、瞬きもせずに地面を凝視した。
 「わかった……打算のある人間なら、私も少し気が楽になる」

 アマイは拳を強く握りしめ、顔をあげた。
 「ありがとうございます!」
 「けど、カナリアのいた席を望んでいるのなら、それは無理よ。そこにはもう座ってもらいたいと思っている人がいる」

 つまり隊長の座ということである。それはアマイが最も望んでいた役職であった。

 「それは、シュオウ、という名の平民の事でしょうか」
 おおよその予測をぶつけると、サーサリアは少し驚いた様子を見せる。
 「知っているの?」

 「なにかと噂を耳にする人物であり、私も少し前に直接話をする機会を得ましたが、とても能のある若者であると思いました」
 シュオウを褒めて言うと、サーサリアは誇らしげに微笑みを浮かべた。
 「そう、そうでしょう」

 「しかしおそれながら、あの若者を親衛隊の隊長に推すという事であれば、私は反対致します」
 微笑みが一変し、サーサリアの顔から色が消える。背筋が凍るような寒気が背中に走った。
 「一応……理由は聞く」

 「あの若者が殿下の命を救ったという、英雄的な活躍をしたことは承知しております。が、だからといって一介の従士を、親衛隊の隊長という立場に抜擢するには、あまりに急すぎます。なにより平民に名誉ある役職を与えれば、それに疑問を抱いた者らの不満の矛先は、すべて彼に向かうでしょう。恩人が心を病んでしまうような立場に置かれるのを、殿下は承知なさいますか?」

 サーサリアの気勢はみるみると落ちていった。
 「……でも、私はあの人に、そばにいてほしい」
 言いつつ人差し指で寝台のシーツに何か文字のようなものをなぞっている。サーサリアの表情は、どこか熱を帯びている。

 そうしているのを見ると、幾分年齢が若返ってしまったかのようにも見える。
 王女という鎧を脱いだ、一人の若い女としての姿がそこにはあった。

 答えはわかっていても、件の若者が殿下の思い人なのですか、とは聞けなかった。是と言われれば、それは王家の復興を強く願うアマイにとって、最悪の事態である。

 サーサリアはもじもじとシーツをいじりながら、言う。
 「あの人はとても有能で、高潔な人。私を命がけで守ってくれた。それに相応しい待遇で迎えたい。せめて副長というのは――」

 熱に浮かされた様子で話すサーサリアに、アマイは冷ややかな調子で水を差した。

 「ありていに申します。たとえ与える役職が親衛隊の末席であったとしても、周囲の風当たりはなんら変わりはしません」
 サーサリアから発せられる熱が、一段落ちたような気がした。
 「一度も使った事はないけど、親衛隊の人事権はすべて私にあるはず」
 アマイは声の調子を上げた。

 「殿下、私は無理なことは無理であるとはっきり申し上げます。ですが、お望みをよりよい形で叶えるための努力は怠りません。あのシュオウという若者の実力はアデュレリア公爵も認めるところ。なら、その才をいかんなく発揮できる場をお与えください。実力をもって親衛隊に相応しい階級と実績を得れば、いずれ華々しい待遇でお側に招き入れる理由付けにもなりましょう。彼が殿下の命を救ったという英雄譚を適度に喧伝しておけば、出世の後押しにもなります」

 サーサリアは唇を噛み、諦めきれぬ様子である。

 「だけど、それには時間がかかる。私はもっとあの人の側にいたい。あの人が褒めてくれるような王になりたい。がんばっている姿を目の前で見ていて欲しい。認めてもらいたい……」
 サーサリアは薄く涙を溜めながら、縋るような視線を寄越す。こちらを見ているようで、その先にいる想像の中の男しか見ていないような気がした。

 ――危うい。

 無事に生還してから後、サーサリアはあれほど依存していた花を欲しがらない、とアデュレリア公爵から聞いていた。命がけの体験をしたことで悪癖を克服する事ができたのではないかと公爵は言っていたが、本当のところは、寄りかかるモノが入れ替わっただけなのではないだろうか。

 いずれにしても、シュオウという一人の男の存在が、王女の精神状態にとって非常に重要な存在となっている事は把握できた。これに上手く対処しなければ、取り返しのつかない事態を招きかねない。

 「ご心配なく。私に相応の力をお与え頂ければ、彼とは定期的に会う事ができるよう上手く手配を致します」
 「本当に?」
 アマイは慎重に頷いた。

 「ですが、注意が必要です。あの若者はムラクモという国家に執着がありません。私が把握するところ、金や物に転ぶような人間でもなく、機嫌を損ねればあっさりと軍を辞して国外に出て行ってしまうかもしれない。実際、世界中を旅してまわるという願望があるようですから」

 サーサリアの表情が不安と恐怖に崩れた。

 「もちろん王家の権力を使って無理を通す事もできますが、それをするには彼の実質的な後ろ盾となっている人物の存在を無視できません。その力はあまりに大きすぎます」

 シュオウの存在が、王女の心の拠り所となってしまっている事実は手に余るが、これをうまく利用すれば、サーサリアの信頼を得る近道ともなる。アマイはここぞとばかりにたたみかける。

 「ですが、私ならそうした状況を俯瞰し、上手く殿下のお望みを叶える自信があります。平民の若者との逢瀬を手伝う等と、他の誰が申せましょうか。殿下、どうか私をお使いください。約束を違えたときは、一族もろともに、生きたまま左腕を切り落とします」

 サーサリアは不意に立ち上がった。

 「アマイ。お前に親衛隊の長としての椅子を与える。今言った事を守ると、ここで誓って」
 「ありがたく拝命し、そして誓います」
 サーサリアは膝を折り、アマイの顔を必死な形相で睨みつけた。
 「絶対にあの人を手に入れて」
 「かならず…………」

 思い通りの結果になった、と手放しに喜ぶ事などできはしない。現実とはいつも思い描いた通りには進まないものだ。
 名誉ある親衛隊の隊長という座に抜擢されるという大出世を遂げながらも、王室の抱える問題はあまりにも大きい。なによりも弱体化してしまった血筋を広げるためにも、より多くの世継ぎが必要なこの状況にあって、王女が選んだ思い人は、彩石を持たない平民の若者だったのだから。





          *





 からりとした空気が湿気を帯びはじめ、溶けた雪の下から活力に溢れた植物たちが顔を出す。温かな日差しの下、小鳥たちは忙しなく語り合い、天高く爽快に広がる青空を、純白の雲が泳いでいく。

 春が訪れ、アデュレリアは王都へ戻るムラクモの王女サーサリアを送り出す日を迎えていた。
 しかし、旅立ちを見送る一団の中に、アデュレリアの主の姿はなかった。

 「見送りに参加しなくてよかったんですか」
 シュオウは邸の二階にある窓際に立ち、シシジシ・アマイを伴って馬車へ向かうサーサリアを見下ろしながら聞いた。

 「自分にその資格はないからと言われてな。別にたいした労力も使わんが、王女の気持ちを汲む事にした」
 アデュレリアの領主、アミュはシュオウの隣に立ち、同様に窓からサーサリアを見つめつつそう呟いた。

 「そなたの方こそ。あの一件以来王女には随分と気に入られておったろうに」
 「体調を整えている間、さんざん付きまとわれましたから。もう十分です」

 疲れた調子で言うシュオウに対し、アミュがカッカと笑う。

 「ムラクモの王女に懇意にされて邪魔に思うとは、なんとも豪快なものじゃ。カザヒナから聞いたが、あの娘はそなたを親衛隊に引きずり込もうと画策しておったそうな。もし誘われたら、そなたはどうする?」

 問われるも、シュオウは返事に窮した。
 見下ろす視界の先には、今まさにサーサリアが馬車に乗り込もうとしている真っ最中である。その時、ふと彼女がこちらを見上げた。視線が重なると、嬉しそうに破顔して軽く手を振ってくる。

 シュオウは窓際からさっと離れ、サーサリアとの間に線を引くようにカーテンを流した。

 「興味はありません。俺にとっては、あまりに世界が違いすぎる。それに――」
 親衛隊という存在を思い描いたとき、頭にある人物が浮かんだ。
 「――カナリアさんのような死に方は、したくないですから」

 アミュは口元に力を入れて、難しい表情で遠くを見つめた。
 「カナリア・フェースか。あれは惜しい人間じゃった。目の前で看取ったそなたも、辛い思いをしたであろう」

 同情するような眼差しを受け流し、シュオウは鼻先をかいた。

 カナリアの死は、知り合って短期間だったとはいえ、すでにある程度の人となりを知っていたシュオウにとって、心に棘を残したのは間違いない。しかし悲しいと思う事以上に、シュオウは彼女の死を、心のどこかで軽蔑していた。

 王女という存在を前にただ命令に従い、鍛えた技を発揮する間もなく、高所から落ちて死んだ。そんな結末を迎えた彼女の人生は、いったいなんだったのだろうか。

 「俺にはわからないんです。親衛隊だとか、輝士だとか。軍という群れの中での立場や階級にどれほどの意味があるのか」

 アミュは窓から距離を置き、椅子に腰かけて「そうか」と呟いた。そして、さて――と前置きして一枚の書簡を卓に置く。

 「これは?」
 「今の話をした後に出すのもなんではあるが、そなたが所属している第一軍からの配属指令書になっておる。任地は国境を面する南方との最前線。規模は小さいが、領土を巡って日夜争いが繰り返されている純然たる戦地じゃ。命令としての正式な形はとられているが、この話、我の一存で反故にする事も出来るが、どうじゃ」

 アミュの聞いた事は、つまりこのままアデュレリアに残らないかという誘いなのだろう。
 シュオウは卓の上にある薄っぺらい紙を眺めて、深く息を吐いた。

 「その命令を受けます」
 その答えを聞き、アミュは表情を暗くして食い下がる。

 「アデュレリア麾下の左硬軍であれば、そなたを相応の立場として迎え入れる事ができる。たとえ軍属という立場が嫌だとしても、食客としてそなたを高給で雇いたいとも思っていた。やっかみや嫉妬も買うであろうが、それらの雑音はすべてこちらが引き受けよう」

 シュオウは即座に首を振ってそれを拒否する。

 「ここは、俺にとって居心地が良すぎるんですよ。皆が優しくて、食べ物も美味しくて、自分だけの良い部屋があって、カザヒナさんが何かと気にかけてくれる。けど、何もかもが手に入ったようでいて、何一つ自分の物だと思えないんです。俺は、欲しい物は自分で手に入れたい。今の自分はこの国の雇われ者で、雇い主がそこに行けと言うのなら、もらう給料の分は働いて返します」

 アミュはねっとりとまとわりつくような溜息をこぼした。
 「これ以上の引き留めは……野暮であろうな」

 そう言って、さらにもう一枚の書簡を取り出す。さきほどよりも一目でわかるほど高価な紙が使われていた。

 「これは王轄府からの昇進を言い渡す証書じゃ。さきほどの配属命令を受け入れるのと同時に、そなたは正式に従曹の階級に置かれる事になる」

 「昇進……? 謹慎処分中だった俺が、ですか」

 「これは王女を無事に連れ戻した功績に対する褒賞として受け取るがよい。謹慎中であるということを考慮しても、そなたがした事に対する見返りとしては、あまりにケチがすぎるのじゃがな」

 アミュは二枚の紙をまとめ、こちらに差し出した。シュオウはそれを粛々と受け取る。
 「たしかに、受け取りました」

 アミュの表情は曇ったままだ。

 「階級が上がったことで、職業軍人としての給料はそれなりに増えるであろう。並の暮らしをするには十分すぎるほどにな。戦地へ赴けば、そなたは少人数の部隊をまかせられる事になるはずじゃ。現地の司令官アル・バーデン准将は特別優秀というわけでもないようじゃが、特段に悪い噂は聞いたことがない。じゃがもし、そなたが彼の者を上官としてふさわしくないと思ったのなら、いつでもよい、ここへ戻れ」

 まるでひな鳥の旅立ちを見つめる親のように、アミュは心底こちらを案ずるような視線を向けてくる。その顔が旅立ちの意思を告げた日に見た、師匠のアマネと重なった。
 「ありがとう、ございます」
 丁寧に腰を折って一礼する。ただ一言の、心からの感謝の言葉だった。

 「うむ…………。ああ、それとな、まだいくつか話が残っておる」
 アミュは卓から離れ、部屋の隅に置いてあった大きな木箱へ歩み寄った。
 「これはフェース侯爵からそなたへの謝礼だそうじゃ」

 突然に湧いて出たカナリアの父の名を聞き、シュオウは首を捻った。
 「俺に?」

 手招きされて木箱に近づき、中を覗き込むと、その中にさらに小さめの箱がいくつも積み重ねて入れられていた。木箱の蓋を一つ開けてみると、そこにはぎっしりと輝く銀貨が整然と詰め込まれていた。

 「これって……」
 「これだけで一財産になる。富豪であるフェースならではの礼の仕方ではあるが、本当の所は侯爵への謝罪に赴いたサーサリア王女が、そなたの活躍を存分に話して聞かせたのが原因であろう。娘を看取ったとはいえ、見知らぬ平民の事など、実際には歯牙にも掛けておらんはずじゃが、そなたが姫の気に入りであると気づき、こうして機嫌を取るような真似をしたのじゃろう。というわけでこれを受け取るに、一切の遠慮は無用じゃ」

 木箱の大きさは、大人でも運ぶのに四人は必要であろうかというほどである。これだけの金に見合うほどの事を自分がしたとは到底思えなかったが、金は人の世でもわかりやすい力の一つだ。持っていて損をするという事はない。

 「じゃあ、手持ちで運べるだけを」
 「そうじゃな。残りはこちらで責任をもって保管しておく。必要になればいつでも連絡を寄越すがよい」

 シュオウは頷いて、いくつかの小さな袋の中に入るだけの銀貨を詰め込んだ。新たな任地へ向かう今、正直に言って懐が温かくなるのは心強い。

 アミュは、再び窓際に立って外の景色に目をやった。
 「王女が出発するようじゃ」

 誘われるように、シュオウも外を見る。品の良い馬車が中庭を通り、多くの者達に見送られて門に向かって進んでいた。

 「来たときと帰るときとでは、まるで別人であったな。今朝は早くから、邸で働く者達に礼を言って廻ったそうじゃ」

 「らしいですね」
 「素っ気ないものじゃな? あの娘はなにかする度にそなたの居場所を知りたがったそうな。恐らく褒めて欲しかったのではないか」

 シュオウは口元を苦く歪めた。
 「俺には……関係ないです」

 サーサリアと無事に生還してから、彼女は公務として今回の一件で命を落とした輝士達の家に、直接説明と謝罪をして廻った。それ以外ではアデュレリアの邸に滞在していたのだが、その間中シュオウは彼女に追い回され、遭難していた時と同じように共に食事をとりたがったり、一緒に寝たがったりと、まるで刷り込みをした雛鳥のように付いて歩いてきたのだ。

 深界を共に歩いた後のアイセやシトリのように、自分に異性としての好意を抱いてくれたというのはわかっていても、サーサリアはどうにも貴族の娘達ともまた違った想いを持って寄ってきているような気がしてならなかった。

 ――あの感覚は。

 それは、溺れた人間が無我夢中で伸ばす手のようなもの。そこには一切の余裕がなく、助けようとして手を差し伸べたら最後、先の見えない激流の中に引き込まれてしまいそうな気がする。

 サーサリアの馬車は、正門を出て街中を通らない、目立たない裏道へと入って行った。ここからではもうその姿を追う事はできない。
 生まれ落ちた瞬間に王になる運命にあった姫と、親の顔も知らずにただ生きる事にのみ必死だった自分。交わる事のなかった運命は、偶然にほんの一瞬重なったにすぎない。

 ぼうっと外を眺めていると、横に立つアミュがじっとこちらに視線を送っていた。

 「あの?」
 「いやな、そなたにはやはり人の心を動かす力があると考えておったのじゃ。あの貴族の娘らといい、姫といい。人の傍らにあるだけで、その相手の運命を大きく変えてしまうような力がな。そなたを見つけたこの目に、やはり狂いはなかった」

 シュオウはそれを聞いて苦笑いを浮かべた。

 「ありません、そんなもの。自分の人生ですらいつも行き当たりばったりなのに」
 「そうかのう。ちなみに話しておらなんだが、アウレールとモートレッドの馬鹿娘達から、そなた当てに贈り物がひっきりなしに届いて迷惑しておる。そなたが反応を返さねばそのうち止むと思い黙っていたが、今では小さな物置部屋が一部屋埋まる勢いじゃ」

 シュオウは後ろ首を掻いた。

 「それは……すいません。必要ないからと手紙を出したんですけど」
 「もはや贈り物というより貢ぎ物の域じゃな。一度すべてを送り返してみてはどうじゃ。それでわからぬようなら、その程度の頭しかないのだと思って関係を断ってしまえばよい」

 険しい顔で言うアミュに、シュオウは首肯した。
 「そうしてみます」
 「うむ――――しかし、カザヒナのやつ遅いな」
 「なにか、あるんですか?」

 「ちとな。頼んでいた事がある。カザヒナといえば、あやつもそなたに影響を受けた者の一人であったな。我が知る限り、今までろくに男に興味を見せなかったというのに、妙にそなたの事は意識している。ひょっとして、おかしな香水でもつけているのではなかろうな」

 幼子に見えるアミュは、言ってそそそと歩み寄り、シュオウの腹のあたりに顔を近づけて臭いを嗅いだ。
 「ちょッ――」
 突然の事にシュオウが慌ててのけぞると、部屋の入口からガシャンと大きな音が鳴った。
 見れば、カザヒナが蒼白な様子で立ち尽くし、手にしていたと思しき細長い木箱を床に落として、口元に手を当てながらこちらを凝視していた。

 「アミュ様もそうだったのですね……。言ってくだされば、私のとっておきをこっそりお貸し出来たのにッ」

 シュオウの服を掴んで顔を寄せていたアミュは、途端に顔を紅くして怒鳴りだした。

 「あ、阿呆が! お前がシュオウの臭いとやらに執着しておったから、少し試し嗅ぎをしていただけじゃ!」

 アミュは俊足をもってシュオウから離れ、よじ登るように大きな椅子に腰かけて、とりつくろうように小さな咳払いを連続で吐き出した。

 カザヒナは落とした箱を拾い、意地の悪そうな顔でアミュを追い詰める。
 「で、どうでした?」
 「ふんッ、汗臭い普通の男の臭いじゃった!」

 カザヒナは満足気におほほと笑っているが、勝手に嗅がれて汗臭いと評価を頂いた自分としては、なんとも所在ない心地がする。
 ――出るまえに風呂を借りよう。
 服を摘んでワキのあたりの臭いを嗅ぎながら、そんな事を考えた。

 「くだらんことは置いておく。それよりも、例の物の出来はどうであった」

 カザヒナは手に持っていた木箱を卓の上に置いて、満足そうに強く頷いた。

 「素晴らしいですよ。ガライ師匠もご当主様直々の注文ということもあって、相当に気合いを入れたとか。私から見ても名を付けるのに値する逸品です」

 無邪気に笑むカザヒナが箱から取り出したのは、一対の剣だった。黒い鞘に収まる刃は、短刃の剣よりも若干長く造られている。柄の部分は握りやすいように蛇腹模様に溝が刻まれていて、刃との境目には、銀で装飾されたアデュレリア一族が掲げる氷狼の家紋がある。

 カザヒナから剣を一本受け取ったシュオウは、さっそく鞘から抜いてみた。
 剣身は上質な合金で構成され、両刃で刃渡りは短め。ほどよい重さで手にもよく馴染む。
 手にした剣に見惚れるシュオウに、アミュは満足気に声をかけた。

 「そなたは重い得物は好まぬと聞いていたゆえ、特別に一から造らせた。カザヒナの助言を元にして大きさから重さまで細心の注意を払わせたが、気に入ったか?」

 シュオウは視線を剣に釘付けたまま、頷く。
 「はい。でもこんな高そうなもの、受け取れません……」
 躊躇うシュオウに、カザヒナがそっと微笑んだ。

 「相手の懐近くに入り込むのを好む、あなたの型に合わせた造りになっているんです。受け取ってもらえないのなら、飾り物として埃をかぶるだけですよ」

 すぐさま、それにアミュも同調する。

 「いっぱしの軍人であれば、腰に剣でも差しておかねば格好がつかん。それなら少しでも使い道のある物のほうがよかろう」

 頷いて、シュオウは許可を得て二本の剣を抜き、構えを取った。頑強そうな見た目にそぐわない軽さと、腕の延長として使えるほどよい長さ。馬上から突き殺す事に特化した輝士の長剣とは違い、この二剣は地上を駆け回りながら自在に振るうのに適しているような気がした。

 「なんて言ったらいいのか、言葉が出てきません。ただ、ありがたいです」
 自然と下がった頭で、熱くこみ上げてきたものを隠した。なんの縁もなかった自分に、これほどの事をしてくれる人が、他にいるだろうか。
 顔をあげると、アミュとカザヒナは互いに顔を合わせ、嬉しそうに微笑みを交わしていた。



 再三礼を言って雑談を交わした後、退出する間際にシュオウはずっと気にしていたある事を思いだして尋ねた。

 「そうだ。サブリさんとハリオさん、あの二人の事なんですけど」
 何を言い出すのかとアミュは不思議そうに首を傾げた。

 「あやつらがどうした」
 シュオウはさきほど、フェース侯爵から贈られた、銀貨がたっぷりと入った木箱を見ながら言った。

 「あの二人が飲んでしまったという酒代を、あのお金から支払う事はできませんか」
 アミュは怪訝そうに眉を歪める。
 「そなたが代わりに支払うというのか?」

 「あの二人には助けてもらった恩があります。今回だって、借りた外套の中に食べ物が入っていなければ、王女を無事に連れて戻れたかわからない」

 「しかしな、あの馬鹿共が空けた酒は名だたる名酒、古酒ばかり。フェース侯爵からの金でも、かなり減らす事になるぞ」

 シュオウは即答する。

 「かまいません。だけど、この事は二人には黙っていてください。恩を着せるような事はしたくないですから」



          *



 シュオウが退出した後、アミュは副官の前で溜息をついた。
 「欲のない……」
 「そういう人ですよ」
 カザヒナの表情はどこか誇らしげであった。

 「あの二人の処遇はどういたしますか?」
 「申し出通り、借金についてはチャラにしよう。軍へ戻すついでに南方に配属されるよう手配し、その後はシュオウの動向を伝えさせる。ただ飲みを許す代わりだと言えば断れはすまい」

 カザヒナは懸念を伝える。

 「間諜として用いるには、不的確な人材と思います」
 サブリとハリオという二人の元従士。サブリは怠惰で大食漢。ハリオはひがみっぽく、欲に流されやすい。おおよそ繊細な任務に向いている人物とはいえなかった。

 「大袈裟な事はさせん。ただ見て聞いた事を密かに報告させるだけじゃ」
 「まだシュオウ君を諦めきれませんか?」

 アミュは窓の外を見やり、口元を引き締めた。

 「この手の内で保護する事を本人が望んではおらんが、それ以外に関わる方法がないわけではない。なによりあの者は王女の強い信を得た。この先、王の身近に我らに恩を感じる者があるというのも悪くはない。アマイの入れ知恵で、姫もなにかを画策しておるようじゃからな。南の最前線へ配属が決まったのも、おそらくはあの男が裏で手をまわしたのであろう」

 アマイがあっさりとカナリアの後釜に座った事には、正直にいって拍子抜けだった。多少改心したとはいえ、サーサリアは非常に難しい性格を抱える人物だ。最も身近に控える相手として、ろくに知りもしない相手を抜擢したのには、なんらかの思惑が一致してのことなのだろう。

 アミュは視線を落として腕を組んだ。

 「じゃが、いずれにせよしばしこの手は届かなくなる。無事でいてくれれば、いずれかまた、まみえることもあるじゃろう。そなたもせっかくの弟子を早々に手放す事になって寂しいのではないか」

 カザヒナは照れを含んだ少し寂しそうな顔を見せる。

 「それはもちろん。でも、私もまた会える気がしているんです。それに寂しさを紛らわせるための品はしっかりと溜め込んでおきましたから」

 くっくと不敵に笑う副官を見て、アミュは心底頭をかかえた。

 「これからの事じゃが――」
 事が仕事に関する話に移った途端、カザヒナは姿勢を正して屹立した。

 「しばらくの間、体調不良を理由にして中央からは遠ざかる」
 「それは――」

 「どうにもきな臭い。王女の復権により、現体制がどのような反応をするか不透明である事と、王女が選んだ新たな親衛隊の長があの男だという事も気になる。おそらくグエン殿の頭越しで決めたことであろう」

 「あのお方と衝突する、とお考えですか」
 アミュは首肯する。

 「顔見知りを良い事にこちらを頼られても面倒じゃ。しばらくは内に籠もって様子を伺う。王女の遭難の責に苛まれ、気を落としているという形を取れば、周囲の納得も得られるであろ。そこでな、左硬軍司令の代役として適任者を送ろうと考えているが、そなたはどうじゃ」

 問われたカザヒナは、しかし躊躇いがちに首を横に振った。

 「お許しをいただけるなら、しばらくはユウヒナについていたいと思います。あの子が宝玉院に戻れるようになるまでの間だけでも」

 「そう言うことなら、それでかまわん。王都には誰か適当な者を行かせよう。それと今回の反省も踏まえて、領内地形の正確な現状を把握するための調査団を組織しようと思っておる。立場を問わず山に詳しい者らを集めて詳細な情報を集めるつもりじゃ。幸いあの薬師も協力を申し出ておるしな。ユウヒナの件が片付いた後でかまわぬゆえ、そなたも参加するがよい」

 カザヒナは鷹揚に頷いた。
 「そうさせていただきます」

 改善しなければならない事は多々ある。王女の無謀な行動から始まった今回の一件は、アデュレリアの名に大きな傷をつけたのは間違いない。当分の間、宮中や各地方で、暇を持て余した貴人達の興味を満たす噂話として、氷狼の名は存分に語り尽くされる事だろう。

 長きを生きる氷長石の主に強く反省を残した一連の出来事は、才気にあふれる若者の助けもあって無事に終息したが、しかし突如として人の世界に現れ、執拗に王女をつけ回した件の狂鬼については、謎が残った。

 あえて命を取らなかった最後の生き残りである狂鬼が、傷を負いながら向かった方角が、今も頭にこびりついている。

 ――まさか、な。

 突拍子もない考えを早々に振り払い、アミュはアデュレリアの今後と、自身の思う人々へ意識を傾けた。





          *





 時はしばし遡る。
 王都に置かれた王轄府に、サーサリア王女がアデュレリアの山中で遭難した後、無事に救出されたという報が届いて間もなく。

 起こった事の重大さに、情報がもたらされてから城内は大いに色めき立ったが、すでに王女が無事なまま戻ってきた後だった事と、その責がサーサリア自身にあったという事実確認がとれたことから、事態は思いの外、淡々と日常を取り戻していった。

 近衛軍所属の重輝士イザヤは、失われてしまった親衛隊の代わりに、新たに近衛から中規模の部隊をアデュレリアに派遣しようとしたが、補充要員の残り僅かな親衛隊のみで、それ以上は必要なしという王女直筆の書簡により、これを拒否されてしまった。

 どうにも、アデュレリアに赴いてからの王女の様子がおかしい、という噂は、近衛軍や王轄府の高位の者達の間で広まりつつあった。
 これまで公務になどまるで興味を示さなかった王女が、突然護衛部隊の派遣に口を出したり、一連の出来事の中で亡くなってしまった輝士の家に、謝罪と報告のための訪問を調整するよう指示を出したのだ。

 それに加え、イザヤには一つ心配事があった。
 
 父とも呼べる存在である、グエンの様子がどこかおかしいのだ。普段めったに感情を表に出す人物ではないが、幼い頃から身近にその姿を見てきた自分だからこそ気づける僅かな違和感があった。

 おそらく、最近のグエンはひどく機嫌が悪い。

 春を間近に控えたその日、グエンは早朝の会議を終えると早々に部屋から姿を消してしまった。
 まずこれがおかしい。
 いつもなら話し合いを終えた後でも各人に詳細に指示を伝えるのだが、今日にかぎってはそれらをすべてイザヤにまかせて、行き先も告げずにどこかへ消えてしまったのだ。

 太陽が高く昇る頃になっても、グエンの所在はわからず、時間が過ぎていく事にイザヤの不安は膨らんでいった。

 イザヤはグエンに対し、人並みならぬ思いを抱いていた。それは父への情愛であり、また異性の男に対する尊敬と憧れ、それ以上の感情も合わせてだ。

 戦地で拾われて後、イザヤは謎多き養父の事を常に知りたがった。だが、一度グエンに出生について聞いたとき、怒りを買って半年近くにわたって口をきいてもらえなかった事がある。それ以来直接その生い立ちや人生について聞く事ができなくなってしまったのだ。
 イザヤはそうした経験をふまえても、しかし諦めてはいなかった。

 それは幼い頃からの悪癖だった。
 養父の後をつけてその行き先を突き止める。幼稚で意味のない遊びだったが、おかげでムラクモの父とも称される偉大な人物が、日々こなしている無数の仕事を把握でき、自分が輝士として国家の中枢に関わる頃には、誰よりもグエンの補佐を上手くこなす事ができて鼻が高かった。

 イザヤは、昔を思い出してグエンの訪れそうな場所を探して歩いた。だが見つからない。城内はもとより、郊外にある兵舎や、念のため宝玉院にまで問い合わせをしたが、その姿はどこにもなかった。

 最後に、イザヤは城の中庭にある小さな塔の中を探した。ここはグエンが時折使っていた休憩所のような場所で、大きな決定事をする際には籠もって出てこなかった事が何度かあった。
 イザヤから見れば、ここは重大な責務を負う養父の避難所のような場所、という認識だった。だが最近はここへ立ち寄る姿をほとんど見かけなかったので、最後の最後まで候補地から抜け落ちてしまっていたのだ。

 塔の外壁は薄暗い色の苔でびっしりと覆われている。扉を軽く押してみると鍵はかかっておらず、ぎぃと引き攣るような音をあげてあっさりと開いた。

 一階部分は窓がなくて薄暗かった。簡素な家具がちらほらと置かれているのみで生活感などまるでない。二階には古ぼけた寝台があるだけで、天井には汚れて曇った天窓があり、そこから零れる鈍い陽光が、舞った埃を照らしていた。

 ここもはずれかと落胆したイザヤが、急な階段を下りて一階へ戻ると、ふと頬に触る風の流れに誘われた。
 ひゅるりと吹き抜ける冷たい風は、塔の入口から部屋の奥にある暖炉のほうへと流れている。

 注意深く探ってみると、暖炉に隠された地下へと続く入口があった。入口には重そうな金属の蓋が置かれているが、それがずれて隙間を生じている。
 金属製のはしごが奥深く続いているが、よく見るとはしごにたまった埃が、人の手の形を残していた。

 予感というものがある。この場合、未知の暗がりへ入って行く事への恐怖がそれだったが、イザヤの中ではたいして考える間もなく、好奇心と養父への想いが勝ってしまった。

 下へ行くほど暗くなっていく縦穴を下りる。
 足を降ろした先に広がるのは、長く伸びる排水のための細穴だった。中庭まで抜ける排水口を通す穴が、天井に一定間隔で開いていて、そのおかげでかろうじて視界を得られている。

 足元にはくっきりと靴跡が残されていた。形と大きさから見てグエンに間違いない。
 イザヤはその足跡を追跡する事にした。

 下水道は細長く、左右あちこちに伸びて入り組んでいる。しかし足跡は一定の間隔で一つの方向を目指していた。
 イザヤはかなりの時間を足跡の追跡に費やした。自身の感覚に頼るのなら、すでに現在地は城の外。下水道の中は進むほどに古くなり、もはや今居る場所などはあちこち壁が崩れ落ちてしまっていて、その役割を果たしている様子はない。

 時刻は夕暮れを迎え、すでに外から届く陽の光は頼りない。
 戻る事も検討し始めた頃、唐突に前方から人の話し声が聞こえてきた。渋みと厚みのあるグエンの声だ。
 心細さを感じ始めていたイザヤは咄嗟に叫んでグエンを呼ぼうとした、が……どうにも様子がおかしい。

 本能が鳴らした警鐘に従い、イザヤは近くの脇道の中にさっと体を隠した。影から覗く先、グエンがいるほうから赤い光がぼうっと漂っている。その赤い光に照らされて見えたモノの姿を見て、イザヤは息を飲んだ。

 真紅の外殻を身に纏った一匹の虫。その大きさは巨大で、背には大きな紅い色の輝石を背負っている。一目でわかるその姿。
 ――狂鬼!?
 ほとんどの足を失った姿で、紅の狂鬼は酷く弱っているように見えた。


 グエンは左手を狂鬼の背にある輝石に乗せ、虚空を見つめていた。その目は赤くぼんやりとした光を放っている。
 グエンの重たい声が響いた。

 「成虫を三匹使って仕損じるとは」

 グエンの輝石と狂鬼の輝石が、共鳴するかのように同色の輝きを放つと、狂鬼は苦しそうな悲鳴をあげた。

 「休め、お前の役目は終わった」

 グエンは指先を剣先のように伸ばし、おもむろに狂鬼の身体を貫いた。狂鬼はびくりと痙攣した後に絶命する。同時に輝石が放つ赤い光も消えた。

 狂鬼の身体からは真紅の体液が溢れ出ている。そこに出来た血溜まりの上を、どこからともなく現れた小虫達が飛び交っていた。目で追う事が困難なほどの速度で飛び交う虫、ムラクモの王都でのみ存在が確認されている、コキュと呼ばれる吸血習性を持つ虫だ。

 グエンが左手をかかげると、血溜まりにたかっていたコキュ達が、整然とグエンの手の平の上を飛び回った。それは完璧に統制された動きだった。

 グエンの輝石が赤黒い光を放つ。
 「……つけられたか」
 そう呟いたグエンは、唐突に振り返った。
 影から顔を覗かせて固まっていたイザヤと、視線が重なる。

 イザヤが引き攣った悲鳴をあげると同時に、グエンの姿が消えた。次の瞬間、何者かの分厚い手が、自身の細い首を締め上げた。

 苦しさで藻掻くイザヤの瞳の中には、グエンの姿があった。瞳は赤い光を帯びて、異常なほど伸びた犬歯で威嚇するように歯を剥き出し、鬼の形相でこちらを睨みつけるその顔。

 人のモノではない。

 「愚かな、跡をつけたのか! お前のような人間は飽きるほど目にしてきた。好奇心で余計な詮索をしなければ、皆寿命を全うできただろうが、欲に突き動かされる者は、いつかかならず大きな失敗をする。私もまた、突然に転がり込んだ幸運に手を出したがために、貴重な手札を無駄にした。忌むべき最後の血統を根絶させ、その責をすべて氷狼族になすりつけようなど、あまりに都合の良い話だったのだ」

 首にからみついたグエンの手がさらに力を増す。華奢なイザヤの身体は壁に押しつけられながら、徐々に上へと持ち上げられていった。
 足が完全に地面から離され、無我夢中で足をばたつかせた。

 「だず……げ……」
 「人の身を捨て膨大な年月を生きて尚、私は心を惑わせ、未だに失敗を繰り返す。気まぐれに側に置いたお前もその一つだ!」

 グエンが開いた大きな口、その喉奥から這い出てきたのは、紅い色の虫だった。前足が鎌のように鋭く目のない頭には細かな歯がびっしりと生えた口があるのみ。皮膚は芋虫のように柔軟で、表面はヌメっていて黒い染みのような斑点が浮かぶ。
 その赤黒い不気味な虫は、一瞬の動作でイザヤの口内に頭を突っ込んで、そのまま喉の奥まで進入して気道を塞いだ。
 うめき声すら出せなくなったイザヤは、そのまま白眼を剥いて失神した。



 現との境を失ったイザヤの頭に、とある光景が映し出された。

 雲のような美しい寝台の上で寝そべる痩せ衰えた老女。左手にある輝石は、見るからに特別な輝きを放っている。記憶の隅に残っていたその姿は、間違いなく先代ムラクモ女王のものだった。

 女王は激しく咳き込みながら、傍らに控えているグエンに手を差し伸べた。

 『この身に残された時は少ない。グエン、私の死後、速やかにサーサリアへ天青石の継承を。なにもしてやれなかったが、せめてこの一族の石が、あの子の支えになってくれればよいのだが……』

 グエンは女王の皺だらけの手をそっと握った。
 『陛下……後のことは全ておまかせを』
 女王は瞳に涙を溜める。
 『感謝の念に堪えぬ。そなたがいれば、サーサリアはかならずまた立ち上がる事ができよう。どうか、どうかあの子を支えてやってほしい』

 終わりの時を悟り、悲しみに頬を濡らす女王の前にあって、しかしグエンの表情は冷め切っていた。女王の手を握りしめたまま、腰にさしていた短剣を手にとると、そのまま女王の左手首を斬り落とした。

 壮麗な王家の寝間に、老女の悲鳴が木霊した。

 『好きなだけ叫ぶがいい。人払いはすませてある』
 血が溢れる女王の手首を、グエンは強く握りしめ、目一杯高くへ持ち上げた。

 『グエン! なんで?! どうして!』
 グエンの形相が醜く歪む。

 『貴様が忌むべき血を受け継ぐ者だからだ。くだらん情念で一国を滅ぼし、すべての人々を根絶やしにして、紡がれてきた文化や歴史を蹂躙して神の名まで消し去った。あげく西の異民族を受け入れて東地に蔓延らせた事、忘れたとは言わせんぞ。この名を口にするのもおぞましい、汚らわしいムラクモが!』

 女王はわけもわからず、狂ったように首を振った。
 『わからぬ、わからぬ! お前がなにを言っているのか!』

 『知る知らずに及ばず。これはすべてを奪われ、生き地獄を這いずった男の復讐にすぎんのだ。ただの失血で死ねると思うな。石を失い、生きながらに光砂として肉体が崩れていく苦しみを骨の髄まで味わうがいい』

 『こんな、こんな事が見過ごされるはずがないぞ!』
 蒼白の女王の最後の抵抗を、グエンは高笑いでかき消した。

 『お前がそうであったように、私は多くの者達の信を得ている。言葉一つで王と二人きりになれるほどにな。ここまでの途方もない道程は楽ではなかったが、ようやく……ようやく薄汚い毒蛇の石を手に入れたッ。残るは幼い小娘ただ一人』

 歯を剥き出しにしてグエンは笑む。

 『まさか、息子も――』
 問われた事を嬉しそうに、グエンは声を張り上げる。

 『王子を屠るのにはそれなりに骨を折った。しかしその分、虫の腹の中に収まって死ぬというのは、なかなかに劇的な最後であったな』

 『おのれ、逆賊がッ!』
 女王は憤怒に顔を歪め、腕を掴まれたままに力を振り絞って、右手だけでグエンに掴みかかった。グエンはそれを軽くいなし、女王の首を掴んで寝台に押しつける。

 『これから始まる苦痛に気が狂う前に、一つだけ良い事を教えよう。サーサリアはすぐには殺さない。残された最後の王族の死には、それに相応しい理由が必要になるだろう。下手な状況を招けば諸侯らの反乱は必至だが、東地の民はもとより我が主の物、争乱に巻き込むような事はしたくない。そうだな、あの娘には心を惑わす花を与えよう。自ずから身を滅ぼしたとなれば、穏便にムラクモの血にトドメを刺す事できる』

 老いた女王はグエンを呪う言葉を吐き続けた。品位を尊び、麗しく威厳があったその面影は、すでにない。

 間もなくして足のつま先からゆっくりと身体の光砂化が始まると、女王はこの世で人の味わう最悪の痛みに襲われ、時を経て正気を失って没した。

 『玉座は炎鳥の王に、東地の民はアマテアの大地に……あと少し……あと一人だ』

 すべての肉体が消失し、衣服のみが残された寝台をじっと見つめるグエンの背中。イザヤの見る夢幻の如き視界からは、その表情を伺い知る事はできなかった。



[25115] 『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 ジェダの土産』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2014/05/13 20:31
     ジェダの土産










 「今日中にここを出ようと思っています」

 ジェダ・サーペンティアは、整った顔に涼しげな笑みを浮かべて、対するアミュ・アデュレリアにそう告げた。

 「行くか。そなたがおると、一族の腑抜け共に気合いが入って丁度良いと思っていたのじゃがな」

 「これ以上、ヨダレを浴びせられるのはごめんですから」
 ジェダは戯けて肩をすくめてみせた。

 アデュレリアの主は、それを見ておかしそうに笑っている。
 「どうにも、そなたからはサーペンティア特有の嫌らしさを感じぬ」
 「それを聞いた僕は憤慨すべきかどうか。反応に困りますね」

 アデュレリア公爵は、卓に置かれているアカ茶を杯に注ぎ、向かいあって座っているジェダにすすめた。

 「結局、そなたの目的はすんだのか。なにかなければ、わざわざこんなところまで出向いてはこぬであろう」

 ジェダは熱い茶を品良く手に持ち、ほのかな甘い香りを楽しんだ。

 「父からはサーペンティアの名と共に、サーサリア王女への顔見せをしてこいと言われています。その意味では完全に敗北しましたよ。あの夜以来、ひさしぶりに王女の顔をお見かけした時には、お前は誰だといわんばかりに首を捻られました。この顔は記憶の端にも残らなかったらしい」

 アデュレリア公爵は、茶器をかまいながら、上目遣いで聞く。
 「本当にそれだけか?」

 ジェダは茶を喉に流すことなく卓に置き、微笑しながら溜息を漏らした。

 「本当の所は、あのシュオウとかいう従士の様子を窺ってこいというのが、父から出された命令です。あなたがあまりに彼に執心しているご様子だったので」

 アデュレリア公爵は、憎々しげに顔を歪めた。
 「馬車に轢かれたトカゲのような面で、よくも小賢しい事ばかり考える」

 目の前で父親を愚弄されてもなお、ジェダは温和な態度を崩さず、ほんのりと笑みを浮かべていた。

 「それで、そなたはなんと報告するつもりじゃ」
 公爵の問う視線に強みが増した。

 「優れた武人としての素養あり、といったところです。晶気を操る術を持たない身でありながら、狂鬼を相手に互角に渡り合うだけの技を、いったいどこで得たのか気になりますが、寝たきりの彼の部屋の前で、カザヒナ重輝士が鬼の形相で番をしているものですから。僕としてもこれ以上は調べようがないので」

 シュオウという従士に関しては、何度か直接聞き取りをしようと試みた。だが、彼が休んでいる寝室の近くを通るたびに、アデュレリア公爵の副官が、睨みをきかせて腰の剣に手を乗せるので、ジェダは目的を達成する事ができなかった。

 「そうかそうか」
 アデュレリア公爵は、ジェダの失敗談を鼻で笑い、満足気に頷いていた。

 僅かな沈黙が生まれ、ジェダは初めて入った公爵家の応接室を見渡した。
 無骨だが出来のよさそうな刀剣類が飾られ、透明で鮮やかな色のついたガラス杯が棚一杯に並んでいる。背の低い飾り棚の上には趣味の良い銀器がまばらに置かれていて、さらに視線を流すと、そのすみにあった、見慣れない小さな物に興味を誘われた。

 手の平に乗る大きさの箱。それをじっと見つめていると、アデュレリア公爵に問われた。
 「気になるのか?」
 「ええ、まあ……薬入れか、何かですか」
 「手に取ってかまわんぞ」

 許可をもらい、ジェダは席を立って箱を手に取った。表面は銅製、中は上質な木材、箱の背中にはくるくると回す事が出来るハンドルのようなものがついている。

 「仕組みはよくわからんが、それを回すと中から音が流れてくる」
 言われた通りにしてみると、小さな箱の中からたしかに、回すたびに軽やかな音色が聞こえてきた。音楽と呼べるほど洗練されてはいないが、透き通るような音質が耳に心地良い。

 「面白いものですね」

 強く興味を惹かれたジェダは、しばらくの間、箱から漏れる小さくて優しい音に耳を傾けた。

 「付き合いでしかたなく購入した物じゃ。気に入ったのなら持っていけ」
 ジェダは咄嗟に振り返った。
 「いいのですか?」

 気を良くしたジェダとは反対に、アデュレリア公爵は表情を曇らせる。

 「そなたを拘束した際に没収した持ち物を、うちの若い者が許可なく処分してしまった事は、恥ずべき行為であったと思っておる。償いというわけでもないが、この部屋にある物で欲しい物があれば、持っていくがよい」

 ジェダは公爵の言葉もそこそこに、思いがけず手に入った、音を奏でる小さな箱に夢中で見入っていた。
 「これだけで十分ですよ」

 「しかし、そなたも変わり者じゃな。市井の民が買い求めるような、なにげない品を買い込んでいたと聞いたが」

 「各地での任務の度に、その土地の土産物を買って帰るのが趣味なので。おかげで思いがけず、良い物が手に入りました。ここへ来るときは命を賭けるくらいの覚悟をしていたのに、土産を頂いて帰る事になるなんて、不思議なものですよ」

 ジェダは軽く頭を下げた。
 アデュレリア公爵は不敵に笑みを浮かべる。

 「頭に石塊を詰めているような血族者の中には、実際にそれを望んでいる者もいる。不幸な事に生まれの良さは、人としての出来の良さには関係がないからな。用が済んだのなら、早々に出立の支度を整えるがよい。そして二度とアデュレリアの地を踏むな。面倒事はごめんじゃ」

 アデュレリア公爵は、しっしと手で払うような仕草をした。
 「僕もそう願いたいですよ」

 挨拶もそこそこに、ジェダは貰った土産物を懐に忍ばせて応接室を後にした。
 父であるサーペンティア公爵からは、報告のために一度領地に戻れとの命令が届いている。それは雪の残る山中で、意識を失った男を担いで歩けと言われたときよりも、ずっと憂鬱な任務だった。



 サーペンティア公爵領、サーペンティア。かつてのこの地はアデュレリアと呼ばれていた。
 遙かな昔、この地を要していた部族を、アデュレリアは実力で排し、苦労してここを領土とした。

 だが間もなくして、東地で台頭し始めたムラクモへの帰順を決めたアデュレリアは、忠誠の証として領地の半分を手放す決断をしなければならなくなる。

 そして、サーペンティア一族は西から東へと移る際、ムラクモへの忠誠を誓う代わりに見返りを求め、ムラクモは王の石を持つ彼らに、相応しい待遇を用意した。

 今日まで長く続く、両家の憎み合いの歴史はここから始まったのだが、決定的だったのはその後の出来事だ。

 サーペンティアが難無く手に入れたその地には、アデュレリア一族の戦勝を祝う社があった。彼らは手の届かなくなったその場所の最低限の管理を頼んだが、それに対し、サーペンティアは、社とそこに飾られていたものをすべて取り除いて、そこに娯楽のための豪華な湯殿と、酒蔵を建築した。

 それを知ったアデュレリア一族がなにを思ったのかはいうまでもなく、両家の人間は顔を合わせれば、その瞬間に相手の死を心から願うような、殺伐とした関係を築いていったのだ。



 サーペンティア領、風蛇の城。その一室の戸を叩き、ジェダは返事を待った。
 間を置かず、入れ、という力無い父の声が聞こえた。

 使用人が開けた扉を抜けると、領主の執務室の中には見知った顔が並んでいた。
 中央の大きな卓には領主、オルゴア。その隣には伯母であるオルゴアの姉ヒネア。そして部屋の両左右に八人の兄姉達が居並んでいる。彼らは一様ににやついた表情で、こちらに舐めるような視線を寄越していた。

 左右に立つ兄姉達。その並びの意味は単純だ。向かって左側に並ぶ四人は、オルゴアの一人目の妻の子。右側に並ぶ四人は二番目の妻の子供達。そして自分は、そのどちらにも並ぶ事はない。

 あまりに間の悪い帰郷だった。この部屋には、この世で最も顔を見たくない人間が勢揃いしている。

 ジェダはひらひらとした外套をくるりと左手に巻いて、片膝をついて頭を落とした。
 「ジェダです。アデュレリアより、ただいま戻りました」

 それを受け、父であるオルゴアはちらちらと姉の方に視線をやりながら、歯切れの悪い受け答えをした。
 「う、うむ……よく、もどった」

 頭をあげると、左側の列に並んでいた長兄が鼻をつまんで声をあげた。

 「お前達、ジェダが部屋に入ってから妙に臭わないか? 犬の臭いが鼻について、さっき食べたばかりの昼食を吐きそうになったよ」
 長兄が意地悪く戯けて言うと、他の兄姉達はつられるように一斉に吹き出した。

 「犬小屋に長く居すぎたんじゃないのか、ジェダ」
 歪んだ笑みを浮かべながら、長兄は言う。ジェダはしかし何事もなかったかのように表情を崩す事なく対応した。
 「はい、そうですね兄上」
 言うと、長兄は勝ち誇った顔で鼻から息を落とした。

 父、オルゴアは苦虫を噛んだような表情で咳払いをした。

 「ジェダ、お前からの報告はすでに目を通してある。新たにまかせたい仕事があるが、詳細は落ち着いてからでかまわんだろう。しばらくは体を休めておけ」

 オルゴアは額に汗を浮かべ、視線を泳がせている。
 蛇紋石を継ぐ現サーペンティア一族の長は、持って生まれた物の大きさのわりには、気の小さな男だった。

 子供の頃から頭があがらない姉の言葉に、いまだに言いなりになっている。小さな身一つで血の気の多い氷狼の一族をまとめ上げているアデュレリア公爵とは比べものにならないほど矮小な人間。それがジェダの父、オルゴアだった。

 裏で実際にサーペンティアを取り仕切っているヒネア・サーペンティアは、皺だらけの顔に凄みをもってこちらを睨みつけている。ジェダはこの伯母に蛇蝎の如く嫌われていた。

 「用がすんだなら出ておゆき。家族の話をしていたところよ」

 枯れた声でヒネアに言われ、ジェダは微笑みを返して部屋を後にする。その途中、兄の一人に足をかけられた。
 ジェダはそれと知りつつ、わざと伸びた足に転んで見せた。

 兄姉達は声をあげて笑い、ヒネアは軽蔑の眼差しを寄越し、オルゴアは苦い顔で視線を逸らしていた。
 足をかけた兄が、床に突っ伏したジェダに下卑た笑い声を浴びせる。

 「また、あのゴミの世話をしにいくんだろ、ジェダ。犬の世話の次はアレのお守りなんて、本当にごくろうなことだよ。心から同情するね」
 体をおこし、ジェダは埃を払う事もせず、足をかけた兄に微笑みかけた。
 「ご心配いただき、ありがとうございます、兄上」



 風蛇の城から遠く離れ、森の中の細道を進んだ先に、ジェダの家はある。
 申し訳程度の石垣の奥には、一般的な平民が暮らす家に毛が生えた程度の建物がある。簡素な造りで見栄えもよくないが、へんぴな場所での仕事と、従事させる事のできる人員は最小限に抑えなければならなかったせいで、こんな家でも手持ちの財産をかなり減らす事になった。

 門の入口には見張りが一人立っていた。彩石を持った若い女で、彼女は父が雇っている人間だ。
 近くにある小屋の中で生活をする彼女は、サーペンティアの遠縁だと聞いていた。おそらく親が弱みを握られたか、借金を背負わされて面倒な仕事を宛がわれたのだろう。
 見張り役の女はジェダの姿を見ると、性格の悪そうな口元をさらに歪めて、軽蔑の眼差しでこちらを睨んでいた。

 ひさしぶりの帰宅。二重にかけた家の鍵を開けて入ると、部屋の奥から明るい女の声があがった。

 「おかえりなさい!」

 ジェダは鍵をかけて寝室に向かい、戸を開けてその先にいる人物に顔を見せた。

 「ただいま、姉さん」

 いつも発する声よりも一段高く、ジェダは寝台の上で体を起こした双子の姉、ジュナ・サーペンティアに戻った事を伝えた。

 長い髪は艶やかな黄緑色。一族の特長である大きな瞳は宝石のように目映い。だがサーペンティア一族特有の温度の低いにやけ顔はなく、ジェダによくにた端正な顔立ちには、愛に満ちた美しい笑顔が輝いていた。

 ジェダは寝台の横にある椅子に腰かけた。くたびれた肩を癒すように首を回していると、ジュナが心配そうにジェダの顔を覗き込む。

 「疲れているみたい」
 「手紙を送っただろ。こんどの任地はアデュレリアだって」
 「アデュレリアって、私たちをとても嫌っているっていう家でしょ。お父様はどうしてそんなところにあなたをやったのかしら……」

 気を落として呟いたジュナに、ジェダは笑って言う。

 「たまたま手が空いていたのが僕だったというだけだよ。それでも王女殿下に顔を繋ぐために、当主名代として使わされたんだ。名誉なことさ」

 ジュナは少し気を取り直して、笑顔を見せる。
 「そうだったの。王女様とはうまくお話ができた?」
 ジェダは即答できず、一つ間を置いた。
 「……とてもね」

 「ジェダは綺麗な顔をしているから、王女様に気に入られたら大変ね。そうしたら、私は未来の女王陛下の姉になるのかもしれないのね」

 戯けて言うジュナが、冗談を言っているのだという事はすぐにわかった。そんな未来がたとえ訪れたとしても、彼女は決して表舞台に顔を出せる立場にはないのだ。
 ジュナはからからと笑いながらも、自身の左手の甲を無意識に撫でていた。しかし、本来ジェダと同じような色をしているはずのその輝石は、白く濁っている。

 現当主オルゴアには三人の妻がいた。一人目の妻は一族の遠縁で、もう一人は他家の人間。二人の妻はそれぞれに、サーペンティアの名にふさわしい性格のねじ曲がった子供を四人ずつ産んだ。

 ジェダとジュナを生んだ母は、オルゴアの三人目の妻だった。だが世間一般にはサーペンティア当主の妻は二人しか知られていない。なぜなら、オルゴアが選んだ三人目の妻は平民だったからだ。

 ジェダは父の特性を受け継ぎ、ジュナは母の側の特長を濃く受け継いだ。ただそれだけの事だが、彩石を有し、受け継いでいく貴族の間で、濁石を持つ平民の血を中に入れる事は不文律として忌避されている。

 たとえ彩石と濁石を持つ両者の間に生まれた子が、彩石を受け継いで生まれたとしても、あとの代になってひょっこりと白濁した石を持った子が生まれてくる事がある。それは、名のある貴族家にとって、もっとも忌むべき出来事でもあった。

 オルゴアが平民の女と思いを結んだ事が、彼の姉であるヒネアにバレた時。母の運命は決した。

 目の前で母を惨殺されたジェダは、心を病んだ時期もあったが、姉の存在が自分を現実に引き戻した。
 ジェダが暗闇に溺れて自傷行為を繰り返していた間に、ジュナは誰かに毒を盛られて両足の自由を失ってしまったのだ。

 姉を守るため、ジェダは父に貴族としての教育を受けさせてほしいと頭を下げた。
 オルゴアはヒネアの猛反発を受けたが、気弱な父にしてはめずらしく姉に反抗し、ジェダは宝玉院への入学が許され、ジュナは独房にも似た城の一室に隔離される事になったのだ。



 「ジェダ?」
 遠くをぼんやりと眺めていた弟を心配し、ジュナがそっと手に触れた。

 ジェダは咄嗟に微笑みを返す。しかし、そんな自分の顔を見て、姉は悲しそうに眉をひそめた。
 「無理に微笑むのはやめてって言ったでしょ。一日中笑顔でいられる人間なんて絶対におかしいもの」

 ジェダはそれを聞いてさらに笑みを濃くする。
 「だったら、サーペンティアは皆おかしいんだよ」

 ジュナは突然ジェダの顔を両手で掴んだ。ぐにぐにともみほぐし、引き攣ったように微笑みを作っていたジェダの顔を、あるがままの形に整える。

 「自分がおかしくないのだという事を恥じないで。私はあの人達の笑い顔が大嫌いだった。それにお父様だって、いつも仏頂面で笑った顔なんてほとんど見た事なんてないじゃない」

 偽りのない表情で、ジェダは一つ頷いた。
 「たしかに、ね」

 ジュナは上半身を乗り出して幼い笑顔をみせる。
 「ねえ、アデュレリアではどんな事があったの?」

 外の世界を知りたがる姉の無邪気な表情を見て、微笑ましく思う。人の世に汚れていないまっさらなまま大人になった姉は、激しく照りつける太陽のように眩しかった。

 「面白い物を手に入れたよ。向こうである事件があってね、その解決に力を貸した褒美にアデュレリア公爵からもらったんだ」
 言って、ジェダはアデュレリア公爵からもらった土産物を渡した。

 ジェダは自分を主人公に仕立て上げた、王女殿下の遭難事件を、嘘を交えてジュナに聞かせた。隔離された世界で自由を乞い願う姉に、一時でも楽しい時間を過ごして欲しいと願いながら。



 しばらく話し込んだ後、ジェダはしばらく家に滞在すると告げて部屋を後にした。

 廊下に出ると、ジュナの身の回りの世話をさせている使用人の少女と鉢合わせになった。
 「わ、若様ッ、お帰りになられていたのですね」

 ジェダは咄嗟に頬を釣り上げて笑みをつくった。
 「少しの間だけど休みをもらってね。手間だろうけど、夕食は二人分頼みたい。僕は姉の部屋で食べるから、そのつもりで準備を頼むよ」

 「は、はい。手間だなんてとんでもありません」

 顔にそばかすのある純朴そうな雰囲気をした黒髪の少女は、父ではなくジェダが輝士として国から受け取っている金で雇っている使用人だった。姉に関する口止めのため、借金に喘いでいた一家の肩代わりをして、その分しっかりと弱みを握っている。

 実質的な人質として雇い入れている少女に、僅かばかりとはいえ給金を渡しているのは、二重の意味での安全を買う行為でもあった。



 ひさしぶりに入った自室は、塵一つなく綺麗に掃除がされていた。前回滞在していた時のまま、読みかけの本はそのままにあり、流れた時間の感覚が狂いそうになる。

 外套を放り投げ、靴も脱がずに寝台に体を預ける。
 「ああ――」
 狂おしいほどの安寧に、体が熔けてしまいそうだった。

 数日もすれば、父はまた新たな仕事を言い渡すだろう。そしてその内容は、姉や他の子供達の手前、酷く面倒なものだったり、危険を伴うものが大半だった。

 自分達姉弟をかばう唯一の人間、蛇紋石の主にして、名ばかりの当主オルゴアは、才に恵まれた人間ではない。燦光石を継承しても、その老いは並の人間と大差なく加速している。

 父が死ぬ頃には、間違いなく影の長であるヒネアも死んでいるだろう。しかし次に蛇紋石を継ぐのは、間違いなく異母兄姉の誰かだ。その時、自分達はどうなるのだろうか。

 ジェダにとって生きるという事は、終わりのない坂をゆっくりと転げ落ちているのと同義だった。

 ――知ったことか。

 ジェダは目を閉じ、自嘲するように笑った。今の自分に、それ以外になにができるというのだろう。





[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第一、二、三話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2013/09/05 20:22
     Ⅰ 南の剣聖










 人類世界が灰色の森に隔離されて後、人は魑魅魍魎が跋扈《ばっこ》するその世界を白道という名の新たな可能性で貫いた。
 敷いた道は物品交易を活発化させ、文化交流を促進させた正の面を持つ一方で、国家間に緊張を生じる、負の一面も合わせ持っていた。

 長い時が流れ、話す言葉は共通のものとなり、西の端から東の端まで、食料や物資が安定して行き交うようになっても、領土問題を発端とする争いの火種は常に世界中で燻っていた。
 狂鬼という天敵に囲まれて生きる生活の中でも、やはり人間の最たる敵は同種同属だったのだ。





          *





 中央にそびえる大山を中心に、人類社会は四方へと繁栄していた。そのうち、東側一帯を統べる大国ムラクモの王都では、主要な執政機能を抱える水晶宮の評議室に、早朝から輝士服を纏った官吏達が詰めていた。

 長卓の左右それぞれには十人ずつが座り、上座には執政の長であるグエン・ヴラドウが、副官である褐色の肌をした女性輝士、イザヤを背後に置いて鎮座していた。

 平時であれば、各部署の責任者達がグエンに必要事項を伝え、淡々と指示を受けるだけに終わるこの場には、いつも以上に緊張した空気が張り詰めていた。
 颯爽と部屋の扉を開け放ち、常の空気をぶち壊した張本人である、ムラクモの次期国主、サーサリア・ムラクモは、親衛隊の長であるシシジシ・アマイを帯同してグエンに堂々と向き合っていた。

 「いま、なんと」
 グエンは重たい声でサーサリアに問うた。
 「この場に参加すると言ったの」
 サーサリアは王者の風格を纏いつつ、この国で誰もが頭を落とす人物に向かってそう言い放った。

 「必要ありません」
 端的に告げるグエンは、昼寝に誘われる午後の一時のように、ぼんやりとサーサリアを見つめている。

 「私がそれを望んでいる。国の重要な決め事をする場に、興味を持つ権利くらいはあるはず」
 サーサリアは負けじと語気を強めた。

 左右に居並ぶ官吏達は、皆目を見開いて突然に訪れたこの奇妙な状況に戸惑っている様子だ。

 「この場は小事を片付ける場にすぎません。国の大事に関わるような決定事を話し合う場は、四石会議があります。が、殿下はその場に出る資格もお持ちではない」

 グエンのこの言には、サーサリアの背後で控えていたアマイが即座に反応した。

 「いいえ、サーサリア王女殿下はムラクモの名を継ぐただ一人のお方であり、ありとあらゆるものに干渉するだけの資格をお持ちです。あなたのおっしゃりようは、越権行為と受け取られても仕方のないものですよ」

 アマイの挑発の籠もった言葉に、居並ぶ官吏達の視線が鋭くなった。そのうち、気の強そうな女が、グエンよりも先に不快感を表明した。

 「先生、グエン様に対して越権行為だなんて……言葉がすぎるのではありませんか」

 アマイはメガネを中指で押して、アゴをあげた。

 「私はもうあなたの先生ではありません。そして私の言った事は何一つ間違ってはいないはずです。サーサリア様はムラクモを統べる君主となるお方。それ故に、私はあなたたちにこう言わねばならない――――いったい誰の許しを得て、殿下の御前で着座を続けているのかと」

 居並ぶ者達に、一気に動揺が走った。
 彼らは慌てて席を立ち、片膝をついて輝士の礼の姿勢をとった。
 グエンはその様子をゆっくりと眺めた後、席を立って一人平伏した。しかし、背後に控えていた副官のイザヤはぴくりとも動こうとしない。視線はどこを見ているかわからず、額にはじんわりと汗が滲んでいる。

 「副官殿は、なにか思うところあっての行動でしょうか」
 アマイが指摘すると、当人に代わってグエンが応対した。
 「これは先日より熱を煩っております。無理をしてこの場に連れてきたので、どうか不敬をお許しいただきたい」

 アマイがこちらを窺うのを合図に、サーサリアは小さく頷いて言葉をかけた。
 「許す、皆も立ちなさい」
 まずグエンが立ち上がり、その他の者達もそれに続いた。

 「私の席をお使いください、殿下」
 アマイの言葉が効いたのか、グエンはサーサリアの要求を受け入れる姿勢を見せる。席を一つずらして、上座を勧めてきた。

 グエンの副官がぎこちなく立ち位置を変えている間に、サーサリアは中央奥の席に腰を落ち着けた。
 サーサリアは、しんと静まりかえる一同に言った。

 「いつも通りにして」
 その指示を受けて、彼らの視線は一心にグエンへと集まった。

 ――これが、現実……。

 王女を前にして、次の行動を窺う相手はグエンなのだ。彼らのこの行動こそが、王族たる自分が置かれている状況を如実に表している。

 グエンは配下の者達の視線を受けて、小さく頷きを返した。それを合図に、サーサリアの急な登場で中断していた会議が再開される。

 老朽化した白道の交換を検討する話や、最近増えている失業した者への配給など、たしかにグエンの言うように、一つ一つの決め事は大事な事ではあるが、国家の命運を左右するほどのものでもなかった。

 話を聞くうち、グエンがこれほど事細かな案件を、他人まかせにせずに自らの判断で裁定していたという事実に、サーサリアは驚きを隠せずにいた。

 一通りの話が纏まって、僅かに生まれた沈黙を縫うように、ある一人の官吏が書簡を差し出した。グエンはそれを見て眉をひそめる。
 「なんだ」
 「アル・バーデン准将からの増派と予算拡大の要請です」

 グエンは重い息を鼻から吐く。

 「またか。時を置かずに出された同内容である嘆願は排しておけと言ったはずだ」
 責めるように言われ、報告を上げた官吏はばつの悪そうな顔をつくった。
 「はい、承知しております。ですが、今回は将官としての名義ではなく、〈オウド〉の代官としての要請になっていて」

 オウドと聞いて、サーサリアは内心で強く反応した。そこは、自身が狂鬼に襲われて遭難をした際に、命を救ってもらった恩人である平民の青年、シュオウが新たな軍務として配属された地であると記憶していたからだ。

 説明を受けたグエンは、書簡に目を通し、それを卓の上に丸めて放り投げた。
 「浅知恵を……。却下する、オウド防衛は現有兵力を持って継続と――」
 言いかけたグエンの言葉に、アマイが割って入る。
 「なぜですか?」

 官吏達の視線がアマイに注がれた。

 「なぜ、とはどういう意味だ、アマイ硬輝士」

 「いえ、増派の要請を蹴る理由が、私には見えなかったものですから。近衛、第一軍共に抱える余剰兵力はかなりの数が燻っているはず。それ以外にも、左右の硬軍に派遣を要請する事もたやすい。オウド防衛軍の編成は、そのほとんどが質の悪い傭兵で構成されているとか。武器を与えずに属領を守れというのは、あまりにも酷というものではありませんか」

 余裕の笑みを浮かべて指摘したアマイに、グエンは心を動かした様子なく語る。

 「剣も盾も、必要な分は与えてある。事実、それだけでかの地の防衛に支障はなかったのだ」

 「どうにも、あなたは守る事にのみ執心のご様子ですが、敵に打撃を与える事を考慮に入れるのは極当然の事と言えるのではありませんか。おそらくバーデン准将も、突破口を欲しての要請でしょうし」

 「オウド奪還を念願としている〈サンゴ〉は南山同盟の一つ。奴らは同盟を謳っているわりにはまとまりに欠けるが、ムラクモが侵攻を始めたと認識すれば、硬く手を握り合うだろう。すべての物がそうであるように、国家もまた一面の物ではない。戦となれば、失われる民と金の分、この国は無駄に痩せ細る。それだけの決定を勢いだけで出すほど私はもうろくしていない」

 アマイはその言を一笑に付した。

 「民に金、どちらもムラクモは潤沢に持っている。ひと思いにサンゴを落として見せれば、北方との間にある小競り合いも収まるというもの。ここは王女殿下の号令という事で、近日中に大規模な軍をオウドに派遣するのが賢明であると提案致します」

 グエンはアマイに向かい、威嚇するように睨みつけた。

 「一硬輝士の身分で戦の是非を語るとは、それこそが越権行為だろう。サーサリア様はまだ王位にあらず。軍の派遣に名を冠するだけの資格はない」

 「では、一硬輝士ではなく親衛隊長として言わせていただきます。早々に天青石継承の儀を執り行うべきです」

 アマイが力強く言い放つと、グエンはすぐには返事を用意できなかった。
 アマイは皆の関心を惹いたまま、続ける。

 「そもそも、天青石の所在を知る人物が、あなた一人だけというのがおかしい。あの石こそは比喩ではなく正真正銘、王の石。その扱いに関しては前女王陛下の遺言によりすべてたくされたという事になっていますが、そもそもからして、女王陛下の死に立ち会ったのが、あなたお一人だという所からして、この話は雲を掴むように不確かなものなんですよ」

 がたりと椅子がなり、数人の官吏がいきり立った表情で立ち上がった。
 「アマイ親衛隊長、いいかげんにしてください。あなたのおっしゃりようはまるで――」

 おかしな方向へ流されつつあった空気を引き戻すため、サーサリアは咄嗟に手を叩いた。
 「アマイ、もうやめて。ここへは言い争いをしにきたのではない」

 アマイは命令を受けて一歩退いた。
 立ち上がって興奮する者達にも落ち着くように言おうとした時、サーサリアは激しく咳き込んだ。
 グエンはその様子を見て、サーサリアに手巾を差し出した。

 「殿下、筆頭医官よりお体の事は聞いております」

 サーサリアは長年、心を惑わせ恍惚状態に陥らせる〈リュケインの花〉に溺れていた。体を蝕んでいたその花をやめれば、すぐに健常な状態に戻れるものだと考えていたが、体は急な変化についてこられず、気分の激しい浮き沈みや、頭痛、吐き気、そして突発的におこる激しい咳などの症状に見舞われていた。

 受け取った手巾を口に当て、ひとしきり咳を吐いてから、サーサリアは涙を溜めた瞳でグエンを見た。

 「グエン、私は天青石の継承を急ぎたいと思っている」
 グエンは渋い顔でアゴに手を当てた。

 「燦光石の継承は、肉体と精神に強烈な負担を強いるのです。殿下の今のお体で、それに耐えられるとは思えませぬ。今は安静にして体調を整えられるのが、最も必要な事であると具申致します」

 サーサリアは確認をとるようにアマイを見た。彼は不機嫌そうにだが、納得の意を示して頷いた。
 「わかった。耐えうるだけの体を取り戻したのなら、継承を認めるのだな」
 「……はッ」

 サーサリアは席を立ち、出入り口へ向かった。部屋を出る間際、振り返ってこちらを見る者達に向かって柔らかく声をかけた。

 「邪魔をした。けれど、今後もこうした場には時折参加したいと考えている。じっとしているだけでは、なにも変わらないから」

 グエンは、立ち上がってサーサリアを凝視した。

 「アデュレリアに立つ前からは別人のように思えます。なにが、あなたをそこまで変えられた」
 しかしサーサリアは返事をせず、ただ薄く微笑んで見せるにとどめた。





     *





 「もうしわけ、ありま、せん……」
 誰もいなくなった評議室の中で、イザヤは呼吸も浅く養父に謝罪した。
 「かまわん。司令虫に犯された身で、意識を保っているだけで奇跡に近いのだ」

 養父の秘密を知り、体内に虫を寄生させられたイザヤは、ほどなくして意識を取り戻し、違和感を抱えつつも以前のように仕事につける程度には、この状況に慣れつつあった。

 グエンの言うところによると、体を内から蝕む寄生虫を心底受け入れてしまったがために、おかしな共存関係が形成されてしまったらしい。普通であれば、虫の支配から逃れようとして自我は崩壊し、精神的な意味での死を迎えて、生ける屍としてグエンの操り人形と化していたはずなのだ。

 イザヤは狂鬼と交流を持つ得体の知れない存在となってしまった養父を、それでもなお信じていた。彼のする事のすべてを受け入れられるだけの心構えが、現状を作り出したのだろうと、自身で納得を得ていた。

 「私の正体を知ってなお、のこのこと側にいるとはな」

 「あなたが誰であれ、私を拾って育てていただいた事実は変わりません。むしろ、始めから話していただければ、私は何も言わずにお手伝いを致しました」

 グエンはめずらしく溜息をこぼした。

 「幼い頃から変わらず難儀な娘だ。だが、その身に虫を宿している今、私もはじめてお前を信じる事ができる」

 娘と言われ、イザヤは喜んだ。笑みをつくろうとしたが、虫との共生を始めたばかりの体では、うまく表情をつくる事ができなかった。

 グエンは体をまわし、さきほどまでサーサリアが座っていた上座を見つめていた。

 「王女殿下は、本当にお変わりになられましたね。何度もお近くで拝見してまいりましたが、あの方と目が合ったのは今日が初めてです」

 「……ああ。だが人の本質はそう簡単には変わらない。あの娘には何か強い目的があるのだろう。でなければ、これまで何ら興味を示さなかった王位の継承を望むはずがない」

 「あの男を親衛隊長に抜擢したことと関係があるのではありませんか」
 グエンは鼻の穴を広げた。

 「シシジシ・アマイ。面倒な男が王女の側に付いた。今後、軽はずみな手出しは難しくなるだろう。一つの失敗が次々に膨らみ、下手をすれば取り返しのつかない事態を招く事になる。最後の詰めを残すだけのこの状況で、私はどこで間違えたのだ……」

 グエンは独り言のようにそう呟いた。

 これまで望んでいても見る事ができなかった養父の素顔が、目の前にある。なにより恐ろしい体験をした自分が、その出来事に感謝している今が、奇妙なほどに愛おしいとイザヤは思った。





          *





 東地の覇者であるムラクモと国境を面する国、サンゴは、南の小国が寄せ集まって手を組んだ南山同盟国の一つである。

 赤みのある褐色の肌をした人々が治めるその地は、鬼神を信仰する教義が社会の根幹をなしていた。

 そのサンゴの国境守護の要である、白道に置かれた古城、渦視《うずみ》城塞には、大勢の兵士が詰め、過去にムラクモとの戦で奪われた地、オウド奪還を夢見て日夜訓練に明け暮れていた。

 サンゴと同盟関係にある国〈シャノア〉の老将バ・リョウキは、二十人にも満たない数の部下を引き連れ、渦視城塞の門をくぐった。

 二重に編んだ皮の間に薄い木の板を入れた軽い鎧を纏い、額から天辺まで禿げ上がった頭をつるりと光らせ、胸まで伸びた白ヒゲを撫でながら、世に知られる名剣〈岩縄〉を背負って眼光鋭く入城する。その突端、出迎えに並んでいた兵の間から歓声が上がった。

 「バ・リョウキ様だ!」
 「本物だ! 剣聖バ・リョウキだ!」

 並んで入城した腹心の部下である、甥のバ・リビは興奮気味に声をかけてきた。

 「さすがですね、叔父上」
 「ふんッ、過去の名で持ち上げられているだけだ。調子に乗るな」

 浮き足立つ若き同行者に、バ・リョウキは律するよう言葉をかけた。

 列の伸びる先には、恰幅《かっぷく》の良い僧兵が両手を広げてこちらを出迎えている。
 バ・リョウキは早々に馬を降り、礼儀を重んじて徒歩で出迎えに応じた。

 「やあやあ、遠い所をわざわざ。かの老将殿にお越しいただき、まっこと感謝のいたり。私は渦視城塞総帥、黒僧将ア・ザンであります」

 二重にたるんだアゴを揺らし、そう名乗った男ア・ザンは、ひらひらとした官服の上から黄金の胸当てをつけて、肩から僧兵の階級を示す〈階布〉という長布を掛けている。その色は、序列一位を表す黒色に染められていた。

 「このような歓迎をいただけるとは恐縮でござる。樹将軍バ・リョウキ、シャノアよりの使者として助力役を仰せつかった。勇敢なるサンゴの兵の末席に加えていただければありがたい」

 バ・リョウキがへりくだって言うと、ア・ザンは機嫌良く破顔してみせた。

 「ご謙遜を。そのお歳で未だシャノアでは、あなたに並ぶ剣士はいないと聞いておりますぞ」

 ア・ザンはこちらを立てての物言いだったが、しかし甥のリビはそれが不満だったようだ。

 「南はもとより、世界広しといえど叔父将に敵う剣士はおりません!」
 バ・リョウキは、即座に甥を諫めた。
 「やめんかッ」

 非礼を詫びようと、バ・リョウキはア・ザンの顔色を伺った。しかし彼は爽快に大笑いをあげた。
 「若い若い! いやいや、たしかに控えめに言いすぎました。どうかお許し願いたい」

 大勢の兵が見守る中で、ア・ザンはむしろ自分に非があった事を主張して頭を下げた。すると、周囲から熱の籠もった拍手が沸く。

 ――こすい男だ。

 バ・リョウキは内心で毒突きつつも、甥の頭を押さえつつ、深く頭を垂れて謝罪した。



 バ・リョウキは下位僧の家に生まれながらも、剣の腕で名を馳せ、敵対する北方の名のある輝士達を幾人も討ち取ってきた名剣士である。

 数々の武勲を上げ、王の直属である〈禁軍〉の長を務めて後、南西の覇者である大国の王から爵位、領地と共に迎え入れたいとまで請われたが、バ・リョウキが忠誠を盾にこれを断ると、その事に感動を得た南西の王から、宝剣である岩縄を下賜された。この事で、知る人ぞ知る存在であったバ・リョウキの名は、英雄として世界に轟いたのだ。

 名の知れた英雄を迎え、活気に湧いた兵達の歓迎を受けた後、バ・リョウキはリビを伴って応接間に腰を落ち着けていた。

 茶と共に出された、透き通るような香りがする木の根を、細かく擦って生地に練り込んだ甘味を食べ終えると、ア・ザンは下唇を突き出して不満気な態度を見せた。

 「バ・リョウキ殿自ら禁軍をお連れいただいたのはありがたいが、思っていたよりも数が……ちと物足りませんな。たしか、千騎に匹敵するだけの戦力をお貸しいただけるとの約束で、我が国の財庫から金の融通がなされたと記憶しておるのですが」

 バ・リョウキは茶器を置いてア・ザン総帥を見据えた。

 「禁軍でも有数の才を持つ十七人の星君を選んで連れて参った。それにこのバ・リョウキを加えれば、お約束に違わぬ成果を残せるものと信じてはせ参じた次第」

 〈星君〉また〈星兵〉とは、西から北、東に渡って広く存在する、輝士に相当する兵科、階級である。
 正直なところ、バ・リョウキは自身が連れて来た十七人の星君兵達が、千騎に相当するなどとは到底思っていなかったが、そのような本音など微塵も見せずにア・ザンの目を凝視して見せた。

 「いや、まあ……たしかにバ・リョウキ殿直々においでいただけるとは思っておりませんでしたからな。おかげで士気は上々。これならにっくきムラクモ軍に打撃を加えてやれる事でしょう。今回は本国をせっついて星兵の増強もすませてあります。連中の慌てふためく顔が目に浮かびますわい!」

 にやけ顔でほくそ笑むア・ザン。彼の頭の中では、きっと戦勝に沸く兵に称えられている自分でも見えているのだろう。

 南山連合に属する国の多くは現実を直視するだけの脳がないのではと常々考えていた。バ・リョウキの見立てでは、サンゴとの間に頻発している争いも、ムラクモはまるで本腰を入れているようには思えなかった。

 ――下手な刺激にならねばよいがな。

 「それにしても、シャノアはご苦労が絶えませんな」
 妄想の世界から帰ってきたア・ザンは、突然にそう言った。

 「人も国も、良きときと悪きときはある」

 「ごもっとも。しかし〈猫睛石〉をお継ぎになられた姫は、いまだ十にも満たない幼子。守護者たる貴殿の心配は察して余りありますな。ご老体に無理を強いるとは、いやまったく」

 一々かんに障る物言いをするア・ザンに対し、隣で静かに座していたリビが拳に力を込めた。バ・リョウキは甥を諫めるため、こっそりと足を踏みつけ、リビの不満げな流し目を受け止めた。

 「ご心配に感謝する、総帥殿」

 初対面となるア・ザンの性格は、すでに透けて見えつつあった。その態度は一見して謙遜の色が強く腰も低く見えるが、胸につけた派手な胸当てと同じく、自己顕示欲が強く、さりげない言葉によって他者を下に置くのを好む。

 生粋の武官であるバ・リョウキから見れば、狡猾な官吏文官としての色が濃いこの男は不快な部類に入るが、高位にある者の中ではさしてめずらしい性格というわけでもない。

 そして一連の不快な発言は、的外れなものではなかった。
 自国、シャノアは前王の金使いの荒さと、長く続く不作によって借金に喘いでいた。国力は低下し、没した王の後継者として選ばれたのは、まだあどけなさしかないような幼い姫だった。他家から嫁に来た姫の生母は宮中の実権を握り、なんら力のない娘を後継者に据えた後、同盟関係にあるとはいえ、二心を胸に秘めたサンゴからあっさりと金を借り受ける決定をした。
 バ・リョウキは今、少ない手勢のみを与えられて、借金の見返りとして送り出されていた。

 「近いうちにムラクモとは一戦交える事になりましょう、まあ、まずは旅の疲れを癒していただきたい。その前に老将がよろしいようであれば、私自らが城塞内を案内いたしますが」

 器に残った茶はすでに冷めている。席を立つには丁度良い頃合いだろう。
 「ありがたく、案内をお願い致す」



 総帥自らに志願したわりに、城塞の内部は取り立てて見所もなかった。だが一カ所だけ、片隅に設けられた牢獄に、ものものしい数の番兵が見張りをしているのを見て、興味を持った。

 「あれは、なにごとか」

 足を止めて聞くと、ア・ザンは待っていたとばかりに胸を張った。

 「老将は〈ガ族〉をご存知ですかな」
 「三脚を使う一族でしたな。血統は絶えて久しい」

 〈三脚〉は深界で独自に進化を遂げた狂鬼の枠に属さない生物で、敏捷性に優れた二脚を駆使して深界を四六時中走り、胸の下に折りたたんだ三本目の副脚は跳躍を得意とし、悪路をものともしない。人が騎乗する生物としては馬に並ぶか、それ以上の存在だった。

 小さな里を領地としていたガ族は、その三脚を手なずけて戦場に用いる術を代々受け継いできた優れた部族だったが、それが仇となり、ガ族を取り込もうとする各国の思惑に晒されるなか、最終的には全滅の運命を辿ったのである。

 ア・ザンはにやりとほくそ笑んだ。

 「それが生き残りがおりましてな。食べるために各国を練り歩いて裏の仕事を請け負っていたという話ですが、性格が難しく雇い主をころころと変えている間に恨みを溜めてしまい、路頭に迷いかけていたところを私が招き入れたのです」

 バ・リョウキは眉をひそめた。
 「この様子を見るに、矛盾しておるようだが。牢に閉じ込める事を招き入れるとは言わん」
 非難の意味を込めた言葉は、しかしア・ザンには届かなかった。

 「なあに、ちょっとした機転を利かせましてな。酒に酔わせてその間に石を封じ、拘束したのですよ」
 ア・ザンは手をこねながら、卑怯な手段を自慢気に語った。

 「見てもよろしいか」
 「ご随意に――お前達、老将をお通しするぞ!」

 同行したがったリビを置いて、ア・ザンの案内に従った。
 牢の中は換気が悪く、豚小屋のような臭いが充満していた。件のガ族の生き残りは、一番奥の暗い部屋に、両手を鎖でつるし上げられた状態で座り込んでいた。

 浅黒い肌に青黒い髪。ゆっくりと持ち上がった顔には、虎のように猛々しい目が光る。すっきりとしたアゴには一点のホクロが刻まれていた。座っていて全体像は明瞭ではないが、たくましい筋骨とすらりと伸びた長い足からして、相当に背は高いだろう。本来左手にあるはずの輝石は〈石封じ〉と呼ばれる、彩石を有する者が駆使する力を弱める効力がある特別な皮手袋がはめられていた。

 その男は光の届かない薄暗い部屋で、鷹揚に顔を上げて睨みをきかせ、鋭い犬歯の目立つ歯を剥き出しにして笑みを浮かべた。

 「じじい、てめえが剣聖とか祭り上げられてる糞野郎かよ。見張りのやつらがさっきっから女みたいにワアワアうるせえったらねえ」

 咄嗟にア・ザンは鉄格子を蹴り飛ばした。
 「口に気をつけんか、貴様のような無頼の輩が軽々しく口をきける相手ではないのだぞ」

 バ・リョウキはア・ザンを制し、囚われの男と正面から視線を交わした。

 「ガ族の生き残りと聞いたが、まことか」
 「あ? だったらなんだよ」

 「ここにこうしている今が、おしいと思っただけだ。関わる人間を間違えたな、小僧」
 言うと、男は口角を下げて険しさに顔を歪めた。

 「わかんねえ事をいってんじゃねえよ。それより、あんたがあのバ・リョウキっていうんだろ。ガキの頃からその名前はなんども聞いた事があるぜ。剣の腕でのし上がった英雄、そして戦闘狂いだってな」

 たしかめるように言われ、バ・リョウキは頷いた。
 「否定はせん」

 男は不敵に笑う。
 「じじい、俺と戦えよ。あんたみたいなのを倒して名を上げてえんだ」
 バ・リョウキは、これに即答した。
 「断る」
 「なんでだ! おれはつえーぞッ!」

 「侮って言ってるのではない。貴様のその手、一目でわかった。剣でも槍でもない、拳を技として使う者だと」

 男の両の分厚い拳は、治った後のある傷跡が無数に刻まれていた。
 バ・リョウキを含め、南方の〈星術〉と呼ばれる晶気に相当する力を有する者には、その性質に肉体強化を持つ者が多い。

 この男の場合、十中八九その力は腕力に関係したものであると推測できる。
 男の言うように、バ・リョウキは強者との対戦を好んできた。だが、その相手に得物を使わない人間は、あえて望むほどのものでもない。

 男は決闘を拒んだバ・リョウキを前に、それを嘲笑った。
 「言い訳をつけて逃げてるだけじゃねえか。相手を選んで戦ってりゃその歳までのこのこ生き残ってるのも納得がいくぜ」

 不意に横から棒が伸び、男の顔面を打ちのめした。
 「野良犬の分際で、黙っていれば不遜な事をッ!」
 刃のない槍の先で突かれ、男の顔には青紫色の痣が浮かんでいた。

 バ・リョウキは棒を掴み、それを止める。
 「弱者を一方的になぶるのは好かぬ」

 ア・ザンより先に、囚われの男が吠えた。
 「俺は弱くねえ! クソが、取り消せッ!」
 鎖を引き千切らんばかりに身体を前に倒し、血走った目で闘争心を剥き出しに叫ぶその姿は、野獣のそれである。

 「老将、まいりましょう。ここは英雄の立つ場所ではありませんぞ。なあに、こいつはこれから私が直接可愛がってやる予定でしてな、不遜な物言いの分は、その時にたっぷりと後悔させてやりましょう」

 下卑た笑みを浮かべているア・ザンに言う。

 「口を出す立場にはないが、戦士には相応しい最後を与えてやるべきであろう」
 「ええ、そうしますとも。三脚の捕獲や飼育方について聞き出した後にね」

 ひっきりなしに怒鳴り声をあげ、自分を煽る男の声を背に受けながら、バ・リョウキは牢獄を後にした。

 口汚く自分を罵るその男よりも、バ・リョウキはア・ザンへの嫌悪を募らせていた。本人曰く、囚人への拷問を趣味としていると言う総帥が、自国の同胞でなかった事を、真剣に神に感謝していた。





          *





 灰色に染まる深界は、春を迎えてもなお陰鬱とした空気が支配しているが、温かくなった気候に誘われるように、商いに従事する者達が、荷をどっしりと積んだ馬車と共に、せっせと白道を進んでいた。

 シュオウは、新たな任地であるオウドの地へ向かう隊商に小銭を渡し、荷を積んで揺られる馬車に便乗して目的地を目指していた。

 「おい兄さん、そろそろ大山が見えるぜ」

 御者の男に呼ばれ、馬車から頭を出すと、前方の遙か彼方に巨大な山がそびえ立っていた。

 「でっかいな」

 霞む空気の奥にある〈金剛大山〉は、山というより壁と形容したくなるほどの重厚感を持って存在している。天高くまで伸びる頂上付近は、雲に隠れてどうなっているのか確認ができないほどだ。

 「冬から今くらいの季節は霞んでてぼんやりしてるけどな。夏になるともっとよく見えるようになるよ」

 雲をかぶり、大地を睥睨する金剛大山を前にして、気分は高揚していた。
 自分は今、見た事もない異境に、たしかに足を踏み入れたのだ。










     Ⅱ つがいの輝士










 初めて踏むオウドの地は、土と焦げの臭いがした。

 シュオウは、活気のない粗末な露店が並ぶ市場を抜ける途中、商い人に兵舎への道順を聞いて、周辺の景色を眺めながらのんびりと歩いていた。

 すれ違う人々の大半は、赤みを帯びた褐色の肌をした人々。食べ物を乗せたカゴを手に、おしゃべりを楽しみながら歩く若い女達は、シュオウを見ると途端に押し黙り、目を背けて足早に駆け出していった。

 強く陽が照る時間帯。居住地区は、縦長に空に伸びる白い粘土壁の建物が並び、全開にされた窓からは巣のようにヒモが伸び、洗濯物が戦列を組む兵士のように整然と干されていた。

 建物の間に落ちる日陰を歩きながら、目的の場所を目指す。よいせと背負いなおす荷物袋は、旅立ちから日を追う事に重さを増していた。

 教えられた道は真っ当な経路ではなかったらしく、目印として与えられた情報を頼りにしても、どうにも進む道への自信が失われていく。

 木々に隠れた坂を上り、途中に置かれていた鬼を象った小さな石像に目をやりながら汗を拭った。
 坂を登り切った先に見えた建物を見て安堵する。

 現れたのは巨大な建築物。その形状は独特で、邸と呼ぶには情緒に溢れ、城と呼ぶにはあまりに軟弱である。
 苔蒸したような色をした門は全開にされ、門の天辺には、南方戦線本部と書かれた看板がさげられていた。

 門を守る茶色い制服を着た従士達が、退屈そうに佇んでいる。
 彼らに命令書を差し出して用件を告げると、あっさりと中へと促された。しかし道案内をしてくれるほどの親切心はなかったようで、空中をなぞる従士の人差し指を頼りに、自力でこの兵舎の責任者の元まで命令書を渡しにいかなくてはならなくなった。

 外から見るより、中から見るこの兵舎の構造は複雑怪奇であった。門を抜けた先の正面には、開かれた大広間があり、その部屋の奥には、黒くて大きく、頭に二本の角を生やし、大きな鼻の穴を膨らませながら、尖った犬歯を剥いて口を開いた鬼神像が鎮座し、見る者を威圧するように正面を見据えている。

 独特な香の臭いがきつく、猛々しい鬼神像とあいまって建物の中の異様な雰囲気を増幅させていた。

 結局どこから入っていいのか、どこが部屋としての機能を持っているかもわからず、中庭を抜けてあちこちに伸びる廊下を目で追いながら、執務室を探して彷徨った。

 しばらくの間敷地内をうろついた結果、シュオウは見事に道を失っていた。見回しても奇妙なほど人気はない。歩き続けながら、入口へ戻る事も検討し始めたその時、中庭の奥の日陰の中で上半身裸で乾布を手に背中を擦る男と出くわした。

 「お?」

 男は四十そこそこといった風貌で、ふわりと柔らかそうな栗色の髪に、もみあげからアゴまで続くヒゲをはやした、一目で軍人とわかる逞しい肉体の持ち主だった。輝石がくすんだ焦げ茶色をしている事から、この男が輝士階級にあるのはまちがいなさそうだ。

 旅の装備のまま佇むシュオウを、軍人風の男は足のつまさきから、頭の天辺まで舐めるように観察した。

 「道に迷ってしまって」

 短く現状を伝えると、男は納得を得たりと数度頷いた。

 「なるほど、たしかに迷っているという顔をしている。それで、君の目的地はどこなんだ」

 「着任の挨拶のため、ここの主のいる所まで」

 「ふむ、なるほどな――」
 男は少し垂れ気味な目尻で、思索を巡らせるように遠くを見つめてから言った。
 「――よしわかった、俺が案内しよう、着いてきたまえ」

 礼を言う間もなく、男は裸の上半身に乾布をひっかけたまま、礼を言う間も与えずに歩き出してしまった。

 彼の指示に従い、靴を脱いで階段をあがり、よく磨かれた木造の長い廊下を歩く。角を二つほど曲がった先に、町並みを一望できる視界の開けた廊下にさしかかって、そこから見える光景に、シュオウは思わず足を止めた。

 市街地とは反対側にあたるその場所は、黄色い土に覆われた荒涼とした風景が広がっていた。そこかしこで上がる煙の元では、ボロ切れを纏って労働に従事する人々がいる。彼らは大きな焚き火の中に、細かな葉のついた枝や乾いた木材を放り投げていた。

 「物珍しいという顔をしているな。このあたりじゃ当たり前の光景なんだが」

 付き合って足を止めてくれた男は、共に風景に視線をやりつつアゴヒゲを撫でていた。

 「あれは、なにをしているんですか」

 「陶器を焼いているのだ、窯を使わんのは珍しいかもしれんがな。ここらで大量に取れる黄色い粘土質の土に、特別な石を砕いて作った粉を加えると粘りの強い良い土になる。それをこねてじっくりと焼き上げれば、煮込み料理用器の完成というわけだ。このオウドが持つ数少ない特産品の一つだな。まあもっとも、ここで作られる物のほとんどは市井の民が使う安物だ。かさばるわりに利益は少なくて、交易品としての人気はさっぱりだッ」

 男は早口でまくしたて、自身の説明に気分を良くしていた。

 どこへ行っても、かならずその土地で生きる人々の営みが存在している。
 王都では、労働者達の大半は石を掘って糧を得ていた。アデュレリアの人々は鍛冶、精錬や漁業に従事し、ここオウドの地でのそれは、焼き物だった。
 場所が変わるたび、目に入る光景も、鼻で感じる臭いも、空気の質も、なにもかもが違うという事を、シュオウは喜びとして受け止めていた。

 「楽しくてしかたがない、という顔をしている」
 唇を片側だけ釣り上げて、微笑みながら男が言う。
 「楽しいです」

 シュオウが真っ直ぐそう告げると、男は爽快に笑い声をあげた。

 「この光景を前にして喜んだ奴を見たのは初めてだ。風向きによっては涙が出るほど煙たいが、まあそれはおいおい慣れるだろう」



 長い廊下の角を三度曲がった先に、目的の部屋はあった。部屋の前で佇む警備兵は、乾布を肩にかけた男を見ると敬礼して声をあげた。

 「アル・バーデン准将閣下ッ、ケイシア重輝士が中でお待ちです」
 「おう」

 一言で応える男を見ても、特に驚きはしなかった。道中薄々そうではないかと考えがよぎったのだ。なにしろ、この男の堂々とした振る舞いを見るに、並の者にはない風格があったからだ。

 シュオウが目当てとしていたこの地の責任者である、アル・バーデン准将は、なにかを期待するようにチラチラとこちらに視線を送っている。

 ――驚いたほうがよかった、か。

 反応に迷っていると、中年の准将はがっくりと肩を落としていた。

 背中越しに手招きをされ、入室するアル・バーデンに続くと、広々とした部屋の中央に置かれた執務机に腰かける女の輝士がいた。

 ほっそりとした体に見慣れた黒の軍服。亜麻色の結い上げた髪は几帳面に整えられ、気の強そうな細い瞳には、軍人特有の鋭さがあった。彼女はアル・バーデンの姿を見ると一瞬破顔したが、シュオウの存在に気づくと、咄嗟に表情を引き締めて感情を隠した。
 女は椅子から腰を上げ、軽く敬礼した。

 「おかえりなさいませ、閣下。お姿をお見かけ致しませんでしたが」
 「庭で体を温めていたら、新任の従士が道に迷って現れてな。ついでだから連れてきた」
 「新任って……まさかたった一人? 他に一緒に来た人間は!?」

 必死な形相で女輝士に聞かれ、シュオウは首を振った。

 「俺はアデュレリアで命令を受けて、そこから一人でここまで来ただけなので」

 アル・バーデンは笑う。
 「ケイシア、気にしすぎだ。心配しなくても最低限の補充兵くらいは送られてくるだろうさ」

 ケイシアと呼ばれた女は、視線を落として頷く。
 「ええ、そうですね」

 アル・バーデンはケイシアが座っていた執務机に腰を落ち着け、肌着に腕を通した。

 「いまさらだが言っておこう。アル・バーデンだ。ここの司令官兼オウド代官を務めている。この女はケイシア・バーデン、俺の忠実な副官兼、嫁さんだ」
 アル・バーデンは、言ってケイシアの尻をぱしんとはたいた。

 「ちょっと!」
 ケイシアは一応は怒ってみせるが、夫婦というだけあってどこかこなれた様子だ。

 「夫婦、ですか」
 唐突なその紹介にシュオウが目を丸くしていると、アル・バーデンはそれを嬉しそうに眺めていた。

 「めずらしい、という顔をしているな、いいぞ。たしかにムラクモ王国軍の中でも、夫婦で上官と部下という関係はめずらしいだろうさ」

 ゲラゲラと笑うアル・バーデンを、ケイシアが呆れた顔でたしなめていた。
 ケイシアは取り繕うように咳払いをして、軍人然とした強い視線をシュオウに向けた。

 「配属命令書を渡されているのなら、それを早く見せなさい」

 言われ、軍での経歴を記した紙と、オウドへの配置を指示する書簡を手渡した。
 ケイシアは糸のような双眸をより細めて、紙とシュオウの顔を交互に見合わせた。

 「名前は、シュオウ……従士曹?」
 それを聞いて、アル・バーデンが声をあげる。
 「ほお、若く見えるが、その歳で昇任されているとは、やるじゃないか」

 単純そうな夫とは違い、ケイシアの方は何か引っかかりを感じているようだった。彼女は紙の上の情報を読み取った後、配置命令書を手元に残して、身分を証明する用紙のほうをシュオウに返却した。

 「一通り把握したわ。ごくろうさま、と言っておきましょう。オウドへようこそ。階級からいっても、一部隊をまかせるのが妥当でしょう。人手不足だったから、正直に言って心の底から歓迎するわ」

 シュオウは軽く会釈を返した。
 「よろしくお願いします」

 形式的に挨拶をすませると、ケイシアは卓の上に置かれていた紙を一枚差し出した。

 「寝泊まりの場として、すぐ近くに兵舎を設けてあります。案内の者をつけるので、この命令書を持って隊に合流しなさい」

 新たな命令書を受け取って、シュオウは執務室を後にした。



          *



 扉が閉まったのを確認して、ケイシアは顔の緊張をほどいて夫のアルに向き直った。
 「気づいていて案内役を買って出たのでしょ」

 ケイシアは言って、腰のあたりをぽんと叩く。

 「当然だ。あれほどの一品、見逃すはずがない」

 というのも、着任の挨拶に訪れたシュオウという名の従士の腰にあった、一対の剣を指しての話である。それは一目でそうとわかる特注品だった。それだけなら一瞬の注意は惹かれてもそこで話は終わりだが、問題はその剣に氷狼の紋章が刻まれていたという事だ。

 「剣に紋章を刻む事が許されるのは、高位の貴族家でも序列の高い人間にかぎられる。あれを譲り受けたのだとしたら、アデュレリアに相当近しい人間ということになるわ」

 「アデュレリアから来たと言っていたのは、そういう意味だったのか?」

 「アデュレリアには謹慎処分中で滞在していたとあった。その前は採用試験を経て、シワス砦での任務についていたとも」

 「シワス!?」
 アルは目をむいて大声で驚きの声をあげた。

 「シワス砦といえば、田舎者が指を差して笑うこのオウドを遙かに凌ぐ僻地ではないか。東の端からアデュレリアのような都市を経てこんなところまで来たのか。それも氷狼の紋をつけた剣を携えて――わけがわからんな」

 「そのうえ、謹慎処分が明けるのと同時に従曹への昇級が言い渡されている」
 ケイシアが言うと、アルは大仰に天井を仰いだ。

 「よけいにわからん。何者だ、ありゃ」
 突然に現れた謎多き人物について、ケイシアには薄々ではあるが、答えの糸口を掴みつつあった。

 「最近、王都から訪れた触れ人が言っていた事を覚えている?」
 「サーサリア様の遭難事件だろう。うちで詰めてる連中の間じゃ未だにその話が酒の肴だ」

 「そう。殿下は無事に救出されたという話だったけど、その時に現場に居合わせた平民の力添えによって、生還が叶ったともいっていた」
 もっとも、その情報を信じる者は誰もいなかったのだが。

 アルはアゴに手を当てて、したり顔をしてみせた。
 「わかったぞ、そのときの平民とやらが、いまの従士というわけか」

 ケイシアは微かに頷いた。

 「だとしたら筋は通る。まあ、本人に聞くのが一番てっとり早いのだけど、それで調子づかせて、こちらに特別な待遇を求められるのも面白くはないわ」

 アルは意外そうに眉を上げた。

 「特別扱いせんのか? 平民とはいえアデュレリアから剣を下賜されるほどの人間だ、機嫌を取れば氷長石様との繋がりを得られるかもしれんぞ」

 「だから、あなたは甘いといつも言ってるの。あの方は気に入った相手にはたっぷりと蜜を与えるけど、そうでない相手には正面から剣先を突きつけるような人。勝手な想像を元に不用意な事をして怒らせたら、私たちはそれまでよ。下手をすれば、このオウドで一生を終える事になる」

 アルとケイシアは、両名ともに下級貴族の出だった。わずかばかりの財産と爵位を継ぐのは兄姉達であり、欲しい物はすべて自力で手に入れなければならないのだ。

 軍においてはそれなりに腕の立つ輝士であったアルと、その時々で冷静な状況判断ができるケイシアの二人の協力により、武勲を上げて比較的早く出世の道を駆け上がったが、しかし思わぬところに落とし穴は開いていた。豪放磊落《ごうほうらいらく》な性格であるアルが、近衛軍での上官にあたる人物から不興を買ってしまい、嫌がらせとして誰もが着任を渋るオウドという土地へ送られてしまったのだ。

 着任において、司令官としての体裁を整えるために准将の階位を与えられ、代官という役職もおまけとしてついてきたが、その実は経済活動への介入すら許されていない名ばかりの名誉職であった。

 攻めるな、守れ、なにもするな。この三つを固く厳命したのが、一昔前にこのオウドを陥落させた張本人である、王国軍最高権力者グエン元帥だったのだから、逆らいようも、苦情を申請する機会もない。

 宝玉院の卒業試験以来ずっと共に在り続ける、アルとケイシアの二人にできる事といえば、少ない予算の拡大を求めつつ、手持ちの貧弱な手駒を駆使して属領の防衛をしなければならない、という事だけだった。

 それは小さな額縁のなかで、一欠片の木炭を使って壮大な絵画を描けと言われたに等しい、難事である。

 アルは盛り上がっていた心を静め、視線を落とした。
 「……寒くなってきた」

 「名誉を得られない戦しかできない中で、輝士達の士気は低い。そのうえ抱える雑兵は、金銭の多寡でしか物事を見ない連中ばかり。アル、今が私たちの踏ん張りどころよ。このオウドでの任務を無事にやり遂げれば、きっとまた中央に呼び戻される機会はある。私たちの子に、爵位と領地を与えてちょうだい」

 自身の下腹部にそっと手を当て、ケイシアは願いを込めてアルに訴えた。

 「そうだった。何事にも近道はないか。引き締めてかかろう」
 子供のように口元を引き締めて言う夫を、単純だが愛しいとケイシアは思った。

 「それでこそ、私が選んだあなただわ」
 めずらしく褒められて喜ぶアルは、人差し指を立てて片眼を閉じて言う。
 「褒美に夜の酒を一本増やしてくれ」
 ケイシアは途端に真顔になり、顔をそむけた。
 「それはだめ、質素倹約が私たちにとっての最大目標である事を忘れないでちょうだい」
 「……はい」
 アルは項垂れて子犬のような鳴き声をもらした。



          *



 ラ・ジンと名乗った褐色肌の老人は、痩せた体にぼろぼろの従士服を着込んで、ついてこいと短く言った。

 尖った大きな丸太を繋げて地面に突き刺した壁に覆われる宿舎は、酷く不潔な空間だった。
 皮を剥いだ鳥や兎が無造作に干され、大量に湧いた蝿がたかっている。食べ散らかした骨や残飯が散乱する地面には、薄汚れた男達が座り込んで明るい時間から酒をあおっていた。

 「ラジンさん」

 黙々と奥へ進む老人に声をかけると、彼は足を止めた。

 「ラ、ジンだ。ラジンじゃねえ。ラは族名でジンが親からもらった名前だ。このあたりじゃジン爺と呼ばれてる」

 ジン爺はいがらっぽい声でそう言うと、再び足を前に進めだした。

 「ここは長いんですか」
 「さあな。ここで軍人を始めた頃は髪はたんまり歯も残ってたが、今はどっちもない。そのくらいはここにいる」

 泥で汚れた天幕の間をすり抜けながら、シュオウは少しでも情報を引き出そうと努めた。

 「五十五番隊の人数は?」
 渡された紙に記されていた、自分が預かる事になった隊を指して聞いた。

 「糞みてえな傭兵が四人、それにワシを加えて計五人だ。いっとくが綺麗な姉ちゃんがいるなんて期待するな。どいつもこいつも干した豚みてえな面してやがる。臭いも負けず劣らずだ!」

 反吐を吐かんばかりに、ジン爺はそう吐き捨てた。彼はところで、と言葉を繋げた。

 「あんた、何してその若さで従曹になんぞなれた」
 「なにって……」
 「言いたくないなら別にかまわんがな。どうせあんたも記念で来てる口だろう」

 記念とはどういう意味か、と聞きかけた時、ジン爺は目的の場所に到着した事を告げた。

 ぞっとするような汚さの天幕には、やたらに足の長い蜘蛛が無数に蠢いていて、油やら泥水やらにまみれて元の色がわからないほどの不潔さだった。

 促されてくぐったその先には、布地に透けるぼんやりとした陽光の元で小さな卓を囲む、体格の良い四人の男達がいた。全員が黒髪に乳白色の肌をした東地出身者と思しき人間達だ。 

 「てめえら、新しい隊長のご到着だ。挨拶しろ」

 ジン爺が声をかけると、四人の男達は一斉に振り向いてシュオウに視線を送った。その直後、彼らは盛大に溜息を吐いた。

 「ああ、くそ、またハズレじゃねえか」
 背の高い男が言うと、他の三人も興味を失ったようでブツブツと愚痴をこぼしながら卓の上に並んだカードに視線を戻す。

 「……お――」
 そんな彼らの注意を引き戻そうとした時、ジン爺が手を振って止めに入った。

 「やめておけ、無駄に疲れるだけだ。寝床に案内するからさっさと着いてこい」
 「ここじゃないんですか」

 天幕を出るジン爺の後を追いながら聞くと、大きな声が返ってきた。
 「豚小屋で寝たいならとめんがな。従士には馬小屋程度にはましな宿舎が用意されとる」

 なるほど、と頷いたシュオウは、次いで気になった事を聞いた。

 「ハズレって、どういう意味ですか」
 ジン爺は足を止め、不機嫌そうに溜息を吐いた。
 「あんたも質問が多いな……あれを見ろ」

 皺だらけの指が伸びる方を見ると、小太りの若い男が、屈強な傭兵風の男にあれこれと指示をされて、へこへこと頭を下げている光景があった。

 「あれがアタリだ。平民の出でも、そこそこうまくやってる商い人の倅どもが、箔をつけるために軍に入って、ほんのちょっと戦に顔を出して帰っていきやがる。大抵がどうしようもない糞ヘタレ共だが、金だけはそこそこ持ってるってんで、傭兵共が隊長としてやってきたガキに金をせびる。うまい酒と飯でもおごってやりゃ、連中だって馬鹿じゃないからな、戦になればガキ共のお守りくらいはするって寸法だ」

 「それで……俺がハズレか」

 シュオウは自身が受け持つことになった部隊の者達に、貧乏人だと思われたのだろう。それもそのはず、顔に眼帯をした灰色の髪を持つ人間が、東地において裕福な家の出には到底見えないだろうし、その見立てに間違いはない。

 「あんたらはな、隊長ですって面でただいればそれでいいんだ。戦に出て生き残ろうが死のうがワシにはどうでもいい。年寄りの戯れ言として一言だけ言っておくが、うちの隊の連中に言うこと聞かせようなんざ考えるなよ。あいつらが信じるのは金と酒と油まみれの肉だけだ」

 一方的にまくしたてるジン爺の話は、忠告というより途中から愚痴へと変わっていたが、言葉の中から多くの有益な情報を拾うことができ、それなりに収穫はあった。

 従士専用の宿舎である木造建ての建物の一室は、傭兵達が寝泊まりをしている天幕よりも遙かにまともな、居住空間として最低限の体裁は整えていた。
 たしかに、あの老人の言うように外の天幕を豚小屋と評するならば、ここは馬小屋か安宿程度の質は保っている。

 シュオウには小さな個室が与えられた。とはいえ、寝台一つを置いて足の踏み場もないような狭い場所だったので、つい最近まで寝泊まりしていたアデュレリア邸の部屋とは比べるのも馬鹿らしかった。

 去って行くジン爺に礼を言って、シュオウは部屋に入って寝台に体を預けた。
 突然に降って湧いた従曹という立場にある今、しかしその実感はなにもない。

 ジン爺を含む隊の人間達への対応をどうすべきか悩む中、ある程度の参考としてまっさきに頭に浮かんだのは、シワス砦で従士達をまとめ上げていたヒノカジ従曹の背中であった。



          *



 「なんでだよおおおおおおおお!」
長身で細身の男、ハリオは目の前に広がる惨憺たる光景を前にして、雄叫びにも似た悲鳴をあげた。
 「ハリオぉ、これって夢じゃないんだよね……つねってくれよ」

 そう願った小太りの男、サブリの柔らかい腹を、ハリオはおもいきりつねり上げた。

 「いったッ! 腹じゃないよ、ほっぺただよ!」

 抗議する言葉も、ハリオには届いていない。放心状態で呆然と立ち尽くしている。
 サブリもまた似たような思いを抱きつつ、子汚い傭兵達でごったがえす宿舎を凝視していた。
 真っ茶色に汚れた天幕が所狭しと並び、どこからともなく運ばれてくる汚臭に鼻が曲がりそうになる。

 なんやかんやと愚痴りながら働いていたアデュレリア公爵邸は、ここと比べれば高級な宿場街にも等しかった、とサブリは過去をなつかしんだ。仕事はきつかったが、あの邸には眉目の良い若い女の使用人達が大勢働いていたからだ。

 それに比べてここはどうだろう。あるのは筋骨たくましい、一年中風呂にも入らないような中年の男達の姿だけだ。

 幸いにも、従士に与えられる宿舎は別にあるという情報を仕入れた二人は、そこへ向かう道すがらにぺらぺらとお喋りを続けていた。

 「どうにもおかしいんだよ。よりにもよって、一番来たくないと思ってた所に俺達はいるんだ」

 生気の抜けた虚ろな目で、ハリオがそうつぶやいた。

 「南の戦線には絶対に行きたくないって、何度も言ってたもんね」
 「それもこれも、全部あいつのせいだ」
 「あいつって、シュオウの事だろ」

 ハリオは数度頷いた。

 「なにが動向を知らせろ、だ! 氷姫の野郎、俺達が平民だからってめんどうな仕事ばっかりやらせやがって」

 「おい、野郎なんて言ったことが聞かれたら……」

 「うるせえ、かまうもんかッ。俺達だって人間なんだ、やりたくない事くらいあるんだよ、ちくしょうが。誰が好きこのんで殺し合いの最前線になんて来るもんか」

 元はと言えば自業自得だ。アデュレリア公爵に繋がりを持っていたシュオウを助け、その褒美に遙か雲の上にいるようなアデュレリア公爵の別邸で食事を振る舞われ、調子に乗ったハリオが酒の盗み飲みを提案し、流されやすいサブリがそれにのって、あっさりとバレて公爵の怒りを買ってしまったのだ。

 「まあまあ、これで酒代をなしにしてくれるっていうんだから。俺達が一生稼いだって払えない額だったんだし」

 サブリが落ち着いた調子で言うと、ハリオもようやく現実を受け入れたのか、溜息を一つ零して押し黙った。

 そこそこまともな従士用の兵舎に到着し、指示を受けた隊への合流を求めて叫んだ瞬間、丸太のように太くて固い腕が、サブリとハリオの首にゴキリと巻きついた。その瞬間、酒の臭いがぷわんと漂う。

 「ようやくまともな補充の従士が来やがった」

 大蛇のように太い腕が巻きついた首をどうにか捻りながら顔を上げ、横目で見る声の主は、外でうろついていた小汚い傭兵に負けず劣らずの風貌をした強面の男だった。

 「あ、あの、あなたは……」

 自分より強いと思った相手にはすぐに腰が引けるハリオは、おどおどとした声で尋ねる。

 「七十番隊、隊長のボルジだ。今日からてめえらの上官になる。さっそく他の連中と一緒にしごいてやるからその小綺麗な服を全部脱いでこい」

 首を押さえられて引きずられながら、サブリは、もうどうにでもなれという心境でいた。横目で見るハリオの小さな双眸は、死んだ魚のように濁っていた。



          *



 オウドに着任してから一夜が明け、シュオウは目覚めと共に部下となった傭兵達の元に向かった。

 共に戦場に行く身として、彼らと最低限の会話くらいはしておきたい。だがそうした思いも、もぬけの殻となっていた五十五番隊の天幕を覗いた瞬間に意気は萎れてしまった。

 近場にいる者達に彼らの行き先をたずねても、自分の従士服と階級章を見た途端、彼らは不機嫌そうに押し黙った。

 この状況で唯一頼りになりそうなジン爺は、朝早くにどこかへ出かけていってしまったらしく、やはりその行方も霧の中である。

 ――ひどいものだ。

 当たり前のように人を御していた、アデュレリア公爵やその副官のカザヒナ重輝士、そしてシワス砦のあの老いた従曹を思えば、部下の一人とて、その居場所すら把握できていない今の自分が情けなかった。

 愚痴を聞いてくれる相手は誰もいない。中途半端に与えられた責任を、どう処理すればよいのか、その答えを得ることができない。

 兵舎の中には、ひどく怠惰な者達がいる一方で、木剣を片手に訓練に勤しむ隊の姿もあった。観察してみるに、そうした隊にはかならず、それを監督している強面で恰幅の良い仕切り役がいて、怒鳴り声をあげながら訓練を促している。

 人を御すという行為は苦手だ。上に立ち、あれこれと指図をして相手に言うことを聞かせなければならない。しかし、自分はここまでの歩みの中で、それに近い事もしてきた。頭の固い貴族の娘達を説得し、命すら狙ってきたこの国の王女にすら、最後には自分の意思を通して囮役までやらせてきたのだ。

 やってやる、という気持ちはまだ死んではいなかったが、しかし今のところ部下達の居所に関する手がかりはなにもない。時間を無駄にしているような気がして、シュオウは周辺の地理の把握に努めた。

 兵舎から街への、いくつか存在する道順を調べ、複雑怪奇な小道がどこへ繋がっているのかを把握しながら、一つ一つを頭に入れていく。その課程で、山の小高い場所へと伸びる一本の細道を見つけ、小さな丸太で簡単に作られている階段を昇って、その先がどうなっているのかをたしかめに向かった。

 険しいと言い切れるほどの傾斜。階段は高さも歪で、丸太が腐り落ちて欠けてしまった部分もある。

 どうにか昇りきった先には、小振りの祠のような建造物があって、その先に辺りを一望できる崖のように突き出した地形があった。そこに、見覚えのある人物の背中を見つける。

 ――准将。

 一人佇んでいたこの地の最高責任者であるアル・バーデンは、すぐにシュオウの存在に気づくと破顔して近寄ってきた。

 「よく会うな、という顔をしている。俺も同感だ」

 よく通る野太い声が、周辺に反響した。

 「本当に」

 彼はシュオウに手招きをして、柵が設けてある崖っぷちへと誘導した。

 広がる景色は見事なものだった。
 なだらかに傾斜を形成する黄色い山の先には、ぼんやりと霞んで深界の森が見える。大きな鳥達が永遠に続く青の世界を飛び、春のほがらかな日射がこの世界全体に彩りを与えていた。見上げれば、壁にも等しい大きさの金剛大山がどっかりと世界を睥睨し、稜線をこするように流れていく雲が、その山の雄大さをさらに際立たせている。

 オウドの山肌では、労働者達が岩壁を削っていたり、焼き物を並べて焚き火の支度をしている。彼らの中には大山のほうを向いて、必死に手を合わせて拝む者達がいた。

 「このオウドに暮らす住民達のほとんどが〈クオウ教〉の熱心な信者だ。大山の頂上にいるとされる鬼神を崇め、ああやって頻繁に手を合わせている」

 アル・バーデンの説明を受けて、シュオウはぼんやりと呟いた。
 「クオウ教……」

 「君は北方の出身か?」
 「いえ、ムラクモの王都です」
 そう答えるとアル・バーデンは意外そうに眉をあげた。

 「なるほど。だがそれなら君も信じる神は持っていないだろう。宗教を持たない東地の人間から見れば、大山はただのでかい山だが、南のクオウ、北の〈リシア〉は、どちらもあの山の頂上に自分達の信じる神がいると主張している。どちらが先に頂上への踏破を果たすか、なんて競争で互いに血みどろの戦争を繰り返してきた。だがな、俺達ムラクモの人間からすれば、山の天辺にいるかどうかもわからんモノが、白か黒かなんてどうでもいい事だ。人間の生きるための欲求は神の存在をたしかめる事ではなく、日々の糧をどう得るのかに終始しているからな」

 遠目に大山を眺めるアル・バーデンの横顔には、不思議と憂いの色があった。粗野な質を持った人間かとも思っていたが、今の彼の顔を伺うかぎり、そうした印象はすべて霧消していた。

 「大山の先にあるもの以外にも、この世界には数多謎がひしめいている。上を気にする者がいる一方で〈世界の溝〉という大穴の底に鬼達の世界が存在すると主張する一派が、最近クオウの中で膨らんでいるとも聞く。君はそういう事が気になる人間か?」

 シュオウは遠くそびえ立つ大山を視界に収めながらに言った。

 「考えれば、正直興味をそそられます。だけど、今は手持ちのもので精一杯なので」

 「なるほど、良い心がけだ。預かった隊の連中とはうまくやっているか」
 力強く問うアル・バーデンに、シュオウは眉根に力を込めて笑って見せた。
 「はい。うまく、やってみせます」
 
 力強く言うシュオウを、アル・バーデンは満足気に見て、頷いた。
 「よし、よく言った。近頃、渦視城塞に動きがあると報告が上がっている。近いうちにここで待機している連中にも深界の砦に詰めてもらう事になるだろう。いつでも動けるように、支度だけはしておくといい」

 「ここでおこる戦の頻度は他に類がないと聞きました。相手は、よっぽどここが欲しいみたいですね」

 「このオウドに土地としての価値はあまりないのだがな。資源には乏しいし、特別な技術があるわけでもない。しかし、宗教的な見地で考えると途端に話は変わるらしい。昨日君を案内した本部兵舎は、元々クオウの寺院でな、占領後にムラクモ王国軍の施設として接収したらしいが、土着民達の感情を考えて中にはなるべく手を加えず、未だにクオウの僧侶どもの祈祷を許しているんだが……とにかくサンゴにとっては、ここは意味のある地というわけだ」

 「いっそ、相手に攻め込んで黙らせてやれば、面倒を減らせると思います」

 シュオウは思ったままを口にした。ただ黙ってやられていては、相手が調子に乗ると思うのは至極当然の事だ。
 アル・バーデンは横目にこちらを見て乾いた笑みを浮かべた。

 「それができればとっくにそうしている。渦視を落として見せれば俺の名もあがるんだがな、それにはなにより金も人も、何もかもが足りない。まあ、どのみち金があったところで上からの命令は破れない。地に根を生やして負けない事。それがオウドに勤める俺達の仕事というわけだ」

 アル・バーデンは、目の前に答えがぶらさがっているのに、それに手を伸ばすことができない、というようなむず痒い顔をしていた。

 「はがゆいですね、軍というのは」
 「……まったくだ」

 風に漂う焚き火の香りを吸い込みながら、シュオウは本来遙か彼方の存在であるこの地の司令官と肩を並べて、しばらく、共に景色を眺めていた。










     Ⅲ 掃き溜め










 早朝、誰よりも早く起きたつもりでいたが、傭兵達がいるはずの天幕に、その姿を見つける事はできなかった。
 地面に転がる樽や、食べかけの食事など、昨日見たときから中の様子はそのままで、なに一つ変わった様子がない。

 ――帰らなかったのか。

 シュオウは踵を返し、従士用の兵舎にいるはずのジン爺を探した。
 一般の従士達に与えられている部屋は仕切りもなく、一部屋に五人から六人ほどが雑魚寝をするだけの簡素な空間で、歳のいった傭兵達とは真逆に、まだ若く、シュオウと大差ない年齢の青年達が、心細そうに体を丸めて眠っている。

 ジン爺は兵舎の一番奥にある部屋の中で、片隅に置いた荷物を枕にして、慣れた様子で大の字に眠っていた。
 骨張った肩を揺さぶって彼を起こすと、目にクマを溜めた気怠い瞳がシュオウを見た。

 「……なんでい」
 くちゃくちゃと開いた口から饐えた酒の臭いが漂う。
 「飲んでたんですか」
 「自分の金で飲んでなにがわるいってんだ――」
 ジン爺は体を起こし、窓の外を見て不機嫌そうに唸った。
 「――まだ真っ暗じゃねえか。なんで起こしやがった」

 「隊の人間の姿が昨日から見えないので、居場所に心当たりはありませんか」
 「あいつらが行くとこなんざ決まっとるわぃ、飲み屋だ」
 「だけど、昨日から一度も帰った様子がなくて」

 ジン爺は天井を仰いで大あくびをかました。

 「連中にとっちゃ向こうが住処みたいなもんだ。心配するな、仕事が入れば稼ぐために、来るなといったってあっちから戻ってくる」

 言って再び寝に戻ろうとするが、シュオウはそれを止めた。

 「その店まで行きたいんですけど」
 シュオウの言葉に、ジン爺はゆるんでいた瞳を大きく開いた。
 「行ってどうする」
 「連れ戻します」



 暗闇の中を歩いて辿り着いた街の片隅にある小さな酒場の入口には〈掃き溜め〉と書かれた看板が下がっている。自虐的なその名前に首を傾げたくなったが、よく見ると、看板には元々書かれていた名の断片があり、うっすらとかつての面影を残していた。

 「連中は中にいるはずだ。おれは入らねえぞ、くせえからな」

 そう宣言して入口で足を止めたジン爺を置いて、シュオウは一人で店の両開きの戸を押した。
 たしかに、店の中は強い酒臭と獣小屋のような臭いが充満していた。だが、幼少期を汚水溜めのような場所ですごしていた自分にとっては、だからどうした、という程度の問題である。

 店内には丸い卓がいくつか置かれ、こんな時間だというのに、中央の卓には男達が集まってわいわいとカード遊びに興じていた。

 彼らの背中に向けて、シュオウは声をかけた。
 「五十五番隊の人間はいるか」

 喧噪が止み、男達の視線がこちらへ集まる。うち一人が威嚇するように唸った。
 「ああ?」

 見覚えのあるその顔は、ジン爺から紹介を受けた際に、自分をハズレと評したあの傭兵の男だった。

 視線の重なったその男に、落ち着いた声音で言う。
 「兵舎に戻ってほしい」
 しんと静まった店内に、男の重々しい声が返ってきた。
 「戻ってどうするんだよ」
 「訓練をする」
 一瞬の間を置いて、男達から爆笑が巻き起こった。

 「おもしれえが笑えねえな。普段なら一発かましてるとこだが、今日は勝ち続きで気分がいいんだ、聞かなかった事にしてやるから出ていきな」

 そういうと、傭兵の男は再び卓に注意を戻した。賭けで得たのであろう金をじゃらじゃら弄んで談笑を始める。
 他の男達は、出来の悪い子供を見る親のような顔でこちらを見やり、嘲笑っていた。

 ここで引き下がれるはずもなく、次の言葉を言ってやろうとした、その時――
 「んお? おい、お前! シュオウじゃねえか」
 片隅の卓で前のめりに眠りこけていた細身の男が立ち上がり、歩み寄ってきてバシバシとシュオウの肩を叩いた。

 「ハリオ、さん?」
 ハリオの後からよろよろと寄ってきたもう一人の見知った人物、サブリはしゃっくりをしながら、にへらと笑った。
 「おまへのせいでひどいめにあってるんだぞ!」
 「そうだそうだ、なのにひとりだけ出世なんてしやがってよぉ」

 相槌を打ったハリオ共々、目が座り、頭が落ち着きなく揺れて、泥酔一歩手前の状態だ。
 ハリオは、自分達が助けてやらなければ今頃お前はどうなっていたか、等と力説しながら、酒に付き合えとしつこくからんでくる。

 サブリが別の店へ行こうとシュオウを引きずり、ハリオもまたお前のおごりだと言ってシュオウの腕を掴んだ。
 思いがけない顔見知りとの遭遇により、気持ちの持って行き場を失ったシュオウは、きちんと断る事もできないまま、彼らの思惑通りに店外へ引っぱられていく。さきほどまで自分を笑っていた男達は冷めた視線寄越して、興味を失ったように、ほとんどの者が見向きもしなくなっていた。

 「ちょっと、待って!」
 店の外に出て、シュオウはようやく落ち着きをとりもどし、両腕にからみつく酒臭い二人の先輩従士をふりほどいた。

 「なんらよ」
 赤ら顔で睨むハリオに、シュオウは向き合った。
 「まだやらないといけない事があるので、話はまたこんど」
 「あ、おいッ」

 シュオウは二人を置き去りにして、元いた店へと駆け出した。後ろからぶつくさと文句をたれる二人の声が聞こえるが、かまってなどいられない。
 すぐに〈掃き溜め〉まで戻ると、ジン爺が店の前に置かれたぼろぼろの長椅子に、一人ぽつんと腰かけていた。

 「なんだ、戻って来やがったのか……まだやる気か」
 「やりますッ、絶対に連れて戻る」

 ジン爺は長い溜息を吐いた。

 「あのなあ、さっきのあの二人が、あんたとどういう関係かは知らねえけどよ、ありゃだめだろ。下の階級のやつにヘコヘコしてるようなやつの言うことを、荒くれどもが聞くわけがねえ。俺に対しても随分丁寧に言葉をかけてくれるがな、いくら年に差があろうが、軍じゃ階級がすべてだ、人の上に立ってそいつらを従わせようってんなら、お坊ちゃんみたいに丁寧に話しかけてたって埒があかねえ。さっきのあれで、連中の中でのあんたの格付けはもうすんだ。いいかげん諦めて帰るんだな」

 諭すように言われても、シュオウはまったく意に介してはいなかった。諦めるどころか、逆に突破口を見せてもらったような気がする。
 深く息を吸って、背筋を伸ばして胸をふくらませた。

 「そうだな……その通りだ」

 シュオウの頭の中に、シワス砦を切り盛りしていたヒノカジ従曹の怒鳴り声が轟き、残響していた。あそこで働く従士達の、あの老兵を見る目には親愛と共に畏怖の色も同時にあった。幾度か横暴に見えるような振る舞いも見かけたが、今はそれが意味のある行動だったのではないかと思える。

 「おいッ!」
 引き留めようとする声を無視して、シュオウは再び店内に飛び込み、腹の底から声を張り上げた。

 「五十五番隊の人間は今すぐ兵舎に戻れ! これは命令だッ」
 一瞬で店内が静まり、苛立ちを抱えた顔で振り返った先ほどの男が睨みをきかせてきた。傷だらけの顔にギラつく二つの瞳は、今すぐここから出て行け、と無言の圧力をかけている。

 中央の丸卓まで歩み寄り、座ったままの男を見下ろす。一瞬たりとも視線をはずさず、向けられるすべての感情を真っ正面から受け止めた。
 男は黙ったまま、同様に視線をはずそうとはしない。しだいに顔面の筋肉がぴくぴくと痙攣をはじめるが、怒りに我を失わず、いまだ手をだそうとしてこないあたりに、まだ対話の余地があるとシュオウは考えた。

 「何度も言わせるな、その椅子から立ち上がって兵舎に戻れ」

 男はどう猛な肉食獣のように歯を剥いて大声をあげた。

 「何度も言わせるなってな、それは俺の言葉だ! ここはな、俺達の唯一の休息所なんだよ。昨日今日来たような糞ガキが、俺達の流儀もわからないで隊長ごっこか? ざけんじゃねえぞ。てめえの言う訓練ってやつで遊びたいならな、一人で勝手にやっとけ、ボケ」 
 長年戦場に身を置いているだけあり、脅しをかけてくる男の態度には相応の迫力があった。新任の若い従士であれば震え上がっていたかもしれないが、ある意味そうした枠の外にいる自分には、男の脅し文句は子犬の遠吠え程度にしか響かない。

 「遊んでいるのはお前のほうだ。雇われの身で酒場に入り浸っている人間に罵倒されるいわれはない」

 男はシュオウを鼻で笑った。

 「雇われてる、だ? なるほどな、ものを知らないからこんなあほな真似が出来るってわけか」

 男は咄嗟に腰に差した短剣を抜いた。シュオウは警戒して身構えたが、引き抜かれた短剣は真っ直ぐ木製の丸卓に突き刺された。突き立てられたその短剣は、刃にギザギザとした加工が施された見慣れない妙な形をしている。

 「軍のお抱えで、いるだけで金が入るおまえらと違ってな、おれたちは、殺した敵の手首一つと交換で飯を食ってるんだ。この剣も服も靴も酒代も、それを買うために人一人を命がけで殺した見返りに受け取ってるんだよ。だからな、あの糞みてえな場所でごっこ遊びをする分までの金は、そもそも勘定に入ってねえ」

 この言い分には、すぐにうまい言葉を返せなかった。心のどこかで納得をしてしまったのだ。他人に雇われて生活を送る人間は、労働の見返りとして糧を得ている。その当たり前の構図も、しかし傭兵という立場にある彼らには完全に当てはまるわけではないのだろう。

 「わかった……なら、そのための金さえ受け取れば、大人しく訓練に参加するんだな」
 少し熱の下がった声で言うと、傭兵の男とその取り巻き達は、なにを言い出すのだという顔をした。

 シュオウは腰に下げていた銭袋を取り出して、丸卓の上にすべてぶちまけた。
 アデュレリアから持参した真新しい銀貨が、盛大な音を立てて卓の上に広がっていく。一通り袋の中身をすべて出し切り、沈黙する男達に言う。

 「お前達を俺が雇う、それで文句はないな」

 沈黙。

 空気の流れすら止まってしまったかと錯覚するほど、男達はすべての動きを止めて卓の上の銀貨に視線を釘付けにしている。
 背後から突然、店の扉を開く音がしたその瞬間、男達は大声をあげながら一斉に銀貨に飛びついた。

 互いに罵りながら奪い合い、殴る蹴るの大乱闘を繰り広げた後、すべての男達をのして一人銀貨を手中におさめたのは、シュオウと対していたあの男だった。

 男はちらばった銀貨を拾い集め、両手で抱えこみ、顔に青あざをうかべて鼻血をたらしながら、シュオウを見て笑みを見せた。

 「あんたも人がわりいな、金を持ってるなら最初から言えばいいんだ。だがまあ、話に乗ったぜ、今からあんたに雇われてやる」

 あまりにも急な態度の変わりように呆れつつ、シュオウは忠告した。

 「それは一人分として渡したんじゃない」
 「わかってるさ、こいつらは俺が仕切ってんだ。ちゃんと取り分を決めて分けるから心配すんな」

 男は銀貨を抱えたまま、床で気絶した男達に向けてあごをしゃくった。
 たしかに、観察していたかぎり、この男より前へ出ようとする者は、これまで誰一人いなかった。彼らを仕切っているという言葉に偽りはないのだろう。

 「わかった。昼までに全員を起こして兵舎へ戻れ。準備ができしだい、今日から全員で訓練を始める」

 男はぎこちなく頭を下げる。

 「あいよ、隊長どの。俺はサンジってんだ、いまさらだが、雇い主の名前くらいは聞いておきてえな」
 シュオウは去り際、背中を向けたままそれに答えた。
 「シュオウだ」



 店の入口で様子を伺っていたジン爺を連れて、シュオウは兵舎へ戻る道をのんびりと歩いた。
 「あんたやるじゃねえか。札付きの男共を前に一歩も引き下がらんとはな。しかし、奴の言いようはもっともだ、金があるなら最初からそうと言やあいんだ」

 ジン爺はシュオウの背中をぽんと叩いて小気味良く賞賛を述べた。

 「そうだな。でも、出来れば自分の力だけで言うことを聞かせたかった」
 金の力を借りてサンジを屈服させたシュオウとしては、いまいちすっきりとしない。

 「金だって立派な力だろうが。お高い貴族様だってそれがなきゃ、ただ石に色がついた人間でしかねえんだ――それで、どうやってあんだけの金を手に入れた? うまい話があるなら噛ませてくれや」

 ジン爺は指でわっかをつくり、目を輝かせた。
 「別に……ちょっとした仕事の……報酬で」

 あの金を手に入れる事になった切っ掛けは、あまり愉快な出来事とはいえない。雪山の中で一人の人間を看取った、あの時の苦い気持ちがよみがえり、ちくりと胸に突き刺さった。
 しつこく話をねだる老人をごまかしの態度で躱しながら、シュオウはそっと奥歯を噛みしめた。経緯はどうであれ、隊長としての仕事を、これでようやく始める事ができるだろう。



 少し小腹が減る午後の一時。
 分厚い従士服を脱いで薄手の短衣を纏ったシュオウは、木剣を肩に担ぎながら練兵所に赴いた。

 予めジン爺には指示を伝え、ふらふらの体で兵舎に戻ったサンジ率いる傭兵達と共に練兵所に向かうように指示は出してある。

 練兵所と言っても、そこは大袈裟な場所ではなく、ただ単純な囲いが設けてあり、丸太にボロ布を巻いた稽古用の人形が二、三個置いてある程度の場所である。ただそこは、汚れた天幕でごったがえす狭い兵舎の敷地の中でも、他に気兼ねなく体を動かせる場所という意味では貴重な空間だった。

 目的地に辿り着くと、なにやら物騒な掛け合いが耳に触った。見れば入口にむさくるしい男達がごったがえし、口汚く罵り合っている。外側から怒鳴り声をあげているのは、自身が率いる五十五番隊の人間達だった。

 「どうした?」
 聞くと、狂犬の如く吠えていたサンジが地面に唾を吐いた。
 「こいつらが縄張りだとかほざいて中に入れねえんだよ」

 血走った眼で戸を閉ざす男達を見るサンジは、どうみても交渉役としては向いていない。シュオウは彼の肩を叩き、代わって落ち着いた声で相手に質問を投げた。

 「俺がこの隊を預かっている。出来れば、ここを使いたいんだが」

 相手方の男達も、サンジ達と同様にあきらかに従士ではなく傭兵として雇われている風体だが、問いかけてみるに、彼らは意外にも冷静さを保っているとわかった。むしろ、なにかに怯えて縮こまっているようにすら見える。

 入口を塞いでいる男は、困り果てた様子でシュオウに応じた。

 「悪いけどな、ここは通せないんだ」
 「ここの使用に、なにか取り決めでもあるのか」
 「いや……ただ、俺達も隊長にここを死守しろといわれてんだ。察してくれよ」
 「死守って――」

 さらに掘り下げて聞こうとしたその時、よく通る野太い声が背中から聞こえた。
 「おい、なにしてやがる」

 その声がした途端、入口を守る男達は肩を竦めて頭を下げた。なかには小さく悲鳴を上げている者までいる。

 「か、頭……すんません、こいつらがどしても中に入れろって」

 突如現れた男は部下から事情を聞き、怒気を孕んだ唸り声を上げた。のしのしと肩を怒らせて向かってくる男に目を合わせた途端、怒りに歪んでいた男の顔が、突如柔らかくほぐれた。

 「おまッ、シュオウ……か?」
 名を呼ばれ、シュオウも目の前にいる見覚えのある顔を見て、声をあげた。
 「ボルジ?」

 深界の踏破試験中に、シュオウが自らその身をかついで歩いた男、傭兵あがりで後にムラクモの従士となったボルジは、大声で笑いながらシュオウの肩に両手を乗せて歓喜の声をあげた。

 「会いたいとは思ってたが、まさかこんなところで顔を見るとは思わなかったぜ」
 屈託のないその顔を見て、シュオウも微笑んだ。
 「元気そうだな」

 「ああ、この通りだよ。お前のおかげで嫁も持てたんだ。その報告がしたくてな、自分なりに行き先を調べては見たんだがさっぱりわからなくてよ。てっきり軍を辞めて旅にでも出たのかと思ってたぜ」

 結婚を報告するボルジは、照れくさそうに頭をかいていた。
 「おめでとう。でもいいのか、こんな所まで……」

 「ああ、俺は志願して来てるんだ。嫁さんが自分の店持ちたいっていうんだが、深界踏破で貰った金はガキが出来たときの蓄えに残しておきたかったんでな。それでまあ、出稼ぎがてらにここにいるっつうわけだ。ここは危険で働きたがるやつも少ないってんで、平の従士でもそれなりに金がでるんだ――ところでよ、お前はこんなとこで何してたんだよ」

 シュオウは問われ、おおまかに事情を説明した。するとボルジは形相を変え、戸を押さえつけていた男達を思い切り蹴り飛ばした。
 「てめえらッ、俺の恩人をよくも閉め出してくれやがったな」

 地面に背中から転がった男達の一人が、抗議の声を漏らした。
 「そんなあ、あんたが誰も通すなって――」
 ボルジはそれを遮って怒鳴り声をあげた。
 「うるせ! どんなことにも例外はあるんだよ」
 「そりゃねえよ……」

 ボルジは入口に転がる男達を足でどけ、シュオウに手招きをした。
 「ささ、好きなだけ使ってくれ」
 状況に今だ戸惑ったままのジン爺やサンジ達を促し、シュオウは練兵所の土を踏んだ。それを確認して、部下達を引き連れて外に出ようとするボルジを止める。

