<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[2178] イチのタバサ(ゼロの使い魔)
Name: 気運
Date: 2006/11/18 23:58
 青い空。
 どこまでもどこまでも澄んだ青い空に、ところどころ白い雲が浮かんでいる。
 そこへぬっと人の顔が現れた。
 空の色によくなじむ水色の髪の毛、白い肌、そして何故か赤縁の眼鏡。

 平賀才人が見た、異世界=ハルケギニアの最初の光景がそれだった。

「……」

 その顔はじっと才人の顔を見据えているだけだった。
 才人ももしこのとき「あんた誰?」とでも問いかけられていれば、リアクションのしようがあっただろう。
 しかし、その声はいつまで経ってもこなかった。
 やがて、才人の目の前に逆さに浮かぶ顔が引っ込んだ。

 顔の持ち主は、才人の顔を見るのをやめ、ゆっくりと中年の男性の元へ近寄っていく。

「ミスタ・コルベール」

 小さな声で控えめに中年の男性=コルベールの名が呼ばれた。
 黒いマントの下に白いブラウス、グレーのプリーツスカートが、体を起こした才人の視界でゆらゆら揺れる。
 辺りを見回すと、同じような格好をした人間が遠巻きに取り囲んでいることがわかった。
 みな小声で話し、物珍しそうな目で才人を見ている。
 年齢は才人とさしてかわらない、少年少女ばかり。
 ただ一人違うのは、頭頂に眩い光を反射しているコルベールのみ。

「サモン・サーヴァント、失敗しました」
「失敗ではない、成功だ。ミス・タバサ」

 蒼い髪の、ハルケギニアで才人が一番最初に見た人物=タバサは、コルベールの顔に目を向ける。
 コルベールの声を聞き、タバサの瞳が一瞬だけ悲しみと絶望の色を見せた。
 直ぐにそれは消え、サファイアのような蒼い、しかし、何の感情も浮かばない色に戻る。

 コルベールはそれに対して目を逸らし、拳を口元に置いて軽く咳払いをした。

「確かに君は『サモン・サーヴァント』の呪文を唱えた。そしてその結果として彼が現れた。
 使い魔としては……まあ、その……一風変わった『種族』が出てきたようだが、
 しかし、ちゃんと彼が出てきた。
 ということはやはりサモン・サーヴァントは成功しているわけだ。
 『春の使い魔召喚の儀式』はトリスティン魔法学院の長い伝統に乗っ取る儀式であるから、
 一度成功したにも関わらず、やり直すということはできないのだよ」

 コルベールは広い額に汗を少し浮かばせながら、もう一度咳払いをした。
 論理性の欠けた、単語の一部を省略した言葉を言っても、タバサには通じない。
 長年トリスティン魔法学院に勤めてきたコルベールでも、目の前にいる人形のような少女の相手は苦手だった。

「こ、これでわかっていただけたかな? ミス・タバサ」

 タバサは軽く頷いた。
 コルベールはほっと息をつく。
 タバサは相変わらずの無表情。
 感情の発露を一切見せず、コルベールに背を向けてタバサは再び才人に近寄っていった。

「な、なんだよ」
「動かないで」

 タバサは座っている才人に詰め寄った。
 才人は座ったまま、近寄ってくるタバサから逃げようとするが、それも虚しくタバサに頭を両手で掴まれる。
 頭を押さえられてしまったら、中々思うように体が動かせなくなる。
 タバサはただ呪文を唱えるためだけの理由で口を動かしていた。

「な、何すんだ……」

 才人はようやく現実味のある恐怖を感じていた。
 目が覚めたら見知らぬ場所、奇妙な格好をした人、理解できぬ言葉……。
 ニュースでその名を聞かない日がないほどの、彼の祖国から近くありながら謎に包まれた国を連想する。
 その次に頭に浮かび上がってくる単語は『拉致』

 しかし才人は、周りにいる人々が一様に朝鮮系にしてはバタ臭い顔をしており、青い髪、赤い髪、果てはピンク色の髪の人がいることに気付いていない。

「や、やめろ」

 一見子どもにしか見えないタバサの顔が迫ってきて、才人はまぶたを閉じた。
 極めて無口で何を考えているのか全くわからない相手に、詰め寄られ、才人はますます恐怖の度合いを強めていた。
 加えて、才人の理解できぬ、なんだかよくわからない言葉を唱えている相手ならば尚更に。
 すっと額に何かが押しつけられる。

 これから何をされるのか?
 不安が才人の心を掻き立てる。
 しかし、顔を寄せてすることなどそう選択肢などない。

 額の感触がなくなったと思うと、唇に何か柔らかい感触を受け、タバサの両手から解放された。

「?」

 才人が目を開けたときには、すでにタバサは立ち上がっていた。
 まるで何もしなかったかのように、タバサは才人など目もくれていない。
 人から例外なく間抜けと評されていた才人だが、目をつぶっている間に何をされたかはわかった。

 子どもにファーストキスを奪われるなんて……。
 男のファーストキスにどれだけの価値があるのかはさておき、才人は無意味な喪失感を味わった。

 才人はなんだか無性に腹が立った。
 周囲はざわついているが、こちらに声をかけようとするものは誰もいない。
 異様な事態に急に陥り、動揺していた才人だが、流石に唇を奪われたことに対しては抗議の意を示そうとした。
 が、その前に、才人の体に異変が起こった。

「『コントラクト・サーヴァント』終わりました」
「うむ、『契約』は一回で成功したようだな」

 タバサが苦手なコルベールは、少し引きつった笑みを浮かべて答えた。
 「平民だから契約できたんだ」「強力な幻獣だったら無理だったね」などという声が周囲から聞こえてくる。
 しかし、タバサは相手にしない。

 そんな中、才人は一人急に立ち上がった。

「ぐぁ! あ、熱いッ!」

 全身を火であぶられているような熱さを感じ、悲鳴を上げる。
 才人が身もだえても、周りの人間は特にリアクションを起こさなかった。
 コルベールを始め、遠巻きはただ視線を才人に向けただけで、人によっては2秒も経たずに横を向いておしゃべりに講じている。
 タバサに至っては、見てすらもいない。

「な、なに、しやがっ……た」

 体に異常な熱を感じながら、才人は言った。

「ああ、君、『使い魔のルーン』を刻んでいるだけだよ。
 心配しなくてもいい、しばらくすれば治るし、後遺症も残らないから」
「き、刻むな、んなも……ッん」

 コルベールの言葉通り、才人の体の異変は収まった。
 その途端、全身から力がぬけ、才人はへなへなとその場で膝をつく。
 コルベールはその様子を見て、ルーンが刻まれたことを確認し、才人に近寄る。
 才人の左手の甲にいつの間にか浮かび上がっていた模様を確認すると、コルベールは小声で「おや」と呟いた。

「珍しいルーンだな……いや、珍しいのはルーンだけではないが」
「なんなんだよ、あんたら!」

 才人は怒鳴るが、もはや誰も相手にしない。
 取り巻きの中では大あくびをしているものもいる。

「さてと、じゃあみんな教室に戻るぞ」

 コルベールがきびすを返すと、そのまま宙に浮いた。
 周りの人々もそれにならって、宙に浮く。
 才人はあんぐりと口を開け、その様子を見上げる。
 あたりはだだっぴろい草原で、クレーン車その他の空中マジックに用いられそうなものは見受けられない。
 ワイヤーらしきものなどどこにもなく、空飛ぶ集団はそのまま城のような石造りの建物の方へと行ってしまった。
 しばらく才人は惚けていたが、ふと一人だけ二本の足で地面を踏みしめている人物がいることに気が付いた。

「おいっ、お前!」

 タバサのみ、自分の足で建物へと進んでいく。
 才人は、自分を全く無視しているその存在に声をかけた。
 しかし、まるで何も聞こえないかのようにタバサは歩みを止めない。

「ちょっと待てってば!」

 才人は近寄って、タバサの小さな肩を掴む。
 タバサは振り返り、才人に目を向ける。
 タバサの瞳を見た才人は、背筋も凍る思いを味わった。

 タバサの瞳は、初めてそれを見る者に、同じ感想を与えるものだ。
 世の中全てにしらけきっているような、そんな印象を受ける。
 光を反射はすれど、そこには何も映っていない。
 生物的な印象は皆無。
 まるで目ではなく、青いガラス玉のような、そんな感じ。

 才人は思った。
 『人形みたい』だ、と。
 比喩ではなく、本物の、魂の存在しない、ただの人型の無機物。
 それに見えた。

 才人は脅えた。
 タバサが人形に見えたのならば、今まで動いていたのは何故なのか。
 ホラーに関して必ずしも得意ではない才人は、思わずタバサの肩に乗せた手を放した。
 タバサはなんのリアクションも起こさずに、才人に背を向け、そのまま建物の方へと歩いていく。

 才人は、そんなタバサが完全に視界からいなくなるまで、ほけっとした顔で見つめたまま立ちつくす他、何もできなかった。



[2178] 落ち込みサイト
Name: 気運
Date: 2006/11/19 09:54
「……あら? あなたは?」

 空は青いなあ、と呆然と立ちつくしていた才人に声をかけてくる人がいた。
 タバサが去ってしまってから半時間の間、とかく才人は無気力に空を見続けていた。
 本来好奇心が強いたちではあるが、異常な状況に適応するには少し時間が必要だったのだ。

 空を見て、頭に新しい情報が入らないようにしてから、考えねばならないことを順序立てて考えていた。

 才人はおもむろに視線を下げて、声のしてきた方を向いた。
 メイドだった。
 この建物で働いている家政婦なんだろうか、と才人は漠然と考える。
 今の今まで様々な方向性にむいた思考をしていたため、通常の思考に戻すには若干の時を要する。
 五秒ほど経ったときに、ようやく才人は口を開いた。

「あの、ここは、一体全体どこなんでしょう?」

 才人は言った。
 今までコルベールやタバサには居丈高な態度で、一体自分を何に巻き込んだのか聞こうとし、ことごとく無視された。
 それがいけなかったのかもしれない、と才人は考えて、今度は丁寧な口調で尋ねた。

「へ?」

 しかしメイドは、じり、と後ずさる。
 見知らぬ格好をした、空を呆けた顔で見つめ続けていた見知らぬ人に声を掛けたことをそのメイドは後悔した。

「いや……なんかいつの間にこんなことに来てて……」

 メイドは二歩後ずさった。
 ここ、ハルケギニアにも心の病は存在する。
 メイドの持っている知識は、たまに過酷な運命に直視したり、不幸な星の元で生まれたりすると、心に病を持つ人間がいるということだった。
 その心の病は、不眠状態になる、記憶が喪失する、常識的思考ができなくなる、その他色々。
 そして加えて、それらの人全てが他に害を与えるものではないというものの、あまり関わりたくはないタイプの人も少なからずいるということだった。

「そ、そんな脅えないでくれ。別に頭がおかしい人じゃない。……いや、多分、だけど……」

 やや自信なさげに才人は言った。
 自分の正気を証明する手段が何もなかったからだ。
 反面、空を飛ぶ人を見た、ということは才人の今までの経験から言うと、狂気の証明に値する。
 才人は頭を抱えた。

 そうか、そうだったのか、俺は狂っちまったのか……才人は落ち込んだ。
 首をがっくりと下げ、その場で体育座りをする。

「あ、あの……」

 メイドは流石に憐れに思った。
 突然、頭を抱え、体育座りをするという、常軌に逸した行動を取られ、やはり予想は当たっていたのか、と思う。
 とはいえ、そのメイドは優しい子であり、多少はおどおどとした態度ではあったけれど、何か力になってあげよう、とゆっくり手をさしのべた。

「な、何かお困りなら、出来る範囲でお助けしましょうか?」

 やや中腰になり、うずくまった才人に手を差し出す。
 抜け目なく『出来る範囲で』と言っておくことを忘れない。

「……」

 才人は陰鬱な表情の顔を上げた。
 メイドの手と顔に交互に視線を向ける。
 メイドはまた一歩後ろに下がりたくなったが、引きつった笑みと膝の裏あたりを痙攣させてなんとか踏みとどまった。

「……ふぇ」

 才人はぼろぼろと涙を流した。
 見知らぬ場所に突然連れてこられ、何がどうなったか聞こうとしてもことごとく無視されて……。
 魔法使いのコスプレみたいな格好している連中達は空を飛び、歩いて移動する奴は人形みたい。
 それでいて気が付けば一人っきり。

 才人は頭の割れるような孤独感を感じ続けていた。
 それをおさえるためにも空を見続け、気を逸らしていたのだ。

 もしもあのとき、プライドが高く、わめきちらして才人に当たる人物がいれば、その孤独は紛れただろう。
 しかし、そんな人はおらず、代わりに無口な少女がいた。

 そんな風に落ち込んでいるところに、メイドがやってきたのである。
 才人と同じく黒髪で黒い瞳。
 そばかすがかわいい、垂れ目のかわいい女の子。

 その子がうずくまった自分に声を掛け、手をさしのべてくれた。

 才人はこの上のない幸福感を感じ、涙をただひたすらに流した。

「だ、大丈夫ですかっ?」

 メイドはものすごく脅えていたけれど、感極まっている才人は気付かない。
 嗚咽混じりに「大丈夫です」といい、思いっきり鼻をすする。

「いや、優しくされることが……こんなに嬉しいことだったとは、思わなくって……」

 パーカーの裾で、汚れた顔を拭き、才人はゆっくり立ち上がった。

「それで……一体、ここはどこなんでしょう? 俺の脳内世界?
 人が空を飛んでるのを見たなんて俺やっぱ絶対頭おかしい……。
 ああ、そういえばかわいいメイドさんが俺に親切にしてくれるなんて、馬鹿みたいな妄想だ」

 しかし、すぐさまネガティブスイッチが入る。
 一瞬明るくなった才人の表情も、みるみるうちに陰がさしていく。

 才人に声をかけたメイドは、そろそろその寛容さの底を見せようとしていた。
 確かに彼女は親切ではあるが、しかし限界が存在するし、あまり厄介ごとを好まない性格でもある。
 引きつった笑顔は、半ば恐怖に歪んでいるようにも見える。

「だ、大丈夫ですか?」

 それでも最後の親切として、落ち込んでいた才人に声をかけた。

「大丈夫です……さっき、ちょっと人が空に飛んでいる幻覚を見ただけで」
「え? いや、飛んでますけど……」

 メイドは首をかしげた。
 トリステイン魔法学院では≪フライ≫の魔法を使い、人が空を飛ぶ光景は日常茶飯事のことである。
 とりたてて不思議なことではない。

 ひょっとしたら……心の病と何かを勘違いしているのかしら、とメイドは思った。

「……え?」
「ほら、あそこを見てください」

 メイドが中空を指さした先には、一人の老人とそれに少し遅れて若い女性が空を飛んでいた。

「……」

 才人は目をこらして、それを見る。
 老人が突然スピードを落とし、若い女性の下に回り込むと、スカートの中を覗こうとしている。
 若い女性は咄嗟に下に回った老人の顔面に蹴りをいれた。
 あーれー、と声をあげ、地面に向かって落ちていく老人。
 しかし、地面に接近していけばいくほど落下速度は落ちていき、何事もなかったかのように着地。
 若い女性に向かって何かを言いながら、再び空を飛んでいった。

「……えっと、見えてる?」
「はい、見えてます」

 才人はメイドに尋ねると、間を二秒と開けずに答えを返した。

「……あは、あははは、なんだ、頭がおかしくなったのかと思った」

 才人は軽く笑うと、頭を掻きながら照れくさそうにメイドを見た。

「俺、平賀才人って言います。危ないところを助けてもらってありがとうございました」

 本当に、才人は危ないところを助けてもらっていた。
 あのままネガティブ思考が続いていれば、自殺をしかねなかった。
 もっとも、根本的に『人が空を飛ぶ』という彼の常識から言う非常識な事実は変わっていないのだが、これ以上混乱しても事態は好転しないので敢えて無視した。

「あ、私はシエスタと申します。この学院で生徒さん達のお世話をさせてもらっています」

 親切なメイド=シエスタは、ぺこりと頭を下げた。
 落ち着きを取り戻した才人を見て、ほっと息をつき、自然な笑顔を浮かばせる。
 なんだかよくわからなかったが、とにかく勘違いであったことがなんとなく理解できたからだ。

「それで、一体ここはどこなんすか?
 俺、さっきまで秋葉原に居たはずなんすけど、突然こんな見知らぬ土地に……」

 やっぱりシエスタはもう一歩後ずさった。

「なんか、変な連中に取り囲まれてて、『サモン・サーヴァント』だの『契約』だのそんなことを言ってたんですけど」
「……! ああ、なるほど、そういえば今日は春の使い魔召喚の儀式の日でした。
 ひょっとしたら……召喚、されちゃったのではないでしょうか?」
「召喚? 裁判に呼ばれるようなことをした覚えはないよ」
「はい? 裁判? ああ、そっちの意味の召喚ではなくて、貴族の方々が使い魔を呼び出すことの方の召喚です」
「貴族? 使い魔?」

 使い魔召喚魔法『サモン・サーヴァント』は一般的にハルケギニアの幻獣・霊獣を召喚する魔法である。
 平民を呼び出すことは、普通ありえない。
 しかし、才人の話によると『サモン・サーヴァント』で呼び出されたように、シエスタには考えられた。
 才人の格好は、この世界の住人にしては奇抜であるし、目鼻顔立ちも少し変わっている。
 シエスタの頭の中で、そのことはすんなり受け入れられた。
 ふと、何故か祖父のことを思い出したが、すぐにシエスタの頭の中から消え去っていた。

 一方才人は、一人納得しているシエスタを余所に混乱を極めていた。

 『貴族』『使い魔』『召喚』

 確かに全て知っている単語である。
 ゲーム、漫画、映画、小説などで定番とも言えるような単語だらけだ。
 貴族、過去欧州辺りの国々ではそう呼ばれるものが存在していた、しかし現代日本に本物の貴族は存在しない。
 使い魔、大抵しわくちゃな老婆の膝や肩にいる黒猫かカラスであるが、もちろん現代日本には存在しない。
 召喚、ゲームでいうなんだか強い生き物を呼び出すことだ、やっぱり現代日本には存在しない。

 目の前にいる娘が電波なのか、それともやっぱりこの世界が自分の脳内世界なのか。
 才人は戸惑った。
 とりあえず、頬を強くつねってみると、目が覚めるような痛みが走る。
 やはり夢ではないし、痛みを感じられる範囲では正気であることが才人には文字通り痛いほどわかった。

「どなたに召喚なされたんです?」
「ん? いや、よくわからないけど……この世界で一番最初に会ったのが……」

 ふと、才人はあの人形みたいな子を思いだした。
 小さな子どものくせに人のファーストキスを奪った相手だ。
 そして、無機質のような輝きを持つ瞳をもった子だ。

「青い髪の毛をした、ちっちゃい子。なんか人形みたいだった」
「……ああ、なるほど」

 シエスタは才人の断片的な情報ですぐに才人の言う人の姿か脳裏に浮かんだ。

 タバサ。
 二つ名は『ゼロのタバサ』
 ゼロというのは魔法成功率ゼロから。

 トリスティン魔法学院に、普通よりも早く入学した子。
 筆記成績は常にトップを取り、なんとか進級できてはいるが、実地成績はゼロ。
 しかもタバサというこの世界でも、適当過ぎる名前で、おそらくは偽名。
 出身地不明。
 極端に無口。
 才人のようにまるで本物の人形のような印象を受ける。
 いつも本ばかり読んでいる。
 最初の頃はからかわれ、いじめを受けかかっていたけれど、何をされても無関心無表情で、いじめっこからも気味悪がれ、それよりずっと孤立。
 今では話しかける人は誰もいない。
 ずっと行動を見ていると、彼女は本当に生きていることに執着していないかのように思えてくる。

 謎多き少女。
 それならば、平民を召喚しても、さして不思議ではないな、とシエスタは何故かおかしく感じた。

「あなたのご主人様はタバサ様です。二つ名は『ゼロのタバサ』 名字は……」

 ふとシエスタは言葉を詰まらせた。
 なんという名字だったのか、覚えていなかったのだ。
 使用人たるもの、この生徒の顔と名前は覚えているのはたしなみ。
 シエスタもそのたしなみをちゃんと備えているはずなのだが、何故か思い出せない。

 その理由がわかった。
 思い出せないのではなく、元々名簿には書かれていなかったのだ。

「名字は?」
「……何か理由があるのか私には知らされておりません」
「はあ……でも、ゼロって何?」
「それは私の口からは申せません」

 タバサの二つ名の由来は、タバサにとって不名誉なものだ。
 本人が気にするかどうかは……おそらくは何も気にしないだろうが、それでもその由来を勝手にしゃべるのはマナー違反である。
 シエスタは口をつぐんだ。

「で、俺、帰れるのかな?」

 才人の興味はすぐに逸れた。
 元より、それほど気になっていることでもないのだ。
 それよりも、元の日本に戻れるかどうかの方が才人にとって重要だった。

 脳の飽和状態が続いていたために、逆説的ではあるが才人は自分が異世界にいることを理解していた。
 一々考えてもどうせ答えは出ないことがわかり、そもそも考えることが多すぎて、思考することがわずらわしくなってきていたのだ。
 理由はどうあれ、魔法がある世界は自分の世界ではない、故にここは異世界だ、と結論づけ、それを証明するものは何一つないままにそれを信じていた。
 ある意味、突拍子もない仮定を立てておけば、激しい真実にぶち当たっても精神の平静が、何もしなかったときよりも保てるという精神的自衛の意味も含まれていたのだが。

 シエスタは才人の質問にやや言葉を詰まらせて答えた。

「あなたのご主人様が許可をしたら帰れるんじゃないんでしょうか?」
「ここは何て国?」
「トリステインです」

 才人の聞いたことのない国だった。
 それはそうだろう、異世界だもの、と、才人は投げ槍に考えた。

「あなたは……サイトさんはどこの国にいたんですか?」
「日本」
「ニッポン……?」
「ニホンとも言う。日本の東京に住んでた」
「ニホン……」

 シエスタは何故か『ニホン』や『ニッポン』という語感に聞き覚えがあった。
 しかしそれがどこだったのか、最近ではなく、シエスタが幼いときに聞いたことのある響きだったのだが。

 再びシエスタは、脳裏に祖父の顔を思い出す。
 もうおぼろげで、細部はぼやけていたが、しわの寄った口がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ニホン、ニホン……」

 シエスタは視線を斜めに落とした。
 確かにニホン、ニッポンという単語を、祖父が言っていた記憶がある。
 単純にニホン、ニッポンではなく前後に他の単語が混じっていたような気がするが、しかし、もはや記憶の彼方にあるもので、中々思い出せない。

「何? 何か言った?」
「い、いえ……別に何も」
「……」

 ふと、才人も気になることがあった。
 目の前のメイド、青い髪の少女、ハゲのおっさん。
 全て日本語で話している。

「って、あんた日本語をしゃべってるじゃないか!」
「ニホンゴ?」
「そうだよ、日本語だよ。普通に発音も正しい日本語をしゃべってるじゃないか」
「いえ、私もサイトさんも標準トリステイン語を喋ってるんですけど……
 サモン・サーヴァントのとき、そうやってサイトさんの知らない言語が理解できる能力が身に付いたんじゃないでしょうか」
「え? あ、そう」

 通常時であれば才人は納得しなかっただろうが、シエスタにあっさりとためらいもせずそう言われ、納得してしまった。
 実際にシエスタの推測はずばり的中していた。

「とりあえず、こちらへ来てください。
 あなたがタバサ様の使い魔であるのならば、私達にはあなたを保護する義務があります」
「え? うん、わかった」

 才人は他に頼れるものもいなかったので、大人しくシエスタの後を付いていくことにした。



[2178] 中年二人
Name: 気運
Date: 2006/11/20 18:56
「おう、シエスタ……そこのあんちゃんは、誰だ?」
「あ、親方。この方は今日の使い魔召喚の儀式によって呼び出された、平民のヒラガ・サイトさんです」

 シエスタと才人が中庭を歩いていると、白い服をきた割腹のいい男性にでくわした。
 彼はトリスティン魔法学院の厨房のコック長=マルトー親父。
 四十代後半の気っ風のいい男性として、他の使用人達から『親方』と慕われている人物である。
 コック長という立場だけあり、魔法の使えぬ平民とはいえ、貧乏貴族よりも羽振りがいい。
 そして羽振りのいい平民に共通した『魔法・貴族嫌い』の人間でもある。

 メイドのシエスタが『使い魔召喚の儀式』という言葉を聞き、マルトー親父は眉を潜めた。

「あ、ども、平賀才人っす。えっと、なんだっけ、たば、タバサ? タバサっていう人の使い魔になっちゃったらしいです」
「タバサぁ?」

 マルトー親父の眉はますます寄っていった。
 才人は心ならずとも焦りを感じた。
 マルトー親父は体格のいい男だ。
 力もありそうで、多くの人に指示を出しているだけあって威厳もある。
 そういった人に気に入られないのは、あまりいいことではない。

 マルトー親父は毛深い腕を上げて、才人の背中を二度と強く叩いた。

「あの嬢ちゃんか。いけすかねぇ貴族だが、あの嬢ちゃんだけは別だ。
 その子の使い魔ってぇなら、邪険に扱えねぇな」
「は、はあ……」
「どいつもこいつも俺が魂を込めて作ったハシバミ草のサラダを残しやがるのに、あの嬢ちゃんだけは全部食ってくれる。
 確かにハシバミ草は苦ぇが、あれは体にもいいし、第一俺の作ったもんだ、苦ぇけどうまい。
 それなのに貴族のお坊ちゃんどもは一口も食いやしねぇ、けど、あの嬢ちゃんだけはうまそうに食ってくれる」

 マルトー親父は、二度頷き、再び才人の背中を叩いた。
 タバサはハシバミ草がたまたま好物だっただけであり、特に喜ばせようとして食べていただけではない。
 実際タバサの味覚ではおいしいと感じてはいるのだが、表情は常に無表情。
 しかし、ハシバミ草を食べているときの手の動きは、とかく速い。
 マルトー親父は、その様子を見て感動を覚え、わざわざハシバミ草を素早く食べていた少女の名を調べたのだ。

「おぅ、サイトとか言ったな。
 使い魔なんだからあの嬢ちゃんをちゃんと守ってやるんだぞ。
 しっかし、あの嬢ちゃん、平民を喚びだすなんて、ますます気にいっちまったぜ」

 マルトー親父は高らかに笑い、上機嫌になってその場から離れていった。
 才人はそんなマルトー親父の背中を見ながら、シエスタに言った。

「豪快な人なんだな」
「ええ、みんな頼りにしています」
「にしても、俺のご主人様だっけ? 好かれてるんだな」
「いえ、多分、あんなに好いているのは親方だけかと……」

 シエスタは言いづらそうに言葉をきって答える。
 才人は猫背の体勢から、顔だけをシエスタに向けた。

「そうなの?」
「タバサ様はとても無口な方で……どうもとっつきにくいようでして」
「あー、わかる。俺もそう思った。というか俺もできればあんまり関わりたくないな」

 才人は、ふと自分がこの世界にやってきた直後のことを思い出した。
 遠巻きに才人を囲んでいた複数の人達と、頭の涼しい人、どれもこれもがタバサを苦手としていそうな態度をしていた。
 そして自分も……あの瞳を再び見ることになるのはよろこばしくなかった。

「ところで、どこに行くんだ?」
「職員室です」
「しょ、職員室?」
「そうです……説明を忘れていましたが、ここはトリスティン魔法学院と呼ばれる施設なんですよ」
「魔法、学院ねぇ……」

 『魔法』
 使い魔だの召喚だの言われ、尚かつこの世界が異世界だということを認めていていた才人ではあったが、魔法と面と向かって言われても釈然としなかった。
 確かに人が空を浮いているのは見たが、それでもやはりすんなり受け入れることはできていない。

「タバサ様は現在授業中と思われますから、直接教室へ向かうより教師の方へ尋ねた方がよろしいでしょう」
「そっすね」

 疑問を多く抱えていたが、才人はシエスタの言うとおりにすることにした。
 実際、使い魔になったという実感も理解も才人の中には存在しない。
 ただ現在ここにいることはまぎれもない現実である。
 現実に目を背けつづけていても、しょうがない、と才人はややポジティブに考えていた。

 石造りの建物にはいり、階段を登る。
 階段を登り切り、廊下を一分も歩かないうちに、目的地についた。

 シエスタは戸をノックし、声をかけてから、中に入った。

「失礼します。メイドのシエスタです」

 中には、才人がさっき会った、頭の寒い人=コルベールがいた。
 手にはいくつかの本が抱えられ、ちょうど今どこかへ出かけていくようだった。

「おお、君はタバサ君の使い魔……どうしたんだい?」
「中庭で立ちつくしていたところを保護しました」
「タバサ君は?」

 才人はシエスタが口を開く前に、先にしゃべった。

「俺のことを無視して校舎の中に行っちゃったよ」
「……そうか」
「いきなりこんなところに連れてこられて、どうしようかと思ったよ。
 別に責めるわけじゃありませんが、もうちょっと説明してほしかったっす」

 コルベールは寒い頭を掻きながら頭を垂れた。
 貴族が平民に謝ることは、あまりない。
 シエスタはほんの少し目を丸くし、貴族に対し物怖じしない態度で接する才人のことをちょびっとだけ見直した。

 才人はもっと強く言いたかったけれど、恩人であるシエスタの手前、かなり抑えていた。

「いや、すまない。次の授業に遅れそうだったものでね。
 それにいくらタバサ君でも、説明するかと思っていたのだが……」
「すごい、こっちもびっくりするぐらい無視して行っちゃったっす」
「うむ……むしろタバサ君だからこそ、説明しなかったのかもしれない。
 まあ、どちらにせよ、私に非がある、悪かったね、えーと……」
「才人です、平賀才人」
「サイト君。君が満足のいくほど説明することで、私の非を帳消しにしてくれないかな?」
「いいです」

 才人は特に何も考えずに反射的に頷いた。
 強気に出ることができないのは、さっき喚いたときに無視されたことが記憶の片隅に残っているからだった。

「ああ、よかった。ついでに、終わった後に君にも少し付き合ってほしいことがあるのだが……」
「構いませんよ」
「ありがとう、サイト君」

 コルベールは抱えていた本を自分の机に乱雑に置き、予備の椅子を持ってきて才人を座らせた。
 自分もまた用意しておいた椅子に座る。

「それでは、私は失礼します」

 戸の前で立っていたシエスタが丁寧に頭を下げて、後ろを向いてドアを開いた。
 コルベールと才人がシエスタに向かって同時に声をかける。

「うむ、ご苦労様」
「あ、ありがとう。シエスタさん」

 シエスタはくすりと微笑み、ほんの少し開いたドアの隙間から、小声で才人に言葉を返した。

「シエスタで結構ですよ、サイトさん」

 ドアが完全にしまり、シエスタと思われる足音が遠ざかっていく。
 才人はほんの少し顔を赤らめながら、コルベールの方に振り返った。

「では、何から説明した方がいいかな?
 タバサ君には、多分、聞けないだろうから、今のうちに聞けることだけ聞いておいた方がいいよ」
「はい、わかりました……まず……」

 才人が全ての質問を終え、この世界についての知識をあらかた得ると、窓から赤い夕日が差し込む時分になっていた。



[2178] 初めての接触
Name: 気運
Date: 2006/11/21 17:42
「ほえ~……」

 才人は呆けた顔をして廊下を歩いていた。
 手には小さな羊皮紙に、簡易的な地図がかかれている。

「まっさか、本当にファンタジーの世界にきちまってたとはなあ」

 頭の貧しい人=コルベールから、才人はこの世界のたいていの成り立ちや法則を聞き出した。
 全てが才人にとって信じられないことではあったが、今となってはそれを信じられる心境にある。

 廊下の窓から才人は空を覗く。
 空には赤い月と青い月の二つが大きく浮かび、地上を優しい光で照らしている。
 地球で二つの月が見える地域というのは、いくらなんでも存在しない。
 それを見てしまったので、才人はここが地球ではなく異世界=ハルケギニアということを嫌でも認識せざるを得なかった。

「貴族に……平民ねぇ」

 才人は一人ぼやく。
 酷く現実味のないことに感じられはしたが、これが夢や幻の類だとは思わなかった。
 今日だけに十回以上つねられた頬の赤みが、現実を証明している。

 貴族とは魔法を使う、国に認定された者のこと。
 平民は例外はあるが、魔法を使わない者のこと。

 シエスタ等に平民、と言われていたものの、才人はそれが一種の何かの言い回しかと思って気にしていなかった。
 が、しかし、この世界ではその間にある差はかなり大きなものである。

「全く、けったいな世界に来ちまったもんだ」

 平賀 才人、身分:使い魔。

 左手の甲に浮かび上がった模様『使い魔のルーン』を目を細めて見ながら、才人は呟く。
 コルベールは、このルーンは今まで見たことのないものだと言っていた。
 というよりかは、一度何かの文献では見たことがあったが、実際に見ることは初めてだとか。
 そしてその文献がなんなのか、使い魔のルーンにどういう意味があるかは、覚えておらず、才人達が訪ねてこなければそれを調べに行くところだったらしい。

