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[21478] 【チラ裏より】学園黙示録:CODE:WESKER (バイオ設定:オリ主)
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:6a403612
Date: 2011/05/21 22:46
2010/08/26 : ジャンルが増えましたので、二次作品を分離。
      本ページに移行しました。今後、二次作品はこちらで投稿をしていきたいと思います。
       他作品は修正が済み次第、随時投稿していく予定です。
2010/10/05 :タイトル変更しました。
2011/05/18 :その他板への移動準備中
2011/05/21 :その他板へ移動しました

:感想数の半分はチラ裏にある別作品のものです。よろしくお願いします












学園黙示録:CODE:WESKER (バイオ設定:オリ主)




悪い夢だと思った。
きっとこれは夢の中で、目が覚めれば自分は温かい布団に包まれているのだと。
そんな、“思ってもいない”現実逃避をしながら、上須賀 健人は乾いた笑みを浮かべた。
これは悪い夢だ。そうでなければ、どこかの三文劇作家が書き下ろした、出来そこないの戯曲か。

舞台は我が街。
背景音楽は断末魔。
役者は僕達。

ストーリーはこうだ――――――。
何時までも続くと思っていた日常、そんなある日、突然<奴ら>は現れた。
<奴ら>――――――死体が独りでに動き出し、人々を襲いだしたのだ。
<奴ら>は次々と仲間を増やし続け、不変の日常を完膚なきまでに破壊した。
噛まれたら終わり。
自分も<奴ら>になってしまう。


「そりゃあ、つまらない毎日が壊れてしまえばいいって、思った事はあるけれど」


呆然と健人は呟いた。
泣き出す寸前の、出来損ないの笑みを浮かべながら。


「こんなのって、ないよ――――――」


目の前には<化け物>。
命からがら<奴ら>から、ようやく逃げてきたというのに。
しかし三文劇作家は健人の生存を許さなかったようだ。
幼い頃に事故死した両親は敬遠な神教徒だったらしいが、今ならば健人は思いつく限りの罵詈雑言を天に叫ぶことが出来そうだった。

何故自分が、などとは今更言うまい。
ツイていないのは今に限ったことではなかった。
思えば自分の人生にケチが付いたのは、何時からだっただろうか。

保健所で受けた予防接種に、抗体が過剰反応して死にかけた時か。
両親が事故死した時か。
コンビニ帰りの夜道、辻斬り女に痴漢と勘違いされ半殺しの憂き目に会った時か。

いいや、身体が頑丈なこと以外に取り柄の無い自分が、今の今まで生き残れていたのだ。人生の天秤は間違いなく幸運に傾いていたのだろう。
そうでなければ、そう信じなければ、<奴ら>となってしまった人の人生は一体何だったというのか。
死体になって生者に喰らいつくためだけに生きてきたとでも言うのか。
早急に何も考えられない死体になれたことこそが幸福だったとでも。違うだろう。
ここから外に出て助けを呼んできて下さい、という紫藤教諭の言葉を鵜呑みにした自分が馬鹿だっただけだ。
ようするに、囮に使われたのだ。自分は。

視界の端をマイクロバスが走って行く。
追いすがって声を上げることは出来なかった。<奴ら>は音に反応するのだ。だが、それは遅いか早いかの違いだけだろう。<化け物>に殺されるか、<奴ら>に殺されるかの。


「――――――嫌だ」


<化け物>が、蠢く触手に塗れた、真黒な腕を健人へと差し向ける。
濃厚な死の気配に込み上げる吐き気。
脳が、本能が理解した。
自分は・・・・・・ここで死ぬ。


「――――――嫌だ。嫌だよ・・・・・・ッ!」


恐怖と絶望に引き攣る喉が、この世で最後の言葉を健人に叫ばせようとする。
<奴ら>の事など考えてはいられない。
それは人間に許された最後の権利。
自らの存在を示す、最終証明なのだ。


「ぃいいいいやだぁああああああッッ!」


健人の叫びは、押し寄せる黒い触手に呑まれて消えた。






■ □ ■



おぎゃあ――――――おぎゃあ――――――。
赤ん坊の泣く声がする。
僕の声だ。
ふ、と思い出す。
ああ、そういえば。
今日は僕の誕生日だった――――――。



■ □ ■






鳴り止まぬ健人の断末魔。
叫びに引寄せられ、ふらふらと群がる<奴ら>は、まるで讃美歌を歌っているかのようで――――――。


「うぐぅうううううっ!」


触手に呑まれながら、しかし健人の命の灯火は未だ消えてはいなかった。
絡み付いた右腕の皮膚を突き破って体内に侵入した触手が、直接神経を犯していく。
全身に奔る、気が狂いそうな痛み。
服を内側から押し上げている触手が何処から生えているのかは、考えたくもなかった。

触手塗れの<化け物>に感情と表情があったのなら、それはさぞ加虐心に歪んでいたことだろう。
苦痛が長引かせようとしているのか、ゆっくりと健人を蹂躙していく触手。
健人と<化け物>を繋ぐ真黒なパイプが一つ蠢く毎に、苦悶の叫びが上がった。
この場に誰が居たとて、健人を救おうなどとは思わないだろう。
ただ祈りを捧げるだけだ。
これ以上苦しみが続かぬよう、早く殺してもらえるように、と。
触手の<化け物>が、一際その拘束を強く締め上げた。

――――――だが、ここで一つの変化があった。

じり、じり、と。
<化け物>が、元は健人であった触手の塊に引き摺られていく。
自身から間合いを詰めたのではない。
じりじり、じりじりと、健人の方へと“巻き込まれて”いるのだ。
触手が軋む程に“張り詰めている”というのに、アスファルトを砕く程に地に“根を張って”いるというのに、それでも巻き込みは止まらなかった。


「ぅぅぅううわああああああッ!」


咆哮――――――それは、赤子の産声にも似ていた。
健人の叫びと共に、<化け物>の身体が宙に打ち上げられた。
二者を繋いでいたパイプが、半ばから引き千切られていく。

静寂。
そして、“触手の繭”が解かれる。

其処に居たのは――――――半身を、黒い触手に塗れさせた健人だった。
叫びに引寄せられ、ふらふらと群がる<奴ら>は、まるで讃美歌を歌っているかのようで――――――それは事実だった。
人間、上須賀 健人は、この日この瞬間に死んだのだ。
この場に居るのは<化け物>と人間のハイブリッド。本来、絶対に有り得ないはずの二種族による化合物。天文学的な遺伝子配合の確率の果て。


「僕は死にたくない、死にたくないんだ。だから、お前ら全員――――――」


渾身の力を込め、健人は右半身を突き上げた。
触手の芯であった自身の右腕、白い骨が見えた。肉は溶けて無くなってしまっていた。
力無く垂れ下がっていた触手が超常の膂力によって細く伸び、一本の鞭と化す。
健人は我武者羅に鞭を振り回す。
技術も何も無い。それだけで全ては事足りた。
高速で振り抜かれた触手(ワイヤー)は剣となり、群がる<奴ら>を細切れにばら撒いていく。
健人の闘争心に染まった瞳が、未だ宙を泳ぐ<化け物>射抜いた。
宿主の感情に呼応してか、返り血を浴びて朱に染まった触手が蠢くと、健人が望む形へと変貌を遂げていく。
解け、絡み付き。
一瞬の内に、健人の右半身から生え出ていた触手は、巨大な黒い腕へと編み上がった。
健人はそれを、弓を引くように、思いきり背後へと振り被った。


「もう一度“殺し直して”やる――――――ッ!」


裂帛の気合と共に放たれた、異形の拳。
明らかに届かぬ距離にあった黒の手は、猛烈な速度そのままに編まれた目が緩やかに解け、更に巨大化し、<化け物>へと炸裂する。
<化け物>は逃げ場の無い中空で全ての衝撃をその身に受け、全身を覆う触手を四散させるに留まらず、液体と為って飛び散った。
<奴ら>とは一線を画す<化け物>も、その“核”は同じ人間であったようだ。
もはやシルエットしか人型を保ててはいなかったそれは、健人の拳によって砕けて消えた。


「生きてやる、生き抜いてやるぞ!」


何故こんなことになってしまったのか、それは考えても解らないのだから、考えない方がいいのだろう。
今は唯、生きるために、生き抜くための思考を、行動を。
例え、どんな姿に為り果てていたとしても。
自分が化け物に成ってしまった事を自覚した健人は、涙を流しながら誓いの産声を上げた。






■ □ ■






File1:経過報告Ⅰ
被験体:上須賀 健人

当被験体の簡易略歴。
幼年期に剪定ウィルスは投与済。
当被験体の隠匿のため、当時のH.C.F.、および旧アンブレラ残党の目を眩ますべく報告書が偽造されている。
後年、旧アンブレラ残党を駆逐した後、当被験体は日本へと移送される。

その後、現在、今回の実験にてウロボロス・ウィルスへの感染を確認。
高いDNAの親和性を見せ、寄生後即座にウィルスのう胞の支配権を握る。
ウィルスが沈静化の段階を踏まなかったのは、既にウィルスが活性化していたからと推測される。
非適合DNA被検体で培養されたウィルスのため、経時的適合によって更なる進化が期待出来る。
要経過観察。
並びに、当被検体への育成プログラムを再開・・・・・・。













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:2
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:6a403612
Date: 2011/05/21 22:33
肥大化した腕を引きずって歩く。
蠢動する触手は健人の意を汲み、思い出したかのように襲いかかって来る<奴ら>を今度こそ死肉へと加工していく。
都合27回。
マイクロバスに轢き潰された<奴ら>の跡を追う健人が、エンジン音に集められていた<奴ら>に噛みつかれた回数である。
<化け物>に寄生され、体内に何がしかの変化が起きつつあるようだ。
本来ならば数分で奴らの仲間入りとなるものを、吐血も血涙も他出血もなく、初めに喰い付かれてから数十分経って今も体調に変化はない。
相変わらずの最悪だ。
腕に、足に、腹に、首に、身体中至る所を噛み付かれ、<奴ら>から剥ぎ取った制服に着替えなくてはならない程の傷を負ったというのに、傷跡はもう何処にも見当たらない。
服を脱いだ時、全て確認する前に治ってしまっていた。
幼少時に手足を切断する寸前までの大怪我をしたとは思えない傷一つない綺麗な身体は、しかし右肩から腰にかけてまでが異形と化していた。
健人の右半身は、黒い触手で覆われていた。


「もう少し小さくなってくれればいいんだけど」


健人は困ったように自らの右腕を撫でた。
指が触手にのめり込み、核となっている骨に触れた。感じる硬い質感。自分の骨に触れるのは不思議な体験だった。
今でこそ落ち着いてはいたが、<化け物>との化合物となって直ぐには健人も泣いた。
<化け物>になどなりたくはないと嘆いた。変わり果てた自分の姿に悲嘆した。
ただ、健人はそれで膝を折る事はなかった。
絶望に全てを諦め、動けなくなることだけはなかった。
<化け物>になってしまった自覚はあるがそれで人から離れて生きようとは思えず、携帯電話のワンセグ放送から流れるニュースで世界が壊れてしまったことを知り、むしろ人が恋しくて仕方がなくなり、とにかく動こうと決めてバスの後を追っていた内に慣れてしまったと、それだけのこと。
蠢く触手への嫌悪は無くならないが、それで歩みを止めることだけはあってはならない。
折れそうな心を叱咤しつつ、健人は進む。
道中、<奴ら>となってしまった知人達と何度もすれ違った。
その悉くを黒い手で殴り潰した。


「ごめん・・・・・・みんなごめん・・・・・・ッ!」


<化け物>と為り果て知人達の返り血に塗れてなお、自己を保ち続ける健人の強靭な精神は、生来の物ではなく経験によって培われた物である。
多くが人生の師と仰ぐ義理の叔父に依る部分が大きい。


「アルバートおじさんは言ってた。人を動かす最も強い原動力は、執念だって」


そして執念はいずれ野望になるのだ、とも。
その言葉だけが、今の健人を支えていた。
思い出す、叔父の声。


『――――――私を信じろ、ケント。私だけを信じ、私の言葉を頼りに生きるのだ』


親類もいない天涯孤独の健人にとって、叔父は絶対だった。
叔父の言葉は神の言葉に等しいと、そう言っても過言ではない。
健人の原体験は、その全てが叔父により与えられたものだった。

当時、海外旅行中にテロリズムに巻き込まれ、両親と健康な身体の両方を失くした幼い健人は、生きる希望を失っていた。
包帯で全身を包まれ、目も見えず、手足も動かせず、ただ蠢くことしか出来なかった日々。
そんな健人の前に、叔父は現れた。
生きる術を与えてやると、たったの一言だけと共に。
その日から健人は変わった。
全てに対し、前向きになった。否、世界の全てを自分を迫害する敵と見なし、挑み続けるようになった。
それは憎しみではなかった。叔父という理解者を得たことで、健人は他者に敵愾心を抱くことがなかったのである。
世界という状況に対する反骨心と、少年らしい純粋さが奇跡的なバランスで共存し、翳はあるものの朴訥な少年として健人は成長した。
それは両親を失ったが故の精一杯の適応なのだと、周囲からも好意的に受け入れられた。

そして健人は叔父の下、初恋も経験した。
健人がようやく歩けるようになった頃、叔父に連れられて出会ったのは、一人の少女だった。
少女の名はリサ。
彼女もまた両親を失ったようで、いつも母親を呼び、叫び声を上げていた。
健人には彼女の気持ちが痛いほどに理解できた。
自分も、そして彼女も、身を斬る程の寂しさに苛まれていると。
リサは悲しさから自分を傷つけてしまうらしく、手足に枷を嵌められていた。それも健人の悲しさを煽る要因となった。
彼女と話しをするために、健人が必死になって英語を覚えたのは自然の流れ。
少しでも彼女の慰めになればいいと、毎日リサの元を訪れることで、健人自身も慰めを得ていた。
初恋とは言うものの、それは一方的な感情でしかないことは解っていた。
だが、自分の真摯な気持ちは彼女に伝わったと健人は信じている。
次第にリサが、健人の名を呼ぶようになったのだ。
しかし結局リサは回復することはなく、健人は彼女と別れることになる。
眼球に包帯が巻かれたままの健人は、終ぞ彼女の顔を見ることが出来なかった。
今では彼女の声も思い出せない。ただ、とても大柄な女の子だったことは記憶している。


「辻斬りとは大違いだよ、本当」


初恋というものはやはり大きく心を占めているようで、理想の女性を思い描くと共に、その対極の顔も同時に浮かぶ。
しとやかさの皮を被り、その下に暗い情念を隠した女。
どうも自分が女性に抱く想いとは、一方的が過ぎるようだ。
初恋と同じく、嫌悪も一方的だ。
ただ、これに関してだけは同じように嫌悪を返して欲しいとは思わない。一方的に受け続けたらいいのだ。
健人の怒りを感じたあの女の、常に浮かべる澄ました笑みが歪む瞬間、健人の復讐は遂げられている。
直接糾弾することはなかったが、健人の言いたいことなど、曰く文武両道を地で行くあの女には余すところなく伝わっていることだろう。
文武両道を地で行くなどと、笑わせるが。
弱者をいたぶり悦に入る人間を、健人は絶対に許せなかった。
記憶の中のリサが、あの女の気に入らない笑顔を剥ぎ取る。
剥ぎ取った顔を繋ぎ合わせ、マスクを造り始めた所で頭を振った。
妄想が過ぎた。
リサにあまりにも失礼である。これではまるで化け物だ。


「<化け物>は僕じゃないか」


自嘲しつつ、近付く<奴ら>を拳打で弾き飛ばした。
初め、叔父とは言葉を交わすだけだったが、健人の包帯が解けていくにつれそれは次第に実践に移されるようになる。
端的に言えば、健人は戦闘技術を身体に叩き込まれていた。
眼球も未だ癒えておらず、さらには術後の発熱も併発している子供に何をするのか、と思わないでもなかったが、叔父も子供と接するのは初めてだったらしい。
叔父なりの不器用な優しさだったのだ、と今では理解している。事実、完治してからの訓練は比べ物にならないくらいに辛く、キツかった。
格闘訓練は当然、銃器の扱いまで行った。
合法で銃器に触れられるのは、海外故の利点。
それでも、年端もいかない子供に何をさせているのかと思わないでもなかったが、その時には叔父の人格を十分に理解していたために、今更の疑問であった。
そうして健人は叔父から独りでも生きていける強さを学んだのだ。
叔父から受けた訓示は、もう数年と顔を合わせていない今でも間違いなくこの胸に息づいていた。


「もう少し小さくなってくれればいいんだけど」


もう一度、今度は愚痴を零すように言う。
肥大した腕部は重さこそ大したものではなかったが、動きが阻害されるのがいけない。
叔父から教わった中華圏の流れを汲む拳法は、全身運動こそが真髄。
こんな状態では、戦力の半分を奪われたに等しい。
<化け物>の身体を得たとて、利点は<奴ら>に噛みつかれても仲間入りしないだけで、以前に比べて間違いなく健人は弱くなっていた。
人の持つ技術というものは、それほど強大なのである。
健人の仮想敵が叔父であるために、これだけ落ち込んでいるだけの話し、だが。
<奴ら>が踏み込みの度に、まるで煙のように消えてしまうほどの技術を有していたらと思うとゾッとする。
記憶の中の叔父の動きは、健人の動体視力では追えない程に速かった。休まず鍛練を続けてはいたものの、今でも無理だろうな、と思う。
叔父の様な達人になるという夢は砕かれたが、しかし、生き残るという執念までは失ってはいけない。
敵は<奴ら>だけではない。
<化け物>だって、この街のどこかにいるのだ。
何をしても、どんな姿になっても生き残ってやる、と健人は強く触腕を握りしめた。

・・・・・・己の意思で、触手が動く。
それも、細部まで。
ついさっきまでは、力任せに振りまわすのみで、まるで言う事を利かなかったのに。
慣れてきた、ということなのだろうか。
それはそれで、複雑な気分ではあったが。


「こいつはいい」


と、“編みあげた”腕を振るって、満足そうに健人は頷いた。
無秩序に蠢くだけだった触腕は、規則を持って揃えられ、並び、密度を増して人間サイズの大きさにまで編みあげられていた。
あれだけ巨大に見えた触腕も、まとめてしまえばこの程度。
筋繊維の性質も備えていたのか、触手の一つ一つは小さく収縮し、以前にも増して力強い異彩を放っている。
余剰分は身体に巻き付かせれば、服の下に隠すことが出来るだろう。
脱いでいた制服の上着を着ればもう解らないはずだ。
長袖に軍手は災害時の必需品。先ほど拾った軍手でもつけておけば、怪しまれることはないだろう。
都合良くたむろしていた<奴ら>の一体へと、踏み込みと共に編み上がったばかりの右腕で掌底を撃ち込めば、打突点を中心に血肉を撒き散らして爆砕した。
驚くべき威力。恐るべき殺傷力だった。
言うまでもないが、殺傷、とは生者にしか通用しない概念である。
もし生き残りに会ったとしても、隠し通さねば。
そうでなければ、悲劇が起きるだろう。

健人は叔父の言い付けを守り、今日まで力を隠して生きてきた。
人脈を構築する際に半端な力は逆効果だ、とのことだったが、友人を作るためには力などいらないというのは健人も頷ける。
暴力を振るうのは、自らの命が危機にさらされた時のみ。
であるから、あの時、辻斬り女に斬りかかられた時も自分は耐えたのだ。
一度経験したことだ。
次、またうずくまった自分に、笑いながら何度も何度も木刀が打ち降ろされたとしても、また耐えてみせよう。
人と触れ合えるのならば、喜んでそうする。
自分は独りでも生きていける力を貰った。
でも、こんな壊れた世界で独りで生きるには、寂しすぎる。


「あれは・・・・・・!」


人の気配を手繰るまでもない。
<奴ら>の数が増えているということは、そこに人が居るということ。
川向こうへ続く橋の上で、数名が<奴ら>と戦闘行動を執っていることを確認。
遠目で誰かは解らないが、自分と同じ高校の学生服を着ていた。
女生徒が2名、男子生徒が1名。金髪の女性は私服だったが、教師だろうか。記憶が正しければ、金髪の教師は保険医の鞠川教諭一人だけだったはず。
同校の生徒達は皆奮闘しているようだったが、数が違う。
<奴ら>の群れによる包囲網は完成されてしまっていた。
助けに入るにしても、橋を渡っていては包囲の端にぶつかるのみで、間に合うまい。
そも、徒歩では。


「いや、違うだろ・・・・・・。考えろ、考えるんだ・・・・・・!」


無意識に、右腕に触れる。
その時、健人の脳裏に一瞬の電流が迸った。


「こいつを使えば――――――!」


健人の意思に呼応し、腕の一部が解け、一本の触手となって伸び出した。
よし、と健人は頷いた。いける、思い通りに動く。
腕を思いきり振りかぶり、電柱に触手を巻き付け、収縮させる。
すると健人の体は猛スピードで宙に舞い上がった。力を込め過ぎたようだ。
悲鳴を上げる前に、標識へと触手を巻き付け、収縮。次は街灯へ。
そして橋の真下へと瞬く間に到着した健人は、中腹の欄干へと触手を巻き付け、今度はゆっくりと身体を持ち上げていく。
好んで自分が<化け物>だとは知られたくはなかった。例えそれが人助けであったとしても、ぎりぎりまでは。
この場へはロープを昇ってきたとでも言い訳をしたらいい。川にロープは流されていったとでもしたら、言い繕えるだろう。


「おおお――――――ッ!」


欄干へと手を掛け、健人は気合と共に橋上へと躍り出た。
眼鏡を掛けた女生徒に近付く<奴ら>の頭部を蹴り潰し、返す肘鉄で持って木刀を構えた女生徒のフォローへ。
肘の先端に鈍い衝撃。
内側へと眼球が押し込まれ頭蓋と共に破裂するのが、一つ一つの細胞が断裂する感覚の細部まで解る様な、そんな異様な触感。
当然だろう。肘鉄は右腕で繰り出したのだ。
自在に操れるようになった触手は、今やその全てが感覚器官として機能していた。

無事か、助けに来た、と木刀を構えた女生徒へと呼びかける。
ああ、ありがとう、と健人の乱入に、思わず背筋が伸びるような凛とした声で答える女生徒。
――――――その声には、聞き覚えがあった。
女生徒が振り向く。その顔にも見覚えがあった。
心底大嫌いな奴の顔なのだ。どうしたって忘れられるものではない。


「お前は――――――!」


あ、と女生徒が一瞬呆けたような声を上げた。
信じられない、といった風な顔で自失している。
それは、まさか健人に自分が助けられるとは、という罪悪感の現れだった。
健人自身も、まさかこいつを助けることになるとは、思ってもいなかった。
否、助けなどいらなかっただろう。
これぐらいの脅威くらいは、“斬り抜ける”に決まっている。
その剣の映えだけは確かなものであると、健人も身を以って知っていたのだから。


「ぼさっとするなよ、辻斬り女!」


健人の叱咤に慌てて女生徒は木刀を握り直す。
流石なもので、刀を構えなおした彼女は一瞬で平静を取り戻していた。
剣道全国大会優勝の腕前は伊達ではなく、近付く<奴ら>を一刀の下に次々と斬り伏せていく。
空いた間合いを、お互い背中合わせになってカバー。
耳元で、ありがとう、と小さな囁きが聞こえた。
健人が返したのは、大げさに、聞こえるようワザと打ちならした舌打ちが一つだけだった。


「・・・・・・君が私のことを嫌いだということは、良く解っている。でもこれだけは言わせて欲しい。君が生きていてくれて、よかった」


今度こそ無言で健人は返した。
卑怯だ、と思う。こいつは自分が女であることを自覚している。
であるというのに、厄介なのが、女を武器とするのが無意識に行われていること。なるほど武芸者の家に産まれただけはある。相手に致命傷を負わす術は、血に染みついているのだ。
きっと、今振り返っては全てを許してしまうだろう。
それが解っているために、健人は自分自身に腹が立った。
自分の行いが誤りであったと知ったあの時のように、今もきっと、きゅっと口元を引き結び、無理矢理に綺麗な笑みを浮かべて微笑んでいるのだろう。
そうではないのだ。
彼女は勘違いしている。
健人が糾弾しているのは彼女の行いではなく、その性根なのだ。
だが、理解されなくとも別にいい。彼女自身、それについては諦めてしまっているのだろう。否、受け入れているのか。
いい加減、自分とは相容れないと学んで欲しかった。


「私と共に戦ってくれとは言わない。彼らを守るために、力を貸して欲しい」


無言。
拳を握り、構える事が答えである。


「そうか。はは――――――そうか!」


何が嬉しいのか、笑い声を一つあげ、彼女は駆け出した。
同時に、自分も駆け出す。
迫る<奴ら>に汲み付かれないよう細心の注意を払い殴り倒していると、轟くバイクのエンジン音が。
自分と同じように、橋の欄干を飛び上がって来たバイク。
反射的に眼を向けると、そこにはヘッドライトに照らされて剣を振るう彼女の姿があった。
剣を持つ姿が最も美しく映える女。
それが毒島 冴子だった。






■ □ ■






File2:ウェスカーズレポート

数年前、未だ私がH.C.F.に所属していた頃。
検体の選出のためにH.C.F.傘下の病院を視察していた所、一人の日本人男児が目に留まった。
何故こんな今にも死にそうな子供一人に惹かれるのか、当時は己の精神を理解出来なかったが、今ならば解る。
兄弟同士、惹かれ合ったのだ。

それを理解出来なかった当時の私は、迷いを断ち切るために、原因であるこの男児を処分することを決めた。
H.C.F.が秘密裏に回収していたリサ・トレヴァーに与えることにしたのだ。
何故、どのようにして回収したのかなど知る由もない。知りたくもない。
あの爆発から生存したリサ・トレヴァーの生命力に驚きこそすれ、それだけだ。
重要なのは、リサ・トレヴァーの保持するTウィルス抗体・・・原生G-ウィルスが経年によりどのような変異を遂げたのか否か、ということ。
そしてそれに感染した人間がどうなるのか、ということ。
私にとっては三つの目的を同時に果たせる機会である、ということだけだ。
しかし、そこで驚くべき光景を目にすることになる。
辛うじて残された知性により自棄に陥っていたリサ・トレヴァーを、男児が手懐けたのである。
それどころか、リサ・トレヴァーによって男児は治療を施されていた。そう、あれは間違いなく“治療”だった。
体中から触手を生やしたリサ・トレヴァーは、いよいよ男児を襲うのかと思わせた。しかし、違った。
男児の身体を抱き、何かを触手から経口で与えるリサ・トレヴァーの姿は、母親像を見る者に抱かせた。
リサ・トレヴァーは母性を獲得していたのだ。
事実、翌日から男児の負っていた治癒不可能であったはずの傷は、一時間毎にカルテを書きなおさねばならぬ程の回復を見せた。
顕著であったのが眼球の再生で、完全に元通りとなったのだ。そう、全くウィルス反応の欠片も出ない、元通りに。
この時点で私は当ケースを独断で極秘事項とし、男児は殺害されたと虚偽報告を上に挙げてまで、その存在を秘匿することに決めた。
アンブレラ残党による監視はしつこく続けられていたため、奴らの眼を誤魔化すにはもう一芝居打たねばならなかったが・・・・・・まあよかろう。
少なくともH.C.F.共の余計な横槍が入れられることは、心配しなくてもいいだろう。
リサ・トレヴァーはウィルス変異が認められたとされ、別施設へと移送された。その後どうなったかなどは解らない。どうでもいい事である。

方針は決まった。
私はこの男児――――――ケントが、将来有用な駒となることを確信した。
ケントは私の切り札となるだろうという、予感がある。これはもはや、確信だ。
私手ずから教育を施すことに決めた。
そして現在、ケントの有用性は駒に留まらず、新たな可能性を見出すに至っている。
当然だ。
ケントも私と同じ名を持つ者――――――最後の『ウェスカー』なのだから。
何らかの特異性は保持していて然り、むしろ当然なのだ。
それが証明できれば、安定剤になど頼らずともよくなるかもしれない。

ウロボロス・ウィルスの投与も実に上手くいった。
暴走した個体のウィルスであったことには不満が残るが・・・・・・贅沢は言うまい。
単独での関与も限界を感じていた所だったのだ。
自らの保身と欲望の成就にしか興味の無い亡者どもの眼を欺き、甘言を駆使して助力を願わねばならなかったことは癪だが、仕方が無い。
だが、ようやく舞台は整えられた。
もはや誰にも止められることは出来ない。
新生アンブレラが布く新たなる秩序によって築かれる新世界、その頂きに君臨する資格が我らウェスカーにはあるのだから。







[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:3
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:6a403612
Date: 2011/05/21 22:33
毒島冴子を語る際、切り離せないのが彼女の持つ武の才についてである。
曰く、現代を生きるサムライ。
武芸家の生まれであることは元より、2年生次、彼女が立てた全国大会優勝の記録がその腕前を保障している。
困っている者を見過ごせず、また快く己の力を他者に貸し、嫌味にならない程度のお人よし。
怜悧な美貌とは裏腹にとっつき難いというわけでもなく、誰にでも礼節を持ちつつも朗らかに接する姿勢はなるほど武人と呼ばれるにふさわしい。

では自分はどうだろうか、と健人は思う。
言うまでもなく、有象無象の一人である。
何もそれが悪しという訳ではない。
彼女と自分を比べ、そのあまりもの差に劣等感や羨望を抱いている訳でもない。
そも、そんな自分に満足をしているのだから、抱きようもない。
健人にとって最悪だったのが、そんな十把一絡げの一男子である自分に、学園一の高嶺の花が懸想している、などという噂が立っていたことだ。

ある日を境に、彼女は健人をとても気に掛けるようになった。
それは健人達が中学生だった頃である。
理由は罪悪感からだろう。しかし健人にとって、そんなものなどはっきりと言えば、迷惑でしかなかった。
男女共に尊敬を集めていた学校のアイドルが、うだつの上がらない、どこか暗い険のあるパッとしない男子生徒に付き纏うようになったとしたら、どうなるか。
陰惨なイジメ、とまではいかないが、人間関係において健人は大変苦労することになった。
周囲が直接的な行動に訴えなかったのは、それも冴子が睨みを利かせていたからだった。
心底迷惑だった。
彼女が良かれと思ってする行動は、ことごとくが裏目に出て健人に被害をもたらすのである。
しかもそれを冴子自身が自覚していて、これではいけないとやり方を変え、そしてまた健人が睨まれるという負の連鎖。
当人が理解しているのだから、そんな状況が延々と続くわけもなく、手詰まりになるのは当然だった。
なんでもないという風に笑っていながらも目に一杯涙を湛えて、問う彼女。

――――――どう償えば、私は許されるのだろう。

そう言っていたような気がする。正確に記憶していないのは、健人が彼女の顔を直視していなかったからだ。いくら嫌っているとは言え、泣かれては目覚めが悪い。
だが健人はその問いが発せられた裏にある的外れな思い込みに呆れた。
精神修行でも何でもしてくれよ、と反射的に答えそうになったが、呑みこむ。悪意も交じってはいたが、それがもっとも正解に近い返答であり、また彼女自身が気付かねばならないことだった。
結局健人は、ここでも舌打ち一つ、無言を返した。健人が背を向けた時、彼女がどんな顔をしていたか。そんなことは解らなかった。

健人が怒りを抱いているのは、冴子が自分へと振った暴力行為にではない。
弱者に力を振う事を良しとする、その性根である。
そしてそれに冴子が後悔を抱いているということだ。
生来から武を嗜んでいるというのならば、自らの性根に後悔を抱いたとして、それを克服できる術を知っているはずなのである。
叔父が健人へと武術を叩きこんだのは、むしろ精神性の研鑽を狙ってのことであったのだから。

全てが憎い、殺せ、という内なる声が消えるまで、健人は打って打って、打たれ続けた。
より純粋になるよう。より己を消し去ってしまえるよう。無くしてしまった己は、叔父の言葉で埋めればよい。
健人でさえ、寂しさは残りこそすれ、怒りや憎しみを捨て去ることが出来たのだ。
それ以上に恵まれた環境にあった冴子に、自分を殺すことが出来なかったとは言わせない。
別段、格下相手に思う存分力を振ってみたいという欲求は特別なものではないのだ。
身近な所で、ネットゲーム等の中にみられるチート行為がそれだ。
本能からくる抑えきれない殺人への衝動でもなし、ただの暴力への陶酔だ。

で、あるというのに彼女は努力することを放棄している。
まるで健人へ償いをし、許されれば自身の行為が無かったことになるとでも思っているかのような振る舞いだった。
忘れられるとでも思っているのかもしれない。
それが健人をたまらなく苛立たせた。
意識を傾けるべき方向が、全く違う。
そんな勘違いの情熱を向けられたところで、鬱陶しさしか感じない。
今もそうだ。


「軍手の下に包帯・・・・・・怪我をしているのか?」

「触るな。何ともない」


健人は軍手が破れた時のため、駄目になったシャツを割いて作った即席の包帯を巻いていた。
それを目聡く見つけられたようだ。
校医であった静香が気付く前に、伸ばされた手を払う。


「あっ・・・・・・す、すまない」

「余計な気遣いは止めてくれ。それより<奴ら>に集中しろ。掴まれたらお終いだ」

「このっ、あんたね!」

「た、高城さーん! ここは口出ししないほうが・・・・・・」

「黙んなさいミリオタ! あんたね、さっきから――――――」

「さっきから、何だ?」

「ひぃ、ここっ、小室! あんた何か言ってやりなさい!」

「ええっ? 何で僕が・・・・・・」

「つべこべ言うな!」


急に矛先を向けられたのは小室考。
どうもこの小集団のリーダーといった位置にあるようで、彼の登場によって皆安堵の表情を浮かべていた。
そんな彼も戦利品であるらしいバイクと宮本麗の相手に忙しかったらしく、話を掴めてはいないようだった。
鞠川の友人宅である高級マンションへの道中、<奴ら>に囲まれての強行軍の最中、小さな諍いに耳を傾けられる高城の胆が座っているのかもしれないが、小室に噛みつく理由は傍らにべったりと侍っている宮本にあるように見えた。
あるいは、ただの彼女の強がりか。


「ほら、一人称僕キャラはもういらないんだよ! とか! 他のパーツに比べて目つきだけ悪すぎるんだよ! とか! 色々あるでしょうが!」

「・・・・・・だそうです、先輩」

「解った。使い分ける奴も珍しくないし、これからは俺でいくよ」


すぐさま言い分を呑み、素直に頷いてみせた健人に高城は喉を詰まらせた。
どうやら斜に構えた答えを返されることを予想していたようだったが、健人としては後から合流した身であるのだから、そうまでして出しゃばるつもりはない。
これは個人的な問題というだけだ。
突き付けられた指が所在なさ気に揺れ、ゆっくりと下される。フン、と鼻をならしそっぽを向いた時には、もう高城は健人への興味を失くしたようだった。
向いた先に<奴ら>いれば、そんなものは消えて失せるだろうが。

近付く<奴ら>のガチガチと鳴らされる歯。
道すがら、端から順に、拾った鉄パイプでもって頭部を砕いていった。
脳の破壊、もしくは脳からの信号を遮断すれば活動を停止するようだ。
無敵でないのならば、やりようはいくらでもある。
健人の太刀筋、否、“鉄パイプ筋”を見て冴子がほうと感嘆の声を上げた。
ちらりと視線を向けると、気まずそうな顔をして瞳を揺らした後、冴子は俯き加減に目を逸らした。
高城が再び剣呑な空気を発している。
溜息。


「僕、いや俺を気に掛けるよりも、やるべきことがあるだろう。
 ちらちら振り返るな。背中の心配なんかしなくてもいいから、お前は安心してチャンバラしてろよ。そうすりゃ皆生き残れる」


健人としては突き放したつもりであったが、その意図は冴子には伝わらなかったようだ。


「あ・・・・・・ああ! そうか! そうだな! うん! 私の背中、君に任せた。ちゃんと守ってくれよ!」


よし、と気合を入れて、何故か俄然やる気を見せ始める冴子。
何故そうなるのか。やはりこいつは解らない。
理解出来ないと首を捻りつつ、健人はまた一体、<奴ら>の頭を叩き割った。
飛び散る脳漿と血糊を整髪剤に、髪を後ろに撫でつける。


「うは、なんだか先輩ってその道の人みたいですね」

「失敬な。サングラスを掛けないだけの慎みは俺にだってあるよ。
 君は大人しい奴だと思ってたけど、中々言うじゃないか、平野君。腕の方も達者だ。何処かで射撃経験が?」