 「どうした?」
 「広く使えるほうが都合がいいだろ。俺は他に適当な場所でも見つけるから、ここは気にせず使ってくれや」

 「全員が使えるだけの広さは十分ある。一緒に使えばいい」
 「……そうかい。なら合同訓練といかせてもらうか。しっかしよ、もう隊を一つまかされるなんざ、さすがだな」
 「そっちも同じだろ」
 「俺は経験を買われただけだ。クズ共のお守りには慣れてたからな。でもな、入ったばかりの新入りには初日から逃げられちまうし、胸を張って隊長やってますとも言えねえよ」
 ボルジは苦笑いを浮かべつつ、シュオウの後ろで所在なく佇む男達を見やった。

 「お前のとこの隊の人間はこれで全部か?」
 ボルジは五十五番隊の男達をなめるように見渡してから、サンジの前に立った。

 「な、なんだよ」

 ついさっきまで怒鳴りあいを演じていたサンジも、強面で体格に優れるボルジを前にして、蛇に睨まれたカエルのように大人しくなっていた。彼のほうからは決して目を合わせようとしない所を見ても、シュオウも気づかないうちに互いの格付けがすまされているらしい。

 「てめえが頭だな、他のやつらの目を見ればすぐにわかるぜ」
 ボルジはサンジの肩を握り、しだいにその力を強めていった。
 「俺も傭兵あがりだ、てめえらの考えてる事はよくわかるし、似たような苦労もしてきた。だが調子に乗るなよ、お前らの隊長は若いが並の男じゃねえ。それになにより俺の命の恩人だ。こいつになめた真似したらただじゃおかねえからな、よく覚えとけ」

 地響きを起こしそうなボルジの声は、それを聞く者達を恐怖させるだけの効力を十分に発揮していた。
 サンジは小さな声で理解した事を告げ、背中を丸めて媚びた笑いを浮かべていた。
 荒くれ者達を完璧に手玉にとるボルジの初めて見る一面に関心しつつ、シュオウはその方法を一つの手本として観察していた。それと同時に、やはり人の上に立つ事の難しさも実感する。自分はまだ、上官という立場をうまく使いこなす事が出来ていなかった。





          *





 甥のリビを連れ立って、シャノアの老将バ・リョウキは、渦視城塞の中庭にある広々とした調練場を訪れていた。

 ア・ザン総帥の申し出により、サンゴの兵士達の慰問をかねての事だったが、個人的にも技を磨く若者達を見るのは嫌いではない。

 バ・リョウキの訪れを知るや、調練に励んでいた兵達の浮き足立ちっぷりは凄まじい。緊張した面持ちで武器を握る彼らの振るまいをじっくりと眺めた。

 「これといって見所はありませんね」
 帯同しているリビが小声で言った。
 「たしかに、全体としての練度も並といった様子ではある」

 バ・リョウキは全としてよりも、むしろ個に対しての期待を秘めていた。世界は広く、未だ世には名も知らぬの猛者達が燻っている。多くの強者と対してきたバ・リョウキは、そうした相手を的確に察知する鋭い嗅覚を備えていると自負していた。しかしそれは決して高尚なものではなく、むしろ即物的であり、低俗な欲望を満たすための行為に近かった。

 「戻りましょう、これ以上は時間の無駄です」
 年若いリビは、早々に飽きてこの場を去りたがった。平素と変わらぬ退屈な空気にそう思ったのも無理はない。が、バ・リョウキはこの場で一人、周囲の空気が一変した事に気づいていた。

 「濃厚なる殺気――」
 一言漏らすと、リビは戸惑いに声をあげた。
 「え?」

 それは一陣の突風を思わせる鋭敏な圧力であった。目の前に猛烈な勢いで突き出された足は、その標的をリビに定めている。狙いはアゴであり、当たれば命を危険にさらすほどの勢いがあると、経験を元に積み上げてきた直感は告げていた。
 バ・リョウキは掌底を繰り出して足の軌道をずらした。強烈な蹴撃に当てた手から伝わる衝撃は、その威力が並の人間に許された範囲を逸脱している事を示唆していた。

 闇討ちの主が足を引いたことを確認し、背に負った宝剣岩縄を抜きはなつ。
 バ・リョウキは切っ先を向けた先にある姿を確認して、二の足を踏んだ。

 薄桃色の髪を左右に結い、艶やかな銅色の肌が眩しい顔にある黒光りする双眸が、武人としての強い力を持って一点にこちらを見つめている。見た目にまだあどけなさがある小柄な肢体は成人にはほど遠く、しかし胸や尻といった女を強調する部位の発育は著しい。にもかかわらず、この女の放つ気迫は熟達した武芸者のそれに匹敵する圧力があった。
 あらゆる意味でちぐはぐなその人物は、バ・リョウキとリビを視界に捉えつつ、吠えた。

 「戦場を前にしてその油断、惰弱の一言につきる!」
 よく通るその声は、はっきりとリビに向けて言われていた。
 「なッ――」

 大怪我を負う寸前だった甥は、未だ混乱の中にあってろくに頭が回っていない様子である。

 女は早々にリビへの興味を捨て、バ・リョウキに目を向けた。
 「シャノアの将、バ・リョウキ殿か」

 バ・リョウキは構えた岩縄を微動だにさせぬまま、答えた。
 「いかにも。そのほう、いずこかの刺客であるか」

 年若の女は笑い、ふくよかな胸を張り上げて名乗りをあげる。
 「連山武館、夏蜂会師範代、およびサンゴ国現王が孫にして破戒僧ア・ザンの娘、ア・シャラである!」

 その宣言に、この事態を傍観していた周囲の兵達の間にどよめきが走り、彼らは波をうつように膝を折り始めた。

 「公主様であられたか……」
 バ・リョウキが岩縄を収めると同時に、背後から怒声が響いた。
 「だれが破戒僧だあああ!」

 ふくよかな贅肉を揺らしながら駆けてきたア・ザンを見ると、シャラは無表情に視線を逸らした。

 ア・ザンは息を切らせながらシャラの前に立ち、バ・リョウキに向かって頭を下げた。
 「いや、申し訳ない、本ッ当に申し訳ない! ひょっこり顔を出した娘に、リビ殿と話をしてみてはどうだと言ったのだが、まさかいきなり襲いかかるとは」

 謝罪する父を前に、シャラは目を尖らせて怒声をあげた。

 「父将よッ、このリビという男、見合いの相手としては論外であるぞ。井戸端で話にふけるばば達よりも呑気だ!」

 あしざまに言われ、リビは激高した。
 「なん、だとッ」

 バ・リョウキは前へ出ようと試みた甥の足を転ばせ、地面に頭を押さえつけた。
 「公主様を前に剣を向けた事、まこと恥じ入る思い。この愚かな甥共々お許し頂きたい」

 謝罪して低頭すると、ア・ザンが慌てふためいてバ・リョウキの肩を持ち上げた。
 「なにをおっしゃるか、老将殿はただ身を守ろうとなさっただけではありませんか」

 事を始めた張本人であるシャラは、父親の背にあってそれに同調した。

 「その通りだ。バ・リョウキ殿の身のこなし、あの一瞬の判断は見事であったぞ。英雄としてのその名が、幻ではなかったのだと教えてもらった思いがする」

 特有の猛々しい物言いに、ア・ザンは額に汗をためながら娘を諫めていた。

 「お褒めにあずかり、光栄の至り。しかし先ほどのお言葉は聞き捨てできませぬ。リビとの見合いなどという話は、私が呆けたのでなければ今初めて聞いた事」

 これにも、ア・ザンは慌てた様子で受け答えた。

 「いやいや、ごもっとも。こちらも思いつきの話を娘に伝えたばかりでの、これでして。まま、ここではなんですから、話は中で――」



 促されるまま、バ・リョウキ一行はシャラと共に城の中へと移動した。
 派手な装飾品を並べる総帥の私室に通され、くつろぐ事のできる長卓に腰かける。ア・ザンは自らに高価な茶器を並べ、最高級の茶葉を湯で蒸して振る舞いながら、事情を説明し始めた。

 「妻は王陛下の娘、つまりは王族の身分でありましてな。娘のシャラは世に落ちた瞬間から第六位継承権を与えられております」

 「でありましたか……ご事情は理解いたした」
 同時に、この男がこれほどの高位にある理由にも薄々予想がついた。

 「しかしまあ、神のきまぐれでもないかぎり、シャラが玉座に座ることはまずありますまい。しからば相応の相手へ嫁ぎ、国家安寧の礎となるのが上策というもの」

 「その相手にリビを、ということにござるか」

 深く頷くア・ザンを見て、バ・リョウキはそれを悪い話ではないと思っていた。サンゴとシャノアが関係を深めるには、サンゴで公主という身分にあるシャラと、シャノアで軍権を預かる自分の後継者であるリビが結ばれるのは、両国の関係を強める良い材料になるかもしれない。

 しかし人と人の間に生じる感情は、外の人間が望んだからといって簡単に結ばれるものではない。形だけの結婚を整えたところで、両者の間に子が生まれなければ結局は無意味に終わるのだ。そしてバ・リョウキの見立てによれば、シャラとリビの関係には、すでに埋めがたい溝が生じているように思えた。

 大衆の面前で醜態を晒す結果となったリビは、口では黙っていても正面に座るシャラを睨みつけ、鼻の穴を広げて血走った視線を送っている。一方の公主のほうはといえば、涼しい顔で茶をすすり、向けられる敵意をそよ風のように受け止めていた。

 「失礼だが、公主様はおいくつになられる」
 「今年で十四になった」
 年齢を聞き、リビが驚きに声を漏らした。
 「じゅう、し……」

 シャラは驚くリビを前に、満足気に言葉を繋ぐ。

 「十を迎える前に、葉山、三叉会の円拳を習得。後三年で連山、夏蜂会で皆伝を受けた」

 誇らしく言う若き公主が、まさしく誇るに足りるだけの才を有しているのは、先ほどの身のこなしを見れば間違いないのだと確信できる。

 その腕が長き経験を積み上げ、修羅場を潜ってきた自分に届くほどではないにしろ、年齢を思えば驚異的な才といえるだろう。

 そしてシャラが体得したという円拳は、足運びを重視した体術であり、連山で広く伝わる蹴術は、軽快な足技を主体とした戦い方を信条としている。おそらく彼女の左手の甲に光る小豆色の輝石は、脚力の強化を果たす力を持っていると見て間違いない。その生まれ持った特性をこれ以上なく活かすための道筋を考えたうえで、各流派を収めてきたのだろう。

 彼女が男であり、そしてア・ザンの娘ではなく自身の血統に連なる者であったならば、バ・リョウキは早々に跡目を譲って隠居していただろう。
 バ・リョウキがシャラを見る目には、惜しいという思いと同時に、羨望の色が隠されていた。

 「父将よ、私は行くぞ。じっとしても退屈だ、ここの男共の腕をためしてくる」
 シャラは飲み干した茶を置いて、立ち上がった。

 「お、おい――」
 引き留めようとするア・ザンにシャラは服の内から美しい髪留めを取り出して、放り投げてみせた。

 「こ、これは……」
 「ここへ来てすぐこの部屋で見つけた。色使いが派手すぎるゆえ、どうみても母君たのめに用意したものではないな」

 ア・ザンは途端に顔色を青く染めた。存外、正直な男である。
 「あ、いや、それはだな――」

 「慌てなさるな、黙っているさ。その代わり直近の戦での、私の席を用意していただきたい」
 「おまえ、なにを言い出す!?」

 「十四年生き、それなりに武を収めたと自負しているが、そろそろ殺し合いの空気を肌で感じておきたいのだ。女人であるこの身には僧兵への道は閉ざされているし、今更、星君として生きるのも窮屈だ。だが父将であれば人一人のためにそのくらいの融通は利かせられるだろう」

 ア・ザンは血なまぐさい戦への参加を望む娘を必死に諫めた。
 「突然来たと思ったら、そんなことを目当てにしていたのか。だめだだめだ! 女である前に、おまえはまだ子供だぞ」

 シャラは不敵に笑みを浮かべる。

 「わかりました。しかし、渦視から早馬が出て、事の子細を母君が知って後も総帥の座についていられるかどうか、今のうちにたっぷりと妄想されるがいい」

 その脅し文句が決定打となり、ア・ザンは降伏を表明する言葉を連呼した。

 「まさか実の娘に地位を脅かされるとは……我ながら情けない」

 なにを思ったか、ア・ザンはバ・リョウキに顔を向けて両手を合わせて拝み始めた。

 「どうか! シャラを老将殿の部隊に加えていただきたいッ」
 「なにを――」
 「あなたほどの武人であれば、安心して娘を預ける事ができる。この場に居合わせた縁と思い、ここはどうか……」

 前に立つシャラも、戯けた表情で片眼を開けながら、こちらに手を合わせている。

 この渦視ではあくまでも客人であり、そして互いの国はそれぞれに金を貸している側と借り受けている側である。後者の立場におかれているバ・リョウキとしては、この非常識な申し出をおいそれと断ることはできなかった。

 「……承知、いたした」
 シャラは歓声を上げて喜び、足をはずませながら部屋の扉に手をかける。

 「感謝するぞ剣聖殿。去る前に言っておくが、さきほどの父将の戯言はなかったことにしてもらおう。見よ――」
 シャラは服の上から自身の胸を肩腕で持ち上げて、瞳を半眼に、科を作って妖艶に微笑んだ。
 「――十四にしてこれだ、私は良い女になる。そこのリビとかいう名の小物に、この体はもったいないだろう」

 「こいつ、いいかげんにしろッ!」

 怒りに立ち上がるリビに背を向け、シャラはかっかと笑って部屋を後にした。
 汗のしたたる禿頭をこすって平謝りするア・ザンを慰めながら、バ・リョウキはア・シャラという面倒を背負い込んだ事を後悔していた。


















[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第四話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7beec06a
Date: 2013/10/04 20:52
      Ⅳ 初陣










 〈サク砦〉は、ムラクモという国が深界に有する拠点の中でも最南端に位置し、その先にあるものを封じ込める蓋としての役割を果たしていた。

 互いに境界を睨む、サンゴの渦視城塞に比べれば、サク砦が有する防衛拠点としての機能は最低限のものでしかなく、本来最重要拠点の一つであるはずのそこは、不当といえるほどの過小評価の元に、雀の涙ほどの資金を頼りに運営されていた。

 鈍色に湿った空から、絹糸のような雫が降り注いでいる。
 深界、灰色の森の奥深くから、狂鬼達の不気味な咆哮があがり、白道は水気を帯びて青白い一筋の光で色味のない世界を彩っていた。

 強い水の香りを受け、鼻孔が潤っていく心地よさを堪能しつつ、シュオウはボルジと共に、サク砦の物見やぐらに入り、深界という世界が放つ独特な静の景色を眺めていた。

 ボルジはトゲトゲしい頭髪を撫でながら、大きな鼻いっぱいに湿った空気を吸い込んだ。
 「いいもんだな、春の雨ってやつは」

 温かいとまではいえないが、冬に別れを告げた世界の空気は、ほどよく肌に馴染む。時折風にあおられた霧雨が顔を濡らすが、それすら心地良いと思えた。

 「俺も、この頃の空気は嫌いじゃない」
 「戦が控えてなければ、他の連中ももう少し気を抜けるんだろうがな」

 中庭では、若い従士や雇われの傭兵達が、険しい顔で訓練や装備の確認に勤しんでいる。和やかに談笑をしているように見える男達の顔も、目だけは笑っていなかった。

 この地の司令官アル・バーデン准将は、サンゴが本格的に戦支度を始めているという情報を元に、オウドから兵を引き連れて、サク砦に戦力を集結させていた。

 深界にぽつんと存在する小さな砦に歓楽街としての機能はなく、日々募っていく不安や苛立ちの解消方を失った荒くれ達は、ここのところ些細な事を理由にして、頻繁に喧嘩騒ぎを起こしている。

 皆、戦場に生きる男として堂々たる面持ちをしながらも、やはり命のやりとりを目の前に控えた状況に置かれれば、等しく恐怖に身を晒す事になる、とボルジは淡々と語った。

 多くの生物は命の危機を迎えた時、まず逃げる事を考える。しかし、この場に詰める多くの者達に求められるのは、生物である前に戦士であるという事。それは恐怖に身を震わせながらも、生きるために戦う事を求められる存在である。

 しかし、以前にボルジも言っていたように、なにごとにも例外というものはある。
 重たい空気が流れる砦の中で、悠然とした所作で馬の首を撫でている輝士達には、他の者らにはない優雅さが見てとれた。

 「さすがに余裕があるな」
 シュオウは輝士を頭上から見つめ、そうこぼした。

 「そりゃあな。特別な力が使えて、生き残れる可能性が高いやつは、それだけ他よりも気楽なんだろうよ」

 「輝士、貴族……か。生まれた場所が違うだけなのに……な」
 皮肉を込めたシュオウの言葉を受けて、ボルジが応じる。

 「この国の輝士はまあ、それなりに踏ん張って生きてるほうだぜ。お前も、あの貴族のお嬢ちゃん達と居たんだから知ってるだろうが、連中、ガキの頃から教育校に放り込まれて訓練漬けだからな。この国の輝士の質の高さには、それなりの理由があるってこった」

 その言葉の通り、ムラクモには高い水準の輝士教育制度が整っている。他国では彩石を持った人間はかならずしも戦いに身を投じないが、ムラクモでは生まれの階位や性別を問わず、輝士としての相応しい能力を養うために、宝玉院という施設への入学が、不文律にも似た慣習として存在していた。馬を自在に駆り、多彩な晶気を操りながら戦場を疾駆する彼らこそが、長きに渡って隣国の侵攻からムラクモを守る盾としての役割を果たしてきたのだ。

 「お前は戦場に出るのは初めてだったよな」
 「ああ」
 「だったら今の内に覚悟しておけよ。戦場で見る色付きは恐えぞ。大抵のやつは狙われたら最後、瞬きをしている間にこの世とはおさらばだ」

 戦場に出た経験の豊富なボルジは、肩をすくめて言った。

 「でも、ボルジは戦に何度も出たんだろ、それなのに今まで生き残ってるじゃないか」
 ボルジはニヤリと笑みをつくった。

 「運がよかったのさ、戦場じゃなによりそれが重要になる。なんども戦いの場に出たが、いつもぎりぎりのところで生き残った。深界で置き去りにされたときだって、お前が来て助けてくれた。今度の戦でも、俺はかならず生きて帰ってやる」

 拳を出して言うボルジに、シュオウも拳を重ねて答えた。

 「そうだな。でも、もうお前みたいな重いのを背負って歩くのはごめんだ」

 「へッ、言ってろよ。でも、お前はいざとなったらそうする男だよ、間違いなくな。前はこんなふうに誰かを信じる事なんてなかったが、あの時、狂鬼が目の前に現れて、もう全部諦めちまったときによ……お前が一人でそれを打ち破って見せたあの姿を見て、俺の中でなにかが変わったんだ」

 「なにかって?」

 「わかんねえ。学がねえからな、言葉にはできねえんだが、ぐにゃりと曲がってたものが、しゃきっとしたっていうかよ。どこか腐った性根で生きてた俺が、今は毎日が楽しくて仕方ねえんだ。ひさびさにお前の顔を見たらな、尚更そう思えてきたぜ」

 言っておいて照れたのか、ボルジはよそを向いて顔を隠した。



 時刻が夕刻にさしかかろうかという頃。白道の先から荷馬車を引き連れた数人の商人らしき者らが、こちらに向かってくる姿を、シュオウとボルジは確認した。

 「敵、なわけないか」
 「まあ、どうみても旅商人だな」

 彼らが近づき手を振ってみせると、門の前で警護の任務につく従士達が、剣を抜いて荷馬車に詰め寄っていく。旅商の一行から代表者が歩み出て、彼らに何かを見せた後、一言二言交わした後に、従士は剣を収めてこちらに門を開けるように合図を送った。

 ボルジが大声で開門を指示し、旅商一行は開かれた扉をくぐった。荷調べを受けた後に、のんびりと反対側へ抜けていく。

 国境を挟んで睨み合いを続けるこの状況にあって、旅券以外にたしかな身元の確認方法がない相手を素通りさせるのには理由がある。大手の商会に所属する旅商に道を閉ざせば、彼らは裏から交易品の流通を妨害し、経済面での報復行動に打って出るからだ。実際に商い人を軽んじ、その手の報復を受けた国々は、彼らの行く手を遮るという行為の愚かしさを、身をもって知る事となった。裏で力を持つ商人は、どこでだれと繋がっているかわからず、賢い者ほど、そうした相手に対してはある程度の便宜を図るのだ。

 もちろん、戦時下にあっては警戒を強めなければならない。通過を求める旅商が、いかな大商会に所属していようとも、厳重な荷の検査は避けられず、かかる手間の分、平時よりも多く通行税を徴収される事になっていた。だが、旅商の側からしても、わざわざ遠回りをして消費する旅費を大幅に節約できる分、利とそれに伴う危険に関して、十分に計算したうえでの選択である。

 交代の時刻を迎え、シュオウとボルジは年若い二人組の従士にやぐらの席を譲った。
 砦のかがりかごに火が入り、そこかしこで夜食の支度が始まっている。

 シュオウはボルジと連れだって、ねぐらを目指していたが、飯の支度に賑わう中庭を通りすぎた時、部下の一人であるサンジと出くわした。

 「サンジ、装備の確認はすませたか」

 シュオウが問うと、サンジは後ろ頭に手を乗せて作り笑いをした。

 「へいへい、やっといたよ。あんたの言った通りボロクソになった物ははぶいといたが、上に言ったって代わりの支給品なんて出てきやしねえぞ」

 「言うだけはためしてみる。それより、食事の前に少し汗をかくのはどうだ」
 シュオウは剣を握るそぶりをしてみせたが、サンジは困惑した顔で首を振った。

 「かんべんしてくれよ、あんたの腕はいやってほどわかったからよ。わるいけど俺は行かせてもらうぜ、いそがねえと飯の取り分がなくなっちまう。訓練なら明日にしてくれや」

 シュオウは離れたがるサンジに許可を与え、小走りで駆けていく姿を見送った。

 「隊長としては、なかなかさまになってきたじゃねえか」
 ちゃかしつつ、ボルジはシュオウを肘で小突いた。

 シュオウは頭をかきながら溜息をはいた。
 「どこがだ。自分より長く生きている相手を下に置いて接するのは、すごく疲れる」

 だが、初めの頃を思えば、傭兵達は随分と大人しく言うことを聞くようにはなった。ここ数日の間、木剣等を使った訓練で彼らを打ちのめしてきた事も関係しているのだろうが、やはり金を使って個人的な雇用関係を結んだ事が、その理由としては最も妥当といえるだろう。

 彼らになめられないよう、ジン爺という年長者の助言に従って出来るかぎり横柄に振る舞ってはいるが、それに関しては未だぎこちなさが抜けずにいた。目上の者を相手にするのであれば、シュオウは調教とも呼べるような師匠とすごした日々で、どう接するべきかよく把握している。が、逆の場合に関しては、とことん初心者だった。

 若く、軍での経験も浅いシュオウにとっては、自力で人の信頼を得るというのは、カザヒナの元で慣れない剣術に励んでいた時より、よほど難しい試練だった。

 「ちと、うちの連中の様子を見てくる。あのバカ二人が今朝も飯炊きをサボりやがって、さっぱり行方がわからねえ」

 ボルジの言う二人のバカとは、シュオウの知るハリオとサブリの両名の事である。
 二人は、心が蕩けてしまうほどの退屈を謳歌できたシワス砦の精神をここまで引きずっているのか、何かとサボる事ばかりに意識を注ぎ、強面の隊長であるボルジの目を盗んでは、いつも目立たない場所で愚痴愚痴と雑談を交わしていた。

 「わかった。俺は戻って腹になにか入れておく」
 互いに了解を告げ、シュオウはボルジと別れ、空腹を告げる腹を押さえながら兵舎を目指した。



 兵舎に続く通路を歩いていると、はずれにある厩の影から楽しげな笑い声が聞こえてきた。その声に、聞き覚えを感じて様子を伺うと、案の定、藁束に寝転がって酒袋を煽る二人の男達がいた。

 「こんなところに……」

 声をかけると、どこからか調達してきたのであろう骨付き肉を囓りつつ、酒をあおる二人の怠け者たちが手を振って応えた。

 「おう、シュオウか、いいかげんお前もつきあえ」
 ハリオはへらへらと笑いながら言うが、シュオウは不快感を腹に溜めて忠告した。
 「ボルジが探していた。朝の食事番をさぼったらしいな」

 「ボルジぃ? ケッ、あの筋肉オヤジがなんだってんだよ。そんなこといいから、ほら、お前も飲んでけよ。シワス砦の出身者同士、とくべつに俺がおごってやる」

 差し出された袋入りの酒を見つめた後、シュオウはそれを思い切りはじき飛ばした。突然の事に、ハリオとサブリの二人は酔いの冷めた顔で目を見開く。

 「な、なんだよ、なにすんだよッ!」

 激高したハリオは立ち上がり、シュオウの襟首を掴もうと手を伸ばすが、シュオウはその手首を掴んで動きを制した。サブリがおろおろとそれを見守っている。

 「ハリオ、サブリ。二人とも今すぐ自分の隊に戻れ」

 二人を呼び捨てにして命令口調で言い放つ。ハリオは口元を醜く歪めて酒臭い息でわめきちらした。

 「ハリオ……だとぉ? 偉そうに呼び捨てにしやがってッ! 馬にも乗れないヘタレのくせに、ほんのすこし早く出世したからって、俺達はてめえの家来じゃねえんだぞ!」

 ハリオは捕まれた腕を引こうとした。とった体勢からしてシュオウに殴りかかろうとしたのだろうが、日々体を鍛え上げてきたシュオウは、細身に見えても並の男以上に力はある。普段からなまけ体質で酒ばかりあおっているハリオが相手では、子供と対しているのと変わらない程度の手応えしかなかった。

 シュオウは掴んでいたハリオの手首を放し、彼が動き出すより前にその襟首を掴み上げ、睨みつけた。

 「そんなにここが嫌なら出て行けばいい。それができないなら、最低限の義務は果たせ」

 ハリオは顔を紅くして怒りをあらわにしているが、強く言ったシュオウを前にそれ以上手を出してこようとはしなかった。場が沈黙して、サブリがハリオの背中に触れて言葉をかけた。

 「行こうよ、ハリオ。たしかにさぼってた俺達が悪かったんだし」

 ハリオはしばらくシュオウの目を睨んでいたが、サブリに言われ悪態をつきながら視線をはずした。

 手をふりほどいて厩を後にする二人に、追い打ちをかけるようにシュオウは言う。
 「次にまたさぼっている所を見たら、俺は、今と同じ事をする」

 背中を向けたまま足を止めたハリオは、唾を吐いて去って行った。困惑しながらこちらを見るサブリの視線を受け流しつつ、シュオウは彼らが見えなくなるのを待ってどっと溜息を吐き出した。

 自分の正直な気持ちとして、あの二人が何をしていようとどうでもいい事だし、説教をたれるほど自分が偉くなったとも思えない。だが、以前にジン爺に忠告されたように、部下の前で馴れ馴れしい態度で接し続けられるのは困る。それに、ボルジは横柄ではあるが隊長として、寝る時間を削りながら仕事をよくこなしている。そんな人間の影で仕事をさぼり、その都度逃げ回るあの二人の態度に辟易していたのも、また事実だ。

 ――めんどうな事ばかりだ。

 関わる人間が増えるごとに、心の底に溜まる汚泥のような感情が降り積もっていた。





          *





 バ・リビが叔父と共に渦視城塞に入って、すでに二十日以上が過ぎていた。
 宣戦布告を間近に控え、渦視城塞は戦支度で慌ただしく活気づいている。

 深界における戦は、その土地が持つ性質上、実に単純な方法によって行われてきた。すなわち、正面からぶつかって勝敗を決する、というただそれだけである。

 進軍する道は決まりきった事で、奇襲や強襲は意味をなさず、たとえ虚を突こうと不意に軍を進めたところで、物見役に報告されて簡単に露見してしまうので、これも意味がない。ならば面倒ははぶき、互いに日時を合わせて布陣し、堂々と正面から殴り合おうではないかという、原始的で単純明快な手段によって勝敗を争う事が、国家間の伝統となっていた。

 搦め手によって敵と対する事が困難な深界戦においては、もっとも重要視されるのが、戦う兵の質である。とくに硬石級と区分される、彩石を有する人間によって構成される兵科の数と熟練度によって、勝敗が左右されるといっても過言ではない。

 南方諸国、とくにムラクモとの間に火種を抱えているサンゴが有する硬石級兵である星君や僧兵は、その数質ともにムラクモに大きく劣っていた。

 南側では、彩石を有する上流階級の人間に兵役の義務はない。才を持ちながら、血なまぐさい戦場を嫌い、国家のために力を尽くそうとはしない者達の数は、その対極に立つ者を遙かに凌ぐ数になる。

 深界で布陣できる兵数にはかぎりがあり、道幅によってその数は大幅に変わるが、広々とした白道を埋め着くすだけの歩兵を用意したところで、晶士に代表される遠距離砲撃を得意とする硬石級兵に一網打尽に刈り取られるだけであり、自然、どこの軍でも用いる歩兵の数には制限がかかり、彼らは小さな部隊にまとめられ、騎兵として戦場を闊歩する硬石級兵の足止め程度の役割しか期待されていなかった。

 主に軟石級と区分される濁石を持つ平民階層か、それ以下の者達で構成される歩兵部隊。そして硬石級に区分される輝士、星君といった貴族階層に属する者によって構成される騎兵、砲術部隊。大別して硬、軟の二種の兵において、東側一帯を統べる大国ムラクモを相手に、サンゴは劣勢な立場にあるが、長らく両者間に勃発している争いで決定的な決着はつくことがなかった。

 その理由として、深界の上に敷かれた白道という、かぎられた空間での戦では、同時に展開する事のできる兵力がかぎられているため、かならずしも国力が影響するわけではないという事がある。そしてもう一つ、この戦において、ムラクモは本来余裕があるはずの硬石級兵力の投入を渋っているという説が、南方における賢人達の見立てであった。

 サンゴに属する者らの前で言うには、彼らの機嫌を損なう考えではあるが、現実の話として、ムラクモはオウドの防衛を軽視しているのではないか、という意見を持つ者は多く、リビの叔父であるバ・リョウキもまた、そうした考えを持つ者の一人であった。

 だがサンゴもこの膠着状態をいつまでも享受しているつもりはなかったらしい。ここに至り、彼らは本国の守備につくべき人材を多く呼び寄せたうえ、シャノアに貸しを与えて強引に援軍を引き入れた。その数は期待するだけに達していなかったかもしれないが、自画自賛ではなく、シャノアが派遣した星君は、国でも最上位に名を連ねる精鋭達だ。おまけにその腕において生ける伝説の域にまで達しているバ・リョウキ自らが参戦を予定している。

 勝機はある、とリビは考えていた。シャノア軍人の力を見せつけ、サンゴの勝利に華をそえる。華々しい武勲を持って帰国の途につけば、バ族の名声はさらに輝きを増す事だろう。

 日々なまっていく体を思い、リビは一人で調練場へと向かっていた。近頃、渦視に詰める兵士達の様子がおかしいのは、戦が近いからという理由だけではないように思えた。そう思う根拠は、この渦視に現れた台風とも呼べる存在、総帥の娘でありサンゴ国王の孫であるア・シャラにあった。

 シャラが突如現れ、リビの顔面に蹴りをくれようとしたその日から、彼女は気まぐれに兵達に戦いを挑んでは叩きのめし、がっかりした表情で自室に引き上げていくという行為を繰り返していた。その相手は多岐にわたり、濁石を持つ一般兵から、どこぞの会派の武術を収めたと自称する僧兵などなど、多くの者達が腕を自慢しつつ、年若い公主を相手に完膚無きまでに大敗を喫した。

 しだいにシャラが調練場に現れると、それなりの階位にある者らは名が落ちるのを忌避して逃げ回るようになり、腕試しに夢中になる公主に退屈を味わわせる事が、彼らの無言の抗議活動となって顕在していた。

 嫌な予感がなかったわけではないが、リビが調練場に訪れると、そこには訓練用の木棒を片手に倒れ込む無数の兵達が地面に横たわり、気を失っていた。中央には美しい銅色の肌に汗を浮かべるシャラがいて、リビを見つけると悪戯を企む子供の瞳を向けて声をあげた。

 「たしか、リミ……とかいったな」
 「バ・リビだ!」

 国は違えど、本来であれば敬意を持って接しなければならない相手に対し、リビはぶっきらぼうに答えた。

 「見ろ、いい歳をした男共が、子供を相手にこの様だ。準備運動にもなりはしない」
 「生まれ持った彩石の力を使って、それを持たない者をいたぶったところで、自慢にはならないぞ」

 言葉によって急所を突いたつもりだったが、シャラは余裕の態度を崩さない。

 「足の力は使っていない。我流で研いた円拳を使ってのみでこの結果だ」

 そう自信満々に言われ、リビは二の句を次ぐ事ができなくなった。
 シャラは地面に転がる一本の木剣を拾い、それをリビに投げて寄越した。

 「仮にも剣聖殿の身内なのだろう」

 挑発的な視線を送るシャラが、戦いに誘っているのは一目瞭然。本来乗るべきではないこの挑発に、彼女に対する鬱憤がたまっていたリビは、むしろこの状況を歓迎した。

 「彩石を持って生まれた者どうしだ、手は抜かんぞ」
 「あたりまえだッ」

 リビは剣をかまえず、地面に転がるもう一本の木剣を拾い、二剣を構えた。どちらも本来であれば両手で扱うべき重量の物だが、リビはこれを軽々と左右で一本ずつ手に取った。

 バ族が受け継いできた輝石の力は、あまりに地味で特長に欠けるもので、シャラのように突出した身体部位の強化を得たり、また自然界に存在する力を具現化して操るような便利な力でもなく、漠然と身体能力全体を強化するという、なんとも器用貧乏なものだった。

 並の者より腕力が強いが、それに特化した力を持つ者には及ばず、並の者より脚力に秀でるが、シャラのような才を持つ者の前ではなにもないのと同じだった。視力や嗅覚といった五感に関する力にも多少の強化を得るが、どれも並の人間に毛が生えた程度でしかない。
 一見してなにごとにも中途半端に思えるが、しかしバ・リョウキのように得物をあやつる術に長ける場合においては、この特性は、むしろ効果的に作用する。リビは長年その教えを元に研鑽を重ねてきた事を誇ると共に、自信としていた。

 「いざ……」
 と告げ、リビは二つの大剣を突き出すように構えた。

 シャラは自然体で両手の平を腰にあて、左足をすりつつ前へ出した。途端、その足が強烈な蹴りとなってリビを猛襲する。リビは反射的に二剣を盾にするが、雷のような蹴りに押され上半身はいともたやすく均衡を失った。シャラは半歩足を進め、二撃目の蹴りを放つ――が、リビは弾かれた剣の重さを利用し、上半身を反って、寸前でそれを躱した。

 リビの顔が直前まであった所に、猛烈な蹴りが通りすぎ、その後から鉄の鎧をガラス片でこすったような、独特な風切り音が鳴った。

 バ・リョウキはシャラの才を高く買っていた。あの人にしてはめずらしく手放しで褒めるその言葉に嫉妬も感じたが、リビは今、叔父の言葉が決して大仰ではなかったと、身をもって体感している。

 リビは押され気味な状況を打開すべく、中庭を全力で駆けて距離を置いた。大きな石像がある調練場の中央部分まで駆け、体勢を整えて振り返るが、ぴったりと寄り添うように追ってきたシャラの右蹴りが刹那に繰り出され、リビの握る剣のうち一本が、その一撃によって蹴り飛ばされた。

 しかし、リビはこれを好機に転じる。残った剣を頭上に構え、両手で握って一撃で相手を仕留める手に打って出た。が、これが悪手となり、むしろシャラに決定的な勝機を生んだ。

 予備動作なしの逆側の足を用いた一撃がリビの腹部に決まり、リビは腹を襲った痛みと嘔吐感に耐えきれず背を丸めた。その際、振り上げた剣は行き場を無くし、視界を失ったリビは、重量のある大剣を近くにあった石像に思い切り叩きつけてしまう。元々の重さとリビの腕力によって撃ち抜かれた石像は、肩から腰までぼっきりと割れてしまい、見るも無惨な壊れっぷりを露呈させていた。

 壊してしまったその石像は、サンゴの建国王を奉って作られた歴史のある物で、ここ渦視に詰める兵の多くが、金剛大山とは別に、この石像に向かって手を合わせる姿を何度も目にしてきた。
 リビは腹に決まった強烈な一撃による苦しみとは別に、青ざめる思いで破壊した石像を見上げた。

 「なッ……なんと、いう……もうし、わけ――」

 悶絶しつつ、誰にともなく謝罪を述べようとするリビを、シャラが止めた。

 「無理をするな。加減したとはいえ私の蹴りをまともにくらったのだ、大人しくしておけ」

 少女の前で腹を押さえて地面に膝をつく自分を、情けないと思う余裕すらなかった。敗北と失態が同時にふりかかり、リビは錯乱して意味をなしていない言葉を吐き続けた。

 「落ち着け、わけのわからんことばかり口走っているぞ」

 シャラに背を撫でられ、リビは少しずつ引いていく痛みと共に落ち着きを取り戻していった。

 「も、申し訳ない……今すぐ総帥殿の所へいき、この件を報告して謝罪してくる」

 急いで立ち上がろうとするリビを押さえ、シャラは朗らかに笑って言った。

 「この世に壊れぬ物などないのだ、細かい事を気にするな。父将には私がやったと報告しておくさ。あの方は、私に流れる血には絶対に頭があがらぬからな」
 「だ、だが……」

 シャラはリビの肩を押さえていた手をどけ、今度は立ち上がらせるために手をさしのべた。

 「侮っていた。お前の最後の一撃、出した足をしまうのが遅れていたらもらっていたかもしれない。あの判断は悪くなかった。バ・リビの名は、今日より記憶の中に刻み置こう」

 一寸の汚れなく微笑むその姿。リビの双眸には、シャラの背後にさす後光が見えていた。
 ――シャラ、様。
 心の奥底から湧いた、あってはならない言葉に、あわてて頭を振る。一回り近く歳の違う少女に抱いてしまった屈服感。リビはそれを、不思議と不快には感じていなかった。




          *





 晴天の空から陽光が降りそそぐ真昼の深界に、オウド、サンゴの両軍は互いの拠点を結ぶ白道の中心地点に陣取り、にらみ合いを続けていた。

 いつも通り、サンゴ側の宣戦布告によって始まるこの戦で、どちらも細かな場所の指名などはしておらず、毎度の戦闘によって傷んだ白道が目印となって、言葉もないままにそこが主戦場としての舞台をなしていた。

 灰色の森を退けるために置かれた広大な白い道の上では、逞しい男たちが険しい顔で、その時を待っていた。
 両軍から兵を鼓舞する勇ましい陣太鼓が鳴り始める。

 サンゴ国、渦視城塞総帥、黒僧将ア・ザンは、頑強な黒馬に重たい体を預け、鬼の角を模した兜を揺らしながら、列になって並ぶ将兵らの前を往復し、勇ましい言葉をかけた。

 「こんどこそ、と何度諸君らに言ったか忘れたが、今日がまさしくその日であぁるぅ! 都より特級の星君が多く馳せ参じ、また我らが友人であるシャノアからは英雄が自らに駆けつけてくれた。そしてなによりも、ここには幾度も戦場を生き残った精強なる我が渦視の兵がいる!」

 わざとらしく下級兵らを持ち上げるア・ザンの言葉。それでも、手の甲に濁った石しか持たない彼らはそれを聞くや、豪雨のような歓声をあげた。

 「見ろ、喋るたびにアゴの肉が揺れているぞ」

 ア・ザンの娘、シャラは父を指して呑気に笑みを浮かべていた。

 「つつしまれよ、ここは命をやりとりする神聖なる場ですぞ」

 シャノアからの援軍としてこの場に在るバ・リョウキは、皺だらけの厳つい顔で、まるで緊張感のないシャラを戒めた。

 「だが剣聖殿よ、馬に乗ってピグピグと鳴く豚を見て、笑うなとは酷な話だろう」

 ア・ザンの持つ雰囲気を的確に言い表したシャラの言葉に、隣にいたリビは思わず吹き出していた。途端、シャラを挟んだ先にいるバ・リョウキの怒気を帯びた視線が突き刺さり、リビは慌てて取り繕う。

 「シャラさ――殿、父君に対していう言葉ではないだろう」

 シャラは笑っておいてどの口が言うのか、とでも言いたそうに半眼でリビを睨んだ。

 「勘違いするな、私は父将を敬愛している。自分より下と思った相手にはとことん見下して接するが、少しでも上と見た相手に対しては、それが娘でも平気で地に頭をこすりつける。矮小な性根の持ち主だが、卑屈さも極まれば勇気だ。野生動物並に序列に敏感な所は、私には到底真似ができぬ」

 褒めているのか、けなしているのか。リビは一瞬で判断がつかず、ひそかに首を捻った。
 バ・リョウキ率いるシャノアの星君達と、急な決定で預かる事となった初陣のシャラを含めた部隊は、サンゴが布陣する軍の第一列左翼側の後方に席をとっていた。

 騎乗する馬が不安に嘶く。リビは汗を浮かべたその首を撫でつつ、サンゴ軍の陣容を眺めた。

 第一列の最前に並ぶ歩兵隊は、一般的な両刃の剣を腰に下げ、投げて使う事もできる短槍を手に持ち、反対の手では円系で革張りの木製盾を構えている。第一列後方から第二列前面に並ぶのは、彩石を持った星君や僧兵達で、彼らは皆騎乗し、各々に個性のある武器を手に、興奮する馬を慣れた手練で宥めていた。

 最後尾である第三列には遠距離砲撃を得意とする硬石級兵らで構成されているが、聞いたところ、そこに並ぶ者の数は以前に比べて三倍にも及ぶ増強がされているらしい。騎乗する者達の中にも、紫色の階布を肩からさげた、王直属の親衛隊〈禁軍〉の僧兵達の姿があり、異彩を放っていた。これにバ・リョウキ率いるシャノアの精鋭も加わる陣容を見るに、サンゴがこの戦にかけた意気込みと金は、相当なものであるのは間違いない。

 耳でのみ知るムラクモ、オウドの軍は、その構成人員のほとんどが雇われ傭兵であると聞いている。愛国心も守るべきものもない兵に負ける気はしなかった。

 まだ片手で数えられる程度にしか戦場に出たことがないリビは、落ち着きはらった態度で虚空を見つめる叔父のように、達観した態度でこの場に在る事ができずにいた。命を賭けた戦いを前にした人々が放つ空気にあてられ、口の中が乾き、心臓が激しく脈打って、手綱を握る手は汗を滲ませて小さく震えている。そうした所をシャラに見透かされたのか、初めての戦を前にした若き少女は、リビにそっと声をかけた。

 「案ずるな、弱者が死に、強者が生き残る。ただそれだけのことだ」

 道端の闘鶏の結果を予想するような軽い調子で言うシャラを見て、彼女が本当は燦光石の持ち主であり、見た目に幼くとも老婆の如き人生を送ってきたのではないか、とリビは邪推した。というよりも、ずっと年上のはずの自分より平静さを保っている彼女の態度をみて、そうであってほしいと思ってしまったのだ。





          *





 ムラクモ側の陣営では、勇ましく馬を駆る司令官のアル・バーデン准将が、のっぺりとした調子で並んだ兵士達に声をかけていた。

 「何度目だ、と書いた書簡をこの戦を終えた後に送りつけてやろうと思う」

 アル・バーデンが眉を上げてそう言うと、乾いた笑いがおこった。

 「輝士、晶士の諸君らは、国を想ってその力を存分に活かしてくれ。ヒヨッコとそうでない従士諸君は故郷を守る戦いだと心得ろ。傭兵としてここにいる諸君らは何も考えずに敵を殺せ。殺したぶんだけ金が出る」

 輝士達は馬上から表向き涼しい顔で話を聞き、箔付けのためにきている若い従士達は青ざめた顔で下を向き、傭兵達は険しい戦士の顔つきで、隣り合う者らと武器をぶつけて咆哮をあげていた。

 第一列の左翼側に陣取るシュオウ率いる五十五番隊の面々は、皆落ち着いたものである。従士のジン爺は細腕に錆び付いた剣を握り、ブツブツとなにかの呪文のような言葉を呟いている。サンジを筆頭とする傭兵達は斧やら棍棒やら、バラバラの武器や防具を身につけて、渋い顔で打ち合わせを行っていた。

 シュオウは軽くて頼りない胸当てのみを身につけ、アデュレリア公爵に貰った剣を一本だけ片手に握り、深い呼吸を繰り返していた。

 向かい合って陣を構えるサンゴの兵らは、皆同じ装備を身につけ、まとまりがあるが、大半を傭兵で占める自陣側にならぶ兵らは、まるで統一性のないちぐはぐな装備で身を固めた者達で構成されていた。金がないとは聞いていたが、シュオウが長らく想像の中で思い描いてきた軍隊という組織の様相としては、ムラクモ側のそれはあまりにみすぼらしく、期待はずれなものだった。

 左となりにいる部隊では、シュオウより一つ二つ年下に見える青年が、冬を前にして博打で全財産をすったかのように、この世に絶望した顔をして震えている。右となりにいる部隊を率いる者も、また同じような様子だった。

 一方、彼らと同様に初陣を飾るシュオウの落ち着きようは浮いて見えるほどである。肩の力は抜け、心も静かだ。
 命を危険にさらすとはいえ、敵を倒すという単純明快な状況にあって迷いもなく、ただあたえられた役割をはたすだけでいいここで、緊張を覚える事もない。

 アル・バーデン准将は話を終え、勇ましく鬨の声を上げてから本陣へと戻っていった。それを合図に、陣太鼓が小刻みに鳴り始め、サンゴ側からも応じるようにドッドッドと細かく太鼓を叩く音が伝わってきた。それは互いに準備を整えた事を告げる、最後の儀式である。

 シュオウは、背後でぶつくさと言い合いをしているサンジに声をかけた。

 「サンジ」
 「ん? どうしたよ、今さら怖じ気づいたのか」
 ちゃかす言葉を相手にせず、端的に告げる。
 「始まったら、隊への指示をまかせる、細かい事はわからないからな」
 「はあ? さんざ隊長面しといて、いまさらなんだよ」
 「だから、隊長として命令している」

 サンジは苦い顔をしつつも、すぐに納得した様子で首を縦に振った。実際、肌で戦を知らない自分があれこれと言うよりも、何度も経験をしてきたサンジのような男が仕切ったほうが面倒がないだろう。立場を考えればジン爺にまかせるべきだが、彼は傭兵達とからむ事を嫌うので、論外である。



 両軍がどちらからともなく太鼓を止めた。ムラクモ軍の後方から、突撃を命令するラッパが鳴り、第一列の左翼を監督する老齢の従士長、が剣を掲げて進軍を告げる叫びを上げた。
 唸るような男達の轟声が深界を埋め尽くす。
 土埃が舞い、オウドを守る兵達は小走りで前進を開始した。
 サンゴの歩兵達は、規則正しく叩かれる陣太鼓が奏でる律動に従い、小気味良く足を進めてそのたびに、ホッホと声をそろえた。
 やがて、ずたずたに傷を負った白道の上に、両軍の先端が差しかかり、深界の戦場に白熱する摩擦が生じた。



 無味乾燥した世界を、人の波がぶつかる音が溶かしていく。
 足音、嘶く馬、男達の怒号。なにひとつまとまりのない不協和音が鼓膜を埋め尽くしていく中、シュオウは片手に剣を構えて敵との遭遇の瞬間を冷静に観察していた。

 一瞬ですぎてゆく音の洪水は、左目が捉えるゆるやかな光景を置き去りにした。シュオウの眼は、必死の形相で衝突の瞬間を待つサンゴの兵士達の表情に釘付けになっていた。勇ましい戦士としての顔。その奥に見える、怯え。盾と矛を構え、纏う鎧で身を守っていても、心に立てる盾はなく、人の眼に見えぬそこは、いつだって無防備だ。

 シュオウは併走して進む一団の中で、一人抜け出して先行した。背後から自分を止める声がした気もするが、混ざり合う騒音によって、一瞬でかき消される。

 前方で列をなしていたサンゴ兵達が、4人一組に纏まって歩みを早めた。一人抜け出したシュオウは誰よりも早く敵に斬りかかった。最前列にいた二人の男達は短槍を突き出して迎え撃つが、シュオウは軽やかな所作で小幅に飛んでこれを躱し、右手に構えた剣の刃がない横面で、もっとも近くにいた兵士の顔を思い切り殴りつけた。糸が切れたかのように崩れ去るその男を見て、他の仲間達が慌てて短槍を突き出すが、そのすべてがシュオウに届く事なくむなしく虚空を貫いた。

 シュオウの動作は徹頭徹尾無駄を排し、洗練されていた。敵の攻撃を最短の動作で避け、次の反撃に繋がる最適な位置取りを常に維持する。その結果、枯れ葉が地面に落ちる程の時間もかからずに、先陣に立つ勇敢な四人の男の体が白道に横たわった。

 落ち着きはらった態度で立つシュオウの姿に、周囲にいる敵兵達は動揺して足を止めた。そこに、遅れてやってきたオウドの傭兵達が襲いかかる。注意を散らしていたサンゴ兵達は、筋骨逞しい男達の波に襲われ、右往左往しつつ必死に応戦していた。

 後から付いてくるはずの五十五番隊の姿がどこにもない。見れば、自身の部下である傭兵達は、シュオウが倒した敵兵の手首を、まだ意識があるにもかかわらずノコギリ状の刃をつけた短剣で切り落としている真っ最中だった。三人の男達が一人を押さえ、サンジが左手首をぎこぎこと斬り落としていく。意識を取り戻し、血飛沫をあげながらそれに耐える敵兵の痛々しい悲鳴に、心臓が鷲掴みにされた。

 見渡せば、そうした光景は少なからず見られる。殺すか、動けなくなった敵兵にむらがり、左手首を斬り落とす男達の背中を見て、シュオウは改めて彼らの立つ場所がどういう所であるのかを痛感していた。彼らの目的は徹頭徹尾、勝利ではなく殺す事で得られる金銭なのだ。敵の中に身をさらしつつ、危険もかえりみずに手首に執着する姿を見て、そう強く認識する。

 だが、それに見入っている場合ではない。すぐ側では、敵兵に追い詰められたジン爺が、尻をついて逃げ惑っていた。シュオウは駆けだし、この瞬間にも槍を突き出そうとしていたサンゴ兵に向けて剣を繰り出した。横に寝かせた剣腹が相手の顔を打ち叩く寸前、脳裏に生きたままに腕を切り取られた男の悲鳴がよぎった。刹那、シュオウは剣を寝かせ、剥き出しの刃で相手の喉を切り裂いた。吹き上がる血飛沫をかぶらないように体を避けて、首をかきむしるように崩れ落ちた相手の姿を確認した後、動きを止めていたジン爺に手を差し出す。

 「大丈夫かッ」
 「あ、ああ……あんた、やっぱただもんじゃねえな――」
 言いつつシュオウの手を握って体を起こした老兵は、突然上空を見上げて叫びをあげた。
 「――くるぞおおお!」

 突如、シュオウの体は日陰の中に落ちた。ゴウ、という風切り音がして、誘われるように見上げると、巨大な赤黒い色をした岩石が、今まさに目の前にまで迫り来ていた。あまりにも急な出来事に体は硬直する。反射的に腕で顔を覆った途端、岩は轟音をあげて、シュオウの手を握ったまま立ち尽くしていたジン爺のほぼ真横を転がった。

 僅かなずれで落としていたかもしれない命を思い、シュオウは転がった岩を見て固唾を飲み込んだ。

 「晶士の射程に入った、こっからが本番だぞ」

 ジン爺の言うとおり、両陣営の最後尾から、巨大な土塊や岩石、水球が打ち上げられる。それらは中央で衝突を繰り返す歩兵の集団に降り注ぎ、まとまって行動していた部隊丸ごとに次々と圧殺していった。

 散れ、という声がどこからともなくあがり、ごちゃまぜに群がっていた一団の中に隙間が生まれていく。
 シュオウはようやくひとまとまりになった五十五番隊と共に、天空から降り注ぐ攻撃に備え、足を止めた。

 「おい、おかしくねえかッ」
 空を見上げ、舞い落ちる巨大な石塊を見つめながら、サンジが叫んだ。
 ざわめく戦場に声を消されぬよう、シュオウは声をはる。
 「どうした!?」
 
 「砲撃戦じゃずっとこっちが圧倒してたんだよ、なのに南軍から飛んでるくる攻撃の量がいつもの倍なんてもんじゃねえ」

 ジン爺がサンジの言に同調した。
 「ああ、それにそれだけじゃねえ、腕も今までのとはダンチだッ」

 周囲を固めるオウドの兵達が、次々に降り注ぐ攻撃の餌食となり、押しつぶされて無残な姿と化していく。だがしだいにその砲撃も間隔が開くようになり、上空は再びなにもない青空だけが取り残された。

 高い威力と大きさを誇る晶士の一撃は、たしかに強力ではあるが、その分持続力には欠けている。両軍ともに息切れをおこした戦場は、しかし一時の休息も許すことなく、次なる段階へと駒を進めた。

 馬蹄を鳴り響かせ、戦場を蠢く歩兵達の間を、騎乗した輝士、星君達が駆け抜けてゆく。長剣を突き出して三人一組で突撃をするムラクモの輝士達は、具現化した晶気を弓矢のように撃ち放っては、次々と敵を殲滅していく。対するサンゴの星君達は、人の身に余る巨大な斧や剣、打棒などを肩に担ぎ、一振りで群がる傭兵達を薙ぎ払っていた。

 両軍共に主力が投入され、力と力がぶつかりあう本格的な殴り合いが始まった。

 シュオウは隊の仲間達に背中を預け、目の前に立ちふさがる敵の喉首を次々と切り裂いた。剣先から、紅く濁った血液がしたたりおちる。

 一度動き出せば、一瞬のうちに四、五人が喉から鮮血を吹き上げて絶命する。その並外れた働きに、敵味方問わず、周囲にいる者らの視線がシュオウに集まりつつあった。だがそれが災いし、馬上で巨斧を振り回していた僧兵の一人がシュオウに眼をつける。馬の腹を蹴り、当たれば一太刀で真っ二つにされてしまうであろう、巨大な得物を振りかぶった。それはただ威力があるだけでなく、速度までもが常識を逸している。

 ――当たらなければッ。

 すべての意識を、視るという行為に集約する。威力もある、速度もある、狙いも間違いなく、なにより洗練された一振りだが直線的な攻撃で、それはあらゆる意味で狂鬼のそれに劣っていた。上を知るシュオウにとって、これを避けて見せる事は児戯にも等しい。

 「ふッ」

 短く息を吐き、シュオウは袈裟懸けに振り下ろされた斧を躱した。無様に白道に食い込んだ斧を蹴って、その身を空中に躍らせる。剣柄の尻を掴み、間合いを伸ばし、体をよじって回転をくわえた一撃で僧兵の喉を切りつける。精度と共に回転による威力まで重ねたその一撃は、喉の奥深くまでを一文字に引き裂いた。

 もがく事すらできず、僧兵は武器を手に掴んだまま、鮮血をまき散らして落馬した。その一瞬、周囲の空気が凍り付く。

 動き出したのは味方である傭兵達であった。彼らは我先にと僧兵の死体に群れ集まり、片手に短剣を握って周囲の事などおかまいなしに手首を斬り落としにかかる。うち体格の良い一人の男が、取り合いに勝利して鶯色の輝石のついた手首を斬り落とす事に成功し、周囲の者らが伸ばす手から逃れて雄叫びをあげた。

 「やったぞおお!! これで当分の間喰うにはこまら――」

 戦場のど真ん中で、僧兵の手首を掲げて叫んでいた男の後ろを、敵の僧兵が通り抜けた瞬間、男の首が地面をごろんと転がった。

 前面から倒れ込んだ首無しのその体に、取り合いに敗れた傭兵達が群がり、最初に飛びついた男がしたり顔で彩石の付いた手首を懐にしまい込む。

 反吐が出そうなおぞましい欲望のぶつかり合いを目の当たりにし、シュオウは胃の奥に重くのしかかる不快感に気分を悪くした。

 「お、おい、押すな!」
 背後からそう叫ぶサンジの声がして、見ると傭兵達の集団が作る人の波が、シュオウを目掛けて押しつぶさんがばかりの勢いで押し寄せている。その濁った瞳は、すべて一心に自分に集まっていた。

 「こいつら、漁夫の利を狙って群れてきやがったッ」

 逃げ場がないどころか、人の波はより圧力を増してのし掛かる。前方は殺気を帯びた男達でごったがえし、後方からは楽に手に入る利を求めて味方が前進を促してくる。その群れの中からひょっこりと顔を見せたボルジが、怯えた様子のサブリやハリオ達を連れてシュオウの前まで現れた。

 「シュオウ! まずいぞ、ここだけ前に出すぎだッ」
 「わかってるッ、だけど――」

 背中から押し寄せる集団の力に押され、五十五番隊を先頭とした一団だけが敵陣深く食い込んでいく。シュオウは襲いかかる兵士らを一刀の下に斬り伏せてゆき、後から押し上げてくる者らは、シュオウが斬り殺した死体に群がった。その光景は、道端に転がる腐肉にむらがる蝿と、なにもかわらなかった。





         *





 最後列にあり、副官であり妻であるケイシアと共に戦況を見守っていたアル・バーデンは、次々と入る不利を伝える報に、苛立ちを隠せずにいた。

 「どうなっているッ、まともな報告が一つもあがってこないぞ」

 そうやって愚痴っている間にも、右翼から展開していたいくつかの輝士隊が壊滅したとの報が入った。肉眼で確認ができる範囲だけでも、自軍が劣勢に立たされていることは一目でわかる。

 輝士隊が破られ、数で圧倒されてしまえば、あとに残された歩兵部隊は敵に好きなようになぶられるだけだ。むしろ、これまでの戦闘では自軍側がその状況に敵を追い込み、勝利を得てきた。今のこの状況は、まるでいつもと逆である。

 肩から多量に出血した輝士が現れ、馬を降りてケイシアの耳元でなにかを囁いた。ケイシアは報告を受けて苦い顔で頷き、アルを見た。

 「閣下、強行偵察隊からの報告で、かなりの数の敵硬石級の増強が確認されました」
 「まさか――やつらにまだ余力があったというのか」

 ケイシアは神妙に頷いた。

 「見慣れぬ軍旗を掲げた部隊を見たという報告もあります。他国からの支援も入ったと見て、間違いはないでしょう」

 アルは歯ぎしりをしてその報告を聞いた。

 「中央には何度忠告したかわからんぞッ、やつらは形だけの同盟に怯える必要はないとほざいたが、この有様を見せてやりたい!」

 怒りにまかせ怒鳴り声をあげると、アルを乗せる愛馬が怯えて首を激しく振った。
 新たな一報を届ける伝令兵が駆け寄る。その顔は、聞くまでもなく朗報ではないことを告げていた。

 「敵軍、先鋒が我が軍の第二列まで食い込みました!」

 それは、この戦場において大半の勝機が失われた事を示唆する報告だった。第二列は、晶士や本陣を抱える第三列を守る最後の壁である。そこに敵の矛が入ったという事は、第一列が壊滅状態にあり、数と力の両面ですでに大差をつけられたという証明でもあった。

 ケイシアは、アルが頭から排除していたその言葉を口にした。
 「閣下、撤退命令をお出しください」

 アルは副官を強く睨みつけた。

 「馬鹿を言うな! まだいける、散らばった輝士隊を集結させ、俺が自ら率いて敵中を突破する。中からかき乱してやれば、第二、第三列を押し上げて敵陣奥深くに砲火を降らせる事だって――」

 自分を気の抜けた顔で見る妻を前に、アルは途中で口を閉ざした。なにひとつ保証のない急場の作戦によって招かれる結果は、火を見るよりも明らかだ。

 「被害が砲術隊にまで及べば、サク砦はおろか、オウドの防衛すら危うくなる。アル、引き時を誤れば、私たちの運命はここで潰えてしまうわ……」

 泣き出しそうな顔で、腹を押さえて訴えるその姿に、アル・バーデンは沸き立っていた頭の血を下げて、瞳を閉じて空を仰いだ。

 「………………速やかに撤退行動をとる。第三列を先頭に、残存する輝士隊を護衛につけて後退を始めさせろ」

 苦渋の顔で奥歯を噛みしめていったアルの言葉に、ケイシアは心痛な面持ちで応えた。
 「ただちに、実行に移します」





          *





 シャラは馬上で交差するムラクモの輝士の頭を、すれ違い様に蹴り飛ばし、落馬して絶命したその姿を不満げに見つめた。

 「歯ごたえのない。こんなものか」

 戦が始まる前までまっさらだった軍靴は、血に汚れて元の色がわからなくなっていた。
 保護者として、この肝の据わりきった姫を預かるバ・リョウキは、巧みな馬術でムラクモ輝士が放った晶気を躱し、間合いを詰めて急ごしらえの晶壁ごと、その体を貫いた。

 「侮られるな、個々の力は対するまでわからぬ」

 晶気の扱いに長けるムラクモの輝士は、その質が高いことに違いはないが、彼らの本分は中距離からの遠隔射撃である。近接戦闘に長ける南軍兵にとっては、懐にさえ入ってしまえば高い割合で勝利を得られるが、身体強化の能力を有する南方の星君は、弓矢を防ぐ程度の晶壁を張ることはできるが、強力な輝士の一撃を防ぎきるほどの強度にまで洗練させる事は苦手としていた。その不足を補うため、バ・リョウキは自身が引き連れる精鋭達を厚みのある縦列で束ねて相手の狙いを分散させつつ、三人一組での行動を主戦術とするムラクモの輝士達を数で圧倒した。

 戦況はサンゴ側に有利に動いている。すでにムラクモ側の第一列に並ぶ兵達は、持ち場を捨てて逃げ惑う姿も珍しくなくなっていた。

 「よし、我々はこのまま――」
 次の指示を与えようと声を上げたとき、視線の先に妙な光景を捉えて、バ・リョウキは言葉を止めた。

 ほとんどの部隊が壊滅状態で、奥へと押し込まれている中、敵の左翼側にある一団だけがサンゴ側に深く食い込み、今もなお、前進を続けている。その先頭では、灰色髪をした独眼の男が、縦横無尽に剣を振るい、星君や僧兵を薙ぎ払い、難無く落馬させて突き進む姿があった。そのあまりに卓越した手練を見て、バ・リョウキは息を飲んだ。

 「まごうことなき真の手練れッ! リビ!」
 背を向けたまま、帯同する甥を呼ぶ。
 「は、はいッ」



 ゆっくりと振り返ったバ・リョウキの顔を見て、リビやシャラ、その他の星君達は恐怖に身を縮めた。老いた顔に浮かぶ鬼神像の如き微笑。歯を剥き出し、口端からよだれを垂らすその姿に、剣聖として名高い男の風格は、微塵も残っていなかった。

 「後をまかせる。遊撃に徹して輝士を狩れ」
 バ・リョウキは一言そう残し、単騎で駆け出していってしまった。

 「見たか、あの剣聖殿の顔を……」
 めずらしく張りのない声で言ったシャラに、リビは頷いた。
 「ああ……叔父上のあんな顔を見るのは初めてだ」
 「うらやましい――――あれほどの御仁に、童のような顔をさせる者がいるのか」

 憧れを抱く少女の顔で、シャラは呆けながら言った。

 「シャラ殿、そんな事を言っている場合ではッ」

 ざっと見ただけで、戦況が優位である事に違いないが、戦はまだ続いている。

 「わかっている。このまま前進し、敵陣を蹂躙するぞ、雑魚にかまわず私につづけ!」

 馬上で拳をふりあげて、シャラは先行して馬を駆った。シャノアの星君達がそれに応じて後に続く。

 「こ、こらッ、お前達! だれの命令にしたがっている?!」
 本来先頭に立つべきリビは置き去りにされ、彼らの後を追いかけた。





          *





 未だ、欲に駆られた集団に押され続けているシュオウは、自軍の状況も掴めぬまま、ひたすら目の前の敵兵に剣を振るっていた。

 集団で固まっていれば、当然のように砲撃の餌食にされる。散発的に降りそそぐ石塊などを受け、一団は相当な数を減らしていたが、未だ肉の壁としての役割だけは律儀にはたしていた。彼らはシュオウが星君や僧兵らを屠る度に歓声を上げ、その死体にむらがった。

 自分達を取り囲む敵軍の厚みが、時を追う事に増しているような気がした。

 一人を先頭にして後にわらわらと続く、この異様な集団に、しだいに近づく者は減ってゆき、かわりに放射状に陣取った雑兵らが槍を構えて壁を作り、距離を置いて前進を阻む。その人垣の奥から、突如馬を跳躍させて、一人の星君兵らしき老人が現れた。その男はシュオウと眼を合わせたかと思うと、途端に馬を捨て、俊足で駆け出しながら太刀を振りかざし、勇ましく名乗りをあげる。

 「我が名はバ・リョウキ! いざッ勝負!」

 血走った眼を見開きながら、口元に笑みを浮かべるその威容に、背後にいた仲間達が後退った。

 瞬きをする間も与えぬ速度で飛び込んできた老兵は、シュオウの肩を狙ったであろう一撃を放つ。軸足をずらして、いつも通りに避けようと試みるが、積み上げてきた経験が、それでは足りぬと警鐘を鳴らした。不足分を補うため、シュオウは相手の剣が描く軌道に自身の持つ剣を障害として置き、その分の余裕を作り出す。数瞬後にぶつかった相手の一撃は、想像を遙かに超える圧力があった。

 「くッ――」

 受けた剣がへし折れたのでは、と錯覚するほどの衝撃。すかさず間合いを詰めてきた老兵は、突きから薙ぎ払いの繋ぎ技を披露し、シュオウはそのすべてを剣を盾とする事でかろうじて防ぎきった。その動き、鋭さ、剣撃の放つ重厚感。この老兵の剣術は、間違いなく達人の域にある。

 ここへ来て、シュオウの額から初めて汗がこぼれおちた。

 刹那に繰り出された三度の剣撃をどうにかいなした後、老兵は距離を置いて興奮した様子で声を上げた。

 「よくぞ……その若さでそれだけの武を修めたか。なんたる僥倖、なんたる縁! この歳で、未だこれほどの強者と出会えるか」

 老人は一人で勝手に感極まっているが、しかしこの場の熱を冷ます、まのぬけた太鼓の音が、周囲の空気を一変させた。

 「撤退だと……くそ、まじかよッ」

 背後からそう吐き捨てたサンジの声が聞こえ、間隔を開いて二度ずつ鳴るこの音が撤退を意味する合図なのだと悟る。

 シュオウの後ろから一塊についてきた一団は、すでに完全に包囲された状態で矛先を突きつけられていた。この状況で味方が敗走したとなれば、つまり自分達は敵陣のど真ん中に取り残されてしまったということだ。

 一人、また一人と武器を放り投げ、降伏の意を示していく。一団の中に巻き込まれてしまったボルジ達の部隊と五十五番隊の面々も、同様に武器を手放した。
 円系に自分達を取り囲む人の輪の中に、しだいに大勢の星君や僧兵までもが加わっていくのを見て、シュオウも手にしていた剣と、腰に差していたもう一本を放り投げた。

 老兵はその様子を渋い顔で見守り、やがてなにかしらの報告を耳打ちされると、怒気に眉を怒らせた。
 「なんだとッ――」

 吐き出し先を失った何かを溜め込むように、耐えるような表情をこちらに向ける老兵は、一言残して運ばれてきた馬に騎乗した。

 「――この勝負、あずけさせてもらおう」

 去っていく老いた背中は、卓越した武人としての気概を漂わせている。彼が特別な人物であることは、周囲を固めるサンゴ兵達が彼を見る、敬愛を帯びた眼差しが証明していた。

 シュオウは取り残された仲間達と共に後ろ手に縄で縛られ、自由を失った。
 自身の駆けてきた道の後には、左手首を失った死体が、氾濫した河のように散乱している。それはなにより惨く、穢れた光景に見えた。
 自身のもたらした結果を他人事のように眺めるシュオウの顔に、脱力の色が浮かぶ。
 なに一つ実らぬ結果を迎え、シュオウの初陣は、ここに幕を引いた。
























*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*
今回も最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。

話も進んで、次回からは主人公も(また)難儀な状況に身を置く事になりますが
来週からしばらく、書くための時間の確保が難しくなるので
次の投稿は、10月の第一週から再開し、その後は初陣編完結まで週1更新に戻ります。
少し間があきますが、毎日少しずつでも書きためていけるようにがんばります。

それでは、また。



[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第五話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:22
     Ⅴ 銀髪の虜囚













 血に猛った男達があげる怒号は、飢え惑う猛獣の雄叫びにも似ていた。

 戦での敗北を喫し、死に場所も得られぬまま、敵国に捕らわれた者達が、後ろ手に縛った縄を首にまわされ、屠殺を待つ家畜のように行列をなして、渦視城塞の中庭を歩いてゆく。

 惨めな行進を続ける虜囚となった敗残兵達を、引き留める声がした。
 声の主は線を引くように、一団の中心に剣を差し込み、ここまでだ、と短く告げる。

 それは死の宣告だった。
 線より前にある者達に、この場での処刑が言い渡される。

 ある者は途端に狂ったように抵抗をはじめ、またある者は、達観した胸像のような態度で、ただ訪れる運命を静かに待った。

 この後におよんで、両者にたいした違いなどない。ただ前者は、自身に降りかかる運命を、ほんの少し先取りすることとなった。違いがあるとすれば、その程度のことだ。

 屈強なる戦士達、あるいはまだ若く幼さを顔に残した従士達が、急所に槍を受け、絶命していく。

 その生々しく、一方的な殺戮行為を前にして、しかしシュオウは引かれた線の後ろに居たことを幸運だ、などとは微塵も思ってはいなかった。



 首筋に引いた鋭利な剣線。そこから吹き出す赤い霧。喉奥が泡立つ不気味な音。
 閉じたまぶたは意味をなさず、勢いのままに行った血なまぐさい行動の数々が、焦げ付いた記憶のように平静な思考を犯していた。

 シュオウは捕らわれた者らと共に、城塞内部の地下牢の中に放り込まれ、抱えた膝に顔をうずめながら、ただじっとしたまま、目をつむっていた。

 あの激しい戦いから時も過ぎ、外はもう暗くなりはじめている頃だ。
 味方に置き去りにされ、剣を投げてから、まともに仲間達の顔を見ていない。だれが生き残ったのか、きちんと把握すらできていなかった。

 ただひたすらに前を見て、襲い掛かる者達を切り伏せた。押されるまま進み続け、気がつけば自分は牢獄の中にいる。

 膝を抱えて目を閉じていても、意識はこわいほど明瞭としていた。ただ、ぽっかりと思考は消え、真っ白でなにもない空間を落ちていくような感覚と、人を殺したという記憶が、疲れた肉体を支配していた。

 それは、これまで生きてきた経験の中で、未知の感覚だった。

 同族を殺したという不快感とは違う。ただその行いは、糧を得るための狩りで、動物を殺した時の感覚ともあきらかに異なっていた。

 伏せることのできない耳は、絶え間なく周囲の音を拾っている。とくに、空気のよどんだ部屋の中で、過剰に詰め込まれた敗残兵たちの溜息は耳についた。

 そんななか、聞き覚えのある声が、突然に言葉を発した。

 「全部あいつのせいだ!」
 途端、場の空気がぴたりと雑音を消し、静まりかえる。

 「やめなよ、ハリオ……」
 言った声の主を止めるその声もまた、シュオウには聞き覚えのあるものだった。

 「やめるかよッ、なんでみんな黙ってんだよ、おまえらだってわかってんだろ、こいつが一人でのこのこ前に出て行ったせいで俺たちが敵陣のど真ん中で孤立するはめになったんだ。そうだろ? え? 違うかよッ、おい、聞いてんのかよ、シュオウ!」

 「おい、いいかげん黙らねえと──」

 さび付いた牢の扉が引きつったかなきり音をあげながら押し開かれる音がして、騒ぎになりかけていた牢獄内は、再び落ち着きを取り戻した。

 「人を探している。白っぽい髪をした若い男だ。多数の星君兵を殺めたという証言があり、総帥閣下直々の出頭命令が下された。この中にいたら今すぐ前へ出ろ。お前達のなかでは目立つ特徴だ、隠れようとしたところで無駄なことだぞ」

 その言葉に、牢獄の中はざわめきで埋め尽くされる。だが、即座に熊のような大声を張り上げた者がいた。

 「そんなやつは知らねえな」
 太くてよく通る、これもまた聞き覚えのある声だった。

 「だまれ、誰が立っていいと言った、今すぐ膝をつけ! 他の者達は一列に並んで壁に手をつけ!」

 「わかった、わかったよ。それをやったのは俺だ。糞みてえな臭いの星君を十人ばかり叩き殺してやったんだ」

 「おまえがぁ? ……いや、嘘をいうな。証言からあまりにかけはなれている」

 「わからねえやろうだな、自分で名乗り出たんだ、これ以上なんの文句があるってんだ。俺を連れていけ、総帥だか雑炊だかしらねえが、面をおがんで俺の高貴なツバでも浴びせかけてやるぜ」

 「きっさま……かまわん、こいつを連れて行け! 報告者に面を通せばわかることだ。嘘をついていたら──」

 シュオウは、膝の中にうずめていた顔を持ち上げ、咄嗟に立ち上がった。
 「俺だ」

 目を見開いて言うと、薄暗い牢の中に詰められた人間たちが、一斉にその視線を自分に釘付けにしていた。その時、ようやくこの部屋の中に見知った者達が多くいることを知る。ジン爺をはじめ、自身の預かる五十五番隊の男たちは皆無事に、そしてボルジと彼が率いる隊の人間たち。その中には、先日シュオウが叱りつけたあの二人もいて、ハリオは骨張った顔にトゲのある視線でこちらを凝視していた。

 シュオウは自ら歩み出て、サンゴの兵にくってかからんばかりに前のめりに立ち尽くしていたボルジの前へと出た。

 「おいッ」
 なお、引き留めようとするボルジに、シュオウはきつい調子で言う。
 「帰りを待つ人間がいるだろ、軽はずみなことをするな」

 「おまえ、自分がどうなるかわかって言ってんのか。やつら、北の出身者には容赦しねえぞ」

 必死に説明するボルジを前に、シュオウはそれを場違いなほどうれしく思っていた。心底身を案じてくれていると、皺を刻んだ厳つい顔は言っている。

 シュオウは堅くなった顔に力を込め、ぎこちない笑みをつくった。
 「──行ってくる」
 両手をきつく結ばれ、腰に剣を突き立てられながら、シュオウは仲間たちを残して牢獄を後にした。





          *





 「おのれぃッ」
 汗で蒸れた兜を脱ぎ捨て、バ・リョウキは忌々しい口調でそう吐き捨てた。

 渦視城塞の中を大股で闊歩する間、周囲の者達から送られる尊敬のまなざしと、賞賛の声も、今の自分にはただの雑音でしかない。

 背後から早足で、リビとシャラが後を追ってくる。バ・リョウキは勢いのまま、城塞の借り部屋に飛び込み、おかれていた家具や調度品を蹴り飛ばして盛大な騒音をかき立てた。

 「叔父上、おちついてください!」
 リビは血気に猛った叔父に冷静さを求めた。

 「落ち着いていられるか! あのムラクモに対してあれほどの大勝を得ていながら、一切の追撃を行わないとはッ」

 戦の終局において、圧倒的な不利に追い込まれたムラクモが退却行動に移った際に、本陣から出された命令は、追わずに速やかな撤収を、と告げる腰砕けな内容だった。

 兵力の大半を損耗することなく、砲撃を主とする星君の多くを無傷で残していたサンゴ軍は、敗走するムラクモを追撃した後も、砦を強襲し、そのまま制圧できていた可能性は十分にあった。反撃を警戒するにしても、試みるだけの余地はあったはずだ。なにしろ、相手が相手なのだ。今回のような機会は、千載一遇であったと言い切れる。

 「ですが、サンゴにも事情はありましょう」

 リビはサンゴをかばうように言うが、バ・リョウキはすべてを承知していた。
 全軍の指揮をとっていた渦視城塞総帥のア・ザンは、今回の戦の功労者でもあるバ・リョウキの、再三の面会要請に応じようとしない。それはことの顛末に対する後ろ暗さを抱えている事への、なによりの証明となっていた。

 「はじめからだ。ア・ザン殿は、すべて織り込み済みでこの戦のための支度を調えていた」
 「それは、どういう意味であろうか」

 部屋の中にまでついてきていたシャラが、バ・リョウキの言葉に問いかけた。彼女は戦装束のまま、あちこちに返り血を受けた姿で立ち尽くしている。

 「ア・シャラ殿、初陣を見事に飾った事、言祝ぐ余裕すらなかったことをお詫び致す」

 汚れた格好で、汗で前髪を額に貼り付けた少女の姿を見て、バ・リョウキは小さじ一杯ほどの落ち着きを取り戻していた。

 「どうでもよい。それよりも、剣聖殿のいまのお言葉の意味を知りたい」

 まっすぐこちらを見るア・シャラ。しかし応えるには若干の躊躇があった。それを察してか、彼女は明朗な声で告げる。

 「偽りのない言葉を。身内とて遠慮は無用、くだらん告げ口をする口は持ち合わせてはいない」

 よどみなく言い放つア・シャラの言葉には、不思議な説得力がある。彼女であれば、いわないと言ったことは頭をかち割れても貫くだろうと、根拠なく信じる事ができた。

 「……はじめから、この戦に先の展望などなかったのです」
 「勝利後の撤収が決まっていたと言いたいのであろうか」

 「御意に。自らけしかけた争いで、万全の状態を維持したまま敵を圧倒したにも関わらず、敗走する相手を追うこともせずに、ア・ザン殿は撤収を号令した」

 「なるほど。自らの意思で相手を殺しにかかり、とどめをささなかったというわけか」

 「結果として、とどめを刺す事ができなかったということであれば、それはままあることであり、問題にはあらず。だが、ア・ザン殿は、とどめを刺そうとする素振りすらしなかった」

 ア・シャラとの対話に、リビが割って入った。
 「それでは、この戦に意味はあったのでしょうか」

 バ・リョウキは甥の問いかけに頷いてみせる。

 「あったのだ、少なくとも今回の仕掛け人である総帥殿にはな。あの方の望んだモノはただ一つ、ムラクモに勝利したという武勲そのもの。それは奪われた自国の領土を取り戻そうという屈強な意思ではなく、内に向けた武勇伝欲しての行為に他ならん。戦に勝利した後は、さらなる打撃を加えてムラクモの怒りを買うことを忌避した。それは弱者の思考、負け犬の所作にすぎん。我が剣をこのような無意味な戦でふるったことが口惜しい。今回の件でよくわかった、この渦視を預かる男が、自分の椅子を温めることしか考えていない小人だったと」

 吐き捨てて言ったバ・リョウキを、リビが咄嗟にいさめた。
 「叔父上ッ、ご息女の前です!」

 しかしア・シャラは鼻で笑う。
 「気にするな、我が元となった男とはいえ、中身はよく理解している。剣聖殿は事実を述べたのだ、侮辱されたと怒るつもりなどない」

 父を嘲る他国の人間を前にしても、ア・シャラは冷静さを保っている。老いたる自分よりよほど完成された人格を有しているように見える彼女に、バ・リョウキは恥じ入る思いを感じ謝罪のために腰を折ろうと向き直った。が、扉をたたく音がそれを寸前で止めた。

 「なんだ」

 訪れた者に用件を尋ねると、バ・リョウキとリビの本国であるシャノアからの使いが届けた書簡を渡しにきたのだという。
 受け取った書簡の中を見て、バ・リョウキはしかめっ面をさらにひんまげた。

 「叔父上、宮廷はなんと」
 「サンロの地に謀反の気配あり。単身帰国の途につき、禁軍を率いてこれを鎮圧せよと、主上のお達しだ」

 シャノアの現王はまだ幼い。実質的な実権を握っているのは、みまかった前王の后一族で、本来継承権の上位にいた前王の別子や血族者達は、権力争いに敗れ、命を落としたか、サンロというシャノア国内の貧相な小領地に軟禁されていた。

 話を聞かされたリビは、険しい顔で胸を叩いた。
 「ならば、私も共に向かいます」

 勇ましく言った甥に、首を振る。
 「おまえは残れ。シャノアを代表する者が二人とも席を立てば、礼を失する。この文だけでは詳細はわからぬ。私は指示に従い国に戻って状況を見定めた後、指示を出す。形だけでも我らはこの戦で成果を残した。ここでは当分の間、邪魔にはされまい」

 バ・リョウキは改めて、じっとたたずんで様子をうかがっていたア・シャラに向き直った。

 「さきほどは失礼をした。急ぎの事ゆえ、お父上には挨拶にうかがえなかった事をお許し願いたい、と」

 ア・シャラは力強く一度頷く。
 「私から説明しておこう」

 挨拶もそこそこに、バ・リョウキは宝剣岩縄を担いで出立の支度を整えた。立ち上がって後に続こうとするリビに向け、言葉を残す。

 「見送りはいらん──」
 言って部屋を出る寸前、ある事を思い出し、バ・リョウキは足を止めた。
 「──リビ」

 「あ、はいッ」

 「敵陣にいた銀髪独眼の男を捜せ。どさくさで気が紛れてしまったが、あれは名を聞くに値する武人だった。おそらく捕らわれの身になったはず。無事を確認できたなら、ア・ザン殿に、シャノア樹将バ・リョウキの名において、保護を申し出よ」

 「保護を……ですが、敵兵ですよ」
 ためらう甥に、バ・リョウキはきつくにらみを効かせる。
 「二度言わせたいか」
 「……いえッ、かならずそう致します」
 


退室した叔父の背中を見送り、リビは溜息をこぼした。

 「これほど感情をあらわにされる方だとは思わなかった」
 室内に残ったままのシャラは、部屋に散乱した卓や、砕け散った調度品を見て言った。

 「剣聖という呼称がそう思わせるのか、叔父上のことを冷静沈着な人間だと思う者が多いが、実際のところ、あの方が感情にまかせて怒り狂う姿は、憤怒に猛る鬼神よりも恐ろしい」

 身震いをする仕草でリビが言うと、シャラは愉快そうに一笑した。
 「さて、私も行く。身を清めて、あほう僧将殿の面でも拝むとしよう」

 去ろうとするシャラの背に、リビは慌てて声をかけた。
 「あの、おめでとうございます。あなたの戦場での武勇、このバ・リビ、心底見ほれました」

 顔を傾けて、横目を送るシャラは、すっと伸びた姿勢で微笑みを浮かべていた。完成された一つ一つの所作にリビが見とれていると、シャラは思いつきに言葉を残した。

 「そうだ、剣聖殿の言っていた件の男が見つかったら、私にも一報を。あれほどの方が執着する人間だ。直接話をしてみたい」
 「……あ……はい」

 そうさらりと言い残して出て行ったシャラに、リビは生返事で応えた。
 ──なんだ、これは。
 もやもやと不快感が漂う心根に触れようと、リビは胸に手を当てた。



 城塞の中はいまだ興奮冷めやらぬ男達がひしめき、血と汗の混じる独特な異臭に包まれていた。

 雑兵達の行き交う細長い兵舎を訪れたリビの目の前では、疲れた様子で廊下に背を預け、座り込む者や、血気盛んに勝ちどきの声をあげる者など、そこは場末の酒場のような喧噪に包まれていた。だが、それも無理はない。まだ戦が終わって一日もたっていないのだ。

 リビは疲れを押して方々歩き回り、捕らわれた敵兵達の居場所を聞いて歩いた。

 城塞の端から端までを歩き、捕らわれた者達のうち、一部は早々に処刑されたと聞かされ肝を冷やしたが、しめられた鶏のように地べたに放り捨てられていた死体の山を見たところ、そこに目的の人物と合致する特徴は見当たらず、ほっと胸をなで下ろした。

 あたりが暗くなり、各所から賑やかな宴会の声が届き始める頃になって、ようやく地下牢の存在と場所を突き止め、そこを管理する人間から、リビの探し求めている人物が、総帥の命令によって連れ出されたのだとわかった。

 低く鳴った腹に忍耐を求めながら、リビはア・ザンの詰める部屋に向け、足を運んだ。

 ア・ザンの部屋を訪れるまでもなく、リビはその途中に目的の人物を発見した。叔父が銀髪と評した髪は、暗がりのなかにあって、くすんだ灰色にしか見えないが、やたらと大きな黒い眼帯は、自分も遠目にそれを見ていたので、間違いないはずだ。

 バ・リョウキが身柄の保護を命令した件の男は、両手をきつく縛られながら、四人の屈強な兵に囲まれ、リビ達が最初にこの城塞の中を案内された際に紹介された、薄暗い牢獄の中へと連れられていく最中だった。その後ろを、うれしそうに手をこねながらついて行くア・ザンの姿がある。

 リビはその光景を前に、一瞬で銀髪の男が置かれた状況を把握した。

 英雄と名高いあの叔父が、名指しで戦いを挑むような人間だ。考えるまでもなく、戦場にあっては相当に活躍したに違いない。つまり、サンゴの側からすれば、あの男は札付きとなってしまい、悪目立ちしてしまったのだろう。一般の虜囚達から隔離されているところを見るに、より苛烈な状況に置かれようとしているのだ。

 リビは咄嗟に片足を前に出し、手を伸ばして、牢部屋の中に消えていくア・ザンの名を叫ぼうとした。

 だが、声が出ない。

 保護を求めるために動くべき状況にあって、熱を帯びた叔父の視線や、幼子のような純真な顔で興味を抱くシャラの顔が頭に浮かび、泡沫のように沸いたそれらの記憶が、意味もわからないままに、リビの行動を阻害した。

 銀髪の男と、随伴する兵達、そしてア・ザンの姿が闇の中に溶けていくのを、硬直した姿のまま見送る。

 リビは、暗がりの廊下で一人、たたずんだまま動く事ができなかった。





          *





 「とりもとったり、二十人に届こうかという我がサンゴの精鋭を、こんな細身の男が一人でやったとは」

 あごにたまった贅肉を揺らしつつ、言った男を、シュオウは強く睨みつけた。

 「この期に及んでまだそんな顔をするのか。なるほど、よしよし。いいぞ、強い人間であるからこそ、私の欲求も満たされる」

 こぼれそうなよだれを舌をまわしてぬぐい取るこの男は、ここ渦視城塞を取り仕切る立場にあり、周囲の者達の間から漏れ聞こえた話によれば、名はア・ザンというらしい。

 いやしい顔つきで手をこね、自分を見下ろすその姿に、気品や威厳といったものは、欠片すら見いだすことはできなかった。

 あの粗末な地下牢より、一層不潔で薄暗い牢獄に移され、天井から垂れる鎖で両腕をつり上げられながら、シュオウは完全に無防備な状態で、ア・ザンのまとわりつくような視線にさらされていた。

 「それに、よりにもよってリシアの民とは──」
 ア・ザンのふくらんだ指で髪をかきむしられ、シュオウは抵抗して頭を振ってみせた。

 「ふッ威勢の良いこと、だがそれもいつまでもつか。これも何かの思し召しであろう。楽に死ねると思うな、苦しみのたうちまわる姿を楽しませてもらわねばならんのだからな。おまえは、この戦で得た私の大切な戦利品の一つだ」

 古酒を愛でるような仕草であごに手を当てられ、胃が爛れ落ちてしまいそうなほどの不快感にさいなまれた。

 ア・ザンが牢を出て鍵がかけられた。彼はそのまま去るでもなく、向かいの牢の鉄格子を思い切り蹴り飛ばした。

 「なにをのんきに眠りこけている! 貴様の代わりがきたのだ、私もそろそろ遠慮はせんぞ。明日から覚悟しておくがいい!」

 下卑た笑いを残し、ア・ザンはようやく牢獄を後にした。

 明かりもなく、そとの空気もろくに届かない劣悪な環境に置かれ、シュオウはただ疲れにまかせ、ようやく静けさが訪れた事に安堵していた。

 目をつむり、腕をつられたまま首を落とすと、正面からかすかに、人の発する寝息のようなものが耳に触れた。



 かすかに聞こえる小鳥の声で目を覚ます。

 天井の隅に開いた小さな換気口から漏れる朝日が、暗い牢の中に一条の光を差していた。精白な朝の光は、同様に向かいの牢の中にも、かすかな光を届けている。

 「よう……」

 両手を鎖につながれ、やせた体をしながらも、精悍な巨体には隆々たる筋肉が、雄々しく連なる山脈のように波打っている。
 褐色肌をしたその男は、あまりにも強い獅子のような眼力をもって、こちらをじっと見つめていた。
















[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第六話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:23
     Ⅵ 趣味の部屋










 その男は、人を殺せそうなほど鋭い眼力で、シュオウを睨みつけていた。

 伸びきった無精ひげと、頬がこけているせいでわかり辛いが、目鼻立ちはすっきりとしており、美醜を評するのであれば、整っている部類に入るだろう。アゴにある一点のホクロが、不格好に伸びた髭の中からやたらに存在感を放ち、男の風貌を特徴付けていた。赤茶けた短髪は、埃や泥にまみれて鈍くくすんで見える。

 がっしりとした体躯から伸びる四肢は長い。シュオウの知るなかで、もっとも巨体を誇るクモカリと並ぶか、それ以上かもしれない。大きな左手首には、薄黒い革手袋のようなものがはめられていた。

 かろうじて届くかすれた朝日を受け、絶え絶えな息を吐きながら、男は口を開いた。

 「なにもんだよ、なにをしてここに入れられた」

 シュオウは寝起きで渇いた喉に唾液を流し込み、かすれた声で答えた。

 「戦で、負けた」

 鉄格子を二重に挟んで対面する男は、眉を不思議そうに歪める。
 「その茶色の軍服、見覚えがある……てめえ、ムラクモの兵士か」

 シュオウが鷹揚に頷くと、男は口の片端をあげ、よく切れる包丁のような笑みを作った。

 「そんなうすらぼけた色の頭してムラクモに与してるなんざ、どうりで、あの豚坊主に気に入られるはずだ」

 聞くまでもなく、囚われの身である自分と同様の立場に置かれているこの男は、やや浅い色合いではあるが、南方に暮らす多くの人々と同様に、褐色の肌をしている。
 同族であろう人間が、なぜこのようなめにあっているのか、わずかばかり気になった。

 「どうして──」

 牢獄の入り口のほうから戸が開く音が聞こえ、言葉を止める。奥の暗がりから、禿頭をゆらしてのっそりと現れたのは、この拠点の代表者であるア・ザンだった。

 「おやおや、仲良くお喋りかね」
 そう言ったア・ザンを前にして、今まで話をしていた男の視線がより険を増した。

 ア・ザンは従者に手伝わせて上着を脱ぐと、たるんだ上半身をむき出しにしてパシパシと腹を叩いた。

 「よし、朝の一運動といこう。どうにもこれがないと朝飯がうまくないからな」
 ア・ザンは腰にさしていた短鞭を取り出すと、それを向かいにいる男の鉄格子にたたきつけた。

 先日の言動からして、自分がこの男の欲求を満たすための対象に選ばれたのだと、薄々察してはいたが、鞭を片手にうれしそうに向かいの牢に入って行くア・ザンの背中を見て、改めてそれを確信した。

 この薄暗く不潔な部屋は、つまりは拷問部屋なのだろう。よくよく見てみると、各所に無造作に放置された怪しい器具が散乱しており、その中にはこびりついた血の跡が残ったままの物がいくつもあった。

 「さて──」
 ア・ザンは一言前置きして、
 「──そろそろ限界なのではないか? 三脚の捕獲術を教える気にはならんか。私もな、殺すまではしたくないのだ。だから毎日食べ物も与えているし、こうして座る事だって許しているだろう」

 鞭を指でなでながら、ア・ザンは高圧的な口調で言う。しかし、言われた側は、強くにらみ、ただ一言だけ返した。
 「うるせえ」

 背中ごしでも、ア・ザンの頬の肉がぴくりと痙攣したのがわかった。
 「もう少し弱らせねばわからんか……しかし、命を気にして拷問にかけるというのも面倒なものだな」

 ア・ザンは握った短鞭を振り上げ、両手を縛りあげられた男の背中を思い切り打ち付けた。強く肉をはじいたその音は、皮膚が裂けていてもおかしくないほどの力が込められていた。

 強烈な鞭の一撃を受けた虜囚は、たまらずうめき声をあげる。しかしそれでも歯を食いしばり、目には強い光を帯びたまま、気持ちのうえではまるで屈服した様子はない。

 ア・ザン立て続けに鞭で痛打を繰り返す。しかし、動じた様子なくにらみ続ける男を前にして、つまらなそうに溜息をこぼした。

 「まったく、いつまでたっても退屈な男だ。おい、あれを寄越せ」

 何事か指示を出すと、今まで猛獣のような瞳で彼を睨みつけていた男の顔が、突然に一変した。
 命令を受けた従者は腰から短剣を引き抜いて手渡す。
 その鋭さを確かめるように、ア・ザンは刃先に指を当てた。だがなぜか、ついさきほどまで愉悦に満ちた顔をしていたにも関わらず、短剣を手にたたずむア・ザンの顔は暗い。

 彼の手にしたその短剣の刃先が、虜囚に向いたその瞬間だった。男は急に取り乱し、両腕を拘束する鎖を引きちぎらんばかりに引っ張って、盛大に上半身を仰け反らせ、叫んだ。

 「いやだあああああああああああ!」

 青ざめた顔でわめいた男は、駄々をこねる子供のように騒ぎ続けている。別人のような豹変ぶりに、シュオウはそれを唖然として見つめていた。

 ア・ザンはうんざりした様子で、わめく男に言う。
 「どうだ、こいつで刺されたくなければ──」
 しかし言い終えるより先に、男はそれをかき消すほどの大声で叫ぶ。
 「うあああああ! やめろおおおおッ! いやだ、いやだ、いやだあああ」

 巨体から絞られる声は痛いほど耳に響く。両の手が自由なら即座に塞いでいただろう。

 男は甲高い声でひぃひぃと泣きわめき、ジャラジャラと鎖を鳴らしては身をよじらせている。その姿に呆れてか、ア・ザンはうんざりした様子で短剣を取り下げ、首を横に何度も振りながら牢を出た。

 「ようやく弱点を見つけたと思ったが、こういちいち発狂されては話もできん──」
 従者に短剣を返して、ア・ザンは愚痴をこぼした。
 「──もう少し体力を削ってからためしてやろう。今日から配給を半分にしておけ」

 従者にそう指示をしつつ、汗を拭うア・ザンの粘りけのある視線が、シュオウに移る。

 「お前はもう少し常識的な反応を返してくれるものと期待しているぞ。気が向けば、夕食の前にしっかりと相手をしてやろう。せいぜい覚悟しておくのだな」



 牢部屋からア・ザンが出て行き、二人きりの時間が戻った。

 泣きわめきながら暴れていた向かい合う男は、鼻水をすすって取り繕うようにしれっと床に尻を落とす。シュオウはそんな姿に向け、じっとりとしめった視線を送りつけた。

 「……なんだよ」
 「……べつに」

 ぶっきらぼうにそう返し、シュオウは溜息を一つ吐いた。

 「なんだよッ!」
 「だから、なにも言ってない」
 「バカにしてんのか、そうだろ!?」
 「してない」

 シュオウは視線を男の充血した眼から視線をそらした。
 だが彼の言うように、たしかにシュオウは失望感を抱いていた。道ばたで熊や虎に遭遇し、覚悟を決めたと思いきや、それがはりぼてだった……そんなむなしさと、勘違いした事への気恥ずかしさのような心地がして、男の顔を見ているといたたまれない気持ちになる。

 「ちきしょう、ああ、どうせおれは尖ったもんが嫌いだよ、苦手だよ! でもそれがなんだ、誰にだって嫌なものくらいあるだろうがよ!」

 男のその言葉に、シュオウは眉を上げた。
 ──たしかに。
 視線を戻し、羞恥と怒りに顔を歪める男を見て、言う。

 「そうだな……わるかった」
 シュオウの言葉に気が抜けたのか、男はこわばった顔の緊張をゆっくりとほどいていく。
 「べつに、謝れとまでは言ってねえよ……」

 そうして、男は初めて見たときと同じように、強い瞳で無表情に顔を落とした。
 狂犬のような男かと思えば、存外繊細なところがあるようだ。
 話をしてみるのもいいかもしれない、とシュオウは思った。そのための時間はたっぷりとある。





          *





 「これだけかぁ……」
 小さな椀を半分も満たせぬほど少量の芋汁を手に、サブリは牢の中で消え入りそうな声で不満を言う。

 「食うもんがあるだけありがてえと思っとけ!」

 サブリにそう怒鳴ったのは、周囲の者らからジン爺と呼ばれている、褐色肌の老兵だ。彼がそう言うと、サブリと同様にぶつぶつとあがっていた不満の声がぴたりと止んだ。こういう時、老人の言葉には妙に説得力がある。

 腐れ縁の相棒であるハリオは、牢部屋の片隅に座り、暗い表情で汁をずるずるとすすっている。

 寝いびきのような音がサブリの腹から鳴った。
 食ってしまうのはもったいないが、空腹にあえぐ体は、この粗末な芋汁を欲している。

 すぐになくなってしまわないようにと、少しずつすすって喉に流すが、味はないに等しい。塩気は皆無で芋も崩れてしまい、元々の量も少ないのか、ただのぬるい白湯のようなものだ。それでも、ほんの少しだけとろみがあり、それが唯一の慰めだった。

 「あいつ、生きてっかな……」
 誰かが言ったその言葉で、少ない汁を食べおえた者らの間に自然と、ある一人物をあげた話題が交わされる。

 「それって、お前んとこの隊長のことか? ひょろひょろしたただのあんちゃんかと思ったけどよ、あれりゃ凄かったな。黙ってたって獲物がぽんぽん地べたに転がってくるからよ、思わずついて行っちまった」

 「訓練だっつってよ、毎日つきあわされたから腕が良いのは知ってたが、まさか輝士を平気でぶっ殺せるほどとは、思わなかったぜ」
 「おい、南じゃ輝士とはいわねえんじゃなかったか」
 「うるせえな、どうでもいいんだよ」

 彼らの交わすやりとりに、また別の者らが追従する。

 「俺にあれだけの剣才があったらなあ、大商人の用心棒にでも売り込むか、名をあげて道場でもおっ立てるね。弟子がわんさか、美人の嫁と子供は三人。死ぬときは孫子に看取られて安らかに死ぬんだ……」

 「手前勝手な妄想で死ぬとこまで勘定に入れてるんじゃ、せわねえぜ」

 誰かがいれた合いの手に、敗残兵たちはケラケラと笑い声をあげた。しかし、一時訪れた朗らかな時間を一瞬で冷ます声が、牢部屋に低く響く。

 「おめでてえな……」
 サブリには、その声の主が一瞬でわかった。
 「ハリオ……」
 座った目で皆を睨みつけるハリオは、誰がどう見ても喧嘩を売っているようにしか見えない。

 「おい、どういう意味だよ」
 同部屋にいる男達の中でも一、二を争う人相の悪い男が、ハリオにくってかかる。

 「お前らの頭がおめでたいって言ったんだよ、俺たちがこんな羽目になったのは誰のせいだかわかってんだろ? あいつだよ、シュオウだよ! そんなやつをヘラヘラ褒めそやしやがって……聞いてて耳の穴から反吐がでそうになったぜ」

 ハリオが言うと、皆が怒りに鼻の穴を膨らませた事に、サブリは気がついた。
 「ハリオ、やめとけって!」
 しかし友の言葉も、ハリオには届かない。

 「ああ、あいつが腕が立つのは知ってるよ、その通りだよ! 剣なんかなくったって、腕っぷしだけで何人も相手にしてたのを俺だって見てるんだ。いるんだよ、ああいうやつが……俺がガキの頃に通ってた道場にも、後から入ってきたくせにあっという間に俺を追い抜いて、しまいにゃ大人達に混ざって勝っちまうような天才ががいたんだ。そんで、俺たち凡人は、それを見て、すげえすげえってぶつぶつ言ってるのが関の山だ」

 ハリオの視線は徐々に落ちていく。言葉は消え入りそうになり、最後には自分自身に語りかけているかのように、サブリには見えた。

 「はあ? けっきょく、自分がみじめだから俺たちにも同じようにうつむいてろって言いてえのかよ」
 「い、いや、だから俺達はあいつのせいでこんな目にあったって──」

 「しつけえ野郎だな、こうなっちまったもんはしょうがねえだろうが。元々俺たちは生きるか死ぬかの世界で飯食ってたんだ。こうなる事くらい誰だって数えられねえくらい想像してら」

 「おまえらと一緒にすんな! 俺とサブリはな、こんなとこ来るはずじゃなかったんだ。そうだよ、アデュレリアの氷姫の命令でもなけりゃ、だれがあんな野郎の監視役なんてやるもんかよ! 王女を助けて気に入られて、毎日のように貴族のお嬢達から贈り物が届いて……謹慎処分だったはずなのに簡単に昇進しやがって……あいつばっかり良い目にあってるんだ、なのに俺たちはそいつのために死ぬかもしれない! こんなのってねえだろ、なんであいつばっかり──」

 必死の形相で言うハリオを前に、厳つい顔で状況を見守っていた男達の間に失笑が漏れた。

 「アデュレリアぁ? 王女だぁ? ふくならもっとましな嘘を選びやがれ」

 ハリオと対していた強面の男を、静観していたジン爺がいさめる。

 「おい、サンジ、そのくらいにしとけ。騒ぎにして看守に目つけられたらめんどくせえぞ」

 「言われなくったってそうすらぁ。頭のかわいそうな野郎だって知ってりゃ、最初からむきになんてならなかったんだ」

 誰も、もうハリオを相手にしていなかった。
 ハリオが感情にまかせて言った事の多くが真実だと、サブリは知っている。しかし改めて一つずつ、あのシュオウという人間がしてきた事を思うに、それを目の当たりにしていない者が証拠もなしに信じる事などできはしないのだろう。

 誰一人として同調を得られなかったハリオは、しぼんだ木の根のようにしょんぼりと肩を落としていた。
 サブリは、そんな友の姿に、かける言葉を思いつくことができず、からっぽになった粗末な椀の底を、ただじっと見つめていた。





          *





 この日、夕食どきを前にしてア・ザンは上機嫌に鼻歌を奏でていた。

 戦の後処理のために残してきた部隊も無事に撤収を終え、渦視城塞は万全の状態を維持して一切の淀みなく、平常にその役割をはたしている。

 ムラクモに戦で勝利を得たという快挙を成し遂げた事で、各地から続々と祝辞を述べる文がひっきりなしに届き、なかでも国王直筆の書簡には、ア・ザンの武勲を称えると共に、国王自らが渦視への慰問を計画しているとの内容が記されていた。

 「むふッ」

 国王から直々に報奨を受け取る自らの姿を妄想し、ア・ザンはこらえきれず笑みをこぼす。
 晴れやかな心地で、普段は重い贅肉を貯めた体もやたらに軽く感じられ、いつも忌々しいと思っていた辛気くさい薄茶色の石壁も、今はきらきらと輝いて見えた。

 足取りも軽やかに向かったのは、自身の趣味を満たすために造った特別な一画。そこは捕らえた特別な囚人を隔離し、拷問を行うために用意した牢獄だった。

 ア・ザンは体を動かす事を嫌うが、こと拷問に関しては別である。特に食事を前にして一汗流すことで食事がうまくなる。空腹にあえぎ、痛みにもだえ苦しむ囚人の姿を見た後はなおさら格別だった。

 結果として、ア・ザンに拷問にかけられた者のほとんどは命を落とす。ただそれは、殺意を持ってなにかを行った結果ではなく、たいていの者は体力の限界を迎えて、枯れるように死を迎えるのだ。

 故意ではないにしろ、死ぬかもしれないと思っての結果、自分のしている事は殺人と呼ぶになんら支障のない行いであるという自覚はある。

 だが、それがなんだというのだ。

 サンゴ国の王族を妻に娶り、娘は王位継承権を持つ正統な王家の末裔。自身は南方各地に根深く関わるクオウ教の上層に席をいただき、黒戒布を肩にさげ、僧将という階級をもって隣国からの侵攻を防ぐ重要拠点の長を務めている。

 ア・ザンの行いに、異を唱える者などいようはずがなかった。

 北方から西側諸国を支配域とする、リシア教会の神官とは違い、クオウの僧侶は戒律で殺生を禁じられてはいない。むしろ、国と神の名を守るため、日頃から武力による切磋琢磨が推奨されているほどだ。

 拷問にかける対象者が、国家に害をなすもの、また敵国の人間や異教徒であればいうことはない。それはクオウの戒律にもかなっている。
 見せかけだけの正義心を満たす事ができ、一方的に誰かをなぶる事で、自分が特別である事を再認識できる。
 薄暗く陰気で不潔なそこは、ア・ザンにとって自己の存在価値を確認するための小さな神殿だった。



 従者を一人ともなって入った牢の中は、陽も落ちて鬱蒼とした森のように薄暗い。ア・ザンは指示を与え、壁かけのランプに火を入れさせた。

 欲求を満たすための手持ちの人間は二人。とくに目玉ともいえるガ族の若者はいたぶり甲斐のある相手ではあるが、その口がいつまでたっても欲している情報を言わないため、正直なところ手を焼いている。

 深界には、そこではぐくまれた独特な生態系の中には、いわゆる狂鬼という名で区分される生物の他にも多様な生物が息づいている。三脚とよばれる二足歩行の生物もまたその一種で、駿馬を凌駕する速力と、胸の中に折りたたんでいる強靱な副腕をいかした跳躍力は、驚嘆に値する。

 だが三脚はめったな事で人に懐くことはなく、生息域が深界ということもあり、遭遇すら簡単にはいかない。
 ごくまれに人里に迷い込んだ三脚を、運良く慣らす事に成功した事例は確認されているが、それがまぐれではなにも意味はないし、きちんとした生育法がわからないせいで、人に懐いたそれらの個体も、結局は短命に終わるのだ。

 ガ族は、そんな三脚を捕獲し、飼育と繁殖法までを把握していたとされる希有な一族である。だが、三脚を用いた優れた騎兵戦力を有していたガ族は、周辺国の思惑に飲み込まれ、結果として一族もろともにその血統は絶たれたと周知されていた。が、生き残りがいたのだ。

 ランプのぼんやりとした明かりが二人の男を照らした。
 一人はくすんだ銀髪をしたムラクモの軍人。そしてもう一人は、重要な情報を握ったまま口を閉ざすガ族の生き残り。

 食事を絶った事がきいているのか、ガ族の男はくたびれた様子でうなだれ、起きているのかどうかもはっきりとしなかった。

 だが今、この男の事はどうでもいい。ア・ザンの目当ては新しく仕入れた変わり種のムラクモ軍人である。

 報告によれば、この男は彩石も持たない身でありながら、単身で複数人の星君兵を斬り殺し、多くの歩兵の喉を切り裂いたのだという。

 にわかに信じられない情報ではあったが、その目撃情報があまりに多く、実際にこの男がいたとされる部隊が、不自然なほど深くサンゴの陣中まで食い込んでいたという事実が、各人からあげられた報告と一致していたことから、情報の信憑性に疑いの余地はなくなっていた。

 「さて、と」
 ア・ザンは従者を牢の入り口で待たせ、一人きりでムラクモ軍人の牢に入った。

 中にいる銀髪の男は、淡々とした態度で顔をあげ、こちらをじっと見つめている。たいして疲れたふうでもなく、怯えた様子も見せないところは可愛げがない。だが、件の活躍が事実であるならば、このくらい肝が据わっているのも当然だろう。むしろ、こうした屈強な人間がしだいに屈服していく様こそが、この行為の目的の大部分を占めているのだから、願ったり叶ったりの相手だといえる。

 品定めするように銀髪の男を見つめ、ア・ザンはまず顔を隠す大きな眼帯を引きはがした。
 「うぁ……なんともまた、醜いものだな」

 せいぜい傷を隠している程度のものだと思っていたが、その下にあったのは焼けただれた痕が生々しく残った皮膚だった。右のまぶたがある部分は熔けるように爛れていて、見るからに痛々しく、片目を塞いでいる。

 素顔を露わにされたムラクモの軍人は、その瞬間に涼しくしていた顔を歪め、隠すように顔を伏せた。ア・ザンはそれを嘲笑う。

 「なんだ、恥じているのか? 当然だろうな、こんな大きなもので隠しているのだから」

 はぎとった眼帯をすみに放り投げ、ア・ザンは指をぱきぽきと慣らした。

 「言っておくが、お前から聞き出したい情報などなにもない。ただ、これから行われる事を受け入れ、私好みの反応を見せてくれる事以外、なにも期待などしていないのだからな」

 言って、腰から鞭を取り出す。たいていの人間は、これを見れば押し黙り、痛みを想像して怯えに脂汗をひりだす。だが、この男はア・ザンの予想を超える行動に出た。

 「俺も言っておく。だらだらといたぶるつもりでここに繋いでいるのなら覚悟しておけ」
 なにを思ってか、囚われのムラクモ兵は、ア・ザンを威圧するような言葉を発した。
 「な、に──」

 思わぬ反撃に戸惑うア・ザンを前に、銀髪の男は伏せがちだった顔を上げて饒舌に語りだす。

 「痛みを受けたものはそれを忘れないと、育ての親は教えてくれた。苦痛を受ければ、生物はその原因を排除しようと努める。だから、命をなぶるには相応の覚悟が必要になる。俺も、戦場にでるまでその意味をきちんと理解していなかった。でも今ならわかる。対した相手を殺すよりも、生かすほうがよほど勇気が必要なんだ」

 「小賢しい……わけのわからんことを言って、私を惑わせているつもりかッ」

 感情的に振り上げた鞭を振り下ろすより先に、自分を見つめる穏やかな男の左目が、それを止めた。

 「やりたければ、それを振り下ろせばいい。だけど俺は忘れない。命があるかぎり、お前への復讐をかならずやりとげてやる。それが嫌なら今すぐ、俺を殺せ」

 その言葉が、ただ見せかけだけの強がりではないと、ア・ザンは直感した。
 怯えなく言ってのける、この強い眼には見覚えがある。これは、そう、英雄として名高いシャノアの将、バ・リョウキが自分に向ける視線によく似ている。それに、もう一人……

 ──シャラ。

 突然に浮かんだ娘の顔に、ア・ザンは混乱した。
 すっかり気持ちも冷めてしまい、急ぎ足で牢を飛び出て、従者の呼びかけにも応じず、なにもしないまま、なにより憩いの場であったはずの神聖なる祭儀場から、逃げるように走り去った。





          *





 残された従者がせっせと牢の鍵をしめ、外に出て行ったのを待って、シュオウはどっと溜息を吐いた。すると盛大な笑い声が聞こえてくる。

 「あの豚を口だけで追い払いやがった。ここに閉じ込められて初めて腹の底から笑ったぜ」

 実際のところ、シュオウが発した言葉の大半ははったりもいいところだった。抜け出す手立てもなく繋がれた状態で、復讐などできるはずもない。ただ一方的にやられるのを嫌い、できる限りの虚勢をはったつもりだったが、それは思いのほか効果があったらしい。

 爽快に笑う男は、残されたままのランプの灯りを受け、長い犬歯をむき出しに破顔した。

 「俺はシガだ、ガ・シガという。教えろよ、お前の名前を知りたくなった」

 こわばっていた体の緊張をほぐし、肩の力を抜いたシュオウは、ここに至り初めてシガと名乗った男に、自分の名を告げた。













[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第七話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:24
     Ⅶ 総帥の味










 叔父、バ・リョウキの名で届けられた文には、早々に戻るとの内容が綴られていた。それを見て文字通り青ざめるリビを前に、修練を終えたばかりのア・シャラは、汗を拭いつつ訝った。

 「どうした、剣聖殿が戻られる事がそれほどに恐ろしいか」

 リビは慌てて取り繕う。

 「だ、だれも恐れてなど……おそらく、宮中からの呼び出しの原因が小事にすんだということですから、むしろ喜んでおります」

 「ごまかすな。恐い、と顔に書いてある」
 シャラは中指をはじいてリビのデコを叩いた。
 「たッ──おふざけは勘弁していただきたい」
 赤くなった額をなでながら、リビは抗議した。
 「まあ、いい」
 追求を止め、シャラは城塞一階の廊下を歩き出す。
 リビは、手にした文をもみくちゃにしまい込み、暗い表情で後に続いた。

 「ついて来るきか?」
 「あ、いえ……ア・シャラ殿は、これからどちらに」
 「汗をかいた。部屋で湯浴みをする」
 「でしたら、部屋の前まで送らせていただきたい」
 控えめに同行を申し出るリビが、話をしたがっているのだと、シャラは察した。
 「わかった」

 広い廊下を歩く道中、すれ違う者達はシャラを見る度に深々と頭を下げた。
 リビは隣に並ぶでもなく、少し後ろをついてくる。その様子がいかにも自分を立てているように見えた。
 このところ見せるリビの卑屈な態度に、シャラは若干辟易していた。

 「お父上のご様子はいかがでしょうか」
 「ぴんぴんしている。腹の肉をはずませながら音痴な鼻歌をうたっていたし、機嫌も良いようだ」
 「それは、ムラクモに勝利を得たのですから、さぞ気分がよいことでしょう」

 シャラは冷めた目で笑う。

 「あれが意味のある勝利であったならば、そうであろうな」

 「そんな……叔父上の言葉は気にされますな。大樹のように根を張るあの大国を相手に、見事な勝利を得たのです。それを成し遂げたお父上は傑物です。きっと南山の歴史に名を残すことでしょう」

 リビの言ったその言葉に、背中の産毛がぞわぞわとさかだった。

 「私の機嫌をとろうとして父将を褒めたのなら、無駄な努力もいいところだッ」

 わずかに漏れた怒気を察知してか、リビは狼狽した。
 「そ、そのようなつもりはッ」

 「我が父ア・ザンの評判が、けしてよいものではないと知っている。子供の頃からいやというほど聞かされた。成り上がり、小心者、ごますり、あげくは母に取り入り、地位を固めたと、宮中では未だに笑い話にされているという。バ・リョウキ殿の言った事はすべて真実だ。父将は目先の武勲を求めてあの戦に臨み、使える手をすべて使い必死に戦力を整えたのだろう。遠謀なく目先の利を追い求めた小人の行いではあるが、私はそれを責める気にはなれん。自分に自信のない人間は、時に筋の通らない行いをするものだッ」

 早足で歩きながら一気にまくしたてると、リビは哀れに見えるほど怯えた顔を見せた。

 「お、怒らせるつもりは──」

 言い訳を述べる間も与えず、シャラは振り返ってリビの前に手のひらを突き出した。

 「ここまでだ」
 「ですが、まだお許しを──」

 シャラは尚も食い下がろうとするリビの胸を強く押した。

 「着替えを見せるほど、気を許した覚えはない!」

 ぴしゃりと言うと、リビはようやくそこがシャラの部屋であると気づき、あ、と声を漏らした。
 だからといって外に出るでもなく、親とはぐれた子のように不安げな顔を見せるリビに苛立ちを覚え、シャラは思いつくままに、下腹部に強烈な蹴りをくれてやった。

 「グヮッ!?」
 腹を押さえ、廊下でもんどりうつリビを見下ろす。

 「多少は骨のある男だと見直していたがな。次にまた顔を見たとき、見え透いた世辞を思いついたら腹の奥にしまっておくのが身のためだ」

 颯爽と言い放ったシャラは力強く戸を閉めた。





          *





 「──がございますが、どちらがよろしいでしょうか」

 若い書記が何事か告げる言葉も、ア・ザンの耳にはろくに届いていなかった。

 「ああ」
 生返事をするが、書記は困惑した様子に視線を迷わせた。

 「いえ、ですからあの……祝宴会で振る舞われる主菜は、肉と魚どちらがよろしいかとお聞ききしたのですが」

 「ん? ああ……みな肉は喰い飽きただろう、主菜は魚料理がいいだろう」

 「はッ、それはよろしゅうございます。ですが、相応の量を仕入れるとなると、いましばし時間が必要です。宴の予定もそれに合わせ、少しずらすことになりますが」

 ア・ザンはぼんやりとした視線で、かしこまった書記の顔を眺める。
 「かまわん。用事がすんだのならしばらく一人にしてくれ」

 書記を手で払うと、直後に元気よく戸を叩く音がした。
 「入るぞ」 

 許可を与えるまでもなく我が物顔で入室してきた娘、シャラは軽やかな足取りで執務室の長いすに腰を下ろした。

 着席したシャラは、すらりとした細い足を交差して組む。つなぎの赤い修練着からのぞく、なまめかしい脚に見とれる若い書記に気づき、ア・ザンは大げさに咳払いをした。
 彼があわてて退室したのを見届け、あらためて娘に目をやる。

 まだ若いが、すでに豊満な魅力を備える体つきは異性の興味を引くに十分な魅力を発揮している。優れて美しい面立ちは、誰も信じはしないだろうが、面影は強く自分の特徴を受け継いでいた。

 「ここ数日、総帥閣下の様子がおかしいと噂になっているぞ。知った以上娘としては放っておけないのでな、機嫌を伺いに参じた」

 くりりと光る自信に満ちた双眸に見つめられ、ア・ザンは娘から視線をはずした。

 「噂話に惑わされるな。私はなにもかわらん」

 「しかし、祝勝に浮ついて鼻歌を奏でていたかと思えば、ほんのわずかな間に部屋に引きこもり出てこようとしないのは、噂を真実と断定するのに十分な要素であると思うがな」

 この勇ましい物言いもなれたものだ。聞く者によっては、シャラの言葉はひどく傲慢に聞こえるだろうが、それは間違っている。彼女は誰に対しても平等にこうした話し方をするのだ。それは祖父である王であれ、生みの母や父であれ、同じ事だった。

 ア・シャラという人物は、生まれながらに王侯の品格を備えていた。
 生まれ落ちたその日から、ろくに泣くこともせず、しれっとしていた肝の据わった赤子だった。幼くして武術に興味を抱き、人形を一度も手にすることなく、見よう見まねで技を磨くことに執心した。

 重みのある語り口と堂々たる態度、麗しい容姿を前にすると、多くの者達が彼女の前で膝を折りたくなってしまうのだが、その中には情けない事に父である自分も含まれていた。

 「腹をこわしただけだ」
 「ほう、それは心配だ」

 言葉だけで、シャラは実際に心配をしているような顔は見せない。この娘は見抜いているのだ、父の嘘を。

 「そ、それより、シャノアの若武者とはどうなのだ。戦以来、共に居るところを多く見かけると聞いたぞ」

 ごまかしに言うと、シャラはめずらしくうんざりしたような表情を見せる。

 「さて、頼んでもいないのになにかとついて来るのでな」
 なにげなく言った事だったが、ア・ザンはそれを聞いて眉をあげた。

 「リビ殿はおまえを嫌っているように思ったが」
 「ふむ、実際そうであったように私も思う」

 なにやら心変わりでもあったのか、シャノアの英雄の甥御は、どうにも娘に興味を抱いたようだ。

 「なるほど……」
 牛が草を食むように頷くと、シャラはキッと眼に力を入れる。

 「あの戯れ言を繰り返す気ではなかろうな。バ・リビは悪い人間ではないが凡夫だ。この身を捧げるにはふさわしい相手ではない」

 「ああ、わかった。お前がそういうのだから、これ以上は言うまい」
 「賢明だ──ところで、シャノアの剣聖殿が戻るらしいと聞きましたが」

 突然の情報にア・ザンは眉をあげた。

 「いつの話だ?」
 「二、三日前にリビ殿から聞いた話だ。父将のところにも話は通っているのではないか」

 ア・ザンは執務机に目を落とした。そこにはここのところ放置しっぱなしの、山になった文や書が散乱している。この中にバ・リョウキの再来訪を知らせる書簡が埋もれていてもおかしくはない。

 「さて、顔も見たことだし、私は行く。戦の功労者を一度もねぎらわんのはどうかと思う。剣聖殿が戻りしだい、早々に顔を合わせてはいかがか」

 さりげなくお節介を残していった娘を見送って、ア・ザンは腰をずらして椅子にどっと背中をあずけた。

 娘の前に居るだけで、ひどく疲れる。バ・リョウキの甥を指して言った凡夫という言葉も、他人事に聞こえなかった。口先と卑怯な手段で並ぶ者達を追い落とし、今の地位を築いた自分こそ、まさに凡夫と呼ぶにふさわしい。

 若くして優れた武術を修めた娘。腕っ節だけで地位を得て、大国の王から宝剣を下賜されたバ・リョウキ。彼らは皆、自分を見る度にひどく目の色を暗くする。その視線に、哀れみや侮蔑を感じるたび、強烈な自己嫌悪にかられた。

 他の者達もそうだ。皆、自分がどうやってこの席を手に入れたか知っている。表向きには屈服しているように振る舞う者達も、内心では女を利用し、もみ手で王にとりいって高位を得た自分を笑っているのだ。

 こんなとき、自信を取り戻させてくれる、唯一無二の神聖なる空間は、しかしただの獲物として放り込んだはずの、名もなきムラクモ軍人によって意味を失った。

 命を危険にさらされ、受ける苦痛を想像して怯えるはずの男は、バ・リョウキやシャラのように、自分を見下すように見つめ、脅しまでかけたきたのだ。

 「ええいッ、いつまでこうしているきだ!」

 一人言って叫び、ア・ザンは椅子を蹴って重い体で立ち上がった。

 ──取り戻してやるぞ。

 欲しいものは何をしてでも手に入れる。それがア・ザンという人間であり、この強欲こそが、今あるものすべてを与えてくれたのだ。

 これまで大切にはぐくんできた憩いの場を、ただ一つの異物のせいで失うのはあまりに口惜しいとア・ザンは思った。

 気合いを入れるため、たるんだ腹を強く叩いた。
 自分が自分であり続けるためにも、苦手は克服しなければならない。





          *





 「おかえりなさいませ、バ・リョウキ様!」

 開いた門の先で出迎えた番兵に、バ・リョウキは馬上から頷きを返した。
 他国の人間から、おかえりと呼びかけられる事は不思議に感じるが、歓迎されているのだと思えば悪い気はしない。

 本国シャノアから連れてきた補佐役の武官に黒兜を預けると、早々にリビの姿を探した。

 目立つ場所にその姿はうかがえず、バ・リョウキは借り部屋に足を向け、そこにだらしなく寝台に体を横たえた甥の姿を見つけた。

 「真っ昼間からなにをしとるかッ!」

 一喝され、リビは即座に体を起こして起立した。

 「も、申し訳ありません! 今日のお戻りとは……」

 謝罪し、腰を折るリビの顔は暗い。バ・リョウキは甥の異変を察し、説教を飲み込んで椅子に腰を下ろした。
 肩を叩きつつ、リビに問う。

 「なにがあった」
 「あの、べつに……」

 「お前の事は寝小便をたれていた頃から見てきたのだ、ごまかせると思っているのか。正直に話せ」

 立ち尽くすリビは、観念したように唇を濡らし、話し始めた。

 「じつは──」

 事の顛末を聞いて、バ・リョウキは快活な笑い声をあげた。

 「公主に嫌われたからとて、一人で半べそをかいていたというのか」

 「き、嫌われたかどうかは、まだ……。ただ派手に怒らせてしまっただけです」

 「まったく……気にかけて無駄をした。我が一族の男は代々色事には疎いのだ。女一人の事で気に病むな」
 「はい……」

 戦いでの心構えを説くことはできても、恋に悩む若者の相談にのってやる事は難しい。誰にでも得手不得手があるのだ。

 「まあそれはいい。それより、預けていった事はどう──」
 言いかけた言葉を、リビは慌てて別の話題でかき消した。

 「サンロの件がどうなったのか気になります。戻りしだい聞かせていただけると、文に書いてありました」

 「ん? たいしたことはなかった。流罪にあった太子の一人が、聴衆を集めて現王の即位は不当だと触れ回っていただけにすぎん。王后殿下がそれを知り、謀反の兆しだと大げさに騒ぎ立てたのだ。人をやり、事はすでに治まった」

 「そう、ですか」

 知りたがっていたわりに、リビは早口でそう言うに終わった。

 「リビ、ごまかしたな」

 瞳を揺らし、生唾を飲み込んだ甥を見て、確信する。
 バ・リョウキは佇むリビの肩を掴み、猛獣の唸りにも似た声で問い詰めた。

 「偽りがただの嘘ですむうちに、隠している事をすべてはき出せ」 





          *





 「おい……」
 気だるそうに自分を呼ぶ声に、シュオウは顔をあげた。
 「……どうした」
 「なんだよ……生きてやがったのか。まる一日びくともしねえからくたばったと思ったぜ」
 「起きていても、体力を減らすだけだ」

 ガ族のシガと名乗ったこの男とは、ちらほらと会話をする程度には打ち解けた関係を築いていた。

 南方で一大勢力を有していたというガ族のたどった顛末や、落ち延びて細々と隠遁生活を送っていた経緯などを聞き、唯一の育ての親であった祖父が死んで後、シガはわずかばかりの蓄えを抱えて都へ赴き、派手に金遊びをして一文無しになった。その後は本来隠すべき素性を明かし、それを利用しようとする者達の間で右往左往している間に、最後はかくまわれるはずだったここサンゴの城にて、酒に酔わされたあげく幽閉されたというオチがつき、話は終わった。

 その場ののりで適当に生きてきた男の身の上話は、なんら面白みもないものだったが、ことこの状況にあっては、それなりに退屈を紛らわせる事のできる娯楽にはなった。

 シガの腹から鳴った低い音が牢の中で響いた。

 「もう、何日喰ってない……」
 シガは雑巾を絞ったような声でそう言った。

 「四日か、五日か……」
 シュオウがア・ザンにとった態度が原因か、あの日から今まで一度も食料の供給はなく、一日二回の水の配給だけが命綱となっていた。

 飢えるという事に慣れているシュオウは、こうした状況では考える事なく、じっとしている事が一番だとよく知っている。だが、シガは空腹に耐えるという事に耐性がないらしく、日を追うごとに衰弱が酷くなっていた。あまり眠れていないのか、目の下は落ちくぼんで真っ黒なクマができている。

 「こんなはめになるなら、てめえがあの豚を追い払ったのを喜ぶんじゃなかったぜ」
 愚痴るシガに、シュオウは涼しげに返す。
 「黙ってやられていればよかったのか」
 「ああ、そのほうがずっとましだったかもな」
 シュオウはむっとして押し黙った。

 「おい、ちょっと待てよ、来たぞ……やつだッ」

 弾む声でシガが言うと、直後に牢部屋の入り口の扉がきしむ音がきこえた。

 なぜか上半身裸で登場したア・ザンを見て、うれしそうにシガは笑む。そんな矛盾した姿を見て、シュオウは場違いに吹き出しそうになってしまうのをこらえた。

 「おい、どういうことだよ! もう十日もなにも喰ってねえんだぞ!」

 誇張して言うシガを歯牙にもかけず、ア・ザンはシュオウを睨みつけた。

 「どうだ、飢えたか? 腹が減っては、もう前のようにへらず口はたたけなかろう。誰が生殺与奪の権を握っているか、身にしみたはずだ」

 思わず言い返したてやりたくなる衝動を、寸前で堪える。シガが言っていたように、場合によっては怒りをかって、さらに状況を悪化させる事にもなりかねない。

 この男は他者をいたぶる事を喜びとしている。つまり、それに付き合っているかぎり、直接的に命を奪おうとはしてこないはずだ。

 シュオウは打算をはたらかせた末、うめき声をあげて弱っているふりをしてみせた。
 ア・ザンはそれを受け、うれしそうに鼻息をこぼす。

 「そうだ、皆私を恐れるべきなのだ。この渦視を統べる者はだれだ? 黒僧将にまでのぼりつめ、王族を娶ったのはだれだ! 私なのだ、このア・ザンこそが英雄なのだ! あの老いた将でもなく、腕っ節を誇るだけの我が娘でもないッ。ましてや剣腕が立つだけの生意気な囚人でもないのだぞ!」

 我が身を誇るア・ザンの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
 ア・ザンは興奮した様子で肩から湯気をあげ、腰に差した短鞭を手に、シュオウのいる牢の中に押し入った。

 「鞭で打つだけでは生ぬるい、貴様は一度反抗してみせたのだからな。多くの者らが泣き叫び命乞いをした方法で苦しませてやろう」

 言って鞭を投げ捨てたア・ザンは、釣り上げられたシュオウの右手を掴み、人差し指を強く握った。

 「骨の痛みを味わった事はあるか? 打たれる痛みとも、切られる痛みとも違う。体の芯から生じる痛みは、人間に耐えがたい苦痛をもたらすのだ。幾人も拷問にかけてきたが、屈強な精神の持ち主でも、骨を折られれば最後には泣きながら許しを願い屈服した。お前はどうだ、せいぜい正気を保つがいい。誰かのように、小娘みたいに泣きわめかれたら興ざめだからな」

 誰か、という部分に当てはまると自覚があったのか、シガが抗議の声をわめき散らした。

 ア・ザンは自分を罵る声を無視し、その意識のすべてをシュオウに集中させている。はあはあと小刻みに呼吸を荒くし、悦に入ったような顔で、握ったシュオウの人差し指を横に折り曲げた。

 「どうした、指を折られた痛みで声もでんか? 遠慮はいらん、叫ぶがいい、泣きわめけ、敗者の声を聞かせろ」

 だが、シュオウはア・ザンの期待に応えることなく、ただ静かに顔をあげた。

 「この程度の事で、泣き叫ぶわけがないだろ」
 低い声でそう告げると、加虐趣味の総帥は、呆然として後ずさった。
 「……え」

 「今のは末節骨がはずれただけだ。指の脱臼は見た目ほどの痛みはない」

 ア・ザンは目を白黒させ、
 「な、なにを言ってる」

 背後からシガの笑い声がした。
 「だから、折れてねえって言ってんだろうが、ばかが」

 シガに嘲笑され、ア・ザンは顔を赤くした。

 「この程度の事も知らずに、あれだけの脅し文句を吐いていたのか──」
 ア・ザンは狼狽している。あれだけ強い態度を見せていたかとおもえば、今は痩せた野良犬のように怯えて頼りない姿をさらしている。その様に、苛立ちすら感じた。

 シュオウは自身の立場と状況を忘れ、越えてはならない一線に踏み込む。

 「お前のしている事はすべて中途半端だ。一方的に人を傷つけて、自分が強くなった気になりたいだけの、ただの臆病者じゃないか……敗者はお前のほうだ」

 この言葉は、ア・ザンに残された最後の自尊心を打ち砕くには十分すぎるほどの威力があった。

 ア・ザンは怒りに打ち震え、激しく息を切らし、
 「お、おのれぉれええ!」
 半狂乱にわめきつつ、腰に差していた短刃の剣を抜き放った。頭上に掲げた剣で切りつけようと、一歩踏み込んできた瞬間を、シュオウの眼は見逃さななかった。

 足を拘束している鎖のわずかなゆるみ。その限られた行動範囲の内で、右足のかかとを持ち上げ、踏み込んできたアザンの左足、そのくるぶしの下を踏み砕いた。

 突然の痛みに轟声をあげ、体の支えを失ったア・ザンはシュオウに向かって前のめりに倒れ込む。
 シュオウは前倒しに向かってくるその巨体の首に、全力で食らいついた。

 ア・ザンの悲鳴が牢の中にこだます。

 錯乱して藻掻く体を絶対に離すまいと、シュオウも必死の形相で首に歯を差し込んだ。両手を拘束された状況下で、自分にできる唯一の反撃手段をもって、命を奪う覚悟で臨むも、しかしたっぷりと贅肉のついたア・ザンの首の肉は予想以上に厚く、人であるシュオウに、それを咬み千切るほどのあごの力はない。

 すぐに異変に気づいた番兵と従者が来て、主の首に食らいついた囚人の顔面を殴りつける。

 勢いに負け、ア・ザンの首から咬みこんだ歯がはずれた。

 口の中いっぱいに広がった塩辛い汗と、鉄の臭いがする生暖かい血を吐き捨て、口元を赤く染めながら、突然の出来事に戸惑う番兵達を見つめる。彼らの背後にある牢からは、あっけにとられた様子でぽかんと口を開けているシガの姿があった。

 「こ、殺せえええ! いますぐその男の息の根を止めるのだッ!!」

 歯形の残る首筋からしたたる鮮血を押さえながら、ア・ザンは吠えた。
 まだ状況を飲み込めていない様子の兵達は、それでも忠実に主の命令を実行しようと試みる。一人が剣を抜き、切っ先をシュオウに向けた。だがその瞬間、
 「待てッ!」
 雷鳴のように空気をつんざく怒声が、混沌とするこの場の空気に水を差した。

 「ば、バ・リョウキ様……」
 番兵の一人がそうつぶやくと、声の主である黒い皮鎧をまとった、見覚えのある老兵が現れた。
 老兵は状況を見回し、険しい顔で溜息を落とす。

 「くだらん事を……」

 静かにそう言ったかと思えば、地響きがしそうな勢いで、尻餅をついて呆気にとられるア・ザンを素通りし、シュオウに向けて剣を構える番兵の腹に拳を突き入れた。

 一撃で気を失った番兵は手から剣をこぼし、倒れ込んだ。

 「な、なにをなさるか!」
 怒るア・ザンに、老兵は冷静に応じる。

 「そのお言葉を返そう。虜囚をなぶる趣味をとやかく言う立場にはないが、この者には縁がある。できれば命を預かりたい」

 突然の事に、シュオウは目を見開いた。
 ア・ザンは口元を引きつらせ、老兵の申し出を拒絶した。

 「いや……いやいやいやいやいや! ならん、なりませぬぞ! いかな老将の申し出とはいえ、我が軍の星君を多数殺め、私をも殺そうともくろんだ者を放免にするなどと!」

 「……私は、戦の折にこの者とつけそこねた決着を望んでおります。これほどの武人をなぶって殺すにはあまりに惜しい。まっとうな手段での勝敗をつける事を、せめて先の戦の報奨として検討いただきたい」

 老兵の申し出に、ア・ザンは鼻の穴を膨らませ、何事か思考を巡らせた。

 「近日中に、祝勝の宴を催す手はずを整えている。その場での余興として、老将殿がその者の命を絶つと約束してくださるのであれば……」

 老兵は力強く頷いた。

 「異存はござらん。ではそれまで、この者の身は預からせてもらおう」

 老兵は視線をシュオウに当てた。皺を刻んだ双眸が、一瞬驚きに見開いたのに気づき、シュオウは爛れた皮膚を隠すように顔を逸らした。

 老兵は黙って周囲に目をやり、ア・ザンが投げ捨てた眼帯を拾って、おもむろにシュオウの顔にそれを戻した。

 呆然として立ち尽くす番兵に向け、老兵は問う。

 「この者の剣はどこか」
 しかし問われた男は、黙って首を横に振るだけだった。

 「リビッ!」
 老兵が怒鳴るように言うと、いつのまにか片隅に佇んでいた若い男が、引きつった顔で背を伸ばした。

 「は、はい!」

 「命に背いた償いの機会をやる。この者が扱っていた剣を探し出せ。対で刃は長からず短からず。犬か狼に似た獣の紋が刻まれていたはずだ」

 「か、かならず見つけてまいりますッ!」

 拘束を解かれ、新たに簡易の拘束具をつけられ、促されるまま老兵と共に牢を後にする。途中、自分も対戦をと強く望むシガの声を、老兵はただ静かに受け流していた。

 長時間の拘束と空腹でふらつく体で、老兵の後に続く最中、長い廊下でぽつんとたたずむ、場違いに美しい容姿をした少女が、小さく口を開けてじっと視線を寄越していた。











[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第八話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:25
     Ⅷ アマイの嘘










 ムラクモ王家を守護する親衛隊の長、シシジシ・アマイはこの日、王城の一室にかまえた私室にて、副官の輝士アダタカ・キサカと顔をつきあわせ、冬眠から覚めたばかりの獣のように、覇気のない顔で喉奥から唸り声を漏らしていた。

 「南での惨敗も、そろそろ下民共の間で噂になりつつある。例の話も、いつまでも殿下に隠しておくこともできんぞ。どうするつもりだ、アマイ」

 口をへの字に曲げて言ったキサカという男は、アマイが自らの意思で補佐役として任命した副官だ。両家は共に東地土着の家であり、どちらも西側からの渡来貴族に押し出され、代を継ぐごとにその力を失いつつある、斜陽の一族だった。

 キサカ家とアマイ家には代々親交があり、遠く血のつながりもある絆の強い間柄で、二人は共に幼なじみとして友情を温めてきた。
 学者肌なアマイとは逆を行くキサカは、武人然とした分厚い胸板と、直角にそりたつ黒い短髪に岩肌のようなゴツい面立ちをしている。

 弱体化しつつある王家の力を取り戻し、その功績を持って名をあげる。そうしたアマイの思いは、似たような立場にいるキサカもまた同じく。兄弟と言っても過言ではない間柄のキサカは、綱を渡るような状況にいるアマイにとって、信頼の置ける掛け替えのない存在となっていた。