 この世界の情報を聞き出した才人は、そのルーンについて調べる協力を快諾した。
 コルベールは使い魔のルーンの綿密なスケッチをとり、更に何層にも重ねた≪ディテクトマジック≫探知呪文をかけた。
 これだけあればトリスティン魔法学院に存在する膨大な資料から調べ出すことも、いくらか手間がかからなくなった。
 何にせよ、実物の詳細なデータがあれば、該当する資料を魔法で検索すれば事足りるのだ。
 蔵書数が半端でないために、一晩はかかるが、手探りで探すよりかはずっと時間が短縮できる。
 知的好奇心の強いコルベールにとっては、その程度の労苦はあまり問題にならないが、時間は重要なのだ。

「にしても、複雑だなー、ここ」

 才人はトリスティン魔法学院の学生寮で道に迷っていた。
 見知らぬ地の見知らぬ建物にとまどい、地図を持ってはいれども道を一つ二つ間違えている。
 こりこりと頭を掻きながら、唸りながら道を歩く。

「あんた誰?」

 不意に才人は背後から声をかけられた。
 道を歩いているとしばしば生徒らしき人に出会い、姿格好の特異さからかじろじろ見られていたが、声をかけられたことはなかった。
 才人は才人で、それはそれで面倒がなくて助かった、などと思っている。
 とにかく、声をかけられた以上振り向かなければならない。
 酷く鬱陶しく思いながらも、体の向きを機械的に変えた。

「なんすか?」
「なんすか、じゃないわよ。ここは魔法学院の女子寮よ? なんであんたみたいな男が、それも平民がここにいるのよ」

 才人が振り返ると、そこにいたのは女の子だった。
 女子寮であるので女の子なのは当然だが、桃色がかったブロンドの、かわいい子だ。
 タバサ、シエスタの一歩先行く、今まで才人が見たことのないほどの美少女。
 ただ少し気が強そうだな、と才人は思った。
 事実、桃色の髪の子は言葉にも態度にも、才人への侮蔑が含まれている。

「俺、タバサっていう人の使い魔になったんす。それで、そのご主人様の部屋がどこか探してたんだけど……」
「ああ、あなたね。あのゼロのタバサの平民の使い魔ってのは」

 桃色の髪の子は、才人を人と見ていないような目で見ている。
 才人は、心中でムッとしたが、まだ角を立てる気はない。
 高慢ちきでいけすかなかったが、相手は女の子。
 それも外面はかわいい。
 もしこれが男だったら皮肉の一つでも言っていただろうが、才人は平然とした態度を保とうとした。

「ええまあ……ところで、ゼロってなんなんすか? 誰も教えてくれないんすけど」
「本人に聞けば?」

 桃色の髪の子は才人のことを頭から馬鹿にしていた。
 何故こんな態度をとられるのか、現代日本に生まれた一般家庭の子である才人にとっては、初めての経験だったので、理解ができなかった。
 ただ、桃色の髪の子の侮蔑に対しては思うところがある。

「そっすね」

 少し才人は気分を悪くし、ぞんざいに答えた。
 桃色の髪の子も、才人の態度に眉を顰めたが、声には出さない。

「ただ本人が答えてくれるかどうか……話に聞いただけっすけど、すっげぇ無口らしいじゃないっすか。
 第一、俺をこんなところに連れてきたときだって、俺のこと完全無視してたっす」
「そんなこと、私は知らないわよ。とにかく、ここは女子寮。
 あんたみたいな男は入ってきちゃいけないの、男子禁制なのよ?
 貴族だって入るのには手続きが必要なのに、平民のあなたが無断で入ってこれる道理はないわ」
「あ、それのことなら問題ないっす」

 才人はコルベールから貰った紙片を取り出した。
 桃色の髪の子はそれをひったくり、紙片に書かれている文字を見る。

 女子寮に住むことを了承する、学院長のサイン入りの許可証だった。
 才人にはなんと書かれているのか全く読めなかったが、誰かに見咎められたときにこれを見せればいい、と言われていた。

「……くっ」

 桃色の髪の子は、才人に紙片を叩き返した。
 手がぷるぷると震え、顔がトマトのように赤くなっていく。

「こんなものを持っているなら最初から出しなさいよ!」
「は?」
「平民のくせにっ」

 才人は理不尽さをかみしめながら、顔を真っ赤にして立ち去っていく桃色の髪の子を見た。
 負けず嫌いの度が過ぎた子なんだなあ、と呆然と才人は思った。
 今日は理不尽なことを立て続けに受けてきたため、もう傍若無人の振る舞いをされても腹も立たなかった。

「変な奴」

 才人はぽつりと独り言を呟き、目的の部屋の探索を再開した。



[2178] はちうるい
Name: 気運
Date: 2006/11/22 20:49
「あのー、すんません」

 才人はそれから半時間もの間、広い寮の廊下を彷徨い続けていた。
 流石に自力で現状を打開することは不可能だと思い、才人は遂に助力を求めた。
 たまたま出会ったのは、赤い髪をした、褐色の肌の女の子。
 この子も生徒の制服を着ているが、その胸元は、中身がはち切れんばかりに膨らんでいた。

「何かしら」
「えっと、道に迷っちゃいまして、ちょっと聞きたいんですけど」
「あなた、確か、あのゼロのタバサがサモン・サーヴァントで喚びだした平民?」
「そうっす。そのゼロのタバサの部屋に行きたいんですけど……」

 才人は胸に視線を行かせるのを止めることができなかった。
 反則気味というべきか、才人が呼びかけた女の子は、先ほどの桃色の髪の子に並ぶとも劣らぬ容姿をしていた。
 特に意識して声をかけたのではない。
 が、やはり胸に視線が行ってしまう。

 あまりじろじろ見ていると、相手に悪い印象を与えかねないと思い、才人は努めて他のものを見ようとした。

「きゅるきゅる」

 そしてその『他のもの』は色々とインパクトのあるものだった。

「うわぁ! 真っ赤な何か!」

 床には巨大な赤いトカゲがいた。
 『サラマンダー』だ。
 赤い髪の子の背後からにゅうっと顔を出し、才人の足下にするすると歩いていた。

「あなた、火トカゲを見るの初めて?」
「え、ええ、まあ……」

 才人は直ぐに心拍数を戻そうと試みた。
 今までに、元の世界には絶対いないと思われる生き物を何度か廊下で見たが、ここまで巨大なものは初めてだった。
 全長は大体人の身長ほどの、燃えるような……実際一部体が燃えている、巨大トカゲだ。

 突然、足下に現れたため、思わず驚いてしまったが、見慣れてしまえばどうというものではない。
 恐ろしい生き物であれど、使い魔なら、主人が命令しない限り無差別に襲ったりしないのは、コルベールから聞いていた。

「……ふむ、よく見てみるとかっこいいな」

 才人も男の子である。
 燃えているトカゲは、恐ろしくあれど、しかし同時にかっこよくも思えた。

「火、吹いたりするの?」
「吹くわよ。それはもう情熱のような真っ赤な火を吹くわ」
「へー、触っても、いい?」
「いいけど、尻尾の方は火傷がしたくなかったらやめといた方がいいわよ」
「わかった」

 才人はおずおずとした手つきで巨大な爬虫類に手を伸ばした。
 頭の赤い皮膚に触れると、熱を感じる。

「あったかいな。爬虫類って変温動物だけど、こいつは日光とかあんまり必要なさそうだな」
「まあね、あんまり寒いところに行かせちゃうと体調を崩しちゃうけど、自ら熱を発しているから普通の寒さは耐えられるわね」

 才人は段々大胆になり、ただ触れるだけではなく、頭を撫でてやった。
 サラマンダーは気持ちよさそうに、きゅるきゅると喉を鳴らし、目を細める。
 猫みたいだな、と才人は思った。

「あら? フレイムがこんなに懐くなんて」
「フレイム?」
「この子の名前よ、似合ってるでしょ」
「そうだな、真っ赤だし、暖かいし」

 使い魔同士、妙なシンパシーでも働いたのか、サラマンダー=フレイムは才人に顔をすり寄せた。
 自ら体をなすりつけたり、喉を鳴らしたりして、撫でられるのを懇願したりしている。
 口を開いて舌で才人の頬をなで上げる。

「うぉぁちっ!」

 サラマンダーの唾液は高温である。
 それを頬に塗りたくられた才人は、もんどりをうって転げた。

「あっはははは」

 赤い髪の子は、そんな才人の様子を見て腹を抱えて笑った。
 フレイムは倒れた才人にのしかかり、更に舌で顔を舐めまくる。

「熱いッ! 熱い、やめ、熱いってやめろ、この、フレイム! ほんとマジ火傷するから!」

 才人は本気で抵抗していたが、フレイムは止まるところを知らない。
 圧倒的な重量で才人を地面に押しつけて、身動きを取れなくさせ、腕で防ぐことすらできない無防備な顔を舐めていく。
 その横で、赤い髪の子は腹を抱えて、大笑いをしている。

「ちょ、ちょっと、笑ってないで助けてくださいって……あつっ!」
「くくくくく、ごめんごめん、こら、フレイムやめなさい」

 赤い髪の子がフレイムの頭を軽く叩くと、フレイムはきゅるきゅると悲しげに鳴いて、才人の体から離れた。
 余程熱かったのか顔を真っ赤にし、べたべたをパーカーの袖でぬぐいながら、才人は起きあがった。

「ごめんなさい、でもあんまりおかしかったものだから……」

 赤い髪の子は口元を手で押さえて、今も少し息を詰まらせていた。
 顔をぬぐっている才人がジト目で見つめていることに気が付くと、わざとらしく咳払いして笑いを止める。

「私、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプトー、キュルケって呼んで頂戴。あなたは?」
「え? あ、お、俺は平賀才人。才人でいいよ」
「ヒラガ・サイト? 変わった名前ね」
「そらまあ……」

 才人は、あんたのやたら長い名前よりかはマシだよ、と思った。
 心の中のことなどおくびも出さずに、愛想笑いを浮かべる。

「中々変わった人ね、あなた」
「そうかな?」
「そうよ。平民なのに使い魔だったり、そんな見たこともない服装。
 おまけにうちのフレイムをあっというまに魅了しちゃってるのに、変わってないって言うつもり?」
「ふっ、服装はところ変われば品変わるって言うだろ。俺のいたとこではこれが普通なの!」
「郷に入りては郷に従え、とも言うわよ」
「今日突然連れてこられたばかりなんだから、着替えなんてなかったの」
「あらそう」

 とはいえ、才人は着替えがあったとしても着替える気はなかった。
 まだこの異世界に来てから一日も経っていない。
 ごく短時間で彼の価値観に多大な影響を与えたといえど、服装まで魔法使いの格好を真似する気にはなれなかった。
 もっとも、彼は平民であるから、そのような格好をさせられることはないのだが、才人はまだそれに気付いていない。

「それで、タバサの部屋を知りたいんでしょ?
 この塔じゃないわ、向こうの塔」

 赤い髪の子=キュルケは窓から見える塔を指さした。
 日が暮れたこともあり、塔のあちらこちらから光が漏れている。

「あの塔の、確か五階だったわね。わざわざ違う塔のこんなところまで登ってきてご苦労様」

 キュルケは才人の肩をポンと叩いた。
 結構な数の階段を上り下りして、足に疲労を溜めていた才人は、その勢いもあってかがっくりと肩を落とした。
 もうそろそろ到着するころかと思ってたのに……と、才人は涙する。

「早く行った方がいいわよ。
 ここの塔には、やたらがなりたてる桃色の髪の子がいるから、見つかったら大変なのよ」

 桃色の髪の子、才人はさっきの子を思い出す。
 確かにがなりたてていた。
 結局、真っ赤な顔して逃げていってしまったけれど。

「ああ、はい、わかりました……」
「じゃねー、タバサによろしく。まあ、私はあの子嫌いなんだけどね、何考えているのかわからないし、無視するし」
「はあ、すんません……」

 才人は、なんとなく頭を下げた。
 この世界に来て才人の会った人達は、大なり小なりキュルケと同じ感想を抱いている。
(マルトー親父は例外で桃色の髪の子はそもそも無視していた)

「別にあなたが謝ることじゃないわよ。むしろお気の毒様、と言わせて貰うわ」

 キュルケは少し困ったような笑みを浮かべ、才人の肩を二度軽く叩いた。
 そのまま踵を返し、足下のフレイムに声をかけて、才人から離れていく。
 フレイムは興味深げに、落胆している才人を見つめていたが、少し遅れてキュルケの後を追っていく。

「じゃねー」

 途中、キュルケは振り返り、才人に向かって軽く手を振った。
 才人も少し引きつった笑みで手を振り返す。

「貴族にも色々いるんだなぁ……っつっても、数人しか知らないけど」

 才人は手に持っていた地図を丸め、ポケットにつっこんだ。
 くしゃり、という音が寂しく聞こえる。
 キュルケの後ろ姿が見えなくなったところで、才人も元来た道を引き返していった。



[2178] 扉の前でモンモン
Name: 気運
Date: 2006/11/25 20:34
「さぁてね……」

 才人はようやくタバサの部屋の前に到着した。
 今度は積極的に人に道を尋ね、確信を持って部屋の前に立っている。

 このドアの向こうに、あの人形みたいな子がいる、と考えると才人の心臓は早鐘を打った。
 生者の気配を全く感じさせない瞳を直視したことが余程才人にはこたえていた。
 意味もなくドアの前でうろうろ歩き回ってみたり、ドアノブを握っては放してみたりしてドアを開けることを引き延ばす。
 今ひとつ踏ん切りがつかなかった。

 第一、使い魔になったという実感が、まだ才人にはない。
 理解はしている。
 この世界が魔法の存在している世界で、そういう慣例があることを、理解はしている。
 しかし、物質的な現代日本の寵児である才人が、そのことを無条件に受け入れられなかった。

「ん~……」

 鼻の頭を爪の先で軽くひっかく。
 踏ん切りのつかない自分に、才人は軽く嫌悪感を抱く。
 いくら入りづらいとはいえ、いつまでも廊下にいるわけにはいかないのだ。
 使い魔になった以上、どんなに不満を覚えてもタバサに仕えて日々の糧を得なければならない。
 そのためには廊下でいつまでもうろうろせずに、部屋の中に入り、タバサと声を交わさなければならない。
 わかってはいる。
 わかってはいたが、中々踏ん切りがつかなかった。

「えーい、ままよっ」

 遂に才人は一念発起し、ドアを力強くノックをする。
 乱暴に叩いた分だけ、ドアは乱暴な音を発した。
 中から返事はない。

「ここ、タバサさんの部屋ですか? ですよね?」

 返事がなかったために、大きな呼びかけた。
 それでも、中から返事はない。

 ……。

 才人は再び頭を抱えた。
 あの無口な少女であれば、返事をしなくても何の不思議もない。
 しかし、完全に確認が取れていないのに部屋に入るのはどうだろうか、と。
 もし別人の部屋だったら、才人にとってあまり好ましくない運命が待ち受けている可能性が高い。
 無人であれば問題はないが、就寝していた場合、あらぬ誤解を受けるのは明白だ。

「あら? あなた、そこで何をしているの?」

 そこへ、タイミングよく女子生徒が通り、才人の存在に気が付いて声をかけた。
 長い金髪にロールをかけて、おでこが大きく露出している生徒だった。
 才人は少々動揺しつつ振り向く。

「えっと……この部屋がタバサって人の部屋かなぁ、と確かめようとノックしたんだけど、何の返答もなくて……」

 ここが女子寮だからかばつ悪く感じ、少しどもった声で言った。
 女子生徒は探るような目つきで才人の姿を上から下へと見ていたが、やがて才人のことを思い出したのか、大きく頷いた。

「思い出した。あなた、今日召喚されてたタバサの使い魔ね。そう、そこがタバサの部屋よ。
 でも、あの子極端に無口みたいだから、いくら呼びかけたって返事はしないわ」
「ああ、やっぱり」

 才人は溜息をついた。
 このドアを境にして向こう側に自分の主人がいる。
 その主人は誰に対しても無口で、不干渉。
 これから長らく世話にならなければならないのに、そんな人相手にやっていけるのか、と才人は不安を感じていた。

「ちょっと待っててね、内側から鍵が閉まってると思うから」

 髪をロールした子は、マントの中から杖を取りだし、先端でドアノブを軽く叩いた。

「アン・ロック」

 髪をロールした子が呪文を唱えると、かちりという音と共に鍵が外れた。
 才人は目を見張った。
 鍵を掛けられていたことを確認していなかったのだが、確かに鍵の外れる音を聞いた。
 空を飛ぶ人やコルベールが何もないところから火の玉を出すのを見ていた才人だが、やはりまだ魔法を見せられると必要以上に驚いてしまう。
 才人は驚いている反面、目の前の子が魔法を使っていとも簡単に鍵を開けたところを見、この世界での鍵の信用度は低いんだな、とやや冷静に物事を見ていた。

「タバサはロックが使えないから、私でも容易に鍵を外せるのよね」
「あ、ありがとう」
「これくらいはなんてことはないわ」

 髪をロールした子は、この後人と会う約束をしている、と言って、その場から立ち去っていった。
 また再び、廊下に一人残された才人。
 助けてくれた親切な人の背中が完全に見えなくなるまで見送ってから、ドアと向き合う。

 胸一杯に空気を吸い、ゆっくり吐き出すとドアをじっと見つめた。
 やや緊張した面持ちでドアノブに手をかけ、そのまま横に捻る。

 ドアに鍵がかかっている感触はなく、押せば大した力も必要とせずに部屋の中と廊下が繋がった。

「失礼しまーす」

 声を潜めて言う。
 どうせ、大きく言ったって小さく言ったって、そもそも何も言わなくたって、主人が何も気にしないのはわかっている、と才人は開き直り、部屋に踏み入った。
 ランプの淡い光が照らす部屋の中央にタバサはいた。

「……」

 タバサは部屋に入ってきた才人に目もくれず、ランプの光を頼りに本を読んでいた。
 最初はタバサに視線を奪われた才人だったが、すぐに部屋を見回し始めた。
 タバサの部屋にあるものは、安物のクローゼット、本が詰め込まれた棚、小さなベッド、ぼろいテーブルと椅子。
 たったそれだけ。

 才人は目を疑った。
 仮にもタバサは貴族と聞いている。
 しかし、この部屋が才人のイメージとはあまりにもかけ離れていた。
 やたら本だけはあるが、家具はほとんどがお粗末な代物で、やはり貴族の部屋には見えない。

「……」

 部屋にはタバサの本のぺージをめくる音のみが存在していた。

 部屋の外の音は聞こえてこない。
 音が入り込まない魔法が建物にはかけられていた。

 才人とタバサの両者、どちらも沈黙を崩さずに時間が流れるままにしていた。

 才人はタバサをまじまじと見た。
 ランプの光によって闇の中から浮かび上がるタバサの白い顔は、何故か才人に幼いころ読んだ絵本の魔女を彷彿させた。
 タバサの顔には皺一つもないが、ランプの光のゆらめきが、タバサを皺の寄った老婆に見せた。

 才人の喉が唾を飲み込んだ音をたてる。
 足がほんの少し震え始めた。

「……」

 非常に居づらい……才人は、現状を打開するための方針をいくつか立てようとした。
 ここまで行動の極端な人物は才人は今まで見たことがなく、とりあえず当たり障りのないところから始めることにした。

「な、何の本を読んでるのかなあ……」

 まずは、コミュニケーションを取ってみることをした。
 相手も人間、こちらも人間、人間ならば言語が通じる、言語が通じればコミュニケーションができる、という単純な発想の答えである。
 宇宙人とコンタクトをとるように、慎重に慎重にイントネーションを大切にして、言葉を発する。

「……」

 それでもタバサは完全に無視していた。
 明らかに聞いているはずなのに、言葉も返さず、関心も示さない。
 一瞬、タバサは声が聞こえていなかったのかと才人は思ったが、適度な音量で発声した以上それはなかった。
 それでも念のため、もう一度才人は声を掛けた。

「おーい、聞こえている?」

 負けじと才人は呼びかけたが、返答はない。
 段々とタバサに声を掛けることが『無駄な行為』と思い始めた。
 外聞と第一印象通り、どんなに話しかけたとしても無視されると思い、ついに努力を放棄することに決めた。

 やれやれと溜息をつき、いきなりコミュニケーションをとる前に、まず情報を集めることにした。
 声をかけるのは一旦やめ、タバサの様子をもう一度よく見直してみる。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず、ってな」

 口の中だけで響くような小さな声で呟いた。
 ランプの明かりを頼りに、タバサの様子を見る。

 タバサは、小さかった。
 他の同級生達と比べてみても、明らかに低すぎる背。
 確かに彼女のクラスの中では、一番低い年齢ではあったが、それでも実年齢とは2、3歳ほど差がある体をしている。
 タバサは、ちょっと力をいれたら折れてしまいそうなほど細い指で本のページをめくっている。
 ランプの明かりが、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。

 才人はタバサを観察していたが、しばらくすると馬鹿馬鹿しく思えてきたので、目を逸らした。
 外見から得られる情報は、どれもこれも『不気味』としか思えないものだけ。
 今後の関係をよりよいものにするために使えそうなものは何も手に入らなかった。
 それでもしばらく才人はタバサの部屋にいたが、両者の間には相変わらず沈黙しか存在しない。

 タバサのあまりの無視っぷりに耐えられなくなり、才人は音を立てないように部屋を出た。
 無言のプレッシャーから解放され、部屋から出て才人は大きく溜息をつく。

「やっぱり……」

 誰に言うこともなく呟く。
 一度、部屋のドアを振り返って見た後、才人はあてどなく塔の中を歩き始めた。



[2178] 空飛ぶるーるる
Name: 気運
Date: 2006/11/25 20:42
 才人は塔の屋上に来ていた。
 ここ、トリスティン魔法学院では、空を飛ぶ魔法≪フライ≫を使うものが多くいるので、塔の屋上は出入りが可能になっている。
 才人は、ひんやりとした石の床に大文字になって横になっていた。
 ただぼんやりと夜空を見上げている。

「異世界、かぁ……」

 異世界においても、空は地球と同じだな、と才人は思った。
 辺りに明かりが少なく、そして空気が綺麗なために、才人の住んでいたところよりも、もっと多くの数の星が見ることができた。
 子どもの頃、親に連れられてやったキャンプ場の夜空を思い出しつつ、才人は空に向かって手を伸ばす。

 空に浮かぶ無数の星と、それらを支配しているかのように煌めく二つの月。
 片方は赤く、片方は青い。
 なんとなく手を伸ばし、握ってみればそれが捕まえられるような気がした。
 実際にやってみても、もちろん掴めない。
 何度繰り返しても、掴めない。

「……母さん」

 空に向かってのばした手を、うろんげに床に落とした。
 目をつぶると、涙がこぼれる。
 才人はまだ十七歳。
 そして『もう』十七歳。
 全てを捨て去るには、達観できるには早すぎて、人生を生きるたびに増える持ち物の数が多く、遅すぎた。

 元の世界に戻ることは完全に不可能ではないだろうが、それでもそれが見つかる確率は極少。
 コルベールから聞いた話が、今になって重く心にのしかかってくる。
 才人は周囲に流されやすい性格で、順応力も高かったが、しかし、十七歳の少年がそう簡単に割り切れるわけがない。
 一人になったときに、どっと感情があふれ出てきた。

 しかし才人は耐えた。
 涙も、目をつぶったときに数滴溢れただけ。
 意地というか矜持というか、才人はとにかくなんらかの信じるものがあって、感情の高ぶりを押さえつけた。
 あるいは虚勢だったのかもしれなかったが、この世界で生きるためには、少なからず虚勢が必要だった。

 心が石になるようにと、才人は祈る。
 この先に存在するどんな障害にも、歯を食いしばって耐え抜く覚悟をした。
 腹の下に力を込め、深く息を吸う。

 もう才人は大丈夫だった。
 ゆっくり目を開く。
 時折吹く穏やかな風が、才人の頬を撫でる。
 涙が伝った後がひんやりとし、心地よく感じられた。
 上半身を起こして片手で支える体勢で、首を後ろに倒す。

 呆然と空を見る。
 相変わらずの星空。
 赤い月と青い月。

 ふっ、と、何かが月を横切った。

「……まさか、な」

 鳥か何かだろうと才人は思い、月に映った影を見た。

「うわ、すっげ……」

 それはドラゴンだった。
 青い鱗に覆われた、翼の生えた爬虫類のような生き物。
 才人のいた世界では架空の生物とみなされている。

 今日一日で、サラマンダー=フレイムやその他の空想の生き物を多々見てきたが、ドラゴンを見た感動はそれの比ではない。
 今まで落ち込んでいたことなど忘れ、その場から立ち上がって、空を見上げる。

 ドラゴンは悠々と空を飛んでいた。
 翼を大きく上下に揺らし、まるで水の中を泳ぐイルカのように宙に浮いている。

「きゅいきゅい」

 空の彼方からドラゴンの鳴き声らしいものが聞こえてきた。
 才人は、口元に笑みを浮かべる。

「声までイルカみたいだな」

 ドラゴンは才人に見られていることに気付いているのかいないのか、ただ空をひらひらと飛んでいる。
 くるくると回りながら、高度を上げたり、下げたりを繰り返していた。

「……あの体格で、どうやって飛んでるんだろうなあ」

 それは幻想的な光景だった。
 文字通り、ここはファンタジーの世界。

 空に浮かぶ二つの月。
 空で泳ぐ青い竜。

 普通に生きていたらまず見られなかった光景に、才人は嘆息する。

 ドラゴンは空の散歩を十分楽しんだのか、旋回しつつ高度を下げていた。
 段々と才人のいる塔にも近づいてきて、少し離れたところを高速で通過していく。
 ちょっとした風圧を感じ、よろけたが、そのまま立ってドラゴンが学院の中庭に不時着するのを見続けた。

 ドラゴンは青い鱗に覆われた翼を小刻みに羽ばたかせ、大きな音をたたせずに地面に足をつける。

「ん?」

 塔の端から顔を出して下を見ていた才人は、ドラゴンの上に誰かが乗っていたことに気が付いた。
 ドラゴンが自分の上空にいたときには気付かずに、上から見下ろす形になって初めてその存在が確認できた。
 月の明かりだけでは、上に乗っている人物の様相はわからない。

「すげーなあ、ドラゴンライダーってやつか」

 才人はあの自由自在に空を飛んでいたドラゴンの上に人がいたことを知り、唸った。
 ドラゴンは本当に自由気ままに空を飛んでおり、上に人が乗っているような素振りを何も見せていなかった。
 だからてっきり才人は人が乗っていないのかと思っていたが、実際には乗っていた。

 あの機動を見せたドラゴンに乗って、一度も落ちなかったことに対して、あの騎手は余程の手練れなのだろう、と才人は思った。

「ああ、俺もあんなのに乗れたりするのかな」

 目をつぶって、自分がドラゴンに乗っている姿を夢想した。
 今まで飛行機にすら乗ったことのない才人には、空を飛ぶという行為は全くの未知の領域だったが、とても気分のいいものだろう、と才人は思った。
 雲の中に突っ込み、何もかもが小さく見えるほどの高さで地上を見下ろす光景を思い浮かべ、才人の心は躍った。

 そんなことをしている間に、ドラゴンの上に乗っていた人物はどこかへと立ち去っていた。
 同時にドラゴンは、再び羽ばたき始め、宙に浮かぶ。

「きゅいきゅい」

 またもやドラゴンは鳴き声を発し、首を空に向けて、離陸する。
 今度はもっと才人のいる塔の近くを飛び、あっという間に空の彼方へと飛び去っていく。

「るーるる、るーるる」

 ドラゴンは、今度はイルカのような声ではなく、今度は人の歌声のような音を残していった。
 才人は、青いドラゴンの姿が夜の闇に完全に消えるまで、塔の屋上から立って見つめ続けた。

「……落ち込んでいても駄目だよな。うん。
 なんにしろ、ここで生きてかなきゃならねーんだ。
 悲しいことよりも楽しいことを想像した方がいい」

 才人は両手を天に向かって突き出して、大きく伸びをした。
 筋肉の筋が伸びる心地よさを感じて、んーっ、と大きくうなり声をあげる。

 才人はドラゴンが消えていった方向をもう一度見た後、屋上から立ち去った。

 目指すはタバサの部屋。
 駄目になるまで頑張ってみよう、と心に決め、機嫌良く出発した。
 たまたまやってきた屋上で、才人は、今の才人にとって、ある種救いになるものを手に入れたのだった。



[2178] 家捜しファラウェイ
Name: 気運
Date: 2006/11/26 16:34
 再び才人はタバサの部屋にやってきた。
 軽い足取りでドアを開き、暗い部屋に足を踏み入れる。
 まだタバサはランプの淡い明かりのみで、黙々と本を読んでいた。

「よう!」

 天に向かって手を挙げる。
 あまりの勢いで上着の袖が揺れ、バッという音がした。
 返答がないので、より一層寂しく響いた。

「なあ、この部屋椅子が一個しかないみたいだから、ベッドに座っていいか?」

 タバサははいともいいえとも答えない。
 ただ本のページをめくっているだけだ。

 才人は考えた。
 了承も得ていないのにいきなり人のベッドに座るのは、流石に失礼だ、と思っている。
 しかし、目の前の少女がそれにこだわりそうにないのも、今まで得た経験でわかっていた。
 とはいえ、それでも勝手に座ることはできなかった。

「んじゃ、ベッドに座っていいなら五秒間何も言わないでくれ」

 形式的だけでも了承を得るための苦肉の策を講じた。
 それは見事に成功し、タバサは五秒間ずっと黙っていた。
 心おきなく、才人はベッドに腰掛ける。
 詭弁じみていたが、タバサ相手にまともな方法で了承を取るのは難しい。
 念のための措置だった。

「なんの本を読んでるんだ?」

 才人は一人でタバサに声をかけ続けた。
 返答がないのはわかっていたが、それでも懸命に声をかけ続けた。
 同居生活をしなければならないのに何も言葉を交わせないのは致命的過ぎる。
 才人は諦めるのは全て試してみてからでも遅くはないと、先ほどとは打ってかわってがんばりを見せていた。
 それでもタバサは無情にも才人の言葉に返事をしない。

 タバサは、そんな才人の存在を煩わしく思っていた。
 静かに本を読んでいたい、というのが本音で、タバサには才人に声をかけることは断じて行わない意思があった。
 才人がタバサの後ろから本を覗きこんで居るときになって初めて、眉をほんの少しだけ歪ませた。

「うわ、読めね……なんだこのミミズがのたくったような文字は」

 異世界人である才人にとってはこの世界の文字は未知の領域である。
 言葉はなんらかの能力があってか理解できたが、識字することはできない。
 加えてタバサの読んでいる本は挿絵の一切ない、文字だけの本。
 しばらく唸りながら見ていたが、才人には本の内容がかけらも理解できなかった。

「……」

 タバサは才人の言葉に耳を傾けない。
 ただひたすらに、ページに綴られた文字を目で追っている。
 かなりのハイペースで文字を読み取っていた。

「なー、なんでそんなに無口なんだよ」

 才人は本から目を逸らし、タバサの方を見た。
 テーブルの前にぐるりと回り込む。
 本を見ているタバサの正面に立ち、真っ向からタバサに声をかけた。
 手に持った本にのみ目を向けているタバサの目を見て、才人はさらに言葉を続ける。

「おーい、聞こえてる? 俺のことなんでそんなに無視すんの?
 一応、俺、お前の使い魔ってことになってるんだけど」

 中腰になってテーブルの上に肘をつき、腕で顔を押さえながらタバサの顔を見続ける才人。
 それでもタバサは顔色一つ変えない。
 ここまで無視され続けると、実はしゃべれないのではないか、という疑問が才人の中からわき上がってきた。

「実は、失語症? いや、あのとき喋ってたから違うか」

 才人は、自分がこの世界に喚び出された直後のことを思い出した。
 確かに記憶には、タバサがコルベール対して召喚失敗のことを言ってたし、使い魔のルーンを才人の体に刻むときには呪文を唱えていた。
 ならば意図的に無視しているわけだ、と才人は結論づける。

「なあ、無視すんなよー」
「……」
「無視すんなって」
「……」
「お願い、無視しないで」
「……」
「……」
「……」

 才人は立て続けにタバサに声をかけたが、タバサは頑なに口を開かなかった。
 強く言ってみても、懇願してみても、タバサは全く反応を見せない。
 流石に根気も尽きて、才人は何か他の方法でタバサの口を開かせようと考えた。

 しかし、これといって方法は思いつかない。
 いっそくすぐってやろうかとも考えたが、あまり知り合ってない間柄(知り合っていても駄目だが)の女性に対してくすぐりをするのも問題があったのでやめた。

「ま、いいや、話したくないんなら話したくなるまで、話さなくたっていいさ」

 才人は諦めた。
 ただ時間の経過が、タバサの硬い口を開かせるのを待つことにしたのだ。
 才人は立ち上がって、部屋を見渡した。
 話すことが不可能だとわかったならば、何か他にすることを探すことにした。
 部屋にはこれといって暇つぶしになるようなものはなく、あったとしても読めない本がぎっちり詰め込まれた本棚だけ。

