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[21873] 【完結】【R-15】ルナティック幻想入り(東方 オリ主)
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2014/02/01 01:06
・この作品は東方プロジェクトの二次創作です。

・作者の東方知識はWin版及び書籍の物だけなので、原作設定と違う勘違いをしている所もあるかもしれませんが、その時はご指摘などお願いします。

・独自の設定・解釈・考察なども存在します。

・オリ主物です。

・題名を見ての通り、幻想入り物です。

・キャラ崩壊及びカリスマ崩壊注意。

・R-15程度のエロ・グロ・欝表現があります。

・4年ぶりぐらいに小説書いたら吃驚するぐらい書けなくなっていたので、文章力と言う面では楽しめる程の物では無いかもしれませんが、ご容赦願います。

・と言う事なので、自身でも執筆速度が掴めず、更新速度は未定となります。

・誤字・脱字の報告も歓迎です。

・現在、翻訳・転載ともに認めておりません。

・以上の事を了解した方は、どうぞ、御覧ください。


2010/09/12 1話投稿
2010/09/19 2話投稿
2010/09/26 3話投稿
2010/10/03 4話投稿
2010/10/31 5話投稿
2010/11/14 6話投稿
2010/11/22 7話投稿
2010/12/05 8話投稿
2010/12/12 9話投稿
2010/12/29 10話投稿
2011/01/09 11話投稿
2011/01/29 12話投稿
2011/02/13 13話投稿
2011/03/01 14話投稿
2011/03/15 15話投稿
2011/04/03 16話投稿
2011/04/11 17話投稿
2011/04/24 18話投稿
2011/05/26 19話投稿
2011/06/04 20話投稿
2011/06/07 21話投稿
2011/06/21 22話投稿
2011/07/04 23話投稿
2011/07/18 24話投稿
2011/07/29 25話投稿
2011/08/12 26話投稿
2011/08/21 27話投稿
2011/09/03 28話投稿
2011/09/13 29話投稿
2011/09/21 30話投稿
2011/10/02 31話投稿
2011/10/06 32話(最終話)投稿 あとがき投稿 完結



[21873] 人里1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/06/21 19:52
「これは、家では買い取れませんな」

 店主が、俺の野菜の一つを手にとったまま、勿体ぶって首を振りながら言う。
相も変わらぬ答えに、俺は汗をぬぐうついでに、リヤカーから手を離した。
するとリヤカーは前方に傾き、そして僅かに土を跳ね除け停止する。
確認した訳ではないので聞いたか読んだかした話なのだが、あらゆるものには重力があるのだという。
ならば当然リヤカーにも重力があり、地面がリヤカーを引っ張ると同時に、リヤカーも地面を引っ張り、それが僅かに土を跳ね除けたのだろう。
なぜなら重力とは、物と物とが惹きあう力であるからだ。
そして困ったことに、俺には少しばかり重力が足らないらしい。
今は特に、目の前の店主との間にだ。
にやにやと笑みを浮かべた店主は、手にとった俺の野菜を掲げながら、芝居がかった調子で言う。

「いやぁ、確かにこいつは見事な胡瓜です。
この太陽の光をいっぱいに吸った緑色、手にとっただけで分かる瑞々しさ、対してこの手触りのしっかりさ。
きっと囓ったらぱきっ、と音を立てて割れて、噛めばまるで水が口の中で弾けるようになるんでしょうな、そうでしょう。
夏妖精が気まぐれに祝福を与えていったと言うのも、分かります、分かりますとも、権兵衛さん」

 なら、何が悪いのか。
何処かで自覚しながらも、俺は、しかし、目で問いかけざるを得なかった。

「でも、でもですよ、権兵衛さん。
家に野菜を売りに来る皆さんは、夏妖精の祝福なんて気まぐれで、美味い野菜を作っている訳じゃあないんですよ。
何年も続く努力を重ねて重ねて、その上でお天道様の気分に付き合って、食いにやってくる動物の気まぐれを運良く避けて、それでやっとの事で美味しい野菜を作れるんです。
いや、貴方が努力していないって言いたい訳じゃない。
権兵衛さん、あなた、まだ此処に来て……幻想入りして、一年も経っていないって言うんでしょう?
聞けば外の世界は、殆どの人が農耕になど手を出さないと言います。
里に住んでらっしゃる外来人の方々も殆どがそうですし、手だってほら、私たち商売人よりも綺麗なぐらいなもんですよ。
貴方だって、多分幻想郷に来るまでは畑いじりなんて、するどころか考えもしなかったに違いない。
で、だ。
私にだって扱える農作物の量、と言う物は決まっていましてね。
どうやっても、一人の商売人が腐る前に売れる量の野菜なんて言うのは限られている。
しかも元々、私は既に限界に近い量の野菜を仕入れています。
となると、ですね。
やっぱり、夏妖精の気まぐれなんかでできる美味い野菜よりも、より努力を重ねておられる人の作った野菜を買い取りたいと思うのが人情なんですよ。
いや、本当に申し訳ないと思うんですがね」

 夏妖精の気まぐれも動物の気分も似たような物ではないのか、と思ったが、俺は口を開きかけるだけでやめてしまった。
どうこうと理屈を捏ねてはいるが、この商人が言いたい事は、自分は人情家であると言う事と、俺の野菜を買い取りたくないと言う事なのだ。
なにより雄弁に、声色とはうって変わった眼の色がそう言っている。
まるで、害虫が寄ってくるのを目にしたような、苦みばしった眼の色だ。
これを、普段一人で過ごしてばかりの俺の弁舌で覆すのは、果てしなく不可能に近い物事であるように思えた。
それよりはむしろ、他の商家を回って野菜の引き取り手を探す方が早いのではないかと思える。
しかし勿論、一番平易な未来であった、春にも野菜を買い取ってもらえた此処で夏野菜も買い取ってもらう、と言う未来が消えてしまったと言う事実は、やたらと重く肩の上にのしかかってきた。
酷い、疲労感だった。
やっと、体から搾り出すような声で、言う。

「分かり……ました。他を、当たってみる事にします」
「おぉ、そうですか! ではでは、お気をつけて!」

 喜色満面で言い、店主は手に取っていた胡瓜を俺のリヤカーへと戻す。
その様子が、先程までと違って全身で喜びを表しているようであるのを見とって、俺は内心でため息をつく。

 ――しかし、いつもの事だ。

 そう言い聞かせるだけにして、俺は無言のまま礼をし、再びリヤカーの取っ手に手をやり、それから深く息を吸い込んでから、リヤカーを押し始めた。
それでも、少し行き、店主の視界から外れた辺りで全身の力が抜けてきてしまった。
再びリヤカーと地面との重力が熱烈に強くなり、俺は実際のため息を付き、背中とリヤカーとの間の重力を強くするに努める。
これから、他の商店を回らねばならない。
その為には、店主の目が放っていた悪意を体から放出する必要があり、それには力を抜いて意識を漂わせるのが一番良いと、体感で俺は知っていた。
その通りに暫く呆けていると、先程の商家の方から、嬉しそうな店主の声が聞こえてくる。

「おぉ、外来人の方ですか!
おや、幻想郷に来て初めて農耕に手を出した、と。
それでこの野菜を作られたのですか、それはそれは、努力もしたのでしょうが、運にも恵まれましたなぁ。
えぇえぇ、勿論買い取らせてもらいますとも!
いえ、勿論ずっと農耕を続けている里の人の野菜に比べれば見劣りしますがね。
この私、幻想入りしたばかりで何も無い貴方を見放す程、人情の無い男であるつもりは無いのですよ。
あっはっは! そうですか、ありがとうございますとも。
それでは内約ですが…………………」

 もう一度ため息をついて、俺は体を休める場所を変える事にした。
俺には、少し重力が足らないらしい。
直接的に言うと、俺は里の人間に嫌われていた。



      ***



 幻想郷には様々な物が落ちてくる。
降ってくるのでは無い。
置かれるのでもなく、捨てられるのでもない。
それは人間の意図しない所で手を離され、そのまま誰にも気づかれずに落下するので、落ちてくる物なのだ。
その、落ちてくる物と言うのは本当に様々で、生物無生物、時には亡者でさえも混在している。
無生物であれば無縁塚に多くが落ちてゆくのが常であるのだが、生物はと言うと決まった場所に落ちている事が無く、人里から妖怪の山まで様々である。
何処へ行くのかは、結局のところ、運の一言につきる。

 俺の運が良かったのかと言うと微妙な所で、良くも悪くもあった、と言うのが正解に近いだろう。
俺は、運悪く、魔法の森に落ちたらしい。
らしいと言うのは魔法の森の瘴気にやられてすぐに意識を失ってしまったらしく、気づけば人里で介抱されていたからである。
聞けば、運良く、通りかかった妖獣に食われるよりも先に、魔法の森の魔法使いに助けてもらったのだそうだ。
伝聞形なのは、運悪く、その魔法使いとやらと出会う機会が無く、直接礼を言う事すらできていないからである。
ついでに、もう一つ運の悪い事に、瘴気にやられてしまったからなのか、俺は自分の名前が分からなくなっていた。
いや、正確に言うと、分からなくなっていた、と言うのとは少し勝手が違う。

 ――名前を亡くした、と言うのが、一番しっくりくる。

 何せ俺が覚えていなかったのは、名前だけでなく、名前が関連するであろう事柄全てであったのだ。
それは多くの外の世界での記憶を含み、俺は両親や居たであろう友人の事も、通っていた筈である学校の事も、殆ど覚えていない。
それであれば普通記憶喪失と断ずるのであろうが、それは何となくだがしっくりこない。
普段一番使う物だからか、無くて一番困る物だからか、名前と言う言葉が入らねば、この現象を説明するのに言葉が足りないような気がするのだ。
そして名前と言う概念には、名づけられる前と後と、忘れられたと言う三つの状態が存在する。
そのどれにも当てはまらないように思える故に、名前を亡くした、と、そう言うように俺はしている。
恐らくは、それは正当な行為なのだろうと思う。
何せ俺はと言えば、何故か博麗神社に行っても外の世界へと戻る事ができず、それはこの名前を亡くした事象が原因なのだと思う、と巫女は語っていたのだ。

 以来俺は、自分の事を、七篠権兵衛と名乗っている。



      ***



「はぁ………………」

 深いため息をつくのも、これで何度目になるだろうか。
恐らく数えきれない程の幸せを口腔から逃しながら、俺は五軒目の商家で断られた後、小休止とばかりにリヤカーを置かせてもらって茶屋で涼んでいた。
残暑の陽光が傘に遮られ、ちりんちりんと風鈴の涼し気な音が鳴っている。
冷えた茶を手に取り、ごくりと一口喉を潤し、もう一度ごくりとしてから、口から湯のみを離した。

 春野菜で試したことがあるのだが、俺の家はどうにも漬け物が上手くゆかない。
代わりに何故か野菜が腐りにくかったので飢えずにすんだが、何時までも野菜が腐らない保証などないので、夏野菜もある程度売って金子に変えておかねばならない。
だと言うのに、この五軒、ずっと断られっぱなしだった。
幸い買う方はたまに足元を見られる程度で済んでいるが、売る方は春に春野菜を一軒目の商家へ持っていった一度しか売れていない。
最早俺には、人里で物を売る事など不可能なのではなかろうか、むしろ今まで通り何故か野菜が腐りにくいのを期待して、白米を我慢して糊口を凌いだ方が適当な事柄なのではないだろうか、と思い始めた、その時であった。
視線を足元にやりながら考えていた俺の目前に、人影が差し込んだ。
面を、上げる。

「久しぶりだな、権兵衛」
「慧音、さん?」

 絹のような白髪の上に、四角い帽子と赤いリボン。
そこには、里の賢者であり、俺にとっても大恩人である上白沢慧音さんが立っていた。

「こちらこそ、お久しぶりです。先月ぶりでしょうか。お元気そうでなによりですね」
「あぁ、そちらもな。何時だったか、野菜ばかりで白米も肉も魚も食わずに居たと言う時を比べると、随分顔色も良さそうだ」
「いやだなぁ、慧音さん。その事は言いっこなしですよ」
「いいや、こればかりは合う度に言わせてもらわないとな。
あの時の君の顔色ときたら、まるで冥界の半死人のようで、到底見れたもんじゃなかった。
こればっかりは無かった事にする訳にはゆくまい。
君がもっと確り幻想郷に根付けるまで、口酸っぱく言わせてもらうぞ」
「ははは……。酢の物は苦手なんですがね。とりあえず、隣にどうぞ座ってください」
「あぁ、ありがとう」

 と、俺は弱りきりで頭を掻いてみせるながら、少し腰をずらし、慧音さんの座る分を開けてみせた。
すると慧音さんは、片手で僅かな風に靡く髪を、もう片手でスカートを抑えながら、俺の隣に座る。
僅かに、慧音さんの髪がふらりと広がり、何とも言い知れぬいい香りがした。
何だって女性と言うのは、こういい匂いがするものなのだろうか。
と言っても、幻想郷に来て以来まともに会話した女性と言うのは慧音さんぐらいなので、もしかしたら彼女だけがそうなのかもしれない。
だとすれば、俺は何と言うか、身分不相応に良い思いをしているようで、恐縮する次第であった。
とりあえず、と慧音さんは店員に声をかけ、冷たい茶を頼む。
合わせて俺も、口を開いた。

「ああ、店員さん、まんじゅうも二人分頂けますか?」
「って、あー、いいのか?」
「急にまんじゅうが怖くなりまして」
「くす、なら仕方ないか」

 俺の割と寂しい懐事情を知っている慧音さんは心配の声をかけてくれるが、ちっぽけな男のプライドと言う奴を察してくれたのだろう、小さく微笑むだけで許してくれた。
こういった寛容で懐の広い所を見ると、尊敬の念を抱くと共に、俺の小さい心に劣等感が沸いてしまう。
里の守護者として皆に慕われ、長い年月を経て素晴らしい知識を持ち、一手に幻想郷の歴史の編纂を引き受けている彼女。
その力は妖怪を退け、その知恵は寺子屋を通じて里人に伝えられる程に、大きい。
対して俺は、里の嫌われ者で、妖精の気まぐれさえなければ自分の食い扶持すら稼げない凡人。
勿論力は普通の男並で、知恵も外の世界の同世代でも平均的な程度でしかなかった。
どう考えても大きすぎる差で、それを自覚するたびに、この人の前に居る事が申し訳なく感じてしまう。
勿論慧音さんはそんな事気にもしないと言うのに、だ。
――ため息を、飲み込む。
頭を振って曇りを振り払うと、誤魔化すように茶を飲み、それを喉奥へと押し流した。

「最近、どうだ? そろそろ夏野菜の収穫の時期だと思うが、いいのができたか?」
「ええ。ちょうどここに置かせてもらっているリヤカーと一緒に、持ってきています。
良かったら、お一つと言わず、いかがですか?」
「お、よく出来ているじゃあないか。――本当にこれを権兵衛が?」
「ええ。春にも春妖精の気まぐれがありましたが、何故か、夏にも夏妖精の気まぐれがありまして」
「そうか――。夏妖精、か」

 声色に何か冷たい物を感じたので、俺は瞬きながら目を慧音さんへとやる。
疑問の目を感じたのだろう、ああ、と言って、慧音さんは困り顔で口を開いた。

「いやな、普段から妖精の悪戯で被害を受けると聞く事が多いと、妖精のお陰で、と言う事を聞くのが新鮮と言うか、奇妙な感じでな」
「あぁそうか、畑は妖精に被害を受ける事だってあるんですね」

 普段気まぐれに祝福を与えてゆくのを見てばかりだったので、それは想像の外だった。
もしかしたならば、商家が俺の野菜を引き取ろうとしないのには、俺ばかり妖精の祝福をうけていると言う事で妬みを買っているのも一因なのかもしれない。
それなら、俺は商家の人々を責める事はできないかもしれない。
今さっきだって俺は、慧音さんの寛容さに感謝すると同時、妬ましさも感じていたのだ。
当然、商家の人々の嫉妬と同じ穴のムジナである。
と言っても、想像の中での事でしか無いのだが。

「で、今日はこれから野菜を売りに、か。もう少し早く出た方が、涼しくて良かったんじゃあないか?」
「――えぇ。今更ながら、そう思っています。先に後悔なんて、器用な事はできなかったでしょうけど」
「尤もだ。後悔とは、後で悔いると書く。悔いると言う事は、過去に迷いを置いてきたと言う事だ。
迷いとは、現在にある物だけが触れられて、未来の物にも過去の物にも触れられはしないが、過去の迷いは感じる事だけはできる。
その感じる感覚が、後悔だ。
それを先んじてしてしまえば、それはただの悔いならず、未来に触れる事、すなわち未来予知になってしまう。
あらゆるものが確率であると既に実証された現在、未来予知とはありえない事だ。
だから、先に後悔などと言う事は間違っても出来はすまい」

 と、講釈を垂れ流していた慧音さんだったが、言い終えてから講釈の長さに気づいたのか、顔を赤くし小さくなってしまう。

「あぁ、すまない――。ついつい長々と解説を始めてしまって。
これだから寺子屋でも、授業が分かりづらいだのつまらないだのなんて言われるんだろうな。
本当に、すまない」
「いえ、俺は慧音さんの講釈は好きですよ? 面白いと思いますし」

 と、そこで慧音さんは、ばっと顔を上げてぱちぱちと目を瞬く。
それがあんまりな様子だったので、くすりと微笑んでしまう。
と言うのも、卓に手をつき身を乗り出し、白髪をゆらりと揺らすその様子は、普段の慧音さんと違って何処か子供っぽくさえもあったのだ。
美しいと言うより。
可愛らしい、と言った感じ。
そんな慧音さんが珍しくて、こちらとしても自然と笑顔になる。
焦った様子で続ける慧音さん。

「ほ、本当かっ。本当だよなっ」
「本当ですよ。こんな事で嘘をついたって、何の得にもなりゃあしません。
それどころか、死後の銭が減るわ、鬼に嫌われるわ、頭突きをされる可能性があるわで、損するばかりでしょう」
「そ、そうか……。いや、すまない、最近は妹紅にも講釈を遮られてばかりでな、気にしていたんだが――」

 一旦区切って、慧音さんは花咲くような可憐な笑顔で言った。

「ありがとう」

 ――。絶句。まるで、そこにだけ光が差したかのような、輝かしい笑顔だった。
その光は残暑の陽光よりも尚強く、慧音さんの白髪がきらきらと輝く様子は、まるでそれ自体が光を放っているかのよう。
花弁のような唇があ・り・が・と・うと動く様は、桜が舞い落ちるように可憐で、白磁の肌の上に浮いている様がそれを余計に引き立てている。
答えが帰ってこないのに疑問詞を浮かべる慧音さんの表情に、ようやく俺は言葉を取り戻した。

「どうも、いたしまして」
「くす、そうか。それじゃ、怖ーいまんじゅうも食べ終わったし、そろそろ行こうか」
「行こうかって、何処へ?」

 首を傾げる俺に、おかしそうに慧音さんが言う。

「野菜を売りに行くんだろう? 付きあわせてもらうよ。どうせこの後も月に一度の飲み会さ、ついでよ」



      ***



 滅多に里に来る事の無い外来人は、割と里に歓迎されている。
と言うのは、外来人は特殊な知識を持つ人が多く、珍重されるからだ。
それは時には学んだ知識ではなく、身につけていた道具であったりもするのだが、不思議と里にたどり着く外来人は、里の役に立つ知識を持っている。
例えば農耕の、革新的なやり方。
例えば今まで捨てていた物を、食べ物として活用する知識。
例えば建築に関する詳しい経験。
幻想入りした当初に、わざわざ貴重な薬を使ってまで俺が介抱されたのも、その知識を期待されての事だった。

 ――しかし。俺は、いわゆるハズレの外来人だった。
名前を亡くしていたとは言え知識は同年代の平均以上にはあったのだが、それでも里の役に立つような事を俺は知らなかった。
かと言って外の世界に追いだそうにも、俺は外の世界に戻れない、いわゆる不良物件である。
俺は、知らず、里の人達の期待を裏切ってしまっていたのだ。
そして当然、期待はずれの外来人をどうすればいいのか、と里人の間で議論が交わされた。
里には食っていくのに余裕が無い訳では無いのだが、だからと言って好き好んで、人一人を養う程の金を、役立たずの外来人に使おうなどと言う好事家が居る訳でも無かったのだ。
俺は、訳がわからないままに知らない場所に身一つで放り出され、しかも何もしていないのに期待はずれだと言われ、気づかぬうちに薬代と言う負債を負ってしまっており、更には呆然と俺を押し付けあう会議を見ている事しかできなかった。
正直に言って、その場で泣き出さなかったのは奇跡だっただろうと、今でも思う。
数日続く会議のうち、俺はお先真っ暗と言って過分では無い状況を悟り、絶望に満ちたまま会議の終わりを待っていた。

 そんな俺を引き取ると言ってくれたのが、慧音さんだった。
難色を示す村人を押し切り、寺子屋のテキスト作りや資料の整理に人が欲しい、と言って俺を拾ってくれたのだ。
今度こそ、俺は情けなくも泣いてしまった。
このまま放り出され、妖怪とやらに食い殺されてしまうのではないか、それでなくとも馬車馬のように働かされて乞食のような生活しか送れないのではないか、と思っていた俺にとって、彼女の示した仕事や生活は、あまりにも輝かしかったのだ。
泣き出してしまった俺を抱きしめ、しょうがないな、と零しつつ彼女が俺の頭を撫でてくれたのは、今でも覚えている。

 新しい生活が始まり、俺はすぐに彼女を尊敬するようになった。
名前さえ亡くしてしまった、何一つ無い裸一貫の俺に比べ、彼女は人の尊敬を集め、人の役に立ち、人を守っており、明らかに価値のある人だった。
なにより人格者であった。
数日の会議のうちにやや疑心暗鬼の気ができてしまった俺だったが、彼女の誠実さに触れるうちに、すぐに健全になれたのだ。
俺は、稚拙ながらも俺が全力で作ったテキストや資料を受け取る慧音さんを見て、彼女の役に立てる事を誇らしく思い、また、何時か彼女と対等な場所まで上り詰め、恩返しをしてみせよう、と決意をする事になったのであった。



      ***



 慧音さんにお裾分けする分を除いた野菜は、すぐさま売れる事となった。
当然といえば当然と言えよう、里の守護者たる慧音さんが隣にいるのだ、商家が屁理屈を捏ねて買い取らないと言うどころか、気を使って無理にでも買い取ろうとするぐらいだろう。
とは言え、だ、俺はまるで慧音さんを野菜を売る為のダシに使ってしまったような事になってしまい、申し訳なく思う他なかった。
別にやましい心持ちがあった訳ではないのだが、まるで彼女を利用してしまったかのような状況は、正直に言って心苦しい事この上無い。
商家にも卑怯者、と目で罵られんばかりの視線を浴びせかけられ、あぁ、秋の収穫はどう売ろう、と考えて、それからまるで慧音さんを疎ましく思ってしまったかのような考えに、更に自己嫌悪に陥る。
野菜が売れこそしたものの、複雑な心境であった。

「しかし、良かったな。これで秋の収穫までの貯蓄は十分だろう?」
「ええ。これも慧音さんのお陰ですかね?」
「? 何がどう、だ?」
「美人は三文ぐらいは得って事ですよ」
「早起きと同じぐらいって事ね」

 とは言え、それをおくびにも出す訳にはゆくまい。
努めて顔面の筋肉を明るい表情を作るようにしながら、慧音さんと談話しつつリヤカーを引く。
現在はお裾分けの為に慧音さんの家へと向かっている最中であった。

「と言えば、権兵衛、君はちゃんと早起きするようになったか?
何時だったかな、家に来たばかりの頃は、たまに吃驚するぐらい寝坊する時があっただろ。
驚いたぞ、とっくに起きて散歩にでも行っているのかと思っていたら、昼ごろ起きだしてきた事は。
永遠亭の姫君かと思ったぐらいだぞ?」
「はは、流石に暑いからと言って、床で寝たり、氷柱に張り付いたりはしていませんよ。
いい加減、朝起きるぐらいは何とかできるようになっています。
まぁ、と言うのも、家の前にはちょうど良い目覚ましがあるからなんですが」
「目覚ましって?」
「切り株ですよ。朝兎が飛んできては、すごい音を立てて頭をぶつけてゆくんです。痛そうにして、帰ってゆくんですけどね」
「そのうち朝を待ちぼうける事にならないといいんだがな」
「生憎俺は今の所、夜が止まった経験は無いですね」
「そりゃあ良かった。っと、もう着いてしまったな」

 言われて気づくが、既に慧音さんの家の前まで着いていた。
久しぶりに会話らしい会話をしたからだろうか、時間がたつのを忘れてしまっていたらしい。
慧音さんとの会話が心おどるものであったと言う事も確かだろうが、矢張り会話が久しぶり過ぎる事が主な要因だろう。
人は、人と関わらないと、緩やかに腐敗してゆく。
例えば言葉を忘れたり、表情の作り方を忘れたりした人間を思い浮かべるといい。
そんな人間と、正常な人間とは、果たしてコミュニケーションが取れるだろうか?
答えは、否だ。
人間関係を作れない存在とはつまり、最早重力の存在しない、人間以下の存在に過ぎない。
精神の腐敗した、人間。
発酵とは微妙に違い、食べる所も残らない、完全な腐り方。
俺が辛うじてそんな風になっていないのは、矢張り月に一度は慧音さんと会話する機会があるからだろう。
再び慧音さんへの感謝の念を新たにしながら、リヤカーから野菜を持ち出し、慧音さんの後について家へとお邪魔する。

「では、お邪魔します」

 先導していた慧音さんが、ぴくりと動きを止める。
何気ない一言のつもりだったが、それは俺の腐った感性による主観でしかなく、慧音さんにとっては違ったらしい。
どうしたものかと困惑する俺に、ゆっくりと振り向きながら慧音さんは言った。

「………………あぁ。どうぞ、としか、今は言えないんだったな」

 泣きそうな声で言う慧音さんに、しかし俺は、返す言葉が無かった。
全くもってその通りだし、しかもそれは、外から強制力があったのも確かだが、俺の意思がそこにあったと言う事も確かであるのだ。
であれば、今更言う事など、何も無い。
何も無い、筈なのに。
俺の口は何か言葉を紡ごうとして、むにゃむにゃと動き、しかし言葉らしい言葉を発する事は出来なかった。
俺は、何を言おうとしたのだろうか。
俺は、何を言うべきだったのだろうか。
どうすれば、目の前の女性から、僅かでもいい、僅かでもいいから悲しみを減らす事ができたのだろうか。
それが分かる程の知能があれば、そも、俺は彼女を悲しませる事も無かっただろうが。
それでも、思ってしまう。
俺は、果たしてあの時他にどうするべきだったのだろうか。



      ***



 おかえり、と言う言葉を慧音さんから聞くようになって、数週間が経った。
俺は毎日のようにテキストを作ったり資料を整理したり、その感想を寺子屋の受講生に聞いてフィードバックをしながら過ごしていた。
今と比べ、とてつもなく充実していた、と言って間違いない毎日だっただろう。
少なくともその間には俺は里人から謂れなき悪意を受けることは無かったし、寺子屋の人々は明るい子供や紳士的な知識人などが多く、対話するだけで心あらわれる事も多かった。
それもある日、突然に途切れる事になる。

 その日、俺は夜の散歩をしていた。
と言うのも、慧音さんが俺に、夜の仕事があるうちは相手もしてやれず、しかし灯りを消すわけにもゆかないので寝るにも不都合、そこで散歩はどうだと勧めていたからである。
夜は妖怪の時間と言っても、里の中であれば安全で、しかも、何らかの発見が無かったとしても、夜の灯りがぽつぽつと点った道を歩いてゆく行為は、何処か郷愁を思わせて、粋であるように思えた。
と言う事で、その数週間、俺にとって夜の散歩は最早日課となりつつあったのだ。

 ちょうど、散歩の折り返しの辺りを過ぎて、帰ろうとしている途中だったと思う。
俺は突然に名前を知らない男に声をかけられた。
と言っても、俺は慧音さんの所に厄介になっている外来人と言う事で有名だったので、俺が相手を知らなくても相手が俺を知っていると言うのはよくある事だったので、特に警戒もせずに振り向いたと思う。

 いきなり、殴られた。
その数週間、防犯と言う物を意識する必要すら無かった俺は、当然の帰結として思いっきりぶっ飛ばされ、ふらついて膝を付いたと思う。
そのまま押し倒され、俺は顔を避けてそこら中をぼっこぼこに殴られた。
いきなりマウントポジションを取られた上、喧嘩と言う物に縁のなかったらしい俺は、抵抗する間もなくすぐに動けなくなり、しかし意識は残っている程度の状態になる。
すると男は、俺に向かって汚い口調で、以下のような事を言った。
お前が慧音先生にどれだけ負担をかけているか分かっているのか。
あの立派な人にたかるなど、人間のクズめ、お前に慧音先生に養われる資格など無い。
これは里の総意だ。正義なのだ。お前をこれから里から離れたほったて小屋にぶち込んでやる。

 当然俺は、幾許かの反論を用いた。
負担をかけているのは分かっているが、それを軽減しようと努力をしている事。
あの人は立派な人だから、望んでもいないのに、強制的に俺が一人暮らしをさせられようものなら、激怒するであろう事。
どちらもそこそこに意を得た反論であったハズだったが、男はせせ笑うだけでこちらの反応を一向に気にする事はなかった。
そればかりか、続けてこんな事を言う。
努力だと? バカバカしい、お前のしている事がどんな事なのか、これから見せてやるとも。
そしたらお前は、自分から慧音先生から離れようとするだろうさ。
そうでなければ最低以下のクズだ、妖怪の餌にでもしてやるとも。

 男の言葉が本気であると悟った俺は、どこぞへ連れてゆこうとする男に、とりあえずは従う事にした。
勿論機会を伺って逃げたり、大声を出したりしようと思いはしたのだが、逃げようにも足腰は歩くのがやっとで、口元は男の掌で塞がれていたのだ。
どうしようもないままに俺が連れられてきたのは、慧音さんの家だった。
一体どういう事だろう、と内心首を傾げる俺を、男は慧音さんの書斎が見える窓へと連れてゆく。
そこでは慧音さんが、様々な種類の紙に何やら文字を書いたり図表を書いたりしていた。
それがどうしたのかと思う俺に、男は素晴らしいまでの笑顔で言ってみせた。

 あれをよく見ろ。お前の作った物だろう?

 ――それは。
事実だった。
確かに俺が毎日苦労して作り上げたテキストや資料を横に、慧音さんはそれを新しい紙に書き直したり、書き足したり、図表を付け加えたり――つまりは、俺の仕事を手直ししていたのだ。
俺は、その時、ようやくの事理解した。
慧音さんが寺子屋の作業に人が欲しいと言っていたのは、本当にただの方便だったのだ。
しかも自分で作れば一度で済む物を、二度手間を要してまで必要と言い張って。
しかも俺が気にするといけないから、俺に夜の散歩を勧め、その時間の間に済ませるようにして。
――俺は、段々と目の前がぼんやりとしてゆく事に気づく。
殴られすぎて意識がどうにかなってしまったのではないかと思うが、違った。
俺は、泣いていたのであった。

 一つだけ弁解をさせてもらうとすれば、この時俺は、慧音さんに、一片たりも騙されたと言う憤りを感じ無かったという事を言わせてもらおう。
俺は、ただただ自分の無力さが悲しかったのだ。
慧音さんに負担をかけるばかりで、努力と称してやっていた事も、その実全く実を結んでいなかった事が。
慧音さんに何時か恩を返そうという話が、此処に居るままではどうやっても叶いそうになかった事が。
俺には、慧音さんと対等の所に立てない事が、どうにも悔しく、耐え難い事のように思えた。
そしてそれに対処する為には、どうしても、慧音さんの元に居ては不可能であるように思えたのだ。

 その後のことは、正直言って、よく覚えてはいない。
気づけば俺はほったて小屋に住むことになっていて、里人を通じてその事は慧音さんに伝わっていた。
どうやって彼女を説得したのかも覚えてはいないが、しかし、彼女の顔がどうにも悲しげだった事だけは、覚えている。
それがどうにもできない事が悔しくて悔しくて、どうすれば良かったものなのか、俺は今でも考えてばかりいるが、答えは未だ出ていない。

 それからは、ご存知の通り、月に一度満月の日に慧音さんが家に来る以外に会話する事すらなく、奇妙なほどに里人と縁のないまま、もう半年近くが過ぎている。



      ***



 日が落ちた。
昼と夜との境界線上の黄昏が姿を消し、白黒はっきりとついた夜が姿を現す時間だ。
ふと顔を上にやれば、夜空にはぽっかりとまぁるい満月が浮かんでいる。
これは聞いた話なのだが、この世の月とは偽物であり、天蓋に映しただけのまがい物であるのだと言う。
所で、多くの中秋の名月を見る時は雨であり、丸い物であるだんごを見て、本物の満月を想う事が粋だと言うのだそうだ。
であらば、天蓋に映った偽の満月しか見れない俺達は、偽の満月と言う丸い物を見て、その奥にあるのであろう本物の満月を想像している事となる訳で、つまりは誰もが粋な人間になれる一時であるのだろう。
逆説、真の満月の力を借りている妖怪達には、そして慧音さんには、この天蓋の月は、一体どのように見えているのだろうか。
そんな事を考えている俺の目前で、正座して目を瞑った慧音さんが、なにやら俺には理解できない言語でぶつぶつとつぶやいている。
その頭には一対の角が生えており、片方には赤いリボンが巻き付けられていた。

 ハクタク、と言うのだそうだ。
その獣はあらゆる病魔を退ける力を持ち、あらゆる知識を持つと言われる妖獣なのだと言う。
その姿は人面に牛の体、やたら多い目に角に顎鬚を蓄えていると言うが、目前の彼女はワーハクタクだからだろう、額の二本の角しか共通点は見当たらない。
慧音さんとしてはそれをどう思っているのか知らないが、月下美人を拝める俺としては、よくぞそこまでに留めてくれた物だと大自然のさじ加減に感謝したいところである。

 さておき、ワーハクタクである彼女は満月の夜だけハクタクの力を発揮し、歴史を創る程度の能力を得るらしい。
これは慧音さんから聞いた話そのままなのだが、歴史とは、ただあるだけでは歴史にならず、誰かの手によって初めて歴史となるのだと言う。
例えば時の権力者が創る歴史が、一番分かりやすいだろう。
自身にとって都合の良い歴史は残し、都合の悪い歴史は削る。
そのように人為的に手が入って初めて歴史はできるのだが、この幻想郷には彼女以外に歴史に手をだそうなんて好事家なぞ、稗田家ぐらいしか居ないらしい。
従って殆どの歴史を彼女が創らねばならないらしく、満月の夜はその作業に追われているのだ。

 と、言っても。
俺の見る限り、彼女は、ほったて小屋に正座して、月明かりに照らされながら、ただぶつぶつとつぶやいているようにしか見えない。
恐らくはその中では俺には想像もつかないぐらい高度な事が行われているのだろうが、外面だけで言ってしまえばそんなものである。
さて、慧音さんが歴史の編纂を一区切りつけるまで、手持ち無沙汰である。
と言っても、あの名前も知らない、ついでに言えばあれ以来あった事も無い里人に放り込まれたこのほったて小屋は、とてつもなく簡易的な出来であり、暇を潰すような場所が存在しない。
床がある。
壁がある。
あとは慧音さんに貰った小さな箪笥と、畳まれた布団に、中心にある囲炉裏。
ついでに、やたらとでかく、今は全開にして月明かりを取り入れている窓、と言うか鎧戸ぐらいか。
床の間どころか畳すらなく、流しもない、まさにほったて小屋である。
これで隣に倉庫がついていなかったら、俺は取れた野菜で圧死していたかもしれないぐらいの狭さだ。
うむ、また暇になった。
と思った所で、慧音さんが一つうなずき、瞼を開く。

「っと、こんなもんか。悪いな、権兵衛。何時も場所を貸してもらって」
「いえいえ、こちらの方が何倍もお世話になっている事ですし。確か、人の居る場所だと落ち着いて歴史の編纂ができない、んでしたっけ」
「ああ。どうも自宅に居ると、子供がからかいに来たりする事もあるもんでな。
それに、矢張りこういった作業は、普段の仕事をする場所とは別の場所ですると、はかどるもんなんだ」
「はぁ、なるほど」

 分かったような分からないような。
首を傾げる俺を見ながら苦笑し、慧音さんは横にのけてあった瓶に手を出す。

「まぁ、こんな満月の夜に、小難しい話ばかりと言うのも窮屈だろう。美味しいお水を飲もうじゃないか」
「ええ、世にも珍しい酔っ払う水ですね」
「そう、鬼とて喉から手が出る、酔っ払うお水さ」

 俺も彼女に同じくして、部屋の端の方に寄せてあった瓶と、先程川で洗ってきた赤い杯とを持ってきた。
つまりは、酒盛りの準備である。
つまみも何も無い、酒だけ、二人だけの飲み会であるが、これもまた毎月一度の恒例行事であった。
二人して互いの盃に互いの瓶の酒を注ぎ、軽く顔の高さ程度に持ち上げ、唱和する。

「「乾杯」」



      ***



 このほったて小屋に一人暮らしをするようになって以来、俺はどうにも人と縁がなかった。
まず、近くに人が居ない。
それだけならばまだしも、当初の俺は何時しかの会議を思い出し、あの里人の里の総意と言う言葉を否定しきれなかったので、里に近寄ろうにも怖くていけなかったのだ。
なので俺は、取りあえずはと中途半端な己の知識を元に、出来る筈の無い農耕に手を出し始めたのである。
――果たして、それが当然のごとく失敗していたならば、俺はどうしていただろうか。
里人に頭を下げて農耕の知識を教わりに行く事になっただろうか。
恥も外聞も誇りも投げ捨て、慧音さんに土下座してまた住まわせてもらっただろうか。
はたまた、そのどちらもできないまま、実力に比さない誇りに殉じて餓死していただろうか。

 結果的に、その問の答えは闇へと消える事となった。
と言うのは、春告精を代表とする春の妖精達の気まぐれで、枯れ果てる筈だった家の作物が出来てしまったからだ。
いや、しまった、と言いつつも、それは勿論幸運の類であったのだが……兎も角、俺は一人のまま誰とも関わらずに、生きる糧を得る事となった。
生活できる、となると、当然俺が里人と積極的に関わる理由は薄れる事となる。

 少し、経緯を話すとしよう。
妖精の祝福があっても、慣れない畑の農耕は著しく俺の体力を奪った。
何せ、体力も低く朝から夜まで一日中働く事すらままならず、かといって、表情を削ぎ落としながら無心に野菜の世話を続けて尚、妖精の祝福を必要とするほど、俺の農耕の腕は低かったのだから。
当然、朝起きれば畑に出て、夜まで働いたあとは寝るだけの生活が続くだけである。
無論のこと、俺には里人と関わる時間も機会も無かった。
精々が野菜を売って、得た金で買い物をするぐらいであったが、その細い蜘蛛の糸すら、俺は掴めなかったのである。
と言うのも、俺の社交性の低さ故か、里人との間には義務的な会話しか成立させる事ができず、気の利いた言葉や、そうでなくとも世間話のようなものをする事すら出来なかったのだ。
俺は一人のまま、精神を腐敗させてゆく事となった。

 そんな俺の生活の唯一の慰めは、矢張り、慧音さんだった。
特に最初のうちは度々にこのほったて小屋に顔をだしてくれて、時には俺の適当すぎた農耕のやり方に口を出してくれたり、時には疲れ切った俺に酒を持ってきてくれたりした。
それでも俺の精神が腐敗してゆくのは、止められはしなかったが。
何せ、この満月の夜の飲み会が始まった時、まだ一人暮らしを初めて一月と経っていない頃だったと言うのに、再び慧音さんの情けによる方便である事すら考えられずに快諾していたのだから。
もっとも、今思えば、わざわざ時間を慧音さんが忙しい満月の夜に指定しなくても良かった訳で、つまりは恐らく、ようやく事俺は真実慧音さんの役に立てているのだろうが。
と言っても、流石に実感の湧かない役に立ち方な上、どちらかと言えば俺の方がより助かっているように思える部分もあり、未だ俺は彼女に恩を返せたとは思えていないのだが……。

 兎に角、月に一度の約束が出来てから、俺の精神の腐敗は止まった。
と言う事で、先にもまして、慧音さんは俺にとっての恩人であった。
月に一度とは言え、心を潤わせる機会が確実にあると言う事実は、俺の心にとって大きな慰めとなった。
仕事にも精が出て、夜寝る時も、泥のように何も考えずに寝るのではなく、慧音さんとの次の会話や酒の味を想像して楽しみにしながら眠る事ができるようになった。
生活に、メリハリができた、と言えば分かりやすいか。
無感動で無重力な生活から、重力が低いのは変わらぬようでこそあるものの、情動の動く生活へと。

 そしてそれ故に、俺はより慧音さんに恩を返さねば、と思うようになる。
恩は積もるばかりで全く返せる見通しはつかないものの、当初に比べれば幾らか生活はマシになってきた事もあり、このまま生活が上向きの向上線を辿り続けるのであれば、何時かは慧音さんに恩返しが出来るほどになるだろう。
少なくとも、経済的に自立し、おんぶ抱っこにしかなれない状況から抜け出す事ぐらいは、視界の端に見えた程度ではあるものの、見通しがつくようになってきた。
なればこそと、兜の緒を締める気持ちで、俺は再び慧音さんへの恩返しをするため、毎日を過ごすことになったのであった。



      ***



 満月を肴に、酒を口に含む。
すぐに飲み込むのは、少しばかりもったいない。
僅かに口の中で転がし、香りを舌触りを楽しんでから、飲み込む。
喉を、アルコールが焼く感覚。
酒とは元々、触れる物を清める物でもある。
俺達が酒を飲むときに喉を焼く感覚があるのは、生涯のうちに嘘をつき、喉が穢れを持ってしまったから、それを清める為に熱が生まれるためだと言う。
それは確かに仕方のない事で、嘘も無しに生きてゆく事のできる人間なぞ、存在しない。
しかし、であらば、その喉を焼く感覚を愉しむ、と言うのは如何なものなのだろうか。
己が清められる事を喜び、感謝の為に愉しみを感じる、と言う粛々としたものなのだろうか。
己が穢れていると言うのに、喉を焼く快感に不謹慎にも喜ぶ、不心得者の仕業なのだろうか。
それとも、そのどちらも知らず、ただただ与えられた快感に流される白痴の所業なのだろうか。
さて、俺がどれであるかは自分でも分からない。
と言うのも、俺は酒に弱く、毎月の宴会で最後まで記憶を保って要られた試しが無いからだ。
ひょっとしたら己の穢れに泣いているのかもしれないし、穢れを穢れと知りながら陽気に笑い続けているのかもしれないし、はたまた己をよそに誰かの穢れを永遠と指摘し続ける理屈家にでもなっているのかもしれない。
しかし少なくとも、目の前の彼女がどれであるかは、分かる。

「うぅううう………………権兵衛ぇ。私は。私はぁ、駄目な女なんだよぉ」

 慧音さん。泣き上戸の気があった。

「この前だってそうだ、永遠亭の兎にも授業がめっちゃ分かりにくいとか言われたんだ。
なんだ、ただそっと言うだけならば兎も角だ、思いっきり正面から言われたと言う事は、思わずそうしてしまうぐらいに分かりにくかったと言う事だろう?
本当に……本当に、私は駄目駄目さ。
う、ううっ、ぐすっ、しくしく。
――その返事にしたって、私はなんて言ったと思う? 「反面教師?」だ。
ははっ、笑ってしまうよな。
実はそうではないと言ってもらいたかったと言う浅ましい台詞な上に、それを言って、納得までされてしまったんだ。
私は……私は……なんて、駄目女なんだっ!」

 んぐ、んぐ、んぐ、がつん! と盃が床に置かれ、酒が僅かに宙を舞う。
何ヶ月か前にも聞いた話だなぁ、と思いつつも、俺は苦笑気味に盃を傾け、酒を一口。

「――ぷはっ。
慧音さん、最初から誰しもに受け入れられる授業なんて、誰にもできっこありません。
でも人は努力はできるし、貴方はその努力をしているじゃあないですか。
努力は凄い、なんたって、ぴっかぴかの綺麗な手だった俺だって、ここ半年ほどで、妖精の気まぐれ付きとは言え立派な野菜が採れるようになったんです。
慧音さんだって、努力を続ければ何時しかきっと、みんなにわかってもらえる授業をできるに違いないでしょう。
それにですね、慧音さん、昼間も言いましたが、俺は今の貴方の講釈だって、結構好きなんですよ。
だからね、そんな事言わないでくださいよ、慧音さん」

 と、俺らしく然程気の利かない言葉を吐き出していると、ふと、慧音さんの視線が一点にとどまっているのに気づく。
するするとその視線の先を辿ると、その先には俺の手があった。
はてさてどうしたものかと、俺はとりあえず掌を上げてみる。
慧音さんの視線も、つられて上がる。
手を左右に振ってみる。
慧音さんの視線も、つられて左右にふらふらと揺れる。

「………………どうしたんです?」

 と聞くが早いか、ばしん、と慧音さんは両手で俺の右手首を掴んでいた。
盃はどうしたのかと思うが、何時の間やら床に置かれている。
意味不明の、電光石火の早業であった。

「……あの?」
「そうだよなぁ、権兵衛。
権兵衛の手は、私の家に住んでいた頃は、綺麗な物だったよなぁ。
つるつるとしていて、まるで女人の柔肌かと思わんばかりだったが」

 言いつつ、慧音さんは片手で俺の手首を抑えつつ、もう片手の人差し指で、俺の掌をゆっくりとなぞる。

「これは、切り傷かな、大方尖った物にでも引っ掛けたんだろうな、君は少し鈍い所があったから。
これは、うん、火傷の痕か? 全く、薬缶に触る時は気をつけろとあれほど言っただろうに……。
これは、あぁ、擦り傷だな、一体何処でこさえたんだ、こんなもの、家の前の切り株にでも躓いたか?
これは………………。
これは………………」

 ぽつぽつと、次々に慧音さんの口から俺の掌の傷の要因が語られる。
一つ一つ、掌を辿ってゆく指先と共に語られる傷の要因は、そのおおよそが一致していた。
俺でも言われて思い出すようなものがあると言うのには、最早驚くしかあるまい。
この人にとっては、俺なんて何でもお見通しなんだなぁ、と思うと、気恥ずかしい思いが湧いてくるもので、思わず視線を下にやってしまわざるを得ないものであった。

 暫くくすぐったさに耐えていると、傷口の列挙が止まる。
恐らく全ての傷口を挙げてしまったのだろうか、と思い、視線をあげようとするが、それよりも先に、ぐいっと手首を引っ張られた。
妖獣化している慧音さんの膂力は相当な物で、俺は体ごと慧音さんに引き寄せられる。
自然、と言うか不自然、何故にか俺は膝枕されるような形になってしまった。
単純に子供のようで気恥ずかしいと言うのと、その、何と言うか、なんだかいい匂いだとか、大迫力の胸部だとか、太ももの元をたどった辺りを意識してしまい、顔を赤くしてしまう俺。
誘っているのか? と一瞬脳裏に過る物があったが、同時に香る酒の匂いがそれを否定する。
凄絶に申し訳ない気分になりつつある俺に、静かな口調で慧音さんは口を開いた。

「なぁ、権兵衛。お前が私の家を出ていかなければ、お前の手は綺麗なままだったのかなぁ」

 ――……。
一瞬、僅かに心に刺さるものがあったが、それを無視して俺は言う。

「かも、しれませんね」
「いや、きっとそうだっただろう。
――いや、それどころじゃあない、そもそも私さえ居なければ、こんなに傷をこさえることは無かっただろうに」
「いえ、そんな事はありませんよ」

 首を振り、今度こそは力強く返答する。
本当に、そんな事だけはありえない。

「俺は、本当に貴方に感謝しているんです。
感謝し切れないってぐらい感謝しているし、恩だって返し切れないぐらいに感じている」
「違う、違うんだ」

 頭を振る慧音さんにどうしても安心して欲しくて、だから俺は続ける。

「安心してください、貴方が例えどんな事をしていようと、俺はきっと、貴方への感謝を忘れない。
恩だって忘れない。
それだけは、ずっと変わりがありませんとも」
「違う、本当に違うんだ!」

 唐突に怒鳴り声をあげて、慧音さんはどすん、と俺を突き飛ばす。
暴力への忌避より先に、しまった、慧音さんを否定しすぎたか、と後悔の念に駆られる。
仰向けになった俺の腹の上へと、すとんと慧音さんが座り込んだ。
両掌を俺の胸のあたりに起き、覗き込むように俺の目を見ながら言う。

「あぁ、すまない、本当にすまない、突き飛ばしたりして。
でも、違うんだ、本当に違うんだ。
私は、君に感謝なぞされるような女じゃあないんだ。
私は、君に恩義なぞ感じてもらえるような人間じゃあないんだ。
だって、だって、う、ううぅう、うう………………」

 ぽつり、と、俺の頬へと慧音さんへの涙が落ちてきた。
泣き上戸の慧音さんなのだから仕方ないと思いつつも、どうしても申し訳なさが心の中から沸いて出てしまう。
だからせめて、近くにある頭をなでつけるぐらいはさせてもらいたかったのだが、何故か手が動かない。
いや、と言うより――。
体が、動かない。
酔いが回ってしまったのか、と内心首を傾げる俺の前で、何時の間にか泣き止んでいた慧音さんがぽつりとつぶやいた。

「少し、私の告白を聞いてもらえないだろうか」

 ふと、気づく。
何時の間にか、夏だと言うのに、俺の部屋は肌寒いぐらいになっていた。
空気が肌をささんばかりにちりちりと尖り、息を吸うのも少しばかり苦しく感じるぐらいだ。
そういえば、と思う。
俺の腹に馬乗りになった慧音さんは、ちょうど背後に大きな窓をおいており、そこから覗く満月が、ちょうど慧音さんの頭上に登っていた。
その姿はぞっとするほど美しいのだが、昼間の慧音さんと比べると、何処か違和感がある。
厳かと言うか。
艶があると言うか。
それとも、浮世めいた、と言うか。
――それとも、そんな事を思う俺の脳こそ、満月の狂気に毒されているのだろうか。
何処か霞がかってきた頭に、あぁ、俺は本当に酒に弱いんだなぁ、とぼんやり思う。
そんな俺を前に、粛々と慧音さんは語り始めた。

「始めは、出来心だったんだ。
私の家を勝手に出て行った君に、少しばかり腹がたっていたと言うか、寂しかったと言うか、何とも言いつくせないんだが、複雑な心づもりがあって。
いや、だからと言って、許される事をした訳では無いのだけれども。
私は、私は――歴史を、喰った」

 区切って、慧音さんは、もう一度言い直した。

「君と、里人とが話しているのを見て――、その歴史を喰った。
本当に、魔が差したと言うか、出来心だったんだ、本当にすまない。
いや、謝って済む問題では無いのだが、それでも、すまない、本当にごめんなさい。
でも、兎に角、私は、君と里人との会話の歴史を喰った。
一度喰ってしまえば、二度目三度目もすぐにだった。
その瞬間瞬間は何だか適当な理由をつけて、私はすぐに見かける度に君と里人との歴史を喰うようになってしまった。
いや、もしかしたら、そうすれば君が私に泣きついてきて、また一緒の家に戻れるなんて思っていたのかもしれないな。
兎も角、私は君と里人との会話を食べては食べて、眼につく限りは食べて――、ついには、君が生きてゆくのに必要最低限にしか残さず、喰い尽くしてしまったんだ」

 話が続くのと一緒に、慧音さんの体は僅かに前傾を強くする。
と同時に、両掌が胸から徐々に上へ上がってゆき、肩を通りすぎてゆく。

「満月の夜に会おうと思ったのは、それからだ。
歴史の編纂に君の家が便利だと言って、上がりこんで、でも私はどうしても言い出せなかった。
酒の力を借りても、だ。
本当は、謝って謝って謝りまくって、そして君が望むならどんな歴史でも創ってあげよう、とすら思っていたのにね。
でも、結局言えなかった。
ちょっとだけ、それらしい事を言えたけれど、本当にそれだけ。
それだって、あとから、向かいあわないままに気づかれる事が怖くて、その歴史を喰ってしまった」

 ついに慧音さんの両手は、俺の首へと達した。
艶かしく動く指先は、優しく俺の首へと巻きつく。

「次の満月の夜は、どうにか君に告白を出来た。
だけれど。
だけれども、あぁ、すまない、本当にすまない。
私は、君に糾弾されるのが、怖くて怖くて仕方がなかったんだ。
いや、それどころか、君がもしかしたら許してくれるかもしれない、と思うほどに浅ましく、更には、だと言うのに答えを聞くのが怖くて、怖くて、本当に怖くて。
また私は、歴史を喰ってしまったんだ。
私が、君に告白した歴史を」

 ゆるやかな強さで、慧音さんは俺の首を締めていた。
本当にゆるやかなそれは、僅かに息苦しいだけで、どちらかと言うと指の艶めかしい動きの方が気になるぐらいだ。

「それからは、毎月同じことの繰り返しさ。
君に里人との歴史を喰った事を告白し。
でも答えを聞かないままに喋れなくして、夜中には告白した歴史を喰ってしまって。
……ははっ、本当に浅ましい女だろう?
その通りさ。
私は、君に尊敬されるような女じゃない。
私は、君に恩義なぞ感じてもらえるような人間じゃあ、ないんだ!
里の守護者だ賢者だ何だと言われていても、実際の私はそんな、浅ましく、愚かな女なんだよっ!」

 叫ぶと同時に、慧音さんは更に体の前傾を強くした。
ちょうど、頭で月が隠れるぐらいの位置になって、言う。

「だけど、だけれども!
今夜こそ、今夜こそは、絶対に歴史を喰わないでみせる!
本当に、絶対にだ!
だから。
だから、許してなどとは、口が裂けても言わないけれど、せめて、せめて君の手で私を裁いてくれ!
どんな風にしてくれてもかまわない。
女の部分だって、君にくれてやろう。
だから、だからせめて………………」

 蚊の鳴くような小さな声になってゆく慧音さんに、しかし俺は、薄れ行く意識の中、思うのだ。
許す。
許すとも。
貴方は覚えていないのですか?
俺は、言ったのだ。
貴方が例えどんな事をしていようと、俺はきっと、貴方への感謝を忘れない。
恩だって忘れない。
それだけは、ずっと変わりがありません、と。
それはこんな告白をされた今でも、不思議と変わらないのだ。
本当ならもっと憤りを感じてもいいと思うのだが、何故にか、むしろ慧音さんの感じていたであろう、後ろめたさや後悔への憐憫があり、そして、奇妙に安堵すらもあった。
この人も、俺のように、自分を情けないと思い、消えてしまいたくなるぐらいの劣等感を抱えているのだと。
俺は目標としていたこの人と、一箇所でも対等に立つ事が出来ていたのだと。
だから。
だから、俺はせめて、許すの一言だけでも口にしたいのだが、どうにも意識が薄れていってしまい、それができない。
それに悔しい思いをしながら、せめてと、俺は掌を動かす。
ぽつぽつと涙を零している彼女の、角の生えた頭へと手をやり、ぽん、と載せる。
はっと驚いた彼女の両目が見開くのを見ながら、俺はゆっくりと意識を失っていった。



      ***



 朝。
ごっつん、と切り株に兎がぶつかると言う音は、本当に週に三回ぐらいはあるのだが、今日はそれが鳴らないままに起きる事となった。
と言うか、満月の夜が明けた日は、何時もそうである。
さてはて、満月の兎とくれば餅でもついて疲れはてているのだろうか、などと下らない事を考えながら、頭の霞を追いだそうと、頭を振りながら起きだす。
何時もの通り、慧音さんは何故だか正座したまま俺の寝顔を見ていたようだった。
一体どうしたものなのかと毎回思うのだが、聞くと毎回妙な反応があるので、今回も聞いてみる事にする。

「……おはようございます。毎度思うんですが、朝から正座って、どうしたんですか?」
「え? あ、うん、おはよう。いや、そうじゃなくて、と言うか、その、何だ、君は、………………覚えて、いないのか?」
「昨夜の事なら、毎度の事ながら。いやはや、いい加減お酒にも強くなりたいものです」
「………………そう、か」

 と言う反応も毎回の通りで、俺の返しも毎度同じである。
と言うのも、俺は多分幻想郷に来て、この満月の晩酌で初めて酒を飲むようになったのだが、その度に夜の一部の記憶が飛んでしまうのだ。
その事を話すと、いつもの通り、慧音さんは僅かに目を見開いた後、悲しげな笑みを見せる。
あぁ、多分きっと、俺は酒を飲む度に彼女との会話を忘れてしまい、それを共有できない事が彼女にとっては悲しい事なのだろう。
かと言って、覚えていない事で嘘をつくのも、すぐにばれてしまう事は間違い無い。
なので、やれやれ、いい加減慣れて酒に強くならねばな、と、余裕の出来てきた生活に一人用の晩酌の購入費を考えながら、俺はまた新たな一月の生活を始める次第になったのであった。




あとがき

と言う訳で、プロローグでした。
次回からは主人公の一人称だけではなく、三人称も使用すると思います。



[21873] 白玉楼1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/09/19 22:03

 半月に一度、俺は里に出かける。
物入りの為の、買い物の為である。
売り物の方はと言うと非常に困難を極めており、先日慧音さんの力を借りる結果となって、ようやくのこと売り終えることが出来た。
で、買い物の方も困難であるかと言うと、そうでもない。
何とも奇妙な話だが、たまに暴言を振るわれたりはするものの、暴力沙汰にまでなる事などなく、最低限必要なものを買い入れる事ぐらいはできたのだ。
矢張り、金さえあれば大抵の事は解決できると言うのが、確かな事だからなのか。
さてはて、少なくとも俺の弁舌以上には威力の高い金を用いて、今日も買い物を済ませていた最中であった。
しかし金の威力て。
下品な表現だが。

 兎も角。
俺は、日持ちする漬け物だのを買って、次に米を買おうとした、のだが、そこで一悶着あった。
前の客が買っていった米の金額に比べ、俺に提示された金額は五割ほど増されていたのだ。
流石に俺も、それには抗議した。
弁舌の不安もあったし、里人の悪感情を刺激すべきでは無い、と言う考えもあったのだが、流石にそれでは生活が立ちゆかない。
いや、と言うか、俺が気づかないだけで、それまでも不当に金を取られていたのかもしれないが、それにしても、気づいたなら放っておいて良い問題では無い。
だが、米屋との間にも重力が足らないようで、何時もの通りの、確かこんな感じの会話になったのだと思う。

「ちょっとちょっと、米屋さん、そりゃあ無いんじゃないですか。
さっき買っていった人の、五割増しの値段じゃないですか。
いや、特別人によって少しだけおまけをする事だって、逆に水増しする事だって、米屋さん、貴方だって人間だ、ありうるでしょう。
でも、五割だ。五割ですよ。
流石にそれじゃあ、俺の生活だってなりゆかない。
何とかなりませんかね」
「ふぅ………………やれやれ。
今貴方が言った事が、そのまま答えですよ。
貴方に高く売っているんじゃあありません、先程の彼に特別安く売ってあげたのです。
それだけです。
貴方には、適正な、そう、貴方にとって適正な値段で売ろうとしていますよ、私ぁね。
………………。
そう、適正な。
そういえば、風の噂に聞きましてねえ。
何でも何処かの極悪人が、あの慧音先生を利用して、不当に高く野菜を売りさばいていったとか。
いや、あくまでそういう噂があるってだけですよ、うん、それだけです。
ここで貴方に対して見せてる米の値段にだって関係無い、それだけの話って奴ですよ」

 と言われると、俺としては弱い物がある。
記憶によると、俺の野菜が、相場に詳しくないので多分、としか言いようが無いが、平均的な野菜より高く売られたのは、事実だからだ。
と言っても、それは夏妖精の祝福を受けて、平均的な野菜より出来が良かったからなのだが……。
しかしそれを言っても、通じはしまい。
俺は里にとって、慧音さんの温情にすがるばかりか、利用までする極悪人であったのだ。
それでもまだ、何とか生きていけるであろう金額に収まっているのですら、情けと思うべきなのだろう。
野菜の多くを売り払ってしまった俺は、今、里に物を売ってもらえなくなれば、飢えて死ぬか、それとも慧音さんに頼る他無い。
いや、間接的な殺人を自らの手で下すのを嫌ったか、それとも慧音さんがまた利用されるのを嫌ったから、生きてゆくギリギリまで絞りとると言う事になっているのかもしれないが……。
兎も角、俺は、悔しさに顔を歪めながら、提示された五割増しの値段を財布から出す事に決めた。
と言うのも、俺の金が無くなると言う事は、俺の生活に余裕がより無くなると言う事であり、俺が苦しいばかりでなく、慧音さんへ恩返しできる日まで遠のく事になるからだ。
とは言えここで反論しても、俺の拙い弁舌でこの不当な取引を覆す事などままならないだろうと言う予感もあり、それにこの悪意に満ちた目で見られ続ける事にも耐え難い。
仕方無しに銭を数えながら出すと、店主は言った。

「足りませんねぇ」
「は?」
「米は、時価ですので。もう一割、値上がりましたとも」

 俺は、思わず絶句した。
時価? 初耳である。
流石に今度こそは、俺は金を支払おうと言う気にはなれなかった。

「何を言っているんですか、そんな不当な金、支払いませんよ。
さぁ、品物をよこしてください、ほら、早く」
「そちらこそ何を言っているんですか。
不当な金? いえいえ、妥当な金額ですとも、もう二割、支払ってもらいますよ」

 当然のごとく、話している間に増えていた。
俺は手にとった五割増しの銭を叩きつけるように置くと、無言で店主を押しのける。

「おい、こら! 貴様、一体何をする気だ!」
「金は払ったのに、品物はこない。
いやはや、忙しいんでしょうね。
ならその忙しさを埋めるべく、自分の手で品物を探して取ってこようかと」
「なんだと、この卑しい盗人め!」

 叫ぶ店主を無視して、俺は一番近くにあった米俵を一つ担ぐと、再び店主を押しのけ、外に出る。

「おい、聞いているのか、この人間の屑が!
慧音先生に寄生し、やっとこさ切り離したと思えば、今度はその温情を利用する人でなしが!
貴様など生かす価値も無いと言うのに、それでも生かしてやっている里の温情を忘れやがって!
くそ、くそ、クソッタレが! この、盗人めが!」

 しかし叫びながらも、店主は人を呼ぼうと言う気は無いようで、声もそこら中に響くほどの物ではなく、人だかりもできはしなかった。
というのも、これが慧音さんの耳に伝わっては、里としても不味いと思っているからなのだろう。
外を歩いている里人がウジ虫を見るような目で俺を見るが、それから唾を吐き捨てるなりため息をつくなりして、目を逸らすばかりである。
俺は店主を無視してリヤカーに米俵を載せ、それを引いて去ろうとする。
まさにその、瞬間であった。

「物取り――、ですか」

 一瞬立ち止った後雑踏に戻る里人の中、一人、立ち止ったままの少女が居た。
白髪にリボンのカチューシャ、白いブラウスに、緑のベストとスカート。
洋装の出で立ちと似合わず、その背には二振りの刀が背負われている。
容貌は、青白い肌に引き連れる人魂が、この世のものを思わせないのであるが、印象はと言うと、真逆だ。
何というか、真っ直ぐで、鍛え抜かれた直刃の刀とでも言えばいいのか。
生き生きとしていて、竹を割ったような晴れ晴れとした気質な体から溢れてくるような感じで。
容貌と印象、まるで半分づつ死んで生きているような子だ、と、俺は思った。
失礼な感想ではあるが、それが非常に適当な感想であるように、その時俺には思えたのだ。

 兎に角、目の前に立たれて、どうしたものかと首を傾げる俺。
俺は物取りではないとも言おうとしたが、しかし、被害者と言える店主がそう叫んでいる以上、俺の釈明は非常に説得力の無い物になってしまう。
詳しいことを説明しようにも、中身が入り組み過ぎていて、どうやって話せば良いのか分からない。
かといって、目前の少女は、無視して、物取りと思われたままでいたいと思う類の子では無かった。
と言うのも、本当に第一印象でだけなので、その通りに言うしか無いのだが、何と言うか、この子の目の前では、俺は、背筋を伸ばしたくなってしまうような子なのだ。
兎も角そんな訳で、どうにかしようと俺が口を開くよりも先に、少女の口が開かれる。

「――斬る」

 ぱくり、と、擬音でも出そうなぐらい綺麗に、肉が開く。
内側の臓物が、太陽の光に顔を見せる。
不思議と痛いと言う感覚は無かった。
ただ奇妙にふらつくというか、バランスが取れていないというか、まるで重力に捕まってしまったかのように、切られた側の足から、力という力が抜けてゆくのが分かる。
聞けば重力と言うのは、物と物とが惹きあう力であるのだと言う。
なれば今の状況は、俺の肉を地面が捕まえているだけでなく、俺の肉の方こそが地面を捕まえようとしているのではないか――。
血が舞っているのを見るに結構な重症な筈なのだが、俺の脳内は呑気なもので、そんな事を考えながら頭蓋の兜ごと揺れる。
空が舞った。
背中がどすんと地面を捕まえる音がし、白雲の残像が線から点へと姿を変える。
まるで半死人のような白い肌を、更に青くしている、白髪の少女の姿が見えた。
多分。嗚呼、思えば短い人生だった――などと走馬灯を眺めるのが普通であると言うのに、俺の呑気な脳髄はそんな事を考えようともしない。
変わりに、ただただその少女を、綺麗な子だなぁ、などと考えながら意識を締めくくるのであった。



      ***



 土下座と言う物を、俺は二度しかしたことは無い。
と言うのも、俺の記憶が名前と共に葬られて幻想入りした物であるので、幻想入りしてここ半年ほどに二回と言う事である。
一度は、名前を知らない、あれ以来あったことも無い里人にほったて小屋へぶち込まれた後、頭蓋を足で踏まれてさせられた土下座である。
それを土下座と言うのかどうかは諸説あるが置いておくとして、二度目は、春野菜を売る時であった。
夏野菜を売る時と違い慧音さんが居なかったあの頃、俺の野菜を買って欲しいと言う願いに店主が言ったのは、ならまずこの場で土下座して見せろと言う台詞だった。
問答はあったものの、結局、俺は土下座をした。
それは俺の誇りよりも、俺が金を手にし、いくらか生活に余裕を作り、慧音さんが困ったとき何時でも手を貸せるようにする事の方が、大事であったからだ。
そんな自明の理があっても尚、土下座には躊躇するものがあった。
当然と言えば当然である。
躊躇せずに誰でもができるものであれば、それは謝罪の意を含む物にはなりえない。
兎も角そんな訳で、俺のような、人里において底辺のような位置で暮らしているような人間にも、土下座と言う物をする機会は中々ないし、躊躇もするものである。
で、あるが。

「本当にっ、申し訳ありませんでしたっ!」

 起きたら、いきなり土下座する少女が居た。
意味が分からないと思うが、俺も中々に意味が分からない。
何時しか兎が団体で切り株にぶつかっていって、目を回しているのが、どうにもかわいそうで喰うのも気が引け、介抱してやった事があるが、その時整然と揃ったお辞儀を返された時以来の意味不明度だった。
とりあえずは一体何があったものか、と、俺は周りを見渡し、布団の中で胡座をかいて、状況把握に努める。

 家のほったて小屋の倍はあろうかと言う、広い畳部屋。
枕元の蝋燭の灯りに照らされて、俺の寝ている布団の他には、意匠の施された箪笥、床の間には生花にミミズの這ったような字の掛け軸、一方は障子で区切られ月明かりが僅かにさし、二方は襖で仕切られている。
家の板張りのほったて小屋とは次元違いの、豪華な家であった。
この部屋だけで、恐らくは家の数倍の値段がするだろう。
目眩のするような感覚に襲われながら、再び視線を土下座する少女へと戻す。

「ええっと、状況を確認したいんですけどね」
「は、はいっ」
「俺は、そう、米を買いに行って。で。物取りと君に間違られて――、それで、どうしたんだっけか?」

 そう、それ以降の記憶が俺には無かった。
米屋に盗人呼ばわりされ、そしてこの子に物取りと間違えられたのまでは覚えているのだけれど。
その後、一体どうすればこんな豪勢な部屋に連れ込まれる事になるのか、検討もつかない。
しかし少なくとも、意識を失っていた事は確かである。
ならば、あの後俺が目眩でも起こして倒れ、それで介抱されている、と考えれば辻褄が合わなくもないが、土下座される所以が無い。
なら記憶を失っていると言う事で、酒でも飲んでいたのかもしれないが、少女に物取りと間違られた事からの繋がりが分からないし、これまた謝られる道理が無い。

「………………」

 しかし、頭を上げた少女は、居心地悪そうに、口をつぐんだままだった。
何か言葉にならない言葉を口にしようとして、うずいてしまう。
はてさて、どうしたものか。
とりあえず謝られたと言う事は俺が悪い訳では無いのかもしれないが、しかしそうとも言い切れない。
善さとは主観的な物である。
立方体を二次元に切り取ってみよう。
ある面に水平に切り取ってみれば正方形ができるだろうし、立方体の中心を挟んで対となる二辺を通るように切り取ってみれば、今度は平行四辺形ができるだろう。
同じように、ある物事があったとして、それにおいて彼女と言う主観で切り取って悪くても、それが俺と言う主観にとって善かったと言う保証にはならないのだ。

 そして、当然。
俺である。
この、俺である。
慧音さんに迷惑をかけっぱなしの、俺である。
当然、俺が悪くもあった可能性はある。
と言うか、そんな気がしてきた。
とすると、今度は正座する少女に対し胡座をかいている自分はとても無礼な気がしてきて、どうにも座りが悪く、こちらも正座すべきかと、身じろぎする。

「――痛っ!」

 と、鋭い痛みが腹に走った。
慌てて抑えるより早く少女が腰を上げ、俺の体を抑える。

「動かないで下さい、貴方は斬られたんですよっ!」
「斬ら、れた?」

 疑問詞を浮かべると、少女はピタリと動きを止め、視線を下にやり、縮まりかえって再び正座する。
深く、深呼吸。
まるで大舞台に向かうような気概で、少女は言った。

「はい。私は、貴方を――、物取りと勘違いして、斬ってしまったのです!」
「はぁ」
「本当に、申し訳ございませんでしたっ!」

 言って、再び土下座。
本当に、はぁ、としか言い様のない感想であった。
斬られた。
多分、正座する隣に置かれた二振りの刀のどちらかか、両方かで。
ずぷりと。
すぱっと。
ばっさりと。
多分今痛かった、腹を。
ちょっと想像の外にある事態だった。
この幻想郷に来て以来、俺の受けた一番の外傷は、名前も知らない里人にボコボコに殴られた事である。
あれは結構痛かったが、それでも殴打の痛みから斬られると言う痛みは、正直言って、想像できない。
まるで、現実感が無かった。

「えっと、俺、本当に斬られたんだよね? 動かなければ痛くない、程度なんだけど……」
「はい、確かに。傷の方は、ちょうど居合わせた永遠亭の薬師の弟子に手当をしてもらったので、数日安静にしてれば、と」

 が、矢張り斬られたと言うのは事実だったらしい。
かと言って実感が湧くかと言うとそうでもなく、何というか、むしろ、転んで腰を打っただけなのに何故だか土下座をされている、と言うぐらいの方がそれらしいようにさえ感じられる。
多分、幻想入りしてから、謝られる事より罵られる事の方が多かったから、と言うのもあるだろうけれど、それよりも、何とも、謝られると言う、その行為自体がくすぐったいような感じなのだ。
それに、だ。

「――………………」

 俺は、面を上げている少女の目に視線をやる。
少女は僅かに顔を強ばらせたものの、決して視線を逸らさず、真っ直ぐに俺を見据えている。
何とも、真っ直ぐな感じのする少女であった。
仕草一つ一つからその気概が伝わってきて、俺に躊躇しつつも土下座して謝ってみせたのも、その印象を助長する。
俺を斬ったと言うのも、記憶から類推するに、その気質故の事と考えれば、当然のことであるように思える。
この少女であれば、物取りなどと聞けば見逃す事などせず、情緒酌量など後に置いて罰を食らわせてやる、と飛んでいきそうだ。
実際、そうしたのだろう。
そしてその結果、無実の人を斬ってしまったと、心の底から悔いているに違いない。
本当に、真っ直ぐで、誠実で、いい子だ。

 対して俺は、どうだろう。
里人には忌み嫌われており、その言い分も、否定しきれない部分があると言う事で、悪人である。
しかも、先の物凄いボッタくりを思うに、俺が貧乏から抜け出し、慧音さんに恩返しをする事ができる未来は、再び暗雲立ち込めるようになったように思える。
つまりは、恩知らずである。
悪人で、恩知らずで、妖精の気まぐれで生きている俺。
そんな俺が、真っ直ぐに生き悪人を斬ろうとした彼女に謝られていると言うのは、どうにも、居心地が悪かった。

 いや、違う。
そんな着飾った話ではなく、もっと手の早い、簡単な話なのだ。
俺は、彼女に劣等感を感じているのだ。
その真っ直ぐさに。
その誠実さに。
何せ俺と彼女の立場が反対であったとして、俺は彼女ほど真っ直ぐに相手の目を見ながら謝る事など、できはしないだろうと言う思いが、確かにあるのだ。
それがどうにも、悔しくてたまらない。
人として彼女より清く、正しく、あれない事が。
それはきっと、幻想入りして、慧音さんと出会ったときからずっと続く、俺の奥底の何処かで渦巻く劣等感からなのだろう。
だから俺は、言う。

「えっと、許します」
「って、そんなに簡単にっ!?」

 驚いた少女が目を見開くが、仕方が無い事なのである。
と言うのも、俺はこれ以上彼女に対して負い目を負わせる事に耐えれそうにもないし、そも、彼女が言う物取りと言うのもあながち間違っていない部分もあったのだ。
よく思い出せば、確かに店主の言い分は法外であったが、俺の行いもそこそこに法外である。
となると、少女の謝罪も半分は正当では無いものになってしまい、そんな物を向けられても、何と言うか、困る。

「とまぁ、そう言う訳で。
どう言う説明を聞いて俺を物取りと勘違いした、と言う結論に至ったかは知らないけれど、君の行為は、半分ぐらいは正当であったのも確かなんだ。
だからと言って謝罪を半分こにするなんて事は、できっこない。
と言う事で、これまでの君の土下座で、帳消しって事にはできないかな。
いやまぁ、それじゃあ君の過払いだって言うなら、俺も謝るのは吝かでは無いんだけれども」
「え? え、え?」

 と、言い分を言ってみせるのだが、彼女はどうしてか目を白黒させるばかりで、了承の意は得られない。
手を胸に当てて目をあっちこっちに泳がせながら混乱する様は非常に可愛らしいので、目の栄養にしつつ答えをじっと待つ事にする。
すると少女は、ぶつぶつと、えーと、この人は斬られたんだよな、私に、しかも物取りって言うのは半分とは言え誤解で、と言うかこの人の言い分でも、半分も誤解だったのか……などと呟く。
状況を確認するごとに、顎に手をやったり、掌を打ったりして髪を踊らせる様を眺めているうちに、やっと少女は俺に向きあってみせた。

「いや、その、やっぱりそれはおかしいです」
「おかしいのですか」
「はい、おかしいです」

 おかしいらしかった。

「貴方は正当な理由なく斬られ、私は正当な理由なく貴方を斬り、そしてその結果がただ謝るだけで済むのは、やっぱりおかしいです。
世の中とは当たり前でなくてはならないのです。
ならば私はもっと重い罰を受けなければ、道理が立たない。
筋道が行かない、理屈が立ちゆかない。
………………と、思うのですが……」

 最後になって自信を失う少女が可愛らしく、内心で笑みが浮かぼうとしてくるが、俺は笑みの重力を強くし、内心の奥深くに沈めるに努める。

「と、言ってもなぁ。俺としては、もう十分過ぎるぐらい謝られたつもりなんだけど」
「いえ、そうは言われても……」
「うーん、何か妙な状況になってきたね。
片や斬られてこれで許す事を願う側、片や斬って許されない事を願う側。
これじゃあ、あべこべだ」
「みょん」
「みょん?」

 と、調子よく続けていると、謎の奇声。
思わずと言わんばかりに反応した少女は、青白かった頬を熟れた林檎のように赤くして、体を縮こませる。
それはそれで実に可愛らしくて幸いなのだが、さてはて、どうしたものかと首を傾げる俺。
何せまず俺が折れるにしても、彼女に与える罰と言うのが思いつかず、そも、俺が劣等を感じている彼女に対し俺が罰を与えると言うのは、むしろ俺に対しての罰である。
対して彼女が折れるにしても、その言い分によれば、その罪過に対し適切な罰が無ければならないらしい。
両方を上手く満たすような事柄を思いつけばそれでいいのだが、そも、彼女の事を殆ど知りもしない俺にとって、屏風の中の虎を退治するに匹敵する難問であった。
だからってお互いの事を知りましょう、から始めてしまっては、日が暮れてしまう。
大体、それじゃあお見合いじゃあないか、と思った辺りで、俺は自分の思考が大分鈍っている事に気づく。
お見合いて。
俺の思考は何処へ向かっているのだ。
と、鈍らな己の思考にどんよりした気分になった辺りで、突然背後から声がかかった。

「あらあら妖夢、お客様に迷惑をかけるものではないわよ」

 跳ねるようにして背後を向――こうとして、脇腹の痛みに悶え、抑えながらゆっくりと声へと視線をやる。
そこには、一人の女が居た。
肩の当たりで切り揃えた、薄桃色の髪。
少女と同じく青白くさえある肌に、髪色を濃くし、丁度血の色にしてみせたような瞳の色。
身を薄い水色の着物で包み、頭には、幽霊の付けるような頭巾を合わせた不思議な帽子を被っている。
一瞬、絶世の美女と言う単語が脳裏に巡ったが、何処かそれは似合わず、何というか――、そう、彼女は、浮世離れした美女であるのだ。
陽気そうになだらかな曲線を描いている眉も、何故か儚く。
エロティックで肉感的な肢体も、何故か薄らで。
浮世。
穢れがない、美女。

「初めまして。私は此処、白玉楼の主、亡霊の西行寺幽々子と申します。
ようこそ、白玉楼へ。部下の非礼をお詫びいたしますわ」

 腰をおろし、頭を下げる彼女――西行寺さん。
その所業一つ一つを取って見てみても、雅と言える趣がある。
例えば膝を付いた後、着物の裾を無闇に広がらせないよう抑え、それからゆるりと、まるで音速の遅いような動きで座るのだが、それが本当に美しいのだ。
ほぅ、と、思わずため息をさえついてしまう。
仕草一つでそこまでさせるほどに、彼女は美しかった。

「そして妖夢、貴方という子は本当に半人前なのね。
まずは謝るよりも先に、自己紹介からでしょうに」

 言われて、俺は思わず妖夢と呼ばれた少女と目を合わせた。
そういえば、俺たちは互いに名前すら知らないままに、斬ったり斬られたり、謝ったり謝られたり、許したり許されたくなかったり、果てには俺など勝手に劣等を感じたりまでしていたのだ。
思わず、目を合わせたまま二人でくすりと笑みを浮かべてしまう。
そして居住まいを正し、まるで段取り通りであったかのように自然に、少女から口を開いた。

「初めまして。私は此処、白玉楼の庭師兼お嬢様の剣の指南役で、半人半霊の魂魄妖夢です」
「初めまして。俺は外来人でして、名前は幻想入りした時に亡くしてしまいました。今では、七篠権兵衛と名乗っています」

 互いに軽く頭を下げたのを合図に、ぱちん、と西行寺さんが手に持つ扇子を閉じる。

「さて、権兵衛さん。この子は納得の行かないようですが、私としても、部下の非礼をそのままにしてはおけませんわ。
かと言って、貴方の意に沿わず、無理に妖夢に罰を与えさせると言うのも、致せません。
ですがせめて、その傷が癒えるまでの間は、この白玉楼でお世話をさせて頂きたいのです。
それでこの件、手打ちとしていただいても構わないでしょうか」
「俺としては願ったり叶ったりで、申し分ないのですが……」

 傷が治るまでの間どうしようかと思っていた所である、治るまでの数日世話になるのは構わない。
しかし魂魄さんが納得が行かないだろうと視線をやると、彼女は視線を下にやり、体を縮こませる。

「妖夢でしたら、罰を求めるのならば自分で考えさせます。
そも、罰とは与えられるばかりではなく、己で考え行う事も含むもの。
だと言うのに権兵衛さん、貴方に罰を与えられる事に固執したのは、この子の未熟故ですわ」

 との事だった。
俺としては、できれば魂魄さんが自罰について考えるのに力を貸してやれる結果であった方が良かったのだが、此処の主と言う彼女の顔を汚す訳にもゆくまい。

「分かりました。では、この件は、それで手打ちと致しましょう」

 深く頷いてそう返すと、ぱちん、と音を立て、西行寺さんの扇子が開く。
と同時、空気が弛緩する。
気づかぬうちに背負っていた肩の上の空気が消え去り、呼吸が楽になる。
そうまで至って、ようやく、俺は目の前の美女に圧倒されていた事に気づいた。
カリスマ、とでも言うべきなのか。
先程まで放射されていたそれがなくなり、目前の物凄い浮世離れした美人が、美人である事には変わりないのだが、何処か親しみやすくさえ感じる美人になった。
何と言うか。
あの世から、現世へ降りてきたような、感じ。
狐につつまれたような変化に目を白黒させている俺と、柔和そうな彼女の目とが、合う。
にっこりと、微笑む彼女。

「じゃあ、妖夢~、おまんじゅうとお茶持ってきて~」

 急降下しすぎだった。
思わず肩を落とし、急な姿勢の変化に、痛みと共に脂汗が滲む。
アホか俺は、と思いつつ、ついでとばかりに俺も魂魄さんに物を頼む事にする。

「えーと、魂魄さん。それじゃあ、俺もついでに何か頂いていいかな。
昼から何も食ってないから、流石に腹が空いて」
「あ、七篠さん、私は妖夢で構いませんよ。それじゃあ、お粥か何かを作ってきます」
「それなら俺も権兵衛でかまわないよ。じゃあ、お願い」
「あぁ、それなら私も幽々子でいいわ。私だけ仲間外れってのも、無いじゃない」

 とまぁ、こんな感じで俺の白玉楼での生活が幕を開けるのであった。



      ***



 さてはて、何はともあれ、俺は斬られた、と言う事になるが、この事を果たしてどう捉えていたか。
怪我をしたので惨事であるか、斬られても生きていられたので好事であるか、それとも斬られると言う体験事態が珍事であると考えていたか。
その、どれでも無かった。
と言うのは、むしろ俺は、久方ぶりの会話ができる、切欠としか思っていなかったのである。
何せ俺は、相変わらず人との出会いが無く、そも先の慧音さんとの会話の後、半月ぶりに漬け物だのを買う時に会話した事になるのだ。
その上悪意の篭められていない、となると、この半月で初の会話である。
俺が妖夢さんを容易く許した理由の一つには、会話に飢えていたと言うのがあったのかもしれない、俺は会話に飢えていた。
と言う事で、俺は、再び握る事の叶った細い蜘蛛の糸を、今度こそは離さずにいられるように、と、努めてこの白玉楼の生活を送る事にする。
望ましくは、慧音さんがそうであるように、定期的に会話なり酒盛りなりをするような仲になれれば良いな、と思いながら。

 そんな訳で、朝。
起きた俺は、妖夢さんの用意してくれた新しい藍染めの着物に着替え、茶の間に二人と共に集まり食事をしていた。
縁側を背負った妖夢さんを起点として、幽々子さん、俺、と三等分に座布団に座る。
中央のちゃぶ台の上に並ぶのは、白米に焼き魚、味噌汁に漬け物、玉子焼きにほうれん草のおひたし。

「これぞ和食、って感じだなぁ」
「? 権兵衛さんは洋食派でしたか?」
「いや、和食派だけど、俺は里外れに一人で住んでいるものだから、自分で料理しないといけなくてね」

 と言うと、それだけで察したのだろう、仕方ないですね、と妖夢さんがため息をついた。
ついで一旦箸を置き、ぴん、と指を立てて、片手を腰にお説教を始める。

「全く、権兵衛さん、料理はきちんとしなくてはなりませんよ」
「いやぁ、面目ない。自分一人で良いんだと思うと、どうにも不精してしまってね。
あの世に住んでいる訳じゃあないんだから、霞を食って生きる訳にはいかないと言うのに」
「あら、あの世に住んでいても、霞をだけ食って生きる訳にはいかないわ。
あの世もあの世で浮世と同じく不自由、五臓六腑のどれを維持するにも、食事は欠かせないもの。
権兵衛さん、貴方は一つでも臓器を置いてゆけて?」
「それは勘弁願いたいですね。何をとっても、困ること困ること。
昔は潰瘍になったら臓器を取ってしまったと言うけれど、俺には考えられません。
特に、やっぱり――」

 言い、一瞬間を置くと、幽々子さんと目が合った。
うん、と同時に頷くと、同時に口を開く。

「「胃が大事ですよね(ですわ)」」
「お二人とも、息がぴったりですね……」

 呆れがかった様子で、妖夢さん。

「と言っても、亡霊の幽々子さんには息が無い訳で」
「無い物が合うなんて、それはそれは、世にも奇妙な事」
「だってここはあの世、この世じゃないんですからね」

 そうですか、と不貞腐れたように、言い、妖夢さんが再び箸を進め始める。
何となく視線がふらりと幽々子さんの方へ泳いでしまい、再び目が合う。

「呆れられてしまった」
「呆れられちゃったわね」

 くすり、とお互い笑みを頬に浮かべ、こちらも止めていた箸を進め始める事にした。
当然、それは苦になるような事は無い。
と言うのも、この料理は絶品で、俺の自炊料理などとは比べ物にならない出来であり、恐らくは記憶に遠い慧音さんの手料理より美味しいぐらいだ。
勿論誰かの手料理と誰かの手料理とを比べるなんて失礼な事でしか無いのだけれども、それでも思わずこんなに美味しい物は何時ばかりか、と記憶を辿ってしまうほどに美味しいのだ。
米は粒が立ち、焼き魚はよく油が乗っており、玉子焼きもふっくらと焼けている。
どれもどれも美味しくて、箸が進むこと進むこと。
よく味わって食べていると、不意に幽々子さんが呟く。

「そういえば、もう秋も見え隠れしてきたのかしら」

 見れば、紅葉の形に切り抜かれた人参を箸で挟み、持ち上げている。
それをぱくりと口にするのを尻目に、妖夢さんがぴたりと動きを止め、思案顔で言った。

「えぇ、妖怪の山でも豊穣神に紅葉神が目撃されたそうですから」

 そんな物まで幻想郷には居るのかと驚きつつも、そのまんまな回答に、思わず俺は視線を妖夢さんへやった。
自信満々と言うか、当然至極と言うか、そんな感じの表情で言っているのだが、はて、豊穣神と紅葉神とやらは幻想郷の風物詩のようなものであるのだろうか。
疑問詞を視線に載せて幽々子さんの方へとやると、仕方ないなぁ、と言わんばかりの微笑みを浮かべている。
と、そこで三度、目があった。
自然、頷いて俺から口を開く。

「秋と言えば、だんだん合服の季節ですね」
「ええ。服を重ねると、徐々に人は重力を弱めてしまう。何でか分かるかしら、妖夢」
「え、ええ?」

 疑問詞をいっぱいにする妖夢さんを尻目に、ならばと視線を向けられた俺が、答えた。

「裸の付き合いと言う言葉があるように、服を脱ぐ事は人と人との重力を強めることになります。
逆説、服を重ねれば重ねるほど、人は重力を弱めてしまうのでしょう」
「その通りよ、権兵衛さん。それはきっと、纏った物の重力が混ざってしまって、ぐちゃぐちゃでよく分からない事になってしまうからなのでしょう」
「エントロピー増大の法則ですね」
「ええ。だから人々は冬に向けて家に篭る事が増えてくるし、その為に冬ごもりの準備をしなくてはならなくなってしまう」
「つまり、俺たちはと言うと、随分と気の早い冬ごもりの準備を、胃にしなくちゃならない訳ですね」

 と、そこで俺と幽々子さんは、空になった茶碗を妖夢さんに差し出す。
え? ええ? と、変わらず疑問詞で頭がいっぱいな様子の妖夢さんに、一言。

「妖夢、ご飯怖い」
「妖夢さん、えーと、白米怖い」
「お二人とも、普通に言ってくださいっ!」

 怒鳴りつつも茶碗を受け取り、厨房へ向かう妖夢さん。
自然、幽々子さんと二人、目を合わせる。

「怒られてしまった」
「怒られちゃったわね」

 今度はくすりとではなく、互いにくすくすと長く笑みが続くこととなった。
お代わりを盛ってきた妖夢さんが困惑するのを他所に、二人して笑みを続けていると、ふと、俺は心の中で張り詰めていた物が緩んでゆくのを感じた。
俺は、気概を持って挑まなければ、この人達と縁を作る事など叶わないだろうと思っていたが、こう、気の抜けた会話をして、お互い笑っていられるのを感じると、何だか、それは違うのではないかと思えるようになってきたのだ。
この二人との間であれば、自然体を以てしても、縁が作れるのではないかと。
俺のような弁舌の立たない嫌われ者であっても、受け入れてくれるのではないかと。
無論、それは冷静に考えれば、間違いであるのだろう。
何せ俺はと言えば、この幻想郷に来て以来、運勢や状況の悪さはあったとは言え、慧音さん一人しか話し相手も確保できないような、人付き合いの下手な男なのだ。
だと言うに、典雅な亡霊姫や、真っ直ぐな庭師にばかり気に入られると言うのは、筋道がゆかず、ありえない事とさえ言っても、大体は合っているだろう。
だが、それでも。
それでも、思ってしまう。
彼女たちは、俺のような程度の低い男でも、その深い懐で、受け入れてくれるのではないだろうかと。
これから、月に一度の慧音さんとの宴会のように定期的に会う事までは構わなくとも、せめて顔を合わせたら、少しばかりの会話を続けるようになる関係になる事も、可能なのではないだろうか、と。
そう思ってしまうぐらい、此処での会話は暖かく、身に染みる思いなのであった。



      ***



 数刻後。
庭掃除に行くと言う妖夢さんを見送り、俺はと言えば、幽々子さんと並んで縁側に座り、茶を啜っていた。
初日、初めて向いあった時に比べると圧迫感のような物は感じ無いものの、矢張り幽々子さんは、動作の一つ一つが洗練されていて、雅である。
例えばお茶を飲む時、すっと湯のみを掌で包むように僅かに持ち上げ、それから底を持ち、ゆっくりと顔辺りまで持ち上げ、それからゆるりと湯のみを傾け、その先にだけすっと口をつけてお茶を飲んで見せる。
俺がそんな事をやってみせればずずずっと下品な音を立てそうなものなのだが、彼女がやると、不思議とすすっと言う上品な音がするのみで、汚らしさは、欠片も感じられない。
流石、と思いつつ、真似をしてみようにも、中々上手く行かない。
元々俺は作法など知らぬ男である、幽々子さんのように典雅な振る舞いを望むのは高望みであったのかもしれない、と内心落ち込みつつも何とか試していると、不意に、幽々子さんが口を開いた。

「権兵衛さん。ちょっと聞いていいかしら」

 突然であったので、一泊、音を開けてしまったが、俺も湯のみをゆっくりと置き、肯定の意を伝える。

「良かった。じゃあ、聞いてみたいのだけれども……、貴方の、名前を亡くした、と言うのは、どういう事なのかしら。
昨日自己紹介の時にそう聞いたけれど、詳しくは聞きそびれてしまって」

 不可思議な問であった。
と言っても、別に隠すような事では無いし、もしそうであってもその事を忘れてしまっているので、俺は率直に答える事にする。

「そう、ですね……。ちょっと感覚的な物なので説明するのは難しいし、長くかかると思うんですが、構いませんかね?
えぇ、はい、それならいいんです。なら、お話しましょう。と言っても、お茶菓子替わりになるような甘い話ではなくて、どちらかと言うと、お茶替わりになりそうな、苦いお話なのですが。
俺が幻想入りした時、俺は、いわゆる記憶喪失状態でした。
自分の名前も過去も全くもって分からず、ただしかし、外の世界の一般常識のようなものはあったので、外来人と分かっただけなのです。
と言えば、普通、記憶喪失と名乗って終わりなのでしょうが、何と言うか、これが感覚的な事で、言葉にしづらいのですが。
ただ記憶を失ったのではなく。
名前、と言うのが、中心にあるように思えるのです。
そして名前には三つ、状態があるでしょう? 名付けられる前と後と、忘れられてしまった状態の三つです。
で、そのどれにも当てはまらないようで、かといって無い、と字を当てると、俺には失う前にも名前が無かった事になってしまうものなので。
――だから、亡くなった。
人があの世へ召されるように、名前が。
全ての状態を捨てて、何処かへと消えてしまって」

 一旦区切ると、俺は茶で喉を潤す。

「だから多分、俺は幻想入りした時、全く新しい自分として、始まり直したんでしょう。
証拠に、俺は、博麗の巫女によっても外の世界へ戻る事ができませんでした。
そして彼女の言葉によると、それは俺が名前を亡くしてしまった事が原因なのだそうです。
ほら、まるで、俺がこの幻想郷に、生まれ直したみたいでしょう?
かつての外の世界に居たらしい俺とは、全く違う俺に。
――新しい名前は、ほら、名無しの男を、名無しの権兵衛って言うじゃないですか。
なんで名無しで始まった俺は、七篠権兵衛と名乗るようになったのです」

 と、一通り語り終えた俺は、再び茶で喉を潤す。
さてはて、気の利かない俺にはこの話の面白さが分からないのだが、幽々子さんには感じ入る事があったらしい。
彼女と言うと、俺の話を反芻しているようで、顎に手をやり真剣味のある表情で庭の土を眺めていた。
手持ち無沙汰になったので、俺は反応があるまで、と庭の方へと目をやる。
残暑も残り少ない今、最後の輝きとばかりに緑濃く木々が茂り、蝉の鳴き声響く庭。
それを見ての第一印象と言えば、顎が外れんばかりの広大さであった。
何せこの白玉楼、屋敷自体ももの凄くでかいのだが、それすら小さく見える程の広大さである。
遠くは霞み、音はただただ蝉の鳴き声が何処かむなしく響き、普段五月蝿く思えるそれすらも、この広大な空間では反響の無さが逆に静けさを思わせる。
屋敷の主とは似てつかぬ、無機質な感覚を思わせる場所であった。
と言っても、それは当然と言えば当然なのだろう、ここは冥界、死後の世界であり、元来有機物より無機物の集まる場所である。
それでなくとも、庭とは侘び寂びの世界の物だ。
侘しくあるのは当然のことで、ならばこの不思議な静けさを楽しもうでは無いか、と、俺は静かに茶を口に含む。

 だが、何故だか、気分は一向に晴れなかった。
俺の心に侘び寂びを感じる粋が存在しないからなのかもしれない、と思ったが、それもどこか違うような気がする。
そう、何と言うか、俺は、まるで、この庭を見ていると――、俺を見ているようになるのだ。
俺は、先の言葉を借りるならこの世界に生まれたその瞬間から、劣って、劣って、劣り続けているように思える。
生まれた完全な状態から、少しづつ、乾燥してひび割れてゆく砂漠の大地のように、珠が欠けてゆく感じに、侘びてゆくのだ。
実際に思い起こしてみれば、そうだった。
俺がこの世界に生まれ落ちてからした事は、何もかもが、上手く行っていないような気さえする。
里人らに蛇蝎のごとく嫌われている事は当然として、慧音さんとの関係でさえ、少し前までは俺が借りを返せそうな兆しが見えていたと言うのに、その兆しは、まるで悪質な喜劇にあるように、あっさりと消え去ってしまった。
大体、俺は今、俺一人でさえ、養えていけるか分からないのだ。
野菜の大方を金子に変えてしまった今、里にこれ以上暴利を求められては食っていけないし、その里との関係は、今回の事で一層悪くなっていた。
俺が倒れた後どうなったのか詳しくは知らないが、少なくとも、前以上に良くなっている事だけはありえないように思える。
俺は、これからずっと、寂びてゆく事しかできないのだ。

 そんな事を考えていると、突然、俺は震えるような寂しさに包まれた。
ぶるりと、まだ残暑が残っていると言うのに体が震え、温かさが欲しくて湯のみに手を伸ばす。
とっさに手を出して、急いで持ち上げようとしてから、ふと、先程幽々子さんがしていたのを真似して、ゆっくりと持ち上げて、すすっと茶を啜ろうとしてみるものの、上手くは行かない。
ずずっ、と、幽々子さんのそれと比べると上品とは言えない音を立てて飲んだ茶は、少し温くなっていて、体を温めるのに足らない。
思わず俺は、縋るようにして幽々子さんへ目をやる。
ふと、目があった。

 ふわりと、包みこむような微笑み。
花弁が開くようなそれを見て、俺は呆けたように口を開いてから、何も言わないままに、その口を閉じた。
何故か、目頭が熱くなる。
いや、熱くなったのは、目頭だけでは無かった。
彼女の笑みを見た。
それだけ、本当にそれだけだと言うのに、体全体から、先程の寂しさが抜け落ちたようであるようで――、救われる、思いなのだ。
はぁっ、と彼女に聞こえぬよう、努めて小さな音で、塊のような息を吐く。
瞬きを何度か繰り返し、僅かに歯を噛み締め、すぐそこまで上り詰めていた涙を、飲み込む。
それから俺は、矢張り彼女は、浮世離れしているのだな、と思った。
何せこんなにも簡単に、人を上へ、温かい所へ、連れて行けるのだ。
余程地面との重力が少なく、もしかしたら今足元を見れば、足が無いのかもしれない、と思うほど。

 そんな感慨に浸っている俺に、ぐぐっと、幽々子さんは身を乗り出してみせる。
ふわり、と桃色の髪が舞い、陽光を反射して輝きながら、女性特有の――つい先日までは慧音さん特有かとも思っていた――いい匂いが運ばれてきた。

「そう。貴方には、ある部分からの、過去の自分が無いのね――。
その事を貴方は、どう思っているの?」
「どう、ですか――」

 言われて、俺は虚を突かれる形になった。
と言うのも、不思議と俺は、此処に来てからも、過去の自分と言うものについて考える事が無かったからである。
かつての俺は、何の違和感もなくスッパリと過去の自分を切り捨て、新しい自分を始めれていたような気がするのだ。
勿論、里人らの会議で酷い扱いを受けた時など、何でこんな事になってしまったんだ、と考えなかったと言えば嘘になるが、それぐらいで――。
いや、本当にそうだっただろうか?
よくよく思い出してみると、幻想入りして以来、俺はたまに過去の自分についての事を聞いてみた事があった気がする。
それもぎりぎり自覚できるかできないか程度のもので、言われて思い返してみれば――、と言う程度の物なのだし。
当然、この幻想郷の誰にも、外の世界の俺の事など分かる筈も無かったのだけれど。
と、そんな具合の混沌とした話を伝えて聞かせると、幽々子さんは何か納得がいったのか、そう、と呟いて姿勢を戻し、ぱちん、と扇子を広げる。

「ありがとうね、権兵衛さん。不躾な質問に答えてくれて」
「いえ、滅相もない。こちらこそ、俺が過去の自分を知りたがっているなんて部分が発見できて、良かったですよ」

 でなくとも、何か幽々子さんの抱える事情に役に立てたのならば幸いである。
と言うのは、先程の俺の言葉を聞いて感じ入る幽々子さんの様子が、何処か真剣味の混じった、それでいて初対面のカリスマのあるものとも違う、何というか、素で事情があったように思えたからだ。
どんな事情なのかは俺如きが窺い知れる事では無いかもしれないが、その役に立てたと言うのならば、嬉しい事この上無い。
何せこの人の笑顔は、何と言うか、非常に軽やかで、ふわふわとしていて、兎に角、救われるのだ。
鬱々とした考えに囚われやすく、そして実際に鬱々とした生活を続けている俺にとっては、とてつもなく貴重な人だ。
どうかこの人と、良い関係を続けられたならばいいな、と思いつつ、俺はその後も暫く、昼ごろまで談話を続ける事にするのであった。



      ***



 夜半。
鈴虫の声が庭に響いては消えてゆくのを眺めながら、幽々子は物思いにふけっていた。

 西行寺幽々子には、自分が無い。
言葉を重ねるなら、過去の自分が無い、と言えよう。
何せ彼女は生まれ――と言うか死に始めてからこの方亡霊であり、その瞬間に生前と言う別の自分とは、恐らくハンカチ無しでは語れぬであろう別れを経験してしまい、全く記憶と言う物が無い。
親友の八雲紫やかつての世話役魂魄妖忌に聞く限りでは、容姿と、能力のおおよそは同一であったらしい。
おおよそと言うのは、単に強化され、人以外も死に誘う事ができるようになっただけであるので、ある程度は似ていると言って構わないだろう。
が、他については何も分からない。
何せ誰も生前の幽々子の事を語ってくれないのである、興味本位程度であった幽々子は何一つ、特に性格などについては生前の己を知らないままであった。
別に構わない、と、幽々子は思っていた。
今でも大体はそんな感じである。
生前がどうであろうと今の自分にとっては関係ないし、興味だって話の種程度にしか無い。
大体紫や妖忌だってどれほど生前の自分を知っているかも分からないのだ、そんな事よりおまんじゅうの方がよっぽど気になる。
筈、であった。

 しかし幽々子は、定期的に過去の自分を知ろうとしているらしい。
らしいと言うのは、自覚が無いからである。
自覚のないままに、例えば倉庫を整理する時に、妖夢に何となくと言ってついていっては昔の資料を探してみたり、何度も断られたのと言うのに、話の拍子に紫に生前の自分について聞いていたり、そんな風にしてしまうのだ。
と言っても、それで知る事は殆ど無いに等しい。
何せ自覚が無いのだ、そこには強い意思も無く、意思が強くなければ強固に隠された事実にはまず達し得ないのだ。
しかし兎も角、幽々子には過去の自分がなく、それを無自覚に知ろうとしているらしい。

 権兵衛もまた、同じであった。
妖夢に斬られると言う斬新な方法で白玉楼の客となった彼は、幻想入りする際に名前を亡くし、一緒に過去の自分も無くしてしまったらしい。
しかも幽々子に聞かれて初めて自覚する程度に自覚なしに、過去の自分について知ろうとしていたと言う。
ついでに言えば、幻想入りと言う観点から紫が多少自分を知っているかもしれない、と言うのも同じである。
だからなのかそれとも関係無いのか、幽々子は権兵衛に何処か親近感を感じていた。
朝食の時、妙に気があったのも、それに拍車をかけているのかもしれない。

 権兵衛から名前を亡くした話を聞いた後、一緒にお昼を食べ、ついでに妖夢を弄り、それからまた縁側でのんびりとし、ついでに妖夢を弄り、他愛のない話をし、ついでに妖夢を弄り、夕食をし、そしてまた妖夢を弄って遊んだ。
その間幽々子はずっと、不思議なほどに権兵衛に心を許していたし、権兵衛も、最初は不意に何処か鬱々とした様子になる事こそあったが、徐々に幽々子に襟を開き、先程に至っては、幽々子の思い上がりで無ければ、幽々子と同程度に互いを思っていたように思う。
まるで、生まれついての親友が一人増えたかのような、不思議な体験だった。

 なのに、だろうか。
それとも、だから、だろうか。
幽々子にはある欲望が生まれつつあった。
それは正直に言って生まれて――死に始めてから初めての体験で、それを思うと、普段にこやかなばかりの幽々子の顔にも、赤みが差してしまう。
似たような感覚はあったものの、ここまでの純度の物は初めてだし、それに、これまでに縁あったのは、乙女の恥じらいと言うより淑女の嗜みであったのだが、この頬の赤みは前者であるように幽々子には思えた。
そんなものが自分に似合うとは少しばかり思えなくて、こんな所紫には見せられないな、と、幽々子はため息をついた。
その溜息にも、憂鬱と一緒に恥ずかしさや甘酸っぱさが含まれているかのようで、そんな事をする自分に、尚更幽々子は顔を赤くする。

「――うん、そうね」

 呟いて、幽々子はその気持ちと向き合う事にした。
すぅっと息を吸い、はちきれんばかりになってから、はぁぁ、と息を吐き出す。
深呼吸を終えて、幽々子は目を閉じ、流していた足を正座に戻し、掌を腿の上にやった。
どうしてこんな事を思うんだろう、と、幽々子は疑問に思う。
私は。
何で。
どうして。
こんなにも。
権兵衛の事が。
私は。
私は――。

 何で私はこんなにも、権兵衛の事を死に誘いたいのだろう、と――。




あとがき

感想来たらキュンキュンきたので、一週間で出来ました。
次は妖夢のターンからかと思われます。



[21873] 白玉楼2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/10/03 17:56

 魂魄妖夢は剣士である。
故に斬るべき時は迷いをも同時に斬っているし、だから今まで、斬れなかった事を後悔する事はあっても、斬った事を後悔した事は一度も無い。
斬るべきでは無かったモノを斬ってしまった時も、それは斬る事により知った事実がある以上、正しいのだと信じてきた。
斬る事を失敗したとしても、斬ろうとした事により生まれた事実がある以上、正しいのだと信じてきた。
それは今の所、ずっと変わらないでいる。
何時しか鬼に、それは師の教えを理解していないと言われたが、それでも変わらないまま。
だから今回、権兵衛の事を物取りと勘違いして斬ってしまった事も、申し訳ないと思いながらも後悔はしていない。
してはいないのだが。

「………………」

 明朝の白玉楼。
肌を切るような冷たさの外気に身を晒し、妖夢は白楼剣を手にしていた。
普段腰にある短刀を右手に持ち、上段に持つ。
そも、迷いを斬る短刀である白楼剣は、威力を求めて斬る剣では無い。
それ故に常には上段に構える事はあまりなく、更には迷いを“斬る”ので突きには向かず、何時でも手首で返せるように小さく斬るのが基本であるが、今は違った。
斬るべき迷いは、己の中にあった。
である故に、この行為は、空気中の迷いを斬る事で、己の中の迷いを具現化せんと言う行為である。

「――っ」

 上段、袈裟斬り。
受けるのも避けるのも難しい、完全な殺傷より斬り裂く事を目的とした一撃。
空気を割り、空気中の迷いを斬り、風音を立て、ピタリと切っ先は震え一つ無く停止する。
しかし斬られた部位の迷いは迷いの真空となる事はなく、刀の後を追うように空気中の迷いが侵入し、斬る前よりむしろ雑然とした迷いが、空気中に漂った。
踏み込んだ足が、じり、と、土を盛る。
切っ先をそのまま上げる裏切上、無限の字のごとく刀が滑り、表切上。
しかし迷いは絶たれた先から埋められ、ただ混ぜっかえされたかのごとく、エントロピー増大の負の連鎖を見せつけていた。
ここ数年、最近の冥界と似た事実であり、至極当然の結果である。
そも、妖夢が断つべきは空気中の迷いではない、己の中の迷いであり、迷いを斬る感覚により己の中の迷いを斬る方法を見つける事だ。
だが、いくら空気を斬っても斬っても、妖夢の中から迷いは消えなかった。
それどころか、ふつふつと膨れ上がる迷いはその量を増すばかりで、消えるどころでは無い。

「………………ぁ、ぅ」

 それに対して弱音を吐こうとして口を開き、しかしそれもまた迷いを増す行為であるように思えて、妖夢は結局何も言わず、言葉ともとれぬ言葉を吐き出すだけで、口を閉じる。
問題は、妖夢が権兵衛を斬った事にあった。
否、もっと正確に言うならば、妖夢が権兵衛を斬った行為自体ではなく、斬った感想にあった。
なぜなら。
魂魄の剣は、迷いを断つ剣である。
迷いの絶たれた正しい世界には、真実が見える。
だから剣は真実を知るために振るわれ、剣は真実を教え、そして剣の主は真実へと至る。
それが魂魄の剣の道理であり、少なくとも妖夢は、そう信じていた。
その道理はストレートな妖夢の性格に合っていたし、だから、この数十年ほど、妖夢はその道理を信じてきた。
魂魄妖忌もそれについて何も言わなかったし、それは己が正しいからだと妖夢は思ってきた。
主である幽々子には半人前と言われてしまうが、それはまだまだ真実を斬り足らないから、真実を知り足らず、故に半人前と称されるのであると妖夢は思っている。
それはとても純粋で迷いの入る余地の無い思いで、少なくとも、妖夢が権兵衛を斬るその瞬間までは、それが妖夢にとって唯一にして最大の真実であるように思われた。

 だが、それは今、崩されていた。
真実は斬って知る。
だから斬って得られる物は真実の他に何もなく、真実とは迷いの絶たれた明らかな物であるのだから、迷いもまた、ない、筈。
しかし妖夢は、権兵衛を斬った時、他に何か得た感覚があったのだった。
それが何かは、今はまだ、妖夢には分からない。
しかし少なくともまだ明らかでない物であり、つまり迷われた部分のある物と言う事で、空気中の迷いを斬る事でそれを知り、そして斬ろうと思っていたのだが、それは今の所全くもって上手く行ってなかった。
とりあえず、と、妖夢はむき出しの白楼剣を納刀。
代わりに、権兵衛を斬った剣である、楼観剣を抜刀する。

 まず妖夢は、常の通りに楼観剣を左手にとり、権兵衛を斬った時と同じように、逆胴に打ち込む。
空気分子が迷いと共に絶たれ、風の音がそれを知らせる。
あの時こうした事は、間違いである。
何故なら権兵衛がその実物取りではなく、しかも幽々子と気の合うような、暖かな善人だからだ。
しかし同時、あの時こうした事は、間違いではない。
何故なら妖夢は斬る事により、そういった真実を得たからである。
逆に斬らねば物取りと知った者を見逃す事になり、それは当然、正しくない事となる。
更には権兵衛を言う人を知らぬままであり、物取りだからと言って確証の無いまま斬る事の間違いをも、知らぬままであった。
故に妖夢は権兵衛を斬った事を申し訳なく思うと同時に、ある部分、肯定する。
そこまではいい、魂魄の剣の道理の通りである。
真実は斬って知る。
妖夢は斬って真実を得た。
斬撃とは、それだけであるべきである。

「……だけど」

 だけれども。
それだけでは、無かった。
あの時妖夢は、何と言うか、表現すべき言葉が見つからないのだが、奇妙な感覚をも得ていたのだ。
心の痛みだとか、罪悪感だとか、少なくともそう言うのではない、と、妖夢は思う。
それは斬撃の後に来る物であり、その感覚を妖夢は知っており、だから違うと分かる。
では果たして、何だったのだろうか?
その奇妙な感覚は、確かにあったと言う記憶はあるのだが、試しに権兵衛を斬った時を再現してみても、蘇らない。
ただただ追憶の中にあるだけで、その掌に必ずあった感覚は、まるで幻であったかのように、掴めない。
斬れない物はあんまりない、とはかつての妖夢の言であったが、幻もまた、今の妖夢には斬れず、真実を知れない物である。

 じりり。
土を踏む、音がする。
その体重から誰が来たのか察し、あーあ、と妖夢は内心で呟きながら、楼観剣を納刀した。
結局その謎の感覚は分からないままに、妖夢の朝の鍛錬は終わりである。
どうすれば分かるのやら、と、ため息混じりに内心で呟くと、その人物の方へと振り向いた。

「おはようございます、権兵衛さん」
「あぁ、おはよう妖夢さん。えっと、訓練の邪魔になっちゃったかな?」

 そんな事はありませんよ、と返しつつ、妖夢は近づいてくる権兵衛に、ぴん、と左手の人差指を立てて言う。

「それより権兵衛さん、朝から散歩と言うのは健康的で宜しいですけど、自分が怪我人だと言う事を、忘れてませんか?
もし、何かのはずみで怪我が開いたら、どうするんですか。
何処に居るのか分からないんじゃあ、助けられようが無いじゃないですか」
「いやぁ、ごめんごめん、ちょっと昔に、夜の散歩が日課だった頃があってさ、なんだか朝目覚めてみると、それが懐かしくって。これからは自重するよ」

 頭を掻きながら言う権兵衛は、非常に優しい人だ、と妖夢は思う。
何せ物取りと間違えて腹を斬られて、それで土下座されただけであっさり許してしまうなど、お人好しにも程が過ぎる。
その上、他人の事は兎も角自分の事にはだらしない所があり、長時間目を離すのはぞっとしない、案外手のかかる人である。
だと言うのに、遣る方無い事に、この男、幽々子と共に妖夢の事をからかってくるのだ。
その辺少し幽々子に似ている所があるが、しかし幽々子と違い、権兵衛の方は考えている事が結構分かりやすく、しかも、何と言うか、「全くもう、仕方が無いなぁ」と思わせるような感じの人なのである。
その仕方が無いなぁも、呆れると言うよりは親しみを感じさせるもので、そう、何だか、世話焼かれ上手な男なのだ。
当然世話焼き上手の妖夢としては好感を抱かぬ筈も無く、反面、斬ってしまって本当に申し訳ない人なのであった。

「えっと、じゃあ、そうだな、ちょっと妖夢さんに聞きたい事があるだけど、いいかな」
「? どうしたのですか?」

 内心で自省を新たにしていた妖夢であったが、権兵衛の言葉に、面を上げる。
それが目的で散歩していたのだろうか、と思いつつ、耳を傾けるに努める。

「妖夢さんは昨日、いや一昨日になるのか、俺が君を許した時にだ、幽々子さんは君に、自分で罰を考えるように言っただろう?
その、もし邪魔でなければなんだけど、その罰を考える事について、俺が何か、力になれれば、と思って」
「………………貴方って、人は」

 開いた口がふさがらない、とはこの事か。
一体この人はどこまで人が良ければ気が済むのだろうか、と、妖夢は呆けたままに思う。
なんだかもう、この人を放っておくのは、それだけで気が引けるように妖夢には思えてきた。
何せお人好し過ぎて、頼まれれば自分の生活を削ってでも、どんな事でも出来る事ならしてやろうとするのではあるまいか。
呆れると共に、自分の世話焼き心がびんびん刺激されるのを感じながら、やっぱり、仕方ないなぁ、と妖夢はため息をつくのであった。

「全くもう、幽々子さまは私が自分で罰を考える事として、あの場を収めたのです。
だから貴方の力を借りては、今度は、貴方の許しを受け入れた事までもがなくなってしまうし、やっぱりそれは、正しい行いではありません。
と言うか権兵衛さん、貴方は他人の前に、自分の事を考えてくださいよ。
料理を全然できないのも勿論、お作法だって、昨日、嫌い箸を一杯してたじゃないですか。
せめて、此処に居る間に、お食事の作法ぐらいは覚えていってもらいますからねっ」
「うっ……」

 やっぱ来なけりゃ良かった、と言う感じに呻き声をあげる権兵衛に、内心でちょっと妖夢の心が晴れる。
何せ幽々子の方はたまに注意する事があっても、それが通じているのかどうかすらも掴み所が無く、注意のしがいが無いのだが、こうやって反応を得られると、自分が矯正してあげなきゃ、と言う気持ちがもりもり湧いてくるのである。
何せこの人は、お布団を畳むのもちょっとだらしない形になってしまうし、着物の着方だって、何だかよれっとしている部分がある。
そのくせ他人の手伝いは得意なようで、食事の時など、お代わりなどで妖夢が席を立っている後ろで、幽々子の欲しい食べ物を目で察して取り分けてやる所など、実に堂に入ったものであった。
全くもう、と、もう一度心の中で唱えながら、半歩下がる権兵衛に、微笑みながら妖夢は声をかけた。

「さて、そろそろ朝食の用意を始める時間です。
途中まで送りますから、大人しく部屋に戻ってくださいね」
「……はい」

 しゅん、と項垂れた権兵衛を見ると、幽々子と一緒にやりこめられた仕返しができたようで、ちょっとだけ嬉しい。
口角をもう少しだけあげながら、先に歩みだす権兵衛の背へ追いつこうと、妖夢は歩き始める。
その際体からすっと力を抜き、自然体になる。
チン、と、音がした。
ふと音源を見れば、右手と右手が握る楼観剣の鞘であり、音の種類は金属的で、丁度鍔鳴りの音であったかのように思えた。
至極当然、力が抜ける以前は楼観剣は鞘に収まっていなかったと言う事になり、つまり、それは。
ごくりと、思わず妖夢は唾を飲む。
今自分は、一体何をしようとしていた?
楼観剣を鞘から覗かせ、一体権兵衛をどうしようとしていたのだ?

 息を吸うのが、酷く重苦しいように妖夢には感じられた。
肺が重力に引かれ下がるような感覚を得ながら、妖夢は、思う。
もし。
もし今自分が楼観剣の鯉口を切っていたなら、多分、あの奇妙な何らかの感覚を得ていただろう。
それは果たして、そのはっきりしない感覚を確かめたいだけなのだろうか。
それだけの為に、無意識に、あのお人好しで世話焼かせ上手な権兵衛を、斬ろうと思えるのだろうか。
ひょっとして、あの感覚を確かめたいだけではなく、単に、あの感覚それ自体を得たいと思ってしまったのではないだろうか。
もし、そうなのだとすれば。
何度も繰り返したいと思い、欲求を刺激する感覚の名を、妖夢は知っている。
だから、思うのだ。
思って、しまったのだ。

 ――魂魄妖夢は、権兵衛を斬る事で、快感を得ているのではないだろうか。



      ***



 白玉楼の滞在も三日目になる。
流石に俺も此処の間取りを覚え始めてきて、ついつい昔の――と言っても、俺は生まれ変わって半年なのだが――ように散歩に出てしまい、ついでに妖夢さんの自罰に関して手伝える所があれば、と彼女を探してみる事にした。
見つけたのは、剣の鍛錬に打ち込む妖夢さんだった。
成程、幽々子さんへの剣の指南役、と言うのも納得できる、凄まじい剣技であった。
感心しつつも、邪魔をしてしまった事に悪い気がしつつも、何か俺にできる事は、と聞いてみた所、俺が世話をするどころか、むしろ自分の心配をしてくさい、大体貴方は云々、と説教をされてしまい、逆に世話を焼かれてしまったようで、参ったなぁ、と思いつつも朝食に集まり、終えた。
食後のお茶を愉しむ幽々子さんに付き合うと同時、洗い物を手伝える身分に無い事がなんだか体が痒いような感じで、楽だから良いのやら、心が焦れて悪いのやら、複雑な感じを幽々子さんの笑顔に癒されている所であった。
洗い物を終えて戻ってきた妖夢さんが、すっと腰をおろすと、幽々子さんへ向かって言う。

「幽々子さま。少々、お話があるのですが」
「何かしら、妖夢?」

 言葉をかける妖夢さんの表情は、何やら深刻そうな顔であった。
さてはて、妖夢さんの深刻な事情と言うと、俺の知る物では自罰についての事であり、それは朝に手伝う事を断られた事であった。
もしかして既に決めてあったから俺の助けが要らなかったのかと思うと、安心する反面、手を貸せなかった事が歯痒くもあり、内心複雑である。
それはともかく、この場合俺はこの場に居ていいのやらどうなのやら、とりあえず腰を浮かそうとするものの、妖夢さんがすぐに居て構いません、と制するので、浮いた腰を落とす次第となった。
とりあえず事情が分からないので、妖夢さんと幽々子さんの顔を視線が行き来する事になる。

 妖夢さんの方は、触れれば斬れるような、真剣のような面立ちだった。
常の青い瞳を幽々子さんへ真っ直ぐと向け、口はびしっと一文字を描いており、姿勢を見ると、礼儀正しく正座している筈なのだが、何処か前のめり気味な感慨を受ける。
対する幽々子さんは、余裕ある表情のままであった。
柔和な線を描く眉と共に血色の瞳で妖夢さんの視線を受け止め、悠然と構える様は、まるで大きな山のように存在感があり、女性に言うには不的確な比喩であるのだが、どっしりと構えている。
とか思ったら一瞬ジト目で睨まれたしまったので、思わず目を見開きながらも、軽く頭を下げておく事にした。
などと馬鹿なやり取りをしているうちに、覚悟が決まったのであろう、妖夢さんが重い口を開く。

「刀を――絶たせていただきたい」

 思わず、視線を妖夢さんの腰の二刀にやってしまった。
刀を。
朝、あれほど見事な太刀筋を見せていた、刀を。
どれほどの年月を注ぎ込まれればあれほどの剣技を成せるのか、素人目にもそれが絶大な物と分かるほどのそれを。
断つ、とは。
一体どんな決意を持ってなされた言葉なのか、測りかねる俺を尻目に、幽々子さんが言った。

「それは……先日言った、貴方自身で考える罰なのかしら?」
「いえ。それとは別に、理由があるのです」
「なるほどね」

 うんうん、と、何か納得したように幽々子さんは頷くのだが、俺にはさっぱり分からなかった。
自罰でないのなら一体どんな理由で、刀を断つなどと言う事になるのやら。
それで通じ合っているのなら俺も主従の深い関係故なんだなぁ、と軽い嫉妬を覚えつつ眺めていられただろうが、妖夢さんの方も、説明を求められると思っていたのだろう、肩透かしされたような表情だった。
矢張り幽々子さんは、時々分からない。
割りと気の合う方だと俺は思っているのだが、それでもこういった、ふわふわした感じの良く分からない言葉が出てくる事がある。
だからと言って俺が彼女に感じる好感は一片足りとも削れる訳でも無いのだが、少し寂しい物があると言われれば否定できない。

「構わないわ」

 と、短く幽々子さんは告げた。
そのあっさり加減に妖夢さんは目を白黒させているようだったが、暫く間を置くと、ありがとうございます、と幽々子さんに頭を下げ、退室する。
さてはて、結局のところ、俺には何の事情も分からなかった。
何やら深刻そうな事情であるので、可能であれば協力をしたいのだが、事情の中身が分からなければそれも叶わず、そも、俺が手を出す事そのものが害悪となる可能性すらある。
なにより、それを幽々子さんへ聞いて事情へ立ち入ろうとする事が、不躾ではないかと言う不安もあった。
俺はこの三日、まるで家族のように親しく二人に歓迎してもらえたのだが、それでも真実に同じ家に住む家族では無く、外部の客と言う立場である。
であるのに家族の間にあるのかもしれない深刻な問題に立ち入って良いかは、疑問だ。
と言っても、そればかりは問題を把握しているらしい幽々子さんへ聞くしか、俺に知る手段は無い。
何せ人の心の問題には随分長いこと付き合いが無く、と言うのも、そも人間の顔を見る頻度すら低い物なのだから。

「幽々子さん。その、少々聞いていいでしょうか?」
「何かしら? 権兵衛さん」

 幽々子さんの言葉は相変わらずの暖かな調子を保っていて、それに俺の不安は、僅かながら和らげられる。

「妖夢さんが刀を断つ、と言う事なのですが。
気まぐれだの訓練だので言ったんじゃあなく、多分彼女に何らかの問題があって、その解決の為に刀を断とうとしているぐらいは分かります。
その、お世話にもなりましたし、出来る事なら、俺は、彼女の力になりたい。
でも、何せ俺は彼女が刀を持つ理由さえ聞いていないので、それに俺が立ち入って良いものなのかすら、分からないのです。
もし分かっておいででしたら、俺が彼女の力になろうとする事が、彼女にとって害悪になるかどうか、教えて頂けないでしょうか」

 幽々子さんは、ぱちん、と音を立てながら、扇子を開いた。
口元を隠し、柔和そうな瞳で俺を見ながら、扇子を左右に揺らす。

「……つまり権兵衛さんは、許される事であれば、妖夢の力になりたい、と」
「はい」
「なら、権兵衛さんが妖夢の事をどう思っているのか、聞かせてもらえないかしら」

 表情は穏やかなままであったが、言葉の調子は、僅かに鋭い物が混じっていた。
俺は、きっとこれが正念場になる、と内心で言い聞かせ、胸をはる。

「俺は然程頭が良くないので、一言には纏められないですが。
そうですね、真っ直ぐで、その目の前では、背筋を伸ばしていたくなる子だと、思っています。
と言っても、妖夢さんからするとまだまだ背筋が曲がっているみたいで、何時もお説教されてしまいますけれど。
でも、その何倍も世話になっていて、だから、叶う事ならばその分の恩を返して、対等に、目の前に立っていたい子だと。
できる事なら、友人としてありたいと、思っています」

 それは、本心だった。
勿論俺が彼女に劣等感を感じているのも事実だし、それ故に顔を合わせると自分が浮き彫りにされるようで、心苦しい部分があるのも確かだ。
しかしそれ以上に、俺は彼女の真っ直ぐさに感銘を受けていたし、細かい事で世話になって恩を感じていた。
だからそれに対して恩を返したいと思うし、彼女に精神的に何か問題ができたと言うのなら、それを解決できるよう力を貸したいと思っている。
俺の言葉を受け取り、幽々子さんが、目尻をすっと下げた、ような気がする。

「くすっ、なら私は友人と思われていないのかしら。それじゃあ私の心も荒野そのものよ、ぐすん」
「いえいえ、とんでもない、叶う事なら友人でいたいと思っているし、幽々子さんの心の潤いとなりたいと思っていますよ」
「なら、人生の友情を確かめ合おうかしら?」
「昼間からとは風情がありますね、と言いたい所ですが、このまま妖夢さんを追いかけたいので、遠慮しておきますよ」
「あらら、乾杯は次の機会にね。じゃあ、妖夢の所へいってらっしゃい」

 およよ、と口元を着物の裾をで隠す幽々子さんには申し訳ないが、実際、このままお酒を飲んで記憶を無くす訳にはいかないので、勘弁してもらう事にする。
と言うか、昨日飲もうとしたら妖夢さんに怒られたし。
臓器が傷付いたばっかりだろう、って。
兎に角妖夢さんを追いたいので、席を立ち、一度礼をすると、俺は襖を開けて、とりあえず朝見かけた辺りを目指して歩き出す事にする。
後ろ手に襖を閉める時、ふと、こんな声を聞いたような気がした。

「そう。なら、いいわよね」

 何が良かったのかよく分からないが、幽々子さんにとって何かが良かったのなら、とりあえず良かったのだろう、と結論づけ、俺は妖夢さんの方へと向かう事にする。



      ***



 幽々子は、妖夢の所へかけ出していった権兵衛の後ろ姿を目で追った後、ふぅ、とため息をつきながら縁側へと視線を向けた。
白玉楼はコの字型に庭を囲んで造られた屋敷であるので、どの部屋からでもよく整備された庭が見え、この部屋からも玉砂利が敷き詰められ、桜の木々が青々と茂る庭が見える。
その静けさに心を落ち着かせながら、権兵衛の前では隠していた、僅かに赤くなった頬を顕にする。
もう一度、ふうっ、と、ため息。
逃げてゆく幸せ以外にも甘酸っぱさがたっぷりつまったそれを空気中に放出しながら、幽々子は考える。

 妖夢が刀を断つと言うのは、理由まで分からないものの、妖夢の顔を見れば彼女が迷いを持った故の言葉であった事が分かる。
であれば、これは妖夢の人の部分が成長するのに必要な事なのだろう。
なので、幽々子としてはこれで妖夢がどうなることかについては、あまり心配していない。
権兵衛も居る事だし、妖夢は妖夢なりに考えて、何らかの答えを出すだろう。
あの子はいつもそんな真っ直ぐな子だ。

 それより問題は、と幽々子は思う。
幽々子が権兵衛を死に誘いたい、と思っている事だ。
そも、幽々子が人妖を死に誘おうと思う事は、そこそこ頻繁にあった。
あったと言う事は過去形であり、死に始めた時に浮かれてついつい命を死に誘いまくった頃があっただけであり、実のところ最近はそうでもない。
さて、その死に誘う理由だが、いくつかある。
好奇心から、と言うのが頻繁だった頃の主な答えであったが、それ以外は、親しくなった命を寿命やら何やらで逃すのが嫌で、なら死に誘い、閻魔の裁判を省略して冥界に住まわせればいいではないか、と言う事からが多い。
その他にも気になったから何となくとか、割りと我侭な理由も多いが、兎も角として、親しさがその理由である事が多い事が事実である。
ならば権兵衛に対して死に誘いたい理由は、それ故なのか。

 違う。
少なくとも、それだけでは無い、と、幽々子は思う。
と言うのも、もしそれだけであったらとっくに幽々子は権兵衛を死に誘い、冥界の住人としているだろうからだ。
その程度には幽々子は我侭な生き方――死に方をしてきたし、それはこれからも変わらないだろう。
だが、権兵衛を死に誘うのに、幽々子は未だ躊躇をしていた。
そしてそれは、何というか、初体験の感情であるので、幽々子にはまだどうにも処理できないのである。

 全く、妖夢を半人前なんてばかり言ってられないわね。
内心でつぶやきつつ、胸の内よりは温度が低いだろう、温かいお茶を嚥下する。
それでも体がぽっと暖かくなるのは止められず、亡霊だと言うのに今の幽々子の体温は少し高い。

 ならば、と幽々子は権兵衛に対して抱いている思いを、分析してみる事にする。
親しみは、ある。
それも長い付き合いの紫と肩を並べるぐらいに、不思議と幽々子は権兵衛に心を許していた。
彼とお茶をするのはそれだけで心おどるし、会話も一度飛び交い始めればぽんぽんと調子よく出てくる。
酒の方は、まだ彼とは体調を理由に交わしていないが、それは世にも楽しい事になるだろうと言う予感があるし、それを思うと存在しない筈の胸の鼓動が主張してくる。
それになにより、沈黙が全く苦痛では無いのだ。
二人で縁側に座り、間に茶と茶菓子を置いて、蝉の鳴き声一つしか無い沈黙を聞くだけであっても、体温がすぐ隣にあると言うだけで、何だか心がほっとする。
時たま視線が絡まりあうのも、茶菓子に伸びた手が絡むのも、何処か暖かく、心地が良い。

 では、他に感情は何を持っているのか。
う~んと首を捻ってみるが、思いつかない。
そりゃあ権兵衛が自分と同じく過去の自分が無いと言うのは親近感を感じる事だが、それ以外の感情を感じる物では無いのだし。

 ならば逆に、どんな感情を持っていれば、権兵衛を死に誘いたくも誘わない、と言う事になるのだろうか。
とりあえず、今すぐに権兵衛を死に誘う事を想像してみる。
見た所霊力や何かの資質は中々ありそうな男であるが、少なくとも今はそれは開花しておらず、ただのなんてことない人間だ、死に誘うのは簡単だろう。
恐らくは何の抵抗もなく権兵衛は亡霊になり、閻魔の裁判を通る事無く冥界に在住する事になるだろう。
ちょっと足が無くなり下駄の音を響かせる事が出来なくなるかもしれないが、困るのはそれぐらいで、ここ数日と変わらぬ毎日が続くに違いない。
一緒にお茶を飲んで、ご飯を食べて、妖夢を弄り倒して……。
それらが期限付きではなく永遠にできる事になるのだ、権兵衛も歓迎してくれるに……違い、無い、だろうか?

 突如生まれた疑問詞に、幽々子の記憶が蘇る。
親しくなった相手と寿命のない付き合いをしたくて死に誘った事は、両手の指では数えきれない程度にはある。
中には当然のごとく幽々子と仲良しのままの相手も居たが、中には逆に幽々子を蛇蝎のごとく嫌うようになった相手も居た。
そんな時は幽々子としては不愉快なので、その相手の事を忘れるなり、輪廻の輪にぽいっと戻してやるなりする事で対処してきたのだが。
よくよく思えば、権兵衛もまた、幽々子の事を嫌う可能性があるのではないだろうか。

「――あっ」

 それは天啓に似ていた。
すっと幽々子の頭の中が晴れ渡り、今まで疑問と言う雲が覆っていた青空が一面に広がったような気さえする。
そう、幽々子は、あの天衣無縫の幽々子が、権兵衛に嫌われたくない、などと言う事を思うようになってしまったのだ。
先の乙女じみた動作さえも自分に似合わない、と思っていた幽々子であったが、これもまた、重ねて幽々子に似合わない所業であった。
西行寺幽々子は典雅で自由で何物にも縛られない女であった筈で、例え親しい相手でもどんな反応があるなんて考えるより先に、ずっと話せるようにと死に誘うような自分勝手な女な筈なのに。
なのに。
今はたった一人、なんてことないただの外来人相手に、嫌われる事が怖かった。

「あら、あら」

 思わず赤くなる頬を片手で抑えながら、湯のみに手を伸ばし、喉を湿らせる。
火照った思考を冷まそうとした行為であったが、お茶が温かいのが悪いのか、一向に思考が冷め止む気配は無い。
そればかりか、どんどんと体が暖かくなり、残暑も残り少ないと言うのに、幽々子の体はじんわりと汗を滲ませていた。
肉と肉の間を汗が滑り落ちてゆくのが、強く感じられる。
ほうっ、と吐いたため息には、さっきから甘酸っぱいものが含まれていて。
もしかして、これは、これは――。

「私は権兵衛さんに、嫌われたくない」

 ぽつりと、幽々子は口に出して言った。
ぶるり、と、今度は体温が下がったかのような錯覚に、幽々子は体を震わせた。
権兵衛、あの人の良い権兵衛が誰かを嫌う所など想像もつかないけれど、だからこそ嫌われてしまえば、人が変わったようになるのではないかと思ってしまう。
まるで、今までの数日が灰色になってしまうような、酷い変わり様に。
そんな想像をするだけで、幽々子は自身の体温が下がってしまうような錯覚に陥った。
亡霊だから常より体温は低い筈なのだけれど、それよりも幾度か余計に。
それは今までの熱に浮かされたような感覚より、常日頃に近い筈なのに、忌避感が募る。
だから、すぐに次の言葉を幽々子は口にした。

「あぁ、でも」

 と、言ってから、幽々子は次の言葉を探した。

「権兵衛さんは、言っていたわよ、ね」

 叶う事なら友人でいたいと思っているし、幽々子さんの心の潤いとなりたいと思っていますよ。
先の権兵衛の台詞を小声で反芻すると、再び幽々子の中に暖かな物が戻ってきた。
大丈夫、権兵衛は幽々子と友人でいたいと思っているし、潤いとなりたいと思っているのだ。
だから、大丈夫。
きっと死に誘ってあげても、笑って許してくれるに決まっている。
そう思うと、幾らか気が楽になるのを幽々子は感じた。
同時、権兵衛を死に誘おうと言う気持ちも、再び湧き出す。
そう、きっと権兵衛は死に誘っても許してくれる。
ならこの決心が揺るがぬうちに、権兵衛を死に誘うべきではなかろうか。

「時は金なり、かしら?」

 呟き、幽々子はふと人差し指で己の唇に触れた。
何故だか、己の唇に触れながら、権兵衛の唇を想像しているだけで、幸せになってきてしまう。
全くはたしないこと、と、自戒しつつも、幽々子は高まる体温に、うん、と呟いた。
もう一度、今度ははっきり口に出して。

「うん、決めた」

 すっと、幽々子の視線がちゃぶ台の上から昇ってゆき、外の、青々とした桜並木の交じる空へと向けられる。
決めた。
今は権兵衛が妖夢の相談に乗ってやっている頃だろうが、それが一区切りつく頃にはきっと権兵衛の傷も治っているだろう。
そして権兵衛が帰ろうとするだろうその時に、権兵衛を死に誘う。
冥界から出ぬままに、ずっと一緒に居られるように。
権兵衛は人の良い男だ、きっと妖夢も喜ぶだろう。
三人一緒に過ごす日々は、間違いなく楽しい物に違いない。

「楽しみだわ~」

 目尻を下げながら言うと、幽々子は再びお茶を啜り、その時が来るまで権兵衛の事を想って過ごす事に決めた。
何せ権兵衛ときたら万能で、居る時は居る時で素晴らしい時間をくれるのだが、居ない時は居ない時で、表情筋を自由にしながら権兵衛を思う時間もまた、格別に素晴らしい物であるのだから。



      ***



 人生を学校に例えるなら、そこでは幸福より不幸がよりよい教師とされると言う。
であらば、俺はよっぽど出来の悪い生徒であったのだろう。
どう少なく見積もっても幸福と同程度以上の不幸を味わっていると思うのだが、相変わらず、俺は人生と言う物に理解が足りず、人の問題に立ち入る事などできる精神的な力量は無かった。
それらの事実は、残念ながら俺であるから仕方ないの一言で説明が済ませてしまえる事実なのだが、問題は、だのに俺が今妖夢さんの抱える問題に手を貸そうとしている事である。
三人寄れば文殊の知恵とも言うが、難易度が高く回答の限られない問題は、多数の市民では無く限られたスペシャリストに解かせるべきとも言う。
さてはて、俺ごときには妖夢さんの刀を断つと言う話がどちらに属する問題なのか分からないが、しかしせめて前者である事を願いながら、妖夢さんの元へ向かう次第となった。

 縁側、朝と同じ庭の辺りを見渡す場所。
そこに妖夢さんが一人じっと正座しており、その腰には常にあった筈の二振りの刀は見受けられない。
刀。
俺を、斬った刀。
その事が妖夢さんの問題とやらに関連しているのであれば、恐らくは俺が対話する事で力にはなれると思うのだが――。
とりあえずそんな事は妖夢さんと話し始めてから考えれば良いので、俺は考えに耽ろうとする頭を振り、お盆の上にお茶を二杯入れて持って行く。

「妖夢さん、ちょっといいかな。お茶を入れてきたんだけど」
「あっ……はい」

 と、驚いた様子の妖夢さんを尻目に、妖夢さんとの間にお盆を置き、尻の下に座布団を敷いて座る。
しかしここに来てから、驚いた様子の妖夢さんばかり見ているような気がする。
はてさて、俺の何処がそんなに不思議な所なのだろうか、と内心首をひねりながら、まずは一口、お茶を口にする。
我ながらそこそこ美味い茶を入れられたと思うのだが、妖夢さんはと言うと、視線をふらふらさせて、兎に角俺を視界に入れないようにしながらすっと口にしただけで、お茶の味まで感じる余裕があるようには思えなかった。
俺の存在が妖夢さんにそうさせていると言うのは心苦しいのだが、しかし、かと言って口火を切らせる訳にもゆかないので、俺から口を開いた。

「妖夢さん、刀を絶った、と言う事なんだけど」
「あう」
「もしそれが何らかの問題があるからであって、もし、その問題に俺が力を貸せると言うのなら――、力を貸させてはもらえないかな」

 本当に微力なんだけれど、と付け加えて言うと、これまた畏まった様子で、妖夢さんはあたふたと視線を跳ねさせる。
こんな時、俺はこんな風に真っ直ぐにしか言葉を発する事ができない俺が、恨めしい。
もう少し語彙があれば回り回って妖夢さんに畏まらせず、リラックスさせた上で話を聞けただろうに。
それでなくとも、幽々子さんのようにふんわりとした雰囲気があれば、それだけでも。
望むべくもない事であるのは、事実なのだけれど。
と、俺の思考が何時もの陰鬱さに浸っている間に、妖夢さんが体制を立て直したようであった。

「その、ですが」
「うん」
「こう、刀を断つ理由と言うのが、ですね。ちょっと、権兵衛さんには聞かせられない類の物でして」

 眉を下げてしまうのを、俺はどうにか自制できていた、と、思う。
努めて和やかな――幽々子さんを思い出して、そんな雰囲気を作れるようにしながら、俺はこう返した。

「そう、か――」

 しばし間をおいて、俺はお茶に口をつける。
ちょっと予想していたのとは違う答えだった。
多分自分以外に聞かせる事に問題があるとか、そう言う話になるかもしれない、とは思っていたのだけれど、俺限定とは。
矢張り俺を斬った事を関係があるのだな、と思いつつ、しかし、ならば仕方ないと俺は自身を納得させる。

「なら、もし少しでも誰かに相談できる事があったら、俺でなくてもいい、その時は話してくれるかな。
君は真っ直ぐな子だから、誰かに聞くべき事は聞くだろうと思うけれど、それでも一応はさ」
「あ、はい……」

 縮こまってしまう妖夢さんに、これじゃあ妖夢さんを恐縮させに来ただけみたいで、何とも言えない気分になってしまうが、それも仕方ない。
とりあえずお茶をずずっと啜り、相変わらず上品な音が出せない事に内心凹みつつ、暫く間を置いてから立ち上がろうとした矢先のことであった。

「あ、あのっ、権兵衛さんっ!」

 身を乗り出すように突然叫んだ妖夢さんに、俺は動きを止める。
不謹慎な話なのだけれど、こうやって必要とされていると思うと、救われた思いだった。
と同時、何とも言えない気分になる。
と言うのも、俺はそも妖夢さんの助けとなるべく来た筈だのに、何故だか俺の方が妖夢さんの動作に救われているのだ。
これじゃあ、あべこべだ。
あべこべ、と言う言葉から一頻り出会い頭のやり取りを思い出し、ついでに妖夢さんの「みょん」を思い出して含み笑いを内心に浮かべ、それから俺は腰をおろした。

「なんだい、妖夢さん」
「その、例えば、例えばなんですけども」
「うんうん」
「魂魄の剣は、真実を知る為にだけあります」

 と、妖夢さん。
なんでも、真実は斬って知る、斬って真実を得た、斬撃とはそれだけであるべきだ、と言うのが妖夢さんの剣の理念の解釈らしい。
と言うか、妖夢さんの、魂魄の剣の解釈だとか。
俺の知る剣の理念など一撃必殺ぐらいで、他に比較するものすら無いので、とりあえず頷く事しかできない。

「で、です」
「うん」
「なのに斬る事に快楽を覚えてしまったなら――、どうすれば、いいのでしょう」

 ?
疑問詞で、頭の中が一杯になる。
えーと、これは、どういう事だ。
意味不明だった。
何時ぞや、氷の妖精が背負った釣竿の先の蝶を追って、目の前に人参を用意された馬のごとく、無限に前進し続けているのを見た時以来の意味不明度だった。
とりあえず俺は湯のみを傾けお茶を口に含み、一旦疑問詞ごと頭の中身を飲み込むに努める。
で、だ。
つまり、その、妖夢さんらしくストレートに解釈するならば。

「妖夢さんは、俺を斬るのが愉しかった――?」
「え!? い、いや、そういう訳じゃあないんですよ? ほ、ほら、ただちょっと、その、喩えって奴ですよ、喩え」
「………………」

 妖夢さん、分りやすすぎだった。
何と言うか、ストレートど真ん中過ぎやしないだろうか。
思わず呆然と開いてしまった口を、両手を使って閉じながら、しかし、と俺は思う。

「妖夢さんは、俺を斬るのが愉しい」
「い、い、いえ、違います、よ?」
「だとして、それが、どう問題なんだい?」
「――は?」

 今度は、妖夢さんが口を開く番であった。
あんぐりと大きく開いた口に、年頃の娘がはたしない、とも思うのだが、よくよく考えれば妖夢さんは俺よりずっと年上な訳で、この場合どう指摘すれば良いのやら、と考えているうちに、次ぐ反応があった。

「いやいや、だって、斬って得るのは真実だけで」
「妖夢さんの話だと、斬ってその後罪悪感を感じるのも、真実を得た故にでしょう? 快楽だと、それは違うのかい?」
「え? あ、いや――」
「いや、まぁ、俺の命にとっては少々問題なんだけれども」

 と言っても、相手がこの妖夢さんである、よっぽどの事が無ければ命に関わる怪我になど至らないだろうけれど。
そんな旨のことを付け足す俺に、彼女はぱくぱくと言葉なしに口を開け閉めして、暫くしてから言葉を飲み込み、顎に手をやって考えこみ、それから怖ず怖ずと口を開く。

「えっと、確かにそうかもしれないです」
「うん」
「でも、権兵衛さんは、信じる事ができるのですか?」
「ん?」
「勘違いをして貴方を斬ってしまった私が――、今度こそ、貴方を斬って命を奪わないと」
「うん、信じられるよ」

 ひう、と、息を飲む音が聞こえた。
目を白黒させ、ぱくぱくと口を開く妖夢さんは、そんな馬鹿な、とでも言いたげにしているけれど、本当にそう思えているのだから仕方が無い。
だから俺は、彼女の目を真っ直ぐに、見据える。
それが彼女自身が持つほどに真っ直ぐでない事が、どうにも申し訳ないのだけれど、それは仕方が無いので我慢してもらうほかなく、全く俺と言う男は、なんともしがたい男なのであった。
だからせめて、言葉だけでも、真っ直ぐに。

「いや、そりゃあ、俺自身ちょっと奇妙にも思う部分だってあるけどさ。
斬られておいてそう考えられるって言うのは、ちょっとおかしいかもしれないけれど。
でも、どうしたって、俺には君が、快楽などに負けて、見境なく剣を振り回すような子には、見えないんだ」
「………………」
「俺は、君を、信じられるよ」

 重ねて言うと、妖夢さんは、そのまま視線を下にやる。
暫く俺は彼女の顔を見続けていたのだが、そこに光る物を見やってからは、視線を庭にやり、茶を啜るだけに努めた。
蝉のなく音に混じって、水滴の落ちる音が一つ二つ、混じる。
局地的な雨の降る音を聞きながら、二、三茶を啜った後、俺は妖夢さんを一人残して、その場を去る事にした。
これ以上の言葉と言う物は、無粋であろう。
粋を感じる心の無い俺にでも分かるほどに、それは自明の理であった。



      ***



 白玉楼の滞在四日目の午前。
そろそろ傷も癒えてきて、もうすぐ俺もあのほったて小屋に帰ろうかとなってきたその頃、俺と幽々子さんと妖夢さんは、三人でちゃぶ台を囲い、お茶を飲んでいた。
互い、小皿に分けた幾つかのまんじゅうをつまみながら、この数日の事を回想し、ぽつぽつと言葉を重ねる。
そうやっていると、何と言うか、もうこの白玉楼の生活も終わりになるんだなぁ、と言う思いがあって、何とも寂しげな感じだ。
しかし、この人達とならばきっと新たな関係を作って行ける、と言う思いがあって、だから同時に、安堵と言うのも変だが、そんな感じの感情もあり、複雑な次第なのであった。
と、複雑な話と言えば、と、思い出す。

「そういえば、妖夢さんのみょんって結局何だったんだ?」
「みょん」

 三度奇声を漏らす妖夢さんに、思わずその顔を覗き込むと、真っ赤にして縮こまっていた。
とてつもなく悪戯心を刺激する表情である。
もりもりと沸き上がってくるそれに、はて、どうすべきか、と幽々子さんに視線をやるが、どうやらみょんと言う言葉の内容は秘密らしく、ウインク付きで人差し指を唇にやっていた。
それがとても魅力的な表情であったので、仕方あるまい、と肩をすくめ、乗り出し気味だった体を戻していると、助け舟を幽々子さんが出す。

「妖夢~、お茶お代わり頂戴」
「あ、はい、ただいまっ」

 と言う事で、謎の敏捷性を見せてこの場を去ってゆく妖夢さんを目で追い、後ろ手に襖を閉めてゆくのを見届けてから、何となく幽々子さんと目が合う。
これまた何となく、くすり、と笑みが湧いてきて、お互い微笑み合う次第となった。
暫くくすくすと笑みを漏らしていると、不意に、幽々子さんの手がちゃぶ台の上の、妖夢さんの小皿へと伸びる。
三つ残っていたまんじゅうを、ひょい、ぱく、ひょい、ぱく、ひょい、ぱく、とあっと言う間に平らげてしまった。
この数日見慣れた筈の健啖ぶりに改めて関心していると、お茶でおまんじゅうを流しこんでいる幽々子さんに、じと目で睨まれてしまう。
いや、別に健康的で良いんじゃないかと、と言うのが正直な感想なのだが、視線がどんどん強くなるのに負けて、ごめんなさいと頭を下げた。
それから頭をあげると、見間違いか、一瞬幽々子さんの頬が赤く染まっていたような気がして、この人も可愛い所があるんだなぁ、と、関心していた辺りで、妖夢さんがもどってくる。
入れてきたお茶を幽々子さんの湯のみに注いで、それから自分も、と言う所ではたと気づく。

「……幽々子様。私のおまんじゅうは、一体どうしたんでしょうか」
「おまんじゅうに足でも生えて、何処かに歩いていっちゃったんじゃあないかしら」
「そりゃあ随分食べにくそうなおまんじゅうですね」
「あら、いらないの? おまんじゅう」

 と言って俺の小皿にも手を伸ばしてくるので、足が生えて来たら怖いですから、と小皿を差し出した。
それは怖い怖い、とおまんじゅうを攫ってゆく手際をぼんやり見ていると、妖夢さんの方は主の様子に何とも恥じ入った様子で縮こまっている。
さっきは幽々子さんが助け舟を出した筈なのになぁ、と、苦笑気味にお茶を一口。
さて、ちょうど全員のお茶菓子も無くなり、後はお茶を飲むゆっくりとした時間だけである。
そして俺の懐には血を拭ってもらった財布があり、傍らには妖夢さんに作ってもらった弁当がある。

 つまりは、そろそろ俺の傷も癒え、旅立ち時である、と言う事だ。
結局、俺はこの人達と仲良くなれたとは思うけれど、しかし、果たして、これから会う機会ができるのかどうか。
妖夢さんは兎も角、幽々子さんは此処の主であり、出かけるのは宴会に呼ばれた時程度で、里に出る事は滅多に無いそうである。
とすると、貧乏臭い俺の家に招くなどできそうもない事から、幽々子さんと会える機会は、彼女に呼んでもらわねば無い事になってしまう。
仕方ない事だ、と言えば仕方のない事である。
何せ片や冥界の管理を任されるほどの地位にある亡霊姫、片や俺はと言えば、貧乏で、里の嫌われ者の、恐らく幻想郷で最底辺近くに生きる外来人だ。
当然、その間には計り知れない程の距離があり、今日こうやってお茶をしている事すら、奇跡に等しい事柄だろう。
これから出会う機会など、まず一生無いと言っても過言では無い、と言うのが道理である。

 しかし俺は、それでも尚、この人達とまた会いたかった。
分不相応な考えだと分かっているのだが、しかし度し難い事に、俺は彼女らに再び茶や酒宴に誘ってもらう事を期待しているのだった。
当然、ならば聞いてみればいいのだが、それも簡単に行かない。
彼女らの懐の広さはこの四日間で見て取れたし、それを思えば、まず間違いなく俺を受け入れてくれるに違いないが、しかしそれで彼女らに悪評が立っても困る。
何せ、俺である。
この、俺である。
人に嫌われる達人で、善行を積もうが悪行を積もうが人に嫌われる事のできる、俺である。
そんな俺を受け入れてくれたとして、彼女らにどんな悪評が立つか分からないのだ。

 と、そんな陰鬱な事を考えながら茶を飲んでいると、ふと、幽々子さんと目が合い、にこり、と笑いかけられた。
胸が、熱くなる。
それが何ともふんわりとした笑みで、俺の考えをまるごと包みこんでくれるような、懐の深い笑みであり、何だか今まで俺の考えていた事が、とてつもなく小さな事であるように思えてくるのだ。
と、言うか。
改めて考えると。
幽々子さんは浮世離れしている事もあって全く気にしないだろうし、妖夢さんの真っ直ぐな気質は、だからどうしたと言わんばかりの受け取り方をしそうな気がする。
……何だか、肩の荷が下りたような、すっと楽になる感覚があった。
硬くなっていた姿勢から自然と力が抜け、見えない繰り糸が背中から外れたような気さえする。
聞いてみよう。
自然にそんな言葉が浮かんできて、俺は、それに身をまかせるままに口を開いた。

「その、幽々子さん」
「? なーに?」
「今回の滞在では、古いほど良いあのお水を交わせなかったですけど。その、次には――、乾杯をしに、お邪魔させてもらってもいいですかね」

 すると、幽々子さんは、一瞬きょとんとしてから、笑みを更に深くして、

「――勿論。楽しみだわ~」

 と、答えてくれた。
俺は、体温が顔に集まるのを感じ、これ以上視線を合わせていると発火しかねないので、幽々子さんから視線を逸らす。
目頭に熱い物がこみ上げてくるのを、幾度か瞬く事によって抑え、肺の中の熱い空気を、深呼吸して入れ替える。
それでやっと言葉を発する事ができるようになり、俺はようやくのこと、返事を返す事ができた。

「ありがとう、ございます」

 と言っても、それで俺が返せる言葉はいっぱいいっぱいで、と言うのも、さっき深呼吸して入れ替えたばかりだと言うのに、温かい物で胸の中が一杯で、他に何も入らなかったのだ。
俺は、思う。
何時か、何年かかるかは分からないし、ひょっとしたら可能かどうかすらも分からないけれど。
何時か、彼女たちに招待されるのではなく、俺の方から彼女たちを招待する事をしてみせよう。
勿論今のままに、床に直接座らせるような家にでは無く、ちゃんとした家を作り、此処ほどではないにしろ、整った場所で。
酒なりお茶なりを、きちんと用意して、せめて、只人の招待と変わらない程度には豪勢にしてみせて。
それは正直かなり難しく、ひょっとしたら冥界に住む彼女らと死んでから出会う方が先かもしれないけれど。
でも俺は、何時か彼女らを招待してみせようと、思うのだ。

 ――………………。
感極まってから、幾らか時間を置いて。
突然沈黙した俺と幽々子さんに、どうしたのだろうと思案顔になっている妖夢さんに癒されながら。
ついに、俺が旅立つ時間がやってきた。
妖夢さんの作ってくれた弁当片手に、白玉楼の玄関に立つ。

「妖夢、遅いわねぇ」

 と、幽々子さんの言う通り、人里まで案内してくれると言う妖夢さんを待っている所であった。
からんからん、と履物の音を響かせるのを聞いて、そういえば幽々子さんが外を歩いているのは初めてみたな、と思い、この際目に焼き付けておこうと、数歩下がって幽々子さんの全体を見ようとする。
すると、何を思ったのやら、つつっ、と、俺が下がった分だけ幽々子さんが寄ってくる。
美人に寄られて嬉しいのだが、足元まで目に焼き付けようと思った俺としては、なんとも複雑な気分である。
ので、もう一度、数歩下がる。
つつっと、幽々子さんが寄ってくる。
思わず、幽々子さんの顔を覗き込むと、こてん、と愛らしく首を傾げられてしまった。
うむ、かわいい。
じゃなくて。
ころっと絆されそうになっていた俺は頭を振ると、もう一度数歩下がる。
幽々子さんが寄る。
数歩下がる。
幽々子さんが寄る。
とやっていて、丁度円を描いて一周してしまった辺りで、妖夢さんが戻ってきた。

「お待たせしましたっ……って、お二人とも何をやっておられるんですか?」
「いやぁ」
「何となく、かしらねぇ」

 何となくらしかった。
まぁ、そんな感じなので、俺も頷いておく事にする。
と、そこで俺は妖夢さんの腰に揺れる二振りの刀を見つけて、あ、と呟いた。
俺が気づいた事に気づいたのか、妖夢さんは、ぽん、と腰の刀に手をやり、花咲くような笑顔を見せた。

「はい。この度を持って、再び刀を持つ事にしました」
「そうか。……良かった」

 万感の思いと共に、言葉を吐き出す。
すると思いの丈は同じだけあったようで、同じようにして妖夢さんも口を開いた。

「はい。これも、権兵衛さんのお陰です。
今にして思えば、私は、権兵衛さんを斬った時、斬る事に快楽を覚えてしまった事に、罪悪感を抱いていたのです。
それはとても大きな罪悪感で、真実を覆い隠してしまうぐらいに大きかったのでしょう。
だから私は、斬る物を失った己の剣を、信じられなくなった。
でも、権兵衛さん。貴方が、教えてくれました。
それでも真実は変わらないと。
私の剣は、依然そこにあると。
簡単な事だったんですよね。
今まで通り、斬って感じる事が真実で、斬って得る物はそれだけ、快楽はその真実の内側にあるものに過ぎない、と。
本当簡単な事で、何で今日一日、私は気付かなかったんだろう、って思って、その、逆に、そんな事に簡単に気づける権兵衛さんが凄いって思いまして、その。
えーと、それに、半人前の私をでさえ信じてくれるって当たり前のように言ってくださって、それで私の罪悪感が初めて拭えて、真実がみえて、だから、その。
と、兎に角、ありがとうございますっ」

 と、最後には本人も何が何だか分からなくなっているんじゃないだろうか、と言う感じの、感極まり方だった。
自然、幽々子さんと目が合い、くすりと微笑む次第となる。
このくすり、も暫く無いのだと思うと寂しさの漂う物になるが、俺はその寂しさを内心に押しとどめ、口を開く。

「こちらこそ、君の力になれたみたいで、良かったよ」

 と言うのは本当に事実で、この真っ直ぐな少女の力になれたと言う事実は、確実に俺の自信となっていた。
何せ、俺が幻想入りして以来、人の力と言えば借りているばかりで、こうやって人の力になれたと言うのは、多分初めてと言っていいぐらいなのだ。
むしろこっちの方から、力にならせてくれてありがとう、と言いたいぐらいなのだが、それは流石に困らせてしまうだろうと自重するに努める。
これで礼の方も満足いったようで、妖夢さんは、はしゃいだ子供のような足取りで、こちらの方へ向かってきた。

「では、行きましょうかっ」
「うん、そろそろ………………」

 行こうか、と。
そう言おうとした所で、がくん、と膝の力が抜けてしまった。
遅れてぱくり、と肉の開く音がし、血がぼどっと落ちる音がする。
頭の中がすーっと澄み渡ってゆき、額が奇妙に涼しい。
落ちた膝をつくと、地面の方からこちらへと迫ってきて、手でそれを抑えようとするのだけれど、叶わず、すぐに肘を折り顔を地面につける事となる。
残暑の日照で熱くなった玉砂利が、頬の形を変えた。
誰かの絶叫が聞こえる。
知っている誰かの筈なのだけれど、それが誰の声なのか分からないまま、俺はゆっくりと意識をうしなってゆく。
最後に見た光景は、前回より更に少しだけ顔を青くした、妖夢さんの顔だった。
それがどうにも真っ青で悲愴な顔であるので、大丈夫だよ、と声を掛けたかったのだが、それすらも叶わない。
せめてと妖夢さんの頭に伸ばした手も、その頭を撫でる事すら叶わず、力を失っていった。



      ***



 呆けていたのは想像の埒外の出来事であったからか。
それとも、その鮮血のあまりの美しさにか。
兎も角、幽々子が呆けて固まってしまっている間に、妖夢は権兵衛を抱え、永遠亭の方へと飛んでいってしまった。
信じてくれたのに、信じてくれたのに、と漏らしながら飛び立つ妖夢を見て、幽々子の方はようやく権兵衛が斬られたと認識したのだが。
妖夢が権兵衛を斬る事に快感を憶えてしまっていたとは聞いていたが、我慢できないほどとは。
とりあえず飛びゆく妖夢を呆然と見送り、それから幽々子は、権兵衛を死に誘う機会を逸した事に気づいた。
本来ならばこの場で、後数十秒もあれば、旅立ちの代わりに、と、死に誘えたと言うのに。
幽々子は、ついつい指を唇に沿わせる。
甘さが含まれた吐息が溢れ、胸元で汗が滑り落ちる。
自然、幽々子の回りには紫の蝶が数匹浮かんでいた。
暫く飛ぶことを忘れたかのように動かなかった蝶であったが、ふと、此処が空中である事に初めて気づいたかのように、翼を動かし始める。
空気中を泳ぎ始めた紫の蝶に、あーあ、と幽々子は思う。
あと少しで、あとほんの少しで権兵衛を死に誘えたと言うのに。

 しかし、と幽々子はぼんやり思う。
権兵衛を死に誘う機会を逸したのは確かだけれども、その機会は果たして一度きりであっただろうか?
いやいや、よく良く考えてみれば、権兵衛を死に誘うのは、何時でも良いのだ。
何せ人の命は長くて百年、対して死んでからの時間はといえば、永遠に等しいほどにあるのだ。
ならば、確実を喫した方が良いに決まっている。
絶対に地獄にも天界にも行かせないため、冥界に死に誘い、そしてその上で、絶対に転生させないようにしまえば良いのだ。
何時しか読んだ本にあった、西行妖の封印する死体と言うのも、どこぞの亡霊を転生させないように封印されているらしい。
ならばそれと同じように、権兵衛の死体もまた、絶対に転生させないよう封印してしまえばいいのだ。
そして何故だかその場所は、西行妖の隣が良いように、幽々子には思えた。

 からんからん、と。
数歩、幽々子が歩くに連れ、その周辺は死に充ち満ちて、草も苔も玉砂利も土も死んでしまい、塵となって消えてしまう。
こんな風に。
こんな風に、権兵衛を死に誘えたら、きっと素敵だろうな、と幽々子は思った。
塵となって消えて、同じものになる幽々子と権兵衛。
その隣には妖夢が居て、何時も小言を言いながら二人に弄られ遊ばれているのだ。
その幻視した光景は、とても尊く、素晴らしいものに思えて。
だから。
幽々子は、思うのだ。

 例え権兵衛が、寿命尽きて死ぬとしても病気で死ぬとしても獣に喰われ死ぬとしても妖怪に喰われ死ぬとしても飢えて死ぬとしても人間たちに殺されるとしても首をくくって死ぬとしても飛び降りて死ぬとしても溺れて死ぬとしても薬を飲んで死ぬとしても首を切って死ぬとしても腹を切って死ぬとしても、何時どうやって死ぬとしても、だ。
絶対に。
それよりも早く。

「ぜったいに、わたしが殺してあげるからね、権兵衛」

 にっこりと、花咲くような笑顔で微笑みながら、幽々子は言った。
それを合図に、幽々子の回りを死で満たしていた蝶が、一斉に空へと駆けてゆき、そして、目の見えないほど遠くまでゆき、やがて消えた。
ふわり、と着物を浮かせながら、くるりと体を回転させる幽々子。
そういえば、と、幽々子は思い出す。
幽々子は確か、権兵衛を死に誘おうと思った時、こう思ったのではないか。
時は、金なり、と。
しかし金の要らないあの世の住人たる幽々子には、こう言うべきだったのだろう。

「急がば回れ」

 至言である。

「くるくる~って、ね」




あとがき
と言う事で、次回から永遠亭です。
慧音のターンはもうちょっと後で。
ちょっと体調が悪い中書き上げたので、次回も一週間で更新できるかはちょっとわかりません。



[21873] 永遠亭1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:48


 恐怖はつねに無知から発生する。
逆説、恐怖を感じると言う事は全知では無いと言う意味である。
故に妖怪の賢者に恐怖してしまった月の賢者は、全知と言う称号はやや過分であり、故にたまには未体験の出来事に出くわす事がある。
それは永琳の探究心による地上人の犠牲による成果だったり、地上の穢れによって地上人をただの道具として見なくなったり、主に地上に降りてから起きた事であったのだが、これもまた、そうだった。

「あぁ……」

 思わず、ため息が漏れる。
湿り気を多分に含んだそれは、永琳の内心を表したかのように、暖かく、滑り気があった。
どきどきと高鳴る胸は今にも爆発しそうで、思わず手袋越しに服の上から抑えてしまう。
こんなにも心が不安定なのは、永琳の記憶にある限り、生まれて初めてかもしれない。
まるで今までの精神の揺れと言うもの全てが余震であったかのようで、その例えで言うなら今の永琳の心は、とんでもないマグニチュードの揺れだった。
理性の手綱を無視して手は震え、唇は開き、頬は紅潮する。
体温が高くなった所為か、汗が頬を伝い、顎を伝い、鎖骨を超え、胸の間を滑り落ちてゆく。
その感触すらも何処か官能的で、艶めかしい。

 なんと美しい内蔵なのだろう、と、再び、八意永琳はため息を漏らした。
半人半霊が連れてきた男、権兵衛は、連れてこられた当時は腹を斬られただけで、永琳の手によれば三日もあれば完治できる程度の怪我だったのだが、今は違う。
その傷の隙間から覗く内蔵の美しさに心奪われた永琳は、早速男の皮膚を鋏で切り、内蔵の色を透過した真皮を切り裂き、ピン止めし、その内蔵を顕にしてみせた。
あぁ、なんと美しい事か。
黄土色の濁った腸の、てらてらとした輝き。
濃血色の肝臓の、宝石のような輝き。
全てが、今までに見たことのない美しさだった。
頬に飛び散った黄色い液体でさえ、舐めとると脳裏が痺れるような快感が走る。
あぁ、美しいものは美味くもあるのだな、と、痺れる脳内で永琳は納得した。

 永琳は手袋を脱ぎ捨てた。
何せ何にしても生の感覚と言うものは何かを隔てた物とは段違いで、快感も勝ると言うのが定説であるのだ、当然と言えよう。
それから永琳は両手をそっと権兵衛の体内に入れた。
まるで高価な宝石を扱うように、そっと永琳は権兵衛の小腸を手に取る。
腸間膜がひきつり、海老のように跳ね上がる権兵衛を尻目に、その重量感に永琳は思わず唾を飲んだ。
心拍音が上がってきているのが、否が応でも分かる。

「私、興奮しているのね」

 呟いてから、永琳は、大きく息を吸い、吐き、体内の空気を入れ替えてから、思い切ってぐっと顔を近づけた。
ぺたっと、永琳の頬が権兵衛の黄土色の小腸に貼りつく。
粘液がてらてら輝きながら頬にへばりつき、血と脂肪の独特の匂いが永琳の鼻をついた。
こんな風に研究心からか思い切りが良い時、永琳は研究者であって本当に良かったと思う。
新しい発見は何時も脳の痺れるような快感を永琳に与えてくれるのだが、今回は格別だった。
この艶めかしい手触り、頬擦りの感覚、どちらも素晴らしいとしか言い様がない。
あぁ。
あぁ、もっと、この感覚を味わいたい。
胸を過る切なさが命じるままに、永琳は思い切って舌を這わせる事にした。

「ん……あぁん……」

 ぺろり、と、小腸の表面の粘液が、永琳の舌の上に乗った。
それを口の中に仕舞うが、すぐに飲み込むのは勿体無い。
口の中で転がし、香りと感触とを十分に楽しんでから、永琳は粘液を飲み込む。
何の変哲もない人肌の温度の粘液は、しかし熱湯を飲み込んだかのような熱量を以てして、永琳の胃へと収まる。
あぁ、私は今、これと一緒になっているんだ。
内心でそう呟き、永琳は目を瞑ったまま、しばし粘液の味の余韻に浸った。

 しかし、恋人の逢瀬のように、この素晴らしい時間にも終わりはやってくる。
さしもの永琳も、これ以上権兵衛を開きにしていては殺してしまう、と言う制限時間はあるのだ。
特に、今権兵衛が負っている傷は、一振りで幽霊十匹分の殺傷力を持つ楼観剣による物である。
惜しみながらも永琳は頬に張り付いた小腸を剥がし、権兵衛の体内に戻す作業にかかる。
ついでに小腸だけでなく腎臓や肝臓の感触も確かめ、その都度その官能的な感覚に身を震わせながら、永琳は作業を続けた。

「あぁ、勿体無い」

 本当に勿体無い、と、続けて呟く。
亡霊姫の手下に連れてこられたこの男は、全部解剖してしまう訳にはゆかない。
何せ蓬莱人たる永琳にとっても、冥界の主は結構な勢力である、下手に敵に回すのは不得手だろう。
ああ、本当はこの男を、バラバラにして瓶詰めにして、ずっと保管してしまいたいと言うのに……。
喉から手が出る、とはこの事か。
せめての慰めとして、幾つかの臓器を取る事をだけ決めて、永琳はため息混じりに権兵衛を修復する作業を始めようとする。

 と、突然そこで、永琳は気づいた。
私の今の言動は、非理性的過ぎはしないだろうか。
内蔵を引っ張りだしては自分が興奮しているなどと嘯き、挙句の果てには頬を当てて舌で舐めるなどとは。
しかも甘酸っぱいため息を漏らし、この時間を恋人の逢瀬のように思うなどとは。
かぁっ、と、永琳の頭に血が昇った。

「違う、違うのよ」

 思わず口走るが、聞く相手は何処にもおらず、当然、返答する相手もいない。
その仕業一つを取ってみても非理性的で、己を窘めたくなるのだが、その事実が更に永琳の頭を湯だたせる。
駄目だ、と永琳は思った。
この男を相手にしていては、兎に角駄目なのだ、と。
こんなにも心をかき乱されるのは、月の賢者とまで言われた永琳にとっては、恥である。
恥とは隠さねばならないものであるので、当然、永琳もどうにかそれを隠そうとするのだが、どうにも上手くゆかない。
その美しい内蔵が眼に入るだけで、頬が紅潮し、心臓が脈打つのを止められない。
せめて顔だけなら、と思ってその平凡な顔に目をやるも、同じことだった。

 あぁ、どうしよう、と思った所で、永琳はちょうど良い事を思いつく。
そうだ、ならば逆の、憎悪の心で睨むようにすれば、同じ非理性であっても、せめて今程の恥では無くなるのでは無いだろうか、と。
早速有限実行、と、永琳は己の中にある憎悪を引っ張り出してきて集めてみて、目の前の開きになった男にぶつけてみた。
何時ぞや、輝夜を連れ帰ろうとした使者よりも憎く。
何時ぞや、永琳に恐怖を味わせた妖怪の賢者よりも憎く。
すると、愛情と憎悪は丁度良く打ち消し合ってくれる、と言う訳では無いものの、ある程度は相殺されるようで、どうにか頬の紅潮は抑えられ、心臓の音の高く響く程にではなくなった。
流石に表情が歪むのは隠しきれ無かったが、先の醜態と比べれば、上出来と言えよう。
良かった、と内心胸を撫で下ろしつつ、永琳は心の中から憎悪を集めてくるのを忘れないようにしながら、権兵衛を修復する作業に努めるのであった。



      ***



 さてはて、ここで一つ考えよう。
俺は残る平凡な人生で、果たして一体あと何回慧音さんと出会ったことを思い出すだろう。
精々あと四回か五回か、少なくとも十回を超える事は多分無いだろう。
果たして一体あと何回太陽を見上げる事があるだろう。
十回はあるかもしれないが、二十回あるかどうかは分からない。
だが、俺ばかりと言わず人は、何事も無限の機会がありえると信じている。
全くもって愚かであり、そしてそれは俺もまた、同じであった。
つまり、要約すると、俺は後悔していた。
なぜ、もっと妖夢さんの事を慮れなかった物かと。

 結局。
俺は、斬られた。
妖夢さんに。
こればかりは疑いようのない事実であり、前提として組み込み考えねばなるまい。
しかし同時に、俺は未だに妖夢さんの事を信じていると言う、不可思議だが困ったことに事実である事も、前提せねばなるまいだろう。
そう、未だに俺は、妖夢さんの事を、快楽に負けて斬る剣鬼のようになるとは思っていなかった。
何故だかは分からないけれど、しかしそう信じられるのは確かなので、しょうがない。
その理由は置いておくとして、とりあえず先の事を考えてみる。
妖夢さんが信じられると言うのならば、俺が二度目に斬られたのは、恐らく彼女の意思による物ではなく、無意識によるものだったのだろう。
勿論そればかりは聞いてみなければ分からないが、しかし当然の理として、俺が妖夢さんを信じる以上、そうなる。
で、あるならば、きっと妖夢さんは、俺を斬ってしまった事で、傷ついてしまったに違いない。
何せ俺に信じると言ってもらったと感謝してすぐの事である、きっとあの真っ直ぐな子は、俺の信頼に答えられなかった、と悔やんでいる事だろう。

 しかし、問題は、俺の方にも僅かばかりはある。
妖夢さんがあれほど深刻に悩んでいたのに、俺が信じてやる事だけで解決できる、と勘違いしていた事である。
何せ問題は、刀を断つと言う程に妖夢さんが罪悪感で目を曇らせていた事と、俺を斬る事に快感を感じてしまった事にあった。
しかし、前者の問題は、僭越ながら俺が解決に力を貸せたと言っても良いが、後者に関しては信じると言うだけ、実際的な方法は何一つ示してやれなかったのだ。
それで問題が半分解決するのならばまだしも、これらの問題は連結しており、俺をもう一度斬ってしまった今、妖夢さんは再び刀を持って良いかどうか悩んでいる事だろう。
これでは、俺が妖夢さんに何一つ力を貸さずに居た方が、問題の解決には早かったかもしれないぐらいだ。
いや、きっとそうなのだろう。
何せ、俺は、俺なのである。
幻想郷の底辺を生きる男なのである。
それでいて誰かの助けになれるなどとは思い上がりも甚だしい、と言うのが当然の理である。
妖夢さんの言であるが、道理が立たない、筋道が行かない、理屈が立ちゆかない、と言う奴だ。

 ならばはて、次に会った時どうしようか、と、役に立つのか立たないのか分からない底辺の思考をしていると、診察室の扉が開いた。
はたと面を上げると、そこには白髪の美女が立っていた。
長い三つ編みにやや鋭い目付きと賢しげな風貌に、赤十字の帽子をかぶり、何故だか赤と紺の二色で割られた服を着ている。
その様相はかつて慧音さんの元に居た頃、里人に薬師の先生と教えてもらった通りの物であった。
つまり。

「権兵衛さん、具合は良いかしら」
「えぇ、もう痛みも無いですし、今にでも動き回れそうなぐらいですよ」

 八意永琳さん。
彼女と俺は、医者とその患者と言う関係なのであった。
と言っても、先程目覚めたばかりなので、それ以外の関係などある筈も無いのだが。
それは兎に角、実際噂通りに凄腕の先生らしく、目覚めてから半刻とたたない今でも、すでに動き回れるどころか、体が軽いとすら感じるぐらいなのである。
いや、本当。
物理的に軽くなっているんじゃないかってぐらいに。
などと阿呆らしい感想を抱く俺に、八意先生は、聴診器だの何だの、鞄から色々な機材を持ち出して、俺を調べ始める。

「そうかもはしれないけれど、一応安静にしておいて頂戴。それに、私を連れてきた子、貴方を斬ってかなり動揺していたわ。とりあえず落ち着くまで、ある程度期間を取った方がいいと思うの」
「そうですか。三度目の正直、と言う言葉もあるのですが」
「二度ある事は三度ある、よ。止めておきなさい」
「二度ある事は三度ある、三度目の正直、どっちも言いますけれど、どっちが本当なんですかね?」
「あら、どっちも同じじゃない」
「?」
「三度とも正直なら、同じ事よ。はい、ちょっと背中見せてくれるかしら」
「それは何か違うような……」

 などと知能の低そうな会話に付き合ってもらって数分、どうやら診察は終わったようで、八意先生は機材を鞄にしまい始める。

「はい、ついでに体も見ておいたけれど、問題なし、健康体よ」
「そうなんですか? 何か妙に体が軽い気が……」
「えぇ、そうなのよ。何の問題も、無いわ」

 重ねて言うからにはそうなのだろうと納得し、俺は直接機材を付ける為に脱いでいた着物を着る。
ちなみにこの着物、此処永遠亭で用意された物で、白玉楼で着ていた物は矢張り血と斬撃で駄目になってしまったらしい。
藍染めの簡素な着物に袖を通すと、俺はくるりと回って、八意先生を正面に捉える。

「ありがとう、ございました」

 頭を下げた。
と言うのも、俺が此処に居る次第なのだが、まず、俺は白玉楼を出ようとする際に妖夢さんに斬られた。
で、妖夢さんは慌てて俺を抱え、幻想郷最高の医者と言っていい薬師である八意先生の住む此処、永遠亭に連れてきたらしい。
そして俺は丸一日に及ぶ手術の結果、この通りにすぐさま健康体になり、妖夢さんの方は一旦白玉楼へ帰されたようだった。
であるので。
俺が礼を言うのは当然であるのだが。
何故だか、八意先生は、顔を歪めた、ような気がする。
それがほんの一瞬であったので俺の見間違いかもしれないのだが、いや、しかし確かに。
どうしたのだろうか。
俺が何かしたのだろうか。
と思ってすぐに、俺は自身の風評に思い至る。
何せ俺は里にとって慧音さんにたかる大悪人であり、八意先生と言えば、里と懇意である薬師である。
であるならば、当然、俺などと会話する事が苦痛であったり、不信を持ったりする事になるだろう。
何せ俺と言えば幻想郷で最も低い身分の一人であるのだ、そんな男を会話して不快に思わないのが不自然なのである。

「えっと、その、すみません……」
「? 何がかしら?」
「いや、その、不快だったようなので」

 今度こそ間違いなく、八意先生の顔が歪んだ。
視線には明らかに侮蔑の色が乗り、不快感が背後から滲み出る。
まるで背後に何か大きな物が押し留められているような気配だった。
肌を刺す空気に、思わず息を飲む。
俺は、思わず申し訳なさに顔を背けた。
もしかしたら八意先生が不快であったと言う事を指摘したのがいけなかったのかもしれないし、そも、俺が口を聞いた事自体がいけなかったのかもしれない。
俺は申し訳なさに押し潰されそうになりながらも、本当にどうすればいいのか分からなくて、俺は視線をそこら中に泳がすが、しかし当然答えがその辺に浮いている訳などなかった。
こんな時、俺は自分が不甲斐なくて、消えてしまいたくなる。
鎖骨の辺りがすぅっと冷えてきて、全身から力が抜け、兎に角体中の関節が全く自然な状態になり、一切の意思が抜けきってしまったかのようになってしまうのだ。
里に行く時には毎回味わうお馴染みの感覚で、一人で黙々と動いていても、ふとした瞬間こんな無力感を味わう事はあるのだが、此処数日、白玉楼の天国のような日々を過ごした為に、久しぶりの感覚であった。
再び、思い知らされた気分だった。
俺は幻想郷の地面と余程重力が強いらしく、正に幻想郷の底辺に生きているのだと。

「そんな事、無いわよ」
「え」
「礼を言われて不快に思う事なんて、無いわ」

 俺の言葉に重ねて言われたそれに従い、俺は八意先生の顔の歪みを無かった物を考える事にする。
俺は純然たるただの患者に、八意先生は純然たるただの医者に。
こういった事務的な態度はせめて傷つかないように、と里人との間で使い慣れた態度であるので、俺にとっては慣れた物であった。
と言っても、それに慣れてしまえばこそ俺はこうやって駄目になり続けているのかもしれないと思うと、複雑な心持ちであるが、とりあえずそれは無視する事にする。
八意先生もそれに習ったのか、事務的な口調で口を開いた。

「――完治までは、三日とかからないけれど。でも、あの貴方を斬った半人半霊、大分動揺していたようだし、冷却期間を置いた方がいいわね」
「え、でも、お金は」
「心配しなくていいわ、それならあの半人半霊がおいて行った分で足りるから。……そうね、一週間ほど此処に滞在なさい」

 言うと、八意先生は、カルテらしき書類を手に、何やら記入を始めた。
妖夢さんが動揺していたと聞いてそれを心配する部分もあったが、とりあえず、と、俺はその提案に頷く事にする。
時間の解決できる問題は、時間に解決してもらった方が良い。
何せ俺はと言えば、物理的に見ても精神的に見ても、侘び寂びの見本のような侘しさと寂しさなので、解決できる問題と言うのは非常に少ないのだから。
と、そんな事務的な会話を続けていた所であった。
がらがら、と、音を立てて診療室の扉が開く。
思わず面を上げると、そこには絶世の美女が居た。
黒艶のある尻を隠す程の長さの黒髪に、宝石を散りばめたかのように輝く瞳、白磁の肌に、洋服と和服が半分づつ入り交じったような、引きずる程の丈の着物を着ている。
八意先生も幽々子さんもそうだったが、どこか浮世離れした恐るべき美人であった。
此処最近の美人遭遇率に、一体どうしたものやら、と内心呟く俺を尻目に、彼女は気怠げに言う。

「えーりん、何だか慌ただしかったけど、もう終わったの……って、あら、初めまして」
「あ、はい、初めまして。自分は、外来人の、七篠権兵衛と言います」
「そう、権兵衛と言うの。私は此処、永遠亭の主、蓬莱山輝夜よ。呼ぶ時は輝夜でいいわ」

 と、俺を見てから背筋を正して言うので、俺も同じく権兵衛で良いと伝える事にした。
すると、僅かに顔を歪ませてから、俺と視線を合わせないままに八意先生も続ける。

「……輝夜が名前で呼ばせるなら、私も下の名前で呼んでもらう他無いわね」

 と言うので俺も八意先生の事を永琳さんと呼ぶ事にするのだが、しかし恐らく嫌われているだろうと言う予感のある人に、下の名前で呼ばせる結果となってしまった事に、思わず俺は視線を足元におろしてしまう。
はい、と、消え入りそうながらも何とか返事を返す事ができたのは、幸いだった。
と言うのも、それぐらいに俺は、久しぶりの悪意に消耗をしていたのだ。
喉の辺りには何か詰まっているような感覚があるし、理由も無く頭の中が重くなり、手足の先の感覚が薄くなる。
ため息をどうにか飲み込み、体中の力を集めて、どうにか視線を輝夜さんや永琳さんの方へと向ける事に成功すると、何やら、輝夜さんの方は面白そうな目で俺の事を見ていた。
何だか、嫌な予感がする。

「あなた、名前が七篠権兵衛と言うの」
「あ、はい。その、幻想入りする際に名前を亡くしてしまって、それで自分でつけたのですが」
「へぇ、名前の亡い外来人、ねぇ」

 宝石のような目をキラキラと輝かせながら、すすっと輝夜さんは永琳さんの目前にでたかと思うと、合わせた両手を頬にくっつけ、こてん、と首を傾ける。

「ねぇねぇ永琳、この人間、飼ってもいいかしら」

 奇しくも、俺は永琳さんと同時に絶句する事となった。
俺を、飼う?
ペットのように?
思わず、無け無しの反抗心が、ぐっと湧き上がる。
俺はいつも、人と対等にありたいと思っているだけなのに、それすらも叶わないのか、と。
しかし、吐き捨てようとした言葉は、喉の辺りで停止し、急激に力を無くしてゆく。
そうかもしれない、と、心のどこかで思ってしまったのだ。
何せ俺と言えば、先程永琳さんに思い出させられた通りに、兎に角、人に嫌われる事が上手く、人に好かれる事が下手くそなのだ。
だからといって何か力や地位があるのかと言えば、どちらも最底辺で、どうにも救いようがない。
せめて、その言葉を否定して欲しいと永琳さんの方へ視線をやる。
目が、合った。
冷笑と共に、視線を逸らされた。
そして俺が家畜のように扱われているのが当然とでも言うように、会話を続ける。

「輝夜、この地上人は、月の兎とは訳が違うのよ」
「あら、分かってるわよ。でも、名前を亡くしたなんて面白いじゃない。事実、ほら、この男はこんなにも穢れが少ない。地上人としてはこれは異常だわ」
「確かにこの地上人が面白いのは事実だけれど、でも輝夜、ペットなら他にいくらでもいるでしょう」
「永琳? どうしたの、この地上人に何か特別な所でもあるの?」

 暫く躊躇った後で、永琳さんは口を開く。

「里での評判が悪いわ」
「別にそんなの関係ないわよ」
「冥界の客だった男よ」
「別に飼うぐらいいいじゃない、その冥界の下っ端に斬られたんでしょう? この権兵衛とやらは」
「一週間で完治として送り出す、と約束したわ」
「なら私の永遠の魔法をちょこっと応用して、権兵衛にとっての一週間を永遠にすればいいじゃない」
「その………………」

 口を噤んだ永琳さんに、勝ち誇ったような笑みを輝夜さんは浮かべた。

「ほら、いいわよね。権兵衛も、別にいいでしょう? 飼われる事ぐらい」

 俺はと言えば、なんだ、それは、と呆然と口にしようとして、しかし、声を出す事すらままならなかった。
体中から気力を根こそぎ奪われたようで、全身が脱力して、瞼を開けているのですら、残る力をぎゅっと集めて、ようやくの事成し遂げている事なのである。
俺が家畜同然に扱われることや、それが当然のように会話する二人と言う状況は、俺から力と言う力を奪っていた。
そも、俺は妖夢さんの力になれたと思ったら全然そんな事は無かった、と言う事で精神的にダメージを受けていた所であったと言うのに、これではあんまり過ぎて、何の力も残らなかったのだ。
最早俺は反抗心の欠片も起こす力も無く、むしろ、俺と言う底辺の男が、家畜同然に扱われる事が、当然のようにさえ思えてくる。
何せ、俺なのだ。
俺は、俺なのだ。
俺なのだから、仕方ない。
そんな風に力が抜け、寂びてゆく心に、もう俺は抵抗する術などなくて、だから、状況に流されるままに、俺は残る力を集めて、愕然としたままに首を縦に振る事にする。
小さく、もしかしたら分からなかったんじゃあないかと言う程度の首肯であったものの、どうやら俺の意思は伝わったようで、輝夜さんはにっこりと、花が咲き開くような美しい笑顔を見せたと思う。
と思う、と言うのは、最早俺には視線を上げている力すら残っておらず、すぐに足元に視線をやり、後は頭上で交わされる会話を呆然と聞くしか無かったからだった。



      ***



「輝夜、本気なの?」

 しつこく聞いてくる永琳に、輝夜は薄く笑いながら首肯した。
くるり、と回り、着物を床を這わせながら、後ろについていた永琳の方へと向き直る。

「本気よ、勿論。別にいいじゃない、地上人の一人ぐらい。それも、里人じゃなくて外来人だわ、好きにしていい相手よ?」
「それは……そうだけれど。でも、何で」
「一目みて、気に入ったからよ」

 永琳が、顔を歪ませる。
そう、言っている事は間違っていない。
輝夜は一目見て、永琳が権兵衛に見せる反応が気に入ってしまったのだ。
永琳と言うと、月の賢者である。
当然言動も輝夜にですら理解し切れない程に理性的で、不満や怒りなどを顕にする事はまず、ない。
と言うか、果たして千年以上付き添った輝夜でさえ、永琳の感情的な所など、見た事があったかどうか。
侮蔑は、ありはしただろう。
何せ永琳は輝夜と同じ元月の民である、汚れた地上人に対する侮蔑は、あったかもしれないが、それも僅かに雰囲気に滲み出るかどうかと言う程度で、殆ど無かったと言っても過言ではない。
兎も角、それぐらいに輝夜は永琳の感情的な所を見たことなど無かったし、時々機械仕掛けで動いているんじゃあないだろうか、と言うぐらいに、彼女の情動の有無を疑った事すらある。

 しかし、だ。
永琳は明らかに、権兵衛と言う男を嫌っていた。
あの普通っぽい地上人にすら、容易く見抜けるだろうと言う程に、感情を顕にして。
永琳の普段見せないその一面を見る事ができるのが、何と言うか、永琳もそんな風にする事があるんだ、と言う安堵に似た感情があって、新鮮さもあったり、より生の永琳を見れると言う好奇心に似た物もあって、兎に角気に入ってしまったのだ。
それに、永琳の嫌悪と言う感情も、輝夜の世話する優曇華の盆栽が地上の穢れを吸って身をつけるのと同じで、地上の穢れを身に受け始めた事の影響から出始めたのかもしれない。
そう思うと、より永琳の変化を見ていたいし、それに当の永琳が権兵衛を嫌っている以上、権兵衛を引き止める役は自分しかおらず、そう思うと、これも自分のすべき仕事の一つなのではないかと思えるのだ。
蓬莱山輝夜は、何もすることがなかった。
しかしそれは、何もしようとしなかったからであり、ならばしようと思った事はなるべくしよう、と輝夜は思っている。
故に権兵衛をとどめ置くのも、己の仕事の一つとしてみようと思ったのだ。

「仕事、ね」
「輝夜?」

 ふいに呟く輝夜に、永琳が疑問の声を上げる。
顔には嫌な予感がする、と書いてあり、こんな分り易い感情を永琳に浮かばせるのだから、やっぱり権兵衛を飼おうと思ったのは正解だな、と輝夜は思った。

「なら、とりあえず、権兵衛の暇つぶしの相手は、私がしようかしら」
「それなら、そもそもあの男を飼わなければ済む話よ」
「そうね、まず、一日一回は話をするようにしようっと」
「あの男にとって一日は永遠の魔法で狂わされているわ、別に私たちの一日で計らなくてもいいんじゃなくて?」
「それから、どうしようかしら」
「どうもしなくていいわ。飼うのは分かったから、世話まで貴方がする必要は無いのよ」
「そう、世話と言えば、永琳は私の世話をするとき、教育係をしていたわね」
「………………」
「なら、私も権兵衛の家庭教師でもやってみようかしら」

 深い溜息を永琳がつくのを聞きながら、その顔に憎悪が湧いているのに、内心輝夜はぐっと拳を握り締める。
と言っても、家庭教師と言うのは、永琳への嫌がらせで思いついたのではなく、実際に思うままに口にしてみた思いつきなのだが。
しかしまぁ、教師なら、何時ぞや永遠亭の兎相手にやった事がある。
これは腕の見せ所だわ、と、内心輝夜は腕まくりする。
と言っても、あれはすぐに飽いてしまったから、今回もそんなに長く持たないかもしれない。
だがまぁ、いいだろう。
これもまた、輝夜が己のすべき仕事を見つけようとする手段の一つなのだ。
優曇華の世話のように定着するとは思わないが、少なくとも飽いてしまうまでは続ける事にしよう、と、思って、輝夜は気づく。
そういえばあの男、権兵衛と言う名の男も、優曇華の盆栽のように、何処か侘び寂びを感じさせる男であった。
永琳の一言一言に含まれる悪意に心打たれ、寂びてゆくその様は、優曇華の葉も花も実も付けていない見窄らしさに、よく似ていた。
ならば少しはこの仕事も続くのではないかな、と、僅かな期待に心を揺らしながら、思うことにした輝夜であった。



      ***



 夜半。
永琳は、自分の部屋に戻ると、後ろ手に襖を閉めると同時、膝の力が抜けてしまい、座り込む次第となってしまった。
と同時、大きなため息をつく。
ため息の主な成分は場合によって違い、時には甘酸っぱさだの極楽の気分だのを内包している事もあるが、殆どの場合主成分は幸せである。
それ程この世の中は空気中に幸せを吸引する物質があり、人々の幸せはどんどんと侘びてゆく他無いのだろう。
永琳の場合もそれは同じで、輝夜の我侭に小さくため息をするのは常であったが、今度ばかりは深い深い溜息であり、その分幸せもまたごそっと持って行かれた気分であった。
何せ、権兵衛、あの永琳を非理性的にする男と、少なくとも一週間以上屋根を共にする事になったのである。
恐らくは輝夜が蓬莱の薬を飲んで以来となるであろう大事件に、永琳はごくりと生唾を飲み込む。
と同時、誰も見ていない今、表情筋から憎悪の成分を離していいんだな、と気づき、永琳は表情を自由にした。
すぐさま、隠していた頬の紅潮が現れ、口元がだらしなくなってしまう。
誰も居ない自室のみで許される、表情筋を自由にできる時間の到来であった。

 まず永琳は、これはやっかいなことになったぞ、と、内心呟いた。
あの権兵衛と言う男は、兎に角、永琳にとってマズイ男である。
なにをどう以てしてマズイと言うのかは言語化しにくいが、兎に角永琳を興奮させたり切なくさせたり、普段封じている情動を無理矢理に動かしてくるので、マズイのである。
なので本当は二週間は取るべきだと思った、半人半霊との冷却期間や取ってしまった臓器の再生期間を、半分の一週間と言って、とりあえず権兵衛を遠ざけようとしたのだが、それを輝夜の我侭が邪魔をした。
よって、一週間でもとんでも無いと言うのに、それ以上に、権兵衛と屋根と共にする事になったのだ。

「――っ」

 思わず畳の上を転がりだしてしまいたくなる衝動を、必死に自身を抱きしめて抑える。
何かの拍子で今度興奮してしまったら間違いなくその衝動を押えきれないので、慎重に、しかし確実に、肺の中の熱い空気と空中の冷たい空気とを交換する。
暫くその作業のみに没頭し、どうにか頭が冷えてきたと思った辺りで、永琳は考えを再開させる。

 兎に角、権兵衛を一週間以上永遠亭に住まわせるのは、決まった事であるので、仕方が無い。
いや、仕方ないで済ませれる問題では無いのだが、それを置いておいて、更に問題がある。
輝夜が、権兵衛の世話を、果てには家庭教師をすると言い出した事である。
永琳はとっさに、自分が輝夜にしたように、権兵衛の教育係をする所を想像してしまった。
机に向かう権兵衛の後ろから、肌の触れ合わんばかりの距離で、後ろから権兵衛に指導をして。
失敗をすれば権兵衛を窘め罰を与え解剖したり、成功をすれば頭を撫でてやったりと。

「~~っ」

 今度は、衝動を押えきれなかった。
ぽふん、と音を立てて敷いてあった布団の上に転がり落ち、しかしせめてコロコロと転がり出さないよう、布団をぎゅっと抱きしめて、その代わりに力を発散させる。
興奮して荒くなった息が常の通りになるまで、じっとその姿勢で居て、ようやく冷静に考えを続けられるようになった頃、永琳は思考を再開させる。

 兎に角、輝夜は権兵衛の家庭教師をすると言ったが、それが上手く行くとは永琳は露程にも思っていなかった。
何せ、輝夜である。
何かされるのが大得意で、何かするのが大の苦手の姫である。
それが教師と言う、ある程度忍耐の居る上、相手を理解する事が必要な職を全うするのは、到底不可能であるように思えた。
なのでそのフォローをしなければならないが、永琳は権兵衛に近づきたくはない。
そう、だって権兵衛は、こんなにも永琳の心を乱すのだ。
心の乱れとは、すなわち恥である。
こんなに永琳を恥らわせる権兵衛に、永琳から近づくなど、以ての外である。

 それにしても、と、永琳は少し考えを脱線させた。
何だって権兵衛は、こんなにも永琳の心をかき乱すのだろうか。
内臓の美しさから、と言うのは確かにあるが、果たしてそれだけだろうか?
否、少なくとも、それだけではない。
何せ先程、治療の説明をしている間にも、権兵衛は永琳の心を、これ以上無い程に掻き乱したのだ。
特に下の名前で呼んでくれるようになった時など、権兵衛を直視する事すらできなかった程だった。
と言うか、かき乱されているのは、初対面からずっとどころか、こうやって対面していない時でさえも、である。
これではまるで、と永琳はうかつにも思う。
これではまるで、一目惚れのようではないか、と。

「~~っ!」

 今夜最大級の衝動が、永琳を襲った。
きゃ~、と叫びださなかったのが奇跡だろう。
どうにか一線を守りきった永琳は、震えながらぎうっと布団を抱きしめ、深い、深いため息をついた。
今度こそは幸せよりも、甘酸っぱさの方が含有量の多いであろう、ため息を。
なんと言うことだろう、と永琳は内心で呟く。
これではまるで、初な少女のようではないか。
こんな姿、自分には絶対に似合わない。
と言う事はつまり、一目惚れ、なんて事は、絶対に無いのである。
なんだか論理の飛躍が見られるが、それでも絶対は絶対なのである。
なんて事を考えている最中の永琳に、声がかかった。

「お師匠様、失礼します」

 鈴仙の声であった。
吃驚して跳ね起きた永琳は、さっと回りに目を通す。
ぐしゃぐしゃになった布団に髪の毛、皺になった服、じんわりとしみ出してきている汗。
不味い、と永琳の額に冷や汗が混じった。
ちょっと待って、と声をかけて、手早く身支度を整え、それから通す事にする。

「どうぞ、もういいわよ」
「それでは、失礼します。……あれ、お師匠様、汗かいてますけど、今夜はそんなに暑かったですか?」
「そ、そうかもしれないわね」

 流石に湧いてくる汗ばかりは短時間でどうにもできず、鈴仙に指摘されてしまい、再び冷や汗をかく永琳。
それを不思議そうな目で見ながら、鈴仙は続ける。

「で、どういったご用向きでしょうか」
「えぇ、それなんだけどね」

 永琳は、輝夜が新しく飼う事にした権兵衛の事と、輝夜がその家庭教師をすると言う事を説明する。

「教師って、前に家の兎相手にやって、すぐに飽きてませんでしたっけ……」
「えぇ。そんなんだからきっと上手くゆかないと思うけれど、あまり粗雑に扱う訳にもいかないのよ」
「あぁ、白玉楼の客、でしたっけ」
「で、貴方に頼みたい事があるの」

 げっ、と、鈴仙が嫌そうな顔をする。
残念ながらその予感は当たりである。

「貴方に、隠れて輝夜のフォローを頼みたいのよ。あと、作業兎を使って、常の世話も」
「うっ、その、師匠じゃなくて、私が、ですか」

 鈴仙は臆病な兎で、何せ地上人との戦いが怖くて逃げ出したと言う上に、未だに里人とも満足に会話できていないぐらいなので、この返答は予測していた。
と言ってもしかし、どうしても権兵衛の世話をする自分を想像してしまい、永琳は頬を緩めそうになる。
しかし、それを誰かの前で出すのは、当然、恥である。
故に絶大な憎悪でそれを塗りつぶし、どうにか、頬は軽く歪ませた程度で済んだ。
すると何故か、鈴仙が数歩引いたような気がする。

「わ、わかりました……。や、やります」
「えぇ、素直なのはいい事よ」

 まぁ、この臆病な兎の事だろう、大方今の漏れ出した憎悪が怖くて反応したのだろう、と思いながら、永琳は満足気に頷いた。



      ***



 ぱちん、と眼が開いた。
夢とは、現実とは相いれぬ魂の置き場所であり、当然、普通一つしか無い魂は同時に二箇所に置けないので、魂は常にどちらか一方に属する事になる。
夢から覚めると、夢の内容を忘れてしまうのは、その為である。
と言っても、それには一つだけ例外があり、夢から覚めつつある、境界の曖昧な間だけは完全に夢を記憶しているのだ。
しかし当然それは現実に起きる為には捨てなくてはならない記憶であるので、それにならい、俺は夢の記憶を捨て現実に起きだす事にする。
俺は、広い和室の真ん中に、布団の中で寝ていた。
こうまで広い和室と言うのはどうにも白玉楼を思い起こさせるのだが、此処は、どうやら違うようだ。
欄間の意匠が違うようだし、飾られている調度品も、僅かに近代へと針を振ったような感じのする物である。
と言っても、俺に取っての現代と言う感覚――外の世界の感覚を比べると、まだまだ古めかしい物であるのだけれど。

「さて、俺は何処に居るんだっけかな……」

 呟き、上半身を起こしてみる。
すると、布団の脇に藍染めの簡素な着物が畳んであったので、とりあえずそれに着替えながら考える事にする。
脱いだ寝間着と布団を畳んで、とりあえず目覚めはさわやかで、何時になくさっぱりとした感じで、今日は一日良い日になりそうだな、と思った辺りで、そっと襖が開いた。
陽の光に、目を細める。
太陽の光を背負って来たのは、見知らぬ美少女であった。
紫がかった薄い色の髪を膝近くまで伸ばし、瞳は赤く、肌は雪のように白い。
と、そこまでなら普通の美少女であるのだが、此処からは物が違った。
うさみみだった。
しかもブレザーにスカートだった。
意味が分からないと思うが、俺にも分からなかった。
意味不明度の高さが、何時ぞやの妖夢さんのいきなり土下座を軽々と超えてゆき新記録を達成するのを感じながら、俺は少女の言葉を待つ。
待つ。
待つ。
………………?