「いやあ、ちょっと海外でインストラクターに・・・・・・って、あわわわ、ナマ言ってすみませぇん!」

「いいよ気にしなくったって。それに君には負けるさ」


口の端に浮かぶ笑みは、健人の顔面にこびり付いた緋沫と相まって、凶貌を醸し出していた。
手製の銃を構える平野とは良い勝負である。
友人曰く、「ラスボスみたい」と評されていた健人だったが、その評価ももはや過去となれば、寂しさしか感じなかった。
健人はその友人が冴子に好意を抱いていたことを知っていた。
彼が健人に近付いた理由は、冴子との仲を探るためだった。
化物と化す前から人恋しいきらいがあった健人にはそれでも嬉しかった。
冴子への好意などなかったのだから、始まりはどうあれ、彼との間に築けた友情は真実だっただろう。
友人として、彼を化物となる前に人の手で人のまま終わらせてやれたことにだけが、『人間』上須賀健人の功績であり、全てであった。
――――――今はもう、違う。
ここに居るのは自己の生存が全てであるくせに寂しさを捨てられず、人にまとわりつくしかない、『化物』上須賀健人である。

変異した右腕でもって<奴ら>の顎を打ち上げる。
異形の膂力が込められた掌は、人間の頭部を紙風船の如く破裂させた。
その威力に健人は恐れ慄いた。
抑えが利かない。これでは自分で化け物だと吹聴しているようなものだ。

ばれてはいないだろうか。
周囲を見渡す。
・・・・・・目が合った。


「君は――――――」


冴子だった。
戦い慣れている彼女だけが、健人の様子に気付いていた。
人間の腕力では、人の頭部を粉砕することなど出来る訳がない。

排斥、魔女狩り・・・・・・健人の脳裏に不吉な単語が浮かぶ。
いや、世界が“こんな”になってしまったのだ。
一人になるのは寂しいが、<化け物>は一匹でいるほうが安全だ。
仕方がないだろう。
健人は皆に気取られないよう、静かに踵を返した。


「あ・・・・・・だ、駄目だ!」


後ろから、“右手首”を掴まれて健人は立ち止まった。
冴子の眼が驚愕に開かれる。
異形と為り果てた健人の右腕は、布切れ一枚で覆った程度では、感触までは誤魔化す事など出来ない。
完全に気付かれた。
このまま振り払って逃げるべきだ。健人は思う。
だが、彼女の握ったのは、右腕なのだ。
彼女の白く細い指を犠牲にしてまでも、逃げていいものか。
いや、しかし、保身を第一とするべきでは・・・・・・。


「毒島先輩達、大丈夫ですか! 何かあったんですか!」

「い、いや! 何でもない! 大丈夫だ!」


健人の寸瞬の思案は、しかし無意味だった。
一体何故、どうして。
健人は冴子を見遣るが、冴子は前を見据えたまま、健人の腕を掴んで離さない。
冴子に腕を取られたまま、引きずられるようにして健人は目的地である鞠川の友人宅、高級マンションのオートロックを潜った。
もはや触手の群生となった右腕には碌な触覚もない。
ない、はずなのだが、何故か冴子の握る手から、じわりじわりと熱が伝わってくるような、そんな気がした。
気がした、だけなのだから、これはきっと唯の思い込みなのだろう。
結局健人は目的地に到着するまでの数分間、冴子に手を握られたまま、振りほどくことが出来なかった。






■ □ ■






「セオリーを守って覗きに行く?」

「俺はまだ死にたくない」

「右に同じ」


言いつつ、ロッカーをこじ開ける。
鞠川の友人宅に立て籠った小室達一向。
男共は労働、女性達は風呂と集団内ヒエラルキーがどのように位置付けられているか、如実に理解できる光景である。
せえの、という掛け声で、男衆三人はロッカーにバールを挿し込み力を込めた。
しかしロッカーは変型するばかりで、開く気配は一向にない。バールの挿し込み方が悪く、錠の内部構造が破損してしまったようだ。
危険物を保管してあるのだから、当然このロッカーも特別製という訳か。
何とか開いたもう一方のロッカーに散在するショットシェルは、どう見ても狩猟用のそれではなかった。
鞠川の友人とは何者かという疑問は尽きなかったが、それに答えられる者もいなかった。


「駄目だな。二人とも、ちょっと退いてろ」

「せ、先輩?」


健人は二人を後ろに下がらせ、差し込まれたバールに拳を振り降ろした。
もちろん、右腕で、である。
弾けるようにロッカーの扉が開き、バールが空を回転して平野の脚元に突き刺さった。
青い顔をして平野が尻餅を着いた。


「す、すごいッスね」

「だろ?」


道中、健人の執る構えをこれでもかと見せ付けられてきた二人である。
これも拳術の成せる技だと思い込んでいるようだ。
平野に至ってはそんなことよりも、ロッカーの中身の方が重大であるようで、奇声を上げて立ち上がり、中身の検分を始めている。
豹変した平野の態度に小室は顔を顰めていたが、健人にしてみれば解り易くて良かった。
銃とは力の象徴である。
戦うつもりならば、力を身につけねば。


「そ、れ、はぁ! イサカM-37、ライオットショットガン!」

「へぇー・・・・・・」

「イサカか」

「そう、アメリカ人が作ったマジヤバな銃、だー!」


よく解らないといった風に構えてみる小室。
叔父からは一通りの有名所の銃器を手に取らされてはいたが、イサカM-37ショットガンは現物を見せられたのみで、触らせてはもらえなかったことを記憶している。
詳細な理由は解らなかったが、どうやら叔父のジンクスによるものだったらしい。
叔父の元同僚であった男が愛用する銃は、使わないと決めているのだとか。
そう語る叔父の瞳が、憎しみで赤く輝いているように見えたのが印象的だった。


「弾が入ってなくても人に銃口は向けるなよ」

「そう、向けていいのは――――――」

「――――――<奴ら>だけ、か」


それだけで済めばいいけど、という小室の呟き。
無理だよ、と平野は返した。健人も同意見だった。
いずれその銃口は生者を捉えることになるだろう。
そしてこの身の正体も、白日の下に晒されることになるだろう。
解りきっていることである。
重要なのは、その瞬間が来たら、どうするのかということだ。
引鉄を弾くのか、そして――――――。


「先輩も弾込め手伝ってくださいよ」

「あ、ああ。ごめん、手伝うよ」

「面倒なんですよね。弾を込めるのって」

「銃を扱う時は女を扱う時のように愛情込めて、だってさ。じゃないと土壇場で裏切られる」

「へぇ、誰の言葉なんです? それ」

「叔父さんの元同僚だった人の言葉。すごいぞ、マジもんの女スパイだ」

「うは、すげぇ。さっきから手付きが相当手慣れてるのも、その伝手ですか?」

「うん、こう見えて海外生活が長くってね。海外で、特殊部隊の隊長だった叔父さんから手解きを受けたんだ」

「特殊部隊! チーム名は?」

「確か・・・・・・スター、なんだっけな。各分野から人材を集めた特殊作戦部隊だとか何とか」

「超エリートじゃないっすか! 僕もアメリカで元民間軍事会社のインストラクターに訓練を受けて――――――」
 
「僕はもう二人の話には着いていけないよ・・・・・・」


小室の呆れ声を耳に、黙々と弾込め作業に没頭する。
平野との取り止めもない会話は、思考に引きずられていた健人にとって、とても有り難かった。
やはり小室は理解できないという風な顔をしていたが。


「流石にちょっと騒ぎ過ぎかも」

「耳に毒だっていうのは同意見だけど、大丈夫だろう」


風呂から聞こえる嬌声に苦笑いしつつ、健人は双眼鏡を片手にベランダへと足を向けた。
先ほどから橋向こうに向けてスコープを覗きこんでいた平野も気付いているはず。
小室にテレビの電源を付けろと指示を出していた。


「人間は怖いよ、叔父さん・・・・・・」


ベランダで夜風に当たりながら、健人は呟いた。
足下からはまばらに動く<奴ら>の呻き声と、それに抵抗する生者の声。
彼等の声色は、何処か狂気染みた響きさえしていた。
人間は怖い、と健人は双眼鏡を覗きながら、再び呟く。
でも、人から離れては生きてはいけない。

レンズには、この異変を政府の陰謀と決めつけ、弾圧する男の姿が映る。
同調する人々。
いずれ過激なカルト宗教団体が発足するだろう。
身体が震えた。
異形の末路は、想像に容易い。
“ばら”されて火炙りにされるしかない。
警官が男を射殺した所で双眼鏡を下ろした。
背後には鞠川と小室達がじゃれつく声。
何の慰みにもならなかった。

落ち着いたのを見計らい室内に戻り、幸せそうな顔をした平野と入れ違いに階下へ。
途中、これも幸せそうに顔をにやけさせた小室とすれ違った。
一体何なのかは解らなかったが、さて水分でも補給しようとキッチンへ向かうと、嫌でもその理由が目に付いた。
そこには白い尻肉に黒字が映える、エプロンを一枚纏っただけの姿の冴子が。ショーツ一枚に、素肌にエプロンという出で立ちである。
リズミカルに包丁を叩く音からして、料理を作っているのだろう。
醤油の煮立つ食欲を刺激する良い臭いが漂っていた。
包丁の音が止まる。
こちらに気付いたようだったが、健人は構わず冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出して一気に飲み干した。


「なんだよ、じろじろ見て。言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ」

「うっ・・・・・・それは、その・・・・・・すまない」


溜息。
会話することすら疲れる。


「さっき顔を赤くした小室君とすれ違ったが、なるほど、そういうことか」

「そういう、とは?」

「あいつを誘ったんだろ? その格好を見れば解る。こんな状況だ、種の保存の本能だったか知らないけれど、何も言わないさ。
 ただやるんなら声が漏れないように、個室でやれよ。火を使ってるんだから危ないしな」

「ち、違う! 誤解だ! 私はそんな・・・・・・」

「どうだか」

「待ってくれ!」


言い捨てて去ろうとする健人の腕を、冴子は掴んだ。
冴子が掴んだのは、また右腕だった。
息が荒い。
熱い吐息を至近から浴びせられ、健人は眉を潜めた。
自分が<化け物>であることは、もう露呈しているはず。
しかし、半ば覚悟していた断罪はなかった。
こいつの狙いが解らない。


「解っている――――――」


冴子は言った。


「軍手と包帯を外して、君の、その右腕を見せてほしい」


冴子の真っ直ぐな瞳が健人を貫く。
その言葉に強い決意が込められていることは、健人も解った。
だから健人も真っ直ぐに冴子を見つめ、応えた。


「断る」


冴子の瞳が揺れる。


「ど、どうして・・・・・・」

「それはこっちの台詞だ。もう解ってるんだろ、俺の腕の事。なら、どうしてこんな回りくどいことをする。
 今大声で叫ぶなり何なりすれば、俺を此処から叩き出せるぞ」

「私は、君の力になりたいと思って・・・・・・」

「それが余計な御世話だと何故解らないんだ、お前は。本音を言うと俺はな、別にここから追い出されても構わないんだ」


<化け物>と後ろ指を指されるのは辛いけれど、独りきりで生きるのは寂しいけれど、それでも生きていける。
ならば、それでいいではないか。
自分は多くを望んではいない。望めない。
ただ寄り添っていたかっただけだ。
止まり木が無ければ飛び立つのみ。


「ならば、せめて包帯を巻かせてはくれないか?」


諦めたのか、肩を落としながら懇願する冴子。
もはや視線は下へと外され、唇を噛み締めて、堪えるようにして健人の答えを待っていた。


「だから、それが余計なことだと何度も――――――」

「しかし、首の所から、その、“見えてしまっている”から」

「――――――え?」


無意識に首筋に手を伸ばす。
触れる。
――――――明らかに、人肌の感触ではなかった。


「ひ、い――――――!」


健人は自らの口を、悲鳴が上がる前に塞いだ。
膝に力が入らず、壁を擦るようにして座り込む。
慌てて駆けつけた冴子が健人の身体を支えた。
振り払うことは出来なかった。


「け、健人君? どうしたんだ! しっかりしてくれ!」

「うう――――――!」


あの<化け物>から“伝染”された腕を制御できるようになって、慢心していたか。
自由に動かせるようになったとして、それが抑制されているとは限らないというのに。
浸食だ。
間違いなく、浸食は右腕より拡大していた。


「まさか君も<奴ら>に――――――。嫌だ! 私は、私は君だけは剣を向けることが出来ない!
 ああ、ああ! どうしたら・・・・・・!」

「だ、大丈夫だ・・・・・・、噛まれちゃいない。これは別のものだから」

「しかし・・・・・・!」

「いいんだ! 放っておけ! 構うな! どうにもならなくなったら自分で“ケリ”を付ける!」


動悸を押さえつけ、呼吸を整える。
ちくしょう、と震える声が漏れた。なぜ僕が、俺がこんな目に会わなければならないのか。
きつく眼を閉じて心を落ち着かせていると、鼻腔に甘い香りが。
気が付けば、健人は蹲ったまま、冴子に抱きかかえられていた。
頭を胸に押し付け、優しく背中を撫で擦る手に、健人の涙腺は自我の制御を離れて緩んだ。
ちくしょう、と震える声が、再び漏れた。


「――――――泣いてほしい」


冴子の静かな声が、健人の耳朶を打つ。


「私は君に何もしてやることが出来ない、愚鈍な女だ。君の心が壊れてしまわないように、こうして抱き留めても、君を支えることはもちろん守ってやることすら出来ない。
 私はそれが悔しくて仕方がない。私は君に何もしてやれない。でも、こうやって君の顔を隠すことくらいは出来る。
 今は誰も見ていないから、だから――――――」


――――――泣いてほしい、と冴子は重ねた。


「・・・・・・クソ、クソッ、チクショウ! どうして俺が、お前なんかに・・・・・・」

「うん、うん。私なんかですまない」

「何で俺の体はこんな、化け物みたいになっちゃったんだよ、チクショウ・・・・・・!」

「うん、うん。辛いな、本当に辛いな。私が君の傍にずっと付いていてやれたら、どれだけよかっただろう」

「近付いてきたら追い払ってやってたさ! お前なんか嫌いだ。お前なんか大嫌いだ・・・・・・チクショウ・・・・・・」

「うん、うん。すまない。私は君の事が嫌いじゃないんだ。だから君に付き纏いたいんだ。君の苦しみを少しでも吸い取ってやりたいんだ。すまない」

「うう、ううう・・・・・・」


夜は深ける。
数十分程度の時間でしかなかったが、健人は心の澱が涙と共に流されていくのを感じていた。
<化け物>になってしまった時、涙が枯れるほど泣いたと思っていたが、そうではなかったようだ。
悲哀は訴えてこそ、受けとめられて初めて昇華されるのかもしれない。
今は素直にそう思えた。


「んっ、あっ・・・・・・で、出来ればじっとしていてくれると有り難いのだが」

「あ、うん、ごめん」

「その、痛くはないか? いや、君が詰まらないと思っているのは解っているんだ。私は鍛えてばかりいたから、筋張っていて柔らかくはないからな。
 女性としての線は損なわれていないと思うのだが、このメンバーを見ると自信がな・・・・・・」

「いや十分だよ・・・・・・じゃないだろ。どうしてこのままで居るんだよ、俺達は」

「嫌か? 私はイイ。すごくイイ」

「い、嫌だ」

「・・・・・・解った、離れよう。残念だ、こんな機会はそう訪れないだろうに。
 しかし君がそう言うならば仕方が無い。包帯だけは巻かせてもらってもいいか? どうせ上には戻れないさ」


指が指されるのと同時、聞こえたのは小室の怒鳴り声。
なるほどと健人は頷いた。


「あれだけ大声で話してれば聞こえるよな。小室も可哀そうに。あれは俺でもキレる」

「宮本も気を引きたいのなら、もう少し言い方があるだろうに」


溜息。
次第に怒鳴り声は収まっていったのだから、後はセオリー通り、元の鞘に収まるのだろう。
もし顔を出せたならば、小室には、鞘に納めるのならば個室でやってくれと頼みたい所だったが。


「さあ、続きだ。ほら、もっと近付いてくれ」

「う、わ、解った。ただし見えてる範囲だけでいいからな」

「ふふ、わかっているさ。私には近付いてほしくないんだろう?」

「そうだよ、それ以上近付くな」

「ああ、わかっている。わかっているさ。ふふ、君は私のことが嫌いなんだからな」

「・・・・・・ちぇ」


あれだけ悲壮感に暮れていた姿は何処へやら。
何が楽しいのか、冴子は嬉々として健人の首に包帯を巻いていった。
健人としては目を伏せるしかない。
真っ直ぐ前を見れば、布一枚だけで覆われた揺れる柔肉が目に入る。
そうでなくとも鼻先に触れる寸前なのだ。
居心地が悪いといったらもう、どうしようも無かった。

しばらくして、視界を覆っていた肌色のスリットが遠ざかる。
包帯が巻き終わったようだ。
ゆっくりと離れた冴子には、もう怯えや恐れの感情は無かった。
じっと、微笑みながらこちらを見つめている。
何をか言おうと口を開こうとした健人。しかし。


「――――――今のは!」

「銃声だ!」


死人が跋扈する世界では、生者には一時の休息も許されてはいないのだ。
音に吸い寄せられる<奴ら>のように、健人と冴子は階段を駆け上った。






□ ■ □






File3:経過報告Ⅱ
被験体:上須賀 健人

変異箇所拡大。
また、意志による肉体の形状変化が発生。
監視衛星による熱源捜索の結果、変異は頸椎を辿り、脊髄へと浸入しつつあると判明。
ジル・バレンタインより採取したT毒素抗体により調整された、抗毒型T-ウィルス・・・感染力を抑え、感染者の唾液のみを媒介とする、より兵器として完成度の高いT-ウィルス。詳細は別途資料参照・・・の短時間での連続投与によって変異が進行した模様。
諸データから、変異は侵食ではなく体内に混入した異物、抗毒型T-ウィルスへの防衛反応であり、変異が停滞したのは混入したウィルスに適合したからであると推察される。
ウロボロス・ウィルスの防衛反応は、潜伏状態にあったG-ウィルスによって引き起こされたものか。経年による変異の有無の確認が必要である。要サンプル回収。

被験体:上須賀 健人の体内には、リサ・トレヴァーより注入された原生G-ウィルス、抗毒型T-ウィルス、ウロボロス・ウィルスの三種が同在していることになる。
現在は暴走状態にあったウロボロス・ウィルスが優位であり、その特性である進化によって更なる変異が予測される。
現段階の予測では、既に体内に潜伏していた原生G-ウィルスの反応によって抗毒型T-ウィルスが取り込まれ、T+Gウィルス投与固体の特性が不完全発生する可能性が高いとみなされる。
即ち、電気的特性の発現、もしくは女性化である。

当被験体の更なる進化を促すべく、B.O.W.の随時投入準備を続行中。
指示を待つ。













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:4
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:f42f34ef
Date: 2011/05/21 22:33
ひどすぎる。
小室の叫びは、この場に居る全員の代弁だった。
二階に駆けあがった健人達が見たのは、世界の終わり、その最初の夜。
その本当の始まりだった。


「小室っ! 撃ってどうするつもりなの?」


銃を握り締め、今にも飛び出そうとする小室に向け、平野は問う。
そこに含まれた諦めの色に小室は激昂したようだった。


「決まってるだろ! <奴ら>を撃って・・・・・・!」

「忘れたのか? <奴ら>は音に反応するのだぞ、小室君」


冴子に窘められた小室は拳を握りしめ、言葉を詰まらせた。
言われずとも解っている。しかし、それでも――――――。
声に出した訳ではない、だがそんな小室の葛藤が、健人には聞こえてくるようだった。

平野から予備の単眼スコープを受け取り、覗く。
上下二連式の狩猟銃を持った男が喰われていく様が映った。先の銃声は、彼のものであったようだ。


「犬の鳴き声が聞こえる・・・・・・」

「不思議だけれど、<奴ら>は同じ人間しか襲わないみたいです」

「同じ、ね」

「あ、いや、すみません・・・・・・」


いいんだ、と健人は首を振った。
平野はどこか悲しそうな、羨ましそうな目で、冴子に諭される小室の姿を見ていた。
健人には平野の気持ちが良く解った。
眩しいのだ、彼は、小室孝という男は。
聞けば平時から面倒だと全てを投げ出すような態度を取っていたらしいが、これは生来のものであるだろうと健人は思う。
叔父にも通ずる特別な才。指導者、リーダーの才である。
健人や平野のような日陰者には持ち得ない才だ。
そういう人間の周りには、才ある人間が自然と集まるのである。あるいは、自分も小室に引き寄せられた一人であるかもしれなかった。


「まるで誘蛾灯だな」


え、と不思議そうに聞き返す平野。
背後で冴子により電気が消され、ああ、と納得したようだった。
また一人、スコープの向こう側で生き残りが殺された。
彼等は皆、救いを求め、この部屋に灯る光を目指してやって来たのだ。自分達は、間接的に彼等の死の要因を作ってしまったことになる。
冴子に静かに諭される小室を見る。震える拳は、罪悪感からでもあるのだろう。

まるで誘蛾灯だ、と健人は思った。
今後、社会秩序の崩壊が進むにつれ、良くも悪くも、善も悪も区別なく、彼は人に囲まれていくことになるだろう。
そして小室に焼かれ、希望の火を灯すことになるのだ。
それがどのような結果を己にもたらすか、解らぬ健人ではない。
危機的状況の中、人の集団に紛れ込んだ<化け物>が炙り出されるのは、直ぐだろう。
小室という稀有な男が起こす希望と言う名の種火に、健人は焼かれることになるのだ。

――――――我々は全ての命ある者を救う力などない。

冴子が言う。
小室に向けた言葉に、健人はその通りだと頷いた。
生存に賭けるのならば見捨てねばならず、救いに駆けるのならば犠牲を払わなければならない。


「彼等は己の力だけで生き残らねばならぬ。我々がそうしているように。よく見ておけ。慣れておくのだ!
 もはやこの世界はただ男らしくあるだけでは生き残れない場所と化した」

「毒島先輩はもう少し違う考えだと思ってた」

「・・・・・・間違えるな、小室君。私は現実がそうだと言っているだけだ。それを好んでなどいない」


言い残し、階下へと降りる冴子。
返された小室の皮肉に、冴子が口を開くまでに寸瞬の間が空いたのは、彼女が自身の言を恥じたからか。
誰だって軽蔑されるのは辛いのだ。


「それを好んでなどいない、か」


知れず、健人は苦笑していた。
好んでなどいないなどと。
果たして冴子は本音で語っていたのだろうか。
あるいは小室の才を更に輝かせるためだけの甘言だったのかもしれない。
男を立てることが女の本懐だと、本気で思っているのだ、あの女は。


「先輩?」

「いや、その通りだなと思ってさ。我々は全ての命ある者を救う力はない、だったかな。全くその通りだ」

「ちょ、せ、先輩! 危ないですよ!」


何時の間にかベランダの縁に足を掛け、真っ直ぐに直立していた健人を、ぎょっとした顔で平野は見上げた。
狂ったのかと顔に書いてある。
安心しろ、と健人は笑った。


「滑らないように裸足になったしな。大丈夫だ」

「いやそうじゃなくって・・・・・・小室! 来てくれ! 先輩が変になった!」

「う、おわあ! せ、先輩! 落ち着いてください! 自殺は駄目だ!」

「だから、大丈夫だって。死ぬつもりはないよ」

「それなら早くそこから降りて!」

「そうだな。それだけ言うなら、ちょっと飛び降りることにするよ」

「だから、そうじゃないって!」

「見ろ」


急に真顔で有無を言わさない態度となった健人に、訝しげに二人は従った。
健人が指を向けた方角へと双眼鏡を向け、そして理解した。
地獄だ、と思わず漏らした小室に相槌を打つ。
全く、その通りだ。
そして自分は、その地獄に飛び込もうとしている。
正気の沙汰ではない。

だが、正しい。
それは絶対に正しい行いなのだ。
倒れた父に縋り付く小さな女の子を、救いに向うというのは――――――。
いち早く健人の決断に賛同したのは平野で、スコープを覗き、ライフルの射撃態勢に入った。


「お、おい平野、撃たないんじゃなかったのか? 生き残るために、他人は見捨てるんじゃなかったのか?」

「小さな女の子だよ!?」

「そういうこと。俺は先に行くけど、どうする、来るか?」


その時に小室が浮かべた嬉しそうな顔は、同性である健人をしても、ドキリとさせられる魅力があった。
なるほど、こいつは人たらしだ。
宮本の判断は正しい。
女であるならば、こいつは何としてでも落とすべきだ。


「バイク取って来ます!」

「よし。平野君、ギグの調子は合わせたよな。援護を頼んだぜ」

「了解ッス! ロックンロール!」


撃発音と同時、健人は跳躍。
塀の上へと着地する。
幸い鞠川の友人宅であるマンションは背が低く、この程度の高低差では、もはや人外の領域に達した健人の頑強さは露呈しないだろう。
狭い足場から足場への跳躍は、生来のバランス感覚とでも誤魔化せばいい。
そのまま健人は塀沿いに、時には<奴ら>の頭を踏み台にして隣家の屋根へとよじ登った。


「全ての命ある者を救う力などない」


駆けながら、冴子の台詞を反芻する。
ならば、少数を救う事は可能なのだろうか。
いいやそれも、それすらも出来なくなるだろう。そう健人は思う。
きっと、人間“らしく”生きるためには、犠牲を払わなくてはならなくなるだろう。
多数を犠牲に、少数を救う。
それが人道というものであると健人は理解している。
自己犠牲こそが尊いものであると、どこかの教典にも載っていた。
ならば。


「犠牲になるのは、せめて<化け物>であるべきだ」


そして孤独が代償であるか。
今は未だ、健人には己を差し出す勇気は無い。
しかし、いずれはそうなるだろうという予感があった。
朱に交わればと言うが、たった一日で、そこまでしてもいいと思える程に情に流されてしまったようだ。
ただし、排斥を受ける身になってもいいとまで思えてしまうその根本は、自身の身の安全が保障されているからである。
健人は足元で蠢く<奴ら>に対し、既に何ら脅威を感じなくなっていた。
指先で軽く撫でるだけで消し飛んでしまいそうな<奴ら>である。何を恐れるのだろうか。
人の輪から外れたとしても、自分は生きていける。生きてはいけるのだ。ただそれだけになるのだろうが。
だからその時はせめて、誰かを救ってからにしたい。
そうすればきっと、自分も救われる。そう信じたい。
・・・・・・<化け物>が救われたいとなどと願う事自体、間違いかもしれないが。

小さな女の子を救う。
素晴らしい判断である。
極めて人間的な判断だ。
だが健人のそれは理性での判断だった。心による決断ではない。<人間>を装わんとしているだけの、浅ましい魂胆による、利による判断だ。
人間の理屈ではなかった。


「いやああああ!」


叫ぶ少女の声。
<奴ら>が引き千切れた顎を大きく開けて、少女に今にも喰い掛からんとしていた。
しかし、少女が傷つくことはない。


「間に会ったか!」


庭に降り立った健人は、少女に覆いかぶさろうとする<奴ら>を背後から頭髪を掴んで引きずり倒し、踵で頭を踏み砕いた。
正直な所、健人は内心、とても焦っていたのだった。
昼間小室達と合流したように、右腕の拘束を解き、移動手段として使うべきか否かを決めあぐねていたのだ。
本当によかったと胸を撫で下ろす。
これで少女が傷ついていたら、悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
健人は少女の側へと膝を着いた。


「大丈夫か? 噛まれてないか?」

「――――――え?」


不意に掛けられた優し気な声に、少女は顔を上げた。
自分の凶貌で少女を怖がらせてしまわないだろうか。
そんな事を思いつつ努めて笑顔を作ってみた健人だったが、泣きじゃくる少女を見て諦めた。
こういうのはきっと、小室の役目なのだろう。


「よく頑張ったな。もうちょっとの辛抱だ」

「あ・・・・・・」

「わんっ!」

「そうか。お前がこの子を守ってたのか。偉いな」

「わんっ!」


少女と共に居た子犬が、嬉しそうに尻尾を振る。
健人が到着するまでの間、少女を守るように<奴ら>へと立ち向かっていたのは、この子犬だった。
痛覚も聴覚も“死んでいる”<奴ら>である。
子犬の抵抗は無意味だっただろうが、だが子犬の存在は少女を勇気付けただろう。
聞こえていた犬の鳴き声は、この子犬が発していたようだ。
お手柄だ、と健人は子犬の頭を撫でた。


「お兄ちゃん、後ろ!」


立ち上がりざま、後ろから近付く<奴ら>を裏拳で殴り飛ばす。
“コマ”のように回転しながら他の数体を巻きこみつつ、アスファルトに赤い汚れをこびり付かせていく<奴ら>。
拳法の技だ、などと小室達には説明していたが、違う。
右手で人を殴れば、腰が入っていなくてもこれぐらいの威力は出せる。


「ありがとうな」


ふるふると両手をふって、ぎこちなく微笑んでみる少女。
人が吹き飛ぶ光景など初めて見たのだろう。
現実感の無さに困惑している様子だった。
これが夢であればどれだけ良かったかとは、健人も何度も思ったことである。

少女の手をとって立ち上がらせる。
強い子だ、と健人は思う。涙は止まり、腰も抜けていないようだった。しっかりと自分の脚で立っている。
おいで、と少女は子犬を胸に抱きしめ、周囲を見渡した。
音も無く少女の元へと駆けつけた健人だったが、子犬の少女の泣き声に釣られた<奴ら>が集結しつつあった。


「ありすたち、死んじゃうの?」

「いや、死なないさ。だって、ほら」


ありす、と名乗った少女に、健人は顎で<奴ら>の垣根の向こうを示す。
力強いバイクのエンジン音が響いた。


「王子様が助けに来てくれるからな」


<奴ら>の隙間を縫うように現れたのは、バイクにまたがった小室だった。
引き倒し、巻きこんでは滑り込むように門から庭へと突入。
そのまま健人が潰した<奴ら>に乗り上げ、転倒して停止した。


「よう、鉄馬に乗った王子様。イマイチ締まらないな」

「はは・・・・・・マンガみたいにはいかないですね。それに俺の出番はもう無さそうですし」

「いや、これからだよ。ここから出ないと」


行くは良いが帰りが怖い。
開け放しになっていた門を締め直す。直に破られるだろうが、多少の足止めにはなるだろう。
これで庭に残ったのは、小室、健人、ありすと数体の<奴ら>。
小室に2、3体を任せるとして、後は自分が掃除すべきか。
任せられるか、と小室を見やれば――――――銃声。
リボルバー拳銃を<奴ら>の口内に突っ込み、引き金を引いている小室の姿があった。
ためらいが無かったことから、もう“筆降ろし”は済んでいたのだろう。


「やるな。こっちはあらかた終ったぞ」

「すみません、先輩。音が・・・・・・」

「いいさ。それにあれだけ派手に登場したんだから、今更なあ」

「うっ、それを言われると。それで、どうやってここを出ます? <奴ら>に囲まれてますし」

「道路じゃないとこを逃げたらいいのに」

「空でも飛べってのか・・・・・・」

「いいや、この子の方がよっぽど賢いぞ。俺がどうやってここまで来たか、考えてみろよ」

「どうって・・・・・・そうか、塀の上を!」


そういうことだ、と健人は頷く。
ありすは小室に背負わせて、殿は自分が努めればいいだろう。
言わずともありすを背負おうとしていた小室は、ありすに腕を引かれて振り向いた。


「パパ、死んじゃったの?」


小室は、もちろん健人も何も答えられなかった。
死というものが何なのか、理解出来ない年でもあるまい。
そも、それを口に出している。
ということは、これはきっと、確認だ。
目に涙を一杯浮かべて問うありすに、小室は何かを思い立ったように立ち上がった。
干されていた洗濯物の中から綺麗なものを選び、むしり取って、横たわる彼女の父親の顔へと掛けた。
胸には刃物による刺し傷が。急所を一突きにされている。
<奴ら>の噛み後は無く、健人達が立ち周りを演じていた庭の家の中から聞こえる物音から、恐らく彼等にありすの父親は殺されたのだろう。
小室は庭に裂いていた花を摘んで、ありすに差し出しながら言った。


「君を守ろうとして死んだんだ。立派なパパだ」

「うっ、うっ・・・・・・パ、パぁ・・・・・・」


強い子だ、と健人は再び思った。
本当はすぐにでも泣き叫びたかったろうに。


「・・・・・・あっ、あああっ、あああん!」


ありすの泣き声を耳に、また思う。
小室の才は凄まじいものがある。
人を救う才だ。
己のことで精一杯の自分では、こうはいくまい。
健人ならば、どうにかしてありすを泣かせまいと尽力するだろう。
だがありすにとっては、ここで泣く方がずっといいに決まっている。
敵わないな、と健人はありすの父の亡骸の側へと膝を着いた。
手を合わせてから、ポケットを探る。
何か形見になるような物でもあればいいが。


「ああ、あった。ありすちゃん、こっちにおいで」

「ひぐっ、うぇっ、うっく・・・・・・うん」

「君のパパが持っていたものだよ。これから先、きっとパパが君を守ってくれる」

「わんっ!」

「悪い悪い、お前が居るんだから安心だな」


健人は笑いながらありす服の襟元に、彼女の父親のポケットから探り出した襟章を刺した。
赤と白のツートンカラー。
丁度真上から見た開いた傘のようなデザインの襟章だった。
他には電池の切れた携帯電話やペン、手帳が入っていたが、身に付けられるものの方がいいだろう。
ピン止めの襟章は邪魔になれば鞄にでも刺しておけばいい。


「おいおい、メッキだと思ったら、金バッチじゃないか。ブランドものか?」

「ありがとう、お兄ちゃん」

「ああ、大事にするんだよ。・・・・・・しかしこのデザイン、どこかで――――――」

「結構高いですね、この塀。下には<奴ら>がうじゃうじゃいるし。よくここまで落ちずにいられましたね、先輩。・・・・・・先輩?」


しゃがみこんだまま、門の向こうに視線を向けて微動だにしない健人に小室は首を傾げた。
健人はずっと、ひしめき合う<奴ら>の群れを睨みつけていた。
瞬きもせず、ずっと。


「お兄ちゃん、何か、寒いよう」

「あ、ああ・・・・・・おかしいな」


ありすは背を振るわせ、小室は肘を擦る。
気温が下がった訳ではなく、体感温度が下がっただけだ。
それが何故かは二人には解らなかっただろう。
無意識に向けた視線の先には、地面から膝を話さず、目を逸らしたら負けだとでもいう風に<奴ら>の壁を睨みつける、健人が居るだけだった。


「小室」


健人の呼ぶ声に、小室は返答の代りに一歩後ずさった。
小さくありすが悲鳴を上げる。
物理的な圧力を伴っているかのような、重く硬質な声。


「ありすを連れて直ぐにここから出るんだ。絶対に振り向くな。そのまま皆と合流したら、俺の事は気にせず、行ってくれ」

「せ、先輩。何を言って・・・・・・」

「いいから、行け。行くんだ! 行け――――――!」

「は、はい!」


訳も解らずといった体でありすを背負った小室が塀に指を掛けるのと、健人が横殴りの衝撃に吹きとばされたのは、ほとんど同時だった。
呻き声を上げる間もなく背後にあった鉄製の玄関に叩きつけられ、そのまま扉を圧壊させて室内へと叩き込まれる。
立て籠っていた住民達が喚いていたが、構ってはいられない。
そのまま壁を2枚ほど破るまで勢いは止まらなかった。

腹部に鋭い痛み。
ある程度覚悟はしていたが、こんな猛烈な勢いでタックルを仕掛けられては。身体が痺れて動きが鈍る。
健人の腰にがっちりと手を回し、突進を仕掛けて来た何者か。
<奴ら>の隙間を両手足を地に擦って移動していたそれは、異様な姿をしていた。

大まかには人間の姿形をしている。それは<奴ら>も同じだ。
だが、背中に食い込む鋭い爪は。
擦り切れて襤褸同然となった衣服の下で蠢く、剥き出しの筋繊維は。
引き剥がそうと頭髪を握ると、そのまま顔面の皮ごと剥がれ落ち、異様に肥大化した脳が露出したのは。
<奴ら>とは完全に一線を画するものである。