 「なにがなんでも隠し通すほかはないでしょう。想い人が戦で行方がしれなくなったなどと、今の殿下のお耳に入れれば、どうなるかは目に見えていますからね」

 ムラクモの王女、サーサリアが想いを寄せる平民の青年が、南山同盟の一国、サンゴとの戦の最中に消息を絶った事を独自の伝で知ってから、アマイの親衛隊長としての労力のほとんどは、この情報を隠す事に費やされていた。
 王族として、その役をこなすことに、一定のやる気を見せ始めていたサーサリアを、適当な理由をつけて部屋に押さえ込み、他との接触を断たせて、オウドの国境守備軍が敗北したという事実が耳に入らないように努めているのだ。

 王女がこれを知ればまちがいなく取り乱すだろう。なにより、件の青年の生死をまともに把握すらできていない事が、さらによくない。

 死していればサーサリアは錯乱して取り乱すだろうし、仮に敵に捕らわれたのだとすれば、酷く不安定なムラクモの王女は、持てる権限をすべて使い、想い人を取り戻そうと奮闘するに違いない。しかし未だ王座をたしかなものにしていない王女の暴走は、国家の不安を招き、サーサリア自身の立場をも危うくしかねない無謀な行いだ。

 「そろそろ殿下も愚痴をこぼし始めているらしい。当然だ、たいした理由もなしに部屋に閉じ込めているのだからな。ここらが限界だぞ。強行に命令されれば、俺たちにそれを拒否する権限はない」

 キサカの口調には、アマイの決定を責めるような色が混じっていた。だが彼は知らないのだ。今は健全に見えるこの国の王女が、なにを支えにして、それにどれだけ依存しているのかを。
 アマイは深々と呼吸をして、両の指をからめ、その上にあごをのせた。

 「……なにか理由をみつけ、いっそ殿下を連れて、しばらく中央から距離を置いたほうがいいのかもしれませんね」

 「なら、行き先は東にしろ。西側から渡り鳥のように情報が流布し始めている。小銭目当てに、ムラクモの敗戦を知った触れ人共が、王都に足を入れるのも時間の問題だからな」

 幼なじみの忠告に頷いて、アマイは席を立った。



 キサカを連れ、サーサリアの居室に足を向けつつ、次にとるべき手段を思う。
 今回の問題は、いつまでも逃げ続ける事のできる案件ではない。隠し事も、いつかは王女の耳に届くだろう。だがそれは、彼女にとっても国にとっても、最も負担の少ない形でなければならない。

 打てる手はすでに打ってある。行方しれずとなった青年がどうなったのかを、調べさせてはいるが、件のシュオウという人物は非凡な才を持っていながらも、軍という組織の中にあっては、下級の一兵士でしかない。これが一国の将であれば、手がかりを得るのにこれほどの苦労は必要としなかっただろう。

 サーサリアを王都の外に連れ出す口実を思いつかぬまま、アマイは王女の居室の前までたどり着いてしまっていた。

 見張りに立たせている若い輝士に合図を送り、戸を叩いたのちに入室すると、豪奢な寝台に体を寝かせて退屈に微睡むサーサリアがいた。そのうろんな瞳はアマイを捉えるなり、途端に鋭く険を含む。

 「ひさしぶり」

 サーサリアの皮肉を受け流し、アマイは追従するキサカと共に深々と礼の姿勢をとった。

 「ごきげんが優れませんか」
 「……ええ。王家の親衛隊長が、いつから主君を軟禁する権限を得たのか、と考えていたところよ」
 「ご冗談を、これは理由あってのことです」
 「そうでしょうね。お前は私に外に出ろと言った。人に会い、世を知り、政を行えるだけの経験と知を積めと言った。それが突然このありさま。理由がなければ、私はとうにお前の喉を塞いでいる」

 背後にいて頭をおとしたままのキサカから、生唾を飲み込む音が聞こえた。

 「実は、御身の暗殺を目論む賊が、内に紛れているという話を耳に入れました」

 それはアマイが咄嗟についた嘘だった。サーサリアはそう聞くと、顔の緊張を若干解きほぐす。

 「そう……それで?」
 「はい、さきほど確たる証拠を掴み、女官の末席に連なる者を一人、このキサカに命じて厳しく処断致しました」

 突然アマイに名を呼ばれ、キサカは間の抜けた声をあげる。
 「は?」

 アマイは重々しく咳払いをした。

 「お前、今の話は本当か」
 サーサリアは顔を上げたキサカに答えを求め、キサカはそれに素早く首肯してみせた。
 「は、はいッ」

 サーサリアは唇をあげ、しばらくアマイをじっと見つめていた。

 「なら、もうすんだのね」
 アマイは即答する。
 「はい」
 「そう、では今日からまた公務に戻る」

 即座に寝台から立ち上がろうとするサーサリアを、アマイは言葉で引き留めた。

 「その事ですが、気候も良い頃合いを迎えました。そろそろ遠方への視察に向かわれるのはいかがかと」

 「遠方? ひょっとして、南へ?」

 都合の良い勘違いをしたサーサリアは、突如童女のように目を輝かせる。だがアマイは、この幼子のように純真な顔に、暗幕を下ろさなければならない。

 「いえ、後学のためにも、王都より東の地に点在する産業の盛んな領地を見て回られるのがよいかと」

 サーサリアはさっと表情を暗くし、下唇をかみながら指をもぞもぞとからめた。
 「そう……彼は……あの人からは、なにも言葉はきていない?」

 誰のことかと、しらばっくれてしまいたかった。
 「シュオウ君も初めての任地にまだ慣れていないでしょうから」

 サーサリアはただ、寂しげに微笑を浮かべた。
 主君の儚げな顔を前にして、アマイはいたたまれない気持ちに苛まれていた。現実から逃げ、偽りの今を維持することしかできない自分が、屈辱的なほど歯がゆかった。

 「彼の任務に区切りがつけば、折を見て王都の適当な部署での仕事につけるよう手配致しましょう。ですから、もうしばらくの忍耐を」

 落ち込む主君を前にして沸いた同情心にほだされ、気づけばそんなことを口走っていた。
 しかし、春の陽光を受けて咲いた蜜花のように笑むサーサリアを見るに、こぼれ落ちそうになっていた一滴の後悔は、どこかへと霧散していた。



 サーサリアの居室を出た後、長い階段を踏みしめる間、キサカが小さくつぶやいた。
 「しらねえぞ」

 アマイは嘆息し、首をかいた。
 「言わないでくれ」

 「お前の心配がやっとわかったよ。あれは重症だ。俺の姉貴が結婚するんだとか言って、ひょろひょろした文人気取りの男を家に連れてきた時と同じ顔をしてたよ」

 「……恋心にほだされれば、誰だってあなたの姉上と同じになりますよ」

 「考えたくないな。この国のただ一人の王族が、平民の糞がきにご執心なんて現実は」

 今後の事と、残してきた大きな嘘の後始末を考えつつ、独り言のようにこぼしたキサカの愚痴に、アマイは心中でそっと同意した。

 「さて、俺たちはどうすればいい、隊長殿」

 「殿下に言った通りに。気を紛らわせるに足りる領地をいくつか選び、公式に手続きを踏んで、労働者達の慰問という形で手を打ちましょう。深界を渡る事になります。十分な護衛環境を整えるため、左硬軍に助力を願いましょう」

 「わかった。左軍との繋ぎ役はまかせておけ。話はかわるが、サンゴとの件はどうなる」

 「さて、それを決めるのはおそらくグエン殿の一存となるのでしょうが。現地の司令官は再三の援軍要請を寄越しているそうですが、上は決定を保留しています」

 「まさか、この期に及んで黙って敗北を受け入れる気か?」

 「おそらくは。実際に国土にまで侵攻を受けたわけでもなく、拠点は無傷ですから。グエン公はそれを理由にして、これまでの痛み分けとして決着をつけると、私は見ています」

 キサカは舌打ちをして、
 「ちッ、腰抜け元帥め」

 「近衛の人間に聞かれればコトですよ」
 諫めつつも、アマイは友のこの愚痴にも、こっそりと賛同していた。





          *





 自分を窮地から救い出した人物に、おそらくは客間であろう小綺麗な部屋に通されたシュオウは、中を詳細に見渡した。
 広さはほどよく、その気になれば剣の稽古ができそうなくらい天井は高い。広々とした窓枠からは気持ちの良い日差しが届き、開け放たれたそこから、心地よいそよ風が流れ込んでいた。寝台や置かれている物に生活感があるところから見て、ここは老兵の使用している部屋であると推察する。

 自分をここへ連れてきた老兵が、張り詰めた顔のまま椅子をすすめた。
 楽な姿勢で体を預ける感覚に、シュオウはほっと一息つく。
 老兵は姿勢良く前に立ち、立派な白髭をなでる。
 シュオウは堪えきれず聞いた。

 「助けられた、と喜ぶべきか、迷っています」

 老兵は苦い顔をする。

 「ふん、たしかに、おかしな事になった」
 言って、シュオウの対面に椅子を置き、腰掛けた。

 「私はシャノアの将、バ・リョウキ。訳あって同盟国であるサンゴの陣に身を置いている。武人の礼として、名を交わしたい」

 品行方正に名乗られ、つられて背筋を伸ばす。

 「シュオウ、といいます」
 一度頷いて、バ・リョウキは一段声を落とした。
 「シュオウ、か。貴様は雇われ者か」

 この場合、彼が言っているのは傭兵かという事だろう。シュオウは即座に首を振った。

 「いいえ」
 バ・リョウキは意外そうに声をあげる。
 「では、ムラクモの民なのか」

 「……はい」
 正確な答えとはいえないが、今この場で身の上話をするのは、はばかられる。

 「神を持たぬ東の人間は、純血へのこだわりが薄いと聞いたが、なるほど、合点がいった」

 バ・リョウキはおもむろに立ち上がり、背に負った恰幅の良い剣を一瞬で抜きはなった。一見して不格好にも見えるその剣は吸い込まれそうなほどに黒光りした独特な気風を放つ逸品である。
 バ・リョウキが握るその剣は、美しく流れるように軌道を描き、シュオウの首筋に当てられた。

 「言っておく。私は慈悲深い人間ではない。貴様の保護を求めたのも、正々堂々たる勝敗を決したいという一念よりのこと。故に問う、私と戦う心はあるか」

 老人とは思えない強い眼がじっと睨みをきかせている。首筋にキンと冷たい感触を残す重そうな剣の刃は微動だにしない。

 「その言い方なら、俺に断る権利があるという風にも聞こえます」
 「その通りだ。が、受けぬなら今この場で切り伏せる」

 わかりきっていた事だ。この老兵が自分を救い出した時の状況を思い出すに、彼が無理を押し通したのは明白であり、そこまでして他人であるシュオウの身柄を求めたのは、バ・リョウキという人物なりの我欲があってこその行いだったのだろう。

 命を繋ぐため、シュオウは決まり切った答えを用意した。
 「勝負を受けます」

 「……よかろう」
 バ・リョウキは剣を背に納め、満足げに頷く。

 「勝負の時まで、まだしばしの猶予があろう。それまでにまともな食事をとり、この部屋で寝泊まりをして体を整えるがいい」

 なんら予兆なく、扉を叩く音がした。
 「リビか」

 バ・リョウキの問いに返ってきたのは、若い女の声だった。
 「私だ、剣聖殿」

 聞くや、バ・リョウキは急ぎ扉を開けに向かう。
 「ア・シャラ殿、なにを──」

 「野暮な事は聞くな。こんな面白そうな事をしておいて、黙っていられるものか」

 その声の主は、バ・リョウキの制止も聞かず部屋に押し入り、着座したまま首をひねって様子をうかがっていたシュオウを見ると、跳ねるようにぴょんと目の前に立った。

 「ア・シャラである!」

 腕を組み、満面の笑みでそう宣言したのは、浅黒い肌をした快活な雰囲気を帯びた人物で、ここへ連れてこられる途中の廊下でかすかに見かけた、あの時の少女だった。

 戸惑うシュオウをよそに、バ・リョウキが代わりに名を告げた。

 「その男、名をシュオウといいます。こう見えてムラクモの民だとか」
 「ほう、剣聖殿のおめがねにかなうほどの人間だ、やはり面白い。それに、この者は父将に噛みついたそうな。それを聞き、一目見たくて我慢ができなんだ」

 「ち、ち……?」
 不意のその言葉に、シュオウは思わず聞き返した。

 シャラは笑む。
 「渦視の総帥にして僧将たるア・ザンは我が父だ」

 シュオウは思わず口をぽかんと開けた。この自信に満ちあふれたシャラは、比べればどこか暗く卑屈な雰囲気を帯びていたア・ザンとは似ても似つかない。だが、言われてみれば、目元や口の形など、両者に共通する面影を探る事もできそうだった。

 父親に反抗し、その命を狙ったばかりだというのに、その娘を公言するシャラは、しかし一切の負の色もなく、シュオウを見つめている。

 「それにしても酷い顔をしているな。あちこちすすけているし、口のまわりは血だらけだ。バ・リョウキ殿もやはり男だな、こうしたことには気が回らない」

 シャラは部屋におかれた水瓶に手巾を入れ、濡らしたそれをシュオウの口元に当てようと手を伸ばした。

 「おいッ」
 シュオウは顔に体を反らす。

 「拭いてやろうとしているだけだ」
 初対面をすませて間もないが、彼女に悪意がない事はなんとなくわかった。

 シュオウは抵抗をやめ身を任せる。それでも、慣れない相手に顔を触らせるのには抵抗感はあった。

 「よし、こんなところか」
 口周りのべとついた感触が消え、すっきりとした感覚に人心地がつく。

 血に汚れた手巾を洗うシャラの背に礼を言うべきか迷っている間に、シュオウの腹の虫が低くうめいた。

 「腹が減っているようだぞ。顔もこけている」
 背を向けたまま、シャラはバ・リョウキに言う。

 「すでに支度するよう指示は出しております。心配は無用に」
 「そうか」

 態度には出さなかったが、それはシュオウにとって朗報だった。なにしろ五日はなにも食べていない。あの脂ぎったア・ザンの首に食らいついた瞬間に、唾液があふれ出てしまったくらいには腹が減っていた。

 「ア・シャラ殿、それくらにしていただきたい。流石に、この場に御身がある事を許したと知られれば、お父上がお怒りになろう」

 「なぜだ? そこの男が父将に噛みついたからか」

 「いかにも。この者、一見して偉丈夫には見えぬが、間違いなく内に猛獣の気概を秘めております」

 「然もあろう。生まれの壁を越え、超越者にも等しい相手を噛み殺してでも生きようとした者だ」

 「おわかりであれば、尚のこと距離を置かれるべきでしょうな」
 「私がどういう人間か、そなたはよく存じていると思ったがな」

 シャラが手巾を絞りつつ言うと、バ・リョウキはそれきり押し黙った。

 しんとなった室内の沈黙を破る声が、扉の外からした。
 「バ・リョウキ様、頼まれたものをお持ちしたのですが」

 「早いな……食い物の用意がもうできたようだ」

 そのやりとり聞いて、シュオウはこっそり生唾を飲み下した。

 開かれた戸の向こうから、簡素な食料を手にして現れた男を見たとき、シュオウはその立ち居振る舞いに強烈な違和感と不安を感じ取った。
 ぬらりとした動き、部屋に入った瞬間にぎょろぎょろとなにかを探す粘ついた眼の動き。その視線が椅子に腰掛けるシュオウを捉えた瞬間、無表情だった顔が憤怒に染まった。

 「うあああああああ!」

 男は手にしていた料理を投げ捨て、衣服の内に隠していた短剣を抜くと、猛烈な勢いで突進を始めた。

 あまりに急な出来事にバ・リョウキは足を止めている。シュオウは自身の判断で、向けられた短剣の刃が届く寸前に、床を蹴って椅子ごと後ろに体を倒し、事なきを得た。
 受け身もとれず背に衝撃を受け、シュオウは激しく咳を吐いた。

 直後に物が散乱する音がして、男の悲痛な叫び声がする。
 横目に見れば、シャラに首を踏みつけられた男が、血走った眼で口から泡を吹きながら、こちらを睨みつけていた。

 「は、はなせえ! そいつは俺の兄貴を殺したんだ!」

 即座にシャラが強い調子で怒鳴る。
 「目的はわかったが、あまりに愚かな行為だったな。場所をわきまえるがいい」

 「うるさいッ! はなせぇ、はなせッ!! 俺は見たんだ、そいつが兄貴の首を切りつけて殺したのを、目の前で! なぜ生かしておくのですか?! あれだけの同胞を殺しておいて、神が許されるはずがないッ、そうでしょう?! そうだと言ってください!」

 「話にならんな」

 シャラが呆れた調子で言うと、器用な動作で男のアゴを蹴り飛ばした。男は口から血をこぼしながら白目を向いて意識を失う。
 バ・リョウキに起こされ、シュオウは部屋の隅に身を置いた。

 「私が迂闊だった。先の戦を思えば、こういう事が起こりうるのも考えるべきであった」

 短剣を強く握ったまま気を失った男を前にして、シュオウは自分のした事の結果を目の当たりにする。
 多くの人間を屠る事。それは狂鬼や獣を狩る行為とは根本から違うのだ。殺された者達には、その数だけ彼らを想う者がいる。手にした剣でどれほどの恨みを買ったのか、今はまともに考える気にはならなかった。

 神妙に何事か考えるバ・リョウキに、シャラは涼しい声で言う。
 「提案だが、この男を私の部屋で預かろう」

 バ・リョウキと、そしてシュオウもまた、シャラの提案に目を丸くする。
 「冗談にもならぬ」

 「城主の娘の部屋で、今回のような狼藉を働く度胸のある者はさすがにいないだろう。それに私に運ばれてくる料理はくどいほど毒味がされている。この男と勝負を望んでいる剣聖殿としても、その日まで、対戦者の無事を願わずにはいられないはずだ」

 「…………なるほど」
 バ・リョウキの顔にはまんざらでもないと書いてある。

 ──本気で言ってるのか。

 誰が聞いても非常識とわかる少女の申し出に、バ・リョウキがあっさりと丸め込まれそうになっている事に呆れつつ、シュオウは他人事のように、ただ自身の置かれたこの状況を俯瞰していた。















[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第九話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/29 16:54
     Ⅸ 暗中の光










 「手に、入れてまいりました……」

 見覚えのある一対の剣を差し出したリビの声は重かった。
 受け取ったそれの状態をたしかめるべく、バ・リョウキは鞘に収まった剣を引き抜いた。

 「──完璧に手入れが行き届いている。どこにあった?」

 「戦場にうち捨てられていた刀剣類は、まとめて倉庫に保管してありました。状態の良いものであれば再利用し、程度の悪い物はひいきの旅商に見せて安値で引き取らせるのだとか。ですが、これに関しては逸品物がゆえに高位の武官が戦利品として引き取っていて、行方を追うのにそれほど苦労はありませんでしたが、頼み込んで譲ってもらう代わりにたんまりと金をせびられましたよ……」

 リビはがっくりと肩を落とす。その様子からして、相当にふんだくられたのだろう。

 財布を軽くしたリビは、裏路地でカモを探す商人のように手をもみながら、
 「あのお、その剣を取り戻すのに使った分を旅費でまかなうわけには……」

 バ・リョウキは、勇気あるその願いに強烈な睨みを返した。
 「──いきません、よね」
 リビはそっと溜息をこぼす。

 剣に目を戻す。自身が手にする岩縄には及ばずとも、これもまた名のある名匠の作であると一目でわかる。刃の長さは独特で、一般的な長剣には足らず、短刃の軽剣よりも長い。おそらく、これを扱う者の質に合わせて造られているのだろう。刃と鞘の間にある飾りは、間近で改めて見て、牙をむいた狼である事がわかった。ただの飾り模様かと思ったが、これは紋章ではないだろうか、と不意の疑念がわく。

 「牙をむいた狼の紋に心得はあるか?」

 叔父からの問いに、リビはアゴに手を当てた。

 「狼を象徴としているのは、ムラクモのアデュレリアが有名ですが」
 「そうか……あの氷狼の一族」

 東地において、王国を支える狼と蛇の二家は、世界にその名を知られる名門中の名門である。それを聞かされて思い出したことに、バ・リョウキは焦燥にも似た脱力感にみまわれていた。

 ──老いたものだ。

 「アデュレリアの紋をのせた剣を所有していたということは、あの男は、かの一族に縁のある者なのでしょうか」

 「かもしれぬ。あれほどの才が、これまで誰の目にも止まらなかったとは考えられん。下賜されたのだとすれば、納得もいく」

 バ・リョウキは二本の剣を、竹筒にしまい、寝台下の奥に隠すように置いた。

 「それを、あの男にお渡しになられるおつもりでしょうか」
 「その通りだ」
 「なぜ我々が────いえ、叔父上がそこまでなさらなければならないのですか」
 「本気を奮えぬ相手を倒したとて、それは真なる勝利とはいえぬ」
 「ですが、そのために叔父上はア・ザン総帥の顔に泥を塗りました。もしこの件が上にあがれば、宮中でのお立場に傷がつくかもしれません」

 バ・リョウキは甥の心配を一笑に付した。

 「現王家はバ族の後ろ盾を必要としている。この程度の事は見逃すだろう。それに、虜囚を嬲る趣味はア・ザン殿にとっては恥部であろう。ことさらに騒ぎ立てるとは思えん」

 「そうかもしれませんが──」
 リビは不意に視線を泳がせた。
 「──ところで、あの男はどこに? 部屋にかくまうようなことをおっしゃっていたと……」

 「公主が私室に連れていかれた」
 「は? えッ!?」

 バ・リョウキは目を白黒させる甥に、事の簡単な経緯を説明するが、リビはまるで納得した様子なく挙動不審に部屋の中をうろついた。

 「なぜお止めしなかったのですかッ」
 「ア・シャラ殿の提案は理にかなっていた。あらゆる面倒をはぶき、我が目的の成就にも叶う」
 「だからといって、若い娘と得体の知れない男が同室にいる事を許したというのですか?!」
 「拘束だけは、きつくはずさないように言ってある」
 「そういう問題ではッ」

 バ・リョウキは食い下がるリビに辟易して諭すように言う。

 「ア・シャラ殿はできぬことに手を出すようなお方ではない。公主が当日まであの男の身を保護すると約束したのだ。私はそれを信じた。それだけの話だ」

 リビは咄嗟に部屋の戸に手をかける。

 「考え直すようにいってまいります、止めないでくださいッ」
 「好きにしろ。だがよく考えてみろ。あの娘が、一度やると言ったことを簡単に反故にするような人間かどうか、を」

 間を置いて、リビは結局、部屋にとどまった。
 疲れた表情を隠すようにうつむいて、夜明けの梟のように声を漏らす。

 「……叔父上、もう帰りませんか。国家間で交わした約定は先の戦で果たしたはずです。歓迎されてはいても、我々は所詮、余所者です。私は、もうここでの生活に疲れました」

 「そうしたければ一人で帰るがいい、許可は与える。だが私にとって、あの戦はまだ終わってはいないのだ。掴みかけた勝利を確かなものにするまでは、この渦視の地こそが我が身を置くところ」

 あしらわれても、リビは帰り支度をしようとはしなかった。
 弱音を吐いた甥の本音が、ア・シャラに起因するものではないか、と薄々にながら予感する。年長者として適切な言葉をかけてやりたいという親心を持ちながらも、剣の道にのみ生きてきたバ・リョウキには、色恋に関して吐く言葉など微塵も持ち合わせてはいなかった。





          *





 ア・シャラという人間について、シュオウはまだろくに知る事はなかったが、部屋に連れてこられる間に通りすがりの屈強な兵士達が、彼女を見る度に怯えたように肩をすくめていたことで、相当に武闘派な娘ではないのか、とおおよその人物像を想像した。

 自分を襲った男を片足で組み敷いていた様子からしても、並の人間ではない。それが左手の甲にある色のついた輝石から生じる力かどうかまではわからないが、少女の体躯で大の男を組み敷くだけの力が、生まれ持った肉体の力のみで行われたとは、到底思えなかった。

 通された彼女の部屋は、バ・リョウキが寝泊まりする小綺麗な部屋を遙かに凌駕する広さがあり、並ぶ豪華な調度品の数々は、この部屋がまさしく王侯のためのものであると、うるさいくらいに主張している。

 「悪趣味だろう?」

 自分を連れ、ここまで歩いてきたア・シャラの一言目がそれだった。
 返す言葉などない。
 シュオウはただじっと、部屋の隅々まで観察する事に努めた。

 「この部屋から外に出ようと試みるのは、すすめられないな。ここは要人のための部屋で外からの侵入が難しい造りになっている。内から外へも同じことだ」

 頭の中を覗かれたような気がして、シュオウは口をへの字に曲げる。
 「考えていない」

 見透かしてか、シャラはほくそ笑む。

 「お前はやることがいちいち見苦しいが、そこが面白い。不器用にもひたすらに生きようとするその姿は私好みでもある」

 まるで達観した世捨て人のように、少女は言う。その言葉が自分を見下して言っているように聞こえた。

 「見苦しい、か。父親を噛み殺そうとしたことを言っているのか」

 挑発するつもりで言ったそんな言葉も、しかしシャラは小指の先ほどにも平常心を崩さなかった。

 「そうだ、それがなければ、お前をここに連れてきてはいない」

 シャラは、ふかふかとした真紅の長いすに腰掛け、前髪をかけあげる。シュオウに向けた目は、曲がりなく曇りもなく、ただ強い。

 「勘違いするな。私は酔狂でその身を預かったのではない。剣聖殿に約束したとおり、命を守るために引き受けたのだ。お前は、あれほどの人物が異国の将の顔に土をつけてまで勝負を望む人間だ。それを思えばこそ、このア・シャラはシュオウという男の命を引き受けた。お前はただ、私の傍らで時を待てばいい」

 しばしの間、シュオウはア・シャラと視線を交わす。
 偽りなく、自身の身を守るために面倒を引き受け、ここへ連れてきたのだとすれば、むしろ感謝すべきではないか。そう考えれば、むしろこの娘とは良好な関係にあったほうが身のためかもしれない。小遣いを手に菓子を選ぶ子供でも、それくらいの計算はするはずだ。

 「座りたい。いいか?」

 シャラの対面にある同じ形の椅子をアゴで指すと、シャラは即答で了承した。
 上等な寝台のようにやわらかな感触に、ほっと息を吐くと、シャラのくりッとした大きな瞳は、シュオウの手元に釘付けになっていた。

 「いまさらに気づいたが、指先がおかしな方向に曲がっているな」

 言われて見て、シュオウは他人事のように生返事をする。
 「ああ……」

 「まあどうしてそうなったかの検討はつく。医者を呼ぼう──」
 はりきって席を立ったシャラを、シュオウは咄嗟に止めた。
 「いや、いい、自分でやる。すこしの間だけでも、これを解いてくれるのなら、な」

 試みに提案してみるが、横目で見上げたシャラの顔は、駄々をこねる子供を見る母親のようだった。

 「剣聖殿からくれぐれも、縛りは解かぬようにと言われている。遅れをとる気はないが、私は根拠ない自信に振り回されるほど馬鹿でもない。だから、獣につけた轡《くつわ》は、はずさない」

 「……なら手伝え」
 憮然としてシュオウは言った。

 「──どうすればいい?」
 「指先を強く握って、堅く固定してくれればいい」
 「簡単そうだ」
 「ただ絶対に動かすな。下手にやれば、骨が割れて隙間に挟まる。そうなったら、一生指先が曲がったままになる」

 なぜか、シャラはシュオウの忠告を聞いて吹き出したように笑った。
 「まかせておけ」

 助けを借り、シュオウは手際よく脱臼した指を整復する。
 この手の事への対処方も、アマネからの教えあればこそ。壊す事、なおす事は一対のものであると常々聞かされ、教え込まれてきた。

 「さて、あと他に必要なものがあれば言うがいい。聞くだけは聞いてやろう」
 シャラの提案に、シュオウは即座に言った。
 「なにか食べたい、できればすぐにでも」
 「そうだな、ちょうど時間もよいころだ──」
 シャラは扉に向けて首を振り、外へと促す。
 「──案内しよう、家族の食卓へ」



 「たしかに、食事を共にしたいと言うには言ったが……。ようやく自分から声をかけてきたと思えば、これはどういうことだ! なぜこの男が同じ卓についているッ!!」

 鬼神の巨像が見下ろす、ぼんやりとした香のかおりがたちこめる食堂を、ア・ザンの怒声が埋め尽くした。

 三者三様に大きな丸卓を囲む面々は、それぞれに思うところを秘め、ここにシャラの言う家族の食卓などという和やかな空気は一変たりともありはしない。

 ア・ザンの右隣には娘のア・シャラがすました顔で箸を延ばし、そのさらに右隣には薄汚れた格好のまま、シュオウが目の前の料理を口の中に押し込んでいた。その勢いは、真昼の砂漠に一杯の水を注ぐが如しである。

 「食べ物をせがまれたのでな」

 目も合わさず娘にそう言われ、ア・ザンは怒りと不条理をかかえて、この世の終わりでも見たかのような顔でうめいた。

 「だからといってなぜここで食わさねばならん?! そもそも、どうしてお前がその男を連れているのだ! わけが……わけがわからんッ」

 対面に座す形となったア・ザンは、血走った目でシュオウを睨み、首筋をくるんだ包帯を手で撫でながら喚きちらした。

 シュオウはあえて口をつぐんでいるが、この場においてはア・ザンのほうがよほどまともな反応を見せているといえるだろう。それだけシャラのやりようは突拍子もない。これではまるで、わざと怒らせて反応を楽しんでいるようにすら思える。

 「バ・リョウキ殿が部屋に引き取って後、この者の命を早々に狙おうとした輩が現れたのでな。勝負の時までの間、この者の命を預かると剣聖殿に約束したのだ。あの剣聖が認める手練れだぞ、有象無象の手に渡すには惜しい」

 「またわけのわからぬことを……この男はな、私を噛み殺そうとしたのだぞ!? それをお前はなにも思わぬというのか」

 「そもそも、生殺しにして監禁していたのは父将であろう。人思いに命を絶つならよし、しかし半端に生かせば反抗する者もいるだろうさ。これに懲りて、悪癖を見直すべき、と娘たるこの身としては父を案ずる」

 「うぐッぐッ──」
 ア・ザンは娘との対決を放棄し、矛先をシュオウに切り替えた。
 「──貴様、よくもぬけぬけと、私の前で飯が食えたものだな」

 シュオウは威圧するア・ザンを睨み返す。
 「腹が減っていたんだ。もとはといえばお前のせいだ」

 「うぐ」
 シャラはくすりと笑い、もうほとんど食べ尽くしたシュオウの皿を見つめて、
 「それにしても見事な食いっぷりだ。よければ私の分も食べるか」
 「欲しい」
 「よし、ほれ──」

 シャラは手頃な揚げ物を一つ箸でつまみ、シュオウに口を開けるように促した。
 言われた通りに口を開けて食べ物を待つシュオウを前にして、ア・ザンはがっくりと肩を落として椅子を引いた。

 「今、私はこの世でもっとも不幸な父親に違いない……」

 愚痴りながら席を立つア・ザンに、多少の同情を含んだ視線を送りながらも、シュオウの興味はすぐに残された手つかずの料理に移っていた。



 後頭部をがつんと襲った衝撃に、シュオウは跳ねるように目を覚ました。
 「起きろ、朝の調練にいく」

 蹴り出されたのか、頭をささえていたはずの木製の枕はなく、シャラがじっとこちらを見下ろしていた。

 幅の狭い窓からは一切の光を感じることはできない。おそらく、まだ陽も昇っていない時間帯だ。

 部屋の隅にある柱に繋がれていたシュオウを解放し、シャラはひもで繋いだ家畜を放牧させるような気軽さで、シュオウの手首を封じる鎖にひもを通して引っ張った。

 ずきずきと痛む体と、まだ覚醒しきっていない疲れた頭をかかえ、シュオウはおとなしく、このひどく闊達な娘に従い部屋を出る。

 いつの間にか扉の前に立っていた若い番兵が、腰をおとしてすっかり眠りこけてしまっている。それを見てシャラは鼻で小さく溜息をつき、
 「余計な心配ばかりする」
 とこぼして部屋を離れた。

 「朝飯だ」

 振り向きざまに放り投げられた大きな葉にくるんだ食料を受け取る。見慣れぬそれの臭いを嗅ぐと、ほんわりとした焼き魚に似た香りがした。
 起きたての空きっ腹で、口の中に唾液が溢れる。

 「サンゴの田舎料理で、白身魚の身を練って蒸し焼きにしたものだ」

 聞いて、葉をむき、中にある白くでっぷりとした身の塊をほうばった。塩気はないが香ばしく、しっとりとしていて食感も良い。

 「うまい……」
 そう思わずこぼしたシュオウに、シャラは満足げに微笑む。

 「幼い頃、武術の教えを受けていた師父が、よくそれを弁当として持参していた。細君手作りのそれをうまそうに食べている姿がうらやましくてねだったが、下々の食べるものだといってしぶりつつも、こっそりと味見をさせてくれた。そのときの味が忘れられなくてな、今でも時々食べたくなるんだ」

 話半分にがっつくシュオウに、シャラは咳払いをして皮肉っぽく言う。
 「礼なら無用だぞ」
 口に含んだものもそのままに、シュオウは慌てて、
 「……ありふぁほう」
 と、野暮ったく礼を述べた。

 シャラは困った弟でも見るように生温かい視線を寄越し、すたすたと長い廊下を歩きだす。彼女の手にあるひもがピンと張る前に、シュオウは二歩ほど距離を保って後に続いた。

 どうにも、調子が合わない。
 もそもそと口に残ったものを咀嚼しながら、そんなことを思う。

 シャラは一目でわかるほど若い。年齢的には幼いと言ったほうがより適切なのだろうが、その所作や双眸の放つ光は、悠久を生きた賢人のようでもある。対している印象からすれば、百を超える年月を生きているというアデュレリアの公爵よりも、ずっと老成されているような気もする。
 だが、彼女からもたらされる高みから見下ろされているような感覚は、不思議と不快には感じなかった。
 シュオウは未だ、彼女にどう接するべきか、計りかねていた。



 今し方まで暗闇の中にあった中庭も、シャラとシュオウがそこに立つ頃になると、彼方よりほんの少しだけ顔を出した朝陽によって、視界を得るに十分な光が届いていた。

 静まりかえった早朝の空気は、まだ冷たい。

 中庭の中央部分には、なぜか上半身が盛大に欠け落ちた像があった。シャラはそこに場所を決め、石像の足にひもを結ぶ。いよいよ、飼い慣らされた動物のような心地がした。

 「体を動かしておけ。許された範囲であれば許す」
 シャラは慣れた様子で柔軟体操を始めた。

 歩ける程度には縛りに余裕がある両足に力を込め、シュオウは屈伸から始めて体の各部に喝をいれる。数日の事ではあっても、無理な体勢ですごしていた日々が、すっかり体中を堅く強ばらせてしまっていた。

 突然に申し込まれた勝負に挑まなければならない今、正確な日にちもわからないままに、とにかく可能なかぎり普段の調子を取り戻しておかなければならない。

 「ほッ!」
 シャラは軽快に声をあげ、広い中庭をいっぱいにつかって、なんらかの武術とおぼしき型を披露していく。腰を深く落としてからの拳による突きから、頭のてっぺんに届こうかというほど高く上げた足のかかとで、轟音と共に空気を切り裂く。

 まるで舞を披露するような華麗な技の連続にシュオウは瞬きを忘れて見入っていた。
 「すごいな」

 声をかけると、シャラは動きを止め、呼吸を整えてシュオウを見る。その顔は満足げだ。

 「実は見せたかった。剣聖殿がみとめた人間の目で見た私はどうだ」
 「人を評価できるほどの自信はない。だけど、今のは良かった。とくに足技が」

 シャラは艶やかな銅色の足をぺしんと叩く。

 「これこそは生まれもっての父母と神からの贈り物だ。褒められるのは素直に嬉しい」

 ──やっぱり。
 得心する。シャラの持って生まれた彩石が持つ力が、足に非凡な力をもたらしているのだろう。だが、それが彼女のすべてだとは思えない。今見せた演武は、これまでに相当な努力を重ねてきた人間でなければできない芸当だった。

 「お前は剣の使い手だろう? 是非この目で見てみたいが、それは後の楽しみにおいておこう」

 シャラは再び調練に戻る。汗もかかずに自由自在に手足を繰り出す様は、見ていて爽快なほどだった。
 風切り音をあげ、様々な形で蹴りをだしながら、シャラの口角が徐々にあがっていく。

 「楽しそうだな」
 「楽しいさ! おのれの体一つ、その限界を問いながら手を伸ばし、足を伸ばす!」

 シャラは返事を寄越しながら、シュオウの喉元めがけて蹴りを出した。
 目の前には靴の裏。直後にゴウッと風が押し出された。
 足を下ろさぬまま、シャラが意外そうな声を出す。

 「怖くはないのか? 当たっていれば一撃で命を絶てた」

 そもそも、シュオウはシャラの一挙一動をすべて把握できている。はじめから自分に届かないとわかっているものが、恐ろしいはずもない。

 「悪くない。けど、足を撃つ時に軸足のつま先が浮いていた。根幹が揺らぐのは未熟な証拠。そこを意識すれば、いまの蹴りも逃げたくなるような一撃に変わるかもしれない」

 返事はない。ただ、シャラは黙って足を引き、先ほどと同じ所作で足蹴りを繰り出した。しかし今度は今の忠告を忠実になぞっている。
 稲妻が落ちたかという衝撃音に続き、嵐のような突風が起こる。シュオウはたまらず、両の手を前に出し、半歩後ずさった。

 目の前にある足が徐々に下がっていき、かわりに紅潮した顔で目を潤ませるシャラの顔が見えた。

 「──み、見たかッ?! 今の!」

 興奮しきった様子のシャラは、両手をあわせて口元に当て、ぱたぱたと足をばたつかせていた。
 正直なところ、思いつきに気になったちょっとした欠点を指摘してすぐに、ここまでの技の改善をしてみせるとは微塵も思っていなかった。この少女の持つ才は、純粋に驚嘆に値する。

 「ああ、驚いた」
 惚けたように言った、その一言で十分気持ちは伝わったはずだ。

 「日々、昨日よりもより良い自分を目指して励んできたが、今この瞬間、数年またぎの近道をした心地がする。ありがとう、お前の言葉は私を先へ導いてくれた」

 満天の星空のように目を輝かせて言われ、シュオウは照れくささを隠すように視線を逸らして鼻をかいた。
 シャラが初めて見せる年若い少女の、ありのままの表情を見て、不思議とシュオウは安堵していた。
 小刻みに飛び跳ねる度に、たゆたゆと大きく揺れる胸に目を誘われてしまうのは、生まれ持っての性のなせる力だろう。
 シュオウが自制心の活動を強く促して目をそらすと、不意にシャラが突拍子なく提案する。

 「なにか礼をしたい気持ちだ。望む事があれば言ってみろ。今の私は、常識の範囲内でなら、大抵の事にこたえてやってもいいと思っている」

 その言葉はあまりにも甘美な響きだった。
 欲しいもの、したい事はいくらでもある。窮屈な拘束をといてほしいと一番に頭に浮かんだが、さすがにそれは許さないだろう。

 自分の身を思っての欲求は枚挙にいとまがないが、必要十分な衣食住を得られている今、これ以上は贅沢であろうと、結局はその答えに至る。そうなってみて、改めて一つの気がかりが心に残った。

 「一つ、ある」
 「言ってみろ」
 「仲間達の無事をたしかめたい」
 その要求を、シャラは快諾してくれた。





          *





 地下牢の中、誰かがもらしたあくびが響く。
 置かれた状況のわりに、ムラクモの敗残兵達が囚われている牢部屋の中は、気だるい空気が流れていた。

 ──無理もねえ。
 とボルジは思う。

 ここでする事といえば、生きる分にぎりぎり足りる量が支給される食事と水を胃に流す事だけ。はじめのうち、皆ああでもないこうでもない、と愚痴ったり身の上話で気を紛らわせてはいたが、それにも飽きたのか、今では口を開く者も少なくなっていた。

 「俺たち、どうなるんだろうな……」
 退屈に耐えかねた誰かが、唐突に言った。

 「殺されるに決まってんだろ」
 また別の誰かが捨て鉢に言うと、即座に反論が飛んだ。

 「殺す気ならとっくにそうしとる。飯が出てくるってこた、まだ使い道があると思われてるんだろうよ」

 「使い道って、なんのだよ」

 「知るもんか。どこかで働き手にされればいいほうだろう。国によっちゃあ、捕らえたもんを深界の開拓に使うって話も聞いたことがある。糞田舎の開墾作業にでも使われるんなら、まだ儲けもんってこった」

 「くそッ……地道な労働が嫌で剣を握ったってのによ!」
 「若造が、がたがたぬかしてんじゃねえ。生きてるだけましだと思って黙っとけい」

 「ちッ、あんたはいいよな、ジン爺さんよ」
 「……どういう意味だ」

 「あんた、サンゴの連中とは同郷じゃねえか。肌の色が同じやつぁいいよな、どうせ自分は殺されないとたかくくってっから、そんな余裕かましられるんだろうがよ!」

 「なんだとッ!!」

 怒声と喧噪。喧嘩をはやしたてる歓声があがり、牢の中は一気に騒がしくなった。
 今は、仲裁に使う体力すら惜しい。少しすれば番兵が止めにくるだろうとたかをくくり、腕を組んで目をつむるが、待っていてもなかなか止める声が入らない。

 ──どうした。

 ふとした違和感に顔をあげると、地下牢の入り口のほうから、なにごとか揉めているようなやりとりが、騒ぎに混じって耳に届いた。

 「──けど、こまりますよ」
 「少しの間だ。外にでて体を伸ばしている間にすむ」
 「……じゃあ、ほんの少しだけ……頼みますよ、なにかあったら自分の首が飛ぶんですから」

 鍵が開く音がして、人の足音が近づいてくる。
 ボルジは常ならぬ状況を察知し、喧嘩に熱中する暇人達を怒鳴りつけた。

 「おい、黙れ! 様子がおかしい」

 神妙な態度を察し、皆一瞬のうちに静まりかえった。
 蝋燭の灯りが、入り口から流れる風に揺れ、地面におちた人型の影を揺らす。
 すっと現れた人物を見て、ボルジは思わず声をあげた。
 「シュオウ!」

 立ち上がり、鉄格子を掴んで顔を近づける。周囲の者達も、その姿を見て格子の前に殺到した。

 「大丈夫か?」
 ボルジに向かって聞いたシュオウは、最後に見た時よりもやつれた姿をしていた。

 「こっちはなにも変わっちゃいない。それより、お前のほうこそ大丈夫かッ」

 シュオウは安心させるように軽く笑みをつくった。
 「ああ、ほんの数日閉じ込められていただけだ」

 軽く言うが、あちらこちらにくたびれた雰囲気を帯びている。
 シュオウは牢の中にさっと視線をまわし、壁際で背を向けたまま座るハリオに気づくと、一瞬声をかけようとして口を開いて、物言いたげな表情のまま、結局口をつぐんだ。

 シュオウはボルジに視線を戻す。
 「今の状況を説明しておく──」

 淡々とした状況説明を聞くにつれ、牢部屋の人間達の間でざわめきがひろがっていく。
 「バ・リョウキっていや、知られた英雄じゃねえか。まだ現役だったのかよ」
 ボルジが言うと、シュオウは小さく頷く。
 「らしいな」

 「その爺さんと戦ってなにか得られるもんがあるのか」
 シュオウは首を振って否定する。
 「たぶん、ない。負ける時はきっと死ぬときだろうし、勝てたとしても結果は同じだろう」

 「……わかっていても、受けるしかねえのか」

 「そうだな。ただ、その日までの待遇は少しましになった。おかげで、こうして皆の顔も見にこられた」

 牢の入り口からシュオウを急かす若い女の声がした。
 「もう行く………………待っててくれ。全員、絶対にここから出してやる」

 語気強く言うシュオウの言葉を、誰も笑いはしなかった。
 最後にシュオウと視線を交わしたボルジは、ただ歯を食いしばってグッと頷いてみせた。

 牢の中が再び常の状態を取り戻し、それぞれにシュオウの言った事を話すが、当然のようにだれも本気に受け取った者などいなかった。

 ただ、ボルジは、シュオウという人間が、口だけに終わる男ではないと知っている。
 虜囚達が騒ぐ声を聞き流し、ボルジは壁に寄りかかり、そっと目を閉じた。待っていろ、と言ったあの言葉の通りに。





          *





 「満足したか?」
 シャラの問いを無視して、シュオウは質問を返す。
 「あいつらはどうなる?」
 シャラはむずがゆそうな顔をする。

 「さあな。なにせサンゴにとっては滅多にない勝利だったから、処遇に苦慮しているとは聞いたが。今後について、私の知るところではないが、いずれにせよ敗者に相応しい所に置かれる事になるだろう。それが世の常だ」

 「そうか……」
 気を落とすことなく、シュオウは奥歯を強く噛みしめた。

 囚われの身である仲間達。彼らがみせた悲壮な表情。やつれた顔ですがるように自分の言葉に耳をかたむける姿を見たとき、シュオウの中で、ある一つの強い感情が芽生えていた。

 ──助け出してやる。絶対に。
 一心にそう思う。

 飢えながら、明日生きているかもわからない状況に、屈強な戦士達ですら、怯えて肩をすくめている。そしてその状況に置かれている者達は皆、寝食を共にした仲間だ。

 心は決まった。
 勝つこと、そして救い出すこと。
 無理だという理性と常識からシミのように漏れ出てくる雑念を振り払い、できる限りの事をしようと自身に言い聞かせる。

 「もう一つ、頼みがある」

 部屋に戻ろうとするシャラに、シュオウは遠回りを希望した。まずは、自分が囚われている建物の構造を、きちんと把握しなければならない。
 機嫌の良いシャラは、その些細な願いを了承し、シュオウは彼女に見えないように小さく拳を握りしめた。









[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第十話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:25
     ⅹ 剣聖バ・リョウキ










 両親はともに彩石を継ぐ血統の生まれではあったが、家柄は並以下だった。

 母は没落して散り散りとなった一族の出で、結婚で持参した僅かばかりの嫁入り道具を売りながら子を育てた。痩せた体に貧相な服を着て家事にいそしむその姿は、遠目には下民と区別がつかないほどみすぼらしかった。

 財産は、ぼろ屋敷と実入りの少ない痩せ細った土地だけという、弱小部族の嫡子として生まれ落ちた父は、禄を期待して志願した僧兵としての道で早々に出世をあきらめ、果ては道ばたにしゃがんで臭いのきつい野草をつみ、家族の食い扶持として持ち帰える事に執心するような、ぼやけた人生を送っていた。

 腕っ節より金勘定の才が欲しかった、とは困窮する一族の長である父の口癖だった。
 バ・リョウキはそうした家、両親の元、生まれながらに次代の長としてこの世に産声をあげたが、幼少時から既にその気性は並外れていた。

 泣かず、怯えず、動じず。一度でも興味を持ったものがあれば、まぶたを落とす暇も惜しんで執着した。ことさらおもちゃの剣への興味は、ほとほと両親をこまらせるほどだった。風呂に入る時、便所へ行くとき。寝るときも飯を食う時も、ところかまわず一時たりともそれを放そうとはしなかった。

 自身の足で立てるようになったバ・リョウキは、水を得た魚も呆れるであろうというほどの暴れっぷりだった。一日中、起きている時間は常に剣をふりまわし、獰猛《どうもう》な動物や年上の悪がき達に戦いを挑んでは、叩きのめしてまわった。

 気弱だった父は気性の激しい息子の相手に苦慮した。結果、なかば放り出すような形で剣術道場へと預けられる事になったが、幼くして家族から放されても、バ・リョウキは一切動じはしなかった。

 一応の師を得てその力をさらに伸ばし、十になる頃に参加した幼年者を集めた剣術試合の場にて、一太刀も浴びる事なく大勝してみせたことで、当時国でも随一の評を得ていた剣士に見初められ、門弟として迎え入れられた。

 卓越した才気が奮う技は、武を極めんと修練を積む年長者達ですらを圧倒した。師は早々にバ・リョウキを後継に据えると宣言したが、しかし、それが元で兄弟子達の嫉妬をかうはめになり、バ・リョウキは執拗に繰り返された嫌がらせの果てに、闇討ちを受けるほどの緊迫した状況を迎えるに至った。
 死闘のすえ、命からがらに二十人近い兄弟子全員の頭をかち割った後に待ち受けていたのは、しかし理不尽な破門処分であった。



 むき出しの肌に刻まれた無数の傷跡に触れ、老いたるバ・リョウキは過ぎ去りし日々の記憶を掘り起こしていた。

 自らが望んだ対戦の日の朝を迎え、止まない高揚感に急かされるように目を覚まし、心を落ち着けるために深い呼吸を繰り返す。
 腕の筋は盛り上がり、胸筋はふくれ、腹は硬く割れている。その有様はあまりにも実年齢とはかけ離れていた。

 過ぎた時は不利とはならない。その分、積み上げてきた経験が、自分にもっとも相応しい肉体のあり方を教えてくれたのだ。若さゆえにがむしゃらだった頃とは違う。今の自分こそが、バ・リョウキという人間の極地であると自負していた。

 対戦者は若く、そして強い。ほんの一時剣を交えた時の手応えを思い出すと、体の芯から熱湯のように沸き立った血が体中に行き渡った。

 バ・リョウキは耐えきれず身震いに肩を揺らした。
 ──待ちきれん。
 堪えきれずに笑みをこぼした。





          *





 勝利を祝う宴の日。ア・シャラは渦視の主である父と共に、観覧用に特設された櫓《やぐら》の上で、用意された席に座って膝を組んでいた。

 酒を片手に、はめをはずして陽気に騒ぐ者達の声が城塞の中庭を埋め尽くし、赤ら顔で宴会芸を披露する者らに歓声をあげては、天地を逆さにしたような大騒ぎをしていた。

 どん、どん、と規律正しい太鼓の音が響くと、周囲の喧噪はざわめきにかわった。それは、この宴で一番の催し物が近い事を告げる音だった。

 「ぶふッ」
 隣に座る父、ア・ザンは突然ニヤケ面で吹き出した。シャラはそんな父に対して、少しうんざりした調子で聞いた。
 「……どうされた」

 「ん? いや、聞いた話を思い出していたのだ。なんでも、老将殿とあの男の勝負で賭勝負を開催しようとした者がいたらしいのだが、いざ始めてみれば皆が皆、老将に金を出すもので賭けが成立しなかったようだ。残念であるな、この私も財産の半分を老将殿に賭けてやってもよかったのだがなッ」

 高笑いする父に、シャラは冷や水をかける。

 「残念という部分には同感だ。知っていれば、私はムラクモ兵に手持ちをすべて賭けてもよかった」

 ア・ザンは娘の言葉に憮然とした。

 「なん、だと? まさか本気であのバ・リョウキ将軍が負けると思っているのではないだろうな」
 「無意味な戯れ言は嫌いだ」

 ア・ザンは面白くなさそうに鼻息を吹いた。

 「ふんッ、まあ見ていろ。優れていてもお前もまだ子供、あのバ・リョウキという人間がどれほどのものか知らんのだ。国を違える者達がその名を聞いて声を高くするのには、それなりに理由があってのこと。南山の誉れたる英雄が、ほんの少し腕の立つ程度の若造に負けるはずがないッ」

 むきになって話す父に、シャラは静かに、そうか、とだけ返した。実際父の言うことも的外れな事ではないのだろうと思う。あのシャノアの老将の実力は、間近で見てきたシャラもよく知るところである。

 ──それでもだ。

 ひっそりと笑みを浮かべる。シャラにはそれでもバ・リョウキの圧勝にはならないという確信があった。それは数日前の出来事。あのムラクモの男が、目の前でほんの少し見ただけで、シャラの技の欠点を指摘してみせた、あの時。その内に秘められた才気の一端を、たしかに見たのだ。あれは、ほんの少し腕の立つ程度の人間には、到底できる事ではない。

 ──この気持ちはなんだ。

 胸の内でざわめくこの感情を、なんといえばいいか、とシャラは迷った。
 あの男の本当の実力を、父を含むこの場にいる多くの者達は過小評価している。そして本当の所を知るのは、自分をのぞけば対戦を熱望した張本人であるバ・リョウキくらいなものだろう。

 ──優越感、というのだろうか。
 シャラは持てあましたこの感情の正体の謎に、そう決着をつけた。

 日々生きるほどに、シャラは他人という存在に飽いていた。皆、言うこともやる事も、なにもかもが想像の内に収まる凡庸な存在だ。刺激を求めて参加した戦場でも、想像を越えるような体験、感動は得られなかった。

 あの男は何かが違っている気がした。遙か高みにいる人間を噛み殺してでも生き残ろうとした男。彼であればなにかしてくれそうな予感がした。そう、誰もがその勝利を信じて疑わない、当代屈指の剣士であるバ・リョウキを破ってみせるのではないか、と。

 その思いの出所には、それぞれの色があれど、シャラもまた時を待つ大勢の者達と同様に、はやくこい、と願いながら、太鼓が奏でる音に耳を傾けていた。律動が少しずつその間隔を早めていく。





          *





 太鼓の音が短く二度鳴ると、中庭に設けられた会場に詰める人々のざわめきがぴたりと止んだ。明るい赤や黄といった色の段幕があちこちから吊され、周囲一帯はこれでもかと、祭り一色の様相を呈している。

 ──みせものになったか。

 酒やつまみを片手にじっとこちらに視線を送る者達を見て、バ・リョウキは今更に実感を強めた。剣聖とあがめられても、その称号に胡座をかいたつもりはないが、一国の将たる身が真剣勝負をする場としては、ここはあまりに低俗な場といえる。が、それも自分がまいた種である以上は仕方のないことだった。

 そうまでして望んだ勝負。その相手が両手両足に拘束をいただいたまま、腰につけられたヒモを引かれて勝負の場へと引き出された。北方の民が持つ銀色の髪が風に揺れると、観衆達の怨嗟に満ちた怒号が飛びかった。

 彼をつれてきた男が、こちらに確認を求めるように視線を送った。頷いて返すと、男は虜囚の身である銀髪のムラクモ兵の拘束を解き、引き返していった。

 晴れた空には極々薄い雲が張り、適度に陽光の強さを加減している。真昼の空気は乾いている。上空を流れる風は強いが、壁に守られるここではそよ風が流れる程度にすぎない。勝負の日として、これ以上の条件を望むのは贅沢であろう。

 バ・リョウキは手にしていた一対の剣を投げ渡した。受け取った相手は若干の戸惑いを見せていた。

 ──名は……。
 一瞬つっかえた記憶をさらい、バ・リョウキはこれから殺し合いを演じる相手を呼ぶ。
 「シュオウ、といったな」
 「……はい」

 「私なりにできることはしたつもりだ。手前勝手に付き合わせるが、どちらにせよ落とすはずだった命。惜しくはなかろう」
 勝つことを前提とした言葉だった。意味を汲んでか、対戦者は視線を尖らせた。

 「俺が勝ったら、どうなりますか」
 一歩も引き下がる気のない言葉に、バ・リョウキはこぼれそうになる笑みをこらえた。

 「勝ってから考えろ。元より国を違う者同士。そこから先まで用意してやる義理はない」

 背負った剣を引き抜くと、シュオウは受け取った剣のうちの一本を引き抜き、鞘ともう一本の剣を地面に置いた。バ・リョウキは訝る。

 「遠慮は無用、二本とも抜け」
 シュオウは、ばつがわるそうに苦い顔をした。
 「これしか使えません」
 「……嘘ではない、か」

 対戦者が持つ得物は双子剣だ。どちらも同じ重さ、長さに造られており、それは両方を同時に扱う事を前提として用意されている物であると、多少の心得がある者ならば、そう想像するだろう。

 ──おかしなはなしだが。
 扱えない物をどうして腰に下げていたか、知りたいと思っても、それを聞く時は逸している。

 「いいだろう──」

 宝剣岩縄の長い柄を右手で持ち、前へ向けて構えると、間の抜けた打楽器の音が盛大に鳴り響いた。無粋なその演出を不快に思いつつも、剣を手にして腰を落とした対戦相手にすべての注意を注ぎ込む。

 先手をとり、バ・リョウキはその身を前へ投じた。詰めた間合いは三歩分。あらゆる挙動を短縮した神速の突きは、相手の腹を突き刺す間際に空を貫いた。上半身をひねって躱したシュオウは、そのままの勢いを利用し、体を回転させて首元を狙った振りを見舞う。

 ──みごと。

 その一連の所作には説得力があった。勘に頼るのではなく、考えたうえでの行動。回避と攻撃を一つの動作に組み込んだ、必殺の一撃というに不足はない。だが──

 ──しかし!

 バ・リョウキはあらんかぎりの力で踏ん張り、強靱な足腰をもって半歩後ずさった。刃の短い剣の薙ぎ払いは、長く伸びた白髭をかすって空に投げ出される。間を置かず、両者とも即座に距離をとった。

 互いに手応えのない剣撃を交わし、この時になって始めて、目の前の男の挨拶を聞いた気がした。

 ──手段は見た。

 得意は後手の技。見て躱し、相手の体勢が整わないうちに一撃で急所を狙う。確実を求め無駄を嫌う手法だが、その分相当に危険を伴う戦い方でもある。しかし相手に気負いはない。汗一つ流さず、冷静に呼吸を繰り返し、瞬くことなくこちらを凝視している。

 ──なにか、ある。
 予感がした。なにか決定的な事を見逃している。

 対戦者は細身に見えるが体幹に不安はなく、足腰の健常さも申し分ない。全体の身体のつくりをよくよく見れば、相当に厳しい環境に身を置いてきたとわかる。が、それはすべて並の人間に許された範囲を逸脱するようなものではない。この男は彩石を持っていない。生まれもっての肉体の強化という恩恵にあずかる自分とは、根底から違うのだ。

 ──なにがある。
 鎧をも貫く威力と、飛ぶ鳥を落とすほどの速度と正確さを合わせ持った自身の一撃をなんなく躱してみせるだけの能力。それは肉体を鍛えた程度で補えるような差ではないはずだ。

 戦場で、なかば奇襲するような形で剣を交えた時とはあきらかに違った。
 空いた手で下がった前髪をかきあげる対戦者は、静かだった。小さく開いた口をわずかにすぼめながら、じっと佇んで、つぎのこちらの動向を探っている。

 難攻不落の要塞に挑んでいるような心地がした。
 ──攻略方を。
 バ・リョウキは切に願った。この男を殺すには、それが必要になる。

 緩慢な動作で前足を擦る。試みに八双から振り上げた岩縄を見舞うと、相手はそれを右足をさげて体を僅かに仰け反るだけで躱してみせた。憎らしいほどに無駄な動きがない。

 空気を斬った音だけがして、バ・リョウキは左下に流れた剣身を寝かせて横払いに胴体を狙った。ただ、今度は単純な一撃ではない。刃が相手に届こうかという一瞬に、柄の握りをゆるめ、攻撃と同時に間合いを変化させるという狡い技を繰り出したのだ。握りが甘くなる分威力は落ちるが、際どく攻撃を躱す事を心情としている相手にとっては、それが致命傷になりうるはずである。

 ──とった!
 ほんの一瞬沸いた勝利への確信は、しかしきっちり伸びた切っ先の分だけ身体を引いて躱してみせた相手を前に霧散した。

 ──見えて、いるのか。

 身を引いて距離を置いたバ・リョウキの頭には、もっとも単純なその答えが巡っていた。勘でもなく、並外れた四肢の力もなく、超常に頼る彩石もない。つまりは、見えている。隻眼だという先入観で頭からすっぽりと抜け落ちていたが、力強く闘志を称える左目が、もし物の動きを捉える力に優れていたとしたら。これまでしてみせた一つ一つの神業にも納得がいく。

 「眼、か」
 正眼に構えたまま言うと、シュオウははっきりと表情に感情の色を明滅させた。

 対戦者はまだ若い。武芸に優れていても、心を隠す術には未熟とみえる。しかし、おかげでバ・リョウキは答えを得た。わかってみれば単純なもの。得体の知れない力を相手にするのは収まりが悪いが、なにに優れているのかがわかってしまえば、それに準じた対応策をとればよいだけだ。そこから先は、それこそ力と技の比べ合いである。

 バ・リョウキはシュオウめがけて飛び込み、剣を高く振り上げた。躱されるのをわかっていながら振り下ろした剣は、その通りの結果をたどるが、勢いをそのままに、バ・リョウキは切っ先で夜光石が敷き詰められた地面を叩き割った。

 宝剣と称される岩縄は、岩を砕き鋼を貫くほどの強靱さをもって、バ・リョウキの技と力を加えて硬い石畳を叩き割ろうとも、刃こぼれ一つおこしはしない。
 その頑強なる宝剣をもって砕いた地面は幾重にもヒビがはいり、粉塵を巻き上げながら砕け散って、見るも無惨な姿をさらしていた。

 バ・リョウキは反撃を警戒し、あらかじめ腰を引いている。狙い通り、相手は獲物を見失って手を出す事なく身を引いた。
 相手は戸惑うような表情をみせるが、無理もない。これまで雷光の如き鋭さで命を狙っていたバ・リョウキの攻撃が、突然に緩慢になり精細を欠いたのだ。が、当然これも狙いの内である。

 バ・リョウキは続けざま、同様に振り上げた剣をシュオウの頭上に落としつつ地面を打ち砕いた。それを数度続けて、ほんのわずかな間に砕かれた箇所が散見する足場の悪い場ができあがっていた。
 薄暗い粉塵が辺りを舞うなか、シュオウは眼に汚れが入る事を嫌い、これまではっきりと見開いていた瞼をわずかに落としている。こちらの狙いを悟ってか、その額には初めて焦りの汗をにじませていた。

 バ・リョウキは自らが作り上げた勝つための好機を見逃しはしない。舞った粉塵の中に身を投じ、渾身の力を込めて八双から相手の胴体をめがけて切り払う。だがこれで仕留められるとは思っていない。予想通り、シュオウは足をすり、身体を流してこれを躱そうとしたが、砕けた地面に足をとられて身体の均衡を失った。その身が背中から土煙の中に消えるの見て、バ・リョウキは岩縄を逆手に持ち、長い切っ先を地面に向けた。

 ──勝機!

 豪腕にさらに体重を乗せ、横たわる相手に目がけて前のめりに剣を下ろす。が、うっすらと視界が晴れるその先に、こけて無様に死を待つ者の怯えた顔はなく、代わりに巣に獲物がかかるのを待つ、酷薄に満ちた狩人の視線がバ・リョウキを射貫いていた。

 ──しまッ!?

 体勢良く向けられた狼の紋が刻まれた剣の先が鈍く光った。予測を大きくはずした自らの剣は、あさっての方へ向けて振り下ろされている。相手から見れば、バ・リョウキは急所たる心臓を無防備にさらしている状況だ。

 あらゆる思考、雑念をバ・リョウキは捨て去った。ただ、死から逃れようとする肉体の動きにのみまかせ、無茶な姿勢のままに片足をあげて身をよじる。すべての体重と勢いを背負わされたもう片方の足は悲鳴をあげたが、常人ならば正気を失いかねないその痛みの代償に、シュオウが突き出した剣の一撃を辛うじて躱すという神業を成し遂げた。よじった身体に無茶な勢いが加わり、バ・リョウキは地面の上を盛大に転げ回った。

 見守る観衆達の唾を飲み込む音が聞こえそうなほどの静寂のなか、舞った土煙が微風に洗い流される。
 涼やかに立ち尽くすシュオウを前に、無様に地面に転げて足を押さえるバ・リョウキは、笑った。
 「ふ──ひゃッ!」
 犬歯をむき出しにして、口の端から唾をこぼす。剣聖という称号には、あまりにそぐわない下卑た笑みだった。

 「搦め手までつかうか。勝つための場を整えたつもりが、すべてを見破ったうえで逆に利用するとは。この身でなければ、いまので終いであったろうが──」

 激痛を越え、支えにした右足首にはもはや感覚がないが、立つためにはむしろ都合がよい。胸を押さえると、心臓が陸にあげられた魚のように激しく脈を打っていた。それはひさしく感じていなかった、まさに胸の躍る感覚だった。

 ──これほどの武者が、名もなく埋もれていようとは。

 冷静に汗を拭う対戦者は、冷徹なまでに研ぎ澄ました視線で、じっとこちらを視ている。バ・リョウキはその立ち居振る舞いを前にして、さらに笑みを濃くした。立ち上がる途中、自らが砕いた地面の小石を握り、手の内で揉み込んだ。

 足を痛めた事を好機とみて、シュオウが初めて先手をとった。剣を後ろへ流すように持ちながら、間合いを詰めて迫り来る。払い抜くように喉を狙った一閃に襲われ、バ・リョウキは岩縄の剣腹を盾とし、それを防いだ。初めて互いの得物が重なり、硬質な金属の悲鳴が鳴った。その瞬間、バ・リョウキは左手の中で粉になるまですり砕いた夜光石を相手の顔に振りかけた。

 「うぁッ!?」
 シュオウは悲鳴にも似た唸り声をあげ、顔を押さえて後退した。

 対戦者はその強さの根幹を眼に頼っている。視る事にこだわるがゆえに、このあまりに単純な下策にかかったのだ。しかしそれは、一国の将たる身が自ら望んだこの勝負の場においては、あまりに卑怯な手段だった。

 バ・リョウキのとったその行動に、見守る観衆からどよめきがわいた。
 ──笑うがいい。

 多くの者達は自分という人間に対して思い違いをしている、とバ・リョウキは常々思っていた。礼節を重んじて武の道に生きる剣聖。そんなものは人々の理想から生まれ出た幻にすぎない。多くの者達同様に、おそらく父や母ですら自分に対して思い違いをしていたはず。バ・リョウキは別に剣を振るう事に命を賭けてきたのではないのだ、ということを。

 眼をこすりながら必死に距離を置こうとする相手めがけ、バ・リョウキは負傷した足にもかまわず、必死の形相で剣を振り上げながら、その背中を追いかけた。

 ──勝てる!

 それこそを目的として生きてきたのだ。なにより他人を負かすこと、その身を下に敷き、先へ行く権利を得る。自分にとって生きることは、すなわち勝ち続ける事だった。剣はそのための道具であり、もっともその意思を体現するために、手に馴染む物だったというだけにすぎない。

 シュオウは地面を這うように逃げまどい、中庭に鎮座した半身を欠いた像の前で立ち往生した。
 勝利がもたらす快感と恍惚を思い、口の中に唾液があふれ出る。

 名をあげた事が弊害となって、もはやバ・リョウキを前にすると大概の者は勝負を捨てる。剣を扱う同等の獲物にも恵まれず、強者を破った時に得られるあの喜びも、もはや自分には得難いものになった事を、悲しいとも思わなくなっていた。

 ──ありがたい!
 これほどの強者を、老いたる我が身に与えてくれた事を、崇める鬼神に感謝した。

 バ・リョウキは両手に構えた剣で、未だ体勢の整わない相手に斬りかかった。シュオウは格好も気にせず、その身を横たえて転げ回り、バ・リョウキの落とした剣は、後ろにあった石像の腰から台座までを一刀両断に切り落とした。

 わずか一瞬の事。しかしそれが相手に立て直すだけの時間を与えた。時を追うごとに痺れが増していく右足のふんばりが効かず、振り下ろした剣にわずかに身体を流される。視界を取り戻したシュオウは、真っ赤に充血した左目から涙をこぼしながら、低い体勢で崖底から舞い上がる突風のような勢いで、バ・リョウキの左首筋めがけて斬りつけた。

 「ぬぐうッ!」

 あえて逃げの選択を捨てる。足を踏ん張り、左から襲い掛かる相手目がけて自ずから間合いを差し出した。首に冷たい氷が触れたような感覚がしたが、即座に肩に当たった感触のみを頼りに、無我夢中でそれを押し飛ばす。たしかな手応えがあった。
 見れば、シュオウは完全に体勢を崩した格好で地面に背をつけて倒れ込んでいる。その隙を狙って、渾身の力を持って岩縄を振った。硬い音がして、狼の紋が刻まれた剣は宙を泳ぎ、カランと音を立てて地面に転がった。

 完全に無防備となった相手の首に、剣の刃を突き当てる。
 声もなく、音もない。ただ互いに視線を交わしながら、肩で息をしていた。

 「ころせええ!」

 わずかにおりた静寂を打ち破る、耳慣れた怒鳴り声が轟いた。思い出すまでもない、その醜い言葉をまっさきに吐いたのは、この渦視を取り仕切る男、ア・ザンであろう。わずか間を空けて、追随するようにあちこちから低い声があがりだす。

 「コロセ……」
 「ころせッ」
 「殺っちまえ!」

 意味を同じくする言葉が、四方八方からあがり、やがれそれらは一つの束となって繰り返された。
 ふと、首に感じる痛みに誘われて、バ・リョウキは手を当てた。ぬるりとした生温かい手触りした手のひらを見ると、真っ赤な鮮血にじっとりと濡れていた。震えるような怖気を感じ、のぼせ上がっていた頭の血がゆっくりと下がっていく。
 赤くなった眼でこちらを睨み続けるシュオウの顔は、敗者のそれではなかった。

 「しずまれいッ!!」

 敗者の死を望む耳障りな観衆の声を、バ・リョウキは一喝した。即座に静まった観衆に向け、声を張り上げる。

 「このバ・リョウキは長く生きたが、これほどの勝負は久しく覚えがない! これを共に味わった諸君らはどうかッ!」

 問われた観客達は、左右に首をふって顔を合わせてうなずき合う。どこからともなく、喝采の意を込めた拍手と歓声があがった。
 騒ぎが静まらぬうちに、バ・リョウキは続けざま声を張り上げた。

 「よき勝負はそれに相応しい相手があってはじめて叶うもの! そこであらためて問う。この者は、この場で死ぬに値するか!」

 拍手が止み、ざわめきがおこった。答えなきまま、バ・リョウキは続けて言う。

 「私は否と答えよう! この勝負を命を賭して演じた若き強者を寛大に許してこそ、我らが南山同盟は初めてムラクモに勝利したといえるのではないかッ!」

 誰からも答えなく、静寂が場を包む。しかしどこからともなく、そうだ、と小さく声があがりはじめた。賛同するように手を叩く者が現れ、そうした空気が波紋のように広がっていく。一回、二回と瞬きを重ねていくごとに、それは大きくうねりのように広がっていった。

 バ・リョウキはシュオウの首にあてた剣をひいた。
 「立て」

 シュオウは物言いたげな視線を投げつつ立ち上がる。眼が充血している以外は、勝利を収めたバ・リョウキよりよほどその様は健常にみえる。

 「……ッ」
 口を開きかけたシュオウに、バ・リョウキは首を横に振ってそれを止め、近くに転がった狼紋の剣を拾った。

 「命の代わりにこれを勝利の証としてもらう。もう一つを持って、皆がのぼせている今のうちにここを去れ、外までは配下の者に送らせる」

 しかし身動きをとらず、その場に根を生やしたように立ち尽くすシュオウに、バ・リョウキは怒鳴った。

 「急げ!」

 その身に視線を浴びながら剣を拾いに向かった背を見送って、近くに待機させていた部下に手で合図を送り、その意を告げた。シャノアの星君に送られて門があるほうへ姿を消したのを確認し、バ・リョウキは出血が増していく首筋を押さえて顔を険しく歪めた。
 目を合わせた甥のリビの顔は、ひどく青ざめてみえた。





          *





 「約束がちがうではないかあッ!」

 ア・ザンは怒りにまかせて叫んだが、そこかしこであがる歓声と拍手にかきけされ、側に控えていた者達にしか届かなかった。

 ア・ザンは蹴って立ち、興奮して赤くなった顔で拳をつきあげた。

 「今すぐ兵を送ってあの男を殺せ!」

 しかし側近の一人が咄嗟に諫めた。

 「どうか、ご自重を……。あの者は観衆の許しを得ました。それを即座に覆すようなことをすれば興醒めとなるでしょう。閣下のお名前に傷をつけるやもしれません」

 「だが、私は許しをだしてはいなあい! いないのだ!」

 「試合にほだされ、皆の心はいま英雄たるバ・リョウキに寄っております。その老将が直々に許しを求め、大勢がそれに同調しております。今はこの空気に水をさすべきではありません」

 ア・ザンは、爪で禿頭をかきむしった。

 「渦視の城主はこの私、ア・ザンだッ! なにが英雄、なにが剣聖か! 他国の政に勝手な口をはさみおって! ええい、許せん!」

 叫び、腰の剣に手をかけると、側近達が慌てて平服した。

 「閣下! どうかお心をお鎮めください。バ・リョウキはシャノアの顔、その身になにかあれば周辺国すべてを巻き込む火種となります!」

 剣を握ったまま、引き抜くことなく、ア・ザンは拳を振るわせた。

 「みくびるな! その程度の計算ができぬほど、と、取り乱しては──お、おらんのだぞ!」

 頭を下げる側近の一人が、静かにこぼす。
 「ひと一人の命です、どうか……どうかお忘れに」

 ア・ザンは歯を食いしばり、首に当てた包帯をはがした。

 「見るがいい、このどす黒く濁った首の傷を! 無様に歯形を残され、それをした者をみすみす放免にする阿呆がどこにいるというのだ! ああああああ!」

 半狂乱になって椅子を蹴り飛ばすと、頭を下げる側近らは怯えて肩を縮めた。

 「いいだろう……利得を優先してあの男の命は忘れてやる。だがあの老いぼれには責任をとらせるぞ! 陛下に言上し、国をあげてこの事をシャノアに抗議してやるのだッ、そうだ……どうせなら王族たる者の名であげたほうがより確実ではないか──」

 急に思い出したように娘のいる席を見たア・ザンは、その目を瞬かせた。

 「娘は──シャラはどこにいった!?」






          *





 リビを連れて急ぎ足で部屋に引き上げたバ・リョウキは、戸を閉めるなり膝をついた。

 「叔父上?!」
 「騒ぐな。それより急ぎ血止めの用意を……針と糸がいる」

 手で押さえる首筋から垂れる血は、とどまることなくむしろ勢いを増していく。それに気づいたリビは慌てて応急処置のための支度にとりかかった。
 寝台に寝そべって水で傷を洗い流し、出血の勢いを押さえる粉薬をかけて、リビはバ・リョウキの首に針を通した。

 「まさか、これほどの傷を受けておられたとは……」
 痛みに堪えながら、バ・リョウキは鼻の穴をひろげて返した。
 「見えなかったか」
 「見えてはいましたが、入ったというような印象はなかったので」
 「……そうか」

 不意に部屋の戸を叩く音がして、処置をほとんど終えていたリビが応対した。戻ってきたリビは、険しい顔をして口を開きかけたが、おおよその内容に検討がついていたバ・リョウキは先んじてそれを言った。

 「ア・ザン殿からの呼び出しだな」

 リビは重々しく頷く。

 「さすがに、許可なくあの男を解放したのはやりすぎですよ。我々は余所者です、この件で処罰を求めてくるような事が、もしや──」

 甥の心配を、バ・リョウキは一笑に付した。

 「あれは狡い人間だ。怒りにふるえていても、結局は損得勘定にふりまわされて、口で喚くのが精一杯だろう」

 真実そう思って言ったことだが、リビはそれを慰めの言葉と受け取ったらしく、気は晴れない様子だった。

 「あのムラクモ兵は渦視の外にでたか?」
 「ええ、北門を出て見届けた旨、いま報告を受けました」
 「追っ手がかかった様子は」
 「いまのところ、そうした動きはないようです」

 バ・リョウキは神妙に頷いた。
 「よし」
 リビは不満そうに唇を歪めた。
 「わかりません、なぜ生かして解放されたのですか。叔父上は敗者に情けはかけないお方だと、常々そう思っておりました」

 言われ、バ・リョウキは顔に険しく陰をおとす。

 「勝ったという実感が沸かんのだッ。この首の切り口、あとほんの少しの力が加わっていれば、間違いなくこの命に届いていた」
 「まさか……あの男が加減をしたと言うつもりでは──」

 バ・リョウキは力強く首を横に振った。

 「いや……いやッ、ありえん。私は剣士といして持てる全力で臨んだ、相手もそうであったはずだ。だがどうにも心が沸かぬッ、勝ったはず、強者を地に伏せたはずッ! なのに……おかしいのだ、なにかがおかしい……」

 決着のつかぬ思いを抱え、苛立ちを隠せないバ・リョウキを見て、リビは静かに言った。
 「お心が……みえました。あの男との再戦を望まれているのですね」

 バ・リョウキは血走った眼をあげ、一つ大きな息を吐く。
 「生かしておけば、いずれまみえる機会もあるやもしれんッ」
 「……あまりに、身勝手な行いですよ」

 甥の責めるような目線を受け、バ・リョウキは口をつぐんだ。言われた通り、自分のしたことはあまりに無責任な行いだったからだ。
 バ・リョウキは、ふらつく足に喝をいれて立ち上がった。

 「行ってくる」
 リビは慌てて止めた。
 「お待ちください、護衛を──」
 「いらん。自分のしたことだ。この身一つをもって膝をついてくる。せめてそのくらいの誠意を見せねば収まりもつかんだろう」

 返事を待たず、バ・リョウキは部屋を出た。





          *





 ムラクモ領であるサク砦に通じる白道の上に一人、シュオウはじっと佇んで、先ほどまで囚われていた渦視城塞を見つめていた。
 眉はつり上がり口を硬く引き結んだその姿に、普段の余裕と穏やかな空気は一片も残ってはいなかった。

 ──ぜんぶ、取り戻してやる。

 意思強く渦視から視線をはずす。その先にあるのは、人が在る事を拒む深い灰色の森だった。





[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第十一話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2013/12/07 10:43
     XI 逃げ腰の奪還作戦










 蒼天をさえぎる灰色の木々で埋め尽くされた深界へ一歩を踏み出した瞬間、頭の中でなにかが切り替わったような気がした。
 ふと、郷愁にかられる。

 母なる自然の包容力が醸し出す、あのむせるような緑の臭いがない。無機質な同色に塗り込められたここは、常に転がる死の香りすらも、その存在に霞をかけて不明瞭にぼやかしてしまう。すぐ間近にあったにもかかわらず、ここへ足を踏み入れたのはいつ以来だろうか。記憶をさらわなければならないほどに、時が過ぎていた。

 耳をすませば、猛獣の咆哮が遠雷のように鳴り、なにかが木々の間を横切っていく音がして、またどこからか、生き物の断末魔がこだましてくる。
 無慈悲な死と、暴力的な生の混在する場所。何人をも拒むはずの魔境にあって、胸いっぱいに吸い込んだ空気は、自由の味がした。

 「おい」

 唐突に背中からかかった声に、シュオウは驚きに飛び上がった。瞬時に追っ手がかかったのでは、という考えがよぎったが、聞こえた声は若い女のもので、落ち着きを取り戻した頭が、この声には聞き覚えがある、と告げていた。

 「おまえッ」

 振り向きざまに見るその姿。艶やかな銅色の肌に薄紅色の簡素な修練着をまとった少女、ア・シャラは不思議そうに眉をあげて佇んでいた。

 「どうして──」
 最後まで聞く間もくれずに、ア・シャラは矢継ぎ早にこの状況の説明をはじめた。

 「敗者の背中でも見送ってやろうかと思って、こっそり後を追ってきたんだ。でも姿を見つけたと思ったら、森に入って行こうとしていたので首をかしげた。敗北の恥辱で自棄になり命を捨てようとしているのだとしたら、多少の縁があった仲でもあるし、一言止めてやろうと思ったが……」

 シャラはかがんで下からのぞき込むようにシュオウの顔を見上げ、
 「どうにも、考え違いだったようだ。目は死んでいないな……というより、怒っているみたいだ」

 シュオウは眉間にこもった力を抜いた。
 「どうでもいいだろ──とにかく帰れッ」

 シャラは困った顔で首を真横に傾いだ。
 「……それはいいが、お前はどうするつもりだ」
 「ほっといてくれ」

 シャラはシュオウの足下に視線を落とした。
 「ムラクモへ、帰らないつもりか──靴の先が森の方を向いている」
 シュオウは曖昧に頷く。
 「今は、な」

 シャラは目線をあげてアゴに手をあてた。やがてなにかの決意をかためたように、まっすぐシュオウを射貫く。
 「わかった。とりあえずお前について行く」

 シュオウはぽかんと口を開けた。
 「なん──」
 シャラは即答する。
 「気になるからだ。理由はそれで十分だろう」
 はきはきと自信に満ちた声で言うこの少女に、シュオウは当惑した。

 「はっきり言うぞ、俺はこれから森の奥へ向かう。ただの森じゃない、この先は瞬きをしている間に命を落とす世界だ」
 脅して言うが、しかしシャラは動じた様子なく軽く頷いた。

 「そんなこと子供でも知っている。でもそこへ入ろうとしてる自分はなんなんだ。様子を見るに、自死を望んでいるとも思えない。つまり、お前は深界で生き延びる術を知っているか、ただの馬鹿のどちらかという事になる。短いつきあいだが、一応後者ではないと信じてやったんだ。礼はいらんぞ」

 「ありが──じゃない! そうじゃなくてッ」
 シュオウは頭をかいた。苛立ちを感じ、鋭い視線でシャラをにらむ。
 「もっとはっきり言うと、俺はお前についてきてほしくない」
 「却下だ。私はお前についていきたい」

 シュオウは脱力感に肩を下げた。この押し問答には出口が見えない。相手がこの娘である以上、説得や脅しは通じないと、どこかで悟ってしまったのだ。それこそ、身体の自由を奪うか、極端なはなし、息の根を止めでもしないかぎり、ア・シャラは自分の意思を曲げようとはしないだろう。

 煮え切らないシュオウを前に、シャラはじれったそうに口を開く。
 「こっちもはっきりと言っておく。私はお前の行動に興味がある。瞬きをしている間に命をおとすかもしれない場所に入ってなにをしようとしているのか、単純に知りたいんだ」
 その淀みのない澄んだ瞳と視線を交わして、シュオウは観念して目をそらした。
 「いい、わかった、好きにしろ。だけど、きっと後悔するからな」



 奥へ行くほどに森の中は暗く、道は険しくなっていく。並の人間なら、人の世界の面影を失っていくその様子に恐怖するのだろうが、シュオウは辺りの様子を窺いながら逆に安堵していた。

 灰色の森、と多くは一言に呼ぶが、その実は各地域によって、地形や生息している動植物にも大きな違いがある。だが幸いなことに、この辺りの森の環境は、自身がその半生を過ごした森とそう違いは感じられず、周辺に生息する植物にも見覚えのあるものがほとんどだった。

 「これほど間近に、灰色の森の内を見るのは初めてだ」

 遊楽地にでも遊びにきたような気楽さで、シャラは声を弾ませていた。ふらふらと落ち着きなく視線を泳がせたかとおもうと、近場の木々の間から垂れ下がった絹糸の束のようなものに興味を持ち、急に手を伸ばした。

 シュオウは咄嗟に伸ばされたシャラの腕を掴む。
 「やめろ」
 好奇心を満たす寸前に止められたシャラは、きょとんとした顔で見返した。
 「美しい物に興味をもつのが気に入らないか」
 「…………」

 ──口で言うよりは。
 シュオウは手近なところに落ちていた枝を拾って、絹糸の束のようなものをつついた。すると、糸束のように見えたそれは、どろりと溶けながら粘りけのある液体へと様相を変え、意思でもあるかのように枯れ枝をねっとりと包み込んだ。

 「狂鬼の残した粘糸なんだ。輝きで獲物を誘い、触れたものにからみついて麻痺毒で体を犯す。人間くらいの大きさの生き物なら、触れた瞬間に死ぬまで身体が動かせなくなる」

 シャラは胸に抱え込むように素早く手を引っ込めた。いつも余裕のある顔には汗をにじませ、顔色を低くしている。

 「ここにあるものに気軽に触れるな。ついてくるなら俺が歩いたところを踏め。なにかあっても、手は貸さないからな」
 返事はなかった。ただ生唾を飲み込む音を鳴らしながら、シャラはこくんと小さく頷いた。



 注意深く辺りの様子をたしかめながら歩を進める。望むところではないが、ずっと後をついてくるシャラのため、シュオウは予め気づいた危険を避ける術を説明しながら歩いた。

 乱雑に木が立ち並ぶ森の中で、ふと開けた場所に出た。空が見える開放感からか、シャラは強ばらせていた顔に少し余裕を取り戻していた。だがあれだけ言ったにも関わらず、一人先行してその広場へ足を踏み入れようとしたのを見て、シュオウは呆れつつ肩を掴んでそれを止めた。

 シャラは振り返り、いたずらを叱られた子供のような顔でごまかすように笑う。
 「ここも、だめなのか」
 シュオウは頷いて屈み、その先にある土をつまんで感触をたしかめた。
 「土に不自然な粘りがある。ここは〈サルノミ〉の巣、だな」
 「サル、ノミ?」

 なにかと便利の良い手頃な枯れ枝を拾い、広場に向かって投げ入れる。途端に地面の土が波紋のようにざわめき、枝に無数の小さな虫が群がった。枯れ枝は土の中に飲み込まれでもしたように、その姿を一瞬のうちに消した。

 「狂鬼の一種で、この巣は幼虫達の食事場になっている。今は米粒並の大きさだが、成虫になると人間の大人くらいの大きさになるらしい」

 シャラは話を聞きながら、かがんで先にある地面を凝視した。
 「開けた場所はみんなこいつらの巣か?」
 「いや、そういうわけでもないな」

 「ならどうやって見分ける? 土をつまんでたしかめていたな。私にもわかるだろうか」
 シャラは先にある地面の土と手前の土とを左右それぞれに摘まみ、感触をたしかめるように指を動かした。
 「わからない……まるで、同じ…………」
 シャラはがっくりと肩をおとした。

 シュオウは広場の手前の土を僅かに摘まみ、それを鼻に当てた。
 「サルノミは動物を引きつける独特な甘い臭いを土に染みこませている。人間にはほとんど嗅ぎ分けられないけど、つまんだ土を強くこすると、ほんの少しだけ臭いがわかる。俺もはじめの頃はこの方法で見分けてた」

 シュオウにならって、こすった土の臭いを嗅ぐシャラは嬉しそうに破顔した。
 「わかる! 甘いような、酸っぱいような。人の世界にこんな臭いはない」

 無邪気に喜ぶシャラに影響され、思わず微笑みを返したシュオウは、慌てて頭をふった。
 ──こんなことしてる場合じゃないだろ。
 「行くぞ。完全に陽が落ちる前に、少しでも歩いておく」



 昼が終わり、夕刻を迎え、うっすらと森を照らす赤い日差しの中を歩き、まもなく世界は夜を迎えた。

 夜陰のなかにある深界はより活気を増していた。甲高い声で鳴く猿や、人語でもしゃべり出しそうなくらい饒舌な鳥の声が、絶え間なく周囲からあがっていた。だがこのうるささこそは、安全の証明でもある。彼ら小動物達が活発になっているということは、このあたり周辺に主だった危険がないことを告げる印でもあるからだ。

 「少し、怖くなるくらいうるさいな」
 暗闇の中、肩を抱いて後をついてくるシャラが、柄になくおとなしげな声で言った。
 「春、だからな」
 意味が違うことを理解していながら、シュオウはそう生返事をした。

 辺りは暗闇につつまれている。だというのに、シュオウは夜を照らす灯りを持っていなかった。手持ちの道具の一切は囚われたときに奪われ、そのまま放逐されてしまったせいで、あるものといえば無意味に腰にぶらさがった剣が一本かぎり。

 空に雲がないおかげで、木々の隙間からは月明かりがこぼれてくる。夜に慣れた目であれば、歩く事に支障はなかった。が、それもこの世界に長く身を置いてきた自分にこそできる事であり、人の世の姫であるア・シャラは、水も食料も休息もとれないこの状況に、さすがに衰弱した様子をみせはじめていた。

 「あッ──」
 平坦な地面で転んだア・シャラを見て、シュオウは足を止めた。
 ──限界か。
 無理矢理にでも置いてくるべきだった。その後悔が頭の中で反響した。
 「休むか」
 手をさしのべながらに言うと、土埃で汚した顔を見上げて、シャラは唇を噛みしめながら頷いた。



 深界で生き延びるうえで重要な事の一つが、休息場所の選定である。地形、気象、季節や周囲の状況を的確に見極めなければ、少し眠っている間に命を失う事になる。

 シュオウは無限に立ち並ぶ木々の中から特に太い一本を選び、その上に登って休む事を決めた。この大木は、枝や幹にほとんど傷みが見受けられない。つまり木々の間をこすり抜けて行くような巨大な狂鬼は、このあたりを通り道にはしていないと判断ができる。次いで地面に猿の糞が多く落ちていた事も選んだ理由になりえた。動物が多く泊まっている木は、それだけ安全を証明している。

 人の臭いを消すために、拾い集めておいた枯れ葉を服にこすりつける。これはとくに臭いのきついものを選ぶが、その正体は通りすがりの狂鬼がおとしていった排泄物のしみこんだものだ。一見してその他にちらばる枯れ葉などとは区別がつきにくく、ほどよい効果を期待できるものを選ぶには、それなりの知識と経験がものをいう。

 深界についてのあれこれを口で説明していると、シャラは関心したように熱心に耳を貸していた。
 「こんなこと、どこで覚えた」
 幅広な太い枝に腰を落ち着けて、ようやく人心地ついたシャラがそんな事を聞いた。
 「深界のことか?」
 「うん」

 視線を少し泳がせてから、シュオウは大雑把に自身の生い立ちを話した。孤児であった自分を拾った人間がいたこと。その人物から生きる術を教わった事などを説明すると、シャラはうわずった声をあげた。

 「それを教えたという人間は、きっと世捨て人かなにかだったのだろうな」
 「どうして、そう思う」

 「深界に関してそれだけの知識を蓄えておきながら、世にだすことはなかったのだろ? 私が知る限りでも、ここと深く関わりのある商売はいくつもある。これだけ森の奥深くまで無傷で入り込める術、売ればいかほどになるか……相手によっては、城がたつほどの金がでるかもしれない」

 シャラの話に、シュオウは目を丸くした。
 「そんなにか?」
 シャラはくすりと笑う。
 「私もこの世界では赤子も同然だが、お前も人の世に関しては少し無知に見えるな」
 シュオウは馬鹿にされたと思い、むすっとしてそっぽを向いた。

 唐突に、頬に冷たい手のひらの感触が触れた。柔らかく誘われるまま、視線を戻した先には、柔和に微笑みを称えるシャラの眉目の整った顔があった。

 「はじめてお前を知った時から、どこか他人には思えないという気がした。居場所を求めてさまよい歩く、不浄の幽鬼のように哀れで醜い。お前を知れば知るほどに、目が離せなくなっていく…………でも、執着する事は嫌いだ」

 頬に優しく触れていた手に力がこもり、シュオウは突然に頬をつねられて声をあげた。
 「いッ──」
 「あは」

 幼さと、老練さが混ざり合う悪戯な微笑みに一瞬魅入られる。だが、ぽわぽわとすぐ頭上で大合唱を繰り広げている小動物達のおかげで、平常心が揺らぐことはなかった。

 ──居場所、か。
 「俺にはもう、居場所がある」
 「ムラクモの事を言っているのか」
 つねられた頬を撫でながら、シュオウは頷いた。
 「顔見知りもできた。兵士になって仲間ができた。帰る場所ができた……」

 指を折って数えれば、ほんの短い期間だが、ここ最近を思い起こすだけでも、多くの人間の顔が浮かび、あった出来事が脳裏に去来する。旅の足がかりの一つにすぎないと思っていたそこで、自分はすでに多くの根を下ろしてきた。それこそを居場所といわず、自分という存在は、いったいどこに在るというのだろうか。しかし、シャラの言った一言が、そんなシュオウの思いに冷や水を浴びせた。

 「だけど、家族はいない」
 咄嗟に開いた口から、言葉は生まれなかった。

 「きっと、お前は自分が思っている以上に身軽に生きる事ができる。それだけの才と知識があれば、どこでだって羽ばたけるだろうに。戦の前線に晒されて、あげく置き去りにするような国が、お前の居場所なのか。もしそうでないと思うなら、私に身を預けるのも一つの未来かもしれない」

 「サンゴに来い、と言っているのか」

 「国じゃない、私の元にと言ったんだ──」
 シャラは膝を抱え、うずくまって視線を落とす。
 「──このア・シャラという肉の塊は公主なんだ。人一人くらい、言葉一つで不自由なく養うことだってできるさ。お前にその気があるのなら、私の師になってお前の知る事を教えてくれればいい。ちょうど興味を持てるものがなくて飽き飽きしていたところだったんだ」

 シャラの言葉は誘惑に聞こえた。相手が誰であれ、必要とされる事に悪い気はしない。だが同時に、自分を安く見られたようで不快だった。

 「調子にのるな」
 シャラは強ばった顔をあげる。
 「気にいらないか」
 「敵の中にいる人間の言葉になんの保証がある。もう少し自分の立場を考えろ。今、お前を生かしているのは俺のほうなんだ」

 シャラは挑戦的に眼を尖らせた。

 「そんなに私が気に入らないなら、置き去りにでもしてみるか?」
 挑発を受け、シュオウも強くにらみ返した。
 「できないと思っているのか」

 視線を交わした後、シャラはふっと表情を和らげる。
 「ああ、できないだろう──お前は、南山でも高みに立つ随一の剣士との真剣勝負に手を抜くような人間だ」
 「……そんなこと、できるような相手じゃ──」

 「勝負の終盤、あの老将の首筋を撫でた刃が、剥きだしの命に触れたのを、私はたしかに見た。その一瞬にお前の勝ちを確信したが、次の瞬間にはあの御仁がぴんぴんした様子で動き回っていたのを見て、首をかしげたんだぞ」

 「…………」

 「はじめは何かを計算しての事だと思った。でもお前のバ・リョウキ殿への接し方を見て違うとわかった。お前は、あの老人を敬っていた。結果的にであれ、我が父ア・ザンの手から救い出したのは、あの人だ。その恩にほだされて命を奪えなかった。手を抜いたんだ」

 なにも。シュオウはなに一つ言葉を返すことができなかった。
 シャラは勝ち誇ったように笑う。

 「私がなにも考えなく、よく知りもしない男についてきたと思うか。お前は情によわい。恩のある相手には遠慮が生まれる。勝負の時まで復讐者の手から守り、食事を与えたこの私を、お前は見捨てていけない。強く望まれればそれを拒むのに罪悪感がうずく。そういう人間だと思ったからこそ、深界の森の中を歩くという奇行に付き合ってみたいと思ったんだ。安っぽい脅しになど、いまさら怯えたりはしないからな」

 燃えたぎる炎のような双眸を向けて言うシャラを見て、一つわかったことがある。この娘は、ひどく負けず嫌いだ。
 シュオウは暗闇の空を見て仰いだ。
 「わかった、もういい。少し眠ろう」
 それは就寝を促す言葉であると同時に、降参をしめす言葉でもあった。
 


 まだ朝ともいえないような時間に起き、寝息をたてるシャラを揺すって無理矢理起こした。口からこぼしたよだれを慌てて拭う姿は、普段超然としている彼女にはめずらしく、なんとなく得をしたような気分になる。

 夜の湿気を溜め込んだ葉から露をいただき、喉を潤した後、眠そうに半分目を閉じたままのシャラを急かして再び歩きはじめる。
 狂鬼の縄張りを主張する印を見つけて避けたり、息を止めながらでなければ歩けない道を駆け抜ける。険しい深界の道程において、小走りに近いくらいの速度で進んでいくが、慣れない道を緊張したままついてくるシャラは、根を上げたように休憩を求めた。

 「すこしだけ休まないか……」
 「休まない」
 聞く耳を貸すことなく、シュオウは足を止めずに木々の間をすりぬけていく。

 「どうして、そこまでして急ぐ必要がある」
 きれかかった息でシャラはそう抗議の声をあげた。
 シュオウは思っていたことを素直に話す。
 「残してきた仲間に、お前の父親がなにかするかもしれない。だから急いでいる」
 「父は────そうだな、あれはそういう事をする人間だ」
 「……かばわないんだな」
 「相手が誰でも、盲目にはなりたくない。父、ア・ザンは惰弱な人間だ。身の丈に合わない出世を望み、それを手に入れてしまったがために苦しんでいる」
 「その憂さ晴らしに利用される側は、たまったものじゃない」

 シャラは自嘲気味に笑った。

 「そうだな。世界には加虐行為に悦に浸る人間もいるのだろう。だが私の父は本来からしてそういう類いの人間ではなかったとおもっている。心根は弱く、他人の心の機微には異常なほど敏感だ。そうして溜め込んだ疲れや苛立ち、総帥という立場を担う心の負担のはけ口として弱者をいたぶるという恥ずべき行為を選択してしまった────でも、無能な人間だと思うかもしれないが、金勘定は得意なんだ。拠点の運営を不自由なくこなせるだけの頭はある。商い人としての人生をおくっていれば、どれだけの金をためたかわからないくらいにな」

 責めるような言葉の奥に、小さくくすぶった温かいなにかを感じた。意識的かどうかわからないが、シャラなりに父親をかばっているのだろう。敵として忌み嫌う自分に対して、理解を求めている。そう感じた。
 「なにを聞いても、俺はあいつが嫌いだ」
 シャラは、うんと一つ返す。
 「正直な言葉をきいたほうが、よほどすっきりとする」

 足を止めることなく進みながら、シャラは独り言のように言葉をつなげた。

 「あれは、娘の身である私自身、心底父であると思えないんだ。身体を動かす事を嫌い、飽食を好み、常に上を目指しているようで、その裏では鬼畜染みた趣味を捌け口としてようやく心の均衡をたもっているような弱い人間。普段からして私は父親の事を父将、と呼んでいる。父である事、そして一国の将たる身分であることを口で言わねば、あの人間を敬うことができそうにないからだ……」

 シュオウは、なにも言わなかった。そもそも、生みの親への記憶がない自分は、父親への思いを零すシャラの話を聞いていても、書に記された物語を目で追っているような感覚しかないのだ。自分にとって父母という存在は、それこそ幻想物語にも等しい。

 シャラの愚痴や吐露される思いを聞きながら、雑念のなかにあるシュオウの眼は、不意にある違和感を察知した。咄嗟に屈み、シャラを制した。
 「あった──」
 地面についた、巨大な引きずったような痕跡を見つけ、シュオウは声を弾ませた。

 「なるほど……お前の目的にも薄々検討がついてきた」

 シャラの言葉を無視して先の茂みにそっと顔をつっこむと、赤黒いキノコが群生する広場があり、そこに巨大なダンゴムシのような形をした狂鬼がいた。この狂鬼は、一度獲物とさだめれば、相手を腹に収めるまでどこまでも追いかけてくる猪突猛進の特性をもっている。硬くて伸縮性に富んだ甲羅に丸まるその姿から、シュオウはこの狂鬼を丸虫と呼んでいた。

 「聞くまでもないのだろうが、あれを連れていくつもりか」
 シュオウは首肯した。
 「あれは突進力があるわりに足が遅い。急な地形の変化にも弱いから、追われても、小回りのきく人間の足なら逃げ切るのにそれほど苦労はしない」

 復讐に興味などない。ただ囚われた仲間達を救い出すために、いくつか考えていた方法の一つがこれだった。思いがけず自由の身になった時、ムラクモへ戻り救出の助力を求めることもまっさきに考えたが、敗戦からいままでろくな反撃行動にもでてこないところをみるに、大国に傭兵まじりの少数の平民達を救い出す事を期待するのは無謀であろうと予想した。つてのあるアデュレリアの公爵を頼るという選択もあったが、それには時間がかかりすぎる。

 「渦視にあれを誘き入れ、混乱に乗じて仲間を救うつもり、か。そうまでして取り戻したいものか、お前の言う、仲間──というものは」
 シャラの言葉にはトゲがある。受け取りようによっては、馬鹿にされたようにも感じた。

 「共に居るから仲間なんだ。離ればなれになってしまったものを、取り戻そうとしてなにがわるい」
 シャラはなおも食い下がる。
 「その仲間とやらは、ムラクモに戻ればたくさんいるんじゃないのか。自身を囮の身にさらすような危険をおかし、敵陣のど真ん中に単身で舞い戻るほどの価値があるのか」

 「……ある」
 「その根拠はなんだ」
 「…………俺の仲間だ。俺が自分で取り返す」
 シャラは呆れたような溜息をこぼす。
 「お前は馬鹿か、と言われたことはないか?」

 シュオウは顔面のすべての部位を下げ、シャラを横目でにらんだ。
 「なにが言いたい」
 「お前は馬鹿だと言いたいんだ。計算のたつ者なら、有象無象のためにこんな危険はおかさない。これが、ムラクモへの安全な帰路を離れ、若くて麗しい公主の誘いを断ってまですることなのか、と呆れている」

 じっとりとしめった視線をおくられて、シュオウは言い訳をする子供のように唇をとがらせた。
 「俺だって、いつもこんな事を考えてなんかいない。ただ、あそこで……敵の中で動物のように檻に閉じ込められた、あいつらの姿を見たら、たまらなく腹が立ったんだッ。取り返してやろうと思ってなにがわるい。常に自分の心に答えをもって生きていないとだめなのか」

 小声での応酬に、互いにムキになっていくのがわかった。尚もシャラが口を開こうとしたのを見て、シュオウはその腕を強く掴む。
 「俺がしようとしている事を止めたくて、言葉を並べているのか」
 ──答えによっては。
 一定の覚悟を持って視線を合わせると、シャラは凜とした微笑みを浮かべ、首を横に振った。

 「いいや。正直にいって、そんなことをやれるものならやってみろという心境だ。猛者がひしめく巨大な砦を、本当にたった一人でどうにかできるというのならやってみせろ。結果がどうであれ、私はそれを見てみたい」

 その言葉に嘘はない、とシュオウは信じた。口元を引き締める。
 足下に転がっている体格の良い石を拾い、颯爽と茂みの中から身を乗り出した。
 「おいッ、腹が減ってるんじゃないか!」

 意味を解さないとわかっていながらも言い放ち、シュオウは持っていた石塊を、丸まった硬そうな背中に投げつけた。岩と岩がぶつかったような鈍い音がして、狂鬼はその身を震わせる。振り向きざまに丸めた背を伸ばしたその姿を見上げて、シュオウはぽかんと口を開いた。どこにしまわれていたか、体の内から長々と手足が伸びていく。左右十本ずつのすらりとした足と、胸から伸びた鎌状の前足は、巨大な灰色の木のてっぺんに届こうかというほど高々と持ち上げられた。
 背筋から、スっと冷や汗がつたう。

 ──成虫。

 今まで愚鈍で与し易いと思っていた丸虫は、子供だったのだ。深界について知識を与えてくれたアマネは、いつも実地での経験を促していたが、あえてこのことを教えてくれなかったのだとしたら、今はそれを恨みたい。

 甲羅の中から不気味な威嚇音をあげながら、ハエに似た頭がもちあがる。赤黒く光りを放つ虫固有の器官である複眼が、じっとこちらを見据えていた。巨大な断頭台のような歯は、シャッシャと小気味よい音をあげながら上げ下げされている。これから行う捕食行動への準備運動をしているように見えた。ゴウと音をあげながら、狂鬼がその巨体を前のめりに突っ込んだ。

 ──まずい。

 シュオウは駆けた。茂みに身をつっこみざま、待機していたシャラに向けて叫ぶ。
 「逃げるぞ!」
 「あッ!?」

 背後から迫り来る豪雨にも似た狂鬼の足音が、手を引いている余裕など微塵もないことを警告していた。ついてこられなければ死ぬだけ。シュオウは爆ぜるように茂みを突っ切った。置き去りにしたはずのシャラは、しかし尋常ではない脚力を活かして一歩前に躍り出る。

 茂みを猛烈な勢いで突破してきた狂鬼は、林立する木々に体をぶつけて轟音をあげながら猛進して迫り来る。
 前を走るシャラは振り返り、抗議の声をはりあげた。

 「私じゃなかったら死んでたぞ!」
 「わかってる。足には自信があると自慢してただろ!」
 「瞬発力には、だ! この足は長く走るのには向いてないッ」
 「知るか、どのみち足を止めたらおわりだ、死にたくなかったらとにかく走れッ!」

 巨大な岩陰も、複雑に立ち並ぶ木々も器用に避けながら、狂鬼はなお迫り来る。狭い場所でもくぐり抜ける事ができる人間の足で、全力で走ってようやく少しだけ距離を置いて逃げ続ける事ができているという、じり貧な状況だった。一歩でも踏む先を間違えば、次の瞬間には胴体が狂鬼の口の中で真っ二つに引き裂かれていてもおかしくない。

 「話が違うぞ──ものすごく機敏じゃないかッ」
 いくつかの言い訳を思い浮かべ、シュオウはそれをすべて飲み込んだ。すでに悲鳴をあげかけている脚で、危険に満ちた深界を全力疾走しなければならない怖さを思うと、これ以上無駄に息を乱すのは得策とはいえない。なにかしらの言葉を期待して併走しているシャラに、シュオウは一言だけ、捨てるように言葉を吐いた。
 「だから、後悔するっていっただろ────」





          *





 ムラクモの敗残兵達が囚われている牢部屋の中は、一種殺伐とした空気が漂っていた。先日に行われていたお祭り騒ぎの日から、ぱったりと水と食料の配給が途絶えてしまい、誰一人様子を窺いにくる者もいなくなってしまったのだ。

 食料と水は、生きるのにぎりぎりの量を供給されていたこともあり、丸一日なにも口に入れる事ができなかった囚人達の不安は頂点に達していた。

 「おい! 飯はどうしたよッ!! ふざけんなよ、おい! 聞いてんだろうが!」

 傭兵あがりの男が我慢に耐えかね、頬のこけた顔に血走った眼で、牢部屋の外にいるはずの看守に向けて声をはりあげた。やがてそれに同調する者らが現れ、鉄格子を叩いて怒号をあげた。

 ボルジは空腹と渇いた喉をなぐさめるため、転がっていた小ぶりな石ころを口に含みながら、ただじっと身をかがめ、彼らの様子を窺っていた。
 しばらくして、あまりの騒音に耐えかねてか、一日ぶりに看守の男が姿を見せた。歓声にも似た声が牢部屋からあがる。

 「ぎゃあぎゃあとうるせえぞ! 昼寝もできゃしねえ」

 短槍を片手に現れた看守が、鉄格子を思い切り叩くと、先頭をきって抗議の声をあげる者が現れた。見ればそれは、周囲の者達からサンジと呼ばれている、シュオウの隊にいた傭兵の男だった。

 「おい、飯と水はどうなってやがる!」
 看守は品なく笑った。

 「お前達に食わせる飯も飲ませる水も、もうない。総帥閣下は近日中にお前達を処分される事をお決めになった。酒会の出し物の一つとして、生かしたまま、総帥自らが生皮をはぐらしい。えっぐいよなぁ……飯がまずくなるから、俺は別に見たかないがね」

 牢部屋はどよめきに包まれた。ボルジは咄嗟に声をあげ、看守に聞く。
 「シュオウは──バ・リョウキと戦うことになっていたとかいう、あの灰色髪のでかい眼帯をした男はどうなった?」

 ざわめきがぴたりと止み、皆が答えを待った。看守はおもしろがるように口を歪める。
 「あの男はな、バ・リョウキ様の寛大なご処置で解放されたよ」

 不安、疑問、怒り、様々な感情の入り交じった喧噪があがった。ボルジは叫び、彼らを制した。
 「うるせえ! …………解放されたって事は、あいつは勝ったのか」

 「はッ、当然負けたさ。あの剣聖バ・リョウキに勝てる剣士なんざそういるもんじゃない。だが良い勝負だったぜ、あの男の腕前は本物だと、あの勝負を見たやつらの間じゃ評判だ。濁り石を持ってる身にしてあれだけの腕があるなら、許しをもらうだけの資格は十分にあるだろう、てめえらみたいな糞の塊とは違ってな」

 看守の男は嘲笑しつつ言って、背を向けた。

 「今頃は無事に逃げ帰ってる頃だろうさ。せいぜい、ムラクモの連中にバ・リョウキ様と我々サンゴ兵の寛大さをといてまわってるだろうよ」

 看守がげらげらと笑いながら部屋を出ると、皆途端に糸が切れた人形のように脱力した。
 誰も口を開こうとはしない。ただ一人生きて外に解放されたシュオウへの、目に見えない嫉妬の炎が揺らめいているのを、ボルジは感じ取っていた。

 突然、牢部屋の中から冷めた笑い声があがった。皆の視線がその笑いの主へ釘付けになる。
 「へッ、ほらな…………あいつはそういうやつなんだよ……」

 憎々しげに顔を歪めて言うその男は、ハリオという名の、あの怠け者二人組の片割れだ。
 ハリオは力なく立ち上がり、痩せこけた顔に影をおとしながら、黄色く濁った目をむいた。皮肉なことに、その表情はここへ入れられてから一番活き活きとしている。

 「俺たちを心配するみたいな事をいっておきながら、一人だけのうのうと生き延びるようなやつなんだよ! どうせバ・リョウキとかいう将軍の靴でも舐めたに違いない。俺たち全員の命をやるから、自分を助けろとでも言ったんだ!」

 根拠のない支離滅裂な言いがかりだった。しかし平素であれば誰も相手にしないであろうその戯れ言に、死刑を宣告された飢えた虜囚達はじっと耳を傾けている。中には同調するように強く頷いて合いの手を入れ始める者までがいた。

 「いつもそうだったんだ! まわりを陥れて、なんでも自分の手柄にして、のうのうと出世までしやがった。いいか、お前らよく聞けよ、おれはな──」

 ハリオが言葉を続けている最中に、その顔をボルジの拳が強烈に殴りつけた。前歯を折りながら汚い地面の上に倒れ込んだハリオは、白目をむいて気絶した。相棒であるもう一人から、心配する声があがる。

 強烈な一撃でハリオを殴り飛ばしたボルジに、皆の視線が集まった。ボルジは血で汚れた拳を握りながら、気絶したハリオに言う。

 「あいつがてめえの言うような野郎ならな、俺は今、生きてここにいねえんだよ」

 ボルジは押し黙って様子を窺う皆に向け、怒鳴り声をあげた。

 「みっともねえ泣き言を喚きたいやつは前へでろ、俺がしばらく眠らせておいてやる! あいつは待ってろと言ったんだ。てめえらは黙って待ってりゃいいんだよ、ばかやろうどもが」

 飢えた猛獣のような眼で睨みを効かせるボルジと、目を合わせようとする者は誰もいなかった。






[25115] 『ラピスの心臓 初陣編 第十二話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:27
     XII 英雄の仕事










 夜の静けさに夢を見る深界の拠点を、突如鳴り響いた轟音が叩き起こした。
 夢現の世界を漂っていたア・ザンは、はね起きて反射的に裏返った声をあげた。

 「な、なんだぁ!?」

 部屋の中は減光処理をされた夜光石の灯篭が放つ淡い青の色に照らされるのみ。おそらく今はまだ深夜のただ中であろう。
 ア・ザンは寝間着のまま、部屋履きに足をつっこんで扉の外に向けて怒鳴った。

 「なにがあった!」
 見張りに立つ従者の報告よりもはやく、外から早打ちされる警鐘が鳴り響く。
 「む、ムクラモの夜襲か?!」

 血相を変えた従者が飛び込みざまに叫んだ。
 「き、きッ──狂鬼です!! 突然現れた狂鬼が、城壁を突破して敷地内に入り込みました!」
 ア・ザンはその一報を聞くや、顔の中心に渦でも生じたかのように顔を歪めた。

 古来より、狂鬼という括りによって総称される化け物達が、人の造った白道という安全圏に侵入したという話は、それほどめずらしいものでもない。だが、狂鬼はその習性として、高純度の夜光石を嫌うため、頻繁に起こりうる事、というわけでもなかった。深界に根を下ろし、拠点を設けてそこで住まう人々にとって、極まれにおこりうる狂鬼の襲来は、一種の天変地異に似た事象として畏怖の対象となっていた。

 「ええい! ならばさっさと常駐の警備兵を集めて退治してしまえ!」
 「あの、ですが……」

 従者の顔は青ざめている。それがなにより、言葉一つでこの事態を打開する事が難しい事を語っていた。

 「で、でかいのか……?」
 額に脂汗を浮かべる従者は小さく二度頷いた。
 「最悪の場合、渦視放棄のご検討も必要になるかと……」
 固唾をどうにか飲み下し、ア・ザンは目を泳がせた。

 先の小戦での勝ちにわき、義父である王が、近日中に慰問に訪れるという報告があったばかりの今、この渦視を失うという事になれば、娘婿の勝ちを祝おうと腰を上げた王の顔に恥辱の泥を塗りたくる事になる。宮中で暇を持てあました者達が、慣れない勝利に浮かれて城を一つ失った成り上がり者として、多彩な言葉を労して詩歌のごとく艶やかに、自分を笑いものにする声が、今すぐにでも聞こえてきそうだった。

 屈辱を想像し、歯ぎしりがおさまらなかった。
 「総帥閣下、ご命令を!」
 急かす声に、ア・ザンは怒鳴った。
 「だ、だまれ! とにかく、撤退はありえんのだ」
 「であれば、ただちに後陣に援軍の要請を!」

 前回、戦の前に多方からかきあつめた人員は、拠点の台所事情によりすでにほとんどが返されている。現状、渦視にある兵力は平常時に城を守るのに必要とされる最低限の人員しかいない。たとえ、ムラクモ領であるオウドが全軍を寄せてきたとしてもはね除けるのに十分な人員は確保されているが、現状のような事態は、まるで想定外の出来事だ。

 本来、一秒を争って伝令の早馬を出す状況。だが、ア・ザンの思慮のほとんどは、合理を捨てた保身への道筋を欲して動いていた。

 「だめだだめだ! この件は内々に納めなければ……どのみち外からの助けなど間に合うものか。どれだけの犠牲を払おうと、侵入した狂鬼を現有の兵力で始末するッ。寝台を温めている将兵らもたたき起こして討伐に向かわせろ! 階級、生まれ、役職を問わずすべての者を働かせるのだ!」

 「閣下の身辺警護にまわす人員の確保だけは──」
 「そんなもの最低限でかまわん! 入り込んだネズミを駆除さえすればよいのだ。この部屋を本陣として指示をだすぞ。まずは着替えを──」

 途中でぴたりと言葉を止めたア・ザンの脳裏に、あのシャノアの老将のしかめっ面が浮かんだ。

 「──そうだ、バ・リョウキに協力させろ! シャノアが寄越した星君は少数だがまごうことなき精鋭揃い、うまく使えば退治に役立つぞ。あの老いぼれは私に借りがあるはずだ、断りはすまい、いそげぇ!」
 「は、はいッ!」





          *





 轟いた異音を耳にしたバ・リョウキとリビは、一切の迷いなく跳ね起きていた。
 「聞いたな」
 寝起きに問うたバ・リョウキに、寝癖に髪を跳ね上げたリビは即答した。
 「はいッ」

 うっすらともっていた夜光石の灯りに布をかぶせて覆い隠す。はいた靴の紐をしめ、シャノアの伝統的な軽鎧をまとい、剣を身につける。黙々と整えた戦支度を終えると、薄暗い部屋の中でリビが沈黙をやぶった。

 「夜襲でしょうか」
 「さて──」
 警鐘が鳴った。その音は激しく早い間隔で絶え間なく続いている。
 「──ただ事でないのは間違いない」

 慌ただしく踏みならす足音が、外の廊下から聞こえてくる。足音の主は、勢いそのままにバ・リョウキの泊まる部屋の戸を開け放った。

 「無礼だぞ!」
 リビは叱責の怒鳴りをあげた。
 激しく息を切らせて入ってきた男には見覚えがあった。ア・ザンの身辺に使える従者の一人だ。

 「も、申し訳ありません!」
 慌てて平伏し、激しく呼吸を乱した様子の従者に、バ・リョウキは落ち着きを促すため、ゆっくりと咳払いをした。
 「なにがあった」
 「は、はいッ、狂鬼! 狂鬼です! 虫が拠点内に入り込みました」

 バ・リョウキは眉をひそめた。
 「狂鬼、だと」
 ア・ザンの従者の唾を飲み下しながら深く頷いた。
 「総帥はシャノアの助力を願っております! なにとぞ、討伐にバ・リョウキ様のお力をお貸しくださいッ」

 一瞬視線をおとしたバ・リョウキの横顔を、リビがじっと見つめていた。
 「……当然のことだ。同盟の危機、このバ・リョウキが陣頭に立ち、ご助勢つかまつる、とア・ザン殿にお伝え願おう」

 「あ、ありがとうございます! ありがとうございますッ、ただちに伝えてまいります」
 飛び上がらんばかりに礼を言った従者は、その顔に偽りなく喜びと安堵の色を浮かべて、戸を開け放ったまま走り去っていった。

 「叔父上ッ」
 若いリビは、血気盛んにその目に戦士としての意気を宿している。
 「よし、借りを返す機会が舞って訪れた。討伐に加わるぞ、覚悟はいいな」
 「はい!」
 リビは力強く手のひらと拳を叩き合わせた。
 「まずはこの目で敵を知る必要がある」

 頷いたリビと共に廊下から通じる小さな露台に出たバ・リョウキの目に飛び込んできたのは、広い中庭で咆哮をあげながら歩き回る大きな虫の姿だった。蛇腹形をした黒くて大きな甲羅を背負い、そこから伸びた長い多足と、鋭く重そうな鎌状の両手を持ち上げて、槍を持って足下に群がるサンゴの兵達を根こそぎに蹂躙している。

 「あれの相手をするのです、か……」
 思いの外大きく膂力に優れ、そして機敏に暴れ回る虫の姿を見て、リビは若干怖じ気づいたように顔の色を低くした。

 「……厄介だな────ん?」
 眼下に見る光景に、ふと違和感を覚えた。暗がりのなかにあって、ひときわ目立つ銀色の頭をした男が、中庭の隅を駆け抜けていく。バ・リョウキは思わず、口の中いっぱいに沸いた生唾を飲み込んだ。

 視線を追ったのか、リビもまたその人物に気づいて声を漏らす。
 「あの男?!」

 バ・リョウキは渇いた唇を濡らし、笑みを浮かべた。
 「騒ぎに乗じて戻ったのか。目的はわからんが、並の者のとる行動ではないな。やはりこのバ・リョウキと差しで渡り合える者」

 手に汗がにじんでいく。言葉に言い表せないほどの高揚感で、身体中の血がわき上がるこの感覚。まるで小僧が祭りを喜ぶような、純粋かつ幼稚なその思いが、老いた身に浸透していく。
 ──鬼神の導きか。
 無意識に撫でた首筋の傷が、じん、と熱をもった。

 「叔父上、まさか────今は人一人にかかずらっている時ではありませんッ、渦視の危機を助け、失った信用を取り戻す時です!」
 知ったような甥の言葉が耳から入り、澄み渡った濁りのない想いに水を差した。

 バ・リョウキは必死の形相でリビを睨みつけた。
 「口が過ぎるぞッ。私は先に現場に向かう。お前は隊をまとめ、状況を理解させた後に早々に後に続け──」
 「あッ!?」
 背後から呼び止める甥の言葉も、右から左へ素通りさせ、バ・リョウキは全力で廊下を駆けた。





          *





 突如として現れた狂鬼の襲来により、屈強なる深界の城塞は惑乱状態に陥っていた。その根源を呼び寄せた張本人たるシュオウは、狂鬼が高い城壁に突撃したその瞬間に、崩れ落ちた瓦礫の間をぬうようにして、渦視への侵入を果たしていた。

 激しく警鐘が鳴り響く中庭を、力を振り絞って駆け抜けた後、倒れ込むようにして兵舎の片隅に身を隠し、壁に背をもたれかけた。

 長時間走り通した結果、疲れきった身体は浅い呼吸を繰り返し、体液がすべて外にこぼれてしまいそうなほどの吐き気に見舞われる。膝はがくがくとわらい、もう一度立ち上がれるのか、不安になるくらいだった。

 うごめく無数の人間達の中にその身を投じ、狂鬼は本来の目的であったシュオウをすっかり見失い、目についたサンゴの兵士達を見境なく襲っている。

 夜の深層につつまれた空を見上げ、考えていた以上に時間が経過していたことを知った。狂鬼を引きずりだすため、深界を駆け抜けてきたが、場所が場所だけに、そこはただまっすぐ進む事のできる世界ではない。あれこれと重なる危険を避けるための順路を選んでいるうち、時間と体力を思った以上に削ってしまっていた。

 ──あいつは。

 湯気がのぼる頭を動かすが、共にここまで走り通しだったア・シャラの姿がどこにもなかった。城壁に狂鬼を誘い込むその瞬間までは隣で肩を揺らしていた記憶があるが、その後のことは自分の面倒をみるだけで、あの少女にかまっている余裕などなかったのだ。彼女の無事を心配しつつも、シュオウはさっと目的を切り替えた。



 震える足に鞭を打って向かった先は、敷地の片隅にある地下牢への入り口だった。四方から怒号、悲鳴があがるなか、牢の入り口を警備する二人の兵士は、所在なさげにふってわいたこの事態に戸惑っている様子だ。

 機に乗じ、シュオウは地を這うように駆けた。二人の番兵は、暗がりから迫り来る敵意の塊に気づいている様子はない。あと十歩もなく間合いに入ろうかという時になって、一人がようやく察知して、間の抜けた叫声をあげた。

 「んあ!?」

 全力で詰め寄り、最初に気づいた番兵の頭を掴んで石壁に打ち付ける。その力が完全に抜けた事を知るや、シュオウは呆然として未だ対応しきれていないもう一人の腕を背にまわし、相手が差していた剣を背後から引き抜いて首筋に当てた。横目に見上げるサンゴ兵の眼は怯えに染まっている。

 「鍵は?」
 拘束したサンゴ兵の目線は近くにある掘っ立て小屋を差していた。

 当てた剣を放し、相手が若干ほっとした顔色をしてみせたのは一瞬の事。シュオウは間髪おかずにその顔を強烈に壁に打ち付けた。頭から倒れ込んだ番兵は、その身を微動だにすることなく意識を失った。

 地下牢には鼻を塞ぎたくなるような異臭が漂っていた。家畜小屋にも似たその臭いに顔を歪めつつ、皆が閉じ込められている部屋の前に立つと、ギラついた無数の眼が一斉にぎょろりと向き、どよめきが沸いた。

 「シュオウ、か」
 眼だけで相手を殺せそうなほど鋭い眼光を湛えたボルジが、暗がりからぬるりと顔を出した。

 「全員無事か」
 小さく言った声は反響する。どよめきは歓声へと変わった。大勢があげる声の圧力に、身が縮まる。あらためて冷静な眼で観察するに、牢部屋に詰め込まれたその人数の多さに、若干の不安もわいた。

 「助けを呼んできてくれたのか」
 痩せた顔を見せたサンジが、見たこともないほど柔らかな顔で笑みを浮かべ、そう聞いた。シュオウは首を振って否定した。
 「いいや」
 歓声は再び、どよめきへと回帰した。

 「おい──」
 ボルジに手招きされ、シュオウは鉄格子を挟んで顔を寄せた。
 「──どういう状況だ」
 「狂鬼をここに誘い入れた」
 ボルジは一瞬驚きに目を見開いたが、すぐに破顔した。
 「へッ、どおりで騒がしいと思ったぜ」
 「騒ぎにのって皆でここから逃げようと考えていたけど、少し計算がはずれたな」
 ボルジは唇を目線を上げてじっくりと頷く。
 「数、か。たしかに全員を連れて逃げるにしちゃ多すぎる。歩くのもやっとの怪我人も少なくない」

 牢部屋に幽閉されていたムラクモ兵の数は、中の下ほどの規模の酒場を埋め尽くしてまだ少し足りない程度。これだけの人数分の退路を、この状況で首尾よく用意する事は難儀だ。

 考え込むシュオウに、ボルジはひとつ提案を述べた。
 「とっちまうか」
 「え?」
 思わぬその言葉に、シュオウは顔をあげた。

 「上の混乱っぷりは相当なんだろう。考えなしに外に出て追っ手に怯えるより、騒ぎにのってここの頭を押さえちまうのも一つの方法かもしれねえ。敷地内で人捜しが出来る程度の数もいる」

 「頭、か」
 加虐趣味に愉悦の表情を浮かべるア・ザンの顔を思い出しながら、シュオウは逡巡する。国境の要衝をまかされる高位の軍人であり、サンゴの姫であるア・シャラの父でもある。人質として捕らえ、自由を得るための手形として活用するには十分すぎるほどの価値があるはずだ。

 「……それがいいかもしれない」
 ボルジは首肯する。
 「馬が得意なやつを集めてサク砦に向かわせたほうがいい。期待はできねえが、気まぐれに迎えくらいはだすかもしれないからな」
 その提案も肯定したシュオウは、鍵を取り出してボルジに差し出した。
 「今の状況と、これからの事を皆に」
 ボルジは、しかし鍵を受け取らずに笑った。
 「おいおい、もう誰も俺のことなんて見てねえよ」

 促されて流した視線の先には、じっと不安そうに自分を見つめる男達がいた。彼らの思いを一身に受け止めつつ、シュオウは唇を濡らし、今の状況を伝えた。皆一様に信じられぬ、といった様子ではあったが、時折上から聞こえてくる激しい音と悲鳴が、一応の説得力となって働いたようだ。話が渦視の城主を押さえるという段になったとき、見知った老人、ジン爺がうわずった声をあげた。

 「武器がねえぞ。丸腰で敵だらけの城を歩き回れっていうんじゃねえだろうな」
 シュオウは瞬時に記憶をさらった。
 「城の一階東棟、最南の部屋が小さな武器庫になっていた。まずはそこを目指そう」

 それはシャラにねだってあちこちをうろついた時に仕入れていた情報だった。一応の納得は得られたのか、ジン爺は深く頷いて強い視線を寄越す。
 異を唱える者がいないのを確認し、シュオウが鍵を差した時だった。ボルジが扉の前に立ち突然どすの効いた声で男達に声をかけた。

 「ここから先、自分かわいさの勝手はゆるさねえぞ。頭はシュオウだ、こいつの指示通りにできない野郎はここに置いていく。不満があるやつは、いまここで名乗り出ろ」
 不思議と、ボルジの視線は一カ所へと向いている気がした。しんと静まりかえるなか、彼は振り返って解錠を促した。

 扉を開け放つと、久方ぶりに味わう自由な空気に、皆が顔をほころばせた。一人ずつ出てくる度に、シュオウの肩や腕に触れ、感謝の言葉を残していく。最後にのっそりと部屋の片隅から出てきた見覚えのある二人組、サブリとハリオの両者は、それぞれに複雑な表情を見せていた。サブリは少しやつれた顔に困ったような愛想笑いを浮かべ、ハリオは青アザを浮かべた顔を一瞬だけこちらに向け、無表情に視線を落として皆の後に続いて行った。



 地上に広がる光景に、仮の自由を得たムラクモの男達は、口をぽかんとあけて釘付けになっていた。

 長槍を手に、一団となって突きを繰り出すサンゴ兵達が、狂鬼の丸くて堅い甲羅にごろんと踏みつけにされ、一瞬でその命を散らしていく。その傍らで大きな武器を手に、馬上から虫の長い足を切りつけようと試みる星君兵は、巨大な鎌の一撃に薙ぎ払われ、吹き飛ばされた身体はもはや人としての原形をとどめていなかった。

 城壁の矢狭間から放たれるひょろひょろとした弓矢も、堅い外皮に石粒ほどの傷もおわせることはできていない。火を用いて撃退しようと試みる者らもいたが、狂鬼は炎を恐れない。その効果は微塵もみられず、むしろ目立つ明かりを目印にして、まっさきに火を持つ人間達は虫の餌食となっていった。

 はじめ、多く耳に触れていた怒号は、今となっては悲鳴のほうが勝っていた。戦場においてはたくましく敵兵を屠る男達も、甲高い声で助けを求めて泣き叫んでいる。望んでいた状況とはいえ、シュオウは一方的になぶり殺しのめにあっている彼らの悲鳴に唇を噛みしめた。

 突如、狂鬼はけたたましく吠えた。両手の鎌を持ち上げて威嚇の構えをとる。中庭や城壁で武器を構える者達の視線は、この巨大な侵入者に釘付けとなっていた。

 「いまだッ」

 まとまった人数が広場を駆け抜けるには絶好の機会だった。シュオウは指標となるべく先行して駆けた。続け、とボルジが叫ぶ。篝火によって落ちる建物の影を踏むように進む一団の足は、期待していたほどの早さはない。けが人を両脇に抱えて走る者達もまた、少ない食料で狭い部屋に長時間押し込められていたせいで、体力を大幅に消耗しているのだ。そんな彼らにこれ以上急げ、とは言えなかった。

 中庭の中央にある、もはや原形をとどめていない立像の横を通り抜け、向かい側の建物の入り口まであと少しというところで、シュオウは見覚えのある長剣を手に握った老人の姿を見つけ、足を止めた。

 ──見つかった。

 同様に足を止めて訝るボルジが、顔をよせて口を開く。
 「おい、あれは──」

 遠目に見る老兵、バ・リョウキの口元には剥きだしにされた歯が見えた。笑っている、とシュオウは直感する。だがその姿に好々爺としての面影など、かけらすら見いだす事は不可能で、見開かれたまま一時も閉じることのない双眸には、無数の赤い川を浮かべた白眼がぎらついていた。

 「走れ」
 ボルジの顔を見ることなく、シュオウは言った。
 「けどよ」
 「あの人の目的は俺だけだ。皆を先導して脇を通り抜けろ」

 一瞬の惑いの後、わかった、という声が背後からかかった。一団が足を前へ出した音が聞こえた瞬間に、シュオウは佇むバ・リョウキに向かって前のめりに走り出した。
 対するバ・リョウキの口元が動き、なにかを叫んだ。それは傍らで大騒ぎを繰り広げている巨虫とサンゴの兵士らがだす騒音にかき消されるが、凝視していたシュオウには、バ・リョウキがなにを発したか、理解していた。

 「勝負」
 読み取った言葉を口にする。

 血気で猛るバ・リョウキとは対照的に、シュオウの心は冷め切っていた。
 紐で結んだように一直線に走り寄る。シュオウは腰の剣を抜いた。その手を真横にしならせて、思い切り回転をかけながら剣をバ・リョウキに向かって投げ放つ。
 間合いはすでに、互いの声が耳に届く距離にある。一本限りの剣を投げ捨てたその行動を見て、バ・リョウキの顔が憤怒の色に染まった。

 「剣を投げ捨てるとは……見下げ果てたッ、貴様も一介の剣士であろうが!」
 回転を続ける剣が、バ・リョウキの目の前に届く直前、シュオウは叫んだ。
 「ちがいます!」

 その一瞬、シュオウは剣術のために割いていた思考、感覚のすべてを捨て去った。無垢なる自分に立ち返り、一つ大きく息を吐く。

 バ・リョウキは回転をつけて迫る剣を、自身の長剣で受け止めた。その腕力と恰幅たくましい良剣のつくった壁の前に、回転する剣は金属音をあげて軽々とはね飛ばされる。その刹那を見極め、シュオウは脚に力を込めてバ・リョウキの目の前に躍り出た。そこは長剣を握るバ・リョウキにとっては必殺の間合い。振りかざされた剣の元、失望に満ちた怒りの顔が自分を見下ろしている。シュオウはしかし、身をかがめ背を向けた格好でさらに一歩を踏み込んだ。

 「ぬゥ!?」
 予想を越えた行動にバ・リョウキは戸惑い、しぼるように声を漏らした。

 ──すごい人だ。
 生まれ持っての眼力をもって、間近に見たバ・リョウキに対し、シュオウは改めてそう思った。見た目にある老いが、すべて飾りであると思わされる。自分との戦いによって痛めているはずの片足は、それを忘れさせるほどしっかりと大地に根を生やし、揺らぐことのない体幹は、目の前に立つ人間がどれほどの修練を積み重ねてきたかを如実に語っているような気がした。

 不意をつき、シュオウは手負いのバ・リョウキの足の膝を蹴り飛ばした。すでに振り下ろされている剣の勢いはそのまま。しかし、屈強なる老兵は苦痛に顔を歪ませていた。

 痛みという感覚は、そこから抗いがたい反応を生じさせる。命の危機を察知した途端、保守のためにたとえ一瞬であれ、肉体は守りのための動作を優先させるのだ。そしてそれは予測しうる行動となって現れ、見極めればそれは相手を制するための明確な道筋となる。

 バ・リョウキが見せた隙は一瞬だった。並の者であれば患部を抑えて転げ回っていてもおかしくない状況で、それだけの胆力があるのはさすがといえる。しかし、達人の生じる隙は一瞬であれ、勝敗を決する重要な隙間として機能する。

 並の者が感知することすらできないであろうその刹那。シュオウはバ・リョウキが一瞬の痛みに堪えきれず、腰をわずかに浮かせたのを見逃さなかった。前のめりになるバ・リョウキの腹を背に負い、剣を握る手首を掴んだ。降りてくる力をそのまま流し、かがめていた腰をあげて、腹を背負ってバ・リョウキの身体を宙へと浮かせる。足が完全に中空に放り出された所で、シュオウはさらに身体をねじって真逆を向いた。流されるまま落ちてくる肘を肩に当てると、グジャっと鈍い感覚が伝わり、獣の断末魔にも似た悲鳴が聞こえた。強く握りしめられていた剣を落としたバ・リョウキは、ぷらりと力を失った右腕をかばいながら、地面に背を打って転げた落ちた。

 すかさず、シュオウは仰向けになり苦悶の表情をにじませるバ・リョウキに詰め寄る。左太ももを掴み、膝蓋骨に自身の膝を乗せ、重を用いて圧をかける。想像を絶する痛みに絶叫したバ・リョウキの声が、突然に止んだ。見れば、その顔は白目を剥き、青ざめた顔のまま気を失っていた。

 老いてなお健常だったバ・リョウキの左足は、すでに立ち上がるための力を失っていた。
 向き直ると、先を行くはずの仲間達は無防備に足を止め、呆然とこちらに視線をよこしている。シュオウは彼らを促すため、黙って入り口に向けて指を差した。





          *





 様々な含みのある視線が、合流したシュオウに注がれていた。
 ボルジは笑って声をかけたい衝動を抑え、渋い表情のままシュオウと肩を並べて兵舎の中へと足を踏み入れた。外とは対照的に、建物の中は静まりかえっている。警備のために常駐している者らの姿もないところを見るに、かなりの人員が狂鬼の相手をするために駆り出されている様子だった。

 武器庫のある南側の部屋をめざし、先頭をきって走り出したシュオウが途中に見かけた階段を見て、ふと足を止めた。

 「どうした?」
 聞いたボルジに、シュオウは階段を見つめたままつぶやく。
 「思い出した──」
 言って、階段に足をかけた背中を呼び止める。
 「あッ、おい!」
 「まっすぐ進め! 少しまかせる」

 振り向くこともなくそう言い残して、階段をかけあがっていったシュオウを呆然と見送る面々に、ボルジは活を入れた。
 「足を動かせ! ボケっとつったってんじゃねえぞ! こっからが正念場なんだ」
 追い立てるように手で行けと促し、ボルジは小走りで駆けていく彼らの後ろについた。
 前を行く者達が、顔を合わせてひそひそと交わす話し声が聞こえてくる。
 「さっきのジジイ、ありゃバ・リョウキだろう」
 バ・リョウキの名は世に轟いている。国を違えど、その人物が繰り広げた数々の名勝負や逸話は枚挙にいとまがなく、剣術一つで国の顔になるまでにのし上がったその名は、生ける伝説の域にまで達しているといっても過言ではない。

 「あいつ、あのバ・リョウキを一投げで倒したってか?」
 「でもよ、たしか勝負して負けたって話だったよな──」
 「………………」

 皆、それぞれになにかを噛みしめるように黙りこくった。
 ボルジは彼らの後ろでひっそりとほくそ笑んだ。シュオウという人間に対する彼らの驚きが、まるで自分のことのように誇らしい。先日まで、一人生きて解放された事をに恨みがましい眼を向けていた連中に、ほら見ろ、と声を大にして言いたい気分だ。

 「行き止まりだ」
 先頭を行く者の声がきこえ、一団はさっと足を止めた。塊となって廊下を塞ぐ人垣をかきわけながら前へ出ると、突き当たりの部屋に半開きになった武器庫らしき部屋があった。中に人気がないことを確認して覗くと、多少数を減らしてはいたが、人数分を確保して余りある量の武器がびっしりと詰め込まれていた。

 ボルジは武器を選び、それぞれに手渡した。狭い屋内でも使えるよう、取り回しの良い短刃の剣や槍、小ぶりな木板に皮を貼った軽い盾を全員に行き渡らせる。

 団体で動くのは敵と遭遇したときには心強いが、狭い建物の中では効率も悪く、ムラクモの輝士に相当する彩石を持った人間と遭遇してしまった場合、一網打尽にされる危険もはらんでいる。そうした判断のもと、ボルジは三人を一組として隊を編成し、それぞれにしらみつぶしに部屋を探させる事を決断した。同時に、馬を得意とする者らを自薦させ、彼らを厩舎へ向かわせる。うまくいくかは賭けになるが、この事態を味方に知らせるためには必要な一手だった。

 「足に自信がないやつは出入り口を見張ってもらう。身を潜め、それらしい人間が外に出たら知らせをよこせ」

 けが人や体力の衰えが酷い者達にも仕事をあたえ、全員に持ち場を理解させた。自分が思いつく限りのことはした、という自負の元、ボルジもまた剣を手にし、号令をかけて長い廊下を駆け抜けた。