「「えっと、あの」」

 と、お互い痺れを切らしたのだが、声を掛け合う形となってしまった。
思わず目を見合わせて、くすり、と微笑み合う。
何だかこんな風に気が合うような仕草があると、それだけで幸せな気分になってしまう。
ちょっと俺の幸せが安くなりすぎている事に危機感を覚えながら、ここのところ、こんなお見合いになってしまう事が多いな、なども考えつつ、口を開く。

「俺は、外来人の七篠権兵衛と言います。起きたら此処に居たんだけれど、君は此処の人でいいのかな」
「あ、うん。私は、鈴仙・優曇華院・イナバです。その、此処、永遠亭の兎のリーダーと言う事になるわ」

 永遠、亭。
その一言で、安っぽい幸せが吹き飛んでしまうような、絶望の嵐が俺の心を襲う。
そうだった、俺は呑気に寝てなどいたけれど、今、俺は、家畜同然に扱われているのだ。
しかもそんな風に扱われるのに反抗する気力すらなかったと言う事実が、俺の価値の低さを指し示しているような気がして、その扱いの正しらしさを証明している気さえする。
何が良い一日になりそうだな、だ。
朝から最悪の気分だった。
これから俺は、どうなるんだろう、と、否が応でも、嫌な想像が俺の中で育ってゆく。
あの俺を人間以下としか扱ってくれない里人でさえ、俺を家畜のようには扱わなかった。
なら、家畜の扱いとはどうなのだろうか。
檻の中にでも入れられて、鑑賞されるのだろうか。
首輪でも嵌められて、何処ぞへ繋がれるのだろうか。
餌は這いつくばって食べねばならないのだろうか。
暗雲立ち込める未来が次々と浮かんでは消え、代わりに俺の頭の中を重くしてゆく。
家畜の気分とはこういう物を言うのだろうか、と思いつつも、思わず膝を付きそうになってしまうのをぐっとこらえる。

「えっと、大丈夫?」

 大分酷い表情をしていたのだろう、優曇華院さんが声をかけてくれた。
しかしその目が何を語っているのかは分からず、と言うのも、視線を足元から上げる勇気すら、俺には残っていなかったのだ。
これでもし、その視線に一片の悪意でもこもっていたら、俺が家畜として扱われるのを更に実感させられるような気がして。
かと言ってずっとうつむいたままで居る訳にもいかないので、意を決して頭を上げると、幸い、少女の目には俺を心配する一念だけがあった。
俺は彼女の心配を疑ってしまった事を恥ながら、兎に角、すっと息を吸い、吐く。
頭の中を真っ白にして、余計な事を考えないように、ただ目の前の少女を心配させない事だけを考えるように努める。

「あ、あぁ。ありがとう、優曇華院さん、大丈夫だよ」
「あー。えっと、鈴仙の方が呼ばれ慣れているから、そっちでいいわ。とりあえず朝食に案内がてら此処について話をしようと思うんだけど、いいかしら」
「ああ、分かったよ」

 頷き、俺は鈴仙さんに連れられ、廊下に出る。
するとその廊下が長いこと長いこと、もしや此処はあの白玉楼のような巨大な屋敷なのではないか、と思える程であった。
関心しつつ、こんなに広いから部屋を家畜ごときに与える事もできたのか、と、考えつつ、先導する鈴仙さんに続く。

「えっと、何から話せばいいのかしらね……。輝夜様の呼び出しが無ければ、基本的に自由にしていていいわ。多分一日に一回はあると思うけど。
えーと、それ以外は、兎の仕事を邪魔しない事、お師匠様……永琳様の言葉には従う事、食事の時間は守る事、それぐらいかしらね。
で、さっきの部屋が貴方の部屋、食堂はあっち、厠はこっち、輝夜様の部屋はそっち。まぁ、分からなければ妖怪兎を捕まえて聞けばいいわ。大抵、暇してたりサボってるのが何羽か居るから。
あー、でも一羽、物凄い腹黒いのが居るから注意してね。まぁ、でも騙された分幸せがもらえるだろうから、別に良いのかな。
………………って、あれ、どうしたの?」

 思わず、俺は途中で足を止めて聞き入ってしまっていた。
基本的に自由?
貴方の部屋?
食堂?
想像とは全く別の言葉が出てくるのに、頭の回転が追いつかない。
俺は、家畜として飼われるのでは無かったのだろうか?
それとも、もしや。
俺は、人として扱ってもらえるの、だろうか?
そう思うと同時、体中から力が抜けて、今度こそ、ぺたんと座り込んでしまう。

「え、え!? な、なんで泣いて……」

 泣いて?
疑問詞と共に目の下に触れると、暖かな液体が流れ出ていた。
そう、か。
俺は、泣いているのか。
そう自覚すると、もうどうにも止まらず、静かに流れていた涙も濁流のように流れだし、喉の奥からのうっ、うっ、と泣き声が漏れ出し始める。

「ご、ごめ、ん、うっ、ひぐっ、うっ、す、すぐに、泣き止むからっ」
「ど、どうしたのよ一体」
「き、昨日、うっ、飼われるって、聞いて、ううっ、家畜みたいに扱われるのかと思って。
こ、これまで、うああっ、里の中でだって、人間じゃないみたいに、うっ、扱われてて、そ、それだけでも、もう、限界だったのに、ううっ。
これから、そ、それ以上に、ひぐっ、酷く、なるんじゃ、とばかり、ううっ、思ってて……、うぐっ、き、昨日の夜だって、本当に、怖くて、ずっと眠れなくって。
そ、それでも、うっ、ひ、人並みに扱ってもらえるって、分かって、ひっく、あ、安心したら、なんか、涙が出てきちゃって」

 全くこんな事で泣いても仕方が無い事だ。
何せ単なる俺の勘違いと言うとてつもなく恥ずかしい事で、その上、永遠亭の人々を人間を家畜のように扱うようだと勘違いしていて、甚だしく失礼である。
俺は泣く前に彼女に謝らねばならないし、鈴仙さんも俺をなじる権利があると言うのに。
ぽん、と肩に手を置かれる。

「あーもう、しょうがないわね」

 と、苦笑しながら、慰めてくれる鈴仙さん。
それだけで、肩越しに人の体温に触れるだけで、俺の涙腺は決壊してしまったらしく、最早涙は、止めようのない量になっていた。
ぽたぽたと廊下に落ちた涙が次第に繋がり合って、広がってゆく。

「あううぅ、ううっ、うあぁあああっ!!」
「大丈夫、もう大丈夫よ」

 掌が肩を離れ、ぽんぽんと、子供をあやすように頭を撫でられる。
たった掌一つ分の体温だと言うのに、それがとてつもなく嬉しくて嬉しくてたまらなくて、俺は、しばらくの間泣き続ける次第となった。



      ***



 で。
数分後。
俺と鈴仙さんは、食堂で俺一人朝食をつつきながら、お互い顔を真っ赤にしてうつむいていた。
鈴仙さんが顔を赤くする理由は分からないが、俺の方はと言うと、もう本当に恥ずかしくて恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
何せ成人前とは言え、大の男が、慧音さんに拾われた時以来の大泣きである。
しかも理由が、勘違いから、ときた。
何とも阿呆らしい理由で、その勘違いだけでも恥ずかしいのに、泣き顔を見せて、しかも慰めてもらっては、二重に恥ずかしい。
そんな訳で、無言のまま朝食を終える次第となった。
折角用意してくれた朝食だと言うのに、味わう事すらできないままであった。
その事に申し訳なさを感じつつ、とりあえず食器を水につけておき、お茶を入れてもらい、鈴仙さんと対面に座る。

「あー、えっと」

 口火を切ったのは、鈴仙さんだった。

「普段の食事はこんな感じで、輝夜様とお師匠様、私と、あと兎のまとめ役のてゐって子が居るんだけど、その四人と一緒に取ることになると思うわ」
「あ、はい。えっと、永琳さんも、ですか」

 俺を嫌っているであろう人の名前に、思わず身構えてしまう。
同時に、昨日の悪意の篭った永琳さんの視線を思い出し、僅かに体を震わせた。
里人達の悪意にも勝るとも劣らない、絶大な悪意だった。
一体俺の何が癇に障ったのかは分からないが、何せ相手が、何をしても嫌われる事のできる特技を持つ俺である、心当たりが多すぎて絞れない。
となると、あの悪意を改善する事は叶わず、食事の度に顔を合わせる事になるのか、と若干気が滅入ってしまう。
勿論嫌われる事をしたのは俺であるので、こんな気の滅入り方は筋の通らない事なのだが、そんな俺に鈴仙さんが安心させるような笑みを浮かべてくれた。

「あー、まぁ、大丈夫よ。お師匠様は理性的な方だから、輝夜様の……えっと、ペットって事になってる貴方には、手出しするような事は無いと思うわ」
「はぁ」

 と言っても、直接的に手出しされずにどれだけの悪意を身に受ける事ができるか、身を持ってよく知っている俺としては、まだ心配であった。
それが顔に出てしまったのか、仕方ないなぁ、と言わんばかりに、鈴仙さんがその端正な顔を崩す。

「はぁ。ま、大丈夫よ。いざって時は、私を頼ってくれてもいいから」
「え、あ、その、いいんですか?」

 鈴仙さんにも立場と言う物があるだろうに、と疑問詞をあげる俺に、花弁の開くような笑顔を見せながら、鈴仙さんは言う。

「あんなに泣いているのを見ちゃあ、私だってほっとけないわよ」

 と言われてしまえば、俺としても顔を赤くしてうつむいてしまうしかないのだが、その際に視界の端に捉えた鈴仙さんの顔も、赤みを帯びていたような気がする。
ひょっとして、鈴仙さんも恥ずかしさをおしてこの言葉を言ってくれたのではないかと思うと、感謝もひとしおである。
――あぁ、この人はなんていい人なんだろうか。
感謝しても感謝してもし足りず、何時かこの恩を返せたらな、と思いつつ、俺の永遠亭での生活が始まったのであった。




あとがき
と、一行目からアクセル全開の話でした。
なんとかギリギリで一週間更新を守れました。
ちょっと筆が乗らず、この調子だと次回の更新にはちょっと間が空くかもしれません。



[21873] 永遠亭2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:48


 蓬莱山、輝夜さん。
俺の住まうこの永遠亭の主である彼女の印象はと言うと、まずは美人だと言う事だろう。
身も蓋もない感想だけれど。
と言っても、本当に浮世離れした美人で、こう、恩のある女性を美しさで比べるのは失礼な気がするが、それでも敢えて比べるのだとすれば、間違いなく俺が今まで出会った中で一番の美人であった。
長い黒髪に宝石の瞳、完璧な眉に柔らかな唇、均整の取れた体、全てが美しく、どこか人の手を離れた、作り物じみた美しさ。
それに拍車をかけるのが、その浮世離れした心だろうか。
なんていうか、俺は幻想郷の人間ではないからか、慧音さんや妖夢さんや幽々子さんとの会話でも、たまに何か、男女の違いとか、年齢の違いとか、種族の違いとか、その辺とは違うような齟齬のような物を感じる事がある。
のだが、彼女と話していると、それともまた違うような、不思議な齟齬を感じるのだ。
なんていうか。
宇宙人と、会話しているみたいな。
と言っても、ちんぷんかんぷんで不愉快と言う訳でもなく、なんというか、そこに俺は、奇妙な親しさのような物を感じていた。
さてはて、何なのだろうかと考えると、思いつくものが一つある。
所詮外来人でしかなく幻想郷に馴染むしか無い俺には、矢張り幻想郷の人たちとは未だ微妙な齟齬があり、そしてそれを解消しなくてはならない。
すると幻想郷の人々とはまた違った齟齬を感じる彼女も、同じように幻想郷の人々との間に間隙があり、それに親近感を感じているのかもしれない。
まぁ、事実はどうなのかは、俺とて自身の心を全て把握しているわけではないので、知る由もないのだが……。
兎も角。
まぁそんな感じなので、俺は彼女に対して、好感とも嫌悪とも違う、何とも言いがたい不思議な感情を持っていた。

 で。
昼食時、俺の顔を見て思い出した、と言う感じに言いつけられた通り、昼食を終えてから妖怪兎さんの案内で、その輝夜さんの部屋に通された俺なのだが。
閉口一番、これである。

「ねぇ権兵衛、家庭教師って、何をすればいいんだっけ」
「はぁ……」

 訳分からん。
襖を開き通された部屋は、白玉楼で慣れたと思った俺をも唸らせる、豪奢な部屋であった。
襖には雄大な障壁画が描かれ、箪笥には所々金箔があしらわれ、中央には荘厳そうな木目残る机がある。
一つ違和感があるとすれば、この豪勢な部屋に、床の間には葉も花も実もつけない盆栽が飾られている事だろうか。
さて、何気に女性の私室に初めて入った俺は、輝夜さんと、低めの机を挟んで対に座布団に座っている訳だが。
やっぱり訳わからんので、とりあえず一般的な回答を返してみる事にする。

「雇い主の求める教養を、対象に教える事ではないでしょうか」
「あー、うん、そうなんだけどね、別に私がやりたくてやる事だし、何を教えてもいいから、何を教えようかなって」
「その、教え子の知識がどれぐらいか計って、教える事が可能で、かつ教えたく、できれば教え子が教わりたい事を教えれば良いのでは」
「そうね。なら権兵衛、何が教わりたいかしら?」
「って、教え子は俺ですか」

 ペットだったんじゃなかろうか、首を傾げる俺に、自慢げに、そうよ、と輝夜さん。

「だからほら、眼鏡よ眼鏡。女教師には必須アイテムよね」
「四角いリボンのついた帽子もいいような」
「二半獣の真似は、焼き鳥が嫌いだから嫌なのよ」
「此処で兎肉を食べると、それはそれで非常に問題なような」
「大丈夫よ、家は鶏肉派。兎角同盟が抗議してきて、五月蝿いのよ」
「亀の毛に抗議されても。存在しない声って五月蝿いんですか?」
「ええ。家には波を操って、存在したりしなかったりする兎も居るからね」
「はぁ。確率を操るって、凄いですね」

 と、そこまで話すと、やや上目遣いに、輝夜さんが目を細める。
そこはかとない色気に、思わず喉を鳴らす俺。

「あら、凡夫っぽい顔だけど、意外と教養はあるのね。でも、質問に答えないのは嫌われるわよ?」
「ああ、すいません。ええと……」
「じゃあ、月流の霊力でも教えてあげようかしら」
「質問は一体何処に」
「嫌いだもの。好き嫌いして、端に寄せておいたわ」
「そして哀れ残り物は捨てられてしまう、と」

 と言うが、月流と言うのは分からないが、霊力の扱いと言うのは魅力的な教えだった。
この幻想郷では、外の世界と違い、人脈、金、権力以外にも、戦闘力と言う物が大きな力として認知されている。
と言うのも、いくらスペルカードルールがあるとは言え、それに参加できるのは霊力持ちだけ、一般人は里を一歩出れば妖怪に食人される可能性が常に存在する。
故に霊力を扱える、つまりスペルカードルールに参加できると言うのは一種のステータスとして認められており、しかもそれは、人脈のように突然崩れ去ったり、金のように里の都合で左右されない、安定した力である。
勿論金ほど利便性の高い物では無いが、この幻想郷に限り、非常に有用な力と言っていいだろう。
是が非でも、教えて欲しい事だった。
が、一つ疑問がある。

「一つ、質問なんですけど。俺って、使う程に霊力があるんでしょうか?」
「あら、貴方結構霊力持ちよ? 紅白程じゃあないけど、鍛えればそのうち白黒ぐらいにはなれるんじゃあないかしら」
「はぁ。モノトーンですね」
「そう、モノトーンなのよ」

 よく分からないが、とりあえず俺にはそこそこに霊力とやらがあるらしい。
紅白と白黒の違いはと言うと、目出度さぐらいしか思いつかないのだが、俺の霊力はよっぽど目出度くないのだろうか。
まぁ兎に角、霊力の扱いが魅力的な教えなのに変わりは無いので、頭を下げて教えを乞う事にする。

「では、ご教授、お願いしてよろしいでしょうか?」
「うーん、もう一声」
「ええと、とてもよろしくお願いします」
「中学生の和訳みたいね」
「何卒よろしくお願いします」
「ううん、もうちょっと月的に」
「ルナティックお願いします」
「うーん、まぁいいわ。じゃあ、月流の霊力の使い方を教えてあげるわ」
「あ、ありがとうございます、先生っ!」

 何だかよく分からないやり取りがあったが、兎も角俺は霊力の使い方を教えて貰えるらしい。
期待の目で輝夜さんを見上げると、ふふん、と得意気な表情をし、胸を張る輝夜さん――いや、輝夜先生。
クイッっと中指で眼鏡を引き上げ、一言。

「で、権兵衛。霊力の教え方って、何をすればいいんだっけ」
「………………」

 結局、初回は永琳さんを呼んで、輝夜先生が霊力講師の授業を受ける次第となった。



      ***



 全く、なんで私が授業を受けなきゃならないのかしら、とぶつぶつ言う輝夜先生を宥めながら、永琳さんの刺すような視線に晒されて三時間ほど。
進みすぎていて全く分からない内容と二人だけで十分な内容に、ようやく、あ、俺いなくて良かったんじゃ? と気づき、しかし何故か永琳さんに出してもらえず、輝夜先生の宥め役を続けて二時間ほど。
たっぷりとした密度の時間に晒され、ちょっとげっそりしながら、輝夜先生が根を上げた事でようやく解放された俺は、永遠亭の中をふらふらと散歩していた。
と言っても、庭を眺めながら縁側を廻っているだけなので、案内は必要なく、一人で気楽なぶらり歩きと言う奴である。
時たますれ違う妖怪兎さんに会釈を返しながら、本当にゆっくりと、永遠亭を回ってゆく。
庭、と言っても、それ程整備された庭は無く、土が面を出しているだけ。
そこだけ見ると白玉楼には見劣りしてしまうが、少し面を上げると、違う物がみえてくる。

 代わりに見えてくるのは、竹林だ。
周囲は鬱蒼とした竹林に囲まれ、夕焼けの日を反射するその光景は、幻想的で、他の光景とは一線を画す光景であった。
竹とは、百二十年に一度花をつけるだけで、それ以外はずっと青々と細いままの身を伸ばすばかりの植物である。
他の植物はもっと早い周期で花をつけ、その茎を太くしたり曲げたり、木となりその幹を大きく広げたりするのに対し、竹は常に真っ直ぐで青々としている。
それは、竹が月の穢れ無さに惹かれる植物だからである。
何故かと言うと、竹は人の見ていない夜、何故か地上の六分の一しか重力の無い月に伸びてゆく事から、分かるだろう。
竹は地上の穢れからできるだけ身を離し、穢れ無き狂気に満ちた月へとその身を伸ばすのだ。
他の太陽に向かって伸びる植物は、太陽に近づき過ぎてその身を焼かれない為、先端を曲げて伸ばすが、対して竹は真っ直ぐ伸びてゆくと言うのも、その事実を裏付ける一因となるだろう。
月と竹との関係は、加えて竹取物語などの物語を見ればよく分かるだろう。
他にも、竹が花をつけるのが、百二十年に一度と言うのも竹の特殊性を表している。
百二十年とは、六十年を二倍した数である。
以前慧音さんに聞いたのだが、幻想郷の記憶は、六十年に一度歴史に変換されるらしい。
何でも六十とは幻想郷の自然の属性全てを掛け合わせた数らしく、それはあらゆる物の再生を意味するのだとか。
物の再生。
切っても切っても生えてくる竹に、何とも似合った事柄ではあるまいか。

 とまぁ、そんな事を考えながら、竹林を眺めながら歩いていると、ついに永遠亭を一周してしまった。
散歩を始める前に見た自室の時計によると、夕食まではまだ時間はある筈だが、さて、どうすべきか。
出来る事なら、炊事はちょっと自信がないが、掃除ぐらいなら手伝おうか、それとも中身があるような無いような感じだった輝夜先生の初回授業の復習でもしようか、と、思い悩んでいた所であった。
急に、ヒョイっと目の前に妖怪兎さんが飛び出してくる。

「あいたっ」

 どん、と。
どうでもいいことを考えながら歩いていた所であったので、そのままぶつかってしまい、尻餅をついてしまった。
思わず痛みに目を顰めるが、それよりも大変なのは、勢い良く体も小さかった妖怪兎さんである。

「だ、大丈夫ですか」
「あーいたいなー、いたたー、骨が折れてるかもー」

 一瞬妖怪だから大丈夫なのでは、と顔色を見て思ったが、どうも聞く限りではそんな事は無かったようだった。
全く腫れているように見えないのだが、彼女が抑えている二の腕は折れているかもしれないらしい。
しかもやけに平坦な声な事を思うと、喉の辺りを傷つけてしまったのかもしれない。
どうしよう、どうしよう、と頭の中でぐるぐると言葉が回る。
まるで地面が無くなってしまったかのように、がくがくと膝が震え、目眩がする。

「と言う訳で、慰謝料と言う事でこのお賽銭箱に――」
「た、大変です、早く治療しないとっ! えっと、腕、ですよね? 立てますよね? それじゃあ、早く永琳さんの所へ行かないと!」
「いや、その、賽銭箱――」
「えっと、立てないんですか? 肩を貸しましょうか? えっと、ごめんなさい、抱っこして連れてゆくには俺の力がこころともないので……」

 と、両手を差し伸べると、ため息混じりに、ぺしん、と手を叩かれてしまった。
思わず、目を見開く。

「はぁ。わたしゃあこれでも健康に気を使ってきていてね、この程度じゃあ怪我なんてしないわよ」
「へ? でも、さっき骨が折れてるかもって」
「“かも”ってね。ただの方便よ。全く、これはこれで面白いかもしれないけれど、ちょっと遊び方を間違ったわ」

 と言って、やれやれを肩をすくめながら立ち上がる、妖怪兎さん。
ローティーンと思わしき幼い容姿に、妖怪兎共通のワンピース、首辺りで揃えた黒髪にぴょこんと生えたウサミミ、ここまでは他の妖怪兎と同じだったが、唯一首から下げる人参のペンダントだけが彼女を独立してみせる。
その彼女の様子には全く怪我が見受けられず、違和感ある動作もない。
そんな彼女に、俺はようやく胸をなで下ろす。

「良かったぁ」
「へ?」
「だって、貴方に怪我は無かったんですよね? それ以上に安心な事なんて無いじゃないですか」

 と言うと、何故か変な顔をする妖怪兎さん。
はて、どうしたのだろう、と首を傾げつつ、俺も立ち上がる事にする。

「あんた、騙された事にまだ気づいていないの?」
「え? あぁ、そう言えば、そう言う事になるんでしょうね。でもまぁ、お互い怪我が無くて良かったですよ」
「……ああ、そう。まぁいいや」

 何故かため息をつく妖怪兎さん。
とりあえず、初対面であるので、遅ればせながら、と自己紹介を始める。

「ええと、この度永遠亭でお世話になる事になった、外来人の七篠権兵衛です。よろしくお願いします」
「うん? あーそっか、お昼には私用事で居なかったしね。私は妖怪兎のまとめ役の、因幡てゐ。趣味は人を騙す事。人間を幸せにする程度の能力持ちの、幸運兎ちゃんさ」

 趣味は人を騙す事、と聞いて一度目を細めた俺だが、最後まで聞いて、ほぉ、と、思わず目を見開く。
兎と言えば、かつて冥界と交信していたと信じられ、最も生きる事に気を使ったとされる事から、その足が幸運の象徴とされた動物である。
そんな兎の中でも更に幸運と枕詞のつく兎と言えば、クローバーで言えば何十葉のクローバーに相当するものだろうか。
想像を絶する物があるが、少なくとも四十は下らぬに違いあるまい。

 となると、だ。
今、因幡さんが言った人を騙す事、と言うのは、人を幸せにする為に、必要な行為ではないだろうか。
何故なら、幸運とはとても大きな力である。
権力者ばかりではなく、日々をのんべんだらりと過ごす人々にとっても、喉から手が出る程欲しい物だ。
そのため、もし因幡さんが無制限に別け隔てなく幸せを分けてしまえば、恐らく彼女の幸せを得る為に、争奪戦が起きてしまう事だろう。
故に、彼女は人を騙し、その幸せを得るのに制限を設ける事で、争いを防いでいるに違いない。
人を幸せにする為に人を騙すと言う苦行をやってのけるその心には、畏敬の念を抱かざるを得ない。

「因幡さん」
「てゐでいいよ」
「てゐさん。感服しました」
「はぁ?」

 何故か疑問詞を浮かべるてゐさんの手を握り、膝をつき、先程思った事を伝える。

「あー、うん、そーゆーこともあるようなないような」
「くす、率直に肯定しないとは……矢張り謙虚なんですね」
「まー、そんな気がしたりしなかったり」
「所で、先生……いや、師匠と呼んでいいですか?」
「なんですとっ!」

 と、突然なので当然かもしれないが、シェーのポーズで驚くてゐさん。

「い、いや、あの、師匠は勘弁して欲しいかなーって……」
「あ、そうですか……突然すいません」
「いや、頭を下げるのはいいから、どうしてか教えてほしいんだけど」
「では、少し長く、聞きく苦しくあるかもしれませんが」

 と前置き、こほん、と咳払いをし、正座する。

「俺は、この幻想郷に入って以来、色々な人に様々な恩を受けてきました。
人里で慧音さん、白玉楼では妖夢さんに幽々子さん、ここ永遠亭でもそうです。
永琳さんには治療をしてもらいましたし、先程も輝夜先生の授業の手伝いをしてくださいました。
鈴仙さんは、変な勘違いをして失礼な思いを此処の人たちに抱いていたのを解消してもらった上、慰めてまでもらいました。
輝夜先生に至っては、三食と部屋を提供してもらった上、霊力と言う教養まで授けてくださっています」
「いや、輝夜様は強制でなかったかい?」
「そうですけど。でも、結局俺は得ばかりしているので、渡りに船だったと言うか」

 正直、いい加減家の収穫待ちの秋野菜が心配だと言う気持ちもあるのだが、妖精の祝福の為かはたまた変な力場でも働いているのか、家の野菜は奇妙に力強かったり運が良かったりするので、野生動物にでも喰われなければ大丈夫だろうと思う。
なので事実、輝夜先生の“飼う”発言により、俺は得ばかりしているのだ。
正直言って物凄い勘違いをしていたのは恥ずかしく、ついでに鈴仙さんに子供にするように慰めてもらったのも二重に恥ずかしく、思い出す度に赤面してしまうのだが。
とまぁ、そんな感じの事を蛇足として付け加えると、てゐさんは何故かふっと視線を明後日にやる。
はて、何があるのかとてゐさんの視線の先を辿るが、その先にはただただ竹林が静かに揺れているだけ。
まるでとんちんかんな事を言う男を前に遠い目をしたくなった人のようだった。
とりあえず、話が途中なので続ける俺。

「まぁ、兎に角俺は色々な人に様々な恩を受けてきました。
俺は、それをできる事なら返したいし、その努力を怠らないつもりです。
そこで転じて、てゐさんの人間を幸せにする程度の能力と言うのは、誰もに恩を返せ、幸せになる能力です。
つまり、俺の努力を、究極に実らせた形となるのです。
であれば、敬わない訳にはいかないでしょう。
と言って早速思い浮かんだのは先生なのですが、先生と言う呼称には先約があるので、師匠、と、そう呼ばせて頂きたく」
「はぁ……そーなんだねー」
「そして」

 と、一息切り、突発性頭痛を堪えるような姿勢のてゐさんに向かい、記憶にある限り三度目の土下座をする。

「図々しい事とお思いでしょうが。俺に、人を幸せにする事の何たるかをご教授願えないでしょうか」
「とりあえず回れ右して、自分の部屋に帰って飯まで寝な」
「はい、分かりました、てゐさん」

 と言う事で、立ち上がり、てゐさんにもう一度頭を下げ、それから回れ右して部屋に向かう。
と、数歩歩いた所で、急に足先の感覚が無くなる。
うわっ、と、情けない悲鳴。
バキッ、と言う音と共にぐわんと視界が縦揺れしたかと思うと、尻をつく。
右足が踏む筈だった床が腐り落ちていて、そこを踏み抜いてしまったようだった。
ちょ、大丈夫? と、助けにきてくれたてゐさんの手を借り、何とか体制を立て直す。
相当床板が柔らかくなっていたらしく、俺の足に汚れはあっても怪我は無い。
それを見て、あぁ、なるほど、と納得する俺。

「流石てゐさん」
「は? なにあんた、空気で頭でも打ったの?」
「成程、俺が率先して誰か踏み抜く筈だった床板を踏み抜く事で、他のみんなを幸せにする事ができたのですね。
それに俺自身の被害も、少し足が汚れただけで、怪我一つ無い、理想的に近い物とは。
感服致しました」
「……あー、もー、めんどくさいしそれでいーよ。さっさと部屋に帰りな」
「あ、はい。では、ご教授ありがとうございました」

 手をぷらぷらと振るてゐさんに再び頭を下げ、再び回れ右する。
今度こそ真っ直ぐに部屋に帰ろうとすると、すぐ近くの曲がり角に差し掛かった所であった。
デジャヴを感じる事に、急に、ヒョイと、目の前に妖怪兎さんが飛び出してくる。

「あいたっ」

 どん、と。
ぶつかる事こそは回避できなかったものの、今度は咄嗟に身を引き、妖怪兎さんの下敷きになるようにできた。
思わずほっとため息をつこうとしたその時、夕焼けの光に照らされ、空で踊る花瓶が見えた。
掴める位置だったので、咄嗟に手で掴むと。
じゃあ、と。
俺の頭に被る花瓶の中の水。
鼻だの口だのに入ってきて不快な上に、その冷たさに思わず身震いしてしまう。
咄嗟に閉じた目を開くと、とりあえず妖怪兎さんの方が背が低い為か濡れておらず、良かった、と内心で呟いた。

「大丈夫ですか?」
「あ、う……」
「えっと、何処か怪我でも?」
「い、いえ、何でもないですぅっ!」

 ぴょん、と、正に兎のごとく跳ね起きる妖怪兎さん。

「はい、これ。花瓶ですかね?」
「ははは、はい。ありがとうございます! あ、タオル持ってきますので!」

 と、正に脱兎の如く走って行ってしまう妖怪兎さんであった。
何だか顔が赤かったような気がするが、どうしたのだろうと首を傾げ、気づく。

「ああ、流石てゐさん」
「………………」
「成程、あの出会った時のぶつかった事すら、俺が彼女を庇えるように、つまり双方に怪我が無いよう幸せにする為の前兆だったのですね。
感服致しまし……どうしたんですか? てゐさん」

 と、先と同じくてゐさんの力に感服していると、てゐさんが何やら難しそうな顔で俺の事を見ている。
俺はと言えば勿論幻想郷の底辺を這う生き物であり、可笑しな所など探せばいくらでも見つかるだろうが、今の瞬間に見つかった物はと言うと、思いつかない。
はて、一体どうしたのだろうか、と首を傾げる俺に、何だか困ったような笑顔を作るてゐさん。

「……いや、あんたは部屋に帰ってなさい」
「え、でも」
「いいから」

 と、促されては仕方があるまい。
てゐさんの表情は何か困っていると言っているような物で、できる事ならば何か力になりたかったのであるが。
と言う事で、後ろ髪を引かれるような思いのまま部屋へと戻る俺なのであった。



      ***



 ため息をつきながら、因幡てゐは炊事場へと足を運んでいた。
がら、と扉を開くと、むわっとした熱気に包まれた空間がそこに広がっている。
秋もそこそこに深まった今、懐かしい残暑を思わせる空気である。
自然、暑さの嫌いなてゐは苦い顔をつくりながら、中の妖怪兎達の顔を見回す。
一様にてゐに頭を下げる顔の中、先程見た顔を見つけ、てゐはその顔に近づいた。

「どうしたんだい、あんた。権兵衛から、逃げるみたいにしちゃってさ」
「あ、てゐさん……」

 たじろぐその兎は、先程権兵衛とぶつかった兎である。
てゐより少し背が高く、腰ほどにまで黒髪を伸ばしている彼女は、妖怪兎の中でも少し大人っぽい方だ。
が、権兵衛の名前を聞くと、途端に頬を赤く染め、顔を埋めるようにする。
そのギャップに顔を歪めながら、てゐは苛立たし気に腰に手をやると、はっと己の所業に気づいた兎は慌てて手を伸ばし、ぶんぶんと振りながら口を開いた。

「あ、その、違うんです。その、本当は逃げるつもりもなくて、むしろ、会えたのが嬉しすぎて動揺しちゃったと言うか……」
「はぁ?」

 と疑問詞を口に出すてゐに、ぼそぼそと小さな声で答える妖怪兎。
この兎、何時だったか普通の兎の姿を取ってそこらを飛び跳ねに行った時があり、その時切り株にぶつかって目を回してしまったのだった。
起きて、人間の家の中に居る事に気づき、すわ食われるのかと思った所、仕方ないな、とばかりに離してくれた人間が居たのだそうだ。
その人間が、あの権兵衛だと言う。
そういえばそんな事もあったかな、と、ぼんやりとてゐは思い出す。
数カ月程前も、こんな噂があった。
何でも罠に掛かっていたところを、大国様もかくやと言わんばかりの相当な美男子に助けられた、美兎の話だったか。
眉唾物とは思っていたが、実物はこれである。
権兵衛は外来人特有の栄養状態の良さを含めても見目麗しい方ではあるものの、凡庸か美男子かと問われれば大半の人が凡庸と答える程度である。
尤も、単に大国様とまでは言わずとも、ある程度の美男子が良いのなら、妖怪の男を探せばいいだけなので、てゐはそこまで気にしていないが。

「あ、タオル持って行ってあげないと……、でも、水被っちゃったんですよね、着替えとかに鉢合わせしちゃったらどうしよう……、うぅ、手で顔を隠すフリして、指の隙間から見ちゃおうかな……」

 兎も角、疑問も晴れた事だし、欲しい答えが得られなかった以上、この妄想逞しい兎に用は無い。
そのままぶつぶつと妄想を続け、何時の間にか結婚式は和風が良いか洋風が良いかと言う話になっているのを背後に、てゐは炊事場を後にする。
靴を引っ掛け、そのまま外へ。
夕焼けが落ちる様の外は、初秋の涼し気な風が吹いており、てゐに張り付いていたむわっとした暑さの炊事場の空気を吹き飛ばしてくれる。
竹林が風に揺れるさざ波の音を背景に、竹林の中の無数の鈴虫の声が鳴り響く。
暫く瞼を閉じ、風が当たってくるのに任せていたてゐは、ゆっくりと口を開いた。

「七篠権兵衛、か」

 ざざざ、と、てゐの言葉に合わせるように、竹林がざわめく。
奇妙な男であった。
初対面ではなんて騙しやすそうな男なんだ、と思い、嬉々として騙しに行ったのだが……騙しやす過ぎて、一回転してしまったとでも言うべきか。
何とも話が噛み合わず、てゐとした事が、権兵衛のペースに巻き込まれてしまっていた。
まぁ、そこまでは良い。
いや、てゐの本業たる詐欺が行えない相手だと言う事は全然良く無いのだが、とりあえず置いておく。

 問題は、てゐと出会ったと言うのに、権兵衛が全く幸せになる様子を見せない事であった。
部屋に帰れと言えば腐った床板に足を取られ、妖怪兎とぶつかり一人水を頭にかぶる。
本人はこれが幸せにする能力だったのか、などとほざいていたが、無論こんなものが四十葉のクローバー程度の幸せな筈が無い。
勿論見えないどこかで権兵衛が幸せになっているのかもしれなかったが、それは無い、と、てゐの長年生き抜いてきた感が言っていた。

 所で。
妖怪とは、人間と違い肉体ではなく精神によって生きる糧を得ている。
よって肉体的な健康よりも精神的な健康の方が重要だし、病気にかかるときも、精神的な病にかかる方が多い。
その精神的な健康と言うのは、己がこうである、と言う明確なアイデンティティを確立する事である。
例えばシンプルな物で言うと、人間を食らうモノ、人間を驚かすモノ、人間と勝負するモノなどが挙げられる。
勿論精神と言うモノは次第に複雑怪奇となってゆくものなので、高位の妖怪はもっと複雑な自己を持っている事が多い。

 そこでてゐはと言うと、人を騙すと言う事と、人を幸せにすると言う事、その二つが主な己を確立する物である。
対し、権兵衛は、騙すと空回りする。
幸せにしようにも、勝手に不幸に陥ってゆく。
どちらか片方ならば無視のしようがあるが、両方とあっては嫌でも心に入ってくる。
つまるところ、権兵衛と言う存在は、てゐに取って猛毒であった。

「かと言って、無視するって訳にも、いかないんだよねぇ……」

 てゐが呟く通り、無視をすると言う事は、てゐにとって権兵衛が騙す事も幸せにする事もできない、と認める事になる。
今まで人を騙し幸せにしてきたてゐにとって、そんな人間が存在すると言う事は、精神の大きな傷となるだろう。
健康的に生きてきたてゐにとって、その傷は想像だにしない、大怪我となるに違いない。
それはもしかしたら、致命傷となるかもしれないぐらいに。

 てゐは、今にも落ちそうな太陽に目を向け、細める。
大きく息を吸って、吐く。
何故だろう、てゐは、かつて全身の皮が裂けた時以来の死の予感に直面していると言うのに、不思議と心は平穏を保っていた。
以前は、大国様に縋る程に生に飢えていたと言うのに、今は何故か、助けを求めようとは思えない。
ただ、足掻こう、とだけ静謐とした精神の中に思い浮かぶばかりだ。

 竹林に、背を向ける。
紫炎の空に瞳を向け、深呼吸。
ぐっと拳を握ると、歯を噛み締め、てゐは永遠亭の中へと戻ってゆく。
これからきっと、夕食の席で、てゐは権兵衛と顔を合わせるだろう。
騙す事も幸せにする事もできない、あの男と。
そして足掻くだろう。
何とか権兵衛を騙そうと、どうにか権兵衛が幸せにならないかと。
そしたらもしかしたら、奮戦むなしく、てゐはその命を失うかもしれない。
それがどうしてかそんなに恐ろしく無いのは、長生きし過ぎた故か。
自嘲の笑みを浮かべながら、ふと、てゐは思い出す。

「師匠、だったっけ」

 権兵衛がてゐの事を呼ぼうとしていた呼称である。
こんな風になって消えてゆくのだったら、その前の少しの時間ぐらい、そう呼ばせてあげても良かったかな、と思いながら、てゐは永遠亭の食堂へと向かってゆくのだった。



      ***



 幸せとは、何たるか。
人は言う。
幸福であるだけでは十分ではない、他人が不幸でなければならない、と。
ならば俺にできる最も平易である恩の返し方は、俺が不幸である事そのものなのではないか、と率直に思うが、それは間違いである。
なぜなら俺が不幸になろうと、結局俺は恩返しをなし得る事で幸福になってしまうので、俺のあげた幸せの条件は満たされない事になってしまう。
なので、俺はどうにかして恩人達に幸福を返す事を考えねばならない。
その為には矢張り、俺の独力では不可能であろうと言う事が思い浮かぶ。
それだけは疑念を挟む事無く言えるだろう。
何故なら、俺は、俺なのである。
善因も悪因も悪果となって帰って来る、俺なのである。
そんな俺が、どう足掻いた所で、一人で誰かを幸せになどできる筈があるまい。
なので他者の力を借りる事になるのだが、幸いにして、此処永遠亭では、借りる力に事欠かない。
俺如きに霊力と言う珠玉の力を与えてくれると言う輝夜先生。
人間に幸せを与える程度の能力と言う、俺の目標そのものを持つてゐさん。
後者はそのまま借りる事は出来無くとも、彼女が幸せを与える姿は、きっと参考になる事間違いだろう。
何時まで此処に居られるのかは分からないが、それでも出来る限りの事を此処の人々から学ぼう、と決意を新たにした辺りで、部屋の外から呼ぶ声。
先の妖怪兎さんがタオルを手に、夕食の時間を告げに来たのだった。

 それに従い、乾き始めていた頭をタオルで拭いた後、矢張り長い廊下を歩き、食堂へ。
既に席についている輝夜先生、永琳さんに挨拶し、暫く待つと、鈴仙さんとてゐさんも姿を現し、全員でいだたきます、と声を合わせるに至った。
今晩のご飯は、驚くなかれ、カレーライスである。
幻想入りしていたのか、と吃驚しつつ、早速銀のスプーンを手に取り、白いご飯と茶色いルーを半々に掬い、一口。
程良い辛味と旨みが口内に広がり、粒の立ったご飯と共に噛み砕かれ、嚥下される。

「うん、美味しい」

 すると、俺の言葉を皮切りに、鈴仙さんとてゐさんがにこりと微笑み、食事を始める。
どうやら、俺の感想を待っていたようである。
そう思うと嬉しいような恥ずかしいような、と顔を赤くしつつ、水を口に含んで永琳さんや輝夜さんの方に目をやる。
永琳さんは俺と目が合ったかと思うと物凄い勢いで外し、それに落ち込みつつ輝夜さんに目をやると、視線が机の上を泳いでいる。
あぁ、と気づき、俺は机の上にある醤油を手にとった。

「はい、輝夜先生」
「あら、気が利くじゃないの、権兵衛。やっぱりカレーには醤油よね。ソースなんて、ただでさえ茶色いのに何を考えているのかしら」
「や、すいません、俺は何もかけない派ですが」
「の割りには、気が利いたけど」
「何となく、輝夜先生は醤油が好きそうかな、と」

 わかってるわね、ととぽとぽ醤油をかける輝夜さんを尻目に、俺は続けてカレーライスを口にしようと思うと、じっと視線を感じる。
面を上げると、六つの瞳が俺を見ていた。
思わず、腰が引ける。

「あら、師弟初日だって言うのに、随分気が合うんだね」
「私も、何もかけない派だけど」

 と言う二人は興味の視線だが、何も言わないどころか微動だにしない永琳さんは、正直、ちょっと怖い。
しかもその手が伸びたまま固まっているのを見ると、輝夜さんに醤油を取ってあげようとしていた所だったみたいなので、それを邪魔してしまったようで、俺は何ともなしに申し訳ない気分になってしまう。
そんな訳で縮こまりながら、カレーライスをつついていると、不意に輝夜先生が口を開いた。

「師弟って言っても、今日は殆ど何も教えられなかったけど、ね」
「仕方ないわよ、輝夜。霊力講師の授業なんて、たった五時間じゃあ不安なぐらいだわ。本当は、もっと時間を取っても良かったぐらいなんだけど」
「わわ、それは勘弁」
「まぁ、兎達の教育とは訳が違いますからね」

 と鈴仙さんが呟くが、実際のところ俺が一向に霊力を使えなくても困るのは俺であり、輝夜先生は多分他の授業に興味を移してゆくだろう事を考えると、それ程訳が違うとも思えない。
それでも霊力講師の授業を輝夜先生にしてくれる永琳さんは、やっぱり根源的な所で優しいのだろうな、と想像する。
俺には、ちょっと冷たいけど。
中々目も合わせてくれないけど。
発言を無視される事もあったけど。
と、そんな事を考えていると泣けてきそうになるので、軽く頭を振ってネガティブな気持ちを追い出す。
折角の美味しい食事なのに、そんな事を考えながらでは失礼だからだ。
とまぁ、そんな風にカレーをぱくついている俺に、ふふん、と自信気に輝夜先生。

「まぁ、明日からはビシバシと行くから覚悟なさいよ、権兵衛」
「上手く飴と鞭を使い分けてくださると、助かりますけど」
「嫌よ、掃除が大変そうだもの」
「何ですか、それ」
「飴を投げた後、回収するのが手間だわ」
「ああ、汚そうですしね」
「いや、あの、何か違いませんか?」

 と、鈴仙さんが突っ込むのを尻目に、輝夜さんのお茶が尽きそうだったので、急須を手に取り輝夜さんの湯のみにお茶を入れる。

「あら、ありがとう。よくお茶が尽きそうだって分かったわね、硝子なんて無いのに」
「まぁ、何となく。それだけ毎日が飲茶なんでしょうかね」
「それだけ呑気で紅白っぽい毎日だと、明日からが大変そうね」
「明日怖い、明日怖い」

 などとやり取りしながら急須を戻した辺りで、またもや視線を感じる。
面を上げると、矢張り三対の視線が俺を見ていた。
何とか、今度は腰を引かずに済む。
頑張った、俺。

「いやぁ、妬けるねぇ。これが師弟の絆って奴?」
「私も、お茶ぐらい入れてあげるけど」

 と言う二人は兎も角、矢張り永琳さんは無言で停止していた。
それも矢張り、急須のあった場所に手を伸ばそうとしたまま。
またもや永琳さんの邪魔をしてしまった結果となり、何とも申し訳ない気分で縮こまりながらカレーライスをつつく俺。
そんな風に永琳さんとはちょっと気まずい雰囲気になりつつも、輝夜さんやてゐさんは楽しい話を提供してくれ、鈴仙さんは入れ忘れていた俺のお茶を入れてくれたりと世話を焼いてくれて。
こんないい人達に囲まれて、俺はなんと幸せなんだろう、と思いつつ、初めて五人で卓を囲んだ夕食を終えるのであった。



      ***



 鈴仙・優曇華院・イナバは様々な人に囲まれてその実、孤独であった。
輝夜は鈴仙を拾ったが、それは単なる気まぐれ以上でも以下でもなく、永琳は鈴仙を弟子にとったが、それは単に素直に言うことを聞く手足が欲しかったのと、月との交信役が欲しかっただけ。
感情的にも、鈴仙と他者の間には確実な間隙がある。
輝夜は全てに飽きながら自分の仕事を探す事が全てであり、そも、彼女は月兎を対等とはみなしていない。
永琳は鈴仙がどうこう言う以前に輝夜が全ての基準であり、彼女が鈴仙に抱いている感情は道具への愛着に近いだろう。
てゐに至っては、まず彼女に信頼を預けると言う行為自体が愚行である。
と言うか、そもそも鈴仙は非常に臆病で自分勝手であり、月の姫のペットだった頃と同じく、可愛がられる反面、嫌われるのが怖くて他者の心に踏み込めないのだ。
自分で居場所を作ろうとする努力を怠る者に居場所が無いのは、当然の摂理と言えよう。

 そんな折だった。
鈴仙が、権兵衛と出会ったのは。
権兵衛は、鈴仙の目から見て、彼女よりも更に臆病だった。
人の悪意に敏感で、永琳の言葉なき悪意だけで酷く消耗し、被害妄想にまで至った。
そればかりか、その誤解を解いても、失礼な誤解をしてしまった、と、嫌われる事を恐れていた程である。
そんな姿が、自分と重なったのだろうか。
月の姫のペットと言う立場が、同じだったからだろうか。
鈴仙は思わず、泣き出した権兵衛を慰めていた。
そればかりか、不安がる権兵衛に、何かあれば自分を頼れ、などと言ってみせたのだ。

 こんなの、私のキャラじゃない。
私はもっと自分勝手で、冷淡な兎だって言うのに。
それが鈴仙の正直な感想であるのだが、しかし体が勝手に権兵衛の事を慰めていたので、仕方が無い。
まぁ、頼れと言ってしまった事は仕方なく、また、元より師からの命令もあったので、鈴仙は今日一日、狂気を操る程度の能力で存在を消しながら、権兵衛のフォローの為彼の後をつけていた。

 そんな中で、分かった事がいくつかある。
中でも重要なのは、鈴仙は権兵衛が自分と似ていると思ったが、それが間違いであった事だ。
確かに権兵衛は、臆病で、傷つきやすかった。
しかも何だか自己嫌悪の念が強いらしく、時折そんな事を口から漏らしていた。
だがしかし、である。
同時に権兵衛は、人間関係を作ろうとする努力を怠ってはいなかった。
永琳の言葉無き悪意ですら傷つくぐらい傷つきやすく、更に言葉から推察するに、人里でもマトモな扱いを受けてこなかったと言うのに、だ。

 眩しかった。
どうしようもなく、眩しかった。
輝夜の理解不能な言葉を理解しようと努め、理不尽な不満を笑顔を壊さず宥め。
永琳の絶対零度の視線を受けて項垂れながらも、少しづつその悪意の源泉を見極め、せめて不快ではないように動こうと努力して。
てゐとの関係はかなり天然が入っていてズレていたけれど、それでも人を幸せにしようと頑張って。
その努力を惜しまない姿勢は、臆病さが臆病さだけに、際立っていて。

 せめてそんな権兵衛に手を貸してやりたかった鈴仙であったが、臆病な彼女には、それすらもできなかった。
何せ権兵衛は、輝夜のペットであると同時、永琳の憎悪の対象でもあるのだ。
三十年程と言う長い間、表情筋のみの関係とは言え永琳と師弟であった鈴仙には、永琳が感情を表にすると言うだけでも驚きの事態なのだ。
その上その感情が憎悪ともなれば、ただ事ではない。
鈴仙は長い間続けられてきた多くの実験で、永琳の恐ろしさと言う物を骨の髄まで知っている。
無感情であってもあれ程までに恐ろしい人なのだ、この上憎悪を持ってみせたならば、どこまで恐ろしい存在になるのか計り知れない。
故に鈴仙は、永琳に憎まれている権兵衛の肩を持つような行為は、恐ろしくて表立っては出来なかった。

 惨めだった。
ただでさえ自分と似ている権兵衛の輝きが側にあるからか、余計に自分の臆病さが際立って見える。
それでも不思議と権兵衛に負の感情を抱かないのは、彼に輝夜をして飼うと言わしめた魅力があり、その魅力に既に鈴仙がやられてしまっているからなのだろうか。
そんな陳腐な考えに自嘲しながら、茶を啜っている鈴仙に、永琳の声がかかった。

「待たせたわね、もういいわよ。権兵衛さんのフォローの報告だったわね」

 夜半の八意永琳の部屋、鈴仙は権兵衛についての報告をしに来て、師の仕事に区切りがつくまで待っている所であった。
丁度許しが出たので、はい、と頷き、鈴仙は報告を早口に上げる。

「朝、丁度起きた所に部屋に行けたので、そこから食堂まで行動を共にしました。
途中、輝夜様の飼うと言う発言が人権を踏みにじる物と思っていたようだったので、その誤解を修正しておきました。
で、顔を洗って朝食ですが、皆と同じく白米と味噌汁と目玉焼きとサラダを出しました。
食べ方は結構綺麗で、三角食べ、と言うか四角ですがそんな感じに食べていて、あ、目玉焼きには醤油派だったみたいです。
嫌い箸もそんなに無かったかな、礼儀正しく食べて、炊事洗濯は作業兎に任せているって言ったので、食器を水につけて、それから歯磨きしてました。
ふふ、彼、朝ご飯食べた後に歯を磨く派みたいですね。
で、それから午前中は特に何も無いと伝えて別れると、彼は永遠亭の散策に移りました。
あ、でも最初に厠に寄ってからですね。
大だったみたいです。
で、権兵衛さん、やっぱり礼儀正しいんですよね、兎とすれ違うたびにきちんと会釈しながらゆっくり縁側を一周して、それからは兎に聞いて私たち四人の部屋と炊事洗濯の場所、それから入っちゃいけない場所を把握して、とりあえず一回ぐるっと回ってみたみたいです。
気にしていた様子だったのは、炊事洗濯の場所でした。
ちょっとぶつぶつ呟いていたのを聞いた限り、手伝える事はあるだろうか、と思っていたみたいですけど、炊事は料理の腕で、洗濯は女性が多い事で断念したみたいですね。
それでちょっと落ち込んだみたいなんですけど、掃除や風呂焚きなら手伝えるかも、って元気出してました。
それから兎に言って紙と筆をもらって、自室で、多分寺子屋でやってる歴史の復習かな、そんな感じの物を昼食に呼ばれるまで書いていましたね」

 うん? と永琳が首を傾げるのに気づかず、何度かそんな権兵衛が可愛かった、と言いたかったのを我慢している鈴仙は、早口のまま続ける。

「昼食に呼ばれてから終えるまでは、まぁ、半獣と半人半霊と亡霊姫に無事と伝えて欲しいってぐらいで何もなかったですし、一緒だったので省略しますね。
それからもう一度厠に寄って、ちょっと便秘気味だったのかな、もう一回大で、ちょっと時間がかかっていたみたいでした。
で、輝夜様の授業へ向かって、途中何回か兎とすれ違った時も会釈をしてましたけど、特に何もなく輝夜様の部屋に着きました。
ここの経緯はお師匠様も聞きましたか? あ、はい、なら省略します。
で、輝夜様の授業が終わってから、もう一回厠に言って、今度は小だったみたいです、それからもう一度縁側をぐるっと一周して、そこでてゐと出会いました。
あの詐欺兎、いきなり当たり屋の真似して賽銭箱出して……、危うく私が注意しなきゃとも思ったんですけどね、此処がおかしいんですけど、権兵衛さんったら、ちょっと天然入ってて。
てゐの怪我の事を心配して、お師匠様の部屋に連れていかなきゃ、なんて言うもんだから、てゐも諦めたみたいでした。
で、互いに自己紹介したんですけど、此処がまた、権兵衛さんったら天然で。
何でだかてゐの事を師匠と呼んでいいですか、なんて話の流れになっちゃって。
確か、人を幸せにする事を目標としているから、だったかな。
ああ、てゐは断ったんですけどね、師匠。
で、てゐが呆れて部屋に帰れって言って、権兵衛さんはそれに従ったんですけど、腐った床板に足を取られちゃって。
幸い怪我は無かったみたいなんですが……、あそこの掃除担当の兎、許せませんよね。
後で罰を与えておきます。
あ、一瞬てゐの悪戯かと思ったんですが、焦ってたんで違うと思います。
それからもう一回部屋に戻ろうとした所で、花瓶を運んでた兎と、今度こそ本当にぶつかって」

 一旦、鈴仙は言葉を切る。
と言うのも、あの兎がわざとらしく権兵衛の上に乗っかり、しかも顔を赤らめて駆け出すなんて言う典型的な行動を取ったのを思い出すと、ふつふつと心に黒い物が浮かんでくるからだ。
噛み締めた歯を開き、深呼吸で内心の空気を入れ替え、心臓の動悸を落ち着かせる。
たかが地上兎の分際で権兵衛にあんなに大胆に触れ、その上怪我の心配をしてもらえる資格など無いが、それは過ぎたこと。
単に、明日の夕食が兎鍋に決まっただけの事だ。
そう自分に言い聞かせ、何とか続きの言葉を吐き出す鈴仙。

「大事は無かったようですが、権兵衛さんが花瓶の中の水を被ってしまいました。
あ、花瓶は無事でしたよ、権兵衛さんがナイスキャッチして。
で、今度こそ部屋に戻って、今度は輝夜様の授業の内容を、権兵衛さんなりに纏めて書き留めていたみたいです。
まぁ、内容が輝夜様向けだったので、本当にちょっとした概要だけでしたけど。
それから夕食に呼ばれて、これも一緒だったんで省略しますね。
で、それからは厨房でお茶を貰って、暫く自分の部屋の近くの縁側で竹林を眺めながらお茶を啜って、それから兎の呼びかけでお風呂に入りました。
やっぱり彼、礼儀正しくて、ちゃんと体を洗ってから湯船に浸かっていましたよ。
あ、体は喉から腕、体の前、後ろ、耳の後ろ、足の順に洗ってました。
で、湯船に浸かる時は、はぁぁーって、目を瞑って本当に気持よさそうな声出すんですよね。
くす、それとちょっと子供っぽいんですけど、権兵衛さん、小声で百まで数えてから、ゆっくりと体を伸ばすんですよ。
多分子供の頃の癖なのかな。
それからは暫く湯に浸かっていて、十分、いや、十五分ぐらいは浸かっていましたかね。
その後湯から出てから頭を洗って、あ、シャンプーに慣れてないのか、それとも久しぶりなのかな、ちょっと目にしみて渋そうな顔、してました。
で、もう一回髪にタオル巻いて湯船に、今度は五分ぐらいかな、それぐらい浸かってから出てきました。
風呂を出てからは、厨房で水を二杯ぐらい飲んでから、暫く縁側で夜風を浴びて、それから歯磨きをしてから、もう一回縁側で月を見ながらお茶を飲んで、それでもう寝ちゃいました。
ちょっと早寝気味なのかな。
と、まぁ、こんな所なんですけど……」

 と、興奮気味に話を終えると、永琳からは声が返ってこない。
どうしたものかと面を上げると、何故か永琳は、話し始めた時と比べ明らかに鈴仙と距離を取っていた。
どうしてか額に冷や汗を浮かばせながら、重そうに口を開くが、

「そう、ありがとう。下がっていいわ」

と、淡白な答えしか返ってこない。
もしかして、私の話の何処かがおかしかったのだろうか。
だとしたら一体何処がおかしかったのだろうか?
何処にもおかしい所なんて見当たらないのにな、と思いつつ、首を傾げながら退室する鈴仙なのであった。




あとがき
ちょっと間があきました。
と言うのも、間に頻繁に体調を崩していた為です。
皆さんも寒くなってくるこの時期、体調には気をつけましょう。
次回更新でその他板に移動予定です。



[21873] 永遠亭3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:47


 夜の帳が降りた頃、輝夜は権兵衛と共にあと少しで満月となる月を拝んでいた。
輝夜曰く、権兵衛の学んでいる霊力の扱い方は、月の力を借りた魔法のような物なのだと言う。
本物の月からは大量の満月光線が降り注ぎ、月本来の穢れ無き魔力が得られる。
が、実際に幻想郷の天蓋に写っているのは、偽の月であり、表側だけの半分月でしか無い。
なので普通、表技で地上の生物が得られるのは、太古から続く本来の魔力の欠片に過ぎないのだ。
と言っても、それでも十分に強力であり、吸血鬼なんかはそれでとんでもなく力を増すのだが。
で。
裏技の方はと言うと、技法としての難易度や廃れ度の他に、それを扱う者に穢れが少ない事が必要なのだと言う。
当然、それを教えられる権兵衛は、輝夜曰く穢れは少ないのだとか。
穢れとは、寿命の存在であり、時が進み、変化がある事である。
故に生まれてから徐々に穢れは増えてゆき、数年も放っておけば裏技を扱うなど以ての外なほどの量になる。
一応穢れを抑える技術や穢れを消し去る方法は存在するのだが、それを知るために必要な知能は数歳児では不可能である為、結局の所、その裏技を扱えるのは穢れ無く尊い場所で生きる、月人しか居ない。
が、権兵衛は、例外である。
何せ名前と一緒に存在を亡くしてしまい、七篠権兵衛と己を名付けて新生し、まだ一年と経っていないのだ。
まだまだ穢れ分も少なく、輝夜に教えてもらった穢れを抑える方法を用いれば、どうにかなるのだと言う。
とまぁ、そんな訳で。
空中にぷかぷかと浮きながら、月明かりの元で実演授業と言う次第となった、二人なのであった。

「とまぁ、今更だけど、空を飛ぶのに不具合は無い?」
「永遠分ぐらい遅い話ですね。何せ、一週間が永遠になっているもので」
「音速が遅いのなんて、冥界の住人ぐらいだわ。まぁ、大丈夫って事よね、死んでないし」

 死ぬんですか、とぼやく権兵衛に、しれっとした顔で、片手を肩の高さまで上げる輝夜。
するとその掌の先に、やや黄色がかった白色の弾が浮く。
月光線による魔力を利用した、月弾幕である。
やってごらんなさい、と言う輝夜に従い、今までの復習として、権兵衛は同じように片手を肩の高さまで上げる。
目を瞑ってすうっと息を吸い、集中する権兵衛。
そんな権兵衛を見る時、輝夜は僅かに高揚を憶える。
まず、やや厚い唇がキュっと締まり、僅かに覗いていた白い歯が隠れ、頬が緊張する。
それから背を伸ばし、呼吸に合わせて小さく動く権兵衛の胸を見ていると、なんだかドキドキしてくるのだ。
これが弟子の可愛さと言う奴なのだろうか、と思うと、元々永琳の仕草が見たくて権兵衛を飼う事にしたのだが、それがとてつもなく良い拾い物だったものだ、と輝夜は思う。
実際、権兵衛は吃驚するほど覚えの良い弟子であった。
輝夜自身やその妹弟子には及ばないが、多分月兎である鈴仙よりも才能があるし、弾幕戦で見る限りでは、白黒や悪魔の犬辺りと並ぶのもそう遠くは無い事かもしれない。
そう思い、権兵衛の事が誇らしくなってくると、何だか胸を張りたくなるのは、不思議である。
などと輝夜が徒然と想っていると、権兵衛のちょっと伸びてきたので切りそろえてやった黒髪の間から、閉じた瞼が開く。
その瞳の先には、輝夜の手の先にあるのと同じ、月色の弾幕があった。
思わず、笑みを漏らす輝夜。

「復習成功、ね」
「――は、はい!」

 思わず弾幕を作っていない方の手をぐっと握り、口元を緩める権兵衛。
こんな風に感動して見せる仕草も何だか可愛く、緩みっぱなしになりそうな顔を、何とか輝夜は引締めてみせる。

「今の権兵衛じゃあ満月近くの月でもなければ、普通の弾幕しか作れないでしょうけど。
でも、修練を怠らなければ、そうね、貴方なら十日程で月の登っていない日中でも月弾幕を作れると思うわ。
って、貴方にとって十日は永遠で須臾だっけ。
まぁいいわ、兎も角修練は怠らない事。復習もね」

 と輝夜は言うが、権兵衛が復習を欠かしていないのは、教える身から既に分かっている。
前回の授業を踏まえた質問や理解をしている権兵衛の姿を見ると、彼との間に特別な絆があるよう感じられて、胸が締め付けられるような、しかし不思議と不快では無い気分になるのだ。
擬音で言うなら。
キュン、とでも言うのだろうか。
今回も、確りと前回より月弾幕の色が月度を増しているのを確認し、キュン、と顔を綻ばせる輝夜。

「で、次は基礎の基礎から、基礎に行くわよ。
前回教えた通り、自分の状態を満月に持ってゆきなさい。
相手を新月にするのは、ちょっと私が限界まで手加減をしても難しいから、また今度で」
「はい、先生」

 この先生、と言う言葉も、キュン、と来る言葉の一つである。
最初は戯れで呼ばせていたのだが、権兵衛の素直な反応や、輝夜の言動を理解しようと頑張る姿などを見るうちに、これでないとしっくりこなくなってしまった。
一度さん付けで呼ばせてみたが、その時自分はよっぽど変な顔をしていたらしく、権兵衛が慌てていたし。
兎も角、と輝夜は説明を加える。
自分たち月人は内側に作用する力を得意とし、それとこの月の魔法とを合わせると、まずは己の月度に干渉するのが初歩的な魔法となる。
月度とは、月に満ちる太古の狂気を受け取る度合いの事である。
今の権兵衛は偽の月の満月に少し届かないぐらいの月度であるが、これを操作し真の月の満月まで持ってゆけば、莫大な月の魔力を得る事となる。
勿論、月の魔力は狂気でもあるので扱いが難しいが、波長の干渉し合わない自身の物であれば、然程難易度は高くなく、今の権兵衛でも不可能では無いだろう。
これが相手を真の新月まで持って行く、となると相手の強さによりけりで、しかも効力は相手の月への依存度によるので、一定しないのだが。

「とまぁ、やっぱり復習なんだけど。じゃあ、やってみなさい」
「はい」

 と、そこまで説明してから促すと、権兵衛は静かに頷き、自分の月度を上げ始めた。
月度とは狂気度でもあるので、制御を一度手放してしまうと外部からの干渉無しに正気に戻るのは難しい。
と言う事で、ここが先生役としての、正念場である。
自然、輝夜は権兵衛の様子を仔細に観察する事になる。
権兵衛を正面から、何の躊躇もなく舐め回すように見る事になるが、暴走したら大変なので仕方ないのである。
秋の夜の涼し気な空気の中、じわりと権兵衛の肌に珠の汗が湧いてくる。
それをじっと眺めながら、権兵衛を観察する輝夜。
矢張りと言うべきか、月人の基準から言えば、権兵衛は特別美男子と言う訳でもなく、むしろ凡庸である。
しかしそのやや幼さの残るふっくらとした頬や、丸い眉は、何と言うか、思わず構ってやりたくなるような可愛らしさがあり、悪くない、と輝夜は思っている。
こうやって真剣味のある表情も、勿論嫌いでは無い。
すっ、と冷たい空気が漏れ出すような、瞼の下から漏れ出す眼が描く三日月が刀剣であるかのように思えるような、雰囲気ある顔。
うん、これも悪くないわ、と輝夜が頷くと同時、ぶわっと権兵衛の周りの空気が撓んだ。
暴力的な風が輝夜を襲おうとするが、輝夜がすっと掌を権兵衛へ向けると、風は輝夜の周辺だけ凪いだまま通り過ぎ、空気が弛緩したかのように緩み、それから権兵衛が大きく息を吐きだした。

「すいません、暴走してしまいました」
「そうね、今度はもうちょっと、集中を深める事よりも、持続させる事に力を向けなさい。視野を広げてね」

 本当はこれも先生の仕事のうちよ、なんて言いたい輝夜であるのだが、そんな風に甘やかすと永琳の顔が物凄い事になっていて怖かったりするし、やっぱり権兵衛の為にもならないので、先生をやっている時は、基本的につかず離れずの距離を心がけている。
再び頷いて、汗を拭ってから集中に入る権兵衛。
それをこうやって見守る事は、輝夜にとって最早日課である。
蓬莱山輝夜には、何もすることがなく、それが不満であった。
しかしそれは何もしようとしてこなかったからだと気づき、以来したい事をし続けて己の仕事を探してきた輝夜であるが、これほど己の心を満たす仕事は果たしてあっただろうか。
今はまだ、長く続けてきた優曇華の盆栽の世話の方に心を置いているが、それでも権兵衛との師弟関係が盆栽の世話を超えて輝夜の仕事となる日は、遠くは無いかもしれない。
そうなればどれほど心が満たされる事だろうか、と想像しながら、再び暴走する権兵衛の月度を抑え、実演授業を続ける輝夜なのであった。



      ***



 まずはそっとそれを抱きしめ、手術台の上に置いてやる事から始まる。
がっちりと四肢を鉄の輪で固定し、手術台の上から逃れられない事を確認してから、やっと作業を始める事となる。
始まりの合図として、唇を象った部分に、永琳はそっと口付けた。
布の表面の、ざらりとした触感。
それを脳内で、自身の唇を触れた経験から想像した権兵衛のそれに変換し、永琳は頬を上気させた。

「ん……」

 ゆっくりと、歯の間から舌を出し、それの口腔の内側を舐めとろうとするが、表面だけを形作ったそれは唇に隙間など無く、故に舌が押し留められる事となる。
それが権兵衛の意思による物だと想像すると、寂しい反面、真っ白な紙面をぐちゃぐちゃに汚してやるような快感があり、永琳は頬を笑みの形に歪ませながら、唇を離した。
口紅の紅が、布の唇に残る。
それから、永琳はそっとそれの腹へと手をやり、僅かに押し込む。
綿による均一な圧力が帰ってくるが、それを想像でごまかし、肌と骨を介して内蔵がぐっと弾力を返してくるのを、永琳は感じた。
思わず、涎が漏れ出そうになるのを、ごくんと嚥下する。

「いくわよ……」

 呟き、ぞぷっ、と永琳は、手に霊力を纏い、それの腹へと侵入させた。
圧力によって綿が逃げるのを、妄想で無視し、代わりにつるりとした骨の触感を想像で愉しむ。
そのまま下腹部へとぞぶぞぶと皮を切り裂き、想像の中でだけ溢れる血が、権兵衛の腹部から漏れ出し、ぴちゃぴちゃと床に落ちた。
そしてついに、永琳の掌はそれの――つまり想像の権兵衛の、小腸へと辿り着く。
あの日、永琳が最も長い時間手にした、権兵衛の臓物である。

「くす――、どう、感じるかしら?」

 僅かに、永琳は手に力を込め、小腸を握りしめた。
微動だにしないそれであるが、永琳の瞳には、あの日と同じくびくん、と跳ね上がった権兵衛が映る。
肯定の意を返された、と解釈する永琳は、それを抑えていたもう片方の手で、自分の胸を掴んだ。
服の上からぎゅっと掴むと、その力に従い永琳の胸は形を変え、同時、胸の間に浮いていた汗が、服に吸い込まれる。
すぅ、と、永琳は息を吸った。
あの日の記憶から嗅ぎとった、権兵衛の血と便と、そして男性の匂いが永琳の胸を満たした。

 それから永琳は、それの腹を十字に切り裂き、布製の皮を開いてピン留めし、その中身を顕にした。
と、ここまではほぼ毎日やっている通りなのだが、ここからどの臓器に触れるかは、その日の気分次第である。
ぷるぷるとしたゼリーのような感触の肝臓もいいし、どくどくと脈打つのが分かり、権兵衛の興奮がそのまま感じ取れるようで興奮する心臓もいい。
勿論、王道である、あの日最も触れた小腸だって構わない。
どれにしようか、と迷っていた永琳の耳に、しかし、予想外の声がかかった。

「お師匠様、失礼します」

 鈴仙の声である。
忘れていた、今日はまだ鈴仙が報告に来ていなかったのだが、あんまり遅いので待ちきれず、日課を始めてしまったのだ。
驚愕し、飛び跳ねそうになるのを抑え、咄嗟にそれを隠そうとするが、それの四肢は鉄の輪で固定されており、外すのは時間がかかるし、音もする。
ちょっと待って、と声をかけようとする永琳だが、どうやら遅かったらしく、すす、と襖を開ける音がした。
咄嗟に、それの唇についた口紅をだけ、拭う永琳。
失礼しま……、と、永琳にかけられる声が、途中で止まった。

「ど、どうしたのかしら、うどんげ」
「あ、いえ、何時も通り、権兵衛さんの報告に来たんですけど……。その、それって」

 鈴仙が指差す先にあるのは、永琳の予想通り、それ――権兵衛を象った、人形であった。
布で綿を覆っただけの粗末な物だが、形は割りと細かく、人体を模して出来ている。
プリントは、全裸の権兵衛の物が刷ってあった。
最初の検診の時に撮った物だからだろう、脇腹に、深い裂傷が刻まれているのが痛々しいが、それ以前にこの権兵衛人形は、腹を十字に割かれ、ピン留めし、綿をむき出しにされている。
これは永琳が、あの日、権兵衛を解剖した時の事を思い出すために、魔法の森の人形使いの技を見よう見真似で作ってみた人形である。
こんな物を見せてしまっては、何と言うか、マズイ。
何がどうマズイと言うのかは上手く言えないが、兎に角マズイのであるので、咄嗟に永琳は口を開く。

「え、えっと、その、あの日権兵衛さんの手術をしたでしょう? その時、ちょっとだけ、気になる事があって。
その、それで、それを思い出すのに、いいかな、と思って、試しに作ってみたのよ。
ほら、権兵衛さんは今、輝夜のお気に入りで、ほいほい解剖する訳にはいかないじゃない」

 本当は権兵衛に直接顔を合わせるのも顔が火照って出来ないと言うのに、ちょっと解剖されてみてくれ、なんて恥ずかしくて言えそうもない、と言うのが理由である。
そも、権兵衛を解剖する想像も、異常に興奮してしまうので、理性的であろうとしている永琳には避けるべきものだったのだが、いや、と永琳は思い直す事にしたのだ。
感情的になる事は避けるべき事で、権兵衛は自分を感情的にする。
しかし権兵衛は輝夜のお気に入りで、一定以上遠ざけておく事は難しい。
ならば権兵衛を避けて感情的になる事を避ける事より、こうやって権兵衛を利用して、その恥ずかしさに耐え、憎悪を醸しだす事なく自然に抑える事ができるようになるよう訓練すべきではないか、と。
そう、これは権兵衛に興奮しないようにしている、訓練なのである。
だからわざわざ、キスなんて物をしているのも、その訓練の難易度を高くする為であり。
想像の権兵衛に色っぽい言葉をかけてなんているのも、訓練の一環なのであり。
こうやって鈴仙に見られて恥ずかしいと思うのも、自分の感情的な部分を知られて恥ずかしいからなのである。
そんな風に思い、それから自分で自分の言葉に叫びだしたくなるほどの恥ずかしさを覚え、それを憎悪で押しつぶす永琳を尻目に、何故か、すすっと数歩引く鈴仙。

「そ、そう、なんです、か」

 はて、どうしたのだろう、と首を傾げる永琳であるが、一体何処がおかしいのか全く分からない。
言い訳を信じられたにしろ、何か嘘を付いていると感づかれたにしろ、真意を悟られたにしろ、引いてしまうような要素は一切合切全く何処にも見つからないのだが。
まぁ、鈴仙の臆病さを考えればこんな事もありうるか、と結論づけ、永琳は鈴仙を部屋の中に誘った。
そして、座布団の上に座り、権兵衛の報告を聞く、と言うと、かなりびくびくとしながら入ってきた鈴仙の顔が、見る見る内に喜色満面になる。
すると何故だか黒い物が湧いてくるのだが、この鈴仙の報告と言うのが、それをすぐに吹き飛ばしてくれる。

「――と言う事で、午前中は殆ど輝夜様の気まぐれに付き合って終わりました。
それからお昼前にちょっと厠にいって、小だったんですけど、結構長かったかな。
で、それからお昼をみんなで取るんですけど――」

 この兎、報告が詳細なのはいいのだが、詳細過ぎるのである。
そも、永琳は、鈴仙に何かあれば輝夜のフォローをお願い、としか言っていない。
だのに鈴仙と言えば自分の存在を消して権兵衛の後を一日中ついてまわっているのだ。

「――で、お風呂で湯船に浸かっていると、権兵衛さん、女所帯で溜まっていたのかな、ちょっと勃っちゃったみたいで。
くす、テンプレ通りって言えばいいんですかね、ざばっと口元まで湯船に沈んで、ちょっとぶくぶくした後、般若心経なんて唱え始めちゃって。
でもあんまり覚えていないみたいで、途中からうにゅうにゅ言っているだけになっちゃってました」

 しかもこのとおり、厠や風呂まで、である。
どうやったのか想像するのもおぞましいが、何故か体を洗う順番だの湯船の中での反応だのまで仔細に語っており、それと、永琳に報告を済ませた後風呂に入った様子が無い事から考えるに、風呂に至っては存在を消しながら一緒に入っているのだろう。
毎度のインパクトのある報告に、のぞけりそうになりつつ、永琳は鈴仙の処遇について考える。
確かに、月兎として月と交信が出来、更に薬師の弟子として有能であり、その能力で権兵衛の行動が分かるのも、利点ではある。
しかし権兵衛に不気味なほどついてまわるその性癖は異常過ぎてとてもついていけないし、大体、権兵衛が心配である。
何せ権兵衛と言ったら自分にとって大切な存在で、と、そこまで思ってから、ぼっ、と顔が上気する永琳。
違う、違うのよ、と、誰に対してか内心で呟き、胸に手をやり自身の内心を訂正する。
そう、権兵衛は、自分を感情的にする貴重なサンプルなのだから、大切なのであって、理由など他にないのだ、と。
と、そんな事をやっているうちに報告が終わったようで、鈴仙は不気味な物を見る目で永琳の挙動を見ていた。
思わず視線を逸らしつつ、こほんと咳払いし、永琳は鈴仙に退室を促した。

「はい。あ、その、そう言えば明日は例月祭ですけれど、何か改めて権兵衛さんに伝えておく事はありますか?」
「あぁ、もうそんなに……権兵衛さんが此処に来て、十日ぐらいになるのかしら。
そうね、まぁ、手伝ってもいいけど………………えーと、うん、無闇に団子を食べないようにだけ伝えておいてくれないかしら」
「はい、わかりました。では、失礼しました」

 何せ団子には妖怪兎達を興奮させる薬が入っているのだ、人間である権兵衛には強すぎる薬であるので、食べてしまうと不味い事になる。
いや、しかし興奮した権兵衛も見てみたいな、と葛藤し、結局曖昧な歯止めをだけかける事にし、鈴仙が去るのを待って再び権兵衛人形の解剖に移る永琳なのであった。



      ***



 例月祭。
月に一度、満月の夜に永遠亭で行われる祭りであり、月において罪人である輝夜と永琳、鈴仙の罪を償うため、薬草の入った餅をつく行事である。
その他に丸いものを兎に角集めて祀る風習があり、故に昼中、鈴仙は権兵衛と共に蔵へと丸い物を探しに行っていた。

「たまには、私も手伝って貰わないとね」

 とは鈴仙の言であり、普段兎達の仕事を手伝っている権兵衛はそれに一つ返事で頷いた。
しかし、その言は多分に嘘であった。
単に、鈴仙が権兵衛と一緒に居られる口実を、作りたかっただけである。
何せ主な鈴仙の仕事は、師の手が足りない時の薬の調合だったり、月に数回の里の置き薬の点検である。
前者は知識の足りない権兵衛には手伝わせられないし、後者は権兵衛を此処から出す許可を永琳にもらいに行く勇気が無くて、出来なかった。
蔵まで歩いてゆく中、久しぶりに存在を消さず、尚食事以外の用事で隣を歩く権兵衛に、鈴仙の心臓は高鳴ってしまう。
別に、権兵衛との約束を守る為に側に一緒に居てやりたいだけで、他意はないのだが、心臓が勝手にドキドキしてしまうので仕方ないのである。

「その、丸いものって言うと、何でもいいんですか? 球体でなくとも、円盤状であっても」
「ふにゃ!? え、えーと、うん、そうよ。前にCDを使っていた事もあったし」
「はぁ」

 突然話しかけられて、思わず変な声を出してしまう鈴仙に、それに首を傾げる権兵衛。
ばくばくと高鳴る鈴仙の心臓。
多分権兵衛は、今自分がどんなに緊張しているのか分からないのだろうな、と思うと、何だか心にもやもやした物が溜まるが、それより先に確認である。
鈴仙は狂気の瞳の能力を解放し、掌を目の上にやって、前方を確認、四方を確認、ついでに居ないと思うが空中も確認。
師の存在波長が自室から動いておらず、監視系の術も使われていないだろう事を確認すると、鈴仙は大きく息を吸い、吐いた。
ここからが勝負どころである。
権兵衛に背を向けて一旦視界から外し、高鳴る胸を押さえ、内心で唱える。
落ち着け、落ち着くのよ鈴仙。
ビークール、ビークール。
落ち着いて、さりげなく権兵衛さんの手を握るのよ。
狂気の能力で自身の波長を操作し、精神を安定的に持って行く。
よし、準備ができた、と振り返る。
すると、目の前に権兵衛の顔があった。

「大丈夫ですか? 鈴仙さん」
「ふぇっ!?」

 思わず、飛び上がりそうなぐらい驚いてしまう鈴仙。
自然、バランスを崩し、倒れそうになってしまう。
そこで、おっと、とその鈴仙を抱き抱えるように抑えて、倒れないようにする権兵衛。
当然顔はすぐ近くになり、権兵衛の吐く息すらも感じられる距離となる。

「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「~~~~!!」

 顔を真っ赤にして、鈴仙は声にならない声を上げた。
そんな鈴仙の様子に気づかず、鈴仙が自分でバランスを取れるようになったのを確認し、ほっと安堵の息を漏らしながら、手を離す権兵衛。
自然、あ……、と物欲しそうに声を上げ、鈴仙は権兵衛の手を目で追ってしまう。
すると、それに気づいたのか、ぴたりと手を止める権兵衛。

「あぁ、貧血気味なんですかね? 手を貸しましょうか」
「ふぇ?」

 意図せず願いの叶った形になり、思わず鈴仙は硬直してしまった。

「あ、差し出がましい事でしたら……」
「い、いや、そんな事無いわよ、うん、むしろ差し出て欲しかったっていうか、何ていうか」
「はぁ」

 と、よく分かっていない様子で首を傾げる権兵衛の差し出す手を、掴んだ。
指を指の隙間にすっと割り込ませ、ぎゅ、と握り締める。
僅かに爪を、権兵衛の皮膚が押し込まれる程度に、立てた。
肉の弾力が、静かに鈴仙へと返ってくる。
なんと、今日の第一目標、早くも達成である。
容易さに肩の力が抜けるよりも、飛び上がりたくなるほど嬉しく、思わず口元がつりあがってしまう。
いや、嬉しいと言っても、これは観察の為になるべく近くに居て、権兵衛の鼓動を感じられるようにする為に必要な事なので、別に鈴仙が喜ぶ必要は目標達成の快感の分だけで良い筈なのだが。
まぁ、喜びが足らぬ事に悩む事はあっても、足りる事に悩む事はないだろう、と、鈴仙は己を納得させる。
それから鈴仙は、そうやって型にはめようとする嬉しさが、型からはじけ出すかのように歩き出した。

「さぁ、さっさと蔵に行きましょう! ぼうっとしてると、日が暮れちゃうわ」
「永琳さんのお仕置きは怖そうですしね」

 と、権兵衛の言葉を聞いて思い出す。
昨夜のあの、おぞましい光景。
権兵衛そっくりの形に造られ、毎晩見慣れた権兵衛の全裸の通りのプリントを施された、人形。
まるで権兵衛の腹ワタが飛び出ているかのように、ピン留めされた腹から飛び出る綿。
なんの意味があるのか、それらは大凡その場所にあるべき臓器の色に染められており、赤や黄土色をしていたのが、尚更それが権兵衛を忠実に模していると分かる。
そう、昨夜師の元へ報告へ向かった所、師は権兵衛の人形を作り、それを解剖していたのだ。
なんと、そこまで師は権兵衛を憎んでいたのか、と理解した鈴仙は、権兵衛にそれとなく永琳の危険性を伝えるつもりだったが、さて、どうして言い出した物か、と内心で悩む。
が、そんな折にも、掌から権兵衛の体温が伝わってくるのを感じると、そんな悩みも何とかなるのではないかと思えてくるから不思議だ。
相変わらず、権兵衛は眩しい。
そんな彼の隣に居る事で浮き彫りになる自らの惨めさすら、一緒に居る間は感じられないぐらいにだ。
そんな権兵衛を毎日観察できているなんて、それだけで自分はなんて幸せなんだろう、と思う鈴仙であった。



      ***



 月が顔を見せ始め、夜の帳が降りてきた頃。
今日は例月祭だから休講よ、と言う輝夜先生が盆栽の方の優曇華を世話しに行くので、俺は兎が団子をつくのを手伝おうとしたのだが、永琳さんにそれは止められた。
何でも、例月祭は月で兎が嫦娥の罪を償う為に薬――団子をつき続けているのを真似して行っているらしいので、団子をつくと言う事は、輝夜先生、永琳さん、鈴仙さんの三人の罪を背負うと言う事になるらしい。
それは、まだ此処に来て短い――らしい、俺には今時間の感覚が無いので、詳しくは分からないが――上、立場的にはペットの俺にやらせるのはおかしい事なのだそうだ。
かと言って、外の祭りの音頭を取って、歌ったり太鼓を叩いたりするのも、まだまだ連帯感の無い俺には難しい。
と言う事で。
何故か、永琳さんと二人、縁側に座ってお茶を飲んでいる俺なのであった。

「………………」
「………………」

 気まずい沈黙。
俺と此処、永遠亭の住人との関わりは、輝夜先生が最も多く、次いでてゐさん、鈴仙さん、永琳さんと縁が薄くなっていく。
輝夜先生とは授業もそうだがそれ以外でもちょっとした話し相手に呼ばれる事も多い為である。
俺の思い上がりでなければ俺はかなり可愛がってもらえており、霊力の教え方もとても親切で、しかも話し上手なので、数時間に昇る話相手も苦にならない、永遠亭で一番仲の良い人だろう。
てゐさんとは偶然でしかないのだろうが、兎さん達の手伝いをしていると、よく出会う。
その際には毎回幸せを人に与える何たるかを教授してもらい、大体初日のように成功を収めているのだが、当のてゐさんが渋い顔をしているのを解消できていないのが玉に瑕と言うぐらいか。
鈴仙さんは結構忙しいらしく、食事以外で滅多に見かける事は無い。
しかし食事の時や、たまたま出会った時など、ちょっぴりズボラな所のある俺の世話を焼いてくれて、親切な人である。

 で、肝心の永琳さんだが。
見かけることは少なくない。
と言うのも、彼女は薬師であると同時、医者の仕事もしており、本人曰く真似事との事だが、大抵の傷は治せてしまう凄腕だと言うので、割りと頻繁に人が運ばれてくる。
他にも色々と薬師として実験をしているらしく、兎を遣って様々な材料を持ち、実験室と銘打たれた区域に入るのをよく見かける。
が、勿論の事、忙しそうにしており、しかも俺に手伝いように無い内容とすれば、自然話す事も無くなる。
たまに暇そうにしているのを見つけて話しかけた事があるのだが、顔を真っ赤にして立ち上がり、目を合わせる事すらせず、急用が出来た、と立ち去ってしまった。
どう考えても、俺は永琳さんに嫌われていた。
正直言って凹んだし、食事の際にそれとなく、俺のどんな所が嫌いか聞いてみようとしたこともあるのだが、取り付く島もなかった。
今では、とりあえず他の三人にどうすればいいのか教えを乞いている所である。
因みに輝夜先生は理由は分からずそれとなく永琳さんに聞いてみると言ってくれ、鈴仙さんも理由は分からないようで、唯一てゐさんだけ理由を分かっている風な仕草だったのだが、呆れたようにとりあえず時間を置くのが一番と言っていた。
と言う事で、とりあえずは本人とは距離を取ろう、と考えているのであるのだが。

「………………」
「………………」

 何故か、永琳さんの方から誘いがあり、断るのも不義理と言う事で、二人きりで縁側に座って、月見をしながらのお茶と言う次第になったのであった。
あったのだが。
目が合えば、湯のみのお茶が溢れんばかりの勢いで目を逸らされ。
置いてある湯のみを取ろうとして手が触れ合えば、目にも留まらぬ速度で体ごと手を引かれ。
話題を振ろうとしてみても、返ってくるのは生返事ばかりで。
最後のは俺の会話スキルがヘボいと言うだけかもしれないが、兎も角こっちが何か極悪な事をしているのではないか、と言う気分になってしまう反応であった。
いや、事実そうなのだろう。
兎さん達に聞く限りでは、永琳さんは厳しい所もあるが優しく理知的な女性で、理由もなく人を嫌う事など想像できないそうだ。
勿論、俺に嫌われる理由の心当たりなど幾百とあり困らないのだが、しかし、すぐに思いつく里人らに嫌われているのと同一の理由であるのなら、何故にこうやって彼女の方から二人きりになるのかが分からない。
何も分からない状況に、どうすればいいのか全く分からず、正直ちょっと泣きそうなのだが、我慢してお茶を飲み込む事で、泣き声を喉奥にまで流しこむ事にする。

「………………」
「………………」

 沈黙の中、響いてくる音は兎の歌と、太鼓のリズム。
どん、どん、どんどかどん。
一つついては輝夜さまの為に~、二つついては永琳さまの為に~。
僅かなズレも無い輪唱が竹林に響き、そのざわめきへと消えてゆく。
普通祭りと言えば騒がしいばかりの物だと亡くなった記憶の断片が言っているのだが、これは何処か神秘的な感じのする祭りであった。
俺の記憶の片隅にある祭りは地上人による地上人の為の祭りであり、神を祀る為の物であった。
対しこちらは、月人であると言う輝夜先生と永琳さん、月兎であると言う鈴仙さんが月から地上へと逃げ出した罪を償う為の物だ。
詳しい事情までは知らないが、祭りの雰囲気が全く違うのは、当然と言えよう。
などと、お茶を啜りながら思う。

 お茶を啜るで思い出したが。
輝夜先生はお茶をする時自室でするのを好む為、こうやって縁側に座って誰かとお茶を飲むのは、幽々子さんとそうして以来かもしれない。
ふとこうやって思い出すと、彼女の上品なお茶の啜り方から、その暖かな雰囲気を思い出し、どうにも会ってみたくなる。
それに、いい加減傷も癒えてきたし、何と言うか、当初あった体が妙に軽い感じも無くなってきたのだ、無事な姿を一目見せてみたい。
とすれば、勿論それを伺いべき相手は、丁度隣に居る永琳さんである。
何せ俺、ペットだの弟子だのと言われていたが、それ以前に結構な怪我人なのであった。
当然、完治の太鼓判を押して良いのは、永琳さんだけだろう。
と言う事で、早速聞いてみる事にする。

「その、永琳さん」
「……何かしら?」
「俺の傷なんですけども。もう、外出しても良いぐらいになったでしょうか? 出来れば今度、慧音さんの所と白玉楼とに顔を見せに行きたいのですが」
「駄目よ」

 即答であった。
しかもなんだかピリッとした言い方であり、思わず腰が引けてしまう。
と、自覚があったのか、永琳さんは何時もの苦虫を噛み潰したような顔に困ったような成分を上乗せするだけに留めて、口を開いた。

「特に白玉楼の方は、妖夢が貴方を切ってしまったのでしょう? 彼女から姿を見に来れるぐらいに落ち着けるのを、待った方が良いわ」
「えっと、では、慧音さんの方は」
「駄目。まだ、取っ……傷付いた臓器が完全には治っていないわ。自覚症状は無くても、貴方は医者が近くに居た方が良い状態よ」
「そう、ですか……」

 思わず、しゅん、と落ち込むのを見かねたのか、永琳さんが、くすり、と笑みを漏らした。

「大丈夫。そのうち私の手が空いたら、付き添ってあげるぐらいしてあげるわ」

 思わず、見惚れる。
もしかしたら、出会ってから、初めて俺に向けられたかもしれない永琳さんの笑み。
普段の永琳さんの理性的な態度から包容力のあるそれを想像していたものの、それはまるで初な少女の見せるような、純真な笑みであった。
ぼうっと、数秒間見つめていただろうか。
何時の間にか目をそらし、顔を赤くした永琳さんが、一言。

「――その、権兵衛さん?」
「へ? あ、はい、ありがとうございますっ」

 はっと正気に戻った俺は、こちらも顔を赤くして、頭を下げた後、顔を体ごと庭へと向ける。
下世話な話だが、最近、女所帯に世話になってばかりで溜まっているからか、ちょっとした女性的な仕草に反応してぼうっと頭をとろけさせてしまう事が多い。
かと言って処理しようにも、外出は許可されておらず、永遠亭の中で処理するにも正直かなり気が引ける。
どうしようもない事なので、とりあえず頑張ろう、とだけ胸に誓って、般若心経を内心で唱えて心を落ち着けようとする。
別に俺は仏教徒であった記憶は無く、事実般若心経も相当うろ覚えなのだが、何だかそれが心を落ち着かせる時の癖になっているようだったのだ。
と、そんな風にしていると、あら、と、何だか悪戯っ気のある声。

「権兵衛さん、何か言おうとしてる事があるのかしら?」
「へ? 何でですか?」
「だって、口をもごもご動かしているんですもの」
「い、いや、な、何でもないんです、これは」

 思わず顔を真っ赤にしながら俯く俺に、くすくすと笑い声を漏らす永琳さん。
物凄く恥ずかしいので、これ以上余計な物事を言う余裕も無く口を閉じる俺。
自然、沈黙が場を支配する事になるが、先程まで永琳さんにあった刺のような物が抜け落ちたかのようで、何処かその空気は優しい。
何と言うか、空気を挟んで隣に居る筈の永琳さんの温もりが、空気を伝わり届いてくるような、暖かな沈黙。
それを永琳さんも感じているのだろうか、ちらりと横目で見ると、竹林を見つめる何処か強ばっていた永琳さんの表情も、柔らかになっている。
永遠亭に来て以来の、優しげな永琳さんだった。
俺としては恥を晒しただけで、何もやってはおらず、何が良かったのかすら分からず仕舞いだが。
それでも、この空気が何時までも続いてくれたら、と思った、その矢先であった。

「お師匠様~、無事例月祭は終わりましたよ~」
「今日は珍しく、てゐも散歩に行かないままに終わりました」

 遠くから、てゐさんと鈴仙さんの声。
同時、しゅばっ! と言う音。
何事か、と永琳さんの方を見ると、明らかに先程までより俺と距離を取っていた。
しかも顔には何時もの平面を貼り付けたような冷たい表情で、内側からじわじわと黒い物が湧いてきそうな顔に戻っていた。
思わず、がくり、と肩を落とす。
不思議そうに俺を見つめてくる二人に、恨みがましい視線を送ってしまう。
とは言え、二人に別に悪い所があるでもない。
何も知らない二人が首を傾げるのに、小さくため息をつく俺。
しかし、そんな俺の中には、僅かばかりながら、希望と言うべき物が芽生え始めていた。
何せ、壊れてしまったとは言え、ついに永琳さんとも俺は親密な空気を作れたのだ。
これまで永琳さん一人と険悪な空気であったのが解消できるかもしれない、と思うと、自然、口元が緩む次第となる。
これからは、永遠亭の人々全員と仲良くしていく事ができるかもしれない。
希望に満ちたこれからの生活に、思わず笑みを浮かべながら、二人と応対し始める俺なのであった。



      ***



 因幡てゐは、焦っていた。
七篠権兵衛と言う、己にとって毒でありながら無視できる物でもない、と言う男を相手にし始めて、十日程。
毎日のように、暇さえあれば兎を手伝う権兵衛の元に向かって権兵衛を騙していたのだが、この男、一向に騙されてくれない。
いや、と言うか、騙されてはくれるのだが、それが一周して戻ってきてしまうような感じの騙され方で、どうにもてゐの方に騙したと言う達成感が湧かないのだ。
例えば。
あ、UFOっ! と空を指さしてみれば、本当に空を正体不明のUFOが飛んでいて、早速権兵衛は輝夜に報告に行くのだが、んな訳無いじゃない、と怒られたり。
ちょっとした歓談の時、乾杯前にピッチャーを空けて準備と称し、権兵衛を誘ってみれば、みんなでやった方が楽しいから、と全員集まり普通の乾杯になってしまったり(ちなみにてゐは怒られた)。
雷雨の時、雷からおヘソを隠すのに自分の前に来い、と言えば、それを周りの兎にふれ回って、何時の間にか円を作って全員のへそを守る形となったのだが、何故か雷が局地的に権兵衛に降り注ぎ、大怪我をしたり。
どれを見てもなんだか騙せているようで騙せていない感じで、その上大体オチとして権兵衛が不幸な目に遭っている。
しかも本人はそれを何とも思っておらず、自分の力が及ばなかったと自虐するか、不幸な目に遭ったのが自分以外でなくて良かった、とニコニコ笑っていたりするので、何とも肩の力が抜ける事であった。
兎も角。
因幡てゐの精神の根幹である人を騙す事と人を幸せにする事、そのどちらもてゐは権兵衛に成し得ていなかった。
この十日、思いつく限りの嘘をついてみたのだが、全くもって、暖簾に腕押しと言うべき結果である。
此処に至って、てゐは自分以外の永遠亭の住人、輝夜、永琳、鈴仙の三人を使って、とりあえず権兵衛を幸せにする方だけでもやってみよう、と思うに至る事になった。
そこで、その三人の権兵衛に対する感情を、改めて探ってみたのだが。

 最初に、身近であり騙しやすい鈴仙。
切欠さえ作ってやれば、あの臆病な割りに寂しがりな兎の事である、容易く権兵衛と仲良くなるのではないかと思っていたのだが。
まず、見つからない。
日中、殆ど見かけるのは永琳からの仕事を請け負っている場面ばかりであり、権兵衛と会わせる暇の無い場面ばかりであった。
はて、どうしたのだろう、と夜中の鈴仙を探ってみて、だ。
怖気が走った。
鈴仙の師への報告と言う物を聞き取ったのだが、あの兎、日中の出来る限りの時間を使って、存在を消したまま権兵衛をストーキングしていたのだ。
しかも言葉の調子から察するに、今自分がやっている事が尾行と気づいておらず、おまけに嫉妬に駆られて、権兵衛と深く触れ合った兎を食材にまでしていたのだ。
最近の兎の減り方や、鍋の頻度やその肉の味がどうもおかしいと思っていたが、こんな所に原因があったとは。
そのあまりのおぞましさに、てゐは鈴仙と権兵衛の仲立ちをしようという発想を捨てた。
てゐは権兵衛を幸せにしようと言うのである、異常者の餌にしようというのではない。

 次に、永遠亭を実質取り仕切る永琳。
彼女は普段の理知的な様相と違って、権兵衛にだけは憎悪を隠しきれずに向けている。
とは言え、愛情の反対は憎悪ではなく無関心。
相応の労苦は必要だろうが、彼女の心を権兵衛に対し開かせる事も、できなくはないだろう、と思ったのだが。
鈴仙と同じく普段の様子を観察しているうちに、てゐは彼女の夜間の日課を知る事となって。
身の毛がよだった。
なんと彼女、明らかに発情した様子で、権兵衛を象った人形を解剖していたのだ。
顔を上気させて、己の胸を揉みしだきながら人形を解剖する様は、成程、確かに権兵衛に愛情を抱いては居るのだろうが、あまりにもおぞましい愛情である。
流石師弟、と言うべきか。
てゐは、永琳と権兵衛の仲立ちをしようという発想も捨てた。
てゐは権兵衛を幸せにしようと言うのである、生贄に捧げようというのではない。

 最後に、永遠亭の最高権力者たる月の姫、輝夜。
彼女だけは、正常な愛情を権兵衛に抱いていたように、てゐには見えた。
何事でもする側ではなくされる側であり、やる事と言っても思いつきばかりですぐに飽きてしまい、続いているのは優曇華の盆栽の世話だけ、と言った所業である彼女だが。
なんと、権兵衛の師匠だけは、未だに続いていたのだ。
それも続くだけではなく、明らかに楽しんだまま。
成程、以前の兎の教育と違い権兵衛に明らかに才があると言うのも理由の一つなのだろうが、それだけでは説明できないぐらいに、輝夜は権兵衛の教育を日々の楽しみとしている。
よっててゐは、権兵衛と彼女との仲を進ませよう、と決める次第となった。

 方法であるが、簡単である。
まず、例月祭の準備として、何時も通り団子をついた。
この団子、常から永琳が、兎達が摘み食いするのを見越して、祭りが盛り上がるよう興奮剤を混ぜてある。
妖怪兎用のそれは人間に対しても十分以上の効力を発揮し、権兵衛が如何に温和な人間でも興奮させてしまうだろう。
興奮した権兵衛と輝夜が出逢えば、何時もと違った進展が見られるに違いあるまい。
と言う訳で、その団子を、いくつかポケットにくすねておく。
兎達に団子を取られないよう注意しつつ、歌って踊り、何時も通りに例月祭を終える。
この時、自分が熱に浮かされないよう、団子を摘み食いしないようにするのがポイントだ。
で、常とは違って熱冷ましに散歩する必要も無いので、鈴仙と共に永琳に報告。
権兵衛が一緒に居たのには吃驚したが、それを覆い隠し、その場から権兵衛を連れ出す。
どうせ片付けまで終わったと報告されてしまっては、権兵衛には例月祭でやる事は無いのだし、権兵衛はてゐに従順についてきた。
そこで十分に二人から離れた辺りで、一番形の良い物を選び、そっとポケットから団子を出す。

「さて、権兵衛よ。人を幸せにするために、一つ訓示をくれてやろうじゃないか」
「はい、てゐさん」

 こんな時、ちょっとだけ自分を師匠と呼ばせてみても良かったかな、と思うてゐだが、その考えを振り払い、権兵衛に団子を差し出す。

「はい、団子」
「はい、団子ですね。……あぁ、成程。
幸せとは皆で分かち合うもの。これを食べて、他の兎の方達と幸せを分かち合い、幸せのなんたるかを知れ、と」
「あー、まー、そんなもんだね」

 ここでどう言って食べさせようか考えていなかったてゐだが、何時ものように勝手に権兵衛が理屈をつけてくれるので、それに乗って団子を手渡した。
こんな風に流されてしまうから、私は権兵衛を騙せないのかもね。
そんな風に思いながら、団子を咀嚼しながら幸せそうな顔を作る権兵衛の顔を見る。
てゐは、食べ物を食べる権兵衛の顔が、そんなに嫌いでは無い。
初日、初めて夕食を共にする時にカレーを食べた時も、最初、彼がカレーを食べる顔を見て、思わず感想を言うまで見惚れてしまったぐらいだ。
何せ、本当に顔中から幸せ光線でも出ているのかと言うぐらいに幸せそうに、食べ物を頬張るのだ。
食器やら素手やらで食べ物を浚い、ちょっと小口気味に口を開いてすっと口の中に食べ物を入れるのだが、それからすぐに小さなえくぼを作って目を細め、幸せを噛み締めるようにゆっくりと食べ物を噛み、嚥下する。
その後、特に最初の一口の後は、何とも幸せそうに小さくため息をつくのだ。
この時もそんな風で、やっぱりてゐはちょっぴり権兵衛の顔に見惚れてしまう。
もっと見ていたいな、と自然と思い浮かび、手がポケットに伸びようとするのだが、それを鋼の意志でてゐは止めた。
妖怪用の薬は普通、人間に対し十倍の効力を持つと言う。
今回の興奮剤はそこまで大きい力を持っていないし、多少は権兵衛も無自覚に霊力でレジストしているだろうから一つなら問題無いが、幾つも与えては不味い。
表情筋の笑顔を作り、てゐは続けた。

「さ、そいじゃあ例月祭が終わったって、姫様に報告に行ったらどうだい? もう報告は行っているかもしれないけど、暇してるだろうしさ」
「そうですね、確かに何時も通り、そろそろ暇を持て余して何かし始めている頃かもしれませんね」

 苦笑しつつ言う権兵衛の言う通り、丁度今時分が、輝夜が盆栽の世話に飽きてきて他の事をしようとしだす頃である。
成程、権兵衛はどうやら、思ったより輝夜の事を理解しているようだった。
そう思うと、何故か、てゐの腹の中でぐねりととぐろを巻く物があった。
これは権兵衛の幸せの、ひいてはてゐの精神の健康の為に好事であると言うのに、何故か、不快感がつのる。
なんだか、これ以上権兵衛を見ていたくない。
先程まで、団子を食べる顔をずっと見ていたいぐらいだったと言うのに。

「ほら、さっさと行ってきな」
「はい、では、失礼します」

 だから、胸の中の黒い物に従い、てゐは権兵衛を急かし、さっさと輝夜の元に向かわせる事にした。
だって、それで権兵衛は幸せになれるのだ。
そうすれば自分も精神的に健康的になり、きっとこの不快感も消えてくれるだろうから。
――その筈なのに。
何故か、胸の中の黒い物は、こびり付いたかのように消えてくれないし、遠ざかる権兵衛の背を見ていると、徐々に増えていっている気さえもする。
大丈夫。
これでいいんだ。
そう思って黒い感情を吹き飛ばす為に、てゐはポケットに残しておいた団子を取り出し、一つ、ぱくりと食べた。
そのまま暫くぼうっと立っていると、興奮剤の作用で体に熱がたまって、どうにも動かしたくなる。
そんな熱を覚ます為に、何時もよりも若干遅い時間の散歩に、てゐは出かける事にした。



      ***



 輝夜の日課として、優曇華の盆栽の世話と言うものがある。
しかし世話と言っても、水をやったり肥料をやったり枝を裁断したりする事はなく、ただ眺めているだけだ。
勿論、優曇華の盆栽の特性としてはそれで十分なので、別にサボっていると言う訳では無いが、特に輝夜が積極的にやるべき事と言うのは無い。
比べて、弟子の権兵衛は、手がかかることこの上ない。
初回以降もちょくちょく時間を取って霊力講師の講義を永琳から受けねばならないし、それに加え、具体的な育成計画は自分で考えねばならない。
しかもそれで失敗してしまえば、失われるのは権兵衛の才覚なのである。
更に、今まで何をやっても永琳が居るから大丈夫だと思っていたが、今回ばかりは永琳が権兵衛に憎悪を抱いている為、恐らくフォローは無いだろう。
となると。
これはもしかして、輝夜が生まれて初めて成す自分の仕事と言えるのでは無いだろうか。
つまり、己の全てを映しだした、初めての存在。

 今の所、それは上手くいっているように思えた。
権兵衛は霊力の才能もあったし、それ以外に話し相手が欲しい時に呼んで居て分かったのだが、結構頭も良い。
すくすくと輝夜の教えを吸収し、霊力としても、教養としても、美しい珠のような形を徐々に取り始めている。
いわば。
権兵衛は、輝夜の宝物だった。

「なんて言うには、まだちょっと早いかしら」

 己の贔屓目の強さに自嘲の笑みを浮かべ、輝夜は縁側で満月を肴に茶を口に含む。
珠のようにとは言っても、まだまだ権兵衛は未熟であった。
師の贔屓目もあるが、権兵衛はもうすぐ氷精や夜雀ぐらいなら相手できるレベルに到達するだろうが、そこからは流石に成長スピードは落ちるだろう。
才能の有無の問題ではなく、位階としての平易さの問題であるので、それは避けられない。
宝物、などと言ってお披露目できるようになるまでは、恐らく二、三年はかかるだろう。
と言っても、それでもかなり才能がある方なので、幻想郷の面々は驚くに違いないだろうが。
驚き、権兵衛を賞賛する面々の顔や、唯一の殺し合いの相手である輝夜を取られて仏頂面になるであろう妹紅の顔を想像し、くすりと輝夜は微笑んだ。
と、そこに影が落ちる。

「輝夜先生。無事、例月祭が終わったようです」
「あら、そう。良かったわ」

 と言って現れた権兵衛の頬は赤く上気しており、はて、どうしたものか、と考え、気づく。
恐らく何も知らない兎にでも勧められて、興奮剤入りの団子を食べたのだろう。
あれは人間には相当辛い筈だが、満月の今、権兵衛ならある程度抵抗して、ちょっとした興奮状態程度に収めているだろう。
しかし、温和な権兵衛の興奮した状態とは、珍しい物である。
むくむくと悪戯心が湧いてくるのを感じながら、それに従い輝夜は口を開いた。

「なら権兵衛、今暇でしょう? ちょっとお茶に付き合いなさい」
「……あ、はい、是非とも」

 と言う息の荒い権兵衛が座って茶を口に含むのを確認して、一言。

「所で権兵衛って、女所帯で性欲をどう処理しているのかしら」
「ぶべふっ!?」

 宙を舞う液体が随分と遠くまで飛んでゆくのを見て、内心ガッツポーズを取る輝夜。

「い、いや、あの、あのですねぇ……」
「くす、冗談よ、冗談。何、それとも私にえっちな事聞かれて、興奮した?」
「してませんっ!」

 いきり立つ権兵衛に肩を震わせ、喉で笑う。
だって、ぶべふっ、ぶべふって。
止まらない笑いを、心の中の権兵衛からかい帳に永久保存しておき、ついでにちょっとだけ着物をはだけてみる。
何時もは顔を赤くしながらもすぐに目を逸らす権兵衛が、固まってしまったかのように視線を留める。
男のねっとりとした視線はあまり好きでは無いが、権兵衛のそれだと、不思議と優越感のような物が勝るから不思議である。
くすり、と再び微笑をもらし、輝夜は口を開いた。

「あら、権兵衛、どうかしたのかしら?」
「――っ!? い、いや、なんでもありませんっ」

 顔を真っ赤にして殆ど体ごと輝夜から目を背ける権兵衛に、再び輝夜は喉で笑う事となる。
そんな権兵衛を見ているとまだまだ悪戯心が湧いてくるのを感じる輝夜だが、まぁ、これぐらいで勘弁してやろう、と権兵衛をからかうのはこのぐらいで止めておく事にした。
自然視線は竹林へ、そしてその上の満月へと昇る。
満月。
貴き月。
ちょっと前、永夜異変と呼ばれる異変を輝夜達が起こすまで、満月とは恐怖の対象であったが、ここ最近はそれを愉しむようになっている。
その変化はなんだか恐ろしく、だから常は雨で満月が出ていない方が安堵する輝夜なのであったが、今は違った。
そんな事よりも、権兵衛と一緒に、こうして月見をできる事が嬉しい。
こんなことだったら、今回の例月祭も永琳に言って薬を混ぜさせず、自分たちも食べるようにすれば良かったかもしれない。
そう思うとちょこっと後悔が滲む輝夜であったが、過ぎてしまった事は仕方ない事、今こうやって権兵衛と満月を愉しめる事に満足する輝夜であった。

「やっぱり、今が一番大事な時なんだ、って思うわ」
「……輝夜先生?」

 脈絡の無い輝夜の言葉に、ようやく顔の赤さが引いてきた権兵衛が、疑問詞を浮かべる。

「過去なんて、安い本を同じよ。読んだら捨ててしまえばいいわ」
「そう、ですか?」

 珍しく、言外に輝夜に反抗する一言であった。
これも興奮剤の力によるものかと思うと一層珍しく思え、輝夜は先を促す事にする。

「そうよ。違うかしら?」
「――違う、と、思います。だって、過去は重要です。
俺がこの幻想郷に入ってきたのも。慧音さんと出会い、恩を授かったのも。白玉楼で、幽々子さんと妖夢さんと知り合えたのも。そしてこうやって、輝夜先生に弟子として貰えているのだって、過去があるからです。
もし俺が過去を低く見てしまうのなら、輝夜先生から受けた恩だって、軽くなってしまう。
それは、俺は、その――、嫌なんです。
俺は、この幻想郷に入ってきてから、皆に受けてきた恩を、大事にしたい。
だから俺は、過去を安く見ようなんて、できるとは思いません」
「そう、かしら」

 不思議と、輝夜は自分の中に黒い物が湧き上がるのを感じた。
団子など食べていない筈なのに、感情的になる自分が居るのが分かる。
膝の上で握りしめている拳の中、爪が肉に食い込むのを感じる。

「でも結局のところ、この世にあるのは今この瞬間だけ。それを楽しめないようなら、何の意味も無いわ」
「違います。過去を美化できないと言う事は、今に比べて幸せな物が無くなってしまうと言う事で、つまり今幸せになるために努力できないと言う事になる。
そうなると生き物を諦めの念が支配してしまいます。そうなれば、負の連鎖として、生き物はずっと悪い方向に行ってしまう事でしょう。
俺も、多分そうです。
これができず過去を大切にしなければ、未来が無くなってしまう」

 何故か、輝夜は不意に泣き出しそうになった。
目尻の辺りにぐぐっと熱いものがこみ上げてきて、喉奥に痛みを感じるようになる。
どうにかそれを抑える事に成功し、それから権兵衛の様子を見るが、権兵衛は自分の言に興奮しているようで、輝夜の様子は悟られなかったようだ。
それはそれで良い筈なのに、何故かその事実が、更に輝夜の涙の力を増す事になる。

「未来。未来だって、そんなに大切にしなくちゃいけないものかしら? 今を大切にする事とは比べ物にならないわよ」
「大切にしたいです。だって、俺は、俺がみんなに恩を返せる未来を求めて、今を頑張れているのだから」

 悲しいのだろうか。
怒っているのだろうか。
最早それすらも分からない感情が輝夜の目頭に温度となって集まり、ぽろり、と零れ出した。

「何でよっ!?」
「輝夜、先生?」

 思わず、口から怒号が飛び出る。
権兵衛が輝夜の方を向き、その様子にようやく気づいた。

「何で、権兵衛はそんな事言うの!? だ、だって、大事なのは、今、過去も未来も、過ぎ去ったか、いずれ過ぎ去る、いくらでもある物に過ぎないのよっ!?」
「――っ! で、でも……」

 何か言おうとする権兵衛に重ねて言うように、輝夜は叫ぶ。

「なのに、そんな物を大事にするなんて――」
「――でもっ!」

 遮るように、権兵衛も叫んだ。

「でも、俺の未来は――、永遠じゃあ、ないんです!」
「――あ」

 突然、疑問が氷解した。
なんでこんなに悲しいのか。
なんでこんなに怒っているのか。
それは。
自分とずっと一緒に居られると思っていた権兵衛が。
こんなにも違う考えなのが、悲しいのだ。
こんなにも違う生物なのが、悲しいのだ。
そう自覚すると、一層悲しさが増してゆくように思えて。
権兵衛の顔が、自分との間にある間隙を、より一層意識させるものであるように思えて。

「……たくない」
「え?」
「見たくないっ! 権兵衛の顔なんて、見たくないっ!」

 駄々っ子のような言葉が、輝夜の口から漏れ出す。
そんな言葉が自分の口から漏れ出すなんて信じられない輝夜であったが、次々と言葉の方は輝夜の口から出ていってしまう。

「見せないで。ねぇ、見せないでよっ!」

 ぱちん、と小さな音を立て、輝夜の手が権兵衛の頬を叩いた。
その弱い力に従い顔を外に向けた権兵衛の顔すらも直視できず、輝夜は視線を下ろす事になる。
なのに、体の向きは権兵衛の方を向いていて、だから権兵衛の下半身は自然と視界に入っていた。
それが、権兵衛が見えてしまうのが、権兵衛がこんなにも自分と違うと言うのを直視するのが嫌で、輝夜の口は次の叫び声をあげる。

「出てって。出てってっ! 今直ぐ、此処から、永遠亭から出てってよっ!」
「輝夜、先生……」

 呟きながら、何をすればいいのか分からない様子で、手を空中でさ迷わせる権兵衛。
視界の隅に入るそれがどうにも煩わしく感じて、つい、それすらも振り払ってしまう輝夜。

「ねぇ、出ていって。出ていってよっ! もう、これ以上貴方を見ていたくないのよ!」

 泣きながら、輝夜は権兵衛の胸を叩く。
全身から力が抜けているかのようで、胸を叩く力は、自分でも驚くほどに弱い。
ぽすん、ぽすん、と権兵衛の胸を叩く手に、権兵衛がそっと掌をかぶせて来たが、咄嗟にそれも払いのけてしまう。
ひょっとしたら、これ以上権兵衛の温もりを知り、同時に権兵衛との間隙を意識してしまうのが、怖かったからなのかもしれない。
何にせよ、権兵衛の手は払いのけられ、その顔は明らかにショックを受けていた。
そんな顔をさせてしまう自分が悲しくて、再び輝夜の目からは涙が溢れ出て、同時に罵詈雑言も口から飛び出しはじめる。
それにも飽きると、最後には叫ぶ力も尽きたのか、ただ涙を流しながらこんな風に輝夜は呟いてみせた。

「お願いだから……、お願いだから、もう出ていって。これ以上、私に酷い事、言わせないでよ……」

 ――それからどうなったのか、輝夜はよく覚えていない。
多分一晩中権兵衛に罵声を浴びせかけ、出て行けと怒鳴っていたのだろうが。
少なくとも。
翌朝には、権兵衛の姿が永遠亭から消えていた事だけは、間違いなかった。



      ***



 数日後。
秋の日差しが竹の間から差してくる中、てゐは日課である散歩をしていた。
世間では落ち葉も溜まる頃であると言うのに、茶一色である地面を軽やかに踏みしめてゆくのが秋の竹林散歩の醍醐味なのだが、その足取りは、不思議と重く、時々止まっては、思い出したかのように進んでいる。
代わりに出てくるのは、何故かため息ばかり。
憂鬱だった。
何時も心の目を楽しませてくれる不変の竹林も、その合間から覗く陽光が反射する煌きも、まるで灰色にしか見えない。
体からは変わらず活力と言う活力が抜け出ているようで、意識せねばすぐに足は止まってしまい、ため息の博覧会が始まってしまう。
どうしたのだろうか。
てゐにとって猛毒である権兵衛が、思い通り幸せとはならずとも、目の前から姿を消したと言うのに。

 ――例月祭の夜。
てゐは権兵衛を幸せにする為、輝夜との仲を進展させようと、興奮剤入りの団子を渡した。
結果、何があったのかは知らないが、翌朝には権兵衛は姿を消していた。
輝夜の説明によれば、ただ教育にも飽きたから放逐したのだ、との事。
しかし説明に反し顔は切なく、今にも泣きそうな顔で言うので、それには全く説得力が無かった。
何があったのか分からないが、兎に角、てゐの行動は相変わらず権兵衛を幸せにする事は出来ず、不幸にするばかりであった。
しかし。
しかし、である。
同時、てゐにとって猛毒である権兵衛が、目前から姿を消したと言うのも、また一つの事実であった。
であれば当然、権兵衛の不健康分だけてゐが健康的になってもおかしくないと言うのに、未だ精神は憂鬱であり、復調の兆しは見えなかった。
その事実にため息をつき、再び止まっていた足を、どうにかして動かし始める。
それがぐっと力を込めないと何時までもその場に座り込んでしまいそうなぐらい難しく、今のてゐにはその程度の活力を搾り出す事すら難しいと言う事実の現れであった。

「あら、てゐじゃない」

 と、そんなてゐに、突然声がかかる。
自然足元をばかり見つめていたてゐが面を上げると、何時の間にかてゐは永遠亭の庭近くを歩いており、縁側に腰掛ける鈴仙が見える範囲に居た。
声をかけられたので返そうと思うてゐであったが、不思議と、何時もなら朗々と滑りだす口が、一向に回らない。
とりあえず、やぁ、とだけ声を返して、視線を足元に戻し、この場を去ろうとする。
本当に憂鬱な時は、人が近くに居ると言う、その事実だけで億劫なのだ。
が。

「あ、その……。ちょっと、聞いてくれるかしら」

 と、続けて言う鈴仙の言葉に、てゐは再び面を上げた。
鈴仙がてゐに相談事と言えば、出会って数年で騙しまくって散々遊んで以来、滅多に無かった物であるので、ふと興味を惹かれ、てゐはゆらりと鈴仙の元へと近寄り、ひょい、とすぐ近くの縁側に腰掛ける。
ただ、鈴仙の顔を見て気遣う程の活力は出てこなくて、結局自分の足を見つめながら、鈴仙の言葉に耳を傾ける事にする。

「その、権兵衛さん。すぐ前まで、あの人が居たじゃない」
「うん。そだね」
「私……、権兵衛さんが最後に輝夜様と話していた時、隠れて見ていたの」
「そう――、だったんだ」

 成程、権兵衛ストーカーの第一人者である鈴仙であるならば、師への報告を終えてすぐに権兵衛の尾行に戻っていてもおかしくはあるまい。
とすると、例月祭の夜、てゐが団子を渡すのを邪魔されなかったのは、結構ギリギリのタイミングであったのだろうか。
そう思うと普通、ギリギリで悪戯を成功させた時のスリルと快感がてゐの背を波打つのだが、今はただ、もしもの世界には権兵衛が興奮せず、そしてその為に此処を出てゆかなかった世界があったのかもしれない、と夢想しただけであった。

「最初は、普通の会話だったわ。ちょっと、権兵衛さんが興奮気味だったぐらいかな。
でも、それはすぐに終わったわ。切欠は、確か、今が大切か、過去や未来が大切か、みたいな話だったかしら。
輝夜様は勿論今が大切だって仰られて。
権兵衛さんは過去や未来が大切だって言ってて。
ふふ、あの人らしいわね、皆からの恩を忘れたくない、皆に恩を返したいって言ってて。
本当に権兵衛さんらしい、可愛い理屈だったわ」
「そうだね」

 確かに、権兵衛ならそう言うかもしれない。
出会った時の、いきなり弟子になりたいとか言い出した権兵衛の口上を思い出し、てゐはそう思った。

「でも、輝夜様――、ううん、あの女は。
権兵衛さんが、ただ皆の恩を大切にしたいって、自分らしくありたいって、そう言っているだけだったのに、いきなり癇癪を起こし始めたわ。
何で、今を大事に思えないんだって。
そう言ったかと思えば、急に、権兵衛さんの頬を――」

 ぎり、と歯ぎしりの音がするのに、てゐの視線はゆらりと鈴仙の顔に移る。
目は血走り歯茎をむき出しにした、夜叉の顔がそこにあった。
それから、急に鈴仙は叫びだす。

「あの女、よ、よりにもよって権兵衛さんの顔を、な、殴って!
権兵衛さんの手を――、ふ、振り払って!
ま、まるで自分が、ひ、被害者みたいな顔して、泣きながら権兵衛さんを罵倒し始めてっ!」

 それから、激怒した鈴仙の口から、意味のない叫びのような怒号が続けて口にされた。
先日自分がおぞましいと言った愛情に起因する怒りにさらされたてゐだが、それにすら反応するのも億劫で、鈴仙の頭に昇った血が降りるまでぼうっと呆ける事にする。
最早てゐは鈴仙におぞましさを感じる事も、その怒りを恐れる事もなく、ただその怒号を聞いて、あぁ、私はやっぱり権兵衛を不幸にしてしまったんだな、と思い知らされていた。
予想はしていた事だったが、憂鬱である。
自分の心が更に深い所へ沈み込んでゆくのを感じながら、ただただてゐは自分の足元を眺めていた。
暫くして、肩で息をしながら、鈴仙が冷静さを取り戻す。

「はぁ、はぁ……。兎も角、そんな理不尽な事で、あの女は権兵衛さんに出てけって言って。
権兵衛さん、困ったんだと思う。
あの人、きっと誰に怒られても、自分に原因があるって思っちゃうぐらい、底なしに優しい人だから。
どうやったら、あの女――輝夜様の怒りを、沈められるんだろうかって。
あんな女の癇癪なんて、放っておけばいいのにね。
――で。
多分、思いつかなかったんだと思う。
だって、思いついたなら、あの人はきっとその方法がどんなに怖い事でも、びくびくしながらかもしれないけど、絶対にできる人だから。
だから、権兵衛さん、部屋に戻って、荷物を纏めて、――永遠亭を、出て行っちゃって」

 と、そこまで話してから、鈴仙は、大きく息を吸い、吐く。
てゐが視線をやると、鈴仙は、今のてゐと同じような、どこまでも沈み込んでいきそうな、憂鬱な瞳をしていた。

「私、ね。権兵衛さんが此処に来た初日、約束していたんだ。
『いざって時は、私を頼ってくれていいよ』って。
でさ、此処を出ていこうとする権兵衛さんを見て、今こそ、“いざって時”じゃないか、って思って、私、姿を表そうとして――」

 鈴仙の言葉が、途切れる。
自然、辺りに憂鬱気な沈黙が充ち溢れ、竹林が風で揺れるさざ波の音だけが残された。
続く言葉を待って鈴仙の顔を見ていたてゐの視線が、徐々に力を無くし、足元へと降りていって。
二人が視線を交わないまま、幾許かの時が過ぎ去った時。
ついに、鈴仙が呟くように言った。

「でき、なかった」

 一度言ってしまうと、決壊したダムのように、鈴仙の言葉は次々に溢れでてくる。

「不意に、お師匠様が今見ているんじゃないか、って思って。
そしたらさ、急に熱が冷めるみたいに、姿を現して私は何ができるんだ、なんて思っちゃってさ。
輝夜様を説得できる訳でも無い。
お師匠様に頼み込んでも、権兵衛さんを嫌っているお師匠様だから、そんな事絶対に無理。
なら、私も此処を飛び出して、権兵衛さんについていけば良かったのかもしれない。
でも、それすらも私には、出来なかった。
此処を離れるのが。
今持っている物を手放すのが、怖くて。
――権兵衛さんと違って、勇気が、無くて」

 勇気。
その言葉に反応して、ぴくり、とてゐは自分のウサミミを揺らした。

「自分で動く、勇気がなくて」

 自分で動く、勇気。
それを聞いて、てゐはそういえば、と思い出す。
焦っていたてゐは、誰かと権兵衛の仲を進展させて幸せにしようと思い、三人を思い浮かべたのだが。
よくよく考えれば、てゐが権兵衛と普通に仲良くなればいい、と言う手段があったのではないだろうか。
何故、それが思いつかなかったのだろうか。
単純に思いつかなかった?
いや、数千年の時を生きたてゐの知恵はその程度の物ではないし、問題も単純である。
実行するかは兎も角として、少なくとも、思いついてみて否定するぐらいはしていないとおかしい。

「本当に私、臆病で」

 臆病?
私は、臆病だったのだろうか――、てゐは、呆然と自分の足元を見つめながら、ふと思った。
そう、先の考えが正しいのなら、てゐは自分が普通に権兵衛と仲良くなればいい、と言う考えを、思いつきながらも自分で封殺していた事になる。
怖かったのだろうか?
今までにない、騙し騙されの関係ではなく、素の自分で接する事と言うのが。
――臆病。
ぶるりと、自分で自分に言い聞かせた言葉に、てゐは身震いする。
だが、しかし。

「でも、だから。だから、次こそは。
うん、次なんて、あるのかどうか、あっても何をすればいいのか分からないけど。
でもね、次こそは私、勇気を出そうと思うんだ」

 ――次。
ああ、そうだ、次があるかもしれないんだ!
それに気づくと、雷が落ちたかのようにてゐの全身に活力がみなぎった。
自然、視線も上がって鈴仙の顔が視界に写り、その顔が、寂しげながらも、何処か決意に溢れた表情である事に気づく。

「次がどんな時か分からない。その時、何をするのが勇敢なのかも分からない。
だけど、決めたんだ。次こそは、次こそは、絶対に、勇気を出して権兵衛さんの力になってみせるんだ、って」

 てゐの視線に気づいた鈴仙が、にこり、と笑いながら、そう宣言してみせた。
そして、ぐいっと体を持ち上げ、庭へと踊り出る。

「ありがとね、てゐ。私の決意表明、黙って聞いてくれてさ」
「いや、私も助かったよ」
「へ?」
「や、なんでもないさ」

 そう言うと、少しの間怪訝な顔をしていた鈴仙であるが、もう一度てゐに礼を言い、散歩でもするのだろう、ゆっくりと庭の周りを歩き始める。
それを眺めながら、呟くように内心でてゐは思う。
礼を言いたいのは、こちらの方だった。
そう、権兵衛との関係はただ距離が離れただけで、まだ切れておらず、次がある、と気づかせてくれたのだから。
ならば、てゐの精神が一向に健康的にならないのも、頷ける話である。
何せただ単に権兵衛が目に見えなくなった所で、それは症状の進行を緩和するだけで、根本的な治療にはなっていないのだから。

 だが、同時に次がある、と言う事は希望がある事をも指し示していた。
だからてゐは、賢しい兎らしく、今度こそは権兵衛と出会った時、権兵衛を幸せにしてあげる為に、色々と準備をする事にする。
――まず初めに、権兵衛を少女性愛に倒錯させる為に、永遠亭のおぞましい愛を教え、大人の女性に不信感を持たせねばならない。
その上でスキンシップと称して権兵衛の体に触れる事を多くし、更にそれを先のような興奮剤を用いるなどして興奮状態にある権兵衛に行い、権兵衛に自分が少女に対し興奮していると錯覚させねばならないだろう。
同時進行で、何処か権兵衛と一緒に逃げれる場所を作るのも必要だ。
何せ永遠亭の女どもときたら自分勝手で、恐らく権兵衛が他の誰と結ばれても、それを信じず迫り来るであろう女ばかりである。
とすれば誰にも見つからない家や、それを手に入れる為の資材なども必要になる事は、当然の事と言えよう。
勿論、権兵衛と二人きりで住まい、二度と他の誰とも出会う予定の無くなる場所なのだ、自給自足ができる事も必須だ。
その為に必要な知識や流言飛語や薬の調達など、やる事は山ほどにある。
こうやってやる事ができると、不思議な事に憂鬱さも吹き飛んでしまう物で、何時の間にかてゐの体には活力が満ち溢れていた。
先程鈴仙がしたように、ぐいっと体を持ち上げ、庭に踊り出る。
太陽を見上げると、灰色だったそれは黄金の光を放ち、これからのてゐの所業を祝福しているかのように見えた。
だから、思うのだ。
絶対に。
他の誰に幸せにされるよりも、早く。

「――ぜったいに、わたしが幸せにしてあげるからね、権兵衛」



      ***



「――ふぁ」

 午睡から覚め、輝夜は意味のない言葉を漏らした。
どうやら、優曇華の世話をしているうちに、少し寝てしまったようである。
幸いよだれなどは垂れていなかったので、少し寝ぐせっぽいのを頭に触れて直し、風にでもあたろう、と輝夜は部屋の外に出ることにした。
縁側を散歩しながら、此処数日の事を思う。

 権兵衛が居なくなってからの数日、輝夜は兎も角、手持ち無沙汰だった。
何時もなら毎日権兵衛に霊力を教えるか、その為の計画を練るか、そうでなくとも権兵衛と話でもしていくらでも時間を潰せていたのに、今となっては、暇ばかりが一日中満ちている。
普段であれば、それでも思いついた事を適当に実行してみるような事があったのだが、それすらもなく、ただ午睡と散歩と食事と睡眠を繰り返すだけの毎日であった。
何と言うか。
何も、する気になれずに。
その事を考えると、権兵衛の事が思い出されて胸が痛むのだが、あの権兵衛に対し、今更どうすればいいのか分からなくて、だから輝夜にはどうしようもない。

 例月祭が明けた朝、権兵衛が居なくなっていた事を知ると、自分が飽きたから放逐したのだ、と、表向き平然としたつもりで屋敷の皆に説明した。
しかし内心では権兵衛に会いたい気持ちと会いたくない気持ちとがせめぎ合って、嵐のような有様になっていた。
権兵衛と、会いたい。
会ってあの、素晴らしい時間を共有したい。
霊力を教えるのだって勿論魅力的だが、そこまで望めなくとも、ただ会話するだけでもいいから、権兵衛と会いたい。
そう思う反面、権兵衛と会いたくない、という気持ちがある。
権兵衛と、会いたくない。
会えば、きっと権兵衛がどうしようもなく自分と違う考えの生物だと、気づいてしまうから。
ずっと権兵衛と一緒に居られる今と言う時間の儚さが、嫌でも実感させられてしまうから。
二律違反の感情は、今でも輝夜の中でせめぎ合い、その勢いは弱まるどころか強まるばかり。
かと言って両方に従う行動など存在するはずもなく、輝夜は表向き何もせず、ただぼうっと優曇華の盆栽を眺める毎日を送っていた。

 散歩の合間も、今は目を楽しませる余裕すらない。
ただただぐるぐると二つの言葉が頭の中を回っており、それが他の全てから輝夜の意識を引き剥がしている。
権兵衛に会いたい、会いたくない。
そんなぼうっとしている輝夜であったが、縁側をぐるぐると散歩している間に、ふと、永琳の部屋の前を通りかかった時、襖が半開きになっているのに気づいた。
普段ならそんな物どうでもいいと思う所なのに、不思議とそこには引きつけられるような感覚があり、ふらふらと輝夜は永琳の部屋へと歩みを進める。

 永琳の部屋は、明かりを取り入れる窓全てが締め切られ暗闇に包まれており、その中に唯一薄緑色の光源があり、それが部屋の机の上にある物を強く照らしているようだったが、外からではよく見えない。
永琳はと言うと机に座ってぼうっとした様子で、じっとその光源近くにある瓶詰めの何かを見つめている所だった。
それがどうにも気になるので、思い切って、輝夜は襖を開けて永琳の部屋に入る。

「か、輝夜!?」

 蠱惑。
永琳が悲鳴じみた声を上げて跳ね上がるように振り返るが、それすらも目に入らない。
ただただ、幾つかある光源の瓶の中にぎゅうぎゅうに詰められた、灰色の腎臓や、黄土色の小腸、濃赤色の肝臓に、目が奪われていた。
自然、ふらふらと部屋の中を横切り、永琳の隣まで行って、先程永琳がしていたように、その内蔵を見つめる事にする。

「そ、その、これは……」
「これは、権兵衛の、よね」

 暫く、戸惑っているようだった永琳だったが、観念したように口を開く。

「――は、い」

 それを受けて、僅かに、輝夜は僅かに相好を崩す。
どうしてか、それは永琳の答えを受けるまでもなく、その事は分かっていた。
次いで、永琳が権兵衛の臓物をぼうっと眺めていた様子を思い出し、ふと、思いつくものがある。

「ねぇ、永琳。永琳も、権兵衛の事が好きだったのかしら」
「ええ!? い、いや、その、輝夜ったら、権兵衛さんの事が好きだったのね。ペットだとか言っていたけど、やっぱりそうだったの」
「答えて。永琳も、権兵衛の事、好きだった?」

 暫く、沈黙がその場を満たす。
光源の電灯が漏らす低い音だけが響く中、暫く百面相をしていた永琳であったが、ついに口を開いた。

「――うん。そうかも、しれないわ」

 言葉面とは別に何処か確信じみた物のある言葉に、輝夜は薄く笑った。
永琳のあの憎悪は、好意の裏返しだったと言う訳だ。
とんだつんでれだな、と内心呟きつつ、輝夜は静かに臓物の詰まった瓶に手をやる。
硝子製の表面を、撫でてみる。
無い筈の権兵衛の内蔵の体温を感じ取れたようで、数日ぶりのそれに、思わず輝夜の口元も緩んだ。

「私も、権兵衛の事、好きだった。
弟子として、話し相手として、なのかもしれないし、永琳程じゃあないのかもしれないけど。
でも――」

 一旦言葉を区切り、輝夜は硝子瓶を撫でる仕草を変える。
ただ体温を感じようとしていたそれから、まるで反応を引き出そうと言うような、扇情的な撫で方。

「でもね、永琳。
あの例月祭の夜、私、権兵衛と口論になっているうちに、気付いちゃったの。
権兵衛が、どうしても私と考えの違う相手なんだって。
どうしても儚い、ただの人間なんだって。
それが、どうにも悲しくって。
権兵衛の顔を見ていると、その事を思い知らされるようで。
だから、出てけ、って言っちゃったんだ」

 指先でつつっと滑るような撫で方を終えると、輝夜は次の瓶を愛でる作業に移る。
再びあるはずのない体温を感じるような撫で方で、硝子瓶の表面を撫で始めた。

「後悔、しているわ。
それでも我慢すれば、権兵衛の顔をもっと見ていられたのかも、なんて思うと。
ふふ、過去なんて気にする事は無い、なんて言ったその当人が、こんなに過去を気にしているなんて、説得力が無かったかな。
――、そう。
私、権兵衛を見ているのも苦しいけど。
権兵衛をずっと感じられないのも、苦しいんだ」

 いくつかある瓶を撫で終えると、再び瓶を元の位置に戻し、それをただただ眺めながら続ける。

「でも、だからって、私、何をすればいいのか、分からないのよ。
ただ権兵衛に会うのも苦しくて。
でも会えない事だって、苦しくて。
だから――」

 何かないかな、永琳、と続けようとして、ふと、輝夜は気づく。
自分が今まで愛でていた物。
権兵衛の臓物。
臓物。
臓物。
臓物!

「――あ」

 天啓が、輝夜に下った。
その瞬間、ぐっと視野が広がり、自分がどんなに小さな事で悩んでいたのだろう、と気づく。
大体、なんでこんな簡単な答えに至らなかったのだろうか――。
そんな自嘲をも吹き飛ばす、満面の笑みを浮かべ、永琳の方へ振り向いた。

「そうだ、永琳、思いついたっ!
そう、思えば簡単な事だったのよ。
権兵衛と会わない事で感じる苦痛はただの苦痛だけど、権兵衛と会う苦痛は喜びも伴なう物。
なら、権兵衛と会う苦痛をだけ無くせば、それで済む筈。
私は、権兵衛と一緒の事を考えられなかったのが、悲しかった。
私は、権兵衛と違う生物である事が、耐えられなかった。
でも、ならば、それは――!」

 輝夜の興奮に困惑する永琳を尻目に、胸を張って輝夜は宣言した。

「同じ、生き物に――蓬莱人になればいいだけの、話だったのよ!」

 一瞬、虚を突かれた形であった、永琳であるが、すぐに思い直す。

「でもね、輝夜。蓬莱の薬はもう――」
「無い。でもね、永琳、思いついたの。蓬莱の薬が無くても、権兵衛が蓬莱人になる方法――」

 言って、輝夜は、己の腹に手を当てる。
僅かに撫で、その体温を感じた後、ぐっと力を込めて、ずぬぷっ、と輝夜は自分の腹に手を突っ込んだ。
びちゃびちゃと飛び散る血に頭を冷やしながら、体をくの字に折りつつぞもぞもとお腹の中を探し、見つけたそれをがしっと掴み、引きずりだす。
血で濡れた輝夜の小腸は、権兵衛の小腸のとなりで、薄緑色の光を受け、てらてらと輝いていた。

「権兵衛に、私達の肝を、食べて貰えば良かったんだわ」
「――あっ!」

 久しぶりに永琳の驚く顔を見て、くす、と輝夜は微笑む。
そう、蓬莱の薬を飲んだ人間は不老不死になる。
しかしその不老不死の人間の生肝を食すと、その人も不老不死になるのだ。
こんなことも思いつかないなんて、私も永琳もお馬鹿だったわね。
そう内心で呟く輝夜の隣、立ち上がった永琳が、同じように自らの腹に手を当てる。
ぶぢゅ。びちゃ、くちゅくちゅ、ずりゅっ!
同じようにして引きずりだされた永琳の小腸が、輝夜の小腸の隣に位置する。
その美しい光景を胸に、輝夜は胸を張って、宣言する。
きっとその行為は、輝夜の嫌いだった永遠を作るのだろうと言うのに、楽しい毎日を作るに違いない。
弟子の権兵衛を毎日鍛えてやって。
暇になれば権兵衛を呼んで、話をして。
日々の事柄で、師弟の絆を実感して。
そんな風に、ずっと一緒に居る為。
ずっと同じである為。
その為に。

「ぜったいに、わたしたちを食べさせてあげるからね、権兵衛」

 それは、これからの幸せの為、権兵衛が同じ考えで、同じ時間を生きれる生き物になるための事である。
当然権兵衛も歓迎してくれ、きっと泣いて喜びながら二人の生肝を食べてくれるだろう。
そう思うと笑みを押えきれず、それから、その前に仲直りしてからかな、と苦笑気味に微笑む輝夜。
その眼前には、権兵衛、輝夜、永琳の小腸が、薄緑色の光に照らされ、ただてらてらと輝いているのであった。





あとがき
区切る所もなく永遠亭編終了まで書いていたら、何時もの倍近い分量になりました。死ぬかと思った。
今回からチラ裏卒業になります。
次回は閑話の予定です。

PS.妖Luna永Lunaに続き、風Lunaもクリアしました。
そろそろルナシューターを名乗って良いでしょうか。



[21873] 閑話1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/11/22 01:33


 上白沢慧音は、憂鬱だった。
慧音には毎月満月の夜には権兵衛と密かな飲み会をすると言う行事があったのだが、今回それはできなかったのだ。
と言うのも、理由は二週間ほど前に遡る。
その日、権兵衛は街に買出しに来ていた。
簡単な位置を把握する術を権兵衛にかけているので、それを把握していた慧音は、何時も通り“偶然”出会おうと思いつつも、急な来客に対応せざるを得ず、動くことがならなかった。
こうなると、常のように権兵衛をつけ回ってその会話の歴史を必要最小限まで喰う事は、出来ない。
とりあえず監視系の術を使って権兵衛を監視しておいたのだが、権兵衛は米屋の理不尽な値上げに、流石に食っていけないと代金の差し出しを拒否した所、盗人と叫ばれ、それを冥界の庭師に聞かれた。
不味い、と思う間もなく、権兵衛は慧音がかけていた術ごと、妖夢に斬られた。
急いで来客を片付け、偶然を装い現場に向かうと、どうやら誤解は解け、近くに居た薬師の弟子に治療され、白玉楼へ連れ去られたのだと言う。
一瞬、反射的に追って権兵衛を取り返しに行こうと思った慧音であるが、相手は慧音よりも強大な力の持ち主である、下手な手は打てない。
しかも慧音の歴史を食べる程度の能力は、当然権兵衛と会話した相手の力が強ければその相手にもバレてしまう可能性がある為、権兵衛と白玉楼の面々との会話の歴史を食べる事もできない。
何せ、相手は慧音如き朝飯前に殺せる亡霊姫なのだ、慧音には、どうか権兵衛が白玉楼の面々と親密にならないよう願う他無かった。
と言っても、慧音は権兵衛の会話の歴史を食べる事に対し、罪悪感を抱いていた。
故に慧音は、権兵衛に自分だけを見ていて欲しい、他の人間との会話など無かった事にしてしまいたい、と思いつつも、反面、こうやって権兵衛に慧音が邪魔できない知古ができると言うのは、望ましい事なのかもしれない、と思った。
と言うのも、そうすれば権兵衛を独占したいと言う気持ちに諦めがつき、今度こそ満月の夜の飲み会で謝罪の歴史を喰わずに我慢でき、権兵衛に裁いてもらえるかもしれないからだ。

 しかし、数日後、そろそろ権兵衛の傷も治ったかと言う頃、兎を伝って慧音の元に手紙が来た。
永遠亭の薬師からの物である。
はて、どういった事か、と首を傾げつつ中身を改めると、そこには驚愕の事実があった。
本意からではないと思われるが、妖夢がもう一度権兵衛を斬った事。
その怪我で、今度は永遠亭に運び込まれた事。
――そしてなにより、権兵衛が輝夜に気に入られ、永遠亭で飼われるようになったと言う事。

 ふざけるな、と、思わず慧音は叫んでしまった。
権兵衛は、他の誰のものでもない、私の、私の物なんだ!
それを、よりによって、ペットのように飼うだと!?
許せるものか、必ず取り戻してやる!
怒りのあまり歯ぎしりをし、目には血管を浮かせ、唾を吐き散らしながら叫んだ慧音であるが。
その後、一人では難しいと妹紅の力を借りに行く準備をする次第になって、ふと、思ってしまった。
自分が権兵衛にしている所業と輝夜が権兵衛にしている所業、果たしてどちらのほうが酷いのか。
里人と権兵衛、結局どちらの手も取れず中途半端にしか助けれないと言うのに、自分以外との会話を奪う慧音。
飼うとは言うが、月兎の扱いを見るに、普通の小間使いとして使われる程度であろう輝夜。
――当然、己の方が酷い所業である。
そう思うと、あれ程慧音の中を暴れまわった怒りも、萎んでしまった。
ありとあらゆる気力が萎え、最後にはただ、憂鬱さだけが残る。
だって、私なんかと一緒に居るよりも、このほうが権兵衛は幸せなんだ。
だから、仕方ない、仕方ないんだ――。
そう思って、慧音は権兵衛の奪取を諦める次第となった。
ただ、せめて、一度でいい。
満月の夜、もう一度だけあの二人だけの飲み会をして、今度こそは己の罪を隠さず告白して、その罪を裁いてもらいたい。
それだけ思って、慧音は権兵衛と出会うのをだけ心待ちにしながら、満月までただただ待っていた。
最後の最後、満月の夜に来てくれるかもしれない、と思い、満月の夜は寝ずにずっと権兵衛の事を待っていたのだけれども。
結局、権兵衛とは会えなかった。

 心配だった。
もしや傷が酷くて、まだ自由に動き回れる程では無いのだろうか。
もしや永遠亭での扱いが酷くて、外出を許されないような扱いをされているのではないだろうか。
もしや輝夜が既に権兵衛に飽きてしまい、迷いの竹林に権兵衛を放り出してしまったのではないだろうか。
そう思うと居ても立っても居られず、何かしようと思うのだが、思いつかない。
自分のような浅ましい女が権兵衛に会いに行って良いのだろうか?
例え行って良くっても、行って一体何をするのだろうか?
傷が酷いと言うなら慧音にできる事は無いし、永遠亭の扱いに慧音が一体どうやって口をだすのだ。
これがたまたま迷い込んだ里人であったならば兎も角、権兵衛は外来人であり、里から離れて済むはぐれ人間である。
そんなに大切なら何故無理にでも囲っておかなかった、と言われれば、慧音は何も言えなくなってしまう。
そして当然、力尽くでは叶う筈も無く。
唯一意味があるとすれば、権兵衛が既に放逐され竹林を迷っていて、しかもまだ妖怪に襲われておらず、飢えてもおらず、更に偶然慧音が助ける事ができると言う、奇跡に等しい場合に限るのだ。
怖かった。
何よりも自分の無力さを痛感するのが怖くて、慧音は権兵衛を心配しながらも、何一つ実行する事はできなかった。

 せめてもの慰めとして、慧音は、権兵衛の家の管理を行っていた。
何故だかほったて小屋の割りには厳かな雰囲気のする場所で、野生動物が近寄らず、妖精なども祝福には来ても悪戯はしにこない場所なので、する事と言えば掃除ぐらいなのだが。
とりあえず、と丁度手持ち無沙汰になった所であった慧音は、今日も権兵衛の家の掃除に行くか、と、戸締りをして家を出た。
満月の前は少し忙しかったので、数日ぶりとなる掃除である。
少し気合を入れながら歩いていると、ふと、慧音に声がかかった。

「や、慧音じゃないか。久しぶり」
「む、妹紅か。――行儀が悪いな」
「うっ」

 妹紅は団子を咥えて歩いており、見るに暇つぶしに里を食べ歩きしていた所だろう。
その行儀の悪さに慧音の眉が角度を大きくするのを見て、妹紅は慌てて団子を食べつくす。
ほら、もう何も無いだろ、と言わんばかりの妹紅に、慧音はため息をつき肩を落とす。

「はぁ。まぁ、今日は説教は無しにしといてやる。が、これからは気をつけるんだぞ」
「あ、ああ。悪かったよ。――って、どうしたの? 説教無しって。何か用事でもあるのかい?」

 何でもない――!
反射的にそう叫びそうになる自分を、慧音はどうにか抑える事に成功した。
胸にうごめく黒い感情を押しとどめ、一気に激しくなった動悸を抑える。
そう、慧音は権兵衛の家を掃除しにいこうと言うだけである、何処に隠す事があろうか。
無い、無い筈、だ、と内心呟きながら、慧音は口を開く。

「その、何度か話したが、権兵衛と言う外来人の事は覚えているか? 彼がちょっと怪我をして永遠亭に行っている間家を空けているから、掃除しにいってやろうと」
「へぇ。じゃあ暇だし、手伝いに行ってもいいかしら」

 やめろ――!
反射的に叫びそうになるのを、辛うじて慧音は抑えた。
と同時、自分の独占欲が己を叫ばせようとした事に気づき、慧音は血が滲まんばかりの力で歯を噛み締める。
惨めであった。
なまじ里の守護者などと高潔そうに呼ばれているからこそ、こうやって自らの醜さを感じると、それが一層醜く見える。
矢張り、こんなに醜い自分が権兵衛の元に顔を出すなど、害悪にしかなるまい。
後一度、権兵衛に裁いてもらうだけにして、二度と顔を見せないようにすべきだろう。
そう胸に決意しつつ、その悲痛さを押し殺す。

「そう、だな。狭い家だから人手が必要って訳でもなくて、手持ち無沙汰かもしれないが、それで良ければ」
「慧音にゃ恩がたっぷりあるからね。返せる時に、返しておかなくっちゃ」

 じゃあ、頼む。
慧音は笑顔でそう言ったつもりだったが、きちんと表情筋の笑顔を作れていたか、やっぱりやめてくれと口は動かなかったか、あまり自信は無かった。



      ***



 厚い雲が空を覆い、陽光を遮っている。
権兵衛の家は、里の中央近くに位置する慧音の家からは少々遠い。
自然妹紅と二人歩く間言葉が口に上り、話題は権兵衛の事となっていた。

「で、その権兵衛だけど、なんだって急に、慧音が引き取るなんて言い出したんだい?
あたしは後から聞いた話しか知らないけどさ、権兵衛って奴、別に食っていくのに困る程の扱いになるってんじゃあ無かったんだろ?」
「そりゃあ……そう、だが」

 思わず口を噤む慧音。
勿論引き取った事が結果的に良かった事は疑いようのない事実だが、しかし里の有力者である自分があまり強引に里の総意を無視し、無能な外来人を優遇すると言うのは、あまり褒められた手段では無かったのも確かだった。
さて、どういう経緯だったか、と回想にふける慧音。

「自分でも、よく分からないんだ。ただ、どうしても放って置けなかったのかな」
「ふぅん」
「里の会議は数日あったんだが、その幾日目だったかな、丁度私は初めて権兵衛当人と出会ってな」

 今でも目を瞑れば、すぐに思い出せる。
恐怖に心が固まり、今にも泣き出しそうな顔のまま、この世の不幸を全て背負って生きているような顔をした、あの幼い顔。
だが、怯えながらも同時、彼は何処か、判決がどのような物でもあろうと最終的には受けようと言う、粛々とした静謐な部分があったように思えたのだ。
里の議論が、要するに、自分は金を負担したくは無いが、かと言って人を見殺しにする悪人になりたくない、と言う言葉ばかり交わされている中、そんな権兵衛の様子は、何処か神聖なような物にすら思えて。
気づけば、慧音は権兵衛を引き取ると、会議で発言していた。

「結局、同情だったんだろう。それに、私は自分で思っていた以上に潔癖だったから、なのかもな」
「そう、かな。何か違うようにも聞こえるんだけど」
「――そう、か? 妹紅がそう言うなら、そうなのかもな。私自身、よく分かっていない事だし」

 呟き、慧音は目を細める。
初めて権兵衛を見たあの瞬間、思ったのはこの少年を抱きしめてやりたい、と言う思いだった。
慧音は単純に、それを実現させたくて、権兵衛を引き取ると言い出したのかもしれない。
何せそう言った事で、感極まった権兵衛を、慧音は抱きしめる事ができたのだから。
とすれば。
なんと浅ましい事か、と、慧音は自分が情けなくなる。
真摯な悲壮感を抱いていた権兵衛に対し、ただの欲望に身を任せていた自分が、あまりにも恥ずかしくて。
そんな風に自虐の念に慧音が囚われていると、少し言い難そうに、妹紅。

「その、慧音はそう言うけどさ。里の評判は、なんかあんまよく無いみたいでさ、慧音を騙しているとか――」
「当然、本人は善人だ。これ以上無いと言ってもいいぐらいの、な」

 権兵衛の人の良さと言ったらいくらでも語れる物であり、それどころか度が過ぎていて見ていないと安心できない所があるぐらいであるので、胸をはって慧音は言い切る。
恐らく妹紅は噂の通り、慧音が悪い男に騙されていないか心配なのだろう。
なので権兵衛の人の良さが分かるよう、思い出の中から幾つか逸話を紹介してみせる。
最初、寺子屋のテキスト作りを、とりあえずどれぐらいできる物かと一日時間をやってやらせてみれば、不眠不休で仕上げてきて、ぶっ倒れてしまった事。
目覚めてみれば最初はこんな無様を晒してしまったけど、どうか許して欲しいと言う言で、その小動物系な目に、思わず怒るにも怒れなかった事。
体力が年にしては低めで、井戸水を汲んでくるのにも時間がかかるのだが、それにしても遅いと思ったら、近所のお年寄りを見ていられず手伝っていたようだった事。
寺子屋の子供との遊びでは悪人役にされがちで、子供たちが殴る蹴るするのを痛そうにしながらも笑って受け、時折飛び蹴りなんかの危険な技を使う子供を、身を呈して庇ったりしていた事。
まだまだ権兵衛の思い出は底なしにあるのだが、その辺で妹紅の理解を得られたようであるので、最後にこういって、慧音は締めくくる。

「とまぁ、こんな奴でな。悪人どころか、あいつが悪人に騙されないかどうか、こっちが冷や冷やするぐらいだったよ」
「まぁ、権兵衛がどんな奴なのかも、大体分かったよ」

 ついでに慧音がどう思ってるのかもね、と、苦笑気味に妹紅。
慧音はそんな妹紅に、はて、と首を傾げる。
慧音は確かに、権兵衛の事を大切な人間だと思っている。
それどころか権兵衛が他人と喋っているのが我慢ならないぐらいに独占したくて、更にはそれに罪悪感があって、裁かれたくもあると言う、複雑な感情さえあるのだが。
しかし、今の会話からそれが通じる所があるだろうか、と首を傾げる慧音に、再び言い難そうに、妹紅が口を開いた。

「でもさ、慧音。権兵衛ってのがそんな善人なら、なんで嫌な噂なんか流れてるんだい?」
「――っ」

 思わず、口に詰まる慧音。
痛い所を突かれて押し黙ってしまう慧音に、心配そうに妹紅が言う。

「いや、別に、権兵衛が善人だって言うなら、それはそれでいいんだ。ただ、噂みたいに慧音が騙されていやしないかと思うと、心配で――」
「私の――」

 そんな妹紅の言を遮って、慧音は足を止め、口を開いた。
自然、口の中を噛み締め、瞼は閉じ、中の瞳は太陽があるのであろう中空へと向けられる。
映しだされるのは、暗黒の中、幾何学的な残光の模様だけ。
懺悔する心積もりで、慧音は言った。

「私の、所為なんだ」

 言って、瞼を開いて視線を妹紅にやると、彼女はぴくん、と眉をひそめていた。
慧音の権兵衛への好意を知ったから、納得が行かないのだろう。
しかし、これは覆し様のない事実なのである。

「私は、あまりに権兵衛を優遇し過ぎた。
里の会議では権兵衛の事を無能者の押し付け合いみたいに扱っていたと言うのに、私は強引に権兵衛を引きとって。
仕事の方も、権兵衛がまだ慣れていないだろうって、簡単な仕事だったり、私が手直しできる範囲の仕事だけ任せて、土仕事なんかに触らせなくって。
結局私は、権兵衛に対し、里人の嫉妬を掻き立ててしまったんだ」

 他にも方法はあっただろう。
例えば権兵衛には霊力があったのだし、それを指導して、里に有益な力を持っているとしてやるのが、一番簡単だっただろうか。
だが慧音は、それを行えなかった。
下手に力を持って権兵衛が怪我をするのが怖かったのだろうか。
それとも、おぞましい事に、権兵衛に自分を頼って欲しくて、権兵衛が自立できる力を持つのを恐れていたのだろうか。
兎も角、慧音は権兵衛をあまりにも優遇し、里人の嫉妬を煽り続けていた。
その結果が、どうなるとも知らずに。

「それじゃあ、権兵衛が慧音の所を出て行ったのって――」
「ああ。里の、総意による物だ」

 今度は、妹紅の歩みが止まった。
釣られて慧音が足を止めると、困惑した表情の妹紅が眼に入る。

「で、でも、それなら慧音が止めようとすれば、止められたんじゃあ――」
「かもしれない、な」
「かもしれないって、お前、権兵衛の事が大切だったんじゃあないのかっ!?」

 そう、妹紅の言う通り、慧音は我侭を通そうと思えば、外来人の一人ぐらい囲う事はできただろう。
だがしかし、それでは意味が無いのだ。
だって。

「でも、私は――里のみんなも、大切だったんだ」

 その言語に、いきり立っていた妹紅の肩が、下がった。
そう、慧音の権兵衛への思いは、中途半端だった。
いっそ権兵衛をだけ見る事ができれば良かったかもしれないのに、里と権兵衛、両方を手の中に置く事を、慧音は捨てられなかったのだ。
権兵衛には、自分しか見えないよう、会話の歴史を食って独占していたと言うのに。
ならばせめて、権兵衛の歴史を喰うのを辞め、徐々に権兵衛から身を引いてゆくのが筋であると言うのに、それすらもできない。
それならせめて、権兵衛に頼み込むなりなんなりして、一緒に居て欲しいと、土下座でもして頼み込み、里に嫌われようとも権兵衛と一緒に居るべきであるのに、それすらもできない。
だからせめて、慧音は権兵衛に裁かれる事をだけ望んでいるのに、それすらもできていなかった。

「それに、権兵衛も、里人に説得されて、慧音さんにこれ以上迷惑はかけられない、って自立したがっていたそうだしな」
「いや、そうだしな――って、慧音はそれでいいのか?」
「仕方ない、さ。だって、私は、権兵衛も里も、どっちも捨てられない、半端者なんだから」
「だからって……慧音は、権兵衛の事が、好きなんだろ!?」

 え、と慧音は呟いた。
面を上げて妹紅の方を見ると、若干を息を荒らげた様子で、荒い息遣いの音が聞こえる。
好き。
好き。
私が、権兵衛の事を――好き。
不思議な言葉の響きだった。
たった二文字の言葉だと言うのに、その言語を思い浮かべると、胸の鼓動が大きくなり、頬は紅潮して止まらない。

「私は――好き」

 口にしてみると、もっと体が熱くなる。
胸が締め付けられるように切なくなり、思わず体を抱きしめたい衝動に駆られ、その通りに慧音は自らを抱きしめる。
すると泣いている権兵衛を抱きしめた、あの日の事が思い起こされる。
自分よりもちょっとだけ小さな背丈。
反して、手を回すと意外に大きく感じる背中。
抱きしめると丁度肩の当たりに権兵衛の顎が乗り、互いの耳に、髪の毛が触れ合う温度。
好き。
好き。

「私は、権兵衛が、好き――なのかな?」
「え、と。私には、そう見えたけど――」

 面を上げて上目遣いに聞いてみると、困惑気味な表情で、妹紅は言った。
その顔に嘘が無さそうなのを見て、初めて慧音は自分の心を自覚していた。
友人だと思っていた。
庇護すべき相手だと、思っていた。
手のかかる子供に思うような思いなのでは、と、思っていた。
だけれども。
それらを上回る感情が、そこにはあって。
かあぁぁぁ、と、慧音の顔に熱が集まってくる。

「私は、権兵衛が好き」

 繰り返し、口にする。
すると胸の中にあたたかい物が生まれてくるのを感じ、ほっ、と、その熱量を吐き出そうと深い溜息をつく。
汗が首筋を伝う。
生唾を飲み込み、乾いた口でもう一度言う。

「私は、権兵衛の事が、好き――」

 権兵衛を抱きしめた時の、腕の感触が蘇る。
肩をつかむ掌の力を強め、ぎう、と更に強く自分を抱きしめた。

「そう、だな。うん、そう……かもしれない」

 口にする言葉も、もっと自信のある言葉だった筈なのが、切なげな調子になってしまう。
それを心配したのか、妹紅は、優しげな表情で慧音に近寄り、その肩に手を置く。

「ああ。だったらさ、諦めちゃ、駄目だろ。里も権兵衛も捨てられなくたって、まだ出来る事は、ある筈じゃないか」
「――ああ」

 頷き、己を抱く手を下ろす。
空に視線をやると、曇り空の合間から、陽光の光が漏れでていた。
今まで、権兵衛の事を思うと、あまりにも申し訳なく、更に自分が惨めで浅ましく思える為、権兵衛に裁いてもらう事しか考えられなかった。
しかし今からだって、やる事はいくらでもある。
里人にも、権兵衛を直接嫌っている人物よりも、里の風潮がそうであるから嫌っている、と言う人間の方が多い。
ならば一人ひとり説得して回れば権兵衛と里との間を仲立ちする事もできるかもしれない。
加えて、先に考えた通り、権兵衛に霊力の扱い方でも教えてやれば、術師としても里に貢献させる事ができるかもしれない。
それにはまず、権兵衛を永遠亭から取り返すことが必要だろう。
妹紅を、慧音は正面から見つめる。

「そうなったら、妹紅、お前にも力を借りるかもしれないが、構わないか?」
「ま、いいさ。お前には借りがたくさんあるしね」

 軽く肩をすくめて答える妹紅に、慧音は破顔する。
今でも、権兵衛を独占したい、と言う思いはある。
今の状況のまま、里に結びつけられるのが自分だけでありたい、と言う思いが何処からか湧いてきて、慧音を支配しようとする。
だが、それもある言葉を思うだけで、吹き飛んでしまい、権兵衛の事をもっと素直に思えるようになるのだ。
好き。
権兵衛が、好き。
まるで、魔法の言葉だな、と、慧音は思った。
心の中で思うだけで勇気が湧いてきて、体が熱くなる。
立ち止まったまま、慧音は晴れ間からのぞく陽光に、視線をやる。
まるでこれからは何もかもが上手くいく、と暗示し祝福するような、暖かな景色であった。



      ***



 そして、暫く歩いて、いつもの通り権兵衛の家の前まで来て。
その光景に、慧音は全身の力が抜けてゆくのを感じた。
思わず膝をつき、ペタンと尻をついてしまう。
口がぽかんと開き、閉める力すら湧いてこない。

「これは……酷いな……」

 妹紅の声が耳に入るが、まるで意味を成さない。
横をすり抜け歩いてゆく妹紅の後ろ姿が目に入り、それを追って、自然、慧音の視線はその光景を目にする。
――権兵衛の家が、壊れていた。
最早住むことなど出来ない、元の形を少しも残さない形で。

「――あ」

 意味を成さない言葉が、慧音の口から漏れ出す。
権兵衛と語らった床が、無くなっていた。
権兵衛と一緒に温まった囲炉裏が、無くなっていた。
毎夜気絶した権兵衛に寄り添って寝た布団が、無くなっていた。
一緒に生活していた頃から使っていた箪笥が、無くなっていた。
全て、壊れていた。
それも。

「慧音。これ……その、人の手によるものだよ。それも、複数の、普通の人間の」
「――ああ」

 言い難そうに言う妹紅の台詞が、慧音の頭の中に入ってくる。
複数の普通の人間。
この周辺に住んでいる複数の人間なんて、限られていて。
それは当然、里の人間たちしか居ない筈で。
先ほど湧いてきた、慧音の根拠のない自信は、粉々に打ち砕かれていた。
何もかもが上手くいくような感覚は既になく、代わりに絶望だけが此処にある。
全身に力がないと言うのに、不思議と声だけは喉の奥から湧いてきて。

「――ああぁああああぁぁあっ!!」

 叫ぶ。
喉が叫んばかりの声量で。
自分を抱きしめ、掻きむしるようにしながら。
喉から声を絞りきった後には、しかし、重く静謐な沈黙だけが残った。
まるで、慧音の行為全てが無意味であると、あざ笑うかのように。
体の熱量が、目に集まってくる。
それはしばらくの間目尻に集まっていたかと思うと、ぽとり、と地面に落ち、円形の染みをそこに作った。
冷静に考えれば。
慧音には、権兵衛の心配だとか、彼が永遠亭から出る時引きとってやる事とか、考える事はいくらでもあったのに。
最早慧音には、何も考える事も出来なかった。
頭が真っ白になって、先ほどまではあれほどまでに確信を持てた色々な事柄が、何一つ浮かんでこなくて。
ただ一つ。
もう此処で権兵衛に裁いてもらえる事が無くなったのだな、と思うと、慧音はそれが悲しかった。
それをしか、思う余裕は慧音には残っていなかった。





あとがき
投稿が何時もより遅れましたが、無事書き終えました。
閑話なので短めでした。
R-15・グロと注意書きを入れてはと言う声が感想板にあったので、まえがきに追加しました。
今回病み成分薄めでしたが、次回も永遠亭に比べると少なめかもです。



[21873] 太陽の畑1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:46


 ――輝夜先生は、言った。
過去も未来もいくらでもある物に過ぎず、一瞬しか無い今とは比べ物にならない、と。
確かに、理屈で言えばそうなるのかもしれない。
流れてゆくその他である過去や未来と、確実に存在している今と言う瞬間、その価値は確かに今の方が高いのが道理である。
例えば過去の安さを証明する安易な論理に、記憶置換の話がある。
脳みそに、記憶を貼り付ける機械があったとしよう。
それによって人間Aの持つ記憶Aを、記憶を一切持たない人間Bに貼り付ける。
すると、記憶Aを一切体験していないにも関わらず、記憶Aを過去と認識した人間Bが生まれる。
その人間Bが、今現在の自分ではないと言う証明は、当然原理的に悪魔の証明に他ならない。
故に、今俺が感じている過去が本物であるのかどうかは証明不可能である。
証明不可能であると言う装飾が本体を安く見せる事は、言うまでもない事実だろう。
対し今と言うこの瞬間があるのは、今について思考する己が存在する時点で原理的に確定している。
なので、過去は相対的に、今より安い、と言えるだろう。
未来に関しては言うまでもなく、確実に来る事こそ分かっているものの、常に確立の上で不確定であり、あらゆる価値が分散しており、安価である。
故に最も価値があり、大切にすべきなのは、今であるのだ。

 であるが。
で、あるのだが。
それでも尚、俺は過去を今と同等以上に見る、愚か者であった。
過去。
絶望の淵から慧音さんに拾いあげてもらった恩。
その慧音さんに恩を返せるようになるため、決別した意思。
されど苦難に侘びていった俺を救ってくれた、白玉楼での出会い。
優しさに満ち溢れた永遠亭の人々。
そしてなにより、霊力と言う価値を俺にくれている、今が大切と言う当の輝夜先生。
俺は、それら全てが愛おしくてたまらない。
そしてそれを生かすために未来に夢見る事を、止められない。
そんな愚かな俺であるから、折角真実をと教授してくれていた輝夜先生に反論してしまい。

 そして、輝夜先生は泣いてしまった。
分からなかった。
いや、状況を見るに明らかに俺の所為であると言うのは分かるのだが、俺が愚かであると言う事が、何故そんなにも輝夜先生を悲しませるのか、俺には分からなかった。
いくら考えても分からなかった。
だから当然、泣き喚く輝夜先生の慟哭に、俺は何をすることも出来ず。
ただ、手慰みに掌をやるも、それすら叩き落され。
それでも何も思い浮かばず、俺は、せめて輝夜先生の側に居てやりたかったが、それすらも拒まれて。
出て行け、と何度も言われて。
輝夜先生が常の状態では無いのにも関わらず、俺は、それを真に受けて、永遠亭を出てきてしまっていた。

 俺は、もしかしたら永遠亭に留まるべきだったのではなかろうか。
何せ輝夜先生は明らかに興奮しており、それが収まるのを待てば、輝夜先生は愚かな俺が輝夜先生に何ができるか教えてくれたかもしれない。
それでなくとも、少し冷静になって考えてみれば、あそこには永琳さんや鈴仙さんにてゐさんと頼れる人が居て、彼女らに相談をすれば良かったのかもしれない。
だが、俺はそれをせず、衝動的に永遠亭を出た。
愚行である。
だが、仕方がなかったのだ、と言えば、仕方がなかったのだ。
輝夜先生の泣き声を聞いて、俺は何もできなくて、それがどうしようもなく悲しくて、そんな己への憤りでいっぱいいっぱいで、俺は他に何も考える余裕が無かったのだ。
何と言うか。
明らかに、不自然に興奮している感じで。
外に飛び出て、夜中を飛行しているうちに、少し頭が冷めてきたのだけれども。

 ――いや、と思考を打ち切る。
一度俺が永遠亭を出る、と選択した事は今更変えようがなく、もう引き返すことの出来ない場所に居るのだ。
今更俺が何を言おうとも、言い訳に過ぎない。
ならばせめて、次に輝夜先生と出会った時、多分慧音さんを伝って里に定期的に来る鈴仙さんの話を聞いた上で会いに行った時だと思うのだが、その時に彼女に対し真摯であろうとだけ考えて。
そしてようやく、俺は約二週間ぶりに家に辿り着く次第となったのであった。

 ふぅ、とため息混じりに、眼下遠くに見える自宅らしき影や、収穫前の畑を見る。
空を飛ぶ、と言うのが輝夜先生に教わって以来であるので、当然、初めて見る光景であった。
何と言うかこう、普段狭いなりに大きさを感じている家があんなに小さく見えると言うのは、不思議な気分であった。
ちなみに今は何時かと言うと、最早昼時である。
輝夜先生が泣き疲れて寝て、その彼女を部屋に寝かしつけてから永遠亭を出たので、殆ど夜明けに出発する事となり、当然日中はまだ上手く月の魔力を扱えないので、速度が全然出ない故の結果であった。
普段なら日中でももう少し速度は出せるのだが、徹夜明けでもあった事だし。
それに、なるべく他の妖怪に見つからないよう、高度を取っていた事も一因か。
まぁ、何が言いたいかと言うと、朝飯抜きだったので、いい加減家に帰って昼飯を食いたい、と言う事なのだが。

 徐々に、高度を落としてゆく。
と言っても、未だに縦に高度を落とすのは慣れない物なので、徐々に高度を落としつつ空を飛んでゆく形になる。
すると当然、徐々に俺の自宅が大きく、はっきりと見えてゆくようになって。
一緒に、何だか肌色の細々と動く物達が見えてきて。
なんだか騒音が聞こえてきて。
ゆっくりと、俺の自宅の全景が見えるようになってきて。

「………………え?」

 がくん、と、そのまま落下して死にそうになるのを、辛うじて止める。
代わりに少し縦成分を多くして、まず地に足をつける事だけを考えるようにする。
そして足が地面について歩き出すのだが、兎に角膝ががくがくと震え、歩くのがやっとのことだった。
まるで、頭が宙に釣られているかのように軽く、フラフラとする。
やっとたどり着いた光景は。

 俺の家が、壊れていた。
壁の一枚も残さず、床も踏みしめる場所も残さず、家具も一つ残らず。
ふらりと視線を倉庫の方にやれば、グシャリと潰れており、中の野菜は一つも残っていなかった。
何が起こっているんだ。
意味がわからなかった。
意味がわからなすぎて、何も考えられない。
ただフラフラと、夢遊病患者の様に体を揺らしながら、俺の家の跡へと近づくと、がしゃん、と音がした。
視線をやると、そこには何処か見覚えのある男がいて、その手には何故だか斧があった。
その斧の刃先を辿ると、何故かただでさえ壊れている俺の家へと向けられており、その先には深い刃傷が刻まれていた。
どうやら、刺さっていた斧を引き抜いた所らしい男が、周囲を見て、それからため息混じりに、呟く。
その声にも、何処か聞き覚えがあって。

「もう全員戻ってしまって、俺が最後か。あんま夢中になるもんでもないな……って、お?」

 ふと、目が合う。
気づいた。
俺を、このほったて小屋に放り込んだ、当人であった。
その瞬間、俺は爆発しそうな感情の奔流に巻き込まれた。
何故か泣き出しそうな、今にも叫びたいような、兎に角何かに急き立てられて。
でも、喉から出る声は、今にも枯れんばかりの小さな声だった。

「なんなん、です、か……?」

 ニヤ、と男は笑った。
その表情の奥にどんな感情があるのかは、いとも簡単に見て取れる。
悪意。
常から俺が里人に向けられている物であった。

「なにを、やっているんですか……?」

 男はニヤニヤと笑ったまま答えず、俺へと近づいてくる。
斧をぽい、と捨て、それが転がる音が静かに響いた。

「なんで、俺の家が壊れて……ぶふぇ!?」

 視界が、回転する。
ぐらりと雲が線を形作ったと思えば、俺は後ろに向かって倒れていた。
頬が熱を持ち、奥にある歯がじくじくと痛む。
あの日と同じく、殴られたのだ。
それが分かると同時、反射的に、また殴られては敵わない、と、小さく悲鳴を漏らし、両腕で顔をかばう。
すると、腹に、重い物が突き刺さった。

「いやー、なんていうか、残り物には福がある、って言ったもんだわな」
「げ、ほ、う、うええっ!」

 思わず、両手で腹を抑え、口元からは涎を零しながら、転げまわる。
胃が飛び出んばかりの、痛みだった。
腹を、蹴られたのだ。
そう理解すると同時、咄嗟に霊力で治癒しようとするが、家までの飛行で霊力は尽きており、何もおきない。
それでも時間が経つに連れて痛みは引いてゆくもので、じっと腹を押さえていれば痛みを堪え切れるようになった頃。
がん、と頭に鈍い音。

「お前は、慧音先生の温情を利用する悪人だが、それでもまだ里には手を出していないから、こうやってほったて小屋とはいえ、里に家を与えてもらえた訳だが、な」
「ぎ、ぐ、うううう」

 頭の芯に響くほどの、痛み。
ぽろぽろと落ちてくる土が口に入って、気持ち悪い。
視線を僅かに上に向けると、男の足裏が見え、俺の頭が踏まれているのが分かった。
ぐりぐりと、体重をかけて俺の頭が踏みしめられる。

「ぐ、がぁ……」
「それで身分相応に、惨めに暮らしていりゃあいいのに。
今度は妖精でも誑かしたのか? 野菜は意味がわからん程出来が良いし。
諦めりゃあいいのに、まだ慧音先生の事を誑かし、家に呼びつけた上、野菜を売る時には脅しにまで使いやがる。
それだけでもう、この寄生虫に温情を与えたのは間違いだったんじゃあないか、って話になっていたんだがな。
その上、だ」

 痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
叫ぼうにも叫べず、ただ呻き声をだけ漏らしていた所、頭にかかる体重がふっと軽くなった。
ほっと安心したのも、つかの間。
ぐわん、と男が足を後ろに振りかぶって。
思わず、目を瞑る。
腕を組もうと思うが、間に合わない。

「米屋だったかな? お前を盗人呼ばわりしたら、半人半霊の嬢ちゃんがいきなりお前を斬りだしたんだってな。
危うく殺人の一端を担がされる所だった上、お前を誤って盗人呼ばわりしたなんて、言い訳しなくちゃならなかったんだとさ。
これで決定、家を取り壊せって話になったんだ。
いやー、人数が多いとは言え、朝から昼までかかっちまったよ。
あ、野菜は全部今までの“家賃”として、貰っていったからな」
「――っ!」

 ずが、と、瞼の裏に火花が散った。
ごろ、勢いでと転がって、一回転した辺りで止まる。
いわゆる、サッカーボールキックだった。
どろりとしたものが鼻から垂れてくる。
地面に倒れたままだと言うのに、まるで地面がぐらぐら揺れているかのように安定感がなく、まるで地平線へ落ちていってしまいそうな感覚があり、地面をぐっと掴んだ。
喉の奥に何か引っかかったような感じがあり、気持ちが悪い。
すると、また、足を振りかぶる気配がする。
今度は、咄嗟に頭を守る。

「ま、そういう訳だから。遠慮無く、妖怪たちの餌になっていってくれよな」
「げぶっ!?」

 軽く、宙に浮くかと思うような感覚。
内蔵が潰されるかと思うような、痛みだった。
俺の腹に、もう一度男の足が突き刺さったのだ。
そう知覚すると同時、喉の奥から登ってくる物がある。
どうにか留めようにも間に合わず、せり上がってくるそれは口元にまで達して。
せめて咄嗟に、下を向いて腰を浮かせて。

「う、うおげぇええええぇえっ!」

 俺は、吐いた。
胃がひっくり返ってついてくるんじゃあないかと言うような感覚。
吐く。
吐く。
吐く。
永遠とも思える時間で吐き出された俺の中身は、残っていた永遠亭での最後の夕食のペーストで。
最後、力尽きて腰が落ちた時、それが俺の頬に、髪に、べしゃりと貼りつく。
それでもそれを拭うどころか、吐瀉物がない方へ体の向きを変える力すら残っておらず、俺はそのまま力尽きて、指一本も動かせないまま、固まっていた。
目の前に移る光景は、吐瀉物と壊れ果てた家だけで、ずっと変わらない。
どうやら男は里へ戻っていったようで、視界には映らないまま。
俺の方はと言うと、痛みや吐瀉物の臭さで意識を失うこともできず。
かと言って動き出すどころか、何か考える事すらもままならず。
ただ、じっとそこに横たわっていた。
何をするでもなく、倒れたままでいた。



   ***



 夜になった。
別に誰が来るでもなく、野生動物すら視界を横切らず、ただ太陽の光だけが視界の中で変化していた。
じっと横になっていて、僅かばかりに活力が回復してきたのか、最初に思った事は、輝夜先生に貰った服が汚れてしまって、申し訳ないと言う事だった。
確かに泥と鼻血と吐瀉物に塗れたそれは汚いが、全く呑気と言うか、現実逃避気味と言うか、そんな感じの思考であった。
それは兎も角として。
矢張り思うのは、自虐の念であった。

 俺は、兎に角永遠亭を出て戻ってから、霊力を用いて里の力になるつもりであった。
何せ輝夜先生も軽い妖怪退治程度であれば今でも何とか行えると言う事であるので、即時に力になれる筈である。
これさえあれば里との関係も改善できて、暴利を貪られる事などなくなり、何時かは得た利益で慧音さんに恩を返したり、幽々子さんや妖夢さんを誘って軽い酒宴を開いたりできて。
輝夜先生とも何時かは仲直りできて、永遠亭には通って霊力の扱いを学ぶ事になって。
俺は、そうやって、これから何もかも上手く行けるのだと、思っていた。
俺は、ついに俺にも価値と言う物ができたのだと、思っていた。

 勘違いだった。
確かに、俺には僅かばかりの霊力があるかもしれない。
しかし現実として、俺の家は壊され、そしてそれに対して俺は何も出来ずにこうやってボコボコにされ、しかも折角輝夜先生から貰った服を汚していた。
俺には、価値など欠片も無いのだ。
そう、認めざるを得なかった。

 そんな風に絶望と共に空虚な思いをしていても、体は外気に晒されている。
秋の夜中にじっくりと落ちてきている体温に、僅かな震えが体を走った。
さて、何は兎も角、夜露を凌ぐ家が壊されてしまった訳だが。
俺に、夜露を凌ぐ場所を与えてくれる人は、果たして居るのだろうか?
慧音さんは、そもそも先の男から話が伝わり、俺を里に入れないようにされているに違いなく、しかもこうなった発端が慧音さんに頼ったからだと言うのだ、何とも頼りづらい相手でもあった。
白玉楼は、そもそも俺は冥界に行ったことが無く、頼りに行く方法と言う物が存在しない。
永遠亭は、出ていった矢先で近づきにくいと言うのもあるが、そも、今の俺は朝昼飯抜きな上に昨晩の夕食を吐かされて、更に霊力は尽きたままである。
当然地上から行くとなると迷いの竹林を突破せねばならず、その前に飢えるか妖怪に襲われるかして死ぬのはまず間違いない。

 そも、俺は生きるべきなのだろうか、と、ふとそんな事さえ思う。
事実、俺は里にとって悪であり、排除すべき物であるのに、それに頼らねば俺は生きて行けず、生きる難易度と言う物が天井知らずに高い。
しかも、俺は輝夜先生に霊力の扱いと言う珠玉の方法を授かってさえ、この有様なのである。
この先受けた恩を返す事ができるどころか、受ける恩が降り積もるばかりで、結局返せないままに死ぬ未来しか思い浮かばない。
つまり、生きれば生きるほど、俺は不義理となり、不幸となるのである。
であらば、今直ぐ死ぬのが、俺とその他あらゆる人の為になるのではないだろうか。
そう思うと、ほんの僅かに湧いてきていた活力が抜けてゆき、倒れたまま動く気力が萎えてゆくのを、俺は感じた。

 俺は、死ぬのか。
そう思っても、不思議と恐怖は無かった。
実感が無かったのかもしれない。
空腹と痛みと頭痛こそはあったものの、それはまるで現実感がなく、何処か遠い所で行われている事のようにしか思えないのだ。
このまま、俺は飢え死ぬか、妖怪に喰われるかして、死ぬのだろう。
多くの外来人が幻想入りしてすぐになるのと同じように。
それだったら、俺は幻想入りしてすぐに、矢張り飢えるか妖怪に喰われるかして、死ぬべきだったのだ。
生きて、人から恩を引きずりだして、迷惑をかけるべきではなかったのだ。

 と、そう思っているうちに、ふと思いつく。
少なくとも、俺の家に満月のたびに来る慧音さんは、何時か此処に様子を見に来るかもしれない。
もしかしたら幽々子さんや妖夢さんがお茶の誘いにやってくるかもしれないし、輝夜先生が仲直りをしたいと言ってくれに来たり、鈴仙さんが心配して見に来たりするかもしれない。
そうなったとき、俺の死体があれば、そして恐らく飢えるにしろ直接喰われるにしろ、妖怪によって酷い状態となっている俺の死体を見たら。
それを思うと、せめて俺は何処とも知れぬ場所で、妖怪に喰われて死ぬべきなのだ。
そう思い、俺は身体中から逃げていった活力を、どうにかしてもう一度集める。

「――っ」

 全力を以てして、まず、やっと手を動かす事に成功した。
固まっていた筋肉を、ふらふらと動かしてほぐし、次に掌を地面に突き立てる。
ぐっと力を入れて上半身を起こし、それから、膝を割り込ませて、腰に力を入れ、座った姿勢となる。
それから片膝を抜き出し、足裏を地面に置き、膝に顎を乗せてから、試しに手を地面から離した。
ぐらり、と一瞬体が揺れるが、どうにか手の抑えなく座る事に成功する。
それから載せていた顎をあげ、両手を膝に乗せ、全身の力を込めて上半身を上に上げる。
それにつれてもう片足も上げ、足裏をきちんと地面に載せ、きちんと膝に力を入れ、バランスを取る。
ようやくのこと、立ち上がることができた。
と言うか、立ち上がるだけで、この次第である。

 頬と髪に張り付いた、固まった吐瀉物が気持ち悪いし、喉も乾いた。
とりあえず近くの小川へと歩いてゆき、かがんで顔を洗う。
ひどい顔になっているのだろうと思うが、月明かりがあっても暗くてよく見えない。
とりあえず水をかぶり、それに染みる痛みを感じつつ、鼻血やら吐瀉物やらを剥ぎ落とす。
それから水を乾いた口内に、とりあえず空腹が紛れるまで飲み込んだ。

「野菜は――、持っていったんだって、言ってたっけな」

 それでもとりあえず覗いてみるが、倉庫の方には何も残っていない。
畑の方を見れば何か残っているかと思うが、育ちきっていない野菜すらも抜かれ、持って行かれてしまっていた。
わざわざ石を混ぜたり塩を撒いたりまではしなかったようだが、今腹の減っている俺には、何の慰めにもならなかった。
食べられる野草は、慧音さんに教わっていくつか知っているのだが、霊力で明かりをつけてみるものの、どうやら家の近くの物はごっそり持って行かれたらしく、近くには見つからない。
なら、このまま適当に、歩けるだけ歩くか。
そう思い、俺は妖怪に喰われるためという、無気力な旅路に出るのであった。



   ***



 風見幽香は、普段は強大な力を持った妖怪や、特殊な人間しか相手にしない。
が、一日に少なくとも一度、時たま相手が何であろうがいじめたくなる衝動に襲われる事がある。
相手が人間であろうと妖怪であろうと幽霊であろうと妖精であろうと、何となく攻撃したくなるのだ。
しかも、それがとてつもなく楽しいのである。
弾幕を打ってそれが相手に当たる感触には、頬を歪めざるを得ない。
相手が痛みに呻く声は、天上の音楽のようにさえ聞こえる。
血と脂の匂いには思わず舌なめずりしてしまうし、糞尿を漏らす匂いにはついつい頬が裂けんばかりに笑ってしまう。
以前それを一日に何度も解放した、異様に花の咲いた、六十年周期の大結界異変の時の時は、最高だった。

 そんなだから、幽香は暴力的な衝動を感じた時、満面の笑みで散歩に繰り出す事になる。
今回は、夜の散歩と相成ったので、太陽の畑を離れた辺りで着地し、歩いて獲物を品定めする次第とした。
平坦な地面の森へと入ると、幽香の大好物たる血の匂いが、僅かに香ってくる。
うん、今日も良い散歩になりそう。
そう頷き、幽香は匂いの方へと歩み始める。
満月を少し過ぎたばかりの月は、良い感じの狂気度を以てして降り、森の木々の葉っぱがそれを乱反射して、ちょうどいい塩梅に辺りに降り注ぐ。
足元の土は少し湿り気があり、辺りの木々は怪しげに育っている。
正に散歩日和、というか、散歩月和の様相であった。

 暫く、辺りの景色を愉しみながら歩いた所で、幽香は目的の物を見つけた。
霊力を用いた明かりに照らされ、木にもたれかかって居る人間が一人、それを襲おうとじりじり間合いを詰めている下級な妖怪が二人。
人間は黒髪で、妖怪は金髪と銀髪の二匹か。
何とも都合の良いことに、妖怪二匹は人間を一方的に攻撃しており、弱った人間はそれに抗う事もできず、攻撃を受けている。
その攻撃弾幕は遠目に見て分かるほどに殺傷性を持っており、つまりは、スペルカードルール違反の存在である。
予想外に上等な獲物に、幽香は舌なめずりした。
一応幻想郷には妖怪間の争いには基本的にスペルカードルールを用いた弾幕ごっこを用いる事になっているし、日頃の幽香もそれでストレスを発散しているが、こうやってそれを無視している存在が居る時は別である。
妖怪は、基本的に人里から離れた人間は襲ってもいい事になっているが、この時の妖怪はスペルカードルールに違反している、と言う状態にある。
当然、その妖怪を襲う時は、スペルカードルール無しで殺し合っても良いと言う事になる。
だからといって妖怪を殺したい程いじめたい存在など、幻想郷にも一握り程しか居ないのであまり警戒はされないのだが、その一握りが幽香と言う存在であった。
さて、と言う事で、人里離れた人間も、妖怪二人も、どちらも今日の幽香の獲物であるのだった。
まず幽香は、妖怪の方を仕留める事にした。
自分が強者であると言う確信を持っている妖怪の、その確信を打ち砕いてやるのは、幽香の日常的ないじめ方の一つである。
精神的な物による主柱の大きい妖怪が心を折られて漏らす悲鳴は何時も耳に心地良いが、今回は弾幕決闘以上に何でもして良いと言うお膳立て付きである、肉体的な攻撃を主をしよう。
さて、今回はどんな悲鳴が聞けるだろう、と思いながら、幽香は歩みを僅かに早めた。
ふと、妖怪二人が幽香に気づく。

「あら、こんばんわ」
「「――っ!?」」

 声の無い悲鳴が二つ。
後ろからの挨拶に同時に振り返る妖怪二人であったが、振り返ったその先には、腕を組んだ幽香が既に立っていたのだ。
遅れて幽香が圧倒的速度で移動した余波による防風が、巻き起こる。
地面に落ちた枯葉がぶわ、と巻き上がるのを尻目に、思わず目をふさぎ、両腕で顔を防御する二人。
そんな無謀で卑小な、何の意味もない行為をしてみせる二人に、幽香は思わず頬を釣り上げる。

「そして、少しいじめられていってくれないかしら」

 言って、幽香はちょっと素早い程度の動きで金髪の方の妖怪の腕を掴み、もぎ取った。

「ああぁあああぁあぁあっ!?」

 絶叫。
そんな事している暇があれば逃げればいいのに、金髪の妖怪は蹲って無くなった腕の根本を抑える。
それに一瞬驚いた様子であった銀髪の方は、すぐにキッと鋭い視線で幽香を睨みつけ、叫ぼうとした。

「よくも、やってくれ……」
「はい、プレゼントっ」

 弾んだ声と共に、幽香は握った金髪の妖怪の腕で、銀髪の妖怪の顔を殴りつけた。
あまりの威力に銀髪の妖怪の顔がひしゃげ、ぐちゅりと音を立てて脳みそごとシェイクされ、金髪の妖怪の腕が突き刺さる。
顔から腕が生えた妖怪の、出来上がりである。
ぐちゃぐちゃに生えた歯の白さが月明かりを反射するのも、弾けて飛んでいってしまった為に虚ろとなった眼窩も、中々刺激的で良い光景だ。

「コヒュー、コヒュー……」

 僅かに残った口の残滓のような物から、呼吸音が漏れる。
平衡感覚を失ったようで、そのまま銀髪の妖怪は倒れてしまった。
何を探しているのか、両手はふらふらとさまよい、顎で地面を這いずり回っている。

「アハハッ、最高ッ! いいオブジェね、そう思わない?」

 高笑いをあげながら、幽香はそろそろと逃げようとしていた金髪の妖怪に向けて言った。
びくん、と肩を跳ね上げ、悲鳴と共に飛び立とうとする金髪の妖怪だが、それよりも一瞬早く、ずぷり、と異音。
何が起こったのか分からない、と言う表情で金髪の妖怪が見ると、腹から日傘が突き出していた。

「くす。ねぇ、前から一度やってみたかったのよねぇ、このまま日傘を開いたらどうなるのかなぁ、って」

 言いつつ、幽香は日傘を金髪の妖怪ごと地面に突き立てた。
ぞぶぷ、と肉を裂く快感に満ちた音に、幽香は笑みを深くしながら日傘の機構に手を添える。
そして万力を以てして、受け骨と中軸との接合部を、下ろした。

「ぎゃあああぁあああぁっ!?」
「ウフフっ! もっと、いい声で、鳴きなさいッ!」

 丁度、傘が開くにつれて金髪の妖怪の腹に空いた穴が大きくなり、最後には上半身と下半身が別れるであろう行為であった。
金髪の妖怪は残る片手でどうにか自身が開かないよう抑えるが、幽香はそれより僅かにだけ力を強くして、少しづつ金髪の妖怪の腹を押し広げてゆく。

「い、嫌だ、許してください、が、がああああぁああっ!!」
「ほらほら、このままだと貴方、千切れちゃうわよぅ?」

 満面の笑みで日傘を開いてゆく幽香であったが、金髪の妖怪の必死さが功を奏したのか、次第に金髪の妖怪の腹の穴が広がる速度が落ちてゆく。
そしてついに、日傘の開く速度が停止した。

「や、やった……」
「なーんちゃって、ねっ!」

 バサッ!
一気に開かれた日傘によって、金髪の妖怪は凄まじい勢いで上半身と下半身に弾け飛んだ。
上半身はそのままの勢いで目の前の木に突っ込んでゆき、木とぐちゃぐちゃに混ざった物体となる。
次いで下半身はと言うと、丁度蠢いていた銀髪の妖怪の腹の辺りにぶつかり、そのまま銀髪の妖怪とミンチを作りながら吹っ飛んでいった。

「アハハッ! 我ながら、今日も傑作だったわ!」

 何度か傘を開いたり閉じたりと、付いた肉片を飛ばしながら、幽香は残る人間の方へと歩いて行った。
妖怪どもは肉体的に死んでいるように見えても、彼らは精神の生き物である、未だ死んではいないのだが、十分にいじめられたので満足である。
一方、木にもたれかかったままの黒髪黒目の人間は、死んだ目をして虚ろに口を空け、死人のような顔をしている。
妖怪二人はまだ人間を殺していなかったように思ったのだが、一瞬既に死んでいるのではと思ってしまう程の、陰鬱な表情だった。
しかしまぁ、生きているモノは須らく幽香にいじめられる対象であるので、どんな暗い顔をしていようと、ノってしまった幽香はこの人間をいじめるつもりだった。
顎を掴み、上を向かせ、肉食獣の笑みで顔を近づける幽香。
虚ろな瞳と、目が合う。

「ねぇ、貴方はどんな風にいじめられたい? 四肢を少しづつ削られながら絶叫したい? それとも自分の挽肉で作ったハンバーグ、食べてみたいかしら? 私を満足させてみたら、生きて帰れるかもねぇ」
「……ろしてください」
「……え?」
「ころして、ください」

 思わず、瞬く。
この広い幻想郷でも、自殺志願者と言うのには中々出会えない。
物珍しさにへぇ、と関心しはするものの、まぁ妖怪に殺されそうになって、助かったと思えばもっと凄い妖怪に絡まれれば、死にたくなる気持ちも分からないでもない。
と言っても、このままでは正直、何だかいじめようが無い。
とりあえず、と口を開く幽香。

「えーと、こんな夜中に出てきたんだから、用事ぐらいあったんでしょう?」
「……はい」
「どんな用事だったのかしら?」

 と言って、すぐに答えるかは分からないが、それが分かれば少しはこの男に希望を持たせる事が出来、つまりは美麗な絶叫を聞けると言う事である。
まぁ答えないならば答えないで肉体的な暴力に訴える用意は内心でしてあり、さて、どこから潰してやろうか、どの部分なら後で悲鳴を聞くとき、既に潰れていても影響がないか、と考えている所であった。
意外にも、即答であった。

「妖怪に、喰われに来ました」
「………………」
「………………」

 えーと。
これはどういう事なのだろうか。
思わず停止してしまう幽香であった。

「えっと、聞き間違いかもしれないから、もう一回聞きたいんだけど。こんな夜中に、どんな用事があったのかしら」
「妖怪に、喰われに来ました」
「………………」
「………………」

 再び沈黙。
停止した思考を一生懸命に動かそうとする幽香であったが、意味不明の事態に、考えが一向に働こうとしない。
妖怪に、喰われに来た。
と言うその動機も意味が分からないし、そんな男にどうやって絶望の絶叫をあげさせられるのか、と言うのも分からない。
と言うか。

「――何か、冷めちゃったわ」

 す、と幽香は男の顎から手を離すと、がくんと男の首が下がり、丁度視線が足元へ向く次第となる。
実際、幽香の中にある暴力的な衝動は、何時の間にやら冷めてしまっていた。
と言っても、この男はいじめると決めたのに、このままいじめないで放っておいて、他の妖怪の餌としてしまうのも、何だか自分の物を取られたようで、気分が悪い。
と、少し考え込んでいた幽香であるが、ふと思いつく。
とすれば、家にこの男を持ち帰ってみる事にすべきではなかろうか。
そうすれば、何時か男をいじめる手段が思いついた時、いじめる事ができるのだろうし。
そう考えてみると、この考えが良い考えであるように思え、うん、と一人頷き、幽香は男を殴った。
小さい悲鳴と共に意識を失った男を、脇に抱え込むようにして持ち上げ、空へと飛び立つ。
空は未だ暗く、僅かに欠けた満月の光だけに覆われていた。



   ***



 翌日。
男を寝かせておいたリビングに行ってみると、余程規則正しい生活をしていたのか、朝日が昇ると共に男は起きていた。
部屋の戸を開けると、ぱちりと目が合い、そのままソファの上で男は頭をさげる。

「あ、おはようございます」
「え、うん、おはよう」

 寝ていたら殴って起こしてやろう、どんな殴り方が一番良い悲鳴を上げるだろうか、などと思いながら男を起こしに来た幽香であったが、普通に頭を下げられ、思わずこちらも普通に挨拶を返してしまう。
それからはた、と自分が男を殴り忘れた事を思い出すが、かと言ってこうやって挨拶を返し返されてから殴りだすのも何だか間抜けな絵面で、やる気がおきない。
何だか不完全燃焼な気分だが、とりあえず、と自己紹介の為に口を開く。

「えーと、私は風見幽香。この家に住む妖怪だわ。昨日のことは、覚えているかしら?」
「あ、はい。俺は七篠権兵衛と言う、外来人です。昨日は、えーと、確か、妖怪に襲われていた所を、風見さんに助けて頂いて」
「そうよ」

 言ってから、幽香は肉食獣の笑みを作った。
空気が濃縮し、内側に凄まじい威圧感が圧縮される。
嘘を言えばこのまま引き裂いて喰ってやるつもりで、幽香は問うた。

「それで、聞きたいんだけど。昨日、貴方は何をしに、夜中にあんな所まで来ていたのかしら」

 これで、昨日の言は間違いであり、永遠亭に薬を取りに行ったとか、借金取りから逃げ出してきたとか、そんな理由であれば、楽しい悲鳴を聞ける素晴らしい時間の始まりであろう。
そう思っての質問だったのだが、権兵衛はと言うと、急に瞳から光を無くし、視線を足元にやり、活力が抜けたかのように真っ直ぐだった背筋を曲げると、暗い声で呟くように言った。

「……妖怪に、喰われる為です」
「――そう」

 残念ながら、矢張りと言うべきか、幽香の中でむくむくとせり上がってきていた暴力性は、今の権兵衛の言で萎えてしまった。
まぁ、確認のための質問である、こうであっても予想の範疇だ。
と言いつつ、内心で残念さを隠しきれないまま、幽香は続ける。

「でもね、私はそれを許さないわ。ちょっとの間、ここで暮らしてもらう。そうね、ここに居る間は……花の世話でも、してもらおうかしら」
「……へ?」

 予想外の台詞だったのだろう、目を丸くする権兵衛。
自殺志願者に対する対応としては可笑しい為だろう、と少しだけ思うが、幽香はそんな事は気にしない。
代わりに、次の言葉で恐怖するであろう権兵衛をどういじめてやろうか、とだけ思い、歪な笑みを浮かべる。

「ただし、ここから逃げ出そうなんて思ったのなら……。その時は」

 言って、幽香は掌を差し出し、一気に握る。
すぱぁんっ! と。
その余りの速度に、掌から一気に漏れでた空気が、異音を響かせた。
それから想像できる、血肉や脂の飛び散る光景に、思わず舌なめずりをする幽香。
そんな幽香に、権兵衛はと言うと。

「………………」

 何だか、目を輝かせていた。
僅かに身を乗り出し、口を窄めながら幽香の握りこぶしを見つめるその様は、幼い子どもの憧れの視線に似て、純粋さを思わせる。
てっきり怯えるモノだと思っていた幽香が、肩透かしを食わされた気分で、思わず目を見開いていると。

「……あ、はい、分かりました」

 と、ようやくのこと返事が返ってきて、しかもその中に怯えは一つも含まれていない。
何とも言えない気分に、どう反応すればいいのかも分からず、困ってしまい、所在なさ気にする幽香。
いや、自殺志願者であったのだ、殺されるのが怖くないのは分かるが、だからと言って痛めつけられるのも怖くなくなるのだろうか?
それに単なる自殺志願者であったとしても、それを妨害され、無理矢理に家に拘束されると言うのに、不満の一つも挙げないのは如何なものか。
勿論不満を挙げたならば、それに暴力で答えるつもりであった幽香だが……。
しかし権兵衛が不満な気配をすら漏らさなかったので、振るおうとした暴力の矛先が無くなり、形容しがたい気分であった。
単に不満が高まるのとも違っていて、宙に浮いた暴力を振るえば解消される感覚なのかと言うと、それも違うような気がする。
そんな不思議な気分に包まれ、何とも気味が悪いような感じな中、とりあえず幽香は、権兵衛を朝食の席へと招待する事にした。

 少し時間を経て。
朝食の用意は下手な物を食べさせられたくないので手伝わせなかったが、片付けは当然させるつもりであり、もししないようであったら暴力を持って行動させようとしていた。
が、権兵衛はと言うと、幽香の食べる速度を見て先に食べ終わらないよう配慮するばかりか、互いに食べ終わって割りとすぐに、権兵衛の方から片付けを手伝わせてくれないか、と打診してきたのだ。
これが危うい所を助けられた恩人に対する行動なら理解できるが、権兵衛に対する幽香は、自殺を邪魔しようとする邪魔者である筈である。
一体どうしたものか、と首を傾げつつ了承の意を伝え、権兵衛に朝食を片付けさせ。
お茶が欲しいな、と思った辺りで、権兵衛から声がかかる。

「あぁ、そうだ、お茶を入れさせて欲しいのですが、茶器は何処にあるのでしょうか?」
「……あぁ、うん。下の、左から三つ目の棚に入っているわ」

 ここは一度、殴ってみてから茶を入れろと要求するのもいいかもしれない、と思った矢先の出来事である。
いきなりの暴力に泣き出すだろう権兵衛の想像が崩れてゆき、ため息をつく幽香。
そんな幽香に、不思議そうな顔をしながら、権兵衛が入れた茶を持ってくる。
ちょっと不機嫌気味にぱっと権兵衛のお茶を取り上げ、一口。
不味ければ、熱い茶を権兵衛の顔にでもかけてやろうと思った物なのだが。

「………………まぁ、美味しいわね」
「あ、そうですか? ありがとうございます」

 何とも、権兵衛の入れた茶は熱さも味も幽香の好みに近く、中々美味しかった。
幽香の入れる茶と違い、僅かに濁りがなく透明な感じのする所が、風流である。
が、何だか悔しさが湧いてきて、何と言うか、別に腹ただしい訳でも無いのだが、何とも形容しがたい気分であった。
腹いせにごっごっとお茶を飲み干し、がんっ、と湯のみを机に置き、立ち上がる。

「ついてきなさい。貴方の世話する花壇を教えるわ」

 慌ててついてくる権兵衛に溜飲を下げながら、扉を開け、家を出る。
家を出ると、すぐ近くに広大な向日葵の畑があるが、今は時期柄向日葵は花を落としている。
代わりに、家の周りにある花壇が、色とりどりの花を咲かせていた。
金木犀に秋桜、薔薇に藤袴。
今回、権兵衛に世話させるのは、その中の一つである。
名前も知らない小さな白い花が咲いているそこへと、くるりと家を四分の一周ほどし、足をとめる。

「ここよ。この、小さい白い花が咲いている辺りが、貴方の世話する所」
「小さい、白い花、ですか……」

 言外に名前を問う権兵衛の台詞に、しかし幽香は声を返さない。
幽香は、花を操る程度の能力を持つ。
それを用いれば当然花の言葉を聞く事もできるし、花が人間になんと呼ばれているのかも分かるが、こちらが既に知っているなら兎も角、わざわざ名前を教えてもらおうとは思わない。
と言うのも、花の名前とは人間がつけたものであって、花自身が付けた物では無いので、知らないならわざわざその名で花を呼ぶ事はなかろう、との思いからであった。

「如雨露はそこにあるでしょう? これを使って水やりと、あと、虫がついていたらとってやる事。それと、雑草が生えてたらちゃんと抜いてね」
「はい、分かりました。その、水はどれくらいやればいいんでしょうか」

 反抗したら殴ってやろうかと思っていたので、一瞬手が出てしまいそうになったが、よく考えればただの質問である、花を大事にしようと言う気持ちの現れである。
とすれば、これに暴力を振るう訳にもゆくまい。
何とも言いがたい感情を抱えながら、幽香はため息混じりに告げる。

「……後で教えてあげるわ。他に質問はあるかしら」
「あ、はい。えっと、雑草と言いますけれど、新しく生えてくる花との見分け方は……」

 この後反抗的な質問が出れば即座に暴力を振るうつもりで居た幽香であったが、ずっと花の世話についてや、家事をどこまで手伝って良いかなどの質問ばかりであったため、矢張り権兵衛に対し何も出来ないままに過ごす事となるのであった。




あとがき
大分区切りが悪いですが、なんか予定していた話が60kb超えても終わりそうになかったので、二分割にしました。
一応普段は何時も区切りを意識して書いているのですが、今回はそうではないので、少し見苦しい出来かもしれません。
なるべく早めに2を上げれるよう努力します。
あと表題にR-15を追加しました。



[21873] 太陽の畑2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:45


 風見さんの家にお世話になるようになって、数日が経過した。
朝も最近徐々に寒くなってきており、既に日は登っていると言うのに、着物一枚ではやや肌寒いと感じる事もある季節となっていた。
けれど、先日は一日雨が降っていた為だろうか、空気は少しじめっとしていて、刺すような、と言う形容は似合わない。
割合過ごしやすい、春に近い季節である。
と言うのも、俺は幻想入りして記憶を新生して以来、秋と言うのも初体験なのだ。
残った記憶――所謂、エピソード記憶では無い意味記憶の方、と言う奴だろうか、それはあるので秋はこんな季節だと言う知識はあるのだが、それが実際に体感するとなると、矢張り感じ入る物はある。

 さて、と言っても何時までも秋の空気に感じ入っていてもしょうがないので、外履きをつっかけ、風見さんの玄関から歩み出す事にする。
風見さんの家を出てすぐに眼に入るのは、広大な向日葵畑である。
と言っても、今は既に枯れて何も無い、ただ土の柔らかそうで広大な背の低い草原にしか見えないが、風見さんの言によると、夏は太陽の畑と称される程に向日葵で一杯になり、目を豊かにしてくれるのだとか。
少しだけそれが見れなくて残念だな、と思いつつ、歩みをすすめる。
風見さんの家は西洋風の作りであり、明るめの板張りの壁に赤い屋根と、スタンダードな家である。
玄関口の方には太陽の畑が広がっているが、逆側に少し行った辺りには川が流れており、用水の平易な作りになっている。
さて、まず俺は家の壁に立てかけてある如雨露を手に取り、それから俺が任された花壇の一角へと歩みを進める。

 俺の担当する花壇は、小さい白い花の咲く場所である。
背丈は低く俺の膝下程度の丈しか無く、半分ほどつぼみで、ぽつぽつと咲き始めたばかりの花も、小さくて控えめ。
派手さや艶やかさは無いが、何処か心をほっとさせるような、穏やかな気分にさせてくれる花であった。
とりあえず、と、俺はその一角の土へと手をやり、その土が乾いている事を確認する。
割りと水はけが良いのか、それともこの花が水を良く吸うからなのか、この花壇は割りと頻繁に水やりが必要になる。
その合図が、大体この土が乾いている事なのだそうで。
先日雨が降ったばかりだと言うのに、早い物だな、と思いつつ、俺はぶらぶらと如雨露を揺らしながら、川まで歩いてゆく。

 合間に風見さんが手を加えた、艶やかだったり、儚げだったりする花をふらふらと見て歩きながら、花を踏まないよう気を配って、土の露出した場所を歩いて川まで辿り着く。
如雨露を川に沈めてやると、ぼこぼこ、と音を立てて空気の泡が立ち上り、そしてその音に驚いたのか、近くの魚が岩陰から飛び出て、何が起こったのか、と言わんばかりにキョロキョロとする。
その姿が少しだけ可笑しくて、くすりと笑いながら、俺は如雨露の中身を零さない程度に少し目減らし、立ち上がると、再び小さい白い花の花壇まで戻る次第となる。
行きと少し違うのは、あまりぶらぶらと如雨露を揺らすと、中身がこぼれてかかってしまう事である。
一度それをやって、まるで寝小便をしてしまったかのようになってしまい、風見さんに大笑いされた事があったり。
なので、二度とその失敗は繰り返すまい、と、毎回の通り注意して如雨露を運ぶ。

 暫くして、再び担当する花壇の辺りまで戻ってきてから、俺は如雨露の中の水を、花にやる。
と言っても、感覚的には、花に向けて与えると言うよりも、土に与えるので無いと、花がきちんと吸収できないそうだ。
なので如雨露の口を花の背丈より低い辺りにやり、辺りにたっぷりと水やりをする。
風見さんによると丁度一回につき如雨露一杯分程で良いそうなので、水やりを終えると、俺は一度如雨露を元の場所に戻し、それからすぐに花壇へと戻ってくる。
ここからは根気のいる作業で、近くにある雑草を探して抜く作業となる。
膝を曲げ、腰を下ろし、風見さんに教わった通りに雑草を抜く作業に入る。

 と言っても、基本的に毎日やっている事で、しかも場所も然程広く無いので、雑草も簡単には見つからない。
こんな時、俺は無心になって作業するよう心がけているのだが、こうも見つからないと、何だかふつふつと自分の中から浮かび上がってくる物がある。
こんな所で、俺は、一体何をやっているのだろうか、と。
さて、俺のひとまずの人生の目標を考えてみよう。
それは、今まで俺に素晴らしい物を与えてくれた人たちに恩返しをする事である。
これは今まで接してきた人たちの誰を思っても妥当な目標であり、道理の通った目標である。
では続いて、俺の目標達成の為の手段を考えてみよう。
手段。
手段。
手段――。
思いつかない。
何も思いつかないので、とりあえず今までの事例を絡めて考えてみようとする。
慧音さんには寺子屋の手伝いをしたが、それは手直しを要する程酷い出来であった。
妖夢さんには助言をしたが、それは半分ほどしか事態を解決できず、しかもそれによって悪化してしまった気配すらする。
てゐさんには人を幸せにする指導をしていただき、それを実践しようとしたが、てゐさんの助言無しに上手く行った事は無く。
輝夜先生には俺の真に思う所を伝えようとして、泣かれ、決別の言葉まで吐かせてしまった。
そして里人を霊力で守ろうとするも、それ以前にこちらが排除されて。

「俺は……」

 思わず、呟く。
視界が虚ろになり、今にも倒れこんでしまいそうな気分になりつつ、呟く。

「俺は、今まで、何もできていないじゃあないか」

 そう、その通り。
俺は俺なりに恩を返す為に力を尽くしてきたつもりだったが、何一つ実を結んではいなかった。
そればかりか、恩人達にもらう恩は積もるばかりで、一向に減る様子は見せない。
あの、俺を殴る蹴るした里人の言葉が、思い出される。
彼は、俺をこう言った。
寄生虫。
人に寄生しなければ、生きてゆく事すらままならない、惨めな男。
なんと俺にぴったりな言葉だろうか。
ピッタリ過ぎて、笑いすら漏れでてしまう。

「はっ、はは……」
「あら、どうしたのかしら?」
「――っ!?」

 と。
急にかかった声に、思わず俺は飛び退いてしまう。
やってしまってから、慌てて足元を見るが、どうやら咄嗟に花を踏まないように飛び退けたようで、裸の土しか無い。
思わず、はぁ、と安堵のため息をつく。

「びっくりしたぁ。あんまり驚かせないでくださいよ、風見さん」
「あー。だって何だかぼうっとしてるから、思わず、ね」

 と言う風見さんは、何故か片手を振りかぶった形のまま停止しており、奇妙な姿勢である。
握りこぶしを作っているようにも見えなくもないが、まさか風見さんのような優しい女性が俺を殴る筈など無いので、多分この後手が開いて俺の肩でも叩く予定だったのだろう。
まぁ、何にせよ、それはいいとして。
問題は、バクバクと五月蝿い俺の心臓の方である。
驚いたのは勿論だが、恥ずかしい余りにも心臓の鼓動が止まらない。
何せ俺、自嘲の笑みを聞かれてしまったのである。
俺にも一丁前に恥らいと言う物があり、そんなモノを聞かれてしまっては、赤面を免れない。
とすると、この人はそんな俺の顔を目ざとく見つけ、にやりと笑うのだ。

「あら、貴方、顔が赤いんじゃないのかしら? どうしたのかしらねぇ?」
「い、いや、何でもないですよ。本当、何でもないですって」
「そう? でも、何もないのに顔を赤くするなんて、可笑しな子ねぇ」

 くすくすと口元に手を当て、上品に笑う風見さん。
それはそれで可愛らしい様子なので目の潤いとなるのだが、時が時である。
俺は可能な限り風見さんを視界に入れないよう、真っ赤になりつつ足元に視線を会わせる。
すると、なんだか、にやっと笑ったような気配。

「そ・う・い・え・ば。何だか此処に近づいてくる時、笑い声が聞こえたような気がするわ」
「えーと、それは、あれですよ、妖精か何かの声じゃないでしょうか」
「でも男の声だったような気がするわ。どうしてかしらねぇ」
「えーと、えーと……」
「しかも最近聞いたことがあるような声だったわ。それで、何か斜めに構えちゃって、こう――」

 と、風見さんが目を鋭くして空にやり、やや姿勢を左右非対称にし、口元を薄く開けた辺りで、俺は割り込んだ。

「いやっ! そういえば、そろそろお昼の準備をしなくちゃいけないですよねっ! 俺、次の当番でしたよねっ! と言う事で、行ってきますっ!」

 と叫び、失礼しますっ! と頭を下げ、急ぎ足で兎に角風見さんの前から姿を消そうとする。
すると、クスクスと笑い声が追ってくるのだが、それを聞かないよう、俺は両手で耳に栓をしながら走る事に集中する次第なのであった。



   ***



 初日の昼食からだったか。
一度、とりあえず食事を作ってみなさい、と言う風見さんの言に従って以来、それが彼女の口に合ったようで、食事を作るのは当番制となった。
それもこれも、永遠亭に滞在する間、空き時間にこっそりと兎さん達に料理を教わったからだろう。
あれは輝夜先生に好物を食べてもらって、日頃の感謝を表そうとした物である。
結局輝夜先生には作れなかったのだが、霊力が未だに殆ど役立っていないのに対し、これがこんな所で役に立つとは。
人生、本当に何が役に立つのか分からない物である。

 さて、今日のお昼はフレンチトーストにサラダである。
どうやら風見さんはどちらかと言うと洋食派であるらしく、和食派の俺としてはレパートリーの不足に悩む所であり、また、と枕詞に付くが。
牛乳に卵を割り入れて混ぜ、砂糖・塩・胡椒を適当に入れ、パンを浸す。
で、フライパンで焼く。
片面が焼けたらひっくり返し、チーズを載せて焼く。
それだけ。
この手軽さが、別に手を抜いている訳でも無いのに手を抜いている気分になって、何と言うか落ち着かない気分になるのだが、並行してサラダでも作っていると、調度良い感じに手がかかっていい感じである。
と言っても、お手軽料理であるのに変わりは無いのだが。

「って言っても、いいじゃない、美味しいんだから」
「褒めてくれるのは恐縮ですけど……」

 と、上品にナイフとフォークで切り分けて食べる風見さん。
まぁ、その小さな口にトーストを頬張る度に目を細め、美味しそうに食べてくれるのは、大変嬉しい事である。
なのでこっちも、自然とそんな小さな事を気にする事無く、切り分けたトーストをフォークで取り、ぱくりと一口。
うん、美味しい。
こちらも思わず目を細め、口元を緩めて小さく笑窪を作ってしまう。
と、視界の端で、何故か風見さんがフォークを握り締めているのが見えた。
まるでフォークを飛ばして俺の頬に刺そうとしているような角度と手の形だったが、当然優しさ溢れる風見さんがそんな事をする筈も無く、事実それも少しの間で、すぐに皿の上へとフォークは置かれる事となる。
何故かちょびっと、残念そうな顔の風見さん。
はて、もう食べ終わってしまったサラダでももっと食べたかったのだろうか?
それなら言ってくれれば分けたのだが、何せ男の口にした物である、女性と言う物は俺の想像以上にデリケートなのかもしれない。
なのでそれに触れる事はせず、食事の肴として、俺は口を開く事にする。

「そういえば、俺の世話している花壇も、そろそろ半分近くが開き始めました」
「そう。まぁまぁ丁寧に世話をしているみたいだしね、例年より少し早いぐらいかしら」
「あまり早咲きして、花に影響が無ければいいんですが……」

 と言いつつ、風見さんの手元の水が空になったのに気づき、水差しを傾け水を注ぐ。
コップを返して風見さんの顔を見ると、中途半端に開いた口が目に映った。
まるで水が切れたから入れろと命令しようとしていたかのようなタイミングだが、あの優しい風見さんがそんな事する筈も無く、その口ももにゅもにゅと声にならない声を漏らしながら閉じる事となる。
ちょっとふれくされたような顔の風見さん。
とすると、花についての話の続きをしようと思ったが、俺が文字通り水をさす具合になった為、不完全燃焼に終わってしまったのだろうか。
だとしたら失礼な事をしてしまったな、と、思いつつ、かと言って挽回の方法も思い浮かばないので、とりあえずトーストを頬張るのに努める事にする。

「……今日の午後は、ちょっと近くに出かける事にするわ」

 暫く沈黙が続いた後、ふと風見さんがそう口にする。
それから何やら期待の色の篭った瞳で、俺の方へ視線をやる。

「そうですか。では、俺は花壇の世話は後に回して、留守を預かる事にします」
「くす、勿論よ。ここから出ようなんて考えたら……」
「あ、留守のあいだは掃除でもしていようと思いますが、風見さんの私室は勿論手を入れない方がいいですよね」

 と聞くと、何故か肩透かしを食らったかのような表情の、風見さん。
思わず風見さんの口を遮ってしまったのだが、まるで俺をここから出るなと脅そうとしているかのようだったが、温和な風見さんがそんな事する筈もなく、事実ちょびっと何だか遠い目をするだけで、特に何を言うでもない。
多分、俺が聞き違ってしまっただけなのだろう。
とすると、矢張り失礼な事を考えてしまったと思い、夕食は凝った物を作ろうと、罪滅ぼしを考える俺。

「まぁ、それでいいわ。じゃ、ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」

 言って、僅かに先に食べ終わっていた俺は風見さんの食器を受け取り、流しの方へと持って行く。
ついでに霊力でちょろりとお湯を温め、お茶を淹れる。
西洋風の家である此処ではどちらかと言うと紅茶を淹れるのが筋なのだろうが、生憎俺は紅茶の淹れ方と言う物を大雑把にしか知らないので、俺が彼女に出す分においては緑茶である。
一応どっちも発酵が違うだけで同じ茶葉なんだから、どうにか淹れられそうな物なのだが。
と、どうでもいい事を考えつつお茶をリビングに持って行く。
すると、ごっごっ、と早々とお茶を飲み干し、席を立つ風見さん。

「あ、もう出かけるんですか?」
「えぇ。夕方前には戻るようにするわ。留守番よろしくね」
「はい、行ってらっしゃい」

 と、玄関前まで行って、低空を飛んでゆく風見さんを見送り。
ばたん、と音を立てて玄関の扉を閉じて。
――立っていられたのは、そこまでだった。
がた、と音を立てて背中が扉に当たり、そこからずるずると体が滑り落ち、床に尻をついてしまう。
それから首を支える力が無くなり、がくん、と頭が僅かに前に傾く。
全身から、無理に維持していた活力と言う活力が抜けてゆき、視界すらも虚ろになってゆく。

 暫くはそのまま何も考えず、何も動かず、ただ呆然と口を開けたままでいられたのだが、すぐにふと思い浮かぶ物がある。
それは矢張りと言うべきか、自虐の念であった。
さて、俺の目的は恩返しであり、そして生きていてはその真逆の効果しか生めないのではないか、と言うのが現在の俺の状況である。
であれば当然、俺のすべき事は、二通りに別れる事となる。
それでも何時かは恩を返せると信じ、再び努力を重ねる道。
何からすればいいのか分からない、と言う難易度の高さはあれども、正道である。
対し、これ以上生きていては無意味どころか害悪と決め打ち、自殺する道。
当然、恩を返せる可能性が残る以上は邪道であり、人として選ぶべきでは無いが、一応選択肢としてある物である。
が、今の俺は、不思議な事にそのどちらも行っていなかった。
正道を選ぶにしても、彼女の世話になりっぱなしと言う現状は、道理が叶わない。
邪道を選ぶにしても、ここを出て行くなり彼女を怒らせるなりすれば死ねるのだ、道理が叶わない。
俺は風見さんに拾われて以来、彼女の言う事を聞き、世話をする事ばかり考えているのだ。

 それは、何故かと言えば。
単なる、現実逃避であった。
何故なら、何か無心に作業をしていれば俺は何も考えずに済むし、彼女の言う事に従ってさえいれば、俺は自分の意思と言う物をすら持たなくても済むのだ。
だって、何かを考えると、嫌でも俺自身の醜さを直視してしまい、それだけで、耐え難い程に辛いのだ。
それは時が進むに連れ、益々強まってゆく。
何せ俺は、妖怪に襲われていた無気力な男を世話してくれるような優しい風見さんを、現実逃避の為に利用さえしているのだ。
こうやって屋根と食事を貰っているだけで恩を受けていると言うのに、それに仇で返すような扱い。
そんな事してしまっている自分が、醜くて仕方がなかった。

「う……う、ううっ……」

 自分が情けなくて、思わず涙が出てきてしまう。
しかし、その涙でさえ、今の俺には自分を可哀想と彩ろうとしている、自分を他人事のように捉えた行為であるように思えて、醜く思えるのだ。
だから俺は、ぐしぐしと、涙を拭う。
少ない活力を全身から集めて、どうにか体に力を入れ、ふらふらとしながら立ち上がる。
これ以上自分を醜く思うのが嫌だから。
耐え切れないから。
だから、無心に作業をする事だけを考えて。

「……洗い物、しなくちゃ……」

 ぽつりと呟いて、台所の方へとふらふらと向かう。
まだ目尻に集まってきている涙をぽつぽつと零しつつ、どうにか歩いて行って。
俺は再び、無心に作業を進める事に努めるのであった。



   ***



 甘くさわやかな香りが、風に乗って運ばれてくる。
風に揺れる鈴蘭が、さざ波のような音を立て、さわりと騒ぎ立てた。
無名の丘。
春過ぎには一面鈴蘭で覆われるそこだったが、今では背の低い草が生え茂る草原に過ぎない。
その中心近く、大きな岩がぽつんと置いてある場所で、幽香はメディスン・メランコリーと会話していた。

「わぁ、久しぶりにスーさんの香りだわ。やっぱり、これがないと落ち着かないわ」
「そう。私はやっぱり季節の通りの香りが一番だと、思うけどね」

 六十年に一度の大結界異変で知り合った二人は、こうして時たま会う約束を取り付けている。
幽香としては、自分と同じく花を愛でる事を一番に考える、珍しい妖怪との交流として。
メディスンとしては、春以外にも能力で鈴蘭を咲かせ、スーさんと出会う為として。
双方の利害が一致し、こうして季節ごとに無名の丘の大岩で待ち合わせているのであった。

「そうかしら。向日葵なんかに囲まれるよりもずっといいと思うけれど」
「毒の匂いを撒き散らすよりもずっとマシだと思うけれど」

 と言ってもこの二人、仲が良いのかは微妙である。
メディスンは幽香の最も好む向日葵なんて花は気持ちが悪いと考えているし、幽香は鈴蘭は好きだがメディスンの撒き散らす毒は臭って仕方が無いと思っている。
だが不思議とこの行事はここ数年欠かさずに行われ、ずっと続いているのであった。

 主な内容はと言うと、お互いに近況報告をし、その感想を適当に言い合うばかりの話である。
メディスンの話の内容はと言うと、人形解放の為の訓練の結果と、定期的に会っていた八意永琳が最近急に姿を見せなくなったようであると言う事。
後者はそこそこに興味深いが、人形そのものには大して関心のない幽香は前者を聞き流すし、メディスンも別に反応を期待していないのか、生返事を続ける幽香に淡々と話し続ける。
それがぽつぽつと途切れてきた辺りで、代わりとばかりに幽香が口を開く。
こちらも毎年代わり映えのない、季節の花の移り変わりやその美しさ、後は喧嘩を売ってきた愚かな妖怪や、幽香の機嫌の悪さの犠牲となった哀れな妖怪の話。
メディスンも生返事を続ける中、一番最近にいじめてあげた金髪と銀髪の妖怪のコンビの事まで話を続け、そこで幽香は僅かに、躊躇するように口を噤んだ。
別に近況を報告するからといって、権兵衛の事まで報告しなくてはならない義理と言う物も無い。
しかし、だからと言って、他のことは何でも話していたのに、権兵衛の事だけ話さないと言うのは、どうにも権兵衛の事を意識しているようで、何と言うか、駄目な感じである。
であるからと言う事で、幽香は閉じていた口を開く。

「此処数日、いじめようと決めたのにいじめがいが無くなっちゃった人間が居てね。いじめがいが出るまで、家に連れて行って、世話しているの」
「へぇ? 貴方が人間を? しかも数日って、まだその人間生きているの?」

 意外そうに反応するメディスンに、幽香は自然渋顔を作った。
自分でも、こんなに何日も権兵衛を家に置いておくつもりは無かったのである。
一応花の世話と言う係こそは考えていたものの、基本的に初日にいじめつくして、そのまま離すなり殺しきってしまうなりしてしまうつもりであった。
だと言うのに、未だ幽香は、権兵衛に一度も手を上げていない。

「なんていうか、奇妙な感じでね。間が外される、って言うか。なんか権兵衛と居ると、萎えちゃうのよねぇ」
「ふーん」

 生返事で返すメディスンに、ピョン、と指を突き立て、幽香は具体例を話す。
最初は嬲って絶望の悲鳴をあげさせようと思っていたが、何でか先に絶望していた事。
とりあえず殴りながら雑用を言いつけようとしたら、何故か先回りして雑用を申し出られた事。
折角のご飯だと言うのに暗い顔をしているからフォークを投げつけようとしたら、トーストを頬張って幸せそうな顔をされた事。
水を入れたり茶を入れたりと新たに雑用を申し付けようと命令しようとしても、自然とそれを行われてしまう事。
つらつらと語られるそれを興味なさげに聞いていたメディスンだが、ふと、疑問に思ったようで、一言告げる。

「そう言えば、その権兵衛って人間の話ばかりだけど、最近は妖怪をいじめたりしてないの?」

 思わず、瞬く。
そう言えば、そうである。
今までの自分は、自然や花々と共にある静かな生活が好きなのと同時、絶望の悲鳴が好きで好きでたまらなくて、定期的に聴きに行っていたと言うのに。

「……して、ないわね」
「それにその権兵衛って言う人間にしようとしてた対応も、何だか温くなってないかしら」

 言われて、思い出す。
最初は生まれてきた事を後悔させてやる事まで想像しながら権兵衛をいじめようとしていたのだが、最近はその場その場でちょっと嬲ってみようと思っているだけである。
とすると。

「……かも、しれないわね」
「このまま行けば、貴方の言っていた、理想の静かな生活、とやらが手に入るんじゃあないかしら」
「理想の、静かな生活」

 反復するその言葉とは、何時ぞや幽香がメディスンに語った生活である。
季節の花々を愛でる事は勿論、それを邪魔される事もなく、わざわざ妖怪をいじめに行くような衝動に襲われる事なく、温和で優しい生活。
それを望む事は、別段おかしな事では無い。
実際、長く生きた妖怪として、幽香の強い嗜虐性は、少しおかしい物である。
通常長生きした妖怪は、自分の生活が侵されない限り、悪戯に戦いを仕掛ける事など無いと言うのに。

 言われてみれば、自分が穏やかになってきている実感は、確かにあった。
誰が相手でも大した理由もなくいじめたくなるような衝動は、ここのところ抑えられていて、権兵衛に対するいじめたい欲と言うのも、徐々にその物騒さを減じていっている。
何故だろう、と、幽香は不思議に思った。
この長い妖怪としての生の中、己の嗜虐性は何時であってもその燻る炎を消す事は出来ず、解消する事によって一見晴れたような事があっても、こうやって穏やかになってゆく事は無かったのだ。
それを。
権兵衛。
ただの外来人一人が、解消しようとしているなどと言うのだろうか。

「そんな事……無いわ」

 期待の裏返しか、否定の言葉が幽香の口から出てくるが、対しメディスンは軽く目を細めて口を開く。

「でも、さっきその権兵衛が幸せな顔をしていたから、攻撃をやめた、なんて言ってなかったかしら」
「? ええ、そうよ?」
「ええそうよ、じゃなくて……。そんなの、何時もの貴方だったら可笑しいじゃない」

 と言われて、幽香は眉をひそめる。
全く、何処が可笑しいのだか分からない。
何せ権兵衛の幸せそうな顔といったら、何だか胸がときめいて、こちらまで笑顔になってしまいそうな感じの笑顔なのだ。
そんな顔を浮かべられて攻撃など、出来るはずもあるまい。
そう告げると、何だか砂糖と塩を入れ間違えたコーヒーを見るような目で見られる幽香。

「貴方最近おかしな物でも食べなかったかしら?」
「失礼ね。私と権兵衛の料理しか食べていないわよ」

 自分の料理がおかしな物でないのは勿論、権兵衛の作ってくれた料理がおかしな物でないのも当然である。
と言うのも、自宅に居て他人が作った料理を食べるなんて、記憶にある限りでは初めての事だったのだが、他所の宴会に混じるのとはまた違った温かみのような物があって、とても美味しく感じるのだ。
その事を知って以来、幽香の作る料理にも力が入るようになってきた。
何故かと言うと、権兵衛の料理に自分が味わっているこの温かい感じを、自分の料理に権兵衛も味わっているのだと考えると、自然と料理に凝るようになってきたのだ。
そうすると、競いあうように権兵衛も徐々に凝った料理を出すようになってきて、ああ、権兵衛も自分と同じ思いで居るんだな、と思うと、自然と顔も綻んでしまう。
兎も角そんな感じな事なので、おかしな物など食べていない、と説明する幽香。
対するメディスンは、少し首を傾げたかと思うと、ああ、と手を打ち一言。

「こういうのをなんて言えばいいのか、って思ってたけど」
「?」
「ごちそうさま。こう言えばいいのかしらね?」

 何のことだか、と首を傾げる幽香に、ため息をつきながらメディスンが告げる。

「気づいていないかもしれないけど。多分貴方、その権兵衛って人間の事が好きなんじゃないかしら」
「は?」
「それも、生まれて数年の私にでも分かるぐらいに」

 思わず口を開きっぱなしにしてしまう幽香。
好き。
好き。
権兵衛の事が――好き。
その言葉が咀嚼されてゆくに連れ、幽香の顔が真っ赤に染まってゆく。
鼓動は高鳴り、じわじわと汗が滲みでて、ぎゅ、と体を抱きしめたくなる。
その衝動に従い、幽香は己の事を抱きしめて見せた。
壊れるぐらい強く、強く。

「好き――」

 実際に口にしてみると、更にどくんと胸が高鳴る。
喉の奥はからからに乾き、自らを抱きしめる腕は、指の先まで力が入る。
吐く息は熱湯のように熱く、湿っていて、口元の辺りのブラウスを僅かに湿らせた。
足を下ろしているのが何だか不安になり、膝を上げて、ぎゅ、と巻き込むように抱きしめる。
丁度、幽香は大岩の上に、体育座りの形になった。

 私は、権兵衛の事が、好き――なんだろうか?
覚えた疑問に、反射的にそんな筈はないと思う。
だって、自分は風見幽香なのだ。
あらゆる存在をいじめる、ちょっとおかしな存在なのだ。
そんな存在が、人を好きなんて言う、穏やかな気持ちを抱けるはずが無くて。
でも、権兵衛は、どうやら、幽香を穏やかにしてくれているような気配があって。

「ちょっと、幽香?」
「ひゃんっ!?」

 急に声をかけられ、思わず幽香は飛び退いてしまった。
少しの間、メディスンの事が頭から抜け落ちていたのだ。
こんな醜態を晒してしまうなんて、と顔を赤くすると同時、そういえば朝に権兵衛も似たような事をしていたな、と思い、更に顔を赤くする。
駄目だ。
何が駄目だか分からないが、兎に角駄目だ、これ以上、何も考えてはいけない。
そう思い、ぶるぶると顔をふるってふわふわとした考えを頭から追い出し、慌ててメディスンに告げる。

「ご、ごめんなさいね、今から急用ができるから、家に帰る事にするわ」
「その前にもうちょっと落ち着いた方がいいような気がするけど……」
「じゃ、じゃあね、また冬に会いましょうっ!」

 強引に別れを告げると、幽香は勢い良く空中へ飛び出していった。
一気に高度を上げ、先程までいた大岩が小さくなるぐらいにする。
下で何かメディスンが言っているが、聞こえないフリをしつつ、自宅へ向けて飛行を始めた。
そうなると、空中を飛んでいる間も暇になり、先程の考えがぷくぷくと浮かんでくる。
そしてついつい、幽香は口に出して言ってしまった。

「好き――」

 なんとも胸の中がふわふわとする言葉で、何とも自分に似合わない言葉である。
だけど気づけばその言葉は口に出されていて、幽香の頭の中を支配してしまう。
好き。
好き。
権兵衛が――好き。
その言葉の事を思っていると、思わず自分の唇に指をやってしまうから不思議だ。
すると、当然のごとく、権兵衛の唇の感触を想像する自分が居て。

「いやいや」

 慌てて頭を振り、ピンク色の妄想を頭から弾きだす幽香。
一旦は静かな心になれて、ふう、とため息をつく幽香であったが、はたと思い出す。
そういえば、当然の事なのだが、これから帰る家には、権兵衛が居るのだ。
勿論家に帰れば出くわす事になり、その顔を見る事は確実で。

「~~っ」

 そうなったら、一体どうすればいいのか、と、幽香は無言の悲鳴をあげた。
自然、飛行速度も遅くなるが、無名の丘と太陽の畑はそう遠い場所では無い、既に赤い屋根の家は視界の中に見えてきている。
これからどうすべきか、とりあえず頭が冷めるまでその辺で時間を潰すべきか、それとも電撃作戦で部屋にひきこもり、その中で頭を冷やすべきか。
どうしようかと悩む幽香の耳に、突如、爆音が響いた。

「何事っ!?」

 思わず目を見開き、音源に検討をつけて遠視の術を使うと、自宅の近く、見覚えのある金髪と銀髪の二人組の妖怪が居た。
その周辺には何時ぞやと同じく、明らかに殺傷用の弾幕が浮いており、その正面には月っぽい色の弾幕を浮かべて対抗する権兵衛の姿があって。
それを視認した瞬間、その叫びが届かぬ物と知って尚、幽香は叫ばずにはいられなかった。

「――権兵衛っ!!」



   ***



 襲撃は、突然だった。
何の前触れも無く分厚い板を打ち付けたような音が響き、家全体が揺れた。
丁度掃除をやっていた俺は、思わず壁に手をついて体を押さえてしまうぐらいの揺れであった。
一体何があったのかと辺りを見回せば、窓の外には金銀の無数の弾幕があって。
それを見て、思い出す。
俺が風見さんに助けられた時、襲ってきていた二人組の妖怪。
俺を狙ってきたのか、それとも風見さんに報復に来たのか、どちらなのかは果たして分からないものの、そういう事だろう。
事態を理解し、慌てて外に飛び出そうとするが、それよりも早く、空に浮いている殺傷用の弾幕が家に飛来する。
思わず、目を瞑って頭を抑えながら、机の下に逃げこむ俺。
と同時、再びの爆音。
暫く連続してそれが続いたかと思えば、ふいに静寂がやってくる。
一向に屋根が落ちてきたり、風が吹きさらす兆しが感じられないのを疑問に思い、ちらりと薄く目を開いた。
すると、傷ひとつ無い風見さんの家の壁が目に入ってくる。
一瞬、意味が分からなくて動転してしまうが、よく考えればこの家には強化の術でもかかっていたのだろう。