「また会ったな――――――」


掠れる呼吸のまま、健人は唇の端を釣り上げた。
先ほどありすの父の側に膝を着いた時、<奴ら>の脚の間から見えたのは見間違いではなかった。
そして感じる、不思議な共感。
吐き気がした。
己の蠢く右腕が、お仲間が来たぞと囁いている。


「<化け物>――――――!」


吐き捨てた台詞の返礼は、顔面に向って突き出された、長い舌だった。






■ □ ■






File4:遺骸から零れ落ちた手記。

妻が死んだ。
解っていた。これは外道な研究を繰り返していた自分たちへの報いなのだと。
だがこの子には――――――私達の娘には罪は無い。
この子はただ作られただけ、いや、産み出されただけなのだ。

今でも覚えている。
幼年体観察室で、ガラス壁の向こうから私達の事を、パパ、ママと舌足らずな発音で、何度も呼んでいたこの子の眼を。
とても純粋な眼だった。
無条件で信頼を捧げる子犬のような、そんなけなげさがあった。
その瞬間に、私たちはこの子の親になろうと決めた。
会社から身を隠すのは容易ではなかったが、子を想うがこその執念で、私たちはやり遂げた。
見事にありすを連れて、逃げおおせたのだ。

研究一辺倒の私達にとって、子育ては苦労の連続だった。だがそれは充実した毎日だった。
まずはこの子に名前を付ける所から始まった。
結局決まらず、仕方なくオリジナルと同じ名を付けることになった。
それだけではない。
入学、遠足、運動会・・・・・・この子が成長する姿を見るのが、何よりの喜びだった。
そして同時に、恐怖も抱いていた。
この子と同じ顔をした子供達を、あんなに感慨もなく殺していたのだ。私たちは。
いずれ報いを受けるのだろうと、覚悟していた。
そんな薄氷の上の生活だった。
しかしこの子が健やかに暮らせるのならば、それだけで私たちは幸せだった。
そして唐突に・・・・・・世界は終ってしまった。

神よ。
これが我々に与えられた報いだというのなら、あまりにも惨いではありませんか。
この子には何の関係もないではありませんか。
成長し、恋をして、子供を産んで、老いていく。
そんな普通の生活すら許されないというのですか。
モルモットらしく無為に死ねというのですか。
あんまりではないですか。

――――――この手記を私の遺書として残します。
これを見ている誰かにお願いします。
どうか、私の娘を連れて、奴らの手の届かない場所まで逃げてください。
そして出来ることなら、いつか世界に秩序が戻された時、奴らの罪を暴いてください。
私の知る限りがこの手帳に記してあります。
世界が何故こんなことになってしまったのか、別部署に所属していた私には、それは解りません。
しかし一端でしかなくとも、この手帳を最後まで読んで下さった方には、それがどれだけおぞましいものであったか、十分に理解して頂けるかと思います。
どうかこの手記が、奴らへ対する一打とならんことを。

娘の幸せを願って――――――。

もはや数年前ですが、以下に私が参加していたプランの全容を記します。
アリ■計画■―■―――■■―――。




・・・・・・ここから先は血で汚れていて読めない。













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:5
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:f42f34ef
Date: 2011/05/21 22:34
突き出された長い舌が、頬骨を抉る。
咄嗟に首を反らして直撃を避けた健人は、しかし内心冷や汗を掻いた。
間違いなくこいつは今、眼孔を――――――急所を狙って来た。
<奴ら>とは違い、知能があるとでもいうのか。
考えたくもなかった。

舌の一撃を外した勢いで、<化け物>へと頭突き。
額から伝わったのは、剥き出しの脳らしからぬゴムの塊の様な感触。
脳が弱点であるのは<奴ら>と変わりないらしく、ダメージを与えた手ごたえはないものの、巨大な爪による拘束は解かれた。
健人は顔を顰めながら立ち上がる。
至近で浴びせ掛けられた息は生臭く、鼻が曲がりそうな悪臭だった。


「なんて醜いんだ」


蛍光灯の下で見るそれの姿は、形容し難いほどに醜かった。
猫のような威嚇音を上げる、<化け物>。
皮膚のほとんどが剥離し、健人との衝突で目も腐り落ちた、異形の姿。
代りに身体を覆うのは、発達した筋肉の塊と、肥大化した脳。
五指は腕部とほぼ一体化していて、代りに巨大な爪が生えていた。
先端がヤスリ状に変型した長い舌をくねらせながら猫のように威嚇する様は、襤褸になった衣服を纏ってはいるものの、人型というよりも四足動物だ。
骨格も獣のように変型しているように見える。
その筋と骨から生み出される瞬発力たるや、徘徊するだけの<奴ら>とは別次元である。加えて、知能らしきものも垣間見えていた。
悪夢染みた存在――――――仮に名付けるならば、なめる者<リッカー>とでも言うべきか。

軍手をズボンのポケットへ。
制服のボタンを外す。
脱いだ制服は腰に巻き付ける。皺になるな、などとこの期に及んでも呆けた思考が過った。



「――――――クソ」


悪態と共に、右腕の包帯が内圧で弾け飛んだ。
現れたのは、蠢く黒い蛇の群れ。
人の手では無かった。

ヒィ、という悲鳴。
ガチャガチャと、何か物を倒したような音。
見れば、壊れた壁の向こうからこの家屋に立て籠っていた一家の面々が、尻餅を付きつつこちらの様子を窺っていた。

一瞬、鋭い痛みが健人に奔る。
だが、それは幻覚だ。

<化け物>――――――リッカーと対峙した瞬間に、既に異形を隠すという選択肢は、健人の中から消え去っている。
力を隠してどうこうとなる程易い相手ではないと、本能が訴えていた。
異形には異形で立ち向かうしかない。


「ツオオオ――――――ッ!」


先手必勝。
拳が黒い怒涛となってリッカーに迫る。
しかし眼球が存在しないはずのリッカーは、恐るべき反射速度で拳の軌道を察知し、回避する。
廊下に、壁に、天井に、その巨大な鉤爪で張り付いては飛び跳ね、健人の視界の外へ。
外界をどのように認識しているのか健人には解らなかったが、この一撃で仕留め損ねたことが、致命に至ることだけは理解出来た。


「ぎゃああああっ!」


迸る絶叫。
断末魔の叫びを上げたのは、しかし健人ではなかった。
リッカーの乱喰い歯の隙間から飛び出した舌は、瓦礫の向こうから顔を出していた男性の胸を貫いていた。
親父、という叫びが聞こえたことから察するに、この男性は父親だったらしい。
健人の腕を見て、初めに悲鳴を上げたのは彼だった。


「く、そッ! なんてことを!」


手を伸ばすが、間に合わない。
そのままするりとリッカーは室内に侵入、身を翻し、消えた。
壁も天井も関係のない、三次元的な機動を可能としているリッカーを目で捉えることは難しい。
室内で戦うには分が悪すぎるのだ。
だが外は<奴ら>に囲まれていた。ここで戦うしかない。

倒れた男性に縋り付く、彼の家族達の姿を見る。
視界の無いリッカーが、彼を狙ったのは何故か。
リッカーが<奴ら>と同じ性質を備えているのならば、音に反応したと考えられる。穿って考えるならば、臭いか。
悲鳴を上げていたのは彼だけで、派手な音まで立てていた。
健人が攻撃態勢に入った時には、もう狙いが定まっていたのだ。ある程度の知能があるのならば、組しやすい者から消していくのは自然のことだろう。
そしてリッカーは姿を隠した。
次なる獲物を狩るために。


「誰か、首を落としてやれ。<奴ら>になりかねないぞ」


言って、背を向ける。
すまないとは言えなかった。
閉所で迎え撃つべきだ――――――健人の冷静な部分が警鐘を発する。
だが、彼等の父親の命を奪った一要因は、自分にもあるのだ。
罪滅ぼしと言う訳でもないが、彼等が敷地を囲む<奴ら>の群れから逃げられるとも限らないが、それでもせめて彼等家族を二人もリッカーの手に、否、舌にかけさせる訳にはいかない。
そう思ったのだ。

背後から、肉を潰す音が聞こえた。
ふ、と思う。
<奴ら>とは全く違う存在であるリッカー。
そう、“存在”が違うのだ。
あれは死体ではない。健人はそう思う。
真実はどうかは解らないが、しかしあれが<生物>であったとしたら――――――。
<奴ら>に噛み付かれた者がまた<奴ら>となるように、リッカーに舌で突き刺されたのならば――――――。
戦闘中であるというのに健人からターゲットを外したのは、“繁殖”のためでは――――――。

止めよう。
健人は頭を振った。これ以上は考えるべきではない。あまりにもおぞましい発想である。
今はただ、敵に備えるべきだ。
健人は拳を握り締め。


「――――――え?」


そして急に身を包む虚脱感に、膝をついた。


「クソッ、クソッ、死ねよ! 死んじまえ! 親父の仇だ! 死ね<化け物>!」


一瞬、何が起こっているのか解らなかった。
立ちあがろうともがいても、足に力が入らない。
感じる異物感に下半身を見れば、膝裏、脇腹、腰、足首に、物干しざおに括りつけられた包丁が突き刺さっていた。
立てなくなったのは、膝裏と足首の筋を切断されたからか。
健人に突き立てられたのは、手製の槍だった。
握り手は彼等、家族達が。
女性も、老婆も関係なく、健人へと憎しみの眼を向け、槍を突き出していた。


「死ねよ! 頼むから死んでくれよ! 死ねって! 死ぃねええええ!」

「あ――――――ガ――――――!」


青年が叫び、膝を着いた健人へと槍を突き出す。
穂先は健人の首後ろへと突き刺さり、頸椎を削りながら、切先を喉から覗かせた。


「が、ヒュっ――――――」


ぐりぐりと捻りを加えられ、空気が喉に入る。
薄く空いた口から、どす黒い血が迸った。
どうと身体が倒れた。
フロアリングに打ち付けられ、頬の傷が開く。
頬骨に達するまでの傷は、既に治癒が始まっていたようだった。

彼等は何かを叫び立てながら、倒れた健人の背中へと、槍を突き立てていく。
とても痛かった。
そこでようやく健人は自身の身に何が起きているかを把握した。
刺された。刺されている。

でもなぜ、と考えて、健人は気付いた。
ああ、そうだった。そうじゃないか。なんで忘れていたんだ、馬鹿め。
人助けをすれば人間のようになれるとでも思っていたのか。
彼等を守れば、人として見てくれるとでも思っていたのか。
自嘲が浮かぶ。
僕は、俺は<化け物>だったじゃないか。
それはもう、変えられない事実なのだ。
彼等の恐慌はもっともだ。
<化け物>から声を掛けられたんだ。平静でいられる訳がない。
そして、その<化け物>が背中を見せた隙も逃す手はない。
自らの生存のために、人は、<化け物>を殺さねば。


「ひ、ひひ、ひひひ! どうだ、くたばったか<化け物>め! どうだ!」

「ねえ、何あれ・・・・・・何あれぇ!」

「さっきの<化け物>の仲間か! こいつも殺してや――――――ぎひぃいいい!」


裂けた喉はヒュウヒュウと空気が漏れるばかりで、音を紡ぐことは出来なかった。
止めろ、とも言えない。
逃げてくれ、とも言えない。
健人は薄暗くなっていく視界の中、現れたリッカーが彼等家族を惨殺していく様をただ横たわって眺めるしかなかった。
健人の胸中にあったのは、ただ悔しさだけだった。

刺された事。
変わってしまった己の身体。
リッカーの無惨な仕打ち。

全てが理不尽で、悔しかった。
事を終えたリッカーが、カチカチとフローリングに四肢の爪を立てながら、近付いてくる。
何も出来ない。動けない。脳に血が回らない。

リッカーがその鋭いカギ爪でもって、健人の右腕を床へと串刺しにした。
貫通しているというのに、喉元のそれと比べれば、あまりにも小さくて鈍い痛み。
しかし一瞬意識が正常レベルまで引き戻された。だが、それだけだった。
足と足の間に身を割り込ませ、圧し掛かるようにリッカーは近付く。
吐息が鼻先に吹きかけられ、舌でベロリと頬を舐め上げられた。その舌で一撃を喰らった箇所だった。
ヤスリ状の舌が皮膚を削ぎ落とし、肉を“こそぐ”。
ざり、ざり、と肉が落とされるのを、健人はただ耐えるしかなかった。
奥歯が露出するまでなめ上げられた。
そして舌先が、健人の眼窩へとピタリと据えられる。
いよいよか、と健人は覚悟した。


「ひゅう――――――ひ、ひゅう――――――ひゅうぅ――――――」


覚悟した、というのに。
閉じかけの意識は凍りつきそうな心臓の冷たさを正確に伝え、耳は自分の鬱陶しい怯えに乱れた呼吸音を拾う。
嘘だ。
健人は眼をきつく閉じた。
死ぬ覚悟など出来ていない。
死にたくはない。死にたくなんかない。こんな所で死んでなるものか。


「ひ、ゅ、う、う、う、ううううううッ」


呻く。
これで終わりか。こんなものなのか。
ここが俺の死に場所だとでもいうのか。
さっきから激しくくり返される記憶の再生は、走馬灯なのか。

リサの温もりが蘇る。
叔父の言葉が湧き上がる。
あの女の泣きそうな笑い顔が映る。

いいのか、と自問する。
こんな所で死んでしまっては、俺を生かしてくれた人達に申し訳がたたないではないか。
俺が死ぬのは――――――。


「うううぐぐぐぶぁあああ、ああっ、ああああああ!」


血で溺れながら喘ぐ。
眼を開く。
視界が赤く染まる。
首の後ろが燃えるように熱い。
熱が広がり、全身の細胞が泡立つくらいに沸騰していく。


「ど、げ、ぇ、えええ゛え゛――――――ッ!」


ばち、バち、バチ、バチバチバチヂヂヂヂヂ――――――、と千匹の鳥が囀る様な耳障りな音が、空気中に振り撒かれる。
断続的に発生する破裂音。
健人の右腕が、その蛇の一本一本が青白く輝く程の紫電を纏っていた。

リッカーの醜い悲鳴が上がる。
異常に発達した筋肉と神経とが、電流を流され、制御不能に陥ったのだ。
全身を痙攣させながらリッカーは身体を仰け反らせた。
爪が右腕から離され、自由が戻る。
好機――――――。


「ぐううぅぅああああああッ!」


雷を放つ健人の右拳が、リッカーの顔面に炸裂した。
無理な体勢から放たれた突きであっても、異形の拳は膨大なエネルギーを発生させる。
瞬間、リッカーの頭部は破裂し、残された身体が空中を回転しながら吹き飛び、壁を突き破って行く。


「あああ、あ、あ、ぁ・・・・・・」


確認など出来ようもない。
己にとり、必死の一撃だったのだ。ましてや残心など。
身体中穴だらけにされての一撃。
しかも肺に空気がほとんど無い状態で、叫び声を上げたのだ。そんな事が出来たのは、<化け物>の身体故か。
赤く染まっていた視界がテレビの電源を落としたかのように、真っ暗になる。
身体中から力が抜け、掲げられていた腕が落ちた。

その日、健人が最後に見たものは。
血相を変えて駆け寄る、冴子の裸エプロン姿――――――だったような気がする。
床へ落ちる寸前に受けとめられた腕から、温もりが伝わる前に、健人の意識は泥のような睡魔に呑み込まれていた。






■ □ ■







File5:B.O.W.投入報告

B.O.W.『リッカー』を投入。
投入固体には、比較的人間に近い容姿のものを選択した。
始祖ウィルスでの強化はもちろん、養分の摂取時に被験体:上須賀 健人の体臭を嗅がせ、及び音声データの再生による刷り込みを続けた結果、条件付けに成功。
複数名の生存者の中から被験体のみを選択、襲撃した。
交戦中捕食、繁殖行動を優先したのは、条件付けによるものであると推測される。
また、この実験で要人暗殺をコンセプトとするB.O.W.作成に一定の結果が提示されたが、現在の社会情勢では需要は見込めないだろう。
被験体の進化に合わせたB.O.W.の投入作業を続行する。

なお、『T』については各タイプを現在調整中。
どのタイプを用いるか、指示を待つ。

追記・・・・・・。
試作型新NE-T『R.G.T』へのプログラミング不可。
廃棄を推奨。
使用の際は十分注意されたし。






■ □ ■






――――――被験体:上須賀 健人に電気的特性の発現を確認。
及び、衛星分析より頸椎内部、脊髄にコアの形成を確認。
頸椎の損傷によりコアが刺激され、今回の進化が促された模様。
現在は未成熟なコアへの負荷のため、被験体の活動は一時停止中。

被験体の右腕部はウロボロス・ウィルス侵食による形状変化であると考えられていたが、今回の反応から、ウィルスに適合した結果、効果的形態が選択されたとの分析結果が挙げられている。
根拠は、ウィルスのう胚が外見はともかく、人間の形を強固に維持し続けていることにある。
つまり、ウロボロス・ウィルスの人間型への形状変化である。
これにより不定型のう胚の利点である攻撃手段の自由度は失われているが、人間への完全な擬態を可能としている。
これは被験体の意志、つまり人間性への執着と生存への本能によって決定付けられた形であることは、言うまでもない。
外見の侵食は一時ストップすると考えられるが、内側の変化は加速度的に進むであろうと予測出来る。
事実、衛星分析より、脳の一部変異を確認している。

なお、当初予測されていた被験体の女性型への形状変化は発生せず――――――。


――――――薄暗い部屋の中。
PCの明りを頼りに、男が何らかの資料を読み漁っていた。
男の鍛え上げられた肉体は一縷の隙もなく、まるでルネッサンス時代の彫刻のよう。
黒のウェアに黒の革ズボン、黒の靴・・・・・・全身黒尽くめの威容が、金の頭髪によって更に引き立てられている。
暗闇の中でも外さない黒のサングラスは、彼のポリシー故か。

男は時折マウスを操作しては、ページをめくる。同時に二つの資料を読み解いているようだ。
しばらくしてマウスを操作する手が止まると、男はもう一方の手にあった資料をデスクの上へと放り捨てた。
その資料は大衆向けの雑誌であったようだ。
理知的なこの男に似つかわしくない読み物であったが、しかし彫像のように動かぬ顔の筋肉が、そのような冗談を挟む余地を許さない。
片手でサングラスを掛け直し思案する様子の男からは、周囲の空気が歪む程の威圧感が放出されている。
ティーン向けの女性服を扱った雑誌をただ読んでいると見せかけて、その実、じっくりとめくられていくページの中で恐るべき陰謀が企てられていたに違いない。

再び、男はマウスを操作する。
隠しファイルを呼び出し、厳重に施されたロックにパスワードを打ち込んでいく。
次のクリックで表示されたのは、『被験体』と書かれたフォルダ。
その中身は――――――衛星による健人の、数万にも及ぶ写真データが詰め込まれていた。
日付が、もうずっと何年も前からデータが記録されていることを示している。
ずっと、健人はこの人物による監視を受け続けていたのだ。

カチ、カチ、カチ――――――、と。
一定のリズムで聞こえる、クリック音。
写真はつい最近の――――――右腕が異形と化した健人を写し出していた。


「フ、フ、フ、ハ、ハ、ハ、ハ――――――」


漏れる忍び笑い。
男は独り、呟いた。


「そうだ、それでいい。進化し続けろ。我らが世界を救済するのだ、ケントよ――――――」


カチ、カチ、カチ――――――、と。
マウスの操作音。
デスクトップに、健人が海外に在住していた頃の写真が写された。
当時の包帯塗れの健人の顔を眺めながら、男は操作を続ける。


「フ、フ、フ、ハ、ハ、ハ、ハ――――――」


薄暗い部屋の中で、マウスのクリック音と、男の忍び笑いがいつまでも響いていた。















[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:6
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:34
上空。
高度にして、数千メートルを超えているだろうか。
航行中のジェット機内部で、健人達にとって知る術もない、こんな終わりもあった――――――。


「くそっ! 頭だ、頭を狙え!」

「畜生! 一体誰があの化け物を乗せたんだ!」

「ファースト・レディが噛まれてたんだよ!」


鳴り止まぬ発砲音。
黒服に身を包んだシークレットサービス達が、立て続けに拳銃の引き金を引く。
要人警護のプロである彼等が、機内での発砲という無謀を犯す理由。
彼等の銃口が狙う先は、もはや言うまでもなく<奴ら>であった。
エアフォース・ワンのコールサインが使用されているその最新鋭航空機は、今や空を飛ぶ鉄の棺桶と為り果てていた。
あろうことか自動小銃の断続的な撃発音を扉越しに耳にした合衆国議会議長は、もはやこれまでと腹を括ったような顔で、機内に設けられた執務室中央に腰掛ける男に詰め寄った。
合衆国大統領である。


「大統領! コードを入力してください!」

「しかし・・・・・・」

「私もあなたも噛まれてしまったのです! だからこそ今の内に合衆国にICBMを向けている全ての国を叩き潰しておかねばなりません!
 国家非常事態作戦既定666Dの発令以外、憲法と人民への義務を果たす方法はないのです!」


そこまで話して議長は言葉に詰まり――――――そして血の塊を吐き出し、倒れた。
周囲の人間達が倒れた議長へ“人道的処置”を施すのを眺めながら、大統領は噛み傷の跡を擦りながら呟いた。


「これは報いなのか・・・・・・」


果たして自分はあといつまで合衆国大統領でいられるものか。
考えながら大統領は手を汲み俯く。すると、卓上に並べられた資料が目に付いた。
所々に広げた傘を真上から見たような、赤と白のツートンカラーのマークが記された資料だった。
このシンボルマークを見ると、いつも思い出す事がある。


「――――――ラクーン市バイオハザード事件」


漏れた呟きは、誰の耳にも入らなかった。
いいや、ここまで来ては、いっそ誰かに聞いて欲しいくらいだった。
己の懺悔を。
今から十数年前、自分達は大きな過ちを犯している。

かつて、ラクーン・シティという、合衆国南西部にある森林に囲まれた小さな都市があった。
工場が郊外に建設されたことにより、初めは小さな田舎町でしかなかったラクーン市は、企業城下町へと飛躍的な発展を遂げることとなった。
アークレイ山地と呼ばれる山脈に面したラクーン市は、四方を山地に囲まれた山間部に位置しており、市外との交通手段はハイウェイ1本のみと企業城下町とは言え、交通インフラはお世辞にも整っているとは言えない人を拒む都市であった。
そんな陸の孤島で、ある日事件は起きた。

始まりは市井の人間による通報からだった。
それは次第に数を増し、そしてプツリと途絶えた。人の噂も何とやら、などという偶然では断じてない。交通の便もない地方都市に何故か揃えられていた精鋭達、ラクーン市警への連絡までも不可能となってしまったのである。

政府はラクーン市で何が行われているのか、早急に知らねばならなかった。
今から思えば早急に、などとその様な発想が出てくること自体、もう当時の時点であの『会社』と政府の暗部は繋がっていたのだろう。
そして調査員が十数名の犠牲を出しながらも持ちかえった映像の中に、我々は恐るべきものを見た。

人が死体となって、人を喰っていたのだ。

それを見た政府高官達の感想は――――――『使える』、であった。
彼等はそのウィルスの力を軍事利用しようと目論んだのである。
不老不死などという甘言に惑わされた者もいたらしい。
彼等はあの会社の研究結果を得るために、今後も研究活動が続けられるようにするために、あの会社が引き起こしたバイオハザードの隠蔽工作に手を貸したのである。
即ち、自国への核攻撃による、“消毒作戦”である。

当時はまだ大統領の席についてはいなかった自分だが、しかし隠蔽工作には手をかした。
いや、手をかしたどころではない。当事者だったのだ。
私はあの小都市で何が起きていたか、知っていたのだ。
“あれ”の危険性も。
兵器としての有用性も。
あの会社の残党達が、方々で同種の事件を起こしていたことも。
全部知っていたのだ。知っていて放置したのだ。むしろ、進んで隠蔽したのだ。
そこから生み出される利益を得るために。


「あの時の再来だとでもいうのか・・・・・・」


窓の下に見える我が国を見るがいい。
今まさに、あれの有機生命体兵器としての有用性が証明されているではないか。
大統領の胸中に、言いように表せない口惜しさが込み上げる。
そのまま、大統領は卓上へと込み上げて来たものをぶちまけた。
・・・・・・マホガニー調の執務机が、血の色に染まった。


「Resident Evil共め――――――!」


事実、吐き捨てて大統領は、卓上に備え付けれられている通信端末に認証キィを挿し込んだ。
核攻撃許可、及び二度目の消毒作戦の決行を指示する信号が、軍基地へと送信される。
直ぐに命令は行動に移されるだろう。
我らの、我らによる、我らのための世界を救うために。
正義は執行されるのだ――――――。

傘を開いたような赤と白のツートンカラーのマークが、吐き散らされた血によって黒く染まっていった。






■ □ ■






・・・・・・まぶしい。
まぶたに光を感じ、健人は眼を覚ました。
はっきりとしない意識の中、僅かに続く上下の揺れに身を任せる。
ここは車の中なのだろうか。


「よかった。起きたのね、上須賀くん」

「・・・・・・鞠川先生」


自分の名を呼ぶ声に眼を向けると、バックミラー越しに校医の――――――校医だった――――――鞠川静香と目が合う。
呆とした意識のまま立ち上がろうとする健人だったが、しかしそれは鞠川に止められた。
ミラー越しの目は優しく細められて、慈愛に溢れていたように思える。
彼女には失礼であるかもしれないが、健人には、もはや薄れて無くなってしまった母の記憶が鞠川に重なって見えた。


「まだ運転中なんだから、立ちあがっちゃだめ。それに、ほら」


ほら、と下げられた視線を追い、健人も自分の足元を見る。
するとそこには、健人の腿を枕に、涎を垂らしながら眠る冴子の姿が。
冴子は鞠川の友人宅台所で見た格好のまま。裸にエプロン一枚の格好だった。
眠気を覚ますように健人は目頭を揉みこみ、しばらくしてから言った。


「・・・・・・ああ、どうりで重いと思った」

「もう、だめよ。女の子に重いなんていっちゃあ」

「涎が染みて冷たいんですよ」


苦りきった健人の表情が面白いのか、まだ寝ていてもいいわよ、と鞠川はくすくすと笑った。
気まずさに窓の外を見やれば、流れる川面がすぐ近くに。川に並走しているようだ。
御別川を上流へとさかのぼっているのか。なるほど、と健人は頷いた。
上流に行けば水深も浅くなり、警察の警戒網も手薄になるだろう。
この車、ハンヴィーならば渡りきれるはず。
かすかに聞こえる寝息に耳を済ませれば、車内にメンバー全員の姿を確認できた。
ありす、と名乗った少女の姿もある。
どうやら全員、無事に脱出出来たようだ。
自分も含めて。


「毒島さんね、すごい剣幕だったのよ。誰もあなたに触るなって」


見た感じ怪我もなさそうだからよかったけど、と鞠川は続ける。


「でも安心した。上須賀くんって、なんだか他の皆と違うような気がしてたもの」
 

一瞬、健人が身を震わせたのに鞠川は気付かない。
健人は無意識に右腕を擦る。
やや窮屈な感触。制服の上から、大きめのダッフルコートを着せられているようだった。
両手には滑り止めの付いた皮のグローブが。
小室の付けている指抜きグローブと同種のフルグローブは、鞠川の友人宅から拝借してきたもののようだ。
ダッフルコートはあの民家からか。
首には裂かれた布が巻かれていた。見れば、冴子のエプロンの丈が短くなっている。これを刻んだのだろう。
流石に服の下の腕には包帯は巻かれてはいなかった。
とりあえずといった風の厚着による偽装だったが、恐らくはとっさに冴子が着せたものなのだろう。
季節感は全くない格好だった。


「無理もないわ。たった一日で世界中こんなになっちゃったんだもの。倒れちゃっても、少しもおかしくないんだから」


だから気にしないでね、との言に、健人は天井を仰ぎみて深く溜息を吐いた。
かわいい、とくすくす笑う声。
こいつはどんな説明をしたのやら、と健人は冴子を睨みつけた。
どうも鞠川は、健人が意識不明に陥ったのを、屈強な男が見せた弱みと解釈したようだ。
拗ねたように頭を掻く健人に母性本能をくすぐられているのだろう。ニコニコとした笑みを崩さず、慈愛溢れる目で健人を見つめていた。
ミラー越しに。


「さっきから蛇行してますけど、前見て運転してますか?」

「え・・・・・・あ、あらー?」


慌てたようにハンドルが切られ、ハンヴィーが傾く。
結構な横揺れ。
健人はガラスに頭をぶつけたが、誰も目を覚ますことはなかった。皆疲れ果てて、眠っているのだ。
ガラスは右隣に、冴子に押し込まれるようにして健人は席に着いていた。
これも気を使われたのか、と健人は思った。


「先生は休まなくても大丈夫ですか?」

「ありがとう。わたしは、ほら、ぐっすりだったから」

「ああ、なるほど・・・・・・」

「ち、ちがうのよ! 普段はあんなにだらしなくなんかしてないんだから!」

「ええ、解ってますよ、先生」

「むぅー! ぜったい解ってないー!」


苦笑しつつ、健人は目を閉じた。
眠気からではない。
まどろみに逃げるのは止めよう。
もういい加減、認めなくては。


「ぐ――――――っ」


喉奥に感じた違和感に咳をすると、吐き出されたのは血の塊だった。
半固体化しているドス黒い血の塊を見て、健人の意識は完全に覚醒する。

そうだ。
自分はあの夜、化け物と戦ったのだ。
そして後ろから――――――。


「どうしたの? 風邪ひいちゃったの? お熱計る?」

「い、いえ。大丈夫です」


動揺を車の振動で誤魔化して、健人は答えた。
吐き出した血で汚れた掌をズボンに擦り付ける。
どうせ血みどろなのだ。気付かれはしまい。

深く息を吐いて、シートに身を沈める。
膝元で冴子がううん、と呻き、寝がえりをうった。
エプロンからは形のいい乳房が零れおちていたが、健人には何の感想も抱けなかった。
何も考えられないまま、エプロンの裾を直して隠してやった。
今この時に健人の頭を占めていたのは、昨晩、自身の身体を付きぬけた刃物の冷たさと、熱さである。
くそ、と健人は誰にも悟られないよう、小さく悪態を吐いた。
喉は、舌も正常に動く。
一晩で全身の傷は完治してしまっているようだった。
手も足も、別段変わった様子はない。全ては元のまま、化け物のような右腕が、服の下で蠢いていた。
そう、元のまま。
浸食が進んだ様子はなかった。


「――――――いや」


違う。
それは見た目だけだ。
今健人が感じている纏わり付いて離れない不快感を表すならば、身体の内側を蛇が這いずるのに等しい。
首、脊髄から侵入した黒い蛇が脳髄の端に喰らい付く――――――そんな感覚。
身体を内側から喰い荒すつもりか。
明らかに、力の行使の代償だった。
右腕の力を使えば使うほど、自分は化け物に近付いていく。
そして、いずれは――――――。


「――――――何を、今更」


健人は自嘲的になることで絶望を誤魔化そうとした。
しかし、それは失敗した。
震える身体は、健人の内心を顕著に表していた。


「くそ、止まれよ、ちくしょ・・・・・・」

「あ・・・・・・けんと、く・・・・・・?」


膝の震えが冴子に伝わったようだ。薄らと彼女は目を開けた。
しかし覚醒には至らないようで、そのまま目を閉じてしまった。
所在なさ気に降ろされていた健人の右腕を、そっと握りながら。


「だいじょうぶ・・・・・・だいじょうぶだから・・・・・・わたしがそばにいるから・・・・・・」

「・・・・・・まだ早い。いいから寝てろ」

「うん――――――」


そのまま静かな寝息が聞こえ始めた。
寝ぼけていたのだろう、幼く聞こえた彼女の口調に、健人は微笑みながら顔に掛かる髪を避けてやった。
彼女が起きていたら、決して出来ないことだった。

思う。
いつか必ず、力を振るい続けなければならない時が来るだろう。
そして、自分は完全な<化け物>となってしまうのだ。
今は未だ“自分”だが、これからも自分が自分でいられる自身は、無い。
<奴ら>のように心を失い、人を襲い始めるかもしれない。
身も心も、<奴ら>よりも性質の悪い<化け物>に為り果ててしまうかもしれない。
生き抜いてやるとは誓った。
だが、健人が生きるには、人を捨てなければならない。
理由が必要だ、と健人は思った。これまで固持し続けてきた<人>を捨てるには、何か大きな理由がなくては、出来ない。
だが同時に、その時に彼等がどんな反応を示すのか、恐怖も抱いていた。
どうか、出来ればその瞬間には、後悔の無い選択をしたいと願う。
健人の手の震えは、いつの間にか止まっていた。






■ □ ■






「川くーだりー♪ 漕げ漕げ漕げよ、ボート漕げよー♪ らんらんらんらん川くーだりー♪」

「上手いな。将来は歌手になれたんじゃないのか?」

「えへへー、ありすえいごでもうたえるよ」

「すごいねぇ、唄ってみてよ」


歌に相の手を打ちながら、健人は笑った。後の相槌を入れたのは、平野である。
オーディエンスは男二人、歌手は希里ありす。
昨夜、健人と小室が救いだした少女だった。
うなされて飛び起きたありすを宥めるため、平野と共にハンヴィーの上部ハッチを開け、三人で横並びにルーフに腰を掛け座っていた。
日も昇り、朝。
一向を乗せたハンヴィーの、御別川上流渡航中の一幕である。


「Row,row,row your boat――――――」

「発音、上手いな。誰にならったんだ?」


言ってから、健人はしまったと口を噤んだ。
平野が額を押さえて、あちゃあとでも言いた気なジェスチャーをしていた。
誰に習ったか、など。両親に決まっているだろう。
両親のいない健人には、口にするまで考えが及ばなかったのである。
健人にいたのは、叔父ただ一人であったために。


「パパとママだよ!」


予想した通りの回答を、しかしにっこりと笑って答えたありす。
本当に強い子だ。そう健人は思った。
夜中、飛び起きる程の苦痛を感じているというのに、それを表に出そうとはしない。
健人は何も言えず、くしゃくしゃとありすの髪をかきまわした。


「・・・・・・そうか。いいパパとママだったんだな」

「うん! Row,row,row your boat――――――」

「上手いよなあ」

「ですねえ。よーし、じゃ、今度は替え歌だ」

「うん!」


今度は平野が唄いだす。


「Shoot,Shoot,Shoot your gun kill them all now!」

「きるぜむおーる!」

「はは、お前らしいや」


撃て撃て撃てよ、みんなぶっ殺せー。
バン! バン! バン! バン! あーたまんね!
――――――とでも訳されるか。
コータちゃんすごいー、というありすの声援に、ぬふ、と満足そうに鼻息を荒くする平野。
勢い二番曲目に突入しようかという所で、バン、とルーフを叩く音にそれは遮られた。
ハッチから身を乗り出してこちらを睨みつけるのは、双眼鏡で周囲を偵察していた、高城沙耶だ。


「そこのデブオタとネクラコンビ! 子供にろくでもない歌を教えるんじゃない!」

「は、はーい・・・・・・」

「ネクラって・・・・・・。俺一応年上なんだけど」

「何よ。ちょっと顔が怖いからって、イイ気になってるんじゃないわよ! 文句あるの?」

「ないっす」


頬を引きつらせながら首を振る健人。
美人が怒ると怖いという良い例だった。
改めて、こんな彼女に好意を抱いている――――――だろう、平野を尊敬する健人だった。


「俺のことはともかくとして、俺は元の歌よりも平野の替え歌の方が好きだな。
 人生はどう言い繕おうが、所詮は儚い夢物語さ――――――なんて、死にゃあ目が覚めるのかっつうの。
 今の俺達にはぴったりじゃないか。どっちもさ。なら俺はぶっ放す方がいいや」


Row,row,row your boat
Gently down the stream,
Merrily,merrily,merrily,merrily,
Life is but a dream. 