「うーん、掃除、するかな?」

 本棚は一部、埃がかぶっていた。
 一番使用頻度の高い本棚で埃が被っているのだから、他の家具もあまり清潔とは言い難い。

「掃除していい?」

 才人は一応部屋の住人であるタバサに声をかけた。
 少し考えて、言葉を続ける。

「掃除していいなら、五秒間黙ってて」

 タバサは黙っている。
 本のページをまくる音が、沈黙の中に響いた。

「んー、でも今日はもう遅いから明日にするか」

 才人は廊下に吊してあったランプを一つ借りて、タバサの部屋に持ってきた。
 タバサが本の明かりに使っているランプの火貰って、部屋を照らす。

「うわっ、蜘蛛の巣張ってる……この学院にはメイドがいるのに、なんでこの部屋こんな汚いんだよ」

 才人は独り言を呟いた。
 掃除道具がないので、軽く腕で払って蜘蛛の巣を取り除いていく。

「やれやれ、女の子なんだからもうちょっと気を使えよ」

 才人はそのまま家具の中に何が入っているのか物色し始めた。
 もはや遠慮はしないとばかりに、大胆に棚のものを見ていく。
 とある棚で二つのさいころを発見した。
 才人の住んでいた世界のさいころとほとんど同じの六面ダイスを手のひらに持つと、他のものを探し始める。

「んー、すごろく、すごろくっと」

 さいころの対となるものを才人は探し始める。
 棚の中を勝手にくまなく探ったが、目的のものは結局見つからなかった。

「……」

 暇つぶしになる遊戯道具を見つけようとしたけれど、結局さいころしか見つからない。
 棚の中をもう一度くまなく漁ったが、すごろくは見つからなかった。
 そのかわり。

「これは……?」

 才人は木で出来たコップを見つけた。

「……」

 何か飲み物を飲むような容器ではないが、何故棚にあるのか、才人は頭を捻る。

「……?」

 ふと、才人の脳裏に、以前に見た時代劇の1シーンがよぎった。
 木のコップの中にさいころを入れて、回し、地面に押しつけて、さいころの数が偶数か奇数かを当てる賭博だ。

 この部屋の住人を見てみる。
 相変わらず本のページをめくっている。

 才人は首を捻った。
 どう見ても、タバサとは合いそうにもない。
 タバサに聞こうとも、答えが返ってくることはまずないな、と才人は思った。
 釈然としないまま才人はさいころとコップを棚に戻し、他のものを物色し始めた。

 しばらく部屋のものをあれこれと探っていた才人だったが、元々物の少ない部屋だったために、一時間も経たずにほとんどが見終わってしまった。
 ランプを廊下に戻し、ベッドに座る。
 よごれてしまったパーカーは脱いだ。

「……」
「……」

 タバサは黙々とページをめくっている。
 時折、本を閉じたかと思うと、その本を本棚に戻し、また別の本を取り出して読み始める。
 才人はベッドに座ったまま、ぼうっとタバサの行動を見続けていた。

 そして、夜は更けていく。



[2178] メガネの過去
Name: 気運
Date: 2006/11/26 17:04
 やがて、タバサは読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。
 本を本棚に戻し、ランプの火を吹き消す。

「ん?」

 ベッドの上に座っていた才人は、ずっと同じ行動を繰り返していたタバサが初めて違う行動を見せたことに、眠くなった目を擦って注目した。
 いきなり明かりが消えて、闇に目が慣れず、タバサが何をしているのか才人にはわからなかった。
 が、段々と目が慣れていくと、タバサは衣服を脱いでいるところだった。

「わっ、わわっ、お、おま、なんだよ、いっ、いきなり……」

 才人は慌てふためくが、タバサは気にしない。
 さっとブラウスとプリーツスカートを脱ぎ捨てる。
 そしてそのままタンスを開き、寝間着を取り出してそれを着た。
 床に無造作に落とされた服をたたみ、タンスに入れて、閉める。

 才人は全てが終わった後に、ようやくいくらかの平静を取り戻した。
 その後、男のいる部屋で着替えるなんて、不用心な、と才人は憤慨する。

 健全な男子であるが故、一瞬だけ、才人は淫らな想像をした。

 ベッドに引きずり込まれ、男性の欲求のはけ口にされるタバサ。
 しかし、その想像の中でさえも、汚濁を浴びせた相手=才人に対して、人形のような無機質な瞳で見つめていた。

 才人は頭を振った。
 幼児体型とまではいかないが、女性的な部位の成長が未熟の相手にそのような想像を抱くことに自己嫌悪する。
 女性的部位の成長が成熟しているならいいわけでもないが。

「おっと……」

 才人は座っていたベッドから立ち上がった。
 タバサはその脇を通り、ベッドに身をいれて、毛布を被る。

「……」

 才人は一瞬言葉が出なかった。

「そういえば、俺はどこに寝ればいいの?」

 肝心なことを肝心なときになってようやく思い出した。
 元来少し抜けている性格の才人は、自分のねぐらをどこになのか聞き出すことを忘れていたのだ。
 もっとも、それを忘れていなくても、タバサは答えなかっただろうが。

 タバサはその問いに答えるかわりに、ベッドの端に寄った。

「隣に、寝ていいってこと?」

 再び才人の脳裏に淫らな妄想がよぎる。
 今まで女性と男女交際をしたことがなく、例えそれが子どもであっても過剰に反応してしまう男のさがだった。

「……」

 タバサは答えない。
 ただ、ベッドの端に寄って、目を閉じている。

「……じゃ、失礼して……」

 才人は壁側に寄ったタバサの反対側から、そっと体を差し入れた。
 タバサに背を向けて、自分の手を枕にし、横向きに体を配置する。

 心臓が激しく鼓動するのを、才人は抑えられなかった。
 ロリコンではない、と自覚していた才人だが、その意思もぐらつきかかっている。
 もちろん、実際に手を出すようなことは間違ってもありえないことではあるが。

「……」

 年の近い女性と同じベッドに眠る経験を、才人はしたことがない。
 出会い系サイトで登録をするなど、興味はあったが、唐突にそれが訪れることは予測していなかった。
 意味もなく興奮し、眠りから遠い位置に立ってしまう才人。

 悶々としているうちに、タバサは静かに寝息を立てていた。

「……」

 才人も急に冷静になった。
 今までの自分の取り乱しようは、自分で顧みて顔を真っ赤にするくらい見苦しいものだったことに気づき、溜息をつく。
 タバサが寝ていることを知った才人は、目をつぶり、自分も眠ろうと試みた。
 先ほどの興奮の残滓が残り、中々寝付きが悪い。
 しかし、まぶたを閉じたまま、何も考えないよう努力した。

 どのくらい時間が経ったのか、夢と現の狭間まで来ていた才人にはわからなかった。
 ただ朦朧としていた意識の中で、何かの物音を聞いた。

「……母様……」

 否、物音ではなく声だった。
 か細い、震えるような声。
 寂しげで、湿り気のある声。

「……父様……」

 才人はゆっくりと目を開いた。
 窓から月光が入り、幾分か明るい部屋が明らかになっていく。
 視界がはっきりしていけばいくほど、才人の意識もはっきりしていった。

 声の主が誰なのか、ぼうっとしている頭を動かして、目だけを動かして部屋の中を見渡した。

 誰もいない。
 ひょっとして、目に見えないものが声を発しているのか、と息を飲む。

「置いていかないで……」

 しかしその疑いは氷解した。
 声をしたのは才人の後ろから。
 後ろにいるのはタバサ。
 部屋にもう一人いる人物を、才人は失念していた。

 そうと分かると、才人はにやけた。
 あれほど無口な少女が、母様父様置いていかないで、と寝言で言っていることに面白さを感じていた。
 まるで自分の存在をないものかのように扱う少女が、ホームシックにかかっていると思った才人は、タバサにかわいさを見いだしていた。

「……どうして、死んじゃったの」

 才人は、激しく後悔した。
 タバサの寝言は、ホームシックから出たものではなかった。
 今はこの世から去った父親と母親の記憶から出ずるものだったのだ。

 タバサの父親はこの世界の国『ガリア』王家の次男だった。
 人望で才知溢れるタバサの父を、ガリア王家の長男を押しのけて王座に擁する話が出てきてしまった。
 王宮は二つに割れ、醜い争いをし、結果タバサの父は謀殺された。
 タバサの不幸はそれだけではとどまらず、タバサの父を謀殺した男は将来の禍根を断つためにタバサを狙った。
 タバサの母はそれを察知し、娘の身を庇って、心を失う毒を飲んだ。

 精神を狂わされた母親と一緒に、タバサは国境付近の屋敷に追い立てられた。
 そこででさえ平穏な生活を過ごすことも許されず、心神喪失状態にあった母親を目の前で父親の仇の刺客に殺された。
 同じ刺客にタバサも狙われたが、その屋敷に仕えていたただ一人の執事「ペルスラン」の機転により、なんとか命を取り留めた。

 タバサと背丈が同じくらいの娘が、代々同じ時期に近くのラグドリアン湖で溺死し、その死体を埋葬することによって、ガリア王家の血を引く少女の存在を抹消した。

 そして、偽名=タバサを名乗り、ガリアではなくトリスタンの魔法学院に逃げ込んだのだった。
 その事情を知っているものは、タバサを慕い、様々な工作と手回しを行った執事ペルスランとトリスティン魔法学院の学院長オールド・オスマンのみ。

「父様、母様……」

 タバサは寝ながら泣いていた。
 今よりもずっと幼いころに、慕っていた父親が突然いなくなり、優しかった母親は毒を盛られ、狂わされ、更に目の前で殺された。
 タバサがもしトライアングルクラスの魔法を使えたなら、刺客を撃退できただろう。
 しかし、魔法成功率ゼロ故にゼロのタバサと呼ばれているタバサにとって、それほどの力は持っていなかった。

 刺客に杖を向けられ、死を目前としていたときに、タバサの母親は今までずっと娘だと思いこんでいた人形を放り投げ、本物のタバサの前に立った。
 刺客の魔法は、心を侵され、ガリガリにやせ細っていたタバサの母の腹を抉りとり、完全に息の根を止めた。
 腹部が丸々なくなっている母の亡骸が崩れ落ちる光景を、タバサは直視した。

 刺客は、発狂した糞ババアが邪魔しやがって、と舌打ちし、本来の目標であるタバサに杖を向けた。
 しかし、その杖はもう一度凶器の魔法を発することはなかった。
 老僕ペレスランが、老骨に似合わぬ立派な刀剣でもって、刺客の首を切り落としたのだ。
 いかな刺客、いかな悪名高き『北花壇騎士』とて、油断をしているところを背後から斬りつけられ、首を落とされては魔法は唱えられない。
 愛すべき母親を目の前で惨殺されたタバサは、いくらペレスランが声をかけても、無理矢理力づくで押さえつけられるまで、目を見開いて、まばたきもせずにじっと何もない中空を見つめ続けていた。

 それ以来、タバサの心は何もなくなった。
 いや、ただ、母親と父親を殺した仇に対する憎悪と、有能な父と母の子であるのに魔法が使えない自分への自己嫌悪。
 黒く、冷たい氷塊のみが、タバサの心の中に存在していた。

 何故生きているのか、タバサはこの質問を他人にされないかと、常に恐怖していた。
 答えられないからだ。
 なんのために生きているのか、何故生きているのか。
 突き詰めていってしまうと『なんでまだ死んでいないのか』
 その問いにすら答えられなかった。
 惨憺たる過去が、タバサの生きる目的を奪い、今も尚新しい生きる目的が生まれることを阻害している。
 タバサも、なんでこんなに辛い世界にまだ生き続けているのか、自分でもわからなかった。
 あるいは生存本能からなのかもしれないが、みじめな生を続けている自分に嫌悪していた。

 タバサは自分を閉じている。
 自分が強力な魔法が使えたら、玉砕覚悟で仇を討っただろう。
 しかし、現実は無能。
 差し違えることどころか、再び宮殿に行くことすらもできない。

 強力な魔法どころか、基本的な呪文すら、≪レビテーション≫も≪ロック≫も使えない。
 簡単な呪文を苦もなく操る貴族が溢れる、トリスティン魔法学院では、タバサにすさまじい劣等感をわき上がらせる。
 劣等感はタバサの内面を閉じさせただけでない。
 周囲に対して、見境なく激しい憎悪を抱かせていた。

 ゲルマニアの留学生にして、全ての男子を誘惑せんとする褐色の美女、キュルケも。
 トリスティン魔法学院の学院長で、すでに死んでいるはずのシャルロット=タバサを受け入れ、保護してくれている大魔法使いオールド・オスマンも。
 そして、トリステインの名家の三女にして、巧みな魔法を使いこなす才色兼備、桃色がかった髪が特徴の少女も……。

 とかく、恩があろうがなかろうが、世の中の全てに対して憎悪していた。
 凶行に走らなかったのは、皮肉にも周囲への憎悪が高じすぎていたために心が麻痺していたからだった。

「……母様」

 タバサは眠りながら体の向きをかえた。
 背中に感じていたぬくもりを、より多く感じるために無意識に行った行動だった。
 人肌のぬくもりを感じ、タバサは顔を押しつける。

 才人は、背中に水気を感じた。
 タバサが涙に濡れた顔を押しつけていたからだ。
 ばつ悪く感じながらも、才人は眠っているタバサのしたいようにさせた。
 タバサの涙はとめどもなく流れ、才人の寝間着代わりのTシャツの染みをどんどん大きくしていく。
 父様、母様、と寝言で必死に呼び続けるタバサに、ついに才人は耐えきれなくなって、タバサから体を離した。

 タバサは手を伸ばして、遠ざかっていくぬくもりを捕まえようとした。
 しかし才人は手を離させる。

 一旦タバサの体から離れると、才人はゆっくり自分の体の向きを変えた。
 自分の手でタバサの頭を支えてやる。

「父様……」

 タバサは才人の上着を軽く握りしめた。
 才人は寝ながら泣くタバサの体を優しく抱きしめてやる。
 邪な思いは全くなく、小さなか弱い少女の体を抱きしめる。

 やがて安心したのか、タバサは寝息をゆるやかにし、泣くのをやめ、寝言を言うのをやめた。
 才人はゆっくり手を離し、天井を見た。

「……辛い目に遭ってきたんだな」

 才人は小声でいった。
 才人の貧弱な想像力では、タバサの本当の運命に遠く及ばない悲劇だったが、それでも才人の心に熱い炎を宿らせた。
 極端に無口なのも、極端に人と関わり合いをしないのも、悲しい過去のせい。
 タバサが悪いのではなく、環境が悪かったのだ、と思うと、タバサの力になりたくなった。
 例えタバサが自分を無視しても、自分は全力でタバサを支えてやろう。
 悲しい過去を思い出さないように。
 もう二度と、眠りながら泣かないように、と、才人は決意した。

 才人もゆっくりと目を閉じて、ゆるやかに眠りに身を任せた。



[2178] ブラックメガネ
Name: 気運
Date: 2006/11/28 21:42
 タバサが目を覚ましたとき、隣に才人はいなかった。
 才人は部屋に一つしかない椅子に座っており、タバサが起きるのを待っていた。

「おはよう」

 才人の呼びかけに、タバサは答えない。
 けれど才人は不満な顔を一つも浮かばせずに、テーブルの上のメガネを手渡した。
 才人が丹念に拭いていたのか、レンズに汚れはついていない。

「着替え用意しといたぞ」

 タバサがメガネを装着すると、今度は着替えを差し出された。
 タバサは首を捻った。
 昨日までの才人とは全く態度が違う。
 昨日もやたら話しかけてきてはいたが、それにしても今日の態度はおかしく感じられた。
 終始にこやかで、自分に対して嫌悪の感情を全く持っていないように見える。

 無言で着替えながら、才人の様子をちらちらと覗き見る。
 才人は後ろを向いて、着替えをしているタバサに配慮をしている。

 おかしい、実におかしい、タバサは思った。
 万事に対して憎むか無関心かの二つに一つだったタバサだったが、才人に対して疑惑を抱く。

「ん、着替え終わったか」

 別段、自分の使い魔に嫌われてもどうとも思わない自信がタバサにはあった。
 むしろ、魔法の使えない自分の、唯一の希望として行ったサモン・サーヴァントで現れたものが平民であり、平民を使い魔にしなければならないことに屈辱を感じてさえいた。
 タバサが持つ、この世の全てのものに向けられた憎悪は、才人に対しても例外なく抱いている。
 わざと冷たい態度を取り、他人と同じように無視し、邪険に扱ったはずで、タバサの中では才人は自分を憎んでいる予定だったのだが、今日の才人はむしろにこやかだ。

「寝癖直してやるから、後ろ向け」

 いつの間にかブラシを持って、にこにこ笑っている。
 今まで通り冷たく接していながら、こんなに機嫌良さそうにしている人間は、タバサは見たことが無かった。
 不審を通り過ぎて不気味に感じつつも、才人にゆっくりと背中を向けた。

「……」
「……」

 才人は、丁寧にタバサの髪にブラシをかける。
 タバサは他人に見られる自分の姿にあまり頓着しないので、寝癖を直すことは滅多にしない。
 ブラシを使ったのもかなり久しぶりだった。
 タバサはあまり髪が長くないので、ブラッシングはそれほど時間のかかるものではなかった。

「ほら、水を汲んどいたから」

 これもどこから用意したものか、才人は洗面器を取り出して、テーブルの上に置いた。
 やはりタバサはわざわざ顔を水で洗う習慣はなく、特別汚れていない限りはタオルで拭くだけにしていた。
 しかし、使い魔が用意してきて、目の前に出されて無視するのも面倒で、才人の意図する通りに顔を洗った。

 才人は割と清潔さを保っているタオルでタバサの顔を優しく拭う。
 ますますもってタバサは、才人に対する警戒を強めていった。

 才人がタバサに見せているものは、明らかに親しみの類の感情だった。
 進んでタバサの世話をすることに喜びを見いだしているように見える。
 今までそれをしてくれたのは、あの悪夢の始まり以前の父母と従者、それ以降ではペルスランのみ。
 トリスティン魔法学院に来て、今日までの一年と少しは誰もそのようなことをしてくれなかった。
 嬉しくないとか、わずらわしいとかそういう風にはまだ思わなかったが、しかし、根拠が不明瞭だったことが引っかかった。
 冷たく接して、好かれる、ということをタバサは経験したことがないし、理解もできない。
 目の前の人間がその種の特殊嗜好を持っているのかもしれないと推測してみるが、それは少し違うような気がした。

 タバサの口の中に苦い物が沸いた。
 実は才人は自分を見下しているのではないか、という思考がタバサの頭の中に流れ込んでくる。
 長年人を信用できず、恨み続けていた結果、染みついてしまった性根は、まずネガティブに物事をとらえる。

 無能、ゼロ。
 自分の二つ名がタバサの頭をよぎる。

 才人は自分のことを見下して、こうやって愚直に従うふりをして心の中では笑っているのではないか。
 平民にかしずかれる貴族のくせに、魔法が使えない、と馬鹿にしているのではないか。
 タバサの凝り固まった心にとって、どんなことでもマイナスに受け止めることは容易だった。
 一度思いこんでしまえば、才人のほんのささいな行動も、全て自分を貶めているかのように見える。

 才人に心を許した瞬間に、手のひらを返して、自分のことを馬鹿にするはずだ。
 そんなことはさせてたまるか……タバサは、決して才人に心を許さないことを誓った。

「じゃ、食堂に行くか」

 ぽんぽん、と才人はタバサの頭を優しく叩いた。
 タバサは才人に触れられるのがたまらなく嫌になった。
 触られるだけではない、言葉をかけられることもまた嫌だった。

 心の中で才人を呪う言葉を際限なく吐き出しながら、それでもタバサは飽くまで無表情を徹する。

 悲惨な運命をたどった少女は、どんな感情を抱いていても、それを外に出すことはしない。
 それをすることは一種の禁忌的なものですらあった。
 心の奥底では、怒り、憎しみ、悲しみなどが濁流のように渦巻いている。
 しかし、それを表に出すの心の部分が、麻痺していた。
 彼女が持っていた繊細な心が、母親の心の死と体の死に耐えきれなかったのだ。

 タバサが感情を表に出さないのには理由などない。
 ただ少し、タバサが歪んでいるだけだった。

「……」

 タバサと才人は部屋から出て、食堂をめざした。
 才人は、何気ない世間話のようなものを自分で始め、自分で続け、自分でオチをつけて、自分で笑っていた。
 タバサに返答は求めずに、声をかけていた。
 才人はタバサが心を開くように誠心誠意努力していた。
 しかし、才人の熱意には反して、タバサはそれをとてもわずらわしく思っている。
 そしてタバサはそれを表に出さないため、才人はわからずにタバサに声をかけ続けた。

 廊下の窓から朝の太陽に光が差し込んでいる。
 才人はすがすがしい朝だな、とタバサに声をかけた。
 タバサは返事はせずに、才人と反対のことを考えていた。

 東から登る、希望の象徴のような朝日をちらりと見て、タバサは世界が滅べばいいのに、と思った。
 何百、何千回と同じことを考えていることに、今日もまた新しい意味が追加される。

 世界が滅びれば、両親の仇は死ぬ。
 自分より魔法が使えるメイジ達が全員死ぬ。
 母親を守れなかった、無能な自分が死ぬ。
 そして、今自分の目の前にいる、自分が呼びだした使い魔の、目障りな平民が死ぬ。

 タバサは、今までの何千回と同じように、本気で始祖ブリミルに祈った。
 しかし、今までの何千回と同じように、その願いは適えられない。
 かくして今日もまた新たな不満を抱きながら、タバサの一日が始まる。



[2178] 風竜の 正体見たり 枯れ尾花 
Name: 気運
Date: 2006/11/30 03:42
 才人は、食堂の裏をうろうろ歩き回っていた。
 部屋から一緒に歩いてきたタバサは食堂に入り、優雅な食事をしている。
 才人は使い魔であり、尚かつ平民であるから、食堂の外で待機。
 同じく、中にいる魔法学院の生徒達の使い魔と同じく待機していた。

「そういえば、俺の飯は一体どうなるんだろうな」

 中型から大型の使い魔に囲まれて、才人はぽつりと呟いた。
 さまざまな使い魔が食堂の周りに集まって、各々好きなようにしている。
 大型の蛇やバジリクスなどの、一見危険そうな生き物が多くて最初は怖がったが、順応は早かった。
 一番顔見知りのフレイムの背を撫でながら、ぼんやりと芝生の上に座り込んだ。

「……おや、君は?」

 そこへ、肉塊を運んできた人物が現れた。
 フレイムが首を上げ、肉塊に釣られて動き出す。
 フレイムだけではなく、他の使い魔達も食事を求めて、集まっていく。

「俺はこいつらと一緒の使い魔です」

 才人は自分に向けられた視線の意図を汲み取り、

「ああ、噂の人間の使い魔くんか。君にはこれは口に合わないだろうな」

 肉塊を持ってきた人物は使い魔のエサ係だった。
 小型の使い魔であれば、常に連れ添って生徒自身が世話をするが、中型から大型までになると生徒だけでは出来なくなる。
 そのためトリスティン魔法学院では、使い魔の世話をする使用人がいる。

「しかし、人間の使い魔なんて何年もここで働いているけど初めてだからな。何を食べるのかわからないな」
「人間の使い魔なんですから、人間の食べるものでいいですよ」

 才人はくすりと笑った。

「賄い食でいいかな。
 うちの親方は貴族嫌いで有名だから、ちょっと上質の材料ちょろまかして上手いもん作ってくれるんだ」

 ふと、才人は昨日あったコックの格好をした中年の男性を思い出した。
 シエスタが親方と呼び、豪快な人だ。
 タバサのことを気に入っていた。

 才人は、あんなに裏表のなさそうな人にタバサが好かれていることも思い出し、やはり自分は間違っていなかった、と確信する。
 マルトー親父は確かにタバサのことを好いていたが、別に人格的なものを考えて好いていたのではない。
 誰もが残すハシバミ草のサラダをただ一人食べ尽くした人間だったからだ。
 マルトー親父はタバサの内面を知っているわけではなく、才人はそういった事情を知らない。
 ただ才人はタバサに対して勘違いで更に評価を上げた。

「それの代わりって言っちゃなんだが……」

 エサ係は傍らに置いておいた肉塊を手で千切り、使い魔の体に合わせて分けながら言った。

「これの手伝いしてくれないか?
 どうせ、厨房を案内するのはこれが終わってからじゃないとできないからな。
 一人より二人でやった方が早く終わるからさ。何、難しいことでもない、適当でいいから」
「あ、やります、やらしてください」

 才人は間を置かずに了承した。
 別段、使い魔と戯れるのは嫌いではない。
 使い魔の方も、同じ使い魔のルーンを刻まれた者同士、一種のシンパシーを持っているようだった。
 故に、この庭に蛇と蛙が一緒にいても、蛇が蛙を飲み込むことはない。
 互いに主人に仕える者同士として、敬意を表してすらいる。

 才人も同じように他の使い魔達に対して悪い感情を抱いているわけではないし、逆もまた然り。
 特にフレイムは才人に惚れ込んでいると言っても過言ではないくらいなついている。

 才人は何の肉かわからなかったが、使い魔のエサを受け取り、指示通りに配っていく。
 使い魔達は行儀よく、才人の声かけ通りに並び、順番にエサをくわえていった。

「へえ、すごいなあ。毎年、新しく入ってきた使い魔達は言うこと聞かなくて、苦労させられるんだが。
 やっぱり使い魔同士気があうのか?」
「そうかもしれないっすね。同病相憐れむってやつじゃないかな」
「病気じゃないだろう、病気じゃ」

 二人は談笑しながら作業を続けた。
 そこへ、大きな影が才人を包み込んだ。

「ん?」

 才人が思わず空を見上げてみると、空からゆっくりと下降をしてくる青い生き物がいた。
 背にある翼を小刻みに羽ばたいて、地面に垂直着陸する。
 呆気にとられている才人の手から、肉が消えた。

「おっ、大物が来たな」

 エサ係の男が楽しそうに言った。

「今年一番……いや、二番の大物使い魔だ。ウィンドドラゴンの幼生。
 確か、名前はシルフィードっつったっけな」
「うわぁぁ」

 才人は悠々と才人が持っていた肉をくわえているドラゴンを見て、感動の溜息を漏らした。
 昨夜、塔の屋上で見た青いドラゴンを、目を輝かせて見る。

「ん? ウィンドドラゴンを見たことないのか?」
「当たり前じゃないですか! ドラゴンですよ、ドラゴン!」

 はしゃぐ才人を見て、そんなに風竜が珍しいものか、とエサ係は首を捻る。
 確かにドラゴンを使い魔にしているメイジは、トリスティン魔法学院の学年に一人いるかいないかではあるが、野生のドラゴンはたまに空を飛んでいるのを見かける。
 使い魔でなくとも、ドラゴンをなつかせて通信や移動の手段などの用途として用いている人も多い。

 エサ係は、才人が使い魔だったことを思い出した。
 サモン・サーヴァントでひょっとしたらドラゴンの珍しい遠い場所から喚び出されたのではないか、と結論づける。
 実際には、ドラゴンは『珍しい』ではなく『存在しない』であったのだが、おおよそはあっていた。

「あー、今年一番の大物使い魔君。
 ウィンドドラゴンに構うのもいいが、君がちゃんと並ばせた連中が怒ってるぞ」

 才人は、え、と言って振り返る。
 エサの配給を滞らせたことに、列を成していた使い魔達が一声に白い目で才人を見ていた。

「あっ、あっ、すまん、お前ら。つい、な、つい……」

 ははは、と才人は空笑いし、再びエサの配分をする。
 使い魔達は少しだけ不満そうな目つきで才人を見ていたが、無事配り終えるとそれぞれ庭で好きにくつろぎ始めた。

「最後はこいつだが……足りないな」

 ウィンドドラゴン=シルフィードのみが正当な分のエサを貰っていない。
 才人の手から肉片を盗み取っていたが、全長六メートルほどの大きさの体では、全く量が足りなかった。
 きゅいきゅいと不満そうな声で鳴き、才人やエサ係の男に擦り寄ってくる。

「まあいいか、そいつも連れて厨房に戻るぞ」
「え、あ、はい」
「いや、君がいてくれて助かった。一番の使い魔君」
「えと、その一番の使い魔君ってのは……」
「君のことだよ。平民とはいえ、人間の使い魔だ。滅多に見れるもんじゃない。
 普通の使い魔とは違って、言葉を話せる。そういう意味から言えば、一番だろ?」
「は、はあ……」

 才人は曖昧な笑みを浮かべた。
 昨日聞いた話では、人間が使い魔になる前例はない、とのこと。
 メイジではなく平民であるが故、それがいいことなのか悪いことなのか言い難いが、とにかくレアリティーはずば抜けていた。

「そこにいる風竜も」

 エサ係の男はシルフィードを指さした。

「人間の言葉を理解できても、人間の言葉はしゃべれないからな」

 エサ係の男は才人とシルフィードに背を向けて、歩き出した。

「そんなことないのね」

 シルフィードが人間の言葉を言った。
 才人は目を丸くして、シルフィードの顔を見る。
 シルフィードも一瞬びくりと全身を動かし、見つめてくる才人から顔を逸らした。

「何か言ったか?」

 エサ係の男が振り返って、才人に向かって言った。
 シルフィードの声は明らかに才人の声とは似ても似つかないものだったが、男の背後にいる人間語を話せるとものは才人しかいない。

 才人は、どうしたものかとシルフィードと男を交互に見る。
 シルフィードは首をそっぽに向けたまま、尻尾でちょんちょんと才人の背中をつついた。

「あ、いや、べ、別に何も……」

 シルフィードの行動を合図と受け取り、咄嗟にごまかした。
 エサ係の男は少し怪訝な表情を浮かべたが、才人に迷わず付いてくるように指示する。
 シルフィードは才人のことを無視したまま、男の後をついていく。
 才人は、さっきのは一体どういうことだったのかを考えながら、少し遅れてシルフィードの傍らに立って、歩き始めた。



[2178] イオ
Name: 気運
Date: 2006/12/08 18:12
「皆さん。春の使い魔召喚は、大成功のようですわね」

 才人はタバサとともにトリスティン魔法学院の授業に出席した。
 タバサの隣の席に座り、教壇のところで立っている中年の女性教師=シュヴルーズを何気なしに見ている。
 シュヴルーズは土系統のトライアングルのメイジ。二つ名は『赤土のシュヴルーズ』
 非常におっとりとした性格の教師だった。
 面倒見が良く、中堅であるために、生徒の人気もそれなりに高い。

 授業の始めに前置きとして、生徒達が召喚した使い魔達のことに触れた雑談をする。
 才人のことを見て、タバサに軽くジョークを言ったが、タバサは黙殺し、他の生徒達も沈黙を守り続けた。
 少し困り顔を浮かべ、軽く咳払いし、話を他の話題に変えたものの、一度包まれてしまった重苦しさは抜けないまま、授業を始めた。
 シュヴルーズに落ち度はない。
 長い教師生活の中で、タバサのような異質な生徒は一度も受け持ったことがなかったからだ。
 タバサの同級生達がタバサのことをタブー視していることも、シュヴルーズの知るところではない。
 一週間もしないうちにシュヴルーズも慣れるだろうが、一日目の最初から全てを理解することは、いかなる老年の教師でもできない。

 才人は始まった授業を頬杖をついて、退屈そうに見ていた。
 確かに魔法学院の授業は、今まで見たことのないものだったが、熱中して見ても、才人に魔法が使えないのはわかっている。
 シュヴルーズが石ころを真鍮に変えたときには目を見張ったが、理論の話には全くと言っていいほどついていけなかった。
 自分が理解できない理論を聞いても、退屈なだけ。
 わかりやすく説明してもらおうにも、シュヴルーズにそれを頼むのは気が引け、タバサは論外。
 他の生徒達に聞くのも迷惑がかかるだろうと、才人は沈黙を保ったまま、何も考えずに溜息をついた。

 ちらと才人はタバサの方を見た。
 タバサはじっとシュヴルーズを見ている。
 無表情に。

「……」

 シュヴルーズを見るその顔に何の反応もない。
 才人は改めて人形のようだ、と思った。
 見かけもさることながら、動きに生者の気配を感じられなかった。
 まるでロボットのような、そのような機械的なものを連想させる。
 しかし、才人は昨日ベッドの上でタバサが人形でないことの証明として、体の暖かみを感じている。
 人形ではなく生きた人間であることを、才人はわかっていた。

 一体、タバサはどんな過去を持っているんだろう――才人は思う――ただ漠然と、不幸だということはわかったけど、それがどんな不幸なのかは一切わからない。
 両親はなくなっているという推測は間違っていない、と才人は思っている。

 才人はタバサに庇護欲を持っていた。
 タバサは人形のようで、愛想という言葉にはほど遠い位置に立ち、且つ辺りの評判もあまり良くない。
 理解できない、空恐ろしい面ばかり目立っていたが、それでもどこかはかなさを感じていた。

