<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[21913] 頭が痛い(ネギまSS)
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2016/05/23 19:53
「御宅、死んでるよ」

 目を覚ますと不気味な空気を漂わせるオッサンにこんな事を言われた。

「何、驚かないの?」

 オッサンの発言を理解して、これがギャグなのかそれとも真剣に言っているのか判断に迷っているとこう続けられた。
オッサンは見たところ40過ぎ位で、身長は俺の身長よりも随分と高そうなので少なくとも185センチ以上は有るだろう。奇妙な存在感というか空気を醸し出していて、そのせいで体重その他については全く推し量ることが出来ないが痩せ過ぎてもいないし、太り過ぎてもいないようだ。

「あ……いやもう一度言ってもらっていいですか?」

 余りに唐突な展開に着いて行けず思考停止してしまった俺は、如何にか状況を理解しようとオッサンにもう一度繰り返し教えてもらうことにした。

「いや、だから。御宅死んでるから」

 オッサンの発言は完膚なきまでに絶望的な内容であった。

「マジですか? ……ああ駄目だ。なんか本当にそんな感じしてきた。やべー凄いだるい」

 オッサンは真っ白な床に立って俺を見下ろす格好で、俺はオッサンの前に座り込んでいたのだが聞かされた事実が衝撃的過ぎて受け止めたは良いがテンションがどんどんと急落していく。昨今の円高が輸出業に与えるダメージと同じくらいのダメージを負った気がする。

「あ? 何もしかして御宅、今言ったこと信じちゃった?」

 どうやらオッサンの機嫌は俺の機嫌の動向とは全く逆の奇跡を描いたようで、俺が他人を虐めているときと同じような調子で訊いてくる。

「もしかして今のやつ、冗談とかだったりするんですか?」

「いや全然。かなり真剣。間違いなく御宅は死んでるよ。唯落ち込むのちょっと早くないかなって」

 傍迷惑なオッサンである。いきなり見ず知らずのオッサンの言う事を信じている俺もどうかしているが、あんな風に落ち込んでいる見ず知らずの人間を悪戯に期待させるような真似をした挙句もう一度落ち込ませるこのオッサンもどうかしている。

「此処一体何処ですか?」

目覚めの恍惚から解放されて、辺りを見渡してみると視界一面真っ白だ。
かろうじて水平線が確認できるくらいで、それが無ければ地面と空の区別もつかないほど何処も彼処も真っ白である。はっきり言って精神衛生上よろしくない感じである。

「あー、そうだなー。……特別何処って言うわけでも無いけど強いて言うならあの世の入り口みたいな?」

 ビジュアルを加味すると恐ろしくグロテスクな言葉遣いと表情をしたオッサンがメルヘンチックな事を言う。
平時ならこのオッサンの正気を疑うところだがこんな場所の事は見たことも訊いたこともないし、これが誘拐等だと考えてもそもそも誘拐される理由が無い。俺は何処にでもいる凡人だし、我が家は稀に見るロクデナシどもの集まりだ。
となると消去法でこのオッサンの言ってることは本当という事になるんだが。

「私が言うことでは無いけど、君ってもしかして天然とかユルイとか馬鹿とかフールとか言われてたりするの? こんなに簡単に現状を受け入れる人って中々いない気がするけど」

 オッサンが挙げた物が全て俺を侮辱する物で有った事に大変遺憾の意を覚えると共に、しかし自分でもそれを否定することが出来ない。
とはいえ現状を他の事由に因って説明できない以上例え受け入れがたい現状でも受け入れるしか無い訳で。

「まあその辺の事についてはもう如何でも良いです。で、これから俺は如何すれば良いんですか?」

 一旦今俺に起こっている全ての事象の理解を後回しにして、今俺にとって最も価値が有るであろう質問をする。このオッサンが何者であれ、何も分からない俺には従うほかに選択肢がない。

「良いね。面倒くさいのは嫌いだし、ちゃっちゃと先に進もうか。御宅にはこれから御宅がこれからどの世界で生活していくのか選んでもらうことになってる。御宅の頭の中は大体トレースしてあるし、こっちが知らないことであっても調べるから問題なし。さあ、一体何の世界に行きたい?」

 どう考えても意味が分からない。あらゆる意味で。
オッサンは、さあさっさと決めんかい、とばかりに俺の反応を待っているが、幾らなんでもこれは不親切に過ぎるというものだろう。
話に聞く取扱説明書に取り扱い方が全く乗っていないホラーゲーム並みの不親切だ。
 このまま訳も分からずオッサンの言うことに従うのは、自分から詐欺に引っかかりに行くような物だとしか思えない。
仕方無しにオッサンに質問をすることにした。

「すみません。やっぱり此処までの経緯を説明してもらえますか? 急にこれから行く世界を選べと言われても……」

 言った途端にオッサンの表情が沈んでいくので、謂れのない罪悪感から言葉が尻すぼみになっていく。こんな時だというのに発揮される自分の小心者っぷりが悔しくて仕方がない。

「本当に? すごーく長くて面倒くさいけど本当に経緯を説明するの?」

「はい、出来ればお願いします」

 オッサンの口調が更に気持ち悪さを増していく。どうやらこのオッサン機嫌が悪くなると気持ち悪さが増すらしい。
オッサンの作るしなが直視に耐えず、俺は思わず目を逸らしてしまった。

「はいはい。わかりました。御宅に関係の有る範囲で説明させてもらいますよ」

 オッサンは、はあと溜息を一つ吐いて本当に長々とした話をしてくれた。
俺の目の前に居るオッサンが所謂神であること。俺が死んだのはオッサンの仕業であること。オッサンが俺を異世界に飛ばすのは、オッサンが俺に死んでもらっては困るからであるとか。

「何で御宅を殺したかっていうと御宅が解脱しそうだったからっていうのが一番簡単で大雑把な説明かな。一応神である身だからこの世の一切の管理を担ってるわけだけど。何て言うのかね、こう輪廻とかそういう物から外れるって言うのは私の管理下から外れるって事で、そういうのって私からすると物凄くムカつくんだよね。だから殺しちゃったの。こういう解脱とかそういうのをしそうな人ってのは大抵私が殺す前に行っちゃうんだけど、御宅の場合どうも自力だったから手間取ってたみたいで天罰が間に合っちゃったんだよね」

 事も無げに俺を殺したのはムカつくからだと言ってみせるオッサン。未だに現実感が湧かないので腹も立たないが、俺もオッサンの事を殺したいぐらいに憎むだろう。
でもまあ、神なんて手合いに勝てる筈もないので腹を立ててもその先はないだろうけど。
というか

「解脱って言われても俺仏教徒とかじゃないですよ。俺んちは仏門に入ってるみたいだけど俺は興味ないし」

 そうなのである。そもそも俺は、俺が殺された原因である解脱などという物とはえんもゆかりもない生活を送っていたはずである。

「ああそれ。いや御宅独覚のなりかけみたいでね。独覚ってのは仏の教えとか師の教え無しで悟りを開いた人間の事を言うんだけど、御宅自力で悟り開きそうになってたんだよ。まあ自覚も無さそうだったけどね。いや、私も吃驚したわよ。何もしてないのに悟りを開きそうになってるんだもん。だからー、焦って殺しちゃった」

 まるで悪びれた様子も無く『ハンバーグ焦がしちゃった』みたいなノリで俺の殺害理由を明かすオッサン。冗談でも何でもなくそんな理由で俺を殺したことに対する憎悪と恐怖で、胸の辺りがモヤモヤとするような感覚を覚える。
オッサンの感覚は、何一つ詰まることなく一般人であると自称できる俺にはとても理解も共感も、認めることさえ出来そうにない。

「俺をもう一度現世というか前世に生き返らせる事は出来ないんですか?」

 一度逸らしてしまっていた視線をもう一度オッサンに向けると、先ほどまでオッサンから感じていた空気が酷く重く苦しい感情の発露であることが分かる。俺の全身を嘗め回し、殴りつけ、叩きつけ、蹴り飛ばし、摩り下ろす。殺意と呼ぶには超然としていて、にも拘らず圧倒的に低俗な感情。
漸くオッサンから感じる不気味な空気が俺に対する嫌悪等の不の感情であることが理解できた俺は、それでも膝が笑い出すような恐怖を押して聞いてみた。
思ったことを最後まで口にして、口の中の乾きに気付く。まるで何時間も水分を取らずに運動を続けて脱水症状一歩手前の様な舌が口腔に張り付く感覚とえぐみ。
もうこの男を前にしていては這って歩くことも侭ならないだろうとそう考えさせられた。

「それはね……出来ない訳じゃないんだけど、やってやらないというか。このまま生かしとくと面白くないと思ったから殺したわけで、そんな人間を再生させるような真似する理由が無いし。残念ながら御宅みたいな段階まで行くと魂を洗浄してもう一度新しい生をって訳にもいかないから。もうそこまで行くと悟りを開きかけた影響が魂にまで及んでて、どんな事で悟りを開くか私にも分からないんだから。だから御宅は私以外の人間が作ったどうでもいい世界に放り込んでやってオサラバしちゃうの。万が一にも悟りを開いて逃げられないように絶対に死なない肉体を与えて永遠に苦しませてあげる」

「あ…あ……ああ…」

 愉快そうに唇を歪ませて哂うオッサンに、俺は声すら挙げられなくなった。
オッサンの言っていることを十分の一も理解できない。オッサンと視線がぶつかり其処から恐怖に蝕まれる。
心臓は萎縮して本来の役割を放棄する。
脳は足りない酸素と、恐怖に溺れて喘ぎ、唇は空気を拒絶する。
腕の筋肉は弛緩して体を支えることも出来ず、足は地面を捕まえられずに滑り続ける。
座り込んでいた体は仰向けになって床に横たわる。

「そんなに怖がらなくたって良いのに。大抵の人間が喉から手が出るほど欲しがってるものが、何の努力もしないで手に入れられるのよ。もっと喜ぶとか感謝するとか色々あると思うんだけどねえ」

 既に呼吸は止まっていて、残っている僅かな酸素が体中を駆け巡り生き延びようと細胞がもがいている。

「もうそろそろ良いかしら。まだ行きたい所が決まってないみたいだし、私が選んであげる。大丈夫、最高の人生を保証してあげる。優れた肉体と優れた才能優れた運と優れた人脈。残念ながら精神だけはそのままだけど、他のありとあらゆる物は面白い位に最高だから思う存分楽しめると思うわよ」

 そういってオッサンは俺の体に跨ると俺の頭を鷲掴みにした。
俺の頭を掴むその手はぞっとする程冷たくてホッとするような温かさ。赤ん坊の手のように柔らかくて職人の使い込まれた手のように硬かった。味方の様に優しくて敵みたいに怖い。
そしてなにより無機質だ。
脳が酸欠で酷く痛む。視界が徐々に眩んでいって、手足は溶けたみたいに曖昧だ。

「まあ人並みに楽しめるようになったら奇跡だね。そんな人間だったら殺されることも無かったんだから」

 神罰に篭る慈悲という物があるならきっと、こんな感じに違いない。



[21913] 第二話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:17
 目を開くとそこは……後頭部だった。
感覚としてはオッサンの言葉を最後まで聞き遂げた直後、瞬きを一度した後の事である。
白い雲の浮かぶ空を背景に人間が落ちてくる。
コートと言えば良いのだろうか――服飾について明るくない俺には分からない――ともかく上着を着てマフラーを首に巻いているそれは俺目掛けて落ちてきている。

「きゃあああああああああ!!」

 甲高い悲鳴。どうやら落ちてきているのは女性らしい事が分かる。

女性はパニックになっているのか着地姿勢を取ることもせず背中から落ちようとしている。

この時の俺は、今自分がどんな状況であるのか把握出来ていなかった。
俺は咄嗟の事に立ち上がることもしないまま、地面に背中を着けたままで女性に向かって手を伸ばす。

女性が落ちた距離は目測で五メートル強と言ったところ。足からならともかく背中や首、頭を地面に強打すれば怪我を負う事は免れないだろう。
少女を受け止めようと全身に力を込める。運動からは縁遠い生活を送っていたので体に自信は無いが、みたところ落ちてくる女性は小柄で体重も軽そうだ。受け止め方さえ間違えなければどうにかなりそうである。
万が一にも受け止め損ねないように、今までの人生で一度もしたことが無いほどに精神を集中させる。
落ちてくる女性の顔も知らないくせに、俺はなんでこんな事が出来るんだ?

くだらない考えが頭を過ぎる。僅かな時間に驚く程の思考が行われていることに驚くと共に余計な事を考えてしまっている自分に苛立つ。
もしかしたら落ちてくる女性は死んでしまうかも知れないのだ。その為に自分は全力を振るうべきであり、その為に全力を振るえない事は恥ずべきことだ。

頭の中が女性のことで一杯になっていく。

「え?!」

 驚いたのは女性についてではない。

女性の体を受け止めようとした瞬間感じたことが無いほどの強風が吹いて、女性の体を一瞬浮き上がらせたのだ。

驚愕に思考を凍らせた俺は、少女の体を捕まえるタイミングを完全に逃し、少女の体は無様に横たわったままの俺の体に着地した。

「うわっ!」

 女性の体を受け止めた時の衝撃が余りに軽く、虚をつかれて情けない声を挙げる俺。
どう考えてもその衝撃は少女自身の体重よりも軽かったのである。

「大丈夫?」

 とはいえ、俺の疑問よりも落ちてきた女性の方が重要だ。
女性の体が動いている事から意識が有るのを確認して声をかける。

「あっ…………あの……」

 女性――どちらかと言えば未だ少女か――は俺に声を掛けられるとびくりと肩を揺らして身を縮こまらせる。
発した声も聞き取れそうに無いほど小さく、たどたどして震えている。

「ごめん、取りあえずちょっと失礼」

 俺の体の上で硬直している少女に一言詫びて少女の体を持ち上げる。俺の体の上に乗っかった格好になったままでは少女も話し難いだろうし、貧弱な人間関係の中で生きてきた俺にとっても見ず知らずの少女と顔をつき合わせるような距離では話し難い。
俺が肩を掴んだ瞬間にひぃっと小さく悲鳴を挙げる少女。傷つかない訳でも躊躇しない訳でも無いが俺にとっても嬉しいことではないのだ。悲鳴を無視して少女の体を俺の横、地面に下ろした。

「ちょっとあんた。本屋ちゃんに何してんのよ!」

 どうにか少女と距離を置くことに成功して、溜息を吐いていると急に肩を掴まれて引き寄せられた。

「いっってえええ!」

 後ろから真っ直ぐに引っ張られると、当然人間の体は後ろを振り向くのではなく後ろに引き倒される。それもちょっと信じられないような馬鹿力で引き倒されれば、ちょっと信じられない速度で地面に後頭部をぶつけるのは当たり前の事である。
弛緩しきっていた俺にそれに抵抗するような余裕がある筈も無く、俺はあっけなく地面に後頭部をぶつけた。

「ちくしょおおおお。なんだ一体!? 一体何に襲われたんだああああ」

 我慢できずに叫びながら地面をのた打ち回る。衝撃的には金属バットの一撃に匹敵するだろうに痛みはそこまでの物ではない。金属バットなんかまともに食らったら悶絶すら出来ない筈なので衝撃の割りに痛みは少ない筈である。

「それにしたっていてええええええええ」

 もしかしたらオッサンの言っていた優れた肉体のお陰でそんなに痛く無かったのかもしれないが、その優れた肉体でこの痛みって事は普通だったら俺って死んでね? と軽く戦慄する。

「ちょっ、大丈夫? あんた」

 俺を引き倒したときと同じ声が俺に声をかけてきた。

「ふざけんなボケエエエエ! 痛がってんのが見えるだろうがああ」

「ボケってあんたそんな派手に痛がるほうがおかしいのよ。そんなに大した勢いで
ぶつかってないんだからそんなに痛いはず無いじゃない」

 どういう神経をしてるんだか知らないが、下手人に反省の色は全く見られないようだ。声の調子が完全に俺に対して怒っているものになっているのは一体全体どういう訳ですか?
後頭部の痛みがじんじんと内に染み込むような痛みに変わって、みっともなく声を荒げずに済むようになると今度は亀のように丸まって後頭部を抑える。
何処のどいつですかこんな凶行を行うのは。

「ちょっとアスナさん、あんな勢いで頭ぶつけたら痛いに決まってるじゃないですか。ええと、あの大丈夫ですか」

 もう一人、先ほど落ちてきた少女ではないだろうからまた別の三人目の人の声がする。
こちらはさっきのキツめの声の奴よりも幼い声だ。多分男じゃないだろうか。

「ああ、うん大丈夫。めちゃくちゃ痛いけど」

 必死に痛みを堪えて顔を上げる。痛くて痛くて涙が滲んでいて視界がはっきりしないが、目の前に落ちてきた少女と髪の長い少女、二人の少女より一回り以上小さい少年が居た。

「ほらアスナさん、とても痛いって言ってますよ」

「そ、そんなことよりあんた本屋ちゃんに何もしてないでしょうね」

 心配そうに俺の事を見ていた少年が、髪の長い少女の方に振り返ってそう言ったが、髪の長い少女は少し怯んだだけで直ぐに俺の方に話を逸らした。

「何の話だよ。俺はそこの子を受け止めただけ。なんか震えてて喋ってくれないから取りあえず退かす為に体に触りはしたけど、他意は無かったし他に何もしてねえよ」

「本当に何もされてない? 本屋ちゃん」

 髪の長い少女は丸きり俺の言うことを信じていないようで、落ちてきたほうの少女に確認をとっている。

後頭部は馬鹿でかいたんこぶが出来てきた代わりに痛みも引いてきて、痛みのほうもヒリヒリとしたものになっている。
漸く落ち着けた俺は地べたに座ったままとはいえ蹲った状態から姿勢を正して、足を広げるようにして少女達の方を向いた。

電光石火の出来事に完全に忘れてしまっていたが、俺はさっきまで自称神を名乗るオッサンと居て頭を掴まれていた。
 オッサンの口振りだと此処はもう俺の居た世界とは別の世界らしいんだが。

「っっっっっうっ」

 オッサンの事を思い出した途端に胃がせり上がってくるのを感じた。

オッサンの悪意に満ちた瞳が頭に浮かぶ。オッサンの殺意に包まれる感覚を思い出す。俺の視界を塞ぐ、オッサンの作り物染みた手の感触も、オッサンが唇に浮かべた冷笑も、俺を呪った言葉も、閃光の様に頭の中に焼きついて俺の頭の中をグルグルと駆け回る。
無重力空間にでも投げ出されたみたいな浮遊感と脱力感に体の制御が覚束ない。

それと同時に40度近い高熱に浮かされている時に立ち眩みがした時のような、高速で回転しながら自由落下していく視界。

「がっ」

 顔面、特に額が痛んだ。回り続けている視界がタイルの目のような物を映している。きっと腕の支えを失って顔を地面に打ち付けたんだろうと思った。

「ちょ、ちょっとあんた大丈夫? ねえ、ねえってば」

アスナと呼ばれていた髪の長い少女の声がする。他にも少年ととてもか細いが落ちてきた少女の声も。どうやら俺の事を心配してくれているらしい。

そうと分かっているのに今の俺にそれに反応する余裕は無い。顔の痛みもそうだが吐き気がまだ収まらない。オッサンの事を思い出した直後程ではないが、今も油断すれば逆流したものが口から飛び出しそうだ。

腹の中に物が入ってるかは謎だが、少なくとも胃酸は出てるらしい。食道を胃酸が逆流して慌てて閉じた口の中に溜まる。
胃酸独特の臭いと味、食道を溶かされる感触は極めてリアルで、オッサンと会う前と変わっていない。

ははは、死んだ後も生前と変わらない感覚があるなんて事が無い限り本当に俺は生きてるらしい。俺が死んだという確信も俺には有りはしないが、なんとなく今の自分が生きていることが実感されていく。

「ご、ごめんなさい。そんなに痛かったなんて思わなくて。ちょ、あんたどうしよう」

「どうしようって僕に言われてもわかりませんよー。とりあえず誰か呼んで来ましょう」

 俺が尋常な状態でない事に気付いたらしく、少女も少年も慌てている。髪の長い少女はさっきまでの詰問するような調子を潜めて謝罪の言葉を口にしたし、少年は自分の手には余ると判断して誰かを呼びに行こうとしている。もう一人の少女もやっぱりおろおろとして落ち着かない様子だ。
自分の症状が唯の吐き気であることが分かっていること俺は、少年を引きとめようとしたが口の中の液体は未だ健在である。仕方無しに少年の着ている服を掴んで注意を引き首を振って誰かを呼ぶ必要の無い事を知らせる。

「えっと首を振っているのは人を呼んでこなくて良いという事ですか?」

 巧い具合に少年がこちらの意図を理解してくれた。首を縦に振って肯定するが、しかし異論があるのかその声からは反意が篭っているような気がする。

「ちょっとそんな訳無いでしょ。急いで誰か呼んでこないと」

 少年の直ぐ傍から髪の長い少女の声がして、立ち上がろうとして靴が地面を擦る音がする。
 掴んでいた少年の服を離して、今度は少女を引き止める。確か少女は制服みたいな格好をしていてスカートを履いていたので、それには間違っても触れないようにして出来るだけ高い位置を掴む。

「ちょっと離しなさいよ。誰か呼んでくるから」

 少女の方も俺の言うことを聞く気はないらしい。俺を引きずって行こうとは流石にしないが、彼女の服を掴んでいる俺の手を離させようとしている。
なるほど先ほど俺を引き倒したときの威力に納得がいった。俺の手に触れる少女の指はほっそりとしていて手触りも良いが其処から発揮される握力は、その綺麗な指からは想像も着かない領域だ。
暫く少女を引きとめようとする俺と、俺の手を解かせようとする少女の間が硬直した。その間も強硬に首を振り続けると漸く少女も折れてくれたらしい。

「分かったわよ、誰も呼びに行かないわよ」

と言って膝を折った。
 その頃になると脱力も浮遊感も悪寒も眩暈も吐き気も収まってきて、俺は口の中の酸っぱい液体を胃に送り返した。

「はあっ…はあっ…はあっ…」

 途轍もなく気持ち悪い。普通嘔吐したってあんなに長い時間胃液が口の中に存在することは無いので当たり前だが、酸っぱかったり粘々した感触が残りもう語彙も表現力も足りていない俺では言い表すことの出来ない気持ち悪さだ。しかもちょっと痛い。

ふと背中を温かいものが往復している事に気付いた。

「えっ?」

 驚いた事に俺の背中を小さい手が撫でてくれていた。その手からは警戒心も気持ち悪がっている様子も感じられず、とても優しい感情が伝わってきている気がして手の触れている所からその周りへぽかぽかとした心地の良い熱が伝わっていく。
そのお陰で大分気分を持ち直した俺は、誰が俺の背中を撫でてくれているのか気になって、肩越しに後ろを見てみた。
すると少年と髪の長い少女とは俺の体を挟んで反対側に、落ちてきた少女が居て俺の背中を撫でさすってくれていた。俺の上に落ちてきた直後の怯えた様な様子も見せず、静かにその小さい手を使って俺の痛みや吐き気を和らげようとしてくれている。
余りの心地よさに吐き気などが収まっても、暫くそれを言い出す気になれず、悪いとも思ったが善意に甘えさせてもらうことにした。こういう優しさに触れたのも考えてみると随分と久しぶりの事で、体の不調のみならず俺の精神的な部分まで随分と癒された気がした。

「ありがとう。もう大丈夫」

「その……こちらこそ助けて頂いてありがとうございます」

 体を起して少女にお礼を言う。少女のほうも小さい声ではあったが御礼を返してくれた。

「そっちの二人もありがとう。結局断っちゃったけど助かったよ」

「いえ、僕は何も出来ませんでしたから」

「私も何もしてないから。………それに、悪かったわね急にあんな事しちゃって」

 反対側を見て少年と髪の長い少女にもお礼を言うと少年は謙遜を、少女はそっぽを向きながらであるが謙遜と謝罪で応えた。
 両者共に申し訳無さそうな顔をしているがこの二人から受けた直接的な被害なんて頭を打っただけの話で、でかいたんこぶ一つ拵えただけでピンピンしている以上気にするほどのことではない。それにこれが男だったら拳の一つでもお見舞いしてやるところだが相手が女の子じゃあ無理な話である。暴力なんて小学校以来振るってもいないし振るわれた覚えもないのである。
これ以上話を蒸し返すのは無意味だと思ったので話を変えようかとも思ったが、そもそもこの二人はどうして此処に居るんだろうか。

「結構痛かったけどアレはさっきのとは関係ないから気にしないで。ただちょっと激しく
気分の悪い事を思い出して吐きそうになっただけだから。ああ、でも今度からいきなりああいうことするのは控えたほうがいいかも」

 立ち上がって履いていたジーパンに着いた土やら埃を払いながらこう言うと、髪の長い少女はホッとしたようで胸を撫で下ろすような仕草をした。

「ホントに、こんなに嫌なドキドキを味わうのは一生で一度で十分だわ。もう二度としない。それに、さっきはごめん」

 冗談めかしたように言って笑いを浮かべる少女だが、もう一度今度は視線を合わせて謝った。
これ以上気に病まれても今度はこちらが困る。自分は間違っても今日初めて会った少女に頭を下げさせて悦に入るような性癖は持っていないことでもあるし。

「所で三人とも何か用でも有ったんじゃないかな。時間があればさっきの風の事とか聞きたいんだけど」

「そういえば……ん? 風……風…風。そうだ!」

「うわあっ!」

 小柄な少女の体とはいえ人一人持ち上げるような強風が吹くような現象は、台風以外に心当たりが全く無い。もしも日常的に起こるようなら対策を考えなければならないので、話のついでに聞いてみると髪の長い少女は途端に少年を脇に抱えて近くにあった林の中に消えてしまった。
 走り去っていった少年と少女を追いかける訳にもいかず、残された少女に話を振った。

「そ、その……私は本を図書館島に運んでいる途中なので…」

「図書館島?」

「え……、あの…大学部にある施設の事なんですけど」

「それっていうのは部外者でも利用して大丈夫なのかな?」

「は、はい図書館島は一般にも開放されているので利用は可能ですっ」

 一応返事はしてくれるようだが少女は落ち着かない様子だ。それでも反応が無かった先程よりもマシなので、多分これでも少しは慣れてくれたほうなんだろう。まあ、俺みたいな不審者かつ普通に不細工な顔の男に話しかけられてまともに会話をしてくれるだけ上等だろう。一応此処に至るまでの事情こそ分かってはいるがこれからの指針は何も無く、此処が異世界という事以外何一つ知っていることも無い。図書館という名前が付いているのだから地図くらい置いてありそうなのでこの子には悪いけど案内をお願いしよう。幸い、この子は気が小さそうだし頼んでも断られることはないだろ。とかなり汚い考えを巡らせ実行に移す。

「悪いけどその図書館島まで連れて行ってもらってもいいかな? そこを目指して歩いてたんだけど迷っちゃって途方に暮れてたところなんだよね」

「う……わ、分かりました」

 少女が言葉に詰まったところで駄目押しに「駄目かな」と言うと、如何にか了解してもらった。

辺りに散らばっていた本を一緒に拾って歩き出す。少女の後ろを歩くのは憚られたが、横を並んで歩くような関係ではないし案内してもらっているので前を歩くのは少しやりにくい。妥協案として余り怯えられない程度の距離を取ることにしてついていった。

道中無言で歩き続ける俺と少女。俺は歳の離れた人や女の子と話をしたりする機会に恵まれなかった人間で、それがダブルで襲ってくるとなると尚更そんな経験が無い。今時の女子高生――身長なんかからすると女子中学生かもしれない――がどんな話をするのか分からないし、この少女は物静かなタイプだしで話し掛けようとする勇気も湧いてこなかった。何故俺が物静かなタイプが苦手かというと、小中高と同じクラスにいた物静かなタイプには悉く相手にされなかったからだ。例えどんな挨拶をしようと、落ちていた消しゴムを拾おうとも一言も話したことがないのである。少女の方は何度かこちらを振り向くような仕草を見せているが、どうせ警戒されているだろうし。もう何一つ会話が発生する気がしない。

どうしようもないので少女との会話を諦めて景色を見て歩くことにする。どうやらこの街は外国の街並みを真似て造られたらしく、俺がいつも生活していたような日本らしい家並みとは全く違って見ているだけでも心躍るものがあった。路面電車が走っていたりするが見るのは初めてだし、そもそもこんなに規模の大きい学校を見たのも初めてだ。日の差し加減や少女が制服を着ていることからしてどうやら放課後のようで、ちらほらと下校している生徒や部活に行く途中の生徒などが居る。その中にスケボーやローラーブレードで下校しているというのは時代錯誤な気もするが。
しかし、俺の気を引くものはこれだけに留まらなかった。俺達の目的地である図書館島はなんと広大な湖に浮かんでいたのだ。島というのがイメージ出来なかったが成る程、本当に島だ。しかもかなりデカイ。陸から図書館島までの長い橋もそそられるものがある。
こんな調子で色んな物を目にしてテンションが上がったせいで、俺は小学生みたいに一つ一つ「うわあー、うわあー」なんて歓声を挙げながら歩いていて

「クスクスッ」

と前を歩く少女にも笑われてしまった。
 そこでやっと自分がどんな事をしているのかに気がついて俺は顔から火がつくほど恥ずかしかった。

「向こうに世界樹が見えますよ」

「世界樹ぅ?」

 俺の事を気にしてないという事なのか少女が進行方向とは反対側の方角を指差した。しかし俺は世界樹という言葉に驚いてそれ所ではない。今更だがあのオッサンの言うことを鵜呑みにすれば、今俺はオッサン以外の『誰か』が作った世界に居るわけで、俺は当然その『誰か』というのがオッサンの同類である他の神様とかなのかと思っていたが。もしかして、もしかしてその『誰か』というのは普通の人間で、異世界というのは創作されたお話の中の事だったりするのかもしれない。俺の知る限り世界樹なんてものが出てくる世界で、こんな街並みが存在するお話は一つだけ。まだまだその『誰か』というのがオッサン以外の神様である事が否定されてはいないが、あのオッサンは俺に苦しめなんて言っていた。
嫌な予感が、それも人生最大レベルの嫌な予感がする。自分の死を予感できなかった時点でそんな物が使い物にならない事は証明済みだが、それでも嫌な予感が治まらない。

「へ、変な事を聞くようだけどこの街の名前ってな、何かなー?」

 緊張の余り変な喋り方をしてしまったがそんな事を気にしている余裕はない。
何故なら

「こ、この街の名前ですか?………麻帆良学園都市ですけど」

 ここがネギまの世界であることに気付いたからだ。



[21913] 第三話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:17
「……あ、あの…どうかしましたか?」

 気付くと少女がさっきよりも僅かに近いところに立って俺に話しかけていた。はっとして少女を見ると一瞬方を揺らしたが、俺のことを訝るよう表情をしている。

「ネギまかって思ってただけだよ」

 どうせ本当の事を言ってもこの世界の住人である少女に理解できるはずが無い。もしもこの状況で正解に辿りつけるとしたら、神託なんかが受け取れる霊感の持ち主か読心術師だけだろう。ネギまを読んだのは五年か六年くらい前で、覚えている事だって主人公の少年が魔法使いで金髪の小さい子と戦闘をした事位しかないが霊感少女的なキャラクターは確か居なかったはず。目の前の少女は俺みたいな一般人の心を読むような悪趣味な人間とは思えないし、危ないことはないだろう。

 案の定少女は首を傾げて

「…ねぎまって焼き鳥か何かの事ですか?」

と言った。うん、俺もねぎまって言われたら漫画か焼き鳥くらいしか思い浮かぶものないしこれが普通の反応だ。

「まあそんな感じ。今日の夕飯のおかずは何にしようかと思って」

 自分で言っておきながらなんだが無理のある言い訳だ。その日の夕飯のおかずを考えて会話中に放心するような人間は普通に考えて居ない。しかもあの流れで。

「そ、そうですか」

 少女は反応に困ったのか、それとも俺の事を変な人だと思ったのか話を打ち切ってまた図書館島に向かって歩き始めた。

俺は暫く自分の言動のおかしさに悶えてから少女の後を追った。



「今日はどうもありがとう。何か怖がられてたみたいだけど無理に頼んじゃったし。俺何かやっちゃったかな?」

「そ……そんなことありません。その……わ、私男の人が苦手で……。それに私の方こそた、助けてもらいました。ここまで本を持ってきて貰ったのに気付かなかったし。その…ありがとう…ございます」

 再び歩き出してから五分ほどで俺と少女は図書館内部に入ることが出来た。少女が持っていた本を貸し出し受け付けのカウンターに置いているのを見て俺もそれに習ったところ、少女は俺が本を持っていたことにそこで初めて気付いたらしく豪く恐縮された。 そこで、とりあえずの目的地である図書館島まで着いた俺は、ビクビクしっぱなしの彼女とこれ以上一緒に居る理由も無く、居たところで迷惑を掛ける一方なのでここらで別れるべく声を掛けた。

その結果が先ほどの会話である。

「そっか、良かったあ。何か嫌われるようなことしちゃったかと思ってたから。うん、本当に有難う。それじゃ」

「あ、はい。ありがとうございました」

 俺は最後にもう一度礼を言ってから少女と別れた。

「しかしどうすっかなー。家も無いし金もない。身寄りも無ければ知っている人も居ないときてる。食い物も手に入れなきゃいけないし大変だなー」

 幾らか奥の方に入っていって人気の無い辺りに腰を落ち着けた。幸いな事にテーブルと椅子が置いてあったので椅子に座ってテーブルに突っ伏した。

「なんかあのオッサン色々くれたらしいけど何一つ実感なんか無いし。てかそれ以前の問題だわ」

 何で一遍死んだのに生き返った挙句、前とは違う世界なんかで生きなければいけないのか。オッサンの言っていたことなら分かる。要は自分のお気に入りの世界から逃げ出そうとする奴はムカつくし、逃げ出したいと考えてる奴もムカつく。だから自分のお気に入りの世界から追い出して目の届かない所に追いやりたいという事だろう。

しかしそういう話などではない。そもそもの話、俺が悟りなんか開きそうになっている筈がないのである。大した知識も無い俺の考えだが、俺は四諦も十二因縁も良く分からんし肉だって食うし……酒はやらないし煙草も吸わない、女にだってさして興味は無いけど……とにかく坊さんみたいな事は何一つやっていないのだ。そんな人間が悟りを開ける訳が無い。

ここのところの俺はただ単に凄い枯れている大学生で、『日々』生きていくのが堪らなく苦痛で、その癖特に悩む事があった訳でもなく、色々と起こる嫌なことは大概が自分が原因であるから諦めているし欲しい物も特にない。朝起きて学校に行って、授業を受けて家に帰って一日一度の食事を摂取してぼーっとしてから眠りに付く、彼女も居ないし金も無い、寂しい毎日を送っていたのである。正直なところこのままなんとなく生きて死ぬんだなとも思っていたし、それは又俺にとっては普通に幸せなことだと思っていた。自己に対する執着も他人に対する執着もとっても薄い気はするが、この位普通ではなかろうか。そういう訳で自分は普通の価値観を持った全くの一般人であり、解脱とかそんなものからは遠く離れた世俗に塗れた汚い人間である筈であるからしてオッサンに殺された事が納得行かないのである。

それに何なんですか異世界で人生を過ごすって。元々自分の生きていた世界を認識しながらそれとは違う世界で過ごすことの何処が愉しいのかサッパリ理解できないのである。何かこう漠然とした感覚で語ることになるが、そんなものは自分の人生では無いし、俺は俺の人生を死ぬことを望んでいたわけで。オッサンの言っていた通り俺は生きていても幸せになれそうになかった。
それこそ唯生きているだけでも飢えや渇き、痛みなんかと付き合っていかなければいけないし、現代社会で飢えを満たそうと思えばただ働くだけでは済まない。そんな事を延々と死ぬまで――オッサンの言うことを信じれば永遠に――続けなければいけないのだ。何が『生きてさえいれば幸せだ』だよ。生きてても辛いことばっかだっつの。

俺はうぎゃあああと一つ呻き声を挙げながら、ネガティブに染まった思考を停止するために頭を上げてグシャグシャ髪の毛を掻き毟る。

ともかく今の最優先事項は衣食住の確保である。

と其処まで言ったところで今度は考えが行き詰った。そうどうやったら衣食住が確保できるのか全く分からない。衣にしろ食にしろ住にしろ現代社会では金無しには如何することも出来ないのだ。そこで普通なら金を得るために職に就くわけだが、俺には肝心の戸籍が無い。ということは普通に定職にはありつけそうに無いということである。一応バイトでも住民票の写しなどが必要ない場合は有るが、そういうバイトは間違いなく肉体労働とかそんな感じの、運動とは前世から縁の無い俺の肉体では続けていくことなど不可能な仕事ばかりである。

それにそういった問題をクリアしてもそもそも面接に行く格好が汚かったり、働く為の体を維持する栄養が足りてなかったり履歴書や証明写真を手に入れるための金が無かったりで問題は山積している。ゆとり中のゆとりを自認する自分には八方塞もいいところである。

「どうすんだよこれ。アドベンチャーの癖に選択肢が出てこないとか。これで顔が滅茶苦茶カッコいいって言うんならヒモとかホストとかそういうのも出来るんだろうけど、生憎俺の顔は物凄い老け顔でその上不細工だし」

 先ほど髪の長い少女に連れて行かれた少年のようなあどけない顔をしていれば、ここまで連れて来てくれた少女を怖がらせる事も無かったろうと俺は思った。男性が苦手だと言っていたが、あの少年にはそこまではっきりとした男性性も感じられなかったし、案外あの少年辺りならあの少女にも簡単に受け入れてもらえそうなものである。

 と余計な事を考えていたので、自分の事に考えを戻す。

暫くの間必死に無い頭を振り絞って今後の方針を探った結果、こうなった。
溜息が止まらない。嫌な考えも止まらない。俺みたいな戸籍のない人間じゃ生活保護とか受けられるはずも無いし、やっぱりホームレスになるしかないんだろうか。確かこの街には山もあった筈で其処に行けば生きていくことくらいは出来そうだけど。ていうか本当に俺の体はオッサンの言ったとおり最高の物になっていたり、不死身になっていたりするんだろうか。永遠に生きるって事を考えてみれば恐らく老化も無いんだろうけど。そうなると飢え死になんかもなさそうで働く必要もなくなりそうなものだ。

試しに死んでみるというのはどうだろうか。色々とやけっぱちになった俺の精神が通常なら有り得ない運転をしてそんな判断を下させる。

「いかんいかん。いくら何でも命に対する執着薄すぎだろ。逃避でもなんでもなく
死ぬとか俺みたいな青少年的健全性を保っている人間には、まず無理だ。諦めよう」

 何度目の繰り返しか、突っ伏していた顔を上げて周りに誰か居ないかを確認したとき急に感じたものがある。

尿意だ。

しかも強烈な。

便意も感じる。

これも強烈な。

肛門括約筋を押し広げてまっさらな大地に飛び出すのも時間の問題だ。

一着しかない服にアレが付着するのはなんとしても防ぎたい俺は、下半身に余計な力が入らないよう最新の注意を払って立ち上がる。周囲を見渡してトイレの所在を知らせる札でもないかと思った末の行動だが、今日は珍しくツイてるらしい。一番最後に視界に入った通路にそれらしき物が見えた。

ゆっくりと、かつ出来るだけ速やかに俺はトイレを目指して疾駆した。そう慎重になりすぎてこの爆弾が時限式の物であることを忘れてはならない。こいつは虎視眈々とその解放のときを待っているのだから。

 通路を二つほど通り過ぎたところで、不意に腹の痛みが激化した。

「うっっ………………ちっくしょー……こんな所で諦めてたまるかーー!!」

 痛みの増す腹と尻に苦しめられ、それを跳ね返そうと叫んだ。当然図書館内に於いては静かにするという文明誕生以来の鉄の掟を無視した俺に、幾つもの視線が突き刺さる。が、これしきの視線に負けてたまるものか。気合を入れなおし精一杯の努力で顔に笑みを浮かべる。何とでも言うが良い。俺は限界過ぎて気を紛らわせなければ一歩も歩けそうになかった。

「やった。あそこがトイレだな」

 壁際に視線の進入を防ぐように曲がった箇所が二つ並んでいた。近くに赤と青で人形の書かれたプレートもある。

「素晴らしい、これが優れた運の力。間違いない。オッサンの言っていた事は本当だったんだ」

 もう自分が何を言っているのか意識する余裕も無かった。とにかく捨て身で男子トイレに進入して個室に飛び込む。

最高の肉体を作るなら、どうせだったら排泄機能なんか付けなければ良いのにとオッサンを怨む俺だった。



「あー死ぬかと思った」

 事後の処理を済ませ個室から出ると、思わずこんな言葉が口を突いて出た。何でもない自分の軽口だが、一度死んでいる身としては今までとは違う感覚を覚える。といってもしょうもない感傷だったので、さっくりと忘れて手を洗い始める俺。

 備え付けの洗剤を手に出して、手首の上の辺りまで丁寧に擦る。
こんなものだろうと手に着いた泡を洗い流して手洗い完了。なんとなく鏡を見た時だ。

「あれっ?」

 鏡に映るはずの物が映らず、映るはずの無いものが映ったので驚きの声を挙げて
しまう俺。鏡の正面に、顔を同じくらいの高さにして見ているので角度上映らないはずが無いし、俺の後ろの壁が移っている以上これが光を反射していないはずがない。

説明の着かない現象に目の錯覚を疑って、二三度まばたきをしても、眉間を揉んでも映っているものは変わらない。解決の糸口さえ見つからない疑問が音になって耳に届いた。

「どうして俺の顔が映らないんだ?」

 どうやっても俺の顔が映らない。顔の位置を変えても別の鏡を覗き込んでも。その代わりに映るのは見慣れぬ顔。

「あれ? 何? どういうこと? なんで? どうして俺の顔が映らないの?」

 視覚ではどうやっても確認できない俺の顔を、手で触って確認しようとする。それでも分かるのは俺の手が感じ取っている感触は、俺の顔のものとは似ても似つかないという事だけ。よくよく見てみれば俺の顔を触ってる手も、手と胴を繋ぐ腕も、心なしか身長まで変わっている。

 ぶるぶるぶるぶると体が震えだす。まるで夢の中の様な状況だ。自分の体が、知らぬ間に自分の知っている物ではなくなっているなんて。そういえば昔放送されていたという特撮ヒーローは悪の組織に自分の体を改造されていた、なんてことを思い出した。

「わーお、スゲー」

 しみじみと観察するとさっきまで自分の物だったと思っていたのが馬鹿なんじゃないかと思うくらい、全てのパーツが俺と異なっている。筋肉が太くなりすぎて、傍から見ると太っているように見えていた大臀筋と大腿筋は服の上から見てもすらっと細くなっているし、指も太さが全然違う。体が全体的に細く長くなっている。

「うわーなんかキモチワリー」

 もう一度、今度は映っている顔を自分の物だと思って鏡を見ての感想がこれだ。言葉自体は冗談の部分が多いが、やはり自分の顔だと思うと強い違和感を覚える。がしかし、自分の顔をして不細工と言ってしまえるほどのご尊顔が辛うじて二枚目に引っかかる位に変貌していれば、笑うか今の俺の様なリアクションを取ってしまうのが普通だろう。

意図せず、クツクツクツと笑いが漏れる。最高にどうでもよくて本当に最低の気分だ。

これがどういう事か分かるだろうか。簡単な話である。自分を自分だと同定出来る材料がたった一つ、精神しか無くなってしまったという事だ。勿論この程度で自己同一性を見失ったり、自己連続性無しには生きていけないという訳ではない。オッサンの悪意の様な物を感じ取っただけ。それだけだ。

「本当に意地が悪いなあのオッサン。俺の事を平穏に過ごさせる気が真剣に全くないな」

 俺は自分に目を着けた相手の性質の悪さを嘆いて、腹の底から溜息を一つ吐いた。

「まあ、でもいいや別に。生きてるし」

 頭を切り替える。別に自分の生死に関わるような問題じゃないんだから、気にするだけ無駄だと切り捨てて、別の事に目を向けるのだ。これからの身の振り方だって決まってないし。

ハンカチの類は何処のポケットを探っても出てこなかったので、濡れた手はズボンで拭いて一つ、新しい顔でキメ顔を一つ取ってからトイレを出た。鏡越しに見た俺のキメ顔はビックリするぐらい似合ってたが、やっている事の滑稽さを思うととても正視出来たモンじゃなかった。



「で、何がどうなると俺はこんな血みどろになるんだろうか?」

 真っ赤なシャツとジーパン、正確に言えば真っ赤になったシャツとジーパンを見て首を傾げる。

目の前には、大きな目が一つ顔の中央にあって角が生えている杭みたいに太くて鋭い歯を持つ見たこともない生き物とか、ひょろっと長い肢体と緑色の肌、頭に皿を載せた湖沼や川なんかに生息していると言われている生物だったり、二足歩行している人間サイズのカラスだったりそれはもうハリウッド・ムービーの特殊メイクもびっくりな格好をしたUMA共が犇いている。

「なんや久しぶりに呼ばれたと思ったらまーたここかい。何度も何度も諦めの悪いやつやなー」

 少し離れた所では隣や近くのUMA同士が喋っていたり、日本語を使っていたりと人間臭さが漂って居るが、状況が読めない。

「あー? なんでこの小僧は生きてるんや?」

 俺の直ぐ後ろから声が聞こえた。振り返ると長い鉄の棒を持ったUMAが、その手に持った棒を振り切った格好で俺の事をみていた。鉄の棒は建材にも使えそうな位長くて太く、形状は六角柱になっていて、人間に使えそうな代物には見えないが、もしかしてアレは棍のつもりなんだろうか。

俺は、いつか夢に見た様な状況だなとぼんやりと思った。夢見が悪い俺は頻繁に何か細長い棒に突き刺さる夢や、親に自室に閉じ込められた挙句に売り飛ばされる夢、巨大な猫に乗っかって森を疾走する夢などを見て寝起きには錯乱している事が結構あったが、今回もそういう夢か何かなんだろうか。

何故か痛む頭で、これは明晰夢という奴かなんて暢気に考えていると

「まあ、どないでもええか。もう一遍殺せば」

なんて後ろのUMAが呟いた。

 現実感の欠如した状況に、俺はその言葉の対象が自分であると認めることが出来ず、一体誰を殺すつもりでいるんだろ、と辺りを見回した。見えるのは十数体のUMAと大量の木だけ。

と、そういえば木を見て思い出したが、俺が考え事を明日に持ち越して眠り込んだのもこんな森の中だった。図書館で新聞を確認した時は日付は二月上旬となっていて、気温も時期に違わず震える程に寒かった。もしかして朝起きたら凍死してたりするんじゃなかろうか? ああ! きっとそうに違いない、幾ら眠いからってあんな所で寝るんじゃなかった。と今頃深い(永い?)眠りに就いているはずの体を心配していた俺の体は横合いから受けた強い衝撃で吹き飛ばされた。

強い痛みを覚えて疑念が強くなる。夢なのに痛い。それも意識が飛びそうな位。

そのまま碌に身構えもせずに吹き飛ばされた俺は、俺を吹き飛ばしたやつとそっくりなUMAに強か背中を打ちつけた。

「があああああああ!!」

「なんやなんや、やり損ねてるやんけ。指示通り殺さんとあかんやろ」

「ぎゃああああああ!!」

 背中を打ちつけた事で取り込んだ空気を残らず、吐き出してしまう。苦しい、また意識が飛びそうになった。俺の意識をそっちのけにして空になった肺が空気を取り込もうと大きく口を開けた所で、俺のぶつかったUMAに頭を掴まれた。UMAの手は大きく俺の頭を、みかんの様に包み込んでいる。この調子ならみかんと同じように俺の頭を潰すことも可能だろう。

視界を塞がれた俺が、俺の頭を掴んでいる手を外そうともがくよりも早くUMAの手に力が込められた。

痛い。痛い。いたい。いたい。

それ以外に何も考えられなくなる。

此処に至り、漸く俺は理解した。これは夢じゃない。

無意識の行動だろうか。俺を掴む指に手を掛けて体中の力を振り絞って暴れた。

それでも俺を掴む手からは逃れられない。俺の頭を握る力は徐々に増している。

後どのくらい力が増すと俺が死ぬのか分からない。

後どのくらい力が増すと俺が死ねるのか分からない。

口を閉じる筋肉が失われてしまったみたいに、俺の口は悲鳴を挙げるばかりで俺の頭を掴む手に食いついてやることも出来ない。

苦しみの余り意識が乱れ、ぶつっぶつっと飛び始める。

「なんやまだ死なんのかこの小僧。一般人にしては随分と丈夫なんやな」

 俺の口から溢れ続ける悲鳴はもうとっくに言葉の態をなしていない。ずっとずっと唯痛みに声を挙げ続けるだけ。

いたい。いたい。いたい。い……。

叫び続けて酸欠にでもなったのか頭に薄ぼんやりともやがかかったような、俺の
体から俺の感覚が遠ざかったような、そんな状態になった。

………………………

 痛みで冷静を奪われて、ごちゃごちゃになった時間間隔でも長いと感じ始める。長い。苦しい時間が長い。

UMAには確かに殺意が存在したはずでアイツに俺を生かそうとする意志など有るはずがない。ならなんでこんなに痛みが続くんだ。なんで俺はまだ生きているんだ。いつのまにかたまにかかっていたもやも晴れている。

「なんでや? なんでこの小僧まだ生きてるんや? 全力でやっとるのに頭が潰れん!」

 俺の悲鳴が聞こえる。まだ痛みは続いている。それでも段々と、僅かずつでも痛みが治まり始める。

辺りがざわついている。何を喋っているのか分からないが会話しているという事だけは分かった。

何処かから冷たい風が吹いてきた。

暴れる。叫び声を挙げ続けながら。こんな時にどうやったら良いかなんて分からない。だから手足を子供が駄々を捏ねるときのように振り回した。

「いたたたたたたた、なんやこの小僧。力がつよなってるやんか。訳分からんし、もうええわ。潰せんのやったらぶった切ったるわ」

 俺の頭を掴んでいた力が消えて、体が地面に落ちた。地面に落ちた衝撃と、頭を潰されそうになった痛み。それらに耐えてUMAを見上げたときには既に手遅れ。腰にぶら下がっている鞘から抜き出した刀が俺目掛けて振り下ろされた。

散々痛みに晒されたお陰で恐怖に膠着する事こそなかったものの、俺はその場を一歩も動けずに、ただ腕を交差して体の前にかざす事しか出来なかった。

模造刀とは全く雰囲気の違う、月光を受けてギラギラと光を反射する金属光沢。刀を振り下ろす軌跡も速度も文句無く、俺の頭をいとも簡単に割るだろう。

もう俺に出来ることは何もない。この段階で振り下ろされる刀を避けるような術は知らないし、きっと体も動かない。

 でも、それでもいい気がした。絶体絶命の状況も一度死んだ後の事で、今更もう一度死ぬくらいなんて事ないだろう。俺の本当の人生はとっくに失われているんだから。

諦めと同時に希望も湧いてきた。

それでも、今は生きている。一度死んだとしても今も生きているんだ。態々死にたいと思うほど生に思うところはないし、死に執着もしていない。もしもこの状況をやりすごして生きていられたならとりあえず明日も元気にやっていこう。視界の端に映った金髪を見てそう決めた。

「うらああああああ!」

刀が俺の腕に到着。骨に接触するも僅かな抵抗にもならず、依然刀は止まらない。

想像を脱しなかった刃物で切られる痛み。それを手首に感じた。不思議と痛みを感じない。感じるのは燃え上がるような熱さ。切られた腕を中心で炎に包まれたみたいだ。

刀はいつのまにかもう一方の腕も通り過ぎていて、また意識が飛んでいたことを知る。刀から俺の頭まで十センチもなく、刹那の間に俺の頭にも届くだろう。

人間の頭蓋骨は大変滑らかで、下手な拳銃の弾丸では弾が滑ってしまって致命傷に至らないケースがあると何かで聞いた事を思い出す。刀でも同じ事が起こるのだろうか。しかし、そんな期待を笑い飛ばすように刃が頭蓋を割って脳に到達する。脳漿が漏れ大脳が切断される。最終的には海馬やら視床下部やらもやられるだろうが、脳の構造に明るくない俺には次に何処が斬られるのか分からない。

視界の上のほうから大量の血が噴出しているのが見えた。

そういえば、普通頭を斬られたときっていうのはどの辺りまで意識があったりするんだろ


ざしゅっ
ただの筒に成り下がった耳の中にそんな音が響いた。



「はぁあああ。なんやえらく丈夫なガキやったで。気も何もつこうてないのに全力でも握りつぶせんかったしな」

 青年を惨殺した鬼が、半ばまで切り裂かれた体から刀を抜き出しながら怪訝そうに呟いた。

人外の者、常識の埒外の存在である鬼が疑問に思うのも無理は無い。何故なら鬼の見ている前で少なくとも二度、青年は死んでいるからだ。

一度目は青年をこちらに吹き飛ばした鬼に頭を潰され、二度目は今自分が。一度目の後、何事も無かったかのように青年が生き続けていたために誰もが鬼の失敗だと思ったが、そうなると鬼の一撃の後青年の潰れた頭が見えたのは見間違いだと言うことになる。しかしそうなるとこれだけの数の鬼が同時に見間違いを起したことになる。それは少々納得しがたい。

それに、と鬼は疑問を重ねた。

それに、自分があの青年を握りつぶそうとした時、あの青年の硬さは徐々に増し
ていなかったか? 種族の違いの為に人間を殺すことに抵抗など感じるはずも無い。だから容赦せず、己の快楽の為に頭を掴む力を徐々に上げていった。相手は気も魔力も持たない一般人だ。全力を出さずとも握りつぶすことは容易だったはずだ。それでも青年は生き残った。気も魔力も使わず、鬼の全力に耐え切ったのだ。

言い知れぬ恐怖を鬼は感じた。それは人間が、ゾンビと呼ばれる死体のまま蘇った人間に怯えるのと同じ感情。

「いつまでそうしてはるんや? さっさと次行こうや」

「ああ、そうやな。そうしよ」

 傍らに居た一つ目にそう声を掛けられて我に返った。もうどちらでもいいことである。なにせ青年は頭を二つにかち割られて死んでいるのだから。

愚かな疑念を振り切って鬼は青年の死体に背を向けて歩き出した。一度死んだ人間が蘇ることなど有り得ない。そんな条理の外にある力を有しているのは極一部の吸血鬼や神に準ずる力を持つ存在だけ。あんな青年がそんな力を持っている筈がない。

心中で己の不安を取り払おうと呟いた。そんな事は起こりえない。

「アハハハハハハハ。アーハッハッハッハッハ。まさか、まさかとしか言いようが無いな」

 鬼の恐怖が具現したのか、背後から笑い声が挙がる。声の発生源も丁度青年の死体の辺りだ。

「なにもんや、一体!」

 他の鬼達も声の方向に振り返る中、この鬼も恐る恐る後ろを振り返る。

確かに誰かが立っている。しかしそれは青年ではない。月の光を浴びて美しく輝く金髪は、その髪先を血に濡らしている。

少女が立っていた。青年の死体の傍に。手と口元、服も血で染まり、それでも血の汚れを嫌う素振りをみせない。

「なんやお嬢ちゃん。気でも触れたんか」

 仲間の鬼が軽口を叩く。きっとこの少女も青年と同じ一般人だ。そう思って鬼達は少女の不幸を哂った。この状況がどんなに異常なものか鬼達は理解していない。

 少女が笑い続けるのを見ながら、鬼達は少女を囲うように散らばっていく。どうせ今日も任務を達成することは出来ない。ならば出来るだけ自分達が楽しめるようにこの少女を嬲るのも面白いだろう。とそう鬼達は思っていた。

「心配するな、絶好調だよ。この十五年で最もな。ククククク、それにしても雑魚共の臭いに混じって、極上の血の匂いがするから来てみればこれ程の物が転がっているとは。瓢箪から駒が出るとはまさにこの事だな。しかし、昔から徳の高い坊主の肉を食らうと力が増すと言ったもんだが、そうなるとあのバカの封印を消し飛ばした血の持ち主であるコイツは一体何者だったんだろうな」

 少女の退路を絶った鬼達は少女を囲む輪を縮めていく。

「死体から血を吸うというのはどうも好かんが、まあいい。これ程の物ならば例え死体からでも啜る価値は有るからな。惜しむらくはたった一度しかこれ程の血を味わえぬことか。っち、仲間割れかと思って放っておいたが、割って入るべきだったな」

 封印、吸血、死体から啜る。どれも少女が発するには不適当な言葉が続出する。どうやら少女が自分達側の存在であると知って鬼達も身構えた。それでも少女は臨戦態勢を取らないどころか気も魔力も纏わない。鬼達の中で油断と警戒が鬩ぎ合う。

そんな鬼達を少女は無視し続け、手から滴り落ちる血を口に含む。

恐らくは青年の血を舐め取る少女の表情は恍惚として、快楽に溺れ、情欲に染まっている。鬼達の目にはこんな状況にも関わらず、少女は股間に手を突っ込んで秘所を弄り出すのではないかと思えた程その黒い瞳も、紅い頬も、呼吸する鼻も、指を銜えた口ですら淫靡に映った。

鬼達は誰も口を開けないまま、じりじりと少女との距離を縮めていく。そして少女は膝を折って青年の頭を掴み持ち上げて、その首筋に噛み付いた。

 じゅる、じゅる、じゅると血を啜る音だけがした。手に付着した血を舐め取るのと直接吸血するのとでは味が違うのか、少女の顔に浮かぶ熱狂は先ほどの比ではない。

「やっちまえ!!」

 今回呼ばれた鬼共の中で最も強い鬼の号令で鬼達は一斉に少女に飛び掛った。果たしてその号令は勝機を勝ち取るものか、目の前の少女から感じる恐怖に突き動かされたものか。

どちらであろうと関係は無かった。その血を啜っていた少女によって鬼達は全員倒されたからだ。

「バカ共が。彼我の戦力差すら計れんのか」

 楽しみを邪魔された少女は心底うんざりした声でそう鬼達を侮蔑した。

「茶々丸、手を出すなよ! リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」

 何処かに仲間でも居るのか、誰かへと手出しを禁じてから、少女は呪文を詠唱し始めた。

そのまま少女は呪文を詠唱しながら少年の体を抱えて軽く跳躍する。身長など小学生並みの少女が青年を抱えて飛ぶのである、滞空時間などあってないようなものだ。当たり前のように少女と青年の体は重力に引かれて落下を始める。はずだった。

少女と青年の体は重力を無視してそのまま空へと浮き上がり、見る間に五メートル程の高さにまで達した。

殺到する鬼達を少女は空中へと逃れて睥睨し、犬歯をむき出しにして獰猛な感情を発露させる。その犬歯は人間では考えられないほどに鋭利だ。

「復活第一発目の魔法だ。お前らには勿体無いが、景気付けにでかいのを食らわせてやる」

 突如として少女の周囲の空気が爆発的な膨張をしたような衝撃が発生する。しかし、それは大気の状態が変化したなどという物ではなかった。魔力の解放である。

一瞬で鬼達が見たこともないほどの大きさに膨れ上がる少女の魔力。鬼達が己の所業が最悪のものだった事を悟ったのは呪文が完成する寸前だった。

「来たれ氷精 闇の精 闇を従え 吹雪け 常夜の氷雪 闇の吹雪!!!」

 眼前で巨大な魔力が渦を巻いて迫ってくる。

 為す術無く消えていく共に呼ばれた鬼達を目にして、鬼はこの地に封印されていた伝説の話を思い出した。其は600年の年を越えて生きる魔王。かつて魔法界において恐怖の象徴となり、600万ドルの懸賞金を掛けられた闇の福音。不死の魔法使いとして君臨するハイデイライトウォーカー。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。正真正銘掛け値なしの化物である。


「まったく、私の邪魔をするとは。さて、邪魔者も居なくなったことだしゆっくりとこいつの血を吸わせてもらおうか」

 音も立てずに着地した少女は、青年の体を地面に横たえ、もう一度首に噛み付いた。

しかし、コイツの血の美味さは恐ろしささえ感じるレベルだな。常飲したくなってくる。本当に惜しいことをした。

エヴァンジェリンは封印の解けた幸運よりも、この血が失われてしまう不幸を嘆いた。

そう彼女は封印が解けた事を喜んではいなかった。彼女を外の世界に惹きつけるものが今の世界には欠けているから。

彼女の封印を解きに来るといって死んでしまった男を捜しに行くという手もあるが、その男と同じ組織に所属し、共に大戦を戦いぬいた筈の男さえその足跡を辿れずに10年が過ぎているのだ。最早その男が生きているとも思えなかった。

その男の息子が今日この麻帆良学園にやってきた。そいつの血で封印を解こうとも思ったが、封印が解けた今その息子に関わったところでちょっかい以上になりはしない。

彼女は己を縛る鎖が解けたにも関わらず、目的地を失っていた。

「マスター」

「どうした茶々丸」

 青年の首に噛み付いていたエヴァンジェリンは、従者の少女茶々丸に呼びかけられて吸血を中断した。

「今は吸血の最中だ。余程の事でなければ邪魔をするな」

「しかし」

 飽くまでエヴァンジェリンに何かを伝えようとする茶々丸にエヴァンジェリンは
苛立ちを覚えた。

青年が死んでから結構な時間が過ぎている。そうなると当然鮮度を失った血液もその美味さを減少させる。エヴァンジェリンは未だに湧き出し続ける極上の血を少しでも美味いうちに味わいたかった。

「まだ敵がいるのか?」

「いいえマスター。現在周囲に敵性個体は存在しません」

「では、隣の地区の担当者でも近づいてくるか?」

「いいえ、マスター。となりの地区を担当している桜咲刹那及び龍宮真名両名とも
接近は確認できません」

「では、近右衛門の奴から連絡でも入ったか?」

「いいえ、マスター。学園長他学園関係者からの連絡は来ていません」

 考え付く限りの用件を問いただしても、茶々丸は否定する。エヴァンジェリンは焦れた。これ以上の損失は我慢できなかった。

「ええい、ならば放っておけ。私は少しでも早くこの死体から血を吸いきってしまわなければいかんのだ」

「ですからマスター」

「くどいぞ! 茶々丸」

 エヴァンジェリンが茶々丸の制止を振り切って青年の首筋に再び噛み付いた瞬間。

「うわああああああああああああああああ!!」

「うわああああああああああああああああ!!」

 確かに心臓の止まっていた青年が目を開いた。



[21913] 第四話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:18
「あーびっくりした」

「言いたいことはそれだけか?」

「ぬうおおおっ!???」

 上半身を起したところで安堵に胸を撫で下ろした俺に後ろから声を掛けられた。

まだ陽も昇っていないような時間の森の中だ。まさか他人に話しかけられるとは思っていなかったので、ビックリして急いで後ろを振り返るとそこには長い金髪を蓄えた美しい少女が立っていた。

とは言っても俺にそう大層な感受性はないので幾ら美しいと言ったって少女を見て息が止まったりはしない。ただ言葉に詰まったのは本当で、暫く何も言えずにじろじろと少女を見つめる。

「あーびっくりした」

 もう一度胸を撫で下ろす。ビビリストという不名誉なあだ名を頂戴したこともある俺は、角から人が出てきただけでも一瞬体が強張る位のビビリである。勿論こんな状況でもビビッてるので、話しかけてきたのが少女だったことに安心したのだ。

「びっくりしたはこっちの台詞だ! 心臓は完全に止まっていたはずなのに、貴様何故生きている?」

「ご、御免、ちょ、ちょっと心臓が落ち着くまで待っててくれる? い、今話聞けそうに無いくらいびっくりしてるから」

 何故だか初対面の人に怒られている俺。しかも心臓が止まっていたとかなんとか。勘違いしようのないデンジャラスワードだ。

斬った張ったは御免なので状況把握に努めようとするが、恐怖に硬直した頭は俺の指示に従わずぐちゃぐちゃとした妄想が考えの端から滲む。

話を聞くのは吝かではないが如何せん体が冷たい事も有って体を温めるためと状況を整理するためにちょっと待ってくれるように願い出る。

「おい……お前本当に大丈夫か?」

 余程今の俺は顔色が悪いのだろう、貴様呼ばわりだった少女がお前なんて言って俺のことを心配している素振りを見せた。俺は少女の問いに答えられず体を縮こまらせる。

視界がぶるぶると震えているので見てみると足も笑っている。手はガチガチに固まって握力が無いし、口も震えていて上の歯と下の歯がぶつかってガチガチと音が鳴っていた。

「さむい」

 体が異様に冷えていた。真冬に毛布も何も掛けずに隙間風吹き込む部屋の中で寝ていたときと同じくらい体中がかじかんでいた。

「マスター、そちらの方の体温は28.0度で非常に危険な状態です。急いで体温を上昇させなければ死の危険があります」

「ちっ、また死なれて今度は復活しないなんて事になったら困るからな。茶々丸こいつを担げ。家に帰るぞ」

「はい、マスター」

「うわあ、なんだこれ」

 金髪の少女の背後から、今度は背の高い少女が現れた。

そして少女の出現とほぼ同時に紐のような物が現れて俺の体に巻きついた。締め上げられる感触は在るがロープの様に擦れたりはしない紐はあっという間に俺を拘束し、後ろ手に縛り上げられた挙句に足まで縛られた俺は地面に転がされた。

背の高い少女は俺に一言「失礼します」とだけ言って抵抗の出来ない俺を俵の様に肩に担ぐ。

「行くぞ」

 金髪の少女がそういうと、金髪の少女と俺を担いだままの背の高い少女は空に向かって飛んだ。そう少女達は跳ぶのではなく、飛んだ。金髪の少女は何の支持も無く、背の高い少女は足からジェット噴射をして。

「うわ、なんだ?! うわあスゲー浮いてる、浮いてんじゃん。ちょー! 俺高所恐怖症だから勘弁して!」

「やかましいぞ! 貴様が暴れなければ落ちんから安心しろ。それよりも貴様あそこで何をしていた?」

「本当か? 本当に大丈夫なんだろうな? 言っとくけど俺は脚立を一段昇っただけで恐怖感じるくらいの高所恐怖症なんだ。マジで無理だって。きゃー無理無理無理無理何も聞こえません!」

「落ち着けといっとろうが! っち、段々面倒くさくなってきたな。お前を投げ捨てて家に帰ろうか」

「わー! 済みませんでした。何でも聞いてください」

 浮き上がった直後前後不覚に陥って暴れる俺は金髪の少女に脅迫されて大慌てで従属姿勢を取った。

既に地上から10メートル以上離れている。受身さえ取れない今の状態では命に関わる。が、そもそもそういう問題ではないくらい高い所は苦手なのだ。

俺は抵抗を諦めて大人しく担がれるに任された。

眼下を黒い森が通り過ぎていく。

「それで良い。飛んでいけば私の家までは直ぐだし辛抱しておけ。ところで、貴様あそこで何をしていた? ああ、正直に話したほうが身の為だぞ。私はこの学園の連中とは違って甘くは無いからな」

 俺を担いだ少女の斜め前方1メートル程の距離を飛びながら此方を向く金髪の少女。

その人形の如く完璧な愛らしさを誇る顔に意地の悪さと嗜虐心を湛えて笑う様はインモラルですらあったが生憎俺にそれを堪能する余裕は無かった。

縛られたままで手を使って姿勢を制御できない俺は慣れない、人の肩の上という場所で必死にえびぞりの体勢で前を行く少女と視線を合わせる。

「寝てました」

「はあ? もう一度言え」

「寝てました。お前も見ただろうが、俺が寝てるとこ」

「ふざけてるのか貴様! 正直に話せと言ったぞ!! 」

 脅されるまでも無く嘘など吐く理由が無い。
俺はエヴァンジェリンの目を見つめて正直に真実を答えた。にも関わらず真っ向から嘘つき扱いとは。

「ふざける余裕なんかあるか!! 帰る場所も何処かに泊まる様な金も、泊めてくれる知り合いも居なかったから警察が見回りに来なさそうな森の中で寝てましたよ! 神に誓って嘘なんか言ってません!」

「茶々丸」

「はい、マスター」

 納得が行かずに少女に向かって怒鳴り返すと、金髪の少女は俺を担いだ少女に一言。すると俺を担いだ少女は俺の体を肩から下ろし足を掴まれ宙吊りに。

「ってえっ!? 待って。ホントだ。ホントのホント! 本当に俺は寝てただけで何もしてないんだ。起きたのだって鬼に殺される夢なんか見て起きただけで、寝る前は図書館島に行っただけだし俺はあそこで寝てただけだって! だから頼むから離さないで!!」

「…………ふん、嘘は言ってないようだな。茶々丸いいぞ」

「はい、マスター」

「ひいいいいい」

 危うく難を逃れる俺だった。

かといって俺を担ぎなおす気は無いらしく俺は少女達が家に着くまでの間、軽く生き地獄を味わうことになった。



「どうぞ、温かいココアです」
「ああどうも。助かります」
 恐怖の空中旅行から数十分――いやこれは俺の主観まじりなので精々数分だろう――が過ぎ去って俺は木立の中に立てられた洒落たログハウスの中で毛布に包まって暖炉に当たっていた。

暖炉を見るのは生まれて初めてだが、幾つか放り込まれていた薪がパチパチと爆ぜているのを見ていると、体の内にも小さい火が灯って不思議な気持ちになる。郷愁というか癒しというか。

「和むわ~」

「人ん家で勝手に和むな!」

 スパアンと小気味いい音と共に頭を叩かれる。下手人はちっこい金髪少女。暖炉を前にした俺の真後ろに座っている。

「あのなあ、高所恐怖症の人間にあんな惨い真似をしといて今度は和むなだ? いい加減にしてくれ! 小学校時代の体育の鉄棒の時間、逆上がりをしなければいけなくなって鉄棒の上で泣いた事まで思い出したんだぞ。少し位和んだっていいじゃないか!!」

「……な何で泣いてるんだよ貴様は」

「お前に二階建て遊具の二階から、地上に向かって伸びるパイプを掴んで降りようとしたけど途中で動けなくなって握力が徐々に無くなっていく中降りることもパイプの上に戻る事も出来無くなった人間の恐怖など分かるはずがない!!」

「いや、確かに分からんが……はあ、分かったよ。暫くそこで和んでろよ」

「くそ、今度やったら訴えてやるからな」

 捨て台詞まで吐いてから暖炉に視線を戻して暖かいココアを啜る。猫舌であるために少しずつしか飲めないが、それでも腹の中から全身に熱が広がっていく。かじかんでいた手足には漸く感覚が戻り始め、その冷たい手足を撫でる。

発見された当初極度の低体温で発見された俺だったが、原因は言わずもがな二月などという厳寒の季節に厚着もせずに外で寝ていたことである。

俺が眠りに就いたのが午後10時頃で今が午前1時を回った辺りだから約3時間の間俺は外で眠っていたことになる。

夏場でも凍死者が出ることもある森の中でのこの行為、本当に死なずに済んでラッキーだと言う他ないだろう。

それに起きた後もこの少女達に見つからなければ自分はまた二度寝を決め込んで凍死するか、目的もなく彷徨った挙句の凍死しか未来が無かった事を考えると、自分を恐怖のどん底に突き落とした少女達にも感謝すべきなんだろうか?
 