漕げ漕げ漕げよ、ボート漕げよ。
そうっと流れを下っていこうぜ。
楽しく楽しく楽しく、楽しくな。
――――――人生は夢なんだからさ。


「・・・・・・そうね。それだけは同意してあげる」

「あらら、俺嫌われてるのかと思ったけど」

「フン! 嫌いなのはその辛気臭い顔よ」


そのまま高城は車内に引っ込んでしまった。
平野がすごいですね、などと的外れな感想を言い、ありすはきょとんと首を傾げていた。


「みんな起きて! そろそろ渡りきっちゃう!」


鞠川の警告に、ありすを身体にしがみつかせる。
平野はどうするかと目を向ければ、グリップに手と足を掛けて身体を固定し、親指を立てていた。
これで中々、見た目に反し平野は逞しい。放っておいても大丈夫だろう。
衝撃と共にハンヴィーは上陸を果たす。
小室グループは道中<奴ら>に会うことも無く、御別川横断を成功させた。


「さ、ありす。おいで」

「うー・・・・・・ケントお兄ちゃん・・・・・・」

「どうした、ほら、早く」


岸辺にいち早く車上から飛び降りた健人は、平野の手を借り、ありすを降ろそうと手を広げる。
しかしありすは中々飛びつこうとはしなかった。
平野に抱えられるまま、スカートの裾を真っ赤になって押さえている。


「あの、あの、あの・・・・・・おぱんつ・・・・・・」

「・・・・・・ああ、そういうこと。パンツが見えるのが恥ずかしいのか。でもごめんな、危ないから、我慢してくれ。極力見ないようにするから」

「あ、先輩、ちょっと僕わかりました。ありすちゃんが言ってるのはそういう事じゃなくてですね」

「そうれ――――――っと」


平野の手からありすを半ば奪うようにして、抱き上げる。


「きゃあ!」

「――――――っ」


小さな悲鳴を上げて、ありすは健人の腕にしがみついた。
右腕に触れられ、反射的にバランスを崩す健人。
その拍子にアリスのスカートがハンヴィーの突起に掛かり、捲り上げられてしまった。
健人の眼前に曝け出された、ありすの素肌。
ありすははいてなかった。


「あう、あううー・・・・・・。み、見ちゃった?」

「・・・・・・見ちゃいました」

「もう! ケントお兄ちゃんたら、もう!」

「なんかもう、色々とごめん」

「はいはい、何やってるのよもう。これだから男子は・・・・・・」


呆れた、と眉間に皺を寄せて近付いて来たのは、先ほどまで小室の側にいた宮本麗。
当の小室はというと、昨夜ありすと共に連れ帰った子犬を抱き上げて元気だなあ、などと話しかけていた。
拾った子犬の名はジークにした。
ジークとは、米軍が名付けた零戦のアダ名である。
もちろん、思いついたのは平野だ。
小さくて元気で勇気があるこの子犬にぴったりだと、満場一致で決定された名だった。


「あたしたちも着替えるから、こっち見ないでよ!」


と、宮本は男子連中に言い放ち、背を向けた。
慌てて健人達も振りかえる。
三人はお互い見やって、どこか収まりが悪い微妙な笑みを浮かべた。
にやけ顔である。
こんな時に男がする反応は一つしかなかった。
後ろを伺う勇気など、欠片もなかったが。


「そうだ、小室はこれを使えよ」


思い出したように平野が小室へと差し出したのは、一丁のショットガン。
イサカ、と呼ばれるポンプアクションの銃である。
上部にはドットサイトが装着されていた。


「だから、使い方が分からないって・・・・・・。バットの方がましだよ」

「いや、バットは俺が貰おう。お前は平野の話を聞いとけ」


小室へと、平野はポンプアクションを作動させて見せる。


「これでショット・シェルが送り込まれた。あとはサイトとターゲットを合わせてトリガーを絞る。それで頭は吹っ飛ばせる。
 練習してないから近くの<奴ら>だけにしておいた方がいい」

「弾が無くなった時は?」

「こうするとこのゲートが開くから、こうやって押し込めばいい。普通は四発、薬室に一発こめたままでも五発しか入らないから気を付けて。
 それからこの銃はもう一つ特徴があって・・・・・・」

「一度に聞いたって分かんないよ」


仕方なさそうに小室は銃を抱え、平野から離れた。話はこれで終わりだ、という意思を態度で表していた。


「いざとなったら棍棒がわりにするさ」

「・・・・・・」


俯く平野。
健人は仕方ない、と肩をすくめた。


「口でどれだけ教えた所で、必要に駆られなければ覚えられないさ。銃は撃って覚えるもの。違うか?」

「・・・・・・はは、その通りですね、先輩」

「小室も、悪いと思ってるんなら戻ってこい。ただし、振り向かずにバックでな」

「う・・・・・・はい。ごめんな、平野」

「いいよ。使ってみないと分からないよね、やっぱり」

「そうだな。どうやったって使わざるを得ない事態になるさ。これから先、絶対に」


無意識に、拳が握られているのに気付く。
健人は天を仰いでゆっくりと指を解いていった。
背後では、どれにしようかなあ、サイズがないぃー、先生のそれ反則ですよ、などという声が聞こえてくる。
見るな、と言われれば意識してしまう訳で、健人達には衣擦れの音が余計に大きく聞こえるのだった。


「いやさ、気のせいじゃないんだけどなあ、これが。聞こえすぎだろ」

「どうしましたか? 先輩」

「いいや、何でも。それよりも見るななんて言われると、よけいに音が聞こえるよなあ。あ、いまホックを外した音がした」

「先輩、よく聞こえますねそんなの。でも、まあ、声とか色々聞こえちゃうってのは、否定できないっていうか」

「だろ? あといい加減先輩っていうのは止めようぜ。俺かあいつか解らなくなる。二人ともさ、俺のこと名前で呼んでもいいぜ。俺も好きに呼ぶから」

「でも」

「今更だろ。学校なんてもう無くなったんだ。それにこれから、年がどうとか、何の意味もなくなる」

「そう・・・・・・ですね。うん、解ったよ、健人さん」

「じゃあ、僕は健人先輩で」


前から順に、小室、平野である。


「ならばこれからは健人――――――くん、と呼ばせてもらっても」

「お前は駄目に決まってるだろうが馬鹿野郎」


ノ―タイムでアスク。
いつの間にか横に並んでいた冴子へと、最後まで台詞を言わせることなく間髪いれずに答えた健人。
つれないな、と肩を落とした冴子は恨みがましい目で健人をねめつけていた。


「なんだよその目は。俺が何かしたのか?」

「別に、何も。ただありのまま起こったことを話すと、私は上須賀君の膝を枕にして寝ていたと思ったらいつのまにか小室君に入れ替わっていた、というだけだ。
 何を言っているのか解らないと思うが、私も何をされたのか解らなかった。恥ずかしさと悔しさでどうにかなりそうだった。それだけだ。ああ、それだけだとも」

「お前、車の揺れで横倒れになったんだろうなー、とか思ってたら確信犯だったのかよ。いい加減にしろよコラ」

「解っている。女たるもの、慎みを持たねばな」


本当に解っているのだろうかこいつは、と疑問に思う健人だった。


「おにいちゃん!」

「うん?」


ありすの声に振り向けば、着替えの終った面々が。
もう大丈夫です、とスカートの端をひらひらとさせるアリス。もう下着を履いているというアピールなのだろう。
高城は胸元を開けたジャケットにスカートと、私服風にアレンジしていた。
鞠川はほとんど変わってはいない。サイズが合わなかったのだろう。長めの布を腰に巻き、スカートにしていた。
もちろん冴子も、健人達の元に現れた時には着替え終っていた。制服姿は変わらず、スカートをより動きやすいスリットの深いものへと変えていた。
足にはガーターベルトと黒のストッキングが。少し赤くなってスリットを引っ張るのは、大胆にし過ぎたと自覚しているからだろうか。
そして一番変貌を遂げていたのは、宮本だった。
健人達と同じく上下共に制服姿ではあった。しかし、身につけられていたものが重々しく異彩を放っている。
彼女は鞠川友人宅で発見した肘膝用のサポーターに、保持用のガンベルト。
そこに繋がっていたのは、Springfield M1A1スーパーマッチ。
物々しい格好を見て、小室達はあはは、と乾いた笑いを上げた。


「なに? 文句ある?」

「いや、似合ってるけど・・・・・・撃てるのか、それ?」

「平野君に教えてもらうし、いざとなったら槍代りに使うわ」

「それがいいだろうさ。俺も銃は使えるけれど、平野・・・・・・コータの方が教えるのに向いてる。で、どうよコータ」

「あ、使える使える使えます! それ軍用の銃剣装置ついてるし、銃剣もあるから!」


コータ指導の下、長い銃口の先端に銃剣を取りつける宮本。
そうして皆の戦闘準備は完了した。
・・・・・・その時は、皆誰もがそう思った。

男メンバー三人は一気に土手を駆け上がり、周囲を警戒する。
小室と平野は銃口を背中合わせに向け、二人を援護する形で健人はバットを構えた。
数日前の健人ならば、手の内にある鉄の棒に大きな安心感を抱いていただろう。
しかし、今の健人にとってバットなど飾りのようなものだ。綿棒にも等しい。


「クリア!」

「<奴らは>いない!」

「いっくわよー!」


小室の合図に従い、ハンヴィーは加速。
一気に土手を駆け上がり、アスファルトにタイヤ痕を残しながらドリフトし、停止した。


「なんでハンビーであんな動きができるんだ・・・・・・?」

「さあ、苔とかで滑った、とか? それよりも俺は先生が目を瞑ってたのが怖いよ・・・・・・」


残りのメンバーも土手を上がり、周囲を見渡す。
<奴ら>姿は無かった。
双眼鏡で周辺を警戒していた高城が、何をかを考え込むようにして言った。


「川で阻止できたわけじゃないみたいね」

「世界中が同じだとニュースで伝えていた」

「ニュース?」

「ああ、そうか上須賀君はテレビを見ていなかったな。そう、世界中が<奴ら>で溢れ返っていると報道されていたよ。
 パンデミック、というやつだそうだ」

「感染爆発か。世界中、同時に?」

「ああ、それも同じ日に」

「へぇ・・・・・・」


どうだかな、と健人は内心呟く。
同日に、という辺りが臭い。
死体が歩き回るという現象が、何かの感染症であるというのも確証は持てないが・・・・・・しかし、その線が最も確率が高いだろうか。
それは、<化け物>から蛇を感染させられた健人にとり、大いに実感できることである。
だが、もしこれが本当に感染であるのだとしたら。
同時多発的な発生など、有り得るのだろうか。
人為的なものではないのだろうか。
そこまで考え、健人は頭をふった。
よそう。
考えた所で無意味なのだ、こんな問題は。
現象に理由を求めるのは、安心を得たいがため。
こうなってしまった理由を確かめることなど、素人には不可能だ。
今考えるべきは、生存への方法である。


「でも、警察が残っていたらきっと」

「・・・・・・そうね。日本のお巡りさんは仕事熱心だから」


宮本の問いに応えた高城は明るい調子だったが、口を開くまでの寸瞬の間が、全てを表しているように健人は思えた。


「これからどうするの?」

「高城は東阪の二丁目だったよな?」

「そうよ」

「じゃ、一番近い、まず高城の家だ。だけど、あのさ・・・・・・」


言い淀む小室。
分かっている、と言った風に高城は目を伏せた。


「分かってるわ。期待はしてない。でも――――――」


それでも、望みは捨てたくはない。
言葉に出ることはなかったが、高城の想いは小室に伝わったようだ。


「もちろんだ! よし、行こう!」


小室の励ますような一声で、ハンヴィーは皆を乗せ、出発した。
目指すは東阪二丁目。高城宅である。
ここからならば、十分程度で到着するだろう。
エンジン音を耳にしながら、健人は座席のシートに浅く腰かけた。


「微笑ましいな」


他の座席も空いているというのに、健人に寄り添うよう隣に陣取った冴子が指したのは、ルーフに上がった小室と宮本。
朝日を浴びながら、二人で語らっているのだろう。
時折笑い声が漏れていた。


「なあ」

「なんだい?」

「これ、やってくれたのお前だろ?」


これ、と健人が掲げたのは、ダッフルコートの裾。


「ああ。安心してくれ、誰にも見られてはいないよ。それに、触れさせても。皆には君は寒がりの冷え性なのだと説明しておいた」

「・・・・・・まあ、いいか。大変だったろ、色々とさ。服着せたり、引きずっていったりさ」

「いいや。私は楽しかったぞ。とてもな」

「・・・・・・そらよかった」

「出来ればまた私に、服を着せさせてもらえないだろうか?」

「寝ろ。疲れてるんだよ、お前」

「残念だ・・・・・・」


残念そうに眉を寄せて引き下がる冴子。
誰も彼もが、良い意味でも悪い意味でもタガが外れかけてきているな、と健人は思った。
もちろん、自分もである。
窓の外を見る。
<奴ら>の姿は見えない。
夜が明けてから、まだ一度も<奴ら>に出くわしてはいなかった。
これが本当に夢なのではないかと錯覚してしまう程に。
そんなことはあり得ないと解っていながらも、幻想に縋りつかなければやってはいけない。
救いは必要だ。
逃避でもいい。
それらはあらゆる存在に必要不可欠なものなのだ。
人にとって、そして化け物にとってでさえも。
窓の外を見る。
<奴ら>の姿は、まだ見えない。
そして、昨日あれだけ飛びまわっていたヘリや、旅客機の影も、また。
静かだった。あまりにも静かだった。生者も、そして死者の気配も感じられない程に。
健人にはそれが、嵐の前の静けさに思えてならなかった。






■ □ ■






File6:ある研究員の日記

ようやく今日の勤務が終わったぜ。まったく毎日残業残業・・・・・・いい加減にしてもらいたいもんだ。
だがまあ、やりがいはあるさ。こんな研究は他じゃあ絶対できないからな。文句は言えねえ。
さ、今日の分の日記を書いて寝ないと。明日から監視と経過報告のシフトに入らなきゃならねえ。
・・・・・・記録開始時間に3分遅れた前任者がいたが、それから奴の姿を見た者はいない。
噂じゃあボスに直々に消されたとかなんとか。
それにしたって対象はあの被検体だ。手抜きは出来ない。

あの被検体は色々とおかしい。
ウロボロス・ウィルスに適応したものは、姿はそのままに、肉体、知能、あらゆる能力が強化されるはずだ。
だが、被検体に感染したウロボロスは浸食が進んでいる。間違いなくDNAは適応しているはずなのに。
なら考えられることは一つ。
あれはウロボロスが適応したのではなく、支配下におかれているってことだ。
ウロボロスは被検体の無意識を読みとって、忠実に姿を変えたってこと。そういうことだ。
とんでもねえや。
ウィルス研究者として垂涎の存在だね全く。

思えばTに始まる始祖ベースのウィルスは、その全てが宿主の意思を多少なりに反映する性質があった。
アシュフォードやモーフィアスが顕著な例だな。
クラウザーやサドラーといった変わり種もいたが・・・・・・あいつらは除外しておこう。
つまり、だ。
何が言いたいかっていうと、始祖ベースのウィルスは、宿主の意思――――――脳電位によって操作される性質があるってことだ。
タイラントが暴走状態に陥るのだってそうだ。
あれはウィルスがタイラントの生存本能、脳が発生する危険信号に反応したんだ。
そう考えると、ウィルスがまず初めに宿主の脳を破壊しに掛かるのも頷ける。
世界中にひしめき合ってるゾンビ共は、ウィルスのリーディングに耐えられなかった奴らってえ訳だ。

感染から、DNAの適応までが第一段階。
そして宿主の脳電位によって支配下に置かれ、安定状態に入るのが第二段階。
最後に、宿主の意思によって自在に機能を変えていく進化の段階、第三段階。

第一段階が全てだとされていたこれまでの研究者にとって、第二段階以降の可能性の示唆は飛躍的なブレイクスルーだった。
もちろん全ての感染者がそうじゃないことから、ウィルスが反応する脳電位パターンがある、ってえことは誰にも想像がついたことだ。
今回の実験は優秀なDNAを持つものを見出すためのふるいと、脳電位の適応パターンを探り出すって側面もあったわけだ、これが。

結果は上々。
パターンの特定にまでは至らないが、ウィルスの暴走を抑制することには成功した。
薬剤のフルコースから解放されて、ボスだって大喜びだ。
直々に被検体に接触するプランまで立ててるっていうんだから、その入れ込みっぷりといったらもう、貴重なサンプルへの執着じゃあ説明付かないかもな。
この前もボスに報告に行った時、チャイムを何回もならしたってのに気付かず、真っ暗な部屋の中で被検体の動画データを見ては喉の奥をならしてたんだぜ。
あの鋼鉄の塊のような男がだよ。
その時は恐ろしくなって逃げちまったが、数時間後に報告があったと思いだして戻ったら、まだPCの前に座っててさ。
いやあもう、恐ろしいったらなんの。
ありゃあきっと、俺みたいな小物にゃあ考えもつかないようなトンデモねえ計画を立てていたに違いねえ。
世界中に改良型のTをばら撒くようなお人だからなあ。
ま、あのボスにああまでさせる被検体が特殊ってことだな。
なんてったって、脳電位特殊適応型。
流石は最後のウェスカーだ。

――――――おっと、ここまでにしておこう。
未確認の情報は価値がない。
噂を信じちゃあいけないな。うん。科学者として
プライベートスペースでの書き込みだが、どこに目があるか解らねえしよ。
王様の耳はロバの耳ー。
ウェスカー計画なんて存在しないのさー。
ただの噂なんだぜー、っと。

それじゃあ、今日の日記終わり。
おやすみなさい。

――――――しっかし先週ボスがここから、わざわざ一般の郵便網で送りだした小包。
保安検査に引っ掛からないよう処理はしてあったようだが、ありゃあ一体なんだったんだ?









[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:7
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:34
ハンヴィーが巨体に相応しいエンジン音を吹かしながら、町の中を行く。
昨日までは人々の団欒の声で賑わっていたはずの町は、今は静かに潜まり返って、不気味だった。
これだけ派手にエンジン音を立てているというのに、奴らの姿は一体も見えない。
あけられたハッチからルーフに出ていた小室と宮本の、それを喜ぶような声が聞こえた。
「微笑ましいな」思わず口をついた言葉に、「そうだな」と低く、それでいて良く透る返答があった。
嫌っているのだろうに、自分の独言に付き合ってくれた彼の人柄を想い、冴子は頬が緩むのを止められなかった。「微笑ましいな、本当に」もう一度口を突いた言葉に、「ああ、そうだな」と、またもう一度返答があった。


「上須賀君」

「何だよ」

「君は優しいな」

「・・・・・・何なんだよ、本当に」

「いいや、何でもないさ」

「何でもないなら寝てやがれ」


気のない返事を返し、それきり窓の外へと顔を向けてしまった彼の体温を右隣に感じながら、冴子は静かに目を閉じた。
眠気は無い。これは癖のようなものだ。
一刀をして我、我をして一刀。
自らが剣であるというのならば、これは剣を鍛えるのに等しいだろうか。
言ってしまえば何も珍しくはない、唯の瞑想なのだが。
不覚にも昨晩は動揺してしまい、今朝になるまで集中を欠いていたが、今後、油断を晒すのはまだしも、覚悟まで放り出してはならない。常在戦場の心持ちでいなければ、生き残れないだろう。
深く己の内に潜り、自らを見つめ直す。
・・・・・・おぞましいものが見えた。
未熟な身では一刀如意の境地には至れずも、刀を打つ事は止めてはならない。それは解っているが、だが、こんな邪念によって振られる刃など――――――。

その時になって初めて、冴子は自らの手が小さく震えていたことを自覚した。
よせ、震えるな私の手よ、止まれ。
両手を握りしめ、震えを止めようとしたが、効果はない。
段差を乗り越えたハンヴィーの揺れに任せるよう、彼に僅かにもたれかかる。彼はちらりと視線を向けたが、そのまま何も問わず、また窓の外を何とは無しに見つめていた。
自嘲に頬が釣り上がりそうだった。
今、自分は、縋ったのだ。
同じ醜さを抱える身として、彼を引き合いに出したのだ。
彼をして、自分はまだマシだなどとでも思いたかったのか。何と浅ましい女よ。程があるだろう。
自分など想像にも及ばぬほどに、それこそ、彼の苦しみは想像を絶するものだというのに。
いったい彼はどれ程の絶望を抱えているのだろうか。冴子は昨晩の記憶に耽る。

あの時、民家に一番に踏み入って見たものは、自身の流したドス黒い血溜まりに沈む彼と、滅茶苦茶に崩れた壁。そして、獣に襲われたかのように引きちぎられた、民家の住人達の死体だった。
こんな短時間で、この場で一体何が行われていたのか、それは解らなかった。
だが駆け寄って彼の体を改めれば、おおよそは想像が付いた。
深い刺し傷。
後ろから刃渡りの浅い刃物によって、おそらくは包丁を物干し竿にでも括り付けたのだろうか、貫通力を増した獲物で滅多突きにされていた。
喉は、真後ろから喉仏までが真一門に裂かれていた。先端から鈍い刃が覗いていたのは、引き戻す際、脊髄に引っかかって折れたのだろう。
交戦の形跡だろうか。ならばこの家族は、彼が――――――。
いいや、違う。戦いの最中、彼が背中に不覚傷を負うなど考えられない。
全く注意を払っていなかったのだろう。そして、刺されたのだ。

倒れ臥す彼の姿に、天地が失われたような感覚がした。
だが、体は動く。
玄関に奴らが殺到する気配と物音が聞こえた。それに合わせ、小室達の叫び声と、銃声も。退路が絶たれたが、むしろ都合が良いと思った。これならば、誰の目に付く心配はない。
彼の体を担ぎ上げる。バラバラと破片が崩れて落ちた。凝固の始まった血液だった。粘性の高い血液が、流れ出てすぐに固まるなど、ありえなかった。しかし、奇妙さと同時に希望が湧く。これならば、問題はないかもしれない。
寝室に当たりを付けて、引きずり込む。
ベッドに仰向けに寝かせ、電気を付けた。
そこで努めて見まいとしていたそれが、白日の――――――白色灯の下に晒された。
その瞬間に、喉元にまで出かかった悲鳴を呑み込んだ自分を、冴子は誉め讃えてやりたかった。
たった半日であるとはいえ、世界が壊れ、人の醜さ、おぞましさを少しは知ったと思っていた。元より、それらと自分とは長い付き合いである。
だが、そんなものは所詮人が元来持った性である。
これは、それらとは全く隔絶している。次元の違う異物だ。
邪悪が、相応しい異形となって顕現したのならば、このような造形になるのだろう。
視覚から圧し固めた悪意がずるりと入り込むような、そんな感覚。

不意に背を叩かれ、慌てて木刀を向ける。だが、背後には何者も居なかった。知らず、後ずさりをして、壁にぶつかってしまったのか。
馬鹿な。頭を振って、建人の腕を取ろうと近付く。しかし手は固まったようにして動かなかった。蠢く建人の右腕に触れることを、本能が拒絶したのだ。
それを生理的嫌悪という。
冴子の本能は、彼を別種の敵性生物であると捉えたのだ。


「・・・・・・ふざけるな。私は毒島の娘。傷ついた男に手を差し伸べずして、何が女か!」


己に喝。
黒い蛇が寄り集まったような異形を掴む。
それは思ったよりも弾力があり、太いゴムのような感触だった。
確か、建人はこれに手袋をはめて隠していたか。
エプロンのポケットから、鞠川の友人宅から拝借した皮手袋を取り出す。
異形の右腕は冴子の行動に呼応したかのように収縮し、人型へと落ち着いた。
「いい子だ」そう言って表面を撫でれば、波打つ反応が。正直に言えば触れるのには無理をしていたが、これも彼の一部だと思えば、可愛さも感じた。
何とか右腕に皮手袋を付けさせ、彼の腰に巻き付けてあった制服を着せる。
何か役立つものはと寝室のクローゼットを開ければ、クリーニングのビニルに包まれたままの、サイズの大きなダッフルコートが。これも建人に着せた。まだ肌寒いが、この季節にこれだけの厚着は不自然だろうか。いや、たかが厚着だ、いくらでも誤魔化しは利く。首元はエプロンの裾を裂いて簡易包帯とし、それを巻き付けた。
大急ぎで建人の外見を取り付くろった冴子の耳に、異音が聞こえた。
玄関に殺到した奴らによって、家屋全体が軋んでいるのだ。
致し方無し。冴子は建人を抱え、窓を破って外に飛び出した。立地上、この家屋の正面に<奴ら>は集まるしかなく、左右は手薄のはず。
目論見通り、<奴ら>のいない空白地帯に冴子達は墜落した。ガラスで肌を切らなかったのは、幸運と言う他はない。
気絶していた建人は受け身を取れなかったが、これも問題はないだろう。下が柔らかい土壌だったこともある。
何せ、服を着せている間に、あれだけの刺し傷がもう塞がりつつあったのだ。致命傷のはずが、見る間に回復していく光景にまた驚愕を覚えた。これならば、夜が明ければ全ての傷は完治してしまっていることだろう。
平野の援護を受けながら包囲を抜けた二人は、急ぎハンヴィーに飛び乗った。


「た、大変! 上須賀くん、怪我してるの!?」

「いいえ、よほど怖い目に会ったのでしょう。眠っているだけです」

「でも・・・・・・」

「触るな! 誰も彼に触るんじゃない! 彼のことは私に任せて頂きたい! 先生、どうか運転に集中を」


冴子の剣幕に、身を乗り出そうとしていた鞠川は面食らって引っ込んだ。
どちらにしろ、今は治療など出来ない。
プロと言えど、確認しなければ負傷の度合いも解らないだろう。ましてや、元より血みどろだったのだ。
バックミラー越しに小室と救い出された少女の様子を確認し、鞠川はハンドルを握って、アクセルを吹かした。


「その、上須賀くん、汗かいてるように見えるんだけども、そんな厚着は・・・・・・」

「大丈夫です。実は彼は、極度の寒がりなのです」

「寒がりって・・・・・・そうなの?」

「そうなのです。彼が噛まれていないことは私が保証します。ご安心を」

「ならいいんだけど」


どこか釈然としない様子ながら、鞠川はアクセルを踏み込んだ。
つい先程まで仄かな明かりを湛えていた部屋が遠くなり、曲がり角の向こうに消えた――――――。


「――――――そういえば」


唐突に虚空に投げられた建人の問いに、冴子は現在に復帰する。


「このメンバーの目的って、家族の無事の確認・・・・・・でいいんだよな? それで、一番近い高城の家から順に回って行くことになったと」

「ええ、そうよ」


「いまのところは」と、高城が強気な声で答えた。


「別に近さで決まっただけだから、あんたの家族の所在が近いのなら、小室達と相談してそっちから先に回ってもいいわ」

「いや、俺に家族はいないから、いいよ」

「え・・・・・・」


あっさりとした健人に、流石の高城も言葉を失う。
プライドの高い高城のことだ。どう言ったらいいものか、解らないのだろう。
そんな高城の様子に、「今更だろ」と健人は苦笑した。


「小さかった時の事だから、もう覚えちゃいないよ。まだ世界がこんなになる前に別れを済ませられたんだ。マシな方だろ?」


ちら、と健人は後部座席に座っているありすに視線を向けつつ言った。
ありすはジークと遊ぶのに夢中なようで、こちらの話は聞こえてはいないようだった。
天才的な頭脳を持つ高城は、別段他人の感情が解らないというわけではない。
それだけで理解したようで、「そうね、今更よね」と、納得したように頷いた。


「それに天外孤独、って訳でもなかったさ。俺には叔父さんがいたからな」

「おお! あの元特殊部隊隊長の!」

「お、おう。喰い付きがいいな。コータのとこと同じで海外にいるんだけど、まあ、あの人は大丈夫だろ。やられてるイメージが全く浮かばない」

「おおー! 鋼の男だー!」

「俺も子供のころは、この人実は人間じゃなくてターミネーターか何かじゃないかって思ってたからな。ロケラン打ち込まれたってケロッとしてるに違いない」

「溶鉱炉の中に落とされても?」

「煮えたぎった溶岩の中に放りこまれても」

「すげぇ、流石はエリートソルジャー! I'll be back!」

「あいるびーばっく!」


ありすがシメ、平野と健人は二人してニヤニヤと笑う。
女性陣はまたか、と呆れ気味の表情だった。


「そうか。上須賀君は、叔父さんのことを信じているのだな」

「ああ。信じてるなんてとんでもない。あの人は俺の神様だよ」

「あ・・・・・・」

「どうした?」

「い、いや。何でもない」


かつて、これほどまでの笑顔を彼から向けられたことがあるだろうか。
彼が自分に向けるのは、苦り切った表情しかなかったように思える。
初めて見た健人の頬笑みを、何故か真っ直ぐに見返すことが出来ず、冴子はエプロンの裾を握りながら俯いた。


「でも、そうだな。目的地に急いでいないならいいか。お願いしたいことがあるんですけど。先生」

「なあに? どこかに行きたいの?」

「いえ、そこの交差点を左に曲がって、少し行った所の郵便局に停めてほしいんです」

「んー、ルート的にはそんなに距離も変わらないからいいけど・・・・・・。どうしたの?」

「いえね、この辺り、俺が住んでるマンションがありまして。実は昨日、俺の誕生日だったんですよ。
 毎年誕生日には、その郵便局に叔父さんからエアメールが送られてくるんです」


「恥ずかしいですけれど、誕生日プレゼントってやつです」と、そう少し赤くなって頬を掻く健人に、鞠川は目を輝かせた。


「まっかせて! 丁度二丁目に行く途中だし、大丈夫よ」

「ありがとうございます。いいかな、高城?」

「だから、別にって言ってるでしょ、もう」

「ありがとう。小室達に言ってくるよ」


喜色を隠しきれず、浮ついた足取りでハッチに昇る健人。
誕生日の件も本当は皆に合わせるため、隠していたに違いない。
健人が素朴で謙虚な少年なのだと気付いた女性陣は、ありすまでもくすくすと笑っていた。
彼は本当に叔父を愛しているのだろう。
そして、彼の叔父もまた、健人を大事に思っているのだろう。
冴子は頭上から聞こえる叔父を語る健人の声を聞きながら、少しだけ彼の叔父のことが羨ましくなった。






■ □ ■






「・・・・・・あんたの叔父さんって、何者?」


頬を引きつらせながら高城が健人に聞いたのは、道中にあった郵便局へと立ち寄り、配達棚から健人宛ての小包を発見しその中身を検めた時だった。
この目付きの悪い男がくまのぬいぐるみでも貰うのか、などと興味本位で覗きこんだ高城だったが、盛大に冷や汗を流すことになった。
小包は国際郵送で届けられていて、段ボール箱に数点に小分けされていた。全部で計4つある小包は、そのどれもがずしりと重い。
中身は何だと封を開けて見れば、そこにはジェラルミンのケースが。
海外郵送とジェラルミンケースという組み合わせに嫌な予感がした高城だったが、好奇心には勝てず、慣れた手つきで健人がダイヤルを回すのを待つ。
ロックが外され、蓋が開けられると、其処に収められていたのは、分解された何かのパーツ。
この独特の形状は、紛れもなく、拳銃だった。
3つのケースには、それぞれ特徴のあるフレームとパーツが。
残る一つのケースには、グリップの基部が二丁分。そして実包が収められていた。


「鞠川先生の友達さんみたいなもんだと思ってもらうしか」

「あんたね、これ国際郵便よ? 実包まで入ってるじゃないの」

「んー、この前メールで日本に居るとたまに実銃が撃ちたくなる、って書いたんだけど、それを真に受けたみたいだな。ちょっと天然入ってるからなあ、叔父さん。
 マジに送ってきちゃったか。へえ、このケース、特殊処理がされてるのか。中身が別の画像にすり変わるようになってるみたいだ」

「・・・・・・もういいわ。目的の物は見付けたんでしょ。じゃあさっさと行きましょ」

「そうしよう」

「ちょっと! 全部持っていきなさいよ!」


高城が眉根を寄せたのは、健人がケースの半分を床に置いたままにしたからである。
肩をすくめながら、健人は仕方が無いだろうとでも言いた気にしていた。


「好きな組み合わせにして、後は捨てろって手紙にも書いてあったし」

「いや、だからあんたそれ、一丁分しか持っていってないじゃないの!」

「二丁拳銃にしろってか。無理があるだろ。ニューヨークリロードしようにもそれぞれがカスタム銃だから癖が強くて扱えないし。
 でも、そうだな。捨てるのはもったいない、か。コータ、残りいるか?」

「ええっ! くれるんですか!」

「いいよ。ただし弾は一発だけな。もしもの時のために持っておくといい」

「もしもの時って・・・・・・」


こめかみに指で作った銃をあて、ばあん、と弾く真似。
そのジェスチャーで平野は全て理解したようだった。
平野はありがとうございます、と最初は神妙な様子で健人から残りのケースを受け取ったが、次第にテンションが上がり、歯止めが利かなくなっていったようだった。


「ベレッタM92Fをベースにしてるのか。弾薬は9mmパラベラム・・・・・・そうか、携行と調達を考慮してあるんだな。
 フレームを見る限りじゃあSMG共通の強装弾が使用可能。耐久性もばっちりだ。きっと三千発撃ったって命中精度はそう変わらない。
 スライドロックはブリガーディアスタイル。グリップはラバーと木製のハイブリット・カスタムか。
 装弾数も、サイトも、重量だって全部がフルカスタマイズされてる。ベースはベレッタだけど、市販パーツの組み合わせじゃあ絶対再現できないぞ、これ。
 こっちのケースは銃撃戦を重視したモデルで、こっちは精密作業に邪魔にならないよう、取り回しを良くしてあるのか。
 凄いぞ! 特殊部隊仕様じゃないか! マジパネェっす!」

「・・・・・・なんていうか、俺も訓練は受けたけど、お前には負けるよ」

「健人先輩はどんなモデルを選んだんですか!」

「お、落ち着けよ。俺はこれ、この銀色のを選んだよ」

「このフレームはぁ! この質感、輝き・・・・・・超鋼ジュラルミンか! 拡張パーツの装着に重点を置いたんだな。
 レーザーとフラッシュライトを兼ねたモジュール装着用レールの、一体型フレーム。
 スクエアタイプトリガーガードに、ビーバーテイル、チェッカリングされたグリップ、サイレンサーまで! 
 フレームマウントタイプの大容量型。ワンタッチ脱着で操作性を増してるのか。もう超豪華仕様じゃないっすか!」

「見た目に反して隠密作戦用にカスタマイズされたモデルじゃないかと思うんだ。突入しなきゃならないシチュも視野に入れると、使うにはこれがベストだろう。
 それに、何て言うか、俺にはこれが一番しっくりきたんだ」


「だから他のはいいや」と、健人はハンヴィーに戻りつつ、座席に座って早速組上げを開始した。工具はケースの中に収められていた物を使用する。
エンジンが掛かり、再び出発。
もう直ぐに二丁目に入る頃か。
座席の後ろから、ありすが興味深げに健人の手元を覗き込んだ。
構わず健人は組上げを急ぐ。


「――――――サムライエッジ、か」


数十秒と掛からず完成した、あらゆる潜入作戦に足る機能を備えた、美しい銀銃。
銀のフレームを指で撫でながら、健人は同封されていた叔父の手紙に記されていた、この銃の銘を呟いた。
暗がりに身を潜める狼を連想させる造型美を手に、サイティングを確認。歪みはなし。次いで、弾層内に弾薬を込める作業に入る。
本来、こんな車内で銃器の組上げを始めるのは非常識だ。
だが誰も、平野でさえそれを咎めることはしなかった。
皆感じていたのだ。
――――――自分達はもう、<奴ら>のすぐ側にまで来ているのだと。
そしてそれが事実であったと、これより数分の後に知るのであった。






■ □ ■






File7:執務室に置き忘れてあった手帳。


勝ったぞクリィィィス!
見たか、ケントは私の銃を選んだぞ。
もっとも優れた銃として、私が考案したカスタマイズを選んだのだ。
二つの選択肢を与えたというのに、たった一つ、私の銃だけを選んだのだ!
優れたDNAを持つ者は、やはり優れた観察眼を持っているという事だ。
これは即ち、奴らよりも私が優れているという証明に他ならない。
素晴らしいぞ、ケント。よくぞここまで育った。
流石は我が名を継ぐ者だ。

しかし、本当に扱い易く育ったものだ。
子供というのは単純で愚かな存在だな。
ああして簡単に物に釣られ、何の疑いもなく忠誠心を高めている。単純極まる思考回路だ。
毎年毎年、誕生日プレゼントを貰っては飽きもせず一喜一憂する様は、見ていて滑稽だった。
今年は一体どのような喜び様を見せるのか、それを想像するだけで私の加虐心は満たされる。
想像に歯止めがきかず、ついつい買いすぎてしまうこともあった。
結局全て押し付けることになったのだが、その時も何も考えずに笑っていたか。
私の自己満足のためだけの行為と知らず、今もまた喜んでいるのだろう。
仕方の無い子供だ。まったく。