 ほっとため息をつき、胸をなで下ろす俺。
あの日と違い俺は全快しているとは言えども、精神的なコンディションが悪い上、実力的にも二人がかりで来られてはやや俺が劣るぐらいなので、戦いになれば恐らくやられてしまっていた所だろう。
と同時、僅かな疑問が胸をよぎる。
俺は、死んでもいいと思っていたのではないだろうか。
いや、むしろ死ぬべきなのではないかと思い、妖怪に喰われる為に元自宅から旅路に出たのではなかろうか。
そう考えると、俺は安堵するよりも残念に思うべきなのではないだろうか。
いや、勿論、風見さんの家が無事であった事自体は、喜ばしい事なのだけれども。

 などと俺が思考に耽っている内に、再び窓の外に金銀の弾幕が生まれる。
と言っても、この家の強化の術を視てみれば、あの妖怪達では傷つけられない程度である事が容易に分かる。
無駄な事を、と思うと同時、弾幕が炸裂した。
ただし、家の周りの花壇に。

「――っ!」

 思わず息を飲む。
そのままの自然を愛する風見さんであるからこそ、花壇に術による結界までは作っていないのでは、と思う。
とすれば。
当然のごとく。
家の周りの花壇は、無茶苦茶になっている筈で――。
と、そこまで思った所で、再び空に弾幕が生まれる。

「させるかぁっ!!」

 気づけば俺は、叫びながら家を飛び出していた。
と同時、拙いながらも霊力を用いて結界を展開。
家の周りの花壇を守ると同時、それに打ち付けられようとしている弾幕の衝撃に備え、歯を食いしばり、目を瞑る。

「――っ!」

 爆音。
爆音。
爆音。
一つそれが響くたびに、体の芯が軋むような痛みが走る。
脳髄が沸騰しそうに熱くなり、目の奥が激痛に痛む。
四肢の末端がふるふると震え、噛み締める歯茎からは血が滲む。
永遠とも思える時間が過ぎ去った後、ようやくのこと、弾幕が途切れた。
肩で息をしつつ、僅かに脱力し、閉じていた瞼を開く。
あまりに力をいれていた為、しばらくの間、視界がチカチカとするのを感じながら、確認していなかった周囲に視線をやる。
粉塵が舞い散り、風に吹かれてゆくに連れ、花壇の有様は明らかになってゆき。

「――……」

 無茶苦茶だった。
甘く顔っていた金木犀の花は、土に塗れて形を崩し。
整然と並んでいた薄桃色の秋桜は、ぐちゃぐちゃに潰れ。
艶やかに咲き誇っていた薔薇は、残らず首を落としていて。
荒廃したその様子は、丁度先の俺の家の惨状を思い起こさせた。
一瞬、既に全滅してしまったのではないか、と血の気が引くが、よくよく見てみると、奥まった方はまだ無事だった。
俺の世話していた小さい白い花も、また。
――不幸中の幸い、とでも言うべきか。
とりあえずそれを確認できた俺は、視線を空に浮かぶ二体の妖怪へと向ける。
金銀の瞳と目が合い、肉食獣の笑みを向けられる。
僅かに震える、背筋。

 あの、俺が風見さんに助けられた日。
俺が野垂れ死のうと歩いていた所、突如弾幕を使って襲ってきた二人組である。
あの時は風見さんにあっさりとやられていたので、あまり強い印象を受けなかったのだが、片方でも結構強く、恐らくは二人がかりではあちらの方が上。
となれば、俺の目指す勝利条件は、風見さんが戻ってくるまで耐える事である。
と言っても、花壇を防御し続けなければいけない俺は回避行動ができず、常に結界を張り続けなければならない。
当然、ただただ耐えているばかりでは、先のように好き放題に弾幕を張られてしまい、こちらの身がもたない。
故に牽制の弾幕で相手に回避行動を取らせ、攻撃だけに集中させないのが上策と言えるだろう。
一番不味いのは近接戦闘に持ち込まれる事なのだが、どうやら体が治りきっていないのか、再び空中に金銀の弾幕が浮かび上がる。
対し、こちらも己の月度を高め、周りに幾らかの月弾幕を浮かべる。
お互い、動かないままに、僅かに沈黙が過ぎ去った。

「折角風見幽香の留守を狙って来たのに――。あんた、あの時の人間? 何で人間があいつの家を守ってんのよ」

 言われ、不意に俺は気づいた。
そうだ、俺は一体何故こんなに必死になって、この花壇を守ろうとしているんだろうか。
相手は相応に強い妖怪である、家に引きこもって震えていても、あの優しい風見さんは責めないかもしれない。
もし怒りを買う羽目になったとしても、恐らくその終点に待ち受けるのは死である、今の俺が忌避すべき事では無い。
そうだ、俺は、一体何で――。
と思うと同時、がくん、と背筋に寒い浮遊感。
一瞬、迷いの余り集中が切れそうになるのを、既の所で持ち直す。
駄目だ、迷っていて勝てる相手では無い。
頭を振って頭の中から迷いを捨て去る俺に、ニヤリと笑みを浮かべる妖怪達。

「あら、怖いのかしら。逃げてもいいのよ? 私たちの目的は、あいつの大切な物をグチャグチャにしてやりたいってだけなんだから」

 と言っても、その内容は的外れな物で、俺の心を揺るがすには足らなかった。
迷いの糸を振り切るようにして、俺は体を僅かに前に動かす。
とりあえず、俺の目的は時間稼ぎなのだから、このまま会話を続かせるのが常道であろう。
意を決して、口を開こうとするが、寸前、金髪の妖怪が口を開く。

「まぁいいや、さっさと片付けちゃいましょう」
「ちょ、ま……!」

 何か言うよりも早く、妖怪達が指揮棒を振るように手を振るう。
それと同時、周りに浮かんだ弾幕が、光の尾を残してこちらへ飛んでくる。
こうなれば、最早覚悟を決めるしかあるまい。
己の口下手さを呪いつつも、俺は弾幕の防衛戦と言う、あまりにも不利な戦いに、身を投げるのであった。

 ……――。
一体、どれほどの時間が経っただろうか。
時間の感覚が無くなる程の間、俺は無数の弾幕を受け止め、少ないながらも誘導性を付与した弾幕を相手に撃っていた。
太陽の畑がその花を散らしており、守るべき範囲が家の周りだったのが幸いしたのか。
辛うじて、今でも俺は花壇を守り続けられている。
と言っても、状態は刻々と悪くなっている。
目はチカチカする弾幕を見続けて霞み始め、四肢には力が入らず、霊力の節約のため、浮く事すらもせずに弾幕を放つ。
耳は永遠とも思える程の時間続いている爆音でおかしくなりそうで、膝はがくがくと震えるのを、背を家の壁にあずけてどうにか立っていられている。
最早、俺の敗北も秒読みか、と思った瞬間であった。

「ぶえっ!?」

 唐突に、悲鳴。
と同時、弾幕が途絶え、金銀で一杯だった視界が晴れやかになる。

「なっ、ぐぎゃあっ!?」

 一撃。
たった一撃づつで、金銀の妖怪達は地に落ちて行った。
そして。
広がる緑の髪。
風にたゆたう赤いチェックのスカートとベスト。
泣きそうな表情で、駆けつけて来る、風見さんが、目に入った。

「――大丈夫、権兵衛っ!?」

 あぁ、良かった、間に合ったんだ。
そう思うと同時、ギリギリ立ち上がっていた膝の震えが止まらなくなり、ずるずると崩れ落ち。
地につくよりも、早く。
日傘を投げ捨てて飛び込んできた風見さんに、抱きしめられる。
少し痛いぐらいの強さで、背中まで回される風見さんの両腕。
疲れた体に心地良い、俺より少し高い感じのする、体温。
ふわり、と、女性らしい甘い香りのする緑の髪が、俺の鼻をくすぐる。

「よ、良かった……本当に、良かった……!」

 余程花壇が残っていたのが嬉しかったのだろう、涙を零しながら言う風見さん。
ついついその頭を撫でてやりたくなるが、疲れの余り腕が上がらず、断念する。
それでも、こんなに喜ばれると、俺の方も何だか嬉しくなってきてしまい、口元が緩くなった。

「ええ。最初の一撃は防げませんでしたけど、それ以外は、ほら、何とか。俺の世話している花壇だって」

 誇らしげな気分でそう言うと、ぎゅ、と、少しだけ俺を抱きしめる力が強くなる。
ちょっぴり痛いぐらいの、力。

「ち、違うわよ……ううっ。勿論、か、花壇が残っていてくれたのも、嬉しかったけど。
でも。でも、それ以上に。ご、権兵衛が無事で、嬉しかったに決まってるじゃないの!」

 ――……?
意味が、分からない。
だって、俺は、俺なのだ。
寄生虫のような男で。
恩を貰ってばかりで、返す事の出来ないような人生しか、送れない男で。

「俺、なんかが……?」

 だから、思わずこんなことを口に出してしまう。
更に、少しだけ、俺を抱きしめる力が強くなった。

「うん。気づいたの。私、権兵衛の事が大事よ。とっても、大切」

 言われて。
何故か、顔面が熱くなる。
体中から熱いものが目尻に集まってきて。
ポロリと。
涙になって、こぼれ落ちた。

「俺が、大切……?」
「うん。大切。とっても、大事」

 気づけば、俺を抱きしめていた風見さんの腕は、俺の頭をかき抱くようになっていて。
泣きながら、俺は風見さんに抱きしめられる形になっていて。
暖かかった。
風見さんの優しさが、暖かくて、嬉しかった。
その暖かさは、今までも何度も俺を包みこんでくれた物で。
俺が恩人と称する、みんなが俺に与えてくれた物で。
それがあんまりにも尊くて、思う。

 俺は。
俺は、一体何故、死のうなんて思ったのだろうか。
だって、俺はこんなにも温かい物を受け取っているのだ。
俺はそれを返したいし、その可能性が僅かでもあるならば、諦めないつもりでいたのだ。
それなのに、一体何故。

 ――それは多分、一言で言ってしまえば、俺は不貞腐れていたのだろう。
何度恩を返そうとしても上手く行かなくって、それどころか俺はドンドンと負債を大きくしていって。
それでも霊力をどうにか手に入れ、これできっとどうにかなると思った瞬間、それも叩き潰されて。
それどころか、家まで無くなってしまって。
本当に、これからどうすればいいのか分からなくって。
その、あまりの難易度の高さに。

 だが、今俺は、再び生きようとする意欲を取り戻していた。
俺は、可能性が僅かでもあるならば、諦めずに恩を返そうとし続けるべきなのだ。
その為に萎えていた気力も、今は燃え上がり、吹き出さんばかりに俺の中を荒れ狂っている。
だって、人はこんなにも暖かい。
それを風見さんが、思い出させてくれたのだから。
だから、俺は、決意表明をする。

「風見さん……」
「うん」
「俺、今まで色々諦めちゃってて。それで、死にたいなんて思っちゃってましたけど」
「うん」
「俺、生きたいです。生きて、みんなに、今まで受けてきた恩を返したいです」

 突然の決意表明である。
妖怪に喰われようとしていた、と言う俺の言からある程度は察していたかもしれないけれど、何の前触れもない言だ。
その上、内容も重く、答えるのに重荷に感じるような物。
答えるのに躊躇したり、迷ったり、そうするのが当然であると言うのに。
躊躇なく、それでいて赤子に言い聞かせるように優しく、風見さんは言ってくれた。

「大丈夫。権兵衛なら、きっとできるわよ」
「――っ!」

 その言葉で、一気に涙が溢れ出てきた。
決壊したダムのように流れ出る涙と共に、嗚咽を漏らし。
風見さんの背に、恐る恐る手を伸ばし、抱きしめて。
人の暖かさが、どれほど尊い物か改めて感じ。
その日、俺は泣き疲れて眠るまで、風見さんを抱きしめながら、泣き続けていた。



   ***



 明るい木目で囲まれた、全て家具は木製であり、所々赤いチェックの柄が入った部屋の中。
窓際に置かれた、矢張り赤いチェックの掛け布団に包まれ、権兵衛が寝ていた。
そのすぐ横にはサイドテーブルに水差しがあり、隣の椅子には幽香が座って、権兵衛の看病をしていた。
と言っても、権兵衛の症状はそう重い物では無い。
単に限界を超えて霊力を使い果たしただけなので、丸一日もすれば起き上がれるようになるぐらいである。
事実、既に何度か意識は取り戻しており、軽い物ならば食事も取れている。
なので一日近く経過した今、もう看病はいいし、寝床も何時ものソファでいい、とは権兵衛の言であったのだが、幽香は頑なに譲らず、権兵衛をベッドの上から動かさなかった。

 すー、はー、と、今日何度目か数えるのも馬鹿らしいぐらいの、深呼吸をする。
それから異様なほどにドキドキと鳴り響いている心臓に手を当て、静まれ、と幽香は瞳を閉じて念じた。
残っていた逞しい花壇の花々の事を思い、心を穏やかな方に持って行く。
するとそれに従い、飛び出そうなほどだった心臓の鼓動はやや収まり、じとじとと体中から吹き出ていた汗は、何とか収まる。
それから、権兵衛の水差しとは別に持ってきたコップに注いである水を口に含み、カラカラになった喉を潤した。
そして、深い吐息。
心が平穏になったのを確認し、えいっ、と幽香は権兵衛の布団の中に手を突っ込んだ。

 権兵衛の、体温が感じられる。
それだけで顔に赤みが広がっていって、最初のうちはそれだけでも耐え切れずに部屋を飛び出て頭を冷やさねばならなかったが、何度かの挑戦を経て耐性をつけた幽香には、これぐらいなら何とかなる。
と言っても、時間が経てばそれだけで終わってしまうので、僅かに焦りながら、権兵衛の手を探す。
しばらく布団の中をごそごそと探っていると、ふと、今までよりも高い体温が見つかる。
それと、これまでの何度かの経験を手繰っていくと、不意に、幽香の指先に温かい物が触れた。
思わず飛び上がりそうになってしまう自分を律しながら、恐る恐るその体温を掴み、先の方へと手繰ってゆく。
すると次第に暖かな物は細くなってゆき、ある所でぱっと開けた形になる。
権兵衛の、掌である。
それを悟ると同時、咄嗟に幽香は手の動きを止め、ひゅ、と息を飲み込んだ。
が、ここまでも何回かは来ているのだ。
こんな所で怖気付いてどうする、と目をつむり、布団に入れてない片手を、心臓の鼓動を抑えるかのように、胸の上におく。
そして、ゆっくりと、権兵衛の手首を滑ってゆくようにして、手を権兵衛の掌まで達させ、その指先を絡めた。
ぎゅ、と、軽く握る。
それだけで心臓がはち切れそうになってしまうような、乙女のような自分を、幽香は僅かな戸惑いと共に受け入れた。

 こうして、権兵衛の体温を感じながら、ゆっくりと目を開く。
小さく上下する胸の辺りを通り過ぎ、視線を権兵衛の顔へやる。
別段、権兵衛は強いていう程の美形では無い。
顔は頼りがいを得ようとするにはちょっと丸いし、眉も丸く穏やかな感じである。
鼻も然程高くは無いし、唇も厚さがちょっと足りないかな、とも思う。
けれど、何となく人をほっとさせるような感じがあって、悪くないと言うか、とても素敵だと幽香は思う。

 権兵衛が襲われているのを見て、幽香は咄嗟に権兵衛を助け、気づけば権兵衛を抱きしめていた。
一歩間違えれば権兵衛が失われていたかもしれない、と思うと、胸の奥が切なくなり、涙をも堪えきれなかった。
あの、幽香がである。
何の理由も無くとも他人をいじめ続ける、ちょっとおかしな妖怪の、幽香がである。
それを思うと、幽香は自分が権兵衛の事が大切なのだと認めざるを得なかった。
こんなにも物騒な妖怪の自分を、穏やかにしてくれる権兵衛の事が、心から大切なのだと。
こうやって掌を握っているだけで、不思議なほど穏やかな感情を抱ける自分を見ると、それを再認識できる。
妖怪に花壇を荒らされた直後だと言うのに、権兵衛を見ているだけで口元は自然と緩み、目は細くなり、肩は下がる。
常であれば、下手人を捕まえて、いじめにいじめつくして相手が発狂するまでいじめて、それでようやく憤りの幾らかが晴れる程度であったと言うのに、である。

 勿論、権兵衛を見ていると心がふわふわとした物に包まれ、落ち着かないのも事実である。
とは言えそれは嗜虐性とはかけ離れたもので、穏やさや温和さと同居できる気持ちなのも、幽香は何となく察していた。
であるので、権兵衛の掌を握るのは、例えその体温に顔が思わず赤面してしまうのだとしても、辞めはしない。
ああ、今、私は権兵衛と繋がっているんだ。
そう思うと、全身からしっとりとした汗が吹き出し、瞳は潤み、喉が乾いていく。
と言っても、別段不快ではなく、むしろ何だか、上手く言語化できないが気持ちいいぐらいなので、幽香が権兵衛の掌を離す事は無かった。
のだが。

「かざみ、さん……?」
「――っ!?」

 思わず手を離し、飛び上がってしまう幽香。
ついでにサイドテーブルを倒してしまい、置いてあったコップと水差しを落としてしまう。
どどどど、どうしよう、と思いつつ、何をすればいいのか分からずに幽香はあわあわと掌を宙に漂わせる。
そのうちに、寝ぼけ眼であった権兵衛の目がゆっくりと覚醒してゆき、ふと、目が合った。
どきん、と、心臓が高鳴る。

「……あ、おはようございます」
「お、おはようっ! ちょ、ちょっとこれ倒しちゃったから、その、片付けてくるわねっ!」

 自分でも半分何を言っているのか分からないままに、サイドテーブルを立て直し、落ちたコップと水差しを拾う幽香。
その後ろを、どうしたんだろう、と首を傾げる権兵衛の視線が追っている事に気づきつつ、慌てて幽香は部屋を出て行った。

 台所まで行って、何杯か水を飲んで、頭を冷やすのに数分。
それから、起きたばかりであろう権兵衛も喉が乾いているのではないか、と慌てて権兵衛の寝ている自室まで水を持ってゆき。
そして水を飲み、一息した権兵衛から、こんな言葉があった。
――少し身支度が整ったら、話がある、と。
真剣味のあるその言葉に、幽香はとりあえず頷き、リビングを権兵衛に渡し、己も自室で、権兵衛と過ごしている間にかいてしまった汗を拭いたり、鏡を見てちょっと髪を直したりとした。
それから互いに身支度が整った辺りで、幽香が紅茶を入れ、権兵衛と向き合う形でリビングのテーブルにつく。
そしてしばらく、紅茶を飲んで気を落ち着かせる次第となっていた。

 紅茶を口に含み、僅かに転がし、香りを愉しみながら嚥下する。
同じようにしている権兵衛も、起き抜けと言う事もあって、もう少し頭がハッキリするまで時間を置きたいようである。
なので自然、幽香の心は、これからされるであろう権兵衛の話の内容へと向く事になる。
さて、話とはなんだろうか?
そう思い、首を傾げる幽香であるが、その内容は中々浮かんでこない。
なんといっても、今の所生活に問題は目立って無く、花壇が壊されたのも問題と言えば問題だが、それも改まって話をするまでもなく、手を尽くして再生できるだけはやってみるつもりである。
とすると、権兵衛が力不足を感じたのであろうか?
いや、それも違う、と、内心で幽香は頭を振った。
幽香の目から権兵衛の霊力の扱いを見たのはほんの僅かだが、何処で覚えたのやら明らかに系統だった術の扱いをしており、成長にも目処が立っているであろうと推測できる。
はて、と一向に見えてこない権兵衛の話の内容に、ふと、幽香はメディスンの言っていた事を思い出す。

 好き。
私は、権兵衛の事が好き。
その言葉を思い出すと、不思議と胸が熱くなり、まるで権兵衛に触れているかのようなふわふわとした気持ちになるから、不思議である。
幽香は、権兵衛が大切だと言う事は自覚したが、好き、とまで行っているかどうかは、自分でも分からなかった。
何せ幽香は、生まれてこの方こんな感じの性格である、異性を恋愛と言う感情で見た事は無いので、判別がつかないのである。
だけど。
もしその通りであるならば素敵だな、と思うし、それに、それに、もしかしたら。
権兵衛の話と言うのも、そんな事なのではないだろうか。

 かぁああぁあ、と、自分の顔が赤面してゆくのを、幽香は感じた。
いや、勿論、それが大した理由のない、自分の妄想に過ぎない事を、幽香は分かっている。
でも、先の権兵衛への台詞。
とっても大切、と言うのは、見方を変えれば、告白の言葉とも取れなくもない訳で。
そう権兵衛が受け取ったのならば、当然、返事を考えるのも自然な話なのであって。

「~~っ」

 己を抱きしめ、悶えたい衝動に抗うのに、幽香は必死になった。
膝の上に置いていた両手を下におろし、血が滲まんばかりに握り締め、顔を俯かせ、ふるふると体を震わせる。
大きく息を吸って吐き、どうにか自身を落ち着かせた。
違う、これはただの自分の妄想なのだ。
だから実現するかは分からないし、今考える必要も無いのだ。
だって、返事は最初から決まっているのだし、って違うっ。
そんな風に思考がズレ出す頭をぶんぶんと振り、どうにか桃色の妄想を頭から追い出す幽香。

「えーと、話、始めて大丈夫でしょうか?」

 そんな幽香に、おずおずと権兵衛が切り出す。
はっと気づいた幽香は、慌てて赤面しつつ、口を開いた。

「だだ、大丈夫よ。ほら、言ってごらんなさい?」

 言ってから、紅茶と共に恥ずかしさを喉の奥まで流しこむ。
何にしても、あの優しい権兵衛の話である。
この穏やかで心優しくなれる生活を続ける為の話である事には違いなく、故に幽香はどんな話が来るのか検討がついていなくても、安心して聞いていられた。
わざわざ自分から、誰かをいじめに行かずに済んで。
驚くほど穏やかな気持ちで、それでいて権兵衛の事を思うと、ふわふわした気持ちになったりして。
こんな生活が永遠に続くと、幽香は確信していたのであるのだから。
だから、促された権兵衛の言葉を、静かに、黙って幽香は聞いていた。

「えっと、この前も言いましたけど。俺は、今まで受けた恩を返す為に生きてきたんですけど、家が無くなっちゃったりして、あんまりにも何をすればいいのか分からなくて、もう妖怪に喰われてしまいたい、なんて思っちゃってました」
「……うん」

 頷く。
家が無くなった、と言うのは初耳だが、権兵衛が自殺志願者であった事は、幽香も初対面から知っている事であった。
当然、幽香は権兵衛のそんな部分が心配ではあった。
勿論自分の見ている前では死なせるつもりなどもう無かったが、それでも。
しかし。

「でも、その、それって、俺が不貞腐れていた、だけだったんですよね。何をすればいいのか、どんなに考えても分からなくって」
「………………」
「でも、その、風見さんに大切って言っていただいて。人の暖かさが、どれほど大きい物か、もう一度思い知って。みんなに、改めて恩を返していこう、って思えるようになったんです」

 との事である。
先日幽香が権兵衛を抱きしめ聞いてやった事の焼き直しだが、権兵衛は幽香の言葉で、生きる気力を持ち直したのだと言う。
それを思うと、幽香の口元が自然に緩んできてしまう。
元々自分は権兵衛からこの穏やかになれる気持ちを貰っていて、権兵衛を大切に思っていた。
それと同じように権兵衛にしてやれる事があり、その事で権兵衛が自分を大切に思ってくれるのならば、それはとても素敵なことだと幽香は思うのだ。

「だから。その、幽香さんにも恩返しをしたい、って思って」
「……うん」
「それには、このままじゃあ、ダメだって思って」

 あれ? と、幽香は内心で首をかしげた。
何か。
何かが、違うような気がする。

「だって、このままじゃあ、俺は幽香さんにおんぶ抱っこのままです。一応、俺には霊力もあるし、持ち歩いていたから、金子も多少はあります。
家を建てるにはちょっと足りないでしょうけれど、数日も練習すれば、雨露を防ぐ結界程度は張れるようになるでしょうし。
それに、冬の間の食材も、自然の物を集めたり、直接里には行けないでしょうけれど、誰か人を頼って買い物をしてきてもらう事もして、厳しくはありますけれど、それでどうにかなりそうな感じですし」
「あ……うん」

 思わず、呆然と頷く幽香。
成程、確かに家の周りに中々の結界を作っていた権兵衛である、温度や雨を遮る結界も、時間をかけて張ると言う前提ならば、然程努力を必要とせずに習得できるだろう。
それでなくとも、管理しきれずに放置された山小屋が、人里外れにいくつかあると聞いたことがある。
それらを利用すれば、冬を乗り切る事も不可能では無いだろう。
食材についても、同じく。
妖怪と対峙できる権兵衛は、里人の手の届かない場所で秋の実りを独占する事ができ、それを上手く活用すれば、この冬を乗り切る事も不可能ではない。
それはそうだけれども。
それは、そうなんだけれども。
何でそんな事を言うのか、理解できない。
意味が、分からない。

「その、霊力を使い切ったばかりですし、まだ数日はお世話になりたいんですけれど。
そのうち、ここを、出てゆきたいと思います」
「………………」

 意味が、分からない。
呆然とする幽香の視線に気づかず、権兵衛は粛々とした様子で続ける。

「その、誤解させてしまうと申し訳ないのですが、決して、風見さんと一緒の生活が、嫌になった、と言う訳じゃあないんです。
ただ、こうやって一方的にお世話をしてもらう形と言うのは、矢張り、なんていうか、健全じゃあない。
生活の細かな所では風見さんに恩を返していけるけれど、それは今こうやってお世話してもらっているのに対する物であって、決して生きる気力を分けてもらうような、大きな恩を返せる物じゃあないんです。
そして、俺は、恩知らずには、なりたくない。
俺に暖かな物をくれたみんなに、それを返せるような、人間になりたいのです。
思えば永遠亭の時も、傷が治ったらこう言い出すつもりでしたし」

 そういえばまだ完治はしていないんだよな、とぼやく権兵衛。
その口から出てくる言葉の意味が、少しづつ咀嚼され、幽香の中に浸透してゆく。
出て行く。
出て、行く。
権兵衛が、居なくなる。
足元が崩れ、無くなってゆくような感覚を、幽香は味わっていた。
頭が釣り上げられているかのように、四肢や尻が椅子や床についている感覚が無く、おぼつかない。
軽い目眩がする。
紅茶のティーカップを握る手が震え、無意識に力が入り、ティーカップに罅を入れた。
かたかたと震える手で紅茶を飲み込み、それでも動揺を押し流せず、僅かに震える声で言う。

「ここを、出て行くと、そう、言うのね?」
「――はい。そうです」

 真剣な顔で、そう答える権兵衛の顔が見えて。
幽香は、視界が赤く染まるのを感じた。
顔から表情と言う表情が抜け落ちてゆく。
代わりに、愉悦のような物が顔へと湧き上がり、広がっていった。
胸の奥から、どん、と湧き上がる衝動に身を任せ、幽香は静かに椅子から立ち上がる。
テーブルを回って、権兵衛の側に近づく。
一瞬、暴力を振るわれるのでは、とでも思ったのだろうか、固い表情をした権兵衛であったが、幽香の浮かべる笑みを見て、怪訝そうな表情になる。
ぽん、と、権兵衛の肩に、幽香は手を載せた。
そしてその、笑みを浮かべた表情を、権兵衛に向ける。
すると安心したのだろう、安堵の笑みのようなものを、権兵衛は浮かべた。
うん、と内心で幽香は頷く。
笑みは大事だ。
何せ笑みが無ければ、その表情が変わる所は見られず、絶望との落差も少しもなくなってしまうのだから。
だから満面の笑みを浮かべたまま。
幽香は、権兵衛の肩を握りつぶした。

「っぎゃあぁあああああぁあぁっ!?」

 天使の歌声のような、心地良い絶叫が響き渡る。
成程、流石は権兵衛である、その絶叫すらも天上の音楽のように美しく、思わず幽香は頬を染めてしまう。
それにこの、肉ごと骨を圧し砕いた感覚も、常よりも圧倒的に扇情的だ。
肉をつかむ、皮と内側の肉がうねる生々しい感覚から、力を込めるとすぐに、奥にある骨の硬さと軟骨の柔らかさの入り交じった、妖艶な感覚へと入れ替わる。
それを圧し砕くのは、まるで白い紙を墨で黒く染めるような、可憐で清廉な物を粉々に打ち砕くような、圧倒的快感だった。
掌には未だ、権兵衛の血肉がこびりついている。
それを剥がさずにそのまま口元まで運び、唇の間から差し出した舌で、舐めとる。
あまりの快感に、腰が砕けるかと思った。
天に昇るような、何とも例えがたい権兵衛の血潮の味に、はぁぁ、と、嬉しさのあまり幽香はため息を漏らす。

「ねぇ、ごんべえ」
「ああぁああぁっ、ぐ、えぇっ!」

 聞こえていない様子で、肩を押さえて椅子の上で転がり落ちんばかりの様子で暴れる権兵衛に、静かに幽香は話しかけた。
そして、肩を押さえていない、だらりと垂れ下がった側の権兵衛の手を、ゆっくりと取る。
先ほど布団の中でそうしたように、極上の絹に触れるような繊細さで、指を絡める。
少しの間そうしてから、幽香は権兵衛の人差し指に、両手を集めた。

「だめじゃない、そんなこと言っちゃあ」

 そして権兵衛の指を折った。

「ぐぎゃあぁああぁっ!?」

 再び天上の悲鳴を上げる権兵衛に、うっとりとした表情で、幽香は次の中指に両手を集める。
この指を折ると言うのも、こりっとした硬軟入り交じった感覚が何とも言えず、快感である。
胸の奥が熱くなり、全身から汗が吹き出し、肌が湿ってゆくのを感じながら、妖艶な笑みを浮かべ、幽香は続ける。

「さいしょに言ったでしょ? ここから逃げ出そうと思ったら、その時は……って」

 そして権兵衛の中指も折った。

「だめなのよ、ごんべえ」

 薬指も折った。

「ごんべえは、わたしのものなのよ。それを、おしえてあげなくちゃ、ね」

 小指を折って、親指も折る。
一気に折ったら、痛みが限界を超えたのだろうか、激しくもがく権兵衛は椅子から転がり落ち、床に体を打つ。
口から血の混じった泡を吐き、限界まで目を見開き絶叫する。
それを追って、幽香は権兵衛の上を跨ぎ、それから膝を折る。
ちゃんとスカートをお尻にひくようにして、権兵衛の上に跨った。
こうすると、権兵衛の上半身がよく見える上に、彼の動きを抑制できて、一石二鳥である。
男性の上に跨ると言うのは、ちょっとはたしなくて、その分顔が赤くなってしまう幽香なのであったが。

「ねぇ、だからごんべえ」

 腫れ上がった肩に触れる。
患部が持った熱を感じると同時、跳ね上がろうとする権兵衛の動きを感じ、静かに幽香は頬を染めた。
それから幽香の手はゆっくりと権兵衛の腕を降りてゆくように触れてゆき、最後に五指全てが折れ、ありえない方向へ曲がっている権兵衛の手に絡んだ。
再び、痛みに呻き、跳ね上がろうとする権兵衛の動き。
下半身を介して伝わってくる振動に、思わず顔を上気させながら、幽香は、折れて不気味に腫れ上がった権兵衛の五指に、己の指を絡めた。

「いろんなこと、おしえてあげるからね」

 折れた指の血の溜まり腫れ上がった部分の感触も、これまた例えようがなく心地良い物である。
それに思わず満面の笑みを浮かべながら、そう言って、幽香は残る片手で、権兵衛に触れる。
伝わってくる体温に頬を染めながら、幽香は、己の嗜虐性の全てを解放した。



   ***



 はっ、と、不意に幽香は正気を取り戻した。
それは果たして、幽香の嗜虐性が全てで尽くしてしまったからなのか、それとも単に狂気に振れ幅みたいなものがあって、急に正気側に戻ってきただけなのか、それは分からなかったけれども、兎も角。
跨っている下には、原型を半ば失いかけ、真紅に染まった権兵衛があった。
自分の意志とは無関係に、幽香の体がぶるぶると震えてくる。
違う。
違う、私じゃない、私はそんな事したくなんてなかった――。
そんな事を内心でつぶやきながら、ぶるぶると震えながら両手を顔の前に持ってくる。
それは権兵衛の血でグチャグチャに濡れており、それは明らかに下手人を幽香と示していて。

「ち、違うの。わ、私、ただ、権兵衛が離れていくのが悲しくって。で、でも、だからって、こんな、こんな事するつもりじゃ――」

 返事はない。
代わりに、血の泡がぷくぷくと音をたてるだけである。

「ここから出て生活するのだって、そ、その、私、応援するつもりだった。それは、も、勿論、寂しいけど、権兵衛の為だからって――」

 返事はない。
ただ椅子からピチャピチャと血の零れ落ちる音が返ってくるだけである。

「こ、こんなつもりじゃなかったのよ! し、信じて、権兵衛。わ、私、貴方の事を傷つけたりしようとなんか、少しも思って――」

 返事はない。
ただ、無慈悲に幽香の声が反響するだけである。

「ご、権兵衛? もしかして、死――」

 その先にある言葉を飲み込み、幽香は恐慌に囚われそうになった。
ぶるぶると頭を振り、その考えを頭から追いだして、権兵衛の口元に耳をやる。
ひゅー、ひゅー、と言う、薄いが確かな、呼吸音。
ほっ、と安堵の色に顔色を変え、顔を離すと、丁度権兵衛が腫れ上がった瞼の間から、薄目をあけている所だった。

「よ、良かった、権兵衛。も、もしかしたら、し、死んじゃったんじゃないかって思って……。良かった、本当に良かった……」

 言いつつ、もし権兵衛が死んでいたらと言う余りにも恐ろしい想像に、幽香の目から涙が溢れる。
傷ついた権兵衛をこれ以上刺激しないよう、優しい手つきで権兵衛に抱きつき、頭を撫でた。
それに反応し、ぴく、と何度か目を開け閉めする権兵衛。

「あのね、権兵衛、そ、その、ううっ、本当に、私、何もする気は無かったの。一発だって、殴るつもりなんて無かった。ましてや、こ、こんないたぶるような事なんて――」

 言っていて、なんて信憑性の無い事だろう、と幽香は思った。
権兵衛には暴力こそ振るっていなかったとは言え、あの妖怪どもを嬲っていた所が初対面である。
それを思うと、権兵衛をいたぶるつもりなど無かったと言う事は、毛程も信じられない事だろう。
何せ、幽香自身、こんなにも自分が穏やかになれるなんて、権兵衛と出会うまでは信じられなかったのである。
当然信じられないのが道理であり、普通であると、言うのに。

「あ――」

 こくん、と。
僅かにだが、権兵衛が頷くのを、幽香は感じた。
そればかりか、ゆっくりと、本当にゆっくりとだが、曲がってはいけない方向に曲がっている腕を持ち上げて。
権兵衛は、折れている指で幽香の頭を、少しだけ撫でた。
血が髪に絡みつくけれど、そんな事気にならないほど、その手は暖かくて。

「ごん、べえ――」

 ありがとう、と。
涙を零しながらそう言おうとした、その瞬間であった。
ぱたん、と、権兵衛の手が地に落ちた。
首から力が抜け、瞼が閉じた。

「――え?」

 疑問詞をあげるも、今度ばかりは返事はない。
僅かに揺さぶってみるも、反応すらなく。
慌てて息を確かめてみれば、そちらはあるのだが、顔のうち鮮血で染まっていない部分は、真っ青で。
まるで、と、幽香は思ってしまう。
まるで、死にかけているかのようで――。

「い、嫌だ! 死んじゃ嫌よ、権兵衛っ!」

 思わず叫ぶものの、だからと言ってどうにもならない事は、権兵衛を嬲った幽香自身が一番分かっている。
ならば治療か、とも思うものの、長らく怪我とはご無沙汰な幽香は救急箱など持っておらず、例え持っていたとしても、今の権兵衛はそう簡単には治せない。
ならば医者にか、とも思うものの、幽香は人間の医者など一人も知らず、数年前に幻想入りしてきたと言う迷いの竹林の医者も知古ではなく、そも、永遠亭の場所すら知らない。

「嫌だ……! 権兵衛、権兵衛、権兵衛っ!」

 動転して叫ぶ事しかできないままに、ただ時間だけが過ぎてゆく。
いっそ行ったら見つけられるかもしれない、と賭けて、迷いの竹林にでも行ってみるか?
いや、幽香は妖怪として強力な力こそあるものの、そういった感などについては普通の鋭さしかないし、そも、幽香自身悪名高い妖怪である。
もしも喧嘩を吹っかけに行ったと思われれば、権兵衛の命は持たない。
感。
感――。
はっと、幽香の頭の中に思い浮かぶ物があった。
幽香の数少ない知古である、紅白巫女。
博麗霊夢。
あれであれば傷ついた人間を見捨てる事はないし、やたら妖怪に好かれる質だから、永遠亭の医者とやらとも知り合いであるのではないか。
そう思うと居ても立ってもいられず、幽香は権兵衛を担ぎ、急ぎ外に飛び出す。

「権兵衛、もうちょっとだけ頑張ってね、権兵衛、あの巫女ならきっと何とかしてくれるだろうから!」

 結界で風の影響を避けつつ、全速で幽香は飛ぶ。
幸い、権兵衛の様態はそう悪くないようで、体温が急に下がる事も無いまま、暫く飛ぶと、博麗神社が見えてきた。
道中、権兵衛に声を掛け続けてきたからか、喉が痛いが、そんな事は言ってられずに、幽香は叫ぶ。

「権兵衛、もう神社が見えてきたから。もうすぐよ、大丈夫よ!」

 そして幽香は、博麗神社の境内に降り立った。
ゆっくりと権兵衛をその場に下ろしつつ、軽く辺りを見回し、霊夢が見当たらないのを見て、声を上げようとする。
上げようとして……一瞬、躊躇してしまった。
ここで声をあげて、自分はどうするのだろうか。
どうせあの感の鋭い巫女である、声をあげたところで、権兵衛が見つかるまで、彼の様態が変わる程の差はあるまい。
問題は、それからどうするかである。
当然、此処に来るまでは権兵衛が気がつくまで付き添うつもりで来た幽香なのだが。
不意に、こんな悪寒に襲われた。

 これでもし、権兵衛に嫌われていたら――自分はどうすればいいのだろうか、と。

 そう思ったが最後、石にでもなったかのように、幽香は動き出せなかった。
確かに先程は、権兵衛が幽香の言い訳に頷き、肯定してくれたかのように思えた。
だが、ただでさえ、意識が朦朧としていただろう時の事である。
その上、加害者たる幽香を刺激しない為、つまりこれ以上傷を負わない為に、幽香に同意してみせたのかもしれない。
一度そう思うと、その恐れは幽香の奥底にこびり付いて、離れなかった。
思わず権兵衛の罵声を想像してしまうと、恐ろしくて恐ろしくて、ぶるぶると体が震えだし、己を抱きしめなければ立つことすらもままならない。
結局、どうするのか決めれずに一人ぶるぶると震えているうちに、幾つか足音が聞こえてきて。
反射的に、幽香はその場から飛び立っていた。

「はぁ、はぁ……」

 暫く無心で飛び続け、気づけば、幽香は家までたどり着いていた。
ゆっくりと地面へ降り立ち、ふらふらとした足取りで、家の壁へと縋りつくように体重を預ける。
自然と涙が溢れてきて、ぽたぽたと地面に落ち、幾つか染みを作った。
確かに、権兵衛に嫌われていたら――と思うと、怖くて仕方が無い。
想像してみる。
冷たい視線で自分を見る権兵衛。
怒りをあらわに、罵声を浴びせる権兵衛。
――己に殴りかかってくる、権兵衛。
どれもが恐ろしくて仕方がなく、がくがくと震える足に、ついに幽香は土に尻をついた。
とうとう首を支える力すらも無くなってきて、天を仰ぎ、頭の体重も壁に預ける。

「違う、そんな事、無い、筈……」

 何とか開いた唇も力はなく、声は尻すぼみだった。
確かに権兵衛は幽香の言葉に頷いてみせたが、ほんの僅かでしか無かったし、単に縦に揺れただけなのを勘違いしてしまったのかもしれない。
頭を撫でようとしてくれたが、それは殴ろうとしてあまりの力の無さに失敗してしまっただけなのかもしれない。
そう思うと、権兵衛に嫌われているかもしれない、と言う現実を否定する言葉は、幽香の中から湧いてでなくなってきた。

「ゆ、許してください……お願いします……」

 そしてなにより、己自身が情けなかった。
本当に権兵衛の事を想っているのならば、なにより権兵衛が心配で、あの場を離れる筈が無かったのだ。
それなのに思わず逃げ出してしまった自分が、本当に惨めで惨めで、顔中から涙や鼻水がボタボタと溢れでてくる。
私は、なんて惨めなんだ。
私は、なんて愚かなんだ。
そう思ううちに、ふと、幽香は思いついた。
思いついて、しまった。
権兵衛に、嫌われるとする。
となると、当然の帰結として。

 もしかして私は、二度と権兵衛と会えなくなるのではないだろうか?

 生来最大級の悪寒が、幽香を襲った。
思わず自らを抱きしめ、それでも震えは止まらず、全身ががくがくと震える。
すうっと四肢から順に体温が無くなってゆき、体を掴む、その指の感覚ですら怪しくなる。
権兵衛に嫌われてもいい。
罵声を浴びせられてもいい。
殴られたって、構わない。
でも、権兵衛と二度と会わない事だけは、耐えられそうになかった。

「ご、ごめんなさいっ! ううっ、ごめんなさい、ごめんなざい、うっ、ごめんなざいっ!」

 鼻声でしゃくりあげながら叫ぶ幽香。
しかし同時、その希望が叶わないであろう事を、他ならぬ幽香自身が承知していた。
何せ幽香は、権兵衛を徹底的にいじめぬいたのである。
それも、もしかしたら死ぬんじゃないかと思ってしまうぐらいに。
多分、多くの人妖をいじめてきた幽香の目から見ると、生き残れはするだろうが、もしかしたら障害が残るかもしれないぐらいに。
そればかりか、幽香は言い訳をしてたが、その言い訳すらも信憑性が無い。
何せ権兵衛を大切と言う当人が、その権兵衛よりも権兵衛に嫌われる空想を恐れて、大怪我をした権兵衛の側を離れてしまったのである。
例え先の言い訳を権兵衛が信じていたとしても、再び幽香を嫌うのに十分な理由であった。

「な、なんでも、じまず、がらっ! ゆ、ゆるじでぐださいっ!」

 決死の願いを込めて、空へ向けて幽香は叫ぶ。
しかし、喉を痛めながら叫んだその言葉には、当然の如く返事は無い。
ただただ、空虚な沈黙がその場に横たわるばかりだった。
自然、力が抜けて、視線が下がってゆく。
丁度その先には、権兵衛が世話をしていた、小さく白い花が群生していた。
涙で滲む視界の中でも、その白い花弁は緑の背景に鮮烈に浮いてみせて。

「あ……」

 ふと、幽香は何時しか会った閻魔の言葉を思い出す。
紫の彼岸桜の下、休憩したいだけと言う幽香に、閻魔は言った。
こんな所で休んだらおかしくなってしまう、いや、貴方は少しおかしくなっているのかもしれない、と。
それから。
桜は、本当は白色になりたいと、思っている、とも。

 改めて、幽香は思い知る。
私も同じように、白色になりたかったのだ。
温和で優しく、穏やかになりたかったのだ、と。
それを思うと、それを成し遂げてくれた権兵衛が、どれほど自分にとって尊い存在だったのか分かって。
そしてそれを自ら引き裂いてしまった自分が、どれほど愚かな存在だったのか身に染みて。
新たに、幽香の目尻から、大粒の涙が零れ落ちる。
完全に体中が脱力し、気力も果て、ただただ呆然と、しかし残る力全てを振り絞り、幽香はこう願うしか無かった。

「ぜったいに、わたしを見捨てないでください、権兵衛」

 それがどれほど難しく、どうしようもない願いだと知りつつも。
そんな幽香の前で、瑞々しく花弁を開いた小さい白い花は、その鮮明な白を見せつけるかのように、ゆらゆらと風に揺れていた。
何時までも。
何時までも。




あとがき
二分割と言いつつ、1の二倍の分量になりました。長い。
次回以降博麗神社編ですが、霊夢のターンと言う訳ではありません。



[21873] 博麗神社1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:44


 秋の日差しの中。
紅葉の朱と黄の葉の間から、ぽろぽろと枯葉が舞い落ちる。
風に吹かれて地面の枯葉が舞い上がるのを眺めながら、博麗霊夢は神社の縁側でお茶を飲んでいた。
その隣には、担いできた薬箱を隣に置いて、何やら作業をしている鈴仙が居た。

「全く、神社に置き薬なんているのかしら」
「転ばぬ先の杖よ」
「飛ばない豚はただの豚。使わない杖なんて、ただの樹の枝と変わらないわ」
「つまり食料って事かしら」
「なんて言っても、一昨年は月兎……じゃなくって、狐狸を助けるのに使ったんだっけ。やっぱり必要よね」
「食べれないって事。残念ね」

 と言う事で、ため息混じりに鈴仙は、置き薬のうち減った物や、期限の切れた物を入れ替える。
一応博麗の巫女である霊夢は怪我をしていれば人でも妖怪でも助けるし、人が妖怪に襲われていれば、それが外来人でも助ける。
その際傷を負っていれば、その治療ぐらいはする為、薬を常備してあるのだ。
実際、いくらか薬が減っているのを見るに、ある程度人助けを行っているのだろう。
普段の所を見ているとそうは思えないんだけどなぁ、と思いつつ、淡々と薬を入れ替える鈴仙。

 権兵衛が永遠亭を去ってすぐ、鈴仙は権兵衛の観察をしようとして、権兵衛の家が壊されていたのを知った。
それ以降、里をどうするかは置いておいて、兎に角空き時間を使って権兵衛を探してきたのだが、見つからないままである。
輝夜と永琳がてゐを使って指示し、妖怪兎達にも探させているが、矢張り見つからない。
そんな訳で最近焦れている鈴仙なのだが、人手は十分となると、矢張り普段の作業を滞らせる訳にも行かず。
恐らく権兵衛の家を壊したのであろう里人になど薬をやる価値は無い、と鈴仙は考えていたが、永琳は別の考えがあるようで、少し薬の種類を変えるだけで、そのまま置き薬の販売を続けるよう言い渡した。
となると、鈴仙としては、従わざるを得ない。
時間が許す限り権兵衛を探したい衝動を押さえて、歯がゆい思いをしつつ、永琳の助手や置き薬の販売を続けている鈴仙なのであった。

 矢張り権兵衛の事を思うと、温かい気持ちになる反面、心配で仕方なくて、切ない気分になる。
そんな切ない気分でため息をつきつつ、鈴仙が置き薬を入れ替えおえて、さて、そろそろここを出るか、という、そんな折だった。
どすん、と何か重い物が落ちる音がした。
ぴくり、と二人して動作を止める。

「今の、何の音かしら」
「……裏、かしらね。なんか、早く見てこないとまずい気がするわ。行くわよ」

 お茶を置いて立ち上がる霊夢の姿に、続いて鈴仙も立ち上がり、その背を追いかける。
何せこの巫女の勘と言う物は、勘だけであらゆる異変の首謀者を見つけ、懲らしめてきた実績ある凄まじい物なのだ。
その彼女のまずい気がする、と言うのは大抵一刻一秒を争うようなまずさである。
慌てて霊夢を追いかけ、角を曲がると、そこには鈴仙が想像だにしなかった光景があった。

「――ご、権兵衛……さん?」

 それは、奇しくも紅白に彩られた光景だった。
血にてらてらと濡れた肌は不気味に膨れ上がり、いくらかの場所では肉の赤が見え隠れしており、それと同じぐらい骨の白がちらちらと覗いている。
呼吸はしているのだろう、上下する胸と、比較的無事な下半身が、それがまだ生きているのだと辛うじて示している。
倍に膨れ上がろうかと言う顔は権兵衛の識別を難しくしていたが、それでも毎日穴が開くほど権兵衛を見てきた鈴仙は権兵衛の骨格を含め、肉体のほぼ全てを把握している。
あぁ、これは権兵衛さんの足だ。
あぁ、これは権兵衛さんの腕だ。
あぁ、これは権兵衛さんの、顔だ、唇だ、耳だ、鼻だ、鎖骨だ、胸だ、乳首だ、ヘソだ、尻だ。
一瞬、現実逃避の思考が目の前の肉塊と権兵衛を結びつけるのを拒否しようとするが、瞼の裏に焼付かんばかりに見つめてきた権兵衛の姿が、それを拒絶し、これを権兵衛と認める。

「権兵衛さんっ!!」
「って、そっとやらないと駄目でしょっ!」

 絶叫し、訳もわからないままに抱きつこうとした鈴仙を、辛うじて霊夢が止めた。
刹那暴れようとした鈴仙だが、霊夢の言葉をどうにか飲み込み、権兵衛に駆け寄り、その変わり果てた体を触診するに留める。
ざっと見るに、幸い、臓器が破裂したり、折れた骨が突き刺さったりはしていないようだ。
これなら自分でも何とかしようと思えば何とかなる程度だと思いつつも、習慣で権兵衛を結界で包み、状態を維持したまま運ぼうとして、ふと鈴仙は動きを止めた。
待て。
このまま権兵衛を永遠亭に連れて行ったら、どうなるだろうか?
鈴仙の脳裏に、憎悪に満ちた永琳の顔が蘇る。
権兵衛の失踪を告げた時、輝夜は焦りを顕に永遠亭を飛び出そうとして止められながら暴れ、てゐはストンと表情を抜け落としたようになって凄まじい速度で妖怪兎に指示を出し始めた。
そこで永琳はどうだったかと言うと、今までにない程の憎悪で塗りつぶされた、般若のような表情となったのだ。
そのあと輝夜を留めて指示を出す姿こそ理性的であったが、その表情は溢れんばかりの激情に満ちていて。
鈴仙の目に、それは逃げ出した憎い解剖材料への憎悪にしか見えなかった。
だから、思うのだ。
このまま権兵衛を永遠亭に連れてゆけば、今度こそ輝夜の知らぬうちに、権兵衛は解剖されてしまうのではないだろうか。
輝夜も頼りになるかと言うと、権兵衛をいきなり殴り、永遠亭を追い出したのもあの女なのだし。
そう思うと気が気でなく、権兵衛を運ぼうと言う手を、思わず止めてしまう鈴仙。
僅かに、息を吐く。
狂気の瞳で四方八方を見やり、術で監視されていない事を確かめる。

「あれ? どうしたのよ、早く永遠亭に連れて行かないと……」
「お願い、霊夢っ! 権兵衛さんを、ここで治療させてっ!」

 故に。
鈴仙は、今度こそ権兵衛を助ける勇気を出そうと、霊夢へ切り出した。

「詳しい訳は私にも分からないんだけど、今の永遠亭は権兵衛さんにとって危険なの。でも、中立地帯の此処なら、手を出す事はできない。だからお願い、権兵衛さんをここで匿ってっ!」

 永琳への恐怖に震えながら叫ぶ鈴仙に、眉間にシワを寄せる霊夢。
僅かに考える様子を見せると、嘆息し、諦めたように告げる。

「確かに、この権兵衛さんって人を永遠亭にやるのは……嫌な予感がするわね。匿うのも嫌な予感がするけど、まだマシかなぁ。仕方ない、匿ってあげるわ」
「あ、ありがとう、霊夢っ! 恩に着るわっ!」
「いーから治療してやりなさいよ。あ、なるべく家を汚さないようにやりなさいよ」
「うん、分かったわっ!」

 霊夢の言を右から左に流し、急いで権兵衛を浮かし、神社の中へと連れてゆく。
幸いにして、これから権兵衛を探しにゆくつもりで、その際もしもの事を考えて一通りの治療用具は持ち歩いて来た。
種々のメスやハサミ、ピンセット、糸などは、足りない物もあるものの、霊力を用いて再現できる物ばかりである。
権兵衛を運び、室内に結界を張り無菌状態にしつつ、ふと鈴仙は思い出す。
そういえば権兵衛との初対面も、永遠亭ではなく里の中で、半人半霊に誤って斬られたのを、こうやって鈴仙一人で治す時であった。
そう思うと、もう一度権兵衛と出会えたように思え、僅かに場違いな笑みを浮かべ、それから鈴仙は治療を開始した。



   ***



 薄い午睡のような感覚。
覚醒と睡眠の間。
その境界線上のような、曖昧模糊とした場所に、俺の精神は漂っていた。
何か確りとした言葉を心の奥底から拾い上げ、それについて想おうとするものの、それは既に曖昧な物となって掴み様がなくなっていて、何とも言いがたい物になっている。
かと思えば、急に、ピントを合わせたかの如くぼんやりとしていた物が明確になり、それについて殆ど不随意に感情がふわりと浮かび上がるのだが、しかしやはり、それもすぐに輪郭を無くし、何とも言えなくなり。
そんな事を繰り返しながら、俺は、まるでコーヒーに入れられたミルクのように、確かにそこにある事は変わらないのだけれど、拡散し、輪郭を無くし、ぼんやりとしてゆく。
それは、さながら。
境界を無くしてゆくような。

 しかしそれも暫くすると、確りとした、形ある考えが浮かんでくるようになり、曖昧さが薄れてゆく次第となる。
そんな折でもやはり曖昧なままで、よく分からない、何とも言いがたい物が見えて、それは何と言うか、一言で言えば、目玉だった。
黒目と虹彩を黒縁が覆い、更にその周りを血走った白目が覆い、そして上下の瞼がそれを覆い隠す。
そしてそこからはぴょこんと睫毛が軽いカールをかけて上下に巻かれており、その目玉の輪郭をはっきりとしてみせていて。
目玉。
目玉。
目玉。
幾百幾千幾万もの、目玉。
幾つあるのか数えるのも馬鹿らしいぐらいの量の目玉が俺の全てを覆っており、上も下も右も左も、何処も彼処も目玉ばかり。
ふと、俺は、あぁ、これは赤子の目玉なのだな、と思う。
顔を墨で塗りつぶし、口も耳も糸で閉じられた赤子の生首が、ただただじいっと目玉だけをこちらへ向けているのだ。
それが幾百幾千幾万と犇めき合っており、空間に対して過剰に存在する為、互いにぎゅうぎゅうと押し潰し合い、だから本来薄目な筈の赤子の目玉は、ギョロリと見開いていたり、今にも閉じそうだったり、気まぐれに開いたり閉じたりと、色々になっているのだ。

 ただ一つ、それらの目玉、全てが俺を見ていると言う事だけが、確か。
まるで視線が物理的に存在するかのように確かに、俺は全ての瞳が俺へ向いている事が理解できる。
そのうちぼんやりと視線が眼に見えるようになり、色が付き、その色は紫色だった。
紫色の、どろりとした何かだった。
それが端から俺に突き刺さるのが見えて、それなら視界は紫色一色に染まる筈なのに、不思議と赤子の無数の目玉は視界に入っている。
それは紫色が透過されていると言うより、二重に重なって見えると言ったほうがしっくり来る、奇妙な感じであった。

 そのうち、ぎりぎり、ぎりぎり、と言う音が聞こえる。
無数の音源から、ぎりぎり、ぎりぎり。
何かをこすり合わせるような音で、ぎりぎり、ぎりぎり。
一体何の音だろう、と辺りを見回して、俺は悟る。
この音は、無数の赤子達の、歯ぎしりの音なのだ。
糸で口を縛られて、言葉を出す事が出来ず、だからせめてもの無言の言葉として、ぎりぎり、ぎりぎり、と歯ぎしりをしているのだ。

 不快だった。
しかしだからといって、歯ぎしりの音が不快なのだと分かっても、それが曖昧な事曖昧な事、そう思っていると同時その事実が霧散してゆき、掴みようのない事実になり、そして再びふとした事でその事に気づく。
そんな事を繰り返しても不快さは募るばかりで、どうしようと思ってもどうしようもなく、何一つできないまま漂っていると。
不意に、視界に白い物が入ってきた。

 初めは、風見さんの所で世話した小さい白い花の花弁かと思った。
しかしすぐにどうやら違うと思い、確かめようと手を伸ばすと、それに合わせて白も形を変え、俺の掌へとすっと伸びてくる。
吃驚して手を引いてしまいそうになる自分と、これは安心できる物だと不思議な確信を持った自分がいて、結局俺は、何もしないままその白が俺の手を掴み、指の間に絡まってゆくに任せる。
白は、貴人が付けるような、長い手袋であった。
手袋とその中身は、俺の手を掴み、そっと優しげな力で引き上げる。
釣られて、俺自身もまた、引き上げられていって。

「――あっ」

 ぱちん、と。
目が覚めた。
此処一月程、都合何回目になるのか忘れてしまった、知らない天井が眼に入る。
はてさて、今度は俺は一体何処に居るのだろう、と思いつつ、起き上がろうとして。

「いづっ!?」

 痛みのあまり、再び床に戻る。
全身を覆う、我慢しようがないタイプの痛みだった。
また俺は怪我をしたのか、懲りないものだなぁ、とぼんやりした頭で思いつつ、ふと、起き上がる拍子に感じた視線の方へ目をやる。
目が合う。
視線を辿った先には、呆然とした顔で、俺の事を見つめる慧音さんが居て。

「よ、良かったぁ……。目を覚ましたんだな、権兵衛」

 全身で脱力し、涙をぽろぽろと零しながら、ずるずると椅子に体重を預ける慧音さん。
その姿はよっぽど安堵したのだろうな、と思って、こんなに人の事を心配できるこの人は、凄い良い人なんだなぁ、と、改めてぼうっとした思考で思う。
何せ相手は、この俺なのである。
俺のような、価値のない男を心配してみせるなどよっぽど慧音さんの懐は深い物だと思うし、そんな慧音さんの温情を無闇に引き出している俺は、本当に駄目人間であった。
とりあえず、せめて少しでも動ける所を見せようとして、上体を上げようとする。
が。

「いだだっ!?」

 再び全身を走る激痛に、思わず俺は跳ね上がりそうなぐらいに呻いてしまう。
これが何と言うか、精緻な計算でもされたかのように体中に均等に痛みが響いており、普段ならできたであろう体の一部を動かす事も、ままならない。
当然、失敗である。
とすると勿論、この人の良い慧音さんである、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり。

「いいんだ、いいんだ権兵衛! 寝ていてくれていいんだ。わ、私は、ただ君が無事だったと言うだけで、その、うぐっ、う、嬉しくって……」

 と、俺を心配してみせるばかりか、感極まって涙まで零す事になる。
その姿は断崖絶壁を目前にした人のように悲壮感に溢れており、見ているだけで自然と申し訳なさが溢れてくる。
阿呆だ。
俺は、どうしようもなく阿呆だ。
こんないい人に心配などかけていい筈も無いのに、自分の体の調子一つも把握できずに、涙まで流させてしまって。
そして惨めである。
何せそんな阿呆な事をしでかして、慧音さんを泣かせて、それでいて、彼女を慰める為に指一本動かせない状態なのである。
恩知らずも此処に極まれりと言う事で、せめてもの恥じらいとして赤面しつつ、唯一出来る事である口を動かす事に意識を移す。
しかし、あぁ、口を動かす事だなんて。
俺の苦手分野の中でも筆頭に上がる事だと言うのに。
そんな風に、相変わらず口下手な俺は、せめて相手を不快にさせないよう意識しつつ口を開く。

「――はい、分かりました。こちらこそ、よっぽど心配してもらえたようで、ありがとうございます? でいいのかな?」

 と言っても、よっぽど混乱していたらしく、口から出たのはこんな珍妙な言葉だった。
全く恥ずかしい事この上ないのだが、斜め上なその発言がどうにも面白可笑しかったらしく、ぷっ、と慧音さんが吹出す。

「くくっ、全く、権兵衛にはもう一度寺子屋で生徒役をやって貰わなくっちゃならないかな。普通そこは、心配をおかけしてすいません、とかそんなんだろうに」
「あぅ……。すいません……」

 どうやらツボに入ったらしく、慧音さんはくすくすと笑みを浮かべながら、浮かべた涙を指でこすりとる。
その姿はまるで笑い泣きしていたかのようで、先程の悲壮感はいくらか減じているようで、たまたま道化をできて良かった、と内心で俺はほっとした。
そんな俺を人心地ついたと見たのか、矢継ぎ早に慧音さんは質問を重ねてくる。

「で、どうだ? 喉が乾いたりしたか? ちゃんと水差しは用意してあるぞ? ご飯ならちょっと時間がかかってしまうが。あ、それとも厠か? そ、それだったら、その、一人で行けないだろうからな、私が手伝ってやれるぞ?」
「あ、や、その、ご飯は兎も角、厠は、俺、霊力の扱いを覚えて飛べるようになったので、多分大丈夫かと……」
「そ、そうか……」

 と言うと、気持ちがっかりしたかのように、慧音さんが勢いを減じる。
世話焼きな所のあるこの人なら俺の世話をしたがるかもしれない、と思ってはいたし、俺のほうも流石に不自由なので、失礼にならない程度には世話を受けようと思っていたが、が、流石に厠までと言うのは、羞恥心が勝ったのだ。
とは言え、なんだかしょんぼりした慧音さんを放っておくのには、俺の良心と言うか、後ろめたさが我慢ならず。
丁度喉も乾いていたので、水を飲ませてもらっていいか、と聞くと、まるで尻尾を振る幻視が見えるかのような勢いで慧音さんは頷き、それから自らの姿に思う事があったのだろう、少し顔を赤くしてから、慌てて水差しが差し出される。
すると当然俺は差し出された水差しの先を加えてちゅーちゅー吸う訳なのだが、慧音さんの真っ白な指が、たおやかに水差しを掴み、傾けているその様は、何だか扇情的で、顔が赤面してしまう。
ちらちら視線をやるが、慧音さんはそんな事意識していないでにこにこと笑いながらやっている物なので、俺が過剰に性的な意識をもっているようで、自分がいやらしく感じてしまい、申し訳ない気持ちで一杯だった。
そんな時間を少しばかり過ごし喉を潤してから、少し一息ついて、顔面の熱を放射してから、気になっていた事を口にする。

「それで、その」
「うん?」
「此処って、何処なんでしょうか。永遠亭では、無いように見えるんですが……」

 一応俺の記憶は、風見さんに肩を砕かれた辺りから曖昧になり、風見さんの謝罪の言葉にどうにか頷けた辺りで最後になっている。
その事について思うことはあるが、それは一人で行うべき物であるので、この場は意図的に後に回す事にし、慧音さんの答えを伺う。
するとすぐに、理解の色を浮かべ、あぁ、と慧音さんは一人頷く。

「そういえば、運び込まれた頃から意識が無かったんだっけな。此処は、博麗神社だ。
数日前、誰かが怪我したお前を此処に運んできたらしくてな。
そこで、えーと、事情があってだな。そう、権兵衛、君の怪我が大分酷くてだな、動かさない方が良いとなってな。
丁度居合わせた永遠亭の薬師の弟子が治療をしたそうだ」
「と言うと、鈴仙さんですか」

 と、そう告げた瞬間、慧音さんが僅かに口元を緩めた。
何故だか分からないけれど、慧音さんのような善人の代表格みたいな人の笑みならば、こちらも思わず微笑みたくなってしまうほどの柔らかい笑みであるし、実際に造形もその通りであると言うのに。
何故だか、少しだけ寒気がする。
熱でもあるのかな、と自分の体調を心配するうちに、僅かな沈黙を挟んで、慧音さんが口を開く。

「そう、だな。怪我をして永遠亭に世話になっていたそうだが、矢張り彼女とも面識はあるんだな。……名前で呼ぶぐらいには」
「えぇ、はい。永遠亭では皆さん良くしてくれまして、特にお世話になった四人とも、下の名前で呼ばせてもらうくらいには親しくさせてもらっています」

 これは誇らしい事なので、動かない胸を気持ちだけ張って見せて言う。
何せあの永遠亭の人々はとても尊敬できる人ばかりで、その人達に下の名前を許されていると言うのは、俺には勿体無いぐらい良き事であるので。
すると、何故だか更に僅かに寒気が増え、ぶるりと震えそうになるが、幸いと言うか何と言うか、体が動かない為、寒気に震えて慧音さんを心配させる事も無かった。
はて、どうしたのだろう、と内心で首をひねっているうちに、再び俺は、眠くなってきた。
瞼が自然と重くなり、欠伸は、体に響きそうなので咬み殺すが、それでも慧音さんにその存在は悟られてしまっただろう。
すると何故だか寒気は収まり、不思議と同時に慧音さんも顔から笑みの色を消していた。
気づけば申し訳なさげな顔をして、俺の顔色を伺うように言う。

「まぁ、それはいいとして。その、権兵衛が大変な時だと言うのに、本当にすまないんだが。
私としては、君の傷が癒えるまで、世話をしてやりたいと思っているんだが……。
まぁ、その、なんだ。何もかもを放っておいて、する訳にも行かなくてな。
いや、別に、権兵衛の世話が嫌いと言う訳じゃない、むしろ普段から色々してやりたかったから、都合が良いぐらいでな。
あぁ! 勿論、君が怪我した事が喜ばしいと言う訳じゃないんだ、分かってくれよ。
ただその、権兵衛、君が世話焼かせと言うか、何と言うか、その、なんだ……うん。
まぁ、兎に角。
そんな訳で、私も毎日君を世話しに来る訳にもいかなくて、永遠亭の兎の奴も結構忙しいらしくてな。
そこで、私の友人が暇を持て余していると言うので、彼女に君の世話を頼みたいのだが、いいかな?」

 と、慧音さん。
難しい所であるので、眠気で鈍った思考で、少し考える事にする。
これが軽い物であるなら即答していたかもしれないが、怪我人の世話と言うとこれが結構大変だろうし、慧音さんの友人が俺の容態の変化に気づきでもしなかったならば、俺はその人に大きな十字架を背負わせてしまう事となる。
が、対象は俺なのである。
自虐的な意味では無く、霊力の扱える、俺なのである。
簡単な物なら自己治癒の術も使えるし、容態の変化を霊力で知らせる事も出来、更に厠に行ったりは自分で出来る為、労苦と言う意味でも少なくなるだろう。
それに、折角治した怪我人を放っておく訳にも行かないだろうし、そうなるとこの話を断った場合俺の世話をするのは博麗の巫女様である。
妖怪退治を生業とすると聞く彼女が忙しいか、少なくとも緊急時には忙しくなるだろう事は容易く想像でき、対して慧音さんの友人は暇を持て余していると言う。
慧音さんの謙虚な所を勘定に入れたとしても、矢張りここのところは、慧音さんの友人とやらに甘えておくのが上策と言えよう。
と言う事で、俺は僅かに顎を引き、肯定の意を伝える。

「是非、お願いします。俺として、看病してくれる人が居るのは、心強い物なので」
「そうか……良かった。それなら、そう伝えておく事にするよ。それじゃあ、権兵衛、眠いんだろう? 遠慮無く寝て、早く傷を治すといい」

 俺は再び首を縦に振れるだけ振ると、慧音さんのお言葉に甘えて、重くなってきていた瞼を閉じる事にする。
しかし、この体と言う物は相変わらず言う事を聞いてくれず、眠くなったのですぐに寝れるかと思ったが、そうでもなく、むしろ寝ているんだかいないんだかよく分からない、曖昧な境界の上に意識が立つ事となってゆく。
早く怪我を治す為にも睡眠を多く取ったほうが良いと理解こそできているものの、実践ができないのではお粗末と言う物である。
兎に角寝よう寝ようと意識してみたり、羊の頭数を頭の中で数えてみたり、そんな事を繰り返してみるものの、中々眠りにはつけない。
そうこうするうちに頭の中にぼうっと思い浮かんでくるのは、矢張り、風見さんに対する、申し訳なさであった。

 俺を嬲っていた時、確かに風見さんは嗜虐的な笑みを浮かべていたが、同時に、正気に戻ったと思わしき時、涙を顕に俺に謝り続けていたのも確かである。
とすると、俺を傷めつける行為は、風見さんにとって本意ではなかったのだろう。
それは普段の彼女の優しさに溢れた仕草を見るに、明らかである。
であれば、風見さんに俺が嬲られた出来事は、俺にとっても、彼女にとっても、善果をもたらさず、悪果であったとなる。
して、その悪因は何かと言えば。
切欠は、明らかに俺が切り出した話に間違いない。
何せそれまでは妖怪の襲撃と言うアクシデントこそあったもの、基本的に上手く行っていたのである、当然と言えよう。
で、なら俺がずっと風見さんに一方的に世話になっていれば良かったのかというと、これもまた悩ましい所である。
俺は所謂ヒモ状態だった訳だが、これが健全な状態かと言えば、勿論不健全であると答えが返ってくるだろう。
それを正すのは、基本的に善事である。
が、何故俺如きが離れると言う事に風見さんが取り乱したのか、まで理由を探るとすると、また違う事となるだろう。

 さて、まず、俺は風見さんの元を離れると言う事で、彼女を一人きりに戻す事になるのだが、普通、それだけで人は取り乱す物だろうか。
何せ離れると言ったのは、この俺である。
口下手で、半ば以上村八分にされると言う程対人関係に疎く、それどころか絶望して自死をすら思っているような、果てしなく面倒くさい男である。
そんな、常人であれば邪魔に思うしか無い鬱陶しい存在が離れただけで、風見さんは取り乱したのだ。
それは偏に、彼女が非常に寂しがっていたのであろう事を指し示していたのではないか。
俺は、それを察する事が出来ずに、彼女から離れてゆく事を示す言葉を吐き、彼女を傷つけてしまったのだ。
それを思うと、他にもっとやり方はあり、もっとゆっくりと離れてゆく方法があったのではないか、と思ってしまう。

 それに、何故気づけなかったのか、と言う事を思うと、俺の罪は重くなるばかりである。
これが常人であればまだしも、風見さんの相手は俺だったのである。
半年近く、誰とも関わらない生活を続けて、孤独の辛酸を味わい続け。
その上で蜘蛛の糸の如く垂れる慧音さんの貴重さを誰よりも思い知り。
更には再び全てから見捨てられ、絶望に自死すら思い。
そしてなにより、そこで風見さんに人の暖かさを思い知らされた、この俺である。
当然他人の孤独にも敏感であって然るべきだというのに、俺は全く気づかずに風見さんと一端離れようと口にし。
果たして何の学習もしていなかった、痴呆の如き所業を、顕にして。

 何と俺は、惨めな事だろうか。
人は、学ぶ事が出来る。
何時しか俺が慧音さんに言った台詞であり、俺の希望の源泉の一つである。
こんな惨めな俺でも、物事を学び続けていく内に、恩返しをできるような、真っ当な人間になれるのではないか、と言う希望。
確かに俺は、霊力だの何だのと言う点ではそれを多少なりとも実践できていたかもしれない。
しかし最も大切な、人との関わり方において、俺は何の学習もしていなかった事を、見せつけてしまったのだ。
愚かであった。
惨めであった。
だが、そう思い続けて、心から希望を無くす事は、それ以上に愚かで惨めなのだと、俺は風見さんに教わったばかりなのである。
それを忘れるような行いは、今まで以上の悪行だろう。
なのでせめて、自虐の念を忘れずとも、それで希望を無くす程に自分を打ちのめす事の無いよう念じつつ、俺はゆっくりと境界の眠りの側へ、意識を移してゆくのであった。



   ***



 始りは、土下座して頼み込んでくる月兎の言からであった。

「お願い、力を貸してくださいっ!」

 と言う鈴仙によると、権兵衛は八意永琳に疎まれ特別に解剖したがられており、恐らく永遠亭にゆけばそれを逃れる術は無い、との事だった。
勿論中立地帯である博麗神社に手を出すような迂闊な真似はしないだろうが、あの人の良い権兵衛である、甘い言葉を一つ二つ投げかけてやれば、あっさり騙され永遠亭に連れて行かれてしまうだろう。
一応鈴仙も慧音も普段どおり生活して誤魔化すが、何時権兵衛が見つかってしまうか分からない。
その時防波堤となるのに、亡霊姫や半人半霊では相性が悪く、半獣では力が足りず、巫女は中立であり、故に輝夜と殺し合える実力を持つ貴方にしか頼む事はできないのだ。
との事であった。
それだけであれば妹紅は首を縦に振るか横に振るか迷っただろうが、最近輝夜と殺し合っておらず暇だった事や、その場に居た慧音の後押しもあり、権兵衛と言う男の護衛兼世話を妹紅は引き受ける次第となった。

 正直面倒だと思わないかと言えば、嘘になる。
妹紅は元々社交的な性格ではないし、不老不死故に人に恐れられ、妖怪どもを殺し続けた時期がある故に妖怪にも恐れられており、マトモな人間関係と言えば慧音に一方的に世話を焼かれるだけである。
だと言うのに、権兵衛とか言う男の側にいて抑止力となれ、と言うのは、ちょっと不安な所があった。
そも、その男の人物評として、慧音も鈴仙も権兵衛を善人と言うが、彼女らの言葉をまるごと信じると此処千年で出会った事も無いような男であると言う事になり、二人には悪いが、ちょっと疑わしい。
不老不死となって千年、妹紅は人の美しい所も見てきたが、それ以上に醜い部分を見続けてきた。
それを思うと、二人の言うように害意を全く持たない聖人のような性格をしており、それでいてちょっと惚けていて愛嬌のある人間など、居る筈が無い、と言うのは妹紅の結論である。
だと言うのにそんな像が伝わってくるというのは、不気味の一言に尽きた。
そんな不気味な人間と、どうやって付き合っていけばいいのやら、と嘆息しつつも、慧音を焚きつけ、力を貸すと豪語した当人である、仕方無しに妹紅は権兵衛の世話に出向く事になった。

 さて、正直なところ、そんな事情から淡々と事務的に権兵衛の世話を済ませたいと思わないでもないが、慧音への義理もあり、親身になってやったり慧音を推しておくべきか、などなど複雑な心持ちで権兵衛の世話をしにきた妹紅である。
ポッケに両手を突っ込み背筋を少し曲げながら、えっちらおっちらと神社前の階段を上り、事前に事情を幾らか話して了解を取ってあった紅白巫女に軽く一言二言、それから権兵衛の眠る部屋にたどり着き。
複雑な内心から、重くなりがちな手をどうにか引っ張り上げて、襖を開いて。

「――あ、どちら様でしょうか?」

 余程暇していたのだろう、すぐに反応があった。
体中そうなのだろう、木乃伊男のように包帯でぐるぐる巻きになった男の顔が、布団からはみ出ていた。
包帯の上からでも分かるほど、顔はでこぼこと腫れており、余程酷い怪我だったのだろう、とすぐに分かる。
不老不死には久方縁のない物であるので、この怪我の程度がどれほどかは見て分からないが、鈴仙の言を聞くなら相当に酷い物となるのだろう。
だと言うのに、不思議と男には、怪我やら病気やらで弱った人間特有の弱々しさと言うのを感じ無かった。
まるで、怪我を屁とも思っていないかのような。
そんな風に浮かんできた、初対面には失礼であろう感想を、内心頭を振って頭から追い出す妹紅。

「私は、妹紅。慧音から、あいつの友人が暇つぶしついでに世話に来るって聞かなかったかい? そいつだよ」
「あぁ、成程。生憎立ち上がれないもので、寝ながらと失礼しますが、外来人の、七篠権兵衛です。これからよろしくお願いします」
「ん、こっちこそよろしくね」

 と言いつつ、妹紅は包帯で隠れている上腫れている権兵衛の、元の顔を想像する。
まぁ、慧音の言う所の、三割引と言う所が妥当だろうか。
と言うのも、慧音の言う権兵衛をそのまま受け入れていると、絶世の美男子となってしまうので、今見えている分でもそこまでではないと分かるのである。
全く、惚気話も大概にしてほしいものだ、と内心苦笑しつつ、妹紅は権兵衛の布団の近くに座布団を引っ張ってきて、その上に座った。
権兵衛に目をやると、目で妹紅を追っていたのだろう、目がぴたりと合う。

「ん、そうね、基本的に私は此処で座って本を読むなり、ぼうっとするなりしているから、何かあれば、すぐに声をかけてくれていいわ。
ご飯を作る頃には、紅白……霊夢の手伝いに行くから、その時だけは居なくなるけれど、勘弁ね。
厠は、月兎に聞いたけれど、オムツと尿瓶で……」
「いえ、飛べるんで、頑張って自分で行きます」
「あぁ、そうかい。ならまぁ、構わないんだけれど」

 と、断固とした表情で言う権兵衛に、それなら、と妹紅は一歩ゆずる。
それから座布団の上で胡座をかき、妹紅はポケットから文庫本を取り出した。
外の世界の書籍である。
大量生産されるようになった書籍は、出版される本の種類も幾多に増え、結果として絶版となり、幻想と成り果てるまでの期間も短くなり始めた。
故にか香霖堂に行けば、何かしらの言語で書かれた文庫本が置かれており、内容を選り好みしなければ、手の届く値段で手に入る。
と言っても人の口が発展し名作が埋もれづらくなった外の世界からこぼれ落ちた幻想である。
本当に内容は選り好みできないようなもので、貪欲な活字中毒者か、余程の暇人ぐらいしか手に取らないのだが。
当然妹紅は後者である。
勿論暇と言っても、おいおい権兵衛の人柄を見て、慧音に相応しいと思えたら慧音の応援ぐらいしてやるつもりなのだが、それはまぁおいおいやっていけばいいと妹紅は思っていた。
何せ、妹紅は不死人である、気の長くなければ務まらない人種である故に。

 ――暫く、妹紅が紙を捲る音と権兵衛の僅かに荒い呼吸の音だけが、空間に満ちる。
時折外を掃除しているのであろう、巫女が箒で掃き掃除をする音やら、お茶を淹れるのに湯を沸かす音やらが聞こえたりする中、静かな時間が経過する。
権兵衛であるが、最初こそは急に現れた妹紅に落ち着かない様子を見せていたが、沈黙を苦にする人種では無いのだろう、すぐに慣れてきた様子で、口を開く事なくじっとしていた。
ふと、文庫本の章替わりの頁を捲る所で手を止め、妹紅はじっと権兵衛の事を見つめた。
ぼうっと呆けた瞳で中空を眺めるその姿は、何と言うか、見ているとすっと手を差し出してやりたい姿であった。
見ていると、胸を打たれるような、そんな可哀想な瞳で、ただただその男は天井を眺めているのである。
何とも、哀愁があると言えばいいのか、哀れであると言えばいいのか、何といえばいいのか分からないけれども。
少なくとも、可愛らしさとかそういう物とは違う部分があるのは確かだろう、と妹紅は思う。
何せ、流石に傷だらけの木乃伊姿では、可愛らしさというものは感じられぬ故に。
さてはて、これが慧音の言う権兵衛の魅力であるのか、それとも長生きしている自分が説教癖を発揮し出したのか、と思いつつも、ついつい口から言葉がついて出る。

「所で」
「――あ、はい」

 呆けていた様子の権兵衛が、僅かな間隙を空けて返事を返し、妹紅へ視線をやる。
文庫本の呼んでいた頁に指を挟んで下ろし、視線を受け止める妹紅。

「家を――里人に壊されたんだろうってのは、私も見て知っている。それから、どういった経緯で、こんな大怪我をするまでになったんだい?」
「えーと、ですね」

 言葉を選びながらなのだろう、所々つっかえながらだが、話し始める権兵衛。
それによると、権兵衛は、里人が家を壊し終わる所に、丁度永遠亭から私事で離れる次第となって、戻ってきてしまったのだと言う。
丁度慣れぬ霊力も使い果たしてしまった所で、嘲笑われ、何も出来ぬままに、どうすればいいのかも分からず、放浪を始めたのだとか。
そこで夜中になり、妖怪に襲われた時、為す術もない権兵衛を助けてくれたのが、優しい妖怪筆頭である、風見幽香だったと。

「待て待て」
「えっ? その、すいません、何がでしょうか?」

 こてん、と首をかしげてから、痛みに悶える権兵衛の姿は、嘘をついているようには見えない。
千年かけて自然と人の嘘が分かるようになってきた妹紅にとってもそれは確かであり、するとあの、宴会でたまに見る物騒そうな妖怪が、優しい妖怪筆頭――?
自然、胡乱気な目で権兵衛を見やる妹紅。
何せ幽香は、宴会でも妹紅が輝夜に対して弾幕ごっこを挑む頻度以上に、他者と弾幕ごっこを行っている、物騒な妖怪である。
意外な一面と言うのもあるのかもしれないが、それにしたって優しい妖怪筆頭は言い過ぎだろう。
そんな妹紅の思いが滲み出てしまったのか、権兵衛が、無事な部分を目一杯使って、不満げな表情を作る。

「……その、本当に風見さんは優しい方なんですよ?」

 顔が無事であれば、ぷくぅ、っと頬をふくらませていただろう所作に、思わず苦笑気味になる妹紅。
するとやれ、凝った料理を嬉しそうに作ってくれただの、やれ、花の世話を凄い優しそうにしていただの、と幽香の優しさとやらを権兵衛が語り出す。
わかったわかった、と流し、続きは、と妹紅が催促すると、渋々と、権兵衛は口を開いた。

「それで、えっと、風見さんの不在時になんですけれど、俺を襲った妖怪が風見さんに嫌がらせをしようと、家を襲いに来て。
俺はそれに応戦して、その、えーと、や、やられちゃって。その、それで、気づけば此処で治療されていた、という事になります」

 視線をふらふらさせながら言い終える権兵衛に、嘘だな、と妹紅は断ずる。
これまで割りと流暢だった口がいきなりどもりがちになり、しかも内容も一気に曖昧になっている。
慧音の言っていた、素直で騙されやすいっていうのは本当なんだな、と実感しつつ、妹紅はじーっと権兵衛の目を見つめた。
口元が、きゅきゅ、と縮まり、次いで皮膚を動かすだけでも痛みが走るのだろう、一瞬目を細める。
それからそろそろと視線を逸らし、気まずそうにヒヨコ口を作る。
あぁ、こいつの嘘って分り易いなぁ、と実感しつつ、妹紅はため息をつき、その部分における詰問を終えた。
別にそこの仔細は妹紅の知りたい所では無い。
問題は。

「さて、ちょっと聞き辛い事を聞くけれども。権兵衛、あんた、里との事、どうするつもり――?」

 権兵衛の、里人への心象である。
無論悪い事は分かりきっているが、それでも慧音が権兵衛と里人との関係に酷く心を痛めていた事を思うと、少なくとも権兵衛側からだけでも再建可能な状態にあって欲しい、と思う。
それで里からの心象が変わると思うほど初な心を持つ妹紅では無かったが、それでも慧音の心の助けになれば、との一念から、確かめる事にしたのだが。

「……当分は、距離を置くしか無い、と思っています」
「へ? あぁ、うん」
「その、家を壊されるまでに俺は里に取って害であると、事実はどうあれそう思われてしまっているのですから。
とりあえずこの冬は、放置された山小屋なりを探して、そこで温度を分ける結界でも張って、やり過ごそうと思っています。
幸い、俺はある程度霊力を扱えますので、里の方達が手を出せない奥地の山の幸を手に入れられますし。
それに、お金の方はあるので、顔見知りを伝って、里でいくらか買い物をしてきてもらう事もできますので。
その、流石に持って行きたい形と言う物はまだ見えていなくて、考えたり、相談しながら過ごそうと思っているのですが……」
「や、ちょっと待って」

 ぐい、と掌を前にやり、権兵衛の言を遮る。
体が悪寒にぶるりと震え、自然、僅かに腰が引けた。
その、これでは。
これでは、まるで。

「距離を置くしか無い、って、まるで関係を続けられたら続けたいって言うように思えるんだけどさ」
「はい、勿論です。
俺は、この幻想郷に入ってきてから、様々な人に恩を受けてきていて、それを返したいと願っています。
それにはまず、自立が必要でしょう。
そして霊力が使えるだけの只人たる俺には、人里の力無しに自立する事は、難しいでしょうから。
少なくとも、誰かに恩を返す余裕ができるような生活は、できそうにありません」

 流暢に返す権兵衛に、妹紅は思わず、絶句した。
声色が、僅かながら震える。

「その……。傷を抉るようで、申し訳ないんだけど」
「? はい」
「お前、慧音と一緒に暮らしていた所を、里から追い出されたんだよな」
「はい」
「暴利を貪られていたってのも、本当?」
「はい」
「家を、里人みんなに壊されたんだよな」
「はい」

 何の躊躇もなく返事が返ってくる。
震える声で、妹紅は思わず吐き出した。

「憎く……無いのか?」
「……はい」

 困ったような声色で言う権兵衛に、再び妹紅は絶句した。
その瞳は、真っ直ぐに妹紅を貫いており、声色に躊躇はあっても震えやどもりは無く――、嘘の気配は無い。
まるで、子供がやんちゃをしているのを苦笑して受け止めているかのような、そんな感じであった。
害意が無いと言うか。
悪意が無いと言うか。
――懐が深いと言うか。

「その、自分でも戸惑っている部分は、確かにあるんです。
普通、こんな境遇にあれば、どんな人間であっても、里を憎く思う筈、なんですよね。
おかしいな、と、そう思いはするんですけれど、でも、不思議と憎悪というものが湧いてこなくって」

 僅かな戸惑いをのせた声色の権兵衛の目には、一切の嘘の色はなくて。
本当に自分でも戸惑っていると言うのが目に見えて分かり。
思い起こされる。
慧音や鈴仙の、権兵衛の人物評。
害意の全くない、聖人。
そこまで言うには、厳かではなく、もっと親しみやすい感じではあるけれども。
同時に何処か、狂わしくて、狂わしくて。
怖い。
恐怖が妹紅の頭の中をぐるりぐるりと回る。
とさり、と指で挟んでいた文庫本は床に崩れ落ち、頁をくしゃりと歪ませる。

「おかしい、ですよね?」

 泣き笑いのような表情を作る権兵衛。
それでやっと、妹紅は、これが七篠権兵衛と言う男であるのだ、と、静かに理解する所になるのであった。
同時に、自分はこれからこの男を見守らねばならないと言う、げに恐ろしき仕事を請け負ってしまったのだ、とも。



   ***



 数日が経過した頃だろうか。
霊力が戻ってきてからは自己治癒の術を併用できて、回復の速度が早まってきたものの、まだ両足のギブスは取れておらず、左腕の肩から先は動かず、右手一本しかまともに動かせない状態で。
それでも、たまに外の空気を吸って茶を嗜むぐらいは許された時分。
丁度外は、秋真っ盛りであった。
鮮やかな赤の紅葉に、黄葉、褐葉が入り交じり、風に揺れてゆらりゆらりと地面へ落ちてゆく。
ため息をつきたくなるような光景であった。
初体験の秋として、俺は風見さんの元で色鮮やかな花々を眺めさせてもらっていたのだが、それとはまた別に、一線を画する美しさである。
無論知識として知る所ではあったのだが、体験は別格であるのか、それとも外の世界ではこれほど見事な紅葉にであった事が無かったのか。
どちらなのか定かでは無いけれども、そんな美しい光景に感動している昼中であったと思う。
右手しか使えない上、口の中を切りまくっているので、本当にちびちびとお茶を飲んでいる所。
少し離れた所で、ぼうっとした妹紅さんに見守られている最中。
ふと、俺はがさがさと枯葉が音を立てるのに気を取られ、林の奥に視線をやった。
二つ、重なって聞こえるそれは徐々に近づいて来る次第に、その姿を見せる事となる。

 一人は少女、と言うより幼女、と言った言葉が似合うぐらいの背丈の少女で、日傘を差し、その影の中で目も覚めるような青い髪に、血のような赤黒い瞳をしていた。
その特徴的なのが、今までに幻想郷で見た事の無いぐらい、完璧な洋装であることだった。
いかにも洋風と言う出で立ちで、赤い模様が所々に入った、真っ白でフリルの装飾が多くついたドレスを着ており、まるで絵本の中のお姫様が本から飛び出てきたような少女であった。
その背後に連れる少女もまた、洋風の世界から出てきたような、見事な紺地のワンピースに白ブラウス、白エプロンの、メイド服を来た少女である。
まるでそこだけ別世界を切り取って貼りつけたような情景であった。
思わず呆けて口を開けて見ていると、二人の少女はゆっくりと近づいてきて、ふと、俺の前で足をとめる。
先頭の背の低い少女が、ちらりと辺りを確認し、口を開いた。

「なんだ、あいつは留守かい? 何時もの勘なら、寄るな寄るな、って駆けつけるに違いないのに」

 言ってから、俺の方へと視線をやり、すっと腕を組む。
その腕の組み方と言うのも、まるで腕が別の生き物であるかのようになめらかに動く物で、美しく、均整が取れている。
それに見惚れながらも、視線を辿るに、俺に言っているのだろうか、と考え、返事をする。

「その、あいつ、と言うのが博麗の巫女様であれば、多分今は賽銭箱のある方の縁側で座っているものかと、思いますが」

 言ってからちらりと妹紅さんに視線をやると、静かにこくんと頷いてくれたので、確かである。
が、少女は訝しげに眉を潜め、組んだ腕をほどき、頬を人差し指でぷにゅ、と僅かに押しながら、漏らす。

「おかしいな。霊夢の奴、勘が鈍ったのかしら。それともそこの不死人か、そこの初対面、貴方が関係しているの?」
「それは分かりませんが……。何せその、博麗の巫女様は、何と言うか、俺を避けているようでして、どうも」

 と言ってから、初対面、と言う言葉に自己紹介をしていなかった失礼に思い至り、あぁ、と口を開く。

「失礼しました。俺は、外来人の、七篠権兵衛と言います。貴方のお名前は?」
「レミリア・スカーレット。後ろのこいつは、十六夜咲夜よ」
「よろしくお願いします」

 と言って、粛々と頭を下げる十六夜さん。
こちらはこんなに礼儀正しく人に頭を下げられる、と言う事に慣れていないので、反射的に慌てて止めようと両手を伸ばしてしまうが、よくよく考えれば、人が礼儀を通そうとしているのに、それを遮るのは頂けない。
かと言って、俺如きに頭を下げるなどしてもらっては、むず痒い事むず痒い事、赤面しながら、果たしてどうすればいいのやら、と迷っていると、そんな俺を無視して、とことこと歩いてきて、ヒョイ、と俺の隣に座るスカーレットさん。
まるで宝石のように貴重で高貴な彼女が、手を伸ばせばすぐ届くと言う所に居ると言うのは、何と言うか、非常に恐縮する限りであり、思わず縮こまってしまう。
そんな俺を気にするでも無く、スカーレットさんは、右手をすっと空中に挙げた。
中指を親指をすっと合わせ、弾こうとする。
すかっ、と、指がすべり、しっ、と言う小さな擦過音だけが響いた。

「………………」
「………………」
「………………」

 何事も無かったかのように、もう一度指をこすり合わせるスカーレットさん。
すかっ。ぺち。すかっ。すかっ。ぺちんっ。
思わず和やかな目になるこちらを他所に、五回目ぐらいでようやく、音らしい音が弾けると、それを合図として、かたん、と小さな音が響く。
すわ、何事か、と目を見開くと、俺の隣に入れたお茶があるのと同じように、スカーレットさんの隣にも暖かな紅茶が淹れてあるのが見えた。
確かに今の今まで何も無かったのに、と思わず辺りを見回すと、一瞬前と同じくスカーレットさんの右斜め前の辺りに居る十六夜さんの手に、円形の黒いトレイがあった。
そのまま視線を十六夜さんの顔にやると、にこり、と微笑みかけられる。
思わず、心臓が跳ね上がる。
それだけで赤面してしまうほど十六夜さんは美しい女性であり、俺はまた、赤面癖があった。
視線を足元にやっている俺を尻目に、紅茶を一口飲んで、スカーレットさんが口を開く。

「それで、ちょっと興味深いことを聞いたんだけれど、貴方が霊夢に避けられているって?」
「はい、スカーレットさん。どうも、確証は無いのですけれど……」
「レミリアで良いさ。で、権兵衛、どういう事なのかしら?」

 面白可笑しそうに言うレミリアさんに、俺の感じるままの博麗の巫女様についてを言う。
俺が初めて博麗の巫女様に出会ったのは、俺が里人の中で役立たずと判明し、なじられながら外の世界へ追い出されようと、博麗神社に連れて来られた時だった。
その時はただただ、初めて出会う弾幕決闘の出来る身分の人、と言うのに圧倒されて、更には外の世界へ出る事も出来ない、と言う事に混乱するままで終わってしまった。
思えばあの時も、必要以上に話を手早く終わらせようとされていたような気もするが、何分混乱の最中であったので、あまり覚えが無い。
そしてそれ以来、俺は彼女に会っていない。
そう、此処数日、博麗神社にお世話になっていると言うのに、俺は彼女の姿を見たことがないのである。
妹紅さんを伝って、別に嫌っている訳では無い、との言を頂いているが、少なくとも、会おうとしていないのは確かだろう。
俺など怪我人であるので、殆ど床に就いているため、見に来るのは平易であるために。
ただ、俺が一度会ってお礼を直接伝えたい、と妹紅さんを伝って伝えた返事が、無いままであると言う事から、避けられているのではないか、と思うのだ。

 一通りの事を言うと、レミリアさんは顎に手をやり、眉間に皺を寄せ、難しそうな顔で考え込む。
幼い外見の彼女がそういった難しい顔をしているのは、何とも似合っておらず、そんな顔をさせてしまったこちらとしては何とも言えない気分になる。
と言っても、この幻想郷は外見と中身の年齢が一致しない人妖は多く、彼女の持つ雰囲気は間違いなくその一部であると告げている。
そう思うと俺の心配は見当違いであり、むしろ礼を失するに値するだろうと言うのに、何故だろうか、俺は彼女を庇護の対象では無い、と考える事ができなかった。
見目に狂わされたのだろうか。
そう思うと、狭量で視覚と言う五感の一つに囚われる己の愚かさに、再び視線を足元に。
これが虫眼鏡であれば既に大火事を起こしているだろうと言うぐらいに、焦点を合わせる。
不意にレミリアさんが口を開き、それに合わせて、俺は視線を彼女に戻した。

「うーん、気になるけど、あいつだからなぁ。頭が小春日和って事しか分からないし。今日みたいな感じよね」
「はぁ。小春日和ですか」

 丁度その日も、小春日和と言って良い、やや暖かで過ごしやすい気温の日であった。
全く関係ない事に飛び飛びになるような、やや飽きっぽい感じの気性は何処か子供っぽく、矢張り外見通りの年齢を思わせる。
そんな俺の感想も気にならないのか、紅茶を一口、口内を湿らせ、レミリアさんは言う。

「まぁ、そんな事より、折角運命の交差路で出会えたんだ、お前の運命を視てやるよ」
「運命、ですか」

 大行な物言いだった。
年を重ねた人の言い方と言うよりも、外見からか、子供がそれを真似て背伸びしているように思える言葉である。
鼻白んだ俺を見やって、ふん、と鼻を鳴らし、組んだ手の甲に顎を乗せる。

「私は“運命を操る程度の能力”の持ち主よ。その程度、訳も無いわ」
「なんと」

 思わず、体ごと乗り出して、パチクリと目を瞬き、レミリアさんを見やる。
嘘の色は無く、その目は拗ねて半目になっている。
運命を視てもらう、と言うのがどのような事柄を意味するのか今一よく分からないが、貴重そうな響きである事は確かである。
慌てて機嫌をとろうと、下手に出る事にする俺。

「素晴らしい能力をお持ちなんですね。俺など、特に吹聴できるような能力はありませんし」
「ふふん。何処が素晴らしいんだ? 言ってみろ」
「運命と言う物が具体的に何かを俺は知りませんが、過去から未来に渡る物である事は何となく察せています。
そこで、未来とは不確定な物で、確率で出来ている事が思い浮かびます。
運命を操る、とは何をどうするのかは分かりませんが、その確率を、少なくとも間接的に操る事が出来るのではないか、と思えまして。
確率とはあらゆる物です。光も電子も、あらゆる物は確率の波によって存在する粒子です。
とすれば、運命を操る能力とは、あらゆる物を操る程度の能力と転じれるのではないか、と」
「ほ、ほほぅ。なるほど、いい事を言うじゃあないか」

 そう言うレミリアさんは、目を閉じながらうんうんと頷いているが、気のせいか、冷や汗が混じっているような気がする。
すると、俺の思うまでの能力では無いのか、とがっかりする反面、それでも俺よりは凄そうな能力に、尊敬の念は禁じえない。
何せ運命である、とりあえず凄そうと言う感情が頭に来る。
それに運命の交差路と言う単語も何だか貴重そうで、いかにもな感じであるし。

「まぁ少なくとも、俺の能力よりも凄まじいのではないか、と」
「そ、そうだな」

 と頷きつつ、レミリアさん。

「で、ちなみにお前の能力は何なの?」

 ……運命を視れるのでは無かっただろうか?
内心首を傾げるが、とりあえず聞かれて困る事では無いので、答える事にする。

「主に“月の魔法を使う程度の能力”です。こんな感じで」

 言って、俺は月度を高め、指を立て、その先に月の魔力を集める。
怪我して寝ている間中暇だったので、ある程度練度は上がっており、陽の下でも容易く月弾幕が生成できた。
小さな小さな満月と言うべきその弾幕は流石に珍しいのか、目を見開くレミリアさん。
この能力も輝夜先生から頂いた術である、思わずふふん、と胸を張っている俺に、レミリアさんは何故か徐々に近づいてくる。
月弾幕を持った手を左右にやるとレミリアさんの顔もそれと同様に左右に動く。
何事か、と首を傾げると、ガシッ、と手を掴まれ、物凄い力で引っ張られた。
幸い傷の浅い所だったので痛みは無かったが、驚いたのと、このままだとレミリアさんの顔に月弾幕がぶつかってしまう、と言う事で、月魔力を体内に還元して、月弾幕を消す。
すると、ぴたり、とレミリアさんの手が止まり、丁度、鼻先に俺の手が来るぐらいになった。
どうにかレミリアさんが無事だった、と言う事で、ほっと一息安堵の溜息をつく。
何せ人形のような凄まじい美少女である、その顔に傷など付けたら、俺はその罪悪感だけで死ねるかもしれない。

「はぁ。どうしたんですか、一体」
「………………」

 と、答えが帰ってこない段になって、初めて俺はレミリアさんの異常に気づいた。
瞬き一つせずに、俺の掴まれた手を睨んでいる。
そして手首を掴むその力は緩むこと無く、万力のような力で俺を、ほんの僅かづつ引き寄せ始めていた。

「レミリア、さん?」

 声が空虚に響く。
どろりと、今にもこぼれ落ちそうでねたねたと粘着質な、赤い赤い目。
それが身じろぎもせずに、俺の指を引っ込めた手を見つめていて。
不思議と、俺の体は、痺れたかのように動かなくなる。
かぱぁっ、と、彼女の口が小さく開いた。
白磁の美しい肌に、口内の赤いグロテスクな肉の色が入り混じる。
その肉の赤の中、溜まった唾液にぬらぬらと光って、奇妙に発達した犬歯が見えた。
それがゆっくりと俺の手へと近づいてきて。
どろりと犬歯から垂れる唾液が、俺の肌に垂れるぐらいにまで近づき。

「お嬢様!」

 十六夜さんの悲鳴に、はっ、と正気を取り戻したレミリアさんが、顔を引いた。
ふと熱気に気づいて振り返ると、座っていた妹紅さんが立ち上がり、その手に不死鳥の如く燃え盛る炎の鳥を手にしている。
レミリアさんが俺の手を離すのと同時に、妹紅さんはその手をぎゅ、と握り締め、炎の鳥を消してみせた。

「ま、一応護衛役って事にもなっているんでね」

 と言ってから、再び座り込み、ぼうっと力の抜けた目になる妹紅さん。
今一状況が掴めないのだが、その言から、妹紅さんが俺を守ってくれたのは、確かであろう。

「あ、ありがとう、ございます」

 と言う事で、とりあえず礼を言っておくと、ひらひらと手を振って返された。
もう一度頭を下げておき、それからレミリアさんの方へ振り返ると、まだ呆然としているようだった。
十六夜さんがレミリアさんの口から零れた涎を、ハンカチで拭っている。
それで俺も、自分の手の甲にレミリアさんの涎がついているのに気づき、ついつい服で拭ってしまいそうになるが、ふと思う所があって、手を止めた。

「吸血鬼、なんだよ」

 と、レミリアさんが言う。
何のことかとレミリアさんを見ると、すまなさそうな顔で、俺の顔を見ていた。

「私は、吸血鬼なんだ。すまないね、無闇矢鱈と血を吸うつもりは無かったんだけど」
「え、その、そうなんですか」

 となると、果たして、先程の俺はどれほどのご馳走に見えていたのだろうか。
吸血鬼と言えば月の魔力に大きく影響される種族であるが、あくまで表側の月の魔力にですら影響される種族とも言える。
対し俺は、裏側の月、つまり表側に漏れ出る魔力の源泉となる魔力を引き出し、それを用いていたのだ。
少なくとも、俺の貧相な想像力で考えられるご馳走には例えられない程に違いない。

「す、すみません、無用心な事をして」
「いや、いいさ。こちらこそ、悪かったね。私は、自分を恐れていない人間から血を吸う事はしない、と決めているんだ」

 とすると、減量中の人間相手に鴨が葱を背負って出てくるような所業である、兎に角平謝りする俺だが、レミリアさんはそれには取り合わず、ふるふると首を横に振る。
どうすればいいのか分からず、困って視界に居る十六夜さんに視線をやるが、気づいてないのか、無視しているのか、何の言葉も貰えず。
すっと立ち上がるレミリアさんを、俺は留める手段を持たない。
俺は、一体何をやっているのだろうか。
健常に立って、歩いている時に人を不快にするのは、分かる。
何せそこには行動があり、結果が出来、何かを成す事になるからである。
となると、心根が屑である俺としては、人を不快にさせる事しかできず、不愉快である。
しかし、怪我をして殆ど身動きできない時にですら、人を不快にするとは、なんという屑野郎なのか。
これでは雁字搦めにして閉じ込めておいても、人を不幸にすることが出来てしまうのではあるまいか。
俺自身の罪深さに沈んでいると、立ち上がったレミリアさんは、日傘を差してとてとてと歩き、くるっとこちらを振り向く。

「それじゃあ、って、お前、その手、私の涎でベトベトだぞ」
「え、あ、これですか」

 動く方の手、つまり右手をあげると、確かにレミリアさんの涎でべっとりと汚れていた。
が、しかし。

「いや、その、気づいてまず、俺の服で拭おうかと思ったんですけど」
「うん」
「何と言うか、高貴な感じのあるレミリアさんの体液な訳で、それを俺如きが、あんまり汚そうに拭うのも、どうかと思いまして」
「はぁ?」
「かと言って、どうすればいいのかも、思いつかなくって。洗い流すと言うのも、吸血鬼に対するとなると、より失礼なのか、とも思えて」

 と言っていると、まるで俺が頓珍漢な事を言い出したかのような顔で、レミリアさんがパチパチと目を瞬く。
まるで偏頭痛でも襲ってきたかのように頭を抑え、眉間を揉みほぐしながら、ため息混じりに言う。

「あー。お前、私の事が怖くなったんじゃあないのか? 吸血鬼だぞ?」
「はぁ。知り合いに幽霊や妖怪も居ますので、それは特に」
「いや、お前、血を吸われそうになったんだぞ?」
「はぁ。まぁ、死ななければ、献血もいいかな、と」
「お前なぁ……」

 と、額に手をやって、天を仰ぐレミリアさん。
しかし、何がどうなったのか、その口元は笑みの形を作っており、俺はとりあえず、レミリアさんが明るい表情を取り戻したのに、安堵するのであった。

「まぁ、とりあえず、依然お前から血を吸う訳にはいかない、って事は分かったさ」

 そう言って去ってゆくレミリアさんと、それに付き従う十六夜さん。
運命の交差路、と言う言葉から、コレが貴重な邂逅であると理解していた俺は、それが最後に台無しにならなかった事に、安堵の溜息をつく。
涎からどうなってレミリアさんの機嫌が良くなったのかは分からないが、去り際に見せた笑みは、幸せそうなそれに見えた。
久しぶりに俺と出会って幸せな形で終える事が出来る人が居て、それだけで、俺は舞い上がるような気持ちで一杯になっていた。
と同時、そう言えば結局、運命を視るとやらをやってもらえなかったな、と落ち込みつつ。
と言っても、それは、レミリアさんの言う運命の交差路、とやらが毎日交差している事を知る、その翌日までの事なのだったが。



   ***



 一週間ほどが経過した。
権兵衛の容態だが、未だに左腕が動かないようだが、早くも両足の骨が繋がり始め、浮きながらならば大抵の動作は出来るようになったようである。
全く、永遠亭の技術力は一体どうなっているのやら、と思いつつ、文庫本の頁をめくりながら、妹紅は嘆息した。
視線をやると、まだ木乃伊男度の高いままの権兵衛が、ぼうっと天井を見上げている。
かと思うと、すぐに妹紅の視線に気づいて、にこり、とこちらに微笑みかけてきた。
内心複雑に権兵衛を思っている妹紅は、作り笑顔でそれに対応する。

 妹紅が思うに、権兵衛は不気味な人間である。
まるで無抵抗に全てを受け入れる、人間とは思えない所があるからだ。
里との関係の事もそうだが、権兵衛自身についても同じようだ。
あまりの不気味さに、思わず何度か食事を抜きにしてみたりもしてみて、少しは不満顔もするのかと思えば、にこにこと困ったような表情をするばかりである。
多分、試しに殴ってみたとしても、こいつは怒るんじゃなく、何が悪かったのかと恐る恐る聞いてくるんだろうな、と、妹紅は思う。
そんな狂的で少しおかしな所がある反面、奇妙な事だが、権兵衛は、人間らしいと言うか、愛嬌のある部分もあった。
ちょっととぼけた所があって、所謂天然が入っている、と言う感じの気性もそうだし、人のことにはよく気づいて気遣う事もあるのだが、自分の事は抜けていてだらしのない所がある男なのだ、この権兵衛は。
例えば、妹紅の服のボタンが取れていたり、リボンが解れそうになっていたりとかにはよく気づくのに、自分が零したご飯粒には気付かなかったり、時たま自分の怪我の事を忘れたような行動を取っていたりするのだ。
最初は権兵衛との問答で彼を不気味とばかり思っていた妹紅であるが、そんな風な権兵衛と過ごすうちに、次第に権兵衛の温和な気性が好ましい物にも思えてきた。
その部分だけを見れば、妹紅としても、友人を預けるにはちょっと頼りないものの、その世話焼きで恩義にあつい部分からか、慧音と同じように友人となれるかもしれない、とも思える。
と言っても、反面、妹紅はあの、最初の問答で見た権兵衛の瞳の事を、忘れることができない。
黒い瞳。
あのドロリと溶け出した、まるで億千万の虫が蠢いているかのような瞳。
白い包帯の中から覗くそれは、まるで今にもぼとりと溶け落ちて床に広がり、瞬く間に部屋中を覆い尽くしてしまうのではないか、と思えるような物だった。

「はぁ……」

 嘆息する妹紅に、こてん、と首を傾げる権兵衛。
その可愛気のある視線を、純粋に微笑ましく思う事ができず、何処か恐ろしくも思ってしまう自分に、妹紅は再び内心で溜息をついた。
と同時、暇つぶしに、と文庫本の頁に指を挟んで下ろし、口を開く。

「あの、吸血鬼達の事だけれど」
「レミリアさん達ですね」
「里との関係を考えるなら、そんなに仲良くしない方が良いんじゃないか?」
「そう……でしょうか?」

 何時もの困り顔になる権兵衛に、見下ろすようにしながら、妹紅は言う。

「あいつらは、里では不気味がられている。まぁ吸血鬼なんて種族とその犬なんだ、当たり前だね」
「では、レミリア……さんは、人里に行かなそうですね。では、十六夜さんは、里を利用できていないのでしょうか」
「いや、できている。食料も普通に買っていくし、細工なんかを見ていく所も見たことがある。でもそれは、あいつらが強いから、里人が手を出されないようにと、遠慮しているからだ」

 事実その通りである。
吸血鬼やその犬に陰口を叩く里人は絶えないが、決して本人の前で言う里人は居ないし、不当な取引を持ちかける里人も居ない。
と言っても、と、権兵衛。

「でも、一応俺も普通の人よりは強いですけど」
「でもお前の場合、その力を使おうって気が無いだろ」

 にべもない返事に、うっ、と権兵衛が呻く。

「絶対に使わないと決まっている力なんて、無いのと同じよ。もしかしたら使うかもしれない、ぐらいは思わせないと、力には意味がなくなってしまう」
「そ、そうですけど……。でも、だからと言って」
「だからと言って、保身を理由に他者との付き合いを選ぶのは、健全じゃあない、って所?」
「……はい」
「なら、里との距離がより離れて、お前の言う恩返しとやらが、より遅くなるだろうと言うのは?」
「………………」

 黙りこむ権兵衛。
その顔が難しく歪んでいるのに、老婆心が過ぎたかな、と思わないでもない妹紅だったが、遅かれ早かれ、里と咲夜との様子を見れば、自分で考えつくであろう思考である。
ならば体がマトモに動かず、考え事の出来るうちにやらせておいた方がいい。
権兵衛の優しく真面目な気性は、千年を生きた妹紅にしても宝石のように貴重だと思えるが、だからこそ、助言できる事はしておきたい、と思う妹紅なのであった。
暫くの時間が過ぎた後、おずおずと権兵衛が口を開く。

「確かに、そういう面はあるのかもしれません」
「ふむ」
「しかし、俺の行動の不義理さは、俺一人を汚すのではありません。俺に手を差し伸べてくれた皆もまた、不義理な人間に手を貸した、目のない人妖として名誉を汚される事になるでしょう」
「……確かに、そうだろうね」

 権兵衛の言う事は事実であるものの、自分の首を締める発言だと分かっているのだろうか。
権兵衛の言の通りであれば当然、今現在、里にとって悪人である権兵衛は、その恩人達にとってどれほどの汚名となっているのだろうか。
最近、慧音と里との仲が少し余所余所しくなっているのに気づいている妹紅は、内心溜息をつく。
同じ思考に至って居たのだろう、びくり、と肩を震わせる権兵衛。

「そうなると、例えお前が暴力を振るえようと、お前が吸血鬼の犬と同じように力を背景に平等な扱いを強いるのも、したくないんだろう?」
「はい、勿論」
「となれば、お前は、ただ里人の悪感情を治めるよう、里に貢献し続けるしかないんじゃないか?」
「――はい、そう考えて、います」

 真っ直ぐな目でそう言う権兵衛の瞳は、妹紅の記憶通り、ドロリと溶け出した黒血で出来ていた。
目を逸らしたくなるのを僅かに震えるだけに抑え、妹紅はゆっくりと口を開く。

「十年も二十年もかかるかもしれないよ」
「覚悟はしています」
「その前に妖怪に喰われて死ぬかもしれないよ」
「出来るだけの努力はします」
「病気や飢えなんかで、苦しむだろうね」
「はい、恐らくはそうなるでしょう」
「そう、か……」

 権兵衛の目の怪しい輝きが陰ることのない事を知ると、溜息混じりに、妹紅は権兵衛から目を逸らした。
権兵衛の思いに、共感する所が無い訳でもない。
はるか昔、不老不死になったばかりの頃の妹紅も、権兵衛ほど無私では無かったものの、そう考えている所があった。
皆は不老不死になんてなってしまった自分を訝しがり、不気味に思うだろうけれど、貢献し続ければその限りではあるまい。
当時の妹紅にとってその手段とは妖怪退治であり、故に様々な村から追い出された時も、最初のうちは己の妖怪退治の腕が足りなかったからだと思い、腕を磨くことに腐心した。
当然、長くは続かなかった。
何時しか妹紅は人間と関係を築こうと思わなくなり、機械的に妖怪を殺し続ける事になり、最後には妖怪退治にも飽きてしまった。
だからだろう、権兵衛の言葉はその瞳と同じく狂わしくもあり、同時に懐かしく、眩しくもあるのだ。
この権兵衛の心も、果たして何時までこの通りに居られるだろうか。
何時か妹紅と同じく心が擦り切れ、他人の事などどうでもよくなってしまうのだろうか。
それとも寿命の短さ故に、死ぬまでその意思を貫き通せるのだろうか。
どちらにせよ、まだまだ権兵衛に助言できる事は多くあるに違いない。
その道は、はるか昔に妹紅もまた辿った道であるが故に。

 不意に、妹紅の鼻を夕食を作る匂いがついた。
そういえば、もうすぐ夕食時か、と、巫女を手伝いに行こうと立ち上がる。
するとふと思い当たった事があって、妹紅は、此処を出て行く前に、ちょっと権兵衛に聞いてみる事にした。

「そういえば、権兵衛」
「? なんでしょうか?」
「お前の術って、一体誰から習ったんだ? 我流にしちゃあ、洗練されていると思うんだけど」

 はて、慧音か、亡霊姫か、意外な所では月の頭脳辺りか、と検討をつけて、聞いてみる。
すると、権兵衛はその恩人が余程誇らしいのだろう、満面の笑みを浮かべて答えるのだった。

「――永遠亭の、輝夜先生に」



   ***



 藤原妹紅は、幸せだった。
何せ死ぬことを恐れる必要がなくなり、飢える心配だって必要なくなった。
勿論死ぬことが無くなって辛いことは一杯あったけれど、今はそんな事気にしない人々の近くで、得難い友人まで得て過ごせている。
更には輝夜という同じ不老不死の相手が居て、退屈せずに何時までも何時までも殺し合いを続けられるのだ。
藤原妹紅は、幸せであった。
満たされている、と言い換えてもいいかもしれない。

 ただ、そんな妹紅にも、ただ一つだけ心配事があった。
それは、宿敵の輝夜が、何時か永遠に居なくなってしまいはしないだろうか、と言う事だけ。
何時しか吸血鬼が月へロケットで行った時なんて、年甲斐もなく輝夜は月に帰ってしまわないだろうか、と盗み聞きにまで行ってしまったぐらいだ。
その時は輝夜が自らを、地上の民なのだと言うのを聞いて、安心したものだった。
これで、輝夜には結局私しか居ない。
どうせ他にやることなすこと消えてゆくんだ、私と殺し合う事だけは無くなりはしない、と。

 そんな折だった。
輝夜の、弟子。
自分に境遇を重ねていた男が、である。
最初はどうせ輝夜の事である、適当に教えたのだろう、と術を促してみせたが、非常に丁寧に教えられたのだろう、権兵衛は精密な術の運用を見せた。
それから聞いても居ないのに、嬉しそうに、輝夜がどれほど良い師であったか、どれほど気にかけてくれたか、を語って見せる。
そしてそれを聞きながらふと、妹紅はここの処輝夜と殺し合いにならなかった事に気づき、その時期が、察するに権兵衛が輝夜に弟子入りした頃からであると気づく。
突然の不安に襲われ、妹紅はその場を飛び出した。
そうでもしないと自分がいきなり暴れだしかねない事を自覚していたからだ。
目的も定めず全速力で飛び回り、兎に角頭を冷やそうとした。
そうして全身が疲れでぐったりする頃になってようやく妹紅は地面に降り立ち、それからそこが永遠亭の敷地である事に気づく。

 確かに、輝夜は権兵衛の事を大切に思っているのかもしれない。
だが、別に輝夜が妹紅と殺し合うのに飽きた訳ではなく、たまたま権兵衛を教える時期と殺し合いをしない時期が合っていただけかもしれない。
例え権兵衛の方が大切であったとしても、たまたま権兵衛が初期の非常に力が伸び易い時であったから、権兵衛が特別可愛く見えただけなのかもしれない。
それになんだかんだ言って、権兵衛は寿命ある人間なのだ。
いずれは朽ち果てる物なのだ、例え権兵衛の方が妹紅との殺し合いより大切でも、いずれそれも終わる時が来る。
そう自らに言い聞かせつつ、その証拠を取る為に、何時かと同じように妹紅は永遠亭の壁に寄り添い、耳をそばだてた。
すると、永遠亭独特の丸い窓辺から、明るい輝夜と永琳の声がする。

「じゃ、今日もお料理教室、お願いね」
「えぇ。輝夜も、今日はサボらずきちんと最後までやってね」
「うっ。だって、折角食べさせる相手の権兵衛が、まだ見つかっていないんだもの。先に権兵衛を探した方がいいと思わない?」
「輝夜じゃ邪魔になるだけよ。昨日も言ったけど、それぐらいならこうやって権兵衛さんへ作る料理の修行でもしてた方がマシだわ」
「はーい」

 矢張り、権兵衛か。
ドロッとした、権兵衛の瞳のような黒い物が腹の中で渦を巻くのを感じながら、妹紅は思う。
しかし、輝夜が料理、か。
あの、何でもされる側で、何かする側には永遠に回らないと思っていた、あのお姫様が。
権兵衛、あのたった一人の外来人に心奪われて。
ぎりっ、と言う音を聞いて、妹紅は始めて気づく。
自分が、血が滲む程に奥歯を噛み締めていた事に。
はぁ、と溜息を吐き出し、妹紅はどうにか体を脱力させる。

「じゃあ、食材の調達から、よ。輝夜、ちゃんと下剤を飲んで腸を空にしてきた?」
「勿論よ。服だって、汚れてもいいように着替えてきたもの」
「はいはい。じゃ、包丁を使って、食材を取り出すわよー」

 ふんふん、と聞き流していた妹紅だが、いやまて、と聞き捨てならない内容の会話に、固まってしまった。
腸を空に?
服が汚れて?
そうこうしているうちに、輝夜達は食材を取り出し終えたらしく、血がびちゃびちゃと飛び散る音がした。
同時、独特の血の匂いが広がり、妹紅は震える唇を噛み締める。
荒い息を整えながら、落としていた腰をゆっくりと上げ、そっと窓を覗き込んだ。
そこには。

「とりあえず、小腸と肝臓からかしら」
「モツにレバーね」

 自らの腹を切り開き、そこから臓物を取り出し、まな板の上に置いている二人が居た。
どうやら小腸から切り出すらしく、包丁をあて、腸の両端を切り落とし、それから裏返してぶつ切りに。
それは普段、妹紅が鳥や猪をバラして食べる時と、似たような所作であり――。
うっ、と酸っぱい物がこみ上げてきて、妹紅は思わず口元を抑えた。
そのまま後ずさるように窓から距離をあけるが、とんとんとリズミカルに鳴り響く包丁の音だけは、未だに妹紅の耳を打ち続ける。
なまじ普通の調理と同じ様子で行っているように聞こえるのが、余計にそれをおぞましく見せる。

 暫くはその何とも言えないおぞましい行為に顔を青くしていた妹紅であったが、やがて、その行為の持つ意味に気づく。
あれは、不死人の肝である。
あれは、権兵衛に食べさせる料理である。
であれば。
その料理を食べた権兵衛が、果たしてどうなるのか――。
当然、同じ蓬莱人になるに決まっている。

 愕然とし、妹紅は背を永遠亭の壁に預ける。
どっと音を立てて背が壁に打ち付けられ、それから、ずるずると重力に引きずられて、落ちてゆく。
自然、体が震えだしていた。
かちかちと歯が勝手に鳴り出し、自身をぎゅっと抱きしめても、止まらない。
涙さえ溢れてきた。
顔にじゅっと体温が集まり、塊になって零れ落ちる。
もんぺに次々と円形の染みが出来てゆき、繋がり、大きな染みへと変化してゆく。

「く、そう……」

 輝夜を見つけてから、三百年ぶりに味わう、孤独感であった。
まるで輝夜と権兵衛の周りにだけ明かりが当たって、自分は周りの暗闇の中からそれを眺めているしか無いように感じる。
恐らく輝夜は、弟子にして同じ蓬莱人である権兵衛と、仲睦まじく過ごす事だろう。
男と女だ、ひょっとしたら恋人にだってなるかもしれない。
その間に、恐らく妹紅の入る隙間など無いに違いないだろう。
そう思うと、もう出ないんじゃないかと思うぐらい出ていた涙が、更に勢いを増して出てくる。

「う、うぐ……」

 込み上げてくる涙に嗚咽しながら、妹紅はゆっくりと立ち上がり、その場を去ろうとする。
それが何とも明るく料理している中の輝夜達と対照的で、まるで自分は敗者だな、と自嘲しながら、ポケットに手を突っ込み、妹紅は歩いてゆく。
その背は時折込み上げてくるしゃっくりに上下しながらで、地面には点々と涙の後がついている。
丁度その反対側では、明るい声をあげながら、とんとんとリズミカルに包丁が音を響かせている。

 きっともう、私は輝夜と殺し合う事なんて無いんだ。

 そう思うと、再び妹紅の胸をぞっと絶望が襲ってきて、今度こそ声を上げて泣いてしまいそうだったので、妹紅は飛んで帰る事にした。
八つ当たりだと知っていても憎くて憎くて仕方のない、あの七篠権兵衛が寝ている神社へと。




あとがき
盛大に、と言うか長々と体調を崩して遅れましたが、更新です。
という訳で、妹紅&紅魔主従のターン開始です。
権兵衛の能力として“月の魔法を使う程度の能力”が今回出ましたが、彼は霊夢のような複数能力者なので、他に能力があります。



[21873] 博麗神社2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 23:12


 レミリア・スカーレットは嘘つきである。
運命を操る程度の能力は、周りの人間に数奇な運命を与えるだけの能力である。
なのにいつも最初から何が起こるか分かっていた振りをして、あたかも運命を自在に操れるかのように騙っている。
紅茶を嗜むとき、その多くは人間の血であり、実際の紅茶を飲む事はあまり多く無い。
なのにあたかもメイドに茶葉を用いて淹れさせたかのように騙っている。
血族としても別段突出して高貴な血を持っている訳でもなく、本当はただの吸血鬼である。
だのに周りには、ツェペシュの末裔などと名乗っている。
そう、レミリアが何時も気にし、誇っている体面の殆どは、嘘なのだ。
実際のレミリアに、誇りなど無いし、それがどのような物かも、分かっていない。
ただ、それらしい物を演じ、あたかも誇りを重視しているかのように振舞っているだけである。
それが剥がれたとき、自分が価値の低い普通の吸血鬼である事を、それ故に見下される事を、レミリアは何よりもおぞましく思っている。

 故にレミリアは、嘘がバレないかどうか何時も何処かで怯えていた。
虚飾を剥ぎ取られた後に残る自分がどんな程度の存在なのか、悟っていたからである。
そこでまずレミリアは、全てを知る妹を幽閉した。
実際には自分より余程誇り高い吸血鬼に相応しい力と風格を持つ妹を、力が強すぎる上、気が触れていると称して。
その時に反抗を恐れながら幽閉を行ったレミリアであるが、その時妹が自分へ向けた視線は、今でも憶えている。
蔑んだ目だ。
路上の腐った生ゴミを見る目だ。
泥だらけになった浮浪者の死体を見る目だ。
糞尿の積もった山を、見下す目だ。
その目が向けられるのが余りにも辛くて、レミリアは妹を幽閉して以来、外に出さないよう最大限に働きかけている。
それでも妹は己の上を行くのだろう、たまに地下を抜けだしては、ちらちらと姿を見せたりしており、全く心臓に悪い事この上無い。
いっそ外に出て、自分の元から居なくなってしまわないものか、と思うこともあったが、元より屋敷より外に出た事のない妹である、外に抜けだしてゆく事は無かった。
一体何時、自分は妹に告発されるのか。
一体何時、自分は嘘つきだと糾弾され、今の地位を追われて地に落ちるのか。
怯えに怯えながら、レミリアはそれを取り繕い長い生を送ってきた。

 そこで出会ったのが、パチュリー・ノーレッジだった。
長い時を生きた魔法使いは、知恵を得られる図書館へ住まわせるのと引換に、妹のフランドールをより強力に封じる事に協力してくれた。
お陰で妹が出歩いていている光景は滅多に見なくなり、己の本来の価値の低さを知る者が居なくなった事で、レミリアは気づいた。
最初に感じたのは、ちょっとしたすれ違いだった。
知己となり取引相手ともなったパチュリーとは友情を交わす相手となったが、しかしそれもまた、レミリアが騙る『レミリア・スカーレット』の虚飾の上で行われる行為であった。
故に、生のレミリアと言うべき存在と虚飾のレミリアとの間で意見の相違があった場合、常にレミリアは虚飾の己を優先したし、パチュリーを含めた周りもそれにだけ反応した。
価値の低い生の自分が見出されなかった事で安堵すべき筈なのに、何処かそれが、虚しくて。
何故だろうか。
思春期の人間どもが言う、本当の自分を見て欲しい、なんて言う、甘えた戯言なのだろうか。
馬鹿らしい、己の価値は然程高く無いと思っていたけれど、そこまで低いなんて思っちゃいない。
そんな風に思いつつ思慮を重ねていくうちに、レミリアは気づく。
レミリアの抱いていた思いは、その程度の甘さでは無かったのだ。
本当の自分に、気づいて欲しい。
でも、虚飾を取り除いた本当の自分はてんで大した価値の無いただの子供で、普通はそんなモノを貴重に思う奴など居ない。
なのにその上で、本当の自分を受け入れて、尊重して扱ってくれる他者が、欲しくって。

 そんな自分に気づいた時、レミリアが最初に感じたのは、吐き気だった。
価値が低い己を認められず、自分で虚飾を重ねておきながら、それで価値の低い己に気付かれなくなった事を不満に思い。
価値が低いなら高める努力をして皆に振り向かれればいいのに、それを覆い隠すように価値の低さをそのままにしながら、それでも高い価値のモノとして扱って欲しくて。
余りにも、自分がおぞましかった。
妹が己をゴミを見る目で見ていた事にも、成程、納得が行く。
こんな子供で甘える事と自分を騙す事しか知らない自分に比べて、妹は、少し気が触れているような所があるとは言え、天然のカリスマと言うか、そんなような物を持っていた。
そんな妹から見れば、自分がどんな愚物に見えていたのか、目を向けずとも同然であった。
なんと、醜い事だろうか。
レミリアは己の価値がより低い事を思い知り、苦しみ悶えたが、それもおくびにも出さず、存在しない誇りを胸に抱く吸血鬼を演じ続けた。
その甘い希望が、どれほど儚い物なのか、悟っていたが故に。

 戯れに時を操る吸血鬼ハンターに名前を付けてメイド長としてみたりもしたが、その主従関係にも生の自分は出てこなくって。
絶望を味わううちに、レミリアは早くも己の寿命が見えてきた事に気づいた。
当然の摂理である。
何せ妖怪とは肉体よりも精神で生きている存在であり、当然、虚構の精神で生き、絶望を味わいながら生きる存在の命は、儚く、短い。
このまま本当の自分を出さず、虚飾に生きれば、早死したと言う事実から、死後遠からず自分の虚飾に気づく者が現れるだろう。
いや、それとも、フランドールが吹聴する方が、早いかもしれない。
あの妹の精神は高い所にありすぎて、レミリアには理解できない所が多い為、どうするのかは分からないが。
さりとて今更本当の自分を曝け出し、生の子供の自分を愛して欲しいと言った所で、冷たい視線と共に溜息をつかれるだけだ。
パチュリーとは図書館を与え、妹を封印する知恵をもらう、契約関係が最初に来るし、咲夜もまた、力で屈服させて名前まで奪った相手だ、畏怖や虚飾への敬意はあっても、生の弱い精神の自分を愛する事は無いだろう。
そんな絶望的な状況にあるレミリアは、代替わりし、スペルカードルールを提唱した博麗の巫女に興味を持ち、紅霧異変を起こす。
全ての人妖に対して平等であると言う博麗の巫女の中でも、今代の巫女は格別であると聞いたが故に、己もまた、生の自分を悟られても、軽蔑されずに済むのではないか、と期待して。

 果たして、期待はほぼ的中した。
霊夢は本当に平等だった。
超然としている、と言っても良い程だった。
形だけ妖怪を退治する側と言う姿勢は止めなかったものの、本気で、どんな人間も妖怪も平等に思っている風だったし、相対して話しているだけでそれがこちらの心に伝わってくるような相手だった。
霊夢の存在は、レミリアの救いとなった。
恐らく本当の自分を暴露して、幻想郷中が自分を軽蔑の目で見るようになったとしても、きっと霊夢は、今までと同じ目で自分を見てくれるに違いない。
そこに一片の好意も混ざってはいないのが少し寂しかったが、虚飾に向けられる好意よりもむしろ、その無関心さがレミリアの好感を買った。
結局、霊夢の存在によって、緩やかに死へと向かっていたレミリアの存在は、安定し始めたのだった。

 故にレミリアの中では、何を置いても霊夢が一番だった。
虚飾を張る以上表面上でそう見せる訳には行かなかったが、その内心では常に。
パチュリーよりも。
咲夜よりも。
そしてフランドールよりも。
だから、何かと理由をつけて、レミリアは霊夢の所へ通っている。
そんな折だった。
レミリアが、権兵衛と出会ったのは。

 初めて出会った時の印象は、鮮烈であった。
何せ権兵衛と言う男、いきなり血を吸おうとした自分を、あっさりと許したのである。
そのあんまりなあっさりさに、よもや吸血鬼の事を良く知らないのでは、とも思えたが、それはその後幾度かの訪問時の問答によって否定されている。
そんな権兵衛に対しレミリアが抱いた印象は、何処か霊夢と似た、超然とした部分であった。
異様なまでの懐の広さで、そんな権兵衛に、レミリアはある種の期待を向ける事になる。
もしかして。
そんな事あるはずが無いと分かっているのだけれども。
もしかしたら、この男ならば、本当の自分を受け入れてくれるのではないか、と。

 すぐに頭を振って、その希望を自らから追い出すが、それでも期待はがっしりと頭に張り付いていて、その残滓は残ってしまう。
して、レミリアは、毎日のように何かと用事を作り、権兵衛の様子を見るようにしてきた。
権兵衛は、劣等感の強い男であった。
何かと自分が悪いと言う事にする癖があり、その度に自虐の念に引きこまれ、己をこき下ろしていた。
その姿は普通、見ていて気分の良い物では無い。
なにせこちらが善意で褒めてやろうとしても、勝手にそれを謎の解釈で、自虐の念に変えられてしまうのである。
残念と言うか面倒と言うか、そんな感想が先立ち、あまり良い感情が芽生える相手では無い。
筈なのに。
何処か、レミリアは権兵衛に親近感を感じていた。

「はぁ……」

 夜中の自室。
たった一人でベッドの上で、上半身だけ起こしながら、レミリアは溜息をついた。
普段おくびにも出さないが、豪奢で広い室内は、時々自分の小ささを実感させてきて、あまり好きでは無い。
せめてもの抵抗として、レミリアはごろんと寝転がり、シーツをぎゅっと体に密着させる。
そうやって狭い部分に自分を閉じ込めるような行為をしていると、少しレミリアは安堵を憶える。
ふと、フランドールと自分が逆の立場で、自分が狭い地下室に閉じ込められていても、そんなに悪くなかったんじゃないかな、と思い、レミリアは自嘲の笑みを浮かべた。

 不思議とレミリアは、権兵衛に親しみを覚えていた。
最初は隣に座るだけだった昼間の邂逅も、何時しかレミリアが権兵衛の膝の上に座る形になった。
さほど厚いとは言えず傷だらけの胸板は、余り頼りになるとは言えなかったが、それでも権兵衛の胸にぐっと頭を押し付けるのが、レミリアは好きだった。
それは単に、シーツを密着させるのと同じ、狭い部分に覆われていたい、という事からかもしれないけれど。
権兵衛との会話も、心地良かった。
権兵衛は然程話術に秀でていると言う訳でも無いのだけれども、必死にこちらの為を思っているのが容易く分かる所作をしているのが、嬉しかった。
矢張りその根底には、もしかしたらこの男なら、生の自分を受け入れてくれるかもしれない、と言う淡い期待があるのだろう、とレミリアは思う。
それはもしかしたら、レミリアを吸血鬼と知る前も後も、態度を変えなかった所にあるのかもしれない。
吸血鬼と言う大きな価値を前にしても感想を変えなかった彼は、物事の本質を見抜く力があり、既に本当の自分を見抜いていて、それにする対応が、あの優しい対応であるのではないか、と。

 淡い期待であっても、一度思ってしまえば、それを根絶するのは難しい。
自然レミリアは権兵衛の元に足を延ばす機会を増やしている。
未だに権兵衛に本当の自分を明かす程の思いは抱いていないし、そうする予定も無い。
しかし不思議と、霊夢とであっている時と同じように、権兵衛を前にすると、救われたような気持ちになるのが分かってきた。
だからレミリアは表面上、恐れられてもいないのに血を吸いかけた為、借りを作ってしまったから、と言う理由をつけ権兵衛の元に通っている。

「権兵衛、今頃何してるのかな……」

 ぽつり、と呟き、レミリアは窓の外へと視線を向ける。
殆ど新月となった月齢の今頃、月は既に沈み、既に姿を見せる事は無い。
同じ空を見ているであろう権兵衛は、今頃何をしているのか。
怪我人だし、早く寝ようとでもしているのだろうか。
それともそろそろ怪我も治り始めて来た所である、霊夢の家事を手伝いでもしているのだろうか。
それとも、果たして。
ついえぬ想像を胸に、レミリアは、静かに暗い空を見上げる。
明日が楽しみだな、と思いつつ、レミリアは寝起きの眠気を吹き飛ばし、ゆっくりと起き上がるのであった。



   ***



 空を飛びながらも、何処をどう飛んできたのか、藤原妹紅は、自分でも分からなかった。
ただ荒い息遣いと共に胸を上下させながら、ゆらり、ゆらり、と揺れつつ、どうにか縁側で足を踏み出す。
一歩歩く事に頭の中をかき混ぜられるかのような不快感に襲われ、妹紅は顔を歪めた。
吐き気がした。
眼の奥が溶け落ちそうに熱い。
眉間が今にも裂けそうなほど痛い。
肉体の痛みに慣れた妹紅でも耐えかねる、精神が醸しだす心の痛みであった。

 権兵衛。
権兵衛、あの何でも受け入れてしまう、聖人のような狂気に満ちた男。
権兵衛、あのドジで抜けていて、でも他人の事を想う事にかけては一人前の、優しい男。
そのどちらとも取れぬ感情を向けていた男は、今や妹紅の最大の敵なのだ。
権兵衛、彼はきっと、あの狂気的な輝夜達の愛情も受け入れて、蓬莱人となるのに、結局了承するだろう。
里で苦境にあっても慧音に頼りきりにならなかった自立心のある男である、すぐには永遠亭へ行こうと思わず、通う程度になるかもはしれない。
それでも輝夜は、きっと妹紅との殺し合いなど目でも無い、とばかりに、権兵衛に掛かり切りになるだろう。
妹紅にとっては憎らしい事態でも、権兵衛はきっと、妹紅と輝夜の殺し合いが無くなる事を、歓迎するかもしれない。
何せ優しい男である、物騒な事なのだから、無くて済むのならばそれで一番だ、と。
それでも、と妹紅は内心で泣き叫ぶ。
それでも、私には必要な事なんだ。
私のやっと掴んだ幸せには、必要不可欠な事なんだよ、と。

「――ぅうあ」

 乾いた喉は、声らしい声をすら、上げる事は出来なかった。
それがまるで、自分の心の叫びが、発される事すらなく踏み潰されたかのように思えて、妹紅は悔しさに歯噛みする。
憎い。
あの男、権兵衛が、憎くて仕方が無い。
かつて輝夜に思ったのと同じ、八つ当たりの思いであったが、それは確かな憎しみであった。
その憎しみの強さと言ったら、かつてのそれ以上かもしれない。
何せ妹紅は家族を大切に思っていたが故にそれを壊した輝夜を憎んだ。
しかし、今権兵衛にとって奪い取られようとしているのは、輝夜に出会うまで、七百年もの歳月を絶望と共に歩み続け、ようやく得た、それも何時までも続くと思われていた幸せなのだ。
当然家族の情を含む、妹紅のあらゆる絶望と希望、全てを、権兵衛は奪い取ろうとしているのだ。
知らずにとは言え、当然、かつての輝夜以上に憎くて、憎くて、仕方がなかった。

「……る」

 殺してやる、と妹紅は声にならない声で呟いた。
殺してやる。
私の、不死鳥の炎で、消し炭も残さずに消し飛ばしてやる。
後悔の悲鳴を上げる暇もなく、殺してやる。
そんな決意と共に、妹紅はふらつく歩みを進め、ようやくのこと権兵衛の部屋の前にたどり着いた。
襖に手をかけ、深呼吸する。
乾いた喉が傷んだが、それを無視するよう努めて、妹紅は襖を開け放った。

「あ、良かった、妹紅さん。戻ってきてくれたんですね」

 笑顔の権兵衛が、それを出迎えた。
そこに近づいて焼き殺してやる、と思う妹紅を裏腹に、はっ、と権兵衛は顔色を変え、布団の中から飛び立った。
想定外の動きに、思わず妹紅は殺意を忘れ、瞬きした。

「だ、大丈夫ですか、妹紅さんっ!」

 叫んでから、傷が傷んだのだろう、喉を抑えつつ、権兵衛がふらつく妹紅を抱きしめる。
ぎゅ、と自分を抱きしめる権兵衛の腕は、人肌程の体温があって、冷えた妹紅の体には途方もなく暖かかった。
何故だろう、その暖かさが、涙が出そうになるぐらい、嬉しい。
まるで、氷が太陽に差されたて溶けてゆくように、妹紅の体から、憎しみが溶け出してゆく。
駄目だ、これは罠なんだ、と思っても、どうにも体から力が抜けていって。

「や……ろ……」
「喉を痛めているんですか? み、水です、どうぞ」

 すぐに霊力で浮かされ口に突っ込まれた水差しから、ゆっくりと水が流し込まれる。
まるで砂礫に水が滲み込むかのように、妹紅の乾きが潤ってゆく。
目にその潤いが集まり、ぽろりぽろり、とこぼれ落ち始めた。
やめろ、泣くんじゃない、なんで泣くんだ。
権兵衛だぞ、憎い敵の前なんだぞ!
そう叫ぶ妹紅の内心とは裏腹に、こぼれ出てゆく涙の勢いは、増すばかりである。
力の入らない両手で拭っては捨て、拭っては捨て、とするのだが、焼け石に水であった。
不意に、残る権兵衛の手が、妹紅の背から離れる。
反射的に、行かないでっ! と叫びそうになるのを、どうにか妹紅はこらえた。
すぐに権兵衛の手は妹紅の長い髪にかかり、どうやら髪についた木の枝やら葉っぱやらを取り除いているようだったからだ。
暖かな権兵衛の掌が髪を梳いてくれるのはとても心地良く、権兵衛に揺らされっぱなしだった妹紅の心を落ち着かせた。
まるで子供のように権兵衛に髪を梳かれるままの姿勢で、妹紅は権兵衛の言葉を聞く。

「その……何があったのかは、分かりません」
「……ぐす」
「でも、大丈夫、安心して……とまでは言えませんけれど。微力ながら、俺は何時でも貴方の力になれますよ」
「……ちがっ……うぅっ……」

 髪を梳いていた手が、再び妹紅の背中を抱きしめる。
再び背中に触れる体温が、どうしようもなく暖かくて。
これ以上無いと思っていた涙が、更に一気に溢れでてきて、手で拭うのが追いつかなくなり、権兵衛の肩へと流れ落ちる。

「大丈夫。大丈夫、大丈夫……」
「う、ううっ……」

 本格的に嗚咽を漏らし始める妹紅の背を、ぽんぽんと叩きつつ、権兵衛が繰り返す。
まるで子供を扱うような所作であったが、それを嬉しいと感じる部分が自分にあるのに気づき、妹紅は驚愕した。
だって、この男は憎い敵の筈なのに。
私から輝夜を奪ってゆく相手なのに。
なのになんでこんなに暖かいんだろうか。
そう思いながらも権兵衛を抱きしめ返し、泣き続ける事しかできない妹紅を他所に、権兵衛が静かに口を開いた。

「俺はかつて、こうやって泣いた人を、どうやって慰めればいいのか、右往左往して、何も出来なかった事がありました」
「………………」

 どうやら独白を始めた様子の権兵衛の言葉に、妹紅は耳を傾ける。
ちらりと横目に見た権兵衛はと言うと、感じ入った様子で、返事は期待していないようだった。

「そんな俺が泣いてしまった時、風見さんが俺にこうやって、抱きしめてくれたんです」
「………………」
「それで、気づきました。人の暖かさを感じると言うだけの事が、こんなにも暖かく嬉しく、尊い事だったんだって」

 無言で、妹紅は頷く。
部屋に入る前は妹紅の中を渦巻いていた憎しみが、何時の間にか、ひっそりと身を潜めてしまった。
未だになにをどうすればいいのかは分からないけれど、何だかよく分からない暖かさが妹紅を包み、安堵させていた。
妹紅が頷いたのを感じたのだろう、権兵衛もまた軽く頭を上下させると、続ける。

「良かった……。貴方を俺の暖かさで、少しでも慰める事が出来たのですね」
「………………」
「良かった、本当に良かった……」

 そんな風に言う権兵衛に、まるで、権兵衛の方が救われたかのような言い草だな、と妹紅は内心でくすりと笑った。
そして、思う。
こんなにも暖かくて優しい権兵衛となら、私の幸せも、きっとどうにか出来るに違いない。
抜けている所とかが心配だし、そもそも彼自身も大変な状況だし、と考えれば悪い事柄は次々と思い浮かんでくるのだが、それを全て権兵衛の体温の暖かさが封殺して、暖かさで一杯にしていた。
それが幻想だと知りつつも、だから妹紅は思う。
これから何もかもが上手く行くに違いない。
そして私は今よりも更に幸せになれるに違いないんだ、と。
ぎゅ、と権兵衛の体を抱きしめる。
藍染めの、ごわっとした着物の感触が、妹紅の掌に伝わる。
妹紅は、これ以上無く、幸せだった。
その、瞬間までは。

「思うならば、これをあの時、輝夜先生にも分けてあげたかったなぁ……」
「……え」

 どん、と。
反射的に、妹紅は権兵衛を突き飛ばしていた。
訳がわからない、と言う表情で、権兵衛が床に倒れてゆく。
幸いと言うべきか、家具に引っかかる事なく、権兵衛はそのまま床に倒れた。
ゆっくりと、妹紅は息を吐く。
妹紅の中を、戻ってきた憎しみと、今までの愛しさとが、ぐるぐると渦巻いていた。

「やめ……ろ……」
「も、こう、さん?」
「やめろ、取るなよぉぉおっ!」

 叫ぶ。
弾かれたように妹紅は飛び出し、権兵衛の上に馬乗りになった。
傷に響いたのだろう、悲鳴を上げる権兵衛。
その悲鳴が心地良くも、嫌だとも思えて、訳が分からず、ふるふると妹紅は頭を振る。
それから、すっと両手を差し出し、権兵衛の首の上に置いた。
ぎゅ、と、締め上げる。

「う……ぐ……」
「死ね……死んでしまえ……っ!」

 目を白黒させながら喉に手をやり、もがき苦しむ権兵衛。
それは見ているだけで妹紅の心が痛むが、ふるふるを頭を振り、違う、と呟く事で辛うじて手を離さず、妹紅は権兵衛の首を締め続けていた。

「違う、これは、そう、罠、罠なんだ! 権兵衛は、敵なんだよっ!」
「ぐ……ぎ……」
「だから、私は、悪く、ないっ! お前の、お前の所為なんだよっ!」

 そう叫び続ける事で己に権兵衛の首を絞め続けさせていた妹紅であったが、次第に声が弱まり、手の力も弱まってゆく。
やがて完全に力が抜け、権兵衛の首から、妹紅の手が滑り落ちた。
ごほっ、ごほっ、と咽る権兵衛を他所に、妹紅は告白する。

「ははっ、そんな訳……無い、よな。これは、ただの八つ当たりなんだ」
「がほ、げっほっ!」
「でも、止められないんだ。止められないんだよっ!」

 顔を覆いながら、妹紅は叫ぶ。
そう、権兵衛の体温は、妹紅を冷静にさせてくれた。
これは八つ当たりだ、こんなことをした所でどうにもなるまい、と。
勿論権兵衛を殺せば、輝夜は怒り狂って再び妹紅と殺し合いを始めてくれるかもしれないが、それは希望的観測と言う物だ。
輝夜が今度は死者蘇生や転生した権兵衛を探す事に全力を尽くす可能性も無いとは言えず、しかも彼女にはそれを可能にしうる月の頭脳がついている。
どうせ殺せぬ妹紅などどうでもいいと捨て置き、死んだ権兵衛に尽力する可能性は非常に高い。
その上権兵衛を殺すと言うのは、人道に反する行いである。
単に権兵衛が狂わしくも善人であると言うだけでなく、友人の信頼に背く行いであり、同時に今こうやって権兵衛に受けた恩にも背く行いであるのだ。
だけど。
だけれども。

「だけど、それなら、一体どうすればいいんだ……」
「げほ、けほ、けほ……」
「私は、一体、どうすればいいんだよっ!」

 叫び、天を仰ぐ妹紅。
だからといって、妹紅は輝夜との殺し合いを、不死者として唯一の楽しみを手放す気には、なれない。
唯一の消えてなくならない繋がりは、妹紅の幸せを形作る中で、最も重要な物である。
それがなければ、七百年間続いた、孤独の時代と同じ辛酸を味わい続ける事になる。
それだけは、嫌だ。
となれば、矢張り可能性にかけて、権兵衛を殺すしか無いのか。
この、八つ当たりの復讐で凝り固まっていた自分を抱きしめ、溶かしてくれた男を、殺すしか。
涙を零しつつ、妹紅がそっと顔を覆っている手を離した、その時であった。

「も、こう、さん」
「………………」
「お、俺に、力になれる、事が、あれば、何、でも……げほ、げほ」
「……あ」

 権兵衛の言葉が、天啓をもたらした。

「あーっ! あー! あーっ!」

 思わず妹紅は、空中を指差し、そうだ、そうだったんだ、と口から漏らす。
そう、当然の摂理。
権兵衛が輝夜に気にされている、と言う時から思い浮かんでもいいはずの、当然思いつくべき考え。
なんだ、そんな事を今まで思いつかなかったのか、と、今までの自分は馬鹿だなぁ、と妹紅は思う。
そう、簡単な事だった。

「お前を、権兵衛を、私の物にしてしまえば良かったんだっ!」
「――へ?」

 素っ頓狂な声を出す権兵衛に、あぁそうか、と妹紅は苦笑する。
当人の権兵衛であるのに、今回の事情は何も知らないのだ。
全く呑気なもんだな、と思いつつも、妹紅はこの素晴らしい答えの理屈を考える。
原因は、輝夜が権兵衛に夢中になり、妹紅との殺し合いをどうでもよく思ってしまったからである。
ならば当然、妹紅が権兵衛を奪ってしまえば、輝夜は否が応でも妹紅を見るしかなくなってしまうのだ。
肉体的にだけではなく、出来る事なら、その心までも奪えれば、完璧と言えよう。
その為に、まずは、と妹紅は権兵衛の服をはだけさせ、胸に直接手をおく。

「まずは、輝夜に取られたとしても、私を思い出させる為に、お前に私をきちんと刻んでおかないと、な」
「え? え?」
「いくぞ。ちょっと、痛いからな」

 言ってから、妹紅は掌に不死鳥の炎を顕現させた。

「ぎゃああああぁあぁっ!?」
「これで、蓬莱人になる前に、魂まで火傷をさせて……」
「あ、アアア゙ッ、がああぁああっ!」
「何時でも分かるようにすれば、輝夜の元に居たとしても、私を思い出させる事が出来るっ!」

 十数秒、権兵衛が絶叫を続ける中炎を顕現させ続けてから、妹紅はそれを消した。
はふっ、はふっ、と酸欠気味に呼吸する権兵衛の左胸は、決して消える事のない火傷が広がっている。
そっと妹紅は、その消えない火傷に指先で触れた。
びくん、と叫びつつ跳ね上がる権兵衛を尻目に、表面の壊死した黒いざらざらする皮膚をなぞる。
これが。
これが、永遠に消えない、私と権兵衛の絆なのだ。
そう思うと、単なる火傷も、愛おしく思えてきて仕方が無く、妹紅は権兵衛の火傷に頬擦りする。

「ああ、ぐ、ああぁあっ!?」

 と、そこで悲鳴を上げる権兵衛の声を聞きつけたのか、外から巫女と思わしき足音が近づいてくるのに気づいた。
顔を離すのと同時、凄まじい勢いで襖が開く。

「何事っ!?」

 険しい顔で叫ぶ霊夢に、あぁ、と妹紅はぽりぽり頭をかく。
何せ、よくよく考えたら、今は夜中である。
権兵衛に絶叫させるのは、近所迷惑であろう、謝らねば、と思うと同時、巫女の鋭い言葉が妹紅の胸をついた。

「あんた……権兵衛さんを襲ったの!?」

 はっ、と、気づく。
今の自分がそう見える位置づけである事に、では無い。
実際に今、権兵衛に取っては、その通りの出来事であった事に思い至ったからである。
何せ権兵衛、出来る事があればするとは言っていたものの、妹紅はそれに対し何の説明もする事無く、実力行使に出たのだった。
ぞっ、と、顔が青くなる。
血の気が引く音を、妹紅は聞いた気がした。

「ち……違うっ」
「違うって、あんた、馬乗りになってる上に、権兵衛さんの怪我、酷い火傷じゃないっ!」
「違う、兎に角違うんだっ!」

 何せ、妹紅は権兵衛を輝夜から奪わないとならないのである。
それも、出来れば体だけでなく、心までも。
だというのに、こんな、権兵衛に嫌われそうな事をまでしてしまって。
話せば妹紅の言う通りにしてくれたかもしれない権兵衛を裏切って、勝手に永遠に残る火傷まで負わせてしまって。
しかも、その天啓の内容と言えば、よくよく考えれば慧音の信頼を裏切る内容であり、事実、こうやって権兵衛を傷つけてしまっただけでも、彼女を裏切ってしまったと言えよう。
衝撃の事実を悟り、混乱する頭を抱えて、妹紅は立ち上がり、叫ぶ。

「わ、私は、そんなつもりじゃ……!」
「そんなつもりって、やっぱりじゃないのよ。あんた、一体どういうつもりよっ!」
「違う、違うんだよっ!」

 叫びながら、兎に角この場に留まっているのが嫌で、妹紅は外へと飛び出す。
札で牽制していた霊夢は、権兵衛の保護を優先するようで、あっさりと妹紅の脱出を許した。
夜の冷たい空気を切り裂きながら、妹紅は空を飛び、兎に角神社から離れようとする。

「う、うぐうっ、うっ……」

 涙がこみ上げてきて、嗚咽が漏れる。
風を切る音がびょうびょうと五月蝿い。
何で。
何で、こんなことになってしまったんだ。
呟きながら、妹紅は顔を手で覆う。
分からない。
何度考えても、分からなかった。
権兵衛から輝夜に師事している事を聞いて。
輝夜が権兵衛を蓬莱人にしようとしている事を聞いて。
権兵衛に殺意を抱いて。
でも、権兵衛に抱きしめてもらったら、それが全て霧散して。

 なのに、権兵衛の口から輝夜の名を聞いてからは、全てが駄目になってしまった。
権兵衛への八つ当たりが抑えられなくなって。
それでも駄目だと悟り、殺意を抑えれるようになって。
そして。
権兵衛を自分の物にしようと、思いついて。
気づけば、権兵衛を勝手に傷つけていて。

「くそ、ううっ、何で……」

 何で、そこで勝手に権兵衛を傷つけてしまったのだろうか。
権兵衛、あの狂わしい所を持つ男である、こちらから提案すれば、きっと頷いてくれたに違いないのに。
私の物になれ、と言えば、輝夜に義理立てして頷けなかったかもしれないけれど、少なくとも妹紅の物である証ぐらいはつけさせてくれたかもしれないのに。
あぁ、そういえば何で自分は権兵衛の左胸なんて言う、地味な所に証をつけてしまったのだろうか。
権兵衛の顔を焼け爛れさせれば、何時でも権兵衛との絆が確認できた上、余計な虫どもが寄ってくるのを避けられたに違いないのに。

 でも、もう遅いのだ。
妹紅は勝手に権兵衛を傷つけてしまった。
人道に反する行いとして、彼を傷つけてしまった。
権兵衛は、怒っているだろうか。
それどころか、自分のことを嫌ってさえいるかもしれない。
そう思うと、ぞくりと、背筋に氷柱を差し込まれたような、悪寒が走る。
空だのに膝ががくがくと震え、自らを抱きしめないと震えが止まらないぐらいで。
輝夜が権兵衛へ生き肝の料理を作っているのを聞いた時よりも、気分が悪い。

「ご、めんなさい……」

 謝罪の言葉を口にするも、びょうびょうと五月蝿い風の音に掻き消えてゆくばかりである。
あぁ、この言葉のように消え去れたのならば、それでもいいかもしれない、と涙ながらに妹紅は思った。
しかし、それは叶わぬ夢であった。
妹紅は蓬莱人、不老不死の人種故に。



   ***



 気づけば、既に昼近くであった。
一晩中、胸が痒いような感じであり、悶えそうになるのだが、悶えると雷のような凄まじい痛みが襲ってくる、と言う地獄を体感しているうちに、気を失うように寝ていたらしい。
とりあえず流水で冷やし、連絡にすっ飛んできた永琳さんを見たのは、覚えている。
一通りの治療を意識があるのか無いのか分からない状態で受けた後、霊夢さんと永琳さんが口論になっていたのも、記憶にあった。
が、それ以降は場所を移してしまったのだろう、俺はただ火傷の痕の痛みと格闘するばかりで、結局何故妹紅さんが俺を傷つけたのか、何が何だか分からないままなのであった。
一応、その言から輝夜さんと関係しているらしい、ぐらいは覚えているが、火傷の痛みで、最後の方の会話の記憶も曖昧になっていた。

 起きようとして、左半身に凄まじい痛みが走るのに、顔が歪む。
何の因果か、左手の指は全部折れ、左腕が痺れて思うように動かず、左胸は炭化するほどの火傷、と、最近の怪我は左半身ばかりである。
はてさて、何か左側が呪われてでもいるのだろうか、と思いつつ、辺りに視線をやると、何時もの博麗神社の一室、何時も妹紅さんが座っていた座布団の上に、何故かレミリアさんが座っていた。

「レミ……リア、さん?」

 もしや、看病に来てくれているのだろうか。
高貴で華やかなイメージのある彼女が看病をすると言うのがイメージに合わず、思わずパチクリと目を瞬いてしまうが、白いドレスにキャップ、青い髪に蝙蝠の翼、そこにいるのはまごう事無きレミリアさんである。
ただ。
なんか、涎を垂らして寝ているのだが。
鼻ちょうちんも作っているし。

「………………」
「………………」
「………………」

 何と言うか。
恐らく、俺の看病疲れで寝ているのでは、と思うと、手を出さない方がいいのは分かっているのだが。
まるで謎の引力があるかのように、体を起こし、吸い込まれるように俺の右手が伸びてゆき、指先で鼻ちょうちんをつついてしまう。
ぱちん、と弾ける鼻ちょうちん。

「う、うわっ!? う、うー、って、あれ、権兵衛?」
「………………」
「………………」
「………………」

 互いにしばし沈黙を交わし合うと、こほん、と小さく咳払いをするレミリアさん。
すると腕組みをして少し背を逸らし、僅かに目を細め、口を開く。

「大事ないか? 権兵衛。怪我をしたって聞いたけど」
「……あ、はい。その、まだ怪我の容態までは聞いていないので、具体的にどう、とは言えませんが」
「あぁ、それなら薬師が痕は残るが、命には別状は無いとか言ってたっけな」
「永琳さんですか」

 ならその通りなのだろう、と頷きつつ、無かった事にするんだな、と思うと、自然と視線が生ぬるくなる。
それに気づいたのか、もう一度、こほん、とレミリアさんが咳払いするのを聞いて、バツが悪くなり、視線を逸らした。
ジト目っぽくなるレミリアさんに、思わず頬をかく。

「まぁな。で、薬師としては永遠亭に引き取りたいって話だが、何でか、霊夢がそれを拒否していてな。
何でも、これまでも神社に居たんだから、これからも居たって問題無い、とか何とか。
面倒臭がりなあいつにしちゃあ、珍しい事だけれど」
「はぁ。そうなんですか」

 と、俺は意外さに目を丸くする。
何せ俺は霊夢さんに避けられている所なのである、事情があって動かせないと慧音さんに伺ったが、その事情と言うのが解消されていたならば、永遠亭へ移されて然るべきだと思っていたからだ。
ということは、事情と言うのは、俺の怪我とは関係無いのかもしれない。
と言うのも、そこそこ俺自身の怪我も治り始めて来て、数歩ぐらいなら霊力操作無しで動けそうなぐらいになってきたからである。
と言っても、その上に更に新しく怪我を負ってしまったので、何とも言えないが……。
兎に角、何らかの事情があるかもしれない、とだけ心に留め置いておく事にする。

「まぁ、あいつの勘は確かだ、それに従っているなら、悪いようにはならないさ。
しかし、永遠亭の薬師の腕で痕が残るとは、よっぽど酷い怪我なのか?」
「あ、はい。この通りですけれど」

 と着物をはだけてみせる。
肩を抜く時ちょっと肌がひきつって痛く、思わず目を細めながらの行為であったが、素早い行為であったからか、止められる事は無かった。
が、当然、患部にはガーゼが張ってあるので、見えるはずもなく。
痛い事までして何をやっているんだ、俺は、と自己嫌悪に陥りながら、慌てて口を開く。

「って、見えませんね。何やってんだか。
えーっと、殆ど意識があるんだか無いんだか分からないうちに終わってしまったのですが、ここを、こう、この辺からこの辺まで。
殆ど、表面は炭化してしまっていたみたいでして。
えっと、だから、削って皮膚を貼った、のかな?」
「違う」
「へ?」

 思わず聞き返す次第になって、俺はようやくレミリアさんの異常に気づいた。
何時しかは俺が満月の状態となっていたが故に凝視されていたが、それと同じように、今も俺の傷跡の辺りを穴が開くのではないかと言うぐらいに凝視されている。
今は月度を高めていないのにどうして、と疑問に思ったのを見てとったか、レミリアさんは言う。

「貴方の魂は、今もまだ、火傷を負ったまま。いえ、炎に焼かれたまま」

 と言いつつ、そっと、俺が痛みを感じ無いぐらいに優しく、俺の傷跡の上を撫でてみせた。
そして、くん、と視線を上げ、俺の目へとぶつける。
思わず、腰が引けた。
あまりの威圧に、声を上げそうになるのを、辛うじて抑える。
赤い瞳が、今にもどろりと溶けて、落ちてしまいそうな目であった。
その赤は無数の蝙蝠の眼球で出来ていて、その眼球は全身が血走り過ぎて赤い点にしか見えなくなっていて。
そんな、背筋が凍りつきそうな程の、凄絶なまでの眼光であった。

「ねぇ、権兵衛。
妹紅、あの蓬莱人は――何処かしら?」
「ぁ、う」

 答えは決まっている。
明らかにレミリアさんは、俺の怪我の下手人が妹紅さんであると感づき、その報復を行おうとしているように見える。
だがしかし、俺は妹紅さんが一体どんな理由で俺を傷つけたのか、まだその理由の端っこすら捕まえられていないのである。
であれば、当然、とりあえず俺が悪いのだと仮定して、妹紅さんを庇うのが正しい選択であろう。
そも、例え答えるべきだとしても、俺は妹紅さんの居場所など知らないと言うのに。
だと、言うのに。
舌が絡まってしまい、言葉一つですら口にすることができない。
どころか、頭の中に棒を突っ込まれてグチャグチャにかき回されたみたいに、混乱して何も考えられない。
目の前の光景が、レミリアさんの瞳を除いて全て暗闇になってゆき、その瞳の怪しい輝きだけが残る。
バサバサと、鳥の物とは違う羽根音が何処からか聞こえた。
思わず、くらりとそのまま気を失いそうにさえなってしまう自分を、叱咤する。

 違うだろう。
俺は、妹紅さんにどれほどの恩を受けたと思っているのだ。
この数日、体が動かない間、どれほどあの人に助けてもらったと思っているのだ。
リハビリにと体を動かしている間中、彼女は俺について見ていてくれた。
頑張りすぎて右手がふるふると震えて、食事がままならない程に疲弊してしまった時、彼女は俺に食事を食べさせてくれた。
そして最後の出て行く前ばかりでなく、それとなく俺の考えの助けとなるよう、幾度も彼女は俺に助言をくれた。
ばかりか、ここで答えず、気を失ってしまうのは、レミリアさんに対しても失礼である。
一日中寝てばかりで、一人で居ると気が滅入ってしまう面倒な質の俺に、毎日のように話をしにきてくれた。
その彼女を慮って、彼女の意外の事で気を失ってしまうような醜態を見せないのは、当然の事であろう。
どうにか、ごくりと唾を飲み込む。
すう、と息を吸い、口を開く。

「分かり、ません」
「本当に?」
「本当にです」

 と言うと、すっとレミリアさんの眼力が薄れる。
背景が戻ってきて、俺の肩に入った力が抜け、どっと汗が飛び出る。
むぅ、と口を窄めるレミリアさん。

「本当に本当に?」
「本当に本当にです」
「本当に本当に本当に?」
「本当に本当に本当にです」
「本当に本当に……って、もういいや、飽きたわ」

 と、見目の年齢らしく、俺の胸から手を離し、両手の指と指を擦り合わせ、拗ねたような仕草を見せるレミリアさん。
先ほどまでの妖怪らしさに満ち溢れた姿とはまるで違う、子供らしい仕草であり、まるで別人に入れ替わったかのようで、戸惑いを隠せない。
が、それでも先程までの妖しい感じは終わったものか、と安堵した所で、再びレミリアさんと目が合う。
ぞっと、悪寒。
それは、目から血の泉が広がるような、狂わしい瞳で。

「ねぇ、権兵衛。その傷が、どういう意味なのか、知っている?」
「い、いえ……」
「それはね、権兵衛、貴方は私の物だ、他の誰の物でもない、って言っているの。他の誰でも無い、私の前で、ね」

 そうなんですか、と、それだけの言葉を返す事すらできない。
気づけば、全身が微塵も動けなくなっていた。
と言っても、悪い事ばかりではなく、震えようにも震える事が出来ず、怯える事によってレミリアさんを傷つける事が無くなった事にほっとする。
そうこうしているうちに、レミリアさんは、す、と両手を挙げた。
そしてまるで白鳥の羽のように優雅に折れてゆき、しなだれかかるようにして、俺の首に巻きつけた。
ぐっと体重がかかり、近づいてくるその姿は、まるで今にも消えそうな程儚い。
そんな光景の中、ただ一つ、レミリアさんが預ける体重に比して、痛みが増す事だけが現実的だった。

「ねぇ、権兵衛」
「は、い」
「権兵衛を、私の物にして、いい?」

 果たして、返事は行えなかった。
それよりも早く、まるでついばむように素早く、レミリアさんが俺の首筋に噛み付いたからである。
あ、あ、あ、と俺の口から、間抜けな声が漏れる。
それに連動して、レミリアさんが噛み付いている首筋から、とろりと血が垂れてゆく。
胸のガーゼに染みこんでゆく朱を、ぼうっと見つめていると、不意に、はっとレミリアさんが俺の首筋から離れた。
それもまた鳥が餌をついばむときのように、戻りも早く、気づけばレミリアさんは俺から体ひとつ分離れた場所に戻っていた。
その口の両端から溢れる赤い血が無ければ、つい先ほどから何も変わっていなかったのではないか、と見間違うぐらいである。
吸血は伝説にあるように、される側に酩酊感をもたらす物であった。
頭がはっきりとせず、ぼうっとしている俺に対し、レミリアさんはぶるぶると震え始める。
自らの掌を見下ろし、微かな声で、レミリアさんは言った。

「ごめん、なさい……」
「え?」
「ごめ、んなさい……ごめんなさい……ごめんなさいっ!」

 どうしたのか、と唖然とするこちらを放って、レミリアさんはついにぽろぽろと涙さえ流し始めてしまう。
まるで大人に叱られた子供のようなその姿は、矢張りまるで見目通りの年齢の子供のようで、先ほどまでに怪しげな少女とは、まるで別人のようであった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「レミリア、さん……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 壊れたテープレコーダーのように、同じ言葉ばかりを繰り返すレミリアさん。
その肩に手を伸ばそうとするが、先の妹紅さんの姿が幻視できてしまい、思わずその手を一度止めてしまう。
何せ、俺である。
妹紅さんの事情を何も知らなかったとは言え、傷ついた彼女に手を伸ばし、その上で恐らく彼女を傷つけさえしまった、この俺である。
再び傷ついたレミリアさんを、更に傷つけてしまうのではないか、と思ったのだ。
矢張り、俺は何をしても人の害になるばかりで、首をくくって死ぬべきではないのか。
ああ、それでも俺の恩人達は、俺に自殺させてしまった、と悔いるような善人ばかりである。
ならば今直ぐ、俺の避けようのない、隕石が降ってくるような珍事によって、死ねば良いのではないだろうか。
そう思い、力の抜けた手が、重力に従い下がってゆく。

 いいや、駄目だ、と俺は頭を降った。
駄目だ、それでは駄目なのだ。
それでは、ついこの前まで、自殺すべきではないかと悩んでいた、あの不貞腐れていた時と、何も変わらないではないか。
俺は、人の暖かさがどれほどの奇跡であるかを知り、そして、それを貰うだけでなく与えたいと、思ったのではあるまいか。
であれば、目の前の泣いている少女を、放っておく事など、してはなるまい。

 ぐ、と床に触れそうなぐらいまで落ちていた掌を、握りしめる。
空気を吸い、吐き、体中から活力と言う活力を集めて、腕に回す。
全力を賭して、俺は手を伸ばし、動く右腕でレミリアさんの肩を掴んだ。
びくり、と震えるレミリアさんに、静かに口を開く。

「レミリアさん」
「う、は、はいっ!」
「大丈夫ですよ。……許します」

 レミリアさんの目が、大きく見開かれる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、俺と視線が合う。

「いい、の……?」
「はい、許します。レミリアさんは、俺の血を吸っても、良いんですよ」
「でも、権兵衛、私が怖くないよね……?」
「はい、怖くないですよ」
「なら、私、自分を怖がる相手から血を吸っちゃいけないって、誇りを持ってるのに、それを自分で……」
「じゃあ、俺は、特別です」
「……とくべつ?」

 こてん、と首を傾げるレミリアさんに、笑みを深くして、返す。

「はい、特別です。だから、俺からは血を吸っても、いいんですよ」
「特別……権兵衛は、特別……」

 何故か頬を赤くし、両手を口元にやって、視線を手元にやるレミリアさん。
これで大丈夫なのか、と、不安に胸をドキドキさせながら見守っていると、上目遣いに、不安そうにレミリアさんが口を開く。

「じゃあ、その、権兵衛、ぎゅ、ってしてくれる?」
「はい。どうぞ、近づいてください」
「怪我してるけど、大丈夫?」
「勿論、大丈夫ですよ」

 と言うと、じゃあ、と先ほどと同じように滑らかな動きで、俺の首を抱きしめるレミリアさん。
それに合わせて俺は右手を使い、ぎゅ、と、レミリアさんを抱きしめる。
同時、口内でぎり、と歯を噛み締め、襲ってくる痛みに耐える。
全身を炎の舌で舐め回されるような痛みに耐えながら、その痛みで顔がどうしても引きつってしまう為、こうやって抱きあって互いの顔が見えない形であって、良かったと内心で思った。
ふと、レミリアさんの髪の匂いが鼻をついた。
少女らしい柔らかな髪の匂いに、僅かに、痛みが和らいだ気がする。

「ねぇ、権兵衛」
「はい?」
「権兵衛は、特別なんだよ、ね?」
「はい、そうですよ」
「じゃあ、その、聞いてくれるかな」

 と言って、レミリアさんは己の事を語った。
本当は誇り高い吸血鬼なんかじゃなく、自身は普通の吸血鬼であると言う事。
だのに嘘をついて、あたかも誇りを重視しているかのように見せかけている事。
妹はそれに気づいていて、それを暴露されるのが怖くて地下に幽閉した事。
その理由さえも妹の人格に見合わぬ力が危険であるからだ、と騙った事。
それでも妹に力及ばず、完全に封印する事は出来なかった事。
そこで魔法使いに力を借り、ほぼ完全に封印出来た事。
その魔法使いと友情を交わしたが、それも誇り高い吸血鬼の顔を貼りつけての事だった事。
戯れに時を操る吸血鬼ハンターをメイド長にしてみたりもしたが、何も変わらなかった事。
霊夢さんがレミリアさんにとって、救いであった事。
そして。

「権兵衛」
「はい」
「こんな、醜い私だけど。受け入れて、くれるかな?」

 背中を濡らす涙と共に、最後にレミリアさんはこう言って。
俺は当然のように、レミリアさんから見えないと言うのに満面の笑みを作って、こう答えた。

「はい、勿論です」
「――っ!」

 ぎゅ、と、痛いぐらいの力で俺を抱きしめられる。
俺もそれに返すように、怪我人に出せる最大限の力で、レミリアさんを抱きしめた。
自分を偽る事は、とても辛い事である。
誰にでも本当の自分、と言う物をさらけ出す相手が普通居て、それでガス抜きをしながらなんとかできるような事なのだが、それを。
五百年。
俺には未だ、想像もつかない程の長い間、精神的にはたった独りで過ごしてきて。
そんな彼女を、俺は醜いなどと思うことは無かった。
むしろ、尊敬さえしていた。
だって、五百年のもの間独りで居たその精神力は、果てしなく、強い。
たったの一年も独りで居られず、自死をすら思うようになった俺のような弱者とは違って。
だから、敬意をも込めて、俺はレミリアさんを抱きしめる。
レミリアさんも、より強く、俺を抱きしめる。
怪我の痛みがじくじくと己を焼く中、俺はずっとずっと、レミリアさんと抱きしめあっていた。
それこそ五百年分、彼女の寂しさを埋める事が出来るぐらいまで。



   ***



「――あ」

 午睡から覚めて、レミリアがまず感じたのは、権兵衛に受け入れてもらえたのが、嘘だったのではないか、と言う恐怖であった。
湯冷めしたかのように、暖かさからすっと冷たさへと引き戻される。
刹那硬直してしまうレミリアであったが、すぐに権兵衛の体臭を嗅ぎつけ、ふと、体を和らげ、安堵の溜息をついた。
ぐにん、と言う肉の感触。
汗を吸った、着物の匂い。
どちらも権兵衛の存在をより感じさせて、思わず顔がとろけてしまうレミリアである。
丁度、布団に仰向けになっている権兵衛の上に、俯けになってレミリアが寝転がっている形であった。

「……あはっ」

 思わず箸も転げていないのに、笑い声が漏れでてしまう。
ごろん、と権兵衛の上でごろごろしたくなってしまったが、それは流石に怪我人の権兵衛を慮って、止めておく事にする。
代わりに、ずりずりと這って、胸の辺りに頭を置く高さであったのを、権兵衛の喉元まで登ってゆく。
途中、何度か傷跡に触ってしまい、その度に権兵衛が呻き声をあげて、その度に起こしてしまったのではないかとレミリアは動きを止めるのだが、何とか起こさないままに権兵衛の喉元にまで到達した。
両手を権兵衛の首横につき、顔を権兵衛の口元にまで持って行く。
すると、権兵衛の寝息が顔にあたって、くすぐったさに、レミリアは目を細めた。
それからゆっくりと、権兵衛の吐いた息を吸い、肺に溜め込む。
あぁ、これで文字通り同じ空気を吸っているんだなぁ、と思うと、胸が熱くなり、思わずレミリアは熱い溜息をついた。
その溜息の空気を、権兵衛が吸っていくのを見て、体中がぽっと熱くなる。
ジワリと滲みでてくる汗をそのままに、一度レミリアは少し体を下に下げ、権兵衛に体を預けた。
ただでさえ体が熱いと言うのに、怪我の所為か高めな権兵衛の体温が合わさり、頭の中が溶けそうなぐらい熱かった。

 そっと、権兵衛の血で染まったガーゼを撫でる。
あの焼鳥女のつけたおぞましい傷であり、最初それを見るだけでレミリアはかっと頭に血が登ってしまったが、今はもう余裕の表情で見る事ができる。
と言うのも、その理由は、権兵衛の首筋にある。
真新しい、吸血鬼の噛み跡。
魂の火傷と同じく、吸血鬼の所有権主張の為の傷跡であった。
それも、火傷の方とは違い、後からとは言え権兵衛との合意に至った。
湧きでてくる優越感に、思わずにんまりと笑みを浮かべてしまうレミリア。
ただでさえ溶け落ちそうな笑顔を浮かべていた物なので、満面の笑みとなり、権兵衛に見せられないのが惜しいぐらいの笑みとなった。

 所で、吸血痕を見ていると、そのうち、ぞくり、とレミリアの中で蠢く物があった。
思わずごくりと唾を飲み、間隔のあいた二つの牙の痕に見入ってしまう。
口内に唾液がたまり、目がシパシパと乾いてゆくのを感じる。
かいた汗が顎まで滑り落ちて集まり、溢れ、権兵衛の肌の上に散った。

 ぐい、とまずレミリアは鼻先を権兵衛の首筋に押し付ける事から始めた。
より強くなった権兵衛の匂いを嗅ぎつつ、高い鼻が少し潰れるのも構わず、権兵衛へと押し付ける。
それからかぱっ、と口を開き、肉の蠢く口内から、唾液に濡れた舌先を伸ばす。
ぺろり、とレミリアは権兵衛の首筋をゆっくりと舐めた。
途中、権兵衛の汗を拾うように舌先を動かし、唾液と権兵衛の汗とが混じり合うのを確認しながら、掬いとり、口内に運ぶ。
それから十分に口内で転がし、香りを味わってから、ごくん、と大量の唾液と共に飲み込んだ。

「ん……熱いよ……」

 声に出した通り、下腹部に熱を感じ、レミリアは悩ましげな声を漏らす。
少し恥ずかしいけれど、ぐ、と権兵衛に腰を押し付けるようにして、それでもまるで体の中が燃え盛っているかのように、熱が消えない。
だからレミリアは、それ以上自制する事はできず、思わず口に出した。

「えっと……意識無いけど、許してくれたんだから、いいわよね……」

 先ほど舌で舐めた、未だ唾液がてらてらと光る吸血痕の場所へと、口先を近づける。
そして、かぷり、と先の時と同じ場所に、噛み付いた。

「……ん」

 小さく声を漏らしながら、レミリアはたっぷりと権兵衛の血を吸う。
飲み込めない分まで口内に貯めて、それでやっとレミリアは権兵衛の首筋から牙を離した。
それから、少しやってみたい事があって、口内に血を貯めたまま、権兵衛に馬乗りになる形で、体を起こす。
権兵衛の体温が離れるのはとても不安だけれど、その思いつきを実行してみたならば、より一層権兵衛と一体になれる気がするので、我慢の子である。
そうして体を起こしてから、レミリアはドレスの裾を持ち、ぐっと上に引っ張り上げた。
そのまま体を引っこ抜くようにドレスを脱ぎ捨て、傍らに置く。
ドロワーズ一枚となって、レミリアは半裸で権兵衛に馬乗りになっていた。

 ちょっとこれは、恥ずかしいかもしれない。
室内のむっとした空気にとはいえ、体を直接空気に当てる次第になって、レミリアは僅かに赤面した。
思ったよりもこれは恥ずかしく、誰も見ていないと言うのに、思わず両手を使って、胸の前を隠してしまう。
が、レミリアの思い描く事には、片方でもいいから、手を使うのが必要なのである。
鼻ですう、と息を吸い込んで、力を込め、かくかくとした動きで片手を口元にやる。
それからレミリアは、口内で唾液と混ざった権兵衛の血を、少しづつ口から垂らした。
それを掌で拾い上げ、暫く灯りに当てたかと思うと、その手で自らの体に触れる。
ぺと、と言う粘着質な音と共に、レミリアの白磁の肌へ、権兵衛の血が塗られた。

 ぞくり、とあまりの興奮に、レミリアは身悶えした。
今、自分は権兵衛の血で覆われているのだ。
そう思うと、今にも叫びだしたいぐらいの興奮に見舞われるが、一気に血を吐き出さないよう、鋼の精神力でレミリアはそれを持ちこたえた。
そして次々に口から血を漏らしてゆき、それを肌に塗ってゆく。
両肩から両腕へ、それから胸に満遍なく塗ってゆき、続いて腹へと移る。
そうやって前面を塗り終える辺りで、レミリアの口内の血はほぼ無くなり、残った血は大量の唾液と共に飲み込んだ。
ようやくの事口内が空になったレミリアは、ふぅ、と一息ついて権兵衛を見下ろす。
愛おしい気持ちが胸の底から溢れてきて、一杯になった胸の中を、吐露した。

「大好きよ、権兵衛」

 顔を血のように赤らめながら言うその姿は、少女とは思えぬほどに妖艶であった。
室内には、汗の匂いと血の匂いが入り交じり、何とも言えない香りが漂っている。
月も上がらない暗い夜、男も知らずに寝ている間、その姿をちらちらと揺れる灯りだけが静かに見据えていた。




あとがき
明けましておめでとうございます。
レミリアの設定については半オリですが、一応、文花帖(書籍)のフランの記事と紅魔郷のtxtを参考に考えました。
文花帖とか見ていると、フランの方が精神的に格上っぽいんですよね、この姉妹。
賛否両論あるとは思いますが。



[21873] 博麗神社3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/02/13 22:43


 十六夜咲夜は、レミリア・スカーレットに忠誠を誓っている。
と言っても、それは生まれたその瞬間からと言う訳ではなく、“生まれた”と言うのを名付けられたその瞬間に変えて見せても、同じ事である。
吸血鬼ハンターとしてレミリアに挑み、あっさりと返り討ちにされた咲夜は、レミリアによって今の名、十六夜咲夜と言う名前をもらい、悪魔との契約によってレミリアの従僕として生き残る事になった。
当然、レミリアに向ける感情は、畏怖であり、恐怖であった。
一体何時自分が害される事になるのか、いや、この誇り高き吸血鬼が約を違える事は無いだろうが、それでもその力が直ぐ側にあると言うだけで怖くて怖くて仕方がなく。
せめてものプライドとして咲夜はそれを表に出さないように努めてきたが、ただそれだけ。
レミリアに対する恐怖は、まるで時が止まったまま永遠であったかのように、何年経とうとも変わらずそこにあったのだった。

 それが変遷を遂げるのは、紅霧異変からである。
咲夜の世界にとって、最強であり最も誇り高く、あらゆる点で最上に位置していたレミリアは、あっさりと霊夢に敗北を喫した。
いくらスペルカードルールがあるとは、言えども、咲夜の想像の範疇の外にある出来事であった。
咲夜にとっては、レミリアが負ける事などありえなかった。
何せ相手は、レミリア・スカーレットなのである。
あらゆる者を畏怖させ、従え、恐怖を振りまくあの誇り高き吸血鬼なのである。
だが、レミリアは負けた。
あっさりと霊夢に負けた。
想像を絶する事態に混乱する咲夜を捨て置き、いつの間にやらレミリアは霊夢の事が気に入ったようで、仲良くなっていた。
これもまた、想像の埒外にある出来事である。
咲夜にとって、レミリアは孤高な存在であった。
唯一友人といっていい扱いであったパチュリーと会話する時でさえ、その誇り高き威容を崩す事はせず、メイド長や門番を相手にするなら猶の事であった。
吸血鬼でありながらも何処か神聖でさえあり、触れてしまえば、こちらが崩れ去ってしまいそうなぐらいに、咲夜にとってレミリアは孤高だった。
だが、レミリアは仲良くなった。
あっさりと霊夢と仲良くなった。
それもレミリア側から仲良くなったように見える光景であり、決して霊夢から懇願した訳でもなく。

 それを見て、咲夜は胸を撃ちぬかれるような気分を味わった。
凝り固まっていた自分を撃ちぬかれ、そこから雁字搦めになっていた糸が爽やかに舞う、風を感じた。
吸血鬼は、レミリア・スカーレットとは、仲良くなっても良いのだ。
霊夢とレミリアの居る光景を見て、咲夜はそんな感慨を抱き、まるで許しを得たような気分になった。
初めてレミリアと霊夢が遊んでいた光景を見た後、咲夜は自室で跪き、祈りを捧げるかのように両手を組み、涙をさえ流した。
そしてようやくの事咲夜はレミリアに真の忠誠を抱くようになったのだ。
畏怖や恐怖がある事も確かだけれども、そこに更に親愛や愛情をも込めた忠誠を。

 咲夜はそうやって長い経緯を経て、レミリアに忠誠を誓うに至った。
そしてそのうちにレミリアから信頼もされるようになったと自負しているし、今まで知らなかった一面も知り、よりレミリアの支えとなれるようになったと考えている。
だから、レミリアへの忠誠は、咲夜にとって誇りだ。
だと、言うのに。
レミリアと仲良くなると言う事は、咲夜にとって崇高で、汚し難い事であった。
だと、言うのに。

「七篠、権兵衛……」

 ぎりぎり、と奥歯が軋む音がする。
噛み切ってしまった唇からは血が滲み、両手は余りに入った力に震えてしまう。
すう、と深く息を吸い、胸のうちに浮かんだ黒い感情と共に、吐き出す。
ようやくのこと咲夜は権兵衛に対する感情を体に表すのを止め、その光景を見やる事ができた。

 博麗神社の縁側。
丁度日陰になるそこに座る権兵衛の、両足の太ももの辺りに、レミリアは尻を載せていた。
ばかりか、まるで子が親にやるように、自身の背中を権兵衛の胸板にこすりつけている。
両足は権兵衛の片足に絡みつくようにしており、その両手は、回された権兵衛の両手を、離さないとでも言わんばかりに掴みとっていた。
その顔は、まるで天使が降りてきたかのように見間違わんばかりの尊さで、貴重で壊してはならないような物に思える。
そしてその顔で、レミリアは権兵衛に話しかけていた。
咲夜ではなく、権兵衛に、である。

 七篠、権兵衛。
レミリアがここ数日、急激に仲良くなっている男である。
初見の印象は、何とも奇妙な男と言う物だった。
そも、木乃伊男のように包帯だらけだったので、見目こそは分からなかったものの、性格に関しては、レミリアの吸血未遂をあっさりと許した事で分かるだろう。
呑気、と言うか。
脳天気、と言うか。
何があってもぼやぼやと笑っていそうなその性格に、咲夜は何故か、不快感を抱いた。
なんだか理由もなく、にっこりと笑っている権兵衛の顔を見ると、胸の奥がつっかえるような、気味の悪さを感じるのだ。
別段そういう性格の人妖は幻想郷に少なくないのだが、それでも普通それは、強い力や足りない頭に起因する物である。
対して目前の男、権兵衛は、弱く、かと言って頭が足りぬと言うほど弱い訳ではなかった。
恐らく自分の不快感は、それ故になのだろう、と咲夜は分析する。

 レミリアと親しくする権兵衛を見て、咲夜が最初に思ったのは、許せない、の一言であった。
何せ自分は最初からレミリアに忠誠を誓えていた訳ではなく、霊夢のような圧倒的存在によって、レミリアが絶対の強者ではないと知り、それで初めて咲夜はレミリアに親愛を抱く事が出来たのである。
なのにこの権兵衛と言う男、霊夢のように超然とした所がある訳でも無いと言うのに、まるでレミリアと対等であるかのような言葉を発しているのであった。
当然、権兵衛はレミリアが霊夢と話している所など、見た事も無いのに、である。
勿論この男は全方位に発している謙った気持ちはあるが、別にレミリアを特別と見る事もなく。
対しレミリアもまた、それに答えて明らかに権兵衛を特別に見るようになった。
それはあっさりと、咲夜の頭上を超えてゆくかのように。

 この気持ちは、嫉妬である。
そう自覚していながらも、咲夜は権兵衛をこき下ろそうと情報を集めるのを、止められなかった。
どうにかしてレミリアと権兵衛を引き裂かないと気が狂いそうだったし、また、それが不可能と何処かで分かっていても、じっとしていては体が引き裂かれんばかりで、兎に角動いていなければ気が済まなかった。
そこで、とりあえずは人里で、と咲夜は権兵衛の評判を集める事にする。
どうせ権兵衛が正直過ぎて愚かである、と言う類の噂をしか集められないだろうと思っていた咲夜であるが、意外や意外、そこで得た権兵衛の評判は、何と、悪評ばかりであった。
曰く上白沢慧音を騙して、金をせびって村に居着こうとした、悪人である。
曰く里の食物を無理矢理に値切って買っていった、悪人である。
曰く慧音など強き者の威を借りて無理に高値で野菜を売り払っていった、悪人である。
などなど。
対面していた権兵衛の印象とはまるで違った話であった。

 これは使える、と思った咲夜は、早速レミリアに報告した。
権兵衛は人里で悪評を流されている。
それが真実であるかどうかは分からない。
しかしどちらであるにしろ、権兵衛との付き合いは止めるべきではなかろうか。
権兵衛が実は悪人であるならば言うに及ばず。
権兵衛が真に善人であるならば、悪評を持つ人間と付き合い、レミリアの評判が落ちる事を、好ましくは思わないだろう、と。
そう告げる咲夜に、背中で話を聞いていたレミリアは振り返り、ゆっくりと咲夜の目を見た。
今にも血が滴りそうな、赤くどろりとした瞳であった。
それはまるで、紅霧異変の前、咲夜がレミリアを畏怖を通してでしか見れず、また、レミリアにもただの道具としか見られていなかったであろう頃に、逆戻りしてしまったかのような。

「使えないわね」

 と。
ただ一言だけで、レミリアは咲夜の反論全てを封じた。
ゆっくりと歩いてゆくレミリアの背後、咲夜はがくがくと震える膝を落とし、ぺたんと座り込んでしまった。
恐ろしい想像が咲夜の中を渦巻いていた。
同じ人間の権兵衛。
同じレミリアに敬意を持つ権兵衛。
咲夜よりも好かれている権兵衛。
咲夜よりも速くレミリアを好きになった権兵衛。
では。
もしかして。
もしかして。
もしかして、次の執事長として、権兵衛が選ばれるのではないだろうか。
咲夜の全てを、権兵衛が奪っていってしまうのではないだろうか。

 咲夜にとっては、名前すら新しく与えられた咲夜にとっては、レミリアは、その存在の全てである。
最初は畏怖で占められていた物でこそあったものの、それは常に同じであった。
常にレミリアが最優先。
常にレミリアが全て。
だのに、そのレミリアが、奪われてしまったのだったら。

 がくがくと体中が震えてくる。
勝手に汗がしとしとと滑り降りてきて、涙がぽろぽろと絨毯に染みを作る。
目はからからとして、喉は張り付かんばかりに乾いていた。
恐ろしかった。
恐ろしくて、今までの権兵衛とであってからの事が、まるで悪夢でも見ているかのように思えてくる。
ああ、今観ているのはいっそ作り物と言って良いぐらいに悪事が降りかかっているけれど、それもすぐに夢のように覚めて、消え去ってしまうのだ、と信じたくなってくる。
だが。
今自身を抱きしめるその感覚も、涙が集まる瞳の熱さも、喉から漏れてくる小さな嗚咽も、全てがこれは現実だと言っていた。

「……ろさないと……」

 今や咲夜は、その言葉に頼るしかなかった。
全ての原因である権兵衛さえ、そうしてしまえば、解決するのだ、と、そんな淡い希望に縋っていなければ、立って歩く事すらもままならなかった。

「……殺さないと……」

 ひっく、と小さく嗚咽が混じる。
走馬灯が咲夜の中を走った。
昼寝している美鈴に、ナイフを投げつける光景。
昼夜を問わずに勉学を進めるパチュリーに、お茶を淹れる光景。
霊夢にあっさりと負け、あっさりと仲直りするレミリアを、呆けた顔で見ていた光景。
原初。
レミリアに敗北し、十六夜咲夜と名づけられた、正に咲夜が生まれたその日の光景。
それらを守る為にも。

「……殺さないと……」

 静かに呟きながら、咲夜は立ち上がった。
涙を拭きとり、瞼を一度閉じ、開くと、そこには数分前と違わぬ姿の咲夜が立っている。
ただ一つ、その瞳だけが見目を違えていた。
硝子玉のように、作り物めいた光をしか見せなくなった、その瞳だけが。



 ***



 妹紅は、権兵衛を焼いて以来、何一つ口にすることなく、ただただふらりとそこら中をさまよっていた。
万が一にでも慧音と会いたくなくて、家にすら帰らなかった。
ただふらふらと、何の意図もなく、そこら中を歩き回っているだけだった。
雨が降ってもそのまんま、ただただポッケに両手を突っ込んで歩いているだけなので、体は汚れるのに身を任せていた。
ただ、妖怪は妹紅の強さを悟ったのか襲ってくる事はなく、傷はそこらに引っ掛けて作った物ばかりである。
白い髪は泥を啜って灰色になり、服は枝にひっかけ穴だらけ、肌は泥で汚れているものの、枝で切ってしまった所だけ完全に治って汚れが落ちているもので、まるで体に変な模様が出来ているかのようだった。
何と醜い体か、と思ってから、体だけじゃないか、と妹紅は頭を振る。
何せ妹紅は数少ない友人を裏切り、男を取ってしまうような真似をしたのである。
その上その男にですら、勝手に怪我を作るような真似をしてしまった。
了承を取ろうとすれば取れたであろう、と言うのが更に妹紅の罪を重くする。
その男、権兵衛は何でも受け入れてくれるような心が狂わしい程に広い男であるのだが、それすらも疑ってしまったかのような形になってしまったからだ。

 そんな風にところ構わず歩きまわっているうちに、ぐるりと回ってきてしまったのか、妹紅は博麗神社の前まで来ていた。
木陰から日向の神社を眺めていると、まるで目の前にぶっつりと境界線を引かれ、別々の世界に分けられてしまったかのように思えてくる。
つい数日前までは、妹紅は権兵衛に気を許しているような許していないような、奇妙な状態で権兵衛を見守っていたのだ。
だのに今は、まるで別世界を歩いているようで。
境界線を跨いだこちら側に居るからか、何のことはない、他愛のない権兵衛との会話ですら、宝石のように貴重に思えてくる。
ふらふらと、誘蛾灯に誘われるようにして博麗神社に吸い寄せられようとした妹紅の足を止めたのは、がらり、と言う障子が開く音であった。
思わず木陰に隠れてしまい、それから何故私は隠れているんだろう、と思ってから、ようやく妹紅は権兵衛に会って嫌われたかもしれない事柄の結果を見るのが嫌だからだ、と思い出す。
一瞬それを忘れさってしまうほど、陽光の降り注ぐ博麗神社の縁側は魅力的だったのだ。

 足音は三人分。
ちらりと視線をのぞかせると、権兵衛と、レミリアと、咲夜であった。
何やら冷たい雰囲気を背負った咲夜は兎も角、やたらと仲が良い権兵衛とレミリアは、妹紅の興味の内である。
勿論、たったの五百年しか生きていない小娘である、気まぐれで行動しているのかもしれないが、それにしたって仲が良すぎるんじゃあないかと妹紅は思う。
今もそう、権兵衛の太ももに尻を載せ、右手を両手で掴み、まるで匂いをこすりつけるかのように、権兵衛の胸板に、体中を擦りつけている。
当然、妹紅がつけた権兵衛の火傷の上にも。
ガギン、と言う音と共に、妹紅は口内に違和感を感じた。
大きな音に、気付かれはしなかったかと慌てて三人の方を見やるが、三人とも首をかしげているだけに過ぎない。
いや、その中でも一人だけ――。
あの憎たらしい小娘、レミリアだけが一瞬、妹紅の居る場所を見やった気がした。
気のせいかもしれないが、と思いつつ、妹紅が口内の違和感を吐き出すと、それは砕けた奥歯であった。
あまりに強すぎる力で歯ぎしりを行おうとしてしまったので、歯を噛み砕いてしまったのである。
所で、嫉妬と言うのは矢張り愛情の一つであり、それを思うのならば、この噛み砕いた歯も、権兵衛への愛情を示す、記念品にならないだろうか。
そう思って、ポケットの中に自分の奥歯を入れようと思った妹紅だが、ポケットには残らず穴が空いていたので、残念ながらそれは捨てることになった。

 こうして腰をかがめ、耳に手を当てていると、永遠亭で二度にわたって盗み聞きをした事を思い出し、また盗み聞きか、と内心苦笑する妹紅。
そんな風にしている妹紅の耳に入ってくる言葉は、たまに世間話や、他愛のない話をする権兵衛とレミリアの会話だけで、特に重要な物は無い。
ならばさっさと引き上げるべきなのではないか、と思い、内心よいしょと腰に力を入れた所で、レミリアの口から、こんな言葉が飛び出した。

「そういえば、権兵衛。あの逃げ出した焼鳥女の事、どう思っているのかしら」
「へ? うーん」

 どくん、と心臓が跳ね上がる。
緊張で体の震えが止まらず、じとじとと嫌な汗が出てくる。
もし嫌われていたらと思うと、権兵衛の答えを聞きたくない、と言う妹紅が居るのも確かだったが、その他に、もう聞いてしまって楽になってしまいたいと思っている自分が居る事に、妹紅は気づいた。
それほどに妹紅は疲れはてていた。
不老不死である蓬莱人だと言うのに、権兵衛の事を考え続けているだけで。

 権兵衛。
権兵衛。
あの、自分の物にしなければいけない男。
あの男は、果たして自分の事をどう思っているのだろうか。
何せあの本当に平等に心の広い男である、既に妹紅の事など許して、笑って迎える準備をしているのかもしれない。
そしたら、どうなるのだろうか。
妹紅は権兵衛に一度だけ抱きしめられた、あの日の事を思い出す。
まず、ゆっくりと権兵衛の掌の感触が、妹紅の背の、肩甲骨の辺りに触れる。
服と肌の間隙にある空気を押し出し、暖かな温度が冷えた妹紅の肌に触れる。
それからつつっと滑るように斜めに権兵衛の掌が動いていって、背の正中線を通り、それから腰の辺りを、力強く、それでいて痛くないぐらいの絶妙な加減で握りしめる。
そのころには権兵衛の腕も妹紅の背に触れており、その部分だけ焼けた鉄に当てているかのように熱く、しかし湯に体をつけた時のように暖かかった。
思い出しただけで涙が出そうになり、咄嗟に妹紅は口元を抑え、滲む涙を振り払う。

 権兵衛に受け入れられたら、と言う想像だけで、これほどまでに妹紅は体を震わせた。
体の芯が熱く、心のそこから権兵衛を欲しているのが分かる。
だが。
だが、だからこそ、ここで盗み聞きなどしてはいけない、と自分の中の一部分が囁くのを、妹紅は感じた。
妹紅の心の痛みの中の幾らかは、権兵衛に対して誠実であれなかった事に起因している。
だのにここで、盗み聞きで自分の評価を聞き、受け入れられるかどうか知ってから会いに行くなど、人道に反する行いであり、また、権兵衛に対し誠実でなくなるのだ。
それにそも、権兵衛だって自分を許してくれるかどうか、分からないのだ。
体に残る、幸せを思い出した残滓の温度を感じながら、妹紅はゆっくりと立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。

「ねぇ権兵衛、どうなのよ」

 所が、痺れを切らしたレミリアの言葉を聞き、後一瞬で権兵衛の本音が聞けるかも、と思うと、妹紅の吹けば飛ぶような決意は、揺れに揺れた。
どうせ、ここまで聞いてしまったのならば、あとちょっと聞くぐらいいいじゃないか……。
さっきまでは思っても見なかった言い訳が妹紅の胸の中を覆い尽くし、その場に立ち尽くさせる。
どうしよう、どうしよう、とそんな言葉が頭の中でクルクルと回っているうちに、権兵衛が、静かな声で答えた。

「一言じゃあ、言い難いけれど。そうだなぁ、いい人、と言うか、賢い人、と言うか、そんな感じかなぁ」
「へぇ、あの月の頭脳と知り合いでも、そう思うのかしら」

 ついに、妹紅の心からはここから立ち去ろうと言う選択肢が消えてなくなった。
代わりに顔面にぽうっと熱が集まってきて、思わず誰もいないのに顔を覆い隠し、しゃがみ込んでしまう。

「いえ、確かに純粋に俺の知る中で最も賢い人を選ぶのなら、永琳さんになるのでしょうけれど。
ただ、俺のヘンテコな部分に対してだったり、だらし無い部分にだったり、いろんな所に最も助言をくれたのが妹紅さんだったので、つい、そういう印象を持ってしまうのですよ」
「ふ~ん。怪我を負わせた上逃げたのには、どう思っているのよ」

 と、そこまではその辺りで転がりたいような気持ちだった妹紅は、気を引き締める。
何が言われてもいいように、心の中を平静にして、聴覚に神経を傾けた。
と言っても、自分でも頼りなく思う程度の、突貫工事の平静さなのだが。

「あの時――妹紅さんは、俺の知らない何かに、打ちのめされていました。
俺は、出来ればそんな妹紅さんの力になりたかったのですが、失言をしてしまったらしく、悔しい事に、妹紅さんの力になれず。
そればかりか刺激してしまい、取り乱させてしまって。
輝夜さんと関係がある、と言うぐらいの事は分かったのですが、それだけで、詳しい事情は分かりませんでした……。
そんな時、俺の呟きで妹紅さんは天啓を得たようで、俺を自分の物にする、と、言い、そして――」

 権兵衛は、服の上から火傷の痕を抑える。
それが、仇敵のつけた印でもあり、権兵衛との間柄の切欠でもあるレミリアは、複雑な目でそれを見ていた。

「だから俺は、この怪我の事で妹紅さんを恨む気持ちは、一切ありません。
と言うよりも、あと一歩で彼女の力になれたのに、と、そう思うぐらいでして。
是非会いたい、会って力になりたい、と言う気持ちと、同時に、会って、また力及ばず傷つけてしまうのでは、と言う思いもあって。
いえ、その怯えは、俺の自身可愛さによる甘えもあるのでしょう。
だとすれば、きっと俺は、妹紅さんと会わなければならない。
会って、彼女の力にならねばならない。
勿論、猪突猛進で良いと言う訳では無いので、もう少し、事情を探ってからにしようと思っていたのですが――」

 と、そこでちらりと、伺うような色を見せて権兵衛がレミリアを見やると、ふん、と小さな胸を張り、尊大な仕草で言って見せる。

「昨日から、なんだか気になっていたみたいだから、余計な事をしたけど……。
なら、もうちょっとゆっくりとお膳立てすれば良かったかしら」
「へ?」

 と首を傾げる権兵衛を他所に、すっとレミリアは立ち上がり、権兵衛のすぐ側に退いた。
それから、聞き耳を立てながらも思わず身を乗り出していた妹紅と目を合わせ、くい、と手を差し出し、折り曲げてみせた。
あまりに意外な光景に目を丸めている妹紅を尻目に、レミリアは権兵衛にこのままで居る事を言いつけると、咲夜を引き連れ姿を消した。
ごくり、と妹紅は生唾を飲み込む。
こんな。
こんな事が、許されていいのだろうか――。
そう思いつつも、自然と一歩、二歩、と妹紅の足は動いていってしまう。
がさりがさり、と紅葉を踏み抜く音に気づき、面を挙げた権兵衛と、目があった。

 それは、妹紅の全てが振りきれるのに十分な質量を持った出来事であった。
思い切り足を踏み出し、落ち葉を踏抜き、すぐにトップスピードに乗る。
瞳からこぼれ落ちた涙が、顔を横に伝って空中へと飛散した。
がば、と全力で両手を開き、同じように動く右手を広げている権兵衛へと、押し倒すような勢いで抱きついた。

「ごん、べぇ……」

 先程までの夢想とは違い、実際にある体温。
頬と頬が擦り合い、それだけで火傷でもしてしまったかのような感覚に陥る。
両手でしっかりと抱きしめる権兵衛の体は、まるで不死鳥の炎の如く、熱いと同時、暖かかった。
全身にじっとりとかいた汗が、肌の触れ合う部分で、権兵衛の汗と混じり合う。
汗でぐっしょりと濡れた乳房が権兵衛の胸板に、形を変える程に押し付けられている。
自身の乳首が、間接的に権兵衛の魂の火傷に触れたのを感じ、感動のあまり、より一層の涙を妹紅は流した。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。
永遠に思えるその時間の間、権兵衛はどうすればいいとか、何をすれば力になれるだとか、そんな野暮な事は聞いてこなかった。
こうやって体温を重ねあう事が一番だと、権兵衛も理解していたのだ。
それが自分と同じ思考なのだと気づくと、権兵衛が怪我人だと言う事も忘れ、妹紅はより一層強く権兵衛の事を抱きしめてしまう。
すると未だに怪我人なのである、流石に痛かったのか、ぴくり、と身じろぎする権兵衛。
その仕草に妹紅は僅かに冷静になり、そして気づいた。

 今はこんなにも幸せで、もう幸せが溢れ出してしまいそうなぐらいだけれども、先ほど権兵衛は何と言っていた?
知らない、と言っていたのだ。
妹紅と輝夜の間の確執を、まだ知らない、と言っていたのだ。
そう、二人が常に殺し合いを続けるような、仇敵のような間柄なのだと。
輝夜が権兵衛の事を蓬莱人にしようとしている、と。
妹紅は輝夜に取られたくなくて、権兵衛に証として火傷をさせたのだ、と。

 冷水を浴びせられたような気分だった。
もしこの事を権兵衛が知ったならば、どうする?
恐らくは、少なくとも自立ができるまでは、どちらにも肩入れしない、と言う立場を取るだろう。
もしどちらかに手を貸すとしても、師弟関係のある輝夜の元に。
恐ろしさのあまり、そしてそれをも覆し、それでもいいじゃないかと思わせるような暖かさのある権兵衛を引き離す必要性を感じ、妹紅は権兵衛の肩に手を置き、ぐっ、と体を離した。
逆らわず、それに従う権兵衛。
これで妹紅の力になれたのだ、と純粋に喜んでいる目。
そんな目を見て、思わず妹紅は権兵衛の顔に手を伸ばした。
ぺたり、と、権兵衛の鼻の辺りを掌の中心に、五指を広げて権兵衛の顔を捕もうとするように。

「わふ。って、どうしたんですか、妹紅さん?」

 変な鳴き声をあげる権兵衛を尻目に、妹紅はつい先日思った、仮定の話を思い出す。
――あぁ、そういえば何で自分は権兵衛の左胸なんて言う、地味な所に証をつけてしまったのだろうか。
――権兵衛の顔を焼け爛れさせれば、何時でも権兵衛との絆が確認できた上、余計な虫どもが寄ってくるのを避けられたに違いないのに。
――権兵衛の、顔を、焼け爛れさせれば――。
ごくり、と、妹紅は再び生唾を飲み込んだ。
僅かに五指に力を入れて、力を解放しようとして――。

「あら、まだやってたのかしら?」
「――っ!?」

 思わず、ばっ、と権兵衛から飛び退き、権兵衛の顔を掴んでいた掌を隠す。
が、現れたレミリアは顔こそ笑っているものの、瞳は全く笑みを漏らさず、冷徹な視線を隠れた妹紅の手へと向けている。
気付かれていたのだ。
また同じ事を繰り返す所だった妹紅は、同じ過ちをせずにいられて感謝すべきか、それとも同じ結果になって権兵衛の証が増える事を考えると残念に思うべきなのか、分からなかった。
ただ、矢張り万が一にでも権兵衛に嫌われるかもしれない、と思いながら逃げまわるのは流石にもう勘弁だと言う気分で、その分だけは感謝してもよい気分であった。

 それにしても妹紅は、再び人道に反する行いをしていたのであった。
レミリアの思惑があったとは言え、盗み聞きをして権兵衛の心を確かめた上で、自分が絶対に安全だと分かった上で権兵衛と対面した上に。
そうまでしてやっと再開できた権兵衛に、小さな不安から、再び権兵衛に相談する事なくその顔を焼こうとしてしまったのである。
兼ねてからの友人への裏切りも含めて、最早妹紅は権兵衛の前では罪人に等しい。
また、権兵衛が自分より輝夜を選び易い理由が増えたな、と、自嘲気味に内心妹紅は苦笑する。

 飛び退いて、尻餅をついたままの姿勢から、立ち上がる妹紅。
しかしどくどくと心臓がなっているのに、思わず胸に手をあてるが、収まる気配は一向に無い。
このままでは何を言ってしまい、何をやってしまうのか分からないぐらい自分が興奮している事に気づいて、妹紅はこの場を一度立ち去る事に決めた。
とすれば、即時行動である。
早口気味に、妹紅はまくし立てる。

「あーっと、だ。権兵衛。色々聞きたい事もあるだろうけれど、また今度でいいか。ちょっと、用事ができちゃってな」
「へ? あぁはい、勿論それは構いませんが……」
「じゃあ、な。また会おうさ」

 と言って、手を軽く振りながら権兵衛に背を向け、すたすたと歩く。
また権兵衛に一つ嘘をつき、また権兵衛が自分より輝夜を選び易い理由が増えた事に気づき、脱力し、その場に崩れ落ちそうになるも、気力でそれを隠しながら、妹紅はその場を去った。



 ***



 権兵衛の部屋側の縁側が日向になる時間になると、権兵衛はレミリアを気遣ってか部屋の中に戻るし、当然のごとくレミリアは咲夜を外に置いて中についていく。
すると、もう秋も中頃だと言うのに、閉めきった部屋は少し暖かく、じわりと汗が滲むようになる。
特に権兵衛は未だに怪我人である故、布団の中で大半の時間を過ごす事になり、自然、その汗の匂いは強くなる。
そんな権兵衛の匂いに包まれるのが、レミリアは好きだった。
だからそれを独占するために咲夜を中に入れる事は無いし、権兵衛の汗を拭いてやったりは自分でやっている。
何と言うか、別に普段の威厳のある吸血鬼としての時はそんな事した事も無かったのだが、これで少しでも権兵衛が楽になってくれるのだと思うと、嬉しくて嬉しくて、仕方が無いのである。
そんな汗を拭いてやったり、水を飲ませてやったりしたぐらいの事で、と思いもするのだが、実際やってみると、本当に危ないぐらいに胸がドキドキしてしまう。
どのぐらい危ないかと言うと、何時も顔を真っ赤にして、権兵衛と目を合わせる事すらできず、何度かは危うくその場でごろごろと転げ回ってしまいそうな衝動に襲われる程である。
勿論、偉大な吸血鬼どうこう以前に淑女としてそんな姿見せられないので、どうにか我慢してきている。
と言う事で、権兵衛の世話と言うのは、レミリアにとって意外な強敵であったのだった。

「うっ……」

 思わず、呻き声をあげながら、手にとったタオルを、権兵衛の肌蹴た胸へと触れさせる。
帯を緩め、少し肌から浮かせた服との間にある空間は不思議な空間で、半裸になられるよりは、と思ってこれを指示したレミリアであったが、こちらの方がもしかしたら威力が高いかもしれない、などと嘯きつつ、タオルを権兵衛の腹の辺りまで侵入させる。
これも権兵衛の隠された部分に手を突っ込んでいるのだと思うと、妙に興奮してしまい、難易度が高い。
殆ど息を止めんばかりの勢いでどうにか権兵衛の体を拭き終え、タオルを手に離れると、にっこりと権兵衛が微笑んだ。

「ありがとうございますっ」
「――っ」

 笑顔が眩しい。
あまりの破壊力に、思わず息を飲みながら胸を仰け反らせたレミリアに、不思議そうに首を傾げる権兵衛。
その仕草もレミリアのクリティカルな部分を刺激し、思わず悶えて悶えて、いっそ死ぬんじゃないかと思うぐらいであった。
とまぁ、そんな具合に先日権兵衛に告白――と言っても、男女のそれではなく、真実をである――を終えて以来、レミリアはずっとこんな感じであった。
勿論人目のある所は避けていたが、昼間、権兵衛が起きている間は殆ど部屋なりに入り浸りで、ずっと権兵衛の世話をしていたのである。
そんな風に幸せ満点のレミリアであったが、一つ、レミリアには心配事があった。

「………………」

 沈黙と共に、レミリアは権兵衛を見据える。
するとすぐにそれに気が付き、視線を返してくる権兵衛。
余りに純粋なその視線に晒されているのに耐え切れず、レミリアは視線を正座している膝先にやり、内心溜息をつく。
問題は、権兵衛と妹紅との事であった。
どうやら権兵衛が優しい事に、あんな証を残すために無理矢理怪我を負わせた妹紅の事を気にしているらしい事に気づいていたレミリアは、丁度会話の際に近くに妹紅がいた事に気づき、ああやって助け舟を出してやったのだ。
何せ、レミリアにとって、権兵衛は特別なのである。
特別な権兵衛の心の心配をするのは当然の事だし、そんな権兵衛を占有しているのである、妹紅にちょっとぐらいの間分けてあげても、度量の大きさを見せる事になるだろう、と思っていた。
事実、そうだっただろう。
あの後権兵衛はレミリアにこれでもかと言う程に感謝の言葉をくれたし、甘えようとすれば、すぐに抱きしめ返してくれたりもした。
それは勿論嬉しくてたまらないし、良いことなのだと思う。
けれども。
けれ、ども。

 権兵衛が、あの焼鳥女に向けていた表情。
本当に心の底から救われたと言う感じと、相手を心の底から慮っている感じを、合わせたような表情。
あれは。
もしかして。
あの告白の日、権兵衛がレミリアに向けていた表情では無かったのだろうか。
権兵衛は、レミリアにとっての特別の筈なのに――。

 ふるふる、とレミリアは頭を振る。
いいや、そんな筈は無いのだ。
だって権兵衛はレミリアに許しを与えてくれた、最高に心を許している相手なのだから。
だから、他の女などにうつつを抜かつ筈が無いのだ。
この優しさを、匂いを、汗を、血を、レミリア以外の誰かに与える事など無い筈なのだ。
そしてそんな事は、聞いてみればはっきりする。
だからレミリアは、そっと権兵衛を見上げ、まるで祈りを捧げるかのように両手を組み、口を開いた。

「ねぇ、権兵衛。ちょっと、聞きたいんだけど」
「はい? なんでしょうか」
「その、さ……。私にとって、権兵衛って、特別、でいいんだよね?」
「はい、勿論ですよ」

 そう言う権兵衛の笑顔は、相変わらず光り輝くような笑顔で、だから安心してレミリアは次の言葉を告げた。

「じゃあ、勿論、権兵衛にとっても、私は特別、なんだよ、ね?」
「………………」

 果たして、即答は来なかった。
思わず目を見開き、口をぽかんと開き、呆然とするレミリア。
その目前で、権兵衛は困ったような笑顔を作って、明らかに頭の中で言葉を探す仕草を取る。
一瞬で、レミリアは理解した。
そう、確かにレミリアにとって権兵衛は特別である。
しかし、権兵衛は優しいのだ。
とてつもなく、途方も無いぐらいに優しいのだ。
その優しさが、レミリアが権兵衛を好きになった所で。
だけれども、その優しさ故に、権兵衛は誰か一人を特別に思う事ができないのだ。
そう、権兵衛にとって、レミリアは特別ではないのだ。

 そう思った瞬間、レミリアの中にはぞっとするような寒気が生まれた。
かちかちと歯が鳴り始め、祈りを捧げていた両手も震えが止まらない。
目も喉もからからに乾いていて、だのに心臓だけはばくばくと五月蝿いぐらいに鳴り響く。
権兵衛にとって、レミリアは特別じゃあない。
頭の中で考えるだけで、怖気が走る程の恐ろしい言葉であった。
だから、咄嗟にレミリアは、それを類推できる言葉が権兵衛から発されるのが怖くて、口を開く。

「くすっ、冗談。答えなくってもいいわ」

 顔に貼りつけた表情は、完璧であった。
それ故に、権兵衛は安堵したような、自虐的なような、複雑な笑顔でそれに答える。
それを見てから、レミリアは気づく。
権兵衛の隣は聖地であったはずだった。
一切自分を偽らなくていい、レミリアは何でも甘える事のできる、最高の場所の筈だった。
だがしかし、その場所でレミリアは、嘘をついてしまったのだ。
それも、必要にかられて。

 何かが崩れ去ってゆく音を、レミリアは背後から聞いた。
座っている筈なのに、足が地面に引きずりこまれるような感覚がする。
平衡感覚が無くなる。
くらりと揺れた頭をすぐに抑え、心配する権兵衛に、またもや嘘の言葉で、何でもない、と答えるのだった。
また、嘘をついてしまった。
それだけでも絶望的なのに、権兵衛にとって自分が特別ではない、と思うたびに絶望に襲われ、しかもそれを嘘をついて隠さねばならない、と思うと、泣きたくなるぐらいに辛い。
なにより、その泣きたい、が一瞬前まではすぐに権兵衛に甘えて解消できていたのに、今はそれができないのだ。
かと言って、権兵衛を責める事も、一切できない。
何せ権兵衛が自分を受け入れてくれたのは、そも、その優しさ故にであると言うのに、その優しさを責めると言う事は、レミリアにはできなかった。
絶望的な、気分だった。

 だが、それでも、まだマシなのだ、とレミリアは思う。
無言で両手を差し出すと、権兵衛がすぐに気づいて身を起こしてくれる。
それに抱きつき、この世に二つとない温度を味わう。
その間にも背中には絶望の寒気があって、それは今までの物と違い、権兵衛の暖かさを以てしても、消えることは無い。
それでも、自分はまだマシなのだ、とレミリアは言い聞かせる。
権兵衛に特別に思ってもらう事はできなくても。
レミリアが権兵衛を特別に思う事は、許されているのだから。
最早レミリアは、そう思う事で自分を慰める他無かった。
それが今の今までは当たり前のように続いていた事だった事を、無理矢理無視して、貴重な物だと思い込んで。

 掌から、腕から、胸から、権兵衛の体温が伝わってくる。
つい先程まではこの世にこれ以上無いぐらいの暖かさだったそれは、今は、もう少し温いぐらいの温度に思えるようになってきた。
それは丁度、ぬるま湯の温度に似ていた。
ずっと浸かっていて、出て暖かい物を浴びて、初めて自分が冷えていたと気付かされる、それぐらいの温度に。



 ***



 新月の夜であった。
空は晴れ、星々はキラキラと輝いているのに、その最中に居る筈の月は姿をみせていない。
太陽や星は、その現れる時間を昼と夜に分けたり、間に時折気まぐれに雲を挟む事によって互いの属性を踏み荒らさないよう住み分けているが、月だけは違う。
数多くの星に囲まれる夜にばかり姿を見せ、それ自体が発光する訳ではなく、太陽の光を受ける月。
それは何故かと言うと、月は狂気を支配しているからである。
狂気は常に波のように寄せては引くような物で、ある時と無い時が振幅を作って出来ている物であるので、月には月齢が存在するのだ。
そして、満月が最も狂気に満ちた時であると言うのならば、果たして新月は、狂気の存在しない時間なのだろうか?
――否である。
新月は満月と互いに振幅の頂点に位置すると言う共通点を持っており、言わば、狂気で無い度が最も増える時間であるのだが、しかし正常と離れている距離は満月の時と同じであり、最も狂わしい時のもう一つであるのだ。
その振幅は、何によって決定されるかと言うと、互いの持つ重力によってである。
互いが惹きあう力が、強ければ強い程、それは激突する際に弾力を持って更に反発し、更に遠くへと飛んでゆくのである。
それが狂気の振幅を作っており、それ故にこの新月の夜、咲夜もまたその新月と反発するように、狂気を持って博麗神社に潜んでいた。
十六夜、咲夜。
十六夜の昨夜は十五夜、満月であるが故に。

 小さく、息を吸う。
殺意を全身にみなぎらせ、足音を殺して咲夜は廊下を歩いて行く。
当然、勘の良い巫女の膝下である、時を止めて咲夜の世界を展開しながらの事である。
それ故に既に息を殺す意味も無いのだが、それでも警戒して尚余りあるほど、咲夜にとって霊夢の脅威は高かった。
新月の星々だけが光る夜の下。
僅かに聞こえる、ぎぃ、ぎぃい、と言う音を引き連れ、咲夜はついに権兵衛の部屋の前に辿り着く。
すっ、と扉を開くと、中は星明かりだけの、僅かな何処か青白い光に照らされた光景であった。
畳や布団ばかりではなく、普段からやや血色の悪い権兵衛の顔は、余計に青白く見える。
殺す前から既に死人のようであった権兵衛に、僅かに気色ばんでから、咲夜は後ろ手に戸を閉め、権兵衛の部屋に入り込んだ。