 行く手の先に、慌てて支度をしてきた様子の若いサンゴ兵がいた。その男がどたばたと歩み寄ってくる集団に気づき、大きく口を開いたその刹那、男に飛びかかって押し倒したボルジは、口を塞ぎ心臓を目がけ、剣を二度、三度と突き立てた。





          *





 覚えのある堅牢な牢門の前は、がらんとして人気がなかった。夜とはいえ、ここには少なくとも三から四人は見張りについていたはずだ。屋外で暴れている狂鬼がもたらした副産物として、シュオウは穏便に牢部屋へ続く門の前に立つことができていた。

 脇の壁に無造作にかけられた鍵を拾い、中へ入る。暗がりの中を踏みしめながら、少し前まで自身がすごしたそこを、はじめて外から落ち着いた眼で観察した。通路のわきには拷問にかけるための、使い方もよくわからないような趣味の悪い道具が、手入れもされず、こびりついた血の跡と共に散乱している。

 ここへ入れられた者の多くは、二度と外の空気を味わうことなく死んでいったのだろう。ここから連れ出され、自由を得た後に、また自分の意思で足を踏み入れている今を、シュオウはどこか自虐的な心地で楽しんでいた。

 奥の部屋を覗くと、目的の人物はいた。監禁されていた間、なにかと口を交わしていた相手、南山の出身でガ族という滅亡した部族の生き残りを自称していた男、シガは最後に見たときとさして変わらぬ様子で、両腕を吊されたまま、ぐったりと頭を下げていた。
 牢を蹴り、シュオウはわざと大きな音をたてる。

 ゆっくりと顔をあげたシガの虚ろな瞳が、天井の隙間から漏れ落ちてくる月の明かりで浮いて見えた。

 「夢、か」
 寝ぼけた様子で聞いたシガに、シュオウは黙って首を振って否定した。

 「なんでおまえが……」
 はッとして、シガの眼が見開かれる。

 「ジジイとの勝負はどうなった? 負けて、また連れ戻されたってところか──」
 しかし、シガはすぐに自分の言った言葉の矛盾に気づいたように、
 「──そんな様子じゃねえな」
 シュオウは誰に連れられているわけでもなく、一人自由なまま立っている。

 シガは不愉快そうに舌打ちをした。
 「ち、めんどくせえ……言えよ、なにがどうなってやがる」
 「狂鬼の襲撃があった。今、外は大騒ぎの真っ最中だ」

 シガはいまひとつ実感を持てない様子で訝った。ここは特に造りが厳重にされているためか、外の喧噪は届きにくいようで、なにも知らなければ、いつも通りの静かな夜としか思えないのだろう。

 「うそくせえ、と言いたいところだが、そうやって余裕ぶってるところからすると、その大騒ぎってやつはよっぽどなんだろうな」
 シュオウは他人事のようにさっぱりと頷いた。
 「ああ」
 「それで──」
 シガの眼が鋭さを帯びた。
 「──なにをしにきた。自由を見せびらかせて笑いにきたかよ」

 皮肉っぽくいうシガに、シュオウは手の内に忍ばせていた鍵を見せる。それを見て、シガはより一層険のある視線を深くした。

 「……俺はな、善意ってやつにはほとほとうんざりしてんだ。善人面で親切を寄越す連中も、心の底ではかならずなにか見返りを期待してやがる。そうでなきゃ、助けるふりをして次の日には鎖につないで牢獄に押し込めるんだ。きれいごとはごめんだ。なにが欲しい、なにをすれば俺をここから出す。言え」

 露骨に不信な眼を寄越すシガに、シュオウは小細工なしに言葉を選んだ。
 「俺はこの騒ぎに乗じて仲間の無事を確保したい。そのために、ここの主の身柄を人質として手に入れるつもりだ」

 シガは行き場のない憤懣を押し込めた苦々しい顔をつくった。
 「あのブタかッ」

 共に囚われていた数日間、シュオウはこのシガからうんざりするほど腕っ節を自慢する武勇伝を聞かされていた。名の知れた軍人の頭を一撃で砕いただの、五十人を越える追っ手をすべて殴り殺しただの、とにわかには信じられないような話ばかりだったが、並外れた体格と、手袋によって隠されている彩石を見れば、それが一応の説得力ともなっていた。だが、ア・ザンに短剣の先を向けられただけで泣き叫んでいた姿を見た後では、いまいち納得がいかなかった。

 「お前はあの男に恨みがあるだろ。捕まえて、自分がされたように牢に閉じ込めたくないか」
 飢えた猛獣のような強い眼がシュオウを貫いた。
 「殺してやりてえよ! わかった、俺を出せ! 手伝ってやる。あの野郎の足を引きちぎってでも、ここに押し込めてやる!」

 血気盛んに吠えるシガに、シュオウは冷めた目を向けた。

 「この状況で仲間は一人でも欲しい。でも、お前は本当に役に立つのか」
 「なにが言いたい……」
 熱を帯びていたシガの声が途端に冷めた。

 「尖ったものを見せられただけで泣き叫ぶようなやつが、本当に役に立つのか、と言いたい」
 シガは突如、うろたえたように視線を泳がせた。
 「ちが、あ、あれは!」
 「無理を強いるつもりはない。修羅場をくぐり抜けるだけの度胸がないのなら、ここに入っていたほうが安全だろ」

 シガは恥辱をごまかすように叫んだ。

 「ふっざけんじゃねえぞ! 拘束さえされてなきゃな、誰があんなもんに怯えるかよッ。そりゃ、ちょっと……いや、少し……は苦手かもしれねえが、両腕が自由ならそんなもん屁でもねえんだよ!」

 興奮して喚きちらしたシガと、しばし視線を交わして、シュオウは鍵を鉄扉に差し込んだ。きしむ戸を開け、中に入り、シガの両腕を縛りあげている拘束具を調べる。が、それはちょっとやそっとの事で外す事のできるようなものではなかった。どちらにも鍵穴はあるが、今手にしている物とは、あきらかに大きさが違う。入り口にはこの鍵以外なにもなく、おそらくこれは、ア・ザン自身が管理しているのだろうと、あたりをつけた。

 手近な所に、拘束具を破壊するための道具も見当たらず、頭をかくと、シガはおもむろに自身の左手を見て言った。

 「封じを──手袋をはずせ」
 「そうか」

 シガの目的を理解したシュオウは、その左手にある輝石ごと包み込んでいた手袋に手をかけた。テラテラとした感触の手袋は、きつく手に吸い付くようにはまっていたが、はじから丸めるようにしてようやくそれを脱がすと、紫色に変色したシガの左手が現れた。その甲には白熱する太陽のような色をした輝石があった。

 手袋をはがした途端、シガは腕にはめられた拘束具ごと、左右の壁から垂れる鎖を引っ張りはがした。金具が打ち付けられていた石壁ごと、それをもぎ取ったシガは、腕輪から伸びる鎖を引きちぎり、たしかめるように目の前で両手を握った。


 「くそッ、痺れが──」
 言って立ち上がった姿は、巨木でも生えたようだった。背が低いというわけでもないシュオウからしても、見上げなければ目を合わせるのも難しい。

 体をあげたシガは開いた戸を無視して、鉄格子を掴み、うなり声をあげながら、堅い二本の鉄棒を左右に引っ張り、ぐにゃりと曲げて通り道を作ってしまった。自称していた話にそぐわぬ怪力だった。

 「なまってやがる」
 シガは歯を食いしばって自身の両手を見つめていた。

 シュオウは行儀良く、鍵の開いた戸をくぐり出て、シガの前に立つ。
 「行けるか」
 シガは渋い顔を向け、
 「従って動く気はねえ。俺は俺でやらせてもらう」
 約束違いだ、と言いかけた言葉を飲む。たしかに、命令に従うという誓いはとりつけていなかった。

 「わかった。でも──」
 言葉を遮り、シガは強く握った拳を見せた。
 「わかってる。あのブタを見つけたら、生かして捕まえておきゃいいんだろう」
 頷いたシュオウに、シガは邪悪な笑みを浮かべて見せた。
 「とりあえず、生かしてはおいてやる」
 恨みをふくんだ濁った眼をみて、シュオウは安堵を覚えた。結果がどうなるにしろ、この男が中から暴れれば、目的のために幾分か利を得られるはずだ、と。

 



          *





 「ばァかが」
 そそくさと牢を後にしたシガは、自身を助け出した男をさっさと置き去りにして、廊下を駆け走りながら舌を出した。

 押し売りの恩に報いるつもりはない。

 あの男は、シガがア・ザンに対して猛烈な恨みを抱いていると踏み、それを利用しようとしていた。それはいいが、シガはすべての利を吐き捨ててまで執着するほどの値を、ア・ザンにつけてはいなかった。

 廊下に点在する窓から外を覗くと、巨大な虫がお祭り騒ぎのように大暴れを演じていた。その尋常ならざる状況を見て、シガはしばし呆然と立ち尽くした。 

 「おいおい……まじかよ」

 平素にはそこら中にいた兵士達を見かけないのも無理はない。あの男が難なく牢に侵入できていた段階で、ある程度その話に真実味はあったが、実際に見るまでいまいち実感の持てない話だったのだ。

 かたまっていた顔をほぐし、シガは笑った。ここを根城としている者達にとっては一大事。しかしここから逃げ出したい者にとっては、これほどの好機は千載一遇だ。

 シガはその行き先をア・ザンの元ではなく、厩に絞っていた。そこには、自分がこの渦視に招かれた時に預けたままとなっている〈三脚〉がいるはずだ。

 階段を降りてすぐ、一人廊下の片隅で、震えて膝を抱えている兵士がいた。まだ若く、体格も頼りなく、一目で新前とわかる情けない風貌の男の襟首を片手で掴み、足が浮くほどまでに持ち上げた。

 「うああああ」
 「厩はどこだあ!」

 むき出した歯を見せて怒鳴り散らすと、男は怯えて悲鳴をあげた。肌の色を同じくしているとはいえ、しばらくのあいだ囚人としてすごしていたシガの風貌を見て、仲間ではないとすぐに気づいただろう。

 「あッ……あ……」
 震えた指が示した方を見るが、シガは違うと怒鳴った。
 「雑魚の馬を置いてる所じゃねえ。ここの総帥の馬やらを管理してる特別な厩舎だ!」
 「ひッ」

 ぶるぶると指を揺らしながら、今度は真逆の南東の方に向いた指を見て、シガは男を掴み上げたまま、そこへ向けて走り出した。

 外へ通じる石畳の廊下を抜けると、軍旗を掲げた立派な造りの木造の厩舎の外に、二人の番兵が立ち尽くしていた。彼らの目が自分を捉えた一瞬の間に、シガは掴んでいた男を前へと盛大に放り投げた。不意の事態に硬直した番兵達に、長い手足をいかして詰め寄り、左右の顔面に右の拳を一発ずつ打ち当てた。殴られた番兵達は一瞬で意識を失い、背中からその身を地面に横たえた。

 巨大な引き扉を開けて見た厩舎の中は、中央の天井から吊された、高価な夜光石の明かりで満たされていた。左右に並んだ馬房には、見るからに高級な馬たちが入れられ、外から聞こえてくる喧噪に怯えて不安そうに頭を振っていた。管理が行き届いているようで、動物特有の糞尿の臭いはほとんどしなかった。

 「な、なんだ、おまえはッ」

 あきらかに戦闘員ではない初老の男が厩舎の奥から走り寄ってくる。厩番だろう。シガは問答無用で走り寄って、その首を掴み上げた。

 「俺の三脚はどこだッ」
 「な、なにをッ……ここがどこだか──」

 シガは掴みあげた手に力を込めて締め上げた。厩番の男は喉をかきむしるように暴れ、青ざめた顔で苦しげに喉を鳴らす。

 「聞かれたことだけ答えろ」

 怯えに蒼白となった眼が向いた方角は、厩舎の最奥の壁が設けてある隔離された部屋だった。厩番を掴んだまま、向かったその先で見た光景を前に、シガは絶句した。
 よく知った大きな瞳に生気はなく、白く濁って微動だにしない。くたくたに痩せ衰えた体には重そうな鎖が幾重にもまかれていた。
 力なく腕を下ろすと、拘束から逃れた厩番の男は、喉を押さえて激しく咳を吐いた。

 「なんで……だよ……」

 ア・ザンは三脚を欲し、その情報を求めていた。いくつもの国から目をつけられていたシガをかくまう振りをしてまで呼び寄せて、生殺しの状態に放置し、希少価値のある三脚の捕獲法を知ろうとしていたのだ。だからこそ、手に入れた三脚の命には気を配るだろうと、シガはそう信じていた。
 這って逃げようとする厩番の服を踏むと、怯えきった悲鳴が男の喉から漏れた。

 「なんで殺した」
 淀んだ冷気のように、静かに重く問うたシガの言葉に、厩番は見上げてぶるぶると頭を振った。
 「こ、ころしてないッ、やたらに暴れるし、ろくに餌を食わなかったんだ」
 「なんで、おれを呼ばなかった」

 厩番は必死に首をふる。

 「し、しらないよ! だいたいあんた誰なんだ!? この三脚は突然連れてこられて面倒をみろといわれただけだ。俺は何度も言った、弱っているからなんとかしないと死んでしまうって! だがア・ザン様は知らん、まかせるとだけ言われて……どうしようもなかった! 馬のことしか知らない俺に、これいじょうどうしろッ──」

 ア・ザン。その名を聞いた途端、頭の奥深くの血が沸き立った。冷静な思考に霞みがかかり、理性が根底から消し飛んでいく。
 振り上げられた拳は、厩番の顔面に深く突き刺さっていた。その顔は、もはや元の形もわからない。体液に汚れ、折れた歯が食い込んだ拳を突き上げて、シガは外で暴れる狂鬼にも劣らない怒りの咆哮で一帯の空気を震わせた。





          *





 シャノアの猛将バ・リョウキの血族者であり、その後継の立場にあるバ・リビは配下の星君達を作戦室に集め、装備の支度と各人の状況把握を進めるべく動いていた。
 「樹将はいずこへ」
 一人が口火をきった問いかけ。本来彼らを率いるべき立場にいる人間の不在を、他の者達も耳を寄せて知りたがった。

 「将軍は単身、すでに現場に赴いておられる。サンゴ兵らを率いて討伐に参加されている」
 ──はずだ。
 リビは言ってから、心中でそっと付け足した。

 シャノアの星君らの間に、おお、とやる気に満ちた声があがった。
 「では、我々もすぐに外へ! 樹将に続かねばッ」

 隊を鼓舞する声と共に、張りのある空気が部屋の中に充満していく。しかし、リビは手を叩いて彼らに落ち着きを求めた。

 「入り込んだ虫の危険度は驚異に値する。今回の敵は、烏合の衆であったオウドの兵とは別格だ。連携をとり、相応の手段を講じねば、討伐は難しいだろう」

 「策がおありですか」
 問うた一人に、リビは仏頂面を返した。

 「わからん。ただ、個々人の力で立ち向かってどうにかなるようなモノではないだろう。各自に持ち場を決め、首尾良く傷を負わせることさえできれば、討伐は無理でも撃退くらいはできるかもしれない」

 リビの後ろ向きな目算に、彼らは意気を落として黙り込んだ。だが、あえて士気を下げるようなことを言ったのも考えたうえでのこと。調子に乗ったがために成すべき事をできなかったとなれば、シャノアの名を傷つける事になり、それは結果的に国の名を背負って参じているバ族の名を落とすことにつながるからだ。

 冷や水をかけられた意気に熱を戻すべく、リビは力を込めて声を張り上げた。

 「狩りのための道具を的確に選定し、隊を陽動と打撃の二役に分ける! 狂鬼を北門の隅にある建物と城壁の隙間へ誘い入れ、そこで──」

 言い切る間際、リビは背中から突如鳴り響いた爆音と共に、雪崩のように押し寄せた石壁の瓦礫に押しつぶされた。

 濃霧のように埃が舞う部屋の中で、野獣のような咆哮が聞こえた。直後に鈍い音が幾重にも鳴り、吐瀉物がはき出される醜い音がいくつもして、部屋の中は一瞬の静寂を取り戻す。

 リビは咄嗟にかばった腕をあげ、そこから生じた隙間の中から、前に広がる惨憺たる光景を目にしていた。

 やたらに広い背中で息を切らせる巨体の男。その男はまるで人形でも手にするような手軽さで、片手でシャノア兵の首を捻りあげている。そのまわりでは、顔面を砕かれ絶命している仲間達の亡骸が、無残に転がっていた。

 血反吐に濡れた壮絶な姿で、ゆっくりと男が振り向いた。心臓が痛みを伴うほど激しく鼓動する。

 「ア・ザンはどこだあ、あのブタがァ! ゆるさねえぞッ、殺してやる! 全員皆殺しにしてやるッ! 殺してやるッ殺してやるッ殺してやるッ殺してやる!!」

 握っていたシャノア兵を強烈に壁に投げつけ、男は大きく吠えてから隣の部屋へ続く壁を腕力だけでぶち抜き、去っていった。
 シャノアが誇る猛者達の遺体で埋め尽くされた部屋の中で一人、リビは呼吸も忘れて、ただじっとしていた。





          *





 渦視城塞の内部に入り込んだムラクモ兵達は一階部分の探索を終えて、各出口の出入りを完璧に把握できるまで、制圧を完了させていた。
 シガと分かれて後、早々に仲間達の元へ向かったシュオウは、彼らを仕切るボルジと合流し、現状の把握につとめていた。

 「一階は逆側も含めてほとんどもぬけの殻だった。ちらほら見かけたサンゴ兵のほとんども、狂鬼に怯えて隠れているような連中ばかりで、とくに苦もなく制圧できたぜ。出入りも抑えている分、このことが内から外の奴らに漏れる心配も、今のところはいらないだろう。まあ、外から入ってくる分に対処できるかどうかは、別の話だがな」

 ボルジの報告に、シュオウは頷いた。現状、もくろみは上々に推移しているが、決して安心できる段階ではない。もし、外の狂鬼が速やかに討伐か撃退されてしまえば、この城塞に蠢く猛者達が大挙して内に注意を戻してしまう。そうなったとき、体力の低下も著しい僅かばかりのムラクモ兵達は、一瞬で数の暴力に飲み込まれてしまうだろう。

 「ア・ザンの確保を急ぐぞ」
 シュオウが言うと、ボルジは力強く頷いた。
 向かう先は捜索の及んでいない建物の二階部分。そこにア・ザンがいるとすれば、長を守る精鋭達がいるはずだ。彩石を持った星君の前に、手負いの傭兵くずれたちをさらせばどうなるか。結果は見えている。

 「ここからは俺が一人で調べに行く。きっと、それが一番いい」
 一人駆け出そうとしたシュオウの肩を、ボルジが掴んだ。血染めの剣を見せて、にやりと笑みを浮かべている。
 「止めるなよ、言い合ってる時間はないだろ」
 危険だ、足手まといだ、という感情も、命がけの同行と知って申し出たボルジに対して、嬉しさですべて塗りつぶされていた。



 二階に上がるが、東棟はざっと確認したかぎりではほとんどもぬけの殻だった。自然と反対側の西棟へと足は向き、渡り廊下を抜けてたどり着いたそこは、見渡すかぎりに壁が崩れ、物が散乱していて、竜巻の通った後のような様相を呈していた。崩れた壁や物の間では、元の顔の形もわからないほど傷を負った遺体が無数に転がっている。服装と石の色を見るに、それらの遺体のほとんどは手甲に彩石のある高位の武官達だった。

 「なにがあったんだよ……まさか、狂鬼の仕業か」

 惨状を前にして、ボルジはその所行を人外のものと考えたようだが、シュオウはそうではない、と確信していた。狂鬼が襲ったのだとしたら外とを隔てる壁が崩れていて然るべきだが、城の外壁はどこを見渡しても無傷だったのだ。

 ──あいつだ。

 自身が解放したあの男以外に、これをしたモノの正体が思い浮かばない。たしかに、腕前を誇るはずだ。状況を観察するに、絶命している者達の多くは、一方的になぶり殺されている様子であり、それはつまり、シガの腕っ節を証明している結果にもなっている。ただ、あまりにも手当たり次第なやり方に、シュオウは一抹の不安を抱いていた。

 長く、広い通路の奥から、地鳴りに似た音がした。
 「まずいな……」
 首筋に冷や汗がつたう。シュオウは音のしたほうへ向けて走り出した。

 突き当たりを右へ進み、北に向かって伸びる通路の中心にある、壁に軍旗と国旗を掛けた特別な雰囲気を帯びた部屋にさしかかったとき、その部屋の戸を開けて這いずるようにして、見覚えのある肥えた禿頭の男が現れた。

 「どこに行った、ア・ザンッ!!」

 轟音と共に石壁をぶち抜き、部屋の中からシガがその姿を現す。煙るなかに佇む姿、酷薄な形相をして、皮が破れてさらされた赤い肉を血で照らす拳を握り、鋭い犬歯をむきだして、怒りに震えながらガチガチと歯を鳴らしている。

 「ひ、ひィィィ──」
 芋虫のように床を這いつくばるア・ザンは、錯乱した様子で助けを求めた。
 「──だ、だれか! わたしを助けろッ、だれかァ!」

 忙しなく助けを探す目が、ふとシュオウを捉える。重なった視線を頼るように、ア・ザンは幼子のような泣き顔で、シュオウの足下へにじり寄り、背にまわって体を丸めた。

 シガはそんなア・ザンに向け、怒鳴り声をまき散らす。
 「ア・ザン! てめえ、なんであいつを死なせやがった!」

 がたがたと震えるア・ザンは、頭をかばう両腕の中からこっそり顔をあげ、素っ頓狂な声を返す。
 「あ、あいつとは……な、なんのことだ?!」

 「ふざけたこと言ってんじゃねえぞッ俺が連れていた三脚のことだ! あいつは俺の無二の相棒だったッ、ガキの頃からずっと一緒だったんだ!」

 「あ、あんなものッ……捕獲法を知っているのだろう、死んだならいくらでも捕まえればいいではないか! か、金がかかるならいくらでもくれやる!」

 突如、シガは猛烈な叫び声をあげた。そのあまりの迫力に、ア・ザンはもとより、彼の標的には定められていないシュオウですら、気圧されて半歩後ずさる。

 シガの長い足が一歩を踏み出した刹那に、シュオウは右手の平を突き出して叫んだ。
 「待て!」
 血走ったシガの眼が、はじめてシュオウに合わせられた。
 「ど、けよ」
 崩壊した理性のなかで、辛うじて止めていた人の心が、必死になってひねりだしたような話し声だった。

 「どかない。この男には価値がある。でも生きていなければ、その価値も消える」

 「知ったことじゃねえ! そいつは死んで当然のクズだ! 立場を利用して大勢をなぶり殺してきたゴミクズなんだよッ! お前も同じような目にあったくせにかばってんじゃねえ! なぶり殺してやる、はらわたを引きずりだして口に突っ込んでやる! 目玉をえぐり出して耳の中に押し込んでやる! 生まれてきたことを後悔させてやる!」

 シガは叫び、厚い外壁を殴りつけて風穴を開けた。外から冷たい夜の外気と共に、狂鬼と対するサンゴ兵らの怒号が運ばれてくる。

 「話にならないな──」
 一つ、冷めた声を漏らしたシュオウに、シガの殺気に満ちた瞳が釘付けになった。
 「──俺はこの男を絶対に譲らない。お前はどうすれば退く」

 「……ざっけんなよ、獲物を前に引き下がるわけねえだろうが」
 「なら」
 シュオウは両腕の袖をまくりあげ、両の拳を見よう見まねの拳術の構えで前に出した。
 シガの怒り猛る眼は、毒気を抜かれたように一瞬だけ驚きに丸くなった。

 「馬鹿にしてんじゃねえぞ……もういい、いまッすぐここから消えろ。てめえには多少なり借りがある。今引き下がるなら、てめえだけは見逃してやる」

 シュオウは動じることなく、構えたまま宣言する。
 「お前が得意な拳の勝負だ。俺が勝ったら、こいつの処遇には口を出すな」
 シガは再び、顔を憤怒に染め上げた。
 「ぬるいこと考えてんじゃねえぞッ、俺が勝ったら、その瞬間にてめえの体に穴があいてるんだ」
 「わかってる」

 言葉は無用。ようやく悟ったのか、シガは戦いの構えをとり、一時も瞬くことなくシュオウを睨みつけた。

 「おいッ」
 背後から案ずる声をかけるボルジに、シュオウは目線をシガからはずすことなく、ア・ザンを、とだけ告げた。

 予兆なく、勝負は始まった。大股に踏み込んだシガは、膝を沈めて強靱な腕を思い切りしならせる。当たれば即死、一撃必殺の拳だ。が、一撃の威力を自慢するシガはシュオウにとって、これほど与し易い相手はいない。

 空気を強烈に貫いて迫る一撃をシュオウは難なく躱してみせる、勝敗はこの時点ですでに決していた。シガの懐深くへ入り込み、力を溜め込むように右拳と共に半身を捻り落とす。

 ──死ぬなよ。

 ア・ザンを前に、怒りに満ちた顔をしたシガを見て一目でわかった。この男には心がある、と。大切なモノを失い、そのために利害をすてて、自身の手や体がぼろぼろになろうとも、怒りを露わにするその性格。シュオウは、このシガという一人の男の怒りに猛った顔を見て、それを嫌いではないと思っていた。

 自分は欲しているのだと自覚があった。ボルジがそうであるように、一人の人間として信頼をもって接してみたい。自分の得意を捨ててでも、正面からぶつかって力ずくに屈服させたいという、雄の本能が疼く。

 打ち上げた拳は、シガの無防備なアゴを強烈に打ち抜いていた。一瞬のうちに頭を激しく揺さぶられたシガは巨体を沈めて膝をついた。

 「あ……れ……」
 白目をむいて崩れ落ちたシガは、意識を完全に失っていた。

 「つッ──」
 シュオウはアゴを打った右手拳に走った激烈な痛みに耐えつつ、目に涙をいっぱいにためていた。

 振り向いた先にいるア・ザンは怯えに耐えかねてか気を失い、ボルジに襟首を掴まれていた。力なく開かれた股の間には、失禁の跡がついて派手に濡れている。その姿に、大勢を率いて戦う将としての威風など、微塵も見ることはできない。

 シュオウは服の内にしまいこんでいた手袋を取り出した。シガの力を弱らせていた封じの手袋だが、保険としてア・ザンの行動抑止のために、それを左手にはめた。
 ボルジが後ろ手にア・ザンを縛り上げたのを見届けた後、うつぶせに倒れ込んだままぴくりとも動かない、シガの巨体を見る。

 ボルジはおもむろに手にしていた剣を構え、横たわるシガに刃を向けた。
 「やめろ」
 止めたシュオウに、ボルジは不満の声を漏らす。
 「こいつは面倒だぜ。殺るならいまのうちだ」
 「恩がある。この男が暴れ回ってくれたおかげで、楽に城主を確保できたんだ。なにかあったら俺がなんとかする」

 目を見てそうシュオウが言うと、ボルジは辛い顔をしながらも、わかった、と剣を納めた。
 「狙いは手に入れた。この後はどうする──」
 その時、ぐわり、と重たい異音が聞こえた。シガの開けた風穴がきしめき音をあげながら広がっていき、そこから鎌状の虫の手がずるりと中へ押し込まれる。

 「逃げろ!」

 咄嗟に叫ぶと、異常を察知したボルジはア・ザンを引きずって下がり、シュオウは倒れ込んだままのシガの重い体を引きずって、建物の中へ伸ばされた狂鬼の手から間一髪のところで距離を置いた。

 手応えを得られなかった狂鬼は、興味をよそへと移し、せっせと外壁に穴を開けている。それらの行動は、狂鬼の興味が建物の中に向いている事を示唆していた。つまり、外で相手をしていた兵らは、すでに壊滅状態か、あきらめて逃亡したという状況が予想される。それはシュオウ達にとっては喜ばしい事であり、だが同時に身を危うくする事態ともなっていた。

 ──なんとかしないと。

 決意の元、シュオウは血の気の引いた顔で呆然としているボルジに聞いた。
 「取り上げられた俺たちの手荷物はどこかわかるか」
 ボルジは否定の意味を込めて首をふる。
 「わからねえ! どこかに入れられてるんだろうが、この状況で探し出すのは難しいぞ」
 黙り込んだシュオウを見て、ボルジが逆に聞いた。
 「あの尖った武器のことなんだろ?」
 「ああ。でもないなら、いい」
 「いいって、あの狂鬼をどうにかしようって考えなんだろう。あれがなきゃ──」
 「どうにかする」
 決意に満ちた顔を上げ、立ち上がったシュオウは一つ、深く息を吐いた。



 死屍累々の中庭に出たとき、地べたを這いずるソレを見て、シュオウは暴れる狂鬼の存在も忘れ、総毛立つ感覚に見舞われた。
 片腕、片足の自由を完全に失ったバ・リョウキが、動くもう一本の腕のみを頼りとして、地の上を這い寄ってきたのだ。

 「おのれ……よくも、よくもッ」

 身じろぐだけで激痛に見舞われるはず。なのに、バ・リョウキはさらに片腕の力のみで前へ進む。

 「なぜだ……なぜ見抜けなかったッ! 剣士としての形《なり》が、すべて取り繕ったものだったと。なぜ、なぜだァ」

 その歩みはあまりに鈍く、一片の脅威ともなり得ない。なのに、シュオウは後ずさって、逃げるようにバ・リョウキから距離を置いた。

 「ふッ、うははッ、ハハハハハハッ」

 血走った眼、憤怒につり上がった目尻、敵意を剥きだしにした歯。だが口元に笑みを浮かべ高らかに笑う、強者と崇められたその老兵の眼からは、筋になるほどの涙が零れ落ちていた。
 狂っている、とシュオウはつぶやいた。

 「この私が生かされたのか?! 小手先の技で封じられ抗う事すらできないまま────それも、石に色なき若造一人にッ!」

 片手の拳を握り、バ・リョウキは何度も地面を叩いた。

 「剣も握れず、地を這って喚き散らしている、これが一軍の将であるものか、これが剣聖と謳われた武人であるものか……私は誰だ…………もう、わからん」

 顔中、あらゆる場所から汁をこぼすバ・リョウキは、すがるような眼をシュオウへ向けた。
 「私を殺せッ、殺してくれ! このバ・リョウキはすでに亡い」

 バ・リョウキは這いずる手に再び力を込める。が、しかし突然に両者の間に割って入った者によって、死を願う老兵の歩みは止まった。

 「あいつ……」

 城主の娘、ア・シャラはどこからかふらりと歩み出て、平素通りの、どこか冷たさを秘めた声でバ・リョウキに語りかけた。

 「ご苦労だが、剣聖殿、死にたくば腰にある物を使って自らでそうされよ。生かされたのであれば、それもまた勝者の選択。なにをいおうが、敗者はそれを受け入れるのみであろう。勝ち続けてきた生のなかで、勝負の理すら忘れたか」

 孫ほどに歳の離れた少女から、バ・リョウキはただ呆然として言葉を受けている。その口が何かを発しようとして開かれた時、この場に現れた新たな乱入者によって、それはかき消された。

 馬を駆って現れた男を、シュオウは知っていた。バ・リョウキの側によくいた若者で、彼の身内であるシャノアの軍人、バ・リビである。リビの後には、生き残りであろう負傷した複数のサンゴ兵らが帯同していた。

 颯爽に、とはとてもいえない。頭からこぼれ落ちている血は首を濡らすほどの出血量を窺わせる。リビは馬上からシュオウに強い視線を寄越したあと、馬を降りてバ・リョウキのもとに駆け寄った。

 「叔父上、ここを出ましょう」
 抱き上げて肩を入れようとするリビに、バ・リョウキは腕を振り上げて必死に抵抗した。
 「ならん! 勝負は終わっていないのだッ」

 「まだそんなことを! 総帥の居所はわからず、我らがシャノアの精鋭達は皆殺しにされました。渦視の兵も多くは死に、生き残りもほとんどが逃げだしています。指揮系統はすでに存在しません、ここはすでに陥落したのです!」

 呆れを含んだ口調でリビが声を荒げた。
 シュオウは背後から、無数の足音が近づいてくるのを感じ取った。
 「シュオウ──」
 ムラクモ兵達を引き連れて現れたボルジは、シュオウを見るなり顔をしかめて首を横に振った。
 「悪い、探したんだがな」

 血塗れの武器を手に現れた男達に、リビや彼に帯同するサンゴ兵らは緊張を高めた。
 「バ・リョウキ様をお守りしろ!」
 手負いのサンゴ兵らの間から、誰ともなくそうした叫びがあがり、彼らは自主的にバ・リョウキのまわりをとりかこんで、抜剣してシュオウ達を威嚇する。内、数人が抵抗するバ・リョウキを強引に担ぎ上げ、本国であるサンゴへ続く道が延びる、南門へ向けて走り出した。

 「やめろ、やめんか! はなせ、はなせえええ!」

 遠ざかっていくバ・リョウキの声は、不明瞭ながらにシュオウに向けた呪詛の言葉を並び立てているようだった。
 バ・リョウキの無事を見届けたリビは素早く馬にまたがり、側に佇むシャラに向けて手を伸ばした。

 「シャラ様、お手を!」
 シャラは、手を後ろ腰にまわし、一歩二歩と後ずさる。
 「どうして──」
 苦悶の表情を浮かべて聞いたリビに、シャラは無邪気に笑みを浮かべ、荒れ狂う狂鬼を後ろに背負って言った。
 「お前といても、こんな光景は見られない」

 リビは伸ばした手を、きつく握りしめる。引き結んだ口を苦く歪め、断ち切るようにして前を向き、馬を駆って南門に向けて走り去った。
 手を後ろで組んだまま、シャラは軽やかな足取りでシュオウの側に歩み寄る。ボルジが警戒したように剣を向けたが、シュオウは必要ない、とそれを諫めた。

 「よくもやってくれたな」
 言ったシャラに、シュオウは気まずいものを感じて視線をはずした。それを見て、シャラは笑う。
 「責めているのではない。むしろ、責められるべきは私だろう」
 シャラは中庭に転がる無残な遺体の数々を眺め、目を細めた。

 「父は────ア・ザンは、どうなった」
 「生きている。身柄は俺たちの手にある」
 その言葉に、ほんの少しだけシャラが肩の力を抜いたのをシュオウは見逃さなかった。

 「よかったな、お前が欲しがっていたモノも手に入れたようじゃないか──」
 シャラはシュオウの背後に立つムラクモ兵らに視線を送った。
 「それで、どうする。渦視はすでに拠点としての力を失った。門は開きっぱなしで、壁のあちこちも穴だらけだ。逃げるにはたやすいだろう」

 「……そうでもない」
 首を捻ったシュオウの視線を追うように、皆が中庭の片隅に目をやった。
 口にむさぼった血肉をこびりつかせた狂鬼が、不気味な顔をじっとこちらへ向けている。

 「間近で見ればおかしな生き物だ。食うに事欠かないほどの獲物を得ただろうに、あれはよほど生きて動いている人間が許せないのだろうか」

 この期に及んでまだ落ち着きはらった声を出せるシャラに関心しつつも、シュオウは一人、狙いを向けてくる狂鬼に向かって踏み出した。
 首だけで振り返りつつ、ボルジに言葉を残す。

 「誰も近づけるな!」
 「あ──」

 手を伸ばすボルジも、すぐに強く頷きを返す。シュオウには、それが自分に対する信用だと思えた。この場にいる者達の中で、唯一ボルジだけが知っている。自分にはあの化け物達と対する術があるのだと。しかし、一人駆けて行く頭の中は不安で一杯だった。

 狂鬼の複眼は、より集団としてまとまっている、後ろの仲間達へと向いている。シュオウは地べたに落ちてくすぶっていた松明を手に取り、目立つように振り回した。

 「注意を惹く」

 独り言をつぶやき、おおい、と大声を張り上げる。狙い通り、手近なところにいる無防備な獲物を見つけ、荒れ狂う巨虫は多足を器用に使って、ぞろぞろと足を動かして迫り来る。

 「武器を選ぶ」

 自分への指示を口頭で並べていく。そうしなければ、絡み合う無数の思考に邪魔をされ、なにをすべきかわからなくなってしまいそうだった。

 シュオウは側で転がっていた兵士の遺体から、ほどよい大きさの剣を取った。絶命しているこの剣の持ち主は将官らしく、剣の質は上々で切れ味も良さそうだ。

 二つの鎌を持ち上げて一心不乱に迫る狂鬼を前にして、佇むシュオウの呼吸は、しだいに浅くなっていく。

 「それから…………どうする」

 眼前に迫った巨体の虫は、圧倒的な体格差を誇るように両手を振り上げた。直後、薙ぎ払われた鎌の一撃を、地べたに寝そべって躱す。無心に命を狩る虫に油断などない。あらかじめ、想定でもしていたかのように、素早く次の動作へと移り、寝そべっている自分を目がけ、極太の槍に相当する足の一撃で突きを見舞った。ごろッと体を転げて躱すも、シュオウはこの時点ですでにジリ貧状態に追い込まれていた。

 時間をかけてはいけない。消耗戦に追い込まれれば、あらゆる面で劣っている人の側が負けるのは自明の理である。戦いにおいて狙うべきは常に弱点である、とは師から受け継いできた勝つための理念だ。一点突破、一撃必殺こそがのぞましく、それを可能とするのが、命につながる第二の心臓たる輝石の存在である。しかし、自分がいま相手をしている狂鬼の持つ輝石は、甲羅を背負った背の側ではなく腹の側にあった。これでは、視界の外から不意を突くという正攻法は通用しない。

 ──走り抜け、懐に潜り込む。

 唯一、見いだした勝利への道筋。それは決してたやすい方法ではない。与したことのない相手、攻略法を知らぬ相手への対処としては、今はそれが精一杯だった。

 手足で地面をはじき体を起こして前へ走る。虫は僅かに後退しつつ、足を下ろしてシュオウを串刺しにしようと試みたが、一本ずつ、きちんとその軌道を見分けて、活路を踏みしめた。間合いが狙い通り巨大な褪せた緑色の輝石に届こうかという寸前、眼前に牢獄のように三本の足が地面を穿ち、壁となって行く手を阻んだ。それは自分を狙った攻撃のための手段ではなく、懐に獲物が侵入するのを防ぐ、明確な防御行動だった。

 「くそッ」

 この守りを突破するための迂回行動をとることはできない。辛うじて命を繋いでいる今の状況では、余計な一歩は即、死へと繋がってしまうのだ。

 シュオウは前へと駆ける勢いそのまま、力を込めて全力で跳躍した。壁として機能する足のうちの一本の節を目がけ、やけくそ気味に剣で切りつける。短刃の剣は刃先がぎりぎり触れる程度にしか届かなかったが、堅い外皮に覆われていない関節部分に小さな傷をつけることはできた。そこから薄茶色の体液が零れたのを見た時、狂鬼は悲鳴をあげて体を屈むようにしならせて不自然に体を収縮させた。堅牢に突き刺されていた三本の足に緩みが生じる。

 ──いまだ!

 確信の元、着地して前転しながら隙間を通り抜け、腹の底へ潜り込んだシュオウは、無防備にさらされている輝石を目がけて剣を突き立てた。手に震えがくるほどの堅い感触。中心を射貫いたはずの刃は僅かにでも輝石を傷つけることもできず、がちんと音をたてただけでなんら成果なくはじき返された。次の行動を思考する間もなく、シュオウの身体は宙を舞っていた。

 多足の一本に強烈に蹴り飛ばされた身体は、回転を加えて宙に投げ出され、そのまま地に落ちて痛みを伴う衝撃と共に、はげしくシュオウの身体を転がした。
 風に飛ばされた小枝のように転がり、背中から城の外壁に打ち付けられ、肺の空気が強引に押し出された。

 空っぽになった肺に急ぎ空気を吸い込むも、喉が焼けるように痛い。
 激しく咳き込みながら自身の無事を確認する。四肢、その他の機能に問題はない。が、単純に体のあちこちが猛烈に痛かった。

 ほんの僅か切り傷を負い、腹の輝石を突かれた狂鬼は、さきほどまでの威風堂々たる姿をしぼませて、背を丸めて甲羅の中に頭をしまっていた。

 ──意外に臆病なのか。

 この狂鬼、硬い甲羅を背負うだけあって、自身に迫る命の危機には敏感なのかもしれない。それを一つの特性として理解していれば、なんらかの突破口になるかもしれない、とシュオウは考えた。

 狂鬼は、しかし無事をたしかめるように頭をゆっくりと出す。わなわなと口元を震わせながら、その視線はこちらへと釘付けにされていた。傷をつけたことで、本格的に怒らせてしまったのだろう。

 ──逃げ道はない。

 ただ進むのみ。しかし生きるためには勝たねばならない。
 はじきとばされた際に、握っていた剣はどこかへはじき飛ばされて所在がわからなくなっていた。だが、あれにもう用はない。見渡すかぎり、中庭のあちらこちらで横たわる死体の側に、多種多彩な得物が転がっているが、そのどれでも狂鬼の輝石を砕くことはできないだろう。ここへきて、シュオウは〈針〉が手元にない事を猛烈に悔やんでいた。

 ──あれ?

 景色の中にとけるたくさんの武器の中に、一つだけ、その存在を主張するように転がる、一本の剣が目を惹いた。松明の赤々とした明かりが照らしだす薄黒い鋼の刃。恰幅の良い重そうなその剣は、あのバ・リョウキが常日頃から背負って歩いていた物だ。

 シュオウは、バ・リョウキの握っていたその剣が、硬い石で出来た立像を切り落としていた光景を思い出していた。考えるまでもなく、走り出したシュオウは、その途中にあったバ・リョウキの剣を拾いあげていた。

 「おも──」

 思わず口に出るほど、その剣には重量があった。輝士の扱う長剣を二本束ねてもまだ足りないかもしれない。アデュレリアで特注された自身の扱う剣とは比較にもならない。見た目には老いてみえるバ・リョウキが片手で振り回していたせいか、抱いていた、扱いやすい物であるという印象は、この剣を実際に握ってみた瞬間に消し飛んでいた。

 特殊な材質を用いているのか、刃の部分はざらついていて、一目では切れ味を確信するのは難しい。

 引きずるような姿勢のまま、重い剣を両手で握って、再び狂鬼の前へ出たシュオウは、地に穿たれた足の一本を横凪ぎに切りつけた。長い刃は跳躍することなく節に届き、刃が触れた瞬間、たしかな手応えと共に狂鬼の足は真っ二つに切り落とされていた。

 体の一部を欠損した狂鬼は泡を食ったように後退する。泣き声や悲鳴を連想させる咆哮をあげると、身を縮めて体を包み込むように、背に折りたたんでいた甲羅を広げた。戦意を失ったその行動を見て、シュオウは咄嗟に腹の下へ飛び込んだ。

 覆い被さるように迫り来る狂鬼の体の下、バ・リョウキの剣の柄を大地に突き立て、刃の先を迫り来る輝石の中心に当てる。軸がずれぬようにきつく剣を固定し、広がっていく影の内で、シュオウはじっと褪せた緑色の輝石を見つめていた。バリン、と音をたて、剣の先が輝石の中に食い込んでいく。殻に閉じこもろうとする自らの運動により、輝石に刃を飲み込んだ狂鬼の体は、次の瞬間に粉々の砂となって四散した。

 天に向かって舞昇る光砂に包まれながら、シュオウはどっと尻を落とした。どっかりと背を大地に預け、ひんやりとした感触を味わいながら見上げた空は、早朝を間近に控えてうっすらと光明に覆われつつあった。
 頭の上から、わき上がるような歓声が聞こえた。地面に預けたままの頭をずらして、逆さまに見た景色のなかに、生き残った仲間達が駆け寄ってくる姿がある。痛みで軋む体も、震えが止まらない足の事も、彼らの無邪気に喜ぶ顔を見てすべてが吹き飛んでいた。

 ──そういえば。

 シュオウはサンゴ兵らに連れられていったバ・リョウキの姿を思い出していた。彼の腰には、奪われたままになっていた自分の剣が差されたままだ。戦いのなかで投げつけたもう一本は、おそらくそこらに紛れて転がっているだろう。
 「全部は、無理だったな」
 一人つぶやき、シュオウは駆け寄った仲間達に抱き上げられた。










 エピローグ










 深夜の城塞を混乱の渦へ貶めた、件の狂鬼が討伐されて後。シュオウはくたくたになった体を休める間もなく、拠点内部の状況把握と、生き残った敵兵達への対処に奔走するはめになっていた。
 ボルジの手配によって発せられた知らせは、無事にサク砦まで届き、確認のために先行して訪れた斥候隊の面々は、敵兵がひしめくはずの渦視城塞の惨状を見て、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。

 救援のための本隊を待つ間、先に渦視奪還のための兵を送り届けたサンゴの部隊に対し、シュオウは捕らえたア・ザンを城壁の上に立たせて脅しをかけたが、期待していた効果はみられず、騎馬精兵を率いるサンゴの部隊長は突撃を命じて剣を掲げた。だが、彼らが実際に攻め込むための一歩を踏み出すより先に、ふらりとシュオウの隣に姿を見せたア・シャラを見るや、サンゴ兵らの態度は一変した。歯を食いしばり、憎々しげな視線を送りつけた後、ア・シャラに一礼した部隊長は隊に撤退を命じたのだ。その時になり、シュオウは誰に人質としての価値があったのかを、読み間違えていたことを知った。


 渦視城塞は夜の闇にあって、やたらに賑やかな喧噪の中に包まれていた。
 狂鬼の暴れまわった爪痕の残る中庭には、いまだ生々しく散った血の跡が色濃く残っている。

 前日まで地下牢の中で飢えて縮こまっていた男達は、死闘の繰り広げられたそこで、食う飲むの大騒ぎを堪能していた。渦視制圧を成し遂げた褒美として、知らせを受けてオウドからこちらへ向かっている、アル・バーデンの計らいにより、シュオウを含む彼ら元虜囚達は、この特別な宴の出席者になる資格を得たのだ。大勢のムラクモ兵や輝士達が厳戒態勢で渦視を守備している中、これだけの待遇はまさに普段ではありえないほどの厚遇だった。

 シュオウは肉と酒を片手に談笑する仲間達から少し離れ、温かな炎を囲みながら震える足の筋をゆっくりともみほぐしていた。傍らには、防寒用の織物をかけられ、丁重に傷の手当てがされている南方人であるガ・シガが、仰向けに寝息をたてていた。
 誰かが派手に酒瓶を割った音が響くと、それまでぐっすりと眠っていたシガは、鼻を鳴らしてがばりと体を起こし上げた。

 「……どう、なってる」
 目の前の光景に呆然としているシガに、シュオウは声をかけた。
 「よく寝てたな」
 それまで隣に座るシュオウに気づいていなかったシガは、びくっと体を震わせた。
 「てッめえ──」
 シガは敵意のある視線で睨みをきかせた後、すぐに自身の左手甲を見た。
 「──拘束も封じもなしで怪我の治療まで……どういうつもりだ」
 「一応、協力者ということで話が通ってる」

 シガは不満げに口元を歪めた。

 「俺はムラクモに与したつもりなんざ、これっぽっちもねえぞ」
 「わかってる。でも、結果的にお前が暴れてくれたおかげで仲間は助かった」
 「くそッ──」

 そう吐き捨てたシガは、アゴに触れて耐えるような表情をした。
 「勝負をして……俺は…………負けた、のか」

 敵意を下げ、アゴを抑えながらシガはシュオウを見て訝った。

 「あいつは、ア・ザンはどうなった」
 「生きてる。今は地下牢の中で縛られて、十人近い男達に見張られてるよ」
 「あのでかい虫は」
 「倒した」
 言って、シュオウは傍らに転がったままの、砕けた狂鬼の大きな輝石と切り落とされた虫の足を指さした。

 「倒したって……お前、なんなんだよ……」
 正面を向き、シュオウは言った。
 「お前じゃない」
 「はあ?」
 「シュオウだ。名乗っただろ」

 おかしなものでも見るかのように眉をあげたシガの名を、シュオウは呼ぶ。

 「シガ」
 「……なんだよ」
 「捕まっていた時、もう南では行く当てがないと言ってたな」

 シガは仏頂面で頷いた。

 「ムラクモに……俺の所に来い。ちょうどいいだろう」
 「軍に入れって、そう言いたいのか」
 「そうしたいなら頼んでみる」
 シガは傍らに唾を吐き捨てた。
 「けッ、冗談じゃねえ」

 唇を尖らせて不満を露わにしたシガが子供のように見え、シュオウは笑った。

 「なら、俺が雇う」
 「……雇って、なにをさせたい。誰かを殺せってのか。それとも、三脚の捕獲法を教えろってか」

 どこか憎しみのこもっている言い方だった。実際、甘言に釣られて大切なものを失ったのだから、警戒するのも当然だろう。

 「どっちにも興味はない。目的が必要なら、護衛という事でいい。お前みたいな強いやつが側にいれば、それだけで仲間が助かる可能性が増える。今回の事でそれがよくわかった」

 シガは鼻をかいてむずがゆそうに視線をはずした。

 「……俺は高いぞ」
 「なんとかする」
 「……気まぐれで、飽きっぽいしな」
 「他にやりたい事を見つけたら、好きなときにやめればいい」

 シガは拳に巻かれた包帯をまじまじと見つめ、舌打ちした。
 「くそッ、断る理由が……おもいつかねえ」

 シュオウは確認を求めるように拳を差し出した。おそるおそる、シガは大きな握り拳をぶつけて返す。シガはそのまま手を広げ、親指と人差指を折って数えた。

 「一応、お前には二つ借りがある。それを返すまでは付き合ってやる。ただ、最後に一つだけ、どうしても見送ってやりたいやつがいる」
 「言っていた生き物のことか」
 シガはしんみりと視線をおとし、頷いた。

 「飼い慣らした三脚が死んだときは、元々のいた深界の森へ返すのがガ族の習わしだったとか、俺を育てたジジイが言ってた。ただ一人になった俺が、一族の風習を真似るのもばかばかしいと思ってたが、今は無性にそれをしてやりてえ」

 シュオウは強く頷きを返した。
 「俺も手伝う」
 横目をちらりと向けたシガは、深く息を吐いて肩の緊張をほぐした。

 「おい、こら! シロウ! こんなところで、なに辛気くせえ顔してやがんだ! 飲めや、おら! ぷわーっと飲め飲めぇ」
 赤ら顔に座った目で、酒樽をかつぎながらノシノシと迫ってきたボルジは、シュオウの後ろに立つと樽を逆さにして中に入った酒をとくとくと髪の上に注ぎ始めた。
 「おいッ」
 急なことに止めに入ろうと膝をたてたシガを、シュオウは笑って止めた。
 「慣れてるんだ」





          *





 ごたごたの最中に敵兵から受けた切り傷を抑えながら、ハリオは憎々しげに片隅で濡れた髪を拭くシュオウを睨みつけていた。
 どこからともなくふわりと姿を現した、この場に不自然なほど美しい、褐色肌の南方人の少女がシュオウの隣に腰掛ける。濡れ髪を拭く乾布を奪い、馴れ馴れしい態度でシュオウの髪を拭いているが、あの娘は囚われの身となっている、この城の主の娘なのだという。

 ──わけがわからねえ。
 心中、ハリオはそう吐き捨てた。

 閉じ込められ、食べ物を絶たれ、見世物として残虐に処刑されるはずだった。ならばせめて、一人生き残ったシュオウを、皆が呪いながら死ねばいい、と薄ら寒い考えに囚われていた。だが、そうした状況からほんの僅かな時を経て、自分達は今、特上の酒と食事にありついている。しかも、輝士という特権階級にある者達が立って見張りをしている中で、だ。

 「なんでなんだよ……」

 問いかけに返す者はだれもいない。皆が生きている事と勝利を祝い笑顔を浮かべて宴を楽しんでいる最中、一人無表情で黙り込んでいる自分のまわりに、人が集まるわけもない。相棒のサブリですら、無言を貫いていた自分に愛想を尽かして、他の者らと共に炎を囲んで楽しそうに酒をあおっていた。

 ねっとりとした沼底のようにシュオウを睨むハリオは、突如はっとして顔を背けた。視線が一瞬交差したような気がしたのだ。
 顔を落とし、揺らめく炎に照らされた地面を見つめていると、どっかと、隣に人が座る気配がした。俯いたまま視線を送った先には、肩に濡れた布をかけたシュオウがいた。
 目立つ灰色の髪はまだ濡れていて、炎に照らされて煌々と燃えさかっているようにも見えた。

 「怪我は大丈夫か」
 柔らかな口調で聞いたシュオウに、ハリオは顔を背けて無言を通した。沈黙の後、シュオウは深く息を吐き、ややトゲのある声で、
 「あやまらないからな」
 とつぶやいた。
 ハリオは思わず顔をあげていた。険しい顔で口元を歪め、隣に座るシュオウを睨みつける。

 「誰のせいでこんな──」
 重ねた視線の先にある、鋭い眼光を帯びた瞳に、ハリオは思わず顔を背けていた。
 「──お前は、偉そうなんだよッ」
 「わかってる」
 他人事のように軽く流して言ったシュオウに、ハリオの苛立ちは膨れていった。
 「開き直ってんのか」
 シュオウは小さく指を立て、酒を片手に大宴会を楽しんでいる男達を指さした。

 「偉そうにしてないと、あいつらは従わない。ここがそういう場所だと知ってから、そうするのが一番いいんだと思った。言うことをきかなければ従わせる。言ってだめなら力尽くか、金や物で納得してもらう。皆が仕事をしている最中に、遊んでいるやつがいたら、注意する」

 痛いところをつかれ、ハリオは感情的に声を尖らせた。
 「俺はお前の先任だ! シワスでも助けてやって、王女が遭難したときだって、俺の持ってたツマミで助かったって言ってたくせによ……」
 「一人を特別扱いしたら、きっと他の奴らは俺を軽く見る。自分のためにそうしたし、これからも必要ならそうする。俺は何も変える気はないし、後悔もしていない。だから、あやまらない」
 「──ッ!」
 返す言葉が見つからず、ハリオは足下の小石を蹴り飛ばした。

 「偉そうにしていたとしても、見下しているつもりはない。みんな同じ人間で、同じ仲間だと思って──」

 シュオウの体が突然ふわりと持ち上がった。酒に酔った男達が集団でシュオウを担ぎ上げ、高く突き上げて賞賛の叫びをあげた。彼らに連れて行かれるシュオウは、めずらしく慌てた様子で足をばたつかせている。

 ぽっかりと空いた席を見つめ、ハリオは一抹の寂しさを抱いていた。嫌い憎んでいたはずの人間と、もう少し話していたいという、やり場のない気持ちが後に残る。

 やり場のない思いを埋めるように、空いた席に一人の男が座った。直接話したことはないが、皆からジン爺と呼ばれ親しまれている老人だった。
 「やめとけやめとけ」
 ジン爺は酒袋を煽ってそんなことを言った。
 「なんだよ、いきなり」

 「人を恨むな、張り合うな。そのどちらかか、両方に捕らわれて早死にしたやつを腐るほど見てきたぜ。お前みたいなのを見てるとな、そういう連中を嫌でも思い出しちまうんだ」

 「別に、張り合ってなんかねえよ」
 ジン爺は赤ら顔に笑みをつくった。
 「ふんッ、まあ場合によっちゃ、張り合うのは悪いことじゃねえかもしれねえ。でも相手は選べや。少なくとも、あいつはやめておけ」
 「……シュオウのことか」
 ジン爺は強く何度も頷いた。

 「いるんだ、ああいうのが。ひょっこりでてきて、なにかでかいことをやっちまうような奴がよ。その結果が詩や物語で語られるか、それともどこかでのたれ死ぬかはわからねえが、あの若造は俗に言う英雄ってやつの素質があるんだろう。血の気の多かった若い頃の俺でも、ああいうのに張り合おうとはしなかっただろうさ」

 「なにが英雄だよ……石の色だって同じじゃねえか。俺たちと同じ、ただの平民じゃねえかッ」
 ジン爺はにやと、したり顔をしてみせた。
 「同じなもんかあ、あの頭の悪い荒くれどもが、自分と同じ人間を担ぎ上げると思うか。見てみろ、あいつらの馬鹿面を」

 シュオウを担いで騒ぐ者達は、皆上にいる彼を見上げて、幼子のように目を輝かせている。日常に見る彼らは一様に濁り諦めを含んだ擦れた眼で世を見ていたというのに、ここにいる誰もがシュオウに向ける目は、おとぎ話の英雄にあこがれる子供のそれと同じだった。

 「まさかな、俺も生きている間にあんなのをお目にかかれるとは思わなかったぜ。へへッ」

 立ち上がったジン爺は、まだたっぷりと中身のある酒袋をハリオに投げ、胴上げを繰り返す一団に向けて走り出した。その横顔には、彼の若い頃を彷彿とさせる活力に満ちた笑顔があった。本人の言葉を真似るならば、まさにそれこそ馬鹿面だ。

 輪にくわわって手をあげて跳ねるジン爺の背中を見つめ、ハリオは酒袋を盛大にあおった。
 輪の中心で高々と舞うシュオウを見つめ、ハリオは心の中で彼に向けてつぶやいた。
 ──もう誰も、お前を同じだなんて思ってねえってよ。





          *





 一夜明け、オウドから寝ずの強行軍で渦視に到着したアル・バーデンに呼び出され、シュオウはア・ザンが応接用に使っていた部屋に通された。

 「これが、あの岩縄か──」
 戦利品として持ち歩いていたバ・リョウキの落とし物を渡すと、アル・バーデンは涎をおとさんばかりにそれに魅入っていた。
 「──南西の覇国ヘリオドールの宝剣。遙かな昔、中央大山の頂上より持ち帰ったとされる神の鉱石を、高名な名匠が生涯をかけて鍛え上げたというが……眉唾な話と、若い時分に聞いた時は笑ったが、手にして見れば、なるほど納得してしまうだけの気迫がある」

 アル・バーデンは剣にうっとりとみとれていた。
 「興味があるなら」
 気前良く剣を差し出すと提案したシュオウに、アル・バーデンは顔を綻ばせて驚きに声をあげた。
 「なに?!」

 しかし、愛おしそうに剣を持つ手を、副官であり彼の配偶者でもあるケイシア重輝士がばしんとはたいた。痛がる上官から剣を奪ったケイシアはそれをそそくさとシュオウに引き渡す。

 「悪行をそそのかすのはやめてください。他人の手柄を横取りしたなどと噂がたてば、夫の名は地に落ちてしまう。それはあなたが勝ち得た物でしょ。軽はずみにひとに渡すようなことは慎みなさい」

 叱りを受けつつ受け取った剣を、まじまじと見つめる。これは多くの者にとって価値のある物のようだが、シュオウにとっては、ただ堅くて丈夫な棒に等しい。自分のためにと、考えて用意してくれたアデュレリアから贈られた剣のほうが、よほど価値があった。

 「しかし、未だに信じられん。あのア・ザンを捕らえ、我がオウドの軍がこの渦視を制圧下においているとは」
 噛みしめるように言うアル・バーデンに、シュオウは問う。
 「ここは、これからどうなるんですか」

 「わからん。いくつも道はあるが、このままムラクモの統治下に置かれるか、さもなくば賠償金をせしめて返還するか。俺はおそらく後者であろうと考えている」

 「返して、しまうんですか」
 声を落とすシュオウに、アル・バーデンはむずがゆい顔をした。

 「言うな、俺に決定権はない。まあ、上はそうするだろうという話だ。実質的な裁量権は近衛を統括する元帥にある。グエン公は渦視を支配下に置くことで周辺国に刺激を与えることを嫌われるだろうな」

 上の人間にも考えはあるだろう。きっと自分には見えていない事情や理由があるのだろうが、せっかく奪い取ったものをあっさりと返してしまうのは惜しい気がした。
 アル・バーデンはシュオウの気持ちを汲んでか、慰めるように笑った。

 「そんな顔をするな。返すなら返すで、その分たっぷりと金はせしめることになるだろう。当分の間は、サンゴがまともな軍を動かせないくらいのな」
 すっきりとしない顔のまま、シュオウは頷いた。
 「はい」

 アル・バーデンは突然立ち上がり、シュオウの手を両手で包み込んで頭を下げた。

 「礼を言う。自分の立つ道は暗闇で、先にあるのは壁ばかりと思っていたが、初めて光明が見えた。これで当分の間は胸を張る事が出来る。よくやってくれた」

 照れくささに頭をかきたくなったが、強く包みこまれたアル・バーデンの大きな手は、それをさせてはくれなかった。

 「このままオウドに残り、俺の元で働いてほしい、と言いたいところだったのだがな、よこやりがはいった」
 アル・バーデンは憎らしげに言い捨てた。
 「よこやり?」
 「上からの達しで、近日中に近衛から調査団が派遣されてくるが、お前に関しては中央への召還命令が下された」

 シュオウは慌ててアル・バーデンの手を放した。
 「ここを出ろってことですか……あいつらから──仲間達から離れろって」

 強く睨んだシュオウに対して、アル・バーデンは気まずそうに鼻をかく。

 「命令だ、仕方ない。その後のことがどうなるかは、俺にもわからん。オウドへ戻される可能性がないとはいわんが、確約ができる立場にはないからな。この命令は近衛軍元帥の署名付だぞ。よほどの手柄をたてたとしても、早々あることじゃない。俺としては、喜んでもらえる話だと思ったんだが」

 悪い話ではないとアル・バーデンは言う。武勲に報いるための呼び出しだというが、シュオウとしてはせっかく築いた人間関係を根こそぎに奪われてしまったようで、悲しかった。

 「残していく彼らが……心配です」

 生き残ったムラクモの男達。そのなかには今回の一件で二度と戦場に出られないような傷を負った者もいる。
 静かに様子を窺っていたケイシアが前へ出た。

 「臨時雇いだった人間の処遇に関しては、この件への功績として正規の従士としての雇い入れるよう働きかけるつもりです。負傷した人間に関しても、生活に困窮しないように何らかの配慮を検討します。だから、心配しないで行ってきなさい」

 シュオウが渋々頷くと、アル・バーデンはなぜかほっとしたように肩をさげた。

 「まだ聞かねばならんことが山とあるが、俺もまだここへ到着したばかりだ。オウドから腕の良い料理人を連れてきている、夜の予定はあけておけ」
 夕食を共にすることを約束し、シュオウは行き場のない不満を押し殺したまま、上官に退室することを告げた。





          *





 部屋を出たシュオウを見送った夫婦は、どっかりと息を吐いて緊張を解いた。
 「見たかあの顔」
 どこかげっそりとした様子で言ったアルに、妻のケイシアは、ええ、と返した。
 「おっかないな」

 実質的に仲間を置いていけ、という命令が下された途端、シュオウは見る者を圧倒するような怒気をふりまいた。それは長年軍に身を置いてきたアル・バーデンをも怖じ気づかせるほどの迫力があった。

 「あんな事言ってよかったのか? 節約が信条のお前にしては、ずいぶんな大盤振る舞いだったな」
 「つい……あれくらい言わないと納得してくれないような気がして。でも、言った以上は実行してみせる。それに──」
 意味深に言葉を止めた妻に、アルは問う。
 「それに、なんだ」

 「彼には何か特別な……その、気風のようなものが見えたのよ。アデュレリアから紋入りの剣を下賜されるはずよね。もし、今後も彼が羽ばたいていくのなら、これくらいの恩は、売っておいて私たちに損はないはず。そう思わされてしまうくらいの気迫が、今の彼からは感じられる」

 「英雄、といいたいのか。たしかに、あれのしたことが真実その通りなら、言うに不足はないのだろうが──」
 すねたように唇を尖らせた夫を見て、ケイシアは笑った。
 「妬いてるの?」
 「……悪いか? お前がそれだけひとを褒めたのも、あまり覚えがないぞ」

 ケイシアは座る夫の膝に腰を落とす。大きな腕を腹に回し、どっかりと体を預けて顔を寄せた。
 「あなたは特別よ。私が選んだ人だもの。生まれてくる私たちの子供ともども、生涯愛し尽くしてみせますから」
 じんわりと熱を帯びていく体の熱を自覚しながら、アルは強く妻を抱き寄せた。ふくらんだ腹に手を当て、幸福に満ちた時を堪能する。が、
 「そうだッ、生まれる子が男の子だったら、渦視制圧を成し遂げた英雄から名前をもらうのはどうかしら」
 愛する妻からの提案に、アルが一瞬びくんと身を固めると、ケイシアはそれをおもしろがってけらけらと笑っていた。





          *





 アル・バーデンとの挨拶をすませ、シュオウは単身廊下を歩いて外へと向かっていた。下へ続く階段が見えた頃、すぐ目の前の部屋からなにげなく顔を出したシャラは、シュオウに目をやると気軽に挨拶を寄越した。立場を思えば幽閉されていてもおかしくないはずだが、シャラは拘束もなく自由なまま、しかし初めて見る艶やかでひらひらとした紅の衣装を身にまとって、めかしこんでいた。

 思いもよらなかった美しいシャラの立ち姿を、ぼうっと見つめていると、シャラは機嫌良く微笑んだ。
 「機嫌が悪そうだな」

 言ったシャラが廊下に出ると、彼女の後ろから、ぞろぞろと帯剣した女の輝士達が続いた。輝士達は外へ出ると告げたシャラの肩に慌てて外衣をかける。その様は監視のため、というより、ただ高位の人間にかしずく女官達のようだった。

 「出歩いて大丈夫なのか」
 「父の助命を求める代わりに、祖父王との交渉に協力を惜しまないと約束した。お前達の指揮官は甘いな、ほんのすこし協力的な態度を見せただけで、私に信を置いたようだ。ただ、身分に相応しい格好をしろという要求だけは、窮屈でわずらわしい」

 シャラに促され、シュオウは並んで階段を踏んだ。

 「ア・ザンは……お前の父親はどうしてる」
 父の事を聞かれ露骨に顔を歪ませたシャラは、どこか自嘲しているようにも見えた。
 「体調にはなんら問題ない。ただ、ひどく怯えていた」
 「どうした?」
 「どうもしない、被害妄想だ。自分がしていたように、ムラクモから酷い拷問を受けるのではないか、とな。自分がする事を相手もする、と思い込むのが愚者の常なのだろう」
 「そういうことか」

 いいきみだ、などと今更考えもしなかった。生涯の恨みを抱くほどの仕打ちを受ける前に逃げ切った自分としては、これ以上の執着心は持ちようもない。実際話を聞いても、シュオウはア・ザンという人間の今後についてなんら思う事はなかった。

 階段を降りて一階の廊下に出た。長い通路にはあちらこちらに飛び散った血跡が残り、それらはなまぐさい人間の末期の瞬間を連想させた。

 「少し前まで、ここにはサンゴの兵士達が行き交っていた。死んだ者達も、生き残った者達も、いまこの瞬間に無傷で私がここに立っている事を知れば、きっと軽蔑して罵るだろうな」

 シャラは物憂げな顔で下唇を触った。
 「後悔しているのか?」
 シュオウがそう聞くと、シャラは眼を怒らせた。

 「お前のやることを知りつつ止めなかった事をか? そんなもの、ここまでの結果になると誰が考える。わかっていたとしても、不慣れな深界の森でそれができたと──」

 感情的になってまくしたてるシャラに、シュオウは重い言葉を返して遮った。
 「違う。あのとき、あの手をとってここを出なかった事だ」
 シャラは見開いていた眼を閉じ、唇をそっと噛みしめた。
 「……父を一人置いていきたくはなかった、ということもある。でも、本当のところでは、この流れに身を任せてみたいという欲求に負けてしまった」

 「流れ、か。よくわからないな」

 「なんとなくのものだ。すでに凝り固まっていたと思っていた私の世界が根底から崩れたんだ。国防の要を担う父と、王の血族たる母。二人の間に生まれ、私は世に落ちた瞬間から王の石を継ぐ資格をあたえられた。なにをしても、なにもかわらない。自分は自分、持って生まれたものからは逃れられない。つまらない、退屈だと嘆いたが、私はまだ、なにもしらなかった。お前のような人間を見て、知らなかったという事を知った。しばらくはこのまま身を委ねてみる。そして叶うなら、この機会にムラクモという国を見てみたいと思っている。あの赤毛の輝士いわく、ムラクモはクオウ教圏の国々のようにやばんではないらしい。なら、おとなしくしているかぎり我が身を憂う必要もないだろう」

 シュオウは軽く返事をした。
 「そうか」
 シャラは訝る。
 「聞くが、どうしてそう涼しい顔をしていられる。自分のしたことをきちんと理解しているのか? どれだけの人間の運命をひっくり返したのか、少しは考えてみるべきだ」

 年下の少女から叱られた気がしてシュオウはむすっと黙り込んだ。歩みを早めると、シャラはむきになって競るように足を動かした。徐々に早まっていく速度のまま、飛び出すように外へ出た途端、シュオウは改めて見るその光景に絶句した。

 四方八方に崩れた瓦礫が飛び散る光景の中、中庭の半分近くを覆うほどのムラクモ兵達が、こぞって自分の名を呼び拳を突き上げて歓喜の雄叫びをあげている。紅潮した顔で、それぞれに自分を褒め称える言葉を口にし、熱を帯びた視線は一時たりともはずれることもなかった。

 「この光景は全部お前がしたことの結果だろう。少しくらい調子にのったらどうだ」
 シャラは戸惑う輝士達を引き連れて、父の元へ行く、と言い残して去って行った。

 「シュオウ!」
 耳に慣れた野太い声が聞こえた。素早く声の主を追うと、満面の笑みを浮かべたボルジと目が合った。
 不意に彼が投げて寄越した筒を受け取り、中を見たシュオウは破顔した。手に馴染むそれを筒から取り出して、定位置である腰帯に差し込む。背にある英雄の剣よりも、想いの詰まった〈針〉が戻ったことを喜び、シュオウは自分の名を呼ぶ仲間達に向け、高らかと拳を突き上げた。








[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第一話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:33
     Ⅰ 新しい仕事(仮)





 頭上を巡るホウジョの鳴き声がして、首をおって空を見上げた。
 低空で深界を飛ぶホウジョという名のこの鳥は、仮宿を求め群れて移動を繰り返す、深界に生息する渡り鳥である。

 灰色に黒斑の小ぶりな羽根を必死にばたつかせ、短距離飛行を繰り返しながら、季節の変わり目に温暖な空気を望んで移動を繰り返す。その様はしかし、天高く飛翔する鳥達には及びもつかないほどみすぼらしかった。

 ころりと丸い体に、短く見栄えの悪い羽根。喉をならせばホージョと悲鳴のような声で鳴き散らかすこの鳥が、深界を行く人々に嫌われているのだと知ったのは、つい最近のことだった。

 曰く、ホウジョの鳴き声は人の悲鳴に似ている、それが深界に巣くう狂鬼達を呼び寄せるのだとか。が、それには同意しかねた。人と鳥の鳴き声を間違えるほど、灰色の森の化け物達は愚鈍ではないのだ。

 ホウジョを腐す、そうした話を聞いたとき、多くの人々は、ものの片側だけにしか興味がないのではないかとおもった。
 なぜなら、醜い声で鳴くこのみすぼらしい容姿の鳥の肉が、どれほどの美味か、彼らは知らないのだから。



          *



 荷馬車が気怠そうに奏でる車輪の音を聞きながら、積まれた荷に背を預けていたシュオウはなめらかなそよ風が運んできた、一足早い夏の香りを頬に受けて瞼をおとした。
 灰色に覆われる深界に、四季の彩りなど皆無だが、時間は着実に前へと歩みを進めている。

 春の終わり、夏の始まり。
 その間にある今の頃は、どっちつかずのこそばゆさを思わせる。

 日増しに空が高くなってゆき、放牧された羊の群れのように広がる白雲も、厚みが増していく。群れて飛ぶ鳥も入れ替わり、夜を彩る虫の音色も混ざり合う。
 季節は生物の営みに変化をもたらすが、人もまたその影響下にあった。

 ご機嫌な陽気に、時の移ろいをひしひしと感じるようになるこの頃、世界を血管のようにめぐる白道を交易のために旅する旅商の動きは、脈動する血液のように活発になる。

 王都に戻る道すがらに立ち寄った宿場町で、シュオウは交渉の末、商い旅の途中にある隊商の荷馬車に席をいただいた。
 乗り込んだ荷車は揺れが激しく落ち着かないが、徒歩で行くことを思えばそれも苦にはならない。が、問題は他にあった。

 「ぐががッんガッ!」
 それは、地鳴りを連想させるような強烈なイビキだった。
 「おい、かんべんしてくれよ……その兄さんのイビキのせいで他から苦情がきてるんだ」
 御者台に座って手綱を握る旅商の男が、振り返りながら苦情を言った。
 「すいません、いますぐ起こします」
 平謝りして、シュオウは隣で大きな体を横たえるシガの額を指で弾いた。

 のんきに眠りこける、この巨体の男は、それでも目を開けようとはしなかった。
 南方人であるガ・シガは、浅黒い褐色肌をぼりぼりと掻いて、言葉にならない声でなにかぶつぶつと呟いている。かと思えば、ふたたび空気をつんざくほどのイビキを喉の奥から吐きはじめた。

 イビキに怯えたのか、連れだって行く他の荷馬車の馬達がいなないている。
 深界を行く静かな旅路のなか、これでは顰蹙《ひんしゅく》を買うのも当然だ。

 「おい、起きろ!」
 シガの頬を強く叩いてみたが、一切動じた様子がない。

 元々眠りが深いほうなのか、シガは一度眠りに入ると簡単には目を覚まさないのだが、それを知ったのは王都への出頭命令を受けたシュオウが、シガを連れ立って帰途についた道すがらに、最初に立ち寄った宿場町でのことだった。

 渦視にいた際、怒りに猛って暴れまわっていたシガの顔つきは精悍だった。だが、蓋を開けてみれば、その性格には大いに隙があったのだ。注意散漫で、思慮が浅く、直情的で欲求を叶える事にはこのうえなく積極的。シガという人間はそういう男だった。
 元サンゴ領、渦見城塞で、まんまと捕らわれの身になっていたのも、いまとなっては頷ける話である。

 他から向けられる視線による無言の抗議にたえかねて、シュオウは奥の手をとることにした。のんきにイビキを演奏するシガの息を止めるのだ。
 まず、鼻をつまもうとして手を伸ばした。が、指先が触れる直前になって、シガは巧みな首捌きにより、これを回避した。
 二度、三度と試みても、シガは器用に睡眠を妨害せんとする魔の手から逃れてみせる。

 「おまえ、起きてるんじゃないよな……」
 「ぐごごごごご──んごッ」
 イビキで返事を寄越した、幸せそうな顔でよだれを垂らすシガが憎らしい。

 シュオウは、振り返って様子を窺っていた御者の男に、首を振って作戦が失敗に終わったことを告げた。
 男はうんざりした調子で、
 「あれっぽっちの運賃じゃ割にあわねえ……」
 と愚痴った。
 もう一度謝って、シュオウは肩をおとした。
 人の気も知らず、シガは心地よく大音量でいびきをたてている。背が高いせいで、長い足のかかとが流れる地面をこすっていた。

 シュオウは腰にくくった財布の中身を見て嘆息した。
 アデュレリアを出て、オウドについたころにはたっぷりと入っていた金も、今や底をついている。部下として従える必要のあった荒くれ者達の支持を得るために、気前良くばらまいたせいもあるが、それ以上に打撃だったのが、シガの胃袋だった。

 巨体を維持するためか、やたらに食うシガに付き合って、宿場に立ち寄るたびに皿を重ねるほどの料理を注文するはめになり、乾いた砂が水を飲みほさんが如く飲み込まれる酒もあいまって、浪費は止まるところをしらない。

 シガに対し、彼を雇うと言った以上、シュオウにも責任はある。だが、一度も給金を支払っていないのに、日ごとにやせ衰えていく財布を見ていると、言った言葉を取りやめにしたいという気持ちが、日を追うごとに強くなっていた。

 シュオウはへたへたになった財布を、大きく開かれたシガの口の中に押し込んだ。
 「もがッ」
 異物に眉をひそめながらも、ほどなくして財布を咀嚼しはじめたシガを見て、どっぷりと吐きだしたシュオウの溜息は、濁った沼底のように暗い、後悔の色に塗れていた。



          *



 厳かに戸を叩く音がした。
 ムラクモ王国、水晶宮の一間において、部屋の主であるグエンは来訪者に応対する副官、イザヤの背に視線を送っていた。

 「閣下、オウドより、従士曹シュオウが到着いたしました」
 「入れろ」
 短く告げると、イザヤは頷いた。

 グエンはやりかけの書類仕事に注意を戻し、内容に目を通しながら筆で署名を入れていく。
 イザヤに促され、部屋に入ってきた者を、グエンは上目遣いに覗った。
 灰色の髪、目立つ黒い眼帯、やたらに鋭い眼が、部屋のあちこちを観察するように動いていた。

 その姿には覚えがあった。

 シュオウという名のこの若者は、ムラクモにおいて存在する四つの希少輝石の持ち主が集まる四石会議の場で、その一翼を担うアデュレリア公爵の計らいにより、直接言葉を交わした相手である。

 筆を置き、グエンは顔をあげた。前に立つシュオウをじっと睨めつける。
 若さと生気に満ちあふれた瞳は曇りなく力強い。以前に対したとき、この目にここまでの力は感じなかった。

 一時の成功に酔い、根のない自信を得た者にある見苦しい傲慢さなどではない。この若者が漂わせている雰囲気は、もっと歴然とした風格だった。

 「名乗りなさい」
 呆然と佇むシュオウを、イザヤが促した。
 「シュオウ、です」
 言われた通り、本当にただ名乗っただけのシュオウに、イザヤのきつい言葉がさらに浴びせられた。
 「所属と階級を」
 シュオウは言われ、たどたどしく言葉を選ぶ。
 「第一軍所属、従曹、シュオウです」

 グエンは一つ頷き、語りかけた。
 「出頭命令をだしてから時がすぎている。渦視に派遣した調査官からの報告のほうが早く届いたほどだ。なにをしていた」
 「宿場町をめぐりながら、戻りました」
 少しも悪びれた様子なくシュオウは言ってのけた。側に控えるイザヤが呆れた様子で彼を見つめていた。
 空気を察してか、シュオウは若干眉根を下げた。
 「遅かった、ですか」
 「命令は即時実行を基本とする、次はないとおもえ」
 「はい」

 言って頷くシュオウの雰囲気は、どうにも垢抜けない。洗練されていない、というのではなく、軍人としてのあり方としてあまりにぎこちないのだ。
 王国軍最高司令官たるグエンに対し、こうも平常心に接することができる胆力。不遜ともいえるそれを、グエンは、しかし不快だとは思わなかった。

 「渦視での顛末については大方報告を受けている。狂鬼の襲来、それに乗じて虜囚を解放し、事態を察知したシャノアの精兵を制圧。惑乱に陥った城塞で司令官を捕縛し、残された狂鬼を単身で討伐。後、拠点を支配下においた──」

 これらすべてが、一夜のうちに起こった事だ。
 グエンは数枚の紙束をつかみ、シュオウに向けて風を扇いだ。

 「──この報告書は私のところへ直接あげられた。現地へ赴いた調査官が、当事者達から集めた情報をまとめたものだが、これを他の者が見れば、そのほとんどが一笑に付すだろう」

 報告書には、一軍を用いても容易に成せない事が、たった一人の人間の手によって完遂されたのだと淡々と綴られている。子供向けに書かれた英雄譚ですら、幾分かましな説得力を発揮しているだろう。

 渦視制圧の報は、宮中を雷鳴の如く駆け巡ったが、その詳細を知る者はまだ少ない。
 グエンは紙束を放り、淡々と屹立するシュオウに聞いた。
 「付け加えることはあるか」
 「ありません」
 グエンはアゴに手をやりつつ、ひとつ咳払いをした。
 「腑に落ちんのだ」
 独り言のように呟くと、シュオウが喉を鳴らした。
 「なにが、ですか」
 「事の始まりについて、とくに狂鬼の襲来はあまりに──」
 煮え切らぬ疑問点をあげつらおうとして、グエンは口をつぐむ。奇跡の式を求めたところで、この一時に答えは得られまい。
 無駄なことだ、と心中にごちる。
 「──いや、いい」
 困惑した様子でシュオウはかみ合わせるアゴに力を込めた。

 この若者がすべてを明かしていないのは間違いない。来歴を探らせてはみたが、アデュレリアが下手な工作を仕掛けていたおかげで、詳細は靄《もや》がかったままだった。
 シュオウという人間は、狂鬼を相手に生身で立ち回るだけの術を持つ。そして名をあげた歴戦の勇士を圧倒するだけの技があり、優れた武人としての資質を持ち合わせている。それだけわかっていれば、いまは十分だし、グエンが個人に対していだく好奇心としては、すでに最高点に達している。

 グエンは小さな木箱を取りだし、それをシュオウに放り投げた。
 「これは?」
 「四珠青雲翼章──渦視制圧の功にたいし、報奨としてあたえる」

 シュオウは木箱を開き、白紙につつまれていた勲章を取りだした。青い玉《ぎょく》がはめこまれた翼蛇を象ったそれは、ムラクモ王国でもとくに功績を残した者に与えられる最高位のものだ。

 勲章を見て、傍らに佇むイザヤが驚きに目を見開いた。
 四珠青雲翼章は一軍の将であろうと、おいそれとは受章できる代物ではない。記録にあるかぎりでも、貴族階級にないものがこれを受け取るのは前例のないことだ。
 価値を知ってか知らずか、シュオウはそれを胸のうちにしまい込んで、どうも、とぶっきらぼうに言った。

 グエンはイザヤに目配せした。頷いたイザヤは胸を張って声をあげる。
 「第一軍所属シュオウに告げる。オウド配属の任を解き、一時的に王都第一軍本部の配属とする。次の沙汰があるまで待機せよ」

 聞くや、シュオウは肩を怒らせた。
 「オウドに──もうあそこに戻れないんですかッ」
 意外に感じ、グエンは聞いた。
 「不満か」
 シュオウは歯を食いしばり、強い眼で頷いた。

 かの地は東地に生きる人間にとっては辺境に等しい。多くの軍属にとって忌避すべき任務地にあって、そこを出ることを拒む者もめずらしいだろう。

 「拒むことは許さん。これが貴様の立つ世界だ。不服を申し立てるなら、越権行為とみなし処分の対象とする」

 しばしの睨み合いの後、シュオウは鼻から大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
 「……わかりました」

 グエンはシュオウから視線をはずし、椅子に背をもたれかけた。
 「オウドでの一件について、私は貴様を高く評価している。極小の負担によって拠点を一つ得たのだからな」

 サンゴ国、国境を守護する要衝、渦視は長らく国庫を小針で突いていた難事だった。
 過去、ムラクモがサンゴからの侵略を受けた折、反撃の勢いにまかせて敵国領土の先端を占領したがために、国土奪還という正義を得たサンゴは渦視を拠点として侵攻を繰り返した。

 当然、南伐を主張する者は後を絶たなかったが、グエンはその主張を黙殺し続けてきた。
 ムラクモには余力がある。それは誰もが知るところで、東地を統べるこの大国は、北方を警戒しつつ、国家間の繋がりが曖昧な南方に攻め込むだけの武力、兵糧、資金、人材には事欠かないのだ。

 領土を広げ、国力をさらに高めることは、本来政を預かる者としてはそれこそを望むべきである。しかしグエンはムラクモという国家がこれ以上肥え太ることを、この世界にいるだれより望んでいなかった。

 「渦視は、これからどうなりますか」
 「時を見て、返還することになるだろう──」

 問うたシュオウは答えを聞いて、目の色をおとして控えめに不満を表明した。
 本来、南方諸国との外交的な均衡を崩す渦視制圧の一報はグエンの望むところではなかった。少数の人間が暴走したあげく、敵地一つを押さえてしまうなどという行為は、後先を考えない暴挙である。が、とある一人の人物の存在が状況をすべて一変させてしまったのだ。

 グエンは言葉を繋ぐ。
 「──しかし、すぐにではない。賠償金を接収したのち、公式に不可侵の約定を結ばせる。これだけこちらに有利な条件を望む事が出来る目処が立ったのは、すべてあのア・シャラという娘によるところ」

 名を出した娘と顔見知りであろうシュオウは、声をもらした。
 「あいつが……?」

 「ア・シャラ姫はサンゴ国王にとっては代えのきかぬ人間であったようだ。これまで強い字面が並んでいた王の書簡が、詫びの言葉で埋め尽くされていた。ありていにいえば、貴様に与えた報奨は、すべてア・シャラ姫を穏便に捕縛した功績によるところ。あの娘には万金に換えがたい価値があった」

 圧倒的に有利な条件での講和を結ぶとなれば、南伐を主張する者達を黙らせる恰好のネタになる。警戒すべきは諸侯のなかでもとくに好戦的な一派であるアデュレリア一族だが、先のサーサリア王女遭難事件の責により、餓狼は口を閉ざし、よだれを零さぬよう自制に努めている。

 あらゆる状況において最善の結果。それを名もなき末端のいち軍人がもたらしたのだ。無自覚なものであっても、その功績こそは、まさしく最高位の勲章に値する。

 「あの娘はこれからどうなりますか」
 それは年若いサンゴの姫を案ずる言葉だった。

 「かの者は協力的だと聞いている、ゆえに過度の拘束はせず、王侯の礼を持って遇する。本人はこの機会に王都での遊学を望んでいるようだ。私はこれを是認するつもりでいる」

 シュオウはあからさまにほっとして表情を緩めた。が、思い出したように即座に不機嫌そうに顔を歪める。

 シュオウは物言いたげに口を開いた。
 「あの──」
 おおかた、言いそうな言葉にあたりのつくグエンは、それを即座に遮った。
 「図に乗るな。口頭により、ここまでの説明を聞かせたのは私なりに武功を上げた者を労ってのこと。話は終わりだ、ゆけ」

 手で払うと、シュオウは軽く一礼して部屋の戸に手をかけた。その背を、しかしグエンは思わず呼び止めていた。

 「まて……」
 シュオウは動きを止める。が振り返ることなく、戸に手をかけたままだ。
 「……飯は、うまいか」
 シュオウはアゴを引き、
 「少し前までは」
 と憮然として返事を寄越した。

 廊下までシュオウを見送り、戻ってきたイザヤは扉を閉めると、行きました、と報告した。彼女がめずらしく疲れた様子を見せていたことを疑問に思い、グエンは聞いた。
 「どうした」
 「おかしな話ですが、気圧されました。とてもその……怒っていたので」
 階級に照らしてみれば、遙かな高みにいるイザヤが、いち従士に気を遣っていたのだという。
 「なにが気にくわんのか」
 「異動に不満を持つ事はめずらしい話ではないのでしょうが……ところで、あの者の処遇はいかように」

 グエンは筋骨たくましい腕を組み合わせた。
 「わからん、以前にその処遇を案じたときには軍から去ることを望んだが……」

 初めてその存在を話に聞いた時から、並の者ではないとわかっていた。が、ムラクモ──ないしはグエンにとって、降って湧いたように現れた傑出した人材など不要なのだ。すくなくとも、グエンはそう信じていた。

 サーサリア王女を害するため、はなった虫をシュオウが退けたときも、その存在を疎ましいと思わなかったわけではない。
 だがことここにいたり、渦視という喉にささった小骨を、結果的にシュオウが取り除いた事により、手放すことを惜しいとも思う心が、僅かに芽吹きはじめているのも事実だ。
 能ある者に執心する癖のある氷長石たるアデュレリアの長が、これを熱心に求めるのも、無理からぬことであろう。

 「妥当な配置先がないのであれば、休息をあたえては」
 「ただ飯を食わせてやるつもりはない、本人が軍属であることを望み、国庫から給金を受けている以上、臨時にでもなにかしらの役は与える」

 シュオウに対し、与えることのできる仕事の候補は、推薦という形ですでにあがっていた。出所の一つは王室から、もう一つはアデュレリアからだ。

 名のある大貴族の長が直々に送ってきた内容は、シュオウをアデュレリアの旗下である左硬軍の所属に、と直接的に求める内容である。考えるまでもなく、これは却下だ。
 ムラクモに存在する左右両軍は、それぞれアデュレリアとサーペンティアという二大公爵家が保有している固有の軍隊である。その在り方を王権から独立したものとして保有することを許す代わりに、膨大な資金を必要とする軍の維持費を、それぞれの家で賄わせている。

 国内の軍事力を王の支配下から分離させたのは、グエンの計略による結果ではあったが、今となっては、謀叛の可能性を無視できないほど、両軍の力は増していた。

 グエンがアデュレリア公爵の人事に関する要求を有無を言わさず拒絶するのは、軍としての序列を主張するためである。たとえひと一人の身柄であっても、唯々諾々と要求を飲めば、それを甘さと見る者は、影に隠れて家を食らうシロアリのように、見えずとも必ず現れるからだ。

 もう一方の王室の名の下に出された一通の書簡には二枚の嘆願書が入っていた。手前に入れられていたものには件の若者を親衛隊所属にと望んいる。見た瞬間に破り捨ててしまいたい衝動にかられたが、これを出した相手──親衛隊長シシジシ・アマイ──はそれを見越してか、妥協案ともいえる第二案も差し込んでいた。それこそが二通目の提案である。

 ──珍妙なことをいう。

 親衛隊は王族の影である。立場上彼らの権限がグエンのそれを上回るものではないにしても、表向き、その要求をすべてはね除けるのにも限界はある。不用意に不信をふりまくことはせず、振りであっても、ほどよく要請にこたえなくてはならない。

 グエンは王室からの第二案をイザヤに渡した。
 イザヤは真意をたしかめるように、受け取った紙とグエンを交互に見る。

 「本気でしょうか? 現地からの抗議が容易に想像できるのですが……」
 グエンは頷いた。
 「推薦状には老師の裏書きがそえてある。仕込みがすまされているということだ」
 イザヤは、はっとして眉をあげた。
 「正式な配属命令を手配しろ」
 命令を受けたイザヤは、敬礼をして部屋を出た。

 一人になったグエンは、前日に届いていたオウド司令官アル・バーデン准将からの書簡の封を開けた。礼法通りの文面が綴られた後、シュオウという名が書かれているのを見て、眉をひそめて書簡を放り投げた。

 アデュレリアは有能な人材として、親衛隊は王女救出の功に報いるためか。アル・バーデンにしても似たような理由からだろう。
 多方から伸びる糸が、一人の平民である若者に我先にと絡みつこうとしていた。

 卓上に並ぶ書簡の中から、グエンはまた一つを手に取った。翼蛇の紋様が刻まれた銀筒の中に丸めて入っていた書簡には、長期の視察に赴いていたサーサリア王女が帰途についたという報告が短く綴られている。
 グエンは手の内にある、その一通の書簡を、ゆっくりと強く握りつぶした。



         *



 水晶宮と市街地を繋ぐ溜息橋の途中に待たせていたシガは、地べたにしゃがんで通行人達を鋭く睨みつけていた。
 王宮へ物資を運び入れている通行人達は怯えたように目を逸らし、足早にシガの前を通過していく。その様は、まるで繋がれた猛獣のようだった。

 「ひとを脅すな」
 シュオウが注意すると、シガは緩慢な動作で腰をあげた。
 「してねえよ、こういう顔なんだ」
 シュオウは首を振ってシガを促し、水晶宮を背にして歩き出した。

 「で、どうなった、またあそこに戻るのか」
 シガは、シュオウの任地であったオウドへ戻るのかと聞いた。
 シュオウは奥歯を食いしばって首を振った。
 「その必要はないといわれた」
 「じゃあなんだ、こんなナマったるいとこで働くのかよ」
 「次の配属先はわからない、連絡があるまでは待機だそうだ。それまで王都で寝泊まりする」

 シガは歩きながらぐるぐると長い腕をふり、肩をまわしはじめた。

 「ここは都なんだろ、こんどはましな寝床を用意しろよ。どこもかしも寝台が狭すぎて体が痛くなる。あとな、そろそろ金を寄越せ、ここなら良い馬が手に入りそうだし、途中に見かけた店に、うまそうな濁り酒を売ってたんだよ」

 図々しい要求に、シュオウは目に角を立てた。

 「宿をとる金なんてもうないし、払う給金もない。お前の食費のせいで財布もすかすかだ」

 シュオウは自分自身を金のかからない人間であると自負している。露宿も厭わず、食べ物に好き嫌いもなく、それが清潔かどうかすら問題ではない。一人きりの旅路であればほとんど出費なく王都まで辿り着くことができていただろうが、おおざっぱで豪放に思えたシガは何かと要求が多く、好みもうるさくて、とにかく金がかかる。

 「おい、話が違うじゃねえか、雇うっていうからこんな東方くんだりまで付き合ってやったってのによ」

 シガの身元、扱いに関してはオウド司令官たるアル・バーデンが引き受けている。シュオウの願いを快諾してくれた結果だが、自身の自由がそうした努力によってまかなわれているのだという自覚が微塵もない様子のシガに対し、シュオウは辟易として声を荒げた。

 「約束したことだ、絶対に払う。落ち着いたらアデュレリアに預けてる金を送ってもらうように頼むから、少し待ってろ」

 シガは物言いたげに眉を持ち上げ、アゴを伸ばす。

 「おい、俺はバカじゃねえ、アデュレリアの名くらい知ってるぞ、そりゃ東方でも名のある豪族だろうが。そんなの相手に、お前みたいのが金を無心できるわけがねえ。くだらねえ嘘でやりすごそうとしてるなら、俺も黙ってねえぞ」

 鼻の穴を広げるシガの鋭利な視線をまっこうから受け止め、シュオウは声を張る。
 「嘘じゃない、ごまかしてもいない」
 しばらくにらみ合っていると、シガは鼻からふんと息を吹いた。
 「わかったよ、もう少し待ってやる。でも野宿はいやだ!」
 シュオウは気が抜けたように肩をおとす。
 「あてはある」
 シュオウは懐から一通の手紙を取り出した。よく知る友の名が、差出人として記されていた。

 目的の場所まで向かうため、シュオウはシガを連れ立って王都を貫く街路を歩いた。
 通行人達の無遠慮な視線が突き刺さることには、シュオウはすでに慣れっこだったが、シガはそうではないらしくやたらに機嫌が悪い。

 「胸くそ悪りい街だ」
 「……故郷なんだ、悪く言うな」
 シガは眉を上げた。
 「そういや、そんなこと言ってたな。まあ、お前が見た目通りの北の人間なら、着いてきちゃいねえけどな」
 シュオウは歩きながら、横目でシガを見た。
 「北の人間がそんなに嫌か」
 シガは鼻息を荒くする。
 「ああ、嫌いだッ。あの白頭共は、リシアとかいう女の神を信仰してるんだ、女だぞ?!」

 同意を求めるような物言いだが、シュオウは宗教的な思想を持たない。故に、シガが言わんとしていることが理解できなかった。

 「わるいことか?」
 「はッ、悪いとかそんな程度の話じゃすまねえよ。神ってのはな、もっと特別なもんなんだ。男とか女とか、そんなもんすらない、ク・オウの説く鬼神こそ、この世の頂点に在るものなんだよ」
 「鬼神……か」

 南方に住まう褐色肌をした人々は、クオウ教という宗教の元、鬼神を信仰している。オウドにあった寺院や、道ばたにもその痕跡は多く残されていた。

 宗教を持たぬ東地において、鬼はお伽噺に登場する幻想の存在として知られている。シュオウも、これまで目を通してきた書物のなかに、幾度かそれを記したものを見てきた。

 書物に書かれる鬼は、一本から二本の角を頭に生やし、猿や人、その他の獣の要素が入り交じった壮絶な容姿で描かれているが、それはオウドにあった石像などにも似通っていたため、東と南で、鬼という存在への姿形の認識にたいした違いはないようだった。

 鬼は理性を持たず、並外れた膂力《りょりょく》を有し、目に映るものを見境なしに襲い殺すという。深界に蠢く狂鬼らの名付け元となっているだけあって、その凶暴性こそが存在たらしめているのに、南方人はそれを神として崇めているのだ。

 「だいたい、北の連中は人間を作ったのは例の女の神で、輝石を与えたのもその女だとかぬかしやがる。それがきにくわねえ。命ってのはな、与えられるもんじゃねえ、勝ち取るもんだ。強者は雑魚を食らい、命を繋いで高みを目指す! 誰かから与えられるものなんて一つもないんだよ」

 饒舌なシガに、シュオウは疑問をぶつけた。
 「なら、鬼神はなんのためにいる?」
 「生死を賭けるこの世界に俺たちを放り込んだのが鬼神だ。生殺を競わせて、一番に高みに達する生き物を待ってんだよ」
 「その高みに達したら、どうなる」
 シガは豪快に笑った。
 「知るかよ、今がそれを競ってる真っ最中なんだ」

 「リシアの神は創造主として、お前の言っている鬼神は……裁定者みたいなものか。なにかを信仰する気持ちはわからないけど、俺が考える神という存在への印象としては、リシアのほうが、よりそれらしい気がするな」

 シュオウが想像する神という存在は、一種の超越者である。命を生み出したというリシアの神はそれに当てはまるが、箱のなかに生物を放り込んでただ競わせているだけの鬼神に、神としての風格があるかといわれれば、首を横に振らざるをえない。

 シガは強面を怒らせた。

 「神を持たないここらの連中はクソ馬鹿野郎共だがな、真逆を指さしてそれを信じるやつらとは、なにをしたって理解はできねえ。それなら神を持たない東方の蛮族共とのほうが、少しはましな付き合いができるってもんだ。でもな、冗談でも俺の前で北の糞女のほうがましだなんてヌかすんじゃねえぞ」

 揺るぎないシガの視線を受けて、シュオウは視線を流した。

 「わかった、この話はもうやめよう。たぶん、ろくなことにならない」
 神を論じるにはあまりに無知であるシュオウには、何かを強く信じる者の目は、ぎらついた真昼の太陽のように、直視に堪えないもののように思えた。

 街の中心部にある広場を囲む一角に、目的の店はあった。〈蜘蛛の巣〉という看板を掲げるそこは、かつて共に深界を旅した仲間であるクモカリがひらいた店である。以前に受け取った手紙には、王都へ立ち寄ったときには絶対に顔を出すように、店の住所と共に強く書かれていた。

 シュオウにとって、どこか気兼ねなく甘えることができる数少ない友人であるクモカリの店の前に立ち、戸を開くと、中から賑やかなやりとりと、食器が重なり合う音がして、香ばしい茶の香りと、甘い料理の香りまで漂ってきた。
 店の戸を開けてすぐ、シュオウはそこにあるものを見て固まった。

 「これ……」

 それはぼんやりと見覚えのある醜い像だった。金箔で覆われた、小さな鬼を象ったそれは、かつて貴族の娘であるアイセが、シュオウに渡そうと試みた品のない偶像である。

 「おいこれ、ベリキン様じゃねえかッ。どうやら、この店は同胞が経営してるみたいだな──」

 勝手に想像をふくらませたシガは、弾む声で気が利くなと言い残し、シュオウが止めるのも聞かず、一人で店の奥へ入っていってしまった。
 直後、シガの悲鳴があがった。
 開けたままの戸を閉めて、シュオウもシガの後を追った。奥から聞き慣れた声が聞こえてくる。
 「ちょっとぉ、一目見るなり悲鳴あげるなんてあんまりよ」
 シュオウは声の主を見るまでもなく、和やかに頬を緩めていた。



          *



 「それで、拾っちゃったってわけね、この歩く胃袋を」
 店の軽食をあらかた食い尽くしたシガを例えてクモカリが言った言葉を、シュオウはこれ以上なく的確だと思った。

 夜を迎え、閉じた店内を鈍く照らすランプの明かりは、シガの積み上げた皿に大きな影を落としている。

 「わるい、この分は後でかならず払う」
 カウンターを挟んで、クモカリは大きな手を振った。
 「命の恩人からお金をせびるつもりなんてないわよ」

 クモカリは言うが、しかしシュオウはその言葉を鵜呑みにできるような気分ではなかった。これが一人前や二人前なら甘えていたかもしれないが、シガは店の二日分の食材をすべて腹に収めたのだ。

 「ありがとう、少しの間だけ貸しておいてくれ」
 「本当に気にしないで、ただ明日の早朝から仕入れに付き合ってもらうかもしれないけどね。でも相変わらずみたいね、あなたも」
 顔を合わせ、笑い合う。
 見知った者同士の間に流れる、あたたかな空気は、ほどよい距離感と共に友という存在を強く実感させた。

 「それで、どうするの、この胃袋くん」
 クモカリは熟睡するシガをつんつんと指さした。
 「どうしよう」
 聞き返したシュオウを、クモカリは笑った。
 「拾ったのはあなたでしょ」
 「戦いの場では魅力的に思えたんだ、けど──」
 「平和な世界に戻ったら、その魅力も薄れちゃったのね」
 シュオウは鷹揚に頷いた。

 「見てきたことも、考え方も違うんだ。話も合わないし、時々こいつが喋るクマかなにかに見える」
 クモカリは苦笑いして、シガを見た。
 「あんまり言うもんじゃないわよ、こんなでもいちおう貴族様なんでしょ」
 シガの左手にある色のついた輝石をこつんと指ではじき、シュオウは深く息を吐いた。
 「言葉使いは荒いし、貴族って顔じゃないけどな」
 「あら、背格好のせいでそう見えないかもしれないけど、この人、顔立ちは端正で上品よ」
 「上品……か?」

 つっぷしたまま、ヨダレで水たまりをつくるシガを見ていると、クモカリのいう事に同意するのは難しい。

 「ついこのあいだまで、酔っ払いにからまれてたあなたが、浅黒い肌の貴族をお供に連れているんだものね…………お隣の国で一暴れして、アデュレリアでお姫様を助けて、戦場でお城を一つ手に入れて、あの吸血公グエンから直接勲章をいただいて、か……ねえシュオウ、あなたほんとに人間?」

 クモカリは指を一つずつ折ながら、近況を告げた内容を復唱しつつ、ちゃかすように笑った。
 シュオウは戯けて肩をすくませた。

 「見ての通りだ──でも悪かったな、一度くらいまともに顔を出しておきたかったんだけど」

 クモカリは女らしい仕草で手を泳がせる。

 「それだけ濃密な時間をすごしていたってことなのよ」
 「他には、誰か来たのか」
 「あのおバカ娘達は何度か顔をだしてるわよ、おかげで貴族御用達の店なんて評判がたっちゃったけど」
 シュオウはくすりと笑った。アイセとシトリという対照的な性格をした二人の娘達も、あの時の旅の縁を継続しているようだ。

 「ジロは?」
 「あのカエルは旅人だもの、あれっきり行方なんてわからないわ。おっさんにも一応知らせを出そうかとおもったんだけど、連絡のとりようがなくってね。でも、あなたは会ったんでしょ?」

 シュオウは頷いた。
 「ああ、オウドの配属になってから、すごく助けてもらった」
 クモカリは、のたくった蛇のように眉をくねらせた。
 「あの飲んだっクレが?」
 シュオウは首肯し、
 「うん、でも、また酒を浴びせられた」
 言いながら髪を撫でると、クモカリは吹き出して笑った。

 「あの二人は──アイセとシトリは元気か?」
 「そりゃもうね。顔を見せたかと思えば喧嘩ばっかりしてるわよ、仲が良いんだかわるいんだか」
 「まるで性格が違っていたからな」
 「それだけが原因とは思えないけれど」

 クモカリの言葉が、なにやら意味深な響きに聞こえた。

 「他になにかあるのか」
 クモカリは視線を高く泳がせて、首を傾げつつシュオウに視線を戻した。
 「人が争うときってどんなとき?」
 要領を得ない話に、シュオウは首を傾げた。争いという単語から、シュオウは自身が経験した、領土争いに端を発するオウドでの戦を思い浮かべていた。
 「──なにかを、取り合うときとか」
 クモカリは満足そうに頷いてみせる。
 「そうそう。とくに、その取り合うモノが一つしかないときは尋常ではすまないのよ」
 「そう、だろうな──なにが言いたい」
 「いいの、暇人の戯れ言と思って流してちょうだい」
 終始首を傾けっぱなしだったシュオウは、なんとなく了解したことを告げて、それ以上追求はしなかった。

 「ところで、今夜は泊まるところがあるの?」
 「それが……」
 シュオウは言葉を濁し、後ろ頭をかいた。
 「ちょっとなによ、水くさい。決まってないならそう言って。店の奥に休憩室があるから、そこでよければいくらでも使ってちょうだい」
 「ありがとう、ほんとうに助かる」

 「でも、あなたもいまや立派な従士さんでしょ。軍もケチよね、寝場所の用意もしてくれないなんて」
 「宿舎を用意するって、申し出はくれたんだ。でも断った」
 「あら、どうして?」
 シュオウは親指を立ててシガを指し、
 「部外者も連れてるし、それに──」

 視線を泳がし、シュオウは鼻の頭をかく。そんな様子を見て、察しの良いクモカリは満面の笑みを浮かべた。

 「それって、あたしに甘えたいって、そう思ってくれたってことよね」
 クモカリから視線をはずし、照れくささを必死に隠すシュオウは無言の肯定を返した。
 「ね、今夜は飲みましょうよ、もっともっと話を聞きたいわ」
 弾む友の声は、しんと静まりかえった店内に、華やかな彩りの炎を灯した。



         *



 日常について考える。
 それは平穏であり、変わらぬ日々である。
 だとすれば、シュオウが過ごしてきたここ数日の時は、まさしく日常と呼べるものだった。
 命を案ずる事なく目を覚まし、調理されたものを食べて、単調な仕事に従事する。
 血生臭い城塞での一時が嘘のような、穏やかで平坦な時を過ごし、心と体は無慈悲なまでに過酷であった日々を置き去りにして、今ある日常に身を浸していた。

 湿った朝靄のなか、シュオウは高くそびえた大きな門の前に立っていた。
 クモカリの元で数日を過ごした後、第一軍より発せられた命令書を受け取ったシュオウは、受領して早々に新たな配属先を目指し、眠りこけるシガを置いたまま、一人そこに辿り着いていた。

 手に持った地図を見直して、所在地をあらためて確認する。
 門の傍らに立つ古びた石柱には〈宝玉院〉という文字が彫り込まれていた。
 薄白い靄の中、一人の少女がそこに佇んでいた。

 見覚えのある水色の制服を纏う少女は、シュオウと目を合わせると深々と一礼する。顔をあげたその姿を見ても、シュオウは彼女が誰であるか、はっきりと思い出せずにいた。
 格子の門を差し挟み、戸惑うシュオウを察して、少女は自分から口を開く。

 「ユウヒナ・アデュレリアです。私を覚えていますか。命を、救っていただきました」
 言って、もう一度礼の姿勢をとった少女の名を聞き、シュオウは思わず声を漏らしていた。

 手の甲に深い紫の輝石を光らせる少女が背負う古めかしい建造物は、まるで辺境にある遺跡のような雰囲気を醸している。
 少女の両脇に、武装した険しい顔つきの守衛が立ち、見定めるような視線でシュオウを睨めつけていた。

 眼前にある光景を見て直感した。
 この門を挟んで、日常は非日常へと変わるのだと。






[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第二話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/05/13 20:33
     Ⅱ 七色のヒナたち










 「たしか、カザヒナさんの」
 命令書を確認した守衛の招きに応じ、宝玉院の敷地に足を踏み入れたシュオウは、案内を申し出たユウヒナと共に、古めかしい学舎に通じる庭を歩いていた。

 「はい、カザヒナは姉です。あの時は、大変失礼をいたしました」

 先導するユウヒナの歩みは遅かった。シュオウにしてみれば、半歩にも満たない歩幅で静々と歩を運んでいる。
 校舎に続く道の脇には木々がまばらに植えられていて、庭に点在する花壇には、季節の花が瑞々しく命を咲かせていた。舞い降りた小鳥たちが、忙しなく地面をついばみながら、心地良い鳴き声を奏でている。

 出迎えに参じたユウヒナという少女について、シュオウが抱く印象は薄かった。アデュレリアの本邸に居候していた時に、一度紹介された覚えはあるが、後に起こった出来事があまりに強烈であったため、記憶の隅においやってしまっていたのだ。

 ただ一点、彼女との関係を象徴する記憶といえば、ユウヒナ自身が言っていたように、シュオウが自らの身の安全と引き替えにして、結果的に命を救ったことだろう。

 カザヒナの血縁であるユウヒナは、容姿のうえでは一点だけ、姉と大きく異なる特徴を持っていた。彼女の髪は宵闇の内の影のように黒い。

 歩きつつ、ちらと様子を窺ってくるユウヒナは、シュオウの考えを察したのか、肩にかかった自身の髪を持ち上げた。

 「これ、変に思われますよね、カザヒナの髪とはまるで違うのですから。姉妹であるといっても、納得いただけませんか」

 シュオウは即座に首を振った。髪の色を除けば、ユウヒナの容姿はカザヒナの特徴と重なるところが多々ある。大きくて涼やかな浅い紫色をした瞳に、すっきりとした鼻筋から口元にかけての造りも上品で、きゅっと結ばれた口元が心根の強さをうかがわせる。カザヒナや、アデュレリアの当主であるアミュとは大きく異なる髪色にしても、毛先が外に跳ねた癖毛は、ユウヒナの姉と同じ特徴を濃く受け継いでいた。

 「よく似ている。若い頃のカザヒナさんと話しているみたいだ」

 ユウヒナが一瞬、口角を下げて歪めたのを、シュオウは見た。
 ユウヒナは足を止め、アゴを少しひいて、再び歩き出す。
 話題の切れ間に、底知れぬ気まずさを覚えたシュオウは、話題を代えることにした。

 「どうして来るとわかったんだ。俺だって、指示を受けたのは昨日の事なのに」
 「家から知らせが入りました。あなたがここへ配属されるので、その間のお世話をするようにと」
 「世話って、きみが俺を?」
 「はい、滞在中は私を副官とでも思いお使いください。あるいは、女官でもかまいません」

 突拍子もない申し出に、シュオウは困惑した。
 「じぶんの事は自分で出来る」

 「困ります。あなたの補佐を務めるようにとの指示は氷長石様直々のお言葉なので。アデュレリア一族にとって長の言葉は王のそれに匹敵するのです。ですが私自身、舞い込んだ恩返しの機会を喜んでいないといえば嘘になります。どうか慈悲と思い、命の恩に報いる機会をお与えください」

 言葉のうえでは懇願するようではあっても、ユウヒナの口調は氷柱のように鋭利で冷たい。それが心からの申し出であるのか、彼女を知らないシュオウには即座に判断できなかった。

 「考えておく」
 気持ちのなかでは申し出を固辞したかったが、ユウヒナの立場を考慮して、先送りともいえるいったんの保留を提案した。
 「はい」
 ユウヒナはそう言って短く返した。

 ゆったりとした歩調のなか、シュオウは外から眺める宝玉院の景色を観察する。苔むした外壁は、歪な形の石材をパズルのように精巧に組み上げていた。継ぎ目に補強素材を用いていないこうした建築様式は、ムラクモの市街地では見たことがない。

 朝靄のなかで眠たげに佇む校舎の姿に飽き始めていたシュオウは、沈黙をきらって、共通の知人であるカザヒナを話題にだした。

 「お姉さんはどうしてる」
 姉の近況を聞かれたユウヒナは、両肩をヒモで縛られたようにすくめた。
 「健やかです、カザヒナは、いつもそうですから」

 多分にトゲを含む口調だった。これまでシュオウに対していた態度が、ユウヒナという人物にとって、いかに柔らかなものであったか、今ならわかる。

 「なにか気に入らないことでもあるのか」
 ユウヒナは視線をおとす。ゆるやかだった歩調が、さらに重さを増した。
 「カザヒナは──変なんです」

 汗をたっぷり吸い込んだ洗濯物に顔を押しつけて、恍惚の表情を浮かべるカザヒナの姿を思い出し、シュオウは思わずこくんと頷いていた。

 「あの人には自分というものがありません。子供の頃から、一方で泣き顔を見せたかとおもうと、直後にけろりとして朗らかに笑ったりして、大人達から気味悪がられていたそうです。私が知る限り、カザヒナはその頃のまま大人なりました。人を見てころころと性格を入れ替えているようで、気持ちが悪いんです」

 変、という言葉の意味へのとらえ方に、シュオウのそれとユウヒナのそれは、大きな隔たりがあるようだった。
 シュオウにとってのカザヒナという人物は、多少おかしな趣向を振りまく傾向があるものの、人格者であり、有能な輝士であり、思いやりに溢れた才女である。

 「あの人は骨身を惜しまずに助けてくれたし、俺の剣の師匠でもある。悪くいう話を聞かされても、返す言葉がでてこない」

 ユウヒナはついに足を止めた。顔をおとしたまま、左手に握った拳を、右手で覆った。

 「ごめんなさい、愚痴をお聞かせしてしまいました。別にカザヒナを憎んだりしているわけではありません。つきっきりで看病をしてくれたときは、肉親の情も、少しは感じました。輝士としての技能に優れ、若くして当主様の補佐を務めています。過去にはカザヒナを嫌っていた大人達も、今では顔色をうかがうようになりました。優秀で有能で、自慢の姉です。けど、苦手なんです、あの人が」

 知っておいてほしかった、とユウヒナは言って、歩みを再開した。
 触れてほしくない話題、というのは誰にでもあるものだ。共通認識によって打ち解けることができるかもしれないと期待したカザヒナの話は、ユウヒナにとってのそれであったらしい。
 
 だだっ広い玄関ホールへ案内され、そこを抜けた先は、左右に広がる長い廊下があった。先がかすんで見えるほどの長廊下には、教室であろう各部屋への扉が整然と並んでいる。その光景は壮観だった。
 目視したところ、広大な校舎は長方形に伸びる一階立ての構造で、中央には広々とした芝生の生えた中庭がある。ユウヒナに連れられるままそこへ入ると、庭師風の老人が、しゃがんで草むしりをしていた。
 黙々と作業にはげむ老人を尻目に、シュオウはユウヒナに聞いた。

 「今更だけど、どこに案内してくれるんだ」
 「主任師官マニカ女史の元へ。着任の報告はそこですむはずです」

 ユウヒナはきちんとシュオウの状況をふまえ、適切な場所へ誘導してくれていた。一人で来ていたら、今頃はどこへ行けばいいのか迷ってうろうろしていたに違いない。

 中庭をしばらく歩き、北側の廊下へ抜けた。見渡しても人影がない。
 「静かだな」
 「あと少ししたら、登校する生徒達の喧噪で賑やかになります。それはもう、うるさいくらいに」

 北廊下に入ってからしばらくして、角を曲がって現れた一人の女生徒の姿を見つけたユウヒナは、おもむろに足を止めた。

 前から来る女生徒もユウヒナに気づいた様子で、両者は互いに視線を重ねる。
 声が届く距離までくると、対面から来る女生徒は顔を上げて不適な笑みをつくった。

 「あら、ユウヒナさん、こんなに早くにどうしたのかしら? まだ時間を間違えるようなお歳ではないでしょう」

 嫌みな口調で語りかけた少女は、年頃はユウヒナと同じくらいで、淡い黄緑色の輝石と左右に結った髪が印象的だった。美人だが目つきが悪く尖った雰囲気を帯びていて、胸を張って上から見下ろすような態度が、高飛車な性格をおもわせる。

 「おはようございます、アズアさん。起き抜けに歯も磨かずに登校なさったようですね、離れていてもここまで臭いますよ」
 ユウヒナは手で鼻先を覆った。アズアと呼ばれた少女は、顔を赤くして声を荒げる。
 「み、みがきました!」
 ユウヒナは涼しい顔で受け流し、ふんと鼻を鳴らす。
 「きちんと磨いていてそれですか。ごめんなさい、無神経なことを言ってしまって」
 「ぐぬ……」

 言い返す言葉が思い浮かばなかった様子のアズアは、怒りの眼でユウヒナを睨みつけた。

 「それでは、失礼します。この方をご案内している途中ですので」
 ユウヒナの言葉を受けて、アズアは視線をシュオウに重ねた。
 「どなた、ですか」
 アズアは聞きながらシュオウの左手の甲にある輝石を見た。
 ユウヒナはアズアの視線を遮るように体を横にずらしてシュオウの前に立つ。
 「当家の大切なお客様です」
 アズアは首を真横に折った。
 「アデュレリア……の?」
 珍品でも見るようにまじまじと観察され、シュオウは眉をひそめた。
 アズアはしたり顔で笑みを浮かべる。
 「さすがは狂犬の一族ですのね、もてなす相手まで柄が悪いよう──よう、で……」
 ユウヒナは一歩前へ出て、黙ってアズアをじっと睨んだ。
 まるで蛇に睨まれたカエルの如く、アズアは笑い顔を引きつらせる。

 「ふ、ふんッ、どうでもいいですけれどッ。わたくし本を返しにきましたの。急がないと始業時間になりますから、これで失礼いたします。ごきげんよう」

 恭しく一礼して、アズアはユウヒナとシュオウの横を通ってそそくさと姿を消した。どこか歩調が小走りで逃げていくようにも見える。

 「いまのは?」
 「そこにいるだけで悪臭を放つ蛇の子、同級のアズア・サーペンティアです。昔から家を引き合いにして何かとからんでくるので、うんざりしています」

 サーペンティアと聞き、二人の娘達の間に流れていた緊迫した空気に納得がいった。
 思い返せば、アズアは、シュオウの知るかの一族の容姿の特徴を濃く感じさせる。限られた空間に置かれる宝玉院での環境は、犬猿の仲である両家の子女達の距離も縮めてしまうのだろう。

 「まいりましょう、時間を無駄にしてしまいました」
 促されるまま、シュオウはユウヒナの後を追った。

 少し歩くと、廊下の隅におかしな雰囲気を放つ、入り口を見つけた。側にある看板には、中へ入ることを強く警告する文言が綴られている。

 「ここは?」
 「迷宮です」
 「迷宮って、学校にそんなものがあるのか」

 「この先は実技訓練場に繋がっています。訓練場は山を差し挟んだ向こう側にあるので、通常、そこへ向かうためには山を徒歩で越えなければなりません。ですが、ここを通れば、労なくそこへ辿り着くことができるので、楽を望む者達が時折この迷宮に挑むのです」

 シュオウは暗がりで奥の見えない迷宮の入り口をまじまじと見つめた。

 「中は危ないのか」
 ユウヒナは首を傾げる。
 「さあ、私は入ったことがないので。ですが、命を失った者がいるとか、二度と出てこなかった生徒もいたとか、そうした噂は子供の頃からよく耳にしてきました。どれも信憑性に欠ける内容ですけど」

 事実が含まれているのだとすれば、この迷宮は子供達が生活をおくる場にはふさわしくない。

 ユウヒナから聞いた話を、噂話だと一笑に付すことが出来ないのは、入り口におかれた仰々しい警告文のせいだ。しかし、本当にこの迷宮に危険があるのだとすれば、ここを管理している大人達は、知りつつ入り口を塞ぐことをしていないということになる。おかしな話だ。

 「迷宮の攻略を試みた先輩方は多くいました。ある人は入り口からヒモを通そうとしたり、またある人は目印をつけて臨み、なかには無事に向こう側に辿りついた方もいたようですが、なぜか、ヒモを通しても目印をつけても、少しすると綺麗に全部なくなって、元通りになってしまうのだとか。道順を覚えても、その通りに歩いたはずが、もう先へ抜けることができなくなってしまった、などという話も聞いたことがあります」

 聞いているうち、シュオウは背中にぞくりと冷たいものを感じた。
 「気味が悪いな」
 「はい、ですから、ここに近寄る生徒はあまりいません。どうか、ないものと思ってお過ごしください」
 「……そうする」

 わざわざ危険を進んで買うほど、こんな怪しげな場所に興味はない。
 歩みを再開したユウヒナを追いながら、シュオウは振り返った。
 ぼお、と気味の悪い風鳴りを轟かせる迷宮の入り口は、なにかを飲み込もうとして開かれた、口のようにも見えた。

 他の扉より一層大きな門構えの部屋の前までくると、ユウヒナは振り返って一礼した。
 「マニカ女史の執務室です、あとのことは中でお聞きください。始業時間が近いので、私は一端ここで失礼いたします。またのちほど」

 感謝を言って別れたあと、シュオウは扉を前に、ゆっくりと息をはいて心を落ち着けた。拳でノックすると、中からしゃがれた老婆の声で、どうぞと返事があった。

 部屋に入ると、机に座り、小さな丸メガネをくいと下げて上目使いに老婆がシュオウをじっと見つめていた。髪は白に染まり、顔にはいくつもの深い皺が刻まれているが、冷厳としていて品が良く、大きな瞳と整った面立ちが、若かりし頃はどれほどの美女であったかと、思わず想像させた。

 「シュオウといいます、ここへ配属される命令を受け、挨拶にきました」

 言って命令書を手渡すと、下げたメガネをあげた老婆は目を細めてまじまじと書面の内容をたしかめた。
 「そうですか……本当だったのですね」

 老婆は書面から目を外すと、シュオウの左手の甲をじっと見つめた。即座に、渋く表情を歪める。
 老婆は見た目の年齢からは想像もつかないほど、しゃんとした腰つきで立ち上がった。

 「主師のマニカ・アンルです。欠員のでた剣術講師の補充を頼んではいたのですが、まさかあなたのような人間が派遣されてくるとは。正直、当惑しています。様子からしてあなたも同じようですが」

 シュオウは首筋をかきながら、鷹揚に頷いた。
 「急なことだったので、自分がなんのためにここに来たのかもよくわかってません」

 マニカは溜め息をおとした。

 「そうでしょう、宝玉院の長い歴史のなかでも前例のないことです。ですが、命令書は正式なもので、発行人はあのグエン様直々のもの。当校の院長も承知済みのことのようですから、疑念をためこむだけ無駄ということなのでしょうね。考えるのはよしましょう」

 想像していたよりも、着任の挨拶をしたマニカの態度は柔らかだった。
 色のない輝石を持つ身でありながら、高貴な子女達に剣の扱いを教える役を授かった事が、上流である貴族社会でどれほど異質なことであるかは考えるまでもない。

 嫌みや嫌がらせのひとつも覚悟していたが、マニカは当惑した様子をみせつつも、淡々とこの事態を受け入れているようだった。見た目から受ける厳しい態度ほどには、彼女は凝り固まった人間ではないようにおもう。僅かに交わした言動からは、前向きで楽観的な性格が見て取れた。
 シュオウは初対面のマニカに好印象を抱いた。

 「すぐにでも案内をしたいところですが、あいにくこの時間は剣術科目の予定がはいっていません。私もやり残しの仕事がありますから──」

 「待ちます」
 端的に言うと、マニカは表情を変えず頷いた。
 仕事の邪魔ではないかと気にかけたシュオウは、扉に手をかけた。
 「外にいますから」
 親切心から言ったつもりだったが、マニカは顔をひそめた。
 「中で座ってお待ちなさい。今、お茶をはこばせます」
 マニカは卓上にあった大きな呼び鈴をからんと鳴らした。 





          *





 「よし、あと十週!」

 甲高く笛を鳴らす金髪の暴君に、宝玉院の中庭をぐるぐると走る生徒達の恨みのこもった視線があつまった。

 「あの、先生、数学の、授業で、なんで、走らされないと、いけないんですかッ──」

 暴君に対して絶え絶えの呼吸で苦情を言った男子生徒は、返事を聞かずそのまま走り抜けて行く。

 青の真新しい輝士服に身を包み、王家の紋を刻んだ剣を腰に差した金髪の暴君、アイセは眉を怒らせて文句をたれた生徒を一喝した。

 「先生じゃない、私のことはモートレッド師官と呼べ! 喋る余力があるのなら頭を働かすために残しておけ。これから抜き打ちで試験を行う。走り終えた者から始めて、合格点に達しなかった者は最初からやりなおしだからな!」

 悲鳴にも似た声が、必死に走る生徒達からあがった。

 アイセは今、研修という名目で実際に教鞭をとっていた。とはいっても、正式な配属先が宝玉院に決まったわけではなく、卒業試験の合格者は例年、あちこちの部署を研修の名目でたらい回しにされ、広く浅く経験を得ることを求められるのだ。

 通常、研修生として配属される任地での期間は一月かそれにも満たないが、ここ宝玉院はちょうど教師教官に相当する師官の不足を招いており、予定より長く、卒業して縁の遠くなったはずの宝玉院に居座るはめになっていた。

 アイセは今の状況を、しかし、悪くはないと思い始めていた。
 もともと仕切るのは好むところであり、得意であるという自負もある。言葉一つで候補生達を従える事ができるこの役職は、天職ではないかと思えるほど性に合っていた。
 足を止めてしまった小太りの女生徒を見つけ、アイセは強く笛を吹いた。

 「おい、そこ! そんな、ことじゃ──」
 ──あれ。
 怒鳴りつけようとして、アイセはふと視界の隅に捉えた見覚えのある人物の後ろ姿に気づき、声を失った。





          *





 その教室は、色とりどりの髪色をした生徒達で一杯だった。しかし、集まっている人数のわりには、そこはあまりに静寂につつまれていた。
 呆然として前を見つめる幼い候補生達の視線の先には、黙々と指先の手入れを続ける、青の輝士服をだらしなく着こなした、水色髪の師官がいた。

 「あの、アウレール先生……やることがないのなら、せめてご指示をいただけますか」

 まじめそうな女生徒が起立して言うと、水色髪の師官、シトリは視線をやることもせず、だるそうに受け答えた。

 「アウレールとか……そういう暑苦しい呼び方はやめてって言ったでしょ。それに、好きなことしてればって、何度言えばわかるの」

 そう返された女生徒は、気まずそうに着席した。

 「卒業試験の合格者だっていうから、期待してたのに……」
 そうささやき声で愚痴る言葉が聞こえたが、シトリは一切動じることなく、教卓の上に広げた化粧道具を選んで爪の形を整え始めた。

 シトリは師官として、主に宝玉院に通う晶士としての適性を持った子供達の面倒をまかされていた。晶士として身を立てたからという安易な発想によりあてがわれはしたが、卒業には遠いひな鳥たちはやたらにまじめで、シトリとしては、それが気にくわない。

 自由にしろと言っても聞かず、やることを求めて見つめてくるのにはうんざりだった。
 すべてを放棄してしまいたかったが、上にいる目付役の主任師官と、うっとうしい元同級生であり現同僚であるアイセの監視があり、それも難しい。妥協点を探った結果、シトリは授業にはでるが、ひな鳥たちの望む理想の先生を演じる事は一切拒絶した。

 あと数年もして、背丈が大人と大差ないくらいになる頃には、ほどよく手を抜くことも覚えているのだろうが、今の彼らは将来を夢見て真綿のごとく知識を飲み干さんと欲し、やる気に満ちあふれていて、シトリにとってはこのうえなく暑苦しい存在だった。

 突如、幼い男子生徒が立ち上がって声を張り上げた。
 「いいかげん晶気の扱い方をおしえろよ! それでも師官なのかッ」

 言った生徒は名のある良家の若君だった。その家柄は、たいして興味もないシトリですら知っているほどで相当なものだが、それでもシトリは態度を崩さず、まともに応じることすらしなかった。

 「おい、なんとか言え! ぼくを無視したら許さないぞ、父上にすべて言ってやるッ、アウレールなんて、家が一言いえば──」

 声変わりしていない甲高い子供の声は耳障りだった。シトリは低く唸る猛獣の鳴き声のような声音で、男子生徒の言葉を遮る。
 「うるさいな」

 男子生徒はシトリの声に怯えたように顔を引きつらせた。
  教卓を強く叩き、シトリは立ち上がって男子生徒を睨めつけた。

 「いい、聞きなさい坊や。この世界にはやりたくもない仕事をたらいまわしにされたあげく、愛しの君と離ればなれの生活を送りながら、毎朝うざい元同級生に起こされて、やっと終わったとおもった学校に連れて行かれるような、ほんっとうにひどい人生に耐えている人もいるの。ショウキノアツカイ? そんなもの使ったって肌は綺麗にならないし、愛する人に抱きしめてももらえないの! 親の名前を使って人を脅すくらい暇なら、一人でお箸でも振って、キシサマごっこしてればいいでしょッ」

 一方的にまくしたてると、先ほどまで強気に喚いていた男子生徒は半べそになった顔を隠すように、椅子にへたりこんで俯いた。
 なぜか、一部の生徒達の間から控えめな拍手がわいた。
 吐きだしてすっきりとしたシトリは、座ろうとして、落とした腰を途中で止めた。開いた教室の扉の先に、一瞬だけ見えた灰色の髪をした男の姿が通り過ぎたような気がしたのだ。
 「うそ……」
 シトリは腰をおとすことなく、少しの間を置いて教室の外へ飛び出した。



 「げ、アイセ」
 宝玉院の長い廊下の途中に、ばったりと顔を合わせたシトリとアイセは、互いに気まずそうに視線をそらした。

 「シトリ、授業中だろ、こんなところでなにをしている」
 「そっちこそ」
 「む、別に……」

 いつも快活としているアイセには珍しく、歯切れが悪かった。
 シトリは目的の人物の姿を求めて視線を泳がせたが、姿は影も形もない。

 ──そんなわけ、ないよね。

 シトリの思い人はいま、遠く戦地にその身を置いている。過酷な環境にいるせいか、物や手紙のやり取りができなくなってから久しいが、そんな彼がなんの縁もない宝玉院の中をうろついているはずがない。

 日頃から会いたいと強く想う気持ちが幻でも見せたのだろう。そう決めつけて、シトリは肩を落とした。
 見れば、アイセもいつもより若干気を落としているようにもみえる。

 「ねえ──」
 言いかけてシトリはやめた。
 「なんだ」
 「べつに。いい、もうもどる」
 「私も、戻る」
 ぷいと顔をそらし、二人は背を合わせて逆方向へ歩き出した。





          *





 訓練場への案内をマニカが申し出たのは、心からの誠意であったとわかったのは、そこへ続く、長く伸びる急な坂道を前にした時だった。

 軽い登山といえるほど、坂道は険しい。マニカは張りきってシュオウの先を行くが、半分も登らぬうちに足がおぼつかなくなっている。だがそれでも背筋を曲げず、ぴんと張った姿勢を保っているのは、賞賛すべきど根性だった。

 「あの、一人でも行けますから」
 ぽっくり逝ってしまいかねないマニカの様子に、シュオウは耐えかねてそう提案した。
 マニカは苦しそうな呼吸を繰り返しつつ、それでも気丈に声を張った。
 「い、けません……新任の師官が配属された時には、主師であるこの私が紹介する決まりです、から」

 「じゃあ、戻って馬を用意しませんか」
 マニカはシュオウの提案に首を振った。
 「なりません、訓練場への道は自らの足で、というのが宝玉院の仕来りなのです」

 ユウヒナに案内されたときに、学舎の中で見たあのおかしな迷宮と、マニカの言った仕来りが、一本の糸で結ばれた。
 健脚なシュオウですら決して楽とは思わないこの道を、毎回徒歩で行き来しなければならないのだ。面倒をはぶいて近道ができるのだというあの迷宮の存在は、ここで生活する子供達にとってどれほどの誘惑となるだろうか。

 マニカについて坂を登りきると、眼下にある大きな広場に、色鮮やかな髪色をした候補生達が各種の実技訓練に励んでいる光景が一望できた。訓練用の木剣を握り、馬を駆って模擬戦を行う様子などは、まさしくこの宝玉院という場所が軍学校であるという事実を如実に物語っていた。

 「あそこが剣術の修練場です」

 緩い下り坂をゆっくりと下りたあと、マニカは広場の西側を指した。
 目的の場所には、人の上半身を象った木製人形が並び、その周囲で木剣を握る候補生達が、それぞれ好き勝手に剣を振り回したり、何もせず座り込んでお喋りに興じていた。

 とくにシュオウの目を引いたのは、何かを取り囲むように輪をつくって騒いでいる生徒達の後ろ姿だった。

 「あなたたち! 自習なさいとは言いましたが、遊んでいいとは言っていませんよッ」
 マニカに怒鳴られた生徒らは、肩をふるわせてばつが悪そうな顔で縮こまった。
 「そこ! なにをしているのです」

 一喝され、輪をつくっていた生徒らは道をあけ、輪の中心にいた二人の男子生徒の姿が露わとなった。一方は小柄で黒髪、もう一方はすらりと足の長い、金髪の生徒である。前者は地面に腹ばいになっており、後者の生徒が彼の後頭部に靴を履いた足を乗せていた。

 突如、マニカの表情が怒りに染まった。
 「カデル・ミザント、今すぐその足をおどけなさい」

 カデルと呼ばれた金髪の男子生徒は、涼しい顔で眉を上げ、横たわる黒髪の男子生徒の頭から足を離した。
 「これでいいでしょうか、マニカ先生」
 叱られても余裕を崩さないカデルを、マニカはじっと見つめた。
 足で組み敷かれていた黒髪の男子生徒は、視線の集まるなかゆっくりと起きあがり、顔をおとしたまま、生徒らの一番後ろへ、のっそりと姿を消した。

 溜め息をおとし、マニカは佇むシュオウの背に触れた。

 「臨時の剣術指南として軍から派遣されたシュオウ殿です。前任の正式な代わりが決まるまで、高学年の授業を見ていただきます。みなさん、そのつもりで」
 生徒らの間でどよめきがおこった。
 カデルが咄嗟に挙手する。
 「先生、これは冗談かなにかなのでしょうね」
 カデルは左手の甲を前に出し、浅緑の彩石をこつこつと叩きながら、肩をすくめた。
 「冗談ではありません」

 「みなが思っている事をあえて言いますが、濁り石を持つ者に剣の教えを請えと、そうおっしゃるのですか。先生が言っている事は、牛や鶏に言葉を習えと言っているのと同じですよ。家畜に教えを願うほど、ミザントの名は落ちぶれてはおりません」

 くすくすと、各所から笑いが漏れた。

 「お黙りなさい、この人事は正統な手続きを経ています。いち候補生が口出しできる事ではないのですよ」

 「いち候補生であっても、不当を黙って受け入れるほど無力ではありません。この件は家に報告しますよ。とりあえず、この馬鹿げた状況を放棄して意思表明にしたいと思います。みんな、引き上げようじゃないか」

 カデルの言葉に同調して、生徒らは背を向けて学舎への帰途につき始めた。
 ──まあ、そうだろうな。
 拒絶の意をしめされても、シュオウは心に波風をたてることなく平静でいた。この程度の反応は容易に想像できたことだ。

 マニカは声を荒げて彼らを引き留めようとしているが、聞く耳を捨てた生徒達は無視をきめこんでいる。

 さきほどカデルに足蹴にされていた黒髪の男子生徒が、一人取り残され、控えめに後に続こうと足をだした。
 マニカが彼を呼び止めた。
 「アラタ候補生」
 「……はい」
 「怪我はありませんか」
 「…………はい」

 アラタと呼ばれた少年は、よれよれになった制服に砂埃をたっぷりとつけたまま、一礼して力なく去って行った。
 マニカはアラタの背を心配そうに見つめながら、

 「カデルのように、良家の者にとっては、この宝玉院は住みよい世界なのでしょうが。あの子は賢い子なのに、昔から家柄を理由にちょっかいをかけられていて」
 と、くやしそうに言った。

 マニカは踏み荒らされた地面に放置された無数の木剣を一つずつ拾いはじめた。シュオウも慌ててそれを手伝う。

 「ところで、剣術の腕前にはどれほどの自信があるのですか」
 片付けながら聞かれ、シュオウは顔も見ずに返した。
 「少しもありません、習いはじめて間もないので」

 マニカが手を止めたのに気づき、シュオウは顔を上げて彼女を見た。眉をあげ、口を半開きにした老婆の姿が、そこにある。

 「深入りすることは信条ではありませんが、どうしてあなたがここへ配属されたのかと思わずにはいられなくなってきましたよ」
 「本当に、そうですね」
 外からみれば、それはひどく間の抜けた会話であったにちがいない。



 訓練場の視察を終えて、再び宝玉院の学舎に戻った頃には、朝の涼やかな空気は、すっかり午後の暖かな日差しに押しやられていた。

 宝玉院の生徒らは、昼食を取るための長めの休み時間を、おもいおもいに過ごしている。
 訓練場からの往復ですっかり足腰がよたよたになってしまったマニカは、自室に戻るとシュオウを宿舎へ案内すると告げて冷めた茶を飲み干した。

 再び廊下へ出ると、ついさきほどまで誰もいなかったそこに、品良く佇むユウヒナの姿があった。

 「あなたは……用ならばあとになさい」
 マニカに睨まれても、ユウヒナは動じなかった。
 「新任の先生をお迎えにあがりました」
 「迎え? そんな指示をだしたおぼえはありませんよ」
 「この方は当家のたいせつな賓客ですから。当主様も、とても気にかけておられます」

 マニカは聞いて、珍獣でも発見したかのような視線でシュオウをまじまじと見つめた。

 「氷長石様が……?」
 「なので施設の案内でしたら、私がさせていただきます」
 ユウヒナの申し出に、マニカは気分を害したようだった。
 「必要ありません、候補生としての本分を忘れぬように」

 「必要です、この身は宝玉院でのシュオウ様の生活をお助けするようにとの命を受けております。この言葉がアデュレリアの長より発せられたものであること、くれぐれもお忘れなく」
 マニカは一瞬言葉を失った。かすかに震えた肩から、日頃の苦労がうかがえる。
 「同行ならば許可します。ですが休息時間のあいだだけですよ」
 作り物じみた笑みを浮かべ、ユウヒナは頭を垂れた。
 「感謝いたします」