気まぐれに送ってやった銃も、唯のおまけに過ぎないとも知らず。
今まで私が、お前の誕生日プレゼントを当日に渡せなかった事があっただろうか。
一度も無かったはずだ。
ちゃんと記録してある。それを受け取ったお前がどのような反応をしたのかも、逐一逃さずに。
そう、第二ウロボロス計画の発動は、お前が産まれた日こそが相応しい。
その日こそ、真にお前が産まれた日とするために。
私の手によりお前は産まれ変ったのだ。
私はお前の父となり、お前は名実ともにウェスカーとして産まれ落ちたのだ。
素晴らしい記念日ではないか、ケント・ウェスカーよ!
我々による新たな秩序が築かれる日も近い。

さて、忘れてはならないのが、忠誠には報いてやらねばならんということだ。
あいつのことだ。固定観念に囚われ、人を超越した肉体に苦悩していることだろう。
何とも愚かしいことだ。私が直接出向いて、手ずから教育してやろうではないか。
待っているがいい、ケント。
お前がどんな顔をするか、楽しみだ――――――。




――――――追記する。
数時間前、BSAAのとある隊員の潜入破壊行動によって、研究プラントが潰された。
本部の場所が割れるまであと一歩の所だった。
とある、などと、決まっている。
クリス・レッドフィールド、奴だ。
私の生存を知られることはなかったからいいものを、それでも大打撃を受けたことに変わりはない。
事後処理でここにしばらくは缶詰にされる事が決まった。
おのれ、クリス・・・・・・。
貴様は何処までも私の邪魔をするのか・・・・・・。













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:8
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:35
初めは一体、ニ体。
二丁目に近付くにつれ、明らかに倍増していく<奴ら>の数。
今やハンヴィーは奴らの群の中を突っ切っていた。


「理由が・・・・・・何か理由があるはずよ!」


宮本の叫びに同意する。
進行方向に奴らが群をなしていたということは、ハンヴィーのエンジン音ではなく、別の要因に集められていたということだ。
二丁目に何かがある。誰もがそう思った。高城は気丈にふるまってはいたが、顔色は蒼白だった。
これだけの数だ。外に出ていちいち戦ってなどいられない。
このまま振り切るしかなかった。二丁目に何があるのか、それを確かめるためにも。


「だめよ、だめ・・・・・・停めてぇぇ!」

「え?」

「ワイヤーが張られている! 車体を横に向けろ!」

「駄目だ、間に合わない! コータ! しっかりありすを抱えてろ!」


急転回したハンヴィーの横腹に鋼鉄のワイヤーが食い込む。
強化ガラスの窓に顔面を押しつけられながら、建人は外の様子を伺った。
車体とワイヤーに挟まれ、細切れにされていく<奴ら>。窓ガラスにこびり付く血肉を見せぬよう、コータがありすを抱え込んでいたが、少しばかり遅かったようだ。眼をきつく瞑るありすは、その光景を見ないようにしていたというより、忘れようとしているように見えた。
だがガラス越しではなく、これから嫌でも、その眼に直に焼き付けられることになるだろう。


「先生! タイヤがロックしてます! ブレーキ放して少しだけアクセルを踏んで!」

「え? ええ!」

「先生ッ! 前っ、前っ!」

「ひえええっ、あたしこういうキャラじゃないのに!」

「車体が軋む! ガラスは!」

「大丈夫だ、割れていない!」


流石は軍用車。強化ガラスはびくともせず、罅一つ入った様子はない。
だがこのワイヤーの強度もどうだ。結構な速度で突入したというのに、綻び一つない。
外からの侵入者を拒むよう、編み込まれた構造が衝撃を吸収したのだ。
正面からでは単純な平面構造にしか見えないが、その実、蜘蛛の巣を重ねた様な立体構造となっていた。ご丁寧に、地面に巨大なペグを打って端を固定してある。これでは下をくぐり抜けることも難しいだろう。
車留めのワイヤートラップ、というよりも、奴ら対策。対人防御柵だった。
間違いなく、何者かの手によるもの。
これだけ強固な網だ、独力での仕業とは考え難い。
ならばこれを仕掛けたのは、組織だって動いている、動けている者達に違いない。
たった一日でここまでの行動力を示せる組織とは、一体・・・・・・。


「宮本が落ちたぞ!」


窓の外、転がり落ちた宮本の姿を認め、建人の思考は分断された。
慣性の勢いは確実に削がれてしまった。ハンヴィーの突破力は失われ、こうなってしまっては鉄の棺桶同然である。
負傷者一名。背中を打って、動けずにいる。健人の座席は右側、ワイヤー側にある。助けに入るには逆側の座席から出るか、ハンヴィーの上から飛び出すしかない。小室のように。
飛び降りた小室はショットガンを構え、引き金を絞った。
初弾は外したものの、平野の激を受けて次弾。数体の<奴ら>の上半身がまとめて吹き飛んだ。
初めて手にした火器の強大さに眼を剥いた小室だったが、それでも再現なく群がる奴らに何時まで通用するかは解らない。
足を止めて撃つしかないのでは、いずれ喰い潰されるだろう。
自力で動けない人間とは、とても重いのだ。
数十キロの重りを抱えて行動せねばならないと考えると、それが女性であったとしても変わりはなかった。
小室は宮本を動かすことが出来ず、その場に立ち止まりショットガンを構えた。
この場で戦うこと。それしかない。
ワイヤーを越えようとしても、後ろから引きずり込まれて終いだろう。
ハンヴィーに残っているメンバーは、最悪車を乗り捨てワイヤーを飛び越えればいいのだが、小室達を見捨て逃げようなどという考えを持った者は、ここには誰もいなかった。
救出には、生存するためにも、もはや交戦しかなかった。


「ひょぉっ、最高!」

「コータ、孝のフォローを。あの調子だ、すぐに痛い目を見る」

「上須賀君! 私達も出るぞ!」

「解ってる!」


冴子と共に車外へ飛び出すと同時、撃発音。
健人が言わずともいち早くルーフに身を乗り出していた平野が、銃撃を開始する。
案の定、小室はリロードに手間取っていた。
撃つだけなら簡単だが、弾込めには銃の機構に対する理解と知識が必要なのだ。


「聞いてりゃよかった平野式ってな。撃って覚えるだけじゃ駄目か」


戦意に漲る右腕を握り締めながら、建人は左手に銀のサムライエッジを構えた。
左右どちらでも銃を扱えるように訓練は受けている。
空いた右には宮本から譲り受けた伸縮式の警棒を持ち、CQCの構えを執った。もちろん、その構えが大たる効果を発揮する捕縛行動など端から考えてなどいない。
短刀術は健人が学んだ武技には含まれてはいなかった。
警棒は偽装でしかない。冴子の持つ木刀のような長物でもない限り、人間の頭部を砕くことは出来ない。粉砕ではなく、陥没による内部破壊を狙っての装備だった。それもやりすぎには十分に留意しなくてはならない。あくまで、良く鍛えられた人間の範疇での打撃力しか発揮できず、そして噛みつかれたのならばここから去るしかないのだ。銃撃による遠距離戦が基本となる。
セイフティを外しながら、健人はサムライエッジを構えた。
この距離だ、サイトを覗くまでもない。


「辻斬り! 一匹そっち行ったぞ!」

「せめて名で呼んで欲しいものだが、な!」

「せめてじゃねえだろ、誰が呼ぶか!」


ハンヴィーへと近付くものから優先的に撃ち抜いていく。
壁となって迫る<奴ら>は、警棒で殴り付けた。ダッフルコートのトグルは全て留めてあり、裾が翻ることはない。フードがそのままだったが、これは無視する。背後を取られるような無様はしない。
冴子の死角へと銃口を向け、トリガー。
小室は平野がフォローするだろう。宮本を助けに行くよりも、ハンヴィーの守りを固めなくてはならない。
自然、冴子と健人は背中合わせとなった。


「はは、息がぴったりだな。良いコンビじゃないか私達は!」

「冗談。合ってるもんかよ」

「つれないな! 君は、まったく!」


息を切らせ上下する冴子の肩。
髪から漂う汗と混じった甘い香りが鼻腔をくすぐる。
熱が染み込んでいく健人の肩は、ピクリとも動いてはいなかった。
この程度の運動量では、疲労を感じることさえなくなったのか。
もはや健人が全力を掛けて取り組まねばならないのは、判断そのものとなっていた。
近付く<奴ら>の内、その一体の額に小さな穴が空き、後頭部から脳漿を盛大にまき散らして倒れた。クリティカルヒット。だがマガジンが切れた。
示し合わせたように、冴子が前に出た。
駆ける冴子と入れ替わり立ち替わり、健人も警棒を振るう。
まるで舞踊のようだ、と健人は思った。
きっと冴子も同じように思っているのだろう。
回々々々と、軽やかなステップが永遠に続くような、そんな幻想を抱く。
だが、それは<奴ら>の数が一行に減少する気配がないことを示していた。
辺り一体にたむろしていた<奴ら>が、轟く銃声に呼び寄せられているのだ。
果たしてこれだけの数の奴らを相手に、逃げ仰せることが可能なのだろうか。
皆の顔に、絶望の色がよぎる。
勝ち目のない戦いだ。
――――――建人以外にとっては。


「少なくとも・・・・・・一緒に死ねるか」

「孝・・・・・・!」


抱き合う小室と宮本。
死期を覚悟しての行動、ではなかった。
初めはそうだったのだろうが、小室の指が宮本の胸に下がった長銃に触れた。
はっと気が付いたように、小室は平野へと銃の取り扱いを大声で問う。
平野もスコープを片眼で覗きながら、また大声で答えた。
撃つだけなら、知識は無くともよいのだ。
宮本の身体を固定具とし、突き出た乳房を両手で抱え込むようにして、小室は銃を構えた。


「当たらない! 当たらない! 当たらない!」


弾をばら撒くでなし、アサルトライフルでしかも無理な体勢からの射撃だ。当たりはしないだろう。


「くおッ! どこを狙って・・・・・・!」

「上須賀君! 後ろ!」

「お前は頭下げろ!」

「上!」

「右!」


もはや不思議がることもあるまい。
健人には、飛来する銃弾の軌跡が、はっきりと見えていた。
冴子が射角を判断しているのは、銃口の向きと引鉄を引くタイミングからだろう。
健人は違う。健人には、弾頭の回転さえも視認出来ていた。
優れた動体視力、などというレベルではない。世界が停止して見えた。
脳が熱い。痛覚など存在しないというのに。
視界が紅く染まったような気がした。


「健人君、手を――――――!」

「どさくさに紛れてこいつは――――――!」


射線上に健人と冴子が入り込んでいることなど、今日初めて銃を持った小室には解りはしないだろう。
いよいよ曲芸掛かった動きとなる二人。
手を握り合い、それを軸に上に下に横に縦にと回転しつつ、遠心力で加速させた木刀と警棒を<奴ら>へと繰り出していく。
お互いが離れてしまわないように握りしめた手は、右手と左手。
健人が無意識に差し出した手は、利き手の右だった。
皮手袋に包まれた五指――――――に見せかけているだけのそれに、細い指が絡められている。
背筋が冷え、視界の色が元に戻った。


「お前、俺の右手――――――」

「ああ、見た! そして君に謝らなくてはならない! 私は君に怯えた、怖いと思った! 気味が悪いと!」 

「お前・・・・・・」

「そして、怒りを覚えた! 君を恐れる私に、君を変えてしまった世界に!」


木刀を<奴ら>にむしり取られてなお、冴子は叫ぶ。


「君がどんな<人間>であったか、知っていたというのに! ずっとずっと、見続けてきたというのに!」

「もう、人間じゃないさ」


地を擦るような蹴りを放ちながら、小さく否定する健人。
それでも、と冴子は言った。


「それでも、君は君だ。健人君のままだ。優しくて、真っ直ぐな君のままだ。私の――――――私の憧れた、君のままだ」

「・・・・・・ありきたりな台詞を」

「そうだな。でも、本心だよ」


冴子が膝で打ち、健人が掌底で打ち上げる。
二人の手は離れなかった。


「だから、私は、私はもう――――――」


絶え間なく押し寄せる<奴ら>の密度が空いた隙に、冴子は健人を引寄せた。
握っていたのは右腕だというのに、健人は体勢を崩して冴子の胸へと倒れ込む。
驚愕の表情を浮かべていた健人を見れば、それが決して呆けていたからではないというのが解るだろう。
冴子に手を引かれた瞬間に、重心が腹の下から浮いたのを感じた。
技を掛けられたのか、と理解したのは、ぼそりと冴子が「毒島流柔術」などと呟いていたから。気が付けば、健人は冴子に抱きかかえられていた。
健人が逃げられないよう、腰に手を回し、固定して。


「もう――――――君の手を、離さない」


息が掛かる程の近さで、真っ直ぐに健人を見詰めながら、冴子は囁いた。
重く静かな声と、吐息が健人に染み入る。
次第に二人の距離は、ゆっくりと、更に近付いていった。
冴子の頬に手が添えられる。
静かに瞳を閉じる冴子。
二人の距離が零になる瞬間――――――だった。


「――――――俺を馬鹿にするのも、いい加減にしろ」


眼を見開いた冴子が見たのは、極寒の瞳。
全く熱の無い、氷のように冷え切った健人の視線が、冴子を貫いていた。


「それが本当に俺を思い遣っての言葉なら、受け取ってやってもよかったがな。もう少し上手くやれよ、大根役者」

「う、あ、私、は――――――」

「いつまで握ってる。防御線が固まる、もう離せ」

「私、は――――――」

「聞こえなかったのか。離せ」


ぱしん、と枯れ枝が折れるような音。
一瞬、健人の手首辺りから紫電が迸ったように見えた。


「痛、つっ!」


痛みに、冴子は反射的に手を引いた。
離れた冴子へと、足元に転がる木刀を蹴り渡しながら、健人は鼻を鳴らして笑った。


「ほら、高城が飛び出したぞ。さっさとフォローに行ってやれよ。チャンバラは得意だろ?」

「あ、ああ・・・・・・」


困惑を顔一杯に張り付けて、冴子は覚束ない足取りで高城の下へと向かう。
高城に迫っていた<奴ら>の頭部を木刀が砕いたのを確認し、健人は大きく息を吐いた。
明確な反論も無かったのだから、あれも自覚していたのだろう。


「あーあ、勿体ねぇ。見てくれだけは最高だもんなあ、あいつ」


でも仕方ないよなあ、と肩を落とす健人は、心底残念がっているように見えた。
事実、そうだった。
健人が手をださなかったのは、最後に残ったこの意地のため。
叔父の教えによって培われ、己によって確かとしたそれを捨てては、自分は本当に<化け物>になってしまう。


「アタシは臆病者じゃない! アタシは臆病者じゃない! 死ぬもんですか! 誰も死なせるもんですか! アタシの家はすぐそこなのよ!」


高城の叫び。
小室が取り落としたショットガンを拾い、引き金を引いている。
髪と言わず顔面中を、冴子の一撃で飛び散った<奴ら>の体液に塗れさせながら。
効率的に反動を押さえる射撃体勢は、なるほど天才と自負するだけのことはあった。
高城も変わったな、と健人は思った。
合流する以前にもターニングポイントはあっただろう。だが、自らの意思でもって引き金を引くということは、より大きな変化をもたらすことになる。銃というものには、そういう力もあった。
いや、皆変わったか、と健人は思った。
小室や平野は元来産まれ持った獣性が目覚めつつあるし、宮本も生存に掛けるために他者に取り入る事を覚えた。
ありすや鞠川は築き上げてきた人格に固執することで集団と己を保とうとしていて、そしてあいつは情欲に歯止めが利かなくなってきている。


「一番解り易く変わったのは俺だろうけどさ」


自然と苦笑が浮かんだ。
それは直ぐに自嘲へと変わった。これも変化だった。
今この場に叔父がいたとしたら、健人を見て何と言うだろうか。
冴子と同じように、お前の本質は変わらないと、そう言ってくれるのだろうか。
いいや、それは無い。
あの人ならきっと、健人の変異を諸手を打って歓迎するだろう。
素晴らしい変革だ、と強面の顔を喜悦に歪ませるかもしれない。
人と化け物とがここまで拮抗する姿は、どちらに転がったとしても、紙一重のバランスを好む叔父を大いに満足させるだろう。
叔父に会えさえすればきっと、人間だとか化け物だとか、その狭間で揺れる自分の苦悩など、一瞬で消え去ってしまうに違いない。
きっと、己の内の<人間>か<化け物>に止めを刺してくれるに違いない。
叔父に会いたい。


「でも、こいつらくらい守れないと、とても顔向けは出来ないよなあ」


停車してからエンジントラブルが起きたのか、エンジンが掛からないハンヴィー。
聞こえるのは、ルーフから身体を乗り出したコータの努めて出した明るい声と、ありすの泣き声。


「よいしょっと、さあ、ジークと一緒にワイヤーの向こうにジャンプだ!」

「でも、みんなは?」

「みんなすぐに行くから!」

「・・・・・・うそ!」

「――――――え?」

「パパも死んじゃう時にコータちゃんと同じ顔したもん! 大丈夫っていったのに死んじゃったもん!」

「・・・・・・」

「いやいやいや! ありす一人はいや! コータちゃんや健人お兄ちゃんや孝お兄ちゃん、お姉ちゃんたちと一緒にいる! ずっとずっと一緒にいる!」


大したやつだ、と健人はコータの、何かを決意したような横顔を見て改めて思った。
直接言葉を交わしたのは先日が初めてだが、健人はコータのことを以前から知っていた。
まだ世界が<奴ら>で溢れ返る前の話だ。コータはその容姿と人格から、いじめ、とまではいかないが、多数から侮蔑の対象となっていた。
学年も違うとなれば、誰がどう思われているだとか、誰それと付き合っているだとか、そんな話までは耳に届くことはない。自他称天才の高城の存在ですら、健人は知らなかったのだ。もちろん小室と宮本の何をかなど知る由もなかった。冴子並みの功績を残していたのならば別だが、コータはそうではなかった。
だが健人には直に解った。
廊下ですれ違った瞬間にコータが見せた洗練された立ち居振る舞いと仕草。それは一朝一夕で見に付くものではなかった。訓練された人間のそれだった。
だが、非凡な家庭に産まれ特殊な訓練を受けたこともあるというのに、コータの纏う空気はあまりにも普通だったのだ。
これに健人はいたく感心した。
きっとコータは、我慢してきたのだろう。
普通に生きていきたかったから、ずっと我慢してきたのだ。
健人にはその願いが理解出来た。健人も同じだったからだ。
だが、もう、そんな必要はない。普通なんて、なんの意味も無い。
だから、僕は・・・・・・俺は――――――。


「――――――使うしかないか」


建人の意識が、右腕に向く。
否、使うのだ、ここで。
健人は皮手袋に指を掛けた。


「ジーク!」


重なったありすとコータの子犬の名を呼ぶ声に、健人の動きが止まる。
ハンヴィーのルーフからジークが飛び出し、<奴ら>の足首へと喰らい付いた。
ありすの涙に怒ったのだろうか。立派な忠犬振りだった。
ジークの鳴き声につられた<奴ら>の数体が、進路を変える。だが、それだけだった。
<奴ら>は何故か人間しか襲わない。音に反応しているだけだ。


「待ちなさい小室! あんた、何を!」

「ジークの真似」


困ったように笑いながら、小室が前へ出る。
自らが囮になるつもりか。
<奴ら>を引きつけんと、大声をあげようとした小室の肩を、健人は掴んだ。


「いや、駄目だ」

「健人さん・・・・・・離してください。少しでも<奴ら>を引寄せないと」

「そうだな。でもそれはお前の役目じゃあないぜ」


口を開こうとした小室だったが、健人に膝裏を蹴りつけられ、その場に尻餅を付く。
小室は愕然としたような、そんな顔だった。
本当にいいやつなんだな。そう健人は、心底思った。
自分が犠牲になるのはいいが、他人がなるには我慢がならない人種か。


「だってお前は、俺達のリーダーだからさ」


皆、誰もが小室に大なり小なり、依存をしていた。
この集団の決定権を、何故か小室が持っているのがそうだ。
先頭に立ち、皆を率いるためのリーダーシップが、小室の中で目覚めようとしている。
それは健人も持ち得ない、生来の非凡な才だ。ここで失わせるわけにはいかなかった。
今回のように、自らが囮になろうとする精神性は見上げたものだ。
しかし、集団の長としてはどうだろうか。
今はいい。
だが、これからは改めてもらわなければならない。


「悪いな、それと、ありがとよ。お前には一番、感謝してるんだぜ」


本音を言えば、右腕の力を健人は使いたくはなかった。
こんなギリギリになるまで葛藤を続けたのは、彼等の前では人間としていたかったからだった。
だが大声を出しながら逃げるのならば、彼等の視界から消えるまではどうにでもなる。
その後のことは、頑張ってもらうしかない。それしか言いようがない。
一人で逃げて、その後の事は知らぬなどと、無責任な考えかもしれない。
だが、今や誰もが自分本位なのだ。小室の下に皆が集まったのも、自分が生き残るためという理由でしかない。
彼等にとっての生存は健人にとり、自尊心を満たすことだった。
良い人間として彼等の記憶に少しでも残りたい。
穏便に別れられるなら、それに越したことはなかった。


「待ってくれ! 健人さん、あんた何を!」

「何って、ほら、決まってるだろ。ジークの真似さ!」


健人は獰猛な笑みを携えながら、駆け出した。


「ワンワンワンッ! ガルルルルッ!」


奴らの群れの直中に突入。
ジークの勇気に肖ろうと唸りながら警棒を振るう。
途中、待っていたと言わんばかりに尻尾を振っていたジークの首を引っつかみ、後ろへと放り投げた。
腰には銃。なんだ、無敵じゃないか、俺。
頬が釣り上がった。
彼等からは十分過ぎるものをもらった。いや、残せたというほうが正しいか。
ならば、これからは一人でだって生きていける。


「私も付き合おう!」

「いや、帰れよお前は。来んなよ」


釣り上がった頬がひくつくのを自覚する。
いつの間にか健人と並走していたのは、冴子だった。
警棒とともに木刀が空を舞い、まるで海を裂くように、<奴ら>の群れに一本の道が築かれていく。
背後には直に別の<奴ら>が流れ込んで来る。もう後戻りは出来ない。


「頼む、一緒にいさせてくれ!」

「くそッ、いい加減にしとけよお前は! 勝手にしろ! 噛まれるんじゃないぞ!」

「承知!」


こいつもこいつで、こりないやつだ。
がっくりと肩を落としながら、健人は警棒を振るった。
大声を上げ、時には鉄柵を叩きながら<奴ら>を引き付け、二人は石段を駆け上る。
基本的に動きの鈍い<奴ら>は、階段を上る速度もまたゆっくりだ。
高台の上に昇れば、息を整えるだけの時間は稼げるだろう。
しかし、執ったルートが悪かった。引き付けられたのは<奴ら>の4分の1程度。
見下ろす先には、未だ大量の<奴ら>が蠢いている。
これでは、小室達は逃げられない。
くそ、と健人は欄干に警棒を叩きつけた。
階段を上りつつあった<奴ら>の顔がこちらに向いた。それだけだった。


「こんなことなら・・・・・・!」

「いや、あれを!」


冴子が指さした方は、ワイヤーの向こう側。
路地の角から、防火服とヘルメットに身を包んだ集団が、隊列を為してハンヴィーへと近付いていた。
背負ったボンベと、そこから延びるホースとのシルエットは、格好とも相まって消防士に見えなくもない。


「みんなその場で伏せなさい!」


ヘルメットでくぐもった、女の声。
腰溜めに構えたホースの先から、圧縮された水の塊が放射され、<奴ら>を次々に吹き飛ばしていった。
消防士風の集団が構えるのはインパルス放水銃と呼ばれる消化装備であり、背負ったボンベによって圧縮された高圧空気による打撃力は、対人への制圧にも用いられる威力がある。
そんな代物を多数集められる集団。
間違いない、このワイヤーを張った者達だ。
彼等はワイヤーを押し広げると、隙間から小室達を救いだした。
冴子と二人、ほっと胸を撫で下ろす。
だが彼等が何者なのかは未だ解らない。


「ここならもう大丈夫」

「あの、ありがとうございました!」

「当然です」


言って、その女性はヘルメットを脱いだ。


「娘と、娘の友達のためなのだから」


ヘルメットから零れたのは、長い髪。
シールドの下に隠されていたのは、高城に良く似た顔。


「ママ!」


涙ぐむ高城が文字通り飛び付いた。
その女性は、高城の母親だった。
突如現れた防火服集団のリーダーだろう高城の母が一体何者であるかは、一先ず棚上げしておこう。
今は、誰もが喜んでいた。
高城のため、自分のため喜んだ。
そこで全てが終われば、めでたしめでたし、だったと思う。


「よかったな」

「ああ、本当に」

「こっちはどうしたもんかね」

「・・・・・・もう一度、もう一度でいいんだ、私の話を聞いてほしい」

「生きてたらな」


どちらが、とは言わない。
階段を上りつつある<奴ら>へ背を向け、距離を取った。
冴子も健人の後に続く。


「上須賀! アタシの家、解る!? 二丁目で一番大きい敷地、そこで合流よ! いいわね!」


死ぬんじゃないわよ、と強気な高城の叫びが、二人の背に届いた。
手を上げて応える。
心配いらない。


「戻るつもりはなかったんだけど」


ぼそりと呟いた健人の顔は、しかし微笑んでいた。


「高城も元気になっちゃってまあ。あれが本調子なんだろうな」

「・・・・・・」

「こっちはこっちで、まったく」


思い詰めたように木刀を握りしめ、俯いて走る冴子の様子に、健人は諦めたように溜息を吐いた。
西日が眩しい。
再び日が落ちようとしていた。
世界が崩壊して、二日目の――――――。






■ □ ■






File8:PDA内残存データ・・・・・・記録者H


作戦行動開始から8時間。
βチーム全滅。αチーム、私一人を残し全滅。
やれやれ、死神の面目躍如といったところか。笑えんがな。
だが作戦目的は達成された。散っていった部隊員達の命が無駄にならないことを祈る。

内部分裂に情報散逸。組織の現状は散々だ。
ウロボロス計画失敗により弱体化した所に、度重なるBSAAの襲撃。
今も組織の体を保っていることが不思議でならない程だ。
アンブレラ、という名前に群がっているに過ぎないのだろう。
ウェスカーの敗北によって再び低迷期に入ることとなった新生アンブレラだが、この所、旧アンブレラ時代からの幹部共の行動がキナ臭い。
消えた金、資材――――――極めつけは私が先ほど手ずから破壊した、第2ウロボロス計画最重要被検体に放つべく育成していた、BOWの繁殖施設。
被検体の情報が漏洩していたことも予期していたことだった。
元々あれらはスペンサー卿によって集められた者共だ。スペンサー派、とでも言ったところか。旧時代からのアクセス権限ならばデータベースへの侵入も容易のはず。
機に乗じて暴走を始めたということか。
被検体を担ぎ上げ、意のままに操ろうとでもしているのだろう。
スペンサー卿は死してなお妄念を残したということか。
だが、ウェスカーがスペンサーの遺志を継ぎ神となろうが、奴らがスペンサーの真の後継を名乗ろうが、どうでもいい。
世界がどうなろうと、人間の定義がどうなろうと、知ったことではない。
戦場に生き、戦い、そして散る。
兵士にはそれだけだ。
それで十分だ。

次の任務だ。
任務内容は被検体との直接接触、サンプルの回収。
対BOW戦が予測されるため、戦闘時には被検体の生存を第一目的とすること。
ウェスカーめ。敵になったり上司になったりと忙しい奴だ。今度は人の親にでもなるつもりか。
・・・・・・いや、人ではないな。
なるほど未だスペンサー派を生かしておく理由は、エサにするためか。
あの施設からBOWが既に搬送された形跡があった。別の場所に運ばれたのではこちらも手出しはできない。運び出されたBOWは不明だが、短時間かつ安価に数を揃えるとなれば、自然と種は絞られる。
懸念事項は被検体の戦闘力と、一般人の暴徒化だが、いざとなれば私が処刑して回ればいい。
戦闘力に限っては、かつてウェスカーに乞われ家庭教師として教育を施した身として、その点についての心配は無いと言い切れる。
一年にも満たない付き合いだったが、ケント――――――被検体の戦闘センスは光るものがあった。
それがウロボロスによってどのような進化を遂げたか、興味もある。
これから被検体接触に際し、あの屋敷に潜入する。
さて、適当なバックストーリーでも考えようか。






しかしこのガスマスク、情報保持だか何だか知らんがロックが外れん。
パスワードをまるで受け付けない。解除条件が満たされていない、だと? 私の顔が機密事項だとでもいうのか。
ウェスカーの嫌がらせか・・・・・・?













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:9
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:35
学園黙示録:CODE:WESKER


高台から見下ろした街並みは、おおよそこれが現実の光景であるとは思えなかった。
そこかしこから煙が上がり、建物の窓ガラスは殆どが割れていて、道路には血溜まりが。
街行く人の影はどこか覚束ない足取りで、熱病に浮かされたようにふらふらとしていた。
当然だ。あれは<奴ら>。死人なのだから。
生者の血と肉を求め、彷徨い歩いているのだ。
交通法などもはや無意味と化したというのに、時差式の信号機が変わらずに点滅を繰り返していた。平時であるならば、誰もがそれを見上げ、導にしていただろう。
社会の崩壊にあっても変わらず己の職務を全うする物言わぬそれに、込み上げるものがあって、初めて気がついた。
変わらない景色。
繰り返される日常。
自分はこんなにもこの街での暮らしを愛していた、ということを。
信号の色が赤に変わる。
どうやら電力は未だ遮断されていないらしい。
聞こえてくるのは<奴ら>呻き声とディーゼル車のエンジン音。高城の母が率いていた集団が、何らかの作業をしているようだった。
どうやら小室達のような一般人を見付けては、囲っているらしい。
世界が崩壊して、たった一日でこれだけの準備を整えられたのは、組織力は元より集められた人の数があってのこと。
<奴ら>から身を守るためには、皆が力を合わせなくてはならない。子供でも解る理である。
だがそれも、ライフラインが持つ間までだ。再び変わった信号を見て、思う。
やや離れて後ろを歩く冴子には聞こえないだろうが、微かに口論する声が風に含まれていた。
利便性に慣れ過ぎた現代人が、それを失われた生活に耐えられる訳がない。直に規範は失われるだろう。
日の光の下ではっきりと眼にした街。
その何割が人間の手によって破壊されたものであろうか。
静寂に包まれた街は西日に照らされて、紅く染まっていた。


「よし。こいつ、動くぞ」


――――――奴らの気配は遠い。
立ち寄ったバイクショップのガレージにて、水陸両用8輪バギー『アーゴ』のガソリンメーターを点検しながら、健人は店の外に耳をそば立てる。
本来はスピードにも機動性にも優れたバイクを拝借するつもりであったのだが、同行人が居たために、小室のようなライディングテクの無い健人がタンデムは危険だと判断。
徒歩だなと覚悟を決めかけた所で、ガレージの奥にアーゴを発見したのであった。
全地形型車両は四輪が有名であるが、八輪となれば珍しい。配置といい、恐らくはこのバイクショップの主人が個人的に保管していたのだろう。通常の民間用モデルよりもよほど頑丈に改造されていた。
これならば振り落とされる心配はないし、いくらか荷物も積めるだろう。


「あ・・・・・・上須賀君。その、役立ちそうな物を集めたのだが」

「まとめてリュックに詰めて、後部シートに積んでおいてくれ」

「あっ、ああ・・・・・・」


ちらちらとこちらを窺うような仕草。
質実剛健な雰囲気は失せ、弱々しく、叱られるのを待つ子供のような態度。
しおらしくなった冴子に健人は溜息を吐いた。
原因は解っている。


「・・・・・・面倒臭ぇなあ、こいつ」


思わず呟いた一言が聞こえていたのだろう。ミラー越しに冴子の肩が一瞬跳ねたのが見えた。
作業に没頭して、聞こえないフリをしている。
もう一度溜息を吐いてから健人はおい、と声を掛けた。


「さっきは非常時だったからな。イラッと来ただけで、もう怒っちゃいないよ」

「・・・・・・本当か?」

「本当本当。さ、出発だ。こんな通りに面した店じゃあ、<奴ら>にいつ踏み入られるか解らないぞ」

「また、私の話を・・・・・・」

「どこか休める場所を探せたらな。見付からなくたっていいさ。何を言いたいのかは、だいたい解ってる」


そうか、と安堵に綻んだ顔がミラーに映る。
そうかそうか、と確かめるように何度も頷く冴子の顔は、抑えきれない喜びに満ちていた。
これも彼女の情緒が不安定なのだからか。都合の良いような解釈をしているのだろうが、それは指摘しないでおいた。
どちらにしても、切り替えてもらわなければ困る。
健人はハンドルを捻り、エンジンを吹かした。
端からフルスロットル。自動シャッターを潜り、通りへと出る。
案の定、<奴ら>が直ぐそこにまでたむろしていた。
右へ左へ。
<奴ら>の間を縫うように、健人はアクセルを開けていく。
ハンヴィーと同じ様に全てを轢き潰していては、小柄なアーゴでは横転しかねない。進路上、どうしても邪魔な<奴ら>のみを跳ね飛ばす。
車体を掴もうとする<奴ら>はシートの上に立つ冴子が木刀で迎撃した。


「面白くなってきたな!」

「まったくだ」

「この先どうするか、計画はあるね?」

「もちろん。折角の水陸両用だ。存分に使わせてもらおうぜ」


ただし、と前置きをする。


「面白くなりすぎるかもな。計画は一つ。強行突破だ」

「君といると飽きないよ」


さっくりと気持ちよく笑って、冴子は木刀を構え直した。
今泣いた烏が何とやら。
とても晴れやかな顔で、<奴ら>の頭部をすれ違い様に叩き潰していく。
ふふ、と漏れる満足そうな吐息が聞こえた。
冴子の横顔は、まるで研ぎ澄まされた刀の切っ先のようだった。
ぞくり、と健人の背筋に冷たいものが奔る。
車体保護のバーに身を預けての戦闘。バギーの加速力を効果的に受け流す技術は元より、驚異的な反応速度とバランス感覚だった。


「ちょっと引き付け過ぎたかな」

「はぁ、君はやることがいつも極端だよ。健人君」

「さーせんね」


バギーで走りまわっていたのは<奴ら>の誘導のためだったが、少しやりすぎたようだ。
エンジン音に釣られ、そこいら中の<奴ら>がバギーの後ろに付いて来ている。


「わたしはいつでもいいよ」


一つだけ頷き、フルスロットル。
土手沿いを走っていたバギーを、一気に川へと向ける。
急斜面を下っていくバギーに釣られ、土手を転げ落ちていく<奴ら>。
階段昇降は可能だというのに、急斜面は駄目なのか。
刺激に反射するしかないと思っていたが、ならば知能が残っているとでも言うのだろうか。
どちらにしろ現状は変わらない。
人間であれば動けなくなる程のダメージであるが、転げ落ちるくらいでは<奴ら>には何の効果も無かった。
結局は同じだ。
ならば、と健人は更にアクセルを吹かす。
ガソリンの燃焼がクランク機構により回転力に変換される。
アーゴは一気に水上へと身を投じた。
派手な音と水飛沫を上げながら着水。
タイヤの水かきが流水を掻き分け、車体を前へと推し進めていく。
水陸両用バギーならではの水上走行。
これならばどうだ、と健人は背後を顧見た。
<奴ら>は川へと突入していたが、水流に自由を奪われ、行動不能となっていた。
水中で出鱈目に動き、身動きが取れなくなっているようだ。
流石に<奴ら>の水泳大会、とはならなかったようだ。
死人が泳ぐなど、ぞっとする。
どうせ“ぽろり”の連続だろう。
手足や肉片が水上一面に浮かぶに違いない。


「階段は上り下りが出来て、斜面は下れず、水は判別出来ず、そして人間だけを襲うのか」


判断力があるのかないのか。
不可解な存在であるのは今更考えることではないが。
健人は再びハンドルを握った。


「むぅ」


不満そうな声。
冴子が着水時の飛沫でずぶ濡れになったセーラー服を指で摘まみ、健人をじとりと睨み付けている。
薄い生地が肌に張り付き、肌色と黒下着とを浮き上がらせていた。
呆れたように健人は溜息を吐いた。