 秋も半ば辺りまで過ぎ去っていると言うのに、ここは閉めきっているからか、少し空気が蒸し、汗の匂いがする。
それが権兵衛の物であるのに気づき、一瞬しかめっ面を作ってから、咲夜は更にその匂いの元へと近づいてゆく。
布団から首だけ出した権兵衛は、その首の上だけでも額に包帯を巻いた、痛々しい姿であった。
しかしそれを見ても何も思うでもなく、咲夜は権兵衛の枕元に立ち、懐からナイフを抜き出す。
片手をつき、身を乗り出してもう片手で、銀のナイフの装飾の刻まれた柄を握り、権兵衛の喉元に宛てがう。
だがしかし、何と言うか、しっくりとこない。

 頭を振ると、一端ナイフを仕舞い、それから咲夜は両手で手探りに、布団の上から権兵衛の体と、両腕の位置を確認する。
それから両腕を含んで股に挟むようにして、権兵衛の上に馬乗りになり、再び銀のナイフを取り出し、権兵衛の喉元にあてがった。
今度こそ、殺す。
そう思った瞬間に――、咲夜は、何故か、ナイフを振り抜く事が出来なかった。
まるで体が何かに絡み取られているかのように、自由が効かない。
血が滲む程に歯を噛み締め、全身に力を入れていると言うのに、権兵衛の肌に掠り傷一つつける事ができない。
そのくせ手を離そうとしてみれば、今までが嘘のように、簡単に腕が動かせて、ついてしまった勢いに、咲夜はバランスを崩し、後ろ手をつきながら権兵衛に体重をかける。

「何よ、何? 何だと言うの!?」

 叫びながら、今度は上空から一気に振り下ろそうと、するものの、今度も上手く行かない。
腕が空中で釣り上げられているかのように、ぷるぷると震えるだけで動かなかった。
何だこれは。
私は、この男を殺すと、お嬢様への忠誠に誓ったのでは無いか。
だのに何故、こんな何の障害も無い所で躓いているのだ。
あまりの情け無さに、咲夜の瞳からぽろぽろと涙さえもが溢れてくる。
その涙が権兵衛の頬に落ち、まるで権兵衛が泣いているかのように頬をつたい、枕へと落ちていった。
そして次の瞬間。
権兵衛が、目を開いた。

「えっ!?」

 驚愕の声をあげると同時、突然咲夜の体は自由になり、勢いでナイフを振り下ろしてしまう。
駄目だ、こんな事で殺してはいけないっ!
内心の叫びに従い無理に軌道を変え、ナイフは既のところで権兵衛の首の横を過ぎり、枕へと突き刺さった。
流石に驚いたのか、目を見開く権兵衛であったが、驚き過ぎたのか、それとも他の何かからか、声は出さずに居る。
いつの間に時が動き始めてしまったのか、と疑問に思うと同時、殺るなら今だ、と咲夜の内心が囁いた。
殺るなら、今が最後だ、と。

「――っ」

 振り下ろしたナイフは、権兵衛の頸動脈のすぐ側であった。
あと少しでも動けば権兵衛の頸動脈を掻き切り、その生命を終わらせる事ができるだろう。
ほんの僅かでも良いのである。
指先の震えのような、薄皮一枚の動きで良いのである。
だのに咲夜は、その手を微塵も動かすことができなかった。
そうこうしているうちに、瞼を開いた権兵衛が、ぼうっとした顔で咲夜とナイフを見比べ――、そして。
にっこりと、微笑んだ。

「――ぁ、あぁっ!」

 単に寝ぼけて笑っただけかもしれない。
状況が理解出来ていないだけかもしれない。
だが咲夜の目には、それは全てを許して見せる、慈母の笑顔であったかのように思えて。
思わず、咲夜は握っていたナイフを取り落とす、
金属が畳に落ちる、重い音。
代わりに両手で顔を多い、見開いた目で微笑みの形のままになった権兵衛を見据える。
気づけば権兵衛は、先ほどの笑顔が幻であったかのように、再び眠りに入っていた。
さながら時は止まったままであったかのように。

 ようやくの事、咲夜は理解していた。
咲夜は確かに、権兵衛に嫉妬していた。
単純に忠誠を誓う咲夜よりもレミリアに好かれていた事。
自分には霊夢と言う超然の存在が出るまで出来なかった、レミリアを一人の存在として見、仲よくなる事が出来た事。
それらは確かに咲夜の中で黒い炎となってくすぶり続けていたのだが、しかし、それだけではなかったのだ。
何故、権兵衛を見ていると苛々したのか。
何故、権兵衛がレミリアと仲良くしているのが、気に入らなかったのか。
その、答えは。
顔を覆っていた手をだらんと下ろし、いっそ爽やかな笑顔で咲夜は呟く。

「私――、一目惚れ、しちゃってたのね」

 そう、その通り。
嫉妬の気持ちは、権兵衛に対してではなく、レミリアに対してであったのだ。
それを認められず、こんな風に決定的な殺人と言う行為の寸前までいくまで、気づかないとは。
自分は何と自身に対し鈍感なのだろう、と、咲夜は内心苦笑しつつ、権兵衛の寝顔を見やる。
数分前までは正面から見やる事もできなかったその寝顔を、今初めて真っ直ぐに見つめると、確かに青白く、痛々しい怪我の痕こそあるものの、何とも愛らしく、宝石のように貴重な物であるように思える。

 そう、好き。
私は、権兵衛が、好き。
そう思うと胸の奥が熱くなって、咲夜はぎゅっと両手を合わせ、胸の間を抑えつける。
それでもその中には詰まっている気持ちは今にも爆発しそうで、すぐにでもこのまま顔を隠しつつ転げ回ってしまいたいぐらい。
動機は先程までの緊張とは違う意味でばくばくと破裂しそうで、顔の温度は触ったら余りの熱さに思わず勢い良く手を離してしまうだろうと言うぐらいだ。
そういえば、権兵衛と同じく、閉めきった部屋で体温が高くなったからか、汗を多くかいてしまう。
全身の服が肌にぴたりと張り付き、その中にある体のラインを浮かび上がらせる。
自分が、寝ているとは言え権兵衛の前で扇情的な格好をしていると思うと、それだけで早鐘を打つように鼓動が早くなった。

 ぶるぶると頭を振り、咲夜は思考を引き戻す。
そう、咲夜は権兵衛が好きだ。
そしてそれを認められなかったのは、恐らく、レミリア以上に好きな相手が存在する事を認められなかったからなのだろう、と咲夜は思う。
だから咲夜は、それを解決する素敵な方法として、二人とも好きになる、と言う事を考えるのだった。

 恐らくそれは、困難に満ちた道程になるだろう。
咲夜は権兵衛もレミリアも好きでいたいし好きになってほしいが、かといってその大好きな二人が仲良くしている光景と言うのも、こうやって冷静に思い返せる段になれば、素晴らしい物であった。
であれば、咲夜は、権兵衛と言う誠実な男に、レミリアと咲夜の二人を好きになってもらわねばならないし、先日信頼を損なうような事をしてしまったレミリアに、権兵衛を一部とは言え手に入れようとする自分を好きになってもらわねばならないのだ。
明らかに無理がある道程があり、その困難さは咲夜の想像を超えるだろうと、容易く理解できる。
だがしかし、この権兵衛の寝顔を見ていると、何だってできそうに思えてくるから、不思議である。
そこで決意を新たにしようと、咲夜は自分の中の心を定める儀式をしようと思った。

 咲夜はまず、大きく息を吸い、吐き、自身の呼吸を整える事に腐心する。
それから咲夜は、すっと取り落としたナイフを持ち上げ、権兵衛の首筋に近づけた。
丁度、レミリアの吸血痕がある場所である。
そのあたりの皮膚を薄く切り裂き、毛細血管だけの血をちろりと流させる。
それから咲夜は、深呼吸をし、自身を落ち着かせてから、思い切って権兵衛の上に押し倒すようにして抱きつき、首筋に唇を寄せた。
まず、そっと唇を傷口に近づけさせ、キスしようとするものの、中々気恥ずかしくて、一気にとはいけない。
レミリアと同じように、権兵衛の血を吸って、それを契約としようと思っていたのだが、なかなか上手く行かなかった。
あれこれと脳内に言い訳のような物が浮かんできて、自分を止めようとする。

 そこで、咲夜は、一度離れ、じっと権兵衛の顔を見る事にする。
愛らしい顔であるが、咲夜が一番気になるのは、やや伸びっぱなしにしてある髪の毛であった。
別に特別な手入れをしてある訳ではなく、夜中寝ている間に汗や埃が絡みついているような髪であるが、無性にそこが気になる。
そこで咲夜は、権兵衛の寝ている枕の辺りを少しまさぐると、そこから数本の権兵衛の抜け毛を取り出した。
此処の家主も黒髪であるが、長さを見るに権兵衛の物だし、そも、霊夢は中々此処に来ないそうなので、間違いなく権兵衛の物だろう。
なによりそこにこびり付いた匂いが、権兵衛の物だと主張しているように思えて、そうなると、こんな髪数本でも愛おしくなってきて、だから咲夜は喰った。
権兵衛の髪の毛を喰った。
細くて噛み切れないそれを、舌で誘導し、奥歯で磨り潰し、細切れにしてから大量の唾液と共に飲み込んだ。
ごくん、と喉を鳴らし、食道を権兵衛の髪の毛が嚥下されてゆくのが、咲夜には良く理解できた。

「――これよっ!」

 興奮のあまり、咲夜は叫んでしまった。
それから慌てて、夜中であった事に気づいて口元を抑え、時が止まった世界にも侵入してきそうなあの紅白巫女がやってこないのを確認してから、胸をようやく撫で下ろす。
しかし、それ程の興奮であった。
髪の毛。
何故そこに咲夜がこんなに興奮するのか分からないが、兎も角、レミリアにとって最適の方法だった事が、咲夜にとっても最適な方法ではなかった、と言うのは道理が通っている。
早速、咲夜は身を乗り出し、権兵衛の髪の毛を一房手に取り、ゆっくりと眺めてから、まずはそれに頬擦りする。
そして舌で舐めとった。
たっぷりの唾液で、権兵衛の髪の毛を汚してみせた。
ぞくりと、背徳的な興奮が咲夜の背筋を犯す。

「――あはっ」

 ど、と、体中から汗が噴き出てくる。
顔を伝う汗が顎に集まり、権兵衛の髪へと落下し、弾ける、その光景にすら胸が熱くなる。
次に咲夜は、他の髪の一房を手に取り、今度は根本近くを掴んで立たせるようにして、そして一気にぱくっと口の中に含んだ。
唾液だけでなく、口内の肉が、舌が、権兵衛の髪を征服する。
くしゅりと、唾液と共に踊らせると、ふわりと口内で広がり、もさもさと口内に触れるのが、逆に蹂躙されているかのようで、咲夜の興奮を誘った。
つぽ、と小さな音を立てて権兵衛の髪を口から抜き、口内で残った唾液を飲み干そうとする咲夜だったが、その時思いつく事があって、それはやめた。
代わりに唾液を集めた舌をちょこんと出し、権兵衛の頭の上に下ろすようにする。
やがて唾液が舌の先端に集まり、糸を引くようにだらりと垂れ、権兵衛の髪を穢していった。

 それから咲夜は権兵衛の髪を利用しながら、これからの幸せに思いを馳せていた。
権兵衛が居て、レミリアが居て、咲夜が居て。
その三人が、仲良くしている、夢のような光景。
そんな光景を想像している咲夜は、未だにレミリアの心を知らない。
レミリアが権兵衛にとっての特別になる事を諦めてしまった事を、知りはしない。
決して実現することのない夢を見ながら、それでも咲夜は権兵衛の髪を弄びながら、幸せだった。
何せ、夢を見ると言う事は、いずれ打ち砕かれる事が決まっているとしても、その瞬間だけは幸せな事は確かなのだから。




あとがき
冬眠してたらSAN値回復したので、酸素呼吸を再開して書ききりました。
と言っても、本文は5日程度で書いてますが……。
今回はちょっとルナティック度薄めなまま終わりです。
何故かと言うと、次回が宴会編なので、舞台を移せず、派手な事が出来なかったから。
と言う訳で、次回宴会編です。



[21873] 宴会1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/03/01 00:24


「宴会よ」

 此処、博麗神社に来てから一月程経ち、そろそろ怪我も全快、後はリハビリを残すだけとなった頃。
丁度中秋を過ぎて晩秋へ差し掛かった辺り、外の木々は紅葉した葉を半ば以上に落とし始め、所々に裸の枝が散開して見られるぐらいである。
足も動くようになってきた俺は、最初博麗神社への奉公として普段から掃除や炊事を手伝おうと思ったのだが、霊夢さんに悪いけど今は迷惑にしかならない気がするから、と断られ、見事にタダ飯ぐらいと化していた。
まぁ、数日に一度は訪れる永琳さんによると、まだリハビリが必要な段階なので、家事を手伝おうにも邪魔になるだけなのだろう。
とりあえずはそう自分を納得させつつも、何だか霊夢さんは矢張り俺を避けているのだろうか、中々顔を合わせる機会が無かった。
あっても俺が一言礼を言い、霊夢さんが返事をしながら歩いてすれ違う、そんな簡潔な物ばかりで、会話と言う会話になった記憶はない。
かと言ってこちらから霊夢さんに改めてお礼と共にお茶にでも誘おうとすれば、何故か霊夢さんが買い物に出ていたり、友人と言うなんだか白黒した西洋魔法使いらしき格好の人と話をしていたり、と気後れする状況ばかりで、タイミングが合わない。
とすれば、何故かこうして病床を頂いている、と言う事は縁があるのだろうが、それが奇妙な所で切れてしまっているのだろう、と、自分を納得させた、そんな折であった。

「だから、宴会よ」

 と言う霊夢さんは、何の前触れもなく、俺が使わせてもらっている部屋にがらりと戸を開けて現れ、どすんと座り、開口一番でこれである。
流石に面食らって目を白黒させる俺を気にすること無く、早口気味に続ける霊夢さん。

「全く、あんたが居るうちはやらないほうが良かったんでしょうけど、いい加減出て行く目処が立ちそうだっていうのに、今はバランスが悪そうだからね。
多分宴会をした方が、調度良い塩梅に天秤が平になるでしょう。
そうでもしないと、何だか嫌な予感がするのよね。
まぁ嫌な予感って言うのも色々あって、このまま何にもしなくても嫌な感じになりそうだって言うのと、このまま宴会をしても、あんたが迂闊な事をして嫌な感じになりそうだっていう二つの感じが今の所大きいわね」

 と、霊夢さんはまるで当たり前の事を当たり前に説明しているかのように自然体で言うが、抽象的過ぎて良く分からない話だった。
大体、予感とか感じとか、そんな言葉が多すぎる。
俺のような愚鈍な男には、もう少し具体的な言葉で言ってもらわねば分からなかった。
ので、その旨を伝えようと口を開こうとすると、その機先を制するタイミングで開く、霊夢さんの口。

「で、まぁつまり何が言いたいかと言うと、あんたに私が色々と言い聞かせておかなくっちゃならないって事よ。
全く、説教だったら半獣に任せればいいんだけど、あんたは本当に面倒な男よね。
あぁ面倒くさい。
本当はあんたがもうちょっときちんと出来ていればそれで良かったんだけど、それを言うのも状況の所為で酷な話になっているから、尚更あんたに説教しようなんて物好きが居ないもんだし。
まぁ、だから手伝ってあげるわよ。
多分これがあんたが自立する助けになるんだから」
「へ? あ、その、すいません、そんな重要な話なんでしょうか」
「そうよ。玉串料でももらおうかしら」

 くすっ、とほほえむ霊夢さんは、まるでふわふわと掴みどころがなく、まるで空中に浮いているような人であった。
言葉の一つ一つがまるで天を仰いだような視点から降ってきていて、自分が遙か高みから見下されているのが分かり、しかしかと言って悪い気分になるとか、そういう事は全くない。
むしろこのあり方が本当にあるべき姿なのだと、俺の全身はそう理解していた。
まるで神を御前にしたような気分で、それを思うとレミリアさんが時折語っていた、霊夢さんが超然としている部分がある、と言うのがよく分かった。

 しかしそれにしても、俺の自立するのに助けになる話とは。
物質的な事なのか、精神的な事なのか、それすらもよく分からないままだけれど、霊夢さんのこの不思議な感じは、俺に早速肩に力を入れてこの話を聞こうとさせるに十分だった。
何せ、俺である。
気づけば家を失い大怪我をし胸を焼かれていたと言う、大馬鹿者である。
ちょっと肩に力が入りすぎているぐらいが調度良いと、そんな勢いで臨もうとした、その瞬間であった。

「まずあんた、肩に力入りすぎよ。もうちょい誰かを頼って生きてもいいんじゃないの?」

 すとん、と。
まるで抵抗なくナイフを心臓に差し込まれたような気分だった。

「誰かのため誰かのためって言うけれどさ、あんたはこれまで何回か、それで他人を不幸にしてきたでしょ?
責任感が強いのはいいんだけど、あんた自身の幸せも、もうちょい考えてみても良いんじゃないかしら?」
「――いえ」

 と、俺は口をはさむ。
一瞬心臓が止まらんばかりの緊張があったが、気づけばそれは薄れていた。

「確かに、俺に誰かを頼ると言う考えが薄かったのは、認めざるを得ないでしょう。
ですが、俺が俺自身を考えてこなかったと言うのは、間違いです。
確かに俺は口癖のように、誰かの為誰かの為と言っていますが、それは何のためでしょうか。
恩があるからです。
恩を返したいからです。
では、それは何の為でしょうか。
何故、俺は恩知らずになりたくなく、このような七面倒臭い生き方をしているのでしょうか。
それは、単に、やりたいからやっている事なのです。
俺は、俺のやりたい事を一番に考えていて、それがこうやって誰かの事を思って生きる事なのです。
つまり、俺は我欲のために生きているのです。
十分以上に、俺は俺の幸せを考えれているのだと、そう思います」
「そうかしら」

 と、短く霊夢さん。
正対して互いに正座をしているので、座高の低い霊夢さんの方が視線が下となり、事実見上げられる形になっているのに、何となく、上から視線を下ろされている感覚。
僅かに首を動かす霊夢さんに連動して、その瞳が反射する光が帯を描く。

「本当に、そうかしら?
いえ、やっぱり傍から見ていて、そんな風には到底見えない。
いや、違うわね、幻想郷の社会は一般人が自己投影をしてそんな風に思える場所だとは、到底思えない。
であるならば、貴方はもっと社会に自分を摺り寄せる方法を学ぶべきだわ。
勿論、一般人って言っても、逸般人も込みでよ?
それに、貴方より若い……それとも生後一年と経っていないんだから、私の方が年上かしら? まぁ、そんなどっちだか分からない私が言うのも何だけれど。
貴方は、もっと他者の忠告と言う物を大切にすべきだわ。
貴方はとても完成されていて、しかも凡百の孤高とは違って、他者を必要とする完成形に近いと思うけれど、でもだからってそれが良いとは限らない。
閻魔の台詞を借りれば、善行を積めない、って所かしら。
まぁ、私は閻魔じゃないから、あいつならもしかしたらあんたを手放しで褒めるかもしれないけれどもね」
「――……」

 耳に痛い台詞だった。
俺は幻想入りして以来、社会に己を摺り寄せる方法と言う物を全然学んでいなくて、むしろ社会から爪弾きにされている身でさえある。
しかも霊夢さんの言う所によれば、逸般人、つまり妖怪達の社会と比しても、俺は孤独であるらしい。
一応これまで、個人的には何人も親しくさせてもらってきたのだが、その多くが破局して別れたままだと言うのが、その証明だろうか。
他者の言葉に耳をかさない、と言うのもそうだった。
物理的な意味、霊力の授業や作法の話は自分でもよく聞いたと思うし、よく吸収できたと思うが、問題はそちらでは無い。
精神的な言葉に、俺は耳を貸していない。
と言っても、言い訳させてもらうとすれば、これまで然程精神的な意味で説教される、と言う事が少なかったのであるが。
そう言う意味で言えば、この霊夢さんとの問答は、耳に痛いと同時、一種心地良い物でさえもあった。
俺のように未熟な精神が完成していると言うのは首を傾げる所だが、兎も角こうやって俺の精神について議論してもらえると言うのは、単純に構ってもらえて嬉しい物である。
しかし。
それにしてもこの幻想郷、何でも居ると思ったが、閻魔まで居るのか。

「神様だって居るわよ」
「わっ!」

 と、そっけなく言う霊夢さんであったが、こっちは思考を読み取られたショックで、飛び退きそうになってしまっていた。
後ろ手に体を抑えていた姿勢から元に戻りつつ、豊穣神が居るとは聞いたことがありました、とだけ返す。
すると、霊夢さんは姿勢を新たに、今までの雰囲気よりもよりビシッとした感じになって、こちらへ向き直してきた。
膝だけで正座の向きを直し、背筋をピンと伸ばし、口元をキュッと萎める。
空気が刺すように冷たくなり、ごくり、と思わず唾を飲む俺。
静謐な空気の中、口を開く霊夢さんの第一声は、これであった。

「で、本題なんだけれど」
「って、まだ本題入って無かったんですかっ!」

 思わず、裏手に突っ込みしてしまう俺。
短くもかなり深刻な話だったので、正直もう本題だと勘違いしてしまっていたのである。
と言っても、霊夢さんは眉ひとつ動かさず、先程の鋭い顔を俺に向けたまま。
ノリで空中に出した裏手が、静謐な空気の中、異様に浮いていた。
しおしおと、萎れる花のように俺の手が落ちてゆき、膝の上に戻ってきた。
赤面した顔を、下に向けて視線を膝先に合わせる。
何と言うか、合わせる顔が無かった。
こほん、と小さな咳をしてから、再び口を開く霊夢さん。

「で、本題なんだけれど」
「はい」
「宴会の、注意事項よ」
「………………っ」

 思わず飛び出そうになる手を、反射的にもう片方の手で抑える。
それかよ、と。
そう突っ込むのを、何とか自重する。
馬鹿には学ぶ馬鹿と学ばない馬鹿が居るが、せめて前者でありたい、と言う俺の真摯な願い故であった。
辛うじて変な顔を造らず、静かに口を開く。

「その、それって重要なんでしょうか?」
「重要よ」
「どれくらい?」
「そうね……」

 ふらりと視線を部屋の中に移し、泳がせる霊夢さん。
暫くの間視線を彷徨わせていたかと思うと、そのうちに俺へと視線が戻ってくる。

「血の雨が降るぐらいよ」
「はぁ」
「この部屋一杯ぐらいに」
「………………」

 多分突込みどころなんだろうなぁ、と思うけれど、余りに霊夢さんが真剣な表情で言う物で、そんな気も無くしてしまい、俺はただただ変な顔を作るだけに留めた。
俺如きの為に血の雨が降るって言うだけでも大げさ過ぎるって言うのに、この部屋一杯って。
一体どれだけ俺の価値を水増ししてみせれば、そんな事になるのだろうか。
内心苦笑気味にしていると、微妙に顔を崩す霊夢さん。

「一応言っとくけど、本気よ?」
「……へ?」
「根拠は、勘なんだけど……」

 と、今一自信無さ気に言う霊夢さんであるが、霊夢さんの勘が凄まじいと言うのは、方々から聞いている。
となれば、本気でそのような事態も想定せねばならないのか。
今更になって、これからが本題だと言う事に真実味が感じられてきて、思わず拳を握り締め、身を乗り出して聞こうとする。

「まぁ、とりあえず注意事項の連絡ね」
「はい」
「まず、今回の宴会は、ちょっとした事情があって、あんたの顔見知りだけを呼ぶ事になるわ。
まぁ、宴会と聞くと湧いて出てきて、止めようが無いのがちょっと居るから、そいつらは例外だけれども」

 と言うと――。
俺は頭の中で指を降りつつ、これまで出会ってきた、幻想郷の有力者達について思い出す。
人里、慧音さん。
白玉楼、幽々子さんに妖夢さん。
永遠亭、輝夜先生に永琳さん、鈴仙さんにてゐさん。
太陽の畑、風見さん。
そしてこの神社に来てから、妹紅さん、レミリアさん、咲夜さん。
こうしてみると、そうそうたるメンバーである。
場違いな所に出てきて一人見窄らしい格好をしているような気分で、酷く落ち着かない宴会になりそうであった。
勿論、これまで不幸にしてきた人々との出会いを、今度こそ幸福で終える事ができるかもしれないと思うと、心が沸き立たない訳では無いのだが……。

「で、注意事項その一。
酒を勧められたら、際限なく飲め」
「飲むんですか」

 普通逆では無かろうか。

「と言うか、その、情けない話なのですが、俺って飲む度に記憶を無くすぐらいに酒に弱いので、その注意事項一を聞いたら残りを聞けないような気がするのですが」
「あー、んー、でも飲みなさい」

 霊夢さんは断定的に言った。

「まぁ、理屈で言ったらあんたの言う事に分があるのは確かよ。
でもね、そもそもこの忠告やら宴会自体、私の勘っていう曖昧な物を支えとして開いているの。
それを疑うっていうんなら、そも、前提自体が成り立たなくなってしまうわ」
「それは分かりますけど……。
いえ、分かりました、勧められた酒は出来る限り際限なく飲むようにします」

 予防線を張る情けない口調であるが、霊夢さんに見栄を張って、それを反故にするよりはまだマシだと考えての事である。
また怒られてしまうのでは、と内心怯えつつの言葉だったが、どうやらそれで十分だったと霊夢さんは思ったらしく、頷くに留めて次に移る。

「次、注意事項その二。
隣を幽々子にしなさい。
もう片方には、輝夜が良いわ」
「はい」

 今度は全然意味のわからない内容であったが、とりあえず頷いておく。
一応俺も、輝夜先生のあらましは聞いており、蓬莱人たる不死の人であるとは聞いているのだが、それと亡霊の幽々子さんとで、一体何の関係があるのだろうか。
そも、喧嘩別れのようになってしまい、輝夜先生とは未だに気まずいままであると言うので、遠慮したい、と言うのが本音なのだが。
それでも口答えせずに頷く俺に、少し気を良くしたようで、揚々と続ける霊夢さん。

「で、注意事項その三は、挨拶以上に妖夢に話しかけるのは、宴会が始まってからにしなさい」
「……はい、分かりました」

 本音を言えば、妖夢さんと仲直りしたいと言うか、俺を斬った事を気にしなくても良いんだ、と言ってやりたくて仕方なかったが、俺ははいと返事をする機械になったつもりで、そう言った。
その声色に思うことがあったのか、ぴん、と霊夢さんの眉が跳ね上がるが、それも徐々に降りてゆき、自然な様子に落ち着いていくので、霊夢さんとしてもこれで満足してくれたのだろう。
俺は、折角霊夢さんが俺の利となる事をしてくれていると言うのに、それに素直に従わないと言う愚行を犯している。
だが、それを許してくれるというぐらいに、霊夢さんの懐は広く、また、俺はそれにすぐに感謝を覚え、顔を柔らかくした。
僅かに、霊夢さんが視線を動かしたような気がする。
少しそれが気になったが、それを気にする時間もないまま、霊夢さんが口を開いた。

「で、最後の注意事項。鬼の誘いには乗っときなさい」
「鬼の、ですか」
「鬼の、よ。まぁ、言われるままにしろ、って言う訳じゃないんだけどね」

 と言って、霊夢さんは立ち上がった。
どうやら話はこれで終わりらしい、と言う事で、俺も立ち上がって見送るべきか、それとも付いて行ってせめて宴会の幹事をする間だけでも家事を手伝わせてもらうべきか、と悩んだその瞬間、ぽつりと霊夢さんは漏らす。

「で、ちなみにその宴会だけど、明日だから」
「へ?」

 とまぁ、そんな風に呆けているうちに霊夢さんはさっさと戸を開けて身を滑らせ後ろ手に戸を閉めてゆき、居なくなってしまった。
そんな訳で此処に俺は一人、暫くの間口を開いたままぼけっとしていたものの、これから明日までに今まで不幸なまま別れてきた人々との仲直りの計画を練らねばならない、と言う事に思い当たり。
慌てて室内をウロウロしたり、縁側に座ってみたり、そんな感じにしながら思索にふける事にした俺なのであった。



 ***



 結局、ロクな計画も練る間もなく、宴会当日となった。
情けないことこの上ないが、何を言えばいいのか分からない一因として、実のところ、俺にとって宴会が人生初であると言う事を伝えておくと、少しはマシに思えるかもしれない。
と言うのも俺、記憶を探った感じからすると、多分だが幻想郷に入って初めて飲酒したのが、慧音さんと酒盃を交わした時なのだ。
しかもその上、俺はそれ以来慧音さんとサシで飲んだ事しか無い。
更に言えば、その酒を飲んだ記憶もほぼ盃に口をつけた瞬間から無い。
皆とどうやって和解しようかと言うのと、そもそも和解できたとしても初めての宴会と言う事で何をすればいいのか分からず、緊張で眠れず、夜など自室をウロウロと何時までも歩いていた物だった。
なんか五月蝿い、と大きな音は出していない筈なのに霊夢さんが怒りに来て、お札をぶち込まれ、気絶するように寝たので、睡眠時間は取れているのだが。

 さて、それは兎も角、当日の朝。
起きてからもどうしようにも落ち着かず、胡座をかいていれば指がとんとんと音を立て、寝転がっていれば足がヒョイヒョイと動き、しきりに歩き出してその辺をぐるぐる回り、と言った具合であった。
一応霊夢さんにも手伝おうと言いはしたのだが、料理のいくらかを後で呼んで手伝わせるから、黙ってじっとしていろ、との事だった。
まるで子供に言い聞かせるような言い草だな、とは思うものの、不思議とそれはすんなりと受け入れられて、こういう所を見ると、矢張り聞くように霊夢さんには超然とした所があるのだな、と思う。
が、それはそれとして、俺にやる事が無いのに変わりは無く、ただそわそわとしているだけの無駄な時間が過ぎ去ってゆき。
やがて昼食を取り――この時霊夢さんとは別に取る。何時の間にか気配を感じないままに完成し、霊夢さんが俺の部屋へ持ってくるのだ――、そして空もやや陰り始め、暇つぶしに始めた霊力の修練も一区切りついた頃。
まず始めに、風見さんがやってきた。

「「あ………………」」

 何とも無しにぶらぶらしていた時、ふと振り返った所に、白いブラウスに赤いベストとスカート、何時も通りの格好の風見さんを見つけたのであった。
お互い一瞬目を見開き、それから口を開いて、声にならないような声を出す。
風見さんもまた、なのだろうが、お互いどうやって話しかければいいのか、分からないのである。
風見さんは恐らく最終的に加害者側であったと言う意識から。
俺は風見さんの寂しさに全く気づけていなかった後ろめたさから。
だが、しかし、である。
恐らく俺の後ろめたさなど風見さんには知る由もなく、ただ単に俺が風見さんを恐れているであろうかのように見えてしまうだろう。
当然、そんな事は許されない。
風見さんは、他者を傷つけたと言う一点において確かに悪い事をしたのは確かなのだが、その情緒を酌量すると、どう考えたって無罪なのである。
怪我の方にしたって、もうほぼ治っている現在、気にするほどでも無かったのだし。
と言う事で、早速俺は一歩前に歩き出し、口を開く。

「お久しぶりです、風見さん」

 そうして、いざとなると躊躇する物があったが、えいっ、と手を差し出し、風見さんの掌を手に取り、両手で握る。

「あっ………………」

 と、風見さんは消えそうなか細い声を出した。
その声のように手も折れそうなぐらい細く小さく、こんなにも可憐で美しい物に、俺のような愚物が触って良いのかどうか、とすら思う。
可憐な花を毒で萎れさせているような気分になり、手を離して、今にも土下座したい衝動に襲われる。
しかし俺は鉄の意志で手を離さないまま、風見さんの返答を待った。
暫く、その姿勢のままゆったりとした時間が過ぎ去る。
秋の風がさらりと俺たちの体の表面を撫でてゆくのが、タイミングだった。
花弁のような唇を可愛らしく動かし、風見さんは口を開く。

「うん、久しぶり、権兵衛」

 花咲くような笑顔。
能力が漏れ出しているのだろうか、文字通り足元に季節外れの花が開いてゆくのを見ながら、俺もまた、出来る限りの笑顔を風見さんに対して見せるのであった。

 そんな風に期せずして上手くいった邂逅は、それからも続いた。
普段どおりのレミリアさんに、最近なんだか所作が優しくなってきてくれた咲夜さん。
鈴仙さんとてゐさんは留守番らしく、二人で来た輝夜先生と永琳さんは、何だか思ったよりも深刻そうな様子は無く、こちらが謝るとすぐに許してくれた。
慧音さんと妹紅さんは、二人とも俺に対しては普通なのだが、何だか仲が良いと聞いた二人の間が余所余所しいような気がして、どうしたものか、と首を撚るような感じであった。
そして最後に幽々子さんと妖夢さんが来て、さて、幽々子さんはあの数日の通りに仲良く対応できたものの、妖夢さんが問題で、殆ど喋らずに俯いて俺の方を見ないようにしているようだった。
こちらとしては何とかしてやりたいのだが、霊夢さんの注意事項と、そも話しかけたら斬られるのであるとすれば、どうにも対応しようが無い、と言うのに尽きた。
ダメ押しに霊夢さんから手伝いの催促が来て、台所で料理を作ったり、倉庫へのパシリをやったり、そんな事をしている頃であった。

 勝手口を出て、外の倉庫との短い道に出た、その瞬間。
俺は、目眩のような感覚に襲われたかと思った。
と言うのも、目の前の空気がぐにゃりと歪み、亀裂が入るかのように真空が出来てゆくのが感じられ、そこにまるで空間に亀裂が入るかのようになったからである。
しかしすぐにそれは間違いであったと俺は悟る事になる。
これは、俺の目眩ではない。
現実に、この空間が引き裂かれ、開こうとしているのだ。
既に月が出そうな上、満月近い暦である、増幅された俺の眼力がそう診断していた。
間もなく、その通りに空間に黒い筋がすうっと現れ、何故かぴょこんと両端近くにリボンが結ばれ、ぐにゃりとその口を開ける。

 それは、無限の瞳の世界であった。
無数の眼球を見えない瞼が覆っており、黒い睫毛がぴょんと跳ねている。
瞳の無い空間は何故か紫色に見えて、あぁ、と俺は、それは視線の色が紫色をしているからなのだと反射的に理解する。
無数の瞳は無数の視線を作っており、それ故に完全に限りなく近い程にその空間は紫色に塗りつぶされており、どうじにその上に瞳がぎゅうぎゅうに詰められている。
それらは同時に起こっているのだ。
半透明であるのとはまた違った感覚で、それは同じ位置に違う位相で重なりあっており、その間隙を感じさせるような配置になっている。
俺は、これを知っていた。
そう、これは、無限の、赤子の瞳であり……。

 独りそんな風に思考に陥った俺を尻目に、突然、すっと白い物が現れた。
まるで白い花が早回しで花弁を動かすかのように、それはぱっと開くと、大げさな動きをしてふわりと割れた空間の裂け目を掴む。
いや、白い物は、手袋であった。
肘近くまである長い手袋が、まるで力が入っていないようなふわふわとした動きで体を持ち上げ、その先にある少女の姿を現す。

 胡散臭い。
失礼ながら俺が最初にその少女に持った印象はそんなモノで、改めて見ると何故そんな感想を持つのか分からないぐらい、少女は可憐で美しい。
赤い日に透け、日の色に輝く金の髪に、白磁の肌、それらだけでも少女らしさを全身で主張していると言うのに、その服装がまた少女らしい物である。
紫のドレスは至る所にフリルをあしらっており、スカートの下から覗く靴下も靴も、頭に乗せる帽子も同じく、手に持つ日傘にまでもがフリルに覆われている。
ただ一つ、その紫の瞳だけが印象を異にしていた。
と言うのも、少女らしい瞳と言うと宝石のように光を反射し、きらきらと輝く丸い物を想像するのだが、彼女のそれは、確かにきらきらと輝いてこそいるものの、何と言うか、その、深い色であるように思えるのだ。
少女には無い、深い色の瞳。
何十にも色を重ねたような、分厚い色。
人間とは違う寿命を持つ種族の多くに見られるそれであるが、彼女の場合は、それが格別であるように思えるのだ。
長く生きてきたと聞く永琳さんでさえ見せた事の無い、深い、深い色。

 出てきた少女は、すたり、と地面に両足をつけると、空間の裂け目をふんわりとした動きで撫で付ける。
その所業が何故か酷く冒涜的な物に思えて、俺は戦慄と共に半歩、後ずさりをした。
空間の裂け目それに関わる事自体が狂気の行いであるよう思えるのだが、加えてそれを成すのが溢れんばかりの少女らしさを纏う何かだと言うのが、それを助長する。
すると何を思ったのか、少女はにっこりと笑みを浮かべた。

「こんにちは――いえ、もうそろそろこんばんはかしら? 権兵衛さん」

 それが何とも不思議な笑みで、俺は名乗っても居ないのに名前を知られている事について考えるよりも先に、その笑みに感動してしまった。
その仕草が一々可愛らしさに満ちており、彼女は声を一つかけるのにも可憐に曲げた腕を唇にやったり、もじっと足元を小さく動かしたりするのだが、その笑みはしかし少女らしさとはまた別の感慨を浮かばせた。
何と言うか、そう、暖かく、肩の力が抜けてゆき、全てを任せたくなるような――、そう、母性に溢れているのだ。
そのあまりにも美しい笑みを見て、俺はこの少女に感じていた警戒心を零にする。
それからようやく、自分が声をかけられているのだと気づき、俺は狼狽した。
そんな俺の様子に、くすくすと、今度は少女らしい笑みを浮かべる少女に、慌てて俺は口を開く。

「は、はい、こんばんは。
えっと、俺は七篠権兵衛と言いますが、貴方は――」
「あら、名前を知られていてもきちんと名乗ってくれますのね。
くすっ、最近の若者は礼儀を知らない、って言ってみたかったのに。
キレやすい十代なのに、随分と落ち着いてらっしゃるのですね。
あぁ、そう言えば十代と言えば、そう、貴方は実はギリギリ未成年。
此処では自由だけれど、外の世界では飲酒をすれば捕まってしまうのよ?
これで幻想入りして良かった事が一つ増えたわね。
ふふっ、でも“ちゃんと飲酒”した事って無いみたいなのよね、貴方。
私の友人に大酒飲みの鬼が居るから分るけれど、貴方、酒飲みの匂いが、全くしないんですもの。
あ、って言っても、勿論本当に匂いをくんくんと嗅いでいる訳じゃあないのよ?
比喩表現よ、比喩表現。
ふふ、比喩表現ですって。
幻想郷の皆は大好きよ、皆で自分たちを比喩して、二つ名を作って呼んだりしているんだもの。
くす、そこで、そう、貴方を比喩するなら、――純白の人間とでも言うのかしら。
白は染まりやすい色とも言うけれど、それは一面をしか捉えていない。
貴方は確かに無抵抗主義で、どんな事にも流されているように見える代わりに、唯一の色なのよ。
そう、色はどんな色も混ざってゆく内に必ず黒になり、黒は全てを内包する色であり、そして真逆の白は全てを内包しない色、全ての色に存在する色、そんな唯一性を見せているんだから。
その唯一は何なのかしらね。
純心? 狂気? それとも……他の何かなのかしら?」
「………………はぁ」

 恐ろしく口数の多い人であった。
ぺらぺらと喋るのを、俺は半ば以上受け流す気で聞く。
何せ俺はちょっとおかしな所があるものの、それは二つ名なんて物で言い表す程の物でも無いと思うし、仮に二つ名をつけるとしても、純白の人間なんていう仰々しい名前では無いだろう。
大体、純白なんてまるで無罪で穢れていない存在を表すようだが、俺はまるで逆である。
人々にこれ以上なく嫌われていて、いい所や優れている所が殆ど挙げられず、駄目人間の典型として挙げられるような男なのである。
これでも最近は、幻想郷で出会ってきた女性達のお陰で、礼儀作法もちょこっとマシになり、料理を作れるようになり、霊力を扱えるようになり、と少しだけマトモな人間になってきたのだが、まだまだと言うのが正直な感想であった。

「で、私の名前だったかしら。
まぁ名は体を表すとも言うけれど、その逆もまた然りで、私は見て簡単にわかるような名前をしているの。
この場合、体が先だと思う? 名が先だと思う? 卵が先か鶏が先かじゃないけど、気にならない?
それはね、生化学で見ると鶏が先で、数学で見ると卵が先であるように、見方によって違うのだけれども、どちらにしろ気になるのが、貴方のその名前よ。
七篠、権兵衛
名無しの、権兵衛。
その名前と貴方の名前が亡い状態、どちらが先に出来たのかしら?
貴方が今まで思っている通り、貴方は自分で名無しの自分を皮肉って七篠権兵衛と名付けたのかしら?
それとも、貴方の名前が七篠権兵衛と規定された瞬間が先で、貴方はそれ故に名無しになったのかしら?
ねぇ、面白い疑問だと思わない?
因みに私の場合は自覚症状としては貴方と同じ、体に合わせて、名前を自分で決めたと思っている。
そう、そんな私の名前は、八雲紫よ」
「八雲さん、ですか」

 と言うと、鋭く八雲さんが、

「紫よ」

と言うので、俺は八雲さんの事を紫さんと呼ぶ事にする。

「紫さん、俺は矢張り、体が先だったと思っていますよ。
何せ俺の七篠権兵衛と言う名前は、昔は身元不明者を言い表す名前として、散々に使い古されてきたのです。
が、かと言って身元不明者の全てが名前を亡くしているかって言うと、それもまた違う。
いえ、もしかしたら公的に身元不明な状態になったら名前を喰う妖怪でも出てきて名亡しにされてしまうのかもしれませんが。
でも少なくとも俺はそんな事聞いたことありませんし、大昔に身元なんて無かった頃の事を考えると、矢張りそれは無いのでしょう。
つまり、七篠権兵衛と言う名前の人間が名前を亡くしている訳ではなく。
俺は名前を亡くしたが故に七篠権兵衛と名乗っている訳で。
だから恐らく、体が先なのではと俺は思いますけれども」
「本当に」

 と、言って紫さんは言葉を区切った。
目が合う。
すぅ、と、まるでその白い手袋に手招きされているかのように、その紫の渦に飛び込みたくなる衝動が、俺を襲った。
全身を抱きしめ、これ以上前に進まないように体を抑えこまないと、そのまま引きずり込まれて、どこまでも吸い込まれて行きそうだった。

「本当に、そうかしら――?」
「………………」

 深刻そうに言う紫さんが、不意にふと目を外すと、すぽっ、と俺の体を引き込んでいた引力が外れる。
たたらを踏んで、ずっこけそうになる俺が二歩、三歩と進んでしまうのを、紫さんがす、と差し出した手で軽く押さえてくれる。
その柔らかな感触と共に、僅かな甘い香りがするのに、俺は思わず頬を緩めた。
何というか、非常に不健全な話なのだが、俺はこれまで幻想郷の女性の匂いを嗅げるぐらい近くに居た事が何度かあったのだが、紫さんの匂いが一番いい香りだったと思う。
同時にそんな、俺を気遣ってくれる紫さんへの不義と言っても良い感想を持った事を恥じ、顔を赤くしながら、慌てて俺は紫さんから離れた。

「す、すいません」

 するとなんだかちょっと面白そうな顔をしていた紫さんは、一瞬俺が素早く離れたのに唇を尖らせてから、再び少女らしい笑みを口元に浮かべる次第となる。
短く、沈黙。
破ってでたのは、紫さんだった。

「そうね、そういえば、二つ名で貴方を呼んであげたのに、貴方が私の事を二つ名で呼べないのも無粋ね、二つ名も名乗っておこうかしら。
私の二つ名は、境目に潜む妖怪、幻想の境界、妖怪の賢者とも呼ばれているわ。
勿論私が貴方を純白の人間と呼ぶのと同様、貴方も私を二つ名で呼んでも良いわよ。
境目の、とか、境界の、とか、そういう風にだって歓迎よ」

 と、両手で日傘を持って、僅かに傾けながら言う紫さんであるが、俺はと言うと、小さく首を横に振りながら言う。

「いえ、折角ですが、俺は人の名前は、そのままで呼ぶのが一番好きなので。
紫さんだって、そんな仰々しい名前よりも、紫って言う名前の方が、可愛らしくて、素敵だと思いますよ」

 と言うと、ぱちくりと目を瞬き、それからくすくすと笑い出す紫さん。
俺としては、真剣に思った通りの事を言っただけであるので、一体何が可笑しかったのだろうか、と不安で押しつぶされそうになる。
やはり紫さんは仰々しく呼ばれる方が好みだったのだろうか?
それとも俺の仕草や言い方が滑稽で、笑いを抑えきれなかったのだろうか?
はたまた、途中で呼び捨てる形になったのが気安すぎたのだろうか?
疑問詞で埋め尽くされる脳内に、涙さえ溢れそうになる頃に、ようやく笑いを止めて、溢れた涙を指で拭きとりながら、紫さんは言う。

「そう、そうね。
別に滑稽な訳じゃあないんだけど、そうね、貴方はそうだったものね。
いえ、それは予定なのかしら?
この私と言う哲学的な私には知ることのない事なのでしょうけれども、貴方って結構、プレイボーイなのかもね。
それなのに何でか泣きそうになるぐらい畏まっているから、可笑しくって、飛び出た笑いが止まらなくなっちゃったわ。
あぁ、それじゃあやっぱり、悪いけどちょっと滑稽だった訳なのかしら。
そうね、滑稽ついでに言うけれど、貴方はそろそろ宴会の準備に尽力した方がいいんじゃないかしら?
そろそろ紅白巫女が鬼みたいにカンカンになって、角でも生やしている頃よ」



 ***



 料理が完成し、運ぶ次第となった頃である。
お盆を両手に歩いてきた俺は、広間の前まで来て、思わず立ち止まってしまう。
と言うのも、不思議でしょうがない事に、宴会の前、きっと話すことも山ほどあるだろうに、何故だか中からは何の音も聞こえなかったのである。
声は疎か、足音などの物音ひとつ聞こえず、まるで誰も中に居ないのでは、と言う錯覚に俺は陥った。
とまぁ、そんな訳で思わず足を止めている俺を他所に、後ろから料理を持ってきていた霊夢さんがすっと手を差し出し、止める間もなく障子を開けた。

「………………っ」

 ぎょろりと。
室内の皆の目が、一斉に俺を向いた。
まるで示し合わせたかのようなぐらい同時の動きであったので、思わず腰が引けてしまう俺を他所に、霊夢さんはさっさとちゃぶ台の上に料理を置いてゆく。
気後れしたものの、生唾を飲み込み、俺もそれに続いて一歩踏み出した。
ずずっ、と、室内の全員の視線が、首ごと俺の動きを追う。
全員の瞳が見開いていて……いや、よくよく見れば、紫さんだけが半目に薄笑いで俺を見ているのだが、他の全員は瞳孔が開いた瞳で俺を見つめており、はっきり言って、その、ちょっと怖い。
内心どうしたものかと思いつつびくびくと料理の皿を置き終えると、すっ、と霊夢さんが座ると同時、気づく。
丁度霊夢さんが座った事で、全員の座る間隔が等間隔になり、俺の座る隙間が無いのである。
――それともあるいは、どこにでも平等に座れるようにしてあるのか。
何故にかそんな風に思ってしまうが、しかし宴会の作法と言う物を知らない俺である、家主以外はこういう等間隔の人々に声をかけて間を開けてもらうのが作法なのだろうか、と思う方がよっぽど正しらしいだろう。
とりあえず部屋の隅に積まれた座布団を一番上から取り、それから全員を見回して、困ってしまう。
俺は霊夢さんに幽々子さんと輝夜先生との間に座るよう言いつけられていたのだが、その二人、幾つかのちゃぶ台を長方形に重ねあわせた宴会の席の、殆ど端と端の真逆に座っているのである。
どうしたものかと立ち尽くす俺に、助け舟なのか、霊夢さんが口をだす。

「どうすんのよ、このまま立ちっ放しじゃあ、宴会は何時までも始まらないわよ?」

 と同時、示し合わせたかのように、一瞬全員が俺から目を外し、中央で目を合わせ、すっ、と、霊夢さんと紫さん以外の全員が立ち上がった。
そして目を丸くしている俺の回りに、にっこりとした、天上の笑顔のまま、ただし決して視線を外さずに集まってくる。
えっと。
これはどうしろと言うのだろうか。

「とりあえず、権兵衛さん、あんたは好きな所に座りなさい」

 と、霊夢さん。
それで霊夢さんの忠告通りになるのだろうか、と視線をやるが、素知らぬ顔でぼうっとしているもので、どちらか判断がつかぬままであるものの、確かにこのまま立ち尽くしている訳にもゆくまい。
とりあえず、と俺は霊夢さんの作った料理が多い側の席に歩み寄り、すると同時に、揃った軍靴のように静かな足音が何十にも聞こえた。
思わず振り返ると、全員が一歩、俺の方に近づいてきている。
もしやと思いつつ、見当をつけた辺りに足を進めると、すたすたと全員が一丸になってついてくるのだ。
これ、一体どうするんだろう。
殆ど諦めの境地で、意味のよく分からない事態に混乱しつつ、俺は座布団を敷いてその上に正座する。
すると、俺が座布団を置く辺りと同時に、全員の視線が俺から外れたのに気づいた。
どうしたものか、と振り返ると、皆してまるで牽制し合うかのように目を合わせており、そしてその中からするっと抜けだしてきたのが、幽々子さんであった。
すっと、久しぶりに見る見事な座り方で、優雅に俺の隣に座る。
そして、この広間に入って以来、霊夢さん以外から初めての言葉。

「あら、奇遇ね、権兵衛さん」
「は、はぁ……奇遇、ですか」
「偶然ってあるものね、素敵よねぇ」
「恣意的な偶然なような……」

 と、そんな会話を続けているうちに、後ろからは妖夢さんが抜け出てきて、幽々子さんの俺と逆側に座り、彼女が再び俺と視線を合わせなくなった事に悲しむ暇もなく、後ろで空気が凝縮する気配。
慌てて振り向くと、どうやら永琳さんが注目を集めているらしく、全員の視線が彼女に集まっている。
しかし同時にするっと抜けだしてきたのが輝夜先生で、何やら包みを持ったまま俺の幽々子さんと逆側の隣に座り、にっこりと微笑んだ。

「輝夜、先生」
「えぇ、久しぶりね、権兵衛。一月ぶりって所かしら?」

 と、その言葉に返そうと思うよりも早く、幽々子さんが口を開く。

「先、生?」
「へ? えぇ、はい。こちら、輝夜先生は、俺に霊力の扱いを教えてくれた、先生ですので」
「……へぇ、そうなんだ」

 と微笑む幽々子さんであるが、その笑顔は何処か威嚇的に思え、ぶるりと肩が震える。
勿論この上なく優しく優雅な幽々子さんに限ってそんな事はあるまい、と思うのであり、後ろめたい物で、俺はそれを隠す為と、輝夜先生との会話がぶつ切れになってしまったので、再び輝夜先生の方へ向き直す。
と同時、後ろから動きがあった。
突然後ろに集まっていた皆がばらばらに分かれ、それぞれ宴会の席に着き始めたのである。
どうしたものか、と目を見開いている俺を尻目に、全員座布団に座る。
輝夜さんの隣には永琳さん、妹紅さんの隣には慧音さん、など関係の深い人同士で隣り合って座り、さっきまでの所業はなんだったのかと思うぐらい素早く宴会の準備が出来てしまった。

 そうこうするうちに皆でお酒を盃に注ぐ次第となる。
俺は両隣の二人にもお酌をしてあげたかったのだが、それより早く妖夢さんと永琳さんが酒を注いでしまったので、それはできず。
代わりに向かいの慧音さんに注いであげようとも思ったのだが、彼女は既に妹紅さんに注いだ酒を自分の盃に注いでいて。
では手酌か、と思った瞬間、両脇から瓶が差し出された。
当然、幽々子さんと輝夜さんの二人からの、お酌であり。
当然、二人から同時にお酌を受ける事など出来はしなくて。

「権兵衛さん?」
「権兵衛?」
「えっと……」

 思わず、左右に視線をやる。
にっこりと、今にでも天に昇りそうなぐらい、ふわふわとした笑顔の幽々子さん。
清楚で、だが思わずぞっとするぐらいに色気のある笑顔の、輝夜さん。
どちらも俺の心の救いとなっていたり、俺に実質的な力を与えてくれたりと、返しきれないぐらいの恩をくれた人である。
どうしろと。
思わず内心泣き言を漏らしつつ、ついつい助けを求めて、隣り合って座る霊夢さんと紫さんに救いを求めて視線をやってしまう。
霊夢さんは先の注意事項と名付けた忠告から、どうも俺に世話をやいてくれる印象が新しいからで、紫さんはこの静かな場であの口数の多さが欲しかった為で。
兎に角そんな訳で視線を二人から外した訳だが、これはどう考えても失礼な上、簡単にわかる所作である。
ぐいっ、と肩で肩を押され、思わず視線を戻すと、二人ともちょっぴり拗ねた顔になっている。
その寸前、能面のような表情が見えたのは気のせいだろうか。
気のせいだろうと思うものの、どうも気にかかってしまい、もしや二人の気分の損ねた量は、ちょっぴり拗ねたどころではないのかもしれない。
さて、美女の酌を受けれると言うのに困るとは妙な話であるが、それでも兎に角弱って、それでもこれ以上他の誰かを頼る訳にはならない以上、俺は自ら決断し、盃を差し出す。
相手は、幽々子さんであった。

「あら、何故だか盃を出すのに時間がかかったみたいだけれど、音速でも遅くなったのかしら」
「いえ……」

 と、言いながらお酌をしてくれる幽々子さんであったが、生憎と俺はそれに碌に返事ができないぐらいに緊張していた。
と言うのも、俺が幽々子さんを選んだのは先生である輝夜先生は明確に目上の人であるから、と言う至極単純な理からだった。
のだが、それを理解してもらえるとも限らず、折角和解した所に不和を投げかける事になってしまうのでは、と思う所があるからである。
あと一応、盃を出す瞬間、謎の怖気が背筋を走ったのも、理由といえば理由になるか。
まぁ兎に角そんな訳で、気もそぞろにお酌を受けて、礼を言って手元に酒を戻し、同時にちらりと輝夜さんへと視線をやる。
すると、にっこりと、まるで自然に出来た物とは思えない程完璧な笑顔を見せられて、あぁ、俺の心配は杞憂だったのだなぁ、と思いつつ、前を向く。
向かい側にいる霊夢さんが、音頭を取った。

「ちょっとしたトラブルはあったけれど、みんなにお酒は行き渡ったみたいだし、そろそろ始めましょうか」

 との言葉に、思わず背を伸ばす。
小さくクスリと言う声が幾つか漏れ、羞恥に思わず顔に赤みが漏れる。
視線が俯きそうになるのをじっと耐えていると、霊夢さんがじろりと全員に睨みをきかせ、それで笑みは収まった。
思わず関心していると、一つコホンと咳払いし、霊夢さんが続ける。

「さて、今回は皆集まってくれてありがとう。
……と形式的には言うけれど、中には逆に礼を言いたい者も居るかもね。
現状が確認できた訳だし」

 と、何故か俺を見る霊夢さん。
俺は、確かに、霊夢さんに礼を言う立場である。
今まで仲違いしたまま別れていた人達を集めてもらい、それらと結局和解でき、更には霊夢さんの勘によると、これから俺の独り立ちの助けともなるかもしれないらしい、この宴会を開いてもらったのだ。
だが、現状を確認、と言うのがちょっとよく分からない。
思わず周りを見渡すと、俺のように不思議そうにしている人はおらず、納得がいった、と言うような顔や、やや渋い顔が見えた。
どうやら俺以外にはある程度納得がいっているらしく、小さく疎外感を覚え、僅かに身を小さくする。
すると、苦笑気味に霊夢さんが小さく溜息を漏らし、口を開いた。

「まぁ、その辺はおいおい細かい事も分かっていくでしょう。
口上もこの辺にして、そろそろ乾杯しましょうか。
じゃっ、今日この日、幻想郷での位置を新たにした一人の男の、その後の幸福を願って……」

 男と言うと俺なのだろうか、と言うと、途端に恥ずかしさが沸き上がってきて、だから俺はみんなに一歩遅れて盃を持ち上げる。

「乾杯っ!」

 かちん、と輪唱。
乾杯と同時、揺れた盃の中の酒が僅かに混じりあい、俺の近くの盃に紛れ込む。
それを見て、俺から遠い席の、例えば咲夜さんや幽香さんが渋い顔をした気がしたが、何分遠い席なものなので、気のせいだったかもしれない。
さて、次に酌を受ける時は、輝夜先生にいただけたらとか、いやいや、その前に俺がお酌をする事を考えるべきだろうとか、そんな事を考えつつ、酒を喉に流し込む俺なのであった。




あとがき
遅い展開ですが、宴会編1話でした。
宴会編、2話で終わるつもりでしたが3話になりそうです。
ついでにこれからちょっと忙しくなるので、更新が遅れ気味になるかと。
ご了承ください。



[21873] 宴会2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/03/15 22:43


 少し拍子抜けする事であったが、俺はどうやら、酒を飲んでいきなり気を失うような弱さでは無いらしい。
それどころか飲んでも飲んでも、少し気分が昂揚する程度で一向にふらふらしたり気分が悪くなったりと言う気配が無い。
もしかしたら俺は、酒で記憶を無くすだけで、酒に弱いと言う訳では無いのかもしれない。
とすると、心配していた、折角の霊夢さんの忠告を無駄にしてしまう事態と言うのは避けれると見通せた訳で、そこの所は息をつける俺であった。
そこの、所は。
と言うには勿論他の場所がある訳で、それと言うのは何と言うか、宴会の雰囲気だった。

「………………」
「………………」
「………………」

 静か。
圧倒的なまでに、静かさであった。
殆どの人は乾杯以来、一言も漏らさないまま黙々と食事に酒を口にしている。
そしてその視線だけは、まるで視線がぶつけられて来ているんじゃあないだろうか、と言うほど分かりやすく、俺に向けられていた。
俺の認識としては、宴会と言うのは兎に角賑やかで、笑い声の絶えないような雰囲気を想像していたのだが、正にその真逆であった。
俺に視線をやっていない、頼みの綱の霊夢さんや紫さんは、黙々と酒を飲んでいるのだが、たまに声に出して、ちょっとそれをちょうだい、あれをちょうだい、と他の人に頼むのが、救いとなっていた。
情けない話だが、それぐらいの声がするだけでも、少しの間だけ緊張が解けて、肩が軽くなるような気がするのだ。
あるいはそれは、頼まれた人の視線一つ分が、俺から逸らされれるからかもしれない。
兎に角そんな状況の中で、他に変わらず俺に声をかけてくれるのは、幽々子さんと輝夜さんだけであった。
が、それも、折角話しかけてくれていると言うのに申し訳ないのだが、余り気が楽になる事は無かった。

「はい、権兵衛さん。お刺身なんて滅多に食べれないし、たんと食べましょう」

 と、紫さん持ち込みの海魚の刺身を俺の取皿にのせる幽々子さん。
ただし、輝夜先生が取り分けてくれた唐揚げを、端にぐいっと押しのける形で、だが。

「あら、権兵衛。このお酒はどうかしら、月の物に似せて作ったんだけど」

 と、永琳さんから受け取った瓶を傾け、酒を俺の盃へ注ごうとする輝夜先生。
ただし、幽々子さんがお酌してくれた酒がまだ残っているので、急いで飲み干し盃を差し出さねばならなかったのだが。

「「………………ちっ」」

 仕舞いには、二人とも気品ある人なので幻聴だと思うが、舌打ちまでもが左右から聞こえてくる次第である。
とまぁ、こんな訳で、二人はまるでお互いが居ないかのように振る舞い、無視を続けているのであった。
勿論、間に居る俺はたまったものでは無いのだが、かと言って泣きつく相手もおらず、おろおろと、兎に角どうにかしてほしくて、視線を二人の従者へやる。
すると永琳さんは何故か頬を染めて目を逸らし、もしかして俺は顔に何かついているんじゃあないか、と手で顔を探ってみるものの何もついていない。
では何が可笑しいのか、と鏡を見たくて仕方が無く、と言っても手鏡も持っていないので、羞恥に思わず赤面してしまい。
妖夢さんに目を向けると、こちらは数瞬、ぼうっとしたように俺の事を見てくれて、あぁ、何か助け舟を出してくれるのか、と思った瞬間。
何故か勢い良く片手を床に下ろし、もう片方の手で懸命にそれを抑えていて、あまりにその様子が必死だったもので、声をかけるのも気後れしてしまい。
とりあえず俺は、酒をちびちびやりながら、料理に手をつけると言う、普通に一人で飲酒しているのと変りない様相で食事を付けていたのだが。
ふと、風見さんが声を上げる。

「あれ、これ、もしかして権兵衛が作ったのかしら?」

 と言う風見さんの箸の先には、半分齧られた玉子焼きが収まっている。

「あ、はい、風見さん。さっき霊夢さんと一緒に料理を作っていた時に、俺も幾つか作らせてもらいましたので」
「えぇ、すぐに権兵衛の料理の味だって分かったわ。私は、何度も作ってもらったものね」

 と、少し身を乗り出して、俺に見えるように微笑む風見さん。
風見さんの元で料理を作っていたのはたった三日ほどであったし、しかも料理を作っていたと言っても最初は然程手の込んだ料理を作っていなかったと言うのに、その味を今の今まで覚えていてくれるとは。
嬉しくて嬉しくて、頭がぽーっとしてしまい、体が浮き上がっているかのような、ふわふわした気持ちになる。
情けない話だが、こんな些細な思いを貰うだけでも、感動して俺は泣きそうになってしまっていた。

 そんな俺を他所に、何故か、他の全員を舐めるように視線を動かす風見さん。
ふと気づくと、風見さんと俺とで挟む形になる、幽々子さんと妖夢さんの主従が、風見さんに頭ごと視線を向けたまま、固まっていた。
どうしたのだろう、と辺りを見回すと、そればかりか他にも霊夢さんと紫さんを除く全員が風見さんへ視線をやっている。
いや、これを、視線をやっている、と称すべきなのだろうか。
顔を合わせられる角度の人は全員目を血走らせており、興奮しているのか、僅かに肩が上がったり下がったりとしている。
まるで爆発寸前の風船を見るような緊張感に、俺の目に浮かぼうとしていた感涙は奥へと引っ込んでしまった。
あまりの威圧に腰が引けて、背がそのまま後ろへ倒れそうになるのに、慌てて両手を後ろにつき、抑える。
一体どうしたものか、と、今度は怯えで涙がせり上がってきそうなのを抑え、辺りを見回す次第になって、レミリアさんが口を開く。

「あら、でも……クスッ。
貴方だけ、“風見さん”なのね」

 その顔には隠さないままの侮蔑がありありと刻まれていた。
確かに、俺はこの場で風見さんだけを苗字で呼んでいる。
しかしそれがどうして侮蔑に繋がるのか、と言うと、果たして分からないままである。
疑問詞を頭に浮かべつつ、レミリアさんの視線を辿って風見さんに視線をやると、思わず俺は体を凍りつかせてしまった。
凄まじい形相であった。
いや、見目は確かに先ほどと同じ笑みの形を作っているのだが、その奥に隠された寒気が、凄まじかった。
なにより俺を震わせたのは、その笑顔が、あの日、風見さんが俺に暴力を振るったあの日の笑顔にそっくりだったからである。
平坦な、感情と言う物を置き忘れてきたような、凍てついた笑み。
俺は飛び退きたいような衝動に襲われる。
と言うのも、ここで再び彼女が俺を襲ってしまっては、例え周りの人々に止められたとしても、再び彼女の心に大きな傷を残す事に間違いないだろうからである。
しかし思いとは裏腹に体は寸分も動かず、代わりとばかりに風見さんの声が聞こえてきた。

「ねぇ、ごんべえ」
「は、はいっ」

 平坦な声。
ぐぐっと、俺へと頭ごと顔を動かす風見さん。
自然その視線に射ぬかれる事になるのだが、その視線の鋭さと言えば、今度は体ばかりか心臓まで動きを止めてしまいそうなぐらいであった。
思わず生唾を飲み込む俺に、風見さんが言葉を投げかける。

「何で、わたしだけ、苗字で呼ぶの?」
「その、俺は許しが無い限り、人の事を苗字で呼ぶようにしています。
それで、たまたま今居る皆さんは、自分から名で呼ぶよう許してくださったので……」

 なんとか俺は、つっかえる事なく言葉を返せた。
内容も真実であり、嘘は欠片も入り交じっておらず、しかも恐らくは風見さんも納得のゆく内容だったように思う。
それでも視線のあまりの鋭さに、思わず俺は激しく目が乾いてゆくのを感じ、幾度も目を瞬いた。

「……そう」

 と。
風見さんが言うと同時、ふわり、と空気が弛緩したような気がする。
全身を覆っていた威圧が消えるのに、思わず俺は内心嘆息する。
安堵の余り、少しでも気を抜けば、どちらか隣の幽々子さんか輝夜先生かに撓垂れ掛かりそうになるのを、どうにか抑えた。
内心いっそそうしてしまいたい自分が居たのだが、甚だしく迷惑であり、更に言えば一瞬霊夢さんから鋭い視線が来たから抑え切れた。
失礼を働かずに済んだ事にもう一つ安堵する頃には、風見さんの次の言葉が耳に入る。

「じゃあ、権兵衛。
これからは私のことを、幽香って呼んでちょうだい」
「はい、幽香さん」

 そう言うと、ちょっとだけ残念そうにしながらも、納得がいったようにする幽香さん。
ふと周りを見渡すと、何故か多くの人が、レミリアさんを睨んでいるように見え、レミリアさんはバツが悪いような顔をしているように思える。
はて、どうしたものか、と思いつつも、霊夢さんの料理に舌鼓を打ちつつ、酒を口に含む俺。
それからもまた宴会は沈黙に包まれてしまったが、気のせいか、全員、霊夢さんの料理よりも俺の料理の方に手を出す事が多くなったように思える。
流石に経験の差は大きく、俺よりも霊夢さんの料理の方がずっと美味いと思うのだが、皆どうしたのだろう、と思いつつ、俺は沈黙や気まずい両隣の二人をどうやり過ごそうか、と考える事に没頭するのであった。



 ***



 半刻ほども経っただろうか。
その間に会話は幽々子さんと輝夜さんがお互いを無視して俺にかける言葉と、霊夢さんと紫さんがあれを取ってこれを取ってと言う言葉と、後は先の幽香さんとレミリアさんの顛末ぐらいしか無かった。
静謐でこそあるものの、そこには神聖さや神々しさを感じる事は全くなく、まるで見えない圧力がそこかしこを行き交っているよう感じるぐらいである。
そこには神聖さと言うよりも何か邪念のようなドロドロとした物だけが感じられ、重苦しく、窒息しそうな空気が蔓延するばかり。
どうにか打破したいとは思うのだが、何も思いつかないままに時間が過ぎてゆく、そんな頃合いだった。
急に、妖夢さんが口を開いたのである。

「あの、権兵衛さんっ!」
「は、はい」

 余りに急だったので、思わず生返事をしてしまい、それから箸を置いて俺は妖夢さんへと体を向ける。
すると全員の視線が妖夢さんに注がれた、ように思う。
今度は霊夢さんや紫さんも、興味津々といった具合で、である。
他方、他の人々は何を思って妖夢さんを見ているのか全く分からないが、その多くはまるで物理的な圧力があるかのように強い威圧で、妖夢さんを見据えていた。
思わず、と言わんばかりに、妖夢さんは俯いてしまう。
これでは妖夢さんも言い出しにくいのではないか、と、俺から続けて口を開いた。

「何だろう。さっきから余り食事にも口をつけず、俯いている事も多かったので、何か言いたい事があるとは思っていたけれど」

 と言うと、何故か喜色を浮かべて顔を上げる妖夢さん。
今の俺の言葉の何処に嬉しがる要素があったものか、内心首を傾げつつも、俺は妖夢さんの次の言葉を待つ。

「その、今更謝って済む話では無いと思いますが……。
権兵衛さん、快楽の誘惑に負け、貴方を斬ってしまって、本当に申し訳ありませんでしたっ」

 と、その場で俺に向け、頭を下げる妖夢さん。
と言っても、相変わらず俺は頭を下げられるのに慣れておらず、くすぐったいような、奇妙な居心地の悪さに、口を開く。

「いいんだよ。
勿論俺だって、斬られて困るのは確かだけれど。
でも、俺は信じている。
君は二度も同じ過ちを犯す子では無いと。
俺を斬らぬよう、心を抑える事ができる子なのだと」
「……いいえ、違うのです」

 と、妖夢さんはうつむいたまま言う。
どういう事か、と俺が疑問に思うよりも早く、影になった妖夢さんの瞳の辺りから、ぽろり、と光る物がこぼれ落ちた。

「私は、今にも快楽に負け、貴方を斬ってしまいそうで、仕方が無いのです」

 と言って、妖夢さんは左手と、それを抑える右手とを上げてみせた。
ぷるぷると震えるそれは、成程、今にも脇にある刀に向かってゆきそうで。

「本当に私は、貴方の事を斬りたくないのに。
貴方の事を大切に思っているのに、恩を受けているのに、なのに、なのに。
この手が止まらないのです。
こうやってもう片方の手で抑えでもしなければ、止まらないのです。
その抑えている右手も、ふと気を抜けば、霊しか斬れない剣であっても構わない、と言わんばかりに、今にも白楼剣を抜き去ってしまいそうで。
いっそ、今ここで、私を貴方に斬ってもらいたいぐらいなのです。
だってそうすれば、少なくとも私が貴方を斬る事だけはなくなるのですから」

 とまで涙ながらに言ってのける妖夢さんに、俺は衝撃を受けていた。
何だかんだ言って、俺は妖夢さんが二度も誘惑に負ける事があるとは思っていなかったのだ。
大丈夫、あの子は強いから、何とかなる、と、楽観して。
つまり、俺は妖夢さんの辛さを、理解できていなかったのである。
何と、愚かな事か。
絶望に包まれ、自虐に心を寄せそうになる自分を、俺は辛うじて叱咤する事が出来た。
だが、だからどうした。
今困っているのは、俺ではなく妖夢さんなのだ、それを目前にして思うべきは、彼女をどうやって救うか以外の何物でも無いではないか、と。
大きく肩を揺らし、空気を吸い込む。
乾いた喉に溜まった唾を飲み込み、す、と妖夢さんの瞳を真っ直ぐに見る。

「どうか、そんな事は言わないでくれ。
卑怯に聞こえるかもしれないけれど、いや、実際卑怯なんだな、俺は、自分の命が失われるよりも、君の命を失う方が辛いんだ。
勿論普通だったら、君が救われる為に手を汚す事を厭わないべきなのかもしれないけれど、俺はどうも利己的で、そんな事が出来そうにないんだ。
すまない。
ごめんなさい。
――だから。
だから、一緒に考えよう。
妖夢さんが俺を斬らずに済む、その方法を。
もし二人で考えつかなくとも、幸いにしてここには沢山の力強い人達が居るんだ、一緒に考えてもらおう。
だからお願いだ、どうか、自分を斬ってだなんて、そんな事は言わないでくれないか」

 そう俺が言い終えるのと、妖夢さんの目から流れ落ちる涙がどっと増えるのとは、殆ど同時だった。
うっうっ、と、妖夢さんが嗚咽を漏らす音が、沈黙に満ちた部屋の中を支配する。
その様子から見るに、どうやら彼女の瞳から流れ落ちるのが感涙であるように思え、内心僅かに俺は安堵した。
彼女が俺の言葉を受け入れてくれたのだと、彼女が僅かでも救われてくれたのだと思うと、すっと心が軽くなる。
と言っても、まだ話が解決した訳ではなく、むしろこれから考え出す所なので、俺は身を引き締める思いで背筋を正した。
何せ言いだしっぺは俺なのである、まず俺が何かを考えて、考えて、考えて、それから他者に頼るようでなければ、無責任と言う物であろう。

 その為に俺は、俯いて考える。
妖夢さんは、俺を斬る事に快楽を感じている。
そしてその快楽の誘惑は、堪えられるか否かの境界線上にあるほどに大きい。
と思ってから、はて、と俺は思う。
白玉楼にて俺を斬る時には、妖夢さんは我慢が効かず、俺を斬ってしまった。
ここで再開した時には、己の手で己の手を押さえてまでであるが、俺を斬らずに済んでいた。
その差は、果たして何なのだろうか。
勿論、一度過ちを犯してしまった故に学んだのだ、と言うのが最も容易い答えだろう。
しかし妖夢さんはどちらの場合にも、既に自分が快楽から俺を斬ろうとしている事を知っており、しかも、過ちと言うのもその前に既に一度犯しているのだ。
であれば。
その差は、もしかして。

 思いついた事があって、俺は早速皆に協力を求めようと、下にやっていた視線を皆の顔の方に戻す。
すると、全員が全員、俺の顔を見つめていたのだから、思わず驚いて目を見開いてしまった。
助けを乞うように俺を見つめる妖夢さんや、興味深そうな霊夢さん、紫さんは兎も角、その他の面々は全て顔をぴくりとも動かさず、じいっと俺を見ているのだ。
妖夢さんの事情をある程度知っていたであろう、幽々子さんも含めて、だ。
一体どうしたのだろう、と困惑気に皆を見回す俺だが、視線は一切俺から逸らされず、それどころか、瞬きしているのかどうかすら怪しげに思えてくる。
ほとほと困ってしまって、全員に順繰りに視線をやっていくうちに霊夢さんと視線がぶつかり合い、すると彼女は小さく首肯をしてくれたので、俺は口に出して皆に協力を頼む事にした。

「その、皆さん、俺と妖夢さんは、今話していたような問題を抱えているのですけれど。
もしよろしければ、その問題の解決に一つ手を貸しては貰えないでしょうか。
勿論、何から何まで思いつかず、全て知恵をお借りしたいと、そう言う訳では無く、多少の思いつきならば胸の内にはあります。
せめてそれに手を貸すだけでも、しては貰えないでしょうか。
お願いしますっ」

 言って、頭を下げる。
返事は意外なほど早く、隣から聞こえてきた。

「いいわよ」

 と言う声は輝夜先生の物で、まず聞こえてくるとすれば幽々子さんの声であろうと思っていた俺は、思わず下げていた頭を上げ、呆然と輝夜先生の顔を見上げる。
まるで天上の星々のように、輝かしい尊顔であった。
余りにも容易く俺に手を貸してくれる彼女の心の広さに、俺は思わず感動して、ほろりと涙さえ流してしまった。

「輝夜、先生……」

 自分でも声がふるふると震えている事がよく分かる。
感謝の余り、言葉も出なかった。
そんな愚かで小物な俺に苦言を申すでもなく、あくまで優しい口調のまま、輝夜先生は言う。

「まったく、忘れちゃあいないでしょうけど、貴方は私の弟子よ? 先生が弟子のやる事に力を貸してやらないでどうするってのよ」
「そうですね、姫」

 と、まるで当たり前のことと言わんばかりの輝夜先生。
その後ろで当然の如く同意する永琳さんも、その叡智は俺の及ぶべき所ではなく、千人力と言った所であり、凄まじく心強い。
と、そんな風に感動している俺に、続けざまに、何故かまるで焦っているかのような調子で、幾つもの言葉。

「――当然、私だって力を貸すわ、身内の問題でもあるもの」
「私もよ、権兵衛」
「わ、私だって、権兵衛の力になるわっ」
「お嬢様がこう申されていますし、私も個人的に力になりたいですわ」
「私はいつだって権兵衛、お前の力になるぞ」
「私も右に同じく」
「私はまぁ、面倒くさいけど、まぁ助言ぐらいなら」
「私も、面白そうですし手を貸して差し上げますわ」

 全員が全員、力を貸してくれると言う答え。
感動の余り、涙がぽつぽつと膝の上に落ちてゆくのを感じる。

「ありがとう、ございます……っ!」

 俺は、碌でも無い男である。
顔も頭も良くなければ、腕っ節も弱く、やっと手に入れた霊力でさえそう上手く扱える訳ではない。
かと言って心に見るべき点があるのかと言うと、全くそんな事はなく、俺は本当に人と付き合うのが苦手で、人を喜ばせる才能に欠けている。
そんな俺なのだが、一つだけ恵まれている点があった。
――俺は、こんなにも素晴らしい友情に恵まれているのだ。
その点ただ一つで、他の全てを吹き飛ばしてしまうぐらいに、心が晴れ渡ってゆくのを感じる。
妖夢さんには悪い上、不謹慎ではあるが、俺は此処で皆の力を借りる事態になって良かったとすら思える。
それぐらいに、俺はこの友情に感動していた。

 暫く、俺は感動の余りに声も出せず、ただただ泣いているばかりだった。
そんな俺を、皆は優しく見守っていてくれて、少し恥ずかしい部分もあったが、兎に角俺はそのうちに復調し、では早速説明せねば、と口を開く事にする。

「え、えっと、ごほん。
その、妖夢さんが俺を斬る事を我慢できるようになる、その方法なのですが。
俺が思い当たったのは一つ、単純に、ガス抜きのような事をできれば良いのではないでしょうか。
なぜなら妖夢さんは、俺を最初に斬ってしまった後三日ほどは我慢できていた訳ですし、二度目に斬ってしまった後顔を合わせたのは今日が最初ですが、それでも一応の所我慢は出来ています。
つまりは斬った直後は妖夢さんは、我慢が効くようになる訳です。
と言っても、単に斬られると言うのは、困ります。
俺も痛いし、まさか裸になる訳にもいかないので着物も汚してしまいますし、畳だって張り替えねばならなくなってしまう。
そこで思いついたのですが。
浅くだけ斬ってみる、と言うのはどうでしょう。
着物を汚さないようにはだけて、出てきた血はすぐに拭うようにして。
勿論これだけではガス抜きにならず、効果が無いと言った事態も考えられますが、一応は試してみる価値はあるのではないか、と。
幸い懸念であるそのまま斬られてしまうのでは、と言う事態は、この場に居る皆さんが協力してくれれば、なんとかなるでしょうし」

 と、そこまで言い終えて、俺は辺りの反応を見る。
それが何とも妙な物を見るような反応でいて、同時にあぁやっぱりな、と言う納得の気配も見えて、よく分からない。
どうしたものかと被験者である妖夢さんへと視線をやると、気のせいか、目を輝かせているように見えた。
何故に。
と思ったのが聞こえたのか、紅潮した顔で口を開く妖夢さん。

「その……、着物を、はだけるのですか」
「……はぁ、まぁ、切れると困りますし」

 って言うか、そこが聞くところなのだろうか。
思わず助けを求めて辺りに視線をやると、何故か多くの人が妖夢さんの言葉に衝撃を受けているようだった。
いや、本当、それがどうしたのだろうか。
本当に困って、手当たり次第に視線をやるが、皆目を逸らしてしまう。
最後にたどり着いた霊夢さんだけが、ぴくりと体を動かしはしたものの、静かに頷いてくれた。
霊夢さんの勘が正しいと言っているのならば、良い結果が出るに違いない。
安堵した俺は、再度全員に、もし妖夢さんが俺に斬りかかる事があれば止めるよう願ってから、妖夢さんと共に卓から少し離れた場所に座布団を敷き座った。
それから帯を緩め、さっと着物を半裸になるよう脱ぐ。
すると、本当にすっかり忘れていたのだが、左胸の治らない火傷が顕になり、それと同時にぴん、と部屋中に緊張の糸が張り巡らされた。

「………………」
「………………」
「………………」

 一気に、重い空気が部屋中を支配する。
所々から歯軋りと思わしき音が聞こえ、視線をやると幾人から唇を切って血を滲ませており、目前の妖夢さんはカタカタと両手で持った剥き出しの楼観剣を震わせていた。
事情を知っているレミリアさんに咲夜さん、永琳さん、霊夢さんはじっと妹紅さんの方に視線をやり、動かさない。
彼女たちの顔は真剣な物で、唯一紫さんだけが、くすくすと、今にも転がるような声を漏らしそうな顔で妹紅さんを見ていた。
しかしえぇと、一体なんで、この火傷一つでこんなに空気が重くなるのだろうか。
救いを求めて卓の方に視線をやると、たまたま慧音さんと目が合い、するとびくっ、と震えた慧音さんが、小さく口を開く。

「も……こう……?」

 信じられない、と言った口調だった。
それに従い、幽々子さんや妖夢さん、幽香さん、輝夜先生の視線が一斉に妹紅さんに集まり、最後にゆっくりと慧音さんが妹紅さんに顔ごと視線を向け、これで全員の視線を妹紅さんが独占する形になった。
ふるふると、震えながら、慧音さんは続きを言葉にする。

「嘘……だよ、な……?」

 ゆっくりと、妹紅さんは首を横に振った。
それに崩れ落ちそうになる慧音さんに慌てて、俺は口を開く。

「いや、その、確かにこの火傷は妹紅さんによるものですけれど、その、これは事故って言うかなんて言うか、そんな物で出来た物でして」
「………………」
「いえまぁ、妹紅さんの意思による物であったもの確かなんですけれど、情緒不安定だったと言うか、そんな所に俺が余計な言葉を口にしたのが原因でして、決して妹紅さんが悪い訳ではなく」
「…………………」
「なくて、ですね、その……」

 精一杯妹紅さんの弁護を口にするのだが、誰一人口を聞かない。
それどころか、誰一人妹紅さんから視線を動かさない。
当の妹紅さんは俯いたままじっとしており、かと言って今にも泣き出しそうだとかそんな事はなく、不思議と、自信のような物に溢れた姿であった。
本日一体何度目の、どうしたら良いのか分からない状況か。
あわあわとあたりを見回すものの、今度こそ全員が全員視線も口も動かさず、じいっと止まったままである。
どうしよう、どうしよう、と思いつつも何もできないまま暫く時間が経った所で、不意に霊夢さんが口を開いた。

「で。妖夢のガス抜きは、いいのかしら?」

 正に鶴の一声であった。
その一言で、まるで時間が動き出したかのように、一斉に全員が空気を弛緩させ、視線を妹紅さんから外しこちらにやる。
一番驚いていた慧音さんですら、妹紅さんと俺とで視線を行き来させてから、とりあえず俺の方へ視線をやるよう決めたようで、その視線をこちらに固定した。
何がなんだか分からなくて泣きそうになっていた俺は、内心霊夢さんに感謝の念を送りながらも、妖夢さんに正対する。
何度か深呼吸をした後、妖夢さんは胸を張って言った。

「で、では、いきます」

 言って、妖夢さんはゆっくりと刀身を動かし始めた。
震えていた切っ先はぴたりと震えを止め、ゆっくりと俺の右肩辺りに向かってゆく。
やがて、俺の皮膚に妖夢さんの楼観剣の刃が、たどり着いた。
ちくりと、痛いと言うより痒いぐらいの、僅かな痛み。
妖夢さんの刀と触れ合う部分から、じくっと血が滲み、やがて血が帯を作り、肩から流れてゆき、その下にある俺が当てた布に吸い込まれてゆく。
それから、もう一度妖夢さんが深呼吸。
まるで大岩を動かすような気合で刀を引っ張るようにすると、俺の肌から妖夢さんの刀が離れてゆき、完全に離れた所で、お互いふう、と安堵の溜息をつく。
これで効果があったのかどうかは兎も角、少なくとも俺を斬らない事は出来るようだった。
と思うものの、矢継ぎ早に、妖夢さんの刀は角度を変えて、今度は左肩の方へと向かう。
あれっ、と思って妖夢さんに目をやると、血走った目ではぁはぁと興奮した呼吸を漏らしているのが分かった。
えーと。
思わず卓の方に視線をやるが、驚くべきことに、何故か殆ど全員が息を荒くしており、じっとこちらを見つめるばかりで、止めようと言う気概は何処にも見当たらなかった。
救いを求めて霊夢さんに視線をやるものの、興味深そうに視線をやるだけで、今度は彼女は何も言ってくれない。
ついには紫さんに視線をやるが、矢張り今にもクスクスと声が漏れてきそうな笑みでこちらを見つめるばかりで、言葉は無かった。
どうしろと、と思うもののどうしようもなく、俺はじっと妖夢さんが俺の皮膚を浅く斬ってゆくのを待つばかりしかない。
荒い息がいくつも聞こえる密室で、年下に見える少女の持つ刀に、半裸で上半身を浅く斬られながら、少女達の熱視線に晒されつつ、ただただ正座して待つばかりの男。
一体なんだろう、この状況は、と俺は思った。
思ったがどうにもならず、この状況は暫く続く事となり、俺の浅い刀傷が十を数える頃まで終わる事は無かった。



 ***



 月も高く昇り輝き、夜も更けてきた頃合いになって、ようやく妖夢は権兵衛を切り続ける事をやめた。
いい加減真っ赤に染まった布を処分しようとする権兵衛に、その布を巡って更に一悶着を終えた頃。
宴会も半ば過ぎの様相となる頃になって、ようやく輝夜は持ってきた包みを卓の上に上げた。

「ねぇ、権兵衛、ちょっとお料理を持ってきたんだけれど」
「あ、はい」

 と言う輝夜に、丁度誰の相手をするでもなく手の空いていた権兵衛は、すぐさま正対する。
包みは、背の低い正方形の形をした物で、言いつつも輝夜が解いてゆくと、その姿をすぐさまに見せる。
一段だけの、黒い漆塗りの弁当箱である。

「もっと作って持ってこようとも思ったんだけど、他の種類は鍋ぐらいしか思いつかなくて、しかも急な話で鍋かどうかも知らないままだったから、これだけにしてきたのよね」

 と言いつつ輝夜が両手でその蓋を持つ次第になると、沈黙の宴会の中である、そろそろ全員の視線もそこに集まり、注目の的となったままそれは姿を表した。
プルプルとした濃赤色で、角が立っており新鮮そうで、近くで見れば模様もわかる肉。

「と言う事で、レバ刺し、持ってきちゃった」

 瞬間、権兵衛を除く全員の中で、戦慄が走った。
矢張りか、と言う妹紅に、そも宴会に来るまで自分以外に権兵衛を好きな存在が居るなど想像もしていなかった慧音は驚きすぎてついていけなくなっていて。
それが自分たちにとって致命的であると知る幽々子ら主従は冷や汗を浮かべ、想像の範囲外の出来事にレミリアは固まっている。
霊夢ですらも、それを感覚的にしか捉えていなかったのか、具体化された輝夜の欲望を見て、思わず顔を引きつらせていた。
唯一表情を変えないままの紫でさえも、うっすらと汗を滲ませている。
そのレバー……肝臓は、当然のごとく輝夜の物であった。
つまり蓬莱人の生き肝であり、食せば同じ蓬莱人となる食物である。
当然、亡霊にも他の何にもなれなくなる、異形の最終型の一つである。

「わぁ、おいしそうですね、内臓系って生で食べるの初めてなんですよ」

 と呑気に言う権兵衛に、全員何かしら言おうとするが、それよりも一瞬早く、ぱっ、と権兵衛の目前に、紫色の蝶が舞った。
思わず目を見開く権兵衛だったが、それがふらふらと降りてゆくのを見て思わず人差し指を差し出すと、その先に紫色の蝶が止まる。
全員の視線が、幽々子の元に集まった。
その紫色の蝶は、幽々子の能力の象徴であるが故にである。
その蝶は幽々子の能力、死を操る程度の能力により、一瞬で権兵衛を死に誘える程の力を秘めており、当然、幽々子がその気になれば、権兵衛が蓬莱人の生き肝を食するよりも早く、権兵衛を殺し亡霊にする事ができる。
と言っても、幽々子は安々とそれを行う訳には行かない。
何故ならそうしても結局永琳には反魂の術が使えるだろうし、例え力尽くでの戦いになったとすれば、幽々子が蓬莱人に勝てないと言うのは決まっているからである。
元々の力の強さでもそうだし、その上相性でいっても最悪であるからだ。

 であらば結局脅しでしか無いのに、権兵衛に生き肝を勧めようとしていた輝夜は、動きを止めていた。
何故かと言えば、それでも結局一時的には権兵衛を冥界に取られてしまうし、その間に権兵衛の貞操でも奪われれば事であるからである。
他の何を取り戻せても、権兵衛の初めてだけは取り戻せない。
初心で、ともすれば口づけすらも経験していないだろうこの男の貞操は、彼女らにとって何に変えても欲しい宝物のような物であった。
が、今日この宴会で顔を合わせた事で、全員が権兵衛を好きなのが自分だけではないと知る事になり、互いを監視し邪魔する為に、それを手に入れるのは恐ろしく難しい事になるだろう。
この日のお互いの行動からそれは類推できていたが、輝夜と幽々子の決裂によって、それは決定的となる。
これまでに権兵衛を自分の物とする機会のあった者達は、自分たちが宝石のように貴重な時間を逃してしまった事に気づき、内心歯噛みする。
同時、幾人かはこの硬直状態こそ霊夢が宴会を開いて作りたかった物で、恐らくそれによって幻想郷における戦争を回避したのだ、と言う事に気づいた。
胃の痛そうな顔の霊夢は、鬱陶しそうに集まる視線に肩を竦める。

「勘だったけどね」

 と、そう霊夢が呟いたのを機に、輝夜は唇を噛み締めつつ、開けた弁当箱の蓋を閉めた。
あれ、と権兵衛が呟くのに、一言二言謝ってみせると、再び弁当箱を包み、床に置く事になる。
ちょっと傷んじゃっているみたいだったから、と言うのに今一納得していないのか、首を傾げる権兵衛の指先から、紫色の蝶が飛び立った。
あっ、と権兵衛が呟くが早いか、権兵衛の視界から紫色の蝶が消え去る。

「どっかにいっちゃったみたいね」

 と、白々しく言う幽々子に、ちょっと残念そうに頷く権兵衛。
そんな権兵衛を他所に、宴会の面々の反応は様々であった。
僅かに表情を崩しながら内心舌打ちする幽々子に、そも、主が権兵衛を殺そうとした事にショックを受けている妖夢。
隠しきれない憎悪が滲み唇から血を流す輝夜に、能面のような顔となりじっと権兵衛を見据える永琳。
安堵すればいいのかどうかよく分からず複雑な表情を作る妹紅。
自分以外に権兵衛を好きな存在が居ると想像すらしていなかった上、この中で最も権兵衛を先取りして自分の物に出来る機会があったのに何も出来なかった事に、愕然とする慧音。
集まってくる顔を見て薄々気づいていた物の、やっと仲直りできた上に名前を呼んでもらえるようになった権兵衛が、遠くへ行ってしまったように感じ、泣きそうになる幽香。
レミリアは矢張り権兵衛は自分だけの特別ではなかったのだ、と軽く絶望に浸っており、咲夜はそんな主人の姿に軽く苛立ちを憶える自分を恥じていた。

 とまぁ、そんな折である。
ぎゅ、と空間が圧縮する気配。
全員が僅かに身を固くすると同時、ぱっ、とその場に、角の生えた赤ら顔の少女が現れた。
空中に現れた少女は、上手くバランスを取ってその場に降り立つと同時、びっ、と天を指差し、叫ぶ。

「宴会なのに私を呼ばないたぁ、どういう了見だってーの! って事で、じゃーん、萃香ちゃんとうじょー……う……」
「………………」
「………………」
「………………」
「と、登場~……」

 何とも空気の読めていない、鬼の登場であった。



 ***



「なぁなぁ、あんた、あんたもだんまりなのかい? これ、宴会、なんだよなぁ?」

 と萃香さんが俺に話しかけてきたのは、全員に順繰りに話しかけていって、全員に無言で無視されて終わると言う結果に終わっていたのを見ていれば、当然の帰結と言えよう。
そう、萃香さんは霊夢さんやあのお喋りな紫さんにすら相手にされなかった。
霊夢さんは今日はもう疲れたから、と、紫さんは今忙しい所だから、と言う事だが、俺としては一体何に霊夢さんが疲れたのか、一体紫さんが何に忙しいのか、疑問に尽きない事である。
兎も角。
萃香さんがいずれは俺に話しかけてくるだろうと予想していた俺は、何時もの陰気な顔で不快にさせる事の無いよう、努めて笑顔を作って口を開いた。

「いえ、俺は喋りますとも。俺もこれが初めての宴会なので、その、想像と違っていて戸惑っているのは確かなのですが」

 と言うと、この場の人妖に話しかけては暗くなっていた萃香さんの顔が明るい笑顔になる。
その天真爛漫な笑顔にこちらまで笑顔になってきて、俺は宴会が始まって以来、久しく安堵できたような気持ちになり、内心安堵の溜息をついた。
ローティーンと見間違う程の小さな容姿の彼女が作る笑顔は、同じ幼い容姿のレミリアさんに比しても明るく元気がある感じで、こちらも精神的に明るくなれるような、素晴らしい笑顔であった。

「あぁ、やっとまともに喋れる相手が出てきたよ。皆黙ってばっかでさぁ」
「えぇと、やっぱり宴会って言うと、普通みんなお喋りで騒がしい感じなのでしょうか? 今はその、何と言うか……」
「静か、だよねぇ。何時もはそんな事無いんだけど」
「やっぱりそうなんですか……面子も今と変わらなかったり?」
「まぁ、もうちょっと増えたり減ったりする事も多いけれど」

 と言われて、俺は思わず全員の顔を見渡す。
つまりは当然の事なのだが、俺を除くこの場の全員に、この静かな宴会を作る原因は無かったと言う事である。
とすれば、勿論この静かな宴会の原因を言う奴は俺になる訳で。
それだけでも、折角集まって楽しくやろうと言う所に水をさす嫌な奴であるのだが、更に罪深いのは、この宴会が俺の為に開かれた物である、と言う事だ。
自らの為に、自分以外が楽しむ事が不可能な宴会を開く。
俺はなんと嫌らしい真似をしているのだろうか。
勿論宴会を開いた経緯は、霊夢さんの勘によりより良い結果が生み出るために、と言う理由からなのだが、それは言い訳にはならないだろう。
少なくとも、この宴会に来た皆には俺が悪く写るに違いない。
より多くの人が信じるならば、歴史は、そしてそこに刻まれる真実は、変化してしまう。
勿論この場で俺が釈明する事も出来るが、俺にはその行為があまりに自分可愛さに充ち満ちた行いであるように思え、恥じてそれを行う事は無かった。
ただただ、俯いて羞恥に顔を赤くするばかりである。
と、そんな様子の俺に、経緯を知らない萃香さんは、どうしたものか、と首を捻りつつ、続けて口を開く。

「そうだ、お前宴会が初めてだって言うんだろう? ならさ、せめてこんな陰気臭い宴会から抜けだして、サシで飲まないかい?
私一人分って言っても、私ぁたった一人でも小さな百鬼夜行さ。
あんたに宴会の騒がしさを、本来のそれとは言わなくとも、ちょびっとは教えてあげられると思うんだけど。
そうしたら宴会好きが増えて、宴会マニアの私としても、万々歳さ。
なぁ、どうだろう?」
「え、っと……」

 と言っても、俺は宴会の勝手と言う物がまるで分からず、勝手に抜けだしてもいいのだろうか、と、思わず幹事の霊夢さんに視線をやってしまう。
何故ならこの宴会は霊夢さんの勘により俺に会った人が集められた宴会であり、つまりはある意味俺が主賓と言っても違いないのだ。
だのに主賓が抜け出すなどとは、俺の想像する宴会ではあまり褒められた行為とは思えない。
しかし一方で、この静かで沈黙した宴会の原因が俺だとすれば、その俺を取り除けば皆楽しく宴会を楽しめるのだとすれば、俺がこの場から消えるのは正しい行いなのではないか、とも思える。
どうすればいいのか分からず、またもや俺は霊夢さんに視線をやり、すると霊夢さんは静かに口を開いた。

「そうね。こっちでも、皆ちょっとだけ相談したい事が出来たでしょうから、権兵衛さんが抜けるのもちょうどいいかもね」

 と、そういう霊夢さんは、しかし関心できる事に一切顔に俺が居なくなって嬉しい、と言った具合の気持ちを載せていなかった。
むしろこれからが本番だ、とでも言わんばかりの静かな意気込みを感じる。
まぁそれはどうあれ、この宴会中俺は何度霊夢さんを頼った事か、と霊夢さんに深く感謝を抱いていると、ふと、全員の視線が霊夢さんに集中しているのが分かった。
どうしたものだろう、と思うと、皆深刻そうな顔をしており、余程その相談したい事、と言うのは重大な事なのだろうと思える。
一体何なのだろうか。
タイミング的に思うと俺の存在が関係しているように思えるけれど、俺と言う存在がそんな重大事として扱われると言うのは到底想像できなくって、俺はその想像を打ち切る事にする。
では、と萃香さんについていこうと半ば腰を上げようとした瞬間、不意に幽々子さんが口を開いた。

「でも、大丈夫なのかしら?」

 目的語の無い、あやふやな言葉だと言うのに、意識を全員共有できているらしく、皆重々しく頷く。
俺と萃香さんは何の事だか分からない、と首を傾げるのだが、すぐに皆の視線が萃香さんにじっと集まり、無言の視線に気圧されたのか、思わず、と言った具合で萃香さんが半歩下がった。
しかし、霊夢さんが反して言う。

「萃香の場合、もしそうなるなら、遅かれ早かれ、よ」

 またしてもよく分からない言葉であったが、室内は納得した空気に包まれた。
よく分からないが、また超常の勘を霊夢さんが示したのであろう事はわかる。

「とりあえず、許されたようなので、萃香さん、縁側にでも行きましょうか。満月が近くて、月も綺麗でしょうし」
「え? あぁ、うん……」

 とりあえずよく分からない事として処理した俺と違い、萃香さんはこの場のよく分からない会話が気になり、後ろ髪を引かれる思いもあったのだろう。
が、結局の所すくっと立ち上がり、俺が台所から酒瓶を一つ失敬するのを待ってから、宴会場を出る事となった。

 暫く廊下を歩き、宴会場から程々に離れ、酒蔵と厠がそこそこ近い辺りに陣取り。
満月近い月の下ろす、青みがかった光の下。
神社の境内と言う事で、事細かに掃除された真平らで何も無い地面を前に、俺と萃香さんは、互いに盃を傾けながら喋っていた。
俺の方と言えば余り幻想入りしてから生活に余裕のあった時期が無く、趣味と言える話などは無いので、自然と話す内容は俺が恩を受けてきた恩人達の話になる。
萃香さんにとっては既知の事であろうに、萃香さんは聞き上手でもあり、俺にしては随分気持よく話せた物だと思う。
聞き上手でも、と言うのは、当然話し上手でもある、と言う事だ。
成程、鬼と言うだけあって武勇伝が多いが、どれもが思わず手に汗握り、熱中して聞いてしまうような内容ばかりである。
俺が知る中で最も話し上手なのは輝夜先生だと思うが、事武勇に限るならば、萃香さんの方が上手かもしれない。
そんな訳で、気づけば軽く半刻は話し込んでいただろうか。
まるで時間泥棒にあったかのように、いつの間にか月が動いているのを見つけて驚愕している、そんな頃であった。

「なぁ、権兵衛。お前、なんて言うか、攫いたくなる奴だなぁ」
「……はぁ」

 何とも反応に困る言葉である。
生憎俺は鬼ではないので、人攫いに欲を感じた事が無い。
何とも言えずに困っている俺を見やって、くすりと笑いながら、萃香さんは言う。

「何にでも素直で、正直で、しかも人を率直に信じられるんだからなぁ。
普通お前みたいな人に合わせる類の奴はあんまり好感が湧かないもんなんだが、お前は違う。
もうちょっと明るければ完璧ってぐらいに、凄い攫いたいんだ」
「えっと、その、攫われるのは、困ります、けど」

 と言うと、もう一度くすり、と笑ってから、萃香さん。

「そういう素直な所、やっぱり欲が疼くよ。
どうだい? 一遍私と何かで勝負してみないかい? そうさね、丁度今手元にあるし、見たところ顔に似合わず結構な酒豪だ、飲み勝負でも。
もし私に勝てりゃあ、なんて言ったって、箔がつくよ。
鬼に勝負して勝ったって名誉は、あんたの言う恩をやらを返せる対等な立場になるのに、十分な物じゃあないのかい?」

 と言われ、俺は一瞬悩む。
俺がさんざん願う恩人達に恩を返せるようになるのに、確かに鬼に勝ったと言う名誉は非常に役に立つだろう。
何と言っても、恐らくは人里において俺が普通に行動できるようになる、と言うだけでも大きい。
ばかりか、他の妖怪たちにも十分に知られる事になるだろうし、以前のように妖怪に襲われ、恩を返す機会を無くす事などなくなるかもしれない。
が。
と言っても。

「いえ、矢張り遠慮させてもらいますよ。
俺はできたら恩を返したい、と言う程度の思いなのではなく、必ず恩を返したいと思っているのです、勝算も無しに鬼相手に命がけの勝負を挑む訳にはいきません。
勿論勝算があれば、吝かではない、と言う場合もあるでしょうが……。
何せ俺と言えば、飲む度にその記憶を失っていている物でして、今日初めて自分がこんなに酒を飲めると知ったばかりなのですよ。
これで挑むのは蛮勇と言う物でしょう」
「へぇ、そうなのかい? さっきから結構飲んでるように見えたんだけど……」

 と、少し残念そうに言う萃香さんに、にこりと俺は笑ってみせる。
と言うのも、霊夢さんの注意事項を思い出したのである。
酒を勧められたら際限なく飲め、鬼の誘いには乗っておけ、ただしそのままではなく。
それを思うとただ断るだけではいけなくなり、それで考えてみると、調度良い思いつきがあったのだ。

「ですが、鬼としての仕事、人攫いに関係ない勝負をしてみせると言うのならば、勿論歓迎しますよ。
勝った負けた、それだけで楽しめるような、ただの勝負ならば。
勿論、だからと言って俺に勝算がある訳でも無いのですけれど……」
「あぁ、うん、そうか……」

 と、俺が提案すると、何かに納得した様子の萃香さん。
じりっとこちらに少し寄り、体を傾け、ぽん、と俺に肩を預ける形となる。
少し高めの体温が、じわりとこちらに伝わった。

「そうだね、攫いたいってのは確かだけど、まぁ断られるのは眼に見えていたからね、言ってみたのは単なる気まぐれだよ。
でも、嬉しいなぁ、そんな言葉にでさえ、誠実に答えてくれて。
うん、勝負しよう。
何も賭けない、ただの勝った負けた、それだけで騒げるような勝負をしよう。
なにせあんたは自分の実力だって分かっていない奴なんだ、結果は分かっていても、どれぐらいまで粘るかだけでも面白そうじゃないか。
うんうん、言ってみると、もっと楽しそうに思えてきた。
よーし、勝負しようっ!」

 言って跳ね起き、ぐっと盃を高く掲げる萃香さん。
俺もそれに応え、盃を掲げる。
かつん、と高い音と同時に盃が合わせられ、跳ねる互いの酒が入り交じった。
そして互いに盃を傾け、中の酒をぐいっと飲み干す。
ぷはっ、と酒臭い息を吐き出す頃には、お互い自然と笑顔になっており、これからの酒盛りが楽しい物になるに違いない、と言う予感を示していた。



 ***



 の、だが。
だが、しかし。
現在時刻、翌朝の朝日が昇る頃合い。
どんどんとお互いペースを上げながら酒を飲みまくっていた所、気づけばそんな時間になっていて。
そして、何故か俺の膝上には、鼾をかきながら眠る、酔いつぶれた萃香さんの頭がある訳で。

「これ、どうしよう……」

 思わず遠い目になりながら、呟く。
なんと、結局俺は酔いつぶれる事なく酒を飲み続け、酒盛りに勝ってしまったのである。
これからどうなるんだろうなぁ、とか、そういう事を全く考えないようにしながら、何故か無限に中身の出てくる瓢箪から手酌をし、盃に口をつける。
まるで水のように飲めてしまう酒に、はて、俺は酒に弱かったのでは、と尽きぬ疑問詞と共に、現実逃避気味に俺は酒を飲み続けるのであった。




なんとか2月中に投稿して月2以上更新を守りたかったのですが、30分ほどアウトでした。
忙しかったり風邪引いたりしてたので、仕方ないと言えば仕方なかったのでしょうが……。
とりあえず宴会本体は無事?終了です。
権兵衛離席後の宴会でどんな話があったかは、皆様のご想像にお任せします。



[21873] 宴会3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/04/03 18:20


 チュンチュン、と、鳥の囀りの音が鳴り響き、朝日が明るく全てを照らす、朝。
空気は澄んで、深呼吸すると冷たい空気が肺の中に入り込んでくるのが分かり、体が中から洗われるかのようであった。
そんな中、一人、膝に萃香さんの頭をのっけたまま、朝から酒を飲む俺。
何とも空気をぶち壊しにする、駄目男っぽさ漂う光景であった。
と言っても、一つ言い訳をさせてもらうのであれば、俺は少々奇妙な現実に直面し、それから逃げたかったのである。
俺は今まで、俺は酒に弱いと思っていた。
何故なら俺は今まで慧音さんとサシで酒を飲んだ事しかなく、そしてその度に記憶を失っていたからである。
勿論、記憶を失ったからと言ってそれが酒に弱い事に直結するとは限らないが、それでも順調に考えれば弱いと考えても可笑しくは無いだろう。
しかし現実に今、俺は恐ろしい程の酒を飲んでいた。
しかも萃香さんの持っている、萃香さん曰く無限に酒の湧いてくる瓢箪とやらから出てくる、やたらと度数の高い酒を、である。
量は、萃香さんが酔いつぶれてからもごくごくと飲み続け、厠に行きたくなればそっと萃香さんの頭を下ろして行き、戻ってきてはまた萃香さんの頭を膝にのせ、また飲み続けると言うのを繰り返して、多分萃香さんの五割増しぐらいは飲んだだろうか。
萃香さんは、鬼である。
鬼とは須らく酒に強いと言う種族と聞いており、幻想郷の中でも一番なのだと言う。
その中でも萃香さんは最も酒に強く、いつも酒を飲んでいて、素面を見た人が居ないぐらいなのだとか。
そんな萃香さんに飲み勝った俺は、当然恐ろしい程に酒に強い、と言う事になる。

 当然の事だが、それは矛盾である。
ならば条件の差異があるのでは、と思うものの、慧音さんと飲んでいる途中に俺が悪酔いするような原因があれば、あの人の良い慧音さんである、きっと俺を正してくれただろうし、かと言って萃香さんが何か俺を酒に強くするような事をした、と言うのも考えづらい。
どうしたものか、と、疑問を解消する理由と言うのがいくら考えても正しらしいものが見つからず、ほとほと困り果てていた頃に、ふと、膝の上が僅かに軽くなった。
おや、と視線をやると、寝ぼけ眼のまま、萃香さんが起き上がろうとしていて、それがふらふらとしていて今にも頭をガツンとやりそうなので、手をかして起こしてあげる。

「ふぁ……権兵衛?」
「はい、そうですよ。おはようございます」

 と言って、きちんと体を起こしたのを確認して、手を離す。
すると萃香さん、寝起きがいい人なようで、すぐに目から眠気が去ってゆき、次第に正気の色が浮かんできた。
と、次に浮かんできたのは、何故だか、羞恥の色である。
顔を真っ赤にし、思わず、と言った様相で両腕で体を抱きしめ、俯いてしまう。
どうしたものか、と声をかけようとする俺に先んじて、萃香さんが口を開いた。

「ご、権兵衛、私って、その、い、今、素面、かな?」
「へ? えぇ、寝ている間にさっぱり酔いが抜けたんでしょう、酔ってる感じはしませんよ。
あんなに飲んだのにこんなに早く酒が抜けるなんて、やっぱり萃香さん、お酒に強いんですね」

 と答えると、ひゃん、と小さい悲鳴を上げ、萃香さんは益々体を縮こまらせ、恥ずかしがってしまうようであった。
一体何が恥ずかしいのだろうか、と疑問に思うものの、頭の中で答えが出るよりも早く、萃香さんが言う。

「ご、権兵衛。ひょ、瓢箪、瓢箪ちょうだい」
「あ、はい。このお酒の湧く瓢箪ですよね」

 と言って差し出すと、奪い取るような勢いで萃香さんは瓢箪を手に取り、きゅぽ、と蓋を取ったかと思うと、すぐにぐいっと一口二口、喉を鳴らして飲み始める。
あまりに突然な光景に呆然としている俺を捨て置き、ごくごくと萃香さんはラッパ飲みを続け、暫く経ってからようやく瓢箪を口から離し、口の端から溢れる酒を手で拭う。
するとすぐに萃香さんの顔に恥ずかしさ以外で赤みが差し、頭が僅かにゆらゆらと揺れるようになった。
昨日出会った時と同じ、ほろ酔い加減の状態である。

「あぁ、やっと人心地ついたぁ。私ぁ酔ってるのが平常運転だから、素面でいるのは落ち着かなくってね」
「素面が危険運転なんですか。外の世界と逆なんですね」
「そうそう、って……」

 と、少し呂律の甘い声で言っていた萃香さんは、急に顔を深刻そうな物に変える。
どうやら、俺が起きて今の今まで酒を飲んでいたのに気づいたようで、つまりは。

「私、飲み勝負で、負けたのかい?」
「……はい」

 ず、と重い怒気が萃香さんを中心に放たれる。
酒の所為ではなく、喉が乾いてゆく。
目がシパシパと乾き、手足の先がふるふると震える。

「あんた、昨日私に、毎回記憶を失うぐらい、酒に弱いって言ってたよね」
「はい」
「あんたさ、私に、嘘をついたの?」

 ど、と、凄まじい威圧が俺を襲う。
思わず腰が引けそうになってしまうのだが、この指摘を予想していた俺は予め耐える気概を持っており、それ故にかどうにか耐える事が出来た。
大きく息を吸い、吐き、はっきりと答える。

「いえ、嘘などついていません。俺は確かに、これまで酒を呑む度に、記憶を失っていました」
「あんたは」

 言って、一端区切ってから、萃香さんは凄まじい怒気を携えて言う。

「それを、命に賭けてと言えるかい」

 そのあまりの威圧に、思わず息を飲んでしまう俺。
しかし、ここで答えに窮してしまうのは、俺ばかりか、萃香さんの為にもならない。
彼女の種族である鬼は正直者の種族であると聞くし、なにより昨夜聞いた萃香さんの武勇伝は、どれもが正々堂々とした物ばかりで、その性格を顕にしていたからである。
であれば、彼女に俺を疑わせてしまうと言うのは、酷く彼女の誇りを損なわせてしまうように思えるのだ。
もしかしたら、この答えによって俺は、命を失うかもしれない。
恩返しを終える事ができないまま、生涯を終えてしまうかもしれない。
しかし彼女の誇りのような、尊大で素晴らしい物を損なわせてまで生きるような醜い生き方をして返す恩に、果たして何の意味があるだろうか。
そう思うと、俺は心の奥底から勇気が湧いてくるような気がして、どうにか声を震わせずに、答える事ができるのであった。

「言えます」

 すると、一瞬、萃香さんが難しい顔をしたかと思うと、次の瞬間、空気が弛緩した。
思わずほっと溜息をつく俺。
とりあえず、補足の説明も必要だろうと、続けて口を開く。

「その、俺自身ですら非常に信じがたい事なのも確かなのですが、確かに俺は今まで慧音さんと酒を飲んだ時は何時も記憶を無くしていて、それ即ち酒に弱いと言う訳ではありませんが、少なくともそれらしい状態でした。
此度萃香さんに飲み勝負で勝ったのも、断じて不正などしていません。
何せ持ってきた酒はすぐに飲み干してしまったもので、殆どは同じその瓢箪からの酒を飲んでいた物ですので」
「……待て。あんた、何時も半獣と酒を飲んでいたのかい?」
「は、はい。幻想入りする以前は記憶がなく、幻想入りしてからは慧音さんと二人でしか酒を飲んだ事はありません」

 と、突然聞いてきた萃香さんに答えると、また何かに悩むような仕草を取る萃香さん。
どうしたものか、と声をかけようとすると、またそれよりも早く萃香さんが口を開いた。

「ちょっと、確認に行ってくるよ。昨日の宴会のおかしさも含めてね」
「へ? 確認?」
「まぁ、すぐに分かる事さ」

 と言って萃香さんはぴょん、と縁側から飛び降り、駆けてゆく。
それを見てから、あ、と気づき、その気づきの遅さに、なんで俺はこんなにも俺はとろいんだろうか、と自己嫌悪しつつ言った。

「そういえば、もう秋も終わり頃なのに縁側で寝てしまいましたが、体を冷やしてはいませんか。
鬼の萃香さんなら滅多に風邪は引かないでしょうが、その分引いてしまえば酷くなるとも聞きます。
調子が悪いと思ったら、早めに医者にかかってくださいね。
もし永遠亭に知古がなければ、俺が仲介できますよ」

 と忠告をすると、どうやら偶然足を踏み外したようで、ずっこけそうになる萃香さん。
どうしたんだろう、と首を傾げる俺に、苦笑いしながら萃香さんが言う。

「全く、あんたったら、心配するのはそれこそ鬼の私より先に、自分でしょ、あんただって夜中ずっと外に居たじゃあないか。
本当にあんたは素直って言うか、抜けているって言うか、もうこんなの見たらあんたの事を疑えやしないよ、もう」

 なんとも言う通りの事であり、恥じて恥じて顔を真っ赤にしてしまう俺を尻目に、何故か上機嫌そうな足取りで、しかし何処か顔色は悪く、萃香さんは俺の元を去るのであった。



 ***



 伊吹萃香は、酒呑童子である。
宴会をしようと言う人を信じ、鬼を殺す酒を飲んで弱まり、斬り殺された伝説を持つ妖怪である。
なればこそ鬼の中でも特に率直な物言いを好み、素直な人間を好んでいる。
ついでにいえば鬼の中でも一二を争う酒豪であり、故に大酒飲みとあればそれだけで相手に敬意を表するぐらいだ。
そんな萃香の好みに、権兵衛はど真ん中で的中していた。
萃香も長い事生きているけれども権兵衛ほどに素直だと感じた人間は居ないし、権兵衛ほどの酒飲みを見たこともない。
そしてなにより、権兵衛には素面で居る所を見られてしまったのである。
萃香は常に途切れること無く酒を飲み続け、酔っ払い続けている物なので、素面で居る自分と言う物を知る存在はこの世に居ないと言ってもいい。
自分でも本当だったか覚えていないが、自分は生まれてから初めて立つより前に酒を飲み始めたんじゃないかとさえ萃香は思っている。
そんな萃香が素面を晒すのは、処女の全裸を晒す以上の恥じらいであった。
思い出すだけで顔に火が出そうになるし、それこそ本当に穴を掘って入りたいぐらいな気分になるのだが、それを全く権兵衛が気にしていない様子なのが、余計に恥ずかしさを増す。
無論権兵衛は素面を恥じらう気持ちなど理解出来よう筈も無いのだ、それは当然の事なのだが、それでも恥ずかしい物は恥ずかしい。
それにしても、と萃香は思う。
処女は全裸を晒した相手に責任を取れ、と言って結婚を迫る事があるが、自分は果たして権兵衛に娶ってもらえるのだろうか。

「~~っ」

 思わず身悶えするような恥ずかしさに、萃香は歩みを止め、その場で座り込んだ。
己が壊れんばかりの力でぎゅっと抱きしめる。
顔が紅潮してゆくのが嫌でもわかって、それがまた恥ずかしく、更に顔の紅潮を増す事になった。
いやいや、自分は何と女々しい考えをしているのだ。
勿論自分は女であるのだから女々しい考えをしてはならないわけでは無いが、それでも何と言うか、性に合わないだろうに。
ぶんぶんと頭を降って、桃色な考えを脳内から弾き飛ばすと、ややふらついた足取りで、萃香は再び歩み始める。

 権兵衛は本当にいい男だった。
それが萃香にとって恋愛事になるかどうかは置いておくとして、それは確かであるし、更に言えば、権兵衛は萃香に勝った男であった。
確かに権兵衛の言う通り、勝ち負けの結果だけの気安い勝負として萃香は権兵衛の勝負を受けたのだが、それでも勝負には全力を欠かさなかった。
となれば、どうしても結果だけではなく、その権兵衛に対する畏敬の念と言う物が出てくるのはしょうがないことである。
勿論権兵衛が自身の実力を把握しておらず、それが努力によるものではないと分かっていたとしても、だ。
それ故に萃香は思う。
もし権兵衛が記憶に細工をされていたならば、許せない、と。

「――まぁ、あのクソ真面目な半獣が、そんな事するもんか、分からないけどね」

 つぶやきながら、萃香は視線を空にやった。
青空に浮かぶ銀髪の少女と萃香は特に仲が良い訳ではないが、宴会に来た事があるので、その性格の大凡ぐらいは把握している。
生真面目と言う言葉が人格化したような半獣で、かなり差し迫った理由がなければ、他者を傷つけるような真似をする人妖ではない。
しかし、状況証拠としては、権兵衛の言によると一番怪しいのは慧音であるし、萃香には権兵衛の言葉を疑うつもりは無いので、自然そう考えるしかなくなる。
して、どうするか。
恐らく伝えれば、権兵衛が酷いショックを受けるだろう事は、萃香にも想像できた。
故に気軽に伝える事のできる内容でもないし、そも確実にそうだと言い切れる訳でもない。
ならばとりあえず確実にそうだと言い切れる奴に会いに行こう、と言うのが萃香の目的で、故に萃香は禊を行っている霊夢の元にたどり着いていた。

 ざばぁ、と、重い水の音。
寒気もまして来た秋の早朝、差すような冷たさの水が、水の花を咲かせるように白装束の霊夢を打つ。
滝のような流れは一瞬で終わり、すぐにぽたぽたと、毛先やら袖先など、先端から落ちてゆく水滴だけになった。
それも一息、すぐに霊夢は川に桶を浸す。
ぼこ、と小さい音を立てて空気が抜けてゆき、すぐさま桶の中は水で満たされ、それがまた霊夢の頭上から落とされる。
暫くそれを、近くの岩に腰掛けて眺めていた萃香だったが、霊夢が禊を終える段になると、腰を上げて話しかける。

「霊夢、話があるんだけど、いいかい?」
「私、さっさと体を拭いて着替えたいんだけど」
「じゃ、待つさ」

 いかにも面倒臭そうに顔を顰める霊夢だったが、萃香が再び腰を下ろし、暫く居座る様子であるのを見てとると、溜息交じりに白装束を脱ぎ、手拭いで体に張り付いた水滴を拭きとってゆく。
それから何時もの脇の空いた紅白の巫女服に着替え、水気を絞りとった白装束を片手に、とすん、と萃香の隣に腰を下ろした。
そして本当に面倒臭そうに溜息をつき、肩を下ろし、暫くその姿勢のまま動かないかと思うと、急にぱっと体を起こし、口を開く。

「権兵衛さんの事ね」
「あぁ。あいつ、もしかして里の半獣に記憶を喰われているんじゃあないか?」
「えぇそうよ」

 実にあっさりと答えた霊夢に、思わず萃香は目を見開く。

「でもまぁ、それを権兵衛さんに明かすのは無しよ」
「何でっ!?」

 が、続く言葉に思わず口を衝いて出る言葉。
腰を上げながらの叫びに、矢張り億劫そうに霊夢は溜息をついた。

「昨日散々喋った事なんだけど……。
あいつは、歴史を喰えると言う事は、つまり歴史が見えている。
つまりは権兵衛さんを監視し続ける事ができる訳で、権兵衛さんにあんたが事実を明かしたその瞬間、あいつは歴史を食べる事ができる。
あんたみたいな鬼相手には無理でも、少なくとも権兵衛さんの記憶全てぐらいなら、防ぎ様のない一瞬でね。
前はそこまで他者を警戒していた訳じゃないから、準備無しだったみたいだけど、今はねえ。
あぁ、でも多分、慧音の事だけは覚えているって言う風にでもなるのかしら?
そこら辺までは私も分からないけれど」
「………………」

 確かに、聞く所による慧音の能力によれば、それは可能かもしれない。
しかし萃香には権兵衛個人に対してそんな事をするような存在が居る、と言う事は想像の埒外であった。
何せ権兵衛は、確かに素直で正直で良い人間でこそあるものの、ただの人間である。
それを相手に里の有力者である慧音がそこまでして権兵衛への罪の暴露を恐れるとは。
まるで。

「私と同じみたいだ、かしら」
「……な、何をっ!?」
「別に、同じじゃなくてもいいけどね。
多分察してる通りよ、慧音は、権兵衛の事を好いているわ。
ううん、それどころか、昨日の宴会に出ていた私以外の人妖、あぁ紫は分からないけど、兎も角それ以外の人妖は、全員権兵衛の事を好いている」
「………………」

 確かに。
権兵衛の言う幻想郷の有力者の人物像は、ちょっと良い方に傾き過ぎていた。
当初は萃香は権兵衛の持つ精神の極端な善性による物だと思っていたが、しかしそれだけではなく、他の理由があると思えばより納得が行く。
そう、例えば権兵衛に優しくしたくなる理由があるとか。
権兵衛の事が、好きだと言う事だとか。

「わ、私、どうしたらいいんだろう」

 突然付きつけられた現実に、萃香は思わずそう漏らしていた。
鬼として人間に頼ろうとは思っていないものの、霊夢だけは不思議と例外で、気を抜いてしまえば何でも話せてしまえそうな雰囲気があり、それが萃香の口を緩くしているのだ。
一度声を漏らすと、決壊はすぐだった。
心に浮かんだ言葉が、すぐに萃香の口をついて出る。

「権兵衛の事好きな人が、そんなに居るなんて知らなかったし、それに、私、権兵衛に忘れられたくないっ。
でも、そうするには、私、権兵衛に、う、嘘をつかなくっちゃいけなくって……。
い、嫌だよ霊夢、私、権兵衛に嘘なんてつきたくないっ!
あいつ、私みたいに圧倒的に力のある存在を相手に、少しも嘘をついたりなんかせずに、正直に話してくれたんだよ?
なのに私からは嘘をつくなんて、耐え切れないっ!
でも、私を忘れられるなんて……」

 と、そこまで言った所で、ふと思いついた事があって、萃香は言葉を止める。
そもそも、こんな事が始まったのは、誰の所為だ?
そいつさえいなくなってしまえば、権兵衛に忘れられる事も嘘をつくことも、しなくて済むのではないだろうか。
幸い気付かれずに近づく事には、悪意が無かったとは言え霊夢にさえ気付かれずに居られた萃香である、簡単にできるだろう。
ならば……。
思いつめた表情で今にも立ち上がろうとした萃香を、霊夢が差し止める。

「慧音を殺そうとしたのなら、無駄な事よ。
昨日集まった全員で、あんた達が出て行った後にちょっとした会議をやってね。
他にも色々利害を調整したんだけど、誰かを殺すのは基本的に無しって事にしたわ。
だって、誰かを殺してそれを秘密にしようとしても、他の誰かがそれを暴露して、誰かを蹴落そうとするのは眼に見えている。
そうして有利になった誰かをまた殺して……、それが繰り返されたなら、幻想郷は戦争になるわ。
それでも構わないって奴も居るけれど、権兵衛がその戦争の理由を知れば、権兵衛の心に大きな傷がつく。
それを防ぐために、新入りのあんたを監視している奴は沢山いるの。
ほらね、気づかない?」

 霊夢の言に気配を探ると、幾つかの術や目が萃香を見ているのが感じられ、萃香は愕然とする。
もしそれが本当ならば、萃香は権兵衛に嘘をつかざるを得ないからである。
権兵衛に、嘘をつく。
考えるだけで胸の辺りにぽっかりと穴が空いて、寒風が吹きさすようであった。
悪寒が全身を支配して、震えが止まらなくなる。
涙さえ滲み出てきて、歯がカチカチと鳴り始める。

「わ、私、どうしたら……」
「ごめんね、私も疲れてるし、あんた一人に肩入れするつもりも無いのよ。
自分で考えてちょうだい」

 思い切って口に出した悩みも、あっさりと跳ね除けられてしまう。
そして本当に立ち上がってしまう霊夢の背に、思わず手を伸ばしてしまう萃香であったが、何を言おうか迷っているうちに、さっさと霊夢はその場を去ってしまった。
遠くなってゆく紅白の背中を見ながら、萃香は伸ばして手から力を失わせ、徐々に下ろしてゆく。
それに比例するかのように萃香の顔からは明るい色がすっかり抜け落ちてしまい、真っ青な顔のまま、暫く萃香はそこで座ったまま動けずに過ごす事となった。



 ***



「あら、どうしたのかしら、鬼の事が気になって仕方が無いって顔しているけれど、昨日の宴会があの後どうなったのか聞きたいって顔はしないのかしら?
……やっぱり聞くとそんな顔するのね、素直ねぇ。
平穏無事で和やかな感じだったわよ。
あら、私の鼻が伸びているって?
つまりますます鼻が高くなって、私が美しくなると言う事かしら。
ならば正直者の貴方は鼻がどんどん低くなって、最後には平面になってしまいますのね、可哀想に。
まぁつまりは、嘘つきは得、と言う事。
貴方は損な男なのよ、権兵衛さん。
私は貴方以上に損で、不幸が待ち受けるであろう人間を見たことがないけれど、きっと最後にはお涙頂戴のお約束が待っている、と思えばきっと立ち向かえますから頑張ってくださいね。
貴方の頑張りには神ですら応えられないでしょうけれど、私は気まぐれになら応えてあげますわ。
だって気まぐれは嘘と同類、女を美しくみせる為の物ですもの」

 紫さんと、出会い頭にこれだった。
いや、確かに俺は性格で損をしてこそいるものの、それ以上の得を得ているので構わない、と言うのが正直な感想だし、俺は頑張っている訳ではなく、当たり前の事を当たり前に行っているだけなのである。
精魂尽き果てるまで努力したかと言うとそうでもなく、俺の不幸は大抵努力よりも縁や幸運、思いつきによって解消されているので、そんな風に応援されても、気恥ずかしくなるばかりであった。
しかし、俺はそんなに心配されるほどの不幸顔なのだろうか。
内心で落ち込みつつ、俺は口を開く。

「紫さん。その、さっきどうにも思いつめた表情で萃香さんが歩いて行ってしまったものなので、気になって探しているのですが」
「目の前にこんなに気になる美女が居るって言うのに、失礼ね。
まぁ、貴方のそういう失礼さは無欲さや純粋さから来るものだから、裏返しでいい所にもなっているのだけれども。
でもカードが裏返るには人の手を待たなくては駄目、風が吹くのを待つのはちょっと人間にしては気が長すぎるわね。
そう、裏返っている理由は、全てのカードが表向きになっているのは、手があるからなのよ。
その手は何なのかしらね。
きっと自然の手なら私は歓迎するわ。
だってこんなにも素晴らしい幻想郷は、外の世界と比べて何が豊かって、自然が豊かですもの。
そうであれば私も喜色満面、キスだって奪ってあげるわよ。
あら、うふふ、そういえば権兵衛さん、未だにファーストキスは未経験なのね。
あ、でもこんな事言ったら事故の発生率がうなぎ登りになったりして。
大変だろうけれど、結局苦労するのは貴方以外もなのだから、自分だけじゃないと思って頑張りなさい」

 で。萃香さんは何処に行ったのだろうか。
思わず胡乱気になった目で紫さん相手に目を細める。
まったくもって美しい少女であった。
所々が幼さと静謐さを兼ね添えた容貌で、それなのに全体の雰囲気としては妖しい感じであると言う、その不思議なギャップが彼女の美しさを増す。
それはきっと、見えないヴェールなのだろう。
彼女が頭から、西洋婚で被るような怪しさのヴェールを被っているのだ、と想像しながら、それが矢張り似合っている事に納得しつつ、紫さんの言葉を待つ。
一瞬、間があいた。

「何処に居るのかは知っているけど、貴方に会わせられる場所には居ない、というか、貴方はすでに会っている。
でも彼女を見いだせないと言うのならば、呼び寄せる事もできるわ。
でもね、私は萃香の友人なのよ、できればそんな事したくないの。
友達は大切よ、貴方はそれを知っているでしょう?
知らなくとも、少なくとも知っている気にはなっているでしょう?
くす、私は別に貴方の感じている友情を哂った訳じゃあないつもりよ。
だからねぇ、そんな顔しないで、怒っているんだろうけれども、貴方がしても小動物の怒りにしか見えないわ。
こっちが可笑しくなっちゃって、笑ってしまいそう。
それに対して貴方は、すこしおかしいのよね。
それはただの性格に留まるおかしさなのかしら?
それとも、その手の根本にあるおかしさなのかしら?
うーん、見てみたい気もするけれど、ちょっと我慢我慢。
私まであなたにおかしくなってしまうつもりは無いの、ごめんね?」

 相変わらず、紫さんはよく分からない物言いである。
辛うじて俺が読み取れたのは、兎に角萃香さんは今直ぐ会える場所に居るが、俺の力不足により見えず、また、紫さんにはその彼女を連れてくるつもりも無いと言う事だった。
紫さんの胡散臭さを思うとどうにも信用するのに躊躇する部分があったが、俺はそれを受け入れる。
昨日の萃香さんの話しぶりから、彼女から紫さんに友情を感じているのは間違いなく、ならば逆もまた然りであろう、と言う事からだ。

「分かりました。じゃあ、そうだな、宴会場の片付けって残っています?
もう全部やっちゃったかな、霊夢さんなら」
「いいえ、残っています。
それで暫し時間を潰すといいでしょう」

 と言うと、すっと紫さんの背後に空間の亀裂が走る。
その両端にリボンがちょこんと巻きつけられているのが可愛らしいなぁ、と思いつつ、俺は静かに手を振りながら紫さんを見送った。
それから残り物の片付けに入ろうと、近くの宴会場の戸を開くと、霊夢さんと鉢合わせする。

「あ」
「あ、おはようございます」

 思わず、といったように顔を歪める霊夢さん。
俺は、いったい何をしてしまったのだろうか。
と思うと同時、先の紫さんの言葉が思い出される。
昨日の宴会の後は平穏無事で和やかだった、と、明らかに嘘をついた様子で言っていて。
つまりは俺が出て行った後、少なくともあの状況は改善されなかった訳であるので。
俺はあの大変な状況を一人ぬけぬけと抜けだしてやったと言う、酷い男なのである。
そうとなれば、俺を見ただけで顔を歪めてしまう気持ちと言うのも判るものだ。

「その、昨日はすいません、あの後あの宴会を霊夢さんに任せちゃって」
「……半分どういう答えが来るか分かっていて聞くけど、あの宴会ってどういう宴会だか分かってる?」
「え? 何だか妙に静かで、皆さん威圧しあっているような宴会、ですよね?」
「……まぁ、それならそれでいいんだけどさ」

 紛らわしい事言わないでよ、とぼやきつつ、霊夢さんは溜息をつく。
それから俺は霊夢さんが手に宴会の食器を幾つか持っているのを見て、俺が霊夢さんの邪魔をしているのに気づき、慌てて俺は横にどいて見せる。
しかし本当に慌てて動いてしまったので、台所へつながる方の道に避けてしまい、あぁ、これでは無駄では無いかともう一回り、反対側にどく俺。
そんな俺を、奇妙な物を見る目で見つつ、霊夢さんは台所へと歩いて行く。

「その、今日こそ俺も手伝っていいですか? 結構大変そうですし」
「……徹底するなら本当は駄目なんだけど、後数日だしねぇ。ま、いっか」

 と聞いて、俺は吃驚してしまって思わず聞き返す。

「って、後数日? え、じゃあ、早く次に住む所を見つけないと……」
「ん? あぁ、探すなら、明日まで待ちなさい。珍しく良い知らせがあんたにあるわよ」

 と言ってさっさと行ってしまう霊夢さん。
どういう事かと聞き返したかったのだが、本当にすぐに行ってしまったので、俺はとりあえず、宴会場に残った食器やその上の残り物を集めて、台所に集める作業に従事する。
何と言っても、あの上品な人が多い宴会で、何故にこんなに散らかるのか、と言うぐらいの散らかりようで、結構な時間がかかってしまった。
俺はその良い知らせとやらがどういう事なのか聞きたいけれど、忙しそうにしている霊夢さんに聞くのは気が引けて、更に言えば昨日から俺はこの人に世話になりっぱなしで頭が上がらない具合なので、聞くことはできない。
代わりに色々と想像しながら食器と残り物を集め、食器を洗い、宴会場に出涸らしのお茶っ葉を撒いて箒で掃き、乾拭きをする。
良い知らせ。
単純に言うならば誰かが忘れられた家屋を見つけていて教えてくれると言う物なのだが、俺の知る中でそんな物を見つけそうな行動範囲の人と言えば、幽香さんだろうか。
一人で過ごし散歩を趣味の一つとしている、と言う幽香さんなら、忘れられた家屋の一つや二つ、知っていてもおかしくはないと思う。
もしかしたら、とそんな事を想像しながら掃除を終えると、結構時間がかかってしまい昼時になってしまったので、昼食を作らせてはくれないか、と言うと、昨日の食事が目にかなったのか、許可がもらえた。
そこで喜び勇んで焼き魚に玉子焼きに味噌汁に漬物、猪肉と山菜の炒め物、と気合を入れて作り、さてどうだろう、とちらちら霊夢さんの反応を気にしながら、集中できずにご飯に箸を付けていると、言われてしまう。

「なんかワクワクしてる所に水を差すけどさ、あんた良い知らせがどうのって事を聞きたいんじゃあなかったっけ?」
「あ」

 とまぁそのような顛末があって、暫く俺は顔を真っ赤にしたまま食事を終え、お茶を淹れて二人で向かいあって飲んでいるのであった。
ちなみに、料理の感想は透明な感じのする味ね、と言う所。
透明な味噌汁とかはなんとなく分かるが、炒め物や焼き魚が透明な味って、どんな物なのだろうか。
いや、俺が作った本人なのだけれど……。
と、そんな事を考えている俺に、不意に霊夢さんが口を開く。

「良い知らせは、そうね、多分日が変わるまでにはあるんじゃあないかしら。霧の気分次第だけれどね。
ま、私の提案だけど、無くってもあんたが思いついたって言うのは、私の勘が保証しているわ、安心して」
「へ? はぁ」

 よく分からない話を、霊夢さんはまるで俺ではなく天井へ向けて話しかけた。
忍者よろしく誰かが天井裏にでも居るのだろうか、と首を傾げ、思わず簡単な探査魔法を使ってみるものの、なんだかちょっと霧があるような感じがするばかりである。
どうしたものか、と霊夢さんに目で問いかけてみるものの、霊夢さんは取り合わず、お茶をずず、と啜るだけだった。

「えーと、まぁ、それならなるべく遅くまで起きているようにしましょうかね。
寝ていて良い知らせを聞き逃したんじゃあ、やりきれないでしょうし」
「まぁ、それでいいんじゃない?」

 言うと、お茶を飲み干し立ち上がる霊夢さん。
何をしに行くのだろうか、と聞くより早く、巫女の仕事よ、と言われ、俺はすごすごと引き下がる。
すると早速一人で暇な時間が出来てしまった訳で、はて、どうしようか、と暫く瞑目してから、とりあえず霊力の扱いの練習でもするか、と庭に出て、月弾幕をぽつぽつと作ったりしながら時間を潰す俺なのであった。



 ***



 夜中。
夕食も終えて、良い知らせとやらは本当に来るのかどうか、不安に思った権兵衛は、気を紛らわせる為に霊力の扱いを練習していた。
そろそろボロ屋でも生活できるぐらいに結界の練度は高まっており、食べられる野草やキノコの知識も仕入れ済みである。
着々と準備を進めてきた一人暮らしについて、権兵衛のそれは一応の完成を見せていた。
と言っても、所詮付け焼刃感が否めない程度ではあるのだが。
そんな権兵衛が、結界を張ったり解いたりしているのを、霧になった萃香はぼうっとしたまま見つめていた。

「……はぁ」

 口を開けば出てくるのは溜息ばかり。
権兵衛の前に出れば嘘をつかねばならず、出ないのはあの萃香の心を動かす少年と二度と出会えないと言う苦痛となる。
二律背反である。
故に答えは出ず。
どうすべきか、どうすべきか、それだけがぐるぐると頭の中を回っているのを感じながら、萃香は権兵衛を眺める。
権兵衛は、月の魔力を扱うようであった。
ただの記憶喪失の人間の筈なのに、不思議と月人しかマトモに扱えない筈の魔力の扱いが上手い。
比較対象が月の姫が偶に弾幕ごっこで使う程度なのでなんとも言えないが、相当な物であるように萃香には思えた。

 権兵衛が指揮者のように指を振り上げる。
指は月の魔力が灯っており、その軌跡が月の白とも黄とも青とも時によって色が変わる物で、そこには月の魔力が充填されると同時に、地上の空気の真空が出来ていた。
そのままくるりと一回転しつつ指をなぞり、自身を中心に縦の螺旋を描くようにしてみせる権兵衛。
くるり、一回転。
くるり、もう一回転。
最後には指先が地面にぴたりとくっつくまで周り、そこで権兵衛は指先の灯りを消した。
立ち上がる。
すると、ふわりと権兵衛が足で地面を蹴飛ばすと、ゆっくりと浮き上がる事となった。
何せ権兵衛が描いたのは、擬似的な月光線である。
それの元となる螺旋の中心の円柱は、月と言う事になる。
つまりは重力が地球よりも低い、大地であるのだ。
よって、権兵衛はまるで宇宙飛行士のようにゆっくりと浮き上がり、ゆっくりと下がる。

 一部始終を見ていた萃香は、思わず手を握り締めていた。
動機が激しくなるのが自分でもわかる。
胸ばかりか全身がか~っと熱くなってきて、汗がじわりと吹き出し、肌は湿って光を反射し輝いた。
これだ。
これなのだ。
歓喜の声を、萃香はあげる。

「権兵衛……権兵衛っ!」

 気づけば萃香は、実体化して走りだし、権兵衛に抱きついていた。
驚く権兵衛だが、すぐに萃香を気遣い背に手を回してくれる。
興奮している萃香の体は既に暖かい筈なのに、権兵衛の手はそれ以上に暖かく感じ、萃香は口元を軽く緩めた。

「萃香さん。どうしたんですか、今朝から急に見なくなりましたけど……」
「いいんだ、権兵衛、いいんだっ!」

 そう、いいのだ。
これでいいのだ。
権兵衛を騙してしまうと言う罪悪感も、嘘をつかないと言う自身の精神的支柱が崩れてゆくのも、これでいいのだ。
だって萃香は、今、それ以上に感動しているのだから。
その中身を叫ぼうとするが、胸が一杯になって、口を開く事すらもままならない。

 そう、権兵衛が持つ能力の一つは、“重力を操る程度の能力”だった。
何せ権兵衛は月らしい力を持つ男で、月と言えば星であり、星と言えば、重力を持つ大地なのである。
そして重力とは、人と人の縁でもあった。
人や妖怪と言った精神の持つ、他の人妖との縁や繋がり。
それを権兵衛は月のような巨大な質量が持つような大きさで持っており、それを徐々に操ることができるようになってきたのである。

 重力は、同じように大きな質量を持つ物同士であるほうが、より強く惹きつけられる。
幻想郷の力関係は須らく精神の持つ力で決められており、強者はより強い精神的質量を持っている為に、権兵衛により強く惹かれてゆく。
権兵衛に関わる有力者が、誰しも狂的な感情をさえ持っているのが、その力が作用している証拠だろう。
何せ権兵衛は月の重力を持っているのだ、関係もまた月的になるのは当然の理である。
また、里人のような精神的質量の低い者たちは、権兵衛に惹き込まれるよりも、よく分からない何かで有力者を惹きつける権兵衛に嫉妬してきた事が、その仮説を裏付けるだろう。
最早萃香の目には、権兵衛が“重力を操る程度の能力”を持っている事は明らかだった。
だってその能力が、自分にだけは効いていないのだから。

「あ、あはは、あはははははっ!」

 何せ、萃香の能力は“疎と密を操る程度の能力”。
当然物質や精神の疎密を操る事ができ、つまりはそれらの持つ重力をも擬似的に操れるのである。
故に疎となった萃香には権兵衛の能力は最早及ばず、萃香の中には能力によって生まれた好意は無くなっているに違いない。
少なくとも萃香にはそれが感じ取れており、権兵衛に奇妙に惹きつけられるような気持ちは、疎となっていた時にはなくなっていた。
故に萃香は権兵衛の能力について確信するのだが、それよりももう一つ、大事な事実がある。
それは、萃香が、疎だった先ほどから密となった今まで、変わらずに権兵衛の事が大好きであると言う事だ。
これはつまり、この幻想郷で権兵衛の能力によらず権兵衛を好きと言えるのは、萃香たった一人だと言う事で。
この世界に権兵衛を純粋に好きだと叫べるのは、萃香一人だと言う事で。

「やった、やったよ、権兵衛っ!」

 泣き叫びながら萃香は権兵衛を抱きしめる。
力加減が上手くゆかず、どこかでちらりと、権兵衛は痛がるだろうな、とも思ったが、反して権兵衛はより強く萃香を抱きしめてくれて、萃香は泣いて喜んだ。
その喜びを口にしようとするものの、口は上手く回らず、もう訳が分からないぐらい嬉しくって、それを表現しようとふと周りを見ると、丁度満月となった夜空の月がみえた。
だから萃香は、名残惜しそうに権兵衛から離れ、すっと掌を空へと向ける。

「見て、権兵衛」

 言って、権兵衛が空を見上げたのを確認してから、萃香は手を握った。
空が弾けた。
空に写る偽りの月にヒビが入ったかと思うと、次の瞬間月が音もなく砕け散った。
その欠片が、流星のように地上へと降り注いでゆく。
それは、さながら流星群の夜であった。
夜空を滝のように流れる光に、権兵衛はあんぐりと口を空ける。

「……凄いや」

 感嘆の余り小さくそう漏らすのが限界であった権兵衛に、萃香はとん、と軽く抱きついた。
萃香の、権兵衛の月の魔力さえも砕いてみせ、その上で萃香がそれでも権兵衛を受け入れている事を、動作で示したのである。
最も、自分の能力を把握できているかどうかも妖しい権兵衛である、萃香の行為を理解できたとは思えないのだけれども。
それでも、自分にとって最高の愛情表現をする萃香の顔は、とても満ち足りていて。
その顔を、地面に落ちた月の光が、下からぼうっと薄く照らしてみせる。

「権兵衛ぇ……」
「……はい」

 たった一言、声を交わすだけでも、心臓が飛び出そうな程萃香の胸は高鳴った。
ぎゅ、と権兵衛の着物を握りしめる。
頬を権兵衛の腹の辺りに擦り付け、権兵衛の肉の、骨の、臓器の感触を感じる。
ずっとこのまま、永遠にこうしていられたら、とさえ萃香は思った。
がしかし、現実には、鉄の意思を以てして萃香は権兵衛から顔を引き剥がす事となる。
霊夢の台詞を思い出したからである。

「その、権兵衛」
「はい。どうしたんですか?」
「権兵衛の家、無くなっちゃったんだろ?」
「はい」
「ならさ……、私が作ってやるよ」

 え、と驚く権兵衛に、振り向いて背を預けたいな、と思った萃香だったが、自分の角が邪魔になる事に気づき、やめた。
角だけ疎にしてしまえばそれもできるかもしれないけれど、それは何だか折角素のままの自分を受け入れて貰うのが無くなってしまうような気がして、やめておく。
代わりに萃香は、権兵衛の着物の裾を持ち、少しだけ引っ張る事にした。

「ほら、私の能力が“疎と密を操る程度の能力”だって言っただろ?
こいつで木材を集めれば、権兵衛一人住める家ぐらい、あっと言う間さ」
「で、でも、家ですよ!? そんな畏れ多い……!」
「いいっていいって。ついでに、これを飲み勝負の賞品って事にもしちゃおうかな」

 本当の所、それには権兵衛に対する打算も含まれていたが、それを一切臭わせずに萃香は言う。
暫くどう答えたものか、と百面相していた権兵衛であったが、如何なる葛藤の末にかそれを受け入れるようにしたようで、神妙な顔を作って言った。

「えーと、それじゃあ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「まっかせてっ! 今度は頑丈な家にするし、手ぇ出そうってもんなら大怪我するぐらいにしてあげるさ!」

 朗らかに、掴んでいた着物の端を離し、両手で握りこぶしを作って上にあげる萃香。
しかし対する権兵衛は困惑した模様で、苦笑気味に漏らす。

「いえいえ、そんな物騒な物にしないでください。 子供の秘密基地みたいのになるのは勘弁してくださいよ?」
「……ん?」

 あれれ? と、首を傾げる萃香。
何せ権兵衛は、話を聞く限り里人に家を壊されたのである。
これでは里人を憎んでいて仕方なく、そうでなくとも良い感情は持っていないと思ったのだが。

「じゃあさ、こう……ちょっとぐらいおちょくる仕掛けぐらいは作らないの?
権兵衛、家を壊されて、畑も滅茶苦茶にされて……、それでも辛くは無いの?」

 問いかける萃香に、数瞬、権兵衛は眼を閉じてみせた。
沈黙の間、萃香は奇妙に空気が粘着く事に気づく。
まるで権兵衛が溶け出し、黒い泥のようになって萃香の足を絡めとっているかのようで。
だとすれば、権兵衛の肉は黒蠅で出来ているのだ、と、ふと萃香は思った。
黒い小さな無数の黒蠅。
余りに多くの蠅がその空間に押し込められている為、次第に増えてゆく蠅に蠅が押しつぶされ、その墨で出来た体液がぶちゅりと溢れ出す。
それが権兵衛の足元を中心に池を作り、萃香の足元まで広がっているのだ。

「辛くないと言えば、嘘になります」

 はっ、と萃香が気づくと、光景は現実の物に戻っていた。
完璧と言うより愛嬌のある権兵衛の顔と、それを照らす足元の月の欠片。

「ですが、それは仕方のない事なのです。
だって里人の皆さんにとって、俺は慧音さんと誑かし、作った野菜を高値で売りに来る、極悪人なのですから。
そう噂を聞いてしまえば、俺のように里人と仲良くなるのが下手な人間を、悪人としか思えなくなってしまいます。
人は、悪に対し、何をしてもいい、と思わなければ、生きてゆくのもままならない生物です。
だからそれは、仕方のない事なのです。
俺が嬲られる事も仕方のない事なのです。
俺の家が壊されたのも仕方のない事なのです。
俺の畑が荒らされたのも仕方のない事なのです。
里の人々は、悪くありません。
敢えて悪を問うならば、人里と言う社会で悪であり、またそれを覆す力を持たなかった俺の弱さこそが、悪なのでしょう」

 言って、権兵衛は萃香に視線を合わせる。
何の変哲も無い普通の視線の筈なのに、萃香はまるでそこにピン止めされてしまったかのように動けなくなってしまった。
そんな萃香に、権兵衛はにこりと天上の微笑みを見せる。
同時、萃香達の足元にあった月の欠片達がぐぐ、と動き始め、空へとまた集まり始めてゆく。
その先は丁度権兵衛の頭上にあり、萃香にはまるで権兵衛の背後から後光が差しこんでくるかのように思えたのだった。

「だから、仕方のない事なのです」

 なんとも、重い質量を持った言葉であった。
そんな権兵衛の瞳は、黒い花が無数に咲いた、花畑のようだった。
雄しべすらも真っ黒な花々は、茎が見えない程に密集していて、まるで生き物のように犇めき合っている。
次第に散り始める黒い花弁が、二つ合わさり、黒色の蝶となって萃香の元へと羽ばたいてきた。
幽々子の扱う死の蝶にも勝るとも劣らぬ、狂気の蝶である。
生唾を飲み込みながら、萃香は俯き、権兵衛から視線を外す。

 権兵衛は、狂っていた。
それは丁度月の魔力が、権兵衛の持つ魔力が人をそうさせるように、彼もまた自身の重力により極限まで収縮し、内部にブラックホールを作ったのだ。
虚ろな中身は、何一つ抜け出せない深淵の闇で、それをさえ抱える権兵衛は、他者と同じように心を狂わせている。
そして丁度狂人と常人がそうであるように、能力を避けている萃香と権兵衛とでは、決定的な間隙があると萃香は感じた。

 次いで萃香が感じたのは、絶望感だった。
まるで足元に穴が空き、途方も無い時間落ち続けるような気分である。
自分は、権兵衛と話を擦り合わせる事ができないのだ。
永遠に価値観を合わせる事ができず、すれ違いを続ける事しかできないのだ。
そう思うと、ぞっとするほどの寒気に全身が包まれ、萃香は思わず身震いする。
かと言って、萃香もまた狂ってしまったのならば、その好意は純粋ではなくなり、権兵衛を好く女たちの中で特別ではなくなってしまうのである。
二律背反。
権兵衛にとっての特別となった事で、無理に見ぬふりをしてきた権兵衛に嘘をついている現状も、再び萃香の心を差し始める。
涙腺が温度を持つのを感じ、急ぎ萃香は言った。

「そ、そっか。じゃあ、河童の最新科学を取り入れた、凄い奴を作ってやるよ。 それじゃあね、権兵衛! また明日!」
「……? はい、また明日」

 それから萃香はすぐに権兵衛に背を向け、涙が今にもこぼれ落ちそうな顔を見せまいと、すぐさま霧になる。
涙が零れ落ちたのは、タッチの差だった。
霧の中から零れ落ちる涙に、思わず手を伸ばす権兵衛であるが、そこには霧になった萃香しかおらず、勿論気体となっているので触れる事はできない。
それが今後の権兵衛と萃香との関係を暗示しているかのようで、霧になったまま存在しない目から存在しない涙を零す萃香。
しかし代わりに権兵衛がすっと霧になった萃香の中に入ってきて、まるで肉体的には二人が重なり合っているように思える。
すると同時、萃香は自身のうち幾らかが権兵衛の呼吸に乗って吸われ、吐かれている事に気づいた。

 これは、もしかしたら。
そう思い、萃香は一端自分と権兵衛の間にできた間隙の事を考えるのを辞めて、少しだけ自分を密にする。
丁度人間の肺の中を満たせるだけの量になって、萃香は権兵衛が息を吸うのと同時に、権兵衛の鼻梁の中に入り込んだ。
それから喉を通り、気管を通り、肺にいきつき、そこの中で萃香は霧のまま漂う。
そこは、三六〇度何処を見ても権兵衛の肉しか存在しない空間だった。
誰よりも権兵衛に近く、重なっているとしか言えない間隔で。
まるで自分と権兵衛との境界線が無くなり、混ざり合っていくかのように萃香は感じた。
あぁ、これで私は、権兵衛と一緒なんだ――感動の余り、泣き出したくなる萃香であったが、場所が場所なのでそれをどうにか抑え、権兵衛の内側をみやる事にする。
今度こそ、萃香は権兵衛にとって唯一の存在である筈だった。
何せ権兵衛が体をここまで一つにした相手など、居る筈も無かろう。
これ以上無い一体感に、霧となった瞳を閉じ、感覚的に胎児のような姿勢を取り、萃香は権兵衛の中で眠る事にする。

 確かに、萃香は狂人たる権兵衛と永遠に心を通わせる事ができないかもしれない。
確かに、萃香は権兵衛に対して嘘をつき続けなければならないかもしれない。
だけど萃香は、こうやって権兵衛と一緒に居られて、幸せだった。
もう二度と権兵衛から離れるなんて事、想像もつかないぐらいである。
だからこそ萃香は、権兵衛に対し、思うのだ。

 ――ぜったいに、わたしがずっと一緒だよ、権兵衛。

 それが明日にでも、権兵衛との再開の約束を果たす為に守れぬ幸せなのだ、と、気づきつつも。




 取り急ぎ、作者は東京在住なので無事でした。
この度の震災により被災された皆様の、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

 宴会が終わったのに宴会編はまだ続いていると言う妙な話でしたが、これにて宴会編終了です。
ついでにこれでプロット上は前半終了と言う事になります。
残り半分、なんとか今年中に書き終えれるよう頑張ろうと思います。



[21873] 取材
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/04/11 00:14


 射命丸文は、烏天狗であると同時、新聞記者である。
一応は社会的身分である烏天狗であると言う事の方が先に来る事実なのだが、彼女は他の天狗と違った。
天狗は天狗社会に隷属する事を強く意識した、社会性の強い種族であるのだが、彼女はその中でも特異に自己を優先させる、自由な天狗であった。
その自由奔放さ故に、彼女は他の天狗と違い、妖怪の山を離れてまで新聞のネタ探しをしており、その話を聞きつけたのも、ネタ探しの一環である。
話と言うのは、里で半人半霊が誤って人を斬り、その男を白玉楼まで連れて泊まらせているのだと言う事だった。
常日頃からネタに飢えている文である、早速その事について白玉楼の主に取材を試みたのだが、にべもなく断られてしまった。
これには、彼女も困惑する。
これまで何度か幽々子について取材などをした事はあるが、断られるような事は無かったのである。
これは大事件の匂いがする、と俄然やる気の出てきた文であるが、幽々子も妖夢もガードが固く、その男の情報は出ない。
白玉楼を見張ってみるものの、その男とやらの気配は既に無く。
得られたのは、里での取材での、その男の名が権兵衛と言うらしい事と、その権兵衛は里で悪評が流れている事ぐらい。
これはどうしたものか、と文が思い悩む頃、永遠亭の兎に騒がしい気配があった。
早速永遠亭にも取材に行くが、矢張り誰一人取材に応じる事は無い。
しかし文の勘が、この二つの事件は結びついているのではないか、と感じ、権兵衛の名前を兎相手に出して誘導尋問してみた所、どうやら永遠亭にもその権兵衛と言う男が来ていたらしい事が分かった。
が、意外に警戒心が強く、分かったのはそこまでだった。
そこで、文の捜査は行き詰まる。

 そんな折、文が耳に挟んだのは、一晩で里の近くに立派な屋敷が建ったと言う事件であった。
これはスクープだ、と早速足を運ぶ文であったが、驚くべきことに、その屋敷には霧になった萃香が漂っており、近づくなと文に警告してきたのである。
いよいよスクープの予感がする文であったが、しかし天狗は鬼に逆らえない。
それでも諦めず、何度か顔を覗かせる文であったが、そうしているうちに驚くべき事実を発見する。
萃香と言えども四六時中その屋敷を囲っている訳ではなく、入り込めそうな隙があり、その間を縫うようにして入り込もうとした文を、今度は月の頭脳の結界が阻んだのである。
驚きつつも、殺意の篭った攻撃に慌てて文は逃げ出したのだが、その後何度が来てみた所、この結界、決して月の頭脳が張っているとは限らなかったのである。
亡霊姫の蝶、吸血鬼の霧、屋敷を囲うように植えられた四季に関係なく咲く向日葵、時には歴史が食べられ見えなくなり、時には炎の鳥が飛び交っていた。
流石に確かめるには我が身が可愛く辞めておいた文であったが、そのどれもが半端な気持ちで張られた物では無かったと推察する。
恐らくはその屋敷には、彼女らにとって相当な重要人物が住んでいるに違いない。
白玉楼と永遠亭が関わっている事から、その男は権兵衛とやらと同一人物かもしれない。
そこまではどうにか文にも分かったのだが、それ以上はどうしても分からなかった。

 このまま記事にすべきか、と文は悩む。
正直言ってこのままではインパクトは、この記事を公開して幻想郷の有力者から恨みを買うリスクに比べ、正直言って低い。
できればもっと徹底的な、例えばその権兵衛とやらがとんだ女たらしで、幻想郷中の女を引っ掛けて、爛れた生活を送っているとか、そんな記事が望ましい。
勿論今の段階から推察できる記事としてそれぐらいは書けるが、できるならその生活に密着した取材ぐらいはしたいものである。
悩みつつも文はとりあえず記事を書いてみるが、矢張りパッとしない。
いや、普段の記事からして十分見ごたえのある記事ではあるのだが、リスクに見合う程の物ではないのだ。
普段、なんだかんだ言って幻想郷の有力者達から本気で恨みを買うような記事は書いていない文であるが、なんというか、この事件からは本気の危うさを感じるのだ。

「なんていうか、殺気が篭っているんですよねぇ……」

 思わずボヤく文。
弾幕ごっこと言う本気では無い争いがメインの幻想郷では、殺気と言う物は滅多に感じられる物では無い。
が、この権兵衛と言う男に関わる女たちの頑なさからは、何処か殺意に似た鋭さまで感じるのだ。
確かに文は新聞記事を作るのが好きだし、できる事ならこの大スクープを仲間より早く掴みたい、と言う気持ちはあるが、正直言って我が身は可愛い。
勿論マスコミの正義はそんな事に屈するべきではない、と言う思いもあるし、ここで引いてしまっては自分では無いような気もする。
そんな訳で複雑な心持ちの文であったが、そんな彼女の心と無関係に、社会は回ってゆく。
現在文は、哨戒任務の最中であった。
本来哨戒は白狼天狗の役割であり、烏天狗の出る幕ではないのだが、最も里に近い天狗とも称される文は、迷い込んだ里人に忠告するのに最も向いているとされ、こうやって引っ張り出される事もあるのだ。
正直そんな面倒な事に関わりたくない、と言うのが文の本音であるのだが、逆らえないのが社会人の辛い所である。
なのでこの日も文は、見つけた里人に忠告すべく、ゆったりと妖怪の山と麓との境界線辺りをふわふわとうろついていた。

 秋も終わりが近づいてきた頃。
次第に木の葉が枯れ色となり雨のように落ちてゆくのを、文は遙か高くから眺めつつ、空を滑空していた。
空と言う物は四季に縛られず、何時も雲模様にだけ左右される物で、そんな所が僅かに地上よりも自由さを感じさせてくれて、文は空が好きだった。
だからか、文は空を飛ぶのが同族の中でも得意だったし、今では幻想郷最速を名乗ってすらいる。
こうやって空にただふわふわと浮いているのも嫌いではなく、だからか、これは良い気分転換になったかな、と文は思う。
なにせここの処、手に入れた権兵衛とやらの記事を発行するか否か、部屋の中に篭りきりで迷い続けていたのだから。
久しぶりに吸った外の空気は澄んでいて、とても心地が良い。
なので最初、その人間を見つけた時は、折角の良い気分に水を差されたかのようで、文はむっとしながらスカートを抑えつつその人間の前に飛び降りたのであった。

「わっ」

 と驚いて数歩下がる人間は、成人したかどうかと言うぐらいの年齢の男であった。
顔や目鼻立ちは鋭いと言うより柔らかく、どこか優しげな風貌で、悪く言うと押しの弱そうな男だな、と文は思う。
まぁそれなら好都合である。
文の仕事はここから男を退去させる事であるが故に。

「人間。ここは妖怪の山と人間の生活圏との、境界線上よ。天狗の領域を犯し、その罰を受けたくなければ、早く去るがいいわ」
「え、ここでもうなんですか!?」

 見下した物言いであるが、相手が取材対象で無い限り、文が弱い者にこうした強気な態度を取るのは、常の事である。
驚き目を見開く男は、思わず一歩退いて足元を見やる。
その仕草があんまりに大げさな物だから、内心苦笑しつつ、文は続けた。

「ふん、お前は子供の頃妖怪の山との境界を教わらなかったのかしら」
「その、すいません、生憎俺は、幻想入りしてきたものでして……」

 と言う男に、おや、と文は目を見開く。
幻想入りした人間のような、妖怪への危機感が低い人間が、こういった里の外での山の幸の収集などに出される事は、滅多に無い。
あるとしても複数人でであるのだが、ふと文が風を感じてみるに、近くに他の人間は居なかった。
しかも、よくよく考えるに、この男の居る位置は、少々おかしいのだ。
里から真っ直ぐ来たにしては少々里の方角を外れており、まるで里に住んでいないか、それとも里を大きく迂回してきたかのような位置である。
と、そこまで考えてから、文はふと気づく。
あの屋敷、里から見て妖怪の山の反対側にあり、そしてもし屋敷に住む男が権兵衛とやらであるなら、悪評のある里を迂回してくるのは自然な流れでは無いか、と。

「あの……」
「はい?」
「貴方の名前を伺っていいでしょうか?」

 気づけば文は、取材用の丁寧語を使っていた。
それに面食らったのか、一瞬目を白黒させた後、男は静かに口を開く。

「名前は幻想入りした際に亡くしてしまいまして。今は、七篠権兵衛と名乗っています」

 思わず文は、ぐっと拳を握りしめた。
叫びだしたいぐらいの気持ちをぐっと堪え、急ぎ続きを聞いてみる。

「それでその、もしかしてあの一晩で建った、屋敷に住んでらっしゃる人で?」
「えぇ、はい。一人暮らしには分不相応かとも思ったのですが、折角萃香さんが作ってくれたので」

 ついに文は、武者震いを抑えきれなくなり、体をぶるりと震わせる。
目前にあるスクープの匂いが、彼女の体を沸き立たせていた。
ばかりか、これまでに経験したことが無いような、体の火照りが彼女を襲っていた。
つ、と体中から汗が噴き出るのを文は感じる。
白いシャツが体に張り付き、体の線が浮き出るのを文は感じたが、権兵衛の前であると不思議と気にならない。
いや、色仕掛けでネタを搾り取れるのだ、それもありだろう、と思いながら、文は権兵衛の前に一歩進み出る。
権兵衛の視線が自身の体に注がれている、と思うと、ぞくりと文の背筋を妖しい感覚が襲い、思わず溜息が漏れた。
その色っぽさにたじろぐ権兵衛が可愛らしく思え、くすりと微笑みながら、文は太腿を擦り合わせ、両手で自らを抱きしめ、少し胸を強調してみせる。
相手が多くの場合女であったし、そも文にその気が無かったので、色気を使って取材をしたことは無かったが、不思議とその姿は様になっていた。
軽く前かがみになり、上目遣いに文は、少し甘い声で権兵衛に語りかける。

「くす。あぁ、自己紹介をしていませんでしたね。
私は烏天狗の、射命丸文。
権兵衛さん、と呼ばせてもらいますからね、私も文でいいですよ。
そこでですね、権兵衛さん。
少々取材させてもらいたい事があるのですが……」



 ***



 秋もそろそろ終わりだと枯葉の音が教えてくれるこの頃。
俺は慌てて今のうちに、と秋の実りを集めていた所、どうやら妖怪の山の麓に差し掛かってしまっていたらしく、警告に現れたのが文さんだった。
烏天狗と名乗る彼女は最初は警告しに来たようだったのだが、どうやら新聞記者をやっているらしく、俺に取材したい事がある、との事である。
勿論後ろ暗い事があるでもない俺はそれを承諾し、文さんの取材に答えていた。
のだが。

「なるほどなるほど……。うーん、やっぱり記事にしかねる部分も多いですねぇ……」

 と、つぶやきつつ手帳に筆をやりながら、ちらりと流し目を送ってくる文さん。
その白いブラウスは汗でうっすらと透けており、中の体や下着が、僅かに見えてしまう。
恥ずかしくて視線を下の方にやると、今度は丈の短いスカートが風でふわふわとしているばかりか、高い頻度で足を擦り合わせるようにしていて、それが俺に甘い想像を喚起させる。
当然、初対面の女性相手に劣情を醸しだすなど許される筈もないので、俺は視線を足元にやるのだが、その度に文さんが何かしら声をかけてくるのだ。
勿論俯いたまま人の話を聞くと言うのも失礼に当たるので、俺はとりあえず文さんの首から上に集中して見るようにする。
すると文さんは少し前屈みになって、上目遣いに言葉を発するのだが、角度的に大きく開けた胸元の肌色が見えてしまい、再び俺の劣情が誘われる次第であった。
最早どうすればいのかも分からず、内心半泣きである。
よもや誘っているのでは、と都合の良い考えが頭を過るものの、何せ相手は、俺なのである。
人間関係を作るのが下手なばかりか、宴会一つまで沈黙させてしまうような、つまらない男なのである。
そんな筈はある訳がなく、己の劣情を女性の所為にしてしまう自分の醜さに吐き気を感じながら、俺は幻想郷に来てからのこれまでを喋っていた。

「まぁでも、参考になりました、色々と」

 ぱたん、と音を立てながら手帳を閉じ、文さんは言った。
これで終わりか、と思うと、思わず俺はほっと溜息をついてしまう。
知り合いが女性ばかりなのである、もっと劣情を抑えられなければ、と言う課題ができてしまったものの、当面の問題は終わったかに見えたからであった。
にっこりと、微笑む文さん。
この人の為になれたのならよかった、と思える素晴らしい笑顔で、何にせよ俺は彼女の取材に答えられて良かった、と、そう思った矢先であった。
とん、と、腕に柔らかい感覚。
一瞬何が起こったのか飲み込めず、目を丸くする俺。
気づけば文さんが、俺の腕に抱きついていた。

「さ、じゃあ行きましょうか」
「え、な、なんですか、えっと、何なんですか!?」
「くす、取材協力のお礼ですよ、お・れ・い」

 言って、文さんはすっと俺の目を見る。
思わず、俺も文さんの顔に視線をやると、ぺろり、と文さんが自身の唇を舐めた。
唾液で桃色の唇が怪しく輝き、す、と少しだけ突き出されたような気がする。
俺の腕を抱きしめる力が強くなり、文さんの胸がより強く押し付けられた。
互いの吐く息が感じられる程に顔が近くなってゆき、ぞくりと、背筋を妖しい感覚が伝う。
足と足の間に文さんの足が差し込まれ、俺の足が太腿に挟まれた。
ちろり、と、再び文さんの赤い舌が唇を舐める。
思わず生唾を飲み込む俺。
もうくっついてしまうのではないか、と思うほど顔が近くなった瞬間、にかっ、と文さんが笑った。
目を白黒させる俺を尻目に、文さんは体を離し、楽しそうに言う。

「へ? あ、え?」
「あれー、あれー、今権兵衛さん、えっちな事想像しちゃいました?
悪い子ですねー、もう権兵衛さんったらぁ」
「い、いや」

 と、思わず俺は言い訳してしまう。

「いや、その、し、仕方ないじゃあないですか。その、だって……」
「あややぁ? 何が仕方なかったんですかねぇ? 言葉できちんと説明してくれませんか?」

 思わず、俺は息を飲んだ。
と言うのも、俺は言葉で説明できない程破廉恥な思いを抱いていたからである。
思わず顔を真っ赤にして、俯いてしまう俺。
しかし聞かれたからには答えねば、という風に頭が回ってしまい、そのように口が動く。

「そ、その、抱きつかれて、む、胸が当たってですね。
それに、文さんの唇が、すぐ近くにあって、お互いの息が分かるぐらいで。
ただでさえ見目麗しいのに、そんなに近くな上、なんだか良い匂いまでしちゃって。
あ、あと、その、文さんの太腿で、俺の足を挟むようにされて。
それで……」
「す、ストップです、ストップ!」

 と、今にも爆発しそうな頭の中身をそのまま吐き出していると、文さんから止めが入った。
どうしたものか、と文さんの方を見やると、文さんもまた顔を真っ赤にして、俯いている。

「も、もう、ちょっとからかっただけなのに、そんなに赤裸々に語られるなんて……、こっちまで恥ずかしくなってきちゃうじゃないですか」
「あ、は、はい、ごめんなさい……」
「もう、本当に素直で正直なんですねぇ……」

 万感の思いを吐き出すように溜息をつくと、まだ少し赤い顔のまま、俺に顔を向ける文さん。
俺もまた、顔が熱いままで文さんと向きあうのだが、これがまた恥ずかしく、何も口にする事ができない。
それは文さんも同じだったようで、お互い真っ赤な顔を突き合わせながら、俺たちは暫くの間じっと立っているのであった。
――口火を切ったのは、文さんの方だった。

「ご、ごほん。で、お礼なんですけれど、権兵衛さん、見るに秋の実りを探していたんですよね?
この辺の、妖怪の山の陣地と被らない、秋の実りの場所を教えてあげますよ」
「あ、ありがとうございます」

 思わずどもりながらの返答になってしまうが、それはあちらも同じようで、まだまだ顔の熱に釣られて舌が回っていないようである。
とまぁ、そんな感じにお互い顔を赤くしたまま、俺は文さんの先導で秋の実りの収穫へと足を延ばす事になるのであった。



 ***



 文さんの情報は、仔細であった。
栗はあそこがいい、キノコは今の時期ならこのあたりの林のこんなキノコ、あの辺りはクルミが密生していて、魚はこの川が妖怪の山からの本流を多く汲んでいて多い、と。
それらの情報を実際に現地にまで出向いて教えてくれるのである。
それも上空から見た目印なども添えて教えてくれるので、迷った時は空に浮かべば万全、と言う次第である。
かゆいところに手が届く素晴らしい情報であるのだが、唯一困る事と言えば。

「次は野生のりんごが取れる所にでも案内しましょうかね」
「は、はい……」

 思わず真っ赤になりながら俯く俺の脇下から俺を抱きしめる、文さんの腕。
そう、俺が文さんに抱かれたまま空を飛んでいる事であった。
事の起こりは、こうである。
最初の場所まで案内しようと空を飛ぶ文さんに、俺も月の魔力を使って空を飛んで追いかけたのだが、いかんせん昼間である、然程速度も出ず、文さんには及ぶべくもなかった。
当然差は開くばかりで、一度などはぐれそうになってしまったぐらいである。
ならば文さんに待ってもらえばいいと言う話になるのだが、かと言って文さんも暇では無いし、第一遅い相手を待つのはストレスだ。
そこで、と文さんが切りだしてきたのが、この抱っこしながら飛ぶ形態であった。
勿論恥ずかしさの余り、俺は一度は断ろうとは思ったのだが、ただでさえ文さんの好意に甘えている状態である。
これ以上我侭を重ねるのは如何なものかと思い、断腸の思いで承諾したのだが。

 恥ずかしかった。
当たり前だが、恥ずかしかった。
子供のように抱き抱えられていると言うのが恥ずかしいのは勿論だが、すっかり忘れていた事に、後ろから抱きしめられると言う事は、その、文さんの胸が背に当たると言う事であって。
寸前まで破廉恥な思いを抱いていた俺は、文さんの胸の感触に、思わず再び劣情を催してしまったのだった。
とりあえず俺一人では不可能な凄まじい風切り音や、眼下の光景の飛び行く速度を楽しんで紛らわせようとしたものの、ふと気づくと俺はいやらしい事を考えてしまう。
文さんはきっと純粋な気持ちで抱きしめる事を申し出たに違いないと言うのに、俺と言えば、とんだ下衆であった。
低劣であった。
犬畜生であった。
あまりの己の醜さに吐き気を覚え、それを必死に隠そうとしている様も、往生際が悪く、下劣である。
勿論文さんに醜い物を見る思いをさせたくは無かったと言う思いもあったのだが、俺は既に限界だった。
最早これ以上己の醜さを覆い隠す卑劣を続けてはいられなかった。
本当に自身より文さんの事を思うのならば、それを飲み下してもそんな事実があった事を隠し、この出会いを悪い物と思わせずに居ただろうに、と思うと、更に身が引き裂かれる思いであったのだが、俺は耐え切れなかったのである。
そんな事を思ううちに、文さんはりんご林の辺りに降りてから俺を離し、手で仕草を加えてりんごが虫食いではないかどうか確認する術を説明する。

「こうやって、軽く妖力……権兵衛さんなら月の魔力ですか、それを通すと、なんて言うか、虫食いには均一じゃあない部分があるんですよ。
勿論自然のりんごが全て均一と言う訳じゃあ無いのですが、まぁ何というか、抜けている部分があると言うか。
どうです? こっちが大丈夫な奴で、こっちが虫食いです」
「はい、ちょっと試してみますね」

 と、そんな風にりんごについての様々な方法を試してみた後、文さんがじゃあ次行きますよ、と言いつつ俺の背に抱きつく。
俺はその手をやんわりと留めて、文さんの方に向き直った。
きょとん、とする文さん。
これから俺の言でその顔が崩れてしまうのかと思うと、今にも崩れ落ちそうなぐらいに体から力が抜けていってしまうが、俺はどうにか体に力を保ち、彼女に向きあう。

「その、文さん。ちょっと突拍子も無い事なのですが、少々聞いてはくれないでしょうか」
「へ? 何ですか?」

 小さく可愛らしい仕草で首を傾げる文さん。
対し俺は、自身の汚らわしさを実感させられ、更にぞっとさせられる事になる。
あまりの悪寒に気を失いそうになるのを、口内を噛み切りどうにか俺は耐え切った。
深く、息を吸う。

「その、空を、文さんに抱かれて飛ぶ事についてなのですが――。
申し訳、ありませんでした。
文さんは、純粋にその方が時間がかからないだろうと、親切で言ってくださったと言うのに。
だと言うのに、俺は、俺は……」

 吐いた息を、飲み込む。
まるで反吐を飲み干したような、重い味の空気だった。
喉の奥がヒリヒリと痛み、内蔵は重く、まるで重しが引っ掛けられているかのよう。

「俺は、文さんに欲情してしまっていたのです」

 ついに俺は言い切った。
こんどこそ侮蔑の目で見られているだろうと思うと、頭を殴られたかのような衝撃が脳内に響く。
想像でさえこうなのである、実際の文さんの目で見られる覚悟ができず、俺は視線を足元にやったまま続けた。

「文さんに抱かれて、飛ぶ時。
その距離の近さや当たる胸に、俺は劣情を催してしまったのです。
文さんの純粋な優しさによる物に、俺はよりによって、興奮を、してしまいました。
なんとも、度し難い事に。
こんな無粋な事を教えるのも如何とも思い伝えるか迷いましたが、文さんがそんな汚い事に犯されているのに耐え切れずにいまして」

 言って、俺は膝をつく。
そのまま腰を曲げ、土下座の形を取った。

「本当に、申し訳ありませんでした……!」

 言うまでもなく、本当に申し訳ない事であった。
文さんが烏天狗と言う人外であるのは承知の上だが、女性であると言うのも同じ事。
女性であれば、普通俺のような見窄らしい男に興奮されて、嫌な気分しか起こらない事だろう。
本当に、申し訳ない事をした。
土下座だけでは、その罪を償いきれる物ではあるまい。
よって俺は暫く頭を下げた後、腰をあげるのだが、その際に文さんと目が合う。
何故か頬が赤く、動揺した様子だった。

「えっと、あの、権兵衛さん? いえその別にですね、私は何というか、そのですね……」
「この罪、土下座だけでは相殺しきれぬ物でしょう。
この上は、命ばかりは残しますものの、腹を切って詫びたいと思います」
「えぇ腹切りなんて、そこまでしなくともって、はぁ!? 切腹!?」

 驚いた様子の文さん。
それに腹切りですら済ませられないほどの罪では無かったと悟り、内心安堵しつつ、右手で握りこぶしを作り、へその垂直線上の宙に置く。
次いで、月の魔力を収束。
刃を形成し、丁度右手で逆手に短刀を持つ形とする。

「では、御免」
「いや御免じゃなくってっ!」

 と、寸暇も無く文さんの風が俺の右手を襲い、月の魔力の短刀を弾き飛ばす。
思わず目をぱちくりとしてしまう俺に、いきり立つ文さん。

「切腹だなんて、何を考えているのよ!? 妖怪の私が言うのも難だけど、命を粗末にしちゃ駄目じゃないっ!」
「い、いえ、先ほども言いましたが、命までとは。
矢張り自ら命を断つと言う事は、最早恩を返せないままとなる恩知らずでありますし、致しません。
ただ一応最近転移の術を覚えたので、それと併用すれば、腹を斬った後で永遠亭まで飛ぶ事もでき。
そして土下座以上の謝り方と言えば、切腹しか思いつかなかったので……」
「いえ、土下座以上も何も、私は土下座もいらなかったんだけど……」
「へ?」

 思わず、間抜けな声を出してしまう俺。
土下座すらいらなかったとは、一体どういう事なのだろうか。
文さんは、俺に欲情されて気持ち悪がっていたのではなかろうか。
どうしたものか、と内心首を傾げ、すぐに俺は気づく。
何ということか。
あまりの文さんの心の広さに、俺はぽろりと、涙を零してしまった。

「文、さん……」
「って、え? な、何で泣いてるの? わ、私は普通にしてただけなのに……」
「感服致しました」
「はぁ?」

 首を傾げる文さんに、更に俺の心は感心で満ちてゆく。
同時、俺の行為が余りに急激で、文さんの言動を待つ事が無かった事に、自己嫌悪の念が湧いた。
何時だったか、折角霊夢さんに他人の忠告と気にするように、と言われたのに、全く成長の見られない所など、反吐が出そうだった。
が、それはともかくとして。

「よもや文さんが、見窄らしい男が欲情するのをすら許す程、心の広い方だとは。
それを俺は推し量れず、それであるならせめて伺いを立てるべきだったのに、何も聞かずに土下座から切腹へとは。
文さんの心の広さに比し、何と俺の視野の狭い事か。
改めまして、申し訳ありませんでした」
「は、はぁ……そ、そっか」

 と、俺の謝罪を受け入れてくれる文さん。
それに心から感謝しつつ、俺は立ち上がり、霊夢さんから頂いた着物についた土埃を軽く払う。
すると、文さんは何やらブツブツと呟いてからふと頭を上げ、何かを話そうと言う気概を発した。
思わずこちらも姿勢を正し、聞く耳を持つ。

「その、権兵衛さん。
私はね、貴方が私に欲情したって聞いて、その、別に嫌な思いをした訳じゃなくてね、その……」

 と、そこで途切れる文さんの言葉。
どうしたものかと文さんを見やると、視線が俺から外れ、後ろの風景に行っているのが分かる。
その先を辿ってみると、空を移動する霧の集まりがうっすらと見て取れた。

「あぁ、霧ですか? 最近寒くなってきたからですかね、家の近くにはよく霧が出るようになりまして、丁度あんな感じかな」
「時間切れ、かぁ」

 と、そこで文さんが何かを呟いたのだが、あまりに小さい声で聞き取れなかった。
何かあったのか、と視線を再び文さんに戻すと、にっこりとした笑顔で、ぴん、と人差し指を立てられる。
丁寧語に戻った口調で、話しかける文さん。

「さて、権兵衛さん。今日の所は時間が無くなってしまったので、これで案内は終わらせてもらいます。
ですが、実を言うと、権兵衛さんに聞きたい事はまだまだあるのです。
そこで、そうですね、また妖怪の山近辺に来ていただいて、恐らくは白狼天狗が応対するでしょうが、その時私の名前を出してもらえば、取り次いでもらえるようにしておきます。
なのでまた取材をさせてくれるのであれば、その時また秋の実りやら、冬でも手に入る食材についてもお教えしましょう」
「本当ですかっ。 助かりますっ!」

 と言うのは本当に助かる事で、俺といえば、今のところ冬に食材を手に入れる方法に目処が立たず、また、初めての越冬に不安を感じてもいたのである。
思わず文さんに一歩二歩と近づき、差し出されている手を思わず両手で握り、感謝の意を示す。
と言っても、先ほどまで文さんに欲情していた、と白状した男の両手である、慌てて手を離すと、恥ずかしそうだったり、残念そうだったりと様々に色を変える表情で、文さんはそれを見やった。
はて、どうしたものだろうか、と首を傾げる俺を他所に、こほんと咳払いを一つ、文さんは軽く地面を蹴り、宙に上がる。

「では、権兵衛さん、またよろしくっ!」
「はい、またよろしくお願いしますっ!」

 ぴっ、と軽く敬礼をして去る文さんに、こちらは頭を下げて応対。
ごう、と風の音がしたかと思うと、すぐさま点のようになる程遠くへ飛んでいった文さんに、俺は思わず頬を緩める。
素晴らしい出会いであった。
俺の性格的な反省点が浮き彫りにされた、と言う実利的な部分ばかりではなく、これ程に懐の深い人に出会えると言うのは、それだけで心温まり幸運である。
今日はなんと運の良い日だったのだろう。
俺は思わず鼻歌を歌いながら、俺もまた空へと飛び出し、自宅と言うにはまだまだ馴染みきっていない豪勢な屋敷に戻る事にしたのだった。



 ***



 で、一週間程経過した。
いよいよ上にもう一枚羽織りたいぐらいの気温になってきて、着物が二枚交互に着るだけしかない俺は、常に断熱結界で温まりながら行動するぐらいになってくる頃。
丁度、文さんと出会った日のように、珍しく霧も見えず、家の周りの向日葵も首をこっちに向けない、そんな日の事であった。
久しぶりにぽっかりと空いた時間ができてしまった俺は、文さんに再び取材を受ける為に妖怪の山の麓へと出向いていた。
ごくりと、思わず生唾を飲む。
文さんによると、ここを超えた時にやってくるのは白狼天狗と言う同じ天狗でも違い種族だそうだ。
白狼天狗。
確か狼が年を経て、嘴と翼を得た天狗、だったろうか。
勿論烏天狗の文さんが翼を持たないので、白狼天狗も嘴も翼も無いのは想像できるが、しかし実際に嘴と翼のある狼を思い描いてみると、これがどうしてなかなか上手く行かない。
何せ狼に鳥の特徴をつけるのだ、異種混合もいい所だろう。
はて、果たして伝説通りの姿であればどんな妖怪なのだろう、想像できはしないけれど、いや、人間の恐れの現れたる妖怪であるのに想像できないからこそ、彼女たちは誰にでも想像できる少女の姿をしているのか、などと思いながら歩いていた所。

「そこの人間、立ち止まれっ!」

 少女特有の、甲高い声。
声の方向に振り向くと、嘴と翼を持たぬ少女が飛び降りてくる所で、あぁなるほど、矢張り少女なのだなと思うと同時、俺は少女の頭にそれを見つける。
犬耳。
犬耳であった。
一体何がどうなったのだろう、と口から魂が抜け出そうになるのを感じるが、よくよく考えれば今まで出会った妖怪少女達と似たような物である。
気を取り直して、俺は彼女に向き直る。
白髪赤眼の少女であり、そう見えぬ証拠たる両耳はあるべき所が髪の毛で隠れており、代わりに頭のハチの辺りに、なんだかもふもふとした犬の耳を生やしている。
さて、人と出会った時最初に何をすべきか。
妖夢さんとの恥ずかしい初対面の体験から、俺はとりあえず自己紹介と答える。
それは事実なのだろうが、お互い顔を合わせるのも後数度も無いだろうと言う思いであり、更に向こうからは俺を警戒しているとなると、話は違うだろう。
俺は単刀直入に本題を知らせる事にした。

「その、すいません。お願いしたい事があってここまでやってきたのですが、よろしいでしょうか?」
「何? どういう事だ?」
「俺は烏天狗の射命丸文さんと知り合いでして、実は彼女から、暇な時にここまで取材を受けに来て欲しいと乞われていまして。
俺も彼女に報酬としていただける秋の実りやら冬でも取れる食物やらの知識が欲しい物で、ここまでやって参りました」

 と言うと、一瞬困ったような表情で中空に視線を逸らし、考え込む様子の白狼天狗さん。
とりあえず、といった様子で、彼女は頭を掻きながらてこてこと近づいてくる。

「えぇと、うーん、あいつの取次? いやだなぁ、なんか。
えーと、私は白狼天狗の犬走椛って言うんだけど、貴方は?」
「あ、はい。そっか、取り次いでもらうのに名乗らないとは、俺もうっかりしていましたね。
俺は、人間の七篠権兵衛。幻想入りして以来、この名を名乗らせていただいています」
「ななしの、ごんべえ?」

 頬に手をやり、頭を傾かせながら、オウム返しに聞く犬走さん。
はい、と頷き、俺は自身が名を亡くしている事を伝える。

「へぇ、そうなんだ。
随分大変な目にあったでしょう」
「えぇまぁ、相応に。
俺が今まで出会ってきた皆さんに力を貸して頂けなければ、間違いなく超えられなかった程度には」

 というと、なんだか俺の言う事に犬走さんは興味を持ったようで、軽く目を輝かせながら、ぐっと両手で握りこぶしを作りながら近づいてきた。
わりと凄い勢いで来たので、思わず半歩、下がってしまう。

「ねぇねぇ、どんな大変な目にあったのか、少し聞いてみてもいいかしら。
私は文と違って別に新聞作りをする訳じゃあないんだけど、ちょっと興味があるんだけど。
そうね、話してくれたら文に取り次いであげる、って事にしようかしら」
「えっと、でしたら守ってほしい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「何々?」

 何故か喜色満面になる犬走さん。
勿論守ってほしい事とは、つまり相手を束縛する事柄である。
当然耳に良い話では無い筈なのだが、彼女は何故かわくわくとした表情をする上、ちょっと前のめりになった姿勢から見える尻尾が、ふりふりと動いているのが見える。
別に悪い事をしていない筈なのに、なんだか悪い事をしてしまったような気分になりつつ、俺は口を開いた。

「文さんは俺の事を新聞記事にする為に取材していると言っており、そして記事ができたら俺にも配達してくれると言っていた事から、まだ記事が発行されていないのは明白です。
となると、犬走さんが知った俺についての話は、口外しないで欲しいのです。
門外漢である俺ですが、新聞記事が既知の事であるかどうかが、その記事の面白さに大きく影響する事ぐらいは知っています。
ですからどうか、お願いできないでしょうか」

 と言うと、途端に犬走さんは顔を歪め、ぎりりと歯軋りする音まで聞こえてくる。
怒気がすぐ近くにいる俺を包んだが、それは一瞬で、背筋の凍るような感覚はすぐに薄れた。
代わりにブツブツと、顔に影が出来るほど俯いて小さな声で喋り、どうしたものか、と思うが早いか、ぱっと顔を上げる。
犬走さんの目は、どろどろに濁っていた。
まるで赤いコンクリートの海を無理矢理混ぜた後のようで、波が形を残したままそこに留まっており、その飛沫さえもが停止し、その上からまたぐちゃりと混ぜられ、兎に角グチャグチャになっていた。
俺は、犬走さんから俺へと、手が伸びてくるのを感じる。
手は真っ赤で、それであぁ、犬走さんの目は赤いコンクリートではなく赤い固まりやすいペンキだったのだな、と思ったのだが、兎に角それは肘までしか無かった。
肘までしか無い手が数本にょきっと犬走さんの瞳から生えてきて、互いにぐるぐると三つ編みを複雑にしたように絡み合い、その先で手が握り締められている。
そこは次の肘を握っており、そうなのかと思った次の瞬間、すっと何処からか現れた手が踊るように絡み合い、またすっと何かを握る形をつくり、そしてそこの先には肘がある、その繰り返しであった。
俺はその場に貼りつけられたかのように動けない。
にょきにょきと伸びてくる手は次第に俺の顔の手前までたどり着き、すると今度現れた赤い手達はそっと俺の頭を囲い込む。
真っ赤になった視界に、俺は一度眼を閉じてみる。
開く。
寸前と同じ、不機嫌でどろっとした瞳の犬走さんが、俺を睨みつけていた。
何故かぞ、と、背筋を冷たい汗が這う。

「まぁ仕方ないけどね」
「え――?」

 言う犬走さんの顔は何処か寂しそうで、俺は思わず手を伸ばしてしまうが、しかし俺は犬走さんをないがしろにしていたつもりはなく、何を言えばいいのかも分からない。
自然、伸ばした手は徐々に力をなくし、垂れ下がっていった。
それに更に寂しそうな顔をする犬走さんであったが、ぶるん、と顔を振ると、その寂しさを明るさで上塗りした笑顔が作られる。
空元気を誘わせてしまった自身への苛立ちから、やりきれない思いの俺に、犬走さんは提案した。

「いいわ。じゃあそうね、わざわざあいつの使いっ走りなんてするのも癪だし、弾幕ごっこで勝ったら文を連れてきてあげる。これでどう?」
「う。だ、弾幕ごっこですか……」
「何、嫌なの?」

 実を言えば俺は、弾幕ごっこを不得意としていた。
いや、別に月の魔力の扱いに関しても俺は熟練者とは言いがたく、その辺の妖怪よりは上と言う程度なのだが、群を抜いて実戦は苦手であった。
というのは、俺は兎も角経験不足なのだ。
近くの妖精は俺に好意的である妖精ばかりだし、故に腕を磨く相手はちょっと遠出した時の妖怪相手なのだが、その妖怪と戦う機会が無いのだ。
いや、会う機会こそあるにはある。
なのだが、その度に流れ弾だったりなんだりが飛んできたり、散歩中の知り合いの女性と出会っていて妖怪が一蹴されたりと、なかなか戦いにまで至る事が無いのだ。
かと言って知り合いに弾幕ごっこの練習の相手をして欲しい、と言っても、危ないから駄目と念押しされるばかりである。
なので俺の実戦経験らしい物と言えば、幽香さんの花畑を守った時の、防戦一方の戦いしか無い。
正直言って、全く自信は無かった。
なので出来れば他の方法をと言いたい所なのだが、何やら犬走さんを不愉快にさせてしまった俺が、これ以上彼女の提案を断ると言うのも気が引ける。
何、負けても文さんにはまた会いにくればいいさ、と思い、俺は承諾の返事を返す。

「いえ、それでいいです」
「そう? じゃあ使用スペルカードは2枚、行くわよっ!」

 叫ぶと同時、膝を折る犬走さん。
直後、弾丸とかした犬走さんが直上へと解き放たれた。
ぶわああぁつ、と風を放射状にまき散らしながら昇ってゆく彼女に一歩遅れ、俺もまた月の魔力で加速し、空中へ踊り出る。

 まず始まったのは、通常弾幕による牽制のしあいであった。
犬走さんは、青い小粒の弾幕をばらまきつつ、青い中ぐらいの大きさの珠で作った、「の」の字のような大きな弾幕を放ってくる。
「の」の字の方を避けるのに集中していると小粒の弾幕に当たりそうになってかなり厄介であり、また、「の」の方も形を作りながら迫ってくるので、目の前になるまで射線上に居ると分かりづらく、慌てて高速で避ける時もあった。
対してこちらが放つのは、黄色い小粒で小さな円を作った弾幕と、黄色い中くらいの珠で作った大きさの円を作った弾幕で、丁度相手の前で月とクレーターのように重なるように放つ弾幕である。
しかし密度が足りないからか、それとも矢張り経験の差か。
犬走さんは安々と俺の弾幕を避けるのに対し、俺は必死で避けている次第で、何発もカスって服を持って行かれる事があった。
非殺傷弾幕独特の、ビリビリと痺れるような感じを肌に感じつつ、俺は仕方無しにカードを掲げて宣言する。

 月札「ムーンクロスレーザー」

 月を模した巨大な黄色い月弾幕が四方に発射、×印を描くようにレーザをその間に放ちつつ移動。
左右か上下に月弾幕が入れ替わり消えてゆく、という大仕掛の合間に、一端出てから戻ってくる小粒の弾幕を、全方位に発射する。
左右端か上下端でしか避けれず、しかも交互にその場所を移動しなければならないと言う、相手の避ける場所を制限する弾幕である。
最初の一巡はなんとか避けきった犬走さんであるが、第二波が今度は左右ではなく上下に動くのに気づかずハマってしまい、舌打ちと共にカードを取り出し、宣言。

 狗札「レイビーズバイト」

 強烈な妖力が解放、俺の弾幕を撒き散らしながら、縦長の中弾が俺の上下に形成。
赤い弾幕の歯茎に黄色い弾幕の歯を形作り、上下から一気に迫ってくる。
中々の速度であり、服にカスってしまいつつも、観測結界で先読みしていた俺は第一波をどうにか避けきった。
すると俺は、その噛みあわせが完全ではなく、避けきれる場所があるのを発見する。
となると今度は歯弾幕と歯弾幕との間にどうやって体を滑り込ませるかの話になり、そうなると、内なる力に干渉する月の魔力を持つ俺は、得手であった。
格上相手に干渉まではできなくとも観測はでき、顕になる前の犬走さんの妖力を感じ取り、その凸凹の凹の部分に体を隠してゆくと、時間切れまで粘り勝ちでき、スペルカード撃破と相成った。
にしても、スペルカードだから弾幕が強化されているのか、カスった所からは血が滲みでている。
と言っても非殺傷の範囲内ぐらいである、気のせいかと思いつつ俺は、次なるスペルカードを用いて、一気に形勢を詰めてゆく。

 月光「月夜の振幅の増幅」

 白い中弾で作った心電図のような線が、上下の揺れを規則的に強くしつつ犬走さんを襲う。
その振幅が一気に大きくなった時、ついでに中弾から小粒をばらまいていく。
この小粒が速度の遅い物も混じっており、次第に弾が溜まってきて避けづらくなる弾幕である。
そこそこの自信作であったのだが、流石犬走さんもさるもので、四苦八苦し、突然大きくなる振幅に驚き何発かカスりつつも、何とか弾幕の間を縫ってスペルカード撃破となる。
と、当然ここで宣言スペルカードを使いきってしまった俺の勝ちは無くなり、後は何とか引き分けに持ち込むぐらいしかできない。
いや、先ほどもスペルカードを避けきったのだ、何とかなる、多分何とかなる、と自分に言い聞かせつつ、犬走さんのスペルカード宣言を聞く俺。

 山窩「エクスペリーズカナン」

 先の通常弾幕よりも更に巨大な、黄色い「の」の字弾幕である。
加えて赤い中くらいの粒弾が襲ってくるのを回避しつつ、「の」の字の飛んでこない所へ逃げる。
基本は最初の通常弾幕と同じであったので何とか対処できるが、矢張り難易度が段違いであった。
「の」の字の弾幕を避けようと大きく動いた際、赤い弾幕にカスってしまい、服が裂けるのが分かる。
と同時、ズキッ、と激しい痛みが傷を襲った。
激しい弾幕に晒されながらも何とか傷を見ると、真っ赤な血がポタポタとこぼれ落ちている。
驚きと共に、思わず俺は叫んだ。

「い、犬走さんっ! ストップ、弾幕が殺傷用になっていますよっ!」

 同時、ピタリと弾幕が止んだ。
犬走さんが凄まじい勢いで飛んできて、叫ぶ。

「だ、大丈夫!? 権兵衛っ!」

 これが本当に凄まじい勢いで飛んでくるものだから、俺がその風に飛ばされてしまうのではないかと思うぐらいだった。
思わず両手を十字にして風に耐え終えると、傷のある腕に触れる温度を感じる。
風のために閉じていた目を開くと、すぐ近くに犬走さんが居た。
それも息が触れんばかりの近距離であったため、思わず目を見開いてしまう。

「は、はい、その、ちょっと血が出ただけですから……」
「う、うん……」

 頷きつつも、俺の左腕を掴んで離さない犬走さん。
どうしたものかと思って見やると、犬走さんは何故かうっすらと頬を赤くしながら、俺の傷を見つめていた。
まるで酒にでも酔ったかのように、少しふらふらと頭が揺れる。

「え、えっと、大丈夫なんですけど、その、どうしたのでしょう?」
「いや、うん、そう、よね……」

 何やら歯切れ悪く言いつつ、俺の腕を手放す犬走さん。
その仕草もなんとなく名残惜しそうで、寂しげな物であった。
思わず俺が彼女を抱きしめようとすらしようとする寸前、犬走さんは頭に手をやりつつ、あはは、と朗らかに見せて笑った。

「いやー、ごめんごめん。まぁ、私にぎゅってされたし、役得だったと思って」
「は、はい。あぁ、思い出したらまた顔が赤くなってきちゃった」

 と、この場を深刻ではない空気にしてくれる犬走さんであったが、それでまた顔を赤くしてしまう、駄目な俺であった。
恥ずかしがる俺を他所に犬走さんはニヤニヤと笑みを浮かべ、下から覗き込むようにする。

「あらら、一体どんな事を思い出したのかしら?」
「えっと、その、文さんの事を」

 と言うと、俺は恥ずかしさの余り犬走さんから視線を外した。
あの時からまだ一週間、俺の記憶には色濃く文さんに向かってさらけ出した恥が残っている。

「さっきみたいに、文さんとも顔を近くにしてからかわれた事がありまして、思わずそれを思い出してしまって。
それに今の、上目遣いに聞いてくる言葉も、そういえば文さんも言ってたなぁ。
別に犬走さんと文さんで似ている所って言うのは無いんですけど、なんとなく仕草が被って。
そういう事ってありますよね……って」

 と言いつつ視線をやると、犬走さんは笑顔を浮かべる途中で顔が固まっていた。
いや、ばかりか全身が固まっており、瞬き一つせず、胸も上下しないので、呼吸しているのかも怪しいぐらいである。

「ど、どうしたんですか、犬走さんっ」

 慌てて声をかけるものの、返事はない。
どうしよう、どうしよう、とあたふたとするものの、何をすればいいのか思いつかず、内心泣きそうになりつつ慌てていると、犬走さんに動きがあった。
ふと、表情を動かしたと思い、俺が安堵の溜息をつこうかと思ったその瞬間である。
白い閃光が走ったかと思うと、犬走さんの右の手が、俺の左腕の傷口を掴んでいた。
思わず、痛みに呻く俺。

「なんで、文なのよ」
「うっ、ぐ……。犬走さん?」

 思わず聞き返すと同時、俯いていた犬走さんはぱっ、と顔を上げ、凄まじい怒気で俺を睨みつける。

「なんで、よりによって文なのよ。
あいつなんて! あいつなんて、ただの汚らわしいパパラッチだわ。
マスコミの正義がどうのとか、自由がどうのとか言いながら、あいつはその実興味本位だけなのよ!」
「っつ!」

 ぐぐ、と俺の腕を掴む力が強くなり、同時に鋭い爪が俺の腕に喰い込んだ。
ぞぷっ、と暖かな血が零れ出し、遠い地表へと落ちてゆく。

「それにあいつは、天狗らしさで見たって最悪よ。
自由とか言う言葉を盾にしてるけど、実際は天狗社会のはぐれ者よ!
確かに力は天狗の中でも強いけれど、それで烏天狗に収まっているのならいい笑いものだわっ!」
「い、痛……」

 俺の腕を掴む力は、徐々に増してゆく。
その力に際限が無いので、次第に切り傷だった腕の傷はぞぷぞぷと広がってゆき、神経を引っかかれるような痛みすら感じる。
そうまでされてしまえば、俺の取る対応と言えば、決まっている。
当然の如く、俺は残る右手で犬走さんの頭を抱きしめた。
ぴたり、と、俺の腕を掴む力の増加が止まる。
鼻に香る女性特有の匂いに、強ばっていた俺の顔が、僅かに緩んだ。

「犬走さん、申し訳ありませんでした。
どうやら俺が文さんの名前を出したのが、いけなかったようですね。
そしてもう一つ、申し訳ありませんでした。
貴方が文さんの名前一つでいきり立つほど追い詰められていた事に、気づけなくって。
貴方の寂しさに気づけなくって。
ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。
でも、そう思うからこそ、言いたい事もあるのです」

 ぶるぶると震え始める犬走さんの頭を、撫でる。
優しくやりたいものなのだが、脳裏に赤く過る痛みがそうさせてくれないのが口惜しいものである。
俺がもっと痛みに強ければ、と思うものの、そればかりはどうにもならず、拙い手付きで全力を尽くして犬走さんの頭を撫でる。

「どうか、俺の恩人を悪く言わないでください。
文さんとは一度しか会った事はありませんが、とても懐の広い優しい方であると言う事は分かっているのです。
そんな人を貶めるような物言いは、文さんばかりか、貴方にとっても悪果となって返ってくるやもしれません。
俺は、貴方の事も、心配なのです。
だからどうか、文さんの事を悪く言うのは止めてはくれませんか?」

 言い終えて、反応を待つ事になる俺。
対し犬走さんは微動だにせず、どういった反応を返すのか、全く分からなかった。
せめて俺に彼女の心を推し量れる力があれば、とは思うものの、それが無いからこの事態になっている訳で。
どうしようもなさに、ふと一瞬泣きたい気持ちになる。
今最も泣きたいのは犬走さんであると言うのに、なんと俺は堪え性がなく、貪欲なのか。
己の醜さに背筋に冷たい痺れが走るのを感じながら、俺は続ける。

「止められないのなら。
誰かを悪く言わなければ気が済まないと言うのなら。
ならばどうぞ、俺を悪く言ってください。
俺を罵ってください。
俺は、所詮は俺なのです。
どれだけ悪く言っても、それが善人を貶める事にはならないでしょう。
その口で誰かの心を裂かねばならないのなら、俺の心を裂いてください。
なぜなら、どうせ誰かの心が傷つけねばならないのなら、最も安い、俺の心こそが傷つくべきなのでしょうから」
「……んで」

 と、言い終えると同時、犬走さんの口から小さな声が漏れた。
同時、俺の体を残る左手で抱きしめ、頭を俺の胸に強く当てる。

「なんで、貴方なのよ」
「………………」
「わ、私、どうしちゃったんだろう。
貴方を見ていると、なんだか気が変になっちゃったみたいに、興奮してしまって……。
ほ、本当は、貴方の事を傷つけるつもりも無かった筈なのに、今も手を離せないでいて。
駄目、こうしていると、今にも貴方の腕を千切ってしまいそうなの。
ねぇお願い、私から離れて。
私、権兵衛を傷つけたくない。
ううん、傷つけたいからこうやっているのかな、分からない、両方なのよ。
どうにかなってしまいそう。
お願い、離れてっ!」

 言いつつも、犬走さんは震えた手で俺を抱きしめるままである。
俺もまた、止めていた手を動かし、再び犬走さんを撫で始めた。

「そんな事言って。
犬走さん、震えているし、泣いてもいるじゃあないですか。
俺には、そんな貴方を突き放すような事はできませんよ。
きっと俺のこの腕よりも、貴方の心の方が、ずっと価値がある。
だから俺は、腕が千切れるまで貴方を離しませんよ」

 ぴくり、と犬走さんが震える。
それから俺の腕の間から目だけ覗かせて、ぽつりと漏らす。
その目はどろどろとした赤色で、何処か俺に粘ついた血を思わせた。

「本当に?」
「えぇ、本当に。
まぁ本当は千切れても、と言いたかったのですが、生憎気を失わない自信が無くってですね」
「本当、なのね」

 口元が見えないので断言できないが、にやぁ、と犬走さんが笑ったような気がする。
まるで三日月が口元にできたかのような笑みに、俺は僅かに背筋を寒くした。
それから早口に、犬走さんが口走る。

「どうしよう本人も許しているし私は千切りたいしそれに私がおかしいのがこの人の所為なのは確かだし、でも嫌われたくないしやっぱり権兵衛さんの言う事が嘘かもしれないし、ううん違う権兵衛さんは嘘なんてつかないわだからいいのよ、きっとここで、権兵衛さんの腕を、腕を……」

 ごくり、と犬走さんが生唾を飲む音が聞こえた。
腕を掴む力が強くなり、視界が赤くなる激痛が俺を蝕む。
思わず叫び声を上げそうになるのを、歯が砕けんばかりに噛み締めて、やり過ごす。
一度痛みの波が引き、これでおしまいか、と思った、次の瞬間だった。

「っがぁああぁぁっ!?」

 絶叫。
絶叫。
絶叫。
喉が引き裂かれんばかりの絶叫を、俺はあげる。
同時、飛行する程の集中力が無くなってしまい、重力に身をまかせるままに俺は墜落してゆく事になった。
と、よくよく考えれば、このままいくと転落死である。
どうしてだろう、と、朦朧とした意識の中で俺は思う。
どうして俺は、こんな空高くで重力に捕まっても、大丈夫だと思っていたんだろうか。
そんな事も分からないままに、意識が暗くなってゆくのを、久しぶりに聞いた声が僅かに覆す。

「権兵衛さん! 大丈夫、権兵衛さんっ!」
「文……さん?」

 聞こえてきた声は、文さんの物であった。
同時、自分が文さんに抱き抱えられている事に気づき、それが俗にいうお姫様抱っこの形であるのを、少しだけ恥ずかしく思う。
しかしそれで、限界であった。
せめてもの言葉として、俺は辛うじてこれだけ口に出す事に成功する。

「文……さん。犬走さんは、悪く、な……」

 そしてその言葉に文さんがどう答えたのかも知らないまま、俺は意識をフェードアウトさせていった。



 ***



 そろそろ霜が降りてくる事もあるようになった頃。
枯れ木野山を一人、文は家路を早足で歩いている。
どうやら余程家に帰るのが待ちきれないようで、そわそわとしながらも、彼女は常に笑みを浮かべながら道を急いでいた。
と言うのも、文はここのところ家の中に楽しみがあり、家に篭もり気味で、外出も久々だったのである。
しかも詰まらない用事であった為、家に帰るのがわくわくとしているのだ。
そんなわくわくとした事について考えようと、文はこれまでの経緯について頭を巡らせる。

 文は権兵衛を助けた後、権兵衛からの取材で永遠亭と白玉楼との確執を理解していたので、まずは応急手当などの後に白玉楼へと向かった。
と言っても、幻想郷最速を誇る文の俊足である、大した時間をかけずに白玉楼にたどり着いた。
するとどうやら今回の椛と権兵衛の出来事はまだ知られていなかったらしく、幽々子が慌てる珍しい姿を拝見できたりしつつ、紫色の蝶を権兵衛につけてもらう。
永遠亭の月の主従が、余計な気を起こさない為の物である。
勿論ここで幽々子に余計な気を起こされても困る為、文は幽々子を威圧しつつ蝶をつけてもらい、それからその足で永遠亭に向かった。
こちらはどうやら権兵衛を見失った事に気づいていたらしく、やたら慌ただしかったが、それでも権兵衛を運んでくると即応し、すぐに彼の治療が始まった。
と言っても、流石の永琳でも、ただの人間の腕一本を、繋げるなら兎も角再生させるのは無理らしい。
文に激を飛ばして、事件現場に権兵衛の腕を肉片になっていたとしても見つけろ、と永琳は命令し、文もそれに従って権兵衛の腕を探したが、結局見つかる事は無かった。
とりあえず権兵衛の腕は千切れたまま、義手を探す事になったらしい。
らしいと言うのは、流石に今回の事で警戒度が増したのだろう、今度こそ権兵衛の周りは二重三重に警護がなされるようになった為だ。
今まで無かったのは、矢張り仲の悪さによる足の引っ張り合いを懸念してなのか、と思いつつ、文は一端権兵衛から手を引く事にする。

「まぁそれでも、油断している時なら二人っきりになれると分かった事は、収穫です」

 呟きつつ、文は内心から溢れでる笑みを浮かべ、くすりと微笑んだ。
そう、一度目、権兵衛と文が出会った時の警護の空きこそ偶然であったが、二度目、椛と権兵衛とが出会った今回の警護の空きは、文の意図するものであった。
“風を操る程度の能力”。
それは単に風を操るに留まらず風の噂を操る事もでき、それを応用して文は権兵衛の周囲の警護に関する情報伝達を掻き乱したのだ。
そこで権兵衛を来るのを楽しみにしながら待っていた文なのだが、気が逸って家で待つ事もできず、結局自分の足で権兵衛の姿を見に来た。
それが、結果的には良かった。
文を魅了した権兵衛の魅力は警邏の白狼天狗にすら通じるらしく、更によりにもよってそれが烏天狗を見下している椛であったので、物騒な事になっていたのだ。
椛の索敵範囲の外から見守っていた文は、風を操って音を運び二人の会話を聞いていたのだが、権兵衛が自分を庇ってくれた事に感動しているうちに、なんと椛が権兵衛の腕を千切ってしまったのである。
慌てて文は権兵衛が落下してすぐに駆けつけたが、彼を抱きしめる事は役得だったものの、それ以上の事は流石にできず、しかも当分の間は会えなくなってしまった。
ばかりか、文はその時反射的に本気で椛を攻撃してしまっていたのだ。
天狗社会において、同胞に対する本気の攻撃は、当然の如く禁止されている。
勿論たかが一度会っただけの人間を庇った程度の理由でそれが許される筈もなく、文は恐らくこれから天狗社会の裁判を受け、有罪になるだろう。
無論執行猶予はつくだろうが、それでもこの罪は文の天狗社会での身分に多大に影響するに違いない。
それでも文は、幸せだった。

「くふっ……く、かかっ」

 少女の体から発されたとは思えぬ笑い声が、文の口元から漏れる。
軽い歩みと共に文は家にたどり着き、戸を開けて家の中に入った。
これでもか、と言うほどに厳重に戸締りを確かめ、部屋の端にある机の鍵付きの引き出しを開ける。
それからその引き出した部分を下から押し上げ、浮いた隙間から中板を外し、二重底になった部分から木箱を取り出した。
部屋の中央に座り、文はそっとその木箱の蓋を開ける。
中にあったのは、権兵衛の左腕の骨であった。
当然の如く、文が応急手当と共に回収していた。

「あ、あぁあぁああぁっ!」

 数時間ぶりの対面に思わず感動の悲鳴を上げ、文は震える手を権兵衛の骨に伸ばす。
その白い滑らかで冷たい表面に触れる瞬間、甘い衝動が文を襲った。
思わず足の根元をすりあわせつつ、文はそっと権兵衛の骨を持ち上げる。
芸術的と言っていい程の、美しさであった。
感動の余り涙を流しながら、文はゆっくりと権兵衛の左腕の骨を抱きしめる。
丁度手のひらの辺りが顔面近くに来るようにし、本来なら手の甲があった場所を、文は鼻先に近づけた。
うっすらと甘い香りがし、それによって権兵衛に顔が近づけた時の記憶が蘇り、僅かに汗の匂いを含んだ、権兵衛の匂いが再生される。
体の芯に響くような匂いに、文は抱きしめている権兵衛の骨に、自身の乳房を押しつけた。
形を変え柔らかく権兵衛の骨を包みこむ乳房に、文は更に興奮する。
全身から汗が拭きでて、何時ぞやに権兵衛の目前でしていたのと同じぐらいに、服が透け、肌はてらてらと輝いていた。
思わず文は口先からちろりと下を伸ばし、権兵衛の骨を舐める。

「ん……んふぅ」

 艶めかしい声が、文の口から漏れた。
雷で打たれたような感覚が文を襲う。
ぴん、と文は一瞬体を張り詰めさせ、それから脱力しゆっくりと権兵衛の骨ごと横たわる。
顔面にあった権兵衛の手の甲を、自身の乳房で包むようにし、同時、権兵衛の骨の先端を股で挟みんだ。
甘い溜息と共に、文は再び自身の太腿を擦り合わせる。
合間にある権兵衛の骨が、文の肉を押しのけ、その存在を主張していた。

 こうやって文が権兵衛の骨を愛でるようになって、もう一週間以上が経つ。
文は寝食も忘れ、その他一切の行動を取る事もなく、ずっとこうやって権兵衛の骨を愛でてきた。
先ほどは天狗社会の裁判の為に仕方なく外出したのだが、こうやって帰ってきて会えなかった権兵衛の骨と再び会う感動を思い知ると、少しだけ外出したのも良かったかな、と思う程度である。
それでもやっぱり権兵衛の骨を愛でるのは文にとって至上の娯楽にして快楽であり、文は何時までとかどうとかそんな事を一切気にせず、ずっと権兵衛の骨を愛でてきた。
故に文は、幸せだった。
例え天狗社会でその地位を失おうとも、文は幸せだった。
例え寝食を忘れようとも、文は幸せだった。

 ただ一つ、文はどうしても想像してしまう。
なぜ、自分はもっと早く権兵衛と出会えなかったのか。
あの強力な人妖で組まれた連合が出来るより早く、いや、それでなくともせめて、鬼よりは早く。
そうだったら文は、こんな権兵衛の一部で自身を慰めるような真似をする必要は無くて良かったと言うのに。
そう思うと矢張り文の胸の中にすっと冷たい物が入り込んできて、だから文はもっと権兵衛の骨を抱きしめ、幸せになろうとした。
骨に手を這わせ、その感触を楽しみ、時には舌で濡らしたり、体で挟んだり、そうやって文は虚しさを埋め続ける。
何時しか感動以外の理由で文の両目から涙が流れだしていたが、それを指摘する人も居なかったので、文は知らずにずっと権兵衛の骨を愛で続けていた。




 今年中に完結と言って早速間が空いてしまいました。
次回もちょっと忙しい最中なので、更新が遅れるやもしれません。



[21873] 魔法の森
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/04/24 20:16


 アリス・マーガトロイドは孤独だった。
本人は全く気にしていないのだが、兎に角彼女は孤独だった。
なんと言っても興味が魔法にしかないし、他人との付き合いだって薄い。
自分より強い者には兎に角会わないように気をつけ、会っても目をつけられないよう必死である。
対し自分より弱い者には、わざわざ力量を合わせて戦ってやったりと、何処か突き放した態度を取っている。
唯一普段まともに人間関係を持つのは、同じ魔法使いの魔理沙やパチュリーとだけ。
それに魔理沙とは同じ収集癖を持つ者同士嫌いあっているし、他に誰もいないから異変の時に誘っているだけ。
パチュリーとは魔道書を交換したり魔法に関する話をするだけで、要するにパチュリー個人に興味があるのではなく、魔法に興味があるだけなのだ。
そんな風に、アリスは常に孤独だった。

 今日もアリスは、一人で黙々と魔法の研究をしている。
香霖堂から手に入った魔道書の類と思わしき分厚い本を捲り、その文字に目を通してゆく。
時たま何か思いついたと思うとメモを取ったり、少し人形を動かして試してみたり、紅茶が無くなったら人形を使って淹れたり、それぐらいの動きしか無いまま数時間が過ぎた。
最近は巨大人形を作ったりと新しい試みにも手を出しているアリスだが、新しい試みには新しい発想が必要である。
新しさといえばどうしたって幻想郷より外の世界の方が新しく、そして外の世界の物と言えば、香霖堂で手に入るガラクタであった。
その中でそれらしい物を選んで読んでみたのだが、無駄骨だったようである。
内心溜息をつきながら、アリスがふと視線を窓の外にやると、雲行きが怪しい。
数時間前は日差しが強く、魔法の森にしては乾燥した空気だったので人形を陰干ししていたのだが、これは片付けねばなるまいか。
そう思ってアリスは本を片付け、外に出る。
本を読み始める前のカラッとした空気は何処へやら、外に出るや否や、ぽつ、とアリスの元へと、一粒の雨がこぼれ落ちてきた。
これは急いで人形を取り込まねばなるまい。
そう考え、操った人形に他の人形を持たせ、とっとこと家の中に入らせているうちに、雨は次第にぽつぽつと落ち始めてくるが、人形の大凡は殆ど濡れずに家の中に入った。
何とか間に合ったか、と内心安堵の溜息をつきながら、ふと視線を感じてアリスが振り向くと、そこには人間の男が居た。
目があってしまい、思わず、お互い妙な顔を作る。
奇妙な沈黙が流れた。
口火を切ろうと、アリスが口を開こうとする。

「「えっと」」

 しかし声は、互いに輪唱してしまった。
またもやお互い遠慮してしまい、相手から言うのを待とうと言う気配となる。
なんなのだろうか、この人間は、と、アリスは内心呟いた。
まず魔法の森に人間が迷いこむ、と言うのも珍しい話である。
結界を張るなりしなければ森の瘴気にやられて体を壊してしまうので、大体入ってしまった人間は反射的にこれはまずいと、逃げ始めるのだ。
なので中で迷ってしまう可能性は然程高くなく、かと言って迷ってしまったなら瘴気に体力を奪われ、奥地にあるアリスの家まで辿りつける者は少ない。
そうやって来れるにしても、間違いなく体調を崩している筈である。
だのにこの男とくれば、肌の色艶は悪くないし、唇も赤味を失っておらず、息も切れていない。
一体何なのだろうか、と、もう一度内心で呟くと同時、雨も強まってきたので、もう一度アリスは口を開く。

「「その」」

 またしても、声は輪唱してしまった。
こうまで来ると、なんだか笑いがこみ上げてきて、アリスはくすり、と笑ってしまう。
まるで示し合わせて同じタイミングで声を上げたかのようで、なんだか滑稽で面白かったのである。
対して男は顔を赤くして俯いており、今度こそ暫く口を開く様子は無い。
それを確認してから、アリスは続けて口を開く。