まあなんだって良いや生きてるし。

「残念ながらお礼が出来るような状況じゃありませんので感謝しか出来ないけど。ありがとうございました。お陰で凍死せずに済みました」

 悩んでいるのは面倒なのでスパッと解決するために手っ取り早くお礼を言った。

「うー、さむさむ」

 礼を言ったりするのはかなり苦手な駄目人間なので、即行で暖炉に向き直って手足を温める。手足が痛む事も無くなってじきに俺の頭から照れ臭さが消えるのは直ぐだった。


 それから三十分程後の事。

俺は包まっていた毛布を畳んで脇に避けぐったりと床に横たわっていた。

「あちー」

 三十分もの間手足を温める為に暖炉の直ぐ傍に居た俺は、感覚が無いせいなのか暖炉との距離が近いことに気付かず手足に熱が篭る頃になるとすっかり熱さにやられていた。

生来の暑がりの汗っかきも手伝って、暖炉の傍を離れても体から熱が引いていくには時間が掛かりそうだった。

「おし。そろそろお話とやらを始めてください。聞く準備はバッチリです」

 時間もかなり遅くなっていて、明日も学校があるかもしれない少女達に夜更かしを強いるわけにもいかない。全身だるい気もするけど温まりすぎたせいに違いない。と判断を下してお話を始めるために少女達の方に向き直る。

「おっとっと」

 視界が左右に揺れる。気のせいか腹の中が蠕動していて吐き気の予兆の様な物も感じる。

強烈な立ちくらみのような状態に陥った俺は、とりあえず床に手を着こうとしてそのまま倒れた。

 金髪少女が慌てるのを横目に匍匐全身で玄関の方に向かう。

それは万が一吐いたときの為でもあり、火照り過ぎた体を夜気で冷やすためでもある。

俺が何処に向かっているのかに気が着いた少女達は俺の行く手を遮って、金髪の少女は俺に向かって何か怒鳴りつけている。

眩暈どころか耳鳴りまで発生しだしたせいで発言の内容までは聞き取れないが、歪んだ視界で少女を見る限り怒りの色が窺えた。

先ほどまで冷たさで痺れていた体がまた、今度は冷たさ以外の要因で痺れ始める。

もう腕を使って進むことは少しも出来そうに無い。頭を支持しておくことも出来ずに床に頬を着け、片目で少女達をみつめる。

少女達が背景とどろどろに混ざり合ったところで俺の意識は途絶えた。


「いやあ美味い。こんなに美味いもん食ったの初めてだわ」

 ガツガツと勢い良くご飯を口の中に放り込んでいく。空腹という調味料なしでも文句なしに美味しい料理は、約一日ぶりに食事をとった俺にとっては神の食事とも言える味に感じられた。

「逃げるのかと思えば気絶した挙句その理由が空腹と熱中症とはな。森の中で倒れてたことと言い貴様本当に裏の人間か?」

「何度も言ってるけど俺はそんな怪しい符丁で表されるような人間じゃありません。えっとおかわりもらえるかな?」

 深夜二時過ぎ、所は変わらずログハウス。失神した俺が目覚めると、目の前には背の高い少女が作ってくれた食事があった。

俺が空腹と熱中症で倒れた事を知った少女が俺のために調理してくれたらしい。

料理が俺の為の物であるところまで聞いて、自分の空腹に気が付いた俺は一も二もなく料理に食いついた。

俺の図々しい願いにも、無表情ではあるが答えてくれる背の高い少女。

間違いない。彼女は俺の女神様だ。

 「どうぞ」と差し出される茶碗を受け取ってもう一度ご飯を掻きこむ。思わず身もだえしたくなるほどに美味しかった。ていうか女の子の手料理食うのはきっと人生初。調理実習除けばだけどね。

「貴様からは嘘を言っている気配が無いにも関わらず貴様の言っている事は間違っている。鬼に殺される夢を見ていたと貴様は言ったが、貴様は間違いなく鬼に殺されたんだぞ。少なくとも一度、多ければ二度な。その上たった一吸いでナギの登校地獄の呪いを解呪する血と言いそんな物を備えた人間が裏の人間で無い筈があるかあ!!」

「知らんから! 百歩譲って俺が死んだ後生き返って、血にも良く分からん力があったとして俺は何も知りませんし、分かりません!! 俺は昨日まで退屈なキャンパスライフをエンジョイしてたし、今は絶賛求職中の18歳のお兄さんだ。名前は…………黒金哲(くろがね てつ)。血液型はO型。身長体重は………分からん。住所不定、経歴不詳、記憶も曖昧かつ穴だらけで性格は悪い。無抵抗の人間を甚振ることが趣味の臆病者で、年上の人間が苦手。かといって年下も苦手で人見知りも激しく、知っている人間も場合によっては怖がる事があり、怖くないのは友達だけ。趣味は読書。昔から体におかしな不調を感じることが多く、貧血と微熱が年中続いている。汗っかきで暑がり。周囲からは天然だと言われることが多い。中学時代の知り合いからはMだと思われていて、高校時代の知り合いにはドSだと思われている。僅かにバイっぽいかなと思いつつ普通に女の子が好きで、初恋の女の子は小学校高学年のとき隣の席に座っていた委員長。好きなものは大抵のもので嫌いなものは結構有る。冬が好きで、一番の思い出といえば二月某日の早朝、ウィンドブレーカー着用の上サンダル装備で出かけた時に途中で眠くなって道路で座り込んで二時間くらい寝ていた事。勉強するのが嫌いでなあなあで過ごしてる間に大学にまで入ってしまった親不孝者で、親父が不倫している事を中学校のある日に気付いてしまった只の一般人だ」
 
俺の今までの人生で積み上げてきた普通自慢。

何処行っても異常な感覚を持つ輩に変だ変だと言われることが逆にこの俺の正常性を物語っている。正常な人間が圧倒的マイノリティである事は誠残念だ。

早口でここまで言い切ると食事に戻る。

空きっ腹に突然食事を流し込んだからか急激に満腹感を感じる。

いつもならもう少し食べるところだが、他人の家ということもあるし我慢してご馳走様と手を合わせた。

「どうかしたか?」

 食後のお茶を飲んでいると金髪の少女が胡乱気な瞳でこちらを見ているのに気付いた。

生まれて初めて緑茶を美味いと感じるという大変目出度い状況で何故そんな目で見られなければいけないのか。

「それなら何故貴様は私達が魔法を使う事に驚かない? どう考えてもおかしいだろう。何も知らない一般人が魔法を目の当たりにすれば興味深々に見つめるか疑問に思うか混乱するか恐怖を覚えるだろう。なのに貴様と来たら驚いたのは空に浮いたあの瞬間だけ。こうやって状況を整理できるような時間を与えてやってもこちらに聞いてくるでも、避けようとするでも緊張するでもない。貴様の行動はどれを見ても一般人らしくないんだよ」

「まあ確かに」

 エヴァンジェリンの言い分は実に的を射ている。確かに俺の言動は一般人としては淡白すぎるものだったかもしれない。

「でもな、俺はあの時寒いし怖いしでそれどころじゃなかったし、今は別にそんなことどうでもいいんだ。さっき言ったろ。俺今ホームレスだから。衣食足りてなんとやらじゃないけど明日の食事にも困っている人間にとってはそんなこと如何でもいいの。生き返れるって言っても病院にでも行ったら見世物か実験対象にでもされるのがおちだし、血なんか幾ら凄くても欲しがる人間なんか殆どいないだろ。お前は例外みたいだけど。魔法なんかそれに輪を掛けてどうでもいいよ、使えないし」

 そうそんな事はどうでもいいのだ。流石に此処がネギまの世界だと知っていなければもっと驚いたかもしれないが、それでも驚くだけだ。

魔法の使い方も分からないし、俺みたいな人間に魔法を教えてくれる魔法使いもそういないだろう。

知っているだけじゃ役に立たないことなど知識として興味関心をそそられる位が関の山。

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック 氷の精霊17頭。集い来たりて敵を切り裂け。『魔法の射手・連弾……」

「何ブツブツ言ってんだ?」

 急に理解できない言葉を喋り始めた金髪の少女に話しかけると、10秒ほどの間をおいて少女は一度口を閉じてから疲れた様子でこう言った。

「いや……お前が裏の人間では無い可能性がまた高まっただけだ。しかし貴様の言っていた事が本当だとすれば、相当の変わり者だな」

「血を吸う魔法使いに言われたくねえよ」

「全くだな」

 さっきのブツブツが何かは分からないが、俺の言う事を少しは信じたらしい。どういう意味で受け取ったのか、はっきりと脱力した少女は俺の皮肉に笑った。

「大体普通血を吸うのって魔法使いじゃなくて吸血鬼じゃないのかよ?」

 椅子に背を持たれて湯飲みを傾けるエヴァンジェリンに思った事を聞いてみる。

魔法使いが血を使うのではなく吸うという事に違和感を感じたのだ。ライトノベルやアニメの世界では頻繁に魔力の譲渡などに使用されるが、素性を知らない相手の魔力を欲するような状況に陥っていたらあんな風な出会い方をしなかったはずだし。

「ふん、そういえばまだ貴様に名乗っていなかったな。貴様がその寝惚けた顔を驚愕に歪めるところが見たかったが、裏の人間ではないなら無理か。まあいい。私はエヴァンジェリン! 吸血鬼エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル!! 『闇の福音』『不死の魔法使い』なんて呼ばれてる世界最強の魔法使いさ」

 態々自己紹介をしてくれるのは嬉しいけど、テンション上げ過ぎだろ。と突っ込みたくなるのを抑える。言っている間にノッてきたのか胸まで張っている自称吸血鬼に水を差すような真似は出来ず、放っておけば高笑いを始めそうなエヴァンジェリンを止める為に俺はもう一人の少女にも自己紹介をしてもらうことにした。

「私はマスターの従者をしております絡繰茶々丸と申します」

 主人とは対照的な態度の絡繰さん。そのお辞儀もぺこりと擬音が聞こえてきそうな程折り目正しく大変美しい。

 「よろしくお願いします」と頭を下げてこちらからも返礼した。

「しかし吸血鬼で魔法使いなんて聞いたことない組み合わせだな。普通そこはかたっぽだけじゃね? 反則的に強そうな感じだが」

「聞いてなかったのか? 私は世界最強だと言っただろ」

「またまた。世界最強でこんだけ可愛いとかやっちゃだめだろ」

 光と闇が合わさって云々ではないが、吸血鬼と魔法使いなんてどっちもラスボスみたいなジョブが両立されて良いんだろうか。その上この可愛さ。

完全にアニメか漫画の領域じゃねえかと思ったが、ああなるほどこの世界は漫画だった。

「それとさやっぱ知らないと思うけどなんか割りのいいバイトとか知らない? 俺みたいな若くて根性が無くて、努力知らずでかつ身元不明のやる気の無い青年を雇ってくれて楽チンで実入りのいい仕事。三食昼寝つきで住居を貸してくれたりすると尚良しなんだけど」

「私が知っていると思うか?」

「ですよねー。ああ俺の明日はどっちだろう」

 常識を疑うような世界にまみえても俺の窮状を一転するような事にはならない。

普通こういうときは息つく間もなく事件か何かに巻き込まれていつのまにか幸せになってたりするもんだろう。

いくら心の中で不平不満を漏らしても何も起こらない。また一つ世界の冷たさを知った瞬間だった。

「とりあえず明日に備えてもう寝たいのですが、今日はこちらに泊めていただけませんか? この床を貸してくれれば十分なんで」

「フローリングだぞ?」

「床と壁と天井と毛布さえあれば何処でも寝れるから大丈夫だけど」

「勝手にしろ。私達は学校があるからな。それまでには出て行ってもらうぞ」

「ありがとう。それじゃあこの毛布借ります」

 とはいえ世界は冷たくても人肌は温かいらしい。言外に泊めてくれると言うエヴァンジェリンに礼を言って毛布に包まる。

ひんやりとした床に肌が触れて熱が奪われていくのが分かった。

「寝るぞ茶々丸。準備をしろ」

「はい、マスター。それではおやすみなさいませ黒金様」

「おやすみ、エヴァンジェリン、絡繰さん」

 就寝の挨拶を済ませて目を閉じる。

階段を上っていく二人の体重で床が軋む音がした。二人は何かを話しているのか時折声も混じり、今横たわっている床が彼女達の家だという事を強く思わせる。

「どれだけ強いって言ってもこんな事しちゃ不味いだろ。一晩中警戒するぐらいならさっさと叩き出すだろうし、眠るって言うなら尚更ありえない」

こんな不審者を家に招きいれて、平然と極々自然に眠りに就こうとする彼女達の間抜けさを口端を持ち上げて嘲って、感謝した。

凍死しかけたことで体力を使ったのか、眠りが訪れるまでにそう時間は掛からなかった。



[21913] 第五話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:18
「さむい」

 朝目が覚めて哲はそう言って瞼を開けるよりも早く体を縮こまらせた。

温かい手とは反対に夜気で冷えた足を温めるために、体を折り曲げて尻の辺りにくっつける。

この季節の目覚めの悪さは一年の中で屈指のものである。

まず意識が覚醒してから目を開けるまでに一苦労、そして目を開けてから毛布を体の上から退かすのに居眠りをし、毛布を退かしてからその寒さに怯んで再び毛布の中に逃げ込む。目覚ましにシャワーを浴びてからまた睡魔に襲われストーブの前で体を温めてから漸く完全に眠気が抜ける。

しかし哲が硬い床と固まった体の感触に目を覚ますと、態々暖房器具の前に避難するまでも無く部屋の中は暖気で満たされていた。

トントントントン。

哲が一人部屋を貰って以来の暖かな冬の目覚めに感動していると、何処からか板を叩くような音が規則的なリズムを刻んでいるのが聞こえてきた。

シャツの中に手を突っ込んで腹を掻きつつ、立ち上がってその音がする方向にフラフラと歩み寄っていく。

眠っている間に靴下を脱いだのだろう、踏み出した足の裏にひんやりとした感触が伝わって、足の裏から頭まで全身が震えた。

「ああ、良い匂いだな」

 思わず言葉にしてしまう程美味しそうな匂いが流れてくる。どうやら物音は朝食を作っているようだ。

『朝食は各自の裁量で』という方針だった我が家では、もう十何年も嗅いでいないきちんとした朝食の匂いを深呼吸して肺に取り込む。憧れの朝食の匂いはその出所を容易に教えてくれていた。

「おはよう絡繰さん。今何時か判るかな?」

 エプロンを着けて台所に向かう茶々丸の背中に話しかける哲。

茶々丸は小気味良くリズムを刻む包丁を止めて哲の方を振り返った。

「おはようございます黒金様。今は6時半を少しまわったところです」

「そっか、ありがとう」

「いえ」

 そういって料理を再開する茶々丸。こんな朝早い時間なのに眠そうな素振りも無く調理の様子も淀みない。

学校といっていたから学生なんだろけど随分頑張ってるんだなと哲は感心して心の中で拍手を送る。

パンを焼いて食べることすら億劫だった自分とは比較になりそうになかった。

しかし六時半かと哲は頭を掻いた。

睡眠時間は約四時間。睡眠時間は短いほうであるから体の調子は万全だが、昨日の心労はまだ抜けきっておらず二度寝をしたい気分だ。

とはいえここで寝てしまえば少女達に迷惑を掛けることになるので欲望に身を任せるわけにもいかず、口を半開きにしては欠伸を噛み殺して眠気を誤魔化した。

「あの……さ。その何か手伝うこと有るかな?」

「それでしたらマスターを起してきて頂けますか?」

 一宿一飯の恩義もあるしこのまま絡繰さんの料理が終わるのを待ってるのは朝食を強請っていると取られるかもしれない、と思った哲が手伝いを申し出ると茶々丸はそう返事をした。

いやいやちょっと待て自分、と自分に言い聞かせる哲。だって昨日初めて会ったばかりの男が少女の部屋にに立ち入ることを許可されるなんて事ありえないではないか。

ううんと唸ってからもう一度聞きなおす。

「ですからマスターを起してきて頂けませんか?」

 とはいえ虚しい妄想に縋ったところで現実に歯向かうことなど出来よう筈も無かった。

あっさりと虚実は現実の前に膝を屈し、哲の前には難題だけが残った。

「それは絡繰さんが行った方が良いんじゃないかと思うけど」

「いいえ、マスターから昨夜、黒金様に起しに来させるようにと申し付けられましたので、黒金様にマスターを起して頂きたいのですが」

「うええええっ」

 手が空いてないからとかそういう次元のお話ではなく、昨夜の段階から既に決まっていたことらしい。しかもエヴァンジェリンの意思で。

吸血鬼の寝所にお呼ばれなんて「殺してやる」と言われているようなものじゃねえか。と顔を青く染める哲。

ああ昨日なにか怒らせるような事でもしてしまったんだろうか? いやいや俺のことを泊めてくれたって事はそうじゃない筈だ。となるとアレか。昨日俺を見つけた時点で既に俺を捕食、若しくは殺すことが決まっていて油断しきって起しに来た所を襲って……

と考えてから哲は自分の馬鹿な考えを笑った。

まさか殺す予定の人間にあんな事を話す義理はない。恐怖を煽るにしたってあのタイミングじゃなく襲う時にすべきだ。

はて、ならば何故エヴァンジェリンは自分に起しに来るように言ったのだろうか。

女性一般に対して苦手意識を持っている(男女区別無く基本的に人間は苦手だが、女性に対しての苦手意識は男のそれよりも大きい)自分としては出来れば勘弁願いたいイベントだ。

いくら考えても答えが得られるわけでもなし、更に準備にどの位の時間が掛かるか分からないが、起床の時間が遅れればそれだけ慌しい朝をエヴァンジェリンに強いてしまうとあれば恩を仇で返す趣味のない哲にとっては己の苦手意識を無視することもやむなしだった。

早々に答えあわせをするために茶々丸にエヴァンジェリンの居室の場所を聞く哲。

さてここで説明しておくが決して哲は女性に対して特別思うことは無い。女性恐怖症ではないし、同性愛者でもない。自己認識はともかく哲は女性が好きな極々普通の男性だ。

では何故苦手なのかといえば特に理由は無い。

まあ少ない人生経験の内で女性に歓迎されることなど皆無だった人生であり、女性特有の体臭と思われる甘い匂いになんとなく気後れしてしまう事から苦手なんだなと思っているだけなので、単純に知らないものに対する恐怖と言ってしまう事も出来るのかもしれないが。

という訳で大した理由も無しに女性を苦手にしている哲としては、その無意識の苦手意識にすら罪悪感を感じてしまって苦手意識は倍増。相手がまだまだ少女とは言え日常話すのは兎も角居室にお邪魔する行為は心臓に多大な負担をかけていた。

「気が重いな」

 エヴァンジェリンの居室の手前、あと一段も階段を上れば部屋が見える位置に立って一言。

哲はこういう点で俺は友人達から変わっているなどと評されるのだろうなと溜息を一つ吐いて覚悟を決めた。

一つ上の段に脚をかけつつ緊張の余り生唾を飲み込む。その音がフロア全体に響いた気がした。

えいやっという掛け声と同時にドアを全開。居室に進入を試みる。

始めの一歩は勢いで、その後は惰性で脚を動かし続ける。

居室を見た第一声は、

「殺風景な部屋だな」

 階段を上がって直ぐの所から始まっている部屋には、障子で仕切られた畳のスペースとフローリングの床。部屋の中央付近にベッドが置かれていてその枕元には本棚が設置されている。差し込んでいる朝日の輝きに満ちていて部屋の広さといい、実に雰囲気の良い部屋と言っていい。

とはいえ年頃の人間として部屋に置かれているものが本棚だけというのはどうなんだろうか。

起きているか否かは別にして部屋の主の前で言うことでない。

哲は慌ててエヴァンジェリンの寝ているベッドに向けるがどうやらまだ眠っているようだ。

「良かった」

失言を聞かれずに済んだようだった。

スンスンと何度か鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。少女の部屋の匂いを鼻を鳴らして嗅ぐなんて傍から見たら完全に変態だな。哲は己の所業を省みてそう思いつつも止めることが出来ない。自分でも理解できないが嫌いの物ほどやたらと匂いを嗅いでしまう癖があるのだ。

嗅覚に神経を集中しつつある事に気がつく。肺の中に流れ込む空気にも、鼻腔をくすぐる空気にも自分が苦手とするものが感じられない。

いや、正確に言えば微かにではあるがそういった甘い匂いはする。

しかし胸のむかつきを覚えるような重さを感じさせず、匂いの殆どが冬の朝に相応しい凛とした空気に融けていて寧ろその心地よさを増しているのだ。

「おう、幾ら良い匂いって言っても感動してる場合じゃねえな」

 母親の匂いなど忘れて久しく、恐らく人生でも二度目の体験に、哲は数秒陶然として慌てて我に返る。

危ない危ないとんだトラップだぜと口の中で呟いて心を落ち着かせるために深呼吸。

すると当然空気と共にエヴァンジェリンの匂いが……

「ぬあああああ!! ヤバイさっさと起こそう!」

 口を閉じて鼻からも呼吸をしない。哲は一切空気を取り込まずにベッドで眠るエヴァンジェリンの元へ。

「おーいエヴァンジェリン。起きろ、朝だぞ」

 いち早くこの場を離れんと苦手意識も忘れてエヴァンジェリンの体を覆う毛布を剥いだ。

「うっ」

 寒さにでも驚いて目を覚ますだろうと思って毛布を剥いだ哲だったが、目的の少女は毛布を剥がれても身じろぎ一つせず、哲は目を剥いて身動きが出来なくなった。

毛布の下から現れた少女の姿に見蕩れたからだ。

ロリだろうと熟女だろうと可愛ければ問題なしというスタンスの哲からすればエヴァンジェリンは「大丈夫だ、問題ない」とサムズアップしたくなる程のど真ん中ストライクだ。

名前は分からないがふわふわと広がるフリルが可愛らしく、袖や裾から覗く真っ白な肌の手足や首。

呼吸のたびに膨らむ胸から腹部にかけてのなだらかなライン、瑞々しく潤った唇は指でなぞりたくなる程だ。

「くそ、一体全体なんなんだ。こんな存在そのものが可愛いとしか表現できない生き物に遭遇するなんて。物語なんかで気障な男が美少女美女を神の造りたもうた芸術とか言うけど強ち嘘とは思えなくなってしまう位可愛いぞ」

 実際はこの世界は人の創作したものを神が再現したものなので、神が造った筈はないが半ば本気で哲はそう思った。

よくよく見てみれば少女の指はどれもほっそりとしていて同時に少女らしい柔らかさも持っているように見えるし、月の光でも相当な美しさだった金髪は陽の光に照らされて昨夜とはまた違った趣になっている。

「あ、ありえんだろう。テレビで見たことのある有名人と比べても月とスッポンレベルの違いだ。女神だなんて紹介されたらうっかり信じそうになりそうだな。俺みたいな人間に宿を貸してくれるなんてスゲー優しいし」

 少女を起こしに来た事すら忘れて只管心に浮き上がる言葉に音を与え続ける。

少女の美しさに我知らず哲の脚が後ずさりそうになったとき、哲はエヴァンジェリンの顔が赤くなっているのが見えた。

俺の独り言と寒さで目が覚めかけているのか手足もむず痒そうにぴくぴくと動いている。

「ヤバイヤバイ。早く起こさないと寒いに決まってるか。しっかし……可愛いなー」

 これ以上ぐずぐずしているとエヴァンジェリンに風邪でも引かせてしまいそうなので最後に一言万感の思いを込めて呟く。と同時にエヴァンジェリンの手足が一度ビクンと大きく跳ねそれから震えが止まった。

哲はそれに気付かず、これが聞かれてたら恥ずかしくて死ねるな。確実に気持ち悪がられるだろうし。いや、しかし溜息が出るほど美しい物ってのを生まれて初めて見た気がするなと軽く感動していた。

「おーい、朝だぞー。起きろ。エヴァンジェリン」

 いくら暖房器具が働いているからといって、階も違えば幾つか部屋も隔てている。当然その恩恵は殆ど無いわけでじっとしていた哲も寒さを感じ始めた。

剥いでしまった毛布を掛けなおし、これ以上寒い思いをしないようにしてから声を掛ける。

とはいえ冬の寒さ故にか中々エヴァンジェリンは起きず、俺が部屋に入って直ぐの頃と見比べると心なしか頑なに瞼を閉じているようにも見える。

頬っぺたも赤くなったままだしなと小さく呟く哲。

「エヴァンジェリン。起きてくれよ。絡繰さんが朝食作って待ってるぞ。学校に行く準備もあるんだろ」

 仕方無しに布団越しに体を揺すってもエヴァンジェリンの反応はない。

こういう時相手が家族や友人だったら枕元で喚いて起こすんだが、恩人相手にそんな蛮行には及べない。

万策尽き果てたように思えた哲だが、ふと寝起きの悪かった妹の事が思い起こされた。

下手をすれば四度寝五度寝をしようとする妹を起こそうと自分達家族は何度か妹をストーブの前まで運んで遣ったが、そういう時は比較的すっきり目覚めていた。

寒くなると一層布団が恋しくなるのは分かるんだが、と隙あらば寝ようとする妹を起こしたという事まで思い出して頭を抱える哲。

性格も俺に輪をかけて嫌な奴で本当面倒くさい奴だったなアイツ。

そういえばもう知り合いには誰も会えないんだな。とそんな事に今更気がついた哲だった。

「よっし、じゃあちょっと失礼して暖炉の前まで運ぶからな」

 それでも目覚めなければ調理で台所を離れられない絡繰さんにでも見せればいいかな。 投げやりにどうするか考えることで少女を抱きかかえるという行動から目を逸らし、さっと行動に移る哲。

眠っている人間相手に意味があるとは思えなかったが断りを入れてからエヴァンジェリンの背中の下に手を差し入れた。

「よっと」

 おっさん臭い掛け声を挙げてエヴァンジェリンの体を抱えあげる哲。勿論頭を支持して後頭部から後ろに仰け反ることがないように気をつける。

そうして丁度エヴァンジェリンの顔が哲の肩の辺りまで遣ってきたとき、哲の首がチクリと痛んだ。

「おわっ!? なんだ? 髪でも刺さってんのか?」

 二本の尖った物体が首の辺りを刺している気がする。

大騒ぎするほどの痛みでも無かったので、とりあえず一階にエヴァンジェリンを下ろしてから見てみようと階段を降り始める哲。

いつのまにかチューチューという音と共に体から力が抜けていくような感覚まで覚える。

これ以上酷くなる可能性もあるので余裕のあるうちに急いで階段を駆け下りる。

「うっ……うおおお!」

 最後の一段を降りようという時にいよいよ脱力感も強くなり危うく前のめりに転びそうになる哲。

気合で姿勢を持ち直し今度は一路暖炉の前へ。

さっきまで冷たいと思っていたエヴァンジェリンの体がいつのまにか温かくなっていて、逆に哲の体温が下がったのか首から背中にかけて寒さが這い上がり身震いする。

遂に視界がふらつきだした時漸く暖炉の前に着いた。

思考が巧く回らなくなった頭で必死に椅子を探して其処にエヴァンジェリンの体を預ける。

エヴァンジェリンの体を抱きかかえていた腕から力を抜き椅子の前に座り込もうと、

「あれ?」

 したが、全身脱力してしまった今も尻が地面に着かない。

まるで俺の首に顔を埋めたままのエヴァンジェリンに抱えられているかのようにエヴァンジェリンの体から離れられない。

「エヴァンジェリン、お前起きてんのかよ。だったら離せよ」

 腕を使ってエヴァンジェリンを突き放そうとしても駄目。細く艶やかな脚が俺の
体を挟み込んで足掻いても足掻いても外れそうにない。

「もう駄目だこりゃ」

 次第に力は抜けていって最早体を揺するくらいの事しか出来なくなった。

寒さと脱力感は最高潮になり、重くなった頭は意識ごと後ろ側に落ちていきそうだ。

 ああ、こんな酷い体調になるなんて中学二年生夏以来だな。あの日も気付いたら倒れてたっけ。

とエヴァンジェリンの体越しに見える天上を見つめながら哲は考え眠りに就いた。

と思ったが、

「ぷはー」

 なんて間抜けな声と共にエヴァンジェリンの体が哲の体から離れ、自らの力で姿勢を保つことすら出来ない哲は呆気なく床に倒れて、そしてエヴァンジェリンの座っている椅子の脚に頭を激突させた。

「ぐ……が……」

 足やら手やらは力が入らないくせに痛覚まで鈍ってはいないらしい。激しい眩暈と思考力の低下で何処を何がどうなっているのか判然としない哲。ただ強い痛みを放っている頭だけが頭をぶつけた事実を教えている。

その頭上ではエヴァンジェリンがアルコールの過剰摂取で酩酊状態に陥っているのでは、と心配に成る程顔を紅く染めて笑っている。

「…………っ……おい! 大丈夫か!?」

「……はあ……は…はあ……ぐ。大丈夫に見えるか? ったく貧血っぽいて頭がく
らくらする。はあ……気持ち悪い。それよかお前大丈夫かよ」

「何のことだ?」

「何処かぶつけてねえかって……はあ…聞いてんだよ。足元覚束なかったからな。壁とかに脚やら頭やらぶつけたりしてんじゃねえかと…思ってな」

 茫然自失していたらしいエヴァンジェリンが慌てて声をかけてくる。これが大丈夫そうに見えるならそいつを病院に駆け込ませたい所だ。

息を継いで頭の中が纏まってくるのを待ってから返事をする。といっても自分でも大丈夫かどうかなんて分かりはしないのだから今の気分くらいしか答えられない。

とりあえずエヴァンジェリンの心配をしてみる。注意不足で良く自動ドア等に体をぶつけるような人間が前後不覚の状態で人を運んで無事に済むとは思えない。

「ああ、大丈夫みたいだ。悪かったな」

 一応何事もなかったらしい。

二つの意味でほっと一息つく哲。

この調子ならなんで自分がエヴァンジェリンを抱きかかえて運んでいたのか気にしてはいないようだった。

「どういう意味だ? お前何もしてないだろ」

 まだまともに物を映さない視覚を瞼を閉ざして意識の外にはじき出す。

頭を撫でさすりながら聞いたエヴァンジェリンの声には謝罪染みた響きがあった。

「気付いていなかったのか。どれだけ馬鹿なんだお前は」

「おいおい、謝ってる最中に相手に向かって馬鹿とは何事だよ」

「ふん、馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。何で首に食らいついて吸血されてる事に気付いてないんだよ」

「ん? ……ああ…は? 吸血って仰いましたか? 今」

「ああ言ったよ。まったく、吸血鬼を何の抵抗も無く抱き上げるお前に警告でもしてやろうかと思って血を吸い始めたら想像を絶する美味さに我を失ってしまったんだよ。手加減もせずに吸ったからな、全身から一滴も残さずに搾り尽くす勢いで吸ったのにそれを貧血で片づけようというんだから馬鹿という他あるまい」

「仕方ないだろ。俺は健康体なのに体調不良ってな事が結構ある変わった体質なんだよ。つうかお前一滴も残さずにって殺す気かよ」

 自分の考えよりも遥かに危険な状況だったと思い知って哲は悪態をつく。

「我を忘れて吸ったからな。殺意は無かった。というかお前が死ぬかどうかなんて考えにも至らなかったな。ま、まあ許せ、泊めてやった対価だ」

「何が対価だよ。釣りあってねえだろ、飯と死じゃ。てかどうすんだよ全く動けねえ」

 200ミリリットルの失血でも失った血液の量を補填するのに約一週間、成分まで戻すのには約一ヶ月もかかるのだ。大量に抜かれた血液が数分足らずで元に戻る筈などなく体に力が入る様子はない。

「心配するな、普通だったらとっくに死んでる量の血液を失ってるんだ。放っておいてもお前は死なん、その状態でも喋れるのがいい証拠だ。昨晩もお前から大量の血液を吸い上げたのに平気な顔をしていたからもしかしてとも思ったが、どうやら単純な物理攻撃でも大量失血でもお前は死なんらしいな」

「てめえ死んでねえからってそれは酷いだろ。それから、そんな役に立たない考察はどうでもいい。もう子供だろうが女だろうが恩人だろうが容赦しねえ。元気になったら仕返ししてやる」

「ほう、この状況でその発言。自分が置かれた状況が分かってないらしいな」

 ほれ、なんてエヴァンジェリンの声が聞こえると同時に俺の顔に何かが触れた。

 目を開けてみると少しはまともに見えるようになっていて視界の半分は顔に触れている何かに塞がれており、残りの半分にはエヴァンジェリンの綺麗な足が映っていた。

「だあっ! 分かった! 分かったからやめてくれ。俺は足で踏まれて喜ぶような性質の人間じゃねえから」

「良いじゃないか。貴重な経験だぞ、私みたいな美少女に足蹴にしてもらえるなんてな」

 哲は頭を動かして足を退かそうとするが、その度俺の顔の上に足を移動させ何度も何度もぺたぺたと足で俺の顔を触るエヴァンジェリン。

唯単に嫌がらせをしたいからなのか、はたまた哲をこんな状態に追い込んだ負い目からなのか行為の割りに体重をかけたりせず、目などの周囲にも何もせずに本当に足の裏で触るだけのエヴァンジェリン。

哲としては変な性格を発揮しており、特に嫌な顔をすることなく何度も足を振り落とす作業に講じている。

漫画のキャラってのは足の裏まで良い匂いするんだな、なんてズレにズレタ考えをしていると、

「どうした? 嫌がってるようには見えないが、もしかして嬉しいのか」

「馬鹿言うなよ。別に痛くねえから必死になる必要もねえだけだよ。まあそれに嬉
かねえけどお前の足の裏柔らかくて気持ち良いしな。って、ふぁなをつまむな」

「やかましいわ変態め。暫く其処で大人しくしておけ」

 エヴァンジェリンは俺の鼻を器用に足の親指と人差し指で摘んで一頻り弄んだあと、そう言って椅子から立ち上がって茶々丸の居る台所の方へ移動していった。

「変態とはまた心外だな。感触が気持ちいい事と足で踏まれて嬉しいかは別の問題だろ」

 取り残された哲はエヴァンジェリンが茶々丸に朝食の配膳をさせるまでの間、暖炉の前で動かない体を相手にせめて座ろうと格闘し続けることになった。



「まさかまた絡繰さんの料理を味わえるとは。これの為と思えばあの殺人未遂も辛うじて許せるな」

「物欲しそうに私を見ていた人間の言うこととは思えんな。さっさと出て行けばいいものを」

「それこそお前の言い草じゃねえだろが。俺はお前のせいで歩くことも出来なくなる位弱ったんだぜ。あんだけされたら普通朝食くらい要求するだろ」

「普通は怖がって何処かに逃げるんもんなんだよ変態」

あれから茶々丸の作った料理が配膳されるまでの間に歩き回る程度の体力を回復させた哲は、自分の体が本当に普通じゃないらしい事を初めて実感を伴って自覚しつつ茶々丸の作った料理を食べながらその対面に座ったエヴァンジェリンと激しく罵りあいをしていた。

とはいえ双方互いに罵り合っているだけであり、罵り合っている両人の表情は発言の無いように比べて非常に穏やかだ。

「茶々丸も茶々丸だ。なんでコイツの分なんか作ってるんだ」

「お前と違って優しいだけだろ。絡繰さん本当にありがとうございます。とっても
美味しいです」

「ありがとうございます黒金さん」

「おいコラ! どうして茶々丸に対しては丁寧なのに茶々丸の主である私に対してはぞんざいな態度なんだ。茶々丸の施しを受けるという事は私の施しを受けるという事なんだぞ。私に対する態度を改めたらどうなんだ?」

「絡繰さんの手伝いもしないでグースカ寝てた挙句に起きたら俺から大量に血を奪いやがった奴に丁寧に接する必要はねえだろ。それに人の顔を足蹴にするわ自分が原因で身動きできなくなった俺を放置するわでお前に対する感謝なんか吹っ飛んでったっつうの」

「茶々丸は私の従者だから良いんだよ! それにな茶々丸の為というならお前みたいな変態が茶々丸に近づくんじゃない。悪影響が出たらどうしてくれる」

「マスター、あまりゆっくりと食事をしていると急いで登校することになります」

「チッ、下らん事に気を取られすぎたか。分かった。茶々丸、お前は先に準備を済ませておけ」

「はい、マスター」

 茶々丸に急かされてエヴァンジェリンの食事のペースが上がると共に罵詈雑言の飛ばし合いが止んだ。

洗物をいつするのか分からないがもしも食後に片づけてしまうなら自分も遅れるわけにはいかないので哲も同じように食事のペースを上げる。両者罵りあいを止めただけの話だが。

やはり青年と少女では食べるペースが違うのか、同じだけの量を用意されているはずにも関わらず哲が食事に専念してから直ぐに、哲の皿には何も載っていない状態になった。

コップに注がれていた牛乳を一口で飲み干してから哲はいつもの習慣で「ごちそうさまでした」と手を合わせる。

いつも一人で朝食を食べていた哲にとって、この行為は食事とそれ以降の行動の区切りとなっているのだ。

 用事と言えばエヴァンジェリンと茶々丸に礼を言う事位しかない哲が、そのままエヴァンジェリンの食事が終わるのを待っていようと思い暫く見つめていると不意にエヴァンジェリンと哲の目が合った。

「お前も食事が終わったら最低限人に会う準備をしておけ」

「はあ? 何で? 俺この後ここを出て行く以外に用事なんて決まってないけど」

「この街がどんな街であるか位一般人であるお前も知っているだろ。お前をこの学園で一番偉い奴に会わせてやるよ」

 当然昨日の少女から教えてもらっているので此処が何処かという事は知っている。麻帆良学園だ。聞いたこともない規模の学術都市で、小中高大とそれぞれ幾つかの学校が存在しているらしい。

恐らく一番偉い奴というのは経営者の事だろう。

ぼんやりとした想像上の経営者像が哲の頭の中に映し出されたが、その像は見たこともない頭をした老人の姿をしていて何処でこんな人見たんだっけと哲は頭を掻いた。

「なんで? もしかして通報? それはちょっと勘弁願いたいんだけど」

「違う。一応お前の事を教えておかねば不味い。一見して裏の人間と思われること
が無くても何かの拍子に誤解を受けたら捕まりかねん。魔法の使い方も知らんようだが、お前の場合魔力が発露しただけでも大騒ぎになるだろうしな。その点奴に面通ししておけば問題さえ起こさなければ自由に歩きまわれる」

「心配要らないだろ。万が一にもそんな事起こりえないんだから。俺は激怒して才能が目覚めるような人種じゃないよ」

 怒るような理由もまだこの世界にはないしな。とこれは口に出さずに胸の中で思う哲。

「もしかしたら仕事を紹介できるかもしれないのに、そうまで行きたくないと言うなら仕方あるまいこの話は無かった事に」

「いやいやいやいや。喜んで付いて参りますともエヴァンジェリン様」

 エヴァンジェリンの言葉に戦況は激変。俺は物を乞う立場になった。

迷い無く頭を下げて同行を決める俺の視界の端でエヴァンジェリンが邪悪な笑みを浮かべた。

「な、何かおかしい事でもあったのか?」

 その笑みに嫌な予感を感じた哲は、飛びついた獲物が毒を持っていることを悟った。

 嵌められた、と内心汗を流しつつ狩人の表情からその本心を読み取ろうと目を凝らす。

「気にするな、大した事じゃない」

 しかしエヴァンジェリンは心底面白そうに笑うばかりでまともに取り合わず、哲はエヴァンジェリンの魂胆を読み取ることは出来なかった。

喜ばせた直後にすかさず落とす。恐ろしい。でもやっぱり優しい。

昨夜から何度も味わっているこれが、きっとエヴァンジェリンという少女なんだろう。

哲は邪悪な笑みを浮かべるエヴァンジェリンに心底愉しそうな笑顔を向けた。



「黒金哲です。朝早くから押しかけてすみません」

「この学園で学園長をやらせて貰っておる近衛近右衛門じゃ。」

 部活の朝練や何か特別な用事でもない限り一般の生徒が登校しないような時間にエヴァンジェリン、茶々丸と共に麻帆良学園中等部(正式名称は麻帆良学園本校女子中等学校と長ったらしいので大抵この略称で呼ばれるらしい)の校門をくぐった哲は、職員用昇降口でスリッパを借りて生徒用昇降口で上履きに履き替えたエヴァンジェリン達と合流。学園長室の扉を叩いていた。

ここの最高責任者が学園長であること、その学園長が何故か自分の想像したへんてこな頭をした老人だったことに驚きつつエヴァンジェリンと茶々丸の後ろで大人しくしていると、エヴァンジェリンと茶々丸と学園長との挨拶の後に視線を向けられた。

強いものには巻かれろ。とりあえず愛想良く。ヘコヘコしてれば角が立たない。を人付き合いの基本方針とする哲は、礼儀を知らない人間なりに努力して挨拶し、学園長もそれに挨拶を返した。

学園長をしているのだから当然だが、その特徴的な形状の頭故にコミュニケーションを取れるかどうか危惧していた哲としてはファーストコンタクトを成功させただけで疲労困憊。はっきり言って逃げたかった。

「こいつが昨日森の中で寝ているのを発見してな。行く当てがないというので家に泊めてやった。一応こちら側の事も知ってはいるが基本的にはただの一般人だ。だから今こうして此処に連れて来た。」

「この季節に森の中で野宿とはよく無事じゃったな」

「凍死する一歩手前くらいの状態で拾われて助かりました」

 エヴァンジェリンと学園長の仲は顔見知り程度じゃないらしくかなりフランクに話し合っている。

エヴァンジェリンは俺と話しているときと態度を変えないし、学園長もエヴァンジェリンに対して殊更態度を改めるように迫らない。

 しかし小学生にも見える少女と立派な髭まで生やした老人が対等に話しているという奇妙な光景を初体験した哲はその光景に耐えられず、肝の小さい一般人らしくエヴァンジェリンの態度を窘めた。

「おい、エヴァンジェリン。年上に向かってそういう態度は不味いだろ」

「………誰が誰より年上だって? お前にはまだ言ってなかったかもしれないが私は600歳だぞ。私にとってはコイツもお前も同じガキだぞ」

「は? ………………600歳? 6歳ではなく?」

「そうなんじゃよ。こんな姿をしていてもエヴァンジェリンはワシよりもずーっと年上なんじゃよ。ずーっとな」

「ずーっとをやたら強調するんじゃない!」

 キラーンと目を光らせてエヴァンジェリンをからかう学園長とそれに凶悪なツッコミを行うエヴァンジェリン。

何処から取り出したのか1メートル程もある大きなハリセンで学園長の頭をしばいた。

「うぎゃあああああ!!」

 ハリセンで叩かれたにしては大げさな悲鳴を挙げて学園長が座っていた椅子から転げ落ちた。

「ふん、お前も私の封印が解けたのを承知しているくせにふざけているからそういう事になるんだ」

「いたたたたたた。エヴァンジェリン、お主が封印が解けたにも関わらず此処に留まっているとは思わんかったからな。ナギの奴が自ら解呪するのが望ましかったが、無事解放されてワシも嬉しいぞい」

 学園長が嬉しそうににっこりと笑みを浮かべる。

「奴の居場所が分かれば直ぐにでも行ってぶん殴ってやりたい所だが、肝心の奴は死んでしまったしな。奴の息子がこの学園にやって来た事で何かが分かる可能性も高いし、私も暫くは暴れる気などないからな。まだ此処に居させてもらうぞジジイ」

 そして寂しげな響きの声でそう言って意地悪そうに笑うエヴァンジェリン。

なんなんだこれ!? と唐突に理解不能な空気を醸す現状に混乱する哲。

立ち入りにくい空気に居心地の悪さを感じた哲は同じく話しに加わっていない茶々丸の後姿を見るが、その背中には微塵も動揺が感じ取れない。

 如何することも出来ずに針の筵を味わいながらただ立ち尽くすこと僅か一秒。

再び会話が始まった。

どうやら空気を読み違えていたらしい哲だった。

「それでその少年はお主の登校地獄が解けた事と何か関係があるのかのう」

「まあな、それについては後で詳しく教えてやる。とりあえずこんな朝から学園長室に来たのはこいつに仕事を用意してやって欲しいからだ。それも出来ればうちのクラスの副担任としてな」

「お、おいエヴァンジェリン! 何の話だよそれ!?」

 突然爆弾を爆発させるエヴァンジェリン。勿論比喩表現であるから実際にはエヴァンジェリンは喋っただけ。しかしそれを聞いた哲には実物が爆発したのと変わらない衝撃があった。

 仕事を紹介できるかもしれないと言われて付いて来て見れば仕事は教師だという。

目の前の学園長がどれだけ人間らしくないフォルムをしているからと言って感性まで人外である筈がないのでこの提案は十中八九棄却されるだろうが、それでも哲はエヴァンジェリンに詰め寄るのを止めることが出来なかった。

「うむ、分かった。出来るだけ早く用意しよう」

「何でだよ!!?? ありえないだろ普通」

「お前の言う通りだよ。普通じゃないから有り得るんだ」

 学園長の理性を疑う決定に思わず自分も敬語を忘れる哲。

しかもエヴァンジェリンがしたり顔でそんな事を言うもんだから哲の混乱はますます勢いを増す。

「お前ら俺の学力舐めてんのかよ?! 生まれて初めて自主勉してどうにか大学に受かったような人間だぞ。教師なんか出来るわけねえだろ! 人格的にも能力的にも問題が有り過ぎる!! そんな人間が教壇に立つなんて理念の上で許されるわけないだろが!」

 自分が如何に教師に適していないか大声で自虐的に叫ぶ哲。ギャグマンガテイストなノリのこの世界ではこの話が本当になってしまう、と勘まで囁いている。決まってこういう時に感じる悪い予感は想像を斜め上に突き抜けていくと経験的に知っている哲は、馬鹿二人の企みを砕くことに一切の迷いが無かった。

「ふぉっふぉっふぉ、そう心配しなさんな黒金君。担任をやっているネギ君は僅か10歳でオックスフォード大学を卒業している天才少年じゃし、担当教科もたった一教科だけじゃ。家庭教師をしているとでも思えばええじゃろ。補助魔法もあるしの。」

「何処に安心する要素があるんだよ。完全に泥舟じゃねえかそれ! 10歳のまだ世の中ってモンを理解してない子供に教師なんか勤まるわけないだろ。ガキの視点で他人なんか満足に導けると思ってんのかよ!! 無理だね。億に一も出来やしねえよ。大体な、人の一生左右する問題をそうホイホイと決めてくれるんじゃねえよ!」

 と思ったが、話を聞いてみればまた別の部分に堪忍袋の緒が切れた。

「まあ残念ながらそこまで大した教師に当たった事も無ければ影響なんて全く受けてないけどな、それでもそれなりに大事なもんだろ先生って仕事は。ガキじゃ困るんだよ! はあっ!? 天才? 脳みそ腐ってんのかよてめえは!! 頭の具合がどれだけよろしいかなんて問題じゃねえよ。魂の問題なんだよ!」

 普段の哲からすれば羞恥の余り既に五回は悶死しているであろう言葉の羅列。いつのまにか理性が握っていた筈の手綱もコントロールを放れ、思うまま感じるままに叫んでいる。

だがしかしこれは正義感や義侠心などといったありふれた『感情からくる行動』ではない。

恐怖だ。あるいは嫌悪感と言ってもいい。

哲はそういった何かに衝き動かされていた。

「お前は何を急に怒っているんだ? 良いじゃないかお前は仕事が欲しかったんだろう。それにあいつらの担任なんて誰がやったところで大して変わらん。結局はあいつらのペースに振り回されるんだからな」

 そうだ! と叫ぶ自分が居ることを哲は自覚する。そうだ何を熱くなってるんだ自分は。興味ない他人なんだからどうだっていいじゃないかと。

「そんな訳ないだろ。高校とか大学じゃないんだぞ。未完成な倫理やら道徳やらそういうモンの欠片を教師なり大人なりの姿を見て学び取っていく途中だ。10歳の天才少年が教えるのと極普通の男が教えるの。どっちが良いかなんて決まってるだろ」

 それでも自分の口が動くのを止めることが出来なかった。

それで一体どうなると言うんだ。最悪本当に後悔しながら自ら命を絶つことになる可能性だってある。

そう思うと堪らなく怖くて、堪らなく嫌だったのだ。

「そう思うというなら尚のこと君にはこの仕事引き受けて貰いたい物じゃな。君の言うように生徒の将来が懸かってのことじゃ」

 言うまでも無くこの時点で何かおかしいと分かっていた。異様に熱したままの頭の中で妙に冷めた視線の自分は学園長という人間がその程度の事も考えていないはずがないと思っていたし、コントロールを失って際限なく熱くなっている自分も何か違和感を覚えていた。

にも関わらずこの人質を取ったみたいな言い方に自動的に反応してしまった。

「ああ分かったよ。やってやる。俺がやってやるよ!!」

 この時の俺の内心を表現すれば

やっちまった

 この一言に尽きる。

18年の人生でも最大最悪のやっちまっただ。

「決定じゃな」

 仕事上のミスや人間関係の上でのミス。そういった諸々の中で確実に最悪だった。

特にその……今でも後悔してない辺りが。



「死にたい」

 俺が学園長相手に啖呵を切ってから、しんと静まり返った部屋に響いた声は俺の声だった。

は、恥ずかしい。かなり恥ずかしい。

顔に火が灯った様に熱くなり、頭やら背中やらの毛穴がワッと開いて冬場の屋内で、しかも運動したわけでもないのに汗をかきはじめる哲。

しかも学園長がニヤニヤして哲を見ているのがまた痛い。

何の変哲もない唯の視線だというのに今の哲には痛恨の一撃だった。

「生意気言いました。すみませんでしたっ!!」

 ダラダラと冷や汗やら脂汗やら流しつつ平常運転に入った脳が羞恥心やら目上の人間に対する礼儀やらの、今までオフになっていたものを軒並みオンにしていく。

これで謝る必要が無かったのなら、今すぐにでも走り出して図書館島を囲む湖にでも身を投げていただろうという位哲は恥ずかしがっていた。

「いやいや、まさかあれほど熱く教育に対する気持ちを語ってくれるとはの。少々驚かされたし短気な気もするが、気に入ったぞい」

 どんなに心の中で呻いてもそれが他者に聞き届けられることはない。やめてくれと心の中で言ってもそれが学園長に届くはずが無かった。

「忘れてください。間違ったことをいった心算はありませんが、あれはちょっと」

 まるで素肌に毛羽立った衣服を着たときみたいに体中が痒くなる。

手で掻きたいし床に転がって擦りつけても良い。とにかくどうにかしたい。

「何を恥じているんじゃ。ああまで見事に啖呵を切って見せたのじゃ。堂々としていれば良い」

 これならネギ君の補佐を任せても心配ないじゃろうと完全にその気になってしまった学園長を前にして哲は愕然とした気持ちになった。

俺が何をしたというんだ。乱暴な言葉遣いで意味不明な事をまくし立てた挙句暴言まで吐いたというのに、何がどうして何処がどうなったらこんな状況になるんだ。

「エヴァンジェリン。何とか学園長に言ってやってくれよ。俺は向いてないとか」

「私は最初からお前を副担任にするつもりだったが?」

「くそっ、普通こういう時は『だ、大体子供が先生なんておかしいじゃないですか』とでも言うべきところだろ。絡繰さんも何か言って下さい」

「……いえ私からは特に」

「ノォオオオオオオオ!!」

 応援を要請しても結果は総スカン。

孤軍奮闘しようにも相手はこちらの話を聞いていない。

「よしよし。ならば早速書類の偽造の準備から始めようとするかのう」

 愉しそうに脱法行為の存在を明らかにする学園長の声は、さながら真夜中の墓場の様な不気味さだったと後に哲は語った。



[21913] 第六話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:18
 放課後の図書室。

 まるでアニメや漫画でよく見るお城のダンスホールのような高い天井とそこから真っ直ぐに床に向かう何本かの柱。壁際には4メートルを超える大型の本棚も備えられ、幾つもある小型のそれと併せると図書室と呼ぶには些か非常識な蔵書数を誇る麻帆良学園本校女子中等学校の図書室。

図書委員会などによる受け付け作業というシステムが存在しないのか、はたまた当番が未だ来ていないだけなのか。放課のチャイムが鳴ってから十分ほど経っているにも関わらずカウンターには人の姿が無い。

しかし人の姿が無いのはなにもカウンターに限った話ではない。

広い図書室を見渡してもそこには人っ子一人いやしなかった。たった一人を除いて。

大きな彫像が脇に飾られた窓の直ぐ近く。小さく開けられた窓から風が吹き込み、カーテンがはためいている。そのカーテンの波の内側、冬の夕日に照らされながら冷たい風にまどろんでいる男は正真正銘黒金哲その人だった。

机に突っ伏して寝入っている哲の手元には読んでいる途中に眠ってしまったのか本が開きっぱなしで置かれていた。

「ん………ううう……」

 机の感触が硬いのか夢見が悪いのか時折体を動かしては苦しそうに声を挙げる姿は、つい先日まで哲本人の肉体でのそれと変わる所がなく、哲本人が知れば前の名残を見つけたことに多少喜んだかもしれない。

かれこれ二時間ほどの間、一度も誰に気付かれること無く眠り続けている哲の眠りは寝不足というわけでもないのに深い。冬の寒さの為せる技だろうか。

ともかく、その物音一つせず静寂と夕陽の光に満たされた空間は、外の喧騒とは隔離され其処に置かれた本の影響も有ってか目にすれば心に焼き付けたくなるほど長閑な風景だった。

 とそこへ一人の闖入者があった。

「あれ? 誰もいないのかな」

 扉を開けるなりすぐさまカウンターへ向かい中の様子を見て取った少女は、そう言ってカウンターの中に入って作業を始めた。

パソコンのモニターに電源を入れつつ、何冊も縦に並んだノートの中から一冊を選び出し一番新しく書き込まれたページを開く。仕事内容その他幾つかの連絡事項に目を通してノートを閉じ元あった場所に戻す。モニターが明るくなってからマウスを操作し、画面を呼び出す。操作しているパソコンに繋がっているのは学園全体の図書室を繋ぐネットワークで、時に他の図書室に存在する本を取り寄せることに利用したりするもので、今画面に映っているのは図書館島に返却する本のリストだ。

時折図書館島の豊富な蔵書の中から、図書委員や図書館探検部の面々が選定した本が図書館島まで滅多に来ない生徒の目にも触れるようにと学園内の学校に貸し出されることがある。

今日はその貸し出し期間の最終日であり、生徒に借りられていった本や最後まで一度も貸し出されることの無かった本達が集められ、それを図書館島に返却する日なのだ。

人気の無かった本は一部既に昨日の内に図書館島に返却してあったが、今日返却しなければいけない本の量はとても昨日みたいに一人で運んでいけるものではなかった。

「そういえば……あの人はどうしたのかな?」

 男性恐怖症…というのとは少し違うか、男性が苦手な少女にとってはとても珍しい事に、頭の中に昨日会った男の顔が浮かび上がった。

階段から落ちた少女を受け止めて、その後少女が重そうに抱えていた本を持って図書館島まで運ぶのを手伝ってくれた男だ。

あの時の少女は最終日より先立って行われる図書館島への返却作業――その一部で自分の担当分である本――を、急遽決定された『ネギ先生歓迎パーティ』の為に図書委員の仲間よりも早く行って、そして階段から落下した。

そう運よく助けられたもののあのまま地面に叩きつけられれば自分はタダでは済まなかった。あの時もしかしたらあんな所で死んでいたかもしれないのだ。

本当にあの男性には感謝しても仕切れない。

少女がポケットの中の紙に触れる。それは少女が常備している図書券で、昨日は気後れしてしまって渡せずにいた物だ。

その後図書館島で男とは別れ、返却作業を済ませた後ネギの歓迎パーティに参加した少女だったが、道中でも男との会話は少なく図書館島でも礼を言っただけで別れてしまったので男については何も知らない。

今日も明確な意思で以て男に図書券を渡そうなどと思っているわけではなく、なんとなく今日会うことが出来たらもう一度お礼を言って一緒に渡すことが出来れば好いなと思っていたに過ぎない。

それでも男性を苦手とする少女にしてみれば十分に積極的な姿勢だと少女自身が思っていた程だ。

まだ男に会えるかどうかも分からないというのにそう考えただけで緊張し始めてしまった少女は一つ、自分を落ち着かせるためにため息をつく。

「ふうっ」

 少女はまだ心臓がドキドキと鳴っている気がしたがある程度治まったので作業に戻る。

カウンターの中に置いてあるダンボール箱の中から本を取り出して一冊一冊リストと照合していく。

ここで確認された本は図書館島まで運ばれてから、それぞれその背表紙に張られているバーコードや表紙を捲ったところに書かれている管理番号をパソコンで読み取り返却が終了する。

少女は次々と確認を済ませて最後の一冊も終わり、さあ他の図書委員を待とうと椅子に腰を落ち着けたところで気づいた。

「あと一冊だけ残ってる?」

 確認した本は別の画面に移されて今画面に映っているのは真っ白な背景とボタンだけの筈だ。

しかしそこにまだ一冊だけ本の名前が書かれている。

ダンボールの中を捜してみてもその本は見つからず、今度は確認済みの本の中
を。

 それでも本は見つからなかった。

「ど、どうしようー」

 お昼休みの段階で数だけは揃えられていると他のクラスの委員に教えてもらっているので、その本が貸し出されている可能性はない。にも関わらず今本は一冊足りていないのだ。

見つからない本は少女が自ら選んだ本で、誰にでも読みやすいジャンルであるファンタジー、その中でも少女のお気に入りの一冊だ。

古めかした魔法使いと弟子に取られた少年のお話。

少女は読みながら幾度も考えたものだ。自分もこんな体験をしてみたいと。

念のためカウンターの中もあちこち探しながら、もしかしたら誰かが今読んでいるかもしれないと少女は考えた。本自体はダンボールに仕舞われていただけで、そのダンボールもカウンターに入ってすぐのところに置かれていて中は見える状態になっていた。それなら誰かカウンターの近くまで来た人が興味を持ってそこから持ち出した可能性がないわけではない。極めて低い可能性だが。

カウンターの中から出て図書室の中を練り歩く。

全体的に見てもスポーツなどの部活に勤しんだりと活発的な少女たちが多いとあっては仕方ないかもしれないが、麻帆良学園の図書室は放課後にはあまり利用者がなく、少女たち図書委員は勿体ないと嘆いているのが現状だ。

今も自分の発てる足音以外カーテンが風にそよぐ音しかしない。とても静かでページをまくる人が居たならその音まで聞こえそうだった。

 図書室の中を半周しても何も見つからない。これだけ静かなのに音が聞こえてこないということは図書室内に誰も居ないということで、本は誰かが持っているのではなく紛失したのではないかと悪い考えが少女の頭に浮かび始めた時一際大きくカーテンの音がした。

「そういえば? 何で窓が開いてるんだろう?」

 衛生上の問題で一時間に一度程度図書室内の換気をすることになっているが、此処には今自分以外の誰もいないはずだ。

誰かが換気の為に窓を開けたものの閉め忘れたのだろうと思った少女は窓を閉める為にそちらの方に近づいていった。

広い図書室内をたった一つの窓から入る空気では冷やし切れていなかったのか、少女は窓に近づいていくほどに寒さを感じた。

バサバサと音を発ててカーテンが揺れている。

「わぷっ!」

 カーテンを開けようと手を伸ばしたところで再びの強風。勢い良く迫るカーテンに少女は絡みつかれた。

「あわ、あわわわ!」

 カーテンはそれがまるで生き物であるかのように少女の体に複雑に巻きついた。

普通ならばカーテンを手で押し退ければそれで終わるところが、幾ら手で押し退
けようとしても巻物みたいに別の所から引っ張られてきた部分が増えるだけで一向に視界が開かれる様子はない。

中々絡みついたカーテンを払いのけられずじたばたと暴れる少女。余程慌てているのか足元は落ち着き無く動き回る。

あっちにふらふらこっちによろよろ。最後にばたばたと手を動かして、

「いたっ」

「え? あ、すすみません!」

 カーテン越しに左手が何かを叩いた。

 誰も居ないと思っていた図書室に誰かが居たことにも、その人の事を叩いてしまった事にも、聞こえた声が男の声みたいだった事にも驚いて少女は後退さる。

それでも纏わり付いたカーテンは離れずにいて……

「動かない方がいいよ」

 もう一歩後ろに踏み出したとき、今度は声を掛けられた。

しかしもぞもぞと動いていたためにカーテンと制服の間で起こった衣擦れの音で上手く聞き取れない。

少女が「何が?」と聞く間もなく、次の瞬間少女の体のバランスが崩れた。

「あぶなっっっっ」

 驚いた人の声と、ギギギギと重い椅子が床の上を引き摺られる音。

反射的に縮こまろうとする体はポスっという音と共に軽々と受け止められた。

「いやー昨日から心臓に悪い事ばっかりだな」

 ふうー、などと大きく息を吐きながら誰かがそういったのが聞こえた。

「ほら、ちゃんと立って」

 そう言って声の主は少女に足を伸ばさせた。

「ありがとうございますー」

 自分の足でしっかりと地面を捕まえてながら礼を言う。

少女は耳朶を叩く声が昨日聞いた声に似ていて何となく気持ちが高揚している様な気分になった。

「気にしないでいいよ。俺が窓開けてたせいみたいだしね。ちょっとじっとしてて」

 こんなところにあの人がいる筈が無い。と思ってもそれでも、どうしても少女の心臓の鼓動は大きくなる。

するするとカーテンが頭のほうに引っ張られていき自分の前に立っている人の脚が見え始める。

黒いスニーカーと紺色のジーパン。男がどんな服を着ていたかまで憶えてはいないが色の雰囲気は似ている気がする。

更にカーテンが引き上げられていくにつれて上半身も見えてきた。

何の変哲も無い無地の黒いシャツと襟から覗く鎖骨と首のライン。

「…………………っ……」

 常識的に有り得ないと分かっていても期待ははやり、息を呑んでカーテンが完全に引き上げられるのを待つ少女。

ほんの十数秒ただ待つだけのことが異様に長く感じられて焦らされた気分になる。

「あっ!」

 遂にカーテンの拘束から抜け出して相手を見たとき少女は思わず驚いた声を出していた。

「あれ? 昨日の子か。こんにちは、お邪魔しています……で合ってるのかな?」
 何せ期待していたことが本当になったのだから。



「何だよ? いてえなちくしょー」

 安らかに眠っていた所を叩き起こされて、かなり不機嫌な寝起きとなった哲が目を開けたらカーテンにグルグル巻きになっている小柄な少女が立っていた。

しかも、どうやらそれは意図しない状況だったらしくカーテンに包まれた正体不明の少女は、慌てて謝りながら後退を始めた。が、制服か何かがカーテンに引っかかっているのか少女の体はいつまでもカーテンに包まれたままだ。腕を滅茶苦茶に動かして脱出を図っているようだがそちらの様子も芳しくない。

とポスポスと弱い音で叩かれるカーテンの音で少女の手が自分の頭を叩いたのだと哲は気付いた。なるほどそれなら全然怒る理由が無いやと。

その奇抜な光景に呆気に取られた哲はあっという間に怒りを霧散させ、きょとんとした顔でその少女を見つめ続けた。

今までの人生十数年の中でこんなに理解不能な事態に巻き込まれたのは初めての話で、これが男なら取りあえず蹴りを一発お見舞いしてやるところなのだが、自分が寝ていたところは女子中の図書室だ。下手をせずとも通報されるこの状況でどう対処していいのかが分からない。

騒ぎが起こらないように退散するのがいいか、それとも助けてから事情を説明して理解を求めたほうがいいのか。

結局どちらとも決めかねている間に

「あぶなっっっっ」

 目の前で少女が転倒、慌てて助けに入る羽目になった。

中学生の女の子ってのは皆この位軽いのか、と抱きかかえた少女の軽さに、昨日自分の上に落ちてきた女の子を思い出しつつ足が床に着くように姿勢を制御する。

「いやー昨日から心臓に悪い事ばっかりだな。ほら、ちゃんと立って」

 自分の事情を他の誰かが知っている訳がないので失礼だと思いながらも、昨日からひっきりなしに自分を驚愕させ続ける現実にいい加減哲はへとへとだ。

落ち着いた状態で立って貰ってからカーテンを頭の方に引き抜こうとすると、

「ありがとうございますー」

 少女に礼を言われた。

「気にしないでいいよ。俺が窓開けてたせいみたいだしね。ちょっとじっとしてて」

 元はと言えば自分がこんな所で暢気に寝ているのも悪いのだ。恐らくカーテンにでも体が隠れて少女からは死角になっていたのだろう。

それに、と窓の方をみながら哲は思う。

自分が寝たときとは風の勢いが随分と違うし、女の子は寒いのが苦手な子が多いみたいだから窓を開けっ放しで寝ていた自分がやはり悪いのだ。

無駄に会話を交わそうとは思わない哲は、卑怯かとも思ったが色々と言葉を呑み込み罪悪感が心に鎮座する中、これで自分の顔を見た後に通報しない程度に、恩に着てくれると嬉しいなーと余計な事を思わずにはいられなかった。

 力強くカーテンを引っ張りすぎるのも不味いだろうと必要かどうかも判らない気遣いで、ゆっくりカーテンを上へと引っ張っていくと途中で少女が体を強張らせ始めた。

うわっ、やば! 男だってバレて怖がられてる!?