「男子が溜息を漏らすのは感心しないよ」

「放とけや。何で睨むんだよ」

「解らないのなら、別にいいさ」


別にいいと言っておきながら、視線から険は取れない。
水を被らせたのが悪かったのだろうか。
これくらいしか思い至らなかった。


「ちょこっと濡れただけだろうが。我慢しろよ」

「むぅ」

「何だよ。何が不満なんだよ」

「私も女だぞ・・・・・・!」


かあっ、と紅くなって胸元を抑える冴子。


「・・・・・・?」

「むぅぅ」


また不満そうな声が上がる。
どうしろというのか。
リアクションを待っているのだろうか。
健人としては首を傾げるしかない。
冴子が何を言いたいのか、さっぱり訳が解らなかった。
<奴ら>の生態よりも謎である。
しばらく睨み合うが、やはり解らない。


「そのナリで女じゃない訳ないだろ。何言ってるんだ?」

「そういう意味ではなくてだな。いや、なんだ、しっかり見てるじゃないか。それで、何か言う事はないか?」

「・・・・・・もしかして、見られて恥ずかしい、とか?」


ふんふん、と首が縦に振られる。
正解だったようだ。
健人は一層訳が解らなくなった。


「お前さあ、昨日の夜なんか尻丸出しで平気でいたってのに、何でそれが恥ずかしいんだよ」

「それとこれとは」

「訳解らん」


裸エプロンの方がよっぽど恥ずかしい格好ではないのか、と思うのだが。
確かに刺激的な格好ではあったが、眼前の光景を意識するよりも、どうしても昨晩の冴子の姿を思い出してしまう。
半裸も同然の格好、裸にエプロン一枚で平然としていた冴子。
今冴子が見せている恥じらいという日本人的な美徳は素晴らしいが、どうしてもそれが演技ではないのかと疑ってしまう。
昨晩のあの格好と比べれば、ブラジャーが透けているくらい、どうという事はないだろうに。
もしやこの辺りの感性の差が、冴子がいう女と男の違いなのだろうか。
何にしろ訳が解らないのは変わらないが。


「馬鹿なこと言ってないで、<奴ら>の動きでも見てろ。一端あの中州に上陸するから」

「むぅ」


そうこうとしている間に中洲へと上陸。
ここまでは<奴ら>も追ってはこれまい。多数が岸辺で唸り声を上げるのみであった。
しかし、とにかく数を集め過ぎてしまった。
合流を約束してしまった以上、川向こうに渡ることは出来ないため、引き返さなくてはならない。
健人と冴子は<奴ら>が散るまで、しばらくこの場で息を潜めることにした。
その後はまた強行突破である。
ルートは健人の頭にしかないために、冴子の反対はなかった。
目論見通りにいくにしろいかぬにしろ、今は一休みだ。


「へくちっ」


と、聞こえたくしゃみ。
冴子が濡れた身体を擦っていた。


「す、済まない・・・・・・。身体が冷えてしまったようだ。しかし荷物を持ちだす暇が無かったから・・・・・・」

「ん、ちょっと待ってろ」


健人はバイクショップから拝借したリュックの中身を検めた。
荷物の詰め込みは冴子の分担であったため、ここで何があるか確認もしておく。
工具に、缶詰に、ライト、車の整備道具・・・・・・とにかく目に付いた有用そうなものを一杯に詰め込んだのだろう。
短時間での道具のチョイスと、無造作に詰め込んだはずの道具が乱雑にはなっていなかったのは、彼女の性格か。
指に感じた布の感触に、健人はそれを掴んで引っ張り出した。
黒のタンクトップだった。


「とりあえず、これと、これを着てるといい」

「・・・・・・ありがとう」


タンクトップと、着ていたダッフルコートを放り投げ、健人は後ろを向いた。
自分も水を被ったが、あのダッフルコートには撥水加工が施してあったため、水気はもう含まれていない。
しばらく衣擦れの音を耳に周囲を警戒していると、もういいよ、と冴子の許可。


「どこか変だろうか?」

「いや、その」


変ではないけれど。
お前はアイスマンか、という言葉は寸での所で飲み込んだ。
振り返った健人の前には、バギーのボンネットの上に膝を抱えて座る冴子が。
体操座り、というやつだが、その格好が何ともコメントし辛い。
健人が渡したダッフルコートをすっぽりと被り、前を全て閉じ、フードを深々と被っていた。
コートの中に膝を入れている状態である。
そんな状態で、覗き穴のように開いたフードの口から、こちらをじっと睨みつけている。


「むぅ」

「お前は、本当に何を・・・・・・」


憮然とした視線を投げ掛ける冴子に、どうしたらいいものか、健人は額を押さえた。
ふん、と鼻を鳴らしてダッフルコートから脱皮する冴子。脱ぐのならば、何故着たのか。


「もう一度言うが、私も女だぞ」

「だから、女以外の何に見えると」

「上須賀君はいつも私を女として見てくれるな。全く。ああ、全く」

「・・・・・・ははあ。まさか、誘ってるのか?」

「そ、それは」


言い淀む冴子。
仕方のない奴だ、と健人は肩を竦めた。


「小室の次は俺かよ。勘弁してくれ。非常時だぞ」

「ち、ちがっ」

「はいはい。服ちゃんと絞っとけよな。生乾きになるだろうけど、それは我慢してくれよ」

「君の悪い所は人の話を聞かない所だな!」

「聞いてるってば。お前が女だって話だろ。まさか男だとでも?」

「いや、そうなのだが、そうではなくてだな」

「訳解らん」

「くっ・・・・・・日ごろの行いのせいかっ・・・・・・!」


肩を竦めて健人は話を切り上げた。
未だ不満そうな冴子だったが、構わないことに決めた。
冴子相手には気を使ってやろうなどということも思えない。
革手袋に手をやって、内界へと没頭する。
ずるり、と皮手袋から右手を引き抜く。
変わり果てた真黒な手が、相変わらずにそこにあった。
黒い蛇が何百と寄り集まったような造型には、自分ですら嫌悪感を抱く程。
しかし、たった一日であるというのに、相変わらずと思えてしまうくらいには、自身の変異を当然として受け入れられていたようだ。
どれだけ嘆いても仕方が無い。自分には、これの使い方と使い道を考えるしかない。
おぞましさを堪え、左手で触れる。
すると、指先に異変を感じた。


「硬い――――――?」


太いゴムのような触感、だけではなかった。
硬い甲羅のような、硬質な触感があった。
寄り集まった黒い蛇の表層が、少しだけ硬化しているようだ。
よく触らなければ解らないくらいの変化。
だが、確かな変異であった。


「どうした? まさか、何か変化が・・・・・・」


後ろから健人を覗きこむ冴子。
健人の腕を見る様子からは、恐怖心は感じられなかった。
健人は深く安堵している自分に気付いた。
正直に告白すれば、健人は試したのだ。
冴子が昨晩、民家にて気絶した健人を庇ったことは知っていたが、その時は自分の意識が無かった。
この右腕を見た冴子が、いったいどのような反応をするのだろうか。
健人はそれを、何としても知りたかった。
それによって、もし異形を大勢の前で晒すことがあった場合、彼等との距離感が決まることになる。
恐怖や忌避感だけならばそのまま消えればいいが、相容れぬ、という生理的な嫌悪が垣間見えたならば、戦闘も視野にいれなくてはならない。
大丈夫だ、と指を握っては開き、冴子に見せる。
安堵したように引き下がった冴子だったが、判断するにはそれで十分だった。
距離を詰めることで友好をアピールしたかったのだろうが、隠したいのならば、震える吐息は飲み込んでおくべきだった。
彼女に恐怖はなかった。ただ生理的嫌悪感があっただけである。
相容れない。受け入れられないと、彼女の本能が判断を下していたのだ。
こればかりはどうにもならないことだ。そして、冴子ですらそうなのだ。大多数、おおよそ全ての人間が同じ嫌悪を抱くだろうことは、間違いない。
寂しくも悲しくもない、と言えば嘘になるが、それを自然として受け入れるしかない。
浮きも沈みもしない。ただ、そうなのだ。


「君は、すごいな」


突然の切りだしに、健人は思考の渦から回帰する。


「自分が別の何かに変わっていってしまう恐怖など、常人ならば耐えられまい。
 君は君のまま、優しさを失う事も無く、小室君達に接していた。私ではそうはいかない」

「実感がわかないってのが正直な所だけどな。別に、俺が特別凄いなんてことは無いさ。人並みに笑いもすれば怒りもするし、泣きもする」

「――――――恋も、するのかい?」 

「・・・・・・ああ、そうだな。するさ」


出来るかどうかは別として。


「お前はどうなんだよ。やっぱり、好きなやつとかいたのか?」

「わたしにも・・・・・・好きな男は、いるよ」


ふうん、と気の抜けた返事を返しながら、健人は自らの記憶の中へと意識を伸ばす。
まだ何か言いたい様なそんな雰囲気を感じたが、ここで話は終わりだ。誰それが好きだの何だのと、興味はない。持てない。
自分のことで精一杯なのだ。優しさは掛けられても、愛など、とても無理だ。
だが、記憶の中でならばそれも許されるだろう。
恋か、と呟いて、健人は夕日を見上げた。
紅い陽が顔を温かく照らす。
まるであの子に抱かれていた時のようだ、と健人は思った。
健人は眼を細めて夕日を見詰めながら、幼少の頃に出会った顔も知らない大柄な女の子の事を思い出していた。






■ □ ■






File9:ある研究員の録画データ


ねえクレア、見てる?
ごめんね、うるさいでしょ? 
さっきからずっと警報が鳴りっぱなしなの。
えへへ、私のせいなんだけどね、これ。
クラッキングしてTの制御プログラムを書き換えちゃった。
今のアンブレラの甘い管理体制だから出来た芸当なんだけど。

・・・・・・ねえクレア、私たちが出会った時の事、覚えてる?
ごめん、忘れられないよね。私も、今も夢にみるもの。
あの頃の私は、ちっちゃくて、弱くて、臆病で――――――無力だった。
本当はすぐにでもあなたを追い掛けたかったけど、そんな勇気、私にはなかったんだ。
そうやって膝を抱えていたら、あの人に見つかって・・・・・・逃げだせなくなって・・・・・・。
おかしいよね。私は今、あれだけ嫌ってたアンブレラで、研究員なんかしてる。
やっぱり、パパとママの子だったってことなのかな。

たぶん、私が研究をするフリをして裏でスパイ活動をしてたことは、筒抜けだったと思う。それなのに何もなかったのは、パパのためだったのかな?
そんなわけないか。
あの人がそんなに甘いわけがないもの。
それはきっと、あの子のため――――――。
あの子のために、私を何に利用しようとしているのか、それは解らない。
でも私は、あの人のことを憎めないでいる。
ふふ、あの子ったら、あんなにも嬉しそうにかっこいいアルおじさんの話をするんですもの。
私も思い出しちゃった。
小さかった頃、パパとママに連れられて、あの人と何度か会ったことがあるの。
その時は、何でこの人はこんなに不機嫌そうなんだろう、って思ったけれど、それはたぶん、パパがいたから。
きっとお互いにライバルだったのね。あの二人。
その時の二人の顔と、あの子が言ったかっこいいアルおじさんのイメージがあんまりにも掛け離れてて・・・・・・ふふっ、ふふふ。

そうそう、クレア達には言ってなかったよね、あの子のこと。
あの子っていうのは、なんと――――――あのアルバート・ウェスカーの隠し子なのでした!
えへへ、びっくりしたでしょ?
血は、繋がってないのかな? 
心が繋がってるんだね、きっと。たぶん、あの子だったらそう言うと思う。
意外や意外、すっごく良い子なんだよ。
あのウェスカーの息子なのにね。
初めて会った時、びっくりしちゃった。
あんまりにも良い子だから、つい時間を延長して勉強を教えてあげたり、薬品やハーブの調合を教えてあげたりして・・・・・・。
えへへ、お姉ちゃんって呼ばれるようになっちゃった。
えへへへへー。

本当はもっと早くあの子のことを話すべきだったんだろうけど、今まで黙っていて、ごめんね。
あの子に関しての情報だけは、絶対に見逃されはしないから。
あの人の、あの子に掛ける執念だけは、他の何よりも強いもの。
不用心に名前を少しでも出しただけで、消されてしまうくらいに――――――。
これ、他の研究員にはあまり知られてないことなんだけど、研究施設や資金ルートの情報よりも、あの子のデータの方が重要度が上なのよ。
あの子、何て言ってるけど、そうしないとこのデータが消去されてしまうから。
初めからね、ここの制御システムはそういうプログラムとして作られてるの。
今まではクイーンの電子網を逆手にとって、あの子のダミーデータを流すことで隙を作って情報をそっちに流していたけれど、それももうお終い。
計画が最終段階にシフトして、警戒レベルが最高になったの。
これから外部との連絡は全て、規制されることになる。
クラッキング出来たのは、本当にギリギリだった。
これでもう、彼女を縛る枷は何も無い。

自由になった彼女がどうするかなんて、解りきってる。
あの子に会いにいくんだわ。
ちょっとだけ、羨ましい、かな。
ん・・・・・・すごく、いいなあって、思ってる。
でも、私が自由になったところで意味は無いもの。
私は昔からずっと、無力だったから。
DEVILを元にワクチンの研究を続けてきたけれど、何の成果も・・・・・・。
とても残酷な運命の中で、あの子は今、戦ってる。
その邪魔になることだけは出来ない。

大丈夫よ、クレア。
大丈夫、心配しないで。
あの子はきっと、正しい選択をする。
あの子が、多くの因縁が産んだアンブレラの申し子だとしても、関係ない。
あなたも会えば解るわ。
とても強い子だって。
だからどうか、あの子を恐れないで。
あの子の力になってあげてね。
昔の私にしてくれたみたいに――――――。

親愛なるクレアへ。
このメッセージがあなたに届くことを祈ります。
シェリー・バーキンより。














[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:10
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:35
車両での移動は足の鈍い<奴ら>を巻くには都合がよかったが、やはりそのエンジン音は無視出来るものではなかった。
音に引き寄せられた<奴ら>の群れが後から後から押し寄せ、切りが無い。
一体一体の戦闘力は健人と冴子にとり、大したことはなかったが、とにかく数が多かった。
捌くには骨が折れるし、長時間の戦闘は集中を削ぎ、重大なミスを引き起こしかねない。冴子は当然、健人も完全に不死というわけではないのだ。それは、身体の芯から感じる倦怠感が教えている。
ハンヴィーの中で十分に休眠を取ったが、それでもこびり付いて取れない疲労感は、生命活動に何らかの影響があったということだ。
少しだけ安心する。人間のままであったなら確実に死んでいた負傷も、たった一晩で完治してしまう身体にはなったが、不死身になったわけではないらしい。
手足を噛みつかれるくらいならば平気だが、首や胴体は不味い。あんなレベルでの負傷を繰り返したら、本当に死んでしまうかもしれない。
つまり、と健人は心中で繰り返した。
自分は、死にたくなったら死ねる、ということだ。
それは健人にとって、最後の救いになるかもしれないものだ。


「これでは中州に逃げ込む前と同じだぞ!」

「次の角を曲がれば解るさ」


冴子の問いにハンドルを切る。
公園、という疑問が背後から上がった。
健人が目指したのは、二丁目住宅街にある市民公園だった。もちろん、この公園を根城としていた人々のように、段ボールで家を造って籠城する訳ではない。ここに<奴ら>を引き付けるつもりだったのだ。
車止めを引き倒しながら、アーゴは舗装された敷地内へと侵入した。
そのまま中心を突っ切り、中央部噴水に車体を突入させる。
大きな水飛沫が上がった。


「君は女を濡れ鼠にする趣味でもあるのか!」

「テープ取ってくれ」


非難を黙殺され、むぅ、と冴子は唸る。
巻き上げられた水を被り、つい先ほどまで居た中州でのように、制服の下から下着と肌の色が浮かび上がっていた。
健人を睨みながら服の端を引っ張る冴子だったが、今回は着替える暇などない。
受け取ったテープを使い、健人はアーゴのアクセルを開けたままに固定。ハンドル位置を修正する。
円形の噴水の内周に沿うよう、アーゴは回転しながら前進を始めた。
水陸両用の燃焼機関が公園に大きくエンジン音を響かせる。


「なるほどな・・・・・・音で引寄せて、その間に」

「即席の<奴ら>ほいほい、ってな。東側の出口から行けば近い」

「戦うのか」

「ああ」


頷き、手袋を外し、ポケットにねじ込む。
ダッフルコートは腰に。健人は異形と為った右腕を外気に晒した。
未だその外見を受け入れることは出来なかったが、戦うための手段としては、健人は自身の右腕の異形を許容していた。出来る程には、慣れてしまったと言うのが正しいだろうか。
表面を覆う触手の群れが筋肉の様に膨張する。ぐちゃぐちゃ、ぐじゅぐじゅ、と泥水を捏ねるような音。
口を開けて肉を咀嚼するような、そんな不快な音がする。
え、と呆けたような声を発しながら、健人は自身の腕を掲げた。
明らかな異変が発生しつつあった。おぞましさに背筋が震える。


「う、うう――――――ッ!」


悲鳴を噛み殺したのは冴子だった。
健人はもはや、声も出ないといった有り様だ。
手袋の下で、水っぽい不快な音を立てながら、触手が溶け合っていたのだ。
大量の蛇が絡み合う交合場面に墨汁をぶちまければ、同じような光景となるのかもしれない。黒い蛇達が一斉に絡み合い、喰い合い、一つになっていく。
乱雑であった触手の群れが、規則性を持って整列していった。筋繊維を象っているのか。
しかし、蠢く黒の筋繊維はその一本一本が神経の通う触手であることを伝えているし、少し力を込めれば今までのようにそこかしこから飛び出しては、てんで好き勝手に伸縮していた。
とりわけ変異が激しかったのは、手首から先。
変異した手は五指は揃っていたし、極端に肥大化した訳でもない。ただ、それぞれの指先から鋭い爪が延び出していた。
まるで<リッカー>のようだった。
傷跡の疼きを思い出す。


「まさか、学習したってのか――――――?」


健人はどこか現実感のない意識で、取留めなく呟いた。
恐らくは、その予想は正しいのだろう。
右腕に宿った触手群は、昨夜の戦闘を経て<リッカー>の腕部の形状を最適と判断し、それを模写したのだ。
健人は近付く<奴ら>の頭部へと手をかざした。
<リッカー>が住民達へ為したように、アーゴの動きに連動した爪は、チーズをもぐようにして<奴ら>の首から上を引き裂いた。
力を込めれば幾分も細くなった触手が一気に膨張し、右腕を覆う。
鞭のようにしならせる、打つ、膨張させ叩きつける。一通りの動作を<奴ら>相手に試していく。その度、辺りには細切れとなった肉片が散乱していった。
半ば作業の様に動作確認をした健人が抱いたのは、何で今になって急激な変異が起きたのだろうか、という疑問。
己の闘争心に反応したのかもしれない。
そうとしか思えなかった。
こんな、見るからに戦うための形状など。
異形の右腕は健人の意思に応えて<リッカ―>のそれを模倣することで、不定形と具体形を兼ね備えた、新たな形態へと進化したのだ。


「内側の侵食が進んでるってことかよ・・・・・・チクショウめ」


意図せずここまでの形状変化が発生したのは、健人と触手との結びつきが強くなったからに違いない。
これまで自在に伸縮を可能としていたのは、脳からの指令をリーディングしていたからだということは、健人も想像が出来た。
ならば、ここまで顕著に反応を示したということは、感情や本能といった意思そのもののリーディングが可能な位置にまで侵食が進んでいた、ということだろう。
延髄を伝って這い寄った蛇が、脳幹に喰らい付くイメージが浮かぶ。
変異の最中には痛みも、疼きも、全く感覚が無かったことが、ことさら恐怖を煽った。
最も心配だったのは、半固体化したこれを衣服で隠しとおせるのかどうか、ということだった。
健人が不安に思うと、またその意を汲み取ったのか爪は小さくなり、右腕は元の形状へと落ち着いていく。
あくまで触手が硬質化したものであるため、ある程度は形状も自由が利くようだ。
色を無視すれば触手の配列も相まって、皮を剥いだ人間の腕に見えなくもなかった。だからと言って、少しも嬉しくはないのだが。
ああ、と健人は天を仰いだ。本当に、人のそれに見えなくもない。なまじ似ているからこそ異形が際立ち、一層嫌悪感を誘う様相を醸している。


「う、上須賀君! 腕が・・・・・・!」

「ああ、変わったな」


投げやりに健人は答えた。


「よかった、これでもっと戦い易くなる。前のだと振りまわされて扱い難かったんだ。やっぱり肉がないと」

「そんな強がりを言って、君は!」

「いいんだよ、これで」


これでいいのだ、と頷きながら、言う。


「変わってしまったのはもう仕方がないんだし、今更だろ。見ろよ。こいつは俺を生かそうとしてるんだ。戦わないと生き残れないってことを、知ってるのさ」

「しかし・・・・・・」

「大丈夫だ。どんなに変わってしまっても、俺は俺、なんだろう?」


それは冴子が健人に訴えた言葉。
はっと気付いたように、冴子は顔を上げた。


「・・・・・・そうだったな。そうだとも。例えどんな姿になったとしても、君は君だ。私はそう信じている」

「そうかい。だったらもう、一々騒がないでくれよ。結構へこむんだ」


たぶん、こんな程度の変化など、未だ始まりに過ぎないのだから。
きっとこれから先、全身が異形と化していくのだ。
健人の右腕へと異形を植え付けた、あの蛇の群れの様に。


「結局は俺の意思の問題か。心が折れるのが先か、くたばるのが先か」

「大丈夫だ」

「・・・・・・またそれか。で、その根拠は?」

「私が君を支え、守るからだ」

「そりゃまた光栄だ。弱っちい人間のくせにな」

「そんな言い方はやめろ。私を信じてくれ、健人君。どうか私を頼ってほしい」

「う、え、す、が、君だろうが馬鹿野郎」


冴子の望みとは、結局はそれなのだろう。
共依存の関係を築くことで、俺を取り込もうとしているのか。
ぞっとしないな、と健人は思った。
なるほど、確かに女であると豪語するだけのことはある。
冴子の瞳は情欲に溢れていた。
言い換えれば、愛だ。
そしてその愛は――――――。


「・・・・・・行くぞ。もっとこいつの力を試してみたい」

「承知した!」


飛び出したのは同時。
初撃を加えたのも同時だった。
冴子は木刀で、健人は新たに得た鉤爪で<奴ら>に喰らい付いていく。


「臭いな・・・・・・せめて髪だけでも洗ったらどうだ」


<奴ら>と化した元公園の住民を、一刀の下で吹き飛ばす冴子。
無茶を言ってやるなよ、とは健人は口にしなかった。
むせ返るような血臭よりも、それに混じる油と垢と汗の混じったすえた臭いを指摘したのは、前者をもはや常の臭いだと認識したからか。


「さあ・・・・・・遠慮は無用だ!」


アーゴのエンジン音で釣れた<奴ら>の数は、もう数えきれない程。
ここ一帯の個体が集まりつつあるようだ。
入れ食いだな、などと思いながら、健人は爪を振るった。
尋常ではない膂力によって、横にまとめて三つの胴体が、縦に五つに分断される。
頭部を完全に破壊しなければ上半身だけになっても活動する<奴ら>だったが、数が多ければこうやって対処する方が楽だった。肉となって柔軟性は損なわれたかもしれないが、殺傷力は飛躍的に跳ね上がっていた。
寄り集まって新たな形態となった触腕は、健人の予想以上の威力を発揮する。
かといって、これだけの数を全て相手取る訳にはいかなかった。
猛烈な勢いで健人は道を切り開いていく。
冴子の方はというと、フォローは必要なさそうだった。
実に活き活きと<奴ら>を打ちのめしている。あの夜のように、弧を描いた口元からはちろちろと真っ赤な舌先が、顔を覗かせていた。健人の背筋が震えた。
次なる標的に向け、冴子は木刀を振り上げた。


「――――――!」


そして、冴子は目を見開いて静止した。


「何してるんだ馬鹿野郎!」


一向に振り降ろされる気配がない木刀に、健人はギョッとしながら、間に身を滑らせた。
<奴ら>の歯が左手に喰いこみ、血が溢れる。
すかさず鉤爪でその顎から上を引き裂いた。


「あ、ああッ・・・・・・! 健人君、噛まれ・・・・・・」

「俺は噛まれたって平気なんだよ。いいから、しゃっきりしろ!」


近付くもう一体の<奴ら>を拳鎚で叩き潰しながら、健人は怒鳴り付けた。
冴子は揺れる瞳で、今しがた健人が潰した<奴ら>の残骸を見詰めている。
足元にへばりつく肉を、処理し切れていない感情の波が籠る瞳で、じっと。
それは、子供の<奴ら>だった。


「<奴ら>なんだぞ、こいつらは――――――!」


ギリ、と健人の奥歯が鳴った。
これだから、こいつは。
しかし言ったとて伝わるまい。
意見の相違は思想の相違でもある。健人にとってそれはもはや、人の形をした肉塊にしか見えない。だが冴子には、別の何かに見えたのだろう。
あるいは、彼女が常日頃口にする女の母性が投影されているのかもしれない。
もう一体の小さな<奴ら>を叩き潰した時には、冴子は口元を押さえ、身を引いてしまっていた。
一言吐き捨て、健人は冴子の手を引いた。
もちろん、繋いだ手は右腕ではない。


「こっちだ、急げ!」


公園を出ても引きずられるままの冴子。
健人が睨みつけても覇気の無い顔で眼を反らすのみ。何の反応も無い。
このままでは――――――。
健人の脳裏に、最悪の展開が過る。
数の力は強大だ。
冴子を庇っては、これ以上先に進めない。
見捨てて行くべきか。いや・・・・・・。


「どれだけいけ好かなくても、こいつは俺を見捨てなかった」


あえて口に出し、決めかけていた選択肢を掻き消す。
健人の言葉は事実だった。そしてそれにより健人がいくらか救われたのも、また事実だった。
手を差し伸べた側にどのような思惑があっても、救われる側は関係がない。
冴子の本性はさておき、その行いだけは健人は有り難いと思っていたのだ。
ここでこいつを見捨てることなど、出来ないか。
諦めて、健人は先を目指すことにした。
振るう鉤爪は絶え間なく肉を裂いているというのに、何故か軽く感じた。

駆ける二人の前に、鳥居が近付く。そこから山の上へと続く階段も。
健人は迷いなく階段を昇っていった。
山上に築かれた神社はその規模に比べ、長い階段が災いし参拝客はほとんどいなかったはず。
そんな寂れた神社には、流石に<奴ら>も出没しないだろう。
社の中に息を潜めて立て籠れば、朝まで時間も稼げるはず。
そんな考えからである。
そして目論見通り、境内に<奴ら>の姿は見えなかった。何処かにはバイトの元巫女か元神主がいるだろうが、出くわせばその時だ。
狛犬に睨まれながら拝殿に踏み入り、これならばと閂を下ろす。
途端、しん、と冷やかな空気が肌を刺した。
たった扉一枚で下界とを区切る神の領域は、世界がこんな状態になっても厳かで、清浄だった。
ただし、神様はそちら側に逃げ込んだ人間も、守ってはくれない。
そこいら中に、触手を引き千切っては黒い血液をぶちまけてやりたくなる衝動を抑えながら、ぼんやりと立ちつくす冴子を放り、バックパックから取り出した非常用蝋燭に火を灯した。


「ここで朝を待とう」

「・・・・・・」


冴子の返答はない。
蝋燭を手に、健人は周囲の点検を始める。
内部は本殿と拝殿が合一したような造りだった。
狭い敷地内に全ての機能を収納しているのは、住宅街に合わせた建築様式なのだろうか。
本来ならば本殿に安置されているはずの御神体を、健人は手に取って掲げた。
それは一振りの日本刀だった。
拵えは古いが、鞘から抜き払えば刀身には、つい最近に研ぎに出された形跡がある。
これならば今すぐにでも使えるだろう。
反りは浅く、刃紋は無い。切先が両刃となっている珍しい業物であった。
ぼんやりと朱に照らされた健人の顔が刀身に映る。
そのまま吸い込まれそうな錯覚は、銘も知らぬこの刀が紛れもなく名刀であることの証明に思えた。
鋼の輝きを鞘に収める。
使えよ、と手渡しても、本来ならば喜びそうなものを冴子は特に何かを感じる様子も無く、無言で受け取るだけ。
健人は頭を振ってシートを引き、その上に倒れ込むように腰を降ろした。
もう限界だったのだ。
道中ずっと、体調が優れなかった。
多少なりと負傷はあったが、それよりも疲労感が凄まじい。
身体の芯から力が抜けていくような、そんな感覚。
同時に、異様に腹が空いていた。
脅威的な治癒力も膂力も、無から産まれる訳がない。
健人の肉を苗床に増殖を続ける触手だったが、エネルギーの補給をしなければ、いずれ活動は停止するだろう。
エネルギー効率は解らないが、ただ生きるだけならば無補給で30年は生存出来るような気もする。自身の身体に対し、そんな確信めいた予感も抱いている。
しかし、それはサナギの様に体機能を停止させていたら、の話だ。
変異や治癒、そして戦闘を消費の大半としている以上、定期的に食事を取らなければ、直にガス欠を起こすだろう。
飢餓感を覚えるということは、それが活動に必要であるということなのだから。
もしかしたら、<奴ら>が人を喰らうのも補給のためかもしれないな、と健人は思った。


「・・・・・・なにもたずねないのだな」


いつの間にか側に寄っていた冴子が、蝋燭の火を見詰めながら、小さく呟いた。


「お前があんなになるなんて、よほどの理由だろう」


それは冴子を気遣っての言葉ではない。
よほど切り合いが好きな癖に、何を良い子振っているのか、という意図の皮肉でもって発せられていた。
それも伝わらないのならば、意味はないのだが。


「君にはなんの意味もないことだが・・・・・・聴いてもらえるだろうか?」


本音を言えば、健人はこのまま泥のように眠ってしまいたかった。
聴きたくない黙ってろ、と言い放ってやりたかったが、そこまで非道にはなれない自分に呆れ、肩をすくめて冴子に続きを促す。
意見やアドバイスを求められたら別だが、彼女が勝手に話す分には困らない。
聴くだけならば構うまい。聴くだけならば。
そして勝手に口を閉じるのも彼女だ。


「まあ、話すにしてもここに座れよ。腰が冷えるぞ。あと、これ」


バックパックから健人が差し出したそれに、腰を降ろした冴子はきょとんとして首を傾げた。
片方はウェットティッシュだが、もう一方が何の用途に使う物か解らないらしい。


「携帯トイレですよ、女王様」


一杯聖水を恵んでおくれよ、などと眼を瞑って横になった健人を見れば、まともに取り合うつもりがないことなど解ろうものなのに。
数瞬呆気に取られた後、冴子はくすくすと笑い始めた。


「嬉しい。嬉しいよ」


健人は思わず眼を開ける。
こいつは一体、何を喜んでいるのだろう。
邪険にされて喜ぶ性癖でも持っているのだろうか。
初対面からそうだったが、健人には冴子の事がさっぱり解らなかった。


「その、こういう時は寝たふりをしてもらえるのが、一番助かる。ありがとう。気遣ってくれて」


眼を閉じて横になったことを、我関せずのポーズだと取ったのか。違わないが、違う。
勘弁してくれよ、と顔をしかめた時には、冴子はそそくさと屏風の裏側に隠れた後だった。
この屏風も健人が立てたものだったが、こちら側と隔てるようにして配置したのも全くの偶然だ。


「ん・・・・・・」


小さな声が聞こえ、慌てて健人は耳を押さえて背を向けた。
こうなってしまっては強化された己の聴力が恨めしい。基本性能が上がっても指向性は無いらしく、手で塞げば無音になるのがせめてもの慰めだった。
激昂させて話を切り上げようとしたのに、何をどう間違えたのか。
やはり、こいつを理解できる日は永遠に来ないだろう。
健人は改めて結論を下した。


「最近の技術はすごいな。処分をどうしたらいいか困ったが、ゼリー状に固まるとは。そのままゴミ箱に捨てるもよし、火にくべてもいいそうだ。
 臭いも無くちゃんと燃えるのだとか」


すっきりとした様子で戻る冴子。
いらない報告である。
気まずさにふん、と鼻を鳴らせば、冴子は恥ずかしそうに俯いて、スカートの裾を抑える。
またいらぬ勘違いが発生しているようだった。もう訂正する気力も無かったが。
しばらく落ち着いてから、健人はどうぞと手で促した。
話を聴かせたいのなら、もうさっさとして欲しかった。とっくに身体は休眠の必要性を訴えている。
もしや、黙って促したのも優しさだと取られてはいやしないだろうか。そう思うと健人はより鬱屈した気分になるのだった。
冴子は静かに息を整えてから、ようやっと語り始めた。


「・・・・・・思いだしてしまったのだ。・・・・・・虞を!」


おそれ、と拝殿の静けさを裂く様に、木霊する声が深々と響く。


「子供の<奴ら>がいたから?」


よせばいいのに。
しまった、と口を噤んだ時には、言葉は発せられた後。
無意識に問いを発してしまっていた健人は、また面倒くさいことになるぞ、と話の流れに傾聴する。
口を出してしまった以上は、良く聴き、適度に応える以外の選択肢はない。
そういうわけではないのだ、と首を振りながら、冴子は続けた。


「中州で私に、好きな男がいるかどうか、訊いてくれたな」

「そっちもな」

「私も女のつもりだ。男を好きになることもあるよ。しかし・・・・・・想いを告げたことはない。告げる資格があるとは思えないのだ」

「意外だな。見た目はいいんだから、どんな奴だって頷きそうなものだけど」


意外に思ったのは本当である。
彼女の性格ならば、勇み足で切り込んで行きそうなものを。
そして健常な男であれば、その肢体の瑞々しさに目が眩み、首を縦に振るしかなくなるだろう。
隅々まで櫛の透された美しい黒髪。長い睫毛を携える、切れ長の瞳。真っ直ぐに通った小さめの鼻梁。
余分な肉を極限まで削ぎ落し、それでいて女としての柔らかさが損なわれてはいない肉体。隙のない歩み。洗練された立ち居振る舞い。
これだけ揃っているのだ。自分だって、普通に冴子と出会っていたのならば、素直に頷くしかない一人となっていたはずだ。
後に、それに騙されて痛い目をみるに違いない。


「・・・・・・人を殺めかけていてもかね?」


健人の片眉が跳ね上がる。


「4年前・・・・・・夜道で男に襲われた。むろん負けはしなかった。木刀を携えていたからな」


肩胛骨と大腿骨を叩き割ってやった、と冴子は続けた。


「君も知っている、あの日の夜のことだ」


この時点で健人の目は、両眼共に開かれていた。
眠気は飛んだ。
あるのは、じくじくとした幻痛のみである。


「知っている、とはえらい言い草だな。当事者に向って」

「・・・・・・そうだな。君が黙っていてくれたおかげで、警察は私をそのまま家に帰してくれたよ」

「へぇ」


適当に相槌を打ったが、しかしこの話題は健人にとって、すぐさま打ち切ってしまいたいものだった。
本当に面倒くさいことになったな、と内心で独り愚痴をこぼす。


「結局、何なんだよ。どうしてさっき、剣を振り下ろさなかったんだ。これはそういう話じゃないのか」

「・・・・・・楽しかったのだ」


いつの話か、というのは健人には解らない。
会話の時系列が激しく前後していた。
眼球が忙しく動いている。視線が定まらないのは、酩酊状態にあるからだ。
薄らと弓引く桜色の唇を見て、その時の感覚を反芻して悦に入っているのだろう、と健人は感じた。
4年前と、つい今しがたの感覚。
それは肉を打つ感覚か。


「明確な敵が得られたこと、それは快楽そのものだった! 木刀を手にした自分が圧倒的な優位に立っていると知ったあとは、怯えた振りをして男の動きを誘い・・・・・・ためらうことなく逆襲した!」


楽しかった。
本当に楽しくてたまらなかった。
そう冴子は、一息に吐き出した。


「それが真実の私、毒島冴子の本質なのだ。まともな理由もなく力に酔える私が、少女そのものの真心を抱くことなど許されると思うかね?」


答えを求めているのだろう。
言いながらにじり寄り、冴子は仰向けに横になる健人の上に半ばまで覆い被さって、顔を覗き込んでいた。
じいっと視線がぶつかり合う。
近い。
そして、目が合ってしまった。
今更背けることも、閉じる事も出来ないだろう。
誤魔化しは利かない。