 先頭をマニカが行き、少し距離をあけてシュオウがそれに続き、その後ろをぴったりとユウヒナがついてきている。

 長い廊下の途中にある、ぽっかりとあいた教室にさしかかったとき、マニカが中を覗いて突如怒鳴った。直後に衣服を乱した男女の生徒が教室から飛び出し、謝罪の言葉を残して走り去っていく。

 「まったく、なげかわしい……神聖なる学舎を不埒な寝所にしてしまって」
 歩きながらマニカが独りごちると、ユウヒナがシュオウの背後でくすりと笑いをこぼした。ユウヒナはシュオウにだけ聞こえるよう、小声でささやきかける。

 「愛をはぐくみ子を残す行為も、私は神聖であるとおもいます」
 「だけど、場所を選ぶ必要はあるだろ」
 シュオウがマニカの肩を持つと、ユウヒナは静かに微笑んだ。

 「そうかもしれません。でも、私たち人間は愛を持って心を結んだ相手としか子孫を残す事はできないのです。ですから、咲きかけたツボミを摘み取るような行為は、無粋なことだとおもいました」

 ユウヒナの意見も、的外れではないきがして、シュオウはなるほどと呟いた。

 「もしわたしたち人間が誰とでも関係を結ぶことができる生き物だったなら、若い男女を同じ場所に押し込める、この宝玉院の在り方も変わっていたのでしょうか」

 「異性同士であれば、誰とでも子供をつくることができる。そう言いたいのか」
 振り返って聞くと、ユウヒナは頷いた。

 「そうであれば、人間はもっと効率よく数を増やすことができて、深界に巣くう狂鬼達にも数で対抗できていたかもしれません。埒もない例え話ですが、時々そんなことを考えてしまいます」

 前を行くマニカが足を止めた。
 「聞こえていますよ。おやめなさい、人を虫やネズミのように言うなんて。聞いているだけでおぞましい話です」

 叱られたユウヒナは即座に謝るが、こっそりとシュオウに見せた顔には、小さくでた赤い舌がのぞいていた。



 「ここが宿舎です。師官の多くは通いで、ここも独身者が数人臨時の寝床としているだけですから、あまり気兼ねはいらないでしょう」

 通されたのは地下へ通じる奇妙な部屋だった。階段を降りて細長い通路を歩いた後、広い空間があって、そこから枝分かれするように十部屋ほどが連なっている。雰囲気的には宿舎というより独房だが、部屋の中は陽を取り込む設計になっていて、不思議と閉塞感はなかった。

 「給仕に話を通しておきますので、食事は希望する時間に運ばせます。洗濯に出したいものがあればカゴに入れて部屋に置いておけば係の者が回収するので、覚えておくように」

 「費用はどれくらいかかりますか」
 聞いたシュオウをマニカはおかしそうに見た。
 「宝玉院を安宿かなにかと一緒にしないでください。金銭的な負担をしいるような事はありません」

 シュオウは唾を飲み下し、体を前へ乗り出した。
 「じゃあ、食費は無料なんですか」
 マニカは訝りながら距離を置く。
 「ですから、そういっているでしょう」

 シュオウの脳裏に、褐色肌の大男の姿がかすめた。
 「できれば、手伝いとして、連れもここに呼びたいんですけど」
 「連れ? その方の身元はたしかなのでしょうね」
 シュオウは強く首肯する。
 「オウド司令官のおすみつきです」
 マニカは少し考えて、うなずいた。
 「いいでしょう、確認がとれれば正式に申請をだしておきます」

 聞いた瞬間、シュオウは拳を握りしめた。
 あの大飯食らいの食費が丸ごと浮くかもしれない。その思いだけで、この宝玉院という場所が好きになりそうだった。
 








[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第三話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/06/12 20:34
     Ⅲ 再会










 馬車に揺られていた体が左へ流れ、サーサリアは大きな声で静止を求めた。
 一行を仕切る親衛隊長シシジシ・アマイが、小窓から伺いを立てる。

 「アマイです、馬上にて失礼を──殿下、いかがなさいました」
 「どうして道をかえた」
 「上層へあがります。暗くなってから時もすぎました」

 その返答に、サーサリアの心は波立った。

 「王都まであとすこしのはず、このまま行って」
 「ここまでかなりの無理を通しました。馬の疲労も限界です。なにより御身を暗闇の深界にさらしたくはありません。あと少しです、もう少しだけのご辛抱を」

 たぎる心を抑えきれず、サーサリアは強く足を踏みならす。

 「昨日もそう言った! その前の日も、その前も! 馬車を戻しなさい、いますぐ!」

 静寂のなか、聞こえるのはサーサリアの荒れた呼吸だけ。数瞬後、アマイが重々しく言葉を紡ぐ。

 「私は殿下にお約束いたしました、無理なことはそうと申し上げると。休息が必要なのです、我々にも、そしてご自身にも。ご命令とあらば、御身には私の決定をはねる権限がおありです。ですが、そうなさるなら、どうかこの命をお断ちください、私は方針を変えるつもりはありません」

 怒りにまかせ、サーサリアは左手を外へ向けてかざした。ムラクモ王家の象徴たる毒霧の構築を試みるが、寸前に、はっとして上げた左手を右手で押さえつけた。親衛隊を率いていた前任者、カナリア・フェースの無残な姿が頭によぎったのだ。

 消沈しつつ、サーサリアは枯れた声をもらす。
 「あの人が、またどこかへ行ってしまうかもしれないのに……」

 大国の王女であっても、すべてを思い通りにはできなかった。文武官達の視線は、長年その身を国に尽くしてきた長命の男にそそがれ、長らく日陰の中で無為に時を過ごしてきた王女に、信を置く者はすくない。
 ただ一人、心から求める相手すら手元に置くことが出来ない無力さに、苛まれる日々。

 「策を、講じていないわけでは、ありません」

 アマイの物言いは明瞭ではなかった。しかしサーサリアは溺れる者が最後の希望にすがって伸ばす手のように、必死の眼で闇の中に溶けるアマイの姿を探す。

 「説明して」
 「彼の新しい配属先として、王都への足止めになる推薦状を提出してあります」

 不安という縄で締め付けられていた胸の内が、ほっと緩んでいく。
 「それなら、あの人は王都にいる?」
 暗がりのなかで、アマイが曖昧に頷くのが見えた。
 「たしかな人物に後ろ盾をいただいておりますので、グエン公が承知する可能性は高い、かと」

 「そう……わかった、休息をゆるす」

 露骨に、アマイが胸を撫で下ろす気配が伝わってくる。
 「ありがとうございます、宿に入りしだい、どうか一口でもお食事を」

 サーサリアは数日の間、ろくな食事をとっていなかった。思い人が遠く戦地にて功をあげ、王都に呼び戻されたと聞いて以来、食欲が失せてしまったのだ。

 「冷たい、汁物なら」
 「はいッ」
 アマイの声は弾んでいた。彼が足を止めた部隊に再出発を告げる間に、サーサリアは小さく声をかける。
 「アマイ」
 「はい」
 「さっきの話、違えていたなら、隊長の任を解く」
 「……かしこまりました」

 虫の音も聞こえぬ、静かな夜だった。





          *





 外から門を通って宝玉院の敷地に入るようになったが、それにはいまだに慣れなかった。候補生をしていた長い間、アイセはずっと、他の多くの者がそうであるように、敷地内にある寮から学舎に通っていた。家の用事でもないかぎり、外へ出ることはそう多くなかった。

 すっかり腐れ縁となってしまった元同級生が、同じ馬に跨がるアイセの背に体をあずけ、静かに寝息をたてていた。

 モートレッド伯爵邸から出発し、シトリの現住所であるアウレール家の邸へ赴いて、彼女の父──極めて人相と柄の悪い──アウレール子爵に低頭されながら、ベッドの中で眠りこけるシトリの部屋に突撃し、カーテンを引いて朝陽をお見舞いするまでが、ここのところのアイセの日課となっていた。こうでもしなければ、シトリは一日中ベッドから出てこない。

 「ついたぞ、いい加減起きろ」
 言いながら肘でシトリの腹を小突いて馬から下ろすまで、毎日の繰り返しである。

 立ったままへなへなと上半身を揺らすシトリを放置して、馬を厩舎に預けてから、アイセはシトリの手を引っ張って宝玉院の学舎へと足を運ぶ。

 途中に愛想の良い生徒や顔見知りだった後輩らと挨拶をかわして、師官が集まる部屋に行き、主師が開催する朝礼にでるのだが、この日のアイセはその途中に、ふと違和感に駆られて足を止めた。

 気になったのは、流れるように学舎に吸い込まれていく生徒達の視線だった。歩きながら、皆が右のほうを気にしているのだ。

 距離が縮むにつれ、生徒らがなにを気にしているのかわかった。
 玄関ホールの中で、周囲を威嚇するように睨みつけながら、大男が腕を組んだ体勢で突っ立っていたのだ。男はムラクモではめずらしい褐色の肌をした南方の人間で、手の甲の輝石には色がついていた。一瞬、立場ある人間かとも思ったが、服装は市井の酒場で昼間から安酒をあおっているような人間と大差ない。

 みるからに無頼の輩である。

 玄関を通る生徒達が、大男を避けるように歩いて行く傍ら、アイセは腰の剣に手を乗せて声を張り上げた。

 「何者だ!」
 警戒心をこれでもかと込めて怒鳴ったアイセを、大男が敵意たっぷりに睨み返す。
 「おまえこそだれだ」

 「身元を問うているのはこちらだぞ! ここは誰でも入れる場所ではない、名乗れ、正当な理由なく侵入したのであれば──」

 剣の刃を浮かせると、大男はずいと一歩前へ出た。凶悪な視線で高みから見下ろされ、怖気が体を突き抜けたが、アイセは一歩も引くことなくその場に止まる。

 「その格好、ムラクモの輝士だな」

 大男が不敵に笑った。握った拳をばきばきと鳴らす。
 アイセの額から一筋の汗が滑りおちた。
 周囲にいる生徒達は立ち止まって、恐る恐るこの状況を見守っていた。こんなとき、まっさきに援護をくれて然るべきシトリは何をしているのか。

 静まり返る玄関に、突然険のある声が轟いた。
 「シガ! おとなしくしてろってあれだけ言っただろ」

 その声がしたのと同時に、大男が舌打ちをして戦意を喪失したように視線をはずした。
 警戒を解くべきか、判断がつかぬまま身構えていると、大男の脇からひょっこりと、ある人物が姿をみせた。

 アイセは腰に置いていた手をぶらりと垂らして、裏返った声で叫んだ。
 「シュオウ!?」

 異国情緒のある灰色の髪をした黒眼帯の青年は、アイセと視線を合わせると驚いたように口をぽかんと開けた。
 「アイセ、なのか?」

 視線を交わして間もなく、アイセは後ろから突然突き飛ばされた。見上げた視界のなかに、集団で見守る生徒らのことも気にせず、シュオウと強く抱擁を交わすシトリの姿があった。



 むやみに集めてしまった視線を避けるため、シュオウらと共に中庭の物陰に場所を移したアイセは、彼の片腕に抱きついてべったりと体を寄せるシトリをじっと睨んだ。

 アイセが得体の知れない大男と対峙していた際、一切助けに入ろうともしなかったことも腹立たしいが、シュオウの姿を見るや人が変わったように猫なで声でべたべたとすり寄る様も、アイセの苛立ちを倍増させた。体を寄せられても離れようとしないシュオウにも不満がつのる。

 「まさか、こんなところで会えるとは思わなかったな」
 さらりとシュオウは言うが、アイセの心臓は跳ねっぱなしだった。

 「うん、その、少し前から師官として宝玉院に勤めている、あくまで臨時だけど。どちらかといえば驚いたのはこっちのほうだ」
 アイセは、もぞもぞと手の指をこねた。

 「こっちも似たようなものだけどな」
 シュオウはやんわりと笑みをみせる。その仕草からは落ち着きと余裕がみてとれた。もともと落ち着いた性格をしているという印象ではあったが、最後に見た時の彼は、思い返してみると今よりもずっと幼かったようにおもえる。

 「ずっとここにいたらいいじゃん。そしたら、わたしも正式にここの配属にしてもらう」
 シトリはこの世にシュオウしかいないような態度で、下からじっと熱い視線を送る。

 シュオウはしかし、少し表情の色を暗くした。
 「わからないんだ、ここへ来させられた理由も、いつまでいるのかも、次はどこへ配属されるのかも」

 唇をとがらせて不満をこぼしたシトリに、アイセは心中こっそりと同意していた。シュオウが王都で仕事に就くのだとしたら、考えただけで胸がはずむことだが、自分がそうであるように、シュオウも軍人である以上、いち雇われ人でしかない。

 シトリは抱きついているシュオウの腕を、子供のようにくいくいと引っ張って注意を惹いた。

 「ねえ、今日の夜いっしょにさ──」
 なにを言い出すかと、アイセがぎょっとした瞬間、シトリの体がふわりと浮いた。
 「──いッたァ」

 音もなく現れた主師のマニカが、鬼の形相でシトリの耳をつまみ上げ、強引にシュオウから引きはがしたのだ。
 「はしたないッ」
 「やめてよ、ひさしぶりに会えたのに!」

 シトリは必死にマニカの指から逃れようとするが、相手もこの道を究めた師官である。ほんの少し前まで宝玉院の問題児であったシトリを捕まえる指の力は、老婆とはおもえぬ力強さだった。

 「やめませんよッ、アウレール師官、あなたいったい生徒達になにを教えているのですか。子供達の家からどれだけの苦情が入っているか……一件や二件ではないのですよ。それに他の科目の先生方から、女生徒達が授業中に爪の手入ればかりするようになったとの報告もあがっています、あきらかにあなたの影響でしょう!」

 やめておけばいいのに、シトリは百戦錬磨のマニカに口答えした。
 「指は綺麗なほうがいいでしょッ」
 マニカのこめかみがぴくりと震えた。

 「あなたという子はッ──卒業試験の結果を聞いて少しは成長したと思っていたのに、私が間違いでした。今日から心を入れ替えるまで、つきっきりで主師であるこのマニカが指導します! 当面の間、寝泊まりも私の家でなさいッ」

 シトリの悲鳴が中庭にこだました。

 シュオウにすがるように手を差し伸べるが、彼はマニカの迫力に押されて呆然と引っ張られていくシトリを見送っていた。
 アイセは心の中でマニカに拍手をおくりつつ、邪魔虫がはがれて身軽になったシュオウに話しかけた。

 「朝礼の時間が近いから、私もそろそろいかないと」
 「俺も一緒に行く、なにもいわれていないけど、参加したって怒られはしないだろ」
 「そうか!」
 普段ではありえないほど明るく弾んだ声をだした自分に、アイセは内心で驚いた。

 ゆっくりと歩を出したシュオウは、中庭のすみの壁に背を預けてしゃがんでいたシガという名の大男を呼んだ。

 「どうしたんだ、あれは」
 シュオウは声の調子をおとし、
 「拾ったんだ、南の戦場で」
 鬱々としてゆっくりと息をおとした。

 「よくわからないけど、後悔してるのか?」
 あれだけ柄が悪ければ無理もない、とアイセはおもった。

 しかし、シュオウは意外な言葉を返す。
 「よく食うんだ、あいつ、少しの遠慮もなくな」
 奥歯をすりつぶすような、どこか憎々しげにみえるシュオウの表情は新鮮だった。会えなかった時に彼が経験したことを知りたいと、アイセは強く願う。幸い、そのための時間はあるはずだ。

 中庭と廊下の境界に、一人の女生徒が立っていた。シュオウと視線を合わせて一礼した態度からして、あきらかに彼と関わりがある様子である。

 「知り合い、か?」
 シュオウは頷いた。
 「おれの世話係らしい」

 少しして、アイセの記憶と前方にいる女生徒が一致した。それはその名を広く轟かす名家のなかの名家、アデュレリア一族の若姫であった。
 女生徒の冷えた紫色の瞳が、不意にアイセを捉えた。まばたきもせず、無表情にじっと見つめられ、アイセは不快感に眉をひそめて唇を噛みしめた。





          *





 「すっかり噂の的になったな、あの平民の剣士」

 午後の休みを迎えた直後、昼食を片手に空き教室の壁に背をもたれながら、友人のリックが、新任の剣術指南として派遣されてきた男の話を切り出した。

 カデルは横目で赤毛の悪友の顔を睨み、ふんと鼻を鳴らす。
 「どうでもいいさ」

 本心では真逆だった。家の名をつかって正式な抗議をだしたにもかかわらず、宝玉院に件の男をどうにかしようという動きがみられないのだ。カデルの実家であるミザントの家以外にも、リックを含む他の生徒らの複数の家から苦情が入っているはずなのに、である。

 「聞いたか? 朝、玄関で新任の師官がべたべたあいつに抱きついてたって話」
 カデルは背を浮かせ、リックのほうを向いた。
 「ほんとなのか」
 「ああ、それにバカでかい南方人の用心棒を連れて歩いているらしい。おまけにその用心棒の手にあるのは彩石だってよ」

 奇妙な話の連続にカデルは眉目の整った顔をしかめ、鼻の奥を鳴らした。
 「どういうことだ」

 「な、おかしいだろ。お前の家が抗議しても無視され、貴族の用心棒を連れて、ムラクモ貴族と抱き合ってたんだぜ。噂じゃ、アデュレリアの姫がべたべたくっついて歩いてるなんて話もあったし。それでさ、一連の話をまとめた結果、おれはこう思った、平民の身分でここの師官として派遣されてきただけのなにかが、あいつにあるんじゃないかって」

 リックはそばかすの目立つ鼻先に皺をつくって笑った。この悪友がよからぬ事を考えているときにみせる癖だ。

 「つまりなんだ」
 続きを促すと、リックはにへらと笑う。
 「あの男が寝泊まりしてる部屋を給仕から聞き出しておいたんだ」
 「馬鹿じゃなければ、鍵くらいかけているだろ」
 リックは得意げに内ポケットから古めかしい鍵を取り出した。
 「ちょっと金をちらつかせてやれば、これくらいちょろいもんさ。な、いくだろ?」
 カデルはしばしの間、仏頂面で悪友の顔を見つめた後、その手から鍵を奪い取った。



 師官用の宿舎に向かう途中、カデルはある人物の姿を見つけ、気色ばんだ。
 同級のアラタが昼食を手に持ちながら、カデルと目を合わせると怯えたように背を向けて顔を落とす。カデルはアラタの背にまわり、思い切り彼を突き飛ばし、去り際に落ちた昼食を踏みつけた。
 アラタは膝をついたまま、到底食すことが無理な状態となった昼食を呆然と見つめていた。

 「やりすぎると笑えないぜ」
 リックにやんわりとクギを刺され、カデルは踏む足に力を込める。
 「黙ってろ」

 「なんでそこまでアラタに執着するんだよ。実技は下の下だし、家だって落ちぶれもいいところじゃないか、お前みたいに絵に描いたような良家の優等生が相手にするほどのやつじゃないだろ」

 カデルは憎々しげに口元を歪めた。
 「嫌いなんだ、あいつが──」
 吐き出しながら、拳を強く握りしめる。

 そうしているまに、師官の宿舎に通じる階段まで辿り着いていた。あたりに人気はない。勢いままに平民剣士の部屋の前まで行くと、リックは無人をたしかめるため部屋の戸を叩いた。

 「よし、いないみたいだ」

 カデルとリックは頷きあって、鍵を開けてこそこそと部屋の中に体を滑り込ませた。
 なかは寝台とテーブル、チェストがあるくらいで実に殺風景だ。
 ただ、やたらに目を惹いたのが壁にかけられていた黒い毛皮の外套と、チェストの上に置かれていた剣である。

 武器を好むリックは、まっさきに剣に手を伸ばした。
 「すっげえ、なんだこれッ」

 急ごしらえ風な見栄えの悪い鞘からリックが抜き出した刃は、薄黒い見たこともないような素材を鍛え上げて造られた、まごうことなき逸品だった。

 「持って見ろよ──この重さ、見かけ倒しじゃないぜこれ」

 カデルは手にずっしりと重いそれを渡されて、息をのんだ。求めたからといって手に入るような代物ではない、この剣に宝剣の称号がついていてもなんら不思議には思わない。

 「こんなの、平民が持てるような剣じゃないぞ……」
 「盗んだんじゃないのか。本当にすごい、こんなの初めて見たよ」

 剣を返すと、リックはヨダレをこぼさんばかりにみとれて、うっとりと溜め息をもらした。
 カデルは気持ちを切り替えて、壁にかかった外套に手を伸ばす。触れてみると、それも持ち主には分不相応に思える手触りの良い極上品だった。内ポケットを見つけ、まさぐってみると、なにか尖ったモノに指先が触れ、カデルは慌てて手を引いた。慎重にそれを取り出してみると、青い宝玉が埋め込まれた装身具のようなものがでてきた。

 「これ、勲章だよな」
 見せると、リックは目を細めて何度も頷いた。
 「形からいって四種しかない翼章じゃないか……間違いない、これとよく似たのを付けた老将軍を見たことがある、色は緑だったけど」

 カデルは息をのむ。
 「翼章って、それじゃあこの青の勲章は」

 「青は王家の色だ、つまりそれはムラクモ王国最高位のものってことになる」
 カデルは身体中の血が冷えていく心地に肩をふるわせた。
 「冗談だろ、なんであんなやつが──」
 外から入る日差しにかざすと、勲章が眩い青の光を反射させた。

 不意に、扉の外から人の気配を感じ、カデルとリックは身構えた。
 ──戻ったのか。
 心臓が跳ね、カデルは口をつぐんで緊張に身を固くした。反射的に手にしていた勲章を胸の内にしまい込む。
 リックは青ざめた様子で、剣を手にしたままおろおろとしていた。

 ゆっくりと開いた扉の先に、見慣れぬ黒髪の女生徒が佇んでいた。その容姿のあまりの美しさにカデルは声を失い、言葉もなく呆然と立ち尽くす。

 麗しい女生徒と互いの目が重なった瞬間、彼女の瞳が憤怒の炎で燃え上がった。急に華奢な手をかざしたかとおもうと、直後にカデルの視界のすべてが青で染まった。

 重くまとわりつくような青い空気を吸い込むと、肺が縮んでしまったかのような息苦しさを覚え、喉を押さえて膝をつく。
 側にいた友を案じる余裕すらなく、カデルは激しく悶絶して床に倒れ、溺れゆくかのように意識を手放した。





          *





 シュオウが自室で昼食をとろうと思ったのは、ほんの気まぐれだった。旧交を温めるため、アイセやシトリを誘うつもりだったが、一人は老婆の監視下にあり、もう一人はやり残しの仕事に集中していたため、声をかけることが憚られたのだ。

 シュオウがこの伝統ある宝玉院に連れ込んだ歩く胃袋は、用意された食事が足りないといって、併設された建物にある調理場に直接乗り込んでいく姿を見たのが最後である。

 なんとなく手持ちぶさたをおぼえ、学舎をぶらついていたが、じろじろと遠慮のない視線を送ってくる生徒らが煩わしくなり、シュオウは静かにパンをかじるため、自室に戻ることにしたのだ。

 部屋の扉の鍵が回らないことに違和感をおぼえ、一抹の不安と共に勢いよく扉を開いたシュオウは、なかの光景にぎょっとして一歩退いた。

 二人の男子生徒が苦悶の表情で横たわり、それを輝士服をまとった男が介抱していて、奥にある寝台には宝玉院の制服を着た女生徒がちょことんと座って足をぶらつかせていた。

 扉を開けたシュオウを、女生徒と輝士風の男が見た。男の顔を正面から観察し、シュオウはその人物が顔見知りであることに気づいた。
 「もしかして、アマイさん? じゃ、まさか──」

 寝台に腰掛けていた女生徒は、この国でもっとも高貴であろう血を継ぐ、王女サーサリアだった。
 サーサリアは雪解けの後に咲いた春花のように微笑んだ。
 シュオウは慌てて扉をしめる。

 「どうも、お元気そうでなによりですよ」
 アマイはめがねをくいと上げながら、ほがらかに挨拶をのべる。
 「聞きたいことがたくさんあります。まずその二人、死んでるんですか」

 アマイの足下で倒れたままぴくりともしない二人の男子生徒を指して聞くと、アマイは彼らの首元に指先をあてた。

 「大丈夫ですよ…………たぶん」

 どう見ても大丈夫ではなかった。男子生徒らは白目をむいて喉をかきむしったような体勢で硬直していたからだ。よほど苦しんだのか、喉には赤い無数のひっかき傷が残っている。

 「なんでこんなことに」

 聞きながら、元凶であろうサーサリアを見ると、水色の制服に身を包んだ王女は悪戯を叱られた子供のようにしゅんと俯いた。

 「だって、あなたの部屋を荒らしていたから」
 保証を求めてアマイを見ると、彼はしっかりと頷いた。

 「間違いありませんよ。すでに片付けましたが、我々が訪れたとき、床に荷物がちらばっていましたし、合い鍵も転がっていました。おそらくなんらかの悪意をもって侵入したのでしょう──あ、脈が戻りましたね」
 もののついでのように、アマイは二人が命を取り留めたことを告げた。

 罪悪感のかけらくらいはあるのか、サーサリアは覗き込んで生徒達の様子を窺った。
 「いきて、るの?」
 「はい殿下ッ、お見事です!」
 サーサリアは照れくさそうに笑ってシュオウを見ながら、
 「練習したから」
 と誇らしげに言った。
 「優秀な家庭教師がついていますからね」
 とアマイもまた誇らしげに胸をはった。

 感性の著しいズレを感じつつ、シュオウはなんと言えばいいか迷っていた。褒めるべきか、叱るべきか。しかし、立場を思えば後者はあまりに現実離れしている。

 反応を待つサーサリアを前にして、ゆっくりと口を開きかけたそのとき、部屋の戸を叩く音がして、心臓が飛び上がった。
 扉の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 「シュオウ? 私だ、アイセだ。よければ一緒に昼食をどうかとおもって寄ったんだが」
 アマイは一差し指を口元へ当てて、サーサリアに口をつぐむよう指示している。

 ベッドに座るこの国の王女と、惨い形相で気を失っている男子生徒達という、あまりにもあまりな状況をどう処理するべきか、答えが見つからない。

 いっそ居留守をつかうか、などと考えていると、
 「いるんだろ? お前がここに入っていくのを見たものがいるんだ」
 と追い打ちをかけるような言葉が舞い込んできた。

 「もしかして寝てるのか? は、入るぞ……」

 ぎい、と音をたてながら扉に隙間が生じた瞬間、シュオウは俊敏な動作でそこに割ってはいり、中に入ろうとしていたアイセを押して、後ろ手でさっと扉を閉じた。扉から距離をおかせるため、そのまま通路の先まで誘導する。

 荒くなった呼吸を必死に落ち着けながら、シュオウは生唾を飲み下した。

 「シュオウ? いたのか、なんで黙ってたんだ」
 「寝てるんだ俺は」
 混乱してむちゃくちゃなことを言ったシュオウを、アイセはいぶかる。
 「ねてるんだって、起きてるじゃないか」
 「ッ……じゃなくて、寝てたんだ、気づくのが遅れた」

 アイセはまぶたを半分おとし、首をかしげる。

 「そうか……なにか釈然としないな」
 「疲れがたまってて、少し眠りたい」
 「あ……そう、か」

 アイセは一目でわかるほど気を落とした。悲しげな顔がシュオウの罪悪感を刺激する。

 「ここへは仕事できているんだし、仕方ないな」
 「……すまない」
 落ち込んでいたかと思ったアイセが、急に瞳に力を込めた。

 「明日の夜、少し時間をつくってくれないか? 家で最近腕の良い菓子職人を雇ったから、夕食を楽しんだあと、とびきりのデザートを一緒に食べたいと、思って」

 アイセはいつもと同じような調子でいうが、その実なにげない仕草に不安が表れていた。

 「ありがとう、行く、かならず」
 心底ほっとしたように笑むアイセをみて、後ろめたさが少しずつ晴れていく心地がした。
 じゃあ、と言って去る間際、アイセは照れくさそうに指をあげ、はめてある指輪をシュオウに見せた。それはシュオウが以前に買い求めて贈ったものだった。
 「ちゃんとしたお礼をずっと言いたかった。また明日、あらためて」

 アイセと別れて部屋に戻ると、二人の気絶した男子生徒は壁際に背を預ける形で体勢を整えられていた。
 アマイは部屋の角に佇み、心の読めない微笑をうかべたまま、じっとしている。
 サーサリアは戻ったシュオウに駆け寄ろうとして寝台から立ち上がった。が、その体がぐらりと揺れた。
 シュオウは咄嗟にサーサリアの手を引いて、華奢な体を抱き寄せた。

 「大丈夫か?」
 腕のなかで力なくもたれかかってくるサーサリアを心配すると、傍らでじっとしたままアマイが口を開いた。
 「ここ数日、まともに眠っておられないのですよ」
 「どうして?」
 アマイは眉を下げて苦笑しただけだった。

 腕のなかでぐったりとしているサーサリアは、顔をあげて虚ろな顔でシュオウを見つめていた。さきほどから寝台に座り通しだったのも、体力の低下で足に力が入らなかったのかもしれない。

 アマイは持参した様子のカゴを床から拾い上げた。

 「よければサーサリア様とご一緒にお昼にしていただけますか。王都へ戻るまでの間、きちんとした物を口にされていないんですよ。シュオウ君から言っていただければ、私としてもありがたいのですが」

 請われ、シュオウはサーサリアに聞く。
 「食べる、か?」
 サーサリアは即座に頷いた。
 「うんッ」

 シュオウはサーサリアの願いに応える形で、二人肩を並べて寝台の上で具材を挟んだパン料理にかじりついていた。

 視界の片隅には、白目を剥いたままの男子生徒二人の姿があり、サーサリア側の背後には、アマイが静かに佇んでいる。
 彼のほうを伺うと、
 「私のことはいないものとおもってください」
 と笑顔で言われ、シュオウはおおいに戸惑った。
 生まれ故か、サーサリアは側に侍る人間を空気のように平然と背負っている。

 サーサリアは借りてきた猫のように静かだった。色白な顔が、心なし桜色に熱を帯びているようにみえた。
 「その服、どうした」
 その問いかけは無礼に過ぎたかもしれない。だが、いまさら殿下、などと気どって話しかける気にもならなかった。

 「普段着は目立つからって、用意してもらったの。へんにみえる?」
 「いいや、似合ってる」

 真実シュオウはそう思っていた。水色の制服に身を包むサーサリアを見て、宝玉院の生徒ではないと疑う者はいないだろう。

 シュオウがかぶりついたパンの欠片が敷布の上にころりと落ちた。素早く、サーサリアがそれを拾い上げて口に放り込む。もぐもぐと咀嚼しながら得意げに見上げてくるサーサリアに、シュオウはどう反応をすべきか困惑した。

 高い天井の窓から温かい陽光が線を描いて差し込んでいる。部屋のなかに滞留する空気の音が聞こえそうなほど静かだった。

 耳に障るほどの静寂をやぶったのはサーサリアだった。手にしていた食事をあらかた腹に収めて、とろんと眠たげな目をしながら、ぴったりと体を預けて肩に頭を乗せてくる。

 「会えなかった間、あなたはなにをしていたの。ずっと、南の戦地にいたのでしょ」

 シュオウは最後の一口を飲み込んで、腰を落として壁に背を預けた。頭を深くおとし、天井を見上げる。

 「色々あった。仲間ができたり、一緒に訓練をしたり、砦の仕事をしたり。あと、はじめて戦争で戦った」
 「こわく、なかった?」
 なかった──即座にそう言おうとして、しかしシュオウの口からは、吐息しか出てこなかった。

 記憶は、前触れもなく去来する。

 一所に集まる大勢の人間達。死を覚悟している者がまとう独特な空気と臭い。絶え間なく怒号が飛び交い、風が運ぶのは血と鉄の臭いだけ。

 シュオウは差し込む一条の陽光に左手をかざした。

 「生きるために戦って、そのためなら誰かを殺すことも平気だと思ってたけど、やっぱり、食べるために動物を狩るのとは違った」

 自問し、答えを得る。
 「こわかった、すごく」

 刃で肉を切り裂く感触、吹き出した血と、泡立つ喉の音。
 かざす左手の指が、小刻みに震えた。

 サーサリアは両手を挙げてシュオウの手を包み、胸元へ引き寄せる。人肌の心地よさに、シュオウは無意識に止めていた息を吐き出した。
 互いに言葉もなく、時がゆっくりと流れていく。やがて、隣から静かな寝息が聞こえてきた。

 「疲れておいででしたからね」
 頭上からアマイの声がかかり、シュオウは肩をふるわせた。
 「いたのを忘れてました」

 アマイは壁にかけてあるシュオウの外套を手に取った。
 「少しお借りしてもいいですか」
 頷くと、アマイは寝息を立てるサーサリアに外套をそっとかけた。

 「すいませんでしたね、こちらの都合に振り回してしまって。ここでの生活は、君にとってはあまり心地良いものではないでしょう」

 シュオウは左手をサーサリアの手の中に預けたまま、はっとして体を起こした。
 「じゃあ、俺がここに配属されたのは──」
 アマイは申し訳なさそうな顔をしてみせる。

 「私が推薦状を出しました。殿下のためにも、王都に止まっていてほしかったものですから。でも正直に言いますと、ここまであっさりと承認されていたのは意外でしたが」

 あまりにも場違いな配属が、サーサリアを想ってのアマイの仕業だったと知り、淀んでいた疑念が浄化されていくようだった。

 「なにかとやりにくい事も多いでしょうが、どうか胸をはって堂々としていてください。この人事は筋を通したうえでグエン公が直々に承認したものです。二大公爵家ですら、決定に横やりをいれることはできませんよ」

 「俺は、ずっとこのままなんですか」
 「望むなら、王室の名の元に全力で掛け合うのですがね」
 遠回しに聞かれても、シュオウは返事に窮した。
 「今は、なんともいえないです」
 アマイは微笑する。
 「そうですよね」

 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
 「長居しすぎましたね、殿下の寄り道もそろそろ限界です。シュオウ君も予定がおありでしょうし、失礼しなければ」

 「俺の場合、誰もこない剣術の授業に出て、昼寝をするくらいの予定ですけど」
 シュオウは自嘲して笑う。アマイも釣られるように笑みをみせて肩を竦めた。

 「ゆっくりとサーサリア様のお相手をして差し上げてほしいのですが、ここではなにかと制約もありますし、一度王宮の殿下のお部屋まで、顔を出していただけますか。時を見て使いの者をやりますので」

 アマイの申し出には、断りを許す選択肢が含まれていなかった。シュオウもとくに肯定することもなく、無言を通す。

 アマイは眠りこけるサーサリアの体を起こした。
 「ここまでして起きないなんて」

 呆れ気味に見守りつつ、サーサリアを背負おうとするアマイを手伝った。

 「普段の姫殿下は眠りの浅い方ですよ。会いたいという一心で、衰弱するほどの無理を通して王都まで戻ったのです。水晶宮に帰参を報告するより先にここへ立ち寄られたお気持ちを、少しでも汲んであげてください」

 サーサリアを背負って、アマイは部屋の扉を開けた。

 「ひとつ言い忘れていました。君が一時、敵国の手におちていた事実を殿下は知りません。秘密にしていておいただけると助かります」
 首肯して、シュオウは王女を背負うアマイに別れを告げた。

 一人きりになった、と一息つきかけていたシュオウは、部屋を見渡して一人で声をあげた。

 「どうするんだ、これ」
 気を失ったまま放置された二人の男子生徒達を前に、腰に手を当てて呆然と立ち尽くす。

 ──あいつに運ばせるか。

 連れてきた大食漢が、腕力こそを誇りとしていることを都合良く思いだし、シュオウは今現在繰り広げられているであろう凄惨な光景を想像しながら、調理場を目指して静かに部屋を後にした。






[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第四話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/06/12 20:35
     Ⅳ 伯爵家の夕食会










 その馬車は、夜の街中を進んでいた。
 窓の外を流れゆくぼやけた夜の灯りは、ビノー・モートレッドを陰鬱という名の沼底に深く引きずり込んだ。

 すれ違う労働者達が馬車に道をあけ頭を垂れるが、落とした顔に侮蔑の心を隠しているような気がして、ビノーは苦く顔を歪めた。

 人は鏡である。
 他人を見て不快に思うのは、自らの心が荒んでいる証なのだろう。しかしそうとわかっていても、身を切るような不快感から逃れることはできない。

 すべてが忌々しい夜だった。

 住処としているモートレッド伯爵邸の門をくぐり、御者が馬車を止めたのを見計らって、ビノーは扉が開かれるのも待たず、自らの手でドアを押し開けた。

 庭に敷き詰めた砂利を踏みしめると、邸から慌てて使用人達が現れる。
 この邸の主であるモートレッド伯爵ビノーは、先頭に立って一番に出迎えた老執事に帽子と上着を渡した。

 老執事は腰を折って低頭した。
 「旦那さま、本日はご領地にて商談のご予定では。そのままお泊まりになられるかと思っておりましたが」

 ビノーは風で乱れた白髪交じりの金髪をなであげ、青色の瞳で虚空を睨みつけた。

 「寸前になって破談を申し込んできたのだッ。当家は今後、ラ・ジャン商会に属する者とは一切の取引をしない、そう周知させておけ」

 老執事は預かった上着と帽子を宝物のように掲げ、恭しく頭を下げる。
 「かしこまりました、旦那さま」

 手広く交易路を確保している新たな商会との取引に、ビノーは期待を持って全力で取り組んでいた。動物を模した質の良い工芸品を大量生産し、大々的に売り出すことを計画していたが、自らの設計によって造らせた三匹の猿の木像見本を先方に渡した途端、それまで友好的だった態度が一変したのだ。

 金額をふっかけたわけではない、かけている手間暇と、良質な木材、職人達に支払う給金を計算すれば、伯爵家の金庫に入る分など雀の涙ほどにしかならない。だがそれでも、新たな取引相手との関係構築になると思えばこそ、身を切る覚悟で臨んでいたというのに。

 玄関に向かう途中に、ビノーは邸の壁面に寄せて積み上げられていた木箱に目をやった。
 「なんだ、あれは」
 「あの、それが──」
 老執事は言いにくそうに言葉を濁す。
 「──以前、街商人に卸したものでございます。昼頃、代理人を通して持ち込まれました」

 ビノーはぎょっとして振り返った。

 「まさか、突き返してきたのか。返金に応じたつもりはないぞッ」
 「先方はその必要はないと。申し上げにくいのですが、売れ行きが思わしくなく、倉庫に置いておけなくなったのだそうでして……」

 ビノーはよろけるように後ずさった。
 金のためなら誇りすら売り物にする商売人が、大損を覚悟のうえで品物だけ返してきたのだ。

 「旦那さま……どうかお気をたしかに」
 ビノーは積み上げられた木箱に背を向け、声を荒げる。
 「部屋で休む、紅酒の用意をさせろッ」
 「かしこまり、ました……」

 ビノーは邸に入ろうとして、しかし足を止めた。いつも忠実な老執事の様子に不審な空気を感じ取ったのだ。
 「まだ、なにかあるのか」
 老執事は肩を震わせた。弱り切った様子で額の汗を拭う。

 ビノーは老執事の骨張った二の腕を掴んだ。
 「言え」
 老執事は観念したように一礼し、口を手で隠して耳打ちの姿勢を求めた。
 「なにとぞ、ご冷静に。じつは……その……アイセお嬢様が──」
 耳に言葉が吸い込まれてゆくたび、ビノーの顔は怒りを湛えて醜く歪んだ。



 滅多に入ることのない娘の部屋を蹴破るように押し開けたビノーは、中で繰り広げられていた光景を前に言葉を失った。

 派手に着飾った娘と、見るからに下民と思しき北方人風の若い男が、親しげな様子で、小さなテーブルに向かい合って食事をしている最中だったのだ。
 飛び込んできた父を前に、アイセは驚いて立ち上がり、裏返った声をあげた。

 「お父さま!?」
 アイセが連れ込んだ若い男は、食べ物でふくらませた頬をそのままに、硬直してビノーをじっと見つめていた。
 「おのれッ──」

 ビノーは瞬時に風の晶気を構築した。その形は一陣のかまいたちなどではなく、投擲用の槍を模した、ビノーがもっとも得意とし、好む形状でもあった。

 手の内で激しく唸りをあげる風の投げ槍が、その形を完全に成したところで、ビノーはそれを座ったまま様子を窺っていた男に投げつけた。
 放った晶気には、分厚い石壁にすら穴を穿つほどの威力があった。人体など、触れた瞬間に即死にいたるのは間違いない。
 だが、ビノーは自らの目を疑った。
 放った風の槍を、男は椅子に座ったまま体を後ろへ倒し、爪の先ほどにもかすることすらなく、躱してしまったのだ。結局、放った晶気は邸の壁に穴を開けただけに終わり、見た目の仰々しさとはかけ離れた地味な結果に終止した。

 ただの偶然だ。ビノーはそう決めつけ、即座に次の一撃を用意する。が、手の中に二撃目の槍が構築される直前に、男は窓を押し破り、飛び込むようにして外に逃げ出した。

 ビノーは慌てて窓の外に駆け寄るが、夜の闇に飲まれ、男の姿はどこにも見えない。
 遅れてきた老執事が部屋に踏み込むと、アイセが抗議を叫んだ。

 「言わないでくれと頼んだじゃないか!」
 「申し訳ありません、お嬢様。ですが、主に直接問われれば、答えぬわけにはいかぬのです……」

 平身低頭する老執事から標的を移し、アイセはビノーをきつく睨んだ。

 「お父さまは私の恩人を寸前で殺めるところでした! 一言もなく突然襲いかかるなど、あまりな仕打ちですッ」

 かつてないほど血走った怒りの眼を向ける娘に、ビノーは内心で狼狽した。

 「ひとを責める前に自らのしでかしたことをよく考えてからものを言いなさい。こんなことがおおやけになれば、モートレッドの血に連なる者すべての婚姻に支障をきたすのだぞ。家のことを少しでも考えていれば、到底考えもできないことだ」

 「ですが──」

 なお、食い下がる娘を無視して、ビノーは矢継ぎ早に老執事に指示を飛ばした。

 「ただちに追っ手を放ち、あの男を捜し出せ! 二度と階級の線を越えぬよう骨身に刻み込んでくれるッ」
 「お父さま!」
 「アイセ、お前はしばらくの間外出を禁ずる。私が許しをあたえるまで部屋でおとなしくしていろ」
 「ですが、私には職務が──」
 「宝玉院には私が話をつけておく」
 「横暴です、私はもう子供ではありませんッ」
 「本当にそうか、今日の行いを思い出してじっくりと考えてみなさい」

 アイセを一人残し、ビノーは扉を閉めてこめかみを押さえた。
 「部屋の前に見張りを立てろ、庭にもだ……それと、壁の穴を塞ぐ職人を手配しておけ」
 老執事は青ざめた顔で黙礼した。

 ビノーは自室へ引き上げるために一歩を踏み出すが、怒りにまかせて無理をしたせいか足元に力が入らず、ふらついて壁に肩をぶつけてへたり込んだ。
 駆け寄る使用人たちの声も届かず、力なく肩を落とす。

 ──なんという一日だ。

 もはや、自棄酒《やけざけ》を飲む気力すら残っていなかった。





          *





 モートレッド伯爵家が所有する領地は、決して富める土地ではなかった。豊富な水産資源があるわけでもなく、痩せて石塊の多い土地は農耕にも適さない。鉱物資源はその面影すら見いだすことができず、あるのは歪な地形と、そこに群生している密集した樹林くらいなもので、小さな町に暮らす領民達は、木材の切り出しと加工によって得る僅かばかりの稼ぎを糧に暮らしていた。

 領地運営に悩むビノーに対し、ある者は大規模な牧羊や酪農にくら替えしてはどうかと勧めてきた。また別の者は、切り出した木材を加工せず、そのまま売りにだしたほうが儲かるのではないかと言った者もいる。なにを馬鹿な、とビノーはそれらの助言を聞き入れなかった。

 木工部品を精巧に切り出し、それを組み合わせることで効率よく見栄えの良い工芸品を一気に生産できる技術こそ、モートレッドの職人達が受け継いできた唯一無二の財産なのである。それを捨て、他方に商いを広げる行為は、一族の長として家名と伝統を守らなければならないビノーにとっては、まさしく邪道以外のなにものでもなかったのだ。

 しかし、近頃付き合いのある取引先に限界を感じ始めているのも揺らがぬ事実である。それ故、ビノーは新たな取引相手との交易権を求めていた。

 北方に羽振りがよいと評判の交易都市のことを、近頃よく耳にしていたビノーは、その都市との正式な交易権を求めたが、新興ゆえにこれまで一切の関係がなく、異国でもあるゆえに正式に商取引を始めるには、侯以上の階位を受ける大貴族でもないかぎり、上からの許可が必要となる。そして、その許可状を発することができるのは王括府のみであり、組織の全権を掌握しているグエン・ヴラドウは、再三の要請もむなしく、ついぞ色よい返事を寄越すことはなかった。

 グエンという人物は傑出した人物であり、宰相としても軍政を司る者としても、その実力をあますところなく発揮している傑物である。同時に私腹を肥やすことに執着がない変わり者でもあるため、賄賂や心付けを用いた交渉の一切が通用しない相手でもあった。

 ビノーは後ろ盾を欲していた。伯爵家たるモートレッドよりも遙かに格上である、二大公爵家のどちらかが理想だが、王に比するほどの大家を相手に、木っ端の如き利益をちらつかせたところで、鼻にもかけてもらえないのは言うまでも無い。だが、二大公爵家を凌駕するほどの格があり、尚且つ王括府に物言いのできる家が他にもう一つあった。ムラクモ王家である。

 王家の遺児、サーサリア王女は長い間王宮にこもり、外との接触を断っていた。しかし、近頃どういうわけか動向が活発になり、遊学をかねて遠方の地に赴いているという。

 長期にわたって日陰の中に隠れていた王女もまた、繋がりを欲しているのだとビノーは考えた。つまり、伯爵位を預かるモートレッド家との繋がりは、王女にとっても利する関係となるはずである。

 だが、直接の書簡によって会談を求めてみたものの、王家からの返事はろくに返ってこなかった。業を煮やしたビノーは、親衛隊長であるシシジシ・アマイに直談判を試みたが、あまりに素っ気ない態度で謁見を断られた事により、抱いていた期待が自身に都合の良くねじ曲げた、ただの妄想だったことを知ったのだ。

 『誰に拝謁を許すかは、殿下のお心により決められる事です。臣下が決めることではありません』

 親衛隊長にそう言われ、ビノーは絶望感に駆られた。伯爵とはいえ、軍からも政からも遠い今のモートレッド家との関わりなど、王女からは一切求められていないということなのだ。

 親衛隊長アマイ直々に謁見を拒絶されたその日、ビノーは言われたまま黙って引き下がる気にはならなかった。権力に反抗したことなどこれまで一度もなかったが、この時のビノーは、度重なる商いの失敗と、従順であると思っていた跡取り娘が、どこからかつけてきた虫を家に引き込んでいたという耐えがたい屈辱をもたらしたこと等が重なり、多少自棄になっていたせいもある。

 ビノーはアマイと別れた後、そのあとをこっそりとつけた。幸い、正装として用意した輝士服をまとって訪問していたこともあり、ビノーに不審の目を向ける者はいない。人目があるところは堂々と胸を張って歩き、逆に人気のない所は、物陰にそっと隠れてアマイを尾行した。

 少しして、アマイは王家の寝間へと続く長い階段に足をかけた。さすがにこの先は厳重な警備が配置されているはずであると考え、ビノーは階段の影にその身を隠し、時をまった。

 まもなくして、期待していた通り、再び階上から現れたアマイの背後には、王女サーサリアの姿があった。若くして独特な色香を漂わす、その美しさに見とれている心の余裕はない。ビノーは王女に直接謁見を申し込む絶好の機会を前にして、立つ足に力を込めた。王女が親衛隊に先導されて階段を降りきったその瞬間、ビノーは意を決した。

 ──いまだ。

 だが、ビノーは王女と連れ添うように歩く、輝士服をまとった若い男の顔を見て、寸前で踏みとどまった。

 ──まさか。

 物陰に隠れ、何度も瞬きをするが、その若者は間違いなく、先日アイセと共に卓を囲んでいた、あの平民の男だった。

 その若者が立ち止まり、苦しそうに襟首を引っ張ると、その拍子に彼の腰帯がずるりと床に落ちる。すぐに拾おうとして手を伸ばすが、それよりも先に、王女であるサーサリアが膝をついてしゃがみ、落ちた腰帯を拾い上げた。警護する他の輝士らが戸惑う、ひかえめなざわめきが広がった。

 若者は王女が拾い上げた腰帯を、立ったまま平然と受け取った。

 「ありがとう、この服に慣れなくて」
 「いいの」

 礼を言われ、嬉しそうに微笑むサーサリアの横顔は、ビノーが隠れている位置からもはっきりと見えた。王女の顔は、臣下に対してきまぐれの慈悲を与える者のそれではない。熱に浮かされ、恋に我を見失う若い女の貌だった。

 ──私は、いったいなにを見ている。

 ビノーは目の前で繰り広げられている光景を、現実の物として受け入れるまで時を要した。自覚がないだけで、不機嫌なまま自棄酒を流し込み、そのまま眠りおちて見ている夢なのではないかという疑念が頭にこびりつく。

 サーサリアは無防備な笑みを浮かべ、若者と服が擦れ合うほど近く身を寄せて歩き出す。親衛隊の輝士達が壁になって追従してゆき、後には隊長であるアマイと、名を知らぬ黒髪の輝士が残った。

 「おい、俺たちが普段お守りしているサーサリア様は、別人だったんじゃないだろうな」
 黒髪の輝士が首を傾げ、腕を組んで小声でそう零した。

 「どちらも同じサーサリア王女殿下ですよ」
 と、アマイは黒髪の輝士の肩に触れながら言う。

 「そうは思えん。あんな機嫌の良い殿下を見たのは初めてだぞ、まるで別人じゃないか」
 「彼のおかげで、ね」
 「気に入らん、俺たちはいつもあの方の機嫌にびくついているってのに、あのガキがそこにいるだけで、あそこまで態度が軟化するなんて」
 「嫉妬心から言っているのなら、それこそ、立場をわきまえるべきですよ」
 「違う! そんなんじゃない。俺が言いたいのは、平民のガキ一人に気分を振り回されているような、今の状況がだな──」

 「冗談です。私だってわかっていますよ、こんな事がいつまでも続けば、隠し通すことも難しくなる。しかし人の心の問題です、周囲が望んだからといってどうこうできるものではないでしょう。サーサリア様は過去の体験によって完全に心を閉ざされておられた。それをもう一度、陽の当たる場所に呼び戻したのは、彼の功績であるのは間違いない。今殿下がされている行動、努力のすべては、彼に認めてもらいたいという一心からきていること。それを取り上げればどうなるか、考えるまでもないでしょう」

 「ああ、わかってる。わかっていてもどうしようもないからこそ歯がゆいんだ」

 「今は静かに見守るとき。殿下がお心安らかに過ごされていれば、それが一番です。喜ぶべきことに、彼は相手から思われているほどの感情は持ち合わせてはいない。はたから見ている分にも、妹が歳の離れた兄に甘えているようで微笑ましいじゃないですか」

 「いつまでそれが通るか見物だがな。不敬を承知でいうが、俺ならあれだけの美女に言い寄られれば迷い無く惚れ返す自信がある」

 「容姿だけを見て言う話ではないでしょう。私が彼の立場なら、王族から求愛されたその瞬間に、外国への逃亡を計画しますよ、命が惜しいですからね。その点、彼はやはり並の者ではない」

 「それだけは同意する。あれだけの輝士に睨まれながら平然としてやがった。あれは心臓に剛毛が生えているうえ、そのうえから厚い毛皮を着込んでいるに違いない」

 「すでに非凡な実績を残しつつある人物です、あのグエン公ですら一目置いている節がある。近いうち、誰にも文句を言われることなく親衛隊に迎え入れることができる日がくるのではないかと、密かに期待しているんですよ」

 「へ、入ってきたら俺がいじめ抜いてやる」
 「私がさせませんよ」

 親しげな軽口を残し、二人はお喋りを続けながら去って行った。
 一人残されたビノーは暗がりで硬直したまま、溜まっていた唾を嚥下する。

 心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
 間違いなく、たった今見聞きしたことは値のつけようもない情報だった。うまく利用すればどれほどの見返りが見込めるか、計算が追いつかない。

 ──この話を元にして王家を。

 ビノーはかぶりを振って即座に愚考を捨て去った。後ろ盾を欲する今、王家をゆするような真似をすれば、逆にすべてを失いかねない。
 もっと他に有効利用できる方法があるはず。ビノーは立ちすくんだまま、全力で思考を巡らせた。

 ──そうだ、そうだった。

 刹那の雷光の如く、記憶にこびりついたある光景が頭に浮かぶ。それは娘と共に親しげに食事の席についていた、件の若者の姿だった。
 なにより不快であるはずのその記憶は、一瞬にして金鉱脈へと変貌を遂げていた。



 急ぎ、邸へ戻ったビノーは、軟禁状態にあるアイセの部屋の扉を押し開いた。
 「アイセ」
 「おとう、さま」
 アイセは輝士服に着替えていた。眠っていないのか物憂げな表情で窓辺の椅子に腰掛けている。
 ビノーは一つ、大げさに咳払いをした。

 「昨夜のあの男についてだが」
 言うや、アイセの顔が怒気を孕んでつり上がった。
 「彼を害すおつもりなら、私はなにも話しませんッ」
 「いや、ちがう──ちがうのだ」

 敵意を剥き出す娘の機嫌をとろうと、ビノーは常になく声音をほぐした。

 「あれは、私がやりすぎた。事情を知ろうともせずに乱暴に追い払ったことを今は後悔している」

 父の態度の豹変ぶりに、アイセは不思議にそうに首を傾げた。

 「本気で、おっしゃっておられるのですか」
 ビノーは渾身の力を込めて頷いた。
 「偽りなく本心だ。そこでだ、あの男に直接謝罪を述べたいのだが」
 「はい、それは……でも」

 「夕食に招待していたくらいだ、あの者とは親しいのだろう。私のとった非礼を詫びるため、モートレッド当主の名の下に正式に夕食会に招待したい。招待状を渡す役を頼めるだろうか」

 鬱いでいたアイセの顔が、一瞬にして華やいだ。

 「はいッ、そういうことでしたら、すぐに支度を──そうだ、着替えないと──いや、それより馬の支度を──でも汗も流したいし……」

 「細事は私が指示を出しておく、お前は身支度を優先しなさい」

 途端に気分を良くし、色とりどりのドレスを引っ張り出して品定めをする娘の姿を見て、ビノーは複雑な心地を抱いていた。王女について語り合っていたあの二人も、今の自分と同じような心境だったのだろうか。





          *





 友が経営する店、蜘蛛の巣の休憩室にて、シュオウは茶色の軍服に袖を通して着こなしをクモカリに確認した。
 「おかしくないか」

 クモカリはアゴに手をそえて、シュオウの頭のてっぺんからつま先まで凝視する。
 「そうねえ、ちょっと全体的によれよしてる気がするけど。深い皺があちこちについてるわよ、もう少しきちんと管理しないと」
 やんちゃを叱る姉のような調子で言いつつ、茶色の軍服についた折れ目を懸命に伸ばす。

 「嫌いなんだ、これ」
 「でも、こうやっていざってときに困るんだから。だめね……ちょっと貸して、近所の店で急ぎでアイロンをかけてもらうわ」

 よれよれの上着をはぎ取ろうとするクモカリの手を、シュオウは躱した。
 「いい、仕事中に面倒をかけたくない」

 「伯爵様のご招待に正装をしていきたいんでしょ、まかせておいて。それにね、面倒だなんておもってないし、店番くらいはいるんだから」
 「……わかった。ありがとう、たのむ」
 観念して上着を渡すと、クモカリはにっこりと笑って部屋を出て行った。

 アイセの招きによって、モートレッド伯爵邸で夕食をいただいていた夜に、留守の予定だったモートレッド伯爵に突然襲いかかられてから一夜明け、主師が朝礼を始める時間になっても、宝玉院にアイセの姿はなかった。

 昼頃に、サーサリアからの招待に応じて水晶宮に出向いていたシュオウが宝玉院の自室に戻った夕暮れ時、ふらりと現れたアイセは、仰々しい招待状を差し出して、賓客としてモートレッド伯爵が夕食会に招いていると、シュオウに告げた。

 招待状のなかを見てもまだ疑わしく思っていたが、さすがに正装した御者と大きな馬車に出迎えられれば、現実味は増す。

 馬車に乗ったシュオウは、伯爵家に向かう途中にクモカリの店への寄り道を求めた。招きが正式なものであるとわかった途端、今度は自分の身なりが気になりだしたのだ。

 ──正装、か。

 シュオウが持つ一張羅といえば、支給されている茶色の従士用軍服くらいなものだ。相手がだれであれ、本来服装を気にするほどの繊細な配慮を、シュオウは持ち合わせてはいないのだが、アイセの友として、彼女の家族と対面するのに、恥をかかせたくはないと考えが脳裏をかすめた。そうなると、急に自らの服装が相手に不快感をあたえるものでないかどうかが気になってくる。

 ──そうだ。

 シュオウは自らを着飾るための持ち物に当たりを付ける。それは近頃いただいた勲章だった。王国軍の最高司令官から直接いただいたソレを見せれば、自らの人となりを多少でも主張できるかもしれない、という打算が働いたのだ。

 いつも羽織っている黒の外套の内をまさぐるが、そこに入っているはずの勲章らしき手応えがまるでなかった。慌ててポケットをめくるが、あるはずの物は影も形もない。

 ──おとした、のか。

 記憶を辿るうち、サーサリアに生殺しにされていた二人の男子生徒達の白目をむいた顔が浮かんだ。あの時、サーサリアは彼らがシュオウの持ち物を荒らしていたと言っていた。

 急ぎ宝玉院へ戻ろうとして、シュオウは部屋を出る前に足を止めた。今から宝玉院まで戻り、犯人かもしれない生徒らを問い詰めていたらどれほどの時間を消耗するか。素直に認めればいいが、他人の部屋に黙って入り荷物を漁るような人間に良心を期待しても無駄だろう。それに、自らの不注意によってどこかに落としてしまった可能性も捨てがたい。

 ──あとでいい。
 シュオウは失せ物に対する興味をあっさりと捨て去り、椅子に腰掛けてクモカリが戻るのを待つことにした。



 御者の手によって扉が開かれ、馬車を降りると、少し肌寒い夜の風が吹き抜けた。
 なにを思ってか、玄関に二十人を超えようかという使用人達がずらりと居並び、先頭から順にゆっくりと頭を下げていく。

 シュオウは大いに困惑した。
 行列から一人抜け出してきた老いた執事の男が、眼前まで歩み寄り辞儀をする。

 「ようこそおいでくださいました。中で旦那様がお待ちでございます」

 邸に向けて差し出された手に促され、シュオウは頭を下げたままの使用人達の合間を歩いて行く。まるで自分が偉い立場かなにかにでもなったような心地がするが、よく見ると、頭を下げた使用人達は、こっそりと目線を浮かせ、抜け目なく珍客の姿を観察していた。

 「昨日とは随分違いますね」
 老執事は気まずそうに声を震わせた。
 「先日は、まことにご無礼をいたしました。なにとぞお許しくださいませ」

 慇懃に詫びたこの老執事とは、アイセに客として招かれた際に顔を合わせているため面識がある。昨夜、邸の裏口で一目見て侮蔑の眼差しを向けてきた彼も、今はまるで別人のように態度が変わっていた。

 邸の中に一歩足を踏み入れると、中央広間の中心に鎮座している鳥人間の石像がシュオウを出迎えた。頭は鷲、上半身と下半身は筋肉質な男の体を模していて、手の部分は大きな翼で出来ている。それだけならまだしも、この石像は人間の赤子の腹部を食いちぎり、腸を引きずりだしてくわえ、クチバシからぶら下げている。

 もちろんすべて石を削った彫刻としての様相ではあるが、この石像は趣味が悪いとか、そういった事すら遙かに飛び越えているように思えた。これを造った人間も相当なものだが、邸の一番目立つ場所に平然と飾っている人間もどうかしている。

 ほどなくして、手前の部屋から颯爽と登場したモートレッド伯爵が、堅そうな顔にわざとらしい笑みを貼り付けて挨拶を述べた。

 「よくきてくれた、シュオウ君というそうだね、いや、シュオウ殿と呼ぶべきか。今日になって初めて聞いたのだが、君はアイセの卒業試験に同行した従者の一人だったそうだな。娘は君を命の恩人だと言っている。知らずとはいえ、私がしたことをどうか許して欲しい、このとおりだ」

 伯爵は謝罪し、深々と頭を落とした。老執事が咄嗟に止めにはいる。
 「旦那さまッ、そのような──」
 伯爵は頭を下げたまま手で制した。
 老執事は振り返り、意味ありげにシュオウをじっと見つめている。

 「気にしてません、頭をあげてください」
 頷き、伯爵は頭を上げた。
 「許しをもらえたと、そう解釈してもいいだろうか」
 「はじめから怒ってないですから」

 シュオウは嘘を言った。
 事情はあれど、言葉もなく突然人を殺めようとしたモートレッド伯爵に良い印象など持ちようがない。昨夜、伯爵がシュオウに向けて放った一撃は、並の人間であれば間違いなく一瞬で命を失っていただろう。

 あれだけの殺意と怒りを振りまいていた人間が、一夜にしてこれほど態度を変えてしまうことなどあるのだろうか。突然の招待以上に、あまりにもへりくだった態度を見せる伯爵に、シュオウの抱く違和感はより強くなった。

 「シュオウ、来てくれたんだな!」

 二階からアイセがふわふわとした黄色いドレスを持ち上げて、小走りに階段を駆け下
りてくる。最後の階段を二段とばしに飛び降りると、はにかんで、もじもじとうつむいた。

 「アイセ、料理の支度がすむまで彼を応接間にご案内しなさい」
 伯爵に言われ、アイセは嬉々として返事をした。
 「はいッ」

 一階の中央広間から東側の部屋に通され、ふんわりと柔らかい椅子に腰掛けたシュオウは、対面して座ったアイセに、彼女の父の態度について聞いてみた。

 「どうなってるんだ、あの変わりようは」
 「さあ、突然私のところにきて、謝りたいからシュオウを招待すると言い出したんだ」
 「おかしいと思わなかったのか」
 「それは少しくらい思ったさ。けど過ちを認めてくれたんだと思えば、嬉しくてどうでもよくなった。こうして堂々と家に迎えることだってできたし」

 アイセはそれ以上なにも考えようとはしていない。どこかで血の繋がった父親を信じる心もあるのだろう。しかし、シュオウとしては未だに気分が収まらない。命まで殺めようとした相手に一日もせずに頭を下げて、歓待しようとしている真意が計りかねた。今この瞬間、部屋の物陰に武器を手にした私兵達が隠れて命を狙っているのだとしたら、そのほうがよほど納得がいく話だ。

 「それにしても……すごい部屋だな……」
 しみじみと部屋を見渡しながら言うと、アイセは嬉しそうに頷いた。

 「そうだろうッ、どれもこれも逸品揃いだ、このまま展示場にしたって価値があるぞ」
 アイセは白目をむき、よだれを垂らしながら自らの首をしめる猿の像を背景に、満面の笑みをうかべている。

 「いや……」
 シュオウは引きつった顔であちこちに置かれた奇妙きてれつな置物の数々を観察した。どれもこれも、酷い形相をした動物の置物や像ばかりであり、そのどれもが、共通して死を連想させるような姿勢をとっている。

 「展示場というより──」
 悪趣味な見世物小屋だ。シュオウは言葉には出さず、本音をそっと飲み下した。



 食堂に呼ばれ、席について最初に出てきたスープを、シュオウはじっと見つめたまま手をつけずにいた。

 心の奥深くにこびりついた不信感が、出された料理に手をだしてよいかどうかの葛藤を生む。腐臭が漂っていようが、カビがはえていようが、それを平気で腹に収める自信があるが、毒入りの食べ物は別だ。

 シュオウの心を知ってか知らずか、伯爵はスープをすくい、するすると飲み込んでいく。
 「苦手なものでも入っていたのかね」
 伯爵に問われてシュオウは否定した。
 「いえ、そういうわけじゃ」

 少し離れて座るアイセが、不安げに様子を窺っている。シュオウは意を決した。この状況で食事に手を付けないのは無理がある。

 粗挽きされたイモの冷製スープは、口のなかでふんわりとした甘さを拡散させ、雪どけのようにしっとりと喉の奥に吸い込まれていく。
 抱いていた不安をすべて吹き飛ばすほど、料理は美味だった。ちょうど空腹を感じ始めていた事もあり、シュオウは勢いをつけてスープを口に運ぶ。

 舌鼓を打つシュオウをみて、伯爵とアイセは満足げに微笑む。
 「口に合ったようでなによりだ。料理人もさぞ喜ぶことだろう」

 食べ終えたスープが片付けられ、代わりに煮込んだ果物のソースをかけた蒸した鳥肉の料理が運ばれてくる。甘く香ばしい臭いが、口の中に溢れんばかりの唾液を沸き上がらせた。

 「ところで、君は随分と腕のたつ従士だそうだな。ここのところは南方、オウドの軍に配属されていたとか。現地ではサンゴ領の砦が陥落したと聞くが、君もその戦いに参加していたのかね」

 シュオウは鳥肉を頬張りながら首肯した。
 「はい、渦視城塞は俺が制圧しました」

 聞くや、伯爵は目を瞬かせ、視線を泳がせた後わざとらしく笑ってみせた。

 「いや、冗談かね。私も若い時分、肩を並べた戦友と軽口を言って笑い合っていたものだ。つまり、君は渦視城塞攻略の軍に参加していたと、そういうことなのだろう」

 「いえ、狂鬼の侵入にあわせて、一人で渦視に乗り込んだんです。捕らわれていた仲間達を解放したあと、渦視の総帥を捕まえて、残った狂鬼を片付けた後に、拠点を掌握しました」

 かなり端折った内容ではあったが、シュオウが淡々と言った事実に、伯爵は大声をあげて笑いだした。

 「君は劇作家としての素質があるようだな。悪くない英雄物語だ、聞いていて光景が目の前に浮かんだよ」

 アイセが食事の手を止めて、伯爵に食ってかかった。
 「お父さまッ、嘘ではありません、彼ならばそれくらいしてみせます」

 伯爵は猛る娘を手で制す。
 「悪乗りはやめなさい。私とて冗談くらい理解できるのだ。だが、この話はこのくらいにしておこう。ありがとう、楽しい話だったよ」

 こっそり目を合わせたアイセが、視線だけで謝っているのが伝わってきた。シュオウはそれ以上なにも言わず、黙って鳥肉を頬張る作業に専念することにした。
 二番目の料理が片付けられ、次のパイ料理が運ばれてくる。

 「楽しんでくれているかね」
 伯爵に伺いをされ、シュオウは強く頷いた。
 「どれも美味しいです──」
 ついでに、気になっていた事を思い切って聞くことにした。
 「──だけどどうして、俺を招待してくれたんですか」

 「先ほども言ったように謝罪のためでもある、それと娘の恩人に礼を尽くすのに、家族の食卓に招きたかったのだ。とはいえ、父と娘の二人きりでは、君に対して失礼かとも思ったのだが。私には三人の妻がいるが、二人は領地で暮らし、あとの一人は旅を好んで保養地巡りに忙しく、ろくに戻ってもこなくてね」

 「奥さんが三人もいて、大変じゃないですか」
 シュオウの素朴な疑問を、伯爵は笑い飛ばした。

 「どうということはない。複数人を相手に恋をして非難を浴びるのは平民の話だ。貴族家の立場ある男であれば、恋多き者はむしろ尊ばれる。才ある者ほど種を多く残さねばならん」
 顔を赤くしたアイセが父を諫めた。
 「お父さまッ、食事の場に相応しい話題ではありませんッ」
 「そうだな。いや、私も悪乗りをしてしまったようだ、すまない。そうだ、詫びといってはなんだが──」

 伯爵は手をあげ、老執事に何事か合図を送る。運ばれてきたのは、盆の上に乗せられた何かだった。それは紫の布が被さっていて、中を確認することはできない。

 「これは贈り物として受け取ってほしい」

 伯爵はおもむろに布をとってそこにあるモノを披露する。正体を見た途端、シュオウは激しくむせて咳き込んだ。

 「遠く、南西の山中に生息している象という動物の木像だ。これは私の設計なのだが、実際に見たことがないのでね、本にあった記載と想像を交えて造らせたのだ」

 隣で父親の講釈を聞く娘、アイセはなぜか目を輝かせながらその木像を見つめていた。
 シュオウはソレを受け取り、深刻な表情で息を飲んだ。ミミズのようにうねった鼻、飛び出した眼球に突き出した下顎からは頭頂部まで届く鋭い歯が二本生えている。あばら骨が浮いた胴体からは、なぜかバッタなどの昆虫類のような足が六本生えていた。

 シュオウは本で見て、象という生き物がどんな姿をしているのかおぼろげに知っている。伯爵が象だと言って持ち出してきたコレは、おそらく悪夢に現れる化け物かなにかに違いない。深界に巣くう狂鬼のなかにすら、これほど醜悪な見た目をした生物を見たことがなかった。

 「これは……」

 いりません、とどうにかして突っ返したいと思い口を開いた時だった、シュオウの言葉にかぶせるようにかけられた伯爵の口から、信じられない一言が猛威をふるう。

 「同じ物が箱いっぱいあってね、ちょうど庭先に置いてあるから、すべて君に進呈しよう」

 ぞくりと、背中を寒気がつたう。

 「お父さま……」
 娘の友人に気前良く贈り物を差し出した父を、アイセはうっとりと眺めていた。

 なにかが違う。シュオウはそう思った。
 この親子と自分は、きっと見ている世界が違うのだ。おかしいのはどちらか。こっそりと目配せした老執事が、気まずそうに視線を逸らしたところからして、正否を考えるまでもないのだろう。



 頬がとろけてしまいそうな、甘くて美味しいデザートをいただいた後、伯爵はアイセに帰りの馬車と土産物を運ぶための手配をするように言った。使用人にやらせればいいのではと首を傾げつつ、アイセは父親からの指示を静々と実行に移した。

 シュオウは邸を案内すると言った伯爵に付き添われ、広くて長い廊下を歩いていた。

 静かにたゆたうランプの明かりは、廊下の壁にずらりと並んだ肖像画を照らしだす。前を行く伯爵のゆっくりとした歩調に合わせつつ、シュオウは居並ぶ顔を一つずつじっくりと眺めた。

 「モートレッド一族代々の当主達だ」

 奥へ行くほど古びた様相を呈していく肖像画は、ほとんどは男、まばらに女が混じり、風貌はほとんどが金髪に青色の瞳をしていた。彼らの血は脈々と受け継がれ、共に歩いている伯爵、そして彼の娘の代にまで、命の系譜は続いている。

 「我が一族は勇猛だが、それゆえに短命のきらいがある。アイセの兄姉達は優れていたが、成人を目前にして皆命を落としてしまった」
 「そう、みたいですね」

 腰にまわした両手を握って、伯爵は足を止めた。側には誰も居ない。
 廊下は静寂のなかにあった。動くものは、揺れるロウソクの灯りが落とす影のみである。

 「情けない話だが、立て続けに子らを失って恐くなってしまってね。とくにアイセには、ろくに愛をもって接した覚えがない。だが、あの子は深界踏破試験を無事に終えた、それも前例のない好成績でだ。都合の良い話だが、ここのところは、娘とも会話を交わす機会が増えた。ようやく後継者を得たことで、私も張り詰めていた心の壁の高さを、少し下げることができたのかもしれんな」

 伯爵はゆっくりと振り返り、背後にまわしていた手をもどして、浅く頭をおとした。

 「なんですか、急に」
 「父として、そして伯爵家の当主として認めたくはないが、娘はどうも、君に恋心を抱いているらしい。一晩中思い悩んだが、君とこうしてゆっくり話をする機会をもててよかったよ。君と話していて一つわかったことがある」

 シュオウは微動だにせぬまま、拳だけゆっくりと握りしめる。
 「なにがわかったんですか」

 「君が、私の娘に抱いている感情が、同等のものではないということがだよ。それともう一つ、シュオウという名の若者が、話ができる人物であるということもね。意外なことに、私は君に好感を抱いている。君は己を知る者だ。だからこそ伏して頼みたい、どうか娘に想いを捨てるよう計らってほしいのだ」

 手のひらに痛いほど爪が食い込み、シュオウは無意識のうちに握る拳に力を込めていたことを自覚した。

 アイセが向けてくる感情が友という一線を越えたものであると、シュオウは知っている。だが知っているからといってどうなるのか。直接なにかを言われたわけでもなく、自分を諦めてくれ、などと伝えるのは、それこそ驕り高ぶった愚かな行いではないのか。

 伯爵のいった言葉は事実だった。シュオウはアイセに対して、友という一線を越える感情は持ち合わせてはいない。だがそれでも、側にいて少しも感情が揺さぶられないかといえば、それも違う。整った顔に見とれてしまいそうな事はあるし、側にいて感じる甘い果物のような香りに、そわそわと落ち着かない心地にもなる。きまじめな性格も、側にいて安心ができるし、常に彼女なりに正しくあろうとする姿勢も尊敬できる。

 シュオウは言葉にできぬ不快感に顔をおとした。

 シュオウはアイセが好きだった。一緒に旅をした仲間として、甘い食べ物をくれる友として、同じ場所で働く同僚として。
 だが、たった今、彼女に抱いていた好意を、強引に分類されたような心地がしていた。

 シュオウはゆっくりと顔あげる。
 「返事を、したくありません」
 その返答に、伯爵は眉間に皺を寄せた。

 「立場をかえりみず、自らの想いだけを遂げようとするのは子供の恋だ。君にも、さぞ負担をかけただろう。私は血族の長として、そして父として言うべきことを伝えた。これ以上はなにも言うつもりも、するつもりもない。不快な思いをさせてしまったようだ、すまなかったね」

 シュオウは黙したまま視線をはずした。
 伯爵は再び前を向いて、ゆっくりと歩き出す。
 重くなってしまった空気を戻したかったのか、伯爵は露骨に声の調子をはずませた。

 「ときに、先ほどの贈り物の件なのだが──」
 シュオウも気持ちを切り替え、声を張った。
 「そのことですけど、やっぱり受け取れません」

 伯爵は長い廊下を歩きつつ、首を捻って振り返った。

 「ん? たしかに物としてかさばるかもしれんが、商材としてみればどれほどの利益を見込めるか、考えてみたのかね。卸値を考慮しなくてもよい分、いくらで売ろうとも丸ごとの儲けになるのだぞ」

 話を聞いて、シュオウは眉をあげた。
 「金……」

 「そうとも。モートレッドの工芸品は高品質なものとしてとくに評判がいい。君に進呈するといったものは、私の力作だ。娘が受けた恩義を返すため、破格の条件で差し上げようといっている。どうか遠慮せず、受け取ってはもらえないだろうか」

 シュオウが伯爵からの贈り物を受け取ることを躊躇しているのには理由がある。それはなにより趣味の悪い造形がためだ。しかし売れば金になるという言葉は、まさしく甘言だった。ここのところ、財産の重要性を痛感しつつあるシュオウを惑わすのに、伯爵の言った演説はこれ以上なく効果を発揮した。

 「それじゃあ、ありがたくいただきます」
 「いや、そうか。よかったよ」

 伯爵の様子は、どこかほっとしているようにも見え、シュオウは密かに首を傾げる。

 ふと、流してみていたモートレッド家の先祖達の肖像画のなかに、視線を誘われた。それは、眉目秀麗で品良く前を見つめる絵が並ぶなかにあって、ひときわ異彩を放っていた。

 歳の頃は二十代の半ばほどといった雰囲気で、金髪碧眼なあたりは他のそれと同様だが、鼻の両穴に親指を突っ込んで手のひらを広げ、閉じた瞼に偽の目を描いて、口元は歯をぎらつかせながら引きつったように笑みを貼り付けている。

 「これ、なんですか」
 聞くと、伯爵は足を止め、その肖像画を前にして眉間を強く押さえた。

 「エトハルト・モートレッド。我が一族が東方の地に移り来てまもなく輩出した希代の変人だ。昼夜逆転の生活を送り、私財をおかしな発明に費やしていたという。我らモートレッド一族も、他家と同様もっとも才ある者を当主の座につける。エトハルトは狂人ではあったが、輝士としての才には恵まれていたのだろう。彼はとくに生物の生と死に異常な執着をみせていたようだ。この頃のモートレッド家には、口にもだしたくない逸話が数多く残されている。正直にいってエトハルトは系譜にしみついた汚点だが、芸術的な素養には傑出した才能をもっていた。それゆえ、恥を感じつつも、私はこの先祖を嫌ってはいない」

 シュオウは生唾を飲み下した。

 「もしかして、邸の入り口にあった、あの石像は」

 「ほう、よくわかったね。あれはエトハルト自らが造り出した彫刻だよ。他にも、この邸と領地にある別宅に、彼の作品が多数保管されている。保存のためにかかる費用は相当なものだが、彼の作品にはそれだけの価値がある、君もそう思うだろう」

 伯爵の言葉を聞きつつ、シュオウはエトハルト・モートレッドの肖像をじっと見つめた。
 ──おまえか。

 今日にいたるまで受け継がれているモートレッド一族の途方もない趣味の悪さは、このエトハルトという人物を根源としているのかもしれない。それは、彼が残した品物を後生大事に保管し続けてきた後の子孫達の行動をみれば明らかだ。

 「ときに……君はサーサリア王女殿下とは知己の間柄なのかね」
 急な質問に、シュオウはぎょっとした。
 「どうして?」
 「いやね、そういう類いの噂を耳にしたのだよ。それで……どうなのかね」

 「一応、はい。あいつ──サーサリア王女が、アデュレリアの山中で遭難したときに側にいたんです」

 伯爵は手のひらの上で拳を打った。

 「知っているぞ、たしかに王女殿下はアデュレリアにて、一時山中で道に迷われたとか。まさか、君が王女の身をお助けしたのか」

 「そうだと言ったら、また疑いますか」
 「いいや、そうか──それならば納得のいく話だ」
 独り言のようにぶつぶつと呟く伯爵の態度に、シュオウは眉をひそめた。
 「なにが言いたいのか」
 伯爵は突如、シュオウの手をがっしりと握りしめた。
 「よくぞ聞いてくれた。実は、君に折り入って相談があるのだが──」



 伯爵家に別れを告げて後、大きな木箱を五つも渡されたシュオウは、運び先に苦慮しつつとりあえずの置き場としてクモカリの店の裏に置かせてもらうことにした。
 夜分に、予告なく大きな荷物を持ち込んだことで、さすがのクモカリも困り顔をした。

 「なによこれ……」
 「伯爵からもらった」
 「もらったって、中身はなんなの?」

 シュオウは見本として受け取った象の置物をクモカリに見せた。

 「ちょっとやっだぁ……なにこれ、見てるだけで呪われちゃいそう──」
 クモカリは大きな手を傘にして、不気味な象の置物との視界を塞いだ。
 「──まさか、この箱の中身、全部これなの?」

 シュオウはなかば放心状態で力なく頷いた。

 「うん……」
 「どうしてこんなのもらってきちゃったのよ」
 「金になるって聞いて、つい……」

 あの珍品邸から距離を置き、時間もあいて冷静になるにつれ、とんでもないお荷物を背負い込んだのではないかという後悔に襲われた。

 「そりゃあ、売れればお金になるでしょうけど。これ全部、本当に見返りもなくくれたっていうの?」
 「いいや、頼まれごとをした」
 クモカリは、みたことかと困り顔をする。
 「どんな?」
 「サーサリアに……王女に紹介してほしいと言われた。俺一人で決めていいことじゃないから、返事はしなかったけど」

 「そう、それでよかったと思うわよ。でも気をつけないと、ただより高いものはないって言うんだから」

 シュオウはまさに、クモカリの言った言葉を現実のものとして実感していた。
 クモカリが木箱をぽんと叩くと、重い音が夜の路地に反響した。

 「これ、入れ物の木箱を売ったほうがまだお金になるんじゃないかしら──それと、悪いんだけれど、これ裏路地に置いておくのは無理よ。ここ、ご近所さん達も運び入れに使う共用通路なのよ」
 シュオウは腕を組み、目を細めて積んだ木箱を見つめた。
 「明日の朝には片付ける」



 一夜明け、人通りの多い街路を行く人々の視線が、うずたかく積み上げた木箱を担ぐ男に集まっていた。

 「おいッ、朝っぱらから人をたたき起こしといてさせる事がこれかよ!」

 そう喚き散らすシガの隣で涼しい顔で歩きながら、シュオウはうっすらと笑む。

 「きもちわりいな、なににやついてんだよ」
 「いま、はじめてお前を雇ってよかったと思ってる」
 「くそ……手が自由なら、そのむかつく白頭を殴ってやりたい」

 シュオウはシガの背中を平手で叩いた。

 「だまって宝玉院まで運べ、雇い主の命令だ」
 「まともに金払ってから言えッ」

 自らが雇うと言った男が初めて役に立った瞬間を、シュオウは満足げに見守っていた。
 しかし、弾む足取りは、シガの手にある白熱した輝石を目にした途端、重くなる。シュオウは自らの白濁した輝石と見比べて、沈んだ表情で唇をとがらせた。
 娘と距離を置いてほしいと、頭まで下げていたモートレッド伯爵の深刻な顔が頭の奥にこびりつき、いつまでも終わらない自己問答を、胸中に呼び起こしていた。





[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第五話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:2afa1f6c
Date: 2014/06/12 21:28
     Ⅴ 弟子入り志願










 「物ってのはよ、欲しいやつがいるから売り物になるんじゃねえのか」

 宝玉院の中庭に広げた敷物の上に、醜悪な木像を並べ、シュオウとシガは午後の陽光の下、辛気くさい顔で二人肩を並べて商い人の真似事に勤しんでいた。
 膝を抱えて座るシュオウは、隣で胡座を組むシガから冷めた言葉をかけられ、しかめっ面に暗い影を落とす。

 「売り物にならないって、そう言いたいんだろ」

 一晩中飲み明かした後のような枯れた声で返すと、シガは腹の底で淀んだ憤懣を持てあますかのように、小さく怒鳴った。

 「あたりまえだッ。くそ、中身がこんなくだらねえもんだと知ってたら、黙って荷運びなんてするんじゃなかったぜ」

 はたして、彼が黙々と仕事をこなしていたかとシュオウは首を傾げたが、無駄な労働をさせられたという苦情には返す言葉が見当たらず、黙り込むことしかできなかった。

 どこか気怠い空気が漂う朝と昼の境を越えて、宝玉院は昼食を楽しむ生徒達の喧噪に包まれていた。心地良い外気を求めて、中庭で昼食をいただく生徒達も多いが、彼らは皆、不気味な置物を並べるシュオウ達から距離を置き、遠巻きに様子を窺っている。

 あわよくば、貴族の子女達が通うここでなら抱えた商材を売りさばけるのではないか。そうした目論みがまるで的外れであると気付かされるまでにかかった時間は、小鳥が行水をするよりも短かった。

 枯れ草で編んだ榛色《はしばみいろ》の敷物に、不気味な木像をずらりと並べてわかったのは、このおかしな置物に商品としての価値がまったくないということと、自分には商才がないのだという、冷めきった現実だけだった。

 ふと前を、仕事道具を担いで歩く、老いた庭師が横切った。シガはその老人を呼び止めた。

 「おい、じいさん、これ買わないか」

 手に持った不気味な木像をかざし、シガは売り込みをかけるが、その老人は手首が隠れるほどぶかぶかとして粗末な長衣をひるがえし、振り返って首を傾げた。長い白まつげの奥に鈍く光る瞳を上げて、あごをしゃくって笑声をもらす。

 「ほーほッ」
 夜に鳴く鳥のような笑いを残し、老人は頼りない足取りで去って行った。

 「おい、見たか……ボケて死ぬ寸前みたいなジイさんですらあれだ。ああ、くそ、俺はもう寝るぞ。そうすりゃこの阿呆みたな時間にゴマ粒ほどでも意味がわくぜ」

 シガは背を倒して寝そべり、長い手をいっぱいに広げて目を閉じた。昼食を食べた後ということもあり、これでも機嫌良く過ごしているほうだ。この男は、見た目と生き方の豪放さとは裏腹に、ねちねちとよく愚痴をこぼす。

 シュオウが早々に、自らの商いの才能を諦めるには理由があった。ひとつに、相場というものをまるで知らず、それゆえ並べている木像には値札が用意されていない。また、客を呼ぶための手段をなんら講じてはいないし、そもそも思いつきもしなかった。唯一考えられる事といえば、街中でも見かける呼び込みを真似るくらいなものだが、威勢良く声を張って売り物を宣伝するには、消すことのできない羞恥心が邪魔をする。

 折り目正しく座っていたシュオウは、足を崩して後ろに手をまわし、楽な姿勢で体を預けた。

 ごく何気なく、ぼうっと目の前の光景を観察する。その対象は、思い思いに昼の休みを過ごす生徒達だった。

 学校、という空間は面白い。似たような境遇の人間達が一つ所に集まり、目的に添った内容を学んでいる。限られた空間のなかに押し込められている点では、自らも経験した深界の砦と同じだが、階級というもので明確な序列で縛られていた砦や城塞とは違うはずのこの宝玉院にも、明らかに序列は存在していた。それは、廊下をなにげなく歩く生徒らを見ているだけでわかる。

 まず、もっともわかりやすい序列の在り方は年齢だ。小柄な子供達は、自分達より体の大きな年上の生徒達に優先的に道を譲る。だが、上級の生徒らが意識して道を明け渡す相手のなかに、明らかな年下の生徒を対象としていることもあった。おそらく、それこそがこの宝玉院に存在する不可視の序列、家柄というものなのだろう。

 その例としてもっともわかりやすい対象が、今まさに、シュオウの視界の中に現れた。

 数にして五人の女生徒達が廊下を行く。同じ道を行く者すべてが立ち止まって隅によけ、なかには軽く頭を下げる者までいた。まとまって歩く女生徒達の先頭に立つのは、シュオウも知るアデュレリアの若姫、ユウヒナである。彼女が従えるように共に歩く幼い女生徒達は、おぼろげに見覚えのあるアデュレリア一族の娘達だった。

 氷狼の娘達は悠々と胸を張り、左右に割れた人波のなかを歩いて行く。その所作からは大貴族に連なる者がもつ特有の威厳と、隠しきれない傲慢さが漏れていた。

 先頭を行くユウヒナがふと足を止めた。整った涼しい顔に怒りの炎が灯る。その視線を追うと、サーペンティアの娘、アズアが分厚い本を片手に、廊下の真ん中で立ち尽くしていた。

 遠目に、場の空気が凍り付いてゆく様をひしひしと感じ、シュオウは他の生徒らと同様、黙って彼女達の様子を見ていた。

 聞こえはしないが、ユウヒナの口が僅かに開くのが見えた。一時も瞬くことなく、天敵を視る目は鋭い。

 対するアズアは見るからに動揺した態度で、手にしていた本を胸の中で強く抱きしめていた。口を開き、何事か言い返したようだが、ユウヒナは動じた様子なく、さらになにか言葉をかける。アズアの表情が一瞬にして怒気をはらみ、気持ちを必死に押さえ込むように唇を噛みしめた。

 ユウヒナは勝ち誇ったようにアゴをつんと上げ、アデュレリアの娘達を引き連れてアズアの横を通り過ぎていく。

 一人廊下に残ったアズアは、しばらくそこで立ち尽くしていたが、まわりからの視線を振り払うように、何事もなかったという顔をつくって、流麗な所作で髪をなで上げた。その最中に、離れた所から一部始終を観察していたシュオウと視線が重なった。

 アズアは視線を合わせたまま、シュオウの下まで歩み寄る。なにごとかと不思議に思ったが、すぐ目の前まで来たアズアは、膝に手をついて地面に視線をおとした。彼女の目的は別にあったらしい。

 「あの……これは、なぜ並べているのでしょうか」
 アズアは並ぶ木像をじっと見つめたまま、ささやくような小声で問うた。

 「えっと……売ってる、つもりなんだ」
 「売り物、なのですか。でしたら、あの、ひとつ」

 隣で目をつむっていたシガが、突然体を起こし、手の平をアズアに差し出す。アズアは突然の事に、怯えた様子で後ずさった。

 「な、なん──」

 シガは地を這う大蛇のような威圧感をもって、重く低く、喉を鳴らす。

 「有り金全部だ、だせ」

 奇跡的に現れた客に、賊のような台詞を吐いて捨てたシガに、シュオウはあっけにとられて口をぽかんと開き、呆然と視線を送っていた。一方のアズアは、怒り出すかと思いきや、生真面目に自身の服の内をまさぐっている。

 「あれ──どうして」

 アズアは制服の上着を脱いでまで手持ちの金を探していたが、見つからなかったのか、沈んだ様子で項垂れた。

 「あの、いまは少しも手持ちがなくて……」

 気まずそうにしているアズアに、シガは強烈な睨みを効かせた後、興味を捨てて居眠りを再開した。

 アズアは顔をおとし、唇を噛んだ。買うと言って、金がなかったことを恥じてのことか、彼女の頬には若干赤みがさしている。初対面の時、ユウヒナと接していたときの高飛車な態度からすると、今の彼女の態度は首を傾げるほど内気に見えた。

 アズアが小さく謝罪を残し去ろうとした間際、シュオウは小さく縮こまったその背を呼び止めていた。

 「これ」
 シュオウは木像を一つ取り、差し出した。
 「でも……」
 「金はいつでもいい」
 少々の迷いの後、アズアはシュオウから木像をそっと受け取り、一礼して小走りに去って行った。

 再び隣で体を起こしたシガが、うんざり調子にだらけた声をだす。

 「阿呆か、おまえ。ただで渡したら商売じゃなくて施しだろうが。いまのやつ、絶対に金なんか持ってこねえぞ」

 「それならそれでいい。まともに売れる物じゃないなら、一つ売れても売れなくても、同じ事だ」

 シガはわざとらしく溜め息を吐きだした。
 「おまえ、商売人には向いてないな」

 わかりきったことを言われ、シュオウはむすっとして胡座を組み、シガから視線を逸らした。

 「おい」
 肘でつつかれ、シュオウは不機嫌に声を荒げる。
 「なんだ」
 「見ろよ、あのガキもコレに興味があるみたいだ。いがいに売り物になるかもしれねえ。諦めるのは早いかもな」

 促された先を見ると、たしかにじっとこちらを見つめながら向かってくる男子生徒がいる。その容姿に、わずかに見覚えがあった。

 男子生徒は目の前まできて、さきほどのアズアと同様にしゃがみ込んで木像を一つつかみ取った。その顔を間近で見て、なぜ見覚えがあったのかを思い出す。それは、シュオウの部屋に侵入したあの金髪の男子生徒に、訓練場で頭を踏みつけにされていた、あの時の少年だった。

 「おい、そいつは売り物だ。触ったなら金を払え、それはもうてめえのもんだ」

 がめつく手を差し出すシガに、男子生徒は袋にずっしりと入った財布のようなものを乗せた。咄嗟に中を確かめたシガは、酒とご馳走を前にしたときと同様の、ほっこり顔で歯をぎらつかせながら笑みを浮かべた。

 男子生徒はシュオウと視線を合わせた。
 「これに商品としての価値、ないとおもいますよ。薪かなにかにして処分したほうが無難です」

 文句をつけつつ、それに金を払った少年に、シュオウは訝って聞いた。
 「ならどうして金を払う」

 「あなたにお願いがあるからです。今年に入って、家からの仕送りを貯めていたもののほとんどすべてで、この気持ちの悪いのを買います。だから、僕に剣を教えてください」

 唐突な弟子入り志願が、ただの酔狂ではないのだと、シガが大切そうに抱きしめている重そうな金袋と、男子生徒の揺れることのないまっすぐな瞳が告げていた。





          *





 連日、誰一人現れることのなかったシュオウの剣術授業に、初めて現れた参加者は、アラタ・コフキと名乗り丁寧に頭を下げた。
 訓練場の片隅にある休憩用の東屋の下で、シュオウとアラタは向き合っていた。

 「どうして地面に膝をつくんだ。こっちにきて椅子に座ればいい」

 地べたに折った両すねをべったりとつけて、見るからに窮屈そうな姿勢で、アラタはかしこまっていた。

 「これは東地伝統の礼儀作法です。僕はあなたに師事を申し込んでいるので、礼をもって願います」

 生真面目に言われ、シュオウは閉口して頭をかいた。側で寝そべるシガが大きなあくびをあげ、寝返りをうって背を向けた。

 「俺は誰かの師になれるような人間じゃない。剣だって、持ってからまだ少ししかたってないし」

 あくまでも事実を述べたシュオウの言葉を、アラタはきっぱりと否定した。
 「嘘ですね」

 一切迷いのない物言いに、シュオウは眉根を寄せた。
 「嘘じゃない」

 「嘘です。僕の家の遠縁に、親衛隊に任命されている人間がいます。その人からあなたの話、聞いているんですよ」

 「……なにを聞いた」

 「あなたがしてきたことを。剣の腕一つで狂鬼に襲われた王女殿下の身を守り、敵国の要塞で高名な剣士を討ち取ったと。僕だってすぐに信用したわけじゃありませんけど、本来平民の出身で師官の座につくことなどありえないことですから、あなたの今の境遇と聞いた噂話を照らし合わせてみて、信用してもいい話だと思いました。あなたは従士の身分でありながら大きな成果を残し、王国軍の上層から信頼を受けている。その結果、宝玉院での剣術指南という、通常ではありえないような大役をまかされた。以上が僕の見立てです」

 整然と説明され、シュオウは口を閉ざした。存外、目の前の少年が言ったことは間違っていない。

 「黙っていることと、今のあなたの表情を、見立ての確証としてもいいですよね。すごい人ですね。他にも色々と聞いているんです、それがすべて事実だとすると、あなたは時代に名を残せるくらいの人なのかもしれない」

 褒めそやされ、むずがゆいものを感じつつ、シュオウは否定も肯定もせずに黙って耳を傾けていた。

 「お願いです、僕に剣を教えてください。師匠に……なってください!」
 手をついて頭を下げられ、シュオウは慌ててアラタの体を拾い起こした。

 「待て、さっきも言ったけど、俺はまだ弟子を持てるような立場じゃない」
 「でもッ──」

 シュオウはアラタの膝についた砂埃を払った。

 「教えないとは言ってない。ここへは仕事として配属されたんだし、もらう給金の分だけ働くのは当然のことだ。俺が剣の師から習った基礎訓練でよければ、それを教える」

 彼の望む答えを用意したつもりだったが、アラタは納得のいかぬ様子でなおも食いついた。

 「形どおりのことを教えてほしいなら、あなたに頼んでませんッ」
 「じゃあ、なにを教わりたいんだ」

 アラタは一呼吸おき、語気を強めて宣言した。

 「勝ち方です。どうしても、勝たないといけない相手がいるんです」

 アラタからは強い意志のようなものを感じる。事情があるのだろう。
 シュオウは東屋の長いすを差して、アゴをしゃくった。

 「同じところに座って話をするなら、事情を聞く」



 「カデル・ミザントを知っていますか」

 アラタに問われ、シュオウは頷いた。
 「いちおう、顔と名前は一致する。前に見た時、お前の頭を踏みつけにしていたやつだろ。さっきいってた勝ち方っていうのは──」

 「はい、僕はカデルに……彼に勝ちたい。勝たないといけないんです」

 人間関係の摩擦はどこにでも生じる自然現象のようなものだ。
 複数人が集まれば、それは尚のこと当たり前の事として起こりうる。人間は誰しもわかりあえるわけではなく、付き合いには相性が大きく左右する。シュオウが今まで、人類社会のなかで見聞きし経験してきた日々のなかでも、それは日常の一部であったし、自らが当事者であったこともある。

 アラタ・コフキはカデル・ミザントから日常的に嫌がらせを受けている。この場合被害者ともいえるアラタが、状況を打開したいと思うのは、ごく当たり前のことといえる。

 「つまり、そのカデル・ミザントを、力でなんとかしたいんだな」

 アラタは、はい、と簡潔に肯定した。
 「僕に、剣術を教えてくれますか」

 「……わからないことがある。そのカデルは、力でどうにかして、本当に引き下がるような相手なのか」

 「つまり、なにが聞きたいんですか」
 「話し合いから始めることはできないのか」
 「それは、もう言いました。でも無駄です、言った後、彼からの嫌がらせは酷くなりましたから」

 「そいつは他の人間にも同じようなことをしているのか」

 行き過ぎた加虐行為を周囲にふりまいているような人間だとしたら、もっと簡潔にこらしめる手段もあるかもしれない。だが、アラタは首を横に振った。

 「カデルは僕以外の人間には優しいんです。統率力もあって、皆から好かれてます。きっと輝士になれば、出世して名を上げるような逸材ですよ」

 「じゃあ、嫌がらせをするのは、お前だけにってことか……。どうも、カデルという人間が、アラタという人間を個人的に嫌っているように聞こえるな」

 「はい、そうですよ」
 アラタは他人事のようにあっさりと頷いた。

 「どうして嫌われてるか心当たりは? きちんと事情を把握できないかぎり、俺もなにをすべきか考えることができない」

 アラタは視線を地面へ流し、過去を懐かしむような顔をした。

 「カデルの母親と僕の母は学友同士だったので、その繋がりでカデルとは幼なじみなんです。彼とは物心ついた頃からよく遊んでました」

 「知り合いだったのか」

 アラタは小さく頷く。

 「だけど、ここに通うようになってすぐ、僕がしたことが原因で、彼とはまともに口もきけない関係になったんです」

 「なにをした」

 「彼の秘密を言いふらしました。カデルは子供の頃、妹が欲しかった歳の離れたお姉さんから、よく女の子の格好をさせられていて。カデルは容姿も成績も良かったので、宝玉院に入ってすぐ人気者になりました。その頃の僕は、カデルと友人だということを自慢に感じていたみたいで、彼の事をぺらぺらと喋ってまわったんです。言わないでくれって頼まれていた、女装の事も含めて」

 聞いて、シュオウは唸った。他人事に聞いていれば些細なことのようにも思うが、当事者からすれば数年にわたって根に持つほど、強く恨みを抱いたのだろう。

 「じゃあ、その頃からずっと嫌がらせをされ続けてきたのか」

 「そうですけど、最初のほうはたいしたことはなかったんです。口で罵られたり、物を隠されたり。僕も負い目を感じていたので、されるまま抵抗しませんでした。でも最近になって嫌がらせが暴力に発展するようになって、やめて欲しいと頼んだらもっと酷くなりました。ここのところは身の危険も感じるし、なにより生活に支障がでてるんです。僕はただ、静かに勉強したいだけなのに」

 シュオウは腕を組み、アラタを見つめた。

 「だいたいわかった。力で相手を負かして、一目置かせたいんだな」

 「そうです。カデルは実技のなかでもとくに剣術が得意なので、彼が一番自信のあるもので勝てたら、もうほうっておいてくれるだろうと考えました」

 「それで俺を師に選んだのか。他にも教えを請える相手はいただろ」

 「前任の師官は個人授業を受けてくれるほどの余裕なんてなさそうでしたから。その点、あなたはいつも暇そうにしているので、ちょうどいいと思って。みんなあなたのことを気味悪がってますよ、その大きな眼帯の下はどうなってるのか、賭けてる生徒達も──」

 耳に心地良くない話をずけずけと聞かされて、シュオウはむすっとして不快感をあらわにした。アラタは慌てて口をつぐむ。

 「ッ──すいません……僕はどうも、口が軽いのが欠点みたいで。自覚していても直せないのだから、相当に」
 「……もういい。とりあえず、さっきもらった金は返す」
 「そんなッ──」

 狼狽して立ち上がったアラタに、シュオウが言葉をかけようとしたその時、後ろで横になっていたシガが起き上がり、シュオウの肩に手を置いて、耳元で小声でささやきだした。

 「待てよ、まさか給金もらってるから、金はいらねえとかぬかすんじゃねえだろうな」

 図星をつかれ、シュオウは即座に反論する。

 「わるいか」
 「本物の阿呆だな──」

 シガはのっそりとアラタに歩み寄り、華奢な肩を掴んで覗き込んだ。

 「その依頼、俺が受けるぜ。おまえを鍛えてやる」
 「え? いや、でも僕……」
 「ぐだぐだ言うな、さっきの金は依頼料として俺がいただく。その代わり、仕事としてそのなまっちろい体を頑丈な戦士として鍛え上げてやる」

 「でも、あなたは剣士なんですか? 見たところ帯剣もしていないし──」

 「剣だぁ? ふざけんな。あんなのはな、弱いやつがてめえの一物代わりにふりまわしてる棒きれだ。男なら体を鍛えろ。拳一つで敵を殴り殺せばそれですむ話だろうが。さあ、さっそく始めるぞ」

 シガは嫌がるアラタを真上に昇った太陽が照らす訓練場へと引きずっていく。
 ずりずりと引っ張られながら、アラタは必死に手を差し伸べるが、シュオウはその手を掴むことなく、黙ってやり過ごした。
 シガの一方的な宣言を諫めるか否か、考えるよりも先に、まるで知識に欠けている剣術を指導しなくてすむということに安堵を覚えてしまったのだ。




         *





 アラタが弟子入り志願をし、図らずも南方人の師を得てから三日が過ぎていた。
 午後の授業時間。
 多数の生徒で埋め尽くされるはずの訓練場には、体格の良い褐色肌の大男と、彼にしごかれる、なま白い肌をした小柄な男子生徒しかいない。

 シガは張り切って弟子を鍛えていた。あまりに無茶をするようなら止めるつもりだったが、彼がさせているのは筋力を鍛えるための訓練や体力を養うための走り込みなど、意外なほどに堅実なものだった。が、時折度胸を付けるといって足首をつかまれ、力まかせに放り投げられているアラタに、同情心が芽生えないわけでもなかった。

 多少むちゃな訓練方法だとしても、シガがただ単に相手を痛めつけるためにしていないのだということは、見ていてわかる。なぜなら、彼が本気を出せば、人の体に折り目を付けるくらいの事は容易くできてしまうからだ。

 シガは、らしくなく活き活きとアラタの師匠を演じていた。食べること以外することのない日々に退屈していたのかもしれない。

 シュオウは一人、一抹の寂しさを感じながらも、東屋におちた日陰のなかで読書に勤しんでいた。図書室から借りた一冊を読み込むうち、艶めかしい男女のからみを臭わせるような場面が出てきたあたりで、初めて無意識のうちに恋愛を主題とした物語を選んでいたことに気付いた。半分ほど読み進めて、ようやくまじまじと見た題名には、新米米屋の横恋慕、とある。

 主人公の若い青年が、新商品がありますよ、と言いながらズボンに手を入れた所で、シュオウは乱暴に本を閉じた。
 ──なんで、こんなの。
 借り物の本を放り投げてしまいたい衝動を堪え、溜め息をついて前を見つめる。

 ふと視線をやった訓練場の奥から、めずらしい人物が歩いてくるのが見えた。主師のマニカだ。彼女が歩く方向、そして視線からしてシュオウを目標と定めているのは間違いない。

 シュオウは急いでマニカに駆け寄った。
 「俺に用ですか」

 玉になった汗をぬぐって、必死に息を整えてから、マニカは口を開く。

 「ええ。近頃、アラタ候補生が単独であなたの授業に出ていると噂を聞いたものですから、様子を見に。どうやら、話は本当だったようですね」

 シュオウの背後に目をやったマニカが、目を細めて様子を窺う。

 「はい、本人の希望で、鍛えてほしいと、頼まれて……」
 背後から、状況を踏まえることのないシガの叫びがこだまする。

 マニカは眉をしかめた。
 「あれが、真っ当な訓練なのですか」

 振り返って様子を伺ったシュオウの頬に、一筋の冷たい汗が伝う。
 シガはアラタの手首を掴み、思い切り勢いをつけてぐるぐると、その体をコマのように振り回していた。ひとしきりぐるぐると回転を終え、アラタを地面の上に横たえる。

 「うォえッ」

 アラタはふらついて立ち上がることもままならず、四つん這いになって胃のなかのものを盛大にぶちまけた。
 それをした張本人たるシガは、膝に手をついて、アラタのすぐ側で昼に食べたものをゲエと逆流させた。

 ──お前も吐くのか。

 シガは口の端からよだれを垂らしたまま、両手足を地べたにつけたアラタに喝を入れた。
 「おら、さっさと立て! この程度でへばってたらいっぱしの戦士にはなれねえぞッ」

 すでに小一時間しごかれ通しのアラタは、虫の息で返事をする。

 「も、もう、無理ですよ……こんなの意味ない。いくら体を鍛えたって、僕は小さいし、身体能力じゃカデルに勝てないんです。だから、やっぱり技を磨かないと、それには剣の使い方を──」

 「うるせえ、なにが剣だ。根っこから弱いやつはな、なにをやったってすぐに折れるんだよ。てめえはそこからまるでなってねえ。いいか、諦めたくなったり、逃げたくなったらこれを見ろ」

 シガは言って、あの不気味な木像を持ち出した。

 「これ……」
 木像を受け取ったアラタは、げっそりとした顔でそれを見つめる。

 「おまえはな、自分を鍛えてくれって言いながら、このくだらねえ物を大枚はたいて買ったんだ。逃げたら全部無駄になるぞ。おまえが払った金の代わりに俺はお前を鍛えてやってんだ。お前が途中でやめたって金は返さねえ。これを見るたびにそれを思い出せ」

 アラタは震える手で木像を掴み上げた。
 「こんなものに、ぼくは、ぼくはァ────うわあああッ」

 震える足で立ち上がったアラタは、自らを鼓舞するように叫び、吠えた。

 「よし、走るぞアラタ、晩飯の時間までは付き合ってやるッ」
 「はいッ、師匠!」

 走りながら去って行く二人を見送ったシュオウは、立て付けの悪くなったドアのように、ギギギと首を捻ってマニカを見た。

 「あの……これは……」

 マニカは表情を変えることなく、目の前に一枚の紙を差し出した。

 「実は、調理場の責任者から苦情が入っています。あなたが従者だといって引き入れた南方人の男が、校内の食材をあらかた食べ尽くしてしまうと。一日やそこらのことかと様子を見ていましたが、あのガ・シガという人物は、毎食のように調理場に押しかけているようですね」

 シュオウは生唾を飲み下して気まずそうに俯いた。
 「はい、その通りです」

 突き出された紙は、ざっと見たところ、食材の仕入れに関する内容を記した物のようだった。そこに書かれた数字を見るに、ぎょっとするような金額が綴られている。
 紙を受け取ろうと手を差し伸べるが、寸前になってマニカはそれを引き上げた。

 「なにもしない、ただの大飯ぐらいをこの宝玉院に引き込んだのだとしたら、由々しき問題です。即刻許可を取り消して、浪費された食費を負担していただきます──と、言うつもりでここまで足を運んだのですが、なかったことに致しましょう」

 マニカは紙を折りたたみ、懐にしまい込んだ。

 「いい、んですか」

 シガが大食漢であることをシュオウは知っていてここへ連れてきた。それはもちろん、貴族社会の潤沢な資金をあてにしてのことではあったが、だめと言われれば、潔く非をみとめるほかにない。しかし、マニカはどこかで心変わりをしたようだった。

 「彼は下手な師官よりよほど生徒を導いている様子。いつも気弱で下ばかり見ていたアラタ候補生があれほどやる気をだしているのを見て、正直驚いています。彼は師官に相当する仕事をこなしている、それならば、かかる食費の負担くらいは給金と思えば安いものでしょう」

 シュオウはほっとして肩の力を抜いた。
 「ただしッ──」
 マニカが強い調子で声を荒げ、シュオウは再び肩を強ばらせる。

 「大切な未来の輝士候補生に、くれぐれも大怪我をさせないように。ここの子供達はムラクモ王国が擁する大切な財産なのですから。いいですね」

 シュオウは頷いた。一度や二度ではない。マニカから発する見えない力に気圧されたのだ。
 立ち去るマニカを見送って、シュオウは慌てて駆け出した。シガが無茶をしないよう、常に見張っている必要がある。





          *





 闇の中、揺らぐ炎が近づいてくる。それはぼんやりとした玉のような、ランプの灯りだった。安堵を与える暖色の光を携える人物は、炎とは対象的に冷ややかな雰囲気を漂わすユウヒナ・アデュレリアである。

 「お探ししました。まだこんなところにおられたのですね」

 すっかり暗くなった夜の訓練場で、現れたユウヒナに、シュオウは軽く手をあげて応じた。

 「昼から一度も戻ってないんだ」
 「こんな時間までなにをされているのかと思えば、なにかおかしな事になっているご様子ですね」

 薄暗い訓練場で、肩を並べて拳を突き出すシガとアラタ。その二人にユウヒナは冷めた視線を送って言った。

 「まあ、な」
 「戻りませんか。給仕のものに食事を運ぶ支度をさせてあります」
 「あいつらが終わるまでは帰らない」
 「でも、料理が冷めてしまいます」

 僅かに苛立ち、シュオウは溜め息を聞かせた。

 「ほっといてくれ、夕食を食べるかどうかは自分で決める」
 「でも……」

 前のめりになって食い下がるユウヒナに、シュオウは聞く。

 「どうしたんだ、最近はそっとしておいてくれただろ」

 ユウヒナは気まずそうに視線をおとした。

 「はい、あなたがそれを望まれているようでしたから。でも、当主様からのお言葉として、カザヒナから書簡が届きました。あなたのお世話をきちんとこなしているか、と念を押す内容です」

 拍子抜けし、シュオウは目を大きく開いた。

 「それだけで、か」
 「だけ、と思われるかもしれませんが、アデュレリア一族の長の言葉にはそれだけの重みがあります」

 「側にいて監視されてるわけじゃないんだ、黙っていればわからないだろ」
 ユウヒナは首を振った。
 「ここにいるアデュレリアは私一人ではありません。一族の妹たちは、問われれば即座に告げ口をします」

 進むも戻るもなく、つまりユウヒナに選択権はないのだろう。

 「わかった、でもすぐには戻らない」
 「はい、ここで待ちます」

 シガはアラタをせっせとしごいている。いつもなら腹が減ったと騒ぎだす頃合いだが、弟子を鍛えることに夢中になっているせいか、今は黙々と励んでいた。

 いつ終わるともしれぬ一時を、ユウヒナに立ったまま過ごさせるのは気が引けた。シュオウは東屋にランプを置き、椅子に座るよう促す。共に肩を並べて、汗を流す師弟に視線をやった。

 「どうしてこんなことに?」
 「つっかかってくる相手を負かして、嫌がらせを止めさせたいらしい。だから、鍛えてほしいと頼まれた」
 「頼まれたのは、あの男のほうですか」
 「いや。初めて来てくれた生徒をとられたんだ」
 「そう、ですか」

 ユウヒナは慎ましく腰をおちつけつつも、横目でちらりちらりとシュオウを見る。

 「なにかあるのか」
 「えッ……」

 一瞬焦った様子をみせたユウヒナも、すぐに落ち着きを取り戻して、静々と言葉を紡いだ。

 「つい今し方、モートレッド師官にあなたの居場所を尋ねられました」
 「アイセが」
 「はい。存じませんと答えましたが、疑われているようでした。どうも、私はあの方から嫌われているみたいです」
 「そうか」
 「あの──あの人とは、どのようなご関係なのでしょうか」
 「関係って……ただの知り合いだ。俺は友人だとおもってる」
 「それだけ、ですか」
 「それだけだ」
 「そうですか。あなたがモートレッド伯爵邸の夕食会に招かれたと聞いたので、てっきり──」

 咄嗟に睨むような視線を送ったシュオウを見て、ユウヒナは語尾を濁した。
 ユウヒナは口を噤みながらも、物言いたげな視線を送り続けてくる。

 「言いたいことがあるなら、聞く耳はある」
 「では……言わせていただきます。他の家との親交は控えるべきです。モートレッド師官とも距離をおいてください」

 シュオウは眉間に力を込めた。

 「まるで、俺がアデュレリアの人間以外と親しくしてはいけないと言われているみたいだ」

 「その通りです。あなたの身はアデュレリアの庇護下にあるのですから──」

 シュオウはゆっくりと立ち上がり、ユウヒナを見下ろした。

 「アデュレリア公爵には言葉にできないほど世話になった。でも、俺はあの人の──アデュレリアの所有物じゃない」

 ユウヒナは唇を引き結ぶ。

 「そこまでは言っていません。けど、少しは自覚してください。氷狼の長が直々に、一族の人間にあなたの側仕えを命じたのです。滅多にあることではありません。私が知るかぎり、同様の命令を出された相手は、サーサリア様、ただお一人でした」

 アデュレリアの長は、王族に並ぶ待遇をシュオウに用意したのだ。ユウヒナはそれを重大なことであると言う。たしかにその通りなのだろう。が、シュオウにはそれが大それたことのように感じることはできなかった。この世界で上位に君臨する多くの貴人達と触れ合ってきたこれまでの日々が、感覚を麻痺させているのかもしれない。

 背後からシガが騒ぐ声が聞こえた。
 振り返ると、つい今し方まで腰をおとして拳を突き出していたアラタが、前のめりになって地面に崩れ落ちていた。

 「限界みたいだ──」
 ユウヒナに背を向け、シュオウは語りかける。
 「──あの人の事は好きだし、尊敬もできる。それにアデュレリアには恩がある。けど、服従しているつもりはない。どこの誰と付き合うかは自分で決める」

 歩き出すと、ユウヒナの声が背後からかかった。
 「あなたは特別な人です、自覚してください」

 言葉なく、拳を握る。
 ──特別なものか。

 言われるまま、あまりにも場違いな世界ですごす日々は、退屈を超越し、むなしさの領域にさしかかっている。

 不慣れな指導役をあたえられ、他人から押しつけられた商材を売りさばこうとあがいても、実りはない。充実感は、かけらも見いだす事ができなかった。

 アラタを案ずるシガを見ながら、シュオウは彼が言っていた言葉を反芻していた。根が弱いのだ。これまでとたいした違いはないというのに、この宝玉院という世界では、自分が誰かの手の内にいるだけの存在なのだと、嫌というほど痛感させられる。

 拭いがたい無力感は、はがゆさへと様相を変えつつあった。

 強く噛みしめた奥歯が、ぎしりと軋んだ。





[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第六話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:8e204adc
Date: 2014/06/26 22:11
     Ⅵ 鉄拳










 その報は前触れもなく訪れた。
 「ターフェスタの特使──そう名乗ったのか」

 ムラクモから通じる北方への門戸の一つ、ターフェスタ公国に属する使者が、前触れもなく訪れ、謁見を求めている、そうイザヤは直属の上官であるグエンに、すっきりとしない口調で報告した。

 「男が持参していた旅券によると、氏名はエスド・ゼル・ドノス、聖リシア教会の司祭で、目的は古美術の引き取りとあります、が──」
 口ごもる副官に、グエンは問う。
 「偽りか」
 イザヤは曖昧に頷いた。

 「……どう見ても宗教家というよりは武人、もっといえば武将の風格を漂わせている人物でした」
 突拍子もない急な申し入れを突っぱねなかっただけの根拠を、イザヤは感じ取ったのだろう。

 「いいだろう、その男に会う」
 イザヤは露骨に顔色を変えた。
 「身元の不確かな人間です、まずは穏便に取り調べをするつもりでした。その件についての許可をいただくため、ご報告にあがったのですが」
 グエンは軽く手を薙いだ。
 「この目で見定める。欺瞞であれば裁くまでだ」
 「は」



 男は、グエンの執務室に入るなり、両手をついて平伏した。
 「偉大なる血星石、グエン・ヴラドウ閣下に拝謁いたします」

 男は体を起こし、天井に伸ばした手から、胸元になにかを引き寄せるような仕草をした後、再び両手を床につく。それを繰り返した。

 「立たれよ、床埃を吸わせるために呼び入れたつもりはない」

 イザヤに促され、男は応接用の長いすに腰をおろす。
 男は部屋の中をきょろきょろと見回した。

 「いやしかし、実に質素な部屋ですな。これがムラクモ一国を肩に負う人物の部屋とは」

 野太い声で男はそう言った。明るい灰一色の短髪に、北の聖職者が好んで着る赤生地の聖衣を身につけているが、どうにも違和感が鼻につく。ぶかついた上衣のうえからでもわかる厚い胸板、筋肉質な腕、そしてなによりへりくだっているようでいて、面構えは堂々としている。

 おそらく、この男は貴人だろう。それも相当に位の高い人物だ。そうした者が放つ特有の風気というのは、隠そうとしてもにじみ出てしまうものである。
 話をする価値があると、グエンは男の後ろに警戒したまま控えていたイザヤに、そっと目配せをした。

 「必要な物以外を置くことをよしとはしていない」
 グエンの言葉に、男は息を強く吐きだして、しみじみと声を吐いた。

 「ごもっとも。我が国の執政の部屋を訪れたことがあるが、なんというか、ケバケバしい美術品が蔓延り、鼻の曲がりそうな花香水の臭いが漂っておりました。あの干からびた老キツネに、ここを見せて御言葉を聞かせてやりたいものだ」

 無駄話を遮るように、グエンは一つ咳払いを落とす。
 「名を伺おう、偽りは無用に願う」
 直截な問いに、男はにやついて、無精髭で埋め尽くされた下アゴを真横にずらした。

 一国の執政の私室に容易く出入りできるような者が、一介の司祭を自称し続けるのは無理がある。雑談にみせて、その実この男は、自らの正体を知らせたがっていた。
 男は席を立ち、ぶかついたローブを脱ぎ置いた。戦士が好んで着るような軽装の革鎧を身につけた、偉丈夫がそこに立つ。

 「〈対南要塞ミザール〉総督ショルザイ・ラハ・バリウム。聖都リシアより侯爵位を預かっております。ターフェスタ大公妃キルシャの実弟にして、太子エンスの叔父であり、後見人であります」

 グエンは腰を上げ、バリウム侯爵を名乗る男に歩み寄る。武人然として体格に優れる彼の前にあっても、グエンのそれはさらに勝っていた。大山のようそびえ立ち、威風堂々と相手を睨みつける。

 バリウム侯爵は目を合わせたまま、はずそうとはしない。額から伝う一筋の汗が、無精髭の林に流れ込んだの合図として、根比べに観念したかのように表情を緩めた。

 グエンは地鳴りのような重声で喉を鳴らす。
 「貴殿が自称する通りの人間だとするならば、その証明を求める」

 「それが、身元を明らかとする物のすべては置いてまいりましてな。今この場で偽証の罪に問われ処刑されたところで、ターフェスタは御国を責めるための手を一切持ち合わせてはおりません」

 グエンは男を睨めつけたまま、応接用の椅子に腰掛けた。バリウム侯爵も追うように、対面に座す。

 「……貴様、売国の徒ではあるまいな」
 男の眼光が一瞬、炎を宿した。
 「かのグエン公とはいえ、誰よりも祖国に心血を注ぐ男を前にして、その御言葉を口にされるのは遠慮願いたい」

 グエンは腕を組み、男と視線をぶつけた。

 「では、自称バリウム侯爵に問う、身元を偽って越境したうえで、なにを目的として私に接触を計った」

 「そこのお嬢さんにも伝えたことですがね、私は特使として、太守の意を伝えるために参じたまで。そしてその申し出は、御国にとって、そう悪い話ではない、と断言しておきましょう。ただし、繊細な事柄ゆえに、太守直筆の書簡は持参しておりませんし、秘密裏のうちに事を進めるため、こうして身を偽っての接触を図ったしだい」

 「特使としての正式な手順すら踏んでいない相手からの申し出か。文もなく、口だけでなにを聞かされたとて、すべては与太話の域をでない」

 男は両手の平を広げ、手を上げた。

 「まあそうなりましょうな。が、身元を証明する手立てがないわけでもない。御国の特使の一人に、ターフェスタにて顔を合わせたことがあります。その者をここへ呼びつけていただければ、身の証明はすぐに立つでしょう。そして、この口から発せられる言葉にどれほど甘美なる価値があるか、御身は即座に頭の中で計算を始めるはず」

 「よかろう、その者はだれか」
 男は視線を天井へ泳がせた。
 「はて、そう……たしかアライとか……いやアマイか。ちょこざいな男ではあったが、存外我らの文化、歴史に造詣の深い者でありました。目の細い神経質そうな黒髪の輝士です」

 アマイと聞き、グエンは口角を僅かに歪めた。
 「その男はいま、王女付き親衛隊を率いている」
 男はぱしんと膝を打った。
 「なんとッ、有能な男とは思っていたが、また随分な出世でありますな」
 言って、野太い声で豪快に笑った。

 シシジシ・アマイは、本来グエンからすれば指先一つで呼びつけることができる程度の相手ではあるが、王家の管理下にある親衛隊に対しては、その限りではない。親衛隊長を口先一つで呼びつけるには、内外の目を考慮し、憚られる。

 しかし、アマイが外交特使として任務についていた頃を知る相手は限られている。彼が交渉事を重ねてきた相手は、ターフェスタでも実権を握る者達に限られていたからだ。そのアマイをよく知る様子の目の前の男の言葉が、その事で多少の重さを得たのは間違いなかった。

 「身元の証明は追々とする。まずは、話を聞こう」

 バリウム侯爵を自称する男は、前のめりになり、前で両手を握りしめ、頷いた。

 「これまでのターフェスタとムラクモの歴史は、いかなる時代においても血しぶきにまみれた醜いものでありました」

 グエンは顔を変えず、頷いた。
 「然り。されど、侵犯行為の根源は常に北方より顕在する」

 「それについては……少々見解が異なりますな。東方より幾たびも侵攻を繰り返した、あの野犬の群れを無視なさいますか」

 「アデュレリアに関して言えば、その首に縄をまかれる前の話だ」

 バリウム侯爵は不満げに鼻息を漏らした。

 「その話はいずれまた。私が言いたかったのは一つ、ターフェスタの太守は、向こう五十年の領土不可侵協定を御国との間に交わす意向をお持ちであります」

 場の空気が一変した。
 「……まことの話か」
 バリウム侯爵はほくそ笑む。

 「一軍の将にして義弟、そして次期執政の私を単身で敵地に使わしたことをもって、太守は誠意を見せておられる。それに、この約定に信を得るため、我が甥にして次期太守、エスト殿下の身柄をお預けしてもいいとも仰せであります」

 この男のいうことがすべて事実であるとするならば、その通り、ターフェスタが今回の交渉に対してどれほどの決意を秘めているかが窺える。と同時に、それは根拠不明の焦りのようなものにも受け取れた。

 提示された条件は五十年に渡る停戦。ここのところは本格的な開戦にはいたっていないものの、ターフェスタは一年を通して、二度三度と不規則に小戦を仕掛けてくる。グエンにとっては、その都度処置を講ずる必要があり、目の前にたかる小バエのように、煩わしさを禁じ得なかった。

 だが当然のこと、うまい話にはかならず引き替えの対価が必要とされる。

 「条件を聞こう。だがこれより発する言葉には留意を。見え透いた駆け引きは不要だ」

 男は後ろ頭に手をまわし、落ち着きなくまさぐった。
 「なんといいますか、我らが提示した条件に比べるまでもなく、御国にとって──とくに閣下におかれましては、まったくの小事かと存じます」

 「これ以上、時を無駄にするつもりはない」

 これまでの饒舌が嘘のように、バリウム侯爵は頬の内側を右に左に、舌で突いた。
 「まあ……なんといいますか、そちらの人間を一人、我々に差し出してほしい、ということでありましてな」

 心の内で、グエンは目の前の男と接する間にはじめて首を傾げた。

 「差し出す、という言葉の真意を求める」
 「言葉のまま、一人の人間の身柄を引き渡していただきたい」
 「……その者の名は」

 バリウム侯爵は唇を濡らし、眉間に力を込めた。
 「ジェダ・サーペンティアという名をご存じでありましょうか」

 現サーペンティア公爵の息子、ジェダ・サーペンティア。知るもなにもなく、グエンは間近で顔を合わせたことがある。
 真意が見えぬまま、グエンは軽く頷いてみせた。
 男は視線をはずし、重々しく口を開く。

 「ムラクモ王国右硬軍所属の若き輝士。かの人物を、戦犯として我が国で裁きたい。さきほど提示した条件を叶えるため、太守が望むことは、ただそれだけであります」

 バリウム公爵の背後に控えるイザヤは、無言のまま怪訝に顔を歪めた。
 「バリウム侯爵、とあえて呼ぶ。貴殿が今なにを口にしたか、承知されていような」

 グエンの言葉に、座した男は皮肉に口元を歪める。
 「我が身は言葉一つで数千の兵を操ることができるのです。それが、ケチな聖職者を装い、この様を晒してまでここにいる。察していただきたい」

 グエンは卓を拳でたたき付け、立ち上がった。
 「無為に時を捨てた」

 イザヤが剣身を抜き放つ。鞘を走る刃の鋭利な高音が部屋に響いた。
 バリウム侯爵は狼狽し、腰をあげた。途端、イザヤは彼の太い腕を容易く捻りあげ、組み敷いて首元に刃を当てる。

 床に頬を押しつけられたまま、男は必死に視線を上げた。
 「グエン公ッ、どうかご再考を──ただ一人だ、たった一人の命で、法外な見返りを太守は差し出しておられる」

 「戦において敵を殺めること、裁きの対象に非ず。論ずるまでもない。将を自称しておきながら、よくも馬鹿げた理由を並べ上げたものだ」

 「あの男はやりすぎたのだッ、リシアの加護を受けし輝士達の体を切り刻んだ。石を切り離されれば、もはや天へ還ることすらままならん。残された者達の悲痛、神を持たぬ身であろうと、想像くらいはできましょうッ。戦とはいえ、守るべき流儀はあるはず──いや、あるべきだ!」

 グエンは自身の執務机に場所を移し、押さえつけられたままのバリウム侯爵を見下ろした。

 「自国の輝士を、裁かれるとわかっていて差し出す将を誰が信じようか」

 「我らとてそこまで馬鹿ではない。ムラクモにおいて大貴族として名高いサーペンティア、その血に連なる者の命を求めるため、こうして私が直々に遣わされたのだ」

 「無駄なことをしたと、貴様を送り出した者は後悔するだろう。その身が侯爵であろうとなかろうと、重罪をもって裁きを下す──イザヤ、連れて行け」

 イザヤが男を引きずりあげると同時に、バリウム侯爵は血走った眼を剥いて怒鳴った。

 「事を秘密裏に遂行するための計画があるのですッ、ムラクモはただ、件の輝士を特使としてターフェスタに送ってくださればそれでいいッ、その後、正当な理由を設けて罪人にしたてます!」

 グエンは手をあげ、連行を止めるようイザヤに合図をおくった。

 「……その話、証明する方法はあるのだろうな」
 バリウム侯爵は蒼白な顔で幾度か頷いた。

 「この件、事が事ゆえに知る者は僅かです。ターフェスタ公国親衛隊長、デュフォスに接触を。合い言葉を伝えれば、事の子細、すべて裏打ちされることでしょう。確認いただけるまでの間、この身を人質として御身にお預けする所存」

 意を伺うイザヤに、グエンは頷いてみせた。イザヤはバリウム侯爵の拘束を解く。
 「合い言葉を聞こう」
 赤くなった手首をさすりながら、バリウム侯爵は大粒の汗を落とし、答えた。
 「蛇の、冷血」



 仮の対処として、バリウム侯爵を自称する男に対し、グエンは客室への監禁を命じた。

 「厳重な監視を置き、自由を与えず、接する者も限定しろ。しかし、行動の自由を束縛する以外の待遇は侯爵の位階に相当するものを与える」

 イザヤは首肯しつつも、疑念を露わにした。
 「あの男の話、信じるおつもりですか」
 「おそらく、虚言ではない。内容があまりに具体的で、そして馬鹿げている」
 「刺客の可能性も──閣下に近づくための作り話では」
 「だとすれば、もう少しましな事を口にするはず」
 「では、ひと一人を対価にして、長期の停戦協定を提示したあの話、すべて事実とお考えですか」

 グエンは鷹揚に頷いた。

 「ターフェスタの領主には、なんらかの事情があるのだろう。一軍の司令官を秘密裏の特使として寄越すほど、件の贄を欲している」

 バリウム侯爵は、今回の話はグエンにとっても魅力的なものであると言ったが、まさしくその通り。人的資源、資金、時間、それらすべてを膨大に消耗する国家間の武力紛争は少しでも避けたい事案だ。厄介事が減れば、その分の余力を東地の掌握に割く事が出来る。

 「蛇紋石が、おとなしく息子を差し出すとは思えません……。ジェダ・サーペンティアにターフェスタへの外交任務をあたえるといっても、その意図を疑問に思うはずです」

 ジェダ・サーペンティアは輝士として、すでに名を馳せている人間だ。そのきっかけになったのが、幾度かの北方との戦だった。ジェダは戦場で実力を発揮し、多くの敵輝士を屠った。それ事態、腕の良い輝士であれば珍しいことでもないが、バリウム侯爵が言っていたようにやりかたに問題があった。なにかしらの拘りか、ジェダは敵輝士の体を風刃を用いてバラバラに切り刻む。当然、それだけ特徴的な殺し方を続ければ、誰がやっていることか、知られるようになる。そのやりようは、身内からも嫌悪する声が少なからずあがっていた。宗教的な理由で身体の部位が切り離されることを最上級の屈辱と捉える北方の人間からすれば、ジェダは神を愚弄する大罪人に相当するのだ。

 「理由を設け、近衛軍を中隊単位でいつでも動かせるようにしておけ。状況を鑑み、サーペンティアに通じるすべての白道を封鎖する。それだけで、蛇は子を差し出すだろう」

 イザヤは固唾を飲み下し、一礼した。
 「かしこまり、ました」
 まずは例の話がどの程度の信用度を得られるか、様子を見る必要はある。が、話がどのように転ぼうと、グエンにとっての痛手はない。
 突然の来訪によりもたらされたターフェスタ太守からの提案は、それをもたらした者の言葉通り、甘美の色を強く深めつつあった。





          *





 西北西へ抜ける分厚い風は、広い訓練場の地面を削りあげながら、巻き上げた砂塵をシュオウの顔面に見舞った。
 口や目に入った砂粒を除いている間、眼を閉じた暗闇のなかで、修練に励む男達の声が聞こえる。

 「そうじゃねえッ、軽いんだよお前の拳は。もっと腰を落とせ、体重を乗せろ、足を踏み込め!」
 「はいッ」

 影の落ちる東屋に、不意に人の気配がした。
 まだちくりと痛む目を無理矢理にこじ開けたシュオウは、隣に腰掛けた人物を見た。

 「……めずらしいですね」
 隣の席に座るのは、宝玉院学舎の中庭にいつもいる庭師の老人だった。老人は、もそもそと重そうに口を開いた。

 「なぁに、気まぐれにね。ここに居ては迷惑かね?」
 「いいえ。いつでもどうぞ」

 老人はじっくりと頷いて、前を見やる。奥まって隠れた瞳は、シガとアラタを観察しているのだろう。

 「どうかね、あの少年は」
 「真剣にがんばってます」
 「たしかに、あの子はそういう子だ」
 「アラタを知っているんですね」

 老人はまた、以前と同じように鳥のような笑いをあげる。

 「知っているとも。庭の植物を手入れしているとね、周囲を行く子供達の様子がよく見える。見てきたかぎり、あの子は身体を動かすより、文字を追うことを好んでいたが。ほんの少しの間に、人は変わるものだ」

 遠目に見るアラタは、懸命に拳を突き出している。始めた頃、青白かった顔はうっすら陽に焼けて、自信なさげに下がっていたまなじりも、今は鋭く跳ね上がっていた。

 「目標があるから、そのために努力している。がんばってますよ」

 「人生、かならずどこかで壁に当たる。あの少年はその壁を正面から攻略する道を選んだのだろうね。立ち止まる子もいる、搦め手で攻めようと挑む子もいる。苦難から逃れようとする子もいる。どれも正しい」

 老人は立ち上がって腰を叩いた。座ったまま見上げるシュオウは、試みに問いかけた。
 「……アラタは、壁の先に行けると思いますか」

 「さて、人は一面ではないからね。見る場所、角度によっても見え方は変わる。時に弱く見える小木の幹は太くたくましいこともある、その逆も。ああ見えて、必死に耐えとるよ。やり場のない怒りと孤独を持てましながら、必死にそれを忘れようと足掻いている」

 アラタを指して言ったにしては、老人の言葉はあまりにちぐはぐに聞こえた。

 「アラタは戦おうとしてる、そのために努力しています。けど、怒ってはいない。むしろ過去の行いを後悔していました」

 老人はまた笑い、シュオウに背を向けて踏み出した。
 「もう一人の坊やのことを言ったんだがね」

 「え?」
 反射的に、シュオウはシガを見ていた。特に変わった様子もなく、悪童染みた顔でアラタに檄を飛ばしている。
 「なんの──」
 再び老人に視線を戻すも、その背はすでに叫ばなければ声が届かない距離まで離れていた。

 剣術訓練場よりさらに奥、馬術を教える初老の師官が、庭師の老人を見つめて軽く会釈をする。その光景に違和感を残しつつ、シュオウは励む師弟達に注意を戻した。



 訓練場から続く宝玉院への夜道を行くシュオウの背には、くたびれ果てて気を失ったアラタがいた。

 背後から義務的に様子を見に来ていたユウヒナがついてくる。シガは汗をたんまりと吸い込んだ訓練着を肩にかけ、シュオウの隣を歩いていた。

 「こいつ、見かけによらず武人としての素質があるぞ」
 シガは死んだように眠るアラタの背を叩いて言った。

 「そうだな、始めてまもないのに拳を出す姿が様になってきてる」

 「言った事をそのままやろうとするんだ。欠点を直せと言えばすぐにそうする。思い込みが激しいのか、あんまり素直に言うこと聞くからよ、朦朧としてたこいつに、ためしにお前は犬だ、雄の野良犬だって吹き込んだら、わんわん吠えて四つん這いになったあと、片足上げて草っぱらで小便を──」

 背後から、ユウヒナの大きな咳払いが聞こえ、シガは言葉を止めた。
 「──頭がいいのか悪いのか、よくわからねえよ、こいつは」

 シガの言いようには、どこか暖かみがあった。
 「勝てそうか」
 「勝たなきゃ、そのときは師匠として俺がアラタに引導を渡してやる」

 言いながら、シガはばきばきと指を鳴らす。行くも退くも、待ち受けている苦難を思い、シュオウは背に預かるアラタに同情した。





          *





 次の教室へ移動する途中、廊下の角を曲がった先に居た者の背を見て、カデルは顔の中心に歪んだ皺を刻んだ。

 ──アラタ。

 大股で歩み寄り、小柄な背を思い切り突き飛ばす。いつもなら、されるがまま無様に突っ伏すはずのアラタは、しかしこの時はいつもと様子が違った。奇襲したにもかかわらず、前のめりになっただけで踏みとどまったのだ。

 ゆっくりと振り向いたアラタを見て、カデルは一歩後ずさった。まっすぐ射貫くようにこちらを見つめる眼光は鋭く、血走っていたからだ。

 「カデル、もう、こういうことはしないでほしい」
 静かに放たれた言葉には出所不明の重量があった。

 別人のように振る舞うアラタに抱いた動揺を捨て、カデルは肩を怒らせる。
 「お前、誰に言っているのかわかっているんだろうな」
 「カデル・ミザント、君に言ったんだッ」
 らしくなく、アラタは声を荒げた。
 「な、に──」

 尋常ならざる空気を察知して、周囲から聴衆が集まり始めていた。
 カデルは固唾を飲み下す。
 やられるままだった相手からの急な反抗を受け、継ぐ言葉が見つからなかった。そうしているうち、周囲のざわめきが耳に届く。それは、狼狽するカデルに対して疑問を呈する声だった。

 見えない力に押されたかのように、カデルは踏み出してアラタの襟首を掴み上げ、睨みをきかせた。が、アラタに動揺した気配はない。

 「こうして、いちいち君にからまれるのは、もう面倒なんだ」
 「ふざけるな! 自分の立場を思い出させてやるッ」

 カデルは拳を振り上げていた。しかし、予想外に強くアラタに突き飛ばされ、そのまま豪快に尻から倒れ込む。
 見上げたアラタの顔は陽に焼けて、ほんのりと浅黒くなっていた。

 「君に勝負を申し込む! 僕が勝ったら二度と関わらないと約束してほしい」
 アラタは辺りまで言葉が届くよう、あからさまに声を大にして叫んだ。
 ──こいつ。
 わざとだ、とカデルは直感する。

 「負けたときの覚悟があって言ってるんだろうな」
 「負ける事を考えて勝負を挑むやつなんていない。僕の師匠の言葉だ」
 「……ししょう?」
 「どうする? 勝負を受けるのか、それとも逃げるのか」

 アラタから挑発され、カデルは体中を巡る血液が沸騰する心地に見舞われた。
 「逃げるわけがない、受けてやる!」

 アラタは仁王立ちで頷いた。
 「勝負は一週間後。太陽が真上に上がる頃、剣術訓練場で待ってる」

 言い残し背を向けて、いつのまにか大勢が集まって作り上げていた人垣のなかをかき分けて去って行った。

 尻餅をついたまま、カデルはなかば放心状態でぼうっと前を見つめてた。
 騒ぎを聞きつけて、どこからか師官が集まって生徒達を散らせていく。
 目の前に突如差し出された手の主を、カデルは見上げた。