 自分が支えなければ、この子は激しい勢いで凄惨に自滅する。
 おおよそただの勘とも言えるものだったが、才人はそんな心理を心の奥底で持っていた。
 あるいはルーンによってつなげられた、主人と使い魔の間のラインがそうさせたのか。
 タバサが持つ危険性を才人が感じ取っていたのかもしれない。

 ふと才人は自分の左手に浮かび上がったルーンを見てみた。
 才人には理解できない模様が浮かび上がっている。
 コルベールが興味深そうにこのルーンを観察していたことを思い出した。
 結局何かわかったのか、暇になったら聞いてみよう、と才人は思い、手をパーカーのポケットに突っ込んだ。

 ちょうどそのときだった。

「ミス・タバサ。あなたにやってもらいましょう」

 シュヴルーズが『練金』の実践をさせる生徒としてタバサを選んだ。
 先ほどのシュヴルーズの失敗によって澱んでいた空気は少し持ち直していたが、この瞬間によってまた重くなった。
 とはいえシュヴルーズに悪意はない。
 タバサが何故『ゼロのタバサ』と呼ばれているのか知らなかったのだ。
 更に、タバサの異様な使い魔に対しての言葉によって、教室の生徒達が一斉に黙りこくったことによって、タバサは同級生達に無視されているのだと、勘違いしてしまった。
 皮肉にも、事実は同級生達がタバサを無視しているのではなく、タバサが同級生達を無視しているのだが。

 ともあれ、シュヴルーズが簡単な『練金』の魔法をタバサにさせることで、同級生達の関心を向けさせてやろう、と全くの好意からの行動だった。
 事情の知らない善意ほど厄介なものはない。
 例え間違っていても糾弾のできないものだからだ。
 しかし、今回の失敗は、シュヴルーズが今日タバサに対して教鞭をとったことが初めてであることと、いささかおっとりしている性格のせいであって、責任は彼女にはない。

「ミス・シュヴルーズ」

 さっと一人の生徒が立ち上がり、シュヴルーズに言った。

「タバサにやらせるのはやめた方がいいです」
「あら、どうして?」
「はっきり言って、危険です」
「『練金』の魔法に危険はありませんよ」
「ミス・シュヴルーズ。タバサに教えるのは今日が初めてですよね」
「ええ、そうですが、ミス・タバサはとても真面目な生徒と聞いております」

 生徒がシュヴルーズと話している間、タバサは既にシュヴルーズの元へとたどり着いていた。
 才人が、授業参観に来た父兄よろしく、呑気にエールを送っている。

「ミス・シュヴルーズ!」

 生徒が一際強く言う。
 しかし、シュヴルーズは取り合わない。
 ピンク髪の生徒は、より詳しくタバサに『練金』の魔法をやらせるのは危険な理由を述べようと食い下がった。

「大丈夫ですよ」
「ですがっ」
「お座りなさい、ミス・ヴァリエール」

 シュヴルーズはピンク髪の生徒にキツイ口調で言った。
 ピンク髪の生徒はまだ何かを言おうとしていたが、タバサが石ころに杖を向け、呪文を唱えているところを見ると、瞬時に机の下に姿を隠した。
 他の生徒達も、ピンク髪の生徒と同じように机の下に隠れている。
 机の上に上半身をだしているのは、才人のみとなった。
 シュヴルーズも、この異変に気付いた。
 一体どういう意味なのか。
 それを探る前に、シュヴルーズは激しい衝撃に頭を揺らされ、爆音に鼓膜を弾かれて意識を失った。

 タバサが杖を向けていた石ころが大量の黒煙を撒き散らしながら爆発し、そのあおりをシュヴルーズがまともに受けたのだ。
 もちろん、タバサの被害も全くないわけではない。
 気絶こそしなかったものの、全身がすすだらけになり、服が一部裂けている。

 タバサが『練金』の魔法によって引き起こした爆発は、教室の窓ガラスを割り、使い魔達を驚かせた。
 才人は爆発によって巻き起こされた風を真っ向から受け、椅子から転げ落ちた。
 眠っていたフレイムが突然起こされたことに腹を立て、口から炎を吐き出し、割れた窓から外にいた大蛇が教室に入りこみ、一匹の使い魔のカラスを丸飲みにする。
 あちらこちらで興奮した使い魔が暴れ、メイジ達はそれを抑えて、ところどころで悲鳴を上がる。

 才人は教室の惨状を呆然と見ながら、何故タバサがゼロと呼ばれているのか、なんとなしに理解した。



[2178] 初期装備
Name: 気運
Date: 2006/12/19 21:05
 タバサは教室で石ころを爆破させた罰として、惨憺たる様相を見せていた教室の掃除を指示された。
 魔法の使用は禁止、とも言われたが、魔法が最初から使えないタバサにとってはあまり意味のない規制だった。
 ともあれ、タバサと、タバサの使い魔である才人の二人で、教室の割れたガラスを拾い、すすに汚れた机を拭き終わったときにはもう昼休みの三十分前だった。
 ガラスの破片を拾う作業などの怪我のしやすい大変なものは才人が、机を拭くなどの軽いものをタバサが請け負って作業した。
 もちろん、タバサの失態であるがゆえにタバサが罰を受けるのはもっともことであるが、使い魔である才人が手伝ったことにより、より早く終えることができた。

 タバサは作業を終えたことを、命じた先生に伝え、授業終了まで残り時間は少なかったが他の生徒達と合流した。
 一方、才人は理解のできない授業に興味を持てなかったために参加せず、何をするわけでもなく中庭を散策していた。

 中庭には誰もいない。
 生徒達はみんな教室に入り、それぞれの教師のもとで勉強している。
 遠近問わずに教室からの教師の声が聞こえ、才人はなんだか奇妙な感覚がした。

「……」

 一人学院の中を歩き回った。
 これからこの場所で暮らさざるを得ない以上、よりよく道を知っておいた方が得策だ、と才人は判断した。
 コルベールからもらった簡単な地図を頼りに、実際に歩き、目で見て、建物の構造を把握していく。

「はぁ……」

 幸いながら、以前才人が読んだことのある小説のように日によって廊下の位置が違うなどという魔法学院ではなく、想像すらできないような奇怪なものもなかった。
 それでも今まで絵やテレビでしか見たことのない西洋の中世風の建築様式に戸惑い、溜息が漏れる。
 例え重いが吹っ切れたとしても、それでもまだ前の世界に未練が残るのは人の情。
 少々陰鬱な気分で、才人は廊下を歩いていた。

「この塔のてっぺんが学院長室か」

 本塔の入り口まで来た才人は、塔を見上げて呟いた。
 本塔には学院長室の他に食堂や図書室などの施設があり、掃除をしている使用人の邪魔にならぬよう見て回った。
 貴族達全員が食事をとる『アルヴィーズの食堂』は、給仕と貴族しか立ち入りを許されておらず、窓の外から中の様子をうかがった。
 一度タバサを食堂まで見送ったときにちらと見ていたが、まだ食堂の豪華絢爛さには慣れず、魅入ってしまった。
 長いテーブルの上に立てられているろうそく、籠に入ったフルーツ、壁際にある小さな人形……今まで夢にさえ見たことのない光景がそこにあった。
 が、所詮平民は平民で、幾人かの使用人に不審な目つきで見られていることに気付き、すぐにその場から退散した。

 食堂から離れ、階段を登る。
 次なる目的地は図書室だった。
 この世界の文字は読めないけれど、何か暇つぶしになるものがあるかもしれない、と才人は思っていた。
 才人の通っていた学校では、何冊か漫画の本があったのだ。
 マンガの神様、と呼ばれている作者の本であり、才人には少々受け付けない類のものではあったが、それでも何もないよりかはマシだった。
 コルベールから貰った地図を頼りに図書室の前まで来ると、ちょうどそこにはコルベールがいた。

「サイト君!」

 コルベールも意外に感じたようで、動揺しつつ才人に駆け寄った。

「あ、こんちわ、コルベール先生」
「ちょうどよかった、ついてきてくれ」
「え?」

 才人はコルベールに頭が上がらなかった。
 この世界の成り立ちをよりよく教えてくれたのはコルベールで、自分が異世界から来たということを素直に信じてくれたのもコルベール。
 最初にあった時には人の話を徹底的に無視していたが、全く知らない世界に連れてこられて、過度に動揺しなかったのは、コルベールのおかげだった。

 コルベールは才人の手首を掴み、ずんずんと階段を登っていく。
 力強く掴まれたうえ、コルベールは足早に移動したため、手首が痛んだが、それでも才人は必死に足を動かした。

 コルベールの目指している場所は本塔の最上階だった。
 最上階はトリステイン魔法学院の学院長室があり、才人が今回行く気のなかった場所でもある。
 左手で一冊の古い本を抱え、右手で才人の手首を掴んでいる。
 二人が学院長室の前までくると、コルベールだけが中に入った。
 才人はわけのわからぬままに連れてこさせられ、ついでに置いて行かれたことに腹を立てたが、その場は我慢して待っていた。
 やがて中から一人の女性が出てきた。
 緑色の長い髪の毛と、豊満な体格の大人の色気を持った女性で、才人は彼女に見とれつつも軽い会釈を交わした。
 メガネをかけた知的そうな印象を与える女性は、才人のことに気が付くと微笑を浮かべて、会釈を返した。
 そのまま才人に背を向けて階段の方へと歩いていく。

 その間、小さく、ちっ、と舌打ちをしていたことに、才人は気付かなかった。

 中でコルベールと誰かが話している声が聞こえたが、才人は聞き耳を立てずにそのまま待っていた。
 五分もしないうちにドアが開き、中からコルベールが顔を見せ、中に招き入れる。
 才人は、失礼します、と元の世界の職員室に入るときのような意味のない罰悪さを抱きながら、学院長室の中に入った。

 中には長い白髪と白い髭を蓄えた老人が、セコイヤの机に肘を突いて座っていた。
 ふと、才人はその老人をどこかで見かけたような気がした。
 それがどこだったのか、という答えは出せず、釈然としないまま机の前で歩みを止める。
 コルベールは老人の傍らに行き、小声で何かをしゃべっていた。

「えーと……君の名前は?」
「才人です。平賀才人」
「ふむ、サイト君か。話は聞いておる。異世界から来たんじゃってなぁ」
「はい」

 才人は問いに答えながら、心は老人をどこで見たのかという疑問で一杯になっていた。
 喉元辺りまで出かかっていたため、どうでもいいことでも気になってしょうがない。

「その、なあ。人が使い魔になるっちゅうのも、この世界では珍しいことなんじゃよ。
 それで、その……なんというか、軽いテストのようなものをしてもええじゃろうか?」
「構いませんよ」

 才人が言い終わる前に、コルベールは一本のロープを前に出した。

「これがなんだかわかるかね?」
「ロープ」

 実際ロープ以外何物でもなさそうに思えた。
 ただ、長いロープの中頃はハンモックのようになっている。

「じゃあ、これを持ってみたまえ」

 コルベールは才人に持っていたロープを手渡した。
 すると才人の左手の甲にあったルーンが光を放ち始める。

「うわっ、なんだこりゃ?」

 自分の肌の一部が突然輝き始めたことに驚いた才人。
 コルベールと老人は互いに目を見合わせ、小声で二言やりとりをしている。

「もう一度聞こう。それがなんだかわかるかね?」
「スリング」

 今度はするりと出た言葉に驚いた。
 全く自覚のないままに、手に持ったものの使い方が明確に頭に浮かんでくる。

「このハンモックみたいなところに、石やら鉛の塊やらを置いて投擲するんだろ?
 こう、ぶんぶん振り回して……」

 コルベールは驚いた表情をし、それと対照的に老人は深く唸りながら頷いた。
 ゆっくりとした手つきで老人は才人の手に持つ投石紐を指さした。

「それは持っていなさい。何かの役に立つかもしれない」
「はあ……」

 スリング、つまり投石紐は、投石するにあたってより効率を高めた『武器』である。
 これを使うことにより、人間の筋肉だけではなく、遠心力も加わって飛距離と破壊力が増幅する。
 ただロープをほんの少し細工しただけの代物ではあるが、武器に相違ない。

 コルベールは先ほど持っていた本を開き、何度も視線をそこと才人の左手とを行き来させ、唸っている。
 才人は老人とコルベールの挙動を不審に思いながら、スリングを丸めてパーカーのポケットに突っ込んだ。
 スリングを手からはなすと、左手の甲のルーンは光らなくなった。

「なんだったんだ、今の……?」

 才人はまじまじと左手のルーンを見た。
 この世界の文字が全く読めない才人でも、左手に浮かんでいるものは文字というよりか模様に近いものであるとわかった。

「あの、これ、なんなんすかねえ? これ、なんで光ったんでしょうか?」

 才人は目の前の二人に尋ねた。
 二人は才人に目を合わせないようにわざとらしく咳払いし、老人はもっともらしく口を開いた。

「いや……まあ、それほど気にせんでもええよ。野生の幻獣と使い魔を見分けるための印みたいなもんじゃし」
「はあ……で、テストっていうのは?」
「あ、ああ、もう済んだぞい。帰ってよろしい」

 才人は釈然としないものの、頭を下げて退室した。
 パーカーのポケットにはスリングが入っている。

「結局、なんのために呼びだされたんだか」

 そのまま振り返らずに愚痴をこぼして階段に足をかける。
 手をパーカーのポケットに突っ込み、なんとなしに中に入ったものを掴む。
 再び左手の甲が輝く。

 そして。

「……ッ!?」

 確かに気配のなかったはずの場所に目をやった。
 廊下の隅に、さきほどの緑色の髪をした女性が立っている。

 いつの間にか現れたのか。

 女性は才人が見ていることに気が付いたのか、心持ち固そうな表情で会釈した。
 才人は不審に思いつつも、会釈を返し、階段を降りた。

 気が付けば、もう既に昼休みの時間に入っていた。



[2178] タイミングずれ
Name: 気運
Date: 2006/12/20 22:13
「……ん?」

 才人は現在トリステイン魔法学院の中庭にいる。
 中庭には『アルヴィーズの食堂』で昼食を終えた貴族達が、ところどころに置かれた丸テーブルを囲んで談笑しつつ食後のデザートを楽しんだり、食後の休憩をとっていた。

 才人は使用人達の賄い食で腹を満たし、デザートの配膳を手伝っている。
 その最中、地面に何かが落ちていることに気が付いた。

 紫色の液体で満たされた、ガラスの小瓶。
 拾って太陽の光に透かしてみると、とても綺麗な紫色が煌めいていた。

「ゴミ……じゃないよなあ」

 どう見てもゴミではなく、例えゴミに見えても、この魔法学院のことだから、ゴミではないという可能性は無視できない。
 付近に落とし物を探しているような人もいない。
 とにかく、気付いて拾ってしまった以上、誰かに伝えないといけないな、と才人は溜息をつく。
 スリングが入っていない方のパーカーのポケットに小瓶を入れて、才人と同じくデザートの配膳をしていたシエスタの元へ向かった。

「落とし物、ですか」

 才人は困ったらまずシエスタを訪ねることにしていた。
 この世界で初めて親切にしてもらった人であり、身分としても一番身近で、加えてシエスタはかわいらしい女の子だった。
 才人は今まで特にモテたことはなかったが、出会い系サイトに登録するほど、異性に興味がある。
 異世界に来て、美少女ないしは美女は何人か見てきたものの、そのほとんどが身分の差がはっきりしている。
 その上、鼻にもかけてくれない子ばかりだった。
 例え事務的な態度で接されていても、親切にしてくれる子に心惹かれるのは致し方ないことであった。

「はあ……これは、香水?」

 シエスタは才人から受け取ったガラスの小瓶を受け取り、手のひらに転がしてまじまじと見た。

「私もあまりよく知らないのですが、これは多分貴族の方々がお作りになる特殊な香水と思います。
 そして、こんな鮮やかな色を出せるのは、ここにいらっしゃる貴族の方々でも数は限られますので……」
「ふーん、香水、ねぇ」
「とりあえず、これは私が預かっておきましょう。後で先生方に渡しておきます」
「うん、ありがとうシエスタ」

 才人はシエスタに香水を預けると、再びデザートを配膳し始めた。
 幾人か昨日見た人物に出会ったが、彼女らも特に声を掛けようとはせず、配膳されたデザートのパイにフォークを入れる。

 他のほとんどの貴族は『タバサ』の使い魔である才人に、あからさまに関わらないようにしていた。

 集団の中の異質な存在は、大抵『いじめ』なる差別行為の対象になるが、タバサの異質さは度を超している。
 どんなことをされても無表情を徹し、何の感情もない瞳で相手をまっすぐに見つめるタバサ。
 何も言わずに、じっと見つめられるだけで誰しもが怖気を感じた。
 魔法成功率ゼロ故に『ゼロのタバサ』しかしゼロには同時に『虚無』という意味がある。
 虚無というのは伝説の系統のことではなく、文字通り『虚無=何もない』

 タバサの瞳に捕らえられた人間は、タバサが何もない存在だと錯覚する。
 何もない存在なのに、タバサは確かに存在する。
 その矛盾がもたらす得体の知れない恐怖に耐えるよりかは、避ける方が無難であると大抵の人間は思う。
 実際のところ、タバサの中には自己を崩壊させかねない潜在的な憎悪が詰まっているのだが、幸いながらそれに気付いている人間はいない。

「ありがとう、給仕君。……おや? 君は確かミス・タバサの……」

 薔薇を加えた金髪の貴族=ギーシュ・ド・グラモン。
 美形ではあるが、友人の間では『間抜けなキザ』と思われているグラモン家の末子。
 女好きであり、今もテーブルを囲む友人達に、今誰と付き合っているかを聞かれているところだった。
 最初は「薔薇は多くの人々を楽しませるために咲くのだからね」などとのらりくらりとかわしていたが、追求が次第に強くなってきたところに才人がやってきた。

「あ、どうも……」

 才人は嫌な顔を浮かべそうになり、無理矢理笑顔を作った。
 ギーシュのような美形は才人の苦手な、というよりも嫌いなタイプであり、関わり合いを持ちたいとは思えなかった。
 給仕ではない、と言いたかったが、デザートを配っている以上、即席であれど給仕と言っても間違いはないな、と妙に納得してしまう。

「君も大変だな」
「はあ?」
「ミス・タバサは、あまりおしゃべりなタイプではないからね」

 ギーシュは前髪を優雅な手つきではねのけて、更に口を開いた。
 テーブルを囲む他の貴族達は、才人に気付くと黙りこくって、ギーシュを見ている。

「まあ……」

 才人も曖昧な表情を返す。
 ギーシュは気に入らないが、しかし言っていることは本当である。
 タバサを中傷されたら怒りもしようが、事実で全く反論できないことを言われても怒りはわいてこない。
 無口で大変なのも、納得せざるを得ない。

「もし、ミス・タバサが生きる楽しさというものを見失ってあのように無口になっているのならば、遠慮無く僕に相談したまえ。
 真に美しいものを見れば、きっと彼女の笑顔を取り戻すだろう」

 流石に才人は絶句した。
 ここまで自分を恥ずかしがらずに褒め称える人間を見たことがない。
 冗談で言っているのかと思いきや、薔薇の造花をくわえているギーシュの瞳は本気であることを物語っている。
 ここまでキザだと、もはや憐れにも思えてきた。

 ギーシュはあまり深く物事を考えるたちでもない。
 物質的、実質的な恐怖に対しては弱いが、心理的、潜在的な恐怖にはむしろ気付かず、よってタバサにも恐れない。
 抜けている、とはいえ周囲にとってはそれは欠点ではなく、愛嬌という受け止め方をされている。

 一方、タバサはギーシュのことを、どうでもいいと思っている。
 飛び抜けて魔法が使えるというわけではないし、美形ではあるがどちらかというと三枚目。
 タバサにとってどうでもいい分野においてのみ突出している存在であるので、特別に注目しているわけではない。

 ギーシュと同じテーブルを囲んでいる貴族達は、全員口をつぐみ、事の成り行きを見守っている。

「そ、そりゃ、どーも……」

 呆れと動揺の混じった表情で才人は言葉を返した。
 ギーシュは、ふむ、と満足そうに頷くと、薔薇の造花を人差し指と中指で掴む。

「君にはこれをあげよう。手を出したまえ」
「え?」

 おずおずと才人は手を出した。
 ギーシュは指に挟んだ造花を大げさな手振りで振り、花びらを才人の手の上に落とす。
 才人は呆然と手の上に落とされた花びらを見た。

「……え?」

 才人は首を捻った。
 ただの造花の花びら以外には見えない。
 一体何を考えて、これを渡したのか?

 ギーシュに問おうとしても、ギーシュは既に才人から興味を失ったのか、他の貴族と話をし始めている。
 何故これを自分に渡したのか聞こうにも、奇行を見せた人にわざわざ聞く勇気は才人にはなかった。
 ギーシュはもちろん特別な理由があってこのことをしたわけではない。
 美形を自負するギーシュの、ただのパフォーマンスの一環なだけだった。

 キザな人のやることは理解できねーな、と才人は造花の花びらをパーカーのポケットに突っ込んで、その場から立ち去った。
 その後も特に問題は起こらぬまま、貴族にデザートを配膳する仕事は無事終了した。



[2178] どらっぐ おん どらぐーん
Name: 気運
Date: 2006/12/21 20:24
 とりたてて大きな事件など起きずに、異世界での日々は一日二日三日と過ぎていった。
 タバサは相変わらず無口で、才人が声を掛けても無視し続けている。
 それでも負けじと才人は頑張っていたが、今のところそれが報われるような気配はなかった。

「何がいけないんだろうなあ」

 才人は中庭で他の使い魔達に溜息混じりの愚痴を漏らしていた。
 何匹かの使い魔達が周りに集まって、わかっているのかわかっていないのか、鳴き声を返している。

 才人はおおいに暇だった。
 使い魔、といっても何することもない。
 秘薬の原料になるものを探したり、魔法の詠唱中に主人を守るような場面には未だ出くわしていない。
 雑務をしようにも、タバサは洗濯を自分でするし、部屋の掃除も一度徹底的にやってしまえばしばらくは問題はない。
 食事の準備も元より学院にいるコックやメイドの仕事。

 元の世界にいれば学校があり、友達が居て、パソコンやゲームがあったが、こちらには何もない。
 かつては面倒だと思っていたことも、楽しいと思っていたことも一切ない世界は、とても退屈なものだった。
 中庭の芝生の上にどっかと座り込み、ひなたぼっこをしている使い魔達と共にのんびり過ごすことが、最近の才人の日課である。
 それも十分退屈に思える時間の過ごし方だが、その他に何もやることがなかった。
 シエスタなどの手伝いをしようにも、手伝いできるものは少なく、かえって邪魔になってしまうことを、既に才人は学んでいた。

 才人が暖かい陽気の中で大あくびをしたとき、空から一匹の風竜が近寄ってきた。

「おおっ?」

 ゆっくりと風竜は下降し、地面に降り立つ。
 朝、昼、晩とエサを与え続けているためか、使い魔の風竜は才人に懐いている。
 才人も好かれるのにはやぶさかではなく、空を飛ぶ爬虫類に敬意を持って接している。
 未だ主人には会っていないが、風竜の美しさから、きっと主人も優しい美少女なんだろうなあ、と勝手な妄想を広げていた。

 風竜は全長六メイルほどの、大型の使い魔である。
 学院の建物の中には入れず、主人の寮にも入れないため、近くの山に住んでいる。

 この風竜は、人なつこい性格なのか、甘えた声を出して才人に頬ずりした。
 才人が美しい青い鱗に覆われた首を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。

「確かにしゃべったんだよな」

 コルベールに聞いても確かに風竜は賢いが、人間の言葉をしゃべらないという。
 しかし、以前エサをやったときに風竜がしゃべっていた。
 実際にしゃべっているところを見たわけではないが、少なくとも風竜しかいないところから声が聞こえてきた。
 あるいは使い魔となったことでしゃべれるようになる事例があるらしいが、そのとき以降はしゃべる気配すらない。
 あれはなんだったんだろう、と思いつつ、才人は風竜の首を撫でるのをやめた。

 風竜が地面に横たわると、才人は腹の部分に寄りかかって座った。
 風竜が来たところで、やることは何もない。
 ぼんやりと空を見つめながら、時間をもてあましていた。

「暇だなあ……」

 才人のぼやきに応じて、あたりにいた使い魔達も鳴き声を返す。
 風竜もきゅいきゅいと喉を鳴らし、才人の体に頭をこすりつけた。

「な、なんだよ……」

 ただじゃれているだけでなく、ぐいぐいと才人の体を押す。
 才人のパーカーのフードを口でつまみ、引っ張った。

「ちょ、ちょっと、伸びるからやめろって! わ、わかったから!」

 地球からハルケギニアへ持ってきた一張羅をダメにされてはかなわぬと、すぐに風竜のさせるがままにした。

「上に乗れ、っての?」

 才人の問いに、きゅいきゅいと風竜は首を上げ下げして答える。
 おずおずと、風竜の背びれと背びれの間に跨る才人。

「……飛ぶのか」

 ぽつりと小さな声での呟きだったが、既に才人の目は輝いていた。
 才人は空を飛ぶことに夢を持っていた。
 地球ではまず味わうことのできない経験の機会をつかみかけ、心が躍る。
 風竜は才人の呟きに、翼を羽ばたかせることによって答えた。

 才人は揺れる風竜の上で、慌てて背びれに捕まった。
 心拍数が上がり、顔が少し紅潮してゆく。
 一瞬で、地面を踏んでいる、という確かな感覚が消失し、風竜は前に動き始めた。

「う、うわぁ……」

 ゆっくり高度を上げつつ低空で旋回する風竜。
 数メートルの高さまで上がると、建物にそって吹き上げる上昇気流を見つけて、一気に高く飛ぶ。

 あっという間に、地上にいた使い魔達が豆粒のように小さくなり、学院の全貌を現した。
 みるみるうちに学院も小さくなり、広大な空の真ん中で、ようやく風竜は上昇するのをやめた。

 才人は高い空で見える光景を楽しんだ。
 学院の外には草原が広がり、それを分断するかのように道が出来ている。
 草原が終わると林が、林の奥には森があり、更にその奥には山がある。
 全てのものがミニチュアサイズで、目に楽しく感じられる。
 人か馬らしきものが、草原の中に砂粒くらいの大きさでぽつんとあるのを見て、才人は笑った。

「すっげぇ」

 才人は感嘆し続けた。
 竜に跨って空を飛ぶ……地球ではファンタジーとされていたことが実現している。
 魔法を直に見せられるよりも更に才人にここが異世界であることを自覚させた。

 強い風圧をも心地よく感じ、才人は空中散歩を楽しんでいる。
 半時間が経っても、飽きもせずじっと目をこらして、遙か遠くの地上を見つめていた。

 学院の方から授業終了の鐘が鳴り響いてきたが、夢中になっている才人はそれに気付かない。
 突如、風竜は何かに呼ばれたかのように首を学院の方へ向け、急激に高度を下げてゆく。

 人間である才人よりもずっと鋭敏な聴覚を持った風竜は、主人の呼ぶ口笛の音を聞きつけていた。
 主人の求めに応じるために、主人の口笛の音のした場所へと飛んでいく。

「うおっ!」

 才人は咄嗟に風竜の背びれを強く握り、体勢を低くして急激なGに耐えた。
 あまりの風圧に叫び声も上げられない。
 風竜は今度は急激に速度を落とし、魔法学院の一つの塔の壁面スレスレを通り抜けようとする。

 その直前に塔の窓から人が一人飛び降りた
 ちょうど風竜の――そして才人の――上に着地する。
 才人は風竜の体と落下してきた人に押しつぶされて、うめき声を漏らす。
 その反面、いつもの着地に比べると変な感触を感じた風竜に飛び乗った人が狼狽する。

「なっ、なんなのよ! なんで私のシルフィードに私以外の人間がっ!?」

 踏みつぶされた才人は、痛みの声を漏らしながら体を起こす。
 くらくらする頭を抑え、ぼんやりした視界で、何が上から落ちてきたのか、確かめた。

 ゆっくりと焦点を結んでいく視界に映ったのは、頬を膨らませて怒る桃色の髪の女の子。
 以前、才人に出会い、平民のくせに、などと理不尽なことを言ってきた、あの子だった。

 才人は、これからろくでもないことになりそうだ、と目の前の子に見られないようにそっと小さな溜息をついた。



[2178] 落ちる
Name: 気運
Date: 2006/12/27 11:46
「降りなさいよ、あんた!」

 桃色の髪の子は、才人に向かって足を突き出した。
 才人は蹴りをかわしきれず、腹に蹴りを食らってバランスを崩す。

「お、おい、やめろよ! 危ないな!」
「うるさいわね、落ちなさい!」
「落ちたら死んじまうだろーがっ!」

 不安定な体勢からの蹴りなので痛みは大きくないが、風竜から落下する危険性がある。
 才人は必死に背びれの一つにつかまって、落ちまいとする。

「そ、それにそんな短いスカートで蹴っ飛ばしたら……」

 ただでさえ風が強い中、膝までもないスカートで蹴りを放つと、当然その中身も見えるわけで。
 才人は親切心から言ったのに、本人は更に顔を赤く染めて、激昂した。

「ば、馬鹿ッ! な、ななななな何見てんのよっ! へ、平民のくせにっ!」

 渾身の蹴りが才人の顎に命中。
 不意打ちだったこともあり、バランスを崩し……大空へ投げ出された。

「う、うっわあっ!」

 がむしゃらに手を振り回し、何かを掴む。

「きゃ、きゃぁっ!」

 桃色の髪の子の足首だった。
 宙に投げ出された才人に引っ張られ、地上に落ちるかと思いきや、間一髪のところでシルフィードの背びれを掴む。

「つ、杖がっ!」

 桃色の髪の子が手に持っていた杖は、地上に落下してしまった。

「こ、こらっ! 何すんのよ! 杖が落ちちゃったじゃない!」
「杖なんてどうでもいいだろ! 人の命かかってんだ!」
「杖があれば≪レビテーション≫でもなんでもかけてあげたわよっ!」

 シルフィードが大きくいなないた。
 桃色の髪の子がシルフィードの背びれに捕まり、更にその子の足首を才人が掴んでいるだけ。
 もし手を離せばあっという間に空から投げ出され、地面に衝突する。
 怪我ですむという高さではなく、場所が悪ければ死んでしまう。

 桃色の髪の子は、才人を蹴り落とした後、対象を軽く浮遊させことのできる≪レビテーション≫をかけるつもりだった。
 レビテーションがかけられれば、落下スピードは格段に落ちて、無事に着地ができる。
 しかし、魔法のない世界から来た才人がそんな魔法があることを知るわけがなく、文字通り「足を引っ張ってしまった」
 結果、桃色の髪の子は自分の杖を落としてしまい、二人とも命の危険に晒されている。

 重量を片方に寄せられたシルフィードは正しい飛行姿勢を保つことができなかった。
 二人がぶらさがっている方に傾き、高度を保つことができない。

「お、おい、段々高度が下がってきているぞ! こ、このままじゃ激突するんじゃないのかっ!?」
「重さが偏りすぎてるのよっ! あんた、落ちなさいっ!」
「無茶ゆーなっ!」

 二人が口論している間にも、シルフィードはぐるぐると旋回しながら地面に迫ってゆく。
 桃色の髪の子の握力にも限界がある。
 ほんの一分も経っていない今でも、二人分の体重を支えられたのはほとんど奇跡と言っていいほどだった。

 シルフィードは不快そうな鳴き声を絶えず漏らしながら、必死に飛行姿勢を保とうとしているが、中々上手くいっていない。
 やがてトリステイン魔法学院の塔が間近に迫ってくる。

「う、うぉぉ、ぶ、ぶちあたるぞ、このままじゃ!」
「だから、あんたが落ちれば何の問題もないのよ!」
「死ねッていうのか、お前は!?」
「わかってんなら早くなさい!」

 桃色の髪の子は足首に捕まっている才人の手をもう片方の足で蹴った。

「や、やめっ、あぶな、落ちるだろっ!」

 咄嗟に上を見る才人。
 大きく足を開いた桃色の髪の子の、スカートの中が見え。

「あ、やべっ!」

 思わずうっかり手を離してしまった。
 もう一度掴もうと手を伸ばしたが、もちろん無理。
 トリステイン魔法学院の塔に向かって、落ちていく。

「う、うわああああああ!!!」

 振り落とされている最中、パーカーのポケットからスリングが飛び出した。
 風圧によって舞い上がり、たまたま空に向かって伸ばした才人の手に引っかかる。

「や、やばい、し、死ぬッ! 墜落死するッ!」

 才人は空中に投げ出された。
 がむしゃらに手足を振り回して落ちまいと些細な抵抗をするも、シルフィードから離れていった。
 手に持っているのはスリング。
 不幸なことに垂直ベクトルのみならず、水平ベクトルも相当な大きさを持っている。

 が、奇跡は起こった。
 落ちた先は塔の屋上。
 針の先のような小さな面積の地面に、降り立った。

 ずしんと膝を曲げ、垂直ベクトルをほぼゼロにすることに成功。

「うわっ、たっ、たっ!」

 水平ベクトルが殺すことができずに、塔の屋上を走る才人。
 着地のさいに足を痛めたが、気にすることはできない。

「お、とっとっととととッ!!」

 塔の屋上の端まで来てようやく勢いを殺せたが、本当にギリギリ。
 足のつま先だけで塔の端を踏んでいる。
 ちょっと顔を下に向けるだけで、遠くの地面が見ることができた。