「お前が羨ましいよ」


きっ、と冴子が至近で健人を睨み付けた。
だが、これが健人の飾り気の無い、本心だった。
本心なのだから、お気に召さなくとも仕方がなかろう。
これが私の真実だ、などと、本当の自分を見て欲しいとか、それで受けとめて欲しいとか、そういうことなのか。
前から思っていたが、こいつには露出の気があるようだ。
他人の全く興味の無い趣味に付き合うのは、苦痛を伴うこともある。
健人にとって、まさに今がその瞬間だった。
彼女と比べ自分は、未だに己が何者であるかを計りかねているというのに。


「俺は、理由がないと動けないから」

「誤魔化さないでくれ! 私は、私は・・・・・・!」

「どいつもこいつも死ねばいいと、いつも思ってたよ。あれだ、不運な子供達の一人だったからな、俺は。世界中が滅茶苦茶になって喜んでる奴らの一人だよ」


だから罰があたったのかも、と剥き出したままの右腕を、冴子の視界に入るように少しだけ動かした。
冴子は健人の両肩に手を置いて押さえつけていた事に、ようやく気がついたようだ。
あっ、と小さく声を上げたが、それでも上から退こうとはしなかった。


「いいなあ。弱っちい奴らを虫けらみたいに潰せたとしたら、さぞかし気分がいいだろうなあ。すれ違う奴らの首を端から締めていけたら、どれだけスカッとしただろうなあ」


その瞬間の冴子の顔は、裏切られたとでも言いた気に、悔しそうに歪められていた。
構うものか。健人は止まらずに述べた。


「でも――――――誰がするか、そんなこと」


冴子の瞳を、視線に込められた以上の苛烈さでもって、睨み返す。


「俺は少しも変っちゃいないよ。誰も彼をも羨んでは斜に構えてる、クソガキのままだ。ただ、学んだのさ。そして、信じることにした」

「・・・・・・それは一体、何を?」

「世界は俺が思ってるよりもちょっとだけ、面白いってこと」


何せ死体が起き上がって徘徊するくらいだ。
まるで悪夢が具現したような光景。
誰もが待ち望んだ非日常が現実となるくらいだから、世界もまだ捨てたものではないだろう。
例えそれが、地獄であったとしても。


「そして、人を信じるってこともな。俺にその二つを教えてくれたのは、叔父さんだった」


世界中の何もかもを信じられなくなったのならば、それでいい。私を信じろ。私のために生きるのだ――――――。
叔父はそう言ってくれた。
それだけを胸に、健人は今まで生きてきたのだ。生きてこれたのだ。
きっとこれからも――――――。 
そのためにはまず、叔父を信じてもよい己にならねばならなかったのだ。


「毎日吐きそうだったよ。こんな素晴らしい人と環境に囲まれてるのに、他人を貶めることしか考えられない俺は何なんだろうって。だから俺は、自分を殺すことにした」

 
冴子の手から、震えが伝わる。
痛いほどに爪が肩に喰い込んでいた。


「他人を踏み躙っては悦に入る下種を、何度だって殺してやったさ。俺は、叔父さんの信頼に足る人間になりたかったんだ」
 
「・・・・・・そう、か」

「力は隠すべきだと言われたよ。そして俺は、それに頷いたんだ。暴漢と間違われて木刀で滅多打ちにされたくらいじゃ、信頼は裏切れない」


そうだったのか、とか細い呟きを残し、冴子は健人から離れた。
あの夜、冴子が暴漢に襲われた日、偶然健人もその場に居合わせていた。
コンビニ帰りの近道に路地裏を歩いていた所、男が悲鳴を上げて這いずっていた。それに向って、木刀を振り上げる少女の姿が。
慌てて身を割り込ませた健人は、パトカーのサイレンが聞こえるまでの数十分を、少女による暴行から耐えることとなる。
男の上に身を投げ出し、亀のように身を丸め、背中を何度も強打された。
肩胛骨と言わず肋骨、指、腕の骨を何箇所も叩き折られた健人だったが、警察が到着するやいなやその場から逃走。
誰の目にも映らずに、重傷を負った身体をして逃げおおせたのであった。
国際郵送で銃器を送りつけて来るような叔父を持つ健人は、警察組織に世話になることは絶対に避けたかったからである。
後日中学校にて、あの辻斬り少女が冴子であったと判明するのだが、健人は沈黙を貫いた。
関わり合いを持ちたくなかったのだ。
どうしてか何かと冴子は健人の世話を焼こうとするようになるのだが、それがいつ自分の罪が暴かれるのかと機嫌取りをしているようにも見え、健人は冴子を避け続けたのであった。

実際に打たれた健人であるからこそ解ったのは、冴子は自分が楽しむために、執拗に一撃を加えていたということだ。
混乱し過剰防衛に及んでしまった、という訳では断じてない。
弱者を嬲って、反応を観察して、楽しんでいたのだ。
実のところ、冴子からの接触がなければ、健人はその事件そのものを忘れていただろう。
健人が冴子に対して苛立ちを抱くのは、それは自分自身にも、その資質があったが故だ。
弱い者いじめは、楽しいのだ。
その感覚は、何としても封じ込めねばならないものだった。
健人は、殴られようが、打たれようが、日常生活の中で反攻に転じた事は一度も無かった。深夜、居酒屋でのバイト中、酔っ払いにビール瓶で殴りつけられた時も健人はただじっと耐えていた。
平野と同じだ。
己の力を、健人は隠し切ったのだ。


「だから俺は理によってのみ動く。例え、俺の全部が人間でなくなったとしても、それが最後の防波堤になる。そう信じてる」

「・・・・・・自らの本質から逃れることなど、誰にも出来ないはずだ」

「当然だな。だから否定するのさ。そいつが顔を覗かせる度に、何度でも殴りつけてやる。俺はそんなものを許しはしない」


ぐ、と冴子は喉を詰まらせたようだった。


「君には、自分を否定するほどに信頼出来る人がいたのだな。私には・・・・・・」


すがるような視線。
冴子の言葉を、健人はただ一言で切って捨てた。


「“俺を”理由にするなよ」


健人の行動は叔父の言葉を根幹としている。
しかしその健人でさえ、過去に自己否定にまで至ったのは、あくまで己の意思による決定だった。
始まりは、自分しかいないのである。そして、最後もだ。
叔父の存在そのものを理由にしてしまえば、最悪、叔父が死んでいたら健人は後を追うしかなくなってしまうではないか。
叔父の言葉に多大な薫陶を受けてはいるが、ならばこそ決定権の全てを依存してしまっては、お互いに邪魔となるだけだ。
自我の無い人形など、それこそ叔父が最も嫌うものであるだろう。
まずは自己の確立こそが最優先なのである。
その上でのみ、信頼関係が成り立つのだ。誰かを己よりも上位に置く場合もまた、同じではないか。
それが健人の持論であった。
健人はまず卑屈な己を叩きのめし、そして叔父の存在を絶対と置いたのであった。
であるために、健人と叔父の関係を結ぶのは依存ではなく、忠誠なのである。
盲目的な狂信でなく、理性でもって従うと決めているのだ。
結果は同じでも、こればかりは譲れない。ただの狂信であるのなら、それは機械と変わらない。
――――――当然、反目の可能性もそこには含まれているからだ。それは叔父も、そして健人も承知の上のことだった。
どうしても腹に据えかねることがあったのなら、健人は叔父の手を払うかもしれない。よほどそんなことは有り得ないと、言い切ることは出来るのだが。

冴子は逆だ。そうではなかった。
健人は叔父の信頼が欲しいがために、己を改変させた。
冴子は――――――実際はどうだかは解らないが、ここは愛と仮定しよう――――――愛が欲しいがために、己を改変させようとしている・・・・・・と、そう思い込んでいる。
健人へと自らの本質を説いたのは、己の基盤を確かめようとしたためだ。冴子は、自己の確立に苦しんでいるのである。
であるならば、だ。
冴子は己を改変させんがために、愛を欲したのである。
これでは逆ではないか。
冴子は己を形成するパーツの一部分として、健人を使おうとしているのだ。
その内、健人がいなければ生きていけない、などと言い出しかねない。
取り込まれるのはごめんだ、と健人は思った。
自分の事を憎からず想ってくれるのは嬉しいが、しかしそれが間違った想いであるのならば、迷惑なだけだ。

人は孤独の中でも生きていける、という人生論が健人にはある。
世界がこの様になって、尚更にそう思うようになった。
ただ、孤独の寂しさに耐え難いだけで。
それは叔父と出会う前、独りきりとなった健人が得ていた一つの答えだった。そして叔父自身も、同じ考えを抱いていたように思える。だから惹かれあったのかもしれない。
今もこの瞬間、一秒刻みで人の命が軽くなっているのだ。
一心同体だなどと思われたらば、枷でしかなくなってしまう。今回だって独りで行動するはずが、結局付き纏われているのも、その傾向が強まっているからのように思えた。
生き残るために小室を愛している節のある宮本の姿こそが、今においては正しいのである。
小室がいなくなれば、平野を愛するようになることは容易に解ることだった。健人は腕の問題で駄目だろう。冴子はそれでもいいと言いそうなのだから、問題なのだ。
宮本の振る舞いは平時においては間違っても褒められはしないだろう。
しかし今は平時ではない。
そして健人の心の内も、日本人の言う平時などこれまで存在したことがなかった。
これだけは叔父の教育の賜物である。

つまりは、健人が冴子を嫌う最たる理由は、冴子の愛は自己愛が基本だからであった。
宮本のように、生存や保全のための本能的欲求から来る欲動としての愛とはまた違う、己をより完璧な存在にするための愛だったのである。
取り込まれてしまっては、動けなくなる。そんな恐怖を、健人は冴子に対し常日頃から抱いていた。
別に、それそのものを悪いとは言わない。
冴子を悪いとまでは言わないが、ただ健人の気質とは、致命的に合わないだけだ。


「もう遅い。明日に備えて身体を休めよう。どうせまた走ることになる」


それきり黙りこんだ冴子を余所に、健人は欠伸を漏らして寝返りを打った。
話はこれでお終いだ。やはり、面倒くさい話だった。


「クソ、何だこれ。罪悪感、なのか? チクショウめ・・・・・・」


鬱屈した気分を抱えたまま、健人は無理矢理に意識を眠気の泥に沈めた。
背後からは、幾度となく鼻を啜る音が聞こえていた。










■ □ ■










翌朝、肌を突き刺すような悪寒に健人は飛び起きた。
目玉が裏返りそうな程の焦燥感。
胃酸が込み上げ、口内を酸味で満たす。
身体の震えが止まらず、動悸が収まらず、呼吸が短く乱れていく。
この感覚には、覚えがあった。


「まさか、<化け物>が――――――!?」


健人が初めて遭遇した<化け物>である触手群とは比べ物にならないほど小さいが、確かに同じ気配を感じる。
それも、すぐ近くに。
あまりにも小さい気配に察知が遅れ、接近を許してしまったか。
健人は閂を蹴り飛ばし、拝殿の外へと飛び出した。
朝日の眩しさの後、視界に映ったのは<奴ら>の群れ。


「何で・・・・・・葉鳴りの音でなのか? 馬鹿な!」


焦りに大声が上がる。
<奴ら>の首が、一斉にぐるりとこちらを向いた。
迂闊、と舌打ちした時にはもう遅い。全ての<奴ら>の標的が、健人に移っていた。


「あ・・・・・・」


健人の大声で起きたのだろう、冴子が唖然とした様子で立っていた。
一応は古刀をおびてはいるが、迫る<奴ら>の群れを見ても、未だ呆けた顔。目は赤く腫れていた。
昨夜のやり取りを引きずっているのが瞭然だった。


「おい、辻斬り! 聞いてるのか! このまま走るぞ!」


一瞬だけ視線は動くも、その目は伏せられてしまう。
苛立ちと、後悔と、怒りと――――――健人自身にも解らない感情の波が押し寄せる。


「聞け、“冴子”!」

「――――――いッ!」


激情のまま、健人は冴子の胸倉を掴み上げていた。
額がぶつかり、骨の当たる鈍い音が頭蓋骨に響いた。


「理由がなければ戦えないというのなら、俺がくれてやる!」 
 

まともな理由もなく力に酔える自分が怖い。
昨晩、冴子はそう言っていた。
それは、まともな理由さえあれば存分に力に酔えるのに、と叫んだのにも等しい。
だが道徳というものが邪魔をする。
武術を収める家に産まれたのだ。その教義は根強いものだろう。
理由さえあれば、だが、そんなことが許されるわけがない、と冴子は彼女の曰く本質と士道の板挟みになっているのだ。
完璧な人間になりたいのだ。この女は。
だが、もはや諦めてもらわねば困る。
この女の望む毒島冴子を、今ここで、俺は殺さなければならない。


「どんなに変わり果てたとしても、俺は俺のままだと言ったな。なら俺は、お前はお前だと言い続けてやる! 
 だから死ぬな。俺のために、お前自身のために、本当のお前であり続けろ。俺の前に曝け出すがいい! お前がどれだけ汚れていようとも、俺は――――――」


ああ、言っちまったよ、俺。
心中で冷静な部分が自嘲を漏らす。


「俺はそれを、決して許さん」


はぁ、と冴子の吐息が顔に掛かる。
生暖かさの中に、甘さを感じた。


「承知したよ・・・・・・健人!」


健人の名を呼び捨て、冴子はぱっと身を翻した。
足取りは確かに、横顔には精気が漲っていた。
しゅらん、と刃鳴りの音をさせ、白刃が日の下へと曝け出される。
冴子の狂気を得て、ぬらぬらと怪しく輝いているように見えた。


「これだ!」


<奴ら>の眉間の中心に、両刃の切先を突き入れる。


「これなのだ!」


保護板が施されたヒールでもって顔面を踏み付ける。
刀を振り上げて、冴子は舌なめずりした。


「たまらん!」


唐竹に、頭を顎先まで真っ二つに分断。
血飛沫と脳漿をシャワーのように浴びながら、朝日の下で、冴子は薄らと笑っていた。


「濡れる――――――ッ!」


魅入られるとは、このことか。
冴え渡る剣の閃きと、それを繰る女の肢体から目が離せない。


「見ているか、健人! 見ていてくれるか! もっと私を見てくれ! この私の浅ましい姿を!」


上気した顔で訴える冴子に、ああ、と健人は乾いた返事しか返せなかった。
だが冴子はそれで満足したようだ。
言葉はいらない。ただ、見ていてくれるだけでいい。
そうとでも言いた気に、冴子は舞う。
それは獅子奮迅というより、水を得た魚と称するのが正しいのだろう。
腿を伝って水滴が、石畳に数点の染みを穿っていた。


「数分で良い、持ち堪えられるか?」

「ああ・・・・・・待て、何処かへ行くつもりか?」

「確かめないといけないことがあるんだ。すぐに戻るさ」


冴子は一瞬不満を浮かべたが、任されよ、とだけ言って、<奴ら>へと向き直った。
ぎらつく眼で次なる獲物を選別する冴子には、迷いは無いように見えた。
例え自分がどれだけ忌むべき性癖を発揮したとしても、健人がそれを全て憎み、浄化してくれると、そう信じているかのようだった。
これだから、と健人は走りながら頭を振った。
結局は、あの女の思い通りに事が運んだ訳だ。
あれはもう俺から離れようとしないのではないか、などと、恐ろしい考えが浮かぶ。
そうなれば、引きずって歩くか、重さに潰れるか、どちらかになってしまうのだろうか。
ええい、なるようになれだ。
今はこちらに集中せねば。
漂う<化け物>の気配を辿れば、健人が辿りついたのは境内をぐるりと囲む林の中だった。


「なんだ・・・・・・これは・・・・・・」


健人が絶句したのも無理はない。
林の中で健人が見たものは、粘着質なゲルが菌糸のように、木々の間に張り巡らされている光景だった。
菌糸からは巨大なカマキリの卵、のような物体が何個も何個もぶら下がっている。時折どくりと中身が蠢いては、生命の脈動を主張していた。
小さくだが、<化け物>の存在を感じる。
あのおぞましい気配は、この卵の中から発せられていた。
偶然ではない。健人は思った。
昨夜は、ほんの少しの気配も感じなかったのだ。
それが朝になって、急にである。
ここに逃げ込んだのは偶然なのだ。網を張っていた、という訳ではないだろう。
ならば、これは、自分を狙ってのことなのか。
そうして健人がこの卵をどう処分したものか決めかねている、次の瞬間だった。


「くおおッ!」


悪寒に従い身体を地面に投げ出せば、ひゅうん、という風切り音が。
健人の首のあった位置を、正確に何かが薙いでいた。
地に手を着き、飛びあがって反転。己の命を狙った何者かと対峙、その姿を認識する。
認識して、それを何者か・・・・・・と表してよいものかどうか、解らなくなった。
<化け物>特有の悪意を塗り固めたかのような造型は、<リッカー>どころではなく、完全に人型を逸脱している。
否、そもそも人をベースにしてなどいないのだろう。
健人を襲った刺客。
それは、巨大な蟲――――――であった。


「虫けらみたいに、か」


冴子に伝えた言葉を思い出す。
ガチガチと鳴らされるその鋭い節足は、まるで死神の鎌<リーパー>を想像させるものだった。
図体と同サイズの顎が開閉しているのは、健人をエサとして捉えているからか。
ふざけるな。


「こいよ<化け物>。虫けららしく潰してやる――――――!」


鉤爪を尖らせ、健人は雄叫びを上ながら突進する。
<リーパー>は4本の鎌を広げ、死神が見染めた者を抱擁するように、駆ける健人を迎え入れた。
清々しい朝の空気の中、眩しい日の光に照らされて、乳白色の巨大な卵が不気味に蠢いていた。






■ □ ■






File10:ある研究員のPC内データ


Boooomb!
ひゃっははははっはぁ!
いいねぇ、お祭り騒ぎだ!
バーキンのお譲ちゃんもやるもんだな! あの化け物を解き放つなんてよ!
まさかあの良い子ちゃんにクラッキングの才能があるたあ・・・・・・ははん、こりゃあクイーンに見逃されたか。
どいつもこいつもみーんな、けんちゃん好き好きー、ってか。
おお怖い怖い、愛が怖いねぇ。
死んだぜぇ。あれ一匹のせいで、何人も何人も死んだぜぇ。
研究員達は犠牲になったのだ。
ははははーはーぁ!

あれはもう、面の皮を剥ぐなんて非効率的なことはしねぇ。
ただ腕力に任せてぶん殴りゃあ、人間なんてそれだけで挽肉になっちまう。
執着が消えたことで純粋に殺すことに特化した、正に化け物になった訳だ。
母性を刺激されて母親の影が消えたんだな。
モテる男は辛いなあ。えぇっ、けんちゃんよお。
どうれ、俺もちいとばかり世話を焼いてやろう。
なに大したことじゃないさ。
一匹虫を放しただけだって。
なあ、大したことないだろ?
ひひぃっはっは!

クイーンだって万能じゃねえんだ。
閉鎖された独立ネットワークにはアクセスできない。ま、当然だな。
金を積みゃあ手はいくらでも足りる。
世界がこんなになっても金の価値は変わらねえのさ。
なあリカルド、まぁったく人間って奴ぁどうしようもねえな!
俺も金が大好きだけどよ!
ひゃあっはっはははぁ!
ありがとよ! お前のおかげでたんまりと稼げたぜ!
あの世にゃ金はいらねえんだ。いいだろ?
兄貴想いの弟を持って俺は幸せだなあ、おい。

俺はリカルドの馬鹿みたいなドジは踏まねえぜ。
所詮あいつもクズだったってことだ。エクセラもな。
俺はな、奴らみたいなクズとは違うんだよ。
化け物になって死ぬのはゴメンだね。

なあ、ボス。
今はそうやってふんぞり返ってりゃいいさ。
でもなあ、あんまり人間を見下してると、また足元をすくわれるぜ?
例えば、俺みたいな旧アンブレラ時代からの忠実な部下とかな!
次のステージに進化するのはお前じゃねえ!
神になるのはこの俺様、キース・アーヴィング様だ!

頑張ってくれよお、けんちゃぁん。
人類の未来は君に掛かっているのだ。
なんてなあ! 
ひゃぁっはっはっはははぁ! 













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:11
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:36
鉤爪が打ち付けられた瞬間、響いたのは、鉄を打ち合わせたような音だった。
明らかに生物の範疇を超えた硬度。昆虫綱特有の外骨格構造が、健人の鉤爪による一撃を拒む。
健人の右腕による一撃は、交差した二本の鎌によって受けとめられた。動物的、否、昆虫的本能とでも言うべきか、<リーパー>が執った耐ショック体勢は理に適ったもの。込められたエネルギーを散らされた鉤爪は、外殻の頑強さのみで受けとめられたのだった。
<リーパー>の表皮にヒビが入り、身体が沈む。このまま押せば砕けるかと体重を掛けた健人だったが、しかし残る鎌が器用に伸び、右腕に絡みついた。
三本の鎌によって完全に封ぜられた右腕。健人の顔色が変わった。
左右一対片側三本、計六本の鎌。
内、中段の一本が健人の胴を狙う。


「ちぃぃッ!」


健人はすぐさま触腕を“解いて”、拘束から抜け出す。
距離を取った健人を嘲笑うかのように、<リーパー>が巨大な顎をギチギチと鳴らしていた。
鈍痛に腹部を抑えれば、指先に朱色が。
飛び退くのが遅れ、鎌が胴を薙いだのである。

背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じながら、健人はかつて書店で読んだ、とある特集記事について思い出していた。
人間の種族の特性として格闘技を捉えた、斬新な解釈による記事だった。
そこにはこう書かれていた。
例えば人間サイズの肉食昆虫がいたとして、果たしてそれに格闘技を用いる人間が敵うか否か。
そんなテーマによる切り口から始まり、そして答えは――――――否。
絶対に敵わない。
人間が同サイズの昆虫網に近接戦で勝利するのは不可能である、という結論で締めくくられていた。
興味は惹けど所詮は机上論にすぎない、などと鼻で笑っていた頃が懐かしい。
現実にこの光景を見れば、頷く他は無かった。
俊敏性、頑強さ、可動範囲、複眼による視野――――――。
弱肉強食のシステム内に限り、昆虫網は余りにも機能的過ぎるのだ。
まるで隙がない。

健人の焦りを察知してか、<リーパー>が死神の鎌を振りかざす。
次々と振るわれる四本の鎌に向け、健人は素早く腕を振るった。
四つの衝突音。
押し勝ったのは、健人の爪である。元々、筋繊維の量と質が違うのだ。
トップスピードはこちらが上。膂力も同じく上。
しかし実際はといえば、健人は何とか鎌をはじき返すのが精一杯で、防戦一方となるしかなかった。
こちらは腕一本、あちらは四本から六本なのである。
文字通り、手数の問題だった。
一本を捌けば別の一本が迫り、それに対処する内に外側から回された鎌が背を裂く。
繰り出される連撃に追い付けず、次第に健人の身体に傷が刻まれていった。
だが――――――それだけだ。

表皮の頑強さと反応速度、膂力は確かに脅威ではある。
しかし単調な攻撃パターンは、所詮は蟲と言わざるを得まい。刺激に対し、反射で返すしかない。そこには思考がないのだ。
それでも巨大昆虫に人間が勝てはしないという構図は変わらない。だが、健人の様な半人間であるならば。その限りでは無い。
今の健人にとって、多少の負傷など問題にはならない。
振り下ろされる鎌を掻い潜り、内二本を避け切れず肩と腹を裂かれながら、健人は<リーパー>の脇へと抜けた。
そのまま背後から、<リーパー>の背へと組み付く。
硬い表皮から生えた繊毛やトゲが肌をくすぐり、嫌悪感に全身が粟立った。
だが、そんな嫌悪感を全て吹き飛ばす、闘争の熱が。


「速く、巧い。でも・・・・・・叔父さんよりは下手くそだ!」


――――――人と獣の違いは何にあるか、知っているか健人。
牙も無く、爪も無く、力も弱い我々が、唯一奴らに勝り得る可能性があるとしたら、それは何であるか解るか。
それは、技だ。
技術とは、喰われる側に回ったことのない者には、決して身に付けられん。
忘れるな。
お前が絶対的な力を手にしたとしても、技を駆使し続けろ――――――。

叔父の言葉が胸に浮かぶ。
健人は背後に回った<リーパー>の、がら空きの背を駆け昇り、その鎌が背後へと回される前に鷲掴みにした。
脇から足を入れ、両膝裏で中段の鎌を固定。次いで、足甲を引っ掛けるように下段節足を固定する。
そうだ、と健人は思った。
俺が人であろうとなかろうと、知恵を巡らせ、技を凝らさねば。


「思い出させてくれてありがとよ!」


<リーパー>の関節が軋み、鋭い顎が喘ぐように打ち鳴らされる。
激しく暴れても組付いた健人は剥がれない。右腕から延びた触手が、健人と<リーパー>のお互いを縛りつけているのだ。
健人が仕掛けた技は、関節技。
リバース・パロ・スペシャルと呼ばれる関節技の、人外応用変型である。
触手によって補われたロックは、力尽くでの脱出を許さない。
それだけではなく、相手の膂力が発揮できないよう、捻りまで加えられている。
いかに巨体であろうとも、節足動物のそれと等しく関節は脆いようだ。
寸瞬の拮抗の後、乾いた音を立てて<リーパー>の大鎌は、ついに逆間接側へと圧し折れた。
留まらず力を込め続け、健人は<リーパー>の鎌を胴体からもぎ取る。これが自分と似た性質を備えているのならば、多少の負傷で行動を封じたとは思ってはならない。完全に破壊か、もしくは分離させねば。
結合部から、半固体の黄色い体液がどろりと流れ落ちた。
醜い悲鳴が上がった。

――――――瞬間、背筋を這う悪寒。
<リーパー>の複眼が憎悪の火を灯し、真後ろにも広がる視野でもって、健人を睨み付けている。


「くああッ!?」


強烈な刺激臭。
目と鼻と喉に奔る刺すような痛みに、健人は堪らず転げ落ちた。
涙と鼻水が溢れ、涎が滝のように流れて止まらない。
あまりもの臭気に意識が朦朧とし、前後が曖昧になる。


「ぐ、ぐぅぅ! がっ、ごぶっ、げぇ・・・・・・お、ごぉッ!」


胃の中身を全部ぶちまけるまで、何をされたのか、健人は解らなかった。
涙をぼろぼろと零しながら何とか瞳を開け確認するも、<リーパー>の姿はぼやけて見えない。
それは涙で視界が滲んでいるからではなかった。
<リーパー>の周囲の空間が、丸ごとねじ曲がって歪んでいたのだ。

――――――ガスだ。
健人は自身に仕掛けられた攻撃に思い至る。
ガスを吸わされたのだ。
昆虫界ではガスを自衛に用いる種は珍しくない。
生物の体内で生成される毒も多種多様であるが、とりわけガスは、その中でも速効性に抜きんでた代物である。昆虫種のガスは、その代表であるだろう。毒性が強いものであれば、対象の肺から血中に侵入し、脳機能に障害を発生させるものまである。
しゅう、と<リーパー>の胴体から幾筋もの気体が空気を滲ませ、噴出している。
<リーパー>は体内で生成した毒性ガスを、健人へと浴びせかけたのだ。

手足が軽く痺れ、頭がぐらつくが、戦闘行動に大きく影響するものではないだろうと判断。次第に視野もクリアになっていく。
だが、周囲の空間を歪ませる程の濃度のガスだ。
しかも成分は不明――――――ろくなものではないことだけは確信できる。
そんなものを至近で吸わされ、この程度で済んだことは奇跡にも思えた。あるいは、異形と化しつつある、この身体のおかげか。
次にガスを吸わされても無事でいられる自信は無かった。

ひゅうん、と風斬り音。
確認もせず地を転がる。地面に鋭い鎌が突き刺さる音と、空気の流れを感じた。同時に、ガスの臭気も。


「ぐ、くっ、くそッ!」


歯噛みをしつつ、健人は更に距離を開けた。
近付けない。
拳銃に意識が行くも、かといってあんな硬度の外皮では、拳銃弾など効果は見込めない。
触手を延ばしても斬り落とされて終いだろう。
もっと大きな質量による高速度、遠距離からの攻撃手段が必要だ。
どうしたらいい。どうしたら・・・・・・。
健人の思考に反応したのだろうか。異形の右腕が、紫電を放ち始める。
――――――そうだ、これならば。
紫電の瞬きに、健人の脳裏に閃く、ある考えが。
鎌を横っ跳びに回避すると、地に手を突いた反動で空中後転。
健人の右腕には、石が握り込まれていた。
触腕内部へと取り込まれていく石。
健人の意を汲み、右腕が更なる型へと変型していく。
第三指、四指の中間が割れ、手首から腕部へと続く空洞が現れる。
それはさながら砲筒のようであった。否、そのものなのだ。これは。
新たな形態へと姿を変えた右腕が、正しく機能を発揮するために、激しく紫電を空中に撒き散らす。


「喰らいやがれ――――――ッ!」


<リーパー>へと真っ直ぐに向けた腕。
その砲口から、爆砕音が轟いた――――――。

サーマルガン、と呼ばれる装置がある。
電流のジュール熱によって導体をプラズマへ相変化させ、プラズマ化に伴う急激な体積の増加を利用し、弾体を加速させるという装置である。
兵器としてみれば炸薬の働きをプラズマの膨張圧に置き換えただけのものでしかないが、弾体を選ばないという点において、拳銃弾に勝る威力を発揮する場合がある。また、比較的低電流量で作動する点も特筆すべきところだろうか。
健人が弾丸としたのは、何の変哲もない拳大の石。
音速を僅かに超える初速を得たただの石ころの破壊力たるや、9mmパラベラムの比ではない。

――――――肉の焦げる音がする。
轟音を伴い射出された石は、<リーパー>の頭部を跡形もなく吹き飛ばしていた。
反動によって後ろ向きに地面へと叩き付けられ、自身が発したプラズマの熱量に腕を焼かれながら、健人は半ば唖然として石ころが産み出した破壊の爪跡を見ていた。

発熱と衝撃は、柔軟さに反して決して崩れないだろうと思われた触腕を内側から弾けさせ、本体である骨まで露出させている。すぐさま新たな触手が欠損部分を覆い始めたのを見るに、自壊することで反動を殺したのだろう。それでも息が詰まる程に地に叩きつけられたのだから、弾体発射時のエネルギーが尋常なものではなかったことが解る。
直撃でなかったのは、導体がプラズマ化し膨張した際、砲口が跳ね上がって狙いを逸らしたからか。
音速超で射出された石は<リーパー>の額を擦り、射線上の木々を薙ぎ倒し、彼方へと消えていった。
なまじ表皮が頑強であったため、砕けるのではなく折れ飛んだのだろう。頭部を失った<リーパー>の胴体が起き上がり、残った鎌を滅茶苦茶に振り回しては歩き回っていた。
巨体であっても体構造は虫と変わらないということか。昆虫網特有のはしご形神経系が、制御器官を失って暴走を始めたのだ。
可動域を無視した動きによって外骨格が剥がれ、そこから薄白く脈動するのう胞が外部へと露出する。


「あれは・・・・・・中枢神経か! それなら!」


<リーパー>が基本的には昆虫網の体構造に従っているというのなら、中枢神経を破壊すれば活動を停止するはず。露出したのう胞が本当に中枢神経であるかは定かではないが、明らかに弱点然とした器官に見えた。
健人は未だ修復の追い付かない右腕を握りしめ、駆け出した。
狙いの定まらない鎌には、もはや恐れなど抱きはしない。
露出した中枢神経へと、健人は拳を叩き付けた。


「これで終わりだ!」


水を含ませた綿を殴るような音。そして、感触。
激しい痙攣の後、どう、と音を立て、<リーパー>の巨体は地に墜ちた。
そのまま、二度と起き上がっては来ないことを確認し、残心。
健人は深く息を吐き、崩れるようにして腰を下ろした。


「なんだったんだ、こいつは・・・・・・」


堪らずにぐったりとして、健人は呟いた。
思わず漏れた一言だった。身体も、心も、とても疲れていた。
リーパーの死骸から小さな羽虫が何匹も這い出しては、群なして宙を飛んでいる。
――――――本当に、一体何だというのだ、こいつら<化け物>は。
見る程に訳の解らない生態だった。これも、今更改めて言うほどのことではないのだが。
電流を発するようになった己の右腕を抱え、健人は項垂れた。

さて、と健人は何とかふらつく足を抑えて立ち上がると、きびすを返した。
こちらは何とかなったが、冴子の方はどうだろうか。
もしも苦戦しているようならば、加勢してやらねば。


「いや、助けなんかいらない、か」


真剣を得た冴子の、見る者の背筋を震わせるような、艶やかな笑み。
それを思い出し、大丈夫だな、と健人は一人言ちて苦笑した。
背後にぶら下がる幾つもの繭。
その表面をぶつりと裂き、羊水に塗れた鋭い鎌がてらてらと光を照り返していたのには、気付かずに。






■ □ ■





脊髄に氷柱を突き込まれたような感覚に冴子が停止したのは、あらかた<奴ら>を斬り伏せた後のことだった。
もう数十体は斬っただろうか。
切先を斜めにして刀身を振り、血を流し落とす。人血を吸い、ぎらり、と鋼色の刀身が輝いていた。刀身に余分な油脂は残らず、刃零れ一つない。
流石は御神体として祀られていただけのことはある。
まとめて二体の<奴ら>の胴体を両断した瞬間など、内股の震えが止まらなかった。造りの見事さは言うまでもなく、この結果を自らの腕が成したと思えば、えもいわれぬ快感である。
次から次へと<奴ら>を求めては、斬って斬って、斬り捨てる。
気付けば冴子は散乱する<奴ら>の残骸の直中で、息を荒げて立っていた。
周囲をぐるりと見渡す。
むせ返る血の臭いと、散らばる肢体。
つい今しがたまではこの光景を前に、恍惚を覚えていたはずだった。
だが、しかし。
――――――嫌な予感が、する。


「――――――健人!」


はっと何かに気付いたように、冴子は健人の名を呼んだ。
そのまま脇目も振らず、林の中へと駆けていく。
そんな馬鹿な、と。
叫び出しそうな自分を抑えるのに精一杯だった。
指先が凍える。
そんな、馬鹿な。
彼が、健人が、やられるはずがないではないか。


「やっと、やっと通じ合えたというのに――――――!」


だから、どうか無事でいてくれと切に願う。
踏み込んだ林の中は、そこいら中の木々に粘着質な糸が絡まり、幾重にも張られた蜘蛛の巣のような様相だった。
何個かある萎んだ風船のような物体は、何かの卵なのだろうか。今も滴る羊水から立ち上る腐臭に、胃酸が込み上げる。
死体が歩き回ることも非現実的であったが、この空間は輪を掛けて異常だ。
嫌悪感に顔が歪み――――――そして冴子は見た。
巨大な蟲の<化け物>達が、健人を取り囲んでいるのを。
これか、と冴子は戦慄を抱いた。
これが、健人の敵。
これが、健人の抱いていた、恐怖そのものか。


「健人・・・・・・ッ、しっかりしろ健人! 健人!」


叫ぶも、反応はない。
返答の代りに這いつくばる健人の口から出たのは、血の泡だった。
健人はただ、己を取り囲む蟲共を、真っ赤に燃える瞳で睨み付けている。その視線に絶望の色はなかった。
だが、健人の強みであり弱みでもある異形の右腕は傷つき、これ以上の戦闘には耐えられないことは明白だった。
限界だ。
戦意は萎えずとも、膝は地を離れる様子はない。
そんな状態では一匹、二匹、三匹・・・・・・七匹はいる蟲共を、到底捌き切れないだろう。
叫び声に反応した数匹の蟲が、複眼を一斉に冴子へと向けた。
表情の無い、ただ醜悪なだけの顔。
巨大な蟲そのもののおぞましさに後退りしかけるも、しかし烈火の怒りが冴子を突き動かした。