 「なんか、えらいことになってんな」
 悪友リックは、他人事のように軽く言って、手をとったカデルを力強く引き上げた。



 結局、出席すべき授業を放棄したカデルは、リックを伴って学舎裏に落ちる日陰の中に身を置いていた。
 積み上げられた石壁に背を預け、さきほど起こった出来事を反芻する。

 「師匠っていってた」
 ぼそりと呟くと、リックが人差し指を突き立てた。
 「俺たちが剣術授業放棄して自習してたとき、あいつ居なかっただろ?」

 問われ、ああ、と相づちを打つ。
 「どうせ図書室でうずくまって本でもよんでるんだろうと思ってた」

 「それがさ、一人であの剣士の所に居たのを見たやつがいる」
 「じゃあ、アラタが言ってた師匠っていうのは」
 「十中八九、あいつのことだろうな」

 カデルは無意識のうち、歯を食いしばっていた。胸の内から、青く美しい輝きを放つ翼章を取り出して見つめる。

 「それ、どうするんだよ」
 「……うるさい」

 それは、結果的に盗んでしまった形となった件の剣士の持ち物だった。彼の部屋に忍び入った時、急な来訪者に驚いて服の内にしまい込んでしまったが、その後の記憶がはっきりとはせず、気がついたときにはリックと二人、医務室で介抱されていた。

 持っていたはずの合い鍵はなくなっており、てっきりバレたのだと思っていたが、どこからも自分達を咎める声はあがることなく、事態はうやむやのうちに流されてしまっていた。実際のところはどうなのか、気にはなっても、聞きに行くわけにもいかない。

 「勝負するんだろ? あそこまで堂々と宣言されちゃ応じないわけにいかないもんな。今日の夜までには、きっと宝玉院中の人間の耳に届いてるぜ」

 カデルはむすっとして、翼章を再び胸の内にしまい込む。
 「あたりまえだ」

 リックは身を乗り出して、眉根を下げた。
 「なあ、負けてやれよ」
 「なに?」

 「あれだけお前にされて、あいつなりに努力もして、そうしてやめてくれって言ってるんだろ。今回のことで他の連中もアラタに一目おくだろうし、あいつの顔を立てて勝ちを譲ってやればお前の株も上がる。どっちにも損はない。もう終わりにしていい頃なんじゃないのか」

 鼻の穴を広げ、カデルは言い放つ。
 「いやだッ──」
 友人の呆れ顔を視界の外に追いやるように、顔を背ける。
 「──アラタのやつ、まじめに剣術を学んでるんだな……」

 「謎多き剣士を師にしてな。案外、強くなってたりしてな──」
 冗談めかして笑いながら言ったリックを、カデルは真顔で見つめた。

 「──おい、なにまじな顔になってんだよ。冗談だぜ? だいたい、アラタが本気で訓練を始めたって一年たってもお前の腕に追いつけないよ。剣術だけじゃない、腕の長さも身長も、なにもかも違うんだ」

 カデルはすっくと立ち上がる。

 「アラタは──あいつは、本当はなんでも上手くこなせるんだ。でも興味がない事には本気をださない。全力を出せば、誰よりもうまくやってみせるくせに……」

 幼少の頃。アラタはカデルよりも一月早く立ち上がったし、言葉を覚えたのも、同年代の子供達と比べても格段に早かった。
 物心もつき、共に庭を駆け回って遊んでいた頃は、足比べで、アラタに追いつくことはできなかったし、カデルは彼の後をついて歩き、植物や虫に関する事柄を教わった。五歳になる頃にはすでに大人の本を読み解いていたアラタは、カデルにとって、なにをしても追いつくことのできない憧れの存在であり、誇るべき友であった。

 しかし、宝玉院にあがってまもなく、アラタは身体を使うことより、知識を溜め込むことにのみ興味を示すようになった。そのアラタが今、師を得て訓練に励んでいる。それは彼の日焼けした顔と、所々につけた生傷が如実に物語っていた。

 アラタが師に選んだ男については、未だたいして知る事はない。再三の抗議もむなしく、彼はなにごともなかったかのように宝玉院の中をうろついている。

 これまでの事で、あの剣士についてはわかったことがある。それは、彼の人事に関して寄せられている、名だたる名家からの苦情がまるで意味を成していないということだった。

 カデルの実家ミザントは代々有能な軍属を輩出し、富に恵まれ、政への影響力も多少なり有している大家である。そのミザントからの抗議が一蹴されている現実。それは、つまりその言葉を無視できるほどの人間が、あの剣士の人事に関わっている、という現実だった。

 生まれに恵まれていようと、認めなければならない現実というものがある。それは気にいらない平民の無名の剣士が、ムラクモ王国という世界にあって遙か雲の上にいる人間の加護を受けている、という推測を元にした、しかし強固な既成事実に根ざした現実である。

 胸の内に収まる勲章からしても、あの男は、多くの人々が知らぬ所で、それだけの事をしたのだろう。だとすれば、生まれに恵まれていない平民の男は、剣の腕一つで宝玉院の剣術指南に抜擢されるほどの実力があるのだ。

 アラタはそれほどの人物に師事している。
 カデルは力を込めて一歩を踏み出した。

 「おい、どこいくんだよ」
 「木剣を取ってくる。つきあえ、今日から特訓する!」

 リックは慌てて腰を上げた。
 「ちょっと待てよ、まさか本気でやるつもりなのか? そんなことしたって、お前がアラタに負けるわけないだろ」

 カデルは黙したまま、日陰のなかを飛び出して、じりついた陽光の下に肌身を晒した。
 まっすぐ自分を見つめていたアラタの顔を思い出し、カデルの口角は上がっていた。





          *





 約束の日を迎えていた。
 対決の舞台へ向かう道すがらに、カデルの青い双眸は、過去の一日を映していた。

 始まりは些細なことだったのだ。

 幼少時よりカデルが少女の格好をさせられていたことを、アラタが周囲に言ってまわり、カデルはそのことで少しへそを曲げた。アラタに詰め寄り、約束を破ったことを責めたが、それは当人達にとって、ただの兄弟喧嘩の延長のようなものだと捉えていた。が、周囲を取り巻く環境が、友人間に生まれた些細な喧嘩を、大事として膨らませたのだ。

 二人の間に起こった諍いは、二人の少年達の喧嘩という枠を超えて、有力貴族家と、それに仇をなした弱小貴族家という構図に変容した。

 無責任に事態を煽る同級生達は、アラタを責めた。それ以来、彼はカデルとは目を合わさなくなった。

 アラタはカデルとの関係に、家柄という名の線を引いたのだ。それは、親友と思っていた相手の明確な裏切り行為だった。

 憧れを持って見ていた友の姿は、以来裏切りの象徴として不快感をもたらした。

 声をかけても生返事を寄越し、すぐにどこかへ消えてしまう。怒らせようとして強い言葉で侮辱しても、嫌がらせをしても、アラタは目を背けたまま、一切の抵抗をしなかった。

 時がたち、かつての友情は憎悪へと転化していた。
 些細な嫌がらせは、傷害を目的とした暴力になり、それでもアラタは黙ってそれを享受した。

 背中から吹き付けた追い風は、季節はずれの涼しさを伴っていた。
 訓練場へ続く山の頂上まではあと少し。

 カデルは足を止め、肩に乗せた木剣を前に構えた。使い回しにされている宝玉院の訓練用の木剣などではない、自らの身長、腕の長さ、体重を考慮し、足を付けて扱うことを計算して輝士の長剣よりも先端を拳一つ分短くつくってある。この日のためにだけに特注したのだ。

 坂を上りきり、眼下にある訓練場にできた群衆を見て、カデルは驚いた。
 剣術訓練用に設けられた一画を取り囲むように、水色の制服を着込んだ生徒達が野次馬の輪を形成している。

 現れたカデルを見つけた聴衆達が、好奇の目を向けていた。
 分厚い層を成していた生徒達の群れが、カデルを飲み込むように道を開く。その先に、かつての友の姿があった。

 アラタは短めの木剣を片手で握り、だらりと垂らして切っ先を地面につけている。
 真上に昇った太陽は、ムラクモの空を煌々と照らしてた。
 向かい合い、佇む二人に会話はない。

 アラタは別人のようだった。両足を開き、深く腰を落とし、握りしめた拳からは、強い意志がにじむ。前よりも増えている生傷は、彼の努力の痕を思わせた。

 頬の筋が緩むのを押さえきれず、カデルは破顔した。
 アラタの双眸は、かつてのように、まっすぐカデルを捉えている。

 ──やっとだ。

 かつての喧嘩の続きを、ようやく始めることができる。それが嬉しかった。

 「覚悟はできているみたいだな、アラタ」
 カデルの声は、本人にしかわからない程度に弾んでいた。
 「…………」
 しかし、アラタからの言葉はない。よくよく見ると、どうにも様子がおかしい。
 「アラ、タ……?」
 「ふー、ふー……」
 アラタは短く呼吸を繰り返し、興奮した野獣のような瞳を、瞬きもなくぎょろりと向けてくる。

 ──言葉はいらないってことか。

 カデルは木剣を正眼に構えた。臨戦態勢を整えるが、しかしよくよく考えてみると、人垣の中心にいるのは自分達だけだ。

 カデルは見回して、人混みの最前列に陣取った友の顔を見つけた。
 「リック、開始の合図を頼む」

 リックはキョトンとして自身を指さすが、すぐに頷いて前へ出た。
 カデルとアラタの間に手を差し入れて、両者の様子を窺う。

 ──構えない気か。

 アラタは握った木剣も下げたまま、自然体を貫いている。気味が悪かった。

 例の剣士からいったいなにを習っていたのか。訓練場で励むアラタを見たという者達から聞いた話では、基礎的な訓練ばかりをしていて、ろくに剣を触っている様子はないという話だったが、それを聞いた時は徹底していると感心したものだ。

 対戦相手の目を気にして、ひとの目の届かない場所で剣技を磨いていたにちがいない。

 ──油断はしないぞ。

 カデルは自らの勝ちを完全に信じている。それは積み上げてきた経験と自覚する才能に裏打ちされた自信であり、けしておごりなどではない。リックが言っていたように、一朝一夕の努力で埋められるほど、実力の差は小さくない。

 カデルは呼吸を整えて、瞬きを止めた。一瞬たりとも、目の前の対戦者から視線をはずさない。
 緊迫した空気を察して、ざわついていた聴衆達は口を閉ざした。

 無言のまま、手があがった。勝負開始だ。

 先手をとるべきか迷い、カデルは軽く退いた。むやみに突っ込むにしては、相手の技を知らなすぎるからだ。
 アラタの出方を観察する。が、次にとった行動を見たカデルは、ぽかんと口を開けて呟いていた。

 「え……?」

 アラタは片手に握っていた剣を後ろへ放り投げた。ぶんぶんと勢いをつけて回る木剣に目を奪われた瞬間、視界のすべてが握りしめられた拳で覆われていた。





          *





 「おい、もう終わったぞ」

 拳一発をもろに顔面に受けたカデルが膝から崩れ落ちたのを見て、シュオウは共に観戦していたシガに言った。

 シガは身を乗り出して叫んだ。
 「ころせええ! アラタ、とどめを刺せ、そいつはまだ生きてるッ、殺せッ殺せ!」

 師の言葉に呼応するかのように、息荒く興奮しきった様子のアラタは、倒れ込んだカデルに馬乗りになった。拳を振り上げて、一撃二撃と拳を顔面に叩き込んでいく。

 静まりかえっていた聴衆から悲鳴があがった。

 カデルに頼まれて審判をかってでた少年がアラタを止めようと羽交い締めを試みるが、シガの洗脳によって頭のネジがすべて吹き飛んでいるアラタを押さえることはできなかった。

 シュオウは焦って飛び出した。アラタの拳を掴み、振り上げられたときの勢いを利用して背に回して動きを封じる。膝で腰を押さえつけ、地面に倒して制圧し、必死にアラタの名を呼んだ。

 「アラタッ、聞こえているか? もう終わったんだ、お前が勝った。終わりだ」
 「オワ、リ……?」
 アラタの力がふわりと抜けた。脱力して、地面に身体を預ける。

 アラタを解放したシュオウは、横たわるカデルに目を移した。前歯が二本欠け落ち、顔中ぶくぶくに腫れてはいるが、息はある。

 「くそ、あと一歩だったな」
 気絶したカデルの顔を覗き、心底くやしげに言うシガを見つめて、シュオウは溜め息を吐いた。
 「やりすぎだ」



 その後、観戦のために集まっていた暇な生徒達は、騒ぎを聞きつけた師官達の誘導により解散となった。
 こっぴどくのされたカデルは医務室へ運ばれて行った。

 観戦していた生徒達のなかには、アラタの健闘と努力を称える声もあがった。すべてではないが、状況を変えようとしてあがき、それを成し遂げたアラタを認める者達はいる。去り際に肩や背に触れられて、嬉しそうに破顔するアラタの顔は、強く印象に残った。

 事態を聞きつけた主師のマニカに呼び出されたシュオウとシガは、事の子細を説明した後、こっぴどくお叱りをもらった。だが、この事は宝玉院の中で知らぬ者などいないくらい噂になっており、つまり、マニカはこのことを知っていたはずである。止めようと思えば、訓練場に生徒達が集まっていた時点でそうできたはずなのに、大人達が止めに入ったのはすべてが終わってからのことだった。

 ──信じてくれたのか。

 答えはわからぬまま、シュオウはそう思うことにした。アラタが状況を脱する事を、彼女もまた望んでいたはずであり、おそらくそれは叶ったのだから、それでいい。

 グチグチとマニカに文句を言うシガを伴って部屋に帰ると、シュオウはその場の異様な光景にたじろいだ。

 狭い通路の中を埋め尽くす、水色の制服。年齢様々な男子生徒達が、シュオウを見るなりどっと押し寄せた。

 それぞれが勝手に喋るせいで要領を得ないが、要するに、シュオウに対して師事を申し出ているようだった。あのアラタを、一月もかけずにカデルに勝てるほどに鍛え上げた。雑多に混じる言葉のなかに、そうした言いようがちらほらと聞こえた。

 強く手を叩く音が通路に響く。その主、シガに皆の視線が集まった。
 「アラタに拳術を教えたのはこの俺だ! 教えを乞いたきゃ俺に頭を下げろ。ただな、そこの白頭と違って俺はここの教官じゃねえ。弟子になりたきゃ金を払え」

 シガは生徒達をかき分け、通路の隅に置いたまま埃を溜めつつあった木箱を下ろした。中から醜悪なる木像を取り出して、それを掲げる。

 「これを買え、一個につき十日、俺がみっちりと鍛えあげてやる」

 青ざめる生徒達に木像を突きつけるシガの笑みは、ランプの明かりを受けて影を落とし、見る者に恐怖を与える邪悪さを漂わせていた。

 「全部買う!」
 通路の入り口のほうであがった声に、皆が振り向いた。
 「おまえ……」

 シガが眉を顰めるのも無理はない。つい先ほどまで、アラタの倒すべき敵として在った、カデル・ミザントがそこにいたのだ。カデルは別人のように腫れた顔で、欠けた前歯を見せて言う。

 「言い値を支払ってやる! そのかわり、アラタに教えたことを僕にも教えろ!」
 一瞬の戸惑いの後、シガはほくそ笑んで言った。
 「いいぜ、だが後悔するなよ。俺は半端にはしごかないからな」
 カデルは口元を引き締めて、ふんと背を向けた。
 「あとで請求書を寄越せ。訓練はさっそく明日から始めるからな」

 颯爽に、とはいかず、カデルはふらふらとよたついた足取りで去って行った。しかし、後に残った他の生徒達からは不満の声があがる。自分達の分はもうないのかと。

 「安心しろ、この馬鹿な木像はまだ他の箱にいっぱいある」
 シガの宣言に歓声があがった。
 シュオウは、目にこれから手に入るであろう金貨の山を映したシガに歩み寄り、小声で囁いた。

 「おい、勝手に決めるな」
 「心配すんな、売り上げは分ける。俺が八割、残りはお前のもんだ」
 シュオウは小声を荒げた。
 「これは全部俺の持ち物だぞ」
 「けど売ったのは俺だ。こいつらの面倒みるのも俺だぞ」
 シュオウは唇を噛みしめ、手のひらをシガに見せた。
 「半分だ」
 「七」
 「半分」
 「六」
 「半分、だッ」
 シガは舌打ちし、渋い顔で頷いた。





          *





 一夜が明け、訓練場にて馬術稽古に励んでいたアズア・サーペンティアは、遠目に見た地面の上に、青く光るなにかを見つけた。
 下馬し、それを拾い上げたアズアは、青い宝玉をはめ込んだ翼の形を模した装飾品を手に、小さく溜め息を漏らした。

 ──きれい。



[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第七話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:8e204adc
Date: 2015/02/16 21:09
     Ⅶ 碧い滴










 あまおとがきこえる。

 とぎれとぎれに弱々しく、少しずつ強く。まもなく、厚い音の壁で世界を覆い尽くす。

 雨の音が好きだ、わたしを一人にしてくれる。

 夜の学舎の長い廊下を踏む。ひかえめにおとした靴の音は、雨の音がかき消した。

 灯りのひと欠片もない、暗いトンネルの中を歩いているようなきがする。

 夜の闇が好きだ、誰の眼からも逃げられる。

 暗い廊下、雨の音。少しして、中庭にさしかかる。濡れた緑の香りが、風に乗って通り抜けた。

 雨の臭いが好きだ、一時の間、現の世界を壊してくれる。

 曇り空を抜けて、かすかに届く月光は、夜の学舎の中よりも明るく世界を照らしている。

 水の色が反照し、こぼれおちた微かな月明かりと溶け合っていた。

 目に映る、雨降る夜の色彩は、よどむことなき一色の碧だった。





          *





 窓を打つ雨音が聞こえ、眠りに落ちていたシュオウはハッキリと目を見開いた。

 片手に持ったままだった本は、無意識のうちに眠りにおちていたせいで、読みかけのページが折れ曲がっている。灯りが消えてからどれほどの時がすぎたのか。

 本の折れを直し、身体を起こした。暗いまま、灯りを付ける気にはならなかった。

 ──もう、眠れそうにないな。

 雨音は郷愁を呼ぶ。人界から遠く離れた灰色の森。雨が降るたび四方から鳴り響く虫や獣の咆哮。いまはなくとも、身体は隅々までそれを覚えている。

 雨の日の夜は、意識するにおよばず感覚が研ぎ澄まされる。見上げた窓に打ち付けられた滴が爆ぜるように四散する様が、月下の夜に緩慢に咲き乱れる花びらのように、はっきりと目に映った。

 なにもない、夜の世界はゆっくりと時を刻んでいく。

 醒めた気分を持てあまし、退屈を感じた。靴のヒモを結び部屋を出る。

 思えば、夜の学舎をじっくりと歩いたことはない。明るい頃とは違い、人気が皆無であるこの時間の空気は、新鮮だった。

 暗がりの廊下には、中庭のほうから聞こえてくる激しい雨音と、湿気を多分に含んだねばっこい風が届く。

 闇の中にあって、しかしシュオウは歩く事に難儀しなかった。夜目が利くのだ。廊下に積まれた雑多な置物に足をとられることもないし、古めかしい石壁の隙間を這う小さなトカゲの姿を、はっきりと把握できる程度には見えていた。

 少し歩き、中庭の近くまできた。

 自身の足音がかき消されるほど、雨は激しく打ちつけている。ふと、外を歩きたい衝動にかられたが、足を止めた。使える傘を探すのは面倒だし、わざわざ濡れにいくのも馬鹿馬鹿しい。

 再び廊下を歩く。中庭を眺めるように通り過ぎ、学舎の北廊下に入った時、低く風鳴りを轟かせる迷宮の入り口の前に立った。闇の中、洞窟の入り口のようなそれは、窪んだ箇所に真っ黒な影が落ち、一歩引いて眺めていると、口を開いた人の顔のようにも見えた。

 いっそう不気味だが、中がどうなっているか、一寸の好奇心も湧く。先は山向こうの訓練場へと繋がっているらしいが、きちんと準備をして入れば、抜ける事くらいはできるだろう、という根拠のない自信があった。

 シュオウは自嘲するように、くすりと笑った。無意味な事だ。この迷路を攻略できたとして、それにどんな意味があるというのか。

 無謀へと誘う、口を開けた迷宮に背を向ける。
 シュオウはまた、長い廊下を歩き出した。

 角を曲がり、西側の廊下を歩いていた時だった。とある一室に、強く関心を引かれたのだ。

 それは違和感だった。

 どの教室もきちんと戸締まりがされているのに、そこだけが僅かに戸に隙間が生じていた。そこから、ほんの少しだけ暖色の灯りが漏れていた。

 中を確認すべきかどうか一瞬迷う。好奇心に突き動かされた者が、見なくてもよいものを見たがため、不幸な末路を辿ったという教訓めいた物語を数多見てきた。面倒事を引き寄せるかもしれない扉に手をかけるべきか否か。結局、シュオウは迷いを振り払った。中に誰かいたとして、それが不届き者である可能性と、誰かが病などの不意の出来事に見舞われている可能性が捨てきれない。仮にでも、この宝玉院で仕事を請ける身として、やはり見過ごすことはできなかった。

 その部屋には、左右に二カ所の入り口があった。シュオウは手前の戸を引き、声をかけた。

 「誰かいるのか?」

 途端、激しくモノが落ちる音がして、中にいた何者かが、走りだす気配がした。有無を言わさず逃げ出した時点で、やましいことがある相手と判断してもよいだろう。

 「おいッ、待て!」

 威嚇の意を込めて、シュオウは怒鳴った。
 走り出した何者かは、素早い動作で入り口の戸に手をかけた。シュオウは不審者の後ろ姿を凝視する。

 反対側の戸を勢いよく開けて廊下へと飛び出した相手を追いかけようとしたその時、鼻の奥を焦げ臭さがついた。

 逃げ出した人間が置き去りにしたランプが倒れ、零れた少量の油に火が移っていたのだ。
 シュオウは追跡を諦め、窓にかけてある厚いカーテンを引き、ランプにかぶせて火を消した。

 無駄と知りつつも、逃げ出した者の姿を探して廊下へと出る。当然、人の気配はすでにないが、かわりに一冊の本が無造作に捨て置かれていた。おそらく、慌てるあまりに落としてしまったのだろう。

 拾い上げてみて、本の題名を見たシュオウは首を傾げた。

 「秘伝、だれにも負けない、罵倒術……?」

 この本の持ち主が逃げる間際、戸に手をかけていたその後ろ姿をじっくりと思い出し、シュオウは突然の閃きに声を漏らす。
 「あ──」
 明るい黄緑色の髪を左右に結んだ後ろ姿。それは見覚えのある、女生徒のものだった。





          *





 翌朝。
 宝玉院の玄関前にて、学舎に入っていく生徒達の視線をちらと受けつつ、シュオウは通り過ぎて行く者達の姿をじっと観察していた。

 ──いた。

 目当ての人物は、集団に紛れつつ肩を狭めて、早歩きに前へと歩を進めている。左右に結った目立つ黄緑色の髪を揺らしながら、つんと目尻の上がった双眸はおどおどとして定まっていなかった。

 シュオウが一歩前へ足を踏み出すと、相手が不意に視線を合わせ、即座に泳がせた。人の流れに溶け込むように、さらに身を縮めて通り過ぎようとしているその後ろ姿に、シュオウは大きく声をかけた。

 「アズア・サーペンティア──」

 アズアはぴたりと足を止めた。離れていても聞こえてきそうなくらい、はっきりと喉に唾を通す。
 彼女の瞳が横目にシュオウを捉えたとき、昨夜の逃亡者が落としていった一冊の本を掲げ、左右に振った。

 「──話がある」
 その一言で、アズアは観念したように項垂れた。



 「返しておく。俺が間違っていたら、そう言ってくれ」

 場所を人気のない学舎の裏に移し、シュオウは本をアズアに差し出した。
 アズアは躊躇いつつ、ゆっくりと本を受け取って、上目遣いにシュオウを見る。

 「あの、昨日のことは、もう……だれかに?」

 消え入りそうな声だった。ユウヒナと対していたときの、良家の子女然とした態度もなく、今ここにいるのは、餓えた肉食獣の前に立つ負傷して身動きのとれない小動物だった。

 「だれにも言っていない──」
 聞くや、アズアは張り詰めていた緊張をほどき、胸に溜めていた息をすべて吐きだした。
 「──でも迷ったんだ、主師に報告しておくかどうか」

 すると、アズアは怯えたように青ざめる。
 「言わないで、ください……」

 勝ち気に跳ねたアズアの瞳に、たっぷりと涙が湧き上がる。ふと、いわれなき罪悪感に駆られ、シュオウは手を泳がせた。

 「脅してるんじゃない。俺も、なにか事情があるのかもしれないと思ったから、誰にも言わなかった」

 アズアは俯き、零れる涙を拾いながら何度も頷いた。
 「ごめんなさい、私……」
 「夜の教室でなにをしてた」

 アズアは充血した目を上げた。感情が高ぶっているのか、頬が紅色に上気している。

 「探しもの、です」
 「なにか無くしたのか?」
 アズアは首を振った。
 「いいえ」
 「じゃあなにを」
 「本、です。古い……とても古い本を探していて」
 「それだけか」
 「はい……」

 その本とはなにか。聞こうとして、シュオウは口をつぐんだ。深夜の学舎で一人で古い本を探すことがはたして、それだけ、という一言で済まされるような簡単な事情であるだろうか。人目を避けて行動している以上、アズアにはなんらかの目論みがあり、そしてそれは隠しておきたいような後ろ暗い事なのだろう。

 ふと、頭の中に一条の稲光が差した。発光する光景の後に浮かび上がってきたのは、とある師弟の姿だった。

 ──なにも聞くな、聞いたら。

 目の前にいるのは面倒事を運ぶ風だ。そしてアズアが本を探しているという事情は、面倒を芽吹かせる種なのだ。水をやれば最後、後には引けなくなってしまう。

 「わかった、もういい」
 背を向けると、アズアから戸惑い秘めたか細い声があがった。
 「あの……」
 「信じて黙っておく。主師に報告されたくなければ、おかしな事はするな」

 返事はなかったが、衣擦れの音からして、アズアが頭を下げている気配が感じられる。
 すっきりとしない心地を抱えながら、シュオウは黙ってその場を立ち去った。





         *





 学舎の廊下を歩きながら、あさぎ色の布にくるまれていたパンを囓る。ここのところ、昼食のとりかたといえば、部屋にじっとこもっているか、こうして軽く散歩をしながら軽食を頬張るかのどちからになっていた。

 無遠慮な関心をなかなか捨ててくれない生徒達の視線は煩わしい。しかし、だからといって毎度部屋にこもりきりでは、逃げているような気がして、それも収まりがわるい。結果、シュオウはうろうろとあてもなく、学舎や庭を歩きながら食事をする事が多くなっていた。

 明かりとりから入る日差しの間を縫うように歩く。長い廊下に人気はないが、どこからともなく、楽しげな生徒達の喧噪が聞こえてくる。まだ幼い生徒らの無邪気な笑い声は、不思議と耳に心地良かった。

 廊下の角を曲がろうとしたとき、死角になっている奥のほうから、諍いらしき話声が聞こえてきた。先へ行かず角の手前で足を止めたシュオウは、ひっそりと聞き耳をたてた。聞こえるのは、二人の少女の声だった。

 ──ユウヒナ。

 冷たい声音の裏に激しい炎を隠しているようなそれは、覚えがある声だった。

 「その干物みたいな色の靴、どこの安物かわかりませんけれど、気をつけたほうがいいのではありませんかアズアさん。ただでさえ、いつも一人ぼっちで本を抱えて歩いているあなたの薄暗い後ろ姿が、より強調されてしまいます」

 ユウヒナの言葉に、対する相手は憤った様子で声を荒げた。

 「こ、この靴はお母様からお誕生日の贈り物にいただいたものですッ」
 「へえ、そうですか……趣味がお悪いのはお母様譲りなのね」
 「取り消してッ……ください」

 アズアの声が一段低くなった。

 「とりけす? あら、ごめんなさい、事実を指摘されて傷ついてしまったのね。その事についてでしたらあやまります」

 すでに軽い言葉の応酬などではなく、両者は戦闘状態に入っているようだった。

 「どうして──いつもいつも」

 声の調子だけで、アズアの苦渋に満ちた顔がありありと浮かぶ。一方のユウヒナは、勝ち誇ったように嘲笑った。
 虚勢を張ったように、アズアが声が硬くなった。

 「そう、わたくしが母から贈り物をもらったのが妬ましいのでしょ、ユウヒナさん」
 「どういうこと……ですか」
 「だって、ユウヒナさんは養子だという噂を聞きましたもの」

 語尾を跳ね上げて、アズアはわざとらしく高笑いをする。ユウヒナからの返答はなく、相手が黙っていることを優位と捉えたのか、アズアはさらにたたみかけた。

 「アデュレリアの姫君方のなかで、その黒い御髪は珍しいのでしょう。謝らなければいけないのはこちらのほうでしたのね。さぞお辛かったでしょう、わたくしが生母からお誕生日を祝福されたというお話しは──」

 言葉が切れる直前、アズアの口が止まり、かわりに小さな悲鳴が聞こえた。よからぬ気配を察知し、シュオウは咄嗟に重い咳払いを鳴らし、角の奥を軽く覗き込んだ。

 「──忘れないから」

 服を乱して壁に寄りかかるアズアに、唸るように低く言い残し、ユウヒナはその場から逃げるように立ち去った。

 暴力沙汰にならなかったことだけ確認し、シュオウは来た道を引き返す。関わるな、と自分に強く言い聞かせながら。



 あらたか授業も終わり、生徒達が寮へと帰る夕暮れ時。
 シュオウは一人、中庭の木陰に寝そべって軽い眠りのなかにいた。

 背後にある廊下を誰かが走り抜け、それを師官が怒鳴って注意する声に目を覚ますと、中庭の反対側、奥に植えられた体格の良い木の側に、ユウヒナが佇んでいるのが見えた。

 ──なんだ。

 ユウヒナはシュオウに気付いていない。あたりをきょろきょろと見回したかと思うと、手にしていたなにかを、密集した木の上部に向けて放り投げた。直後、涼しい顔で立ち去る。

 その行動の意味もわからないまま、シュオウは早々に興味を捨て、再び目を閉じた。



 次に目を開いた時には辺りは暗くなっていた。りいりいと虫の音を奏でる庭に、一音おかしな音が混じっていた。それは、めそめそとすすり泣く女の泣き声だった。
 音を辿ると、暗い廊下にへたりこんで泣く女生徒の姿があった。一瞬ぎょっとして足が重くなったが、よくよく見てみれば、その女生徒はアズア・サーペンティアだった。

「……どうした?」

 さすがに見過ごすこともできず、シュオウはアズアに声をかける。アズアはぴくと肩を奮わせ、ウサギのように赤くなった眼でシュオウを見た。

 「大切なモノが、なくなってしまって……探したのですけど、見つからなくて」
 言葉を詰まらせ、アズアは再び俯いて涙を落とした。

 「なにを無くした、ものによっては探すのを手伝えるかもしれない」

 「本、です。お父さまから、入寮のお祝いにいただいた詩集で、とても大切なものです。馬術の時間にすこしだけ目を離していた間に、なくなっていて」

 「本、か」
 なくなっていた、とアズアは言った。つまり、失せたというよりは盗まれた、とでも言いたげである。そう考えて、シュオウは即座にユウヒナの姿を思い出していた。

 「そういうことか……」
 納得したように一人声を漏らしていた。



 中庭にある一本の木を見上げ、シュオウは推測が間違っていなかったことを確信する。

 ──やっぱり。

 寝ぼけながらに見た、あのときのユウヒナの行動。木の枝の間に挟まった古めかしい本が、それを如実に物語っている。

 シュオウは軽い身のこなしで木の幹を蹴り、高く飛び上がって枝を掴んだ。体重をかけてかるく揺らしてやるだけで、枝の間に挟まっていた本はばさりと地面に落ちた。

 アズアは迷子の子を見つけた母親のように本を愛おしそうに抱きしめる。
 手をはなして地面に降り立ったシュオウは、そんなアズアに一言告げた。

 「俺じゃないぞ」

 たっぷりと涙を溜めたアズアの瞳が、シュオウを見上げた。

 「はい──はいッ、もちろんです。誰がやったのか、わかっていますから」

 ありかを知っていたがため、あらぬ疑いをかけられないかという心配はするだけ無駄だったようだ。

 「無事にみつかったんだし、もう帰ったほうがいい」
 言って立ち去ろうとするシュオウの背に、消え入りそうな少女の泣き声が届く。
 「こんな顔で、帰れません……」

 止めてしまった足を、一歩踏み出す。だが、二歩目はでなかった。
 シュオウは振り返って腰を折り、ゆっくりとアズアに手を差し伸べた。

 「──俺の部屋でよければ、休んでいくか」

 泣き顔で唇を震わせるアズアは小さく頷いた。
 白く柔らかい小さな手を掴み上げ、シュオウはアズアに見えないよう苦笑いを浮かべた。結局、遅いか早いかだけの違いだったのだ。





          *





 べそをかくアズアをベッドに座らせて、シュオウは小さな椅子の背を前にして腰掛けた。

 「話せるようになるまで休んでていい」

 アズアはごしごしと眼をこすり、おそるおそる顔をあげた。眼と鼻がしらを真っ赤にして、感謝と謝罪の言葉を口にした。

 「ありがとうございます……ごめんなさい──」
 言って、抱えた本を強く抱きしめる。
 「──大切な物がなくなってしまった事への不安と、ずっと我慢していたことが重なってしまって、おさえきれなくて」

 「我慢していることは、ユウヒナのことか」

 アズアは小さく頷く。

 「ユウヒナ・アデュレリア、あの人は餓えた狼です。幼学年の頃からしつこくからんできて、高圧的に接してきて。そのせいで他の子たちからも距離をおかれるようになってしまって」

 「サーペンティアとアデュレリア、要するに原因はそこなんだろ」

 それぞれ、蛇と狼を紋章に掲げる二つの公爵家は、蛇蝎の如く互いを憎み合っている。そのことについての話は、これまで幾度か耳にしてきた。

 「仰るとおりです、でもッ、私はサーペンティアの血統の中でも末席、最下位にかする程度の存在。御当主様にお会いしたこともないのに、あの人はサーペンティアの名と私の容姿だけで決めつけて攻撃してくるんですッ」

 意外な告白に、シュオウは眉をあげた。
 「サーペンティア公爵の娘じゃない、のか」

 アズアは拗ねたようにアゴに力を込めて頷いた。

 「父は黒髪、母は金髪。二人とも輝石の色は黄緑色ではありません。私は、母方の祖母によく似ているのだそうです。言葉がおかしいかもしれませんが、あまりにもサーペンティア的な特徴をもって生まれたので、公爵家の血統に連なるよう、主家から申し入れがあり、父がそれを快諾しました。大家の名を受けるだけ損はない。そう言って……」

 結果的に、娘が宝玉院でねちねちとアデュレリアの姫から嫌がらせを受け続けるはめになるとは、考えが及ばなかったのだろう。

 「ユウヒナはその事を?」
 「知っている、と思います。隠していることでもないですから」

 アズアは、つまりサーペンティアの名とそれに相応しい容姿をしているため、あらぬ対人関係の摩擦にみまわれてしまったのだろう。

 「はじめてあの人に呼び止められた時から、こわくてこわくて。誰もいないところで会うとものすごく睨むんです。毒薬みたいな紫の瞳でじっと……そして言うんです、強い言葉を。私も自分を守るために少しずつ努力しました。サーペンティア一族に相応しい威厳をだせるよう、言葉つかいに気をつけたり、口げんかであの人に負けないよう、ひとを傷つけるような単語を覚えたり」

 アズアに返した本の題名を思い出し、シュオウは一人納得していた。

 「そのことが、夜の学舎の本の捜索に繋がる、か」
 独りごちるように言うと、アズアはきまずそうに顔をおとす。

 「宝玉院は古い施設ですから、不可思議な噂話は枚挙にいとまがありません。そのなかにひとつ……他人に呪いをかける方法が書かれた古書がある、という話があって」

 「呪い……? じゃあ、探していたのは」

 アズアは首を傾げ、曖昧な態度をみせる。
 「じつは、もう見つけたんです。図書室の棚に高く積み上げられた本のずっと奥にあったものを、偶然」

 「まちがいないのか」
 「なかは恐い絵がたくさんありました。消えかけていた題名には、呪詛百技と書いてあります」

 シュオウは後ろ頭をかいた。
 「なら、もう目的は達成したんじゃないか」

 アズアは神妙に首を振る。

 「百技とかいてあるのに、本にはその半分の五十の例が載っているだけでした。それに、呪いの結果のほとんどは相手を死に至らしめるようなものばかりで……」

 聞くうち、ようやくアズアが夜の学舎でなにを探していたか、理解できつつあった。
 「つまり、あとの半分が書かれている書が、どこかにあるはず、か」

 「そうです。あの人は嫌いだけど、死を望むまでは思いません。ただちょっとこらしめたいんです。お腹が痛くなるとか、すぐに眠くなってしまうとか。残りの本に、もしかしたらそうした方法が載っているかもとおもって」

 近頃、似たような状況に置かれた生徒と関わりがあったことを思い出す。その生徒は正面からの解決を臨み、やり遂げたが、アズアは搦め手で攻めることに思い至ったのだろう。

 シュオウは呪い、などという曖昧なものは信じていなかった。正確にいえば、信じていないというよりも見たことも感じた事もないそれを、現実の事として実感することができないのだが。

 アズアには、本人には自覚がないかもしれないが、誰に恥じることもない気品が備わっている。しかし話して見れば存外気弱な性格をしているらしく、ユウヒナと接しているときの高飛車な態度や仕草はすべて演技だったのだと、今ならわかる。

 彼女なりに、現状を変えたいと願っての行動を無碍に否定する気はおこらなかった。むしろその逆である。ここまで話を聞かされて、そうですかと追い払うこともできまい。

 「探すのを手伝おうか」

 聞くと、アズアはきょとんとした。

 「でも、呪いの書、なのですよ。私はとても後ろ暗いことをしています──」
 シュオウは異存はないと頷いてみせた。
 「──あなたは、アデュレリアのご身内も同然だと」

 シュオウはしかめっ面で苦笑いした。

 「すこし、あの一族と関わりがあっただけだ──」
 そもそも、アズアのいう呪いがユウヒナに降りかかるなど思ってもいないのだが。
 「──身内なんて、そんなことがあるわけないだろ」

 シュオウは左手の甲を見せ、右の口角を真横に引き延ばした。

 「じゃあ──」
 アズアの泣きはらした顔に、瞬間花が咲いた。
 「明日の夜からでいいか」

 嬉しそうにはにかんで頷くアズアを見て思う。それが一時の慰めになるのなら、モノ探しなど、たいした苦労でもないと。





          *





 翌、夕方。

 完全に主催者となってしまったシガの拳術教練に付き合い、集まった生徒達を帰して後片付けをすませる頃には、もう外は暗くなりかけていた。

 授業を終え、付き添って離れないユウヒナを従えて、シュオウは先を行くシガと、彼の一番弟子として馴染みつつあるアラタの後を歩いていた。

 シガとアラタはずいずいと先へ進み、すでに話声が届かないほどの距離を空けている。
 少し後ろを着いてくるユウヒナを見ると、心底不愉快そうに歪んだ顔があった。

 「そんなに嫌なら、もう来なくていいぞ」

 立ち止まり、声をかけると、ユウヒナは唇を噛みしめる。

 「嫌じゃありません。あなたに恩返しをできる機会を喜んでいると言ったのは真実です。やれといわれれば、荷物運びでも、訓練場の後片付けでも、なんでもいたします」

 「それだけ嫌そうな顔で言われてもな。真実味がない」
 「これは──そうじゃなくて……」

 足を止めて話していると、不意にユウヒナの顔の前を拳大の黒い蛾が舞った。ユウヒナは声もなく、背中から倒れ込み、頭を手で押さえて震えあがる。

 なお、大きな羽をぱたつかせてユウヒナのまわりを飛ぶ蛾を手で追い払い、シュオウはしゃがんで彼女の肩に触れた。

 「虫がこわかったのか」

 ユウヒナは呼吸浅く、額に脂汗を浮かべていた。

 「虫なんて、なんでもなかったのに──あ、あの時から、羽音を聞くと、か──からだが、ふ──ふるえて……しまって……」

 しだいに血の気がひいていくユウヒナを前に、同情心が湧いた。知らなかったとはいえ、彼女の態度の意味を決めつけていたことを後悔する。

 たしかにここは暗い山道だ。今の時期、辺りには虫が多く、その生を謳歌している。
 シュオウは外套をはずしてユウヒナの頭にかぶせた。屈んだまま背を向けて、おぶさる姿勢をみせる。

 「帰ろう」

 少しして、無言のままユウヒナは身体をシュオウに預けた。



 夜、部屋の戸を叩く音は軽やかに聞こえた。

 「こんばんは、せんせい」

 戸を開けると、そこに立っていたアズアは、古ぼけてあちこちすり切れた古い本を脇に抱え、片手に籐で編んだカゴを持って微笑んで会釈した。

 呼ばれ慣れていない呼称を無視して、シュオウはアズアの抱える本を指さす。

 「それ、例の本か」
 「はいッ」
 「そのカゴは?」
 「お夜食ですッ」

 アズアは元気よく言って照れ笑いをした。
 シュオウは後ろ首をさすった。他人に呪いをかけるための本を探しに行く、という後ろ暗い行いをしにいく夜にしては、アズアの態度は奇妙なくらいに明るい。

 「遊びに行くんじゃないんだぞ」

 アズアはかあっと顔を紅くしてうつむいた。

 「なんだか友達と一緒に悪戯をしにいくみたいで、楽しくて……こういう経験、ほとんどなかったので」



 ランプを手に廊下に出て、歩きながら後をついてくるアズアに小声で話しかけた。

 「いないのか?」
 「え……?」
 「ともだち」

 アズアから重い溜め息が漏れた。

 「皆さん良くしてくれています。けど、サーペンティアという家名は、やはり特別みたいで。あの人に対抗するために自分を偽っているうち、本音で接することができる友人をつくる機会を逸してしまいました。学年の監督生も、私の夜の外出を知っていて黙認しています。皆さん、恐いのでしょうね、アズアという名のあとにつく家の名前が」

 「サーペンティアか。一人、そこの人間と間近で話したことがある──」
 黄緑色の髪で、にやついた笑みを浮かべる男を思い出し、シュオウは眉を歪めた。
 「──いやなやつだった」

 アズアは吹き出すように笑った。足を止めて振り返り、抗議を込めて彼女を見つめると、だって、と切り出す。

 「本当にお嫌そうでしたから、つい。それに、サーペンティアの者を指して、嫌な奴という評価をくだせるような方に、アデュレリアの人間以外で初めてお目に掛かりました」

 アズアは言って、必死に押し殺したような声で笑い続ける。

 「そんなに笑えるようなことを言ったか」

 「はい、でもわかったきがします。アデュレリアがあなたを特別扱いしている事。彩石なく師官でいること。そして、私に自然に接してくださっていることが」

 見守っていたつもりが、いつのまにか逆に見透かされているような心地がした。
 行くぞ、と告げて足を踏む。

 「あの、いまはどちらに向かっているのでしょうか」
 「とりあえず、あのときの部屋に向かってる」
 「あの夜調べましたが、あの部屋にはなにもありませんでした」
 「それなら次に探す場所の見当はついているのか」

 問いかけに、アズアは揺らがぬ視線で頷いた。



 案内された場所は図書室だった。目的の古書を探す場所としては、一番にそうしているであろう場所を訪れたアズアにそのことを指摘すると、広い部屋の隅にある、床の穴を塞いだ鉄蓋のところへ誘導された。

 「地下書庫です。宝玉院のなかで探していないのは、もうここと迷宮だけで。きっと、もう一冊はここにあるとおもいます」

 いかにも、と言いたくなるくらいの場所だった。アズアの態度からしても、おそらくここが本命なのだろう。学舎のなかをかけずり回ることを想像していたシュオウとしては若干拍子抜けである。

 「ここから探したほうが早かったんじゃないか」

 「だって、こわくて……なかは暗いし、入ったあとに蓋をされて塞がれてしまったら出られなくなってしまうので、一人で入るには勇気と、ほんの少しの無謀さが必要でした。それに、師官方ですらここに入るような人はほとんどいないというお話で」

 聞いてみれば、納得がいく言い分だった。アズアにとって手伝いを申し出たシュオウの存在は降って湧いた助け船だったのかもしれない。

 「そういうことなら、まず俺が入って中の様子を見てくる」

 アズアは胸の前で拳を握った。
 「私を信じてくださるのですね」

 なにやら一人で感動している様子だが、シュオウは背筋に悪寒を感じていた。言われて気付いたことだが、たしかに先に入ってアズアに蓋をされ、重しでもかけられてしまえば、生きて外に出られなくなる可能性もある。

 自分がここへ来ていることを知っているのは彼女だけ。

 ──しまった。

 後先を考えず、先に入ると言った事を後悔する。が、瞳を潤ませてじっと見つめてくるアズアに、いまさら先に入れなどと言えるだろうか。安全のためとはいえ、それではあまりに体裁が悪い。

 「……先に行く」

 観念し、シュオウは鉄蓋をずらして、直下に続くハシゴに足を乗せた。

 ランプを照らしながら、一段ずつハシゴに足を下ろしていく。二十回ほど足を降ろしたところで床が見えてきた。

 周囲を照らしてみると、そこは層になった埃を溜め込んだ書棚がずらりとあたり一面を覆い尽くす、カビ臭い書庫だった。

 危険がないことを確認し、シュオウはアズアを呼んだ。返事がした後、ハシゴを踏む音が聞こえて、こっそりと安堵する。

 「すごい──古い本がたくさん」

 足をつけたアズアが言った言葉は地下の部屋に反響する。

 部屋は中央の小部屋を中心として、そこから東西南北に枝葉のように狭い通路が続いてる。それぞれの奥は、小さなランプ一つでは先まで見通すことは難しい。

 シュオウはなにげなく、近くの書棚にあった一冊の本を抜き取った。途端、たまっていたホコリが盛大に舞って、煙たさに思い切り咳き込む。

 アズアが、あ、と小さく声をもらした。かと思うと、どこからともなく柔らかい風が生じる。部屋の中心に、ぼんやりとした緑色に鈍く発光する風の渦が現れた。

 「このあたりのほこりをすべて集めてしまいます」

 アズアは左手を虚空へ向けて突き出している。
 「晶気の風か」
 アズアは風の渦をじっと見つめ、頷いた。

 「私、風を送り出すことより、こうして内へ吸い込む渦をつくるのが得意なんです。授業以外で、許可なく晶気を扱ったことが知られると怒られてしまうので、内緒にしておいてくださいね」

 シュオウは同意したことを告げて、部屋の中心に生じた緩やかな竜巻を観察していた。周囲のホコリがじわじわと吸い込まれていく様は美しく、そして面白かった。

 アズアが集めたホコリは小山となって地面に積もった。音もなく静かに生じた風の渦は、また音もなく浄化されるようにふわりと消失する。

 拍手のかわりに、シュオウはさてと切り出した。
 「これだけの本から一冊を探し出すのは大変だな」

 アズアは抱えていた古書を差し出した。

 「この本、装丁がなにかの動物の皮で出来てるんです。赤くてざらざらしていて、見た目も手触りも特徴があるので、そこを頼りに探すのがいいんじゃないかと思うのですが」

 シュオウは本を受け取り、その手触りと色を記憶に止めた。



 しばらくの間、二人は無言で本の捜索にあたった。

 並ぶ書物は多種多彩で、古文字で記された相当に古い年代のものから、現代に使われる文字で記された本まで様々である。ゲテモノ料理の方法や、なにを目的として書かれたものか曖昧な内容が多く、実用に耐えない内容であったがため、人目に触れることのないこうした地下書庫に追いやられることになったのだろう。

 「あの、休憩にしませんか」
 アズアに聞かれ、シュオウは堅くなっていた肩をまわした。
 「そうだな」

 二人、本棚を背に座り、アズアが用意した軽食にかじりつく。
 肩が触れ合うぎりぎりの位置に座るアズアは、つま先を揺らし陽気に鼻歌を奏でていた。

 「不思議ですね。この部屋はすごく暗くて怖くて、探しているものも恐ろしいものなのに、楽しくて、わくわくする気持ちを抑えきれません」

 シュオウは生返事をかえし、夜食をかじりながらも、ぼんやりと並ぶ書物の山を眺めていた。
 服の袖を引っ張られ、シュオウはアズアを見た。

 「せんせいは、呪いの実在を信じていませんか?」

 「その呼び方はやめてくれ──呪いはそうだな、信じてないよ」

 アズアは拗ねたように唇をとがらせた。
 「やっぱり──だから、こうして手伝ってくださっているのですよね」

 夜食をすべてたいらげて、シュオウは腰を深くずらし、両手で枕をつくって寝そべった。

 「うまくいかない事があるなら、自分の手と足でどうにかする。気に入らない人間がいるなら口で言えばいい。それでだめなら、手も足も頭でも、使える物は色々とある」

 「……そのどれも、上手に使えないひとだっているんです」
 「その捌け口が、呪いか」
 「それは……」

 アズアは瞳の色を暗くする。

 「責めたつもりはない」
 「いえ、後ろ暗い行いであることは否定できませんから。でもやっぱり、私はそれが実在すると思います」

 「実際に見たことがあるとか、根拠があってのことなのか?」

 アズアは自信ありげに頷いた。

 「だってこの世には、私も含め、彩石を持つ人間が扱う力、晶気があるじゃないですか」

 「それは、現実に存在するものだろ」

 「存在はしています、でも、私たちはこの力がなにを根源としているか、まるで理解していません。ある者は輝石こそが力の発生源であるといいます。そしてまたある者は、輝石は事象を引き起こす鍵でしかない、とも。無から有を生む力。それに比べたら、だれかを呪うことが、それほど難しいことであるとは思えなくて」

 シュオウは反論する言葉が浮かばず、息を吐いて唸った。

 「北の人々は、彩石の力を神の恩寵であると言います。では神とはなんなのでしょうか。神が実在するとして、なぜそれぞれに違う石を人に与えたのか。色のある石を持つ者のなかでも、行使できる力には個性があって、燦光石の存在はもっと不思議です。大災害に及ぶ事象を扱うそれが、なぜ存在するのか。そしてその特別な力は、どうして血族者の間に引き継ぐことができるのか。この世界も、私たち人間に関しても、わからないことばかりです。人々は知ろうとしない、そもそも自分達が何を知らないのか考えようともしない。私の父は学者肌な人で、小さな頃からよくそうした言葉を聞きました」

 シュオウは黙って彼女の言うことに耳を傾けていた。
 下からアズアの顔を覗くうち、シュオウは彼女の頭の後ろにある一冊の本が気になり、それを注視した。

 「あの、私の話、退屈でしたか」

 生返事をしてそっと手を伸ばすと、アズアは緊張した面持ちで肩を強ばらせ、きゅっときつく目を閉じた。
 シュオウの手はアズアの頬の真横を通り過ぎ、背後にある赤い装丁の本を抜き取っていた。

 「見つけた」
 「──え?」
 身体を起こし、ランプの明かりに当てたそれは、まぎれもなくアズアが探していた本の片割れだった。





          *





 次の日の晩は、重い雨音に覆われていた。
 前日に続き、戸を叩く音を合図に部屋を訪れたアズアは、シュオウが見つけた古書の片割れの一ページを広げ、興奮気味に指さした。

 「せんせい、見つけましたよ、ほらこれッ」

 アズアが示すページを眺めてみると、茶色い紙のうえに綴られた不気味な絵や図、それを解説しているかすれた文字がいっぱいに書かれていた。その中の目立つ部分に、大きく描かれていたのは、初老の男が腹を押さえて苦悶の表情を浮かべている様子だった。

 「ひとを腹痛にする呪い、か」
 「必要な物はもう揃えましたよ」

 昨日と同じようにアズアはカゴを持参しているが、今日の中身は、どうやら食べ物ではないらしい。



 アズアの希望で地下書庫に場所を移し、シュオウはアズアが始めた呪いの儀式に立ち会った。

 「ここにくる必要、あったのか」
 「はい、だってこの本には儀式は暗くて深い地下の部屋で行うようにと書いてあります」

 単に、あやしい行いを誰かに見られないためではないのかとも思うが、シュオウは黙っていた。
 アズアは用意した道具を一つずつ取り出していく。

 「まず、小さな水瓶。ひとつかみの土。乾燥させた香草。古い雨水に、それと鶏の血、蜘蛛の死骸──」

 妖しげなものを平然と取り出すアズアに、シュオウは驚いた。

 「──それと、呪いをかける相手の体の一部」
 アズアは言って一本の黒い髪の毛を取り出す。
 「ユウヒナのか? よく手に入ったな」
 「この日のために、すれ違い様に肩に落ちていたのを拝借しておきました」

 アズアは小さな水瓶に用意したものを一つずつ入れ、呪いの方法が記述された本のページを破いた。

 「それも必要なのか」
 「呪いを行使するさいには、それが書かれた紙を用いるのだそうです。だから、この本に書かれている呪いの儀式を行える回数は、それぞれ一度きり」

 シュオウは破れたページを催促し、受け取った。ランプに当ててみると、たしかにアズアが言った通りの方法が記されているが、あちこち文字が滲んでいて、内容が把握できない箇所も散見された。

 「これ、紙のなかになにか混ざってるぞ」

 シュオウはランプを高くかかげ、ページを灯りに透かしてみせた。紙に、あきらかにインクではない黒い二つの粒のような影が見える。

 「薬品、でしょうか? それなら、ページを破いて呪いに用いる、という説明にも合点がいきますね」

 ふと、不安がよぎった。
 まるで無意味な行いであると思っていた儀式に、初めて得たいの知れない材料が紛れ込んだのだ。

 しかし中止を促すか迷う間もなく、アズアはシュオウからページを取り返し、水瓶の中に放り込んだ。雑多な材料でごったがえす瓶のなかに、濁った水を注いでいく。

 「できました。上手くいけば、少しして水瓶の中から黒い霧が出て、呪いをかけた相手のところへ向かう。そんな風なことが書いてありました」

 アズアはカゴのなかから、見覚えのあるモノを取り出した。虫の足をした不気味な象の置物だ。

 「それ……」
 「あまりにも不気味だったので、ご利益があるかとおもって。ごめんなさい、お代は後でかならず」

 言って、アズアはそれを水瓶の前に置き、瞼をおとし、手を合わせて祈りはじめた。

 時は無意味に過ぎていく。しんと静まり返ったまま、水瓶になんら変化はない。当然といえば当然の結果だった。

 「もう、目をあけていいんじゃないか」

 おそるおそる目を開いたアズアは、水瓶を覗いて嘆息した。

 「そうです、よね……こんなに簡単にひとに呪いをかけられるなら、この世界はもっと大変なことになっているはずです。わかってました、なんとなく。わかっていたけど、なにか少しでも、いまを変えられるかなって……」

 アズアは閉じた口のなかで奥歯を噛みしめる。
 心配するように顔を伺うシュオウと目を合わせたアズアは、ぎこちなく笑みをつくってみせた。それは、相手を安心させるための作り笑いだった。

 残念だった、と一言告げ、夜の探険を終わらせるのは簡単だ。が、変化を求めた少女の願いは成就することなく、ささやかに足掻いた結果はただの虚無である。

 シュオウは、わずかに唇を濡らした。そうさせたのは、少女への同情か、接しているうちに湧いた情か。

 「もっと簡単に、いまを変えられることもあるかもしれない──」

 疲れた顔でじっと見上げるアズアに、シュオウは、とある虫の羽音が苦手な少女の話を語って聞かせた。
 暗示として名をぼかして語る話に、アズアはじっと耳を傾けていた。





          *





 あさの雨は好きだ、さめた空気に水気がまじって心地いい。

 当校時間、色彩にぎやかにたくさんの傘が並んでいる。

 色とりどりの傘の下で揺れる、色とりどりの髪。そのなかに、艶やかな長い黒髪を見つけ、アズアは軽やかに駆け出した。

 こっそりと手をあてて、黒髪の間からのぞく耳に近づける。耳元で、ぶうんと虫の音を真似てみた。

 黒髪の彼女は、小さく悲鳴をあげて、濡れた地面にへたり込む。

 アズアは彼女を見下ろして、ほんの少し意地わるく笑ってみせた。

 だいきらいだった紫色の強い瞳が、迷子の子供のように怯えている。

 あの人の言ったとおり、たった一言で世界が変わることもあるらしい。

 そっと差し出した手を、彼女はじっと見つめていた。

 がんばれば、仲良くなれる道もあるのだろうか。

 なんとなく、自分に聞いてみた。

 あの人はなんと言うだろう。

 きっと、呪いを証明するよりは簡単だと、そう言うに違いない。





[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第八話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:8e204adc
Date: 2015/02/16 21:09
     Ⅷ 蟻地獄










 食卓に整然と並んだ朝食を前に、シトリはうんざりと肩を落とした。
 寝癖もそのままで、とろんと濁った目はほとんど閉じている。呼吸すら面倒だった。おかまいなしに、やたらに凜として無遠慮な老婆が小言をこぼし始める。

 「早くお食べなさい。午後から次期卒業試験総監督が視察にまいります。不手際がないよう午前中に手順の確認をしなければなりません。あなたにも手伝ってもらいますからね」

 年寄り好みの茶色い蔦模様の暗い壁が覆う食堂には、ほとほと嫌気を感じていた。
 流行の色も家具もなく、老人臭が漂ってきそうな重苦しい色の古い置物ばかり。働いている使用人の娘達もどこか覇気がなく、見目の華やかさに欠ける者ばかりだった。

 ──もういや。

 シトリは膝に乗せた布巾をこっそりと握り、憎悪を込めて左右逆向きに絞った。
 そもそも朝食をいただく習慣など持ち合わせていないのだ。朝はできるかぎり眠っていたいし、昼前頃に目を覚まし、そのままベッドの上でその日最初の食事をいただくのが理想なのである。

 毎朝のように迎えにくるアイセにもまいっていたが、マニカのそれはうっとうしい世話焼きの元同級生の比ではなかった。朝起きるときから一日中、そして夜眠るときまで側にいて、食事作法、座り方、立ち方、話し方、着用する下着の種類にまで口を出してくる。

 よくここまで他人に興味を持てるものだと、はじめの頃は関心する気持ちもあったが、それが二日、三日と過ぎていくうちに、シトリは自分が袋小路に入り込んでしまっているのではないか、という逼迫《ひっぱく》した現実と向き合うはめになった。

 一週間が過ぎ、二週間が過ぎてもマニカはシトリを解放しなかった。
 絶え間なく雑用を押しつけられ、ようやく時間が空いたかとおもうと面倒な仕事を次から次へと命じられる。

 ひさかたぶりに再会できた想い人とは、ろくに会話をする余裕すらなく、残酷に過ぎていく時を思うたび、シトリのなかで諸悪の根源への殺意が醸成されていったのは、ごく自然の成り行きだったのかもしれない。

 年齢に相応しくない伸びた背筋で、すすっと上品にスープを運ぶマニカの姿を見て、シトリは閉じた口の中で歯ぎしりした。

 ──おばあめッ。

 渾身の憎悪を込めてつけたあだ名は心の中で呟くのみ。
 「わたし、もう帰りたい……」
 シトリは何度も言った言葉をつぶやいた。

 「帰りたいです──でしょう」

 マニカは視線も合わさず、シトリの言葉遣いを訂正した。
 ぴくとこめかみを震わせ、シトリは一縷の望みをかけておとなしく応じた。

 「カエリタイデス」

 しかし、返答は死の宣告より無慈悲なものだった。

 「却下します」
 「でも! パパとママもきっと心配してる……」

 「あなたをいちから躾けるとお伝えしたら、アウレール子爵はそれはもうお喜びでした。娘をよろしく頼むとおっしゃって、頭までお下げに」

 シトリは握る布巾を千切らんばかりに引っ張った。
 「あのオヤジ……」

 「おやめなさい、なんて言葉をッ──ほらみなさい、やはりあなたにはしっかりとした矯正が必要なのです。いま決めました、あなたの師官在任中は私が最後まで責任をもって面倒を見ます、あなたもそのつもりで覚悟を決めておしまいなさい」

 シトリのなかで、なにかが音をたてて崩れ去った。
 吹き出す溶岩のように激しい感情があふれ出す。それは殺意だった。
 絞殺から刺殺、窒息や生き埋めなど残忍な殺害方法が浮かびあがる。が、シトリはすぐさま思いつきの悪感情を捨て去った。老い先短い老婆を殺め、罪人の座に堕ちることは本望ではない。結婚や恋愛といったおめでたい事柄は、罪人に享受する資格を与えてはいないのだから。

 ──おちつけ、わたし。

 はき違えてはいけないのだ。望みは殺人ではなく解放されること。
 だが、マニカという人間が言ったことを簡単に反故にするような相手ではない、ということをシトリは知っている。人の頑固さは、ときに堅固な要塞を攻略するよりも厄介なものである。

 シトリの望みは、ひとの人生にずかずかと土足で踏み込んでくる口やかましい老婆の手から離れること。そして、受けた不快な思いと、失った思い人と過ごせるはずだった時間の分だけ、ほんのちょっと痛い思いをさせてやりたい、というささやかな復讐心である。

 ごちゃごちゃと小言を続けるマニカの言葉を聞き流しながら、シトリは妄想の世界にふけった。想像の世界で小さく縮めたマニカを摘まみあげ、出口のない箱のなかに閉じ込める自分を妄想する。

 ──そっか、閉じこめよ。

 ふと頭をよぎったのは、宝玉院のなかにある仄暗い迷宮だった。学生時代、自らもそこへ入った経験があるシトリには、なかがどれほど薄気味悪い環境かを身をもって知っている。もしも、マニカが迷宮のなかに一人取り残されたらどうなるだろうか。百戦錬磨の老師官とて一人の人間である。暗い迷宮の奥深くにひとりでいれば、心細くなるに違いない。

 そして、そんな状況に自らを貶めた相手にうんざりとするはず。そうなれば、さすがのマニカも匙を投げるに違いない。
 シトリの無表情な口元は、誰がみてもわからないほど、かすかに歪んでいた。

 ──おばあ置き去り作戦。

 シトリは自らの計画の内容に添って安易な命名をした。

 決行予定日は一週間後、その日は宝玉院で生徒を受け持つ師官達のほとんどが、定例の報告会に参加するため外に出る。シトリは現在生徒らの指導役から遠ざかっているため、その日はマニカと共に居残り組に指名されてはいるが、それがなにより好都合だった。

 勢いよく朝食に手を伸ばした。給仕の娘達が意外そうに目を合わせるのを尻目に、がっついて食事を喉に通していく。
 食事作法を注意するマニカを見つめ、シトリは目を細めて皺だらけの顔を見つめ、微笑を浮かべた。それは、マニカの元で生活をするようになって、初めて心の底から楽しいと思った瞬間であった。





          *





 「おい、ここ臭わないか」

 自室の前にある廊下でふんふんと鼻を鳴らし、シガは不快そうに顔面を歪めた。

 「そうですか? 別になんの臭いもしませんよ」

 弟子のアラタは同様に鼻を鳴らすが、要領を得ないといった様子でからんと言った。

 「いいや、間違いない。少し前から妙な臭いがすると思ってたが、日増しに臭気が濃くなってやがる。なにか腐ってるみたいな……俺は鼻には自信があるんだ」

 「自分の体臭じゃ──」
 シガはアラタの頭をげんこつで小突いた。
 「──いたッ」

 「勘違いじゃない、間違いなくここらだけ変な臭いが漂ってやがる」

 どこかから入り込んだネズミの死骸でもあるのか。疑問と臭いへの不快感から、シガは周囲の調査を始めた。が、思いの外早く、その原因を発見する。

 「なんだこれ……こんなものあったか?」

 それは小さな水瓶だった。シュオウの部屋付近の角にひっそりと置かれていたそれを摘まみあげると、シガは嗅いだこともないような独特な臭気にむせ、顔を背けた。

 「くっせえッ──おい、お前持ってろ」
 「えッ、いやですよ!」

 強引に突きつけると、それでもアラタは不満をこぼしつつ水瓶を受け取った。

 「中身はなんだ」

 シガが聞くと、アラタはおそるおそる水瓶の中を覗き込む。

 「さあ、なんか黒い液体みたいなのが入ってます。たしかに変な臭いがするけど、そこまででもないですよ」

 「おい、それ捨ててこい」

 「でも、これあの人のじゃ。臭いがいやなら蓋でもしておけばいいじゃないですか」
 「いいんだよ、どうせゴミだ。俺はな、きたねえもんが寝床の近くにあるのは嫌いなんだ。ほら、さっさといけ」

 アラタはぶつぶつと文句を垂れるが、渋々とシガの指示に従った。師弟関係を結んでからこれまで、すっかり序列がすり込まれているため、シガの命令に対してアラタは大抵の事におとなしく従うようになっていた。

 「じゃあ、水場に流してきます……」

 よしよしと頷いて、シガは弟子を送り出した。





         *





 一週間後のこの日、ムラクモ王国の空は重たい暗雲が立ちこめ、日中からすでに夕暮れよりも暗かった。

 古めかしい宝玉院の学舎で過ごす生徒らの表情は、一様に重苦しい。その原因は、鈍色の空だけが原因ではなかった。

 生徒らの表情を暗くしているのは、ここ数日のうちにどこからともなく湧いてでてきた、ある噂話である。曰く、遅い時間に帰寮した女生徒が、外庭を歩いて寮へ向かう途中に、地を這う巨大な蛇かトカゲのような生き物を見たという。また曰く、昼食を広げていた生徒達が一瞬席を外した隙に、根こそぎ食い荒らされていたという話もある。

 宝玉院の敷地内に、なにかがいる。

 そう思わせるだけの決定的な根拠となる事件は一昨日、山向こうの訓練施設にある厩舎で起こった。学院が保有する良血統の老種牡馬、イデイユが変死を遂げたのだ。

 イデイユはその日、午後の放牧から厩舎に戻され、平素と同じく厩番にブラシをかけられてから小屋で静かに夜の時間を迎えるはずだった。が、翌朝係の者が厩舎を開けると、眼を見開いたまま絶命しているイデイユの亡骸があったのだ。

 前日まで、イデイユに死の兆候がなかったことは、複数人の証言がある。原因が病ではないことは、この件の調査に当たった者達の間で即座に確定事項となった。

 ではなぜ。

 まっさきに疑われた原因は人による犯行である。最後にイデイユを管理し、厩舎に鍵をかけた厩番に嫌疑がかかったが、その容疑は一日待たずして晴れることになる。

 近衛から派遣された調査官がイデイユの死体をすみずみまで調べた結果、後ろ脚の飛節部分に小さな咬み痕のようなものを見つけたのだ。患部を切開して調べてみると、中の筋や骨といった組織のほとんどが、ドス黒く変色しており、あきらかに毒性を持った生き物によりつけられた傷であることが窺えたのである。

 主師マニカの指示のもと、訓練場およびそこへ向かう途中の道はただちに封鎖され、生徒達にも気をつけるようにという漠然とした警告がだされた。
 主師を筆頭とした責任ある立場にある者達は、おそらく毒蛇の一種が紛れ込んだのだろうという見解で一致していた。拓かれているとはいえ、ムラクモ王都は山中にある。残る自然もおおく、野生生物が人里に迷い込むことなど、さして珍しくなかったからだ。




          *





 「ま、毒蛇かなんかだろうけどな」

 ここのところ話題を独占している、イデイユ変死事件にまつわる噂話に、カデルの悪友リックは推測で結論づけた。

 「イデイユの体重を忘れたのか。あの老馬、大飯食らいの運動嫌いで巨牛並に太ってた。あれだけでかい馬体を一咬みで死に至らしめるなんて、相当な毒の持ち主だ。ここらで、そこまで危険な毒を持った蛇が生息しているという事実は確認されていないんだぞ」

 反論したカデルに、リックは意外そうに首を曲げて聞いた。

 「らしくないな、お前が本の中身を丸暗記したみたいなことを口走るなんて」
 カデルは意味深な友の視線を流し、仏頂面をした。
 「ある人間からの受け売りだ」
 「それってアラタだよな。お前らすっかり──」
 「うるさい」

 いつもなら人だかりができる昼休みの中庭も、今はカデルとリック以外誰の姿もなかった。今日は師官達が報告会に出る日であり、午後から授業がない。生徒達は自習するか、早めに帰寮するかの選択権が与えられ、多くの生徒達は学舎に長居することを選ばなかったのだ。

 小さなカゴ詰めの軽食もそこそこにしまって、カデルは立ち上がった。

 「どこ行く気だよ」
 「例の厩舎を調べに行く」
 「封鎖されてるのにか」
 「封鎖なんて名ばかりだ。四六時中だれかが見張ってるわけじゃない」
 「……調べてどうする?」
 「人間の仕業なら調査して捕まえてやる。そうじゃないなら退治する」

 リックは座ったまま、友を見上げて呆れ気味にうわずった声をあげた。

 「あのな、そもそも近衛から調査官が派遣されてきてるんだぞ。専門家を前にして俺たちひよっこに出番があると思ってるのか」

 「その専門家とやらが調べたって、具体的になんの成果もあがってないじゃないか。暗くなるまえに寮に戻れだの、一人で行動するなだの、もっともらしい警告はするけど、どれも曖昧な対応策だ。要するになにもわかってないってことじゃないか」

 カデルの言い分にリックは喉を鳴らした。

 「まあ……な」
 「だったら自分の手で原因を突き止めてやる」

 「ははあ──」
 リックはしたり顔で立ち上がり、カデルに嫌みな笑みをみせた。
 「──わかったぜ。そうやって皆の不安を取り除き、一躍英雄になって、アラタにぼこられたせいで落とした評判を取り戻したい。そういうことなんだろ」

 「うるさいッ」

 リックは尻をはたき、昼食の最後の一口を放り込んだ。

 「お前の折れた前歯に免じて俺も手伝うことにする」

 カデルは背を向けたまま、こっそり横目で悪友を見やった。
 「頼んだわけじゃないからな」
 裏腹に、肩の力をそっと抜いた友の姿を見て、リックは微笑した。
 「急ごうぜ、雨が降り出しそうだ」

 見上げると、雲はより厚みを増していた。





          *





 人生とはおかしなものだと、不機嫌顔で後ろをついてくるユウヒナを見て、アズアはそう思った。

 少し前まで、ユウヒナは天敵に等しい相手だった。家名を理由に難癖をつけられ、人目がない場所ではそれはより苛烈さを増し、この世からいなくなってしまえばいい、と本気で願ったことも数知れない。端正だが底のしれない獰猛さを隠し持った紫の瞳に見られるだけで、体が萎縮してしまっていた。

 だが、そんなユウヒナは今、アズアの頼みを引き受けて、借りた本の山を返すための地味で疲れる手伝いをしている。

 「ユウヒナさん、嫌々なのは重々承知ですけれど、落としたりしないでくださいね。私の名前で借りてるんだから」

 顔が隠れるほど山積みにした本を担ぐユウヒナに、彼女の半分の量にも満たない本を運ぶアズアは涼しい口調で言い聞かせた。

 「アズアさん……おぼえてなさいよ」

 憎々しげに言ったユウヒナの言葉も、今は怖くない。

 「弱みを握っている相手に言う言葉がそれ?」

 本の山から半分だけ覗く顔は、猛烈に不機嫌さを湛えていた。

 寮から図書室までは距離がある。普段なら小分けにして返却する本を一度に持ってきたのは、今まで被ってきた嫌がらせの数々へのささやかな意趣返しでもあった。

 ゆっくりとした歩調で中庭にさしかかったとき、ユウヒナが本の山を床に降ろした。軽く息をきらせながら、額に溜まった玉の汗を拭う。

 「もういい、やめるッ、こんなこと馬鹿みたい」

 上目遣いに敵意の眼差しを向け、ユウヒナはじっとりとアズアを睨む。

 「そ、好きにすれば。でも、明日にはここの人間全員があなたの弱みを握ることになるけど」

 ユウヒナはかっとして歯を剥き出しにした。

 「言えばいいでしょ!」

 キバを剥く獣のような迫力を見せるユウヒナに思わず怯えを抱いたアズアは、悟られないようこっそりと唾を嚥下した。

 震える声を必死に押さえ、アズアはひくことなく胸をはる。

 「ほ、本当にいいの?」
 「なにが」
 「関わる人すべて、誰からも恨みをかってないって言い切れる?」

 アズアの問いに、ユウヒナは唇を噛みしめる。

 「ここの候補生達のことだけを言ってるんじゃない、給仕をする子達や料理をつくる人達、師官を含む大人達だってそう。いくら生まれに恵まれていたって、あなただって一人で生きているわけじゃない。不特定多数の人間達に弱点を知られることが、本当に平気だって言い切れる? これから先の候補生として過ごす時間だってまだたくさんあるのに」

 ユウヒナは黙して語らない。しかしその視線はアズアからはずれ、徐々に下がっていく。
 沈黙をやぶったのは、空から振ってきた一滴の雨だった。中庭のすみにある植木の葉を打ち鳴らし、追随するように雨粒が降りしきる。

 「雨……」
 庭を見て言うと、ユウヒナも庭を見て呟いた。
 「雨なんて嫌い……」
 「私は好き」

 互いに顔を合わさぬまま庭先を見つめていた。

 おもむろにユウヒナは立ち上がり、床に置いていた本を再び持ち上げた。

 「……いいの?」

 アズアは本の影に隠れたユウヒナを覗き込んでそう聞いた。

 「言っておくけど、あなたの言うことを真に受けたわけじゃないから。私はひとの恨みなんて恐れない。でも、あの子達は別。妹たちには絶対に知られたくないから……」

 「妹って、あなたの一族の子達?」

 ユウヒナは頷く。

 「軟弱な蛇の一族と私たちは違う。サーペンティアは弱者をなぶっていたぶるけど、アデュレリアは弱者を許さない。弱ければ同族であっても喉を食い破る。あの子達は私を敬うけれど、それはなににおいても私のほうが優れている年長者だから。もし小さな虫一匹に怯える姿を見られたら、途端に私を弱者と決めつけて、序列の底へ追いやろうとする」

 「それを私に知られてもよかったの」

 ユウヒナは鼻で笑う。

 「いまさらじゃない、私は自分の生殺にかかわる秘密を知られた、それも……蛇の子に」

 ユウヒナの物言いを大げさだと思いつつ、アズアはなにも言葉を返さなかった。ただ、ユウヒナに持たせていた本を数冊抜いて、手持ちへと移す。

 隠れていた顔がすっかり露わになると、ユウヒナは正面を向いて眉をひそめる。その表情からしてまたなにか怒りだすのかと思ったが、少し様子がおかしかった。

 ユウヒナどこにでもなく視線を固定し、突然ぴんと背筋を伸ばした。

 「どうしたの?」
 「いま、変な音がしたッ」

 耳に手を当てて、アズアは周囲の音に集中した。

 「べつに、雨音しか聞こえないけど。気のせいじゃ──」
 ユウヒナは息を殺したまま、必死に反論する。
 「ちがう! なにか、近くを通ったような音がした。人がだす音じゃない」

 アズアはユウヒナの発言を訝った。

 「怖がらせようとして、さっきの仕返しのつもり?」
 ユウヒナは緊張した面持ちを崩すことなく、強く言い返す。
 「ばかッ、もう忘れたの? 例の厩舎であったこと」

 聞いて、アズアは背筋にぞくりと悪寒を感じた。
 「え……うそ──」

 そのとき、中庭の植木がごそりと揺れた。アズアはひきつったように小さく悲鳴を吐く。

 無風の空から直下に舞い落ちる雨が、一段強さを増した気がした。

 「猫じゃ……」

 アズアの希望は、直後に裏切られる。揺れた植木のなかから甲高い咆哮が聞こえたのだ。

 「いまのが、そう聞こえるなら耳のお医者にかかるべきね」

 顔を向け合って硬直したまま、アズアは無言で首を横に振った。

 雨音に混じって植木の枝が激しく揺れ動く音が鳴った。立ち位置から一部始終を観察できたアズアは、その姿を見て絶句する。太く長く、地を這って向かい出てきたその生物は、あきらかに人の世である上層界の生物とは異なっていた。手足のない身体でくねって移動する姿は蛇に似ているが、姿形はミミズと魚の合いの子のような不気味な姿をしている。全長は長身の大人の男と同じくらいか、それを上回るほど。

 迫り来る異形の生物の姿を見たアズアは、手にしていた本を落として悲鳴をあげた。
 ユウヒナは咄嗟に振り返り、体を震わせてすでに足下にまで迫りつつあった異形の生物の頭上に重たい本をどさどさと落とした。

 狙ったことではなかったが、謎の生物は頭の上に重い本束の直撃を受け、その場でくねくねと体をひねらせ、悶絶する。

 緊張したまま震えるユウヒナの手を引いて、アズアは夢中でその場から逃げ出した。

 顔面蒼白のユウヒナを引っ張りながら、アズアの頭はこの事態を冷静に咀嚼することができずにいた。混乱したまま、しかしあの異形の生物は間違いなく殺意を持って姿を見せたことだけは、考えるまでもなく理解していた。

 振り向くと、本の山から這い出してきたソレは、ぬめった体で跡を残しながら、うねる水面のような奇怪な動作で後を追ってきていた。

 一番近くにあった部屋に逃げ込もうとして手をかける。しかし無情にも扉は開かず、手間取った分だけ異形の生物に距離を縮められてしまった。

 ──逃げなきゃ。

 呼吸することも忘れ、アズアはある一画に目を向けた。それは、大口を開けて愚者を迎え入れる迷宮の入り口だった。





          *





 雨降る午後の宝玉院。シトリはマニカの手を引いて小走りに廊下を駆けていた。
 「悲鳴が聞こえたって、本当なんでしょうね」

 引きずられそうな勢いで体を傾けながら、マニカはシトリの後をついて走り、疑惑を込めた質問を投げかけた。

 「ほんとだっていったじゃんッ、もうすんごい悲鳴だったんだから」

 懸命に必死さを演技しながら言うが、シトリは顔を隠すため、振り返らなかった。数えきれないほどの経験を積んできた老師官に、嘘を見破られるのが怖かったのだ。

 「同じ部屋にいたのに、私にだけ聞こえないなんて……」
 シトリは口元を引きつらせた。
 「耳が遠くなったんでしょ」
 すぐさま小言が飛んできて、シトリは肩をすくめた。

 作戦通り、シトリはマニカを迷宮の入り口までつれてくることに成功した。おばあ置き去り作戦遂行のための第一段階としてはまず順調である。次に、マニカを連れて迷宮の奥へ入る必要がある。

 ──そっか。

 シトリは天啓の如くそれを閃いた。予定ではこのままマニカと共になかに入り、いるはずのない生徒を探すことになっているが、わざわざ自分がそこへついて行く必要もないはずだ。

 シトリは廊下にかけてあるランプを手に取りマニカに渡した。

 「はい」

 マニカは訝りつつもそれを受け取る。そのままランプをかざして迷宮の入り口の奥をちらちらと伺った。

 「ほんとう……なんでしょうね……」
 「間違いないから。小さな女の子の声だった、きっと幼年組だとおもう」

 「はあ──まったく、こんなものいつまでも放置しておくから──」

 尻切れに、マニカは迷宮の中を覗いつつ小言を呟く。それを隙とみて、シトリはおそるおそる後ずさった。

 「じゃあ、私は誰か見つけて助けを頼んでくる──」

 言い終える前に、シトリは足を滑らせて思いきりすっころんだ。尻餅をついて腰をさすっていると、あきれ顔のマニカと目が合う。また小言をもらうかと身構えたが、マニカは表情を重くし、シトリに歩み寄って床を凝視した。

 「なんです、これ」

 マニカは床を人差し指で撫でた。すくい上げたそれを親指でこすると、ぬめぬめと粘った液体のようなものがついていた。瞬間、シトリは蒼白となる。

 「うげ──」
 いそいで立ち上がって打ち付けた部分に触れると、同様にぬめった得体の知れない液体が付着していた。
 「──なにこれ、きも」

 「言葉遣いッ」

 マニカが律儀にシトリを叱ったその時、迷宮の奥から少女の悲鳴がこだまして聞こえた。

 「本当だったのね」

 マニカは頷いて納得した様子だが、シトリは真逆の態度をとった。

 ──うッそ。

 まるっきりでっちあげた事だと思っていた事が、真実にすり替わってしまったのだ。

 「なにか様子が変だわ。行きますよ、しゃんとなさい」
 帯同することを求めたマニカの言葉を、シトリは一瞬理解するまでに時間を要した。
 「……え?」
 「え、じゃありません、早く!」


 さきほどまでとは逆に、手を引かれてシトリは慌てて踏ん張る。

 「ちょっと待って、誰か呼んだほうがいいって、そうだ私は残ってこのことを──」
 聞く耳持たず、マニカはシトリを老人とは思えぬ力で強引に引きずった。

 「探したって誰もいやしませんよ、今日は午後から授業がないので派遣されている警護官もいないんですから。あの叫び方、ただ入り込んで迷っているのとも違う。厩舎であった事と関係があるかもしれません。急がないと──もしもの事があったら一大事よッ」

 迷宮の中へずいずい引きずられるシトリは、入り口の縁に指をかけて必死に抵抗した。マニカは片手にランプを持った状態で、それでも尚若いシトリの力を上回っていた。かけた指が一本、また一本とはずれ、シトリは聞く耳を捨てた老婆に深い闇の中へと引きずり込まれていった。





          *





 意気揚々と事件の捜査に乗り出したカデルとリックは、しかしもくろみからは大きくはずれ、大きな丸太を担いで訓練場から宝玉院学舎へ運ぶ羽目になっていた。

 「なんでこんなこと、俺たちがしないといけないんだよッ」
 どっしりと重たい丸太の端を担ぎながら坂を登るリックは、大声で不満を漏らした。

 「知るッ──もんかッ」
 同様に丸太を担ぐカデルは屈辱を耐えるような表情でそう返した。

 リック、カデルの両名の頭には、さきほどまでなかったふくれたコブができている。それを残した張本人が、よく通る大きな声で活を入れた。

 「喋るな阿呆ども! 足を動かせ、いいかッ絶対に落とすなよ!」

 シガは言って、左手の平を拳で打ちつけて威圧した。
 後ろを気まずそうについてくるアラタが、こっそりと丸太に手をかけたのを見つけ、シガは怒鳴った。

 「おまえはいいんだ、勝手に触るな」
 「でも……」

 手ぶらでいることが気まずい様子で、アラタはちらちらと丸太をかつぐ二人を見やる。

 「弟子ってのは、最初に入門したやつが上なんだよ。この阿呆どもにそれを教えてやってるんだ、おまえは黙って見てろ」

 「俺はあんたの弟子になった覚えはないぞ!」

 リックが憎々しげに言うと、シガは彼の後ろ頭をげんこつで小突いた。

 「うるせえ、逆らうなら顔がわからなくなるまで殴るぞ」

 暴君と化したシガに対し、実際にそれをする相手であると判断したのか、リックとカデルは力を込めて丸太を持ち直した。

 「だいたい、なんでこんなものを学舎に持ち込むんだ」

 汗だくになったカデルの問いに、シガは軽く受け答えた。

 「訓練場が使えなくなってから暇だからな、いまのうちに俺専用のイスをつくるんだよ」

 丸太を担ぐ二人はがっくりと肩を落として口々に抗議した。

 「そんなもの──買えばいいじゃないか! なんなら家から僕が取り寄せてやるッ」

 金満家な台詞を一蹴し、シガは言ったカデルの背をはたいた。

 「おれの身体はな、お前らみたいにやわじゃねえ。この体躯がすっぽり収まるイスなんてそうそうみつからねえんだよ」

 「ならせめて手伝え、自分のための物なんだろうッ、あんたの馬鹿力ならこんなもの簡単に運べるはずだ」

 「こんなもん担いだら指にトゲが刺さるじゃねえか。俺は尖ったもんが嫌いなんだ」

 最低でも大人手で三人は必要であろう丸太を担がせ、シガは嫌がる彼らを怒鳴り続けた。目指す先は学舎の中庭であり、そこまではまだいくらか距離がある。ぽつと頬に落ちた雨に触れ、シガは運び手達に足を速めるよう、酷な命令を告げることにした。



 「なんだよ、真っ昼間だってのにだれもいねえな」

 中庭を囲む廊下に立って言ったシガの言葉に返事をする者はいなかった。
 カデル、リック、そして結局彼らを手伝ったアラタの三人は、担いで運んだ丸太を廊下の隅に置いて、息を切らせながらぐったりと床に横たわっていた。

 「ち、軟弱なガキどもだ」

 雨に濡れてじっとりと水分を溜め込んだ真綿のように寝込む彼らを見て、シガはそう吐き捨てた。事情あって幼い頃より放浪生活を長くしてきた身としては、手厚く守られて日々を過ごす彼らムラクモの若き輝士候補生達は、シガからすれば庇護に甘えた弱者に見える。

 さらなる喝を入れてやろう。シガはそう考え、邪悪な笑みを浮かべて彼らににじり寄る。が、なにかに足を滑らせて腹ばいにこけ、顔面を床に強打した。

 「ッてぇ! なんだ!?」

 こけたシガを見て吹き出して笑うカデルとリックにきっちりと睨みをきかせた後、足をとられた原因を探った。それはぬめった液体のようなものだった。あきらかにただの水ではない。指にとってこすってみると、魚に触れた時のぬめった感触に酷似していた。

 黙りこくったシガを不思議に思い、三人の生徒達も興味ありげに覗き込んできた。

 「おい、これ跡になって続いてないか」

 リックの指摘に調べてみればその通り、ぬめった液体はひきずられたような跡を残して学舎の奥へと続いている。

 「なにか、生き物が這って行ったような跡にも見えますね」

 アラタの指摘は的を射ていた。床に残っている跡は左右にうねったような形を残していて、それはさながら蛇の通った跡のようにも思えた。しかしこれが蛇であるとすれば、相当に横太りした種であるのは間違いない。

 「おい、これって」
 リックが肘でカデルの横っ腹を小突いた。
 「間違いない、イデイユ殺しの犯人だ」

 言ったカデルに、アラタが同調した。
 「僕もそう思う──大変だ、学舎に入り込んでるってことは」

 カデルは強く頷いた。
 「ああ、見つけ出さないと次の被害者は人間ってこともありえる」
 「師匠ッ」

 物言いたげに訴える弟子の眼差しを受け、シガは犬歯をぎらつかせて笑んだ。

 「害獣退治か、いい暇つぶしになるぜ」

 生徒ら三人組は互いに顔を合わせ、高揚したように笑った。彼らも少年である前に男なのだ。荒事に対して恐怖より好奇心が勝るのも当然のことなのだろう。

 シガは先頭に立ち、弟子二人とその他一人を引き連れてぬめった床の跡を辿った。
 ぬめり跡はどこの部屋にも立ち寄らず、ある方向へ進んでいる。これを残した主に迷いがなかったことが窺えた。

 「普通、何かを求めてここまできたとしたら、もう少し探るような動きをするものだと思いませんか」

 アラタの見立てに皆も同意した。

 「だな、動きがあまりにも不自然だ。というより迷いがない」
 リックが考え込むようにアゴを撫でてそう述べた。

 「目的があったとして、その場所がすでにわかっていた。もしくは、見つけたんだと仮定するなら納得がいかないか」
 カデルが神妙に言うと、アラタとリックの両名はたしかに、と頷いた。

 「お前らうるせえんだよ、ごちゃごちゃ考えるのは無しだ、見つけて殺す、それですむ話だろうが」

 この場で最たる年長者シガの発言は、懸命に状況の推理に努めていた若者達を落胆させるに十分な威力があった。

 「南方の野蛮人どもは、みんな脳みそが筋肉で出来てるんじゃないのか」

 シガが小声でこぼしたカデルの頭に強烈な一撃を入れると、絶え間なく廊下に続いていた跡がぷっつりと途絶えた。そこは存在理由もあやふやな宝玉院の迷宮の入り口であり、正確には暗がりで見え辛いだけで、跡は迷宮の奥へと続いているようだった。

 「こんなところに」
 中を覗うアラタの声が反響する。

 「どうする? 事情がかわってきたぞ。学舎の中ならまだしも、この中を探し回るのは……」

 及び腰になったリックを、シガは挑発的に嗤った。
 「びびってんじゃねえ、ただの薄暗い迷路だろうが──」

 シガは油断して突っ立っていたカデルの首を腕に挟んで拘束した。
 「おいッなにをするんだ!」
 「入るんだよ、アラタとお前も来い。俺が退治した獲物をお前らに運ばせてやる」

 「はあ? 冗談じゃない、このカデル・ミザントをなんだと……ふぐッ──」

 岩のように硬い上腕二頭筋でカデルの口を塞ぎ、シガはアラタに明かりを用意するよう命じた。壁掛けのランプを手に戻ってきたアラタを連れると、必死に抵抗するカデルを引きずって迷宮の入り口に足を踏み入れる。

 「ちょっと待てよ、俺も行く!」
 リックの宣言をシガは一蹴した。
 「お前はいらねえ、そこにいろ」
 「はあ? なんで俺だけ」
 「面倒くせえんだよ」
 言い残して背を向けると、ぽつりと呟くリックの声が届く。
 「なんだよ……それ……」





          *





 師官らを集めて行われる定例の報告会は、じつに退屈なものだった。

 水晶宮、王括府の会議室にて行われたのは、宝玉院で教鞭を執る師官らと、師官の直属の上官にあたる主師マニカに並ぶ立場にある初老の宝玉院統括担当官による平坦な話し合いだった。

 それぞれ受け持つ生徒らの学業進度についての報告がされ、居眠りをする担当官が時折思い出したかのように相づちを打つだけ。

 自らの番が回ってきたシュオウは、異常なし、という完結かつ適当な報告を述べ、周囲からの冷ややかな視線を浴びたが、本来それに注意を述べるはずの担当官は都合の良いことに居眠りの真っ最中だったため、無難に報告を終えることに成功した。

 報告会はじつに退屈である。

 真面目な師官らはとつとつと仕事の状況を語っていくだけだし、その間他の者達はじっと座って聞いているだけなのだ。

 粗末な椀によそった飯をすすりながら、顔をつきあわせて剣の扱い方や上手い酒、過去の武勇伝に花を咲かせていた、サク砦の仲間達を思い出す。

 今、隣にいるのは歯の抜けた不潔な大男ではなく、輝くような金髪の見目麗しい娘である。他の者達も皆、一様に整った顔つきで清潔な身なりをした輝士ばかりだ。

 普段すれ違っても挨拶することすらない彼らには何も思う事もないが、隣に座るアイセとは顔見知りである。退屈を紛らわせるくらいの軽い会話くらいは期待していたが、アイセはこの場にいる誰よりもクソまじめだった。他人の報告にいちいち頷いて、時には手を上げて質問をする。結局、退屈を紛らわせるどころか、アイセはこの退屈な時間をさらに延長させるという暴挙に及んだのだった。



 昼にさしかかる頃、担当官より解散が宣言され退屈な報告会はお開きとなった。

 外はすっかり雨降りとなっており、外壁を夜光石で囲む水晶宮は、水気を受けて青白い光を放っている。

 アイセの提案により昼食をクモカリの店ですませて別れた後、シュオウは一人で現在の根城となっている宝玉院への帰路についた。

 午後からの授業がないため、学舎は人気もなく静まり返っている。しかし自室へ向かうほどに、ざわついた喧噪が耳に届くようなった。様子をうかがってみると、途中にある迷宮の入り口の前で、複数人の生徒らが人だかりを成していた。

 最後尾でひっそりと佇む庭師の老人を見つけ、シュオウは声をかけた。

 「なにかあったんですか」
 老人はひょいと顔をあげると、白鬚をなでつける。

 「どうやら、なにものかを追いかけて、迷宮の中へ生徒らを連れて入っていった者がいるらしい。話を聞くに、君のお連れの彼だというがね」

 「あいつが……?」
 老人は遠くを指さした。
 「ほれ、厩舎でおかしなことがおきただろう?」
 シュオウは眉根をあげる。
 「じゃあまさか、その原因を追いかけて?」

 「わからんがね、あの子の話ではそういうことらしいよ──」
 老人は迷宮の入り口で中の様子を窺う赤毛の男子生徒の背を指さした。
 「──しかし、こまったの」

 「なにがですか」

 「わるいことに、今日は多くの責任ある者達が出払っている。報告会に出た師官らのほとんどは戻らんだろうし、近衛から派遣されていた警護役は不在。門番達の手をこちらにまわすわけにもゆかず。外からの救援を求めたいところだが、外部の者を宝玉院に入れるには面倒な手続きが多くて時間がいる」

 「マニカさん──いや、主師は?」

 「はて、いるはずだが姿が見えん。迷宮から少女の悲鳴が聞こえたと子供らが騒いでおった。こんなときにこそ、彼女に采配をとってもらわんと困るんだが」

 「それ──間違いないんですよね」
 「ん?」
 「悲鳴のことです」
 「ああ、たしかに」

 老人がのんきに頷いている間、シュオウは瞬時に思考を巡らせた。シガが迷宮に入った。共にいるという生徒達は、おそらくアラタと誰かだろう。彼らは近頃起こった老馬の変死事件の原因を見つけ、後を追った。迷宮の中からは女生徒のものらしき悲鳴が聞こえたという情報も気になる。

 ──整理しよう。

 宝玉院の静かな一時、学舎に残っていた女生徒がナニカに遭遇、後に逃げた。惑いのなか避難所として入り込んだのは暗い迷宮の中。おそらく女生徒を追うナニカは追跡を続行したのだろう。シガ達はなにかしらのきっかけでそれに気づき、女生徒もしくはナニカの跡を追っている。不確かな情報だらけだが、おそらく可能性の高い順序としてはこんなところだろう。

 シュオウは周辺の観察に努め、床に線を残すぬめった液体に目を付けた。
 ──シガはこれを追ったのか?
 ぬめった床の染みは、迷宮のなかへと続いている。
 シュオウは老人へ向き直る。

 「俺が様子を見てきます」
 「きみが?」
 頷いて、シュオウは手を差し出した。
 「はて、なにかね?」
 「なかを知らないので、地図を貸してもらえますか」
 老人は小さく首を傾げる。
 「……そんなもの持っていると言っただろうか」
 シュオウは一瞬眉を怒らせる。
 「あるんでしょう」

 逡巡して、老人はにたりと歯をみせて服の内をまさぐった。

 「内部は複雑だ、蟻の巣のように広がる道は地下深くにまで及ぶ。探し歩くのは骨を折るだろう。主師の執務室に夜光石のランプがある、持って行きなさい」

 古びた地図は、折りたたんでぼろぼろだが、内容を確認するぶんには問題がない。言われた通り、シュオウはランプを取りにマニカの部屋に向かった。



 支度を調えて入った迷宮のなか、青白い灯りがごつごつとした岩壁を照らした。
 奥のほうから通り抜けていくぬるい風にのって、男達の話し声のような音や少女の悲鳴、なにごとかもめているような女の怒鳴り声も聞こえた。

 ──この声。
 「……シトリ?」

 呟いた声は反響して奥の闇へ吸い込まれていく。
 ──どうなってるんだ。

 突如、不可思議な金切り声があがった。それは悲鳴のようでもあり、爪でガラスを引っ掻いたような嫌な音でもあった。人のものでないのは明らかだ。

 やはり、ここにはなにかがいる。

 シュオウは全神経を張り詰めた。






[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第九話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:8e204adc
Date: 2015/02/16 21:08
     Ⅸ 出口を求めて










 硬い岩肌を踏みならす靴音が小刻みに響く。
 追われる者である二人の少女は、追跡者の正体もはっきりとしないまま、暗い迷路の中を逃げ惑っていた。

 入り口と出口以外、密閉された路を照らす灯りは淡く発光する緑色の光のみ。しかし光源として晶気を用いるのは、あまりにも不確かで頼りない。渦巻く小さな緑の風を手のひらで踊らせるアズアは、足下を僅かばかり照らす程度の光を維持する事に、体力的な限界が近いことを悟っていた。

 空いた手に握るユウヒナの手は汗ばみ、いまにも滑ってほどけてしまいそうだ。いつも冷淡で険悪な香りを漂わせていた彼女の表情も、今は怯えているせいか酷く幼く見える。それがまた、常ならざる異常事態に巻き込まれたのだという現実を強く裏付けていた。

 ユウヒナが足をとられ地面に転がった。逃げる最中、握り通しだった手がほどけ、アズアは振り返って立ち止まる。

 「にげ……なきゃ……」
 アズアは絶え絶えにかすれた声をしぼりだした。
 「だめ……もう」
 肩を揺らして苦しそうに息をするユウヒナはへたり込んで動こうとはしない。

 動かなければならない。逃げ続けなければならない。そう思いながらも、アズアもユウヒナの前に膝を折る。経験したこともないような疲労に、すでに心が立ち上がることを拒絶していたのだろう。

 ──もしかしたら。
 それは、僅かに芽生えた希望的観測だった。
 ──あきらめたかも。
 ここまで逃げる途中、追跡者の気配はいつのまにか感じられなくなっていた。

 「もしかして、もう……」
 言いかけたユウヒナの言葉を聞き、彼女も自分と同じ考えを持ったのだろうとアズアは思った。

 しかし、来た路の奥から聞こえた異形の生物のつんざくような雄叫びが、そうした甘えた願望を無慈悲に打ち砕いたのだ。

 立って走ることを促そうとしたアズアの言葉は途切れる。暗闇から這うように抜け出してきたソレが、細かく尖った歯が幾重にも並ぶ口を大きく開き、目の前に躍り出た。現れた異形の生物は強烈な殺意をもって身体を跳ね上がらせ、崩れるように倒れたままでいたユウヒナに襲いかかった。

 「──ッ!?」

 ユウヒナは反射的に身体を仰け反らせた。寸前までいた地面に、異形の生物の歯が食い込み、硬い岩肌を咬み砕く。

 ユウヒナは咄嗟に手のひらを敵に向けて掲げ、初めて反撃に打って出る。アデュレリア一族の象徴たる氷結の晶気を用いて、地面から天上に向けて伸ばした尖った氷柱が、敵の身体に食い込んだ。

 異形の生物が悲鳴をあげると、ユウヒナは立ち上がって硬直していたアズアの手を取り思いきり強く引き上げた。

 「走って!」

 返事をする間もなく、ユウヒナに手を引かれアズアは走り出した。
 なんら法則なく、左右に分かれる道を選択するたび、ここが憎らしいほどただの迷路なのだということを痛感させられる。
 化け物の気配が消え、心が若干の平静さを取り戻しつつあるアズアは、足を止めてユウヒナの背に問いかけた。

 「ねえッ」
 「……なに?」

 振り返ることなく、微かに横目を向けるユウヒナの表情は暗い。

 「さっき、あのままとどめをさせたんじゃ──いまならまだ──」
 問いかけに、ユウヒナは握る手に力を込めた。

 「だめ! 晶気を使ってみてわかった。私の力じゃアレに傷を負わせることはできても、命にはとどかない。今のうちに少しでも逃げないと」

 「そう……そっか──」

 ユウヒナに頷き返した途端、ふっとあたりが暗闇につつまれた。
 息をのむような、か細い少女達の声が辺りに響く。
 アズアは崩れるように両膝を落としていた。激しく咳き込み、嘔吐感と共にこみ上げてくるものを必死に喉の奥で押し止める。

 「ちょっと、だいじょうぶなの?!」

 肩をゆする手の感触と温かい息づかい。深層の闇のなか、わかるのはそれくらいだった。

 「だめ……みたい。晶気、もう使えそうにない……」

 根源の不確かな晶気という力は無尽蔵に湧きいずるものではない。人に与えられたその力は有限であり、一度に扱うことができる規模や時間は個人の資質に多大な影響を受ける。

 可能なかぎり光源としていた晶気を持続させるため、極限まで力を押さえていたが、ここへきて自らに扱うことのできる力の範疇を超えてしまったのだ。すでに限界を超えて無茶を続けたためか、体中の神経が悲鳴をあげていた。

 すべてをなげうって正気を捨ててしまいたい。なにを映すこともない暗闇の隘路《あいろ》は、絶望に似た諦めの境地をアズアの心に生んだ。

 「立ちなさい」

 凜としたユウヒナの声が聞こえた。

 「でも……もう、なにも見えないじゃない……」

 アズアは身体の力をすべて抜いた。だが、ぐいと力強く二の腕を掴む感触がある。

 「ばか、見えないからなに。こんな狭い路、壁に手をついていけば歩くくらいはできるでしょ! 立って──アズア!」

 アズアは闇の中、唇を噛みしめた。震える膝を拳で叩き、ユウヒナの力を借りて、もう一度足を奮い立たせた。そのまま手を引かれ、路を行く。

 「ねえ」
 アズアは小さな声で聞いた。
 「なに」
 「私を置いていこうって、思わないの」

 問いに、ユウヒナは場違いな笑いをこぼした。

 「だって……私たちがやり合っていたの、有名じゃない」
 「それが?」

 「私だけ生きて帰ったら、きっとみんなこう思う、憎いサーペンティアだから置き去りにしてきたんだろうって……疑われることも的外れな陰口を言われることも、面倒なのよ、そういうの」

 アズアは吹き出すように笑った。苛立ったようなユウヒナの問いが返ってくる。

 「なに?」
 「言いそうだと……そう思っただけ」
 僅かな沈黙の後、ユウヒナの小さな笑い声が闇のなかで聞こえた。

 「絶対に生きて帰るから」
 言ったユウヒナの声は力強く、アズアにはそれが闇を照らす一条の閃光のように思えた。

 「うん──」
 握る手に力を込めると、応えるようにユウヒナも握る力を強めた。
 「──ありがと、ユウヒナ」





          *





 「……この部屋、なんか臭うぞ」
 迷宮のなかの小部屋になかで鼻を鳴らしたカデルは、異臭を感じて眉をひそめた。頭をよぎったのは、毒性のある気体でも漂っているのではないかという一抹の不安だ。

 「臭うか?」
 淡々と聞くシガに、ああと頷いて応えたカデルは、灯りを持って周囲を伺うアラタにも同意を求めた。

 「お前もわかるだろ、この臭い」
 アラタは神妙に頷き、くんくんと鼻を鳴らす。
 「うん、どんどん強くなっていってる……なにかが腐ってるような」

 「朝、ゆで卵を二十個食ったからな」
 唐突に腹を撫でながらシガが言った。
 カデルは強烈に嘔吐いてその場にへたりこんだ。
 「冗談じゃないッ、こんな狭いところで放屁するなんて! うぉえ」

 胸一杯に吸い込んだシガの屁を追い出そうと、カデルは必死に喉から息を吐き出した。隣で咳き込むアラタも、青ざめた虚ろな顔で鼻水を垂らし、苦悶の表情を浮かべている。

 「へ、大げさなやつらだ」
 小馬鹿にしたようなシガの言葉は、なぜか少し誇らしげな響きを含んでいた。

 三人の男達は床を食い入るように観察した。馬殺しの犯人が残す痕跡は、しかし先へ行くほど薄くなっていて、暗がりでの判別は困難になっていた。

 不意に、シガが腰を上げて耳に手を当てた。

 「また聞こえる、女の悲鳴だ」

 それを受け、カデルも耳の後ろに手のひらを広げてみるが、流れる風の音が強調されるのみだった。首を傾げていると、アラタが天井の一部を指さした。

 「師匠、例のやつここを通ったのはまちがいないみたいですよ……ほら」

 ランプに照らされた天井を見るに、アラタの言うとおり照りのある液体がこびりついていた。

 カデルはあごに手を当てて気どった調子で分析する。
 「どうやら犯人は上下の違いを苦にしないらしい。薄暗く不慣れな空間のなかで縦横無尽に暴れまわられたら脅威だぞ」

 カデルの指摘に、シガが突如強烈な拳で空を突いた。生じた風圧が部屋を埋め、ゴウという重い音が鳴る。

 「俺の拳は鉄鎧を破って中の骨ごと身体を貫ける。相手がなんだろうと、生きてるもんなら大差はねえ。やられる前に一撃で仕留めてやる」

 普通なら盛った話だと笑い飛ばし、軽蔑の一瞥でも投げてやるところだが、このシガという男は本当にそれができるのだと、カデルは疑わなかった。彼は南方人であり、彼の地で彩石を有する褐色肌をした人間の多くは、筋力の強化という特異な性質を持つということは、よく知られていたからだ。

 「それだけのことができて、どうしてあんな奴に雇われてるのか、理解に苦しむ」

 日々思っていた事を口にするには、迷宮という非日常の中にいる今が絶好の機会だった。
 カデルの問いに、シガは口を曲げ、小指で右耳を掻き始める。

 「俺は、まあ傭兵みたいなもんだ。雇いたいと言われりゃ金をもらって仕事を引き受ける。極普通のことだろうが」

 「だったら僕がお前を雇ってやる。あいつが提示した額の倍……いや、望むままに──」

 遮るように、シガが手を振って泳がせた。

 「やめろ、お前みたいな連中は腐るほど見てきた。大金をやるから側にこいだの、地位をやるから軍に入れだの。けッ、ほんの少しでも信用してみれば終いだ。連中、途端に手のひら返して俺の物をすべて奪おうとしやがる。うんざりなんだよ、てめえらみたいな口だけの人間と、そいつらを何度も信じて騙された自分にな」

 背中を向けたシガに、カデルは精一杯の睨みをきかす。

 「矛盾してるじゃないか。ならなぜあいつを雇い主にした。彩石もないただの平民なんだぞ」

 シガはアゴを上げ唸った。

 「あいつは俺からなにも奪おうとはしない。すくなくともいまんとこはな。金払いは悪いし、ジジイみたいな髪もむかつくが、そんなことはどうでもいいと思えるくらいには、今までで一番ましな雇い主なんだよ──ああくそ、余計な話だった」

 シガは乱暴に足を踏みならし部屋を出て先へ進む。灯りを手に持つアラタが急いで後を追いかけた。

 渋々最後尾を行くカデルは、未練たらたらでシガの大きな背を見つめていた。

 人間性はともかく、シガは武人として見栄えのする男だった。腕前が並外れていることは身近で見てきてすでに把握しているし、目を合わせた人間が次の瞬間には地面に顔を落としているほどの堂々たる威圧感も兼ね備えている。側にはべらせる事が出来れば箔がつくというものだ。

 幅のない路の途中、誰かの腹の音が鳴った。
 腹を押さえて足を止めたシガは、憂鬱そうに肩を落とす。

 「くそ、なにか食ってくればよかったぜ」
 「朝から晩まであれだけの食事をしておいて……」


 呆れ気味に言ったカデルを無視して、シガは鼻を鳴らし始める。

 「におうぞ、食い物がある」
 言ったシガに、アラタが反論した。
 「あるわけないですよ、こんなところで」

 しかし返事をすることもなく、シガはふらふらと水中を漂う水草のように奥へと歩を進めた。やがて分岐にさしかかるも、シガは迷うことなく左折する。

 「おい、アレがどっちを行ったかもう少し調べるべきだッ」

 無言のままシガはしゃがんだ。彼の視線の先には、朱い斑模様をつけた大きなキノコが密集して生えている。

 「うまそうだッ」
 シガはキノコを一つつまみ上げた。
 「ちょッと!? 師匠、まさか食べる気じゃ──」

 青ざめるアラタに、シガは尖った犬歯を剥き出して笑みをみせた。

 「心配すんな、たしかケング茸とかいったっけな。光のない洞窟のなかによく生えるやつで、昔これの天日干ししたのを食った事があるが、うまかった」

 アラタはシガからキノコを受け取ると、灯りを当ててまじまじと観察した。
 カデルはそんなアラタの脇腹を小突き、小声で呼びかけた。

 「おい、本当に大丈夫なのか。見るからに毒々しいぞ」
 アラタは苦い顔で、
 「正直、わからないんだ。食用のキノコに詳しいわけじゃないし、ただ……」
 「ただ、なんだ」
 「野生のキノコは、毒のあるものとそうでないもので見た目が似たようなものが多いから。だからこれが師匠の言う食用のものかどうか判断がつかない」

 「だったら止めさせるべきじゃないか。動けなくなった大男を担いでここを歩くのなんて絶対に嫌だぞッ」

 アラタも深く頷き、互いに顔を上げたそのときだった。

 「……ん?」

 ついさきほどまで地面に生えていたキノコが根こそぎ姿を消し、口の中を膨らませたシガが満足そうな顔でのんびりとアゴを揺らしていたのだ。

 「師匠、まさか」
 絶句するアラタの隣で、カデルは生唾を飲み下す。
 「食ったのか、全部?」

 シガは不快げに眉を顰め、喉を鳴らして口に含んでいたものを飲み込んだ。

 「おまえらのは残ってねえからな」
 ぽかんと口を開け、カデルは一言呟く。
 「本物のばかだな」

 シガは指を舐めつつ、目を細めた。

 「このキノコに感謝しろ、腹の足しになって今は気分がいい。特別に暴言を許してやる」
 恐る恐る、アラタがシガの顔を覗く。
 「なんともない……ですか?」
 シガはアラタの頭をはたいた。
 「あるわけねえだろ、さっさと行くぞ」



 ほどなくして、シガの様子がおかしくなった。

 いさましく先頭をきっていた足は徐々に鈍くなり、今では最後尾を無言で付いてきているのがやっとの様子である。呼吸も整わず、時折苦しげなうめき声を絞り出す様は、だれがどう見ても正常ではない。原因があのキノコであることは、疑いようのない事実である。

 「おい」
 ひそひそ声でカデルはアラタを呼ぶ。
 「わかってるよ」
 アラタはカデルにうなずき返した。

 「引き返すべきだ。考えてみろ、あの巨体だぞ、ここで倒れられたら入り口まで運ぶのは誰だ? 僕たちしかいないんだぞ?」

 アラタの首筋に冷えた汗が伝った。

 「そう……だね」
 二人は足をとめ振り返る。

 「師匠、いったん引き返しましょう。ほら、例の犯人の跡だってどんどん薄くなってて、途中からもうほとんど見えなくなってるし、今ならまだ来た道を辿ることも──」

 だが、シガは足を止めることなく、虚ろな目で虚空を見つめたまま進み続ける。額に玉の汗を浮かべ、低く唸りながらぬらりと、足をひきずるように歩く様は不気味だった。
 返事もなく一人で進んでいくシガの背を見つめながら、カデルがアラタに聞いた。

 「どうする……?」
 「どうするって、放ってはおけないよ」

 眉根を下げつつ顔を見合わせて、結局二人はシガの後ろをついていくことにした。
 のそのそと歩きながら、シガはふらついて壁に強く肩をぶつけた。

 「大丈夫、ですか?」

 心配してかけたアラタの声に返ってきたのは、あまりにも場違いな台詞だった。

 「俺は、ひとりだ……」
 「はあ? なにを言って──」
 険のあるカデルの言葉を遮って、シガはぶつぶつと独り言を紡いでいく。

 「過ぎ去りし時よ、お前が憎い……拾うことのできぬ思いを。戻ることを願っても、ひとに許されしは、ただ前を行くことだけ。願わくば、ほんの少しでいい、振り返ってお前に触れていたい……」

 カデルが吹き出して笑った。
 「もしかして詩を詠んだのか? あの粗野でバカなあんたが?」

 「過去はどこまでも追ってくる。なのにそれに手を触れることはできねえんだ」
 ぼそぼそと一人、おかしなことを呟くシガ。もはや会話が成立していなかった。

 おびえた声で、アラタがシガを呼ぶ。

 「師匠、帰りましょうよ……おかしいですよ、戻ってお医者にみてもらいましょうッ」

 シガは足を止めた。ようやく言葉が届いたか、とアラタが胸をなで下ろしたのもつかの間。シガの頑強な右の拳が、狭い路の壁面を思い切り殴りつけた。でこぼことして補整もされていない壁を殴りつけたせいで、シガの拳の皮膚は痛々しく剥け、したたるように鮮血がこぼれ落ちていた。

 「信じてたのに! どうしてだッ」

 カデルがアラタの腕を引いた。
 「もう正気じゃないぞ、こいつ」
 アラタは後ずさりつつ同意する。
 「あのキノコだよ……きっと、幻覚作用があるものだったんだ」

 背後にいるせいもあって、シガの表情はアラタたちからは伺いようがない。だが、震える背中、血をこぼす拳からは明確な殺意が漂っていた。
 身の危険を感じ、二人は一歩ずつ後ろへ下がる。
 一人たたずむシガは、なおも誰にでもなく語り続ける。

 「どうしてあいつを殺した!? 俺がてめえになにをしたッ、飢えの苦しみも知らない醜いブタがッ、百度てめえの肉を引きちぎったって何も変わりゃしねえ、あいつは戻らねえんだ!」

 叫んで、シガが振り向いた。
 滝のように汗をこぼした顔面に、血走って真っ赤に染まった眼を剥いて、猛獣のように尖った犬歯を露わに怒り猛ったシガの様相。それを見たカデルが無意識に小さく悲鳴をあげてしまったほど、ひとのものとは思えぬ形相である。

 「鬼……」
 アラタがつぶやいた。

 血走ったシガの眼が、アラタを捉えた。
 「ア・ザン、てめえそこにいたのか!」

 シガの行動は早かった。飛び込むように踏みだし、巨体をいかしてかぶさるように拳を振りかぶる。その一挙手一投足を、アラタはなすすべなく呆然と見つめていた。

 「アラタ!」
 カデルがアラタの腰を引き引き倒す。寸前でシガの拳は空を切って壁面を打ち砕いた。

 粉塵が舞い、岩壁が崩れおちる音が響く。
 声を発する余裕すらなく、アラタとカデルは走って逃げた。

 背後から半狂乱になったシガの声が轟く。怒り狂い、ア・ザンという名の誰かを口汚く罵っていた。

 わけがわからぬまま、アラタたちは懸命に走り続ける。

 立ち止まれば死ぬ。
 ──いや。
 心中、アラタは言い直す。
 ──殺されるッ。





          *





 がっしりと手首をつかんだマニカの手を見て、シトリは深く嘆息した。
 自身が引き込むはずだった迷宮への手引きは、すっかりマニカが主導者となって立場が逆転している。この老婆に端を発するここのところの不幸も、いよいよ極地に至ったのではないかと、思わずにはいられない。

 迷宮に入ってから数度聞こえた少女たちの悲鳴も、今はなにも聞こえない。そうなってからいくらか時がすぎていた。背後から時折見えるマニカの表情には、はっきりと焦りの色が浮かんでいる。

 突如、獣の咆哮のようなものが迷宮のなかに轟き、反響した。
 不意に、シトリの頭のなかで、深界の森で遭遇した紅の狂鬼の姿がよぎる。通り過ぎたはずの恐怖心がよみがえり、身震いして足を止めた。

 「あなたッ」

 マニカは声を荒げた。咄嗟にシトリが逃げ出すのでは、と危惧したのだろうが、その予想は間違ってはいない。
 シトリはたくみに後退して、伸びてくるマニカの手から逃れた。

 「ここ絶対におかしいって……こんな狭いところで突然変なのに襲いかかられたらどうするの? 私は急に力を使うこともできないんだから……そうだ、シュオウ、彼を呼んでくるッ、あの人なら絶対にうまく助けてくれるから」

 背を向けて走りだそうとしたシトリの手を、マニカが再び強く掴んだ。

 「いけませんッ、一時を争うときに離れるなんて許しませんよ」
 「どうして!? 私なんているだけ意味ないじゃんッ」

 必死の問いかけに、マニカはたじろいだ。

 「それは……」
 「彼に頼んだほうが絶対にいいよ。もう報告会からは戻っててもいい頃でしょ」

 マニカは言葉を言いよどみ、気まずそうに下唇をかみしめる。その様子に、シトリは直感した。

 「え、まさか……私を彼に会わせないようにして、るの……?」

 返事はない。沈黙を是として、シトリは怒った。

 「……なにそれ、信じられないッ。じゃあここのところ、私につきっきりだったのって……」

 はずしていた視線を戻して、マニカは口元に力を込めた。

 「あなたのため、ひいてはあの青年のためなのです」

 シトリは怒りにまかせ、馬鹿力でマニカの手を振り払う。

 「関係ないじゃん! あなたになんの権限があって私たちを引き離そうとするのッ」

 マニカは若干気圧されつつ、相変わらず背筋をぴんと張って応じる。

 「石の色をよく見てものを言いなさい──」

 興奮状態のまま、シトリは言われた通り自身の水色の輝石を見た。

 「──人の世界には明確な線引きがあるのです。輝石に色があることとないこと。これは変えようのない現実。下手なことがおこれば、あなたも彼も不幸になるだけなのよ」

 シトリはマニカを睨みつけた。

 「そんなのどうだっていい! 同じ人と人じゃないッ、愛し合うことだってできる、子供を持つことだってできる!」

 マニカはしかし、加熱するシトリとは逆に徐々に温度を冷ましていく。

 「身勝手な。場所を選ぶことができずに生まれてくる子供のことを一度でも考えていれば、でてこない言葉ですよ」

 冷ややかに見つめられ、シトリは居心地の悪さを覚えた。

 「しらないしらないしらないッ、どうでもいいでしょ。愛し合っていれば全部乗り越えられるもの」

 「生まれおちた子が迫害され、その子に恨まれてもまだ自分を肯定できるかしら」

 シトリは喉を鳴らした。反撃を望む心とは裏腹に、次ぐ言葉がでてこない。それはマニカが至極正論を吐いているからに他ならなかった。正しいという現実で武装された言葉、それを前にすれば、なにを言おうともただの妄言、戯れ言に堕ち果てる。

 マニカはたたみかける。

 「あなたの想いが真実であると、彼を見る目をみればすぐにわかりました。だからこそどうにかしなければと決意したのです。つらいでしょうけど心は捨てることも忘れることもできる。そうなさい、あの青年のためでもある」

 「勝手に……決めないでよ……」
 「心はね、想うことだけがすべてではないのよ。結ぶことなく終えることも、また同じ想いなのです。ときにそれは思いやりとも呼ばれます」

 シトリは奥歯を食いしばり、出せるかぎりの叫びをあげた。

 「勝手に決めないで!! みんな勝手なことばかり、昔から私にああしろこうしろ、するな見るな触るなって! どうして放っておいてくれないのッ、私は私、否定されても変えることができない私がいるの! あなたたちが求める決まった通りの生き方を否定はしない。けどいいじゃない! そんな風に生きてる人はたくさんいるでしょ。ただ一人の人間が好きに生きてはだめだなんておかしいじゃんッ。彼は──シュオウは特別な人なの! つまらない決まり事なんてきっと打ち破ってくれるッ、私たちはきっと幸せになれる!」

 シトリはすべての想いを言い放ち、少しずつ後ずさる。無言のまま、マニカが手をさしのべた。

 「もう放っておいて。私は思うまま生きる。ここの子たちのことなんてどうでもいいけど、助けは呼んでくるから。彼ならきっとうまく対処してくれる」

 「お待ちなさ──」
 マニカは呼び止める声を途中で止めた。不自然な態度にシトリはおもわず彼女の様子をうかがっていた。

 「なんです……この音……」
 マニカは背後を振り返って耳を澄ませている。たしかに、地鳴りにも似た想像しい音が、路の先から聞こえてくるのだ。

 奥を覗うマニカに倣い、シトリも背後からこっそりと先を見た。先の暗がりからうっすらと水色の制服を着た生徒二人が、こちらに向かって走ってくる姿がある。

 「あなたたち──よかった、無事だったようですね」

 マニカはほっとしている様子だが、シトリは疑問に思った。聞こえていた悲鳴は女生徒のものだったはず。
 二人の男子生徒が近づくにつれ、なにか様子がおかしいことに気づく。二人とも必死の形相で無我夢中に疾走を続けているのだ。

 「なに……」

 マニカもまた彼らの異常な雰囲気に気づいたのか、身を堅くした。
 互いの声が届く頃になって、前からくる男子生徒のうちの一人が手で払いのけるかのような仕草をした。

 マニカ共々、シトリもまた首をかしげる。
 もう一人の金髪の生徒が、声を荒げた。

 「にげろッ!」

 彼らの後方に、天井に頭がつきそうなくらいの大男が長い両手を突き出して向かってくる姿が見えた。悪鬼の如き形相で意味不明な罵詈雑言をわめき散らし、あきらかに正気を失っている様子である。

 二人の男子生徒は猛烈な勢いでマニカたちの横を通り過ぎて行く。呆然と後に残されたシトリは、路の先から向かってくる巨体の男の姿を見て悲鳴をあげた。

 「うそ──うそうそうそッ」

 先に動き出したのはマニカだった。
 「逃げますよ!」

 先を行く男子生徒二人の背について、マニカとシトリは必死に走った。

 状況を整理する間もなく、マニカが小さくこぼす。

 「まったく──わけがわかりませんッ」

 記憶にあるかぎりはじめて、シトリはマニカの言った言葉に強く同意した。





          *





 ──無臭。

 迷宮のなかで嗅いだ空気を、シュオウはそう表した。

 臭いは生と死の営みによって生じるもの。天然の山のなかを貫くように設けられたここが、どのような経緯によって創り出されたものかは定かではないが、生物が好んで生息するような場所ではない、ということだけはわかる。

 あえて臭いの根源を探るとすれば、それはどこからともなく流れてくる風であり、外気であろう。だがそれを正確に辿ることができるほど、人の臭覚は優れてはいない。

 現在、この迷宮のなかには複数の人間と、そして得体の知れないなにかが居ると推察できる。シガは間違いなく、彼が取り巻きとしてつれているアラタもそう。そして何度か聞こえた女生徒らしき少女の悲鳴。聞き間違いでなければ、シトリによく似た女の声も混じっていた。

 大声を出して何度か彼らに呼びかけてみたものの、反応は一度として返ってこない。おそらく複雑な構造をしている迷宮の造りのせいで、音の届き方が複雑なのだろう。

 自分はいったいなにを追うべきか、とシュオウは考えた。

 まずシガについての心配は不要だろう。彼は単純に腕っ節がたつ。自らの身を守ることはもちろん、連れの無事を守れるくらいの余裕もあるはずだ。

 残すは女たちだが、彼女らについては情報が完全に不足している。そのため、皆が共にいるのか、それともちぐはぐに彷徨っているのかすら判断がつかなかった。

 個々を追うにはあまりに効率が悪く、そして目的を定めぬままの行動は、結局なにひとつ手に入れることができないかもしれない。

 シュオウは地面を凝視する。線を引いて痕跡を残しているナニカの跡も、先へ行くほどに徐々に薄くなっていた。時間経過によって乾きかけているのか、すでにしゃがみ込んで観察しなければわからないほどだ。

 広げた地図に目を移す。古ぼけた紙は所々すり切れていて頼りないが、おおよその判断では、現在地は迷宮の中心付近。東西南北に縦横無尽にまがりくねって広がる迷宮はそれだけでうんざりするような構造をしているが、地図によればそれは地下深くまで伸びている。捜索範囲が下にまで及ぶとすれば、身一つでの完遂は難しくなるだろう。

 ──目標は。

 追うべきは人ではなく、彼らをこの空間に引き寄せたナニカのほうだ。迷ったものを救出することはできても、命を失ったものを連れ戻す術はないのだから。

 甲高い羽音が耳元をかすめた。反射的に、目の前を通り過ぎようとしていた一匹をそっと握り、拳の中に捕まえる。小さくつくった隙間から覗く姿は、なじみ深い小さな吸血虫だった。

 ──コキュ。

 血にたかる習性をもつコキュという名の小さな虫。常人には目に捉えることも難しいそれを捕まえることができるのは、シュオウだからこその技能でもある。

 「血を追ってきたのか」

 そうだとすれば、これを活かさぬ手はない。
 だがこの場合、コキュが目当てとしているのが誰の血であるか、までは考えない。だれのものにせよ、それは大きな手がかりとなる。

 「行け──案内を頼む」

 手のひらを開けるとコキュは飛び立ち、迷いなく飛翔した。

 コキュの飛行速度は速く持久力にも優れている。後を追うにはほぼ全力で駆けなければならない。いくつもの角を曲がりながら、おおまかな現在地の把握にも努めなければならず、持ち込んだ夜光石のランプも水を溜め込んでいるせいで無駄に重い。

 やがて、コキュは羽根の動きをゆるやかにし、徐々に速度を落としていった。目印としてここまできた個体が着地先として選んだのは、地面から不自然に生えた氷柱である。

 明かりで照らすと、氷柱はじっとりと血に濡れ、尖った先には粘ついた生き物の体液のようなものがこびりついていた。

 ──氷の晶気、アデュレリア。
 「ユウヒナ……?」

 宝玉院には複数人のアデュレリアの血族者が在籍しているが、シュオウは自身の知る一人の少女の顔をまっさきに思い浮かべていた。

 おそらく、なんらかの戦いがあったのであろうこの現場で、血の跡はさらに奥に向かって進んでいる。入り口から続いていた跡と同様、地面をこするように残された血のあとからして、これを流したものが人でないということだけはわかった。

 コキュたちはすでにこの場の血溜まりに満足しているようで動こうとはしない。しるべとするにはすでに役立たずである。

 シュオウは血でつけられた目立つ跡を追跡する。ナニカから逃げているダレカは、窮地に立たされている可能性が高い。

 シュオウは全力で駆けだした。
 直角の路を曲がり、二股の路を左に、また直角に右へと曲がり、長い通路をまっすぐに突き進む。

 か細く、いまにも泣き出しそうな少女の声が聞こえた。瞬間、路の先にいた異形の生物の姿を確認し、シュオウは走ったまま腰の剣を抜きはなつ。逆手に握った柄を空中に放り出して持ち直し、そのまま前に向けて放り投げる。二度、三度と回転を続け剣の刃はソレに突き刺さった。ぬめった体から血が流れ、耳の奥をやぶるような強烈な悲鳴をあげる。

 ──浅い。

 咄嗟のこと、やぶれかぶれの一撃は致命傷には足りない。剣の先がほんの少し肉を破っただけで、異形の生物はまだ喉を鳴らしてのたうちまわるだけの体力を残している。

 シュオウは後ろ腰に差した針に手を伸ばす、が異形の生物は血を吹きこぼし、怯えたように身を縮め、壁をつたって天井を這った。蛇のように体をくねらせ、素早い動きでそのままシュオウの頭上を過ぎ、肉に食い込んでいた剣を地面に落として逃げていく。

 ──どうする。

 追跡し仕留めるという判断に迷いが生じる。あの生き物に襲われていた者のことが気がかりだった。
 シュオウは針から手を離し、奥の様子をうかがった。

 「大丈夫か……?」

 夜光石の明かりで照らす先には、二人の少女達がいた。どちらも顔見知りである、サーペンティアの娘アズアと、アデュレリアの娘ユウヒナである。
 シュオウを見上げる二人の形相は、怯えた小動物のように生気を失っていた。

 「おまえたち──」

 言うや、二人はそれぞれシュオウの胸に飛び込んだ。背に手をまわし、服を強く掴んで、震える身体をこれでもかと押しつける。
 死の恐怖を味わったであろう少女達の背に優しく触れる。
 消え入りそうな泣き声が聞こえた。いがいにも、その声の主はユウヒナだった。

 「大丈夫だ、もう心配は……いらな──い?」

 跳ね上げた語尾に次はなく、シュオウは無言で耳をすませる。
 不安げに二人の少女達が顔を上げた。シュオウは言葉だけで彼女たちに説明する。

 「声が聞こえた」

 ユウヒナが肩を震わせる。鼻をすすって、アズアが聞いた。
 「こえ? どんな……」
 「さあ、化け物じみた……雄叫びのような」

 引きつったように息を吸い込んだ二人の少女に、シュオウは怖がらせたことを後悔した。

 「気のせいかもしれない。風鳴りか、そうでなければ誰かひとの叫び声か──」

 しかしこんどははっきりと叫び声が轟いた。疑いようもなく、それは二人の少女の耳に届いていた。

 「これを」
 シュオウは夜光石のランプをアズアに手渡した。

 シュオウの服を強く握りしめる二人をそっと引き離し、床に放置していた剣を拾う。
 不気味な叫び声と共に、何者かの気配が迫っているのが伝わってくる。

 くるりと握る剣を回し、こびりついた血の滴を振り落とす。シュオウは身を低く、万全の状態で身構えた。

 が、前方から姿を見せたのは、消えかかったランプを手に持ったアラタと、カデルの二人だった。別人のようにやつれた表情で、二人は一目散にこちらに駆けてくる。

 「おい──」

 呼び止めるまもなく、二人はシュオウ達の横を通過していく。その瞬間、アラタと目があった。声はない。しかし、口元を賢明に動かすアラタは、なにごとか伝えようと必死の形相をしていた。

 わずか一瞬の出来事だったが、シュオウの眼は伸びゆく小川のせせらぎのごとく、ゆっくりとその光景を捉えていた。

 アラタの口は短い単語を発しているように見える。一言ずつを眼で追って、シュオウは頭のなかでその声を想像した。

 ──にげ、ろ。

 猛烈に走り抜ける二人の少年達。シュオウらが呆然とそれを見送ったのもつかの間、すぐに同じ路から誰かが駆けてくる気配が伝わってくる。あとに現れたのはマニカと、そしてシトリだった。

 「シュオウ!?」

 マニカに手をひかれていたシトリは、シュオウと目を合わすなり、その胸に飛び込んだ。
 マニカはよれよれの状態で倒れ込み、ユウヒナとアズアが慌てて介抱のため駆け寄る。

 抱きついたまま息を荒げるシトリは、断片的に情報を伝えた。
 「来る──変態──でかいの──助けてッ」
 「でかい、変態……?」

 それはもはや考えるまでもなかった。飢えた熊のように喉を鳴らす声。輝士のたまご達が我を忘れて逃げ惑うほどの驚異。そして、ここへ入ったという情報を聞いたまま、いまだその姿を確認できていない人物。

 「あいつ」

 呼び声が届いたはずはない。だが、その男は姿を現した。縦に長い巨体をゆすり、のっしりと通路の奥から見せた顔に、ひとの持つ理性の光はかけらも残されてはいない。獣にすら及ばない堕ちた姿。なにが彼をこうさせたのか。あるいは、さきほど遭遇したモノの毒にでも犯されたのかもしれない。

 シガは歯をむき出し、よだれでぬらした口元を猛烈に地面に向けて歪めた。怒っている。シュオウはそう直感する。
 シュオウはシトリをゆっくりと押し離した。

 「ユウヒナ」
 呼ぶと、ユウヒナは目を合わせ頷いた。
 「はい」
 「マニカさんをつれて奥へ逃げろ。ここから先は出口が近い」
 「でも──」
 「おれも逃げる。だけど、足止めくらいはしないと──」
 だが、聞いていたアズアが渋った。
 「無茶です! 先生一人であんなのと……私もッ」

 それを遮ったのはシトリだった。アズアの前に立ち、彼女の手首を掴む。シトリは振り返って、
 「だいじょうぶ、なんだよね」

 まっすぐシュオウを見つめ、そう言った。
 シュオウは確信をこめて頷く。



 ユウヒナを先頭に、女達は駆けだした。
 足下にあるマニカが持っていたランプだけが、唯一の光源である。
 シュオウは手首をまわし、首を左右に振って鳴らした。

 「シガ……俺だ、シュオウだ。聞こえてない……よな」

 シガは返事の代わりに両手で左右の岩壁を打ち砕いた。
 剣を鞘にしまう。なにがあろうと、命を奪う選択だけは思い浮かばなかった。友と呼べるほどの親しい間柄ではないにせよ、彼はシュオウの都合によりここにきたのだ。同じ空気を吸って、寝て、日々を過ごしてきた仲間だ。

 「こい」

 シュオウは手をかいてシガを挑発した。
 地響きのような叫びをあげ、シガが突進を開始する。

 繰り出された拳による一撃は、シュオウの予想をはるかに凌駕する威力、早さを備えていた。以前に南の城塞で対した時とは比べものにならない。

 ──そうだよな。

 シュオウはその眼にシガの一撃を捉えながら回避する。その最中、宝玉院へ来てからのシガの生活を思い起こしていた。

 ──あれだけ食って寝てれば。

 肉を中心として栄養価の高い食事をたらふく食べ、夜は早く朝はゆっくりと睡眠時間も申し分なく、昼になれば訓練場でほどよく汗を流し、そうした日々は幽閉生活のうちに衰えていた身体をすっかり癒やしてしまったのだろう。

 申し分のないシガの一発は空を貫く。くらえば死はもちろんのこと、身体は骨ごと破片となって吹き飛ぶだろう。だが、当たらなければないことと同じである。シュオウにとって、一点突破の威力を誇るシガは、相性の良い相手であることは変わらない。

 瞬間、シュオウは前へ踏み込んでシガの顎を拳で打ち抜いた。以前に彼を仕留めた時とまったく同じ方法である。一撃で気絶させることを期待したが、結果は期待はずれにおわった。シガは一度はよろけながらも、後ろ足で踏ん張り大声を張り上げたのだ。

 シュオウは唾を飲み、後ずさる。

 得意とする技をきめ動きを封じたいところだが、シガはその点では非常に相性が悪い相手だ。人の域を超えた腕力は小細工をたやすくはねのけてしまうだろうし、致命傷を与えずに手加減して戦うには、分が悪すぎる。

 シュオウはユウヒナ達を行かせた路へ向け走りだす。残された選択肢はもうそれだけだった。

 ランプを拾う暇はなく、なにもみえない暗闇での撤退である。だが出口までの道のりは記憶にとどめてある。隘路であることが幸いし、道行きは壁伝いに手を触れていればどうにでもなる。

 シガは怒り、訳のわからない言葉を吐きながら追ってくる。時折、ア・ザンと呼ぶ声が聞こえた。あのときの日々を、記憶のなかで思い返しているのかもしれない。
 手からつたわりざらざらとした壁の感触を頼りにシュオウは走った。走って走って、先に青白い光を見つける。

 ──まだこんなところに。

 シュオウは気色ばんだ。
 先へ行かせたユウヒナ達一行は、しかしすっかり弱り切った老婆を連れているため、行動が遅れているようだった。

 シュオウの気配に気づいた彼女たちに向けて、シュオウは叫んだ。

 「逃げろ! まだきてるッ」

 マニカは左右にアズア、ユウヒナから抱えられ、ランプを持ったシトリがその背を押す。だれも言葉を発しないまま、一行は暗い迷宮の路を走った。

 最後の十字路にさしかかったとき、左の路に薄く光りが差しているのが見えた。直後、正面の路からアラタ達が走り込んでくる姿が見える。彼らはさきほどより濃厚に色あせた表情でこちら向かってくるが、その背後からは、シュオウが傷を負わせたあの生物が追ってきていた。シュオウは彼らに出口を示して指さした。

 最後の直線に入る。全員が一団となって出口を目指した。進むほどに、外から漏れる明かりが増していく。
 雨の臭いを含んだ風が通り抜けた。

 背後を振り返ると、我を失ったシガと、得体の知れない生物が併走し、こちらに向かってきていた。直線では、彼らのほうが速度に優れている。しだいに距離が縮まり、シュオウは自身が犠牲となって足止めをするか考えた。その瞬間。

 誰かが、どいて、と叫んだ。続いて逃げろ、という言葉も聞こえる。見れば、路の先に庭師の老人が一人静かにたたずんでいた。

 必死に注意を促す声を無視して、老人は一つ夜鳥のような声で笑った。

 老人は手を前に広げ、なにかを包み込むような仕草をとる。異様な行動に一同が疑問に思うまもなく、突如、路の一帯に青光りする分厚い水の膜が張り巡らされた。

 力任せに走っていた一行は足を止めることもできず、水の膜の中に飛び込んで、両手足をばたつかせている。

 シュオウはその直前で足をとめた。背後から来る脅威に対処すべく身構えるが、異形の生物とシガもまた、シュオウの横を素通りして水の中に飛び込んだ。

 分厚い水の膜は即席の牢となって張り巡らされ、中にとらわれた者達は脱出する手段もなく意識を失っていく。シガもまた、必死に暴れた後事切れたかのように動きを止めた。

 しかし、なかに入り込んでいた異形の生物だけは別だった。たくみに身体をくねらせて水から脱出し、再び迷宮の奥へと逃げ込もうとする。シュオウはそれが真横を通り過ぎようとした瞬間、腰に差していた針を抜いて、ぬめった身体を一突きにした。

 針は堅い地面を穿ち、しっかりと固定されている。異形の生物は悲鳴をあげてのたうちまわり、やがて絶命してその動きを止めた。

 張り巡らされていた水の膜が、はじけるような音と共に消失していく。びしょぬれで横たわる皆の奥で、腰に手を当ててたたずむ老人。彼はシュオウを見て自慢げに頬をあげた。





          *





 迷宮のなかをさまよい歩いていた面々が、医務室のベッドいっぱいに水揚げされた魚のように横たえられていた。

 訓練場側からここまで、大勢の人手によって運び込まれた彼らを看た医者は、全員の無事を確認した後、薬の追加分を手配をするといって部屋を出た。残って気を失った者達の世話をすることになったシュオウは、同部屋でぽつんとたたずみ、腰をたたいているあの老人と二人きりになる。