 びゅうびゅうと吹く風は、才人を塔から突き落とすような方向で吹いている。
 風に煽られ、才人の体がぐぐぐと傾いていく。

「あっ、や、やだっ! お、落ちたく……ないっ!」

 手をぶんぶん振り回してなんとか落ちまいとする才人。
 が、重力と風は才人を誘い、ゆっくりと塔の下の地面を見ざるを得なくしていく。

「……ッ!」

 完全に足が塔の屋上から離れかかったその瞬間、手に持っていたスリングを投げた。
 スリングは見事に塔の端に引っかかり、才人はそれにぶら下がることができた。

「ひぃぃっ!」

 すぐさまスリングの紐を頼りに屋上によじ登り、その場で尻餅をついた。

「……し、死ぬかと思った……」

 才人の体中冷や汗にまみれている。
 どっと疲労が押し寄せて、気怠い腕を動かして、額に浮かんだ汗を拭いた。
 荒い心臓の鼓動を静めようと、目をつぶり深く息を吸い込み、吐く。

 しかし、まだ落ち着くには早かった。

 目を開いてみると、まだ空にはシルフィードが飛んでいる。
 当然、あの桃色の髪の子もぶら下がっている。
 ゆっくりと青い風竜は旋回をし……才人のいる塔へと突っ込んできた。

「いぃやぁあああああああああああああああ!!」
「お、おわっ!」

 ついにぶら下がっている腕の力が抜けて、桃色の髪の子はゆっくりと宙に投げ出された。
 塔の上空を飛んでゆく。

「あっ!」

 着地のときに痛めた足を再び奮起させて、才人は空を飛ぶ女の子を追いかけた。

「くっ、ていっ!」

 才人は自分が今までに経験したことのないスピードで走っていることにも気付かず、手に持っていたスリングを片方だけ持って桃色の髪の子に放った。
 見事にスリングは女の子の足に引っかかり、女の子は減速した。
 腕に力を込めて引き寄せ、落ちてきたところを受け止める。

「大丈夫かッ!?」

 才人は抱え上げた女の子にまず声をかけたが、それよりも足下に気を払うべきだった。
 まさに神速とも言えるスピードで走っていた才人は、あっという間に屋上の端から端まで走ってしまっていた。
 気が付いたときにはもう遅く、減速しても間に合わない。

「うわっ!」

 勢いを殺せずに、屋上の端から大空に飛び出した。
 女の子を抱えたまま、目をつぶる。
 重力によって下に加速していることを体感し、地面に激突したらなるだろう姿が脳裏によぎり、背筋が凍る思いをした。

 が、不意に地面に落ちている感覚がなくなる。
 墜落死してしまったのか、と才人は思ったが、違った。
 恐る恐る瞼を開いてみると、青い鱗の風竜の背が見えた。

「きゅいきゅい」

 シルフィードは速度を落としたまま首をこちらに向け、自慢げに鳴いた。
 桃色の髪の子が落下した直後から、いち早く体勢を整え直し、タイミングを見計らっていたのだ。

「ふぅ~……死ぬかと思った……」

 何度も何度も墜落の危機に晒されて、才人は大きく溜息をついた。
 着地のさいに痛めた足首が、今になってずきずきと痛む。

「おい、お前、もう助かったぞ、大丈夫だ……? ん?」

 才人は抱えていた女の子を揺さぶった。
 彼女は固く目をつぶり、震えている。
 ふと、才人は右手に何か生暖かいものを感じた。

 シルフィードはゆっくり下降し、地面に足をついた。
 久しぶりのしっかりとした地面を踏みしめ、才人は懐かしさを覚えつつ、手に抱いたままの彼女を立たせた。

「このッ……馬鹿ぁッ!」

 トリステイン魔法学院の中庭に、平手打ちの音が軽快に響き渡った。



[2178] としゅくうけん
Name: 気運
Date: 2006/12/29 12:01
「いっ、いてーな、何すんだよ!」
「何すんだよ! じゃないわよ! 勝手に人の使い魔に乗って、何様のつもりよ!」
「勝手に乗ってねーよ! あの風竜が乗っていいっていったから、乗ったんだ!」
「シルフィードが!?」

 桃色の髪の子がシルフィードを見る。
 シルフィードはばつ悪げに目を逸らし、るーるると鳴いた。

「にしても、主人である私に一言断るのが礼儀ってものでしょう!」
「お前が主人だってことを知ってたら、最初から乗らねーよ!」
「何よ、その態度! 平民のくせにっ!」
「へ、平民とか関係ないだろ! 貴族がそんなに偉いのかよっ!」

 才人の左の頬には真っ赤な手形が浮かび上がっている。
 双方性格が勝ち気であるが故に、一歩も譲らずに口論を続けていた。
 ルイズは頭に血がめぐりすぎて、顔を熟れたトマトのように真っ赤にしている。

「貴族を馬鹿にする気!? 決闘よ! 決闘で清算しましょ!
 ヴァリエール家の名誉にかけて、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールが
 あんたに決闘を申し込むわ! 嫌とは言わせないわよ!」

 怒りに身を任せ、手袋を投げつけんばかりの剣幕でルイズは才人に詰め寄った。
 才人はその勢いに押され、一歩後ずさる。

「け、決闘だって? 馬鹿なこというな、女の子と喧嘩なんてできるか!」
「喧嘩なんかじゃないわよ! 決闘よ、け・っ・と・う。
 女だからって馬鹿にしないでよ! 私はメイジよ、平民相手に負けるわけがないわ!」
「貴族とか平民とか、それこそ関係ないじゃねーか!」
「あんたなんて魔法でボロ切れみたいにしてやるんだから!」
「……? 魔法って、お前、杖落としたんじゃねーの?」

 桃色の髪の子=ルイズははっとした。
 シルフィードの上から自分の杖を落としていたことを忘れていた。
 どこに落ちたのかわからないし、第一落ちた場所がわかったとしても、あの高さから落ちて、杖が無事である可能性は極めて低い。
 ルイズは下唇を強く噛んで、悔しがった。

 杖さえあれば、同級生で渡り合えるのはルイズと同じトライアングルのキュルケだけ。
 最近の魔法の冴えから言えば、キュルケさえ倒すことができるかもしれないのに。
 杖が無ければ、トライアングルであろうと魔法を使うことはできない。
 どんなに優れたメイジであれど、杖なしではただの女の子と一緒だった。

 しかし、ルイズは負けず嫌いだった。
 ある意味真の貴族とも言える心を持っていた。
 それに加え、過度のストレスに晒された直後で、頭に血が上り、冷静に物事を考えられない。
 何がなんでも、魔法を使えなくとも、才人に憤怒をぶつけなければ気が済まなかった。

 一度叩きつけた決闘の言葉を撤回することはできない。
 怒りで震える拳を握りしめ、才人の顔面目掛けて突き出した。

「問題ないわよ! このぉッ!」

 ルイズは、久しく強い力を込めていなかった拳を振るう。
 才人は軽々とルイズの拳を左手で受け止めた。

 何故か感覚が異様にとぎすまされており、ルイズの拳は才人には止まって見えた。

「や、やめろよ!」
「うるさいっ!」

 後ずさる才人を追いかけて、問答無用で殴りかかるルイズ。
 才人は手を出さずに、次々に繰り出されるパンチを軽々といなす。
 驚くほど滑らかで無駄のない動作で避ける才人を見て、ルイズはますます激昂してゆく。
 向こうから攻撃してこないことすらも、ルイズを怒らせる。

「あんたもかかってきなさいよ!」
「だーかーらぁ、女の子は殴れないんだって!」

 ルイズは才人目掛けて何度も何度も殴りかかるが、才人はひょいひょいと避ける。
 まるで馬鹿にされているような気分を味わう。
 それと同時に、圧倒的な身体能力の差をも嫌でも思い知らされた。
 杖があれば、その差を逆転することができるのに、とルイズは思う。

「ふざけないで! 私は貴族なのよ!」
「貴族だろうと、女の子は女の子だろーが! もうやめろ! 人が集まってくんぞ!」
「それがなんだっていうのよ!」
「お前が困るだろ」

 ルイズは殴りかかるのをやめた。
 一旦拳を収め、辺りを見回す。
 建物の窓から何事かと中庭を見下ろす生徒がそこらに見え、何人かが遠巻きに様子をうかがっている。
 確かにこのまま決闘という名の殴り合いを続けていれば、人が集まってくるのは明らかだった。
 そして、人に集まられると困るのはルイズというのも明らか。

「第一、そのままじゃ絶対風邪引くって、部屋に戻って着替えてこいよ」

 ルイズの下着はぐしょぐしょに濡れていた。
 シルフィードから投げ出された恐怖で、失禁していたのだ。
 才人のパーカーも、ルイズの尿で少し濡れている。

 遠目ではわからないだろうが、近くで見たら絶対に漏らしていることを見破られてしまう。
 ルイズは、才人から受けた恥辱と、このままお漏らしがばれてしまうことの恥辱、どちらが大きいかを瞬時に考えた。

「……こ、この借りは絶対に返すわよ! あんた、名前はなんていうの」
「え? ひ、平賀、才人だけど」
「ふん、変な名前ね! いいわ、ヒラガサイト、絶対に絶対に後悔させてやるんだからっ!」

 人が集まってきたところを避けて、ルイズは自分の寮を目指して走っていった。
 ルイズの背中が見えなくなると、才人は深く溜息をついた。

「きゅいきゅい……」

 シルフィードはうなだれて、申し訳なさそうに鳴いた。

「お前のせいじゃねぇよ」

 才人は寄ってきたシルフィードの頭を優しく撫でる。
 よくよく考えてみると、確かに人の使い魔に勝手に乗ってしまったのはマナー違反と言われてもしょうがないことだった。
 突き落とされそうになったことは驚いたが、ここは魔法の世界、殺されることはなかっただろう。
 誤解だとはいえ、抵抗して、杖を落とさせてしまったことも事実だった。

「……」

 この世界に来て、メンタル的に過酷な目に遭ってきたせいか、才人はやや自虐的な思考を抱くようになっていた。
 あるいは、主人が自虐と憎悪の塊であるタバサであるせいかもしれないが、落ち着くと自分の落ち度ばかり思い浮かんでくる。

「きゅいきゅい」

 気分がどこまでも沈みそうになったとき、シルフィードは才人の顔を舐めた。
 今度はシルフィードが「落ち込むなよ」と言っているように才人は感じた。
 才人は気分を持ち直し、口元に笑みを浮かべ、シルフィードの顔を再び撫でた。

「うだうだ考えてもしょーがねーな。
 タバサも待っているだろうし……あ、いや待ってるわけねーか」

 何事かと集まってきた貴族達は、ルイズが立ち去ったことでまた戻ろうとしていた。
 才人は、その中に混じって、濡れてしまったパーカーをどうしようかと思いつつ、建物の中に入っていった。

「ま、今度会ったときには謝っておくか」



[2178] 堂々巡り
Name: 気運
Date: 2007/01/13 18:27
 それから三日間、ルイズは部屋に閉じこもった。
 シルフィードから落とした杖は、中庭で発見された。
 もちろん、無事ではない。
 落ちた地点からかなり離れた場所まで、破片が飛び散っていた。
 ただ折れただけならば、魔法などの力を借りて元に戻すことができるが、粉々になってしまってはそれもできない。

 メイジにとって、杖は大事なパートナーである。
 数日間、念を込め続け、契約を交わした杖を触媒とし、メイジは魔法を使うことができる。
 杖がなければメイジも普通の人とは変わりない。

 幸い、ここは魔法学院。
 杖の予備が売るほどある。
 ルイズは部屋に閉じこもり、杖に念を込めた。
 三日三晩不眠不休で作業を続け、四日目に杖との契約を遂げ、精も根も尽き果てたルイズは丸一日眠り続けた。
 そしてその次の日、新しく契約した杖を持ち、才人を探し始めた。
 理由は、先日の雪辱を晴らすため。
 その日は虚無の曜日であり、授業はなく、お休みであり、気兼ねなくさがすことができた。

 まず最初にルイズはタバサの部屋に向かった。
 部屋の主がタバサでなければ、妥当な判断。

 ルイズはタバサの部屋のドアをノックした。
 返事はない。
 流石のルイズも部屋のドアを蹴破って入るほど非常識ではない。
 とはいえ、タバサの無口ぶり、他人の寄せ付けなさぶりは知っており、居留守を使っている可能性も捨てきれない。

「ちょっと、タバサ、いるんでしょ! このドア開けなさい!」

 ノブを捻ると、さほど力は必要とせずにドアは開いた。
 最初から鍵がかかっていなかったのだ。
 籠城するかと思いきや、すぐにドアが開いたことにやや拍子抜けしつつも、ルイズは部屋に押し入る。

 部屋にはタバサしかいなかった。
 窓から入る日光で、黙々と本を読んでいる。

「タバサ、あんたの使い魔は一体どこにいるの?」

 ルイズは聞いたが、当然タバサは無視した。
 ぴくりとも自然体を崩さず、本のページをめくっている。

「隠すと身のためにならないわよ」

 脅しの言葉もタバサにはきかない。
 杖の先端をタバサに向ける。
 これから魔法を放つという威嚇行為。
 平民にとっての剣を抜いて突きつけることか、銃口を向けて引き金に指をかけることに相当する。
 無意味にそれをやられることは貴族にとって最大の屈辱だが、ルイズはそれを行うことに抵抗を感じていない。
 それほどまでに頭に血が上っていた。

 トリスティン貴族は名誉を何よりも重んじる。
 戦争時にいかほど活躍したかによって、王から貰う領土の質と量が決まる。
 当然領土の量は限られており、国土を切り分けて配分することになる。
 それぞれ身の丈にあった広さを貰っていれば問題はないのだが、代替わりし、愚劣と評価される人物が領土を受け継ぐことがままある。
 そうなると周辺の貴族の不平不満が募り、様々な弊害がうまれてしまう。

 そこで名誉がある。

 周辺の貴族に舐められぬように、自戒として名誉という規範を作る。
 取り巻く立場により相応しい人物になるための、教本のようなもの。
 それと同時に評価基準でもある。

 名誉を軽んじる貴族は、貴族らしからぬとして他の貴族に見下される。
 逆に名誉を重んじる貴族は、貴族の名を冠するに相応しい存在と見なされる。
 自身の持つ名誉を傷つけられたならば、そのまま破滅の道へと進む可能性があり、決して許してはならない。
 恥をかかされた、ということは、より高い地位にいる貴族であればあるほど絶対に認められない行為なのだ。

 ルイズは、トリステインの名門の貴族。
 王宮にも強い発言力を持つほどだ。
 =絶対に、恥をかくことは許されない。

 まだ、魔法を扱うのが苦手、というものならばなんとかなる。
 魔法は天性の才能が多く関わってくるモノで、いかな名門とはいえそういうものだ、と見なすことができるからだ。
 しかし、昨日のことは違う。

 貴族の使い魔に勝手に乗る平民。
 この平民はその使い魔を貴族の承認無しで乗っている。
 つまり、その使い魔たる主人を軽んじていることになる。
 これを許していれば、すぐさま権威は引きずり落とされ、名誉に深く傷が残る。
 故に、相手の肉体に深く「私を舐めてはいけない」と刻み込まなければならなかった。

「なんとか言いなさいよ」

 緊迫した空気が流れる。
 杖を構えることの意味を遅れながらも認識し、ルイズの額には汗が流れていた。
 対照的にタバサは、杖を向けられているにもかかわらず平然としていたために更にルイズを惑わした。

「……知らない」

 ぽつりとタバサが言葉を漏らす。
 耳をとぎすまさなければ聞こえないほど小さな声だったが、全身全霊をもってタバサに注意を払っていたルイズの耳には届いた。
 ルイズは心中で安堵を感じつつも、杖を下ろした。
 タバサが何も言わなければ、杖はそのまま掲げていなければならない。
 一旦構えた杖を相手に屈して下ろすことは、それこそ名誉に関わることになる。

 ルイズは引くことにした。
 もし相手がタバサでないとしたら、「嘘つきなさい」と言って詰問をしただろう。
 しかしルイズでさえもタバサを相手にしようとは思えなかった。
 本来ならば怒った貴族に杖を向けられるだけでも、常人であれば避けるか慌てるか、とにかく反応をする。

 タバサはそれをしない。
 まるで何もされていないかのように、本を読んでいる。
 杖を向けられて反応しないのならば、恐ろしいほどの手練れか、死を恐れていないのか。
 何にせよ、そういった相手と関わりを持ちたいとは思えなかった。

 ルイズは無言でその部屋を立ち去った。
 この部屋で受けた精神的な疲労を、才人と決闘する際に上乗せして与えてやる、と思いつつ。

 ルイズはその後、トリステイン魔法学院をくまなく歩いて才人を探し始めた。
 しかし、日が暮れるまで才人を見つけることはできなかった。

 ルイズの犯した失態は、才人のことを貴族にしか聞かなかったこと。
 才人は今日朝早くからシエスタとともに出かけており、学院にいなかった。
 なので、ルイズは使用人に才人の居場所を聞くべきだった。
 しかし、この学院にいる貴族の典型的な思考でもって、平民と侮り、誰にも聞かなかった。
 同じような理由で貴族が平民である才人の行動を知るわけもない。

 ルイズは完全に聞く相手を間違えていた。
 結局、一日中ルイズは学院の中を歩き回り、夕方になって才人が帰ってきたころには、疲れて自分の部屋で眠っていたのだった。



[2178] なんとなく空回り
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2007/06/18 22:45
「そんじゃ、シエスタ。またな」

 ルイズが部屋で疲れ果てて眠っているときに、才人は魔法学院に帰ってきた。
 一週間後に行われるというフリッグの舞踏会の準備のためにこれから忙しくなる。
 そのために、学院側は使用人達の英気を養うために順番に休暇を与え、たまたまシエスタは今日が休みだった。
 休みを利用して街へ出ようとしたシエスタだったが、たまたまそのことを才人に話し、ついでに案内することにした。

 トリステインの城下町は、比較的治安がいいとはいえ、女性の一人歩きはあまり安全とは言えない。
 役に立つかどうかは、正直シエスタも信頼は出来なかったが、見せかけだけでもボディガードとして役に立った。

 辺りをきょろきょろ見回しながら道を歩く才人に、シエスタはトリスティン魔法学院に奉公しにきたばかりの自分を重ね合わせておかしく思いながら、才人の問いに答えた。
 才人は一定の教養があり、算術その他に高い能力を持っていた。
 この世界での平民は、よっぽど金持ちでなければ教育は受けられない。
 シエスタは平民としては比較的算術に長けていた。
 彼女の祖父が、彼女にそれを教えていたのだ。
 彼女の祖父は、平民にしては考えられないような……それこそ才人に匹敵するかそれ以上の教養を持っていた。
 されどシエスタにとって不幸なことは彼女が女であり、祖父の教養を環境がほんの少ししか分けてくれなかった。

 足し算、引き算はまず問題がなかったが、かけ算、割り算となると少し怪しくなってくる。
 そこにつけ込む商人に何度も騙され、多くの出費を抱えることになるのだが……。
 しかし今回は才人がいたために、余分にお金を取られることはなかった。

 才人がお金の単位を知らなかったのはシエスタも驚いたが、一度教えれば二度聞くこともなくすぐに覚え、それを計算できることも驚きだった。

 高い教養の片鱗を見せているわりに、しかし才人は文字が読めなかった。
 算術の高さから教養の高さを考えれば才人は識字出来てもおかしくない。
 しかし実際には、数字すらも読めず、ほんの些細な単語をもシエスタに聞く。
 シエスタはいぶかしんだが、「使ってた言葉が違うんだ」と才人は答え、一応は納得した。

 もちろん、使っていた言葉が違うのに話し言葉は訛りがなくすらすらと話せることに後で気が付いたのだが。
 平民の使い魔、というシエスタの印象に、今回のことで、不思議な人、というものが追加されるだけだった。

「サイトさん、今日は付き合って頂いてありがとうございました」
「え? あ、ああ、ど、どういたしまして……っていうか、俺の方こそ、お世話になっちゃって……」

 才人にとって初めて年頃の女性と二人っきりで街を歩く行為だった。
 デートではないものの、やはり意識するところもあって、緊張したことはしたがそれ以上に意味もなく嬉しく感じていた。

 異世界に来て、未だ安全な状態で保護されているとはいえ、この状況がいつまでも続くとは限らない。
 積極的にこの世界の常識を学ねばならないことを、才人は学習していた。
 それもこれも彼の主人が寡黙で、命令などしない性質からだった。
 居丈高に命令をしているだけの主人であれば、才人は命令だけを従っていればよかっただろう。
 もしその結果、才人に損害が被ることがあったら、その主人のせいにできる。
 しかし、何も命令せず、何も干渉してこない主人であれば、自分が行動をしなければ結局自分の身に戻ってくる。

 才人は、あはは、と頭を掻きながら照れくさそうに笑った。
 シエスタの目には尊敬の念がこもっていることに気付いたのだ。
 地球での才人の評価は、決して高くなく、両親からも、教師からも『抜けている』と言われていた。
 ここハルケギニアに来て、ほとんど初めてと言っていいほどの他人からの尊敬の気持ちを、どう受け止めていいのか少しもてあましていた。

「そんじゃ、俺はもう部屋に帰るな。多分、あいつは待ってないだろうけど」

 才人はそう言って、学園の中庭から生徒寮を見上げた。
 タバサの部屋あたりを見るが、もちろん窓からタバサが顔を出して、才人の帰りを迎えてはいない。

「……大変ですね、サイトさんも」

 顔を下げると同時に溜息を吐いた才人に、シエスタが慰めの言葉をかける。
 給仕をする、ほんの少しの時間だけで、タバサはどちらかというと陽気な気質のシエスタをも暗い気持ちにさせる。
 何もしていないのだが……タバサはいるだけで周りの雰囲気を重くする空気を纏っていた。

「まあな、でも、あいつも何か重たい過去を背負ってるんだろうしな。
 袖振り合うも多生の縁、って言うし、使い魔になった以上、なんとかあの暗い性格をどうにかしてやりたいんだが。
 中々、上手くいかないな」
「……サイトさんって、お優しいんですね」
「いや、そんなんじゃねーよ。なんというか、一応、俺の命もかかってるし。
 それなりにかわいい女の子なんだから、その……あいつは、妹みたいな、感じなんだろうなー」

 やや支離滅裂になりかけた言葉の最後に、変なことを言ってしまった、と才人は顔を赤らめる。
 それをシエスタに悟られぬよう、そっぽを向く。
 シエスタは、その姿に少しかわいげを見つけ、ふふ、と笑った。

「ミス・タバサはサイトさんのような方と知り合えて、よかったと思っていると思いますよ。
 私も、ミス・タバサと親しいわけでも、彼女のことを良く知っているわけでもないですけど、きっと心の中では、サイトさんに感謝していると思います」

 シエスタは良くも悪くも善人だった。
 実際のところ、タバサは感謝を一欠片もしておらず、無差別に向けられた憎悪をとりわけ大きくサイトに向けていることなど、善人には理解出来ることではなかった。

「そう……かな?」
「そうですよ、きっと」

 シエスタは、恐る恐る振り返るサイトに向かって、はっきりとした声で、優しい笑みを浮かべながら言った。

「そっか、そうだよな……うん、俺のやってることは間違ってないよな……」

 改めて自分に自信を持つことになった才人。
 シエスタの素朴な優しさに触れて、全身に気力が満ちていくように感じられた。

「じゃ、俺はもう部屋に帰る。あ、シエスタ、今日はどうもありがとう!」
「いえ、こちらこそ、サイトさん」

 才人はぱたぱたと寮へと向かって走っていった。
 ふと思い出したかのように振り返り、手を大きく振りながら、シエスタに別れの挨拶を告げた。
 シエスタは笑顔でそれに応え、軽く手を振って返した。



[2178] 君が泣くまで
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2009/11/14 23:09
 翌日、ルイズと才人は中庭で再び相まみえた。
 ルイズは昨日に引き続き才人を探し続けており、中庭でぷらぷらとやる気なさげな顔で歩いている才人を見つけたのだ。

「決闘よ!」

 ルイズは才人の顔を見るなり、即座に白い手袋を投げた。
 大きな杖を抱えて、勇ましく才人に向けると、辺りのギャラリーが何事かと集まってくる。
 一方才人の方は、ぽかーんと口を開け、何が起きたのかわからないという表情で、ルイズを見ている。

「なんだなんだ?」
「ルイズが、あのタバサの使い魔に決闘を申し込んだってさ」
「決闘? 決闘って確か禁じられてたんじゃなかったか?」
「貴族と貴族の決闘はな。タバサのアレは貴族じゃないだろ」
「ああそうか……ヴァリエール家の人間が平民相手に決闘するってのも変な話だな」
「だな。まあ、ルイズは沸点が低いから、あり得ない話でもないぜ」

 辺りで囁かれる野次をよそに、才人は口を閉じ、目を細めた。

「決闘? ヤダよ、ンなもん」

 才人は、自分が正しいと思ったことが他人とのそれとぶつかり合ったとき、引かずに立ち向かうことの出来る人間だが、別段喧嘩好きというわけではない。
 加えてその相手がルイズのような少女であれば、尚更のこと。
 これがギーシュ・ド・グラモンのような、男で更に才人のいけすかないキザな性格であれば話は別ではあるが。

「平民が貴族に恥をかかせてただで済むと思ってるの? ふざけないで」
「この前のことは悪かったよ、ごめん」

 確かに以前のことは悪かった、と才人は秘を認め、頭を下げた。
 しかし、ルイズはただそれだけで才人を許すほど寛容ではない。

「はあ? ごめん? そんなんで許されるとでも?」

 ルイズは飽くまで『決闘』という形で事態が収束することにこだわっていた。
 受けた恥辱を何倍にして勝ち、尚かつ平民が貴族に逆らえないように『見せしめ』にしたかったからだ。

 ルイズはトリスティンの名門ヴァリエール家の三女として生まれ、幼い頃から強力な魔法の才能の片鱗を見せ、現在も学園内で最高の実力を持つメイジである。
 何一つ不自由することもなく、親や教師達から叱責を受けることも、生徒達からは妬まれはすれ、さげすまれることを一度も経験したことがなかった。
 そんなルイズが、傲慢になるのは無理もない。
 才人が本意ではないが味合わせてしまった屈辱は、ルイズにとって到底考えられぬものだったのだ。
 ルイズの中で渦巻く怒りは、もはや才人の血によって冷やされて、才人の屈辱的な謝罪を聞かなければ、もはや収まりそうになかった。

「平民が貴族に恥をかかせるなんて……普通だったら即死刑にされたっておかしくはないのよ?
 『決闘』という形で、万が一、いえ、兆が一でも生き残れる形にしてあげたことに感謝なさい」

 もちろん、平民が貴族に恥をかかせただけで死刑にされるという法律はない。
 しかし、極一部では、貴族に恥をかかせた代償にその平民の命が支払われることはままある。
 メイジは杖を一本持っているだけで、多くの種類の凶器を握っているのと同じになるのだ。

「なんだよ、それ。無茶苦茶じゃねぇか!」

 温厚に済ませようとしていた才人も、ルイズの傲慢な言葉に態度を硬化させた。
 確かに自分が本意ではないとはいえ巻き込んでしまったことは悪かったと思っている。
 それに加え、女の子がああいう目にあうのは男のそれとは大きく違うことも分かっている。
 しかし、それだけで死刑、決闘、というのはおかしい、と才人は納得できなかった。

「大体、人のことを平民、平民って、貴族がそんなに偉いのかよ!」

 ルイズの言葉からは、貴族と平民の歴とした差が見えた。
 貴族の命と平民の命は、決して等価値ではない、と。

 形式上だけでも全ての国民は平等であると憲法で保護されている世界から来た才人には、考えられないことだった。
 そういう不平等が世界に存在していることは十分に承知していたが、それが目の前にあり、尚かつ自分が低い方に捉えられているとなると、義憤を覚える。
 才人はルイズが女の子であることを忘れ、睨み付ける。
 ルイズはそんな才人の視線に気付くと、ふん、と鼻で笑いながら言った。

「バカじゃないの? 偉いのよ」

 当然だ、と言わんばかりに見下した目で見られていることに、才人は気が付いた。
 辺りを見回してみると、囲んでいる貴族達も、ルイズほどでないが、同じようなものが含まれていた。

 才人は、それがたまらなく悔しく感じられた。
 そもそもここへ来たのも、自分の意思ではない。
 もう既に召喚されたことに対して、タバサに恨みなどを持ってはいないが、この待遇は気にくわなかった。
 あからさまな挑発と、人を人とも思わぬ傲岸さに臓腑が煮えくりかえる感触を覚える。

「ああ、わかったよ。決闘、受けてやるよ!」

 頭に血が上り、興奮した才人はルイズの決闘に応じることにした。
 野次馬たちはにわかに声を上げ、これから始まる出来事を期待している。

「じゃ、ヴェストリの広場でやりましょ。怖かったら、逃げてもいいわよ、平民」
「それはこっちの台詞だ。何てったって、お前は女の子なんだからな。逃げたところで、誰だって笑いはしないぜ」

 ルイズは、才人の言葉に再び屈辱を感じた。
 が、しかし、そのときは言葉を出さず、のど元まで迫った罵倒をぐっと押し込めた。

 今はまだ好きなことを言わせておけばいい、決闘で白黒つけたとき、地面に倒れ伏したこの平民の頭を踏んづけて訂正させてやるわ。
 何の変哲もなく、味も素っ気もない水をおいしく飲むためには、限界まで喉を渇かせることだ、とルイズは思って堪えた。

「ふん!」

 ただそれだけ言って、ルイズはさっさとヴェストリの広場の方へと早歩きで向かった。
 大部分の取り巻きはルイズを追い、数人の男の貴族が才人の近くに留まっている。

 ふと、才人は辺りを見回した。
 中庭に出された白いテーブルと椅子の一つに、青い髪をした少女が座っている。
 誰も寄りつかないそこで、ゆっくり本を開き、近くで起きている騒ぎなど何もないかのようにそれを読み続けている。
 不意に吹いた風が、少女の髪を揺らし、本のページが何ページもまくられる。
 かなりのページが風によってめくられたにも関わらず、彼女はページをまくり返すこともせずそのまま読み続けていた。

 あれは、本を読んでいるのではない。

 それは才人がこちらに来てから、一週間もしないうちに気付いたことだった。
 本を読んでいるのではなく、『本を読む』という行為をしているだけなのだ。
 どう違うのかというと、本を読むということは本に書かれている文字を読み、それを理解すること。
 『本を読む』という行為をするということは、文字を読みはするが、言ってしまえばただそれだけ。
 書かれた文章が作者の知恵、知識と見るか、それともただの字の羅列と見るか……。

 少女……タバサにとって本に書かれた内容などどうでもいいことだった。
 それこそ、学術書だろうが取るに足らぬ三文小説だろうが、読むことのできない外国語で書かれた本だろうが幼児が字を覚えるために読む絵本だろうが……例え本が逆さになっていても、タバサは頓着すらしないだろう。

 才人は大きく溜息をついた。
 一体自分は何をしているのだろうか、と。
 ルイズの挑発に乗り、ムキになって決闘に応じた自分が、途端にバカに見えてきた。
 自分にはもっと大切なやるべきことがあるのに。

「まあ、いいか……」

 とはいえ、今更決闘するのをやめて逃げる気も起こらない。
 その上、才人はポジティブに物事を考える性格だ。
 くよくよしていてもしょうがない、といいことを考えることにした。

 あるいはあの鼻っ柱の高いヤツをこてんぱんにのしてやって、自分が頼れる存在である、と知らしめてやればタバサのあの性格もちょっとはよくなるかもしれない、と。
 まずそんなことはありえない、と才人は自分でも思ったがそれでもやってみようという気にはなった。

「ふーっ」

 大きく息を吸い込んで空を見上げる。
 空は初めてこの世界に来たときのように晴れ渡っていた。

 才人はゆっくり目を閉じて顔を下げると、心を決めた。
 そして、近くにいた貴族の一人の肩に、ぽんと手を置いた。

「で、ヴェストリの広場ってどこにあるんだ?」



[2178] 殴るのを
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2009/11/14 23:23
 ヴェストリの広場にて、名門ヴァリエール家の三女にしてトリスティン魔法学院今期最優秀生徒であるルイズと、
 本名も正体も知れぬタバサの使い魔、平賀才人との決闘が行われようとしていた。
 観客達は、この異色の組み合わせに一体どういう結末を迎えるのか、やや興奮した様子で事態を見守っている。
 とはいえ、この場に居合わせた人のほぼ全員がルイズの勝利を疑っていない。

 例外は才人その人であり、この場に立ってから、どうやって決着をつけようか、などと呑気なことを考えていた。
 まさか女の子を殴るわけにもいかず、どうやって負けを認めさせるかを方法を模索している。