「とりあえず、雨脚も強まってきた所だし、家に入って話さないかしら?」
「は、はい。その、よろしいんですか?」

 と、遠慮がちに言う男に、アリスは肩をすくめた。

「森で迷った人間を一晩泊める事ぐらい、よくある事よ。雨宿りぐらいどうって事ないわ」

 とまぁ、そんな訳で、男はアリスの家に雨宿りする次第になったのであった。



 ***



 男は七篠権兵衛と名乗った。
奇妙な名であるが、幻想入りする際に記憶を失った外来人らしく、自分でそうつけたのだそうだ。
その辺りはどうでもいいが、その後なんでこんな所に居たのか聞いてみた所、アリスにとって興味深い話が聞けた。
何でも権兵衛は、月に関する魔法を扱う、魔法使い見習いらしい。
しかも師匠は、あの蓬莱山輝夜なのだと言う。
なんとも師匠役の似合わなさそうな輝夜であるのだが、それでも結構権兵衛にとっては良い師らしく、現在ではそこそこ魔法が使えるようになっているらしい。
具体的に言うと、魔法の森の素材を扱って、魔法を作る段階に入るぐらいに、である。
そう、権兵衛は魔法の森に、魔法の素材集めに来ていたのだった。
当然魔法を使えるのだから結界を張って森の瘴気は遮断しており、それで体調も悪そうに見えなかったのか、と、アリスは一人納得した。
そして暫く聞き手に徹していたアリスは、口を開く。

「そうね。色々聞いてみたい事はあるけど、まずは一つ、教えましょう。
貴方の師匠はどうしてか教えていないみたいだけど、貴方の使う魔法は、厳密に言えば魔法じゃないのよ」
「へ?」

 思わず、と言った権兵衛が目を見開くのを眺めながら、アリスは紅茶を一口喉を潤す。
折角雨宿りさせてもらっているのだから、と茶を淹れるのを買ってでた権兵衛の淹れた物であるが、何処か透明な感じの味がし、心地良い味であった。

「私たち魔法使いの言う魔法と言うのは、かつて月人が古代に使っていた力の、コピーなのよ。
そして貴方の使っている自称魔法も同じ古代の力をルーツに持っているんだけれど、魔法がこの大地で発展していったのに対し、貴方の自称魔法は月で発展していった物。
つまり、元となる部分が同じだからある程度共通点はあるけれど、基本的には別物って事」
「そうなんですか。
そういえば輝夜先生も、この力を一言で魔法と呼んだ事は無かった気がします」
「そう、つまり、ね」

 言って、アリスは紅茶のカップを置き、ぐっと身を乗り出す。
そのあまりの勢いに、サイドテーブルの対面に座っている権兵衛は、思わず腰が引けたようであった。

「貴方の使う魔法は、私たち魔法使いにとってとても興味深い物だと言う事なのよ。
ねぇ、折角雨宿りさせてあげているんだし、それに雨だって暫く止みそうにないわ。
見せてくれないかしら、貴方の魔法」
「は、はい、勿論」

 言質を取り、アリスはにこやかな笑みを見せた。
その人形のような美貌と相まって、その笑顔はこの世の物とは思えぬほど美しく、権兵衛は暫くそれに見とれてしまう。
そんな事をしているうちに、アリスは乗り出した身を戻し、さぁやってみて、と言わんばかりに腕を組み、権兵衛を見やった。
対する権兵衛も、それにこほん、と一つ咳払いをし、ぴん、と人差し指を立てる。

「まず、これが基本の月弾幕の作り方です」

 言って、権兵衛は指先に月の魔力を集め始める。
何度も反復したからか、殆ど時間をかけずに月の魔力が集まり、黄色い真円の月弾幕を形成した。
普通に言う月とは、天蓋に写った偽の月の事を言う。
本来の月である裏側の月は、地上の民から身を隠すため、常に偽の月で本来の月を覆っているのである。
普通に言う月の魔力とは、十分に強力な物であるが、それでも偽の月から漏れ出る魔力に過ぎない。
対し権兵衛の扱う月の魔力は、本来の月から引き出された物で、権兵衛の引き出せる僅かな量でも、凄まじい質を誇るのだ。
事実、アリスはその魔力の余りの純度に、目を見開いていた。
量こそは鼻で笑える程度であるが、質は、何時しかの永夜異変の時、輝夜の背後に感じた太古の満月にすら劣らない。

 アリスが呆然としているうちに、権兵衛は月の魔力を使って様々な事をしてみせた。
まずは軽く浮いてみたり、様々な種類の弾幕を作ってみたり、色々な結界を張ってみたり。
一通りできる事を権兵衛がやりおえてみせる頃には、アリスも自身を取り戻していた。
ただし興奮はより強くなっていて、頬が上気しているのが自分でも分かるぐらいだった。

「どう、でしたか?」

 反応が無いのが気になるのだろう、不安気に聞いてくる権兵衛に、アリスはにこやかな笑みを意識して作る。

「素晴らしかったわ。
まだ魔法歴二ヶ月にも満たないんだっけ?
それにしてはどの魔法も素晴らしい練度だったし、なによりその魔力の質は凄いわ。
ねぇ、そこで権兵衛、相談なんだけど」

 一端区切り、アリスは権兵衛を見つめる。
時折臆病な面を覗かせる事もあるアリスだったが、事魔法に関しては何時も強気で、今回もその通りに強い視線であった。
思わず腰が引けている権兵衛に、にっこりと、ただし迫力のある笑みでアリスが迫る。

「ちょっと貴方の魔力を使って、人形を動かしてみていいかしら?
狂気の元と言われる月の魔力を使って人形を動かしてみるのを、試してみたいの。
私ね、自分の意思を持った人形を作るのが目標なんだけど……、狂気って、やっぱり意思が無いとできないじゃない?
勿論私は貴方のように穢れの無い存在ではないから、同じアプローチは出来ないんだけど、参考にしたいの。
ねぇ、いいかしら?」

 ダメ押しに、両手を合わせ、いいかしら? と言うのと同時、こてん、と首ごと傾げる。
すると権兵衛も弱ったようで、暫く助けを求めるように視線を室内で彷徨わせていたが、何処に視線を向けてもアリスの作った人形としか目が合わない事を悟り、溜息をついてから言った。

「はぁ、いいですよ」
「きゃあ、やったぁっ! ありがと、権兵衛っ!」
「まぁ、それぐらいなら月の魔法の使い方も分からないですし、きっと輝夜先生も許してくれると思いますから」

 と、弱々しい語尾で返す権兵衛に、アリスははしゃいだ様子で権兵衛に礼を言う。
何せ、永琳や輝夜の使う全く系統の違う術式が自身の魔法の研究に役立つとは思っていたアリスだが、基本的に強い者には逆らわないのがアリスの方針である。
使えると分かっているのに手が出せず、歯がゆい思いをしていたそれが、今日こうやって間近に見るばかりか、その魔力を扱う事すらできるのだ。
これで興奮しなければ、魔法使いじゃないだろう、とすらアリスは思った。

 それからアリスは特別頑丈に作ってある人形を持ってきて、まずは自分の魔法を披露する事から始めた。
何せ権兵衛には自身の魔力の使われ方をある程度理解してもらわないと、魔力の伝達も上手くは行かないだろう。
と言う事で、アリスは椅子に座りながら、部屋の中央に頑丈に作った人形を操って連れてくる。

「わぁ、可愛らしい人形ですね」
「頑丈に作るのが主目的だったから、あんまり装飾は無いんだけどね」

 と、権兵衛の賛辞に肩をすくめるが、矢張り素直に作った人形を褒められると、思わず口元の緩んでしまうアリスだった。
どころか、少し饒舌になって人形の解説を始めてしまう。

「本当はね、何時も弾幕ごっこでつかっている子達と同じように、きちんとスカートにも刺繍をして、エプロンも着せてあげて、ってそういう風にしたかったんだけど。
でも、折角頑丈に作ったんですもの、汚れとかを気にせずに使えるようにしたいじゃない?
そこで黒一色の、シンプルなワンピースなのよ。
顔とかの造形も、洗ったりできる素材しか使わなかったから、ちょっと不満なの。
ほら、眉の辺りとか、ちょっと硬さがあるじゃない?
それに……って」

 と、そこまで言ってから、捲し立ててしまった事に気づき、アリスは顔を赤くした。

「ごめんなさい、こんな関係ない事まで話しちゃって。
つ、詰まらなかったわよね、次行きましょ」

 と無かった事にしようとするアリスなのだが、対し権兵衛は微笑むと、少しサイドテーブルの上に身を乗り出した。
陽だまりのように穏やかな笑顔で、柔らかい口調で言う。

「そんな事はありませんでしたよ。
とても興味深いですし、面白いお話でした。
何せ俺は、人形作りの事なんて何も知らないですから、何を聞いても新鮮でして。
良かったら、もう少し聞かせてもらえるでしょうか?」

 これが本当に嫌味なく興味津々と言う風に言ってみせるのだから、アリスは思わず喜びに頬を赤くしてしまう。
なんて素直な喋り方をする人なんだろう、と、アリスはここにきて初めて権兵衛の人となりに興味を持った。
酷な話だが、正直アリスはここまで権兵衛の魔法に興味はあっても、その人格には全く興味が無かったのである。
と言っても、それは何時もの事である。
アリスは自身より強い物は恐れ、弱い物は突き放した態度を取り、興味があるのは常に魔法ばかりであった。
こうやって他人に興味を持つのは、非常に珍しい事なのである。
だからか、それとも単に趣味のお喋りを際限なくできるのが楽しいからか、頬が上気するのを感じながら、アリスは喜色満面に続けた。

「そ、そう? そ、それじゃあ仕方ないわね。
えっと、ここの素材は、何時もは……」



 ***



 気づけば半刻ほども喋っていただろうか。
紅茶のカップの底が見えるようになってようやく時間の経過に気づき、慌ててアリスは人形についての話を切り上げた。
人形の話と言うと男には興味が無い物だとアリスは思っていたが、権兵衛はよほど人形に興味を持っていたのか、それとも性根が優しいのか、嫌な顔一つせずに最後まで話を聞いてくれていたのだ。
どっちだろうな、とアリスは思うが、この家に入ってからのこの男の言動を見るに、後者の可能性が高い。
その行動の一つ一つからは気遣いが感じられ、人との付き合いが然程得手でも無いアリスでも、話していて苦になる事は無かったのだ。
それに、アリスの人形の話についてもあちらから積極的に、聞いてくると言うよりは聞き上手と言った手合いで、本当に気持よく話せる相手だった。
まぁいいか、と、アリスは思考を中断させる。
権兵衛が優しかったとして、それが何だというのだ。
確かに優しくないよりは嬉しいが、それだけの事である。
頭を振って、アリスは目前の人形に意識を集中させた。

「いよいよ、この人形が動くんですね」

 と言う権兵衛の言う通り、アリスは権兵衛に人形を動かすところを見せるところだった。
ごくり、と思わずアリスは生唾を飲む。
どうしてか、アリスは里で人形劇をやる時よりも、遙かに緊張していた。
その時の方が明らかに見ている人間も多いし、公的な場所だと言うのに、どうしたのだろうか。
内心僅かに疑問に思ったが、それを振り払い、アリスは最初ぐらいは、と少し大げさに手を振るった。
糸を通して、平均的な人間の女性程もある大きさの人形が、動き始める。

「うわぁ……」

 隣で感嘆の溜息が吐かれるのを感じながら、アリスは糸の張ってある指先を動かす。
指先から張る魔力の糸は、普段使う透明な物ではなく、権兵衛に見え易いように太く色をつけてある。
この魔力の糸と言うのは、互いに引っかかりはしないので、絡まってしまうのを気にしながら操る必要の無いのが利点だ。
権兵衛の感動した様子に気をよくして、アリスは更に人形を繰る。

 人形の踊りは、家の中なのでその場を余り動かさない、と言う制約こそあったものの、会心の出来であった。
黒衣の人形であるからか、イメージは哀れな醜いアヒルの子である。
拙く、時にはつまずいて転げてしまうような演技を見せながらも、次第にそれは整ってゆき、ある時からぱっと花開くように可憐になる。
完成した踊りは、さながら白鳥のようであった。
羽がゆっくりと動く様のように優雅に両手が動き、白鳥がそうするように優雅な動きで小さくその場を動く。
次第に白熱してゆく人形の演技は、何時しか最高潮を迎えた。
アイススケートの選手のように、その場で飛び上がり、空中でくるくると回転。
重力に引き寄せられると同時に膝を降り、優雅に回転を止めつつ手を差し伸べる。
アリスが人形の姿勢を維持するだけにして、残る糸を消し腰を下ろすと、それを合図に権兵衛が思わず止めていた呼吸を始めた。
同時、拍手が巻き起こる。

「凄い、凄いですよ、アリスさんっ!
里でも噂の人形使いとは聞いていましたけれど、こんなに凄いなんてっ!」
「くす、ありがとう、権兵衛。
にしても、貴方の耳にも入っていたのね、私の噂。
良い噂で良かったわ」

 額に浮いた汗を拭きつつ言ってから、何が良かったんだろうとアリスは自分の台詞に自分で思った。
いやまぁ、協力者相手に良い噂が流れているのは、良い事だろうが。
内心の疑問を押し流し、権兵衛が入れなおしてくれた紅茶を口にするアリス。
少し冷めてしまっているのが勿体無かったが、変わらず透明な感じで美味い紅茶であった。

「で、どうかしら、どんな動きをするのかは分かった?」
「えぇ、はい。
えっと、球体関節になっている部分部分にそれぞれ糸を張り巡らせて、それを指先に集めているんですよね。
で、それが何本もあって、いろんな指先からいろんな関節へと、糸が張り巡らされている。
だから一つの指を動かした時、動かしたくない部分も動いてしまうのを、他の指の微妙な動きで統制している、と」
「まぁ他にも色々と技術はあるんだけれど、基本的にはそんな感じで申し分ないわ」

 ついつい権兵衛にはそのまま人形使いの技術について話してしまいそうになるが、これぞアリスの魔法の秘中の秘である。
自分が少し色々なことを話しやすい状態になっている事を自覚し、内心アリスは口を閉じる事を意識した。

「それじゃあ権兵衛、続いて権兵衛の魔力を借りるけれど、いいかしら?」
「えぇ、はい。えっとそれじゃあ、触れさせてもらいますね」

 言いつつ権兵衛が席を立ち、アリスの側に寄ってくる。
応じてアリスも席を立ち、一歩サイドテーブルから離れた。
それから権兵衛がアリスの背後に周り、手を伸ばそうとして、それからぴたり、と動きを止める。

「その、アリスさん」
「何かしら?」
「えっと、肩に手を置いて、魔力を供給すればいいですか?
手を重ねるようにすると、微細な動きを邪魔してしまいそうで」
「そうね、本当は肩も邪魔って言えば邪魔なんだけど、そこまで繊細な動きをさせるつもりはないし、それでいいわ」

 アリスが言って暫くすると、権兵衛の手のひらがぽん、と肩に乗る。
なんだか権兵衛の体温は心地良く、それがじんわりと首もとまで温めてくれるものだから、思わずアリスは少し頬を上気させた。
額がすーっと冷えてゆくのを感じ、目元がちょっと緩むのが感じられる。

「権兵衛? もう魔力、送ってるの?」
「へ? いえ、まだですけど」
「そう……なら、いいんだけど」

 アリスは僅かに瞑目する。
そう、権兵衛の体温は、ただそこにあるだけで、こんなにも心地良い物なのか。
そう納得すると、アリスは少しだけ権兵衛の体温だけで楽しんでみる事にする。
華奢なアリスの肩を掴む権兵衛の手は、腫れ物に触れるようで、とても繊細な力加減だった。
これはこれで楽しいのだが、もし権兵衛の手が力強く自分の肩を掴んでくれるのなら、果たしてどうなってしまうのだろうか。
想像の埒外であった。
なので現実にやってもらおうと、アリスは口を開く。

「ねぇ、権兵衛。別にもうちょっと強く掴んでもいいのよ? っていうか、そうしなさい。
魔力を送られた時に反射的に動いちゃったりする事もあるだろうから、もうちょっと確り掴んで欲しいの」
「そうですか、分かりました」

 あっさり言う権兵衛に、ちょっと照れる所を見たかったんだけどな、と思いつつ、アリスは権兵衛の力を待った。
ほどなくして、ぐっ、と、少し気持ちいいぐらいの力で権兵衛がアリスの肩を掴む。
今度は、凄絶な快感がアリスを襲った。
心地良さを何杯にもした感覚で、今度は頭の中がふわふわしてしまうぐらいの感覚である。
最初アリスは、膝が崩れそうになるのを全力で耐えねばならなかった。
が、最初の波が過ぎ去ってしまうと、残るのは全身が喜びに満ちた感覚ばかりである。
今、自分は権兵衛に力強く抱きしめられているのだ。
そう思うと、それだけで頭がふわふわしてしまい、アリスは頭を振って、その感覚を追い出さねばならなかった。
その様子を疑問に思ったか、弱まる権兵衛の握力。

「あ、ううん、そのままぐらいの強さでいいわ。
今のは別に何でもないのよ」
「? そうですか」

 首を傾げつつ言う権兵衛の存在を強く背後に感じつつ、いよいよとアリスは口を開く。

「それじゃあ、ちょっとづつでいいから、私に魔力を送ってくれるかしら」
「分かりました」

 言ってすぐに、権兵衛の月の魔力がアリスの中に流れこんできた。
月の魔力は、熱くてドロドロとした溶岩のようで、それが肩から腕にかけてゆっくりと流れてくる。
火傷しそうな程熱いのに、それが何処か心地良く、アリスは少しの間呻き声を漏らさないよう努力せねばならなかった。

 指の先まで権兵衛の魔力が浸透するのを待ち、それからアリスはゆっくりと権兵衛の魔力の手綱を取り始める。
狂気の象徴たる月の魔力だけあって、扱いには細心の注意が必要であった。
ほんのちょっと、指で掴みとるようにしてみせても、沢山の魔力がくっついてきてしまう。
爪の先で僅かづつ掬うような、細かい作業が必要とされた。
と言っても、普段からそれ以上に細かい人形の操作を行っているアリスである、何とかそれをこなし、月の魔力を手にとった。
それからそれを細く細く、限界まで細くして伸ばし、月の魔力で糸を作る。
いわば月糸の、完成であった。

「成功、したわ……」
「凄い……。初めてでこんなに精密な作業をするなんて……」
「うん、自分でも驚いているわ。
多分、普段から細かい作業をしているからだと思うけれど……」

 感嘆の声を込めた権兵衛の声に、一切の嫉妬が感じられないのを、アリスは心地良く思った。
いくら相手が格上の魔法使いと分かっていても、自分の魔法の一部をいとも簡単に真似されては、普通快くない筈である。
だのに権兵衛と言えば、全く素直にアリスの事を勝算しており、その心には一片の陰りも無い事が、容易く分かった。
権兵衛がこんなに良い人なんだと思うと、世界中にその権兵衛の人の良さを伝えたい気分にすらなる。
しかしアリスはどうにかそれを抑え、本来の目的である人形の操作へと作業を移行する事にした。

「じゃあ、人形を動かせるぐらい……そうね、とりあえず今の十倍ぐらいの魔力をくれるかしら」
「はい、分かりました」

 ゆっくりと増えてゆく、肩から注ぎ込まれる権兵衛の魔力。
熱くてドロドロとした物が自分の中に注ぎ込まれる感覚に、アリスは頬を上気させていた。
まるで腕から先が権兵衛の物になってしまったかのように感じられて、その事実にアリスは思わず興奮してしまう。
頬が紅潮し、目が乾いてきて、幾度も瞬きをした。
そうするうちにアリスは落ち着いてきて、何とか魔力を操作できるぐらいになると、その魔力で再び月糸を作り、人形へと伸ばす。
狂気の力である、それ故にか。
それとも単に、魔力の異質さがそうさせるのか。
ぴたりと糸が付くたびにぴくり、と人形は動き、まるで生きているかのような様相を呈する。
アリスの目的たる自分の意思を持ち自分の意思で動く自立人形に、近づいたかのような様子に、思わず息を飲みながらアリスは人形を観察しながら糸を繋いだ。
そして普段その人形を操るのと同じだけの糸を繋ぎ終え、一つ安堵の溜息をつく。

「とりあえず、糸は繋ぎ終えたわ」
「はい。じゃあこれからが、本番ですね」
「そういう事よ。はてさて、鬼が出るか蛇が出るか……ってね」

 額の汗を拭いつつ、アリスは不敵に笑った。
当然ながら、人形に注入するのは狂気の力であるので、人形も反応を示すなら暴走する可能性が高い。
しかしアリスは、権兵衛の体温を感じていると、不思議と全能感のような物を感じていて、それがどうしたと思えるのだ。
肩越しに一度、権兵衛の顔を見ると、案の定少し不安そうな顔をしていたので、にっこりと微笑んでみせてから、アリスは目前の人形に集中する。

 まずは足を一歩、踏み出させてみる。
指を繰り、糸を引き寄せ、人形の膝を軽く持ち上げ、足をこちらへと引き寄せる。
ひとまず、人形は操作した通りに動いた。
その後も手を動かしたり、一回転させたり、動作自体は滑らかに、つつがなく動いた。
だがしかし、何か違和感がある。
その違和感がどういった物なのか分からず、首を傾げつつ何度も人形を動かすうちに、アリスは気づいた。
自身で動かしている筈の人形から、視線を感じるのだ。

 アリスは人形の目をじっと見つめる。
人形の瞳は、明らかに意思の光を宿しているように見えた。
樹脂製の青い瞳は、今やドロドロと濁った、水底のようになっていた。
こぽり、と音を立てながら人形から涙が零れ落ちる。
まるで目が溶け落ちたかのような青い涙は、静かながら凄まじい速さで零れ落ちてゆき、すぐさま足先に、踝に、膝にと登ってくるのをアリスは感じる。
気づけばアリスは、水底に引きずり込まれたかのような感覚に陥っていた。
人形の目の青い液体に部屋中が満たされて、その中をドロドロとした堆積物が浮かんでいる。
急にアリスは、呼吸ができなくなった。
咄嗟に喉を抑えようとするものの、体は全く動きがとれない。
どころか、微動だにできなかった。
息苦しさに顔を真っ青にしつつ、藻掻こうとするものの、それすらも叶わず。
思わずアリスの瞳に涙が浮かんだ、その瞬間であった。

「アリスさん?」

 一瞬であった。
権兵衛の声を引き金に、一気に狂気の光景は寸前までの正常な光景と戻る。
同時、アリスは魔力の糸を解き、膝を付いてゲホゲホと咳をしながら大きく呼吸する。

「あ、アリスさんっ! どうしたんですかっ!?」

 慌てて権兵衛が屈んでアリスの背を撫でるのを感じながら、アリスは指で喉を差し、呼吸が上手くできない事を示した。

「喉? 呼吸ですか? 呼吸ができないんですね?
なら、まずは深呼吸です。
吸って、吸って、吸って、はい、そこで吐いて。
ゆっくりと吐いてください、ゆっくりと、時間をかけて。
もう一回、吸って、まだ吸って、吸って……」

 と、権兵衛の言葉に習って深呼吸を数度すると、アリスの呼吸は落ち着いてきた。
そうすると、今度アリスの中に生まれたのは、喜びだった。
溢れんばかりのそれを抑えきれず、思わずアリスは権兵衛の肩をつかみ、引き寄せる。

「成功よ、成功したんだわっ!
今、私は明らかにこの人形に意思を感じたのっ!
やった、やったわ! 権兵衛最高っ!」
「わわっ」

 ばかりか、思わず権兵衛に抱きついてしまう程であった。
ぎゅ、と権兵衛の脇下から背まで手を回して抱きつき、顔を肩の辺りに埋める。
腕には権兵衛の筋肉と、その奥の骨の感覚がうっすらとした。
権兵衛のうっすらとした汗の匂いがして、アリスは更に頬を紅潮させる。
頬を権兵衛の首もとに摺り寄せ、アリスは更に権兵衛を抱きしめる力を強めた。

 目を閉じ、アリスは感じる。
今はなんて、幸せなんだろう。
権兵衛が来てからの時間は、何もかもが上手くいっているようだった。
人形の事について喋る相手が居て嬉しいし、その事を褒めてくれる相手いて本当に嬉しい。
ばかりかその相手が、自分の目的である自律人形の作成への助けになってくれたのだ。
私は今、なんて幸せなんだろう。
幸せっていいものだなぁ。
そんな風に考えながら、アリスは暫くの間権兵衛の匂いを嗅ぎながら、彼を抱きしめ続けているのであった。



 ***



 それからアリスは、何度か権兵衛の持つ月の魔力を使って人形を操作した。
先の踊り程ではなくとも軽く踊らせてみたり、武器を持たせて空中に突き出させてみたり、兎に角色々な動作を確認した。
その度に新たな発見があり、その度にアリスは飛び上がりそうなぐらい喜び、権兵衛に抱きつく次第となった。
なんで私はこんなに権兵衛に抱きつくんだろう、とアリスは思う。
いや、自律人形の作成への助けが凄まじい速さで増えているのだ、嬉しくない筈は無いのだけれど。
ただちょっと、矢張り同じ喜びは何度も経験すると普通劣化する物だし、そう考えると、その喜びは何時までも権兵衛に抱きつくほどの物なのだろうか。
そんな風に疑問に思ってみるアリスだけれど、他に思いつく理由の候補も無いので、その疑問を棄却する。

 何度も興奮して喉の渇いたアリスは、魔法の研究も一段落ついたし、と、再び権兵衛の淹れた紅茶を飲み、一服入れる事にした。
ふと外を見ると、気づけば外の雨は止み、夕焼けの赤が空から引いてゆき、夜の帳が降り始めている。
確か権兵衛を招き入れたのは午前中の事だったので、相当な時間が経ってしまったようだ。
ちらりと権兵衛に目を見やると、彼も相応に集中していたのだろう、外を見て初めて時間の経過に気づいたようである。
すっ、と権兵衛がカップから口を離し、ソーサーの上に置く。
そのカップの底が見えるのに気づき、アリスは思わず権兵衛の顔を見やった。
困ったような笑顔で、口を開く権兵衛。

「その、アリスさん。そろそろ遅い時間ですし、お暇させてもらってもよろしいでしょうか」

 アリスの想像通りの言葉であった。
勿論想像していたのだから、その言葉から受ける衝撃や印象についても予想していた筈なのに、アリスは思わず肩をピクンと震わせ、俯いてしまう。
まるで、胸を貫かれたかのような思いに、アリスはそれに耐えるのにぐっと歯を噛み締めねばならなかった。
少しの間そうしていたかと思うと、アリスは思い切って顔を上げ、権兵衛の目へ視線を移す。

「権兵衛。えっと、その、良ければ此処に泊まっていかないかしら?
そりゃあ魔法の研究は一段落ついたけど、調べたい事全部が調べられたって訳じゃあないし。
それに貴方、悪いけど、そんなに強くないでしょう?
夜中に強い妖怪と出会ったら、いえ、そこまででなくとも、普通レベルの妖怪に何度も会ったら、家に帰るまでに食べられちゃうかもしれないわよ?」

 早口に告げるアリスの言葉を、権兵衛は穏やかな顔で受け切った。
顎に手をやり少し考える様子を見せ、それから再びアリスの顔に視線を戻し、口を開く。

「丁重なおもてなしですが、すいません、お断りします。
俺の家も一日ずっと放置しておくのも気になりますし、なによりアリスさん、貴方は女性で一人じゃあないですか。
もし俺のような男を泊めて、それで良からぬ噂を流されるような事があれば、俺は耐え切れません。
なぁに、大丈夫ですよ、アリスさん。
これといって腕っ節に自信がある訳じゃあないんですが、なんだか俺は中々妖怪に会わないんで、きっと俺は運が良いんですよ。
無事に家に帰れるに決まっていますって」

 そう言われると、アリスには返す言葉が見つからなかった。
本当に魔法の事を考えるならば、男でも迷った人間は何度も泊めている、と言えばいいのだろうが、何故かその事を権兵衛の前で言う事は憚られた。
体が萎縮し、喉に何か詰まってしまったかのように、言葉が出ない。
いや、そもそもなぜ自分は権兵衛を引き止めたのだろうか、と、アリスは思った。
何せ別に権兵衛はアリスを上回る強者ではなく、何時でも尋ねる事の出来る相手なのだ。
なのにわざわざ今日引き止める合理的な理由は、無い。
アリスはそう思うと、にっこりをした笑顔を作り、権兵衛に返した。

「そう、ね。なら分かったわ、魔法については今度、私から訪ねて行かせてもらう事にするわ。
それじゃあせめて、玄関まで見送らせて頂戴?」

 そうして権兵衛は帰っていった。
紫がかった空の中、権兵衛が遠く点になるまでアリスは玄関先に立ち続け、権兵衛を見送る。
暫くして、本当に権兵衛が見えなくなってから、ようやくアリスは足を動かした。
何故か湧いて出てくる溜息を漏らしつつ、振って湧いてきた憂鬱な気分に振り回されながら、ドアを閉めて室内に戻り、椅子に崩れ落ちるように座る。
アリスの内心を、謎の虚脱感が襲っていた。
本当は何時もなら夕飯の支度をしている時間なのだが、不思議とそんな事をする気になれず、ぼうっと椅子の上に座ったまま虚空を見つめる。

 暫くして、その虚空にぼんやりと権兵衛の姿が浮かんできた、その時であった。
突如、凄まじい妖気がアリスの家のすぐ近くに発生する。
思わずアリスが飛び起きるが早いか、ズドン、と凄まじい轟音を立ててアリスの家のドアが開いた。

「やぁ、久しぶりね、魔法使い」

 現れたのは、伊吹萃香であった。
何故だか凄まじい怒気を全身に纏っており、明らかに準戦闘形態である。
絶望的な力の差に恐慌を起こしそうになるアリスだったが、咄嗟に口内を噛み切り、正気を保った。
あまりの威圧にふらつく体に喝を入れ、どうにか虚勢の姿勢ぐらいは作って見せる。

「久しぶりね、山の四天王。
所で、ノックって知ってるかしら?
文明人には共通の知識だと思っていたんだけど」
「権兵衛にはこれ以上関わるな」

 と、牽制の話題を出すアリスに、いきなり本題で斬り込む萃香。
思わず目を見開くアリスに、重ねて萃香は言った。

「権兵衛には、これ以上関わるな。
あいつから来た時だけは仕方ないけれど、それでもその時に引き止めるような真似も、許さない。
勿論あんたから権兵衛に会いにいくって言うのも、なし。
あんたには、これ以上権兵衛に関わらせない」
「……さっき、私は権兵衛の家に行くって、約束したばかりなんだけど。
約束を守るのって、鬼の信条の一つじゃないかしら。
それとも宗旨替えでもしたの?」

 ずどぉぉん、と、轟音。
萃香は、いきなりアリスの家の壁を殴ったのだ。
あと一歩で壁を粉砕しかねない勢いに、アリスは思わず怖気づく。

「もう一度言うよ。
あんたは、権兵衛にこれ以上関わるな。
わざわざはいって答えるまで待ってやっているんだ、早く答えなよ」
「ちなみに、永遠亭も全員同じ意見よ」

 と、新しい声に思わずアリスが振り向くと、いつの間にか、アリスの部屋の中には鈴仙がじっと立っていた。
その顔を見てしまったアリスは、思わずひ、と息を飲む。
鈴仙は、明らかに通常の状態では無かった。
目の下には隈ができ、げっそりと頬は痩せこけている。
まるで幽鬼のようなその存在に、アリスは更に恐怖を煽られた。
俯き、少しの間考える。
自分の今までのあり方は、強者には逆らわないと言う、分り易い方針が存在した。
それに、権兵衛は月の魔力が供給できて便利とは言え、ただの人間である、関係を手放すのだって別段惜しくない、筈だ。
心の中が擦り切れそうになるのを感じながら、強引にそう結論づけ、アリスは面をあげる。
表面上は平気な風を装って、呆れたように肩をすくめてみせた。

「はぁ。降参よ、降参。
いいわ、そこまで言うなら、権兵衛と出来る限り関わらないようにするわ。
月の魔力は惜しいけど……、まぁ、本気の鬼に月人まで出てきたんじゃあ、仕方ないわね」

 なるべく平気な風を装って言うアリスに、二人は無表情で睨んでくる。
これ以上まだ何か言った方がいいのだろうか、と、再びアリスが口を開きかけた頃、二人はすっと姿を消した。
音もなくアリスの家の玄関が閉まり、それと同時、緊張から解放されたアリスは椅子の上に体を投げ出した。

「っはぁ~~~。何なのよ、もう」

 ぼやきながら、アリスはこの短い時間で疲れきってしまった体を解す。
肩をぐるぐると回したり、伸びをしたりして、体からコリを取り除く。
そうしている姿には、権兵衛との関係を絶った事に対する感情は、便利な道具を失ってしまった以上の物は見られなかった。
今は、まだ。



 ***



 いよいよ寒さも本格的になってきた日。
何時も通りアリスは窓際のサイドテーブルで、魔道書を読んでいた。
立てかけられた魔道書に、サイドテーブルの上で湯気を上げる紅茶、と言うのが常のスタイルなのだが、今日は紅茶はすっかり冷めてしまい、湯気は見られなかった。
ばかりか、アリスの視線は窓の外にあり、何処ともしれぬ虚空をぼうっと見ている。
視線が窓硝子に描くのは、何故か権兵衛の顔であった。
アリスにとっては既に二度と会うこともないだろう相手であり、これ以上気にするのは時間の無駄だと言うのに、何故だろう、ここの所アリスの脳裏にはよく彼の顔が浮かんでくる。
かと言って鬱陶しいかと言うとそうでもなく、その顔を思い浮かべると、胸の中が暖かくなるような感覚があるのだ。

「はぁ……」

 深くアリスは溜息をつき、紅茶に手を伸ばす。
それを口にしてから眉をひそめ、ようやく紅茶が冷めていた事に気づいた。
少し乱暴にソーサーの上にカップを置き、カチャンと音を立てる。
それから操作する人形を使ってカップを流しまで持ってゆき、中身を捨て去った。
そのまま人形は戻ってきてポットの方も流しまで持ってゆき、中身を流しに捨てる。
それからケトルに水を入れ、魔法で火を起こし、湯が湧くまで暫しの間、待つ事にする。

 魔道書に目をやったアリスは、その頁が結局今日一日ずっと進んでいなかった事に気づき、再び深い溜息を付いた。
全く、最近のアリスにはどうも集中力がなく、こうして魔道書を一頁も読み進めること無く一日を終える事などざらにある事である。
もう一度溜息をつきながら、人形を使って魔道書も本棚に戻し、アリスは凝り固まった体を伸ばす為、腕を背中側に伸ばし、思いっきり伸びをした。

「ん、ん~」

 気持よさに小さい呻き声を上げながら、意識がすっと軽くなるのを感じるアリス。
それからすぐに脱力し、背もたれに思いっきりもたれかかりながら、深く溜息をつく。
リラックスしきった頭の中で、ふと思い浮かぶのは、矢張り権兵衛の事であった。
こうやって体が軽くなった時などは、アリスは特に権兵衛の掌の体温を思い出す。
あの日、最初は優しく、求めてからは力強くアリスの事を抱きしめてくれた手は、それだけで全身が温まってしまいそうな、それでいて手本体は熱いと言う程では無い、不思議な温度だった。
心に温度があれば、権兵衛の掌はそのぐらい暖かかっただろうか。
あの日の権兵衛の優しさは、今でも鮮明に思い出せる。
常にアリスの事を気遣っていた、紳士的な態度。
聞き上手で、アリスの好きな事を沢山話させてくれた所。
暖かな手。
嬉しさのあまり抱きしめた時、軽く抱きしめ返してくれた事。

 はっ、と気づくと、ケトルがヒューヒューと鳴る音が、かなりの大きさになっていた。
慌てて人形を操作して火を止め、ケトルを火から退かす。
お湯をポットとカップに入れ、十分に暖まるまで待つ事にするアリス。

 権兵衛の魔力もまた、格別であった。
たまにアリスは、あの時どうして全身に権兵衛の魔力を回してもらわなかったのだろう、と思う。
そう思ってから、何故そう思ったのか理由が分からなくなるのだが、兎に角そう思うのだ。
だからか、アリスは時間を持て余すと、よく自分の腕を撫で回す事がある。
アリスは自身の腕に指先からそっと触れて、滑らかな動きで掌までぴたりと触れさせ、それからぎゅ、と軽めの力で握る。
するとあの日、権兵衛に魔力を注がれた時の事が思い出された。
熱くてドロドロとした物に、自分が満たされてゆく感覚。
それを思うと思わずアリスは頬を上気させてしまい、少し腕を強く握る事になる。
腕の肉の柔らかな感触に、権兵衛の肉の感触もこんな感じなのかな、とアリスは想像した。
いや、違うだろう、とアリスは思い、頭を振る。
優しげな風貌の権兵衛だが、その肉体は男の物なのである、きっともっとゴツゴツして、硬い物なのだろう。
事実、権兵衛の掌の感触は柔らかく優しい物であったが、同時に芯のあるような硬さをも感じさせた。
奥のある骨ばかりでなく、きっと肉も固く、逞しいのだろう。
そう思うと、アリスは体が熱くなり、ジワッと全身から汗が拭きでてくるのを感じた。
汗が体の表面を、舐めるように滑ってゆく。
四肢の上を、腰のラインを、乳房の間を。
そうなる事でアリスは自身の体の表面を嫌でも意識させられ、自身を強く抱きしめた。
喉の乾きを覚え、ふと自分が紅茶を入れる準備をしていた事に気づき、アリスはポットの方を見やる。
湯気は既に無く、考えて見れば結構時間が経ってしまったのではないか。
慌てて人形にポットを持ってこさせたが、既にお湯は冷めてしまっていた。

「はは……私、何やってるんだろう」

 不意にアリスは、涙がせり上がってくるのを感じた。
ぐっと唇を噛んで、どうにか涙をやり過ごそうとするが、叶わず、涙が溢れでて頬を垂れてゆく。
あまりの虚しさに、アリスは脱力して体を椅子に預けた。
顔が天井に向けられ、頬へと落ちていた涙が、目尻から横に流れ出る事になる。

 胸にぽっかりと穴が空いてしまったかのようだった。
それを埋めようとして、暖かい感覚があった時の事を思い出してみせるが、それは一層胸の虚空を思い知らせる事にしかならず、虚しさがつのるだけ。
涙がぽろぽろと零れ落ちて、みっともない事この上ないな、とアリスは思う。
だが、アリスは他にこの虚しさをやり過ごす方法を知らなかった。
いや、これをやり過ごせていると言うのかすらも分からない。

 一体この感情は、何という名の感情なのだろう、とアリスは呆然と思った。
こんなに自分を揺さぶる感情なんて、アリスには検討もつかなかった。
絶望と名付けるには違うような気もするし、虚脱と名付けるには、権兵衛の事を思い起こす時の力が矛盾する。
他にもまさかと思う物以外色々考えてみたが、どんな名前の感情も、アリスにはしっくり来なかった。
果たして、自分は今どんな感情を持っているのだろうか。
呆然と天井を見上げながら、アリスは思う。

 当然のことながら、アリスは知らなかった。
何せアリスは孤独であったし、更にそれに気づいてすらもいなかったのだ。
誰かに抱く強い思いに名付けた感情など、自分が抱く筈も無いと、候補からすぐに除けてしまう。
だからアリスは、知らなかった。
自分が今抱いている感情が何なのか。
権兵衛への思いが、どんな名のつく感情なのか。
それすらも知らずに、ただただ不意に涙を流す日々を、アリスは送り続けたのだった。



 ***



 アリスさんと出会ってから一週間ほど。
犬走さんに俺が腕を千切られてから、三日ほど経過した今、俺は一時的に永遠亭に世話になっていた。
あの後俺は丸一日気絶していたらしく、気づけば見覚えのある天井を見ている事となっていた。
永琳さんの説明によると、俺が純粋な人間のままでいるには、腕の再生を諦める必要があるらしい。
しきりに人外化を進めていた永琳さんであったが、俺は人の生まれである。
俺は、命には矢張り生まれ持った役割みたいな物がある程度あって、それに逆らうべきでは無いと考えており、その中には消極的な理由で生まれ持った種族を変えるべきでは無い、と言う思いがあった。
片腕を無くす、と言うのは、確かに非常に不便である。
しかし、霊力を持つ身であればその不便さを和らげて生活できると言うのは、かつて左手を怪我していた頃に分かっていたので、俺は人間のままでいる事を選択した。
恐らく純粋に俺の腕の事を想ってくれたのであろう永琳さんには悪いのだが、これが俺の考えである。
本当に申し訳なくて申し訳なくて、それなのに自分はベッドの上に座って居ると言うのも我慢ならず、俺は永琳さんに頭を下げまくって、次第には土下座までしようと思ったのだが、流石にそれは怪我人と言う事で自重した。
何とも土下座の安くなる日々である。

 永遠亭での療養生活は、基本的には楽しい物だった。
輝夜先生は何時も俺を構いたがり、時間があれば俺の様子を見に来て、世話をしてくれる。
と言っても普段姫と言う立場から世話しなれていない輝夜先生なので、その世話と言うのも俺が思わず手を出してしまい、共同作業となるのだ。
これがまた、思いも寄らずに楽しい事だった。
基本的に同じ事をするなら一人でやるより二人でやる方が楽しい物だし、なにより相手は尊敬する輝夜先生である。
時には魔力談義になって、実利的にも有意義な時間を過ごす事さえあった。
永琳さんは矢張り忙しい人で、俺を診断する時の仕草も何処かせわしない。
だがそれでも俺の診断にはきちんと時間を取ってくれて、中でも特に触診には長い時間をかけて熱心にやってくれる。
普段は事務的な会話しか無い物だから、その熱心さはこちらが最初吃驚してしまうぐらいであった。
鈴仙さんは、その二人の合間を縫うようにやってきてくれる。
驚いた事に彼女は目の下に隈を作っており、顔色も酷い物で、かなり疲れた様子だった。
それでも表情は明るく、元気そうな仕草をしてみせるのだから、頭がさがる物である。
何でも最近ほぼ二十四時間体制で見なければいけない物が出来たらしく、その観察に忙しいのだそうだ。
矢張り体が持たないのでは、と心配する俺に、大丈夫と豪語するばかりか、むしろ宴会の時に行けなくてごめんね、と謝ってくるぐらいに力強い鈴仙さんであった。
てゐさんは、主に誰かが居る時にやってきて、その人に用事が出来た事を知らせにやってくる。
その後羽休めなのだろうか、てゐさんはついでとばかりに俺の世話をしていってくれるのだ。
勿論その心は嬉しい物なのだが、一つ困った事と言えば、矢鱈と身体的接触の多い事か。
幸いてゐさんは文さんと違って性的な物を感じさせる見た目をしていなかったが、それでも相手は俺より年上の女性なのである。
変な所に触れてしまうような事が多く、本当に申し訳ない事この上無かった。

 基本的に、と言うと、応用的には楽しくない事もあった、と言う事である。
それは他の見舞い客に関する事であった。
入れ替わり立ち代わり、俺のもとには幻想郷中から見舞い客がやってきてくれた。
それ自体は本当に嬉しい事だし、俺は感動していたのだが、悲しい事に、その見舞い客と永遠亭の面々との仲が、あまりよろしくないのでは、と感じられたのだ。
具体的に言うと、なんだか空気がピリピリとし、あの宴会の時のように、重たい空気になってしまうのである。
永遠亭の皆が他の皆と仲が悪い事も心配だし、医者と仲が悪い皆もまた心配であった。
唯一霊夢さんだけは、どうしてか普通の対応だったが、それも仲が良いと言うより互いに無関心であるように思えた物だったし。

 そんな折である。
俺の寝かせてもらっている、かつて永遠亭で生活していた頃の部屋で、俺が暇つぶしにずっと俺に付いてくる紫色の蝶を目で追いかけていた所。
ちょっといいか、と声をかけ、永琳さんが襖を開けて部屋の中に入ってくる。
永琳さんが座るのを待ち、それから俺は口を開いた。

「えっと、診察ですか? また着物は肌蹴たほうがいいでしょうか?」
「……そうね。うん、やっぱりそうしてもらいましょう」

 よく意味のわからない物言いであった。
思わず内心首を捻りつつ、俺は言われた通りに着物を肌蹴る。
上半身裸となった俺に永琳さんが腰を浮かし、手を伸ばして触れた。
この触れ方と言うのが何というか、少しエロティックで、指先がつん、と触れたかと思うと、そこから俺の体を揉み込むように触れてくるのだ。
思わず小さく声を漏らす俺に、扇情的に見える笑みを漏らす永琳さん。
別に患部に限らず触られるのだが、それはついでに内蔵が悪くなっていないかも診断しているらしい。
なので、何となく背徳的な気分になってしまい、罪悪感が湧きつつも、俺は永琳さんに身をまかせる事にする。

 まず永琳さんは、俺の裸足の足から触れ始める。
足の裏にぺたっと、永琳さんの高い体温の手が張り付いた。
それから舐めるように足の上を滑っていったかと思うと、両足の内側を、両手で撫でるように触れつつ、昇ってゆく。
時たま指先だけ残すようにしたり、焦らすように止まったりしつつ、昇ってくる永琳さんの手。
危うく俺の陰部に触れんかと言う所でやっと永琳さんの手は外側へと移ってゆき、俺の腰の辺りを、背を回りつつ、交差するように手を動かす。
すると緩やかなカーブを描く永琳さんの手は、俺の胸の上を滑ってゆくようにして首まで到達し、喉を張って顎まで到達した。
それから、少し頬を親指で撫でるようにしてから、永琳さんの手が降り始める。
今度は肩を通った後、両腕の外側を舐めるようにしながら通り、右腕は肘辺りで内側に移行して掌を握るまで、左腕は無くなってしまった辺りを隠すように撫でた。
それから動きを止め、永琳さんは俺に少し体を近づける。
永琳さんも動きつつの触診であった為、丁度背後から抱きしめられるような形になった。
柔らかい乳房が背に当たり、永琳さんの吐く吐息が耳元を擽る。
思わず興奮し、頬を少し赤くしてしまう俺。

「あら……興奮しているのかしら?」

 俺は、更に顔を赤面させ、俯くことで答える事にした。
つい一週間前に文さんに劣情を催してしまうと言う悪事を行ってしまったと言うのに、なんと成長の無い事か。
内心泣きそうになる俺の背後で、びくん、と永琳さんが体を震わせ、それから少し力を抜いて、更に俺にもたれかかるようにする。
何か永琳さんが言おうとした、その時だった。

「権兵衛ー、ちょっと入るよー」

 と、そんな時に戸の外からかかる、てゐさんの声。
反射的に永琳さんとお互いぱっと離れるのと、てゐさんが戸を開くのとは、殆ど同時であった。
思わず背徳感に顔を青くする俺を見て、何か納得がいったのか、やっぱりね、とでも言いそうな顔をするてゐさん。

「え、えっと、何か用でしょうか?」
「いや、お師匠様が、用事を忘れていそうだったからね、ちょっと気付かせてあげなきゃ、と思っただけよ」

 意味ありげな視線で永琳さんを見るてゐさんである。
確かに永琳さんの台詞を思い出すと、他に用事があったように思える。
しかしそれを忘れてしまっていた事を、部屋の外から把握しているとは、なんと凄まじい情報収集能力なのか。
思わず感嘆で内心を満たす俺を尻目に、こほんと咳払いし、永琳さん。

「そうね。ありがとう、てゐ。
この御礼は必ずするから、どうか覚えておいて頂戴ね? また忘れたら大変ですし。
……で、権兵衛さん。
もう一度聞きますけれど、人外になる気は無いのね?」
「はい、申し訳ありませんが、腕一本の為に人外となる気は俺にはありません」

 向きあって返すと、分かっていた事だけれど、と溜息をつく永琳さん。
その姿を見るのがまた辛く、思わず俯いてしまう俺を尻目に、永琳さんは続けた。

「ならしょうがないから義手を用意する必要があるんだけれど。
いい義手師に、一つ心当たりがあるわ。
正確には人形師なんだけど、人体を模した物を作る事に長けているし、人形使いの技術を義手使いの技術に応用する事もできるかもしれない。
医者の私も付き添うわ、外に出る支度をして頂戴」
「はい……って、人形師。
その、間違っていたら申し訳ないのですが、もしやその人は、アリス・マーガトロイドさんでは?」

 にこりと、永琳さんが何処か作り物めいた笑みを浮かべた。
何故か、僅かに寒気が背筋を走る。

「そう。権兵衛が知り合いだったなんて、知らなかったわ。
話が早く進みそうで、良かった」
「あ、はい……」

 なんでか、空気が重く感じた。
今の会話に原因があったかと探ってみるが、原因らしき物は思いつかない。
どうしたものか、と内心首を撚る俺を尻目に、てゐさんがいそいそと立ち上がる。

「それじゃあお師匠様、権兵衛が準備をするんだから、部屋を出てこうよ。
病院着から着替えるのに、私たちが居たんじゃあ邪魔になるでしょう?」
「……そうね。いけない、また忘れちゃいそうだったわ、ふふふ」
「やだなぁ、お師匠様、年ですか?」
「ふ、ふふふ」

 と、何やら怖い掛け合いをしながら、部屋を離れてゆく永琳さんとてゐさん。
それを少しの間呆然とみやっていた俺であったが、ふと外に出る支度をしないといけない事に気づくと、急いで支度を始める事にするのであった。



 ***



 その日もアリスは、殆ど寝食もせず、ただ座って時たま涙を流すだけの毎日を送っていた。
最早紅茶を淹れようとする事もなくなり、たまに思い出したかのように人形を操って、水を口にするだけ。
魔道書も読む気になれず、かといって人形繰りの練習をする気にもなれず、アリスはただただ椅子の上に座っていた。
考える事も、殆ど何も無かった。
権兵衛の事も、普段は考えれば考える程、胸が抉られるような気がして、考えられなくなってしまう。
ただ時々アリスは、まるで極寒の荒野に独りで立ったような感覚に襲われる事があった。
そんな時だけは、権兵衛の事を思い出すと、その暖かさがそんな気分を吹き飛ばしてくれる。
しかしそれもずっと権兵衛の事を考えているだけであると、もう向こうからやって来る偶然を期待しない限り、権兵衛と直接出会う事は無いのだ、と思えるようになり、そうするとアリスの瞳からは涙が零れ落ちてしまった。
辛くて辛くて、本当に何も考えたくなくて、無気力な状態になってしまう。
そんな折だった。
権兵衛が再び、アリスの家を訪ねてきたのは。

「一週間ぶりです、アリスさん」

 と言う権兵衛は、驚くべき事にその左腕があるべき所が、途中から無くなってしまっていた。
何でも妖怪の山の知り合いに用事があって行った時、一悶着あったのだと言う。
その相手の妖怪に思わず殺意が湧くアリスであったが、既に三日も前の事だと言うので、権兵衛の周りが既に何らかの手出しをしているだろう、とその怒りを収めた。

 何よりアリスは、嬉しくてたまらなかった。
もう二度と叶わないかもしれないと思っていた願いが叶ったばかりではない。
権兵衛の腕が千切れてしまった事は悲しむべき事だが、その事で自分を頼ってきてくれたのは、身悶えする程の嬉しさだった。
思わず権兵衛に抱きつきそうになるアリスの前に、す、と何者かが割り込んでくる。

「私も、結構久しぶりになるかしら?」

 アリスの恐れる強者の一人、八意永琳であった。
何時現れたのか、と思わず目を見開くアリスであったが、普通に権兵衛の後ろからついてきていたらしい。
どうやら自分は本気でそれが目に入っていなかったようだ、と、改めてアリスは権兵衛を思う自分の気持ちを確認する。
しかし同時に、アリスは永琳の攻撃的な霊力の前に、思わず萎縮してしまっていた。

「権兵衛さんも説明していたけれど、貴方には権兵衛さんの義手を作って欲しいの。
私もある程度は出来ないことはないけれど、やっぱり専門の貴方には叶わないからね」

 と言う字面こそ丁寧な永琳だが、明らかにその態度はアリスを威圧していた。
強者に関わらないよう生きてきたアリスはその威圧に逆らえない。
思い知らされるようだった。
確かに二度と叶わないかもしれないと思っていた、権兵衛との出会いは成された。
だが、それは二度叶っただけで、三度目は矢張り叶う事は無い願いなのだ。
そう思うだけで絶望に沈みそうになるアリスだったが、そこにタイミング良く権兵衛が話しかけてくる。

「俺も、アリスさんの腕前なら間違い無いと思いまして、一つ返事でしたよ。
どうか、俺の為に義手を作ってはくれないでしょうか」

 まるで、氷を溶かす炎のように、権兵衛はアリスの絶望を消し去っていってくれた。
その笑顔を向けられるだけで、アリスは自分の中にあった冷たい物が消えてゆくのを感じる。
さながら権兵衛は、アリスにとって太陽のような存在だった。
一緒に居るだけで考えが明るくなり、心が弾むような気さえする。
宝物にしよう、とアリスは思った。
一字一句、今日この日の会話を覚えて、これからの人生の宝物にしよう、とアリスは思った。
もしかしたら、いや、恐らく、権兵衛の用事が終わって再び別れてしまえば、アリスは再び憂鬱な気分に襲われてしまう事だろう。
だからそれを乗りきれるだけの宝物を、権兵衛にもらおう、と、アリスは決心した。
故にアリスは、にっこりと、満面の笑みで答える。

「えぇ、勿論よ。この前の借りを返すのにも丁度良いもの、分かったわ」

 そうして、アリスは権兵衛の体の採寸を始めた。
時たま権兵衛に抱きつきたくなったり、手を絡めたくなったりするものの、その度に永琳の視線が厳しくなるので、はっと思い出してアリスはその手を引っ込め、権兵衛の体を測り続ける。
それでも念の為、と言ってアリスは権兵衛の全身を採寸した。
どうやらそれぐらいは永琳も見逃してくれるらしく、アリスは権兵衛の体に顔を近づけ、その匂いを記憶しようと努力しながら、全身を測り終えた。
普通はそれから義手が完成するまで二月ほどかかる物なのだが、アリスは幻想郷一の人形師である。
丁度人間大の人形を作ろうとしている途中だった事もあり、何とか一週間ほどでできる、とアリスは言った。

「勿論仮合わせとかもあるし、できれば毎日来て欲しいんだけれど」
「はい、分かりました。えっと、それじゃあ永琳さんは忙しいでしょうし、俺一人で行きましょうか?」

 権兵衛が永琳の方に振り返ると、アリスは緊張の余り唾を飲み込んだ。
権兵衛に来て貰わないと出来ない、と言うのは確かだが、その回数は二三回である。
水増しした要求に、永琳が僅かに顔を引きつらせるが、権兵衛の目で見つめられると、はぁ、と溜息をついて口を開いた。

「……そうね。権兵衛さんには毎日此処に通ってもらう事にするわ。
でも一人は駄目よ、妖怪に襲われたら大変な事になるし。
鈴仙かてゐ、手の空いている方に任せる事にするわ」

 と言っても、流石に権兵衛一人で来させる事にはならないようである。
まぁ、片腕を無くした状態で一人で来られてもアリスも心配なので、そこはいい。
ただ鈴仙の名を聞くと、あの幽鬼のような表情を思い出してしまい、思わずアリスは内心しかめっ面を作ってしまった。
まぁ、相手は所詮兎である。
今日のように過度に権兵衛への接触を制される事も無いだろう。
そう思うと、アリスは永琳の提案を承諾し、その日はそこで権兵衛と別れる事となった。

 それからは、これまでの一週間が嘘のように充実した日々であった。
何せアリスには権兵衛の義手以外にも作る物があり、ただでさえ義手を作るのに忙しいのに、それが倍となってアリスに降りかかってきたのだ。
今度は忙しさの余りに寝食を忘れつつ、アリスは権兵衛が来る時間にはさも余裕ですよ、とでも言いたげに整頓された部屋を作っておき、毎日の権兵衛との逢瀬を楽しんだ。

 権兵衛との会話は、矢張り天に昇るような気持ちであった。
権兵衛が話しかけてくれるだけでも心が踊り、その体に触れる時など、アリスは自分の顔が発火するのでは、というほど熱くなっているのを感じる。
主に義手を付けてみる時なんかに権兵衛の体に触れるのだが、権兵衛の体は矢張り想像した通りに柔らかくも芯のある硬さがあり、素晴らしいさわり心地だった。
アリスも長い事色々な素材を使って人形を作っており、色々なさわり心地と言う物を覚えているが、そのどれとも一致しない不思議な感覚である。
一応人形作りの参考として何人もの男や女の肉を触った事のあるアリスだが、矢張り権兵衛のそれは他の誰とも違うように思える。
不思議だな、とアリスは思った。
他の人間は肉を掴んでも、その奥にある骨や内蔵の感触まで分かる事なんてないのに、権兵衛の肉は不思議と分かるものなのだ。
それはアリスの興味と感情が成せる技だったのだが、それを知らないアリスは不思議に思いつつも、権兵衛の感触を記憶する。

 権兵衛は、決して美男子と言う程の美形では無かったが、何処か優しい落ち着きを感じさせる風貌の男であった。
輪郭は柔らかく、目が少し大きく、口元はやんわりとした曲線を描き、笑うと小さな笑窪ができる。
その様々な表情をアリスは記憶して、後でスケッチしておいた。
後で権兵衛の事を思い出すのに、必要だと思ったからだ。
こんな事があるなら、天狗のカメラとやらを研究しておけば良かった、と思いつつ、権兵衛の、その多くは笑顔をアリスはスケッチブックに治める。
職業上人体の構造に詳しいアリスは、似顔絵もある程度の腕前があり、それなりの絵がかけた。
と言っても十分な程の物でもなく、少しアリスは天狗のカメラを借りようと思ったが、その天狗の縄張りで権兵衛が怪我した事を思い出し、その考えを破棄する。

 付き添いの兎は、特にアリスの邪魔をする事は無かった。
相変わらず鈴仙の方は幽鬼のような雰囲気をしていたが、権兵衛が顔を向ける間だけ明るい顔になり、そのあまりの表情の差が気持ち悪かったが、それだけ。
てゐの方には悪戯されはしないかと警戒していたアリスだったが、拍子抜けする事にてゐはアリスに何も手を出さなかった。
どうしたものか、と首を傾げるアリスだったが、帰り際、権兵衛と離れた間にてゐが言った台詞に思わず顔を引きつらせる事になる。

「なるほど、あんたはやっぱり警戒するに値しないね。どうせもうすぐ、権兵衛と会えなくなるんだから」

 そんな風にしつつ、権兵衛と会話し、権兵衛の義手を作り、他に二つほどの作業を並行して行い、アリスは忙しい一週間を過ごした。
そしてその最終日がついにやってくる。
緊張の余り心臓をばくばくと鳴らしながらアリスが権兵衛を待っていると、とんとん、とノックの音がした。
慌てて出向くアリスが返事をして開けると、そこには相変わらず輝かしい笑顔の権兵衛と、最終日だからだろう、義手のチェックの為に動向したのであろう永琳が立っていた。
強者の気配に思わず体が強張るアリスであったが、努めてそれを無視し、朗らかに権兵衛に話しかける。

「いらっしゃい、権兵衛。どうぞ上がっていってね」
「はい、お邪魔します、アリスさん」

 一瞬、これがただいまだったらいいのにな、と考えてから、アリスは自分がなんでそんな事を考えたのだろう、と内心首を傾げた。
それでは権兵衛が留守にしている所にアリスがやってきて、留守を預っている事になってしまうではないか。
それなりにこの家には愛着があったつもりなんだけど、と思いつつアリスは権兵衛を家の中に案内し、早速お茶を用意した。
お茶を淹れたがる権兵衛は、今貴方は客でしょう、と抑え、アリスがお茶を淹れる。
アリスは権兵衛の思い出としてそのお茶を何度も飲みたいのは確かだったし、実際この一週間で何度か飲ませてもらったが、同時に権兵衛にアリスの事を覚えておいて欲しい、と言う思いもあって、こうやって紅茶を淹れたりしていた。
多分そうすれば権兵衛が三度目の来訪をしてくれるかもしれない、と言う奇跡の可能性が少しでも上げられるからなのだろう、とアリスは思う。
不思議なのは、それなのに権兵衛がアリスの紅茶を飲んで美味しそうな顔をすると、それだけで自分が浮き上がってしまいそうな感覚に陥ってしまう事か。
矢張りどうしたのだろうか、と首を傾げつつ、アリスは世間話を始めようとするが、永琳はそれを許さなかった。

「それで、何とか時間を空けてきたから早速聞くけど、義手はどうなのかしら?」

 そう言われてしまえば、話を進めない訳にもゆくまい。
アリスは人形を数体操り、義手を持ってこさせる。

「これよ。権兵衛、もう装着の仕方は分かるでしょう? やってみて」
「はい、やってみます」

 言って、早速権兵衛は義手を無くした腕の上から嵌めて見せる。
一先ず器械的な義手の装着ができた所で、永琳が権兵衛の体を軽く触診し、体重の偏りなどがないかどうか、確かめてみせた。
これがアリスにとっては拷問のような時間で、目の前で他の女が権兵衛の肌を撫でていると言うのは、耐え難い光景であった。
一体何度叫びそうになったか分からず、その度にアリスは指向性のある永琳の強烈な霊力によって黙らされる。
疲労の余りアリスが肩を落とすようになってきた頃、ようやく永琳の触診が終わった。

「大丈夫。流石の腕前ねぇ、人形使いさん」

 うすら寒い世辞に内心肩をすくめながら、アリスは感情の篭っていない礼を返した。
それから権兵衛に向かって口を開く。

「それじゃあ権兵衛、今度は貴方の月の魔力を使って、腕を動かしてみて」
「はい、分かりました」

 言うと同時、権兵衛は腕の付け根から、義手の内側に向かって魔力の糸を放出した。
五指の分である五本が途中までは絡みあうように進み、関節部分では内部の機構に絡みつき、そして掌で五指それぞれに別れる。
それが指先まで届くと、権兵衛の義手は、まるで以前と同じように動いてみせた。
五本の魔力糸の長短を調節する事により、権兵衛は無くした左腕を本当の腕と区別が付かないぐらい精密に動かせるようになったのだ。
期待通りの結果に、アリスはにこりと笑う。

「成功ね、権兵衛」
「はいっ! ありがとうございます、アリスさん、まるで腕があった頃と変わらないぐらいですっ!」

 これまでも何度か動かす訓練をしてきた権兵衛であるが、完成となると感動も一入なのだろう、浮かれながら大声で言う。
そんな権兵衛に顔を綻ばせるアリスであったが、すぐに立ち上がった永琳に、表情を変えた。

「じゃあ、権兵衛さん。早速だけど、その新しい腕を使って、リハビリをしてもらわないとならないわ。
これから忙しくなるんだし、そろそろお暇しましょう?」
「あ……そっか、きちんと動けるようにならないと、退院までの日程が伸びてしまうんですよね」

 すぐにこの場を離れようとする永琳に、乗り気の権兵衛。
慌ててアリスは口を開く。

「そ、その、私は別に、少しの間ぐらいなら話していってもいいし、永遠亭に送って行くぐらいならできるけれど」
「えっと、すいません、アリスさん。ただでさえ今は永遠亭にお世話になっている状態ですので、それが長く続くのも申し訳ない事ですし」

 言ってから、困ったような笑顔を向け、権兵衛は続けた。

「それにアリスさん、なんだか疲れているみたいじゃないですか」
「え……?」

 意表を突かれ、アリスは思わず目を見開いた。
疲れは、出来る限り隠していたつもりだったのだけれども。

「ほら、いつもならアリスさん、あの辺の人形、服の色別に並べている筈ですし。
人形の服までシワひとつなくて、綺麗にしていますし。
だけどほら、どっちも今は違うでしょう?
アリスさん、この一週間、さぞかし忙しかった事でしょう。
ですから今日は、貴方にはゆっくりと休んでいてもらいたいのです」
「う……」

 ヤバい、とアリスは反射的に思った。
何がヤバいのかと言うと、何というか、兎に角嬉しかった。
本当は権兵衛との会話と言う宝物が減ってしまう事で悲しい筈なのに、それ以上に権兵衛が自分を心配してくれたと言う事が、嬉しくてたまらない。
顔面が真っ赤になっているのを悟り、アリスは思わず俯いてしまう。
恥ずかしさの余り、口調が少し乱雑になった。

「わ、分かったわよ。しょ、しょうがないわね、別に貴方が言ったからって言う訳じゃないんだけど、今日の所はゆっくり休む事にするわ」
「はい。是非、そうしてください」
「あ、そうだ」

 と、そこでアリスは忘れてはいけない、この一週間でしてきた事の一つを思い出す。
再び人形を操り、一組の人形を連れてくる。
小さな、アリスが普段使っている人形と変わらないぐらいのサイズの人形は、アリスと権兵衛を象った人形であった。

「これ、貴方にあげるわ」
「へ? え、でもいいんですか?」
「いいもなにも、貴方にあげる為に作ったんだもの。あ、初めて義手を作った記念に、って事ね」

 と言うのは建前である。
実際は二つの人形にアリスは魔力的ラインを繋いでおり、何時でもその人形の瞳と視界をリンクできるのだ。
それによって、何時でも権兵衛の見る事ができるように、と言うアリスの願いを成就させる為の人形であった。
正直、永遠亭を経由する権兵衛が無事なままの人形を家に持ち帰れるかは賭けだったが、何もしないよりは、とアリスは挑戦してみたのだった。

「あ、ありがとうございます。大切にしますね、アリスさん」

 と言って受け取る権兵衛を、アリスは今度は別の意味で直視できない。
純粋な笑顔を浮かべる権兵衛に対し、自分が非常に邪な思いを抱いているかのように思えるのだ。
それをじろっと睨む永琳を尻目にアリスは人形を渡し終え、二人を玄関まで送る事にする。

「それじゃあ、今日までありがとうございました。では、また会う日まで!」

 言って権兵衛は帰っていった。
空をとぶ権兵衛らが点のようになるまで見届けると、アリスは予想していた通りの虚脱感を覚え、急ぎそれを補う為に、家の中に戻る。
すぐに家の中の倉庫の扉を開き、すぐさま中にあるそれに抱きついた。
それは、権兵衛の等身大人形。
丁度作っていた人間大の人形をそのまま流用し、この一週間で急造した人形であった。
素材も何もかも、特別性の物を使った渾身の一作である。
時間こそ足りなかったものの、それでもアリスの一念が叶ったからか、不思議とこれまでの最高の作品に比類しうるような、良い出来だった。

 また会う日まで。
権兵衛が何気なく言った台詞は、アリスすらも想像できなかったぐらいに深く、アリスを傷つけていた。
何せ、また会う日、なんて物が来ないのでは、と、アリスは常に不安に思っていたのである。
それを他ならぬ権兵衛の言葉で思い起こされ、アリスは恐怖に打ち震えていた。

 それを打ち消す為、アリスは強く強く、権兵衛人形を抱きしめる。
温度すらも魔力を注げば再現する権兵衛人形は、権兵衛と等しい体温を模していた。
なのに、同じ体温は筈なのに、何故か感じる温度は、何となく本人の方が暖かく感じる。
僅かな温度の差なのに、それが決定的な物のように思えて、アリスは思わず涙ぐんだ。

 浮かんでくる悲しみを誤魔化す為、アリスはより深く権兵衛に抱きつく。
足を権兵衛人形の足の間に挿し込み、抱く腕先の手は権兵衛人形を握りしめるように、顎は権兵衛人形の肩に乗るように。
それだけしてもまだ足りず、アリスは思わず、権兵衛の頬に唇を近づける。
想像の中で、アリスは権兵衛の柔らかくも芯のある肌に、唇を近づけていた。
吐く息が互いに触れ合い、互いの温度が境界を無くそうとしていた。
そしてついに、アリスの唇が、権兵衛人形の頬に触れる。

「……ぁ」

 触れたのは、一瞬だけであった。
すぐさま沸き上がってくる違和感に、アリスは思わず顔を離す。
違う。
違う。
こんな物は、権兵衛ではない。
内心の叫びと共に、アリスは権兵衛人形を突き飛ばす。

「ち、違うっ!」

 突き飛ばされた人形は、倉庫の壁に当たり、そのまま床まで落ちた。
本物の肉とは違う音が響き、その質量の差や材質の差を感じさせる。

「違う、権兵衛の肌は、こんなつるつるしてなかった。もっとしっとりしていて、柔らかかったっ!」

 叫ぶと同時、アリスは顔を覆う。

「違う、権兵衛はもっと暖かかった、温度だけじゃあなくて、よく分からない暖かさがあったっ!」

 手に付く人形を拾い、アリスは権兵衛人形に投げつけた。
人間にぶつかったとは思えない、軽い音しか帰ってこなくて、それがアリスの感情を更に逆なでする。

「お、お前は、権兵衛じゃない。権兵衛じゃないのよっ!」

 叫び、それからアリスは崩れ落ちた。
ペタン、と尻を付き、呆然とした表情を天井に向ける。
自分は一体、何をやっているのだろうか。
自分で作った人形に、自分から抱きついて、なのに投げ捨てて、分かりきっていた事で文句を言って。
あまりの事に、全身を虚脱感が襲い、アリスは呟く。

「何やってんだろ、私……」

 絶望的な無力感であった。
涙さえもがアリスの両目から溢れ、零れ落ちてゆく。
それを埋めようと、この一週間での権兵衛との思い出を思い出すアリスだったが、どれもが今の自分のおぞましい行為にかき消されるように、消えていってしまう。
権兵衛の事を人形で代用しようとした事は、アリスにとって凄まじい罪悪感になっていた。
涙と共に、アリスは思わず呟く。

「ごめん、なさい……」

 誰に謝っているのかは、アリス自身にも分からなかった。
権兵衛相手になのか、勝手な都合で振り回してしまった権兵衛人形になのか、それとも他の誰かになのか。
それすらも分からずに、アリスは再び呟く。

「ごめんな、さい……」

 どれだけ謝っても、アリスの言葉には返事は無かった。
ただただ空虚な空間に言葉が消えてゆくばかりで、何も返ってこない。
それでもアリスは、謝り続けた。
ずっと謝り続けていた。
一言一言に、まるで自身の身が削れるかのように、力が削がれてゆく。
そのうちに喉が潰れそうになるよりも早く、アリスは力尽きて眠った。
ただそれでも、涙だけは枯れ果てず、何時までも流れているのであった。




あとがき
一週間でこの長さを書くのは疲れました……。途中で力尽きそうだった。
前回ちょっと構成パターンを変えてみたのですが、やっぱり女の子の心情描写が多い方がいいよな、と戻しました。
書いていても、やっぱりこっちの方がいいかな、と思います。
ちょっとテンプレ化があるかもしれませんが、ご容赦を。
次回は閑話になります。
権兵衛さんの新生活についてですかね。



[21873] 閑話2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/05/26 20:16


 七篠権兵衛の一日は、幻想郷の多くの住人がそうであるように、布団で目を覚ます事から始まる。
太陽の光が、障子から透けて権兵衛の顔へと届いた。
ぱちっと目を開き、ぼーっとした頭のままで、権兵衛はゆっくりと背を上げる。
胸元までかかっていた掛け布団がぱさ、とこぼれ落ち、眠たい目をこすりながら、権兵衛は誰に言うでもなくつぶやいた。

「おはようございます」

 言ってから、自分は誰に言っているのだろうかと思い、権兵衛は首を傾げる。
もしかして誰か居たりしたのだろうか、と思い、何となく周りを見渡すと、しかし周りは何時もの通りである。
それから自分が挨拶を独り言で呟くのも何時もの通りなのだと気づき、権兵衛は恥ずかしさで少し顔を赤くし、それを誤魔化すように軽く頭を振る。
そして布団を手にしていた手を腰の当たりの敷き布団に当て、気づいた。

「あぁ、今日もなのか」

 権兵衛の両隣には、人間の体温に近い温度が残っていた。
そしてまるで直前まで誰か居たかのように、敷き布団には皺が残っている。
これはなんなのだろう、と此処に移り住んで数日、権兵衛は頭を悩ませた事があったが、その結論はこうだった。
多分、萃香さんの言っていた河童の超技術とやらで、夜寒くないよう温める機能なのだろう。
流石は光学迷彩すらも実用化していると言われる河童の超技術である、凄い物だなぁ、と今日も感心しつつ、権兵衛は布団から出る。
それから、前日のうちから枕元に用意しておいた着物に、寝間着を脱いで着替え始めた。
そうすると不思議な物で、権兵衛は何となく色んな所から視線を感じる。
なんだか部屋の湿度が増したような気がするし、屋敷に住み着いている紫色の蝶が部屋に現れるし、外ではかぁと烏が鳴く音がした。
と言っても、どれも人妖の物ではないのだ、自分はもしかして自意識過剰なのかもしれない、と思いつつ、手早く着替え終え、義手も装着する。
それから権兵衛は、居間に入り、改めて置いてあるアリスと権兵衛の人形に挨拶した。

「おはよう」

 こう言うと何となくアリスの人形の方の瞳に意思が宿るような気がして、権兵衛は毎回不思議に思っている。
と言っても、その場で権兵衛に湧き上がるのは、不気味さではなく、むしろそれ程に素晴らしい人形を作ってみせた、アリスの腕前への尊敬の念であった。
何となく権兵衛はアリスの人形を軽く撫でてあげ、それから土間に出て履物をつっかけ、外に出る。
すると、何時も通りの権兵衛宅の光景が見えた。
周りをよく首をこちらに向ける向日葵に囲まれ、そこらに霧が漂っており、幽霊らしきものが浮いており、火の鳥や烏や兎が時折姿を見せる、不思議な空間であった。
これを権兵衛は、建物に宿った念による物だと考える。
何せ鬼の中でも四天王と呼ばれる程の鬼である萃香が作った屋敷なのである、不思議な力が宿っているというのは十分にありうる話であった。
そんな屋敷に住んでいる事を、権兵衛は幸運だと考えていた。
何せ里との人間関係に相変わらず問題のある寂しい男な権兵衛である、身の回りの自然の不思議に心動かされる事は、貴重な体験となっていたのだ。
何時もは喧嘩するみたいにしている普通の霧と赤い霧が、今日は影から移動しない赤い霧しか無いのを見て、どうしたのだろう、と首を傾げつつ、権兵衛は川まで行って顔を洗った。
それから水を汲んで、家に戻り、朝食の支度を始めようと台所に移動する。
すると普通の霧がそこに漂っていたので、思わず権兵衛は挨拶をした。

「あ、おはよう」

 と言ってから、権兵衛は一瞬自分は何をやっているんだろうかと思う。
まぁ、仕方のない事ではあるのだ。
よく赤い霧と喧嘩したりしているように見えるこの霧には、まるで人格があるかのように思え、何となく権兵衛は親しみを持っているのである。
ぽりぽりと鼻の頭を掻きつつ、権兵衛は続けた。

「あの赤い霧さんとは今日は喧嘩していないんだね。良かった」

 と言うと、動揺するかのように霧が動く物で、やっぱりこの霧には人格があるのではないか、と権兵衛は思う。
今度輝夜先生に聞いてみよう、と思いつつ、権兵衛はさっさと朝食を作る事にした。
月の魔力でパッと火をつけ、冷やしてあった魚を切り身にしたり、ご飯を炊いたりする。
以前の権兵衛の朝食は杜撰な物であったのだが、何時しか妖夢に食事マナーと一緒に矯正されたのか、この屋敷に移り住んでからの権兵衛は、割と丁寧な朝食を作る事が多かった。
出来上がった朝食を居間に運び、権兵衛はアリスの人形らの向かい側で座布団に座りながら、手を合わせる。

「いただきます」

 黙々と朝食を口にしていた権兵衛であったが、ふと目が壁にかけられたカレンダーに行き、今日がこの屋敷に移り住んでから初めて買い物に行く日だと気づく。
何せいくら権兵衛が秋の幸を独占的に集める事ができるとしても、米や野菜など、手に入らない物は多い。
とりあえずこの家に慣れるまでは、と、権兵衛は残っていた金に少し余分をつけて慧音に頼んでいたのだが、何時までもそうはいかないと権兵衛は思っていた。
と言っても、そうこう言ううちに権兵衛は腕を無くして義手を作ってもらい、そのリハビリに数日かけるなどしていたので、ここまで遅くなってしまっている。
そこでまず、里の事情に詳しいであろう慧音に相談した所、最初はとりあえず自分が付いていてやるから、予定の空いている日に来てくれ、と言われたのだ。
権兵衛はその言葉に甘え、今日と言う日を指定したのである。

「頑張らなくっちゃな」

 と思うと、朝食も確りと取らねばなるまい。
きちんと噛むよう意識しつつ権兵衛は朝食を終え、食器を水につけておき、それから洗濯に移る。
ここは、河童の超技術の独擅場であった。
外の世界で使われていると言う洗濯機を、霊力を流す事によって起動させられる物が、権兵衛宅には用意されているのである。
河童さんありがとうございます、と見た事も無い河童に内心礼を言いつつ、権兵衛は洗濯機のスイッチを入れ、その霊力タンクに満タンまで月の魔力を変質させた霊力を詰めておいた。
ごうん、ごうん、と大きな音を立てつつ動く洗濯機を尻目に、権兵衛は食器を洗い始める。
それが終わる頃には洗濯も終わっており、後は干すだけとなった。

 洗濯物を干す時も、何となく権兵衛は視線を感じる事が多い。
今日は霧やら人形やらばかりではなく、何も無い所からも視線を感じる事がある。
何か透明な物でも居るのかな、と権兵衛は地面に視線をやるも、足跡のような物は見受けられない。
勘違いかと思いつつも権兵衛は手を伸ばしてみる。

「――っ!?!?」

 息を飲むような悲鳴が上がり、思わず権兵衛は後ずさった。
と同時、その気配が薄れるのを権兵衛は感じる。

「えっと、妖精だったのかな?」

 以前里で、透明になって悪戯をする妖精の事を聞いたことがある権兵衛は、そんな風に首を傾げた。
と言っても、この屋敷に来て以来、権兵衛は意思の強い妖精を見る事は無い。
何となく漂っているような妖精を見るばかりで、祝福を与えられるような、意思ある高位の妖精を見る事は一度も無いのだ。
珍しい事だったのに、勿体無い事をしたのかな、と、権兵衛は何となく柔らかい感触の残る手を握りしめ、こつん、と自らの額を叩いた。

 そんな事をしつつ権兵衛は洗濯を干し終え、それから里に向かう準備をする事になる。
と言っても、米だろうがなんだろうが月の魔力で浮かせられる権兵衛は、金を持つ以外は手ぶらで構わない。
とりあえず、慧音さんに会うのだから、と鏡を使って見目だけチェックしてから、権兵衛は家を後にする。
最後に自宅を結界で囲み、自分以外入れないように鍵をかけてから、権兵衛は里への道を歩み始める。
途中常にこちらを向いている向日葵などに挨拶しつつ、ゆっくりと里に向かう権兵衛なのであった。



 ***



 冬が始まろうとする頃。
肌を刺すような気温の中、上白沢慧音は権兵衛を待ち、一人静かに茶屋で茶をすすっていた。
湯気が湧いて出る湯のみに口を付け、ずず、と静かに茶を一口。
腹の底から暖まる温度に、はぁ、と思わず慧音は溜息をつく。
しかしその顔には、何処か悩ましげな色が混じっていた。

 以前であれば、慧音が茶屋で座っていたのならば、通りかかる人々は一人ひとり挨拶をしていったものだったが、今はそうではない。
誰もが黙ったまま、慧音から顔を逸らして黙々と道を歩むばかり。
時には慧音に顔を向け、声をかけようとする者もいるものの、彼らは暫く迷った末、誰しもが慧音に声をかけること無くその場を去る。
権兵衛が自宅を壊されてから、慧音は全力を尽くして彼を探し続けた。
教師の仕事もそこそこに、空いた時間を全て権兵衛に費やした慧音は、当然のことながらその姿勢を隠そうとする努力を怠った。
それ故にか、里人は最近慧音と距離を取るようになった。
当然といえば当然と言えよう、里人らにとっては正義であり、慧音の事を思っての事だったとしても、慧音にとっては大切な人間を里人によって奪われかけた形になるのである。
里人らとしては、慧音が権兵衛のような悪人の残り香から目が覚めるまで待とう、と言う結論となった。

 その事に対して、慧音は思うことは無い。
寂しいな、と思うのも多少はあるものの、慧音もまた里人にどのような感情を持っていいのか、分からなかったのである。
今まで、何十年と見守ってきた里人は皆家族同然の思いを持っていたし、この里に居る人間の殆どはかつての慧音の生徒なのだ。
当然大切だし、権兵衛に出会うまでは一番に思ってきた相手達だった。
そう、権兵衛に出会うまでは。

「私は――、権兵衛が、好き」

 小さく呟き、慧音は自らの唇に触れる。
柔らかな感触とともにぷっくりとした唇が凹んだ。
目を閉じ、慧音は権兵衛の頬に自らの唇が触れている所を想像する。

「う……」

 思わず、慧音は悩ましげな溜息をつき、体を抱きしめる。
そうでもしなければ、慧音は今にでも悶えその場で転がってしまいそうなぐらいだった。
それぐらいに慧音の中をふわふわとした感情が暴れまわっており、それが過ぎ去るまで慧音は目を閉じ自身を抱きしめ続ける。
体の芯が熱くて熱くて仕方がなくて、慧音は股を擦り合わせ、自身を抱きしめる腕で乳房を抑えつけた。
冬だと言うのに汗がじっとりと滲みでてきて、これから権兵衛に会うのに、いけない、と思い、努めて自身を制御する。
ようやく体から緊張が抜けてきた頃、慧音は溜息と共に脱力した。

 やっぱり自分は、間違いなく権兵衛の事が好きなのだ。
そう慧音は確信する。
だが、同時に思う事もあった。
それは里人達と比べてどうなのだろうか?
それは妹紅と比べてどうなのだろうか?

 今まで慧音は、大切な者同士を比べてみるなど、思ったことも無かった。
何せ里人も強者であり迷いの竹林から助けてくれ、かと言って既得損益を汚す訳でもない妹紅に対し友好的で、妹紅も里人に敵対するでも無かったのである。
つまり、権兵衛を好きになって初めて、慧音は大切な者同士の諍いの中にあるようになったのだ。

 確かに権兵衛は大切である。
しかし可能なら里人や妹紅と両立して仲良くしていたい、と言うのが慧音の正直な考えであった。
浅ましい考えである、と言うのは慧音にも分かっている。
何せ慧音が権兵衛の記憶さえ喰わなければ、全ては丸く収まり、権兵衛も里人も妹紅も、全て仲良く慧音と手を取り合えたかもしれなかったのだ。
それを破壊した当人が、今更何を欲張った事を言うものか。
そう思うと自身の罪深さに絶望しそうになる慧音。
しかしそれでも、思ってしまうのだ。
権兵衛は私の物だったのに、と。
自分で余計な事をしてしまい、その状況を壊してしまったと言うのに、それでも思ってしまうのだ。
本当ならば、権兵衛は私の物だったのに、と。
記憶さえ喰わなければ?
いやいや、慧音が米屋の時の騒動の場に居て、妖夢に権兵衛を連れていかれなければ、ずっと権兵衛は慧音だけの物だったのだ。
あの時急な来客さえなければ、きっと、ずっと。
浅ましい上に、それはただの現実逃避であると言うのに。

 そして慧音は結局、現実逃避しかできていない自分に、薄々気づいていた。
権兵衛が好きと言いつつ、その権兵衛の為に里人との間に入る事すらできていない。
いや、それはまだ一端時間を空ける為、と言う理由もあるにあるのだ、正当化できる範囲内であったが、妹紅の事については言い訳のしようがなかった。
妹紅は明らかに慧音を出し抜いて権兵衛を物にしようとした。
それは宴会で見た権兵衛の火傷により明らかであり、慧音からすれば本当に権兵衛の事を一番に思うなら、妹紅との縁を断っていてもおかしくない事実である。
だのに慧音は、未だに妹紅に対しどんな態度も取れていなかった。
権兵衛と妹紅と三人で仲良くできる未来は、はっきり言って、無いに等しい可能性である。
何せ妹紅は慧音が大切な人と言って紹介した権兵衛を好きになり、そればかりか無理に物にしようと魂まで到達する火傷を負わせ、自身の物だと言う主張を行ったのだ。
それ以来妹紅の方から慧音に話しかける事すらもないまま。
対し慧音は妹紅に偶然出会っても、以前のような態度をとり続けている。
明らかに慧音は、妹紅が自分を裏切ったと言う事実を、認めきれていなかった。

 そんな心情を含め、今慧音の立場は危うい物になっていた。
そも、権兵衛を傷つけた里人寄りであり、更に力も弱い慧音が権兵衛を取り巻く女性に排除されていないのは、権兵衛が里との復縁を願っているからである。
恩を返したい、と言う権兵衛の願いは、どっちかと言うと今すぐ婿に来てくれた方が嬉しいと思いつつも、女性陣全員が応援する物であった。
当然であるが、権兵衛の願いが果たされず共になるよりも、権兵衛の願いが果たされて共になった方が良いのである。
そして権兵衛の願いを叶える為には、里との縁が深い慧音が必要不可欠、と言うのが、今慧音が権兵衛の事を監視する権利を得ている理由であった。

 どうにかしなければいけない、と言うのは慧音にも分かっている。
でもそのどうにかしなければいけない現実は絶望的で、どうやっても希望通りにはならず、最低限を手に入れるだけでも必死の努力が必要で、その上何をどうすればいいのかも分からない。
現実は非情であった。
胸を掻き毟りたくなる衝動に襲われつつ、慧音はそれを打ち消さんとばかりに茶を飲み込んでみせた。
茶は少し冷めていて、温くなっていた。
まるで今の私のように中途半端だな、と自嘲する慧音の顔に、影が差す。

「慧音さん? お久しぶりです、権兵衛です」
「ご、権兵衛!? も、もう来てたのかっ!」

 思わず驚き、慧音は湯のみを取り落としてしまう。
あっ、と声をあげ、一張羅が茶で濡れてしまうのを覚悟する慧音であったが、それよりも早く権兵衛の手が動いた。
月の魔力によって重力を局地的に操作。
零れた茶を宙に浮く球体にし、こちらは単に魔力で掴んでいる湯のみをことりと置き、その中に茶を戻す。
見事な手際であった。

「凄い、な、権兵衛」
「えへへ。輝夜先生の所に、何度か通わせてもらっていますから」

 思わず感嘆の笑みを浮かべつつ、慧音は内心複雑であった。
権兵衛の月の魔力の扱いは、明らかに低級の妖怪の上を行く物であった。
期間を考えれば凄まじい才能であり、恐らくこれからも同じように力を上昇させてゆくと言うのなら、慧音と並ぶ日も数年とかからないかもしれない。
そう思うと、慧音は誇らしいと思うと同時、寂しくてたまらなかった。
外に出るにも権兵衛は自分を頼らねばならず、里で物を買うにも権兵衛が自分を頼らねばならないと言うのは、たまらなく嬉しい物だったのである。
何と浅ましい事か。
自身を殴ってやりたい衝動に襲われつつ、慧音は努めてそれを隠しながら口を開く。

「それにすまなかったな、権兵衛。
約束では、此処から里の入り口に権兵衛が見えたら私が門番に言って聞かせてやるつもりだったのに、一人で来させてしまって。
大丈夫だったか?
諍いなんかは無かったか?」
「それが……」

 困ったような笑顔で返し、権兵衛は横に一歩動いた。
同時、隠れていた幾人かの姿形が慧音の眼に入る。

「えっと、里に行くまでに、偶然出会いまして。
皆さん、丁度買い物で、一緒に行かないか、と言う事でしたので、それなら、と同行する事になったんですが……。
その、良かったでしょうか?」

 何故か半霊を持たない妖夢、幽鬼のような表情をした鈴仙、獰猛な笑みを浮かべた幽香、冷たい表情の咲夜。
そして慧音に対し敵意を秘めた瞳で見据えてくる、妹紅。
何時ぞやの宴会の再現と言うべき面子が、そこに揃っていた。
一瞬、慧音は眼を閉じる。
分かりきっていた事だが、慧音は権兵衛と二人きりになる事など、できないらしい。
それでも残っていた僅かな期待を磨り潰し、無理矢理作った笑顔で、慧音は言う。

「勿論、良いとも。
皆権兵衛の“友人”なのだろう?
なら当然、こちらも歓迎さ」

 言葉の中、友人と言う単語を強調してしまう自分に、思わず慧音は自嘲した。
自分は何と嫌な女になってしまったのだろうな、と。



 ***



 里人の間で、権兵衛の事は当初から忌み嫌われていた。
何せ里の母と言っていい慧音に、何の取り柄も無いのに贔屓にされていたのである。
古い体制の続く幻想郷の人里ではそれだけで忌避されるべき事だし、それだけではなく、その上どうもこの権兵衛と言う男、何かと仕草が気に障る男であった。
笑っていても、哀しそうにしていても、無表情でいようとも、ただぼんやりとしていようとも、何となく腹がたつ。
そんな権兵衛だったので、里としては当然にして相応の処置として権兵衛は里を追い出され、その上まだ慧音と繋がりがあると知られると、その家すらも壊された。
これでいい加減慧音も目が覚めるだろう、と里人も解決を時間に任せた、その所である。
権兵衛が、再び里に現れた。
それも、大妖やそれに連なる人妖を引き連れて、である。

 当初里は、驚きに驚き、警戒した。
とっくのとうに妖怪の餌となっている筈の権兵衛が何故、と言う思いと、その権兵衛が恥知らずにも慧音以外の有力者を味方につけて、里人を威圧しているように思えたからである。
今度ばかりは権兵衛だけを攻撃してしまえば、明らかに里が報復を受けるようなメンバーが、権兵衛の周りには揃っていた。
ばかりか、既に里は権兵衛を殺しかねない行為を行っているのである、今すぐ攻撃されるやもしれない。
里人は恐怖におののき、権兵衛らに対し低頭平身に対応していた。

 他の大妖と同様の貴人に対する礼を尽くすのは当たり前。
当然だが、以前の権兵衛が気づかずに支払わされていた、五割もあった権兵衛が生きていい税も廃止である。
それに首をかしげて、その仕草から権兵衛税の存在に気付かれそうになって顔を青くしつつ、里人等は権兵衛に対応していく。
その中には決して権兵衛の前に現れる事の無いよう、影から権兵衛を見ている里人もおり、権兵衛と里から直接追い出し、家を無くした権兵衛に暴力を振るった里人も、その中の一人であった。

 奇妙な奴だった、と、その里人はかつての権兵衛を回想する。
仕草言動は善人と言って良いのに、不思議と人に嫌われるような男であった。
例えば人と人との心を繋ぐ重力があるのだとすれば、それが低すぎる状態であるかのように。
にっこりと笑っていればその顔面を殴りたくなるし、歩いていればその足を杭で串刺しにしたくなり、悲しそうな顔をしていればその顔面を地面に擦りつけて耕してやりたくなるし、座っていればその頭を蹴って西瓜のように割ってしまいたくなる。
そこまで権兵衛を嫌っていたのはその里人だけだったようだが、大小の差はあれども、里人の多くは権兵衛を嫌っていた。
女子供ですら権兵衛を嫌った。
女はわざと権兵衛に聞こえるように陰口を叩くのが日課であったし、子供は好きな遊びの一つとして、権兵衛を退治すると言うのがあった。
強いて言えば、老人は然程権兵衛を嫌わなかっただろうか。
それでも人によってはふらついた振りをして権兵衛を杖で殴ったりしていたそうだが。
後はせいぜい阿礼家の乙女ぐらいか。
と言ってもこちらは、嫌う以前に面識が無いそうなのだが。

 それが今では、奇妙に魅力ある人物に、その里人には思えた。
茶屋で女性の人妖と話す権兵衛は、魅力に満ち溢れていた。
陽の光を反射する髪はまるで宝石のように輝いてみえたし、丸くて女々しくてジメジメとした物だ、と思っていた顔は、柔らかく優しい、慈悲に溢れる顔に見える。
話す言葉はまるで鳥の囀りのように心安らかな物で、仕草の一つ一つはまるで天人のそれのように神々しい。
本当にあれは権兵衛なのか、とその里人は思ってしまう。
と同時、思い出す。
先ほどの報告から、権兵衛が零れた茶を戻すような、妖術の類を会得してきていたと言う事を。

「くそ、騙されるな、これは罠なんだ」

 小さく里人は呟いた。
それに、はっとするように、同じく権兵衛を見張っていた里人等が目を一度二度瞬き、頷く。
そう、人の印象が短期間でこれほど変わる事は、通常ありえない。
ならばこれは権兵衛の使う悪意ある妖術により、植えつけられた好意なのだ。
心の底でそれを否定する言葉が上がるのをもみ消すように、その里人は繰り返す。

「これは権兵衛の罠なんだ。俺たちを陥れようと言う、罠なんだ」

 それに戸惑うような仕草を見せつつも頷き、周りの里人が次々に口にする。

「そう、だ。これは権兵衛の妖術なん、だ」
「だよ、な……。権兵衛は、悪人、なんだよな」
「そうだよ。あいつは、そう、慧音先生を誑かした……極悪人、なんだ」

 しかし誰の言葉も煮え切らない物ばかりで、最初に口にした里人すらも、思い切った言葉を口にできない。
ばかりか、そうやって口々に権兵衛を罵る言葉を言うたびに、胸の中を掻きむしられるような思いであった。
まるで自分たちが犯してはならない道徳を犯してしまったのではないか、とすら思えてくる。
そんな筈は無い。
そんな筈は無いのだ。
そう思いつつも、里人たちの心を、奇妙な後悔が襲ってゆく。
何故、俺たちはあの人を傷つけてしまったのだろう。
何故俺たちは、あの人を悪人だなんて思ってしまったんだろう、と。

 その後悔すら、一度悪く言ってしまったのだから、と開き直りを使わなければ、里人は権兵衛を罵倒する事すら叶わなかった。
全力を尽くして、ようやく戸惑いの混じった罵倒を、呟くように口にする里人達。
それはまるで、終わることのない苦行を課せられた、賽の河原の子供たちをすら思わせる様子なのであった。



 ***



 不思議なほど買い物が上手く行き、権兵衛は上機嫌で家に帰ってきた。
今日は本当に良い日だったな、と権兵衛は思う。
権兵衛の知り合いの女性陣の幾人かと偶然出会えたし、久しぶりにお茶をして会話を楽しむ事が出来た。
なんだか権兵衛と一対一の会話しか成立しなかったような気がするのだが、それは会話下手な権兵衛の事を気遣っての事だろうと権兵衛は思う。
結局権兵衛は大所帯のまま里を周り、米などの必需品を買い、それを月の魔力で浮かせて自宅へと辿り着く。
自宅へかけてあった結界の鍵を開き、家のすぐ近くに建て付けてある倉庫に米などを入れ、ぐるりと回って庭の方へ行くと、干してあった下着がいくつか無くなっていた。

「あちゃあ……」

 呟き、思わず拳骨を作ってこつん、と自分の頭をやる権兵衛。
一応しっかりと固定していったし、それほど風の強い日でも無かったので、恐らくは妖精の悪戯とやらなのだろう。
自分の結界は妖精すら防げない出来なのか、と落ち込みつつ、権兵衛は一端手を洗ったりして清潔にしてから、干してあった洗濯物を取り込む。
夕焼けの赤色が挿し込む時刻、ふわふわと浮いている幽霊の横で洗濯物を取り込み終えると、部屋に戻ろうとする権兵衛に幽霊が付いてきた。

「今日も家に泊まるかい?」

 と言う権兵衛が言う通り、この幽霊は何でか好んでこの屋敷に住み着いているようだった。
一応冥界に返した方がいいのか、と妖夢に会ったとき聞いてみたものの、別に構わないと言う事なので、こうして屋敷においている。
何となく妖夢の引き連れた半霊を思い起こさせる姿から、どうも追い出す気が出ない権兵衛なのであった。
勿論来客時などは引っ込んでおいてもらえるよう、言う事を聞いてもらえるから、と言うのもあるのだが。

 何となく幽霊を一撫でし、家の中に入った権兵衛は、夕食を作り始めた。
今日は新鮮な鶏肉も手に入ったので、味噌焼きにする事する。
適度に味を見つつ、月の魔力による火を使って作っていると、外でガタンと物音がした。
どうしたものか、と、権兵衛は一端火を消し、外に見に行ってみるが、特に何がある訳でもなく、何とも無い。
はて、と首を傾げつつ戻ってみると、殆ど完成していた夕食が、少しづつ減っていた。

「あぁ、また妖精の悪戯かぁ」

 またもた頭をこつん、とやりつつ、権兵衛はボヤく。
この屋敷は河童の超技術のお陰で便利ではあるものの、この屋敷に住み着いてから、権兵衛は度々妖精の悪戯と思わしき物に被害を受ける事になっていた。
今度輝夜先生に会ったら妖精避けの魔法でも教えてもらおう、と思いつつ、権兵衛はさっと料理の仕上げをし、居間に持って行く。

「いただきます」

 と、またアリスの人形と向い合って言い、権兵衛は夕食を取った。
暫く咀嚼音だけが続き、虫の鳴き声は少なく、外の森に虫が少なくなってきた事を思わせる。
もう冬なんだなぁ、と思いつつも食事を終え、食器を洗い、権兵衛はお茶を入れて居間で少しばかりぼうっと過ごした。
それから今度は、風呂である。
川から汲んできた水を入れ、本来薪を入れる場所に月の魔力で火をつける。
何でも河童の超技術で温まりやすく冷めにくい素材を使っているらしい風呂釜は、すぐに暖かくなり、入るのに適温となった。
温度を維持する程度に火を弱め、権兵衛は服を脱ぎ、風呂場に入る。
すると何時も不思議に思うのだが、既に風呂場はまるで誰かが風呂に入っていたかのように濡れており、何本か様々な色の髪の毛が落ちているのである。
これは一体なんなんだろうか。
矢張り家の風呂は、妖精に使われてでもいるのだろうか。
今度は温める途中で風呂を覗いてみようか、と思いつつ、体を洗い、湯に浸かる権兵衛。
体が芯まで暖まるまで湯に使った後、権兵衛は風呂を出て、体を拭き寝間着に着替える。
それから一応確認しておこう、と、毎度のことなのだが権兵衛は再び風呂場の戸を開けた。
すると、いつの間にか残り湯が全て無くなっているのであった。
多分これも河童の超技術による排水なんだろうな、と思う権兵衛なのであったが、残り湯を洗濯に使いたいと思っている権兵衛としては残念な事である。
サボらずにちゃんと水を汲みに行けと言う事だろうか。
首を傾げながら、権兵衛は居間へと戻る事にする。

 そして夜は、魔法の勉強の時間である。
単に時間が空いていると言うだけでなく、権兵衛の魔法は月の魔力を扱うので、夜に勉強する方が効率が良いのだ。
早速輝夜に借りた魔道書を手にとろうとするが、不思議なことに、権兵衛の本棚には権兵衛の見知らぬ本がいつの間にか潜んでいたりする。
多分、これはいわゆる罠の魔道書が自分から手にとって欲しいと、誘いに来ているのであろう。
そう考える権兵衛は、輝夜にもらった以外の魔道書は手に取らず、かといって捨てようにも触れるとどうなるか分からないので、そのまま放置している。
どんどん増えてゆくそれをどうすべきなのかは、今後の権兵衛の課題である。

 数時間程魔法についての勉強をした後、権兵衛は就寝する事になる。
居間の人形におやすみ、と挨拶しながら撫で、寝室に戻り、布団に潜ろうとすると、矢張り人肌の温度に布団は暖かい。
河童の超技術なのか、それとも偶に髪の毛が落ちているので、妖精が勝手に寝ているのか。
とりあえず前者だと思うことにし、河童の超技術に感謝しながら、権兵衛は眠りにつくのであった。




あとがき
次回からは本格的に後半になります。
が、ちょっと忙しくなるかもしれないので、次回か次々回ぐらいから更新が遅くなるかもしれません。
と言っても逆に現実逃避で速度維持しているかもしれませんが。



[21873] 守矢神社1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 19:45


 洩矢諏訪子は、時々神奈子や早苗に隠れて、里まで遊びに行っている。
何の用事でかと言うと、諏訪子は神である。
故に祭りの日などは神遊びと言って人間と遊ぶ必要があるし、それには人間の遊びを知る必要があった。
中でも自分が子供の姿であるからか、特に子供の遊びの流行を知る必要がある。
勿論昔ながらの水切りなども諏訪子は達人的な腕前であるが、矢張り人は流行りの遊びをしたがるものだし、何より諏訪子自身の趣味として、新しい遊びは楽しい物である。
此処一年程は間欠泉地下センターやら非想天則やらの扱いで忙しかった為、その日久しぶりの暇が空いて、諏訪子は里を訪れる事にした。
勿論里の見張りの目を掻い潜ってから認識阻害の術をかけ、里の子供の一人だと思わせるようにしつつ、里をうろつく。

 子供は矢鱈と秘密基地を作りたがる物であり、必然、活動拠点もそこに限定される。
と言っても、所詮子供の作る物である、厳しい冬を超えられる筈もなく、大抵の秘密基地は冬にその生涯を終え、また春に新しく作られる事になるのだ。
此処一年程里を訪れていない諏訪子は当然新しい基地の場所を知らないので、必然的に歩きまわって探す事となる。
あらまぁ久しぶりねぇ、だの、元気にしていたか、だの、里の連中から声をかけられながら里を回ってみて、諏訪子が最初に思ったのは、何となく違和感を感じる、と言う事であった。
里人に活力が無い。
何処か元気が無い様子の人間が多く、虚ろな目をしている人間や、暗い顔をしている人間が多い。
そう言えば今年はなんだか参拝客も多くなったと言う事を早苗から聞いたが、その分里人の悩みが増えたと言う事だろうか。
さてはて、不作と言う話は聞いていないんだけどな、と思いつつ、思い思いに諏訪子が里を回っていると、知った顔を見かけた。
里の子供の、一人である。

「あ、諏訪子、久しぶり! お前今までどうしてたんだよ!」
「あはは、久しぶりー。ごめんね、ちょっと忙しくって」

 と言っても余り広くは無い里である、子供同士で顔を見かける者が居ないと言うのはおかしい事なのだが、そのあたりは諏訪子の術がごまかしてくれる。
むくれる男の子に苦笑しつつ謝り、軽く談笑してから、諏訪子は切り出した。

「で、さぁ。私が居ない間、此処一年ぐらいで流行った遊びって何かあった?」
「え? え、えーと、なぁ……」

 男の子の明らかに怪しい挙動に、諏訪子は首を傾げる。
男の子の言い難い遊びと言えば性の目覚めに関する事だが、それにしては恥ずかしいと言うより、何か後ろ暗い感情のこもった物言いである。
こちらも釣られて暗い口調で、口を開く。

「その……、何か事故とか、嫌な事でもあったの?」
「いや、そう言う訳じゃないんだけど……」

 煮え切らない口調であるが、目前の男の子はもっとハッキリとした性格の人間だったように諏訪子は記憶していた。
とすると、一体何があったのだろうか?
内心首を傾げる諏訪子であったが、その疑問の答えが出るよりも早く、そこに声が割り込む。

「ねぇっ、権兵衛が来たってっ!」
「えっ、権兵衛が!?」

 割って入ってきた女の子の声に、驚きの色を乗せる男の子。
権兵衛。
聞いたことのない名前だけれど、と首を傾げる諏訪子に、焦った口調で男の子が言う。

「その、諏訪子、俺もみんなも、権兵衛の所に急いで行かなきゃならないんだ。久しぶりに会ったのにごめんな」
「ううん。でも、みんな集まるなら、私も行ってもいいかな?」
「あー。いいんじゃないかな?」

 気もそぞろに言う男の子に肩をすくめ、諏訪子は続く事にした。
暫く女の子に先導されて行くと、そこには既に子供たちの人だかりができていた。
里の外れ、大人の気配も少なく、通りからは死角になってよく見えない広場。
端には適当な木材で作られ放置された小屋があり、その中には木剣など、子供の玩具がしまってあるのが見える。
そんな広場の中心に一人、成人するか否かと言う程度の年齢の、優しげな風貌の男が立っていた。
男の子が広場に到着したのと同時、喧騒の中の一人が口を開く。

「あ、来たなっ。これで全員揃ったぞっ!」

 と言うのに驚き見やると、本当に里の子供の殆どがこの場に揃っていた。
強いて言えば、阿礼の子など、普段里の中を遊んで回らない身分の高い子は居ないと言う事ぐらいか。
さてはて、どうなるものやら、と、諏訪子は一人輪を離れてその場を観察する事にする。
ざわっ、と子供たちは男の回りに少し間を空けて、ドーナツ型に並び、その中から一人、先ほど諏訪子と出会った男の子が男の前に出てきた。
困ったような笑顔を作る男を前に、男の子は背筋をぴんと伸ばして立つ。

「その、権兵衛っ」
「何だい?」
「今まで権兵衛の事をいじめていて、ごめんなさいっ! もうしませんっ!」

 直後、他の子供達全員が、ごめんなさい、もうしません、と輪唱した。
おやおや、と思わず諏訪子は目を丸くする。
大人を子供がいじめると言う行為の奇妙さもあるが、それより。
自分の非を認めると言うのは子供どころか大人にも難しく、特に集団で行ってしまった行為については責任がばらばらに別れてしまうので、尚更難しい。
だと言うのに此処の子供たちは、大人に強制された様子も無く、独力で全員で謝る行為を行っていた。
矢張り幻想郷に来て良かったな、と諏訪子が目を細めていると、権兵衛がその顔を和らげる。
ふと、明らかに空気が暖かくなった。
日でも差したのかと、物理的な要因があったのかと勘違いするほどの暖かさが、ただ一つの笑みからもたらされたのである。
その笑みの余りの暖かさに驚く諏訪子を置いて、権兵衛が口を開いた。

「本当に、良かった」

 見事に安心した様子で、権兵衛は胸に手を当て、安堵の溜息をつく。

「俺は君たちにいじめられた事など気にしていないよ。
何せ君たちは子供なんだ、間違ったら正してやればいいし、それをしてくれる人だって俺以外にも居る。
ただ心苦しかったのは、君たちに他者を傷つけると言う罪を、犯させてしまった事だ。
そしてそれを、里の大人が止めようとしない中、唯一言葉をかけれた俺の言葉でも、止められなかった事だ。
あの頃言葉は通らず、強引に力で止めさせようにも、必ず里の大人達の目があったものですから、それもできなかった。
それでも俺は、信じてた。
君たちがきっと何時か、こうやってかつての過ちを反省してくれる事を。
だから。
だから俺も、言うよ」

 一端区切り、すう、と胸に息を吸い込む権兵衛。

「ありがとう。
本当に、ありがとう。
許しを請うてくれて、本当にありがとう。
反省をしてくれて、本当にありがとう。
だから、これからはみんな仲良くしていこう。
それが俺にとって、何よりの報いなんだから」

 そう言って見せる権兵衛は、感動の余りか、涙をすらこぼしていた。
その顔に感銘を受け、子供たちも皆ぽろりと涙を零す。
そんな中、諏訪子は何という善人なのだろうか、と、思わず口をぽかんと開けながらその光景を眺めていた。
年上の人間のプライドと言うのは時に醜い物で、特に権兵衛のようなまだ若い人間の全てが、子供たちの過ちを許せるかと言うと、そうでもない。
故に諏訪子は、いざとなればこの場で権兵衛と子供たちとの間に割って入る事すら考えていたと言うのに、である。
場はまさに、絵画に描かれんばかりの感動的な場面であった。
権兵衛を中心に子供たちが純粋な涙を流しており、その中でもより一層引き立つ、より柔らかく純粋な印象の涙を、権兵衛が流している。
やがて感極まったのか、権兵衛が手を伸ばし、一人出てきた子供の頭を撫でる。
男の子が顔をくしゃくしゃにし、涙をより一層ぽろぽろと流し始めた。

 それが、契機だったのだろうか。
次々に子供たちが輪を飛び出て、権兵衛に抱きついたり、体を擦り付けたりしようとする。
思わず貰い泣きしてしまいそうになって、潤んだ目を擦っているうちに、諏訪子はその異常に気づいた。
何というか、子供たちが、少し手荒いのである。
前の子供を押しのけ権兵衛に抱きつこうとする子供に、そんな子を後ろに押し戻す子供。
すぐに押し合いは掌ではなく握りこぶしで行われる事になり、余程強い力を込めていたのだろう、最初に殴られた子供達が地面に伏し、権兵衛の視線がそこに行く前に他の子供がそこを埋める。
次第に暴力は激化し、すぐにより年の幼い子供達が地に伏す事となった。
その体の上を、年重の子供達が、何の躊躇もなく踏みしめ、権兵衛へと触れようとする。
背丈の大きい子供が壁になっているからか、権兵衛側からは何も分からないようであった。
そしてそれでも権兵衛は一人であり、年上の子供達全てが権兵衛に触れられる訳ではない。
すると子供達は権兵衛に見えないようお互いに暴力を振るい始め、すぐにそれは目潰しや金的すらも混ざった、完全な暴力となる。
その頃になってようやく、権兵衛は自分の回りで暴力が振るわれている事に気づいた。

「み、みんなどうしたんだ!?
お、おい、やめてくれよっ、何で殴り合っているんだ!?
やめて、やめてくれよっ!」

 権兵衛は叫び、すぐさま身近な子供を取り押さえるが、所詮二つの手である、抑えられる人数には限界がある。
ばかりか抑えられた子供は他の子供に優越感に溢れた笑みを漏らし、それに応じて他の子供が抑えられた子供に暴力を振るい、それを権兵衛が抑え、その繰り返しであった。
なんだ、この悪夢は。
寸前まで清廉で美しい光景であったのが、諏訪子が少し呆けている間に、すぐさま地獄の如き光景になってしまった。
子供達は殴り合い、地面には年下の子供達と血と折れた歯が散らばっている。
権兵衛も頑張っているし、魔力を使って威圧もしているが、それでも止まらない。
止まらない――、そう、止めなくては。
あまりの光景に呆然としていた諏訪子は、はたとそう思い当たり、急ぎ神気を開放する。

「やめなさーいっ!」

 瞬間、諏訪子の居た地点から放射状に、激烈な神力が撒き散らされた。
権兵衛の霊力が蟻のように見える凄まじい神力に、子供達は一斉に動きを止める。
ばかりか、どろりとしていた粘着質な何かが瞳から抜け落ち、全員脱力し、立っていた者はその場に座り込んだ。
暫し、荒い息遣いだけがその場を支配する。
諏訪子もまた、寸前まであった恐ろしい光景に混乱し、何を口にすればいいのか分からなかったのである。
そうするうちに、矢張り魔力の持ち主であるからか、権兵衛がまず立ち上がった。
その権兵衛も矢張り何を言えばいいのか分からない様子で、子供達に向けて口を開こうとしては閉じ、そんな事を繰り返している。
そうこうしているうちに一人一人と子供達が立ち上がり、俯いたまま無言で、逃げるようにその場を後にしていく。
最後には、広場には血と折れた歯と権兵衛と諏訪子だけが残された。

 向かい合う。
先ほどは子供達が壁になっていたので、権兵衛の全身を見るのは初めてで、諏訪子はまず優しげな風貌だな、と思った。
柔和な顔立ちに暖かな雰囲気で、まるでその周辺だけ太陽が明るく照っているかのような気さえするのだが、服に残された先の暴力の痕跡がそれを台無しにしていた。
子供達の血と泥と、歯型や涙で、藍染めの着物がぐしゃぐしゃになっている。
しかしそれも、一度権兵衛が、儚げな笑みを浮かべると、全く違う物に見えるようになった。
汚れた服や肌は、他人の為に汚れを厭わぬ心の現れのように。
優しげな風貌は、それ故に弱く人々に搾取される、儚い印象に。
雰囲気を一新した権兵衛は、深く頭を下げ、諏訪子に礼を言う。

「ありがとうございます」

 と言う権兵衛は、短絡的に考えれば、里が変な理由や、子供達が豹変した理由に関わっているのかもしれない。
何せ諏訪子が里に居なかった間の変化といえばこの権兵衛なる男の存在しか知らないし、子供達が権兵衛を前に豹変した事から、この男に原因があるのではと考えられる。
愁傷な態度を取っているようだが、それも自分より強い諏訪子を見ての演技と考えれば納得が行く。
しかし諏訪子は、不思議と権兵衛を疑う気にはなれなかった。
先の権兵衛が子供達を許す際の言葉の美しさが、耳から離れないのである。
だから諏訪子は、にっこりと笑って権兵衛に返すことにした。

「そうね、どういたしまして。良かったよ、子供達を止められて」
「はい、本当に良かったです。あ、俺は七篠権兵衛と言います。 さぞ名のある神様と存じますが、名を伺ってもよろしいでしょうか」
「洩矢諏訪子。諏訪子でいーよ、神社と紛らわしいから」
「あ、はい、では諏訪子様と。って、神社ですか? 博麗以外に幻想郷に神社が?」

 と、言われて思わず諏訪子は目を見開く。
霊力持ちの前で神力を開放したのだ、神とバレているのは想定内だが、守矢神社を知らないとは。

「うーん、守矢神社って言うんだけど、聞いたことない? 家の早苗が里で結構宣伝している筈なんだけどなぁ」
「えっと、申し訳ありませんが、存じ上げておりません。その、まだ幻想入りして一年と経っていないので、その為かと」
「ん? 外来人なのに、早苗ってば信仰をもらいにいってないの?
あの子がサボるなんて考えづらいんだけど、最近変な常識にはまってきたからなぁ」
「はい、その早苗さんと言う方も知りませんので……。ただその、俺は里の外れで暮らしているので、その為かもしれません」

 思わず首を傾げつつ権兵衛の顔を覗き込む諏訪子だが、権兵衛の顔には困惑の色しか無い。
確かに権兵衛は、妖怪の襲ってくる可能性のある里の外れに住む事の出来る力もあるし、それなら早苗が見つけていないと言うのも可能性としてありうる事だ。
しかし、この人当たりの良い男が態々里の外れに住むなど、一体何がどうしたものなのか。
悩むが、初対面で踏み込むには深い事情である。
諏訪子はそれを捨て置く事にして、取り敢えず要件を先に済ませる事にして口を開く。

「ま、いっか。それでさ、権兵衛、ちょっと遠いけど、家の神社に来ないかな?
そんなに汚れてるんだ、一風呂ぐらい浴びさせてあげるし、ついでに厄払いもしてやるよ?」
「え、でも……」

 と、遠慮しかける権兵衛を遮り、続きを口にした。

「遠慮しないでってば。
私の信徒予定の子達が、素直に人に謝れるいい子になる切欠になってくれたんだもん。
最後酷い事になっちゃったけど、それ以外はこっちがお礼を言いたいぐらいなのよ。
勿論、権兵衛は良い子だから、神様のお礼を受け取らなかったりなんか、しないよね?」

 小首をかしげて言ってやると、観念した様子で、権兵衛がはい……と呟きながら項垂れる。
言質をとった諏訪子はやった、と飛び上がってから、ふと、私は何でこんなに必死になっているんだろう、と思った。
確かに権兵衛には借りがあるといえばあるが、それも先の子供達への威圧で返したとも言える。
なのに何故自分はこんなに権兵衛を家に連れていきたがるのか。
少しだけ疑問に思ったが、しかしそれは権兵衛を風呂に入れてやってる間にでも考えればいい事か、と、諏訪子は思考を放棄し、権兵衛と共に空をとぶ。
飛び始める時、眼下を一度視界にやって、おや、と諏訪子は首をかしげた。
何故だかさっきまでの権兵衛達が居た広場を、上白沢慧音が身を隠しながら監視していたようだったからである。
今はどうも身動きできていないようだが、恐らく余りに凄惨だった光景か、諏訪子の神気か、もしくはその両方にやられてしまったのだろう。
しかしまぁ、どうでもいい事か、と思いつつ、諏訪子は権兵衛と共に守矢神社までの道程を再開した。



 ***



  さてはて。
どうしたものだろうか。
流石に冷え込み、雪もよく見るようになった昨今。
この日、俺は何時ものように隔日で里に買い物に来て、秋の実りや冬の恵みを売り払ってお金にした所で、里の子供達に里の外れの方にある広場に来てほしいと頼まれたのである。
俺と里の子供達との関係は、正直に言って悪かった。
里の子供達は俺をイジメていたのだ。
道を歩いていると、生卵を投げつけてきたり、数人で体当たりをして泥へと転けさせたり、酷い時には数人がかりで俺を倒し、背に乗り、乗り物のように扱った事もあった。
周りの大人は、そんな子供を見ているだけであり、一切注意しなかった。
そればかりか、俺を見て溜飲を下げている様子さえあったのだ。
しかも、当然と言うか何というか、俺のような口の回らない男の言葉では子供達を叱っても言うことを聞いてはくれない。
ばかりか、俺が子供達が怪我をしないよう注意を払っているのを盾に、一層調子に乗らせてしまうだけ。
そんな最悪の関係であったので、今回もどうなる事やら、一応月の魔力を扱えるようになったのだ、今度は力尽くで叱る事ぐらいはできそうだが、と思いつつ広場に行くと、予想外の出来事があった。

 俺は、全員に謝られたのである。

 当然、俺は感動の余り、涙さえ零してしまった。
何せこれまで俺は子供達に悪影響しか及ばせていなかったのに、いつの間にか、子供達は過ちを認める事のできる人間になっていたのだ。
何が切欠でそうなったのかは分からないが、何にせよ良い事は良い事である。
涙しつつ子供達を撫でてやっていると、しかしその場はそれで収まらなかった。
気づけば、子供達が争って前に出ようとし、止めようとする頃には本気で殴り合い、目を引っこ抜こうとし、血反吐を吐き出させていたのである。
慌てて止めようと、魔力を使って威圧しつつ止めようとしてみるものの、子供達が怪我しないように留める方法が思いつかず、俺は右往左往していた。
本当なら、愚かな事である。
何せ、子供達に互いに本気で闘ったと言う最悪の記憶を植えつける前に、俺と言う一人の大人による暴力により気絶させてしまう方が、少々傷をつけてしまうとしてもマシだったからだ。

 そんな俺を救ってくれたのが、諏訪子様であった。
さぞ高名な神なのだろう、凄まじく上等な神気を放出して、その場の子供達を傷つける事無く正気に返らせて見せたのだ。
その後、掛ける言葉も見つからず、帰ってゆく子供達を見逃した後、諏訪子様は俺に言ってくれた。
なんと、俺が感動した光景に諏訪子様も感動してくれたらしく、その礼に厄払いをしてやるし、ついでに風呂でも使っていったらどうか、と言う話であった。
たしかに、子供達が狂ったかのように傷つけあってしまったのを見れば、俺に厄があったのかもしれぬとも思える。
それに、子供達の血や歯型や泥やらで俺の一張羅はかなり汚れてしまっており、見るに耐えない状況だった。
また、お礼をと言うのに断るのも礼を失すると思い、俺は諏訪子様について守矢神社までやってきた。

 守矢神社は想像以上に立派な神社であった。
博麗神社が小さく見える程に大きく、山の頂上にあると言う事も関係しているのか、荘厳な雰囲気があった。
何というか、まるで空気分子が全て口を閉じているような、不思議な静けさがあるのだ。
思えば周りの動物の気配も少なく、動きと言う動きが排除されているような。
ただ、その中でも一つだけ、神社の中に大きな存在が感じられて。

「この気配が、もう一人の守矢神社の神様と言う事でしょうか」
「え? 神奈子は今用事があって出かけてるよ?」

 駄目駄目だった。
いくら俺が間抜けにも程がある男とは言え、これはちょっと恥ずかしすぎる。
故に思わず俺は背を丸め、頭をがっくりと落とし、そうですか……、と返すのが限界であった。
それにくすりと諏訪子様が微笑み、立ち止まる。
くるりとターンし、広がる服の裾を抑えてから、両手で俺の右手を手に取り、はにかむ。

「ドンマイ権兵衛っ。まぁ、うちの巫女は神様だから、その気配を感じ取ったんだと思うしさ」
「あ、そうなんですか」

 と、あっさり立ち直る俺。
そんな俺が矢張りおかしいのか、またもや諏訪子様はくすくす笑いをしている。
別に悪意のある笑いだとは感じ無いのだが、それでもこうやって笑われてしまうと、反射的に恥ずかしさがこみ上げてきてしまう。
顔が赤くなり、俯き、俺はぐぐっと俺を引っ張る諏訪子様に先導を任せて、参道を歩く事にした。
確かに言われてみれば、神社に感じられる存在は大きいものの、諏訪子様と比べると幾分格下としか言いようのない存在であった。
巫女と言われればあぁそうかと思うものの、ちょっと待てよと俺は思う。
巫女が、神様?
一体どういう事なのかと諏訪子様に視線をやるが、先程の恥ずかしさが尾を引いて話しかける勇気がどうにも出ない。
と思っていると、諏訪子様が振り返りそうな気配が感じられ、慌てて俺は視線を足元に合わせる。
足取りが止まり、俺の頭部に視線が注がれているのが分かったが、それも一瞬、再び諏訪子様は歩き出した。
内心ほっと息をつきつつも、俺は自分で自分をゴツンと殴ってやりたい衝動に襲われる。
俺は明らかに阿呆だった。
幻想郷に来てから今の今まで少しでも成長しているような気はしていたのだが、気のせいだったのかもしれない。
今時シャイな子供もこんな事をしないだろうって言うのに。

 舗装された道を歩いてゆくと、急に諏訪子様が手を離すのが感じられた。
その頃にはどうにか顔の火照りが取れていた俺は、釣られて視線をあげ、緑色の髪をした、多分俺より年下ぐらいの巫女服の少女が掃き掃除をしているのを見つける。
何故か脇が空いているのは、多分幻想郷の標準仕様なのだろう。
変なことに納得している俺を尻目に、諏訪子様はぴょんぴょんと跳ねるように走りながら巫女さんと思わしき人の前に行き、身振り手振りを加えながら俺の事について説明しているようだった。
俺もそれについていくのが自然な所作であるのだが、今時感心な若者で~とか、吃驚するぐらいやさしい子で~とか、聞いているこっちの顔が噴火しそうな褒め言葉を耳にすると、思わず足取りも遅くなる物である。
そろりと、諏訪子様の話が終わるのに合わせて近づいていくと、それに気づいたのだろう、諏訪子様が俺を紹介した。

「ほら、この子だよ、早苗。挨拶しな」
「はい、諏訪子様。初めまして、私は東風谷早苗と言いま……」
「あ、はい。初めまして、俺は七篠権兵衛と名乗っています」

 と、いつもするように挨拶をしたのだが、なんだか東風谷さんの顔色がおかしかった。
顔がすっと死人のように白くなり、極寒の雪山にでも居たのだろうかと思い違う程に唇も青くなる。
明らかに俺と顔を合わせてから顔色が悪くなったような気がするが、はて。

「ど、どうしたの、早苗。顔が真っ青だけど」
「その、体調でも悪いのでしょうか。今すぐ休んだ方が……」
「い、いえ、何でもないんです。そ、その、すいません、近づかないでください」

 と言いつつ東風谷さんは近づく俺から一歩離れ、顔ごと視線を逸らす。
同時に俺はガツン、と頭を殴られたような感覚を覚え、足元がふらつくのが分かる。
嫌われるのには慣れた筈なのだが、思ったよりショックだった。
が、すぐに頭を振り、ショックを頭から叩き出す。
何せ今本当に傷ついているのは、顔色を見れば明らかなように、東風谷さんなのである。
何とか彼女の不興を覆せぬものかと考えてみる。
とりあえず、俺を嫌がっているのだろうか。
となれば勿論、論理的に考えて俺が悪い事は確定事項なので、とりあえず俺の悪事を考える。
心当たりが有り過ぎるが、とりあえず解消のしようがある事から解消しようと試みた。

「その、七篠権兵衛と言う名前は、幻想入りした時に記憶喪失になったからつけた名で、偽名とかそういう怪しい事な訳では……」
「いえ、すいません、どうでもいいですから喋らないで貰えますか」
「あ、はい……」

 ぶった斬りだった。
思わず落ち込み数歩下がる俺だが、それにカチンときたのは諏訪子様である。

「ちょっと、早苗!? いきなり初対面の人にそれは無いんじゃない!?
何があったのか知らないけど、そんな無礼な真似……!」

 と、怒鳴っていた諏訪子様から、数歩距離を取る東風谷さん。
まだ怒り足りない様子である諏訪子様を尻目に、早口に言う。

「そうだっ、その、今思い出したんですけど、今日はちょっと里に用事があったんです。
今すぐ行かないと間に合わないので、その、すいません、失礼しますっ!」

 と行って、飛び立ってしまった。
思わず唖然として見送ってしまう、諏訪子様と俺。
暫くの間、なんとも言えない沈黙が横たわる。
頭の中をぐるぐると、一体俺の何が悪かったのか、と言う事が回っていた。
こうまで嫌われてしまうとなると、罪悪感の余り土下座したくなってしまうが、その対象が居ないのでは空回りである。
内心半べそになりながら、処理不能な出来事に棒立ちになっている俺を尻目に、沈黙を破ったのは諏訪子様だった。
弾かれたように振り返り、慌てて俺に釈明する。

「ご、ごめんね権兵衛っ! 何時もなあんな事する子じゃないんだけど……。
後で謝らせるから、本当にごめんねっ!」
「いえ、俺は気にしていませんから、大丈夫ですよ」

 諏訪子様の謝罪を遮り、俺は言った。
まぁ、正直ショックを受けているのは本当だが、これも嘘では無い。
むしろ気になるのは。

「それよりも、東風谷さん、あんな顔を真っ青にするほど傷ついていて……、そっちの方が心配です。
もし俺に原因があるのなら、俺に何かできればいいのですけれど」

 と言うと、ぴたりと諏訪子様は動きを止めた。
まじまじと俺の顔を覗き込んでくるので、どうしたのだろう、と俺は思わず首をかしげてしまう。
それがおかしかったのか、またもやくすりと微笑む諏訪子様。

「えっと、すいません、今俺、何かおかしな事を言ってしまったでしょうか?」

 だって、俺は所詮俺なのである。
そんな俺が傷ついた事などよりも、東風谷さんが傷ついている事の方が余程重要な事だろう。
それは世界共通の事実だと思っていたのだけれども。
くすくすと、まるで慈母のような微笑みで、諏訪子様は俺の事を見やる。

「ううん、権兵衛ってやっぱり、優しいんだなぁ、って思ってただけよ」
「そう……でしょうか?」
「うん、絶対だよ」

 と言う諏訪子様には申し訳ないが、俺は矢張り俺は真に優しくなどないと思った。
何故なら本当に優しいのならば、そもそも東風谷さんを傷つけてしまう事など無いだろうに、と思う為である。
と言っても、わざわざそんな事を口に出して諏訪子様と論争するのも、馬鹿らしい事だ。
俺は言葉を飲み込み、笑顔をつくり、諏訪子様の後をついていって、とりあえず神社へと進んでいく事になる。



 ***



 厄払いと言えばいくつか種類があり、種類によっては神仏が身代わりになってくれる物であるが、守矢神社では違うらしい。
どうやら巫女が厄を追い出すような厄払いを行っているようだった。
とすれば勿論、東風谷さんが帰ってくるまで俺は厄払いを受ける事も出来ない訳で。
ならばお暇しましょうか、と言った所、風呂に入っている間に東風谷さんが帰ってくるかもしれないし、とりあえず風呂だけでも浴びていったらどうだ、と言うのが諏訪子様の言であった。
いやいや、と断ろうとする俺であったが、口下手な俺と長生きしている諏訪子様とが上手い具合に噛み合い、いつの間にか俺は風呂に入っていく事になっていた。
いやはや、恐るべきは年の功か。
などと言えば、諏訪子様も幼い見目であるが女性である、ぶっ飛ばされるのだろうけれども。

 とまぁ、そんな訳で今現在俺は、風呂に入っているのであった。
体を洗い頭を洗い、湯に浸かっている所である。
何というか、風呂には毎日入っていたのだが、何というか、違和感のある一風呂であった。
いや、本当に何だか分からないが、違和感があるのだ。
何というか。
視線が足りない。

「っていや、それじゃあ変態じゃあないか!」

 と、ひとり突っ込みする俺。
浴室内の声はよく響いた。
かぁ、あぁ、ぁ、といった具合に反響が長々と残り、俺の耳朶に響く。
次第に、なんと恥ずかしい事をしているんだろう、と顔が真っ赤になってゆき、それを隠すように俺は体育座りで湯船に浅く顔を沈めた。
えーと、兎に角、だ。
こうやって他の家で風呂に入って初めて気づいたが、俺は自宅の風呂に入っている時、どうも無意識のうちに視線を感じていたらしい。
はて、どうしてだろうか、と考えるに、すぐに答えはでた。
此処は神域であり、他の存在が近づきがたい場所である。
対し俺の家は、様々な存在が引き寄せられているようで、色んな霧やら幽霊やらが漂っている場所なのである。
俺の家で視線を感じる事になるのは当然の事と言えよう。
それが風呂でより顕著に感じる、と言うのは何だか妙な気がするが、単に家に居る様々な存在が、湿気が好きなだけなのかもしれない。
そう思うと納得でき、俺は体をゆったりと伸ばし、湯船に浸かる事にする。

「ん~~~」

 思わず、感嘆の声が喉から漏れた。
疑問が氷解して、すっきりとした入浴になった筈である。
なのに何処か俺の中に濁りのような物を感じるのは、矢張り東風谷さんの事が気になっているからなのだろう。
俺は一瞬、眼を閉じて東風谷さんの表情を思い出す。
真っ青で今にも倒れそうな、血の引けた顔。
それを思うと俺は彼女に手を貸せはしまいかと思ってしまうし、それには俺を嫌っている理由の推測が必要であろう。
俺は浴室の窓硝子に目をやりつつ、黙して考え始めた。
さて、東風谷さんが俺を嫌っていたとして、それは当然俺の事を知らねば嫌う事は出来ない。
対し俺は、初対面である。
すると東風谷さんは直接会う以外に俺の事を見知って、もしくは聞き知っていたのだろう。
後者であれば、当然俺の悪評を聞いてと言う事なのだろうが、それにしては妙な対応であった。
何せ俺は、里にとって、慧音さんにたかる寄生虫なのである。
同じように守矢神社に寄生されないよう、俺を見張るのが打倒な対応なのでは無かろうか。
対し東風谷さんの対応は正反対、顔も見合わせたくないとばかりに逃げの一手であった。
とすると、それ以上の何かがあるように思える。

 が、そこで手詰まりだった。
俺は自身の悪評についてそこまで詳しくなく、また、東風谷さんが一方的に俺の事を見知っていたのだとすれば、どんな場面を見ていたのか特定できない限り、俺を嫌う理由には辿りつけないだろう。
当然、嫌われるような行為の心当たりが有り過ぎる俺には、場面の特定は難しそうだった。

「結局、なるべく顔を合わせないように、って言う所になるのかなぁ」

 何せ理由を解決できない限り、顔を合わせる度に東風谷さんに負担をかけるのだとすれば、俺が直接問題を解決するのは東風谷さんの負担を考えればあり得ないだろう。
日常生活に支障が出ないのならば、顔を合わせないだけで良い。
だが、里でたまたま顔を見られただけであんなふうに体調を崩してしまうのだとすれば、諏訪子様やまだ出会っていないもう一人の神様の力を借りて、解決法を探らねばならないかもしれない。
内心頑張る為の覚悟をしつつ、いい加減のぼせそうだったので、風呂から上がり、脱衣所への扉を開いた。
同時、廊下から脱衣所への扉が開く音。

「「あ」」

 と、声が輪唱した。
反射的に持っていた手拭いで下を隠せたのは、我ながら良い仕事をしたと思う。
黒曜石の瞳に輝く金の髪の毛と、それを結った赤い紐に、黄土色の目と思わしき飾りが二つついた帽子。
諏訪子様が、殆ど全裸となった俺の正面に居た。
女性の前にこんな姿で出ると言うだけでもとんでもない事なのだが、神様の前にこんな姿で出てくるとは。
俺は、一体何をやっているのだろうか。
頭の中がぐるぐると周り、思考が定まらない。
何か口にしようとするが、喉がからからに乾いて張り付いていて、何も言葉にならない。
どうしよう、どうしよう、と言う言葉だけがぐるぐるぐるぐる頭の中を回っている。
それは諏訪子様も同じようで、固まったまま、視線を固定させて動かさない。
と思ったが、よくよく見ると、諏訪子様の視線は俺の顔に向いているのでは無かった。
ちらりと視線の先を辿ってみると、俺の左腕に行き着く。
風呂に入るのに、義手を外していた左腕に。

「あの、権兵衛、その左腕……」

 という声には、何処か不安の色があった。
そういえば、諏訪子様が俺の左腕の欠損を暴いてしまった形にもなっている事に気づく。

「あぁ、別に隠していた訳では無いのですが、一々言う必要も無いかな、と思って。
友人の心を守る為の負った傷ですので、特に気にはしていませんよ」

 義手も便利な物ですし、と付け加えると、呆然としたまま俺の左腕を見つめる諏訪子様。
全く出ていこうと言う様子は無く、視線も変わらず左腕に釘付けにされたままである。
このままでは湯冷めしてしまうので、何となく気が引けつつも、口を開く俺。

「その。着替えるまでで良いので、出ていってもらえないでしょうか」

 すると諏訪子様は、顔色を一変。
驚いたかと思うと、すぐに真っ赤な顔になり、慌てて脱衣所を出てゆき、後ろ手にバタンと扉を閉める。
恐らくはそのままの姿勢で言っているのだろう、扉越しに聞こえる声。

「ごごご、ごめんね権兵衛っ! その、えーと、背中を流してあげようと思ったんだけど、思いついたのが遅かったみたいでさ。
ごめんね、本当にごめんね、権兵衛っ」
「あ、いえ、大丈夫です」

 何が大丈夫なのか自分でもまったくもって分からなかったが、とりあえず大丈夫と言っておく。
というか俺も動揺しっぱなしであり、頭に血が登った状態なのであった。
というのも、よくよく考えれば、俺がこれまで異性に肌を晒したのは、宴会の時の上半身裸の状態ぐらいなのである。
あの時も相応に恥ずかしかったが、下半身も殆ど裸となると、数学的に二乗に恥ずかしい。
とりあえず湯冷めしないように体を拭きながら、俺はまるで現実的でないようなふわふわした感覚に身を任せるのであった。



 ***



 にしても。
出会い頭に、東風谷さんには物凄い勢いで避けられてしまい。
風呂を出ようとすると同時に諏訪子様と鉢合わせになってしまい、俺に左腕が無いのを暴かせる形になってしまい。
本当に今日は、俺に厄でもついているのかと思ってしまうような一日であった。
そしてそれは今現在も続いている。
ほぼ全裸を、神とは言え、年が一桁かと思える程の幼い容姿の幼女に見られてしまい、動揺している俺と。
礼をと言って招いたのに、身体の欠損を暴く真似してしまう事になった諏訪子様。
特に諏訪子様は、かなり長生きした神だと言うので、昔は身体の欠損による迫害が今以上に酷かった事を思うと、かなり気にしているのではなかろうか。
そんな状況に押しやった事は本当に申し訳なく思うのだが、かと言って解決策が思い浮かぶ訳でもなく、俺は困り果ててしまう事しかできない。

 とまぁ、そんな訳で。
今現在、俺と諏訪子様はとてつもなく気まずかった。
それを紛らわそうと茶を手にとろうとすると、何故か二人同時に手を動かしてしまい、お互い気まずく、何となく手を戻してしまう。
和室とは言え近代の作りが珍しく、懐かしみながら眺めていると、強い視線を感じ、諏訪子様に視線をやると、今度は物凄い勢いで視線を逸らされ。
何というか、気まずい事この上無い空間であった。
しかも、厄払いは巫女の役割と言う事で、東風谷さんが帰ってくるまで待たねばならないのだと言う。
勿論、東風谷さんと言えば会った瞬間青い顔を逃げられた相手であり、当然今以上に気まずい空間になってしまうに違いない。
せめてもう一人の、今留守にしている神様が、気まずい相手ではない事を祈るばかりである。
と思ってから、いや、そういうのも傲慢な願いか、と俺は思い直した。
何せ諏訪子様相手に気まずいのも、タイミングの悪かった俺の所為なのである。
何せ東風谷さん相手に気まずいのも、恐らくは俺の風評の悪かった所為なのである。
全て俺の責任であると言うのに、他人からの助けを期待すると言うのは、虫が良い話だろう。
とりあえず、せめて諏訪子様との関係を気安く、とまでは行かずとも、せめてこの気まずさを解消しよう、とそう考えた所で、丁度諏訪子様が口を開いた。

「そのさ、権兵衛。ちょっと、聞いてもらっていいかな」
「はい、何でしょうか」

 真剣そうな雰囲気での言葉であった為、自然、俺も諏訪子様との関係改善計画を放棄し、全力で諏訪子様の言葉に耳を傾ける。
すると何故か、諏訪子様は僅かに目を細めた。
意図が分からず、僅かに戸惑う俺。

「その、誰にでも、会って初めての人にはこんな事を言っている訳じゃあないんだよ?
今回はね、そう、特別、特別なの」
「成程」

 と、俺は改めて居住まいを正す。
諏訪子様の言から見るに、これから重要な事が言われるであろう事は明らかだったからだ。
ちなみに特別と言うのは、当然機会が偶然にあったと言う事で、俺個人が特別な訳ではない、と勘違いせずに理解している。

「――私にはね、かつて人間の夫が居たの」

 と、衝撃の事実から諏訪子様は語りだした。
幼い容姿の諏訪子様と夫と言う言葉が一瞬噛み合わなかったものの、考えて見れば普通にあり得る話である。
相手が人間と言うのは神話の世界で見ると珍しい話であるが、半人半神と言う存在もあるのだ、あり得ない話では無いだろう。
俺が頷くのを確認して、諏訪子様は続ける。

「権兵衛と同じように左腕が無くってね、それで思い出しちゃったのかな。
優しい人だった。
すべての人に別け隔てなく優しい人でさ、私が妻なんじゃないのって、嫉妬しちゃいたくなるぐらいみんなに優しくって。
特に子供達に好かれてたっけな。
生まれた娘にも何時までもベタベタされてて、焼き餅焼いちゃった事もあったわ。
――そんな人だったから、思えば、神の夫なんて役は似合わない人だったなぁ。
一応神の眷属っていう立場になるから、偉ぶる事も必要だったんだけど、そういうのが苦手な人で。
だからちょっと、私が夫にして良かったのかなぁ、なんて思ったりもしたけど、そんな時は、ちょっと怒られちゃったっけ」

 諏訪子様は余程その夫を愛していたのだろう。
口ぶりは十代の少女のように、全てが面白可笑しくて仕方がない、といった次第であった。
俺はそもそも自立さえできていない男で、婚姻など遙か彼方にある出来事でしか無いのだが、それでもこうやって幸せな家庭を思わせる物があると、矢張り憧れてしまう。
思えば幻想郷に来て以来、里人には嫌われてばかりなので、幸せそうな顔をした既婚者を見るのは初めてだろうか。
思わず口元が緩み、微笑みを作ってしまう。

「その方の事を、とても愛してらしたんですね」
「うん。愛し合っていたよ。
まぁ、もう結構前の話だからさ、あの人ももう逝ってしまったんだけれど。
――そういえば、夫が死ぬ前なんか、私泣きながら逝かないでって言っててさ。
夫は常人だったから、そういう訳にもいかないってのに。
そしたらあの人、約束してくれてさ。
もし来世があるのならば、必ず君と出会い、また伴侶をしてみせる、だなんて」

 口調こそは軽いものの、諏訪子様のその表情が、その約束の大切さを示していた。
思わずこちらまで胸が暖かくなってきてしまい、口元が緩くなる。
目を細めて眺める俺の視線に照れたのか、少し顔を赤くしつつも諏訪子様は俺を見つめ続けた。

「まぁ、もう千年以上前の話なんだけどさ。
その血を受け継ぐ早苗を見ると時々思い出すんだけど、それも稀でね。
貴方を見て、久しぶりに思い出せたから、それでお礼を言いたくって。
なんて、何もやってないのに神にお礼なんて言われちゃって、困っちゃったかな?」
「い、いえ、そんな事は」

 と、慌てて俺は両手に首まで横に振るが、くすくすと笑う諏訪子様を見て、からかわれたのだと分かり、少し困った表情を作る。
俺と言う人間は生来の不器用なので、こういったからかわれ方は遠い記憶に覚えがあるような気がするのだが、かと言って慣れたような反応をするのも違う気がして、憮然とするのも失礼な気がして、だから困った顔なのだ。
そんな俺がおかしいのか、諏訪子様はくすくす笑いを大きくする。
俺はと言えば、矢張り何処かおかしかったのか、と思うと恥ずかしさで顔が真っ赤になり、思わず俯いてしまった。
そうやって縮こまるのもおかしいのか、くすくす笑いは暫くの間続く事となったのであった。



 ***



 夕方も暮れて、夜の帳が降りてきた頃。
既に虫の鳴く声も消え、時には雪がしんしんと降るような静かな音ぐらいしかしない時間。
俺は未だに諏訪子様と話しているままであった。
こんな遅い時間までお世話になるのも失礼だろうと思い、厄払いはまた今度と言う事で、何度か席を辞そうとも思ったのだが。
何というか。
諏訪子様の、間の取り方が絶妙なのである。
俺が帰ろうかと思った瞬間に話題を投げかけてきたり、体をぐっと寄せて話に惹きつけたり。
決して強引ではなく、自然と俺が諏訪子様との会話を続けるように、誘導されているのである。
そんなこんなが続いているうちにこんな時間にまでなってしまった。
勿論、そこに悪意が無い事は確かである。
多分諏訪子様は、東風谷さんがどうしてあんなに顔色を悪くしたのか、それは一刻だけの物なのか、俺を使って確かめたいのだろう。
何せあの時は余りに短い時間だった上、突然のことだったのだ。
その上東風谷さんはかなり礼儀正しい方らしく、その豹変を嘘だったと思いたい、と言う思いが諏訪子様の中にはあるのだろう。
勿論俺も嘘だったらいいと思うが、俺に叩きつけられた悪意は本物だったように思える。
故に俺は一旦帰った方が良いとは思っているのだが、流石に話術の巧みさの違いか、気づけば俺は腰をおろし、諏訪子様に話をしたり話を聞いたりに集中していた。
そして、今もまた。

「で、畑に迷いこんできた妖精はどうなったんだい?」
「あ、はい。夏でしたから、暑さにやられたのか、ふらふらと飛んでは木にぶつかって……」

 と話すのは、かつてのほったて小屋での生活の頃、家に迷いこんできた妖精の話である。
妖精にしては自意識の強い彼女は、何でか冷やすと元気になったのはいいが、元気すぎであった。
そこら中の物を凍らせたりして暴れ回るのだが、どうにも本人には悪意が無いようなので怒れもせず、困っていた所。

「結局、たまたま家の様子を見に来ていた慧音さんに引き取られていって。
あたい最強なのにー、とか言ってましたけど、ゴツンゴツン頭突きされたら大人しくなっていったみたいです」
「あはは。蛙を粗末にする罰だね」
「それから結局一度も見た事が無いんですが、一体どうしたんでしょうかね。
何でも冷たくて夏に重宝するからって捕まえようとした人が居るらしいんですが、結局見つからなかったとか」
「妖精だしねー。いつの間にか湧いていつの間にか消える奴らだし、消えちゃったんじゃない?」
「ですかねぇ。割と人格がしっかりある子だったんですが」

 などと話に区切りがつくと、ふと話の間に空白が出来た。
何やら諏訪子様が、じっと俺の事を見つめているのである。
どうしたのだろう、と首を傾げるも、諏訪子様の視線はじっと俺の目を見つめていて、動かない。
諏訪子様の瞳は、何かが蠢いているようだった。
黒い瞳の中、黒い物から黒い物が生まれ、ぞぞぞ、と黒い瞳を更に上から覆っていく。
それは何重にも重なった、黒の被覆であった。
その上を更に、黒い物が這いずり回って、上塗りしていって。
そんな瞳に、吸い込まれそうになる、その瞬間であった。

「ただいまー。今帰ったよー」

 扉が開く音と同時、知らない女性の声と、二人分の足音がした。
はっと二人とも廊下の方に視線をやり、当然の如く諏訪子様から視線が外れる。
妙に惹き込まれる瞳の色であった。
分からないのが、そんな目で俺が見られる覚えが無いと言う事である。
どうしたものだろう、と内心首を傾げつつ数秒、障子が開き、紫色の髪をした胸元に鏡のような装飾をつけた女性と、その後ろに隠れた東風谷さんが姿を現す。

「なんかこの子、家の前でウロウロしてたから連れてきたんだけど、何かあったの……って。
おや、初めましてかしら? 私は八坂神奈子よ」
「あ、はい初めまして。俺は七篠権兵衛と言います、八坂様」
「なんだい、妙な名だなぁ」

 と返す八坂様に返事をするより早く、鋭い口調の諏訪子様。

「そう? 素敵な名前だと思うけど」
「へ? あ、あぁ、そうかもね。それは兎も角、どうしたんだい、こんな時間まで」
「感心な子だから厄払いしてやりに連れてきたんだけど、何でか早苗が逃げちゃってさ。
今の今まで待たせていたんだけど、そろそろ妖怪が闊歩する時間だ。
こりゃあ明日まで泊まっていってもらった方がいいかもね」
「え? えぇ!?」
「え、う、嘘!?」

 思わず俺は、東風谷さんと輪唱して悲鳴を上げてしまった。
それから何となく目を見合わせ、物凄い勢いで視線を逸らす東風谷さんに、矢張り俺は嫌われているのか、と再確認し、落ち込みつつ俺も目をそらす。
それにしても、意外であった。
諏訪子様としても俺と東風谷さんを長々と会わせる事なく、少し顔を合わせた程度で帰すつもりであると思っていたのだが。
何か狙いがあるのかもしれないが、今の俺には分からない。
とりあえず、いきなりの事だし八坂様は反対するだろう、と八坂様に視線をやると、八坂様は諏訪子様に視線を向けていた。
視線の先を辿り、諏訪子様の視線が何処に向いているのか見ると、八坂様。
アイコンタクトである。
……もしや、このままなし崩しに俺の一泊が決まってしまうのではないか。
儚いと分かっていながらも、俺は抵抗を始める。

「い、いえ、でも女所帯に男が泊まっていったなんて、外聞が悪い事この上ないのでは……」
「私は賛成だね。
参拝客が追い返されて死んだなんて噂流れて欲しくないし、早苗も現人神の一柱だよ?
あんた神三柱相手に変な事できる力があるのかい?」
「うっ……無い、です」
「神奈子様までっ!」
「なんだい早苗、何か不都合でもあるの?
今までだって、この男ぐらいの年頃の男を泊めた事はあったじゃないか」
「たしかに、そうですけど……」

 と、早速東風谷さんの抵抗は終わってしまった。
確かに俺も、前例があると言うのならば、外聞の悪さが女性の家に泊るべきではない理由にならないと分かる。
しかし、相手は俺である。
俺なのである。
外聞の悪さには定評のある、俺なのである。
と言う事で、再度抵抗を試みる。

「いえ、そりゃあ確かに俺にそんな力は無いですけれども。
そのですね、俺には里で悪い噂がありまして。
そんな男を泊めたとあっては、普通の男を泊めるよりもずっと外聞も悪くなるのではないでしょうか?
そしてお二人は神様です。
当然信仰の力は重要で、俗な噂は信仰を弱める物となってしまうのでは?」
「それなら、殆ど丸一日あんたを連れ込んだ事で、既に手遅れだね。
なぁに、この幻想郷は信心深い物が多い。
それぐらいの事じゃあ、信仰は揺らがないさ」

 ピシャリと言われてしまった。
矢張り儚い抵抗であった、と肩を落とす俺に、にっこりと笑いかける諏訪子様。

「じゃ、決まりだね、権兵衛っ。今日は家でお泊りって事でっ!」
「は、はい、分かりました……」

 言ってから視線をあげ、改めて姿勢を直し、俺は三人の神様に向き直した。
経緯が本意では無いとは言え、一夜をお世話になるのである、丁寧に挨拶し直さねばなるまい。
と言う事で、俺は三つ指をついて礼をし言った。

「では、本日はお世話になりますっ」

 下げた頭の向こうから、優しげな視線を二つ感じると共に、矢張り強烈な視線を一つ感じる。
さてはて、東風谷さんを出来る限り刺激しないようにできればいいのだが、と、不安に満ちた一夜が幕を開けるのであった。



 ***



 「で、一体どういう事なんだい?」

 と言う神奈子の他二人、権兵衛と早苗は家事を行っていた。
早苗が家事を執り行うのは何時もの事だが、今日は帰りが遅れた為に、家事が普通では間に合わない程の時間となっていた。
そこで名乗りを上げたのが、世話になる形となった権兵衛である。
早苗は精一杯嫌な顔をしたのだが、権兵衛が料理を、早苗が洗濯物の取り込みを、と言うように分業するよう権兵衛が提案すると、何とか納得の色を見せた。
と言っても、台所を任せるのはかなり苦渋の決断であったようだが。
兎も角神奈子と二人きりになった諏訪子は、権兵衛の料理の音であろう、トントンとリズムカルに包丁がまな板を叩く音を聞きつつ、それに隠れるよう小さな声で言う。

「神奈子、私の夫の事は覚えている?」
「ん? あぁ、あいつの事かい? 確かに覚えちゃあいるけど、それにあの権兵衛とやらと何の関係が?」
「ふふ、焦らないの」

 と、諏訪子は人差し指を唇にあて、ウインクする。
最近諏訪子は色気のある所作など千年は神奈子に見せておらず、それが子供らしくも何処か色気のある仕草だったからだろう、神奈子は少し驚いた様子であった。
そんな神奈子に、くすりと内心諏訪子は微笑む。
恋って人を変えるんだなぁ、と改めて諏訪子は思った。
心の中で、ドロリとした物が燃え上がるこの感覚は、間違いなく恋である。
だから精一杯の笑顔で、諏訪子は言う。

「権兵衛はね、私の夫の、転生した姿なのっ」
「………………はい?」

 思わず、目が点になってしまう神奈子。
そんな素っ頓狂な表情がおかしくて、くすくすと諏訪子は口元に手を当て微笑んだ。

「くふふ、見ただけじゃ分からないかな。
うん、私も一目見ただけじゃあ分からなかったよ。
でもね、間違いなく権兵衛は、私の夫だった魂だよ」
「えっと、何か、根拠があるのかい?」

 訝しげに言う神奈子に、分からず屋だなぁ、と小さな苛立ちを覚えつつ、同時にそれも仕方がない事かと諏訪子は思った。
何せ人間の魂は転生する際にほぼ間違いなく浄化されるし、時には犬畜生を経過して人間となる為、千年も前の魂を判別するのは普通不可能である。
だが。
だがしかし。

「あまりに権兵衛は、私の夫に似ているんだよ」

 と、諏訪子は言い放ち、語り始める。
似ている。
似ている。
似ている。
思いの丈をぶちまけながら、諏訪子は内心で天にも昇らんばかりの笑顔を作る。
権兵衛は、見れば見るほど夫に似ていた。
左腕の欠損も、子供の頭に手をやった絵画に切り取られた一場面かと思わしき程の優しさも、記憶に定かである夫と似ていた。
試しにかつての夫の話を振ってみて、その反応も矢張りかつての夫に似ていた。
素直に家庭を作る事に興味を示して見せるのも多分夫に似ているし、その後からかわれて顔を真っ赤にするのも、恐らく夫に似ていたと諏訪子は思う。
その後見聞きした、お茶を飲む仕草の上品さや、食べ物の好みなども、ここまできたのだ、夫に似ているに違いないと諏訪子は確信する。
淹れるお茶が透明な味がするのも、夫が淹れた茶の味は記憶の彼方だが、同じに決まっているだろう。

 最早諏訪子にとって、権兵衛が夫の転生した姿であると言う事実は、明確であるように思えた。
ただ一つ、悩ましい事があるとすれば、どうやら権兵衛は前世でした約束を覚えていないようである事だった。
権兵衛の前世、かつての夫が死ぬ間際にした約束。
もし来世があるのなら、必ず君と出会い、また伴侶としてみせる、と言う夫からの約束。

 まぁ、権兵衛が覚えていないのも仕方がないだろう、と諏訪子は内心独りごちた。
何せかつての夫は常人である。
転生の輪を超えて記憶を持ち越せるような尋常では無い人では無いし、尋常である事を果たして責められよう事か。
それにこの約束は、権兵衛が積極的に守らなくても、結果的に守られていればそれでいいのだ、と諏訪子は考える。
つまり諏訪子から権兵衛を伴侶としてやれば、それでこの夫との約束は守る事は出来るのだ。
そんな風に長々と語る諏訪子に、神奈子は恐る恐る口を開く。

「いや、って言っても、今日初めて会ったんだろう?
それなのにもうあの男の事が全て分かってるって言うのかい?」
「うん。でも、権兵衛の事で私に分からない事は何も無いの。
目があった瞬間、私、権兵衛の事が全て分かっちゃったのよ」
「一目見ただけじゃ分からなかったんじゃ……?」

 神奈子が何か言っているが、それを無視して諏訪子は権兵衛に想いを寄せる。
胸の前で祈るように手を合わせ、目を閉じ、権兵衛の事を真摯に思う。
それだけで胸の中が熱くなり、まるで宝石の輝きのような綺羅びやかな炎が踊った。
ぐっと全身から汗が吹き出し、肌の感覚が鋭くなる。

「うん。やっぱり、私、権兵衛に恋してる。
こんな気持ちになったの、あの人以外では無かったもの、やっぱり権兵衛は私の夫の転生体なのよ」
「いや、そこに因果関係は無いんじゃないかい?」
「私ね、権兵衛の前世と約束したの。
生まれ変わったら必ず出会って、結婚しようって。
今日こうやって権兵衛に出会ったのは、運命だわ」
「運命ってあんたね……。
それにほら、あんたの旦那、霊力とか何も無かったじゃないか。
なのに権兵衛の奴、明らかに魔力を持っているだろう?
それもかなり、特別な力を」

 と、それまでは神奈子の相槌を無視して語り続けていた諏訪子であったが、神奈子の言にぴたりと動きを泊めた。
油の切れたブリキ人形のように、ぎこちない動きで神奈子へと視線をやる。
何故か、神奈子の腰が引けたようだった。

「何を言ってるの? 神奈子。
だって権兵衛が魔力を持っているんだもの、私の夫だって魔力を持っていたに違いないわ。
権兵衛が何か能力を持っているようなんだもの、私の夫だって何か能力を持っていたに違いないわ。
ねぇ、違う? 違う? 私の言う事、そんなに間違っている!?」

 当然のことを言いつつ神奈子に迫る諏訪子であったが、次第に声色が大きくなってゆく。
それに連れて神奈子の腰が引けていき、ついには後ろに倒れようかと言う頃、扉が開く音がした。
驚愕と同時に二人が視線をやると、諏訪子の声が聞こえてきたのだろう、心配そうな顔色の権兵衛が居た。

「あの、すいません、気のせいかもしれませんけど、何か怒鳴り合っているような音が聞こえた気がして。
その、俺はある程度自衛手段もありますし、だから、何時家に帰る事になっても、大丈夫なんで、その……」

 と、一息で言い切ってから、大きく息を吸う権兵衛。
僅かに震える体のまま、小動物のような弱々しさで言う。

「ご迷惑でしたら、何時でも出てゆけ……」
「そんな必要ないよ。今の話は、権兵衛とは関係の無い話だったから」

 それに重ねて、ピシャリと諏訪子が言ってのけた。
すると押しに弱い権兵衛である、何も言えず、棒立ちになってしまい、そこに料理はいいのか、と言われてしまえば、すごすごと台所に戻ってゆく他無かった。
権兵衛が姿を消してからは、暫し沈黙が続いた。
諏訪子にとっては権兵衛が再び台所に戻るまでの時間のマージンを取っているに過ぎないのだが、神奈子にはそう思えないのか、どうも苦々しい表情であった。
沈黙を打ち破ったのは、諏訪子の言葉だった。

「この話は、また今度で良いかな?」
「……えぇ。そうしましょう」

 諏訪子にしても優しい権兵衛の近くで権兵衛の事で言い争う確率のある話はあまりしたくないし、神奈子にしても客人の前で怒鳴りあうのは礼を失する言動である。
とりあえずはと言う事で、この話は後に持ち越す事になり、諏訪子は食事の時まで一旦沈黙を続ける事にする。
そんな訳で神奈子への説明を一先ず置き、諏訪子はどうやって権兵衛に守矢神社に永住してもらうか、考える事にした。
勿論権兵衛は諏訪子の夫なのである、一緒に住むのが道理と言う物だが、今までの近所付き合いと言う物もあるだろう、中々そうすぐには行かないだろう。
すると家を引き払う準備が必要なのだが、これは神の伴侶となったと伝えれば、すぐに解決すると思われる。
なので権兵衛が一度別宅に戻ったら、早速里のみんなにこの事を知らせよう、と諏訪子は思った。
と、そこで神奈子が口を開く。

「そういえば。七篠権兵衛って言う名前、人の名前としちゃあ不自然だけど、どういう事だか分かるかい?」

 妄想に水をさされる形となった諏訪子は、一瞬不機嫌そうな顔を作るが、寸前に神奈子相手に喧嘩腰になって権兵衛を心配させてしまった事を思い出し、素直に返事をしてやる事にした。

「何でも、幻想入りした時に名前を失って、それでそんな名前を自分につけたんだって」
「ふぅん、そうなのかい。ありがとね」

 と、そこで話は終わったようなので、再び諏訪子は権兵衛に関する妄想に脳内を浸す事にする。
なのでこの後神奈子が呟いた一言は、よく聞き取れず、何を言っているのか分からないままだった。

「名前が亡い程度の能力、かねぇ……」




あとがき
お久しぶりです。
一ヶ月ぶりぐらいになるでしょうか。
今回一回書き上げたのに半分以上書き直したりしてたのもあって、遅くなりました。
改訂はSS書きの死亡フラグみたいですが、何とか通過できたようで、安心です。
これから忙しさが増えるのか減るのか不明な状態に居るので、次回の更新時期は不明のままですが、どうか付き合っていただけるとありがたいです。



[21873] 守矢神社2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/06/04 20:07


 あれから俺は、夕食の用意を手伝う事になった。
何せ一晩お世話になるのである、何も手伝わないと言うのも居心地が悪いし、東風谷さんの帰りが遅く、家事が遅れていたと言うのもあった為だ。
と言って、名乗りを挙げて置きながらなんなのだが、俺は特別に料理が得意と言う訳では無い。
何時しか幽香さんには喜んでもらえたし、宴会でも好評であったが、そもそも俺は家事を行うようになってまだ数ヶ月しか経っていないのである。
流石にキャリアの違いから、正面から東風谷さんに勝負すると、分が悪い。
が、料理をするからには食べてもらう人には喜んでもらいたい物だし、一晩泊めてもらうと言う事に対する礼でもあるのだ、全力を尽くすのも当然と言えよう。
とりえず食材の様子を見る事から始めるが、何故か稼動している現代の冷蔵庫があった。
思い返せば、諏訪子様と話していた居間にも、エアコンがあったような気がする。
ここの神社は、よく分からない近代性を持っているようだった。
何だか奇妙な感覚を覚えつつも材料を確認し、牛肉にしらたき、焼き豆腐とあったので、すき焼きにする事にする。
丁度時期も冬である、鍋料理が恋しい頃合いであるのだし。
まずは材料を食べやすい大きさに切っておく。
次に醤油にみりんに日本酒を一煮立ちさせ、割り下を作る。
白米と酒とどっちが良いか聞いた所、全会一致で酒と来たので、砂糖は入れない。
そこで鍋を温めてから牛脂を溶かし、割り下を投入、牛肉をいくらか入れ、色が変わってきた辺りで他の材料を入れる。
その間、何だか諏訪子様と八坂様で言い合いがあったようで、顔を突っ込んでしまったのだが、どうやら俺には関係の無い事だったらしく、すごすごと台所に逃げ帰る羽目になった。
そんな事をしつつ火が通った辺りで、鍋ごと居間に持っていくと、丁度東風谷さんも洗濯物の取り込みやらを終えた辺りだったらしく、鉢合わせした。

「あ、東風谷さん、今日はすき焼きにしましたよ」
「……は、はい、そうですか」
「……はい、そうなんですよ」

 そのまま返してしまった。
って、俺は何をやっているのだろうか。
そう思いつつちらりと東風谷さんを観察する。
微細な震えと、僅かに顔色を青くしているその様子は、何だか、東風谷さんの様子は、俺を嫌っていると言うよりも……。
恐れられている、のでは無いだろうか。
初対面の時は、もう少し攻撃性があったので、嫌われていると思っていたのだけれども。
と言っても、果たして、俺に恐れられるような部分があっただろうか。
逆に侮られる要素ならいくらでもあるのだが……。
とりあえず思考を中断し、机の上の鍋敷きの上に鍋を置く。
それから、東風谷さんの方に振り向いた。
一緒に台所まで行ったほうが良い用事があるので、唾を飲み込みつつ聞いてみる。

「その、普段皆さんの使っている箸やコップがあるなら、教えていただきたいんですけど……」
「……諏訪子様は黒塗りに茶色い木目の入った箸、神奈子様は全体的に薄黒い箸で、私は端が赤い箸です。
盃は特にありませんので、人数分お願いします」
「あ、はい、分かりました」

 口頭で教えられてしまった。
いやまぁ、俺の思惑としては、東風谷さんに関しては以前考えた通りに、今日の所はやり過ごして諏訪子様や八坂様に任せると言うのがある。
その後里で顔を合わせる事があったりして日常生活に影響があるなら兎も角、それでなければ嫌われている俺が行動するのはリスキーだと考えた為だ。
と言っても、俺を今日返さずにいた諏訪子様の考えはそうではないみたいなので、その考えも揺れ、俺も探りを入れた方がいいかと考えていた所である。
何かアクションが起こるのでは、と内心肩に力が入っていた所なので、拍子抜けであった。
まぁ、元々の俺の考えとしては良い筈なのだが、何だか納得の行かない感じである。
ううむと首を捻りつつ、食器に卵に酒を持ってくると、すき焼きの出来上がりであった。

「いただきます」

 と、四人で輪唱。
溶き卵に通して各々の好みの食材を口に運んでいく。

「うん、美味しい美味しいっ。早苗のともまた違う味だね」
「あぁ、濃い目の味なのに、なんだか透明な感じがするな」

 諏訪子様と八坂様に褒められて、謙遜の言葉がついてでそうになるが、食材やらは東風谷さんが買ってきた物であるし、調味料もそうである。
果たしてこれは謙遜していいものか、と首をかしげつつ箸を伸ばすと、狙っていた肉がさっと取られてしまう。
箸の来た方を見ると、諏訪子様が美味しそうに肉を咀嚼していた。
思わず、首を傾げる。

「諏訪子様はお肉、好きなんですか?」
「って、あれ? むくれたりしないの?」

 と疑問詞で返されるが、俺は首を横に降った。
酒で口を湿らせつつ、答える。

「いえ、好きならもっとお肉を入れた方が良かったかなぁ、と思いまして」
「……うんうん、そうだねっ」

 と、何故か諏訪子様は嬉しそうに言った。
はて、お肉が少なくて悲しい所なのではないか、と首を傾げるも、それがおかしかったのか、くすりと笑う諏訪子様。
何がおかしかったのだろう、と救いを求めて八坂様の方を見ると、そちらもにやにやと笑っていた。

「うぅ、八坂様まで」
「まぁ、あんたがどんな奴か、やっと分かってきた気がしてさ。
って、そういや権兵衛、私のことを八坂って呼んでたっけ。
諏訪子も下の名前だし、私も神奈子でいいよ」
「あ、はい、では神奈子様、と」

 と言うと、かちゃん、と甲高い音。
見れば東風谷さんが、箸を置いた所であったようだ。
どうしよう、俺が二人に気安く接しているから、怒ってしまったのだろうか。
いや、それならばまだ良い、気分が悪くなってしまったりしていたら、一体俺はどうすればいいのか。
こちらまで顔を青くしつつ東風谷さんを見ていると、どうやら一旦箸を置いただけらしく、盃の方に手をやっていた。
顔色を見るが、見て分かるような悪さは無い。
胸をなで下ろし、ついでに酒を口にする俺を尻目に、神奈子様が怪訝そうに口を開く。

「どうしたんだい、早苗。
すき焼き、美味しいのに全然口を付けてないじゃあないか」
「――あ、はい、そうですね」

 と言い、すき焼きに箸を伸ばす東風谷さん。
言われてみれば、東風谷さんの溶き卵は他の皆の卵に比べ、色が黄色のまま濁っていなかった。
内心不安気に思いつつ見ていると、東風谷さんはしいたけを箸に取り、溶き卵を通して口にする。
ちらりと視線をやると、どうやら諏訪子様も神奈子様も東風谷さんに視線をやっており、東風谷さんは皆に注目されながら食べている事になる。
これは食べにくいのでは、と思ったものの、東風谷さんはあっさりとしいたけを嚥下して。
再び箸を置き、手は盃に。

 えっと、口に合わなかったのだろうか。
一瞬そう思うものの、東風谷さんの食べ方がこうなのかもしれないし、もし口に合わなかったのだとしても、俺がそんな事を聞いた所で気を使わせるだけである。
とりあえず気にしないよう努めつつ、鍋に箸を伸ばすと、それに釣られるように諏訪子様も神奈子様も箸を伸ばすようになった。
が、二人は何だか目と目で会話しているようで話しかける隙が見当たらず、かと言って東風谷さんに話しかけるのも気が引けるので、黙って酒を飲みながら食事をする事になる。
そんなわけで、全員黙々と食事を続ける事になった。
とりあえず酒をごくごく飲みつつ箸をすすめるうちに、手酌で盃に酒を入れていようとすると、瓶の方が空になっていた。
一升瓶が、である。

「あ……」

 と、思わず口に出して沈黙を破りつつ思い出すに、俺は飲み過ぎでは無かろうか。
少しは遠慮しようと思うと同時、神奈子様が口を開く。

「あ、もう無くなっちゃったかい? じゃあ早苗、次のを持ってきてくれる?
にしても権兵衛、あんた結構イケル口じゃあないか」
「はい、恥ずかしながら酒量は多い方でして。
あまり酔わない方なんですけれども、未だに限界に達した事がなくって」

 と言う通り、俺はあの宴会以来、酒を飲んでも記憶を失わなくなっていた。
何が契機だったのかは不明だが、急にそうなったのである。
試しに一度一升瓶を五本ほど買い込んでみたのだが、普通に一晩で飲めてしまい、それ以上どれぐらい飲めるかは、主に俺の金銭的事情により不明であった。
そんな訳で酒量を減らそうと思った矢先に、にやりと笑う神奈子様。

「へぇ、じゃあ今日は限界に挑戦してみる?」
「いや、その、以前鬼の方と一緒に飲んでも限界が来なかったぐらいなので、それは不味いかと」
「え、あんたそんなに飲むの!? 確かにそりゃあ家の酒が無くなっちゃうねぇ」

 と、そんな事を言っている間に、東風谷さんが一升瓶を抱えて持ってきた。
机の上に静かに置くと同時、神奈子様がぴくりと眉をひそめる。
が、それも一瞬、瓶を掴んで、笑顔で言った。

「ま、限界に挑戦するのはまたとして、この一杯ぐらいは飲んできなよ」
「あ、ありがとうございま……」

 と盃で答えようとした瞬間、背中に凍土が生まれたような悪寒が走る。
思わず振り向くと、諏訪子様が俺をじっと認めていた。
当たり前だが、可愛らしい姿である。
幼い容姿に純粋そうな目は、その外見を裏切らない純粋さを感じさせる物だ。
なのに何故か、俺は指一本動かせないような寒気を感じていた。
それは神奈子様も同じだったらしく、視界の端で神奈子様が諏訪子様に視線をやっているのが見える。
何がどうしたのか、と混乱すると同時、再びかしゃん、と甲高い音。
意識を引き戻され、思わず視線を音の方にやると、東風谷さんが箸を置いた所であった。
悪寒がすっと引いてゆき、代わりに諏訪子様の視線がぎょろりと東風谷さんへ向けられるのが見える。

「ぁ……」

 東風谷さんが小さな悲鳴を上げた。
見ればその顔は青いを通り越して土気色と化しており、唇も青くなってブルブルと震えている。
今にも倒れそうなその顔色の悪さに、咄嗟に手を伸ばそうとする俺。

「や、やめてくださいっ!」

 が、返ってきたのは、俺に対する罵声であった。
ぶるぶると震え、必死に手を伸ばし、俺と距離をとろうとしているその姿は、どう考えても俺に怯えている物である。
何をやっているのだろうか、俺は。
咄嗟の反応とは言え、こうまでに一人の少女を怯えさせてしまった事に、俺は内心を後悔の色で染める事となった。
俺は、所詮は俺なのである。
人として低い位置にある俺が誰かに手を貸そうなどと言う、おこがましい行いをするから、こうやって世界に不幸は増えてゆくのだ。
少し人格を褒められたからと言え、俺は驕っていたのではなかろうか。
そんなものは建前やお世辞に過ぎないと言うのに。
伸ばしていた手を引っ込め、視線すらも彼女を怯えさせるかもしれないと思うと、視線の置き場すらも思いつかず、俯く事となった。
と同時、諏訪子様が口を開く。

「――早苗」

 底冷えするような言葉であった。
思わず、続きが諏訪子様の口をついてでるより先に、俺が口をはさむ。

「そ、そのっ、諏訪子様、東風谷さんをどうか勘弁してやってくれませんか。
悪いのは、嫌われていると知りながら手を伸ばしてしまった、俺の方なのです。
何せここには諏訪子様も神奈子様も居るのです、東風谷さんの顔色が悪ければ、嫌われている俺よりもお二人に任せたらいい。
なのに手を伸ばしてしまったのは、俺の悪徳によるものなのです。
だから、責めるならばどうか、俺を責めてください。
どうか、どうか、お願いします」

 言いつつ、俺は三つ指をついて頭をさげる。
穴だらけの言葉であった。
何せ、最初に東風谷さんが諏訪子様に睨まれてから顔色を悪くした事を、無視した言葉であった。
何が悪かったのかは分からないが、そこの諏訪子様が東風谷さんを睨むような理由があったのなら、俺が悪かろうがどうだろうが、諏訪子様には東風谷さんを叱る理由がある。
しかし、俺はただでさえ顔色の悪い東風谷さんが、今この場でこれ以上叱られるような事を、許容できなかったのだ。
私欲である。
我儘である。
当然に論破する事は簡単だが、それでもこうやってクッションを置く事で、諏訪子様が東風谷さんを叱る事を思いとどまってはくれないか、と言う一縷の望みにかけた言葉であった。
が、それに対応するのは、予想外の言葉。

「早苗が、権兵衛を嫌っていただって――?」

 神奈子様が言うのに思わず反応し、思わず面を上げる。
視界の端では東風谷さんが俺を信じられないような目で見ているのが見えた。
何だって?
疑問詞を浮かべる俺を尻目に、神奈子様が続ける。

「ちょっと待て、諏訪子、私はそんな事、一言も聞いてなかったけど……」
「あ、ごめん、言うの忘れっちゃってた」

 てへっ、と舌を出す諏訪子様に、思わず絶句する。
それは神奈子様も東風谷さんも一緒だったようで、一瞬、部屋の中が沈黙に包まれた。
俺は思わず、信じられないと言う表情を作ってしまう。
いや、言うのを忘れていたのは、まだいい。
良くは無いが、人間何だってミスはあるのだ、神様にだってミスぐらいはあるだろう。
信じられないのは、それを子どもが悪戯を告白するような軽い調子で言ってのける所だった。
東風谷さんが俺を目前にして見せた不調は、今にも倒れそうな、深刻な物だった筈である。
それをまるで重要視していないように言って見せる諏訪子様。
初対面の俺の、あるかどうか分からない優しさにすら感動してくれた彼女は、相応に人に優しいと思っていた。
また、東風谷さんへの物言いから、巫女である彼女の保護者のような姿勢を取っているように思っていた。
だがしかし、それは勘違いだったのだろうか。
思わず神奈子様の方に視線をやるが、彼女も俺と同じように信じられないと言うような表情を作っていた。
東風谷さんもまた同じで、更に顔色を悪くしているように見える。
とすると、今までは東風谷さんを蔑ろに扱うような事は無かったのでは、と思えて。
混乱する。

「忘れちゃってたって、あんた……!」

 激高する神奈子様の言葉にも、僅かにバツの悪そうな顔をするだけで、平気で鍋に箸を伸ばす諏訪子様。
神奈子様は、諏訪子様の反応を見て、何かを悟ったかのように溜息をつき、東風谷さんの方を見るが、言葉が見つからないようで、何も言えないままであった。
東風谷さんも表情が固まったきり、身動き一つしない。
俺はと言えば、視線を右往左往させるだけで何もできず、ただ座っているだけの所に、諏訪子様が話しかけてくる。

「権兵衛? すき焼き食べないの? 冷めちゃうよ?」

 と言って、肉を差し出してくる諏訪子様。
無視する訳にもいかず、かといって気の利いた言葉も思い浮かばず、思わず俺は器を持って肉を受け取ってしまう。
受け取って、食べている場合じゃないと思うものの、かといって何をすればいいのか分からず、暫く迷ったが、肉をこのまま放置しておく訳にもいかず、俺は肉を取って口にした。
肉は冷めていて、少し硬くなっていた。



 ***



 あの後、残りを諏訪子様が平らげ、夕食は気まずいままに終わった。
東風谷さんが逃げるように食器を洗いに台所へ持って行き、俺はと言えば客間の場所も知らないのでずっと居間にいるままであった。
神奈子様が相槌を打つばかりで沈黙を守る一方、諏訪子様は何事もなかったかのように俺に話しかけてきた。
勿論俺は東風谷さんの事が気になったので生返事しかできなかったのだが、それでも気にならないようで、遅くまで諏訪子様の話は続いた。
多くはかつての夫についての話であり、諏訪子様はそんなに人を愛せたのだな、と思う反面、俺は何故今東風谷さんを気遣ってやれないのだろう、と内心独りごちた。

 そして夜中。
知らぬうちに東風谷さんが準備していた寝室を借り、俺は布団の中で横になりつつも、どうしても眠れなかった。
昼間の東風谷さんの豹変。
夜中の諏訪子様の豹変。
前者は明らかに、後者は周りの反応を鑑みるに、どちらもタイミングとしては俺が来てから変わったように思える。
俺の持つ何らかの要素が、二人の心を変えてしまったのではないか、と。
勿論、それは誇大妄想の類であろう。
何せ俺如きに、神の心を変えてしまうような大きな要素があろうとは、到底思えない。
思えないのだが、あまりにタイミングが良いからか、どんなに頭を降ろうと頭の中にそんな考えが残ってしまう。
思えば、俺はこれまで、あまりに短期間に、幻想郷の有力者達の感情的な姿を見すぎて来てはいないだろうか?
妖夢さんに輝夜先生、幽香さんに妹紅さんにレミリアさん。
もしかしたら、俺の知らない所で、他の女性達も感情的になっていたのかもしれない。
俺には、もしかして人の心を操るような、忌まわしい力があるのでは無かろうか。

 なんて。
結局はそんな物は妄想に過ぎないのだろうけれど。
溜息をつきつつ、俺はごろりと寝返りをうつ。
何せ俺はただでさえ、“月の魔法を使う程度の能力”と言う人には過ぎた力を持っているのである。
普通一人一個だと言う能力をそれ以上持っているなど、自意識過剰にも過ぎる事だろう。
内心の不安を吹き飛ばし、俺はどうにか寝ようと務める事にする。
ちなみに普通じゃない人と言うのは霊夢さんで、“空を飛ぶ程度の能力”に“霊気を操る程度の能力”、“博麗の巫女としての能力”にあの勘の鋭さの能力の一つらしい。
まぁ、あれほど重要な立ち位置に居るのに必要な能力を思えば、納得も行くが。

 とまぁ、そんな風に取り留めのない事を思って、次第に眠気の脳内が支配されていっていった、その時である。
す、と何かが滑る音。
寝ぼけ眼でそちらを見ると、障子が開いており、廊下には桃色の寝間着姿の東風谷さんが立っていた。

「あぁ、夢か」
「え? あの、違いますけど……」
「あれ、夢なのに夢って分かっても覚めないぞ、珍しいなぁ」
「いえ、ですから夢じゃないんですけど……」
「うーん、折角ならぬいぐるみとかに囲まれた夢とかが良かったんだけど……」
「少女趣味ですね……。えいっ」
「あいたっ」

 ぱちん、と言う音と共に、額が叩かれ、頭の中で軽く火花が散った。
思わず飛び上がって、両手で額を抑える。
あまりに不意打ち過ぎたので、痛みに思わず涙が浮かんだ。

「えっ、あのっ、もしかして泣いてます?」
「な、泣いてませんよ、大丈夫、大丈夫ですってば」
「はぁ……泣き虫の言い訳っぽいですねぇ」

 と言って退いた東風谷さんを尻目に、俺は涙を零さないよう努力する。
何が何だか分からないが、とりあえずこの場で泣くのはとてつもなくみっともない事だと、本能で理解できた。
なので頑張れ俺、頑張れっ、とエールを送りつつ抑えていると、痛みも引き、涙も何とか引いてゆく。
ほっと一つ溜息をつき、東風谷さんに視線をやった。

「どうです、泣かなかったでしょう」
「いえ、そこで威張られても」

 びしっ、と手でツッコミを入れられ、そりゃそうかと思う。
納得して首を上下させる俺に、東風谷さん。

「それにしても」
「はい?」
「権兵衛さんって、ぬいぐるみとかお好きなんですね」
「――っ」

 言われると同時、俺が寝ぼけて口走った内容が脳裏を走る。
まるで顔が燃え盛りそうなぐらい、赤くなった。
恥ずかしくて恥ずかしくてとても視線を合わせていられず、思わず俺は俯いて体を小さくする。
俺の阿呆め。
そう内心で言って、想像の中で自分で自分を殴り続けるが、それでも恥ずかしさは紛れず、暫くの間俺は身動きひとつできなかった。
そんな俺に、容赦なくかかってくる言葉。

「うぅん、男の人が少女趣味って、気持ち悪いなぁ」

 ぐさっ。

「あ、いえ、権兵衛さんが気持ち悪いって言う訳じゃあないんですよ?
ただ、友達にそんな人が居たら、携帯に登録してある連絡先を消すかなぁ、って思っただけで」

 ぐさぐさっ。

「えぇ、なんで泣きそうになるかなぁ。
その、私何か気に障るような事言いましたか?」

 あの、すいません、もう勘弁してもらえませんか。
内心平服しつつ、俺は言葉のナイフで傷つけられた部分を抑え、これ以上話を続けるのが危険だと判断して話を遮る。

「え、えぇと、その。
東風谷さん、わざわざこんな夜中に俺の所を訪れたんです、何か用事があったのでは?」
「あ、はい、そうでした……」

 と、なんとか仕切り直すと、東風谷さんも居住まいを正したようだった。
俺も同じく、姿勢を正す。
そうして言葉を待つが、中々東風谷さんは口を開こうとしない。
これで口の上手い人ならば小粋な話で話しやすくしてやる、なんて言う事ができるのだろうが、口下手な俺にそんな事は望むべくもなく、沈黙が横たわることとなる。
自然、する事と言えば東風谷さんの様子を観察する事になり、見ているうちにふと気づく。
東風谷さんはどうやら俺には怯えているような様子を見せているものの、諏訪子様や神奈子様が居た時程では無いようだった。
さて、そこにある差は一体何なのだろうか、と内心首を傾げると同時、東風谷さんが口を開いた。

「権兵衛さん、貴方は、里人を恨んでいないのですか?」
「え? それは勿論、恨んでいないですけれど」

 と、当たり前の事を聞かれたので、当たり前に答える他無い。

「だって、里人が俺を害した行為は、全て誤解によるものなのです。
そしてその誤解を作ったのが誰かと言えば、全て俺の悪徳によるものなのです。
そうとあれば、俺が里人を恨むのはお門違いと言う物でしょう。
どちらかと言えば、自虐の念に囚われる事はあるのですが」

 と言う俺を、信じられない物を見るような目で見る東風谷さん。
何故か焦ったような様子で続ける。

「そ、その、本当に恨んではいないと言うのですか?
苦しんでいたらざまぁみろとか、そんな風に思う事すらも無いのですか?」
「えぇ、それは勿論、恨んでいないですとも。
それに、いくら俺とは言え、苦しんでいる人を見てざまぁみろだなんて、そこまで思う事はありませんよ」

 と言うと、東風谷さんは花が萎れるように、活気を無くし、項垂れる。
何か悪い事を言ってしまったのかと思い焦るが、思い当たらない。
それでも目の前の彼女が沈んでいる様子に何かしてやりたくて、手を伸ばそうとするものの、今度こそ東風谷さんに嫌われている事を思い出し、寸での所でそれは止められた。
それに内心ほっと溜息をつきつつ、恐る恐る視線を東風谷さんの方に向けると、矢張り東風谷さんは僅かに体を震わせていた。
息を吸うのも荒く、今にも涙を零さんばかりに昂っている東風谷さんは、確かに俺を恐れているように思える。
だが、矢張り何度考えてもその理由は分からず、俺は自分が再び記憶喪失にでもなってしまったのかとさえ思った。
そんな風にしているうちに、静かに東風谷さんが口を開く。

「それ、では、その、聞いてもらえますでしょうか」
「……はい」

 今にも泣き出してしまう子供のような姿に、支えてやりたいと思うものの、何とかその思いを俺は握りつぶす事に成功した。
辛うじて声を搾り出しているようにしか見えない東風谷さんに、せめて返事は確りとしようと、目を目に向けて言う。
すると、僅かに一度震えたのを最後に、東風谷さんは震えを止めた。
すぅ、と大きく息を吸い、肺に空気を貯め、喋り始める。



 ***



 東風谷早苗は、現代人にありえない緑の髪と、二柱の神を見る目と、奇跡を起こす程度の能力を持って生まれた。
それは一族の中でも奇異な程の高い能力であり、両親でさえも早苗には遠く及ばない程度の能力しか持っておらず、神を見る事すらできなかった。
いわば、早苗は先祖返りなのだ。
かつての幻想の時代と同じ程の力を持って、生まれた。
そしてそれ故に早苗は特異であり、孤立した人生を歩んできた。

 幼稚園児の頃から、早苗は孤立していた。
神様が見えると言う事もそうだし、その緑の髪も早苗を孤立させる一因となった。
初め幼稚園児達の対応は、イジメだったと早苗は記憶している。
遊びに混ぜてもらえなかったり、陰口を言われたりから、段々と暴力が混ざるようになり、悪い事は全て早苗の所為になっていった。
早苗は、二柱の神にそれをおくびにも出さなかった。
幼いながらに二人を心配させたくなかったと言うのもあったし、自分がイジメられるような悪い子だと思われたくなかったのだ。
そうやって早苗は我慢を続けたが、いずれ限界は来る。
ある日の夜中、自分の境遇と、それが何時までも続くかもしれないと思うと、自分の将来が悲しくて悲しくて、早苗は涙を零した。
そして願ったのだ。
どうか、こんなイジメは無くなってください、と。

 果たして、“奇跡”は起きた。
具体的にどんな奇跡だったか早苗は既に覚えていないが、確か風に関連した奇跡がいくつか起きたのだと言う事だけは覚えている。
その結果、幼稚園児達は早苗をイジメる事はなくなり。
代わりに、誰一人早苗に話しかける幼稚園児はいなくなった。
気味が悪かったのだろう、と今になって早苗は思う。
当時はどうしてか分からなくて、何度も泣いてしまったものだったが、よくよく考えれば、“奇跡”など周りからみれば気味の悪い出来事にしか過ぎなかったのだ。
ただそれでも、両親と二柱の神だけは早苗に話しかけてくれて、だから早苗は四人に精神的に依存するようになりながら幼児時代を送った。

 小学校に入ってからも、同じことの繰り返しだった。
緑の髪や、神を信じると公言して止まない早苗は格好の標的で、イジメの対象となり、そして“奇跡”が起こり誰も早苗に近づかなくなる。
両親は当然働いていたし、二柱の神も信仰の力が無くなってきていて神社を出る事が出来ず、早苗の生活を知る者は居ない。
しかし、孤立した生活は苦しかった。
それを吐き出す相手すらも居らず、苦しみは貯まる一方で、早苗は次第に耐え切れなくなっていった。
故に、孤独な生活を肯定する為に、自分は特別なのだと思うようになっていった。
自分は特別な存在なのだ。
だから皆はそれを妬んで攻撃を仕掛けているだけなのだ、これは優れている者が生きる為の弊害なのだ、しょうがない、と。
実際それがある程度は間違っていなかったのが、早苗の考えに拍車をかけた。
また、どんどんとプライドを高くする早苗の様子は、周りからの孤立にも拍車をかけた。

 高校生になる頃には、早苗は完全に両親と二柱の神に精神的に依存していた。
最早四人の前だけが自分をさらけ出せる瞬間だったし、だから早苗は両親にも二柱の神にも感謝を忘れた事はない。
孤立は深まるばかりであった。
誰も話しかけてこないけれど、私は無視なんてされていない、孤高だから話しかけられないだけだ。
ボソボソと嫌味を言われたり、コソコソと笑われてなんかいない、あれは気のせいだ。
私は、イジメられてなんかいない、プライドが高いから孤高を選んでいるだけだ、特別なだけなんだ。
そうやって自分をどうにか誤魔化して、神奈子と諏訪子と両親だけが頼りどころのまま、早苗は日常を過ごした。

 そんなある日の事である。
夜中何となく寝れずに起きだした早苗は、厠に行って帰る時、両親の部屋から灯りが漏れているのを見た。
こんな夜中にどうしたんだろう、と疑問に思い、耳を傾ける。

「早苗……あの××、今日も何も無い場所に話しかけてたわ」
「ああ……、またか、あの××」

 反射的に、これ以上聞いてはいけない、と早苗は思った。
だが思いとは裏腹に、体は両親の言葉に耳を傾けたまま、動きを見せない。

「あいつは神が居るって言っていたけど、本当に居るのか? ××ならではの気違いからじゃあないのか?」
「分からないわ……。お母様は先祖には見えたって言ってたけど、それってつまり……」
「そうだな、あいつはやっぱり……」

 ××って何だろう、と早苗は思った。
何か言っているようだが、早苗の脳が受け取りを拒否しているようで、意味が通じない。
何を言っているのか、分からない。
そうやって現実逃避をするのは、早苗が自らの心を守るために行った行為であるのだが、それを嘲笑うかのように、両親の言葉は輪唱し、早苗の心に突き刺さった。

「化物だ」

 それから、早苗はどうやって自室にたどり着いたのか覚えていない。
ただ、こんな事を内心叫んでいた事だけは覚えている。
私はこんな事聞いていない。
聞いていないったら聞いていない。
そう叫んでも、耳に残る言葉は何度も響き渡り、早苗を責め続ける。
化物、化物、化物。
次第に早苗はこう思うようになってきた。
嫌だ、こんな事を言う両親なんて、居るはずがない。
こんな事を言う両親なんて、私にはいない、いていい筈が無い。
そう内心で叫びつつ、泣きつかれて早苗は寝た。

 果たして、“奇跡”は起きた。
早苗の両親は火事で死んだ。
次に起きた時早苗は病室で目を覚まし、呆然としながらその事実を知った。
幸い大火災にはならず、寝たまま焼死した両親とその部屋付近以外に大きな被害は無かったそうだ。
それを知った時、早苗はまず己の罪深さを呪い、自己否定に走った。
しかしそれもあまりの罪の重さに長くは続かず、次第にこう思うようになった。
私は特別な存在なのだ。
それを悪く言った両親は悪であったのであり、死んで当然だったのだ。
そう思わねば早苗は、今まで信じていた両親にすら気味悪がれており、そしてだからと言ってその両親を自らの能力で殺してしまった、と言う事実を受け入れられなかった。

 最早、人間社会において天涯孤独となった早苗は、神奈子と諏訪子への依存を余計に強くした。
突然の不幸で両親を亡くしたのだ、と思っている二柱もまた、それを許した。
そうなると問題であるのが、二柱の神への信仰心の低さである。
それを補うために幻想入りが考えられ、最早外の世界に未練の無い早苗は、それを即諾し幻想入りした。
そして、空飛ぶ巫女と出会う。

 博麗霊夢は、あっさりと早苗を倒していった。
これは何かの間違いだと思う早苗を、今度は霧雨魔理沙があっさり倒した。
そして早苗は、自らが特別な存在では無かった事を、知らされる事になる。

 それまで早苗は、自分を特別だと思う事で自分を保ってきた。
幼少時代から続く孤独も、両親の死も、どちらも自分が特別であるから許されると考えてきた。
そうでなければ、両足で立ち、人生を歩む事すらままならなかったのだ。
しかし二度に渡る敗北で、早苗の人生の根拠は、粉々に砕かれてしまった。
自分は、特別では無い。
何せ霊夢のような同じ巫女にも、魔理沙のような幻想郷ではそう強い部類にない魔法使いにも負けてしまったのだ、当然である。
では、自分は果たして、何故孤立していたのか?
自分は何故、両親を殺してしまったのか?
それらの現実を、早苗は受け入れられなかった。

 早苗は最早、考える事を放棄せざるを得なかった。
神奈子と諏訪子の言う事、それを守るだけの、ロボットにしかなれなかった。
一切の判断を、その二柱の神の言葉以外で行う事が無くなったのである。
非想天則を追って諏訪子と対峙できたのも、神奈子の言葉があったからと言うだけ。
UFOを追って魔界まで旅した時も、二柱の言葉を守る事しかできなかった。

 そして。
そして、だからこそ。



 ***



「私は、貴方を、見捨ててしまったのです」
「へ?」

 意味が分からない、と言う目でこちらを見てくる目に、視線を逸らしそうになってしまうのを、早苗は意地で押さえ込んだ。
震える体を抑えきれないままに、口を開く。

「二ヶ月ほど前の事です。
私は里人が連れ立って歩いて行くのを見て、何をやるのだろうと空を飛んで追いかけました。
里人達は、権兵衛さん、貴方が住んでいた家に辿り着きました。
すると、手に持っていた斧や、鈍器を使って……貴方の家を、壊し始めて」

 声が震えるのを、抑えられない。
どうしても次の言葉を考えると、それの持つ意味を考えると、早苗は次の言葉が言い出せなかった。
拳を、握りしめる。
爪を突き立て、痛みで恐れを消しつつ、言うんだ、言うんだ、と自らにを鼓舞する。
大きく息を吸い、まるで何かを吐き出すかのように言った。

「私は、それを見て見ぬふりをしたのです」

 ついに、言ってしまった。
そうすると、今度は何を言われるのだろうか、と言う恐怖が全身を駆け巡り、がくがくと体が震えを大きくし始める。
流石に驚いたようで、権兵衛は目を見開いていた。
だが、それも数瞬。
早くも現実に戻ってきて、何かを言おうとするのを見て、早苗は咄嗟に目を逸らしながら続ける。

「私は、怖かったんです。
悪い噂がある人を庇って、神奈子様や諏訪子様の言葉に背く事になってしまわないかと。
これはいくらなんでもあんまりだと思いながらも、自分可愛さに悪事を無視したんです。
貴方を、見捨ててしまったんです」

 権兵衛の口を開けば、罵声が返ってくるものと早苗は思っていた。
早苗は留守にしている間に自宅を壊されるのを、それを防ぐ力がありながらも、見て見ぬふりをしたのだ、その程度当然の酬いと言えよう。
いや、そんな軽い怒りで住めば行幸であろう、とさえ早苗は思っていた。
家である。
ただ人が住むと言うだけでなく、その過ごした思い出が残る場所なのである。
それを奪うと言う事は、その思い出をも奪ってしまうのに等しい行いだ。
それを、早苗は見過ごしたのである。
暴力、暴行――、そればかりか、怒りの程によっては、我を忘れて命すら奪おうとしてくるかもしれない。
それそのものよりも、自分が怒りの対象であると言う事が怖くて、兎に角早苗は喋り続ける。

「いえ――、それも違います。
私は、あんまりだなんて思っていませんでした。
私は、ただ怖かったんです。
判断をするのが。
自分の責任で、何かを行うのが。
悪い事が行われているんだ、とは分かっていました。
でも、里人の方が悪いのか、それともそこまでされる程貴方が悪かったのか、わからなくって。
でも、私、神奈子様か諏訪子様の言葉が無ければ、何も分からなくって。
もっと簡単な事な、どちらが悪いか決まり切っている事なら兎も角、どっちが本当に悪いのか分からない時、どうすればいいのか教えてもらわなくちゃ、何も出来なくって」

 自分の余りの情け無さに、早苗は吐き気をすら覚える。
幻想郷に来て以来、早苗のプライドは最早ズタズタに引き裂かれていた。
自分は特別ではないと認めざるを得ず、しかしそう認めるなら現実を見据えなければならず、それができずに早苗は思考を放棄する事で正気を保っていた。
神奈子にも諏訪子にも相談はできなかった。
何せ二人の前では、早苗はずっといい子で居たのであるし、そもそも現実を見ない早苗に、その現実を相談できる筈も無かった。
故に早苗は、権兵衛の家を守る事が、出来なかった。
権兵衛が悪人であると判断したからではなく。
今回の物事の判断が難しく、思考を放棄した早苗では既存の神奈子や諏訪子の言葉を用いて判断できなかったから。
分からないから、見て見ぬふりを。
見なかったことにして。

「あ、貴方が神社に来て、先に諏訪子様に善人だと紹介を受けて、貴方の名前を聞いて――。
私は最初、現実を受け入れられませんでした。
距離を取って、とりあえず逃げて。
それで出来るだけ時間を取っても、貴方はまだ家に居て。
怖くて入れなかったけれど、神奈子様が来て、私を連れて入って。
そ、そしたらっ」

 震えが強くなり過ぎ、ついに言葉を発するのが辛い程になった。
早苗は自らの体を抱きしめ、どうにか震えを抑えようとする。
僅かな沈黙を置いて震えは弱まっていき、大きく吸気した早苗は言葉を続けた。

「貴方は、震えるほどに善人でっ!
神奈子様も諏訪子様も、私にはもうお二人しか居ないのに、貴方の事ばかりでっ!
確認してみても、貴方は矢張り、甚だ善人でっ!
ど、どう考えても、あの時の私の行いは間違いでっ!」

 ついに、早苗の目から、涙が零れ落ちた。
自らを抱きしめる手の力も強まり、掴む服の皺が深まる。
噛み締める歯の力は強く、ぎりり、と嫌な音を残した。

「ど、どうしよう。
わ、私、神奈子様と諏訪子様に見捨てられたら、もう他に何も残っていないんですっ!
でもきっと、見捨てられちゃうっ!
わ、私が悪い子だから。
学校でもイジメられてたし、お父さんとお母さんを殺してしまったし、権兵衛さんも見捨てちゃったし、貴方に謝らなきゃいけないのに、保身の事ばっかりだしっ!」

 最早自分が何を言っているのかすら判断がつかず、早苗は半狂乱になって叫んだ。
嗚咽と共に吐き出された言葉が、夜の室内に僅かに反響し、消えてゆく。
震える早苗は、僅かな恐れと共に、会話を初めてすぐに逸らしていた視線を権兵衛へと戻した。
これで怒り狂っていてくれれば、まだ早苗には救いがあったのかもしれない。
そうすれば早苗は卑劣ながらも、怒り狂う権兵衛を悪人として二柱の神に報告した事だろう。
当然そうなれば諏訪子によって一刀両断されるのは間違いないが、少なくともそれまでは希望を持っていられた。
しかし権兵衛は、残酷なまでに優しかったのだ。
権兵衛は、全てを包み込むような、優しい笑顔をしていた。

「大丈夫です」

 そう言う権兵衛の言葉には、何も解決していなくとも何故かほっとしてしまう、暖かな力が宿っていた。
早苗の涙が僅かに引き、動機が収まり、火照った頬が熱を引いてゆく。

「大丈夫です。
俺は怒ってなどいませんし、告げ口をするような事はありません。
神奈子様も諏訪子様も、取っていこうなんて思いません。
大丈夫です、東風谷さん、貴方は見捨てられなんかしない。
お二人は、貴方を見捨てなんかしませんとも」

 ぞっとするほど冷たい物が、早苗の中を過ぎった。
最早権兵衛がこよなく善人である事は明白であり、早苗の行いが悪事である事もまた明白である。
すると。
諏訪子が権兵衛を異様に贔屓する姿が、目の裏から焼き付いて離れない。
神奈子が、会ったばかりの権兵衛とすぐに仲良くなる姿が、目の裏から焼き付いて離れない。
気づけば、早苗の口は意思とは無関係に動いていた。

「嘘だ」
「……え?」

 突然の言葉に目を見開く権兵衛に、早苗は震えながら叫ぶ。

「嘘だっ!
神奈子様も、諏訪子様も、私から奪っていく癖にっ!
貴方が……、貴方さえ居なければっ!」

 叫びながら、早苗は権兵衛に飛びかかった。
咄嗟に魔力を纏う権兵衛であるが、早苗の霊力の方が圧倒的に上である。
あっさりと権兵衛を押し倒し、その首を両手で掴む早苗。
一瞬固唾を飲んでから、全力で絞め始めた。

「貴方さえ!
貴方さえ……貴方さえ……貴方さえっ!」

 叫びながら早苗は権兵衛の首を絞め続ける。
すぐさま権兵衛も両手を伸ばし、早苗の手を剥ぎ取ろうとするが、霊力で強化された度合いが違いすぎる。
すぐに権兵衛の抵抗が弱くなってゆき、次第に目が虚ろになってゆく、その瞬間であった。
一瞬、早苗の目に映像が潜り込む。
見た筈の無い、両親が苦悶の表情で焼け死ぬ姿。

「う、うわぁあぁっ!?」

 早苗は、思わず仰け反って、背後に倒れこんだ。
そのまま四肢を使って這いずり、咳き込む権兵衛から距離を取る。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 荒い息をしつつ、肩を上下させながら早苗は考えた。
今、一体自分は何をしようとしたのだろうか?
今度こそ、完全に自らの意思で、人を殺めようと?
それも、完全に私利私欲で?
早苗は、自分で自分が信じられなかった。
あまりに卑劣で下衆な自分が居る事に、驚愕していた。

「わ、私って……」

 最低だ。
そう心の中で続けながら、早苗はついに絶望した。
人をまた一人、しかも今度こそは直接殺めようとしてしまった罪悪感。
最早悪事を働き過ぎて、間違いなく神奈子と諏訪子に見捨てられるであろうと言う恐怖。
そしてそうなれば、ついにこれまでの自分の現実を見なければならないと言う戦慄。
全てが早苗の心を渦巻き、その絶望を形作っていた。
これから、私からは何もかもがなくなるんだろう、と早苗は思う。
初めに神奈子と諏訪子を失い、巫女でなくなるだろう
それから行った悪事が知らされ、信仰心を失い、神でもなくなるだろう。
そして残る普通の少女の部分は、そこに至って自分の現実を見据えた時、そんな物は幻想でしかなかったと気づくだろう。
最早早苗からは、全てがなくなる事が予定されていた。

「あ、はは、はははは……」

 あまりの虚しさに、笑いすらもがこみ上げてきた。
目を瞑り、涙と共に、後ろ手に持ち上げていた上半身を畳に落とそうとする。
その、瞬間であった。
何か暖かい物が早苗の頭を包んだ。
驚愕して目を見開く早苗の目前には、権兵衛の顔がある。
権兵衛がゆっくりと膝の上に早苗の頭を下ろすと、膝枕の形になった。
すっ、と。
権兵衛の顔が、非の打ち所が無い笑みを作る。

「大丈夫です」

 権兵衛は、言った。

「俺は、貴方を許します。
誰が何と言おうと、貴方を許します。
神奈子様や諏訪子様が貴方を罰するとしても、貴方を許します。
そして。
その、俺でよければ、ですけれども。
俺は、貴方の味方になります」

 遠慮がちに言った権兵衛の言葉に、早苗は目眩を覚えた。
味方?
誰の?