見てみればいい加減少女のほうからも哲の服装やら背格好やらはとっくに把握可能だろう。

女性物とは勘違いし難い黒いスニーカーと同じく女性物とは勘違いし難いジーパン。特に足の太さなんか男の中でも細くはないのだ。これでは即男だと判ってしまうだろう。

焦った哲の頭は戦略的撤退を進言するが、ここまで来ておきながらカーテンを手放すのも無理だ。

後ろに進めないとなれば前に進むしかない。

腹を決めて少女の頭をカーテンから漸く解放する。

「あっ!」

「あれ? 昨日の子か。こんにちは、お邪魔しています……で合ってるのかな?」

 スポッと頭が現れた少女はその瞬間に声を挙げ、哲も少女と同じように驚いた。

哲の前に立っていたのは知らない少女ではなく、昨日哲を図書館島まで案内してくれた少女だったのだ。

「………………」

「………………う」

 無意識に声を掛けてしまってから、沈黙の痛さに呻く哲。

『知ってはいるけど一回くらいしか話したことない人や、昔は仲良かったけど最近話もしない人』がとても苦手な哲は、そのまま蛇に睨まれた蛙の様に身動きが出来なくなってしまう。

心の中では赤いパトランプがグルグル回り、サイレンは一つではなく3つくらいが大合唱。白い旗を百本単位で立てたくなるほど参ってしまった。

動物の死体のように強烈な存在感を醸し出している沈黙は、場の空気を支配したままいつまでも動き出す気配は無く、更に哲に緊張を強いた。

 どうにか言葉を介さずに場を動かそうと少女の方を見てみると、今度は覚悟が決まったような硬い意思を宿した瞳に見つめ返されてしまう。

どんな方向性であれスイッチが入ってしまうと暴走して自分でも手が着けられなくなってしまう性格の哲が、負のスパイラルに魅入られてこのまま石になりたいなどと現実逃避に走り始めた頃。

「あ、あの! ………あの、さっきはその……昨日も…危ないところを…助けて頂いてその……………こ、これはお礼ですー!!」

 搾り出すように出した声は目の前の人間に話しかけるには大きくて、度々途切れたり声が裏返りそうになっていてガチガチに緊張しているのが透けて見える。

そんな声で叫びつつ、二本の腕を力いっぱい伸ばして少女は紙を差し出した。

「あ、ありがとう」

 胸の近くに差し出されたそれを、反射的に礼を言いながら受け取って見てみる。

「図書券です」

 少女が言ったとおりその紙は図書券で、500円と金額が印字されている。

「生まれて初めて図書券見たよ。プレゼントでも貰ったこと無かったし。うわあ、凄い嬉しい」

 緊張から解放された舌が饒舌に、それでいて正直に感想を洩らすとその反応は正解だったようで、

「よよろこんで貰えるとう、嬉しいです」

 おどおどとした態度を崩さないものの、長い前髪で隠された顔に嬉しそうな表情を浮かべてくれる。

目端に少女がほっとして息を吐くのを捕らえつつ貰った図書券を財布の中に仕舞い込む。

腹に溜まるものは買えないが、これも立派な金券だ。ほくほく顔になりそうなのをみっともない顔になりそうなので堪えつつお礼を言う。

「ありがとう。大切に使わせて頂きます」

「い、いえ。500円だし普通に使ってもらえると」

 まあ確かになんて思ってしまった自分が恥ずかしい。

哲は大学入試からこっち随分と読書という行為から離れていた事を思い出す。

理由は解らないが小学校からの数少ない趣味とも言える読書をここ数ヶ月楽しんでいなかった。

これがまた読書を始めるいい機会になるといいんだが。

「と、そうだ本と言えば」

 危ない危ない忘れるところだった、なんて口に出しながらさっきまで自分が眠っていた席に近づいていく哲。

カーテンを手でまとめながら開きっぱなしになっている窓に手を当てて横にずらす。

哲はしっかりと鍵まで閉めてからカーテンを手から離すと、机に向き直って一冊の本を手に取った。

「あ! そ、それ!」

「ご、ごめん。とったら不味かったよな、やっぱり」

 読書をしなくなったが、本好きは本好きであり書物蒐集狂という事であればビブリオマニアになりたいと願っている哲は、一学校の図書室としては破格の蔵書数を誇るこの図書室をうろうろとしているうちに興奮してしまい、面白そうな本を探して書架を総浚いした後にカウンターの中に見える本の詰まったダンボールを発見、我慢できずに侵入して気に入った一冊を持ってきてしまったのだ。

「あ、いえ。……その…それは今日中に図書館島に返すことになっているので」

 少女が申し訳なさそうな顔をしてしまい、哲としても自分が悪いのにそんな顔をされてしまうと弱ってしまう。

「そ、そっか。じゃあ機会が有ったら図書館島の方で借りてみようかな。数ページしか読まない内に眠っちゃったけど面白そうだったし。それに向こうの本の数凄いから他にも面白そうな本が見つかりそうだ」

 こちらの世界には身分を証明できるものが何一つない哲だが、学園長室を退室する前に聞いた戸籍の偽造やらが本当なら暫く経てば自分でも図書館島を利用することが可能かもしれない。

話題を切り替えようと思って振ったてきとうな話題だが、思いの外哲はその気になった。

そういえば昨日訪れたときは考え事や体の変化に驚いたりしていて楽しむ暇が無かったが、あそこの本の数はこの図書室でも比較にならないレベルだし。あああああああーー。テンション上がって来た!

グッと拳を握りこんで全身で喜びを表現する。今から期待ははちきれんばかりに膨らみ、図書館島に行こうと体が疼きだす。

 とそこで少女のことを思い出す。そうだ自分が勝手に盛り上がっている場合じゃない。

拳を解いて少女の方を窺った。

「そ、その本本当に凄く面白いんです。凄く簡単な言葉で書かれているのに、頭の中にその風景が浮かんでくるくらい描写が上手くて。それに心情の描写もとても巧みで、あるところではとても細かく、同じ気持ちになってしまうくらい登場人物の心を書くのに、また別のところではとても短くしか書かれていないんです。それでも色んなところからその人がどんな風な人間であるか判ってくるからここではこんな事を考えてるのかなって想像させられたりして。それだけじゃないんです! それぞれの登場人物がとても魅力的で、主人公の男の子はいつも強がっているのに本当はとても寂しがり屋で、でもずっと一人ぼっちだったから泣き方が分からないんです。魔法使いの御爺さんも男の子を弟子として育てる為に引き取ったんですけど、魔法使いの生涯孤独を味わう運命を男の子に背負わせることに酷く悩んだりするんです。物語全体の雰囲気もとても静かなのに心の中の動きが細部まで追っていけるので、速かったり温かかったり元気だったりして退屈しないんし、特に最後の章に入ってからの御爺さんと男の子の会話シーンは……………………。ってごめんなさい! まだ読んでないのに内容の話しちゃいました」

 まさかこれ程の反応とは。

気でも紛れれば御の字かなという予想を遥かに上回る少女の反応に哲の額に汗が浮かぶ。

本好きにも程がある。

確かに自分の周りにいた趣味を持った人間の中にもこういった好きな事になると急に口が回りだす人間もいたが、まさか苦手な男性相手にまでそうなるとは。大した本好きっぷりだ。自分など足元にも及ばない。

「ああ、いや、気にしないで。そういうの気にしないし。それに余計に興味そそられたくらいだから逆に感謝したいくらいかな」

 幸い本当にネタバレを気にしないタイプの人間なので痛くも痒くもない。

「そ、そのありがとうございます」

 本に対してあれだけ語れるくらいに好きなら、もしかしたらこの事で怒られるかもとも思ったが、気付いてないのかスルーされたのか分からないが丸く収まってくれたらしい。

哲は背表紙を見てタイトルを確認する。

「とりあえずタイトル覚えとかなきゃね。借りたくなっても見つからないと大変だ」

「それでしたら、あの……取り置きしておきましょうか? わ、わたし図書委員なのでその位なら出来ますけど」

「ああ、うん。そうして貰いたいところだけど、まだちょっと借りられそうにないんだよね。あー、うーん」

「それなら……あの……図書館島に来ていただいたときに私に声を掛けてもらえれば」

 今一記憶力には自信のない哲だったのでその申し出は渡りに船だ。遠慮なく乗らせてもらう。

「じゃあ、お願いしてもいいかな?」

「は、はい!」

「えっと、それじゃあこれお願いします」

 図書委員の前で堂々とカウンターに侵入する度胸はないので、少女に本を渡して
しまう。

そのまま少女は「じゃ、じゃあ」と言ってカウンターの中へ。パソコンに向かって画面を何やら確認すると本をダンボールへ戻した。

エヴァンジェリンとの待ち合わせ場所は此処だし、放課後となれば校舎内を歩いている生徒の数はこれまでの比ではない。哲としては移動することが出来れば男性が苦手だという少女と同室に収まっている理由がないので退室してしまうのだがそうもいかず、椅子に座って手持ち無沙汰にきょろきょろ辺りを見渡したりと、落ち着かない様子の少女に哲は距離を取ろうと話を切り出そうとした。

「あの………どうして此処に?」

 しかし口を開こうとする直前少女の発言によって機先を制される。

態々自分から話しかけようとするする程俺が此処にいる理由が知りたいんだろうか。

と哲は考えたが、よくよく考えれば自分と彼女は昨日ほんの少し話した程度の赤の他人であり、女子中の図書室で再会したというなら当然不法侵入を疑われるはずである。

そこまで考えたらならば非力そうな少女が不審者にそんな事を聞くわけがないと考え付きそうなものだが、残念ながら哲の頭は少々短絡的に出来ていた。

「えーーっと。そのなんていうか面接で来た帰りに昼飯抜きで待ってろと言われたので人が余り来なさそうで鍵の開いていそうな図書室に避難したってところかな。彼処で話した事が本当ならそのうち此処で働く事になると思うんだけど」

「えっ!! そ、そうなんですか?」

 この少女の発言にも、ちゃんと少女の顔を見ていればそこに現れた感情が簡単に読み取れそうなものだが、哲には強烈な嫌悪の篭った声にしか聞こえていない。

接点なんかあるかどうかも分からないんだから話すべきじゃなかったかな。

 などと見当はずれな事を考えて

「あ、でも安心してくれて大丈夫。副担任だし、多分一年生のクラスだろうから。エヴァンジェリンって分からないよね?」

 と訊ねてみた。

あれだけ見事に未発達な体だ。実年齢が幾つかという事を考えなければ本来小学校にでも通っていそうな体で、中学校にいるのだ。どんな理由が有るのか知らないが不自然すぎる配置は行わない事を前提にすればエヴァンジェリンのクラスは一年生辺りだと推測できる。

絡繰さんが同じ学年だとは考えがたいが、この際そっちは考えずともいい。

目の前の少女は自分からすればとても小さいが、この年頃の女の子と比較すればそう小さい方でもなさそうだし、きっと大きさ的に二年生か三年生だろう。

中学校の教師は教科担当制だが、違う学年の授業を受け持つとは考えがたいしこれなら少女との接触は皆無の筈だ。

「え、エヴァンジェリンさんですか? 知ってます。同じクラスですから」

 ななな、なんですって?

思わずおばはんみたいな喋り方で叫びそうになる哲。

「ごめんなさい」

「ええ!? な、なんでですか?」

「だって、俺が担任って嫌でしょ?」

 頭を下げてどうこうなる問題でもないが、気分の問題だ。

自分の事を個人的に嫌いな人間は片端から敵認定する程狭量な哲だが、苦手だと言われるのは少し問題が違う。

俺も苦手な人間は多いし、とことん苦手だから気持ちは分からなくもないと哲は勝手に自己完結して頷いた。

「そんなことないです! 前の担任の先生も男の人でしたし、その嫌というのとは違うんです」

 そういって俯いてしまう少女。

 哲はまたも少女を落ち込ませてしまい頭を抱えたくなった

俺は糞か!

胸中で自分を罵倒する。己の会話の下手さに反吐が出そうだ。

 どうにか顔を上げてもらおうと必死に会話をしようとするが、起死回生の一手が思い浮かばず俯いた少女の旋毛を見つめること数秒。

切羽詰った黒金哲は思考を放棄した。

「ああ! そうなの? 良かった。君みたいな可愛い女の子に嫌われてると思うとやっぱり落ち込むしね」

「か、かわ!?」

「そうそう、凄い可愛いと思うよ、君。ちょっと内気な性格みたいだけど、さっきみたいに言いたいことは言えるし、苦手な男相手にも優しいしね。それに図書委員で図書券まで持ってるって事は結構本好きなんでしょ? 俺も本は割と好きだしそういう所も良いかなって思うよ」

「ええええええええええ!!?」

「前髪で顔が隠れちゃってるけど、顔が見えるようにすればもっと可愛くなると思うし髪形とかも色々試してみると良いんじゃないかな」

「あわわわわわ」

 取りあえず褒めろと本能が命じるので、気の赴くまま目に付いた箇所から感じたことまでべらべらと喋る。

褒められなれていないのか目の前の少女は混乱しているようだが、俺も「あわわわわわ」だ。歯が浮くというか、腐るというか。とにかく背筋がむずむずする。

こういう時女子と余りお近づきになる機会の無かった事が如実に現れていて褒め言葉の種類が少なかったりして、人生経験というか女性経験の少なさが悔やまれた。

もうこれ以上言葉が出てこなくなるまで褒め続けたところ少女は完全にフリーズ状態。さっきまでと同じで俯いたままの状態だが、所々髪が透けた場所から顔を紅くしているのが見えた。

やっぱり聞いてるほうも恥ずかしかったか。

 こちらも精神的に息を整える必要があったので、深呼吸を二三度して熱くなった頬を冷ます。

それだけでなく手で頬やら額やらを触ってみると顔面くまなく赤くなっているのか何処も微かに温かい。

この顔見られるのもまた恥ずかしいので少女に背を向けるように振り返って暫く押し黙る。

と、そういえば。

「そうだ、そういえば自己紹介もまだだった。黒金哲18歳、教員として此処で働く予定です。よろしく」

 すっかり頬から熱が引いた後、念のため顔を触って熱くないことを確認してから振り向いて。

これだけ喋っているのにいつまでも名前が分からないと呼びにくくて仕方なかった。

「………はっ!? さ、2年A組27番み、宮崎のどかです。………よ、よろしくお願いしましゅ!」

 まだ意識が復帰してなかったらしく少しの間返答が無かったが、顔を覗き込んでみたら気がついたらしく自己紹介を返されたが。

「ぅっぷっ」

 噛んでしまった少女を前にして思わず噴出して笑ってしまう。

よ、よろしくお願いしましゅって……

口に手を当てようとしたが、時既に遅し。一度笑い始めたが最後、哲の笑いは収まるところを知らない。

クスクスクスクス。

抱腹絶倒とまではいかずとも、口の端から笑い声が漏れ顔まで逸らしてしまう。

「ちょ、ちょっと待ってツボに入った」

「ううううう」

 どうにか笑いが収まったときにはのどかは肩を震わせており、パッと見泣いている風にすら見えていた。

「クッ、本当にごめん。なんか凄く面白くって」

 恥ずかしそうにしてる姿もエライ可愛かったですとは言わない哲。これ以上は泣き出されるか逃げられそうだ。

笑いの余韻を噛み殺しながら謝っては効果は半減、もしくはそれ以上だ。

のどかは首を振って気にしていないとジェスチャーしてくれたが、顔を上げてはくれなくなってしまった。

「じゃあお詫びになるか分からないけど何か手伝うことってある?」

「え?」

 苦し紛れの策だったがのどかは顔を上げて疑問顔、反応が得られただけで十分作戦は成功だ。

「今すぐって訳にはいかないけど、エヴァンジェリンに許可とってからなら手伝えるから。ほら、この本とか図書館島まで返しに行くんでしょ? 昨日も沢山本持って歩いてたしもしかしたら今日も同じことやるのかと思ってさ。そしたら手伝えるかなーと。また落ちたりしたら危ないしね」

 冗談めかして最後にそう付け足す哲。

図書館島への移送はまだ推測の段階を出ないが、下手に断られると心配で眠れなくなりそうだ。

「あ……はい、ええと………」

 最後のは矢張り良くなかったのか、のどかは顔を青くしてしまい、のどかの返答を待つ哲は気が気ではなくなった。

男友達と同じ感覚で喋るのは駄目だ。無神経は無神経なりに気を使わないと。

自戒にも諦めが含まれる辺り、今日一日で大幅に増した苦手意識と女性に対する経験値を有効利用できる日は遠い。

「じゃあ、その……おねがい……」

「わーーーーーーん!!」

 のどかが返事を言い切る直前。

けたたましい声と同時に入り口のドアが強く開かれた。

「ネギ先生!?っ」

 扉を開けて飛び込んできたのは昨日髪の長い少女と一緒に何処かへと消えて言った少年。

何か怖いことでもあったのか泣きべそをかいていた。

「あ! 宮崎さんと昨日の男の人! 良かった、助けてください」

 扉の外が騒がしい気がしたが、それも少年が扉を閉めた事で聞こえなくなった。

ガチャンと鍵を閉めてからこちらに向き直った少年は哲とのどかに助けを求める。

「どうかしたのか?」

「そ、それが色々あってクラスの皆に追われてるんです」

 その色々の部分が気になるんだが、突っ込んだらやっぱり不味いんだろうな。

「そ、そうなんですか? 鍵を掛けたならしばらく大丈夫だと思いますけど」

 心配そうな顔をしているのどかを見ると哲は如何に自分の心が汚れているか自覚せずにはいられなかった。

俺って嫌な奴だな。こういう時に普通に人の事を心配できない。

「ええっと、それであなたは?」

「ああ俺? 黒金哲。もしかしたら此処で働く事になるかもしれないん者です。君は?」

「はい、僕はネギ・スプリングフィールドです。3年A組の担任で英語担当です。まだ此処に着てから一日しか経ってないんですけどね」

 ああ成る程。この子が学園長の言っていた天才少年か。

柔らかい赤毛で歳相応に純真そうな顔。物腰は礼儀正しく正直10歳とは思い難い。件の少年がどんなものなのか興味のあった哲には予想とは違った少年に思えた。

というか自分が10歳の時とは全く比べ物にならなくて情けなくなってしまう。同じ歳のときの自分なんてこんな風に人に挨拶が出来たかどうかも怪しかった。

えへへーと笑った顔が女の子に見えるのはどうかと思ったが。

「大きな図書室ですね。本がいっぱいで凄いや」

「この学園って結構古くて昔ヨーロッパから来た人が創立したんです。歴史が長くて種類も多岐に渡るので蔵書数は普通の学校よりもかなり多くて……でも、大学部の図書館島の方が何千倍もあるんですよ。図書館探検部という部活もあるくらいで」

「へー、詳しいんですね宮崎さん」

 子供らしく興味の対象は目まぐるしく変わっていくのか、視線は完全に書架の方に向かっている。

僅かもしない間にネギは歩き出して、うわーうわーと何度も言いながら彼方此方を見回す仕草もやっぱり子供のそれだ。

教師としてはともかくいい子ではありそうだというのが現時点での哲のネギに対する評価だった。

 時々本を手に取りながら書架の間を練り歩くネギに

「…………ど、どうかしましたか?」

 肩もくっつきそうな距離まで近づいていくのどか。

しかしネギの質問には答えず放って置けばいつまでも直近でネギの顔を見つめ続けている。

ネギが右に動けばそちらの方へ、ネギが左へ動けば同様に。鳥類の子鳥が親鳥の後を追いかけるみたいにぴったりと追いすがっていく。

不思議に思ってのどかの目を見た哲はすぐさま状況を理解した。

こ、これは桃色熱視線!! 恋に溺れる少年少女だけが放つ宝石の如き煌きだ。

ついぞ前世ではお目にかかる事はなかった代物だというのに、こちらの世界に来てから僅か二日で見ることが出来るとは。流石ネギま。

然らば早々にこの部屋を撤退しようと哲は決めた。エヴァンジェリンとの約束も有るのでこの周辺にいることになるだろうが、同じ部屋に居たのでは宮崎さんも思いを伝えにくかろうと老婆心を出したのだ。

何も言わずにそろそろと足音を消して二人から離れる。

音を発てずに開錠することに苦心しながらものどかを応援する哲。

基本的に他人の幸せは普通に受け入れられる性格だ。お世話になった子が幸せになるなら否やはない。

「失礼しましたー」

 自分の耳にも辛うじて届くくらいの小さな声でそういって入り口のドアを閉める。

さあ、ここに居るのも悪趣味だからと扉の前を離れようとしたところで大変な事に気付いた。

鍵が掛けられないのだ。

勿論中から出て行くことを危惧しての事ではなく、告白中の現場に他人が立ち入る無粋を心配しての事だ。

「ネギせんせー」

「アス…アスナさーん」

 バタンバタンやらガターンと大きな音と共に二人の声が聞こえる。

「くうっ」

 告白中にするような音では無い事に疑問を憶えないでは無かったが、扉を開けて確認するわけにはいかなし、かと言って此処を離れることも出来ない。

ジレンマに身を焦がす哲。

「あんたは!?」

「昨日の髪の長い子じゃん」

 よくよく昨日会った人間と縁の有る日だ。

この状況でなければ喜んでいられたが、今はそうも言っていられない。

もしもこの中に入る事が目的だというのなら断固阻止しなければ。

「ちょっとあんた何で此処に……ってそんな事よりもちょっと其処に入れなさい」

「ちょっと待って。今中で大事な作業中なんだ」

「知らないわよそんなこと。それよりも本屋ちゃんが危ないのよ!」

 扉の前に俺が居るというのに構わず突っ込んでくる髪の長い少女。

本屋ちゃんて誰だよ!?

という疑問を差し挟んでいる余裕は無かった。

ドアノブに手を掛ける少女の腕を掴む。

「中にはネギ君と宮崎さんしか居ないから大丈夫だって。本屋なんて人いないから」

「その宮崎が本屋ちゃんなのよ。良いからちょっと離しさい、よっ!!」

 相手が女子なので力を入れられずにいる哲と、ポパイ級の腕力を持つ少女。

あっさりと哲の腕は振り払われて少女は図書室への侵入を果たした。

「て、こーのネギ坊主。何をやってるかー!!」

 振り払われた腕の痛みにめげず再度少女の腕を掴もうとする哲を、少女はいとも容易くかわし足元に落ちていた本を掴んで全力投擲した。

「わーーーー!?」

 哲の位置からは見えなかったが、少女が投げた本はネギとのどかの下にあった本の山を突き崩し見事に二人の密着が解けた。

「アスナさん、危ないです」

「元はといえばアンタの作った薬が原因でしょうが! ごめんね本屋ちゃん。って気絶しちゃってる!」

 自分も入るかどうか逡巡した哲が入室した時には整理されていたはずがごちゃごちゃに散乱した本と、その上に寝ているのどか、ネギとネギを叱っている少女という光景が広がっていた。

「あれはアスナさんが僕に飲ませたんじゃないですか!」

「当たり前でしょ、あんなの信用できるはずないじゃない。それにあんた結構力強いんだから本屋ちゃんくらい振り解きなさいよ」」

「コラコラお前ら。口論する前にやること有るだろ。宮崎さん保健室に連れてけよ」

 二人が何を話しているか分からないが、ともかく気絶した宮崎さん放っておくのは如何なものだろうか。

哲はヒートアップしかけている二人を制してそう諭した。

手っ取り早く自分で運んでも良いのだが、この少女の前では自分で運ぶとは言えなかった。何せ昨日哲ははのどかに触れただけで殺されかけたのだ。

自分から担ぎ上げようものなら今度こそ命はないだろう。

「それもそうね。全く世話ばっかかけるんだから」

「あ、ありがとうございますアスナさん。助かりました………って哲さんいつの間に居なくなってたんですか? 助けてくださいよ。なんで溜息なんかつくんですかー」

 ネギの発言に溜息が止まらない哲。

頭の中ではこんな事を言っていた。

いやいやネギ君、流石にそんな野暮な事は出来ませんよと。

「何ネギコイツの事知ってんの?」

「ええ、さっき自己紹介しました」

「ふーん」

 怪訝そうな視線を送ってくる少女。

「コイツとは失礼だな年上に向かって。俺は黒金哲。現時点では予定だが此処で働く事になっている……と思う」

「う、うるさいわね。良いのよ、不審者なんかにまともな口聞く必要ないじゃない」

「不審者って何でだよ。此処で働くかもって言ったろ」

「働くかもって何よ、働くかもって。消防車の方から来ましたっていうのと変わらない怪しさじゃない」

 少女の言葉に思わず納得してしまう。確かに胡散臭さが爆発している。

ネギも心なしか疑いの目を向けてくるが、哲はそうとしか言えない立場なのが辛い。

「仕方ないだろ。学園長から此処で雇ってもらえるとは言われたものの、俺自身信じられない状況なんだ。でも此処で働かせてもらえる筈だ。……多分。学園長のノリが軽すぎて俺には判断が着かん」

「確かにそれは……」

 少女も思い当たる事があるのか、そこで追求は止んだ。

「そんなことはないと思います」とネギが学園長を庇ったが、図書室に居る四人のうち哲と髪の長い少女が否定。残るのどかは気絶中で無効票。ネギの擁護も虚しく学園長はノリが軽い老人に認定された。

「まあ、そういうことなら仕様が無いわね。私は神楽坂明日菜よ。よろしくね」

 苦々しい笑顔を浮かべながら結んだ握手は、互いに同情を抱くには十分な感情を伝えた。

「それじゃあ私は本屋ちゃんを保健室に連れて行くから。ほらネギ、アンタも来なさい」

「はい。それじゃあ哲さんまた今度」

「ん、また今度」

 それから明日菜はのどかを抱き上げ、ネギを連れて図書室を出ていき、残された俺はエヴァンジェリンが来るまでの間床に散らばった本を集めて掃除に勤しむことになった。

「何をやっとるんだお前は」

 図書室に入るなり掃除していた俺を見てエヴァンジェリンはそういったが、俺が事情を説明すると盛大に、それはもう盛大に溜息をついてくれた。

 理由を聞いてみても

「お前に話すとまた怒りそうだからな」

 と笑って、教える気はなさそうだ。

 俺はその件については完全に忘れ去ってしまいたかったので、エヴァンジェリンがニヤニヤ笑いを始めると直ぐに質問を取り下げた。

「帰ったらお前に色々と教えておくことがある」

「へ? 何もう一泊して良いの?」

「勿論授業料その他諸々として血を頂くがな。これでお前が副担任になれば、お前が家を出てからもお前の血を飲めるようになるな」

「なあ!? お前そんな事考えてたのかよ」

 一通り本が片付け終わったのを確認してから掃除用具を元あった場所に戻してエヴァンジェリンと茶々丸と共に図書室を去る哲。

今日は野宿を覚悟していただけにその提案は飛びつきたくなるものだったが、エヴァンジェリンが徒でそんな事をする筈がなかった。

しかも哲を教員に推した理由まで暴露した。

「もう15年も中学生を繰り返しているんだ。その位の楽しみが無ければやってられんし、貴様は見ず知らずの吸血鬼が自分に教職を用意させるほど教師に向いていると思うか?」

 考えるまでもなく答えはNOだ。ていうかそれってどんな状況だ。自分の事も忘れてツッコみたい。

「だったら何処か行けばいいじゃん」

「私は此処が気に入ってるんだよ。封印さえなければ京都でも北海道でも沖縄でも行けるからな」

「マスターはこんな風に素っ気無く仰っていますが、実際にはこれから書店に寄って旅行雑誌を買った後、一晩中旅行計画をお建てになる程楽しみにしてらっしゃいます」

 茶々丸の発言にギギギギと音が聞こえそうな感じでエヴァンジェリンが振り向く。

「旅行ねえ。暑いところじゃなければ俺も行きたいな」

「コラ茶々丸! 貴様余計な事を言うなー!!」

 山積していた問題が解決の兆しを見せ始め、哲は自分の幸運を噛み締めるようにこの長かった二日間を思い出す。

これからの日常もこの二日間と同じくらい予想天外な物が待ち受けていそうで肩の力が抜けたが、ともあれどうにか生きていけそうである。

「これも神様様様なのかね」



 ところでいつまでも姿を見せなかった図書委員は一体何をしていたのだろうか。



[21913] 第七話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:18
「さて、お前には色々教えてやらねばならない事がある。が、その前にだ。地下室に行くぞ。時間が在って困ることはないからな」

 家に帰り着いてから三十分程した頃、正座した俺の前で腕を組んだエヴァンジェリンが偉そうにそう言った。

人生初の暖炉に火を入れるという作業を終えて胡坐を掻いて座っていた俺に、聞く態度が云々と怒鳴り散らして正座をさせた癖にこんな事を言いやがるのである。

だったら最初にそう言えと言うんだ。

エヴァンジェリンは俺が立ち上がるのも待たず、部屋を出て行って壁の向こう側に消えた。仕方無しに俺も後を追う。

靴を履いたまま家屋の中に入るのはこれで二度目なのでまだまだ違和感が付きまとう。さっきまで時折ガタガタと物が動くような音がしていて、今はエヴァンジェリンの靴音しかしない廊下を同じように靴音を響かせながら歩いていく。

「なあエヴァンジェリン、地下室で何やるんだ?」

 至極真っ当な疑問だ。態々温かいリビングでは無く、地下故に寒くはない地下室。話をするならどちらを選ぶかは一考にも値しない。

「いいから黙って付いて来い。面白いものを見せてやる」

 そう言って俺の疑問には答えず、かといって足を止める訳でも無いエヴァンジェリン。

とそうしている内に地下室に着いた。同じ家の中だ、そう時間が掛かる筈もないか。

「お待たせいたしました、マスター。こちらで宜しかったでしょうか?」

「ああ、ごくろうだったな茶々丸。随分長い間使っていなかったから探すのは大変だったろう?」

 地下室に降り立ったエヴァンジェリンを茶々丸が迎えた。

茶々丸が示す先には台座とそれに載せられた硝子があった。

「ん? なんだこれ?」

 茶々丸を労うエヴァンジェリンの脇を通り抜けてそれに近づく。

「ああ……何だっけ、これ? こうやって目にするのは初めてだけど……ああえーと確か、ボトルシップ? ボトルってかデカイフラスコみたいな形してたり、中に浮いてるのが船じゃなく島だったりするのに目を瞑れば」

 表面にエヴァンジェリンズリゾートと刻印されたその物体は、直径が40センチ程もある大きさでガラス製。口のところにはこれまた大きなコルクが嵌められて、中には水と円筒状の構造物が見えた。

中に入っているのは何故か船ではなく、よく見ればミニチュアサイズの建物で円筒と直方体がくっ付いたような構造物はその土台だ。土台から少し離れた位置にはそれよりも細い棒が直立しており、何かでその棒と土台を繋いでいる。

そしてその土台の根元付近には島らしきものも確認できた。

「うーん」

 硝子の表面に顔がくっ付くんじゃないかと思うくらい近づいた状態で唸る。

 別にこのボトルシップを床に叩き落して見たいなどと考えているわけではない。頭の片隅でそう思わなくも無かったが、少なくとも意識の半分以上はこれが如何にして作られたものなのかという事に向けられていた。

 大きさが規格外だという事さえ気にしなければただのボトルだ。水と砂を入れることは容易いだろう。島らしきものの周辺にはきちんと水底から砂が敷いてあるし、棒もしっかりと砂にその身を突き立てられており不自然な格好ではない。

 では何が異常だと言うのか。

 簡単だ。そのミニチュアサイズの建物の土台、円筒と直方体を組み合わせた形のそれの直径は、どの角度から見ても口の大きさを大幅に上回っている。

 何処かの部分を切って其処から完成した物を入れたのかと思い、硝子の表面をくまなく見つめても接着した跡や切り取られた跡どころか傷一つない。

 大凡人間業とは思えない技術によって作られた事は想像に難くない。

「これをお前に見せたかったわけではない。お前にはこれに入ってもらうんだ」

「入る? これに? どうやって?」

 口なんかコルクが無くたって大きさは10センチにも満たない。それにどうやって170センチ以上もある人間が入れるというのか。

 エヴァンジェリンを馬鹿にする気持ちを隠そうともしない視線に気付いたのか、
エヴァンジェリンと視線が合う。

「私が魔法使いだということをもう忘れたのか? それには特殊な魔法が掛けられていてな、このマジックアイテムを稼動させると魔方陣の中に入った人間を中に転送できる。まあ見ていろ」

 俺の視線に特に気にした風も無く、そう説明して俺の反対側からボトルシップの載せられた台座に触れるエヴァンジェリン。

「…………」

 硝子越しに口を動かすのが見えたが、小さい声で喋っているのか分からずに耳をすませる。

「…………」

 それでもどうにか分かったのはエヴァンジェリンが喋っているのが日本語ではないという事だけだった。

 腹の底から出されるような、それでいて風にさえかき消される程絞られた声は遠く昔を思わせるような異国の情緒が滲んでいる。

「よし、これでいいだろう。其処に書かれた魔方陣の上に立て。そうだ、立つだけで良い」

 いつのまにかエヴァンジェリンの声に聞き入っていたのか、エヴァンジェリンの声ではっとなった。

 心地よさに閉じていた目を開けてボトルシップを見ると、先ほどまでとは何処か雰囲気が違っている。何かこう薄らぼんやりとした感覚だが、違和感が生まれているという感じだろうか。嫌な感じという訳でもないのに不思議と意識の端に引っかかるような。

 とにかくエヴァンジェリンに言われたとおりに床に書かれた魔方陣の上に立つと同時に機械にスイッチが入った時のカチッという音がして……

「うわあ、ほんとやめて欲しいわこういうの」

 気付いたら風の音鳴り響く高所にて、空と遥か眼下に広がる海を眺めていた。

 可及的速やかに視線を足元に集中し、今自分が何処にいるか忘れることにする全神経を傾倒させる。

「高所恐怖症だって言ってんだろうが」

 誰にも聞かれることのない不満を洩らす。

 風に巻かれてその絶壁に身を躍らせるような事に、万が一にもならない為にしゃがみ込む。そうして手と足と体と頭で地面が安定していることと地に足が着いている事を確認する。

「やっぱりこの体たらくか。それだけでかい図体した男がこの程度の事でビビるな。気色悪いぞ」

「黒金様、大丈夫ですか?」

 後頭部に容赦ない罵りの声がぶつけられ、それに僅か遅れて気遣いの声を掛けられる。どっちがどっちで在るかなんて態々声で比較する必要もない。

「絡繰さん、心配してくれて有難う。正直かなり厳しいです。それからエヴァンジェリン、お前それはちょっと酷いです」

 まあ、前世でも散々姉に言われていたことだ。一々ビビリすぎだ、大の男がそんな事でビビるなと。

 それに対する俺の言い分はこうだ。

「無理」

 今更他人に何か言われた位で直せるならもう何年も前に直している。

 大体ビビリの何が悪いというのだ。お化け屋敷やらホラームービーやら高いところやらに一生近寄らなければ他人と変わらないというのに。

「俺の事はどうでもいいからさっさと話を進めてくれ。此処に来て何をするつもりなんだ?」

 高いところに居る事を再認識したく無かったので顔を上げずに声だけでエヴァンジェリンに問う。

「待て、向こうに行けば落ち着いて話せる場所があるから其処まで行くぞ」

「それは俺に死ねといってるんだな?」

 向こうという場所を見てみると、確かに其処には柱に囲まれた建物が。

 しかし其処に至る為には数百メートルはあろうかという高さに掛けられた手すりのない橋を渡っていかなければならず、それにしたって2メートルから三メートルしか幅がない。

 そんな所を通ることを想像しただけで股間の辺りが寒風に晒されたようにすーすーし始めた。この感覚は恐らく高所恐怖症の人間にしか分かるまい。

 やむを得ず立ち上がってその橋を渡ろうとしても足が震えて一歩も進めそうになかった。

「よし、ならば私がお前のことを向こう側まで運んでやろう。もしかすると狙いを外れて落ちる羽目になるかもしれないが、まあお前のことだ死にはしないだろうから安心しろ」

「失礼ですが運搬方法をお聞きしても宜しいですか?」

「投げ」

 しかし、そうやってへたれる俺に、エヴァンジェリンは容赦なくむちを入れる。

 エヴァンジェリンの発言には面白半分に俺を海に投げ入れそうな響きがあったので早々に遠慮させていただいた。流石にそれよりは自分で歩いた方が気が楽だ。

「ほらほら、さっさと歩け」

「ちょ、おまっ。ヤバイ、ヤバイって。怖いからやめてー」

 絡繰さん、俺、エヴァンジェリンの順に橋を渡る俺達。

 先頭の絡繰さんは迷い無く一歩一歩しっかりとした足取りで歩いていき、その後ろをへっぴり腰でのろのろと俺が追いかける。また、その後ろをエヴァンジェリンが歩きながら俺に蹴りをくれる。

 道幅は思ったよりも太く、多少の安心を俺に齎したが、それに変わって俺を恐れさせたのは風の音だ。

 やはりこれほどの高さになると風の勢いも違うのか、耳にする風の音も地上付近の音とは明らかに異なり轟々と激しい。

 バシッ、ひいいい、バシッ、ひいいい、バシッ、ひいいい

 橋を渡りきるまでこれの繰り返しだ。

 ちなみにエヴァンジェリンが俺を蹴る音と、余裕を失くした俺がエヴァンジェリンの蹴りにすら怯える悲鳴だ。

が、これだけ醜態を晒していても俺の感性がおかしい訳じゃない、恥ずかしいことこの上ない。

 けれども止めようと思って止められるものでもなく、俺は力の限り悲鳴を挙げながら牛の歩みで進んでいき、

「はあああああああああああああああああああ」

 やっと俺達三人が向こう岸に着いた時、俺は悲鳴の挙げすぎで酸欠になりかけて顔を青くしており、視界に海の青さが映らなくなった場所で深い深い深呼吸をした。

「あはははは、本当にどれだけ怖がりなんだお前は。軽く蹴っているのにその度にお前と来たら……ククククククク、クックックックック、アーハハハハハ」

 俺にビビるなというだけに及ばず、こんなところまで姉にそっくりなエヴァンジェリン。腹を抱えて笑いこけていて、その手は何度も地面を叩いている。

「なああ、もう。仕方ないだろうが、怖いもんは怖いんだから。だあ! いい加減話をしろよ!!」

「クククククク。よりにもよってお前ひいいいいって……ひいいいってお前。アハハハハ」

 笑うのを止めないエヴァンジェリンを見ながら自分の耳が赤くなっていくのが分かる。多分誰が見ても一目瞭然な程に今の自分は紅潮している事だろう。
あれだけの無様を赤裸々に暴かれた挙句目的地に着いても一向に話を始めようとしないエヴァンジェリンに声を荒げるが、全くの無駄。一瞬笑い声が止まったと思ったら、俺の声を聞いて悲鳴を思い出したのかより笑い声が強くなる始末だった。

 絡繰さんに話しかけようとも思ったが、彼女は

「それでは私はお茶の用意をして参りますので、少々お待ちください」

 と言って何処かに消えてしまった。

 その少々お待ちくださいを待って欲しかった。

 今更泣き言を言っても遅い。お茶を淹れに行った茶々丸は後5分は戻ってこないだろう。いつもならなんて事のない短い時間だが、大笑いされながら羞恥を感じる五分間は辛いものになること必至だった。

「まあ、いっか別に」

 俺はお得意の台詞を吐いて、ぼーっとすることにした。今エヴァンジェリンに話しかけてもどうせまた笑い出すに決まっているからだ。

何も出来ないなら何もしない。そっちの方が疲れない。

 とりあえず、大口開けて笑ってるはしたない美少女でも見て癒されようと考えるまでにそう時間は掛からなかった。



「で、話ってのは一体?」

そんなに俺が怖がっている所が面白かったのか、絡繰さんが戻ってくるまで結局ずっと笑い続けたエヴァンジェリンは、笑いが収まり始めたところで絡繰さんに気付いて優雅にお茶をしばき始めた。

「お前には魔法についての知識を身に着けてもらうことになってな。此処に来るのはその為の準備だ。魔法について詳しく講釈することはしないが、お前にはまず学習を補助する魔法を覚えてもらわなければならない」

 さて、この件に関しては今朝エヴァンジェリンに連れられて学園長である近衛近右衛門の所まで行った後の話をする必要があるだろう。

 そう、今朝エヴァンジェリンの無茶な要求を軽いノリで承諾した学園長、彼とエヴァンジェリンはあの後話し合いをするからといって俺を学園長室から追い出した。

 具体的な話し合いの内容については俺に教えてくれなかったものの、エヴァンジェリンは学園長に対して色々と説明を行っていたらしい。勿論俺についてのだ。

 朝の遣り取りを見てマイナス方向に振り切れた近衛近右衛門という男に対する評価は、どうやら正当なものでなかったらしく、朝の一件はエヴァンジェリンを信頼しての寸劇であったらしい。

 何やらほぼ四半日近くの間、宣言通り書類偽造の手筈を整えながら俺を監視していたという話も聞いた。

 そして放課後、学園長室に向かったエヴァンジェリンが最終的な決定を聞いたところ俺の採用が決定されたらしい。

 誰かが近づいてくるたびに、書架やら奥まった場所にある机の影に隠れて気配が去るのを待ち、本を開いてはうつらうつらと船を漕いで、最終的に宮崎さんとの一幕まで眠り続けた俺を見て何が採用を決めさせたのか想像も着かなかったが。

 そして目出度く採用される運びとなった俺だったが、役職は一応魔法先生の一員となるらしかった。理由は担任が年少の魔法先生であることの一点。何かあった時に裏表の関係なく補佐しろという事らしいが、一般人代表みたいなチキンハートの俺にそれは難しいだろう。せめて普通の教師にしてくれと言いたかったが、俺の魔法先生就任にはエヴァンジェリンが一枚噛んでいるらしく、ニヤリと笑った後に黙殺されたのだった。

「しかし、魔法の習得には通常何ヶ月もの時間を要し、それでも漸く基本中の基本中の基本であるものしか使えん」

「それじゃあ全然間に合わないな」

「だからこその此処だ!!」

 宝物を見せびらかす時の子供のような表情をして俺を見るエヴァンジェリン。悲しいかなそこには威厳のような物は欠片も感じられず、ただただ微笑ましさを感じさせた。

 もっと詳しく聞いてくれと顔に書いてあるエヴァンジェリンを前にして俺は子守をさせられている気分になりつつ先を促す。他人の物自慢は退屈だが、何か特別な設定やらを説明されるのは好きなので満更でも無かったが。

「此処には何かあるのか? その足りない時間を補うことの出来る何かが」

「足りない時間を補うだと? ふん、この私がそんなちんけな事をすると思うか? 時間など無ければ作ればいいんだ!」

「つまり?」

「つまり、この中の空間では外の一時間が24時間になるのだ!!」

「ふーん」

 あっという間に子守を放棄する俺。というか俺はかなり子供が苦手だ。他人に合わせるという事が如何にも苦手な上に子供のような純真さを持ち合わせていない俺には、彼らが何を喜び、驚き、感じているのか理解できないからだ。

 それでも薄ら笑い位浮かべられるのが普通の人だが、俺には無理だ。鼻で笑うのが限界。

 というか胡散臭すぎる上に、今一実感が湧いてこない。

「凄いな本当に。これなら憂鬱なバイトの時間が一週間先、いや一月先に引き伸ばせるな。これでいつでも気分溌剌とした状態でバイトに行けるじゃん」

「お前は、これだけのマジック・アイテムを前にしての感想がそれか!? そんな下らん事で感心するな!!」

「って言ってもな。驚いてるけど実感が湧かないし。ほらアレだ。魔法とかに触れたのは昨日が最初だしまだちょっと疑ってんのかもな」

 目の前まで詰め寄ってきて怒鳴るエヴァンジェリンに驚いてるのは本当なんですよ。と身振り手振りで現してみる。

 実際、寝不足なんかに煩わされる事が無くなるし体調不良でバイトを休むような事もなくなる。それに好きなだけ趣味に没頭しても、それでも色々と仕事をこなせるだけの時間を捻出できる。現代人にとっては正に夢のような道具と言えるだろう。

「ていうか、なんでこんなの持ってんのお前? 吸血鬼だったらこんなの必要なくね? 吸血鬼は不老不死なんつう便利な能力持ってんだから、時間なんかこんなもん作ってまで欲しがるもんじゃないだろ」

 人とは違う摂理の中に身を置く吸血鬼は時に嫌われた種族で、永遠に老いることはなく人間などに殺害されるかうっかり血を飲むのを忘れでもしない限り死なない種族だと聞いたことがある。無論のこと俺にとっては不老不死なんてものは害悪以外の何者でもない。死にたいと思ったことは無いが、死が無くなってしまう事は利益が一つも無いからだ。

 そんな時間など掃いて捨てる程ある筈の吸血鬼の持ち物としては、些か不自然としか思えない物を何でエヴァンジェリンは持っているのだろうか。

「むしろ、だからだというべきだな。人間と同じだ、暇を持て余して趣味に没頭する事もある。私にとってはそれがこういうマジックアイテムの蒐集だったり作成だったりしただけの事だ」

「ふーん」

 エヴァンジェリンの言ったことはまあ聞いてみればそういう事もあるか、と思え不思議と共感を覚えるような形で納得した。

 自らを省みて眉間に皺を寄せる俺。何故なら共感を覚えているのに俺とエヴァンジェリンの間に共通点は存在していないからだ。暇は寝て、考え事をして、運動して、本を読んで、料理を作って、散歩して、勉強して、小説を書いている間に無くなってしまうので、俺には特殊な趣味が無い。一体俺の何処がエヴァンジェリンに共感を抱いたのか。

「態々これだけの物を引っ張り出してきてやったというのにこれか。詰まらん奴だな貴様は。実に自慢甲斐がない」

「引っ張り出してきてやったって、引っ張り出してきたのは絡繰さんだろ? それにバイトの件は割りと真剣な悩みだ。毎日毎日次のシフトを思って鬱々としていた俺にとっては大変重要な事なんだ。なんていうの? 俺ってば人見知りするし極めてネガティブだからさ。それに加えてナイーブで貧弱で根性無しだ。小心者で汗っかきで躁鬱気味でパニック障害持ちでもある。……だから………ああ、どうしよう俺教師になるんだ……」

 地面に膝を着いて項垂れてしまう程落ち込んでしまう俺。自分で言っている間にどんどんど不安になってきたのだ。

 教師ということはアレか。まず、同僚教師との付き合いがあってそれから生徒との人間関係、教える内容をまとめたりとか事務の仕事とかも色々有るのか。

 そもそも大学で専攻していたのだって心理学で、教職だって採っていない人間にそんなものが勤まるのかどうか。塾講師だってしたことないのに。

 しかも同僚って……、生徒って……一体何人いるんだよ。

「しかもお前が担任するのは近年まれに見る問題児ばかりを集めたクラスだ。唯でさえ人間離れしている連中の多いこの麻帆良学園でもとびきりの問題児だ。さぞ、手を焼くことだろうな」

「パトラッシュ……僕もう疲れたよ」

 確実にそのとびきりの問題児達の一人であろうエヴァンジェリンが意地の悪い笑みを浮かべて俺を見る。もしかしてこいつは自分が問題児である自覚が無かったりするんだろうか。

 そのまま蹲って目を瞑る。地面の材質は謎だったが、昨夜よりは寝やすい気がする。というかひんやりと冷たくてこれはこれで中々……

「こら、寝たふりをするな馬鹿者。時間はそう有るわけじゃないんださっさと魔法の修行に移るぞ」

 パシパシと頭を叩かれたので目を開けてみると直ぐそこにしゃがみ込んだエヴァンジェリンが。

「あ、パンツ……ぐべえっ!!」

 視界にくっきりはっきり映った光景を口にした瞬間凄まじい衝撃が米神に加えられた。勿論反対側は地面で衝撃を逃がす場所などない。地面と拳に挟まれた俺の頭は言語化出来ない痛みに襲われた。どうしても知りたいというならハンマーで同じ場所を殴ってみるといい。金属製の奴なら尚良い。

 ふおおおおおお!! と奇声を挙げる俺の頭上でエヴァンジェリンが鼻を鳴らした。

「馬鹿が。ってまだ見てるのか貴様!」

 痛みの余り大きく目を開いたのが間違いだったのか、頭の角度を誤ったのかまたしてもパンツが視界に。今度は言葉にするまでもなく視界を靴の裏で塞がれた。しかもグリグリと。

「いいいいたいですエヴァンジェリン様」

「いい気味だ変態野郎。猛省しろ!」

 ガキんちょの癖して色気づいてんじゃねえよ。と俺の心の中の誰かが叫んだが、それを現実にしようものならこの程度では済まない怒りを買うだろ事は想像に難くない。

 やたら際どい黒のパンツが閉じた瞼の裏側に焼きついた気がしたが、そんな事はおくびにも出さず非暴力不服従の構えを貫くことに。

「変態ってお前、そんなエロい格好して股を開くお前のほうがどう考えたっていてえええええ!!」

 何故だ? 何も間違ったことを言った憶えは無いのに足に込められた力が増したぞ。

「どうやらお前には魔法より先に教えなければならない物があるらしい」

 額の上から垂直に体重を掛けられて地面との板ばさみになっている俺の頭は破裂するんじゃないかと思うほどの激痛に晒された。

 身を捩って逃げようにも頭を動かそうとするたびに、俺の頭を押さえつける足に絶妙な力が加えられ頭の方向を帰ることも出来ず、かといって体の方を先に動かしても今度は強引に俺の頭を支点にして体の方向を修正されるのだ。

 こんな事に神業染みた技術を使用するエヴァンジェリンは、きっと人の事を虐めたりすることに命を掛けるドSに違いない。

「う、嘘です! 貴方が天使だ、女神です。変態なのはこの俺です!!」

 都合三度目の脱出を阻まれ盛大に首を捻られた俺は脱出を諦め投降。

「分かればいい」

 俺の頭から靴を退けたエヴァンジェリンは、汚らしいものでも触ったかのように靴底を地面に擦り付けた。

 荒く切れる息を落ち着かせながら顔を服の袖で拭う俺はその光景を恨めしそうに見つめているしかない。

 ケツが見えそうな服装をしている男やら女に比べれば断然良いのだが、如何せん酷すぎはしないだろうか。俺がエヴァンジェリンの下着を見たことで喜んでいたりするならまだしも、ただただ見せ付けられた光景を思わず言葉にしてしまった俺に此処までの仕打ちをするなんて。

 こいつ相手にラッキースケベを繰り返す主人公なんて居ようものならこいつ以上のドSかドMに違いない。

 とてもじゃないがこのままグダグダとしていると何かの拍子に殺されるんじゃないかと心配でならなくなった俺は、エヴァンジェリン講師による魔法講義に真面目に参加することを決心した。デターミネーションという奴である。

「いいか、よく聞けよ。魔力とは空気、水、その他森羅万象に宿るエネルギーの事で、魔法とは魔力を持って行われる事象全ての総称だ。術者はその魔力を息を吸うように体内に取り込み、一点に集中させ術を行使する。更に西洋魔法は精霊を媒介にする事もある」

 説明する側であるエヴァンジェリンは備え付けられていた椅子に腰掛け、いつのまにか絡繰さんの淹れた紅茶を飲みながら特に原稿を読むわけでも無くスラスラと魔法について語った。

「魔法には基本四属性である火、水、風、地の他に光と闇を加えて六属性。他にも石や花、影といった属性があり、現時点でも十数種類以上は確認されているものの今だ発見されていない属性が存在する可能性が存在するため具体的に属性を定義することは出来ん。まあ、しかし研究職にでもならん限りは精々扱う属性は先ほどの六属性程度だろう。時々影や石と言った属性の使い手も居るだろうがあちらにはある程度以上の適性が必要だから気にするな」

 特に言われた事を書き留めるでも無く、俺はエヴァンジェリンの言っていることに時折ふんふんと相槌を打ちつつ、出来るだけ多くの情報を脳内に刻み込んでいく。

 聞いている限り完全にゲームの世界の話で特別な感慨を覚えることは無かったが、それならそれでゲームの設定だとでも思って考えると、幼少期からゲームを嗜んできた俺の脳みそがやる気を出したのか聞いたことがすんなりと頭の中に入り込んでいく。

「他にも属性といった状態に分化する前の魔力のみで行われる魔法も数多くあるぞ。離れた場所にある物を操ったり念話を行ったりといった風にな」

 となると男の浪漫であるところの透明人間になったり惚れ薬を作るような魔法もあったりするんだろうか。

 ふと話を聞いているうちに邪悪な考えが頭に浮かんでしまう。

 まさか女性であるエヴァンジェリンにそんな事を聞くわけにも行かず(というか子供にそんな事は聞けないか)、その、男なら誰しもが突き当たるだろう疑問を脇に置いて話を聞き進めようとした俺だったが、

「実を言えば魔法というのはかなり体系化された技術でな、結局は才能に左右されるところが大きなウェイトを占めているがその気になれば一般人でも使用することは可能だ。とはいえ数ヶ月もの修練を必要とするがな」

 思考の端に追いやったはずの疑問がドンドンと中央に出てこようと蠢きだした。

 話半分どころか全くエヴァンジェリンの話が耳に入ってこない。

 悲しいかな、男ってそういう生き物なのよね。とふざけた時エヴァンジェリンが動いた。

「おい……ちゃんと聴いているのか?」

 聞いていたことを示そうと直前にエヴァンジェリンの言っていたことを思い出す。確か大きなウエストを締めているとか、体型が云々とかそんな話をしていた気がする。

「え?………も、勿論ちゃんと聞いてるよ。エヴァンジェリンの大きいウエストがどうしたって話でしょ?」

 僅かに記憶から拾い上げることの出来たキーワードを言い放ってから気付いた。

 魔法の話に何故エヴァンジェリンのウエストが?こんなに見事な細さを保っているにも関わらず?

 こういう時の俺の悪い癖というか、単純に俺の悪癖というか俺には一度滑り出した思考を停止する機能がない。しかもそういう暴走が起こったときに限って大概ミスを犯していたりするのだ。

 今回もご多分に漏れていない様で、俺が話を聞き流していたことに気付いたエヴァンジェリンはすっかりお怒りになったご様子だった。

「相当優れた聴力を持っているようだな。誰のウエストが大きいって?」

「ごめんなさい。嘘です。聞いてませんでした。エヴァンジェリンのウエストは細くて素晴らしいと思います」

 600歳生きている吸血鬼だろうと心は立派なレディだとでも言うのだろうか。怒髪天を衝いたエヴァンジェリンがカップを優雅に置く仕草がとてもとても怖かったのであっさりと白旗を揚げる。

「しかし、本当この短時間の間に何度も頭に血を昇らせていてエヴァンジェリンの血管が破れないか心配だな」

「この短時間に何度も私を怒らせて懲りないお前の頭の方が心配だ」

「心を読まれただと!?」

「貴様がべらべらと喋っただけだ!!」

 心を読まれたかと驚いて顔を上げると、俺の視界には本日二度目の対面となるエヴァンジェリンの履いた靴の裏が。

「うぎゃ!」

 そのまま押し込まれるようにして後ろに倒れた俺は、更に地面とも二度目の抱擁。

「仏の顔も三度までだ。今度こそじっくりとお前を甚振ってやる」

 靴の裏で完全に視界を塞がれた俺の耳朶を、エヴァンジェリンの声が叩く。犬歯の除く笑みが頭に浮かびそうな嗜虐的な声だ。

「おふっ!!」

 更に驚いた事に俺の腹の上に何かが乗ってきた。

 丸みを帯びた形といい、妙な温かさといい間違いない。エヴァンジェリンの尻だ。

 足の裏で俺を踏みつけるだけでは飽きたらず、俺のことを椅子にしようという魂胆らしい。

 この状況なら踏まれているだけの状況より脱出は容易だろうと判断した俺は、エヴァンジェリンのバランスを崩そうと体を揺すり、足を振り上げようとしてみたものの。

「抵抗は諦めることだな。貴様の体は既に拘束済みだ。お前にはもう啼き声を挙げる事しか出来んぞ」

 知らぬ間に全身を糸に絡め取られ身動き一つ出来ない状況に追い込まれてしまっていた。

「どうした? ほれ、お前の大好きな踏み付けだぞ。もっと嬉しそうな声を出さないか」

 もう本当、これから未来に希望など一欠けらも無いと悟るには十分な時間を過ごすことになった俺だった。

 口は災いの元とはよく言ったものである。早めに俺の軽口を封じなければ大変な目に遭うことは最早必定。

 人格改造を堅く誓う俺はこの時、既にエヴァンジェリンがやたら重いという事実を口にしない事に取り組み、その企みは見事やり遂げられたのだった。


「では、一番簡単な魔法から行くか。茶々丸」

「はい、マスター。こちらです」

 十分な反省をエヴァンジェリンに示した後、説明を終えたエヴァンジェリンが絡繰さんから細長い棒のような物を受け取っている。

 それは古びた木から切り出したような風情の品で、木目は無くそれ自体に一本の木が凝縮したかに思える。

「これが杖だ。これを持って『プラクテ ピギ・ナル アールデスカット』と唱えてみろ。全部それからの話だ」

 絡繰さんが持っている物を確認したエヴァンジェリンは、そう言って指先に炎を灯した。高さは大体2,30センチという所で何の仕掛けもないのに揺らめき続ける。

 あっさりと火を現したエヴァンジェリンは今度はあっさりと火を消して「ざっとこんなものだ」と言って絡繰さんから杖を受け取る俺の事をじっと見つめた。

「了解」

 絡繰さんから受け取った杖をマジマジと見つめる。手触りはよく、かなり綿密に磨き上げられているのか表面を撫でても肌に触れるのはつるつると滑らかな面ばかりで引っかかりの一つも見つけることは出来ない。

 紙やすりでこの質感を再現しようとしたら何番のやすりを使えば此処まで滑らかになるのか。などと考えつつ実行に当たって視線をさりげなくエヴァンジェリンの方へ向かわせる。

「っっ……」

 エヴァンジェリンの顔が視界に映った瞬間に当の本人と視線が重なってしまう。
 声を挙げずに視線を逸らした自分を褒めてやりたい。

「へー、こういう風になってるんだ」

 などと適当な事を言いつつ、後退さる。
 そしてもう一度エヴァンジェリンを見る。

「っっっ……」

 こっち見んな!!

 声に出さずに口の中でそう叫んで今度はさっきよりも落ち着いて、今度は杖に視線を戻す。

 無意味に杖の表面を撫でたりしなり具合を調べながら更に時間を浪費する。緊張からか額に汗が浮かんできたような気もする。

「…………」

 またしてもエヴァンジェリンと目が合う。

 それを幾度か繰り返しいつまでも呪文を唱えない俺。

「さっさとやれ黒金。……どうした? 何故やらない?」

 とうとうエヴァンジェリンが痺れを切らした。

 声にはまだ怒りの色は無いが、苛立っていることは間違いない。

 俺は何もせずに立ち尽くしている理由を言おうか迷ったが、黙っているとまた先程のような事になりかねないので正直に口を割った。

「恥ずかしいんだが」

「はあ?」

「恥ずかしいんだがって言ったんだ」

「恥ずかしいって何がだ?」

 本気で分からないといった風にエヴァンジェリンが首を傾げる。

 当たり前のリアクションだ。魔法使いにとってアレは極々初歩の魔法の呪文なのだろう。それなれば誰もが一度は口にするようなそれを魔法使いが恥ずかしいなどと感じるはずがない。

 しかし、一般人の俺からすれば立派に恥ずかしいのだ。

 ネタの分かる知り合いの前で「ピーリカ・ピリララ……」などというのとは話が違う。呪文の詠唱にしたってもっと沢山あるだろ。『我は放つ、光の白刃』とかそういうの。何にしろもっとカッコいいのをプリーズ。

「ああ、うん。気にしないで。頑張るから」

 ますます疑問顔になるエヴァンジェリンを前にして、この気持ちを理解させることは不可能だと悟る。そりゃそうだ。毎日毎日使うような物に対して一々羞恥を感じているというのにそれを続けるというなら間違いなく変態だ。しかもかなり屈折した。

 似たような経験がコスプレをしていた友人との間に有ったので、これはもうそういうものだという事で受け入れるしかないんだろう。

 こう矜持ある一般人として色々な物を捨て去る結果になりそうな予感がしたが、敢えてそれらを無視して杖を凝視する。

 一度死んで転生してしまうなんていうエキセントリックな出来事が有ってから半ば無意識の内に気付いていたことだが、俺にはもう以前のようなダラダラとして空虚な、平穏で愉快で苦痛な人生を歩むことは出来ないらしい。

 人一倍羞恥心が強い方を自認する俺はたったこれだけの事でもう『死んだままのほうが良かったんじゃね』なんて事を考えてしまうのだが、これからの人生でこれ以上の辱めに遭わないなどとは言えないし、何故だかこう大変(態)な事態に巻き込まれる自信が沸々と湧いてくる。

 せめてモブキャラにしか絡まないように生きていこうと決意を新たにする俺だったが、先に言ったように殆ど内容を覚えていない俺にはモブキャラと非モブキャラの違いが解る筈もないという事には気付けては居なかった。

「大丈夫、誰も見てない。大丈夫、誰も見てない」

「何を言ってる、私が見てるじゃないか」

 努めてエヴァンジェリンと絡繰さんを意識の外に追いやろうとして、自己暗示めいた事をしていた俺にエヴァンジェリンが声をかけて来る。

 止めて欲しい、人に見られた状態であんな呪文唱えるなんてとても出来ない。千歩譲っても誰も居ない密室でしか出来そうにないから必死にそう思おうとしているのに。

「よし」

 羞恥心を捨てる覚悟は出来た。後は素面で呪文を呟くだけだ。

「プ、プラクテ ピギ・ナル アールデスカット……」

 意識は散漫で集中など微塵もせず、言われたとおりに空気から何かが取り込まれた様子も無い。当然だ、何も知らない一般人がでたらめに呪文を唱えただけで魔法が使えるなら誰だって苦労しない。そんな世の中ならたった一枚しか買っていない宝くじが一等になって何億円も貰ったなんて出来事が十回は味わえるだろう。
そうやって素人でも数ヶ月の修行が必要なら、才能の欠片もない俺が唱えたところできっと何も起こらないだろう。なんて高を括っていた俺に超ド級のサプライズ。例えるならリアリティ抜群のバイトに遅刻する夢クラスのびっくりだ。ついでに言うと痛いのやら熱いのやら諸々に加えて幼少期に小火騒ぎを起こしかけた俺のトラウマを呼び起こす出来事。

 思わず身を強張らせて瞼を閉じた俺の目には視界を埋め尽くす炎の塊が……



[21913] 第八話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:ce82632b
Date: 2015/12/19 11:18
炎と言えば誰しもが簡単に思い浮かべることの出来る物の一つだろう。

多くの人の認識通り炎というのは穂の様な光と熱を発する火の事である。

神話では神から与えられたり、若しくは天使から与えられたりと非常に素晴らしい物として扱われ、また人間に技術というものを齎したものの一つでもある。

近くは料理等に用いられ、石油等を燃焼させエネルギーを産生する方法としても利用される。鉄を精錬し、闇を照らし、弔いにすら使われる。

遥かな過去ならいざ知らず、現代となっては知らない人間などいないと断言できる物だ。

そしてその炎というものを黒金哲は殊更に恐れる。

大雑把に言ってしまえばその分類は多くの怖い物と何も変わらないが、哲にとって炎というものは全く思い入れの無いものという訳ではない。

かなり哲が小さかった頃の話だ。

人間の記憶というものは一般的には三歳頃の物が最も古いらしい。少なくとも彼の記憶にもその事件が刻まれている以上三歳頃の記憶なのだろうが、彼の最も古い記憶は炎に纏わるものだった。

その頃の記憶があるとはいえまだまだ精神・思考共に幼く、今振り返ってみてもまともな思考をしていなかった時代に何を思ったのか哲はベランダに干してあった洗濯物に火を着けた事が在った。

最初は静かに風で吹き消されそうだった小さな火種は、少年がその炎がどうなるのか考えを巡らせるよりも早く大きく燃え上がった。

 午後も太陽が中天を過ぎた辺りだ、朝から干してあった洗濯物はとっくに水気の殆どを失っており、ダランとぶら下がっていたバスタオルに着いた火はすーっと表面を撫でていくように上方に燃え広がり、丈の短く小さい洗濯物にも火を移した。

哲少年はそうやって徐々に火がその勢いを増し、遂にはベランダを覆い尽くすようになっても尚、瞬きをする事すら惜しむようにじっと見つめ続けていた。

ハンガーに吊るされていた洗濯物が粗方燃え、炎がハンガーにまで広がりベランダの塗装が熱にドロドロと融けた。ゴムが燃えた様な匂いだっただろうか、微かに残る記憶を辿って匂いを思い出そうと努力しても感覚として想起されることはあってもそれを言語化することが出来ない。鼻を摘みたくなる様な嫌な臭いがするまで哲少年は炎に夢中だった。

今でも炎を見るたびに思うのだが、あの時の哲は炎の中にでも魂を吸い取られていたのだろう。あの温かく明るい光を見つめていると体から力が抜けてその光にのめり込んでいく様な感覚に陥る。これも随分と前の話だが一度、哲は炎に魅了される余り焚き火か何かで燃え立つ炎に体を突き出しそうになった事がある。その時は危うく近くに居た友人に寸での所で引き止められ無事に済んだが、友人が居なければ間違いなく全身に火傷を負っていただろう。

そうして火に対して本人も無自覚な魅力を感じながら幼少期を過ごしながら自らが思うように行動できるようになった時、哲は異様な行動に出るようになった。

それも本人からすれば好奇心のままに動いていただけの行動であり、どんなにその意味も脈絡も理解できなくとも極自然な行いだ。

彼は何人かの兄弟姉妹に囲まれて生活していたが、稀にある両親も兄弟姉妹も不在の折、彼は徐に台所に据え置かれたガスコンロの摘みを捻り青白い炎を出すとその上に自身の手を躍らせた。

どんなに幼くとも人間には産まれた瞬間から感覚器がある。そして触覚や聴覚、味覚といった諸々の感覚がある。

健全な肉体の両親の元に生まれ健全な肉体を持った哲も全く同様だ。

そうなれば当然炎に炙られた哲の手は強烈な痛みに襲われた筈だ。

にも関わらず哲はそのまま平然と手を炎に翳し続けた。

恐ろしい光景だ。幼い少年が強制されるでも痛みを望むわけでも、死を欲するでもなく火で自身の体を焼いている。

そのまま少年の手が黒々とした炭になるかと思われたが、僅かの間に玄関の扉の開かれる音が哲の耳に届いた。

 金属製の蝶番が扉の重さと摩擦できいと甲高い音を発て、家族の慌しい足音が飛び込んでくる。騒がしさといい音源の数といい自分を除いた家族全員が揃っているようだった。

それを聞きつけた哲は慌てて摘みを定常位置に戻し大慌てで証拠隠滅を図った。

おかえり。と大きな声で家族に挨拶をしつつ、部屋中の窓を開け放していく。

戸棚を空けて何種類もあるお菓子の中からお気に入りの物を見繕い、口を開ける。

これで勢いよく中身を頬張りながら家族を迎えに行けば自分が何をやっていたのか気取られることはないだろうと思った哲は、それを実行し息を吐く間も与えられずに病院に送られた。

当たり前の話だ。高温によって細胞が死に炭化する一歩手前の手がまともな状態であるはずが無かった。

両親の呼んだ救急車に乗せられ、病院に搬送される間痛みが有るかと言われた哲はそれに首を振って否定し、何故自分が救急車に乗っているのか理解できていない風で首を傾げていたのは可笑しかったと後年父親が笑って聞かせてくれた。

その時の記憶がさっぱり無い哲としてはそんなことも有ったんだと頷くことしか出来ないが、哲にはそういった過去が有った。

その後周囲から天然天然と言われながらも世間一般に違和感無く溶け込める感性その他を手に入れた頃から、段々と哲は炎を恐れたが今でも哲は炎を見るたびに不思議な感慨を味わう。

そういえば俺がエヴァンジェリン達と初めて会った日もエヴァンジェリンの家で暖炉で燃える炎を見てて妙に和んだな。

肺一杯に新鮮な空気を取り入れながら哲の意識が目覚める。

肩甲骨と骨盤の辺りがゴリゴリと固い物に当たっていて哲は今自分がエヴァンジェリンの持つ不思議な別荘の中に居る事を思い出した。

意識を失った憶えも無いけれどどうして寝てたんだっけ?