 一方ルイズは、決闘の前に、貴族らしく長々と前口上を述べていた。
 いかに才人、平民が行った行動が浅慮であったのか、観客に訴え、才人に向かって当て付けている。

 しかし、才人はその言葉を聞いてすらいない。
 どうせ人を小馬鹿にしたことしか言っていないんだろ、と才人側が完全に無視をしていたのだ。

「……というわけで平民は貴族に逆らっちゃいけないのよ。わかる?」

 全く話を聞いていないことが腹に据えかね、ルイズは話を才人に振った。
 才人は面倒くさそうに軽く手を振り、はいはい、と言ってから言いたいことを言う。

「ごちゃごちゃうるさいよ、お前。んなこと、どうでもいいし」

 概ねルイズの意見と同じ物を持ち合わせている周りの貴族達も、失笑を漏らした。
 くすくす笑いの声が辺りから聞こえてくる。
 ルイズは更に怒りのボルテージを上げた。

 それでも尚、冷静になろうと努めていた。
 ここで怒って見せたら、才人や見ている貴族達の思うつぼだ、と必死に自分に言い聞かせ、自制をする。

「あ~あ、これだから無学な平民は嫌なのよ。
 どうやら、叩きのめしてその体に直に分からせてあげないとダメみたいね」

 才人は、どうしてこんなにこいつは自信があるんだろう、と思った。
 そもそも男性と女性というハンディキャップがあるにも関わらず、ここまで大口をたたけることが不思議だった。
 小柄な体に実は強靱な力と技が隠れているのか、と思えど、そのような素振りはない。

 才人は最も基本的なことを忘れていた。
 すなわち、ここは魔法使いの世界で、ルイズはその魔法使いであることを。

 ルイズは素早く杖を構えるとルーンを紡ぐ。
 才人が気付いたときにはもう既に遅く、呪文が完成して、才人に向かって魔法が放たれていた。

「ぐがッ!」

 見えない何かに頭を殴打され、才人は地面を転がった。

 『エア・ハンマー』
 圧縮された空気の塊が相手を襲う、風系統の基本的な攻撃魔法である。
 今回才人に向かって放たれたそれは、威力をある程度絞ったものだった。

「始まって直ぐに死んじゃったりしても面白くないから、手加減してあげたわ。
 私が本気を出したら、あんたの中身の詰まってない頭なんて熟れたトマトよりも簡単につぶせるのよ」

 ルイズは新しい杖を弄びながら、勝利の喜悦にうっとりと酔いしれた。
 やはり魔法の力は圧倒的で、平民などに負けることはない、と一般的な見解はこの場でまた証明されたのだ。
 この後は地面を転がっている平民に、何度も何度も『エア・ハンマー』を浴びせかければよい。
 そうやって徹底的に肉体を痛めつけ、その後無様に土下座させ、精神をもねじ伏せればルイズの矜持は保たれることになる。
 遅かれ早かれ、自分の望む展開になるだろうとルイズは確信していた。

 エア・ハンマーに頭を殴打された才人は、軽く頭を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
 鈍痛は酷く、目の焦点が少しずれているが、まだ立ち上がることはできた。

「この私に、何か言うことはないの?」
「別に……。今俺が思っているのは、へなちょこ過ぎて、あくびが出そうだ、ってことだけだ」

 才人は何故このような大口がたたけるのか、自分自身でもよくわからなかった。
 見えない鈍器の威力は、たった一撃だけで嫌と言うほど味わった。
 謝るのは癪だが、これをもう一度食らうよりかはいい……と思っていたはずなのに、口は全く違うことを言っていたのだ。

「そう……」

 ルイズは目を細めた。
 この状態でまだ減らず口をたたけることに、怒りを通り越してあきれを覚えていた。

 ただ、追撃の手を緩めないことに変わりはない。

「だったら、欠伸だけじゃなくて、泣いたり笑ったりできなくしてあげるわッ!」

 ルイズは再び才人にエア・ハンマーを浴びせかけた。
 一撃目のような単発ではなく、連発で。

 圧縮された空気の塊が、何度も何度も才人を殴打する。
 まるで才人の体は人形であり、見えない手で動かされているかのように、跳ねた。

 時には宙に跳ね上げられて、そのまま地面に打ち付けられ。
 矢継ぎ早に前後左右、倒れる間もなく放たれたエア・ハンマーによって、まるで踊りを踊らされているかのように蹂躙される。

 才人の着ていた服は、何度も何度も地面を転がらされたせいで泥まみれになり、あちこちすり切れている。
 額を切り、とめどなく溢れた血が、顔を真っ赤に染めていた。
 全身に無数の青あざが浮かび上がり、肌が剥き出しになっている場所には擦過傷があちこちに出来ていた。

「う……ぐぅ……」

 何十発もエアハンマーの直撃を受け、十何回もダウンした後、ようやく小休止が入った。
 才人は四つんばいになって、肩で荒く息をしている。
 何度も何度も血の塊のような痰を吐きながら、才人は咳を繰り返していた。

 ルイズはこれで最後にしようとした。

「土下座なさい。
 惨めに地面に額をこすりつけて、今までの非礼を詫びなさい。
 平民らしくみじめったらしく泣き叫んで、命乞いをしなさい。
 そうしたら、貴族の尊い慈悲を授けて、命だけは助けてあげる」

 才人は、顔を上げた。
 激しくむせながら、ゆっくりと体を起こす。
 少し動いただけで全身に痛みが走るのを耐えながら、なんとか立ち上がることができた。

「謝ったら……命を助けてくれるのか?」
「ええ、いいわよ」

 ルイズは勝った、と思った。
 才人の目は、もはや闘争者のそれではなく、敗北者のそれに見えた。

 自分の命を守るためには自らの矜持を投げ捨てる、平民のそれが見えた。
 貴族であれば絶対にそのようなことはしない。
 自らの矜持を自らの手で汚し、捨てるようなことは、例え死んでもしないのだ。

 だから平民は貴族に劣っているんだ、とルイズは思い、満足した。

「だが断る」

 才人は、血の塊を唾と一緒に吐きだした。
 口の中はずたずたに傷がつき、血によって真っ赤に染まり、ねばついていて気持ちが悪い。

 ルイズの要求に応えなかったのは、もはや意地だった。
 こんな目に遭わされて、挙げ句の果てに土下座しろ、などと理不尽極まりない要求は絶対受けられなかった。
 それによってどんな損をしようとも、『相手の思い通りになってやらない』というとても魅力的な行動には変えられない。

 この平賀才人の最も好きなことの一つは、自分で強いと思っているヤツに『NO』と言ってやることだ。
 口の中がずたずたで痛かったために、言わなかったが、そういう風な意味合いをこめて、才人はルイズをにらみ返した。

「そう……だったら、死になさいッ!」

 もはやルイズは容赦の一片もする気がなかった。

 平民のくせにコケにした。
 平民のくせに手を患わせた。
 平民のくせに生意気だ。

 平民のくせに命と引き替えに誇りを守った。

 それがルイズはとても許せなかった。
 最も高貴たるものは、貴族だけが持つことを許されている、というのがルイズの持論である。
 それからはみ出す存在を、ルイズはとても憎く思った。

 本来ならば殺す気はなかった。
 しかし、才人があまりにもルイズの癇に障る存在だったが故に殺意を覚えるに至ってしまった。

 ルイズがルーンを紡ぐと、無数の氷の矢が出現した。

 『ウィンディ・アイシクル』
 氷の矢を放ち、対象に突き刺す攻撃魔法である。
 エア・ハンマーよりももっとずっと攻撃的で、殺傷能力が高い。

 氷の矢が唸りを上げて回転する。
 鋭利な先端は、目標を才人に合わせたまま、発射されるのを今か今かと待っているようだった。

「……死になさい」

 氷の矢のように、鋭く冷たい声だった。
 『雪風のルイズ』の掛け値無しの全力の一撃。
 宙に浮いていた氷の矢が、キィィィと変わった風切り音を発しながら、才人へと向かって放たれた。



[2178] やめないっ!
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2009/11/14 23:23
 才人は、今現在自分が決定的なピンチであると理解していた。
 目の前にはルイズが立っており、なにやら杖を掲げて呪文を唱えている。
 『だが断る』と大見得を切ってみたものの、実際のところを言うと、まだ死にたくはない。
 呪文の内容は聞き取れなかったが、今までさんざっぱらぶつけてきた空気の塊の魔法ではないがわかる。
 本能的に、次が最後になるということを理解していた。

 何かあがこうと思ってみても、膝はがくがくだし、全身が痛くて走れそうになかった。
 歩くことはかろうじてできるが、それでも普通の歩行スピードよりもぐっと落ち、さして意味がないことはすぐわかる。

 必死に頭を絞っている間に、時間は刻一刻と無くなっていく。
 もう逃げられないか、とやけっぱちに考えて、なんとなしにパーカーのポケットに手を突っ込むと、偶然、そこに打開策があった。
 それをポケットの中から引きずり出すと、才人は今までとは違う世界を見た。

 まるでコマ送りをしているかのようにゆるやかに動く世界。
 取り囲んでいる貴族も、呪文を詠唱しているルイズも、みなスロー再生しているかのように遅く動いている。
 才人は突如変貌した世界に驚かなかった。
 自ずと、何故このような世界になったのか、理解できていた。
 心の奥が震えているかのように精神が昂揚し、ただただ才人その人にすら理解できないような歓喜が全身を突き抜ける。

 こんなトロい世界で負けていたのか。
 才人は世界そのものと過去の自分に対する嘲りの意味を持った自嘲の笑みを浮かべ、地面を蹴った。


 貴族達は息を飲んだ。
 ルイズは確かにウィンディアイシクルの呪文を完成させた。
 トライアングルクラスにならなければ使えない高位の攻撃魔法は、確かにかなりの練度でもって構築なされた。
 氷の矢の密度、数、温度ともに最適であることは、少し成績のよいメイジであれば直ぐに見抜けたし、矢の速度だけで言えば、誰しもが驚嘆するほどのものだった。
 あと数年の鍛錬を積めばトライアングルクラスからスクウェアクラスに上がるとまで言われていた、トリスティン魔法学院の天才ルイズの放った魔法の中で、一番、完成度の高いものだったと言えた。

 しかし、避けられた。
 幼子に押されただけで倒れそうなほどボロボロになっていた平民が、弾かれるように動いて、全ての氷の矢を避けてしまった。
 およそ人間とは思えぬ速さと動きで、矢と矢の間に体を通したのだ。

 次の瞬間、貴族達は、爆笑した。
 ルイズでさえも、自分が決闘をしている最中であることを忘れ、腹を抱えて笑っていた。

「ちょ、ちょっと……あ、あんた、な、何してんのよ! ぷっ、くくく……だ、ダメ、もう我慢できない!」

 人間離れした芸当を見せた才人は、パーカーのポケットの中から出したスリングを振り回していた。
 両足を開いて、膝を落とし、やや前傾姿勢でスリングを振り回している格好が、貴族達にはまるで原始人のように見えた。
 もう少し冷静な目を持っていれば、スリングに装填されたものが、氷の矢だということがわかっただろう。
 高速で放たれた氷の矢を避けるまでならまだしも、スリングに引っかけ、そのまま回転させることがどれだけ困難のことか、この場で理解できたものは誰もいなかった。
 ただただ、スリングを振り回す格好だけが、滑稽であると受け止められて、その場の全員は笑っていた。

 スリングから放たれる弾丸がどれほど威力を持っているか、などとは誰も考えなかった。
 とはいえ、それは無理もないことだったのかもしれない。
 この世界では、子どもであったダビデが、体長3メートルを超え、平然と四十キロをも超す青銅の鎧を身に纏う大男ゴリアテを、投石紐でその頭蓋をたたき割ったことなどなかったのだから。

 それにこの場にいるのは、そういった単純且つ威力の高い兵器など見たこともない若いものばかり。
 加えて彼らは貴族であり、魔法ではないただの兵器など小馬鹿にしているもの達である。
 彼らにとって剣であろうが銃であろうが、それは力を持たぬちっぽけな平民が、貴族に刃向かうために無い頭を絞った心許ないただの牙でしかない。
 今才人が持っているものは、その牙の中でもかなり原始的な部類に入るものである。
 むしろ、笑うな、という方が無理だった。

「ひ、卑怯よッ! そ、そんな笑わせて魔法を使わせないなんて、くくく……あははは、だ、ダメ、わ、笑い死……ぶぐぅ」

 才人は嘲笑に対して何のリアクションも起こさなかった。
 右手の回転を時間と共に速めていき、まっすぐ、投擲対象であるルイズを見つめていた。

 今や才人はこの世界の何者にも動じなくなっていた。
 才人は自分の中に自分だけの世界を作りだし、そこでただ目的を果たすためだけに精神をとがらせていた。
 全力を注ぎ、破壊力、命中力を現在の体力で作り出せる極限まで高め、そしてスリングの片方の紐を手から放した。

 ルイズが助かったのは奇跡としか言いようがなかった。
 たまたま笑いの間に息を吸うタイミングを設け、杖をほんの少し体に引き寄せたことが、彼女の命拾いの理由だった。
 自分が作り出し、才人に利用された氷の矢は、その杖のちょうど真ん中部位にぶち当たった。
 ルイズは氷の矢が直撃した杖に巻き込まれるような形で、地面を転がった。

 一気に場が静まりかえる。
 貴族の輪の中では、投擲したポーズそのままで立つ才人と、地面を何回転もして転がったルイズ。
 後者は、背中を地面につけたまま両足のつまさきが地面に触れており、お尻は天高く掲げられている。
 短めのプリーツスカートが盛大にまくり上がり、下着が丸見えになっているという衝撃的な格好なのだが、それでも静まりかえっていた。

 少し遅れてから、ルイズは体勢を立て直した。
 酷く腹部が痛むのでさすりながら、よろよろと立ち上がって、ようやく自分が吹き飛ばされたことに気が付いた。

「こ、このッ!」

 もはや先ほどまでの笑いは消えて、地面に落ちていた杖を拾って呪文を唱える。
 が、魔法は出なかった。
 それもそのはず、手に持っている杖は真ん中のところでぽっきりと折れてしまっていたからだ。

「えッ、ええーッ!?」



[2178] 第二十三話『こんなッ、こんなカスみたいなヤツにッ!』
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2010/01/05 14:25
 才人は杖をへし折った。
 それでも尚、ルイズが有利なはずだった。
 満身創痍の才人は、それこそ、少し強い風が吹いただけで倒れそうなほど弱っている。
 これでは石を拾おうとしただけで転んでしまうだろうし、何にしろ付近にスリングで投げられる大きさの石は落ちていなかった。
 このままルイズが、体当たりをしかけるだけでも、十分才人には勝てる。

 しかし、そういった現状とはまた別に、ルイズは精神的に負けていた。
 杖を折られるというのは通常の決闘の上で、それだけで敗北を意味する。
 貴族同士の決闘は、最後まで殺し合うほどでなければ、杖を折るだけで相手の戦闘能力を解除したと見なされる。
 ただ今回の場合は、相手が平民で魔法が使えない相手。
 それ故まだ決闘は継続しているのだが、杖、ひいては魔法をよりどころにするメイジにとって、それの喪失は実際以上の効果がある。

 それに加え、才人の動きがルイズには不気味に見えた。
 体全体を左右に揺らし、よたよたと歩く姿は、まるでアンデッドのよう。
 しかし、一歩一歩近づいてくるその姿は、ルイズにとって脅威だった。

 喉が引きつり、上手く声が出せないルイズ。
 逃げようと思えど、足はまるで根が生えたかのように動かない。
 すぐそこまで来て、ルイズは才人の目を見たとき、恐怖はより一層高まった。

 まるで、アリでも見るかのように見ている。
 ルイズは背筋の毛を全て立たせて、才人の目を見る。
 顔全体が血まみれになっているせいか、目がくっきりと映っており、その奥には光が存在していない。
 真っ正面からこちらを見ているだけなのに、何故か見下ろされているような……ルイズの精神状態のせいもあったが、そう見えた。

 もしもアリに人間ほどの感情があり、その感情を言語化出来るほどの知性があったなら、
 全てのアリがまず間違いなく考えることをルイズは考えた。

 すなわち『踏みつぶされる』と。

「その決闘、ちょっと待った!」

 援軍はルイズはおろかこの場にいた貴族達の誰しもが、気付かなかった方向から来た。
 貴族の輪をかき分け、バラの造花を加えて、空気を読まずにやってくる。

 土系統のドットクラス、ギーシュ・ド・グラモン、ここにあり。

 予想だにしない事態に貴族達は、ぽかんと口を開けて驚いている。
 ギーシュはそれに気づきもせず、注目を集めていることに、満足げに微笑み、ルイズと才人の間に割り入った。

「今回の決闘、引き分け、ということでどうかな、お二人さん」
「はあ? ふざけんな、引っ込んでろ、タコ」
「た……タコ? いや、待ちたまえ、悪いことは言っちゃいないさ」

 ギーシュはそっと才人の傍らに行き、耳元で辺りには聞こえない小さな声で囁いた。

「普通決闘では、勝っても負けても互いに恨みっこ無し、というのが良識とされている。
 だが、やっぱり貴族と言えど人間だ、どちらが勝った負けたで遺恨はどうしても残るんだよ。
 もし君がこの場でルイズに勝ってしまえば、以降ヴァリエール家から好印象で見られることはなくなるね。
 君は平民だから知らないのかもしれないけど、この国でヴァリエール家に刃向かうと、大抵の人はいい死に目は会えないのさ。
 引き分けにしておけば、君は負けなかった、ルイズにも勝たなかった。
 それで八方丸くおさまるのだから、それがベストとは思わないかい?」

 ギーシュは囁き終わると、才人の返事を待たず、身を翻した。

「さあ、彼もこの勝負引き分けであるということを認めた」

 観衆に向かって、『名ジャッジをした!』と言わんばかりの態度でギーシュは言った。
 今まで驚愕の連続だったために、未だ観客達は感覚の麻痺状態に陥っていたものの、次第にざわざわと騒がしくなっていく。

 才人は、すっかりしらけて、スリングをパーカーのポケットに入れた。
 なんだかんだ言って、まあ、それでもいいか、なんて思ってもいる。


 しかし、全く逆の立ち位置にいた人は、納得することが出来なかった。

「ちょっと待ちなさいよ! ギーシュ!」

 ルイズは、今まで恐怖で固まっていたことなど忘れて、ギーシュに噛みついた。

「私は負けていないわ!」
「そうだね、ルイズ。君は負けなかった。しかし勝ちもしなかった。それでいいじゃないか」
「ダメよ! もう少ししたら私が勝っていたんだから!」

 もうさっぱり、さっきまでのことは忘れているらしい。
 ルイズはちらと才人を見た。
 相変わらず顔は血まみれで、どことなくしらけた様子だが、さきほど才人の目を見て抱いた感想はこれっぽっちも沸きそうにない。
 やっぱり、あれはただの気のせいだったか、と思考を戻し、ルイズは更にギーシュに文句を言った。

「第一、貴族が平民に負けるわけないじゃないの!」
「だから、君は負けたわけじゃないさ。引き分けというのはどちらも勝たず、どちらも負けぬ結果なんだよ」
「それじゃダメなのよ!」

 ルイズに求められているのは必勝、それのみだった。
 それ以外ならば、引き分けも負けも大差ないゴミクズなのだ。
 ゴミクズを認めるならば、自分もまたゴミクズとなる。
 それだけは許せなかった。
 もはや、自分の矜持だけの問題ではない。
 ヴァリエール家全体の、厳しくも優しい父と母と厳しい姉と優しい姉の名誉をも傷つけかねないことになる。

「まあまあ、落ち着きたまえ、ルイズ。
 君にとっても引き分けた方が良い結果になるんだとボクは思うよ。
 ここは一つ貴族らしい寛容な心でもって、許してあげた方が得策だろう?」

 ギーシュは才人にやったように、ルイズの耳元で囁いた。

「確か君はトライアングルクラスだったろう?
 トライアングルクラスの『固定化』がかけられた杖を、あの平民君はまっぷたつにしてしまったんだぞ。
 もしこのまま決闘を続けて、あの投石を今度は君の体で直接受けたら一体どうなるか……。
 まあ、そのときにへし折れるのは、杖じゃなくて君の背骨だと思うがね。
 僕は土系統のメイジだから門外漢なので、とある水系統のメイジに聞いた話なんだが、
 背骨が折れたら下半身が動かなくなるそうじゃないか。
 君だって、その年で片輪にはなるたくあるまい?」

 ギーシュはまた、自分の言いたいことを言い終わると返答など聞かず、観衆の方に体を向ける。
 両手を大きく上げ、満足げな表情を浮かべた。

「ルイズも、引き分けでいいそうだ。
 このギーシュ・ド・グラモンの大岡捌きで一件落ちゃ……う……」

 ギーシュは途中でゆっくりと地面に崩れ落ちた。
 両手は股間部に添えられて、尻を高く上げたまま、内股の格好でうつぶせになって倒れていた。

 ルイズが咄嗟に後ろから男性の急所を狙った蹴りを放ったのだ。
 しこたま、玉を打ち付けたギーシュは、そのインパクトに耐えきれず、その場で無様な姿をさらすことになった。

「私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールなのよッ!
 へ、平民なんかに負けるわけないじゃないのッ!」

 ルイズはその場で平民を侮蔑する言葉を吐き続けた。

 才人に向かって決闘の続きを徒手でやる勇気はない。
 実際には、徒手での続きを望んだ場合、勝つのは確実にルイズであるが、そのことを彼女は知らなかった。
 知ったところで、まるで自分の存在を道ばたに落ちている紙くずか何かのように見てきた目を持つ者と、不必要な関わり合いを持ちたくはなかった。

 しかしその反面では、貴族として、ヴァリエール家として負けるわけにはいかない自分がある。
 今すぐ逃げ出したい気持ちと、逃げ出してはいけない気持ちが互いにぶつかり合い、ジレンマが発生していた。
 混乱する思考の中、ルイズが到着した末は『平民を徹底的に見下す言葉を言う』だった。
 何故そういう風になったのか、今自分が一体何を言っているのか、ルイズ自身すらわからずに、ただただ平民を悪罵し続けた。

 普通の貴族優位主義の思想を持つ、観客の貴族達ですら引くほどの、
 ルイズの知識知恵を結集した中身のない悪口が、堰が壊れたかのように流れ出る。

 才人はそんなルイズを冷たい目で見下ろしていた。

「死ね! 死んで詫びなさい! あんたら平民が生きていたって何の価値もないのよ。
 だったら、死んでこの世に生まれてきたことを……」

 一瞬、ルイズは何が起こったのか理解できなかった。
 今日は、自分の状況が理解出来ないことが連続して起こっているが、とにかく分からなかった。
 少なくとも、冷静でなくなっている今のルイズの頭では理解出来なかった。

 正面を向いていた顔が、いつの間にか右の方向を向いている。
 そして、左の頬には焼けるような痛みが走っている。

 顔を戻すと、右腕を左上に上げている才人がいて、それを見てようやく悟った。

「ぶ、ぶっ、ぶったわね! きっ、き、貴族様にへ、平民が手を出すなんて、そ、そんなこと許され……」

 再びルイズは思考停止状態に陥った。
 今度は正面を向いていたはずの自分が左を向いている。
 例のごとく向いている方向と反対側の頬には焼け付くような痛みが走っている。
 正面を向くと、前回と同じく、才人が向いた方向と同じ向きに手を振り上げていた。

「に、二度もぶった! お、お父様にもぶたれたことないのにッ!」

 三度目になるともうルイズは、自分に何が起こっているのか最初から理解できた。
 じんじんと痛む頬のままに、再び正面を向く。

 何故か、視界には才人は映らなかった。
 とはいえ、才人が正面に立っていないわけではない。
 確かに才人はさきほどから変わらぬ位置に立っている。

 しかし、正面を向いたルイズの目には映らなかった。

「う……う……な、泣いて、ないわよ!」

 瞬きするたびに、瞳から溢れる熱い液体は大粒のまま頬を流れ落ちる。
 痛む頬に涙が伝い、じんじんと更に痛みが増していく。

「わ、私は、ルイズなのよ! こんなことで、泣くわけ、ないじゃないのッ!」

 夏の夕立のように、最初はぽつぽつと流れていた涙が、瞬時に滝のように大量に流れ出る。
 必死で自分は泣いていないことをアピールするルイズだが、誰がどう見ても言葉とは反対の状態にあった。

 才人はもはやルイズには興味を無くし、背を向けてよろよろと歩き始めた。

「う、う、うああああああッ! ああああああッ!」

 響き渡るルイズの大きな泣き声も無視して、先ほどの中庭の方向へ足を向ける。

 ギーシュは引き分けと言ったが、これは引き分けではない。
 その場にいた貴族は全員そう考えていた。
 あの天才ルイズが、入学当初から極めて優秀な生徒として注目されていたルイズが、今は人目も憚らず大声で泣いている。
 この状況を見て、誰が引き分けと考えるか。

 才人は確かに血まみれで、泥まみれで、お世辞に言っても乞食と同然の格好。
 しかし、そのボロボロな体に纏う威圧感は、貴族達には目に見えるかのようだった。

 片や頬を赤くしているだけだがその場で泣きじゃくる者と、片や満身創痍だがハリネズミのように戦意をむき出している者。
 この決闘の、どこが引き分けなのか。

「どけよ」

 道を遮っていた貴族の野次馬達に、才人は言った。
 すると野次馬達は一瞬でざっと横に動き、道を造る。
 平民に「どけよ」と言われたら怒り狂い、当然道など譲らない貴族達だが、今回はほとんど反射的に動いていた。

 誰に媚びを売ることもせず、誰も寄せ付けぬ雰囲気を纏った決闘の勝者は、
 足取りは不安げな、しかし確実に他者の助けもなく、ヴェストリの広場を後にした。
 才人は中庭に来た。
 いつもはこの時間帯は貴族が食事をしたり歓談したりとにぎやかな場所だが、今日はたった一人しかいなかった。
 隅っこの方のテーブルの席につき、例え空から月が降ってこようと平然と読書を続けているだろう印象を受けるタバサだった。
 才人はタバサのテーブルの、空いている席に腰掛けた。
 だらーと両手足を伸ばし、背もたれに寄りかかり、血まみれの顔を天に向けて、才人は語り出す。

「あー、ルイズってやつと決闘してきた」

 タバサは何の反応も返さない。
 しかし才人はそれを承知で語り続けた。

「平民だの貴族だの一々うるさいヤツだったからな。
 ちょっと魔法が使えるってんで、こっちもこんなザマになっちまったけど、勝ったよ」

 才人は段々視界が霞んでいることに気が付いた。
 目の前が白みを帯びて、輪郭が朧気になっていく。

 それが何の予兆なのか察した才人は、体を起こす。
 最後にこれだけは言っておかければ、と、必死になって意識を保とうとした。

「ルイズをぴーぴー泣かしてやったよ。へっ」

 ゆるやかにぐらつく視界、段々と途切れ途切れになっていく思考。

「お前、ゼロだなんだと言われてるらしいけど、まあ、俺っていう強い使い魔を従えてるんだから……。
 その……なんだっけ……」

 もはや限界に達していた。
 ふらつく体を支えるために、テーブルの上に腕を載せた。
 あざが無数に出来ている腕に激痛が走るが、そんなことは気にならない。

「悪い……なんかちょっと疲れちまった……眠る、わ……」

 そのまま顔もテーブルの上に載せる。
 そして、才人はそっと意識を手放した。



[2178] 第二十四話『メイドナースの生態観察』
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2010/01/05 14:24
 平賀 才人は夢を見た。
 その夢の内容がなんであるか、目覚めたときには全く覚えていなかったが、『どんな感じなのか』は覚えていた。
 氷で出来た布団に眠らされているかのような、痛いほど冷たい夢だった。

「……ッはッ……はぁはぁ……ッ……」

 シーツをはね除け、才人は息を切らせて起きあがった。
 直後、全身に走る痛みに顔を歪めて、唸り、悶える。
 眠っている最中、何度も何度も寝返りを打ち、苦しそうにうなされていたためか、前髪が額に張り付くほど汗まみれになっている。
 痛みを堪えると、右手で前髪を寄せ、顔を上げた。

 トリステイン魔法学園であることは、窓の外に見える建物から推測出来たが、今まで見たことのない部屋にいた。
 服は脱がされ、その代わりに包帯が体のあちこちに巻かれている。
 包帯の巻き方に卒がないため、ある程度看護の経験がある人間がやった、となるとタバサはもちろん貴族ではない。

「……あ……」

 不意に思い出したかのように頭痛を覚えた。
 あれほど酷い目に遭わされて、死んでいなかったとはいえ、そのことを素直に喜ぶ気にはなれない。

 才人は、そのまま再びベッドの上に横になった。
 体を動かそうとするたびに全身がずきずきと痛み、酷く億劫だった。
 柔らかい、とは決して言い難いが、床などより何十倍もマシなベッドで目をつぶる。
 怪我を治すためというよりかは、痛みから逃避するために、呼吸を小さくし、ゆるやかに眠りに落ちていった。
 才人が再び目覚めたとき、そこには人がいた。
 ハルケギニアで、最も才人が親しい人物であるシエスタが、才人の体の包帯を取り替えているとしているところだった。

「……ん……」

 才人は薄目を開けて、目の前の人物を見た。
 大方予想通りの人物だったため、別段驚くようなことはない。
 ただ、申し訳ない、という気持ちはあったが。

「あ、気が付いたんですね」

 才人は起きていることに気が付いたシエスタは、手を止めずに、才人に声を掛けた。

「うん……まあ、その、迷惑かけてごめん」

 目覚めてすぐに謝る才人に、シエスタは苦笑を呈しつつも、やはり作業を止めない。
 起こそうとしてくるシエスタに対し、自分からも協力し、体を起こす。
 地面を転げて傷ついた箇所に新しいガーゼと交換され、清潔な包帯が巻かれる。
 両者無言のまま、刻々と時間は経っていった。

 全ての作業が終わると、才人は会話の口火を切った。

「えーと……俺は一体どのくらい気絶してた?」
「三日です」

 シエスタはにこりと満面の笑みを浮かべて言った。
 当然、その心中が表情とは逆ベクトルに向いていることは状況から見て、明らかだった。
 こうなると才人はなんと言えばいいのかわからなかった。

 三日も世話をさせていたことを謝ればいいのか、礼を言えばいいのか、何分そういった経験がないのでわからなかった。

「驚きましたよ。
 デザートのお皿を片づけようと中庭に来てみたら、貴族の皆様は不在で、
 代わりに血まみれで気絶している才人さんがいらっしゃったんですから」

 依然変わりなく、シエスタは笑顔のまま。
 その能面のような、無機質な笑顔はいっそ不気味さすら感じられる。
 ルイズと相対したとき、メイジと平民の間に存在する力の差に気付いても尚引くことをしなかった才人だが、今回ばかりは分が悪かった。
 この時点で謝る方向性で考えを固めたが、さて、なんと謝ろうかと言葉を考えている間に、シエスタはさらに言葉を続けていた。

「そのときは大急ぎで才人さんの応急処置をしました。
 でも後で一体何が起きたのか聞かされたときには、私の方が気絶しそうになりましたわ」
「いや……その……シエスタ、ご、ごめん……」
「いくらなんでも……貴族の方……それもミス・ヴァリエールと決闘するなんて……。
 勇気があるんですね、とは言えません。無謀が過ぎますわ」

 ますますもって居心地が悪くなっていく。

 決闘はルイズと才人の間に起こったいざこざであり、第三者であるシエスタには大した関わりはないはずだった。
 しかしここで、「君には関係ない」と言えるほど才人は恩知らずではない。
 ハルケギニアに来てから、平民の何人かと親しくなっているが、シエスタはその中でも一番親しい間柄だった。
 恋愛、という枠にはまだ当てはまってはいないが、友人であることは確かだった。

 シエスタが優しい気性をしており、知り合いが困っていたら放っておけないことも知っているために、尚更だ。
 才人はしばらく、ベッドの上から動けないまま、シエスタの追及を受け続けたのだった。

 半日も経てば、才人は自分の足で立てるようになった。
 痛みが引いたおかげで、上手く堪えれば歩くことも出来る。

 今才人が寝ていたのは、学園長が手配してくれた特別な部屋で、しばらくはそのままそこを使っていいことになっていたのだが、
 才人は体に走る痛みを我慢して、タバサの部屋へと戻ることにした。

 シエスタは体の腫れや傷が悪化するといけないから、と引き留めたが、才人はそれでも帰ると言って聞かなかった。
 もちろん帰ったところで、タバサがそれを歓迎してくれるとは思っていなかったが、
 それでも帰ろうという気が何故か沸いてきた。

「まだ寝ていた方が……」
「いや、大丈夫。ありがとう、シエスタ」
「……では、肩をお貸ししますわ」

 高価な魔法薬を使っていれば、今頃才人の傷も完治していただろう。
 しかし、その代金を支払う人は誰もいない。
 それこそ、ヴァリエール家のルイズであればポケットマネーから出すことが出来ていただろうが、
 ガリアから逃げ出し、潜伏しているように生きているタバサに出せるわけがない。