「わ、私、だって、貴方を殺そうとして……」
「それでもです。
俺は、貴方の味方です。
神奈子様が貴方を見捨てようとも。
諏訪子様が貴方を見捨てようとも。
俺は、ただ一人になっても、貴方の味方です」

 次第に早苗にも権兵衛の言う事が飲み込めてきて、混乱する。
自分にこんなうまい事があって良いのか。
そんな疑念が湧くが、権兵衛の笑顔が、まるで太陽が氷を溶かすかのように疑念をも溶かしてゆく。
それでも残る疑心を振り絞って、早苗は口を開いた。

「だって、まだ会って一日で……」

 未だに権兵衛を拒む様子を見せる早苗に、自虐的な笑顔を浮かべ、権兵衛が返す。

「それでも、俺には貴方がどれほど傷ついているかは分かります。
俺は、これほどまでに傷ついている貴方を、放っておく事ができない。
いえ、安心してください。
同情からと言う訳では無いのです。
だから、貴方が同情に値するかどうか、なんて悩む事はありません。
これはただ、俺の私欲、我儘による物なのです。
俺は、傷ついている貴方を見捨てる事を、己に許せない。
そういう事なのです」

 権兵衛が、それからもう一度、太陽のような笑顔を作った。
早苗は、胸に花が咲くような暖かさに身を包まれ、あまりの希望に顔を紅潮させる。
それは。
それはまさか、こういう事なのだろうか、と。

「私は……。
私は、救われるんですか?
私は、独りじゃあないんですか?」

 掠れた声で言いつつ、早苗は手を伸ばす。
すると権兵衛は、両手でがっしりとその手を握った。
まるで燃え盛る火炎のような、それでいて暖かな湯のような、不思議な体温が早苗の手を覆う。

「はい。
貴方は、もう独りではありません。
心は、常に貴方の側に」

 あまりに救いに満ちた言葉であった。
今度は絶望からではなく、嬉しさのあまりに、早苗の両目から涙が零れ落ちる。
残る手を伸ばし、早苗の手を包む権兵衛の手に、上から被せる。
するとより権兵衛の体温が感じられ、早苗は目を細めくした。

「ぜ、絶対、ですよ。
は、離そうとしたって、そうはいきませんから、ね」

 鼻声になりつつそう言うと、早苗はごろりと少し身を転がし、顔を権兵衛の腹に押し付けた。
両手を離し、今度は権兵衛を抱きしめる。
すぅ、と効かない鼻で権兵衛の匂いを嗅ぎながら、早苗は静かに泣き始めた。
それを慰めるように、権兵衛の手が早苗の後頭部を覆う。
絶望の中の、唯一の救い。
最早早苗にとって、権兵衛は神に等しかった。
権兵衛は早苗の全てを救っていた。
理解者の居ない孤独。
自分を偽る苦痛。
裏切られた絶望。
罪を犯してしまった罪悪。
権兵衛の存在がそれらを覆して現実は希望に満ちており、故に今や早苗は、現実を見る事が出来た。
何故なら、今は完膚なきまでに幸せなのである。
いろんな事があったけれど、今は幸せだと、そう言い切れるのである。
今までの二柱よりも尚早苗の事を理解してくれる、権兵衛と言う名の神。
その神はどんなに酷い事をしても早苗の事を受け入れてくれて、許してくれる優しさを持っていて。
私はなんて幸せなんだろう、と、生まれて初めて早苗は心の底から思った。
そう思うのが生まれて初めてだと言う事を含めても、早苗の考えは揺るがない。
目が覚めたら、と早苗は思う。
目が覚めたら、権兵衛さんの巫女になろう。
そして権兵衛さんを神として祭って、大きな神社を作ろう。
きっと神奈子様も諏訪子様も賛成してくれるに違いない。
そう思って、早苗は眠気に従い目を閉じた。



 ***



 東風谷さんが泣き止み、俺に与えられた部屋の布団を被せて寝かせた後。
俺は神力の誘いに乗って、庭に出ていた。
空は雲ひとつ無い快晴で、ふと気づいたけれど、今夜は満月だった。
満月とは一月の中で狂気の度合いが最も大きい日の事である。
すると、今日一日だけで吃驚する程色々あったのは、その狂気の度合いが大きすぎるからか。
そういえば、先月だって満月の前後に宴会があったのだし、と、そんな取り留めのない事を思いつつ、俺は庭を散策する。

 厳かな感じのする神社であった。
日頃東風谷さんがよく整えているのだろう、神社の中の木々は神秘的な雰囲気を崩さぬように植えられており、雑草なども見る限り殆ど生えていない。
周りの妖怪の山の、何処か怪しげな様子との対比が、よりそれを思わせる。
と、そんな風にぐるりと半周回ると、縁側に一つ人影があった。
どちらだろう、と少しだけ疑問に思う。
順当に考えれば、諏訪子様である。
何せ俺をわざわざ家に残した理由はまだ聞いておらず、このままだと諏訪子様が俺を残したのは気まずい夕食を取るためだけになってしまう。
と言っても、夕食の時の様子を見るに、もしかして何も考えていなかったのでは、と思う部分もある。
さて、どちらなのやら、と近づいて見ると、満月の光に照らされ、その人は居た。

「やぁ、良い満月よね、権兵衛」

 お猪口片手に挨拶をする、紫色の髪をした、何処か蛇の皮のような光沢を思わせる輝きを瞳に秘めたその人。
神奈子様であった。

「はい、月が綺麗ですね」

 と言うと同時、神奈子様が何故か酒を吹き出しつつ飛び上がった。
徳利にお猪口が宙を舞うのを見て、慌てて魔力を使って重力を操作。
液体を零す事なく双方を掴みとり、ほっと胸をなで下ろす。

「あ、あの、俺何か変な事を言ったでしょうか?」
「……あー、うん、分からないんならいいんだよ」

 何故か凄まじい疲労の色を顔に、神奈子様は徳利とお猪口を受け取る。
一体何が悪かったのか、と首を傾げる俺に、大きな溜息を一つ、それからお猪口の上に残った酒を啜る神奈子様。
こくこく、と小さく鳴りながら、滑らかに喉が蠢く姿は、何処か扇情的だった。
ぷは、と小さな声と共にお猪口が神奈子様の唇から離れ、同時、その瞳が俺を見据える。
俺ばかり立っているのも首が疲れるだろう、と、了承を貰って俺は神奈子様の隣に座った。

「権兵衛、私はこんなに近くに居ながらも、どうやら早苗の事を全然分かっていなかったみたい」

 笑みは、自嘲的だった。
そんな事は、と反射的に言いそうになってしまうが、実際、東風谷さんが孤独を感じていたのは事実であったようなので、何も言い返せない。

「礼を言うよ、権兵衛。
あの子の事を分かってやってくれて、本当にありがとう」
「そんな、俺だって、東風谷さんから打ち明けてくれなければ、どうしようも無かったのに」

 と言うと、くすりと微笑み、神奈子様は軽く肘を俺の腹にぶつける。
唐突であったので、思わず軽くむせこみ、腹を折る俺。

「よせやい、こういう時の礼は素直に受け取っておくもんだよ」
「げ、げほっ、は、はい」

 と、何とか返す俺の背を、神奈子さまはぽんぽんと叩く。
多分軽くやっているつもりなのだろうけれど、俺が貧弱なのと、咳き込んだ直後なので、少し痛かった。
もしかしたら、東風谷さんを取られてしまったかのような感覚があり、その嫉妬が詰まっているのかもしれない。
だとしたら。
だとしたら、本当に良かった、と俺は思う。
何せ東風谷さんには俺が居る、と言ってやれはしたものの、居るのは所詮俺である、一人では少し心許なかった。
安堵の笑みを見せる俺に、神奈子様は笑みを顔から消し、満月に眼をやる。
暫しじっと月を眺めていたかと思うと、不意に俺へ視線を戻し、神奈子様は口を開いた。

「権兵衛、お願いがあるんだけど、聞いてはくれないか?」
「はい、何でしょうか?」

 と聞き返すと、神奈子様は僅かに迷った後、粛々と告げた。

「明日の朝一番に此処を出ていって、もう二度と此処に来ないでもらえるかい?」




あとがき
早苗さんの設定については半オリですが、一応風神録のtxtを参照して考えました。
暗い設定なので賛否両論あると思いますが。



[21873] 守矢神社3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/06/21 19:59


 夜明けの日が昇る。
咄嗟に目を閉じるけれど、朝焼けは夕焼けと違ってその境は曖昧模糊とした物ではなくハッキリとしていて、だからその光は攻撃的に俺の瞼の裏まで届いた。
瞼が赤い輝きで満ちる。
朝も朝、早朝どころか夜明けであるこの時刻、空気は無数の針となって肌を刺すように冷たい。
瞼を開いた。
朝焼けの光は、まるで希望に満ちているかのようにきらきらと輝きながら、神社を照らしていた。
胸を張って、小さく、息を吸う。
朝の冷たい空気で肺を満たし、神社の出入口、鳥居の真下に立っていた俺は、踵を返し、それから上半身だけ振り返って、もう一度神社を眺めた。
矢張り厳かな神社が朝焼けに照らされている光景は、とても荘厳で、白いひんやりとした霧でも出てきそうに思える。
それでもそこには神奈子様が居て、諏訪子様が居て、東風谷さんが居るのだ。
そう思うと、僅かに親しみが増し、俺は僅かばかり此処に留まっていたい気持ちになる。
目の上に掌をやりつばを作って太陽の方に眼をやると、まだ日は昇ってすぐのようだった。
神奈子様は朝一番に、と言ったが、厳密には、住人が起きだす前に、と言う事である。
ならほんの少し、回想を行うだけの間は此処に居てもいいだろうか、と内心の甘えを許し、俺は少しばかりの回想にふける事にした。

 昨日、と言うか、時刻的には既に今日となっていた頃。
俺は夜中、神気の誘いによって、神奈子様に誘い出され、話をした。
東風谷さんの支えとなった事への礼から始まり、神奈子様の話はすぐに俺の事へと移っていった。

「明日の朝一番に此処を出ていって、もう二度と此処に来ないでもらえるかい?」

 と、神奈子様は言った。
俺は流石に驚き、そして同時に簡単に承諾できる事では無い、と思った。
何故なら俺は、東風谷さんに一緒に居ると約束したばかりなのである。
勿論、物理的には互いの都合もあるだろうと思い、枕詞に“心は”とつけたが、それでもたまには会いに行きたい物だ。
よって俺は、すぐに口を開いて詳細を聞いた。

「その、一体どういう事か、聞かせてはもらえないでしょうか?」
「あぁ、すまない、ちょっといきなりだったね」

 言いつつ、神奈子様は意見を変える様子は無いようであった。
お猪口を揺らし、酒の水面を揺らしつつ、神奈子様は続ける。

「権兵衛、あんた自分の能力には気づいているかい?」
「え? はい、“月の魔法を使う程度の能力”の事でしょうか?」
「いや、そっちじゃない、“名前が亡い程度の能力”の方さ」

 と、言われて俺は目を点にしてしまった。
確かに、俺は自分の名前が無いのではなく亡い、全く既存の状態を外れた状態にある事を理解していた。
だが、しかし。

「えっと、気づいてはいましたが、能力と名を冠する程の物なのだとは思っていませんでした」
「ん、確かに、神とでも出会わなければ、地味で気づきにくい能力だからね」

 言いつつ、神奈子様はこくりと一口、酒で口を湿らせてから言う。

「あんたは分かっているみたいだけど、改めて説明するよ?
物には、三つの状態がある。
名前が付く前と、後と、忘れられた状態。
権兵衛、あんたの名前はその三つの状態のどれでもない状態にあるのさ」
「それは、そうですけれど……。
それって、何かの効用があるような状態なのですか?」
「あぁ、ある」

 一旦区切り、神奈子様は俺の目を見つめる。
何故か、哀れみの色が垣間見えたような気がした。

「まず一つ、あんたは名前がどれでもない状態にある。
それ故にあらゆる名前と、あんたは当距離に居るの。
そこで誰かが見たい面影を思うと、権兵衛、あんたは少しだけその面影の持つ名前に近づく事になる。
そうすると、他の名前が当距離に離れている中一つだけその面影が近づく事になるから、その誰かはあんたに見たい面影を見る事ができるのさ。
これが、私が最初にあんたの能力に気づいた理由ね」

 と、神奈子様。
確かに、思い当たるふしが無いと言えば嘘になる。
と言うか、思い当たるふしがあり過ぎだった。
幽々子さんに妖夢さんにレミリアさんに、他にも思い当たる事はいくつかある。
ふと、俺は少し前にした妄想の事を思い出した。
俺には、もしかして人の心を操るような、忌まわしい力があるのでは無かろうか、なんて妄想。
ぞ、と思わず寒気を感じ、俺は自身を抱きしめた。

「あぁ、大丈夫、この効力自体は見る限り、そう強いもんじゃあない。
何か強い感情を抱く切欠ぐらいには成り得るけれど、それ以上の物じゃあないよ。
大事なのは、もう一つの効力」

 と言われ、思わず俺は安堵の溜息をついてから、オウム返しに言う。

「もう一つの、効力?」
「……神って言うのは、元々どんな存在だったか分かるかい?」

 が、返ってきたのは遠回りな言葉であった。
俺は、首を横に振る事で答える。

「神は元々、名無しの存在だった。
様々な物すべてが混ざった混沌の世界で、神はこの世の物一つ一つに名を付けてまわった。
これが神の力、創造の力さ。
そして神は、自らに名前をつける事で、その一側面を切り取り、性質を変化させる事ができる。
逆にまだ名前のついていない曖昧模糊な神は、名前がつく前の物にしか宿る事ができない。
つまり、どういう事か分かるかい?
妖怪が精神の生き物であるように。
神は、名前の生き物なんだ。
名前に関する事に大きく力や存在を左右される。
信仰が神の力を大きく変えるのも、名前に関する認識がものをいっているのよ」
「はぁ……成程」

 神職では無い俺にとっては、初耳な事ばかりであった。
耳新しい事を聞くのは心地良いが、しかしはて、これが俺の“名前が亡い程度の能力”にどう関係あるのだろうか?
小さく首を傾げる俺に、慌てるな、と言わんばかりに、神奈子様は苦笑気味に続ける。

「つまり、ね。 名前が亡い……名前と言う状態から離れているあんたは、神にとって天敵なのよ」
「………………」

 思わず、絶句した。
神の、天敵。
あまりに規模が大きすぎる話に、頭がついていかない。

「そうね、亡霊に対する蓬莱人に似た関係かしら。
神は名前に関する事によってその膨大な力を得るけれども、名前が亡いあんたには、神の力が及ばない。
身近な所で言えば、発酵なんかがそうかしら?
発酵の力は神の力、それが及ばない、なんて事に心当たりは無い?」
「そう、言えば。
家では何故か漬け物ができにくくて、食べ物が腐りにくかったような、気が……。
酒も発酵物ですか? 一応」

 思い出す。
そう、俺の自宅では漬け物ができた試しが無い。
代わりに野菜が腐りにくくて、そのお陰で俺は夏を乗り切ったのだ。
そして俺は、発酵物である酒を殆ど無限に飲める。

「でも、まさか、俺にそんな大それた力が……?」

 思わず、手を覗き込んでしまう。
神、つまり幻想郷で最も強い部類の存在の、天敵。
そう言ってしまうとあまりに大きい存在である。
俺は今まで自分を惨めな程卑小な存在だと思っていたからか、そのギャップの大きさに目眩すらした。
倒れそうになるのを根性で抑え、とりあえず“名前が亡い程度の能力”については後で考える事にして、口を開く。

「その、天敵と言いますけれど、俺は具体的に何か、神奈子様や諏訪子様に不利益を与えてしまうのでしょうか?」
「ああ」

 重々しく頭を振る神奈子様に、がん、と頭に殴られたかのような衝撃が走った。
動揺に震える俺を尻目に、神奈子様が続ける。

「あんたの近くは、まるで名前の真空のような状態なんだ。
あんたは名付ける事によって存在する力を、無限に吸いとってゆく。
そして何時かは……、その力を吸い尽くし、この世から消し去ってしまう」
「それ、は、つまり……」

 震える唇で辛うじて言う俺に、神奈子様が返した。

「簡単に言えば、あんたと一緒に居ると、私も諏訪子も消えてしまう。
そして早苗も、神としての力を無くしてしまう」

 深く、息を吐く。
自然と俺は俯き、このまま倒れてしまいそうなぐらいに脱力した。
久しく、絶望的な気分だった。
加えて慣れないような絶望でもある。
自分の余りの卑小さに絶望を味わってきたものの、自分の余りの強大さに絶望するとは、初めての経験であった。
項垂れる俺に、神奈子様が、気遣わしげな声で続ける。

「……その。
分かっているとは思うけれど、そんな事は私も諏訪子も嫌だし、早苗の為にもならない。
早苗が折角得た理解者を離したくは無いけれど、だからと言ってそれで私達が消えてしまうんじゃあ、あの子が報われないよ。
ううん、それだけじゃない、もしかしたら私達が消えた原因を、自分の我儘の所為だなんて思うかもしれない。
ただでさえ、両親を自分の手で殺したと思っているあの子に、それ以上の重荷を背負わせられないよ……」
「……はい」

 分かりきっている事だった。
それでも、東風谷さんとした約束を破る事になると考えると、胸が引き裂けそうな痛みが走る。
俺如きとは言え、今まで誰も理解者の居なかった東風谷さんの、初めての理解者なのである。
それが離れるとは、一体東風谷さんをどれほど悲しませる事になるだろうか。
思い出す。
まるで自らの血を掻きだすような様子で、懺悔するように己の罪を告白した東風谷さん。
俺を殺す事でしか迫り来る現実から逃れられず、しかしそれすらも成し遂げられずに全てに絶望した東風谷さん。
それらを一度救い、裏切るような形になるのである。
その悲しみは、当然今まで以上となるだろう。
想像だにできない程の、苦痛に。

 俺は、全身から活力を集め、どうにか体を持ち上げた。
揺れる頭で、どうにか神奈子様の目へと視線をやる。
真摯な瞳であった。
たかが俺相手だと言うのに、こうまで真摯な瞳で向きあってくれると言う事から、俺は神奈子様が諏訪子様と違い、東風谷さんを気にかけてくれるのでは、と想像する。
ただ、あまりの事実に、言葉に力は入らなかった。

「分かり、ました……」

 言ってから、俺が東風谷さんの事をお願いする立場にあるのだ、と気づき、大きく息を吸い込んだ。
胸を張る。
背筋を伸ばし、残る力を振り絞って、口を開いた。

「明日の朝一晩に此処を出ていって、二度と此処には近づかない事にします」
「あぁ、お願いするよ」

 と言ってから、神奈子様は最後に付け加えるように言った。

「所で、結果がどうなるか、気になるだろう?
落ち着いたら、私の方からあんたへと報告に行くよ。
なぁに、多少力が削げても、神社に戻る事ができれば、何とかなるさ。
時間が経ったら、そのうち早苗達もあんたの家に行かせる事ができるかもしれない。
だからさ、そんなにクヨクヨするなって」

 そして現在。
瞼の裏から、朝日の光が差しているのが分かる。
回想を終えて、俺は神社の鳥居の前で立っていた。
これから俺は、神社を去る事になるのだろう。
東風谷さんとはしばらく出会えないし、報告に来ると言う神奈子様も、すぐには来れないだろう。
だが、希望はまだあるのだ。
たまにしか会えなくなるだろうとは言え、東風谷さんを支え続ける事はできるのだ。
そう思うと、胸が幾分晴れやかになり、気が休まる。

 さて、そろそろ出ないと、誰かが起きだしてくる所だろう。
そうなれば面倒な事になるのは眼に見えているし、そうならない為にわざわざ俺は徹夜までしたのである。
それが無駄にならないように、俺は一歩、神社の外へと踏み出す事にする。

「………………」

 俺は、無言で一度、神社の方を振り返った。
だがそれだけにして、黙々と参道を歩いてゆき、妖怪の山を降りてゆく。
直接歩いて降りてゆくのは、下手に空を飛んで魔力を使えば、住人を起こしかねない、と言う配慮からであった。



 ***



 八坂神奈子は、一歩離れた所から権兵衛と諏訪子、早苗との関係を見ていた。
諏訪子は、明らかに権兵衛の能力に囚われていた。
神奈子の思い出せる限り、権兵衛と諏訪子の夫とはある程度の類似点はあるものの、どちらかと言えば似ていると言う程度に過ぎない。
だのに権兵衛の事を夫などと言うのは、恐らく主に二つの理由からである。
単純に権兵衛が好ましい人物であると言う事と。
権兵衛の“名前の亡い程度の能力”で権兵衛に亡き夫の面影を見た事。
どちらか一つならば良かったのだろうが、両方が重なってしまった今、諏訪子の愛情は狂的な物となっていた。
諏訪子の夫への愛情が深かった故に、自分が誰かを愛している事と相手が夫である事を等号で結んでしまった事もあるのだろう。
もしかしたら、早苗と同じように神奈子の気づかない所で、諏訪子は亡くした夫の事で心を病んでいたのかもしれない。
兎に角、それらの影響で生まれた諏訪子の愛情は、控えめに言っても一方的であった。
権兵衛の感情などお構いなしと言わんばかりに詰め寄り、権兵衛が自分を愛しているのが当然だと疑ってかからず、前提条件とすら考えている。

 早苗もまた、権兵衛に対する感情は正常とは言い難いよう神奈子には思えた。
早苗の告白は、少し唐突過ぎたし、罪を告白するにしても、出会って数刻の人間にあそこまでするのは少しおかしい。
恐らくは、彼女もまた権兵衛の能力に囚われていたのだろう、と神奈子は考える。
早苗は無意識に求めていた自分の理解者と言う像を、権兵衛に投影していたのだろう、と。
また、早苗にとって、権兵衛は現在自分の事を最も理解してくれている相手である。
そして早苗は孤独で居る事を恐れており、また、他者に依存的に育ってしまっていた。
となれば、これから早苗が権兵衛に対し、これまで神奈子と諏訪子へしていた以上に依存する事は、眼に見えている。

 確かに、と神奈子は思う。
確かに権兵衛は、優しい。
神奈子の長い生涯ですら見たことのないぐらいの優しさを持っており、その優しさをすれば、二人の愛情をも受け止められるだろう、と神奈子は予測する。
何せ、あの権兵衛なのである。
通常なら狂的な愛情と依存を抱えきれず、血を見る展開に成り得るだろうが、権兵衛なら何とかできるかもしれない。
できるかもしれないが。
権兵衛は、二人分の人生の全ての責任を、その小さく若い身に背負う事になるのだ。
恐らく権兵衛は、それすらもやり遂げるだろう。
そんな二人の責任を背負って、それでいながら辛そうな顔一つせず、誰かが幸せになって良かった、と、そう言ってのけるのだろう。

 だが、神奈子にはそれが辛かった。
見ていられないのだ。
ただの少し変わった人間にしか過ぎない権兵衛が、何千年と生きた祟り神や、現人神であり巫女でもある奇跡を起こす少女の全責任を背負って進む姿は、あまりにも哀れだった。
それを恐らく一切辛いなどとは漏らさないだろうという予測が、更にその姿を哀れに思わせる。
無論、権兵衛がそれを辛く思わない以上、それに手を出す事は単なる神奈子の自己満足になる、それは出来ない。
そんな事をした所で、権兵衛は困ったような顔で、大丈夫ですよ、と言って神奈子に心配させないよう、努めて笑顔を作るだけなのだから。

 よって権兵衛の能力が神の天敵であると言うのは、神奈子にとって僥倖であった。
勿論早苗が心配なのも確かだが、それよりもむしろ神奈子は、権兵衛が二人から離れる事の出来る口実ができる事に安堵していた。
これで、権兵衛が二人に依存され、その大きな責任を背負う事が無くなる。
そう思うと、神奈子は胸が暖かくなるのを抑えられなかった。

「まぁ、権兵衛には、幸せになって欲しいからねぇ……」

 独りごちて、神奈子は細めた目で、数時間前に権兵衛が通り過ぎた鳥居を見据える。
鳥居の前に直立したままでいるのは、万が一諏訪子や早苗が権兵衛を追うことのないよう、監視する為であった。

「権兵衛、かぁ……」

 不思議な男だったな、と神奈子は思う。
兎に角優しい男であった。
どれほど優しいかと言うと、千の言葉を尽くしても語りきれぬ程に優しく、そして万の言葉を尽くしても語りきれぬほどに懐の深い男だった。
あらゆる物を受け入れ、そして許せる男であった。
神奈子も長い事生きているが、人妖神仏仙人天人、あらゆる存在の中でも突出して権兵衛は優しかった。

 自分も、と。
自分も権兵衛に許されるような罪があったら、どうなっていたのだろう、と不意に神奈子は思った。
矢張り早苗のように依存的な感情を抱いていたのだろうか。
それとも、諏訪子のように一方的な愛情を抱く事になっていたのだろうか。
どちらも少しだけ羨ましいような気がしたが、神奈子は頭を振ってその考えを追い出した。
何せ、今はこの守矢神社で、神奈子だけが真の意味で権兵衛の味方なのである。
その上、恐らく権兵衛自身意識しての事では無いだろうが、愛の言葉を吐いてもらったのだ。
それで十分ではないか。
そう結論付けた頃、凄まじい神気が神社の中で爆発した。
諏訪子が起き、権兵衛の気配が無い事に気づいたのだろう。
同時、早苗が何事かと飛び起き、同じように権兵衛の不在に気づく。
そして直後、二人は何故か鳥居の前に立つ神奈子の存在に気づいた。
ドタドタと走りまわる音がし、諏訪子と早苗が表に出てくる。

「神奈子、権兵衛が何処に行ったか知らない!?」
「神奈子様、権兵衛さんが何処に行ったか知りませんか!?」

 殆ど同時に言うと、二人は鼻白んだかのようにお互いを見つめ合う。
諏訪子は昨日あれほど権兵衛を嫌っている様子だった早苗が権兵衛を探している様子に驚き。
早苗は、諏訪子が慌てる程に権兵衛の事を探している様子に驚いているのだろう。
しかしそれも数秒、再び神奈子へと二対の視線が降り注いだ。
溜息一つ。
神奈子は、辺り構わず振舞う二人に、目をひそめる。
こんな自己中心的な二人に、権兵衛に優しくされる資格があるのか。
それならば、自分の方がよっぽど……。
頭を過る考えを頭を振って追い出し、神奈子は口を開く。

「権兵衛は今朝一番に、自分の意思で此処を出ていって、もう戻ってくる事は無いよ」

 それに諏訪子は無言で身じろぎ一つせず、早苗は目を見開き震える事で答えた。
先に、早苗が口を開く。

「そ、そんな……、う、嘘です、権兵衛さんがそんな事する、理由がっ!」
「あるんだよね、これが」

 と言って、神奈子は権兵衛の能力について話した。
“名前が亡い程度の能力”。
神の天敵たる能力。
昨夜早苗と権兵衛の話を盗み聞きしてしまった事、それによって権兵衛が早苗を思い、此処を出るようにした事。

 それを聞いた早苗は、崩れ落ち、顔を両手で覆った。
全身を大きく震わせながら、ひゅうひゅうと呼吸をする。
信じられないけれど理解できてしまう、と言った様相であった。
それでも最後の抵抗とばかりに、面を上げ、叫ぶ。

「そ、それでもっ! 私一人なら、権兵衛さんの能力でも人間に戻ってしまうだけですっ!
そりゃあ、私は役立たずになってしまいますけど……。
それでも、お側に居させてもらう事すらもできないのですか!?」

 その言葉のあまりの身勝手さに、神奈子は顔を顰めた。

「それが、本当に権兵衛の為になると思うのかい?
神の力を奪ってしまったと言う咎を負わせ、何の力も無くなった小娘を養わなければならないようになる事が、本当に権兵衛の為なのかい!?」

 それを聞くと、己の自分勝手さを理解したのだろう、早苗は目を見開き、ひゅう、と大きく息を吸った。
それからだらんと腕を垂らし、尻をついて、天を仰いで脱力、放心する。
それを見て、神奈子は内心黒い喜びが湧くのを抑えきれなかった。
確かに私には何の問題も無いけれど、だからって問題のある子が気にされるのは、ずるい。
そんな感情が、神奈子の心の底には渦巻いていたのだ。

 それから、神奈子は諏訪子の方へと視線をやる。
全くの無表情で居る諏訪子は異様な威圧感を醸し出していた。
昨夜はそれに押されて思わず退いてしまった神奈子だが、今度は覚悟が違う、耐えしのいでみせる。
その様子を見ていた諏訪子は、へぇ、と小さく呟き、それから口を開いた。

「神奈子。 あのね、権兵衛はね、私の夫なの。
だから早苗の事より私の事を優先するのは、当然の事じゃない」
「あんたが権兵衛の伴侶だと言うのを百歩譲って認めるとして、だ。
あんたは伴侶を自らの手で失わせるような事を、権兵衛に強制するのか?」
「うん!」

 諏訪子は、迷いなく答えた。
思わず、神奈子は目を見開く。

「だって、他ならぬ権兵衛の手で私は死ねるんだよ?
私も幸せだし、それなら権兵衛だって幸せに決まっている!
ううん、それだけじゃない、私達、もう一度約束できるのっ。
来世でもまたお互いを見つけ、伴侶にしましょうって。
それも今度は、一方的じゃなくて、お互いにできるのよ。
ねぇ、とってもロマンティックだと思わない?」

 そう言って見せる諏訪子の瞳は、明らかに狂気を宿していた。
どろどろとした黒い物が、ずりずりと諏訪子の瞳の上を這いずり回る。
次第に上から上から重なって層を作ってゆくそれは、ある時、突然に舌を出してきた。
黒々と輝くそれは、蛙の舌のように一瞬で伸び、鞭のようにしなりながら神奈子の首に巻きつく。
あまりの気配に、神奈子は息をする事すらもできなかった。
震える手で喉を抑えようとするが、体はまるで何かヌメヌメとした物に巻き付かれたかのような感覚がし、動かない。
恐怖のあまり、神奈子が叫びそうになった、瞬間である。

「大体さぁ」

 と、諏訪子が呟いた。
同時に幻視が消え、神奈子は軽く咳き込むが、それを無視して諏訪子は続ける。

「神奈子、あんた本当に早苗の為に権兵衛を此処から出したって言うの?」
「け、ほ、なんで、そんな事?」

 疑問詞を浮かべる神奈子に、絶対零度の視線で諏訪子は答えた。

「だってさ、それなら何で権兵衛に経過を伝えるのは神奈子だけなの?
早苗じゃないのは分かるよ?
神としての力も比較して小さいし、何より落ち込んだ早苗を直接権兵衛の元に行かせるのは論外。
でも、私が入っていない理由は何?
神は権兵衛に近づくと力を無くしていくから?
それならなんで交代制を考えなかったの?
ううん、そもそもそんな深刻な事情があるなら、他の人妖を伝い手に、手紙でも送ればいい。
里の人間は駄目だけど、その程度の依頼を聞いてくれる人妖ならいくらでも居るでしょう?
ねぇ、私の言う事、何か間違っている?」

 がつん、と頭を殴られたような衝撃に、神奈子はよろめいた。
確かに、諏訪子の言う事は理論的で筋が通っていた。
何故思いつかなかったのだろう、と思うと同時、神奈子の背筋に悪寒が生まれる。

「やめろ」

 と、小さく神奈子は呟いた。
それを無視して、諏訪子は続ける。

「理由は簡単。
そうなればあんたが、唯一権兵衛の味方になれるから。
あんたが、権兵衛と二人きりの関係になれるから。
早苗の事なんて本当はどうでもいい、権兵衛の事だけ」
「やめろ……」

 頭を振りつつ、神奈子は否定の言葉を重ねた。
だってこのままでは、神奈子は諏訪子や早苗と同じく、権兵衛を自己中心的に接する事しか出来ていない事になる。
そうなれば、権兵衛にとって、神奈子は特別な相手ではなくなるのだ。
それは、嫌だった。
何故だか神奈子に理由は分からなかったが、兎に角嫌だった。
目眩が止まらず、神奈子はふらふらと諏訪子へ近づいてゆく。
そんな神奈子相手に、諏訪子は酷薄な笑みを浮かべて、断罪の言葉を告げた。

「あんたが、権兵衛の事が、好きだから」
「やめろっ!」

 絶叫と共に、神奈子は神力の篭った弾幕を放った。
明らかに神相手でも殺傷力のあるそれは、光の尾を退いて超速度で諏訪子へと突き進み、炸裂する。
極光。
爆音。
同時に生まれる砂塵が、諏訪子の姿を覆い隠す。
しかし暫くの間が経過すると、風が煙を払い、中の諏訪子が鉄輪で弾幕を弾いた姿勢のままでいるのが見えた。
殺気を顕に、憎悪の笑みを諏訪子は浮かべる。

「やっと本性を出したわね、この泥棒猫がっ!
私の権兵衛を奪い取ろうなんて、絶対に許さないよっ!」
「違う……、違うんだ、私は、お前たちと同類なんかじゃないっ!
わ、私は、もっと権兵衛に、真摯な感情を持っているんだっ!」

 対する神奈子もまた、憎悪を顕にし、般若のような顔で吐き散らした。
ぷっ、と思わず吹き出してしまいながら、諏訪子は答える。

「真摯? 騙して、自分だけの物にしようって言う事の、何処が?
そんな蛆虫のような感情ごとき、私の真摯な愛に敵う筈がないと知れっ!」
「黙れ……、黙れ、黙れぇっ!」

 再び絶叫と共に神奈子は弾幕を放ち、今度は諏訪子もまた応じて弾幕を放った。
すぐに両者は空中へと飛び上がり、舞台は守矢神社の空中へ。
神と神の殺意が篭った戦いが、始まった。



 ***



 守矢神社は、局地的な豪雨に見舞われていた。
そんな中、雷と思わしき轟音が頻繁に響き、様々な色の光が縦横に走る。
蛍光色の弾幕が尾を引き、黒雲の中を走ってゆくその姿を見て、早苗は何だか現代に居た頃のネオンに似ているな、と思った。
弾幕は最早あまりの速度に、早苗の目をして線分としてしか捉えられなかった。
発生源である二柱の神もまた、上空に位置している上に高速で移動しており、更に背景が暗い雲となると、早苗には何処に居るのか分からなかった。
いっそ二人が居ると分からなければ良かったのに、と早苗は思う。
そうだとすれば、早苗は何もかもを忘れていられたかもしれなかったのに。
なのに上空からは、醜い罵り合いの声が聞こえてくる。

「何時から権兵衛に色目を使っていたの、私が出会う以前に盗み食いでもしようとしてたの?
それとも昨日一晩で、その軽い尻を振って近づくような出来事でもあった!?」
「黙れっ、一度負けたあんた如きが私の思い出を汚すなっ!
大体、時間を言うならあんたは殆ど一目惚れだっただろうがっ!」
「はぁ? 私の愛は、千年以上続く永遠の愛だろうがっ!」

 会話はどちらも一方的な物だった。
諏訪子は勿論、神奈子もまた諏訪子の神奈子評を否定するでもなく、ただ諏訪子の言葉を否定するだけ。
その必死さは、早苗が知る限り、早苗に一度も向けられた事が無い程の物で。
だから同時に、早苗は実感する。

 私は、お二人に捨てられてしまったのだ。

 昨夜の諏訪子と神奈子の様子から何となく感づいていた物の、実際に起こって感じる物は予想以上だった。
全身を虚脱感が襲い、早苗は最早倒れてしまいたかったが、尻をついた姿勢から重心を動かすのも億劫で、それもできない。
雨を相手に口を閉じるのも面倒で、時たま溜まってきた雨水に早苗は咳き込み、雨水を吐き出している。
昨夜以上に絶望的な感覚だった。
権兵衛を奪われるかもしれないと言う危機感より、実際に目の前でどうでもよく扱われたり、体の良いダシとして扱われたり、そうなる方がずっと応えた。
何より。
何よりも。
早苗の権兵衛は、早苗から引き離されてしまったのだ。

 権兵衛と二度と出会えないかもしれない。
そう思うだけで目の前が真っ暗になると言うのに、神奈子はそれを本当に仕出かしてくれたのだ。
本当は早苗は、権兵衛を神として仰ぎ、その巫女となる筈だったのに。
丁寧に、その道すらも奪って。
それも道理の通った、反論しようのない言葉でもって、である。

 早苗には、最早自分独りしか存在しなかった。
昨夜権兵衛に膝枕され、自分が独りでなくなった事を実感した直後だからこそ、余計にその辛さが分かる。
昨夜感じた幸福感全てが、絶望に置き換わったような感覚であった。
権兵衛のくれた幸福が、埒外の大きさであったからこそ。
それを失った絶望も、また大きく。

「………………ぁ」

 現実感を伴い、ようやくやってきた本物の絶望に、早苗は思わず声を上げた。
口に溜まっている雨水がぼこりと泡立ち、それを飲み込みそうになって、早苗はそれを口の外に吐き出す。
勢い悪く閉じた唇からあふれた雨水は、早苗の口の両端から零れ、喉を伝い、朝飛び出た時にそのままだった寝間着へとたどり着く。
先ほどからずっと雨に晒されていた寝間着は、雨が染みこみ、鉛のように重かった。
そんな風に早苗が絶望している間も、二柱の神の罵詈雑言は早苗の耳に入る。
聞き慣れた声だからか、雨音にも掻き消されなかった。

「ははっ、その分じゃあ、権兵衛が“名前が亡い程度の能力”で神を消してしまうかもしれないっていうのも、怪しいね。
あんたが私や早苗を遠ざける為の、嘘なんじゃあないの?」
「馬鹿を言え、お前は本気であの能力に気づいていないのか!?
権兵衛に会っている間、私の神力はどんどんと減っていったんだぞ!?」
「こちとら祟り神の束ね役、同じ山の神でも風雨が専門のあんたより、神力の減りは少なくってねぇっ!」

 なんて醜い、と自分を蚊帳の外に置き、早苗は思う。
罵声を叫び、権兵衛の所有権を争う姿は、とてもじゃあないが、あの優しい権兵衛に相応しい女には見えなかった。
醜悪である。
低俗である。
愚劣である。
あの高潔で、後光が差しているとしか思えない程神聖な権兵衛と隣に並べるなど、考えられなかった。

 そんな風に思っているうちに、早苗はふと今の二人のやり取りを思い返す。
単に諏訪子が神奈子を煽っただけの話であるが、しかし、しかしである。
本当に権兵衛は“名前が亡い程度の能力”を持っているのだろうか?
万が一持っていたとして、それは神の天敵と言うまでの能力なのだろうか?
生まれた疑問は、先ほどまで正しいと信じられるだけの理屈があった物を、強引に組み替える。
すると次々に早苗の中で思い浮かぶ考えがあった。
あれは、権兵衛を体よく諏訪子と早苗から離したいがためについた嘘なのではないだろうか?
優しすぎる権兵衛は、神奈子の汚らわしい嘘に騙されているのではないだろうか?
もしそれなら。
もしそれなら、仕える神たる権兵衛の目を覚まさせるのが、巫女としての役割なのではなかろうか?
“名前が亡い程度の能力”が神奈子にとっても都合が悪い話で、嘘を付くならもっとまともな嘘があったと言う事実を恣意的に無視し、早苗の中で次々に誤った論理のピースが積み上がってゆく。

「救わなくちゃ……」

 カチリ、と最後のピースがはまった音が脳内でし、早苗はぼそりと、出た結論を呟いた。
雷に撃たれたかのような感覚であった。
視界が霧が晴れたかのようにスッキリとする。
試しに早苗は立ち上がろうとしてみるが、先ほど絶望のあまり動かなかった体は、いとも容易く動いた。

「権兵衛さんを……ううん、権兵衛様を、救わなきゃ……」

 呟き、早苗はこれから自分の身に待ち受ける、壮大な試練に戦慄した。
雨の中、殺し合いを続ける二柱の神を見据える。
あの二人は、早苗にとって最早信仰と依存の対象ではない。
あれは。
あれは、敵なのだ。
権兵衛を惑わす、敵なのだ。
確信に満ちた考えが、早苗の脳裏を走った。

 最早早苗の目には、かつて慕っていた二柱の神など見えていなかった。
神奈子も諏訪子も、ただの敵としか認識できない二つの存在としか見えない。
すぐに敵を排除しようとするが、敵は早苗より遙か格上にある、正面から向かっても返り討ちだろう。
そう思い、早苗は空を観察した。
活力が戻ってきたのがいいのか、二人が消耗してきたからなのか、早苗の動体視力は二人の姿を捉え始める。
意外だが、神奈子の方が押されていた。
狂気迸る諏訪子の精神力が優っているのか、二人の服の傷跡は神奈子の方が多い。
と言っても地力は神奈子の方が上である、これで諏訪子に手を貸すのは早計と言わざるをえないだろう。
そう考え、早苗は二柱の神が互いに消耗しあい、自分の力でも排除できる時を待つ事にする。

「ふふふ……終わったら、権兵衛様に、褒めてもらうんだ……」

 そう呟き、早苗は頬を染めて自らを抱きしめた。
そして自分が寝間着のままである事に気づき、巫女服に着替えねば、と思いつく。
自分の部屋までスキップで帰り、早苗は濡れた寝間着を脱ぎ始める。
シャツのボタンを一つづつ外し、肩から下ろすと、重くなった寝間着は重力に従い畳に落ちた。
同様にズボンも脱ぐが、こちらは早苗の肌に張り付き、引っ張らないと脱げなかった。
下着もじっとりと湿っていて、気持ちが悪いので脱ぐ。
どうせすぐ濡れるのだが、気分である。
全裸になった早苗は、タオルで全身を手早く拭くと、姿見の前に立った。
濡れた緑の髪が張り付いている、全裸の少女の姿が鏡に写る。

「ふふふ……どんなご褒美、もらえるかな……」

 早苗は、右手を持ち上げ、人差し指に口づけた。
それから右手を下ろしてゆき、軌道上にある乳房の上で手を止める。
早苗は、軽く自らの乳房を揉んだ。
力に応じて乳房が凹む感触に、早苗は思わず頬を染める。
古来より、巫女は神の嫁でもあった。
そうなれば早苗もまた権兵衛の巫女になる事で権兵衛に嫁入りしたと言う事になる。
今夜私は、と早苗は思った。
今夜私は、権兵衛様と初夜を迎える事になるのだ。
厳密に言う初夜は昨夜過ぎてしまったが、権兵衛に対し宣言した日の夜であるのだから、初夜でいいだろう。
初夜と言えば、初めての夫婦の営みである。
自分が権兵衛に組み敷かれる所を想像し、早苗は僅かに息を荒らげた。
権兵衛の胸板は厚かっただろうか。
腕は逞しかっただろうか。
早苗は自分の知らない権兵衛を、一夜にして全て刻み込まれる自分を想像する。
夢のような光景に、電撃に撃たれたように早苗は震えた。
全身の肌が火照り、体を痺れるような快感が襲い、思わず股を摺りあわせてしまう。

 股間に手をやろうとした早苗を、巨大な弾幕がぶつかり合う轟音が引き戻した。
はっと気づき、このままでは勝った方の神が権兵衛の方に向かってしまうかもしれないと思う。
それが神奈子であれば、理性的に諏訪子の死を隠蔽するかもしれないが、諏訪子が勝者であるとすれば、それは望めまい。
手早く巫女服に着替え、何時もの格好になってから、少し考え、早苗は蛇と蛙の髪飾りを取り外し、床に投げ捨てた。
それから外に向かうと、丁度二柱の神とも消耗している所で、今出ていっても十分早苗に勝機がある所だ。
距離があるので、あまり放っておくと、一気に勝負がついた上に権兵衛の方へ向かわれてしまうかもしれない。
その危惧の為、早苗は今ここで二柱の争いに介入する事を決意する。

「待っててください、権兵衛様っ!
今、お救いしますからねっ!」

 叫び、早苗は地を蹴った。
そして殺意を全身に纏い、二柱の神の殺し合いの場へと突っ込んでゆく。
それは丁度、権兵衛の“知り合い”達が守矢神社に雪崩れ込む、一時間ほど前の事であった。




あとがき
なんか超速で出来上がりました。
神と名前の云々の所は香霖堂を参考に、発酵の力=神の力は永夜抄の永琳の発言からになります。



[21873] 人里2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 20:09


 ぽつり、と俺の鼻の頭に、雨粒が落ちた。
おや? と首をかしげて空を見上げると、暗雲が立ち込めている。
夜明けには雲ひとつない快晴だったと言うのに、どうしたのだろうと思うが、まぁ山の天気は変わりやすいと言うのだ、仕方のない事だろう。
とりあえず近くの木々で雨宿りをしつつ雨除けの結界を張り、それから歩き出す。
傘替わりの結界を雨が叩く音が激しさを増し、結界の表面を流れる雨が視界を奪った。
足元もぬかるんで危ないので、車のワイパーのように雨水をどける仕組みを結界に追加する。
辺りは暗く、更に木々が光を遮るので、参道が平に均されていても、道を見失ってしまいそうになるぐらいだ。
暫く、ざぁざぁと雨が降る中、俺は独りで山道を歩いて行くのであった。

 それにしても、憂鬱になる天気であった。
ただでさえ俺は、混乱の局地にあった。
何せ俺は今まで自分の卑小さによって誰かを傷つけてきて、その度に俺の惨めさを理解させられてきたのだ。
なのに今度は、俺がその存在の強さと言うべき部分が誰かを傷つけてしまったのだ。
名亡し人間。
神の天敵たる存在。
俺はそんな存在で、守矢神社の三柱の神、諏訪子様に神奈子様に東風谷さんを消し去ってしまう存在なのだと言う。
東風谷さんは現人神なのでその力だけだそうだが、それでも危害を加えてしまうような結果になってしまうのは同じである。
そんな事実に、俺は動揺していた。
俺が、誰かの力を損ない消し去ってしまう、と言うのは、初めての経験であった。
何せ俺なのである。
その存在の卑小さと言えば語るべくもなく、その弱さ故に様々な人を傷つけてきた男なのである。
誰かの力を損なうと言う、立場的に上に立つような事になったのは初めてだった。

 天を仰ぐ。
黒雲が俺の視界を塞ぎ、どこも一様に雲と雨粒しか見えない。
塗りつぶされたその光景が、上位者として加害者になってしまった俺を責め立てているようで、俺はすぐに視界を前に戻し、歩みを進め始める。
兎に角、俺は自分が上位者であり、主体者であると言う事に動揺していた。
だって、今まで俺は対等か下の立場でばかり人と接してきたのである、それなのに今回は違って、だから動揺していて当たり前で。
――本当にそうか? と、心の中で小さく疑問が浮かんだ。
思わず、寒気に体を震わせる。
冬の雨に体を冷やしたのか、それとも内心の疑問が心に深く突き刺さったからなのか、分からない。
深く考えてみる事にする。

 まず前提として、俺は卑小で、惨めで、悪因である。
であるからして、俺に当たり前などと言う語句は許されず、全て俺が悪であると言う帰結に繋がらねばならない。
すると、俺の動揺は何らかの悪因による物であると考えられる。
それから考えてみると、ふと、俺は今最も心配すべきであるのは、俺の動揺では無い事に気づいた。
今俺が最も心配すべきなのは、東風谷さんなのだ。
今までずっと独りで、やっと理解者を得られたと思ったら、それを失ってしまった東風谷さんの事なのだ。
なのに俺は、それよりも自分が誰かを傷つける力を持っていた事に動揺している。
それは何というか、そう、卑怯だった。
心配すべき誰かの事よりも、自分が誰かを傷つけはしないかと言う事を思うのは、卑怯である。
だって誰かを傷つけはしないかと言う事は、既に解決した事例なのである。
対象が神だけと決まっているので、これから神を名乗る存在に接触しないよう気をつければそれで済む話なのである。
対し東風谷さんは、これから人伝いに助ける事ができるかもしれない相手なのだ。
それで自分の力をより恐れると言うのは、過剰な考えなように俺には思える。
そう、まるで、俺が加害者となる事を厭い過ぎているかのような。

 頭を降る。
天気の所為か、ネガティブな考えばかり頭に思い浮かぶようだった。
いや、天気の所為などではない、それはただ俺の自虐性から目を背けているのではないか。
そう思うと、俺は更に自虐を深くしそうになる。
こんな風に何かに悩んだ時、俺は数少ない霊夢さんとの会話を思い出すようにしている。
何故なら彼女の言葉は何時も正鵠を射ており、何らかの意味があったからだ。

「自虐も事が過ぎると、毒よ」

 と、何時か霊夢さんは言った。
どんな情景だったかまでは思い出せないが、続く言葉は思い出せる。

「何故ならそれは、自虐を過剰にしていると、そのうち自分を十分に虐めた気になって、それで償いを果たした気になってしまうからよ。
罪を償おうと思うなら、思いも必要だけれど、それは行動と等分にすべきだわ。
ま、私は償うべき罪なんて一つも犯した事は無いけどね」

 と言う霊夢さんは自信に満ちていて、俺はこの人なら本当に罪を犯した事が無いのではないか、とさえ思った。
とは言えそれは幻想郷のあらゆる住人の証言で、嘘だと分かっているのだが。
異変とあれば邪魔する者全てをボコボコにする霊夢さんの行動は、正しくはあっても、罪を全く含まない行動では無かろう。
勿論そんな野暮な事を言い出すつもりは無い俺は苦笑気味にそれを流した。

 しかし、至言である。
俺が俺を傷つけた所で全く世界のためにはならないのだ、そうするぐらいならば東風谷さんとどうやって繋がりを保つか考えた方が良いだろう。
里が一つしか無い幻想郷に、手紙などの郵送手段は発達していない。
となると、すぐに思い浮かぶのは空を飛べる人妖の知り合いに頼む事である。
できれば守矢神社の近くに頻繁に用事がある人が良いだろう。
とすると、俺の知り合いの中で頼めるのは文さんがまず思い浮かぶ。
と言っても、天狗社会とのしがらみで難しい事もあるだろうから、他にも候補を思い浮かべようとする。
が、俺の交友関係の中ではそう思いつかない。
例えば疎になり簡単に移動できる萃香さんだろうが、彼女は何でも妖怪の山と複雑な関係にあるらしく、行くと天狗達に迷惑がかかるのだと言う。
他には紫さんが瞬間移動のような力を持っていると聞くが、俺は彼女と然程仲良くもなく、その居場所すらも知らない。
あぁしかし、東風谷さんは度々人里に来ているのだと聞いた。
それにそもそも諏訪子様と出会ったのも人里である。
すると頻繁にとは行かないが、慧音さんを伝っても、守矢神社に手紙を届ける事はできるのではないか。
そんな風に、俺は東風谷さんを慰める方法を考えながら、ゆっくりと山を降りていった。
そうして山の下腹に着く頃には雨は止み、青空が顔を出していた。
その時俺はまだ、俺が誰かの幸せの礎となれるのではないか、と思っていたのであった。



 ***



 さて、我が家は里を挟んで妖怪の山の反対側にある。
すると徒歩である以上、俺が帰るのには里の中を歩いてゆく事は必須である。
勿論大分守矢神社から離れたので空を飛んでも良いのだが、最近は里にも買い物に来るようになっている、わざわざ避ける事も無いだろう。
そんな風に思って、俺は里の中を歩くことにしたの、だが。
視線を感じる。
それも明らかに複数の、じりじりと圧力がかかってくるような物である。
ちらりと視線を横にやると、両脇を商店街になった大通りを歩いているので、多くの人が通りかかるのが眼に入る。
その全員が、同時に目を背けた。
ばかりか店員も顔を背け、窓や扉の隙間がガタガタと閉まる音が聞こえる。
内心溜息をつきながら視線を前に戻すと、またもや俺から目をそらす人々と、戸が開く音。

 明らかに俺は注目されていた。
以前も割と視線を感じてはいたのだが、その時は常に誰かが一緒に居たからか、これほどの視線は感じ無かった。
さて、一体どういう事なのだろうか、と首を傾げる。
一番に思いつくのは、俺の前で子供達が殴り合ってしまった事である。
あれは誰にどんな原因があったのか未だに意味が分からないが、しかし子供達からすれば俺が原因だったと思い、親に告げ口したかもしれない。
それともあの現場を遠目に見ていた人が居たならば、矢張り俺を原因と思いそれを里中に広める、と言うのは自然な流れだろう。
しかしそのどちらにしても、俺に向けられる視線は、何というか、妙だった。
粘っこい、と、言えばいいのだろうか。
悪意であるには間違い無いが、なんというか、他の感情もグチャグチャにまぜこぜになったような感じなのだ。
まるで昨日の子供達の視線のような、粘着質な光。
冬だと言うのに夏の湿気のような粘ついた空気を感じ、俺は眉間に皺を寄せた。

 こんな視線を受けるぐらいなら、空を飛んで帰った方が良かったか、とも俺は思う。
何故かと言えば、単に俺が不快であると言うばかりか、こんな視線をしてしまう里人も不快であろうし、何らかの拍子でそれが爆発するような事があれば事だからだ。
と言っても、だ。
一応、俺の魔力は全快の状態である。
加えて修練も毎日積んでいるからか、俺の戦闘力は相応の物であると思われる。
というのは、比較対象が強すぎるので、実感がわかないからなのであるが……。
兎も角、今の俺には里人総出で襲い掛かられても、逃げ出すぐらいの力はある。
それも、里人を傷つける事なく、である。
それならば、空を飛ぶと言うアクションで里人を刺激してしまう方が不味いかと思い、俺は粘ついた視線を受けながら歩く事にする。

「……するのか……疫病神……」
「騙して……気持ち悪い……罠だろ……」
「……興奮……情けなくて……気分が悪い」

 ぼそぼそとそこら中から声が聞こえるのも、粘ついた空気に一役買っていた。
内容はつかめない物の、言葉の端々は拾える。
それら全てが陰鬱な言葉であるのは、俺が陰鬱な気質であるからか、それとも里がそんな雰囲気になっているのか。
内心首をかしげつつ、俺は足早に里の中を進んでいく事にする。

 ぼそぼそと言う声が、まるで俺の周りでぐるぐると回っているかのような感覚だった。
俺の知らないうちに里で何か起こったのでなければ、矢張りこの陰鬱さは俺の所為なのだろうか。
一瞬、底抜けの穴に落ちてしまったかのような浮遊感が俺を襲う。
圧倒的な絶望であった。
俺は矢張り、里と再び友好を結ぶ事など不可能なのではないか、と、弱気が全身からはい出てくる。
これまで俺が受けた膨大な恩を返すのに里との交流は必要だし、それでなくとも他者から悪意を受けるのは辛く、また他者に悪意を創発させてしまうのは輪をかけて辛い。
泣きそうになりながらも、俺はそんな俺を支えてくれる人々を思い浮かべ、せめてこんな衆人環視の場で泣き出す事の無いよう尽力する。

「きゃあぁあぁっ!?」

 そんな風に、陰鬱な帰り道。
唐突に、大きな悲鳴が複数上がった。
同時に土煙が上がり、霊力の波がざわめくのを感じる。
何事か、と視線をやると、複数の人間が、あちらこちらから血を流しながら逃げ惑っていた。
その原因に目をやると、建物を押しつぶす形で巨大な影が見えるが、その仔細な姿は土煙に紛れて見えない。

「疾っ!」

 咄嗟に俺は、魔力を使って風を吹かせ、土煙を吹き飛ばす。
現れたのは、巨大な大百足であった。
節足動物特有の連なった深い緑の腹に、そこから突き出た一対づつの白い足。
二つに分かれた尾と頭は赤く、一対二本の触覚は硬質で、鋼のような光沢の鉄色だった。
その触手の先には、一人の里人が捕まっている。

「はぐれ妖怪だぁぁっ!」

 誰かが叫ぶのを耳に、俺は連動してその名詞の意味を思い出した。
通常、幻想郷において里人に対して食人が行われる事は無い。
勝負は弾幕決闘によって行われるし、食人を必要とする妖怪には外の世界の人間が供給されているからだ。
更に里人に手を出す妖怪は、妖怪の賢者たる紫さんに制裁されるらしい。
だが、それでも知性の足りない妖怪や、幻想入りしたばかりの妖怪は、時たま食人を行う事がある。
それを、はぐれ妖怪と言うらしい。

 どくん、と心臓が脈打つのを感じた。
咄嗟に四方を魔力の目を持って見渡すが、近くに霊力持ちの人間は居ない。
俺以外に、あの妖怪を止める事の出来る人妖は居ないのだ。
しかし、だがしかし。
その妖怪が隠すこと無く放出している妖力の大きさは、俺よりも幾分上であった。
自然、生物としての反射が俺の体を戸惑わせる。
しかし肉体の反応に反し、俺の精神は即座に被害の確認をしていた。
どうやら、幸い妖怪の巨体に押しつぶされた人は居ないようである。
それから捕まっている里人の方に視線をやると同時、今度こそ精神をも俺は凍りついた。

「た、助けてくれぇっ!」

 叫ぶ男は、かつて俺を里から追い出し、俺の家を壊し、俺を嬲った、あの男であった。
無心で助けにいこうとしていた体に躊躇が生まれ、走りだそうとした姿勢のまま俺は固まる。
果たして、俺が助けたとして、あの男はどうするのだろうか。
また俺の事を嬲るのだろうか。
また俺の事を打ちのめすのだろうか。
何より、また、俺は誰かに俺を傷つけさせてしまうのだろうか。

 そう思うと、ゾッとした感覚が背筋に生まれる。
俺は惨めな存在だが、それでも俺を傷つければ、傷つけた人は他者を傷つけたと言う咎を負わねばならないのだ。
ついさっき東風谷さんを救えなかったばかりなのに、尚俺は誰かに俺を害させてしまい、それで耐え切れるのだろうか。
分からない。
故に俺は向かう事も逃げる事もままならず、数瞬立ち尽くす事になる。
逃げ惑う人々の中でそれが目立ったのだろうか、捕まった男と俺の目があった。
男の目が喜色に染まったが、それも一瞬、すぐさま絶望の色に変わる。
それを見た瞬間、俺は駆け出していた。

「こっちだ、妖怪っ!」

 俺は、果たして何を考えていたのだろうか。
確かに俺の心が耐え切れないような事態になるのは、避けたい事態であろう。
しかし同時に、人の命は俺の心などとは比べものにならならず、掛け替えの無い物なのだ。
まさに以前絶望した時、俺は幽香さんに人の暖かさの奇跡を教えてもらい、立ち上がったと言うのに、ここで逃げていては何も学んではいないではないか。

 決意を胸に疾走、月弾幕を生成し大百足の触手へ撃ち出す。
爆発と共に、痛みからだろうか、緩む触手。
怪物の呻き声と共に男が悲鳴を上げながら落下し、それを見ると同時に俺は両手を突き出し、月糸を幾重にも伸ばした。
ほのかに黄色く光る糸は、腕の半分ほどの太さで家々を支点に網を作り、それに重力操作を加えて男を受け止める。
静かに男が尻から地面に着地するのと同時、糸を消すと、ばた、と倒れた音がした。
大百足に注意しながら一瞬見やると、呆然としたまま倒れているようである。
世話がやけるな、と思いつつ手を伸ばし、男を引っ張り立たせた。

「お、俺は、お前を、なんで……」
「いいから早く逃げてくださいっ!」

 叫ぶのと、それを関知したのは殆ど同時であった。
腕を起点に盾のように結界を発動、両手を重ねて掲げると同時、遅れて風を裂く音。
すぱぁぁん、と言う音と共に、思わず視界が赤くなる激痛。
妖怪は、触手を鞭のようにしならせ打ってきたのだ。
盾のように展開した結界では硬度こそ高いものの、腕と接触しているので衝撃は貫通する。
咄嗟に一番硬い結界を選んだのだが、失敗だったようだ。
失策の代償として、腫れた右腕はだらりと垂れ下がり、痺れて力が入らない。
しかし不幸中の幸いといってか、男はこの場が安全では無い事に気づいたのか、逃げ出してくれたようだ。
大百足もそれを追う事なく、俺の方をじっと見つめている。

 再び触手が掻き消えた、と思ったと同時、俺は空中へ飛び上がっていた。
寸前まで俺が居た所を鋼の鞭が叩き、直後、凄まじい音を立て、一対の刃がそこを切り裂く。
赤い尾が、鋏のように交差し、断頭台と化していたのである。
当然その場に留まっていれば即死だったと言う事実に、背筋を凍土が走った。
しかし隙が出来たのも事実、俺はすぐさま懐からスペルカードを取り出し、殺傷設定で発動する。

 月札「ムーンクロスレーザー」

 何時かの犬走さんの時とは違い、避ける隙間の無い熱線の交差が大百足へと襲いかかる。
虫を相手に首を狙った所で意味は無いが、とりあえず触手の鞭が怖いので頭を狙った。
が、同時に第六感からスペルカードを中止、カードを持っている左腕を掲げる。
直後、べきゃぁ、と言う義手の破砕音に、続いて頭をがつん、と殴られる。
そのまま落ちそうになるのを、咄嗟に月弾幕を作り爆発させ、そのまま真っ直ぐに落ちるのを回避。
先ほどまでの俺の落ちる軌道上を断頭台が過ぎっていくのに、内心冷や汗がでる。
迂闊なことに、俺は触手が一対ある事を忘れていたのだ。
持っている力に大差は無いのだが、矢張り経験の差が大きい。
内心舌打ちつつ、俺は空中で体制を整える。

 大百足はほぼ無傷、強いて言えば最初に触手を弾幕で攻撃した時の一発程度。
対しこちらは右腕が腫れて動かず、左腕の義手は壊れ、頭にも一発食らいズキズキと傷んでいる。
たった一度の交錯で、絶望的な状況だった。
ばかりか、本来ならば此処はいわゆる逃げ撃ちに徹して、距離を取りながら攻撃を続けたいのだが、周りへの被害がそれをさせない。
しかし、此処には俺しか妖怪と戦える人間は居ないのだ。
ばかりか、俺は輝夜先生の弟子なのである、あまり無様は見せられない。

 とりあえず、鞭が相手ならこの距離は不味く、距離をあける事は被害を考えるとできない。
なら残るは不得手であるが、接近である。
十数個の巨大な月弾幕を纏いながら空中を飛び出す。
途中何度も鋭角に軌道を変え、ジグザグに軌道を描きつつ接近。
結界はさっき鞭の一撃さえ耐えれなかったのでどうせ無駄である、張らずに突き進む。
上空から風切り音。
反射的に左へ臓腑が持って行かれそうな急旋回、鋼の鞭が残像を切り裂いてゆく。
次いで俺は上に登ろうと言うフェイントを見せ急下降、髪を数本鋼の鞭が持ってゆくのを感じる。
最後の足掻きとばかりに突きでてきた赤い鋏を、纏っていた月弾幕の半分ほどを放って撃ち落とした。
残念ながらダメージは少ないようで、大百足の尾は煤けたようにしか見えない。

 これで大百足は全ての武器は打ち終えた。
やったか、と俺が顔を喜色に染めると、大百足は大きく空気を吸い込むのとは、殆ど同時であった。
術の気配。
大百足の口腔から、緑色の液体が広範囲に渡って吐き出される。
反射的に急後退すると同時、やってしまった、と青ざめる俺。
液体が俺より先に建物にふりかかり、その全容を見せたからである。
液体は、溶解液であった。
じゅうじゅうと煙を上げながら木製家屋を液化させるのを視界の端に、スローモーションで溶解液が迫ってくるのが見える。
結界を張ろうにも時間が無い。
月弾幕を爆発させようにも、この数が誘爆すれば俺へのダメージは計り知れないし、当然溶解液も爆風に乗るので相手の攻撃範囲も増える。
しかしそれしかないか、と内心歯軋りしながら、俺は月弾幕を爆発させた。

 爆音。
一瞬、痛みで視界が真っ赤に染まる。
続いて背中が地面につく感覚と共に、足が沸騰するかのような感覚が俺を襲った。

「ぎゃああぁぁあっ!?」

 絶叫。
なんとか溶解液を引き剥がしたい衝動に駆られるが、それを無視して全力を振り絞って飛び上がり、距離を取る。
向かい側の家屋に俺が降り立つのと、赤い鋏が寸前まで俺が居た位置を切り裂くのとは、殆ど同時であった。
真っ赤な視界の中でゆっくりと大百足が迫ってくるのを見つつ、俺は歯を噛み締め月の魔力で刃を生成。
痺れる右腕をどうにか動かし、未だに溶け続けている足の溶解液を、近くの肉ごと切り落とす。

「っぐ、がぁあぁっ!?」

 再びの絶叫と共に、切り落とした肉が落ちる。
恐ろしい事に、その肉と溶解液は、まるで家屋など無かったかのように、屋根やら床やらを溶かしてすとんと地面まで落ちていった。
あの溶解液をそのまま浴びていれば、俺などまるで消しゴムで消したかのように消えてしまっていた事だろう。
中距離での鞭は厄介だが、それ以上に近距離での溶解液は凶悪だった。
結界さえあれば防ぎきれるだろうが、酸に対する結界に付与できる強度では、近距離の威力の減った鞭ですら防げず、一撃で壊されてしまうだろう。
そうなれば結界を貼り直す間もなく溶解液が来てゲームオーバーだ。
と、中距離戦闘でどうにかしようと決心しかけた瞬間、俺は改めて大百足を目に入れて、内心目を見開く。
大百足の緑の腹に、点々と赤い部分があったのだ。
恐らく、自身の溶解液によって溶かされて。

 すぐさま俺は、風に関する術を脳内で検索する。
先程見た溶解液程の質量を飛ばす術は、残念ながら無い。
ならばこれしかないか、と俺は再び月弾幕を十数個身に纏い、空中へ飛び出す。
何せ先ほど七つもの巨大な月弾幕をぶつけても大百足の尾にはダメージが無かったのである、他に手はないだろう。
決意を新たに俺は大百足に突進。
再び懐へ踏み込もうとする。

 溶解液を見せられて接近されるのは想定外だったのか、迎撃は一瞬遅れた。
一撃目の鞭を急加速で振り切り、二激目を急停止で回避。
続く尾は何とか動くようになった右手で月の魔力の刃を振り下ろす。
鋏の長さ以上の刀身の切っ先が、鋏の付け根の上側を叩いた。
すると体重の差から俺の体が浮き上がり、下方を尾の刃が駆け抜けてゆく。
俺は尾を蹴り飛ばし、ついに再び大百足の懐へとたどり着いた。

 大百足もここまでくれば俺の狙いにも気づいているのだろうが、俺に容易く接近された事に焦ったのか、口元に術の気配を醸しだす。
直後、俺は月弾幕の全てを大百足の口元へ向かって投げつけた。
爆発と同時に溶解液の術が発動、大百足の唾液が溶解液へと変化。
口元で爆発が起きたので、溶解液は大百足の臓腑へ逆流する以外の方向へ爆散する事は無い。
変化はすぐさま起きた。

「ぎゅぴぃいぃい!」

 大百足の、絶叫。
同時に、肉が焼ける異臭と共に大百足の下半がどろりと溶け落ちた。
自然、上半分も地面に落ち、どすん、と肉感ある音を立てる。
再びの術の気配が大百足の口腔に集結。
しかし、当然虫がこの程度で死ぬ筈は無いと思っていた俺もまた、再びの巨大な月弾幕を用意していた。
先んじて、爆発がおきる。
砂塵が全てを覆い隠すのを見て、俺は反射的に再び月弾幕を生成、今度は大百足の下半分へ向かって撃ち出す。
弾幕が砂塵を払いながら突き進む先には、自立してこちらへと飛びかかろうとしていた大百足の下半分があった。
再びの、爆音。
急ぎ砂塵を風の術で飛ばして見ると、大百足は全身バラバラになっており、頭に至っては完全に潰されていた。
先ほどは傷一つつかなかった大百足であるが、今は溶解液で所々が爛れている、当然耐えきれるはずもなかったのだろう。
大百足の破片が動き出さないか見張っていた俺であるが、暫くすると所々の足が蠢くのも無くなり、ようやく安堵の溜息をついた。

「………………はぁっ」

 安堵すると、一気に力が抜けてしまい、思わず俺は尻餅をついてしまった。
恐ろしい相手であった。
力の程は俺と同程度であったが、当然ながら経験の差からして明らかに相手の方が上だった。
なんとか相手を倒した俺であるが、殆ど霊力を使いきってしまっている。
少し休まねば、家に帰る事もままならないだろう。

 それにしても、と俺は自分の無力さに後悔を滲ませる。
俺にこの妖怪を圧倒する程の力があれば、この妖怪を殺さず倒す事が出来たのではないか。
いや、そうまでもいかなくとも、紫さんか誰かがはぐれ妖怪に気づくまでの時間が稼げたのではないか。
そうなれば、この妖怪も森で静かに暮らせたのではなかろうか。
そう思えば、俺の無力さは罪であった。
勿論、俺も誰一人何一つ殺さずに生きれるなどとは思っていない。
家でだって肉を食べずに生きている訳では無いのだ。
だが、今回の妖怪の死は明らかに俺に力があれば回避できた物だった。
ならばせめて、この死を無意味にしないよう、俺がこの後悔をバネに力を付けられるよう念じておく。

 そんな風にして後悔に耽りつつ、俺は取り敢えず立ち上がる力が戻るまで座っているつもりであった。
そんな俺の元へと、複数の足音が向かってくる。
振り向くと、先ほど俺が助けた男であった。
手に何か持っているようだが、逆光でよく見えない。
お礼を言いに来るのだろうか、そしたらお礼なんて言われ慣れていないから、どう反応しようか、赤面してしまわないだろうか。
などと思っているうちに男はすぐ近くまで辿り着き、足を止めた。
妖怪に襲われ命を落としかけた直後である、さぞかし不安であろう、と思い、俺は男に向けて笑顔を作る。
ガツン、と頭に衝撃が走り、俺は意識を失った。



 ***



 首に違和感があった。
目を見開くと、低い視点で里の大通りが流れてゆく。
次いで下半身が地面を引きずられているのに気づき、それから首に触れると、俺は首輪をさせられていたようだった。
朧な視線を後方にやると、恐らく俺の首輪から伸びているのだろう鎖を、男性の物であろう節々とした手が握っている。
引きづられる度に首が絞まるのが苦しくて、げほげほと俺は咳をした。
それに反応し、上方から声がかかる。

「お、起きたのか……」

 視線をやると、恐らく俺を引きずっているのであろう男の顔が眼に入る。
俺を追い出し、家を壊し、嬲り、そして俺によって妖怪の手から助けだされた男であった。

「げほ、この、状況は、一体どうしたんですか?」
「お、お前が悪いんだぞ」

 話が噛み合わない。
不思議に思って男をぼんやりと見続けるが、すぐに目を逸らされてしまった。

「まさか、お前があんな力を持っているなんて知らなかったんだ」
「はぁ……?」

 それがどうしたのだろう、と思うと同時、俺は男が人を一人引きずり続けると言う労苦を背負っている事に気づく。
俺の体重は然程重くも無いが、軽くも無い。
となればその負担も相応の物であり、状況の分からない俺なりにもせめてその負担を軽減する事を考えるべきではないか。
そう思って立ち上がろうとするものの、腰に殆ど力が入らなかった。
まるで鉛にでもなったかのように全身が重い。
どうやら立ち上がるのは無理そうだと思い、俺は辛うじて動く右手で頭を掻こうとして、べっとりと言う感触に眉をひそめる。
見れば手は、血で赤く染まっていた。
そういえば気絶する寸前、頭に衝撃を受けたな、とぼんやり考える。

「お、俺たちが悪いんじゃあない。
お前に復讐する力があるって言うなら、弱っているうちに俺たちはこうするしか無かったんだ」
「復讐? 何のです?」

 分からなかったので素直に聞いてみたが、返ってきたのは沈黙であった。
気のせいか、歯軋りのような音が聞こえるも、ずりずりと引きずられる音に紛れてよく分からない。
訳がわからないので少しの間黙っていると、男は深呼吸して口を開く。
俺を引きずっていて疲れたのだろうな、と思った。

「お前は、妖怪だ」
「へ?」
「お前は、里を陥れようとする、邪悪な妖怪なんだ」

 一瞬、何を言われたのか分からず、思考が停止する。
里を陥れようとする、と言うのは、誤解であるがまだ分かる。
だがしかし、妖怪と言うのは何処から来たのだろうか?
と思ってから、俺は先の大百足の妖怪との戦いを思い返し、そこに原因があったかもしれないと回想する。
が、誤解の原因は見つからない。
仕方がないので聞いてみる事にした。

「何故、俺を妖怪だなどと思ったのですか? 弁明させてもらいますけど、俺は人間ですよ?」
「お前が――、そう、異様な力を持っているからだ」
「霊力持ちの人間なぞ、里の陰陽師にでも居るでしょうに」

 言うと、苦虫を噛み潰したような表情をする男。
吐き捨てるように、言葉が返ってくる。

「お前が――、そう、慧音先生を陥れた、邪悪な存在だからだ」
「それは誤解ですし、悲しい事ですが、人は妖怪ではなくとも人を陥れられます」

 急に俺を引きずる動きが強くなった。
足の傷がごりごりと地面に擦れて、小さく俺は悲鳴を上げる。

「大体、こうやって自分の身可愛さに抗弁する事だって怪しいじゃないか、それが妖怪の証拠だっ」
「確かに、俺は自分の身が可愛いですし、それ故に誤解を解こうとしている部分もあるでしょう」

 男が、にやりと笑みを浮かべる。
ついでに言えばその妖怪の認定法は人間の誰にでも言えるが、明らかに冷静でない様子の男を刺激しないよう、俺は相手の方法をあげつらうような事はやめておく事にした。
代わりに、本心からの言葉だけを口にする。

「ですが、俺は、貴方の事の心配なのです。
俺は、邪悪な妖怪とやらではありません。
なのに貴方は俺の事を邪悪な妖怪と誤解している。
邪悪と枕詞がつくのです、誤解の果てに俺を虐げるような真似をするかもしれません。
そうすれば、貴方は誤解が解けた時、きっと激しく後悔をなされるでしょう。
俺は、貴方にも、後悔してほしくないのです」

 一瞬、男の足が止まった。
全身を僅かに震わせながら俺を見て、それから眼を閉じる。
口が呟くように動いた。
内容は、仕方ないんだ、と言ったように見受けられる。
それから、男は一言も喋らずに俺を引きずっていった。
俺は何度か口を開き、あの大百足の妖怪によって被害は出なかったか、今何処に向かっているのか、これから俺は何をされるのか、など聞いたが、何一つ答えは返ってこなかった。

 次第に眠くなる意識を何とか保っていると、男の動きが止まる。
あたりを見回すと、どうやら此処は里の中央広場のようだった。
沢山の、里中の人が居るのではないかと言うぐらいの人が集まっている。
その中心に小高い台があり、その上に一本の細長い丸太が立てられていた。
そこへ向かって、再び男は俺を引きずってゆく。
疲れからか傷の所為か、喋るのも億劫だったので、俺は黙って引きずられるに任せた。
低い視点も相まって、里人の顔は見えない。
先の戦闘で怪我をした人が居ないかどうかが心配だった。

 中心の丸太へと着くと、俺は首輪ごと無理矢理引き上げられ、立たされた。
が、足の激痛に呻く俺は、未だにまとも立ち上がる事すらできない。
そんな俺へと縄を手に男達が迫り、数人がかりで俺は丸太へと縛り付けられた。
相当に強く縛られた上、傷口を避ける事もされなかったので、走る激痛に視界が赤く染まる。
小さく呻き声を上げているうちに男達は引き、台の下へと戻ってゆく。

 暫くして、俺はようやく回復した視界で、眼下の里人たちを眺めた。
里人達は、皆不安そうな顔をして視線を落とし、俺と視線を合わせようとしない。
どうしたのだろうかと首を傾げるうちに、先の男が叫ぶ。

「皆、怯むなっ! この感情は罠だ、あの妖怪の罠なんだっ!」

 同時に何かを投げたようだ、と思った瞬間、カツッ、と額に衝撃が走る。
遅れて台に落ちてゆくそれを見ると、投げられたのは小石であった。
どういう事なのだ、と混乱する俺を置いてけぼりにして、里人の皆は男に続いて石を投げ始めた。

「う、うわあぁあぁっ!」

 額に、腹に、腕に、足に、傷に、様々な所に石が命中する。
抗議しようと口を開けば、その中に石が命中し、咳き込みながら吐き出す次第となった。
魔力で身を守ろうにも力は既に使い果たし、ここから逃れる事すらもままならない。

「あ、ああぁああぁっ!」

 叫ぶ人々は、次々に石を投げながらも、何故か涙を流していた。
まるで家族の死に目にでも会ったかのように号泣し、鼻水を垂らし、嗚咽を漏らしながら、それでも何故か石を投げる。
そんなに泣くぐらいならば辞めればいいのに、と投げられる側にしても思うのだが、それでも誰一人辞めない。
泣きながら、石を投げ続ける。

「う、うぅぅうぅっ!」

 唐突に俺は、あの時と同じだ、と思い当たった。
つい昨日、子供達が俺の目の前で殴り合ったときと、同じだ、と。
何故そう思ったのかは分からない。
あの時は子供達同士であったし、当の俺は暴力の対象ではなかったのだ、状況は同じとは言えないだろう。
ただそれでも、涙を流しながら石を投げ続ける人々が、まるで自分自身に石を投げているかのように思え、俺は思ったのだ。
救わねば、と。

「うえ、ぇ、えっ、えっ!」

 しかし実際、俺は無力であった。
口を開こうにも石が口に舞い込み、吐き捨てて叫んでも大音声の鳴き声達に掻き消される。
魔力ばかりか体力も尽きて、石の痛みが無ければ今にも眠ってしまいそうなぐらい。
あぁ、何故俺はこんなにも無力なのだろうか。
もっと俺は強ければこんな状況などにならなかっただろうに。
そうは思うものの、俺はつい先ほど自分の力の巨大さを持て余したばかりだ。
一体俺は強くなればいいのか、弱くなればいいのか、それすらも分からず、ただただ混乱するばかり。
そんな風にしてどれほどの時間が立っただろうか、石の雨が止む。
見れば、俺の助けた男が、その手に松明を持っていた。
足元に目をやると、いつの間にか置かれたのか、それとも俺が気づいていなかったのか、薪がくべてあった。
火刑。
その言語が思い起こされる。

「終わり、だ……」

 静かに言う男に、やめてくれ、と言おうとしたが、力ない声は声ともならずにただ消えていくだけだった。
ぼ、と小さな音と共に、松明の火が薪に燃え移り、そこから丸太へ、次いで俺へと炎が燃え移ってゆく。
全身を燃え盛る炎が覆ってゆくのが分かった。
俺は自分の小ささに泣くが、その涙もすぐに蒸発し、消え去り、何も無かったかのようになる。

 幸せに、と俺は呟いた。
幸せにしたかった。
誰をと言うのではない、誰でも等しく、俺は幸せにしたかった。
そして叶う事なら、受けた恩を返す事がしたかった。
だが、その程度の願いすら、俺には荷が勝ちすぎていたのだろうか。

 此処で俺は死ぬのか、と思うと、後悔が胸の内から生まれて出てくる。
様々な人々から受けた恩が思い返され、また、それを返せぬうちに死する事に悔しさが滲む。
ばかりか俺は、その人々に悲報で恩を仇で返してしまう事にすらなるのだ。
そればかりはいかん、と全身の力を集め、身を捩るが、強固に巻きつけられた体は少しも動かない。
やがて絶望が俺を支配し、こんな所で志半ばに死ぬぐらいなら、生まれてこなかった方が良かったのでは、とすら思った。

 走馬灯が駆け巡る。
あまりに早すぎて何だか分からない、色とりどりのマーブル模様の走馬灯。
まるでネオンのような原色が通りすぎてゆくのを感じる中、何故か一つだけ確かな形と色を保った物がある。
それは、白い手袋であった。
フリル付きの、いかにもお嬢様らしい手袋が、す、と俺へと手を伸ばしてくる。
それを掴もうと俺はもがくが、手袋は少し考えたかと思うと、すぐにその手を引っ込めてしまった。

 そんなうちに、俺は意識が遠のいてゆくのを感じる。
瞼が閉じてゆく視界の端に、空を飛んでくる幾つかの影が見えた。
南無三、と言う声が最後に聞こえたような気がして、そして俺は意識を失った。



 ***



 目を開くと、またしても知らない天井であった。
右手をついて起き上がろうとするが、手に力が入らない。
そういえば大百足に手ひどくやられたのだ、と思いつき、それから魔力が回復しているかどうか確認。
一割程度だが回復しているので、それを使って上半身を起こす。
目を見開いた女性と目があった。
美しい女性であった。
東洋風の顔立ちだと言うのに身に纏うのは西洋のゴシック風のドレスで、それでも不思議と似合っている。
一際目立つのは、髪であった。
頭頂部が紫色、それから髪先に行くに従って金髪へと鮮やかなグラデーションを描いている。
これまた大層な美人との出会いである。
何気に気絶からの目覚めに美人と出会うのは結構な回数になる筈なのだが、相変わらず慣れる事なく俺の心臓は高鳴り、頬は僅かに紅潮する。
変わらぬ赤面癖に、学習しないな、と自己嫌悪しつつ、口を開いた。

「おはようございます」
「あら、おはようございます。お加減は如何ですか?」
「……恥ずかしながら、魔力に頼らねば起き上がる事も出来ず、その魔力も僅かしか回復していないようで」
「でしたら、どうぞ横になってください」

 優しく嗜めるように言われ、俺はそれに従い体を横にする。
すると対面できない俺を気遣ってくれたのだろう、彼女は俺の顔のすぐ横に腰を下ろした。
何といえばいいのか、清らかな仕草であった。
上品であったり美しかったりと言う枕詞のつく仕草は何度も見たが、このように清らかな仕草は初めて見る物だったので、少し見惚れてしまう。
それから少しして呆けていた己に気づき、矢張り顔を赤らめながらも、俺は口を開いた。

「初めまして、俺は七篠権兵衛と言います」
「私は、聖白蓮、此処命蓮寺の住職ですわ」

 にっこりと微笑む彼女に、こちらも思わずにこりと微笑む。
が、先ほどと同じく全く状況を理解できていない事に気づき、俺は言った。

「その、聖さん、俺は一体、どういう状況なのでしょうか。
此処はもしかして、冥界なのですか?
火あぶりの刑にあって、それから何も覚えていないのですが……」
「くす、冥界にお寺はありませんよ」

 と、小さく笑う聖さんに、思わず赤面してしまう。
兎に角恥ずかしくて恥ずかしくて、俯くように視線を外してしまう俺。
それでもまだ恥ずかしくてしょうがなくて、魔力を使ってまで布団を引き上げ、顔を半分隠した。
そこまでしてもまだ赤面は収まらず、顔は赤いままである。
一応真剣に恥ずかしく思っている仕草なのだが、しかしそんな様子がどうやら滑稽なようで、くすくすと言う聖さんの声は続いたままだった。

「安心してください、此処は現世ですし、この命蓮寺に居る妖怪達は皆貴方の味方です。
私達は、人間によって不当に扱われていた貴方を、里から救い出したのです。
まったく、この幻想郷であれば人間も違うものかと思いましたが、失望しました。
まさか里人を救った貴方を火刑にするなど、誠に軽薄で忘恩の徒であるっ!」

 と、急に怒り出す聖さん。
慌てて俺は布団を剥がし、口をはさむ。

「い、いえ、これは誤解が招いた事なのです。
どうか里人に失望しないでください。
それは俺の身から出た錆も一因であったのです。
里の人間も、きっと話せば分かってくれます、ですからどうかっ」

 と言うと、虚を突かれたかのように、ぱちぱちと瞬く聖さん。
す、と上げていた肩をおろし、小さな溜息と共に、何故か嬉しそうに言う。

「くす、貴方は、本当に優しい妖怪なのですね――」

 いえ、そんな、と言おうとして、はて、と俺は首を傾げた。

「その、俺は人間なのですが……?」
「………………え?」

 ぼ、と音を立て、聖さんが赤面した。
慌てて両手を前にやり、続けて言う。

「い、いえ、でも、里人に妖怪だって言われてましたし……」
「その、それも誤解の一つで……」
「で、でも、魔力を使ってましたし……」
「人間でも魔力は使えるような……」
「そ、その……」
「………………」

 だんだんと勢いを無くしてゆく聖さんは、ついには真っ赤になって、俯いてしまった。
それでも恥ずかしくて仕方がないのだろう、両手で顔を覆っている。
こうまで赤面されてしまうとこちらも気まずく、また赤面で連想して先の自分の冥界にお寺がある発言を思い出してしまった。
こちらも赤面してしまい、再び布団を魔力で引き上げ顔を隠すようにする。
そんなお互いに赤面を突き合わせた様子から、俺の命蓮寺での生活が始まるのであった。




あとがき
と言う訳で次回から命蓮寺編です。
ただ、私の力量不足故か、一輪・雲山の話が作れそうにありません……。
一応まだ考えてはみますが、出番無しになってしまうかもしれません。
期待されていた方がいれば申し訳ない。
あと、前回に少し追記しました。



[21873] 命蓮寺1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 20:10

 さて、何時までも聖さんと俺とで赤面しあっていても話が進まないので、とりあえず考えてみる。
命連寺。
里でも噂に聞く、人妖平等を説く寺だと言う。
この幻想郷においてさえもその思想は人間側にとっては受け入れづらく、矢張り妖怪は恐ろしい物なのではないか、と思われているようなのだが、その住職の人格故に慕われてはいるらしい。
何せ平等を説くのである、妖怪に非があれば守ってもらえるし、その上此処の住職は慧音さんをも超える大魔法使いなのだそうだ。
事実、見るに聖さんは魔法使いのようであった。
まず魔法使いらしい欧風の服に、身に纏うのが魔力であり、更に俺の魔力の目で見る限り、彼女は少なくとも捨食の魔法を会得しているらしい事は分かる。
とすれば、俺のような人間の魔法使いでは手の届かない、アリスさんのような本物の魔法使いであると言う事は間違いないだろう。
しかし、とすると矢張り、魔法を使うと眼の色を変えて迫られるのだろうか。
なんとも言えない気分になっている俺に、赤面から回復した聖さんが口を開く。

「こほん。えーとね、私はぬえから状況を聞いただけなので、あなたの口から詳しく説明してもらえますか?」
「あ、はい。えーとですね……」

 と言って、ぼんやりしていた頭を小さく振り、追憶した。
そう、俺は守矢神社から帰る途中、はぐれ妖怪に遭遇して戦って、勝った後気絶させられて、何故か俺は邪悪な妖怪と言う事になっていて――。
はっと、一気に意識が澄み渡る。
起き上がろうとして、一旦は痛みが邪魔するものの、魔力で無理矢理体を動かし、体を起こした。

「あ、あの、すいません、細かく説明している時間は無いんですっ!
俺は里で邪悪な妖怪と言う事になっていて、だから俺などを匿うなんて事をしたら、聖さん達の身がっ!」

 そう叫ぶと、目をぱちくりとした後、聖さんが手を口に当て、くすりと上品に笑う。

「全くもう……、先に自分の身を心配したらどうですか?
右足なんて、肉が削げるぐらいの大怪我じゃあないですか」
「そんな、俺などの事よりも、貴方達の立場がっ!」

 叫ぶ俺に、変わらずにこりと微笑んだまま、聖さんはゆっくりと、子供に言い聞かせるように告げた。

「大丈夫ですよ。
ぬえの“正体を判らなくする程度の能力”で、私達の正体は里人に分からないままでした。
安心してください、貴方を匿っている事が里にばれる事など、ありませんよ」

 思わず俺は、目を見開く。
一回言葉を飲み込んで、もう一度脳内で朗読してようやく意味を把握し、安堵のあまり溜息をついた。
体から力が抜け、ぼふっ、と柔らかな音を立てて俺は布団に寝転ぶ。

「良かった……」

 思わず、俺は感じ入るように呟いた。
守矢神社で不幸な結果となってしまったばかりで、立て続けに里でも誤解を受けてしまったので、他者の害になってしまう事に敏感になっていたのだろうか、俺の反応は少し過激だった。
驚かせてしまったかと思うと申し訳なさが湧いて出てきて、思わず俺は布団を引っ張り鼻下を隠すが、このまま話すのは礼を失すると思い当たり、慌てて布団を下げる。
そんな仕草が滑稽なのだろうか、くすくすと笑う聖さん。
思わず赤面してしまいそうになるが、それでは話が進まないので、その笑いを遮るように俺は口を開いた。

 俺は他者の名誉を慮って、簡潔に守矢神社に招かれた事、そこで俺の“名前が亡い程度の能力”が判明して去らねばならなかった事、里ではぐれ妖怪を倒した後気絶させられ、火刑にあった事を話した。
里人が何故俺を邪悪な妖怪だと誤解していたのかが分からず、その為どうしても里人が悪いように思えてしまう話になってしまうので、俺はその度に里人の行為が恐らく誤解による物である事を強調する。
それでも矢張り里人の行為に思う所があったのか、話が進むに連れ聖さんは次第に顔を厳しくしていった。

「……と、言う訳なのですが……」

 と、言い終えた俺は、ちらちらと聖さんの方を伺う。
笑顔ながらも秘めた怒気が垣間見える顔であり、そこから俺は聖さんの里人への心象の低下を思い知った。
あぁ、俺はもっと上手い事言えなかったのだろうか、と後悔しつつ、俺は聖さんの怒りに好感を覚える。
他人事だと言うのに、親身になって怒ってくれるのは、何というか、非常に嬉しい。
嬉しいが、だからこそ俺は、巻き込んではいけない、と思う。

「その、俺としては、怪我もありますし、魔力も回復していないので、匿っていただけるのは非常に助かります。
ですが、俺が見つかれば、貴方達が里で築きあげてきた信頼を失ってしまうと言うのは事実。
少しお時間をいただければ人払いの結界もはれますし、里外れの自宅に立てこもれば何とかなると思いますので、あまり長い間お暇するのは……」
「あら、失礼ですが、貴方は里の陰陽師で解呪できない程の結界をはれるのですか?」

 思わず、口をつむぐ。
かつて里で暮らしていた数週間で見知った里の陰陽師の腕前は、実を言うと、今の俺よりも下であると思われる。
しかし結界に特化した人の物に対抗できるかと言うと微妙だし、二人以上で来られてしまえば、簡単に解呪されてしまうだろう。
雄弁な沈黙を告げる事となった俺に、にこりと笑いかける聖さん。

「そんなに心配しなくても大丈夫。
元々この命蓮寺は、人妖平等を掲げる寺です。
妖怪は勿論、人間相手にも平等に救いを与えるのが目的なのです。
ですからどうか、貴方の力にならせてはもらえませんか?」

 そう言う聖さんは、とても清らかな笑顔を浮かべていた。
俺の無力を訴えられれば、俺には到底反論する事は不可能だった。
その上彼女の理念に沿う結果となるのだとすれば、断る理由は無い。
それでも何処か、漠然とした不安があったのだが、それを払いのけ、俺は再び体を持ち上げる。

「それでは、よろしくお願いします」

 と言う訳で、俺は此処命蓮寺に、ほとぼりが冷めるまでの間とどまる事になった。



 ***



 となると、まずは寺の面々との顔合わせと相成った。
礼儀としてこちらから出歩こうとしたのだが、布団から出ようとした瞬間聖さんにエア巻物でゴツンと殴られ、強制的に寝かされる事になった。
怪我人なのだから大人しくしていろ、との事である。
ちなみにエア巻物と言うのは、聖さんの持つ不思議な巻物の事だ。
両端の青い筒の合間に、触れようとすれば突き抜ける映像だけの内容が映しだされる、何とも奇妙な物であった。
聖さんとは系統が違うとは言え、俺も一魔法使いである。
思いも寄らないマジックアイテムに興奮し、少し触らせてもらうなどして、満足しているうちに、気づけば聖さんは見知らぬ女性を連れて来ていた。
子供が玩具に夢中になるようにしていたのに思わず赤面し、俺は聖さんに視線も合わせられないままエア巻物を返し、熟れた頬もそのままに新しく現れた女性に視線を合わせる。
女性は、個性的な髪色をしているのが印象的だった。
黄色と黒とのツートーンカラーで、頭の上には赤い大きく開いた花が乗せてある。
金色の瞳に僧侶らしい白と紅の着物に、虎柄の腰巻をしているのを見て、そうか、髪色は虎を表しているのか、と俺は内心理解した。

「寅丸星と言います。星とお呼びください」
「あ、はい、俺は七篠権兵衛と言います。権兵衛、と呼んでいただければ」

 と言う星さんの気は、何ともよく分からない感じだった。
妖怪と言われれば妖怪なような気もするし、神と言われれば、首をかしげつつもそうかと納得できるような。
神だとすれば一大事である、早速俺は口を開く。

「その、失礼ですが、貴方は神様でしょうか?
俺には“名前が亡い程度の能力”があります、未だ制御できず、神の力を奪ってしまう事になってしまうのですが」
「あぁ、なるほど、先ほどから何だか妙な感じがすると思えば、そうだったのですか」

 流石に、目の前が真っ暗になるのを俺は感じた。
全身が震え、思わず唇を噛み締める。
そうとなれば、俺は命蓮寺に留まる事はできない。
神奈子様の慌てようを考えれば、一日二日でも大きな影響があると推測できる。
となれば、この魔力の尽きた状態で俺は一人で出なければならないのか。
いや、出なければならないのだ、と決意した辺りで、こほん、と聖さんが咳払い。

「星、もう少しきちんと説明してあげてください。
権兵衛さん、真っ青になっていますよ」
「へ? あっ、うっかりしていました、改めて自己紹介します。
私は、毘沙門天の弟子である妖怪なのです。
確かに神力の減衰は感じますが、神そのものではないからか、然程影響があるとは思えないのですが……」
「あぁ、って、ええ?」

 成程、と先ほど感じた感覚に納得しつつも、その結果に思わず首を傾げる。

「俺が以前山の神様である神奈子様に出会った時は、丸一日と経たずに出ていって欲しいとまで言われる程、強力だった筈なのですが……」
「えぇ? 神道系と仏教系の神の違いでしょうかね?」
「それとも、あくまで本人ではなく弟子であるからかしら?」

 と、三人揃って首を傾げるが、特にこれといった答えは出てこなかった。
一先ずほっとした所で、俺の来歴について少し話す。
すると、星さんは同情してくれたようで、泣きそうな表情になった。
手があやふやな動きをして、何かしてやりたいが、何をすればいいのか分からない、と言う星さんの思考が容易に読み取れる。
俺が話を終えると、早速星さんは口を開いた。

「そ、そんな事が……、さぞかし辛かったでしょうに」
「いえ、今は確かに俺が辛いかもしれません。
けれど、誤解が解けた時には、里人の皆も辛くなる事でしょう。
そんな時、頼りになるのは貴方達のような存在なのです。
俺の振りまいた誤解で迷惑をかける事になると思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 と言い頭を下げる。
事実、俺の傷は治る物ばかりである。
石を投げられた傷も体中にあるものの、所詮は石を投げただけである、然程大きな傷は無いし、目などが傷つく事は無かった。
流石に全身を火傷はしていたが、それもすぐに助けられたからか浅い火傷で済み、治癒の術で治せる範囲だった。
既に見苦しくないようにと顔は治癒してあるし、体の火傷もあと数時間もすれば治る計算である。
対して里人の、石を投げ火を放ってしまったと言う罪悪感は、決して消える事は無いのだ。

「いっそ、俺がこのままひっそりと隠れてしまえれば、それが簡単な解決法なのでしょうが……」

 そうすれば、里人の誤解は解けずとも、その罪悪感を掘り起こしてしまう事は無い。

「俺には里との交流無しに自活できる程の力が無く、そこまで行くには、先生の言葉からしても2~3年は必要かと」

 と言う訳だった。
一応里との交易無しに生活する事は、一度冬を過ごしてみないと何とも言えないが、予測からすると何とかなると思う。
問題は、俺に自衛能力が十分に備わっていない事だった。
先のような理性の無いはぐれ妖怪にすらギリギリ勝てる程度では、何時妖怪に負けて捕食されてしまうか分からない。
輝夜先生曰く、白黒レベルまであと2~3年だと言う。
その白黒が何を指すのかは分からないが、外で自活できる指標ではあると聞いている。

「流石に、そこまでの期間を運に頼って生活するのは、死にに行くような物です。
死ぬのは当然嫌ですし、何より俺はこれまで多大な恩を受けて生活していると言うのに、それを返さずに死ぬのは我慢がなりません。
しかし、かと言ってどうすればいいのか……」

 と、そこまで続けて、俺が一人で喋っている状態になっている上愚痴になっている事に気づき、一旦言葉をきる。
二人を見ると、何故か目が輝いて見えた。
すっと腰を上げ上半身を乗り出し、聖さんは俺の手を取り握る。

「感服いたしました」

 あれ? なんか何時もと逆な気がするぞ?
そう内心で首をかしげつつ、はぁ、と生返事をする俺。

「私達に迷惑をかけないようにと言うその謙虚な心と、あくまで自分よりも里人を心にかけるその優しさ、素晴らしい物です。
貴方が心の底では里人に恨みを抱いているのでは、と思っていましたが、誤解でした。
貴方のように公明正大な人間を疑った事、深く謝罪いたします」
「あ、はい、その謝罪、お受けします。
しかしそうお考えになるのは当然の事ですし、気にしていませんよ」

 と言いつつちらりと少し視線をずらすと、俺に手を伸ばそうとして聖さんに先を越され、空を掴む星さんの姿が。
寂しそうに空中で手をにぎにぎとするその姿があまりに哀れで声を掛けたくなるが、それに先んじて口を開く聖さん。
おざなりに対応する訳にもいかず、聖さんに精神を集中する。

「あぁ、矢張り貴方は清い心の持ち主だ。
貴方と会えて、良かった」
「いえ、そんな、清い心だなんて……」

 流石にこれは普通に赤面してしまう。
布団を引き上げようにも上半身を起こした姿勢なのでそれもできず、思わず両手で顔を覆い隠してしまう事になった。
そうすると、そんな俺の格好が滑稽だったのか、くすくすと微笑む聖さん。
暫く赤面したままでいた後、ふと星さんの事を思い出して、ちらりと視線をやると、なんとも言えない顔で俺と聖さんを見比べていた。
声をかけようとすると、再び聖さんの声がそれに先んじる。

「では、もう一人連れてきますね」

 と言って立ち上がってゆくのを見送ってから、何となく星さんと目があった。
沈黙が間に横たわる。
そうなると、口の回らない俺は何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
星さんも何から切り出せばいいのか分からない様子で、何か口にしようとしては、もごもごと言葉にしないまま消えてゆく。
それでも無言のままと言うのも気不味く、何とか俺は口を開いた。

「あのっ」

 と、次ぐ言葉は互いに輪唱した。
またもや気不味くなって、少しのあいだ、お互い沈黙する。
すると、星さんが手を差し出し。

「その、権兵衛さん、そちらからどうぞ」
「あ、はい……」

 と言っても、とりあえず口を開いてみただけなので、何を言えばいいのやら、と混乱する。
その果てに口を衝いて出たのが、これであった。

「い、いい天気ですねっ」

 当然部屋の中からは外が見えない。
なんとも言えない沈黙の中、ぼそりと星さん。

「今日は、生憎雨のようですが」
「~~~っ!」

 恥ずかしさのあまり、俺はぼふん、と顔を布団に押し付け、小さくもがいた。
そういえば朝から雨だったじゃないか、と今頃になって思い出す俺は、なんと阿呆なのだろうか。
泣きそうになりつつ何とか上半身を上げる。

「そ、その、そちらは何でしょうか」

 と言うと、明らかに星さんは動揺した。
その場で本当に小さく飛び上がり、慌てて視線を四方八方にやる。
それから出てきた言葉が、これであった。

「や、やっぱり何でもなかったです」

 またもや、なんとも言えない沈黙がそこに横たわった。
頭から煙でも出そうなぐらい顔を赤くして俯く星さんは、何というか、毘沙門天の弟子と言う剛健そうな肩書きに似合わず、可愛らしかった。
何だか微笑ましい気持ちが出てくるのと同時、星さんを見ると俺の醜態にくるりと返ってくる物があり、こちらも赤面してしまう。

 この寺には赤面する成分でも含まれているのだろうか、などとくだらない事を考えていると、失礼します、と扉が開いた。
人影が一つなのは、星さんの時は俺の“名前が亡い程度の能力”と言う注意事項があった為なのだろう、聖さんはすぐに他の人を呼びに行っているようである。
姿勢を正すと、聖さんが連れてきた人が見えた。
灰色の髪に頭の上にある丸い耳、赤い瞳に幼い顔。
黒と灰色のワンピースからはまたもや灰色のしっぽが覗き、くるんと丸まっている。
その特徴的な容姿に劣らず、首からかけられた青い菱形の宝石が印象的だった。
す、とスカートを折りたたんで座り、背筋のぴんとした姿勢で彼女が口を開く。

「やぁ、初めまして、私は妖怪ねずみのナズーリンだ。
ご主人様の星共々、よろしく頼むよ」
「はい。俺は外来人の、七篠権兵衛です。こちらこそよろしく」

 何というか、威厳ある所作であった。
対して感じる力は弱く、もしかしたら俺よりも弱いかもしれないぐらいである。
とすると、この威厳はナズーリンさんの知性によるものが大きいのだろうか。
そう考えると尊敬の念が湧いてきて、思わずナズーリンさんを憧憬の目で見る。
それからナズーリンさんの言葉を反芻して、早速疑問が湧いた。

「所で、ご主人様と言うのは?」

 失礼な話だが、正直可愛らしい星さんよりもナズーリンさんの方により威厳を感じてしまう。
それなのにナズーリンさんの方が手下であると言うのは、一聴して妙に感じる響きであった。
勿論、力の大きさを考えれば当然の話なのだが。
ちらりと視界の端に星さんを見やりながら言うと、ナズーリンは一つ頷き、快く答えてくれる。

「あぁ、私は毘沙門天の部下でね。
それで、その弟子たるこのおっちょこちょいなご主人様の手下をやっているのさ」
「おっちょこちょい?」

 そうなのだろうか、と素直に星さんに視線をやると、ぱくぱくと口を開け閉めしながら、真っ赤になっていた。

「な、なな、ナズーリンっ! お客様の前でなんて事言うのですかっ!」

 思わず、と言わんばかりに大声を上げる星さん。
対するナズーリンさんは、やれやれ、と両手を掌を天井に向けながら上げつつ、溜息を一つ。

「おや、ご主人様、これはご主人様を想っての事なのだよ。
何せご主人様にうっかり癖はあるのは本当の事だ。
ならばそれを直さねばならないが、それには長い時間がかかる。
しかしそれでは毘沙門天の威厳に関わってしまうので、まずはそれを隠す事を覚えねばならない。
例えば、こんな時に反応せず、受け流してしまえるぐらいにはね。
私がしているのは、その為の訓練なのだよ」
「な、なるほど」

 と、それで納得して頷く星さん。
当然、俺も納得の色を見せた。
確かに過剰な反応は、時にただ答える以上の雄弁さを持つ事がある。
俺もよくそれでからかわれる事があり、その度に恥ずかしい思いをしてきたのだが、それもまた斯様な深遠な理由があったのだろうか。
だとすれば、俺にそれを気づかせてくれた彼女は、まさに恩人である。
感謝しつつ、俺は笑みを浮かべて口を開く。

「どうやら、星さんは素晴らしい部下をお持ちのようですね。
こんなに主人思いの部下を持てるなんて……」
「は、はい、そうですね。
な、なんだか嬉しくてむず痒くなってきちゃいましたっ」

 と、感動を星さんと共有していると、そこにナズーリンさん。

「って、いや待て待て、権兵衛さん、本気で言っているのかっ!?」
「え? それは勿論、本気ですけれど」
「え? 今の何処に本気じゃない要素があったんですか、ナズーリン」

 星さんと同時に聞き返すと、ナズーリンさんは、天を仰ぎ、頭に手をやった。
あー、うん、と何やら呟きつつ、一度何だか疲れたような視線で俺を見る。
かと思えば、ナズーリンさんは、はっと何か思いついたようで、小さく手を打った。
何やらうんうん、と頷きつつ、俺へ視線をやる。
知的なそれが、何故か獲物を見る目に見えて、俺の背筋に悪寒が走った。

「うん、ちょっとだけ私の負担が二倍になるのかと思ったけれど、よく考えたら玩具も二倍になるんだ、嬉しい事だね」
「はぁ……」

 よく分からない事を言うナズーリンさんである。
首をかしげ、星さんに視線をやるものの、そちらも同じように首をかしげてこちらに視線をやっており、何も分かっていない事が知れる。
一体どんな思考がそこにあったのか、矢張り幻想郷の知恵者は頭がいいなぁ、と感心していると、失礼します、と再び扉が開く音がした。
今度は聖さんと一緒に部屋に入ってきた人へ、視線をやる。
セーラー服に身を包むその人は、破廉恥な判別方法ではあるものの、セーラー服を押し上げる膨らみからして女性であろう。
と、そんな風に判別しなければいけないのも一つ理由があって、その、何といえばいいのだろうか。
言葉を探すうちに二人が座り、セーラー服の女性が口を開く。

「こんにちは、私は船幽霊の村紗水蜜です。ムラサって呼んでくださいね」
「はい。俺は外来人の七篠権兵衛。権兵衛をお呼びください」

 と名前を交換して、俺はじっとムラサさんの顔を見つめる。
何とも言い難い感覚に襲われるが、しかしこの顔が正常な状態であるとすると、聞くのは失礼に当たるのかもしれない。
しかし、何らかの異常があってこうなっているのならば、逆に疑問に思わないようにするのが失礼に当たるのかもしれず。
とりあえず、俺は口を開く事にする。

「失礼ですが、まず一つお聞きしてよろしいでしょうか」
「はい? なんでしょうか」

 首を傾げるムラサさんの、その頭を見つめる。
その真剣さが伝わったのだろうか、唾を飲む音が聞こえた。

「その、何故、顔が……、UFOなのでしょうか」

 ずこぉっ、とずっこける音が四つ。
そう、ムラサさんの首から上は、何故か七色に光るUFOになっていた。
もしかして船幽霊とは元々こういう妖怪なのでは、しかしそれにしても未確認飛行物体との関連性は如何に、と考えていたのだが、この様子を見るに俺以外にはそう見えていなかったのだろうか。
首を傾げる俺を尻目に、早速立ち直ったムラサさんが、地の底から響くような声で言う。

「ぬ~~え~~っ!」

 とたんにムラサさんの背に巨大な錨が出現、天井に向かって放られる。
きゃん、と短い悲鳴と共に少女らしい影が墜落、同時にムラサさんの首の上のUFOが消え、本来の物であろうマリン帽を被った美しい黒髪の少女の顔が現れた。
と言っても、流石に口をひくつかせているその表情は怒りに満ちており、ちょっと触れたくは無かったが。
代わりに俺は、落ちてきた少女の方へと視線をやる。
落ちてきた時にぶつけたのだろう、顎の辺りを抑える少女は、こちらも黒髪の美少女であった。
首もとに赤いリボンのついた黒いワンピースで、丈は短くオーバーニーの黒ソックスを穿いており……。
そこまで見て、俺は思わず視線を逸らした。
それに気づかないまま、聖さんが苦笑気味に口を開く。

「この子は、封獣ぬえと言います。ほら、自己紹介」
「何よ、ちょっと悪戯したぐらいで……、あ、うん。
こほん、えーと、私は鵺の封獣ぬえ、ぬえでいいわ」
「あ、はい。俺は七篠権兵衛、俺も権兵衛と呼んでいただければ」
「って、何であんた目を逸らしてるのよ」

 と言われ、思わず顔を赤くする。
そう言われて気づいたのだろう、何故かと言わんばかりの視線が俺に集まった。
皆純粋な目で見てくるのが、心に痛い。

「その、…………………です」
「え、何? 聞こえないわよ」

 と、迫るぬえさん。
逸らしても視界に入ってくるそれから、必死で目を背けつつ、俺は言った。

「その、す、スカートがめくれ上がって、その……」
「――っ!?」

 声にならない悲鳴を、ぬえさんは上げた。
百八十度ターンし、スカートを直してから半泣きになりつつ俺に叫ぶ。

「エッチ馬鹿変態っ!」
「ご、ごめんなさい、破廉恥でごめんなさいっ」

 と謝る俺を尻目に、物凄い勢いで扉を開け放ち、飛び出てゆくぬえさん。
何というか、嵐のような子だった。
居なくなってしまうと凪いだように静かになり、沈黙が横たわる。
呆然としていた四人だったが、暫くしてからぽつりと聖さんが漏らした。

「えっと、他に一輪と雲山と言う子が居るんだけど、今は所用で出ているから、これで全員ね」
「あ、はい」

 再び沈黙。
今度は四人ともちらちらと俺を見てくるのが、何とも気まずい沈黙であった。
四人ともがなんだか赤い顔をして見てくるのが、更に加えて気まずく感じる。
これからこの女所帯で匿ってもらうのに、破廉恥な男と思われてしまっただろうか。
いや、しかし不可抗力なのである、と言う言い分もあるのだが、性的な問題は常に女性が正義である。
どうしよう、と内心青くなるものの、不幸中の幸いと言うべきか、視線は悪意を含んではいなかった。
代わりになんだか微笑ましく思われているような気がして、俺は耳まで赤くなってしまう。
唯一違う視線の色をみせるナズーリンさんも、何だか物凄い楽しそうな顔をしていて、本能が顔を合わせるなと警笛を鳴らす。
怪我人の体にも障るし、行きましょうか、と聖さんが言って四人が出て行った時には、思わず安堵から溜息をついてしまう程の物だった。



 ***



 その後昼食をいただき、俺は一人で命蓮寺の中を歩きまわっていた。
何にしてもいざと言う時はあるし、特に今は俺が里に邪悪な妖怪だと誤解されている状況なのである。
まだ満月を過ぎたばかりだからだろうか、既に五割近くまで魔力の回復した俺は、今のうちに寺の構造を把握させてもらう事とした。
里人が相談に来るかもしれず、また疑惑を晴らす為それを受けない事もできないが、奥の方にはまず人は来ないだろう、と言う事で、許可がもらえたのだ。
俺は脳裏に命蓮寺の構造を叩き込み、いざと言う時裏口などから逃げて、命蓮寺に俺を匿っていたと言う証拠を隠滅する準備をした。
同時並行して、俺はこれから何をすべきかと頭の中で整理整頓を始める。

 さて、匿ってもらえると言うのは素直に嬉しいのだが、しかし何時までとなると、これが問題である。
俺が自宅で過ごすには二つ問題がある。
一つは里人に見つかった時一溜まりもないと言う事で、もう一つは妖怪に対する自衛手段が不十分であると言う事である。
両方とも俺の力量の向上により解決できる問題なのだが、それにはあと2~3年はかかると言う。
流石にそこまでの長期間命蓮寺に世話になる訳にもいかず、必然、他の手段を講じる必要があった。

 と言っても。
幾つか案は考えつくものの、どれも他者の力を借りた物ばかり。
それも道具を借りて人払いの術を強力にしたり、護衛をしてもらったりぐらいしか思いつかず、前者は兎も角後者は多大な時間を裂いてもらう必要があり、非現実的だ。
自活する事すら誰かに過剰に寄りかからねばできないと言う現実に、絶望感が漂ってきた。

 せめて、答えの見つからないままにしても、此処に匿ってもらい続けると言うのはやめよう、とだけ思う。
幾つかある俺と関係の深い場所の中でも、此処は最も精神的に人里に近い場所の一つである。
人里との交易が全くない知り合いと言うのが居ないので、匿ってもらう上で多大な迷惑をかける事は確定なのだが、比較論で言うとそうなる。
同じ理由で里に薬を供給する永遠亭も駄目だし、妖怪退治を依頼される博麗神社も駄目、里でよく人形操りをすると言うアリスさんも頼れないだろう。
文さんは天狗の社会性を鑑みるに相当な負担をかけてしまう事になるし、慧音さんはそもそも人里に住んでいるので論外、よく竹林で里人の護衛をすると言う妹紅さんも同じか。
当然、それ以前の問題で守矢神社も選択肢に入らない。
すると白玉楼と幽香さんの家と紅魔館があげられる。
一応三つとも候補にしつつ、更にその中で優先順位をつける事にした。
命蓮寺に俺が匿われていると疑われた場合、迷わず頼るべきだからである。
己の非力さに反吐が出そうになるが、強引にねじ伏せて続きを考える。

 白玉楼は妖夢さんが俺を切らずにはいられないのが心配である。
幽香さんは以前ひょんな事から衝動的に俺を傷つけさせてしまった事が少し心に残る。
紅魔館は知り合いの割合が最も少ない場所でもあり、軋轢を起こす可能性があるだろう。
とすると、この中では幽香さんの家が最適な逃げ場所だろうか。

 しかし逃げ場所とは、と、俺は自身に唾を吐きつけたくなる衝動に襲われた。
此処に到るまで彼女たちに死ぬほどの恩を貰っていると言うのに、これ以上頼りにするとは。
その上こんなふうに優先順位をつけてみると、まるで彼女たちを道具のように扱っているようで、自分の醜さに吐き気がする。
どうせ誰かの負担にならねば生きていけないと言うのなら、俺はあの火刑で死んでいた方が世の為だったのではなかろうか。
そこまで言わずとも、単純に醜い物が世界から一つ消えると言うだけで、充分に世の為であるかもしれない。

 はぁ、と一つ溜息をつく。
それから俺は、近くの柱に、強く頭を打ち付けた。
ガツン、と言う鈍い音が響く。
荒い息が喉奥から漏れ、耳朶の中を反響し支配する。

 それでは駄目だろうが、と俺は自分に言い聞かせた。
それではただの、卑怯者の逃げでしか無い。
俺は恩人達にこの恩を返すまで、死ぬに死ねぬ。
ばかりか、俺は幽香さんに何を教わったのか。
人のぬくもりがただあるだけで、どれだけの奇跡か知ったのではないか。
それによって、俺如きでも誰かの為になれるのだと確信を得たのではないか。
何時までも成長しない己に、怒りが込み上げてくる。
それを発散しようと、もう一度頭をぶつけようとして、それからこれが単なる自傷行為による自慰にしか過ぎないと気づき、やめた。
見ると、魔力の篭った頭突きは柱に少し痕を残してしまっていた。
後で聖さん達に謝らねば、と思いつつ、俺は視線を廊下に戻す。

「…………………」
「…………………」

 何故かぬえさんが、シェーのポーズで固まっていた。
以前てゐさんも同じ格好をしていたが、様式美か何かなのだろうか。

「えっと、驚かせてごめんなさいっ、その、これは……、ゆ、UFOが低空飛行してたので、撃墜の為にっ」

 言語系が大絶賛混乱中の俺の台詞は、訳が分からなかった。
言ってから、自分の言葉の意味不明さに顔が真っ赤に茹で上がり、思わずその場で身を抱きしめ、しゃがんで縮こまってしまう。
ば、馬鹿なのだろうか俺は。
UFOの時点で意味不明、撃墜の為に頭突きが必要な理由も意味不明、そもそも撃墜する理由も意味不明である。
半泣きになりつつちらりとぬえさんに視線をやると、何故か戦慄の表情と共に腰を落とし、戦闘姿勢で口を開いた。

「あ、あんたUFOと見れば即撃墜するのっ!?」
「あ、いえ、そういうわけでは無くて、その……」

 そういう訳では無いのだが、細かく説明すると俺のさっきの恥ずかしい自虐について語らなければならなくなる。
それは一体どんな罰ゲームだろうか。
そう思うと正直には言えないが、かと言って上手いかわし方が思いつかない。
頭の中がぐるぐるして、思考が思うように巡らない。

「え、じゃあどういう訳なのよ」
「えっと、その……」

 言え、何でもいいから兎に角言え、と思うのだが、頭の中が真っ白になって、何の言葉も思い浮かばない。
じわじわと喉の中から込み上げてくるものがあり、それを抑えるのに必死になり、余計に思考を回すリソースが減ってゆく。

「な、何よ、言っとくけど、私はUFOじゃないわよ」
「あの、その……ひぐっ」

 何だかよく分からない言い訳をぬえさんが言うが、それさえも頭の中に入らないまま、ついに俺の涙腺は決壊してしまった。
ぽろり、と涙が一粒零れてしまう。
一度そうなると俺の必死の防戦も脆いもので、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
あぁ、こんな事で泣くなんて、なんて俺は情けないんだろう、と思い、それが悪循環になって更に俺の涙を促進した。

「って、ええっ、あんたなんで泣いてんのよっ」
「うっ、ううっ、そ、その、ごめんなさいっ、こんな何でもない事で泣いてしまってごめんなさいっ」
「いや、謝らなくていいから、っていうか、謝る意味もわかんないしっ」
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」

 頭の中に少しだけある冷静な部分が、どうやら俺は里人に私刑にされた事で想像以上に動揺しているらしい、と判断する。
しかしそれもすぐに涙に流され、俺はしゃがみこんだままぽろぽろと涙を流してしまう。

「うっ、うっ、あ、その、廊下、ひぐっ、汚しちゃって、ごめんなさい」
「い、いいから、泣き止みなさいよっ、なんかこれ私が悪者みたいじゃないっ」
「ご、ごめんなさいっ」

 と言って、どうにか涙を引きとめようと、目の辺りにぐっと力を入れるものの、涙は止まらない。
ならば今度は、と瞬きを多くするものの、涙は次から次へと溢れてきて、止まる気配は無かった。
そのまま俯いて泣きじゃくっていると、ぽん、と頭の上に温かい物が置かれた。
不意を突かれ見上げると、優しげな表情でぬえさんが俺の頭に手を置いている。
黒曜石の瞳と、視線が交錯した。
交錯は一瞬、すぐに顔ごと目を逸らし、少し頬を赤くしてぬえさんが言う。

「そ、その、よくわかんないけど、とりあえず涙がある分だけ泣いちゃいなさいよ、撫でてあげるぐらいするからさ。
何時までも泣いていられちゃ、なんか私が泣かしたみたいで気分悪いし。
あ、でも胸は貸してあげないわよ、あんたセクハラ疑惑あるんだし」
「ううぅ、うぅ、あ、ありがどうございまず……」

 それだけで、充分過ぎるほどの温かみだった。
俺はそのまま、されるがままに撫でられつつ、暫くの間涙を流し続ける事になる。
誠に面倒くさい奴だったが、それに付き合ってくれたぬえさんは本当に優しく、里で悪意を受け続けた後だからか、その優しさが身に染みるようだった。



 ***



 それから少しして俺が泣き止む頃になると、気づけばぬえさんは何処かへと消えてしまった。
是非お礼を言いたかったのだけれども、彼女の部屋も分からない為、言いに行く事ができない。
それでなくとも、流石にあれだけ泣きすがった後となると、俺も恥ずかしくて、彼女に顔を合わせるには冷却期間が欲しい所であった。
なのでまぁ、ちょうどいいか、と思う事にし、俺は命蓮寺の探索を続ける事にする。
暫く歩いていって、頬の火照りが収まった頃に、俺は寺の庭園に差し掛かっていた。
午前中の雨はいつの間にやら消え去ってしまい、天気は快晴である。
雲ひとつ無い空の下、命蓮寺の庭園は見事な物であった。
鯉が泳ぐ巨大な池に、浮島のように点々とある石、その周りには冬にも尚映える枯れ木やししおどしなどが精密に配置されている。
石庭である白玉楼の名園とはまた違う趣のある、素晴らしい庭園だった。
思わず見入ってしまい、俺はほぉ、と溜息をつきつつその場に立ち尽くす。

 暫く庭園を眺めた後、ふと俺が周りに視線をやると、庭を挟んで反対側の廊下にムラサさんの姿が見えた。
ムラサさんと言えば初対面の出来事で元気なイメージがあったのだが、欄干に体重を預けてぼうっと庭の池を眺めるその姿は、何処か寂しげで、思わず手を貸したくなるような姿であった。
僅かな間、俺の中に迷いが生まれる。
俺如きが誰かに手を貸して、それを悪化させたらどうするのだ。
鬱陶しいぐらいに胸の中に付きまとってくる迷いである。
少なくとも俺は、今までにレミリアさんは救えている筈であった。
いや、救いと言う程でなくとも、手は貸せている筈だ。
それに多くの人に、本当に小さな物であるものの、恩返しは出来始めている筈である。
それでも何処か胸の奥に巣食う迷いに、俺は頭を振って迷いを払いつつ、ムラサさんの元へと歩みをすすめる。

「こんにちは、ムラサさん」
「……あ、権兵衛さん」

 声をかけるとムラサさんは虚ろな目に光を戻し、くるりと可憐な動作で俺に振り向く。
そして元気一杯と言わんばかりの笑顔を浮かべて、両腕を開いてみせた。

「どうですか、命蓮寺の自慢の庭園は。
美しい物でしょう、これはナズーリンとその部下のねずみ達が作ったんですよ」
「へぇ、流石はナズーリンさん、凄いですね」

 感心して一つ頷く俺に、ムラサさんもまるで自分の事が褒められたかのように笑う。
それからくるりと可愛らしい仕草でその場でターンし、再び庭へと体を向けた。
釣られて、俺もまた庭へと体ごと視線を向ける。

「結構大きい池でしょう。
ナズーリンのねずみ達が作業したのですが、鯉を入れたら食べようとしちゃって、聖に怒られてたっけ」
「はぁ、ナズーリンさんの部下なのに、ですか」

 ナズーリンさんと言えば、会って間もないが、知的と言う印象がある。
それが観賞用の鯉を食べてしまおうとすると言うねずみの行動には、あまり結びつかない。
そんな俺の表情を悟ったのか、くすり、と小さく笑ってムラサさんは言う。

「まぁ、ねずみは食欲旺盛だからね。
チーズなんて赤色の薄い食材は食べたくないんだそうです」
「バチが当たらなければいいんですけどね」

 なにせ鯉と言えば、祝い事に使われる食材でもあり、供え物とされる事も多い。
となると当然、神様は自分の食べるであろう鯉を見定めている事もあるだろう。
それを目の前で掻っ攫ってしまう事となれば、不興を買ってしまうのではないか。
そんな風に心配する俺を、安心させるような笑顔を浮かべるムラサさん。

「大丈夫、此処の祀っている毘沙門天様は忙しくて滅多に来れません。
その弟子の星だって、実はナズーリンに頭があがらない所もあるんです。
それに、何より……」

 一度、言葉を切ってからムラサさんは庭園の池へ視線をやる。
小さく溜息をつきながら、少し困った風に言った。

「聖も、居るしね」

 そうやって続けるその姿は、何処か寂しげで、辛く、今にも崩れ落ちそうなように見える。
触れない方がいいのでは、と思い、そっとしておく事も考えた。
が、ムラサさんのその虚ろな表情を見ると、今すぐ助けねばならないのでは、と言う衝動に駆られる。
本当に俺ごときでムラサさんの助けになれるのか。
むしろ状況を悪化させる事になりはしないのか。
そんな風に内心を込み上げてくる弱音を振り払い、俺は口を開いた。

「ムラサさんは……、聖さんの事が好きですか?」
「え? も、勿論よ、あの人に救ってもらえたから、今の私があるんだもの」

 反応してムラサさんは、素早く体ごと俺の方に振り向き、何度も繰り返すように首を縦に振る。
動揺しているのだろうと、一目見て分かる所作であった。
思わず目を細め、俺は続けて言う。

「……そうですか、それならいいのです。
これは、勝手な想像なのですが……。
聖さんは、多くの妖怪に慕われていらっしゃる。
それは噂でも、此処での姿を見ても、納得のいく事です。
ですがだからこそ、ムラサさんが自分を押し殺して、聖さんに相談する事を躊躇しているのではないか、と思いまして」

 ムラサさんは、高い頻度で瞬きをし、両手を胸に当てながら、小さく肩で息をした。
それから俯き、小さな声で言う。

「どうして、そう思ったのかしら?」
「ただの勘です。
その、俺は生まれついての鈍感なのですが、最近は傷ついた人を見る機会が多くあって、それで目が鍛えられたのかもしれませんね」
「何よ、それじゃもう鈍感じゃあないじゃないの」

 言いつつ、ムラサさんは視線を上げ俺を見据えた。
くすり、と微笑むムラサさんは、その笑みさえも虚ろで、目の光が消えたような感じであった。
痛ましい姿に、目尻にぐっと力が入る。

「もし、そうだとしたら。
その、俺如きじゃあ相談相手として心許ないかもしれませんけれど。
でも、その、話を聞く事ぐらいなら俺にはできます。
俺で無理なら、他のナズーリンさんや星さん、ぬえさん達にでもいいです、是非誰かに話を聞いてもらっては如何ですか?
誰かに何かを言うだけでも、少し心は軽くなるものです。
悩みの解決とまではいかずとも、その助けぐらいにはなれるのです。
ですからどうか、何か話してはいただけませんか?」

 身振りを交えた言葉を俺が言い終えると、暫くムラサさんは天を仰ぎ、その場で立ちすくんでいた。
緊迫した、糸の張り詰めたような空気が空間を満たす。
どんな返事が返ってくるものか、返事の色によってどんな反応を返そうか、頭の中で色々を考えていると、不意にぽつり、とムラサさんが言葉をこぼした。

「仕方ない事なのよ、私と言う存在にとっては」

 それを枕詞にして続きがついてくるものと思い、俺は身構えた。
が、どうやら言葉はそれで終わりらしく、ムラサさんは体ごと庭園に視線をやる。
それ以上は、話すことでは無い、と言う事か。
まぁ、会って一日と経たない男に話すような事では無かったのだろう、と思い、僅かな寂しさを感じつつも、ムラサさんの視線の先を辿る。

 するとどうやら、ムラサさんは池の方を眺めているようだった。
もっと言うと、鯉ではなく池そのものを、それも石が少なく底が深そうな部分を見ている。
それを見て、そこだけミニチュアの海のようだな、と思い、俺はふとムラサさんの言葉を反芻した。
“私と言う存在にとっては”。
ムラサさんと言う存在は何だったかと言うと、勿論船幽霊である、と言う言葉が返ってくる。
船幽霊とは何か。
柄杓で水を組み入れ舟を転覆させ、人間を自分の仲間にする妖怪である。
それを考えると、ムラサさんは此処の所、舟を転覆させていないのではないか、と言う想像が俺の胸を過ぎった。
何故ならこの幻想郷には海が無く、また湖にしても妖怪の山の麓にあり、しかも岸に紅魔館があるため、舟を使うどころか近づく事すら稀だからだ。
勿論人妖平等を謳う命蓮寺の仲間である、元々人を殺すような事は無かろうが。
それを思えば、俺に一つ思いつきと言う物があった。
よって、俺は口を開く事にする。

「ムラサさん、もしかして、此処の所、舟を転覆させるような事はしていないのではないですか?」
「え? うん、まぁそりゃそうですけど、なんで?」
「その、俺の想像でしかないのですが……」

 と、俺の想像を口にすると、ムラサさんは少し驚いたように目を見開いていた。
当たらずとも遠からず、と言う所だろうか。
その反応を確認してから、俺は口を開く。

「もしそうなら、俺にその欲を発散させる思いつきがあります。
例えば俺の友人に一人、斬る欲を発散する為に、生き物をうっすらと斬る事を繰り返し、その欲を発散させていた子が居ます。
それと同じように、無人の舟を、転覆させてしまえばいいのです。
そうすれば、貴方の欲は、完全とは言えずとも発散させる事ができるのではないでしょうか」
「……うん、そうか、も」

 と言って顎に手をやり、俯いて思索にふけるムラサさん。
しかし、すぐに面を上げ、苦い顔で言った。

「いや、やっぱり駄目です。
無人とは言え舟を転覆させる所を見られたら、聖に迷惑がかかる。
それにその舟だって、何処から調達してくる気かしら?
この幻想郷には舟を浮かべる人なんていないと言うのは、貴方が言った台詞よ?」

 返ってくる内容は、どちらも予想の範疇にある物だった。
なので俺は、笑顔で返事を告げる。

「それなら大丈夫です。
場所なら今此処の池を借りれば、小舟ぐらいは浮かべる事ができるでしょう。
そして舟なら……」

 言って、俺は天に手を掲げる。
そして回復した穢れない魔力の殆どを注ぎ込み、形作った。
初め光は、楕円形の珠であった。
それが上半分を切り取ったような形になり、そこから徐々に鋭角に、中を繰り抜き腰掛けを残して取り去られてゆく。
そこから俺は、舟を見た記憶の無い俺ではリアリティのある舟を作れないと考え、ムラサさんの思い描く舟の想像を拝借した。
想像とは内なる力であり、内なる力に干渉するのは月の魔力の得意技である。
当然その想像に沿った舟が創りだされてゆく。
最後に出来たのは、簡素な舟の形をした、月の魔力の塊であった。
穢れ無き狂気に満ちたそれは、本来なら妖怪と言う妖怪を狂わせる狂気の波長で出来ているのだが、俺の手によってコントロールされている現在、狂気は毛ほども感じられない。

「俺が、作りますとも」

 そう言って俺がムラサさんへと笑顔を向けた。
ムラサさんは、目を限界まで見開き、呆然と舟を見つめていた。



 ***



 村紗水蜜は、船幽霊だった。
はるか昔、海で舟が転覆して亡くなった、人間の霊である。
その時ムラサは一体何をしていたのか。
舟で何処かを目指していたのか、それとも漁でもしていたのか。
それすらムラサ自身も詳しくは覚えていないが、命を落としてから初めて意識が戻った時、何かが足りないと思ったのは覚えている。
ぼうっとしたまま海を漂い、付近を通過していく舟を見ているうちに、ムラサはその舟が足りない物なのではないかと思った。
しかし近づいて見てみると、いや、違う、と言う念がムラサを支配する。
そう思うと、ムラサは急に目の前の舟に憎しみに近い念を感じた。
自分でもぞっとするぐらいの、深い憎悪。
気づけばムラサは、鬼のような形相となって、手で水をすくってその舟を沈めていた。
肩で息をしながら、ついに舟が転覆した時、ムラサはやっと我に返り、自分のしていた事に気づいた。
なんて事をしてしまったんだろうと顔を覆い、許されることではない、と己を責めた。

 しかしムラサは、それからも舟を転覆させ続ける事に抗えなかった。
最初は海を離れようとしたのだが、何か海に探している物があるような気がして、どうしても離れられなかったのだ。
通りがかった舟を転覆させる毎日を送り、そのうちにムラサは船幽霊として人間たちに恐れられるようになる。
そうなると、人間の恐怖がムラサを縛り付け、海を離れられないばかりか、舟を見かけたとき転覆させずに通す事すらもできなくなった。
ムラサは、絶望した。
己は此処から永遠に離れられないのか。
己はこれから舟を転覆させ続ける事しかできないのか。
そんな、呪われた所業を続ける他ないのか、と。

 そんな折、ムラサへと旅の空飛ぶ妖怪からの噂が耳に入る。
何でも、場所に縛られた妖怪でも、その格が上がれば何時かはその場所から離れる事ができるのだ、と。
その噂が、ムラサの唯一の希望であった。
人を殺し舟を転覆させ続ける事しかできない呪われた海から離れようと、それだけを望みにムラサは舟を転覆させ続ける。

 聖と出会ったのは、そんな折であった。
最初は高名な僧侶として自分を退治しに来ると聞き、ムラサは希望に胸湧いた。
何故なら、そんな高名な僧侶を載せた舟を沈めれば、妖怪の格が大幅に上がり、自分はついにこの呪われた海から解放されるのではないか、と思ったのである。
そう意気込んだムラサだったが、僧侶の乗る舟は呆気無く沈められてしまった。
こんな相手では自分の格が上がるまい、と落胆するムラサの目の前に、それは現れた。
聖と、彼女が乗る光り輝く舟であった。
しかもその舟は、昔ムラサが載っていた、自分の舟であったのだ。

「貴方はこの舟を探していたのでしょう? だから違う舟は全て転覆させてきた」

 笑顔を浮かべながら手を差し伸べる聖は、さながら後光が差す仏のようであった。
涙しながら、ムラサはその手へと手を伸ばす。

「この舟を操るのは貴方です」

 その言葉で、ムラサは救われた。
呪われた海から解放され、殺人からもまた解放されたのである。
それからのムラサはただの船幽霊ではなくキャプテン・ムラサ。
光の舟を操る、船長となったのだ。

 聖の元に居る時は楽しかった。
聖が時折遠方からの救いを求める声に答える時など、ムラサは光の舟を操り聖を送った。
再び舟を操る感覚に、そして誰かを乗せて運ぶ感覚に、ムラサは涙さえ零したのであった。
仲間も素晴らしい仲間が居た。
ちょっとうっかりしている星に、真面目で要領の良い一輪、頑固な雲山、頭の良いナズーリン。
他にも山ほどの妖怪が聖を慕い、聖もまたそれを受け入れていた。
それはまさに、黄金のように輝かしい時間であった。

 しかしそんな時間は、数十年しか続かなかった。
聖は人間に封印され、ムラサ達は地底に封印された。
光の舟、聖輦船は未だ手にあったし、仲間も多くは共にいたものの、矢張り自分を救ってくれた聖が居ないのはとても寂しく、辛い事であった。
だから間欠泉により飛倉と共に地上に出てきた時、ムラサは星に協力し、聖を復活させる為に飛倉を集め始める事にした。
そして博麗霊夢の介入を経て、聖はついに復活する事になる。
これで、またあの黄金の時代が蘇るのだ。
そう思うとムラサは胸が熱くなったし、興奮を抑えきれず、感動に咽び泣きさえした。
そんなムラサの目の前で、聖は聖輦船を改装して寺にした。
ムラサの舟は、その原型を無くしてしまった。

 ムラサは愕然とした。
ムラサが呪われた海から解放されていたのは、聖輦船があったからである。
それがなくなってしまえば、再び呪われた海へ舞い戻らねばならないのではないか。
最初そう思ったものの、どうやらムラサはまだ海を離れていても活動できるようで、かつての海に戻される事は無かった。
それでも、自分を救った舟がなんでもないように寺にされてしまったのは、ショックであった。
ムラサは動揺しつつも、しかしすぐに聖は自分に法力で舟を作ってくれるだろう、と信じ待つ事にする。

 一週間が経った。
新しく建てた寺の管理などで忙しい聖に、やきもきしつつもムラサは黙って待っていた。
一月が経った。
ムラサは、自分が精神的に消耗している事に気づいた。
何せ船幽霊は、舟を沈めるのが役割なのである、ムラサがそれを果たさずに済んでいたのは、聖輦船があったからに過ぎない。
妖怪にとって精神的な消耗は、寿命を縮める行為である。
このまま気付かれなければ、自分はゆっくりと死んでいってしまう事に気づき、それでもムラサは聖が何時か気づいてくれる事を信じて待った。
自分から言い出す事も考えたが、ムラサはどうしても恩人である聖相手に我儘を言えず、結局言えなかった。
精神的な傷がムラサから積極性を奪っていたのも、一因だったかもしれない。
そして半年が経っても、まだムラサには自分の舟がないままであった。

 そして今、権兵衛がムラサに舟を作った。
しかもその舟は、昔ムラサが乗っていた、自分の舟なのであった。
聖の作った聖輦船より、力の格では劣るかもしれない。
しかし聖輦船以上に穢れ無き気配があり、そして聖輦船以上にムラサの舟に似ていた。
本物と二つ並べてどちらが本物かと問われれば、こちらを選んでしまうかもしれないぐらいに、である。
その本物以上のリアリティに、ムラサは固唾を飲んだ。

「権兵衛さん……」
「はい?」
「乗ってみて、いいですか?」
「はい、それは勿論」

 笑顔で権兵衛は答えた。
ふらふらと欄干を乗り越えようとするムラサ。

「お手を拝借」

 その手があまりに危なっかしい動きだったからだろうか、権兵衛が手を貸し浮遊、穢れ無き舟の上までたどり着く。
震えるムラサに心配そうな目を向けつつ、権兵衛とムラサは穢れ無き舟へと足を下ろした。
軽く舟が揺れる。
水面に波紋ができ、円形に広がってゆく。
波紋と波紋がぶつかり合い、小さな小さな波が出来た。
ムラサは、自分の息が荒くなるのを感じる。
オールを軽く動かし、舟のバランスを取ると、それも落ち着いた。

「ど、どうでしょうか、沈めたら欲を満たせそうな舟でしょうか?
一応、頑張ってみたんですけれど」

 と言う権兵衛は心配そうな表情で、あぁ、そういえばこいつは沈める為に舟を作ったんだな、とムラサは思った。

「ううん」

 と、ムラサは首を横に振る。
ムラサが沈めたいのは自分の舟では無い舟なのだ、こんなに自分の舟と同一な舟を沈めるなんて、とんでもない。
権兵衛が目を見開くのに、権兵衛の手を握ったまま腰を下ろし、ムラサは言った。

「これは沈めなくていいんですよ。
ううん、これは浮いていて、私の物だからこそ、価値がある。
ねぇ、権兵衛さん」
「はい?」

 首を傾げる権兵衛に、両手を合わせてムラサは請う。

「この舟を、いただけませんか?」

 全身に溢れる感動が、ムラサに涙を流させていた。
絶望的な状況から救われたと言う思いが。
これからまたあの黄金の時代に戻れるのだと言う思いが。
そして何より、これから自分はあの呪われた海に戻らないかと心配しなくていいと言う思いが、ムラサの全身から溢れ出す。
何の対価も示さずにただ欲しいと言う、はしたない言動であると自覚しながらも、それをムラサは止められなかった。

 これで。
もしこれで断られてしまったらどうしよう、とムラサは思う。
救われたかと思ったこの瞬間に精神を落とされれば、ムラサはその場で消滅してしまうかもしれない。
正に今、ムラサはその生命を権兵衛の掌の上に乗せていた。
それなのに、そんな事は心配いらないとばかりに、権兵衛は笑顔を作ってみせる。

「勿論、かまいませんよ。
これでこの舟は、貴方の物だ」
「――……あ」

 まさに救いの言葉であった。
何時かの聖と重なる権兵衛は、その力こそ聖よりも小さいけれども、その聖人性は聖を超越しているようにさえ思える。
舟の穢れ無さがそう思わせるのか、それとも聖の気づかなかったムラサの不調に容易く気づいたことがそう思わせるのか、どちらか分からないけれども、兎も角。
光り輝く船の上、権兵衛は誰よりも聖なる人間であるように、ムラサには思えた。
救われたのだ。
実感が遅れてムラサを襲い、喉の奥から熱い物が込み上がってくる。

「う、うぅ……」
「む、ムラサさん?」

 衝動に駆られて、ムラサは目の前の権兵衛に抱きついた。
思ったよりも、権兵衛の肉が硬い事に、少しだけムラサは驚く。
体温が高めなのか、抱きついていると触れた部分から暖かさが伝わってきて、心地良い。
鼓動が伝わってきて、ムラサは権兵衛の心臓の鼓動に合わせてしゃくり上げる。
ムラサは嗚咽を漏らしつつ、顎を権兵衛の肩に載せ、頬を擦り合わせる。
乳房を押しつぶすぐらいの力強さで権兵衛を抱きしめ、服を確りと握りしめた。

「わ、私、こ、このままじゃ死んじゃうんじゃないかと思ってて」
「………………」
「だ、誰にも、うぅ、相談できなくって」
「………………」
「でも、わ、分かって欲しくって」
「………………」

 ムラサが弱音を漏らすたびに、権兵衛もまたムラサを抱きしめる力を強くしてくれる。
少し痛いぐらいの力加減が、むしろ強固に自分を引き止めているように思え、心地良かった。
そんなムラサへ、権兵衛は優しく告げる。

「大丈夫」

 と、権兵衛は言った。
ぐ、とムラサは権兵衛の服を握りしめる力を強くする。

「もう大丈夫です、貴方は救われたんです」
「――う、うん、大丈夫」

 そう告げると、ムラサはようやくこれで自分は大丈夫なのだと思え、涙の勢いを強くした。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

 そう唱え続けていると、何だかだんだんと落ち着いてきて、ムラサは権兵衛を抱きしめる力を緩める。
それから顔を少し下にずらし、権兵衛の胸の辺りにくっつけるようにして抱きついた。
そうすると権兵衛の鼓動がよりよく聞こえるようになってきて、ムラサは少し安心する。
どくん、どくん、どくん、どくん。
ムラサの唱える大丈夫と同じリズムで権兵衛の心臓が鳴り響く。
そうなると、まるで権兵衛の心臓の鼓動が子守唄か何かであるかのように、ムラサの心は安らかになっていった。

 だからムラサは、本格的に寝入ってしまう前に、と掌を権兵衛の心臓がある辺りの背に当てる。
そうすると、僅かながら掌からも権兵衛の心臓の鼓動が聞こえて、より安らかな気分にムラサはなれた。
目を閉じ、ムラサは想像する。
赤黒い筋肉を束ねたような見目の心臓が、どくんどくん、と脈打つ光景を。
それがムラサの耳と掌の間に存在する光景を。

 それは例えようもなく美しい光景であるようにムラサには思えた。
てらてらと血が光を反射して輝く中、ただただ脈打つ心臓。
その一定のリズムはただ権兵衛の命そのものであると言う訳ではなく、それ以上に権兵衛の心の宿る場所でもあった。
今自分は、権兵衛の、あの聖なる心の鼓動を聞いているのだ。
そう思うと、ムラサは全身がかぁっと熱くなるのを感じる。
それでも権兵衛の体温からは離れたくなくて、むしろムラサは余計に権兵衛と密着し、服と服の間の隙間を無くすよう努めた。

 密着度が上がるに連れて、ムラサは少し息が荒くなる自分に気づいた。
権兵衛を、あの聖なる男の心の鼓動を今独占しているのだと思うと、正直言って興奮する。
あぁ、とムラサは思った。
あぁ、この鼓動が何時でも聞けたらいいのに、と。

 するとムラサの頭の中を、過る物があった。
権兵衛を常に携帯する言うのには無理がある。
権兵衛にも権兵衛の都合があるのだし、物理的に無理だったりもする。
ならば。
ならば、心臓だけ切りだしてコンパクトにしてしまえば、それで済むのではないか。

 思わず、ムラサは心臓の裏に当てている手に、少し力を入れた。
どうやら痛かったらしく、権兵衛が僅かに身じろぎする。
――だが、それまでであった。
ぞっとするほどの欲望に、ムラサは辛うじて耐えたのだ。
それは恩を仇で返す行為である上に、そもそもムラサには心臓を携帯したまま生かすような技術は無い。
もし、とムラサは思う。
もしも心臓を取り出しても権兵衛が生きていて、心臓も鼓動を続けるのであれば、今すぐにでもその心臓を抜き取ってしまいたかったのに。

 そうは思っても所詮はもしもの話。
だからムラサは、せめて何時でも権兵衛の鼓動を思い出せるように、その鼓動を覚えようと意識を権兵衛の心臓に集中させる。
どくん、どくん、と一定のリズムで鳴る心臓の音に、ムラサは少しづつ眠気を覚えるようになった。
瞼を閉じて体重を預けるうちに、意識がゆっくりと薄れてゆき、ムラサは泡沫の夢へと歩み出す事となる。
夢の中で、ムラサは切り出した権兵衛の心臓を、耳に当てて包帯で固定していた。
一日中ずっと権兵衛の鼓動を聴き続けられる日常は、文字通り、夢のような毎日であった。



 ***



 聖は、その場に立ち尽くしていた。
柱に手をやり、曲がり角から顔を覗かせつつ、視線は固定されたまま。
頭の中が真っ白になっていて、身動き一つ取らずに、ただただそこを見つめている。
視線の先には、池があり、その上に浮いた舟があり、そしてその上で抱き合うムラサと権兵衛が居た。

 ムラサの方は、安心して疲れが出てきてしまったのだろう、眠ってしまっている。
体を権兵衛に預けたままのその姿勢は、まるで幼子の笑顔のようにあどけない。
よっぽど安心しているのだろう、と聖はぼんやりとした頭の中で考えた。
視線が、僅かにずれる。
対し権兵衛は、すべての物を慈しむような慈悲深い笑顔で、ムラサの頭を撫でていた。
よっぽど上手い撫で方なのだろう、ムラサは時々権兵衛が撫でるのに合わせて、甘い声を漏らしている。
そんな権兵衛を、池の水面で反射した陽光が後ろから照らす姿は、正に後光が差しているかのようだった。

 不意に、聖は己が息を荒くしている事に気づいた。
柱を掴む手はぶるぶると震え、思わず入ってしまった力が柱にヒビを入れている。
それを見て、聖は怯えるように柱を掴んでいた手を離すが、同時に体のバランスを崩し、ガクッ、と膝と落とす。
今や聖は、掴まる物が無ければ立つ事すらままならなかった。

 聖が出歩いていたのは、たまたまである。
里から権兵衛を匿っている疑いがかけられているのだろう、何時もより多く来る参拝客に疲労の色を見せた聖に、星が休息を取るよう勧めたのだ。
肩こりや軽い頭痛を感じていた聖は、申し訳ないと思いつつもそれを承諾し、庭でも見ながら少し休憩するか、と寺の中を歩いていた。
そこで見つけたのが、ムラサに駆け寄るあの権兵衛である。
人格面で信頼できると感じたとしても、まだ会って一日と経っていないのだ。
それに聖は権兵衛を善人と断じたが、しかし聖の知る人間は、感心するほど良い面をする人でも、邪悪でおぞましい一面を持っている事が多い。
当然、権兵衛のあの自己犠牲の心が唯一無二の彼の本心であるとは限らず、邪悪な心が潜んでいるかもしれぬのだ。
よって悪い事などしないかどうか見させてもらおう、と聖は少しの間権兵衛を観察する事にした。

 簡単な、しかし気取られる事の少ない魔法を使い、聖は二人の言葉を拾う。
隠密性の高い魔法は、密かに妖怪を助け続けていた聖の得意魔法である。
当然権兵衛にもムラサにも気取られる事なく、その会話を耳にした。
最初は、あの明るいムラサに悩みがあったのか、と驚愕する程度で済んでいたが、それも話が進むうちに何とも言い難い感情へと変化してゆく。

 決定的なのは、権兵衛が舟を作り出し、ムラサに与えた場面であった。
かつての聖自身の所業が思い出され、そしてその舟を寺と化したのが自分である事を思い出す。
封印を解いてもらったと言うのに、その代償が救いの鍵を別物にしてしまうとは、なんという仕打ちか。
自分のした事を遅くも自覚する聖の前で、二人は抱き合い、ムラサは感涙を流した。
その光景は何とも清らかで、誰も穢してはならない光景に思え、聖は思わず後退りする。
最後にムラサが権兵衛に抱きついた辺りでもう限界で、聖は最早何も考える事も出来ず、呆然とその光景を眺める事しかできなかった。

 柱を支えに何とか体を持ち上げると、聖はゆっくりと後退を始めた。
頭が働かないが、その光景を見続けていると、自分の中の大きな物が崩れ落ちそうで、兎に角怖いのだ。
しかしその後退もほんの少しで止まってしまい、聖は権兵衛から視線を外せない事に気づく。
すっ、と聖は大きく息を吸う。
それから全身に力を入れ、渾身の力で首を曲げ、どうにか聖は権兵衛から視線を外した。

 数歩、何かあってもまず権兵衛の視界に入らない場所まで戻ると、聖は大きく溜息をついた。
力が抜け、柱に背を預けながら空を見上げる。
午前中の雨模様は何だったのか、今は雲ひとつ無い晴天である。
そんな真っ青な視界に、どす黒い物が沸き上がってくるのを聖は感じた。
今すぐ暴れて、何もかも滅茶苦茶に壊してしまいたい衝動に襲われる。
聖は再び爪が喰い込み血が滲む程に全身に力を入れ、それをやり過ごす。

 全てが去った後に残るのは、虚無感であった。
まるで自分の中から何もかもが無くなってしまったかのような感覚に、聖は顔から表情を無くす。
それでも視線だけは青空に、何も無い青空に。
ムラサに舟を与えるシーンが、聖と権兵衛の二人分、青空に写っていた。

 確かに、力こそ聖の方が大きい。
聖に毘沙門天の加護もあるからか、権兵衛に“名前が亡い程度の能力”による神の力の無効化があるからか、神力独特の荘厳な雰囲気も聖の方が上だ。
しかし。
だがしかし、である。
権兵衛の舟に感じるあの穢れ無さを聖に再現できるかどうかと言えば、出来ない。
ばかりか、聖には封印されていた千年の時を経て感じた、人間の悪辣さへの憎しみがある。
対し権兵衛は、里中に私刑にされ、妖怪に助けられて尚、人間への希望を捨てていなかった。

 劣等感。
今聖の感じている感情の名は、そう言う物であった。
その名を思うだけで、虚無感を押しのけ。狂おしい程の感情が聖の中で暴れ回る。
その男の名を、思わず聖は口にしていた。

「七篠、権兵衛……」

 声に出すと尚更、憎悪が聖の中で渦を巻く。
そして同時、こんな醜い嫉妬をしている自分が、権兵衛に敵う筈は無い、と理性的な部分が呟いた。
それがより一層聖の憎悪を深くし、それが益々権兵衛との精神的な格の差を大きくする。
悪循環であった。
増え続ける感情の発露に、思わず涙を流しながら、聖はぼそぼそと権兵衛の名を呟く。

 そうしているうちに、聖は庭園の池の方で動きがあったのを感じた。
恐らくは、ムラサが目を覚ましたのである。
すると当然、権兵衛は二分の一の確立でこちらへと来てしまう訳で、今の聖は権兵衛と直接顔を合わせたら自分が何をするのか分からない、と感じていた。
急ぎ、その場を離れる聖。
泣く寸前まで我慢した真っ赤な目で、急ぎ権兵衛から逃れるその姿は、腰が低くもムラサを救ってみせた権兵衛と比べれば、卑小で卑小で仕方ない。
それを自覚し、劣等感に身を包まれながらも、聖は走り権兵衛から逃げた。
それでも聖の前に権兵衛は立ちはだかるだろう。
遅くとも夕食時には権兵衛と顔を合わせねばならないのだと悟り、聖は泣きそうになるのを唇を噛んで堪えた。




あとがき
一輪・雲山には出張してもらいました。
聖が人妖平等を唱えている云々は星輦船txtを参考にしたオリ設定です。
多分、原作では言ってなかった筈。



[21873] 命蓮寺2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 20:12


 夕食時、聖は非常に気を使う事になった。
自分では救えなかったムラサを救った権兵衛を見るのは、非常に辛かった。
本来なら感謝の言葉を言わねばならないが、あの神聖な光景を覗いていたと告白するのに躊躇する。
権兵衛は、暖かな笑顔を浮かべながら夕食をとっていた。
精進料理など大して美味くないだろうに、満面の笑みで箸を伸ばす。
権兵衛の食事は一口が小さく、ゆっくりと、失礼ながら意外に優雅な食べ方だな、と聖は思う。
権兵衛は左腕が無く、つい最近までも義手を操作しながらの食事だったのである、流石に不便そうである。
権兵衛は最初重力を操作して器を浮かせようとするのだが、それでは中身も浮いてしまいそうになり、それからは不慣れな念動力を用いて食事しようとした。
が、矢張りと言うべきか、権兵衛の浮かせる器は、特に汁物や茶は溢れそうで危なっかしい。
そんな権兵衛を、甲斐甲斐しく世話するのがムラサであった。
仕方ないなぁ、と言わんばかりの、何処か嬉しそうな顔をしつつ、権兵衛の浮かせようとする器を持ってやる。
最初遠慮する権兵衛であったが、溢れそうで見てられない、と言われてからは、少し顔を赤くしつつも大人しくムラサに従った。
それをからかおうとするぬえを、朝の件でまだ怒っているのか、無視するムラサ。
感謝の言葉を言い渡そうと思うと同時にそんな光景を目にして、聖は思わず口をつぐむ。

 一度言い出す機会を逃してしまってからは、聖はなんとも言えないままに何度も権兵衛に視線をやりながら食事を終える事となった。
結局何も言えないままに夕食が終わり、今日の食事当番であるぬえが片付けをするのを他所に、談笑に入る。
何時もは楽しい時間の筈が、今夜はまるで黒くて重い石でも飲み込んだかのような気分だった。
どすりと心の底に重石があって、何をしようにもその場に沈みこませるような感じである。
何時になく元気の無い聖が気になったのか、星やナズーリンは聖に早く休んだほうがいいのでは、と言い、聖もそれに承諾した。
早く権兵衛に感謝と謝罪の言葉を言わなくてはならないのに、と思いつつも、ついつい頭の中に様々な言い訳が浮かんできて、聖を眠気に誘ってきたのである。
そうして何時もより大分早い時間に部屋に戻った聖であるが、横になっても、心は疲れ果てていると言うのに中々眠れなかった。
代わりに今日の様々な事ばかりが頭の中を過る。

 助けた権兵衛は、何とも善人であった。
嬲られた上に火刑にあったと言うのに自分の身より里の事を心配するし、それだって命蓮寺を心配した後だ。
まるで自分を犠牲にするのが当たり前であるかのような言動を取っている。
対し聖は、どうだろうか。
確かに聖は、千年前に人間達に従い封印された。
その時までずっと助け続けてきた、人間達に封印された。
しかしその人間に恨み辛みが無かったとは言えないし、人間は愚かであると言う事が念頭に出てきたのも確かである。
そこで権兵衛は、全くの平等を形にしていた。
自分を下に置き、全ての人を平等に自分の上に置いているよう、聖には思えた。
ならば。
ならば、権兵衛こそ――。

「いやだわ、何を考えているんでしょう、私は」

 頭を振り、聖はネガティブな思考を追い出した。
確かに権兵衛は善人だし、しかもこうやって人に強烈な印象を残す、カリスマのような物を持っているのも確かである。
しかし聖は権兵衛と出会ってまだ、数時間しか経っていないのだ。
そんなに結論を急ぐ事は無かろう、と聖は自分を納得させる。
何せ権兵衛の力と言えば、てんで弱い物である。
魔力の扱いについて学び始めてからの期間を思えば天才的だが、それでも現時点で弱い事にはかわりない。
恐らく当分の間は命蓮寺を出て生活できるようにはならないだろう。

 それでも権兵衛に対する劣等感から生まれた嫌な気分は消えず、聖は少し風にあたる事にした。
襖を開けてペタペタと裸足で縁側に出て、立ち止まり、両手を広げて全身で風を感じる。
舞い降りる月光がうっすらと庭園を照らしており、池の水面がきらきらと輝いていた。
美しい光景にほっと一息つきつつ、聖が辺りを見回すと、ふとムラサと目があった。
同時にあちらも気づいたようで、少し目を見開く。

「あれ、聖、もう寝たんじゃないですか?」
「いえ、少し眠れなくて、風にあたりに」

 と声を交わすものの、何時ものようにムラサからこちらに来る様子は見受けられない。
仕方なく聖は自分からムラサに近づき、両手を胸にやりつつ尋ねる。

「権兵衛さんの印象は、どうだったでしょうか?」
「………………」

 一瞬、ムラサは目を細めた。
何かの感情が過るが、あまりに一瞬過ぎて聖には理解できない。
ムラサは欄干に体重を預けつつ、宙に視線をやり、言う。

「兎に角善人、と言う所ですかね。
私は今まであれほどの善人というのを見たことがありません」
「そう、ですか……」

 ぎしり、と心が軋むのを聖は感じた。
喉の奥で、激情が暴れる。
つまり、私は権兵衛よりも善人では無いと言うのか。
思わず吐きでそうになる感情を全力で抑えこみ、聖は深く溜息をつく。
それはさながら、自分の中の激情が空気と共に抜け出ていくのだと、そう信じているかのように。
深い溜息をつき一拍、少し精神的に落ち着いた聖は、激情を悟られたくない為に、何とか続けて口を開いた。

「確かに、彼は善人でしょう。
ですがあの善人さは、むしろ彼を苦しめているかのように思えます。
ムラサは聞いていなかったかしら?
権兵衛さんは、義手とは言え左腕を無くし、全身に傷を負い、右足なんて肉が削げる怪我を負って、更には火刑にまであって、それでも里を許す事など当然だと考えているのよ。
確かに、その考えは尊い。
だけれども、もう少し自分の事を考えなければ、権兵衛さんは自分の決定的な所を損なってしまうのではないかしら」

 しかし、こうやって口を開けば、出てくるのは権兵衛の聖人性を貶めようとするような言葉であった。
いや、道理としても正しいのだが、権兵衛に嫉妬している聖が言っても説得力の無い言葉である。
どんな反応をするのかと見やるが、ムラサの顔は丁度マリンキャップのつばが影になって、見えない。
ムラサは欄干に預けた体重をそっと戻した。
直立するムラサの顔は、未だ月光を遮るつばによって見えないままである。

「聖」

 ぞっと寒気が聖の背を支配した。
暗い影の中、ムラサの両目だけが真っ赤に妖しく輝いている。
それは、血袋となったムラサの沈めてきた死体達だった。
恨み辛みを嘔吐しながら、ぐるぐるとムラサの両目の中を回転している。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
ぐるぐる回りすぎてしまって、ついに死体はあまりの速度に小さな竜巻を生み出した。
ぐるぐると回る速度が更に上がり、それを追いかけていた聖は目を回してしまいそうになって、近くの柱に手をついた。

「権兵衛さんは、今のままでいいと思いますよ?」

 はっと聖が気づくと、幻視は消え去っていた。
代わりにつばに隠れていたムラサの黒曜石の両目が聖を見据えている。
何時も通りに戻った筈のムラサの目が、何故か怖くて、聖は思わず半歩下がった。

「権兵衛さんは確かに自分で自分を傷つけてしまいそうな所もありますが、それは同時に尊い所でもあります。
誰にだって欠点はあるんですから、周りの人がフォローできれば、それでいいのではないでしょうか?」

 言っている事は正論なのに、何故かムラサからは寒気が感じられる。
しかし、と聖は考え直した。
しかしムラサは、聖が覗いていた事など知らないのだ、聖に敵意を持つような要素などない筈である。
下がりそうになる足を何とか床から剥がし、先ほど引いてしまった半歩を戻して言う。

「そう、かもしれません。
ですが、何時でも彼の側に誰かが居るとは限らないのです。
特に彼は一人暮らしなのです、何かあってからでは遅いのですよ?」

 嗜めるように言ったつもりだが、聖は自分の声がぶるぶると震えていた事に気づいた。
力量で言えば聖の方が圧倒的に上だが、聖はムラサに負い目がある。
それが精神的不調となり、聖に大きな圧迫感を与えていたのだ。
そんな聖に、くすりとムラサは笑う。

「あぁ、なるほど、そういう事ですか」
「何がですか?」

 首を傾げる聖に、ムラサは満面の笑みで言った。

「もし権兵衛さんが許してくれれば、彼が此処を出て行く際、彼についていこうかと思っています」
「……え?」

 ムラサの言っている事が理解できず、一瞬聖は思考を停止する。
ぐるぐると揺れる頭を抑え、聖は再び柱に手をやりつつ、縋るような視線でムラサを見た。
凍りついたような満面の笑みで、ムラサは再度言う。

「もし権兵衛さんが許してくれれば、彼が此処を出て行く際、彼についていこうかと思っています」

 それは。
つまり。

「わ、私を、捨てるんですか……?」

 言って、自分の台詞の内容に聖は崩れ落ちそうになった。
吐き気すらしてきて、それを抑えるのに、聖は咄嗟に頭を抑えていた手で口元を抑える。
柱に体重を預けなければ、立つ事もままならない程に、聖は消耗していた。
焦点の定まらない聖の視線を受け、ムラサは笑顔のまま言う。

「嫌だなぁ、聖だって何時も言っているじゃあないですか。
去る者は追わず、来る者は拒まずって。
昔だって、他所に幸せを見出して行った妖怪達も幾らか居ましたし、その全員を快く見送ってきたじゃあないですか。
それが、私の番になったと言うだけの事です」

 ムラサの言葉は異様に冷たかった。
まるで全身を刺す冷気に蝕まれたかのように、聖はぶるぶると震え始める。
辛うじて、最後の力を振り絞り、聖は言った。
言わざるを得なかった。
それが自分への最後通告となる事を、どこかで悟りつつも。

「わ、私より権兵衛さんの方が良いって言うんですか……」
「はい」

 簡潔で力強い言葉であった。
今度こそ完全に崩れ落ちる聖。
それを一瞥し、広間の方へ戻ってゆくムラサ。
静かになった庭園では、時折錦鯉がちゃぽんと音を立てる他は殆ど無音で、だから広間の喧騒が耳に入る。
酒でも振舞ったのか、陽気な声が少し離れた此処にまで聞こえてきた。
聖には、自信があった。
自分こそ妖怪を救い、人妖平等を敷ける存在なのだと言う、自信があった。
それが最早、欠片も残らないぐらいに粉々にされてしまっていた。

「あはははは………………」

 うなだれ、乾いた声で笑う聖。
その笑い声には一切の力がこもっておらず、今にも枯れ落ちそうなぐらい。
対し聞こえてくる広間の喧騒は、力強く、元気一杯と言わんばかりの物であった。
まるで自分だけが何も無い所に置いて置かれているかのようだった。
暗く、苦しく、辛い感情がぐるぐると聖を中心に渦巻いている。
明るい所が見えているからこそ、その辛さが際立って見えた。
そんな時聖は仲間の事を思って精神を復活させるのだが、その仲間が今自分を捨てた今、聖には誰も信じられなかった。
誰かを信じてしまえば、その誰かすらも権兵衛の元に行ってしまうのではないか、と思えて。

「あは、あははは………………」

 夜の庭園に、乾いた笑い声が響く。
しかしそれを聴く者は聖自身以外に居らず、ただただ虚しく響いて声はかき消えて言った。
最後には涙が廊下に跳ねる音と、嗚咽が漏れる音だけが残る事になった。



 ***



 封獣ぬえは、実を言えば、七篠権兵衛の事をずっと前から知っていた。
事の始まりは、権兵衛がかつて永遠亭にて療養していた頃にまで遡る。
正体不明の種を自身に植えつけ、未確認飛行物体として幻想郷を散歩していたぬえは、その時丁度永遠亭の上空を飛んでいる所だった。
嘘つき兎がUFOだ、と言って指さした空に丁度ぬえは居て、権兵衛はそれを見て吃驚していた物である。
それ以来、何だか気になる所があって、ぬえは権兵衛の事をずっと気にしていた。

 誰にも感じた事の無い親近感を、ぬえは権兵衛に対して感じていた。
かつてぬえは、孤独であった。
鵺と言う妖怪の定義通り人間の前に姿を現す事の無かった為、ぬえはずっと独りだったのだ。
幻想郷に入って地底に住まうようになってからは、周りに妖怪しか居ない為それも解消されたのだが。
それから聖が復活し命蓮寺に住まうようになってからは、ぬえは再び僅かな孤独を感じるようになっていた。
何せぬえは正体不明の妖怪である、あまりみだらに人間に姿を見せてしまうと、鵺の定義を外れる事によって精神的な傷を受けてしまうのだ。
正体不明の癖に正体不明の定義を外れてはならない、と言うのもおかしな話であるが。
兎に角、人妖平等を謳い人間の相談にも乗る寺の面々との間で、ぬえは僅かな疎外感を感じていた。
それも仕方のない事ではあると、ぬえは理解していたけれども、やっぱり孤独と言えば孤独で、少し寂しかった。

 そんな折、出会ったのが権兵衛である。
権兵衛は不思議とぬえを惹きつけた。
どんな所が良いのか、と問われれば答えに窮してしまうような曖昧な部分をだが、ぬえは権兵衛に好意を持っていた。
何となく、いいのである。
それも、まるで魂の兄弟を見つけたかのような、不思議な共感があった。
故にぬえは、偶に里などで権兵衛を見かける度、遠くから彼を見守っていた。
何時もはそんな必要が無い程、多くの人妖が権兵衛を見守っていたので、単にぬえの好奇心を満足させる以上の意味は無い行為だったが。

 そんなある日である。
何時もとは違い物騒な雰囲気の監視が居ない権兵衛を、ぬえは一人観察していた。
そんな折に、権兵衛とはぐれ妖怪との諍いがあったのだ。
手を貸すべきかどうかと悩みつつも、権兵衛が割と健闘している事と、鵺が人間の前に現れる事の意味がぬえを躊躇させ、気づけば権兵衛は勝利していた。
権兵衛が勝った時は、一体どれほど胸をなでおろした事だろうか。
あと一歩の所で助けに出ようとしていたぬえは、安堵のあまり涙さえ滲ませながら、心のなかで権兵衛の健闘を讃えた。
そして権兵衛は里人に殴られ気を失った。

 動揺しつつも、里中の人間が集まっていく気配を感じ、ぬえは増援を呼ぶ事に決めた。
流石にぬえも、正体不明の状態を維持し、権兵衛を守りつつ、里中の陰陽師を相手できるとは言い切れない。
ぬえは早速命蓮寺に戻り、事情を離して聖や星らと共に正体不明となりつつ権兵衛を救出した。
幸い、ぬえの存在は里でもあまり知られていないようで、今の所それが原因で命蓮寺に疑いが向けられた事は無い。
ただ、人妖平等を謳う事から、少し嫌疑の目で見られはしたようだが。

 兎も角ぬえは、無我夢中で権兵衛を救った。
救ったら救ったで、今度は権兵衛にどんな顔をして会えばいいのか、分からなかった。
勿論理性では、権兵衛からすれば初対面と言っていいのだから、普通に会えばいいだけなのだと分かっているのだが、どうもそう簡単には思えなかった。
髪型はちょっと跳ね気味だけど、これでいいのか。
リボンはきちんと左右対称になっているだろうか。
羽は仕舞って正面から見えないようにしていくつもりだが、それでいいのか。
というか、普通って何だっただろうか。
そのように混乱した挙句、ぬえは何故か悪戯から入ると言う結論に達し、ムラサの顔をUFOにしてみせた。
当然気づいたムラサに撃墜され、挙句に下着まで見られてしまい、ぬえは泣きそうになりながらその場を撤退する他無かった。

 ぬえは、かなり本気で落ち込んだ。
もっと普通の女の子らしく、いや、できれば可愛い女の子らしく、挨拶の一つも出来なかった物か。
あの純朴そうな権兵衛である、手の一つでも握ってやれば、案外あっさりと好意を持ってもらえたかもしれない。
そう思うぬえだったが、自分が権兵衛の手を握っている所を想像すると、あまりの恥ずかしさに身悶えする事になった。
これは流石にできない、と、ぬえは手を握ろうとしなかった自分を褒め称えつつ、一人時を過ごす事になる。
しかしそんな後悔も活かせず。
昼食の時集まった時も、権兵衛が挨拶してくれたのに、ぬえはお座なりな返事しかできなかった。
話しかけられたらこう返そう、ああ返そう、と考えてはいたものの、どれも実行には移せず、結局ぬえは、そう、とか、うん、とかそんな返事しか出来なかったのだ。
それも、権兵衛を直視する事すらままならず。
あぁ、これで嫌われたかもしれない。
そんな風に更に落ち込みつつ、廊下を歩いていた所である。
ぬえは、権兵衛が自傷を行っている場面に遭遇した。

 相変わらず攻撃的な態度しか取れないぬえの所為だろうか、話すうちに権兵衛は泣き出してしまった。
想像してみるだけであんまりに恥ずかしくて憤死してしまうのではないか、と言う考えから胸は貸さなかったものの、ぬえは権兵衛の頭を撫でてやった。
普通なら恥ずかしがる所だが、何故だか、安らぎのような感情を覚え、ぬえは権兵衛が泣き止むまで恥ずかしがる事なく権兵衛の頭を撫でる事ができたのであった。
そう、不思議な、胸がすっと通るようになり、自然と目を細め、口元が柔らかくなるような感覚。
その感情の名前が知りたくて、ぬえはその後一旦権兵衛から離れ、一人思索に更ける事にした。

 恋なのだろうか、と言うのがぬえが初めに思った事である。
何せ権兵衛は異性だし、一つ一つ自分の言動を思い返してみるに、恋と言うのは妥当な感情であるようにぬえには思えた。
ただ、最初に感じた親近感のような部分が、当たらずとも遠からずだ、と答えたかのように思え、ぬえは更に思索を進める。
では友情だろうか?
いや、友情には一目惚れは無いだろう。
いやいや、親友と呼べる相手を一目で見抜いてしまう事もままあるかもしれず。
と言っても、ぬえには今まで親友と呼べるような唯一無二の相手は居らず、故にそれも判断がつかなくて。
そんな風に考えるうちに、ぬえはとりあえずこのままでいいか、と思うようになった。
こんな風に曖昧な関係のままで、いいじゃないかと。

 事実ぬえが答えを出すのを辞めた所で、権兵衛の対応は変わらなかった。
夕食時にはぬえにお礼を言ってくれたし、ぬえが担当だった夕食も美味しく食べてくれた。
それだけで充分にぬえは幸せだったし、心踊るような感覚を覚えたのだ。
こんなぬるま湯のような、しかし確かに暖かな関係が続くのなら、それで充分。
ぬえはそう思うようになり、そしてまた状況もぬえを許すようだった。

「ぬえー、おつまみそろそろできましたかー?」

 星の声にぬえは、はっと自分が呆けていた事に気づく。
今は夕食も終えて、権兵衛を歓迎する簡素な宴会を行っている所なのであった。
何故か宴会と聞き戦慄していた権兵衛も、今では陽気な宴会の様子にのまれて楽しく飲んでいる所である。
意識を取り戻したぬえは、さっとぬか漬けを食べやすい大きさに切り分け、大皿に取って運ぶ準備をする。
こうやって給仕をするのも、元々別に辛いと言う程ではないのだが、権兵衛の為と思えば暖かい気持ちでできた。
ただ一つ残念なのは。

「隠し味、入れられないのよねぇ……」

 つつ、と指先で唇をなぞりながら、ぬえは言った。
そう、大皿から取るような料理は、権兵衛一人が食べるとは限らないので、彼の為の隠し味は入れられないのだ。
それを残念に思いながら、ぬえは唇から指先を離し、それを見る。
指先には小さく切り傷の痕が、今にも消えそうなぐらいうっすらとあって。

「夕食みたいに、私の血、入れたかったなぁ……」

 本当に残念そうに呟き、ぬえは愛し気に指先の傷をなぞった。
そう、ぬえは権兵衛の夕食にだけ自らの血を混ぜていたのである。
これは割と勇気のいる思い切った行為で、自分を受け入れてもらえるかどうか、と試す勢いでぬえはやったのだが、どうやら成功したようだった。
権兵衛は夕食を美味しいと言いながらきちんと食べきってくれたし、当然ぬえの血も巡り巡って権兵衛の胃腸で消化され、全身に回った筈である。
直接権兵衛に自分に好意を持っているかどうか聞くのは恥ずかしい上、もし拒絶されたらと思うととても聞く事ができない。
ならば権兵衛に好意を持ってもらうのが先決であり、それにはまず、こうやってぬえの事を受け入れてもらう事からが先決だろう。

「まぁ、これから結構な時間があるんだし、それでいいか」

 明日明後日にすぐ食事当番がやってくると言う訳では無いが、権兵衛もそこそこ長い時間此処に滞在する事になるだろう。
なれば、好意を確認するのはその最後の時でいいではないか。
そう思う事にし、ぬえはぬか漬けを宴会に運ぶ事にした。
明るい未来に思わずスキップしてしまいそうになりながら、ぬえは広間へと戻ってゆくのだった。



 ***



「聖?」

 朝起きて寝間着姿の聖と顔を合わせ、星は思わず呟いた。
朝日差し込む命蓮寺の廊下で、聖は髪はボサボサ、目の下には隈ができたまま、ふらふらと揺れながら歩いていたのだ。
今にも倒れそうな聖に、思わず星は駆け寄りその体を抱きとめる。

「聖っ、大丈夫ですかっ!」
「あ……星……」

 体重をかけてくる聖の体を抱き上げ、星はもう一度聖の顔を見た。
しかしそこにある顔は矢張り真っ青で、まるで死人のようだった。
思わず抱きしめる手に力を込めつつ、星は言う。

「聖、一体何があったんですか?
……いえ、詮索は後です、とりあえず部屋に戻りましょう」

 その声に、言葉にならない呻き声を漏らしつつ、聖は星の動きに従い自らの部屋を目指す。
朝もまだ早い時間だからか、通る人間は誰一人居ない。
真っ青な聖に肩を貸しつつ星は、一体何があったのか、と考える。
聖がひとりでにここまで体調を悪くした、と言うのは考えられない。
聖は元々体調管理の確りしている方だし、そもそも種族としての魔法使いなので、体も強い方である。
ならば、誰かとのやり取りが原因となるのか。
昨日は確か、聖が気分が悪いと言う事で早めに寝ようとした筈。
その後は権兵衛を歓迎して軽い酒宴を開き、深夜になった辺りでお開きになっただけである。
となると、その酒宴の参加したメンバーの中で怪しいのは……。
そこまで考えて、星は頭を振った。
無闇に人を疑うよりも、聖本人から直接聞けばいい話であるし、聖の体調より重要な話ではない。

 聖の部屋に辿り着き、星は聖を布団に寝かしつけてから、台所と往復して白湯を持って戻った。
上半身を起こした聖に水を飲ませ、少し落ち着いた様子になったのに、ほっと溜息をつく。
持ってきた手ぬぐいで聖の汗をぬぐい、終わった辺りで聖が物欲しそうにしているのを感じ、また一口白湯を飲ませた。
人心地ついた所で、聖が上半身を起こそうとするが、目がまだ輝きを失っている。
星は聖を制し、心配させないようにっこりと笑顔を作った。

「聖、今は何よりもまず体を回復させる事から始めましょう。
何があったのかは、それからで構いません」

 すると、ぽつり、と聖の枕に落ちる水滴。
キラキラと煌く涙が、聖の頬を重力に従い伝っていた。

「あり……がとう、星」
「いえ、当然のことをしたまでですよ」

 と言いつつ、涙を流してまで感謝されると、流石に気恥ずかしい物があり、星は後頭部に手をやり照れ笑いをした。
しかしそれが琴線に触れたのか、びくり、と聖が体を震わせ、横向けに星に背を向け、胎児のように縮こまる。
慌てて取り繕おうとする星だが、突然のことで何も思い浮かばない。
それでも何かしようと言う衝動はあるので、様々に手を動かしつつも、結局何が聖の琴線に触れたのか分からず、何も出来なかった。
次第に聖が泣いて疲れたのか、寝息を立て始めた辺りで、行為の無駄を悟り、星は大人しくなる。

 ぐるりと回りこみ、星は聖の顔を目前にした。
酷い顔だった。
恐らく一睡もしていないのだろう、目の下は酷い隈だし、唇もカサカサになっている。
顔色は青白く、冥界の半死人と見間違うばかりだ。
先ほど星が聖に触れた感触も冷たく、もしかしたら夜通し聖は廊下を歩いていたのかもしれないな、と星は思う。

 さて、とりあえずは聖は寝かしておく事にして、それからどうしようか。
そんな風に星が考え、立ち上がろうとした瞬間、聖の唇が動いた。

「権兵衛……さん……」

 新しく命蓮寺に世話になる事になった、外来人の名である。
それを聞くと同時、星の中で先ほど後回しにした、聖をこんな風にした犯人が居るのでは、と言う考えが再び浮かんだ。
その中で一番怪しいのは、当然だが聖が倒れたその日に命蓮寺に現れた、権兵衛である。
仲間を疑いたくない、と言う一因もあり、益々星の中で権兵衛犯人説が浮上していく。

「決定的な証拠がある訳じゃあないけれど……」

 だが、探ってみるぐらいはすべきではないのか。
あの善人が聖に対し何かしたとは考えづらいが、“名前の亡い程度の能力”同様、聖に自動的に影響するような能力を持っていたのかもしれない。
それでなくとも、どんな善人でも誰の琴線にも触れないと言うのは不可能である。
権兵衛が聖の心を不調にさせた可能性は、無いわけではない。
それでなくとも、まずは皆が部屋に入ってこないよう、聖の不調を知らせるべきだろう。
星は今度こそ立ち上がると、聖の部屋を後にした。
後ろ手に襖を閉め、くるり、と居間の方へ体を向けると同時、星は体を硬直させる。

「あ、おはようございます」

 何故なら、その視線の先にあの七篠権兵衛が立っていたからである。
あまりのタイミングの良さに、思わず星が言葉を失っていると、何を思ったのか、権兵衛は顔を赤くし手を伸ばし、掌をこちらに向けながら俯き気味に口を開いた。

「あ、その、今はただ散歩しているだけで、その、変な事をしている訳じゃあないんです」
「変な事、ですか?」

 思わず星も言葉鋭く追求する。
よもや聖の部屋へ来て、聖を痛めつけようとしたのでは、と、つい思ってしまったのだ。
そんな星に戸惑いつつ、権兵衛は言いづらそうに口を開く。

「そ、その、昨日俺は、出会って最初に、その、見ちゃったじゃないですか」
「何をですか」
「だ、だから、その……」

 これは、怪しい。
何せ、朝散歩をしているだけならば、こんな風に誰かと出会っただけで自分から焦ったりする必要は無いのである。
大体、偶然聖の部屋で出会うと言うのもおかしい。
そう思った星は、追及の手を緩めず、毅然とした声で続けた。

「だから、何ですか」
「ぬ、ぬえさんの、その、下着を……」

 思わず星がつんのめるのを、慌てて権兵衛が肩を持ち支えた。
目眩がするのに、額に手をあて溜息をつきつつ、星は口を開く。

「あぁはい、そうですよね……で?」
「あ、はい、ですので、俺は、断じてそうではないのですが、破廉恥な男と思われているのではないか、と思い。
そしたら、急に何だか朝一人で歩いているのが、その、怪しい事に思えてしまって」
「はぁ、何でですか?」
「その、夜這いと言うか、朝這いをかけようとしているのではないか、と思われてしまうのでは、と」

 星は、呆れ気味の視線を権兵衛にやった。
すると相当恥ずかしいのだろう、今にもその場でしゃがみこんでしまいそうなぐらいに権兵衛は顔を赤くする。
星は大きく溜息を付いた。

「全く、そんな事考えていないのならば、貴方は堂々としていればいいのです。
ただそれだけで何の疑いも持たれないだろうと言うのに、態々自分から疑いを増やして……」
「す、すいませんでした。
ただ、一度そう思ってしまうと、どうしても頭をその事が離れなくて。
そしたら、そんな考えを思いつく俺は本当に破廉恥な男なのではと思ってしまって。
そうすると、どうしても恥ずかしさが拭えなくって……」
「うっ」

 と、思わず星は呻いた。
何せよくよく考えると、権兵衛の言葉には星も覚えがあるのだ。
性的な問題でこそ無かったものの、自分で勝手に勘違いをして、挙動不審になって、自分の立場を悪くするのは、星にとってもよくある事である。
それを無視して権兵衛を咎めようとも思うのだが、生来の実直さから、星にはどうにもそれが出来ない。
そうしていると、権兵衛が首をかしげつつ星に問う。

「どうしたんですか? 星さん」
「ななな、何でもないですよ?」
「はぁ……」

 明らかに納得していない風ではあるが、権兵衛はとりあえず退いた。
おっちょこちょいな所に親近感を覚えつつも、星は話題を切り替えようと口を開く。

「そうだ、昨夜、夕食の後に権兵衛さんは、聖と会いましたか?」
「いえ、会っていませんけれど。
そういえば体調が悪かったそうですが、ご加減は如何なのでしょうかね。
って、まだ寝ているでしょうから分かりませんか」

 そう言ってのける権兵衛の顔には、聖が寝れなかった事など欠片も知らないような色しか無い。
星はそんな権兵衛が嘘を言っていないか、暫し睨みつけて見てみる事にする。
最初は聖の事でも思い返しているのか、上の方に視線をやっていたが、不意に星の視線に気づいたのだろう、星の方へと視線をやる。
視線がぶつかり合った。
最初困惑気に星を見ていた権兵衛であるが、次第に視線を外し顎に手をやって考え事をし、それでも分からなかったのだろう、自分の顔をぺたぺたと触ってから、再び視線を星に戻す。

「その、何か俺の顔についていますか?」
「………………いえ」

 結局何もわからなかった星は、少し不機嫌そうに返した。
すると、権兵衛は困ったような笑顔を作る。

「その、俺に何か不快な事でもあったでしょうか?
もしもそうだとすれば、出来れば改善したいので、教えていただきたいのですが……」

 そう言って見せる権兵衛の顔が本当に悲しそうで、思わず星は慌てて口を開いた。

「い、いえ、その、何でもないのです。
ただ、聖がちょっと調子が悪いようなので、少し過敏になっていただけですので」

 と言うと、権兵衛は真剣な顔をして口元に手をやり、俯き気味に思索を始める。
聖関連の事を思い出しているのだろうか、と期待して見守っていた星であったが、答えは期待を裏切る物だった。

「いえ、申し訳ありませんが、俺は特に聖さんに何かしたと言う事は思い当たりません。
といいますか、夕食の前には星さん達を紹介されたのを最後に会っていませんので、心当たりが無いのです。
全く誰とも出会わず何もしなかったと言う訳ではないのですが、直接会わずに不調を起こさせるような事を考えると、今度は逆に全てが心当たりになってしまって……。
その、こんな答えしか出ませんが、納得いただけたでしょうか?」
「あ、はい、分かりました」

 と言いつつ、内心で星は感心すらしていた。
やっと匿ってもらえた所ですら嫌疑の目で見られたと言うのに、こんなにも聖に対し親身な事を言えるとは、何という善人なのだろうか。
星が内心で権兵衛を容疑から外そうと考えた所で、権兵衛が続けて言う。

「ただ、俺には“名前が亡い程度の能力”と言う前例がありますので……。
何らかの力で聖さんに不調を起こさせてしまったのでは、と言う危惧はあります。
勿論これは、俺が此処を離れる以外に確かめようのない事なのですが」

 と、言われてそうか、と納得し、それなら、と星は手を打った。

「それなら、私に少し手があります。
私の知り合いに閻魔が一人居ますので、浄玻璃の鏡を覗いてもらえば、権兵衛さんの持つ力を把握できる筈です」
「なんと、閻魔様に知り合いがっ!
……って、よく考えたら、星さんは毘沙門天様のお弟子なのですから、不自然でもない話ですよね」

 と一人納得する権兵衛。
そんな権兵衛を見て、ちょっと待て、と星は思う。
浄玻璃の鏡を見ると言う事は、その人の人生全てを見る事に等しいのである。
恐らく閻魔は星に直接浄玻璃の鏡を見る事を許しはしないだろうが、それでも、人生全てを見られると言われて何の動揺もしないのは、一体どういう事だろうか。
星も相応に潔白な人生であったと思っているが、一度は聖を見捨てた事があるなど、後悔している事も多い。
よもや話の内容を理解していないのでは、と訝しげに星は口を開く。

「その、浄玻璃の鏡に写ると言う事は、その生涯が写る事になるのですよ?」
「はい、分かっていますとも。
あぁ、恥ずかしい部分が多くて、それを見られるのは恥ずかしいかなぁ。
あ、そうだ、折角閻魔様に人生を見ていただくのですから、良ければ俺の人生をより良くする為の助言をいただければ、と思うのですが」

 そう言う権兵衛の顔は真に素直な物で、その言語が真っ直ぐな物である事は手に取るよう分かる。
会ったときの会話から星は権兵衛が善人だとは思っていたものの、ここまでとは。
思わず息を飲み、不意に脈打つ心臓の上を、星は抑えた。
汗がじんわりと滲み始める。
興奮が星の底から沸き上がっていた。

 こんなにも、善い人が居るのか!
そう叫びたくなる衝動を抑えるのに、星は全力を尽くした。
ぐっと両手を握り、やや腰だめに踏ん張り、目を閉じ全身に力を入れる。
それでも衝動は体を突き抜けていきそうで、ぶるぶると体が震えた。
衝動の波がピークを過ぎると、やや力を抜いて、星は深く溜息をつく。

 それほどに、星は深く感動していた。
今までの星の生で、大きく感動した事は三つある。
一つは聖と出会った事。
一つは聖の知る妖怪で最も善い妖怪として毘沙門天の弟子となった事。
一つは聖を復活させる事ができた事。
それらに比類できうるほどの、感動であった。
もし自分が聖より先に権兵衛に出会っていれば、権兵衛についていたかもしれない、とすら星は思う。

 そんな感動している星であったが、その様子を首をかしげながら見ている権兵衛に気づき、慌てて姿勢を正した。
こほん、と一つ咳払いを入れ、権兵衛に対し笑みを見せる。

「さて、よくよく考えれば中では聖が寝ている筈ですし、此処で話し込むのは此処までにしましょう。
私はちょっとナズーリンに所用があるので、そちらに行きますね」
「あ、はい」

 と頷く権兵衛に、では失礼、といって星は踵を返す。
歩きながら、星は考えていた。
こんな感動する程の善人である、きっと聖と関係を拗らせたなどと言う事は無いに違いない。
それどころか、きっと聖に権兵衛の善性を紹介しれやれば、きっと感動して仲良くなってくれるだろう。
聖と権兵衛、星の知る最も善い二人が仲良くしているその姿は、正に理想の光景だろう。
そう考え、星はその光景を想像しようとする。
しかし、実際その光景を想像してみると、想像したほど気分のよい光景では無かった。
どうしたのだろう、と内心首をかしげる星。
聖の一番側には私が、と嫉妬でもしているのだろうか、と思うが、それもしっくりこない。
まぁ、何にせよ、とりあえずは閻魔の所に行く事だ。
その間の怪我人である権兵衛の世話などはナズーリンに、聖の世話はムラサ辺りに任せておけばいい話である。
そう考え、星は軽い足取りで部下の所へ向かう。
その背後で、襖が少しだけ開いていた事は、誰も知らないままであった。



 ***



 命蓮寺の皆はとても優しかった。
命蓮寺での初夜、彼女らは俺ごときの為に、簡単な物とは云えども酒宴を開いてくれたのだ。
思わず涙が潤みつつも、俺は酒を浴びるように飲みつつ、体調が悪いと言う聖さんを除いた命蓮寺の面々と夜中まで語り合った。
酒が効かないと言うのに沢山飲みたがるのもどうかと思うが、それは後々の修正課題としようか。
兎も角そんな感じで、俺は厄介者だと言うのに、大いに歓迎された。

 そして夜は明け、習慣で近くの川に顔を洗いに行こうとしてから、自分が見られてはいけない人間なのだと気づき、術を使って作った水を使って洗顔する事となった。
意外に体力を使うので、正直毎朝はしたくない行為ではある。
それからは、中を散歩して星さんと顔を合わせて少々会話し、聖さんの不調を聞いた。
またもや俺の能力が何かしてしまったのではないか、と思うと、やりきれない気分であった。

 俺の、能力。
俺の、気づけば身につけていた、“名前の亡い程度の能力”。
幻想郷に入った時に名前を亡くしたのか、その前から名前が亡かったのか、詳しい事は分からない。
しかし現実として、俺は名前が亡かった。
名前が亡いと言う事はどうだろうか。
神の力の影響を受けず、名前の真空となって神の力を吸い込んでしまう事だけなのだろうか。
何にせよ、憎らしい能力であった。
この力の所為で守矢神社の神々に迷惑をかけ、今ここでも聖さんの迷惑になっているかもしれない、と思うと、今すぐ捨て去ってしまいたい物である。

 が、しかし、よくよく考えると、この能力は害ばかりでなく益もあったのかもしれない、と思う。
それはまず、一つの謎について考えてみなければならない。
それは、俺が月の魔法を会得できる程穢れが少ない事である。
穢れとは、ありとあらゆる物を変化させる力なのだと言う。
ならばそれが少なかったのは、俺が名前を亡くしてして穢れがリセットされたからなのではないか。
そう考えると、俺が力を得て、恩返しの為の一歩を歩み出し、また何より輝夜先生と仲良くなれたのは、能力のお陰なのではないか。
また、そもそもこの能力が無ければ、俺は幻想郷を出て外の世界へ行く事ができ、この幻想郷で過ごす事も無かったのではないか。

 そう考えると、嫌とも良いとも言えない妙な気分になる。
まぁ、言ってみれば俺の一部分たる能力なのだ、良く感じる部分と嫌と感じる部分があって当然なのかもしれない。
そう考え、何もする事は無いので、一応怪我人である俺は一人与えられた部屋にて寝転んでいた。
と言っても宴会を勧められる程度の怪我でしかなく、眠気もそれほどなかったので、天井を見ながらふつふつと考え事をするばかりの時間である。
有り体に言えば、退屈だった。

「っと、失礼するよ」

 そんな折である。
高めの透き通ったような声がして、襖を開く音。
見れば灰色の髪の毛を隙間から覗かせ、ナズーリンさんが部屋に入ってくる所だった。
どうしたものか、と内心首をかしげつつ見ていると、とことこと歩いてこちらに近づいてくる。
布団の前で止まると、す、と整った仕草で腰を下ろした。

「ちょっとご主人様に、君の様子を見ているよう伝えられてね。
まぁ、なんせ君は今命蓮寺の抱える爆弾のようなものだ。
放置して爆発しちゃいましたなんて事になっちゃあ、不味いなんてもんじゃあないからね」
「うっ、はい……」

 確かに俺は、里人に見つかった瞬間命蓮寺を破滅させる、最悪の爆弾である。
昨日は最悪の事態を回避する為寺の構造を見て回ったが、これからはそれすらもできず、食事時以外はほぼ此処に篭りきりになるだろう。
しかしそう考えると、話し相手としてナズーリンさんが居るのはありがたい事だ。
なのでまず、ナズーリンさんへ向かって、軽く両手を合わせて拝んでおく。
怪訝な顔でナズーリンさんは言った。

「何やってんだい? 君は」
「ああ、いえ、爆弾も一人で居るより話し相手の居る方が嬉しいらしくてですね」
「ああ、そうかい……」

 何故か遠い目をして何処かを見やるナズーリンさんだったが、すぐに意識を持ち直す。

「とりあえず聞いておくけれど、怪我の方は大丈夫かい?」
「はい、火傷と全身の傷はほぼ完治、右腕の腫れも大分引いてきて、右足の傷はあと数日かかるぐらいでしょうか」
「ふむ、然程問題無いと言う事か」

 うむうむ、と頷きつつ呟くナズーリンさん。
何故か、その瞳が光を反射しキラリと輝いた気がする。
ニヤリ、と言う擬音が似合うような笑みを、ナズーリンさんは浮かべた。

「昨夜はかなり飲んでいたようだけど、大丈夫かい?」
「あぁ、俺の“名前が亡い程度の能力”は酒の力を消す効力もありますので、酒精に酔いはしません。
ならなんで飲むのかと言うと、矢張り雰囲気からと言う事なのですが」
「成程、雰囲気には酔うんだね」

 頷きつつ、ナズーリンが口を開く。

「で、つまり一人酔ってなかった権兵衛さん。
皆顔を赤くし酒も回って顔も赤く、汗もじんわりかいて、ちょっと服なんかはだけちゃって。
実の所、どうだったかい?
誰が一番好みだった?」

 と、演技過剰っぽい言い方からか、思わず俺は昨夜の宴会を思い出す。
確かに皆自分の手で自分の顔を扇いだり、服を引っ張って胸元に風を送り込んだりと、目に毒な状態であった。
俺は必死で天井に視線をやっていたのだが、話を振られてしまえば答えない訳にもいかず、服の隙間からはだける肌を目に入れてしまう事もあった。
必死で頭の中からその光景を追いだそうとするが、中々それもできない。
自然、赤面して蹲りたくなるが、布団の中では逃げる場所も無かった。
このまま待っていれば話が流れるんじゃあないか、と期待を込めてナズーリンさんにちらちら視線をやるが、その気は無いらしく、ニヤニヤと笑っているばかりである。
観念して、口を開く俺。

「そ、その、目に毒と言いますか、何というか。
えぇと、華のある光景でした」
「で、誰が良かった?」

 ダメ押しであった。
思わず脳裏を昨日の光景が走ってゆく。
ワンピースのリボンを緩めボタンを幾つか開け、風を送り込むぬえさん。
緩やかな袖を肩まで捲り、そこから汗が浮く脇やら下着やらがちらちらと覗く星さん。
服を持ち上げてパタパタと風を送り込み、へその辺りまで腰が見えていたムラサさん。
唯一ナズーリンさんだけは冷静で、そんな皆をくすくす笑いながら肴にしていて。
だからか、自然と彼女の名前が口を衝いて出た。

「な、ナズーリンさんです」
「……へ?」

 思わず、といった風に目を丸くするナズーリンさん。
俺も何となく口から出てしまった言葉なのだが、本人が目の前に居るのに言うとは馬鹿なのだろうか。
そうは言っても取り返しがつく筈もなく、理由を続けて口にする。

「そ、その、えぇと、皆から一歩引いている感じが知的で、その、魅力的だったので」
「そ、そうかい?」

 流石にナズーリンさんも顔を赤くして、ぽりぽりと頬をかきつつ俺から視線を逸らす。
実際、他の女性も負けないぐらい魅力的だったのだが、矢張り頼れる女性には何となく惹かれる要素がある。
それは多分、俺自身の頼りなさに反比例しているのだろうと思うが。
何にせよ、何とも言い難い空気であった。
ナズーリンさんは照れて明後日の方向を見ていて、俺は顔を真っ赤にしたまま、さりとて折角話し相手になってくれているナズーリンさんから顔を背ける非行もできず、天井を見つめるばかりである。
とまぁ、そんな事をしているうちに、かたり、と襖が少し揺れ動いた。
何事か、とそちらへ視線をやろうとすると同時にナズーリンさんが口を開いたので、視線をそちらに戻す。

「まぁ、それは置いておくとして。
そうだね、命蓮寺の皆には慣れたかい?」
「えぇ、皆さんに優しくしていただいて、感謝の極みです」

 と言うと、ナズーリンは再びチェシャ猫の笑みを浮かべる。
ねずみなのに猫の笑みとは如何に、とか的外れな事を思っていると、始めは唇に指をやり、それから大きく手を広げるような仕草で、ナズーリンさんが言った。

「おや、皆に優しくしてもらっているのかい?
この寺には私のねずみも住んでいるんだが、彼らにも何か優しくされたのかな?」
「あ、いえ、そういう訳では無いんですが……」

 と言いつつ、俺は恥ずかしさのあまり赤面する。
そう、俺は幾度かナズーリンさんのねずみについて聞き知っていながらも、彼らが寺の住人である事を忘れていたのである。
大恩ある命蓮寺に対し、なんと失礼な事か。
後悔の念が体中から湧いてくる。

「その、すいません、失念しておりました。
本当に申し訳ありません、よりによって、ねずみさん達の長であるナズーリンさんの前で」
「うむ。 それなら君は謝罪せねばなるまい」

 腕を組みながら頷き、それからぴん、と指を一本立てるナズーリンさん。
それから彼女はニヤニヤと笑いながら、面白そうに口を開いた。

「所で私のねずみだが、よく捜し物を持ってきてもらうのだけれど、食べ物だけは持ってきてもらえなくてね。
何故かって言うと、私のねずみは食欲旺盛で、手元に来るまでに食い荒らされてしまうんだ。
で、どんな食べ物が好きかって言うと、チーズなんて言う赤色の薄い物じゃあなく、人間の肉が大好物なのさ」

 がつん、と頭を殴られるような衝撃が走った。
ニヤニヤ笑いのナズーリンさんの笑みは、気づいてみれば何処か酷薄な様子が漂っており、俺への害意とも取れる感覚がある。
命蓮寺へ来て今度は俺の味方ばかりなので安心だ、と思っていた所なので、強烈にダメージがあった。
いや、しかし、逆説、俺はそこまでの事をしてしまったのかもしれない。
無視されると言うのは非常に辛い事である。
しかも、俺もよく里人に無視をされており、その辛さはよく分かっている。
その俺が無視をしてしまうとは、何とも無礼な事だろうか。
あまりの罪悪感に、俺は目眩すら感じた。
ぐらりと地面が傾くような感覚があるが、既に寝転がっているので、最小限で済む。
ナズーリンさんの方を見据え、震える声で口を開いた。

「なんて、じょうだ……」
「では、俺の、足を捧げましょう」
「って、何だって!?」

 断腸の思いで告げると、何故か驚くナズーリンさん。
予想していた答えとは違ったのだろうか、と内心首をかしげつつ、続ける。

「右手や頭、胴体は、どうにか勘弁願います。
どうしても日々の作業を行うのに、これらは必要なのです。
ただ足だけは魔力を使って浮いていれば済みますので、こちらで構わないのならば、捧げましょうとも」
「………………」

 何故か天を仰ぎ、眉間を揉み解すナズーリンさん。
俺はというと、これから起きるだろう痛みや喪失感を想像し、そのあまりの残酷さに、震えが止まらなかった。
涙さえ潤んでいたのだと思う。
それでもこの場で謝罪なしでなぁなぁで済まそうとは思わず、俺は辛うじて卑劣さを免れる事が出来ていた。
そんな俺に、ナズーリンさんは溜息を一つ、それから俺の目を見据え、口を開こうとする。

「悪かったよ、じょうだ……」
「何を言っているのですか、ナズーリンっ!?」

 ずざぁっ! と大きな音を立て、勢い良く襖が開く。
何事かと目をやれば、具合が悪い筈の聖さんが、怒り心頭と言う雰囲気で立ち尽くしていた。
荒く肩を上下させつつ、ずんずんとナズーリンさんに近づいてくる聖さん。

「確かに権兵衛さんが貴方のねずみを失念していたのは悪行でしょう。
ですがそれは、足を喰われる程の物だと言うのですか、ナズーリンっ!」
「いや、そのだね、これはちょっとした冗談のつもりで……」
「冗談……冗談! それにしては悪質に過ぎますよっ!」

 唾を吐き散らしながら叫ぶ聖さんは、確かに体調が悪いのだろう、目の下には隈があり、顔色も悪い。
それも相まって、怒るその姿は鬼のような形相であった。
対しナズーリンさんは、後ろめた気に視線をそらしつつ言う。

「その、本当に悪かったと思っているよ、こんな返事が来るとは思わなくて」
「なら、貴方はどんな返事を期待していたと言うのですか?」
「困って、兎に角謝るような返事さ。
それ以上なんて、私は期待してなかったんだよ。
聖だって、同じ状況だったら兎に角謝るだろう?」

 その返事の何がいけなかったのだろうか。
ず、と聖さんの背後の空気が、爆発寸前まで膨れ上がる。
ひ、と小さく悲鳴を上げてナズーリンさんが蹲るのと、俺が布団から飛び出すのとは、ほとんど同時であった。

 ばちぃんっ! と。
俺の頬を、頭ごと吹っ飛ばしそうな勢いで、聖さんの平手打ちが襲った。
一瞬飛びそうになる意識を何とか掴みつつ、辛うじてその場に立ち止まる。
視線を聖さんに戻すと、愕然とした顔で聖さんは呟いた。

「権兵衛……さん……?」

 ふらり、と倒れそうになる聖さん。
それに何とか抱きつく事に成功し、持ち上げ、膝枕のような形で聖さんを横たわらせる。
視線でナズーリンさんに一旦外に出るよう促すと、視界の端でナズーリンさんが部屋を出て行くのが見えた。
襖の閉まる音と同時、俺は再び意識を聖さんに集中させる。

「大丈夫ですか? 冷静になってください、聖さん。
ナズーリンさんは確かに度を超えた冗談を言ってしまったかもしれません。
でも、彼女は理知的な人です。
殴るまでしなくとも、分かってくれたのではないでしょうか」

 聖さんの頭を撫でながら言うと、びくん、と小さく反応があった。
それから聖さんは、俺の服を片手で掴み、小さく零すように呟く。

「はい、そうです、ごめんなさい……」
「はい。 では、どうしてあんなに怒ってしまったのか、できれば教えていただけるでしょうか。
俺如きでも、話を聞くぐらいはできますし、話すだけでも心の中は案外スッキリするものです。
もし分からなければ、そう答えていただくだけで構いませんとも。
どうでしょうか?」

 なるべく優しげな笑みを心がけつつ言うと、びくり、と大きく震えた後、聖さんの体の震えは収まった。
代わりに小さく、本当に小さく、聖さんは口を開く。

「聞いて、くれますでしょうか」

 それはさながら神に懺悔するかのような、愁傷な口調で。
だから俺は、問題なく聖さんが話せるように、満面の笑みでこう答えた。

「はい、勿論ですとも」



 ***



 聖白蓮は、弟に伝説の僧侶を持っていた。
弟は伝説と言うだけあって優れた僧侶で、様々な妖怪を退治したり、寺の行事などを良く済ませていた。
そんな弟に憧れる物があり、聖は年老いてから弟に法力を学んだ。
弟の命連の法力が詰まった飛倉に過ごしていたからか、聖はすぐに法力を身につけ、一定の位階に立つ事になった。
弟と共に妖怪退治もし、また寺の行事に従事もした。
その頃の事は聖はもう朧げになってあまり覚えていないが、楽しかったのだ、と言う事だけはまだ覚えている。

 そんな日々は、弟の死と共に終焉を迎えた。
嘆き悲しんだ聖は、そのうちに死を極端に恐れる事になる。
あの弟でさえも醜く老いて死んだのに、自分であれば如何ほど醜い死を遂げる事か。
そう考えた聖は、妖術、魔術の類に手を出し、若返りの術を会得し、寿命を克服した。

 寿命を克服した聖は、次にその力が失われるのを恐れた。
何せ捨食の魔法などは妖術の類、この世から妖怪が消えてしまえば、その力はただの幻想と化し無くなってしまうのである。
よって聖は、表では妖怪退治を請け負いながらも、裏では密かに妖怪を助けるようになった。
そうするうちに、聖は妖怪達の過去があまりに不憫な事を知るようになる。
聖は同情を寄せ、最初は私欲からだった妖怪助けを、妖怪達の為にやるようになったのだ。
星やムラサ、一輪に雲山などはその決意をしてから助けた妖怪達である。

 そうやっていくうちに聖が妖怪を助けていた事がばれ、人間達に封印されてしまうのだが、問題はそこではない。
聖は、最初私欲から妖怪達を助けてきたのである。
己が死にたくない、と言う利己的な理由から、妖怪達を平等に見るようになったのである。
しかも、自己を理解されず千年の封印を受けた事から、若干人間への心象は悪いままだ。
対し権兵衛はどうか。
一切の過去を失い、名前すらも亡くして、人間には蔑まれ、それでも彼は人間も妖怪も平等に扱っている。
決定的な違いであった。
聖は私欲から始まった完全な純白の意思では無いのに対し、権兵衛は純白の思想を持つ人間なのだ。

 加えてムラサを助けたこと、ムラサもまた聖より権兵衛を選んだ事を知り、劣等感に聖の心は歪み始めた。
朝の星との会話を盗み聞きしたのも、星は単に権兵衛に感心していただけなのに、星すら自分より権兵衛を取るのでは、とさえ思ってしまったのである。
最早聖の精神には、余裕が残されていなかった。
故に唯一の救いである、権兵衛に自分と同じ私心ある部分があって聖と同等以下であると言う証拠を見つけようと、聖は権兵衛を監視し続ける事にしたのだ。
看病に来たムラサは、流石に昨夜の事から気まずいのか、ぬえに仕事を頼むと消え、一人であったのも好都合だった。

 しかし、その思惑もまた外れる事になる。
権兵衛の言葉は一つ一つが善に満ちた言葉のように聞こえた。
権兵衛には性欲などが多少なりともあると言える言葉もあったのだが、聖の余裕の無い心には届かなかった。
そんな中で、ナズーリンの台詞に権兵衛の返しである。
権兵衛の善性が際立つばかりか、ナズーリンは命蓮寺の配下である、このままではただでさえ権兵衛に勝てない聖の聖人性まで更に低く見られてしまうかもしれない。
そう思うと聖は最早居ても立ってもいられず、部屋の中に怒鳴りこんだのだった。

「……でも。
落ち着いて考えてみれば、それも私の利己心を際立てるばかりでした。
ふふ、ナズーリンに後で謝らなくちゃいけませんね」

 権兵衛に膝枕されたまま、聖は脱力し、全てを権兵衛に任せたまま、静かに泣きながら、己の事を話していた。
最早聖は、なげやりで全てがどうでもいいような気にさえなっていた。
全てが終わった、そんな感覚があり、既に何をしても取り返しのつかないほど、権兵衛との差が開いてしまったのだと。
虚ろな聖の笑みを見て、権兵衛が数瞬、難しそうな顔を作る。
暫しの沈黙の後、戸惑いつつ権兵衛は口を開いた。

「俺に、聖さんの言う聖人性があるかどうかは置いておいて。
聖さん、貴方に善性が無いなんて、俺は全く思っていませんよ?」
「くす、自分の命惜しさに妖怪を助けてきた、私のような醜い女に?」

 自虐的に笑いながら、聖は言う。
そう、最早聖は、自分が善性の存在であるとすら信じられていなかった。
最初の意思さえ違えば、全ての行為は意味を変える。
聖には自分のしてきた事が、全て醜悪な行為であったかのようにすら思えてきている。

「いいんですよ、権兵衛さん、私がしてきた事は、中途半端で意味のない行為だった。
ムラサだって、本当は何時でも気にかけていなければならないのに、私は彼女から舟を奪ってしまった。
そして権兵衛さんによってより良い舟が渡され、ムラサはより善く救われた。
私のしてきた事は、権兵衛さん、貴方がしていれば、全てもっと良い結果が出た事ばかりなんですよ」

 内心の淀みを話すごとに、聖は自分が埋まっていくような感覚を覚えた。
実際は権兵衛の膝に頭を、畳に体を横たえているのに、まるで全身が底なし沼に落ちていくような感覚があるのだ。
聖はそれでもいいかもしれない、と思う。
こうやって自分が消え去り、代わりに権兵衛が命蓮寺の住職になれば、全てが救われるのだ。
頭の中で聖の代わりに権兵衛が立つ、命蓮寺の面々の姿を思い浮かべる。
普通なら違和感のあるだろうその光景は、聖にはより自然で清らかな光景にすら思えた。
そんな聖に、権兵衛は暫く目を瞑っていたかと思うと、不意に目を開き、優しげな笑みを浮かべる。

「聖さん」

 と言う権兵衛の言葉には不思議な引力があった。
最早このまま消えてしまうのでは、とさえ思っていた聖の意識が、一気に引き上げられる。
まるで権兵衛に吸引されているかのような勢いに、頭の中の霧が少し覚め、聖は目を瞬いた。
権兵衛が、言う。

「確かに、もしかしたら聖さんのやってきた救いを、俺がやっていたのなら、より良い結果になる可能性がある事は否定しません」

 ずん、と重くのしかかる一言であった。
体が悲鳴をあげ、ぴくん、と聖の全身が跳ねるように痙攣する。
震えが止まらなかった。
まるで真実そのもののような響きの声に、聖は両耳を今すぐ塞ぎたい衝動に駆られる。
しかしそれが実現するより早く、権兵衛の口が音を発した。

「でも」

 権兵衛が目を細め、まるで眩しい物を見るかのような顔をする。

「でも、ですよ、聖さん」

 権兵衛の持つ引力が、自然とその言語へ耳を傾けさせる。

「現実として、貴方が妖怪達を救ってきた時――、俺は生まれてさえいませんでした。
そう、俺が貴方の代わりを成し遂げる事など、不可能なのです。
何より、聖さん、貴方が何を考えて行なってきたとしても、貴方のしてきた善行は、変わらぬ事なのです。
それに、例えそれ以上に善い選択肢を選べる可能性があったとしても、実際に選択し実行してきたのは、聖さんなのです。
どうぞ、思い浮かべてください。
貴方の救ってきた妖怪達は、どんな顔をしていましたか?」

 あ、と、聖は呟いた。
涙が勢いを増すと同時、聖の脳裏に救ってきた妖怪達の笑顔が蘇る。

「……笑顔、でした」
「その笑顔は、嘘だったのですか?」
「……いえ、違います」

 呆然と呟く聖に、笑みを深くして権兵衛が続けた。

「ならばその笑顔は、確かにあるものなのです。
貴方の善行を、証明するものなのです」
「私の、善行……」

 呆然と呟く聖の頭の中には、今まで救ってきた妖怪達の姿が写っていた。
誰もが聖の手助けで、笑顔になっていた。
満面の笑みだった妖怪も居る、微笑んでくれた妖怪も居る、泣き笑いだった妖怪も居る。
それら全てが、聖の善行を示す物なのだ。
権兵衛がムラサを救うのを見るまで、聖の中で当たり前だったその事実が、再構築された。
感動に、聖は嗚咽を漏らし始める。
自分のしてきた事すら曖昧になっていた聖に、権兵衛の言葉は救いだった。
権兵衛と言う存在に全てを見失っていた聖は、今再び自分を取り戻したのだ。

「ありがとう、ござい、ます……」

 権兵衛は何も言わず、横たわる聖の頭を撫でるばかりだった。
感極まった聖は、体を突き動かす衝動に駆られて、思わず権兵衛に抱きつく。
権兵衛の腹を涙で濡らしながら、思い切り抱きしめる。
意外と硬い権兵衛の腹の感触が、聖の頬へと返っていった。

 なんと容易く、私は救われたのだろうか。
聖はあまりに簡単に自分が救われた事にも感動していた。
それは正に昨日の焼き直しで、ムラサを救った権兵衛に対して抱いたのと同じようだった。
ただ違うのは、聖の持つ感情である。
それは最早劣等感ではない。
信仰であった。
権兵衛が絶対的に自分より優れていると認める、懐深き心であった。

 この人は、きっと私などよりずっと素晴らしい存在になれる。
それは聖の中で最早、確定した真実と化していた。
自分は今まで命蓮寺の住職を勤めてきたし、それに見合う力がある。
だとすれば権兵衛は、命蓮寺に収まらず、もっと大きな場所を収めるだけの精神があるのだ。
それはもしかしたら、幻想郷中を覆うような、素晴らしい信仰を。

 今では聖には、妬み恨みの気持ちは既に無くなっていた。
代わりに、権兵衛を幻想郷を纏める最大の長としてみせよう、と言う決意だけが聖の体を満たす。
それには長い道のりが必要だろう。
一癖も二癖もある幻想郷の住人達に権兵衛の素晴らしさを分かってもらわねばならないし、そもそも人里では権兵衛は邪悪な妖怪と言う事になっている。
それら悪評を全て解消し、権兵衛を信望させるのは、果てしない道であろう。
しかし、聖の全身を満たす使命感が、それを戸惑わせなかった。

「権兵衛、さん……」

 静かに涙を流しつつ、聖は権兵衛の腹に、まるで恩寵を授かるかのように粛々と、顔をこすりつけた。
寝ていたからだろう、着物越しに少しだけ権兵衛の汗の匂いがする。
それを鼻孔から吸込み、聖は自身の肺を満たした。
それがあまりに魅力的で、聖はそのまま権兵衛の着物の中へと入り込みたくなったが、辛うじて自重する。

 この人を、幻想郷の頂点としよう。
その決意と同時、聖はそのご褒美として、権兵衛に触れる事を望んでいた。
今までの聖であれば、もっと自律的でそんな願いは切り捨てていただろうが、権兵衛に認めてもらったと言う事実から、聖は少しだけ我儘を覚えたのだ。
権兵衛の腰に回す手を、服を掴むのではなく、掌を押し付けるように触れ方を変える。
少し頭ごと体の位置をずらし、大きな乳房を権兵衛の腹に当てる。
柔らかいそれは形を変え、権兵衛の腹に沿うようになった。

 聖は権兵衛に触れる場所から、燃え盛るような熱を感じる。
この炎を活力に、これから権兵衛の事を幻想郷中に知らしめよう。
だけどその前に、少しだけ、もう少しだけ権兵衛の熱を感じていたい。
そう思い、聖は権兵衛に甘えるように抱きつき、暫しの時間を過ごす。
その光景は、聖を探していたぬえが権兵衛の部屋に来てみるまで、ずっとずっと、続くのであった。




あとがき
聖がちょっと豆腐メンタル過ぎるかとは思いましたが、こんな感じになりました。



[21873] 命蓮寺3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 20:14


 夜の帳も降りた頃。
権兵衛含む命蓮寺の面々は、夕食を終えて各々の部屋で寛いでいる時間帯である。
そんな時間、シンとした寺の中を、ナズーリンは一人歩いていた。
その様子は、何処か不安気で弱々しい物である。
ふらふらとしっぽを揺らしながら暫く歩くと、ある部屋の前に辿り着き、ナズーリンは足をとめた。
すぅ、と一つ深呼吸をしてから、声をかける。

「権兵衛さん、今少し時間を取ってもらっていいかな?」
「あぁはい、構いませんよ、どうぞ」

 そう言ってのけた権兵衛に従い、ナズーリンは襖を開けて部屋に入る。
権兵衛は部屋の端で灯りを魔力で作りながら、何やら書き物をしているようだった。
怪我もそろそろ治ってきたのだろう、布団はまだ畳んだままである。
権兵衛は早速筆を置き、体ごとナズーリンの方へと向き直った。
その様子に、思わずナズーリンは目を瞬く。

「あぁ、何か書いていたのかい? 邪魔しちゃったかな?」
「いえ、寝ている間暇でしたのでいくつか術を考えておいたので、それを書き記しているだけでして。
もう少し推敲も必要かな、と思っていた辺りなので、むしろ調度良いぐらいですよ」

 そんなふうに言う権兵衛の言が本当か嘘かは知らないが、こんな所を見ると気遣いのできる男でもあるんだな、とナズーリンは思う。
そうは言っても、昼間の事を思うと感覚がぶっ飛んでいるのは間違いないだろうが。
権兵衛が立ち上がり、部屋の隅から座布団を持ってきて置いたので、ナズーリンはそれに従いスカートを抑えながら座る。
背筋を伸ばして権兵衛を見据え、口を開いた。

「まずは権兵衛さん、昼間はありがとう」

 と、頭を下げるナズーリンに、一瞬困ったような笑顔を浮かべてから、権兵衛は頷いた。

「はい、どういたしまして。
しかし、結果的に上手い形に収まったようなので、気にすることは無いかと」

 と言ってから、権兵衛は簡潔に昼間の事を話す。
どうやら聖は権兵衛に劣等感を覚えていたようだった事、ナズーリンの言がそれを刺激してしまった事、そんな聖に自信を取り戻させる事に成功した事などを、必要最小限に纏めて話した。
ナズーリンはそれを難しい顔で聞きつつも、最後には納得がいったと言う顔で頷く。

「そうか、確かにそれでも私の言動に聖があんなに怒ったのも、分からないでもない」

 ナズーリンは静かに言った。
少しほっと溜息をつき、安堵の表情を見せる。
そんなナズーリンを訝しげな表情で、権兵衛が見据えた。

「差出ましい事かもしれませんが。
それでも、と言う事は、他に心当たりがあると言う事なのですか?」

 首を傾げる権兵衛に、ぴくん、とナズーリンは肩を揺らし、表情を固めた。
暫し、沈黙が間に横たわる。
畳に視線をやったまま、ナズーリンは意を突かれた事による動揺をどうにか抑えようとした。
深く息を吸い、心臓の鼓動を止めようと胸を上から手で握るようにする。
発汗が続くのを空いた手で拭いさり、深く息を吐いた。
人心地ついたナズーリンが、口を開く。

「確かに、そう、かな」

 そう告げるナズーリンに、心配そうな表情で権兵衛が身を乗り出し、告げた。

「もし、俺如きでよければ相談に乗りますが、どうでしょうか」
「………………」

 ナズーリンは、静かに権兵衛の顔を見据える。
これで僅かでも好奇心が現れでもしていたら断るつもりだったのだが、こうまで純粋に心配しているようにしか見えない顔だと、断る理由が無くなるどころか、相談しない理由が無くなるような気さえした。
それは、まるで引力に似ている、とナズーリンは思う。
権兵衛を中心に、誰しもがその心を惹きつけられるように感じているのだ。
一歩寺の面々から引いた位置を保っているナズーリンだからこそ、その様子は分かった。
権兵衛に懐くムラサ。
何かと権兵衛にちょっかいを出すぬえ。
星はすぐに寺を出てしまったので分からないが、権兵衛にシンパシーを感じていたようだし、聖は権兵衛に救われたような身でもある。
誰もが権兵衛に惹きつけられていた。
そしてそれは、自分もそうなのだろう、とナズーリンは思う。
何せ今まで仕舞ってきた心配事を、今になって権兵衛に相談する気になっているのだから。

「なんて言うのかな。
私、寺の中でもちょっと浮いているんだよね」

 予想通りあっさりと権兵衛に相談し始める自分に、自分が尻軽なような気がして、ナズーリンは少し気が引けた。
それでも一度口を開いてしまえば、まるで堰を切ったように言葉が溢れ出す。

「皆人妖平等って言うんだけれど、私はもっと現実的でね。
本来の力関係について、妖怪は人間より下に居る。
何故なら、妖怪とは人間の恐怖から生まれる物だからだ。
対して人間は、妖怪が居なくてもなんら困る事は無い。
元々不平等なそれを平等にするのには、妖怪側に過度に力を入れなければならないんだ。
しかし力加減を間違えば、今度は妖怪が人間を虐げ、自分たちの力の源ごと無くしてしまうだろう。
そんな中で、この幻想郷は充分過ぎるほどに奇跡的なバランスを保っている。
これをそれ以上に絶妙なバランスにするのは、不可能と言って良いだろう」

 一旦ナズーリンが言葉を区切ると、権兵衛は思い当たる事があるようで、事々に頷いていた。
理解が追いついているのを確認し、ナズーリンは続ける。

「だから結局、人妖平等を掲げた所で、出来るのは妖怪の相談にのる事ぐらい。
大々的な改革なんてできはしない。
どころか、私はその妖怪の相談にのる事すらも、必要ないんじゃないか、と思っている。
だって、態々その妖怪が話しづらい事を話してきて、その内容を解決して、それで出来る事なんてたかが妖怪一人が健常に生きられるようになるだけだ。
こっちはたったそれだけに粉骨砕身しているっていうのに、結果がそれだけなんて、やってられないじゃないか。
正直ね、ついて行けないんだよ、皆に」

 なげやりに言うナズーリンに、権兵衛は困ったような笑顔を作るのみである。
何せ権兵衛と言えば、聖が嫉妬する程に人妖を差別せず扱っていると言うのだ、こんな事を言われても反応に困るだろう。
なのにナズーリンが話してしまうのは、権兵衛の引力が余程強いか、それとも聖に怒鳴られた事が思ったより堪えていたのかもしれない。

「それに、元々私は私的な理由から聖の元に身を置いたんじゃない、公的な、星が毘沙門天の弟子として相応しい働きができるかどうか、見張る為に来たんだしね」
「えっ、そうだったのですかっ」

 と目を見開く権兵衛がそうする通り、星とナズーリンの上下関係は強い結びつきがあると皆に思われており、この事を知ると皆驚く物であった。
なので権兵衛もそうするのはおかしくないと思いつつも、予想通りの反応しか返してくれない権兵衛に、不思議とナズーリンは苛立ちを覚える。

「そうさ。
そんな事があるから私だけ皆と違うのは、仕方ない事なんだろうけれどね。
だから私が怒鳴られた時、もしかして、私だから怒鳴られたんじゃあ、なんて、聖に失礼な事考えちゃってね……」

 実際、聖に平手打ちされかけた所を権兵衛に庇われた後、ナズーリンは自室に戻って呆然とそんな事を考えていた。

「ふふ、こんな事言っても、愚痴にしかならないんだけどね。
それに、ああいう黒い冗談を言うのも、命蓮寺の中じゃあ私だけ。
部下のねずみがとは言え、食人を行う妖怪も命蓮寺の中じゃあ私だけ。
皮肉だって、私ぐらいしか使いはしないし、それだって命蓮寺の中じゃあ通じない事すらある。
それに……」

 と、そこでぐっ、と権兵衛が身を乗り出す。
続きを言おうとするナズーリンの手を、手で確りと握りしめる。
何とも暖かな体温で、どくん、と心臓が脈打つのをナズーリンは感じた。
咄嗟に権兵衛を見やるが、変わらず優しげな笑顔をしているだけである。
ナズーリンは困惑し、口を開いた。

「っていや、この手はなんなのさ」
「えっと、震えてらしたので、その、咄嗟に」

 と言われて始めて、ナズーリンは自身が震えていた事に気づいた。
自覚すると震えは強まり、思わず自身を抱きしめるようにしてしまう。
そんなナズーリンを見かねたのだろう、権兵衛は手を握りしめるのを辞め、座布団ごとナズーリンに近寄る。

「失礼します」

 と言うと、ナズーリンの体を抱きしめたのであった。
反射的に退けようとするものの、体に力が入らない。
自然ナズーリンは権兵衛に抱きしめられる事になるが、抵抗は始めのうちだけだった。
なんというか、非常に気持ちいいのだ。
まるで太陽のように、全身がぽかぽかと暖かくなる体温だった。
こんなの自分らしくない、と冷静な自分を取り戻そうとするが、卑劣にも権兵衛の体温はそんな事を忘れさせてしまうぐらいに心地良い。
自然、ナズーリンは権兵衛に体を許す事になる。
権兵衛とナズーリンが、互いの顎を互いのうなじに載せる。
血流が脈打つのが聞こえ、ナズーリンは思わず顔を赤くしながら、権兵衛の力強い抱擁に身を任せた。

「ん………………」

 ナズーリンは、目を細めながら、自身の体を権兵衛の体に擦り付けるようにする。
人肌に温まっているのは権兵衛も同じなのだろう、その肌はうっすらと汗が浮かんでいて、その匂いが嗅ぎとれた。
顎先を動かして汗の粒に触れ、それを感じながら、暫くの間ナズーリンは権兵衛に抱きしめられたままでいる。

「もう、大丈夫だよ」

 そうナズーリンが言ったのは、だいぶ時間が経ってからの事だった。
ナズーリンは権兵衛が離れていくのを見送り、権兵衛もまた体を元の位置に戻した。
思わず名残惜しそうに手を伸ばしてしまうのを、ナズーリンは鉄の意志で止めておく。
それでも、態々座布団を離す事は無いと思ったのだろう、近い距離なままなのに、僅かにナズーリンの心臓が脈打った。

「ごめん、やっぱり手を握っているだけでも、してもらえないかな」
「はい、勿論」

 言ってから、誰だこいつ、とナズーリンは恥ずかしさに身悶えしたい衝動に襲われた。
込み上げてくる衝動に、今すぐこの場でごろごろと転がって発散したいぐらいである。
しかし、それよりも権兵衛は手を伸ばし、ナズーリンの左手を握る方が先であった。
権兵衛の手に指を絡め、また絡められもする。
恥ずかしさと安堵が入り交じり、よく分からない衝動にナズーリンは駆られる。
なんで私は、こんな可愛らしい乙女のような仕草をしているんだ。
私はもっと冷静で、皮肉屋な女ではないか。
そう考えても、権兵衛の手の温度が侵食してきて、そんな考えを打ち払ってしまう。
なら、それはそれで仕方あるまい。
暫く身悶えしてからそうやってどうにか割り切り、ナズーリンは何時ものにやにや笑いを顔に浮かべ、口を開いた。

「さて、いきなり女性にハグをするとは君、中々のプレイボーイじゃないか」
「うっ……。いやでも、ナズーリンさんも、手を握られながら言う台詞じゃないじゃないですか」
「うっ……」

 お互いにダメージを受けながらも、手を離す事は無い。
それから何とも無しにお互い気恥ずかしい気分になりつつ、じっと手を握り合うだけの時間が過ぎる。
暫くして、権兵衛が口を開いた。

「その、俺でよければ、愚痴などいくらでも聞きますし、胸もいくらでも貸します。
ですから、その、ナズーリンさん、自分がたった一人だなんて、思わないでください」

 その言葉は、不思議とよく響き、ナズーリンに素直な口を聞かせた。

「うん……」

 と言ってしまってから、幼い返しをしてしまった事に気づき、こんなのキャラじゃあない、とナズーリンは顔を赤くし俯く。
しかし、そうすると視界に入ってくるのは、権兵衛の両手である。
一瞬振り払う事も考えたが、権兵衛の体温が感じられるのが未だに嬉しく、ナズーリンはそれを手放せない。
それがまた、親の手を離そうとしない子供のように思え、ナズーリンは耳まで赤くする。
それを誤魔化そうと、ナズーリンは少し前傾を強くし、手に顔を近づけた。

 いい匂いだな、とナズーリンは思う。
怪我が僅かに治りきっていない事から血の匂いが僅かに混じった、汗の匂いがする。
それが権兵衛の匂いだと思うと、不思議と心地良い。
ナズーリンは吸い寄せられるように権兵衛の手へと顔を寄せ、頬を摺りつけた。
びくん、と権兵衛が思わず動いてしまうのを感じる。
からかおうにも真面目で斜め上に反応する権兵衛が、始めてナズーリンの思うとおりに反応したのである。
それがどうにも面白くて、ナズーリンはなんだか嬉しくなってしまい、口角を上げた。
そして同時に、舐めてみたらどうだろう、と好奇心が疼く。
ナズーリンはそれに従い、権兵衛の肌に一瞬だけ舌を這わせた。

「ひゃっ!?」

 驚いたようで、変な声を上げながら、飛び上がりそうになってしまう権兵衛。
驚いて目を白黒させている権兵衛に、くす、と微笑みながらナズーリンは再び頬を擦り付ける。
ナズーリンが権兵衛を驚かそうとやったのが分かったのか、権兵衛は困り顔のまま黙りこむ。
別に不機嫌になったのではなく、単にどう反応すればいいのか分からないのだろう。

 それにしても、とナズーリンは思う。
下に残る、少しだけ塩っぱい権兵衛の指の味は、痺れるように美味かった。
あまり何度もやると慣れられて驚かれなくなってしまうと分かっていたが、それでも我慢しきれず、ナズーリンはもう一度ちろりと権兵衛の指を舐める。

「っ!?」

 権兵衛は今度こそ、何とか声を上げずに息を飲むだけで済ませた。
少しだけそれが不満だったナズーリンだが、また権兵衛の指の味を味わえたので、基本的に満足である。
ゴムのような弾力ある触感を返す権兵衛の指は、どうしてか、ナズーリンの心を強く惹きつけた。
他のどの部位でもなく、指が、である。
どうしても気になるので、ナズーリンは権兵衛の右手の人差し指に、唇を這わせる。
ぷっくりとしたナズーリンの唇が潰れ、権兵衛の指をなぞるように形を変えていく。
そして爪に辿り着き、先端へとたどり着いた時、ナズーリンは舌を使って権兵衛の指を少し持ち上げた。
抵抗なく動く権兵衛の指は、ナズーリンの誘導通りに動き、ナズーリンの口内へと入ってゆく。
ちゅぽ、と涎が淫靡な音を響かせ、ナズーリンは権兵衛の指をくわえた。

「き、汚いですよ、ナズーリンさん……」

 権兵衛が何か言っているが、無視。
舌で権兵衛の指を転がすように舐めつつ、唇は強く権兵衛の指へ押し付けるようにしてくわえる。
ずずず、とナズーリンは権兵衛の指を深くまで口内に入れた。
じゅぷじゅぷ、と妖艶な音を立てつつ、桜色の唇が権兵衛の指を飲み込んでゆく。
暫くは深くまで飲み込む事で満足していたナズーリンであるが、次第に変化の無さに不満を感じるようになる。
そうしてナズーリンは、ゆっくりと権兵衛の指から唇を引くようにした。
権兵衛から安堵の気配が漏れ出し、ついには爪の辺りまでナズーリンが飲み込んでいる面積が少なくなる。
が、突然ナズーリンは一気に権兵衛の人差し指を、限界近くまで飲み込んだ。
権兵衛が飛び上がりそうなぐらい驚く気配に、くすりと内心ナズーリンは微笑む。

 そのままナズーリンは、頭ごと前後させたり、頭を捻ったりしながら、様々な位置角度から権兵衛の指を舐め続けた。
そうやって右の指五本を舐め続ける頃には、深夜に達していた。
それでも権兵衛の指を舐めるのは飽きる事のない事柄で、権兵衛が眠そうにうつらうつらとし始めなければ、何時まででも続けられただろう。
次は、足の指を舐めるのもいいかもしれない。
そんなふうに思いながら、ナズーリンは期待に胸踊らせながら自室へ戻り眠る事にするのだった。



 ***



 満点の夜空、それを覆う不気味に婉曲して見える木々の中、星は落ち葉を踏みながら先へと進む。
星は、夜中ながらも地面を歩いて地獄を目指していた。
知己である夜摩天、閻魔である四季映姫の元を尋ねる為である。
重ねて言えば、閻魔の持つ浄玻璃の鏡によって権兵衛の能力を確認し、彼が無意識に聖を害していなかったか調べるためだった。

 それには当然何の制約もつかない訳ではない。
星と言えば神である。
神は空に浮いているだけで人間に反応が見受けられるぐらい、目立つ物である。
何故なら神とは信仰心を糧にして生きる生き物であり、目立たない事では信仰心を得られないからだ。
なので大小の差はあれど神は目立つし、毘沙門天と言う有名所の弟子である星は尚更である。
そして今の時期、権兵衛を探す里人は殺気立っていて、それ一つを理由に寺へやってきそうな物だ。
勿論星が何やら事を起こしていたと言って、それが権兵衛に結びつく訳では無い。
が、それでも僅かな理由さえあればそこへ飛び込んでいきそうなぐらいに里人は敏感になっていた。
まるで麻薬を求める患者のような、悲痛さを感じさせる動きで里中を歩きまわる里人を見て、星はそう判断した。
故に星は、地面を歩いて行く事によってそれを解決する事にする。
勿論少しは人の目に触れるだろうが、空を飛ぶ程では無いだろう。
もっともそれには時間がかかると言う欠点があり、その間に聖が体調を余計に崩しはしないか、と言う心配もあるが。

 そもそも行かなければいいのでは、と言う考えが星に無いと言えば、嘘になる。
行かずにただただ権兵衛を追いやれば、寺は安泰なのである。
なのに態々リスクを犯してまで権兵衛の能力を調べるのは何故なのか。
うぅん、と悩みながら星は首を傾げる。
両手は前へかざされており、それによって木々の枝は不思議と星を避けるように曲がっていった。
それはさながら枝で出来たトンネルのようで、前が閉じたままである事だけがそれを違う。
実を言うと、里から続くこのトンネルによって星が目立たないと言う事はとても達成出来ていないのだが、本人は全くそれに気づいていなかった。

 矢張り、聖の為だろうか、とまず星は思う。
聖の為と言って、聖の助けだした人間を追い出すようでは、聖の意思に反する行為である。
どころか、聖なら自分があの体調のまま権兵衛を寺に置いて済ませようとするかもしれない。
ならば当然、星が権兵衛の能力を確認しにいくのは道理である。
道理ではあるのだが。

「……違う、気がするなぁ」

 もっと正確に言うと、それだけではない、と言う感覚である。
星は反対側に首を傾げつつ、思案した。
では、権兵衛の為なのか。
権兵衛にとって、自分の能力を知って安心し、もしくは危険を知り自分の居ていい場所を悟るのは当然に良い事である。
これが無神経な人間であればともかく、自分が誰かを害する事を悲しむ権兵衛なら、そうなる。
ならば当然、星が権兵衛の能力を確認しにいくのは道理である。

 が、これもまた違うように星には思えた。
確かに権兵衛は好ましいのだが、会って丸一日と経たない男に対する好感度としては、そこまで行く筈もあるまい。
第一、権兵衛の事を思った所で、星の心臓は微塵も揺るがない。
ちょっとばかり動悸が速くなったりするような気がするし、頬の紅潮しているような気がするが、それも木々の影に隠されよく分からないので、星は全く赤面していないのだ。
そう思いつつも、息が荒くなってきて、立ち止まる星。
同時にトンネルを編む木々の枝も、動きを止める。
星は伸びをするように両手を伸ばしながら息を吸い、吐くと同時に肺の膨らみと反比例して腕を降ろした。
深呼吸をしているが、これは単に森の空気を一杯に吸いたいだけなのだし、この寒い中パタパタと首もとから風を送っているのも、歩くついでに自分に軽い荒行を施しているだけなのだ。
そう言い訳しつつ、星は再び歩み始める、その寸前であった。