口を大きく開き顔をだらしなく歪ませて欠伸をしつつ、背伸びをしながら疑問に思った。

そのまま欠伸を連発、背伸びを止めて手探りで足元を検めてから哲は立ち上がった。

「全く思い出せん。何で俺はこんな俺にとって地獄みたいな場所にいるんだ? しかも何か妙に荒廃してるというか色々壊れてるような」

 眼前に広がるのはガスバーナーを中てられた後みたいな地面と見渡す限りの青天。そして地面と空の中間に位置する倒れた石柱。

記憶の何処を検索してもこんな光景は見つからない。

確かエヴァンジェリンの別荘では地面が綺麗で石柱なんかは全部立っていたと思ったけどな。

哲は言葉に出さずにその記憶との差異を確認し、その暴力的に壊された風景に寒気を感じた。

「エヴァンジェリン辺りが調子こいて魔法でもぶっ放したのかね」

「やったのはお前だお前!!」

「うおっ!?」

 哲が慌てて振り返ると其処には案の定エヴァンジェリンが立っていた。

「ってちかっ!」

 近い近い。振り向いた哲の視界には自分と同じくらい――哲の主観を覗けば哲よりも高い――の身長の茶々丸の顔と顎の辺りにある長い金髪を湛えた頭部。

驚いて振り上げた哲の膝がエヴァンジェリンの顎を綺麗に捕らえた。

「いたーーーー!! エヴァンジェリンの顎が突き刺さった!」

「突き刺さってたまるか! ていうか何私に膝蹴りを食らわしとるんだお前は!」

 意にそぐわない膝蹴りだが、反射的に出た力はほぼ最大。顎をかち上げられて悶えるエヴァンジェリンを想像して、うわちゃーと心の中で頭を抱えた哲の予想とは逆にダメージを負ったのは哲の方だった。

「ふん、唯の人間の膝蹴りが長きを生きた吸血鬼に効く訳がなかろう。そもそも体の強さが違うのだからな」

 エヴァンジェリンは哲の放った膝蹴りを迎撃するでも避けるでも無く微動だにせず受け止めただけ。ただ圧倒的に力で勝るエヴァンジェリンには哲の膝蹴りは僅かな痛みを与えることも出来ずに跳ね返されたのだ。

こうなると下手に全力で打った膝はその強さの分だけ被害が増大する。

地中深くに突き刺さった剛体に攻撃を加えるような無謀な行為だ。

当然哲は膝に突き刺さるような痛みを覚えて地面に膝を着いた。

「つぅぅーーーー。なんでこんな近いんだよ。ていうか後ろから急に現れるんじゃねえよ。吃驚するだろ」

「お前がビビリすぎなだけだ。大体だな影を通って私達は出てきたんだ近いのは当たり前だろう」

「普通に出て来いっつの」

 痺れて力の入らない膝を庇いながらもう片方の足で立ち上がってエヴァンジェリンと茶々丸から距離を取る哲。

片足立ちで二メートルくらいけんけんすると力を抜いてどさっと座り込んだ。

「で、俺がこれやったってどういう事? まさか俺の中の眠れる人格が……とか?」

 自分にこういう事が出来るとは全く思っていない哲はエヴァンジェリンの言った事をまともに受け止めなかったのか、口調は冗談を言っているような響きだった。

「馬鹿も休み休み言うんだな。お前が呪文を唱えた直後に大爆発が起こったんだ! あの威力と範囲、私を殺すつもりだったと言われればあっさり信じられる程だぞ」

 暢気な表情を崩さない哲を置いてきぼりにして一瞬強い視線で哲を睨むエヴァンジェリン。その視線の強さは哲の呼吸が止まってしまう程強い。

「しかし………お前の様子を見るとどうやらそういう事でも無さそうだな」

 しかしエヴァンジェリンはそう言って有らぬ方に視線を逸らした。心なしか顔が赤いような気も哲にはした。

 何処か異常な点でも自分にあるのかと自分の体を眺め回そうと視線を下に、つまり自分の体の方にやった所、

「それはスマンかった。でも様子ってのは…………………………おおう裸だ」

 フロイト先生に依るならば5つの性的発達段階の3番めに現れる段階に於いて重要な役割を示すアレが見えた。

「???」

「首を傾げる前に隠さんか馬鹿者が。っっくそ、茶々丸!」

「はい、マスター」

 哲はその事態をスムーズに許容できず、その事態に至るまでの経緯に思考を割いた。が、そのまま時間が止まったように動かなくなった哲にエヴァンジェリンは舌打ちし茶々丸に指示を出した。

エヴァンジェリンの指示を受けた茶々丸はいつもの平静さをそのままに何のためらいも無くロケットパンチで哲の顔面を打ち抜いた。

「ぐへっ!」

 高速で飛来する茶々丸の拳に気付く間もなく、顔面が変形するほど強か殴られた哲はその混乱に続く混乱に自分が何をされたのかも把握できず、空中で身を半回転させると受身も取らずに頭から地面に落ちた。

「よくやった茶々丸。……って違うわああ! 誰が殴り飛ばせと言った。さっきのはさっさと何か見に纏うことの出来るでかい布なり服なり持ってこいという意味だ!!」

「そ、そうでしたか。……すみません黒金さん、勘違いをしておりました。それでは何か探して参りますので少々お待ちください」

 実に清清しくぺこりと頭を下げた茶々丸は、爆音を挙げたかと思うと土煙を上げながら先程のロケットパンチもかくやという速度で建物の方へと走り去っていった。

後に残されたのは全裸で頭を下にして地面に立った哲と息を荒げて茶々丸の背中を見ていたエヴァンジェリン。

視界を塞いでいた煙が収まった頃ポツリとエヴァンジェリンが言った。

「案外あいつも恥ずかしがっていたのかもな」

 これが漫画の世界ならせめてもっと恥じらった顔をしながらやって欲しい。アクロバットな体勢を保ったままの哲はそう思った。


「あー、恥ずかしかった」

 傍目から見ると死ぬほどどうでもよさそうにそう呟いた後、哲は茶々丸の持ってきた大きめのバスローブを身に着けて身を隠していた物陰から出た。

茶々丸の持ってきた服をどうやって哲に渡すかという段になってもう一悶着あったものの、無事隠さなくてはいけないものを隠した哲は距離を取った位置で自分に背を向けて椅子に腰掛けたエヴァンジェリンに近寄りながらこの世の世知辛さを嘆いた。

凍死しそうになったり痴漢の疑いを掛けられて後頭部を地面にぶつけて死にそうになったり責任重大な仕事に就くことになったり血を吸われたり火で燃えたり、そうかと思えば裸に剥かれたり思い切り殴られたり。転生してからの数日、前世でもそう無いほどの忙しさで不運やら何やらに襲われている。

漫画の世界が想像よりも百倍千倍も危険に満ちているという事を身を以って体験した哲からすれば当然の行いだろう。

平穏に枯れていく事を理想としていた哲としては変わってくれる人が居るなら代わって欲しい所だ。

しかし悲しいかな漫画の世界ではあっても現実である以上誰かと身分を交換することなど出来よう筈も無い。

もしも何か特殊能力が手に入るなら迷い無くボディチェンジを要求しよう。そう心に決めた哲だった。

とバスローブ姿の哲がエヴァンジェリンに向かい合う形で座ったときだった。

「先程の一件で分かった。魔法を教えるよりも前にお前の体を調べさせてもらう」

「うん?」

「聞いている限りお前はお前自身の体の事についても無自覚だ。加えて初歩の初歩の魔法であの威力。危険性の点から言えばニトロと一緒だ。いつ何時どんな力を出すのかも分からず、その力の制御も出来ないではおちおち安心することも出来ないからな。だから貴様にはまず魔法よりも自身のことを知ることが必要だ」

 そう言いながら破壊されつくした広場を親指でしゃくってみせるエヴァンジェリンに、哲は何も言えない。

 反論する意思などない。元より調べられて困ることなど何一つないのだ。それにも関わらず反射的に口を開こうとするのは自分が卑小な一般人であるという自己認識故だ。

それに、少なくとも自分は暴力を好む人間では無いと思っている哲は自分がまた徒に周囲の人や物を壊すことに抵抗があった。

「それは健康診断でもすれば良いのか? それとも何か裏の世界特有の方法でもあるのか?」

 即答する哲に驚いたのかエヴァンジェリンは眉を持ち上げたが、疑問よりも俺の体に対する興味が勝ったのか直ぐにそれも元に戻った。

「何面倒な方法を一々試すまでもない。お前の前に居るのは吸血鬼だぞ」

「それが俺の事を調べるのとどんな関連が有るんだよ。吸血鬼には健康診断機能でも付いてんのか?」

 明らかに馬鹿にした台詞を吐く哲には本当にエヴァンジェリンの発言の意図が読み取れていない。何か悪い予感とでもいうべき物が首の後ろでざわざわとざわめいていたが、それは何か特定の答えや行動を指し示すような物ではなく、ただ漠然とした物だ。何となく嫌な感じがした程度ではまだ聞かされてもいない方法を拒否することは出来ないだろう。

そう考えると同時にその方法を一度でも聞いてしまえばなし崩しにその方法が採られることになるという予感もしていた。

「勿論付いているに決まっているだろう。具体的な数値や指標として用いることこそ出来ないが、その人間の状態というものは少なからず血に現れてくるものだ。そして吸血鬼は人間の血液に関しては右に出るものが居ない。どれだけ少量の血液でもその人間の情報を粗方洗い出すことが出来る」

「それなら態々改まってそんな事する必要もないだろ。お前俺の血散々飲んでるじゃん」

 解剖でもされるのではと案じていた哲にとっては朗報が齎された。これなら今から痛い思いをする必要もないはずだ。何せエヴァンジェリンは少なくとも二度哲から血を吸ったし、一度は失血死に追い込まれかけた程だ。理論的に言えば失血死に至る致死量は2リットル程度。僅かなというには過大に過ぎる量だ。間違いなく十分な量をエヴァンジェリンは吸血しているだろう。

 しかしその期待も虚しく、エヴァンジェリンは自分を見つめ続ける哲の視線から逃れるように目線をあらぬ方向に向けた。

その上エヴァンジェリンの表情は気まず気だ。

時に人間のコミュニケーションについてノンバーバルコミュニケーションと呼ばれる物がある。簡単に行ってしまえば言葉に依らない非言語コミュニケーションの事だ。ある学者に依れば人間のコミュニケーションに於いて人が他人から受け取る情報の半分は表情から来る情報で話の内容はわずかに7%、残りが声の大きさやテンポといった諸要素だ。

 これが間違いのないデータであるという確証は哲には無い。が、しかしそのような物が無くとも現状においては、言語を持ちいらずとも情報が伝達されることは明らかだった。

「おい、まさかお前もう一回血を吸わせろとか言うんじゃ」

「仕方ないだろ、お前の血が美味すぎて血を吸ってるうちに我を忘れてるんだ、そんな事覚えてられるわけ無いだろうが!」

 テーブルに身を乗り出して詰め寄った哲に対する反応は完全に逆ギレだ。

俺の血が美味いのは俺のせいじゃない。

「じゃあその案は却下な。どうせまたやっても同じ結果になるだろうし」

 朝方エヴァンジェリンに噛まれた所を押さえてそう断言する哲。全身から文字通り血の気が引いていくのをもう一度体験する気は更々ない。

「んなっ!」

 それを聞いて驚愕したのはエヴァンジェリンだ。

「いや、今度こそ大丈夫だ心配するな。それに他の方法はどれも今直ぐ試すことは出来ん」

 俺を心変わりさせようとでも言うのだろうか、早口で吸血を薦めるエヴァンジェリン。

何時の間にかテーブルに乗り出しているのも俺ではなくエヴァンジェリンになっている。

小学生低学年程度の身長では普通に立ちながらでは出来ないので、ご丁寧に靴まで脱いで椅子に立っている。

「お前もしかして俺の血吸いたいだけだったりしないか?」

 不自然に必死な様子のエヴァンジェリンから、何かを求めるような雰囲気が漂っていたので哲がそう尋ねると、

「な、そんな訳ないだろう。私が人間風情の血欲しさにこんな事をするとでも?」

「それが善意を装って俺の血を吸う為の提案じゃないなら信じられるんだが」

「ぐっ」

 図星を突かれたエヴァンジェリンが言葉に詰まる。

あたふたと取り繕うように言い訳じみた事を捲し立てるエヴァンジェリンの言葉を聞き流しながら、不意に哲が頬を緩ませた。

そしてエヴァンジェリンの肩に手を於いて押し戻しながらこう言った。

「だったら素直に言えば良いじゃん。吸いたいなら吸えば?」

「はあ?!」

 素っ頓狂な声を上げて、肩に置いた俺の手を弾き飛ばす勢いで立ち上がるエヴァンジェリン。動揺は激しくテーブルに置かれていた湯呑みが倒れ中身が広がる。

ひっくり返った湯呑みを哲はお茶で手を汚しながら立て直す。布巾のような物が無いかとテーブルの上を見ても代用できる物も無かった。

テーブルから溢れそうになるお茶を仕方がなく手で塞き止めようとした時その下に割り込む手が有った。

茶々丸だ。

「黒金さんこちらは私に任せてマスターとのお話を進めてください」

 素早い動きでテーブルに広がっていたお茶を拭き取っていく茶々丸を見て出る幕が無いことを悟った哲は、茶々丸の言うとおり大人しく話を再開しようとエヴァンジェリンを見た。

 哲が視線を戻すと茶々丸と哲が話している間も微動だにせず只管哲を見つめていたエヴァンジェリンと目が合った。

「どうかしたのか?」





















「お……お前、正気か?」

「何馬鹿な事言ってんだよ、当たり前だろ。俺が正気じゃないってんなら狂ってるのは世界の方だと断言できる位に俺は正気だ」

 冗談とも付かない台詞だ。その上自信無さそうに視線を泳がせ苦笑いの台詞だった。

それでも嘘は何処にもない。正直な気持ちだ。

「殺されるってえ事なら俺も尻尾巻いて逃げるし、お前には今後近寄らねえよ。でも別に死んだりしないだろ。幸運なことに俺は死んでも死なないらしいしな」

 でなきゃ朝の一件で死んでる。

そうエヴァンジェリンに笑いかける哲。

「アレは流石にビビった。今まで事故らしい事故もなく生きてきて、生まれて初めて死ぬかと思った。でも、まあ無事に生きてる」

「あ、ああ……」

 死んだつもりも無く死んだことは勿論内緒だ。信じてもらえるかも知れないがこちらから話すような事でもない。

「だから、好きなだけ…………いや訂正、手加減するってんなら血を吸っても良いぞ」

 朝の二ノ舞にはなりたくないので釘を打つことも忘れない。

それでいて哲の意向が単純明快に表れた言葉…になっていると哲は思った。

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか? 吸血鬼に自ら血を吸わせてやると言っているんだぞ?」

「あのなあ、俺が耄碌してる様に見えるか? 幾ら精神年齢が60オーバーで、仕草がおっさん臭く、筋肉痛が二日後に出てくるからってまーだぴちぴちの18歳だぞ。万事理解した上で承知しているが何か問題でも?」

 友人知人の間では完全におかしなオッサン呼ばわりされていて人知れずグロッキーになった事だって有るんだぜ。ていうかぴちぴちっていうのもかなり死語だな。

思えば中学校入りたての時、素に最上級生と間違われた時から始まったおっさんロードも苦節6年。小学校に通ったのと同じだけの年月を歩いてきた訳だ。

まさか30歳に間違われるとは、と高校入る直前の出来事を思い出し暫し感傷に浸る哲。思い起こせばあの時はやたらと義妹を欲しがる友人が側に居た。

そう考え始めると哲の対人関係に於ける基本的なスタンスである狭く浅く、という付き合い方によって中学卒業以来付き合いの無い友人たちの顔が次々と思い出され胸がいっぱいになった。俺の思い出には野郎との付き合いしか無かったという絶望的な事実で。

「問題は確かに無い。しかし本当にそれで良いのかお前は?」

「……え? あ、ああうん別に良いぞ。ただ血が欲しくなったらちゃんと言う事と手加減して吸う事。この二点を守れるならな」

 献血みたいな物であると思えば大した事は無い。今までのを鑑みる限り針を刺されるときの様な痛みも無いので、注意すべき点があるようには思われない。

 エヴァンジェリンは俺の目を見たまま全く視線を動かそうとしない。瞬き一つせずドライアイの心配をしそうな程だ。

そんなエヴァンジェリンに哲も負けじと目線をエヴァンジェリンに固定したまま動かない。メンチの切り合いでは無いが目を逸らしたら負けの様な気がしたのだ。

とっくにお茶を拭き終えていた茶々丸の見守る中、沈黙が続き一分が経った。

そして哲は激しく目を逸らしたい衝動に駆られていた。

負けたような気がするという理由で始めた見つめ合いだ。この時点で既に負けている。

そもそも対人恐怖症気味な俺には難しすぎた、と目を逸らした後の言い訳まで用意する辺り負け犬根性が根強かった。

「分かった。なら今直ぐ血を吸わせろ」

 哲がプライドという鎧を脱ぎ捨てて脱兎の如き逃げ足を披露しようとした直後エヴァンジェリンの方から声が掛かった。

「べ、別に良いぞって何度も、っておいお前顔が近いぞ普通はそこ腕からとか……っておい聞いてるのか!」

「喧しい、貴様が良いと言ったんだ。黙って吸われてろ」

 哲は息苦しさから一刻も早く逃れようと勢い良くバスローブの袖を捲っていくが、エヴァンジェリンには哲の意向に沿うつもりは無い。音もなくテーブルの上に乗り上がったかと思うとその小さな口を広げて哲の首筋に食いついた。

少女の容姿には相応しくない鋭利な光を放つ犬歯がぷつっという音をさせて肌を破り、温かい血がエヴァンジェリンの口腔に広がる。瞬き程の間に舌を、歯を濡らし歯茎や頬の内側に留まらず歯と歯の間まで滲み込むような錯覚。続いて感じるのは旨味だ。極上の肉の様に濃厚で花の様に香り高く茶々丸の淹れたお茶の様なくつろぎを感じさせる、酒のように止め難く煙草のように全身に一瞬にして行き渡る。

喩えようもない抵抗を許さない味だ。例えるならどんな生き物でもこれを味わったなら二度とは忘れられなくなるとすら思えるほどの。これが吸血鬼独特の感覚なのかそれとも魔に属する者なら、いや全ての生物に普遍的に存在する感覚なのかは分からない。しかしそうとしか考えられない味だ。

その液体が歯に触れた瞬間から既にエヴァンジェリンは我を忘れてしまっている。瞳は味覚に集中するためか瞼によって隠され、力強く啜り上げるあまり下品な音が立っていることにも頓着しない辺り音も聞こえていないのかも知れない。

そうやってエヴァンジェリンが哲の血を無我夢中で吸っている最中、哲もまた我を忘れそうになっていた。

哲の反応は凄まじく、エヴァンジェリンの吐息が首筋に触れた瞬間から始まっていた。

「っっっっぁ」

 声を挙げる隙もなくエヴァンジェリンの腕が哲の背中に回る。それは万力のように強い力で哲を縫いとめ体を動かすことが出来ない。

哲が無意識に立ち上がりかけると今度は腕を使って体にぶら下がるエヴァンジェリン。そのまま滑らかな動きで足を尻の方まで回す。如何あっても離れまいという意思が伝わってくる。

そのような状況にあっても尚哲の体の動きは止まらない。それもその筈だ。哲の動きはその全てが不随意、つまり哲の意図した物ではなかった。

ピンと体を伸ばし頭から爪先まで反り返った格好。エヴァンジェリンを抱えたままであるにも関わらず地面を転げまわり、それでいてエヴァンジェリンの頭を地面にぶつけないように出来るだけの注意を払って自分の頭を着地させる。

ガスッガスッという音が続き、それが落ち着けば、

「ハアッ、ハアァ…うっ!!」

 という哲の声。

聞いているだけなら完全に犯罪現場である。しかし唯一の目撃者である茶々丸は眉ひとつ動かさずに犯行を見守るのみだけだった。

「エヴァ…ンジェリン! エヴァンジェリン!! く…そ聞いてんのかエヴァンジェリン!!」

 痛みで気が紛れたのか口を開く余裕を取り戻した哲がエヴァンジェリンの耳元で叫んだが、結果は芳しくない。

「だあっ! この痴呆吸血鬼、さっき自分で言ってたこともう忘れたのか? お婆ちゃんかお前は…………ああ、くそ…うあ。もう、どうすればいいの…はあ、やら」

 時折苦しそうに息を吐き出しながら脱出の手段を探る哲。600年を生きた伝説の吸血鬼にして最強の魔法使いに期待するところなど微塵も無い。

再び手足が哲の意識を離れ痙攣にも似た動きを繰り返し始めた。これはエヴァンジェリンの拘束の上でのもので、それさえ無かったらその何十倍も激しい動きであろう事は、哲の体に入った力を考えると想像に難くない。

どうにかして脱出しなければ。

ガンガンと痛む頭に意識を向ければまだまだ痛みのボルテージは上がりそうで。

この痛みが引いて再び体のコントロールを失えば、エヴァンジェリンが自力で落ち着かない限り更なる痛みが待っている。

予測されうる未来を全力で回避すべくその方法を模索するが、現時点で既に度々体が暴れだす。息を着く時間も無く、二度目の決壊が迫ってくる。

藁をも掴もうとする哲の目にエヴァンジェリンの金細工よりも美しい金髪の向こう側に雪よりも白い大地を捉えた。

これだ!

 他に選択の余地が無かった哲が行動に移るのは早い。

呼気を吐き出した口を閉じずに大きく開放したままエヴァンジェリンの首に接近する。女性特有の匂い立つような甘い香りが鼻を突く。長い金髪に鼻から顔を突き込むと鼻の頭が張りのある肌にぶつかった。

「きゃああああ!!」

「うがっ!」

 突然の悲鳴。

容姿相応のまことに少女らしい悲鳴を上げたのはその実年齢600歳という老吸血鬼。

哲の首に絡められていた腕に力が加わり、哲の首を後ろ側に引いていく。それを受けた哲の体は吹き飛ばされるような勢いで後ろへと後転し、椅子の背もたれから痛烈な一撃を貰った。

今度悲鳴を挙げるのは哲の順番だ。

「ぎゃああああ!」

 膝の上に乗っかった格好のエヴァンジェリンごと横にずれて椅子から倒れ落ちる。

幸いな事に首筋以外に痛みや違和感を感じることは無いので脊髄に重大な損傷は無いはずだ。

解放された手足をその無意識が命じるままにばたつかせる哲。経験したことのない首の後ろ側への攻撃は、経験のない痛みを味わわせた。

無様にのたうちまわる事しか出来ない哲は口の中で一心不乱に己の運命を呪った。

 ここ十年分の痛みがどっと押し寄せてきたようなそんなレベルの不幸っぷりだ。何が幸運だボケエエ! 、と。

 当然のことながら痛みから復帰した哲は、哲にダメージを与えたエヴァンジェリンに吠えかかった。

「何してくれてんだアホ。あんな事するか普通?! 首の骨が折れるかと思ったぞ!」

「き、貴様こそ何をする! く、首に吸いつくなど……どれだけ変態なんだこの破廉恥漢!」

 呆然として頬を朱に染めたまま立ち尽くしていたエヴァンジェリンも負けじと叫ぶ。

哲が倒れたせいで床に叩きつけられたエヴァンジェリンの立ち位置は相変わらず哲に近い。身長差さえなければ鼻と鼻がぶつかる程の距離だ。

「あの状況で他に手が有るかよ。ああ、首っ玉にしがみついた挙句に肩まで押さえつけられて、おまけにお前が全力でしがみついてるせいで引き離そうとしても蟻の子一匹通れねえほどの隙間しか空きやしねえ。それにお前言ったよな手加減しろって。三歩も動いてねえだろうに忘れるってお前はアルツハイマーか!」

「ちゃんと手加減はしておいたぞ、唯単に手加減して吸血し続けただけの事だ。お前こそ忘れたか血を吸っていいと言ったのはお前だぞ、それを先に反故にしようとしたのはお前だ!! ……それともまさかお前、心変わりでもしたのではあるまいな?」

 多量の血液を啜って上気していたエヴァンジェリンの顔色が一気に冷めていく。

元々きつめの目付きが更に鋭さを増し、ギラつきを感じる程になる。開かれていた掌も今は固く結ばれている。

いじめが有れば目を逸らすタイプの一般人・黒金哲の暴力に対する耐性は極めて低い。その上性根がビビリときてる。そんな人間が暴力の匂いを嗅いで怖じ気付かない筈が無いというのに、どういう訳か哲のその反応を別の何かと間違えているエヴァンジェリン。

青筋を立てる一歩手前のその形相は美しさ故に恐怖もまた一入だ。急変したエヴァンジェリンの雰囲気に圧倒された哲が一歩後ずさった。

「……? ちょ、ちょっと待った。お前何の話してん? 心変わりとか意味分かんないけど」

「ちっ、簡単な話だ。貴様も血を吸われて私に恐怖し、憎悪した。そういう事だろう。お前もどうせその辺の奴らと変わらんという事が証明されたに過ぎん」

 後退りを誤解されたのか舌打ちをするエヴァンジェリンに哲は泣きたくなる。

なんという暴走機関車、自分がどんな顔してるのか鏡でも見て反省してほしい。

小学校低学年の容姿の少女を恐ろしがっている自分というのも相当情けないものがあったが、体に悪い化学薬品でも被ったような刺激を感じさせる空気と、相手方の般若の様な顔を見れば誰でも同じような状況に追い込まれる自身がある。

哲はエヴァンジェリンの表情から並大抵の事では何を言っても取り合ってくれそうにない事を悟ると自棄になって言った。

「違うっつうの。何を勘違いしてんのか分かんないけど、俺は単純に擽ったかったから離れて欲しかっただけだ!」

「はあっ!?」

 目論見は成功。エヴァンジェリンは行動を停止した。

その隙を見逃さず畳み掛けるように口を開く哲。

「お前が俺に怒ったりするのはお前の勝手だし、全然構わないけど誤解されて怒られるのは御免なんで言わせてもらうが、俺は擽ったいのとかもうぜんっぜん駄目なんだ。周囲の人間からして奇異の目で見られるくらいには駄目なんだ。具体的にどのくらい弱いかって言うと普通に背中触られるだけで軽く行動不能に陥るくらいに苦手だ。それも擽ったい範囲が広くてぶっちゃけた話目が届かない範囲は殆ど駄目だ。だから背中は勿論の事脇とか駄目だし、脇腹も駄目、で首も駄目。マッサージとか言われて触られるの駄目だし肩たたきみたいな容量で叩かれても擽ったいんだ。実際マウント取られて擽られただけで何も抵抗出来ないからな。そういう訳でお前に関して思ったのは首に吸いつくのは擽ったいからってだけなんだが……それでも問題有るか?」

「いや…それは…確かにないな。しかしお前それだけの事であんなに暴れたのか?」

「なんだよ? 俺みたいな奴が擽ったいからって暴れるのは気色悪いとでも言いたげだな。擽ったくって悪いか!」

「……ああ、悪くはないが」

「だったら怒んのは止めろよな。ったく、お前はどれだけ俺に自分のことを語らせるんだよ。昨日といい今日といいつい何日か前に知り合ったばかりの人間とは思えないくらい気安く色々喋ってるよ。しかも自慢にならんことばかりを」

 エヴァンジェリンから向けられる視線には慣れ親しんだ、妙な物を見るような色が含まれている。

本当、不思議な位に同じことばかり繰り返している気がして、哲は大きく溜息を吐いた。

「貴様が勝手にペラペラと喋っているだけの事だろうが。私は別に聞きたいなどとは思っていないし、そんな事を喋らせようなどとも思っていないぞ」

「一々誤解するお前が悪い。一々怒るお前が悪い。俺は嫌いなものは無視を決め込むし、本当に苦手なものも無視するタイプの人間だ。それに顔見たら大体相手が自分の嫌いなタイプかどうか分かるからな。途中から他人のこと嫌いになることはまず無いし、初対面で嫌いになった奴はそのままずっと嫌いなままだから、俺がお前の事嫌いになったりすることはもうあんまりねえよ」

 完全に無いとは言わないのがみそである。哲にも付き合いが長くなるうちに嫌いになった人間の一人や二人はいる。

他人に対して『こういった』肯定的な意見を言う事にとにかく慣れていない哲が、友人曰くらしくない照れを見せながらそう言うと微かに笑いを浮かべながら、

「初対面の人間を顔で判断するのか。最悪に薄っぺらい野郎だなお前は」

 とそんな事を言った。

「お褒めにあずかり恐悦至極にございますってか。良いんだよ、それで。実際そういう勘は外したことないからな。嫌いな人間は近づいてみても嫌いなまんまだよ」

「それは明らかにお前が嫌ってるか嫌い返しただけの話だと思うが」

「それはまあ、有り得なくもない話だ」

 手痛いところを突かれてぐうの音も出ない哲。愚痴や悪口を言う時にでさえ声のボリュームを落とさない為に、当の本人に悪口を聞かれてしまった事は結構あったりするのである。

「まあ、お前の狭量さ加減については置いておいてだ」

「置いておくな。俺の心は青木ヶ原樹海程度には広いぞ」

「置いておいて!! だ、兎も角お前は私にこれからも血を捧げるのだな?」

 冗談で入れた茶々を黙殺するエヴァンジェリン。

今になって気付いたことだが、案外エヴァンジェリンを誂うのは面白い。

となると虐めと弄りの境が無い、というよりは完全なサドとして人口に膾炙している哲としては、如何にして不快にならない様にこういった軽口の応酬をするかというのが非常に頭を悩ませる議題になってくる。

「そりゃもう。俺が不老不死っていうんなら永遠を誓ったっていいね」

 これだって哲にとっては特に大した事のない軽口の一部だ。大言壮語を吐いてみたり、軽佻浮薄な態度を採ったり、おまけに虚言癖でも持っているのかというくらい嘘を吐く。『他人には出来るだけ誠実に』と言っている人間とは思えない、自分の発言に全く頓着しない哲の言葉に信用性の文字は無い。

しかしそれは十全に哲の事を理解している少数の友人と本人である哲しか持ち合わせていない見解だ。

「な!? な、ななななんてことを言っとるんだ貴様はあああ!」

 だからこの様に哲の意図しないリアクションというものが頻繁に返ってくるのである。

「ん? 永遠を誓ったっていい。そういったんだけど」

「ううううううう……」

 哲が自分の口にした言葉の意味を考えもせず即答すると、それを聞いたエヴァンジェリンが俯いたまま動かなくなってしまった。

前髪で遮られ、表情も分からない。しかし哲の耳には何かを耐えるようなそんな声が聞こえている。

文脈を読まず、直感的にそれをエヴァンジェリンが怒っていると解釈した哲は慌ててエヴァンジェリンを宥めようと行動した。

何も言わずに頭を撫でたのである。

「うわあああああああああ!!」

 何がしかの感情が溢れでたのか一転して走りだすエヴァンジェリン。

百メートルを一瞬で走り切るような、常人にはとても追いつけない速度で走っていくエヴァンジェリンの背中を見ながら立ち尽くすの哲の口の中で掛けようとしていた言葉が木霊する。

暫らく人形のように動きを止めた後、小さな声で「おーい、エヴァンジェリン」と、誰の目を気にしたのか形だけの体裁を取り繕うと哲は頭を掻きながらこう言った。

「あいつと話してると話が進まないのはなんでだろうね」



[21913] 第九話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:a500a0d3
Date: 2015/12/19 11:19
「あー、絡繰さん。エヴァンジェリンの奴何処かに行っちゃったけど、俺って何かやっておいた方が良い事とかある?」

 エヴァンジェリンが走り去っていった後、主導権を握っていた筈のエヴァンジェリンが不在のため、その指示に従って此処に来た俺は完全に目的を失っていた。

 他人の家にずかずかと踏み込むほどの度胸は無いので、必然的に俺は今居るこの場所で時間を潰す事になるのだが、テーブルを挟んで反対側に立っている絡繰さんから話題を振ってくれるような事は無かった。

 しんとした空気に肌がチクチクとし始めたのを切っ掛けに沈黙に耐え切れなくなった俺は絡繰さんに声を掛けた。

 エヴァンジェリンが走っていった方向を見ていた絡繰さんは機械的な動作で俺の方を振り向いてこう言った。

「いえ、マスターが黒金さんにどの様な事をして頂くつもりだったのかは私には分かりません。申し訳ありませんがマスターが戻ってくるまで此方でお待ちいただけますか?」

 出来れば今居るような見晴らしの良い場所には長居したくなかったが、建物の中に入るのも躊躇われたので頷く俺。

「それと教科書とか今持ってたりしないかな? 先生のやり方なんて分からないけど一応何やるか位知っておきたいから。勿論持ってないと思うけど一応」

 学園長との話し合いでは勤め始め等については聞かされていなかったが、そもそも先生になる為の勉強などしていない自分が教鞭を執るのなら事前準備を幾らした所で無駄になることは無いだろう。殆ど無いような知識を掘り返すだけでも黒板の書き方や授業の進行の仕方など、自分に足りないものは自分で分からない程ある。懸念はそれだけじゃない。中学校三年生の授業範囲が自分が履修したときと全く違う可能性もある。学習指導要領の改訂や学校・クラス毎の授業進度、根本的に自分の世界と学習している内容が違う可能性もある。

 流石にこれだけ文明が酷似していれば後者の可能性は低いが、100パーセント断言できるだけの材料を持ち合わせていない以上楽観は禁物だ。

 それに中学校三年生など、自分は授業の半分以上を寝て過ごしていた気がする。偏差値そこそこの公立一本で受験する自分を周りの人間は苦い顔をしながら止めていた記憶もある。

 つまりどういう事かと言うと、中学校三年生の授業について行けるかも分からないという事だ。

 学園長が自分を採用した経緯を鑑みれば、勢いだけで明日から授業を任されかねない事が容易に伺える。

 ならば手の開いている今この時を有効に活用しない手はない。

「教科書ですか? すみません、全て別荘の外に置いてあるので今は」

「謝らないで良いよ。普通教科書とかこの状況で持ってる筈無いと分かった上で聞いたんだから。どうもありがとう」

 のだが、どうもそれは出来ないようだった。

 頭を下げてくる絡繰さんを止めて礼を言う。これだけ丁寧に応答してくれるだけで十分幸運と言えるだろう。これがエヴァンジェリンとか普通の女の子なら

「あるわけ無いだろう。よく物を考えてから口を開け馬鹿が」

 位は言ってのけるに違いない。全くその通りだと俺も思う。

 しかしそうなると途端にやることが無くなってしまう。

 エヴァンジェリンから説明を受けた24時間経たないと此処から出られないという条件。

「絡繰さん、俺達が此処に入ってからどの位経ったか分かる?」

「6時間34分経過したところです。秒単位で読み上げますか?」

 余り細かい時間を言われても今欲しい情報ではない。

「いやいや、そこまでしなくて大丈夫。ありがとう」

 残りは約17時間半。徹夜明けの睡眠でもお釣りが来るほどの長さだ。

 それだけの時間を何もせずに過ごすのは、少々苦痛だ。

 何か暇を潰せるものを用意してもらおうと絡繰さんに声を掛けようとした時だ。

「すみませんが黒金さん、マスターに呼ばれているようなので失礼させていただきますね」

軽く一礼して建物の方に向き直る絡繰さんを慌てて呼び止める。

「ちょっと待って絡繰さん。エヴァンジェリンに伝言というかとにかく伝えてもらいたいんだけど、落ち着いたらさっさと戻ってきて話の続きを頼むって言っておいて欲しいんだ。半日以上無駄にするのは忍びないからって」

 伝言内容を聞いた絡繰さんは短く、

「分かりました。マスターに伝えておきます」

とだけ言って建物の中に消えて行った。

「行っちゃったよ。ああ、何してよ」

 そうして一人だだっ広い屋上に取り残された俺は、寝っ転がって空を眺めるのだった。


そうして空に浮かぶ雲を一心に見つめて、時を忘れるままにぼんやりと日向ぼっこを楽しんでいると足音の様な音が聞こえてきた。

恐らくはエヴァンジェリンか絡繰さんが戻ってきたのだろうと、立ち上がって佇まいを正す。とは言ったもののバスローブ姿の俺に正せるのはシワと乱れた裾ぐらいのものだったが。

「やっと戻ってきたか。遅いぞー、エヴァンジェリン」

 建物から出てきたエヴァンジェリンは、先ほどとは装いを変え黒い服を着ている。フリルやレースは一見して少なく胸もとのリボンがポイントになっている……ような気がする。そっちにはさっぱり疎い哲にはセーラ服とワンピースの中間の様な物に思えたが、実際はどうなのやら。黒いブーツを履いていて、スカートとの間から見える足が妙に艶めかしい。

 時計を持っていない為に正確な時間は分からないが、バキバキに固まった体の具合からして一時間以上は待たされただろう。背中から股関節、腕と指に首、それから足の関節までひと通り鳴らす作業をしながら悪態を吐く。

「私のような最高の女に待たされるんだ、寧ろ喜ぶのが当然という物だろう。それに、元はといえば貴様が……」

「マスターはご入浴後、通常よりも時間を掛けて念入りに身だしなみを整えていらっしゃいました。それもその後いつもならば私に意見を求めるような事は無いのですが、今日に限っては私に「茶々丸、どうだ何かおかしいところはあるか?」とお聞きになったりと…」

「な!? 茶々丸! 貴様デタラメを言うな!!」

「…いいえ、マスター。私は嘘は言っておりません」

「ぐぐぐ、ならばそれ以上喋るな!」

「かしこまりましたマスター」

「……ふ、ふん、まあ、とにかく淑女は色々と準備に時間が掛かるんだ」

 予想通りの返答を返してくれたエヴァンジェリンに横から茶々を入れる絡繰さん。

 主従関係というにはフランクな感じだが、どちらも不快に思っている様子もないし傍から見ていても微笑ましいじゃれ合いにしか見えない。ただエヴァンジェリンが遊ばれているという可能性も無いではないが。嘘だというなら泰然と受け流せば良いものをその辺のスルースキルは著しく低いらしい。

「まあ、冗談は置いといてさっさとさっきの続きをしてしまいたいんだが。ってどうした? なんかむっとしてないか?」

 何故か俺を見るエヴァンジェリンの目が拗ねたような目になっていて、口も横に引き結んでいる。何か機嫌を損ねる様な事を言っただろうか? からかわれていたようだから話題を変えただけだと思うんだが。

 と、エヴァンジェリンが髪の毛を一房掴んで、眺めはじめた。よく女の子が枝毛が無いかチェックするアレである。

 その間も話が進むことは無く、じりじりと時間だけが過ぎていく。

「なあ、エヴァンジェリン。なにしてるんだよ? 髪の毛そんなに気にするなんて無駄だろ」

「ああ!!?」

「そんだけ綺麗な髪してるんだしさ。女の子が枝毛を気にするのはよくあるけど、お前の場合そんな心配要らないと思うぞ。その辺の女の子と比べても別格に綺麗だと思うぞ」

「はあ?!」

「それとさ、なんだってまたそんな可愛い格好してるんだ? これから外行くなら分かるけどまだ半日以上は此処に居なきゃいけないんじゃないのか?」

「な、何を言っているんだお前!」

「何って見たままを。真実しか申さぬ口ですから」

 とっとと話を始めさせようと髪の毛を気にする必要は無いと伝えたは良いが、話がそのまま広がってしまった。脈絡もなく話を展開させたせいかエヴァンジェリンも困惑気味だ。

 いや、でももしかしたら服の話は続けた方が良いのだろうか? これから何をするのか分からないがとりあえずさっきの検査?の話をするとして着飾る必要は無い筈だ。それも俺と絡繰さんとエヴァンジェリンのたった三人しか居ない以上誰かの目を気にする必要も無い。もう無いとは思うが、もう一度大爆発を起こしたり、或いはもう一度献血すれば服も汚れる羽目になる。

 一つ考えられるとすればエヴァンジェリンにとっての平服がこれだという事だが、昨日見たエヴァンジェリンの服とは服の出来が違う気がする。当然良い方にだ。服なんか安くて丈夫で俺が気に入ればどうでも良いと思っているので詳しい事は何一つ分からないが、ざっと素人目に見た限りでも生地がずっと良いものを使っている気がした。

 ううむ、考えれば考えるほど何故こうまで着飾っているのか全く分からない。

「あー、真意を問いただしたい所だけどやっぱりそれは止めとく。とりあえず話を先に進めようぜ」

 うん、この世には明らかにしない方が幸せになれる事実も有るというし怖いから触らないでおこう。

 さて、と仕切りなおしに一言発して弛緩しきった空気を引き締める。いや、緩い空気のままでも良かったんですけどね。

「さあさあ、さっきの話の続きをしましょうか。仕事始めがいつかもわからないから最低限そっちの準備もしておきたいし」

 心配性の性なのか、まだ決まっても無いことであっても心配する事が止められない。ある程度の経験と自信を身につければこれも無くなろうという事だが、自分のスペックを考えればまだしばらくの間は無理だろうな。

 目の前の少女くらい堂々と振る舞えれるようになりたいもんだ。

「さ…さっきの続きか……で、でも急にそんな事言われても私にも考える時間が必要だ。そもそも私は別に…お前のことをどう思っている訳でもないのだぞ。……それに私は、まだアイツのことが」

 しかし、その目標にしたい少女が目の前で突然もじもじし始めた。

 しかも、顔を紅潮させて視線を足元に投げている。

 この一瞬の間に何が起こった?

 エヴァンジェリンという鮮烈なキャラクターの、初めて見る側面に戸惑いを覚える。チラチラとこちらを見る視線にも落ち着きなく髪を撫でる様子にも、未だかつて、エヴァンジェリンだけでなく全ての女性で目にしたことのない物が感じられる。

 エヴァンジェリンの独り言は小声であるために切れ切れにしか聞こえないが、その断片からも何か今までの人生で縁の無かった物の存在を感じる。

 か、勘違いでなければ空気が甘酸っぱくないか? どうしてこんな事に。くそ、甘酸っぱいのは大嫌いだ。いち早くこの空気を抜け出したい! 

 この状況を打破するためには、この空気の発生源であるエヴァンジェリンを叩かねばならない。しかし、エヴァンジェリンが何故こんな空気を発しているのか理解出来ない。安易に斬り込むのは話に深入りするか泥沼になる可能性もある。ここは話を逸らす方向に行こう。

 エヴァンジェリンに決意を気取られぬように浅く息を吸う。

「エヴァンジェリン! あのさ……」

「待て、貴様からはもう既に一度気持ちを聞いている。私とて鬼じゃない。ちゃんと返事をするからもう少し待ってくれ」

 気持ちって一体全体何の気持ちですか? 犬の気持ちですか?

 話の通じないエヴァンジェリンと俺。

 絡繰さんを見て見ても、絡繰さんはエヴァンジェリンの方を興味深そうに見つめるばかりでこちらの視線には気づいてくれそうもない。

 話が通じないのはエヴァンジェリンがおかしいのか、それとも俺がおかしいのか?

 状況についていけず混乱の極みに陥った俺はもう自分が正しいのかどうかも分からなくなってしまった。

 現状を理解するために、経緯を整理する。好都合な事にエヴァンジェリンの次のアクションまではまだ時間がありそうだ。

 確かこの時間の流れが外よりも早い空間に来て、魔法を使ってみろって言われて呪文を唱えて。此処までは何も問題なかった。それだけは間違いない。次に俺が呪文を唱えたせいで大爆発が起こって俺は気絶、エヴァンジェリンと絡繰さんは魔法か何かで凌いで起きた俺と合流。紆余曲折というか色々在ってまず、俺の体について調べることになって血を吸われて、エヴァンジェリンが我を忘れて血を吸い続けたもんだから必死になって引き剥がしたら今度はエヴァンジェリンが怒りだして、宥める為に血を吸われるのは構わないって言ってついでに俺の血なら幾らでも何時でもくれてやるって言ったらいきなり逃げ出して、二時間くらい待たされて今に至る。こんなもんだったはずだ。

 うん、徹頭徹尾普通で何処にも問題はない。ということは俺もエヴァンジェリンもこんな甘酸っぱい空気を作り出す原因は無い筈だ。

 それとも吸血鬼には人間とは違う独特の風習とか掟とかあるんだろうか?



 結局どれだけ考えても状況を収束させる事が出来なかった。

 では場の当事者である二人のうち一人が何も出来ないなら、決着をつけたのは誰なのか。至極単純な問だ。行動を起こしたのはもう一人に他ならない。

「悪いが、お前のことはまだそういう風には思えない」

 エヴァンジェリンが口を開いた時、まだ思考に没頭していた哲の頭が上がった。遂に始まってしまった。訳も分からないまま話しを聞く大勢に突入してしまい、諦観の感情が強く顔に浮かぶ。そして同時に俄には想像しがたい、しかし現在の状況にかなりの整合性を持つ可能性に行き当たる。

「お前のことが嫌いだという訳ではない。ただお前とはまだ知り合って日も浅いし、お互いのことを私たちは知らなさ過ぎる。お前は私がどんな生き方をしてきたのか、どれだけの恨みを買ってきたのかを知らない」

 間違いない。エヴァンジェリンは自分に告白をされたと思っている。それも先程の俺の一言がどうやら告白の返事を催促しているものだと思っているようだった。
絶望的状況。哲の混乱した脳ではそう言い表すほかにない。しかしそれだけでこの目も当てられない惨状の全容、その全てを表現することが可能だろう。

 そんな中、いやいやいや待ってくれよ、とただ停止だけを哲は求める。慣れない状況、想像もつかない展望。それだけでは飽き足らず、凡そ漫画のような現実に比して余程不条理で生ぬるい、そんなアクシデントまでプレゼントしてくれる己の人生の采配を決めた神に。勿論面識の有る自分の平々凡々と枯れていく超絶つまらない人生を狂わせてくれたアレの事ではない。アレは堂々と哲を如何でもいい世界に放り込んだと言っていたのだ。干渉はしてこないと見てまず間違いない。しかし、きっと何処かに居るであろう、きっと自分に好意的でない神様だ。

 哲は自分の顔が悲痛な表情に変わっていくのが感じられた。勿論その様は哲の顔を直視するエヴァンジェリンにも、その表情に込められた感情まで余す所無く伝えられた事だろう。ただ、それは致命的なまでに彼女、エヴァンジェリンの考えているものと同一ではない。

「だから…………悪いな」

 そう言って哲に背を向けるエヴァンジェリン。その背中には、とてもこの状況が単なる勘違いだったとは言えない物々しい雰囲気がある。

 真正面から、真剣に、真摯に俺の告白に向き合った。そうエヴァンジェリンの全身が物語っている。

 ちょっと待てと声に出して彼女の誤解を解きたい。しかし呆然としたまま思考だけが空転し、エヴァンジェリンに声を掛けることすら出来ない哲を置き去りにして状況が動き出す。

真実を告げるならば、今が最後のチャンスだ。彼女はとても怒るかもしれないが、勘違いをし始めたのは彼女で、最後まで勘違いをしていたのも彼女だ。きっとちょっと時間が経てば笑い話かからかいのネタにする事が出来るようになる。

 そう思っているにも関わらず、哲の喉からは如何頑張っても声が出ない。

 口から息を吸い込むことが出来ない。肺で酸素を取り込むことが出来ない。肺から空気を送り出すことが出来ない。空気が喉を震わせない。

 馬鹿な。とそう自分の事を罵倒することも出来ない。これじゃ自分が本当にエヴァンジェリンの事を好きだったみたいじゃないか。本当の本当にそんな事は有り得ないというのに。

 呼吸が止まってしまったせいで頭まで酸素が行き渡らず、視線がふらふらと宙をさまよい始めた。

 引き止めようと声を出すことは出来ず、せめてと手を伸ばそうとしても眩暈に耐えられず、上半身を支えるために膝に下ろされる始末。

 え? なんで? どうして? 俺が告白したみたいになってて……しかも振られちゃってますよ。いやいや別に振られた事に対して疑問を覚えてるんじゃなくて、あれ?

 視界の端、建物の中に消えていこうとするエヴァンジェリンに今更どんな声を出しても届かない。

 人生初の失恋がまさか誤解で起ころうとは思いも寄らず、そちらに対する当惑と失恋した(正確には振られただけ)ショックで哲の思考回路は完全にパンクした。

 もうなんかどうでもいいや

 普通であれば、まだまだ彼女を追いかけることも出来ただろう。彼女の誤解を解く為に彼女に話しかけることも出来た。しかし、いとも容易く哲の思考は諦めの言葉を口にした。

 もう、一歩も足を動かしたくない。もう一言も言葉を発したくない。

 そう思ってしまっただけで哲の体はそのとおりに全てを諦めた。
いつの間にかとても熱くなった頭を冷やすために、冷たい床に体を横たえて頭を地面に預ける。

屋外で、しかも人の通り道だというのにそこはざらつき一つ感じさせず、ひんやりとした感触。

 哲は熱が地面に移っていく感触を心地良く思いながら目を閉じた。

 人から勘違いを受けただけの事で、他人なら簡単に笑い飛ばせた筈の出来事。にも、関わらず理由も分からずにその勘違いを、結果的に認めてしまった事実が腹立たしく哲は目を閉じたままで皮肉げに口を歪ませた。

「ちょっと待ってくれよ」

 今更どんな言の葉を口にしようと全てが全て終わってしまった後では、何もかも遅かった。



 そして、気がつけば俺は麻帆良学園所有の教員寮の一室、そこに備え付けられたベッドに腰掛けていた。

 あれから結局別荘を出られるようになるまでの時間放置され、時間になると現れた絡繰さんに連れられ別荘から出た。

 そして、絡繰さんから色々と話しを聞かされたのである。

 まあ、大した事でもないので総括してしまうと俺はエヴァンジェリンの家ではなく教員寮で部屋を借りることになったと。理由を聞いてみるとそれは何やらエヴァンジェリンが自分と同居するのは気不味いだろうと気を聞かせて学園長に掛け合ったという事だった。

 もうとっくに傷心から復活していたが、誤解だったと説明するのも面倒臭く今更に感じたので簡単に了解の意を伝えた。

 エライ勘違いをしてくれたエヴァンジェリンだったが、心遣い自体は割と嬉しかったのでメモと鉛筆を貰って数言書き付けてエヴァンジェリンへの伝言とし、絡繰さんに渡してもらうことにした。

 それからエヴァンジェリンが買ってきたらしい服を渡された。バスローブで外を彷徨く訳にも行かなかったというのも有るが、単純に他人からの贈り物は大人しく受け取っておく主義だから大人しく受け取っておいた。

 受け取った服を身に纏うと少し窮屈に感じた。が、俺がいつも自分のサイズよりも一回り以上大きいブカブカの服を買うからそう感じるだけであって、多分貰った服は俺のサイズにピッタリに作ってあるのだろう。鏡で格好を確認させてもらうと見慣れない顔をして見慣れないセンスの服を来た自分が写っている。俺が選ぶよりも何杯もセンスがいい服が、見慣れない自分に着られている絵は奇妙な、他人を見ているような気分になった。

 身支度が完璧に終わり、荷物も無いので出て行く準備が整ったというのにエヴァンジェリンは姿を見せない。

 ひと通り絡繰さんに世話になった礼を言い、礼の言葉も尽きると直ぐに玄関まで歩いて行く。

「マスターは、ご自分が顔を見せない方が黒金さんも嬉しいだろうと仰っていまして」

 そう言ってエヴァンジェリンが顔を出さない理由を教えてくれた絡繰さんに扉の前に立って言う。

「あの、絡繰さん。エヴァンジェリンに伝えておいてもらえるかな。顔見せてくれた方が全然嬉しいし、お前が悪いわけでもないんだから俺に遠慮する必要ないって。それと一言俺が礼を言ってたって。また今度有ったときにでも自分からも言うつもりですけど、仕事始まるのがいつからになるのか分からないので念のため」

 それじゃあ、と礼をしてエヴァンジェリンの家を出て、扉を閉めてから後ろに振り返ると哲の目に約一日ぶりの風景が目に映る。この扉を開けてみる光景は二回目で見慣れたなんてまだまだ言えるような回数では無いが、不思議と此処を去りがたい。項の辺りがむずむずして右手でバリバリと掻き毟る。するとむずむずが脚の方に移っていったのでじたばたと落ち着きのない動きで歩き出した。

 玄関先で留まっていた足が地面から離れてその後は執着も抵抗も感じさせずにすいすいと、軽やかに動いていった。

 振り返ることも、ここ数日の生活を思い出すこともなく絡繰さんに描いてもらった地図を頼りに教員寮を目指して歩くこと数十分、夢遊病者のように力なくさ迷い歩き、何度か道に迷いながらも辿り着いて前もって受け取っていた鍵を使ってこれからの自分の部屋に入ったのだった。

 これが普通の寮ならば、管理人なり寮監なりに挨拶に行くべきなのだろうが、教員寮という性質故か設備保守などは全て寮の住人が共同で行われる事になっていて、そういう役職の人間を特別に用意してはいないらしい。恐らく内々で決めたそのような立場の人は居ても分かりやすい目印が無い為に今直ぐには訪ねていくことも出来ないので、その辺を含めた挨拶回り等は一切合切後回しにして、自分に与えられた部屋の前まで行って鍵を挿し込んで回し、そのまま鍵も抜かぬままに扉を開けた。

 開いた扉、その向こうの新居に向かって背後から風が、吸い込まれるように流れ込んだ。暫らく使っていなかったのか、鼻先を埃の匂いがかすめていった。

 靴下が埃で汚れるのも構わずに靴を脱いで部屋に上がり込む。風を通すために目についた窓を片端から全開にして開けっ放しにしていく。

 簡素な家具が置いてある部屋を冷たい空気が満たしていき、その冷気に追いつかれまいとするかのように足早に部屋を移動すると寝室らしき部屋があった。大きさは分からないが少なくとも一人寝には十分な大きさのベッドが入り口から向かって左側に設置されていて、ベッドに対して垂直方向にある窓は大きく、そこから寮の外の風景が見えた。

 そのままベッドの前まで進んでから暫らく黙考すると、俺は大きく息を吐きながらベッドに腰を下ろし、先程の述懐に至るのだった。

 今の気分を吐露するなら無気力というのが最も相応しかろう。

 エヴァンジェリンに誤解されたことも、その誤解を解くきに成らなくなったことももう心底如何でもよかった。エヴァンジェリンの家を追い出されて、新しく住むことになったこの寮も、いつ始まるかも分からない仕事も今はもう如何でもいい。

 無闇矢鱈と傷つき続ける悲劇捏造性自己陶酔型ナルシスハートが、ぼこぼこと心に風穴を開けまくったせいで、精精が人としての好意を抱いていただけのエヴァンジェリンに勘違いで振られた程度の事で、一晩はノックダウンされたまま指一本動かす気にもなれないだろうと哲は思った。

 座った姿勢のまま右手でベッドの感触を確認して、その柔らかさに満足すると出来るだけ大げさに体を倒した。

 ぼふんと音を立ててマットレスが僅かに沈み、その反動で毛布が跳ね上がりそれに合わせて大量の埃が舞った。

「ごほ……ごっほ! ごほ」

 予想外に埃の寮が多くその多くが驚いて息を吸い込んだせいで呼吸器に吸い込ま
れて咳き込む。目にも埃が入って痒いやら苦しいやらで更に埃を立てながらベッドの上で悪態をつきながらのたうち回る。

 咳を耐えることは出来そうになかったので窓を開けた向こうにあるベランダの柵に埃を含んだ毛布を投げ飛ばし、マットレスを退かした。

 外の新鮮な空気を取り込み痒い目を擦る。何か対処を間違えている気もするが、態々手を洗いに行くのは面倒くさかった。

「ああ、くっそげほ…ぐ……本当…ごほ……面倒くせえ」

 やっとの思い出息を整えるとマットレスの無くなったベッドの基礎部分、ボトムの上に、今度はゆっくりと横になる。金具や板が音を立てて軋みマットレスとは比較に成らない硬さだったが、この際床の上でなければ何処でも良い。とにかく横になりたかった。

 横になって深呼吸を繰り返すと頭の中までリフレッシュされて、すっきりしてくる。数分の間それを続けていたので真冬の寒気で手足が凍えてきた俺が縮こまって寒さに耐えているとすーと体から力が抜けていくのが感じられた。

 体が脱力していくのに任せるまま縮こまらせていた体躯を伸びやかに逸らしながら寝返りを打つように窓のある方向を向く。

 時間が時間だけに明るさなど一片も無く、寒々しさ以外に心に何も湧く物の無い光景にポツンと浮かぶ白い毛布…………?

 眠気に閉じられかけていた目を左右に往復させてベランダを眺めてもそれらしき形どころか色調も見つけられない。このまま微睡む訳にもいかず、仕方無しにボトムから体を起こしてベランダに出て行くと、首を出してもう一度確認する。

 やっぱり毛布は見つからなかった。

 この時点で布団が有りそうな場所など一箇所しかない。失敗に次ぐ失敗というか自業自得とこれからの面倒くさい労働を思うと自暴自棄な行動を悔いるしかない。

 サンダルは無かったので渋々玄関から靴を持ってきてベランダに出る。

 案の定手すりから顔を出して首を地面に対して水平になるようにすると、黒い地面に落ちた寝具の姿が有った。

「やっぱりこうなりますよね」

 バーカバーカ、と落ちた寝具か自分にか野次を飛ばしても毛布が一人でに此処まで戻ってくるはずもない。

 もう一度、今度は明確に自分に向けてバーカと言ってから部屋を出た。

 階段を降りてロビーから外に出て、自分の部屋のベランダの直下を目指す。帰宅時間帯を過ぎているのか幸いに人気は無かったので、人に見つかって恥ずかしい思いをする前に部屋に引き返した。

 毛布を抱えたまま後ろでに扉を閉めてほっと息を吐いた。なんというかとても疲れたのだ。

 靴を脱いで部屋に上がり、毛布に土や埃が付着していないことを確認してからマットレスの上に置いて徐ろにキッチンに向かった。

 そういえば随分と長い時間飲まず食わずだったことを思い出して、これも部屋に置いてあったコップを持って蛇口を捻った。

 水道が開通しているかどうかは実家から出たことのない哲には疑問だったが、心配は杞憂だったようで直ぐに綺麗な水が蛇口を通ってシンクを濡らした。

 水流に指を突っ込んで冷たさを確かめてからコップの縁ギリギリまで水を貯めてそれを一気に煽る。コップから体までほぼ真っ直ぐに傾けた結果、コップの中身は一瞬で口の中に落下。喉を激しく鳴らしながら水を飲むと体から熱が出ていってリラックスした状態になった気がした。もう一度コップを水で満たして今度はゆっくりと口の中を濡らす様にして水を飲む。飲み終わったらコップを置いて改めて部屋の中を見渡した。

 十分な広さを持った居間(洋風な造りをしているのでダイニングというべきか?)と、矢張り狭いとは言えないキッチン。色々と扉を開けてみると、どうやらトイレも風呂も個別の物があるし、ユニットバスではなくきっちりとバストイレ別だ。各部屋にそれぞれ電源も用意されていて、壁のモデムを見ればネット環境も備えているらしい。それに加えて来る前から置いてあった家具の数々。着の身着のままの哲であったが、椅子もテーブルも、食器、掃除用具、冷蔵庫、冷暖房機、炊飯器と電子レンジ、コンロと調理器具。とりあえず思いつく限り生活必需品と呼べるような物は殆ど置いてある。

 実家暮らししかしたことのない哲にはこの部屋が良いものかそれとも普通なのかの判断は出来なかったが、自分の想像する寮という物よりも格段に好物件だと言えた。

 掃除の事を考えると広いのも考えものだったが、そもそも教師をする為に貸し与えられた部屋だ。もしかしなくとも掃除をする機会を迎える前に此処を追い出される可能性も当然ある。取らぬ狸の皮算用、そういう事は精精努力をして此処に定住できるようになってから心配すればいいだろうと忘れることにした。

 ざっと間取りを把握した所で、さて次は何をしようかと考え始めたとき来客を告げるチャイムが部屋に鳴り響いた。

 来客に心当たりが有った。多分学園長の使いの人かこの寮の人辺りだろう。

「今出ます」

 念のため覗き窓で扉の前に人が居ないことを確認してから扉を開けると若い男が立っていた。

「君が黒金哲君かな? 初めまして。僕の名前は瀬流彦。学園長から君が慣れるまでの間色々と世話をするように言われてる者だよ」

 哲にそう自己紹介した男は、別段気安い笑みを浮かべて哲に驚く事もない。

 普通なら俺の若さに驚くと思うんだけどな。と思ったが、何時までも疑問顔で黙っている訳にもいかない。出来るだけ笑顔を意識しつつ自己紹介を返す。

「黒金哲、18歳です。よろしくお願いします」

 念のため年齢まで口にするが、それでも男に動揺した気配がない。

「大丈夫だよ。その辺りの事情含め説明されてるからね。それにそっちの事以外でも君に報せることが有ったから僕が選ばれたんだ」

 哲が顔色を伺っているのに気付いたのか苦笑しながら男、瀬流彦はそう言った。哲がカマを掛けた事も気にしていないようだ。

「えっと、こんな所で話をするのもなんですからどうぞ上がって下さい」

「はは、悪いけどそうさせてもらうよ」

「って、すいません。部屋中の窓開いてるんで閉めてきますから、上がって待っていて貰えますか?」

 換気の為に窓を開け放しておいたが、外の空気はかなり冷たい。自分一人なら寒いのも平気なので放っておくところだったが、これから世話になる人に寒い思いをさせるのも忍びないので、瀬流彦には待ってもらうことにして窓を閉めて回り、瀬流彦の待つ居間に戻った。

 テレビラックの中に置いてあった幾つかのリモコン類の中からエアコンのものを選び出して、暖房を入れ瀬流彦の正面に座った。

「では、改めまして黒金哲です。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」

 やや緊張気味の哲に対して、相対して座っている瀬流彦はくつろいだ雰囲気を崩さない。物腰も柔らかくにこやかな笑みを浮かべる瀬流彦を前にして恐恐とした気持ちで会話を開始した。

「それで、これから俺? あ、いや私はどうなるんですか?」

 慣れない相手、というよりも仕事の話をしに来た目上の人間に対して余談を繰り広げるようなおおらかさは哲には無かったのでど真ん中直球ストレートを放る。

 と、同時に今の異常な状況に戸惑いを感じ無い訳にはいかなかった。

「そんなに鯱張らなくても良いよ、君を取って食べたりはしないから」

 心境的にとても笑える状況ではない哲の目の前で笑えない冗談を言いつつ、瀬流彦は自分の発言にあははと軽く笑った。

 これはアレか? もしかして瀬流彦さんはそっちのけでもあるのか? それとも単なるジョークか? そもそも人間とは思えない学園長を覗いてこっちの世界で逢う初めての男だからこういう普通の対応一つ一つに対して恐怖感が拭えねえよ。

 もしも世界標準が学園長の様であったなら、というある意味で最悪の可能性。それが一瞬でも頭を過ぎったら、もう哲に油断する事など出来ない。あんな理性と常識に真っ向から喧嘩を売る様なハッチャケ方をされるとその標的或いは被害者になる自分としてはとても心臓が持ちそうに無いからだ。

「そ、それでその、学園長からこれからの事については何が?」

「それについてなんだけど、まず君には明日から二週間の職業指導を受けてもらう。指導に関してはその時々で手隙の先生にお願いしてあるかららしいから、多分一時間毎位に違う先生に教わることになると思う。大丈夫? ちゃんと聞こえてるかな?」

 瀬流彦がそう言って哲の顔を見た。

 慌てて返事を返す哲。

「あ、えと、その大丈夫です。二週間研修を受けるんですよね?」

「そうそう。いやボーっとしてるように見えたからね。話の腰を折って悪かったね」

 こちらこそすいませんと頭を下げながら、内心の動揺、拍子抜けした事を悟られないように顔色を繕う哲。警戒していた割に瀬流彦から伝えられた事柄がまともな内容だった事に気落ちというか、肩透かしを食らってしまい思わず間の抜けた顔を見られたのだろう。

 心配事の無くなった哲は浮かし気味だった腰を今度は深く沈めた。

「その二週間の間に少しずつ、先生方の授業を見たり、教育実習生みたいに一時間だけ授業を持つこともあるかもしれないからそういう心構えをしておいた方が良いよ」

「う、そうなんですか? 分かりました。出来るだけ頑張って勉強しておきたいと思います」

「まあかなりの無茶だって先生方も理解しているだろうから、そういう時でもフォローをしっかりしてもらえると思うよ。明日の職員会議で君の経緯も知らされるだろうし、学園長に振り回されるのはこれが初めてじゃないからね」

 やはり、ははっと笑う瀬流彦。今度の笑みは何処か苦味を含んでいるように見えたのは気のせいではないだろう。

 神楽坂と言い、瀬流彦さんと言いあの学園長、一体何をしたんだ? 不思議と隔意とか嫌な物を感じさせないのが然りげ無く凄いけど、完全にまともな性格してないだろ。思えばエヴァンジェリンの学園長に対する態度も雑な所があるし、どうやって付き合っていけば良いんだろうか。雇ってくれた恩もあるし最低限付き合いを持った方が良いとは思うんだが。

何を思い出したのか行動を停止した瀬流彦に、どう反応を返したら良いものか分からない哲が黙りこくると一瞬部屋の中が沈黙した。

「言っておくけど学園長はとてもいい人なんだよ。物凄い功績を立ててるし、魔法使いとしての力だって本国からかなり高位のランクを付けられてるんだから。人望も厚いし、とても優しくてね。この学園には結構な数学園長からの援助を受けて学生生活を送ってる生徒が居る位なんだよ。…………ただね、時々言語に絶するお茶目をするだけの話なんだ」

 流石に甘いマスクが崩れて疲れた顔を見せながら慌ててフォローに入る瀬流彦の言葉に思わず、それは見逃しちゃ不味いだろ!! と突っ込みかけたが、苦笑いを浮かべるに留める。ただ、場を硬直させまいと大変ですねとだけ言っておく。

「それと並行する形で書類仕事なんかも教えて行くことになってる。だから君が副担任として受け持つ二年A組の生徒達と顔を合わせることになるのは多分それら全部が終わった後だから、二週間後って事になるのかな。それまでに最低限教師として必要な技能知識の詰め込みを終える予定だから相当の難行になるだろうけど頑張ってね」

「分かりました。出来るだけの努力をして、生徒になる子達に迷惑を掛けないようになりたいと思います」

 瀬流彦の顔を見てはっきりと言い放つ。此処に来てそんな事出来ないだのほざいた所でどうにもならないのだ。自分が生きて行く為にも、拾ってくれたエヴァンジェリンに恩を返す為、生徒になる宮崎さんや神楽坂の為にもどうにかこれだけはやり遂せなければならないのだから、ここはいっそ自信過剰な位の姿勢で。失敗したときの惨めさが増せば増すだけ失敗は出来ないのだ。

「そういえば、さっき言ってた瀬流彦さんが選ばれた理由っていうのは?」

 話が一段落着いたみたいだったので先ほど妙な言い方をされて引っかかっていた部分について聞いてみることにした。そっちの事以外というのは何のことなのか?