 「これ、返しておきます」
 シュオウは胸の内に納めていた迷宮の地図を老人に返した。

 「……どうして持っているとわかったのかね」
 地図を受け取りつつ、老人はちらと見上げてシュオウに問うた。

 「だって──」
 シュオウは皮肉っぽく眉を曲げた。
 「──あなたは、ここの偉い人でしょう」

 老人もまだ、しらじらしくとぼけた風をみせる。

 「庭いじりばかりしていたこの老体のことを言っているのかね」

 シュオウはそんな老人を鼻でわらった。
 「ここの大人達はみな、あなたのことをちらちらと見るんですよ。生徒達がまるで意識している様子がないのに、おかしいでしょう」

 この老人はただの庭仕事のために雇われた平民である。そう仮定すれば、生まれもった階級によって明確な線を引いている貴族の子供達が、彼を空気のように扱って生活しているのに、なんら矛盾はない。しかし、同様に生まれに恵まれた師官が庭師の老人の近くを通る際、みなが決まってこの老人のことを強く意識している、とシュオウは気づいたのだ。そして師官たちが老人を見る目には、一様に敬いや顔色を覗うような調子があり、一人静かに庭いじりをしているこの老人が、この宝玉院を運営する大人達よりもさらに上位にある存在であろうという予想をつけたのである。

 だとすれば、あの迷宮を管理するための地図くらい持っていてもおかしくない、シュオウはそう予想し、そしてそれは間違っていなかった。
 シュオウは獲物を袋小路に追い詰めた猫のような眼で、老人をじっと見つめた。

 「ほーッほ──」
 突如、老人は笑い出し、じっくりと深く首肯する。
 「──老師ワナトキ・エイと申す。ここの院長の座をたまわって、かれこれ四十ほどの春を迎えたか……肩書きを捨てれば、ただの年寄りである」

 おそらく色がついているであろう輝石を隠したまま、粗末な服装をしたワナトキは、そうと言われなければ民家の庭にしゃがんで庭仕事をしている市井の老人と違いはない。

 ひとは生まれや現在の立場を外見によって示そうとする。だが貴族の軍学校を統括するほどの地位にあるこの老人には、そうした己を誇示しようとする意識のかけらも見いだすことはできない。

 「あんなことができるなら──」

 シュオウは抗議を述べようとして、しかし横たわるシガがうめき声を上げたため、彼の口元に吸い飲みをあてた。なかには毒抜きのために調合された薬草の煮汁が入っている。

 「──はじめから、手伝ってくれてもよかったんじゃないですか」

 ワナトキに向けてそう言うと、また笑い声が返ってきた。

 「この身はすでに隠居をしておる。問題ごとに立ち向かうのは、その時代を生きる者の勤め。趣味の庭いじりをして死を待つだけの老骨のすべきことではない……とはいえ、結局手をだしてしまったのだから、あまり怒らんでもらえんかね」

 皆の額においてある濡れ布巾を交換しつつ、シュオウは静かに応じる。

 「怒ってなんかないですよ……ただ……」

 世話を終えて振り返ると、老人が湯気のたつ茶を勧めてきた。
 互いに椅子に腰を落ち着け、シュオウは熱い茶を喉の奥に流し込む。

 「あそこは塞いでしまったほうがいい」
 「迷宮のことかね」

 シュオウは頷く。

 「入ってみてわかったんです、あれはお遊びでつくられた場所じゃない。しるべもなく入り込んでしまえば二度と生きて出てこられないかもしれない」

 あの迷宮は広く、そして深い。路は複雑に入り組んでいて、当然なかに入ってしまえば水や食料の確保も難しくなってしまう。子供たちがふらりと入り込んでしまえるような場所にしては、あまりにも危険度が高いのだ。

 「あなたの立場なら、入り口と出口を封鎖するくらいできるはずですよね」
 老人は、しかし開き直ったかのようにほくそ笑む。
 「あえて開放しているのだとすれば、君はどう思う」
 「馬鹿なことだとおもいます」
 「ほーッほ、はっきりと言う」

 ワナトキの態度が不真面目にみえ、シュオウは気を悪くした。

 「ここは子供達を守り育てる場所でしょう? なのに身近なところに危険を放置しておくなんておかしいですよ」

 「そう、我が宝玉院は子らを守りそして育む。そして教育課程を終えた途端、人知の及ばぬ未開の地へ放り出す……」

 ワナトキは語尾を濁して愚痴るようにこぼした。

 「卒業試験のこと、ですか」

 「その通り、いくら子供達を万全の状態に育てあげたとしても、それは輝士という枠のなかでのこと。彼らは人の世においては優秀な戦士であるが、ひとたび深界という魔境に足を踏み入れれば、化け物達の餌へと成れ果てる。温室育ちの花は、野生に放たれた途端に枯れゆくのだ。毎年少なくない数の子供達が亡骸すら戻ることなくその生を終える。それが口惜しくてね、せめても子供達に知っておいてもらいたい、思い通りにならない世界があるのだということを。ゆえに、あの迷宮を塞ぐことはしない。少なくともこの目が黒いうちは、だがね」

 シュオウは残った茶をすすって、聞いた。

 「あの試験、廃止にすることはできないんですよね」
 ワナトキは鷹揚に頷いた。

 「神のご意志ゆえ、くつがえることはなかろう」

 シュオウは首をかしげた。
 「かみ? 東地に宗教はないと聞いています」

 「いいや、この地にも神はれっきとして存在する。それは幾百年にわたりこのムラクモを見守り、民を慈しみ、王土を守護し、諸侯らを封じ、東地に平穏をもたらしている」

 シュオウは、思わずその名を口にしていた。
 「グエン」

 老人はあごひげを撫でつけ、かすかに首を振った。

 「あのお方は公平なる統治をされておる。民は民として命を紡ぎ、そして力を持って生まれた者には、逃れることのできぬ守護者としての役を与えた。膨大なる権力を手に入れてなお、私欲を捨てて国を安んじている。だれにでもできることではない。が、神の如き公平さゆえに、ときにその采配は死者の血よりも冷たく、無慈悲である。成人の儀式とはいえ、若者たちにむざむざ命を捨てさせるあの行いを廃止してはくださらん」

 空になった茶器を手のひらに抱え、シュオウは視線を床におとす。
 「なぜそこまで、あの試験方法にこだわるのかわかりません」

 「そう、わからない……神のお考えは不明瞭なもの。雨が降ることも、雷が落ちることも、強風がふくことも、みな同じ。この世は人の手の及ばぬことのほうが多いのだ」

 しかし、とワナトキは突然声を張った。

 「だがね、神は奪うばかりではない、時に与えてもくださる」

 生い茂った眉毛の奥からじっと見つめられ、シュオウは素っ頓狂に聞いた。

 「俺、ですか?」
 ワナトキは頷いて懐からなにかを取り出し、シュオウに差し出した。

 「これは君の物だろう」

 シュオウは思わず眼を見開き、ワナトキの差し出した物を受け取った。それはグエンから渡された翼章だった。

 「たしか、無くしたことに気づいて、それから……」

 シュオウは言葉を止める。これが無いことに気づいてからかなりの時間が過ぎていた。

 「さきほど張った水を引いた後に、地面にこれが落ちていてね。あの中のだれかが持っていたのだろう。その様子からして、君はそれを探してはいなかったようだが」

 「……無くしたことに気づいてはいたのに、いつのまにか忘れていました」

 ワナトキは愉快そうに口元を曲げた。

 「その翼章ひとつ、もらえるのなら命を捨ててもいいとすら考えている輝士もいるというのに。君はまるで道端の石ころのように言うのだな」

 眼を細めてみる翼章は、埋め込まれた宝玉が美しく輝きを放っている。

 「何度見ても、俺にとってはただのモノなんです」

 そして、無造作に胸の内に翼章をしまい込む。

 「神からの賜り物を、ただのモノとして片付けるとは……いやはや、やはり君はこの宝玉院に風を吹かせる者だ──いや、風そのものかもしれん」

 「風……」

 「そうだよ。この宝玉院に異色の師官がきたのは初めてだ。厳しい選抜も、卒業試験での結果からもすべてはずれ、君は神の采配によってここへ来た──まさに新風だ」

 シュオウは自嘲した。

 「することがなくて、ただいるだけの淀んだ風です」

 「いいや、君という風はすでに外から新しい空気を運んできてくれた。いつも同じ日々が繰り返されてきた宝玉院の風景は大きく変わったよ。君の連れてきた南方人の彼も、世界が広いのだということを子供達に教えてくれている。君がここへ来て後、このワナトキが庭から見る風景は日々変化している、とても良い方向に」

 シュオウは眉根をさげて、はっきりとしない返事をした。
 「はあ……」

 ワナトキはずいと席をシュオウに寄せる。

 「ここに骨を埋めてはくれんか。お達しでは仮の配属だと聞かされてはいるが、ここの長として神に上申するだけの覚悟はあるのだが」

 言われ、シュオウは上半身を引いて口をぽかんと開けた。言葉を返そうとして一度止め、唇の先を濡らす。

 「……俺は、掛け合って、ここを出るつもりでした」
 「……頼んでも、心はかわらんかね」

 「むいてないんです、俺にできるのは誰かにものを教えることじゃなくて──」

 指を差した先は、藁を敷いた大きな木箱に収めた、あの異形の生物である。

 「君が優れた戦士であることは聞き及んでいる。だが惜しい……選ぶことのできる道は一つではないのだが」

 すがるように言うワナトキに、シュオウはやわらかく微笑みを返した。

 「気持ちに感謝します。だけど、心変わりはありません」
 ワナトキはため息を落とし、とめどなく首を横に振った。
 「これ以上は言うまい……」

 ワナトキは立ち上がり、苦しそうな顔で眠りに入ったシガを見下ろした。

 「彼も、きっと君と同じ事を言うのだろうね」
 「さあ、俺にはこいつが何を考えているのかわかりません」
 「この坊やはひどく傷を負っている。外ではなく身の内にだが」

 シュオウはいぶかる。
 「シガが、ですか……」

 ワナトキはシガの胸の上に手をのせた。

 「人は一面のものではないのだ。鼓動を続ける心の内に見えぬなにかを抱えている。彼は苦しんでいる。それがなにか知るよしはないが、失ったものを思い、心に空いた穴を埋めようとして食べることに逃げている」

 「……ただの大食らいだと思いますよ」
 ワナトキは小さく、そして静かに笑う。

 「そうかもしれん。だが、この老体には山と積んだ食事を平らげる彼の姿が自分を痛めつけているように見えた」

 シュオウはシガの寝顔を見つめた。迷宮のなかで見境なく暴れていた原因ははっきりとしないままだが、医者の見立てでは胃の中から出てきたキノコの残骸が根源であろうということだった。ワナトキが創り出した水のなかでおぼれたシガが、はき出した水と共に、それらはすべて身体から排出されている。身の内に取り込まれた毒にしても、おそらくは薬によってしのぐことができるという話だ。

 ワナトキは幼い子にするように、まだ湿り気を帯びたシガの頭を撫で、視線を扉の側に置いてある木箱の中へと移した。

 「ところで、これはなんだろうね」

 手招きされ、シュオウも木箱をのぞき込んだ。
 「どう見ても、山の生き物じゃないです」

 「やっぱり、そうかね? ということは──」
 シュオウは口元を引き結んで喉を鳴らした。

 「狂鬼の幼生じゃないかと思います。腹のところに拳大の輝石が見えたので」
 ワナトキはうなり声をあげた。
 「なぜここに……成体が紛れ込んだのならいざしらず、子供だけが前触れもなく発生するというのもおかしな話だ」

 「たしかに」
 「君は深界学に通じているとあるお方から聞いている。この件の調査を頼めんだろうか」
 「でも、王宮から派遣された調査員がいるでしょう」

 「気にする必要はない、適材適所である……受けてくれるなら、君の転属について私がグエン様に掛け合ってもいい」

 シュオウは途端、目を輝かせる。

 「本当ですか」
 「……神に、誓おう」
 にたりと笑い、ワナトキは天井を指さして言った。



 嬉々として部屋を出て行ったシュオウを見送り、ワナトキは重いため息を漏らす。

 「残念でしたね、老師」
 背後からの声に振り返ることはしない。聞き慣れたマニカの声だとすぐにわかったのだ。

 「起きていたか」

 マニカは苦しそうに咳き込んだ。
 「まったく……あんな乱暴な助け方がありますか……」

 ワナトキは苦笑いをする。

 「咄嗟のことだったのでね。私だって、突然君たちが走り込んできて驚いたのだよ」
 椅子に腰掛けて、がっくりと項垂れたワナトキに、マニカはそれ以上抗議を口にはしなかった。

 「本当に彼の人事について掛け合うおつもりで?」
 「若人に嘘はいわないよ。だが、せっかく吹いた風が、またどこかへいってしまう」
 「それほど彼をお気に入りとは、意外でしたわ」

 ワナトキはマニカには見えないよう、こっそりと唇を尖らせた。

 「だって、あのお方直々の采配だよ。普通なら、ほんの少しでも奇抜な採用をしようものなら、うるさい諸侯の家々からの苦情でつぶされてしまうところを、あの彼の人事に関しては、誰の指示であるかを知った途端みなが口を噤むんだ。実に痛快じゃないか──なのにね……」

 「お気持ちは察します、ですが彼もまた清廉な身の上ではありませんよ。氷狼の家が背後から糸を絡めている様子。考えなく触れるようなことがあれば、どのような災いをこうむることになるか」

 「君は、ほっとしているようだね」

 「私の手に負えるような相手ではないと、初対面の時からそう思いました。彼が南であげたという戦果、あなたもご存じのはずでしょう。人の業ではありませんわ」

 ワナトキは首を振って、鼻から深い息を吐き出した。

 「惜しい、ああ惜しい……もう少し早く、彼がここへ来てくれていたらと思わずにはおれん。だが悔やむのはこれで最後にしよう。あの若者がその道を歩んだからこそ、ほんの少しの触れ合いを得たのだから」

 歩んだ道を戻ることはできないのだ。人の生は一方通行であり、だからこそ前へ進むために足を踏み出さなければならない。そして、かの若者が選んだ道は、ワナトキの望んだ先とは別のものだったということなのだ。

 この宝玉院に在る迷宮は、世に憚る不安、危険の象徴である。ワナトキの思惑が、はたして恵まれた子供達の心にどれほど伝わっているかは不明だが、ワナトキは自身で強くそれを思い知らされていた。この世は、思うとおりにはならないのだということを。





          *





 宝玉院の迷宮を舞台とした一連の騒動から三日が過ぎた頃。学舎から遠ざけられていた生徒らも通常通りに登校し授業を受けるようになっていた。

 廊下を行き交う生徒らが各々教室へ入る光景は、一時失われていた日常が戻ってきたのだということを匂わせる、だが各所に配置された見張りのための厳つい警備兵達の姿は、まだ事態が収束してはいないのだという事の象徴となっていた。

 宝玉院の長から直々に調査の依頼を受けたシュオウは、すでに形骸化しつつあった師官としての役目を放棄し、単身で事件の発生源を追い求めていた。

 だが手がかりは少ない。

 まるで、あらかじめ境界を意識しているかのように、灰色の森に巣くう狂鬼は人界に入り込むことを滅多にしない。

 みるからに未熟で、地面を這いつくばるばかりの件の狂鬼の幼生体がどこから入り込んだのか。それも、人家が密集している市街地ではなく、辺鄙な郊外に存在する宝玉院に現れたのだ。

 把握しなければならない点がいくつかあった。進入路、個体数、そして目的である。
 この場合、もっとも重要な点は侵入に使われた道筋と、そして数である。未だにあの狂鬼の幼生と同じ物が隠れているのであれば、それは見過ごすことのできない問題だ。

 ワナトキに頼まれたその日のうちから、シュオウはまず狂鬼の進入路を探した。とくに怪しい迷宮は、単身で地図を借りて乗り込み、底に広がる古い下水道のなかまで調べたが、すでに崩壊して久しいそこに、外に通じる抜け穴は見つけることができなかった。

 夜を迎え、生徒のいなくなった静かな宝玉院の廊下を歩き、自室へと引き上げる途中に、シュオウは狂鬼の進入路について考え、無意識のうちにうなり声をひねりだしていた。
 自室の前で足を止め、鍵を差し込んだ時になり、ふと違和感に襲われ、硬直する。

 ──ん?
 固まったまま、自らに問いかける。
 ──いま、なにが気になった。
 思考にふけるシュオウは目を閉じて寸前まで流し見ていた光景を思い出す。
 ──なにかがあったんじゃない。
 シュオウは首を振って廊下の隅を見やった。
 「なくなってるんだ……」

 それはアズアの空振りした努力によって生み出された、呪いを込めた水瓶だ。

 ここを出入りしているものは限られる。廊下の掃除と洗濯の引き取りにくる給仕の人間と、隣の部屋で伸び伸びと生活しているシガである。

 自室に鍵をさしたまま、シュオウはシガの部屋の戸を叩いた。

 「なんだよ」
 復調して医務室から自室に引き上げているシガは、回復したとはいえ数日満足な食事にありついていないせいで頬がやつれて見えた。

 「廊下に水瓶があっただろ、どこへいったか知らないか」
 シュオウの問いに、シガは猛烈にだるそうに眉をひそめる。

 「水瓶だぁ? 知らねえよ。身体がだるいままなんだ、くだらねえことで呼びつけんな」
 閉じかけた扉の隙間に、シュオウは素早く足を差し入れる。

 「たしかにあった。数日置きっ放しにしていたからおまえも絶対に見てるはずなんだ」

 にらみ付けて真剣であることを訴えると、シガは黒目を上に上げ、ああと声をあげた。

 「あれなぁ……くさかったからアラタに言って捨てさせたんだった、忘れてたぜ」

 さあっと、全身の血が降りていく。凍るように冷たくなった背筋を伸ばして、シュオウはアズアが呪いに用いた本のページを思い出していた。

 「あの粒……たまご……」

 目を泳がせてそう呟いたシュオウに、シガは屈んで顔をのぞき込んだ。

 「お前も……キノコ食ったのか?」

 シュオウは思い切り扉を押し閉める。顔をつきだしていたシガの鼻っ面を扉が強烈にたたきつけた。

 痛みに悲鳴を上げ、怒鳴り声をあげて怒るシガの声を聞き流し、シュオウはとぼとぼと自室へ引き上げる。

 思い返せばそう、あの狂鬼と初めて遭遇した際、襲われていたのはアズアと、そしてユウヒナだった。数多くいた生徒達のなかで、なぜあえてあの日の彼女たちを襲ったのか。その答えを得たのかもしれない。

 ──アズアの呪いは成功していた。

 あの紙のなかに埋め込まれていた黒い粒が、狂鬼の卵だったとしたら。製本されてどれほどの年月がたったのかさだかではないが、狂鬼という人知を超越した化物であれば、長い年月の間、紙の中に封じられながらも、命の息吹を損なうことなく在り続けていたとしても不思議はない。

 そう、無意味だとおもっていた呪いが、孵化のための儀式だったとすれば。それは、あの本に書かれていた内容に沿って対象者に由来する物を投じ、実際に誕生した狂鬼の幼生に襲わせるという単純明快な暗殺法だったのではないだろうか。

 思い出す限り、ページにあった黒い粒は二つ。卵だとすれば孵化した狂鬼はあと一体いるはずである。

 部屋に入り、シュオウは壁に預けてあったバ・リョウキの剣、岩縄をとった。抜いた刃に映る自らの顔を引き締め、奥歯を食いしばる。

 ──あいつに張り付く。

 事の終わりを後味の悪いものにしてはいけないのだと、シュオウは強く決意した。





          *





 宝玉院のあちこちから聞こえてくるその名が耳に届くたび、カデルは面白くないとばかりに猛烈に不機嫌顔をつくった。

 「あーあ、すっかり人気者になっちゃって、あの灰色髪の剣士」

 そうなのだ。リックの言ったとおり、カデルも被害者の一人として数えられた迷宮での化物騒動からこっち、身一つで化物を仕留め、襲われていた生徒達を助け出したと噂になっている、あのシュオウという名の平民師官は、生徒達の間ですっかり賞賛と、それに付随する人気を獲得していた。

 とくに幼年組と、そうではない女生徒たちの過熱ぶりは傍目に見ているだけで鬱陶しいくらいだった。やれ戦場で活躍しただの、王女を命がけで救い出しただのと、真偽不明の武勇伝までが流布し始めている。

 「やっぱり、あいつに謝っておいたほうがいいんじゃないのか」
 からかうようにリックから言われ、カデルは強く反発した。
 「なんであんなやつに謝る必要がある!」

 途端、リックは冷めた調子になる。
 「なんでって、そりゃあいつの持ち物を無くしたまま、知らん顔で過ごしているからじゃないのか」

 反論の言葉はでない。カデルは喉から空気だけを吐き出してそっぽを向いた。

 シュオウの部屋に不法侵入したその日、不慮のことで彼の所有していた翼章を盗んだ形となってしまっていたのだ。機会をみてこっそり返したいなどと考えていた矢先に、カデルは制服の内にしまっていたそれを無くしてしまったのだ。

 なにがあって、ムラクモという大国において最高位の勲章を持っていたかは定かではないが、末代にまで及ぶであろう名誉の象徴を盗み無くしてしまったという現実は、いまや重くのしかかっていた。

 「この状況であいつが騒いでみろよ、化物退治したうえに生徒と主師を救った英雄様にみんな味方するぜ」

 リックの言うとおりだとカデルは思った。だが年と共に肥大していった自尊心が、素直に謝罪するという選択肢を選ばせてはくれないのだ。カデルは一個の人間である前に、ミザントという歴史ある大家の名を背負っているのだから。

 「あやまるものか……あやまらないぞッ」

 そのカデルの一言は、悪友に向けてはいなかった。
 リックは友の宣言を聞いて肩をあげる。

 「勝手に部屋に入ったことを一言くらい詫びようかと思ってたけど、お前が行かないなら俺もいかないよ」

 廊下を歩く最中、多くの生徒達の視線が一点に集まっていた。

 「あれ、アデュレリアと──」

 カデルは口をひらいたまま言葉を止める。
 足を止めた二人の視線の先には、黒髪の女生徒と明るい緑の髪をした生徒が肩を並べて話に夢中になっている姿があった。

 「サーペンティアの姫か……」

 側にいれば互いののど元に剣を当て、離れていても共に相手の死を願う。ムラクモの名物ともいえる二大公爵家の不仲さは、国内外を問わず広く知られている。いま廊下で楽しげに会話をしている二人の少女達もまた、側に寄れば互いを牽制しあう姿を何度も見かけたものだ。

 「最近、かわったよな、ここの空気」
 ぽつりと呟いたリックに、カデルは反論する。
 「あんなのが入り込んでいたんだ、当然だろう」

 「いや、そうじゃなくてさ……まあいいや、行こうぜ。次は眼鏡熊の授業だろ、少しでも遅れたら説教だけで授業時間が終わっちまう」

 駆け足気味に、前を行くアデュレリアとサーペンティアの娘達を追い越そうとしたその瞬間、どこからともなく得体の知れないナニカが這いずって少女達の背後に現れた。ぬめった皮膚はうねって鼓動し、蛇とも魚ともとれないような異様な頭を持ち上げて、黒髪のアデュレリアの姫に、それは襲いかからんとして蠢いている。

 急な出来事に各所から悲鳴があがり、そして突如目の前に現れた化物に、カデルはリックと共に驚いて尻餅をついていた。

 思わず、カデルは目の前の少女に向けて手を伸ばす。が、なにもかもが遅い。化物の頭は今まさに少女に向かって伸びている最中である。

 初手で尻から転んだ時点で、少女を救うためにできたかもしれないあらゆる手段をすべて失ってしまったのだ。

 次の瞬間に訪れる悲劇を思い、カデルは自身の無力さを悔いた。

 だが、それは起こった。

 悲劇などではない。突如天井から舞い降りてきたのは、歴然とした力だった。大きく無骨な剣を振りかざし、勢いままに化物の身体を貫き通す。動きを封じるのと同時に致命傷を与える見事な一撃。それをしてみせたのは、隻眼灰色髪の剣士シュオウだった。

 一瞬、あまりに的確な一撃を放ったシュオウにカデルが言葉もなく目を奪われた。が、それもつかの間、シュオウはとどめをささんと突き刺した剣をぐりぐりと動かして化物の肉をえぐり出したのだ。痛みに苦しむ悲痛な人外の悲鳴があがり、そして傷口から盛大に吹き出した体液と血の雨が、すぐ側で尻餅をついたまま硬直していたカデルとリックに降り注いだ。

 生暖かく、独特な臭気を発する液体を大量に浴びて、二人はぱちくりと瞬きを繰り返した。

 化物の絶命を確認したシュオウは、肩に乗った埃をはたいたような手軽さで、二人の少女の無事を確認している。集まって彼に賞賛を浴びせる他の生徒達を無視して、シュオウは尻餅をついたまま、化物汁をいっぱいに浴びたカデルとリックに声をかけた。

 「怪我はないな?」

 問われた二人は、壊れたおもちゃのように何度も首を振って頷いた。
 二人の少女と、大勢の観衆を背負ったまま、シュオウは報告にいくといって颯爽と去って行く。

 剣を突き立てられて絶命した化物の姿がそこにある。
 しつこくたかってくるコキュを払いながら、カデルは悪友のリックに言った。

 「……あやまってくる」
 リックは唇についた血をなめとり、肩を落として立ち上がった。
 「おれも、いく……」
 集まってきた警備兵たちの心配もよそに、カデルは友を連れ、シュオウの後を追った。






[25115] 『ラピスの心臓 小休止編 第十話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:8e204adc
Date: 2015/02/16 21:08
     Ⅹ 水火の遭遇










 「ワナトキ・エイが、元帥閣下に拝謁いたします」
 床に鼻をこすらんばかりに低頭する老人に、グエンは丁重に声をかけた。

 「老師、楽にされよ」

 宝玉院の統括者であるワナトキ・エイは、感謝を述べつつかすかに顔をあげた。だが両の手は床にへばりついたままである。イザヤが起立をうながしても、ワナトキは床に埋め込んだ根を抜こうとはしなかった。

 グエンにとっては慣れたものである。このワナトキ・エイとは立場上一年に数度の会見の場を持つが、毎度のことで神像に礼拝するかのような大仰な態度をとるのだ。そのワナトキが、急な謁見を求めるのはめずらしい事だった。

 「私も暇をもてあましてはいない。老師、用向きを聞こう」
 「……はい、まずは先日当院に侵入したモノの件についてでありますが……」
 「報告は聞いている。二体目が出て以降、音沙汰はないということだが」

 「まさしく。ですが、いまだ正確な進入経路の特定には至っておりませぬ。それゆえに、いましばらく近衛からの助力をいただきたく、お願いにあがったしだいであります」
 「無用な心配だ。当面のあいだ宝玉院は重警護下におき、期限を設けず継続する」

 ワナトキは顔を深く落とし、恭しく息を吐いた
 「ははァ……ありがたきお言葉、ワナトキ・エイ、感謝いたします──」
 ですが、と続ける。
 「──じつはそれほど心配はしておらんのです」

 グエンは一つ相づちをかえして聞く。
 「なにゆえだ」

 「独自に調査を依頼した者の言葉によれば、後には続かないだろうという見立てでして」
 「当てになるのか」
 「深界によく通じた者の言葉、信憑性はあると信じております」
 「その者は?」

 ワナトキは顔をあげた。心なしかさきほどより顔つきに緊張の色が濃さをましているように見える。

 「シュオウという名の、臨時採用された師官であります」
 「……なるほど」

 グエンは椅子に身体を預け、立てた拳に顎を乗せた。

 「じつは、もう一点お願いしたき事がありまして。いま申しました者の配属について、ご検討していただきたく──」

 身を縮め、ワナトキは深く叩頭する。必死な様子が見て取れ、これが彼の真の目的であったのだろうと、グエンは当たりをつけた。そして何を言い出すかも大方の予想がつく。

 「なにごとか不満でもあったか。かの者の配属に関しては、事前に老師の快諾あってのことだったはず」

 ワナトキは顔をあげぬまま、ぶるぶると顔を振った。

 「不満など、めっそうもありませんッ、いただけるものならこのまま当院の師官として正式な配属を望みたいところです。が、本人が望んではおりません」

 少し予想がずれたことで、グエンは眉間に皺を寄せた。

 「不服を申し立てたのか」
 「いえ……そこまでは」

 グエンは語気を強めた。
 「では、なにゆえにひと一人の人事に老師自らが申し立てをする」

 「は……グエン様、お言葉ながら、適材適所でございます。望まぬ場所で朽ちていく若者の姿を見るにはしのびなく。そのうえ、かの者は優れた才の持ち主。本人もそれを活かせる場を望んでいるようですし、その……」

 グエンは執務机を拳でたたきつけた。

 「黙れ、王括府旗下の人事について直言は許さん。立場をわきまえろ」

 ぶるりと、ワナトキは肩を縮み上がらせた。
 間が悪く、扉を叩く音がした。応じたイザヤは耳打ちで報告を受け、扉を閉める。手には質素な書簡が握られていた。

 「閣下」
 イザヤはグエンに目配せをする。
 グエンは立ち上がり、平身低頭に謝罪を述べるワナトキの元へ歩みよった。

 「老師、話は聞いた。去るがいい」
 「ははァ……」

 恭しく目も合わさぬよう腰を折って退出していく老体を前に、グエンはその背を呼び止めていた。

 「話については一考する」
 むせぶように礼を言って、ワナトキは部屋を後にした。



 老師が退出したのを待って、イザヤは早々にグエンに書簡を差し出した。
 見たところ差出人を示す紋章がなく、グエンは怪訝に眉をひそめる。

 「例の件です、裏がとれたらしく、その証明としての書簡だとか」

 未開封であることを示す薄紙と蝋の封をやぶり、グエンはなかをあらためる。
 「概ね、あの男の話通りということか」

 ターフェスタ聖大公の名のもとに書かれた書簡には、むこう数年間にわたるムラクモ領土への侵攻を一切停止するとの約束、武器や軍馬、兵糧の譲渡と、ターフェスタの国宝である希少な木材〈雪虎〉の献上が約束されている。その代価としてムラクモが支払わなければならないのは、ただ一人の輝士の命だという。

 グエンは一読した書簡をイザヤに投げて渡した。目を通したイザヤは喉を鳴らす。

 「どうおもう」
 「破格の条件であると」
 「然り……」

 腕を組んで口角を歪めるグエンに、イザヤが問う。

 「ご不満がおありでしょうか」
 「あまりに都合の良い話……交渉の域にすら達していない」

 一を渡して十を得るような取引に、いまさらに警戒心が深まっていく。だが、ターフェスタが求めているのは大国でいちにを争う大家の子息の身柄だ。みようによっては、その命は万金に勝るとも劣らないのかもしれない。

 「お疑いはごもっとも、ですが、私はこの話を受けるに値すると考えます。理由は三つあります」
 イザヤは胸に手を当て、足をそろえた。
 「聞こう」
 グエンは頷いて発言を促した。

 「第一に、軍事拠点を統括するほどの立場にある義弟を使者としてつかわしたこと。第二に、人質として太子を差し出す約束をしていること。そして第三に、この書簡に書かれた貢ぎ物の目録です。これら三つの条件はある事実を如実に表しております。すなわち、ターフェスタの領主はこれほどの条件を差し出してまで、彼の者の命を欲している。そうしなければならないという切迫した状況に置かれているのです。つまり主導権は全面的に我が方が握っていることになります」

 グエンはじっくりと頷きながら、組んだ腕で自身の指を小刻みに揺らした。
 「ターフェスタは蛇の子を切願している。渡せば大きな貸しとなるか……」

 熟考するグエンに、イザヤはさらにたたみかけた。
 「お考えください。この件に不手際がおこったとしても、我々が被る損害は軽微なものにすぎません」

 大家の子息を無防備に敵国に差し出すなど暴挙に等しい。それを要求したとて、身分ある良家が子を差し出すわけもなく、強引にそれをしたところで、国内に大きな不和の種を残すのは必定である。だが、それは並の君主が治める国であればの話だ。実質ムラクモの支配者の座に君臨するグエンは、その手のうちにサーペンティア一族をも掌握している。

 「よかろう、どのみちこちらが折る骨などなきにひとしい」
 言って、グエンは席を立つ。
 「それでは……」

 「正式に事を進める。まずはサーペンティアに子を差し出させるため、征北のための演習を名目に、サーペンティア領に関わるすべての交通を遮断する。イザヤ、お前が指揮をとれ──復唱しろ」

 「サーペンティア周辺拠点を封鎖後、白道に布陣。その後、水面下にてサーペンティアの領主と交渉、ジェダ・サーペンティアの身柄を差し出させます。イザヤ・ヴラドウは粛々と司令官に着任、作戦を実行いたします──御意に」

 「よし、あの男に決定を伝えに向かう」



 使者としてターフェスタから秘密裏に使わされたバリウム侯爵を軟禁してある部屋に入ると、中は充満した酒の臭いで満たされていた。

 北方諸国の一つターフェスタの諸侯、ショルザイ・ラハ・バリウムはグエンの突然の来訪を知るや、慌てて手にしていた酒杯を放り出し、膝をついて出迎える。

 「これは、元帥……急なことゆえに不作法をどうかお許しに……」

 謙遜ではなかった。バリウム侯爵は寝間着なうえ、酔った赤ら顔でグエンに対している。
 一軍の将である身にあるまじきだらしなさに、グエンは嫌悪を抱き、手にしていたターフェスタ大公からの書簡を床に投げ捨てた。

 バリウム侯爵は、慌てて書簡を拾い、中をあらためる。表情にはどこか必死な様子があった。

 「……安心いたしました、無事に確認をとっていただけたようだ」
 バリウム侯爵は不健康に濁った眼で、グエンをじっとりと見上げた。
 「それで、お答えはいただけるのでしょうな」

 グエンは微動だにせぬまま、一言告げる。
 「申し出、受ける」
 バリウム侯爵は突如、卑屈な顔を壊し満面の笑みをみせた。

 「いやッ、ありがたいッ、いやいや──ありがたき幸せ! 我が主が知ればどれほどにお喜びになるか。さっそく私自らがこのことをご報告に。約束通り、太子をお連れして戻ります。失礼ながら、さっそく旅の支度を──」

 バリウム侯爵が嬉々として腰をあげた次の瞬間、グエンは人間離れした脚力で距離を詰めた。バリウム侯爵の首を掴みあげて重い身体を宙に浮かせる。

 「な、に……をッ……」

 錯乱し、首を押えて足をばたつかせるバリウム侯爵に顔を寄せ、グエンは鋭利な歯をむき出しにして凄む。

 「たやすく他国へ引き渡すような太子に価値などない。人質は身柄の確認がすんでいる貴様で十分だ。万事、すべて約定通りにすすめばよし。だが万が一にもくだらん策を講じるような真似をすれば、貴様も、そして貴様の愚かな主も塵芥になるまで我が手で握りつぶしてくれる──その旨、よくしたためたうえで主に書簡を用意するがいい。誰を相手に交渉をもちかけたのか、とくと言い聞かせておけ」

 グエンはバリウム侯爵の身体を堅い床のうえに投げた。青ざめた顔で喉を押え、怯えて身を縮める姿に将としての威厳などない。

 グエンが一歩詰め寄ってみせると、バリウム侯爵は震え、咳き込みながらも必死に平伏してみせる。

 「お、おつたえ、いたします……」
 グエンは鼻を鳴らし、入り口で控えていたイザヤに退出を告げた。



 「閣下、お手を」

 部屋をあとにしてすぐ、イザヤが差し出した手巾で手をぬぐいながら、グエンは険しくそりあがった眉根をさらに尖らせた。

 「愚かな主、愚かな従。一国の政の天秤に、ただ一人の命を乗せるとは」
 追従するイザヤも同意する。
 「はい、おっしゃるとおりです」

 首を握ったときについた皮膚の脂をぬぐいおとして、廊下を歩く道すがら、今後の相談を始めた。

 「風蛇が子を差し出したと仮定して、あちらへの引き渡し方法はいかに」

 イザヤに問われ、グエンは瞬間思考する。

 「公式の体裁は繕う、ターフェスタはそれを望んでいるのだからな。正式な外交特使を用意し、件の輝士を帯同させろ」

 ターフェスタ領主からの書簡には、穏便にことを運ぶために、外から見た限りでは計画の全貌を悟られぬような配慮を、と強い願いが書かれていたのだ。グエンはそれも当然のことであろうと承知している。事情はあれど、一国が多くの見返りとともに贄を欲することも、またそれを裏で承知して差し出すことも、対外的に知られれば威信を揺るがしかねない恥ずべき行為となるからだ。

 「それでは、名目は一時停戦のための交渉ということでよろしいかと」
 イザヤの提案にグエンは首を縦に振った。
 「よかろう。彼の者の帯同理由には、特使の護衛という理由をつけくわえろ」
 「は──では、肝心の人選はいかに」
 「現在の待機者は」

 イザヤは即答した。

 「ケイン・ローズ重輝士が待機中です。任務回数五十三回、うち成功達成四十五回、経験豊富なうえ古参で有能な外交官です。適任であるかと──」

 しかし、グエンは快諾しなかった。喉を鳴らし、不満を表明する。

 「──ご不満でしょうか?」

 「この一件、特使として送り出す者には子細を伏せておく。臨機応変に対応できる熟練者は不要だ」

 ターフェスタからの申し出がすべて滞りなく成就する確証などない。この件が相手方の謀《はかりごと》であった場合、特使として送り出した者の命も危ぶまれる恐れがある。そうした状況で失ってしまうには、功ある者は惜しいのだ。

 「他に手すきは」

 「即座に対応可能ということであれば五名が待機中です。クロサカ・アギリ重輝士、ステブ・ハーグ重輝士、ミーサン、ヨセル、ゴウエン重輝士兄弟……」

 イザヤは四人をあげたところで口を止めた。

 「あとの一人は」
 「は、それが……」
 グエンは足を止め、背後に向き直る。
 「かまわん、言え」
 イザヤは気まずそうに一礼して口を開いた。

 「ベン・タール、階級は輝士。請負任務回数は三十にとどきますが、うち達成は十に満たず。四十路を過ぎていまだ昇級は一度のみ、ここのところは礼室で古文書の整理をまかされております。本人は外交任務への復帰を希望しておりますが」

 グエンはあごに触れた。

 「ベン・タール輝士。この件への適性をいかにおもう」

 「不適当です。応用力、人望、知識、礼節のすべてを欠き、難事にあたらせるにはあまりに実力不足。できることといえば、せいぜい物を運んで渡すこと……くらいで……」

 言いつつ、イザヤは目を見開いてグエンを見た。

 「ベン・タールを特使とする。言われたまま愚直に命令を実行させるだけでいい。この一件にかぎっては愚か者こそを適任者とする、今後の反論は禁ずる」

 なおも物言いたげな様子だが、それを押し殺してイザヤは御意を告げた。
 執務室へ通じる階段にさしかかり、グエンは副官に問うた。

 「今日の対外予定はすべてすませたな」
 「はい、すべて滞りなく」
 「ならば、お前は事の準備にあたれ、単独での行動を許す」
 「はッ、命令を実行いたします。それと、一点お伝えしておきたいことが」
 「言え」
 「明後日、早ければ明日にでも、サンゴの姫君が王都に到着予定とのこと。ア・シャラ姫は、到着したその日のうちに閣下との面会を希望されているとか」

 グエンは首肯する。
 「よかろう」
 一礼したイザヤをおいて、グエンは一人執務室へと引き上げた。





          *





 中庭を枯れ茶色に染めた落ち葉を見て、季節が変わるのだとサーサリアは思った。

 長らく部屋に閉じこもる生活をしていたため、季節の移り変わる区切りの頃を目の当たりにする機会は滅多にあることではなかった。中庭に植えられた木々の葉の緑が、徐々に赤く浸食されていくさまが、目に新鮮に映ったのも当然のことだった。

 サーサリアはいま、中庭に置いた丸いテーブルを前に、ゆったりとした椅子に腰掛けている。銀細工の胸当てをして、ごてごてしい装備を身につけた輝士達が幾人もはべったこの状況を、優雅な午後の一時とはとても形容できないが、人肌に冷めた朱色の茶を味わいながら、夏の終わりの空気を肌に感じることができる日光浴は、このところのお気に入りの時間となっていた。

 蝶の羽ばたきのような柔らかな眠気に誘われ、サーサリアは小さなあくびをこぼした。

 「殿下、私の話はそれほど退屈でしたでしょうか」

 親衛隊長アマイの棘のある声をあびせられ、サーサリアはぼやけた眼に力を込めた。

 「そんなことはない」
 アマイは小さくため息をつく。

 「学ぶ時間を、と望まれたのはご自身だったはず。私とて、すでに教職者からはしりぞいた身ですが、御身のためこうして職務外の任務に従事しているのです。きちんと聞いていただけないのであれば」

 小言を聞かされ、サーサリアは唇を尖らせた。
 「ちゃんと聞いていたわ」

 アマイはしたり顔で眉をあげる。
 「では、ムラクモ現王国の初代建国王の名は」

 サーサリアは目をそらした。枝葉の先程度ですら答えが思い浮かばない。
 言い淀み、降参を告げるために顔をそらしたまま、アマイに視線を送った。

 「やはり少しも聞いてはおられなかったようですね」
 叱られた心地に、サーサリアは子供のようにすねてうつむいた。

 「いいですか、建国王の名はいかなる記録にも残されておりません。名前はおろか、性別も不明。わかっていることは、ただ一つ。王家の石、天青石を用いて東方諸国を統一し、東地に安寧をもたらしたことです」

 サーサリアはアマイを睨めつける。名前を聞いておいて、わからないなどと、意地の悪い質問だ。

 おもむろに、サーサリアは立ち上がった。
 「今日は気分が乗らない。続きはまた明日にして」

 一歩踏み出すと、眼前にアマイが立ちはだかった。
 「殿下、席へお戻りください。お教えするはずだった事の半分も終わらせておりません」

 感情の色が見えづらい細い目に見つめられ、サーサリアは声を荒げた。
 「明日にすると言った」

 「明日には明日の事があります。今日できることを今日やらねば。捨てた時間は消えてなくなりはしません、積み重なっていつか我が身にふりかかるのです。御身はそれを知っているからこそ、努力を望まれたはず」

 目を合わせたまま、サーサリアは黙り込む。内面はいざしらず、主に向かって説教を言い放つアマイは涼しい態度を崩さない。むしろ険悪な空気にうろたえているのは、まわりを固める親衛隊の輝士達のほうだ。

 不意に、さしていた陽光が遮られ、辺り一帯が暗がりに包まれた。急な天候の変化か、厚い雲がかかったらしい。

 サーサリアは得意顔になった。雨が降るかもしれないとなれば、中庭での授業の中止をなし崩し的に押し切ることができるかもしれない。

 やがて、顔をあわせていたアマイの眉がわずかに上がった。それは、親衛隊長がわがままを押し切られたときに妥協をしめすときの表情である。

 勝利を確信したのも束の間、足早に伝令が現れ、アマイを呼んで耳打ちする。話に頷くアマイの口元が、一瞬険しくなった。

 「あの人の、こと?」

 アマイは返事を濁し、気まずそうに顔をそむけた。
 懸念は確信へと変わる。いつも明瞭な態度で接するアマイが、サーサリアの思い人の事になると曖昧な態度をとり、ごまかそうとするのだ。その瞬間に漂わす独特な空気を、このところは察知できるようになっていた。

 サーサリアはアマイに詰め寄った。
 「教えなさい──嘘は許さぬ」

 若干のためらいの後、アマイは一礼して観念した。

 「彼がここへ訪れているらしく、その報告を聞いたのです。隠すつもりはありませんでした」
 言い訳をつけくわえるアマイの声は、すでにサーサリアには届いていなかった。

 思い人が近くに来ているのだ。心が躍らぬわけがない。本当なら毎日でも呼び寄せたいくらいだが、迷惑になると諭され、たまの訪問だけで我慢してきたのだ。それも、ここのところは自らの多忙が原因で機会が激減していた。

 遠くない場所にいる。同じ王都にいるのだからいつでも会える。アマイのそうした言葉を頼りにどうにか耐えてきたが、彼のほうから会いに来てくれたのかと思うと、もはやいてもたってもいられなかった。

 サーサリアが駆け出すと、慌ててアマイが止めにはいった。

 「殿下、おまちをッ」
 「とめないで」

 「お気持ちお察しいたしますが、形式というものがございます。会うにしても招くのは殿下の側。衆人の目があるなかで、ムラクモの王女がいち従士を出迎えれば騒ぎになります。私が話をつけてまいりますゆえ──」

 アマイの言葉を待たず、サーサリアは走り出した。中庭の出入り口を塞ぐ親衛隊を、仕草でなぎ払う。

 「どかねばムラクモの名において裁く!」

 彼らはアマイとは違う。主の命には忠実だった。
 自分を止める声も、背後から追ってくる輝士達の足音も、もはやサーサリアの耳には届いていなかった。



 切れかかった息すら気にならない。
 生きるためのすべての力は、足を動かすことだけのために回されている。
 いまこの瞬間だけ、生まれ変わったようだった。

 ──会いに来てくれた。

 思いはその一言で染められてゆく。
 彼が呼ばれることなく水晶宮へ訪れたのは、これが初めてのこと。なぜか、などと考えるまでもない。自分に会うためなのだとサーサリアは少しも疑わなかった。

 長い廊下を駆け、中央広間へと抜ける。
 サーサリアはせわしなく視線を泳がせた。特徴ある銀髪隻眼の青年の姿を当てもなく探す。見つからなければ王宮の隅まで見て回ってもいい。

 幸か不幸か、サーサリアは直後に目的の人物を見つけた。静々と階段を降りてくる彼は、右手でうなじを触りながら、険しく眉をひそめていた。

 無意識に笑みをうかべ、サーサリアはその名を呼ぼうとして胸をふくらませる。しかし、代わりに誰か別の人間が彼の名を呼んだのだ、シュオウと。

 咄嗟に、サーサリアは柱の陰に身を隠した。

 親しげにシュオウを呼び止め、彼に近寄っていく輝士の格好をした二人の女達。うち水色髪の女はなれなれしくシュオウの腕にだきつき、もう一人の金髪の女も媚びるような笑みをみせて、なにごとか楽しげに話しかけている。

 はじめ、迷惑そうにしていたシュオウも、すぐに機嫌を良くして、かすかな微笑みをうかべていた。優しげで、緊張をほぐした優しい表情。自分の前で見せたことは一度もない顔だった。

 サーサリアの顔から笑みは消え、左手は心臓の真上をわしづかむ。

 ──痛い。





          *





 グエンは椅子に身体をおとし、苦い顔で腕を組んでいた。険しく睨めつける視線の先は、閉じた執務室の扉がある。つい今し方退室した者を思い、鼻から深いため息をついた。

 「まさか直接不満を言いに来るとはな」

 呆れ気味に言ったグエンに、副官は怪訝に問いかけた。

 「お会いにならなければよろしかったのでは」

 宝玉院の老師ワナトキの申し入れから翌日。まさにその話に出てきたシュオウが、直接の会見を申し込んできたのだ。立場上、会わずしてこれを拒絶することは簡単なことではあるが、ワナトキの言葉が頭に残っていたグエンは、言葉を耳に入れるためにわずかばかりの時間をさくことにしたのだ。

 最後に会ったときから変わらず、かの者は平然とした態度を貫き、しゃあしゃあと自らの配置換えを望んだ。そして彼の希望は、前任地のオウドに配置を戻すことだった。

 「氷長石にはじまり、その後は親衛隊、オウドの司令官、そして宝玉院。行く先々で、あれを欲しがる者が手をあげる」

 「それだけの者達から求められるだけの力があるのでれば、いっそ近衛に置いて我々のために尽力させてはいかがでしょうか。それだけの実力があることは、すでに証明されていますので」

 「ふむ」
 グエンはまんざらでもない態度であごを引いた。

 彩石のない身でありながら巨大な狂鬼を屠ってみせたと聞いたときから、並の者でないことは重々わかっていた。苦難に立ち向かい、正面からそれを打ち破ってみせる腕っぷしと胆力。それはまさしく、彼に英雄の資質をみたグエンの目が間違いではなかったことの証明でもある。

 ときに図抜けて優れる者は不慮の事態を引き起こしかねない。制御不能に陥るような者は不用であると、一度は意識の外に捨て置いたつもりだったが、事ここにいたり、迷いが生まれていた。

 「利用すべきか……」
 独り言だったが、側に控える副官は即答する。
 「すべきと存じます」

 しばしの沈黙の後、グエンは組んだ腕をほどいて卓を叩いた。
 「決断は保留する」

 使い道を熟考する必要があるとグエンは考える。いまとなっては、どこにくれてやるにも惜しいと思う気持ちが強くなっていた。

 突然に扉が開き、伝令が息を切らせて飛び込んできた。
 許可のない入室に、イザヤが怒声をあびせた。

 「なにごとか!」

 伝令はくずれるように膝を折って声を張った。
 「サンゴ王国ア・シャラ姫が王都にご到着ッ! すでに溜め息橋まで到達しているとのこと。火急の知らせゆえ、ご無礼お許しください!」

 叩頭した伝令にグエンは了承を告げ退室させた。
 「事前の通達は来ていなかったのか」

 焦った様子で、イザヤは首を振った。
 「申し訳ございません。側に置いた者には密な連絡を命じておいたのですが」

 ア・シャラの到着は早ければ今日にも、という報告は聞いていたが、まさか予兆なく突然現れるとは。甚だ予想外のことだった。先遣隊が露払いをかねて報告を寄越すのが慣例である。

 「出迎えの用意は」
 イザヤは怯えるように一礼し、
 「大規模なものをいますぐに、というわけには」
 と苦々しく告げた。

 「正装を用意しろ──」
 いって、グエンは立ち上がって刀剣を腰に差す。

 「閣下御自らが向かわれるのですか。ここへ呼び寄せればすむことでは」
 イザヤは不満そうに喉を鳴らした。

 「南への蓋になるかもしれん貴重な娘だ。この程度の手間は惜しまん」
 イザヤから元帥の黒衣を受け取り、グエンは部屋を後にした。



 一階へ通じる大きな階段を前にしてグエンは立ち止まる。

 ──サーサリア。

 中央広間のすみっこで、柱の陰に身を隠しながらある一点を凝視するその姿。グエンは自然と王女の見る先を追った。

 ──あれは。

 そこには、ついさきほどまで対していた青年の姿があった。年若い女二人にかこまれて、楽しげに会話をしながら去って行く背を、サーサリアは必死の形相で見つめている。

 「閣下?」
 足を止め、じっと下を見つめるグエンに、イザヤは首を傾げた。

 グエンは副官を無視し、サーサリアを観察する。こっそりと覗うように男の背を見つめる姿。悲しげでいて激情に駆られた我を忘れた顔がそこにある。

 手すりを握りしめ、グエンは独りごちる。
 「そうか……」

 ──愚かだった。

 親衛隊長のアマイがシュオウの配属に対して暗躍していたことの理由を、王女救出の功にむくいるための行いであると決めつけていた。だがグエンは、いま目の前に在る王女の顔をみて、それがまったくの誤りだったと得心する。

 ──なぜ気づかなかった。

 これ以上ない簡単な理由だったのだ。シュオウを王都にとどまらせるため、宝玉院への配属を裏で手引きした真の思惑。それはサーサリアが望んだこと。これ以上なく単純で崇高な目的。グエンが遙か彼方に捨て去った、人間が抱く飛沫が如き恋心。

 シュオウを見つめるサーサリアの顔はひどい有様だった。愛憎を抱え、それをどう処理してよいかわからないまま、あがき苦しんでいる。

 ──男が欲しいか、ムラクモ。

 心の中の問いかけに答える者はいない。
 グエンは手すりを握り、強靱な握力で石材を握り崩した。
 ただならぬ様子に、イザヤは半歩後ずさる。

 「イザヤ」
 「は、はい」
 「あれの側にいる二人の娘はだれだ」

 グエンは首をふって去って行くシュオウに注意を向ける。

 「……おそらく、前年の宝玉院卒業試験の合格者達かと」
 どうりで、と思う。容姿にどことなく見覚えがあったのだ。

 グエンはサーサリアから視線を外し、灰色髪の従士の背を凝視した。

 ──使い道、か。

 握って粉々になった石材を捨て、グエンは何事もなかったかのように手を払う。

 「あの三人を例のターフェスタへの外交任務に同行させろ」
 「は……?」

 意味が飲み込めず、イザヤは口をあけてかたまった。

 「言ったままだ。かならずあの三人をまとめて送り出すよう調整をつけろ。誉れであり、先を期待しての研修任務とでもしておけ。このこと、内外によく喧伝せよ」

 要領を得ぬといった様子ながらも、イザヤは聞き返すことなく命令実行を約束した。
 再び視線を戻すと、苦しげに胸のあたりを握りしめるサーサリアの姿があった。





          *





 黒いカーテンをおろした意識のなかで、サーサリアは自分の背後に置き去りにしたはずの親衛隊がまとわりついていることに気づいた。

 「殿下──」
 アマイの言葉はもはや頭に入ってはこない。
 シュオウは二人の女たちと会話を重ね、そのまま王宮の外へと歩を進めていく。

 「だれ──」

 「といいますと」
 聞き返すアマイの声が、猛烈に不愉快だった。

 乾いていた唇を濡らし、サーサリアは振り返った。
 「あの二人はだれッ」

 語気を跳ね上げたサーサリアの周囲には、青黒い霧が漂い、徐々に濃さを増していった。控える輝士たちが怯えて唾を飲み下した。

 「殿下、どうかご冷静に。彼も組織のなかで勤める者です、友人くらいいても──」

 サーサリアはアマイに詰め寄り、怒りにまかせて銀の胸当てを突き押した。

 「聞いたことに答えなさい。あのふたりはだれ、どこの家の者か」

 油汗を滲ませるアマイは、一言ずつゆっくりと言葉を紡いでいく。
 「殿下、お考えのことお察しいたしますが、おやめください」

 サーサリアは奥歯を食いしばり、憤怒の表情でアマイを睨む。
 「知っていて隠しているのなら許さぬ」

 アマイは膝をついて叩頭する。
 「私は存じません。何度聞かれても、そうお答えすることしかできません」

 サーサリアは他の輝士たちに視線を移した。

 「誰でもいい、いますぐあの二人の身元を調べて。本人と家の主はもとより、一族すべてを私の前に引きずり出しなさいッ」

 重い炎にあぶられるような空気を、不意にかかった涼やかな声が吹き飛ばした。
 「くだらんことはやめろ、ムラクモの姫」

 全員が声のしたほうへ向く。広間の奥の通路から向かってくる一人の少女。褐色肌に異国のドレスをまとって、跳ねるような軽い足取りでサーサリアへと近づいていく。

 立ち上がったアマイが、即座に手を振り上げ無言で輝士たちに号令をくだした。親衛隊の面々はサーサリアの前に立ちはだかって壁となる。うち、ひとりの輝士が少女に向かって声を荒げた。

 「きさま、何者だッ」
 少女は不敵に笑む。

 なお歩みを止めない少女に、呼びかけた輝士が詰め寄った。
 「止まれ、さもなくば──」

 手を伸ばして拘束に動いた輝士をするりとかわし、少女は輝士の銀の胸当てを一瞬の動作で蹴り飛ばした。

 輝士は糸でひっぱられたかのように吹き飛び、床に転がって胃液を吐いた。サーサリアの目にうつる輝士の顔は、白目を剥いて生きているかも定かではない。派手派手しい銀細工の鎧には、くっきりと少女の靴跡の形にへこんでいた。

 瞬間、輝士達は不意に現れた少女を敵として認識する。抜剣して身をかがめた。
 少女は敵意の眼を一身に受けてなお、涼しげな顔を崩さない。突き出された剣の前で立ち止まり、腕を組んで胸を張り上げた。

 「ア・シャラである!」

 なにかしらの宣言のように少女が言うと、アマイが意味ありげにその名を呼んだ。
 「ア・シャラ……サンゴの」

 背後からぬるりと前へ出た巨体に、サーサリアはぎょっとして胸を押えた。
 「グエン……?」

 サーサリアへは目もくれず、グエンは群れた輝士たちの間に割ってはいり、ア・シャラの前に膝を折った。
 輝士達の間にどよめきがひろがる。

 「遠路はるばる、ようこそおいでくださった。グエン・ヴラドウが、ア・シャラ姫殿下に拝謁いたします」

 ア・シャラは腕を崩し、腰にあてた。やたらに育った胸を強調するようにさらに背筋を伸ばす。

 「貴様がかのグエン公か。噂に違わぬジジイであるな」

 完全にこの場の空気を飲み込んだア・シャラは、誰もが畏怖の念を抱くムラクモの重臣を相手に、下僕の老人でも相手にしているかのような態度で応じた。

 正門側から輝士たちが大挙して現れる。彼らはサーサリアを守るために現れたというわけではないようだった。息をきらせながら、ア・シャラに駆け寄って抗議する。

 「公主、おふざけも大概にしていただきたい、正門の直前で我らをまくなど──」

 ア・シャラはあっけらかんとそれに返す。

 「この城の表裏を把握しておきたかったのだ。忠告しておくが裏門の警備が薄いぞ。番兵を三人のしたが、増援がくる様子がまるでなかった──」
 ア・シャラは言ってサーサリアを見ながら、口角をあげる。
 「──だがおかげでそこな女の馬鹿面が拝めた」

 サーサリアは驚いて口をぽかんと開く。
 「ば!? おまえ、誰にむかって」

 「男ほしさに権力を振りかざすのはまさに馬鹿の行いだ。真に欲するものは自力で手に入れてみせろ。与えられた力で他者を操り、一方的に邪魔者を消し去っても、あの男の心は動かんぞ。なぜ忠告するか知りたいか? 教えてやろう──それはアレが並の者ではないと、このア・シャラが見知っているからだ。強国の姫であろうと、やすやすと手中に収めることができるような器ではない」

 サーサリアは微動だにせぬまま、一言も返すことができなかった。

 大人びてはいるものの、自分よりいくらか年下であろうア・シャラは、なにを恐れることもなく、拝礼するグエンに部屋の案内をするよう願い出た。

 ア・シャラは去りゆく途中に、棒立ちするサーサリアの側で、
 「またあとでな」
 と、旧知の気安い言葉を残していった。

 さきほどまで身の内に巣くっていた激情をもてあまし、サーサリアはどっと膝をおとした。





          *





 グエンとア・シャラの会談は、時間も相まって夕食会をかねてのこととなった。
 厳かで広い晩餐の間に、細長いテーブルをおき席に案内されると、ア・シャラは即座に抗議を口にした。曰く、もっとくだけた場所がよいのだという。

 外の空気を吸いたいという彼女の願いのまま、グエンは王都を一望できる上階のテラスに卓を用意させた。

 「お気に召したか」
 「うむ、よい。これぞまさしく、民を睥睨する王者の視界である」

 ア・シャラは気勢良く手すりの上に立ち、腰に両手をあてて涼秋の空気を吸い込んだ。

 即席に用意させたテラスの食堂には、夜光石の明かりを配置し、テーブルのうえには、彼女の願い通り、形式張って少しずつ料理を運ぶようなことはせず、雑多な料理を少しずつ皿に盛って置く、市井の酒場の酒のつまみのような方法がとられていた。

 ア・シャラは手すりから降り、席につく。しかし料理に手を伸ばすことなく、傍らに置いていた布で包んだ小箱を取り出した。封をあけると、中から小さな木駒の山と、マスをしいた盤があらわれる。

 「闘棋という、知っているか?」
 グエンは首肯する。
 「南山僧兵から起こった駒取りの遊びですな」

 ア・シャラは頷いて、盤のうえに駒を並べていく。

 「暇つぶしにと渦視から持ってきたのだが、間違えて子供の練習に使う駒おちしたものを選んでしまった。少々思惑がはずれてしまったが、グエン爺、私と勝負をしないか」

 絢爛豪華な食事に目もくれず、勝負を挑んで目を輝かせるア・シャラに、グエンはあごを引いて了承した。

 「お受けいたしましょう」

 ア・シャラはひざを小気味よく叩いた。
 「よしッ、そうと決まれば賭をしよう。失うものも得るものもないのは勝負とは呼べないからな」

 グエンは喉を鳴らし、
 「望みがおありか」
 と聞いた。

 「よくぞ言った。我が身が勝利したあかつきには、ムラクモの従士を側仕えとして配置してもらいたい」

 グエンは奥歯を噛み、口角をさげた。それを見てア・シャラが笑う。

 「その顔、心当たりがあるようだな。おそらく爺の思うとおりの者だろう。我が父将の城をひとりで落としてみせた隻眼銀髪の武者、名はシュオウだ」

 グエンは盤上に指を滑らせ、不揃いな駒を整列させた。

 「ここのところ、よく耳に届く名でありましてな」
 「さもあろう」
 「では、私が勝てばなにをいただけるのか」
 「好きなものをいうがいい。当然、身を切るような内容でも異存はない。でなければ面白くないからな」

 グエンは駒に触れつつ、ではと口を開く。
 「二度と同じ要求をしないこと、というのは」

 ア・シャラは吹き出してグエンをのぞき込んだ。
 「優しすぎるが、いいだろう。乗った」

 突き出した拳に応じ、グエンも握った拳で当てた。
 「持ちかけたのは私だ、先手は譲ろう」

 ア・シャラの申し出に従い、グエンは初手を選んで駒を進めた。

 「守りを捨て初手から攻めてでるか。うむ、私好みの打ち手だ」
 言って、ア・シャラも同様に駒を前へと進めた。

 闘棋はいくつかの役割を担う駒を操り、対戦相手の駒を討ち取りながら、最後に王の駒を奪うことで勝利を得られる。似たような決まり事のある遊びはムラクモや世界各国に存在するが、この闘棋には特徴的な決まり事があった。それは、相手より一つでも多くの駒を討ち取っていないかぎり、王駒を差せないということである。

 ア・シャラの言うとおり、このゲームに本来必要な駒である僧兵や将の位を持つ上級な性質を持った駒がなく、下級に分類される、投、打、蹴の三つの駒と王の駒だけがあった。勝負としては若干物足りないが、しかし三すくみの性質を持つ三種の駒だけでも、熟練した者同士であれば相当な読みあいを演じることができるだろう。

 互いに駒をすすめながら、どちらともなく二人は会話をかわしはじめた。

 「ムラクモ王都をいかにおもわれる」
 「でかい都だ。町並みは美しく、気風もよい」

 ア・シャラは駒を弾くようにおいた。

 「私もひとつ聞きたいことがある」
 「……なんなりと」

 グエンはいって駒を一つ持ち上げる。
 「爺、おまえムラクモが憎いのか」

 下ろした指の下でぱちんと音が鳴る。しかしグエンはもくろみとはまるで違う場所へ駒を置いていた。

 ア・シャラはしたり顔で笑みをつくり、グエンの置いた駒を指さした。
 「これは反則だ。許せば私が圧倒的に不利におかれる」

 グエンは一礼し駒を置き直した。

 「お許しを、指が滑りました──ですが、心外でありますな。なぜそう思われる」

 「私があの馬鹿女を罵倒していたとき、あの場でほんの僅かでも怒りをみせなかったのは、グエン爺、おまえだけだ」

 ア・シャラは軽やかに指を滑らせ、グエンの駒を一つ奪った。
 グエンは仏頂面で深く息をつく。

 「見当違いであると申しておきましょう」

 まるで意に介していないような態度で、ア・シャラは話題を継続する。

 「あの王女個人がきにくわんのか? たしかに、ただ一人のムラクモ王家の血筋があそこまで頭足らずとはおもわなんだが」

 「嫌っておられるのは姫殿下のほうであるとお見受けする」

 グエンは話題の中心点をずらし、はぐらかした。

 「初対面だぞ、嫌うほどあれのことを知らん。それに、いうほど嫌う要素もない。むしろ可愛いじゃないか、頭のなかはただ一人のことで一杯。そのことのみに心を乱され、たやすく我を忘れてしまう。あれはな、紛うことなき弱者の目だ。己を知らず、ただ寄りかかるものを求めて幽鬼のごとく彷徨い生きているだけ。鼻息で吹き飛ばせる者を相手に嫌う理由があるわけがなかろう」

 いまだ十代中頃であろうア・シャラの物腰は、すでに熟達して優れる将の風格があった。それどころか、グエンの見立てでも間違いなくこの娘は王の器である。

 ア・シャラを人質にとって以降、頑なだったサンゴの国主が猛烈に弱腰になったことにも合点がいく。サンゴの王は間違いなく、孫姫のア・シャラを後継に座らせたいのだろう。

 「なるほど、同意はいたしかねますが、筋の通ったお話ではありました」
 「ごまかされた気もするが、まあいいだろう」

 盤上の戦いは続く。

 無言のやりとりが続き、グエンはついに王手への道筋を見いだした。そこへ至るまでの道は遠いが、ア・シャラの腕前からして、すでに彼女にも同じ道が見えているだろう。

 「なるほど……無防備な王を囮とし、最後の一駒まで奪い尽くしたうえで勝負を決める、か」

 グエンはテーブルに拳を置いた。
 「ここまでに」
 ア・シャラもうなずき、盤上に手のひらをのせた。

 「だまされた。初手で極めて攻撃的な打ち手と思えば、まるで真逆ではないか。慎重を極め、勝利を確実なものとするため、粘りに粘る。私がもっとも苦手とする打ち手だ」

 グエンは駒をあつめてすくっていく。
 「語る口を与えられるのは常に勝者のみ。ゆえに勝利に華は不要」

 「劇的でなくとも勝てばいい、か。なるほど、この闘棋は演者の心をなによりもよく表すとは、よくいったものだ」

 盤と駒を粗方片付けてしまうと、ア・シャラは立ってグエンを見下ろした。

 「グエン・ヴラドウ。三百年以上前の我が国の古文書のなかに幾度かその名が刻まれていた。おまえはどれほどの時を生きている」

 「国事にかかわること、もうせません」

 ア・シャラは鼻で笑う。
 「おまえに負けたことを恥じはせんぞ。同じ時を生きたなら、私は決して負けはしない」

 勝ち気な大きな瞳はまっすぐにグエンを見つめている。
 グエンはおもわず、目を背けていた。ア・シャラの聡明な眼に、身の内に巣くったものがあばかれてしまうのでは、という根拠のない不安が湧いたのだ。

 「だが惜しい。やはりあの男を私にくれぬか」
 「かの者の配属はすでに決定したことゆえ」

 そう断じると、ア・シャラは未練ありそうに溜め息をおとした。

 「あれをはべらせて、ムラクモの王女をくやしがらせてやりたかったがな──ちなみに、どこへやるつもりだ?」

 グエンがその問いへの答えを渋ると、ア・シャラは媚びるように全身をしならせる。

 「いいだろう、数百年と生き続ける大木のような化物を相手に健闘したのだ。慰めの褒美くらいはよこせ」

 「他国へやる特使の付き添いとして配置いたす」
 ア・シャラは素っ頓狂に声をあげた。
 「つまり、外交任務ということか」
 「然り」

 頷くと、ア・シャラは消沈して顔を陰らせた。

 「つまらん事をさせるのだな。あれがオウドにおいてただの雑兵に甘んじていたことも合わせ、ムラクモはシュオウという人間を過小評価しているぞ」

 「……おなじようなことを言った者がおりました」

 「グエン爺、あいつを重用しろ。あれは我が身一つで城を落とすほどの男だぞ」

 ア・シャラはすっかり冷めた料理の皿から、骨付きの肉を手づかみで取り、直接ほおばった。
 グエンはア・シャラの物言いにかえすことなく、冷たくなった汁物を喉へ運ぶ。

 ──シュオウ。

 その名をおもえば、あの眼光鋭い仏頂面が頭に浮かぶ。
 ア・シャラのいうことはいちいちもっともである。だが、わずかに芽生えていた彼の者に対する執着は、すでに霧散していた。
 グエンにとってその名は、サーサリアの心を乱していたかつてのリュケインの花と等しく、勝利のために使い潰すだけの盤上に踊らせる雑兵の一つに数えられていた。





          *





 骨の折れる任務を片付け、父オルゴア・サーペンティア公爵の本領へ帰還したジェダは、いつものごとく持参した土産を片手に、姉の元へ向かって馬を進めていた。

 領主の城の周辺を覆う森のなかに、ひっそりと隠すようにおかれた姉と暮らす家は、しかし、いつもの静かな様子を一変させ、物々しい重警護下におかれていた。
 平素から見張り役として駐屯している女をみつけ、ジェダは理由を問いかけた。

 「なにがあった」

 しかし、女は険しい表情のまま明確な返答を寄越さない。

 「ご当主さまのご命令です。何人であれ、この先の邸へ立ち入ることを禁ずると」
 「なにを言って──」

 ジェダが一歩詰め寄ると、女は剣を抜き、周囲で様子を覗っていた者達も一斉に攻撃態勢にはいった。

 「もう一度いう、すべて蛇紋石さまのご命令。抗うのなら容赦はしません」
 「姉は、ジュナは無事なのか」
 「なにもお答えできません」

 力なく両手をたらしたジェダの顔からは、すっかり笑みが消えていた。



 サーペンティア公爵が住まう風蛇の城は、まるで戦時下のごとく城門を硬く閉ざし、物々しい数の警備兵を配置していた。
 門前に陣取り道を塞ぐ一隊に声をかけると、彼らは険しい表情で手にした短槍を突きつけた。

 「とまれ!」
 「ジェダ・サーペンティアだ、当主に用件がある、道をあけろッ」

 公爵の息子であると名乗っても、彼らは得物をしまわなかった。

 「通すなといわれております!」
 ジェダは余裕を消した顔で歯をむき、左手で自らの髪を掴んで見せた。

 「僕をサーペンティアに連なるものと知ってもか」
 「まさに、あなたを通すなとの命令をうけているのです」
 「なんだと……」

 体中の血が凍えるように冷え下がっていく。
 一瞬完全停止した思考を取り戻す間もなく、城門の側の小扉を押し開き、覚えのある人間が姿をみせた。ジェダは慌てて彼の名を呼ぶ。

 「エルデミア! どうなっている、これはいったい」

 父オルゴアの側近の名を呼ぶと、彼はまるく剃りあげた頭をなでながら、顔色一つかえることなくジェダに歩み寄った。

 「お父上からです」
 エルデミアは書簡をたずさえ、それをジェダに手渡した。

 むさぼるように封をあけ、ジェダは紙に書かれた文字を目で追う。
 「ターフェスタに向かう特使の護衛……なんだ、これは」

 北方諸国の一つターフェスタは、ムラクモと頻繁に小競り合いを繰り広げてきた国である。ジェダはその防衛戦に幾度も派遣され、そのたびにそれなりの武功をあげてきた。だが、自他共に認める残虐な方法が元となり、ジェダ・サーペンティアの名は悪名として知られるようになっていた。

 ひかえめにいっても、ジェダはターフェスタの人間、とくに輝士階級にある者達からは蛇蝎のごとく恨まれている。そんな身の上で講和のための特使の護衛にいけなどという命令は、荒唐無稽を通り越して、自殺を促されたことと同義だった。

 ジェダが書簡を読み終えたのを確認し、エルデミアは手の内からするりとそれを取り上げた。止める間もなく、そのまま手の中で紙をちぎり、粉々にして風のなかにまき散らした。

 「なにをする」
 ジェダの問いに、エルデミアは岩のように微動だにしない顔で告げる。

 「密命でございます。口外は無用、そして受諾の後は早々に王都に向かわれたし、と」

 柄になくジェダは激高した。
 「父上から直接の説明を受けることなく、このような命令を受けられるものか!」

 エルデミアは冷たく返す。

 「さらに言伝がございました。お父上はこうおっしゃっております、姉君のこと一切の心配は無用であると」

 ジェダは口を閉ざし、ふらつく足取りで一歩二歩と後ずさった。吹き下ろした風に誘われ、父の住まう風蛇の城を見上げる。

 「……命令、たしかに受けたとお伝えしろ」

 「は」

 乗ってきた馬を引くのも忘れ、ジェダは単身、城に背を向けて歩き出した。
 その顔から笑みは消え、これまでどうやって笑っていたのか、思い出すこともできなかった。





          *





 枯れ葉が舞いはじめた王都で、シュオウはシガを伴って水晶宮を目指し歩を進めていた。

 「じゃあなにか、リシア教圏の国にいって紙切れ一枚渡してこいってことか」

 新たな配属と任務について、シュオウが話すとシガは呆れ口調に吐き捨てた。
 自身が所属する第一軍からの正式な命令書に記されていたのは、隣国ターフェスタに向かう特使の付き添いという、シュオウの望みとは遙かに異なる内容だった。いまはちょうど、その任務へ帯同する者達の顔合わせをするため、待ち合わせ場所へ向かう最中である。

 シガは大きなあくびをして、じゃあと言葉をつないだ。

 「お前みたいな下級軍人が外国にいってなにをするんだよ」

 シュオウはむすっとして返す。
 「……荷物持ち」
 シガは吹き出して笑った。

 「うすうすわかっちゃいたが、この国の軍部は阿呆揃いだな。おまえみたいなのを雑用係にするなんて。俺の育てのじいさんが言ってたぜ、名剣で大根の皮を剥くやつは救いようのない阿呆だってな」

 シガの物言いはぶっきらぼうだが、遠回しに褒められたような気もして、悪い気はしない。
 シガは両手で首をささえながら天を仰いだ。

 「北か……悪くねえな。いもしない神を拝む間抜けどもの面をおがんでやるか」
 「ついてくるきか?」

 シュオウの問いに、シガは目をまるくして立ち止まる。

 「なんだよ、契約を解消したいってのか」
 「いや、宝玉院を出てもいいのかと言いたかったんだ」

 シガは不思議そうに眉を歪める。
 「どういう意味だよ」

 「……あそこに残りたければ、たぶん残れるぞ。正式に雇ってもらえるかもしれない」

 あの事件以来親しく話をするようになったワナトキは、シガのことをたいそう気に入っていた。乱暴にみえるが、案外生徒達を束ねるのがうまく、いまとなっては望んで彼の跡をついてまわる弟子の数も増えている。

 「冗談だろ、あんなガキどもで溢れてる場所、いつまでもいられるかよ」
 「本当にいいのか」

 「何度もいわせんな、それにな、お前についていったほうがうまい話にありつける気がするんだ。ちまちま稼ぐのはごめんだし、金もからっぽになっちまった」

 シュオウは絶句する。アイセの父親から譲り受けた品を売りさばいた金は、一朝一夕で使い切れるような額ではない。その半分も受け取っておきながら、それを使い果たしたという。

 「あれだけの金、なにに使ったんだ」
 「馬を買った」

 自慢げに歯をみせて笑うシガに、シュオウは仏頂面で聞き返す。

 「何頭の馬を買えばあれだけの金が一瞬で消える」

 「一頭に決まってるだろ。俺の体格を支えてまだ余裕のある上等な軍馬だぞ、これでも値切るのに五日も通ったんだ」

 嬉しそうに五本指を立てるシガに呆れると同時に、シュオウは背筋に寒気を感じていた。

 「また、おまえの食費をださないといけないのか」
 「そのかわり、給金は出世払いにしてやるよ」

 堂々と言って歩き出した大きな背を見つめ、シュオウは嘆息する。
 そもそもシガの同行が許されるかも定かではないが、そのことの決定権をもつだれかに、拒否してほしいと願わずにはいられなかった。

 「ところで、お前が持ってるその本、なんだ」
 シガはシュオウが懐に抱えた二冊の古書のことにあごをむけた。

 「仕事の報酬にもらった」
 「古ぼけた本を二冊、か?」

 シガは訝って鼻をならした。

 「ただの本じゃない」

 意味深に口元をにやつかせ、シュオウは本の中を開いてみせた。
 「なんだよ……よめねえぞ」

 シガは屈んで本をのぞき込み、目を細めて顔を近づけた。

 「呪いの本、だからな」
 言うと、シガは慌てて顔を遠ざけた。
 「うえ?!」
 青ざめた顔で目元をひくつかせるシガを、シュオウは笑った。



 すこしして城門の先に佇む者の姿が見えてきた。
 「あいつらか」

 シガに問われ、おそらくそうだろうとうなずき返す。

 一人は神経質そうに親指の爪を噛む中年の輝士。そしてその隣に佇む見覚えのある人物が三人。アイセ、シトリの二人と、アデュレリアで見かけて以来の男の姿。

 シュオウは意外な人物の姿を見つけ、目を見開いた。
 「あいつ……」

 麗しい薄黄緑色の長髪をたなびかせ、佇むジェダ・サーペンティアの顔に、いつも浮かべていた微笑はなかった。





          *





 ワナトキ・エイは主師のマニカを伴って、宝玉院のなかをゆるりと歩いていた。

 「行ってしまったね」
 しわがれた声でしみじみと言うと、マニカもそれに続く。
 「ええ、なんだか静かになってしまったような気がします」

 広い中庭にさしかかり、シガが時間をかけて少しずつ持ち込んだ奇妙な訓練道具や、特製の長椅子が、そのまま置かれている。

 「あの灰色髪の子はね、よくそこの木陰に体を預けて本を読んでいた。私はあの姿が好きでね。不思議なんだ、彼のまわりだけ、まるでゆっくりと時間が流れているような気がして、見ているだけで心が和んだ」

 「ええ、たしかに形容しがたい空気を持っていました。鋭くも、おだやかで」

 生徒達の授業もあらたか終わり、彼らが帰路につく夕暮れ時。しかし集団となって訓練場へ向かう一団があった。

 「すっかり定着してしまったね。南方人の彼が残していった置き土産は」

 シュオウが連れ込んだガ・シガという名の若者は、自身が得意としていた南山仕込みの拳闘術を、教えを望む生徒達に与えた。それまで華麗な所作で剣を振るっていた彼らは、薄着でたくましく拳を振り、心なしかその態度にも自信がみなぎっているように思う。

 「苦情も届いているんですよ、跡取り息子におかしなことを教えるな、などと」

 「放っておきなさい。己の肉体一つで苦難に立ち向かうという異郷の理念。けっして悪いものではない」

 平素ではありえなかったこの状況。柔軟さに欠ける輝士教育に生じた新たな芽吹きを、ここで絶やすのは惜しかった。

 「後を継ぐ者を探してもいいかもしれないね」

 ワナトキがそう言うも、マニカはまだ若干の抵抗があるようだった。
 和気藹々と訓練場へ向かう子供達に手を振って、ワナトキは茜色の空を見上げた。





          *





 一夏のあいだ、ムラクモではいくつかの風変わりな出来事がおこった。
 宝玉院を中心としたいくつかの不可思議な現象は、その出所も定まらないまま、しばらくの間、界隈を賑わす話題の一つとして人々を楽しませた。

 そしてなにより、それまでまるで存在感の薄かったモートレッド伯爵家の当主が、突然の王女サーサリアからの招きを受け、小躍りしながら水晶宮を歩き、見送りまで受けていた様は、当分の間語りぐさになったという。





[25115] 『ラピスの心臓 外交編 第一話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:8e30797a
Date: 2015/02/27 20:31
     Ⅰ 逆風












 白熱する太陽の光線は雲に柔らかく遮られ、市街を覆う濃霧と溶け合い、白昼夢のように、とある聖堂の一室を照らしていた。

 その部屋には重々しい儀式用の台座があり、薄白布をかぶせた遺体が置かれている。
 爆ぜるように扉を押し開けて、台座に駆け寄った老人、ライコン・ヴィシキは嗚咽を漏らし、手向けに置かれた花々をなぎ払って、むごい現実を覆い隠す白布を引きずり落とした。

 あらわれた現実と対峙して、ヴィシキは一瞬声を失った。
 「……これが……私の可愛い孫娘、エリミオ……だというのか……」

 齢二十を迎えたばかりの孫娘の成れの果て。その姿は、多くの人々に溜め息をつかせた美女としての面影もない。
 切り離された五体各所は黒く太い糸で強引に縫い合わせられ、薄らと開かれた眼は、なにも映すことなく青白く濁っている。

 リシア教会〈女神派オトエクル〉三大主教の一人であるライコン・ヴィシキは、日頃かぶった威厳ある仮面も忘れ、目鼻からあふれんばかりの悲しみを漏らし、背後に控え伏礼する男に錫杖を投げつけた。

 「貴様に預けたすえがこれだッ」

 ヴィシキは男に詰め寄り、震える頭を踏みつける。成すがままされる男の名は、ドストフ・ターフェスタ。一国の領主であり、ターフェスタ大公と呼称される身分にあった。

 「お、お許しをッ、なにとぞ、お許しを──」
 「黙れ、黙るがいいッ。卑しいターフェスタの小せがれめ!」

 ヴィシキは繰り返しターフェスタ大公の頭を踏みつける。なお気が収まらず、落ちた錫杖を拾って、うずくまる体を打ち始めた。

 「離ればなれになってしまった体では、もはや神の御許にかえることすらできぬッ。あれほど前線に置くなと言っておいたはずであろうに!」

 ターフェスタ大公は必死に許しを請い、悲鳴にも似た泣き声をあげた。

 「申し訳ございませんッ、ですがエリミオ様ご本人が望んだことだそうで──」
 それはこの状況において、烈火に油樽を投げ込むに等しい言葉だった。

 老体に似合わず、馬鹿力でうずくまるターフェスタ大公を引きはがしたヴィシキは、仰向けになったその身を踏みつけ錫杖の先で顔を繰り返し殴りつけた。

 「我らオトエクルの後ろ盾なくして、ターフェスタが平穏無事に国土を守れるものか、とくと考えるがいい。そのうえ貴様は神の御石すら持たぬ卑小な主君ッ」

 打たれ鼻から血を流しながら、ターフェスタ大公は懸命に両手の平で顔をかばう。
 「仰るとおり、仰るとおりでございます──」

 手を止め、肩をゆらすヴィシキは血の気が下がるのを感じ、糸が切れた人形のように尻をついた。弱り切ったターフェスタ大公と目を合わせ、台座に横たえられた愛する者の亡骸を指さす。

 「だれがしたことかわかっておろうな。戦の流儀を捨て、美しかった孫娘にこれほどむごい死を与えたのがいかなる者か……知らぬわからぬとは言わせぬぞ」

 ターフェスタ大公は小刻みに数度頷いた。

 「……すでに、我が国の輝士の間で、その名を知らぬ者はおりません」

 ヴィシキは這うようにターフェスタ大公に迫り、歯をむき出して顔を寄せた。

 「その愚物を生かしたまま捕え、我が前に引きずり出すのだッ。己のした蛮行を悔いるまでこの手でなぶりつくし、命乞いをさせ、最後には死を望むまで痛めつけ、大罪にふさわしい苦痛と恥辱に満ちた凄絶な死をあたえてくれるッ」

 浅く呼吸を繰り返すターフェスタ大公は、震えるように小さく首を振り、すがるようにヴィシキに手を伸ばした。

 「それが、エリミオ様を殺めた者は、東方四石に連なる公子でありまして……」

 激高したヴィシキはターフェスタ大公の手を跳ね除け、その首に手をまわした。

 「相手がムラクモの王族であろうとかまわん、必ず我が前に跪かせるのだッ。できぬというならば、オトエクルは今後一切ターフェスタを庇護せぬぞ。北は野心あるホランド、南は異教徒、東に大壁が如きムラクモを前にして、我らの支援なしにターフェスタが一国として成り立つものか。考えるまでもないはずだッ」

 すごみをきかせるヴィシキと目を合わせたまま、ターフェスタ大公は壊れた玩具のようにただ繰り返し頷くのみであった。







 ターフェスタ領主ドストフ・ターフェスタは自室にこもり、老宰相ツイブリと顔を合わせて密談を交わしていた。

 「ああ、なんということに、私はどうすればよいのだ」

 頭を抱えるドストフの前で、ツイブリは指を合わせてもっともらしくうわずった声をあげる。

 「猊下よりお怒りいただくことは覚悟のうえでしたが、よもや孫女様を殺めたものを差し出せ、とまでおっしゃるとは……」

 ドストフは薄い髪をかきまぜ、後悔を滲ませた嗚咽をもらす。

 「私のせいだ、ついあの方の迫力に押され、殺めたものを知っていると言ってしまった」

 ツイブリはドストフの肩をささえる。

 「よいのです、殿下。件の公子の名はすでに知れ渡るところ。隠していたところで、すぐに猊下のお耳に届いていたのは間違いありません……しかし、こうなってしまっては、国庫を半分差し出せといわれたほうがまだしも簡単にすみました」

 「そうだ、そのとおりだ。よりにもよって相手は蛇紋石預かる風蛇の子。戦場においても出陣は不定期ときく。出てきたところで、人馬入り交じる深界の戦場でひと一人を見つけ、生け捕りにしろなどと、とうていうまくいくものか……」

 ツイブリはドストフから手をはなし、腰に手を当て部屋のなかを歩き始めた。

 「しばし時を置いて再度面談に臨まれるのはいかがでしょう。猊下はご遺体を前に興奮しきっていた様子。すこし時を置けば、多少なり冷静さを取り戻されるというもの」

 ドストフは顔をあげ、鼻がもげんばかりの勢いで左右に振った。

 「それはないッ、あの顔を見ておらんからそんなことが言えるのだ。威厳あり穏やかであったヴィシキ老のあの顔……邪教の信徒どもが拝む下品な偶像も逃げ出すであろう有り様であった」

 ツイブリは深く鼻息をおとし、あごをなでる。

 「さようで……であるならば、やっかいなことになりました。今現在、オトエクルの支援をなくしては、我が国存亡の危機にかかわりますぞ」

 ターフェスタは東西南北に連なる交易路の中継地として、かねてよりその名を広く知られる都市国家である。しかしそこを治める領主には代々王の石とも呼ばれる燦光石がなく、ターフェスタは領地安堵のためいくつかの後ろ盾を必要とした。その一つが聖リシア教内部において一大派閥として強権をふるう、女神派オトエクル教会の存在である。

 異教圏である南、また神を持たない東方ムラクモという国家をのぞいても、北方から西方に数多存在するリシア教圏国のおおくは、ターフェスタが有する豊富な通行税収をうらやみ、虎視眈々とその領土を狙っていた。

 「蛇紋石の子をさしださねば猊下のお怒りは収まらん。しかしそれはおいそれと手に入るようなものではないッ。どうすればよいのだ、わたしはどうすれば……」

 長椅子に横たわり、子供のように泣いて頭をかかえるドストフ。その傍らに腰掛け、ツイブリは血走った眼を見開いてうなり声をあげる。

 「力尽くで捕えることができぬとあらば、策を講じればよいのです」

 ぴたりと泣き止んだドストフは、腫らした目をこすり、強く鼻をすすった。

 「策といえ、いったいなにができる。よもや、サーペンティアに直接交渉をもちかけ、子息を寄越せとぬかすつもりではあるまいな」

 ドストフの軽口に、しかしツイブリは同意する。

 「その通りでございます」
 「……馬鹿を、言うな」

 「ですが、それしかございますまい。現実的に考え、我らが自力で件の人物を手に入れられるかの確証はありません。ならばことを単純に考えるのです。我らが猊下への贄を手に入れるためにもっとも確実な道は、相手方の同意を得るための交渉でございます」

 ドストフは目の前の小卓を叩いて激怒した。

 「他国に子を差し出せと言われ、命を奪われることをわかっていながら頷く親がどこにいるッ。そのうえ相手は東方の大貴族なのだ。家名に泥を塗るようなこと、検討すらするはずがない」

 ツイブリは膝をつき、仰々しく伏してみせた。

 「大公殿下の明智あるご推察、ごもっともにございます。しかし、交渉を持ちかける相手をお間違えになっておられる」

 「なに……」

 「東地ムラクモにあっては、サーペンティア、アデュレリアの二大公爵家ありとも、さらなる高見にあって彼の家々を牛耳る者、これ在り」

 ドストフは唾を嚥下する。
 「グエン・ヴラドウ、か」

 「ははぁ──その者の名は天地に轟き永年を生きる大樹の如く。今代においてはムラクモ王家であろうとも、彼の者の言葉は無視できぬと聞き及びます」

 「ええい、だからどうだというのだッ。話し相手が蛇から樹にかわっただけではないか」

 「彼の者、伊達に長命であるわけではありませぬ。よき耳と目を持ち、最良の結果を判断する心を持っておられる。大事は常に東地国土の無事。そのための労ならばなにを惜しむことのない御仁にて。欲する物がわかっている相手となれば、交渉ごとにこれ以上優位なことはありません。望む物を差し出し、引き替えに蛇の子を求めればよいのです。サーペンティアとて、グエン公の命においそれと逆らえるとは思えませぬ」

 「しかし、いったいなにを差し出すと……各地を見渡しても、ムラクモほど富める国はそうあるものではないぞ」

 「なに、簡単なこと。我らが向けた矢の先を当面の間下げると約束すればよろしい」

 宰相の提案に、ドストフは苦々しく頬を垂らした。

 ターフェスタはもとより、リシア教圏にある諸国家には、聖リシアの教主より異教を崇める蛮族を駆逐せよとの号令がかけられている。隣国に多くの異教国と接しているターフェスタは、かたちだけでも他国への定期的な侵攻をしなければならない事情があった。

 燦光石を持たない代々の当主には、国土を失うという慢性的な被害妄想を抱く傾向があり、今代の当主ドストフにおいては、歴代でも例に無いほど、強烈な劣等感にさいなまれた性格の持ち主であったがため、虚栄のため見栄のために、とくに資源豊富なムラクモの領土を勝ち取るべく、定期的に勝ち目のない小競り合いをしかけては敗北を繰り返していたのだ。

 「他国の目あるなか、この私に日和れともうすか!」

 声を荒げたドストフは、興奮して小卓を蹴り上げた。
 ツイブリはさらに頭を床にこすり低頭する。

 「めっそうもございません。ただ損得の計算を、と申し上げているのです」

 「しかし、私が矛を収めればターフェスタの名は笑いものとされるであろう! かねてよりこの地を欲すると公言するホランドなどは、まっさきに手を伸ばすにちがいないッ」

 「オトエクルの後ろ盾あるいま、ホランドごとき弱小を恐れる必要などがどこにございましょう。失うもの、得るものを的確に勘定せねば、それこそターフェスタは国名を失うことになりかねますまい」

 「しかし……」

 「殿下、ことを単純にお考えになられませ。我らは蛇の子を是が非でも手に入れる必要があり、そのための門戸を開く鍵は少ない。ですが幸運なことに、殿下はその鍵のうちの一つを手にしているも同然なのですぞ」

 しばしの沈黙の後、ドストフはやはり不安げに喉を鳴らした。

 「だが、あのムラクモが、停戦を呼びかけた程度で無茶な交渉に応じるとはおもえん。なにより、グエン・ヴラドウは私の言葉に信を置かぬはず」

 「なれば、信じるに足るだけのものを用意するまで。地位ある者を密使とし、人質を差し出し、加えてまばゆいほどの貢ぎ物を奉じるのです。もとより猊下から多額の金銭を要求される覚悟はありましたゆえ、安いものでございましょう」

 ドストフは唸り声をあげ、神妙に両手を組み合わせた。

 「ことがうまくいくと仮定して、蛇の子を迎え入れる名目はどうなる。拷問と処刑のために差し出せなどと、受ける方も出す方も、大恥をさらす羽目になるぞ」

 「そこはいかようにも。交渉を持ちかける際、正式な特使として使わす体裁を整えるよう配慮を願いましょう。我らは堂々と蛇の子を引き受ければよろしい」

 「しかし、戦場での殺生を罪に問うことはできぬ。公式の特使を拘束するには相応の理由が必要になる。並たいていのことでは世の目は欺けん」

 「その支度、この老骨にすべておまかせを。万死に値するふさわしい罪を用意し、蛇の子に着せてごらんにいれましょう。誰に憚ることなく、我らは罪人を処罰すればよいのです」

 ドストフは視線をながし、とめどなく頷いた。

 「よい、よいぞ……」
 「さらに、義弟君を密使とし、太子様を人質としてグエン公へ引き渡すこと、お許し願いたく」

 ツイブリの願いに、ドストフは激高した。
 「ならん! へりくだるにも限度があるぞッ」

 「お怒りごもっとも。しかし差し出すものが破格でなければ、停戦を約束する言葉に信を得られませぬ。どうかご再考を、身を切らねば真に欲する物は手に入りません。蛇紋石の子の値段、とくとご再考のほどを」

 ドストフは沈黙の後、倒れ込むように長椅子に腰をおとした。

 「なんと情けない……血族の身をさらさねばならんほどに、このターフェスタ大公に力がないとは」

 ドストフは諦めの境地に達していた。力なく一言、許すと告げる。

 「この一件、踏み誤れば奈落の底に落ちる朽ちた吊り橋のようなもの。信用の置ける一部の者のみに話を通しましょう。〈冬華六家〉の長に現場指揮をまかせたく存じますが」

 「デュフォスならば……よかろう。しかしプラチナは──ワーベリアム准将はいかにする。あれが事を知ればかならず公の場で諫言するぞ」

 ターフェスタを支えるもう一つの実質的な後ろ盾として、燦光石を有するワーベリアム一族の存在があった。〈銀星石〉の冠を戴くワーベリアム一族は、遙かな過去に謀略の果てに国を追われ、流浪の果てに彼らに手厚い保護を与えたターフェスタ一族の恩に報いるため、代々大公家に忠実に仕えてきた臣下の家系である。

 今代の女当主プラチナ・ワーベリアムは、齢五十を超えてなお若々しいままであり、優れた人格と勇猛果敢で有能な将軍として、多くの者達から厚い信頼と羨望を受ける傑物である。しかし、その存在は劣等感にさいなまれるドストフにとって、目の上のこぶ以外のなにものでもなかった。

 それを感じ取ってか、プラチナは本来国軍の最高位にあってもおかしくない身ながら、昇級を固辞し続け、いまだに准将の位のまま、現在は活躍の機会がない都の治安維持を統括する立場に身を置いていた。

 「義に殉ずるワーベリアムならば、この一件にかならず口を挟むこと、とくと承知しております」

 「あのよどみない銀の瞳に見つめられ、たれながされる正論を聞くのはこりごりだ……アレが声高に反対を述べれば、皆がその言葉に耳を傾けよう」

 「であれば遠ざければよろしい。理由をつけ対北要塞メラック門へ送るのです。虎視眈々爪を研ぐホランドへの牽制にもなりましょう」

 「北門か……しかし、あの卑しいホランドは我が国土と合わせ、かねてよりワーベリアムの忠誠を欲していると聞く。目の前に置けば、あれがその言葉に耳を貸すやもしれんぞ」

 「ご心配ごもっとも。ですが、彼の地は奥方様の古里バリウムを背負う土地。准将の動向に目を配るのに難はありますまい」

 ドストフは無言のまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。伏した宰相に歩み寄り、その肩を持って立たせ、一つ大きく頷いた。

 「すべてをまかせる。よきにはからえ」
 「ははッ」







 「ワーベリアム准将閣下のおなありい──」

 やたらに美声を鳴らし、若い兵士の一人がそう声をあげると、ターフェスタ市街地の裏路地に詰めていた複数の兵士たちが一斉にひざまついて頭を垂れた。

 左右に割れた兵士たちの間を歩く准将プラチナ・ワーベリアムは、深刻に眉をひそめ、しずしずと前へ歩を進めていた。

 ターフェスタに一つのみ存在する燦光石、白銀に輝く〈銀星石〉を手甲に乗せ、真昼に煌めく粉雪のようにうつくしい銀髪を揺らす。赤の軍服の上から重厚な鎧を纏い、純白のマントをはためかせる後ろ姿に、プラチナの副官の一人であり叔母姪の関係にあるリディア・ワーベリアム重輝士は、うっとりとみとれて溜め息を漏らした。

 プラチナはリディアとは違う種の溜め息をこぼし、振り返る。
 「解散させなさい、人死にがあった場所で不謹慎でしょう」

 リディアはつんと鼻をあげ、片目にかかった長い髪を肩へ払う。
 「叔母上さま心外です、私がさせているのではありませんわ」

 横目で銀色の瞳にじっとりと見つめられ、リディアは頬を硬くして目をそらした。

 「地区外の警備兵が勢揃いしているじゃない。誰かが事前に予定を伝えなければ、こうはならないはずよ──」
 プラチナは足を止め、肩を並べて膝をつく兵士らに手を払った。
 「──担当地区外の者はいますぐ自身の持ち場に戻りなさい! 現場を荒らさないよう、足運びには重々注意を払うように」

 鶴の一声でそそくさと兵士らが退散していくのを見送り、プラチナはリディアの太ももをぺしりとはたいた。
 「制服が短い」

 リディアは片方の頬をふくらませ、
 「これでも伸ばしましたのに……」
 と嘯いた。

 薄暗い路地を行くプラチナと後に続くリディア。リディアは十九の誕生日を迎えたばかり。一方のプラチナはリディアと並んでいると歳の近い姉に見えるほど、その容姿は若々しい。実年齢にすれば二人の年の差は三十以上にもなるが、プラチナが銀星石の主であると知らぬ者から見れば、とうてい理解の及ばないことである。

 プラチナは路地奥に詰める数人の兵士達に頷く。ひと避けとして張られた縄がぐいと持ち上げられると、リディアはプラチナが手に持つ得物へ手を伸ばした。

 「〈不動棒〉をお預かりいたします」

 名を冠すその棒状の武器は、代々ワーベリアム一族当主に受け継がれてきた家宝の武具である。が、本来の名は〈三叉不動棒〉という名の三叉槍だった。今代の当主プラチナが刃をつけた得物を嫌ったがため、刃の部分は取り外され、今現在では文字通り棒としての役割を有するのみとなっている。

 受け取った不動棒を大切に抱き、リディアは奥へ行く叔母の後へ続く。
 路地の最奥には、たまねぎ色の薄布が無造作にかけられた死体があった。
 かがんで輝石を胸に抱いて祈った後、布をめくったプラチナは悲しげに目尻を下げて嘆息した。

 リディアは口元をおさえ、プラチナの背後からこっそりと死体をのぞき込む。

 「また、例の犯人でしょうか」
 プラチナは神妙に頷いた。

 「間違いないでしょうね。胸から腰にかけて鋭い刃物で一裂きにされている……左腕は肘から下が切り落とされ、残された手首には小指だけが無くなっている。被害者が若い女性であるということも合わせて、手口があまりに似通っているもの」

 死体は若い女のものだった。上半身は裸で胸から腰にかけて鋭利な刃物で縦に深く切り下げられている。そしてプラチナの言葉通り、左腕の切断と一部部位の消失が確認された。

 「三月もたたないうちに、市街地で三人目の被害者ですよ。これはもう──」
 リディアの指摘に、プラチナは深く息を吐いた。
 「そう、自らの行いを誇示していると考えて間違いはないのでしょう」

 言って、プラチナは深く奥歯をかみしめた。
 「昼夜を問わず警備兵が行き交っているのに……」

 一人ごちるようなリディアのつぶやきに、プラチナは即座に反応した。
 「足りないということでしょう。各地区の警備をさらに増員しなければ」

 「増員といっても、現状でも人員は通常時の倍、各人の勤務時間の負担も限度ぎりぎりですよ。これ以上は予算も人も、我々の裁量では届きません」

 プラチナは目を細め、亡骸となった女の頭をそっと撫でた。
 「そのくらいのこと、直訴すればどうにでもなるでしょう」

 立ち上がって自らの衣服のシワを伸ばすプラチナを、リディアは不安げに見上げた。

 「問題はそれだけじゃありません。これ以上国軍の兵士を市街地に流せば、下町の親方たちが黙っていませんよ。いまですら……」

 「必要があれば、今日中にでもこの身で乗り込んで理解を求めます」

 リディアも立ち上がり、強く口をひき結ぶ。

 「銀星石さま自らが出向くなんて言語道断、意味不明です! 准将位に甘んじているとはいえ、御身のご身分をよくお考えになってくださいませ。ワーベリアムの長が下町のヤクザどもを訪ねていくなんて、内外から強い反発がおこります」

 プラチナは歳若い姪の肩にそっと手を乗せた。

 「なにかを求めても、ただ待っているだけではなにも得られない。私が頭を下げて民の安全を守れるのであれば、それが最良の選択肢なのよ。民国家を守るために邪魔になるような自尊心など不要。そんなものは一日でも早く捨ててしまいなさい」

 リディアは唇を硬く尖らせ、そして頷いた。
 「納得はしていませんが……上官の命ということであれば、承知いたします」

 プラチナは強く頷く。
 「あなたはここに残って遺体の搬送を見届けなさい。被害者の身元調べの指揮もとるように」

 「叔母上さまは?」
 「城へ向かい、さっそく人員と予算の増強を殿下に直訴してくる──あなたもしっかりね」

 マントをひるがえし、不動棒を受け取って颯爽と去って行く背を、リディアはふと呼び止めた。
 「叔母上さま、お城までの道順はおわかりでしょうか」

 プラチナは背を向けたまま足をとめ、おそるおそる右手方向を指さした。
 リディアは大仰に溜め息を吐く。

 「真逆じゃないですか……もう……お待ちください、案内役を見繕いますので」
 肩を下げ、プラチナは弱った声音で礼を言った。







 事件のあった現場を離れ、城で謁見の申し出を入れた後、即座に了承を告げられたことで、プラチナは戸惑いを抱いていた。

 プラチナは現在のターフェスタ一族当主、ドストフによく思われていないことを自覚している。ドストフは幼少期より卑屈さを漂わせる気弱な人間であった。歳がそれほど離れていなかったこともあり、一時は弟のように可愛がってもいたが、いつ頃からか目を合わせることを嫌うようになり、吐く言葉には侮蔑と忌避の色を混ぜるようになっていった。

 そして、プラチナが銀星石の後継者に選ばれて後、関係はより悪化し、ドストフはプラチナを露骨に無視するようになった。

 ドストフが家督を継いだ後、公の場で無視をきめこむようなことはなくなったが、かわりに彼はプラチナに対して意味も無く高圧的で他人行儀な態度で接するようになった。それは時がたった今もなお継続中である。

 前を行く案内人に従って歩きながら、プラチナは向かう方向に対して疑念を抱いた。

 「ここより先は謁見場では──」
 先導者は、はいと頷く。
 「──私は殿下お一人にお目通りを願ったはず」

 こうした場合、案内をされるべきは領主の私室か応接室である。謁見広間を使うのは公式の行事や、外交特使を迎える時くらいのものなのだ。

 先導者は語尾を濁して曖昧に返答を用意した。
 「わたくしは、准将閣下をお通しするよう申し受けているだけですので、なんとも……」

 言われれば最後、案内を受ける身であるプラチナに反論の余地などあるはずがない。
 到着した謁見広間の扉が開かれると、プラチナは中の様子を一瞥してうっすらと口を開いた。

 左右一列ずつに勢揃いした重臣達。その奥で玉座に座るドストフの姿と、背後に控える六人の若き親衛隊〈冬華六家〉の面々。

 戸惑いのなか、プラチナは自身の弟子である冬華六家の一人の若者を見つめた。目を合わせ、かえってきたのはささやかな微笑と頷きだった。

 作法通りに赤絨毯の上を行き、玉座の前で膝を折って頭を垂れたプラチナは溜めていた息をゆっくりと逃がしていく。

 「面を上げよ」
 ドストフの言葉に従い、プラチナは顔をあげた。
 「プラチナ・ワーベリアム、大公殿下に拝謁いたします」

 ドストフは渋い顔で頷き、まっすぐ見つめるプラチナから視線を泳がせた。

 「殿下、お願いがあり拝謁を願いました。市街で発生している──」

 家臣団の中から一人の老人が歩み出てプラチナの言葉を遮った。宰相ツイブリである。

 「ワーベリアム准将、殿下はまだ貴殿に発言を許されてはおらん。礼儀にもとる行いは慎まれるべきでしょう」

 プラチナは眉間に皺を寄せ、ツイブリを睨めつける。
 「礼儀を語られるならば、事前の通達なく私がこのような場に置かれていることへの説明を求めます」

 次いで見たドストフは気まずそうに喉を鳴らした。

 「計ってのことではない。後日、正式に参内を命じるつもりであったが、ほどよく機会が重なったゆえここへ呼び寄せたまでのこと」

 プラチナは起立して一歩前へ出た。
 「いったい何事なのですか……」

 ドストフはツイブリに視線を流した。それを受け、老獪な宰相は精一杯胸を張り声をあげる。

 「ターフェスタ大公の名において、警邏総督ワーベリアム准将に命を下す。対北要塞メラック門へおもむき、司令官に着任せよ──以上である」

 プラチナは目を見開き呆けていた。それとは対照的に、周囲を固める人々の顔は皆朗らかだった。

 「私が北門へ……? 殿下、どういうことです。事前説明もなく、私を現職から解くとおおせなのですかッ」

 声を荒げると、ドストフは怯えたように肩をすくめ、顔を傾ける。

 「なにが気に入らんというのか……北門司令への昇進なのだぞ。ふさわしい将位も授けるつもりだ。ここにいる全員、満場一致で賛成したのだぞ」

 居並ぶ重臣達から祝いの言葉が口々にかかる。彼らの言葉に裏はない。皆心からプラチナを祝福していた。
 しかし、プラチナの表情は晴れない。

 「お待ちください。現在、市街地で不可解な殺人が発生しております」

 突然に聞こえるこの物言いに、皆が首を傾げた。

 ドストフは言う。
 「それがなんだ」

 「手口からして、手をくだしたものは同一者。死体をあえてさらすような真似をしていることも考えますと、おそらく同じ事がまだ続きます。すでに一部の市民らの間では動揺が広がっており、市街地の警備体制を強化したく、今日はそのための人員と予算の増強を願いにまいりました」

 ドストフはしかし、プラチナの言葉を鼻で笑った。

 「かりにも将であるそなたが気にかけるようなことか。転がる石が一つ二つ消えたとて、それがなんだというのだ」

 髪が逆立つほどの勢いで、プラチナは怒声をあげた。
 「ドストフ様ッ!」

 「ひ」
 ドストフは小さく悲鳴をあげ、肩をびくと震わせた。

 「……せめて、首謀者を捕えるまでは赴任をお待ちください」
 プラチナの譲歩に、割り込んだツイブリが否を唱えた。

 「小事を盾にして主君の命にそむくと、貴殿はそう仰るか。北門司令官は領地代官にも相当する重職ですぞ。ワーベリアム准将の国への貢献をふまえた、殿下の多大なる恩恵を無視なさると?」

 重臣達のあいだにざわめきが広がっていく。彼らの顔は一様に不可解さを示していた。
 プラチナはツイブリをじっと見つめた。老獪な宰相は一時も目をはずすことはない。

 ──偶然じゃない。

 急な転属命令を申し渡すこの状況。国の重臣達が集まるこの場でプラチナが命令に異を唱えれば、ワーベリアム一族はターフェスタに謀反心ありと見られてしまう。
 プラチナは半歩下がり、再び膝をついた。

 「メラック門への着任、謹んで拝受いたします。ですが昇級に関しては固辞を願います」

 ドストフは苦い声で、
 「好きにせよ」
 と呟いた。

 重臣らがほっと胸をなで下ろしている空気のなか、プラチナはさらに問いかけた。
 「私の後任はどうするお考えでしょうか」
 「当面のあいだはデュフォスに兼任させる」

 冬華六家の長、ウィゼ・デュフォスは玉座の後ろに佇んだまま眼鏡をくいとあげ、その冷淡な表情を少しも変えずに一礼した。

 「では、せめてきちんとした引き継ぎの機会を──」

 「ならん、無駄な時はないのだ。行き交う交易隊の噂によれば、ホランドは日々、練兵に武器兵糧の蓄えを強化していると聞く。その動向に留意し、銀星石をもってこれを押えよ」

 「……は」
 承知を告げ、顔を落としたプラチナは、美麗な顔を密かに歪めて、奥歯ギリとすりあわせた。












*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*
新章の連載はじめます。
2015年もどうぞよろしくお願いいたしします。

外交編はシュオウにとって一生物になる出会いが満載です。
序盤から死体が出てくることからもおわかりいただけたかもしれませんが、今回の物語はサスペンス風味が強めとなっています。
異国でのシュオウの活躍を、楽しんでいただければ幸いです。

宣伝になり恐縮ですが、2月28日にエンターブレイン様より書籍版ラピスの心臓2巻が発売されます。
加筆修正、書き下ろしの短編も入っています。
一部店舗やインターネット通販などですでに予約を受け付けているので、是非ともご検討ください。

それでは、また次回。



[25115] 『ラピスの心臓 外交編 第二話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:7045ca3b
Date: 2015/03/06 19:20
     Ⅱ 冬の華












 その風は、回転する軌道を描きながら地面を埋める枯れた落ち葉をまきあげた。
 ざららと音をたてながら、風は遮るもののないスイレイ湖の上を吹き抜けて、一時旅の友をした落ち葉達を湖面に置き去りにする。
 突然粉雨のように降り注いだ枯れ葉に驚いて、浅瀬で羽根を休めていた水鳥たちが一斉に羽根を広げて大空へ羽ばたいた。

 ムラクモ王都水晶宮の中庭に集合した一行は、旅立ちのための荷を馬に乗せる間中、痩せた中年の輝士ベン・タールの愚痴を聞かされる羽目になっていた。

 「──そもそもがだね、外交とは崇高なる任務なのだよ。剣の代わりに口を用い、流すのは血ではなく友好の言葉を。身一つで異国へ乗り込み、信を求め勇をもって友となる。外交をまかされる特使とは、ときに一軍の将に勝る存在意義があるのだ。だというのにだね……」

 ベン・タールは雄弁に演説をかました後、口角をへし折って首を大きく横に振った。

 「なにかご不満でもありますか」
 棘のある声で、この集団の一員として参加するアイセ・モートレッドが問いかけた。

 「不満? ああ、あるとも……。外交へと赴く交渉事はなにより繊細な任務なのだ。ただでさえ他国の人間は異文化人への警戒心が強い。なのにだ、今回の任務には輝士階級にある者が私を含めて四名。加えて南方出身の得たいのしれない大男と見るからに怪しげな従士が一人ときている。百歩譲ってサーペンティア家の若武者を護衛にいただいたことは光栄に思うがね、他のついてきたコブはまったくの無駄、足手まとい以外のなにものでもない。まったく上はなにを考えてこんな──」

 終わりの見えない愚痴に嫌気を感じ、アイセはベン・タールの声を意識の外へ追いやって自身の旅支度に集中した。

 旅の経験に乏しいアイセにとって荷造りはいまいち要領を得ない苦手分野だった。が、最低限の装備はきちんとした物が支給されているため、その点においての苦労はない。

 問題は個人的な荷物のほうだった。

 深界を行く卒業試験とは違い、この旅に持ち込み制限などはなく、常識の範囲に収まるのならばなにを持って行こうとも自由なのだが、制限がないと聞くと、衣類や日用品など、遠方へ赴くことを思えばあれこれと持っていきたくなるのが人情というものである。

 しかし、各自に与えられる移動手段は馬一頭のみ。当然、従者に馬車をひかせて追従させることもできず、実質的には馬一頭に乗せることができる範囲で荷造りをしなければならない。

 アイセは、従者に届けさせた許容量限界まで押し込んだ重い旅行鞄を、馬の鞍に下げようとして持ち上げ、驚いて声を裏返した。
 「なん──だ、これッ」

 モートレッド伯爵家に長く仕える熟練の使用人の収納術により、超高密度に詰め込まれた旅行鞄は、その見た目にそぐわない恐るべき重量を秘めていた。

 ──ここまでくるともう、職人の域だな。

 収納術に他人事のように関心し、アイセがわき出してきた額の汗を拭っていると、側で荷造りをしていたシトリが、きゃんと可愛いらしく悲鳴をあげて尻餅をついた。どうやらアイセ同様に旅行鞄を持ち上げようとして失敗した様子だが、アイセはそんなシトリの様子をじっとり湿った目で見つめていた。なにしろ、彼女は普段こんな高い声で悲鳴を上げたりなどしない。

 ──みえみえじゃないか。

 話しかければ黙っているか、機嫌悪く愚痴をこぼして憎まれ口しか言わないシトリは、大袈裟にこけて痛めた足に気をつかうような素振りをみせている。が、これも演技だとアイセは即座に見破った。
 アイセの冷めた推理もそこそこに、シトリは早々に獲物を釣り上げた。

 ──ほら。

 シトリを心配して様子を覗う灰色髪の青年シュオウ。
 ここのところは言動一つ一つに余裕が感じられるようになった彼は、軍人としてもすっかり様になっているし、堂々とした佇まいは彼の着ている服が従士服なのを不思議に思うほどである。しかしそんなシュオウでも、裏心あるしたたかな演技を見破る術は持ち合わせていないようだった。

 「おい、だいじょうぶか?」
 親身にシトリの無事を確認するやわらかなシュオウの声。耳に届いたそれが、アイセには少しねたましく聞こえた。

 「足、ひねったかも……」
 大袈裟に震えたか細い声でシトリは返した。

 アイセは心中で悪縁の同僚をなじる。
 ──うそつき、うそつき、うそつき。

 説教は耳を素通りし、他人の心配に手をなぎ払って応えるのがシトリという人間の本質だ。
 シトリの嘘を真に受けたシュオウは、彼女の旅行鞄を代わりに馬に乗せ、尻餅をついたシトリの手をとって優しく引き起こした。ここまでの手順もすべて彼女の計画通りの事だろう。

 一連の出来事に乾いた視線を送るアイセは、どこからか聞こえた舌打ちの出所を探した。それは不機嫌に顔を歪めた南方人の男がしたことだと、すぐにわかった。

 シュオウが個人的に雇っているという彼、ガ・シガは南の戦地に滞在していた傭兵なのだそうだが、左手の甲には彩石がある。
 粗野で乱暴、ギラついた野生の肉食獣のような目で人を睨みつけるこの男のまわりには、城壁よりも分厚い壁が立ちはだかっているように感じられた。
 シガは自身の馬の背を撫でながら、目を細めてシュオウとシトリのやりとりを見つめていた。

 「くっだらねえ」

 ぽつとこぼしたシガの一言が聞こえたのは、アイセがちょうど彼に注意を向けていたからだったのだろう。
 アイセはこの野獣のような大男に、はじめて一抹の親近感を抱いていた。

 もののついでに、アイセはもう一人の旅の仲間を探した。

 ムラクモにおいて燦光石を有する四家の一つ、サーペンティアの若様、ジェダ・サーペンティアは、旅支度も早々に終え、ただ馬にまたがって、虚ろな目で静かに虚空を見つめていた。

 シュオウとはまた違う意味で、彼は非常に目立つ人物だ。
 その原因は性の境界を超えた端正な顔貌にある。目の前に現れれば誰もが彼に視線を送り、そのうちの多くは溜め息をこぼし、さらにそのうちの幾人かは息をするのも忘れるだろう。

 切れ長の涼やかな目元は初夏の雲のようにさわやかで、高くすっきりと整った鼻梁は雪解け水がきらめく初春の清流のように美しい。太陽を一身に浴びる若草のような黄緑色の髪の毛も目映く、希少な宝石のように価値あるものに見えた。

 アイセがこのサーペンティア家の若様を見るのはこれが初めてではない。同期間に宝玉院にいたこともあるのでそれも当然だが、そのわりに、彼の姿を学院の中で見かけることは希だった。

 日々の生活を寮で過ごす候補生達のなかでも、彼はふらりと姿を消し、いつのまにか戻ってたまに宝玉院の授業を受ける、ということを繰り返していたのだと聞いたことがあるが、学年に隔たりがあったアイセには、そうしたおぼろげな噂話が何度か耳に届いたことがあるだけだった。

 ジェダ・サーペンティアは類い希な容姿に恵まれているわりに、存外存在感のない人物だったように思う。これほどの美貌を持っていれば、恋に恋する女生徒らの口からその名がもっと出ていてもおかしくないというのに、実際にそうした話を聞いたことはほとんどなかったのだ。

 改めて旅の一行を見やり、アイセは微かに首をひねっていた。

 この任務の外交特使に任命されたベン・タールが愚痴をこぼすのもよく理解できる。関係良好とはいえない異国との交渉に臨むには、この一行はあまりにも統一性がなく、ありていに言えばまったく無意味な組み合わせなのである。

 違和感の元は大きく分けて二つ。この場にシュオウがいることと、サーペンティアの若様が護衛官として同行することだ。

 シュオウの階級は従士曹。年齢や生い立ちを思えばすでに破格の階級にあり、ムラクモ王国軍が彼に対して一定の評価を与えているのがわかるが、だからといって外交任務に同行させるまでの理由には届かない。

 ジェダ・サーペンティアにしてもそう。伝統的にムラクモの外交官は単独で任務をこなすが、それは乗り込む先が友好国でない場合、たとえ百を超える数を同行させたとしても焼け石に水。敵地にあって相手がその気になれば、外交特使の命など一瞬でひねり潰されてしまうからだ。

 ムラクモでも抜きんでて地位のあるサーペンティア家が、血族者を死地になるかもしれないような所へ容易く送るものだろうか。常識で考えるのなら、それは否である。

 未だ経験の浅いアイセ、シトリの両名が同行することにも疑問はあるが、これまであちこちへ配属されてきた研修任務の延長と言われれば、一応の納得はできた。

 シトリの相手もそこそこに、シュオウは彼女の元を離れた。すかさず、アイセは寸前までの考えを捨て、旅行鞄を必死に持ち上げるふりをする。

 アイセが苦しそうにうめき声をあげると、シュオウが一瞬視線を向けた。はっきりと目を合わせ、アイセは瞬間顔をほころばせる。シュオウは口を僅かに開け、なにか言葉をかけようとしていた。アイセには彼がなにを言うかわかっている。手伝おうか、とぶっきらぼうに、しかし思いやりを込めた声で気遣ってくれるはず。

 「ありが──」

 先走ってでた感謝の言葉。しかしアイセは口を噤んだ。一瞬重なったと思ったシュオウの視線が明後日の方向に向いてしまったのだ。

 ──えッ、と。

 勘違いをしたのか、と気恥ずかしさに火照った顔をうつむいて隠した。それも束の間、熱を帯びた顔は一瞬で冷めていく。

 ──見ていたくせに。
 そう、間違いなくシュオウはアイセの状況を把握していたはずである。

 口に出して頼めばよかったのか。しかしそれはできない、シトリの目がある前でそれをすれば自尊心に大きな傷がつく。優しさをねだるような真似はしたくない。たとえ、それをなにより欲していてもだ。

 結局、アイセは一人で重い旅行鞄を持ち上げるのに多大なる労力を消費するはめになった。

 汗を拭って見上げた空を見て、アイセは無意識に左手にはめた指輪を撫でた。

 大空を行く水鳥の群れは、寸分違わぬ精度で距離を空け風を受けて優雅に飛翔している。

 止めどなく愚痴を零す中年男、退屈そうな褐色肌の大男に、無口な大貴族の公子様。特定の一人にしか興味がない水色髪の娘に、無愛想な灰色髪の従士。そして機嫌を損ねた金髪娘。
 皆の間を冷めた晩秋の風が吹き抜けた。







 ムラクモ領内から通じる最も単純な道筋、ターフェスタへの入り口となる要塞アリオト。

 一行が最初の休憩地としてアデュレリアを経由し、アリオトを目前に控えたムツキ砦に付随する宿場街についた頃、王都を出発してから三日の時が流れていた。

 ここへ来るまでとった休息は最低限。
 しかし三日もたてば人馬ともに溜め込んだ疲労も上限一杯にまで達していた。
 そこで、この旅の指揮者であるベン・タールは、夕方から翌朝まで、一晩まるごとを休息にあてがい、越境に備えた最後の支度を調えることに決めたのだった。

 「おいふざけんな、これっぽちかよ──」

 宿の食卓につき、並んだ料理を見たシガは、天井を仰いでクマのいびきのような重い息を吐いた。
 シガは物言いたげな目をシュオウに向けた。
 「おい、シュオウ」

 シュオウはふんと視線を逸らす。
 「お前の底なしな胃袋を満たすための財布は置いてきた」

 舌打ちをしたシガは尖った歯をむき出して、彼の大きな拳よりも小さな肉の塊に突き刺した。持ち上げた肉に噛みついて、威嚇するように血走った眼でベンを睨めつけた。

 ベンは顔の皺を歪め、シガをにらみ返した。

 「そ、そんな顔をしても追加注文は許さんからな……支給された資金には限りがあるのだ。まだ国内に留まっているうちから無駄な出費を重ねていたらどうなるか──」

 「ぐるるるッ!」

 獣のようにシガが唸ると、ベンは露骨に怯えて肩をすくめ、すかさずシュオウを睨んだ。

 「おい従士、この狂獣の雇い主は君なのだろう! なんとか言ってきかせたまえ、それともなにかね、私を脅すためにわざわざ同行させているのではないだろうな!」

 シュオウは卓の下でシガのスネを蹴り上げた。
 「シガ、ついてくる気があるなら隊長の言うことに大人しく従ったほうがいい」

 少しも痛がっている様子なく、シガは渋々といった表情でベンから視線をそらした。

 一方、怒り心頭に見えたベンは、なぜかにへらと笑みをこぼす。
 「隊長……隊長か……うふ」

 頬をピンク色に上気させた中年男というものは、目にそれほど心地よくない。シュオウは食べ物に注意をそらすふりをして、にやけたベンの顔を視界から追い出した。

 そうこうしていると、二階から二人の見目麗しい女達が降りてくる。

 「シトリ、お前わたしの化粧水を黙ってつかったなッ」
 「知らない」
 「ならなんで新品だった瓶が湯浴みをしていたほんの少しの間に半分近くもなくなってるんだッ」
 「自分で使って忘れたんでしょ」
 「一度に半分も使うものか!」
 「砂漠なみに干上がったがびがび肌なんでしょ、それくらい吸い取られてもおかしくないじゃん」
 「言ったな──」

 がみがみと口げんかをしつつ降りてくるアイセとシトリ。やりとりを始終聞いていたベンは、耐えかねたようにこめかみをぎゅっと押えた。

 「子供を連れて越境任務にあたる日がくるとは……」

 ベンが嘆いて頭を振っている間に、言い合いをしながら二人が食卓へやってきた。
 シトリは流れるような所作で椅子をとり、シュオウの隣りにぴたりとつけて座った。その様子を見ていたアイセは、微かに唇を噛んで、シガとベンの間に席を落ち着けた。

 席についた途端、ぴたりと口を噤んだアイセは、ちらちらとシュオウに視線を寄越す。
 シュオウは気まずさを覚え、ごまかすように汁物を思い切り掻き込んだ。

 ここのところ、シュオウはアイセとの間に微妙な溝を感じていた。
 それは、以前まで感じたことのない違和感。共にあること、側にいること、親しくしていることへの後ろ暗さだった。

 そうした感情が芽生えたきっかけは、彼女の父親と直接話をした事。娘のために距離を置いてほしいと、そう求められたときの言葉に、嘘や偽りの色は混ざっていなかった。

 誰となにをしようが自由ではないか。湧いた反骨心は徐々に力を失い、気がつけば、まえのように飾らずにアイセという人間と関わることができなくなっていたのだ。

 家族を想ってでた言葉はけして軽くはない。それが、棘のように鋭く、シュオウの心根に突き刺さっていた。

 シュオウはその想いを、誰に打ち明けることもなく隠し続けるつもりだった。が、この旅に出発する際にとった行動がまずかった。無言で助けを求めていたアイセに気づいていながら、知らぬふりをしてしまったのだ。

 それ以来、アイセのシュオウに対する態度も、どこかよそよそしい。そう、ついに二人の間に生じた壁に気づかれてしまったのだろう。

 誰一人噛み合わぬ空気のなか、それぞれの食事が進んでいく。

 最後に遅れて現れたのはジェダ・サーペンティアだった。音もなく静かに食卓に歩み寄り、小さな硬いパンを一つ掴んでそそくさと別の卓へ座り、ちびちびと欠片をかじりとっている。

 旅立ちからここまで、ほとんど口を開きもせず、他人と関わろうとしない彼に、誰もなにも声をかけることもしない。しかしそんなジェダの様子を見て感心したようにベンが褒めそやした。

 「見たまえ諸君、あれこそムラクモ輝士のあるべき姿だ。寡黙で節制を貫くあの姿勢。腹を満たそうとしないのも、任務への緊張感を保つためだろう。いやあ、さすがは風蛇公のご子息、それになんともお美しい……」

 心中、シュオウは首を傾げていた。
 以前に関わった際、この男はなにかにつけて軽薄であり、口もよく動かしていた。人を見下したようなにやついた顔と合わせて、ベンの語るジェダ・サーペンティア像は、まるで別人なのだ。

 「私も見倣わなければ」
 言って食事を切り上げたベンは、椅子を引いて失礼するよ、と告げた。

 「──おっと、忘れていた」
 ベンは脇に置いてあった手荷物のなかから衣服を二着取り出し、それぞれをシュオウ、シガの二人に手渡した。
 それは見慣れたムラクモの青い輝士服である。
 
 「これ、輝士の?」
 シュオウが聞くと、ベンは頷いた。

 「そうだ、君たち用にわざわざ用意させておいたのだ。明日はそれを着ておきたまえ。権威ある大国の名に恥じぬよう、きちんとした正装で向かわねばならんッ」

 口に食べ物を含んだまま、シガが異を唱えた。
 「冗談じゃねえ、こんな気持ち悪い真っ青なもん着られるか」

 ベンは臆することなく胸を張る。

 「冗談ではない! 対外交渉とは見栄をはるものなのだッ。単身で乗り込むところを、これだけぞろぞろと人を連れて行かねばならんのだぞ。輝士三名に加えて南方人の傭兵と従士まで引き連れていけば、このベン・タールはいかに臆病者かと笑いものにされてしまうのだ! 冗談ではない? こっちの台詞だよ! こうなれば、せめても全員、輝士としての体裁を整え見栄えだけでも繕わなければ。そうだ、輝士剣の用意を忘れていたぞ──」

 ぶつぶつと呟きながら、ベンは自室へと引き上げていく。シガも相手にする気が失せたのか、再び食べ物へ関心を戻していた。

 「それ着てるところ見てみたいッ、きっと似合うよ」
 隣りに座るシトリが目を輝かせながらシュオウの輝士服に手を伸ばした。
 「ね、着かたはわかる? よかったらあたしが──」
 シトリの提案を遮って、シュオウは頷いた。
 「わかる」

 実際、ムラクモの水晶宮にある王女の私室へ呼ばれた際、身元を隠すために何度もこの服を着させられたのだ。

 「ふうん」
 つまらなさそうに口を尖らせるシトリから制服を受け取り、広げてみたそれは、シュオウの体格よりも一段上の大きさであるようだった。

 「シュオウ……」
 おそるおそるといった様子で、アイセが上目遣いにシュオウの名を呼んだ。
 「……なんだ」
 「北方は灰色の髪をした人々が多く暮らす地だ。明日はいよいよそこへ向かう。その……なにか思わないのか」
 「……なにかって?」
 「生まれや、親のこととか……」
 シュオウはそっと、手にしていた輝士服を握る手に力を込める。
 シトリが冷めた声をアイセに投げかけた。
 「無神経」
 アイセは途端、青ざめた顔で落ち着き無く視線を泳がせた。
 「あ、いや……ちが……」
 ごめん、と言い残しアイセは食事も途中で投げ出して一人食堂を後にする。
 引き留めようとして伸ばした手を途中で止め、シュオウは息苦しさをおぼえて従士服の襟を広げた。

 「くっだらねえ」
 ベンとアイセが食べ残した食事をかき集めながら、シガがぼそりと呟いた。







 ベンが要塞アリオトの門前で書簡を広げながら名乗りをあげ、ゆっくりと重い鉄門が上がると、出迎えに出てきたターフェスタの輝士とおぼしき二人の人物が現れた。

 赤と黒を基調とした冬物の輝士服を纏う男と女。身長ほどもある長い棒を持つ男のほうは、顔にはまだあどけなさを残しているほど若く見える。女のほうは十歳前後ほどの正真正銘の子供だった。

 シュオウの目は、二人の髪に釘付けになっていた。ムラクモでは自分以外に見かけることのなかった灰色の髪。明暗に差はあれど、二人ともムラのない単色の美しい髪の色をしていた。

 両者とも腰に特徴ある細工を施した花の形をした紋印を下げていた。
 紋印を見たベンはうわずった声で両手の平をすりあわせた。

 「な、なんとッ、冬華六家の方々に直接お出迎えいただけるとはッ、私はベン・タール。このたび、ムラクモより使わされた特使団代表を務めておりますッ、なにとぞお見知りおきを」

 もみもみと両手を握りながら、ベンはへこへこと腰を折る。
 対するターフェスタの輝士達の態度は冷めたものだった。片割れの少女は名乗るでもなく、ムラクモの一行一人ずつを見て一本ずつ自身の指を折っていく。

 「いち、にぃ、さん──」
 たどたどしく人数を数えながら最後にジェダに目を送り、
 「ろく……おおすぎ」

 ベンは額に汗をため、愛想笑いを浮かべた。
 「いや、はは、人数の多さは我が国の誠意と受け取っていただければ……」

 少女は目を細めむすっとした表情をし、
 「じゃま……」
 と、呟いた。

 その少女の頭を、もう一方の青年が後ろから軽くはたいた。
 「許してやってください。こいつ、まだ十一歳の子供ですから」

 さっぱりと整った顔にえくぼが浮かぶ愛嬌ある笑みを浮かべ、青年は白黄色の輝石を胸に置いて一礼した。

 「主君より冬の華の紋章を戴く親衛隊、冬華六家の一人ナトロ・ラハ・カデン。ムラクモ特使一行を丁重にお出迎えをするよう、ターフェスタ大公殿下より申し受けております」

 名乗ったナトロは黙って佇む隣りの少女を膝で小突いた。
 少女はいらだちに顔を歪めながら、ナトロに倣って明緑色の輝石を胸に乗せ、膝を軽く折って一礼する。

 「冬華六家ユメギクの輝士、ユーカ・ゼル・ネルドベル。覚えなくていい……」

 紹介を受け、ベンは恐縮したように何度も頭を下げて応じていた。
 「これは、ご丁寧に……冬華六家の名声は我が国にも深く届いております。お二方にお会いでき、まっこと光栄の至り──」

 突然ベンが振り向き、ムラクモ側の面々を強く睨んだ。

 「──なにをぼうっとしているのだ! 君たちもきちんと名乗りたまえッ」
 慌ててアイセが一歩まえへ出た。緊張した面持ちと強ばった声で、
 「わ、私は──」
 しかし、アイセが名乗りをあげる寸前に、ナトロが声をあげた。

 「待った、あんたらの紹介はいいよ──」

 突如ぶっきらぼうな態度をとり、服のボタンをゆるめ、立てて丁寧に持っていた棒を肩に担いで、行儀悪く両手をぶら下げた。
 「最初の礼は尽くしたし、うざったい演技はやめさせてもらう」

 キョトンとして口を開けたまま固まるアイセを、小馬鹿にしたようにナトロが笑う。

 「だいたいさ、代表者の名を聞けば十分なんだよ。付き添いか護衛かしらないけど、その他大勢に興味なし。それに、もう一人、聞かなくたってよく知った名前の奴もいる──」

 ナトロは険のある目をある一点に向け、笑みを消した。

 「──あんたがジェダ・サーペンティア、だよな。気をつけろよ、この国にはあんたのせいでろくに葬儀もできなかった者の親族がわんさかいるんだぜ」

 一団の最後尾にいるジェダはなにも言葉を返さぬまま静かに目を閉じた。その対応に、ナトロはつまらなさそうに鼻を鳴らす。

 事情を飲み込めていない様子のベンは、首を傾げながら二人の顔を交互に見ていた。
 ふと流れたナトロの視線がシュオウに合わさった。

 「へえ、めずらしいな、ムラクモにも同族がいるのか……」

 返す言葉なく、シュオウはただじっとナトロの瞳を見つめ返した。
 彼の隣りに佇むユーカもまたシュオウを見つめ、ぼそりと呟いた。

 「うらぎりもの」

 ナトロは吹き出すように笑い、ユーカの頭をぽんぽんと叩く。

 「悪いな、こいつはまだガキだから思ったことを口走るんだ。でもま、裏切り者ってのはぴったりな言葉だよ。そもそもが、ムラクモって所は国を捨て神も捨てたならず者の集まりで出来た国だろ? 元を辿れば、ここにいるあんたら全員がそうだって言えるんだろうしな」

 ナトロの物言いに、黙っていたアイセが声を荒げた。
 「なんだとッ」

 けんか腰になりかけた空気の中、慌ててベンがおどけた声をあげた。

 「いやあ、ごもっとも。たしかにムラクモ貴族は訳あって西国を出た者達の末裔が多くを占めております。が、北方と大山を挟み、我が国ムラクモは直接西方諸国と国境を面しておらず、自然争いごとも生じません」

 ナトロは眉をあげ、
 「矛を向けていないから裏切り者じゃないってか。ふうん、ものは言い様だな」

 気勢をそがれたアイセは鼻息をおとして怒った肩の力を抜いた。
 ナトロはふらりと背を向けて、

 「ま、いいや。まずは都へ案内させてもらう。それが俺たち二人に与えられた命令なんでね。こっちも他の仕事を後回しにしてここに出向いてるんだ、余計な時間をとられないよう、しゃきしゃき付いてきてくれると助かるよ」

 反対側の門へ向かう二人の後を、ムラクモの一行も馬を引きながらついていく。

 ベンは我先にと後に続き、まだ怒りをくすぶらせているアイセもそれに続く。その後をだるそうにふらふらとシトリが追いかけ、退屈そうにあくびをして尻をかくシガが続いた。
 頑なに最後尾にこだわっている様子のジェダを無視して、シュオウも無言で彼らの後に続いた。

 要塞アリオトの内部は堅実堅牢な造りのムラクモの砦とよく似通った雰囲気を帯びていた。軍事要塞としての規模は比べものにならないほど大きく、広い中庭は一つの村や集落を置けそうなほどのゆとりがある。

 シュオウは要塞の内部をつぶさに観察した。

 各所を固める兵士達の数はまばらで、想像していたよりもずっと静かな様子である。
 部分的に配置されている平民出身の兵士たち。彼らの頭もまた皆灰色をしていた。
 西側に抜けるための門へ近づくと、道の左右に整列した輝士達の行列が見えた。皆が戦に臨む時の重装備に身を固め、輝士の長剣を佩き、白い弓を背に負っている。

 「……あれは、いったいなにごとで」
 聞いたベンに、ナトロは振り向かずに応える。

 「あんたらの護衛だよ。大公殿下の指示で腕の良い現役の輝士が二十人。都に着くまでの間、随行することになっている」

 「これほどの数の輝士を護衛に……ですか」
 渋い表情で首をひねるベンの態度からして、これは通常の対応とは違うのだとシュオウは察した。

 ナトロは軽い声で、
 「俺は反対したんだ。こんだけゾロゾロ集団で動いてたら足も鈍るし、それにさ──」
 ちらりと後ろを見て、ナトロは途中で口を止めた。

 一行が居並ぶ輝士の間に入る。緊張からか、誰かが固唾を飲み込む音が聞こえた。
 輝士達は一斉に、鞘をつけたまま剣を抜き、地面に突き立てて膝を折った。
 礼法にのっとった作法だが、輝士達の顔つきは皆一様に暗く、鋭い。

 シガがちらとシュオウへ振り返り視線を送る。シュオウは彼が言いたいことを理解し、そっと頷いてみせた。
 居並ぶ輝士達が帯びた埃っぽい雰囲気。彼らは平穏な宮城に詰めている格好だけの輝士達とは違う。前線に出て命の奪い合いに身を削ってきた戦士、精鋭達だ。
 南方との定期的な戦にかり出されていたムラクモ輝士達と、彼らが帯びた空気はよく似ている。

 列の中盤ほどにさしかかった時、膝を折っていた一人の輝士が突如立ち上がって剣身を鞘から抜きはなった。

 「ジェダ・サーペンティアッ、父のかたき!」

 血走った眼を剥いてジェダに斬りかかった輝士の体は、次の瞬間には宙に浮いていた。
 どこからともなく発生した唸り風が、重い鎧をまとった輝士の体を持ち上げ、城壁に押しつけたのだ。

 目映い緑の光が、ターフェスタの輝士ユーカの手元からあふれ出ていた。

 「だから言ったんだ、こうなるのは目に見えてたのに」
 ナトロのつぶやきに、ユーカは静かに返す。
 「でも、見せしめになる」
 「そうだな──」

 他の輝士達が困惑しているなか、ナトロは拳を握って地面を殴りつけた。瞬間赤い光が地面に伝わり、城壁に押し当てられた輝士に向かって高速に伸びていく。赤い光は輝士の寸前で爆風をまきあげ、地面に敷かれた石材を砕いて、巻き上げられた破片が輝士の体全体に食い込んだ。

 背後の城壁に穴を開けるほどの力にさらされ、輝士の皮膚は破れ、砕けた骨はむき出しになり、血溜まりのなかにぼそりと身を落とす。
 だれが見るまでもなく、輝士は絶命した。