「あら、こんばんは」

 その女は、気づけばそこに居た。
木々のトンネルと化していない前方の枝に腰掛けるようにするその少女は、星から見ても不可思議な程に美人であった。
西洋風の彫りの深い顔立ちに、紫水晶の瞳に黄金の纏められた髪。
服は洋服に中華の色を混ぜたかのような感じで、ゆったりとした白いワンピースの上に、薄紫の貫頭衣を重ね、それを腰や二の腕で赤い紐でくくっている。
目は暗く、こんな深遠に石を落としても、音などしないのだろうな、と星は思う。
八雲紫であった。
あまりに胡散臭い登場だったが、それでも礼を失する訳にはいかないと、星は返事をする。

「こ、こんばんは」
「なんで此処に居るのか気になるでしょうけれど、まぁ、これは私よりも頭が春な女の為でもあってね。
いえ、それによって私に益が無い訳じゃあないから、勿論これがあの子の利益にならないとしてもこれをやる事は確かなんだけれども。
まぁつまり、何にせよ、私は絶対に此処に登場する運命なのよ。
運命、そう、運命。
予め全てが定まっていると言う幻想、ラプラスの悪魔は、不確定性原理によって敗北した。
それからの悪魔は、一体どうしたのかしら。
現実に敗北しながらも書物上の存在となりつつ生きている?
それとも、幼く愚かな子供達の想像上の生き物として生きている?
それとも……幻想入りしているのかしら。
もしもそうなら、この幻想郷では運命と言う物があるのかもしれない。
吸血鬼の小娘が言うように、運命がね」
「はぁ……」

 ぽかん、と口を開けながら星は少女を見やる。
何とも口の多い紫は、見目の年齢すらよく分からず、星より年上にも年下にも見えた。
そう、年上と年下の隙間が安定していないような感じなのである。
そんな星の考えをどう思ったのか、紫は閉じた口をすぐに開く。

「だから、これは運命によるお節介かもしれない。
なのでお礼はいらないわ。
別に運命で定まっているからお礼が要らないって訳じゃなあいわ、だってそうだったらこの世からお礼さえも幻想となってしまうもの。
ただ、私がこうする理由があってしている、とだけ思って貰えれば、それでいいのよ。
別にそれには必要が無いんだけれど、それでも私は必要でない事も多くする事にしている。
必要さに縛られると、必要さの境界が強固になり、多くの物を閉めだしてしまう。
その隙間に存在する物は、妖怪の生きる糧である精神的な質量であると言うのに。
それが分からない妖怪は沢山居たけど、みんな死んで消えていったわ。
だから私はそれから学び、不必要をもこなす。
そんな訳で、礼はいらないわ」

 と、そこまで話した所で、紫は宙に手をやった。
長い話に辟易としていた星は、その動きに目を見張る。
空間に裂け目が走った。
ぴょこん、と飛び出たリボンが裂け目の両端をむすび、間はゆっくりと口を広げていく。
中は暗い暗い空間で、一切の光が無い世界に、無数の目が浮かんでいた。
ぞ、と背筋を走る悪寒に星が半歩下がると同時、その光景は変化。
波打つように映像がフェードインしてきた。
映像はどうやら大きな建築物ようで、何処か見覚えがあるな、と思いつつ星が見ていると、それは閻魔の裁判所の外観と一致していた。
思わず、星は紫を見やる。
にこりと、胡散臭い笑みで紫は笑った。

「あの方の所へ、近道は如何ですか?」
「あ、ありがとうございますっ!」

 と、思わず礼を言ってしまってから、しまった、と自省する星。
ちらりと視線をやると、紫は少し不機嫌そうな顔をしている。
いくらか釈明をしようとも思ったのだが、紫の機嫌を直すような台詞が思いつかず、また時間を節約させてもらったのに、その時間を浪費すると言うのも如何にも無駄遣いであった。
故に星は、小さな声ですいません、と謝ってから急ぎスキマを潜る事になる。
星が地獄についたのを確かめた後、紫は空間からスキマを消し去り、ふぅ、と小さく溜息をついた。
空を見やり、木々の間で輝く少し欠けた満月へと視線をやる。

「これで時間稼ぎは上々、そろそろ仕上げに入る時間ね」

 呟いてから、ふと何かに気づいたように紫は目をぱちくりとして、それから自分の頬をつまむ。
小さく目尻に涙が浮かぶぐらいの痛みで数秒、それで紫は両手を離した。

「あー、痛かった。
全くもう、よく喋る口なんだから」

 両手で両側の頬をさすりつつ、紫は再び空間にスキマを開き、そこへ消えてゆく。
後に残ったスキマもやがて閉じ、木々のトンネルはそこで謎の終点を迎える事になった。



 ***



「七篠権兵衛、ですか」

 四季映姫・ヤマザナドゥが言うのに、星は困惑した。
何せ星は、まだ権兵衛と言う言葉を一言も口にしていないのである。
どうしたものだろうか、と内心首を傾げつつ、頷く。

 地獄に来てから流石にすぐには映姫の元へ通されなかった星であるが、小一時間程待ったところで映姫がやってきたのだ。
待合室に指定された部屋は足元まである大きな窓がある部屋で、外には中庭で休憩している死神達が見えた。
となると、目立つ星である、何をしにきたのだろう、とこそこそ話をされてしまう。
互いに肩を寄せ合い、掌で口を覆い、死神たちが噂するのに、居心地悪く星は待っていた。
ふと、あまりの忙しさに居心地悪い部屋で待たせてなるべく二度と来ないでもらおう、と言う意図があったのだろうか、と思ったが、星はすぐにそれを笑い飛ばし、開き直って堂々と待つ事にした。
朝、権兵衛にした説教が耳に残っていたのもあるだろう。
と言っても、今度はただ待っているだけだと言うのにピンと背を胸を張っているその姿は、それはそれで死神たちの間で珍妙に語られるのだが。

「はい。先日命蓮寺として助けたのですが、彼は妙な能力を持っているらしく。
“名前が亡い程度の能力”、と言いましたか。
何でも神の天敵たる能力なのだそうですけれど、幸い私には影響が少なく。
ただ、代わりに何の影響も無い筈の聖が体調を崩したので、権兵衛さんが他に能力を持っていないかどうか聞いてみようかと」

 映姫はさぞかし忙しいだろうに、ゆったりとした、実に堂々とした態度で現れた。
その手には、星の期待通り浄玻璃の鏡があった。
きっと今此処で権兵衛の事を見てくれるのだろう、と期待した所、第一声が権兵衛の名である。
ひょっとして、来る前に星の事を浄玻璃の鏡で見てきたのだろうか。
神が同じ神を裁くとは思えず、裁くと言う名目無しに浄玻璃の鏡を覗いていいのか分からないが、星は神になった妖怪である。
そのへんは何とかなるのだろう、と納得する。

 映姫は、浄玻璃の鏡を掲げた。
大きめの手鏡のようなそれは、至る所に装飾が施されており、重要な役目を持つ物なのだと示されている。
ぼう、と鏡面が光を発し、映姫の顔を青く染めた。
権兵衛の人生を覗いているのだ、と緊張しながら星は生唾を飲み込む。

 暫くして、映姫が一切表情を変えること無く光は止んだ。
映姫がゆっくりと浄玻璃の鏡を下ろし、鏡面を下にして膝に置く。
それから、痛ましげな表情で星の方へ向いた。

「実を言えば。私は、これまで何度か権兵衛の事を浄玻璃の鏡で覗いてきました」
「え?」

 思わず、星は驚愕の声を漏らす。
神としても、毘沙門天と同格の映姫と、その弟子相当である星とでは格が違う。
それ程までに高い神格を持つ映姫が、私事でただ一人の人間を浄玻璃の鏡で、それも何度も覗いた?
ありえない、と反射的に星は思ってしまったが、しかし現実として映姫が言うのはそういうことだった。

「そして覗く度に、彼の力が無くなっていればいい、と、そう願いながら覗いていました。
彼は、あまりにも哀れすぎる。
あまりにも、救われなさすぎる。
私は数えきれない程の魂を裁いてきましたが、これほどまでに不幸を約束された魂も珍しい」
「……不幸、ですか」

 想像していたのとは全く違った展開に、混乱しつつも何とかついていこうと、星は呟く。
不幸。
確かに権兵衛は不幸な人間だろうが、それは他の人妖なら兎も角、閻魔にとっては見慣れた不幸さの程度ではあるまいか?
少しだけ、星は不安になってきた。
別に星は権兵衛に不幸になって欲しい訳では無いのである。
はるばる閻魔の所まで行ってきて、権兵衛には何の心配もなく、良かったと済ますつもりだったのだ。
それが今、映姫の口から物騒な言葉が口にされている。
どういうことだ、と混乱する星を置き去りに、映姫は語る。

「しかも彼は、名亡しの人間。
死んだ所で果たして神の力無しに魂は地獄へ来れるのか、来ても私の裁きが通用するのかもわかりません。
そしてならば、せめて私が説教してさしあげようと、そう考えた事も幾度もありました。
しかし、彼には“名前の亡い程度の能力”がある。
神としての力は彼に及ばず、しかし力の大きさ故に彼の力に捕まってしまえば、最早私は彼の魅力に取り憑かれて、離れる事もできなくなるでしょう。
何故かは……少し、説明の必要がありそうですね」
「は、はい」

 頷く星を満足気に見つつ、映姫は一つ頷く。

「本当は貴方に説教の一つでもあげたかったのだけれども、時間がないようなので、説明を始めましょう。
七篠権兵衛は、“名前の亡い程度の能力”を持っています。
故にまず、彼は名前を亡かったが故に、その年齢に比さず、少ない穢れしか持っていません。
そして月の魔法は、穢れ無き者だけに覚えられる力。
それ故に権兵衛は、“月の魔法を扱う程度の能力”を得ました。
しかし、順番としては前後しますが、“名前の亡い程度の能力”の効力はそれだけではありません。
名前が亡いと言う事は、名前の真空であると言う事です。
空気中に真空があれば、どうなることでしょうか?
そこに引力が発生すると言う事です。
名前と言う、精神的な物を惹きつける強い引力。
それがやがて能力と化し、彼の“重力を操る程度の能力”と化しました」
「“重力を操る程度の能力”……」
「最も、自覚も制御も未熟で、幸か不幸か扱いきれていないようですが」

 それがどうしたのだろう、と星は首を傾げた。
確かに“重力を操る程度の能力”は聞くに凄そうな能力だが、それが何故映姫が権兵衛に説教に行けない原因になるのか。
納得行かない様子の星に、映姫は再び口を開く。

「彼の能力の言う重力とは、物質的な物だけではありません。
精神的質量をも惹きつける事ができるのです。
興味は好意に、好意は友情に、友情は愛情に、そして穢れなきあの狂った月に似ている彼であるが故に、愛情は狂愛に。
誰もが彼に強烈な感情を抱くのは、その能力の為なのです」
「……じゃ、じゃあ、私が彼に感じている感情も!」

 一旦溜めを作ってから、ゆっくりと、しかし確実に映姫は頷いた。

「はい。恐らく貴方の権兵衛さんへの感情の幾割かは、その能力によるものです」
「そんなっ! 人の好意を増幅する力だなんて、卑劣では無いですかっ!」

 思わず立ち上がり、叫ぶ星に、映姫は少し目を細めてじっと見つめる。

「卑怯……本当に卑怯ですっ!
私だけじゃない、ムラサも権兵衛に懐いているようだったし、ナズーリンも期待が持てそうとか言っていたし、ぬえだって悪戯をしかけていたけど、構って欲しそうで。
なのに。
なのにそれは、全て権兵衛さんの能力による物だと言うのですかっ!」
「それに、何の問題がありましょう」

 叫ぶ星の言葉を、映姫が一刀両断した。
絶句し、全身の力が抜けて、椅子に座り込んでしまう星。
その星を追い打つように、映姫が言う。

「私達の言ういわゆる能力は、その人妖の本質を表した物です。
その本質を行う事に、一体何の罪がありましょうか。
例えば“人間を驚かす程度の能力”を持ったからかさお化けが、人間を驚かせたとして、それは卑劣な罪のある行為なのでしょうか。
いいえ、無い、ありはしない。
勿論その度合や頻度を間違えてしまえば罪ともなりえますけれども、権兵衛の場合、彼はその能力を自覚すらしていない。
勿論無知は罪ですが、知った所で彼には“重力を操る程度の能力”を完全には支配できないでしょう。
それも努力や才能の不足ではなく、根源的な意味でそうなのです。
それを思えば、とても人を惹きつける事で彼を罰する事はできない」
「………………」

 星は、混乱した頭の中でぐるぐると思考を回転させた。
権兵衛に対して皆好意を持っているけれどそれは全部権兵衛の能力による物。
でもだからといってそれは不正な行為と言う訳ではなく、権兵衛を権兵衛たらしめている力の一部分による物であって。
ならば権兵衛は悪くないのか、と思うとなんだかそのように思えてくる。
しかし今度はぞっと星の背筋を悪寒が走り、権兵衛が悪くないと思うその事自体が権兵衛の能力による物なのでは、とも思えてきた。
どうすればいいんだろう。
なんて伝えればいいんだろう。
権兵衛を好ましいと思っていた筈が、その土台から崩れていって。
そんな風にぐるぐると思考を回す星を尻目に、映姫が口を開く。

「そう、彼を罰する事ができる部分は、そこでは無い。
彼の持つ四つ目の、最後の能力に関してです」
「よ、四つ目ですか?」

 権兵衛の持つ第三の能力までで既に混乱していた星は、思わず悲鳴を上げてしまう。
しかしそれを無視し、映姫は続けた。

「そう、彼の最後にして最悪の能力。
いくら精神的質量を吸引しても、権兵衛の名前の真空は収まらない。
そうなると、権兵衛はあらゆる精神的質量を引き寄せ、その中心の完全な真空に溶かし消してしまう事になる。
そして、その能力は……」

 映姫は、権兵衛の持つ四つ目の能力を告げた。
星は呆然と口を開き、その能力の名を反復する。

「そんな、彼にそんな忌まわしい能力が備わっているだなんてっ!?」
「過去の事例を全てお話しましょう。
それで貴方にもこの事が理解できる筈です」

 そう言って映姫は、浄玻璃の鏡から得たのであろう情報を喋る。
里と慧音との関係。
白玉楼の主従との関係。
永遠亭の四人との関係。
四季の花の主人との関係。
不死人との関係。
紅魔の主従との関係。
太古の鬼との関係。
最速の天狗との関係。
人形師との関係。
古き神と現人神との関係。
人里との関係。
全てが権兵衛の能力を真実なのだ、と示していた。

 あまりの事実に、星は震え上がった。
そんなにも救われない能力が、この世に存在していていいのだろうか、と戦慄すらもする。
そして何より、だからといって権兵衛にどう接すればいいのかが分からないのが最大の問題だった。
どうすればいいのか全く分からず、かといってこれ以上映姫に聞く事も何も無い。
映姫に急かされた事もあって、星は呆然としたまま地獄を去る事になる。
星が部屋を出ていくと同時、映姫は誰もいない部屋をぐるりと一瞥し、口を開いた。

「全ては貴方の手の中か。
ただ、それは貴方にとって扱いきれる事なのかしら?
私も、それを期待する事しかできないし、それ以上の解決案も見つからないのだけれども、ね」

 声は誰もいない部屋に響き、反響し、やがて聞こえない程の小さい音量となっていき、ついには消え去った。



 ***



「大変だよっ! 里の方へ行ってみたら、星が寺を離れたのを見た人が居て、それで命蓮寺が怪しいんじゃって言う話になっててっ!」

 朝一番に聞いた台詞は、衝撃的な物だった。
肩を荒く上下させつつ言うぬえさんは、この冬に額に玉の汗を浮かべる程に焦っている。
一瞬それを飲み込めなかった俺であるが、他の面々も同様にそれを理解し始め、顔色を悪くし始めた。

 朝。
朝食前に聖さんからの誘いがあり、居間に集まって小さな茶会をしよう、と言う提案があり、それに俺が乗ったのが始まりである。
すると次々とムラサさんとナズーリンさんが現れて聖さんに参加の了解を求め、得た。
ぬえさんは柱に寄りかかって行く先の道に、柱に寄りかかって登場し、いいから通りなよ、と何度も言う。
仕方なしにそれに従い通ろうとすると、俺は足元にピンと伸ばしたぬえさんの足を引っ掛けられ、ビタン、とその場でずっこけてしまった。
これに聖さんが怒り心頭で、ぬえさんは急いで逃げ出したものなのだが。

 その後ぬえさんは、やることもなく、里の様子を見に行ったらしい。
すると里中が殺気立っており、全員角材だの包丁だの何かしらの武器をこれ見よがしに持ち歩きながら、互いを監視するようにしていたそうだ。
異常を感じ取ったぬえさんは、正体不明となり里中から情報収集したのだと言う。
その内容が冒頭の台詞になるのだが。

「その、ごめんなさい、そうしているうちに、なんでか勘の鋭い里人が誰か正体不明の人妖に聞き回られているって気づいちゃって。
私の“正体を判らなくする程度の能力”は効いていた筈で、私の正体が勘ぐられる事なんてある筈無かったのに……。
兎も角、そうなれば命蓮寺が怪しいって言うのは決定的になっちゃって」

 と言うぬえさんは普段人間相手に姿を現さないそうだが、その存在自体が隠していないのだと言う。
何でも、人間が想像する正体不明が、更なる正体不明を呼ぶ、とか何とか。
閑話休題、そうなれば命蓮寺は危うい事になる。
何時ぞやの自宅のように、いきなり壊しには来ないだろうが、冷静さを失っていれば、詰問に来るぐらいはするかもしれない。
全員顔色を悪くし、特に聖さんなど今にも卒倒しそうなぐらいの顔である。
どうにか、どうにかせねば。
そんな風にしていても考えが思い浮かばないのだろう、苛々と小刻みに指や足を動かしていた聖さんが、思わずと言った風に口を開く。

「全く、ごめんでは済まない事ですよ。
本当に、なんでよりにもよって人里に近づくなんてしたんですかっ」
「ご、ごめんなさい、能力があるから大丈夫だと思ってて、それに今までも何時も気づかれずに済んだのに、今回だけなんだよ……」
「言い訳はいいですから、どうすべきか考えてくださいっ」
「は、はいっ!」

 ぴしゃりと言う聖さんに、涙目になりつつ答えるぬえさん。
それを見守るムラサさんやナズーリンさんの視線も、冷ややかな物だった。
そんな光景を見て、俺はあれ、おかしいぞ、と思う。
命蓮寺の面々は俺が今まで見てきた他の場所と比し、どちらかと言えば仲のよい世帯のようだった。
和を以て貴しと為す、そんな空気があり、みんな仲良く和やかな人々であった。
だのに今の、この光景はどうか。
ぬえさんは申し訳なさそうにうなだれ、聖さんは苛立ち、ムラサさんはちらちらと俺に視線をやっているだけで、ナズーリンさんは真剣に考え込んでいるようであるが、ぬえさんを気遣う様子は無い。
なんとも冷たい、刺すような空気が漂っている。

 これは一体誰の所為なのかと言えば。
それは矢張り、俺の所為なのであった。
俺のような厄介者を命蓮寺が背負い込んだから、こんな事になっているのだ。
それも物理的にばかりではなく、精神的にもこんなにも彼女らの心をかき乱して。
となると矢張り、そうするしかあるまい、と俺は心に誓う。
面を上げ、全員の顔を見回した。

「皆さん。矢張り此処は、俺が此処を離れようかと思います」

 息を飲む声が、三つ聞こえた。
聖さんもナズーリンさんもぬえさんも蒼白な顔で、ムラサさんも辛うじて顔に生気は残しているものの、顔が強ばっている。
しかし余裕のある事は事実で、どうしたのだろう、と内心首を傾げるが、今はどうでもいい事である。
続けて、俺は口を開く。

「この状況、命蓮寺が潔白を証明する為には、矢張り俺が邪魔になる事は間違いないでしょう。
万が一にでも、命蓮寺で俺が見つかる訳にはいかない。
何処かに隠れるにしても、例えば数日かけて調べると言う事になれば、きっとバレてしまうでしょう。
対して幸い、まだ里人に命蓮寺を包囲しようと言う動きは無いようです。
魔力も全快していますし、俺の逃げる余地はまだあるでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 と言い出したのは、ナズーリンさんだった。
視線をやると、両手を動かしながら何か言おうとしてはそれを取りやめ、と言う行為を何度も続けている。
それでやがて思いついたのか、反論を言う物の、弱々しい声であった。

「その、君が出ていかなくても、きっと何か、いい方法はある、筈だ……。
最良の案がきっとあるんだ、それを待ってからでも、遅く、は、無い……」

 言葉は途切れ途切れで、如何にも自信なさげである。
自分自身、その言葉を信じきれていないのだろう、その顔も懐疑心に満ちた顔であった。
俺は、ゆっくりと、諭すように言う。

「そんな魔法のような選択肢があっても、即断できなければ選択する為の条件が揃わなくなってしまいます。
それまでに必ず最良の案が浮かぶと期待するのは、あまりにも運任せな行為でしょう」

 ナズーリンさんは、肩を落とし、両手を握る。
余程悔しいのだろう、全身がふるふると震えていた。
それ程までに俺の事を想ってもらえている、と言うのは嬉しい限りで、俺は此処を離れればならないと言う時なのに、思わず笑顔になってしまう。
俺は、なんと幸せ者なのだろうか。
そう思うだけで気力が湧いてきて、この先の見えない状況でも生きる活力のようなものが生まれてくる。
そうなると彼女たちにも少し余裕を持って対応できるようになってきた。

「ご、権兵衛、ごめんなさい、私の所為で……」
「いいんですよ。
俺が此処に居る事は、どうせ何時かバレた事です。
少しいきなりで吃驚はしましたが、いずれ俺は此処を離れればならない身。
その時期が少し早まったと言うだけの事です」

 と言っても、申し訳なさが勝るのか、じんわりと涙を浮かべるぬえさん。
仕方がないので、俺は苦笑気味にぬえさんの頭へと手を伸ばす。
するとぬえさんは電撃に撃たれたかのようにビクリと震え、それからゆっくりと頭を下げ、俺の手の延長線上にやった。
ゆっくりと、ぬえさんのクセッ毛に手が埋まる。
奥にある地肌を優しく撫でてやると、ぬえさんはぽつり、ぽつりと今度は涙を床に落とし始めた。
どうすればぬえさんを慰める事ができるのかと思うものの、特に思いつく行為は無く、暫く俺はぬえさんの頭を撫で続ける事になる。

「権兵衛さん」

 と、ムラサさんが口を開いた。

「寺を抜けるにあたって、いくらか貴方に伝えたい事があります。
此処を出る前に、私と二人きりになって、少しだけ話をしてもらえないでしょうか」

 その言葉に、大きく目を見開くナズーリンさんにぬえさん。
その動きでぬえさんの頭から自然と俺の手が外れ、そのまま重力に従い降りてゆく。
どうやらムラサさんは俺が此処を抜けていく事を仕方ないと納得しているらしい。
それに少しだけ寂しさを覚えるものの、どちらかと言うと、頼れる味方ができて良かった、と言う思いが強かった。
そんな思いが顔に出たのか、思わず俺はほっと小さく溜息をつき、自然に生まれた笑みでムラサさんを見つめる。

「はい、その程度でしたらいくらでも」
「はいっ」

 すると何故だか満面の笑みで答える、ムラサさん。
どうしたのだろう、と内心首を傾げながらも、俺は彼女から視線を外し、最後に説得すべき相手である聖さんに視線をやる。
びくり、と自身を抱きしめるように動かしつつ、聖さんは俺から視線を外し俯いた。
対面に座る彼女を眺めながら説得の言葉を考えるが、言葉が思いつかない。
結局俺の言う台詞は、ありふれた物だった。

「聖さん。
そういった事で、俺は此処を離れます。
聖さんの掲げる人妖平等に関わる事かもしれませんが、それでも構わないでしょうか」
「そんな事じゃなくっ!
私は、貴方が……っ!」

 と、返答は慟哭であった。
思わず目を見開く俺に対し、聖さんは立ち上がり俺を泣きそうな目で睨みつける。
だが、それも数瞬の事。
何故だか脱力した聖さんは、その場に崩れ落ちるように座り込み、視線を外しながらこう言った。

「……いえ、そんな貴方だからこそ、なのですね。
いいでしょう、許可します」
「聖っ!」

 と思わず口に出すぬえさんとナズーリンさんだが、聖さんは取り合わない。

「せめて、見送りだけはさせてもらいます。
半刻以内に準備を済ませ、裏口の方に回ってください」

 と言うと、聖さんは立ち上がり早々に居間を去っていった。
それを呆然と見守る二人には悪いが、俺も準備をしなければならない。
無言で立ち上がり、それから残る三人を眺めつつ、口を開く。

「では、準備に行ってきます」

 返事は無かった。
ぬえさんとナズーリンさんは俯いているままで、ムラサさんは笑顔で俺を見送ってくれる。
この暗い話の中で明るい笑顔は貴重だったので、俺もまた笑顔で返答し、その場を離れた。



 ***



 権兵衛の準備と言っても、然程多いものではない。
彼の書いた書き物の処理と、普段から持ち歩いている物やらを整理するだけである。
万が一にも忘れ物が無いよう気を付けねばならぬが、元々此処から去る準備はしていただけあり、すぐに準備は終わった。
ならば半刻まで何をしていようか、と権兵衛が思う頃を見計らい、聖は声をかけた。

「権兵衛さん、少しよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」

 す、と襖を開けて、部屋に入り、後ろ手に襖を閉める聖。
権兵衛に向き直り、聖は権兵衛が勧めるままに置かれた座布団に座る。
大きく深呼吸。
権兵衛の瞳を確りと見据え、口を開く。

「権兵衛さん、矢張り此処を出ていく事は辞められないのでしょうか」

 一瞬困ったような笑顔を浮かべつつ、権兵衛は言った。

「それは、先程ナズーリンさんとも話した事ですが……。
此処に俺がいれば、間違いなく命蓮寺に大きな損害を与えてしまうのは間違いありません。
勿論それは、俺も望む所では無いのです。
どうか、わかってはいただけないでしょうか」
「……はい」

 消え入りそうな声で言いつつ、聖は俯いた。
確かに権兵衛にとって此処で命蓮寺を出ない選択肢が無いだろう事は聖にもわかっていた。
それに聖の理想である権兵衛を頂点とした幻想郷と言う夢も、まだ潰えた訳では無い。
権兵衛が居なくとも、彼の素晴らしさを語り、権兵衛が身を隠している間に準備をする事ぐらいはできる。
しかしそうは思っても、今にも身が引きさかれそうなぐらいの痛みが、聖の精神を犯していた。
爆発しそうな感情の奔流が、聖の中を駆け巡る。
急に叫びたい衝動に襲われ、聖はそれを歯を噛み締めて堪えた。
が、それでも衝動の残した轍は消えず、傷跡となって残っている。
傷ついた心を癒す最も効率のよい方法を、聖はよく知っていた。

「ならばせめて、少しだけ、抱きしめさせてください」
「いいですよ。はい」

 と、簡単に権兵衛は両手を開き、聖を受け入れる体制をつくる。
最初は淑女らしくゆっくりと抱きつくつもりだった聖だが、それを見て辛抱できず、がっつくように権兵衛に抱きついた。
ぎゅうう、と権兵衛の背に回した腕に、力を込める。
権兵衛の胸に顔を埋め、その匂いを鼻いっぱいに吸い込む。
少しでも隙間を作りたくなくて、乳房を潰すように権兵衛に押し付け、体を密着させた。

 それでも聖は権兵衛との接触部分が物足りず、頭を上げ、座布団の上にあった下半身も動かす。
股を権兵衛の太腿の上に置き、腹を権兵衛の腹に押し付けるように抱きしめる。
首は権兵衛のそれを同じ高さになり、権兵衛の顔を交差するようになった。
乳房は柔らかに潰れ、権兵衛の服越しに、僅かに権兵衛の乳首の存在を感じる。
それでもまだ物足りず、聖は自身を擦りつけるように、体を揺らすようにしてみせた。

「聖、さん……」

 聖の扇情的な仕草に、権兵衛が下半身を熱くするのが分かる。
自分に興奮してもらっているのだ、と考えるとなんだか聖も興奮してきて、まるで体の芯が熱せられているかのようだった。
体を揺らすのに下半身を擦りつけるような動作が加わり、動きが増えたからか、聖の呼吸が荒くなる。
すると今度は口が寂しくなってきて、聖は衝動的に権兵衛にキスをしてみようかと思うものの、辛うじて思いとどまった。
代わりに、声を出してみる。

「権兵衛、さん……」

 想像以上に甘い声に、聖は言ってから自分で吃驚してしまった。
目を見開く聖を、声に反応した権兵衛が強く抱きしめる。
そんな権兵衛はどうやら性欲をどうにか抑えようとしているらしく、肩越しに偶に舌を噛んだり頬をつねったりしているのが分かった。
それがどうにも可愛らしく思え、聖は権兵衛に体を擦りつける速度を速くした。
全身から汗が拭きでて、肌の上に汗の珠ができる。
髪が濡れて頬に張り付くのを感じ、聖は深く呼吸した。
権兵衛の汗の匂いが、聖の鼻孔を刺激する。

 此処に至って、聖の中に天啓が降りた。
電撃のように聖の中をその考えが巡り、支配する。
あまりの事実に、聖は一瞬倒れてしまいそうな程の衝撃を受けた。
ふらりとする聖を、権兵衛が抱きとめてくれたので、聖はどうにか姿勢を維持できる。

「聖、さん?」
「どうか、白蓮、と呼んでいただけますか?」
「白蓮、さん……?」

 疑問詞を吐き出す権兵衛に、にこやかな笑顔で聖は答える。
そう、聖はようやくの事気づいたのだ。
聖は確かに権兵衛を幻想郷の頂点とすべきだと考えているし、だから権兵衛を引き止めたいと言うのは本当である。
しかしそれは、真実の一片にしか過ぎないのだ。
もう一つ、もしかしたらこちらのほうが大きいかもしれないと言う、大きな理由が聖にはある。

 何故なら聖は、権兵衛を愛しているのだった。
女性として、権兵衛に男性を求めているのであった。
そう自覚すると、今度は自分が余りにも大胆に権兵衛を求めている事に気づき、聖は赤面する。
しかし体の方は権兵衛を求める事を辞められず、ぎゅう、と抱きしめたままである。
なので聖は、その赤面をよりによって権兵衛の肩越しにやり過ごす事となる。

 何とかまともに思考能力を保てるようになり、聖は考えた。
先ほど口が寂しいとは思ったし、それでキスをしたいとも思ったけれども、こうやって権兵衛の事を愛していると自覚した今、もっと良い方法が思いつく。
聖は抱きしめている手を起用に使い、権兵衛の着物を左右から引っ張り、少しはだけさせた。
鎖骨を露出する程に着物をはだけた権兵衛の肩口に、顔を埋める。
すぅう、と深く息を吸い、権兵衛の匂いを嗅いでから、聖はかぷ、と軽く権兵衛の肩を甘噛みした。

「ん……」

 自分を抑えようと必死な権兵衛の声が、より聖を興奮させる。
これによって、何があっても聖は権兵衛と一緒になるのである。
そうすれば、離れている事があってもきっと何とかその時期を乗り越えられるだろう。
だから、お願いします、と言おうかとも思ったが、きっと権兵衛も了承してくれるだろう事から、聖はそのままゆっくりと顎に力を入れる。
歯がゆっくりと権兵衛の肩に食い込んでゆく。



 ***



 星は結局何をどうすればいいのか分からないまま、命蓮寺へ帰ってきた。
殆ど夜通し駆け抜ける中でも色々と思いが錯綜し、結局権兵衛が忌まわしい能力を持つからと言って、どうすればいいのか分からないままである。
追い出すのか、それともそれを承知で匿うのか。
どちらにしても権兵衛の能力によって最悪の結果が待ち受けているとしか思えないのだ。
どうすればいいのか。
それならば結局権兵衛と近くにいられる、匿う方がいいのか。
何も分からないままに命蓮寺に帰宅して、寺の中が騒然としている事に気づかないまま、真っ直ぐに星は権兵衛の部屋を目指す。

 途中誰とも出会わないまま、星は権兵衛の部屋の前に立った。
すぅ、と胸を張りながら深呼吸し、それから権兵衛の部屋の襖に手をかけ、ごくりと生唾を飲み込む。

「せめて、彼には、伝えなければならない筈、ですよね……」

 決意の声も、鈍い物だった。
結局星は、権兵衛が閻魔に能力の事を聞きに行った事を知られており、権兵衛に対して嘘をつきたくないから、と言う消極的な理由から、能力について話す事に決める。
権兵衛は酷くショックを受けるだろうが、それでもあの時なんで教えてくれなかったんだ、と責められる事を想像すると、星はその事を言わずには居られなかった。
襖を持ちながらもう一度深呼吸。
失礼します、と言ってからも、星は手が震えて襖を開けれない。
自分の情けなさに怒りさえこみ上げてくるのを感じ、えいっ、と力を込めて星は一気に襖を開いた。

「っが、ぐうぅぅうっ!」

 獣の慟哭。
権兵衛の肩から血飛沫が飛び、まるで花のような模様を襖や畳に作っている。
その中心である権兵衛の左肩は、権兵衛の手によって隠されながらも、その赤い肉を覗かせていた。
呆然と星は、部屋の中のもう一人へと視線を移す。
聖の黒い外套は兎も角、白いワンピースは血の赤が映え、鮮やかな赤を見せていた。
その聖はどうやら顎を動かし何かを咀嚼しているようで、くちゃくちゃと言う音が小さく聞こえる。
権兵衛も星も一歩も動けない止まった時の中、聖はゆっくりと咀嚼を終え、その何かを嚥下した。
それから、聖は星の方へと振り返り、その熱に浮かされたような瞳を見せる。
しかしそれも、慣性でワンピースのスカートがふわりと浮き上がるぐらいの時間で終わり、すぐさま正気の色を取り戻した。

「あ、れ?」

 聖は呆然と呟き、血に染まった自分の掌を見る。
小さく呻き続ける権兵衛を見て、広がった血飛沫を見て、それからもう一度星を見て、呟いた。

「私は、権兵衛さん、を?」

 そこまで言うと同時、ふらりと聖は力を失い、後ろに倒れようとした。
はっとそれに気づき、駆け寄って星は聖を抱きとめる。
その口唇はこれ以上無いほどに血の赤に染まっており、最早、聖が権兵衛の肉を喰ったのは明らかであった。
オロオロとしながら星は権兵衛に視線をやるが、なんと言えばいいのか分からない。
こんな目にあってしまった権兵衛を慰め、聖も衝動的なものであったと言えばいいのか。
それとも、こんな事を引き起こした権兵衛の能力に怒ればいいのか。
混乱する星に、権兵衛が呟く。

「白蓮、さん……?」

 権兵衛は、聖を名前で呼ぶようになっていた。
その事実を認識した瞬間、ぼ、と星の中で黒く燃え上がる何かがあった。
星の中を猛獣のようなどす黒い何かが暴れまわり、その捌け口を求める。
それは、すぐさま口を衝いて出た。

「権兵衛、さん。
いや、七篠権兵衛……っ!」

 今や星の全身には、憎悪がみなぎっていた。
権兵衛を睨みつけ、叫びつける。

「お前は、世界最悪の忌まわしい能力の持ち主だっ!
お前の持つ、“名前が亡い程度の能力”も!
“月の魔法を扱う程度の能力”も!
“重力を操る程度の能力”も、それには及ばないっ!」

 叫びつける度に星の中の憎悪の獣は大きくなり、爆発寸前のように膨れ上がった。
一言一言に権兵衛が震え上がるのを見ても、何故か憎悪はさながら無限にあるかのように沸き上がってくる。
その極大の憎悪に身を任せ、星は閻魔から聞いた、権兵衛の四つ目の能力を叫んだ。

「お前は最も忌まわしい能力、“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主だっ!」

 一瞬、何を言っているのか分からない、と言うように権兵衛が目をパチクリとする。
それから次第に何を言われたのか理解したように、権兵衛の顔の色が青ざめていった。

「そん、な……。
俺は、でも、確かに……」

 納得しきれない色の権兵衛に、星の中の憎悪が煮えたぎる。
衝動に任せ、星は叫ぶ。

「お前は何をしても、自分も他者も不幸にし続ける事しかできない。
善行も悪行も全て、お前のする事は無限に不幸へと続いていく。
何故なら、お前の名前の真空は全ての精神的質量を飲み込み、世界から精神を減らし続ける存在だからだっ!
精神が無くなれば、最早そこには幸福は残らず、不幸だけが残る。
不幸と、幸福を感じる事すらできない死滅した精神とだけがだっ!
証拠に、覚えていたか、お前は人間であると言うのに“人間を幸福にする程度の能力”で幸せになれなかった事をっ!」

 権兵衛の顔に、理解の色が走った。
視線を揺らしながら、ぶつぶつと呟きつつ回想をする権兵衛。
そのどれもが星への反撃の糸口にもならないようで、結局権兵衛は黙りこんで、俯いてしまった。
小さく、権兵衛が呟く。

「本当に……、俺には、“みんなで不幸になる程度の能力”があると言うのですか」
「ああっ! だからお前は、此処には居てはいけない人間なんだっ!」

 叫びつつ、星は即座に術式を組み立てる。
聖が魔界に封印され、ムラサ達が地底に封印されるのを見てきた星は、一人で寺の業務を続けていた。
当然、何度か機会があったため、忌まわしき妖怪を地底に封印する術は心得ている。
それは何時しか、聖と共に地底に追いやられた妖怪を救うための術であったのだが、その正反対の用法を星は行おうとしていた。

「忌まわしき人間よ……地底に封印されるがいいっ!」

 星の掌に、幾本もの黄色い光線が飛び出て、権兵衛の周りを球状に覆い隠す。
極大の光が放たれ、部屋の中が光で満たされた。
数瞬、閉じた星の瞼を光が焼くが、それもすぐに終わり、瞼の裏は漆黒に戻る。
目を開けてみれば、そこには権兵衛の居た痕跡はその血痕が残るだけ。
他に何一つ残らず権兵衛が消えてしまったのに、何故か脱力感を覚え、星は座り込む。

 肩を上下する頻度が減り、荒かった息も整ってきて、星は思う。
どうしてだろう。
権兵衛に対する感情の幾らかは彼の能力による物であると説明され、理解していて尚、何故か星は権兵衛が居なくなってしまうと同時、なんだか寂しくなってきた。
全身を脱力感が支配し、弛緩した四肢を投げ出しそうになる。
虚ろな瞳で権兵衛が寸前まで居た場所を見つめると、寸前までのように権兵衛が居るかのように幻視した。
思わずそれに手を伸ばしてしまう星だったが、当然のように幻覚を手はすり抜け、そして空気とかき混ぜられるかのように、その幻覚も消えてしまった。

 違う、これは権兵衛の能力による物なのだ。
そう何度言い聞かせても、星の中にある寂寥感は晴れなかった。
同時、星は思う。
もしかしてこれも、“みんなで不幸になる程度の能力”によるものなのかもしれない、と。
権兵衛は封印されると言う事によってすら、他者に不幸をまき散らしているのかもしれない、と。
そしてそれを理解していて尚、星には心から権兵衛を嫌悪する事ができなかったのも、もしかしたら。

 だとすれば、確かに権兵衛は最悪の能力の持ち主であった。
そしてその能力は、未だ終わる気配を見せない。
寂しさのあまり涙すら浮かべる星の耳には、三人分、足音が急ぎこちらへ向かっているのが聞こえた。
これからすぐさま、星は残る三人に権兵衛をどうしたと詰問されるだろう。
星の扱いに優れたナズーリンも居るのだ、恐らく三人は真実を聞き知ることだろう。
そうなれば、この命蓮寺は一体どうなる事か。
その心配も、すぐさま現実のものとなる。
最早足音は、部屋の寸前まで迫っていた。



 ***



 電撃のような痛みが、聖の中に走った。

「あうっ!」

 思わず叫びつつ、聖は飛び起きる。
何がなんだか分からないまま辺りを見回すと、どうやら聖は命蓮寺の部屋の中に居るようで、しかも見あげればその部屋の天井は吹き飛んでおり、青空が見えた。
その青空を埋め尽くすのが、無数の弾幕である。
黄色い光線と、それに対抗するかのように水色の楔弾や七色のUFOや青いペンデュラムが飛び交っている。
即座に命蓮寺の面々の物だと理解し、とにかく止めようと飛び出そうとして、聖は床に手をつきぴちゃりと言う水音を立てた。
視線をやり、絶句。
血飛沫が部屋を汚しており、見れば聖自身も血に染まっている。
それを見て、聖はようやく権兵衛の肉を喰った事を思い出した。

「う、うげぇぇえぇっ!」

 思わず、聖は嘔吐しようとするものの、どうしてか、吐く事ができない。
すぐさま聖は手を喉に突っ込み、強制的に自分を吐かせる。
しかし吐瀉物は不思議と胃液ばかり。
早すぎる気もするが、聖は既に権兵衛の肉を消化し、腸まで運んでいたのだ。
それに幸福と絶望が同時に沸き起こるのに、聖は身震いする。

「私は、権兵衛さんを喰べて、しまった」

 当然悪行である。
必要もないのに人肉を喰らうなど、してはならない事だ。
それも特に、この幻想郷の頂点としようと崇めている権兵衛が相手であれば、当然のことである。
しかしどうしてか、聖の内心には罪悪感と同時、幸福で満たされた部分もあった。

「私の中には、権兵衛さんがある」

 とくん、と聖の心臓が脈打つ。
血で染まった頬が更に赤くなり、発汗が始まった。
こんな悪行で喜ぶなど、何とはしたない真似か、と思うものの、聖はそれを辞められない。
絶望と幸福の入り混じった感情に耐え切れず、聖は空へと視線をやる。
何より今は、あの四人を止めねばならない。
そう言い訳し、自分の心から目を逸らしていては、幸福には辿りつけない。
何処かでそう実感しつつも、聖はそれを無視して空へと飛び上がり、弾幕の中へと突っ込んでいった。

 聖が一言も発する前に、示し合わせたかのように弾幕は止まった。
全員無言で、星対ムラサ、ぬえ、ナズーリンの形になるよう陣取っており、その中心に聖が居る。
良かった、辞めてくれたのだ、と聖が安堵すると同時、ナズーリンが口を開いた。

「おや、食人鬼の登場だ。権兵衛さんの肉じゃあ物足りなかったかな」

 痛烈な皮肉に、聖は思わず顔を強ばらせる。
見れば星を覗く三人は鬼のような形相で聖を睨んでおり、争いの気配は消えていない。
ムラサが、酷薄な笑みを浮かべた。

「当然貴方も後で権兵衛さんの為に撃ち落とす事は決定していますが、今はそこの無能虎を撃ち落とす方が先です。
邪魔ですから消えていてください」
「星……星が一体何をしたと言うのですかっ!」

 聖が叫ぶと同時、三人は思わずと言ったように目を見合わせた。
それから、からからと笑い軽蔑の色が混じった視線を聖にやる。
代わりに答えたのは、星であった。

「私は、権兵衛さんを地底に封印しました」
「………………え?」

 一瞬、聖は思考を停止した。
何を言っているのか、分からない。
てっきり聖は、権兵衛がそれでも逃げ出すか、それとも誰かに永遠亭まで連れていかれたのか、どちらかだと思っていたのだが。
封印した?
地底へ?
単語が一つづつ聖の中に染み渡っていき、徐々に聖の脳裏にも理解の色が生まれる。
震えながら、聖は問うた。

「な、何故ですか。
何故、権兵衛さんを……」
「権兵衛さんはっ!
忌まわしき、“みんなで不幸になる程度の能力”を持っていたからですっ!」

 涙を零しながら叫ぶ星は、どう見ても自分の意志でそうしたように見えなかった。
まるで見えない操り糸が背についているかのように、叫び続ける。

「このままじゃ、私も、権兵衛さんも、みんなも不幸になってしまう。
それなら、権兵衛さんは封印するしか無いじゃあないですかっ!」

 星の叫び声を聞きつつ、聖は今度こそ完全に思考を停止していた。
権兵衛が。
この幻想郷の頂点となりうるであろう人が、そんな忌まわしき能力を?
今や、聖の中では全ての未来が崩れ去っていた。
生きる意味、これまで生きてきた理由、その全てが注ぎ込まれた夢が、泡沫となっていく。
聖は脱力し、空を飛ぶ気力すらも失い、ゆっくりとその場から高度を下げていった。
それを好都合と見たのか、三人は星に対し再び弾幕を浴びせ、星もまたそれに応ずる形となる。

 流石に三対一では星の分が悪い所だが、何故か勝負は拮抗していた。
それをゆっくり落ちながら見ていた聖は、その理由に気づく。
三人は、お互いを盾に使おうと狙い、また気をつけながら戦っていたのだ。

 最早、当初の聖の理想であった、人妖平等はその原型すら残していなかった。
命蓮寺の面々はお互いに憎悪を剥き出しに殺し合っている。
権兵衛を頂点とするどころか、その前の理想すらも打ち砕かれ、聖は絶望に満ちていた。

 ゆっくりと、羽毛がそうするように、ゆるやかに聖は背から着地する。
再び権兵衛の部屋に戻ってきた聖は、襖に飛び散った血に目をやった。
それから手で畳を掴むと、湿り気が伝わってきて、視線をやれば権兵衛の血が染み込んでいる。
聖は、権兵衛の血を少しだけ付着させた自身の指を、舐めた。

 何故だろうか。
どん底まで落ちた聖の中には、不思議と希望が沸き上がってきた。
原因不明の衝動が聖の中で、出口を探して暴れまわる。
ぎゅ、と畳の上で握りこぶしを作り、聖は呟いた。

「私は……全てを失った……」

 事実である。
聖は再構成した自身のアイデンティティを失っていた。
その身には最早絶望しか残されておらず、希望など潰えた筈だった。
だがしかし。

「なら、また全てを始められると言う事では無いですかっ!」

 叫ぶ。
聖は勢いよく起き上がり、畳を踏みしめて立ち、キッと上空を睨んだ。
美しくも殺意の篭った弾幕が入り交じるのを見ながら、聖は宣言する。

「権兵衛さんが居なくなったからこうなったと言う事は……権兵衛さんの偉大さを再認識できたと言う事。
つまり、この惨事はこれから権兵衛さんを幻想郷の頂点とするため、歩み始める為の準備に過ぎなかったのです」

 深呼吸。
胸に手をやり、叫ぶ。

「“みんなで不幸になる程度の能力”?
それがあるなら、みんなで能力以上に幸せになるようにしてみせるっ!
権兵衛さん、私は貴方を、この幻想郷の頂点にしてみせるっ!」

 今や聖の全身は、燃え上がる希望の炎で満ちていた。
全身から活力が湧き上がり、使命感が聖の中から生まれてくる。
これから、聖は何度も挫折を感じるだろう。
また不幸によって全てを失ってしまう事があるかもしれない。
しかしそれでも尚、聖はそこへと向かってゆく。
全身全霊を込めて、向かってゆくのだ。
そう決意し、聖は畳を蹴り、空へと飛び上がる。

 広がる弾幕での殺し合いを目に、聖は考えていた。
きっとこれから権兵衛を頂点とするまでに、多大な時間がかかるだろう。
苦労だって死ぬほどするに違いないし、後悔だって山ほどするだろう。
だけど。
だけれども。
もしもその夢を達成できたら。
聖は、権兵衛のお嫁さんになる事はできるだろうか。

 実現できなくてもいい。
ただそういう希望を持つ事ができるだけで、聖は歩き出す事ができた。
想うだけでこんなにも希望がわくなんて、矢張り権兵衛はすごい人だな、と思いつつ、聖は弾幕へ立ち向かってゆく。
例えその夢が決して叶わぬ物であろうとも、希望さえあれば人は立ち向かって行ける物なのだ。
そう、希望と不幸とは同時に持てる物。
聖は自覚なしに、再び不幸への道を、歩み始めていくのであった。




あとがき
と言う訳で、権兵衛の能力はこれで全てです。
次回は地底の前に、閑話を一つ挟む形になります。

P.S.
やぁぁあっと地Lunaクリアしました。
途中プレイしていなかった時期があったとしても、八ヶ月。
最後のサブタレイニアンサンで20回ぐらい死んだと言う。



[21873] 閑話3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 20:14


 霧雨魔理沙は何時ものように空を飛んでいた。
久しぶりに博麗神社へ向かっているのである。
というのは、何時だったか、秋頃に博麗神社に向かった時から、久しく魔理沙は博麗神社に訪れていなかったのだ。
理由と言えば一つ、巫女の勘である。
霊夢は簡潔に言った。

「多分、これから少しの間あんたは此処に来ない方がいいわよ」

 それは誤解を招く事を恐れぬ物言いで、如何にも霊夢らしい物だった。
そういった霊夢の超然としている所を見ると、魔理沙は何時も複雑な気持ちになる。
超然とした所に想起され、歴然とした才能の差を思い知らされるからだ。
魔理沙はそれを理由に霊夢を妬む事はなかったが、それでも悔しい物は悔しい。
しかしそれは置いておいて、この霊夢の勘と言うのは非常によく当たる物なのである。
何時も異変解決において霊夢が魔理沙に先んじているのは、この勘が理由の一つに当たるだろう。

 魔理沙は悩むこと無く、博麗神社への来訪をピタリと辞めた。
別に霊夢の勘が当たり、被害を被ることが怖いのではない。
単に霊夢の言葉に異変の匂いを感じ取ったからだ。
博麗神社で同じ条件で異変を感じたならば、魔理沙には霊夢相手に勝ち目は無い。
今度こそ自分が異変を解決してやろう、と言う単純な競争心からであった。

 暫くの間、代わりにアリスだのパチュリーだのにとりだの、仲のよい、もしくは魔理沙がそう思っている相手に会いに行く事が増えた。
しかしアリスはある日を境に魔理沙を家に入れなくなり、魔理沙は漠然と霊夢の勘が当たったことを感じる事になる。
さぁ、異変は何処だ、と鼻息荒く魔理沙は幻想郷中を飛んで回ったのだが、異変らしい異変は見つからなかった。
代わりに、何だか幻想郷の一部の住人達の付き合いが悪くなったなぁ、と思ったぐらいである。
きっともう霊夢が異変を解決してしまっただろう。
そう思った魔理沙は、暫く一人で拗ねていたが、やがて元気を取り戻すと、博麗神社に行ってみる事にしたのだ。

 久しく見る博麗神社への空の道である。
懐かしさを覚えるかと思った魔理沙だが、空の上はどこも見目には同じような光景ばかりだ。
強いて言えば、空気が何処か淀んでいるような気がするぐらいである。
空の上で空気が淀む事など、ある筈もなかろうに。
あるのは空気の違いだけで、こんなものなのか、と肩透かしな気分で魔理沙は博麗神社へ向かう。

 博麗神社の鳥居が見えてきて、魔理沙は箒を巧みに操り、高度を下げて着陸した。
博麗神社の鳥居は外の世界に向けてあり、幻想郷の最東端に当たるので、鳥居を通らずに魔理沙は直接庭に降り立つ事になる。
何時もの事だが、それって神社に入った事になるのだろうかと魔理沙は不思議に思う。
人里用の道も鳥居を通らず、賽銭箱へ最短の道で作られている。
これでいいのかと思うものの、霊夢だしそんなもんだろう、と変な納得の仕方をしながら魔理沙は歩き出した。

「お~い霊夢、居るか? 居ないなら茶菓子を少し借りるぞ~」
「居るからあんたの茶菓子は無しね」
「おいおい、客にそれはないだろう」

 と、魔理沙が言うが早いか、巫女は姿を表したようだ。
声の方に振り返って、思わず魔理沙は目を瞬く。
黒曜石の瞳に烏の濡れ羽色の髪に、人形のように白い肌。
それをまとめる赤いリボンに、紅白の脇の開いた巫女服、黄色い胸元のリボン。
全てが魔理沙の記憶通りの霊夢であった。
だのに何故か、魔理沙は霊夢と初対面のような気がした。

「ジャメヴって言うんだっけか、こういうの」
「は? なにそれ、お賽銭の集まる物?」
「ああいや、何でもないんだ」

 魔理沙が箒片手に手を振ると、それで納得がいったのか、紅白巫女は縁側を歩いて行く。
台所ではないのを見て、どうやら茶を入れてくれる訳ではなさそうなのに、魔理沙は首をかしげた。

「おいおい、どっちへ行く。
上手い茶はあっちの奥の台所の下にある棚の上から二番目の引き出しだぜ?」
「あんたにそんな上等な茶は出さないわよ。
ちょっと色んな面子で話し合いをしたいみたいだけど、なんでかその場所がうちに決まったの。
もうすぐ話し合いが始まるから、私もそれに参加するの」
「へぇ……」

 言ってから、魔理沙は少し思案する。
恐らく今回の異変の戦後処理みたいな物なのだろうか。
そうなると、魔理沙は自分が今回の異変らしきものに何ら関わっていないのに参加するというのは気が引ける。
が、かといって、異変に少しも触れないのも、置いていかれているような気がして嫌だ。
少しの間顎に手をやり考え込んでいた魔理沙だったが、霊夢が再び足を動かす音に面を上げ、口を開いた。

「じゃあ、私もそいつに参加させてくれよ」
「まぁ、別にいいわよ」

 了承の返事に、魔理沙は早速魔法で箒を収納し、靴を脱いで神社の中へと上がっていった。
暫く霊夢の後をついていくと、広間の前で霊夢が止まる。
す、と静かな音を立て、襖は横に滑っていった。
後をついていた魔理沙は思わず、息を飲む。

「おいおい、凄い面子だな」

 と魔理沙が言う通り、広間の中に居るのは皆幻想郷の中でも実力者として知られる面々であった。
レミリアに咲夜、幽々子に妖夢、輝夜に永琳、幽香、慧音に妹紅、萃香、アリスに紫。
魔理沙は魔理沙が気づけない程度の簡潔な異変であると思い込んでいたので、そうそうたるメンバーに驚きを隠せない。
霊夢が中に入るまで棒立ちになってしまうぐらいだった。
視線で促され、ようやく魔理沙は広間の中に入り、後ろ手に襖を閉める。
ピシャ、と言う音と共に襖が閉まる音がして、その瞬間、何故だか魔理沙は、自分が巨大な生き物の口内に入り込んでしまったのではないか、と思った。
広間に並ぶ襖は閉じたまま動かない白い歯、畳の舌に天井の肉。
おぞましい想像に、一瞬身震いしてしまう魔理沙であったが、幸い誰もそれを見咎める事が無かった。

 と言うか、そもそも誰一人一言も発していなかった。
主従の間にすら会話は無く、誰もが静かに前を見据えるばかりで、まるで蝋人形でも置いてあるかのようである。
霊夢が入ってきた事にすら興味がないようで、身動き一つしないどころか、瞬きですらしているか怪しい。
唯一違うのは、紫ぐらいか。
一人だけまるで自分の家であろうかのようにくつろいでおり、髪をかきあげたり広間の机に腕をついてみたり、自由な振る舞いである。
それに少しだけほっとしつつ、魔理沙は霊夢の後を追い、隣に着席した。
同時、紫が口を開く。

「さて、それじゃあ、なんだか余計な白黒も居るけれど、そろそろ始めましょうか。
司会は不肖、八雲紫が努めさせて頂きます。
まずは経緯を追いましょう。
経緯、経緯は大事ね。
なにせ……あぁ、もう、冗談ですからそんなに殺気立たないで。
ちゃんと経緯から話しますとも。
それじゃあ、四日前、人里で慧音が権兵衛さんを見ていた時から……」



 ***



 経緯は以下のような事だった。
何やら権兵衛と言う男の事が議題らしい。
その権兵衛とやらを、何でか監視する必要があり、それをしていたのがこの中で最も弱い部類である慧音であった為、諏訪子が権兵衛を守矢神社へ連れて行くのを阻止、あるいは追尾できなかったらしい。
理由は不明だが、慧音はその報告を怠った。
紫が言うには、元々実力不足で、権兵衛と接した時間が最も長い事からこの集団に参加できていた慧音は、これを機にこの集団から外されてしまうのではないか、と錯乱したのだろうと言われている。
兎も角連絡が遅れ、更に相手が幻想郷でも指折りの実力者とあり、霊夢と紫と、その時はアリスを除いたこの集団は、守矢神社に突入し権兵衛を救い出すのが遅れた。
結果、守矢神社を出た権兵衛が地上を歩いて去るのと、すれ違ってしまう事になった。
そこで集団が見たのは、三つ巴の戦いで半死半生となった三柱の神である。
それに止めを刺そうとした集団を前に、何とか間に合った紫がスキマで捕縛、封印中だと言う。

 このあたりで、魔理沙は既に意味がわからなくなっていた。
権兵衛と言う男が居る、そこまでは良い。
しかしそれを監視する意味が分からないし、しかも諏訪子に連れられた程度でさもそれを一大事のように語るのもおかしい。
珍しくまともな人妖である慧音がそこまで錯乱するのもよく分からないし、それだけの情報で守矢神社へ突っ込んでゆく理由も不明だ。
そこまでなら魔理沙には分からない深遠な意味があるのかもしれない、と思えるが、その後の言葉は完全に意味不明である。
何せ、あの仲の良い守矢神社の三柱の神が殺し合いをしていたのだと言う。
一体何がそうさせたのか分からず、混乱したままの魔理沙であるが、それを置いて話は進んでいく。

 その間、権兵衛は人里ではぐれ妖怪と遭遇、辛勝したらしい。
その後権兵衛は彼を恐れる人里の人間達によって束縛、石を投げられた上に火刑で殺されそうになった。
それを救ったのが、正体不明の状態となった命蓮寺の面々である。
その事実を知った集団は命蓮寺に突入しようとするが、紫と彼女が呼んだ応援である霊夢の執り成しによって、止められる事になる。
命蓮寺の面々が権兵衛の恩人である事は変えようがない事実であり、その恩人に横暴に接する事を、権兵衛は酷く気にするだろう。
そう諌められると、集団の面々は渋々と紫と霊夢に交渉権を渡し、何処でも権兵衛を保護し、また人避けの結界を与える用意があると伝えるよう言った。
それを伝えようと、紫と霊夢が命蓮寺に話しに行こうとした日の事である。
命蓮寺から、極光が登った。
地底へ人妖を封印する為の、光である。
急ぎ紫と霊夢は命蓮寺に向かったが、そこで見られたのは殺し合いをする命蓮寺の面々と、それを棒立ちで見つめる一輪と雲山であった。
紫は一旦彼女らを個別にスキマに封印する事で事態を収束、そこで聞いた話が、こうなる。

「矢張りあの光は、権兵衛さんを地底に封印した光でしたわ」

 と紫が言うと、ぞ、と生暖かい憎悪が場に満ち始めた。
魔理沙は腰が引けてしまい、思わず後ろに手をつきながらのぞける。
しかしそれを気にする人妖はそこに誰一人居らず、話は何もなかったかのように続いていく。

「理由は」

 と、幽々子が微笑んだ。
扇子が音もなく開き、その口元を隠す。
物理的な圧力がある、憎悪に満ちた微笑みであった。

「理由は、何だと言うのかしら?」
「下手人は寅丸星、毘沙門天の弟子の、虎の妖怪だそうよ。
理由は錯乱していて上手く分からなかったけれど、権兵衛さんの余りの優しさに嫉妬していたみたいよ」
「ふぅん……」

 そう呟く幽々子の顔色には、納得の色が見えた。
他の面々の顔も同様である。
一体どういう事なんだ、と魔理沙は頭を抱えたい気分になった。
魔理沙は一応星と知り合いであるが、嫉妬で善人を地底に封印するような奴では無かったように思う。
ならば権兵衛の優しさとやら故に全員納得しているのかとも思うが、それも異常だった。
幻想郷の様々な性格の有力者達が軒並み認める程の優しさなど、魔理沙には想像できない。
いや、そもそも、果たしてそれは優しさと呼べる物なのだろうか。
もっと別の、おぞましい何かなのではないだろうか。
本能的な部分でそう感じる魔理沙だったが、その広間に立ち込める物騒な空気に、その口を閉じてしまう。
魔理沙の事を気にかけている人妖は誰一人居なかったので、そのまま話は進んでいった。

「この守矢神社と命蓮寺の面々への対応は、とりあえず後回しでいいでしょう。
まず今すぐに行わなければいけないのは、権兵衛さんの救出である筈です」

 と、紫は簡潔に言った。
そしてぐるり、と広間を見渡しつつ、幾人かの所で顔を止める。
一通り眺め終えてから、紫は口を開いた。

「といっても、地底には人間以外入ってはならない、と言う盟約があります。
権兵衛さんの価値を思えばそれを守る必要が無いのでは、と思う方もいらっしゃるでしょうが、事は穏便に済ませられるのならそうするのが適当でしょう。
特に権兵衛さんにとって、地底がどんな場所になっているのか、不明である現時点では。
さて、この場にある程度実力のある人間は――」

 紫は、握り拳を作り、顔の前にまで上げる。

「妖夢」

 紫は握り拳から指を一本立てた。

「咲夜、霊夢そして――」

 続けつつ、人名を言う度に指を立てていく。
最後に紫は魔理沙の方に視線をやり、言った。

「魔理沙」

 びくん、と魔理沙は体を震わせた。
それから、まるで今まで白昼夢でも見ていたかのように、瞳に色が戻る。
汗が全身から拭きでて、冬だと言うのに蒸し暑いほどであった。
大きく肩で息をしてから、魔理沙は誰とも目を合わせず、言う。

「わ、私は、その権兵衛って奴の事を……」
「権兵衛さんよ」

 と、すかさず輝夜の声が訂正に入った。
冷たく鋭利な声に、再び体をびくりと震わせながら、魔理沙は続ける。

「その権兵衛さんって人の事を、見た事も無いし、あっちだって私の事を知らない筈だぜ。
知らない奴を救ってこいだなんて、やれやれ、お前らも冗句が好きだな」

 口調こそ常であるものの、今自分がまともな顔色をしているか、魔理沙には自信がなかった。
魔理沙はこの部屋の異様な空気に、すっかりやられてしまっていた。
大体、権兵衛とやらに何故そんなに拘るのだろうか。
聞いてみればスッキリするのだろうが、逆にそれを聞いてしまえば何かが終わってしまうような気がして、魔理沙はとてもそんな事は聞けなかった。
兎に角これで断る理由は充分だろう、と魔理沙が密かに顔を上げると、広間の面々は意外そうに驚いていた。
ひそひそと声が聞こえてくる。

「そうね、初見でも権兵衛さんの事なら、魅力ある人って言えば分かるだろうし……」
「行って救ってくるだけなら、魅力にやられてしまうより早いかも」
「地上に戻ってからも、霊夢よりは扱い易いだろうし」

 おいおい、私の番は終わったんじゃあないのか、と乾いた笑みを浮かべようとした魔理沙だったが、出てきたのは声にならない小さな悲鳴だけだった。
なんで私なんだよ、とぶるぶる震えながら、内心泣きそうになりつつ思う。
魔理沙はもう何でもいいから、この権兵衛とやらとはできるだけ早く関わりを断ちたかった。
こんな不気味な存在とは触れていたくなかった。
だのにこの面々は誰もが魔理沙を推したがる。

 しかも魔理沙は、同時に強い視線を二対感じていた。
じりじりと頭を焼かれるような視線に耐え切れず、魔理沙はおずおずと面を上げた。
ちらりと元を辿ると、先に名前を呼ばれた妖夢と咲夜が凄まじい表情で魔理沙を睨んでいる。
思わず悲鳴を上げそうになってしまった魔理沙だったが、急ぎ俯いて二人の顔を隠し、事無きことを得た。
そんな折である。
こんなひそひそ声が、魔理沙の窮地を救った。

「でも、地底に居座られたら面倒じゃないかしら?」

 誰が言ったのかも分からないその小さな声は、確かに会場の空気を変えた。
波打つように認識が同じくなり、魔理沙を推す声は掻き消えてゆく。
代わりに面々が推し始めたのは、霊夢であった。

「霊夢なら、どうせ権兵衛さんの魅力にやられないだろうから大丈夫」
「一応人間助けだし、妖怪退治になるかもしれないし」
「本人のやる気が……」
「でも、勘でこの事態の不味さが分かるでしょう」

 魔理沙は自分が捨てられ代わりに霊夢が挙げられたと言うのに、内心安堵の溜息でいっぱいであった。
霊夢への敗北感云々よりも、今はこの安堵に浸りたい。
涙すらうっすらを浮かべながら、魔理沙はようやく面を上げた。
妖夢と咲夜の視線も霊夢に移っており、安堵に包まれ魔理沙は溜息をつく。
暫くしてから、紫が声を上げた。

「では、挙手で表決を取りましょう。
まず、妖夢を推す方」

 幽々子と妖夢の二人のみが手を上げた。

「咲夜を推す方」

 レミリアと咲夜の二人のみが手を上げた。

「魔理沙を推す方」

 誰一人手を上げる人妖は居なかった。

「霊夢を推す方」

 紫と霊夢を除く、魔理沙を含めた残る全員が手を上げた。

「では、霊夢が権兵衛さんを地底まで助けに行くと言う事で」
「まぁ、そうなる気はしていたけど……。
面倒くさいけど、行かないともっと面倒くさいことになるのよね。
あぁもう、代わりに今度は補助は要らないから、神社に寄りつかないでよ?
もうお酒を飲まれるのは勘弁なのよ」

 言って、面倒くさげに溜息をつきつつ、霊夢が了承の意を発する。
半目になり、四肢を投げ出し、今にもその場で寝転がりそうな仕草で、霊夢は手を振り話の続きを促した。
何時もの霊夢の仕草に、これでこの地獄のような会議は終わったのだ、と内心安堵し魔理沙は溜息をついた。
反して、紫が口を開く。

「続いて、権兵衛さんを私刑にした里に、どのように対応するか……と言う事でしょうか」

 魔理沙は、絶句した。
これでやっと出口だと思った所を引き戻されたかのような思いで、紫を見つめるが、現実は覆らない。

「では、妖精や過去視の術持ちからの話を総合した、経緯をお話しましょう。
まず、かつての事態になりますが……」



 ***



 紫によると。
権兵衛は慧音の元で寺子屋を手伝っていた所、里人に里を追い出されてほったて小屋での農業生活に追い込まれたのだと言う。
しかもその後、里人曰く「権兵衛が生きていてもいい税」と言う事で里人相手の五割増しの金額で物を売られていたのだ。
更にその上ある日を切欠に里人は権兵衛のほったて小屋と畑をすら破壊し、そこに呆然と帰ってきた権兵衛を嬲ったとの事。
その後権兵衛は一時博麗神社に滞在した後、萃香の手によって作られた今の屋敷に住む事になった。
それからはこの集団の背後からの圧力によってとは言え里と正常な通交を保てるようになったのだと言う。
しかしそれも、一時のこと。
先ほど紫が言ったように、権兵衛ははぐれ妖怪から里を守る為に激闘し、消耗した所を里人によって私刑にされた。

 一体これはどういう事だ、と魔理沙は唖然とする。
里人には外来人をやや嫌うような風潮があり、少し排他的な部分があるとは思っていたが、それだけでは済まない事象である。
しかし一方、紫の言っている事の信憑性は決して低くない。
この場に居る誰一人反論しない事もそうだし、紫の言う権兵衛宅襲撃の頃、魔理沙が一度里の男衆が全員居なくなっている所を見た事もあった。
それでも矢張り信じきれず、混乱する魔理沙を置いて、議論は進む。
紫が金髪をかきあげながら、艶やかに言った。

「こういった経緯から、皆さんが人里に報復を、と考えるのは当然の道理でしょう。
では皆さん、何か発言はありますか?」

 第一声、幽々子が言う。

「人里の半分を、死に誘いましょう」

 恐るべき内容は、簡潔に口に出された。
魔理沙の思考が停止し、筋肉が痺れて口が閉まらない。
呆然とする魔理沙を捨ておき、次いで魔理沙の隣からアリス。

「そうね、丁度人形の材料の参考にするのに、死体が欲しかったのよね」

 次ぐ衝撃もまた大きかった。
幾度か異変の際力を貸してもらった相手である、考えに近い所もあるだろうと考えていたので、余計に衝撃は大きい。
魔理沙は目眩を感じながら部屋を見回すが、この証言に頷いている者ばかりで、反論を上げようとする者は殆ど居ない。
唯一慧音だけが、魔理沙と同じように絶句しながら発言者達を視線で追っていた。

「って言うけど、まさかそれだけで終わらせるんじゃあないだろう?」

 と言うのは萃香である。
その表情には全く気負いと言う物が無く、まるで今日の晩御飯を考えているような平常の顔であった。
それが逆に恐ろしく、思わず魔理沙は身震いしてしまう。
まだやるのか、と言おうとするものの、それは言葉にならず、空気を震わせるだけで消えていった。

「あら、私なら、疫病を流行らせて苦しませて殺す事ができるわ。
それも全員を苦しませた上、薬の供給を見極めて、半分残すようにね」

 次いで言うのは永琳である。
その表情にはいい実験体ができた、と言う以上の感情は見受けられず、なんら里人への恨みも見えない。
自分を抑えきれなくなってしまうからなのだろうか、と考え、魔理沙はその考えの恐ろしさに生唾を飲み込む。
ただでさえ凄まじい異界と化しているこの部屋だと言うのに、この上皆が感情を解放したらそれ以上になるのだとすれば、一体どんな悪夢となる事か。
唯一の救いと言えば、レミリアが言おうとした事を全部言われて、あうあう、と呟きながら発言を考えている辺りだろうか。
しかし、まさか本当に里の人口は半分にされてしまうのか。
そう思い、魔理沙はようやくのこと口を開く事に成功した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!
確かに紫の言う通りなら、里人が報復を受けるのも分かる。
だけど、それじゃあいくら何でも酷すぎる仕打ちじゃあ……!」

 ぎょろり、と無数の眼球が魔理沙を見据えた。
ひっ、と小さな悲鳴を残し、魔理沙は後ろにのぞける。
体を支えている腕はガクガクと震え、目尻には涙が溜まっていた。
今にも漏らしてしまいそうになるのを、必死になって堪える。
そんな魔理沙を救ったのは、魔理沙の勢いにのった慧音の言葉であった。

「そうだっ、いくら何でもこれは酷すぎるっ!
お前たちは、人の命をなんだと思っているんだっ!
それに人の命は大切であると言うばかりか、生きた人間は妖怪の精神の糧でもある筈だ。
今幻想郷は奇跡的なバランスで成り立っていると言うのに、それを崩すと言うのかっ!」

 その発言で慧音に視線が行き、魔理沙は安堵の溜息をつきながら全身の力を抜いた。
帽子が汗で滑って落ちそうになるのを、手で抑え持ち上げる。
両手を使ってつばを引っ張り頭にフィットさせてから深呼吸し、再び魔理沙は広間を見渡した。
誰もが慧音に視線をやっているが、魔理沙と違って慧音は、何とかと言う所だが視線を堪えている。
僅かに嫉妬の心が湧いた魔理沙であったが、その慧音の目を見れば、そんな気持ちは何処かへ飛んでいってしまった。
慧音の目は、どす黒い何かがぐるぐると回転していた。
肥え太った贅肉の作るひだのような、生理的嫌悪感を催す黒。
それが回転し、轍を作り、その溝の中からペリペリと剥がれてこぼれ落ちる物がある。
その漆黒が堆積したその様は、他の皆と同じ、狂気に満ちた目であった。

 こいつは本心で言っているのではない、と魔理沙は直感した。
慧音はただその権兵衛とやらが好むらしい温厚なやり方をする事で、権兵衛の好意を得たいだけなのだ。
その中には今や欠片も里人を心配する気持ちは残っていない。
自覚症状は無さそうな上、魔理沙の感じる所でしか無いが、それを事実だと思わせるだけの狂気を慧音の瞳は放っていた。

 最早救いは霊夢しか無い。
そう思って、魔理沙は縋るように霊夢の方へと体ごと視線をやる。
手をついて覗き込むように霊夢の目を見るが、その目には一切の狂気は感じられず、完全無欠に正気のままである。
それに内心安堵する魔理沙を尻目に、霊夢が口を開こうとする。
その口から人里を救う決定的な言葉が吐かれるのを、魔理沙は待った。

「私としては、どうでもいい事だわ」
「……え?」

 思わず魔理沙は、目を点にして言った。
それに驚いたのは魔理沙ばかりでは無いようで、息を呑む音が幾つか聞こえる。
広間に広がる疑問詞に答えるように、霊夢は面倒臭そうに言った。

「私がやる事は幻想郷のバランスを崩すような異変の主を見つけて、そいつをとっちめる事。
このまま何の策も無しにただ人里で虐殺を起こすようなら止めるけど、あんたらどうせ、何か人妖のバランスを保つ案が幾つかあるんでしょ。
なら、私は別に止めはしないわ、勝手にやって頂戴」

 と言い、これで言うべきことは終わりだと言わんばかりに、お茶を飲んで膝を崩し、リラックスした姿を見せる霊夢。
唖然としていた魔理沙だが、次第に霊夢の言葉が頭の中で咀嚼されていき、恐るべきその想像に全身に震えが走る。
なにせ霊夢の勘が人妖のバランスを保つ策があると言っているのだ、この集団の中の幾人かはその策とやらを持っているのだろう。
それを発揮すれば、人里での虐殺は現実のものとなるに違いない。
魔理沙にとっては既に一度縁を切った場所であるが、それでも故郷である。
私がやるしか無い。
殆ど無謀な行いと知りつつも、魔理沙の中には使命感が沸き上がってきた。
ここでこの集団を止められるのは、狂っている慧音ではなく魔理沙ただ一人である。
人里にいい思い出があるかと言うとそうでもないが、それでもやらなくてはならない。
そういきり立ち、机に手を、腰を上げて魔理沙が叫ぼうとした、その瞬間であった。
ぽつりと、紫が言った。

「そういえば、これは言い忘れていた事なのですけれども」

 がくっ、と前のめりに魔理沙は脱力し、一体なんだと紫に視線をやる。
口元を扇子で隠した紫が、静かに口を開いた。

「魔理沙の父君も、権兵衛さんに対し石を投げていたそうですね」
「……あ?」

 今度こそ、魔理沙は完全に唖然としてしまった。
全身から力と言う力が抜けていき、ペタンと尻が座布団に張り付いてしまう。
肩が落ちて腕はだらんと重力に従い、唯一首だけがどうにか紫の方へ、縋るような視線を向けていた。

「嘘、だろ……?」
「いいえ、本当の事ですわ」

 魔理沙の言葉を、紫の言葉は冷徹に切り捨てた。
鋭利な言葉に、最後の望みも断ち切られ、魔理沙は想像する。
今でこそ縁を切ってしまったが、自分を育ててくれた父親。
それが顔も見知らぬ外来人に石を投げ、火刑になるのを黙ってみている光景。
それは魔理沙の意気込みを破壊するのに充分以上の力を持つ光景であった。
完全に脱力してしまった魔理沙を尻目に、今度は慧音が口を開く。

「そ、それでも、権兵衛はきっとそんな事を望まないぞっ!」

 広間の集団が慧音を見る目は、鬱陶しげな物に変わっていた。
視線を交わし合い、慧音を論破する策を視線で語り合う。
慧音の隣に座る妹紅は、どうも座りが悪いようで、身を縮めながらそれを聞かねばならなかった。
そんな折、ようやく出番が来た、とレミリアが優雅な動きで羽を広げる。
軽い音を立てて机に肘をつき、組んだ手に顎を乗せながら言った。

「そうね、そうかもしれない。
でもね、半獣、ここで人間に報復をしなければ、権兵衛は今度こそなぶり殺しにされてしまうかもしれない。
それを防ぐことは、権兵衛の望みよりも、大事な事なんじゃあないかしら。
それとも、貴方は権兵衛の事を大事に思っていないの?」

 言って、それからその紅の瞳を輝かせ、レミリアは言う。

「貴方は、あの人里に権兵衛の億分の一の価値でもあると考えているのかしら?」

 慧音は、答えに窮した。
目を見開き、何かを口にしようとするものの、言葉にならない。
何度か視線を下ろしたり上げたりして、言葉を紡ごうとするのだが、それもならず、レミリアに勝ち誇った笑みを浮かべさせる。
言外に、これに頷けば権兵衛の知り合いと言うネットワークから外す、と言う台詞であった。
言葉を失い苦悩する慧音の肩を、となりに座っていた妹紅が、ぽんと叩く。

「なぁ慧音、もういいんじゃあないか?」
「な、何がだっ!」

 慧音の敵愾心に満ちた反応に、妹紅は寂しげな表情を浮かべた。

「慧音、裏切っちゃった私が言うのもなんだけど、私は貴方に恩を感じている。
もし私の手に権兵衛が手に入ったとしても、短い半獣の一生ぐらいなら、三人で過ごしてもいいと思っているぐらい。
だからさ、見てられないんだよ」
「……だから、何がだっ」

 苛立つ慧音に、目を細めながら妹紅は続ける。

「いい加減、認めたらどうなんだ?
慧音、お前は人里なんてもうどうでもよくて、本当は権兵衛の事が好きなだけなんだ。
そんなに自分が変化してしまったと言う事が怖くて、現実を直視できていないだけなんだよ」
「……そんな、わけ……」

 俯く慧音を、妹紅はじっと見つめる。
慧音は何か反論しようと考えに考えていたようだったが、暫くすると、諦めて言った。

「そう、なのかもな……」
「きっとそうさ」

 妹紅が手を差し伸べるのに、慧音はおずおずと手を伸ばす。
二人の手の指が絡みあい、まるで一つの物体であったかのように強固に繋がれた。
慧音が僅かに目をうるませ、それを残った手で拭きとる。
魔理沙はそれを見ながら、吐き気のようなおぞましい物を感じていた。
仲違いしていた二人が、助言を切欠にその仲を取り戻す。
そんな風に、言葉の内容を抜いて動作だけを見れば、さぞかし感動の場面なのだろう。
しかしその言葉と言えば、一人の人間を人里よりも大切だと思い、人里への虐殺を許す内容なのである。
その光景が見目には麗しい物であるからこそ、その言葉の邪悪さが引き立つ。

 一体権兵衛とは何者なのだろう、と魔理沙は考えた。
この集団の言葉によれば聖人のような人間であるし、魔理沙がこの集団を観察しながら考えるのと、里人の意見では、恐ろしく邪悪な存在でもある。
こうまで他者からの評価が違うと、同じ人間を評しているのかすら魔理沙は疑問に思ってしまう。
何にせよ、この集団のようになってしまうのは、魔理沙も御免である。
故に権兵衛に出会いたくない、と心の底から思う魔理沙であった。

 さて、慧音が説得され、魔理沙が心折れた今、人里を養護する声は一つもない。
最早絶望的かと思われた人里の命運だったが、そこで紫が発する言葉が皆を止める。

「さて、意見も大体出たようですし、私からも一言よろしいでしょうか。
そもそも、人里への報復は、今、権兵衛さんが戻ってくる前に行う必要があるのでしょうか。
まず、前提として、人里にやる事は、権兵衛さんに隠さない事が前提になります。
何故なら無理に隠そうとすれば、必ず誰かが自分だけは権兵衛さんに正直である、と言って抜け駆けをしようとするからです。
すると必然、人里への報復は権兵衛さんが忌避し過ぎるような内容は不可能でしょう。
我々……私は別にいいんですけれども、まぁ此処に集った殆どの人妖が権兵衛さんに嫌われてしまう事は、可能性こそ低いとは言え絶対に避けねばならないのですから。
さりとて報復の内容は軽すぎると、里人の再犯を許す事になり得ます。
報復の内容は、非常に精密な内容である事が必要なのです」

 言って、紫は全員の顔を見渡す。
殆どの人妖が元々理解していたものの、感情から考える事を拒んでいた事を、紫は言ったのだ。
嫌々ながらも理解の色が広がるのを待ち、紫は続けた。

「そうなれば、必要なのは権兵衛さんの反応を確認しながら報復の内容を考える事です。
今回、既に皆さんがその微妙な内容を考えてきたと言うのならば兎も角、先のような過激な意見ばかりでは、そうせざるを得ませんわ。
それには当然、彼が助けられ、地上に戻ってきている事が前提として必要でしょう。
どうでしょう、今回は次回までに報復の内容をそれぞれ考えてくる、と言う事にして、次回権兵衛さんが助けられてから再び集まる、と言う事では」

 紫は言い終えると、扇子をパチンと鳴らしながら閉める。
それからゆっくりと全員の顔をもう一周見渡し、にこりと胡散臭い笑みを浮かべた。
会場に反論の声は上がらなかった。
中には不満そうな顔をするものも居たが、それを声にするでもなく、不機嫌そうに黙りながらも頷くばかりである。
脱力した魔理沙と無関心な霊夢以外が了承の意を伝えているのに笑顔で頷き、紫は言った。

「では、次回までに報復の内容を考えてくると言う事で、今回は閉会と致しましょう」

 その言葉と共に、会場に僅かに弛緩した空気が漂った。
僅かに空気中の狂気が薄れていくのに、魔理沙はようやく立ち上がる力を取り戻す。
とりあえず里人の半数が殺されると言う事態こそ回避された。
その満足感に身を任せて、暫くこの場に倒れ込んでいたい気分の魔理沙だったが、それをどうにか押し殺し、立ち上がる。
早々に帰り支度を始めた面々の一人、すぐ隣に居たアリスに、口を開きつつその手を掴んだ。

「おい、どうしたんだよアリス、その権兵衛……さんって奴と、何があった、ん、だ……?」

 しかし同時、魔理沙はその感触のおかしさに、思わず言葉を切り、手を離す。
鬱陶しげに魔理沙に振り向いたアリスに、身震いをしながら魔理沙は問うた。

「何、だ? この感触は……」
「あら、気づいたの?」

 途端アリスは機嫌を良くし、にっこりと花が咲きそうな笑顔で言った。
そして服の袖に手をやり、ブラウスのボタンを外し一気に引き上げる。

「ひっ!?」

 魔理沙が、短い悲鳴を上げた。
腕には、無数の「権兵衛」と言う文字の刺繍があった。
血で染まったのか、元々そうなのか、刺繍糸は血のような赤である。
アリスはにこやかに笑いながら、刺繍を撫でつつ言った。

「ふふふ、思いついてやってみたんだけど、こうやって権兵衛さんの名前を身に付けていると、権兵衛さんに触れられているような気がするの。
だから私、権兵衛さんに魔力を供給してもらった時に魔力が通った所を全部、刺繍したわ。
ほら、手袋を脱いだら手だってそう。
それと、何度か沢山血が出ちゃったけど、それが思ったより良かったのよ。
権兵衛さんの名前を、私の血が染めていくみたいで、なんだかちょっと興奮したわ。
結構縫うのには苦労して、一番苦労したのは背中を縫う時だったかしらね。
人形を操作しながらだからよく見えなくって、字が少し歪んじゃったかも。
でも権兵衛さんならきっと笑いながら許してくれるわ。
そして今度は、私の事をぎゅ、って抱きしめてくれるの。
ちょっと刺繍の傷が痛そうだけど、それでも私、凄い幸せになれるわ」

 魔理沙は恐ろしさの余り、腰が抜けてしまい、その場に座り込んだまま絶句していた。
更に恐るべき事と言えば、周りでその会話を聞いた面々が、アリスを恐れるどころか、それを真似しようと会話している事である。
レミリアは咲夜に、輝夜は永琳に刺繍をねだり、他の面々も互いにやってみようか、などと話し合っている。
一人身の幽香もなんとか針が背に届かないかどうか試しているようであった。
アリスはそんな風に自慢気に話していたが、暫くするとはっと気づき、気まずそうな顔を浮かべる。

「あっ、でも魔理沙、ごめんね。
私今まで力不足でこの集団に入れてもらえなくて、今やっと権兵衛さんの義手を再び作るって事で入れてもらえている所なの。
だから権兵衛さんと関係のない魔理沙とあんまり喋っているのは、ちょっと不味いのよ。
本当にごめんね、それじゃあ」

 と言うと、アリスは魔理沙が止める間もなくその場を去っていってしまった。
呆然とそれを見送り、魔理沙が伸ばした手のやりどころに困っている間に、面々の殆どは帰り支度を整え、博麗神社から帰っていってしまった。



 ***



 霊夢は身支度を整えると、戸締りを終え、陰陽玉の準備を終え、庭に降り立った。
あまり真面目に整備されている訳でもなく、特に飾り気の無い平たい庭である。
少しの間ここも見納めになり、退屈な地底の光景を見る事になるのか、と思い、霊夢は小さく溜息をついた。
と、それを見て叫ぶ魔理沙。

「霊夢っ! 良かった、まだ出発していないみたいだな」

 魔理沙は先程の集会が終わってから放心状態でいたので、霊夢に放って置かれていた。
魔理沙は、考えた。
一体今のこの状態は異変なのか、なんなのか、全く分からない。
ただ良くない事なのだろう、と言う確信が心の中にあるだけである。
それをこのままに放置しておく事は、魔理沙には耐え切れなかった。
しかし異変の原因と思われる権兵衛と接する事は恐れており、かといってあの面子全員を正気に戻す方法など思いつきもしない。
魔理沙には、せめてもの抵抗として勘の良い巫女に聞くしかないのだった。

「何なんだ、今幻想郷で、一体何が起こっているんだっ!」

 叫ぶ魔理沙を一瞥し、何時もと変わらない声で言う。

「普通の魔法使いには関係の無い事よ」

 と冷たく言い捨てると、霊夢は空へ浮かんでゆく。
ゆっくりと高度をとったかと思うと、地底の方向へと急発進していった。
後には、呆然とした魔理沙が残るばかりである。

 何なんだよ、と魔理沙は呟いた。
今この幻想郷で巨大な異変が起きているのは、魔理沙にも分かる。
異変解決は空飛ぶ巫女と普通の魔法使いの役目である。
しかしこれでは何をすればいいのか全く分からない。
魔理沙自身への影響を無視して考え、権兵衛を倒す事が出来たとしても、皆の心は狂ったままであると言うのが容易に予想できる。
しかし、それでも霊夢は地底へと飛んでいった。
ならば霊夢には、この異変を収束させる方法が分かっているとでも言うのだろうか。
霊夢との間にそびえ立つ、超え切れない壁を感じて、魔理沙は無力感に包まれた。

 家に帰ろう、と魔理沙は思った。
博麗神社に来なければ、きっとあの権兵衛とやらとは出会う事は無いだろう。
いや、しかしアリスも権兵衛と知り合いなのだから、魔法の森ですら不味いのだろうか。
魔理沙は魔法の森のキノコ達と、権兵衛に狂った少女たちの瞳を思い返し、内心で天秤にかける。
矢張り、狂いたくない、と魔理沙は思った。
この異変が終わるまで、家に篭っていよう、と魔理沙は決意する。
丁度季節も冬である、魔理沙の家には冬を乗り切るだけの蓄えもある。
それ以上に権兵衛とやらの異変が続いたらどうしよう、と魔理沙は思ったが、そんな事今考えても仕方がない、と頭を振った。

 箒を呼び出す。
またがり、空をとぶ準備をしながら、魔理沙はちらりと博麗神社の方を肩越しに見た。
何時も通りである筈なのに、その中はまるで生温かい空気に包まれた臓器であるかのよう。
かつての博麗神社とは似てもつかない雰囲気に、魔理沙は顔を歪め、顎に力を込めて前を向き、飛び立った。
背後の博麗神社はすぐに遠のき、小さくなって見えなくなっていった。




あとがき
と言う訳で、原作通り魔理沙は変な人ばかりの幻想郷で普通の人の役をやってもらいました。
尚、拙作では異変は基本的に霊夢が解決した事になっています。



[21873] 地底
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/03 20:15


 暗い。
その光景が瞼の裏であると気づき、俺は目を開く事にする。
そこは、ゴミ捨て場のようだった。
木製の細い柱が一本立っており、その先には灯りが、根元には俺の背がひっついている。
俺と柱を挟んで反対側には半透明の袋に入れられたゴミが、悪臭を放っていた。
はて、俺はどうして此処に居るのだろうか。
疑問詞が浮かんでくるが、とりあえず俺はそれを無視して立ち上がり、灯りから少しだけ離れて目を細める。
目に力を入れて見ていると、黒一色の中にも輪郭が生まれて見えてきて、そのうちぼんやりと遠くに灯りがあるのが見えた。
何故俺がこんなところに居るのか、気絶する前の記憶が曖昧だが、とりあえずわざわざ悪臭の元に居る必要性は無いだろう。
俺は明かりの下を離れ、他の明かりの下へと、足元に気をつけながら歩いて行く事にする。
魔力で灯りを作ってもいいのだが、状況が分からないのだ、消耗は最小限にする必要があった。
最も、俺の今の状態として、何故だか左肩がえぐられており、激しい痛みを訴えている。
そちらには鎮痛の魔力を施してやらねばならなかったが。

 暗い所で足元を探りながら歩くのは、魔力を覚えてから久しい事になる。
故に何度か足を引っ掛け転びそうになりつつも、俺はなんとか他の灯りの元へと近づいていった。
次第に暗黒の持つ輪郭が眼に見えてきて、俺は家屋がいくつも連なり、自分はその隙間道の奥にある広場に倒れていたのだと気づく。
灯りの奥では忙しなく人妖が歩いているのが見え、まるで人里の祭りの時のように人通りが多い。
しかし、こんな雪でも振りそうな冬の日に、祭りとは。
疑問を抱きながらも俺は先に進み、そしてついに路地から出た。

 光が爆発したかのような、圧倒的光量。
家屋には幾つもの灯りが取り付けられ、その下を凄まじい量の人妖が行き来する。
道の両端には時たま途切れつつも出店が出ており、そこに小さな子供が走っていったりしていた。
何処からかは、祭囃子などが聞こえてすら来る。
祭り。
それも、幻想郷に来て以来、始めて見る程の規模の祭りだった。
なにせ人間だけでなく、明らかに外見からして妖怪と分かる者も堂々と歩いているのである。
なんと賑やかな光景だろうか。
その躍動感に、俺は今の状況も忘れて祭りに飛び込みたい衝動さえ覚えた。

 一歩、祭りの中に踏み出す。
黄色っぽい灯りの色が視界いっぱいに広がり、まるで世界が変わったかのようだった。
ドキドキと胸が沸き立つのを抑えきれずに、俺はもう一歩祭りの中へと踏み出す。
その瞬間である。
誰かが俺を指さし呟く声が、聞こえた。
それからヒソヒソと声が重なり、太鼓の威勢のよい囃子も停止する。
俺の周りだけ人妖の真空ができているかのように、誰一人俺に近づこうとしない。
その円の内側に居た子供達など、泣きそうになりながら俺から離れている。

 一体どういう事だ?
疑問詞で頭がいっぱいになってしまう俺を尻目に、集団の中から一人の若い妖怪が進み出る。
人型の、青い肌をした妖怪であった。
威勢のよい声で、彼は言った。

「お前、自分の能力を知って、堂々と此処に出てこれたのかよ!」
「の、能力……?」

 言いつつ彼は俺に詰め寄り、襟を掴んだ。
むせそうになるのを耐える俺に、彼は叫ぶ。

「しらばっくれるなっ! お前が地底に落ちてくる時、その言葉が地上から聞こえたんだっ!」
「っぐ……?」
「お前のっ、“みんなで不幸になる程度の能力”だっ!」
「……あ」

 その言葉と同時に、俺は全てを思い出した。
俺の肩を食いちぎる白蓮さん。
泣きそうな顔で俺を糾弾し、地底に封印する星さん。
力を絞りきって登ってきた所を、いとも容易く蹴落とされたかのような気分だった。
世界が暗黒に染まり、一瞬この場で卒倒してしまいそうになる。
かろうじて俺を掴む彼によりかかるようにしてそれは抑えたが、すぐさま振り払われ、俺は尻餅をついてしまった。
自然、彼を見上げる形になる。

「行け、どっかへ行っちまえっ!
お前のような能力の持ち主なんて、この地底にすら必要な……」

 がたん、と大きな音がし、次の瞬間勢い良く彼の口から尖った血染めの柱が見えた。
一拍。
噴水のように青い血が吹き上がり、それは徐々に勢いを無くしていく。
最後には彼の体がぐらりとよろけて、その場に倒れこんでしまった。

「ひ……あ……」

 あまりの事に、脳内が事実に追いつけない。
頭の中が真っ白になり、口が何を言いたい訳でも無いのにパクパクと動く。
面を上げると、民衆は全員俺と視線を合わせないようにしながら、ひそひそと喋っていた。

「今のが、あの権兵衛とか言うのの?」
「なぁ、あいつ妖怪だろ、なんで喉を貫かれただけで死んでいるんだ?」
「“不幸にも”、心の隙を突かれたのか?」
「うわぁ、くわばらくわばら」

 全身が凍りついたかのように寒い。
刺すような空気が肌へと吹き、鳥肌を作っていく。
手は死んだ妖怪へと伸ばされたまま、空中を泳いでいた。
暫くそのまま硬直していたのだが、ある時、突然に子供が泣き出した。
うぇぇん、と言う声に、俺は思わず立ち上がり、逃げ出す。

「あ、あぁああぁぁっ!!」

 絶叫しながら、俺は背後の路地へと走った。
暗い段差で転けそうになりながらも、どうにかゴミ捨て場の柱へと辿り着き、柱にすがりつくようにして立ち止まる。
喉の奥から、不快感が登ってきた。
俺はそれに逆らわず、吐瀉物をその場にぶちまける。

「う、うげぇえぇぇっ!」

 喉を焼く灼熱のような痛みと共に、俺は嘔吐を続けた。
やがて固形物が出なくなると、俺はそこから離れ、柱の一面を背にして座り込む。
絶望的な気分だった。
そしてより何か言うとすれば、俺には何かを考える力すら残っていなかった。
ただただ、俺は謝り続けながらその場で座り込んでいた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
あの青い肌の妖怪だけでなく、俺が今まで出会ってきた全ての人妖に謝りながら、俺はただただ無為に時間を過ごしたのだった。



 ***



 ようやく冷静に考えられるようになった頃、俺は今までの事を回想していた。
妖夢さんが俺を切らねばならないのも俺の所為。
輝夜先生が俺を追い出さねばならなかったのも俺の所為。
人里の人々が俺の家を壊してしまったのも俺の所為。
幽香さんが俺を嬲る事になったのも俺の所為。
妹紅さんが錯乱し俺に火傷を負わせてしまったのも俺の所為。
宴会が奇妙だったのも俺の所為。
椛さんが俺の腕を切らねばならなかったのも俺の所為。
早苗さんが俺を見捨てなければならなかったのも俺の所為。
人里で俺が私刑を受けたのも俺の所為。
命蓮寺で白蓮さんが俺を食人したのも俺の所為。
いや、こればかりではない。
俺のあずかり知らぬ所で、数えきれない程の不幸が俺の所為で生まれてきたのだろう。
そしてそれは、星さんを経由したとはいえ閻魔様の言葉であると言う事から、間違いない事であると確信できた。

 俺は、今まで人を幸せにできると言う希望を持って、生きてきた。
自分のあまりの価値の無さに自死をすら考え、そしてそれを補うように恩を返す事を目的に生きてきた。
しかし、今回の事実はそれら全てを覆す事実だった。
俺は、人も自分も、永劫に不幸にし続ける事しかできないのだ。

 俺は、死ぬべきなのか。
俺はそれに悩み続けた。
地底と言うだけあって、太陽の恵みの無い此処では時間の感覚も無いが、数刻、もしかしたら丸一日ぐらい悩んでいたのかもしれない。
論理的に考えて、自分も他者も幸せにできない俺は、死ぬべきである。
しかし僅かにだけ残った、俺と縁を持つ人々が悲しむであろうと言う事実は、俺に自死を躊躇わせた。
俺は、この期に及んで誰かを悲しませたくなかった。
しかしそれすらも、今後俺が生きていく事によって、俺の死以上の不幸をもたらすのだと考えると、矢張り俺は死すべきなのだと思える。
だが、それでも俺は、一つの命である事は明白である。
何らかの理由を持ってこの世に生まれた以上、その責任を果たさねばならないのではないか。
自殺をしてその責任から逃れるのは、不道理ではなかろうか。
しかし、同時に俺はこの世に生きているだけで不道理な男でもあるのだ。
ならば矢張り、俺は死ぬしかないのか。
いや、きっとそうなのだろう。
たったこれだけの事実に至るまでにこんなにも時間がかかったのは、矢張り俺も死が怖かったのだろうか。
しかしそれも最早どうでもいい事である。

 俺は、捨てられたゴミをあさり、縄を見つけた。
幸い此処は生ごみだけでなく様々なゴミが捨てられる場所だったらしく、酒瓶を腰に吊るすような長さの縄が幾つも見つかった。
俺はそれらを、勤めて無心であろうとしつつ繋げ合わせていく。
こうやって糸の撚り合わされた部分がぐるぐると螺旋を描いているのを見ていると、なんだか心が落ち着いてくる。
螺旋はぐるぐるとねじれて、まるで無限に向かっていくかのような物であり、もうすぐ死んで終わりになる俺の人生とは別物だなぁ、と考えながら俺は縄を作っていった。

 やがて、縄は完成した。
丁度この柱は頑丈そうだし、灯りを付ける部分に縄を引っ掛けられるようになっていたので、俺はこの場から動かないまま死ぬ事にする。
忌み嫌われた妖怪が住むと言う地底の、更にゴミ溜めにて死ぬと言うのは、俺のような最悪の人間の死に場所には相応しいように思え、俺は小さく笑った。
台が無いので、俺は魔力を使って浮きながら縄をそっと首にかける。
その瞬間、視界の端に人影が写った。
これ以上人妖を不幸にしてなるものか、と、俺はすぐさま魔力を解き、首を吊って死ぬ事にする。

 死の間際、俺には走馬灯こそ無いものの、時間がゆっくりになるように感じられた。
死への予感は、俺に開放感をすら渡してくれた。
俺はこれ以上他者を幸福にする事はできないけれど、これ以上他者を不幸にする事も無いのだ。
そう思うと、俺の体は羽のように軽くなったようにさえ思えて、俺は快く死の苦痛を迎えようと思う。
きっとこんな時間がゆっくりと流れながら死ぬのは、死の痛みを長時間に渡って味わう事になり、苦痛なのだろうが、それが今まで生きてきて他者を不幸にし続けた俺への罰なのだと思いながら、俺は目を閉じた。

 閃光。
爆音。
背中を強くうち、俺はうめきながら地面を転がった。

「お前、一体なにしているんだよっ!」

 野太い声が聞こえ、俺は痛みに呻きながらも、視線を上げる。
まず、薄桃色の恰幅のよい小人のような妖怪が視界に入り、直後小人の弾幕でそうなってしまったのだろう、折れた柱が見えた。
全身に、凄まじい脱力感が走る。
思わず、俺は叫んだ。

「俺は、俺は、死ななければいけない人間なのにっ!」

 分かっている。
首を吊ろうとしている人間を見かけたならば、とりあえず助けるのが徳と言う物であると言う事は、嫌というほど分かっている。
だが、それでも俺は叫ばざるを得なかった。
膝をつき、顔を覆いながら叫ぶ。
内心が、濁流のように口から迸る。

「本当は、俺も、誰かを幸せにしたかったんだ。
けれど、それもできなくて、俺は、俺はっ!
俺は、死にたくないっ!
今まで生きてきた恩を、返したいっ!
だけど、仕方ないじゃあないか、俺には自分も他者も不幸にする事しかできないんだっ!
思い込みじゃあなく、本当にそうなんだよっ!
なのになんで……なんで俺を助けたんだっ!」
「はぁ? 何を言っているんだ?」

 疑問詞と共に、首を傾げる小人。
俺は呆然と、小人の顔を見る。
本心から疑問に思っているような顔であった。

「此処はおいらの家の裏だから、そんな所でお前のような人間に死なれて、この場所が呪われでもしたら、大迷惑なんだっ。
しかも、お前、死んだら閻魔様の所に行くだろ?
そしたら今度は……閻魔様も不幸になっちまう。
おいらは閻魔様に恩があるだから、そんなこと見逃せないっ!」
「……あ?」

 思わず、疑問詞が口をついて出た。
俺は……死ぬ事すら、迷惑なのか?
そう思うと同時、俺は死んだ後の俺の魂の行方について、ようやく想いを馳せる。
そう、俺は死ねばその魂は冥界に行くかもしれず、どちらにせよその後は閻魔様の裁きを受ける事になるのだ。
となれば、少なくとも閻魔様を、そして多ければ幽々子さんと妖夢さんを再び不幸にしてしまうのである。
しかもよくよく考えれば、俺には“名前が亡い程度の能力”による神力に対する抵抗力がある。
俺は果たして、閻魔様に裁いてもらえるのだろうか。
この“みんなで不幸になる能力”を消しさってもらえるのだろうか。

 唯一の希望である死すらも、実は救いでは無かったのだ。
そう悟ると同時、俺は全身にもう一切の力を込める事すらもできず、その場に倒れ伏した。

「だっ!? じゃ、邪魔だっ!」

 小人が叫び、俺の襟を掴み、放り投げる。
そうまでされても、俺はぴくりとも動く気力が湧いてこず、されるがままに何度も投げられ、最後には大通りの真ん中に倒れるようになる。
するとそこだけ人気の真空にでもなってしまったかのように、人妖が足を踏み入れぬ地帯になった。
上空から見れば、きっと俺を中心に無人の真円が描かれているのだろう。
呆然とそんな光景を想像しながら、俺はその場に倒れていた。
それでも小声で呟く、通行人達の言葉は聞こえてくる。
それによると、数時間の後には俺を投げた薄桃色の小人は、誤解から妻に殺されかけて錯乱し、自分の子供さえも手にかけてしまった後、正気に戻って首を吊って自殺したのだと聞く。
今度は、最早俺には口に出して謝るだけの気力は無かった。
ただただ、内心で何度も、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと呟き続けるだけであった。



 ***



 人類最悪。
俺に二つ名をつけるならば、そんな名前が似合う事だろう。
何せ俺相手に殴ろうが殺そうが、優しくしようが慰めようが、何をしてもお互い不幸になるしか無いのだ。
果たして、俺のこの能力がまだ成長の余地を残しているのだとすれば、どうなるのだろうか。
俺が息を吸えば、地底が不幸になる。
俺が息を吐けば、幻想郷が不幸になる。
俺が瞬きをすれば、現世が不幸になる。
俺の心臓が動いていれば、三界全てが不幸になる。
そして俺の生死にも関わらずに不幸は広がっていき、何時かはこの地球を覆い尽くし、月まで、火星まで、土星まで、そして銀河まで不幸は満ちていくのだろう。
その光景は、最早悪夢と言えた。
全ての人の心から幸せが消え去り、ただただ不幸ばかりの植物の一生が待ち受けるのみ。

 その事実は、俺のかつてのほったて小屋生活を思わせた。
人と関わることなく、心が死んでいくような、緩慢な不幸に満ちた毎日。
あの生活から月に一度の慧音さんとの酒宴を除けば、俺が世界中の皆へと与えようとしている物はよく似たものだろう。
俺が味わった不幸を、皆に与えて回る。
そう考えると、より俺の存在の罪深さは酷い物に思えた。
不幸を糧に得るべきなのは、幸せのありがたさや、苦難を乗り越えた精神的力である。
だのに皆を同じ目に遭わせると言うのは、度を通り越した最悪だった。

 最早俺には、生きる事も死ぬ事も許されないのだが、ならばどうすればいいのだろうか。
このまま生きていても死んでいても俺の身から不幸が溢れてしまうのだとすれば、一体俺はどうすればいいのだろうか。
生きるか。
生きて、俺は周りに生き物の存在しない……、死んだ砂漠のような世界でひっそりと生き続けるべきなのか。
俺の“みんなで不幸になる能力”がこれ以上成長しない事を祈って、ただただ植物のように生きるべきなのか。
そうするのだとすれば、俺は捨食の魔法をおぼえて永遠に砂漠の中心で生きるだけの生物となるのだろう。
この星がその生命を終えるその瞬間まで、俺の周りは不幸に満ちた邪悪な空間として語り継がれるのだろう。
そして俺は、その結果を見る事すらできない。
俺は果たしてこの星中を満たすほどに不幸を振りまいてしまったのか、それを確認する事すら叶わず、もしかしたら道化のように振る舞う事しか叶わないのだろう。
それとも、死ぬか。
死んで、閻魔様に裁かれるなどすれば、俺の魂からこの忌まわしき能力が消えてくれるのだと願って、死ぬべきなのか。
閻魔様や白玉楼に不幸が降り注ぐのを、必要な犠牲だと割りきって、俺は死ぬべきなのか。
そうなるのだとすれば、俺は不幸になる能力を持ちながらも幸運を期待すると言う、滑稽な行動をする事になるのだろう。
叶うはずも無い願いに全てを賭した、大馬鹿者として語り継がれるのだろう。
そして俺は、恐らく全てに失敗し、不幸が無限に広がっていくのを目の前に、何をする事もできない。
俺は生きて、せめて誰もいない所に自らを封印してしまえば良かったと永遠に悔い続ける事なのだろう。

 心の底から、俺は今この瞬間この場から消え去る事ができれば、と思う。
生きるのでもなく死ぬのでもなく、ただただ消失する。
まるで俺の名前のように、完全無欠に消え去る事ができれば、どれほどいいことだろうか。
どうせ消え去る事ができるのなら、お願いだから、俺が生まれた瞬間まで遡って、俺を生まれなかった事にして欲しい。
そうすれば俺が生まれ、人々を不幸にし続ける事がない分、世界には幸せが溢れる事だろう。
そう、俺は消えてなくなる事で初めて人に貢献できる人間なのだ。
そうなればどれほどいいか、と思うものの、俺はそれを許されぬ程に罪深い人間だった。
ばかりか、俺は既に二人もの妖怪を殺生してしまった。
俺が直接手を出した訳ではないものの、同じようなものである。
俺は自身の罪深さに押しつぶされそうになる。

 そんな事を考えながら、俺は当座の場として、地底の中でも人気の無い方へと放浪していた。
時間の感覚は無いが、丸一日以上は何も食っていない身である、ふらふらとしてしまうが、地底の住人全てが俺を避けて通るので、これ以上迷惑になる事も無い。
ただ喉の乾きだけはどうしようも無かったので、そんな時は近くにある泥水などを啜りながら、俺は生ける屍のようになりながら歩き続けた。
断食したままの放浪は、辛い物であった。
あの家を壊された後の、殺される為にただ彷徨う時よりはマシかと思ったが、しかし空腹はそれ以上に俺の心を痛めつけた。
周りが縁日の祭りのようで、常に食べ物の匂いがする事も一因であっただろう。
美味そうな脂の匂いや、喉が凍てつくようなアルコールの匂いを嗅ぎながら、俺はしかし何一つ口にすること無く歩き続けた。
やがて鉛をくくりつけているかのように足の動きが鈍くなり、まるで底なし沼を歩いているかのようで、一歩ごとに沈んだ足を抜き出しているかのようであった。

 幾度かそれらしい場所を見つけはした。
使われなくなった地下水路の巨大な洞穴、住人の居なくなった広い廃屋、シャッターの閉まった人気のない小さな街道。
しかしどれも近くに生きた人妖が住んでいて、俺と関わった人妖がどうなったか知っていたのだろう、遠くからちらちらと姿を見せてきた。
俺はその度にその場所を諦めて、また宛のない放浪へと歩みだす事になる。
そうして五度目の放浪に入り、そろそろ本格的に足にきてしまい、歩くのも限界に近いと言う頃の事である。
俺は仮宿として、郊外の小さな禿げた一本の大きな木に背を預けることにした。
ごわごわとした木の触感を背に感じつつ、俺は深い溜息をつきながら背をずり落とす。
尻が湿った地面についた頃、俺はついに空腹の限界となり、木の皮を剥がし、その表面の泥を拭ってから口にした。
いかにも消化に悪い食べ物である、もしかしたら胃が受け付けないかもしれない、と思いつつの食事だったが、まだ俺が感じている程の時間は経っていないのか、俺の胃はゆっくりと木の皮を消化していく。
僅かに吐き気がしたが、なんとかそれを堪えて俺はそのまま頭まで木に体重を預ける。

 暫くは吐き気を我慢していたが、それも長時間続くと、次第に眠気がやってきた。
仮宿を見つける事すら、思った以上の難事である。
これを解決するには無睡ではできないかもしれないと思い、俺はその眠気に身を預ける事にした。
顎やゆっくりと落ちていき、膝を立てた足の合間に頭が落ちて行く。
俺は眠気に任せるままに、睡眠へと誘われていった。

 夢を見た。
夢の中で、俺は一人の少女と共に過ごしていた。
不思議と、その少女の顔は曖昧でよく分からないのだが、表情は手に取る様に分かる。
俺はその少女が可愛らしい笑みを浮かべたり、鹿がそうするように華麗に草原を飛び跳ねるのを見ると、心から幸せに満ちていくのを感じた。
それはどうやら少女も同じようで、俺などの何処が良いのか、俺の細かい仕草を見ては、少女は幸せそうに俺を見て笑った物であった。
俺たちは赤い屋根の小さな家で二人過ごしていた。
夢独特の適当さがそこに出ているのか、俺たちは野蛮な狩りなどをする必要もなく、無邪気に野苺をとったりするぐらいで、遊んで毎日を過ごしている。
ある日は野山を駆け巡り、ある日は森でかくれんぼをした。
川で釣りをしたり、家で二人見つめ合うだけで一日を過ごす事もあった。
俺は、兎に角幸せだった。
その少女の為なら俺は何でもできる、と言う確信が俺の中に湧いてくる。
そうすると、少女がくるりと一回転してみせ、その次の一瞬には少女は艶やかな部分もある、少女と女を半分に割ったような姿となった。
その雪のように白い手を伸ばし、彼女は俺に何か言おうとする。
しかし、その言葉はじれったい事に俺には届かず、意味のない空気の揺れにしか感じられない。
それを悟ったのか、少女はゆっくりと、唇の動きを見せるように言い始める。
イ。
キ。
テ。
確かにそう言いながら、少女はその白百合の花弁のような手を俺に伸ばし、俺は――。



 ***



 ぽん、と肩を叩かれ、俺は身震いしながら起き上がる。
その肩に置かれた手の先を見ると、幼く美しい少女が俺の肩に触れており、あぁ、この子が俺を起こしたのか、と思ったと同時に思い出す。
俺に詰め寄っただけで死んだあの青い肌の妖怪。
俺を投げただけで最悪の死を迎えたあの薄桃色の小人の妖怪。
ひっ、と悲鳴をあげながら俺は彼女の手を払いのけ、数歩後ずさった。
どんな理由があっても、不幸になってはいけない、そう思わせるぐらいにその少女は美しかったのだ。
そうやって距離を取ってから、俺は改めて少女の事を観察する。

 紫水晶の髪に、細く理知的な輝きを宿す目。
頬はその外見の幼さからだろう、白い肌の中僅かに紅を差しているように見える。
襟と袖に白いフリルをあしらった青色の服と、フリルと色を合わせたスカート、そこからはまた白く細い足が伸び、ぼてっとした桃色のブーツへとたどり着く。
特筆すべきはその胸にあしらわれた、赤い目のような装飾だろうか。
真円を描く球体の中心に、黒いのに何処か白い印象のある瞳が俺の目を覗いており、そこから六方へと触手が伸び、彼女の体に巻き付いている。
うち一本が彼女の首元に、もう一本が髪飾りにあるハート型の飾りに結びついていた。
何というか、容姿自体は幼い物なのだが、反して彼女の表情は鋼鉄のように固く、凍てついた氷を思わせるようである。
そんな少女の花弁の唇が、その外見に反して艶やかに踊った。

「貴方は、七篠権兵衛かしら?」
「えっ? はい、そうですけれど……」

 と言いつつ、思わず俺は目を瞬く。
俺の名を知りつつ俺に近づき、あまつさえ触れる事までしようとは、俺の呪われた能力を知らないのだろうか。
と思うと同時、少女が氷の微笑を浮かべ、その美しい声で言った。

「いいえ、私は貴方の能力も、それが地底に来てから二体の妖怪と不幸になった事も知っているわ。
矢張り貴方はそう言われると驚くのね。
えぇ、私は貴方の“みんなで不幸になる能力”から受ける影響など承知の上よ。
ふふ、驚いているわね。
あ、そうそう、貴方が疑問に思ったようだから、答えてあげるわ。
私の名は、古明地さとり。
さとり妖怪の、さとりよ。
いいえ、苗字で呼ぶと妹と混同してしまうから、名前の方で呼んで頂戴」

 と、まるで俺の思考を追うように喋るさとりさん。
それに疑問を覚えると同時にさとりさんは自己紹介をし、同時に俺は思い出す。
さとり妖怪。
つまりは人妖の心を読む事ができる妖怪であり、今の会話は俺の心を読みながら行っているのだろう。
不自然ではあるが、意思の疎通に齟齬が無いので、特に口下手な俺などにとってはより平易な会話方法でもあった。
と、眉をひそめるさとりさん。

「本気かしら?
いえ、本気のようだけれど、心を読まれてそんな反応を返すだなんて、貴方は正気なの?
……ふぅん、自分では正気のつもりでいるけれど、周りの反応から少し変だとは自覚しているのね。
じゃあここは一つ、助け舟を出してあげましょうか。
貴方は変じゃない。
とびっきりに変なのよ。
自覚しておいて損はないでしょう、感謝なさい」
「は、はい、ありがとうございます」

 と、俺は思わずぺこりと礼をしながら感謝の言葉を伝えた。
と言うのも、さとりさんにとって俺の思考が読めるとして、その強さまでは読めるとは限らないからだ。
となれば、その強さを伝える為には、矢張り言葉にして口にしなければなるまい。
そう思って口に出したのだが、またもや目を点にしてさとりさんは言う。

「その反応もへんてこね。
普通、会話が成立しないってみんな嫌な思いをするのに、貴方ときたら逆に、心を読まれるのもそれ程便利って事じゃあないのかな、ですもの。
答えてあげましょう、いいえ、そうではないわ、私は貴方の思いの強さもまた理解できる。
だからわざわざ感謝の言葉を伝えなくてもいいわ」

 と、座り込んだままの俺を見下ろしながらいうさとりさん。
しかし俺としては、感謝しているのにその礼を言わないと言うのも座りが悪い。
と言っても、さとりさんとしては余計に言葉を聞かされる事になり、無意味な労働が一つ増える事になるので、嫌な思いをする事になるのだろうか。
そうだとすれば、本末転倒も良い所である。
その辺はどうなのだろうか、角の立たないように聞いてみなければ、と思うと同時、それが伝わっている事に、便利だなぁと思う。
氷の視線で少しの間思考を含めた沈黙を作り、それから充分間をとってさとりさんは口を開いた。

「そうね、そんな風に思われたのは初めてだけど……。
えぇ、矢張り礼ぐらい、口にしてもらう方がいいわ。
勿論、私の言葉を遮らない事が前提だけれども。
それにしても、本当に私の“心を読む程度の能力”を恐れていないのね」

 呆れたように言うさとりさんだが、俺も全く恐れていないと言う訳ではない。
と言うのも、俺のような自虐的で醜い思考を読み続けるなど、さとりさんにとって不快ではないかとも思うからだ。
当然、さとりさんには申し訳ないことこの上ない。
それにそれでなくとも、人は人を不快にしてしまう思考を、少なくとも言葉より多く考えている事だろう。
そうなればさとりさんは常人より多くの不快を読んでしまう事になる。
俺はそれに多分の同情と少しの哀れみとを憶え、そこに哀れみが混じってしまった事を読み取られた事に思い当たった。
俺如きが他者を上から見るような思考をしてしまった事を読み取られた事に、顔を紅潮させる。

「矢張り、貴方は評判通りと言うか、地上で噂に聞くような性格みたいね。
あら、どんな噂かは教えてあげないわ。
まずは自分で考える事ね、って、悪評では無いわよ。
所で貴方ちょっと抜けてるのね、少し思考を巻き戻して、私と出会った時にまで戻してみたら?
せめて尻餅をついたままではなく、立ち上がって見せたら?」

 と言われて初めて俺は自分が尻をついたままである事に気づき、慌てて立ち上がり、赤面しつつ尻についた泥を払う。
それからさとりさんの台詞に思いを馳せ、それからようやく己の“みんなで不幸になる程度の能力”の事に気づき、顔を青くした。
慌ててこの場から逃げようと思う俺の思考を読み、さとりさんが俺を制する。

「逃げようとしても無駄よ、残念ながら私は貴方に用があるの。
私は戦いはそれ程得意じゃあないけれど、弱っている貴方との力の差は歴然だと分かるでしょう。
……そう、いい子ね、そうやっておとなしくしていなさい」

 そう言われてしまうと俺にはどうしようもなく、一体何の用があるのかとその場に佇む事しかできない。
さとりさんはぴん、と人差し指を立て、軽く胸を張って演説するように言う。

「この地底は地獄のスリム化で切り捨てられた部分だから結構広いのだけれども、それでも貴方の望むような死んだ砂漠のような場所は無い。
かといって貴方には独力で地上に昇る程の力はなく、また封印された人妖を地上に出しては地底はその責を問われる。
つまり、地底の何処かが貴方を引き取らねばならないのよ。
そんな時に選ばれるのは、残念ながら何時も嫌われ者の役目。
地底の中でも最も忌み嫌われた妖怪である私が選ばれたのも、必然でしょう。
まぁ、一応私が地獄の中心の地霊殿の主人と言う、地底の顔みたいな役目をしているからと言うのもあるけれどね。
鬼辺りは不幸になる能力と喧嘩してみるのもいいかも、とか思っていたようだけれど、余計に混乱するだけだろうから私が引き取る事にしたわ。
貴方の能力が、本当は“みんなで不幸になる程度の能力”ではないのでは、と言う希望に賭けてね」

 と言われ、俺は呆然としてしまう。
少し話しただけで非常に理知的と分かる彼女が嫌われ者と言うのもそうだが、俺の能力が“みんなで不幸になる程度の能力”では無いと言うのは、一体どういう事なのか。
それでは俺に話しかけて死んだ二体の妖怪は、一体どういう事なのか。
疑問詞に満ちる俺の脳内を読み取り、さとりさんは一人頷く。

「何故なら貴方の持つその能力は、貴方の魔力の量に比して、凄まじすぎる。
悲劇しか招かないその能力は、最早西洋の唯一神の領域と言って良いほどよ。
勿論、貴方の来歴を読み取る限り似たような能力があるのは分かるけれど、検証を行っていけば他の能力と判明する可能性があるかもしれない。
閻魔にだって、間違いがないとは言い切れないのよ」

 理屈はわからないでもない。
しかしそれは、余りにもメリットの無い行為ではあるまいか。
顔に現れる程簡潔な思考に、さとりさんは僅かに沈黙した。
少し俯いてから、躊躇いがちに面を上げる。

「それと……、妹に、貴方が有用かもしれない、と思ったからよ」

 と、さとりさんは言った。
その瞳をじっと見ると、先ほどまでの凍てついた視線に、僅かながら柔らかさが現れている事に俺は気づく。
そこから垣間見る感情としては、さとりさんは、恥らっている、のだろうか?
と思った瞬間、その思いを読み取ったのだろう、さとりさんは再びその瞳に凍てついた鋼鉄を宿す。
彼女の心の揺れが現れた先ほどの光景が魅力的だったので、俺は僅かに残念に思った。
さとりさんは、聞こえているだろう俺の心情を無視して続ける。

「噂に聞く貴方は、心を読まれてもそれを全く恐れないような人格だった。
実際、会ってみて私もそう感じたわ。
貴方自身は少しは恐れていると言うけれど、そんな物は物のうちに入らない。
私の妹は……愚かな事に、他者の心を読む事を恐れて、自分の心を閉じてしまっている。
だからペットの中でも心を読まれる事を比較的恐れない子をつけて、第三の目を開く練習をさせているんだけれども、あの子は一度も目を開こうとしないまま。
ならばそのペットよりも更に心を読まれる事に抵抗の無い貴方を使えば、私の妹、こいしと言うんだけれど、あの子はもしかしたら再び第三の目を開く事ができるようになるのではないか、と思ったのよ」

 と言うさとりさんだが、それにしてもリスクの高すぎる行動に出たのではないか、と俺は思う。
何故なら、この地底に来てから俺は既に二体の妖怪を殺して……そう、殺しているのだ。
もし話しかけてものの数分でさとりさんが死に瀕するような不幸に会えば、一体どうするつもりだったのか。
その大切な妹さんを、一人にしてしまっても良かったのか。
怒りに似た感情が湧き上がるのに任せ、口を開こうとしてから、言わずともそれが伝わっている事に気づき、さとりさんの目を見やる。
さとりさんは、変わらず絶対零度の視線で俺を見ていた。

「だからこそ、よ。
私は妹の為ならば、なんでもやってみせる。
それに調べて見る限り、貴方の能力は精神的に高位な存在が相手である程、その不幸は精神的に訪れる物ばかりだったわ。
貴方に話しかけた妖怪や、貴方を私刑にした里人は、もっと肉体的に酷い目に遭うか、遭う予定よ。
あぁ、里人についてはただの推測よ、根拠も貴方に言えないような事ばかりだから気にしないで。
それに私は心を、精神を読む能力を持っている。
遠目に見るだけでも貴方が精神の真空である事は分かったけれど、その引力が私に然程向いていなかった事も分かっていたわ。
まぁそんな訳だから、勝算が無い訳では無かったのよ。
実際、少なくともこうやって貴方と話す事ぐらいはできている」

 さとりさんの語り口は徐々に甘い物になっていき、俺の心にするりと滑りこんでいくかのようだった。
それに身を任せ、思わずふらりと近寄ってしまいそうになるのを、俺は気力で押しとどめる。
何故だ、俺は何故さとりさんの言葉にこんなにも魅力を感じているのだ。
疑問詞を読み取ったのだろう、にやり、とさとりさんは凍りついた表情のまま笑みを浮かべた。

「あら、そろそろ私の案に頷いて、ついていきたくなってきた?
それは別に仕方のないことだわ。
だって、貴方が私の言葉を信じるならば、貴方の“みんなで不幸になる能力”は嘘と言う事になり、貴方は誰かを幸せにする事ができる、と言う事になるのだもの。
それも、その可否はすぐに証明される。
権兵衛さん、貴方が私の妹を救う、と言う結果によってね」
「……っ」

 激烈なまでに俺の心を鷲掴みにする、凄まじい言葉であった。
そう、俺はさとりさんの言葉を聞いてから、いや、もっと前から、俺の“みんなで不幸になる能力”が間違いであって欲しい、と願い続けていたのだ。
二人の妖怪の死によってそれは打ちのめされてはいたものの、なんと恥知らずな事に、その希望は消えずに残っていて。
その上、俺がさとりさんについていって行うことが、さとりさんの妹を救う行為であると言う事が、更に俺の心を揺らした。
こんな俺でも、まだ他者を救う方法がある。
それは凄まじいまでに甘い、蜜のような誘惑であった。
屈してはならない、今すぐこの場を離れてさとりさんへ行く不幸を最低限にせねばならない、と分かっていても尚、俺の両足は根を張ってしまったかのようにこの場を動けない。

「どうかしら、権兵衛さん。
お願いします、私の妹を救ってはくれないでしょうか」
「ぐ……っ!」

 頭を下げながら言うさとりさんの言葉は、俺の心を激しく掴んで離そうとしない。
誰かの為になれる、俺によって救われてくれる誰かが居る、と言うのは、それだけで激しく俺の心を揺さぶった。
思わず頷きそうになる首を、万力を込めて固定する。
いつの間にか俺は肩で息をしており、頬には脂汗が流れていた。
深く呼吸し、落ち着こうと試みるものの、一向に心臓の高鳴りは収まらない。

 俺は、少しの間だけ天を仰いだ。
薄暗い空の奥は岩で囲われており、それを街の灯りが薄暗く照らしている。
凹凸のある天蓋に目をやりながら、俺は思う。
俺は、他者を幸せにできるかもしれない。
俺は、他者を救う事ができるかもしれない。
だけど、それでも。
それでも、だ。

「俺は、協力できません」

 俺はさとりさんの目を見据え、言い切ってみせた。
未だに心の中は迷いばかり、少し押せば崩れてしまいそうなぐらいで、さとりさんにはそれを悟られていても、それでも俺は、言ってのけた。
虚勢であると悟られつつも、俺は全力を込めて言う。

「逆に、お願いします。
この地底の中で、最も人口密度が低く、重要度の低い場所とは何処でしょうか。
俺はそこに住む人妖を追い出してでも、俺のための死の砂漠を作らねばならない」

 自然と俺は、生きるか死ぬかで、生きる方を選択した言葉を口にしていた。
それは矢張り俺の心にも根底に生きていたいと言う欲望があったのか、それとも冷静にそう判断したのか、よく分からないが、兎に角俺は生きる事を選択していた。
それを聞いて、さとりさんの目に僅かに意外そうな色が走る。

「あら、貴方の心を読んでいる限り、抵抗しきれないと思っていたのだけれど……。
矢張り貴方の心は、読んでいて面白い。
ますますこいしの第三の目にとっての歩行器となる可能性が高まってきたわ。
勿論貴方の願いに対する答えはノーよ。
貴方は今ここで意識を奪ってでも、地霊殿まで連れて行く!」

 言って、さとりさんは地面を蹴り、空中に浮遊。
俺からしてみれば圧倒的な力で弾幕を展開、放ってきた。
隙間が狭く抜けにくいその弾幕を抜けるには精密動作が必要となるが、今の俺の魔力では空にふらふらと浮かぶ事が精一杯で、避ける事はままならない。
自然、腹に小粒が数発激突。
嘔吐しそうになるのを気力で抑え、背後へとふらふらと俺は飛んでいく。
しかしさとりさんの弾幕の方が速度で上回っており、すぐに第二波が俺へと到達。
今度は背から俺を打ちぬき、凄まじい衝撃を与えてくる。

「が……げほッ……」

 ついに空に浮く事すらもできなくなった俺は、低空から地面へと落下。
全身を擦りむきつつ地面を転がり、立ち上がろうとするものの、それすらもままならない。
仕方がないので動く両腕で地面を這っていこうとするののの、直後、俺の頭に落ちる影。
見上げると、さとりさんが絶対零度の視線で俺を見下しているのが見える。
一瞬、生きる事を諦めこの場で自決する事も考えたが、それではどちらにしろさとりさんが巻き込まれる事には違いない。
ならばせめて、自決するにしても地霊殿とやらから逃げ出し誰もいない場所でやるべきだろう。
そう思い、この場は逃げ出すのを諦め、その地霊殿についてから逃げ出す事に希望を繋ぐ事にする。
と同時、何の躊躇も無く俺へと弾幕が打ち込まれ、その衝撃によって俺は意識を失っていくのであった。




あとがき
と言うことで、次回から地霊殿編です。
地底の妖怪の出番を待っていた方も居ると思いますが、ご了承ください。



[21873] 地霊殿1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/13 19:52

 さて、さとりさんに気絶させられた俺であるが、まだ漠然とした希望は持っていた。
地霊殿とやらに連れていかれた後でも、なんとかそこを脱出する事ができれば、さとりさんを不幸にしないで済むかもしれない。
勿論、俺と言う劇物を引き取ると言って逃してしまえば、さとりさんは地底からの不興を買う事は間違いなく、そう言った意味では既に不幸にせざるを得ないのだろうが、それでも俺がずっと居るよりはマシだろう。
そう考え、俺は意識が浮上すると同時、まずは逃げるための経路を探す為に周りをみようとして。

 見えなかった。
と言うか、顔の感触からして、目隠しをされているらしかった。
ま、まぁ、それぐらいならば外せばいいのである、どうにかなるさ、と思って右手を動かそうとして、がちゃりと言う金属音。
手首には冷たい鉄の感触、背はベッドの感触を伝えており、音はそのベッドの下の方から聞こえた。
つまり俺は、右腕を縛られていた。
ま、ま、まぁ、それでも一応足が動けば抵抗ぐらいはできるさ、と思い、儚い希望と共に足を動かしてみると、矢張りがちゃりと言う金属音。
まままま、まぁ、そんなもの魔力を使って壊してしまえばいいさ、と全身に魔力を満たそうとすると、すぐさま全身の魔力が消失。
代わりに四肢の鎖に感じる僅かな力が強まるのを感じ、俺は思わず天を仰ぎたくなった。
勿論この姿勢ではできず、代わりに鎖が音を残しただけであるのだが。

 詰んでいた。
これ以上無い程に俺は詰んでいた。
四肢を拘束され目隠しをされ、更には魔力を吸い取る鎖で拘束され。
ここまでされてしまうと、俺ではどうしようもなかった。
強い魔力の持ち主ならば鎖を破壊できるかもしれないが、俺の大した事の無い力では元より、消耗したまま回復しない魔力では余計に不可能である。
唯一、希望と言っていいのか、自由が残されているのは口だけであった。
これで一応は何時でも舌を噛み切って自殺はできるのだが、それはすなわち地霊殿を俺の死に場所と言う呪いの場所にしてしまう行為であり、その際撒き散らされる不幸もどれほどだか分からない。
となれば、早くさとりさんが俺による不幸の威力に気づき、俺を外に捨ててくれる事を祈るぐらいしかできないだろう。

 しかし。
俺の不幸の、威力。
俺の所為でどれだけの人がどれほど不幸になるのか、よくよく考えてみれば俺は自覚すらしていない。
これは、果たして本当に俺に“みんなで不幸になる能力”が、あると言えるのだろうか。
俺は少なくとも、“名前が亡い程度の能力”については効力は兎も角それがあると言う事実は自然と自覚できていたし、“月の魔法を扱う程度の能力”についても同様だ。
勿論、閻魔様が俺の能力について偽ったり間違えたりする可能性は非常に低いだろう。
だがしかし、“みんなで不幸になる程度の能力”が、実際は俺が思っているよりも低い効力であったり、条件付きであったりする可能性は充分にある。
果たして俺の“みんなで不幸になる程度の能力”と言う呪いは、本当に言葉そのものの通りの呪いなのだろうか。
甘い誘惑が、俺の心を濁す。

「……駄目だっ、違うだろう、俺っ!」

 思わず叫びながら、俺はなんとか甘えた希望を見るのを辞める事ができた。
俺は、呪われた存在なのだ。
何をしようと自分も他者も幸せにできない、最悪の存在なのだ。
俺には一切の希望は許されない。
俺は呪われたまま絶望し、生きる事も死ぬ事も許されない存在なのだ。
そうやって自分に言い聞かせる事で、俺は辛うじて誘惑から逃れる事ができた。
事実、俺は既に二人の妖怪をこの能力で殺しているのである。
ちょっとした会話ですらそうなったのだ、例え俺の能力が“みんなで不幸になる程度の能力”では無かったとしても、それを検証する為にどれほどの犠牲が必要な事か。
どう考えても、俺が死の砂漠で一人永遠に過ごす方が、少ない被害で済むだろうに。

 そうやって自分に言い聞かせ、なんとか誘惑を跳ね除けているうちに、がちゃり、と錠前が開く音。
誰かきたな、と思うと同時、がちゃがちゃがちゃがちゃ、と続いて四つもの錠前が開く音。
どれだけ厳重な扉なんだ、と内心冷や汗をかく俺を知り目に、扉が開く音が聞こえる。
それからがらがらと台車を押す音が聞こえ、次いで扉が閉まり、再び五つの錠前が閉まる音が聞こえる。
入ってきた誰かは台車を押しながら俺の寝ているベッドの横まで来て、近くにあったのだろう椅子を引っ張り出し、座った。
こほん、と小さく咳払いをし、口を開く誰か。

「私は、火焔猫燐。さとり様の命で、これから貴方の世話をする妖怪だよっ。
私のことはお燐って呼んでね、お兄さん。
これからよろしくっ!」
「は、はい、よろしくお願いします」

 俺のような呪われた存在の世話を言いつけられたにしては、明るい声の主であった。
その声の瑞々しさから恐らく可憐な少女の姿をしていると思われ、その様相を想像する事しかできない事が悔やまれる。
と言っても、何をするにも俺は口を開く他する事ができない男だ。
素直に俺は口を開いて、俺が連れてこられた遠因、こいしさんの事について聞いてみる。

「早速ですが、俺はこいしさんと出会って、一体何をすればいいんでしょうか。
心を読まれるのに抵抗の無い俺を使えば、とさとりさんはおっしゃっていましたが、第三の目を開くのに結局何をすればいいのか分からず仕舞いで」
「って、あれれ? 貴方こいし様の為に連れてこられたの?」
「え。もしかして、知らなかったんですか?」
「う、うん……」

 脳裏でさとりさんの絶対零度の視線が再生される。
思わず冷や汗を漏らす俺に、慌てて口を開くお燐さん。

「そ、それぐらいなら多分大丈夫だって。
それより、何をすればいいのか、だっけ。
それは分からないけど、まぁ取り敢えずは少し時間がかかるんじゃあないのかなっ。
こいし様は他者の心を読む第三の目を閉じる代わりに、“無意識を操る程度の能力”を得たんだよ。
そのおかげでこいし様は能力を解除しない限り誰にも認識されなくなったんだ。
だからこいし様が気まぐれに能力を解除した間じゃあないと、こいし様を権兵衛さんと会わせる事はできないんじゃあないかなぁ」
「それは……そうなのですか」

 思わず、眉を潜めてしまう。
となると、俺の考える最終形として、さとりさんが俺がこいしさんの力になれないと諦めるまでには、相当な時間がかかる事だろう。
その間にばらまかれる不幸は、一体どれほどの物だろうか。
それを思うだけで、俺の罪深さに胃がキリキリと傷んでくるのを感じる。
そんな俺の顔色を見て取ったのか、心配そうな声でお燐さん。

「大丈夫?
何か都合の悪い事なんて、あったかな?」
「都合の悪い事って、そんな、俺なんかを長時間此処に置いていたら……!」
「いたら?」

 オウム返しに聞いてくるお燐さんに、はっと俺は気づく。

「お燐さん、もしかして俺の能力を、ご存じない……?」
「あ、うん、それについては何も聞いてないけれど……」

 と、真っ直ぐな言葉で返ってくる答え。
そう、お燐さんはどうやら俺の“みんなで不幸になる程度の能力”を把握していないらしかった。
俺は、思わず小さな呻き声を漏らしつつ悩む。
果たして俺の能力について、お燐さんに伝えるべきだろうか。
しかし伝えた所でお燐さんが俺の世話を辞めても、さとりさんには沢山のペットが居るらしいので、その中から新たに不幸になる人が出来るだけであろう。
その上、初対面の感じでは無いと思うが、さとりさんに報告が無いまま俺が放置されれば、俺が餓死し、この地霊殿を呪いで包んでしまう可能性すらある。
そして例えお燐さんが世話を続けるにしても、この俺の世話と言う面倒な作業がより最悪な作業となるだろうし、それを命じたさとりさんの心象が悪くなるかもしれない。

 ……いや、と、俺は内心頭を振る。
よくよく考えれば、お燐さんが俺の世話を辞めるのが、最適な手段ではないか。
そうやってさとりさんのペットを次々と辞めさせ、もう世話をできるペットが居ない、と言う所まですれば、さとりさんも諦めて俺を放逐するのではあるまいか。
そうまではいかなくとも、俺を放逐する一因になるのは確かだろう。
俺の世話を辞めていく人妖には本当に悪いと思うし、さとりさんを困らせるような手段を使う事に、俺は身が裂けんばかりの苦痛と伴う。
しかし、それが最善の手なのだ。
そう思い、俺は決意と共に口を開く。

「お燐さん、俺の能力は……」
「いや、いいよ、聞かない事にする」

 と、すぐさまその言葉は遮られてしまった。
思わず目を点にしてお燐さんが居るであろう方向へと首を傾ける。
するとクスッ、と小さく、困ったような微笑が漏れた。

「だって、さとり様が知らなくてもいいって言う風に判断した事なんだもの、きっと知らなくっても大丈夫な事なんだよ。
だから大丈夫だよ、そんな死にそうな顔までして言おうとしなくっても」
「……そう、ですか」

 その声はさとりさんに対する信頼に満ちていた。
その声を聞いただけでわかる、お燐さんは俺の能力を聞いた所で、さとりさんに命ぜられた俺の世話を辞める事は無いだろう。
ただ俺の世話に対し臆病になり、悪い心象を得るだけである。
勿論、俺の能力についてお燐さんに伝えないのはこれ以上無いほど卑劣であり、俺にとって耐え難い事でもあった。
が、しかし俺の内心など、無為に他者の心を苦しめる事に比べればどうでもいい事だ。
俺は俺の能力についてお燐さんに隠す事を決めた。
しかしそれでも俺の中にお燐さんに対し卑劣を働いているのだと言う淀みが消え去る事は無かった。
当然である。
俺がお燐さんに俺の能力について言おうが言うまいが、お燐さんを不幸にし続けている事に間違いはないのだから。

 そして考えるとすれば、後は俺のスタンスをどうすべきか、と言う問題があった。
これまでのように他者の為になろうと言う姿勢をとり続けるべきか。
それとも、出来る限り俺の行動が不幸を発揮しないよう、貝のように黙りこむべきか。
勿論俺の能力が“みんなで不幸になる程度の能力”だと言うのならば、俺はどちらにせよ相手を不幸にする事しかできないのだろう。
だがしかし、それでも俺の行動によりもたらされる不幸に、大小の差はある筈である。

 と言っても、判断基準は何も無い。
運否天賦に任せるより方法は無いのだ。
そうなると、俺としては自分の考える、他者の為になる行動を続ける他無いのではあるまいか。
いや、俺はこれまでそうやって人を不幸にしてきたのだ、それから何も学ばぬとは何事か。
いやいや、これまで出会った人々はこれでもマシな不幸にしかなっておらず、本来はもっと酷い物だったのを、俺の努力が僅かながら軽減できていたのかもしれぬ。
いやいやいや……。

「権兵衛さん?」

 言って、お燐さんがぽん、と俺の肩に手を置く。
人肌の温度が、俺の心にぽつりと暖かさを灯してみせた。
それに思わず、俺の口角が上がる。
結局、俺の考えは答えの出ぬ考えでしかないのだ。
ならば、俺は俺の心に従う他あるまい。
そして俺の心は当然の如く、誰かの為になりたい、と言う希望を持っていた。

 俺は、お燐さんに微笑みかける。
うん? と、恐らく首をかしげたのだろうお燐さん。
俺は心決め、お燐さんに向かって世間話を切り出す。
それにお燐さんも答え、大いに会話は盛り上がる事になる。
願わくば、この俺の行為が、僅かでもお燐さんの幸福へ繋がりますように、と祈りながらの行為であった。



 ***



 ある日突然、地霊殿には錠前の用意された部屋が一つ増えた。
それも限られた妖怪にしかその鍵が渡される事の無い、さとりの私室なみに厳重な扉である。
そんな扉は、非常に見つけやすく、地霊殿を一回りしてみれば、明らかにその様子を違えた扉に気づく事ができるだろう。
何せその部屋は、なんと五つもの錠前が取り付けられていたのだから。

 そんな部屋に出向く妖怪は、非常に少ない。
さとりは最初にその部屋に入った後、錠前を取り付けて以来一度もその部屋に入った事が無かった。
代わりにその部屋には、一匹の火車が毎日何度も訪れている。
火焔猫燐である。
さとりのペットの中でも数少ない言葉を操るペットである彼女は、さとりの命でその部屋へと様々な物を運んでいた。
食事や尿瓶、おむつなどが、人一人を閉じ込めておくのに充分なぐらいである。
どうしてなのか?
何を世話する為なのか?
喋れるペット達は口々にお燐に聞いたが、お燐は断固として口を開かなかった。

 そしてその部屋が出来てから三日程経ったある日、お燐はこの日も食事やらを台車に乗せてその部屋に歩いていた。
一応、何時もの死体を入れて歩く台車ではなく、金属製の二段になった台車である。
暫く歩いてその部屋の前につくと、集まっているペット達に睨みを効かせて散らし、隙間から入り込まないよう注意しながら扉を開け、台車ごと中に入りすぐに施錠をした。
気をつけていても小さなペットが中に入りたがるので、毎日注意深く行わなければならない作業である。
今日も無事困難を終えたお燐は、安堵の溜息をつきつつ、その部屋の端に用意された家具へと目をやった。
白っぽい木製のベッドの上には、人間が一人、大の字を描いて寝ている。
いや、より正確に言えば、大の字を描かされて寝ているのである。
そう、人間の右手はベッドの下から鎖で繋がれ、左手は無く、両足は鎖でベッドの下を潜ってつながれており、ほんの僅かしか動けないようになっていた。
顔の方にも目隠しが用意されており、視界は黒一色となっている筈である。
唯一その男に許された自由は、口の動きだけであった。
それを駆使し、男――権兵衛は、口を開く。

「あ、こんにちは、お燐さん」
「あ、うん、こんちは、権兵衛」

 その口から漏れるのは、こうまでして厳重に監禁されていると言うのに、まるで街中で友人に会った時のような明るい声であった。
毎度のことながらお燐は混乱しつつ、台車を部屋の真ん中まで押していき、持ってきた料理をサイドテーブルに置き、権兵衛に食事をさせる準備をする。
すぐにその匂いから食事が来たと悟った権兵衛が、少しだけ身動ぎしてから口を開いた。

「お昼御飯ですか。毎度ありがとうございます、お燐さん」
「あぁ、でも、その、私達がこうやって権兵衛の事を閉じ込めている訳だし……」
「それはさとりさんの意思でしょう。
さとりさんと主従の関係にあるのならば、それに従うのは当然の事ではないですか」

 と、権兵衛の口から出る言葉は感謝の言葉ばかりで、お燐を責めるような言葉は何一つ使わなかった。
もう三日目だと言うのに、それに戸惑いつつ、お燐は権兵衛の食事の用意をする。
お燐がさとりから権兵衛の世話を申し付けられた時には、これは面倒そうな仕事だなぁ、と思ったことを覚えていた。
さとりはお燐に、あくまで事務的に権兵衛の相手をするように、そしてこいし以外の者が権兵衛を監禁している部屋に入らないように申し付け、更に権兵衛に十分な食事を与え、清潔にさせるよう命じた。
食事は兎も角、権兵衛の下の世話にはいくらさとりの命とは言え顔を顰めたお燐だが、今の所権兵衛の下の世話をした事は無い。
何でも、月の魔力を使って根性で何とかしているらしい。
一応道具は持ってきているものの、面倒で汚い事をしなくて済んだ事に、お燐は胸をなでおろした。

 それにしても、さとりがここまで警戒する相手と言うのはお燐にとって興味深かった。
お燐にとって、さとりは絶対的な主である。
正直な所、閻魔や神々よりも頭が良いと思っているし、また偉大だとも考えている。
そんなさとりが警戒する相手とすれば、余程の悪人なのか。
そう思って権兵衛に興味を持ちながらお燐はその世話を始める事になる。
さとりは事務的に、と言ったが、お燐は事務的の範疇だろうと言う事にし、権兵衛との会話を楽しむようになっていた。

「って事でさ、お空がまた巫女の顔を忘れて弾幕ごっこをけしかけて、巫女の方も巨大ロボを探すとかなんとかでそれに応じて。
で、驚いた事に、その緑色の巫女、お空に勝っちゃったんだよ。
まぁ、正確に言えばお空がその子の顔を思い出すまで耐え切った、なんだけどさ。
それでも八咫烏の力を取り込んだお空に対抗するなんて、その緑色の巫女、紅白には劣るものの物凄い強さだったね」
「はぁ……早苗さん何やってんですか」
「ありゃ、知り合いかい?」
「えぇ、ちょっと今は見ての通り会う機会が無いのですけれどね」

 と言う権兵衛の言葉は、言葉面だけ捉えれば悪意のある皮肉にも聞こえる。
だがその奥に確かな優しさが篭っており、今のはただそう思っているだけなのだ、と容易にわかる言葉であった。
他の言葉も優しく温和な言葉ばかりで、お燐は時たま自分が権兵衛を監禁しているのだと言う事を忘れてしまう事すらある。
と言っても目の前に拘束された権兵衛が居るのである、すぐさまその事を思い出し、自分が権兵衛を監禁している側なのだと思うと、お燐はなんだか気が重くなってしまい俯いてしまう。
そうすると気配でそれを察したのだろう、権兵衛が手を延そうとして鎖に引っ張られる音がして、気遣ってもらえているのだと感じ、お燐は思わず口元を緩めるのであった。

「んふふ、大丈夫だよ、権兵衛」
「そ、そうですか?」

 と言う権兵衛は、僅かに俯いたような仕草をし、それから何かを言いかけ、口を閉じる。
この日までに何度かあった仕草である。
何か言いたい事があるのだろう、と察し、権兵衛の言葉を待つお燐であったが、この日も権兵衛の口から出る言葉は同じであった。

「いや……、なんでもない、ですよ」
「ふぅん」

 と聞くと、なんだか権兵衛との距離が感じられ、お燐は少し面白くない。
と言っても、お燐もまた権兵衛に対して隠し事をしているので、無理に権兵衛に聞く事もできず、お燐は自然渋い顔を作ってしまう。
三日前、お燐はこう言って自己紹介をした。

「私は、火焔猫燐。これから貴方の世話をする妖怪だよっ。
私のことはお燐って呼んでね、お兄さん。
これからよろしくっ!」

 そう、お燐は、自分が火車であると告白していないのであった。
そうこうするうちに権兵衛との会話が弾むようになり、言い出す機会の無いままにここまで来ている。
いや、正確に言えば、言い出せないままに、である。
お燐は、自分の仕事の半分近い時間を占めるようになった権兵衛との会話を、大切にしていたかった。
確かに権兵衛は優しい。
その優しさは全方面に向いているように思えるし、それはきっと間違いないだろうとも思える。
しかしそれでもお燐は、自分が火車であると言い出せなかった。
自分が死体を奪って運ぶ、嫌われ者の妖怪なのだと言う事を言い出す事ができなかったのだ。

 そもお燐は、地霊殿に住む妖怪だと言うだけで、地底でも嫌われ者だった。
何せお燐の上には地底で一番の嫌われ者であるさとりがおり、またお燐も彼女を尊敬しているのである、当然の理屈である。
故にお燐の交友関係もペット達の間だけであり、そのペットの中でも会話できる知能を持つ者は然程多く無い。
こうやって地霊殿の外の者と仲良くするのは、あの紅白巫女以来だ。
なのでお燐は、権兵衛との関係を大切にとっておきたかった。
何せ何時もは怨霊の管理がお燐の仕事、陰鬱な言葉ばかり聞く事ばかりで、こういった楽しい会話は貴重なのである。
特に最近は、親友が間欠泉地下センターに仕事で居る事が多く、なかなか会う機会に恵まれないと言うのもあった。

「お燐さん?」
「にゃ、にゃんでもにゃいよっ!?」

 と、黙りこんでしまったお燐に権兵衛が話しかけ、飛び上がるようにしながらお燐が返す。
こうなると、動揺して何も言えなくなってしまうのは、経験則から分かっている。
お燐は昼食が既に空になっている事を確認し、テキパキと部屋の中を片付け、台車を押して扉の方まで行く。

「そ、それじゃあね、権兵衛さん。また後で会うまでね」
「はい、行ってらっしゃい」

 と、権兵衛の声を背に、五重の錠前を開け閉めして扉をくぐり、再び扉を閉めてから、ふぅ、と安堵の溜息を吐きながら、お燐は背を扉に預けた。
それからずりずりとお尻を床につけるまで下がり、ぽつりとこぼす。

「何時かは、言わなきゃならないのかな……」

 思わず暗い声を漏らしてしまい、それからお燐は思った。
いや、そんな事は無い。
どうせ権兵衛はこの部屋に囚われたままで、他の誰も此処に入る事なんて無いのだから、大丈夫。
一応さとり様に伝えておけば、その点配慮もしてくれるだろう。
そう信じて元気を取り戻すと、お燐は立ち上がって伸びをする。
限界まで体を伸ばし、うぅぅん、と呻き声を漏らすと、お燐はがくっと体を戻し、台車が動き出さない程度に体重を預けた。
それからぱん、と軽く頬を叩き、よし、と小声で漏らしてから台車を押していき、その場を去ってゆくお燐なのであった。



 ***



 古明地こいしは、“無意識を操る程度の能力”を持つ妖怪である。
他者の無意識を操る事で他者にとって存在を認識できないようにでき、それゆえにこいしは誰にも邪魔される事なく地底を練り歩く事ができた。
ばかりかさとりにすら心を読む事ができないので、さとりにすらこいしがどんな事をやっているのか分からない。
なのでこいしはふらふらと、大した目的もなくそこら中を放浪する妖怪となっていた。
最近は地上に出る事も多く、そんな中でこいしは霊夢と弾幕ごっこをし、負けた事がある。

 こいしは元々、さとりと言う種族の妖怪である。
姉のさとりと同じ“心を読む程度の能力”を持っていたが、ある日他者に嫌われ続けるその能力に耐え切れず、こいしは第三の目を閉じ、その能力を封印し、心も閉ざした。
それ以来さとりはこいしの閉じた心を開こうと様々な努力をしているが、それが実った事はまだない。

 そんな中、霊夢への敗北は、久しくこいしの心を揺り動かした。
第三の目の瞼が軽くなり、もう少しで目を開けられるようになったのだが、しかしそれだけである。
霊夢の超然とした部分への興味がそうさせたのだが、あと一歩が足りなかった。
結局こいしは第三の目を閉じたままでいて、あちこちを放浪するだけの妖怪と化している。

 こいしは何となく、久しく地霊殿へと戻り、探索をする事にした。
もう何百回も行っている事だが、心を閉じたこいしには何度目であろうと同じ行為であり、飽きずに行える行為である。
いつも通りこいしが地霊殿を探検していると、一日と経たぬうちに、見知らぬ扉を見つけた。
いや、扉自体は見かけた事があるのだが、新しく錠前が五つもついているのである。
中に入ってみようとしたこいしだが、当然錠前がついている所には入れないし、扉を破壊してまで、と言う労苦を背負ってまでするには、好奇心が足りなかった。
それでも勝手に開かないかどうか、少しの間扉の前で待っていると、すぐにお燐がやってきて鍵を開け部屋に入っていったので、こいしは無意識となったままその部屋に入る事ができた。

 部屋の中には木製のベッドがあり、その上には四肢を鎖で縛られ、目隠しをされた男が寝ていた。
一体誰かと見知らぬ男に首をかしげるこいしであったが、お燐の口から出て来きた権兵衛と言う言葉に、先日姉が連れてきた男の事を思い出す。
先日姉の後をつけていた所、そんな名前の人間を捕まえた事を口走っていたのだ。
なんだ、ただの人間か。
そう思うと一瞬興味が薄れそうになるこいしだが、よくよく考えると、ここまで厳重に監禁されているのはおかしい。
そんな風にこいしが首をかしげているうちにお燐は会話を終え、再び鍵を開けて出ていき、そして当然のごとく鍵を閉めていった。
勿論こいしは、扉を壊さない限り、次にお燐が来るまで此処から出れない。
まぁ、それならこの男に話しかけてみて遊んで、暇を潰すとするか。
そう考え、こいしは権兵衛に話しかけてみようとする。

 何となくふわふわと浮いていたこいしは、ふわりと軽い感触で床に足をつけ、ゆっくりと権兵衛の縛られているベッドに向かう。
ベッドの脇の椅子に腰掛け、こいしは話しかける前に、と権兵衛の顔を見つめてみた。
なんとも特に印象のない顔である。
どちらかと言えば柔らかい印象を受ける顔でもあったが、見ようによっては精悍さも見受けられるような気もする。
目隠しがある所為かな、と思いつつも、こいしは権兵衛に話しかけてみようと口を開いた。
音にならない空気が、こいしの喉から漏れる。
ぱくぱくと口が開け閉めされ、それから息が苦しくなって、こいしは権兵衛から勢い良く顔を背け、ぷは、と息を漏らした。

 大きく肩で息をしつつ、こいしは疑問に思った。
何故私は今、この男に話しかけられなかったんだろう。
疑問詞を浮かべつつ、こいしはドキドキと高鳴る胸を抑えつつ、息を整える事に腐心する。
両手で胸を抑えながら、何度か深呼吸をして、ようやくこいしの動悸は収まった。
再びこいしは、権兵衛へと体ごと向き直る。

 今度はこいしは、もっと勢いよく話しかけなければならないのでは、と思い、体を前傾させ、両手をベッドの上に置きながら口を開いた。
それでも権兵衛に話しかけようとすると、胸が高鳴り、頬が勝手に紅潮し、緊張のあまり目が回りそうになる。
頭の中では話しかけようと考えていた言葉が消え去り、何か言わなくては、と思うのに何も思いつかない。
そのうちにこいしは酸欠気味になってしまい、再び勢い良く権兵衛から体ごと顔を背け、息を漏らす。

 それからこいしは何度も権兵衛に話しかけようとしてみたが、結局話しかける事はできなかった。
終いには、何時もは浮かぶままに口にしている言葉ですら、こんな内容を口にしていいのか、と疑問に思ったりするぐらいである。
そんな事をしているうちに再びお燐が扉を開き、こいしはそれに乗じて権兵衛の部屋から一時撤退する事にした。
あまり使わないものの一応用意されている自分の部屋に戻り、ベッドの上で無意識の状態を解除する。
と言うのも、無意識の状態でいると相手に認識されないので、ベッドメイクに来たペットに転げ落とされたりするのだ。

 こいしは悩んだ。
何故、自分は権兵衛に話しかける事ができなかったのだろうか。
少なくとも緊張していたのは確かである。
では何故権兵衛を相手に緊張していたのだろうか。
いくら考えても答えは出てこなくて、こいしは姉を訪ねて聞いてみた。
と言っても話しかけられなかったなどと直接言う事も、どうも気恥ずかしいことに思え、言えず仕舞いである。
結局こいしは、このように聞いた。

「ねぇ、お姉ちゃん。
あの権兵衛って人……どう、なの?」

 曖昧さを極めたような言葉であった。
しかしその反応に、さとりは意外そうにこう答えるだけだった。

「あら、何で貴方が権兵衛さんの名前を知っているのかしら」

 途端こいしは羞恥の余り顔を煙を噴きそうになぐらい真っ赤にし、その場から文字通り飛んで逃げていってしまった。
なので答えの方は、聞けないままであった。
仕方なしに、こいしは再び自室のベッドまで戻り、悩みに悩んだ。
が、元々こいしは心を閉じた妖怪である。
長時間同じ問題を考えるには向いておらず、気になるなら直接行ってみればいいか、と思い、再び権兵衛の部屋に向かった。
今度はお燐が出ていくのに合わせて部屋に入り、権兵衛に話しかけようとする。

 そして矢張り、駄目だった。
数時間の間、こいしは兎に角権兵衛に話しかけようとしてできなかったのだ。
とは言え、収穫は僅かだがあった。
自分も目隠ししながら権兵衛に話しかけようとしてみた所、少しだけ声のような物が出たが、無意識を解除するのを忘れたままであったので、結局権兵衛には話しかけられなかった。
そこでこいしは初めて、この部屋の中で無意識を解除した事が無かった事に気づく。
それではそもそも、話しかけても権兵衛に気づいてもらえないではないか。
そう思い、無意識を解除しようとするこいしだったが、今度はそれすらもできなかった。
縛られっぱなしで五感が鋭敏になっている権兵衛の事である、無意識を解除すればすぐにこいしの事に気づくだろう。
そう思うと何故か恥ずかしくて、こいしは無意識を解除する事ができなかった。

 本当に何故なんだろう、と疑問に思いつつも、こいしは一つ案を練った。
このまま待っていればお燐が部屋に入り、権兵衛と会話をする筈である。
それを参考にすれば、自分も権兵衛と会話する事ができるのではないか。
そう思い、こいしはお燐が再び部屋に入ってくるのを待つ事にした。

 暫く待つと、こいしの期待通りお燐が部屋に入ってきた。
ガチャガチャと五つ物錠前を開けたり閉めたりする様子は、まるで地獄の看守のようだな、とこいしは思う。
そんな風にこいしがのんびりとしていると、お燐は真っ直ぐに、まるでお預けを食らっていた猫のような勢いで権兵衛に近づいた。
権兵衛と会話しつつ台車から食事を下ろし、スプーンでそれを掬い、ふぅうと口で吹いて冷まし、権兵衛の口元へと運ぶ。
どうやら卵粥であるらしいそれを、権兵衛は美味しそうに食べながら、彼もまたお燐の言葉に答えて口を開いた。

「えぇ、鬼には俺も知り合いが居ますので、あの方たちの実直さは分かりますとも」
「そうなんだ、って地上の鬼って言うと……」
「はい、萃香さんです」

 と、会話は普通の物で、こいしが何時も行っているものと変りない。
これでは参考にしようが無いではないか、と落ち込みつつも、こいしはふと思いついた。
今はお燐が粥を冷ましている間に権兵衛が喋り、権兵衛が粥を咀嚼している間にお燐が喋る形になっている。
それならば、この思いつきを実行できるかもしれない。
突如生まれた衝動に駆られ、こいしはゆっくりとお燐の隣、権兵衛の頭側にある隙間へと体を滑りこませる。
それから、無意識の状態を保ったまま、お燐の言葉を復唱した。

「いやぁ、凄いもんだね、萃香って言ったら昔の山の四天王だろう?
そんなのに気に入られるなんて、一体何があったんだい?」
「いやぁ、凄いわね。萃香って言ったら昔の山の四天王でしょう?
そんなのに気に入られるなんて、一体何があったのかしら?」

 まるで自分がそう考え喋っているかのように、首を傾げたり顎に指先を伸ばしたり、そんな仕草を加えつつ言うこいし。
すると、少しの間をおいて、権兵衛が数瞬宙に視線をやり、それからこいしの隣に視線を投げかける。
それが少し気になって、こいしはすっとお燐と権兵衛を結ぶ直線上に立ちふさがった。
当然、権兵衛の視線はこいしに向いているように見える形になる。
かぁぁ、と何だか頬が火照っていくのを感じながら、こいしはのぞけりそうになりつつも、辛うじて権兵衛の視線を受け止め切った。
権兵衛の口が、こいしの方へ向けて開かれる。

「いやぁ、ちょっとした、静かな宴会と言う物に出た事がありまして。
そこで宴会は騒がしい方がいい、と言う萃香さんと、二人で飲む事になりましてね。
で、俺も萃香さんも酒は飲める方なので、どんどんと消費していって、気づけば翌朝まで飲み合いになって。
そして俺、飲み勝っちゃったんですよね、萃香さんに」

 言葉の内容は、ただの世間話である。
だのにそれでも、権兵衛がこちらに向けて言葉を発しているのだ、と思うだけでこいしの心臓はバクバクと高鳴り、胃が口から出てきそうなぐらいに緊張してしまう。
駄目だ、もう耐え切れない。
そう思い、こいしは両手で帽子のつばを引っ張り顔を隠しつつ、ててて、と小さな足取りで権兵衛の正面から退避した。
部屋の隅まで行って、それからぷはぁ、と止めていた息を漏らし、肩で息をする事になる。
権兵衛の目前に立つのは、とんでもない苦行であった。
何せ汗がどんどん出てくるし、緊張で足が吊りそうで、頭の中は常に真っ白な状態になってしまう。
とりあえず今は、そう、戦略的撤退なんだ、だから隅から権兵衛とお燐を眺めるだけにしよう。
そう考え、こいしは振り返り、隅に背を預けつつ二人を見守る。

 二人は和やかに会話を続けていた。
時々自分が縛られているのを忘れて身振りを加えて話そうとする権兵衛に、そのマヌケさにクスリと笑うお燐。
二人の間には明らかに陽光が作る陽だまりのような暖かい空気が漂っており、それは離れたこいしの方まで漂ってくるぐらいだった。
普通、それを見ればその微笑ましさに、自然と笑みを浮かべ体を弛緩させる事になるのだろう。
しかしこいしは、何故か全身に力が入り、今にもはちきれんばかりであった。
拳はスカートを握りこんで皺にしてしまい、歯がギシギシと音を立てながら強く噛み合わさる。
その見開いた目で穴が空くほど権兵衛のにこやかな笑みを見つめ、こいしは二人の会話を邪魔したい衝動に駆られた。
が、それも遅く。
権兵衛が昼食を食べ終え、お燐が立ち上がって食器を戻し、テキパキと片付けを終えた後に五つの錠前を開け閉めし、部屋から出ていった。
肩透かしされたような気分になったこいしは、ぶつけ場所を見失った感情を内心に、その場に立ち尽くす事になる。

 仕方なしに、こいしはお燐の会話の内容を反芻する事にした。
何故ならそれが当初の目標であり、権兵衛に対し話しかける為の力となると思われたからだ。
しかし権兵衛とお燐の会話は、先の事を考えると、そのまま思い出せば激情に駆られる事になるかもしれない。
こいしはお燐がやっていたように椅子に座り、一人で権兵衛の台詞を暗唱する。

「いやぁ、ちょっとした、静かな宴会と言う物に出た事がありまして。
そこで宴会は騒がしい方がいい、と言う萃香さんと、二人で飲む事になりましてね。
で、俺も萃香さんも酒は飲める方なので、どんどんと消費していって、気づけば翌朝まで飲み合いになって。
そして俺、飲み勝っちゃったんですよね、萃香さんに」

 それからこいしは、はっと驚いたように、身を乗り出しながら口を開く。

「えぇ、権兵衛って、そんなにお酒に強かったの!?
だって、萃香って、あの鬼の中でも、一番の、酔いどれ……」

 しかし、自然とこいしの口から流れる言葉は途切れ途切れになり、最後には潰えてしまった。
乗り出した身を静かに戻し、俯きながらこいしは、溜息をつく。
先ほど、権兵衛と会話している気になっていた時を真似した行為であったが、それで感じられたのは、虚しさだけだった。
あまりの虚脱感に、こいしは涙すら浮かべる。
自分は一体何をやっているのだろうか。
何時もは何も感じずふらふらと放浪していて、それで楽しいと感じる事すらなかったけれど、代わりに悲しかったり嫌な気分になる事はずっと無かったのに。
まるで、とこいしは思う。
まるでこれでは、第三の目を開いていた、心を閉ざす前のようだ、と。

「それは……嫌だなぁ」

 ぽつり、とこいしは漏らした。
そう、こいしはそも、他者に嫌われる事が嫌で、心を閉じたのだ。
心は、閉じれば無いも同然。
楽しい事も辛い事も何もなくて、ただふわふわと何となく生きているだけで済む筈だった。
なのに何故、今になってこんな嫌な気分を味わなければならないのか。
こいしは、兎に角何か動作を続ける事によってそれを無視し、何も考えないように努める事にする。

「酔いどれなんだよね……。
凄いなぁ、権兵衛さん。
私もお酒には自信があるけれど、鬼には勝てないかなぁ」

 続くお燐の台詞を口にしながら、こいしは手を組み、その中心をぼんやりと眺める事にした。
勿論その空洞の中には何もある筈も無く、ただ奥にあるスカートの緑色の布地が見えるだけなのだが、何故か少し落ち着くような気がする。
頬を伝う涙を拭って、こいしは口を開く。

「お酒、お強いんですか。
猫はマタタビに酔うし、弱いと思っていたんですけれども。
っていや、お燐さんは、妖怪としての種族は何でしたっけ。
てっきり雰囲気なんかから、化け猫の類と勘違いしていたのですけれど……」

 ぼうっとしながら、いつもふらふらする時と同じように、こいしは何も考えずに衝動に身を任せ、手を動かした。
すると筒の先には権兵衛の目隠しで半分隠れた顔が見えるようになる。
鼻と頬に唇、柔らかな印象のある顎、やや福耳気味の耳朶。
様々な所を呆然とこいしは見つめていく。
努めて何も考えないようにしているからか、今度は妙な羞恥に襲われる事なく、こいしは権兵衛の事を見つめる事ができた。

「えっ、あの、まぁそんなもんだよ。
まぁ猫っていっても、化けるぐらいになれば酒も嗜むもんさ。
それで、その鬼に勝って、どうなっ……」

 が、そこまでお燐の台詞を喋り、ピタリとこいしは静止する。
もう一度お燐の台詞を脳内で反芻し、こいしははて、と首をかしげた。
お燐は広義の意味では化け猫だが、正確に言えば火車である。
その正体をわざわざ誤魔化すようにしている理由は、何だろうか。

 その瞬間、こいしの脳内に電撃が走った。
火車とは、さとりと同じく嫌われ者の妖怪である。
少なくとも、人間からしてみれば、そうだ。
ならばお燐は、権兵衛に嫌われたくなくて、その正体を隠していたのでは無いだろうか。

 ぞっとするほどの憎悪が、こいしの奥底でとぐろを巻いた。
空洞の筒はすぐさま握り拳に代わり、食い込んだ爪が血をにじませる。
見開かれた瞳には血管が浮いており、呼吸は荒く、肩が上下するようになる。
何よりこいしの中では、ずるい、と言う感情が大きかった。
自分は嫌われ者の種族で、しかも権兵衛にそれを知られている。
しかし同じ嫌われ者の種族である筈のお燐は、それを権兵衛に知られておらず、隠し通すつもりなのだ。
そう思うと、身から溢れんばかりの嫉妬が湧き出てきて、こいしはぽろぽろと涙をこぼした。
ついに最大限にまで昇ってきた衝動に、こいしは無意識の状態を解除する。
そして大声で、権兵衛に向かって叫んだ。

「お燐は、火車なのよっ!
死体を盗む、あの嫌われ者の火車なのよっ!」
「えっ? あ、え?」

 思わず、と言ったように呆然とした声を漏らす権兵衛。
その前で、ついに叫んだこいしは、はぁはぁと息を整えつつ、はっと気づく。
自分はついに権兵衛の前で無意識を解除でき、話しかける事もできた。
しかしその一言目が嫉妬にまみれた言葉だとは、なんて醜く卑しい事なのだろうか。
きっとこれでは嫌われてしまうに違いない。
絶望に心が冷えるのを感じながら、こいしはすぐに無意識の状態になり、部屋の隅まで逃げ、膝を抱えて座り込んだ。
天に、権兵衛が今の事を幻聴だと思いますように、とこいしが願ったその瞬間、権兵衛が口を開く。

「もしかして、こいしさん?」

 絶望の余り、目の前が真っ暗になるのをこいしは感じた。
心がこれ以上壊れる事のないよう、再び閉じて何も感じないようになっていく。
眼の色がすっと薄れていくのをこいしは感じ、ただ次に錠前が開いた時に、すぐに此処を出ていこうと言う事しか考えないようになった。

「えっと、今もこの部屋の中に居るんですか?
それで、お燐さんが火車、なんですか?
えっと……」

 寸前までは話しかけられるのを想像するだけで心が踊った権兵衛の言葉も、再び完全に心を閉ざしたこいしの前には届かない。
しかし次に権兵衛が口を開いた時には、流石のこいしの心も僅かに揺れ動いた。

「その、何でこいしさんが俺にその事を伝えてくれたのか、何でこいしさんが俺の前に出てこないのかは、分かりません。
いえ、後者は恐らく俺の能力を恐れての事なのでしょうが、もしかしたら……さとりと言う種族として、嫌われてしまうと思ったからかもしれない。
だから、言わせてもらいます。
俺は、貴方に心を読まれても、嫌いになんかなったりはしません。
むしろ便利だなぁ、と思うぐらいです。
嘘だと思うのならば、さとりさんに聞いてみてください、きっとすぐに教えてくれると思いますよ」

 権兵衛の言葉は衝撃的であった。
心を読まれても嫌いにならない、とこいしに言った人間は過去にも居た。
しかしその全ては嘘であり、そんな言葉が吐かれる度にこいしは心に絶望を増やしていったのだ。
だが、便利だなどと言われるのは、こいしが聞いた事の無い、不思議な言葉であった。
ひょっとして、こんな言葉を言える権兵衛は心の底からこいしの事を嫌っておらず、もしかして好きでさえ居てくれるのかもしれない。
しかし、希望の光が見えると同時、こいしの脳裏にはこれまでの経験が走った。
今までこいしが他者に好いてもらえるかどうかについての希望は、全て裏切られてきたのだ。
今度だって、そうに違いない。
まるで心があった頃のようにそう思うと、こいしは再び心を閉じるように自身に働きかけた。

 それから、権兵衛は何度か居るかどうかも分からないこいしに向けて話しかけてきた。
こいしがそれらの甘い言葉に両手で耳を塞ぎながら対抗しているうちに、そのうち喉が枯れてきて、権兵衛の言葉の頻度も少なくなる。
最後にはしゃがれ声になるようになった頃、ようやくお燐がやってきて、五つの錠前が開かれた。
お燐と行き違いに、こいしはその場から飛び出して逃げていく。

 こいしは、兎に角この場にもう居たくなかった。
居てしまえば、権兵衛の事を信じてしまいそうだったから。
お燐に嫉妬した理由を考えてしまいそうだから。
そんな事考えたくもないし、考えるにしても、一人で、沢山の時間を使って考えたい。
そう思ってこいしは廊下を駆け抜け、無意識のまま何匹かのペットにぶつかりながら自室へ辿り着き、閉じこもる。
部屋に鍵をかけて、ベッドの上に飛び込んだ。
柔らかいベッドの上で寝転がりながら、それでもこいしは何か考えてしまいそうになった。
何も考えたくない時は、睡眠が一番である。
よってこいしは、目を閉じて羊の数を数える事にした。
百を数える頃にはこいしは眠りに落ち、やっと考える事から解放されたのであった。



 ***



 それはお燐が久しぶりにお空と出会った時の事である。
燃え盛る灼熱地獄跡地の入り口、地霊殿の中庭の天窓の辺り。
陽光の代わりに灼熱地獄跡地の炎の輝きで照らされたそこで、二人は久しく出会った。

「あれれ、お燐、何か変わった?」

 と言うお空は最近間欠泉地下センターで働いており、お燐はと言うと時たま地上に出て博麗神社で寛いでいる。
ただでさえ会う機会が減った二人だが、そこにお燐の権兵衛の世話と言う仕事が加わり、一週間ぶりの再開となった。
お燐が権兵衛の世話を初めてから、最初の再開である。
お燐ははて、と首をかしげながら両手で自分の頬を抑えてみた。

「ううん、何も変わってないみたいだけど」
「そうかなぁ。なんだかお燐、ふわふわしてるみたいだけど」
「ふわふわかい?」

 疑問詞と共にお燐は足元を見てみるが、別に浮いている訳でもなく、地に足のついた状態である。
視線で疑問を投げかけるお燐に、お空はうぅんと唸りながら、こちらも首をかしげて口を開く。

「いや、本当に浮いている訳じゃあなくって……。
なんだか心がふわふわしているみたいな感じなのよ。
かといってこいし様みたいに心が無い訳でもなくって。
ううん、どう言えばいいのかなぁ……」

 そうやって頭を抱え込んで座り込んでしまうお燐の友人は、頭の悪さには定評がある娘だ。
故にこうやって適当な言葉を選ぶ事ができずに困ってしまう事は多いのだが、そんな時お空は不思議とすぐに言葉を見つけ出せる事が多い。
お空は基本的に頭の悪い娘だが、偶に頼りになる事だってあるのだ。
故に暫しお燐はお空の言葉を待ったが、うんうんと言う唸り声が続くばかりであった。
仕方なく、お燐は自分でもふわふわしている自分と言う奴についても考えてみる。

 何とも無い仕草は何か変わっただろうか。
そういえば、考えてみればお燐は此処三日程権兵衛の世話をしていたので、自然と他者を気遣うような仕草が増えたような気がする。
何せ権兵衛と言えば口を開く事以外何もできないようにされているので、食事も水分補給も全部お燐がやってあげなければならないのだ。
そう思い、誰かを気遣う事が増えたと口にするお燐であったが、お空は渋い顔のままだった。

「確かにそういう部分もあるんだろうけど……それだけじゃあない気がするんだよね。
なんていうか、お燐、優しくなったでしょ?」
「私が今まで優しくなかったってかい?」
「いひゃい、いひゃい、ほっぺ抓らないでよぉ、お燐。
優しかった、優しかったってば」

 と涙目で返すので、お空を許してお燐は頬をつねっていた手を戻す。
そうすると、お空は両手で少し赤くなった頬を抑えつつ、小さく呻いた。
その姿が可愛らしく、思わず抱きしめてやりたい衝動に駆られつつも、内心何処かで冷静に観察し、可愛らしい仕草を観察し記録している自分が居るのにお燐は少し驚く。
可愛らしい仕草なんて一体何処で必要なのだろうか。
自分の行為に自分で疑問を浮かべ、お燐は首をかしげた。
さとりには内心など筒抜けである、仕草など大して役に立たないと言うのに。

「例えばほら、死体の扱いだってそうじゃない」

 と、お空の言葉に現実に引き戻され、お燐ははっとお空の方に振り向いた。
頬の痛さと死体に集中しているのだろう、お空はお燐の様子に気づいたようには見えない。

「前は気に入った死体は丁寧に扱っていたけれど、気に入らない死体はそうでも無かったじゃない?
確か、どうせ灼熱地獄跡地で燃やすのだから、扱いなんて好きにしていい。
なら、死体の扱いぐらい好き好きで決めていい、ってさ。
でも今は、皆綺麗な死体ばっかり。
ちょっと前まで持ってきていた、砕けたりしている酷い死体は一個もない。
勿論、見れば気に入った死体ぐらいは分かるんだけどさ」
「そう、かな……」

 ぱちぱちと瞬きしながら、お燐は自分が台車で運んできた死体達を見る。
確かに、お燐が持ってきた死体は皆、まるで生きていた頃を鏡に写したかのように綺麗だった。
全員真っ白を通り越して真っ青な顔をしている事を除けば、そんな物ばかりである。
見て死因が分かるような死体すら、一つもこの場に無かった。
それを見て、確かに自分は死体の扱いを良くしているのだ、とお燐は一つ納得する。

 お空のかつてからの仕事の一つとして、天窓を開けたり死体を投げ込んだりして、灼熱地獄跡地の火力調整を行う仕事があった。
その為には当然死体が必要であり、死体の調達と言えば火車のお燐をおいて右に出る者は居ない。
と言う事でお燐は火力調整の為に死体を此処に運び、腐敗しないよう術をかけ、割った薪のように死体を並べておくのが仕事の一つとしてあった。
しかしそれにはお燐が気に入った死体ばかりでは到底賄いきれず、お燐が別段運びたいとも思わない死体も運ぶ事が必要であった。
仕方なしに、お燐はやや雑に気に入らない死体を扱い、灼熱地獄跡地の火力としていた事がある。
とは言え。

「そりゃあ確かに死体を優しく扱うようにはなったけどさ。
でも、それがどうしたって言うんだい?
ふわふわ、って感じには結びつかないんだけど」
「うぅ~ん。お燐、私と会わない間に何か新しい事はあった?」

 どくん、とお燐の心臓が脈打った。
脳裏に権兵衛の目隠しをされた、顔の下半分が走る。
急激に頬が紅潮していくのを感じ、お燐は思わず俯いた。

「お燐?」

 お燐はさとりのペットである。
つまりは基本的に世話をされる側であり、世話をする側に回る事は無かった。
ペットの統率のような事はやった事があるが、基本的に放任主義での世話であり、正直言って世話をしていると言う実感は無かった。
そこで権兵衛の、世話である。
文字通り手も足も出ない権兵衛相手には、何から何まで必要であった。
食事は一口一口食べさせてあげなくちゃならないし、暖かい食事はふうふうと吹いて冷ましてやらねばならなかった。
飲み水を与える時も、権兵衛の様子を見計らって水差しを口に差してやらねばならなかったし、何度かに一回は、四肢を拘束したままできる範囲で汗を拭いてやらねばならなかった事もある。

 正直に言って、新鮮であった。
お燐は自分がこれほど他者の世話をするのが好きだと初めて知ったし、またそれ故に権兵衛の世話に夢中になった。
仕事の合間を縫って必要以上に権兵衛の部屋に入るようになり、怨霊の管理の最中も権兵衛の世話の時間をどれだけ増やせるかとばかり考えながらやっていたと思う。
だがしかし。

「か、勘違いしないでよ、お空。
私は権兵衛さんじゃなくって、世話をする事自体が何だか面白くって、夢中になっているだけなのよ。
別に権兵衛さんが気になっているとか、そういう訳じゃあないんだからねっ!」
「権兵衛さんって誰だっけ?」

 ずるっ、とお燐はその場でずっこけそうになった。
墓穴を掘るにも程がある台詞であった。
立ち直ったお燐は、慌てて両手をふらふらとさせながら、口早に言う。

「えっと、あっと、その……。
ご、ごめんね、もうすぐ仕事の時間だから、今すぐ行かなきゃっ!」
「え? あれれ? さっき、まだまだ時間はあるって言ってたような……」
「それじゃ、またねお空っ!」

 叫び、お燐は空へと飛び上がり、その場を後にする。
ドキドキする胸ごと自身を抱きしめながら、お燐は暫く目的地も定めずに漂った。
自分は権兵衛の事で、そんなにも変わったのだろうか。
そう思うと同時、いや、とお燐は考えを変える。
自分はこんなにも、権兵衛によって変えられてしまったのだ。
そう思うと、何故だかこの場で飛び上がりたくなるぐらいの衝動がお燐を襲い、お燐は思わずその場で立ち尽くした。

「~~~っ!」

 ぶるりと、まるで電撃が走ったかのように身震いするお燐。
なんとも暖かで、心の奥が灯るかのような感情だろうか。
お燐は暫く全身を緊張させたまま宙に浮いていたのだが、やがて止めていた息を吐き、体を弛緩させる。
後に残るのは、心地良い陽だまりのような暖かさばかりであった。

 少しの間その余韻に浸っていたお燐であるが、お空に仕事があると言って抜けてきた事を思い出す。
そう言っておいて何もしないと言うのも気が引けるし、かといって仕事と言えば、怨霊の管理は今は充分であるため、権兵衛の世話しかない。
だから、仕方ないからなのだ。
そう自分に言い聞かせつつ、気を抜けば緩みそうになる頬を引き締め、お燐は途中キッチンなどを経由し、権兵衛の部屋へと台車を押していった。
五つの錠前を開き、お燐は権兵衛の部屋の中へと入る。

「あ、お燐……さん……」
「ご、権兵衛さんっ!?」

 数時間ぶりに出会った権兵衛は、声がしゃがれていた。
急ぎお燐が水差しを持ち寄り、権兵衛の口にやると、勢い良く権兵衛は水を飲み込む。
ごっごっ、と軽い音を立て水を飲み干すと、やっと一息、とばかりに権兵衛が大きく溜息をついた。
その様子に安堵したお燐もまた、溜息をつく。
それから、水差しに台車の上の瓶から水を移しながら、お燐は遠慮がちに聞いた。

「一体どうしたんだい、権兵衛さん。
そんなに喉を枯らすなんて、何があったんだい?」
「それが……」

 一瞬躊躇の色を見せた権兵衛であるが、すぐに再び口を開く。

「こいしさんが、この部屋に入っていたかもしれなかったんです」

 がちゃん、と。
思わずお燐の手が揺れ、水差しと瓶とが触れ合い、音を成した。
二人だけの筈の時間に、他者が紛れ込んでいたかもしれない。
そう思うだけで、お燐の中で底冷えするような黒い感情が燃え上がる。
自然、冷たい声が口から出た。

「それで……どうしたんだい?」
「えぇ。詳しく話すと、まず突然この部屋の中に誰かの気配が現れて、大声で叫んだんです。
すぐに気配は消えてしまって、それでお燐さんから聞いた“無意識を操る程度の能力”について思い出しまして。
認識できなくてもすぐそこに居るのでは、と思い、それからずっと話しかけていて……それで、喉を枯らしてしまったんですよ」
「そんなにこいし様に興味があったの?」

 そう言うと、少し吃驚したかのような顔をして、権兵衛が顔をお燐に向けた。

「え、といいますか、同じ部屋に居るかもしれない、と認識しているのに、無視するのもどうかと思って。
それにさとりさんやお燐さんに聞いた話から、すぐに気配を消したのは嫌われるのを怖がっているからかもしれない、と思ったんですよ。
それなら、俺は心を読まれても嫌わない、と言う事を伝えようと思ったので。
恥ずかしながら、それに集中し過ぎて、喉が枯れてしまったのには言われて初めて気づきました……」

 俺ってなんて馬鹿なんだろう、と呟きつつ言うその顔に、何とも権兵衛らしい呑気な優しさを垣間見て、少しだけお燐は心が安らぐのを感じた。
黒い炎のようにチロチロと見え隠れする感情を抑え、最後にこれだけ聞いて終わりにしよう、と口を開く。

「で、こいし様は一体なんて叫んだの」
「お燐さんの種族が、妖怪の火車であると言う事をです」

 瞬間、お燐の全身から力が抜けた。
ぺたんとその場に尻をついてしまい、手に持っていた水の入っていた瓶と水差しを落とす。
瓶や水差しが割れる音に、遅れて権兵衛は異変に気づいたようだった。

「お、お燐さん?」

 心配そうに声をかけてくる権兵衛に、お燐は何の反応も返すことができなかった。
ついに恐れていた事が起きてしまったのだ。
権兵衛が自分を嫌う所を想像し、お燐はぶるりと悪寒に震える。
権兵衛は、身動き一つ取れないままでも、明らかに常人を逸した優しさを漂わせていた。
何というか、空気一つでお燐の心に暖かい物を運んでくれるのである。
それは本当に暖かくて、まるで灼熱地獄跡地のあの炎のようだ、とお燐は思っていた。
あの太陽の如き炎のようだ、と。
それが消えてしまうかもしれない、などと言う事を想像したくなくて、お燐は自分の正体が知られてしまった時の事を考えようとしていなかった。
しかし、それが今現実として此処にあるのだ。

 まるで極寒の地に連れてこられたかのように、ぶるぶると震えながら、全力で体を動かそうとするお燐であるが、視線を権兵衛に投げかける勇気がなかった。
もしもそこに軽蔑の色が欠片でもあれば、お燐は今此処で瓶の破片で自身の喉を掻っ切ってしまうかもしれない。
したがって、震えながらお燐は小さく声を漏らす事にする。

「権兵衛……さん」
「は、はい。どうしたんですか、お燐さん」

 声には暖かな優しさだけがあり、そこには冷たさの欠片も無かったが、それでもお燐は振り返る事ができなかった。
自身の臆病さに歯噛みしつつ、お燐は続ける。

「私は……火車の事は、嫌い?」

 沈黙がその場に横たわった。
沈黙はまるで永遠であるかのようにお燐には思えた。
何時まで待っても権兵衛の声は聞こえてこず、代わりにお燐の中でどんどんと不安が膨れ上がるばかりである。
もしかして権兵衛に嫌われてしまうのではなかろうか。
そうしたら自分はどうしたらいいのか。
最早お燐にとっては、権兵衛の優しさは生きていくのに必要不可欠な物と化していた。
だのにそれを突然断ち切られたら、一体お燐はどうやって生きていけばいいのか。

 しかも事態はそれでは収まらない。
さとりはきっと、お燐が嫌われてしまったと言っても、それだけでお燐を権兵衛の世話から外す事はしないだろう。
きちんと言葉が喋れて理知的な妖怪と言うのは、さとりのペットの中でも数少ないのである。
つまり、権兵衛に嫌われたとしても、お燐は権兵衛の世話を続けなければならないのだ。
お燐は、思わず想像する。
権兵衛の暖かな言葉が消え去り、絶対零度の言葉が権兵衛から吐かれる光景を。
いや、それ以上に辛いとお燐が考えたのは、権兵衛の口から何の言葉も吐かれない事である。
完全な沈黙が続く光景は、生命が欠片も見受けられない、死んだ土地を思わせた。

 そしてその想像は、もしかしたら今現在そうなりつつある事なのではないか、とお燐は恐慌した。
お願いだから、とお燐は願う。
お願いだから、今すぐ返事をして欲しい。
罵倒でもいい。
軽蔑の言葉でもいい。
何でもいいから、今すぐ返事をして欲しい。
だからせめて、沈黙のまま、お燐の事を完全に無視するのはやめてください、と。
果たして、その願いは叶った。

「そんな……俺がお燐さんを嫌うなんて、そんな事ある筈が無いでしょう」

 お燐には永遠に思えた沈黙は、実際には数秒程だったのだろう、権兵衛の言葉は自然にその口から吐き出された。
恐る恐る、お燐はゆっくりと体ごと権兵衛の方へと向き直る。
硬直したままになりたがる体を、権兵衛の言葉を信じようと自身に言い聞かせながら動かした。
視界の端にまず権兵衛の足で盛り上がった掛け布団が目に入り、そこから権兵衛の体を形取る布団、次いでようやく権兵衛の胸の辺りが見え、一旦お燐の視線は止まる。
それから全力を込めて体を捻るように動かし、お燐は権兵衛の顔へと視線を移した。
顎、緩やかな曲線を描く唇、小さなえくぼ、目隠しの上からでも分かる目を細める仕草。
権兵衛の顔は、その全部が優しさで満ちていた。

「お燐さん、確かに死体の尊厳を失う事は、俺にとって耐え難い事でもあります。
しかし、同時にお燐さんがそういった妖怪として生まれてきた事に、何の罪も無い事も確かなのです。
ならば俺が憎むべきは、死体を奪ったお燐さんではありません。
この世の不条理なのです。
大丈夫、俺は、お燐さんが優しい妖怪だと知っています。
嫌な雰囲気一つ作らず俺を世話してくれるばかりか、俺のような口下手相手の会話に付き合ってくれて。
俺は、お燐さん、貴方を大切に思っています」
「あ……」

 お燐は、想定外の権兵衛の言葉を、ぽかんと口を開けながら聞く。
いつの間にかお燐の両目には涙が溜まっており、ぶるりと震えたお燐の動きと同時に、ぽろりとこぼれ落ち、お燐の殆ど黒に近い緑のワンピースを濡らした。
体が勝手に動き、這うような動きで権兵衛の近くへと寄っていく。
気配を察したのだろうか、権兵衛はじゃらりと手首の鎖の音を鳴らしながら、可能な限りお燐へ向かって右手を伸ばす。
そこにお燐は、戸惑い勝ちにゆっくりと手を伸ばした。
触れる寸前で、一瞬静止する。
これは、あまりにも酷い現実から目を逸らした、お燐の見ている幻覚ではあるまいか。
本当の権兵衛は沈黙のままにお燐を睨んでおり、この手を掴んだら優しい権兵衛はどろんと消えてしまうのではなかろうか。
そんな根拠のない妄想に囚われそうになり、お燐は頭を振ってそれを頭の中から追い出して、思い切って手を伸ばした。
ぎゅ、と権兵衛の右手を掴む。
すぐに権兵衛の体温が伝わり、まるでその体温でお燐の中の氷が溶けていくかのように、お燐の目からは大粒の涙が零れた。
幻覚じゃない。
本当の権兵衛だ。

 感涙するお燐を権兵衛はゆっくりと引っ張り、お燐をベッドの側に寄せる。
それから握っていた手を離し、静かにお燐の頭をそっと撫でた。
それがもう本当に暖かくて、まるで母の子宮の中に居るかのような感慨にすらお燐は囚われる。
感極まり、お燐は腰を上げ、体を倒し、腕は権兵衛の首にまわし、ベッドの上の権兵衛に抱きついた。
これが本当の権兵衛であると言う事実をもっと感じたくて、権兵衛の首筋に鼻を押し付け、胸の中いっぱいに権兵衛の体臭を吸い込む。
すこし汗臭い雄の匂いに、思わずお燐は頬を紅潮させながらも、結局権兵衛から体を離す事は無かった。
代わりに、少し無理がある体制だったので、体を動かそうとする。

「お燐さん?」

 小さく疑問詞を吐き出す権兵衛を無視し、お燐は権兵衛に抱きつく両手はそのままに、腰を上げ、ベッドの上に足を上げて、権兵衛に上から抱きつくような形となった。
戸惑っていた権兵衛も、すぐにまぁいいか、とお燐を許すように、優しくその背に右手を回す。
背に回る暖かな感触に、にゃあ、とお燐は小さく声を漏らした。

 此処は地獄だと言うのに、天国のような快感だった。
此処には権兵衛が居て、その世話は全て自分がやってあげなければならず、権兵衛はお燐無しでは生きていけないのだ。
そしてその権兵衛は、お燐が権兵衛の事を大切にしてくれているぐらいに、お燐の事を大切にしてくれている。
あぁ、とお燐は思った。
あぁ、この人の死体を手に入れられたらなぁ、と。

 お燐は権兵衛を抱きしめながら、その権兵衛が死体となった姿を想像した。
想像の中で、権兵衛は完璧な死体であった。
肌は冷たく、心臓は鼓動無く、そしてその表情は安らかなまま。
左腕が二の腕の真ん中辺りで切れているのが一見マイナスだが、それもその腕がどういった物なのか、他の外見から想像をさせると言う意味では完璧に近い。
ぐにゃりと弛緩した体は今より少しだけ芯が柔らかな感じで、頬をぺたりと貼りつければ、心地良い冷たさがお燐の中に走るだろう。
この太陽のような暖かさが冷たさとなったら、どんな冷たさになるのだろうか。
きっと冬の冷たさとは似ても似つかない物になる事だろう。
真夏の氷のような、爽やかで心地よい冷たさになるに違いない。

 それからお燐は、権兵衛の死体が腐敗していく所を想像した。
普通お燐は死体に防腐の術をかけるが、特に気に入った死体は、時に腐る過程や腐った状態をも楽しむのだ。
きっと権兵衛の死体も、腐っていく間に最高の美しさを見せるに違いない。
すぐに権兵衛の皮膚は柔らかくなり、押せばずにゅ、と音を立てて指が吸い込まれるような物になるだろう。
それから黄土色になっていく肌に、蠅や蛆が沸く。
食い破られた皮膚からは、赤黒い臓腑が顔をのぞかせ、その美しさにお燐は心踊るに違いない。
眼球は当然こぼれ落ちてしまい、その球状の目の裏側には神経の紐が絡まりあっている事だろう。
代わりに眼窩は暗く窪み、その奥にある赤黒い肉を見せる。
そこに指をそっと挿し込む所を、お燐は想像した。
指一本では眼窩の方が大きくて、最初は空中を泳ぐようになるだろう。
しかしやがてその奥の腐りかけた神経の集まりに触れ、その独特の感触に背筋を震わせるに違いない。
それからお燐の指は円弧を描くように権兵衛の目の裏をたどっていく。
やがて一周してお燐が指を戻した時、その指には権兵衛の肉や神経から零れた汁で濡れている事あろう。
その汁を舐め取る所を想像し、お燐は身悶えした。

 現実に意識を戻し、お燐は思う。
駄目だ、この人を殺さずには居られない、と。
お燐は、そっと権兵衛の首に回した手を開き、権兵衛の首に巻きつかせた。
ゆっくりと、力を入れようとする。
しかし、どうしてもお燐には権兵衛の事を直視しながら首を絞める事ができなかった。
ならば顔を見ないようにして殺せばいいのでは、と思うものの、それも難しい。
権兵衛が苦悶の表情を作り、死んでいくその姿もまた、お燐には魅力的に思えたのである。

 あぁ、なんで私は、この人が殺せないんだろう。
そう思うお燐であるが、既にその理由を悟ってもいた。
お燐が権兵衛の死体が欲しい理由は、権兵衛の事が大切だからである。
しかしお燐が権兵衛を殺せない理由もまた、権兵衛の事が大切だからなのだ。
権兵衛が大切でなければそもそも権兵衛の死体が欲しくなどならず、面倒な世話に権兵衛を嫌い、そして不満やら何やらが心に積もっていた事だろう。
そして今の通り権兵衛が大切であっても、死体が欲しいのに殺せない、と言う状況に陥ってしまうのだ。

 どうすればいいのだろう。
お燐は、権兵衛の首筋に自身を擦りつけながら、思う。
どうすればこの二律背反を解決できるのだろう。
そうやって悩むお燐は、突如目を見開き、体を震わせた。
思いついたのだ。
簡単な事である、お燐に殺せないのならば、他者に権兵衛を殺してもらえばいいのだ。



 ***



「い、いいんですか、こんな事して」
「うん、どうせ後で会う事になるんだから、何時会ったって同じ事さ」

 お燐は、権兵衛をあの部屋から連れ出していた。
作った理由は、こうだ。
権兵衛を世話するのは何時もは私だけれども、怨霊の管理と言う仕事の都合上、お燐が権兵衛の世話をできない事になるかもしれない。
そういった時に権兵衛を世話するだろう親友に、是非会っておくべきだと思う。
権兵衛は最初それに何色を示した。
てっきり権兵衛は少しでも自由になりたいのだと思っていたお燐は慌てて、その親友と権兵衛は必ず会う事になるだろう事、さとりもそれを承知しているであろう事を重ねて話す。
それにも渋い顔をしていた権兵衛であるが、お燐の台詞を聞くうちに納得したようで、首肯した。
なんでも、どうせなら早くさとりに諦めさせた方が良いだろう、との事である。
よく分からないが、どうも能力に関する事らしく、さとりの言があるお燐は深く聞かずに頷いた。
ただし権兵衛も条件をつけた。
なるべく、他のペット達とは出会わずに済む方法を取ってもらいたいのだと言う。
何故そんな条件をつけるのか疑問に思ったお燐だが、それはそれでお燐に都合の良い事である。
予めペット達に通る予定の道に来ないよう何重にも言い含めておき、お燐は権兵衛を連れだした。

 当然権兵衛は目隠しをしたまま、足の鎖もそのまま、右手の手錠も繋いだままで、自由に使えないようにしたままである。
一応権兵衛は監禁されている身である、逃げ出さないようにと言う配慮と、後は個人的嗜好もあって、お燐が権兵衛を抱きしめて空を飛び間欠泉地下センターへと飛んだ。
暴れられて権兵衛を落としても、墜落するより先にお燐が再び権兵衛を捕まえる事ができる高度で、である。
その事を言い含めていたからか、そも逃げる為の魔力すらも回復していないからか、権兵衛は借りてきた猫のように大人しいまま、間欠泉地下センターにまでたどり着いた。

「異物発見! 核融合炉の異物混入は一旦反応を停止し……って、お燐と、えーっと、知らない人間?」
「やぁ、さっきぶりだねっ、お空」

 権兵衛を抱えたまま着陸、一旦権兵衛を壁際に離し、お燐は中央に立ち尽くすお空へと近づく。
それから、ちょいちょい、と手招きし、首をかしげながら近づいてくるお空に耳打ちする。

「その、お空、ちょっといい? お願いがあるんだ」
「へ? 何々、お燐の頼みなら何でも聞くよ?」
「人間を一人、傷つけずに殺して欲しいんだ」
「って、ただの人間を!?」
「ってお空、声が大きいってっ!」

 思わずお空の口を塞いで肩越しに振り返るお燐だが、権兵衛は何も分かっていない様子で、所在無さげに辺りを見回していた。
間欠泉地下センターの最下層は、地上に出るにはかなり長い距離を飛ばねばならず、地獄側へ出るにも飛行無しには行けない。
それを予め言い含めておいたからか、逃げようとはせずに、ぼうっとつったっているだけである。
それにひと安心すると、お燐は再び手で筒を作り、お空に耳打ちを始めた。

「頼むよお空、頼れるのはあんたしか居ないんだ」
「うーん、でもお燐の方が得意そうじゃない?」

 確かにその通りである。
お空はどちらかと言うと力技に優れた妖怪であり、繊細な技術には疎い方だ。
しかし、権兵衛を殺した事を忘れ、行方不明にできるのはこのお空しか居ないのである。
何せお空は鳥頭を擬人化したような妖怪で、すぐに人の顔を忘れてしまうと言う特技を持っているのだから。
ぱん、と手をあわせて、お燐は頭を下げる。

「ごめん、私にはできない理由があるのよ。お願いっ」
「分かった、それで誰を何時殺せばいいの?」
「私が連れてきたあの人間を、私が近くで隠れて見てる時に」
「うん、分かった」

 素直に頷くお空に、思わずお燐は口元を緩める。
これで後は、殺された権兵衛の死体をお燐が連れ去れば、お空はすぐに権兵衛の事など忘れてしまうだろう。
そうなれば、地底は冬だが、地霊殿は灼熱地獄跡地の近くにあるからか、全体的に暖かく、お燐の私室もまた暖かい。
腐敗は相応の早さで進むだろうし、そのくらい仕事をサボっても、誰にもバレないだろう。
権兵衛の死体が欲しいと言う衝動以来、活火山のように燃え盛る思考で、お燐はそう考えた。
それからお燐は再び権兵衛の手を引いて中央まで連れてきて、お空を紹介する。

「この子がさっき言っていた、私の親友」
「霊烏路空よ。お空でいいわ」

 これから殺す相手だからだろう、気のない挨拶のお空に対し、権兵衛は笑顔を作ってみせた。

「俺は、七篠権兵衛。俺の事も権兵衛とお呼びください」

 そんな光景を横目に見つつ、お燐は少し離れて権兵衛の最後を見守る事にする。
それに気づいたのだろう、お空は早速妖力を集めて、それから困りはてた顔で動作を停止した。
傷つけずに殺す方法が分からないのだろう。
と言っても、お空は神を取り込んで以来、こと戦闘に関しては神がかり的な勘の良さを発揮している。
すぐに方法を思いつくだろう、とお燐が見ていると、権兵衛が口を開いた。

「うわぁ、凄い妖力ですね。
って、うん? 神力、のような気も?」
「えーっと、あーっと……」
「もしかしたら、お空さんは、名のある神様なのでしょうか。
物凄い高位の神格を感じるのですが……。
いや、でも妖怪のような気がするし、星さんともまた違うような……」
「あーもう、五月蝿いっ!」

 言って、お空はその身に秘める力を解放。
軽く権兵衛を吹っ飛ばすつもりであろう、妖力と神力の入り混じった波動を全身から打ち出す。
吹き荒れる空気にお燐が思わず顔を庇い、それを凌いでから見ると、信じられない光景がそこにあった。
権兵衛は、何とも無いかのようにそこに立っていたのだ。
流石に驚き、お燐もお空も目を見開く。

「あ、あんたなんで無事なのよっ!」
「いえ、その、俺は能力の影響で、神の力が効かないんです。
あ、そうだ、もしかして体に不具合なんかがありませんか?
俺の能力は、純粋な神にとっては、毒ですらあるらしくって」
「え、うーん、多分大丈夫っぽいけれど……。
でもうん、力が凄いちょっとづつだけど、減っていっているのを感じるわ」

 自身の掌を見つめながら言うお燐に、ふむ、と首を動かす権兵衛。
聞いたことのない話にお燐が思わず口を開けたままになっているのを尻目に二人の会話が続く。

「げっ、それじゃああんた……権兵衛って言ったっけ、あんたの事、私じゃどうにもできないじゃないの」
「はい、そうみたいなんですよね。
ううん、それじゃあ俺の世話をするかも、って言うのもお燐さんの勘違いだったのかなぁ」
「え、私、権兵衛の世話するの? 面倒くさそうだなぁ」
「いえ、俺もお燐さんから聞いた事なので、詳しいことは……」

 それを呆然と見つめながら、自分の計画がお釈迦になった事を悟りつつ、お燐はなんだか違和感を感じる会話だな、と思った。
数回反芻してみてすぐに気づく。
そう、お空が初対面の人間の名前を、一発で覚えられているのだ。
親友であるお燐の名前でさえ長い期間をかけて覚えたお空が、ただの人間の名前を、である。
なんで、とお燐は呆然と思った。
なんで権兵衛は、こんなにも他者から特別に思われているのだ。
さとりからの扱いもそうだし、こいしもお燐の隠し事を言うというのは普通だと思えず、お空に至ってはあの鳥頭が一発で名前を覚えた。
こんなにもお燐は権兵衛の事を思っているのに、権兵衛と言えば素知らぬ顔で皆から特別扱いされて。
嫉妬の炎が沸くと同時、お燐は気づく。
このままでは、お燐の殺意がさとりに伝わってしまうのではないか、と。

「ふぅん。まぁ、よく分からないならどうでもいいや。
それより、権兵衛、あんたなんで目隠しやら手錠やらをしているの?」
「お空さん、本当にお燐さんから何も聞いていないんですね。
俺はこいしさんの第三の目を開ける手助けになるかもしれない、と言う理由でさとりさんに監禁されているんです」
「え? 監禁されてるのに、なんて言うか、権兵衛って気安いよね」
「うぅん、それは自分でも思っているのですが……」

 そう、あくまでお燐の計画は、お燐がさとりに深く事情を探られない限り露見しないと言う根拠に基づいていた。
お空は素直なのでさとりに聞かれたままの事を思い浮かばせるので、お空が権兵衛の名前を覚える事ができた今、全てを忘れてしまうと言うのは期待できない。
ばかりか、恐らくはお燐と権兵衛、数少ない名前の分かる知り合い二人と関係する事である、お燐の権兵衛殺害依頼の事は聞かれれば思い出してしまう事だろう。
今もお空は制御棒の先を権兵衛に向けてみたりして、権兵衛を殺す方法を考えているのが見受けられる。
と言っても、神力が混じっては権兵衛に効かぬと分かった今、それにも難儀している様子で、お燐の方を助けを求める目でちらちらと見ているのだが。

 駄目だ、とお燐は絶望のままに思った。
権兵衛に嫌われてしまう事は、想像もつかない程恐ろしい事である。
しかしさとりに嫌われてしまう事もまた、同じぐらい恐ろしい事なのだ。
特に妹であるこいしを救う為の鍵を殺そうとしたとなれば、どれほど怒られるだろうか。
いや、怒られるだけで済むのだろうか、とお燐は思った。
お燐は何時しかお空が異変を起こした時、さとりが容赦なくお空を始末するだろうと考えたように、今度はお燐を始末するだろう、と考えたのである。

 そんな考えが頭に浮かんだだけで、お燐は脱力してしまった。
立つ事すらままならず、膝を落とし、ぺたんと尻餅をついてしまう。
お燐にとって、さとりはそれほどまでに親のように神聖で、絶対的な物だった。
そのさとりに始末されるかもしれない、と言う思いは、正に絶望そのものなのだ。

「ねぇ、お燐、どうしたの?」
「お燐さん、具合でも悪いんですか?」

 気づけば、お燐の事を二人が覗き込んでいた。
目隠しされた権兵衛の右手を、お空の左手が確りと握っている。
こうやって二人がお燐の事を心配してくれるのも、お空がうっかり権兵衛殺害計画について話してしまうだけで、もう終わりなのだ。
そう思うと、泣きたくなるような衝動にお燐は襲われた。
全身がぶるぶると震え、自身をかき抱き、かちかちと歯を鳴らす。
ついには心配そうに見てくれる二人の視線に耐え切れず、お燐は立ち上がり、飛び上がって、一目散にその場を逃げ出した。
後ろから声が追いかけてくるが、権兵衛が足手まといになってついてこれず、すぐにお燐はお空を引き離し、一人きりになる。

 それからずっと、お燐は地霊殿へと帰っていなかった。
さとりに見つかれば始末されるだろうとわかりきっていたし、権兵衛に嫌悪の視線で見つめられるのも耐え切れなかったからである。
しかし地霊殿を離れたからと言って、お燐には何もする事が無かった。
好きだった筈の死体集めをする気力すら沸かず、お燐はただ呆然と遠くから地霊殿を眺め続けるだけ。
勿論窓のない部屋に幽閉されている筈の権兵衛の事など、見つけることは叶わない。
最早お燐の人生には、不幸しか残っていなかった。
此処でこうやって地霊殿を見つめていても、楽しかった過去と、絶望しか残されていない未来を実感する事ができるだけ。
今度はお空を救ったお燐のように、お燐を救ってくれる仲間は居なかった。
今日もまた、お燐は地霊殿の遠くから、呆然とその建物を眺める事しかできない。
私は、一体どこで何を間違ってしまったんだろうか。
永遠とそんな事を考えつつ、地霊殿を眺め続ける事しかできないお燐には、この先不幸しか許されていない事は明白なのであった。





あとがき
ちょっと権兵衛視点が不足気味かな、とも思ったのですが、どうせ次回冒頭も権兵衛視点なのでいいかな、と言うことでこういう形になりました。
さとりの登場は主に次回以降になります。

*ちょっと加筆しました。



[21873] 地霊殿2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/09/21 19:22


 呆れる程に和やかな日常であった。
いや、俺は緊縛されているので日常と言うのは語弊があるが、兎に角そんな感じだった。
お燐さんを何時不幸にしてしまうのか、と最初のうちは恐る恐る喋っていたのだけれど、お燐さんの様子があまりに明るいまま変わらないものなので、俺はいつの間にか普通に喋っていたのだ。
お燐さんとの会話は、まるで夢を見ているかのような気分であった。
彼女と会話している間は穏やかで心地良い気分になれたし、まるで不幸なんて何処にも感じた事はない、と言わんばかりのお燐さんの笑みの雰囲気に、俺は強く癒された。
俺の“みんなで不幸になる程度の能力”は本当にあるのだろうか、とまた疑ってしまう程に、である。
そう思う度に俺は俺が殺してしまった二人の妖怪の事を思い出し、俺は呪われた存在なのだ、と言い聞かせていた。
確かにあの、青い肌の妖怪が喉を柱に貫かれた光景は、衝撃的だ。
だから俺は、その光景を思い出す度に自身の能力を強く思い出せたし、その呪われた能力が俺にはあるのだと再認識できた。
しかしそれも、何十回と繰り返せば、その効力を薄れさせる事になる。
次第に俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”が俺に存在する事を、忘れがちになっていった。
弁解するならば、この時俺は何の行動も起こすことができない状態で、どこからどこまでが夢で現実なのか、それもよく分からなくなってきていたのだ。
だからと言って許される行為ではないが、そういう状況にあったのも確かであった。

 そんな日常が切り替わったのは、お燐さん曰く三日目、だそうだ。
俺としてはもう十日は経っただろう、と思っていたので、酷く驚いた事を覚えている。
お燐さんは、自分の親友に会ってはどうか、と俺に提案してきた。
どうせ自分の仕事が忙しくなれば、何時かは権兵衛の世話はその親友もする事になるのだ。
だから、先に挨拶ぐらい済ませておくのがいいのではないか、と。
辛うじて理性の残っていた俺は、それに渋った。
俺と早く出会う事になると言う事は、より長い間俺の能力の影響を受ける事になるのだ、当然不幸に見舞われる可能性が高くなる、と思う。
しかしお燐さんはどうしてかそれを強く勧めたし、俺も俺の能力が、会った期間によって不幸度が変わるような能力なのかすら、把握していない。
本当は俺はそこで断固として断るべきだったのだろうが、部屋に緊縛されたままでぼんやりとした頭になっていた俺は、それに頷いてしまった。

 そしてお燐さんについていき、お空さんに出会って。
それからすぐに、お燐さんが姿を消した。
と言っても、目隠しをしている俺だからこそそう思う訳であり、お空さんいわく、空を飛んで何処かへ行ってしまったらしい。
どうすればいいのか分からないと言った困惑した様子で戻ってきたお空さんに、俺はようやくのこと頭が回り始める。
俺はすっ、と全身の血が引けるような感覚に襲われた。
お燐さんは一体何処へ行ったのだ。
いや、お燐さんの身に、一体何があったのか。
俺は唐突に再び自分が“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主である事を実感した。
俺は一体、何をやっているのだ。
自分が今まで余りに無用心に過ごしていた事に気づき、俺は愕然とした。
駄目だ、このままでは、お空さんまで不幸にしてしまう。
そう思った俺が、逃げ場などないと言うのにその場から逃げ出そうとするその瞬間である。
さとりさんがその場に現れた。

「何をしているのですか?」

 変わらず絶対零度の声に俺は冷静さを取り戻し、そも、この場には空を飛ばずに逃げる場所が無い事に気づいた。
そして空を飛ぶ魔力は未だ俺にはなく、しかも目隠しまでされたままである、逃げるのは不可能だろう。
それから俺はお燐さんが突然姿を消した事を伝え、お空さんも焦り声で同様のことを訴えた。
それに対しさとりさんは、冷たい声で続ける。

「お燐とは先程会いました。
罰を与え、権兵衛さんの世話から解任したわ。
何も問題はありません」

 その瞬間、俺は安堵のあまり、その場に膝をついて、泣き出してしまった。
良かった、お燐さんは不幸になってしまった訳では無かったのだ。
そう思うと拭っても拭っても大粒の涙が零れ落ち、状況が分かっていないお空さんが困惑するのもお構いなしに、俺は泣いた。
不思議と、さとりさんが嘘を言っているのだと言う発想は浮かばなかった。
それはもしかしたら、俺がお燐さんを不幸にしたなどとは思いたくないと言う、俺の自己保身の気持ちがあったからなのかもしれない。
しかし兎に角、その場で俺は泣き崩れ、お空さんは喜べばいいのか悲しめばいいのか困った様子で、さとりさんは一人超然と立っていた。

 その後、再び部屋に戻り、暗闇の中、俺は再びこうやって以前の俺を戒めていた。
いくらこの暗闇と拘束の中とは言え、俺はあまりに不用意に行動し過ぎていた。
そも、お燐さんと親しくし過ぎていたのは、明らかにお燐さんを不幸にするかもしれない行為である。
何せ俺がお燐さんに優しく接すれば、お燐さんは暇な時などに俺の世話に来るようになり、俺と接する頻度が増え、不幸となる可能性が上がるに違いない。
実際お燐さんは不幸に遭う前に俺から離れていった訳だが、注意するに越したことはないだろう。
今度こそは、と俺は思う。
今度こそは、貝のように黙り、俺の世話人を不幸にする可能性を低くするよう努めよう、と。

 そんな風に自戒を強くしていた所に、がちゃがちゃ、と錠前を弄る音がする。
来たな、と身を引き締める思いで、五つの錠前が開く音を待つ。
がちゃり。
………………次の音が鳴らない。
疑問詞を浮かべつつ待つと、もう一度、がちゃり、と言う音。
随分スローペースだな、と首をかしげると同時、台車を押す音が聞こえる。
あれ? と思うと同時、声がすぐ横の椅子に座っていると思われる辺りから聞こえた。

「えっと、半日ぶり、権兵衛。
私が――、えっと、お空よ、私が今度は権兵衛の世話をする係になったから」
「あ、はい、よろしくお願いします。
所で、錠前が減っていたような気が……」
「あう」

 と、可愛らしい悲鳴をあげ、お空さんが縮こまるような気配。
それから、半泣きの声でお空さんが告げる。

「私って馬鹿だから、鍵を一個に減らしてもらったのよ……」
「そ、そうなんですか……」

 としか、言いようが無かった。
にしても、思わず質問してしまい、黙る作戦は早速敗色濃厚となってきた。
もう一度内心で自分を戒めるようにし、動かない腕で口のジップを閉じる想像をする。

「えっと、じゃあ、御飯をあげるわね」
「はい」

 と、事務的に最低限の返事だけをし、俺は口を開けてまった。
かちゃかちゃと金属音が響き、お空さんが食事をスプーンで掬った事が分かる。
それから待っていると、ずご、と喉の奥までスプーンを突っ込まれた。

「うげほっ、げほっ!?」

 思わず俺は咳き込み、涙目になりつつ口内のお粥を思わしき物を吐き出す。
熱々の粥は、勿論、肌についても熱い事熱い事。

「だ、大丈夫?」
「す、すいません、げほ、肌についた粥が熱くて、取ってもらえますか」
「あ、うん、拭けばいいだよね」

 と拭きとってもらい、俺はようやくの事落ち着く事ができた。
そんな俺に、不機嫌そうに、お空さん。

「もう、汚いじゃないの、権兵衛ってば」
「………………」

 そうも自信満々に言い切られてしまうと、俺が悪かったのか、と少し思ってしまう。
一度回想、もう一度回想して吟味してみるが、今のは流石にお空さんが悪かったとしか思えなかった。
一瞬黙る作戦の事が脳裏をよぎるが、先に餓死して呪いを振りまいても仕方があるまい。
俺は諦めて、極めて事務的に聞こえるよう口を開いた。

「その、申し訳ありませんが、喉の奥までスプーンを突っ込まないようにしてもらえますか?
でないと、吐き出してしまうので」
「え? あ、そっか、それで……」

 と、納得がいった様子に、思わず心の底から安堵する。
さぁて、これでもうできる限りは黙るぞ、と考えつつ口を開くと、スプーンがゆっくりと差し込まれた。
ただし、熱々で火傷しそうな温度のままで。

「………………」

 頑張れ、頑張れ俺。
そう内心で繰り返すと共に、涙目で咀嚼し、唾液で温度を低くしてから飲み込む。
それでも胃の中が熱くなるのを感じ、俺は少し口内の火傷を舌で探った。
それからすぐに、お空さんから声がかかる。

「じゃあ、次ね」
「………………はい」

 何とかそれを正そうとする自分を制し、残る魔力を回復に当てればいいではないか、と自分を納得させる。
毎日微量づつ回復する魔力は、口内の火傷を食事毎に治すぐらいの量はあった。
元々脱出には期待できない程度の量しか回復していないのである、俺は魔力の使い道をそれに決めると、小さく首肯し口を開く。

 そんな動作が、十数分続いただろうか。
ようやく昼食を終えた俺に代わり、お空さんは食器を片付けている。
口内を回復しつつ、これが何度続く事になるのだろう、とこいしさんが早く見つかりこの時間が終わるよう俺が願っていると、ぱりん、と高い音。

「ひゃっ! あー、やっちゃった……」

 声から判断するに、皿を割ってしまったようである。
ひょっとして、お空さんはいわゆるドジっ子なのだろうか、と内心で首をかしげると同時、再びキャッと言う悲鳴。
同時、薄く血の匂いが嗅ぎ取れる。

「だ、大丈夫ですかっ、お空さんっ!」

 反射的に俺は、叫んでしまっていた。
俺がどうにかできぬか、と思うものの、拘束された身で何もできないのを思い知るばかりである。
せめて、とばかりもう一度大丈夫かと聞くと、うん、大丈夫、と声が返ってきた。
安堵で体の力が抜けると同時、俺はようやく黙る作戦の事を思い出す。
が、後の祭りである。
天を仰ぎたくなりつつ、俺は小さく溜息をついた。
せめて怪我しないようにと言うぐらいには、口をきかねばならぬらしい。

「割れたお皿なんかは、箒とちりとりで集めて捨てるといいですよ」
「あ、そっか。権兵衛って頭いいわねぇ」

 と、賛辞を受け取り、俺は今度こそ冷静に無言になる。
台車に備え付けてあったのだろう、箒とちりとりで皿の破片を集め終わると、お空さんは台車を押し、錠前を開いて外に出て、閉める扉の間から最後に言った。

「じゃ、また後で来るねー!」
「はい、ありがとうございました」

 俺が頭を下げる仕草をするのを見届けてから、お空さんは扉を閉め、鍵を閉めた。
同時、俺ははぁぁあ、と大きく溜息をつく。
お空さんの手つきは見えなくとも分かるほどに危なっかしい事危なっかしい事。
一体何度俺が口を出しそうになったか分からないぐらいである。
俺は果たして、お空さん相手に貝のように黙りながら、この時間をやり過ごし続ける事ができるのだろうか。
と言うか、俺の世話をできる妖怪はお空さんの他に居なかったのか。
暗雲立ち込める未来に、俺は再び溜息をついた。



 ***



 古明地さとりは、自分が第三の目を開いたままでいられるのは、心の強さの表れだと思っている。
何せ第三の目を開いていれば他人の心の声が聞こえてきてしまう事になるのだ。
当然、人妖神仙に関わらず、口に出す言葉よりも内心に秘める言葉の方が汚く、他者を傷つける。
それに耐え切れなかったこいしは第三の目を閉じてしまい、何を考えているのだか分からない妖怪になってしまった。
誰かに嫌われるのを怖がっていたかつてのこいしを思い、それは心の弱さ故なのだとさとりは思う。
傷つきやすく、未熟で、愚かである故にだと。