「薄々気付いてると思うけど、もう一つの用件っていうのは魔法関連の話の事さ。この学園内での魔法使いの事に関しても話をしておく必要がある」

 確かに想定通りの内容だ。エヴァンジェリンの所から追い出された今、自分がどのようにそちらと関わっていくことになるのか出来るだけ早い段階で知りたかったことでもある。

 関わる必要が無くなるならそれは御の字だ。君子危うきに近寄らず、危ないことは出来るだけ対岸の火事で在って欲しい。エヴァンジェリンの別荘での一件も有ることだしな。

 あれだけの惨状を創りだしたのが自分であるという認識こそ薄いものの、焼けた床と荒れた構造物はどれだけの危険な威力であったかまざまざと想像させる物だっただけに特別近寄りたいものではない。

「その話をする前に、どうだい? まだ夕食を食べていないだろう。何処かに食べに行かないかい?」

「それって外で話をするって事ですよね。大丈夫なんですか? そんな事して」

「それが大丈夫なんだよ。周囲の人間には他愛のない話をしている様に見せかける魔法があって、それのお陰で僕達魔法使いは密室でなくても安心して密談が出来るって訳なんだ。それで、君はどうしたいかな?」

 ぬぐぐ、どうしてそうまでして俺に決定権を委ねようとするんだ? これが大人の余裕というモノか。どっちでも良いですなんて言いにくいじゃないか。しかも、腹具合もかなり切羽詰ったところまで来ているらしく、話の最中から腹がなりそうな前兆が現れている。出来れば今直ぐにでも何か食事を摂りたい。

「正式な教員としての着任には少し早いけど、お祝いも兼ねて今日は僕の奢りだよ」

 マジっすか!? 太っ腹すぎます瀬流彦さん! 初対面の人、しかも野郎にこの優しさ。尊敬に値するね。勿論ゴチになります。

 着の身着のままの状態、しかも財布を焼失してしまったので現在の所持金、及び資産共に0。突然の幸運はまさに地獄に仏である。一もニもなく哲は縋りつく。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂いて。本当に有難うございます。明日の朝まで水しか飲めないものかと覚悟してましたんでとても助かります」

「よし、それじゃあおすすめのお店があるから其処に行こうか」



 と、言われて着いたのが現在、美味しい肉まんを頂いている店だ。

「ひええええー。凄いですねえ、人気が。時間のせいも有るんでしょうけど一杯じゃないですか」

「此処の料理人が中学二年生ながらにしてこれだけのリピーターを持つ凄腕の子でね。それだけじゃなく、人が多くても嫌な空気が無くて活気があるから頻繁に来る人も居るぐらいだよ。それなりの割合でさっちゃん個人のファンも居るんだけどね」

「さっちゃんですか?」

「ああ、その凄腕料理人の名前が四葉五月って言ってね、皆親しみを込めてさっちゃんって呼んでるんだ。ほら、そこにいる子がそう」

 瀬流彦の案内に従って哲が歩いていると、商店街や学生寮の密集している地域から少し外れた学校よりの開けた場所に、黒山の人だかりが出来上がっていた。

 わいわいがやがやという楽しげな話し声が幾つも重なって一つのうねりとなって、遠くにいた時から簡単に人の気配が読み取れた。それと同時に食欲を誘う芳しい匂いが漂い始める。

 更に近寄ってみるとさながら地元の小規模なお祭位の規模で人が集まっていて、哲が反射的に仰天の声を挙げると瀬流彦から解説が入れられた。

 これだけの人が食べているなら味のほうもかなりの期待が出来る。

 今まで抑えていた腹の音が匂いに誘われたのか鳴り始め、それも喧騒へと掻き消えた。

「あの子がですか? 本当に子供じゃないですか」

 瀬流彦が指し示した方向を見ると電車を改造した屋台の中で忙しく包丁やお箸を振るっている少女が見て取れた。

 身長は低め、髪には幾つかのリボンが着けられコックコートを着込んで、美味しそうに食事を楽しんでいる人を見つめては幸せそうに微笑んでいる。柔らかな風貌を備え、手つきも丁寧そのものだ。

「一口さっちゃんの料理を食べればその考えも変わるよ。それじゃあそこのテーブルを取っておいてもらえるかな? 幾つか料理を頼んでくるよ」

 分かりましたと頷いて誰も座っていないテーブルを確保する。

 椅子に座り、瀬流彦がさっちゃん、四葉五月に注文をしているのを尻目にテーブルに肘をついて顎を支えながら溜息を吐く。
 人と会っているだけなのに結構緊張してるな。これから先副担任として仕事が始まったら相手は男ですらないって言うんだから、早めに慣れないとな。

 教師になることなど一度として考えたことのない自分には全く想像の出来ない、未知の世界だ。それも、今まで会ったような特殊な事情を抱えていたり、スペシャリストと呼べるような才能を持った生徒など、生徒の方も一物抱えているような子達ばかりに違いない。

 考え及ばずおちおち落ち込んでもいられねえな。宮崎さんや神楽坂が普通の子であることを祈ろう。

「お待たせ黒金君」

「あ、はい。ご馳走になります」

 手を引っ込めて姿勢を正しながら瀬流彦を見ると丁度、持っていた蒸篭をテーブルに置いた所だった。

「とりあえず一番最初は超包子特製の肉まんを食べてみるといいよ。特にオススメの商品の一つだから」

「分かりました。じゃあ、頂きますね」

 瀬流彦の勧めを素直に受け入れて肉まんを摘み、温度を確認しながら齧り付く。

 猫舌なので、くれぐれも中から肉汁が出てきて火傷する事など内容に細心の注意を払いつつ咀嚼、下の上で食材を転がす。

「うっわ!! え、まじで? これめちゃくちゃ美味いですね!! もう、なんていうか……ええ、美味いという以外に……形容出来ません!!」

「うんうん、美味しいのは分かったから落ち着いて。食べながら感想を言ってくれなくても良いから」

 と引き気味に瀬流彦さんに止められて、はっとした。ええ、見事に我を忘れていました。完膚なきまでに。

 この体中を駆け巡る感動の嵐をどうすることも出来ず、それを表現できない悔しさに涙しながらも肉まんを頬張り続けあっという間に食べ終わってしまった。

 このふわふわかつもちもちの皮と、それに包まれた豚肉、玉ねぎ、椎茸、筍とその他見当のつかない食材各種と調味料で作られた具。この二つの抜群の相性と更に蒸されることで肉から出て皮に閉じ込められた肉汁。そしてそれら三つが口の中で融合される時の味覚。っク、コンビニの大量生産品程度で満足してしまっていた事が悔しいぜ。世の中にこれほどの肉まんがあったとは。

「ちょ、ちょっと泣いてるけど大丈夫かい? 黒金君」

「ええ、何の心配も要りません。ただこの並外れた美味しさに感動しているだけなんで」

 そこまで喜んでもらえるとは思わなかったな。と汗を掻く瀬流彦さんは見なかったことにしよう。ついでに真面目に涙を流している俺自身も。

「すいません、取り乱しました。それで、食事中なんですけど話を進めて頂いて良いですか?」

 そのまま瀬流彦さんの目を忘れて料理に舌鼓を打った後、正気に戻ってから哲は慌てたようにそう話を切り出した。

「そういえば、そうだったね。それじゃあ、食べながら話しをしていこうか。ああ、それと誤認魔法を使ったからこの席での会話は周囲の人には全く別の話題に聞こえるようになってる。周囲に聞こえる会話と齟齬の出る態度だと怪しまれるから出来るだけ普通に会話して」



「と、ここまでやっても話自体はそんなに複雑な物じゃないんだ。ただ、この学園には多くの魔法使いの先生、魔法先生や生徒である魔法生徒が在籍しているけどだからと言って全ての人がそうという訳じゃない。だから普段生活している上では普通の人達には絶対に魔法の話をしたり、魔法をバラしてはいけないって事。魔法を一般人にバラした場合最悪オコジョ刑を受ける事。この二つの事項だけなんだ。それと、話が変わるけど暫らくの間は君が魔法を習う事はないって事」

「そうなんですか?」

 ほんの少し、瀬流彦さんが目を細めるようにしてこう言った。

 前半の話に関しては言われずとも、そんな物だろうと憶測を立てていたが後半、俺に魔法を教えないというのはどういう事なのか? 現実の時間では2時間も経たない間に魔法の講義を受けようとしていたにも関わらず、それとは全く反対だ。エヴァンジェリンが学園長の意向に反して俺に魔法を教えたとでも言うのだろうか?

「学園長にエヴァンジェリン君の方から連絡が有ったときに、君への指導は彼女が行うからこちらでは手出ししないようにって言われたんだけど、一緒に当分はそれも出来ないって言われた」

 瀬流彦が興味深げに目を光らせ哲を見つめた。

「高畑先生も珍しがってたんだけど、何かあったの?」

 完全に食事の手を止め、瀬流彦さんが俺に集中するのが肌に感じられる。でも、心当たりの無い俺としては瀬流彦さんがそうまでする理由が理解出来ない。

 あの別荘の中での事を思い起こしながら、箸で料理を掴んで口へと運びつつ答えた。

「ええと、簡単な説明を受けて試しに呪文を唱えてみろって言われたんで、言われたとおりに言ってみたら次の瞬間大爆発しました」

「大爆発?」

「はい。なんかエヴァンジェリンに危うく死にそうになったって怒られました」

「エヴァンジェリン君が? 死にそうに?」

「そして気付いたら気絶してたんですけど。何か問題有りました?」

 大した事無いだろうと思っ打ち明けた事実で、思った以上に深刻な顔を瀬流彦。

 いや、確かに殺しかけたのは不味いんだろうけどそういう深刻さでもない。何か悪夢でも見たかのような顔色をしている。

 心ここにあらずといった感じだったので話しかけると、瀬流彦は頭を強く振ってから笑顔を作った。

「そ、そんな事ないよ。平気平気、ボーっとしちゃっただけだよ」

 如何に鈍感というか人の機微に疎い俺でもそれは無理があるだろうと思われる誤魔化し方だったが、突っ込むのは躊躇われる。

 追求するかしないか考えているうちにすっかり持ち直した瀬流彦さんによって、その話題は流れることになった。

「そ、そうだ! それで明日は君の紹介も有るから8時迄に学園まで来て欲しいんだけど、道とかは分かるかな?」

 最終的に必死に額に汗を浮かべている瀬流彦を見て哲は、詮索することを諦めた。教えたくないというならきっと、知らない方がいい事なのだろうと。

「まあ、はい。多分大丈夫だと思います」

「もし駄目そうだと思ったら7時半までに僕の部屋まで来てくれれば連れていってあげるよ」

「分かりました。有難うございます」

「それじゃあ、これで話は切り上げて食事を楽しもうか」

 これで瀬流彦の言ったとおりこの話は終わり二人で食事をしたのだが、終始瀬流彦の態度はおかしいままだった。



[21913] 第十話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:690d13be
Date: 2015/12/19 11:19
瀬流彦との出会いの翌日から、宣言通りに始まった特別研修。文字通りに教育についていろはも知らない俺を、急造とはいえ授業が出来る様に教育するための特訓。
時間毎、或いは二、三時間同じ教師が空き教室で俺に最低限身に付けなければならない知識を叩き込んでいく。

他の学生達と一緒にチャイムで始まってチャイムで終わるそれに学生時代を思い出したのもつかの間、凄まじい速度で進んでいく研修に完全に取り残されるという醜態を晒してしまった。

それもその筈だ。たった二週間で出来ることなど高が知れているし、時間だって1日12時間やった所で168時間しか無いのだ。並大抵の速度では最低限の知識を身に付けることも覚束無いだろう。幸い小難しい教育法などに関しては現時点では本当に最低限のことしかやらないらしい。とりあえず問題を起こさなければ大丈夫だと素人考えをしている俺だったが、とにかくこれ以上学ぶことが増えれば俺の頭は完全に持たなくなるだろう。他にも諸々の心配事は全て頭の片隅に押しやって一時間一時間出来るだけの集中力を持って机に向かった。

とは言え、しばしば耳にされる事だが日本の大学は入った後が非常に楽だ。俺が通っていた大学は偏差値こそ低くは無かったが、余り真面目な学生ばかりとは言い難く、期末にあるテストも直前数回の授業にさえ出ておけば範囲なり何なりが指示されていて、そこだけテスト直前に勉強しておけば単位は貰えた。テスト直前以外は基本的にバイトに明け暮れ、偶の休日には実験のレポートをまとめたりと学外での学習時間は乏しく、授業中にも居眠りをしている学生だった俺は見事大学生活の緩さに順応し完全な駄目人間となっていた。

で、俺の大学生活を語っておいて何が言いたかったのかというと、俺には余り長時間勉強に集中していられるような能力が無かったということである。
もう、とてつもなく眠い。半端ではなく眠い。この上なく眠い。何はさておき眠いのだ。

真剣に教鞭を振るう教師達を前にして欠伸をするのは忍びなくシャーペンで手を刺したり、太腿を抓ったりと痛みで誤魔化し誤魔化しその日を乗り切ったものの、家に帰ったら今度は微塵も眠くならない。

風呂に入ってからベッドに寝転がり就眠の準備は完了。後は明日を迎えるだけというのにおめめパッチリである。仕方なしに30分ほど散歩に出かけて来て体中の感覚がなくなるほど体が冷えてから部屋に帰って、毛布に包まると漸く意識を失うことが出来た。

翌日母胎の中の胎児のように丸まった姿勢で目を覚まし、目を閉じる前より冷たくなっているんじゃないかという体をシャワーで温めてから朝食を摂った。
何も考えず、テレビも音楽もない朝食を5分で済ますと暖かい毛布からの誘惑を断ち切るようにして部屋のドアを開けた。

季節は冬。それも2月真っ只中だ。自転車に乗れば耳がちぎれそうになるほどの朝の冷気を胸いっぱいに吸い込みながら、この世界に来た初日の様に物珍しそうにしてあちこちを見渡しながら学校までの道を歩いていった。

家に居ても落ち着かず、余計なこともせずに出てきてしまったせいか学生達の姿は見えない。勤め人の姿を探してみたが、流石学園都市。しかも教員寮は学校にもかなり近いせいも有ってか人っ子一人見つからなかった。

雀のさえずりを聞きつつ誰も居ない場所を歩いていると言い知れない開放感が湧いて来て気分が徐々に高揚していくのが分かった。飛び上がりそうなるのを耐えながら、それでも早足になりながら昇降口へと急いだ。

周りの人間に共感を求めるのは難しいかもしれないが、こういう時自分では抑えきれないほどテンションが上がってしまう俺は、このまま昇降口の扉を開け放ち、そのままこの馬鹿でかいとしか形容できない校舎中に響きかねない大声で挨拶しかねない状態で前日に案内された教員用の昇降口のドアノブへと手を伸ばして

「………?」

引いたは良いものの扉はガチャガチャと音を立てて、開かない。

原因に思い当たらず首を捻りながらもう一度扉を引く。すると当然扉がもう一度音を立てた。

ここで故障を疑うほど俺は短絡的な人間ではない。さて何が原因だろうと思いながら踵を返す。

地平線の向こう側から顔を覗かせ始めた太陽が柔らく暖かい光で地面を照らし、鶏が鳴き出すのが聞こえた。

それだけである。考えなど何も浮かばなかった。有るとすればそれはまあちょっと寒いかなとかその程度の取るに足らない感情ばかりで何の役にも立ちはしない。

そのまま5分も過ぎただろか。いい加減一人くらい人を見かけたり、或いはこちらを見かけて声を掛けてきてもいい頃合だと思ったが、そんな気配も無い。

寒さと訳の分からなさに苛立ちを覚えたが捌け口など地面しかない。地団駄を踏んでも良かったが虚しい気分になりそうだったので断念して、今まで来た道を少し戻る。

校舎から少し離れ太い通りのある場所まで来た。ここなら学校関係者以外にも誰かが通りがかると思ったからだ。

タイミングよく誰かの足音が遠くから近づいてくる。そもそも人一人の足音がかなり鮮明に聞こえる時点でその静けさが分かるだろう。

近づいてくる足音のテンポは速く、恐らくはランニングか何かだと思えた。音の重さから女性ではないだろう。

などと暇つぶしに走ってくる人に関して推測を働かせてみた。別段自信が有ったり真面目に考えていたわけではないのだが

「な………あ!?」

驚きの声が口から漏れた。

「え?……ってあんたっ!」

殆ど同時か少し遅れるようにして走ってきた人からも驚きの声が挙がるのが聞こえた。

隠す必要も無いので素直に言えば走ってきたのは女性で、どちらかというと女性というよりも女子で、ついでに言えばツインテールを鈴のついたリボンで止めた気の強そうな中々の美少女で抱えたバッグから新聞紙が顔を出していたり、もっといえばその少女が顔見知りだったり、名前が神楽坂明日菜だったりするのである。

まさかこんな時間(と言っても正確な時間は知らない。残念ながら部屋に置いてある時計は電池が切れていたし携帯電話も電池が無くなっていた)に出くわすと思っていなかった相手に驚いた俺だったが、直ぐに持ち直して驚き顔の神楽坂に声を掛けた。

「よお、おはよう神楽坂。何してるんだ?」

言葉遣いはどうしようか迷ったがこの少女がそんな事を気にするとは思えないし、面倒くさかったので普通に話しかけると

「私は新聞配達の途中だけど。あんたこそいったいどうしたのよ?」

と、神楽坂はやっぱり年上の人間に対するものとは思えない態度で、挨拶も返さずにそう言った。

「俺は学校が開くの待ってるんだけど。何でか知らないけど昇降口開いてないんだ。ってか時間大丈夫なのか? そんなことしてて」

「アンタ今………ああ、ごめん! 私ちょっと急いでるから」

ちょうど俺が神楽坂に話しかけたところで、俺の正面を通り過ぎた神楽坂。そのまま会話を打ち切って走り去ろうとした背中に追いすがる。

やっと人を捕まえたのだ、そう易々とは逃がさない。

そうして神楽坂の背中を追いかけて言ったが、目の前を走る少女の足はなんだか途轍もなく速い。引き離されないようにと直ぐに全力で走り始めるが、距離が広がらなくなっただけで30秒、1分と走り続けたが縮まる気配が無い。

しかめた顔で神楽坂を観察すると、あちらの少女はまだまだ余力を残しているようで足音のリズムは乱れなく、規則正しくたったったったったったと地面を蹴っている。

こうなると物を聞いたりする以前にプライドの問題である。どうにか追いついてやろう。どうにかもっと早く走ろうと運動不足な体を走らせた。

何? 追いつけない時点でプライドも糞も無いって? そこは………………ご了承くださいという事で。

「はっ……はあ……っはあ」

久しぶりの運動で体の感覚が鈍い。肺は膨張と縮小を繰り返し、持てるだけの機能を使って酸素を血液に溶かし出し、心臓がその血液を体中に運んでいるが、それでも細胞に行き渡る酸素は十分だと思えず、早くも頭に回る酸素も薄い気がした。脚が重くまるで体に纏わりつく鎖のようにすら感じられた。それでも一秒、また一秒走るたびその苦しさに走ることを諦めそうになりながらも走り続ける。体の使い方が下手なせいで全く関係ない右肩が痛み出した。

そうやって神楽坂の背中を追っている事を馬鹿みたいだと思わなくも無い。待っていればいずれは人も来るだろうし、必ずしも神楽坂を追う必要もないんだ。ここで諦めて戻っても良かった。

ただ、何故かは分からないが走っているのも悪くない気分だった。楽しいといっても過言じゃない。

それに、おかしな話だが走っているうちに大分体が楽になって来た。気のせいか速度も速くなっているし回りの景色を楽しむ余裕も出てきた。

これなら神楽坂にも追いつけるだろうと思って、脚を動かす速度を上げた。

「は………………は………」

意識しないでも呼吸は自然と規則正しい、落ち着いたリズムを取り始めていて段々と、段々と速度の上限が上がっていく。

態々タイムを調べるまでもなく自分が今までよりずっと、速く走れていると断言できる。それどころかこの短時間で更に速度が増していっている。

運動など軽いお遊戯程度にしか嗜んだ事が無かったが、成程これに嵌るのも頷けるような爽快感が酸素と一緒に血管を巡って行くのが分かった。

五分も走っていないはずなのに脳内麻薬でも出てるんじゃないかと疑いを覚えるほどの感覚。

そしてぐんぐんと神楽坂の背中に近づいていくという事実。

「神楽坂」

「うわっ!! ってアンタなんで付いて来てんのよ!」

ぴったりと後ろに付いてから神楽坂に声を掛けてやるとさっきよりもかなり大きく驚いた神楽坂が、かなり強い語気でそう言った。

「いや、聞きたいことが有ったからな。さっき何て言おうとしたんだ?」

「はあ、何の話よ?」

一瞬鳥頭、アルツハイマー、ボケ等の言葉が出てきかけたが、のど元まで来ていただいたご足労を労って丁重にお帰りいただいた。神楽坂が怒り出すのが簡単に想像出来たからだ。

若年性健忘症と言えばきっと何のことか分からないだろうけど。

「さっきアンタ今………とか言っただろ。それの続きだ」

「ああ、あれ。あれはってちょっと待って」

キュッ音が聞こえるような華麗なブレーキングで止まった神楽坂は、肩に掛けていたバッグから新聞を取り出すとそれを新聞受けに放り込んだ。

「よっし終わり。あー、今日はちょっと疲れたわね」

釣られて立ち止まった俺の隣で神楽坂がふうと息を吐いた。

「で、さっきの続きだっけ? あれは………えーと、なんだっけ?」

マジでやってるなら脳の器質的欠陥を疑うようなボケを見せる神楽坂に体から力が力が抜けていくのが分かった。ずっこけて見せたい気分でもある。

「学校が開いてないんだけどなんでだって聞いただろ?」

「ああ! ってそうよ。アンタ今何時だと思ってんのよ?」

たった数度の会話を交わしただけで、本当に思い出したのか? と突っ込みたくなる程の強烈な印象を植え付けられた相手に言われたくは無い台詞だが、残念なことに俺は今何時か全く分かっていなかった。

「何時って何時なんだ?」

聞き返した俺に対する神楽坂のリアクションは溜息。俺の事を馬鹿だと思っているのが透けて見えるような反応だった。

全力で言ってやりたい。お前に溜息吐かれたくはないと。

「今は朝の5時半。分かる午前5時半よ。学校が開いてる筈ないじゃない」

「何だって………?」

「だから」

いや、ちゃんと聞こえたからそこは繰り返さんで良い。

「しかも今30分だから会ったのは15分くらい前かな」

腕時計を確認してそういう神楽坂。

となると俺が学校に着いたのは5時10分前後。そりゃ校舎の鍵が開いてる筈ないな。むしろ最初に学校に来る先生が起きてるかどうかも怪しい。

「時計見てくるべきだったな、まさかこれほど早く着いてしまうとは」

珍しいが、これまでも何度か類似の事態に陥ったことがある。俺らしい行動に逆に合点が行ってあっさりと事実を受け入れる。

とすると長ければ後一時間位は入れないのか。参った。

「まあ、なんだか良く分かんないけど私は帰るわね」

「待った。一つ聞きたいんだけど寮って此処から近いんだっけ?」

暇つぶしの相手を失うのは惜しい。出来ればもう少し相手をしてもらいたい所だ。
とっさに走り出そうとした神楽坂に質問すると、怪訝そうな顔をした神楽坂がこちらに振り返ってこう言った。

「何考えてるか知らないけど、女子寮よ、じょ・し・りょ・う!!」

「俺は性犯罪者でもストーカーでもない。なんとなく聞いてみただけだよ。新聞配達なんてしてるんだからこの辺かと思ったんだけどそれだと聞いてた場所と違うしな」

「聞いてたってやっぱり」

「この前も言ったけど俺は教員になるって言ったろ。自分の勤める学校の学生が何処から通ってきてるか位教えてもらってる。寮みたいに一箇所に固まってると尚更な」

「それなら良いけど。新聞配達はいつもだったらもっと寮の近くなんだけど、今日は特別というか。急に休みの人が出ちゃったから私がいつも担当してる所じゃなくて、休みの人が担当してたところとその隣の地域で配達したの」

「なるほど、お前って偉いやつだったんだな」

そのお陰でちょっと疲れちゃったけどねと小さく洩らす神楽坂に、かなり本気の入った言葉を掛ける俺。

「ちょ、急に何よ」

「何って偉いなって思っただけだけど。頭なでてやろうか?」

「やんないでよね」

慌てる神楽坂を褒めてやるついでにからかってやろうと手を伸ばすとバッと頭を隠す神楽坂。

おふざけでも本気で嫌がられると凹むんだぜ。などと内心思いつつも出しかけた手を引っ込めた。

「しっかしエライ速度で走ってたな。全力で走ってたのに置いてかれそうだったぞ」

途中酸欠になって意識が朦朧としていた俺と違って神楽坂は息を乱す様子もない。賞賛に値する身体能力と言えよう。

「そうかな? 別にまだ全力って訳でもないんだけど」

「あれで全力じゃないってどんだけだよ。因みに全力で走るとどの位なんだ?」
男子陸上の記録じゃないが100メートル9秒とかそんくらいか?

「あー、ちゃんと測ったことないけど。んーと……まあ普通じゃない? ってキャ! ちょ、何すんのよ」

「何すんのよ、はこっちの台詞だ! なんだあの馬鹿げた速度が普通って。人間じゃないだろ」

細かいことを考えている余裕は無かったけど車より早かったんじゃないか。世界記録どころじゃないだろ。てか車より速いとか人間業とも思えない。

噴出した俺を睨む神楽坂を見ながら事此処に至って漸く俺は悟った。どうやら魔法使いが居る云々の前にこの世界の人間は色々おかしい。

「失礼ね、私は歴とした人間よ。それに私以外にもその位出来る人結構居るんだから」

「あは、あははははははは」 

事実は小説より奇なりとはよく言うが、どうやら漫画は現実をも凌駕するらしい。確か俺の高校の時の記録が100メートル15秒とかだった筈だ。うろ覚えなんで2秒単位で増減しそうだが、、亀並みに鈍間な俺には想像する事も出来ない速さだ。

そんな俺が付いて行けたのだから今日はかなりゆっくり目に走ったのだろう。ああ、決めたよ。恥を掻きたくないので俺は絶対にスポーツやらない。

「それじゃあ私は帰る時間も有るからそろそろ帰るわ。それじゃあね」

俺が手を上げて返事をすると来たときと同じ様な速度で神楽坂が遠ざかっていく。

俺はとてもじゃないが付いていく気分にはなれなかったので校門前までの道のりを歩き出しながら後姿を見送る。

どれ位の時間が掛かるか分からないけど一時間もしない内にまた学校に着く筈だ。

となるとそれからまた学校が開くまでの間待たなければいけないだろう。

何処かの部活が朝練でもしていれば良いんだけど。

学校に着いてからの時間の過ごし方について考える必要が有りそうだったので、最悪昇降口前で寝るしかないかと溜息を吐いたが完全に身から出た錆である。虚しさも一入。その未来予想図の滑稽さも含めると膝を突きたくなる気持ちだった。

「と、そういえば…………」

丁度十字路に突き当たったところで下を向いていた視線を持ち上げて周囲を見渡す。

真冬の6時前だ。完全に太陽は昇りきっておらずちらほらと夜の気配が蔓延っている。

見たところ普通の住宅地のど真ん中。高層マンションも、店の看板も凡そ目印になりそうな物は何もない。そして見覚えのない通り。

「なるほど。あのパターンね」

言うまでもなく迷子だった。


「つかれたー。誰か助けてくれー。死ぬー。死んでやるー」

干しておいたマットレスを取り込んでから寝転がるとお日様のにほいがして一気に睡魔が押し寄せてくる。

とはいえまだ着替えても居ないし夕食もとっていない。

そのまま寝るわけにもいかずでたらめに弱音など吐きながらベッドの上でスーツを脱いだ。

ハンガーを取ってスラックスと上着を掛けてピンと伸びているか入念に確認していく。

せめて仕事始めくらいまではヨレヨレにならないようにと思って皺を伸ばしていくがずぼらな正確なせいか既に何箇所も皺が出来てしまっていた。

こうなるともうスーツを着るという習慣のなかった俺にはアイロンを掛けるくらいしか皺を直す手段が思いつかないが。

「今度やろう。今度」

永遠にこない今度に先送りしてスーツから目を逸らした。

そのまま洗面所においてある洗濯機の前まで行くと、一応ポケットを探ってからワイシャツを洗濯機に放り込む。

細心の注意を持って箱に書かれた目安から洗剤の適量を推測してパラパラと洗濯機の中に入れると、スイッチを押して肌着などと一緒選択を開始した。

直ぐ近くに備え付けの乾燥機からこの世界に来たときに来ていた、私服兼部屋着を摘み出すと適当なサイズに折りたたんで閉じた洗濯機の蓋の上に置いた。

汗っかきゆえという訳ではないが、兎に角汗でべとついた状態で洗った服を着るのを嫌っているうちにいつの間にか服を着替えるときにシャワーを浴びるような習慣が身についていたので着替えるついでに今日掻いた汗を流してしまおうと思ったのだ。

全裸になってから洗面台に嵌め込まれた鏡で自分の姿を確認する。

鏡に映ったのは見慣れない顔、見慣れない胸板、見慣れない肩。腕を上げて腋毛を確認したりとか筋肉の付き具合を確認したりしてみると以外にも感覚としては以前の自分と変わらない。

しかし、空き時間に学校の保健室を利用して調べたら身長は5センチ、体重は10キロ程度変わっていた。勿論嬉しい方向にだ。

視力も元々の値である2.0を突き抜けるくらいにはなっているだろう。なんせ保健室でとれる最大距離まで後ずさってもはっきりと一番下のマークが見えた。

多分身体能力も随分と改善されているに違いない。

毎朝鏡で自分のものとは思えない顔を見つめているうちに、なんというか自分が生まれ変わったのではなく誰かに憑依しているんじゃなかろうかという違和感が生まれてきた。

ニュアンスでしか説明できないが、自分のものだと思っていたものが不意に誰か知らない人の物とすりかえられたような感覚だ。

人の物と自分の物という線引きが妙な所で厳しかった俺からすればその違いはとても大きなもので、以前までは体内に埋没していた意識が今は肉体という服を着込んでいるような気持ちだった。

しかもその服は他人が直前まで来ていたような生暖かさと、自分の肌には馴染まない臭いの様な物が漂っている。

浴室に入って少し熱めのお湯を頭から浴びているとその違和感がほんの少し薄れる気がして、ここ何日かは風呂に入っている時間が一番の安らぎだ。

頭頂から後頭部、項、更に首を伝って上半身へ。

その後は肩で一気に枝分かれして肩甲骨や背骨の上を流れ落ちて行くのを感じていると体の心からポカポカと熱が高まって行く。暖かさ、匂い、体を伝って行くお湯の柔らかさ、肌を打つお湯の硬さ、開いた窓から吹き込む冷たい風。

そういった物に触れていると、そのままずっと浸ってしまいたくなる。

誘惑をやんわりと押しのけてシャンプーボトルからシャンプーを手に出し、僅かに泡立ててから頭髪に持って行く。

爪と指の腹で頭を洗って行きながらも、俺の頭の中はこの体についての事で満たされていた。

神楽坂との追いかけっことの一件以来俺の体が以前と違っているのか。そういう疑問が生まれていた。

当然表面的に違っていることは鏡でも見れば一目瞭然だ。そういうことではなく、気になったのは内面のことだ。

各種内臓や神経、全身を巡る血管や体を動かすための筋肉。人としての機能の具合。そういうものである。
足の速さは確かめずとも確かな答えが出ている。速くなっている。それも圧倒的に。

明らかに人間の限界を超えた速度を出す神楽坂に付いて行けたのだ。少なくともそれに準じる程度の速さがある。では、他は?

そういうものの手がかりでも掴めればと先ほどのようなものを調べたのだが、分かったのはたったあれだけの事でしかなかった。

確かに今、以前と変わらず生活する事が出来ているし、体調にも異常を感じていない。

しかし少なくとも数千年以上の実績がありそして十数年の実感が存在する肉体に比べて、変わってしまった、何の裏打ちも存在しない体の安全性は砂上の楼閣のように思えて仕方がなかった。

外傷で死ぬことはどうやらなさそうだ。では疾病は? 寿命はどの位だろうか? 

感覚は変わっていないがそれが知覚出来ないだけという可能性は? 健康診断を受けたとして、いやそれ以外にもあらゆる方法でこの体について調べたとして、人間のために作ったテストがこの体で同じように効果を持つだろうか? そもそも人間とは違う組成や組織、構造をしているなら罹る病気は人間のものではありえないだろう。

まして今居る場所に知人は居ないし、経済的地盤も存在しない。少なくとも保証された最低限の未来すら存在しない状況。

いや、でも、しかし神を名乗る男の言葉を信じるならどうだ……

取りとめもなく、限りなく育つ不安の芽に眼を向けているとドンドン気分が落ち込んでくる。下っ腹と胸の辺りが重くなってきて左手の指先が痺れた。

「ホームシックですかあ?」

だらしなく挑発するような口調で口にした言葉は浴室のタイルに反響して自分の耳に跳ね返って来た。

「飯は明日食えばいいや。風呂上がって水飲んで寝よ」

元気も苛立ちも沸かないまま、流しっぱなしになっていたシャワーでシャンプーを流した。

「うえ、まずうううう」

口に泡が入って苦かった。


「それじゃあ次の時間は担当できる先生も居ないし自習ということで、構内でも散歩してきたら良いよ」

「マジですか? 分かりました屋上はまだ行った事ないんで風にでも当たってきます」

「冬だって事忘れて風引いたりしないように気をつけてね」

特訓開始から3日後の昼休みのこと。

先生方に混ざって昼食を取っていると、若い女性教師から次の時間俺に教えてくれる筈だった先生が、風で欠勤した先生の仕事を代わりにやることになったので俺の教師役が居なくなってしまった事を教えてくれた。

言われるまま束の間の空き時間を堪能しようと未だ足を踏み入れていない屋上へと足を運ぶことにした。

高所恐怖症と高い所が好きなのは共存可能なのである。怖いものは怖いけどな。

俄かに忙しくなりつつある職員室を「若いなあ」なんて声に送られながら出て、昼休みの喧騒の中を歩いて行く。

そうして屋上を目指して歩いていると自分がまだ中学生だった頃を思い出して体がムズムズしてくるからすっかり老いさらばえたつもりだった心も良く分からないものである。

どうやらこの学校の屋上は通常の、俺が通っていたような学校のそれと異なりギャルゲ使用だったようで常時開放されており、それどころかバレーボールのコートが設置されていたりする。

流石マンモス校。それとも流石マンガだろうか。

屋上の重たい扉を開くと冬の冷たい風と頼りない陽光の歓迎を受けた。

「ボールそっち言ったよー」

「ちょっと、待ってっていったのに!」

「油断大敵だって」

おまけに女子中学生たちに遭遇した。

まあ、そらそうですよね。寒いとは言え運動できるなら誰だって屋上行きますよね。俺なんか運動しないのに来てるし。

そういえば俺も昼休みは友達数人とテニスに勤しんだな。等と懐古主義的に考えながら進退を決めかねる。

女子中学生が遊んでるところを眺めている男性教師候補。犯罪ではないがすれすれだと思います。べ、べつに断じてロリコンなんかじゃないんだからね!

思わず「悩ましい」等と呟きそうになったところで俺の後ろから鈴の音を伴って背中に衝撃が。

「ちょっと其処で突っ立ってたら邪魔でしょ。悪いけど通らせてもらうわよ」

脇に押しのけられて俺がさっきまで立っていた場所を沢山の足音が通り過ぎた。シャンシャンシャンと言う音に釣られて先頭を見れば矢張り赤い髪が。それにぞろぞろと続いて行く数十の背中。

確認するまでもなく神楽坂だろう。力加減はしているが、それでも人を突き飛ばすとは何事かと一言言ってやりたい気もしたが、もう一度吹いた風に俺の怒りは攫われてしまって何も言う気になれなかった。

押しのけられた時に踏み込んだ屋上は暖かくはなかったが、先ほどから居た生徒も合わせるとかなりの数になっており賑やかさが見え始めていた。

「……ん?」

「あ!」

人目に触れないような影にでも潜んでいようかといそいそと端に向かおうとする俺の背中に不穏な響きを含んだ声が届いた。何事かと思えば不穏というより一触即発……というよりも既に爆発四散している最中みたいだった。

「―――とにかく、今回は私たちが先よ。お引取り願うわ神楽坂明日菜」

「ちょっとあんた達、ワザとでしょ。あんた達高等部は隣の校舎の癖にどうして中
等部の校舎に居るのよ!」

「今度は言いがかりかしら。これだからおこちゃま中学生は」

黒い制服を来た少女たちとジャージを来た神楽坂たちが反目しあっていて、どうやら年長者らしい黒い制服の少女たちはこの学校の生徒ではなく、すぐ隣の学校の生徒ということらしかった。

聞こえてきた声だけで状況の分析は容易い。が、こんな状況になる流れが理解できない。2-Aの生徒達も理不尽な状況に憤りを隠せず、不満が其処彼処から挙がっている様だ。

「ふっざけんじゃないわよ。あんた達の方がよっぽどガキじゃない。年下に対する嫌がらせでここまでやる普通? よっぽど暇なのね」

「とにかくネギ先生を放すんですのよオバサン」

「ネギ先生も居るのか?」

名前は覚えていないが、クラスでも一際迫力のあった委員長の視線の先に目をやると長髪の黒い制服を来た少女に羽交い絞めにされているネギ先生が居た。

「さっぱり事情が分からん。普通教師の前でこんな舐めた真似しないし、出来ないもんだと思うんだけどな」

「見ての通りさ。彼女たちは彼のことを教師だと思っていないし、彼は彼でどうすべきか理解していないのさ」

「って独り言に返事が?」

そのネギ先生の体たらくにも驚いたが、黒い制服の子達に対する驚きのほうが大きい。

ネギ先生が10歳で身長も外国人の割に小さい(気もするだけという可能性もある。外人の子供に知り合いは居ないからな)し、仕事が儘ならないから軽視するのも分かるが、後ろからしがみついたり引っ張りまわしたり、その発言を無視しているのはちょっとやりすぎだろう。

自分も大抵教師を舐めきっていたが、ここまではやらなかったぞ。

意識的にははちょっと前まで高校生だった身として悲しくなってしまう目前の光景にボソリと口を滑らせると、直ぐ隣から返答が返ってきた。

大分屋上の端まで寄った位置でさっきまで誰も居なかったと思ったのだが、俺の後ろに付いてくる様にして歩いてきていたのだろうか? 振り返ると俺と同じくらいか俺よりも身長の高い色黒の少女が屋上の壁に背を預けるようにして佇んでいた。

その肌と同じ色をした艶やかな黒髪が風で靡くのも気にせず泰然としたその立ち姿は俺よりも大人びているくらいに見えるのだが。

「えっと確か3年A組の子だよね? 確か」

「出席番号18番龍宮真名。間違いなく後一週間ちょっとで貴方の生徒になる者さ」
冗談みたいな本当の話というやつだろう。こんなに落ち着いていて大人の様な雰囲気を漂わせている中学生が何処に居る。ところで

「どうして俺が君たちの担任になるって知ってるんだ?」

まだ神楽坂、エヴァンジェリン、宮崎さんとネギ先生しか顔を合わせていない筈なので知っている人間が他に居るとも思えないんだが。

「神楽坂が一度教室で口を滑らせてね。中肉中背、疲れたオッサンみたいな背中をしていて、溜息の似合いそうな男が自分たちの副担任になると。それにこの学校では貴方の顔を見たことがなかったからね。貴方のことを思い出したのさ。神楽坂は貴方のことをおっちょこちょいだの馬鹿だのと言っていたよ」

「あの馬鹿ツインテールに馬鹿って言われたのか? そいつはへこむな」

軽く溜息などついてから壁に手を当ててうなだれてみる。知っている人間なら猿の物真似だと分かるだろう。

「猿真似の真似だね。似ていると言えば喜んで貰えるのかな?」

「いーや、喜ばないね。激しく怒る。ってまだこっちの自己紹介が済んでないな。黒金哲です。君の言ったとおり後一週間ちょっとで君たち3年A組の副担任に就任すると思うのでどうかよろしく」

唇の端を持ち上げてみせる龍宮の仕草がまた抜群に似合っていて、年下だというのにすっかり気圧されてしまった。

こっちもかなりフランクな態度だが遠目でやりあっている少女たちと違って苛立ちを覚えないのは風格のせいだろうか。

「随分と若いみたいだけど先生も飛び級か何かかい?」

「期待されてるところ悪いけど正真正銘凡人だよ。それどころか凡人以下の可能性も濃厚です。それとその言葉遣い、俺が先生になったらやめなさい。一応19とは言え先生になる訳だし」

「それじゃあ暗に今はこのままで言いといっているように聞こえるよ?」

「そのとおりですよ。まだまだ先生とは言えないからな。立場としても能力としても。まあ、年上としては敬語を要求したい気分では有りますけど」

因みに俺が龍宮に対して敬語を、下手なりに使おうとしているのは立場からのものではない。単純に圧倒されているからだ。

「それなら黒金さんには悪いけど今はこのまま通させてもらうよ。ふふ、普通はそういうことを自分から言ったりしないと思うけどね」

言外に俺が変わり者だと言いたいようだが、そんなことはない。例え変わっていても変態という名の紳士である。ん?

「で、それで龍宮さんはアレを止める気はないのかな?」

取っ組み合いになりそうな生徒達を横目に涼しそうな顔をしている龍宮にこう聞くと

「私はお金にならない面倒事には首を突っ込まない主義だ。それにアレは日常茶飯事だから止めても無駄というか、またそのうち同じことが起きるよ」

「あ、そうなの」

女子校という物に幻想を抱いたことはないけど、好戦的というか野蛮というか現実を直視させられる。それとも俺が平穏かつ平凡に人生を過ごしすぎなだけか?

とはいえ、目の前で喧嘩が起こるのを見過ごすのも気分が悪い。怪我人がでる可能性も有るけどヒートアップしてる何人かの為に全体が巻き込まれるのも可哀想だからな。

仕方なしに諍いを止める為に歩き出そうとしたところでブーという電子音の後にチャイムが流れ始めた。

「あれ? これって授業開始のチャイムだけど沈静化するのか?」

「ああ、高等部の彼女たちはこの時間自習らしいから無理なんじゃないかな」

「ああ、そうなの。面倒くさいけどいい事聞いた」

「幸運を祈ってるよ」

龍宮の適当な応援に手だけで返事をして争いの中心、神楽坂と相手方のリーダーらしい生徒の間に割って入った。

「ちょっと失礼しますよー」

「ちょ、アンタ誰よ? 突然何なの!?」

「アンタ……ここで何してんのよ?」

両側から完全に盛り上がった二人がステレオボイスで俺に怒鳴って、釣り上がった瞳で睨みつけた。

心内でおーこわと嘯きながら二人の視線をしっかりと受け止めて、見つめ返す。応急的な処置にしかならないけど場を白けさせるのが第一の目的だ。

一旦収まってしまえば何の理由も無くこの場でもう一度取っ組み合いが起こることもないだろうし、根本的な解決は今の俺の仕事じゃない。

中心的な人物二人が硬直したためか、周りの生徒達もこちらに注目し始めた。

「とりあえず怪しい者じゃないよ。まだ正式な教員じゃないけど再来週位からこの子達の副担任になる。まあどうしてもっていうなら確認するために先生を呼んできても良いけど」

面識の有る神楽坂は脇に置いておいて、初対面である黒い制服の子に話を聞かせるために黒い制服の相手を優先する。

「ただ、先生を呼んでしまうと君たちも困るんじゃないかな?」

相手が年下の少女から年上の男に変わっても高圧的な視線を隠そうとしない少女の動揺を誘うためにそう切り出す。

「私たちの誰が先生を呼ばれて困るのよ。困るのはそっちの中坊共の方でしょ? 私たちが先にここに居たって言うのにコートを取ろうとして掴み掛かってきたのよ」

気乗りしない。全然気乗りしない。

俺はこの学校のシステムをよく知っているわけじゃないし、ネギ先生が既に同様の主張をした後かもしれない。

やっぱり早まった真似をしたなー。

「君たちが先に此処に居たってのは俺も知ってるよ。若干とは言えこの子達よりも先に此処に来たから。でも、今は授業中だ」

「それがどうしたっていうのよ。私たちはこの時間自習になってるの。自習の時間にレクリエーションでバレーボールをやってちゃいけないのかしら?」

「確かに君たちがレクリエーションでバレーボールをしていようとそれは君たちの自由だ。俺の関知する範囲ではないな」

「なら!」

「それより先に確認させてほしいことが有るんだけど良いか? 君たちはこの場所でレクリエーションを行うつもりの様だが、正規の手順を踏んで許可を取ったのか。これを確認させて欲しいんだけど。そこの短髪の子、そう君。どうだろう俺の質問に答えてくれるか?」

俺が二人を止めてから、直ぐに駆け寄ってきていた子の中から適当に選んだ人を指名した。

俺の呼びかけに気づくとショートヘアーの気の強そうな少女は、俺のほうに進み出てリーダー格らしい少女の直ぐ隣に立った。

「態々許可なんて取ってないわよ。それがどうしたって言うのよ。自習なんだから何処で何やってようと勝手でしょ?」

「んな訳無いだろ常識的に考えて。君たちの自習がいつから決まっていて、いつからここでレクリエーションをしようと決めていたのか知らないけど、ネギ先生に場所を変更するなり共有するなり連絡が来てない以上君たちがここを使用することは出来ないと思うけどね。元から場所の決まっていたこの子達の体育と、そうでない君たちのレクリエーション。どちらがここを使うべきかなんて分かりきっているだろう? それに君達学校が違うんだろ。施設が共有されてるならともかく、そういうことでも無さそうだし。その上君たちは許可を取っていないという。もしかしたら校外に出ることも許可を取っていないんじゃないか? 無断で他校の校舎に進入して、おまけに中学生と取っ組み合いの喧嘩。その理由も極めて自分勝手かつ筋道の通らないものとなれば叱責も一つや二つじゃ済まないだろうな」

最初の一言だけ聞かれないよう小声で、それ以降は出来るだけ理解しやすいようにゆっくりとした口調で語る。
出来るだけ敵意を煽りたくはないが、俺が喋っていると自然と言葉の選択や文の構成が挑発めいた成分を含んでしまう難点が有るので、どうにもならない事は気にしない。

ただ俺の言いたいことは十分に伝わってくれただろうと思うが、後は俺の知らない決まり事が無いことを祈るばかりである。

「そ、それは……」

急に語調が弱まった少女を見て悟られないように肩から力を抜く。これでとりあえず一件落着と言えるだろう。

「今からでも他の空いてる所に行った方が良いんじゃないか? 別にいざこざを起こさないなら誰も君たちを咎めたりしないよ」

「くっ。分かったわよ。今日のところはこれで引いてあげるわ」

リーダー格の少女はとても悔しげに唇を噛むと、恨めしげな視線を一度だけこちらに向けて校舎へと通じる扉に向けて歩き出した。

「ふんっ」

「ちっ」

両脇に居た少女もそれぞれ鼻を鳴らして、露骨な舌打ちをして俺の横を通り過ぎていき、他の少女たちもそれに従って屋上から退散していった。

やっとこれで静かに屋上で時間を潰せるな。次の授業までに少しはリラックスしようと思って出てきたのに緊張させられるとは運が悪かった。

どうせ4,50分しか無いから軽く見物してから寝てよう。エライ空気は寒いけど、周りを四方壁で囲まれてるせいで風は強くないしな。

「何処行くのよ?」

元居た場所に戻ろうと足を動かそうとした矢先に後ろから声を掛けられる。

「何処って隅っこだよ、隅っこ。俺もこの時間は暇だから屋上を探検するためにここに来たんだ」

「はあ? この時間は暇ってあんた何ここで今なにやってんのよ」

「教員になる為の勉強というか促成栽培というか詰め込み式学習法? 朝から晩まで教室に缶詰になって代わる代わる先生方にご指導いただいてるぞ」

今度は放っておいた神楽坂の相手というわけである。ああ、徐々に徐々に俺の事の休憩時間が削れて行く。頼むから俺の事は放っておいてーー。

「ふーん、そんなことしてるのねー」

「ああ、そうなんだよ。だから俺はこれで失礼するな」

まさにそそくさとしか形容のない素っ気無さと速度でその場を離脱しようとさわやかに片手を挙げて挨拶なんぞしようとしてみる。

さっきまでの敵対的ムードが薄れたせいで、黒い制服の子達に向けられていた関心が俺のほうに集まりつつあるのが感じられる。

なんか不審者を見るような眼と不審者を見た時の様な警戒心を露にして不審者に対するように距離を取られて不審者のように目の前でひそひそと内緒話をされているから眼と耳が付いて入れば誰でも居心地の悪さを感じるだろう。

こうなっては完全に屋上に居られるような状態ではなかった。

臆病者? チキン? なんとでも言うがいい。俺は多数の女性の中に一人放り込まれるくらいなら、周囲は全員男だけでも構わない。

女系家族に生まれ、女性が強権を振るう家庭環境に居たせいか似たような状況に置かれるとついつい弱気になってしまうのである。

「ちょっと待って。その………さっきはありがとう。一応私たちの味方してくれたんでしょ」

「黒金さん、僕からもお礼を言わせてください。ありがとうございます。僕、また皆を止められなくて」

しゅんとしたネギ先生までが出てきて俺にお礼を言い始めた。くそっ、なんか振り切って出て行けない雰囲気になってないか?

「あー、いや、その、まあ上手くいって良かったって事で。ネギ先生はこれからもっと頑張れば大丈夫ですよ。では、これで」

二人を邪険に扱うわけにも行かなかったが、多少愛想が無いくらいは許容範囲だろう。

他人の心象よりも大事な物が俺には有るのだ。何、これだけ唐突な登場をしているんだ、顔見知り以外で話しかけてくるようなチャレンジャーも居るまいに。

社交的でない性質だし人見知りも人一倍するほうだが、そんな自分を基準に物を考えることに哲は違和感を覚えたことは無い。

こんな自分で有りながらそれでも特別に人間関係に困ったことは無い。ということは、少なくとも標準的とは言い難くとも大胆に凡庸から遠ざかった性格ではないのだろうと考えているのだ。

逆説的に周囲も自分と大差ないなら自分を基準に構えて考えても大した問題は起こらない筈だ。

が、しかし高々19年の浅い人生で、この世の中に居る人間とすれ違いを起こさずに生きていけるような術を見出すことは困難極まりない。

だから今回も哲には予想できなかった事が起きたのである。それは哲が女子中学生という、いっそ男とは別の生き物のように思える彼女たちのバイタリティを見縊っていた事も、ここ麻帆良に生活する人々がどれだけ元気に満ち溢れた人々であるか知らなかったことも要因の一つとして。

「いやいや、あのままだったら確実に喧嘩になって誰か怪我してたよ。そんな場面を丸く治めた人をこんなに簡単に帰せないよ」

袖を掴まれて振り返る。遅ればせながら大変な嫌な予感に襲われて振り向くのが戸惑われた。人生初体験に等しいだろう自分の袖を掴む少女の手。

しかし、その手からは瘴気のようなものが吹き出ている気がしてならない。

なんと、その手は呪われている。

「良かったら私たちの体育見学でもしていく? 見ごたえは保証するよー」

恐る恐る俺の手を掴んでいる少女の顔を見ると、髪留めと後ろで纏め上げた紙が印象的な快活そうな表情をした少女だった。

その少女は不自然な場所で一旦言葉を切って俺の耳元に口を近づけるとこう囁いた。

「発育良い子が揃って…」

「うわああああっ! 」

少女の言葉を最後まで聞くことなく脊髄反射に近い速度で少女から距離を取る。腕も無意識に振り払ってしまう。

「なにそれ? そういうことされるとちょっと傷ついちゃうなー」

はっとして見てみると腕を振り払われた少女が相当に機嫌の悪そうな表情でこちらを見ている。

「ごめんごめん。かなりくすぐったがりなもんで。耳とか駄目なんだよ」

慌てて弁解するものの、右手で耳を触りながら言っているから説得力は皆無だろう。少女の目に宿る険も治まる気配は無かった。

「信じてもらえないかもしれないけど、冗談じゃないんですよ。中学校のときに馬乗りになられて擽られた時は抵抗一つ出来ずにいた位駄目なんだやああっ!?」

誠意も何も有ったもんじゃないが、その内に自分の担当する生徒との間に軋轢があっては後々の仕事に影響が出かねない。打算的な思考を働かせて誤解だけでも解いてしまおうとする俺の脇腹を衝撃が貫いた。

「やめろコラアア! くすぐったいって言ってんだろうが」

「あはははー、いやー場を和ませようと思って」

俺の余りのリアクションの大きさにだろうか、苦笑いする神楽坂に後ずさる。本当に突然で驚いたのもあるがそれ以上にみっともない声を挙げそうだったが為に焦って大声で怒鳴ってしまう。
大勢の女子生徒の前で醜態を晒すのにも抵抗があった。

案の定だろうか、俺を囲む女子生徒の視線には奇異な物をみているような、そんな感情が混じり始めていた。

想像してみてほしい、誰だって目の前で年上の男が悶え始めたらこんな顔をするだろう。当然のように俺だってする。

場の空気が更に混沌とした体を催してきたせいで次に何が起こるか全く予想できない現状は、俺にとって非常に危険な物と判断せざるを得ない。

こうなったら積極的に干渉を行うことで動的に場の主導権を手に入れる手で行こう。そう決めて先ほどの少女を振り返ると、何故だろうかその表情が格段に緩んでいるような気がした。

いや、よく見てみると緩んでいるというよりも笑っているというか口元が歪んで悪戯が好きそうな表情に。

「何してんのさ。私怒ってるんだけど、急に変な声だしたりして」

「いや、お前今笑ってなかったか?」

「そんな訳ないじゃん! なーに? 誤魔化そうとしてもそうはいかないよ」

だがしかし、俺がその表情から何を考えているかを読み取るよりも前にその笑みは消え、あっという間に怒りの表情を形作ると俺に詰め寄って来た。

「そんなことは決して。本当にさっきのは御免」

少女の声からしてファーストコンタクトから印象最悪なのはもう決定的。見ている周りの連中に対しても同様だろう。こうなると頭下げて舐められるとのどっちがマシなのかという話になったので、素直に頭を下げて謝罪をすることに。

「ほらー、いけー明日菜。今度の新聞で使う高畑先生の記事の取材任せてあげるから」

「あん?」

下げた頭の上を小声が飛んでいくのが聞こえたので、目線だけで上げてみると何も変わらず眉を吊り上げた少女が居て、

「ええい、やってやろうじゃない。朝倉、アンタ裏切ったらタダじゃおかないからねー!」

後ろから神楽坂が突っ込んできているのだった。

「な、おま。何を」

「うるさーい、私は悪魔に魂を売ったわ。文句は朝倉に言いなさいよー」

「う………っぎゃああああああっ!!?? や、やめてくれえええ」

「って、どれだけ弱いのよコイツ」

振り返ることが出来ないので顔は見えないが呆れた顔をしていることだけ声の響きから分かった。そうやって呆れながらも神楽坂の俺の脇腹を擽る手を緩める気配はない。

身を捩り逃れようと足掻いても神楽坂の両手は俺の脇を捉えて離さず、俺の呼吸は徐々に弱まっていく一方。擽ってくる神楽坂の手を掴んで引き剥がそうとしてもびくともしない。

どんな馬鹿力してんだよ、神楽坂ああああ。

「あはははははは、ま…マジであははっはははや、やあああああ……やめてあはははははは」

耐え切れない。耐え切れない。そもそも耐えること等出来はしない。爪先で引っかかれるような感触でさえ俺の脳天までを瞬きよりも早く駆け巡り、俺の体を俺の心の下から奪い去る。

「うーん、うそじゃないことは分かったんだけど、予想外と言えば良いのか予想以上といえば良いのか。とりあえず一枚貰っとこう」

「げほげほげほ………あははははは………はははは……げほ」

僅かな機械音と閃光と同時にデジカメのレンズに俺の姿が収められた。

「よし、しょうがないからこれで許してあげよう。明日菜もういいよ、ありがとう。じゃあ先生は次が有ったら気をつけるようにね」

可愛い女子中学生とスキンシップできる機会なんて貴重でしょ? と言う少女に神楽坂から解放され息も絶え絶えな俺は死んだ返事を返すと共に頷くことしか出来なかった。

「しかしこの麻帆良パパラッチよりも情報速いなんて結構やるじゃない明日菜。私ですら今日この時まで知らなかったのに」

「まあ、色々有って何回も会ってるのよ」

「ネギ君の時といい、明日菜は何か持ってるんじゃない。そういうの」

「嬉しくも何ともないわね。ていうか寧ろ迷惑………っていうことは無いけど」

朝倉に肘で突かれた神楽坂がうんざりといった調子で言い捨てようとしたもののネギ先生の視線が気になったのか言葉を濁した。

「はあはあはあはあああああ……う、うん。あー、用は済んだかな?」

荒れた呼吸を整えて、涙を浮かべながら伺いを立てる。よく言えばフランクな生徒たちとの触れ合いは、気づかない内に落とし穴に嵌ることもあるという教訓を俺は胸に刻みつけ未来永劫忘れることは無いだろう。

「そ、そういえば授業中でした。みなさーん、準備体操をしてくださーい」

大半の生徒が俺に好奇の視線を送る以上の事をせずに三々五々ネギ先生の指示に従って適度な距離を前後左右に取って体操を始める準備をしていく。『懐かしの体操の出来る隊形に』という奴である。

先ほどまで騒ぎから遠く離れた場所で見守っていた生徒達も、或いは見物に回ろうとしていた者も遅々とした歩みでは有ったものの隊列の中に組み込まれていく。

女子しか並んでいない光景では懐古の情も湧かず俺はこれ以上のいざこざを避けるために彼女たちに背を向ける。セクハラだなんだと言われる事は無さそうだったが、絡まれれば即心労に繋がるであろうことは火を見るよりも明らか。

苦労はするべきときにするものであるという主義を持つ俺には通常とは違う意味でドキドキさせられながら振り返ると、俺の真後ろも真後ろ、角度的にも距離的にもピッタリの位置に一人の女子生徒が立っていた。

俺の小学校以来の知り合い(大学生)と同じような背丈のその生徒は髪で張ったバリアー越しに俺を見ていた。

「うおっと、ど…どうしたんだ宮崎さん」

追突しそうになった所を直前で押し止めて静止、男が怖いとかなんとか………と大雑把な個人情報を思い出しつつ適当な距離を開ける。

パーソナルエリアという考え方があるがこの場合も同様の呼称を用いても問題は発生しないのかなんてぼんやり考えながら出来るだけ情けない格好になる。

無理に目線を合わせたりやる気になると怖がらせるだろうという配慮からの行動である。勿論視線も合わせなず旋毛の辺りを見つめる。猫背になったのはこっちの方が小さく見えて威圧感が無くなるだろうと思ったのだ。

実際先日の図書館でネギ先生に迫っていたところを見ると、男という性を感じさせなければ心配いらないだろう。

とはいえ、子供のような可愛げのある顔立ちはしてないし、贔屓目に見ても中性的でない顔では男を感じさせないことなど不可能だ。しからば最早男としての機能を失ったオッサンとかどうだろう。と言ったような思考回路を走らせた結果がこれである。

「え……?、あ…いや………ち、ちがいます!」

黒髪と言う名のカーテンの向こう側から感じていた(様な気もする)視線は発信者の混乱によって引き千切られ、声を掛けるよりも早く俺の脇を走り抜けて行ってしまった。

その走り抜けていく驚きの速度に速ああ! などと戦慄している場合ではない。皆から俺の背中で遮られ、何が起こったかも分からない死角から内気そうな少女が一目散に脇目も振らず徒事ではない雰囲気を醸しながら走っていく。犯罪の匂いがしないだろうか? 気にしすぎか?

俺の心配はどうやら過ぎたものであったらしい。直ぐに開いていた場所に収まった宮崎の周囲では彼女の行動を微笑ましい物であるかのように見ていた。

「じゃあネギ先生自分はこれで失礼させてもらいます」

「あ、はい。黒金先生頑張ってください」

「ネギ先生も生徒たちの指導頑張ってください」

振り返る直前、視界の端で周囲よりも一際高い少女からカッコイイ挨拶を貰って校舎の中に引き返していく。

大分カッコイイ女の子と知り合えたから良いけども全く休憩できなかったな。

残り30分を切った5時間目の授業時間。それをどうやって利用すべきなのか。その事が次の授業開始を知らせるチャイムが鳴るまでの間俺の頭の中の最重要議題だった。



[21913] 第十一話
Name: スコル・ハティ◆5997c74a ID:bba70d3c
Date: 2015/12/19 11:19
雲一つ無い快晴とは言わずとも中々の陽気が暖かい午後。千切れ雲や綿雲など大小様々な形の雲を食べ物や何かに見立てながら生徒達が午睡を楽しむもの、睡魔と闘うもの、内職に励むもの、そして姿勢正しく教師の発言に耳を傾け黒板に向かう模範的な生徒に分かれる頃、同じ暖かな日差しに包まれながら静謐とした空気で満たされた学園長室にノックの音が飛び込んだ。

「誰じゃ?」

「源です」

「入ってくれていいぞい」

その特徴的な形状の頭と更に頭頂部と眉と髭しか毛の生えていない、見方を変えればそこから異様な長さの毛を生やす老人近衛近右衛門が扉に向かってそう言うと、扉を開いて一人の女教師が学園長室に入った。タートルネックのセーターに今時そうは見ない足首近くまである長い丈のロングスカート。野暮ったいとも思えるような服装を極自然に、しかもそうとは思わせないよう着こなす彼女は持ち前のその静かで淑やかな振る舞いで学園長室に満ちていた茶室の様な静けさに溶け込みそれでいてそこに華やかさを加えた。
仙人染みた容姿をした近右衛門も学生教師を問わず、同時に性別を問わずこの麻帆良学園女子中等部で多くの人気を集める彼女、源しずかの美貌に老骨ながら見惚れ、そして満足げな顔で用件を促した。

「それで、何かあったのかのう?」

「ネギ先生の事についてです。学園長先生」

「ほう」

案の定と言ったところだろうか。着任してからまだ1週間経つか経たないかという若干9歳の天才魔法使いであり、大戦の英雄ナギ・スプリングフィールドの忘れ形見でもある少年の指導を担当させ、同時に近右衛門のこの中等部内における秘書業の真似事までこなす彼女は非常に優秀な教師でもあり同時に人間である。個人として一抹の寂しさを覚えないではないが、特別な用件でもなければ彼女はこの広大かつ多彩な範囲で生徒達を成長させる学園の長である近右衛門に顔を見せるまでも無く問題を解決してのけるだろうという信頼がある。そして彼女の話の中心人物は間違いなくその特別な用件に含まれるものだ。

「聞こう」

「ネギ先生はとても上手くやっていると思いますわ。あの子達とも打ち解けて仲良くなれたみたいですし生徒達の授業態度も悪くないです。授業内容はとても10歳とは思われませんわ」

「そうかそうかネギ君はよくやってくれとるか」

「これは生徒達の好みの問題ですが、高畑先生が担任をしていたときよりも元気のある生徒もいますし」

子供先生と学園でも噂になっている少年が教室で浴びている視線の中にはこのように朗らかには受け流せない類の視線も有ったが、視線の主であるクラス委員を務める多少特殊な趣味をしている少女は今のところは放って置いて問題ないだろう。と教室の後ろから教壇を見つめていたしずなは判断していた。

「この分なら指導教員の私としても一応合格点を出しても構わないと思いますわ」

「ふぉっふぉっふぉ、それは結構。ならば4月から正式に教員として採用できるかの。ご苦労じゃったのしず」

「それとなのですが、学園長先生………黒金さんについてなのですが」

先ほどまでよりもイントネーションを落とし困った表情を露にするしずなに近右衛門の顔も曇る。

黒金…黒金哲はつい最近までこの学園にナギ・スプリングフィールドによって封印されていた真祖の吸血鬼エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに連れて来られた青年だった。学園長の見立てでは極普通の青年以上の評価をされない人間に見えたが、青年を除いた話し合いの場において聞けばナギが掛け、そして15年間ついぞ誰も破ることが出来なかった封印をその血を吸っただけで消し飛ばし、しかしながら本人にそういった力の自覚は皆無で知識として魔法を知るわけでもないらしかった。そんな彼を自分のクラスの副担任にしろという命令には驚いたが、気づいてしまった以上野放しにしておくことも出来ない。少なくとも今まで血を口に含んだなどという理由で呪いを解除されたような事例はないし、ましてや解呪されたのはナギの掛けた呪いだ。それを聞けば世界最高クラスとぼかす必要も無い、紛れも無い世界最高の魔力を持っていると誰もが一瞬で理解することが出来るし、そうでければその血には今まで発見されたことの無い特殊な力が宿っている事になる。

目的のためとは言え確実に敵を招き寄せるであろう英雄の子を招致し、様々な意味で特殊な経歴や血筋を持つ子女を集めたクラスの担当をさせた。その事が呼び寄せる問題の数々に対して今は小さな戦力でも揃えたい。そんな所にこの知らせである。願っても無い戦力を手に入れる好機だ。背景を洗うことが出来なかったと言う点が大きな懸念として残っているが、彼が他所の組織からの回し者であるという確証もまた無い。強大な戦力を欲する気持ちと敵を抱え込むことになる可能性への危機感の葛藤。

「何か問題でも起こしたかの?」

「いえ、そんなことは。彼はその大人しさそのものと言いいますか、授業が終わった後も家に殆ど直帰していて不審な行動は見当たりませんし、帰り道の途中によるところと言えばスーパーかコンビニ位のもので。今のところは一度だけ、午前5時に家を出た時に神楽坂さんと話をしていただけですわ。会話の内容も大した内容ではございませんでしたし」

学園長は表情を変えぬまま、内心を悟られぬように考え込む。

神楽坂明日菜と黒金哲の接触。事情を知らぬものであれば何とも思わない唯の雑事だろうが、近右衛門は彼女を連れてきた高畑.T.タカミチから全てを聞いていた。

アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア。彼女の真実の名であり、それが示すのは彼女がかつて魔法世界に存在し大戦で滅亡したウェスペルタティア王国最後の王女で、希少な完全魔法無効化能力から「黄昏の姫御子」と呼ばれ兵器としても利用されていた始まりの魔法使いの末裔である。その因故に刺客に狙われ続ける彼女を守るために、高畑に恐らくは世界で一番安全な場所にと連れて来られた彼女。その素性を知るものが教員になるというまどろっこしい方法でここに侵入を図るだろうか? 彼女を利用するのに彼女自身の意思など必要ないだろう。彼女を必要とする者が大戦で行われたように彼女を道具として使用することは難しくない。

しかしだからといって彼を信頼しきることは出来ない。だからまず監視をつけて2週間ほどの研修を行わせているのだ。
既にこの地で教員生活を始めたネギ・スプリングィールドという石は、険しい坂道を転がり近右衛門ですら想像もつかない展開を呼び起こす筈だ。それに伴い2年A組に所属する生徒達の中にも居る、戦う力を持つ者やその才能を秘める者、そしてそういった流れの中に組み込まれた者達も目覚めるだろう。止めることも適わない濁流のような展開に、近右衛門自身の策略で以って下手な謀略なら飲み込んでいく自信がある。だからこそ近右衛門は揺れる。正しい判断を下さなければ多くの人命に関わる爆弾を抱え込みかねないのだから。

「彼に対して2週間掛けて行われる予定だった教育プログラムがこの1週間で完了してしまいました」

「ほう。あれをたった1週間でかの。………むう」

「どう思われますかしら学園長先生。必要十分な部分に限って教えているとは言え、本来それは2週間という期間で漸く必要最低限の知識や技術を詰め込む、程度の話でした。でも彼は既に本来大学の教職コースで行われる細かな内容すらカバーしつつあります。正直一般人とは思えない学習速度です。それこそ魔法使いが学習魔法を使っているのではないかと疑ってしまうほどに」

「それは確かに。彼が余程の天才という事でなければ難しいじゃろうな」

魔法の中には学習を補助する魔法も存在する。それを使用している間に覚えた事柄は忘れることがなく、それさえ使えるのなら非常に習得困難な外国語でさえ短期間の間にマスター出来る代物である。しかしそれは魔法であり、魔法使い以外には扱えない技術だ。超鈴音や葉加瀬聡美の様な例外的な天才ならばそれなしでも同じ芸当が出来るだろうが。

彼に魔法を教えるといっていたエヴァンジェリンは早々に彼を家から追い出して手放したし、その後エヴァンジェリンを呼び出して聞き出しても教えたのは最も基本となる呪文だけ。それ以外には何一つ教えていないという。

「既に同様の学習を済ませている可能性も考えて、初日に教えた範囲に類似した内容について尋ねたところ分からないと答えていました。余程注意深くなければ違いに気づくとも思えませんし、念のため読心魔法を使用しましたが嘘をついている様子もありませんでしたわ」

「それで尚隠し通せるならかなりの腕前ということになるの」

あくまで疑念を持って。そうでなければ組織の長は務まらない。何かあってからではリスクコントロールは間に合わない。

「ネギ君のことも有る。出来るだけ早く白黒つけたいところじゃしどうするかのう」

可能性は二つ。かなり腕の立つ魔法使いであるか、でなければ唯の並々ならぬ才能を持った一般人。

態々直接的な方法ではなく婉曲的な方法まで採って潜り込んで来るとなると並大抵の方法では尻尾を見せることはないだろう。目的も実力も不透明。確実な100%断言できるだけの証拠を手に入れる為にどんな手を打つべきなのか。

様々な懸案条件とそれに対する対処。その場合に出る最低限の被害まで見越して実現可能な策は。

目の前のしずなの事も忘れて思索に耽る近右衛門。しずなも答えが出るまで待つつもりで静かに近右衛門を待つ。

沈黙は長く続き窓越しに聞こえる鳥の声も流れていく雲も何処か遠く、そこだけが世界から切り取られたような錯覚を受けるしずな。時計の音だけが時間が止まっていない唯一の証拠だった。

近右衛門から窓の外へと視線を向け、そのまま意識を無限遠へと飛ばし気づけば丸一日そこで立ち尽くしていたような感覚になりながらしずなが時計を見ると時間は五分と経っていなかった。

こういう時の常で近右衛門の判断は自分やその他学園に所属する魔法先生達の誰よりも奇抜で効果的なものとなることをしずなは知っていて、信頼の上でそれを待っていた。

閉じていた近右衛門の眼がゆっくりと開かれていく。

「ふむ。リスクが大きすぎるが、もしも白ならばナギの奴以上の戦力になることを期待できる。出来るなら学園祭までは誰にも知られずに置きたかったが、あそこなら………。しずな先生悪いがこれをネギ先生に渡してくれるかの?」

「それは?」

学園長が徐に机の引き出しから何も書かれていない紙を取り出すと筆で何かを書き付けていく。

「課題じゃよ。才能あるマギステル・マギの候補生としてのな」

そして学園長の危険な賭けである。

俄かに心配事が増えていく気配が近づいてきて溜息が止められなくなってしまった源しずなだった。


「で、一体これはどういうことなんでしょうか? 学園長」

女子寮の消灯時間から1時間が経過した頃麻帆良学園都市内の湖に浮かぶ世界最大規模の図書館。通称図書館島と呼ばれる場所と街とを繋ぐ橋の入り口付近で星を見上げる人影があった。

電灯に凭れながら頭を持ち上げては星を見上げ、首が疲れる度に項垂れて。カクンカクンと頭だけが上下し他に一切の動きを見せないその物体は暗闇の中ならずとも周囲の人間に不安感を覚えさせただろう。

そんな不審な影から漏れた声に返答は無い。周囲にも人影はなく独り言だったのだろう。

カクンカクンカクンカクンカクンカクン

「なんかあれじゃね? クンカクンカみたいなっっつあっ!?」

影が独り言を重ねようとした時丁度下ろした頭を支える首からピキッという音が聞こえて影が顔を引きつらせた。

「待ち人は未だ来ず。11時も回って後30分で日付も変わって図書館も完全閉館だっちゅうのに。どうしてあんな事言ったんだろうな学園長は」

はあと息を吐きながら蹲って一人ごちる。何せ今日の朝5時から一睡もしていないのだ。明日の活動の為と言うよりも活動限界と言う意味でそろそろ睡眠を貪りたい時間だった。寝ぼけ眼に涙を浮かべながら幾度も幾度も欠伸をしてそれでもその場を動かない。

いや動けない。というのも彼の直接の雇用主?正確にはまだ教員ですらないので雇用関係すら成り立たないが?である学園長・近衛近右衛門に放課後呼び出された哲が学園長室に出向くとその場でこう指示をされたのだ。

「今日の真夜中に3年A組の生徒の一部が寮を抜け出して図書館島に行くことになると思うんじゃが君にはそれに同行してもらいたい」

身元不明経歴不詳の自分を雇ってもらっていると言う恩義も有って断ることが出来ずこうやって眠気眼をこすりながらも待機しているわけだ。夜中の外出は禁止されているはずとか図書館島も夜間は閉鎖されているはずとか、そもそも近右衛門がそれを静観する事に問題は無いのかなど聞きたいことは有ったが「頼んだぞい」等と強く言われてしまうと如何にも聞き出すことが出来なかった。

こうしてる今も通りがかる筈の生徒達を叱って送り返すかどうかで頭を悩ませているのだが、生来の臆病な性格が災いして生徒達を止める選択肢に踏み切れないでいた。

内陸に位置する麻帆良学園は3月という季節には余り強い寒さを感じることは少なく、スーツの下は極普通のワイシャツとシャツの哲でも日中は一度も不自由することは無かったのだが、真夜中ともなれば気温の低下によって肌寒さを覚えるくらいにはなる。
その状態で風を遮るものも少なく風が強くなりやすい水辺に一時間以上も立ち尽くしていれば当然のように体は震えが止められなくなってしまっていた。

「くそおおお。なんでも良いから早く来てくれええ」

そうして自分がどうすべきなのか決めることも出来ないまま少女達の到来を待ち望むようになった頃、

「明日菜さん、こんな時間に何処行くんですかー?」

「図書館島よ。それよりあんた大丈夫なの?」

「ええ大丈夫れす。それよりも図書館島ってなんなんでしょうかー?」

自分達が本来外出を禁止されている時間に出歩いているという意識を欠片も見せずいつも通りの声の大きさで話しこみながら歩いてくる複数の音が近づいてきた。足音を忍ばせることも無くバタバタと音がするところからすると1人2人という人数でも無さそうで近右衛門に人数を聞くのを失念していたことを哲は思い出した。特殊な訓練を受けたことはないので推測にしかならないが足音の間隔の狭さと数から5人以上は居そうな気がした。

それに加えて眠そうな男の子の声。このメンバーで聞き覚えのある男の子の声、十中八九ネギだろう。年のせいだろう、半分眠ったままの様な寝ぼけた声も聞こえる。

担任巻き込んでこんな大人数で夜間徘徊ですか。飲酒喫煙のような非行よりもよっぽどマシとはいえ看過すべきことでもないだろう。

し、仕方ないな。どうにかして注意だけしよう。学園長からの説明だと黙認されているみたいな感じだったし今回だけ見逃すことにして。気が重い。

とヘタレた方針を打ち出して出て行くタイミングを見計らう。

「アンタまだ行ったことないの? 湖に浮かんでる建物の事よ。とにかく大きくて物凄い数の本が置いてあるんだって」

「あれ? 橋の袂に誰か居ない? ほら街灯によりかかってる」

「へ? ほんとや!」

ネギに図書館島について説明している明日菜だが、その説明は大雑把で哲には神楽坂の図書館島に対する無関心が透けて見えるような気がした。

確かに、こうして近づいて見ると尚更その大きさを実感するがここまでの規模の物に頼らずとも女子中等部の校舎内にあった図書室も一般の学校からしたら十分に大規模であり、専門性の高い知識や高価な書物、珍しい本を探す事がなければ縁が無さそうなものである。それに彼女自身が読書から縁遠そうでもある。

想像の中で読書をしている明日菜を思い浮かべるが、想像の中の彼女は据わりが悪そうにして本から眼を離そうと必死になっていた。

そのまま放っておくと本を勢いよく閉じるところまで想像が一人歩きしそうだ。

哲はさして知っているわけでもないのにすっかり自分の中で神楽坂明日菜という人物像が出来上がってしまっていることに笑いそうになりながら片手を挙げて呼びかけた。

「こんばんわー。昼に学校の屋上で会った者だけど」

哲の呼びかけに殆どの女子生徒は不思議そうに首を傾げた。

「黒金さんですかー? こんな所で……なにしてるんですか。………ふあああ」

彼女達の感情を代弁するかのようにネギが哲に欠伸しながら疑問をぶつけてきた。暗くて今まで哲は気付かなかったがネギはパジャマ姿で明日菜に手を引かれていた。

「ああ、ある人からの情報で図書館島に侵入しようとする生徒達の引率……みたいな物を申し付けられた。詳しい話は聞かせてくれなかったからとりあえず図書館島に行くのに必ず通ることになるこの場所で待ってたって事」

おわかりいただけました? と哲が明日菜を見るとほっとしたような表情でこう言われた。

「よかったー。誰か先生に見つかって補導されるのかと思ったわよ」

「いや、俺も本来そうした方がいいと思うんだけど今回そういう訳にいかないみたいで。だから俺が見逃すのは今回だけだ」

「まあ、いいわよ別に。滅多にこんな時間に出歩かないし」

と言いたい事が伝わったのか伝わらなかったのか分からない返事をされ、哲は困り顔を浮かべた。

「じゃあ、特に何もなかった事だし先を急ぎましょ。出来るだけ早く帰って朝までに少しは寝たいしね」

「本当珍しく明日菜乗り気だよね。魔法とか伝説とかいっつも興味無さそうにしてる癖に」

「そ、それはそういう物に頼らなきゃいけない位テストがヤバイってことよ」

「それは自慢にならんえ、明日菜」

「うっ」

長い黒髪を後ろに流したおっとりした喋り方の少女に突っ込まれて絶句する明日菜。

哲も心の中で頷く。

「しかし数え切れないほどのトラップと探検しつくす事すら困難な広大さ。それに加えて数え切れないほどの噂、伝説とはいかないまでもかなりの希書があっても誰も驚きはしないでしょう。それこそ歴史の中で失われていったといわれている貴重な本の数々も。ああ、素晴らしいです」

「ほんまほんま。うちら図書館探検部が何年も中を探索しとるけどまだまだ終わりが見えてきいへんし」

それじゃあ行きましょ、と言ってネギを引っ張りながら明日菜が先頭を歩いていく。それに付いて行く集団の最後尾にくっついていこうとするとその中にエヴァンジェリンの姿がある事に気が付いた。

「よ。エヴァンジェリンも一緒に行くのか?」

「爺に頼まれて仕方なくだ」

他の制服の子たちとは違い一人だけゴシックロリータの私服を着込んだエヴァンジェリンは素っ気無く哲に答えるとそのまま哲と距離を取ろうと歩調を速めて先頭へと近づいていってしまった。

「お、おい?」

追いかけようと哲も歩調を速めるよりも早く哲の周りに何人もの女子生徒が集まっていることに気付いた。明日菜とネギ、エヴァンジェリンとサイドポニーで竹刀袋を肩にかけている子以外だったのでその場にいる殆どの生徒だ。

「それでそれでー、クラスでも殆ど誰とも喋らないエヴァちゃんに喋りかけた貴方は誰なのかなー? お昼は朝倉と明日菜と喋った後は直ぐに居なくなっちゃったし」

「うんうん。気になってたけどネギ君無視して話すわけにもいかないもんね」

「あん時はありがとうなー。お陰で屋上でバレー出来たんよ」

眼鏡を掛けた子、リボンで髪を二つ分けにした子、おっとりした喋り方の子に立て続けに喋りかけられたのでエヴァンジェリンを追うことは諦めて少女達の質問に答えた。

「えーっと、そうだな。私は黒金哲。来週から君達の副担任になる予定です」

どうぞよろしくお願いします。と敬語で伝えてそれぞれの生徒達の名前を聞いていく。その哲を喋り始めた途端に気持ち悪いものでも見たかのような顔で見ていた明日菜が遠巻きに言った。

「ちょっと、なんで木乃香達には敬語なのよ。私に対する話し方と全然違うじゃない」

不満が有りますと雄弁に語る表情、口調、目つき。全身で抗議を申し立てる明日菜に哲は弱った顔になった。なんと答えれば良いのか分からないのだ。

理由ははっきりとしている。初対面から口の利き方のなっていない小娘に敬語を使う気にならないのである。

二人きりの場なら、或いはそこにネギやエヴァンジェリンが居る程度なら哲も物怖じせずに正直に答えたろうが初めて喋る生徒達が居る中でその様な事を言ってもいいものか。更にいうなら教師をやっていく上であまり砕けた印象を持たれるのも問題だと思ったからだ。

仕方なく無難な回答で難を逃れようとした哲に先んじておっとりした口調の少女が明日菜に尋ねた。

「黒金さんて明日菜とどんな風に話してるん?」

「それはもう普通によ。もっと砕けてて普通に男の人が喋ってるような感じでこんなに丁寧な感じで喋ったりしなかったわ」

へー、と生徒達が、特に眼鏡を掛けた子が興味深そうに呟く傍らで哲は全然違うところに引っかかっていた。

丁寧な感じってなんだよ、感じって。丁寧とはいえないようなお粗末な口調だってことか!?