 崩れ落ちた城壁を見て、ナトロは後ろ頭に手を当てた。

 「やりすぎた……」

 ナトロは首を振って振り返り、他の輝士達に声をあげる。

 「大公殿下はムラクモ特使の無事を守れと厳命をくだされた! これを破った者には現地で極刑を与えることが許されている。結果は見ての通りだ、全員改めて肝に銘じておけ」

 どよめきが広がり、輝士達は口々に了承を告げた。

 一連の出来事をあっけにとられながら眺めていたベンは、額に汗を溜め、脇をびっしょりと濡らしていた。

 アイセは当然のこと、シトリでさえ目の前で起こった事をまえに、怯えた顔で服の裾を握っている。

 眠気を飛ばした様子のシガは、まわりを警戒するように足腰に力を込めていた。その後ろで佇むジェダは、襲われたことなど意に介さないといった様子で、静かに瞼を落としている。
 彼ら一人一人の様子を、どこか他人事のようにシュオウはじっと観察していた。


















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ここまで読んでいただいてありがとうございました。
本編はまだ序章です、動き始めるまでもうすこし。



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[25115] 『ラピスの心臓 外交編 第三話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:d7b608e2
Date: 2015/03/13 18:04
     Ⅲ 猛禽












 そこはターフェスタ城下の仄暗い一角にある、古い一階建ての兵舎だった。

 黄色く枯れかけた蔦が巻く建物の前に立って、ターフェスタ公国軍下級武官セレス・サガンは、看板に掲げられた鷲の紋を見上げて目を細めた。

 「猛禽……」

 この兵舎を割り当てられた部隊の名を呟いて、セレスは建物の窓に反射して映った自分を見て嘆息する。

 無造作に放っておかれた油っぽい髪と、不健康に落ちくぼんだ目の隈。乾いた唇はひび割れて赤い肉がむき出しになっている。手甲に青緑色の彩石がなければ、浮浪者と間違われてもおかしくはない。年齢で二十歳になるセレスの容姿は、知らない者から見れば十歳以上は老けて見えるだろう。

 ──ひどいものだ。
 セレスは青暗くこけた頬を撫でて自嘲した。

 鈴を鳴らして扉をくぐると、前が見えないほどの紫煙が部屋中に充満していた。
 室内の構造は酒場や宿の食堂によく似ている。

 開けた入り口から煙がするりと抜けていくと、各所に置かれた丸い卓を囲む異様な姿をした者達が一斉にセレスを睨みつけた。

 「あ……の……」

 そこにいる全員が初老か、中年以上の年に見える男達だった。ある者は前に激しく背筋が折れ曲がり、また別の者は片目が一目でわかる義眼であり、そのほかにも、すれ違えば人が道を避けていきそうな容姿をした者達ばかり。

 彼らの共通点は他に、山賊のように髭を伸ばしっぱなしにしていることと、不潔そうであるという点においてよく似ていた。
 特にそれらの姿が異様に映るのは、全員が手甲に乗せた石に色が付いている、ということだろう。

 茶色く欠けた歯をむき出して、顔面にえぐったような大傷をつけた厳つい男が立ち上がる。

 「なんだ、道にでも迷ったのか」

 セレスは緊張から固唾を飲み込んだ。

 「あの……監察部隊猛禽への配属命令を受けて参上しました、セレス・サガンです。本日付で二等監察官の階級をいただきました」

 男達はぽかんと口を開け、そして盛大に笑った。

 「あんたみたいな小綺麗なのがここ《猛禽》に寄越されたってか」

 セレスは懐から大公の印が押された配属命令書を広げて見せた。
 厳つい男は紙を取り上げ、一読して紫煙を用紙に吐きつける。

 「おい、本物だぞ。あのバカ以来の落ち輝士がきなすった」

 落ち輝士、という言葉にセレスはぐっと奥歯を噛みしめた。
 厳つい男は命令書を返し、ぽんと肩を叩く。

 「着任を了承した──俺は部隊長のハゲワシだ」
 「ハゲワシって……それが本名ですか」

 ハゲワシはにやりと欠けた歯を見せて笑う。

 「ここじゃ各人に猛禽の絵姿をつけた手袋が支給されるのが習わしだ。俺たちは家に見放された落ちこぼれ者、ここへの配属が決まった時点で名なんてないのと同じなんでな。望むなら名を捨てたって誰からも文句は言われねえ」

 ハゲワシは言って右手にはめた赤い手袋を見せた。甲の部分に北ではあまり見ることのないハゲワシの影姿が縫い込まれている。

 監察部隊猛禽は軍と警邏隊の影に位置する汚れを負った集団として存在していた。

 猛禽は身内である軍内部から忌み嫌われている。それは、仕事の多くが軍人を相手に素行調査や逮捕、捕縛を行うためである。時にその対象として指名されるのに、石の色は関係なく、容疑者の生死を問わず、との任務が言い渡されることもある。

 所属する者達は貴族家出身でありながら輝士になれなかった者達。また、はじめからその資格を与えられていない者達である。

 ターフェスタを含む聖リシアを国教とする国々において、輝士という役職は神の使徒として特別な意味を持つ。神官の洗礼儀式によって名と家名の間に神より与えられし石の名を戴き、それをもって初めて神と国家に仕える輝士として認められるのだ。

 だがこうした儀式はそれを受ける者へ一定の条件が化せられていた。輝士への道を望む者の美醜の善し悪しや家柄により、是非が決められるのだ。

 「あの、僕は──」

 うつむいて、セレスは言いかけた言葉を途中で止め、唇を舐めた。
 ハゲワシはセレスの首に手を回し、頭をわしわしとなで回した。

 「ち、ちょっと──」
 「身の上を語る必要はない。ここじゃ不幸話なんて酒の肴にもなりゃしねえんだ。きな」

 ハゲワシは部屋の奥にある酒注ぎ台の中をまさぐり、赤い右手袋を二つとりだした。
 手袋の甲に描かれた影を見て、セレスは力なくその名を呼ぶ。

 「ハヤブサ……?」

 手袋はいつから使っているのか、すり切れた箇所も見えるほどくたびれていた。
 ハゲタカは他に短剣を二本、たわしのようにまとめて巻いた捕縛縄、そして彩石の行使を封じる高密度の白い封じ手袋を一つ、台に置いた。

 「猛禽《うち》はお前を歓迎するぜ。ちょうどあのバカのお守りが逃げちまって、人手が欲しいと思ってたところだったんだ」

 セレスは首を傾げた。
 「あの……バカって?」

 兵舎の入口が力強く押し開けられ、外の冷めた空気が室内に流れ込んできた。

 「おはよう、雑草諸君!」

 赤い手袋をはめた右手を掲げ、赤み混じりの灰色の髪にどこを見ているのかあやふやな大きな垂れ目、手甲に深緑の輝石を持つ男が入り口に佇んでいる。
 目立つ赤い外套を着込み、腰には二本の短剣と、背には白い弓を負っていた。

 「あれがそのバカだ、今日からお前の相棒になる──」
 ハゲワシは言って入り口にいる男を呼んだ。
 「──おい、クロム、新入りだ」

 クロムと呼ばれた男は、おおと声をあげ、両手を広げてセシルの両肩を強く叩いた。

 「なんと! 大歓迎だよ新入り君ッ、私は神に愛されし男クロム・カルセドニー、一度聞いたら忘れられん良い名だろう。君の名は言わなくてもいい、私がもっと相応しい名を進呈するのだからね。そうだな……かぶらだ……かぶら頭、君にぴったりの名だ! よろしく頼むよかぶら頭くん」

 クロムの勢いに圧倒され、黙って聞いていたセレスは、はっとして叫声を上げた。

 「ちょっと待って、カルセドニー……それって現冬華六家の一つですよねッ。名門中の名門じゃないですか……どうしてこんな」

 部屋につめる猛禽の面々が笑い声をあげた。

 「このバカはその六家様ご当主の弟君だ。阿呆すぎて輝士になれずめでたく俺たちの仲間入りってわけよ」

 ハゲワシのバカにしたような言いようも、クロムはどこ吹く風。さきほどまでセレスに向けて喋り倒していたというのに、今は鏡に写った自分の髪をせっせと撫でつけていた。

 「さて、今日の仕事振りをする──」
 ハゲワシの一声に、皆が席を立って彼の前に歩み出た。

 ハゲワシは葉巻をくわえたまま、

 「──一つ目、第十六弓兵隊のユーリとかいう野郎に、賭けの借金を踏み倒されたとの苦情がきてる。とっつかまえて事情を聞き出せ」

 一人が手を上げ、用紙を受け取って勢いよく外へ出て行った。

 「つぎ。めずらしいことに街の警邏組から助力要請が届いた。本日昼前頃到着予定の異国特使の護衛、及びそれを害する行いを企てている者を見つけ、処分せよとのことだ」

 ハゲワシの説明に、鏡を見つめていたクロムがさっと手をあげた。

 「その仕事、このクロムが引き受けよう! 今朝の亀甲占いでなにかを守ることが吉と出たのでね」

 クロムはハゲワシから一通の書を受け取ると、そのまま早足に外へ出て行った。
 呆然と見送るセレスの頭をハゲワシがはたいた。

 「なにぼうっとしてる、お前もいけ。あいつは占い馬鹿のどうしようもない野郎だが、監察としての腕は悪くない。側にいて仕事を覚えてこい」
 「……は、はいッ」
 支給品一式を抱え、セレスは慌ててクロムの後を追いかけた。







 「待ってくださいッ」

 猛禽の兵舎を出てすぐセレスは細い裏道へ入っていくクロムを見つけて呼び止めた。だが、彼は足を止めない。慌ててセレスは駆けだした。

 「ちょっと、待って! カルセドニー監察官!」

 その呼びかけに、クロムはようやく足を止めた。
 夕焼け空のような瞳を向けて、クロムは怒ったような顔をする。

 「かぶら頭くん、大声で名を呼ぶのはやめてくれないか。私は目立つのが嫌いだ」

 真紅の外套をかぶり、つるつるに磨き上げた先が尖ったブーツを履いて言うクロムを、彼に追いついて肩を揺らすセレスは呆然と見つめた。

 「あの、隊長が、あなたについて行けと。カルセドニー監察官のお手伝いをさせてください」

 クロムは前へ向き直った。

 「好きにするがいい、それが人間と動物の違いなのだ──」
 クロムは、しかしと言葉を継ぐ。
 「──君の言う私に対する呼称は受け入れがたい。私はクロム・カルセドニーであって、カルセドニー監察官ではない」

 歩き出したクロムを追って、セレスは首をひねる。

 「はぁ、それじゃあなんとお呼びすれば」

 「クロムで結構! 私の手袋の柄を指してクマタカなどと呼ぶ愚か者もいるが、私は私の名前が大好きだ。名とは自己の存在を証明するもの! 実に尊いものなのだ」

 「クロム、さん──」
 再度セレスは首をひねる。
 どうにもしっくりこないのだ。
 「──クロム、先輩」

 クロムはぴたと足を止めた。

 「先輩か、初めて呼ばれるが悪くない」
 「はい。じゃあ、そう呼ばせてもらいます、先輩」
 「うんうん、よろしく頼むよ、かぶら頭くん」

 セレスはしかめっ面をして、
 「僕の名前はセレスです。せめてそう呼んでください」

 クロムは胸を張って高笑いをあげた。

 「あっはっは、名などどうでもいいのだよ! 人の本質とは神の与えたもうた頭蓋骨のなかにあるうにょうにょとした物であって、名前など個々を区別できればなんだっていいのだ、かぶら頭くんッ」

 セレスは足を止め、軽やかに裏道を行くクロムの背をじっとりと見つめた。

 「言っていることがめちゃくちゃじゃないか……」

 建物の隙間からするりと、蜘蛛の巣を顔に貼り付けた黒毛の猫が飛び出してきた。
 感情を窺い知れない淡い黄緑色の瞳がじっとセレスを見つめている。
 セレスは口元を歪め、足下に転がっていた石を猫に向かって蹴りつけた。



 3



 大通りへ出ると、そこには非日常の喧噪が広がっていた。
 道を封鎖するように並んだ大勢の兵士たちと、その外側でなにごとかと注意を向ける市井の人々。広げた露店で商うことができず、おいやられた店主たちが警備兵たちに食ってかかって拘束されていたりと、周辺は物々しい空気が漂っている。

 現場を仕切っている様子の輝士がクロムを見つけて歩み寄ってきた。

 「猛禽め……遅いぞ、いまごろやってきて」
 クロムは片方の頬あげ、
 「これでも急いで来たのだがね、カボチャ腹くん」

 「カボッ──」
 輝士は中年太りした腹を押え、ぎりぎりと歯をすりあわせた。
 「──他の連中はどうした、まさか寄越した人員がこれだけだと言うつもりか」

 輝士の視線がセレスへ重なる。セレスは気まずい心地を抱きながら頷いた。
 輝士は額に手をあてて天を仰いだ。

 「これだから猛禽などに助力を求めるのは嫌だったんだ。お前達は身内のあら探しばかりして……」

 ぶつぶつと愚痴をこぼす輝士に、クロムは少しも気にしていない様子で声をかける。

 「カボチャ腹くん、私にしてほしいことを言いたまえ。このクロムの時は有限だ、果てしなく続く凡人の言葉につきあっている暇はない!」

 輝士は唾を吐きすて、
 「くそッ。出しておいた依頼の通りだ、これからまもなくしてムラクモの外交特使一行がここを通過する。大通りは背の高い建物が密集していて人出も多い。あやしい動きをしている者を見つけたら、行動を起こす前に捕まえろ」

 「方法は?」
 クロムは腰の短剣に手を当てて問うた。
 「生死を問わず、誰であろうとムラクモの人間に指一本触れさせるな。大公殿下直々の厳重命令だ」

 焦点の定まらない目を剥いて笑みを浮かべたクロムを見て、セレスは静かに肩を震わせた。



 「先輩はどうして、ここへ……猛禽に配属されたんですか」

 輝士と別れて、大通り周辺の様子を覗うクロムへ、セレスはそんな問いかけをしていた。
 クロムは目線を寄越すことなく聞き返す。

 「どういう意味かね、かぶら頭くん」
 「だって、先輩はカルセドニー家の人間なんでしょ。あなたは名家に生まれた選ばれた人間だ。なのに……」

 「異な事を言うのだな、名家に生まれた人間が猛禽に入ってはいけないのかね」

 「望む未来を、栄誉ある将来を選べたはずです。監察官には軍での出世がない。ここでおしまい、誰も褒めてくれないし、誰も認めてくれません。それどころか、身内から唾を吐きかけられる仕事です。名を上げる機会すら得られないじゃないですか……」

 「君は輝士になりたかったのかね」
 「あたりまえ、ですよ」
 「なら、なればよかったのだ」

 セレスは歯をむき出して、

 「できるならそうしていました! だけど、僕に石名を与えてくれる司祭様は誰一人いなかった……どうしてかわかりますよね? 生まれが卑しいからです、家名に力がないからです。僕を弟子にしてくれる有力者の師匠も、誰もいません」

 目尻を震わせ、醜く顔を歪めるセレス。クロムは後輩の肩をぽんと叩いた。

 「卑下するのはやめたまえ、自分を愛せぬ者に幸福はない!」

 セレスは眼を剥いて鼻孔を膨らませた。

 「自分を否定できない者は一つところに留まります。いつまでも変わらず、進歩もないッ」

 クロムはただ微笑する。

 「好きに言いたまえ。運命を自在に選びとることができる、その選択が生か死であっても好きなほうへ行くことができるのが我々人間なのだ。それこそ神が人に与えた特権なのだよ、かぶら頭くん」

 「そんな器用な生き方なんて──いえ、もういいです」
 興奮を冷まし、セレスは僅かに瞼を落とした。

 「さて、奥か手前か。同時に二つを見ることはできないな──」

 クロムは言って懐から小さなサイコロを取り出した。三面ずつが赤と黒に塗り分けられ、一から六までの数字がきざまれている。色が別れていること以外、ごく普通のサイコロだった。

 「──赤なら奥、黒なら手前。出たほうを先に見回るとしよう」

 放り上げたサイコロがクロムの手のひらに落ちた時、出た面は赤色を示していた。
 その様子を呆れて見ていたセレスの物言いたげな視線に気づいたのか、クロムは軽薄な笑みを浮かべてサイコロに口づけをした。

 「神のお言葉に従うことも、人に与えられた特権なのさ」



 道の反対側へ行き、二階建て酒場の外付け階段にあがったクロムは、そこでじっと下を見下ろして周囲の様子を観察していた。

 瞬きもせずじっと眼下を見つめる様は、獲物を狙う猛禽のそれを彷彿とさせる。
 隣りに立って、セレスもそれに倣い、高所から人々の動向をじっと見つめた。
 時がすぎるにつれ、人出はさらに多くなっていた。
 これほどの数の警備兵が道を囲っていれば、なにごとかと興味を惹かれるのも当然のことだろう。

 観衆のざわめきがどっと大きくなった。

 街の入り口側から騎乗した輝士たちがぞろぞろと進んでくる。その後から冬華の紋印をつけた若い輝士が二人。

 「親衛隊まで……なんなんだこれ」

 セレスは目の前の光景を不思議に思う。これだけの警護の動員と輝士による派手な行進。生死を問わずとまでいわれている特使一行を守るための措置にしては、あえて目立つようなことばかりしているような気がしてならない。

 これはよく言えば英雄の行進、そうでないならまるで重犯罪者の護送のようだ。
 やがて、明らかに他国の装いをした一行が現れた。

 ──東方の輝士。

 数にして六人。セレスにとって初めて見る大国ムラクモの輝士達は、あまりにも不揃いな一団に思えた。

 多くが純血であるターフェスタの輝士達は、面立ちこそそれぞれに違えど、髪色や雰囲気は皆似通っている。だがムラクモの輝士達は頭の先から足の裏までばらばらに違っていた。共通点といえば着ている服の色くらいなものだろう。

 一団の一人、褐色肌をした南方人風の男は、明らかに丈の合っていない袖の短い輝士服をまとっていた。
 「南の蛮族までムラクモの貴族階級にいるなんて」

 次いで見えた男を見て、セレスは息をするのも忘れてその姿に見入った。
 それは、まっさらな銀髪、大きな黒い眼帯をした若者だった。彼もまた体格に合わない服を着ていた。左手にある輝石は、長い袖に隠れているせいで色が見えない。

 ──貴族だ。

 セレスは若者の姿を見てそう思った。
 彼が輝士服を着ていたから、という理由だけではない。雪の日の空のような淀みない銀髪があまりに美しすぎるのだ。

 ターフェスタを含む北方民族は灰系色の毛髪を持つ者が多い。しかし皆がまったく同じ色をして生まれてくるわけもなく、平民階級にある者達のほとんどは、黒や白、赤といった色味がまだらに混じっているため、北方においては頭を見ればおおかた、その人間の生まれがわかるのだ。それは異国人にとっては、言われても気がつかないような些細な違いである。が、そこに生きるものにとっては、明暗くっきりと判断ができる個性だった。

 彼の後ろをついていくやたらに端正な顔をした輝士に、市井の若い女たちが黄色い声をあげているが、セレスの注意は銀髪の輝士に釘付けになっていた。

 「クロム先輩、ムラクモにも北方出身の貴族がいるんですね……」

 銀髪の輝士は片目で注意深く周囲の様子を探っているように見えた。その所作の一つずつが、ただの温室育ちの輝士ではないことを物語っている。

 ──護衛武官、なんだろうか。

 見た目の年齢からしてもまだ若く、交渉にやってきた特使ではないはず。しかし実力があるからこその抜擢にちがいない、とセレスは考える。

 銀髪のムラクモ輝士を見るセレスの目に、いつのまにか力がこもっていた。

 「先輩──国を裏切り、神を捨てた者の末裔。そんな人間でも、東方では輝士になれるものなんですね……」

 隣りにいるはずのクロムへかけた言葉に返事はない。
 「先輩?」

 見れば、いつのまにかクロムの姿はなくなっていた。慌てて周囲を見ると、階段を降りて人だかりの中をするすると歩いて行くクロムを見つけた。

 「先輩! クロム先輩ッ」

 クロムは視線も寄越さず一心に人垣の中の一点へ向かっていく。彼が目標と定めたのは二人組の少年だった。ぼろぼろの服を着て、冬物のぶかついて質素なフード付きの外套をすっぽりかぶるその姿。

 クロムが彼らの腕を掴み上げたのを見て、セレスはぽかんと口を開けた。
 「貴族──」
 少年達の手甲には、色のついた石があったのだ。



 クロムが二人の少年の腕を掴みあげそのまま裏路地へ連れ込んだのを確認し、セレスは走ってその後を追った。

 背の高い建物の狭間に存在する細道。ここに光は届かない。

 じめって苔むしたそこで、クロムに捕まれた少年達は必死に暴れてもがいていた。

 「先輩ッ」
 「遅いではないか、かぶら頭くん。てっきり仕事を放棄したのかと思ったよ」
 「す、すいません。その子供達は──」

 クロムは少年達の手首をさらに持ち上げた。彼らは苦しそうにつま先立ちをする。外套がめくれると、腰に差した短刃の剣が姿を現した。

 「小さな暗殺者たちのようだ、誰を狙ってのことかはわからないがね」

 セレスは退路を断つため、少年達の背にまわった。
 近くにきて改めて見ればわかる。少年達の淀みない銀の髪、整った美しい面立ち。紛れもなく生まれに恵まれた者達だった。

 「離せ! 無礼は許さないぞ、僕はシッタバーン家の人間だ! 父は重輝士でアーデイ重将の副官、叔父上はモリア・シッタバーン、オトエクル教会の司祭だ!」

 権威ある者達の名を聞いて、セレスは思わず腰を引く。

 クロムはゆっくりと少年達を下ろした。
 セレスの目には彼が少年達に譲歩を見せたように映る。そう考えたのは少年達も同じだったようで、彼らは抵抗することなく、握られどおしだった手をさすり、その場に足を止めてクロムを睨めつけていた。

 「よくも邪魔をしてくれたな、あの緑髪の男は僕の姉上を殺めた輝士だ!」

 少年の一人がそう叫ぶと、彼の目から止めどなく涙があふれ出た。
 少年はさらに続ける。

 「三身に切り離された姉上の遺体を前に母上は心を病まれてしまった……父上は家に戻らなくなり、邸にいる者はだれも笑わない。全部あいつのせいだッ、僕にはあの男の心臓に剣を突き刺す資格があるんだッ!」

 聞いて、セレスの緊張はしだいに解けていく。それは、無意識下で芽生えた同情心を根拠とする油断であり、無責任な慈悲だった。

 だが、彼らを拘束したクロムが用意したのは言葉ではなく腰に差した短剣の刃だった。

 「な──」

 事情を訴えた少年の首に刃を当てて、クロムは狂人のごとく場違いな微笑を浮かべる。

 「豆粒くん、君の吐く言葉に私はなんら興味がない。それに私のほうも言っておかねばならないことがある、私には君たち二人の生殺を決する権利がある」

 少年達はクロムの物言いにびくりと肩を揺らした。

 「お、脅かしだ。知っているぞ、お前達は輝士じゃない、そんな権限があるものか! 黙って引き下がるなら見逃してやる、今のうちだぞ、さっさとどこかへ消えろ!」

 少年の肩に、クロムの短剣が突き刺さった。
 少年のあげた悲鳴は細道を抜けて辺りへ響く。しかし大通りから伝わってくる喧噪が、それをすべて打ち消した。

 「ちょ、なにを!?」

 驚いて一歩退いたセレス。隣りに佇んでいたもう一人の少年は腰を抜かして地べたに尻をついた。

 短剣を抜いて、クロムは鮮血に濡れた刃の先を再び少年の首に押し当てる。

 「脅しではないのだよ、豆粒くん。だが、私もむやみやたらに人を殺す狂い人ではない。最後の選択は君たちにゆだねよう」

 突かれた肩を押えながら、少年はクロムが取り出した赤黒のサイコロを見て震え上がった。彼がせんとしていることが理解できず、恐怖を感じたのだ。

 「な、なん──」

 痛みと恐怖に青ざめて、言葉を紡ぐ力も失った少年。
 クロムは彼に選択を投げかける。

 「赤か黒、選びたまえ。選んだ色が出たなら私はなにも見なかった。だが出なければ、神は君への罰を求めているということになる。喜びたまえ、生涯を賭けて天運をためすときがきたのだ」

 少年は涙をこぼし、小刻みに震えながら首を横に振る。

 「選択を拒否するつもりかい? それもまた選択ではあるが、それでは私の教義に反するのだよ」

 クロムがにやけた表情を変えぬまま、首に当てた刃に力を込めた。

 「さあ、選びたまえ。次に同じことを言うつもりはない」

 少年は固唾を飲み込んで、
 「あ、あ──あか」

 聞き届けたその瞬間、サイコロは高らかに天を舞っていた。親指ではじかれたそれは高速に回転を続け、やがて上昇を停めて大地へと引き戻される。

 落ちて停止したサイコロの色は、黒だった。

 セレスは慌ててクロムの名を呼ぶ、
 「クロムせんぱッ──」

 クロムは握った短剣を横へ滑らせた。
 不快な喉鳴りが響く。
 クロムの短剣は勢いそのまま、少年の心臓を一突きにしていた。

 崩れおちた小さな命。彼の友であろう少年は半狂乱に悲鳴をあげ、這いずるように通路の奥へ逃げ出した。

 「選択放棄とみなすよ。神のお声を無視するとは残念だ、もう一人の豆粒くん──」

 クロムは背に負った白い弓を取り出した。矢もおかずに弦を引き絞るが、なにもなかったはずのそこには、白光する透明な晶気の矢が具現化していた。

 セレスは反射的にクロムに手を伸ばす。
 「待ってくだ──」

 それは高音に響く風鳴だった。

 クロムの手から解き放たれた晶気の矢は、尋常ではない速度で細道をかけぬけ、暗がりの通路を照らしながら逃げる少年の背を一突きに貫いた。

 血を吐いて倒れ、びくともしなくなった少年の姿を見て、セレスは呆然と膝をついた。

 クロムは横たわる少年の胸から短剣を抜いて、彼の着ていたぼろの外套で血を拭う。
 罪悪感のかけらも抱いた様子のない先輩監察官を前に、セレスは力なく語りかけた。

 「まだ、子供ですよ……」

 クロムはセレスへ顔を向ける。

 「かぶら頭くん、表へいって報告をしてきたまえ。死体の片付けは猛禽の仕事ではない」

 言って去る背を見送り、セレスは息絶えた少年の瞼を、そっと落とした。

 いまになってハゲワシの言っていたことを思い出す。
 クロムと行動をともにしていた前任者が逃げた、という言葉だ。

 ──ただ、逃げたんじゃないんだろうな。

 病んだのではないかと、いまのセレスにはそう思えてしかたがなかった。



 4



 物々しい厳重警備と、状況をよく理解していない様子の街人の歓迎を受け、シュオウを含むムラクモの一行は見るからに高級な宿泊施設へと案内されていた。

 「ここがあんた達の部屋だ」

 そこはおそらくその宿でも最上級の一室だった。
 やたらに広く、豪奢な調度品も目立ち、敷かれている絨毯やカーテンも一級品。別室として区切られた湯浴み場なども完備されている。
 だが、部屋に通されてすぐ、ムラクモ組の女達が不満を表明した。

 「私たち全員にこの部屋で過ごせというつもりですか……?」

 困惑とかすかな怒りを溜めアイセがそう聞くと、それにつられてシトリも声をあげた。

 「あのでかいのと同室って、ありえないんだけど……」

 シトリに名指しで指までさされたシガは、犬歯をぎらつかせて低く喉を鳴らした。

 「俺のほうから願い下げだッ、ぎゃあぎゃあやかましいうえに化粧臭くて飯がまずくなる!」

 応じていた冬華六家の輝士、ナトロはうんざりした様子で手を数度叩いた。

 「はいはい、喧嘩するなよ。いくら文句言ったって無駄だからな。あんた達は数が多すぎる、まとまっていてくれたほうが楽なんだよ。だいたい警護するほうのことも考えろよな。一応仕切りの用意くらいはさせるからさ、それでしばらく辛抱してくれ」

 扉を閉めかけたナトロを、アイセが慌てて呼び止めた。

 「これからのことは──」

 ナトロは顔半分だけで中をのぞき込み、

 「あとのことはうちの隊長が取り仕切る、待ってればそのうち顔出すと思うよ。ぶっちゃけさ、俺たちも細かいことは聞いてないんだ──じゃあな」

 がしゃりと、鍵のかかる音が聞こえて、様子を覗っていたシュオウは急いで扉に駆け寄った。
 押しても引いても、重い扉はびくともしない。
 不安げにシトリが扉に触れる。

 「閉じ込められたの……?」

 もう一度強く扉を押しても、やはり手応えはなかった。

 「そうみたいだ」
 「これじゃあ監禁じゃないか……」

 アイセが深刻な顔で言うと、いち早く自分の寝床を定めたシガが、体を横たえながら鼻を鳴らした。

 「その気になりゃこんなしょぼい壁、俺が片手でぶちやぶってやる」

 アイセはシガに食ってかかった。

 「そういう問題じゃないッ、私たちは特使として正式に招かれたんだぞ、見張りがつくことはあっても、ここまで行動を制限されるのは普通じゃない、無礼にもほどがあるッ」

 シガはアイセの言葉へあくびで返し、
 「ぐだぐだ言ってるが、原因はわかりきってるじゃねえか。なあ、そこの無口な女男」

 皆の視線が一斉にジェダに注がれる。
 ジェダは無言のまま、壁に背をもたれかけ、腕を組んで目を閉じていた。

 シュオウは一行の指揮者たるベンを見た。
 ベンは部屋の中央で枯れ木のように立ち尽くし、青ざめた顔で自身の服の襟をつねっていた。
 ベンはゆらりと、ジェダの前まで足を向ける。

 「なんなのだ、この状況は……ジェダ・サーペンティア、私はなにも聞いていないぞ。どうして言わなかったッ、君がこれほどターフェスタの恨みを買っていると……」

 ジェダは瞼を開け、この旅に出て初めて無表情を崩し、微笑した。

 「随行者の素性を把握するのはあなたの役目だ。僕は聞かれなかったから答えなかった。それだけです」

 「そんな……」

 ベンは後ずさり、青味が指した顔をこねてベッドに腰を落とした。

 「ちょっと待ってくれ……上は君とターフェスタの事情を知らずに、この任務に配置した、のか……?」

 そんなベンの独り言ともとれる発言に、ジェダは壁から背を離して腰に手を当て応える。

 「僕がしてきたことを知る者は少なくない。外国との交渉を取り仕切る王括府がそれを知らないわけがないでしょう」

 青ざめたベンの顔は、もはや生気を失って蒼白になっていた。

 「そんな──わ、私は、いったいなにを背負わされた……まさか、お前達もなにか……」

 シュオウらをじっくりと見回すベンの充血した瞳。ここへ来て、彼は同行する者達の素性をまるで知らない事へ恐怖を抱いていた。

 ジェダはただ能面のように生気なく、ベンに向かって小馬鹿にしように微笑を向けている。

 誰もが口を開くことなく、しんと静まりかえる。それも束の間、部屋の扉を叩く音と、鍵をあける音がした。

 部屋に入って扉を閉めたのは、赤い輝士服を纏ったターフェスタの軍人だった。
 細長いメガネ、痩せた長身で切れ長の青い双眸、腰に細剣を差して、手にある輝石は深紫色をしている。
 輝士は薄い唇を開けてムラクモの一行に語りかけた。

 「冬華六家、長のウィゼ・ビア・デュフォスと申します。はじめまして、東からの旅人方」

 輝士はそう名乗り、右手を腰にまわして中指でくいとメガネを押し上げた。












[25115] 『ラピスの心臓 外交編 第四話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:00bbf195
Date: 2015/03/13 18:00
     Ⅳ 諍い












 デュフォス。そう名乗った輝士を前にしても、代表者であるベンはまともに応じることもせず、呆けたようにベッドに腰掛けたまま落ち着きなく膝を揺すっていた。

 見かねて、アイセがデュフォスに恭しく応対する。

 「あの……歓迎に感謝いたします。私はムラクモ王国軍輝士、アイセ・モートレッド。お見知りおきを願います」

 デュフォスはアイセに頷き、部屋にいる面々へ順に視線を送った。

 そっぽを向いて巻き毛に指を通すシトリ。独り言をつぶやきながらベッドに腰掛けて足を揺らすベン。横になって尻を向けて寝息を立て始めたシガ。

 彼らを一瞥したデュフォスは不快げに眉を下げた。

 アイセが恥じ入ったようにか細い声で、
 「申し訳、ありません……」

 デュフォスはなにも返さず佇むジェダを見て、最後にシュオウに視線を合わせた。
 シュオウは黙ってデュフォスの視線を正面から受け止める。

 時間にして五秒にも満たない。なにも言わずデュフォスは視線をはずして、ベンの前へ静々と足を運んだ。

 「貴殿が、特使ベン・タール閣下とお見受けしますが」

 直接呼びかけられて、ベンは呆けた瞳に光を取り戻したようだった。

 「し、失礼をいたしました。ムラクモ王括府所属の書記官ベン・タールと申します、このたびは過分な歓迎に預かり、恐悦至極……こちらとしては感謝の意を表明する以上のことができず、誠に恐縮であります」

 「こちらこそ、出迎えに送った二人の部下がご不快な気分にさせたのではと案じておりました。あの二人は未だ十代、礼法もなってはおらず、案内役としては不適格でしたが、歴戦の輝士達を統率できる階級者のなかに、彼ら以上に身軽な者がいなかったもので」

 「と、とんでもない、失礼など……貴国の輝士は若くして重職についているのだと、度肝を抜かれました」

 「輝士学校制度を敷いておられる貴国とは違い、当地は古くから輝士徒弟制度を伝統として今日まで継承しておりますので、一人前と認められるのに年齢は考慮に入りません。しかしあの二人ほど若く親衛隊に取り立てられる者はそうはいません。両者とも、世に天才と称される部類の人間。それ故、幼くして強者に弟子入りし、ターフェスタ大公より冬華紋を授かりました」

 ベンは深く二度頷いた。
 「はあ。いやお見事、納得いたしました」
 ベンは喉に固唾を通して、
 「ところで……大公殿下との謁見は叶うのでしょうか、私としては、その──」

 ベンはちらちらと気まずそうにジェダに視線を送る。
 デュフォスは無表情に一つ首肯した。

 「もちろん、大公はこの日を心待ちにしておられました。しかし、すぐにというわけにはまいりません。二十日ほど前のこと、太子様がお風邪をめしました折に、その身を案じて見舞っていた大公は病をいただいてしまい、現在は療養に努めておいでなのです」

 ベンは一瞬晴れやかな表情をみせた。

 「で、では、我々は一度帰国し、出直してまいります! このたびの歓迎を本国に伝え、改めて献上の品々を──」

 デュフォスは微かな笑みを浮かべ、ベンの前に手のひらを向けた。

 「お待ちください。長旅を経ていらした特使閣下にそのような二度手間をさせたなどと、大公のお耳に入れば、私はルビィフォンの冬華印を剥奪されてしまうでしょう」

 ベンは再び青味が差した顔で、露骨に意気を沈ませた。
 「それは──」

 「どうか、大公が復調されるまでの間はこのままご滞在を。その間の費用一切、ご心配には及びません。安全を考慮し、可能なかぎりこちらの部屋に逗留いただきたい。飲食や土産物など、望むものは係の者に申しつけていただければなんなりと用意いたしましょう」

 ベンはすがるようにデュフォスへ手を伸ばした。
 デュフォスは音もなく一歩退いて、沈んだメガネを元の位置へ戻す。

 「デュフォス殿──お、お待ちを」
 「失礼、この身には大小を問わず予定が詰まっているのです。またいずれ、支度ができた際にお迎えにあがらせていただきたく」

 デュフォスが部屋を出た後、ベンは唸り声を絞り出しながら、止めどなく薄い髪をかき混ぜた。



     *



 デュフォスが部屋を出てから、丸二日の時が過ぎた。
 肥え太れといわんばかりに運ばれてくる豪勢な食事に喜んでいるのは一人だけ。その他の面々は時が過ぎるごとに顔付きが険しくなっていった。

 実質的な監禁状態に置かれている現在、不安は隠せない。
 
 状況に変化が生じたのはさらに翌日、宿へ入ってから三日目の夜のこと。個人的な日用品に関して、使った使っていないといった争点でアイセとシトリが喧嘩を始めたのだ。

 がみがみと言い争う二人の声。煩わしそうなしかめっ面で、シガがシュオウの名を呼んだ。

 「おい、なんとか言ってあの馬鹿女どもを黙らせろ」
 「……なんで俺に言う」

 傍観者でいることを望んでいたシュオウは、彼女らに背を向けて知らぬふりを継続した。

 「てめえの連れなんだろ、違うのかよッ」

 意外なことに、シガの余計な一言が二人の喧嘩を中断させた。
 アイセとシトリは口げんかをぴたりと止め、黙りこくった。

 後ろからの視線は見えずとも、空気で伝わる気配というものがある。深界という魔境で生き抜くために養われてきた鋭敏な感覚は、こうした状況においてはただただ邪魔なものでしかなかった。

 シュオウはこっそり後ろを見た後、なにごともなかったかのような態度で自身の荷物の整理を始めた。

 そのとき、誰かが小さく咳払いをした。

 「……いま私のことを嗤ったのかッ」
 どんよりと重いアイセの言。それを向けられたシトリは声を裏返す。
 「は? ちょっとおかしいんじゃないの」

 再び険悪になりかけた空気に、湯浴み用の別室から出てきたベンが水を差した。

 「いいかげんにしたまえ君たち! 夜更けに騒げば外まで声がもれるではないか──あッ!?」

 なにかを強烈に蹴ったような鈍い音がして、シュオウは反射的に振り返った。
 目に映るのは、床に置いた荷物に足を打ち、緩慢な動作でゆっくりと倒れ込んでいくベンの姿だった。

 溺れる者のそれで、手当たりしだいに手を泳がせるベンは、入口扉の取っ手に手をかけてかろうじて受け身をとるための余裕を得る。しかしそう思えたのも束の間、びくともしないはずの扉は、なんら抵抗なくするりと開き、ベンは勢いを殺しきれずに分厚い赤絨毯の上に顔面を強打した。

 「いたァいッ──」

 鼻を押えて悶え苦しむベンを気遣う者は誰もいない。
 皆、開いた部屋の入り口を驚きをもって見つめていた。

 「鍵がかかってない──」
 アイセはおそるおそる扉を開け、外の様子を確かめる。
 「──誰もいないぞ」

 シュオウは格子窓から外の様子を覗った。
 夕方までぞろぞろと配置されていた警備兵の姿はなく、外も静かなものだった。

 「外もだ、見張りが一人もいなくなってる」

 シュオウの報告にまっさきに反応したのは、それまで静かに状況を傍観していたジェダだった。
 彼は窓の外の様子を意深く探り、次に入り口へ向かって廊下の様子をじっくりと眺めた。

 突然、ジェダは吹き出したように笑いをこぼす。
 「なるほどね──」

 アイセやシトリ、シュオウも廊下の様子を見るが、警備の兵士はおろか、他にひとがいるような気配すらまるで感じられなかった。いくら夜とはいえ、まだ寝静まるには少しばかり早い頃だ。

 「どうする……事情を確認しにいくか」
 アイセの問われ、シュオウは目を合わさずに頷いた。
 「そうだな」

 しかし、真っ赤になって血を零す鼻を押えながら、ベンがシュオウ達の前に立ちはだかった。

 「いッかあん!! きっと当番の交代かなにか手違いがあったのだろう。ここで許可なく我々が部屋を出れば、企てありと見られても言い訳ができない! さあ、部屋に戻りたまえ。そして静かにベッドに入り、目をつむってよからぬ考えを捨てるのだよッ」

 ベンの態度には、うむをいわさぬ迫力があった。
 結局この日、シュオウ達は大人しく指揮者の言うことに従うことにした。







 四日目の朝。
 一夜が明けても状況は変わっていなかった。

 部屋の鍵は開いたまま。外にも内にも一人の見張りも立っておらず、それどころか宿を運営しているはずの者達の気配すらなく、頼まずとも行われていた朝食の配膳もなかった。

 ターフェスタ入りしてからここまでの厳重警護を思うに、現状がいかに異常な事態であるか、考えるまでもなくそれだけは間違いない。

 無意味に時は過ぎていく。

 朝、昼となにも食べることができず、空腹で苛立っているシガと、他人事のように静かに振る舞うジェダを除いて、皆が不安に暗い顔をしていた。

 ただ、そのなかで一人、アイセだけは別の理由で顔色を悪くしていた。
 「ない──」

 アイセはベッドシーツを上げ、夜具をはたいて何かを必死に探していた。
 備え付けの棚をすべて開き、それでも目当ての物が見当たらない様子で、青ざめた表情はすっかり余裕を失っていることが見て取れる。

 「やれやれ、このようなときに……いったい何をなくしたのかね」

 呆れ顔でベンが問うと、アイセはばらけた前髪を整えることもせずに顔をあげた。

 「指輪、です」
 「ゆびわぁ? まったく……最後に見たのはいつなんだね」
 「昨晩、髪を洗う前にはずして、ベッドの脇の棚の上に置いたのが最後、です」
 「ならそこにあるのだろう」

 投げるように言ったベンにアイセが怒鳴った。

 「全部見ました、でもないんです! 棚の裏、ベッドの下も見たけど──」

 アイセがなくしたと言っている指輪に、シュオウは心当たりがあった。
 以前に、アイセとシトリから送られてきていた贈り物への礼のためにアベンチュリン領内の宿場町でシュオウ自らが購入して贈ったものなのだ。

 アイセのあまりに必死な形相に、シュオウは声をかけないまま、そっと周囲を探ってみた。が、それらしき物の影はどこにもない。

 「誰かが拾ってそのまま持っているのではないのかね」

 一瞬、頭の中で浮かんだ考えを、ベンがさらりと口にした。だが、シュオウがそれを口にしなかったのには理由がある。固定された人物が数日間閉じ込められていたこの場所で盗みを疑うことは、諍いという名の暖炉に種火を放り込むのと同義だったからだ。

 シュオウの懸念は、数刻のうちに現実となる。

 アイセはベッドに腰を落ち着けていたシトリの前に立ち、彼女に向かって手のひらを指しだしたのだ。

 怒りに紅潮した顔で手を出すアイセに、シトリは若干ひいたように聞いた。

 「ね……本気なの……?」
 「お前以外にだれがあれを盗るんだ。昨日の仕返しのつもりなら謝る、だから」

 唇を噛んで、シトリはアイセの手を払って立ち上がった。

 「やめて……そこまで卑しくないから」
 「いつも物欲しそうに見ていたのは知ってるんだぞッ」

 「ちょっとおかしいんじゃないの、アイセ──」
 シトリは小馬鹿にしたように、アイセを笑った。
 「──知ってるよ、ここんとこ、彼に相手にされなくてずっといらいらしてるの」

 アイセは怯えたように半歩後ずさる。
 「なん──」

 「寂しいからってひとに当たらないでッ、そうやっていつも怒ってなにかのせいにして、そんなだから嫌われるんだってすこしは──」

 シトリが言い終えるより先に、強く頬を叩く音がそれを制した。
 かなり力がこもっていたのか、シトリは体制を崩してベッドの角に強く体を打ち付ける。

 「いッた──」

 赤く腫れた頬を押え、シトリは目にかかった前髪の隙間から強い視線でアイセを見上げた。

 「あ……」

 叩いた手の平を隠すように抱えて、アイセは怯えるように後ずさった。

 シトリは無言で立ち上がり、壁に掛けてあった外套をとって入り口へ向かった。
 これまでのやりとりを呆然と見ていた男達はシトリの背を追うように、ただ見つめている。

 シトリが扉を開いて廊下へ足を出したとき、ベンが慌てて彼女を呼び止めた。

 「アウレール晶士! ま、待ちたまえ! 許可無く外出をしては──」

 シトリは、しかし少しも足を止めることなく、そのまま扉を閉めて外へ出て行ってしまった。

 「なんてことだ……連れ戻さなければ……しかしそのためには外へ出るしか」

 ベンは頭をかかえた。
 うつむいて顔を隠したアイセは、黙りこくって微動だにしない。

 一瞬、室内は静寂に包まれる。
 そんなとき、部屋のなかに冷めた笑い声がこだました。

 笑い声の主、ジェダは皆の視線を一身に受けて、指先でつまんだ指輪をちらつかせた。

 「それ……」

 シュオウにも、そしてもちろん本来の持ち主であるアイセにも、それがさきほどまで探していた物であると、すぐにわかった。

 シュオウは一歩、ジェダに向かって踏み出した。
 「どこにあった」

 ジェダは作り物じみた微笑をうかべ、
 「今朝方、落ちていたのを拾ってね」

 瞬時にシュオウは眉を怒らせた。
 「なぜ黙っていた、早く言っていればこんな──」

 「様子を見たかった。面白いことになるんじゃないかという期待もあったが、実際その通りになったよ」

 ジェダは紙くずでも放るように、指輪をアイセの手元へ投げ渡す。
 落としそうになりながらも、無事に手の中に指輪を戻したアイセは、それを見つめて爆ぜるように顔をあげた。

 「じゃあ、私は──」
 アイセは言葉を切り上げ、外套を手にとって入口扉を押し開けた。
 ベンの制止も無視し、走って部屋を後にしたアイセの背を、シュオウはかける言葉なく見送った。

 反射的に彼女を追おうとして足を一歩踏みだしたまま、シュオウは硬直していた。そんなシュオウへジェダが皮肉を浴びせかける。

 「さぞ良い気分なんだろうな、二人の異性が自分を取り合って仲違いをしている姿を見るのは」

 口を引き結び、シュオウは重くジェダを凝視する。
 シュオウはジェダの前に立った。その距離は鼻息が届きそうなほど近い。

 「なにが言いたい」

 ジェダは顔面を怒りの色に染め上げる。それは彼がはじめてみせる貌だった。
 突然、ジェダは手を伸ばしてシュオウを突き押した。

 「調子に乗るなよ従士、青い服を着て忘れているようだが、分をわきまえない態度を許した覚えはないぞッ」

 彼にしてはあまりに余裕のない物言いだった。震えた声、血走った眼に、攻撃的に晒された前歯。

 少しも目線を外すことのない彼の態度につられ、シュオウも徐々に鼻息を荒くしていく。

 「気にくわないことがあるならそう言えばいいだろう。物を隠してひとの気持ちを弄んで、なにが楽しいッ」

 シュオウの言に、ジェダは憤懣《ふんまん》に満ちた顔のまま、それを鼻で嗤った。

 「ひとの気持ちを弄んでいるのは君のほうだろう」
 「なんだと──」

 「ムラクモ出るときからここまでの間、君があの娘達にとっていた態度。だれも気づいていないと思ったのか。子供でもわかるさ、露骨に避けて距離を置こうとしていたことくらい」

 ジェダの指摘に、シュオウは強い困惑に晒された。
 「だとして、なんの関係がある……」

 「君たちを見ているとなにより不快な気分になるんだよ。身分違いの恋、そんなものは物語のなかだけの幻想、作り話ならひとの好奇心を満たすが、現実は汚水よりも暗くて汚い悪夢にも劣る行いだ。だがなんと言おうと無駄なんだろうな。君が誰と心を結ぼうが好きにすればいい、どうせ生まれてくる子供はなによりも醜く、人々にさげすまれ石を投げられて、道端で飢えて死ぬのがおちさッ」

 ジェダの言わんとしていることを理解できぬまま、彼の言葉を痛烈な罵倒として受け取ったシュオウは、彼の輝士服の襟を力まかせに掴み上げた。
 頭に登りきった熱い血は、もはや下ろし方もわからず、仲裁しようとしている外の声も耳に届かなくなっていた。

 シュオウの視界には真っ向から喧嘩を売ってくる一人の男しか映っていない。
 ジェダは歯を食いしばって拳を握り、それを思い切り振り上げた。

 殴りかかろうとしてくるジェダの動きは、シュオウの眼にはあまりに緩慢な動作にしか見えない。彼の手が前へ出るより先に、握りしめた自身の拳をジェダの顔面に打ち付けた。
 不意の一撃をくらって体をのけぞるジェダ。しかしシュオウは掴んだ彼の服を離すことなく、二度三度と拳をお見舞いしていく。

 四度目の拳を持ち上げたとき、ジェダはすでに抵抗する力を失っていた。

 「なんということだ……」
 ほんの少し落ち着きを取り戻しつつあったシュオウの耳に、絶望に濡れたベンの嘆きが響いた。

 シガが冬眠から冷めたクマのようにあくびをした。
 「もう限界だ、こんなつまらねえところにいられるか」

 言って、シガは軽装のまま部屋の入り口へ向かう。

 「こら、どこへ行くつもりだ!」
 「腹が減ったんだよ、飯屋にきまってんだろうが」

 力を抜いて崩れるように腰を落としたのをジェダを一瞥し、シュオウは赤くなった拳を見つめて、自身の黒い外套と荷物を手に取った。

 「まさかお前まで」

 情けない声をしぼって言うベンに、シュオウは興奮したまま見開いた眼を向ける。ベンは少し怯えたようにあごを引いて口を引きつらせた。

 「あの二人を探して連れ戻してくる」

 力なく崩れたまま、それでもなおジェダは鼻を鳴らして嘲笑をした。
 その態度に苛立ちを覚えながら、シュオウは彼を無視して部屋を後にした。







 ターフェスタの街中は日常の喧噪に包まれ、ここ数日を過ごしてきた静かな一部屋での生活が嘘のように開放感に溢れていた。

 たき火の焦げ臭さが混じる乾いた空気を吸い込んで、アイセは外套のフードを目深にかぶる。

 部屋を出てここへ来るまでの間、宿泊施設の中から外まで、誰一人として顔を合わせることがなかった。
 厳重警備の元に三日以上も監禁されていたというのに、これは明らかに普通ではない。

 管理しているはずの側になにか不慮の事態が発生したのか、あるいはなにかしらの意図があってのことなのか。考えは答えのない不安を孕み膨らみ続けていくが、いまのアイセにとってそれら疑問の優先順位は低位に置かれていた。

 ──シトリ。

 やってもいない盗みを疑い、罵倒して手まで出した相手。多少なり冷静さを取り戻してみれば、その時の自分がいかに醜い行いに手を染めていたか、怖気と共に強い嫌悪感にさいなまれる。

 シトリを探すのにもっとも心配していたこと、それは自分が目立ちすぎるという事だったのだが、思いの外、市井の人々の視線を集めることもなく平穏に街中を歩くことができた。これは厚手の外套によって青い輝士服が隠されているおかげなのだろう。

 だがやはり、人通りの多い場所は居心地が悪い。いつ何時、見回りの警備兵に声をかけられるかと落ち着かないのだ。

 ──たぶん、あいつもそう思ったはず。

 簡易の推理を元にして、アイセは街中でも人通りのない場所を探すことに決めた。
 ふと、ふわりと漂ってきた煙に足を止める。

 空気と共に吸い込んだ甘い香り。正体は木からとれるシロップにつけ込んで焦げ目がつくまで焼いて食べる、豆粉を原料としたアランゼールという名の、ターフェスタ名物の甘味だった。



 足の裏が痛くなるほど歩いて、アイセは建物の裏手にある小階段に腰掛けたシトリを見つけた。

 がむしゃらに探しての結果ではなく、アイセは重点的に大きな建物の裏側を探していた。候補生時代から、シトリは大きな建物の背に一人でいる事を好むことを知っていたからだ。

 膝を折り、うずくまって顔を沈めるシトリの隣りに座ると、彼女は少しだけ頭を浮かせて、また膝の間に顔を隠した。

 「……ごめん」

 アイセの謝罪に、シトリは頭を揺らした。
 少しして顔をあげたシトリは、まだ腫れの残る頬をさすって全力で仏頂面をする。

 「どういうこと」

 アイセは気まずさに唇を噛み、件の指輪をだして見せた。

 「見つかったんだ。あの無口な公子が拾って、いたずらに隠していたらしくて……」
 「へえ」

 どうでもいいというような普段の言葉使いだが、やはりいつもより言い方に棘が含まれているような気がした。
 アイセはさきほど露店で購入しておいた菓子を、不機嫌なシトリに差し出した。

 「……いらない」
 ぶすっとしてそっぽを向いたシトリに、アイセは首を振った。

 「違う。あいつの──シュオウの好物なんだ、甘い物。随分前から知っていたけど、自分だけの秘密にしておきたくて、その……」

 唇を尖らせながら、シトリは菓子の袋を開けてつまみ上げた。
 「…………ね、あたしたちって、なに」

 唐突な問いに、アイセは言葉を詰まらせる。
 「えっと……元、同級生……同期、同僚、仕事仲間──」

 思いつくかぎりの関係を述べてゆき、最後に言いかけた言葉を飲み込んだ。

 「よかった、友達、なんて言われなくて」

 シトリは彼女にしてはめずらしく皮肉っぽい笑みをみせ、菓子を口の中に放り込んだ。

 「……アイセだけじゃないよ」
 言われ、アイセは聞き返す。
 「え?」

 「彼の態度がおかしいの、アイセにだけじゃない。最近、あたしとも目を合わせてくれなくなった。もしかしたら、もっと前からそういうのがあったのかもしれない。でもはっきり気づいたのは最近になってから。この仕事について、一緒にいられる時間が増えたと思って嬉しかったのに。こんなに寂しい気持ちになるなら……」

 シトリは顔を歪め、アイセに菓子の入った袋を差し出した。底を手に持ったまま、おそらく中身を取れという意思表示だろう。

 一つつまんで、それを口に放り込む。甘い味に心地よさを感じ、朝からなにも食べていなかったことを思い出した。

 「あのときとは違うんだ。あいつも色々な場所で色々な経験をしてきてる。ただ、私たちはシュオウが過ごしてきた時間を共有できなかったから、もう色々なことがわからない。彼の心が、まるで見えない。聞いてみたいと思っても、答えてくれないかもと思うと怖くて……」

 シトリは階段に背を投げ出し、両手を広げて仰向けになった。夕暮れ時を迎えて、茜色の日差しが彼女の水色の髪に溶け、本来の色よりも暗い青を演出していた。

 「つまんない──」
 シトリの隣りで、アイセも仰向けに寄りかかった。
 「……うん」

 沈みかけた夕日は多方に長い影を落としていく。
 街中の気温が一段下がったような気がした。







 異国の街並は複雑で、部屋を飛び出したアイセらを探しに出たシュオウは、あてもなく彷徨い続け、太陽が落ちる頃になっても目的を遂げることができずにいた。

 こうなると、一足先に戻ったのではと思うのは自然の流れで、シュオウはいくつかの目印に覚えた目立つ看板を頼りに、数日寝泊まりしていた宿への道を戻ることにした。

 途中、木材運搬用の水路にかかった橋の上に立ち、沈みかけの夕日に目を奪われる。そうしていると、ふと目に映る風景のなかに既視感と違和感を同時に覚えた。

 間違い探しができるほど、この景色を見ていたわけではない。しかし水路の片隅で座り込む、目立つ黄緑色の髪をした男の姿に気づくのに、なんら労を必要とはしなかった。

 放っておいて帰ろうと、一度は出した足を止め、シュオウはその男、ジェダの側へ近づいていく。着込んで変装をしようという努力は微塵もなく、ジェダは青の輝士服のまま、水路の縁に足を投げ出して、水の流れをただ見つめていた。

 さきほど、殴り倒したばかりの相手になんと声をかけてよいかもわからず、シュオウは足下に転がっていた小さくて軽い石を蹴った。
 こつん、とそれがジェダの背に当たると、彼はうっすら痣をつけた顔を向けた。

 「やあ、恋人達は見つかったのかい」

 思いの外穏やかな声音を意外に思いながら、シュオウはジェダの言葉を否定する。

 「恋人じゃないし、見ればわかるだろ」

 ジェダは片頬をあげ、柔和な笑みをつくった。

 「立ってないで座ったらどうだい。幸い席はたくさんある」

 らしからぬ態度に違和感を抱きながらも、シュオウはジェダの隣りに腰掛けた。
 彼に倣い、足を下ろして壁面に張り付いた無数の貝殻にかかとを引っかける。
 ジェダは太ももの上に何かの包みを置いていた。記憶にあるかぎり、こうした物をムラクモから持ち込んではいなかったはずだ。
 シュオウの視線を察して、ジェダは小さな包みをつついた。

 「土産物だよ。昔からの癖でね、旅先に来るとかならずめずらしい、その土地の物を探してしまう」
 「……土産。父親に、サーペンティア公爵にか」

 ジェダは遠くを見つめ、寂しそうに瞼を半分落とした。

 「渡す相手は一人しかいない、僕の姉だ。彼女は自由に外を出歩くことができないから、どんなささやかな物でも心から喜んでくれる」

 「兄姉、か」
 手頃な小石を持って、シュオウは水路に向けて放り投げた。

 「腹違いの兄姉ならたくさんいるけどね。けど、肉親だと思える相手はただ一人、同じ血を分けた姉だけだ。でももう…………二度と会うこともできなくなる」

 語尾をにじませるジェダの言いように、シュオウは首を傾けて彼の目を見つめた。
 「どういう……」

 ジェダは微笑み、寂しげな瞳を空へ流した。

 「この任務、君はなにもおかしいと思わないのかい。ムラクモは使節を単独で任務につかせるのが通例。彼らは身軽でいるために一人での仕事を好むし、皆輝士のはしくれ、身を守るための護衛など必要としていない。なのに、ぞろぞろと六人もの人間が固まって旅につかされた」

 「考えてはみた。けど、比較しておかしいと思うほど、俺はこの仕事を知らない」
 「なら答えを教えよう。この任務は交渉でも挨拶でもなく、ただの出荷なんだ」
 「出、荷……?」

 ジェダは鷹揚に頷いた。

 「売り主はムラクモ、買い手はターフェスタ。商品はこの僕、ジェダ・サーペンティア」

 ジェダが、この任務の真実を告げようとしている事を理解しつつも、シュオウは未だ要領を掴むことが出来ずにいた。

 「正直、わけがわからない。お前がここで輝士に襲われるほど恨まれていることと関係してるのか」

 「その通りだ。領地を持つ家は、時折国から戦場への支援を出すよう求められる。兵糧や武器、馬や人。大貴族と称されるような家は、そうしたものを提供して、富を独占していないのだと示さねばならない。そしてサーペンティア家が用意したそうした提供物のなかに、僕がいたというわけだ」

 「そのせいで戦場へ、か」
 ジェダは首肯する。

 「当主の肉親を戦地へ送るのは周囲からの受けが良い。なにしろそこは命を失うかもしれない血塗れの世界だ。その最前線へ、末席とはいえ息子を送れば、皆サーペンティア公爵は国を真に想う国士だと褒めそやす。その分、差し出す資金、武器兵糧が少なくなろうとも、誰も文句を言わない、思っていても言い辛い、という仕組みさ」

 シュオウは呆れ気味に鼻を鳴らした。
 「金をけちって、代わりに家族の命を危険に晒したのか」

 ジェダもつられるように笑う。

 「そうだよ。もっとも、この通り無事に生き残ることができたんだけどね。対北の戦場に出たのは四度だけ。ただ二度目の出陣で僕はすっかり相手方に名を覚えられた」

 「どうして?」

 「しいて言えば、やりかたの問題だったんだろうな。僕の晶気術は正道に反する。その方法が目立ってしまったせいで、混乱にまみえる戦場のなかで、僕が殺めた相手ははっきりと誰がしたことか知られてしまう原因になった。結果はわかるだろ、恨みを買ったのさ」

 ターフェスタ入りしてからジェダに向けられていた敵意の塊。その出所を知り、シュオウは納得を得た。

 「生き残るためにしてきたことで、結局は命を失うはめになった。唯一の護り手に見放され、自分がなにをしているのかもわかっていない間抜けに手綱を引かれ、遙か下の階級にある従士に殴られ。このざまさ」

 自嘲気味なジェダの愚痴。彼の言うことの一端を担っているシュオウは、むすっとしてふくれっ面を見せた。

 「あやまらないぞ」

 ジェダは高らかに声をあげて笑った。

 「謝罪を聞きたかったわけじゃないけど、そうまで言われると頭を下げさせたくなってくる。でもいいさ、君を挑発したという自覚くらいはもっている──」

 ジェダは髪をかきあげて、小石を水面に放り投げる。

 「──君達の同行はまるで予想外だったんだ。従士と、なりたての輝士と晶士。それに加えて人語を喋る獣まで。これではまるで曲芸団だ。死出の旅路にしては締まりがなさすぎる。君は聞いていないのか、どうして同行者に選ばれたのか」

 「なにも。シガは別にして、あの二人とは偶然同じ任務にあてられただけだ」

 「偶然か。君たちの関係は知っているよ。生死を賭けた旅を共にした仲なんだろう。以来、彼女達に随分と気に入られている。大勢いる従士と輝士のなかで、偶然君たち三人が、危険なジェダ・サーペンティア出荷の旅の一員に選ばれた、か。なるほど」

 ジェダの言うことを聞いていると、たしかに首を傾げたくなるような偶然だった。

 「ま、どうでもいい。考えたところで意味はないんだ。ムラクモに戻って後、君たちはせいぜい一時の恋愛ごっこを楽しめばいい、今と同じようにね」

 シュオウは強く眉をしかめた。
 「またその話か──どうしてそんなにつっかかる」

 ジェダは遠くの水面を見つめ、大きめの石を掴んで放り投げた。広がる波紋が投げ出した足の直下へ届いた頃、消えてゆきそうな小さな声で語り始めた。

 「……君たちを見ていると、どうしようもなく怒りを覚えるんだ。後先を考えない無責任な気持ちに身を任せているあの子達にも、半端に現実をみて、態度を濁している君にもね」

 「外からは見えない事で、他人からとやかく文句をつけらるのは気分が悪い」

 「そうだね。でも、僕には君たちに忠告の楔を打ち込む資格があると思っている。なぜなら、僕と姉の母は貴族ではないからだ」

 ジェダの告白に、シュオウは目を丸くした。
 ジェダは続ける。

 「いや、迂遠な言い方はやめよう。僕の母の左手には濁石があったんだ。平民階級者だよ」

 「それが、サーペンティア公爵、と?」

 「そう、父と母は禁断の恋をした。成就した結果に僕と姉が生まれ、濁石を持って生まれた姉は世間の目を避けて監禁され、彩石を持って生まれた僕は、家にための汚れ役を一手に背負わされた。濁石の血が混ざることを嫌う貴族家では、僕と姉は忌むべき汚点。親族中から何度も命を狙われたが、父サーペンティア公爵の庇護があってどうにか命だけはつなげてきたんだ」

 シュオウが彼に抱いていた印象よりずっと苦労を背負い込んで生きてきたというジェダ。意外に思いつつ、シュオウは頷きを返した。

 「……言いたいことは、なんとなくわかった」

 「そういうことさ。僕を見ればわかるだろう、この世界では生まれたときに立つ位置が決められている。ただどちらにも属さない半端者は別、席なんてどこにもないんだ。誰も幸せになれない、誰一人ね。これ以上なにを言うつもりもない。ただ僕の末路をじっくりと目に焼き付けておいてくれ。そして後悔の残る選択肢を、一日でも早く捨てたほうがいい」

 これまでの彼の態度やアデュレリアでの一連の経緯が元で、その言葉をすべて信じる気にはなれなかった。ただ一つ、ジェダの言ったことに多少なり真実みを与えていたのは、彼がひどく情緒不安定な様に見えたためだ。

 常日頃、微笑という虚実の仮面を貼り付けたまま過ごしていた男が、今は裸で眠る生まれたての赤子より無防備にみえたのだ。



 太陽は完全に沈み、市街地は夜を迎えていた。

 ジェダと伴って宿に戻る道すがら。街中は昼過ぎの喧噪が嘘のように静けさに包まれている。

 「あれだけ偽りのない言葉で他人と話をしたのは初めてだ。正直、君のことはあまり好きではなかったけどね」

 歩きながら言ったジェダに、肩を並べるシュオウは応える。

 「嫌な奴だとずっと思っていた。今もそう思ってる」

 「僕は君を正直な人間だと思っていた。だから他人から好意をもたれやすいのかとね。だけどここへ来て感想が変わったよ。君も案外ひねくれた人間のような気がしてきた、時折、鏡を見ているような気分になる──」

 ふと、よぎった違和感にシュオウは足を止めた。同時にジェダの前に手をだして制止させる。

 「おかしい、なにかが」

 現在地は市街地の大通り。二階建ての建物が所狭しと並ぶ繁華街だ。しかし店はどこも閉まっていて、人気もないはずなのに、なんらかの敵意の塊が、周辺を埋め尽くしているような気がした。

 「言っておくことがある──」
 唐突にジェダは口を開いた。
 「──昨日の夜から部屋の鍵が開いていただろう。警護も見張りもなくなって、宿から完全に人の気配が消えていた」

 「やめろ、こんなときに」

 シュオウの言葉を無視して、ジェダは説明を続けた。

 「昨夜から今朝にかけてのことは、彼らの支度が調ったということの証明だったんだ」
 「……どういう?」

 「僕を迎える支度だよ。どうしてこんな回りくどい方法をとるのかはわからないが、この状況が彼らには必要だったんだ。僕が自由に外を出歩いているという状況がね」

 「それが本当だとして、じゃあなんで外へ出た」

 ジェダはただ微笑み、シュオウの問いに返事をしなかった。
 周囲にある各建物の窓、入り口が開いて、弓を携えた兵士達が一斉に姿を現した。
 たいまつに火が点り、どこからともなく甲高い笛の音が響きわたる。

 ぞろぞろと前後の道から溢れるように兵士達が埋め尽くし、脇にある細道ですら、大きな盾を携帯した兵士が道を塞いでいた。

 瞬時の判断で、抵抗が困難な状況に置かれたことをシュオウは察した。
 無傷の逃走を諦めるのであれば、真っ向からの突破を挑む手段は残されている。シュオウはジェダの手首を掴み、足腰に力を溜めた。

 しかし、ジェダはシュオウの手を離して、首を横に振った。

 「抵抗は無意味だ。ここが終着地点、僕が彼らに囚われるまでが予定調和なのだからね。逆らっても無駄な時間が過ぎるだけだよ。心配はいらない、大人しくしていれば君は無事にムラクモへ帰れるさ」

 兵士らの造る包囲は完全体を為しつつあった。
 ジェダの話の真偽はおいておいても、すでに二人での強行突破の期は逸している。

 前方の道に出来た兵士達の集団を分け入って、見覚えのある男が姿を現した。数日前に一度会ったきりのターフェスタの親衛隊長、ウィゼ・デュフォスである。
 デュフォスは後ろ腰で両手を組み、暗がりのなか、たいまつの灯りを受けて口を開く。

 「さきほど、市街地で殺人の被害者と思われる死体が発見された。手口からしてジェダ・サーペンティア、君の犯行が疑われている。異国の軍属という立場を鑑み、調査が済むまでのあいだ、大人しく縛についてもらいたい」

 ジェダは無抵抗をしめすため、両手を天に差し上げる。シュオウを見て笑みをこぼした。

 「見物だよ、どれほどくだらない罪をでっちあげたのか。殺されるまでの最後の娯楽にさせてもらおう」

 無数の剣矢が向けられたこの状況で笑う余裕もなく、シュオウは険しい顔のまま手をあげた。
 二人の左手に、速やかに白い鍵付きの封じ手袋がかぶせられた。











[25115] 『ラピスの心臓 外交編 第五話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:096dd064
Date: 2015/04/03 18:48
     Ⅴ 自由のために












 無数の縄張りが蜘蛛の巣のように入り交じるターフェスタの下街で、各地区の親方らが信頼を寄せる有力者ヴィシャという名の男がいた。

 天を突くような大男で、腰まで届く美髯《びぜん》を誇りとするヴィシャには二人の娘がいた。姉の名はレイネ、十三歳になる姉より五つ年下の妹ユーニ。

 父譲りに気の強いレイネは、頼りない妹の面倒をよくみていた。
 レイネにとってそれは決して面倒事などではなかった。血のつながりはなによりも強固であり、うらぶれた下街において血の気の多い人間達をまとめあげる父ヴィシャも、血のつながりがある兄弟達と協力してそれを行ってきたことをレイネはその目に焼き付けてきたのだ。

 レイネは遊びを求める妹の相手をよくしてやった。彼女が欲しがる物は手の届く範囲で全部手に入れてやったし、行きたいという場所にもよく連れて行った。
 しかし、ここのところはそうした自由もままならなくなっていた。

 始まりは一年ほど前、市街地で起こった凶行だ。

 被害者は決まって若い女だった。口にするのも憚られるような残酷な方法で行われる殺し。今に至って犯人はつかまっておらず、それを解決すべき立場にある警邏隊は、夜間の外出禁止令を出したきり音沙汰がない。子供は陽が沈むまで、大人はそれより数時間の余裕が与えられているが、本来なら酒場通りが賑わう時間帯に、外を出歩くことは許されなかった。



 地下を巡る廃水路。狭い暗がりのなかにある古い穴掘り労働者用の宿泊基地がある。

 レイネとユーニの姉妹は、その宿泊施設を陣取り、ヴィシャ第四支部と名をつけた。そこは二人にとって、誰の干渉も受けることのない秘密基地だった。

 「おねえちゃん、つまんないよ……」

 尖った石を持って床に落書きを増やしながら、ユーニは退屈に悲鳴をあげていた。
 レイネは来る途中に露天商から頂戴したリンゴを二つ、曲芸の要領で交互に投げて暇を潰していた。

 リンゴを手元に落ち着けて、レイネは妹をなだめた。

 「我慢しな、ここんとこ街を出歩く兵隊どもの数が益々増えてるんだ。下手にふらついて捕まったら、またパパに怒鳴られるよ」

 ユーニは父親に叱られると聞いて半泣きの顔で、上唇を下唇にかぶせた。

 件の凶行が原因で、警邏隊は子供だけで市街地を出歩くことを禁じていた。

 レイネはそうした状況もおかまいなしに、すでに三度も捕まっている。二度目までは口頭での注意ですまされたが、三度目は丸一日牢屋のなかで拘束された。娘が軍に捕縛されたと知るや、父ヴィシャの怒りようはすさまじく、あわや刃傷沙汰寸前にまで騒ぎが大きくなったことを、レイネは恐怖して覚えていた。

 相手は下街のごろつきとは違う。国を相手に虚勢をはったところで、彼らがその気になればヴィシャとその一族を葬ることくらい簡単なことなのだ。しばしば、身内のこととなると我を忘れる父を、レイネは心配に思っていた。

 ユーニは立ち上がって、スカートを両手で力強く握っていた。それは妹のご機嫌が悪いときに現れる合図の一つだ。

 「どうしたんだい」

 聞いたレイネも、妹の訴えたいことをわかっていないわけではない。
 ユーニが溜めている不満の大部分を占めるのが、毎年冬入りの今頃に開催される越冬祈願の祭りである。それが今年は領主の号令により、祭が中止となったのだ。

 甘い物や味の濃い食べ物が無数に並ぶ露店、弓打ちやクジ引きなどの選びきれないほどの娯楽。誰に叱られることもなく翌朝まで外で飲み食いをして遊ぶことができる楽しい一時。親から多めの小遣いをもらえるその日を心待ちに一年を過ごしている子供も多く、ユーニもまたその一人だった。

 我ながら甘いと知りつつも、レイネは楽しみを奪われてしょげている妹を可哀想だと思った。
 レイネは膝をついてユーニを抱きしめる。ユーニはすがるように体を預け、力強く姉を抱きしめた。

 レイネは妹の背をさすり、頭を優しく撫でる。
 流行病で命を失った母を、ユーニはほとんど知ることなく育った。レイネは妹にとっての母も同然だったのだ。

 「そうだな、〈エダーツェの手紙〉でも観に行くか」
 レイネのその言に、ユーニは爆ぜるように顔を上げた。
 「ほんと!?」

 それは街の中央広間にある劇場で公演中の歌劇だった。主催者は西方の劇団であるため、公演は期間限定。ユーニはそれをしばしば見たがり、だだをこねたのも両手の指では数えきれない。

 「観たらしばらくの間、良い子に我慢できるって約束できるなら考えるんだけどね」
 「するするするッ」

 ぴょこぴょこと飛びはねながら、途端に機嫌を直した妹をレイネは微笑んで見つめた。
 「でも……お姉ちゃん、夜だよ……」

 ユーニの心配は的確だった。講演は夜の限定。その時刻はちょうど子供の出歩きを禁じる頃に始まり、大人達が家に戻らなければならないギリギリの時間に終わる。

 「なあに、昼間ならまだしも暗い頃なら、あの間抜けどもに見つからずに劇場まで行くことなんて簡単だよ」

 ユーニの表情は晴れない。
 「でも……おかね、ないよ」

 入場料は大人が二日はうまい物を腹一杯食べられるくらいの料金がかかる。この心配も実に的確なものだったが、これに関してレイネには一計があった。

 「上街にボナンサっていう札付きの闇商人がいてね、あいつパパにしこたま借金や借りがあるんだ。ヴィシャの娘だっていや、小遣いくらいちょろりと出すさ。もしかしたらチケットを持ってるかもしれないしね」

 片側の歯を見せて意地悪そうな笑みをつくると、ユーニも同じように笑い鼻にシワを寄せた。その表情は悪だくみをしているときの父、ヴィシャにうり二つであり、改めて自分たちは血を分けた姉妹なのだと、レイネは強く実感した。



 地下水路と裏道を駆使しながら闇商人の住処へたどり着いたレイネは、その戸を軽快にノックした。

 トトン、トン、トンと調子をつけて叩いたのは、それが店主が商売の客かどうかを見極めるための合図だったからだ。

 家主からの応答はなかった。

 周囲は個人の商い店がちらほらと並ぶ商店街。
 しんと静まり帰った夜の空気に耐えきれず、レイネはぶるりと肩を震わせる。

 ──留守じゃないよな。

 出窓の隙間から漏れる淡い光は主が在宅であることを示している。
 その時、扉の奥からゴトリと重い物音が聞こえた。
 居留守、という言葉が頭をよぎる。

 ──あいつッ。

 レイネは眉を怒らせた。
 感情にまかせて取っ手を掴み、力任せに揺さぶると、扉はなんら抵抗なくするりと手前に開く。

 鍵がかかっているものと思い込んでいたレイネは、体制をくずして尻餅をついた。

 「くそ、ざッけやがって──」

 痛みをまぎらせるため口汚く罵り、レイネは部屋の奥へ視線をやる。
 揺れる小さな蝋燭灯りを頼りに廊下を進み、商品を並べてある奥の部屋へ踏み込んだ。
 睨んだだけで相手を怯ませる父譲りの眼力で首根っこでも掴んでやろうと、威勢良く飛び込んだ先で、レイネは目の前に広がる異様な光景に絶句した。

 血溜まりのなかに倒れ込んだ店主の男。胴体を半分に切断され、無残に両腕も引きちぎられた死体となって、横たわっている。

 瞬間、夜間外出禁止の元凶である一連の事件を思い出し、レイネの体を巡る血液は、冬夜の水たまりのように凍り付いた。

 背後からひとの気配を感じ取り、レイネは慌てて後ろを振り向く。
 手に短剣を握った黒ずくめの男が、そこにいた。
 目と口元だけが開いた黒頭巾をかぶった男がレイネに短剣の刃を向け、空いた手を伸ばす。

 レイネは得意の敏捷さを活かし、身を低くかがめて部屋を飛び出した。
 一切の思考を捨て、廊下を走り抜けて外へ飛び出る。

 来た道を辿り、細道で待たせていた妹の姿をみてほっと一心地をつく余裕もなく、追われているという恐怖に煽られて真っ暗闇の細道を駆けていく。

 正しい道順をなぞるための余裕もなく、怯えて泣き声をあげはじめた妹をひきずりながら走り続けた。

 めまいがするほど走りきり、レイネは足を止めて肩を揺らす。
 体力のないユーニは息も絶え絶えに、膝をついて激しく咳き込んでいた。
 ふと見まわした周囲の景色が、まるで見覚えのないことに気づく。

 暗がりでよく見えない通路の奥から、地面を踏みしめる靴の足音がした。

 レイネは反射的に妹を抱き寄せる。足音は奥からこちら側へゆっくりと向かってくる。
 震える足を奮わせてどうにか立ち上がった。逃げるための一瞬の暇《いとま》を無駄にしないため、最後の踏ん張りに力を込める。

 迫り来る人物の姿がちょうど建物の隙間から漏れる月明かりを受け、おぼろにその姿を晒す。限界まで見開いた目に映ったのは、灰色の外套を目深にかぶった人物。袖から出た左手の甲は、闇飲まれて元の色がわからない。しかし、それは明らかに白濁したものとは違った。

 ──輝士だ。

 瞬間、安堵が広がっていく。彩石を持つ人間。それはすなわち国軍に所属する輝士であるという安直な思考。

 人気の無い裏路地に佇む、暗い色の外套をかぶった妖しい人物も、今のレイネにとっては窮地に現れた救世主にしか見えなかった。

 レイネは後ろにではなく、前へ向けて駆けだした。
 常日頃、憎く思う軍人が、いまはなにより心強く思える。

 ほとんど抱きつくようにしがみついているユーニを抱いたまま、レイネは男に駆け寄った。

 「助けて! 人殺しが追って──」
 レイネは言葉を切り、男の寸前で足を止めた。

 ──臭い。

 背筋を虫が這いずっていくような不快感。
 清廉な空気に混じった血の臭いがした。

 闇に溶けた奥の通路に、ぼんやりと人の形が浮かび上がる。仰向けに倒れ、不自然なまでに微動だにしない。すっぱりと綺麗に切り落とされた左腕は、その体がすでに亡骸となっていることを表していた。

 後ずさる間もなく、男の手が姉妹の腕を掴み上げる。
 大きな手、強い握力。

 レイネは力任せに暴れ、脱出を試みる。しかし相手に動じた様子はない。少女の力で抵抗は難しく、この男にもそれがわかっているようだった。

 レイネは捨て身の行動に出る。自らを拘束する手を諦め、妹を拘束するもう一方の手に攻撃を加えた。蹴った足は肘を打ち、運良く痺れを誘ったようだ。

 見計らい、レイネは声を上げた。
 「逃げなッ!」

 懸命にもがくユーニは、踏ん張って必死に体をよじる。
 男は右手に手袋のようなものをはめていた。それが功を奏し、ユーニは手袋ごとを引きはがして男の拘束から逃れる。

 レイネは自由になった妹に声をあげた。
 「振り向かずに逃げて! いつもの場所、わかるねッ」

 恐怖と涙でぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、ユーニは頷き、がむしゃらに道を駆けて夜の細道へ消えていく。

 安堵するだけの余裕などない。さきほどの商人の家で起こった事を思えば、逃げた妹の安全はまだ確実ではなかった。

 レイネは思い切り悲鳴を上げた。

 助けを求めるための最後の手段もむなしく、なにかに強く顔を打たれる。
 のけぞって倒れこんだ際に目に映った男の顔。ひどく怯えた人の顔が、じっと自分を見つめていた。







 シュオウ、ジェダの両名はターフェスタに拘束された後、夜の街を連れ回され、事件があったという現場にまでそのまま歩きで案内された。

 左手に手袋をはめられたこと以外は、携帯していた武器をとりあげられたくらいで、拘束はゆるい。

 彩石を持たないシュオウにとって、封じ手袋は意味をなさない。締め付けの不快感と手首の錠の重さ以外、なんら害となるものではなかった。

 風の力を操る彩石を持つジェダはともかく、無力な濁石しかもたないシュオウに手袋をはめて安心しきっているターフェスタの軍人を見て、シュオウは彼らが大きな勘違いをしていることに気づく。

 ベンの指示でターフェスタに入った頃からここまで、手首が隠れてしまう大きさの輝士服を着ていたせいだ。事情を知らない彼らがシュオウを彩石を持った輝士と思うも当然であり、異国からの使者の素性をきちんと把握しようとしなかった、彼らの怠慢と油断が生んだほころびでもある。

 ──隠しておく。

 当然のこと。シュオウにとってそれは、状況を打破するために残された小さな隙間だった。そこからは、僅かだが希望の光が漏れている。

 都合の良いことに、手袋をはめられてしまったいま、わざわざこれをはずしてなかを確認するようなことも、あえてすることはしないだろう。

 囚われて後、ジェダは一切の感情を捨てたように無表情になっている。
 こじんまりとした商店に通され、奥の部屋で横たわるバラバラに切り離された死体を見せられても、それは変わらなかった。

 部屋にこもった生々しい血の臭い。
 久方ぶりに嗅いだ死臭を不快に思い、シュオウは苦々しく顔をしかめた。

 先頭をきって部屋に入ったデュフォスが、無残な死体の前に立って、その上を撫でるような仕草をしてみせた。

 「本日の日暮れ頃、この家で争うような物音を聞いたと近隣の住人からの通報があり、なかを捜索した警邏隊員がコレを発見しました……状況からみて考えるまでもなく他殺、人体を切断するという残虐なやり方に加え、監視下にある施設を抜け出し、市街地を出歩いていた黄緑色の髪をした異国の輝士の目撃情報が多数あがっている。どれをとっても、それらの事実はある一人の人物が犯人であることを証明しています。いかがですか、サーペンティアの公子殿」

 あらかじめ用意していたかのように、流暢に説明したデュフォス。
 ジェダはそれを、小馬鹿にしたように鼻で笑った。

 「なにか」

 「切断面があまりにも汚い、僕がしたことなら面はもっとなだらかだ。各所に無数のためらい傷と断面についたのこぎり状の痕。見ればわかる、これをした人間は死体の部位を切り分けることが心底嫌だったんだ。君たちが実行しているお粗末な作戦の立案者は、無神論者か罪悪感の欠如した異常者を雇うべきだった」

 デュフォスは瞼を深く落とし、いらだたしげに歯を擦った。
 「現場の精査はすでに終えている、反論は無用です」

 「だろうね。けど、自己弁護の機会を与えないというのなら、どうして僕に現場を見せた」
 「……実際に見なければ、本当にあったことかどうかわからないのでは」

 堰を切ったようにジェダは吹き出した。

 「なるほど素晴らしい、これまでの人生のなかで一番笑える言葉を聞かされたのがこんな状況だとはね」

 デュフォスは尖らせた唇の隙間から、すりあわせた白い歯をみせる。

 「ジェダ・サーペンティア。戦場で神を冒涜するのみならず、他者を不快に貶めることも得意なようだ……。現時点を持って貴様を重罪人として扱う。異国の輝士であることを考慮し、裁きはターフェスタ大公が直々に下されるだろう──」

 デュフォスは右手の甲でジェダの頬を強く叩いた。

 「──以上」

 切れたジェダの唇からこぼれる鮮血が、死体から漏れ出た血溜まりにぽつりと落ちた。



 まるで王侯の行列のように大勢の兵士達がかり出され、市街地から城への道中、そして城門をくぐって城の中にいたるまで、綿密に配置されていた。

 一軍と称せるほどの人員を動員してのこと、一朝一夕で支度ができることとは思えない。 謁見の間へ通される途中、シュオウの眼には廊下に飾ってある花びんに活けた花ですら、仕込まれた舞台の小道具に見えた。

 シュオウとジェダは城の二階にある謁見広間に通された。
 逆さにひるがえされた絨毯は黒い裏面が上を向いている。

 一条に伸びる絨毯の先には重装を纏う高位の武官、きらびやかな官服に身を包む文官が居並び、その先に三段分の高い位置に置かれた座に背の曲がった初老の男が座っていた。おそらくこの男がターフェスタの領主、ターフェスタ大公であろう。

 大公の背後には四人の輝士が並んでいた。

 要塞アリオトからここまでの案内をしたナトロ、ユーカ。他に筋肉太りした巨体の男、線の細い女が佇んでいる。彼らの共通点は、赤と黒の輝士服を纏っていること、そして腰から華を象った紋印をさげていることだった。

 大公の座に向かって奥へ行くと、右前方の列のなかに一人だけ浮いた青の輝士服を着た男がいることに気づいた。ベンである。
 ベンは左手に手袋こそはめられていないものの、両脇を屈強なターフェスタ輝士に囲まれ、実質的な拘束状態にあった。

 ベンは怯えきった様子で、白くなった唇をわなわなと震わせている。

 「大公殿下の御前である、ひざまずけ」
 氷柱のように冷たく、デュフォスが告げた。

 ジェダが輝士の礼法にのっとって片膝をつくと、デュフォスはあげているもう一方の彼の足を踏みつけた。

 痛みを感じてか、ジェダは僅かに顔を歪め、黒絨毯の上で両膝をついた。
 視線が自分に向いたのを感じ、シュオウは言われるまでもなく同様にしてみせる。
 二人並んで膝をつく様は、親に許しを請う子供のようだった。

 「殿下にご報告をお伝えいたします。来訪中のムラクモ輝士六名。うち一人は宿泊地にいたところを確保。後に市街地を出歩いていたこの二名を確保いたしました。他三名の輝士については宿泊地に姿がなく、未だ市街地に潜伏しているものと思われます。捜索は警邏組に現在も継続させているところですので、今しばらくお時間を」

 デュフォスの報告にターフェスタ大公は無言で頷いた。
 右手を後ろ腰において、デュフォスは靴の先で二人の靴の裏を小突いた。

 「殿下にご挨拶を──名乗りたまえ」

 「蛇紋石の主オルゴア・サーペンティアの子にしてムラクモ王国軍の輝士、ジェダ・サーペンティア。大公殿下に拝謁いたします」

 ジェダの名乗りに、ターフェスタ大公はそっと頷きを返す。
 次いで皆の視線がシュオウに注がれた。

 「……シュオウ」

 一言、そう名を告げると場に集った皆の表情に呆れと失望がひろがっていく。
 デュフォスはシュオウの前に立ち、冷たい視線で見下ろしながら腰に差した短鞭を抜いてシュオウの頬を叩いた。

 じん、と伝わる鮮烈な痛み。シュオウは歯を食いしばってデュフォスを睨み上げる。

 「ふざけているつもりなら場をわきまえるべきだろう。家名、地位、階級。最低限の挨拶すらできないとは。さすがは神を持たぬ蛮族、国を捨てた愚か者に相応しい。猿にも劣る無知蒙昧ぶりだ」

 居並ぶ者達がデュフォスの言葉に頷く。
 シュオウは密かに唇を濡らした。

 「そ、その男は──」
 シュオウの素性について、言いかけたベンの口を止めたのは大公だった。
 「よい、木っ端輝士の名など興味はない」

 手を凪いでターフェスタ大公が言うと、デュフォスは短鞭を腰にまわし、一礼した。
 大公はベンに向けてあごをしゃくった。合図を受け、ベンの両脇を固める二人の輝士達が、彼の両腕を抱えて絨毯の中央に誘導する。

 「東方よりの特使殿、このような形での対面となったこと遺憾に思うぞ……」

 「ムラクモ王国輝士、王括府書記官ベン・タール、大公殿下に拝謁いたしますッ。失礼ながら、これはなにかの手違いではないのでしょうか!?」

 大公は足を踏み鳴らした。

 「初報が届いて後、そうであればよいと何度祈ったかしれぬ。私が特に信頼を寄せる冬華六家の長直々に捜査に当たらせた結果が、この有り様であった。まったく残念でならん、ターフェスタはムラクモよりの特使団を国賓として招き、民らの歓迎のもと丁重に都まで案内させた。この度、我らの尽くした最上の礼はすでに北方諸都市に広く伝わっているとか。それに対してのムラクモの返礼は惨たらしい方法を用いての領民の殺害でもって返された。なんということか」

 ベンはおそるおそる振り向き、ジェダとシュオウへ顔を向けた。ターフェスタに入ったばかりの彼とはもはや別人。困惑と混乱にまみれた中年の輝士の顔には死相すら浮かんで見える。

 視線を戻したベンは大公を見上げた。

 「で、ですが……ありえません。輝士ジェダ・サーペンティアは風蛇公の子息。交渉のための越境任務において現地の民を殺めたなどと……」

 「疑いはもっとも、信じられぬというならば、この後デュフォスの案内を受け状況の把握に努められるがいい。しかし、もとはといえばそなたの監督不行届ゆえのこと、努々意識されるべきであろうが、そのことでそなたの罪を問うことはない」

 大公が手を振ると、ベンは再び列の片側へ誘導されていった。

 「さて──」
 大公は細い人差し指でアゴをつつき、
 「──罪に相応しい罰を与えねば。宰相ツイブリ、このたびのこと、いかなる処分を下すべきか」

 呼ばれた男、宰相位にあるツイブリと呼ばれた老人が列の中から抜けだし、大公に向けて一礼した。
 その老宰相は地位に似つかわしくない地味な装いをしている。彼よりも下位にあるであろう若い文官らのほうがよほど高給な装飾品を纏っていた。

 「ムラクモ特使団には、その身の安全を守るための重警護をつけておりました。が、件の者はこれを許可無くすり抜け逃げ出した。これをもって逃走の罪。また、異国の軍属でありながら、領民の命を奪ったこと、これを殺人の罪とし、加えて殺めた者の体を切り刻み、返魂を阻んだこと、なにより重き神への冒涜。これらすべてを合わせるに、死罪が妥当であると提言いたします」

 ツイブリは宣言し、深々と頭を下げた。
 当然だ、などとターフェスタ側の人間達から声があがり、広間は彼らの拍手で満たされる。
 控えるデュフォスがかかとを鳴らし、雑音を遮った。

 「殿下、この不心得者の処遇はいかに」
 デュフォスの短鞭がシュオウの肩を打った。

 「ううむ……」
 大公は唸る。

 「この者、ジェダ・サーペンティアと共に居たところを拘束されております。重罪行為に荷担していた可能性は否定しきれないかと」

 少しずつ首を振って、大公は頷きを大きくしていく。

 「うむ……ツイブリ、いかに考える」
 「は……」

 ツイブリは腰に手をまわし、ゆっくりとシュオウに歩み寄る。判断を決めかねているのか、シュオウの前を行ったり来たり、左右に歩き始めた。

 「ん……?」

 ツイブリは突然足をぴたりと止め、シュオウに向けて鼻を鳴らす。

 小声で、
 「なにか香のものをつけておいでか」
 とシュオウに聞いた。

 突然の意味不明な質問に、シュオウ訝りながら首を横に振った。

 ツイブリは釈然としない様子で再び歩き始めるが、すぐにまた足を止めてしまう。物憂げに首を傾げふらふらとおぼつかない足取りで跪くシュオウの前で腰を折った。

 なにを思ってか、ツイブリは勢い良くシュオウの輝士服に顔をつけ、轟音がするほど強く香りを嗅ぎ始めたのだ。

 周囲に一斉にどよめきが広がり、大公は椅子を押して立ち上がっていた。

 「ツイブリ、お前、なにをしている……」

 大公の問いに、はっとなってツイブリは顔をあげてのけぞった。

 「は?! わかりません……私はなにを……」

 言いながらツイブリは再びシュオウの服へ顔を近づけていく。こんどは寸前で、ツイブリの肩をデュフォスが掴んで止めた。

 「ツイブリ様……いったい何事です」

 デュフォスに対し、ツイブリは焦点をシュオウに合わせたまま首を振り続けた。
 「わからん、わからん……」

 無表情だったジェダも、この事態にさすがに目を剥いてあっけにとられている。その視線はシュオウにどういうことか、と今にも聞きたそうな顔をしていた。

 当のシュオウもまた、急なツイブリの奇行に困惑しきっていて、物言いたげなジェダに微かに首を振って応えるのが精一杯だった。

 デュフォスはツイブリを立たせ、腰を浮かせた大公へ進言する。

 「殿下、宰相はお疲れのご様子。脇でお休みいただくのが妥当かと」
 「そ、そのようだ……許す」

 答えのない問題を前にしているかのように、不明瞭な顔をしたまま大公は座に腰を戻した。
 聴衆らは声にこそださないが、互いに顔を合わせて首を振っていた。
 列の奥へ戻っていく老いた背に、皆の視線が突き刺さる。

 空気をもどすための咳払いが大公の喉から出た。
 取り戻した沈黙のなかで、大公の不振な瞳がシュオウを睨めつける。

 「そこの者、状況を聞くにジェダ・サーペンティアと同罪である可能性が高い。よって共々死罪に処する。これはターフェスタ大公としての決定である。反論は一切認めん」

 鳴り響く拍手のなか、シュオウはジェダを横目で睨み、一言かけた。

 「おい」

 話が違う、とまで言わずともジェダは意を汲んだだろう。

 ジェダは皮肉っぽく眉を傾けて、
 「謝ってほしいのかい」
 と返した。

 シュオウは溜め息を吐き、首を振る。

 「予想はしてたんだ。敵意のある相手に捕まって、状況が良くなったためしがない」
 「でも、どこかで僕の言葉を信じていたから、おとなしくついてきたんだろう」

 ジェダの指摘にシュオウはむすっとして頬をむくれさせた。図星だったのだ。

 「ここからはもう、好きにさせてもらう」

 背後で鳴った靴音を聞いて、シュオウは瞬間、全身に力を込めた。

 「なにを話し合っている、私語を許した覚えはない」
 ひゅんと空気をつんざく鞭の音がした。
 それが振り下ろされるより早く、シュオウはつま先に力を込め倒れんばかりに体重を前へやり黒絨毯を駆け昇った。

 「まッ──」
 デュフォスの声はもはや聞こえない。

 この状況に気づいていない両列に居並ぶ者達は、未だに間抜け面をさらして大公に向けて手を叩いている。
 彼らが手をあげ、そしてたたき合わせるまでの一動作の間に、シュオウは俊敏に二歩、三歩と足を出していく。

 前方で警護のために控えていた二人の兵士が、起こった事態に気づいて剣を引き抜いた。シュオウは彼らが剣を振るより早く、その手首を掴み、ひねり上げる。中にある芯がちょうどぽっきりと折れてしまう角度に持ち上げてやると、兵士達は苦悶の表情を浮かべ、剣を落として手首をかばうようにうずくまった。

 障害を排除し前方に視界が開ける。

 狙いはいうまでもなく大公一人。この国でもっとも尊く、皆が命を張ってその命に従う相手。人質として手に入れれば瞬時に状況を翻すことができるかもしれない切り札だ。

 しかし視界の外から突如躍り出た一本の長棍が道を阻んだ。伸びてきた棍を避けるついでに、シュオウはそれを掴み、こちらへ向いて伸びる力を利用して力強く引っ張った。そのせいで均衡を崩した攻撃の主、冬華六家のナトロは棍を持ったままよろめき、前のめりに倒れ込む。

 対処に難はなかったが、対処にとられた時間分、結果的にシュオウは不意打ちで稼いだ敵の油断を使い果たしてしまっていた。

 大公の周囲は三人の親衛隊が取り囲み、各々に力を駆使して透明な晶壁を巡らせている。
 シュオウは決定期を逃したことを悟り、心中で舌打ちをした。

 「お前でいい」
 「は!?」

 シュオウに首をつかまれ、引きずりながら持ち上げられたナトロ。
 妥協の末の戦利品を盾に、シュオウは少しずつ壁に向かって後ずさる。

 「はなっせよ──このッ」

 暴れるナトロの首を腕に挟んでがっちりと固定しながら、シュオウは現在の状況把握に努めた。

 ──予定変更。

 手にしたモノ《ナトロ》では、ここにいる全員を従わせることは無理だろう。盾としての役割もいつまでもつか怪しいものだ。

 今し方まで自分が膝をついていた場所を見ると、ジェダがデュフォスにしがみつき、その動きを封じているのが見えた。

 ──あいつ。

 援護のつもりでしたことなのだろうが、この状況においてはただの自殺行為に思えた。周囲には武装した武官達がひしめき合っている。案の定、彼らは剣を抜いていままさにジェダの体を突かんととしている真っ最中だった。

 「その者を傷つけてはならんッ!! 離れろ、今すぐその男から離れるのだ! 背いた者は即刻死罪に処すぞ!」

 なにより必死な叫びをあげたのは大公だった。その命に武官らは剣を止めて、困惑したままジェダのまわりから遠ざかっていく。

 ジェダにまとわりつかれ、立つこともままならないデュフォスも、できるはずなのに彼に致命傷を与えようとはしなかった。死刑を言い渡した相手にすることとしては、違和感しか残らない。

 「ユーカ!」
 デュフォスは叫んだ。
 「灰髪の男を逃がすな、諸共に討て!」

 ジェダの拳がデュフォスの顔面を撃ちつけた。デュフォスは項垂れ、そのまま意識を手放す。

 大公の守護にまわっていた冬華六家の幼輝士ユーカは晶壁を解いて、そのままシュオウに向け、手のひらを掲げて手元に緑の光を集めていく。

 「ちょっと待て、本気でやるつもりか!?」
 ナトロは声を裏返し、ユーカにそう問いただす。

 「覚悟、できてるでしょ」
 「できてねえよ! 真顔でこっち見るな、おいッ、あっちをどうにかするのが先だろうが」

 ナトロは空いた手でジェダを指さす。

 「却下。上官の命令を優先、する」

 ユーカは力を溜めた手を振り上げる。シュオウが逃げるためにナトロの拘束を緩めかけたその時、突如一人の人物が目の前に躍り出た。

 「ツイ、ブリ……?」

 呆けた大公の声がして、ユーカは溜めた力を散らして手をあげたまま硬直していた。
 両手をぎりぎりまで広げて、かばうように前に立ちはだかったのは、ターフェスタの老宰相ツイブリだった。

 「なんの真似だッ」

 懸命に首を振って応えるツイブリの首や顔から、滝のように汗が流れ出ていた。

 「わ、わからんのです……こうしなければいけないという衝動がこの身を突き動かすのですッ」

 「きさま……気でも狂ったのか!?」

 ツイブリは呼吸荒く、
 「まったく、そ、そうとしか思えませぬッ──」

 大公の拳が玉座の肘掛けを叩きつけた。
 ツイブリがなぜ盾となっているか、その理由を考える暇などなく、シュオウは腕の中で固めるナトロに耳打ちをした。

 「今すぐ後ろの壁を壊せ」
 「はあ?!」

 シュオウはナトロの片手を背に回し、あってはならない方へ思い切りひねり上げた。

 「それが出来ることは知っている。アリオトでしたことと同じことをすればいい」
 「やらない、と言ったらどうするんだよ。腕を折られるくらいで俺が言うことを聞くとおもったら──」

 シュオウは掴んだ腕にさらに押し上げ、ナトロの耳元でささやいた。
 「利き腕が二度と使えなくなってもか」

 ナトロは痛みに悲鳴をあげつつ、シュオウに手首を折られ未だに床で転がったままの二人の兵士達を見た。そして生唾を嚥下する。
 次の返事を聞かず、シュオウはさらにあとずさり、分厚い石造りの壁際まで歩み寄っていた。

 「やれ」
 「くっそッ──」

 ナトロは歯を食いしばり、空いた手を握って拳で壁を殴りつける。次の瞬間、壁面は爆ぜ散り、爆風の後に謁見広間の壁に人一人が通れる程度の穴を開けていた。

 冷めた夜風が穴から入り込み、舞い上がった土埃が謁見広間を満たしていった。
 シュオウは穴から外を急ぎ観察する。場所は二階、外は中庭に通じていた。ほどほどに高さはあるが、下にある茂みに飛び込めば怪我無く降りることができるかもしれない。

 「ジェダ!」

 シュオウはその名を呼び手を差し伸べる。
 ジェダは立ち上がり呆然と穴の先を見つめていた。

 「来い! 無実だとしても、命を他人にゆだねたら、その瞬間から自分で運命を掴むことができなくなる。自分の足で動け、あとのことはそれから考えろッ」

 ジェダは浅く呼吸を繰り返し、一瞬腰を落として足に力を込めたように見えた。しかしそれも束の間、足を伸ばして腕をさげ、ただ静かに佇んでシュオウに向けて小さく微笑んだ。

 「いッかあん!!」

 佇むジェダへ、傍観者でいたはずのベンが突撃をくらわせた。その身を縛るように抱きついて、身動きを封じようと懸命にしがみつく。

 「嫌疑がかかった以上、いまは公正な裁きを受けてしたことの責任をとらねばならんのだ! 私たちの行動にはムラクモとターフェスタ、両国に生ける多くの者達の未来がかかっているのだぞ! これ以上の勝手はこのベン・タールが許さん、後先を考えない無責任な逃亡など許してなるものか!」

 状況に対応できぬままおろおろとしていた大公が、慌てて号令を出す。

 「ジェダ・サーペンティアを捕えよ! ただし武器の仕様を禁ずる、無事なまま捕えるのだ!」

 体格の良い武官や兵士らが待ってましたとばかりにジェダの拘束にかかる。一人ずつが手を一本ずつ押え、足を押えて動きを完全に封じていた。

 完全に期を逸したと判断し、シュオウはナトロを抱えたまま穴の外へ体をずらしていく。

 「おい、まさか……やめろッ、やめてくれ──」

 蒼白顔で振り返るナトロを巻き添えに、シュオウは中庭に向けて飛び降りた。最中に、最後までかばって盾となった老宰相と目をあわせる。その口が自分に向けて動く様を最後まで見つめていたシュオウは、彼が最後に告げようとしていた一言を頭の中で瞬時に組み立て直した。

 ──あなた、は、いったい。







 深夜の牢獄は凍える空気に包まれていた。
 罪人を囲うこの場所で、僅かでも暖を提供するような優しさなど欠片もない。

 ジェダは一人暗い牢に放り込まれ、左腕に窮屈な拘束具をはめられていた。
 ほどなくして、向かいの牢部屋に新たな住人が運ばれてきた。

 「やあ、さきほどはどうも。お年に似合わぬ活躍ぶりでしたね、宰相閣下」

 左腕を封じられた宰相ツイブリが、すっかり弱った様子でへたり込んだ。
 ジェダの軽口に、ツイブリは顔をしかめる。

 「皮肉のおつもりか……サーペンティアの若君」

 ツイブリはしこたま打たれたらしく、顔中に切り傷と痣を残していた。右手首は膨らんだ餅のように腫れ上がり、片足はあらぬ方向を向いている。おそらく、服の下はもっとひどい状態だろう。

 「ふ、嗤われるがいい。あなたを貶める企てをした張本人が、こうして向かい合って幽閉されているのですからな」

 思わぬ形で出くわした仇《かたき》。しかし、ジェダは動じることなく微笑した。

 「あなたに聞きたいと思っていた、いったいなんのつもりで彼を助けるような真似をしたのか」

 いくつかの思考のなかに、ツイブリのとった突飛な行動も、なにかしらの思惑あってのことではないか、という考えもあった。しかし、当事者たちの心底驚愕した顔と、いまの彼の状況を見れば、それも怪しい。

 返事を寄越さず、痛めた患部を見て口を曲げているツイブリに、ジェダはさらなる問いかけをする。

 「あなたは彼を知っていたのですか」

 ツイブリは這うように鉄格子に寄って、赤筋の浮かぶ眼でジェダを見つめた。

 「知らぬ、のです……同じ質問を何度もされ、この歳で歩くこともままならぬ体にされました。生まれてこのかた、我が身はターフェスタにつくしてきたというに、その見返りがこの有り様でございます──」

 血が滲むほど唇を噛み、ツイブリは肩を落として嗚咽をもらす。

 「──誰かこの私に教えてくだされェ! 我が身にいったいなにが起こったのか。人生を賭け血の滲む思いで積み上げてきたものと引き替えに、私がいったいなにを行ったのかをッ。あの若者がいったい何者なのかを……」

 消え入る言葉に、ジェダがそっと火を灯す。

 「彼の名はシュオウ。ムラクモ王国軍所属の従士ですよ」

 ツイブリは顔をあげ、顔中から汁をこぼしながら聞き返した。

 「従士、ですと? このごに及んで私をからかいなさるおつもりか」

 「事実だ。服は着る者を表すが、真実を隠しもする。彼の左手には白濁した輝石があり、家名はない。孤児だったという話です」

 「そんな……」

 自らが命がけで守った相手が、名も無き一介の平民だったのだという事実。ツイブリは混乱の渦に飲まれながら、なおも捕まる命綱を手に出来ずに悶え苦しんでいた。

 「わからないことだらけですね」
 他人事として、気楽にジェダは言う。

 「若君は怖くないのですか、これよりに後に起こること、すでにご承知でしょう」

 その問いは、この老人の嫉妬心からでたのだと、ジェダは思った。
 自分だけが苦しい、自分だけが悲しい。その感情に、おそらくこれまでの人生で勝ち続けてきたこの老人の自尊心は耐えられないのだろう。同様に不幸に底に落ちている者同士、本音を晒せと嘯いている。

 「さあ、ただいまは、なにも考えていないだけなのかもしれません」

 望んだモノを得られなかったツイブリは、苦しげに顔をおとして唾液をすすった。

 ──恐怖はないさ。
 ジェダはこっそりと自答した。

 ──ただ。

 ぽっかりと、胸に穴があいていることは自覚している。
 冬の日に、着る物もなく古井戸のなかで長時間過ごす羽目になった過去の思い出が、頭をよぎった。

 ──寂しい、のか。

 幼少期に捨て去った孤独という感覚。
 その原因を想い、ジェダは灰色髪の仏頂面を思い出していた。

 「目障りな邪魔者だと思っていたのに、存外、あれが心を紛らわせる一助になっていたらしい」

 身分と生まれの境界を曖昧にしているシュオウと輝士の娘達。旅の間中、どれだけの罵倒を心の中で唱えたか。しかしいまにして思えば、死出の旅に赴く恐怖や孤独を、彼らが奏でる不協和音でごまかしていたのかもしれない。

 互いの心が測れず、不安や苛立ちに心を揺らして生きている彼らが羨ましかったのだろうか。

 皮肉を込めて、ジェダは自分を嗤った。

 「それは、件の若者のことでしょうか」

 ジェダは曖昧に肯定した。
 「まあ」

 「教えていただきたい、あなたが知るその者のことをすべて」

 必死な老人の頼みに、ジェダは否を告げた。

 「お断りだ、僕は恋する乙女じゃない。一人の男のことを想ってだらだらと語るのはごめんですよ。それより、あなたはご自分のこれからを心配されたほうがいいのでは」

 ツイブリは首を振り続けた。

 「ドストフ様……いや、大公様はだれよりも疑り深く、猜疑心にまみれたお方。一度信を失った相手を二度と信じることはございません。おわかりか? 私は終わったのです。自分でもわけのわからぬ理由で、すべての信用を失いました。この後は死罪か、よくてもなにもかもを奪われ、一族ごと放逐されるでしょう。それがこの身に待ち受ける顛末なのです」

 だから、とツイブリは懇願した。
 ジェダは鉄格子に背をあずけ、天井を見上げる。

 「ずうずうしいと思いませんか、自分を死の罠にかけた相手の願いをかなえろと?」
 「百も承知のことでございます」

 揺らがぬ言葉にジェダは根負けした。

 「僕は彼の信奉者じゃない。知ることは彼が軍に入ってからのこととか、表面的なことばかりですが」

 「ぜひにッ」

 鉄格子をガタと揺らして、ツイブリは強く話を求めた。
 ジェダはシュオウのことを知るかぎり語って聞かせた。

 その行いはどことなく不愉快さを伴うものでもあったが、話している間は、空虚な心を忘れることができた。

 一人で怪物を退治して、囚われた者達たちを救い出し、死の危険にさらされた王女を守り抜いた。初陣で獅子奮迅の活躍をして、要塞一個を制圧……

 話していくうち、ジェダは自分の言うことの馬鹿馬鹿しさを自嘲した。

 シュオウ、という人間の軌跡。そのほんの僅かな断片ですら、まるで詩文や物語の世界だ。

 ツイブリはそんな話をまじめに聞いて、ときに疑い、感心しながら熱心に耳を傾けていた。

 話しながら、ジェダは謁見広間からまんまと逃げ出したシュオウの姿を思い出していた。その後のことはどうなったのか、ここまで話は聞こえてこないが、彼が生きていることだけは疑う余地もなく確信できた。



     *



 早朝。

 郊外の下水路から赤の輝士服を纏った男が姿を現した。
 昇りかけの朝日をうけた髪を銀色に光らせて、黒の眼帯にふれて位置を直し、手にした冬の華の紋印を腰に下げる。

 シュオウは両手で頬を強く叩き視線を上げた。

 「よし──」












[25115] 『ラピスの心臓 外交編 第六話』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:d118fa5e
Date: 2015/04/03 18:49
      Ⅵ 氷下の都










 眠りから覚めたばかりの朝のターフェスタの都。
 赤い軍服を着て、山嶺に広がる職人街を闊歩するシュオウに集まる視線は、いいようのない敵意で満たされていた。

 時刻は未だ陰陽の入り交じる頃である。にもかかわらず、街に漂う空気に清らかさはない。まるで街が眠らぬまま夜を明かしたように疲弊した気を纏っていた。

 家々には火が灯り、軒先に佇む街人達は皆険しい顔で不揃いな得物を握っている。

 はじめ、シュオウは自らが脱走者となった事が広く流布されたのではないかと考えた。しかし、彼らはただ無言でじっと視線を寄越すのみ。手を出してくるような様子もなく、どこかへ知らせをやったような気配もない。
 髪の色という大きな民族的特徴という点において、シュオウはむしろ彼らに同化している。
 残された心当たりといえば、自身が纏った服くらいのものだった。

 ──これ、か。

 険悪な視線を向けられているのがこの国の輝士の制服に対してだとしたら。そう考え、自分がどれほどターフェスタという土地について知識がないか、思い知らされていた。
 その土地において、貴種へ寄せられる感情が尊敬や憧憬、また憎しみや嫉みであるのか。それらを知ることは、その地の情勢を知るための大きな手がかりとなる。

 ムラクモの王都においては、民の輝士への思いの多くは畏怖で占められていた。ときに彼らの持つ力に怯えつつも、民らは輝士を必要なものとして認識し敬っていた。それは、ムラクモという国家において、真っ当な統治が行き届いていることへの一つの証左ともなっている。

 改めて見る人々からの視線。ある中年の男は少しも瞬くことなく、そしてまた別のとある女は、顔をそむけつつも憎しみを込めて口元を歪めている。
 彼らがみせる負の感情が、着ている赤黒の軍服に寄せられているのだとすれば、この土地はなんらかの病を抱えているのではないかと、シュオウは思った。

 極力、人出の少なそうな裏道を選んだというのに、その意味はほとんどなく、ようやく朝日が夜の気配に勝り始めた街の景色は、時を追うごとに数を増す言葉少ない人々の群れで覆われつつある。

 ──気味が悪い。

 原因のわからぬこの状況に、シュオウは踏む足に力を込めて歩幅を広げた。

 足場すらおぼつかない異国の地で、単身で逃亡しなければならなくなり、仲間達は散り散り、その行方すらわからない。じつにタチの悪い状況である。

 導《しるべ》とするものがない今、まずは、これからの行動に優先順位をつける必要があった。
 最優先事項は、アイセ、シトリ、シガの三人の居所を把握すること。先日聞かされた報告によれば、この三人は拘束を免れたという。

 今回の件の発端となっているであろうジェダの犯行について、シュオウは未だ彼の言っていたことをすべて鵜呑みにする気にはなれなかった。

 とらわれの身であり、そしておそらくそう遠くないうちに処刑される身でもあるジェダ。
 ムラクモという社会と関わりをもってから、幾度かの縁を交わした相手ではあるが、その身を真に案じているかといえば、否である。

 ──来なかった。

 自由への入口へ誘う手を、彼はとらなかった。
 シュオウにはその一点において確信があった。ジェダは確実に逃げることが可能だった一瞬の隙を自ら放棄したのだ。

 歯を食いしばり、シュオウは街角を曲がる寸前に右手側にある建物の壁を拳で打った。

 苦労を無駄にされたという思いだけではない。彼は目の前まで運ばれてきた命綱を断ち切り、自死を選んだのだ。シュオウにとってそれは、理解に苦しむ行いだった。
 あの瞬間にジェダが見せたささやかな微笑みは、どこか自嘲染みていて、許しを求めている幼い子供のようにも見えた。

 その顔を頭の隅に残したまま、シュオウは街の中心地に向けて歩む足を速めた。







 下民や職人達が多く住まう下街の一角、場末酒場に座る大男に、店主がおそるおそる問いかけた。

 「お客さん、いい加減帰ってくれねえかな……。丸一日居座ってたいして金も使いやしねえじゃねえか」

 溜め息交じりに言われた大男、南山出身で褐色肌をしたガ・シガは、酒注ぎ台に体を預け、小指ほどの大きさの酒杯を、飢えた獣のようになめ回した。

 「うるせえな、まめに注文は入れてるじゃねえか」

 「注文たってあんた、馬の餌台にもならねえような安酒をちびちびと入れてるだけじゃあよ、はっきりいって仕事の邪魔なんだ」

 「てめえは酒売りだろうが、黙って注文通りのものを注いでればいいんだよ。この俺に出ていけだと? へッ、やなこった。これ以上ムラクモの阿呆どのも面なんか拝んでられるかよ……おら、酒だ、同じもんよこせ」

 店主は渋い顔で粗末な酒瓶を開け、シガの大きな手につままれた小さな杯に牛の涙ほどの液体を注いだ。

 「ムラクモのって、あんたもそのムラクモの人間なんだろうよ。正味なはなし、うちはターフェスタでも下の下の店だ。密造したカス酒に泥水混ぜて、表に顔だせない屑どもからぼったくってるような店なんだよ。こんなとこにあんたみたいなお偉いお方様に居着かれちゃ、連中が怯えて顔をださなくなっちまう。変な噂が流れるまえに出てってくれねえか……」

 シガはちびちびと安酒を舐める。

 「俺が輝士だと? ざけんな、誰があんな──」
 外から怒鳴り声が聞こえ、シガは口を閉ざした。聞こえてくる声に耳を傾ける。

 「情報が入っているんだぞ、青の軍服を着た男がこの店に入ったきりだと」

 声の主がシガを求めて訪れていることは明白だった。しかし、穏便に探しにきたという雰囲気ではない。壁越しに聞こえてくるのは威圧的で硬い、敵意のこもった声だ。

 「いわんこっちゃねえ……くそッ、軍に目つけられたら商売あがったりだぜ。わるいが、俺はあんたに脅されてたってことにさせてもらうからな」

 言って、店主はおもむろに自らの顔面を柱に打ち付ける。赤くなった鼻から血が零れ落ちた。

 店の入口の戸を押して、赤い軍服を纏った二人の男達が店内に入ってきた。
 輝士達は足を止め、なかを見渡してすぐにシガを見つけた。互いに顔を合わせて頷き、佩いた剣を抜きはなつ。それぞれが左右に別れ、座ったまま動かないシガを囲んだ。

 「ムラクモ特使団の一人だな」

 返事などするまでもない。シガはムラクモの青い軍服を着ているのだ。
 シガは否定せず、黙って杯にこびりついた酒を舐めとった。
 輝士達は互いに目を合わせほくそ笑む。さながら、親に褒めてもらえることを期待している子供のように無邪気な表情だった。

 輝士の一人が抜いた剣の刃をシガに向けた。

 「立て、貴様には出頭命令が下されている。さからってもかまわないが、反抗した場合にはあらゆる措置をとる事が許可されているぞ。二対一の状況でどうなるか──」

 シガはゆらりと立ち上がる。天井に届きそうなほどの体格が、するすると伸びていく様に、輝士たちは思わず一歩後ずさった。
 けして小柄とはいえない輝士達と比べても、その差は大人と子供ほども大きい。

 「自分のしてることがわかってんのか」
 高みから睨みを効かせると、輝士達は額に汗玉を溜めて唇を濡らした。
 「は? えっ……」

 シガは舌打ちをして、猛獣の如き鋭い犬歯を見せびらかせた。
 「殺しの道具向けた時点で、全部覚悟してんだろうなって聞いてんだよ!」

 長い手を伸ばし、シガは二人の輝士の頭を掴んだ。そのまま、怪力で彼らの足が浮くまで持ち上げ、酒注ぎ台に思い切り打ち付ける。元々の馬鹿力と彩石による強化された筋力によって、二人の輝士の頭は台の表面を突き破って首まですっぽりと埋めていた。ぐにゃりと歪んだ首と、びくともしない彼らの体は、命の結末がどうなったのかを如実に物語っている。

 「ひ、ひぃぃ──」
 様子を見ていた店主が腰を抜かして倒れ込んだ。

 店の入口から突如、この状況に不釣り合いな拍手が響く。
 見ると、そこに腰まである長い髭をたくわえた体格の良い大男が立っていた。

 「見事な手際だよ。兄さん、あんた相当コレに慣れてるんだろうな」

 長髭の男は親指を立て、自らの首に一筋の線を引いた。
 気が立ったまま、シガは歯をむいて長髭の男を威圧した。

 「見世物じゃねえッ」

 泣く子も黙るシガの一吠えも、男はどこふく風で微動だにしない。

 「落ち着けよ、俺はあんたらの敵じゃねえ」

 酒注ぎ台の奥で腰を抜かしていた店主が、おそるおそる男の名を呼んだ。
 「び、ヴィシャの旦那で……?」

 ヴィシャと呼ばれた男は髭を撫でつけ、店主をきつく睨めつけた。
 「こちらの兄さんに一等の酒を。お前のケチな店でも一本くらいは寝かせてるだろう──」

 店主はぺこぺこと終わり無く頭を下げ続け、床下に空いた鍵穴に鍵を差し込んだ。
 ヴィシャはおもむろに指笛を鳴らした。合図を受けて、店の外からぞろぞろと柄の悪い男達が入ってくる。

 「──片付けろ」

 顎を振ってヴィシャが言うと、男達は黙したまま、シガのしでかしたことの後片付けを始める。
 柄の悪い男達は動かなくなった二人の輝士をかついで、店の奥へ消えていった。

 見届けて、ヴィシャは酒注ぎ台の席に腰を下ろした。
 「座れよ。立ち飲みが好きってんならそれでもいいがね」

 シガは興奮を冷まし、一つ分ヴィシャとの間に席をあけて腰を落ち着けた。
 床下から、いかにも高給そうな酒瓶を出した店主は、瓶に下げた札をヴィシャに示した。

 「だ、旦那、いかがでしょう……」
 「十年物のレダ、貴腐紅酒か。悪くない」

 ヴィシャはシガにむかって顎をしゃくる。
 店主は震える手をどうにか押えながら、大きめの酒杯二つ用意し、酒を注いだ。

 「酒一杯で愛想ふりまくほど、俺は脳天気じゃねえぞ」

 シガは水を飲むような勢いで出された酒を飲み込んだ。

 「兄さん、あんたどうも自分の置かれてる状況がわかってないようだな」
 「あ?」
 「あんたのお仲間だがな、昨日の夜に罪人として領主の城にしょっぴかれてるぜ」

 シガは目を剥いて声をあげた。
 「罪人だぁ? いったいだれがだよ」

 一瞬、シュオウの顔が頭をよぎり、腰が浮いた。なにしろ彼は平民でありながら、今現在のガ・シガという男に、最も高い値をつけている男だ。雇い主であり、多少の恩もあり、ここのところはなにかと同じ時を過ごしていることが多い人物でもある。

 しかし、ヴィシャからでた名は、シガの爪の先ほどの不安を笑い飛ばすものだった。

 「東方の大貴族様、サーペンティアのぼんだとよ」
 「……なんだ、あの女男か」

 急速にシガの興味は失せていく。

 「なにをしたかしらねえが、あの野郎とはろくにつきあいもねえ。どうなろうが知ったこっちゃねえな」

 ヴィシャは注がれた酒に一口もつけることなく、じっと酒杯を見つめていた。
 「こいつは意外だ、てっきり取り乱すもんだと思ったんだが」

 シガは鼻で嗤う。

 「一度や二度顔を見ただけの野良犬が肉屋につれてかれたからって、てめえはいちいち心配するのかよ」

 「なるほど。たしかに俺の手持ちの情報は、あんたらの関係にまでは及ばねえ。だがな兄さん、あんたはやっぱりわかってない。あんたらのお仲間のうち何人かは捕縛を逃れて、いまもまだ逃げ回ってるって話だ。ここの馬鹿領主はなにを考えてだか、東側でも一二を競うような貴族家の若様に濡れ衣を着せやがった。市街地でおこった殺人がその若様の仕業なんだとよ……へッ、馬鹿にしやがって。一年もの間起こり続けた凶行の犯人が、昨日今日ここへ来たばかりの貴族のぼんぼんの仕業だと……? ふざけんな……ふざけんじゃねえよッ」

 ヴィシャは憤怒の顔で、手のなかの酒杯を握り割った。
 零れ、血を混ぜながら床にこぼれていく酒を見て、シガは漠然ともったいないという気持ちに囚われた。
 口を閉ざしたままのシガに、ヴィシャが苛立たしげに声をかけた。

 「他人事みたいな態度だが、事はもう穏便にはすまねえぞ。あんたにその気はなかったようだが、昨日の時点で拘束を免れたムラクモ輝士は、生死を問わずの捜索命令が出てるんだ、今から投降したって、その後の身の安全がどうなるかわかったもんじゃねえ。おまけに兄さんはすでに二人のターフェスタ輝士を殺ってるんだ、どう言い繕ったって、あんたも立派な罪人さ」

 シガは酒杯を弾いて音を奏で二杯目を要求した。

 「上等だ、どこまでいっても俺につきまとうのは血と暴力。かかってくるやつは全員ひねり殺してやるだけだ」

 注がれた二杯目をあおったシガに、ヴィシャがぐいと大きな顔を寄せた。

 「早まるなよ。俺はな、ここら一帯を牛耳ってる親方どもの全権を掌握している。自分で言うのもおこがましいが、俺がここいら一番の権力者さ。下街《なわばり》でひと一人をかくまうことなんてわけもねえ。あんたのこれからの衣食住は全面的に俺が面倒をみてやる」

 言ったヴィシャの襟首を、シガは思い切り掴み押した。

 「甘い言葉をかけてくるやつらはみんな最後に裏切った。俺はな、いつでも俺を殺せるやつの言うことにだけ耳を貸すことしてるんだ。てめえは違う、お前みたいな雑魚、百人が束になって襲ってきてもこわかねえ」

 凄んでみせてもヴィシャは少しも怯えた様子がない。

 「そうだろうな、だが悪くない話だろう。別に一カ所に閉じ込めて取って食おうって言ってるわけじゃねえ。あんたにはココの糞軍属どもとの戦いに力を貸してもらいたいんだよ」

 突拍子もない内容に、シガはヴィシャから手をはなし、鼻の奥が詰まったような高い声をあげた。

 「ああ? 身内に喧嘩ふっかけようってのか」

 ヴィシャはよれた服を直し、じっくりと頷いた。

 「俺はな、命より大事なもんを二つも無くしちまった。上の連中はなにを考えてか知らんが、その原因がムラクモの若様だとぬかしやがる。そんなわきゃないのによ。自力で探そうにも、俺たちには縄張りってもんがある。下街ならともなく、上街となると、金持ちやお偉い貴族様どもの手の内だ。すっこんでろとのたまって無くしたもんを自由に探すことすらままならない」

 話ながら唇が震え、目が血走っていく様に、シガはこの男がただ自分を騙して利用するための演技でしていることではないと、感じていた。

 「俺に捜し物を手伝えってのか」
 ヴィシャは首を振って否定する。

 「あんたにそれが向いてるとも思えねえ。土地勘もなし、追っ手もある野郎になにを期待しろってんだ」

 それもそうだと、シガは心中で納得する。

 「俺はな、このまま探し物が見つからなければ、その原因をいつまでも放置しやがった連中に一戦ふっかけるつもりでいる。ケチな戦争じゃねえ、領民どもを盛大に巻き込んでの決戦さ。兄さん、そうなったときによ、あんたには盛大に俺の戦に助勢してもらいたいんだよ。そうしてくれるってんならな、俺は命がけであんたを隠すし、事が全部終わったときのための逃げ道だって支度する。欲しいものは全部用意してやる……どうだ、あんたのその腕、俺に貸しちゃくれねえか」

 手のひらをうえに向けて、ヴィシャは手を指しだした。
 必死の顔を見つめ、シガは険しい顔のままヴィシャに言う。要するに、彼はシガに用心棒になれと言っているのだ。

 「金はいらねえ。その代わり飯だ、北で一番の料理をしこたま用意しろ。それに、この酒よりもっと上等な物も樽で寄越せ」

 「安いもんだ」

 シガは歯をだして笑い、ヴィシャの手を叩いた。
 「いっとくが、俺は食うからな」

 シガを見てヴィシャはどこか余裕のない笑みを返した。おそらく軽口だと思っているのだろうが、そうはいかない。金払いを約束したほうがましだったと、この男を後々後悔させてやろうとシガは密かにほくそ笑んだ。







 シュオウはあてもなく、行方知れずとなっている仲間達を探していた。
 しかし土地勘もなく、緊急時にとる行動の事前の打ち合わせもなかったため、彼らがどこへ潜伏しているのか、まるで知りようがなく推測もままらない。

 できるかぎり人目を避けられる道を選んでいるが、時折覗き見る表通りには、思いの外ターフェスタ兵士達の姿は見かけなかった。彼らの視点にたてば、敵という枠に入れることができる異国の軍人が四人も潜伏しているのだ。なのに、どういうわけか検問の一つにでも出くわすことがないのである。
 それに加え、街中を出歩いている人々の数も、昨日と比べると、どこかまばらだ。

 建物の影から、ふと見た大きな通りに、急ぎ足でかけていく兵士の一団を見かけた。彼らの後方から一人遅れてついて行く兵士を見て、シュオウは思い切って彼に声をかけてみることにした。

 「待て」

 兵士は慌てて足を止め不思議そうにきょろきょろと辺りを見渡したあと、シュオウに気づいて慌てて側まで駆け寄ってくる。

 「は、お呼びでありますかッ」
 兵士は糊付けしたようにパリっと敬礼を決め、そのままの姿勢で硬直した。

 正体を悟られるのではないかという不安は徒労に終わる。特徴あるシュオウの眼帯を前にしても兵士は動じた様子がなく、あくまで上官に対する態度をとり続けていた。

 シュオウが逃亡を図ってから一夜が明けている。なのに情報が末端にまで伝わっている様子はない。

 もっと情報が欲しい、とシュオウは思う。
 「どこへ向かっている」

 問いかけに、兵士はきょとんとした顔をした。
 「聞いておられないので……?」

 シュオウは無言で兵士を睨めつけた。
 兵士は恐縮したように背筋を伸ばす。

 「あ、いえッ申し訳ございません。我々警邏隊は命を受け、城門へ向かう途中であります!」

 「理由は」

 兵士はやはり顔をしかめ、シュオウに対してどこか不審な目を向けた。

 「昨日深夜から発生している暴徒、です。下街のチンピラどもが大挙して大公を出せと大騒ぎしておりますんで、その鎮圧に」

 「暴徒……」

 「対応のために都詰めの全軍に指示が下っておりますし、街人でも知らないもんはおりません……本当にご存じなかったので?」

 兵士の表情は露骨にシュオウを疑い、眉が歪んでいる。
 シュオウは思いつきで適当な言い訳を考えた。

 「任務明けで外から戻ったばかりだ」
 兵士はなお食い下がった。
 「任務、でございますか……いったいどんな」

 急なことで内容にまで考えが及ばず、シュオウは腰に下げた冬の華の紋印を持って見せた。

 「話す必要があるのか」
 印を見た兵士は急に青ざめたように退いて頭を下げる。
 「も、申し訳ございませんッ、六家のお方とはつゆ知らず、どうかお許しを!」
 「もういい、行け」

 幾度か首を傾げながら、逃げ去るように消えた兵士の背を見つめ、シュオウは一人あごに手を当てる。

 ──どうなってるんだ。

 現状の把握は急務である。
 シュオウは兵士が去って行った方角へ向け、歩を進めた。



 市街地の高い所へ行くほどに、不穏な空気は重さを増していった。
 午後の訪れを知らせる、高台にそびえ立つ巨大な聖堂の鐘の音が鳴り響く。
 城へ近づくにつれ、武装した兵士達が数を増していた。

 とある店先で佇む赤い軍服を着た輝士が、シュオウに気づいてそのまま釘付けに視線を送って寄越す。

 判断は一瞬だった。

 シュオウは左足を蹴り、建物の隙間に生じた隘路にするりと逃げ込んだ。しかし路の先は背の高い建物の裏側に塞がれていた。

 背後から迫る人の気配に、シュオウは諦めの境地でゆっくりと振り返る。
 輝士は一人で路を塞ぐように立っていた。

 胸の内から紙を取り出し、目を細めて見つめた後に、シュオウに対して慎重に語りかけた。

 「所属と名を聞かせてもらえるか」

 シュオウは当然、返事に窮した。名を妄想するだけなら適当な思いつきだけで挑むこともできるが、所属もとなると手持ちの知識では手が届かない。
 黙したシュオウに、向かう輝士はそっと笑みを浮かべる。

 「言えるわけはないか──」
 輝士は剣を抜き、紙を懐に入れる。
 「──抵抗を諦めてもらえるとありがたい」

 剣を向ける輝士に対して、シュオウは無言で腰を落とした。すると、輝士は悲しげな顔をして片手の平を広げて見せる。
 意味を把握できず、シュオウは微かに首を傾げた。

 「私が叙勲を受けた数だ。我が名はヒヨレン・パルド重輝士、南門ミザールにて計十五人のクオウ星君兵を討ち取った。ことさらに己を見せびらかせることは好まないが、今回にいたっては優しさであると理解してもらいたい。我が軍においては屈指の剣晶複合術の使い手であると自負している。貴殿には無抵抗の投降を求める」

 言葉使いからして生真面目さが漏れて見える輝士は、真っ直ぐ淀みない鋭い眼をシュオウへ向ける。

 ──それでか。

 つらつらと述べた自己紹介を聞いてシュオウは納得した。自らに抱く過剰な自信ゆえの目前の光景。この輝士は他に協力を求めることなく、一人きりで逃亡犯の捕縛を試みたのだ。

 慢心はひとを孤独にし、目を曇らせる。

 シュオウはさらに膝を折り、腰を深々と沈めた。それが投降の合図ではないということは、凄腕を自称する輝士にも理解できるはず。

 「残念だ」
 輝士の行動は早かった。

 片足を踏み出したかと思った瞬間、剣を向けたままその体が一直線にシュオウへと飛び込んでくる。距離は大人の歩幅で七歩ほど。その距離がひとつ呼吸を終えるよりも早い速度で、シュオウの胸に剣を穿とうと迫り来る。

 自称するだけはある、とシュオウは密かに感嘆の言葉を輝士へ贈った。おそらく、風を操る力の応用なのだろう。彼が一歩を踏み出すたび、通常の三倍ほどの歩幅で距離を縮めている。

 輝士が通った後に舞う土埃が後ろへ吹き飛ばされていく様を、シュオウはじっくりと観察していた。それだけの余裕があったのだ。

 神速の一撃はしかし、その技の使い手の性格を反映しておそろしく単調で実直だった。一挙手一投足をつぶさに見取ることができるシュオウにとってはまるで意味の無い攻撃である。

 胸を撃つはずの一撃。シュオウはそれを許さず、切っ先が届くより先に逆に一歩を詰め、輝士の腕をとって頭を突き出した。

 シュオウの頭蓋骨は拘束で迫り来る輝士の顔に直撃する。顔面を強打したうえ、不意の事態にまるで対応できていない輝士は、シュオウに腕を握られたまま顔面を押えて尻餅をついた。

 痛みに悶える声。
 すかさず、シュオウは彼の肘を真逆にへし折った。
 「──?!」

 喉が見えるほど大きく開いた輝士の口に、シュオウは自身の膝を差し入れ、悲鳴が飛び出る出口を塞いだ。

 仰向けになって、涙を溢れさせる輝士の懐から、一枚の紙を抜き取る。それは手配書のようなものだった。内容は逃走したシュオウ、そして拘束を逃れた三人のおおざっぱな見た目の特徴が記されている。

 全身を震わせながら絶え間なく涙をこぼす輝士を見つめ、シュオウは語りかけた。
 「大切に想っている人がいるか」

 問いに、輝士はとまどいながら数度頷いた。シュオウはさらに言葉をかける。

 「その顔を思い浮かべながら俺の質問に答えろ。真実を語ればまた会える」

 輝士は口に異物を含んだまま、必死に頷きを返した。その目に、もはや闘争心の火種は残されていない。

 口を塞いでいた膝を上げると、輝士は這いずって必死にシュオウとの距離を開けようともがいた。

 シュオウは落ちた剣を拾い上げ、切っ先を輝士ののど元へ当てる。
 「知っていることを全部聞かせてもらう」

 凄んで言うと、手負いの輝士はすべてを諦めたように体の力を抜いた。







 老人よりも曲がった背筋に突き出た額、口外に突き出た二本の前歯と開け放ったままの大きなぎょろ目。その男は、ターフェスタ公国軍の日陰に存在する監察部隊、猛禽所属の監察官で、通称フクロウと呼称されていた。

 フクロウの大きな目のなかには一人の男の姿が映っている。
 銀の長髪に地味な茶色い外套をすっぽりかけた姿。だが時折、その外套の隙間からは真紅の軍服が姿を見せる。

 「くふ」
 フクロウは耐えきれず、物陰からこっそりと吹き出し笑いをした。

 ──無警戒、まったくの素人。

 かつらをかぶり、隠したつもりでいるようだが、右目部分だけを不自然に覆った前髪の違和感は拭いきれない。

 ──拾いもの、拾いもの。

 フクロウが獲物と定めていたのはムラクモ人の女二人。それを捜す過程で、ふらりと立ち寄った上街の劇場の裏手で、不審な格好をしたこの男を見つけたのだ。おそらく、変装のために劇に用いる舞台道具を拝借したのだろう。

 背格好と変装の方法から見て、一度は捕まりながらも、まんまと逃げおおせたという同族の黒眼帯をした若者であるとみて間違いなかった。

 ──自問、隊長に報告へいくべきか。

 しかし、現在は単独行動中である。知らせをやるためには、せっかく見つけ出した獲物から目を離さなければならない。持ち場を離れずに知らせをあげる方法がないわけではないが、現在の状況ではそれらの方法は目立ちすぎる。

 失せ人の捜索を得意とするフクロウは、とりうる最低限の安全策を講じた。行く道々に、身内にしかわからない印を残していく。

 ──武装なし、長髪右目隠し、潜伏は不得手、北北西へ向かう。

 遠目から知りうるかぎりの情報を書き残しているうち、眼帯男の姿は遠ざかっていく。
 尾行に気づかれない距離を保ち、フクロウは目深に外套をかぶって、曲がった腰に手をあてて手持ちの杖をついて歩き出した。こうしていると、傍目にはよぼついた老人にしか見えなくなる。

 眼帯の男は迷いなく路を進んでいく。

 ──行け、仲間と合流するがいい。

 潜伏先を突き止めた後は、一網打尽にすることも容易い。

 日頃、猛禽は軍内部の不正を捜査する役割を担っている。身内から嫌われ、なんら名誉にもならず、民からの尊敬も集まらないこの仕事を望むものはなく、いつの頃からか猛禽部隊は、訳あって貴族家から煙たがられる厄介者達の巣窟となっていた。

 ──僥倖、神に感謝。

 降って湧いた異常事態は、嫌われ部隊の猛禽へ栄誉ある仕事を与えてくれた。
 逃亡者の捕獲。その対象は身内ではなく、正真正銘の敵国人である。

 「──ッ?」

 フクロウは足を止めた。これまで真っ直ぐ城へ向かう道を選んでいた眼帯男が、突如脇道へ入ったのだ。

 フクロウは外套のフードを上げ、脇道へ向けて駆けだした。角で足を止め、脇道の奥をこっそり見やるが、そこには眼帯男の姿はなく、ただ暗い一本の道が延びるのみ。

 ──失敗、悟られて、いた……?

 フクロウは首を振って自らの問いを否定する。気取られるような失敗はなにもなかったはず。自分は常に死角に位置取り、距離も十分空いていた。

 訳あって、なにかしらかの理由で突如全力疾走をしたにちがいない。一定の行動理念を持つ動物とはちがい、人間の心の内は不可解だ。ときに想像もつかないようなことをしでかすのが人間という生き物である。

 フクロウは地面に這いつくばった。残された痕跡を手がかりに、どこへ向かったのかの手がかりにするのだ。石材をしきつめた地面に足跡は残らないが、転がった小さな石一つでもなにかしらの手がかりにはなり得る。

 だが、背後で人の足音が聞こえた瞬間、フクロウは自らのとった行動が誤りであったことを悟った。

 まがった背をいかして地面を転がり、勢いをつけて背後へ振り返る。フクロウは腰に差した短剣を手に取った。が、手は瞬時に踏みつけにされ、胸の上を膝が打ち、そのまま体重をかけられ、一瞬のうちに身動きが封じられてしまった。

 自分を見下ろす者の顔。長髪のカツラのなかに、大きな黒い眼帯をした男の顔が、じっとフクロウと見下ろしている。汗一つかかず、瞬きをしない左目は感情の色も見ることができない。それは、ただ捕えた獲物を餌としか思っていない、冷徹な強者の眼差しである。

 全身が震え上がるような恐怖に襲われ、フクロウは唾を飲み込むことも忘れ、だらりと涎をこぼした。
 眼帯男はフクロウに顔を寄せ、その喉に肘を置いて圧迫する。

 「ぐるッ──」

 酸欠に悶えるフクロウに向け、眼帯男は静かに呟いた。

 「お前はなにを知っている」

 フクロウは必死に首を振ろうと抵抗する。
 薄くなり混濁していく意識のなか、心中で無意識に言葉を紡いでいた。

 ──自答、報告を優先すべきだった。

 意識を闇へ落とす間際にフクロウは強く後悔した。それは書き残した印のなかに一言を付け加えられなかったということだ。

 ──手練れが、いるッ。

 そう仲間達に知らせることができなかったことが、なによりの大きな悔恨だった。















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