 今回のことにおいて、何故か学園長が一室を無料で提供してくれたり、看護役としてシエスタに休暇を与えてくれたりと
 一使い魔としては考えられない破格の待遇を与えてくれたが、流石にそこまではしなかった。

 才人はシエスタの肩を借り、学園の中をタバサの部屋を目指して歩いていった。
 途中、学園の生徒の貴族達とすれ違う。
 彼らの大部分はその場で立ち止まり、才人のことを見ながら、仲間となにやらか話している。
 ヴェストリの広場での決闘は、トリスティンでもほとんど見られない結果に終わったとして、学園中に広がっていた。

 平民が貴族に、それもその中でもかなり強力な部類に入るモノを打ち破って、引き分けた。
 当然、手加減もなされただろうし、勝負の終わった状況を冷静に考えてみれば、引き分けだったということすら疑問が残るだろう。
 しかし、噂好きの人間にとっては、真偽や詳細なんてものは二の次。
 鼻っ柱の高い、トライアングルクラスのメイジであるルイズが平民に勝てなかった、というゴシップさえあれば満足なのだ。

 ルイズは、決闘の後に部屋に閉じこもり、今でも部屋から出てくる気配はない。
 それもそのはず、個人的感情から発する復讐として、いわば復讐決闘を行ったのに、
 また杖を折られ、おまけに頬を叩かれて、泣かされたのだ。
 生まれてから初めて受けた屈辱にショックを受けて、寝こんで起きられなくなるのも無理はなかった。

 ルイズが出てこないならば、と、貴族達は先に出てきた才人を、噂の的にした。
 そのまま数日間は、噂好きの貴族達が廊下で才人とすれ違うたびに、
 その場でヴェストリの広場の決闘のことについて話すようになったのはある意味自然な流れだったといえる。

 ……シエスタというメイドに肩を貸してもらう、というかなり密着した状態が、男子のあらぬ嫉妬を買ってしまったのは余談だが。



[2178] 第二十五話『丸東』
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2009/11/14 23:10
 タバサは、才人が決闘をする前と同じく無口で人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。
 決闘したことに、責めることも褒めることもしない。
 才人はすこしがっかりしたことを否めなかったが、まあこんなところだろうな、とすぐに諦めることができた。

 タバサは変わらなかったが、才人の生活は以前よりも少し変わった生活をしていた。
 貴族達がしきりに決闘のときの噂をしている。
 それ故に、才人は学院内でも注目を集められていた。
 とはいえ、貴族が直接才人にコンタクトを取ろうとすることは一切ない。
 せいぜい、遠目で才人の様子をうかがい、仲間同士でこそこそと話をするだけだった。
 才人はそれに少しわずわらしさを感じていたが、元々貴族達と話す習慣はなかったし、嫌がらせなども何もなかったために直ぐに慣れることができた。

 では、何が変わったのか。

 貴族達は決闘の一件が原因で、自分たちの使い魔に「才人に近づかないように」と厳命したのだった。
 これが才人にとっては大きな生活の変化をもたらした。
 このトリステイン魔法学院という、メイジのための教育機関の中で、才人のやることは何もない。
 昼間は誰もいない中庭で、他の使い魔達と戯れることだけをしていた。
 他の使い魔達との関係は極めて良好で、決闘の前では強い結束で結ばれていた。

 使い魔にもそれぞれ土、火、水、風という系統があり、大概、同じ系統同士が集まってコミュニティを築くのだが、どれの系統にも当てはまらぬ才人は、違う系統同士の調停役となり、また友好の架け橋になっていたのだ。
 このトリステイン魔法学院創立以来、使い魔達の連合は大きく、結束の強いものになっていた。
 しかし、ほとんど全ての使い魔達が主人に才人との接触を禁じられたために、その連合も崩れ、今では例年通り系統別のコミュニティに戻っている。

 しばしば、物陰に隠れて寂しげな声を漏らしながら、じっと見つめてくる使い魔も多く見られるが、才人が近寄るとサッと逃げてしまう。

 才人の日常は、まず朝起きて、タバサの朝の準備をしてやり、タバサと食堂前で別れ、厨房の横で賄い食を食べ、そして再びタバサと合流し、タバサの教室まで送っていってやる。
 そこからはタバサの授業が終わるまで、ずっと中庭で他の使い魔達と戯れて、午後、授業が終わるとタバサを迎えに行き、一緒に部屋に戻る。
 夕食を食べるまでの間、再び中庭で使い魔達と戯れ、夕食を食べた後は、タバサが寝るまで、部屋で雑用をこなす。
 そのサイクル――タバサか他の使い魔達と遊ぶかで構成されている――のうち、タバサに関わらないところ全てがダメになってしまった。
 となると当然、タバサがいないときは暇で暇でしょうがないことになる。

 今まさに、才人は一人っきりでぼうっと空を見つめていたのだった。

「……退屈だなあ……」

 既に空に浮かぶ雲の数を数える遊びには飽きてしまっており、本格的にやることがなくなってしまった。
 芝生の上でごろごろと転がり、なんとかして退屈を紛らわせようとしているも、中々思いつくことはない。

 しょうがないから、校舎内を意味もなく徘徊してみようか、と思って立ち上がろうとしたとき、ちょうど厨房の方から大勢のメイドがやってくるのが見えた。
 時刻はそろそろ昼頃になり、貴族の昼食の時間となる。
 天気のいい日には、中庭にテーブルを出して、そこで食事を取るときがたまにある。
 今日がたまたまその日であり、使用人達は忙しそうにあくせくと働いていた。

 気持ちのいいほどの青空の下、白いテーブルクロスがあちらこちらでふわりと持ち上がり、テーブルの上に敷かれる。
 間髪置かずにワゴンの上から曇り一つないナイフやフォークが並べられ、ナプキンが添えられる。
 どのメイドも手慣れた様子で、てきぱきと作業し、滞りが一切無かった。
 もうそろそろ昼食時で、お腹を空かせた貴族達がぞろぞろ出てくる時分だ。

 才人はその姿を見て、ピン、と来るものがあった。
 メイド達は、どう見ても退屈そうには見えない。
 彼女らには日々の生活に関する様々な事柄で忙しいからだ。
 雲の数を数えていた才人とは、真逆に位置する存在だろう。
 才人が彼女らのことを羨ましく思っているのとは逆に、彼女らも毎日ごろごろしている才人のことを羨ましく思っていた。

「……そっか、働けばいいのか」

 才人の思いつきは実に単純で、メイド達のように何かしら仕事をすれば、今才人を悩ましている退屈が無くなるということだった。
 その上、賃金も貰えるのならば言うことは無しだ。
 なんで今までそんなことすら考えつかなかったんだろう、と自分の間抜けさ加減に少し溜息が漏れそうだったが、そんなことよりも厨房へと行くことが、優先順位としては上だった。
「ほほう、ここで働きたい、ってーのか?」

 まず最初に才人が当てにしたのは、顔見知りのコック長マルトーだった。
 トリステイン魔法学院で最も親しい使用人のシエスタは、今は中庭で昼食の準備をしている。
 流石にそれを邪魔するのは気が引けたので、そのまま厨房に来たわけだ。

 昼食の準備はもう既に終わっており、あとは配膳するのみにある。
 となれば、コック長の仕事は終わりで、夕食の準備まで少しの休憩の時間があった。

「でも、お前さん、使い魔なんじゃなかったか?」
「いえ、使い魔っていっても、実質やることは何にも無くて……。
 ただ時間を費やしているより、何か人の役に立つことをやった方がいいかな、と思って」

 ふむん、とマルトーは顎に手を当てて唸った。
 マルトーはトリステイン魔法学院のコック長であれど、貴族のことは、極一部の例外を除いて嫌いだった。
 その貴族の使い魔を雇っていいものか、と少し悩んだが、才人の主人がその極一部の例外であることをすぐに思い出した。

 マルトーは、自分の嫌いな貴族の中でもとびっきり嫌いな部類の相手と決闘し、それに打ち勝ったということは知らない。
 スクウェアクラスに手が届くとまで言われていたトライアングルクラスのメイジが平民に決闘で負けたということが広まったら、もはやトリステイン魔法学院の中だけの問題ではなくなってしまう。
 それこそ、女王に隠し子がいた、というレベルの一大センセーショナルになってもおかしくない。
 貴族と平民との差は、例え天と地がひっくり返ったとしても、越えられない、越えてはいけないという風に、トリスティン及び周辺諸国はできている。
 学園長であるオールド・オスマンは無意味な混乱を避けるべく、生徒及び才人と才人を看病したシエスタに箝口令を敷き、隠密にことを処理するようにしていた。

 もし、マルトーがそのことを知っていたら、今頃才人はマルトーの弟子に無理矢理させられていたところだろう。
 そういう意味では、才人は幸運だったのかも、しれない。

「よし、お前さん、俺のところに仕事を求めに来たっていうのなら当然厨房で働きたいってことだよな。
 何か料理の経験はあるのか?」
「いや、全然。カップラーメンにお湯を注ぐくらいしか」
「かっぷらーめん? よくわからんが、何もできないんなら、まずは皿洗いをやってもらう」
「はい、親方」

 マルトーは、才人の背中をバンバンと叩き、彼流の歓迎の意を表した。

「いいか、厨房で一番大切なのはコンビネーションだ。
 みんなで息を合わせ、一丸となって動かないといい料理はできねー。
 厨房で働くヤツらはみんな家族だ。お前もその一員になるんだからな、覚悟しとけよ!」
「は、はい、親方!」

 マルトーは豪快に腹の底から笑うと、才人を厨房へと案内した。
 こうして、才人はトリステイン魔法学院の厨房で働くことになったのだった。



[2178] 第二十六話『スシが変わる』
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2009/11/14 23:10
 才人が厨房で働くことになった日の夜のこと。
 貴族達の夕食が終わり、使用した後の大量の食器が洗い終えられたころに、マルトーがやってきた。
 初日の仕事がようやく終わり、まだ心地よいと感じられる疲労を持ったまま、才人は部屋に帰ろうとしているときに声を掛けられた。

「おい新入り、ちょっと来い」
「はい、なんですか、親方?」
「学園長が話したいんだとよ。……学園長室の場所は知ってるか?」
「ええ、知ってます」

 才人は雇用条件のことやらなにやら細かいことを教えられるのだろうな、と思った。
 マルトーを初め、厨房で働く先輩達に、皿の洗い方その他を指導して貰っていたものの、どこか大雑把だったことが否めなかった。
 実際、彼らから教えて貰ったことだけを知っていれば、厨房では困らないだろうが、それ以外のところは不足だった。
 例えば、給金がいくら、とか、一日何時間働き、一週間に何日働けばいいのか、とか、そういった労働条件のことは何一つ教えられなかった。
 賃金はともかく、労働時間については彼らにとって「必要なときに必要なだけ働く」というスタンスを取っており、地球の日本からやってきた才人との感覚のズレはある。

 才人にとっては、初めての労働を目の前にして手探りで進んでいるため、学園長の話はありがたいと思っていたが、マルトーはあまりいい顔をしていなかった。

「厨房を仕切っているのは俺だし、全部任されているはずだ。
 だから、一人新しく雇うだけで、なんでわざわざ学園長が……」

 職人であるからこそ譲れない誇りというものがある。
 この学院に呼ばれたときに、厨房のことには口を出さない、という契約がなされており、それを破られたかのようにマルトーは感じていた。
 とはいえ、流石にその不機嫌を何も知らない才人にぶつけるほど思慮を欠いているわけではない。
 顔は才人に向けず、声は小さくして、悟られないようにしていた。
 もっとも、それでも才人はその呟きを聞いてしまったのであるが。

「じゃ、これで俺はあがります。お疲れ様でした」
「おう、お疲れさん」

 しかし、それを聞いて聞かぬ振りをしてやるのが常識。
 才人は軽くマルトーに会釈すると、足早に学園長室のある塔へと向かっていった。

 学園長室には、当然ながら学園長がいた。
 立派な白髭を蓄え、緑色のローブを着たその姿は、まさに物語に出てくる老獪な魔法使い。
 ただ中身はというと、少し外見とは違っているのだが。

「失礼します。平賀才人です」
「うむ、入ってよろしい」

 マナー通り、ノックをして、名を告げてから才人は学園長室の中に入った。
 外はもう暗く、部屋の中には魔法の火が灯されたランプが光源として用いられていた。

 先日訪れたときにいた、妙齢の女性はいない。
 この時間帯でもあるので、きっと帰ったんだろうな、と才人は思った。

「なあに、そう時間は取らん。君を雇うにあたって、細かい規定を確認するだけじゃからのう」

 学園長、オールド・オスマンは才人を落ち着かせるような口調で言った。
 才人は学校の校長室にも似た雰囲気の学園長室に入るということに、少し緊張をしていたのだ。
 どことなく硬い動作で部屋に入ってきた才人を、学園長は慮った。

「それにしても、泣かせるのう。主人の学費を賄うために、使い魔が働くとはの」
「え?」
「……おや? 知らんかったのかの?
 ミス・タバサは、経済上の理由から学院の奨学金で授業を受けとるんじゃよ」
「そ、そうだったんですか? し、知らなかった……」

 オールド・オスマンは、ふむ、と頷いて、パイプを口に銜えた。
 パイプの先端から、白い煙がもわっと上がり、拡散し、闇の中に溶けるように消えた。

「知らんかったのか。あまり人に言うような話でもないしの。
 それに、ミス・タバサは、その……あまりおしゃべりな方ではないからのう」

 およそ家族以外で最も近しい存在である使い魔ならば、その事実は知っているはずだ、という背景があっての学園長の発言だった。
 主人との関係があまり良好ではない……というよりか一方的に疎遠状態にあることを、慰めているのだ。
 もっとも、才人がその慰めで感じたのは、みじめさ、だったのだが。

「まあ、学院側としては奨学金の返済は気長に待つつもりじゃしの。
 使い魔である君を働かせて、その賃金を補填に当てる、というようなことはせんよ」
「いや、払いますよ。んなこと、聞かされちゃったら、払うしかないじゃないですか」

 オールド・オスマンは、パイプを口から離した。
 才人を見る目が、ほんの少しだけ、オールド・オスマンを近くで見ている才人ですら気付かないほどわずかに鋭くなる。

「第一、あいつ、あんまり魔法が得意じゃないみたいだし、人付き合いの良さなんて求める方が間違ってるし。
 大人になっていい職業に就けるかどうかもわからない、というか多分就けそうにないから。
 今、俺がちょっとでも返しておかなきゃ、苦労するだろうし。
 奨学金っていうのは、どのくらいなんですか?」
「ん、ま、今具体的な額を教えろ、と言われても困るんじゃが……。
 全額、ということはないのう。
 入学金やらその他の手続き料は貰っておるし、普段の授業料も一部は納められておる。
 君が明日から働いたとしたなら、卒業時に残っている返済額は、それほど大きな額にはならないはずじゃ。
 元々、奨学金というのは経済的な事情から教育を受けられぬ子女を支援するために貸与するものじゃから、
 期間や金利はそれほど気にしなくとも問題はないぞい」
「そうですか」

 才人は安堵の息を漏らした。
 タバサの経済状態のことなど、今まで考えたことがなかったので、今回のことにはショックだった。
 貴族、といっているのだから、きっと金持ちなんだろうな、と甘く見ていたからかも知れない。
 それなのに、今まで遊びほうけていた自分のことを少し恥じ、
 また最初に想像したものよりかはほんの少しマシであることに少しだけ安心した。

「それにしても、君はいいのかの?
 いくら使い魔とはいえ、君には君の意思がある。
 主人のために厨房で働く、というのは中々辛いものじゃぞ?」
「いや、ま、結局のところ俺はタバサに保護されてなきゃ生きてけないし。
 お金を稼いだところで、何に使うか正直考えてなかったし、働くのだって暇だからっていう理由だったし。
 その、まあ、理由はないけど、多分、大丈夫じゃないかなーって思います」

 才人はどことなく照れくさそうに顔を指で掻いた。
 オールド・オスマンは、鷹揚に頷くと、それ以上のことは追及しなかった。

 その後、二人は細かい雇用条件を取り決め、両者納得する形に収束した。
 才人は再び礼をして退室し、今度こそ本当にタバサの部屋へと向かう。

 一人だけになったオールド・オスマンは、深く椅子に腰掛けて、パイプを吸った。

「ガンダールヴの少年は、思ったより優しいようじゃのう……」

 見返りが全く望めない、いわば無償の奉仕をする才人の気持ちは、決して才人の本心だけではないだろう。
 凶暴な幻獣が、使い魔となれば、主人に献身するようになるのと同じで、彼の左手に刻まれたルーンが、彼に従属を強いている。
 オールド・オスマンは、蹴られても必死に擦り寄る犬を見て抱く感情と同じものを才人の姿を見て感じていた。

 とはいえ、ルーンのせいだけではないだろう、とオールド・オスマンは思った。
 いや、そう『思いたかった』

「あれほど優しい性格の人間であれば、授かった強大な力を、決して誤らずに使うことができるじゃろう」

 オールド・オスマンはそう呟いた。
 それが間違っている予測であることを知る人間は、現在のハルケギニアには誰一人いなかった。

 ふかしたパイプの煙は、夜の闇に溶けるように消えていった。



[2178] 第二十七話 『題名ナシ』
Name: 気運◆97147a9f ID:7e5e0a46
Date: 2009/11/10 00:16
「おい、サイト。今日はもう上がっていいぞ」

 才人が学園の厨房で働くことになって数日が経った。
 初日から比べると割る皿の枚数が減り、他の使用人達との仲とも概ね良好な関係を築いている。

「はあ? まだ全部終わってませんけど」

 冷たい水の中から手を出し、ふうふうと息を吹きかけて暖めつつ、
 才人は積み上げられた皿を見て、声を掛けてきた先輩の皿洗いに目を向けた。

「明日はフリッグの舞踏会っていう宴会が開かれるんだよ。
 普段の数倍の皿洗いやらなんやらをやらされるから、新入りのお前じゃ体力が持つかどうかわからん。
 役に立たないのならまだしも、足を引っ張られちゃ困るから、今日はもう休め」

 そうですか、と才人は納得すると、ぱっぱと手を振り水を切り、渡された前掛けを外して持ち場を離れた。
 才人の教育係としてマルトーに指示された先輩は、ややキツイ言葉使いであるものの、面倒見がよかった。
 今回も、マルトーから才人を休ませるように、と指示をされていないのに、自主的に才人を休ませる判断を下している。

「あ、そうだ。お前、学生寮のとこで寝泊まりしてるんだろ?
 そこにあるサンドイッチの皿を届けてといてくれ」

 指さされた先のテーブルには、雑多な調理器具と積み上げられた皿の間にひっそりとサンドイッチの皿が置かれていた。
 流石はトリステイン魔法学院だからか、軽食であるのに挟まれた野菜は瑞々しく見え、手抜きは一切ない。

 才人は皿の端をつまみ、それをゆっくり持ち上げた。
 まだ才人は皿洗いしかさせてもらえず、給仕のように上手く運ぶ技術はない。
 配膳とて、皿の上げ下げにすら一定のマナーが存在し、馬鹿に出来るものではないのだ。

 とはいえ、才人の先輩も才人にその教養がないことなど百の承知。
 ちゃんと皿の上のモノを落とさず、形を崩さずに運べれば十分なものだった。

「じゃあ、お疲れ様です」

 声を掛けると、木霊のように厨房から言葉が返ってくる。
 才人は、軽く頭を下げ会釈し、手に持った皿の上のサンドイッチが崩れぬよう、ゆっくり歩き出した。






 才人が配膳するように指定された場所は、学生寮ではあったが、全く近いところではなかった。
 寝泊まりのしているタバサの部屋とは、塔が違う上、階も高い。
 二つ返事で了承してしまったものの、これならば皿を洗っていた方が楽だったんじゃないだろうか、と才人は内心溜息をついた。

 指示された部屋の前に到着すると、何も言わず、おもむろにドアをノックした。
 返答は、ない。

「あのー、すいませーん。厨房に頼まれて夜食運んできたんですけどー」

 声を掛けても、返答は無かった。
 ひょっとして部屋の中の人は、眠っているんじゃないだろうか、と才人は思った。
 果たして、この場合、中の人を起こしてでもサンドイッチを渡すべきか、それとも諦めて引き返した方がいいのか。
 心情的には、引き返した方が楽だが、本当にそれでいいのかわからなかった。
 皿だけをドアの前に置いておく、という選択肢はない。
 いくら掃除がなされているとはいえ、衛生的にあまりよろしくない。
 この世界には才人のいた世界とは違い、ラップなどという便利なものはない。
 埃が舞い上がれば、それが落ちるのは、サンドイッチの上なのだ。

「すいませーん、夜食、や、しょ、くーッ!」

 ノックと共に声をかけるが、これでも返事はない。
 かなり大きな音が立っているのに、まだ寝ているなんて、どんな神経の図太いヤツだよ、と才人は心の中で毒づきながら、それでも手と口は止めなかった。

 しばらくの間、そのノックは続けられ、才人の忍耐が切れそうになる直前に、一人の女性が現れた。

 才人が望んでいる部屋の隣のドアが、ゆっくりと開かれて、隙間からぬぅっと赤い髪の頭が出てきたのだ。

「んもう、うるさいわね。静かにしてよ」

 やや乱れた赤い髪をぽりぽり掻きながら、その顔は言った。
 しょぼしょぼとした目を擦り、焦点がはっきりした目で、才人を見るや否や、目は大きく見開かれた。
 ドアが大きく開かれて、ネグリジェの上にカーディガンを羽織っただけの女性が、廊下に出た。

「あなた、確か、あの、タバサの使い魔……どうしてこんなところにいるの?」
「あ、い、いつぞやはどーも」

 才人は突然目の前に現れた、『あられもない格好』という言葉がつく女性にどぎまぎしながら頭を下げた。
 才人にとって幸いなのかそうでないのか、彼女はかなり女性的な体つきをしていた。
 視線をどこへ持っていけばいいのかわからないのと、才人が健全で年頃の男性であることが、才人の挙動を不審にしていた。
 とはいえ、その女性……キュルケもそれを見て動じない。
 自分の肢体が異性にどのように見え、どのように魅力的なのか、おおよそ正確に自分で認めているからだ。

「んー……差し入れ? それはやっぱり罪の意識からなのかしら?」
「はい?」

 キュルケは才人の顔をまじまじと見つめてきた。
 才人の考えていることを表情から読み取ろうとしているのか、しげしげとぱっちりした目を向けてくる。

 少し経って、息をつくとキュルケは自分の髪の毛をかき揚げた。

「どうやら知らないみたいね。まあ……いいか、私が鍵を開けてあげるわ」
「はあ……でも、中の人寝てるんじゃ?」
「いえ、起きてるわ。あなたが来るまで、部屋の中で動いている物音がしたもの。
 ちょうどよかったわ、うるさいって何度言っても壁を殴るの止めなくて困っていたところなのよ」

 キュルケの言葉が理解できず、才人は首をかしげた。
 一体どういうことなのか聞く合間も置かず、キュルケは部屋の中から杖を持ってくると、呪文を唱え、軽く振った。
 小さい金属音が確かに耳に聞こえた。
 錠が降りた音だ。

「じゃ、あたしはそういうことで」

 間髪置かずにキュルケは自分の部屋の中に入り戸を閉めた。
 かと思うと、すぐさまほんの少しドアを開き、隙間から、才人に向かって口を開いた。

「そうそう、揉め事を起こすならくれぐれも外でやって頂戴ね。
 もう何日も徹夜に付き合わされて流石にうんざりしてるのよ」

 キュルケはそれだけを言うと、再びドアを閉めた。
 今度はまた開くことはなく、人の気配もドアから離れていくのが分かる。

 一体何だったんだ、もめ事って一体なんのことなんだ? と才人はぽかんと口を開けたまま考えた。
 何かよく理解できないまま……才人は考えるのを止めた。

「ま、どうでもいいわな。貴族の言うことなんて」

 才人は、魔法で痛めつけられたことがあり、学生達にさげすまれていることを知っているものの、極端な貴族嫌いではなかった。
 とはいえ、貴族という存在を好きであるというわけでもない。
 端的に言えば、どんなことをしてようが知ったこっちゃない、と。
 要するに無関心なのであった。

 もし彼の主人がタバサでないとしたら、今よりかはいささか貴族に対して好奇心を抱いたであろう。
 才人にとっての貴族との接点があの無口な少女のみなのだ。
 貴族という存在を評価するための情報源が、枯渇状態にあるのだから致し方ないことであった。

 才人が目の前のドアに手をかけて、ゆっくりと回す。
 かちゃりと音がなり、ドアが微かに開いた途端、部屋の中からどたどたと慌ただしい足音が響いてきた。

「あ、すいませーん。差し入れ……って、うおッ!」

 掴んでいたドアノブがぐいと引っ張られる。

「さ、差し入れですって! 夜食のサンドイッチを届けに来たんですッ!」

 才人も負けじとドアノブを引っ張った。
 ドアを閉めようとする力は存外にも弱く、あっさりとドアは開かれた。
 その際に、ドアノブにしがみついていた人が、反動で廊下に転げ出た。

「ああっ! す、すいません、いきなり閉めようとするもんだから、つい力をいれちゃって……って、うん?」

 廊下に転げた部屋の住人は、桃色の髪をした少女だった。
 ぼさぼさの髪に、よれよれの制服。
 背は低く、顔色もあまりよくない。

 どこか見たことのある風貌の彼女を見て、才人は記憶の糸を辿った。

「こ、この……ッ」
「あっ、あーッ! お、お前、なんでここに!?」

 ぎりぎりと歯を食いしばる音とともに出された少女の声が、才人の脳から一人の人物を引きずり出した。

 ルイズ・フランソワーズ・なんとかかんとか。
 数日前に決闘をし、ひっぱたいて泣かした相手だった。

 ルイズは顔を上げ、間髪入れずに才人を大声で罵った。

「何よ! 平民に負けた貴族を笑いに来たって言うの!?
 ふざけないでよ! あんたのせいで外も歩けないっていうのに、これ以上辱めるつもりなのッ!」

 才人は、ルイズの顔を見てぎょっとした。
 ルイズの目は泣きはらした後なのか真っ赤に充血し、瞼は腫れている。
 そのくせ、頬のラインが少し凹み、やつれているように見える。

 美しさや健康さが欠けているが故、その憤怒の表情は苛烈に感じられた。
 まさしく鬼気迫っている様子で、ルイズは才人の胸ぐらを掴み上げる。

「あんたのせいで……あんたのせいで、私、私はッ……!」



[2178] 第二十八話 『腰砕けポケモン』
Name: 気運◆97147a9f ID:abc21541
Date: 2009/11/10 00:17
 
 ルイズは数日の間、最低限の水しか口にせず、一日中部屋に籠もっていた。
 もとより若い女性であるがゆえに、握力も腕力もなく、更に弱っていたせいで才人の胸ぐらを掴みあげた腕はすぐに悲鳴を上げた。
 一時の激情によって感じなかった痛覚が蘇り、ルイズは痛みに顔をしかめる。
 白魚のように細く綺麗な指が、自分自身の込めた力によって引きつっていた。
 
 掴んでいた才人の服を離し、思い出したかのように痛みを感じる指をさする。
 体と同じように衰弱しきっていた心が再びうずき、ルイズは自分の指を庇いながら、目から涙を流した。
 うっうっ、と嗚咽を漏らし、その場で泣き始める。
 
 才人は、ルイズの様を見て後悔の念に襲われた。
 才人にとって、ルイズは高慢ちきな女、という認識を持っていた。
 今目の前にいる彼女は、その認識から大きく外れている。
 激変といってもいいほどの変化をもたらしたのは、考えるまでもなく自分だった。
 
 彼女を打ちのめした決闘は、自分の矜持を守るためのものだった。
 決闘を始める原因もそうだったし、命の取り合いになりかねない展開に発展したこともまた同じ理由からだった。
 
 そのときは、確かに男としてのプライドは、意地の張り合いだったことも確かだが、命よりも大切なものだと思っていた。
 だが、今、しおれた花のように泣く女の子を見ると、自分のプライドなんてものは取るに足らないくだらないものに見えてきた。
 
「もう、帰ってよ……」
 
 嗚咽に混じったかすれた声で、ルイズは言った。
 親の期待が過大であったにもかかわらず、自分の才能と努力でもってそれに応えてきたルイズにとって、先の決闘はあまりにも大きすぎる挫折だった。
 なまじ今まで大きな失敗をしてこなかったせいで、自分の失態の受け止め方を知らなかったのだ。
 精神の太くて固い主柱が折れ、未だ自分で足で立つ方法を思い出せていなかった。
 
 あるいは、彼女の家族が……優しい姉だけでなく、厳しい姉や母、そしてなんだかんだいって甘い父がいれば、立ち方を教えて貰えただろう。
 しかし、ここはトリステイン魔法学院。
 ヴァリエール領ではなく、また同時にルイズには自分の家族ほど親しい友人はいなかった。
 
「いや……その、ごめん」
 
 才人は全般的に思慮が足らなかった。
 とはいえ、彼に今まで泣いている女の子の対処などした経験などなく、無理はないものだった。
 力なくつぶやいた謝罪の言葉は、ルイズの慰めになどならず、僅かに残るプライドを傷つけるものだった。
 
 哀れに思われている、ということが、ルイズの頭に血を上らせる。
 思い出したかのような一時的な怒りの火がルイズの体に灯り、拳を握らせた。
 
 ガッ、とルイズの拳が才人の頬を打った。
 そして、それと引き替えに、ルイズは床に膝をついた。
 
 数日間、絶食状態にあったルイズの体力は、ほとんど残っていなかった。
 動いていなかったせいで意識していなかった体力の衰えは、拳をがむしゃらに振るったことの反動をもたらした。
 一旦頭に登った血が、不意に下に落ちる感覚に襲われ、目の前が霞み、足が立たなくなった。
 
「あ、おい、ちょっと!」
 
 才人は渇いたタオルが頬に当たったかのような感触を味わった後、その場で崩れ落ちそうになったルイズの体を支えた。
 流石に意識は保っていたものの、ルイズの手足は力なく垂れている。
 
 才人はもたれかかってくるルイズの体を押し返すわけにもいかず、その場で硬直した。
 どう対処すべきか、ということを頭の中で激しく考えた。
 
 やはり、彼女を支え、どうにかしてやらなければならない、と考えるのだが、その『どうにか』という部分が具体的に思い浮かんでこない。
 かといって、このまま放っておくことなど論外。
 ルイズ自体はそのまま動こうとしない……実際にはルイズ自身も未だ消えない目眩のせいで、立ち上がるにも立ち上がれなかった。
 
 才人は、意味もなく辺りを見回すと、手に持ったままのサンドイッチの皿が目に入った。
 この皿はどうしようか、と、やや現実逃避の思考に走ったとき、ルイズのお腹が、きゅるるる、と鳴った。
 
 才人の顔に思わず苦笑が浮かんだが、それをルイズに見られるとルイズが怒り出すことが明白だったので、すぐに笑みを消した。
 
 
 
 
 
 ルイズは才人に運ばれて、自室のベッドに横たわらせられた。
 才人の傍らには、騒ぎを聞きつけてやってきた隣室のキュルケが立っており、気怠そうな表情を浮かべていた。
 
「まったく呆れた。何日も飲まず食わずで引きこもっていたなんてね」
 
 キュルケはちらと部屋の隅を見た。
 ルイズが部屋に引きこもっていたとき、何度か給仕によって部屋に運ばれた食事が部屋の隅に置かれている。
 どれもこれも手つかずで埃を被り、一部のものはわずかに異臭を放っていた。
 
「うるさいわね。出て行きなさいよ」
 
 未だ栄養が足りないルイズは力なく言った。
 いつもの覇気はなく、目の下には隈が浮いている。
 
「私だってあんたが飢え死にしようが何しようが別にどうとも思わないわ。
 だけど、私の隣室で死ぬのは止めて頂戴な。死体の臭いが染みついたら嫌だしね」
 
 キュルケはそういいつつもそっと懐から小瓶を取り出した。
 中には青みがかった液体が入っており、ランプの光に照らされてきらきらと光った。
 
「……いらないわよ」
「何日も食べていないんなら飲みなさい。
 体力を回復させないと、柔らかいものでも食べるのは辛いわよ」
 
 差し出しされた小瓶を、ルイズは見つめるだけで受け取らない。
 キュルケは目を閉じ、小さなため息を吐いた。
 
「どうしても飲まないっていうんなら、そこの彼にあなたを押さえつけさせて無理矢理飲ませるわよ。
 それでもいいの?」
「……」
 
 才人はキュルケにちらと目を向けられ、少し戸惑ったが、すぐに立ち直した。
 
 ルイズは流石にそれは嫌なのか、再び差し出された小瓶を受け取った。
 やせ細った指で小瓶の蓋を取り、ぐい、と傾けた。
 口の中が乾燥し、うまく唇を動かせなかったせいか、小瓶の中の液体が少しこぼれ落ちたが、ルイズはむせながらも大部分を呑み込んだ。
 