ゆとっている自覚のある人間として敬語を使えないことに対してちょっとしたコンプレックスを持っている哲としては非常に気にかかる所だったが、ぼろを出したくは無かったので下手な反論。否、明日菜が言っていることは事実なので制止は控えた。

「いやいや明日菜。きっと明日菜に対して敬語を使わないっていうのはきっと明日菜が特別だからだよ。そうですよね黒金さん?」

「あー……………そういう言い方も出来なくはない、かな」

特別という言葉が持つ意味は必ず良性である必要は無い。時には相手を貶す言葉としても使うことが出来る。だからこの場合明日菜にも当て嵌まるだろう。とよく考えもせず肯定する哲。

それを見た生徒達が僅かに賑わった。

「ちょ、ちょっとアンタ何言ってんのよ。意味分かってんの?」

「特別の意味ぐらい誰だって………」

知ってるぞと続けようとした哲だったがどちらとも態度を決めることが出来ず口篭ってしまう。そのまま数秒黙考した後、哲は参ったなと星空を見上げた。

具体的に言うと家族の前で俺という一人称を使うことすら恥ずかしがる変な感覚を持つ哲ならではの悩みだった。

他の人ならば即断即決してしまいそうな問題に突っかかる哲を他所に生徒達は更なる盛り上がりを見せた。

「おお、これは!!」

「明日菜いつもいつも高畑先生一筋だって言ってたのに」

「明日菜にもやっと高畑先生以外の男の人の知り合いが出来たんやな。感慨深いものがあるわー」

「木乃香達も! 絶対にそんな事無いから勘違いしないでよ!!」

明日菜はギンと、事の発端となった哲を睨むが空を見上げたままその美しさにトリップした哲は全く視線に気付かず手応えは無かった。

哲に近づけば自分に気付かせることも出来たが、そうなったらハルナ辺りが黙っていないだろうと思った明日菜は火元ではなく延焼した部分から消火作業を行うことにした。

最初の相手はナチュラルにホクホク顔のルームメイトだ。

「別に私だって男の知り合いぐらい居るわよ、バイト先とか。高畑先生以外なんてどうだっていいだけで。大体木乃香だって私と似たようなもんでしょ」

「そんなことないえ。茶道部でも他の学校と一緒にやったりするとき時々おるしな」

再び絶句する明日菜。朝倉が3?Aの生徒達を暢気と称していたが、まさか共に生活する少女に如何な形とはいえ男の知り合いが居るとは思って居なかったのだ。

とはいえ、とはいえだ。今までの長い生活で一度も、それこそ一度も彼氏彼女やら好いた惚れたという言葉で修飾された男子の話は聞いたことが無いはずだ。加えて木乃香はそういう事を隠し立てするような性質ではないはずだ。どっちかというとすぐさまこちらに知らせてきて呆れるほどに惚気てきそうな性格をしているし。

だからきっと彼女の言う知り合いというのも本当に唯の知り合いだろう。それにそもそも自分は高畑一筋だ。ルームメイトに男の知り合いが居るからと言って負けた気になるのは間違いなのだ。だから落ち着け。

そう自分に言い聞かせることで敗北感から持ち直す明日菜の目に新しい動きを起こすハルナが映った。

ハルナは自分の後ろにいる小柄な少女を見やると首を捻る。

「まあ、そんな事は置いておいてだね。うふふ、黒金さんもしかしてのどかと知り合いだったりするのかなー?」

言葉遣いの問題にけりを付ける事もなく星空に見惚れていた哲はハルナの問いかけに引き戻される。

「え、ああのどかさんっていうのが宮崎さんの事なら二回くらいお話させてもらったこと有るよ」

昼に避けられたことを踏まえてその事を伏せておこうかとも考えたが、そのまま正直に事実を告げる。しかし哲はここまでの会話を完全に聞き過ごしており話の流れを全く読めていない。

不機嫌そうに歩く明日菜のことを不思議そうに見つめることはあれど、その原因が自分の発言だとは思わないしまさか自分の発言が意思に反した意味で取られているとは思っていない。

その為に話がのどかに向いたのを機会だと思ってのどかに話しかけた。

「そういえば宮崎さん、まだ図書券使ってないんだけど宮崎さんはおすすめの本とか有ったりする?」

一週間ほど前に貰った図書券。その後慣れない分野の勉強等で研修が終わる時間には出かけていく元気もなくなってしまうので図書券を使うために本屋に行くことも出来ていなかった。

しかし使うことは出来なかったがどんな本を買おうかと考えたときにふと思ったのだ。自分の世界と似た様な世界とはいえ出版されている本には違いがないのだろうかと。

文化や歴史にも然したる違いが無かったので大して心配はしていなかったが、前回図書室に赴いた際に確認するのを失念していた。

まあ万一知っている本が無かったとして新しく開拓していけばいいだけの話で。

「へー、やっぱり黒金さんは黒金さんだったね。それに図書券まで。これはこれはー」

「のどか本当ですかそれは?」

「やーん、先生モテモテやねー。でも明日菜これはがんばらなあかんよ」

「うっさいわよ木乃香。私には関係ないわよ」

再び少女達がざわめいた。

哲は何故少女達がこんな反応を見せるのか分からなかったが、一先ず無視してのどかを見つめた。

そして突如として渦中に巻き込まれたのどかはいくつもの視線に晒されて、顔を赤く染めて俯いてしまう。

夜の暗さ故にそれに気付いた人間は少なかったが隣を歩いていたハルナはそれに気付いて更に笑みを深めた。

「まあ明日菜云々はただの冗談だけどね。ラブ臭もしなかったし」

「パアアアアアアルウウウウウ!!」

「うちもわかっとったよー」

「木乃香までー」

「で、のどかお勧めの本だって。教えてあげなよ」

ハルナがのどかの肩に手を乗せて横から顔を覗きこみながら促すと、反対側を歩いていたおでこで長い髪を二つ分けにした少女・夕映が哲とのどかの顔を忙しなく視線を往復させた。

終始沈黙を保っていたエヴァンジェリンや寝ぼけていて話に参加しようとしないネギのみならず、その場にいる全員がのどかの返答を待つように静かになって、靴底が舗装された道を叩く音だけが湖の湖面を揺らした。

「じゃ、じゃあ私のお勧めで良いですか? ………その、面白いかどうか分からないんですけど」

徐に顔を上げたのどかが哲の顔を真っ直ぐに見つめて言葉を放ったが、その言葉は途中から自信無さ気に尻すぼみになっていき内容もそれに見合ったものに変わってしまった。

そのまま一度上げた顔も元通り俯かせてしまったのどかは垂れて視界を遮る髪に隠された表情を曇らせた。

自分の引っ込み思案な性格を恥じているのではなく、余計な一言を言ってしまったことやはっきりと話せずに相手が聞き取れないような事が無かったかという心配からだったが、哲にしっかりと自分の意思を伝えられなかった事が誰に責められるでもなく悔やまれた。

「全然構わないよ。好き嫌い激しいけど結局なんだって読める口だから。それに面白い物って人によって違うし宮崎さんの面白いがどんな感じなのか結構興味有るよ」

俺って人に本勧めることは有っても人から勧められた本あんまり読んだことないしと続ける哲はそんなのどかの気持ちを慮る事も無く極普通にそれに答えた。若干聞き取りにくかった後半部分も謙遜だと受け取って。

「まあ、もっぱらファンタジーとかライトノベル読んでるんだけど」

「っていうか黒金さんのどかにも私達と口調違うねー。なんでー?」

「着いたぞ」

話しかけてきたハルナとの会話を打ち切るようにエヴァンジェリンが無愛想な声で言った。



その言葉通り気付かぬうちに哲達は図書館島の入り口へと辿り着いていた。大きな湖の中央に建造されたその図書館は欧風建築も相俟ってそれを包む宵闇ごとまるきり日本ではないような佇まいであった。

その空気に酔い痴れて密かにテンションが上がってきている哲が辺りを見回していると水路のほうに向かって歩き出したハルナが言った。

「ここを歩いていって裏手に出たところに私達図書館探検部しか知らない入り口があるんだよ。足場悪いわけじゃないけど気をつけてね」

連れられるまま哲達は水路の中に足を踏み入れ、冷たい水の中を歩きながら目的の場所を目指した。

まだまだ寒い3月の、それも夜の湖の水は想像していたよりも冷たく一行の体温を奪おうとしていた。

明日菜がつめたーいと叫べば木乃香やハルナも続きのどかはひゃっと小さく悲鳴を零していて、何も言わなかったのはエヴァンジェリンだけ。哲が現れてから一度も会話に参加しなかった竹刀袋を背負った少女・桜咲刹那でさえ身震いをしていた。

そのまますっかり足が冷え切った頃、何人かの生徒達が体温の低下で震え始めた頃漸く図書館島裏口に行き着いた。

表側の入り口に比べれば裏口はかなり物寂しくあるのもスラロープから繋がる大きな扉だけ。しかしその扉の大きさたるや、3メートルを軽々と超えテレビ画面の中の古城さながらの重厚なものだった。

「で、こんな時間に図書館にどんな用事なんですか? 詳しく聞いてなかったからここに何をしに来たのかも分からないんですけど」

そろそろ深夜0時を回ろうかと言う時間。湖に浮かぶ巨大な図書館に一般には知られていない裏口から侵入する。

冒険小説か何かのように表現すれば自然と足並みが早くなるような素敵な状況だが、蓋を開けてみれば馴染みのない少年少女の子守でしかない。両者のギャップは何から生まれているのだろうか。

何処かのライトノベルでは深夜の図書室に深窓の令嬢と出かける話が有った筈。そこには甘酸っぱい何かや少年を狼に変えてしまうようなドキドキが有った筈なのに。

やっぱり年が違うのがいけないのだろうか? 世間は年下年上だの歳の差婚だの言っているが矢張り自分の中では同い年が王道。

まあ現実に目を向ければどんな少女とだろうと自分が恋に落ちるところは想像できないのだが。

「近々私達の学園でも期末テストが行われるのですが、その期末テストの平均点が最下位をとったクラスは解散、その上小学校からやり直しをさせられるという噂が流れていまして」

バッグを担いでいたエヴァンジェリン、刹那、ネギを除いた生徒達がその中身を取り出して検めだした。

ヘッドライトと紙に書かれた地図、トランシーバー、お菓子にロープ、お弁当、ペンライト、タオル、包帯、着替えにライターや携帯燃料などキャンプ道具一式。

何故か人によってはそこに新体操用だと思われるリボンやクナイなども含まれている。

特に通信機器など念入りに使えるかどうか確認しながらそれをバッグに仕舞い直して担ぎなおすとその荷物はかなりの量になっていた。

「私達2年A組は今まで2年通してワースト一位の座に輝いているのです。更に私とアスナさん、ここにいないまき絵さん、楓さん、クーフェさんの5人はその中でも成績不良者トップ5、学年トップの超さん始め成績上位者のいるクラスで足を引っ張りまくり、バカレンジャーとまで呼ばれていますです。ですのでここは一つクラスの皆さんに迷惑をかけないように勉強をしようかと思いましたが、今から勉強を始めたところでとても期末テストには間に合いません。そこでここ図書館島に深部に眠るという読むと頭の良くなる魔法の本を探しに来たのです。流石に全てを鵜呑みにする積りはありませんが、それが出来の良い参考書の存在を示している可能性もありますしどちらであれ私達にとっては強力な武器となりますので」

いち早くそれらの作業を終えた夕映が、哲の質問に答えた。そしてその答えは哲にとって予想外の物であった。

「へえ」

とはいえそれに対して哲の抱く気持ちは驚きではなく呆れであった。

しかしその気持ちは全て他の取るに足りない感情に擬装して決して表には出さずに平然と相槌をうった。

と同時に呆れの後にやってきた憂鬱な気持ちも心の片隅に寄せて見ないことにしてしまう。

だから断じて哲の口から馬鹿みたいだとかこんな生徒を持つのかと言ったような台詞が出る事はない。

そうそうクラス崩壊とかスゲー生意気とかいうのより万倍もマシだよな。

とポジティブな思考でそれらを飲み込んだ。

「それではのどかとハルナはここで」

「おっけー。出来るだけ早く戻ってきてよね」

「あ、あの夕映、お願いがあるんだけど」

「どうしたですか? のどか」

扉を開けて屋内に入ったところで夕映がのどかとハルナの二人に別れを告げるとのどかが意を決して何かを頼み込み始めた。

「え? のどかも一緒に行きたいんですか? ええ、別に構わないですけど急にどうしたんですかのどか?」

「あの、そのう……」

「いいから連れてってあげなよゆえー。シェルパなら私一人で十分だしそんなに危なくないでしょ? 図書館探検部謹製の内部地図だってあるからトラップの位置も大丈夫だし桜咲さんだっているんだしさ」

「ですが、そもそも類稀なクーフェさん、楓さん、アスナさんの身体能力に頼っての攻略を計画していたのにクーフェさんも楓さんも突然用事が出来て今回同行を断念したのですよ。それに作成された地図もあくまで人の踏み入る領域の話です。私達が今回目指しているのは大学生の部員すらなかなか到達できない深部なのですよ? 万が一があって怪我等してしまえばテストどころではなくなってしまいますし」

「でも、そのそんなに深くないところまでだったら危なくないよ?」

「ですが、その後のどかは一人でそこに残るかここまで戻ってくるしかないのですよ? どちらであっても危険です」

夕映は真剣な顔でそれに反対した。

魔法の本を探求するメンバーは哲、エヴァンジェリン、アスナ、ネギ、刹那、木乃香、夕映の7人だ。それに対して地上部に残るのはのどかとハルナの二人。

ハルナはともかくとしてのどかは運動が得意というわけではない。というよりも苦手といったほうが良いだろう。

何もないところで転ぶような運動音痴ではない。が、そもそもインドア派であり体も小さいのどかは下手をすれば小学生男子にすら遅れをとるだろう。

いくら刹那が学園四天王の一角であり、明日菜も一般人といいがたい身体能力を誇っているといっても庇われる側の人数はそれよりも多く、刹那と哲以外はエヴァンジェリンの素性を知らないので夕映の考えを推測するならば倍を超える。

また夕映は刹那の力量についてもただ漠然と凄いと思っているだけで詳しく知っているわけではない。ネギについても明日菜が連れてきただけで頼りに出来るとは思っていないのだ。

これらの事を考えればこれ以上自分を含めた足手纏いを増やすべきではないと考えるのは当然といえるだろう。

彼女達3人のやり取りを見守る木乃香もまた夕映と同じように慎重な姿勢を取るべきだと考えていた。但し彼女とは全く別の理由で。

木乃香はその理由でもある刹那をちらと横目で見つめた。

怜悧な風貌に鋭い目線、澱みなく透き通っていながら冷めた空気を醸し、時に他人に緊張をさせるような顔をすることもある彼女。

その顔を横目で見ていると耐え切れず切ない溜息を洩らしてしまう。

出来るなら彼女ともっと話をしたい。昔のように親密な距離で、柔らかな笑顔で、何の遠慮もなく只管に同じ空気を共有していることが楽しいと言える位に。

今も自分が正面から彼女を見つめればいつも通り刹那のほうから自分に距離を取ってしまう。だからそばに居て話しかけたいのを我慢しながらこうして離れて気付かれぬように彼女を見ている。

そしてその視線を別の友人達に走らせる。

のどかを宥めようとする夕映とその夕映を説得しようとするハルナ。

普段の活動から積極的に探検を行う夕映だからこそ図書館島の危険性は自分達図書館探検部の中で最も熟知しているはずだ。だからこそ夕映がのどかの同行を拒もうとするのが不思議に思えた。

図書館探検部が活動するのもこれから魔法の本を探しに行くのもどちらも図書館島の地下部だ。

極普通の建造物然とした外見からは予想も出来ないが、図書館島は外からも見える地上部に加えて地下へと延々と続く地下部が存在する。

それも何十年も大・高・中・小学部合同の巨大サークル図書館探検部が探検しても底が見えないという破格の大きさを持っているのだ。

加えてその経緯から多くの貴重書が集められたり、卒業生や学園関係者から寄贈されており、図書館全体でみればその蔵書の貴重性は国立図書館にも劣らないだろう。

それが理由と言えるかは分からないが地下部には様々なトラップが仕掛けられていた。

このトラップ群は貴重書を狙う窃盗犯対策として仕掛けられているというのが公式な説明ではあったが、それを信じるにはこのトラップは余りにもお粗末な出来であるし、そもそも人が簡単に出入りできるような施設に盗難を警戒しなければならない本を置いておくのも不自然であるという点からそれを疑うものもおり、その不自然さと幾ら探索しても限りが見えないという点から時折今回の噂のように魔法の本や公には出来ないような技術、或いは何処かの御伽噺のように異世界に繋がっているのではないかという者までいる始末である。

と余計な話はともかくとしてここには致死性のトラップが仕掛けられていることもある。しかしながらそれらは兵器としての凶悪さの割りにトラップとして役割を果たすには仕掛けが大雑把である、またある程度知見もしくは体力に優れるものならば掻い潜って進んでいくことも出来る程度の物であり、今回の同行者の中に含まれる桜咲刹那ならば問題なくその役目が果たせるだろう。

しかし、木乃香は安易にのどかの同行に同意することが出来なかった。

恐らく自分がお願いすれば刹那はのどかの同行を快諾するだろう。しかしながら刹那以外にトラップから身を守り、同時にその脅威から他人を守ることが出来る人間は精々明日菜とネギ程度だろう。男性である哲も明日菜に勝る運動能力を持っているとは思えない。

となれば当然自分達を守る役目は刹那になる。そして同行する人数が増えれば増えるほどその負担は増してしまう。

本当だったら自分の同行も固辞したい位だったが夕映の強硬な説得で付いて行く事になってしまっている。

木乃香はどちらの肩を持つべきなのか決められず刹那と二人を交互に見つめ続けていた。

そして最初からあまり強い気持ちではなかったのだろうのどかが諦めようとしたとき、思いもかけない人物から声が掛けられた。

「良いじゃないか連れて行ってやれば。危ないというんだったら私が守ってやるよ」

一番遠巻きに二人を見ていた筈のエヴァンジェリンだった。

「あなたがって、エヴァンジェリンさんそんな事出来るのですか?」

「無論だ。そうだろう桜咲刹那?」

「え!? は、はい確かにその通りですがしかしそれは」

「ふん。力を取り戻したというのにこんな面倒くさい仕事ちんたらやってられるか。私はさっさと子守を終わらせて家に帰りたいんだ」

「本当ですかそれは!!?」

驚いた様に刹那が声を張り上げるがその会話の意味を理解できるのは二人だけだ。

とはいえ刹那のお墨付きという事であればエヴァンジェリンの能力もかなりの物となることは、刹那が学園四天王と呼ばれていることを知る人間ならば分かっただろう。

「そういう事であれば大丈夫………でしょう。しかしのどかくれぐれも気を付けるのですよ」

「う、うんありがとう夕映。そのう……エヴァンジェリンさん、よろしくお願いします」

「全く夕映ったら心配性なんだから」

「パルが能天気なだけです」

問題は丸く収まった。

刹那の驚きはいまだ収まらずそしてエヴァンジェリンに対する不信感を覚えながら

「皆さん、そうと決まったらさっそく出発です」

一行は出発した。



[21913] 第十二話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:f2794b57
Date: 2015/12/19 11:20
深夜の図書館。一辺が数十メートル単位で構成され高さは床から天井まで5メートル以上もあり、おまけに地下に地下にと伸びるこの建造物は建造されてから幾度も増設を繰り返された結果未だ人跡未踏の地を残し、地下20数回までの存在が明らかとなっている他にそれが何処まで続いているのかという事すら分からない謎だらけの図書館で、トラップすら潜むそこに自分達以外人っ子一人居ないとなればその静けさや暗さたるや十分に人を恐怖させる事が出来る。

と、そこを歩く哲は思った。

かく言う自分も心内に恐れの感情が有る事を否定しきることは出来ない。というかめちゃめちゃ声高にその存在を誇示していると言っても過言ではないだろう。

周りに数人の人間が居る現状ですら膝が笑っているのである。

これがたった一人きりであったなら恐らく入り口で即座に引き返していただろう。

学校の怪談的なとってもホラーな空気はとてもとても苦手な人間である。鋏を持った男が追いかけてくるゲームを人の背中に隠れながら見ていたこともある人間としてこの経験を生かして夜間このような場所には二度と近づかないことを勝手に誓いたい。

とはいえ男の意地か怖いもの見たさ故にかその足運びに乱れるところは無く、集団から抜きん出る事もなく、はたまた遅れることもなくその中頃を闊歩する姿はとてもそのような思いをしていると余人に気付かせることはなかった。

こういう意味で面の皮が厚いってのも考え物だよな。なんというか凄く頻繁に人間性を勘違いされる。誰がバトロワが開催されたら平気な顔で優勝しそうな面してるんでよ。ていうかそれってどんな面だ。

時々『物凄い』無表情になると言われてきた哲の表情は現在微かな笑みを形作る途中で口が固定されたようなそんな顔だった。

そんな表情で歩く哲を振り向く一人の少女が居た。

長めの髪の毛で視線が隠れてしまうその少女だったが、何故だか見られるたびにその視線に気付けてしまうのはその視線がなんだか普通の視線とは違う温度だからだろうか?

隊列は縦に一直線。先頭から夕映、木乃香、刹那、明日菜、ネギ、のどか、哲、エヴァンジェリンとなっている。

そして哲の直ぐ前を行く少女宮崎のどかは他者の視線に人より鈍感な哲が、その視線を向けられるたび気付いてしまうようなそんな視線を幾度と無く向けてきていた。

哲としては不思議と居心地が悪い。その視線に込められた感情も理解できないし、何よりも後ろから物々と小さな声で独り言を言っているのが聞こえてきてしまうから。

「ッチッ!! あの目は如何いうことだ。何故あんな目が奴に向けられている? この前の体育の時間の接触でか? いいや違うな。あの時は何も会話を交わしていない筈だ。しかしそれを言えばいつの間に図書券等というものを………。忌々しい、恩を仇で返しおって」

不穏すぎる。そして意味が分からない。

誰が何時何処で何を如何すればこんな風に機嫌が悪くなるのか。さっぱり理解できない。

哲の記憶の中では確かにエヴァンジェリンの言葉を受けて夕映がのどかの同行を許可するまでは、エヴァンジェリンの機嫌は悪くなかったはずだ。

話しかけても素気無くかわされ、挙句距離を取られたときにもこんな風にはなっていなかった。

それが出発してから縦一列の隊形を取って書架の上を歩き出してから数分の内に現状のようになってしまった。

先頭で夕映が道を示し、それに続く形で木乃香、前を行く二人に気を配りながらも後方特にエヴァンジェリンを気にしている刹那、そしてしょっちゅうネギの事を気にして世話を焼く明日菜と明日菜の親切に感動するネギ、何故か哲をちらちらみるのどかと後ろを付いてくるエヴァンジェリン。何もおかしいところはない。

道が狭く、また所々にスイッチ式のトラップや書架と書架の間の空間が有るためここまで余りおしゃべりもせず黙々と進んできた一行。

おかしい、何処にも不機嫌になるようなものが有るとは思えん。

その前門のよく分からない視線と後門の理由が分からない棘の生えた空気に挟まれた哲は、いっそ恐怖に飲まれることを楽しみたいと思いながらもそれを実行できなかった。

しかものどかと目線を合わせると何故だかのどかが顔を赤くして前を向きなおしたり、エヴァンジェリンの放つ空気が刃の様な鋭さを持ったりするので迂闊に気になる視線を気にすることも出来ない。

そんな哲に救いがあるとすればかなり前方に居る刹那の項だけだ。

一見平穏そうに見える一行が地下6階に達したときだった。

夕映の持つ携帯に着信があった。

「もしもしゆえー、こちら地上班というかハルナでーす。今どの辺まで行ったー?」

「今ですか? 丁度6階に降りてきたところです。予定ではこの辺が中間地点ですし」

「そうそう、その先に閲覧室があるから休憩取れる筈だよ」

「皆さん、、もう少し行ったところで一旦休憩にしましょう」

発信者は図書館の地上部で待つハルナ。

両者の持つ地図上に記された幾つか存在するマーク。それが意味するのは何故か図書館内に設置された休憩所の存在だ。

とは言え本来図書館内部は何処であれ休憩所として機能するべきである以上、その言葉はここで用いられるには少々異質だ。

しかし階段を下りていくと何故か平然と書架の上を歩かされたり、書架の上に足場を作るための金具と稼動部が存在して居る為に不思議とその響きが受け入れられてしまうのだが。

「ところでさーゆえ、のどかはどうしてる?」

「のどかですか?」

電話越しにハルナが面白がっている空気が伝わってくる。

この友人は一体全体何を妄想してこんなに一人で盛り上がっているのだろうか。

この早乙女ハルナという友人はいつも一緒に居る三人組の中で最も活発で社交的であり尚且つ行動力も持ち合わせている。これで余りにも趣味に傾倒しすぎているところとどんな事態でも楽しんでしまえる強靭すぎるバイタリティさえなければ………いや、それに加えてどんなものでも楽しもうとするスタンスさえなければ一人の友人としてもっと心穏やかな生活を送れたかもしれない。

正直なところ羨望を覚えるときも少なくないその明るさは少なからず自分の救いとなっているところもないではない。

しかしと心の中で続けながら振り返って話題に挙がったもう一人の友人を見る。

引っ込み思案で臆病で人一倍優しく思いやりに溢れている。自分の自慢の友人は今も休憩を入れられると聞いて彼女の後ろを歩く青年に笑いかけている様だ。それを見た哲ものどかに微笑を返した。

「黒金さんに笑いかけていますね」

「他には?」

「特に何もしていませんが……あ、いえ黒金さんにも笑いかけられて急いで顔を逸らしました」

元々男性恐怖症の彼女が彼に対して笑いかけられること事態が殆ど奇跡みたいな事態だ。はっきり言ってのどか本人から哲と言う男性の話を聞いたときは夢か何かかと思ったぐらいである。

今もちょっと現実離れした物を見ている気がしている。

「あーもー。折角着いて行ったのにその体たらくか。夕映、私の変わりにのどかのこと焚き付けてあげてよ」

「普通そこは背中を押すとか励ますとかそういう表現を用いるべきかと思うのですが」

「いやいや、あののどかが男を好きになったんだよ。男を! ここは押して押して押しまくるべきでしょ」

ハルナの不適当極まりない発言を注意をしても、返ってくる発言をよく聞けば彼女のした表現がむしろ適当であった事を悟らずには居られない。

あいもかわらずブレーキとか自重とか手加減とか駆け引きとかタイミングとかそういった何かが抜け落ちて常に全力フルスロットルな彼女らしい発言と言えた。

その結果貴方はのどかを崖から突き落とす気がしてなりませんよ、ハルナ。

「しかしそれよりも先にのどかには男性恐怖症を治してもらうべきでは有りませんか? 確かに黒金さんに対して好意を寄せている様子も見られますがまともに会話が出来ている様子もないですし」

「そうかなー。黒金さんに対しては怖がっている風には見えなかった気がするけどな。それとものどか自身も気付いてないとか?」

「私にもそれは分かりません。とにかく今日は他に優先すべき目標があります。そちらに関しては後日もう少し分析してみてからでも遅くはないでしょう」

「いやでもゆえっ、ゆえっ! ちょっと聞い」

これ以上話していても話は平行線を辿る事になると思った夕映は喋っている途中のハルナを無視して電話を切ってしまう。

それからもう一度のどかを振り返ると顔が赤くなったまま前を向いていた。

とりあえず部屋に戻ってから話しを聞いてそれから決めましょう。あの人がどんな人なのか見極める必要もあるでしょうし。

とてもとても大切な友人を信じているが、悪い人間に誑かされる事がないとは限らない。その時には例え喧嘩になっても止めなければいけなくなってしまうかもしれない。

勝手と言われれば勝手だろう。それでものどかを大切にしたいと思う。だから勝手に覚悟を決めた。

「夕映、どうしたん? 早く先いこう」

直ぐ後ろを歩いていた木乃香が止まったまま歩みを止めた夕映を心配したのだろう。声を掛けられた。

「いいえ、なんでもありませんよ。あと少しです頑張りましょう」

先ほど自分でも言ったように今は他にやらなければいけない事があるのだ。



「これ、おいしー。流石木乃香ね」

「本当ですね。これほど美味しい物を毎日頂けたら嬉しいですね」

休憩所についた一行は木乃香が持参してきたお弁当を摘もうと机の上に座り込んでいた。

8人で円陣を組むように座って中央に置かれたお弁当に手を伸ばす。椅子ではなく机に座り込むのをしり込みしていた者も最終的に上がり込み、それを咎める者は哲も含めて居ない。

気が進まなかったものの椅子に行儀良く座る気分でもない。何せ今は冒険中なのだから。

のどかの作ってきたお弁当の中身は幾つかのおかずとサンドイッチが詰め込まれたものだ。

運動することを考えた上で作られたそれは軽めの食事で、オーソドックスな具が挟まれたサンドイッチは高揚した気分を抜いても十分美味しいでありエヴァンジェリンも文句一つ言うことなく食事を楽しんでいる。

普段から木乃香の作る食事を食べている明日菜も、そうでない夕映も感心しているのかその手の進みがいつもより速い。 

その元気溢れる食事風景に木乃香は思わず笑顔を洩らすと最大の関心事、刹那の感想を聞いてみた。

「せっちゃんは……その、どうや?」

「とても美味しいです、お嬢様」

「ほんまに!? あ、ありがとうせっちゃん」

「う……い、いえ別にお嬢様にお礼を言われるような事は」

息を呑む程緊張していた木乃香だったが刹那の答えに緊張を緩めると花が綻ぶ様な笑顔を見せた。

男がそれを正面から見たらまず間違いなく恋に落ちただろうその笑顔に、同性の刹那も頬に赤みを差した。

「えへへー、せっちゃーん」

「ししし、失礼しますお嬢様」

嬉しさの余りだろうかそのまま刹那の胸にしな垂れかかろうとした木乃香を前に、刹那は大急ぎで立ち上がって逃げ出してしまった。

「あーん、逃げられてもうた」

「何やってるのよ木乃香。あんたも食べないと無くなっちゃうわよ」

「木乃香さん、本当にこのサンドイッチ美味しいですよ。それとこのからあげも」

「ふん、黙って食事も出来んのかこいつらは。騒がしすぎるぞ」

ドタバタと騒がしい明日菜たちを見てエヴァンジェリンが悪態を吐く。

それを隣で聞いていた哲も確かにとそれに同意して苦笑いを浮かべた。

でも、エヴァンジェリンの気持ちも分からなくは無いがこうやって騒がしく食べるのもこれはこれで楽しいものだ。

「宮崎さんはこういうのどう思う? 嫌いかな?」

二つ目のサンドイッチに取り掛かりながらエヴァンジェリンとは反対側に座っているのどかの方を伺う。

サンドイッチを楽しむ少女達の中でも取り分け少食らしいのどかは僅かな量を口に含んでは咀嚼しまた口に含んでいたが、その様は小動物が食事をしているところよりも愛らしい物があった。

意外な発見に驚きながらも食事している様子を凝視してしまう哲だったが、その視線を浴びるのどかの方は心穏やかとはいかなかった。

ただでさえ見つめられるだけで顔を染めてしまうような恥ずかしがり屋の彼女が自分の食事をまじまじと見つめられているとあっては普段より一層の羞恥を感じたとしてなんの不思議があるだろうか。

しかも直前までのどかの視線は、騒がしく食事を楽しんでいる明日菜達を見ていた哲に注がれていて、瞬きほどの時間視線が合ってしまった気恥ずかしさも混じってのどかの一切の運動を停止させてしまった。

奇しくもサンドイッチを噛み締めた瞬間、振り向こうとする哲に気付いて慌てて視線を移動させる途中だったのどかはそのまま身動きが出来なくなってしまって哲の質問も耳に届かなかった。

しかし、二進も三進もいかない身体とは対照的にのどかの心は高速で運動していた。

木乃香の持参したサンドイッチに手を伸ばしながらも、明日菜達やエヴァンジェリンと会話するでもなく淡々と食を進め時折誰かに視線をやってはまた食事に戻る。

自分のようにその視線に何がしかの感情を滲ませる事もなく、ただ見ているだけの行動は一見冷たさを感じさせるようでいて決してそのような事はない。

温かみも冷たさも無い、かといって空虚ではなく確実な何かが感じられるような今まで見たこともない類のその視線を発する瞳を見つめていた時、のどかの脳裏には今までの哲と自分の会話が思い出されていた。

初めての邂逅は全くの偶然、階段から落下する自分をいつの間にか現れて自分の落下地点に座り込んでいた哲に受け止められていた。

その時の事ははっきり言ってのどかの記憶には余り鮮明に残ってはいない。

とても苦手な筈の男性に、あんな風に危険な状況から助けて貰ったという事実に思考が追い付かなくなっていたのかもしれない。

その後も図書島までの案内の途中も碌な会話は存在しなかった。

その時は哲がまるで上京したての田舎者のようにこの街に溢れかえる洋風建築や街並みに釘付けになっていたために気まずさも感じなかったし、それ以前の出来事のせいで感覚が麻痺していたのか今のように見つめられるだけで、見つめるだけで何かを感じるような事は無かった。

二度目は学校の図書室で。

誰も居ないと思っていた静まり返っていた図書室で返却予定の本を探していたら寝ていた哲を見つけたのだ。

その時は彼を見つけたというよりは彼に見つけられたというか、そんな感じだったのだが。

ともかく、視界を奪うカーテンが視界から消えたら彼の顔が間近にあったのだ。

省みてみればあの時の自分は彼に抱き留められていたような…………。

その事を思い出した瞬間、熱せられた鉄の如き滑らかさでのどかの顔に血が上った。

そして胸に去来する経験の無い感覚と感情に受け止めることも出来ずに流される。激流のような激しさで、羽のように優しく抱きとめられそのまま意識の大部分を攫われる。

柄にも無く大きな声を挙げたくなってしまうがこの状況でそんな事が出来る筈も無く、行き場の無いその衝動はのどかの体内に留まって顔の熱を冷まさせない。

その攫われずに残った少ない意識がその衝動に疑問を抱く。

何故こんな感情を抱くのか、何故これほどの感情を抱くのか、何故こんな感情を抱く対象がこれなのか。

何もかも簡単に答えが出せない。

だって自分は男性恐怖症の筈だ。身体に触れることだって普段なら、彼以外ならば怖くて怖くてとても考えることすら出来ない。

だというのに彼ならば怖くない。

だって自分は彼にたった一度助けて貰っただけだ。それ以外に何も無くそれ自体も何の変哲も無く何の不思議もなく何のロマンスも無い。

だというのに彼が気になって仕方がない。

だって自分は彼にただ受け止められただけだ。転びそうになってカーテン越しに、それと意識することも無く。

だというのに今まで感じたこともない熱さで胸が焼けている。

自分がいつも読んでいるような本の世界の住人ならばいとも簡単に、或いは紆余曲折の末にこれに恋と名前をつけることだろう。

しかし自分には疑問符を浮かべることしか出来ず、そんな意識とは裏腹に手を付けられない衝動に引きずられ続けてしまう。

何かがおかしいと砂粒程の意識が訴える。これが恋であるなんて。

彼と三度目に会ったのは先日のバレーボールの折、女子中等部屋上での事だった。

あわや高等部との争いに発展しようかという場面に現れた彼が高等部の生徒達を説き伏せて追い返した後、授業を開始しようと整列中に何を考えたのか自分は彼にほぼゼロ距離まで近づいたのだ。

あれで顔の高さが同じくらいであれば唇が触れたかもしれないという位の近さだった。

あの時は彼女自身自分の行いに面食らっていたが、それ以上に面食らっていたのは相手の哲だっただろう。

自分に気付いて驚いた哲は、その驚きを隠しもせずに自分にどうしたのか聞いてきた。

自分も分からない物を説明する事など出来ず、そして気恥ずかしさから逃げ出してしまった。

きっと哲を困惑させてしまっただろうと申し訳なさを覚える。

数えてみれば今回で哲と会ったのは4回。たったの4回だ。

それなのに自分が自分と思えないほどの感情を相手に抱いてしまっている。

しかし何故か分からないと素直に答えてその感情から目を背向けるにはそれはあまりに鮮明で強烈過ぎた。

一目惚れをしてしまったんだろうかと自問する。

それにそんな事は無かったと自答する。

駄目だ。そこまで考えて思考がぐるぐると空回りしそうになる前兆のようなものを感じたのどかは急いでそれ以上の思索を諦めた。

そうして何も考えないようにしていると知らず知らずの内に溜息が出てしまった。

自分の事を心配して引きとめてくれた親友に無理を言って付いてきて、こうして食事をしている今でさえ時折気遣わしげな表情をさせてしまっている。

様々な複雑な感情から哲の方を極力意識しないようにして明日菜達と談笑に講じる親友を見やる。

度々哲の視線に硬直しながらものどかは自分を見つめる夕映の視線に気付いていた。

きっと彼女も自分と同じかそれ以上に、引っ込み思案な自分のいつにない暴挙に混乱していることだろう。

自分の性格について自覚的な方だと思い上がるような事は出来ないが、それでも自分がこういう時こういう事に参加するタイプではないことが分かっている。

長い間同室で生活してきて、きっと自分以上に自分を知っている彼女だ。

まだまだ続く探検で足を引っ張らない自信はなかったが心配をかけ続けているというのは嫌だ。

哲の前で格好の悪いところを見せたくないという気持ちもある。

じっとのどかが夕映のほうを見ていると夕映がのどかの視線に気付いたのか彼女とお互いの視線が交錯した。

夕映はのどかの想像通りに心配そうな表情を浮かべ、その腰を浮かそうとした。

が、その視線がのどかの隣に居る哲、そして哲を挟んで反対にいるエヴァンジェリンに移ると一瞬身体を震わせて浮かせた腰を机の上に戻した。


不審な夕映の様子に、彼女の見ていた方向を見ると

「何か用か、宮崎のどか」

のどかの視線が自分の方を向くよりも早く、意識がそちらに向いたことに気付いたかのようにエヴァンジェリンに声を掛けられた。

しかし、その声色に友好的な色など欠片もない。刺々しく敵意を隠そうともしないその声に夕映と同じようにのどかの身体も震えた。

何か自分がしてしまったんだろうか?

見に覚えはなかったが、彼女がのどかの身の安全を保証してくれなければ自分が同行出来たかは怪しいところだ。

まだ助けられるような危ない場面には陥ってないがそれでも恩人と言って差し支えないだろう彼女に睨まれてのどかの心の中に申し訳なさが溢れた。

「八つ当たりに人を睨むのは止めろよエヴァンジェリン。さっきから機嫌悪すぎだろ。腹立つことでも有ったのか?」

「ふん、何でもない。気にするな」

雰囲気の悪さに気付いた訳でもないが、エヴァンジェリンの形相に気付いた哲がエヴァンジェリンを注意した。

「あのな、気にしないわけにも行かないだろ。知らない奴でもないし、ここに居る奴の中じゃお前が一番仲良いんだ」

哲もエヴァンジェリンも先日のことを忘れたわけではなかったが、哲としてはそもそも誤認であるそれをいつまでも気にするような性格をしていないし、自分が振ったわけでもないので今後の付き合い方はエヴァンジェリンの反応次第、という風に気軽に考えていたしエヴァンジェリンの方もそれどころではなかった。

「そ、そうか? しかしお前私に対しては言葉遣いを直そうともしないが」

「ああ、いや。気にするなら改めるけど。仲の良い奴に対して敬語を使うのは違う気がするし気兼ねしないで良いから助かるんだけど。………でもまあよく考えてみればそっちの方が良いか」

「そ、そういう事なら気にするな! 私としては当然敬意と畏怖を持って接してもらいたいところだが特別に許してやる。寛大な私に感謝するんだな」

「ああ、ありがとなエヴァンジェリン」

「……そ、それとだ。もう一つ、私のことはエヴァと呼べ」

「そうか? エヴァンジェリンって響きも結構好きなんだけどな、今のままじゃ駄目か?」

「…無理にとは言わん。好きな方で呼べ」

哲がエヴァンジェリンの方を向いてしまうと隣に座るのどかからは哲の後頭部とエヴァンジェリンの顔しか見えない。

急激に機嫌を良くしたエヴァンジェリンと哲がどんな表情でやりとりをしているのか分からないが、哲の発言の内容も、それに対するエヴァンジェリンの反応も。そしてエヴァンジェリンの表情ものどかには何でもないもののようにやり過ごすことは出来なかった。

どうしてこんな風に思ってしまうのか? どうしてそんな風に言われているのが自分ではないのか?

そんな考えが頭の中を過ぎった。

胸の奥がざわざわとざわついてサンドイッチを掴む手にも自然と力が入ってしまう。

「てえ、ちょっ、宮崎さん!?」

「えっ?」

一瞬ぼーっとしてしまったのどかの喉を疑問の声が震わせた。

慌てて意識を取り直すと哲の顔が直ぐ目前に迫っていた。

もう一度のどかの意識が遠のきかける。

えっと、どうしてこんな事に!?

「うわああ、宮崎さん手、手え!!」

「手? ……あ、きゃあ」

言われたとおり自分の手を見つめると思い切り力の入れられたサンドイッチが具を残らずぶちまけていた。

「のどか! どうかしましたんですか!?」

「あららー、ティッシュティッシュ。早く取ってしまわんと染みになってまうよー」

一変騒然となる一同。夕映が、少し遅れて木乃香がティッシュを手に駆けつけた。

「おー、あぶねーあぶねー」

のどかの持つサンドイッチよりも下の位置で哲の手がサンドイッチの具を受け止めている。

そのお陰でのどかのスカートの被害が僅かで済んでいる。

「ご、ごめんなさい」

「気にしないで良いよ。それよりほらサンドイッチはこっちで貰っちゃうので宮崎さんは手を拭いちゃって。近衛さん、ティッシュを宮崎さんに一枚渡してもらって良いですか」

「わかりましたえ、はいのどかー、これで拭き」

木乃香からティッシュを受け取ってのどかは礼を言う。

ティッシュで手に付いた具やマヨネーズ等を拭き取っていると、木乃香がポンポンと叩くようにしてのどかのスカートから汚れを取っていた。

「夕映もごめんね。ちょっとボーっとしてただけで何でもないよ」

「そうですか? それならいいですけど」

そばにいる夕映にも無事を知らせる。

何故ボーっとしてしまったのか意識しようとするとまた得体の知れない感情が疼く気がして手が付けられず、まさか自分でもよく分からない感情をそのまま告げるわけにも行かずに心配しないように言うことしか出来なかった。

「とりあえずこれでええかな。あんまり汚れてへんかったし、後は帰ってからやな」

「ありがとうございます木乃香さん」

「気にせんでええよ」

「ネギ先生も明日菜さん、エヴァンジェリンさんもお騒がせして済みませんでした」

粗方処置と片づけが済むと慌しくしてしまったことを謝罪していく。

ネギと明日菜はそれに笑顔で気にしないでと答えたが、残るエヴァンジェリンには鼻を鳴らしてそっぽを向かれてしまった。

「ところで、貴様いつまでそのサンドイッチを持ってる心算だ?」

エヴァンジェリンがちらっと横目で哲の手元を見つめながらそう言った。

「あー、いや女の子に食わすのは戸惑われるけど捨てるのも勿体無いだろ。……宮崎さん、これ俺が頂いていいかな?」

両手が自由だったなら困ったように頭でも掻いていただろう。

そんな顔をして哲がのどかの方を振り向いた。

「な、あああっ!!?」

「えええええええっ!!」

何故か先んじてエヴァンジェリンが、続いてのどかが驚愕に声を挙げた。

そして哲のこの発言にはこの二人以外も反応を見せた。

「アンタねえ、普通に考えてそんなの駄目に決まってるでしょ」

と明日菜が怒り、

「うーん、確かに勿体無いな」

と木乃香がずれた事を言う。

夕映は友人の貞操の危機に際して哲をジト目で責めた。

それ以外であるネギはそれぞれ何が問題なのか理解していなかったし、刹那は無関心から特に反応は無かったが。

そして哲は明日菜に責められてあっさりと諦めた。


「まあそれもそうか」

傷ついた様子も無く淡々とそう言って、じゃあどうしよっかと首を傾げる哲にのどかは許諾も拒否も出来なかった。

だって、だってと動かすことの出来ない唇ではなく心で呟く。

だって間接キスになっちゃう。

しかもコップやペットボトルの様な物ではなく食べかけのサンドイッチだ。

しかも今の哲の手にはのどかの手に直接触れたパンや、のどかの手の中に溢れていた具も有る。

そ、それを食べるってことは………。

のどかは自分の脳みそがぐつぐつと煮えているような感覚を覚えた。

最初に浮かんだのは哲と自分がキスしているところ。

縮こまった自分の緊張を解す様に柔らかく笑む哲が、優しく自分の唇に接吻をする。そして哲の顔が離れて何とか目を開ける自分に、悪戯な目をした彼が不意打ちでもう一度唇を寄せるのだ。

もうその段階で顔が真っ赤に染まり頭がふらふらしてしまうというのに、のどかはもう一つ哲の言葉を思い出してしまう。

これ俺が頂いていいかな?

その瞬間加速していた思考が地から足を離して大空に飛び立った。

のどかの脳裏に自分の手を美味しそうに舐めしゃぶる哲がまざまざと、生々しく描かれた。

もしかしたら人によってはそれを妄想とも言ったかもしれない。

今度こそボンッという音がして錯覚ではなくのどかの頭の中が蕩けた。

そののどかの頭の中とは対照的に、現実では哲の手の中のサンドイッチは順調に廃棄処分されそうになっていた。

それを(心の片隅で)期待している人間は恍惚としていたし、それ以外の人間はどちらでもよさそうにしているか反対している人間だけだったからだ。

だから、何事もなければまず間違いなくその元サンドイッチと形容すべき物体は誰かの持っているごみ袋か何かに納まっていたのだ。

「まあ、私なら別にお前が食べたいというなら、どうしても食べたいというなら食べさせてやっても良かったけどな」

エヴァンジェリンのこの一言さえ無かったなら。

その一言がのどかの耳に届くと、瞬く間に空中を浮遊していたのどかの魂は肉体に押し込められ、のどかの意識を復帰させた。

それが例えどれほど小さく呟かれた一言だろうと、それが例えどんな雑踏の中で呟かれようと今ののどかに聞き逃す筈などないと思えた。

そう絶対に聞き逃せた筈などない。

何故なら彼女は、エヴァンジェリンはこういったのだ『私なら』と。

まるで、自分がそれを強く拒絶しているような、その上で『私なら』『あいつとは違う』と言いたげな台詞だ。

それはまだ自分の気持ちというものを掴めていないのどかにも静観出来ない事だ。

先ほど胸の奥で疼いたそれにとてもよく似た別の感情に、エヴァンジェリンの言葉が火種となって投げ入れられる。

するとその小さな火は元々燃えやすくなるように燃料でも付着させてあったみたいに鮮やかに燃え上がった。

「べ、べべべ別に私も構いません。その……わ、わ、わ、私は嫌でも何でもないですからっ」

カッとなってどもりながらも最後まで、強く自分の意思が込められた声を哲に届けたい。

哲の事をどう思っているか分からない。しかし嫌っていると勘違いされてしまうのは耐えられない。

それだけは絶対に嫌だと心の何処かが叫んでいるのだ。

「のどか……、その……」

間接キスといえど中学生女子とは多感な時期であり、嫌いな人とそういう事になれば泣き出す人もいる位だ。

自分が知る限り最も純真で初心な少女に、自分が何を言っているのか分かっているのか聞いてしまいそうになった夕映だったが、のどかの瞳には微塵も冗談の雰囲気は無く、ましてや自分が何を言っているのかの自覚など訊ねるまでもないだろう。

ネギや刹那は言うに及ばず緊迫した空気に木乃香すら口を差し挟めず、口を開こうとした明日菜はエヴァンジェリンの「何を言っているのだこの小娘は」とでも言いた気な猛烈な闘気を浴びて口を閉ざしてしまった。

この場を動かすことが出来るとすれば、もうエヴァンジェリンとのどか、哲の三人しか居ないだろう。

たったこれだけの事を言うだけで勇気を振り絞らねばならないのどか、でもそのために勇気を振り絞ったのどか。

友人が真摯に言の葉を紡いだその結果を邪魔することは出来ないと悟った夕映は大人しく結果を見守ることにして、今は観客に回ることにした。

いずれまた友人が何かをしようとする時、その時は手を貸すことを一人心の中で誓いながら。




そしてその時、緊迫した空気の中心人物、台風の目とでも言うべき男・哲は困窮の極みにあった。

おかしい。おかしいぞ。なんでこんな唾を飲む事すら躊躇われる様な事になっているんだ。

回顧してみれば死んでからこっち、目立たない一般人代表を務める自分の人生で一変も味わったことのない状況に振り回されているせいかまるきり場の空気についていけていない。

これの原因が漫画の世界であるからか、自分が空気を読めていないだけなのかなんて事はどうでも良かった。

心の底から希求しているのは今現状から抜け出す方策である。

図書館島に入った辺りから妙に機嫌が悪いと思っていたエヴァンジェリンは食事時にいきなり視線を険しくして威嚇を始めるし、怒っているのかと思って話しかけてみれば機嫌が良くなり名前呼びまで許す始末。

あれって物凄く悪意的に受け止めるとお前のこと舐めてるんですよと取れなくもないんだけど、何処に気を良くしたのか見事に分からないし、その後今現在の寒気のする視線を放つまでの変遷はもっと分からない。

それに加えて宮崎さんも、落ち着かなくなる視線をずっと向けてくるし、かと言って視線がかち合うと逸らされるし、食事中にサンドイッチ握りつぶすし、挙句にそのサンドイッチを食べても良いとか言い出すし。あ、それと無視もされた。

いやいやこのサンドイッチ食べたいならご自分でどうぞ、とは男以前に人間として言えないが。

それに事の重要性を理解していないとはいえネギ君の前で宮崎さんの食いかけを食べるというのも気が引ける。もしかして自意識過剰かもしれないけどな。

おかしくないか? 片や先日振られたばっかの相手で片や好きな人が直ぐ傍にいる少女。この二人の間でこんな空気に悩まされているのが何故俺なんですか。

神様、あの俺を殺した神様以外の神様がいるというならお助けください。この世界の女子は怖い子ばかりです。

ていうかこれ、このサンドイッチ、食っちゃっていいよね。うん、宮崎さんからは許可出てるし。

そうそうこんな物さえなかったらきっとこの事件も解決するし、世界中も平和になるよね。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

小柄な少女が数回に分けて食べていたサンドイッチも成人間近の哲からすれば一口サイズである。

制止の声が掛からぬ内にさっさと口に放り込んでしまった。

パンの部分こそそのままだが、それ以外の部分は大体が一度自分の素手で受け止めているものだ。

から揚げをつまみ食いするときと変わらないように思えるが意識の上でよくない気分になってしまうのは仕方がないことだろう。

普段より噛む回数を減らし最低限飲み込める形にしてしまうと喉を鳴らして飲み込む。

「あー、美味しかった」

食物となった自然への感謝として感想を述べることも忘れない。

その場で間を開けずに食べてしまえばこのように変に意識することも食べられただろうに、あれほど美味しかった木乃香の手作りサンドイッチも控えめに言ってその美味しさを五割は減じていた。

しかも哲が食べ終わったのを見てエヴァンジェリンは愕然とした表情をしたし、のどかは「はうあ」と奇妙な声を出した。

それを見てどっと疲れを感じた哲は一行のリーダーである夕映にこう言った。

「休憩は終わりにして先に進もうか。早く家に帰ってベッドで休みたい」




程なくして広げたバスケット等を片付けて再出発の準備を済ませた一行は更に図書館島の深部を目指した。

休憩所を過ぎた辺りからトラップの難易度が上がり、その内の幾つかは実際に発動し哲の肝を冷やしたがそれらの全ては発動直後エヴァンジェリンに破壊された。

具体的に言うと本棚が倒れてきたり、矢が飛んできたりしたが蔵書が関係しないものは片端からエヴァンジェリンに八つ裂きにされたのだ。

図書館島入り口での約束を果たしたというより唯の鬱憤晴らしで破壊されるトラップたちに刹那でさえ無表情を保つことは出来なかったが、その激情を更に助長するような結果を避けるために何も言うことはなかった。

態々回避するほうが容易なトラップまで徹底的に壊して回るエヴァンジェリンは、それでも全く溜飲が下がらないのかその度舌打ちで不満を露にする。

そうなるともう、隊列でも前のほうを歩く6人でさえ休憩に入る前の様に口を開くことが出来ず、淡々と、黙々と足を進めバカレンジャー五人で満を持して探検に挑んだ場合の予定時刻よりも更に早く地下11階へと辿り着いたのだった。

ここから横穴を進めば目的の魔法の本が置いてある部屋まで行く事が出来るらしい。

もう少し、もう少しでこの緊張感から抜け出せるのだ。半ば本来の目的を忘れているが息が詰まるような空気の中長時間進むことが思考力を奪うせいでその事を気にする余裕はない。

それは先頭を歩く夕映でさえ例外ではなかったが、のどかとエヴァンジェリンの二人に関しては当て嵌まらなかった。

のどかはのどかで図書館島に入った当初よりも頻繁に哲の方を振り向くようになった。

それだけで哲の後ろから来る重圧が3割程増したが、のどかが歩いているのは哲の前である。

本棚の上は基本的に平坦な板で安定した足場だったが、本棚と本棚の間に掛かっている足場などは所々蝶番の様な金属が付いている箇所が有ったり、そもそもの足場の狭さなどもあり余所見をして進むには非常に危険な場所だ。

しかもトラップの悉くが破壊されるといっても障害となるのはそれだけじゃない。時には断崖からロープを使って降下したり、急な段差を飛び越えたり、腰辺りまで水に使っての行軍である。

元から体力に自信のなかったのどかは既に全快と言えるような状況ではなく集中力も欠いた状況だ。

当然、そんな状態ののどかが前述のような場所を歩けば転倒するようなことも有り得る。

そしてそんなのどかを哲は危なっかしいと思いながらも心配し、事あるごとに見ていたのである。

幸いトラップの全てをエヴァンジェリンがものの見事に破壊されるため、そっちの心配をせずに済むので後は自分が前後不覚にならない程度に注視すればいい。

何が起こっても直ぐに対処できる距離にいて、のどかが転びそうになったとき危なげなく助けに入った。

その際しっかりと前を向いて歩くように言い含め、これで大丈夫だろうと安心した瞬間今度は後ろからの重圧が二倍に膨れ上がった。

もう、背中に子泣き爺でも乗ってるんじゃなかろうかと思うほど、その重さは現実味がある。

そこへ持ってきて更に前のほうからの抗議の空気である。

いい加減にしろ、それ以上刺激するんじゃないとその空気が雄弁に告げるが、エヴァンジェリンには何もした覚えがない哲にはどうすることも出来ず、針の筵の様な状況にただ耐えることしかない。

胃の辺りがキリキリと痛み出した辺りで、辞職願を提出すべきか悩んだが、どちらにしろこの胃の痛みから逃れられないだろうと悟った哲はもうなるようになれと匙を投げた。

ケ・セラ・セラである。

胃の痛みも前後から来るプレッシャーものどかの理解できない行動も全部思考から弾き出して無心に前へ進むことへ専念する。

誰一人喋らず、隊列も乱さずに横穴に進入する。勿論進む順番もそのままだ。

一応そこも書架の内という事なのか、両脇に本棚が備えられていてどの本棚にもしっかりと書籍が陳列されている狭い通路は、中腰姿勢でも天井に頭が触れる為四つんばいになって進むしか選択肢はなかった。

ズルズルと制服とスーツを引きずる音だけが続き、服は擦り傷だらけ埃だらけになった所で夕映が休憩後初めて口を開いた。

「やりました。あの上が目的の部屋です」

この短い言葉の中に万感の思いが込められているのが5名には分かった。

天井のブロックを横にずらすと、部屋の明かりが差し込んで狭い通路を照らし明るくなった通路を順々に出て行って深い溜息をついた。

「本来ならこの部屋の様相に感動を覚えるところなのでしょうが、今はもうとにかく助かったという思い出一杯です」

「全くよ、出来れば二度と味わいたくないわあんな空気」

「ぼ、ぼくもいやですー」

と疲れ切った様子でぐったりした様子で夕映、明日菜、ネギが言えば

「ほんでも、うちは結構楽しかったけどな。せっちゃんはどうやった?」

「私は特に。でもお嬢様が楽しめたというなら良かったです」

とダメージの少ない二人がまったりとした空気を醸し出した。

「桜咲さんもそうだけど木乃香は元気ねー。そういうところ逞しいって言うか図太いというか」

「僕なんかもう怖くって怖くって……明日菜さーん」

気が緩んだのかネギが涙を浮かべながら明日菜に泣き付いた。

「悪かったわね無理やり連れてきちゃって。ほら、そんなに泣かないの」

普段なら素っ気無く突き放したかもしれないが、今回は寝ているネギを引きずってきたという引け目もあってか明日菜はネギを慰める。

背中を擦ったり頭を撫でたり優しい声を掛ける明日菜としがみ付くネギの図はそれを見るものの目に仲のいい姉弟に映った。

「明日菜ってほんまにやさしいなー。今日はずっとネギ君のこと助けたってるし」

「しょうがないでしょ、私が無理やりに連れてきちゃったんだから。これくらい面倒見るわよ」

それが彼女の本音なのかどうかは彼女自身にしか分からない。

しかし彼女の頬に差した紅色が彼女の照れを表しているように思えて心の中にほんわかと暖かいものが流れ込んでくる。

「それより、アレはどうすんのよ?」

「………アレですか……」

一転して心の中が隙間風が吹き込んでくるようにすーっと冷え込んでいく。

夕映と明日菜の視線の先には隊列の後部を歩いていた2人の姿が。

「のどかをこちら側に連れて来たいところですが、エヴァンジェリンさんには気付いていないようですし、エヴァンジェリンさんはどうやらこの部屋への興味で怒気も薄れているようです。これは何もしないというのが最善の策のように思われますが」

「そうね、帰り道で刹那さんの負担が増えすぎちゃうし」

「それが妥当だろうな。エヴァンジェリンも宮崎さんのことを守ってはくれているし」

「聞いてたの!?」

予期せぬ声が割り込んできて明日菜が振り返ると哲が立っていた。

それだけ言ってスーツに付いた汚れを落としているところを見ると明日菜たちの方針に異議を唱える気はないらしい。

「出来るなら助けて欲しいけど、俺にも原因が分からないし無理だろ。だったら諦めるよ」

「ご、ごめんね。エヴァンジェリンちゃん普段はクラスの誰とも話さないし、こんな時どうしたらいいか分かんないから。まあ、ほらあれよ。『触らぬ神に祟りなし』ってやつ? これ以上何もしなければ大丈夫よ、ね」

労わる様に言葉を掛ける明日菜だったが、哲としてはそれに一言物申さねば気が済まない。

「触らなくても祟るだろ。困ったことに」

何せ触ってもいない神に祟られた結果が自分なのだ。意味は通じなくてもこれだけは言わせて欲しかった。

どうせ自分が何を言っているのかなんてここにいる誰にも分からないと思っていた哲だったが、その予想は裏切られた。

「酷い事言うじゃないか黒金哲。凡庸な有象無象なら泣いて喜ぶほどの能力を与えてやってその上理想的な世界に放り込んでやったというのに。ああ、神の慈悲深さが理解されないのは何時の世も変わらないか」

凛とした鈴の音が鳴るような声が空間全体を均一に振動させた。何処にいても何をしていても同様に聞こえるそれは最早声による意思疎通という次元を超えてテレパシーの様な超能力染みている。

「さて、あなたがこの世界でどのように生活しているか、何か変わったのか見に来たが何一つ変わっていないようで何よりだ。相も変わらず地獄も天国も変わらないとでも思っていそうな生意気な瞳をしている」

普通の人間と同じように発生しているくせにその音声は普通とは言いがたい伝わり方をするし、声色から心情の一つも読み取ることが出来ない声。

平坦で熱がなく電子音声のように無機質なくせに、怒っているような激憤と慟哭する悲嘆を感じさせとびっきりに生々しい。

本来矛盾せずにはいられないような物でさえ平然と並べ立てて一つの物としてしまうその声に哲の全身が総毛だった。

悪寒と吐き気が止まらなくなり、眩暈と吐き気と頭痛が襲い掛かる。

前後不覚ではなく五里夢中。まるであの時みたいだと凍りついた脳髄で思考する。

「お前に絶望を届けに来た。君の事だ、何でもない事のように受け取ってくれるんだろう?」

間違いない。あいつだ。何故だとは考えない。きっと理解できないから。

重要な事はたった一つ。きっと何も変わらない。



[21913] 第十三話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:1ce8384a
Date: 2015/12/19 11:21
「何故来たのか等とは聞いてくれるなよ。私の目的が何であるかなどお前に初めて会ったときからたった一つしかない」