 だがさとりは、こいしを見捨てたくなかった。
何せこの世でたった二人だけの姉妹である、どうして見捨てることができようか。
そしてこいしを苛んでいるのが、自分も物凄い労苦を持ってして乗り越えている事で、誰もが耐え切れる物ではないと知っている事が、それに拍車をかけた。
こいしに元に戻ってほしい。
こいしに、第三の目を開けていても大丈夫なぐらいの、心の強さを身につけて欲しい。
それがさとりの一番の願いだった。

 と言っても、こいしは中々第三の目を開かなかった。
それどころか代わりに身につけた能力でさとりですら捕まえられない妖怪になり、何時もふらふらと出歩いているのを止める事もできない。
それが一体何年続いた事だろうか、最早思い出せぬ程の時間が経過した頃、一度だけこいしの第三の目の瞼が軽くなった事がある。
こいしが博麗霊夢に弾幕決闘で敗北した時である。
その時の様子を、霊夢や近くで見ていた守矢神社の面々に聞いて見る限り、どうやらこいしは霊夢の心に興味を持ち、それ故に第三の目の瞼を軽くしたのだと言う。
しかしそれもあと一歩と言う所で収まり、結局こいしの第三の目が開かれる機会は無かった。

 だが収穫はあった。
要は、こいしが興味を持つような人妖に会わせる事ができれば、こいしは第三の目を開くかもしれない。
そう思い、さとりはとりあえず心を読まれても苦に思わないような、個性的なペットをこいしの世話役として置いた。
しかしそれも役に立たず、ただ無益な年月を浪費するだけであった。

 そんなある日である。
地底へ七篠権兵衛が落とされてきた。
偶々地霊殿の外に出ていて権兵衛の落下地点近くに居たさとりは、権兵衛の“みんなで不幸になる程度の能力”について知り、すぐに何時かは地霊殿に押し付けられるのでは、と予測する。
それからすぐに地上に出て権兵衛について“心を読む程度の能力”で情報収集をし、そのうちにさとりは思った。
権兵衛は確かに出会った人妖の多くを不幸にしている。
しかしそれより前に、出会った人妖の心に持つわだかまりを解きほぐしているのだ。
ならばこいしと出会ったならば、こいしの第三の目を開く助けになる事ができるのではないか。

 そう思うと、さとりにとって権兵衛を引き取る事は、魅力的に思えた。
結果的に不幸になる、リターンよりリスクの方が大きい行為であっても、こいしの第三の目を開く事ができるのならば、それでいいではないか。
他の不幸など、こいしが開眼してすぐに権兵衛を引き離し、地上の妖怪どもに返してやれば、妖怪の持つ長い寿命でなんとかできるのではないか。
さとりは、暫く悩んだ。
地霊殿にはさとりを慕う多くの妖怪がペットとして居着いている。
そもそも権兵衛に出会って、こいしの第三の目が開くと言う保証も無い。
それどころか、知る限り権兵衛の精神は異常である、そんなものを読んでしまって、自分まで第三の目を閉じてしまう事にならないだろうか。

 しかしさとりは、結局権兵衛を引き取る事に決めた。
確かに権兵衛は危険かもしれない。
だがしかし、こいしの第三の目を開く手立ては、この先あるかどうか分からないのである。
たった一人の妹の為を思い、さとりは自分を含め、他の全てのペット達をも犠牲にするつもりで、権兵衛を地霊殿に拉致する事に決めた。
権兵衛が思いつめて自殺してしまわないよう、それらしい希望を匂わせつつ。
と言っても、さとりは嘘は言っておらず、確かに権兵衛の能力が閻魔の間違いである可能性は、微々たる物だが無い訳ではないのだが。

 拉致してきた権兵衛を拘束し、表向きその世話はお燐に任せる事にした。
何故なら、調べる限り格の低い妖怪ほど早い時間で肉体的に酷い目に遭っているからである。
地上と違って月の光も差す事の無い地底である、権兵衛の力も消耗しているだろうし、十日以上は持つだろう。
念のため、一週間程度で他の強い妖怪と交代させるつもりで、さとりはお燐に権兵衛の世話をさせた。

 さて、表向き、と言うなら裏向きもある。
さとりは密かに、権兵衛の心を常に読んでいた。
目の前にいない人間の心を読むのは結構な困難だったが、さとりは殆ど一日二十四時間、ずっとそれを続けてきたのだ。
万が一にでも権兵衛が地霊殿脱出の方法を見つけた際に阻止する為と、その能力による不幸が発揮される、前兆を読み取る為である。
あとはこいしを見つけ次第捕まえ、権兵衛と会話させに行けばいい。
万全の体制を敷き、さとりは権兵衛の監視を続けた。

 そして三日と経たず、権兵衛はお燐の感じていた火車である事で嫌われてしまわないかと言う恐怖を掘り起こし、消し去ってみせた。
ばかりか、こいしを部屋に引き寄せ、こいしが感情的になる所を聞いたのだと言う。
第三の目を閉じてしまったが故に心も閉じてしまった筈のこいしが、感情を顕にする。
それはすなわち、第三の目を開く切欠となりうる出来事ではあるまいか。
このまま、全て上手くいくのではないだろうか――。
甘い期待がさとりの中を過ぎった。

 それが覆されたのは、その日のうちだった。
権兵衛の心の声に耳を傾け過ぎていたさとりは、お燐の心の声を読んでいなかった。
不幸になるにしても、権兵衛の心に能力発動による何らかの前兆があるのではないか、と言う予測の為である。
故にさとりは、お燐がお空に遭うように提案してきた時、別に構わないかと思っていた。
お空はよく他者の顔を忘れ攻撃してしまう所があるが、お燐と一緒ならば大事あるまい。
それにお燐も、自分の心を救ってもらった代わりに、少しでも権兵衛を自由にしてやりたいのだろう。
普段お燐の心を読んでよく知っていたさとりはそう思い、お燐の行動を見ぬふりをしてやった。

 しかし、不幸は既にその前兆を見せていた。
お燐はお空を唆して権兵衛を攻撃させ、さとりに見つからないように権兵衛を死体にする計画を立てていたのだ。
権兵衛の“名前の亡い程度の能力”によりそれは阻止されたものの、お燐は地霊殿から逃げ出してしまった。
これで権兵衛が真に絶望してしまえば、こいしの心を開くのに支障が出るかもしれない。
そしてお燐を探しに行く事は、こいしの心が戻ってからでも可能であるし、それにまた権兵衛を殺そうとされてはかなわない。
大体子猫になって逃げ回られては捕まえる事ができるかも分からないので、お燐の方から戻ってくるのを待つしかあるまい。
それに実際お燐がさとりに逆らったのも確かなので、その罰を含めて、さとりはお燐が今罰を受けている最中だと言い、権兵衛が“みんなで不幸になる程度の能力”をより自覚する事を防いだ。
その言葉は、嘘ではない。
お燐と先程出会ったと言うのも、時期を限定していないので本当であった。

 しかしたった三日でお燐が不幸になってしまうと言うのは、さとりにとって予想外であった。
当初考えていた、お燐に並ぶような知性のあるペット達を候補から外し、さとりはお空を候補に考えた。
お空が精神的に強いかどうかは微妙だが、神と融合した事で、妖怪としての格はさとりよりも高い筈である。
お空の頭の空っぽぶりが不安だったが、さとりはお空を世話に行かせた。
一応指定した時間にはお空の心も同時に読むと言う、万全の体制で。

 が、初日で早速粗相をするお空に、さとりは思わず天を仰いだ。
権兵衛がお空になるべく話しかけないようにしているのも、マイナスである。
今こいしが見つかって同じ態度を取られれば、こいしが権兵衛に興味をなくしてしまうかもしれない。
だが、さとりは“心を読む程度の能力”の持ち主である。
権兵衛が口を開こうとせずとも、強制的に話ができる能力の持ち主である。
それで会話するぐらいは、と妥協してもらわなければ、こいしと会話してもらう事すらままならないだろう。
勿論こいしを助けるためにはさとり自身は最後のカードであり、なるべく切らないでおきたかったカードなのだが、仕方あるまい。
さとりは、自分も折を見て権兵衛の部屋へ行く事に決めた。

 そしてさとりは権兵衛の部屋の前に立ち、中の権兵衛の心を読んでみる。
お燐が出て行ってしまって以来、その心は常に青い肌の妖怪が喉を貫かれている光景を思い浮かべ、自分をなじる言葉を考えていた。
しかしそれでも、お燐の不幸がさとりにより罰を受けている程度である、と言う認識から、すぐに自己の“みんなで不幸になる程度の能力”を疑い始める。
すぐに再び妖怪の死に顔を思い出し、なんとか自分は呪われた能力の持ち主だと言い聞かせるが、その認識も次第に薄れていく。
大体さとりの計画通りである。
こいしの心を開くには、程良く権兵衛が自己の能力に疑いを持ち、こいしを救ってあげたいと思い、実行するようでなくてはならない。
お燐と話していた時、あのぐらいの平常運転が望ましいのだが、と自分のすべき事を再確認し、さとりは錠前を開け、扉を開いた。
お空さんだ、と思う権兵衛の思考に内心くすりと笑いながら、扉を閉め、鍵を掛ける。
それから権兵衛の隣にある椅子に腰掛け、さとりは口を開いた。

「お久しぶりね、権兵衛さん。
そう、その通り、さとりよ、権兵衛さん。
いいえ、こいしはまだ見つかっていないわ。
最近権兵衛さんが声を聞いたようだけれど、それを最後に見つかっていないの。
見つかり次第ここに連れてくるつもりだわ。
何日ぐらいかって?
時によりけりだけど、大抵五日もあれば見つかるから、あと二日ぐらいかしら。
じゃあ一体何の用事なんだろう、って?
娯楽よ、私が貴方で遊ぶ、娯楽。
危険だって?
お燐は確かに不幸になったけれど、私から罰を受ける程度で済んでいるわ。
その程度が、危険に値すると言うのかしら?」

 最後に軽く指先で唇を抑え、失笑してみせると、権兵衛は戸惑うような仕草を見せ、それから少しの間思案する。
さとりさんは俺で遊んで娯楽にするような人には見えない、もっと真面目で誇り高い人な筈だ。
ならば何故――、そうか、こいしさんの心を開くのに必要だからか?
その為に、俺が貝のように黙っているのが不都合だからなのか?
と、そうやって答えにたどり着いた権兵衛に、見えないだろうが、と思いつつもさとりはにっこりと低温の笑顔を作る。

「正解、大体その通りよ。
そして分かるでしょう、貴方は私に対し、話しかけない事と言うのができない。
何せ心を読まれているんですもの、抵抗のしようがないわ」

 とさとりが言うと、成程、と納得する権兵衛。
その声はただ単に理屈が繋がったのに感動する心の動きがあるだけで、嫌悪や憎悪の念が全く篭っていないのに、さとりは思わず目を見開いた。

「てっきり、俺にまだ他者を不幸にさせるつもりなのか、とでも返ってくるかと思ったのに。
成程って何よ、成程って」

 と言うと、権兵衛が頭の中で返事をする。
だって、俺がここでさとりさんを嫌った所で、救われる人は誰一人居ない。
もし心を隠して口を開けるのならそうしたのかもしれないけれど、心の全てが覗かれてしまうのならば、仕方ないとしか言いようがないじゃないですか。
俺は勿論、抵抗するつもりではいます。
こいしさんには必要最低限以上話しかけないつもりですし、お空さんにも同じです。
ただ、さとりさん相手には、思った事が勝手に伝わってしまうのだから、どうしようもないじゃないですか。
せめて不快な思いをさせてさとりさんを此処から去らせようとしても、その思いも伝わってしまう。
そうするとさとりさんは余計に此処に居座るようになり、俺がどうしようとさとりさんが此処に居る時間は同じなのに、ただたださとりさんが不快な思いをしてしまう事になるのです。
それなら、せめてさとりさんには何の隠し事もせず、気持ちよくこの時間を終えられるように協力した方がいい。
そう思ったのです。

 そんな権兵衛の心の声を聞きながら、さとりは密かに戦慄していた。
普通権兵衛のような状況に置かれれば、自分の心の中が覗かれる、と言う事が不都合に思え、その不快の念が伝わってくる筈である。
しかし権兵衛には、そんな念が一切なく、心の奥底からさとりの為になるように、としか考えていないのだ。
しかもそこには、さとりに好かれたいとか気に入られたいとかそういった感情は一切無く、ただただ真摯にそう思っているのである。
今までさとりに心を読まれたって嫌いにならない、と言った者どもは、誰一人こんな領域には達していなかった。
改めてさとりは、地上で心を読みまくって集めた、権兵衛の人物評を思い出す。
善性に狂っている男。

 さとりは、思わず生唾を飲み込んだ。
今目前にしている男が、これまで見てきたどんな人妖神仙とも違う種類の存在だと、改めて実感する。
しかもこの男は、さとりにとって強力な毒となるのではあるまいか。

 さとりと言う種族には、その能力を持つが故に、心の強さが必要だ。
誰にどれだけ嫌われたとしても、たった一人で荒野に立つ、自立した孤高の精神が必要だ。
当然それには凄まじい労苦が必要であり、疲労に全身が疲れ果て、何時か死を迎えるその時まで、孤高で居続ける事が必要だ。
それができないさとりは、疲労のあまり誰かに寄りかかり、その相手に振り払われた絶望で精神の死を迎える。
当然それはさとりとしての命を全うした人生ではなく、弱く、蔑まれるべき死に方である。
さとりは当然、皆孤高なまま死を迎える事を目指している。

 しかし権兵衛という存在は、さとりが寄りかかる事のできる存在だった。
その狂った精神により、さとりが依存しても受け入れる事のできる存在なのだ。
これは、駄目だ、とさとりは直感する。
権兵衛のそばに居てしまえば、さとりは少しづつ、権兵衛に依存してしまうかもしれない。
それは当然、孤高に死す生き方から外れる物であり、さとりの望む生き方ではない。

 さとりは思わず、権兵衛に向けて掌を向けていた。
ぶるぶると震える手は権兵衛の頭蓋に向けられており、妖力弾を発射すれば今すぐにでも権兵衛を殺せる位置である。
はぁ、はぁ、と大きく息をしながら、さとりはその手をもう片手で抑えた。

「さとり、さん?」

 いつまでも返事が来ないのを疑問に思ったのだろう、権兵衛が口を開く。
それを聞き、乾ききった喉を唾で潤し、さとりは口を開いた。

「なんでも、ないわ」

 言って、肩で息をしながらゆっくりと掌を下ろす。
そもそも権兵衛を此処で殺しては、その呪いで目前のさとりがどうなってしまうか分からない。
大体、その権兵衛の狂った善性は、承知の上だった筈なのである。
何せそういった、さとりが寄りかかれる相手でなければ、こいしの歩行器となれる可能性は低いだろう。

 しかし今日は、これで限界だった。
これ以上権兵衛の側に居て、権兵衛に何かしてしまわないかどうか、さとりは自分を抑える自信が無かったのだ。
早速立ち上がり、さとりは言う。

「今日の所は、ここで帰るわ。多分また明日、来る事にする」
「では、また明日、さとりさん」
「えぇ、また明日」

 何とか声だけでも冷静さを保ちながら言って、さとりは鍵のかかった扉を開き、外に出てから閉める。
それから背を扉に預けながら深い溜息をついた。
明日、自分は権兵衛とまともに会話できるのだろうか。
会うだけで消耗してしまった自分が、権兵衛をこいしと話す気にできるものだろうか。

「それでも……やってみせるのよ」

 ぽつり、とこぼし、さとりは己を鼓舞する。
それからさとりは小さくもう一度溜息をつき、それからふらふらと覚束ない足取りで自室へ戻り、泥のように眠った。



 ***



 霊烏路空は、頭が悪かった。
妖怪としての格は八咫烏を取り込んで鬼に並ぶ程になっていたが、残念ながら頭が悪かった。
お空は八咫烏と融合した事で力を増し、傲慢な考えを持った事が一度あったが、それも偉い神や優しい親友によって止められ、お空は自分の頭の悪さを改めて自覚したのだ。
力がある事で自分の頭の悪さを克服できていると思っていたが、それは思い上がりだったのだ、と。
自分の頭の悪さを認めたお空は、判断の多くを親友や主人に求める事にした。
偉い神や緑色の巫女相手にも謙虚になり、頭が悪いなりに頑張ろうと思ったのだ。

 しかしそれでも、お空にとって頭が悪いと言うのはコンプレックスだった。
まず他人の名前を憶えられない。
顔だって忘れてしまうし、戦っている最中などで頭に血が昇ってしまうと、目の前に居る相手がどんな相手だったかも忘れてしまう事すらある。
お空は、そんな自分が情けなくて、嫌いだった。
だがそんな暗い事は考えたくないので、考える事の多くを他者に委ねる事でお空は精神の安定を保っている。
奇しくもそれは、こいしと似た考え方であり、さとりの精神に反する考え方であった。

 そんな時に現れたのが、権兵衛であった。
親友であるお燐を瞬く間に優しくしてみせた権兵衛の事を、お燐が罰を受けている間、お空が担当する事になった。
最初お空は、面倒そうな事だなぁ、と思いつつも、権兵衛の部屋に入り、話しかける次第になって、ようやく気づいたのだ。
私は、権兵衛の名前を覚えられている。
その事に目を見開き、一瞬お空は言葉を失った。
お空が名前を覚えられている相手は、主であるさとりとその妹こいし、親友のお燐の三人だけだったのだ。
三人ともがお空とは長い付き合いで、長時間をかけてその名前を覚えていった。
対し、勿論権兵衛とは、出会った事すら先日が初めてである。
権兵衛とは、一体どんな男なのか。
お空はその時、権兵衛に初めて興味を持った。

 それは今でも同じで、お空は間欠泉地下センターでさとりに定められた時間まで待ち、時間となると文字通り飛んで権兵衛の元に向かうのが習慣となっていた。
二日目となる権兵衛の世話に、心を踊らせつつ、お空は台車を押していく。
何時もなら食事や水を忘れて台車だけを押していく事もあっただろうが、その台車の上には完全に権兵衛の世話をするための物が揃っていた。
その事に満足しつつ、食事を零さないよう気をつけてお空は権兵衛に部屋にたどり着く。
胸元から革紐で結んだ権兵衛の部屋の鍵を取り出し、錠前を開いてお空は扉を開けた。

 僅かに空気中に交じる権兵衛の汗の匂いに、思わずお空は鼻を動かした。
どくん、と、何故だか分からないが、心臓が高鳴るのを感じる。
顔がなんだか上気してしまうので、少しの間俯いて顔の温度を放出して、それからお空は台車を押して権兵衛の部屋に入った。
それから、急いで錠前を閉め、それからお空は両手を胸に置く。
深呼吸。
心臓の鼓動が落ち着くのを待ってから、お空はぐるっと百八十度ターンし、権兵衛の方を向いた。

 不思議な事に、お空は再び心臓が脈打つのを感じる。
歩こうとすると、意識せず手と足が一緒に前に出てしまうし、緊張のあまり一瞬台車の事を忘れそうにすらなった。
こんなに緊張する事は、さとり様の前でも無かったのに。
そう考えつつ、ようやくお空はもう一度深呼吸。
呼吸を正してから、口を開く。

「おはよ、権兵衛。食事とか持ってきたよ」
「おはようございます、お空さん」

 お燐の言から想像するのと、権兵衛の実像とは、幾分違いがあるようにお空には思えた。
優しいと言っても何でもお空に世話を焼いてくれるような優しさではなく、少し突き放したような距離感があって、でも如何にも暖かな感じで見守ってくれているのが分かるのだ。
今日の挨拶も、必要最低限で、すぱっ、とした物である。
それに僅かに残っていた興奮も去り、お空はリラックスして台車を押し、権兵衛の居る部屋の中央に移動し始めた。
権兵衛のベッドの隣の椅子に座り、食事をサイドテーブルに置き、口を開く。

「それじゃ権兵衛」
「はい、いただきます」

 と、権兵衛に食事の挨拶をさせる事すらも、最初お空の頭には無かった。
が、権兵衛が困り果てたように言うのを聞いて以来、三度程になるが、お空はこれを欠かさずにできている。
自分の成長を実感しながら、お空は慎重にスプーンで粥を掬い、それを口で吹いて冷ました。
これも権兵衛が根負けして指摘した事で、どうやら当初権兵衛は熱すぎる粥で口内に火傷をしてしまっていたらしい。
肌についても火傷しそうな程に熱々なのである、当然のことだったが、指摘されるまでお空は気づかなかった。
と言っても、何故だかお空はそれ以来、その事を忘れずにこうやって粥を冷ましている。

「はい、権兵衛」

 粥を差し出すと、権兵衛が小さく頭を下げ、それからぱくりと口を閉じた。
それを確認してからお空はスプーンを権兵衛の口から引き抜き、それからじっと権兵衛が粥を咀嚼するのを見つめる。
権兵衛の対応は、お空にとって新鮮な物だった。
誰もがお空の頭の悪さには、閉口するか、代わりにやってやるかしかしなかったのだ。
こうやって一度指摘するだけに留めて、それ以降はやんわりと注意してくれるような忍耐強い相手は居なかった。
いや、もしかしたら居たのかもしれないが、少なくともお空の興味を引いた人妖の中には居なかったのだ。
そのお陰なのか、それとも権兵衛のやり方がよっぽどお空に合っているのか、お空は少しづつだが確実に頭がよくなっている自分を感じた。

 何せお空は、本格的に頭が悪かった。
何時ものお空なら、毎回のようにスプーンを権兵衛の喉奥まで突っ込み、火傷する温度の粥を食わせ、スプーンを引きぬく時は権兵衛の歯ごと引きぬく勢いであっただろう。
どころか、咀嚼を待つと言う事すら覚えなかったかもしれない。
所が実際、お空はそれらを全て回避し、権兵衛の世話を手際よくこなせるようになってきていた。
普段ではありえない程の成長である。

 自然、自分のコンプレックスを解消する手助けとなってくれる権兵衛に、お空は強く執着するようになっていた。
権兵衛の事をもっと知りたいと思い、何か話したくなる反面、自分が馬鹿だと分かっているので、お空はこういった重大な事を聞くのに気が引けてしまう。
お燐やさとりに頼りたいと思いつつも、それじゃあ成長できないし、権兵衛と一緒に居る意味が薄れる。
だけれど、自分は馬鹿だからあまり物を考えても仕方ないのであって……。
その辺でこんがらがって、お空がぷすぷすと煙を上げてしまうようになると、不意にお空は視線を感じ、そちらを見る。
権兵衛の目隠しと目があい、それから少しだけ微笑かけられるのだ。
それが、なんだか自分の背をちょっとだけ押してくれているように思え、お空は安堵に包まれながら口を開く。

「そ、そのさ、権兵衛の事、もうちょっと知りたいな、って思うんだけど、食べながらでいいから、話してくれるかな」

 一瞬、権兵衛が困り果てた顔をするのをお空は見た。
慌てて付け足す。

「その、本当に権兵衛が良ければでいいんだ、えっと、最近あった事でもいいし」

 刹那、権兵衛の顔に痛ましい表情が浮かぶのを、お空は確かに見た。
どうして自分はこんなに失敗ばかりしてしまうんだろう、と内心泣きそうになりながら続けようとするお空に、権兵衛が言葉を重ねる。

「申し訳ありません、俺には何も話すことができないのです」

 と言う権兵衛の顔が、泣きそうなお空よりも更に傷ついているように見えて、思わずお空は罪悪感に包まれた。
そのまま萎えてしまいそうになるお空だったが、いや、と暗くなる思考を捨て、考えなおす。
そう、お空は今こうやって、権兵衛の事情を直接聞くのは駄目だと、また一つ成長したのではないか。
多少無理のある明るさでそう考えると、代わりとばかりにお空は口を開く。

「そ、それじゃあ代わりに、私の事話してもいい? いいよね?」

 権兵衛が頷いた瞬間、わっ、とお空の中で広がる物があった。
それはなんだかとてつもなく暖かい物で、全身に染み渡るように広がっていくのがよく分かる。
その暖かさに痺れるようにし、体をぶるりと振るわせてから、お空は早口に口を開いた。

「良かったっ!
えっとね、権兵衛、ちょっと前に間欠泉地下センターに氷精が迷い込んできてね……」

 それからの時間はまるで夢のように素早く時間が過ぎ去り、お空は何を喋ったのかも覚えてないぐらいだった。
権兵衛は殆ど相槌を打っているだけだったが、それだけでも震えるように嬉しく、他の反応をしてくれた時など飛び上がってしまいそうになるぐらいだ。
お空は、やっぱり権兵衛は特別なんだなぁ、と思う。
こんなにも自分のことを話したくなるのは権兵衛相手が初めてだし、話していて楽しいのも権兵衛が初めてだ。
これでもし、権兵衛がこちらの事も大切に思っていてくれるのならば、どれほど良い事だろうか。
想像するだけで身悶えするような思考に、お空は思わず頬を染めた。

 そして権兵衛が食事を終えるまで喋り続けたお空は、後ろ髪を引かれる思いで食器などを片付ける。
それが全部済んで、最後に権兵衛に水を飲ませてやると、お空は言った。

「それじゃあ権兵衛、また来るから、その時またお喋りしても、いいかな」

 言ってから、お空はもし駄目だって言われたらどうしよう、と考える。
返答までの一瞬の筈の時間が、永遠であるかのようにお空には思えた。
暗い思いに、今までの権兵衛との対話の時間で得た、暖かい気持ちが消え去ってしまったかのような錯覚に陥る。
でも、権兵衛は優しいし、きっとうんって言ってくれる筈。

 お空はじっと権兵衛の事を見つめる。
穴が開くのではないかと言うぐらい強い視線で見つめていると、権兵衛にあった硬い雰囲気が僅かに和らいだ。
一瞬権兵衛の口が開こうとするが、その視線に押され、すぐに閉まる。
逃げ場を探すように身動ぎをすると、権兵衛は観念したようにして、お空が期待する通りの言葉を吐き出した。

「えぇと、ただ話を聞くぐらいでよければ、何時だって」

 たったその一言だけで、お空は今にも飛び上がってしまいそうな気分になった。

「じじじじゃあ、まま、また今度ねっ!」

 慌ててまともな返事もできずに、お空は台車を押し、それからこのままだと扉にぶつかってしまう事に気づき、慌てて止める。
それから胸元から鍵を出し、カチャカチャと錠前を弄るが、中々開かない。
原因不明の焦りがお空を支配する中、やっとのことで錠前が開くと、お空は慌てて扉を開き、出ていった。
がちゃん、と扉と鍵とを閉めてから、大きく溜息をつく。

「すぐに、権兵衛の所に行く時間、できないかなぁ……」

 両手を頬に当てつつ呟き、お空は小さく身悶えした。
それから自分が一体何をやっているのか、と冷静になって気づき、今度は羞恥から顔を赤くしつつ、台車を押していく。
パタパタと小刻みに羽を揺らしながら、お空はその場から姿を消した。



 ***



 さとりは、錠前を開き、扉を開く前に少しだけ躊躇する。
それと言うのも、さとりが今日権兵衛の部屋に来たのは、何と五度目になるためだ。
権兵衛は自分のことを迷惑に思っていないだろうか。
すぐに表層しか読んでいなかった権兵衛の心の奥を読み、さとりを一切迷惑がっていない様子を見て、ほっと安堵の溜息をつく。
ついてから、さとりは硬直。
自分はなんと弱々しい事をやってしまったのだ、と後悔の色で心を染めた。
さとりと言う妖怪は、他者に嫌われて当たり前なのである。
それが嫌われていなかった事に興味を持つ程度なら兎も角、嫌われていない事を期待するなど、言語道断だ。
自分の弱さを恥じ、さとりは数瞬、天を仰いだ。

 しかし、いつまでも此処に立っている訳にもいくまい、さとりにも地霊殿の主人としての仕事がある。
さとりは、一つ溜息をつくと、錠前を開け、ドアを開いた。
お空が強い力で頻繁に開け閉めするからだろうか、ドアは少し立て付けが悪くなっていて、きぃいいぃ、と甲高い音を立てる。
同時、権兵衛の思考に、あ、さとりさんだ、と言う言葉が流れた。
どうやらドアの開け方で判別しているらしく、お空に比してさとりは穏やかな開け方らしい。
少しだけ頬が赤く染まるのを自覚しながら、さとりはそれを無視して扉を閉め、鍵を掛ける。
こんな事で何故頬が染まるのかは意味不明だが、恐らく地霊殿の主人として穏やかな気質を持つ事が有用であり、そこを褒められているような気分になるからなのだろう。
決して女性らしさと関係しているのではない、と自身に言い聞かせつつ、さとりは権兵衛へと振り返る。

 変わらず権兵衛はベッドの上で縛られていた。
それを行ったのは、実を言えばさとり本人である。
何せ権兵衛と出会って不幸になるペットは最小限に抑えたかったのだ、一応最初に出会った時には大丈夫だったさとりが作業を行った。
故に権兵衛の姿を見ると、さとりは思わずその時の権兵衛の肉体を想像してしまう。
権兵衛の肉体は健康体で、短いとは言え畑作業で培われた体には質のよい筋肉があった。
程良く固いそれを想像してしまうのを全力で阻止しながら、さとりはなんとか足取りを乱さずに権兵衛へと近づく。
ベッドの隣にある椅子に座り、それから権兵衛に話しかけた。

「こんにちは、権兵衛。
えぇ、仕事が片付いたから、来てみたのよ」

 にこり、と笑顔を向け、それからそれが権兵衛の瞳には写っていない事に気づき、さとりは顔を引き締めた。
大体なんだ今の笑顔は、とさとりは顔の筋肉を手でほぐしながら思う。
何時も冷笑を作っている筈の顔の筋肉は、まるで普通の少女が浮かべるようなあどけない笑顔を作っていた。
勿論そんな物、さとりに許される笑顔ではない。
顔をきちんとほぐして、こんどこそ冷笑を権兵衛に向かって浴びせかける。

 権兵衛は、ありがたいけど、と思ったようだった。
こうやって誰かが来てくれると言うのはありがたいけれど、いや、やっぱり不幸にしてしまうからありがたくないのだけれど。
それにしても、さとりさんの仕事と言うのは大変そうだ。
地霊殿の主人と言うだけあって、その疲労も推し量れる。
と言うのも、さとりは最初にこの部屋に来た頃と比べ、明らかに熱っぽい声をしているし、少し肩で息をしているような気がするのだ。
ならばこんな不幸しか運ばない男の所に来るよりも、もっとリラックスして休む事を優先した方が良いのではないだろうか。

「気持ちはありがたいけれど、自己管理はできているわ」

 と言ってから、さとりは思わず俯いてしまう。
それならいいんですが、と権兵衛の思考が過ぎ去った。
確かに権兵衛の言う通り、さとりは少し自分の声が熱っぽいし、興奮して肩で息をしそうになる事が多いと感じている。
それも多分疲労によるものなのだろう。
今も権兵衛に心配された返事が少し掠れて艶やかだったが、それも恐らく疲労によるものだ。
ならば自分は自覚している以上に権兵衛の対応に疲れているのかもしれない、とさとりは思った。
しかしさとりは、ならばむしろ今以上の頻度で権兵衛の所に来るべきか、と考える。
何故ならさとりが疲れていると言う事はその分権兵衛も疲労している筈で、疲労した方がこいしに対するガードも下がる筈である。
別に他意はない。
ただそれだけの事なのだ、と、何故か自分に弁解しながら、さとりは口を開いた。

「それでお燐の罰だけれども」

 と、さとりはお燐に与えている罰について語った。
勿論全部が嘘である。
ただ、権兵衛が余りにお燐が不幸になっていないかどうか心配するので、話題を探すさとりが時折話すようになったのだ。
そうすると権兵衛も喜ぶので、さとりは進んでその話をする。
勿論その因果関係は、間に権兵衛が喜ぶ事によって話をすると言う快感に惹かれ、こいしと話しやすくするためと言う物が入る。
決して権兵衛が喜ぶと言う事と、さとりが喜ぶと言う事が、矢印一つで結ばれている訳ではない。
そう自身に言い聞かせつつ、さとりはお燐について語った。

「今は猫の姿になって、ねずみ退治をやらせているわ。
当然間は口を利くのも無し、声はにゃあって鳴き声だけ許しているの。
お燐は口でねずみを捉えるのが嫌みたいで、手足で捕まえてから熱湯で殺しているみたい。
結構清潔好きなのよね」
「はぁ……」

 猫に大してそれは罰なのか、と一瞬権兵衛は思ったようだが、すぐに納得したようだった。
どうやら権兵衛は幻想郷のねずみ全てが人肉を好むと信じているようである。
なので当然死体も食い散らかされる事になり、死体を運ぶお燐にとって、ねずみは姿も見たくない天敵なのだろうと考えていた。
それにしても、と権兵衛は思う。
お燐さん、あの素晴らしい人に与えられる罰がこの程度で済んで、本当に良かった、と。

 むっ、と思わず自分の口角が下がるのを、さとりは自覚した。
別に権兵衛が他の女を褒めたから嫌な気分になっている訳ではない。
ただ単に、地霊殿の主人である自分よりお燐が褒められている気がするのが、癇に障っただけである。
少し考えてから、さとりは権兵衛に付け足して言った。

「ちなみに。
お燐には、死体に運ぶことは愚か、触れる事も禁じているわ。
泣いていたけど、仕方のない事でしょう」

 とさとりの言葉を聞くと、結構ショックを受けたようで、権兵衛が見目にも分かるほど俯いた。
それから権兵衛が、矢張り自分の“みんなで不幸になる程度の能力”は充分に強力なのではないか、と思い始める。
当然、失態である。
さとりは思わず続けて口を開いた。

「まぁ、この程度何度もあった折檻だもの、大したことではないわ」

 と言うと、少し権兵衛の自虐の念が和らぎ、同時に落ち込んだ自分を心配してくれたのだ、とさとりへ感謝の念が伝わる。
それに少し頬を染めつつも、さとりは後悔に打ちひしがれた。
癇に障ったと言うだけの理由で権兵衛に能力の事を意識させてしまうのは、控えめに言ってあまり賢くない所業である。
そもそもさとりが此処に来ているのは、権兵衛がこいしと話をするよう、精神的に誘導する為なのだ。
その事をもう一度頭に刻みつつも、さとりはこうなってしまったら、一旦時間を挟む事が必要だと考える。
熱くなってしまった頭は、一度冷やすに限ると言う事だ。
さとりは腰を上げた。

「じゃあ、いつも通りにしたら、それで一旦帰る事にするわ」

 権兵衛がたじろぐ気配があった。
そこに戸惑いやさとりに対する心配はあっても、嫌悪は無い事にさとりは安堵する。
権兵衛が、暫くぶりに口を開いた。

「その……何時も思うんですけど、汚くないですか?」
「そんな事は無いわ」

 言って、さとりは靴を脱ぎ、ベッドの上に上がった。
権兵衛の腹の辺りに跨るようにし、ペタンと両手を権兵衛の胸の上に置く。
権兵衛の心臓の脈動が感じ取れて、さとりは少し自分が安心するのを感じた。

「だって、これって……」
「別に飲み込んでいる訳ではないもの。
汚くなんてないわよ」

 言って、さとりは姿勢を少し前傾させた。
両腕を伸ばし、権兵衛の両耳にある目隠しの紐に手をかける。
ゆっくりとさとりは権兵衛の目隠しを外した。
ぱちぱちと瞬きしつつ、権兵衛の瞳がさとりの像を捉える。
権兵衛はこの地霊殿で、さとりの姿しか知らないのだ。
そう思うと、さとりは思わずぞくぞくと背筋に快感が走るのを抑えられなかった。
口角を上げ、少し上気した頬で、にっこりと微笑む。
その顔が冷気を残していない事に、さとりはまだ気づいていなかった。

「さとり、さん……」

 つぶやく権兵衛の首の横に手をつき、さとりは権兵衛を押し倒す形になる。
それからゆっくりと頭を近づけて、権兵衛の目へと口を近づけた。
それからさとりは、権兵衛が目を開いている時を狙って、ぺろりと舌で権兵衛の眼球を舐めた。
権兵衛の目の汚れが、さとりの舌の上に移る。
それからさとりはポケットからハンカチを出し、その上にどろりと唾液を、権兵衛の目の汚れごとこぼした。
その情景に権兵衛が背徳感を覚えるのに、さとりは今にも踊りだしたいぐらいの快感を覚える。

 何時から始まったのか、さとりすらも覚えていないこの作業は、気づけばさとりが権兵衛の部屋を離れる前の恒例行事と化していた。
なんともなしに、さとりはいつの間にか、権兵衛の目を舐めて汚れを取る役目を負っていた。
しかもそれは、さとりにとって何故か全く苦では無かった。
赤の他人の、しかも目の汚れなんて言う物を取ってやると言う行為だと言うのに、全く嫌ではないのだ。
いや、それどころか、快感すらある。

 不思議だな、と思いつつも、さとりは何故だかそれを辞める気が起こらず、毎回権兵衛の目を舐めてやっていた。
今回もさとりは口の中に唾液を貯めて、粘ついた舌で権兵衛の眼球の粘膜を舐め、汚れを取る。
それは権兵衛の目の汚れが無くなってからも、暫く続いた。
さとりは暫くの間、舌に溜まった唾液を権兵衛の瞳に塗りたくり、それを舐め回していたのであった。



 ***



 その日お空は、灼熱地獄跡地への死体の投下を他の妖怪に代わってもらい、さとりに指示されたよりも幾分早めに権兵衛の元へと向かっていた。
羽は思わずぴこぴこと細かく動き、喉からは自然と鼻歌が溢れる。
お空は明らかに上機嫌な様子で権兵衛の元へと歩いていた。
それもその筈、お空が途中にある食堂によると、コックをしているペットに、権兵衛に渡すデザートをくれたのだ。
ここ二日ほど、お空は権兵衛の元に世話しに通っていたが、デザートを渡すのは初めてだ。
しかもこのデザート、非常に美味しそうなのである。
酸味の強い果物を載せたタルトで、薄紫色のクリームの上に、赤や青の果物、それとコントラストを織りなすクリーム色のタルト。
宝石のように輝くそれは、見ているだけでお空がドキドキしてしまうような出来栄えなのだ。
その上、それだけではない。
お空に持つバスケットにはタルトが二つ。
なんと、お空は権兵衛と一緒に食事をする事ができるのだ。

「美味しいかなとか、酸っぱいねとか、甘いねとか、いっぱいお話できるかなぁ」

 何せ自分は頭が悪く、面白い話題もそうは思いつかない。
だけどこのお菓子があれば、きっと楽しい話が出来るに違いない。
タルトを渡してくれた食堂のコックに内心礼を言いつつ、上機嫌なままお空は権兵衛の部屋にたどり着く。

 すぅ、と、深呼吸。
目を閉じれば、権兵衛と楽しそうにお話をしている自分が瞼に投影される。
それを現実にする為には、お空はどんな努力も厭わないつもりだった。
目を閉じた数瞬のうちに、必死に幾つもの権兵衛へ話しかける言葉を考える。
というのも、何も考えないで入ったら、緊張で何も話せないままタルトを食べ終わってしまうと言う可能性すらあるからだ。
思いついた言葉や流れを脳内に焼き付けるようにして覚えるお空。
そしてそれを忘れてしまわないうちに、うん、と一つ頷き、お空は目を開いた。
胸元から権兵衛の部屋の鍵を出し、錠前を開く。
ノブを回すと、ぎぃいぃ、と音を立てて扉がゆっくりと開いた。

「………………え?」

 どさっ、という音と共に、お空はバスケットを取り落とす。
中でタルトが踊り、倒れ、ぐしゃりと潰れた。
しかしそれでも、お空は立ち尽くしたままそれを凝視する他ない。
お空の視線は、ベッドの上に釘付けになっていた。
正確に言えば、ベッドの上の権兵衛と、その上に跨るさとりの二人にだ。

 鮮烈な赤の、さとりの舌がつい、と伸び、権兵衛の眼球の上へと到達する。
するとさとりの唾液がとろりと権兵衛の目の上へ流れてゆき、やがて覆った。
その上でさとりは、舌を上下左右まんべんなく動かし、権兵衛の目を舐める。
暫くするとさとりは口を近づけ、ず、と小さな音を立てて唾液を口に戻した。
姿勢を正し、右手に持つハンカチを顎の辺りに。
頭蓋を少し前傾させ、ゆっくりとさとりは口を開いた。
唇の間からどろり、と唾液が糸を引いて零れ落ち、ハンカチに染みを作っていく。
その扇情的な光景に、背徳を覚えたのか、権兵衛が小さく呻いた。
口の中の唾液を全て出し終えてから、ゆっくりとさとりがお空へと振り向く。

「あら、お空じゃない、早かったのね」

 どうやら権兵衛はその言葉でお空の存在に気づいたらしく、跳ねるような動きで首ごとお空へ視線をやろうとした。
が、権兵衛の瞳がお空の姿を写す暇は無かった。
直前、さとりが素早く手を下ろし、権兵衛の目を隠したのである。

「あぁ………………」

 お空は、何か言おうとしたが、何も思いつかず、掠れた音を鳴らす事しかできない。
頭の中が爆発しそうだった。
体を動かさないといけない、そんな衝動が体中を駆け巡っているのに、動けない。
悲鳴を上げそうな口も、ぱくぱくと声にならない声を出すだけだ。
何もできず、お空は今すぐ何もかも放り捨てて、この場でしゃがみ込んでしまいたかった。
しかし、お空が実際にそうするか否かの瞬間。
お空の視界の中で、確かにさとりはその顔に浮かべる表情を、何時もの冷笑から変えた。
口角は高く、目は細め、唇は艶やかに。
明らかに、さとりは優越感に浸った笑みを作っていた。

「あ………………」

 瞬間、お空の中で何かが切れた。
その線の上には大事な筈の物が幾つも乗っていて、権兵衛に言う筈だった言葉であったり、さとりに対する敬意であったりが、底へと落ちて行くのをお空は感じた。
落ちてゆく中でそれらは色を無くし、黒一色の何かへと成り果てる。
最後にそれは底でべちゃりと不定形になり、堆積していった。
全てが重なりあっていくそこで、突如炎が上がる。
堆積した全てを燃やし尽くす炎は、燃焼物の色を写したかのような、どす黒い炎であった。

「ああぁああぁあっ!」

 全身を舐めるように覆い尽くす漆黒の炎に、お空は突き動かされた。
口は勝手に開いて意味不明の絶叫をあげ、右手の第三の足が全ての制御を解き放ち、核熱のエネルギーが収束する。
白熱したエネルギーがうずを巻いて第三の足の先に集まり、球体を生成。
お空の絶叫と共に、それは撃ち放たれた。

 身動きできなくなる程の強烈な風。
太陽の力を秘め、地霊殿などバターのように溶かしてしまえる熱量を秘めた球体が、光の速度で権兵衛へと撃ち込まれる。
接触の瞬間、白光が部屋を覆い尽くした。
あまりの光量に、部屋中が全て真っ白にしか見えなくなる。
一呼吸程続いたそれが収まったそこには、無傷でベッドに縛られたままの権兵衛が、何時も通りに横たわっていた。
いつの間にか、目隠しも再びつけられていて。

「な、んで……」

 お空が思わず声を漏らす。
そも、見れば権兵衛は気絶させられていたようで、ゆっくりと胸を上下させている事すら見えた。
自分はこんなにも苦しんでいるのに、権兵衛はそれを知りすらしないのか。
再びどす黒い感情が湧き上がると同時、ガツン、と音を立てて何かがお空の首筋を打った。

「やれやれ、流石の私もヒヤッとしたわ」

 その声がさとりの声だと認識すると同時、お空の意識が闇に落ちる。
寸前、もがきながら権兵衛に手を延そうとするが、届かないままお空は崩れ落ちた。
地面に近い視点になると同時、お空はようやく自分が先程バスケットを落とし、タルトを滅茶苦茶にしてしまった事に気づく。
権兵衛とお菓子、食べたかったなぁ……。
内心そう呟きながら、お空は意識を失った。

 気づけば、お空は自室で寝ていた。
体中が鉛になったような気分で、ゆっくりとお空は上半身を起こす。
それから部屋を見回し、お空は自分の部屋にさとりが居る事に気づいた。
腕を組んだままじっとお空を見つめる彼女の姿を見ると、お空は自身の中で再びどす黒い感情が湧き上がるのを感じた。
必死でそれを抑えようと、自分自身を抱きしめる。
暫し震えながら自分を抑えていると、黒い感情は収まっていき、どうにかお空は溜息と共に自分を取り戻す。
再びさとりへ視線をやり、口を開いた。

「あの、さとり様」
「貴方を権兵衛の世話から解任するわ」

 ひゅ、とお空の口の中で息を吸い込む音がした。
解任?
権兵衛の世話を?
頭の中を巡る言葉に、お空は思わず混乱してしまう。
混乱が収まり冷静な思考が戻るまで、暫しの時間が必要だった。
どうにか思考を纏める事ができるようになり、お空は口を開く。

「その、さとり様っ! わ、私が権兵衛を攻撃したからですかっ!」
「そうよ」

 断頭台の如き冷徹な言葉が、お空の言葉を絶った。
ぐ、と一息引きつつも、なんとかお空は続けて口を開く。

「そ、その、それは私、何でか分からなくて……! 別に、権兵衛の事が嫌いとかそういう事じゃないんですっ!
ただ、あの時、苦しくて苦しくて、もうどうしようもなくて……」

 言ってから、お空はあれ、と思う。
権兵衛の事を考えれば楽しい事ばかりで、だから自分は権兵衛の事を大好きなのだと思っていた。
しかし今は、何故か同時にどす黒い感情が湧き上がり、自分を苦しめてしまう。
自分は、果たして権兵衛の事が好きなのか? 嫌いなのだろうか?
お空は悩んだ。
こんな嫌な感情を思い起こさせる権兵衛なんて嫌いだ、と思う部分と、直感的に権兵衛が好きだと感じる部分があって、それらを纏めて理解する事ができない。
どうしよう、とお空は泣きそうな気分になる。
このままじゃあ権兵衛の世話を解任されちゃって、あれ、でもそれは権兵衛が好きだからやりたい事で、嫌いならそんな事せずともいいんじゃあないか……。
そんな思考を中断させたのは、お空の手に伸ばされたさとりの手であった。
なんで? とお空は意味がわからず、さとりの顔を見つめる。

「気づいていないのね。
貴方は今、左手で右手の手首を、血が溢れる程にかきむしっていたのよ」
「……え?」

 思わず疑問詞を漏らしてから、お空は自身の左手首を見る。
確かに手首に大して垂直に、爪で引っ掻いた深い傷跡が見えた。
中からはどろりとした血液が出てきて、ベッドへと零れて染みを作っている。
なんで、私は何もしようとしていないのにっ!
内心で絶叫を上げるお空に、さとりは僅かに目を潜め、口を開いた。

「貴方のその行動は、権兵衛さんの事を考えたからよ。
貴方の嫌いな、権兵衛さんの事を、ね」
「嫌いな……」

 言ってから、お空は思った。
自分は馬鹿だから、自分で権兵衛をどう思っているか分からない。
もしかしたら権兵衛が側に居れば、頭が良くなって自分の感情が分かったかもしれないけれど、今は兎も角分からない。
だから、自分よりも頭のよいさとりがお空の心を読みとった結果ならば、それは正しい事なのではなかろうか。
私は、権兵衛の事を嫌いなんだ。
すっ、とその言葉は自然にお空の中に入り込んできて、納得もできた。
私は権兵衛を嫌いでいいんだ。
もうあんなに辛い思いをしないでいいんだ、と。

 それからのお空は、再び間欠泉地下センターと灼熱地獄跡地を往復するような仕事を続ける事になった。
権兵衛の事を考える事は、少なくない頻度である事だ。
想像の中で、お空は権兵衛に向かって暴力を振るい、また、悪口を投げつける。
勿論嫌いな権兵衛相手に嫌な事をしているのだ、胸が安堵するのをお空は感じた。
なのでお空は、最近暇があれば内心で権兵衛に向かって酷い事をしている。

 そんなある日の事である。
お空は、間欠泉地下センターの仕事を終えた時、地霊殿の方へ戻る最中、ふと外の旧地獄を見た瞬間、赤い瞳と目が合った。
なんとなくそれに心惹かれ、そちらへ飛んで行こうとすると、瞳の持ち主は慌てて逃げようとする。
それでも少し弱っているのだろうか、お空の速度なら容易く追いつけ、先回りする事ができた。
そうしてその瞳の持ち主を認識し、お空は思わず素っ頓狂な声を上げる。

「あれ、お燐!?」
「……そうだよ、お空」

 暗い声で答え、猫がどろんと煙をまくと、人型になった。
少しうす汚れた様子だが、まごう事無きお燐である。
どうしたのだろう、と首を傾げ、お空はお燐に話しかけた。

「えっと、お燐って今はさとり様に罰を受けている所なんじゃあなかったっけ」
「何の話……っ!? そ、そうか……」

 と、さとりに言い聞かされていた事をお空が言うと、電撃に撃たれたかのようにお燐は震えた。
それから、万感の思いを吐き出すかのように、お燐は言う。

「これが永遠に続く事が……私への罰、なんだね……」
「え? よくわかんないけど、そうなの?」
「そうよ。それよりお空、どうしたの、その顔は?」
「顔?」

 言われて、お空は自分の顔に触れた。
特に何かついている訳でも無いし、困り果ててお空はお燐に聞いてみる事にする。

「顔、何か変な所ある? 墨で何か書かれてたり?」
「お空? 本気で言っているの?」

 と言われても、心当たりは無い。
お空が首を横に振ると、腫れ物に触るかのようにお燐が口を開いた。

「だってお空……さっきから、表情を一つも変えてないじゃない。
私の事を見つけても、眉ひとつ動かさないで。
まるで、表情が抜け落ちてしまったみたい」

 泣きそうな表情でお燐が言うのだが、お空には困った事に自覚が無い。
もう一度顔をペタペタと触ってみるが、お空にはいつも通りのようにしか感じられなかった。
どうにか自分の表情を変えてみようと努力するお空だが、お燐の表情を見るに何も変わっていないらしい。
そこで、あ、とお空は思いついた。

「そうだ、これならきっと表情も変わる筈」
「え?」
「こうしてあの人を憎んでいる間は、すごく安心するんだ、だからきっと」

 と言って、お空は脳内で権兵衛に向けて暴力を振るい、罵声を浴びせた。
常にやっているのと同じようにしてみせると、ふっ、と心の中に安堵の気持ちが湧き上がる。
どうだ、これで表情も変わっただろう、とお空がお燐の目を見ようとすると同時、ばっ、とお燐がお空の事を抱きしめてきた。

「お燐?」

 疑問詞を上げるお空だが、お燐はぶるぶると震えながらお空を抱きしめる力を強くするだけ。
ばかりか、泣き出してしまい、うっうっ、と声をあげて涙を零すお燐。
それに困惑してしまって、お空は軽くお燐を抱きしめ返す事しかできない。
そんなお空に、お燐は言う。

「違うよ、違うよお空、今貴方は安心していたんじゃない。
泣いているんだよ。
泣いているんだよ、お空はっ!」

 と、そこまで言ってしまうと、こみ上げてくる物があったのか、お燐は再び嗚咽を漏らすのに腐心する。
言われて、手で自分の頬を触ってみて、初めてお空は自分が泣いている事に気づいた。
私は、憎い権兵衛にひどい事を想像している間、ずっと泣いていたんだ。
でも、それは何でか?
そこまで行くとお空の鳥頭は考えがこんがらがってしまい、よく判らなくなる。
もしも権兵衛の近くに居させてもらえる事ができれば、またよくなった頭で考える事ができたのかもしれないが、それも今となっては不可能である。
それどころか、権兵衛から離れてからのお空は、以前よりも頭が悪くなり始めていた。
このまま頭が悪くなれば、そのうち権兵衛を憎む時に泣いてしまうと言うこの発見すらも、また忘れちゃうんだろうな、とお空は思う。

 お空は、なんとなく天を仰いだ。
地底の天蓋たる岩が照明で照らされており、その下に居るお空の元ではお燐の泣き声だけが残っている。
なんでこんな事になったんだろう。
一体何が悪かったんだろう。
お空には何も分からないが、何か理由はあった筈で、お空にも何かを何とかできた筈である。
しかし実際、お燐は泣き、お空もまた泣いていた。
大粒の涙が地面へとぽつりぽつりと落ち、水たまりを作っていた。

「ねぇ、お空」

 暫くしてから、お燐はお空へと呟いた。
うん、とお空が返すと、お燐はぎゅ、とお空を抱きしめる力を強くする。

「その憎い相手って、一体誰なの?
一体誰が、お空をそんなに変えてしまったの?」

 あぁ、とお空は一つ納得する。
そういえばお燐には、お空が権兵衛の世話をしていた事をまだ伝えていなかったのだ。
さとりから連絡がいっていたと思っていたが、違ったのか。
そんな事を思いつつ、お空はゆっくりと口を開いた。

「権兵衛。お燐の世話していた、あの権兵衛だよ」

 お燐が少し体を離し、呆然とした顔でお空の目を見つめる。
お空はお燐がなんでそんなに驚いているのか分からないので、こてん、と首をかしげるのだった。




あとがき
お空とお燐の会話の後は皆様でご想像ください。



[21873] 地霊殿3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/10/02 19:42


 俺はまどろんでいた。
半分夢の中に居た俺は、呆然と天井を見上げながらぽけーっと口を開けていた。
といっても、見えるのは漆黒の目隠しばかり。
その中で目隠しを通して見える天井の灯りだけが、光彩色として俺の目に写っていた。
それは万華鏡のように移り変わり、次々に幾何学的な模様を作っては崩れてゆく。
綺麗な光景であったが、ここ五日程ずっと見ていて、見飽きた光景でもあった。
次第に覚めていく意識が、体をピクリと動かす。
鎖と、手錠とがぶつかり合う音が響いた。

「……あ」

 口に出して呟き、俺は意識を覚醒させた。
確か、さとりさんに目を舐められている間に、お空さんが来て、それでどうなったのだろうか?
不思議な事にいきなり意識が途絶えてしまい、俺にはよく分からない。
何か手がかりは無いものか、と残り少ない魔力を使って魔的な意識の糸を伸ばし、思わず目を見開いた。

「さ、さとりさんっ!?」
「あら、起きたのね」

 言って、さとりさんはパタン、と文庫本らしきものを閉じた音を立てる。
それを何処へやら仕舞った後に、手を伸ばし、服越しに俺の腹の辺りに触れた。
自然、腹に力が入ってしまう俺に、何時もの冷たい声でさとりさんが言う。

「お空は、危ない所だったわ」

 一瞬、言われた内容が理解できず、俺は言葉を頭の中で反芻する。
危ない?
何故?
――勿論、俺によって、だ。
突如背筋に悪寒が走り、ぶるりと俺は震える。
俺は、あれほど注意していたのに、またお空さんを不幸にしてしまったのだろうか。
体の震えにかちかちと手錠が鳴った。
全身がこのまま沈んでいってしまうような後悔に、俺は目眩すら感じる。

「あら、早合点ね。
もう一度私の言葉を思い出してみたら?」

 言われて、俺はさとりさんの言葉を思い出す。
お空さんは、危ない所だった。
と言う事は、現在は危ない所に居ないと言う訳で、つまりはどうにかなったと言う事になるのだろうか。
思わず俺は視線を、さとりさんが居ると思わしき所へと向ける。
すっと空気が和らぐような、そんな気配があった。

「そう、お空は不幸になるよりも早く連れ出す事ができたわ。
これまで、確証がある訳じゃあないから言わなかったけれど……、私にはそれができる。
分かるでしょう? “心を読む能力”で心を読んでいれば、当然その誰かが不幸になる瞬間が分かるのよ」
「………………」

 思わず、俺は絶句してしまった。
ではお燐さんもなのか、と思うと同時、僅かに俺の腹の上に置かれた手が強張ったような、気がする。
恐らく、俺がお燐さんを害しかけてしまったと言う真実を伝えるのに、さとりさんは躊躇したのだろう。
すぐに硬い空気は消え、柔らかな空気に戻った。

「そう、その通りよ。
まぁ、ちょっとよからぬ事を考えていたから、罰を与えているのは本当だけれど」
「そ、それじゃあ……」

 とさとりさんの言を区切って、俺は続ける。

「それじゃあ、さとりさんがいれば、俺が誰かを不幸にしてしまう前に引き離す、事ができる?」
「えぇ。勿論私が監視できる範囲内でしか不可能だから、地霊殿の中にいない限りそれは不可能な事だけれど」

 と、条件付けするさとりさんであるが、その言は殆ど俺の頭の中に入ってこなかった。
俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主である。
その不幸の量がどれほどであれども、結局不幸をしか生み出せないのならば、俺は最早永遠に誰とも話さず、ただ一人孤独に過ぎす事しかできないのだろうと思っていた。
だが。
だが、しかし。
さとりさんさえいれば、俺はこの地下室から出れないかもしれないけれど、人妖の全てと交流と断たずに済むのではないか。
地霊殿の人妖には、善くできるのではなかろうか。
恩返しはできないけれども、せめて善行を積む事はできるのではなかろうか。
そんな希望が、俺の頭の中を掠めた。
いやしかし、と俺が反射的に甘い希望を掻き消そうと、何か反論を思いつこうとするその瞬間、さとりさんの声がそれを遮る。

「と言っても、地霊殿で力のある妖怪は今少し忙しくて、貴方の世話を任せられる者は居ないの。
だから、どうせ貴方を定期的に近くで観て、異変が無いか確認しなければいけない私が、貴方の世話をするわ」
「さとりさんが?」

 思わず、俺は疑問の声を上げた。
これまでさとりさんは、俺の世話をせず、ただ会話して俺にこいしさんとの会話へ意欲的にさせるのを目的として此処へ来ていた。
それは恐らく、俺と長時間会って、さとりさんが不幸になってしまう事を防ぐ為なのだろう。
ならばさとりさんが身を切ってまで俺に出会う時間を作るのは、何故か。

「こいしが見つかったからよ」

 と、さとりさんは断定的に言った。
ちょうど他の事実に思い当たりそうだった俺の思考は、さとりさんの言に意識を寄せている間に消えてしまう。
いや、しかしさとりさんの言っている事は恐らく事実だろう。
何せこいしさんが見つかったならば、再び見失うよりも早く俺に会話をする気を持たせる必要がある。
俺と出会う頻度を高めるリスクは、再びこいしさんが見つかるまで不幸にならない可能性を考えると、比して低いと判断されたのだろう。
いや、ちょっと待てよ、そもそもそれがリスクになるって事は……。

「と言う事で、あれからもう何時間も経ったし、お腹も空いたでしょう、ご飯をあげるわ」

 再び何らかの答えに辿り着きそうになった俺の思考は、またもやさとりさんの言葉に押され消えていった。
と同時、俺は自身が空腹な事に気づき、思っていたよりも時間が経っていた事にも気づく。
そうなると急にお腹が空いた事に意識が向かい、目隠しから出た鼻孔になんとも言えない良い匂いが漂ってくるのを感じた。

「粥よ」

 と言ってさとりさんが俺に食べさせてくれたのは、普通の白粥だった。
普段は色々と手を凝らした粥が来るのだが、今日はシンプル路線らしい。
いただきます、と挨拶をしてから口に運ばせてもらい、噛み締めると、少し味付けが薄かったり、焦げている部分があったりする。
急いで作ったのだろうか、と内心首を傾げるが、これはこれで素朴でいい味だった。

「美味しいですよ、さとりさん」

 と言うと、ピタリとさとりさんの粥を運ぶ手が止まった。
どうしたのだろう、と内心首を傾げると、再びその手が動き始める。
しかしなんだかその動きが優しくなったような気がして、俺はなんだかこっちまで優しく和やかな気分になっていくのを感じた。
地底に封印されて以来、俺はお燐さんと居てもお空さんと居ても、何処かで暗い部分を抱えたままであった。
が、今こうやって、懸念事項が少しづつ解決されていっているのを感じると、なんだか心の奥底まで暖かな気持ちになれたような気がする。
それと同時に、あれ、と何度か何かに気づきそうになるタイミングがあったのだが、その度にさとりさんがスプーンを口に運んでくるので、俺が何かに気づく事は無いままであった。



 ***



 俺の狂った時間間隔で、半日程が経過した。
この暗闇の中誰もいない一人の時間、俺は殆ど思考と言う物をしない。
それは食事の量が不足気味だと言う事からでもあるし、どうせ何を考えた事でできることは何も無いからでもあるだろう。
だから俺はさとりさんが俺にとって救いの主であると考えたまま、俺は時間を過ごしていた。

 救いの主。
そう、正に俺にとって、さとりさんは救いの主であった。
俺がお燐さんやお空さんを不幸にしてしまう寸前でそれを止め、互いに得であった部分だけを残して別れる。
そんな事ができるのならば、俺はもしかしてこれまで生きてきた中での恩返しすら、何時かはできるんじゃないかとすら思った。
勿論さとりさんに心を読まれるのは俺の恩人達にとって不愉快なのかもしれないが、それでも可能性は残る。
そう思うと、俺は救われたような気分だった。

 それは……それは、どうしてなのだろうか。
漠然とした思考の中、俺は少しだけ考える。
俺は俺の受けてきた恩を返していきたいと思っている。
だが、それは何故なのか。
何故俺は恩を返していきたいのか。
普段はただ一言、善行であり、道理であるが故に、と答えるべき所に、俺は一歩深く踏み込んで考えていた。

 それが善き事であり、褒め称えられる事だからなのだろうか。
いや、しかしそれだけならば他に無数に選択肢があるし、もっと積極的に誰かを救おうと思える筈である。
もし俺がそんな積極的な人間であれば、もっと凄まじい不幸がばらまかれ、酷い事になっていたのだろうが。
ならば何故か。
何故、俺は恩返しをしたいと考えているのか。

 そんな事を考えている途中のことである。
何度か足音のような音がひたりとして、その度に首をかしげてみるものの、反応は無い。
最初は気のせいなのだろうと思っていたが、それが三度目になり、三度目の正直と言う言葉に思い当たった俺は、あ、と小さく声を漏らし、口を開く。

「もしかして、こいしさん?」
「……っ!?」

 息を呑む音と共に、軽い体重の誰かが飛び退く音が聞こえた。
当たりである。
俺はにこりと微笑を作ると同時、内心で迷った。
これまでならば俺はこいしさんに対して、最低限の言葉しか吐かなかっただろう。
だがしかし、今はさとりさんにより、いざとなればこいしさんは不幸になる前に救われる事ができるのである。
と言っても、そもそも相手を不幸にするような事はしなければいいのではないか、と言う見地もあった。
暫し俺が迷い、結論が出るよりも早く、こいしさんが口を開いた。

「権兵衛……って、言うんだよね」
「えぇ、初めまして。七篠権兵衛と言います」
「うん、そっか、挨拶もまだだったよね。
私はこいし、古明地こいしよ」

 と言って、こいしさんの服が擦れる音がする。
なんとなく、頭を下げたんだな、と思い、俺も少ない可動範囲で出来るだけ頭を下げた。
すると何かがおかしかったらしく、くすりと笑うこいしさん。
何が面白かったのか分からないので、俺は困った顔しかできず、そうしているうちにこいしさんは大笑いまでし始めた。

「くす、あはははははっ!」
「こ、こいしさん……?」
「はは、あははははっ!」
「その、俺、何処かおかしかったでしょうか……? 顔、落書きとかされてます?」

 非常に残念ながら、今の俺は目隠しをされているので、落書きをされていてもそれを確認する事はできない。
なのでこいしさんに聞いてみたのだが、それがツボだったらしく、すとん、と膝が落ちる音を混ぜつつ、こいしさんは更に大笑いをする。
当然、理由も分からない俺は肩を縮めつつ、黙ってこいしさんの笑いが収まるのを待つしか無かった。

「あは、ら、落書きだって、あははははっ! ち、違うってば権兵衛~っ! あーもう笑い過ぎてお腹痛い~!」

 と言うこいしさんは、最後にはひーひーと肩で息をしつつ、あーあと呟きながら、リラックスした様子で口を開く。

「もう権兵衛ったら気づかないの?
私、無意識になったままお姉ちゃんと一緒に此処に入ってきたのよ?
つまり私、貴方に十時間以上も話しかけられなかったの。
なのについに話しかける事ができたら、こんなにあっさりした事で。
自分がおかしくなって、笑っちゃったの。
あぁ、落書きがどうのなんて言い出す権兵衛もおかしかったけれど」

 と言われて、あぁ、と俺は納得する。
そう言えば俺は、さとりさんが此処を出て行って以来、錠前を開け閉めする音を聞かなかったのである。
成程、と納得しつつ、俺は思わず口に出して言った。

「そうか、良かったです、こいしさんが俺に話しかけるのが苦でなくて」

 だって……と口に出そうとして、俺はその言葉を口内で消費する。
だって、何だと言うのだ?
俺は誰かを不幸にしかできない男である、話は弾まない方がいいだろう。
ならば俺は、こいしさんがこのまま話しかけられずに此処を去る事を希望した方が良かったのではないか?
自身の疑問に翻弄される俺を捨て置き、こいしさんの話は進んでいく。

「うん、ありがとね、権兵衛。
じゃあ、次も頑張ってみるね」

 次? と俺が口にするより早く、こいしさんはすぅ、と息を吸い込み、緊張した様子になった。
視界には写らずとも、その緊迫した空気は肌で感じられる物である。
思わず黙り込んだ俺を尻目に、緊迫した空気の中、俺のあずかり知らぬ何かがこの部屋で行われていた。

 ごくり、とこいしさんが生唾を飲む音がする。
まるで一本の糸が千切れる寸前にまで力を込められて引っ張られているかのような空気だった。
俺も思わず緊張してしまい、口内が乾いていくのを感じつつ、じっと何かが起こるその瞬間を待つ。
すると、ぴたり、とこいしさんの体温であろう物が俺の右手に触れた。
ぴくり、と俺が体を震えさせると、びくん、とこいしさんもその指先を震えさせたが、それが一瞬の物であったと分かると、ゆっくりと俺の手にまで昇ってくる。
こいしさんの手は、微細に震えていた。
緊張故にか、何故にか。
それはこいしさんと殆ど会話もしたことのない俺には分からなかったが、何故かとても見知った感情であるように思え、俺はそれを大切に扱った。
と言っても、俺に出来る事など、体を動かさずに居る事だけ。
その様子を見守る事すらもできなかったのだが。

「……っ」

 こいしさんが息を飲む音が聞こえる。
こいしさんの手は汗でじんわりと湿っていた。
それ故にか、俺の手と一体化するような動きで、ぴたりと俺の手に合わさりながら、俺の手を昇ってゆく。
爪先、指腹、関節、掌と昇ってきて、やがて手首近くまでたどり着くと、これまたゆっくりとした動きで俺の手を握った。
少女らしい華奢な手に似合わず、強い力が込められている。
自然とその手を握り返すと、こいしさんは安堵の溜息を吐き、少し体から力を抜いたようだった。
俺もまた、小さく溜息をつき、体から力を抜く。

「権兵衛の手、握れたねっ」
「そうです、ね」

 可愛らしく言うこいしさんに、俺は困惑気味に答えた。
俺ごとき馬鹿で無能で何の役にも立たないと言うか、全てを不幸にしてばかりいるような男の手を握るのに、一体どんな苦労があったのだろうか。

「そっか、権兵衛には全然分からないんだよね」

 そんな疑問が声に混じっていたからか、こいしさんは少し落ち着いた声で、そう言った。
その手は小さくて柔らかくて繊細で、とても壊してしまってはいけない物だと思える。
俺ごときがそれを不幸にするなんてあってはいけない、と思えるような手で、だから俺は口を噤もうとするが、それでも理由ぐらいは言ってもいいんじゃないかな、とチラリと俺は思った。
が、それよりも早くこいしさんは続けて言う。

「私、誰かに嫌われるのが、とても怖いの」

 さとりさんやお燐さんから聞いた話だった。
しかし当然の事なのだけれど、他者から話を聞くのと、本人からその話を聞くのとでは、深刻さの度合いが違う。
緊張に俺がごくりと生唾を飲む音が、小さく場に響いた。
驚いてこいしさんが手を離しそうになるのを、俺は咄嗟に握り返し、その場に留める。
少しの間こいしさんは無言でいたが、やがてクスリと笑うと、同じように俺の掌を強く握り替えした。
それで俺は力を抜き、自然体にこいしさんと手を握り合う形に戻る。
こいしさんは、語った。

「誰かに嫌われるんじゃあないかって思うと、本当に怖くて怖くて仕方がなくて、体が竦んじゃうの。
いっぱい嫌われた事があるからかな。
悪意って、本当に身に受けると泣きたいぐらい辛くて、嫌なものなの。
嫌われるって思うと、思い出したくもないのにそんな事が思い出されてきちゃう。
だから私、誰にも嫌われたくない。
みんなに愛想を振りまいて生きたい。
別に好きでいてくれなくてもいいの、ただ嫌わないでさえいてくれたら」

 悲痛に訴えつつ、こいしさんは俺の手をぎゅっと握る。
目隠しで隔たれていても分かる、まるで俺が嫌われない為の唯一の希望で、それを離しちゃったら誰もに嫌われてしまうのではないか、と言うぐらいに必死だった。
ばかりか、その声は不思議と俺の心を打った。
内面がぐちゃぐちゃにかき乱され、俺は自分の中の深い部分が踏み荒らされるのを感じる。
暴力的な気持ちがムカムカと湧いてきて、それでも不思議と俺は、それを解放する気にはなれなかった。
代わりに、鬱屈とした気持ちが俺の中にうず高く積もっていく。

 そう、嫌われるのは辛い。
里で嫌と言うほど嫌われている俺にも、よく分かる話だった。
でも、嫌という程嫌われてその深刻さを知っているからか、俺はその言葉は容易に頷いてしまって良い物ではなく、もっと深い理由と経緯が無ければいけないのだと思う。
だから結局、俺は何の返事もしなかった。
ただ、こいしさんの手を、同じだけの力で握り返した。
言葉ではないそれが、どれほどこいしさんの心に届いたのだろうか。
分からない。
何にせよ、こいしさんは続けた。

「でも、私は嫌われない事ができない妖怪だった。
当然よ、私はさとりだったもの。
心を覗かれて嫌な思いをしない奴なんて、何処にも居やしないわ。
人も当然、妖怪だってさとりを恐れていたし、神様だってさとりを嫌がった」

 小さく、俺は呻く。
そう、嫌われない事ができない運命と言うのは、辛い。
まるで自分で得ようとして得たのではないのに、嫌われる運命を背負うのは、酷い気分だった。
気づかないうちに自分が加害者になっていて、訳もわからないままに罪を背負う。
その理由を天に問うても、偶然や運命と言う言葉しか返ってこない。

 傲慢な言い方を許されるならば、俺もまた、そうだった。
いきなり俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”をつきつけられたのだ。
一番嫌な思いをしているのは俺の所為で不幸になっている人妖の皆なのだけれど、俺もまた、辛かった。
犯した罪にまだ実感は無くて、俺は自分がそんな呪われた能力の持ち主だと言うのに、未だに戸惑っている。
けれど確かな事実としてそれはあって、だから俺は償わなければならない。
しかし俺には償いすらも許されておらず、できるのはただ出来る限り誰かを不幸にしない事だけ。
勿論ゼロにはできない。
だから誰かを不幸にし、嫌われ続ける運命に俺はある。
その点において、俺はこいしさんと共感できる立場に居た。

「だから私は――、そんな自分を無くした。
嫌われると嫌だと感じるその心を、無くしたの。
もうこれで楽しいと感じる事も永遠に無いけれど、辛いとか苦しいとか嫌われるのが怖いとか、そんな風に思う必要も無い。
だから私は、これで幸せ。
幸せだと感じる心も無いから、めでたしめでたしとはいかなかったけれど、兎に角どうにかはなったの」

 ならば俺もまた、何時かはこの心を無くすのだろうか。
皆と関わって、ようやくのことまともになってきたと自負できるようなこの心を、無くしてしまうのだろうか。
皆から受けた恩を、投げ捨てるのだろうか。
今の俺には、そんな事想像もできなかった。
けれど確かに今の俺にはありうる一つの未来として、こいしさんの言葉を受け取る。
掌の感じでそれが分かったのだろうか、こいしさんは頷くような振動を、手から伝わらせた。

「お姉ちゃんは私を哀れに思い、強く生きて欲しいみたいだったけれど、無理だった。
私は、弱かったから。
心を無くさなければ、生きていく事すらもままならなかったから。
だから大好きなお姉ちゃんを裏切ってしまった。
ううん、それは元々だったのかもしれない。
私がお姉ちゃんを大好きなのも、姉妹だからじゃない、自分を嫌わないでくれる唯一の人だったからなのかもしれない。
だから、お姉ちゃんが私に強く生きてなんて言わないで、弱くても一緒に居るから大丈夫って言ってくれれば、私はまださとりで居られたのかもしれない。
勿論、お姉ちゃんが言う事の方が正しいのは分かっているし、私が弱いのが悪いのも分かっている。
多分そんな風にお姉ちゃんに寄りかかっていたら、お姉ちゃんに何かあったら何もできないような娘になっていたのも分かっている。
ただ、そうだったかもな、って思うだけなの」

 俺もまた、精神的弱者である事は明白だった。
ただ、強く生きようと思う事はまだ辞めていない、と思う。
そりゃあ完全無欠に強い、真正面からの生き方ができているか、と問われれば、いや違うけれど、としか答えようが無いけれども。
でも、少なくとも“みんなで不幸になる程度の能力”から完全に目を背けている訳ではない、と思う。
だからこいしさんの言葉は、俺にはまだ遠い先にある言葉だと思った。
ただ、こちらは痛い程に想像できる。
弱くていいよ、と俺に言ってくれる人が居て、俺が精神的に弱っている時にそう言われてしまえば、俺はその人に完璧に依存してしまうだろうと言う事は容易に想像できた。
そしてもし、自分の弱さに負けてしまい心を閉ざした時、依存させてくれる誰かが居たらな、と思う気持ちも。

「だけど、最近、閉じて無くしてしまった筈の心が、開いてしまう事があるようになってきたの」

 こいしさんの手は、汗まみれでじっとりとしていた。
次第に握る力も強まり、少し痛いぐらいだ。
俺はこいしさんが痛みを感じない程度に強く、その手を握り返す。
それにこいしさんが手を握る力を強くし、その堂々巡りだった。

「権兵衛、貴方と出会ってからよ」

 こいしさんの声は、不思議と艶やかさを秘めていた。
全身を舐めるような視線を、皮膚が受け取る。
まるで千本の手で抱きしめられているような感覚だった。

「貴方と出会ってから、私はいろんな事を考えるようになった。
なんでか分からないけれど、一人で居る時や、貴方と二人で居る時には、第三の目が薄目を開ける事もあるようになってきた。
ドキドキした。
貴方の事を考えると、胸が張り裂けそうで、辛いの。
辛いけど、なんだか嬉しい部分もあって。
嬉しさにベッドの上でゴロゴロしちゃう時もあれば、辛さになんだか涙が出てくる事もあった。
だから、私はまた貴方に会いに来た」

 言って、こいしさんはぴとり、と俺の手を頬にくっつける。
暖かな体温に最初吃驚して飛び上がりそうになってしまうが、そうするとこいしさんの事を爪先で傷つけてしまいそうで、なんとかそれを抑えた。
こいしさんの頬は、柔らかくて、マシュマロのようにモチモチとしている。
女の子の肌はなんでこんなに男の肌と別物の作りになっているんだろうなぁ、と頭の片隅で考えた。

「そして気づいたの。
薄目を開けた第三の目は、貴方の思考の表層ぐらいは読めるのだもの。
だから分かったの。
貴方は、私に――、似ている」

 すとん、と胸に落ちるような感覚であった。
そう、俺とこいしさんは、何処かで似ている部分があった。
臆病で、他人の視線を気にしていて、嫌われたくないとして善くあろうとしている。
けれどそれが報われる事は永遠にない事が決定していて、それに諦めに近い感情を抱いている。
勿論俺はまだその道の中途で、こいしさんはずっと先に居る、と言う違いはあるし、俺はもしかしたら途中でこいしさんと違う道を行くかもしれない。
けれど今のところ、俺はこいしさんの辿った道を歩いていた。

「ねぇ、私に、何時かでいい、言ってくれないかしら。
弱くていいよって。
弱くても、生きていていいよって。
そうしたら、私はまた、第三の目を開く事ができる気がするの。
もしかしたら、それは貴方の持つ“みんなで不幸になる能力”の、不幸の始まりなのかもしれない。
だけど、だけれども、もしかしたら――」

 と、そこから先の言葉が見つからないようで、俺の手に頬をくっつけたまま、こいしさんは顔を横に振った。
それから、慌てて付け加える。

「勿論今じゃなくていいのよ、お姉ちゃんと相談もしたいし、それに……」
「言いますよ」

 と、俺は言った。
こいしさんが驚く気配が、なんとなく感じ取れる。
閉じた口を開くのが、鉛で出来た口唇を開くかのような労苦であったが、俺は口を開いた。

「言います。
こいしさんは……あぁいや、さとりさんが同伴した方がいいんでしたっけ、だから今は言いませんけれど。
言います。
何度だって言いますとも」

 こいしさんを不幸にしてはならない。
そういった思いも、俺の中には確かにあった。
この弱くて傷つきやすい少女を、また厳しい生の中に放り出すのかと思うと、それだけで辛い。
ばかりか、俺は“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主なのである。
当然これからこいしさんは不幸になるほかないし、少なくともこの選択によってはそうだろう。
ただ、俺はこの少女を放ってはおけなかった。
俺とあまりに似たこの少女に、何の手も貸さない事に、耐え切れなかった。

 あぁ、俺はなんと言う事をしてしまったのだろうか。
後悔が胸に打ち寄せてきて、頭の中が真っ暗になる。
俺はこいしさんに何も言うべきでは無かったのだ。
この少女が、人に嫌われるのを恐れる少女が、精一杯の勇気を出して口にした小さな願いを、それでも切り捨てるべきだったのだ。
無視して、この少女が顔を歪め、今度こそ絶対に心なんか開こうと思うものか、と永劫に心を閉ざしてしまうのを待つべきだったのだ。
なのに俺はできなかった。
何故。
何故なのだろうか。
そう問うならば。
矢張り、自分の為だろう、と己の中から答えが返ってきた。

 この時、俺は初めて思い知る。
俺は、よく人を助けようとする。
誰かが困っていれば手を貸さずにはいられないし、その時自己を損ずる事も厭わない。
だがそれもまた、俺が誰かに嫌われたくないと言う、利己的な行為なのだ。
今の行為もまた、そうだった。
俺が本当にこいしさんを想っているのだとすれば、俺は苦渋を舐めながらもこいしさんの言葉を無視できていただろう。
だが、俺にはそれができなかった。
俺はなんて利己的で自分のことしか考えていない男なのだろう、と思う。
それでもこいしさんは、暫く呆然としていたかと思うと、急に立ち上がり、叫んだ。

「や……やったっー!」

 多分ぐるぐると何週かステップを踏む音と共に回ってみせて、それから俺の手をがばっと両手で握り締める。

「ありがとう、ありがとうね、権兵衛っ!」
「………………はい」

 俺は最悪の事をしたのだ。
なのに何故か、心が軽くなるような空気だった。
これから俺もこいしさんも、不幸に向かっていく事は違いないのだ。
だけれども今この瞬間だけは、何故か未来に希望が満ちているかのような感覚であった。
それが俺の罪悪感を紛らわせる為の欺瞞なのだと知りつつも、俺はそれに浸り、こいしさんを祝った。
訂正しよう。
俺は、自分の能力から全く目を背けている訳ではない、と思った。
だがしかし、今この瞬間だけは、俺は完全に自らの能力から目を背けていたのであった。
馬鹿だと思う。
阿呆だと思う。
しかし兎に角俺はそんな風にしていて、こいしさんは一人お祭り状態で、わいわいと賑やかにしていた。
そんな状況が、次にさとりさんがこの部屋に入ってくるのと入れ替わりにこいしさんが出ていくまで続くのであった。



 ***



 さとりの部屋に、ノックの音が響いた。
第三の目でその心を覗く事ができない事から、妹による物だと判断し、さとりは最近艶やかさを増してきたその唇を開く。

「どうぞ」
「はーい」

 短い姉妹の挨拶を交わし、こいしはドアを開けた。
その動作を見て、さとりはドキリと心臓が跳ね上がるのを隠せない。
見間違いか、一瞬こいしの第三の目が薄く開いていたかのように見えたのだ。
ドアを閉め、振り返った姿を見る限り、その瞳は閉じたままである。
それに安堵の溜息を吐き、それからふとさとりは疑問に思った。
今自分は何故安心したのだろうか?
そこから直視難い事実が浮かび上がるのを、こいしの挨拶がかき消す。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、ねぇ、報告があるのっ!」
「何かしら、こいし」

 読書をしていたさとりは、本に栞を挟んで卓上に置き、こいしに反対側の椅子を勧める。
ゴシック調の装飾のある椅子を引き、こいしはその上に座ってから、両手を広げて語りだした。

「そのね、権兵衛がね、私の第三の目を開くのに協力してくれるってっ!」
「あら、もう話がついたの?」

 目を見開きながら、さとりは少し心にくすぶるものを感じる。
一体何が自分の心の中に潜んでいるのか。
思索に耽る誘惑を感じたさとりであったが、目の前の妹を優先させようとそれを振り切る。
自分は全てをなげうってでも、妹の第三の目を開こうと決めたのだ。
今更他に何がある、と。

「それでね、それでね、きっと権兵衛がこう言ったら、私の目が開けるかな、って思う言葉があったの。
権兵衛は言ってくれるって言ったんだけど、私はその、目を開く時、お姉ちゃんに一緒に居てもらいたいな、って思って」
「それは勿論、私もできる限り、貴方が心を開く時には一緒に居るつもりで居たわ。
でも、切欠を貴方が自覚できるかどうかが分からなくって……。
その言葉って、どんな言葉なのかしら?」
「えーと、えへへ、内緒っ!」

 掌を合わせ、体ごと傾かせながら言うこいし。
流しても良かったが、出来ればそこは聞いておきたい所だ。
さとりは目を細め、口唇を引き締め、絶対零度の視線で見つめる。
数秒後にはこいしが目をあちらこちらにやり始め、やがて観念したように口を開いた。

「その、別に変な内容じゃあないんだよ?
ただその、お姉ちゃんが聞いても、許してくれるか分からないから……」
「許す……?」

 瞬間、さとりの脳裏に浮かんだのは、権兵衛と永遠を誓い合うこいしの姿であった。
憎悪がさとりの心の中を満たし、どす黒い粘ついた感情がさとりの中に湧き上がる。
しかし辛うじて、さとりはそれを抑えつける事に成功した。
許すと言う言葉から想像される事はもっと広く、権兵衛との誓いとは限らない。
いやそもそも権兵衛が誰と番となろうと、それで怒るのは筋違いではあるまいか。
内心の原因不明の激情を流しきろうと小さな溜息を吐き、優しげな表情を作ってさとりは続きを口にした。

「何のことだか分からないけれど、きっと大丈夫よ。
私の一番の望みは、貴方の第三の目を開く事。
その為なら、なんだって許せるに違いないわ」
「うん……」

 一応頷きつつも、こいしは納得が行かないような顔だった。
なのでさとりは、手を伸ばし黒い帽子越しにこいしの頭をなでる。
すぐさまこいしの顔が紅潮し、それにさとりは小さく微笑んだ。
そう、こんなにも可愛らしい妹の為なのだ、自分は何だってできるし、許せる筈。

「第三の目を開いたら、真っ先に私の心を読んでみなさい。
すぐに私が心から貴方の言葉を許していると分かるに違いないわ。
ね、そうでしょう?」
「うん……そうだよね。
あ、でも一番最初に心を読むのは権兵衛っ!
約束したんだもんっ」
「あら、権兵衛さんに妹を取られちゃったかしら」

 と冗談交じりにさとりが言うと、こいしは真っ赤になって黙り込んだ。
ピタリと、こいしを撫でる手が止まる。
石のような視線をこいしにやってしまうが、幸いこいしは視線を膝先にやっており、気づかないようだった。
パタパタと両手を上げ下げしながら、笑みを隠せぬままにこいしが口を開く。

「その、権兵衛とそういう事は無いのよっ。
ただ、権兵衛と私って、似ている所があるなぁ、って思って。
そしたらなんだか親近感が湧いてきて……、それだけなのよ」
「あらあら、本当かしら」
「本当だよっ、もー!」

 と、こいしをからかうような口ぶりだったが、さとりは自らの視線に粘ついた物が混じっているのを自覚した。
すぐにこいしにそれを向けるのを辞め、膝先に向けて、予定を考えている振りをしてどうにかそれを消そうとする。
しかしいくら意識してもそれを消し去れた自信が無く、さとりは一度眼を閉じた。
小さく息を吸い、吐く。
口腔から頭の中に澄み渡っていく新鮮な空気で、無理矢理粘ついたそれをはぎ取るイメージ。
再びさとりが目を開くと、どうにかそれは消え去っていたようで、こいしが怯える様子も無かった。
こいしを撫でるのを、再開するさとり。

「じゃあ、そうね、もうすぐ少し書類を整理しないといけないから、あと二時間ほど後に、集まりましょう。
場所は……貴方も目を開いた直後は、いくらか権兵衛さん以外の心を読めない状況で居たほうがいいかもしれないし、そう考えるとあの部屋がいいわね。
それでどうかしら?」
「うんっ、わかったお姉ちゃん!」

 言って、こいしは勢い良く椅子から飛び降り、それから椅子をコーヒーテーブルの内側まで戻して、それからとてとてと走りだす。
それから扉の前で立ち止まり、百八十度ターン。
ぱっ、と五指を広げ、笑顔で口を開く。

「じゃあ、それまで権兵衛の部屋に居るわっ。
それじゃあね、お姉ちゃん」
「えぇ、また後で、こいし」

 さとりが手を振り返してやると、こいしは元気な仕草でさとりの部屋から出ていった。
扉が閉まり、足音が消えて行くのを確認してから、さとりは大きく溜息をつき、流れるように卓上へと体を横たえる。
下敷きにした文庫本が、胸にあたって少し痛かった。

「何? 私は、一体何が不安なの……?」

 頭に浮かんだ疑問を呟き、さとりは思索に耽る。
完璧とは言わないまでも、さとりの作戦は予定通りにいっている筈だった。
大事なペットが二体も犠牲になってしまったようだが、結果としてこいしの第三の目は開かれようとしている。
当然問題などあるはずが無いし、犠牲も結果もさとりが承知していた筈の内容だ。
なのに何故か、胸が締め付けられるように痛い。
涙が出そうな感覚に、唇を噛み締め、さとりは耐えた。

「そうね、きっとこいしを救うのが私ではないから、だから悔しいと思って、いる、のよね……」

 口から出る嘘は、自分すらも騙せない稚拙な嘘であった。
それでも、無理矢理それで自分を納得させ、さとりは椅子から立ち上がり、ベッドへとふらふら歩み寄り、倒れるようにベッドの上へと寝転んだ。
先程こいしに書類の整理があると言ったのは嘘である。
ただ、そのぐらいの時間心の準備が必要だろうと、反射的に嘘をついただけだ。
その時間を使って、このぐちゃぐちゃな心を整理しよう、とさとりはベッドの上で自分を抱きしめる。
そんな時、つい口を衝いて出る言葉は、これであった。

「権兵衛さん……」

 ついに、耐えていた筈の涙さえもポロリと零れた。
それが悔しくって悔しくって、さとりは頭を振りながら思う。
権兵衛など、こいしを救うために優しくしてやった相手に過ぎない。
沢山話をしたのも、権兵衛がこいしと話しやすくするための演技に過ぎない。
本当はあんな汚らわしい能力を持った男となど、関わりたくも無かったのだ。
今だってそう、こいしが心を完全に開ききったら、権兵衛など地霊殿から捨ててやるのだ。
いや、まだ何かに使えるかもしれない男だ、保管ぐらいはしておくかもしれないが……。

 そうやって思って、権兵衛の事を心から振り払おうとしても、何故か心の何処かには権兵衛を求める部分がある。
だが、そんな事はさとりと言う種族にはあってはならないのである。
さとりに必要なのは孤高に立ち続ける鋼の魂。
誰かを求める心など、必要無い。
例外は家族だけ、それ以外を思う必要など唯の一つも無いのだ。

 だからさとりは、心の中から権兵衛を消し去る作業を始めた。
権兵衛との思い出の一幕を心の中で絵にして、それに火をつけ焼き払う。
楽しかった思い出も、苦しかった思い出も、全てを同じ灰にして、散らしてしまう。
それでも思い出を思い出すと、そこから連鎖していくつもの思い出が出てきてしまい、権兵衛の事を心から消し去るどころか、これまで以上に権兵衛の事が強く心に焼き付く事になる。
そんな作業を二時間続けて、それでもさとりは権兵衛への想いを消し去る事は出来なかった。
その想いがどんな言葉で呼ばれる物か、考えようともしないままに、時間は来たのだった。



 ***



「失礼するわ」

 と言う声と共に、俺の部屋の扉が開いた。
すると俺の手を握ったまま談話していたこいしさんが、ぴくりと体を動かし、恐らくさとりさんの方を向く。
ぶんぶんと風を切る、恐らくは手を振る音。

「あ、お姉ちゃん、いらっしゃーい!」
「こんにちは、さとりさん」

 何故か、さとりさんの返答は僅かに遅れた。

「……えぇ、こんにちは、二人共。
ごめんなさいね、少し遅れちゃったかしら」
「ううん、全然待ってないから、大丈夫っ!」

 俺も頷き同意すると、何故だかさとりさんの歩みは僅かに遅くなったような気がする。
と言っても、所詮目隠しをされたままの俺である、耳でしか確認はとれず、勘違いかもしれないと思う程度なのだけれども。
しかし体調でも悪いのか、心配になって口に出そうとして、それから既にそれがさとりさんに伝わっている事に気づき、俺は口をつぐんだ。
すると気持ち、さとりさんの歩みが早くなったような気がした。
それは無理をしていないと言うさとりさんのアピールなのだろうが、それさえも俺が無理に引き出してしまったのではないか。
少し心配になる俺だったが、さとりさんの自己管理能力を信じて思考を打ち切る事にする。
何故か、目隠しごしにさとりさんと目が合ったような気がした。
あの冷たい中にも、僅かな温かみが残る笑みを、見たような気がする。
何かが通じ合ったような気がして、そんな事実など何処にも無いのに、何故か俺の心を安心感が漂った。

「それじゃあお姉ちゃん、早速始める前に、まず権兵衛さんの目隠しを取ってもいいかしら」
「……えぇ、そうね」

 と、こいしさんの声に、さとりさんの声が僅かに冷たさを増した、ような気がする。
それに感づいたのか、慌てて付け加えるこいしさん。

「その、なんて言えばいいんだろう、私が心を閉じている所はこれで見納めな訳で。
権兵衛に、何時か心を閉じるような事があっても、誰かに助けを求めれば、また心を開けるんだよ、って知ってほしくって。
その、権兵衛も、辛い能力を背負っているから、だからっ」
「大丈夫、反対なんてしないわよ」

 くすりと微笑みながら、さとりさんは言った。
目隠しをしている俺の観点からも、いつも通りの冷たさのさとりさんで、先程一瞬あった粘ついた冷たさは無い、と思う。
さとりさんがペタペタと足音を立てながら俺の側に立ち、ぺたりと俺の顔に触った。

「じゃあ、目隠しを取るわよ。
眩しいでしょうから、権兵衛は目を閉じていて」
「あ、はい」

 と言うと同時に、さとりさんは俺の右耳から目隠しの紐を外す。
ひんやりとしたさとりさんの指が耳に触れるのは、なんだかもぞもぞしてこそばゆい感覚だった。
恥ずかしいから早く終わってくれないかな、と思う俺の心を読んだのだろう、さとりさんは急に手の動きをゆっくりにし、左耳の紐を外すのにはちょっとした時間をかけた。
じんわりと、俺の体温がさとりさんの低めの体温で侵される感じは、なんだか背徳的で頬が赤くなる。

 さとりさんが目隠しを取って離れると、灯りが瞼を通して瞳へと届いた。
赤く染まる視界が落ち着いてから、俺は細目を開けながらそれに慣れる事に腐心する。
やがて目が慣れてきてから、俺は首ごと横を向き、さとりさんとこいしさんが居るであろう辺りへ視線をやった。
紫水晶の髪に低温の視線、白磁の肌のさとりさん。
その妹たるこいしさんは見当たらず、代わりにさとりさんの後ろから、黒い帽子のつばが見えている。

「………………こいし?」
「………………こいしさん?」
「ひゃ、ひゃいっ!」

 と、呼ばれると返事をして、こいしさんはぴょこんと横に飛び出し、俺の視界に入った。
姉を見れば想像できる話だったが、こちらも大変な美少女であった。
黒いつばありの帽子からは銀色に輝く少しウェーブした髪が覗き、瞳は深い緑色、緊張故にか白い肌の頬は赤く染まっている。
ベージュの上着に緑のスカートから、眩しいぐらい白い足が覗いていて、少しスカートの丈が短い以外は姉妹で似た印象の服であった。
第三の目は左胸の辺りに位置し、こちらはさとりさんと違い紺色で、触手の数も少ない。
それは心を閉じているが故なのだろうか、それとも妹であるが故なのだろうか。
などとそんな事を考えていると、すっ、とさとりさんが手を伸ばし、俺の腹の肉をぎゅ、とつまむ。
思わず悲鳴を上げそうになるのを隠して、すぐに手が離れていくのを一瞬恨めしく見つつ、俺はこいしさんに向かって口を開いた。

「想像していた通り、可愛らしいですね、こいしさん」
「か、可愛いっ!?」

 こいしさんは、飛び上がった。
それから両頬に手をやり、指の隙間から目を出して、足元に視線をやる。
何かいけない事を言ってしまったのだろうか、と思うと同時、再び腹に一撃。
顎の辺りが引きつるのを感じつつ、涙目でさとりさんに視線をやると、プイ、とそっぽを向かれてしまう。
仕方なしに、こいしさんに向かって話しかける。

「その、何か悪かったでしょうか?」
「へっ!? い、いや、そんな事無いよ、嬉しいなっ!」

 と言って、バンザイをして喜びを顕にするこいしさん。
ならなんで腹をぐりっとやられたのだろう、とさとりさんに目をやると、すました顔でこほん、と咳払いしていた。
冷たい視線と共に、さとりさんが口を開く。

「じゃあ、早速だけど、二人とも始めてもらおうかしら」
「………………うん」
「………………はい」

 一歩さとりさんが引き、代わりにこいしさんが俺の目前に出てくる。
そして目を瞑って深呼吸。
前に手を揃えたまま大きく息を吸い、吐くこいしさん。
目を見開く。
エメラルドグリーンの瞳が、俺を率直に見据える。

「お願いします、権兵衛」
「はい」

 俺もまた、目を閉じ、数瞬考えに浸った。
俺はこれで、こいしさんを幸福にできるのだろうか。
否、出来るはずがない。
俺は“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主なのである、そんな事は不可能だ。
しかし同時に、論理的に言えばこいしさんが心を開いて幸福になるのは確かな筈である。
ばかりか、心を開いて得るのは幸福ばかりではなく不幸もまた待ち受けているのだ、第三の目を開くこと自体はできるかもしれない。

 俺は、そこに救いをさえ見出していた。
俺は全く負の価値しか持っておらず、不幸になるだけの惨事ばかり引き起こす最悪の存在では無いかもしれない、と思っていたのだ。
結果的に不幸と言われるようになっても、人はその道を行こうと見出す事がある。
その手助けをできるのだとすれば、あるいは俺の価値は完全なマイナスでは無いのではないか。

 呆れた事に、俺はこの期に及んで自分の事を考えていた。
屑である。
下衆である。
最悪な男である。
だがしかし、やるのだ。
決意と共に、俺は目を開き、こいしさんを見据え、そして言った。

「こいしさん……貴方は、弱くてもいいのです」

 たったの一言であった。
だが、そこに俺は万感の想いを込めた積りだった。
それが果たして届いたのだろうか、こいしさんは目に涙を浮かべる。

「……うん、ありがとう、権兵衛っ」

 こいしさんが縦に首を振ると、目尻から涙が零れ、宙に浮いた。
それはぽつり、とこいしさんの第三の目に落ち、その表面を伝ってその目に達する。
その瞬間からであった。
ゆっくりと、こいしさんの第三の目が、その瞼を開けていく。
涙が睫毛を伝っていき、目の起伏に捉えられて一瞬溜り、それからこぼれ落ちていく。
その様は、まるでこいしさんの第三の目が泣いているかのようだった。

 こいしさんは、頬に涙の跡を作って、俺を見た。
振り返って、さとりさんを見た。
第三の目から触手が伸び、さとりさんを貫いた。

「………………え?」

 俺が間抜けな声を漏らすと同時、さとりさんの口から冗談のように大量の血がこぼれ落ちた。
さとりさんは信じがたい物を見る目で、こいしさんを見る。

「こい……し……?」

 触手が鞭のようにしなり、さとりさんを壁に叩きつけた。
ばぁあぁん、と大きな音がし、まるでカラーボールでもぶつけたみたいにさとりさんの血が壁一面に飛び散る。
遅れてさとりさんの体がずるりと剥がれ落ち、床に転がった。

「………………え?」

 間抜けな俺は、再びそんな声を漏らす事しかできなかった。
そんな風に呆然としている俺へと、こいしさんが向き直る。
さとりさんの返り血を浴びた顔は、先程よりももっと純粋で可愛らしい満面の笑みであった。
特にその瞳は、明らかに狂気を抱えていた。
先程まで透明な、エメラルドのような輝きをしていた瞳は、まるで木々に覆いつくされ闇しか無い森林で微かに覗く緑を思わせる。

「ごめんね、権兵衛、ちょっとだけ我慢してね」

 と言うと同時、こいしさんの第三の目から再び触手が伸び、俺の三つの手錠を破壊。
自由になる俺であったが、あまりの光景に頭が追いつかず、何一つ行動は起こせなかった。
そんな俺を、こいしさんが抱きあげる。

「それじゃあ、権兵衛、此処を離れなくちゃいけないから、いい子にしててね」
「どう、いう………………」

 俺が疑問詞を吐くよりも早く、俺を抱き上げたままこいしさんは扉を凄まじい勢いで開く。
ばぁぁん、と、先程さとりさんが叩きつけられた音に似た音がした辺りで、俺はようやく頭が回転し始めた。
何が起きた?
こいしさんが、さとりさんを攻撃して。
血が一杯出て。

「な、何で、どうして……?」
「ごめんね権兵衛、もうちょっと此処から離れてからにしてね」

 にべもなく俺の言葉を断り、こいしさんは物凄いスピードで飛び始めた。
彼女より身長の大きな俺を両手で抱きしめつつ、地霊殿の外へ向かう。
びょうびょうと風切音が五月蝿い。
長い廊下を飛び出ると同時、掌で掴めそうなぐらい小さな地底の街が眼下に見えた。

「あはははは、権兵衛、やったよ権兵衛っ!」

 こいしさんは狂気を孕んだ笑みを辞めなかった。
ぐるぐると空中を、その喜びを発散させるかのごとく飛び回る。
その回転についていけなくなって、目を回してしまいそうになった所で、そんな俺の心を読んだのだろう、こいしさんは急に止まった。
慣性ですっ飛びそうになる俺を抱え、ぐっ、と俺の顔を覗いてくる。
こんなにも異常な事態だと言うのに、こいしさんの顔は満面の笑みだった。
まるで花弁が開いたかのように華々しく、頬についた血飛沫はまるで化粧の一部であるかのように思える。

 何故、と俺はこいしさんに内心で問うた。
何故、さとりさんをあんな目に遭わせたのですか。
どんな必要があって、全てをなげうって妹を救おうとしていたさとりさんを、攻撃したのですか。

「ううん、お姉ちゃんはね、結局私の言葉を認めてくれなかった。
弱くてもいいよ、って権兵衛が言った時、そんな訳無いって思っていた。
これでは……、何の救いにもならないじゃあないか、って思っていたの。
変よね、私は心を開いて、それで大団円じゃあなかったの?
お姉ちゃんは私がどんな言葉を求めても、許してくれるんじゃあなかったの?
お姉ちゃんは、嘘つきだった。
嘘つき、しかもそれだけじゃあなくってっ!」

 一旦言葉を切り、こいしさんはぎりぎりと歯を噛み締め、鬼のような形相で地霊殿を睨みつける。

「お姉ちゃんは、私から権兵衛を奪おうとしていたっ!
私が自立していくに従って、権兵衛を私から離そうとしていたっ!」

 しかしそれは、俺の能力を鑑みればこいしさんの事を思っての事なのではないか。
反射的にそう思う俺に、くすり、とこいしさんが微笑を浮かべる。
血飛沫のある頬が陰影を作った。

「それだけじゃあない。
お姉ちゃんは私から離した貴方を、どうしようとしていたんだと思う?
飼おうとしていたのよっ!
自分だけのペットとして、地霊殿の自分しか知らない場所に封印してっ!
権兵衛を、独り占めしようとしていたのよっ!」
「………………え?」

 あまりの事態に心の方が追いつかない。
それでは、さとりさんが不幸になってしまい……。
とそこで、俺は理解する。
確かにさとりさんは、俺の周りから不幸を遠ざける事ができるかもしれない。
だが、さとりさん自身を不幸から守る物は、何も無い。
さとりさんは彼女が不幸になってしまえばそれでおしまいの、仮初めの救世主だったのだ。
そして、俺の気づかぬうちに、その仮初めの救世主の時間は終わっていた。

 しかも俺は、それを理解できるだけの脳みそを持っていたと言うのに、何故気づかなかったのか。
これもまたすぐに思いつく事であった。
我欲である。
己が幸せになる可能性が残っていると言う希望に縋り付いた、惨めな精神の表れである。
そんな事をようやく理解し、顔を青くする俺に、楽しげにこいしさんは続けた。

「そしてお姉ちゃんは権兵衛にとっても嘘つき。
お燐もお空も、不幸になる前に助けられてなんかいない。
二人とも、今となっては不幸になり続ける、坩堝の中に居るわ。
だって、ほら」

 と、またもや衝撃的な事実を告げつつ、こいしさんが眼下を指さす。
反射的に魔力で目を強化して拡大して見ると、そこには赤紙の猫らしい女性と黒髪の黒い羽の生えた女性が居た。
血だらけになり、今にも生き絶えそうな二人が居た。
二人はそれでも立ち上がり、猫の女性は鬼のような形相で、鳥の女性は全くの無表情で殴り合いを続けている。
あれが、お燐さんとお空さんだと言うのか。
届かぬと知りながらも、思わず手を伸ばして叫んだ。

「馬鹿、な、だってさとりさんはっ!」
「嘘つきだったの。
貴方に私を救わせる為の、嘘」

 すとん、と。
今度こそ俺は飲み込めた。
俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主なのだ。
永遠に呪われ続ける、最悪の能力の持ち主なのだ。
それが口だけではなく、心の奥底から理解できた。
今更になって、やっとの事で。

「泣いてるの? 権兵衛」

 そうこいしさんに問われて、俺は初めて自分が泣いている事に気づいた。
今後に及んで俺は自分が可愛くて泣いているのだろうか、とふと思う。
ただでさえ最悪の能力の持ち主だと言うのに、いやだからこそなのだろうか、俺は最低の精神の持ち主でもあった。
そんな俺に、にこり、と天使のような微笑を見せるこいしさん。
俺にそんな笑顔を向けて貰える価値など無いのに、と思うが、思わず見惚れてしまうようなその笑みから、俺は目を離す事すらできなかった。
それ程までに、こいしさんの笑みは魅力的で、俺は精神的弱者であった。

「そう、権兵衛の心は弱い。
私と同じで、弱い心の持ち主なの。
だからねぇ、権兵衛、同じ弱い心の持ち主同士、傷を舐めあえばいいのよ。
ねぇ、権兵衛、だから私と、ずっと一緒に……」
「と言う訳にはいかないのよね」

 声。
ばっ、と振り向こうとするこいしさんのトルクに引っ張られ、回転の外側に浮く俺。
次の瞬間どすどすどす、と肉を貫く音が聞こえた。
直後、こいしさんの口からけぷ、と血が溢れる。
何があったのだ、と新しい声の主の方に視線をやると同時、俺は驚愕した。
赤いリボンに脇出しの巫女服。
博麗霊夢さんがそこに居た。

「全くもう、ようやく地霊殿を出てきてくれたのね。
そこまで待つのが最善だと私の勘が告げてなければ、とっくのとうに突っ込んで権兵衛さんを取り返していたのに。
まぁ、お得意の無意識の能力が使えなくなってるみたいだから、これで良かったんだろうけれども」
「こ……紅白ぅうっ!」

 咆哮と同時、こいしさんの触手が伸びようとするが、そこに吸い込まれるかのように霊夢さんの放つ針が飛来し、触手を弾いた。
直後、霊夢さんは姿を消した。
瞬き程の間でこいしさんに隣接、雷鳴のような速度でお札をこいしさんの額に張る。
な、と小さくこいしさんの驚愕の声が聞こえた。

「じゃあね、さとり妖怪」
「やめ……」

 直後、極光。
ぼん、と肉が潰れるような音がし、こいしさんの手が俺から離れる。
次いでこいしさんは墜落していき、俺だけが霊夢さんに抱きとめられた。
慌てて俺はこいしさんへと視線をやるが、顔から黒い煙を出したままで、その様子は分からない。
大丈夫か、と声を出そうかと思ったが、それよりも早く霊夢さんが俺の首筋を打った。

「悪いけど、上につくまでは面倒臭いから寝ててもらうわよ」

 待って、と言おうとして、その呂律が回らない。
ぐらりと視界が傾き、意識が闇の中へと薄れていく。
最後に一瞬だけ霊夢さんの口元が見えて、それが少しだけ微笑んでいるのを確認するのを最後に、俺の意識は闇の中へと消えていった。




あとがき
次回、再び博麗神社編。
そろそろ締めに入ります。
そういえば前回の更新で一周年を過ぎていたんですね……。



[21873] 博麗神社4
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/10/06 19:32


 はっ、と覚醒。
掛け布団を弾き飛ばし、起き上がる。
荒い動悸に呼吸を、俺は心臓の上に手をおいてそれが穏やかになるのを待つ。
それから俺は、ゆっくりと部屋の中を見渡す。
いつも通りの俺の部屋であり、そこには何の変わりも無いままである。
悪い夢でも見たのだろうか。
疑問に思いつつ、俺は再び部屋を見渡した。
この部屋を、そしてそれを含む小さな屋敷を買うまでに掛かった苦労と言う物を思い出す。
俺、七篠権兵衛は、ただの記憶喪失の男として幻想入りした。
当然外の世界に取り敢えず戻そうと言う事になったのだが、何故か俺は外の世界に戻れなかったのだ。
眼の前が真っ暗になる感覚を覚えた俺だが、出来ることどころか記憶まで無い俺を、里人は皆暖かく迎え入れてくれた。
特に慧音さんは、優しかった。
当初の俺の仕事は彼女の補佐と言う物で、随分お世話になったものである。

 そうこうしているうちに、俺はある日突然に霊力に目覚めた。
となれば、いつまでも慧音さんに寄りかかった生活ではいけない。
里人の中でも稀有な霊力の量を持った俺は、幻想郷の運送業を始める事にした。
勿論、トラブルが無かった訳ではない。
しかし俺は、その仕事を経て掛け替えの無い友人を得てきた。
白玉楼に大量の食材を運び、疲れて倒れた所を妖夢さんに看病され、数日過ごすうちに妖夢さんと幽々子さんと仲良くなり。
永遠亭に薬の材料を運んだ時には、暇そうにしていた輝夜さんと話が合い、連鎖的に他の永琳さんや鈴仙さん、てゐさんと仲良くなり。
太陽の畑に肥料を運んだ時には、いきなり弾幕とぶっ飛ばされたりしたものの、結果的に幽香さんと仲良くなり。
博麗神社へ食料を運んできた時には、霊夢さんに会いに来ていたレミリアさんに運命を見てもらった事で、レミリアさんと咲夜さんと仲良くなり。
歩いて永遠亭へ向かおうとした時には、迷った所を妹紅さんに助けてもらい仲良くなり。
妖怪の山に散歩に行った時には、取材を受けたりして文さんと椛さんと仲良くなり。
魔法の森に運送をしに行った時には気分が悪くなった所をアリスさんに助けてもらい、仲良くなり。
妖怪に危うく負けそうになった時には聖さんに助けられ、命蓮寺の面々とも仲良くなり。
地底まで身元不明の死体を運んだ時には、さとりさんとこいしさん、お燐さんにお空さんと仲良くなり。

 俺は卑小で大した役にも立てなかったけれど、みんなの心を支えようとし、俺の勘違いでなければ、皆を支える事もできていた。
ささやかだけれども、最高の幸せであった。
その集大成として、今日は俺の家で宴会が行われるのである。

 さて、幹事として俺は一日頑張らなくてはならぬ。
俺は食料と酒が充分にある事を確認し、宴会場を掃除してピカピカにして、皆を待った。
これから楽しい時間が待ち受けているのだと思うと、気分が高揚して、なんだかふわふわした感じだった。
どうしよう、まだまだ時間はあるのに今からこんなに幸せでは、宴会が始まった時俺はどれほど幸せになる事なのだろうか。
そんな風に思いながら、俺は相好を崩しつつ掃除やら料理の下準備やらを済ませていた。
それにあまりに力を入れすぎてしまったからなのだろうか、それともこの日の太陽があまりにも優しく降り注いでいるからだろうか。
俺は眠気に誘われて、うとうととしてしまう。
思わずこっくりと舟をこいでしまう俺の頭を、すっと白い手が撫で、その心地よさに俺は目を細めた。
ゆっくりと夢の世界へ引きずられていく。
幸せな夢だといいな、と思いつつ、俺は少しの間睡眠をとる事に決め、睡眠の誘惑に身を預けた。



 ***



 目が覚めた。
俺はいつの間にか、布団に入って寝入っていたようだった。
弾かれたように起きだし、周りを確かめると、障子からは未だ陽光の覗く時間である。
良かった、と思いつつふと室内を見回すと、霊夢さんが正座していた。
え、と思わず声をだしてしまう。

「おはよう、権兵衛さん」
「お、おはようございます、霊夢さん」

 と言いつつ、俺は次に室内を見渡す。
見覚えがあるが、しかし多分これは博麗神社の中ではあるまいか。
記憶の中と照合を取るに、多分俺が寝かされていた事のある部屋である。

「あ、れ、何故俺はここに? 早く帰って、支度をしなきゃ」
「は? 何のかしら?」
「え、だってその、俺が開いた、皆の来る宴会の支度を……」

 と言いつつも、霊夢さんの声があまりに冷たく鋭かったので、俺は次第に声を小さくしてしまう。
そんな俺に呆れたのだろうか、霊夢さんは溜息を一つ。
ぱしん、と乾いた音が響き渡った。
遅れて痛みが走り、脳から眠気が掻き消える。
現実感がようやく背中をぞぞっ、と昇ってきて、俺の思考がはじけた。
そっと腫れた頬に手をやりながら、俺は呆然と霊夢さんに視線を戻す。
半目の呆れた様子のまま、霊夢さん。

「目は覚めた?」
「……はい」

 最悪の気分だった。
俺が皆を幸せにするなどと言う夢想は掻き消え、俺は誰をも不幸にする事しかできないと言う現実が戻ってくる。
しかしその気分は一切が俺の呆れた脳みそに原因があり、霊夢さんには何の要因も無いのである。
俺は何とか顔に表情を作り、暗さを払拭しようと努力した。

「此処には私一人だし、どんな顔していようが構わないわよ」

 あまりにも鋭い霊夢さんの声に、俺は刹那言葉を失った。
それから、俺は俺の心の赴くままに、表情筋の一切への干渉を辞める。
表情のこそげ落ちたその顔は、さぞかし醜いだろうに、平気そうに霊夢さんはじっと俺を見つめていた。
全く、頭の下がる心の強さであった。

 さて、何にしろ、果たして俺はどうして此処に居るのだろうか。
こいしさんは無事だったのだろうか。
あらゆる疑問が俺の中を這いずりまわるが、出すべき言葉は、ただ一つである。

「霊夢さん」
「何よ」
「俺を、生物の存在しない、死の砂漠のような場所に案内してはくれませんか」

 そう、俺を生物の存在しない場所に封印する為の言葉である。
俺が現状を把握しても、現状をより不幸にする事しかできない。
俺がこいしさんを気にかけても、不幸にする事しかできない。
ならば俺の気にすべき事はただひとつ、俺と言う最悪の生物が他の生物に接触しないようにする事であった。
それを察したのだろうか、一瞬目を細め、霊夢さんは言う。

「そんな場所は無いわ」
「ならばその候補となる場所を教えて下さい」

 返ってくる返事は予想の範疇であったので、俺は頭を下げて言った。
幻想郷は元々人妖がバランス良く住む理想郷に近い場所である、死の砂漠のような場所があるとは思っていなかった。
そんな場所をこれから創りだしてしまう事は、きっと何よりも罪深く、許されざることだろう。
それでも、散々移動して幻想郷中に不幸を振りまくよりはマシだと、自身に言い聞かせる。
暫し沈黙があって、霊夢さんが口を開いた。

「それもないわ。
この幻想郷は、無縁塚のような死体の集まりでさえも、幽霊が大量に居る場所になる世界よ。
どこも命に溢れて、貴方の望む生物の真空のような場所は存在しない。
ただ……」

 と言って、霊夢さんはその美しい唇に指を沿わせる。

「ただ、幻想郷の中でも特に強い者の居る場所は、その限りではないわ。
貴方の望む程では無いにしろ、妖怪なんかは強者の気配に寄ってこなくなる。
と言っても、気休め程度ね、妖精とかは死んでも生き返るし、遊びで特攻に来る事もあるから。
それと……」

 と、一旦霊夢さんは区切った。
それから、彼女にしては珍しい事に、俺と床との間で視線を往復させる。
霊夢さんは何時も即決即断で、このように迷った姿を見るのは初めてだったので、俺は思わず目を見開いた。
それに少しむっとした顔をしつつ、霊夢さん。

「一応、此処もその範疇に入るわ」

 言われて、はて、と俺は首を傾げる事しかできなかった。
だからといって、俺が此処に住むと言う訳にもいかないだろう。
何せ博麗の巫女たる霊夢さんは、この幻想郷を保つ為に必要不可欠な存在なのだと聞く。
であれば、彼女を害する可能性のある俺が此処に居つくなど、愚行にも程があると言えよう。
何か深遠な理由があるに違いないけれど、結局俺のポンコツな頭脳では分からない。
なので、素直に聞いてみる事にする俺。

「その、それはつまり、どういう事なんでしょうか」

 そんな俺の反応が愚かだったのだろう、呆れるように霊夢さんは溜息をつき、告げる。

「あんた私の能力を知らないんだっけ」
「は、はい」

 と頷くと、再び霊夢さんは溜息。
なんだか脱力したみたいに姿勢を崩すと、呆れ声でこう言うのだった。

「私の能力は、“主に空を飛ぶ程度の能力”。
つまり、無重力。
私は幸不幸の概念の平地からも、重力に引かれる事なく浮く事ができるのよ」
「…………………え?」

 霊夢さんの言っている意味が、分からなかった。
一度反芻、二度目、三度目になってようやく言っている言葉が耳に届くようになる。
つまり、どういう事だ?
疑問と不安が混ざり合った頭のまま、俺が小さく呟くと、霊夢さんはまたもや溜息をつきつつ、言った。

「つまり私は、あんたの“みんなで不幸になる程度の能力”の影響を受けないって事よ」
「…………………あ」

 思わず、小さな声が俺の喉から漏れた。
未だに脳みそは労働を放棄しており、俺には霊夢さんの言っている意味が上手く理解できない。
ただ、一つだけ分かった事がある。
俺は、霊夢さんを不幸にせずとも済むのだ。
それが遅れた実感と共にやってきて、涙に変わり、ポロポロと零れ落ちる。
うっ、ううっ、と嗚咽をあげ、俺は泣き出した。
そんな俺を、霊夢さんは少しだけ困ったような、それでも相変わらず適度に距離を取ったような、不思議な笑顔で見つめる。

「お、俺は、こ、此処に、居て、いいんです、か?」
「家賃代分、働いてくれるならね」

 そっけない霊夢さんの言葉が、しかし今となっては俺にとっての唯一の救いであった。
わっ、と泣き出す俺に、汚いわねぇ、とため息混じりに手ぬぐいを手渡してくれる霊夢さん。
変わらずに俺の事を他人ごとのように見つめているその姿は、本当に俺の感動などよりも、布団が汚れないかを心配しているかのようで。
その無関心さが、下手な愛情よりも嬉しかった。
涙が大粒となり、渡された手ぬぐいをすぐさまぐちゃぐちゃにしてしまう。
誰かを不幸にせずにいられるかもしれない。
夢の中で思う事しかできなかった事が、目の前に転がっているなんて、なんていう奇跡なのだろうか。
そんなふうに思いながら、俺は兎に角泣き続けた。
霊夢さんからもらった手ぬぐいがびっちょりと濡れて雫を垂らしそうになるまで、泣いて泣いて泣き続けるのであった。



 ***



 半刻ほど俺が泣き続けた後のことである。
霊夢さんは面倒くさそうに溜息をついた。
さっきから霊夢さんは溜息をついていて、これではこの部屋は霊夢さんの溜息で一杯になってしまっているのかもしれない。
これでは折角の幸せも何処かへ行ってしまうかもしれないだろう。
だけど俺は、今の俺は幸せでいっぱいすぎて、何処かへおすそ分けしてあげたいぐらいの気分だった。

「家事は平等に分担よ。
とりあえず今日は私がご飯を作るから、権兵衛さんが掃除と洗濯と風呂沸かしね」
「はいっ!」

 と、俺が元気に返事をすると、霊夢さんが妙な顔を作る。
暫し天を仰いで悩むと、またもや溜息混じりに俺へと言った。

「まぁ、納得しているんならそれでいいんだけど……。
それにあんた、私の能力の事、嘘を言っているとか、疑う気は無いのかしら?」
「えっと、霊夢さんの方が料理が上手いので、適材適所かと。
あと、俺のような能力の持ち主を匿って霊夢さんに良い事なんて一つも無いですし」

 それに、と言って付け加える。

「霊夢さんが嘘なんてつく訳無い、って思えたので」

 ぴくり、と霊夢さんが頬を動かした。
それから何時もの無表情で、呆れたように肩をすくめる。
その動きで髪が流れてゆくのが、まるで絹のようにサラサラとしていて、美しかった。

「あんたそれでさとりにも騙されているのに、懲りないわね」
「うっ。いや、それでも本当にそうとは思えないので……」

 痛い所を突かれたが、本当にそうとしか考えられないのである。
この超然とした人はまるで俗世の事に動じないような所を持っていて、勿論人間らしい部分もあるのだけれど、俺の印象としてはそんな部分が多い。
だからかもしれないが、彼女は皮肉で嘘らしき物を言う事はあっても、自己の利益の為に嘘をつく事は無いように思えた。
事実その通りなのだろう、霊夢さんの顔には、俺を戒める色はあっても、嘘がばれるか否かへの緊張の色は見えない。

「では、まず掃除から、行ってきますっ!」
「やる気満々ねぇ……」

 気怠い霊夢さんの声を背に、起き上がって布団を畳み、俺は博麗神社の掃除を始めることにした。
まずは初めに、久しく回復している魔力を解放、博麗神社全体に広げる。
穢れを嫌う月の魔力は、なんとなく汚れている所と神社本体との間で透明な膜のように形を変えた。。
それから指を一振り。
くるりと俺の魔力は神社内の汚れやら埃やらを包みこむと、ふわりと浮かび、俺の指先へと集まってきた。
そのまま障子を開けて屑籠を探し、ぽい、と指先を向けると、そちらへとゴミはすっ飛んでいく。
この清掃魔法は、何気に月の魔力を持つ人間しかできない、俺の得意魔法でもある。
ちょっと得意になって、俺は胸を張って告げた。

「あとは表の掃き掃除とか、生ゴミとか、屑籠の中のゴミの処理とか、そんな物ですかね?」

 すると霊夢さんはパチクリと目をまたたき、小さくつぶやいた。

「あんた役立たずの能なしだと思っていたけど、案外役に立つのね。
これなら、嘘ぐらいついても引き止めてたかもしれないわ」

 俺は、喜ぶべきか悲しむべきか迷い、結局困ったような笑顔を霊夢さんへ向ける。
霊夢さんはと言うと、まるで普通の少女のような雰囲気になっていて、先程までの何処か神聖な感じは薄れていた。
こんな事で彼女の関心が引けるとは、なるほど、とぼけた巫女と言う評判も頷ける物があるのではないか。
そんな失礼な事を考えていると、霊夢さんはふとこちらへ視線をやり、近づいてきて、さりげない所作で俺の向こう脛を蹴っ飛ばした。

「痛っ、ご、ごめんなさいっ!」
「ごめんなさいって事は、何か失礼な事を考えてたのね?」
「…………………」

 沈黙。
もう一発蹴りが飛んでくるのを、避けようと動くのだが、その軌道を予測したのだろう、蹴り足が俺の脛に吸い込まれるようにぶつかり、俺は大変痛がった。
そんな俺を尻目に、霊夢さんは何処へやらへと立ち去っていく。
矢張りこんな鋭い所を見ていると超然とした感じがあって、かといって掃除に役立つ魔法を見る目は普通の少女らしくて。
ころころと変わる表情に、俺は一体どうやって霊夢さんに接すればいいのか、小首をかしげながら外の掃き掃除に移るのであった。
ちなみに、蹴りは物凄く痛かった。



 ***



 掃き掃除を終えると、そろそろ夕方になる。
霊夢さんが俺を呼びに来て、俺はそれに従い博麗神社の中に戻っていった。

「家の間取りは分かるでしょう?
料理は私と権兵衛さんで交代制にするけど、食材を倉庫から持ってくるぐらいはして頂戴」
「はい、霊夢さん」

 それってひょっとして家事を全部俺がやっているのではないか。
そう思わなくもなかったが、今度こそ霊夢さんに蹴られるよりも早く俺は倉庫へと歩いた。
外の倉庫への道筋の途中、思わず俺は一瞬立ち止まる。
何時かの宴会の際、紫さんと出会った場所であった。
たった数カ月前の話なのだが、あまりの懐かしさにスキマが開いていた部分に思わず指で触れる。
勿論空間が裂ける事などなく、俺は霊夢さんに怒られないよう倉庫に足早に駆けた。
それにしても大きな倉庫だな、と思いつつ、中の一体何年引きこもろうとしているのか、と言う食材を選び手にする。

 それから幾度か霊夢さんの指示で倉庫の食材を渡しつつ、霊夢さんの料理の方法を見た。
以前宴会の時は忙しくて見る暇も無かったのだが、こうして見守っていると、新たな所がわかってくる。
霊夢さんは、明らかに適当な方法で料理をしているように見えた。
塩や砂糖はパッと掴んだ分だけ使い、醤油や酒も適当にドボドボと入れ、更には味見すらしない。
何度か注意をしようか、せめて味見ぐらいはしたほうがいいのでは、と思ったのだが、ロクに口に出せないままに食事の時間となった。
ちゃぶ台に載せられたのは、白いご飯に川魚の塩焼きと卵焼きに山菜の付け合せ。
見目にはどれも美味しそうに見えるが、油断してはならない。
いただきます、と霊夢さんと共に唱えてから、少しだけ霊夢さんが食べるのを見ようと待ってみるが、霊夢さんはじっとこちらを見つめているだけだった。
味の感想を求められているのだろう。
仕方なしに俺は川魚の身を解し、恐る恐る口の中に入れた。
咀嚼。
ほろっ、と身が崩れ、程良く脂の乗った身がその味を広げる。

「美味しい……」

 思わず、口をついて出た言葉に、霊夢さんが小さく破顔した。
当然でしょ、と言わんばかりの表情で、自分も魚をつつき始める。
慌てて俺は他の卵焼きやら山菜やらも食べてみるが、どれも控えめで素材の味を活かした、しかし非常に美味な物ばかりだった。
眼の色を変えて食べ始める俺に、霊夢さんは苦笑気味に自分の皿に箸を伸ばしている。
その姿に、俺の賛辞が充分に伝わっていないように思え、俺は思わず口を開いた。

「いや、本当に美味しいです。
なんていうか、幻想郷中を回ってきて様々な料理を頂きましたが、素材の良さを除いた純粋な料理の腕前で言えば、霊夢さんが一番かもしれないぐらいです。
その、それ以上に上手い賛辞が思いつかないのですが、本当に美味しくて……」
「……そう」

 と、そこまで言うと、霊夢さんは一言だけ言って、賛辞を受け取る。
俺の賛辞が伝わっていないのではないか、と一瞬悔しい思いをしたが、よくよく霊夢さんの事を見ていると、料理を食べる箸のスピードが上がっているような気がした。
ひょっとして照れているのだろうか。
そんな風に思いながら再び食事に箸を伸ばす俺の足に、軽い衝撃。
見るといつの間にか霊夢さんは正座から足を崩しており、ちゃぶ台の下から足で蹴られたのだと理解する。
照れていたのだろうか、と思ってそれに蹴りを入れられると言う事は、つまり……。
と想起してしまいそうになる所を、げしげし、と連続で蹴られ、地味な痛さで俺は脳内の沈黙を保つ事にした。
それでやっと料理を味わえるようになり、黙々と白米で料理をいただきながら、思う。
しかしそれにしても、よくあんな適当な料理法で、こんなに美味しい料理ができるものだなぁ、と。
今度の蹴りは、少し強く、じんとした痛みが残るぐらいだった。
俺は全然懲りてなかったのである。

 それにしても、料理の味も相まって、まるで夢見心地のようだった。
箸が転げてもおかしくて幸せで、霊夢さんの怠そうな対応一つでも幸せで、幸せで仕方ない。
心の中がふわふわとして暖かくて、皆に分けてあげたいぐらいである。
勿論俺にはそんな事はできないのだし、何時かはその問題に向き合わねばならないと思っていたが、数日はこの空気に浸っていたいと思った。

 それから俺は風呂炊きをやった。
霊夢さんによると風呂に入る人物が霊力を込めれば自動的に温度を調整できるようになっているらしく、然程難しくは無い。
なので久しぶりなんだから、と先を譲られた俺は、少し長風呂を楽しんでみる事にする。
地霊殿に居た間俺はずっと汗を拭いてもらうだけだったので、久しい風呂の楽しみであった。
体を洗い、それからゆっくりと体を湯船に沈める。
あ~、と思わず親父っぽい声が漏れでてしまうような心地よさであった。
俺は目をつむりながら頭だけ湯から出して、天井を仰ぐ形で体を固定し、体の芯まで温まる事にする。

 ――ごそごそと、なんだか衣擦れの音がする。
それを聞いて、はっ、と目を開くと、随分時間が経ち、風呂釜の湯船を温める火が消えてしまっていた。
と言っても、肌に触れる湯の温度は、然程低いとは言えない。
どうやら俺は少しの間眠ってしまったらしい。
身を起こし、うぅん、と小さく声を漏らしつつ上半身だけで伸びをする。

 それから湯から上がろうとするのと、殆ど同時。
風呂の扉が開いた。
なんだろう、と視線をやると、黒い瞳と目があう。
柔らかな輪郭に大きな瞳、アップに纏められた烏の濡羽色の絹の髪の毛。
呆然と思わず視線を下にやっていくと、小さな、しかし綺麗なラインを描いた乳房、くびれを作った腹とその中心にあるヘソ。
そのあたりまで視線が行った辺りで、ズガン、と頭に衝撃。
湯船の中に頭全体で突っ込んでしまい、しかも物凄く頭が痛くて、涙目になりつつ両手で幹部を抑える。
思わず小さな悲鳴をあげようとして、お湯を飲みそうになってしまった。

 俺は湯船に顔をつけたまま百八十度回転。
ゆっくりと顔を湯船から引き上げ、ぼたぼたと顔から落ちる湯をそのままに、停止する。
何を言えばいいのだろうか、と言うか本当に綺麗だった、とか思っているうちに、霊夢さんの方から声。

「……見た?」

 言葉の刃で、全身を微塵切りにされたかのような感覚であった。
何時か妖怪二人にボッコボコにされて食べられそうだった事があるが、あの時以上に濃厚な死の気配を感じる。
思わず生唾を飲みながら、俺は乾いた口を開いた。

「は、はい。不注意ですみません」

 背後の殺意が増大。
思わず湯船の中で正座をし、背筋をピンと伸ばす俺。
しかし追撃の言葉はなく、焦りの募った俺は思わず口を開く。

「そ、その、すぐに視線を逸らさなかったのも、俺の不徳の致すところでした。
えっと、霊夢さんがあまりに綺麗に見えて、つい、長々と見つめてしまって……。
本当にすみませんでしたっ!」

 と言いつつ、霊夢さんに背を向けながらだが、頭を下げる。
長い静謐。
湯で温まった体が冷え切ってしまいそうなぐらいの時間が経った頃、ようやく霊夢さんが口を開いた。

「そう、ね。
ただの不注意かもしれないから今回は許してあげる。
でも、次は……覚悟しなさいよ?」

 俺は思わず胸を撫で下ろし、大きく溜息をついた。
とまぁ、そんな事があって、俺は大いに反省し、これ以降風呂の中で寝るような事はしなくなった。
これで風呂に入っている間は外から分かるようになるので、ハプニングはもう無いだろう。
しかし俺の脳内に残った霊夢さんの映像は、すぐに消しようが無い。
というのは、彼女の体は本当に美しく均整がとれていたと言うのもあるし、また恥ずべき事だが、俺の性欲が溜まっていたからと言う事もあった。
何の因果か、守屋神社に行った時からこの博麗神社に行き着くまで、ずっと美少女に囲まれての禁欲生活である。
これでも健康な男児であるので、俺は大いに困ったが、残念な事に解決方法は無かった。
とりあえず般若心経を心の中で唱え、落ち着くようにするぐらいである。

 さて、その日最後には当然眠る事になる。
俺は部屋に案内すると言う霊夢さんに従い歩くと、気絶した俺が寝かされていた部屋にたどり着いた。
以前俺が怪我していた時とは違う部屋だが、何か意味はあるのだろうか。
疑問に思いつつ部屋に入り、ふすまを閉めようとする。

「って、ちょっと待ちなさい」

 と、霊夢さんがふすまを掴み、止めた。
畳の上に足を踏み出し、後ろ手に霊夢さんがふすまを閉じる。

「えっと?」

 と思わず疑問詞を吐き出してしまった俺に、何時もの退屈そうな顔で、霊夢さん。

「私もこの布団で寝るわ」
「……は?」

 俺は驚愕して、とぼけた返事しか返せなかった。
一度反芻、二度、三度目でもまだ意味がつかめない。
どういう意味なのか、と混乱してグルグルしてきた視線を霊夢さんにやると、腕を組んで答える。

「家の布団、あんたが泊まっていた頃に何度も血まみれになって捨てちゃったから、もう一組しか残ってないのよ。
だからしょうがないでしょ。
あ、変な事はしないでね、勿論だけど」
「……はぁ」

 と言いつつも、俺は頭の中で何が起きているのか理解できていなかった。
真っ白な頭の中のまま布団に入り、隣に霊夢さんが入ってきて、灯りを消すわよ、と言って霊夢さんが灯りを消す。
月の光だけの暗闇になって、霊夢さんの体温がすぐそこにあると感じた時、俺はようやく言われた事を理解した。

「え、霊夢さん、その、男女七歳にして席を同じうせずと言いますし、俺は畳に直で寝ても……」
「馬鹿ね、そんなんじゃ風邪引くでしょうが。
あんたが変な事しなけりゃいいのよ」

 と言い、さっさと寝ようとしてしまう霊夢さん。
理屈で考えればそれは絶対におかしいと思うのだが、霊夢さんが言うとその方が正しいように思えて、思わず俺は頷いてしまう。
すると一度納得してしまったのに、わざわざ寝る前にもう一度問答を繰り返すのもどうかと思え、俺はそれに納得する事に決めた。
確かに布団を明日買ってくるまでの一晩、俺が変な事をしなければいいのである。
そう考えると簡単なことのように思え、俺は眠ろうと努力をし始めた。

 数分後。
すぐさま霊夢さんの体温に風呂場で見た光景を思い出してしまい、恥ずかしさのあまり寝れない事に気づく。
しかもなんだか良い匂いまでしてきて、女性ってなんでこんなに良い香りがするんだろうな、などとよく分からない事を考え始める俺。

 一時間後。
霊夢さんの手と触れ合ってしまい、思わず飛び退きそうになる。
多分飛び退いていたら、霊夢さんから布団を剥ぎとってしまう事になり、起こしてしまう事に繋がるだろう。
そうなれば今度こそ俺はぶっ飛ばされる事間違いなしである。
危ない所であった。

 三時間後。
やっとうとうとしてきた頃、突然霊夢さんが俺の手を握ってきた。
驚きのあまり飛び退きそうになるが、以下略。
それにしても霊夢さんの体温は少しだけ俺より低くて、心地よい冷たさだった。
その手が、俺の指の間に絡みつくようにしている光景は、想像するだけで少し扇情的である。
それに更に恥ずかしさが増して行き、すやすやと寝息を立てている霊夢さんに思わず恨めしい目を送ってしまう。

 五時間後。
半分夢の中に旅立っていた俺の右腕に、霊夢さんが抱きついてきた。
驚きのあまり飛び退きそうになるが、以下略。
先程霊夢さんの体温は少し低いと言ったが、それでも充分に暖かいのに違いはない。
両腕で俺の右腕を抱きしめ、何の夢を見ているのか、胸を押し付けるようにする霊夢さん。
腕にある柔らかい感触がなんであるかは、全身全霊で考えないようにしながら俺は一晩を過ごした。

 七時間後。
精根尽き果てた俺を尻目に、霊夢さんが欠伸混じりに起き上がった。
あぁ、気持ちいい睡眠だった、と言わんばかりの彼女は伸びをしてから、ふと俺に気づき、言う。

「あれ? あんた眼の下に隈ができてるけど、もしかして寝てないの?」

 霊夢さんの所為だよ、と言いたい所であったが、辛うじて思いとどまる。
そもそも俺が変な事を想起しなければ良かった、と言うのは確かなのだ。
それに明日には流石に布団も買ってくる事だろう。
そうやって僅かな希望にすがり、俺は頷くだけに留める。
そんな俺に、霊夢さん。

「あらそう。あ、この前行ったら布団屋は閉まっていたから、当分は二人で寝る事になるから」

 最早俺には、意識を手放し眠りにつく他無かった。



 ***



 そんな風にして、夢のような毎日が通り過ぎた。
ふわふわと心が浮かんでいるような日々。
俺の幻想郷に来てからの一生で、幸せな数日だったかもしれない。
俺は霊夢さんの機嫌が良いだけで幸せだったし、霊夢さんも、俺が喜ぶ所には喜んでくれた。
本来ならば俺は、犯してしまった罪を償う為の方法について考えなければならなかったのだろう。
しかし俺は、まだ自身の罪に立ち向かえるだけの心の栄養を身につけていなかった。
あと少しだけ、この日々を味わったら、自分の罪に向きあおう。
少なくとも、十日を過ぎるよりは早く、そうしよう。
そう思って俺は、心の洗濯だと思って、霊夢さんとの暖かな毎日に心の全てを委ねた。

 しかし、そうこうしているうちに不思議な点に気づいた。
この博麗神社、俺が何時しか怪我で寝込んでいた時には日に何度も来訪者が居て、少なくとも一日に誰か一人は来ていたと思う。
勿論、俺への見舞い客を除いてである。
しかし今は、霊夢さんを尋ねる誰かどころか、参拝客すらただの一人も来ていない。
しかも、だ。
霊夢さんが博麗神社の外に出ている所を見たことも無いのだ。
勿論食材なんかは倉庫にタップリとあるのだが、少なくとも布団屋が開いているかどうか見に行くぐらいはする所なのでは無かろうか?
勿論、単なる偶然だったり、年の暮れは何時もそうなのかもしれないが……。
気になった俺は、霊夢さんが縁側でお茶を飲んでいる所を捕まえ、聞いてみる事にする。

「最近、と言うか俺が此処に来てから、人妖の行き来が無いような気がするのですが、気のせいでしょうか」
「あら、気づいたの」

 と、何でもないように言われたので、俺も茶を一口飲み、そうか、そうですよねぇ、と言いそうになってから物凄い勢いで霊夢さんの方を振り向き凝視する。
今何と言った?
そんな俺の疑問詞を読み取ったように、くすりと薄く微笑んで、霊夢さんは口を開いた。

「結界を張っているのよ、それも、幻想郷中の強者が集まっても解けないような、特別強力な奴。
って言うか、出入りを許可したら、あんたが入ってきた奴を不幸にしちゃうでしょうが」
「…………………それ、じゃあ」

 絶句。
想像だにしていなかった事実に、俺の脳内がようやく回り始める。
ふわふわと浮ついていた精神は重力に掴まれ、地べたを這いずりまわり始めた。

「霊夢さんは、俺を封印する為に、自分を犠牲に?」

 自分で言っていて、寒気のする想像だった。
そう言ってしまえば、確かにそうだと思える証拠はいくつかある。
例えば倉庫の中に山ほど入っていた食料。
あれほどあれば数年、霊夢さんが俺を完全に封印するまでに必要な期間、二人の食糧事情を支えきれるのではあるまいか。
となると、霊夢さんは、即応性のある結界でまず俺を外界から排除、それから俺をじっくりと封印しようと言う事なのだろうか。
目の前が真っ暗になりそうな気分だった。
俺だけが浮かれて騒いでいるこの状況は、霊夢さんにとっては数年引き篭っている必要がある棺桶に過ぎなかったのかもしれない。
しかし、そんな俺の想像を、霊夢さんは朗らかに笑って否定する。

「あぁ、違うわよ。
いくらなんでも、幻想郷中の強者が力を合わせても解けない結界なんて、あと数日しか持たないわ。
まぁ、その代わりに時間をかけて、月人やら神やらが力を合わせても解けない結界を作ったんだけど」
「では、何のために……」

 理由を正す俺に、霊夢さんはお茶を一口。
縁側に湯のみを置くと、俺の瞳をじっと見つめた。

「覚えてる? 権兵衛さん。
幻想郷の有力者の中で、貴方と初めて出会ったのは、私だって事」
「は、はい……」

 事実である。
俺は幻想入りしてまず外の世界に返されようとして、その時霊夢さんと出会ったのである。
慧音さんと出会ったのは、その後で里の会議でボロクソに言われた後の話。
幻想郷の有力者の中で初めて出会ったのが霊夢さんだと言うのは、事実である。
それにしても何故だろう、背中に凍土が生まれたような感覚を覚え、俺はぶるりと震えた。
霊夢さんの目には一切の狂気が感じられず、完全に正常で美しい瞳であると言うのに、何故か。
そんな俺の思考を無視して、霊夢さんは、厳粛に口を開いた。

「私その時、権兵衛さんに一目惚れしたの」
「…………………え?」

 ヒトメボレ。
一目惚れ。
単語の意味が一瞬分からず、分かってからも聞き間違いではないかと思うぐらいだった。
あの超然とした霊夢さんが、俺に、一目惚れ?
一体何の冗談だろう、と思いたくなるが、霊夢さんが俺に向ける真剣な表情が真実を告げていた。

「そして私の勘が、貴方の能力がどんな物であるかもなんとなく把握していた」

 それは、と言おうとして、俺は言葉を飲み込む。
それは、一体どれほどの苦難なのであろうか。
一目惚れした男が俺のような愚物であると言うだけでも不幸だと言うのに、ましてや呪われた能力の持ち主だとは。
思わず俺は絶句した。
が、そんな俺の想像を絶する言葉が、霊夢さんの口から放たれる。

「それだけじゃあない。
貴方がその優しさ故に、例え初めて出会ったその時に監禁したとしても、その優しさを私一人に向ける事は無い事も分かっていた。
助けてくれたと言う里人やらに恩を返すつもりでいて、真に愛しあう事ができなかったって」
「…………………え?」

 今度こそ、真剣に意味の分からない言葉だった。
何度反芻しても、その意味が咀嚼できない。
監禁?
真に愛しあうって?
そんな俺の疑問詞を無視して、霊夢さんは続ける。

「だから、私は考えたの。
権兵衛さんが自分の能力を自覚して、私の他の人妖神仙に頼る事は無くなる事を。
そしてその可能性が幻想郷中のあらゆる場所に存在しないと確信する事を。
その為に、私は色々したわ」

 完全に思考が停止した俺に、霊夢さんは何時もの気だるげな顔を少し上気させて言う。

「この結界だってそう、刻みこむのに半年以上かかったのよ?
権兵衛さんが順当に幻想郷の強者を不幸にするまで、硬直状態を維持して幻想郷中を回らせるのにも苦労したわ。
権兵衛さんが傷つけられた時は、勿論腹が煮えるようだったけれど、勘が今最善の道を進んでいるんだって告げていたから、その通りにした。
時間はかかったけれど……上手く行ったわ」

 いつの間にか、霊夢さんはしっとりと全身に汗をかいていた。
濡れて陽光の光に反射する顔は、まるでそれ自体が輝いているかのよう。
少しだけはにかむような、控えめな笑顔で、霊夢さんは続きを口にする。

「だって今、私と権兵衛さんは、二人きりで居るもの。
権兵衛さんには私の他に頼れる相手は居ないし、それを自覚してもいる。
だって権兵衛さんには“みんなで不幸になる程度の能力”があって、私にしかそれを無効化する事はできないんだから。
だから。
今こそ私たちは、夫婦になれるに違いないわ」
「め、おと……」

 今や俺は、呆然と霊夢さんの言った言葉を反芻するだけの機械となってしまっていた。
俺は今告白を聞いたばかりだと言うのに、いつの間にか夫婦の誓いを迫られている。
いや、と言うよりも、俺が是と言うに違いないと霊夢さんは確信しているようだった。
疑問詞に揺れる俺の視線に気づかぬまま、霊夢さんは続ける。

「権兵衛さんには、傷跡だの食事だの、他の女のつけた汚れが残っていたけれど、それも此処数日でとれてきたわ。
明日か明後日にでも、それは清められるから大丈夫、結婚はきちんとできるわよ。
完全に清らかになったらその日、私達、結婚しましょう」

 と、そこでようやく俺の頭の回転が追いついてきた。
なんだこれは?
霊夢さんは一体何を言っているのだ?
混乱する一方、妙に俺の中には冷静な部分があって、兎に角情報を引き出そうと矛盾点をつく。

「でも、この結界はあと数日しか持たないって、そう言っていたじゃあないですか?
そのあとは、一体どうするんです?」

 すると霊夢さんは、目を細め、小さなえくぼを作って微笑んだ。
まるで太陽が目の前まで降りてきたような、美しい笑みだった。

「そのあとなんて、無いわ」

 俺のように卑小な者では焼き尽くされんばかりの光量の笑み。
しかしそれでいて俺を優しく包んでくれる感覚があって、俺は安堵感に負けそうになる。
そんな俺に、極上の笑みのまま、霊夢さんは言い放った。

「権兵衛さん。結婚したら、一緒に死にましょう?」
「…………………え?」

 頭の中の妙に冷静な部分が、俺ってここ数分で何回え? って言ったんだろうな、と思った。
数えてみれば、三回目だった。

「この結界の中で死んだ私達二人は、世界の何処へも行き着かず、永遠に此処に漂う事になる。
あの亡霊姫でさえも操れない、愛の証となるのよ。
そうすれば、きっと私達、幸せだわ。
ねぇ、権兵衛さん、一緒に幸せになりましょうよ」

 死ぬ事でしか幸せになれない夫婦など、あるものか。
愕然とする俺を尻目に、霊夢さんは立ち上がり、くるくるとその場で回り始めた。
霊夢さん自身の回転にやや遅れて、スカートや服の裾が緩い円形を作り、回転する。
くるくる。
狂る狂る。
十回ぐらい回った後、霊夢さんはぴたりと止まって、俺を見つめながらぱっ、と両手を開いた。
その顔は、何時もの気だるげな顔に、少しだけ笑顔を足した物だった。
ただ瞳だけが狂気を孕み、蘭々と光っている。
そんな瞳を見て、俺はようやくの事思い出していた。

 何時しか星さんは、俺を地底に封印する時、こう言っていた。
お前は、世界最悪の忌まわしい能力の持ち主だ。
お前の持つ、“名前が亡い程度の能力”も。
“月の魔法を扱う程度の能力”も。
……“重力を操る程度の能力”も、それには及ばない、と。
“重力を操る程度の能力”。
霊夢さんの能力は“主に空を飛ぶ事ができる程度の能力”。
まるで対にある能力は、合わされば相殺されると言うのが普通の考えであり。
そうなれば、俺の“みんなで不幸になる程度の能力”を無効化する事はできなくなるのであって。

 そう、霊夢さんもまた、霊夢さんもまた……不幸になってしまったのだ。

 全てを悟ると同時、俺の体に残った気力と言う気力が抜け落ちていった。
瞳は光を失い、首はがくりと折れ、口からは涎が垂れようとするが、それを抑える気にすらならない。
絶望的な気分だった。
恩返しの為に生きてきて。
それが不可能なのではないかと絶望して。
人の暖かさの奇跡を知り、それに命を賭し。
俺は呪われた能力の持ち主なのだと宣告され。
それでも人を幸せにできるのではないかと夢想し。
その淡い夢も砕かれ。
最後に霊夢さんの事だけならば、幸せにできるのではないかと、そう思えたのに。
それすらも出来なくって。

 最早俺には、人生を立ち上がって歩むどころか、座り込む気力すら無く、大の字に寝転がり動けなくなっていた。
生きる気力の全てを無くし、俺は精神の全てを放棄した。
抜け殻のようになった俺を、霊夢さんは矢張り無表情気味だが、少しだけ嬉しそうに世話し始める。
それすらもどうでも良いと思い、俺は心を閉ざした。
それは奇しくも、こいしさんと同じ状態であったのだった。



 ***



 心を閉ざし、外界への反応を無くした俺の事を、霊夢さんは上機嫌に世話した。
翌日俺は、霊夢さんに起こされ、手を引いて広間に座らされた。
朝食は霊夢さんが作って俺の口に運び、俺は口に食べ物が入ったら反射で噛み砕き飲み込んでいった。
吐き出そうかとも思ったものの、生理的欲求には逆らわない方が何も考えなくて済む。
より何も考えずに済む方へと思考を進める俺は、霊夢さんに食事を口に運ばれ、朝食を終えた。
一瞬だけ、まるで親鳥が雛に食事をやるのに似ているな、と思ったが、そんな思考も光のように通り過ぎていく。

 朝食が終わると、俺は霊夢さんによって着替えさせられた。
袴姿になった俺は、正座の形を取らされ、少しの間霊夢さんを待つ。
すると霊夢さんは、何時もの巫女服ではなく白無垢で現れた。
綺麗だな、と呆然と思うものの、何時ものように口は動かず、また思考もすぐに鈍つき、動かなくなる。
そんな俺を笑顔で許し、霊夢さんは俺の手を取り外へ連れだした。

「人数が揃わないから簡易式だけど、許してくれるよね?
あと、権兵衛さんは外の世界から来た人だから、折衷式でするけど、いいわよね?」

 小首を傾げた霊夢さんは、何時もより少しだけ緊張した顔でいて、可愛らしいな、と思ったが、その思考もすぐに消え去る。
返事を期待していなかったらしい霊夢さんは、そのまま俺を連れて神前に立った。
幣を用いて禊を行い、祝詞を上げる霊夢さん。
それを俺はぼうっとしたまま、何も考えずに頭を下げて受け、そして呆然と祝詞を聞いていた。
三々九度の盃を逆らわずに受け、霊夢さんに口付けさせられ酒を飲み込む。
それから霊夢さんは、誓いの言葉を口にする。
意識が途切れ途切れなので、全ては耳に入らなかったが、最後の方はきちんと聞こえてきた。

「……これから後は、神の教えを守り、互いに愛しあい苦楽を共にします」

 それから霊夢さんが、俺の方を向く。
俺の肩に手を置き、引っ張って俺を振り向かせる。

「……折衷式、だから」

 と小さく呟くと、霊夢さんはゆっくりと俺に顔を近づけてきた。
唇と唇の距離が狭まる。
そういえば、俺はファーストキスもまだだったな、と思うと同時、ぐらり、と体が揺らいだ。
重力が俺の体を捕まえ、足首を誰かの手が掴み、引きずり込まれる。
霊夢さんは俺の肩に手を置いていたが、体重は預けていなかったので、姿勢は崩れなかった。
代わりに、俺の事を捕まえようと手を伸ばしたのが、間に合わず空を切る。

「紫ぃぃいいっ!!」

 霊夢さんの絶叫。
俺が呆然と足元を見ると、地面があるべき場所の空間が避けており、そこから覗く紫色のドレスを来た紫さんが、俺の足首を掴んでいた。
上と下を見比べ、そういえばと何時か地底で見た夢の事を思い出す。
博麗神社は赤い屋根で、霊夢さんは美しい少女で、紫さんの伸ばした手は真っ白な手袋で覆われていた。
すると急に、俺の中に霊夢さんの事を今手放してはならないと言う気持ちが生まれる。
今、霊夢さんの手をとれなければ、とんでもない事になるような気がしたのだ。
霊的な直感に突き動かされ、霊夢さんの方へ手を伸ばす。

「霊夢、さん……!」

 が、しかし霊夢さんは俺を掴もうとして空を切ったばかりで、姿勢を立てなおして手を伸ばすのには、時間が足りなかった。
無慈悲に空間の亀裂、スキマが閉じていく。
霊夢さんが絶叫の為空気を吸う音を最後に、空間は断裂した。
俺は紫さんに引っ張られ、何処とも知れぬ地へと引きずり込まれてゆく。
重力に引かれる自由落下の感覚だけが、長々と続いていった。




あとがき
次回最終回。
権兵衛の正体と彼を救う(かもしれない)方法。



[21873] 幻想郷
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/10/08 23:28


 暗転。
一瞬だけ無数の眼球がある光景を超えて、俺はすぐに強く腰を打ち付け、その場に放り出された。
一体何処まで広がっているのかも分からない、広い草原の中。
鈍い痛みに尻に手をやり、抑えると、草がチクチクと肌を差す感覚がある。
冬だと言うのに雪の気配の無く見知らぬ光景だが、よくよく辺りを見回せば、遠くに妖怪の山やら冥界の門やらが薄く見えた。
何時もの幻想郷の光景である。
俺がゆっくりと立ち上がり、辺りを見回そうと首を回すと、ぷにっ、と頬に突き刺さる物があった。
驚いて飛び退り、視界を反転させると、そこには宙空に指を差し出した紫さんが、日傘片手に立っていた。

「な、何が……いや、どうしてっ!?」
「あら、貴方はあのまま、霊夢と婚儀を終えていた方が良かったの?」

 思わず呻き声を上げる俺。
そう、俺の霊的な勘があの場を去ってはならないと告げてはいた。
がしかし、理屈で考えれば、あれ以上霊夢さんと不幸にしないため彼女と離れた事は歓迎すべき事である筈であった。
何も言葉を出せず、硬直する俺に、紫さんはその美しい微笑を向けながら言う。

「そう、ね……。まず、何から話しましょうか」
「…………………」

 何も言えずに居る俺を尻目に、紫さんは日傘を閉じながら言う。
後ろ手にして背に隠した日傘は、一瞬強烈な違和感を伴ったかと思うと、その場から消え去っていた。
代わりに白磁の手袋に包まれた両手が戻ってきて、何も持っていない事を指し示すように両手を俺に向けて開く。

「正体。
まずは貴方の正体から話してみては、如何かしら?
貴方は疑問に思った事は無かった?
そもそも貴方はあの毘沙門天の弟子から、“みんなで不幸になる程度の能力”は“名前が亡い程度の能力”から生まれた事は、聞き知っていた筈。
ならば“名前が亡い程度の能力”とは、“みんなで不幸になる程度の能力”を生み出す最悪の能力の根源と言う、凄まじい能力である事になるわ。
幻想の人妖が持つ能力には、必ずその所以がある筈。
だったら“名前が亡い程度の能力”の所以とは、一体何かしら?
神に相反する能力とは、一体何処から生まれてきたの?
どう、貴方は知っているかしら?」

 平常通りの口数の多さで、告げる紫さん。
紫さんも不幸へのカウントダウンが確実に始まっていると言うのに、そんな話でいいのか。
俺は、僅かに迷いつつ、だが結局思ったことを告げる。

「……分かり、ません。
何故なら俺は幻想入りする前の記憶が無く、幻想入りと同時に新生したかのような……」

 と言いつつ、俺は目を見開いた。
待て。
何故、俺は自身を新生した、などと比喩するのだろうか。
確かに記憶と言う一面から見ればそうなのかもしれないが、俺には体に刻まれた、外の世界で歩んできた歴史がある筈だ。
それが連続していると言うのに、新生した、と比喩するのは、何かもどかしい間違いを侵しているような気分になる。
口をつぐんだ俺に、嬉しそうに目を細める紫さん。
腕を組んで片手を口元にやり、優雅に喋り始める。

「そう、貴方のその肉体は、幻想入りした時に初めて生まれた。
何せ貴方は外の世界では、幻想でありながら幻想ではない、それらの隙間に住む存在だったのだから。
妖怪のように人々の幻想から生まれたものの、人間と言う種族であると言う矛盾した存在であるが故に、肉を持たぬただの概念であった存在。
それが人々の中でも次第に幻想になっていくに連れ、貴方と言う概念が幻想入りした。
そうとなれば、貴方は最早完全な幻想の存在。
肉を完全な幻想で作り上げ、幻想の存在として成り立つ事ができたのよ」

 そこまで言ってから、たっぷりと溜めを作り、紫さんは俺に告げた。

「貴方は、“身元不明者”だわ」

 身元不明者。
名無しの権兵衛。

「外の世界ではかつて人々の間で身元が分からない事など、ありふれた事だったわ。
身元が確かと言うだけで人を評価する点になるぐらいに、身元不明者と言うのは沢山居た。
勿論死体の身元なんて、普通はっきりしない事の方が多かったわ。
顔でも潰してしまえば、すぐに判らなくなってしまう物だったの。
だから“身元不明者”と言う概念がなりたっていた。
けれど“身元不明者”なんて物は、本当は存在しない物である事は分かっているでしょう?
どんな人間にも生きてきた歴史があり、ただそれが人間に見る事ができないだけで、どんな人間にも身元は存在する。
そう、“身元不明者”は妖怪達と同じ、人間によって生み出された存在だった。
だけれども、“身元不明者”は当然人間でなければいけない。
だから妖怪のように完全な幻想の肉を持った存在となる事はなく、その隙間にある存在として外の世界に存在していたわ」

 すとん、と胸に落ちるように理解できる話だった。
俺に人間としての自負があるのなら拒絶してしまう筈の話が、まるで予め用意されていたかのように、簡単に飲み込めてしまう。
その事態そのものが、俺とその“身元不明者”との間を結びつけていた。

「けれど外の世界は、進化したわ。
丁度、この幻想郷が元の世界から分かれた頃からかしら。
戸籍が作られ始め、身元がはっきりしているのが普通になり始めた。
科学が進化し、死体からは歯形に遺伝子で身元を調べられるようになってきた。
いんたーねっとと言う電子の海では、簡単に身元なんて分かってしまうようになったそうよ。
勿論、完全に身元不明者が居なくなった訳ではない。
けれど人々の間で“身元不明者”と言う幻想は確実に薄くなり、そしてある日閾値を割り……。
幻想入り、したわ」
「…………………」

 沈黙。
新たな事実に動揺するかと思ったが、意外なまでに俺は平静だった。
それどころか、その事実が今何に影響するのだろう、とすら不思議に思ってしまう。
と言っても紫さんの事である、意味ありげでよく分からない所作は何時ものことだ。
そしてまずは、と正体の事を話題にしたのなら、次の話題があるのだろう。
耳に意識を集中し、紫さんの次の話を待ち受けるのに腐心する。

「そしてそれ故に、貴方は“名前の亡い程度の能力”を得た。
実を言えば、貴方の“みんなで不幸になる程度の能力”を消す事のできる人妖は、この幻想郷に幾人か居るわ。
私もそうだし、紅魔館の狂った妹なんかがその代表格かしら。
でもそれは所詮対処療法、元となる貴方の“名前の亡い程度の能力”を消さなければ意味は無い。
でなければいずれ、“みんなで不幸になる程度の能力”は復活するわ。
そして“身元不明者”たる貴方にとって、“名前の亡い程度の能力”とは、存在の根幹そのもの。
“名前の亡い程度の能力”を無理に消してしまえば、貴方と言う存在は消えさってしまう」
「……消え去る、だけで済むのですか?」

 今度は、思わず俺も口を出してしまった。
当然の事だが、俺如きの存在よりもこの幻想郷に最悪の不幸が訪れる事の方が、余程の大事である。
ならば何故、俺のような卑小な存在を消して、この幻想郷を守らなかったのだろうか。
頭が沸騰するような怒りが湧いてきて、それを吐き出そうとする瞬間、紫さんと目が合った。
真摯な瞳に、吐き出そうとした怒りを、思わず飲み込む。

「貴方が幻想入りしてすぐなら、それだけで済んだでしょうね。
だけど貴方が幻想郷の強者を、その精神と“重力を操る程度の能力”で惹きつけてからは、もう遅い。
貴方に惹きつけられた強者達は、貴方と言う拠り所を失えば、その精神の平衡を無くしてしまった事でしょう。
……それに」

 と、一旦区切る紫さん。
僅かに強く唇を噛み締め、紫さんは俺から目を逸した。
陽光を体いっぱいに浴びた、青々しい草原に視線をやる。

「幻想郷は、全てを受け入れる。
その理想から私が作ってきたこの土地に、最悪の能力者とて、完全に排除すると言う選択肢は採りたくなかったわ」
「……って、はぁ!?」

 一瞬そのまま頷きそうになった所で、驚愕する。
私が作ってきたこの土地、と言う紫さんの言をそのまま受け入れるのだとすれば、紫さんこそがこの幻想郷を創りだした妖怪なのだろうか。
そんな俺の疑問詞を置いて、紫さんは続けた。

「勿論、だからと言って、最悪の能力を放置しておける筈も無い。
方法が見つからなければ、結局貴方を排除していたのでしょうけれど……。
その方法が、見つかったのかどうか。
今この場で私が貴方と向かい合っている、その事実こそが、それを物語っているでしょう?」
「それは……つまり」

 再び俺に視線をやり、唇をペロリと舐める紫さん。
俺は思わず声を漏らしながら、縋るように彼女を見つめる。
先程感じた、俺を何故消し去らなかったのか、と言う怒りなど吹き飛んでいた。
代わりに頭が真っ白になって、その事実だけが俺の頭の中を巡り巡る。
ぷるぷると指先が震えてきた俺に、紫さんは断言するように告げた。

「この幻想郷で、この私にだけは――、貴方の“みんなで不幸になる程度の能力”を完全に消す事ができる」
「あ…………………」

 思わず、俺は泣き崩れそうになった。
これでやっと救われるのかと思う反面、また嘘なのではないかと懐疑心が持ち上がる。
しかし今までの話の通りなら、紫さんが俺に嘘をついている可能性は絶無だ。
“身元不明者”の話は俺自身が真実だと確信しているし、その後の紫さんの話にも、嘘の気配は見受けられなかった。
それでもさとりさんに霊夢さんと二度期待を裏切られ、また相手を不幸にしてしまった経験から、反射的に俺は、そんな筈は無い、と思う。
そんな信用できるか分からない方法よりも、幻想郷を創りだしたと言う紫さんに、俺を封印する場所も作ってもらうべきだ。
そう俺が口を開くよりも早く、紫さんは言った。

「私の能力は、“境界を操る程度の能力”。
物と物の隙間を無くせば消滅し、物と物の隙間を作れば創造する。
創造と破壊の能力であり――、当然、“みんなで不幸になる程度の能力”をも破壊できるわ。
そして」

 と、一旦区切り、息継ぎする紫さん。
俺は呆然としながら膝を落とし、震えながら彼女を見つめていた。

「そして貴方の“名前の亡い程度の能力”を、貴方を幻想郷に受け入れつつ無くす事ができる。
貴方と他の名前のある物との隙間を無くし、融合させると言う方法でね」

 ついに俺は脱力し、尻を足の上に落とした。
俺は。
俺は、救われるのだろうか。
俺は、誰かを幸せにできるようになるのだろうか。
そんな思いが目頭に集まり、涙となって零れた。
頬を伝い、顎からぽつりと膝に落ちる。

「勿論、何と融合させてもいいと言う訳ではないわ。
貴方と親和性のある物でなければ、貴方の“名前の亡い程度の能力”が打ち勝ってしまい、名前の亡い物となってしまう。
だから、貴方の残る“重力を操る程度の能力”と親和性の高い――」

 紫さんはぱっ、と手を広げ、その場でくるりと一回転した。
レースでふんだんに装飾されたスカートの裾が浮かび、そしてやがて落ちる。
満面の笑みで、紫さんは言った。

「この幻想郷と、一つになってもらいますわ」

 え、と小さく俺は呟いた。
確かに、俺の“重力を操る程度の能力”と親和性の高いのは、この大地そのものである幻想郷だろう。
だが、俺が自我を持った状態で残ると思っていたからか、躊躇が僅かに残った。
そんな壮大な物に、俺のように卑小な物が混ざっても良いのか、とも思う。
いざ“みんなで不幸になる程度の能力”が消えた時を思うと、不幸を実感した皆から受ける悪意に足踏みした。
それを永遠に離れられない土地として受ける事を想像すると、震えが走る。
だが。
だけれども。

「もし、そうなれば――、俺の“重力を操る程度の能力”で得ていた好意は……」
「この幻想郷に移ります。
そう、そうなれば、幻想郷の有力者達がよりこの幻想郷を愛する事になる。
そしてそれは、貴方が出来る唯一の贖罪でもあります」

 紫さんはそう告げ、その白い手袋に包まれた手を伸ばす。
紫さんの告げる言葉に、心に残る淀みは消えた。
後にはただ、静謐な波立つ事のない静かな心だけが残る。
まるで走馬灯のように、俺のこの幻想郷で過ごした思い出が脳内を過ぎ去った。

 次々と移り変わる光景に、ふと俺は里人に火刑にかけられそうになった時の事を思い出す。
そういえばあの時も、こんな白い手袋が伸びる光景を幻視したのだった。
いや、他にも幾度か、そんな光景を見た覚えがある。
恐らく紫さんはその度に俺の生死の境界をいじって俺を存命させ、俺が幻想郷中の有力者から関心を引き出すまで死なないよう努力したのだろう。
霊夢さんですら、紫さんの掌の上で踊っていたに過ぎないのだろう。
目的は恐らく、最終的に俺が幻想郷と一体化した時、より多くの有力者の、幻想郷への愛情を増加させる為に。

 最早紫さんの言葉は疑いようが無かった。
後はただ、俺が頷き手を伸ばせば、それで全てが終わる。
目を閉じ、俺は深呼吸をしながら、一年と無かった人生を思い出した。
未練が無いとは到底言えなかった。
けれど、これからこの幻想郷となり、贖罪に生きる事に躊躇は無かった。

 頷き、手を伸ばす。
紫さんの細い手を、手放さないで済むよう、確りと握った。

「さよなら、権兵衛さん」

 紫さんの声を最後に、俺の視界が薄れていく。
全身が大きな粒子の集まりとなり、その粒が次々に幻想郷の何処かへと流れていった。
ある物は風に吹かれて消えていき。
ある物は足元に落ちて地面に消え。
ある物は目の前の紫さんに吸い込まれるように消えていき。
ある物は目の前の草に溶け込むように消えていった。

 次第に意識が薄れていく。
視界が光に満ちていき、音が聞こえなくなる。
触れていた筈の紫さんの手の感触もなくなり、膝下が触れている草原の感覚もなくなった。
俺が幻想郷に混ざっていく。
そしてその境界もゆっくりと無くなっていき、同一の物となっていった。



 ***



 七篠権兵衛が、粒子となり風に吹かれ、幻想郷と一体化していく。
肌色と黒い髪に瞳を構成していた粒子が、七色の粒となって飛散していくその光景は、まるで虹が幻想郷に溶け込んでいくような美しい光景だった。
そんな光景を眺めながら、紫は少しだけ回想する。

 紫はこの幻想郷について、ただ管理するばかりではなく実際に足で確かめる事も必要だと思い、時折散歩をしている。
七篠権兵衛が、“身元不明者”が幻想入りしたのも、そんな時であった。
“身元不明者”は未だ幻想の肉を持っておらず、正に紫がその場に出くわしたのと同時に幻想の肉を持つ事となった。
自然、紫が不意に正体の知れぬ“身元不明者”に持った幻想、紫の持つ理想がその幻想の肉を編む事となる。
紫の理想は、この幻想郷そのもの、全てを受け入れる存在である。
故に七篠権兵衛となった彼は、紫の理想通りの人格となった。
全てを受け入れる心の広さ以外にも色々と特徴的な人格であったが、それはいわば紫の趣味である。

 まるで理想の男が向こうから歩み寄ってくる、と言う事態に、思わず紫は足を止め、男の正体を思索した。
そして紫は、すぐさま男が“名前が亡い程度の能力”の持ち主であり、すぐに“みんなで不幸になる程度の能力”を開花させる、最悪の能力者となるであろう事を推測する。
正直言って、紫は最初その場で権兵衛を消し去ろうか迷いに迷った。
如何に幻想郷は全てを受け入れると言っても、幻想郷が不幸で満ちてしまうのは許せない。
しかし、目の前の男はただの男ではなく、紫の理想が反映された、全てを受け入れる心さえ持った男なのである。
故に紫は少しだけ躊躇し、その躊躇が紫に天啓を与える事となった。
“重力を操る程度の能力”を残して幻想郷との隙間を無くせば、この男を最高の方法で処理できると気づいたのだ。
しかもそうすれば、一時的に幻想郷は不幸に満ちるが、最終的には皆がこの土地をより愛するようになると言う、最高の結果になる。
当然その為には、権兵衛を幻想郷中の有力者が好きになる事が好ましく、また、権兵衛にも自分から幻想郷と一体化したいと願うほど絶望してもらわなければならなかった。

 無論、それは難事である。
紫は権兵衛の生と死の境界に幾度か手を出して権兵衛を延命してきた。
最も大変なのは、里人が相手の時だった。
里人にあまり能力で手を出すと自然な人間の感情が得られず、妖怪の存在を危うくする事になる。
その為できるだけ他の妖怪が動くよう背後で糸を繰らねばならなかった。
だがしかし、紫はその難事を成功させた。
霊夢が多くの作業を自発的にやっていた事も、成功の一因だっただろう。
結果的に、幻想郷の殆どの有力者がより幻想郷を愛するようになると言う、最高の結果が得られたと言える。

 もしかしたら幻想郷創始以来かもしれない難事を解決できた実感に、紫は肩の力を抜き溜息をついた。
精神を安堵が覆ってゆき、それと同時に少しだけの寂寥感が紫の心に差す。
最中は表情は兎も角内心では必死だった紫だが、終わってみれば、意外と楽しい作業だったのかもしれない。
なにせ紫にとっては、理想の男の人生を好きに弄ぶ作業でもあったのだ。
幻想郷を見れば分かるように、紫は大切な物を独占したいと思う方ではなく、どちらかと言えば皆で共有したいと考える方である。
そう思うのならば、権兵衛を皆に愛してもらう作業と言うのは、紫の権兵衛に対する愛情表現だったのかもしれない。
そんな事を想像しながら、くすりと安堵の笑みを浮かべ、紫は思いっきり両手を広げた。
そのまま体を傾かせ、重力に従い草のカーペットに背を預ける。
草に触れ、土に触れ、これが幻想郷であると同時、権兵衛でもあるのだと思うと、紫は愛しさで胸がいっぱいになるのを感じた。
この通りの事を幻想郷中で感じているのだとすれば、それ以上に素晴らしい事なんて無いに違いない。

 そう思いつつ、紫は少し顔を傾けさせる。
土で頬が汚れるのも気にせず、紫はこの大地に、幻想郷に頬ずりをした。
草が頬をくすぐるのに、思わずにやけてしまう。
達成感に満ち溢れ、紫はもう少しだけの間此処でゆっくりしていようと思った。
なにせ権兵衛が幻想郷に入って以来、休む暇もない工作の日々だったのだ。
といっても、生まれて一年も経たずに権兵衛は幻想郷と一体化したのだ、妖怪にとってみれば然程長い期間では無かったが。

 そんな事を思いつつ、紫は服が汚れるのにも構わず、ごろりとその場で転がった。
口元に土がつき、紫はそれを手で払おうと思う。
しかし実際に手で払ってみた時には、既に土はそこについていなかった。
どうしたのだろう、と思うと同時、紫は気づく。
今私は、一体何を咀嚼しているのだろうか。
口を開き、恐る恐る舌に触れた手を出してみると、それは土色に色を変えていた。
八雲紫は、土を食していた。

 一度自覚してしまえば、それは止まる事が無かった。
愛しいものが自分の口腔を通って中に入ってくるのだと思うと、止められない。
次々に紫は土を食し、草を食していった。
紫の中に僅かに残る冷静な部分が、何故、と叫ぶ。
一体何が起こっているのだ、と。
残る精神力の殆どを使い、紫は自身を地面から引き離し、空を見上げる。
空には太陽が光り、雲ひとつ無い青空が広がっているばかりである。
しかし紫の瞳は、その他にもう一つ、新月の今日には絶対に見えない筈の月の力を感じた。
瞬間、紫の思考に電撃が走る。
残る権兵衛の能力。
“月の魔法を扱う程度の能力”。
些事と思って放置した能力が、幻想郷と一体化する事によって強化され、あの月と同じ最上の狂気をこの幻想郷に宿したのではないか?

 紫の疑問詞は、しかし解決される事なくその衝動に流されていった。
胸を満たす暖かな感情が、この幻想郷を食すると言う悦楽が、紫の体を突き動かす。
紫は両手で土を掘りおこし、それを次々と口元に運んでいった。
止まることなくその光景は続いていく。



 ***



 幽々子は、机の上の皿に置いてある肉を、箸で掴む。
血抜きさえされていない生のままのその肉は、血を滴らせながらその真っ赤な断面を見せていた。
それをゆっくりと運び、口の中に入れ、咀嚼する。
幽々子は、そのあまりの幸福さに、破顔した。

 西行寺幽々子の理想には、確かに権兵衛が必要である。
博麗神社の結界を破れず、しかしそれが時間制限のある物だと分かりると、仕方なしに権兵衛を求める女性陣は解散した。
今力を使いきってしまえば、同じ女性陣に背後から撃たれる可能性もあったからである。
幽々子はそうして白玉楼に帰り、その後も、白玉楼で権兵衛を手に入れる方法を模索し続けていた。
そんな瞬間である。
権兵衛がこの幻想郷に、そしてそこに住まう幽々子自身と一体化したのは。

 当然、幽々子は最上の快楽を感じた。
求めても求めても手に入らなかった権兵衛がついに自分と一体になったような感覚を得たのである、喜ばぬはずがない。
しかし同時に、幽々子は更に先にある悦楽について気づいてしまった。
幽々子が求めるのは、権兵衛がただ一人居るだけの光景ではない。
もう一人、妖夢もまた一緒に居る光景なのだから。

「幽々子様、見てください、ほらっ!」

 幽々子は肉を咀嚼しつつ、机の反対側を見据える。
そこには満面の笑みを浮かべた妖夢がおり、自分の腹に刀を突き刺し、削ぎ落していた。
そしてその肉は妖夢の手によって幽々子の前にある皿に運ばれ、そして幽々子の箸を経過して口に入る。

「私、知らなかったっ!
自分を切るのが、こんなに楽しいだなんてっ!」

 叫びながら感涙し自分を切る妖夢に、大声をあげちゃって、はたしない、と思いつつ幽々子は妖夢の肉を口にした。
これによって、幽々子と権兵衛と妖夢とがここで一体となっているのである。
正に史上の悦楽であった。
妖夢も新しい切る快楽を得る事が出来て、二人ともこれ以上無い程に幸せだった。



 ***



 永遠亭から少し離れた、迷いの竹林の上空。
いつも通りに蓬莱山輝夜と藤原妹紅は宙に浮き向かい合っていた。
二人と永琳ら永遠亭の住人は、他の幻想郷の有力者と力を合わせて霊夢の張った結界を解除しようとしたものの、不可能であった。
歯噛みしつつ後数日で結界が解除されると分かった所で、他の有力者と別れ、永遠亭に一旦戻る事にする。
そんな中、近くに居を構える妹紅は輝夜と同行する事になり、予定調和と言うべきか、すぐさま口論になりこうやって殺し合いを始める事となったのだ。

 風がびょうびょうと哭きながら二人の間を駆け抜ける。
殺意が瞳から電撃のように走り、物理的現象とすらなり、二人の間に火花が散った。

「殺してやるよ」
「あらあら、物騒な言葉ねぇ」

 二人の間ではお決まりとなったセリフを互いに吐きつけ、全身から憎悪を集める。
空間が歪みかねない憎しみを、先に解き放ったのは妹紅であった。
不死鳥の炎が輝夜を狙って飛翔、その炎の舌で血肉を焼こうと直進。
それを輝夜は手に持った扇を振って暴風を顕現、圧倒的熱量を風で散らし、火の粉とする。
その火の粉の一つを指ですくいとって舐めて見せる輝夜に、妹紅は顔を引くつかせながら突進。
拳で輝夜を狙うが、輝夜の手は包むように穏やかに妹紅の手を取り、そのまま投げ飛ばそうとする。

「だぁぁぁっ!」

 しかしそれには妹紅も慣れた物。
ゴキリと音を立てて肩の関節を外し、可動域の制限を解除。
空中を大きく回転しつつ輝夜の肩に蹴りを見舞う。
それに感づいた輝夜は防御に回ろうとするが、僅かに遅かった。
妹紅の稲妻のような蹴りが炸裂、骨を打ち砕き、血管を破裂させ、妹紅の顔に血飛沫を散らす。
だが、輝夜もただでは妹紅を離さない。
一瞬にして強化した常識外の膂力で、妹紅の右腕を引っこ抜く勢いで引く。
それに妹紅の腕は耐え切れず、二の腕の部分でぶちりと千切れた。
勢いで妹紅はすっ飛んでいき、輝夜の顔に血飛沫が散る。

「あら、繋がっていたら好きなだけ弾幕を食らわせてあげたのに、意外と謙虚ね」
「人の腕をもぐのに夢中な奴とは違ってな」

 軽口を叩き、妹紅は顔についた輝夜の血を舐める。
同時、輝夜もまた顔についた妹紅の血を舐めた。
二人は電撃が走ったが如く、硬直する。
互いの血は、いつの間にかあの権兵衛を思わせるような、濃厚でいて口当たりの良い、どんな美酒をも上回る味をしていた。

 もっとこれを飲みたい、食べたい。
欲望のままに、二人はふらふらと近寄っていく。
至近になると同時、二人は相手の腹にさっくりと手を差し出した。
そのまま相手の腸を掴みとり、引き出す。
まるで痛みを感じていないかのような顔で、そのまま互いの腸を食いちぎった。

 脳裏に走るは、まるで天使の雫のような柔らかで濃密な味。
それに引き寄せられ、二人は互いの無限に再生する臓腑を引きずり出し、ガツガツと食べ始める。
その光景は、正に互いの尾を噛み合うウロボロスの蛇のよう。
その眼下では永琳と鈴仙、てゐらが盃を掲げ、落ちてくる血が臓物の欠片を口にする。
全員の表情はこの上ない悦楽に満ちており、これ以上ないほど幸せであった。



 ***



 流石に冬となると、太陽の畑の向日葵はその姿を消してしまう。
そんな中に、疲れ果てた幽香の姿があった。
幽香は他の有力者の助力で限界まで強化した身体能力で霊夢の結界を破壊しようとしたのだが、結局破壊は不可能だった。
もっとも肉体を酷使した幽香は、その足のまま、花の世話すらする事なく家の中に帰り、ベッドの上で横になっていた。

 幽香は、優しい自分になる為に権兵衛の事を求めていた。
勿論純粋に権兵衛が好きと言う部分が一番なのだが、そういった理由があるのは確かである。
だから権兵衛が手に入らない今、不服だが優しい自分になるため、どういった事をすればいいだろう、と何時も考えている。
優しくなる事によって自分が更に魅力的になり、権兵衛に対するアピールにもなるのだし。

 と言っても、幽香が優しくなれるのは、花に対してだけである。
人妖神仙に対しては、権兵衛以外に優しくする気には到底なれない。
しかも特に好きな花である向日葵が目に見えない今、更にその気分は落ちていた。
というか、むしろ権兵衛にだけ特別と言う事で権兵衛の独占欲を刺激するため、基本的にこのままでいいんじゃないかとすら思えてきて、幽香は欠伸をした。

 そんな折であった。
幽香の頭に、天啓が降りた。
目を見開いた幽香はすぐさまドアを開けて家を出て、太陽の畑の真ん中に立つ。
それからゆっくりと手を伸ばし、地面と水平に。
もう片手にある物を持ちその上に重ね、大きく深呼吸。
次の瞬間、幽香は向日葵の種を自分に右手の甲に埋め込んだ。

「………………っ!」

 思わず声にならない悲鳴が上がるのを、歯を噛み締めて無視。
そのまま続けて幽香は、己の手に埋め込んだ向日葵の種に能力を行使する。
すると向日葵の種は、まるで早回ししているかのように成長。
幽香の中の養分を糧にして、その大きな花を咲かせる。

「……やったっ!」

 実験の成功に、思わず幽香は歓声を上げた。
そう、幽香は花が近くにあれば、優しくできる。
かといって地面に無制限に花を生やしてしまえば、そのアフターケアなどで色々と苦労する事になり、割りに合わない。
ならば自分に花を咲かせて常に持ち歩けば、常に優しくできるのではないかと思ったのだ。

 実際幽香は、これがあれば、権兵衛のたまにある神経をえぐるような発言にも、寛容になれるのではないかと思った。
あぁ、なんて幸せなんだろう、と思いながら、思わず幽香は仰向けにその場に倒れた。
すると右手の向日葵が急成長、種を幽香の体中に落とす。
その種達はまたもや幽香の能力によって急成長、幽香はすぐさま急造の向日葵の畑となった。
然程力は使わず、このまま寝転んでいても十年は持つ程度である。

 あぁ、なんて幸せなんだろう、と幽香は常に自分に寄り添ってくれる事になった向日葵に感謝する。
好きな時に優しくなれる向日葵を体に生やす方法を覚えた幽香は、これ以上ないほどの幸せの予感に、身震いすらしたのだった。



 ***



 紅魔館。
権兵衛を救出できずに戻ってきたレミリアは、あまりにも恐ろしい出来事に、自室に篭って震えていた。
何せレミリアにとって自分をさらけ出せるたった二人の人間、霊夢と権兵衛が二人きりになって外の世界と断絶してしまったのだ。
二人がお互いを特別に思い、自分をなんとも思わなくなったら、どうだろうか。
霊夢はまだいい。
それはいつも通りと言う事と対して違わないからだ。
問題は、権兵衛が自分の前で、霊夢と特別と称する光景である。
その光景が、レミリアの瞼の裏で焼き付いて離れなかった。

「嫌だ……っ! 権兵衛は、私の特別なのっ!」

 言って、レミリアはベッドの上で自身を抱きしめる。
自分すら騙せない、陳腐な嘘であった。
レミリアにとって権兵衛は特別でも、権兵衛にとってレミリアは特別ではない。
冷たい真実を理解していた体は、あまりの恐ろしさに震えが走る。
それを解消しようとして、レミリアは体を起こした。
あの日権兵衛に馬乗りになったのと同じような、膝をつき尻を落とした姿勢になり、パジャマを脱ぎながら、小さく息を吸う。
息を止める。
レミリアは手を伸ばし、自身の肩をえぐった。

「――っ!」

 激しい痛みに顔をしかめつつ、レミリアはそこから血をできるだけ手にとって集める。
それから裸身に血を塗りたくり、何時か権兵衛の血で行ったように上半身を血で染めていく。
せめてあの日の感覚を思い出せはしないかと言う、寂しい作業であった。
しかし、レミリアの予想に反し、これがなんだかそそる物がある。
気づけばレミリアは集中して自分の前半身に血を塗り終えていた。
なんでだろうな、と思いつつ、首を傾げると同時、電撃がレミリアの中に走った。
レミリアは権兵衛の血を吸った事がある。
ならばレミリアの血の中に、権兵衛の血の成分があると言う事と同意義ではあるまいか。

「――そうかっ!」

 思わず声をあげて納得してしまうレミリア。
理性がそれだけではないかもしれない、と告げるぐらいに、レミリアの血は権兵衛の香りを伴っていた。
自分を権兵衛の血が包んでいるのだと思うと、レミリアは昇天してしまいそうになるぐらいの幸せに浸ってしまう。
途端、ガチャリ、と音を立てて、部屋に誰かが入ってきた。

「レミリア、様?」

 はっと見ると、咲夜である。
あまりの幸せさ加減に、部屋に入る伺いにとりあえず了承してしまったのだろうか。
でもそれがどうでもいいぐらい幸せなレミリアに、咲夜は吸い寄せられるように近づき、レミリアを抱きしめる。
その体温がレミリアに権兵衛の暖かさを思わせて、レミリアはとてもとても幸せだった。
咲夜もまた同じように、レミリアに強烈に権兵衛を感じており、これ以上ないほどに幸せな気分であった。



 ***



 幻想郷の上空を、萃香は一人漂っていた。
結界を殴ろうにもすり抜けようにも不可能だった萃香は、それから一人博麗神社の上空をさまよっている。
霊夢の結界内に侵入が可能であろう友人から、何らかの連絡が無いかと待っていたのだ。
しかし未だに連絡は無く、既に数日萃香は待ちぼうけのままだった。
今、この瞬間までは。

「――成程ね、紫」

 萃香は一人、上空で呟いた。
そう、萃香は紫と友人である。
故に他の妖怪よりは紫の事を熟知しており、その思考を理解していた。
それ故に紫が権兵衛と幻想郷との隙間を無くした瞬間、その行為を悟ったのであった。

「――紫の他には、私だけだ」

 と言うと、萃香の身に溢れんばかりの歓喜が漂う。
そう、権兵衛が幻想郷と一体化した事を確信しているのは、萃香だけだ。
他の連中は、権兵衛を求めているのにすぐ近くにあるという事実に、権兵衛を求める感情を失っていくだろう。
権兵衛の事を過去の思い出にし、代わりに幻想郷への愛情を深くすることだろう。
だが、萃香は違う。
事実を完全に理解している為、権兵衛の事を何時までも思う事ができる。
ばかりか。

「私も幻想郷中に疎になれば、権兵衛と同じ事ができるっ!」

 それは史上の悦楽であった。
あの連中は権兵衛の事を愛し続ける事ができないのに、自分はそれができる。
あの巫女辺りは勘付くかもしれないが、幻想郷と一体化するまで疎になれるのは、萃香だけである。

「あは、あはははははっ!」

 哄笑と共に、萃香は自分を限界まで疎にし始めた。
萃香の姿が、小さな粒子の集まりとなり、風に吹かれて幻想郷中に消えてゆく。
やがて萃香の姿は無くなり、目に見えないほど疎になった萃香が幻想郷中に存在する事になった。
権兵衛と同一になれた萃香は、勿論これ以上ないほどに幸せだった。



 ***



 その瞬間も変わらず権兵衛の骨を舐めていた文であったが、突然の襲撃を受けた。
いきなり小屋を吹き飛ばすような攻撃を受け、文は咄嗟に権兵衛の骨だけ守って上空へ避難。
霊力の源には、心当たりがあった。

「椛ぃぃっ!」
「文ぁあっ!」

 絶叫と共に、文は天狗団扇を構え、椛の剣を受けた。
しかし権兵衛の骨を避けて椛の盾が殴りつけるように突進、文の顔面を打つ。
片手に権兵衛の骨を抱えた文は避けきれず、衝撃に吹き飛ばされた。
そのついで風を操り椛と距離を取り、憎悪に満ちた顔で椛を睨みつける。

「あら、権兵衛さんのファンに死ぬ寸前まで嬲られてた犬コロじゃない」
「黙れ、この盗人がっ! 権兵衛さんの骨を返せっ!」

 そう、椛は元々巡回の天狗の一人である、権兵衛が接触できる可能性は元々低いとされ、権兵衛を愛する女性陣によって私刑を受けていたのだ。
同じような立場でありながら、上手くそれを避けた上に権兵衛の骨まで手に入れた文に、椛は血が滲むほどに歯を噛み締める。
雄叫びをあげて文へと向かっていく椛と、それに応ずる文。

 二人の格は大きく違う。
烏天狗の中でも最上位に近い文と、一介の白狼天狗である椛とでは、天と地ほどに力が違う。
しかし全快するまで力を蓄えていた椛に対し、食事すらも投げ捨て権兵衛の骨を愛で続けた文は力が衰えており、条件が悪い。
二人の間を血風が舞う。
それでも椛は権兵衛の骨を避け、文は権兵衛の骨を盾にせずに居るままである。

 次第に二人の血飛沫が空中へ舞うが、それは文が操る風に乗って、その場から離れない。
血の匂いが濃くなっていき、二人はそれに応じて徐々に攻撃の手を納めていった。

「……これは……?」
「権兵衛さん……?」

 二人は、まるで権兵衛に包まれていくような感覚を覚えていた。
手を止めた文の所為で血が落ちそうになると同時、その感覚が薄れるのに、慌てて風を操り文は血を拾いあげる。
吹き荒れる風で球状に血が舞う中、文と椛は、先ほどまでの憎悪が嘘であるかのように近寄った。
勿論、この権兵衛に包まれるような感覚を、より濃くする為である。
その為ならば、二人は憎い相手の事などどうでも良かった。
手と手を合わせ、二人で権兵衛の骨を持つ。

「もっと血を濃くすれば……」
「……うん」

 これ以上の感覚を得るにはより大量の血が必要であろうと、二人は同じ結論に達した。
互いの武器を互いの首に沿わせ、同時に引く。
一瞬の静謐。
血が噴水のように二人の首から吹き出し、風にゆられ空中を赤く染める。

 恍惚とした表情を浮かべながら、より濃密に権兵衛に包まれているような感覚を得て、二人は幸せだった。
互いの血を止めようともせず、ふらつき落ちそうになりつつも、二人はこれ以上ないほどの幸せを感じていたのだった。



 ***



 その日もアリスは、家の人形全てに権兵衛の名前の刺繍をしている所だった。
丁度終盤にさしかかり、さて、次はどの人形に権兵衛刺繍をしようか、と思った時に、ふとアリスは思い出した。
権兵衛原寸大人形の事である。
苦い思い出が蘇り、アリスは気分転換をしようと紅茶を入れ、自分自身にした刺繍を撫でながら、紅茶を飲む事にする。

 しかし紅茶の味を楽しむ最中も、アリスの頭の中から権兵衛人形の事は離れなかった。
あれはアリスの中では黒歴史として設定されており、権兵衛のあの暖かな愛情を人形で得られるなどと思った、誠に恥ずかしい事件である。
忘れたい事の方が却って忘れられないと言う普遍的な現象に、アリスは機嫌を悪くしつつ権兵衛の刺繍を続けた。
しかしそうするうちに、家にある全ての人形に権兵衛の名前を刺繍し終えてしまい、残るは権兵衛人形のみとなる。

「……一応あれでも私の作品だし。
見るだけ見ておきましょうか」

 言って、アリスはあの日のあと強引に物置に突っ込んだ権兵衛人形を引きずり出し、丁寧に埃を払い、陰干しし、改めて権兵衛人形を見てみた。
確かに、権兵衛を想起する部分があるのは確かである。
しかし本物には遠く及ばない。
素材を厳選してできる限り近い物にする事はできても、同一の物にはできないのだ。
人形として操作性も重視して作った物なら、なおさらの事である。
さっさと権兵衛の名前の刺繍をして、もう一回物置に仕舞おうと思い、アリスは権兵衛人形に刺繍を始めようとした。
人形の肌は樹脂なので、仕方なしに服裏に刺繍をする事になる。
アリスは権兵衛人形を椅子にでも座らせて作業をしようかと思ったが、そこまでする必要もないか、と床に寝かせ、その上に跨って作業する事にした。

 無言で権兵衛人形の着物の帯を解いていく。
権兵衛人形の樹脂の肌が顕になり、上半身が見えてくる。
流石に頬を赤く染めながら、アリスはこほんと咳払いをし、服裏に刺繍を始めた。
勿論、脱がせた服を持って椅子に腰掛けやる物なのだが、その時アリスは、何故かこの体勢のまますべきだ、と思って、権兵衛人形に跨ったまま作業を続ける。

 作業を続けるうちに、なんどか権兵衛人形に触れる事があり、その度にアリスは思わず顔を赤くした。
まるで急に権兵衛人形に意思が宿ったかのように、その肌が暖かく感じられたのだ。
勿論もう一度触ってみれば、常温の樹脂のままであるのだが、何となくそう感じる事は一度や二度では無かった。
どうしたのだろう、と思いつつ、アリスは権兵衛人形の体に触れて確かめてみる。
勿論権兵衛とは似てもつかない感触だが、確かめなければいけないから、と言い訳しつつ、権兵衛人形の上半身の様々な所にアリスは触れた。

 そうこうしているうちに、権兵衛人形の顔以外の部分は確認し終えてしまう。
それからアリスは権兵衛の頬やら目やらに触れてみたが、何となく権兵衛のような感じはするものの、同一ではない、と判断を下した。
しかし徐々にそれが同一のものに近づいているのに、アリスは戸惑いを覚える。
最後に残ったのは、権兵衛人形の唇である。
結局アリスが触れていない為、感触を確かめようが無い部分。
しかしアリスは、それでも確かめるだけ確かめてみよう、と、唇に触れようとし、辞めた。
代わりに吸い寄せられるようにアリスの顔が権兵衛人形に近づき、やがて唇が唇に触れる。

「……権兵衛、さん?」

 その感触に、思わずアリスはそう漏らした。
まるで権兵衛のような暖かな感覚。
何時しかとは真逆の結果が出たのに、戸惑いを覚え、もう一度確かめてみよう、とアリスは再び権兵衛人形にキスを落とした。
暖かで甘酸っぱく、心の奥がとろけそうな味。
何度も想像した通りの権兵衛の唇の味に、アリスは思わず涙をこぼした。
権兵衛そのものは、強者達の取り合いになっており、アリスにはおこぼれをもらうことしかできない。
しかしこの権兵衛人形相手であれば独占できるのだ。
そう思うとアリスは自分を止められなくて、後で後悔すると分かっていながら、何度も権兵衛人形にキスを落とす。
刹那的であると自覚していながら、アリスは幸せだった。
これ以上ないほどに、幸せだった。



 ***



 畳の上に正座し、三柱の神々は、なんとも言えない顔でその場に座っていた。
神奈子、諏訪子、そして早苗の三人である。
紫の隙間に封印されていた三人は、権兵衛が博麗神社に結界で囚われると同時に解放。
他の人妖の面々と協力して結界を打ち破ろうとしたができず、結局時間切れを待って一旦守屋神社に戻る事にしたのだ。

 道中、三人は無言だった。
何せ三人ともが互いに最悪の裏切りを働いてしまい、権兵衛を狙う女性が他にもおり潰しあうのは得策ではないと理解している今でさえ、三人は心の底では憎み合っている。
神奈子は自分の権兵衛への思いが醜い物だと暴露されたが故に。
諏訪子は自分の権兵衛への思いが勘違いだとされたが故に。
早苗は二人が自分を裏切り、自分が信ずるのは権兵衛以外に居なくなってしまったが故に。
それでも三人は、徒党を組まねば他の勢力に負けてしまうと分かっていた。
そしてその相手は長年の付き添いであるこの三人以外には居ないだろうと言う事も。

「……仲直り、しよっか」

 諏訪子が口火を切った。
その言葉に、耐え難い怒りを感じつつも、神奈子も早苗も、軽く頷く。
一度壊れてしまった人間関係は、容易には修復できない。
これは仲直りしたと形式だけでもしておき、なるべく連携して動く為の冷たい論理の言葉であった。

 三人は自然、互いに肩を組み頭を近づける。
吐く息が感じられる程近くになり、冬だというのに互いに少し汗をかくぐらいになった。
まるで他の二人の息が毒息であるかのように顔をしかめえる三人だったが、口に出さない程度の冷静さは残っている。
代わりに互いに小さく溜息をつき、その息が吹きかかるのにより顔をしかめるばかりだ。

 その時、三人の頬に隣の女性の汗が張り付く。
汗がゆっくりと流れて行き、唇へと行きつき、その塩味を感じさせた。
と同時、三人は目を瞬いた。
天上の甘露のような味わいに、権兵衛の汗の匂いを思い出す。

 そう、権兵衛。
あの男は最悪の能力を持ってしまい、しかもそれを解消する事は神である三人には難しい。
しかしそれでも三人は形は違えどあの男を愛していた。
故にそれを感じさせる互いの汗を求め、三人はそれぞれの頬に、示し合わせたように同時に舌を伸ばした。

 神奈子は諏訪子に。
諏訪子は早苗に。
早苗は神奈子に。
三人の頭は紐の代わりに舌を使った、数珠つなぎのようになる。
三人は会えばそれだけで権兵衛を苦しめてしまうと知っていた。
それ故に会わずにこうやって権兵衛を感じられる事は、何よりの至福である。
今三人は、それ以上無いほどに幸せだった。



 ***



 人里では、全ての里人が目から光を無くし愕然としていた。
その中心で、一人だけ献身的に里人を集めながら、その世話を続ける女性がいる。
里人はその女性だけに反応し、他の里人の行動はまるで眼に見えていないかのように行動していた。
女性とは、上白沢慧音である。
嬉しそうに里人の世話をする慧音は、今最高に幸せだった。

 慧音は、権兵衛を手に入れられないであろう未来や、大切な里人が虐殺かそれ以上に不幸な目に遭う未来を思い、絶望していた。
権兵衛の代わりに天秤にかけるものを持っていたのは慧音だけだったし、里人の不幸は幻想郷の有力者の会議で決定していたからだ。
更に決定打として、霊夢が権兵衛を結界に囚えた。
そうなれば慧音は最早里人を救う事で、権兵衛の代わりにするしかない。
そう思って里に戻ってきたのだが、里には最早慧音の居場所は無かった。
権兵衛に騙され洗脳されている事になっていた慧音は、里人によって権兵衛の呪いが消えるまで牢屋に閉じ込めよう、と言う事になっていたのである。
流石にそれは適わぬ、と逃げた慧音であったが、その時突然、慧音に天啓が下ったのであった。

 権兵衛はその歴史を喰えば、慧音に依存せざるを得ない状況になった。
なら、里人全てにそれを行使してみたら、どうなのだろうか。
思いつくと同時、慧音の体は自然に目前の里人の、他者との関わりの記憶全てを食っていた。
結果、里人は慧音の手が無ければ何もする事ができない、赤子のような存在に変わっていた。
里中の人間をこの里人のようにしてしまえば、里人は慧音を頼らざるを得ないのではないか。
そう思った慧音は、里人全てから他者との関わりの記憶を、事務的な物を残し奪った。
一応妖怪に対する感情は無ければ幻想郷が成り立たなくなるので、同じ人間同士の営みだけである。

 結果は出た。
全ての里人は、慧音に心の底から依存した。
最早慧音がいなければ、何もできない里人たちに、慧音は独占欲を刺激され、心から微笑んだ。
慧音は里の女王となったのだ。
しかも誰一人傷つけあう事もなく、全員を平等に愛する事ができる楽園の、である。

 冬であるから皆食料は貯めてあるので当分は問題無いし、その間に全員を一人だけで農耕ができるようにするのも可能だろう。
そして妖怪の記憶を消していないが故に、人間が妖怪を恐れる事により、その感情を食べて生きる妖怪達の食糧事情も心配あるまい。
最早何の心配もなく、里は慧音を中心に回っていた。
しかも、である。
しかも里人は、皆何処か権兵衛に似た面影を見せるようになっていた。
愛しい人の面影を残す人々の世話をするのは、なんて幸せなのだろうか。
これ以上ないほどの幸せに包まれ、慧音は満面の笑みを浮かべながら会話に飢えた里人の世話を続ける。



 ***



 命蓮寺の面々は、博麗神社の結界が破れないと分かると、連れ立って寺に戻っていった。
とは言え、その様子は仲良しだった頃とは程遠い。
聖、星、ムラサにナズーリンにぬえ、そして何も分かっていない一輪と雲山。
それら四組に別れ、道中互いに会話のないままであった。
寺にたどり着くと、一言もないままに全員が顔をあわせた。

 全員を何かを超越したような超然とした笑みで見る聖。
罪悪感に憔悴した星。
憎悪に煮えたぎった顔しているムラサにナズーリンとぬえ。
話を聞かされないままついてきた、何も分かっていない一輪と雲山。
全員が全員、なんとも言えない表情のまま、再び殺し合いが始まろうとした、その瞬間である。
はっ、とムラサの頭に、電撃が走った。
他の全員を無視して寺の内部に突っ込んでいき、それを疑問に思った面々もまた、顔を見合わせる。

「……一体何なんでしょうか、姐さん」
「行ってみましょう」

 と言う事で、全員牽制をし合いながらムラサの後を追い、中庭に出る。
中庭には池があり、そしてその上に光り輝くムラサの舟があった。
なんだ、これを心配していたのか、と肩を下ろしそうになると同時、一輪と雲山を除く全員がはっと顔を上げ気づく。
ムラサの舟は、権兵衛が創りだした物。
この命蓮寺で最も色濃く権兵衛が残る物なのだ。
抱きつくようにして自身の舟に飛びつくムラサに続き、聖も星もナズーリンもぬえも、みんながムラサの舟に飛びつく。

「や、やめてよ、この舟が沈んじゃうっ!」

 絶叫するムラサと、それでも舟を離さない面々を、一輪と雲山は呆然を見つめていた。
その間にも舟の中に水が入ってきて、ムラサと権兵衛の思い出の場所が、ゆっくりと沈んでいく。
それでも誰一人舟を離さないまま水に沈んでいく。
次第に舟の全域が沈みきり、各々の服が水流に揺れる水中で、全員は思わず目を見開いた。
なんだろうか、この感覚は。
そこら中から権兵衛の気配がして、まるで皆は権兵衛の腹の中に居るようだった。
自然、先程まで憎悪に歪んでいた者達の顔も、安らかな顔になってゆく。
舟に掴まった全員が全員とも、幸せそうな表情で水没していった。
これ以上ないほどの幸せを感じながら、水没していった。



 ***



 腹に穴が空いたさとりとこいしの古明地姉妹は、地霊殿で隣り合った寝台で寝ていた。
それを憎しみに満ちた顔のお燐と、一切の表情を無くしたお空が世話している。
世話をしている二人の方もまだまだ怪我が癒えておらず、ベッドで寝ていた方がいいぐらいである。
四人はあれからまだ地上に出る事がないまま、権兵衛が博麗神社に囚われた事を知らないままであった。

「…………………」
「…………………」
「…………………」
「…………………」

 無言で世話をし、される四人。
さとりは呆然としていた。
こいしがさとりの心を読んだ心をさとりが読む事により、さとりは自身の心を読む事に成功していたのだ。
さとりは、権兵衛に依存していた。
自分がさとり妖怪として誰にも頼らずに生きてきた筈なのに、その矜持はいつの間にか折れていた。
しかも自分は権兵衛に依存していると言うのに、こいしには権兵衛への依存を快く思わなくって。
結果がこれである。
さとりはこいしに謝らねば、と思い、口を開く。

「ごめんね……こいし」
「ううん……お姉ちゃん」

 自然二人は手を伸ばしあい、ぎゅ、と握った。
こいしもまた、さとりの心の変遷を見て、一瞬で見とったさとりの心の表層だけでなく、内面まで理解できていたのだ。
あの瞬間こいしが激高した事は謝る気になれないが、今から歩み寄ると言うのならば、こいしにとっても是非は無い。
そうやって仲直りする姉妹を、しかしその為に消耗品として使われたペット二人は、複雑な心持ちで見ていた。
そんな空気を打破するように、さとりがふと口を開く。

「そういえば、お燐、権兵衛さんを地霊殿に連れてきた時の権兵衛さんの荷物、まだ取っておいてあるかしら?」
「は、はいっ、でも何に?」
「せめて、ここに居る四人でそれを分けようと思ってね。
何があったか忘れてしまったけれど、分けれるような物ならいいわね」

 さとりの言う通りにお燐が出ていき、暫くすると両手に小さな布袋を持ってくる。
それを机の上にばらまくと、中には魔法で小さくした紙と筆や巻物など、流石は魔法使いの端くれと言うだけあって書物が多い。
その中で異彩を放つのは、数粒だけの向日葵の種だった。
権兵衛が幽香に持たされた、非常食であり、またお守り替わりでもある物だ。
と言っても、ここの四人にはそんな事までは分からず、必然的に話は向日葵の種に移る。

「これ、一体何なのかしら。向日葵の種にしか見えないけど」
「そっか。どうしよう、植えてみる? お姉ちゃん」

 ふと、四人の目が合った。
それから視線が、丁度よい感じに空いたさとりとこいしの腹の穴に行く。
まるであしらわれたかのようにぴったりのサイズだった。
それ故にか何故にか、ペットの二人は無言でさとりとこいしの腹の中に向日葵の種を植える。
そしてコップ一杯程の水をさとりとこいしが飲むと、早回しをしたかのように向日葵が急成長。
すぐさま花を咲かせ、大きな葉をぶるりと震わせる。

「まぁ、素敵」
「素敵ね、お姉ちゃん」

 さとりとこいしが言った。
その顔は悦楽に満ちている。

「凄いなぁ、流石権兵衛さんの種」
「権兵衛の種かぁ」

 お燐とお空が言い、その言葉に思わず四人は顔を見合わせた。
ならばこの向日葵は、権兵衛の子供のような物かもしれない。
まるで赤子を扱うかのように、優しく古明地姉妹は自分から生えた向日葵を撫でた。
どうやらそれが嬉しかったらしく、向日葵がダンスを始める。
葉を上げ下げしつつ人間で言う腰のあたりを振りまくり、過激に向日葵は踊った。

「格好良いね、お姉ちゃん」
「えぇ、お燐、ちょっと灯りを用意してもらえる? この前外の世界の物だって言ってもらったあれ」
「はい」

 言ってお燐が持ってきたのは、外の世界の照明とミラーボールだった。
部屋中に小さな光が散乱し、向日葵の影が大きく写る。
ゆっさゆっさとダンスを続ける向日葵を、四人は恍惚とした表情で見つめていた。
お空でさえも幸せそうな表情で見つめていた。
普通、向日葵は踊ったりはしない。
ならばこれは月の力を持つ権兵衛の近くにずっとあったからかもしれず、それならばこれは権兵衛と古明地姉妹との子供とも言えるのではあるまいか。
そんな思いに酔いしれながら、四人はこれ以上ないほどの幸せを感じながら向日葵のダンスを見つめていた。



 ***



 霧雨魔理沙は、幻想郷が狂っていくのを、小さな小屋の中で眺めていた。
魔法の森ではキノコや花々でさえ狂い、妖精もへんてこな踊りをしていたり、自傷を続けたりしている。
その様子に身震いし、思わず魔理沙は何時しかの博麗神社での会議を思い出す。
もし自分があの会議に出ておらず、この異変を感じ取れなかったら、自分もあんな感じになっていたのだろうか。
そう考えるとうすら寒い物があり、魔理沙は背中に生まれた凍土に身震いする。

「……止めだ止め、辛気臭い事を考えるのは止めにしよう」

 言って魔理沙は窓から目を離し、部屋の中に戻っていく。
もっと明るい事を考えよう、と思って、魔理沙はそういえば、と思いだした。

「あの時助けたあの外来人、元気かなぁ」

 今年の始め、魔理沙は魔法の森で見つけた外来人と思わしき人間を、里に連れていった事がある。
気絶したままだったので、その名前すらも聞くことは無かったが、元気だろうか。
と言っても、幻想郷は今こんな事態である、元気で居る可能性は少ないか。
顎に手をやりながら思い出していると、不意に唇に指が触れる。
思わず舌を突き出し、魔理沙は自分の指を舐めてしまった。
それが思いの外美味しく、魔理沙は思い切って甘噛みしてみる事にする。
一瞬家の外の幻想郷の発狂を思い出し、躊躇するが、自分はこの異変に関わっていないのである、と言う思いが魔理沙に躊躇を捨てさせた。
ごくり、と生唾を嚥下しつつ、徐々に魔理沙の顎に力が込められていく。
指に歯形がつき、次第に血が通らず紫色になり始め、そしてついには僅かながら皮膚が裂け始め、そして――。
そんな風に自分の指を傷つけながらも、魔理沙は幸せだった。
だって自分だけは、この異変から逃れられた。
これはちょっと誇っていいぐらいの事なんじゃあないかと思いつつ、久しく霊夢を出しぬいたような気分になり、魔理沙はこれ以上ないほどの幸せを感じながら指を噛み続ける。



 ***



 未だ結界の解けない博麗神社の中央。
広間に横になって、霊夢は幸せそうに自身を抱きしめていた。
霊夢は一度は紫に怨嗟の声を上げたものだったが、今では満足すらしている。
そう、霊夢の勘は、紫による誘拐を予告していなかった。
逆説的に言えば、紫による誘拐は、霊夢に幸せをもたらす物だったのである。
霊夢は、その鋭い勘で、権兵衛が幻想郷との隙間を無くした事を、直感的に理解していた。

 霊夢が権兵衛を好きになったのは、理屈で言えば当然の成り行きだったのだろう。
何せ霊夢が生まれて初めて、空を飛ぶ程度の能力を無効化され、他者の心の地平に足を下ろしたのである。
霊夢にとって、権兵衛が特別なのは当たり前であった。
あとはそれが正か負のどちらの方向に振れるかだったが、全てを受け入れる懐の深さを持つ権兵衛に得る感情は、正しかなかった。
それ故に霊夢は権兵衛に一目惚れした、と言う理屈である。
が、霊夢はそれすらもただの机上の理屈、自分はあの権兵衛のあまりの魅力にやられてしまっただけなのだと思っている。
それが真実なのかは定かではないが、兎に角霊夢は権兵衛の事が好きであった。

「くふ、ふふふ……」

 思わず込み上げてくる笑いを抑えきれず、霊夢は笑った。
と同時、霊夢は自身の腹を撫でる。
服の上からは分からないぐらい少しだけれども、霊夢の腹は少しだけ膨れていた。
手で腹を撫でると、中で身動ぎするような感覚が霊夢に返ってくる。
博麗霊夢は、想像妊娠をしていた。

 例えあのまま権兵衛と夫婦になっていたとしても、魂同士の結びつきはあっても、子だけは孕めないだろう。
まず、その時間がない。
そして魂になった後であれば、新たな生命を宿すには生きた状態にならなければならず、生きていれば霊夢は権兵衛と引き離されてしまうだろうからだ。
対し、今のように幻想郷に権兵衛が溶け込んだ今ならば、こうやって権兵衛の子を孕む事が可能である。
勿論想像上の生き物である、生むことができるかどうかは分からないが、こうやって腹の中に居る事を楽しむことはできる。

「権兵衛さん……」

 霊夢は、腹の中の想像上の子に語りかけた。
権兵衛は純粋な人間ではなく、幻想の肉を持った“身元不明者”である。
であれば、もしかしたら性交をせずとも、こうやって孕んだ子供を生む事ができるかもしれない。
もしもそうだったら、どんな名前をつけようかな、と霊夢は思う。
権兵衛と再び名付けるのもいいだろう。
二人の名前からそれぞれ文字を取った子にしてもいいかもしれない。
何にせよ、霊夢は兎に角幸せだった。
これ以上ないほどの幸せに包まれ、霊夢は自身の空想の子の事を考えていた。



 ***



 権兵衛=幻想郷は、あの月の光のように、狂ってしまった。
事実幻想郷の面々は狂った様相を呈しており、それは何時までも続くだろう。
けれどいずれ幻想郷の面々は、権兵衛が自分たちの嗜好にあった場所だけでなく、この幻想郷全てにある事に気づけるかもしれない。
この幻想郷全てが権兵衛なのだと気づけるかもしれない。
そうなれば、今のように一つ一つの物に拘泥する状況は無くなり、権兵衛が幻想入りする以前より少しだけ幻想郷を狂的に愛するだけに戻るかも知れない。
全ては可能性の話である。
しかし最早それは、絶対に無いとは言い切れないのだ。
何故ならもう権兵衛=幻想郷には、“みんなを不幸にする程度の能力”は無いのだから。

 そんな幻想郷の住人に、一切の不平不満は無かった。
不幸だって勿論なかったし、不安なんて欠片も無かったのだった。
よって皆は自分だけの権兵衛を手に入れ、愛する事ができる。

 だからこれで、みんなしあわせ。

 幻想郷は少し狂的になったまま、今日も平和に時を刻んでいった。





 完



[21873] あとがき
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2011/10/06 19:36

皆様、此処まで当小説を読んでくださってありがとうございます。
作者のアルパカ度数38%です。
ルナティック幻想入り完結と言う事で、少し長めのあとがきを書こうと思います。
作中は避けていた愚痴とかも入っているので、苦手な方はプラウザバックをお願いします。




 まず、実を言うと、ルナティック幻想入りは作者にとって長編初完結となる作品です。
何時もエタって削除ばかりしていた作者が4年ぶりに書いて、何故かここまでこれたと言う不思議作品でした。
しかもかなり鋭角変化球的な、いわゆる一部の人にだけウケる邪道を狙って書いた作品です。
当初は完結までに感想300ぐらい行けばいいかな、とか思っていたのですが、その4~5倍近い感想をもらえました。
兆候は永遠亭~太陽の畑の辺りからあったのですが、ここまで来るとは完全に予想外でした。
感想をくださった皆様、本当にありがとうございます。

 それにしても非常に長い作品でした。
私はEcoNoteIIIと言うソフトを使ってルナティック幻想入りを書いてきたのですが、そのマクロを使って計算すると、実に669370文字と言う長編になりました。
400字詰めに改行を無視して突っ込むと、1637枚になります。
一方文庫本一冊の枚数の参考に電撃大賞を見てみると、400字詰めで250~370枚と書いてあります。
つまり、改行の分少なく見積もっても、文庫本5冊~7冊ぐらいとなる訳です。
これを書いているのが10/5ですので、大体13ヶ月で書いた事になる訳で。
これがどれほど早いのかはわかりませんが、自分としてはちょっとした自慢になるぐらいの速さだったんじゃないかな、と思っています。

 コンセプトはサイコホラー+不幸。
ハードモードと言いつつ然程ハードではないとかに辟易としていたので、むしろ全部挫折するぐらいの勢いで不幸になってもらいました。
ヤンデレは趣味と、サイコっぽい展開で東方キャラを可愛く書くならこれかな、と思ったからです。
東方キャラが不幸なのは決して嫌いだからとかそういう訳ではなく、その方がキャラを魅力的に書けるかな、と思ったからです。
ほのぼの系なら既にいくらでもありますし。
後、裏テーマとしてはすれ違いを描いていく、と言うのもありました。
二次創作でよくある鈍感ハーレム展開って、実は誰とも全く心が通じ合っておらず、これって凄い寂しい恋愛なんじゃないかと思ったのが切欠です。
当作品でも、結局権兵衛と女性陣では精神の交流がありつつも、すれ違ったまま権兵衛は幻想郷と一体化しました。
唯一正面から告白した霊夢の言葉も、みんなで不幸になる程度の能力の所為だと思ったまま。
女性たちは幸せかもしれませんが、周りから見ていると寂しい恋愛を書いていったつもりです。

 後はなるべくダイナミックな展開を、と言うのを心がけていました。
とりあえず中盤までは充分に書けていたと思いますが、後半一部息切れして停滞的な雰囲気になってしまったのが心残りです。
つまりまぁ地霊殿編の事なんですが。
あそこは三人称でキャラ重視で書くか、権兵衛視点で能力が不確定なままクライマックス→やっぱり不幸になりましたーと書くか、どっちにするか迷いました。
結局後者は博麗神社4とかぶると考え前者にしましたが、ちょっとマンネリ気味な展開になってしまいました。
それがちょっと心残りです。

 時系列。
権兵衛が幻想入り 2009/02頃
(春先:東方星蓮船)
(夏:東方非想天則)
人里1  2009/09/05(満月
白玉楼1 2009/09/21~
白玉楼2 ~2009/09/24
永遠亭1 2009/09/24~
永遠亭2
永遠亭3 2009/10/04(満月
太陽の畑 2009/10/05~08
博麗神社1 2009/10/08~2009/10/16
博麗神社2 2009/10/16~17
博麗神社3 2009/10/18(新月
(秋のこの辺:ダブルスポイラー)
宴会1  2009/11/01~02
宴会2  2009/11/02~03
宴会3  2009/11/03(満月
取材協力 2009/11/08~15
魔法の森 2009/11/11~11/18~11/25
閑話2  2009/11/30
守矢神社 2009/12/02~12/03(2が満月
人里2  2009/12/03
命連寺1 2009/12/03
命連寺2 2009/12/03~12/04
命連寺3 2009/12/04~12/05
閑話   2009/12/06
地底   2009/12/05
地霊殿1 2009/12/06~12/08
地霊殿2 2009/12/09~12/10
地霊殿3 2009/12/10~12/11
博麗神社4 2009/12/12~12/16
幻想郷  2009/12/16(新月)
時系列はノリで作ってる部分もあるので、矛盾があるかもしれませんが、これでお願いします。
多分月の満ち欠けもあってる筈。

 実は権兵衛の能力は、霊夢と対になるように作ってました。
月の魔法を使う程度の能力:霊気を操る程度の能力(戦闘能力)
重力を操る程度の能力:空を飛ぶ程度の能力(他者との関係)
名前が亡い程度の能力:博麗の巫女としての能力(神との関係、役割や種族としての能力)
みんなで不幸になる程度の能力:勘が良い(能力?)(主人公としての能力)
最後だけ能力かは微妙ですが、こんな風に意識して作っていました。

 天界とかは? と言う声が聞こえてくると思うので、答えます。
私自身ちょっと書き始めた事を後悔する事もあるぐらい長い小説になってしまったので、削れる所は削りました。
例えば風神録で一番好きなキャラは雛なのですが、結局未登場だったり。
これでもちょっとボリューム過剰だと感じますが、これ以上何処を削ればいいのか分からないので、こんな感じになりました。
取材・魔法の森は削れる場所ではありましたが、中だるみが一回必要だと思ったので、必要だったと自分では思っています。

 非常にどうでもいい事だと思いますが、文章力が上がったり下がったりしました。
三人称の文章力は間違いなく上がったと思うのですが、一人称の文章力はむしろ下がったような気が。
まぁプロットの構成力は間違いなくあがったと思います、流石に。

 更にどうでもいいことですが、作者の東方の腕は、妖永風地Lunaクリアのままです。
新作はルナティック幻想入り完結後までプレイしないと縛っているので、これからのプレイになります。

 感想レスへの反応やあとがきなどは、抑えめにしてきました。
というのは、作者の私が不適当な発言をして、感想板が荒れると言うのが怖かったからです。
それに普段一読者としてネット小説を読んでいて、作者の近況が長々と書かれていると辟易してしまうから、と言うのがありました。
結果的に殆ど荒れる事なく完結できましたので、これで良かったんだなぁ、と思います。
何にせよ、感想をくださった方は本当にありがとうございます。
これがなければきっとルナティック幻想入り完結はありませんでした。
重ねてお礼を言わせてもらいます。

 此処まで読了ありがとうございました。
ではまたいずれ何らかの作品を書いた時に会いましょう。



あとがき完


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