「じゃ、私は眠らせて貰うわ。
 誰かさんのおかげで、ここ最近ぐっすり眠れていないもの」
 
 キュルケは小瓶を受け取ると、そのままあくびをし、ドアを開いて部屋から出た。
 
「あ、じゃ、俺も……」
 
 才人がそれに続こうとすると、キュルケはそっと才人の胸を押した。
 あくびをしたことで目尻に涙を浮かばせながら、キュルケは魅惑的な笑みを見せ、みずみずしい唇でそっとつぶやいた。
 
「ほら、男を見せてあげなさいよ」
 
 突然のことに泡を食った才人を尻目に、キュルケはそのままドアを閉じた。
 
 部屋には、ぽつんと突っ立ったままの才人と、さっきとはうってかわってサンドイッチをがっついて頬張るルイズだけが残された。
 
 



[2178] 第二十九話『至福の1セント』
Name: 気運◆97147a9f ID:abc21541
Date: 2009/11/14 23:15
 
 とりあえず才人は、ルイズがサンドイッチを貪り終わるのを待った。
 キュルケには、ああ言われたものの、才人にはこの局面をうまく切り抜ける方法が全く思い浮かばなかった。
 ルイズがここまでボロボロになった原因を作ったことは悪く思っているが、ではどうやって償いをすればいいのか、わからなかった。
 
 一人黙々と、小さい口にリスのように頬張っているルイズを見て、この状況をどう乗り切るかを考えた。
 女子と話した数少ない経験を元に、思考能力を総動員する。
 
 そのうち、そもそも、何故、ルイズがこんな状態になっているのかを知らないことに気が付いた。
 決闘に勝ったことが、このような状態に追い込んでしまった原因であるとまでは推測がついたが、それにしてはショックを受けすぎだと思えたのだ。
 
 才人は、あの決闘のことを思い出そうとした。
 あの決闘のときの記憶は、まるで夢を見ていたかのような……自分が自分でないかのような不思議な感覚に包まれていた。
 絶対に負けられない、という感情はもちろんあったが、それに加えて自身の闘争心が煽られるようなものがあった。
 
「……で、あんたはいつまでいるわけ?」
 
 不意に声を掛けられたことに驚き、才人は思考を打ち切った。
 目の前には、空の皿を抱えたルイズが睨んできていた。
 一気に血色がよくなったせいか、才人はルイズの眼光の鋭さにうっと言葉を詰まらせ、後ずさりした。
 
「い、いや、なんだ、その……」
 
 結局何も思い浮かばないまま、ルイズが食事を終えてしまった。
 才人はいっそこのまま言葉通り、部屋を出て帰ってしまおうか、と思ったが、キュルケの言葉を思い出した。
 
 男を見せる、とルイズに気取られないように口の中だけで小さくつぶやいた。
 頭にわずかに血が昇っていくのを感じ、軽く深呼吸をして気分を落ち着かせる。
 
「何か俺に出来ることはないか? 出来ることなら、何でもやってやる」
 
 頭に昇った血がそのまま顔の皮膚に滾り、熱くなるのを感じた。
 
 極めて場違いなことを言っている自覚はある。
 だが、才人の思いついたことと、キュルケの言う『男を見せる』というものの中間点がこれだった。
 
 謝る、という行為が間違った行為である、ということは才人にも流石に察せられた。
 ごめん、と言ったとしても、何が? と言われてしまうと答えられない。
 答えられないのは単純に知らないからなのだが、理由もなく謝ることを選ばなかった。
 
 では、謝罪の言葉以外で何が目の前の少女の害してしまった気分を取り戻すことが出来るのか、と咄嗟に考えた結果だった。
 
「……なんで私があんたなんかに何かしてもらわなきゃならないのよ」
 
 ルイズはじと目で才人を見た。
 腹くちくなったことで落ち着いたのか、出会い頭のように才人にくってかかることはしなかった。
 ただし悪意は変わらず持ちあわせており、才人を睨む目は力強さがこもっている。
 
「えーっと、それは、まあ……その……」
 
 決闘で負かしてしまったから、というのはこの場で言うのは相応しくないとわかった。
 頬をひっぱたいてしまったから、というのは相応しくないどころか喧嘩を売っていることに等しいことだろうこともわかった。
 
「ほ、ほら、以前にシルフィードに乗せてもらっただろ? あれのお詫び、というかお礼というか……」
 
 流石に苦しすぎることに、才人は引きつった笑いを見せた。
 ルイズはそれを見て怒ることはせず、膝を引き寄せて、目をそらした。
 
「つくづく自分が嫌になるわ。平民なんかに同情されて……」
 
 ルイズは少し視線を動かした。
 才人が平民という言葉に少し反応し、すぐに取り繕ったのを見て、また目をそらす。
 
 二人の間に微妙な雰囲気がただよったまま、沈黙が続く。
 
 
 
 外の森の鳥の鳴き声しか聞こえなくなった部屋に、不意に、くぅー、という音が響いた。
 
「……お、思ったより元気そうだな」
 
 才人はフォローのつもりで言ったのだが、逆効果だった。
 ルイズは顔を真っ赤にして、近くにあった枕を引き寄せ、才人めがけて投擲した。
 もちろん、枕は羽毛を詰め込んだ柔らかいものだったので、才人は特に避けも防ぎもしなかったが、ぼふっ、と音を立てて落ちた。
 
「こっ、これはキュルケの薬のせいなの!
 平民なんかが知るわけないでしょうけど、あの薬は衰えていた内臓の働きを一時的に活発にさせるの!
 消化器官が働くのと同時に体力も少し向上するから、絶食後、食事がうまくできないときに飲むのよ!」
「ああ、だから、お腹が鳴ったのか」
「うっ、うるさいうるさいうるさいっ! わ、忘れなさい!」
 
 ルイズのお腹はルイズの意を反して、きゅるきゅると鳴り続ける。
 うー、と唸っていたルイズだが、お腹の音が響くたびに、顔の赤さをより濃くしていく。
 
 才人の指摘通り、ルイズの弱っていた胃は何か新しいものを求めていた。
 数時間前までには、あまりに強い感情によってさほど感じていなかった飢えが、ルイズを強く苛んだ。
 
「まだまだ足りないってんなら、厨房に来いよ。
 俺の知り合い……っていうか上司がそこにいるから、頼んで何か出してもらえると思うし」
「あんたの施しなんていらないわよ」
 
 ルイズは強く啖呵を切ってみたが、本心では胸元まで『何か食べたい』という言葉がこみ上げていた。
 
「……」
「……」
 
 再び二人の間に沈黙が走る。
 だが、今回の沈黙は才人にとって有利な沈黙だった。
 ニヤニヤ顔を隠さなければならないが、じっと待っていれば向こうが折れてくれることを知っているからだ。
 
「……わ、わかったわよ」
「そうか。じゃあ、大盛りにしてくれるように頼むな」
「か、勘違いしないでよねっ! あ、あんたがどうしてもって言うから、し、仕方なく行ってあげるんだからねっ!」
「はいはい、わかったよ」
 
 才人は部屋のタンスを開き、着替えをさっさと取り出す。
 ルイズは才人の勝手な振る舞いに抗議の声をあげようとしたが、ベッドから立ち上がったとき、目眩に襲われた。
 薬を飲んだとはいえまだまだ体は弱っており、立ち眩みをしたところを、気づいた才人に優しく受け止められた。
 
 そのまま、まるでお人形のように着替えをさせられた。
 大貴族のお嬢様として生まれ育ったさがか、体が自然と動いて着替えさせられてしまう。
 
 
 
 着替えが終わって、部屋を出る前に、ルイズは才人に言った。
 
「い、いい。今日のことは誰にも言わないでよ。
 ヴァリエール家の娘が平民なんかの力を借りただなんて、絶対に言いふらさないの!」
「ああ、わかってるよ。それより、目眩は大丈夫か? 真っ直ぐ歩ける?」
 
 才人はルイズの酷い物言いには怒りを覚えなくなっていた。
 先ほどの滑稽な姿を見たせいか、それほど気にすることはなくなっていた。
 
 食堂に移動中、時折足下が怪しくなるルイズを支えては、いらないって言っているでしょ、と返してくることを軽くスルーできるほどの精神的余裕があった。
 



[2178] 第三十話『指をさして笑うな』
Name: 気運◆97147a9f ID:03debe6e
Date: 2009/11/30 07:49
 第八話 『指をさして笑うな』

 ルイズは食堂に入る前と、同じくらい足をふらつかせて、食堂を出た。
 来たときと同じように、才人が傍らで立って、足下のおぼつかないルイズを支えている。

「まあ……確かに遠慮無く食え、って言ったけどなあ……」

 少し呆れ顔を浮かべて才人は言った。
 ルイズは一瞬才人を睨んだが、口を紡いでそっぽを向いた。

 食べ過ぎた、というところはルイズにも否定できないことだった。
 出されたのは平民の賄い食……しかもその残り物、という平時であれば絶対に手をつけないものだったが、スープから沸き立つ匂いには勝てなかった。
 気が付けば椀にはスープの一滴も残っておらず、それでも尚、三大欲求のうちの一つは鳴りを潜めていなかった。

 ルイズが何も言わぬ前に、才人が他の人間に頼み込んでいたので、五分も経たずにおかわりが出来ていた。
 才人から差し出されたそれを、再びお腹に納めた。
 それを何度か繰り返したことは、ルイズの頭の中にまだきちんとした記憶として残っている。

「……」

 ルイズはかすかに顔の温度が上がるのを感じながらも、何も言わなかった。
 彼女を知る人間であれば、今のルイズを珍しく見ていただろう。
 ルイズがこういったからかいを投げつけられて……それも自分よりも身分の低い平民に……激昂していないのだから。
 才女でありつつも、自我が強く、他者に対してやや攻撃的な性格であることは、学園内外でも有名だった。

 他者からはそういった性格で評されるルイズであるが、決して恩知らずというわけではない。
 自分自身で何でも出来るという気負いがあり、実際そうであるため今まで表には出ることはなかったが、恩を受けたら仇で返してはいけない、と優しい姉はもちろん、厳しい母と姉から教育されている。
 傷つきはしたけれども、未だ肥大化している凝り固まったプライドを持ちながらも、その教育はルイズの中で根付いている。

 才人の印象はルイズの中で最悪の部類に属するものであるが、才人に受けた恩を無視することはできなかった。

 才人と一緒に食堂に来たとき、料理人達は皆、仕事を終え、自分の寝床に帰ろうとしていた。
 そこを才人が頭を下げて、冷めた賄い食の残りに火をいれてもらったのだ。

 平民の料理人達が、最初に自分に向けた目には好印象というものが含まれていないことを、ルイズは感じ取った。
 職人気質というべき彼らは、自分らの生まれを根拠に差別をしてくる貴族を好んでいなかった。
 貴族の中にも性格のいいものもいる、ということを知っているが、ルイズはその中に含まれていなかった。
 むしろ、飛び抜けて嫌われている部類に属していた。
 直接非難することはなかったが、露骨な視線を投げかけてきた。
 普段のルイズであれば腹を立てるのだが、そのときは立つ腹が空きっ腹で、黙っていることしかできなかった。

 黙るルイズにかわって才人は、頭を下げた。
 「お願いしますよ、先輩」と、偉ぶるところなく、料理人達に頼み込んだ。

 厨房で働く人達は、才人の境遇に同情を抱いていた。
 長であるマルトーと同じように、気っ風が良い人間が多かった。
 東方から無理矢理召喚され、その境遇に不満を言うこともなく、何もしてくれない主人に対して尚、労働して奨学金を返済しようとしている。
 その健気さが、彼に対しての好印象になっていた。

 仕事は真面目にこなすし、生意気なことをいうこともない。
 多少不器用な面はあるものの、少なくとも「悪いヤツじゃない」という評価が付けられていた。

 気に入らない貴族が職務以上のことをしてくれ、と頼んできても、一昨日きやがれ、と遠回しに言える料理人達だが、真面目な新人に頼まれたら断ることはできない、と引き受けた。
 彼の面子を守るためにも、賄い食の残りを暖めるだけでなく、少し手を加えていた。

 そういった裏事情を知らずとも、ルイズは才人が自分のためにしたことを理解していた。
 少なくとも、飢餓感に苛まれたまま、翌朝まで耐えなければならない、ということを回避できた。

 恩には恩でもって報いる。
 ルイズは感謝の言葉を述べようとしたが、プライドが邪魔をし続けていた。
 そもそも、才人が自分との決闘ですぐに降参しなかったことが悪い、という思考が一瞬だけ脳をかすめたが、流石にそれは口に出さなかった。

 そんなこんなで感謝の台詞が口から出ることはなく、食堂を出た。

「あんた、名前はなんて言うの?」
「才人だよ。平賀才人」
「ふーん、変な名前ね」

 才人は苦笑した。
 ルイズは、以前も同じ問いをしており、そのときも全く同じことを言っていたからだ。
 自分の名前を忘れられていたことに関しては、まあ、それもしょうがないか、と怒らずにいた。

 ルイズの弱わっている面を垣間見たせいか、それほどルイズに腹を立てることはなくなっていた。
 決闘前に見せていた傲慢ぶりは鳴りを潜め、今には少し気が強いだけの女の子に見えている。

 才人はいつも何も言わないタバサの世話をしているせいか、ルイズもまた同じように彼にとっての妹のような存在に見えていた。



 ルイズは不意に立ち止まった。
 学園の中庭……食堂と寮との間の草むらにはまだまだ冷たい夜風が吹いている。

 ルイズは悩みの末に、才人の恩に報いることにした。
 「ありがとう」の一言を言うために彼女にしては相当苦悩したが、心の深い部分に存在する母親達の言葉は消すことができなかった。

 ルイズは才人の上着の肘の部分を引っ張って、歩く才人を止めた。
 なんだ? と聞いてくる才人の、月に照らされた顔を見ると、思わず顔が赤らむのを止められない。
 ただ礼を言うだけなのに、こんなに精神力を使うのか、とルイズは赤い顔を才人に見られないようにと伏せた。

 一方才人は、振り返ったはいいものの、その視線をルイズとは反対に上に上げていた。
 才人の顔が驚きに染まっているのを、ルイズは気づかない。

「そ、その……私のために頼んでくれたことは、か、感謝しているわ」

 ぶんぶん、と大きなものが空気を切っている音を、ルイズは気づかない。

「あんたのことなんか、大っ嫌いだけど……そのことについてはお礼を言うわ」
「あ、あ、あ……」

 なんとなく、辺りに取り巻く違和感を、ルイズは感じることができたが、顔を上げる勇気はなかった。

「あ、ありが……」

 とう、の最後の二文字は、地面を揺らすような轟音でかき消された。
 あまりにも大きな音に驚き、振り返ってみると、そこには巨大な土人形が立っていた。

「ご、ゴーレム!? なんで、こんなところに?」
「おい、逃げるぞっ!」

 土人形は拳を学校の建物に突き立てていた。
 止まっていたその動きが再開すると、土の腕が引かれ、再び建物に向けて突き立てられる。

 才人はルイズの腕を強く引き、ゴーレムから逃げるように走る。
 あまりに強くひっぱったせいで、ルイズが、痛い痛い、というのもお構いなしにだ。

 ゴーレムが殴っている建物とは反対の建物の陰に隠れる。
 ルイズは、痛む手をさすりながら、建物の陰からひょっこり顔を出して、ゴーレムを見た。

「な、なんなんだありゃあ? この学院じゃ、あんなのが夜に闊歩してんのか?」
「そんなわけないじゃない……あのゴーレムはきっと賊よ。
 あの建物は……教室はないけど、確か……宝物庫があったはず」

 ルイズ達が見ている間にも、ゴーレムは何度も何度も建物の同じ部分を殴り続けていた。
 ゴーレムを動かしているメイジも、恐らくは音を消すサイレンスの魔法を用いているのだろうが、それをもってしても消しきれない音や振動が二人に伝わってくる。

「宝物庫には魔法が掛けられていて、侵入できないから、無理矢理壁を壊して盗もうとしているんだわ」
「でも、そんなことしたら、中のものもメチャクチャにならないか?」
「そうだとしても欲しいものがあるんじゃない? とにかく、なんとかしないと……」

 才人はルイズを押しのけて、ゴーレムを見た。
 以前の経験を生かし、ポケットの中にいれておいたスリングを取り出す。
 左手のルーンが微かに淡く光り始める。

 それにともない、才人は類い希な暗視能力を得、視力が大幅に向上した。

「肩……あのゴーレムの左肩に、誰か乗っているな」
「本当? ……ここからじゃ、遠いし、暗くてよく見えないじゃない」
「ほれ、これを持ってみろ」

 才人はルイズにスリングを手渡した。
 暗いので何を渡されたかわからなかったが、才人に勧められるがままに、何かを持ったまま、再びゴーレムを見た。

「……別に何もかわらないけど?」
「あれ? おかしいな。これを持つと、目がよくなるはずなんだが……」
「何なの、これ? 紐?」
「いや、スリング。
 ただ、学園長がくれたものだから、持つと目がよくなったりする魔法のスリングのはずなんだけど……」
「使い方は?」
「ただ持つだけだよ」

 スリングというものが何か知らないルイズは、半信半疑でまたゴーレムを見た。

「……別に何もかわらないけど」
「おっかしいなあ。俺が持つと、本当に目がよくなるのに」
「まあ、いいわ。とにかく左肩に賊がいるのね。
 貴族がひしめくこの学園に襲ってくるなんて、命知らずもいいところね。私が捕まえてやるわ」
「お、おい、やめとけって。あんなでっかいの、どうするつもりだよ」
「シルフィードで攪乱して、左肩のメイジを撃ち落とせば問題ないわ」
「やめとけよ、怪我をしたら大変だし、下手すると死んじまうぞ」
「だからって、見逃すわけにはいかないでしょう」

 ルイズは意識を集中させて、シルフィードを呼んだ。
 使い魔のルーンによって、主人と使い魔を繋ぐ特別なパイプを通じて、こちらに来るように、とメッセージを送る。

 ……が。

「……駄目ね、あの子、寝てるわ」
「は?」
「今度から、食事抜きのお仕置きをしないと……」

 そこまで言ってルイズははたと言葉を止めた。
 自分がさっきまで苛まれていた飢餓感は、辛く耐えられるようなものではなかった。
 いくらお仕置きだとはいえ、食事抜きの罰を与えるのは、やっぱり酷いかもしれない、とルイズは考えを改めた。



 そんなこんなをしているうちに、宝物庫をひたすら殴り続けるゴーレムの周りに、人が集まっていた。
 明日はフリッグの舞踏会ということもあり、平時よりもずっと来るのが遅かったが、それでも色んな人が轟音を聞きつけてやってきた。

 賊だ! などという声もあり、ゴーレムは殴り続けることを止めて、突然学園の外へと向かって歩き始めた。
 追いかけるものもいたが、ゴーレムを操るメイジはその夜誰にも捕まることなく、消えてしまった。

 宝物庫の壁は、ゴーレムの度重なる攻撃によって、ヒビこそ入っているものの、破られることはなかった。
 翌日、学園内から有志を募り、ゴーレムを操るメイジ……恐らくは王国を騒がしている盗賊『土くれのフーケ』の捜索隊が結成された。




[2178] 第三十一話『虹色コンピテントセル』
Name: 気運◆97147a9f ID:a06bd7d8
Date: 2010/01/05 14:24
 タバサはいつもと違った夢を見た。

 彼女が幼少時のときからずっと見続けてきた夢……それは母親のはらわたが吹き飛ぶものだった。
 過去に実際にみた光景が、今でもそのときの空気の味すらも思い出せるほど鮮明に、睡眠を取るたびに再生される。
 始めのころこそ、僅かに残っていた心の残滓が悲鳴を上げていたが、今ではもはや何も感じない。
 現実のそれと同じように、無味乾燥とした、感情が発生しないものになっていた。
 いや、タバサの心そのものが、衝撃的な夢に対して何のリアクションもしないものになっていた。
 タバサがこの夢をみるとき、稀にこぼす寝言と涙にもはや意味はない。
 心がまだあったときの名残。
 条件反射とほとんど変わらないものだった。

 心を失ったものは、心を失ったことに悲しまない。
 タバサも自分の心が死んでいることに悲しみを覚えず、寝ているときも起きているときも全く変化しなくなってしまっていた。
 ただ、意味も対象もない怒りや憎しみが、陸に揚げられた魚のようにのたうち回っていた。



 しかし、昨夜見た夢はそれとは違った。
 その夢はタバサの動きを忘れた心が、久しぶりの幸せを感じさせた。
 タバサの使い魔がいつものように傍らに眠っていなかったので、タバサの笑顔や幸せそうな声は誰にも聞かれなかった。

 見た夢は、タバサの過去を起因としたものではなかった。
 タバサの見たことのない光景、タバサの聞いたことのない音、タバサの感じたことのない感覚、タバサの味わったことのない味、タバサの知らない感情……ありとあらゆるタバサではないもので構築された夢だった。

 明らかな異物であるにもかかわらず、タバサはそれら全てを楽しんだ。
 むしろ、それら全てがタバサを楽しませた。
 タバサが密かに抱いている願望が実現したかのような夢だった。

 見知らぬ光景、見知らぬ空。
 視界は何故か緋色に染まり、様々な要素が混じり合った香りが鼻を衝く。
 やけに強い風が肌を叩き、また、その風が起こす金切り音が耳に響く。

 何故、このような夢を見るのかはタバサにはわからない。
 ただし、そこで見た夢は、タバサを大いに喜ばせた。







「悪い、帰ってきて早々だけど、今日はちょっと早く出る」

 タバサは目覚めた後にやってきた男に顔を向けなかった。
 今朝見た夢の余韻に浸って、口元が歪みそうになっているところを見られたくない、という感情に囚われた。
 何故、見られたくないのかはタバサ自身にもわからなかった。
 ただ、恥ずかしいから、という常人が抱く感情が原因ではないことだけは確かだった。
 男はいつもと同じようにたらいに水を張り、くしを持って、タバサの髪を整え始めた。

 男は、昨晩、部屋に戻ることはなかった。
 タバサの髪に慣れた手つきで櫛を通している最中に、何度もあくびをし、眠そうに目を擦る。
 タバサの頭に櫛の歯が強く当たらないように調節はしていたが、それでも何度かタバサは頭部に痛みを感じた。

「お前も知っているかもしれないけど、昨日、土くれのフーケって盗賊が学園の宝物庫を襲ったんだってよ。
 フーケは、人が集まりすぎたから何も盗らずに逃げた。
 そんで、学園側が有志を募って、フーケの捜索をすることになったらしい」

 男は眠気を取り払うためにか、一人で会話を始めた。

「たまたま、フーケってやつのゴーレムを見かけたんだよ。
 そんとき、ゴーレムの肩に乗っているやつを見たから、昨日の夜から色んな人に同じ話を何度もさせられて……」

 男は、大きく口を開けて、あくびをした。
 櫛を動かす手を一旦止めて、目尻にこぼれそうになっていた涙を拭く。
 再び、櫛をタバサの髪に入れるのと同時に、再びしゃべり始める。

「暗くてあんまり見えなかった、って言ってるのに、フーケはどんな顔をしていたって何度も聞かれたんだぜ。
 そんなことばっかりしてて、結局、朝になっちまった。
 おかげで、昨日は一睡も出来なかった。
 今日は今日で、フーケ捜索の手伝いはさせられるし……」

 男は、そこまで言うと、言葉を止めた。

「悪い、愚痴なんて聞かせちまったな」

 男は最後にそういうと、黙々とタバサの髪を解かした。

 もちろん、タバサはさきほどまでの言葉を全て聞いていなかった。
 タバサは、男に髪をとかされている最中も、ただひたすらに昨夜の夢のことを思い出して、余韻に浸っているだけだった。
 ちょうど、男から顔を見られることのない位置であったため、控えめに口元をゆがめて、笑みを作っていた。

 男は髪を解かし終わり、ふと、水が満ちたたらいを見た。
 僅かに波立つたらいの水に、タバサの表情がちらりと映っていた。
 男がタバサの表情に気づいたように、タバサもまた男に見られていることに気が付いた。
 男はさっとタバサの顔を見、タバサはそれよりも早くさっと自分の顔に浮かぶ感情を消した。

「……」
「……」

 男は何も言わず、タバサもまた何も言わなかった。
 ただ、男の手つきが、先ほどの眠気に苛まれながらのものよりも、遙かに軽くなっていた。

 やがて、男はタバサの身支度を終えると、鼻歌を歌いながら、部屋を出た。
 一人になったタバサは本棚から本を取り出し、おもむろに開いた。

 が、タバサは本を読むことはできなかった。
 いつもタバサは本を開いて、ページを眺めているだけで、読んではいなかったが、今日は殊更読むことが出来なかった。
 集中力がことごとく散り散りになり、本を持っているだけ、ということに耐えられなくなった。
 そわそわと落ち着かずに、部屋のベッドに座って、時間を潰していた。

 しばらくすると、男がテーブルと椅子を持って帰ってきた。
 男の後ろにはメイドがお盆を持って立っており、男が持ってきたテーブルの上にお盆を乗せた。
 お盆の上を見ると、簡素なサンドイッチとサラダ、更には冷たそうな水が注がれたコップが置かれていた。

「フーケの騒動があったから、今日の朝飯は食堂じゃなくて各自部屋で取ることになったんだってさ。
 この部屋、テーブルも椅子もないから、借りてきた」

 男の声はいつもよりも浮いた感じになっていた。
 顔見知りなのか、メイドに礼を言い、一言二言言葉を交わしていた。

 メイドが出て行くと、男とタバサは食事を開始した。
 男の機嫌は終始良く、自分の皿のサンドイッチを気前よくタバサに振る舞った。
 タバサは何も言わず、ただ与えられたものを食べた。

「あ、そうそう、俺、この後、少し出かけてくるから」

 食事も終わり、男は皿を重ねながら言った。

「ちょっと、変なヤツに頼み事されてさ。フーケ捜索を手伝わされるんだ。
 まあ、手伝わされるっていっても、そんな大したことはやらないんだけどな。
 どうせ今日は皿洗いの仕事はないし、ちょっとした借りみたいなのもあるし、付き合わなきゃならなくなった」

 男は手を止めて、椅子に座るタバサの前に立った。
 ぽんぽん、と手をタバサの頭に乗せて、撫でた。

 男の手で整えられた毛が、再び崩れたが、男は気づかない。
 もちろん、タバサ本人も気にしない。

「まず無いと思うけど、学園にフーケが戻ってくることもあるかもしれないからな。
 俺が出て行ったら、きちんと部屋の鍵を閉めること。
 出来るだけ早く帰ってくるつもりだけど、もし変なヤツが来ても、絶対に入れないように。
 わかったか?」

 男は笑みを絶やさずに言った。
 タバサが今まで見てきた中で、最も機嫌の良い状態になっている男は、タバサの肩をぽんぽんと叩いた。

「ま、フーケは俺達が捕まえるから、そんなに心配しなくていいけど、万が一、ってこともあるからな。
 今日はなるべく部屋を出ずに、大人しくしとけよ」

 男は自分の身支度を始め、部屋を出ようとした。
 外へ出て、扉を閉める直前に、再びタバサに視線を向けてきた。

「それじゃ、行ってくる」

 ただそれだけを、ひたすら嬉しそうな表情で言い、扉を閉めた。
 男の気配が部屋の前からいなくなるのを感じると、タバサは手に持っていた本を本棚に戻した。
 そのまま着替えもせず、再びベッドの中に潜り込み、目をつぶる。
 もう一度、昨夜見た夢が見られるように、と。

 結局、そのときに見た夢は、ただ母親が断末魔を上げるだけのいつもの夢だったが、タバサは落胆しなかった。
 元々、それほど期待はしていなかった。
 ただ一度だけ、偶然で垣間見ることのできた何かだと薄々解っていた。

 タバサがもう一度目覚めたとき、一本のナイフがタバサの首元に向けられていた。
 部屋に戻ってきた男が何かを叫んでいるのがわかったが、タバサは現実世界の自分の取り巻く状況など気にも留めずに、昨夜見た夢を忘れないようにと強く思い出していた。







 一見、どこかの街のようだった。
 漫然と本を読むことにより無意味に溜め込んだ知識から、建築物がアルビオンの南東部地方で見られるものだと判別した。
 判別した、といっても、タバサは実際その建築様式を目にした覚えはない。
 けれども、その夢では、本の挿絵からでは絶対に想像できないほどのリアルさがあった。

 赤黒く染まった空に、いくつもの黒い糸のような煙が真っ直ぐ上がっている。

 目にした建築物のほとんどは傷を負っていた。
 弾痕と思しき傷や、馬車が衝突したかのような凹み、攻撃力のある魔法が命中した跡が、その場で起こった出来事のすさまじさを物語っていた。

 細い道には、川が出来ていた。
 小広い広場には、山が出来ていた。
 川も山も、元々は同じものから作られたものだった。

 少しの火薬の臭いと、大量の鉄の臭いが混じり合い、鼻を刺激した。

 そして、タバサに感じられない臭いもあった。
 その臭いは、実際には存在しないものだった。
 厳密に言えば『臭い』に分類されないものであるが、他の感覚器でも捕らえることのできないものであり、最も類似するものが『臭い』だった。
 タバサは、この臭いが好きだった。
 初めて嗅いだときはそれほどでもなかったが、この夢で味わうこの臭いは、至高の香りだった。

 強い風が吹いていた。

 まるで高速で移動する船の甲板にいるような、それほどまでに強い風だった。
 そのくせ、近くでぶすぶすと音を立てて上がる新鮮な黒煙は、空に向かって真っ直ぐ浮かんでいく。
 また、風の吹く方向は一定しておらず、前後左右果ては上下から、めまぐるしく吹く方向が変わっていた。

 風の音が、耳を打った。
 様々な種類の風の音が、鼓膜を揺らした。
 決して綺麗とはいえないそれらの音は、いくつも重なると一つの音楽のように聞こえた。



 荒廃した街に、一つの影が動いていた。
 それは本当に影そのものだった。
 地面や壁にへばりつき、厚みを持たない。

 その影は主を持たずに、動き回っていた。
 存在そのものがあやふやであるかのように輪郭がぶれているくせに、やたら速く動いていた。
 酒樽をまたぎながら酒屋の壁にいたかと思うと、数瞬もたたぬうちに広場の中央の地面にいた。
 手がやけに長かったが、狭い路地に潜り込むときに、つっかかることもせず、器用にすいすいと走っていた。

 影はまるで気の狂った踊りを踊っているかのように手足をばたつかせていた。
 黒い風のように走り回り、訪れた先々でその踊りで山と川を作っては新たな獲物を求め、先へ進んだ。

 やがて、荒廃した街から幾多もの小蟻がはい出てきた。
 実際に目で見たわけでもないのに、心の奥底を振るわされる存在に気づいたのだ。
 無数の仲間の死骸を残し草原に逃げる小蟻たちに、影は躍りかかった。
 影は小蟻に追いつくと、瞬く間に小蟻たちを山に変え、川を作り、物言わぬものに変えるとすぐに別の小蟻を求める。

 数百、数千の犠牲者を平らげた影は、無尽蔵の餓えに突き動かされていた。
 しかし、まだまだ小蟻はそこら中にいる。
 全てが自分から逃れようとしているが、すぐに追いつけることを知っていた。

 そして、影は空を見た。
 空の彼方から、幾多もの物体がやってきた。
 空の大部分を覆い尽くさんばかりの大きさと数だった。

 それに最も反応したのは、影ではなくタバサだった。
 歓喜の気持ちに突き動かされ、今まで埋没していたタバサの感情は浮上した。

 この世に生まれいでた理由が眼前にあったからだ。
 今までは巨大すぎて、力及ぶことのなかったそれが、手の届く位置にある。
 そのことが、タバサを動かした。

 タバサは影から浮上した。
 皮膜のようにまとわりつく影の表面を、ぴりぴりと破り、腕の先を外気に触れさせた。
 赤くぬらぬらとした草原の草を掴み、ありったけの腕力でもって、外へと出ようとする。
 上半身が影を食い破って露出すると、タバサはそこで出るのをやめた。
 タバサがしようと思っていることは、そこまで出れば十分出来たからだ。

 タバサは左手に剣を掴んだ。
 その刀身の黒い剣は、小蟻の慟哭を吸い込んでいた。
 タバサの細い手では決して持つことのできない重さの剣だが、影が自分の腹を食い破って出てきたタバサの体を背後からそっと支えていた。

「……」

 影が何かをつぶやいた。
 タバサはそれを聞かなかった。
 元々興奮しきっているタバサに聞く耳は持っていなかったし、その言葉はタバサがこれからやることになんら支障を来さないものだった。

 自分自身の中で蓄積していたもの全てと、黒い剣の吸い込んだもの全てを使い、タバサは序文を歌った。
 あまりにも大きなエネルギーが辺りに風を起こす。
 その勢いでタバサも体を揺さぶられたが、背後で影がしっかり支えていた。

 重量のある黒い大剣を落とさぬようにきつく握りしめた痛みで感覚が鈍くなったその手に、不意にぬくもりを感じた。
 赤くぬらぬらとしたものがこびり付いた影の手が重ねられ、重量と罪を半分、受け取った。

 タバサは、破滅の鐘を打ち鳴らした。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.15672993659973