「俺への嫌がらせでしょう? 幾ら俺でも忘れたりしませんよ。実感も記憶も無いとは言え、流石に一度俺の事を殺してるんですから。その相手がどんな人なのか、この短期間で忘れるのは至難と言えますよ」

「ふん、これでホンの僅かばかりでも驚いていれば可愛げがあろうというのに。お前という奴は本当にこれっぽっちも可愛くないな。殺しておいて正解だったよ」

「そもそも可愛げが有ったら貴方に目を付けられた挙句に殺されることも無かったと思います。まあその事について恨み言の一つも吐く気になりませんし、俺にとってはどうでも良い事ですけどね。どちらかというと俺が分からないのは貴方が此処に来た動機ではなく、此処で私に何をする積りなのかという事です。嫌がらせならもうとっくに済んでいると思っていたのですが、もしかしてまだやり足りない事でも?」

「ああ、やはり私は爪が甘いのかな。お前に一つ二つ伝え忘れたことが有った。お前にくれてやった物について説明をしていなかった。なに、至極簡単で単刀直入に事実を教えてやる積りだ、そう時間は取らせんよ」

「そういう事なら早速お話をしていただいて宜しいですか? 俺の生徒では有りませんが子供も居ますから早めに用事を済ませてしまいたいんです。それともこの子達だけでも先に進ませてもらっても構いませんか?」

「いや一緒に聞いてもらおうか。そっちの方が面白そうだ。無論私にとってはだが」

「期待された反応を返せるか自信は有りませんが、頑張りますよ」

「では、用件に移ろうか。黒金哲、お前私が与えてやった物が何か分かるか?」

「まあ、大分うろ覚えになっていますけど貴方が言ったことを振り返ってみれば大体分かるような気がします。俺の自意識以外は殆ど貴方から貰ったものでしょう。顔が変わってるところを見るとどうやら恐らく身体も全部貴方が作った物ですよね? 色々とあるようですけど有形無形合わせたら名前を挙げていくのが面倒になる位のものは貰っている気がします」

「その通りだ黒金哲。お前の言ったとおりお前の意識、正確に言えば魂以外の全ては私が特別にお前の為だけに作ってやった。後お前の物が残っているとすれば記憶位の物だよ。一旦私の作った身体に移し変えたがね。それ以外は字義通り全て私のオーダーメイドだよ。その眼も鼻も口も耳も髪の毛も指も腕も肩も胸も足も内臓も脳も、お前の体は細胞の一つ一つ私のお手製だ。それだけじゃない、大凡才能と呼ばれるものは全て私からお前に与えた。学習も運動も思考も作業も考え付く限りなどというくだらない制限も無くどんな事でもお前ならたった一人で実現可能だ。それも一般的な人間の行う行動の範疇に収まらず超常的な能力も思いのままだ。暫く前にお前が使ったアレがどれ程の事態かお前には理解できないだろうが、断言しよう。あんな事が出来る存在は、お前が元居た世界から見れば出鱈目としか言えないこの世界にも一人も居ない。詳しいことは後でそっちの金髪の娘にでも聞けば詳しく教えてもらえるんじゃないか?」

「はあ、それはまあ其処までとは行かなくても一応理解していたんですが。もしかしてそれだけですか?」

「まだだ。まだ先が有る」

「嬉しそうな顔をしてますけど、そんなに俺が嫌がりそうな事ですか?」

「どうだろうな。薄々気が付いてはいるんだがお前は余り気にし無さそうでは有る。とはいえやってみなければ結果は分かるまい。或いはお前の苦しみが少しでも長引けば良い。それだけだよ」

「昔から思っていたんですけどどうも俺は知らない人から猛烈に嫌われる才能が有るみたいですね。俺の性格のせいでしょうが神様にまで嫌われているとなると流石に落ち込みますよ」

「そうは思えんような顔付きをしているのが本当に腹立たしい。それに私はお前の事を知っているぞ。お前が生まれた瞬間からな。お前の誕生に祝福まで贈っているのだ。お前が一方的に私のことを知らないだけでそう冷たい事を言わないでくれないか?」

「殺された相手に向けるような笑顔を持っている人間なんか薄ら寒いだけでしょう。こうして生き返っているとはいえ私もそれと同じですから」

「そんな事を言えばお前のように臆した様子もなく私に向かい合うことが出来る人間というのも十分に薄ら寒いといえるが。まあ、その辺りの事は今はいい。話の続きの方が重要だからな。では、黒金哲、私がそれ以外にお前に与えた物に心当たりはあるか?」

「他に貴方から貰ったものですか? ………肉体と能力と……。ああ、後は運ですかね」

「覚えていてもらえて嬉しいよ黒金哲。そう、残りの一つは運だ。これはどちらかといえばお前の運命そのものだと言えるが」

「つまり俺が送る人生は既に貴方によって決定された規定の道だということですか?」

「違う、そうじゃない。私の決めた運命を与えたのではなく、君に君自身に運命を与えたのだ。よくこの様に言う人間が居るだろう。運命は自ら切り開くものだと。正にその通りの物を君に贈ったのだ黒金哲。最早君が人生に於いて不幸を嘆くことは無い。君の生において起こる全ての事象は全て君の思い描くままなのだからな。通常人間は自らの才能を大きく上回る運命という名の流れに飲み込まれることを余儀なくされるが、君はその流れそのものを操る事が出来るのだ。どうだ? 凄くは無いかね」

「ええ、まあ驚愕に値する事実だと思います。では俺が今このような事をしているのは貴方から与えられた力に因る事なのでしょうか?」

「全く違うというわけではないが、それが今言った運の事を指すならばこう言う他無いな。馬鹿な事を言うなと。私が与えた力がこの程度で収まるとでも思ったのか? 言っただろう、思いのままと。貴様がそう欲すれば瞬きの間に全世界の人間を平伏させる事も、明日で終焉を迎える世界を永遠に存続させることも出来る豪運が齎す物が、たかだかその程度の物である訳が有るまい。今のお前の境遇は私が作ったお前の身体の持つ運に因る物だ。お前が何も望まない為にその身体自体が持つ幸運が引き寄せたものに過ぎん」

「なるほど、じゃあこういう事ですか。俺がこれから先どんな人生を辿ったとしてもそれは俺自身の努力や運命の結果ではないと」

「無論そうなるな。幸福を望まぬお前の思考は理解の及ぶ物ではなかったが、確か貴様はこう願っていたな。努力の末に勝ち取る人生が欲しいと。どうだ、前世において唯一望んだものを奪われた気分は。悔しいだろう? 憎らしいだろう?」

「まあ、少しだけ。そもそも今の今まで努力もしてこなかった俺が今更そんな物を手に入れられるとは思ってはいませんでしたから」

「期待していなければ失望もより少ないという事か。ちっ、つまらん」

「という事はお話は終わりですか?」

「ああ、残念ながらな。矢張りまともな神経をしていない奴に嫌がらせというのはどうにも普通の人間に行うのとは勝手が違うようだ。これが全うな人間だったなら今頃泣き叫んでこれからの人生の空虚さに打ちのめされでもしているだろうに」

「といわれましても人生の空虚さなら生まれたときから感じてますから。打ちのめされるなんて言うのは本当に今更の話でしょう。それに良い事尽くしじゃないですか。ただ生きていけるだけでこの瞬間死んでしまう人たちや幸せに生きていけない人たちよりも余程幸せだ」

「それほど平坦な表情で言われても信憑性の欠片も無いがな」

「まあその為の努力なんて一度だってしたことはありませんが、自分の様な人間に幸運が訪れるくらいなら不幸な人間が一人でも減ったほうが良いとも思ってますし。何より嬉しくもなんともありませんから」

「ふん、貴様が本当に幸せを求めるようになればその時漸くお前の苦しむときが訪れるわけだ。それまでは只管に絶望を舐め続けるといい」

「そんな時が来れば良いと自分でも思っているのですがね」

「忘れたのか黒金哲。貴様は不老不死・不死不滅の化物だ。貴様がこのままの生き方を続けるにしろ、普通の生き方に目覚めるにしろどちらにしろお前には苦しみしか用意されていない」

「それは俺が善良な人間の場合でしょう。何の努力もせず我武者羅に幸福を啜る行為を肯定できるような人間になれば貴方に与えられた力は私を幸せにしてくれるように思いますが」

「そうなれるならばとうの昔にそうなっている。周囲の人間に等微塵も興味を抱かず幸福を幸福とも思えない人間が悪人になど成れる筈もない。悪人というのは自らの幸福に恐ろしく貪欲な連中だ。そして他人の幸福すら横取りして幸福になる。では他人にも興味が無く、他人の幸福は自分にとっての幸福ではなく、他人の不幸すら自分の幸福に出来ない人間が、悪人に成れる道理はない。腐っても鯛ではないが、どう頑張っても其処まで変化することはお前には不可能だ」

「神様にまで善人のレッテルを張られてこれで何処行っても胸を張れるというのに、幸せにはなれないなんて笑っちゃいますね」

「不幸な人間には将来或いは来世にでも幸運が与えられ、幸運な人間には同じように不幸が約束されている。どちらでもなく、死ぬこともないお前は幸福なまま不幸になれ」

「それで、話はそれだけですか? それならそろそろ先に進みたいんですが」

「誠に憎らしい奴だなお前は。私が態々出向いてやったというのにその反応。もっと不幸そうな顔をしろ。と言いたい所だったが、お前のそのむかつく顔を見ているうちにもう一つ思いついたことがある。どうせだ、そちらも聞いて行くと良い」

「聞いていきましょう」

「さて、先ほど私はお前にお前自身の運命をくれてやったと言ったのは覚えているな? そしてお前の人生が思いの儘になるとも」

「ええ、確かに」

「では、お前が幸せな人生を望んだとして、お前が望む幸せな人生とはどんなものになる?」

「それは一般的なって言っても現代だと大分贅沢かもしれないですけど、とりあえず奥さんと子供が二人位いて一軒家に住んでて仕事してて貯金もそれなりにあって………という感じですけど」

「そうなると少なくともお前の伴侶になる人間とお前とは愛し合っている必要が有る。違うか?」

「結婚して子供が居るというならそうなりますね。少なくとも俺は好きでもない人間と結婚することはないでしょうし、好かれてもいない人に子供を産んで貰うような事はしたくないですね。もしかしてその俺と結婚する相手が俺の事を好きなのは貴方から貰った力のせいだと言いたいんですか?」

「それ位は私が教えた時点でお前も気付いていただろう。それを含めて先程のなんだが、今言いたいのはそれよりもう少し前の段階の話で相手もお前というよりはお前の周りの人間の話だ」

「そう言って生徒達を見て笑われるとその邪悪さに警戒せざるをえませんね。大体俺以外の人間に危害を加えるのは反則では?」

「私の標的は飽くまで黒金哲だ。しかし、あまりにも手応えが無さ過ぎて八つ当たりの対象としてお前の周囲の人間を選ぶのは仕方のない事だろう? ……しかし危害などとは心外だな。此処まで穏健な姿勢を見せている私がそんなに野蛮な性質に見えるか? 私がやるのは精々耳元で囁いてやる程度だよ。それもお前が嫌がるような事が起こる範囲でな」

「俺は他人に興味の無い冷淡な人間なのでは?」

「他人に興味は無いが冷淡では無い。目の前で誰か困っていたり苦しんでいたりするのは嫌だろう? お前は誰がどうこうではなく兎に角この世界に『苦しみ』が存在することが嫌なだけだ。だからお前の周囲の人間を不幸にしてやればお前も自動的に不幸になる。単純な図式じゃないか」

「なら俺が貴方から貰った力で相手の抱えた問題を解決すれば良いでしょう。俺が困るまでも無くそれでお終いですよ」

「そう簡単に事が運べばな。その問題がお前には解決できない種類の問題だったらどうする?」

「俺に解決できない問題? さっき言われたような能力が有ればどんな問題でも解決できるんじゃ?」

「それに気付かない辺りはまだまだ青いな黒金哲。では話の続きだ。先程お前が言及した通り将来お前に伴侶が出来たとして、その伴侶が真にお前の事を愛することはない。それはお前が好意を持った相手は例外無くお前の持つ力によってお前に対する好意を植え付けられるからだ。普通なら次はこう考えるだろうな。ではお前が好意を持つ前に相手から好意を向けられていたらどうなんだと。確かにその場合既に相手から好意が向けられている以上、それは力の干渉を受けたとしても大した影響ではないかもしれない。しかし相手から向けられる好意には少なからずその影響が見られるだろう。それどころかお前に対する好意は、ゼロから再構成されていたり元来お前に向けられていた好意とは全く別種の好意かもしれない」

「そいつはまた胸糞の悪い展開ですね」

「さて、ではそこで私から特別に善意的な贈り物だ。お前に対して特別な好意を持っている人間には、お前の持つ力の影響が有るかどうか判断できるようにある物を渡してやろう。それは本当にお前を愛している人間にのみ送られて力の影響を受けたときにそうと分かるように反応する。ああ、それともう一つ。その相手はお前に対する好意が自分の持っていた物と違っていた場合にそうと意識できるようにしてやろう。抗うことも出来ずに植えつけられた好意に引き摺られ続ける感覚を味わえるようにな」

「うわー、素敵ですね。絶句せざるをえない」

「とはいえお前が好意を寄せなければどうと言う事もない。特にお前は他人に対する興味が常人より遥かに弱いからな。好きでもない人間は」

「まあ興味もないんで路傍の石と同じだと言う他ないな。あ、いやでもエヴァンジェリンとか知ってる子はそこまで酷い認識してないから」

「くっ、まあ態々横槍はいれまい」

「ちょっと意味有り気な言葉で俺の言葉の信頼性を下げないで貰えますか? ていうか初対面の相手の言うことなんか信じるなよ」

「さて、いたいけな少女を甚振って私の溜飲も下がった所でいい加減お暇しよう」

「神様とは思えない台詞ですね。良いんですか、そんな邪悪な事言って」

「清廉潔白で温厚篤実、誰一人傷つけない神等寡聞にして知らん。まあ試練の様な物だとでも思っておけばいいだろう。古来から英雄は神から与えられた試練を乗り越えることで力を示し、それに見合う祝福を得るものだしな」

「はあ、次来るような事が有れば前もって言っておいてください。本当に吃驚したんですから」

「それだけが唯一つ成功した嫌がらせだというのが問題だ。あれだけ言ってやったというのに響いた様子が丸でない。次来るときは八つ当たりのアイデアも考えてくる。精々一人きりで行動していることだな」

「貴方だったら何処にいても連れて来るぐらいしそうなので無駄な努力はしない事にします」

「ちっ、あの時の様に恐れで満たされた瞳で見つめられたいが、最初の方針からは離れるが実力行使もしてみるか?」

「……………いえ、結構です。是非そのまま貴方にはお帰り頂きたいのですが」

「その顔が見れたのなら十分だ。ふん、今までは虚勢を張って恐れを隠していたか。私相手に無駄な事だが、そう考えると今までのお前の顔も中々可愛く見えてくるな」

「喜んでいただけたなら重量ですよ。出来るなら後半部分だけ違う相手に違うシチュエーションで聞きたい言葉ですがね」

「では、再び見えるときまでに改心しておけ。私に最高に苦しんだ顔を見せる為にな」





「ああ、疲れた。何、何であいつがこんな所居るの? 噂をすれば影ってレベルじゃないだろ。ああ、もうエヴァンジェリンと神楽坂、質問は全部明日以降だ。俺はもう疲れた。さっさと先に進むぞ…………はあ、しかし何がしたかったんだあいつは。そんなのどうだっていいだろうに」



[21913] 第十四話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:1ce8384a
Date: 2015/12/19 11:22
悪寒、頭痛、倦怠感、震え、寒さ、緊張や恐怖。そういった不調を示すシグナルが神の消失と共に哲の身体から消えていく。

深呼吸をして、背伸びをして、全身から良くない物を追い出していきながら哲は自分自身が思っていたよりも多くの物が自分の心の中に去来していたことを悟った。

気付かない間に背中が冷や汗でびっしょりと濡れている事も含めて、神との対面が自分にダメージを与えていたことは明白だ。

この調子で行くと粘着質そうな神の事である。長い間最も哲にとって悪いタイミングで最悪なアクシデントを引き起こそうとするだろう事を考えるとこれからもこれとの付き合いが続くだろうと言う良くない予感がしていた。

「あの祭壇の上に安置してある本って何なんだ。もうさっさと帰りたいしアレが目的の本ならこれで帰れるんだろう? さっさと確かめようぜ」

どっと増した疲労感がずっしりと肩に圧し掛かってくると哲の身体に宿る活力は最早ゼロも目前。三日以内に生ける屍に転職することを視野に入れたほう良いだろう。

幸いな事に最初から目標としていたのがこの部屋で有る事だし、丁度と言って良い具合に神が立ちはだかっていた向こうには祭壇があって、その祭壇には如何にもと言った風情の本が鎮座していた。

神の威容には流石に一光年程譲るが雰囲気は十分に『らしい』レベルのその本は余程丁寧な装丁なのか遠めにも年季を感じさせるのに使われた金糸が衰えない輝きを放っている。

神とのやりとりを見て哲に疑問を抱いた少年少女の視線を黙殺しながら、哲はゆっくりと祭壇に向かって歩を進めて行くのを誰一人追いかけない。

それは神とのやりとりを傍から見ていただけで何か尋常ならざるものを感じたからなのか、それとも単に会話の内容に不穏な物を感じ取った結果当然発生した防衛本能に因る物なのか。

淡々と石の地面を靴が叩く音が10個続いてその分だけ遠ざかる。その間何一つ誰一つ音を立てず、沈黙で満たされた空間を泳いでいく感覚が哲の足に伝わったのを敏感に感じ取って、足に錘が付いた空想が哲の頭の中で現実として像を結ぶ。

死にたい。

何だって自分がこんな目に合わなければならないのかと思う。自分はいつも群集の中ほどで周りの空気に乗ることも出来ずに何となくボーっと突っ立っているのがお似合いの詰まらない平凡で矮小な存在なのに。今はこうして痛いほど注目を浴びている。というか実際視線を浴びているだろう後頭部が痛い。

沈黙に耐えかねたのではない。これは決して逃避や撤退と呼ばれるような行動ではなく、何が起こったのか居合わせた彼らに説明する義務が自分にはあるだろうと思ったからだ。

一頻り後ろ向きな勇気を否定して、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しながら振り返った。

「分かりました。とりあえず聞きたいことが有る人はまた明日……とかに時間が有ったら説明しようと思います。心配しないでも害って呼べるような害はまだ及んでないはずだから興味の無い人はスルーしてもらっても問題ないし、これからも及ぼすことはないだろうから別に聞く必要は無いんだけど。聞きたいですか?」

聞くまでも無いという言葉がこれ程に当て嵌まる場面を見たのはもしかしたら人生で始めてかも知れない。

哲にそう思わせる程の勢いで哲に向けていた視線の中に好奇心が根付いていった。

その大半は胡散臭そうな霊感商法で売られている壷に一般人が向けるような視線だったが、エヴァンジェリンと刹那、ネギの常識とは懸け離れた常識を知る者達のそれはとても強い物だ。

「但し明日以降に時間が有ったらな」

同じ校舎内に居るとしても今まで一度も顔を合わせていない実績と、テスト期間が目前だという事。何より自分は研修で手一杯で時間が作れないという事もあって逃げ道完備の作戦でその場を凌げば如何にでもなるだろうと、いつも通り自分の感覚を基準にして甘い計画を立てる哲。普通の人間の好奇心というものがどの位強いものなのか。人類の進歩が何によって齎された物なのか知ってはいても感じたことがない哲の立てたこの計画は人類を舐めきっていたと言う他ない。

哲の目論見まで読みきったエヴァンジェリンが意地の悪い笑みを浮かべるのにも気付かずに今度こそ祭壇に近寄っていった。

何気なく祭壇を登りきった哲は何事も無く本を掴み取り、そのまま祭壇を降りてくる。

小説辺りならば此処で鉄板とも言える妨害イベントが発生しそうだが、そういった事も無く何処か物足りなさを感じながら哲は本を夕映に見せた。

「これで良いのかな? って見たこと無いのに分かる訳ないですよね」

何当たり前のこと言ってんだと自分で自分に突っ込みを入れ、その行為の寒さ、突っ込みの無い孤独に哲が打ちひしがれる横でそんな哲とは一線を画すリアクションを夕映達が見せていた。

「こ、これは伝説のメルキセデクの書!? 最高クラスの魔導書ですよ!」

「ちょ、ってことは本物なの?! アレ」

「本物かどうかなんてこの際大した問題じゃありませんよ。例え偽典でもメルキセデクの偽典です。間違いなく人の頭を良くする位簡単に出来るはずです!」

「メルキセデクですか? 聞いたことが有ります。確かキリスト教グノーシス派では平和と正義を司るとされている天使の名ですが」

「夕映ー、凄いもの見つけちゃったね」

「ほんまやねー。そんな伝説の本なんて見つかると思わんかったわ」

銘銘が驚きの余り自分がどれ程の大きさの声で喋っているのかも忘れて語り合う。

特にネギがその知識を余すことなく声に乗せて喋りまくり、それに触発される形で明日菜が驚き夕映がまた歳相応とは思えない知識でネギの言葉に食らい付いていく。のどかと木乃香は交わされる会話の内容に驚嘆するばかりだ。

「って何であっちに渡すんだボケっ! まず私に見せろ」

ネギにメルキセデクの書を掻っ攫われた哲が白熱するネギ達の会話に付いて行けずに離れた場所まで避難するといつのまにか近づいてきていたエヴァンジェリンに襟首を掴まれて顔を引き寄せられた。

かなりの身長さがエヴァンジェリンと哲の間には有ったためしゃがむ様にしてエヴァンジェリンに協力するとそう囁かれた。

「そんなに見たかったのか? メルキセデクの書」

「違うわ! 本物だとしてあいつ等に渡して何かあったらどうする!? 世の中には開いた人間の脳味噌に侵入して中身を打っ壊す様な魔導書も有るんだぞ?」

「まじで!!? 全然知らなかったわ。そうならなくて良かったよ、はあ」

「それにお前全く戦えないくせにあんなに無造作にアレに近づくなんてどうかしてるんじゃないか?」

アレと言ってエヴァンジェリンが向かい合って聳え立つ2体の石像を顎でしゃくる。

「もしかしてあの石像動いたりすんの? いや定番のパターンを踏襲するなら有るんじゃないかと思ったんだけど何も無くて肩透かし食らったんだ」

「普段ならまず間違いなくゴーレムが邪魔した筈だ。その辺の魔法使いなら話にならない位強い奴がな。恐らく不測の事態が起こってシステムが正しく作動してないんだろう」

「不測の事態って………ああ、間違いなくアイツか」

哲の頭の中に一人確信を持てる相手が思い浮かぶ。理由は邪魔をされたくないから程度の物だろうというのも推測が容易い。

「爺の事だ。どうせあの本も渡す積もりは無かっただろうな。適当にお茶を濁して別の事にでも興味を逸らして追い返すか何かする気だったんじゃないか?」

「じゃあ、あのまま地上にあの本持ってかれたら不味いって事か。ああ、どうやって置いてかせれば良いんだよ。めちゃめちゃ興味津々だってのに」

しゃがみ込んだままネギ達の方を盗み見るとまだああだこうだと盛り上がっているのが見える。

何故か夕映が魔法を知るはずのネギよりも食いつきが強く、覗き込もうとするネギの事も気にせずに開かれたページに目を通している。

どんな理由をでっち上げるにせよネギと夕映の二人からメルキセデクの書を引き離すのは骨が折れる作業になるだろう事は予想に難くない。

「そんな事はお前が考えろ。私には関係ない。それよりも貴様さっきの話明日になって忘れたとは言うまいな?」

「そりゃあ……まあ、俺に時間があればの話だからな。何せ明日も研修で忙しい………身だし?」

生徒達が半ドンでも恐らく哲には何の関係もない可能性が高い。本来なら別の業務に掛かるか帰宅できるはずの教師達を自分の都合で拘束してしまうことは心苦しいが、哲の研修は放課後も続けられるだろう。それならば幾ら生徒であるエヴァンジェリンらに詰め寄られようともそれを回避することは容易いだろうと考えての後回しだったのだが、今現在哲の言葉を聞いてにやりと笑いを浮かべる伝説の吸血鬼を前にしては矮小なる人間の浅知恵で考え付いた事で直前までの余裕を保つ事は出来なかった。

「そうかそうか、時間が無かったらか。何私とて仕事に就くために努力する人間の邪魔をする程鬼じゃない。ちゃーんとお前の時間が有り余っているときに尋問してやるさ。吸血鬼なりにな」

「いやあ、そんな大した事じゃないから肩の力を抜いて皆既月食を待つような心積もりでいて欲しいなーなんて。尋問ていうのも凄く穏やかじゃない雰囲気だしさ」

フフフとエヴァンジェリンが妖しく笑う。

10歳の少女が浮かべるとは思えないその笑みに、三日月の様に深く、口が裂けたように笑う悪魔の姿が重なる。

悪魔のように人間の非力を笑うエヴァンジェリン。妖美さと清楚さを併せ持つその悪魔的魅力と小悪魔的な可愛らしさ。

現実ではモニター越しにさえ見たことの無い美貌に、人間の頭の中にしか存在し得ない美しさの極限を垣間見た気がした哲はああ、やっぱり。と自分が元いた世界との記憶を実感し背筋を撫で上げる少女から感じる怖気に尻餅をつこうとした。

「あれ?」

一瞬の無重力体験は臀部と床との出会いの前に終わり、その代わり背中に仄かな人肌の温もりが訪れた。

「お話中申し訳ありませんが、これからどうすれば良いでしょうか?」

直ぐ真後ろには誰かの身体が有るせいで立ち上がれず、身体の正面にはエヴァンジェリンが居るせいで前に逃れることも出来ない。身動きできないスペースが簡易的に作られてしまったので仕方なしに首だけ振り返りながら見上げると桜咲刹那の姿が。

哲の背中に当たるすらっとした脚とその上に続くスパッツとスカート、白いブラウス。

其処から上を見上げるのが困難なほどの至近距離で女子中学生に見下ろされながら、その足に寄りかかっている今の状況が哲にとっては窮屈で堪らない。

「それより先に其処を退いてくれ。苦しい」

「すいません。今直ぐ」

すっと背中を支える柱が無くなるとやっと立ち上がるだけのスペースが出来上がったのでエヴァンジェリンから距離を取る意味も込めてさっさと立ち上がってしまう。

そうしてから一度ネギ達の方を見てこちらから距離が有る事を確認してから声が漏れないよう、されど遠めに見て怪しまれないように声を潜めながら話し始めた。

「これからどうするかだっけ? えーっと………」

しかし目の前の相手の素性が知れず、漠然と魔法が一般的な物ではない事しか知らない哲にはこれからどうすべきかという答えも、目の前の少女相手に何を話したら不味いのかも分からない。こういう時出しゃばってしまうのは自分の悪い癖だった。

とりあえずで口を開いてしまった哲はその軽率さを後悔しつつも目したまま語らないエヴァンジェリンに助けを求めた。

「桜咲刹那も私と同じ側の人間だ。何を言ってもとりあえず問題にはならん。安心しろ」

「そして黒金さん、エヴァンジェリンさんがそういうと言う事は貴方も」

「つい最近まで魔法の存在も知らなかった俄かだがな」

嗜虐的な笑みを潜めて仏頂面を刹那に向けながらエヴァンジェリンが話すのを見て哲は脇で胸を撫で下ろした。

情けない話暴力的なイメージしか持てない魔法のある世界、そちらに属する人間と対峙して恐怖を抱かない程哲は勇気ある人間ではなかった。

「それならばエヴァンジェリンさん、話し声が漏れないように結界を張った方が良いのでは?」

「そんな事をすればネギ先生が私達の存在に気付くぞ」

「しかし、彼もこちら側の人間。何の問題も無いのでは?」

「あそこで自分が誰を相手に何を話しているのかも自覚していない、来日から一日も経たない間に神楽坂明日菜に魔法がバレた10歳児を呼んで何が出来ると思う?」

「それは………」

「もしかしてと思ってたけど学園長が言ってたのはあの子の事なのか」

ぐうの音も次げない反論を浴びて刹那が言葉に詰まる。まさかそこまで酷いとは思っていなかったネギの行状は確かに魔法関係者からすれば耳を塞ぎたい物だ。

「爺が何を考えてるのか、神楽坂明日菜に忘却魔法で処置をする気配もない。いくら何でも魔法バレを推進する気はないだろうがこのメンバーに近衛木乃香のいる意味というのも邪推したくなるものがあるな」

「そんな!? それではお嬢様にも? しかしそれでは関西呪術協会の長である詠春様の意向に反します」

「あの爺がそんなもの気にすると思うか? そもそもあの坊やをうちに呼ぶこと自体がおかしいんだ。その裏で何か企んでいないという方が不自然だ。何せあの坊やはサウザンドマスター・ナギ・スプリングフィールドの息子だからな」

桜咲刹那の属する関西呪術協会。その首領である近衛詠春の一人娘である近衛木乃香の護衛の為に、離反だと思われるリスクを負ってまで関東魔法協会の膝元・麻帆良学園都市にやってきた刹那。

長と長の間に血縁者という事も有り、また関東魔法協会会長である近衛近右衛門の指示を受けているものの、あくまで刹那が従うのは詠春。

その詠春は木乃香を育てる上で一つ徹底した事があった。

木乃香を魔法から遠ざける事だ。

生まれてから暫くして発覚したナギ・スプリングフィールドさえ凌駕する木乃香の魔力。それを埋もれさせるという長の決定に反発するものも居たが、刹那は詠春の決定を肯定する者達の一人だった。

それに加えてある負い目も有って、木乃香と出会った当初から刹那は木乃香の護衛という命を受けながら同時に魔法や陰陽道等の超常の力を木乃香から遠ざけ続けた。

稽古は絶対に見つからない場所で結界を張って行われたし、幼い刹那がうっかり洩らしてしまわない様に魔術的な誓約まで立てた。

魔法の存在を教えることさえ出来たなら、或いは彼女自身が抱える負い目さえなければ幼少期の木乃香を一人きりにする事等なかっただろうし、今も木乃香の顔を曇らせることなど無かっただろう。

しかし、木乃香を魔法から遠ざけながら手元から離すというリスクを犯すことも出来ずに彼女は友人を刹那以外に作ることが出来なかったし、今も彼女を気にし続けている。

そうしてなんとも中途半端な生活の末に訪れたのが木乃香が川で溺れた事件だ。

木乃香自身も恐らく覚えているだろうこの出来事だが、絶対に木乃香自身が覚えていない事実が一つ存在した。

「しかし、詠春様がそれを許すはずありません! 過去お嬢様に魔法の事が知られてしまった時には………ときには」

「詠春の気でも変わったんじゃないか? それより落ち着け。 坊や達がこっちを見てるぞ」

「す、すいません、取り乱しました」

突然刹那が激発して声を荒げてエヴァンジェリンに訴える。身近で聞いていた哲が驚くような大きさで挙げられた声は離れた位置に居たネギ達にも聞きつけられて注意を引いた。

「エヴァちゃん達そんな所でこそこそ何やってんのよ? 内緒話?」

本から興味が離れかけていた明日菜がネギ達から離れて近づいてくる。のどかも一緒だ。

「あのう、どうかしましたか?」

「全然、大したことありませんよ」

だから気にしないで下さい、と言外に告げた積りの哲だったが何故かのどかに弱った顔をされてしまい哲も弱ってしまう。

「それよりも目的の物も手に入りましたし、帰りませんか?」

怪しまれてはいなかったが、この場であの本を置いていこうともいえずて哲は無難な話題で気を逸らしてしまうことにした。

何かするとすれば帰り道以外に小細工を弄することは出来ないからだ。

「馬鹿が、お前のせいで何も決められないうちに帰ることになったぞ」

「す、すいません」

哲の背中を壁にしてエヴァンジェリンが刹那の脇腹を肘で突いて責め、刹那が萎縮して頭を下げた。

「それもそうね。おーい夕映ちゃん、ネギ、木乃香ー。そろそろ帰りましょう。私眠たくなってきちゃった」

「お前って良い子だなー。スゲー良い子」

「ってちょ、勝手に頭撫でてんじゃないわよ!!」

「いたっ!」

疑うことを知らない明日菜の扱いやすさに感動してしまい、哲の手が思わず滑る。艶のある長い髪の毛を柔らかく撫でた。

そしてその報復に明日菜からの鋭い蹴りを貰ってしまった。

「少女の頭を何だと思ってんのよ。まったく」

「いや、すまん。こう4歳児位を相手にしている気になってしまってだな。甥っ子とかに結構こんな感じにやってたからだよ。間違いない」

「ちょーっと!! それって私がガキっぽいって言ってんの? しかも甥っ子って私は女の子よ!」

「その位の子供と同じ位の純真さを保ち続けていて凄いなって意味だと前向きに受け止めてくれ。それと蹴るな」

蹴られた場所を手で払うと同時に第2撃を警戒して構える。獣の威嚇行為の様に息を荒立てる明日菜の運動神経を考慮に入れると防げるはずも無いのだが実際結構な力の篭っていた蹴りの痛みはそれなりだ。

「ネギ先生はこの本を読めるみたいですが、分からない言葉も少なからずあるようです。辞書が必要ですし、一旦帰りましょうか」

「ええ、早く帰りましょう。先が気になって仕方ないです」

「宮崎さんもそれで大丈夫ですか?」

「あ、はい、だいじょうぶです」

誰からも異論は出なかったのでそのまま帰宅という運びになった。

さて、と皆が一度気合を入れなおしている間にエヴァンジェリンが哲に目配せをした。

「ああ、言っちゃったけどどうするんだ? 最悪俺が綾瀬から受け取って途中で落っことした事にでもすれば良いだろうけど」

「それが一番手っ取り早い。そうしろ」

「了解。……綾瀬さーん、此処まで荷物持ってないし代わりに荷物持つよ」

哲とエヴァンジェリンのやりとりは一瞬で済んだ。汚れ役ともいうべきその役目を担うことに抵抗はあったが、そうも言っていられない。

哲は一般人に魔法がバレるという事が一体どのような展開に結びつくのか理解していなかったが、エヴァンジェリンや刹那の自分よりも魔法を熟知している人間が懸念するような事なら否やはない。

まだなっていないとはいえ自分の生徒になる人間を守ることに通じるなら、まあしようがないと諦めることも出来た。

恐らく誰からも責められる面倒くさい役割なだけに踏みとどまりたいと思う気持ちも一入だったが。

「あ、いえ黒金さん、私ではなくのどかの荷物を持ってあげてください。私はまだ大丈夫です」

そう言って意味ありげにのどかを見る夕映の視線に哲の知らない企ての気配があった。しかし、疑っているような口ぶりではない。

それなら

「分かりました。のどかさんも荷物を貸してもらって良いですか? 荷物を纏めて貰えるなら二人分位持てますよ…多分ね」

図書館探検部員でもあるのどかと夕映の二人の荷物は、備えという意味も有って少女が背負うには分不相応な重さだ。歳も性別も違うとはいえ二つ担ぐ負担は一般人哲を憂鬱にさせる。

「黒金さん力持ちやねー、うちのも持って欲しいわ」

「それならお嬢様、私が」

「いややわ、冗談にきまっとるやんせっちゃん」

「私のも持っていいわよ。勿論冗談じゃなくね」

囃し立てる木乃香の冗談を真に受けた刹那を木乃香が笑う。

そして便乗するように自分の荷物を押し付けてくる明日菜に哲は、他人と話しているときには珍しく完全に笑いを消した真顔で返した。

「ふざけんなよ」

「怖いわよっ! 真顔でそんな言わなくても」

「ふざけんなよ?」

「分かりました。冗談です、ごめんなさい!」

「ふざけんな?」

「木乃香ー助けてよー」

「む・り」

「裏切り者!」

「ふう、すっきりした」

「ふざけんじゃないわよ! 私は玩具か!」

ごめんなさいと頭を下げてそれじゃあと夕映とのどかから荷物を受け取って一つのバッグに押し込んでいく。

空になったバッグは明日菜のバッグの中に入れてもらって荷物を持ち上げる。案の定ずっしりとした重量が腕に襲い掛かった。

「それじゃあ行きましょう。ハルナも寒い中待ってくれていますから出来るだけ急ぎますよ」

「ええ、そして家に帰ったらじっくりと読みましょう」

「眠そうにしてた癖にネギったら本を見つけた途端に元気になるんだから。帰り道でも気をつけなさいよ、アンタ」

夕映が号令をかけるとネギが待ちきれないと内心を洩らす。目まで輝かせているところを見ていると間違いなく本気なのだが、エヴァンジェリンと刹那がそれを見て溜息を吐いた。

「む………っ! 黒金、良かったな。お前の心配事はなくなりそうだぞ」

そうしてわいわいと騒ぎながら元来た道を戻ろうと石畳の中にぽっかりと開いた穴まで戻ってきたところでエヴァンジェリンが唐突にそう言った。

「それってどういう」

哲がその意味を問いただすより早くそれは起こった。

ゴゴゴゴゴと地鳴りの様な重低音を響かせながら祭壇の両脇に立つ石像が動き出したのだ。

石像は最初永い眠りから目覚めた獣の様にゆっくりと動き、やがて体の動かし方を確かめるように身体を揺すり始めた。

「さあさあ、早く入っちゃおうね。危ないトラップが発動したみたいですよー」

「エヴァンジェリンさん!? これは」

「良いからお前は他の奴らを連れてさっさと行け」

「何ですか? 何が起こったんですか!?」

哲は目の前に居た木乃香の背中を押して早く穴に入るように促しながら後ろに居たのどかの腕を掴んで引っ張った。先頭を切って穴に入ろうとしていた夕映の姿が消え、後ろを振り返ろうとしていたネギ、明日菜、木乃香、のどかがそれに続いた。刹那もエヴァンジェリンの言うとおりに穴に入って前に居たのどか達を急かした。

「あの様子だと爺の奴に操作されてる訳じゃなさそうだ。大方自動で設定されていた指示に従って侵入者を始末しようとしているんだろうが、上から叩き潰されんようにこいつらは此処で止めておいた方がいいな。お前も行っていいぞ、私一人で十分だ」

邪魔だといわれているのかも知れなかったが、哲にはエヴァンジェリンが本当にどちらでも良いと言っている様に思えたので

「良いよ。此処でゴーレムに奪われたって言うのが説得力もあって俺も責められないから。終わるまで待ってる」

「待っているだと? 爺の傀儡如きに私が梃子摺るとでも言うつもりか。侮られたものだな」

哲の言い様にプライドを傷つけられたと言いたげに不機嫌な顔をしてみせるとエヴァンジェリンは哲に背中を見せた。

「見ていろ。15年振りに本気を出すエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの強さを。魔法など使うまでもなく奴らを塵に変えてやる」

狼が狩りのときに見せる獰猛さを浮かべた笑顔を浮かべエヴァンジェリンは拳を握り締めた。

体中に充溢する魔力も昂ぶらせながら意識を高揚させていく。血に酔っていた前回とは違う真祖の吸血鬼エヴァンジェリンが全力を振るう為の興奮。

600年近く歳を重ね、その間生き残るために鍛え始め、いずれより強くなるために鍛え続けた自身が全力を出せば高々魔力で動く土人形如きに一秒以上時間が掛かる筈もない。その一瞬の間に15年分の鬱憤を晴らすつもりでかかる。

体と心を昂ぶらせながら、更に魔力を練り上げる。人間の内なる力の迸りである気ではなく魔力であっても充分に身体を満たすことさえ出来れば術式という形で発露を叶えなくとも勝手に身体を強化してくれる。今のエヴァンジェリンの身体を満たす魔力は未だかつてない程の量だ。ともすればエヴァンジェリンという器から零れだしそうな魔力を精錬していけばただそれだけで鋼鉄を砕く力となる。

「おい、エヴァンジェリン。向こうの準備も整った見たいだぞ」

「馬鹿を言え、待ってやってたんだ。態々相手の準備が整う前に叩く必要もない」

そうなのか。と呟く哲の気の抜けた声が自身に対する信頼の現われのように感じられエヴァンジェリンのやる気に熱が加わる。

ここらで一つお前が告白した相手がどれほどの存在なのか教えておいてやろう。

羞恥心から口には出さず心の中でだけ哲に向けて言う。が、それでも矢張り恥ずかしいものは恥ずかしく頬が赤く染まる。

と、そこでエヴァンジェリンの脳裏に先程出会った人間の事が思い浮かんだ。

黒金の好意がどうのこうと気になる話をしていたな。明日になったら絶対に聞き出してやる。別荘に引きずり込んででも絶対にな。

後ろでのほほんとしている哲がエヴァンジェリンの考えに微塵も気付いた様子が無い事がエヴァンジェリンを更に楽しませる。

一度は体験しているにも関わらず私の別荘の事をすっかり忘れているとはな。あれ一つあれば島一つ買い取れる位の財を築ける一品だというのに。

二体のゴーレムが大槌と剣を携えてエヴァンジェリンの前に立った。

天井まで届かんばかりの人間の十数倍もある高さと数百倍はあるウェイト。それ程の巨体にも関わらず動きは俊敏で予想を裏切らないパワーもある。

「だが、まだ足りん」

があああああああああああああああ

岩と岩の継ぎ目から出たさながらゴーレムの挙げた雄叫びの様な轟音と共に華奢な体躯に攻撃が襲い掛かる。

常人なら目を瞑り座して待つ事しか出来ない目にも留まらぬ二振りの死を前に、しかしエヴァンジェリンには確信があった。

「足りないんだよおおおおおおおおおお!!!」

左右から交差して剣と大槌が振り下ろされ、そして盛大に地面を抉った。

濛々と砂煙が立ち上がり忽ちの間に視界が黄色がかった白に埋め尽くされる。

ゴーレムに先んじてエヴァンジェリンが攻撃を加えると思っていた哲は、予想を裏切られる展開にただ呆然と見えなくなってしまった砂煙の向こう側を見つめ続ける。

砂塵が目と口を犯し目からは涙が流れくしゃみが出そうになった。そうなりながらも懸命に手で目を擦りながら何が起こったのかを見極めようとした。

まさか、まさかと心の中で呟きながらも哲の脳は回転を止めず煙が晴れた時、そこに広がる光景の中でもとびきり最悪な光景を妄想しようとするのをエヴァンジェリンの叫び声を思い出して掻き消す。

どうせ悠々と攻撃を避けたエヴァンジェリンが心配そうな顔をした自分を馬鹿にすると決まっているのだ。自信満々に自分を世界最強の魔法使いなどと抜かす吸血鬼があの一撃でやられてしまう筈が無い。

そう自身を励ます哲の前で再びゴーレムの動く音がしたかと思うと今度は砂煙が風と同時に哲の方向に吹き飛んできた。

「わっぷ」

慌てて半開きになっていた口と目を閉じてやりすごす。顔を台風のような勢いの風とそれに乗った細かい砂粒が打った。

挙句スーツの袖からも吹き込んだかと思うと首の後ろ側からも背中を撫でて行った。

貰い物のスーツが台無しになってしまった事を気にするより早く恐る恐る目を見開いてみるともう一度風と砂が哲に襲い掛かった。

驚きに目を見開き声を挙げそうになった哲の目と口に風と砂が殺到する。

「うぎゃあああああっ!!」

高速で飛来する砂塵がどれほど細かくとも当たったのが人体でも取り分け敏感で、かなりの速度ともなればその痛みは笑い事では済まされない。

悲鳴を挙げながら急いで体の向きを反転させる。

これではとてもエヴァンジェリンの心配どころではない。せめて状況が静観できるようにと感覚だけで風の発生源から距離を取るために歩いていく。

その間地面が揺れるようなゴーレムの稼動音は忙しなく、そして徐々にその強さを増していく。

音と音の感覚はあっという間に狭まり、風が哲の背中を3度も叩く頃には既にゴーレムが立てる音に間隙等なくなっていた。

そしてゴーレムの持つ武器が発しているであろう破壊音もまた頻度を飛躍的に上げていく。

床が穿たれる音、壁が打ち据えられる音、そしてそれに伴う崩落の音。
建機が30台も集まって一斉に建造物を破壊すれば恐らく似た様な音が立つに違いないと思うほどの爆音が密閉された空間のせいで反響し、哲の方向感覚を奪う。

こうなるともう哲には立ち尽くすことしか出来ない。

視界を奪われた上頼みの少女は安否不明。その上ゴーレムの動く音だけはやけに鮮明に響き続ける。

唯一の救いはゴーレムが動いているということは少なくともエヴァンジェリンが生きていることを教えてくれることだ。

とはいえそれも今聞こえている音が哲に近づくゴーレムの音でなかったらの話だったが。

蟻のように無力なまま巨人の戦場に巻き込まれた感覚とでも言えばいいのか、とにかく哲には他に現状を表現する言葉が見つからない。

しかしそれでもそう言うほどの恐怖は哲の心の何処にも存在しない。

それが何故かという事を気にする事が出来るほどの平静は運良く哲は持ち合わせない。

変わりに手を拱くしかなかった現状が好転した。

「おい黒金、予定変更だ。これが終わったら直ぐにでも話を聞かせてもらうぞ」

遠くでゴーレムと戦っていた筈のエヴァンジェリンの声が近くから聞こえてきて、それからゴーレムの攻撃が部屋を破壊する音が聞こえなくなっている事に哲は気付いた。

その代わりゴーレムの動く音が徐々に大きくなりながら何個も続く。
風が止んだことを念のため確認して目を開けるとやはりエヴァンジェリンが近くまで来ているのが見えた。

何故か彼女の周りだけ砂煙がなく、彼女の周囲1メートル程のその空間は哲の眼前で途絶えている。

「ゴホゴホ、……出来れば遠慮して欲しいんだけど、聞いてくれそうないよねその顔だと」

開けた視界の中でエヴァンジェリンは何故かこちらを怒ったような恥ずかしそうな表情でこちらをねめつけていた。

もしかして彼女の制服に穴が開いているのに何か関係があるのだろうか?

ついさっきまでエヴァンジェリンが来ていた皺一つ無い綺麗な制服が、所々穴が開いたり或いは解れたりしてその上土でも付いたのか酷く汚れている。

ゴーレムの攻撃に当たっていればその程度の被害では済まないだろうという事は簡単に推測できたが、幾ら考えても彼女がそんな状態になった理由は思いつけない。

ゴーレムの足音と稼動音とが近づいてくるのも哲の思考を阻害している。

「瞬動で移動したら壁にめり込んだんだよ、バカ!!」

「酷いな、それの何処に俺が馬鹿だと罵倒される理由が有るんだ。大体…ふあ…瞬動って…っくし」

大声でエヴァンジェリンが哲を怒鳴るが、勿論原因も瞬動というのも分からない。

言い返そうとしても途中でくしゃみが出てしまい言い切ることが出来ない。

「今まで一度もそんな間抜けな事をした事は無かったし、お前の血を吸ってからこっち頗る調子が良いんだ。良過ぎる位にな!」

くそ、折角格好つけたのに台無しじゃないかと色々台無しにする発言まで飛び出す始末だ。頭に血が上って話を聞く所ではないに違いない。

どうやったのかは知らないが、確かに壁にめり込んだエヴァンジェリンを想像するとそれは想像以上に面白い絵になる。

なんていうか凄く笑えるな。

しかもその壁から抜け出してきて何事も無かったかのようにエヴァンジェリンが振舞うところまで想像してしまうともう耐えることが出来なかった。

ぶはっと砂煙を噴出した息で吹き飛ばして笑ってしまう。

しかも哲が何を想像したのか予想がついたのか顔を真っ赤にして怒るエヴァンジェリンが、無事を装うことに耐えられなくなった想像の中のエヴァンジェリンとリンクしてしまい遂には腹を抱えてしまった。

「きっ、貴様何を笑っている!」

「いや、違う……くす…咳だから。咳が止まらない…げほっ…だけ…ひっひ」

「それの何処が咳だ! 完全に笑ってるだろうが!!」

ひっひっと引き笑いをしながらも一応誤魔化すだけ誤魔化す哲だが、形だけのそれは当然のようにエヴァンジェリンの怒りを買った。

「ええい、もういい。貴様をあれと一緒に氷付けにしてやる! 地獄で後悔しろ」

がっと襟首を掴まれて引き寄せられたかと思うとエヴァンジェリンはそのまま強引に投擲体制に入った。

遊びとは思えないその動作の素早さと力強さに危機を感じ取った哲はエヴァンジェリンの手を両手で掴んで妨害に走る。

「っ! 貴様、この力は…なんだ?」

「んぐぐぐぐ……とりあえず本気で俺を投げようとするのをや…めろ」

ガシっと強く握ってくる手を上から包むようにして握って投げられまいと歯を食いしばって反対側に体重をかける。体重ならば二倍近い差が有るはずだが、哲の精一杯の抵抗にもエヴァンジェリンの身体は身じろぎ一つせず繋いだ両手を中心に拮抗する。

一般人の自分の力程度で吸血鬼に勝てるとは思っていない。だからエヴァンジェリンと自分の力が均衡していのはきっとエヴァンジェリンの手加減によるものだ。

怒って見せるくせに手緩いと思わないでもなかったが、それに自分が救われているなら文句は出せない。吸血鬼の気が変わる前に本格的な和解をしなければ。

エヴァンジェリンに許しを請う。差し迫っていた危機である筈のゴーレムの事でさえ確認する余裕は無かった。

「分かった。……ぐぐ、謝るから、謝るから許してくれえ!!」

「諦めるのが早いが、まあいい」

「どわああああっ!? ………ひいいいいいいいいっ!!!」

言うが早いかエヴァンジェリンが握っていた哲の手を離した。何の前振りも無く、何の躊躇も無く。

2力の均衡とはつまりどちらの力も大きさが等しいことであり、どちらかが無くなれば自然均衡した状態は崩れる。

言うまでも無く哲は思い切りよく尻餅をつき、全身全霊を込めていたせいで幸いにも肩まで地面につくように倒れた。

幸いというのはつまり、その直後哲の体が倒れたその上空を巨大な石剣が薙いで行ったからだ。

間近で振るわれる死はそれを追いかける風を伴って哲の視界を上から下に高速で過ぎて行った。その剣の表面がまるでコマ落としにでもなったようにゆっくりと、そしてはっきりと見えた。

剣として振るっているにも関わらず、表面を見ても滑らかさなどと言った者とは縁遠いそれはただの岩と言う他なく、テレビ越しに見た日本刀の様な美しさといった物がまるでない詰まらない物だ。丁度夏場に食べたチューペットという氷菓子を半分に分けるために、膝で連結部を砕くような手近にあったものをただ使ったと言わんばかりだ。

魔法の存在世界とは言っても所詮は現実であると身につまされる。いや別にファンタジーに夢を見たことも思いを馳せた事もないですがね。
などと誰に言い訳をしているのかとつらつらと心の中で文字が流れていくのを自分の口から悲鳴を挙げながら思う。

まあきっとアレだ。そう、頑張って心の中で恐怖を押し殺したものの身体は我慢できなかったとかそういう事だ。

「死ぬわああ!!」

「さっきの女がお前は死なんと言っていたから試してみようかと思ったんだが」

誰に宛ててという事もなく叫んだ哲の言葉にエヴァンジェリンが応えた。

「そんな馬鹿な! お前は俺とあいつどっちを信じるというんだ」

「あいつ…かな?」

「委細細かく説明させていただきますのでどうか僕を信じてください! お願いします」

数日とは言え顔を何度も合わせた相手と初対面の妖しいことしか言わない相手を秤に掛けて負ける。

哲の人生の中でも上から数えたほうが圧倒的に早い衝撃的な出来事だ。しかも相手が相手ときている。

今が平時ならば涙でも流しながら遁走した所だが、エヴァンジェリンからの助けが無ければ自分に朝日を拝むことは出来ないので仕方なく信頼を勝ち取るために事情を語ることを約束した。

「で、いつまでそうしているつもりだ? もう一発来るぞ?」

「恐怖で動けそうにありますん。 たっけてええええっ!」

「ふざけてる場合か」

時間さえあるなら貧弱な語彙を酷使して長々と説明させてもらいたいところだったが、今の哲にそれは荷が勝ちすぎた。

言葉を選別する前に口から言葉が出てしまうのだ。それも異様にハイテンションになってしまった状態の脳が垂れ流しにしている言葉の全てをである。

「貴様正気じゃないな! ええい、世話の掛かる」

まさにその通り。首肯することでエヴァンジェリンの考えを肯定すると頭上で振り上げられた石斧よりも早くエヴァンジェリンが哲の元に駆けつけてその襟元を掴んで肩に担ぎ上げた。

束の間哲が安定を求めてエヴァンジェリンの肩に掴まる前にエヴァンジェリンが動き出し、間一髪のタイミングで石斧が石畳を粉砕した。

「危ない、危ないって。もっと速く動けないのか?」

「集中して動かないと直ぐに動きすぎるんだ、加減が出来ずに壁にめり込むよりもマシだろうが! しかも、なんだ一体。魔力が体の外側に出ていかんせいで普通の状態にも戻れん」

そう言われてみればエヴァンジェリンの動きからはぎこちなさが感じられた。3ヶ月も寝たきりだった怪我人が久しぶりに身体を動かす感覚を確かめていると言われたら信じてしまうようなそれだ。

哲を掴む腕やそれを支える肩は見えなかったが、全く微動だにしないのは多分下手に動かすのは危険だからだろうし、足の動きは足先から踵、そこから足首と脹脛、膝と脹脛までの力の輸送には一々ブレーキを掛けて次の動作を確認してから動いているように見える。

「だったらほら、俺を下ろしてゴーレムに体当たりとか」

「そんな無様な真似をして堪るか。それと今気付いたがお前本当に自分本位だな」

「いやいや、本当にやりそうになったら全力で止めるって。それに倒す理由もないから逃げ続けても問題ないだろ?」

倒さなければ進めない訳でも撤退できない訳でもない。ゴーレムの攻撃を掻い潜りながら元来た道を辿れば何の問題も無いわけで。そもそも此処に留まったのもエヴァンジェリンが勝てると断言したからで、本を返すなら元通り台座に戻せた方が良かったからだ。

ここまで不測の事態が重なったのなら魔導書の一冊が地べたに置いてあった位で文句を言われる筋合いもなくなる。

「今の私があの穴に潜り込んでから走り始めるまで奴が攻撃を待ってくれるとでも? それに脱出しようとすれば発動するトラップの数も増える筈だ。動けない貴様とまともに動けない私ではこれ以上数が増えれば対処出来んぞ」

「大丈夫、俺もう動けるし。あー、でも俺じゃあトラップをかわせないから駄目か。とりあえず、よいしょ」

危機から脱した途端に動けるようになるとは現金?な体だったが動けるのなら否やはない。

元々小さいエヴァンジェリンに担がれているとはいえ、着こうと思えば足も着く。足を着いたら転倒したなどという間の抜けた失敗をしないように注意しながら走り出して、今まで自分を担いでいたエヴァンジェリンを逆に担ぎ返す。

羽のような軽さという言葉が一瞬頭を過ぎる。或いはA3用紙3枚分。とにかく肩にのったエヴァンジェリンの体から伝わってくるのは予想外の負担の軽さだけだった。

「あ、おい貴様! 誰の許しを得て私の体を担いでいるんだ。それも俵担ぎで。せめて横抱きにしろ」

「んな悠長な事言ってる場合か!」

「後ろが見えないと言ってるんだ。あいつらの攻撃で後頭部を割られたくなかったら言われたとおりにしろ」

命惜しさに渋々言われたとおりにエヴァンジェリンの体を抱きなおす。走りながらやるのは苦労したが、幸運にもゴーレムの攻撃は貰わなかった。

「右に跳べ、そしたらスピードを上げろ」

「そ、そんな事出来んっ」

「あの女がそんな事を言ってたぞ」

「あいつが言ったことを真に受けんなって。俺はただの一般人だ」

エヴァンジェリンの指示通り動きながらどうにかこうにか逃げ続ける。それも不自由なエヴァンジェリンよりももっと危なっかしい追いかけっこだ。

攻撃がさっきから髪の毛をかすったり、靴を傷付けているのは嘘だと信じたい。それと床が破壊される際に砕けた石の一部が背中を打っている。

その度に鼻息を荒くして死力を振り絞って下半身に力を込めて走り続けている。ああ、神楽坂を追いかけたときの様に不可解でも良いから足が速くなれば。

「そうだよ、今俺が必死こいて逃げていることがあいつの言っていることが真っ赤な嘘で俺が唯の一般人である動かぬ証拠になるだろ」

「お前が本気で走っていればな」

「嘘なんかつかないって、俺。何より面倒事が嫌いな人間だぜ」

「試しに俺はもっと速く動けるとでも念じてみたらどうだ?」

「んな事で早くなったら笑っちゃうぜ」

と言いつつ心の中で言われた通りに唱えてみた。

「なんてな。そんな事より祭壇の方に行ってみないか? 足場の途中で下に穴開いてたけどあそこから逃げられないかな?」

「……もういい。穴だったか? 少し待て、あの先に何が有るか探ってみる」

いつまで持久力が持つかも分からない。入り口から出て行こうとすればトラップの可能性。もうこの部屋から脱出できるとすれば一箇所だけだった。

それも穴の奥は最高でもより深部である。万事休すとなる可能性も高かった。

エヴァンジェリンが祭壇の方向に向かって手を翳した。

「行け」

そうして短く呟くとエヴァンジェリンの手の先に小さな人型の何かが現れて穴の中に飛び込んでいった。

「何あれ?」

「妖精さ、探査用のな」

「ちっちゃいお前みたいな格好してたな。可愛いのは分かるけど……いや何でもない」

それってどうなんだと口にしかけて思いとどまる哲だったが、しかしそれも遅すぎた。

途切れた先がどういうニュアンスの言葉であるか充分に予想できるところまで口にしてしまっていたからだ。

「分かるけど……なんだ? いい歳してとでも続くのか?」

「…違う違う、探査用にそんな事する必要有るのかだ。決して600歳なのにとか、そもそも本当に子供だったとしても自分に似せた妖精作るなんて自信過剰だろとか思ってないです」

「ほほう」

エヴァンジェリンの手が哲の首筋をなぞる。普通に爪が尖っているのかこれも吸血鬼の能力なのか、肌に触れるエヴァンジェリンの爪はチクチクと所々に突き刺さる。

軽口を叩くだけで命の危機に瀕する自分という人間の迂闊さとか配慮の無さとか、或いはセンスの無さというものを呪いながら哲は祭壇のある方向に向かって走り続けた。

「よくよく考えてみれば俺の知り合いが、可愛いは正義とか言ってたし何の問題もないって。可愛けりゃ全て許されるからさっきのも大丈夫だ」

「つまり私の妖精は許しを得なければ存在してはいけないと言う事か」

あっちこっちを行き来していたエヴァンジェリンの手が一点で止まった。視線を下げている余裕はないがきっと頚動脈の位置だ。

しかもチクチクと肌に押し込まれる程度だった爪が明らかに肌の弾力の限界を突破しようとしている強さで接している。

走るとき、それが人間である以上重心は水平に移動しない。ましてや格闘技を治めたわけでも走りを必要とするスポーツを生業とする訳でもない哲の走りは素人丸出しのそれであり、エヴァンジェリンという荷物を抱えた上でも走るたび体は上下にぶれる。

そして固定されていないエヴァンジェリンの体と哲の体との感覚はやはり動作のたびに変動する。それでもぴったりと肌の上にもう一枚肌があったらこれ位ぴったりするとばかりにエヴァンジェリンの爪が哲の肌に食い込んで離れない。

勿論のこと哲もエヴァンジェリンが哲にその爪を突き刺すとは思っていない。それでも、僅かな感触から増幅された感情が哲の脳内を全力疾走するわけで走行と平行して思いつける範囲でエヴァンジェリンを誉めそやした。

「時として美しすぎたり可愛すぎたりすることは罪だと言われるだろ。人心を惑わす程の可愛らしさだからこう逆に…みたいな意味ですっ! つまり傾世の美貌」

まるっきり哲の言葉が出任せだったりはしない。エヴァンジェリンが美貌の持ち主であるというのは哲からすれば完全な事実だ。

しかしながら神楽坂明日菜はもとよりエヴァンジェリンのクラスメイトは度肝を抜かれる様な美少女揃いである。加えてどうやらこの世界に来てから今まで美男美女に遭遇する確立は極めて高い。

もしも彼女達のようなレベルの容姿がこの世界のスタンダードであるというなら哲の表現は過剰であるという他ないのだが。

「どうやらあの穴の下には巨大な空間があるらしい。人の気配も有る。恐らく魔法教員共だ。爺め、魔法の本を餌に下の空間にガキ共を落とすつもりだったな」

どうやら許されたらしい。首筋を捉えていた爪の感触が無くなり体に抱きつくようにして首に手を回された。

「ていう事は下に落ちても大丈夫ってことか。……? でもエヴァンジェリン。魔法使えるんならそれであいつら倒せるんじゃないか?」

「こんな体が訳の分からん事になっている状態でか? 少なくとも落ち着いて検証も出来ない状況では無理だ。体と同じで上手く制御できないなんて事に備える必要もあるしな」

いいからさっさと穴に飛び込めと言うエヴァンジェリンに精一杯の笑顔で持って哲は答えた。

「高所恐怖症の人間に言うことじゃねえな。流石吸血鬼」

ゴーレムの追撃はもうギリギリでかわし続ける必要はない。理由は分からないがゴーレムの攻撃が哲に追いついてこないからだ。

砂埃が目隠しとなって穴を覆い隠していたら何処に有るかも分からないそこに向かって自分は突っ走らなければならない所だったので、心の中でそうならなかった幸運に感謝しつつ意を決して穴に向かって飛び込んで言った。

「あああああああ、こんな所に飛び降りるなんて正気じゃねえよ」

「私のせいで正気を失ってるんだ。何の問題もない」

ぼやいた哲にエヴァンジェリンが胸元から笑った。
それもそうかなんて思いながら、哲は恐怖から抱いたエヴァンジェリンの体を固く抱きしめる。

そうして吐き出す息も置き去りにして哲とエヴァンジェリンは暗闇に消えた。



[21913] 第十五話
Name: スコル•ハティ◆7a2ce0e8 ID:025ecb74
Date: 2015/12/19 11:22
屠殺と言われてその意味が直ぐ分かる人は、少なくとも哲の交友関係の中には居なかった。

本人に言わせれば頭いい人間は嫌いなんでとでも言い出しそうだが、ともかくその言葉の意味を即答できる人間は居なかった。

ではもう少し質問を進めて屠殺の方法について語ることの出来る人間は居なかった。これは本人についても同じだ。

もしかすれば牧場で働かされることになった友人が哲には居たが、残念と言うべきかその友人は無事希望の進路に進むことになった。

その友人がもしも牧場で働くようになったなら或いは、たった一人屠殺の方法を語れる友人は居たかもしれない。

とはいえ重要なのは電気ショックや二酸化炭素を用いて如何に動物を苦痛なく殺すか、ということではない。

更に質問を進めよう。では屠殺をするというその人間の心について語れるだろうか? これに至ってはもう哲の交友範囲を飛び越えてあらゆる一般に範囲を広げたとしても答えられる人間は極一部だろう。

正直に言ってあまり進んで就きたがるような人間が居るとも思えない仕事である。寧ろ日々その恩恵に与っておきながら日常、そういった行為を行う職業の人々について意識を巡らす事もしない人間である哲には、一体どんな事を思いながら動物の命を奪うのか想像する事すら出来ない。

では一転して屠殺される側の気持ちはどうだろうか? これについて語れる物が居たらまあまずその人間が余程の偽善者か、何かしらの宗教に嵌っていないか或いは行動の異常を疑ったほうが良いだろう。

勿論哲だってそうする。感じたこともない痛みについて声高々と語る人間はまず信用ならない。が、しかし哲自身この質問に対して自信満々に語れる自信が有った。というより間違いなく手を上げて聞き手を前にして一人で勝手に興奮して長々と語ってしまいかねないだろう。

さて、ここまで回り道をしてきたのだからもう少しだけ、何故哲がこの質問に対しての答えを得たのか説明させていただきたい。

「で、此処があの穴の下ですか。へー、ナウシカみたいとだけ言っておこう。っていうか嘘だろ。完全無欠に泰然自若とした虚実だろ。むしろ支離滅裂な妄想の類だろ。いつからお前の心はそんなに荒んでしまったんだ」

「お前が情けなくも穴に落ちて3秒で気絶しなかったら私の言葉を疑う余地は無いが、その点についてはどう思う?」

「先生、僕は過去を顧みるのはもう止めました。大事なのはこれからを見つめていくことです。さしあたっては私の顔に乗せられた足といじめについて相談に乗っては頂けませんか?」

「ん? いや、後始末を全て年端もいかない、おまけに一時的とはいえ体を動かしにくい少女に任せてあっさりと気絶するような男は足置きにすべきだろ。靴を履いたままではないことに礼を言うべきですらあると思うが」

「なんていうかこの短期間で2度も顔を足で踏まれてると、俺の顔に脚乗っけるとが楽しいとか言い出しそうで怖いな。俺の姉のようだ」

「実姉にこんな事されてるなんて、もしかしなくてもお前の家系は変態揃いか。今後の付き合い方を考えなければならないようだ」

「いや姉の場合は俺のケツに脚を乗っけるのが好きだったらしい。居間で寝転がってるところをよくやられた。その度に女みたいなやわらかいケツだと言われるのに、安産型だろ? と返したのはいい思い出だ」

「んな事をいい思い出にすな!!」

突っ込むところは其処ですかと思いながらも哲はそれを口に出さず、エヴァンジェリンの足で中央が埋め尽くされた視界の残された左右の空白で周囲の景色を見渡す。

天井が見えた。何の変哲も無い。とはとても口が曲がってもいえないような大樹が何百本もその枝を絡み合わせて編まれた木製の天井。所々から陽の光の様な柔らかな光が差し込んでくるのでその密度は非常識では無かったが、天井が高い。

寝転がったままで対比物も無かったが20メートル位有るかもしれない。

人の身長よりも僅かに高いような高さの木ではなく、これほどの大きさの大樹が枝を絡ませあって天井を形作ってしまうほど集まっている。

しかし今寝転がっている哲の視界にはこの部屋の壁が無かった。そうなると自然と自分の頭上に架かった枝はかなりの長さになるだろうに、哲の目でもしっかりと視認出来るほどの太さもある。自分の胴体よりも太いだろう。

そしてその枝の隙間から漏れる光(この場合木漏れ日と言って差し付けないだろう)に照らされるのは広大な湖とそこに点在する島と、そこかしこにぽつんと佇む本棚である。

広い。第一印象はその余りの広さである。地下にあるとはとても思えない、下手をすれば地上に存在する図書館島よりも面積が広いかも知れないと思わせる広大さ。その光景に圧倒され、哲の口から一際暖かな呼気が吐き出された。

「ひやあああ!! な、なにをする、貴様?!」

驚いたように悲鳴を上げながら哲の顔の上から足を退かすエヴァンジェリン。

気絶している間も呼吸が止まっている筈もなく、今更な気もしたがそんな事よりも哲には再び振り下ろされんとする足裏の方が重要だった。

右手で地面を叩いて反動を利用しながら反対側に体を転がすと、哲の体が回転を止めるよりも早く砂を踏み潰す音がした。

辱められたとでも思っているのだろうか、顔を朱に染めたエヴァンジェリンが目尻を跳ね上げながら転がった哲を目で追う。

更に自分の足元から逃れた哲を追ってエヴァンジェリンが、一歩近寄ると、また足が砂を押しのける摩擦音が哲の耳元に届く。

転がった拍子に舞い上がって口の中に飛び込む砂利を吐き出しながら起き上がると、ちっと舌打ちするエヴァンジェリンと目が合った。

「お前なあ、自分から顔に足乗っけといて息が当たった位で取り乱すなよ。ぺっぺ、だあもうなんで、っぺ」

人目の在る場所ではしたないとも思ったが、口の中の不快感を耐える気にはならず、その場で口に入った砂利を吐き出す。

しかし、口の中の感触では口の中に入った砂利の中には殆ど石が混じっていない。

お陰で口内に傷こそ出来なかったが歯の間に挟まったり下の裏に入り込んだりと指でも突っ込まなければ、完全に取り除けそうにはない。

仕方なしに湖に近づくと両手で水を掬い取って口に運ぶ。

まさか建造物の中に海水で湖を作ったりもすまいと考えての行動だったが、予想通り口の中の水から塩の味は全くしなかった。

それどころか水道水のようなカルキの匂いもない。

真水だったら食中毒の危険性も視野に入れる必要があるだろう。

口の中で水を動かして粗方の砂を取り除いてから哲はそのまま身動きが出来なくなった。

何処に口内の水を吐き出せば良いのか分からなくなったのだ。

湖に吐き出すのは論外。汚染までとは言わないが水源を汚してしまうのは不味いだろう。

ついで先ほどまで散々自分の唾液ごと砂を吐き散らしていた足元を見るが、何故か先程までの様に水を吐き出す気にはならない。

当然、近くには下水道に?がっているような水道はない。

観念したように肩を落とすと、哲は口を濯いでいた水を飲み込んだ。

中途半端に温まった水は自分の唾液交じりという以外は砂利ぐらいしか入ってはいなかったが、やはり何処か気持ちの悪さをぬぐえなかった。

哲がうへえ、と声を漏らしながら胸の辺りを撫でているとエヴァンジェリンが挙動不審にきょろきょろと視線を行ったり来たりさせていた。

視線は一度哲の顔を捉えてから、今度はエヴァンジェリン自身の足元に注がれた。と、その光景を見て哲は初めて気付いた。

どうやらエヴァンジェリンの体の麻痺が収まっていたという事に。自分が気絶している間にそれなりの時間が経ってしまっていたのだろう。

「もう体は自由になったのか。って事は結構時間経ってるのか?」

「……ああ、どうせ直ぐに爺共が接触してくるだろうと思って待っていたんだがどういう積もりなんだか一向に姿を現さん。そうやって待ってる間にな。多分30分位は経っている筈だ。しかし、…ああ、いや止めておこう。聞いても分からないだろうしな」

言いかけて、途中でエヴァンジェリンの言葉が尻すぼみになる。

哲に言いたいことが有った様子だったが、何かを思い出してその先を口に出すのを諦めた様だった。

そうして自分の考えに没入してして行こうとするエヴァンジェリンを、哲は声を掛けて引き止めた。

今現在自分が何処に居るかも分からなければ、エヴァンジェリンの言っていた近右衛門の思惑も理解できない。

おまけに一緒に居るエヴァンジェリンが此処で立ち往生してしまうと動き出すことすら出来なくなってしまうからだ。

勿論学園の施設である以上二人が餓死する前に何かしらの措置が働いて戻れるという誤った確信こそ有ったが、他人の世話になるのは出来れば避けたかったし夜を越すのはこんな落ち着かない明るい場所ではなく、馴染みこそ無いものの自分の部屋が良かった。

「この状況で放って置かれると孤独の余り叫びだしたくなるから止めてくれ。せめて考え事は帰りの道中で頼む。早く家に戻りたいんだ」

「ふん、貴様に言ってもどうせ解決できないと思ったからだ。では、聞くが貴様私の先ほどの不調の原因に心当たりが有るか?」

「確認させてもらうけどその不調って言うのはさっきの力が強すぎて勢い良く動きすぎちゃう事で、それは俺と会うまで一度も無かったことなんだよな? それも俺と会った直後じゃなしに今の今まで」

「ああ、その通りだ。どうだ? 分からないだろう」

見た目が中学生にも達していない少女に此処までストレートに馬鹿にされたのは勿論エヴァンジェリンが初めてだ。

考え込む哲を見てこれ見よがしに溜め息まで疲れると腹立ちよりも呆れが勝る。などと言う事など有る筈も無い。

はっきり言って滅茶苦茶に腹立たしい。

見返すためにもエヴァンジェリンの提起した問題に取り組もうとする。

魔法のまの字も知らないど素人である哲に聞こうとした所からエヴァンジェリンが不調の原因、少なくとも原因に関連のあるものとして哲を見ているのは哲にも分かった。

しかし其処から先の事となると魔法の知識がない哲には見当も着かない。が、このままあっさりと勝負を諦めたのではエヴァンジェリンを更に調子付かせる切欠になりかねない。

せめて方向性でも示してこの生意気な吸血鬼に一矢報いるまでは、その後更に言葉で自分を嘲弄するエヴァンジェリンの幻想が脳裏にちらついて諦められそうにない。

では、と自分が何も分からない事を棚に上げ、利用できる範囲の情報を捏ね繰り回して説得力のある話をでっち上げる算段をつける。

その為にもう少しエヴァンジェリンから情報を引き出す必要がある。

今のままでは材料が足りないのだ。

「えっとなんだ、さっき俺の血を吸ってから調子が良いとか言ってたな? て事は何だ? それまでは調子が悪かったのか?」

「訳有って此処に封印されていてな、魔力は殆ど無くなっていた。西洋魔法使いは魔力で身体能力を日常的に増幅させているから封印が解けてからは見た目以上の力が有るし、正確には判らんが封印される前よりも調子が良い様な気もする。とはいえ封印されたのは15年も前のことだから勘違いということもあるだろう。それにお前が来てから本格的に魔力を使おうとしたのは2度目だから単純に魔力の使用が鍵になっているとは思えんぞ」

誰であれ、この時哲の頭の中に浮かんだ思いを馬鹿にすることはきっと出来ないだろう。

と哲自身無意味と理解したうえで心の中で言い訳をする。

というのも哲が考え咄嗟に口に出しそうになった言葉は恐らく相手が誰であってもそう言われて機嫌を損なわない筈もない、酷い言葉だったからだ。

哲はその瞬間思わず「あれ? 俺って不味い事してたのか?」と言いそうになっていた。

15年もの時間力を奪われ一つ所に留め置かれる罰である。

人間として健全な生活を送っていたとはいえ、軽い罰とは言えないだろう。

それに加えてその罰を与えられたのは吸血鬼である。

しかも自ら悪を自称しているような。期間の長さだけ見れば殺人でもやったのかと思うような長さだ。

自分が知らずに居るだけでこの吸血鬼が相当の悪である可能性も否定できない。

凶悪な吸血鬼を野に放つ。字面だけでも大変な危険性が感じられる大事件だ。

口ぶりからして哲がエヴァンジェリンに掛けられた封印を解いた事は間違いないようだし、そうなると哲は世間から非難を浴びるのに十分な事をしているに違いなかった。

それ故にそんな事を口走りそうになった。

しかし、しかしである。そうなると今度はエヴァンジェリンに与えられた不自由な自由が引っかかる。

悪人に自由を与えるほどこの世界の人間の感性が哲のものと懸け離れているとは思えない。

加えて短期間とはいえ接した上でエヴァンジェリンの人柄を評価するなら、エヴァンジェリンは一般人と変わらない。

自分のような身元不明の男を自分の住居に引き込む等の行動まで鑑みれば相当の善人と言える性格だ。

15年の間に改心でもしたか或いは性格が丸くなったか、でなければ猫でも被っているのかどれかでなければ現在と過去のエヴァンジェリン像でギャップが大きすぎてエヴァンジェリンの穏やかな性格について説明がつかない。

もしも前者二つのどちらかであれば多少であれエヴァンジェリンが傷つくだろう。

後者であった場合それなりに自分が危険な位置に居るという事に気付かないまま哲は喉元までせり上がっていた言葉を飲み込んで、代わりに問いに対しての考察を進めた。

「その身体能力を増幅させるっていうのは日常的に使ってるんだろ? そういうのって魔力使いすぎて無くなったりしないのか?」

「ああ、最低限の力さえ持ち合わせていれば意識しなくても成人男性と同じくらいの筋力に強化できる。どの位に強化するかにもよるが、まあ私が今言った程度なら魔力の消耗は殆どないな。それこそ魔力が極端に少ない人間以外ならな」

「て事は最強の魔法使いであり吸血鬼であるエヴァンジェリンが、その強さに相応しい非常識な量の魔力を持っていると仮定するとエヴァンジェリンが普段から身体能力を強化していても消費される魔力は雀の涙だと言う事になるよな。それじゃあ、お前に掛けられていた封印て言うのは魔力さえあれば強引に解呪できる代物なのか?」

「いいや、そんな事は不可能なはずだ。あの封印の解呪には術者本人かその血縁の血液が大量に必要になる。だからこそ貴様は異常なんだ。奴の血縁でもなく、特別大きな魔力を感じた訳でもない血が封印を跡形も残さず………? いや、待てよ。あの時確かに貴様の血に誘われて私はあの場所に言ったが、貴様からは魔力を感じてはいなかった。しかし、貴様は私の別荘であれだけの威力の魔法を放ち、その後の吸血でも貴様の血からは魔力を感じた。クソッ、そうだ毎回毎回意識が飛ぶせいで覚えていなかったがあの前後で私の体内にあった魔力の量が変わっている!! それから今まで私は本格的に魔力を使用していない。…なるほど、通常考えられない話では有るがそんな事を言い出せば一番最初からとても信じられる話ではない。あの時爆発的に増加した魔力の中には私が普段使っている魔力とは別に貴様の血から得た独特の魔力が存在した。以降私が肉体強化しか使用しなかったためその魔力は私の中に残留、今回私が本格的に魔力を使用したためにその魔力が初めて利用された。ああ、本当に余程の馬鹿でもなければこんな事気付く筈もない」

「おお、いきなり長文を話し出したな」

何かヒントにならないかとエヴァンジェリンから言葉を引き出そうとしていた哲だったが、目の前でエヴァンジェリンが一人答えに近づいていくのを見たときには既に謎を解こうとする姿勢など見せず他人事の様にそう言った。

とはいえ、それも実の所表面上そう装っただけであって内心目の前から玩具を取り上げられた子供のように残念だと思わずにはいられなかった。

一人黙々と呟きながら考えを巡らせて行くエヴァンジェリンを見て小声でずりーと言った哲には気付かずエヴァンジェリンは、頭を回転させ続ける。

その様子はあたかも夢遊病者のそれであり、独り言の内容も魔法を知るものには寝言としか思えないような物だった。

しかしただ一人それを事実だと確信しながらエヴァンジェリンは一歩ずつ一歩ずつ飛躍してしまいそうになる思考を精一杯押さえ付ける。

「という事はつまりこいつの体にはあの時まで魔力が存在しなかったということか? いや、そうとしか考えられない。しかしそれ以前、あの森で見つけたときには既にこいつは一度間違いなく死んだ状態からの復活を遂げている。しかも登校地獄を解呪する能力も同様だ。そうするとこいつには魔力には全く依存しない特殊能力が存在し、しかも強度は前代未聞。魔力があの時まで一切感じられなかったにも関わらず今は確実に世界最強の魔力を持っている事を考えれば、もしかすると気に関しても同じ事が言えるかもしれない。そう、元から存在したのではなく存在さえしなかった物が一瞬で今まで誰も手にした事のない程の強さになる。という事は未知の能力も確認できた瞬間には使用できるということか? その上発言する能力は並大抵の威力ではない。………はああああああっ!!!? こんな事を考えるなんて私はバカか? 絵空事を口にする馬鹿共を見下してきた私が…でも、そうとしか思えん」

「もしもーし、エヴァンジェリンさん? 私にもついて行けるように噛み砕いてお話いただいても」

「喧しい、それより貴様実験だ。少し血をこれに付けてみろ」

「はあ? ……はあ」

哲の質問には取り合わずにエヴァンジェリンが差し出したのは一冊の本だった。

極々普通の何処にでも有る、皮で装丁された一冊だ。刺繍されたタイトルは全く読めなかったが、全体的にセンスに古臭さは感じない。

表紙の何処を見ても染み一つなく状態の良さを窺わせるそれを前にして、哲は首を傾げる。

何も変なところが無い事が逆に変だった。

「見ていろ、直ぐに変わる」

そして呪文の詠唱を始めたエヴァンジェリンを横目に何が起こるのかと喉を鳴らすとその変化は間を置かずに現れた。

本の端が艶のある焦げ茶色から無機質で表面がザラザラと粗い灰色に変わったのだ。

変化はそれのみに留まらず灰色の部分は本の5分の一、3分の一、2分の一と徐々にその版図を広げて行き半分よりも多くなったかと思うと拡大の速度を急激に速めて本の全体を覆いつくした。

「これは……石か? 石化したのか」

「流石に上位悪魔が扱う物には劣るが、それでも並の術者には解呪出来ないだろうな」

「これに俺の血を掛けるのか」

痛みを覚悟して自分の親指の表面を強く齧って出血させると、勢い余って指の肉を少し抉ってしまって思いの外勢い良く血が溢れ出して来た。

耳元で聞こえるドクドクという心臓の鼓動に合わせて血が湧き出して行くのを、口元から僅かに声を漏らすだけで堪えると哲はエヴァンジェリンの持つ本の上で指から本に血の雫を落として見せた。

エヴァンジェリンが哲の行動に首を傾げて答えを急かすような視線を哲に向ける。

が、哲はそれを黙殺して本に変化が表れるのを待った。そして。

「おい、哲? これは!?」

変化はエヴァンジェリンが本に魔法を掛けた時よりも顕著に表れた。

石化するときは端から全体に向かって時間経過ととも反応が広がっていったが、今回は一瞬にしてごつごつとした感触の灰色が元通りの焦げ茶色に戻ったのだ。

瞬きよりも短い早業で完全に本は石化から脱していた。確認のため本をパラパラと捲って行っても石化したままのページは一枚も見当たらなかった。

「………なるほどな。あっはっはっは、どうやら私は夢でも見ているようだ。悪いけど夢が醒めたら起こしてくれ。血そのものが私の呪いを跳ね除ける程の力を持つなんて、ああ全く今更だけどなんておかしいんだ。幸運にも登校地獄が解けるなんてそんなの夢意外の何者でもないというのに」

「それが信じがたいことに真実なんだって。現実逃避は俺の専売特許だろうに、600歳オーバーが聞いて呆れるぞ」

「やあかましいわああああ! この歩く非常識めっ! 神獣の血でもこんな力はないぞ。信じない、私は信じないぞおお!!」

「いや吸血鬼に非常識言われてもな、この上ない非常識がお前だろ。常識とか口にしていい生き物じゃないぞお前」

「そんな私が霞むくらいに貴様の存在が滅茶苦茶だと言っとるんだ。いや人間として強さの最高峰にあったナギの奴ですら貴様の様な出鱈目な力は持ってなかった。本来ライター位の大きさの火にしかならない初級魔法で上級古代語呪文に匹敵する熱量を現出させるだと? はは、それじゃあなんだお前の魔法一つで国一つ吹き飛ぶだろ。まるで聖書におけるソドムとゴモラのようじゃないか。まさか貴様自分が神だとでも言うつもりじゃなかろうな?」

「当たらずとも遠からずって所だな。さっきの恐ろしい子供が言ってたことは間違いなく全部真実だし、俺はあいつと同じだけの力を与えられてるらしいからな。まあまあ今は細かいことは忘れてさっさと地上に帰ろうじゃありませんか? どうせ今日同行した人には明日にでも説明する場を作ることだし」

「うあ……この15年で初めてだぞ、ここまでの頭痛を感じたのは」

「おいおい頭の血管は大事にしないとダメだぞお婆ちゃん」

軽口に対して憤慨したのか足の甲をエヴァンジェリンに踏み抜かれ、哲は悶絶した。

「誰がババアだ。どっからどう見たってぴっちぴちの美少女だろうが」

「いや、…その表現が既に還暦入ってる、ってうおおおおっ!」

もう一度哲の足を踏み砕こうと右足を上げるエヴァンジェリンの気配を感じてずさっと飛び退いて距離を取るとエヴァンジェリンは痛みに耐えるように頭に手を添えるのだった。

その仕草があんまりにも年不相応に似合っていたものだから哲の笑いを支配する中枢に、刺激が殺到して吹き出しそうになる哲を視線でエヴァンジェリンが黙らせる。

相性が良いというか悪いというか後から首を傾げて思い耽る事になるとは思わない哲は自らの足の甲の安全を守るために、状況を動かすことにした。足を動かしていればいずれは笑いも収まると考えての事だ。しかし哲の考えは甘かったと言うしかないだろう。

「ウッ、あの…ウプッ、疑問も解決したことだし、……ククッ、此処を出ぷ、出ようぷ。あ、あは、がくえんちょうがあああ!」

「ああ、いい加減ジジイ共を待つのも飽きた。さっさと出ていくぞ。だから取り敢えず黙れ、殴るぞ」

そもそも笑いが収まらない内は哲はまともに喋れないくらいおかしかったからだ。

殴ってから言うな、などというありきたりな突っ込みを入れる好きは無かった。

腹に綺麗なボディーブローが入って痛みに叫んだはいいが、それでも笑いが収まりそうに無かったからだ。

更なる報復を恐れた哲は急いで口元を手で覆って笑いを堪えることにしたのだった。

それでも隠しようのない目元の笑いが気にくわないのか拳を握るエヴァンジェリンに、非があったとは誰も言えまい。

「まあいい、滝の裏に空間がある。行くぞ」

それでも哲に声をかける辺り、哲の中で善人のカテゴリからはみ出さないエヴァンジェリンだった。

室内にあるまじき規模の滝を見て某芸能人を思い出していた哲とエヴァンジェリンの前に非常口が姿を現した。

広大な空間がまるごとファンタジックな空気に満たされているというのに無骨な金属製の扉と緑色の照明に色々なものを台無しにされた気分になったが、扉を開けて先に進むと更に気分は悪くなった。

「なんだこれ? 『問1 英語問題readの過去分詞の発音は?』? レッド」

行く先を阻む壁に刻まれた文章を読み上げ、逡巡もせずに哲が即答するとぴんぽーんと音が鳴って壁がなくなったのだ。

反射的に読み上げ反射的に答えを口にした哲が、エヴァンジェリンにその無警戒ぶりを咎めるように軽くこづかれたが、それ以上は何も起こりそうにない。

壁の向こう側には更に奥へと続く通路があったが、道が開かれた感慨もなく哲はこの不調和に密かに文句を募らせる。ロマンも何もあったものではない。

「爺のやつ一体何を考えている? あんな舐めた物を用意したかと思えばどれだけの魔法教師を集めたんだ?」

「そんなに沢山いるのか? 集まっている人っていうのは?」

哲はそのまま道なりに足を進めようとしたが、エヴァンジェリンが後から付いてくる音がしない。振り返ってみるとエヴァンジェリンは足を止めたまま何か考え事をしているようだった。

「20人は居る。それもこの学園にいる魔法先生の中でも上等な部類の連中ばかりだ。爺本人にタカミチ、ガンドルフィーニ、明石、葛葉、シャークティ、神田羅木、瀬流彦の奴もいるな。捜索するにしては過剰戦力だし、動きがないのは異常だ。おまけに近衛木乃香や一般の生徒が居る状況でのゴーレムの暴走。先程のがガキ共の為に用意されたものだとしてもおかしな点だらけだ」

哲にはエヴァンジェリンが深刻に考え込んでいる理由が理解出来ない。というよりも度重なる非日常的体験のせいで心労が重なったばかりか今日は早朝から殆ど寝ていないせいもあって肉体的な疲労もピークに達しようとしていた。

おまけに気絶とはいえ中途半端に休息をとったせいか緊張の糸が切れて今にも瞼が降りてきそうだ。

うっかりその辺に座り込んでしまったが最後そのまま眠ってしまいたくなる程眠たくなっている。

「何でも良いって。さっさと帰って寝たい。ふ」

学園施設で加えて非常口などと書かれた場所にトラップが有るとも思えず、そのまま考え倦ねているエヴァンジェリンを背に通路を先に進む哲。

照明がなく光を吸い込んでいるのではと疑いたくなるほど暗い通路が終わり、開けた場所に出ると光のせいで欠伸が出た。

眼尻に涙まで滲ませてその眠たさも相当の物だろう、ついでとばかりに伸びをしてその後体を捻ってリラックスしようとした哲の喉に空気意外の予想だにしなかった物が侵入した。

それは、哲の真後ろから無音のまま迫り、哲の首筋にその切っ先を埋めて肉を切り、血管を裂いて埋没していく。

その勢いには寸分の迷いも躊躇もなく切れ味鋭いそれが最大の威力を発揮することに余念がない。

まるで刀を鞘に納刀していくような滑らかさで哲の体に滑りこんでいくそれは、哲の体が痛みに悲鳴を上げるよりも早くある場所に到達した。

背骨だ。

全身の神経が一纏めになって収められた管とも言えるそれ、そして人間の骨の中でも取り分け強靭な筈のそれをいとも容易く分断する。

本当に鋭い刃物で切断された物質は周囲にその衝撃を伝えない。

最初からそれがそうであったかのように一つの物が二つになり、切り裂かれたものだけが喪失したように見えるというが、元来が相当な腕前の鍛冶師に打たれたのだろう業物を気という常識はずれの力で強化したそれはそんな神業染みた所業を軽々とおこなってみせる。

その上それを振るう人間がそれに見合うほどの腕の持ち主とくれば、唯の人間の体など紙くず同然だ。

人体の中で最も堅固な鎧をこじ開けて、その中に収められた物を悉く斬断した。

全身のあらゆる運動を支配し、あらゆる感覚の通り道となる脊髄は薄い金属を間に挟んだだけで重篤な障害が発生する。

常に脳によって姿勢を制御されなければ立っていることすら出来ない生き物ではそうなってしまったが最後、あらゆる生命活動は惰性の範囲内でしか行われなくなってしまう。

肺が空気から酸素を取り込むことも無ければ、心臓はもう自ら拍動することはない。

生命として逃れられない死に捕まってしまうのだ。

とはいえいかなる働きによるものか、最早脳から電気信号によって命令が下されることなどないというのに哲の体はジタバタと暴れだす。

痙攣という奴だろうかと哲が今の哲を横から見ていれば冷静に思ったに違いないが、体を刀一本で支えられてそこを支点にしてガタガタと上下に激しく揺れる視界と、激しい痛みではまともな思考よりも意識の暗転の方が仕事が早かったらしい。

丁度先程迄散々哲を苦しめた睡魔に引き込まれる睡眠のように、哲の意識が飛んだ。


飛んだ、と思った時には既に目が醒めていた。

そこまでは矢張り睡眠に似通っていた。

しかし、これは。哲の体を貫通して赤く染まりながら未だに銀色に鈍く輝く刀が哲の視界に映った。

そして焦点がずれて離れた位置にいるエヴァンジェリンも。

まだ神経で繋がっている首から上の部分は哲の意思に従ってくれているのか、口も動く。

とはいえ気道を塞がれ肺も収縮しないのでは声も出ない。

どうせ何も出来ないならこの凄まじい痛みがさっさとなくなってしまうように死んでしまえた方が良いのに。

いい加減長生きした身としては臨終するのも悪くない。

などと19の身空でめちゃめちゃな痛みが脳を駆け巡る傍ら考えているというのはどうにも現実離れしているし、荒唐無稽の極みなのだが現実だと言われてしまえば鼻で笑うこともできやしない。

とはいえギロチンで処刑された人間の生首が体から切り離された後も話したというオカルトチックな記録も残っている。

断末魔の叫びを上げる為に用意された死の寸前の瞬間でもあるのだろうと考えた哲は、しょうがないので大人しくもう一度意識が飛ぶ瞬間を待つことにした。

きっと今度こそこの世とのお別れとなるだろう。

そもそも一度死んでいる身としては既にあの世に居るような気分でもあったが、次訪れるのは本物のあの世である。

願わくばアリストテレスの言っていたように素晴らしい所であることを期待したいが、神があのザマでは確実に自分には過ごしにくい場所だと推察できる。

その上確実に行くとしたら天国ではなく地獄である。

生まれたからこちら善行も孝行もした事はないと断言出来るだけにこれだけは間違いないと胸を張れたが、もしかしたら神の恨みを買ったせいもあるのだろうか。

あの手の性格をしていた人間は大抵一度恨んだ相手は死んでも憎い相手である。

自分のように何もかもがどうでもよければ或いは翻意も期待できるのだが、そんな事は考えることすら無駄骨だろう。

死を目前にしてはどんな偉大な思案ですら暇つぶしにしかならないが、その手の頭の中で何かを行なって時間を無為に費やすことならプロフェッショナルを自称できる哲は、最後に何を考えるべきか考えてみるという実にくだらない作業に没頭するのだが、幾ら時間を浪費しても哲の目の前は真っ暗にならない。

意識が薄れていく感覚もなければ痛みも無くならない。

手も動かなせない癖にご立派に痛みだけはありやがると恨み言を吐きながら体を揺すろうとしてみる。

勿論やるだけ意味のない行為だと理解した上でやるせないむず痒さのような物を出来たら解消する為の、決して物質的世界に干渉しない言わばただの思考でしか無かったそれに追従する物がある。

自分の顔の横を通り過ぎたそれを見るとそれはまごう事無き自分の腕。首を傾げながら哲の思考は遅々とした速度で回転していく。

まず、手。動く。次に足、動く。腕、動く。腿、動く。呼吸、出来る。

おかしい、死ぬはずだったのにいつの間にか生き延びそうになっている。

これを口にしていたらエヴァンジェリンや神は溜め息を吐いて、哲に対する認識を一つ改める事だろう。

こいつは全く人の話を信用していない。

とはいえ、常識人を自認する哲にとっては如何に今生きている環境がファンタジーまみれだとしても自分だけは今も、以前の世界で言うところの標準的な人間である。

それが生まれ変わりや死者蘇生をそう安安と信じるはずもない。

いや、信じていたとしても常識を書き換えていくには時間が足りないと自己弁護するのだろうか。

本を読んで心の底から感動したからといって本の内容を覚えていないようなものだと言ったかも知れない。

ふむ、とはいえ体が動くならこの首に刺さった金属から首を抜くことも可能だろう。

そう考えた哲は首を動かすが、生きたまま喉を刀が通過する感触、具体的に言えば猛烈な痛みと激烈な異物感から来る吐き気に襲われた。

今度こそ哲の思考が止まった。

最初はそれを痛みだと認識することも出来なかった。
いきなり何の前触れもなくどうしようもない気持ち悪さに襲われ頭の中が完全にそれ一色に染まってしまった状態。

その上それとは全く別に肉体的生理的反射で胃がひっくり返るような感覚を味わわされた。

横隔膜が跳ね上がって胃に衝撃が走った錯覚、しかも動けば動くほど痛みも吐き気も強くなるのに自分はもう自分の姿勢を維持しようと意識することもできない。

仰け反って痛み、項垂れて吐き気に苦しむ。食堂が燃えるように痛み胃の内容物が逆流している事に気づく。

しかし幾ら胃の中身がせり上がろうとも終着点に着くことは出来ない。

食道の半ばに突き刺さった刀が完全に気道を塞いでいるのだ。

そこから先にはどうやったって辿りつけない。その割りには今も哲の意識がはっきりと鮮明な状態を保っているのはどういうからくりなのか、どうせミラクルパウアーだと分かっていてもそんな事を考える余裕が有ったなら問い詰めたい。

いっそ倒れこめば地面を使って一気に刀を抜くことも出来ただろうが、哲の背後で刀を構えたままの人間は刀を離す素振りを見せない。

前に進むことも後退することも出来ず不気味なヘッドバンキングを繰り返すしかない。

頭の中が真っ白になるくらい強い痛みと凄まじい吐き気が、いつまでも哲の体の中で脳を蹴り上げ続けて何も考えられぬまま苦しむ事しか出来ない哲の姿に漸くエヴァンジェリンが異変に気づいた。

「な、なあっ?! くそっ!」

哲の体から日本刀らしき物の切っ先が突き出ているという突拍子もない出来事にも関わらずエヴァンジェリンは硬直することもなく、直ぐに哲に向かって駆け出す。

最初の一歩で異常な加速を得たエヴァンジェリンは一気にトップスピードに乗り二歩目を踏みしめた後には低く直線的な軌道を描いて銃弾より早く跳躍した。

ドンと音がしてエヴァンジェリンが居なくなった後の地面が大きく陥没する。

エヴァンジェリンは確信する。

哲を助けて敵を殺すまでに一秒もかからない。

哲を飛び越えて刀を奪い、刀を伝う血が滴るより先に敵の手を砕いて怯んだ相手に全力の拳をお見舞いする。

その上で甚振ってからバラバラに引き裂いて殺してやるのだ。

未だ嘗てない体験したことのない大きな全能感。

心臓を中心にして何かが血管を通って全身を光と同じ速さで巡り、法悦に陶酔する。

哲の頭上を飛び越えて、通常では考えられないほぼ直角の軌跡で相手と哲の間に滑りこむ。

後は自らの腕を揮うだけで、相手を血祭りに上げるだけ。

相手はエヴァンジェリンが目の前に居ることにすらまだ反応できていない。

ノロマがと心の中で敵を罵倒すると同時に心の中で昏い歓びが立ち上ってきて、堪らずエヴァンジェリンは口が裂けるほど大きく唇を歪ませた。

「ガッ!!?」

しかしてピンボールの様に弾き飛ばされたのはエヴァンジェリンの方であった。

加速した思考が驚きで停滞し、事実を飲み込むより早く壁に激突した。

二十メートル程の直径を持った円柱状の空間、その端から端まで辿りついてもまだ、驚愕によって作られた心の間隙を埋めるには短い。

エヴァンジェリンの体を包む魔法障壁が大半の衝撃を吸収したが立ち上った煙幕までは抑えきれない。

暫らく呆然としたまま何も出来ず立ち尽くした後、煙が晴れると同時にエヴァンジェリンも捕らわれた己を取り戻した。

有り得ない。

封印状態ならいざ知らず、今の自分は封印を解かれた状態だ。

老化によって全盛を忘れる人間ではなく、闇と共に永劫を歩き滅びる事無き吸血鬼が長きに渡って研鑽を続け悪夢とまで呼ばれた自分が、その上ブランクを無視して余りある大幅なパワーアップを果たした今の状態で何をされたのかすら分からなかっただと?

未だ揺れ続けるエヴァンジェリンを横目にして、エヴァンジェリンを吹き飛ばしたそれは哲に対して更なる苦痛を与えようと腕を閃かせた。

「い、一体何がどうなっている? 貴様達何を!?」

エヴァンジェリンの疑問の声も遠く、柔らかい光を紅く染めながら煌きが哲の首を軽やかに撥ねた。鮮やかな手前だ、余計な音一つ立てず首に入った刀は最後まで哲に振り返ることを許さないままに仕事を終えた。

「おぎゃあああああああ!!」

滝が立てる音が遥か彼方にその気配を漂わせる以外には風も吹かない空間に大きく悲鳴が反響する。下手人はその悲鳴を上げる源を見据え、更なる暴力のために歩みだす。

その後ろに幾つもの足音を従えながら。

そしてエヴァンジェリンは茫然自失したまま、哲の首が悲鳴を上げる様を見ていた。

苦悶の表情を浮かべている。

とてもこれが人間のする形相ではないと、死から遠ざけられて育った現代の人間なら思っただろう。

幾つも深い皺が憎しみの深さを表すように顔中に走り、カッと見開かれた目からは血涙を流すのではないかと見紛うほどの想念が溢れでて、限りない災いを生を謳歌する全ての人間に投げつけると一度でも聞いてしまえば以後そういう風にしか見れなくなってしまう。

網膜に焼き付いて忘れることすら許さず死が安寧を齎す日まで呪い続けるそれは、エヴァンジェリンにとってはしかし物珍しい物ではなかった。

今までこんな表情を浮かべた生首を幾つも見たことがある。

それは時には自分が殺した誰かの物であり、時には偶々立ち寄った戦場で見かけた物だった。

男も女も老いも若きも戦いの果てに死ねば、戦場という地獄の中で果てればこういう顔を浮かべる者も少なくない。

エヴァンジェリン本人も恐らく力を付ける前には何度かこうした表情をした事があっただろう。

しかし、15年を人の中で過ごして非力な少女という軛から解き放たれ最初に見る光景は良きにつけ悪しきにつけエヴァンジェリンに新鮮な衝撃を与えていた。

哲の首が飛んだ時など本気で息を飲んで卒倒しそうになった。

哲の死体なら既に二度も見ているというのにである。

知っている人間が目の前で死ぬというのは今になっても嫌な物らしい。

まだまだ人間臭い部分が残っている部分を喜べば良いのか嘆くべきなのかは分からない。

そしてもう一つ、自分以外の生首が胴体から離れた後も壮絶な悲鳴を上げる光景、その異様さである。

壊れていなければならない、失われていなければならない物が依然としてこの世にあり続ける不条理。生理的な恐怖や嫌悪を呼び起こす破壊された肉体が、尚生者のような振る舞いをする不気味さはいいようにない感覚を呼び起こす。

これが吸血鬼か。確かに忌避するのも納得だな。

生き汚なさを誇ったことは有っても恥じたことは無かったが、なるほどある程度まともな感性を持っていれば異様に感じるのは当たり前で有ることを痛感する。

そして同時に自分をこんな生き物にした男に対する憎しみも僅かに再燃する。

復讐を果たしても鎮火しきらないその炎は同時に自分の運命を憎む怨嗟の泣き声でもある。

本来ならばそれから目を逸らすことに少なからず時間と思考を割かなければならない所だったが、今回はそうも行かなかった。それ以上の異常な体験がエヴァンジェリンの思考を何もかも吹き飛ばしたからである。跡形もなく。

「葛葉刀子! それにジジイ、タカミチも。貴様達正気か!?」

吹き飛ばされた哲の首、それに向かって歩く姿は見間違いようもなくエヴァンジェリン自身自らの見たものが信じ難かったが、正真正銘刀を持った人間は麻帆良学園の葛葉刀子その人である。

その背後には学園長近衛近右衛門や高畑.T.タカミチ、瀬流彦や明石、神多羅木やガンドルフィーニと言った見慣れた顔もある。

全員麻帆良学園の魔法教員であり、エヴァンジェリンとの面識もあった。

エヴァンジェリンに接する態度こそ冷たい物だったが、基本的に誰もが善良な性格をしており、このような行為に及ぶ者たちだとはとても思えない。

「いや、間違いなく正気は失ってるよ。あー、イテエ。本当何処まで本気なんだあのオッサン」

「黒金!?」

「そうです、黒金です。…ああ、なんかヤバイライン超えたのかな。あんま痛くなくなってるよ、コレ」

普通アレほどの損傷を受ければ痛み云々よりも先に、極普通に死ねるのだが生きている上に一気に痛覚が麻痺してしまったらしい。耳をつんざくような声もとうに収まっている。

「貴様この状況に心当たりが?」

「いや、言っておくけど殺されるほど恨まれた覚えはないよ? ただ、俺が死んで喜ぶ人が居るからな。どうせ、また嫌がらせの一環だろ。帰ったと思わせといて不意打ちでどん、みたいな。性格の悪さが透けて見える作戦だな」

「言っている場合か! 何処の何奴だそんな事するのは?」

「さっき会ってたじゃん。あの女の子の格好したオッサンの事だよ」

事も無げに言っている哲だが、エヴァンジェリンの見立てではただの少女にしか見えなかった。

確かに圧倒もされたが、麻帆良学園の魔法教員と言えば魔法使い全体で言えば優秀な部類の人材ばかりである。

それもトップに近い連中は本国で探しても中々見つからない程の手練だ。

近右衛門にいたってはこの麻帆良学園限定でエヴァンジェリンを凌駕する可能性すらある強者だが、そんな連中をこうして何十人も洗脳、或いは操作出来るほどの力が有るようには思えない。

「信じられん。ただの小娘にしか見えなかったぞ」

「その割りには俺と彼奴の会話に誰も口を挟んで来なかっただろ。あの状況で黙ってられるような連中じゃなかったはずだが。それに…ってうおおお、やべええ! ヤラれる、ヤラれちゃう。拾いに来い俺の体! あれ? あれれ? 動いた。胴体が動いてる。そうだ、こっち来い。もうちょっとっていぎゃあああああああ!!」

脅威の接近に気づいて、脱するために体に呼びかける哲。

呼応するように独手に体が動き出すが、ふらふらと危なっかしく、どうやら感覚としては通常通りに体を動かす感覚で離れた体も動いているのだが指令を出す首がいつもと違う視点に戸惑ってしまい、哲の首に先にたどり着いたのは哲の胴体ではなく、魔法教員達だった。

小さな的に叩き込まれる夥しい数の魔法の矢。

属性も単一ではなく術者の数だけあると言っても過言ではないだろう。

基本の属性水火風土光闇と派生する雷や氷、滅多に見ることが出来ない花や木といった属性まである。

哲の視界を埋め尽くすそれは一発一発が常識的な威力を超え、小規模な爆発を起こしているように見えなくもない。

殴られ燃やされ切られ掴まれ押し潰され凍られ吹き飛ばされ、しかしそれらが全て同時に哲の体に押し寄せたせいで哲の首は逃げることも出来ずに浴びせ続けられる。

最後のおまけに重力魔法を圧縮された上から大量の炎を浴びせかけられるまで攻撃の手が休まることはなく、攻撃が静まれば哲の首があった場所は原型を留めておらずはっきりとクレーターが刻まれたいた。

哲には悪いが最初の一撃で、自分がどうこう出来るレベルを超えていると感じたエヴァンジェリンは静観を決め込んだが、殲滅戦のような執念深い攻撃に晒された哲が果たして再び蘇るか少し心配になる。

いやしかし彼奴自身の使う魔法に比べればこれでも子供の火遊びの息を出ない威力だしななどと自己正当化しつつクレーターの中を覗き込むといつの間くっついていたのか五体満足になった哲の姿があった。

衣服は完全に消滅しているが、肉体は傷一つ負っている様子がない。

「いてえじゃねえかよ。って言ってる場合じゃないな。どうしたものか」

「早く対処しないと不味いんじゃないか? タカミチとか葛葉とか前衛連中まで参加するみたいだぞ」

「でもなあ、俺が嬲られるのが多分企画者的に一番望んでいる展開の筈だから、いっそこのままヤラれ続けるのが一番早い気もするんだよな。痛いけど。いいいいいいいいいいいいいいいいたあああああああああああああああああいけどなあああああああああああ!!!!」

素っ裸で恥じらう様子もなく叫んでいる哲に今度は魔法ではなく斬撃や剣戟が加えられる。

弾幕に遮られた先程とは違って、斬りつけられた傷も殴られて浮き上がる体も見える。

初弾は高畑の一撃だった。

最初から出し惜しみをせず咸卦法を使用した上で揮われたそれは豪殺居合い拳。

これもまた強化されているのか無防備に食らった哲はたったの一撃で地面との間にサンドされて圧殺された。

トマトを潰したような水っぽい音と共に血の匂いと赤い液体が飛び散ったが、容赦無く二撃目が哲に襲いかかる。

男子高等部に務める体育教師、熱血硬派で一部の生徒から人気を集める男は普段からジャージを着て授業を行なっているのだろう。

黒いジャージを着た影が高速で哲の居る穴に向かって落下する。

徹底的に気で強化された踵落としが放たれる。これでもかと言わんばかりに哲の体を押し潰し体の中心に大穴を穿ったそれは、食らった哲としてはギロチンと大差ない。

使い古されたスニーカーが真紅に染まり、ぬちゃぬちゃと音を立てながら既に絶命している哲の内蔵をかき回す。

意識もなく飛び跳ねる哲の反応を一頻り楽しむと突き刺した足を引きぬいて哲の肉体を蹴り上げる。

サッカーボールの様にぽーんと宙に浮いた哲の体に、今度は日本刀が斬りかかる。

哲の体が恋しいとでも言うのか、まずは哲の体の輪郭を確かめるように額から腹の辺りまで皮一枚だけを綺麗に切り裂く。

何をするのかと思案したのも束の間、乱暴に額に手が伸ばされてそこから皮を下に向かって一気に剥かれていく。

強く張り付いた皮を肉から引き剥がす作業は強い力を要するが、気で身体能力を強化すれば女子供でもやってのける。

が、それをされて痛みを耐えられる者は地上に一人もいないだろう。逃げようとしても掴まれた皮と肉が邪魔をして、いやそもそも逃げようと考えることすら出来ず腹までの皮を剥がれた哲は引き倒され、同じように背中の皮を剥がれた。

それが終われば四肢を切り落とされ、体の中心に刀を突き立てられる。

うなぎの解体と同じ要領で哲の動きを禁じようというのだろう。

その段階で既に哲の回復能力が発動して哲の傷は残らず癒されたが、太腿に括り付けられていた脇差を取り出して今度は頭から哲を刻んでいく。

刀が振り下ろさえる度一つ肉片が増えていく。

切られては治り、斬られては直る。

徐々に哲の回復速度が増していく。

それでも刀の煌きが止むことはない。

右に左に哲の体を通過してその作業に没頭する。

頭首肩背中腰脹脛太腿足首足小気味良く調子よく時計の秒針が音を立てて回るように。

チクタクチクタクチクタクチクタク。やがて哲の血液が血の湖を作り哲の体が刀を弾き返すようになるまで。
壮絶に凄惨。

金属同士が衝突して弾き返される音が空洞に響き渡って山彦のように反響するのを聞きながら、その場にいた全員が正気を取り戻した。唯一人の例外を除いて。

夢見心地を引きずりながら目を覚まして何も考えられないまま息を吸い込んだ。

本来ならばそれはこの世で一番平穏に近い、平凡で平穏な空気。

そうであるのが当たり前で、そうあることは退屈で、そうだったなら幸福だった。

だが、彼らの鼻腔に香ったのは喩えようもない絶望の匂い。

濃密で芳醇で吐き気を催すここに有ってはいけない匂いだ。

体中に電撃が走ったみたいに一瞬で意識が戦時のそれに切り替わる。

伴侶や子供、両親といった家族や友人や同僚といった知人、或いはこの学園都市における宝である生徒達。

心の中に浮かぶものはそれぞれ異なったが皆一様に胸に抱いたのは、誰かを守るという強い意志である。

立ち上がったまま眠っていたというおかしな事実にも気付かないまま、目を開いて天地がひっくり返るような感覚を覚える。

それぞれが手に握った武器や肉体、呪文を詠唱したその口に残る実感。

そして目の前に広がる血の海、臓物の山、刻まれた攻撃の爪痕。

空間に沁み込む程に長い間響き続けた叫び声と痛みを訴える悲哀の念。

極めつけに体中を濡らした血。

恐る恐るその事実が明らかになる事を畏れながら指先で血に触れる。

でもその指先すら血塗れだった。

なんてことはない。

そう笑えるものはこの場には一人もいなかった。

僅か十数年前にあった大戦を経験したものも居る。

しかし、そういった抗いようのない大きな流れとこれとは何もかもが違う気がした。

脳の中の優秀な器官が、いかんなくその機能を十全に利用して自分に教えていた。

自分が自分の意志で自分の為に目の前の惨劇を作り上げた事を。

「おい、黒金。しっかりしろ! 大丈夫か!」

逃れようのない自らの記憶に首を絞められ窒息しそうになった人間を無視してエヴァンジェリンが哲に問いかける。

辺り一面が哲の血液に濡れている状況に我を忘れて血を啜りたくなったが我慢する。

乾いた喉が水を欲するような強い衝動は、初めてそれを味わった時よりもずっと大きな物だったがまだギリギリ堪えることが出来る範囲だ。

確か最初に血を吸った時は此処までの魅力を感じなかった筈なのに。

もしかしたらコイツの血には依存性でもあるのかもしれんと笑えない冗談が頭を過ぎるが、掌に爪が食い込むほどに握り込めば久しく味わっていなかった痛みという感覚が血に酔いそうな頭を覚ましてくれた。

「あ…………………あ、あ……あああ」

今にも爆発しそうな何かを抑えこむようにぎゅうっと自分の体を抱きしめている哲。

口は大きく開き息を吸っては子供が出すようなか細い悲鳴を漏らしながら、瞳孔の開ききった瞳から大粒の涙を流している。

自我崩壊。不吉な言葉がエヴァンジェリンの頭に浮かぶ。

不滅の肉体を持ってしても心の崩壊には耐えられない。その癖肉体に過度の負荷が掛かれば心は壊れてしまう。

不老不死の怪物・エヴァンジェリンが恐れる物の一つだ。これに耐えるには仙人にでもなるしかないだろう。

強制的に意識の覚醒を促す魔法を使えばとも思ったが、エヴァンジェリンにはその魔法は使えない。かと言ってオロオロと取り乱している周囲の連中にも頼れない。

無理も無いことだったが、エヴァンジェリンは舌打ちをしながら視線を哲に戻そうとした。

ドンと強く体を突き飛ばされて、エヴァンジェリンの背中が地面に打ち付けられる。

気を張った状態の吸血鬼に動きを悟られず、しかも全く抵抗を許さない。それは音をさせずに爆弾を爆発させるような行為だ。

それを為した誰かが言う。

「エヴァンジェリン、こ、此処から出来るだけ早く…離れろ!」

唾を飛ばしながら必死の形相で、その誰かはエヴァンジェリンに向かって叫ぶ。のほほんとしたいつもの表情とは掛け離れた、本当に追い込まれた人間のする顔だ。

いつも馬鹿みたいなにやけ面か無表情でいる哲が、そんな顔をしているギャップに驚きながらエヴァンジェリンは頭の中に疑問符が湧いてくるのを禁じ得なかった。

「はあ? 急にどうした。 連中ももう目を覚ましたみたいだし、これ以上何が」

「い、いいから!! 早くしろ!」

語気を荒くする哲を見ながら、しかしエヴァンジェリンの視界の中で哲が徐々に変質して、見知らぬ誰かに変貌していく。

顔も形もそのままだというのに、哲の体が猛烈な勢いで肥大していく錯覚に襲われる。人の形を保つ事など気にもかけず、思いのまま、衝動の赴くままに大きくなっていくそれは、エヴァンジェリンには獲物をその牙で噛み砕こうと忍び寄る大型の獣に見えた。

「ああ、不味い。これは不味いって。ああ、ああ、ああ、ああああああああ。本当に、駄目だ。もう我慢出来ないよ」

一言一言区切って喋る哲。その度獣の影は大きさを増していき、最初は標準的な獅子程の大きさだったものが、いきなり2メートルも大きくなったかと思うと、次は一軒家、更にという具合に大きな円筒状のこの空間に、ギリギリ収まる程度になった。

エヴァンジェリンの直感が危機の到来を教えるが、これでは余りにも遅すぎる。車が突っ込んできてから逃げようとするような物である。

転移の呪文で離脱することを考えたが、他の魔法教師たちを連れていくには距離が開きすぎだ。その自分達のした行為に気を取られて全く状況を把握できていない。

迫りくる暴虐の予感。それは間違いなくこの場にいる全員を死体に変えるだろう。

地震や津波、台風のような物だ。人間では絶対に対抗できない時のような巨大な力に押し流されるビジョンが目に浮かんだ。

下手をすれば吸血鬼の自分でも死にかねないと、長い間の経験から培った直感が警鐘を鳴らしている。

選ばなければならない。自分一人で逃げるか、それともタカミチや近右衛門達を助けようとして諸共に薙ぎ払われるか。

こうして思考している時間すら惜しい。エヴァンジェリンが惑っている間に哲の様子が激変していた。

瞑っていた目はカッと見開かれ、眼球は真っ赤に充血している。噛み締められた歯が圧力に耐え切れずに砕け、勢い余って歯茎に刺さっても悲鳴一つ挙げない。腕を抱えていた腕は体中を引きむしって肉を露出させている。

痛みを耐えようとして、耐えかねる痛みから体を傷つけて、それが更なる痛みを呼び込んでしまう。

痛みの螺旋が徐々にその渦を大きくするに従って、聳える影も巨大化する。

異常な事態に遭遇していなければ、恐れに飲み込まれていただろう。それ位、影はもう成長してしまっている。

「チッ、すっかり私も甘ちゃんだな」

舌打ち混じりに自重しながらエヴァンジェリンは駆け出す。柔らかい地面に足を取られる事すら厭わしく、超低空で虚空瞬動を行なって全く力をロスさせずに一気にトップスピードに乗って行く。体の中から湧きだす力も恐れることなく注ぎ込んで、限界を超えて突進していく。

一番近い場所に立っていた二集院光から葛葉や名前も知らない魔法教師まで、次々に腕に抱え込んで抵抗を封じ、喚きたてる者は一括して黙らせていく。

抱えるのにも無理が来れば、転移の魔法を起動する。超高等魔法に分類される転移魔法。本来こんな息もつけない状況で使うものじゃない。かくいう自分も咄嗟の回避に使える程ではない。

転移させる物体の座標と転移させる先の座標。そしてそれを繋ぐ道筋もどれ一つでもミスをすれば壊滅的な被害を免れない作業だ。

しかし、無茶をしなければやはり待つものは死である。

600年、長きに渡る研鑽の末最強と呼ばれるようになって尚、こんなにも簡単に窮地に落ちる。

それも他人を助けるためなどという、想像もしなかった方法で。

脳裏に浮かぶ転移魔方陣。二重の正円の間に刻まれるラテン語の呪文と更にその内側に刻まれる力の象徴。それぞれの術式を安定させるために更に呪文を書き加えて出口と入口を繋ぐ。

冴え渡る術式構築過程に満足しながら、起動するための最後の材料である自身の魔力を注ぎ込む。

細心の注意を払って、注ぎ込む魔力が多すぎも少な過ぎもしない、ピッタリの量になるのを見計らって魔力の注入を遮断する。

暴走と言っても過言ではない魔力の猛りを沈めながらのこの作業は、今回に限って最も困難な作業だったが、これも満足の行く形で終え、後は本格的に発動する転移魔法で抱えた10人の魔法教師を地上に飛ばす。

この行程を後2回。たった2回繰り返すだけだ。

エヴァンジェリンいけるかと思って油断した瞬間。遂に押さえ付けられていた獣が蠢動を始めた。

大気が震える感覚に体が内側から震え出す。

エヴァンジェリンの転移魔法が発動する前兆として現れる、影のゲート。せめてとエヴァンジェリンが抱えた魔法教師をゲートに押しこむより早く

「いけえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」

「なっ!? 黒金?」

目の前の景色が光よりも早く滑っていく。感覚の欠落。本来あるべき時間の流れに逆らって刹那より早く移動していく。

転移魔法による移動の感覚が遅々としたものに思える一瞬の時間旅行の末、エヴァンジェリン達は図書館島と街とを繋ぐ長い橋の手元にいた。







そしてその日図書館島が跡形もなく消失した。



[21913] 第十六話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:0fcab7af
Date: 2015/12/19 11:22

 気付けば視界を遮るものもなく空を見上げていた。満点の星空は遠く高いけれど、街の光さえも遠ざけられたそれは真っ黒い夜空の中でさえ自らの存在を強く示す光を放っていた。時折その光の群れの中を赤い光が横切って行く。それはきっと遥か上空を通る飛行機の明かりなのだろうけれど、星の光に紛れてその間を泳いでいくその様は例え何万光年も離れていてもより強く美しく光る星々の前では酷く儚く映った。

 静かだ。それも並大抵の静けさではない。人も車も生き物さえも遠く風の音は周囲を覆っているそびえ立つ崖に吸い込まれてしまっていて、体を支える細かな砂は心臓の拍動を飲み込んでいた。驚く程柔らかで心地の良い砂のベッドに横たわっていると時間の流れる音が聞こえてきそうな、そんな静けさだった。

 そのままぼーっと身じろぎもせずに空を見上げていた。自分が限りなく透明に近い色に変わっていくのを感じながら自身の心もまた周囲のそんな静けさに釣られるように、かつてない静寂を得ていた。何者の干渉さえも撥ね退けるような力強いエネルギーに溢れているのでもなく、対称的に命さえも眩むような鬱鬱とした状態でもない。何かの力がそこに加えられてしまえば直ぐ様にその在り方を変えてしまうようなか弱さと、如何様にも変わってしまえそうな脱力している。そんな気分が胸の中に一杯に広がっていた。

 驚く。いや驚いたような振りをしているのだろうか。心の容器の内容を微塵も揺らさぬまま、ただ頭の中で走る信号が驚きを捉えた。そしてそれを喜ぶでも悲しむでもなくただ甘受した。出て行くでも入ってくるでもなく、足すのでも引かれるのでもない。それは調和と呼ぶには余りにも静的でいて死と呼ぶには動的過ぎる奇妙な感触だった。

 ただただ、ただただそれが自らにとって何か快的な何かだと感じ取る。それは決して快感ではなく、不快感の真逆に位置するものでもない。息苦しさも寂寥感も将来への不安も、快楽と、快楽と同時に存在する苦痛もない。ただそれが何か良い物のようだと思ったのだ。

 しかし、それを認識するに至った所でそれは全くの無駄だった。何せそれを追い求めることなど不可能。そうと思わないではいられなかった。何せそれは絶対の静止の中で得られる一瞬の邂逅、瞬きの間に消えてしまう夢の様なものだからだ。空っぽこそが理想だというのに何かを欲してしまえばそれは最早空っぽとは程遠い、欲を満たした薄汚い何かだった。

 心地良い場所から追い出されるように我に帰れば、そこはもう無音の世界などではなく、いつもと何も変わらない雑多で物悲しいだけの充足とは程遠い場所。

 その感覚の喪失に暫し呆然とし、やがて体を起こすために力を込める。束の間の休息が終わった。

「さて、経緯は全部覚えているけれど。これやったのって本当に俺かよ」

 視界いっぱいに開けた大空を見上げながら鉄は呟く。覚えている限りではそこは図書館島の地下であり、直前に落ちてきた穴の事など考えると少なくとも地下数百メートル単位での深い場所だった筈なのにそれこそその辺の野っ原と同じように鉄の頭上には星屑達が輝いている。そしてぐるりと周囲を見渡すように回ってみれば何処も彼処も壁壁壁。切り立った絶壁が空に向かって伸びていた。それも暗くてよくわからないが少なくとも何箇所かは土の色が変わって層のようになっているのが分かる。はてと首を傾げながら哲は図書館島がどんな場所に建てられていたか思い出す。湖の中心に位置する島に建造されたそれは少なくとも岸から100メートルは距離が有った。しかし空と壁の縁の何処を見ても水が落ちているような様子はない。寝ていた間に全てが地下に落下したと見ることも出来る。が、哲がざっと周囲を見てみても水溜り一つ見つからない。という事は少なくとも湖全てが地下の土砂ごと根こそぎ無くなっている事になる。深さも鑑みれば小さい山の一つか二つ分の質量が消え失せていることになる。

 その人智を遥かに超えた天罰染みた現象を自分が起こしたというのは俄には信じがたい。それこそ自らに魔法のような物を操る力が有ると知っていても。

 現実逃避というよりもそもそもその現実を受け止められない。頭の中が真っ白になる感覚。そして新しく出来た空間で目まぐるしく駆け回るのは自らの行いによって出た甚大なる被害だった。

 物的被害もさておいて一番の気がかりは人的被害の方だ。図書館島は明治時代に作られた世界最大規模の図書館であり建造物事態にも文化的価値が有ることは言うまでもないが、更に重要なのは所蔵された貴重書の数々だ。パンフレットに書かれていた事だが、此処には大戦中戦火を逃れるために世界中の本が集められていた。そして平和になった現在その貴重書を狙って不法に侵入してくる者を撃退する為に数々のトラップが仕掛けられた。然しながら夜間の警備に当っているのは何もそういった仕掛けだけではない筈だ。地下に向かって伸びる全貌すら把握させない巨大な空間にどれだけの警備員が居るのか哲には想像も着かなかった。恐らく警備ルートやスケジュールを縫うように行われた進入時には誰にも会うことは無かったが、だからと言ってその存在の懸念を忘れるべきではなかったのに、あの時エヴァ達を逃がすという事以外には意識に上りもしなかった。

 手応えがない。自分がやったという自覚さえも本当の事を言うなら殆どない。どうしようも無い程の痛みを、痛みから受けるストレスを発散するためにたった一度地団駄を踏む。そんなつもりだったというのに実際にはこのざまだ。

 そんなつもりは無かった。とそんな言葉ばかりが浮かんで口に出しそうになる。しかしその行為の醜さに吐き気を催し必死に噛み殺した。そんな言葉は口にしてはいけない。するべきでない。したくない。

「う、う、ううえええええええええ」

 飲み込んだ言葉は腹の中に戻り、燻った火種を爆発させた。食堂を駆け上がり飲み込んだ筈の汚物が競り上がって、口から漏れだす。蹲りバシャバシャと飛沫を上げながら止めどなく吐瀉物を垂れ流す。どれだけ吐けば気が済むのか5秒10秒と続き、収まったと思ったら空気を吸い込んだ表紙に内蔵を口から吐き出すのではないかと思うほどの勢いでもう一度嘔吐した。

 既に吐瀉物は殆ど透明で、胃液を含んでいるために僅かに黄色がかったそれは地面に落ちて砂を灰色に染めながら染みこんでいった。

「ぐ、ぐ、ぐうえ、ぐえええ」

 上手く鼻から息が吸えず、体の表面を透過して中身だけを締め上げられているような状態で窒息しながら、それでも吐くことが止められない。ついには気絶しながら自分の吐瀉物に顔を突っ込んだ所で漸く哲はまともに呼吸することが出来た。

 ゼーハーゼーハーと耳障りな呼吸だけが耳に残り、全力で吐き気を抑えることに集中する。唾一つ逆流を恐れて飲み込めず、荒い呼吸をしながら細い管を通すように少しずつ空気を吸っていくと次第に体は落ち着きを取り戻した。

 どうにかしなければならない、そのためにはまず自分が何を出来るのか考えてみなければ。すっかり消耗しきった頭で哲は思考する。

 まだ酸欠の症状が収まらず時折意識がぼやけたが、暗闇の中を手探りで歩く時のようにゆっくりと考えを進めていく。

 まずは一つ大前提として自分の持っている肉体。これで人並みの事は出来る。次にこの惨状を引き起こした力。どうやったかは定かではないが、あの時は力任せに拳で地面を殴っただけの筈だ。殴られたりバラバラにされたり刺されたり蹴られたりで痛みと怒りにカッとなり自失していたが頭の中でこうなる事を望んでいた。煩わしい物が全て自分から遠ざかるようにと。そして三つ目は神から与えられた未知の力だ。あれの言う事を今更疑える程脳天気な頭はしていない。把握は出来ていないが、何でも出来ると断言された以上本当に何でも出来るのだろう。

 だとすれば時間を巻き戻すなりなんなりファンタジーらしい魔法の力で現状をどうにか出来そうなものだが、どうすれば実行できるのか。

 どうすれば消えたものを全部元通りに出来るのか。消えた図書館島も所蔵されていた本やそこに居た人たち全てを。

 ……望みさえすれば。

「はあ? なんだこれ」

 考えた所で自分でも分からない自分の力の使い方なんてものは分からない。が、あたかもそれを知る誰かが喋ったように頭の中に声とも文字ともつかないイメージが浮かぶ。

 なんという事だろうか。神様から貰ったこの体、電波を受信する仕様らしい。国営放送が入るならば集金対策をしないと。

「きめの細かい肌嫌がらせ精神だ。サービス業に従事すれば大変喜ばれるでしょう。って誰も聞いてないか。それより」

 哲は何の疑問も持たずに先程の謎の指示に従った。今になってあの神様がすることに疑問など持たない。持つ必要がないと確信していた。

 具体的なイメージを持つべきなのか、それとも漠然とでも願うだけで良いのか。そのどちらなのかは分からなかったが、哲は無意識に祈りのポーズを採っていた。奇しくもそれは目を瞑り膝をついて手を組むというある特定の神に祈る時のそれと全く同一の姿勢だった。
 


 大仰にポーズなどとった所で彼は生粋の無信論者である。神を信仰も否定もせずに生き、将来の夢も抱かず、願望を強く持つという事も無かった。それ故に彼の願うという行為に対する姿勢や方法は全く不格好と言わざるを得ず、或いはそれは世界で最も願うという事柄から遠く在ったかもしれない。しかしながら、彼は特別な存在である。本人が望む所に因らず、唾棄すべき対象に成り下がった彼の願いは聞き届けられてしまうのである。 



[21913] 第17話
Name: スコル・ハティ◆7a2ce0e8 ID:0fcab7af
Date: 2016/06/03 22:36
 こっちを更新するのは随分久し振りなのでリハビリ的に短いものを投稿。



 夜半、図書館島のある湖の畔に放り出された魔法教師達は一人残らずその場を微動だにすることが出来なかった。動きたくないとそう思う以前の問題。誰一人として直前まで自分が演じた惨劇、それを受け止めることが出来なかったからだった。

 それは事の被害者である黒金哲ですら気にも留めない、彼等に責任あっての事態ではなかった。当初学園長号令の下、麻帆良学園に現れた青年黒金哲を見極める為に図書館島大地下に集合した彼等は、そこでただの一人も抵抗を試みる事なく何者かによる支配下に置かれ、そして無辜の民である黒金哲を執拗なまでに殺害し尽くした。

 結果として黒金哲が超常の再生能力を所持していたために死亡には至らなかったものの、彼等の手に残る手応えは間違いなく人殺しのそれだった。魔法使い同士の戦闘に見られる障壁もなく、あっさりと攻撃を受け入れる黒金の体はやはり一般人の如き脆さでもって彼等の手によって崩壊したのだ。肉を裂く刃の感触、骨を砕いた脚の感触、そして温かく柔らかい臓物を掻き分けながら体を貫通した腕の感触。そういったものが拭い切れない汚れのように、今も自らの体に残るのを誰もが知覚していた。

 魔法使いは正義の味方である。そんな夢物語でこの世の中を渡っていけるものばかりではない。しかし、この学園に集う魔法教師達の中には、残酷な世界を知って尚理想に燃えるものも居た。そうした本来守るべきものを傷つけた感覚というのは、彼等にとって耐え難い苦痛となる。

 それもただ傷つけたのではなく、同時に心に浮かんだ感情が歓喜のそれだった事が一層の衝撃となって彼等を傷めつけた。

 誰もが自らに恐怖した。その力を身につけた理由も、その努力も、そしてそれによって得てきた結果すら彼等にとっての意味合いを変えそうになった。

 己の腕で守ってきた日常、勝ち得た平穏に見出してきた幸福。それが途端になんの意味もない空虚なものに思えるほどの喜びが在ったことを誰も否定することが出来なかったからだ。

 だから、ほんの僅かな間を置いてそれを含めても彼等の人生で最も衝撃的な出来事が重なったのは却って幸運だったと言えるだろう。

 図書館島の、周辺の湖ごとの消失。まことしやかに学生達の間で囁かれる幻の地底図書室が露出し、地上からの観察が可能になることなどこの麻帆良の歴史においても一度たりと想像すらされた事がないに違いない。

 莫大な質量と最早文化それ自体と呼べるほどの資料それらがなんの前触れもなく、その影さえ残さず消失したのだ。

 集められた魔法教師達は金縛りが解けたように、いや必死になって心の中から目を逸らしながら直面した事態に驚き、そして呆然とせざるを得なかった。

 それは近衛近右衛門ですら例外でなく、口を開けたのはエヴァンジェリン唯一人だった。

「まさか、これほどとは。……なるほど、本当に嘘など1つも無かったということか」

 誰に向けた言葉でもない。それは自分の納得が偶々口を突いて出ただけの一言。だが、事情を知らぬ者達の前にぶら下げるには食欲をそそる餌として十分過ぎた。

「何か、知っておるのか? エヴァ」

 近右衛門の口が古びた蝶番のようにぎこちなく動いた。エヴァンジェリンとて哲との面識がなければ、あるいはあの得体の知れない女との邂逅がなければ同様に混乱の坩堝に落ちていただろうことは想像に難くない。しかし、それでも近右衛門がそのような状態に追い込まれた事には意外性と面白さを感じた。

 が、エヴァンジェリンの心の内とは対照的に場の雰囲気は俄に剣呑としたものに変貌を遂げようとしていた。

 前代未聞の事態に対するものか、それとも己の所業に対するものか。どちらにせよ過度のストレスに対する防衛反応だ。おまけに集団心理まで働いてしまえば今宵この学園の上層部は行き着くところまで行き着いてしまいかねない。悪を自称するエヴァンジェリンにとっては、それも1つの娯楽と見ることも出来たが生憎とそんな気分ではない。

「貴様らのさっきの行動にも今の事態にも心当たりは有る。だが、私にも詳しい事は分からん。黒金の口から直接聞くのが良かろう」

 そんな呑気としか思えない発言。当然の如く魔法教師達は一瞬にして怒りと不安がないまぜになったものを爆発させた。

「ふざけているのかエヴァンジェリン! 貴様、さてはさっきのアイツを利用してこの学園を破壊するつもりか」

「所詮化物か。15年の歳月で更生するはずもない。お前など殺しておくべきだったのだ」

 悪の魔法使い闇の福音としてその名を知られるエヴァンジェリンに隔意を抱くものは少なくない。組織のトップである近右衛門とNo.2であり、かつて大戦において赤き翼として活躍したタカミチの擁護によってそれらは押さえつけられていたものの、こうなってしまえばそれを隠す必要もないものと思えた。この事態に平静を保てるものなどそれが予想できた敵だけだと考えられたからだ。

 但し、今回ばかりはその思考に彼等の願望が含まれていることは否定できまい。

 願望と感情の捌け口が一致した時、人は普段考えもしない短絡さで愚行を行ってしまえる。そして、それが許される状況と許されない状況が有ることを近右衛門は知っていた。

「静まれええい!!」

 近右衛門が反射的に臨戦態勢に入ろうとしていた数人の魔法教師どころか、その場に居合わせた魔法教師全員が見を震わせるほどの大音声とプレッシャーを放つ。

 そのプレッシャーが紛うことなき殺気であると理解して、エヴァンジェリンを除いたその場の全員が一瞬にして近右衛門の威圧に飲まれた。

 そしてエヴァンジェリンは油断なく身構えた。近右衛門の形相が余りにも鬼気迫るものだった為だ。

「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。関東魔法協会会長近衛近右衛門として、同時に主の知己である近衛近右衛門として問おう」

 見開かれ血走った瞳でエヴァンジェリンを見つめた近右衛門の顔には普段の好々爺然とした柔和な雰囲気も、冗談を愛する余裕も見られない。ただ微かに痙攣する米神が近右衛門の精神状態が極めて追い詰められている事を示していた。

「お前と黒金哲は麻帆良学園に仇なすか否かを」

 あるいはここで15年という歳月を過ごす前のエヴァンジェリンならば、これを挑発と受け取り喜んで敵対の意思を伝えたかもしれない。彼女は気高き悪の魔法使いだったから。だが、今の彼女はそうではない。

 己の気の向くままに命を賭けた戦いに没頭することを今更否定はしない。ただ、そう。気分が乗らない。端的に表現すればそんな言葉になるだろう。今の彼女にとっては殺し合いよりも大切な物がある。自由だ。

 接角15年ぶりに、そしてもしかしたら数百年ぶりに手に入れた自由と平穏を自ら捨てるにはつまらない機会だった。

「いーや。そんなつもりは毛頭ないさ。それにあいつにだってそんな物はあるまい」

 エヴァンジェリンの態度はお世辞にも誠実なものではないが、元よりそのような態度を示した所で信用されるような経歴でもなければ人格でもない。今までは近右衛門の庇護下にあった故に立場として近右衛門は対等以上の存在だったが、今はもう何の気兼ねもいらなくなった。徒におもねるほど安いプライドを持った覚えもない。

 だからこその不敵な態度。エヴァンジェリンは内心で前言を撤回した。なるようになるのであればそれはそれで良いかもしれないと。

「これは単なる反射だろう。炎に指を突っ込んだら誰だって熱くって指を引っ込めるだろう? 今回のはたまたまその肘がぶつかった。その程度の話さ」

 傍から見ても異常な光景だったが、先程の惨劇はしかし黒金哲を殺害せしめるには不十分なものだった。生きたまま甚振られれば苦痛にのたうち回るのも当然と言えた。

 一同の脳裏に忌避すべき映像が浮かび上がる。甚だ受け入れがたいそのイメージに反射的に話題を逸らす言葉が口を突く。

「そんな、……、そんな」

 そんなふざけた事が有り得るか。全く被害が釣り合っていないではないか。そう口にしかけた。しかし、恐怖と自責の念、そして何より誇りがその言葉を飲み込ませた。

「では、これは誰にとっても予想外の事態だったと、そう言うのだな?」

「ああ、……いや、こうなる事を望んだ奴なら居るかもしれない。だが、そいつの事は黒金しか知らん」

 近右衛門の目が鋭く光った。が、言葉を発したのはエヴァンジェリンが先だった。

「それを聞き出すにせよ。まずは急いでその殺気を消すんだな」

 その言葉に再び幾人かが沸き立ちそうになるが、それよりも早く図書館島が存在していた広い空間が白い光を発した。

 今度は一体何が起こるというのか。その場に居た全ての者が固唾を呑んで見守る中、光が消えてその中から巨大な構造物が姿を現した。

 それは紛れも無く消失した図書館島そのものだった。それどころか同時に消失した湖まで復元しているではないか。

 再現された魔法という常識においてもなお奇跡としか言いようのない事態に、誰もが驚き、恐れ慄いた。

 こんなものが例えば何かの意思の下行われたとして自分達にどんな抗いようが有るというのか。まるで象に対する蟻のように踏み躙られるしかないのではないかと。

 ああ、しかしエヴァンジェリンには、彼女の胸にだけはそれは訪れなかった。何せ、これを起こした張本人。どうしようもなく間抜けな黒金哲の顔が頭を過ぎったから。

 そのエヴァンジェリンの思考、それにつられるようにして何も無かった空間から哲の姿も現れる。

 今にも消え入りそうな申し訳無さそうな表情を極度の緊張で引き攣らせ、歯の根も合わぬほど震えながら立っているその姿は、やはり恐怖よりも先に情けさなを感じさせる。

 そして同時に僅かばかりの頭痛を感じることをエヴァンジェリンは否定できない。

 自らの封印が解けるというビッグニュースを吹き飛ばす、世界そのものを揺るがす騒動。その予感を感じずにはいられなかった。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.031830072402954