「健人から離れろ、<化け物>め!」


冴子は刀を構え、近くの一匹に狙いを定めて斬り掛かった。
激昂していようとも毒島流剣術の太刀筋に曇りはない。
刃の閃きは蟲共を両断する――――――はずだった。
肩口の表皮に触れるや、ぎぃん、と甲高い音を立て、冴子の手にある刃が留まる。手首に伝わる異様に硬い反動に、冴子はさっと青ざめた。
それでも刃先が喰い込んでいたのは、神前に供えられる程の業物であったがためか、冴子の技量によるものか。刃が欠けた様子も、刀身が歪んだ様子もない。そっくりそのまま、そこに留まっていたのだ。
まさか冴子は、いくら巨大であるといえど蟲の表皮が鋼並の強度を備えているなど、思ってもいなかった。
斬鉄にはそれ相応の気構えと、特別な打ち方が必要だ。
肉を斬るようにしては鉄が斬れないのは当然である。
冴子に健人程の膂力があれば、あるいは力尽くで袈裟斬りに出来たかもしれないが、それは望むべくもない仮定でしかない。
蟲共は冴子の刃を意にも介さず、防ぐ事すらしなかったのだ。ガチガチと鳴らされる顎が、冴子には侮蔑の嘲笑にも見えていた。
冴子を抱き締めるよう、四本の鎌が広げられる。
身体に何度も鎌が突き立てられ、串刺しにされる様が冴子の脳裏を過った。


「く、おおおおッ!」


しかし、掲げられた鎌は空を斬る。
健人が横合いからタックルを仕掛け、蟲の巨体を押し倒したのだ。
包囲を無理矢理に抜けて来たのだろう。健人の腿には大穴が空き、おびただしい量の血が流れている。
冴子を襲っていた蟲と、もつれ合いながら地を転がる健人。
二者に弾かれてなお冴子が刀を手放さなかったのは、流石は毒島の女、と言うべきか。
ただそれは反撃のためではなく、訓練によって培われた反射によるものであったことは言うまでもなく。
鎌がひたりと健人の喉に宛がわれたのを、冴子はただ見ているしかなかった。


「よ、よせ! やめろ! やめてくれ!」


健人の首に掛けられた鎌が、じっくりと閉じられていく。
今すぐに駆け寄りたいというのに、残る蟲共に牽制され、動けない。


「あ、ああっ、あああ! 健人――――――!」


絶望に崩れ落ちた冴子の膝が地に着く、その寸前の事だった。


「MUU■――――――U■OOO――――――AAA■AAAA■■――――――■!」


朝霧を裂く咆哮――――――。
空から飛来した黒い砲弾が、健人に圧し掛かる蟲を弾き飛ばした。
否、それは砲弾ではなかった。
ゆっくりと晴れていく土煙の中に、ひざまずく人影が静かに佇んでいた。
それには手があった。足があった。頭があり、胴体も、人間と同じ数だけあった。
ただ、現れたそれを人間と言い切ってしまうには、冴子には疑問が残った。

腕は長く、膝丈に届く程。
拘束具のような黒衣が全身を頭部まで仮面のように覆っていて、僅かに指先や口元が覗くのみ。
露出している肌も、まるで<奴ら>のように青白い。外から伺い知れる口元も顎は細く整ってはいたが、ひび割れて乾いた唇の奥に、赤黒く染まった歯が見える。これも<奴ら>に似ていた。
元は金髪だったのだろう、くすんだ灰色の髪がベルト状の仮面から零れていた。
そして手足には鉄の枷が。足枷は破損していたが、両手は高度な技術力を匂わせる電子錠によって繋がれている。
何よりも目立つのがその体躯だ。やや曲がった背が全長を誤魔化しているが、真っ直ぐに立てば2mは優に超えるだろう。
これを人間であると言うよりは、<奴ら>であると言う方が、まだ納得出来る容姿だった。


「け、けん・・・・・・と・・・・・・・」


冴子が自身の精神を打った衝撃に固まったのは、突然の事態に驚いたからではない。
黒衣の人物――――――と表すしかない――――――に、健人が抱き抱えられていたからだ。
襲っているのではない。この人物は健人を救ったのだとみるのが正しいだろう。まるで大事なものを扱うかのように、黒衣の人物は健人へと頬を寄せていた。
女性、なのだろうか。
胸の膨らみが、拘束具をなだらかに押し上げている。
腕と枷で作られた輪の中に、すっぽりと身を納めさせられた健人は、呆けたように黒衣の大女を見上げていた。
笑っているような、泣いているような。
切なさに喘ぐ顔。
これまで見たことのない健人の表情に、冴子の胸の奥から、腹の底から、制御不可能な熱い泥の塊が噴き出してくる。
正直に告白するならば。
健人の首に鎌が添えられた時よりも、今この時に飛び出して行けない事に、冴子は猛烈な焦りと後悔を覚えていた。
まさか、と冴子は思った。
まさか自分は今、何か決定的な瞬間の目撃者となっているのではないか。
馬鹿な。
そんな馬鹿なことが――――――。
ゆっくりと健人は、自らを抱く大女に向かって指を伸ばした。
何をかを言わんと、震えながら口を開く。


「リ――――――」


しかし健人の呟きは、最後まで口にされることはなかった。
蟲共が乱入者を刺し殺さんと、彼らに向かい殺到したのだ。どうやら蟲共には雰囲気を察知する機能は備わってはいないようだった。否、もしかしたら、この上なく空気を読んだ行動なのかもしれない。そう思ったのは、冴子だけなのだろうか。
黒衣の大女は健人を静かに地面に下ろすと、無造作に手首の枷を一振りした。
枷はぐおん、と重量のある音を立て、無警戒に近付いていた蟲の横面に命中。硬質な物が砕け散る音がした。
派手に宙を回転する蟲。
ようやく土を抉って止まった時には、全身があらぬ方向へひしゃげていた。
先に黒衣の大女が現れた際も、この枷で一撃を加えたのだろう。
健人を超える常識外の膂力だった。そんなもので殴られたならば、例えどんな生物であっても絶命は必至である。
黒衣の大女は一度だけ健人を振り返ると、悠然と蟲共に向き直った。


「駄目だ、数が多すぎる!」


俺も一緒に、とふらつきながら立ちあがる健人。出血はもう止まっていた。
だが黒衣の大女は、健人を制するよう、背後を指差した。
指された方角には、境内に続いていた階段が。
このまま逃げろ、と言いたいのだろうか。


「■■G――――――■OO■AA!」


天に吠える黒衣の大女。
それが合図だったのか、木々の隙間から爬虫類と人間を重ね合わせたような異形が、新たに現れた。
敵・・・・・・ではないようだ。
一体今までどうやって姿を隠していたのだろう。まるで狩人<ハンター>のような身のこなしで、蟲共を取り囲んでいく。
それらの動きは全て、大女の指示の元に統制されているように見えた。
黒衣の大女が、再び階段を指す。


「今の内だ、健人。さあ行こう」

「でも、助けてくれたんだ、俺も一緒に」

「いい加減にしないか! 行くんだ!」


何度も振り返る健人を引きずりながら、冴子は境内を後にした。
あの蟲の<化け物>は何なのか。
いったい健人はどんな異常事態に巻き込まれているというのか。
そもそも、右腕の変質はなぜ起きたのか。
聞きたい事が山程あった。
しかし、そんな事は問うても意味があるまい。健人自身も答えに窮するはずだ。困惑を張り付けた顔が全てを物語っているではないか。
だから、現れた黒衣の大女のことを知っているのか――――――などと、健人にその関係を問うことなど、冴子には出来ようもなく。
今はただ、健人との間にようやく結ばれた繋がりさえあればいい。この温もりだけで。
冴子は唇を噛み締め、健人に強く腕を絡みつけた。






■ □ ■





「健人お兄ちゃん・・・・・・冴子お姉ちゃん・・・・・・」

「大丈夫だよありすちゃん。きっと、きっと大丈夫」

「コータちゃん・・・・・・うん!」


明るく頷くありす。
だがそれは、崩壊と紙一重の空元気というものではないのだろうか。そうコータは思った。
小室達一行が高城邸に匿われ、一夜が過ぎていた。
皆へとへとで、コータ自身も泥に沈むようにして眠りについたのである。ありすの体力がもつはずがない。
そうでなくともありすの目の下には、薄い隈が出来ているように見える。
子犬と子供とで気が合うのだろう、あれから寄り添うように側へと侍っているジークと共に戯れるありすの姿を見て、やはり無理をしているな、とコータは気付かれぬよう、息を吐いた。
ありすが何度も悲鳴を上げては飛び起き、結局は鞠川に抱かれて眠ったのを、コータは知っていた。
彼女はまだ、地獄にいるのだ。
頼るべき両親を失った地獄に。
だからたった数時間共に過ごしただけの健人と冴子の安否を、こうまで気に病んでいるのだ。
彼女を救ったこのメンバーの中から“脱落者”が出たら、どうなるのだろうか。
耐えられないかもしれない。
小さな身体に見合った脆い心を快活さで覆い隠し、この世界に適応した少女を、弱いなどとコータは言わない。
いつかは自分も、悲鳴を上げて飛び起きることになるのだろうから。


「あ――――――、健人お兄ちゃん! 冴子お姉ちゃん!」


ぱっと顔を上げ、正門へと駆けていくありすを目線で追う。
高城の母が率いていた党員に誘導され、高城邸へと向かう、健人と冴子の姿がそこにはあった。
知らずコータは自分の膝が震えていたことに気付いた。
安堵で腰が抜けそうになっていた。


「健人先輩、毒島先輩! よくご無事で」

「ありがとう平野君。私も健人も、この通りだ」

「健人お兄ちゃん、大丈夫?」

「・・・・・・ああ、大丈夫だよ」


見た所怪我はない様子の冴子。
健人は血みどろだったが、別段どこかに傷があるわけでもないようだ。全て返り血なのだろう。何処で調達してきたのか、新たな厚手のコートに袖を通していた。
冴子に肩を借りて歩いているのは、立って歩く気力がなかったからか。
健人は冴子から離れると、心配そうに見上げるありすの頭を一つ撫で、覚束ない足取りで歩き始めた。
ありすがすぐさま近付いて、よいしょ、と健人の手を頭に乗せ、杖替りとなっていた。
それに苦笑をこぼせるくらいなのだから、本人の言う通り大丈夫なのだろう。
コータの眼にはとても大丈夫そうには見えなかったが。


「前からでかいなとは思っていたけど、内側から見るとさらにでかく見えるな」

「高城さんの家は、その、右翼団体の拠点も兼ねていたみたいで」

「右翼か。それっぽい性格なんじゃなくて、本物のお嬢だったわけだ。それで、どうだ。そっちは何かあったか? 宮本の怪我の具合は?」

「こちらは何も。皆昨日はぐっすりでしたから。宮本さんも打ち身は酷かったそうですが、大丈夫だそうです。薬を塗って安静にしてますよ。先輩達の方は?」

「・・・・・・まあ、色々とな。悪い、まだ整理がついてないんだ」

「い、いえ! こちらこそ申し訳ないっす!」

「ごめんな。詳しい事はあいつに聞いてくれ。ああ、怪我はもうなくなったから、心配しなくていいよ」

「はあ、ならいいんですが」


“もうなくなった”、という言葉のニュアンスに首をひねるも、健人の言い間違いなのだろうとコータは頷く。とまれ、怪我が無くて何よりである。
あいつ、と後ろ向きに親指で示された冴子は、何やらありすを羨ましそうに眺めていて、健人は振り向きたくはないようだった。
気が付かなかったが、腰には真剣を帯びている。
なるほど色々とあったようだ。


「悪いんだけど、少し一人で休ませてくれないか。あと、飯も」

「食事ならば私が作って」

「うん! ありすおばちゃんに伝えてくるね! 健人お兄ちゃんお腹ぺこぺこだって!」

「ありがとな、ありす。走ってこけるんじゃないぞ」

「はーい!」

「私が・・・・・・」


聞こえていただろうに、冴子を完全に無視してありすを追う健人。
がっくりと肩を落とすも、ほうっ、と熱っぽい息を吐いて健人の背を見詰める冴子に、どう声を掛けたらいいものか。
コータはびくつきながら冴子に話し掛けた。


「ええっと、ぶ、毒島先輩? その、きっと健人先輩は照れてただけですから、元気出してくださいね」

「ああ、解っているよ。意地っ張りだからな、健人は。男の自尊心を受け入れてやるのも女たるの役目さ」

「はあ、健人、っすか」


呼び名が変わっている事を深くは聞かないコータだった。
人の視線や風聞に隠れるように生きて来たコータだ。
誰が誰にどんな感情を向けているかは、人並以上に敏感なつもりであった。
聞けばお前はどうなのだ、という返しが来るのは間違いがない。藪を突けば蛇が出ると解っているならば、黙って見過ごすだけの慎重さをコータの人格は備えていた。
それは射撃において如何なく発揮されている才でもあった。


「そうだ。健人先輩から毒島先輩に聞いておけって言われたんですけど、昨日何かあったんですか? 健人先輩の様子、普通じゃなかったですよ」

「・・・・・・ほう。平野君、君には彼がどのように見えていたというのかね。教えてくれないか?」

「え、ええっと、何て言うか、苦しんでるみたいな。でも、それでいて」

「嬉しそう、だったかね?」

「ええ、とても嬉しそうでした」


そうだ、とコータは頷く。
すれ違った瞬間に垣間見えた健人の表情は、とても穏やかだった。
隠しきれない濃い疲労感がこびり付いていたというのに、それでも健人は穏やかに、哀しそうに、笑っていたのだ。
その笑みには苦悩と喜び。悲哀と懐古。相反する感情が混在しているように見えた。
何があったのだろうかとコータは首をひねるしかない。


「ふ、ふ、ふ」


きり、きり、きり――――――と、小さな音が聞こえた。
薄らと開いた冴子の唇から、断続的な笑い声と共に漏れている。歯噛みの音、なのだろうか。
俯いた冴子の表情は、影に隠れて見えない。
ぞわり、と空気が一瞬で冷えたような、そんな気がした。


「え、あ、ええ? ぶ、毒島せんぱ、い?」

「ふふ、ふふふ、どうしたね平野君。続けたまえよ」

「ひ、ひぃ!」


思わず尻餅を着くコータ。
駄目だ、目を合わせられない。


「男子が簡単に倒れるものではないよ。さあ、立ちなさい」


差し出された手に、うっかりとコータは見上げてしまった。
見上げて、後悔した。
変に気を回さず自分もありすに続いて、さっさと退参すべきだったな、と。
銃を身に付けていないことがこんなにも不安に思ったのは、初めてのことだった。
大丈夫です、と何とか返事を返し、手を取る事なく立ち上がる。
目線は下だ。
怖いもの見たさなどと、とんでもない。
今の彼女と対峙するのに比べれば、<奴ら>相手に62式機関銃を担いで行く方がよほどマシだろう。
藪を突かぬよう回り道をしたら、鬼の脚を踏んだような気分だった。


「ふふ、何があったのかと問われたのだったな。ご期待に沿えず申し訳ないが、健人と私の間が狭まった意外には、何も無かったよ」

「あ、あうう」

「それ以外には何も、何も無かった。そう、何も無かったのだ。無かったともさ」


意味の無い言葉が口を突く。
淡々と語る冴子は、その下顎を口端から滴らせた血の雫で彩らせているのだろう。
コータが覗きこんでしまった、井戸の底のような色の無い瞳で。


「そ、それじゃあ僕はこれで! 失礼します!」


コータはそのまま脱兎の如く逃げ出した。
こういう時には小心者であって得をしたなと思う。逃げ出したとて、恥にはならないのだから。否、今の冴子の前に立てるのは高城の父くらいのものだろうが。


「ほんとに何があったってんですか、健人先輩」


問うても健人のことだ。
色々あった、としか答えないだろうことは、想像に難くない。
どこか超然とした所のある健人を恨めしく思う。全くあの人は、とコータが健人へと愚痴をこぼしたのは、仕方のない事だろう。
振り向かず、つんのめりながらもコータは走った。
きり、きり、きり――――――と、小さな音が、背後から聞こえてくるようだった。






■ □ ■






File11:ある女スパイの記録


暗号アルゴリズム解除キー照会・・・・・・照会中・・・・・・エラー・・・・・・90%変換完了・・・・・・。

卵の癒着を確認。
現在、被検体に感染したウロボロスウィルスに変化なし。
孵化を確認後、被検体に更なる戦闘を経験させ、負傷による混合ウィルスの反応を確認後、帰投する。
また、以下については私見であるが、今回の試験の狙いであるウィルスの強制進化を促すには、<リーパー>程度では不足であると推察される。
強制進化させるには暴走状態に追い込むのが最も効果的であり、生命活動が困難になるほどの、治癒不可能であり致命的な打撃を与える必要がある。
これまでのデータより、人の精神面――――――脳電位にウィルスが大きく左右されると仮定すると、被検体の精神状態にも気を使うべきである。
ウロボロスの力をものにしつつある被検体では、個ではなく数で押す<リーパー>には脅威を感じこそすれ、大きな恐怖は感じないだろう。
被検体に与える影響を考え、<『暗号解除キーが一致しません』>の投入を進言する。
・・・・・・現在時刻、2308――――――。
翌日0530をもって作戦指揮権をそちらに移譲する。


・・・・・・あとはそちらのご勝手に、と。
PDAを打ちながら、死んだように眠る坊やの顔を、暗視カメラのモニタ越しに眺める。
坊やとばかり思っていたけれど、いつの間に彼女なんて作ったのかしら。
まったく、もう。坊やにはまだレディとベッドを共にするのは早くってよ。
あれほど女には気を付けなさいと言ったのに、この子は。
変なのに引っかかっちゃって、ご愁傷様。

あと何度、そうやってゆっくりと眠れるのかしらね。
人知を超える化け物にいつ襲われるのか解らない恐怖。
自分の命を守るので精一杯の状況で、周囲の者が自分のせいで死んでいく。
そんな恐怖に、どれだけ耐えられるのかしら?

いいえ、きっと大丈夫なのでしょうね。
初めて会った時から、坊やには彼と同じセンスを感じていた。
常人離れの強運と、それをとっさの判断で最大限に生かす非凡なセンス。まさに天賦の才能だと思う。
あの男、ウェスカーでさえも、もはや坊やの可能性を推し量る事は不可能だ。
私だけが、坊やの創る未来の明確なヴィジョンを見通せている・・・・・・とは言いすぎね。
先の事など、誰にも解らない。
それでもこの子の通る道に、困難はあれど挫折はないと確信できる。
手始めに、あの科学者気取りの下品な男が仕向けた、三流の絶望劇を乗り越えるのよ。
気を付けなさい。巨大な『暗号解除キーが一致しません』の脚の一撃は『暗号解除キーが一致しません』――――――。

いよいよもって、ウェスカーの名に何か特別な響きが在るように感じるのは、私だけなのだろうか。
特別であることは間違いがない。
世界の破壊者である、あの男
神の器となるべく作成された坊や。
そして・・・・・・未だ沈黙を保っている三人目の『暗号解除キーが一致しません』、アレッ『暗号解除キーが一致しません』――――――。

神の器、というのが何を指しているのか、実のところは不明だ。
それぞれのウェスカーには、それぞれ役割が与えられている。
では坊やの役割とはいったい。坊やには何が仕掛けられているというのだろう。
仕掛け好きとして有名だったスペンサーの事だ。
何らかのからくりを仕込んでいたに違いない。
その本人も今は亡いのだから、真実は闇の中だ。
スペンサーが衰えたのは、ウェスカーにより坊やが死亡したと虚偽報告が上げられたのと時を同じくしている。
そして再びスペンサーが気力を取り戻したのも、坊やの生存が確認されて後のことだった。
それから先の、死に掛けの老人が生にしがみつく執念は凄まじい。
それは年を経て狡猾さを磨き続けてきたスペンサーに、迂闊を踏ませる程だ。
ウェスカーの前で、種明かしをしてしまうなど。殺されるに決まっているというのに。
それほどスペンサーが坊やに異様な執着を見せ、自制心を見失っていたということか。

ウェスカーがスペンサーに屈していたのは、スペンサーの存在感が肥大化していくという擦り込み故。
それが彼を含むウェスカーの全てに設定された、安全装置だったはず。
スペンサーが死した洋館の地下には、何の用途に使用するのか解らない精密機械が多数発見されていた。
そして後に発見された、人間の脳電位に関する膨大な資料。
ジェームス・マーカスの例に端を発する、ウィルスを介した人間の思考と人格の保存方法の研究。
それらに基づいた、ウィルスに適合する特別な脳を持ったデザインチャイルドの作成計画。
最後のウェスカー。
ウェスカー・・・・・・神の名前。

これらの事から導き出される考察。
もしやスペンサーは、坊やの身体を使って『暗号解除キーが一致しません』ソフトとしての自己の再生を『暗号解除キーが一致しません』――――――。
ならば、ウェスカーが坊やに説明不可能な愛情を抱くのは、『暗号解除キーが一致しません』――――――。
愛とは、時に憎悪や恐怖よりも強く精神を拘束する枷となる、ということか。
それは私自身、身に染みて解っていることね。

抗いなさい、坊や。
私の信じる、彼のように。
例えそれが、どんな理不尽な運命であったとしても。













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:12
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:37
高城邸二階。
豪邸の庭先に集められた生存者達のざわめきを聞きながら、与えられた個室の中、健人はベッドに腰掛けて項垂れていた。
どうやらまた、高城一派の手によって生存者が救出されたらしい。
空になったチョコレートの包み紙を後ろに放り、握り飯へと手を伸ばす。
握り飯は手作りのものではなく、ビニルに包まれたコンビニエンスストア市販のものだ。
これらは全て、高城一派が周囲の店という店から集めて来た物資である。
当然の事だが、高城一派は地盤固めに尽力し炊き出し等に十分な時間を裂く事は出来てはいないようだった。未だ世界が崩壊してから二日しか経っていないのである。サバイバルを視野に入れるよりは、周囲から既製品を掻き集めた方が効率が良いのは言うまでもなく。現時点で優先すべき事は、救い出した人々をまとめ上げ同一の規律を持った集団を造ることである。それは人が人らしく生きるために、環境を整える前に必要な段階だ。食料や物資の確保より集団を統制し制御することが非常時には重要である、というのが健人の持論だった。それはこれまでの騒動が証明しているようにも思えた。
その点から観れば、高木一派はよくやっている。たった二日かそこらでここまでまとめあげたのだ。並の行動力とリーダーシップでは絶対に実現しないはず。平時から災害時の対策マニュアルが徹底していたに違いない。それでも崩壊の兆しが見え隠れするのは、こればかりは責められないだろう。
死体が起き上がり人を襲うのだ。そんな事態、誰が想像出来る。
それは思想右翼団体である高城一派でさえ例外ではなかった。
ならば警察は・・・・・・。
小室と宮本の目的地を思いながら、健人はまた別の握り飯へと手を伸ばす。
健人の座るベッドを中心として、辺りにはビニルの包み紙や袋が散乱していた。全て健人が胃に収めた食料品の包装紙だった。明らかに10食分以上の分量があったが、健人の腹は外から見ても膨れた様子はない。全てエネルギーに変換されてしまったのだろう。ほとんど全てが、である。どれだけ食べても飲んでも、健人は一度も便意を催さなかった。以前には考えられない量の食事量だというのに、詰め込めば詰め込んだ分だけいくらでも入っていくのは、自分自身の身体であっても不気味だった。
どちらにしろ腹一杯食えるのも今の内だけだ、と健人はペースト状に噛み潰した米粒を呑み下した。
何度も足を運び、流石にもう気まずくなってきたが、また食糧庫に世話になることにしよう。健人は手早くゴミをまとめ、個室から廊下へと出た。
半ば機械的に個室と食料庫を往復する健人の頭を巡るのは、神社で自らの窮地を救った、黒衣の大女のこと。
幼い頃の記憶。目を閉じれば今でも残っている温もりに、健人はその名を呟いた。


「リサ――――――」


果たして“そう”なのだろうか。
あの黒衣の大女は、幼少の頃に自分を慰めてくれた彼女なのだろうか。
だが健人の記憶は、感覚は、二者が同一人物であることを知らせている。
今ほど健人は、自分のあやふやな感覚を信じたくはない時はなかった。

長い腕。
くすんだ髪。
青白い肌。
引き連れていた、ハ虫類と人間を合わせたような<化け物>。

どれもが人間からは遠くかけ離れたもの。
それらは全て、健人が抱いていた淡い想像とは真逆の姿だった。
本音を言えば、まるで化け物のように見えた。
だが、それは。


「俺も一緒か」


皮手袋に包まれた右手を掲げ、健人は言った。
――――――物事の見た目に囚われるべきではない。その本質を見るのだ、健人よ。
叔父の言葉を思い出す。
すると不思議な程、すうっと胸のわだかまりが消えていく。
残ったのは、二度も自分を救った恩人である彼女に対し、疑いを抱いてしまったことへの罪悪感と、自己嫌悪だけだ。
彼女に抱きしめられた時、感じたのは労りと優しさだった。背を撫でる手は慈愛にあふれていて、そこに邪な思惑など少しも含まれてはいなかったではないか。
疑うべき所は背後関係であり、それは彼女自身に問題があるのではない。
そも明確な思考というものが彼女に在るかが疑わしいのだ。
例え騙されたとしても、裏切られたとしても、それは彼女の意図したことではないはず。


「俺って奴は、どうしてこうなんだ。くそっ・・・・・・」


上辺しか見えていないのか、と。
吐き捨て、健人は拳を握った。
ミシミシと肉の軋む音を立て、手袋の隙間から浅黒い体液が溢れ出た。
これが、今の自分の体内を流れる、血の半分だ。
自嘲に健人が口角を歪めると、足元にくぅん、と寄り添う生暖かさが。
視線を降ろせば、それはジークだった。
側にありすがいないのは、健人と同じく彼女も食事中であったからだ。食堂から閉め出されたのか、と健人はジークを抱き上げた。
子犬にそんな感情があるかは解らないが健人には、じっと見つめるジークのつぶらな瞳が、自分を心配して気遣っているように見えた。


「ごめんな、心配させちゃったか?」

「くぅん・・・・・・」

「はは、くすぐったいよ。大丈夫、大丈夫だから、もう怪我はないよ」


ジークはぺろり舌を出し、健人の手袋から滴る体液を舐め取った。
血は乾いてはいないが、怪我自体は拳を開いた時にはもう、治癒が始まっている。大丈夫だ、と言って健人はジークの背を撫でた。
動物に触れていると、どうしてこう心が落ち着くのだろう。
ありすがジークを側に置く意味がよく解る。この子犬は、小さな身体でありすの心を守っているのだ。


「ありがとな。俺はいいから、ご主人様の所へ行ってやんな」

「わんっ!」


元気に一鳴きするジークを降ろし、廊下を走って行く姿を見送ってから、健人は拳を額に押し当てた。
嫌でも考えは巡る。
彼女の身につけていた装飾品、衣服と電子錠からしても、何らかの組織的な関与が見受けられる。
健人の右腕を変質させた<化け物>に始まり、<リーパー>達は、もしや人為的に発生させられた新種の生物ではないか。
ならば、世界がこんな状態に陥ったのも。
――――――いや、これ以上は考えるのはよそう。健人は頭を振った。考えれば、切りがない。
例え彼女に何らかの組織が関与していたとしても、彼女は昔と変わらず、口が聞けるような状態ではなかった。
誰に問うても答えは返ってこないだろう。
知る術がないのだから、結局のところどうしようもないのだ。
出来るのは何かがあった時、即時に動けるよう、心構えをしておくことだけだ。
そしてそれまでは、自分の心に従おう。
己の在り方というものが試される世界なのだ。
誰もが本能を剥き出しにすることに、躊躇を覚えなくなってきている。
それは精神統一を重んじるはずの武人である冴子でさえ、そうだったのだ。
悪意の形がはっきりとするまでは、あるがまま感じるままに、全ての状況を受け入れるしかない。
例えそれがどれだけ目を背けたい事実であったとしても。


「また、直に会えるよな」


自分が何処に行ったとしても、彼女はきっと後を追ってくるだろう。
そんな根拠の無い確信が、健人にはあった。
その時は、その時こそ、ちゃんと言おう。
彼女の手を握って、ありがとう、と。
きっと全てはそれからだ。


「一発殴られるくらいは覚悟したほうがいいかな。死ぬかもしれないけど」


<リーパー>を一撃で殴殺した膂力を思い起こしながら、健人は食糧庫へと急ぐ。
頼めばいくらでも食べ物を分けてくれるのも、警戒が<奴ら>だけに向き、内側への危機感が煽られていない今だけである。
その内に食糧を巡って殺し合いにまで発展しかねない、と健人が思うのは、何も大げさな話ではない。
きっとすぐにそうなる。
生ものが腐り始める頃が目安か、と健人は早歩きで廊下を進んで行った。


「誰かっ、誰かあ!」

「うるせえ! 静かにしやがれ!」

「おい、お前そっち押さえてろ。暴れんなよクソ女! ケツ上げろ!」

「大人しく突っ込まれてろやボケ!」


聞こえる、助けを求める叫び声。
物音が聞こえたのは、廊下のつきあたりにある端部屋。
間取りの関係で使い勝手が悪く、誰かが足を向けることはほとんどなさそうな部屋だ。高城邸は右翼団体の拠点として使用されていたが、本来は住居であるのだから、こういう間取り上の死角が多数存在していた。
邸内の巡回に割ける人員など、あるはずもない。外の喧騒とは切り離された感のある邸内では、室内で多少大声を上げても外に漏れることはない。後ろめたい事をするにはぴったりだろう。
喰い物が腐るより人間が腐る方が早いのか、と健人は溜息を吐きながら、怒声が聞こえる部屋の扉を蹴破った。
力加減を誤って蝶番ごと扉は粉砕。
冷静であるつもりだったが、思っていた以上に気が立っていたようだ。
部屋の中にはじゃらじゃらとシルバーアクセサリが煩い、同じようなファッションをした男達が数人と、ハンドタオルで手足を縛られた女性が一人。
衣服は斬り裂かれ、下半身は露出し、開かれた股の間に男が割って入っている。


「な、なんだぁ手前は!」


出刃包丁を突き付けて叫ぶ男。
これで女性を脅し、縛り上げたのか。
錆の浮いた包丁は、以前ならば例え相手が素人でも身構えたものだが、今の健人にとっては何の脅威にも感じない。
そのまま無造作に健人は男たちに近付いていった。
こうして道徳感や人間性を発揮できるのは、後どれくらいになるだろう。
身体の問題を除いて、の話である。
いつかは人道を踏み躙る行いをしなければならなくなるかもしれないし、こんな場面に出くわしても見捨てなくてはならなくなるかもしれない。
精神の尊厳を保つための機会は逃さないようにしたいな、と健人は思った。
行いだけは気高くありたいものだ。
俺を助けてくれた、彼女のように。


「ひ、ひひっ、何だよ、お前も混ざりたいのか? でも悪いな、俺らが先だ。その後にってんならいくらでも貸してやりゅぎょぶっ!」


男の語尾が潰れたのは、健人が平手でもって男の頬を張り付けたから。
左手での平手打ちだったが、成人男性の身体を宙に舞わせることぐらいは以前でも出来た事だ。今では首の骨を折ってはしまわないか、手加減が難しい。
男はくるりと横向きに空中で一回転すると、床に叩きつけられて動かなくなった。


「てめ、ぶっコロっぞっ!」

「調子乗ってんじゃねえぞコゥルァ!」

「黙ってんじゃねえよ! 殺す、マジ殺す!」


男たちの吐く息からは、シンナーの臭いが漂っている。
部屋の隅には液体の入ったポリ袋が。
現実逃避したい気持ちは良く解る。これが夢であったなら、どれほど楽であることかと健人も何度も思った。
だが自分が逃げ込むのに他人を道連れにするのは駄目だろう。
生き残りを集めることは最優先事項だが、集まった者がこんな奴らでは。
気高く在りたいと思った端から、人の醜さに辟易とさせないでほしい。
健人は掴みかかる男に平手打ちを繰り出しながら女性に近付いた。倒された男の手から包丁が離れ、空を飛び、回転しながら天上に突き立つ。
さっと女性の様子を検めた限りでは、大きな怪我は無い。拘束を解こうと暴れ手首の皮を擦ったのと、これは殴られたのだろうか、口の端を痛々しく切っているのみ。精臭も体液も付着してはいなかった。
健人はカーテンを引きちぎるとそれを女性へ投げ渡し、部屋の外へ出るよう促した。


「行ってください。外の方達に人を寄こすよう伝えてもらえると助かります」


女性は震える手でカーテンを身体に巻きつけると、小さく悲鳴を上げながら逃げ出て行った。
室内に残ったのは健人と頬を張られてうずくまる男達のみ。


「すんませんマジすんません、マジ調子乗ってましたぁ・・・・・・」

「いって、マジいってぇ・・・・・・」

「クソが! あああいてえ! クソが!」


繰り返される男の薄っぺらい謝罪の言葉を聞いていると、沸々と怒りが湧き上がってくる。
中には見当識を失い、えへらえへらと笑いだす者までいた。
ぞわり、と右腕が疼く。
ほとんど無意識に、健人は男達に向け、一歩を踏み出していた。
自分が何をしようとしているのか、自覚することもなく――――――。


「やめておけ。こんな者共を手に掛ける必要はない」


肩を掴まれ、健人は意識を取り戻した。
はっと飛び退く。
背後に気配は無かったはずだ。


「――――――誰だ!」

「私だ」


ややアクセントが異なるも、しかし流暢な日本語が健人の背後より掛けられる。
外国人、なのだろうか。
数mも離れていないというのに、目の前の男から感じられる気配が、異様に薄い。全くゼロではないということが、より恐怖心を煽った。室内に漂う空気へと自身の色を合わせ、溶け込んでいる。
足音もなく室内に進入し、背後へと回ったこの男。対峙するだけで解る。尋常な相手ではない。
最悪、叔父クラスだと考えてもいいだろう。


「誰だと聞いている!」

「私だと言っているだろう。忘れたのか?」


呆れたように肩を竦めながら男は言った。
まるで、思い出せ、とでも言いた気な態度だったが、健人の記憶に該当する人物はいない。

その男は奇妙な格好をしていた。
黒色の戦闘服に、黒色のミリタリーブーツ。
両手には装甲板が施された黒の手袋が。
エルボー、二―パッドには銃創が刻まれており、ケブラー繊維が織り込まれているだろう戦闘服は、所々切り裂かれた部分が見受けられる。それでも急所には一切の損傷はなく、開けられた戦闘服から覗く肌着の汗染みは、男がその上にタクティカルベストを装備していたことを示していた。
戦う者の――――――今まさに、戦っていた者の戦闘装備である。それも、重火器を使って。
また肌の露出は捲くられた袖から出ている腕と、頭部から覗く短く刈り込まれた色素の薄い髪くらいで、それ以外には一切無い。そこから解るのは、男が白人男性であるということだけだ。
男が明らかに戦闘者然とした格好をしているのは、この場においてはそう目立つものでもないだろう。
服装でいえば、要所を警備している党員達が纏っている制服の方が目を引く。
それ以上の特徴が男にはあった。
男はガスマスクを被っていた。


「お前のようなガスマスクの知り合いがいるか。素顔を晒してから物を言え!」

「・・・・・・ほう」


いてたまるか、と叫んだ健人は、急に感じた寒さに身体を震わせた。
唐突に、男から幽気とでも言うべき異様な気配が発せられ、室内の温度が数度下がったように錯覚する。
その恐ろしさは<リーパー>など比ではない。まるで死神そのものだ。
健人はひりつく喉に唾液を飲み込ませた。


「ケント――――――」

「な、なんだ。どうして俺の名前を知っている!」


男のガスマスク。
その両目に嵌められた赤いレンズが、光源も無いというのに、鋭く輝いたように見えた。


「――――――処刑されたいか?」

「ひっ・・・・・・!」


健人の膝から力が抜け、腰が床を打つ。
這いずるようにして後ろに下がり、健人は顔色を真っ青にして打ちのめした男達の横に並んだ。
何故か、首に手が行く。
頸椎がぱきんと軽い音を立てて鳴った。


「ケント、私は教えたはずだぞ。衝動を理性で制御し、駆使しろと。それが出来ないならば、可能となるまで訓練を続けろ、と。
 一年程度の教練では身に付かなかったか? それとも、アルバートではなく私の話では、覚えるに値しなかったか?」

「う、お前は、あなたは、まさか・・・・・・」

「どうやらまた首を180度回されたいようだな」


首に奔る痛みがフラッシュバックする。
ガスマスク内でくぐもってはいるが、良く聞けば、聞き覚えのある男の声。
なぜ忘れてしまっていたのだろう。
健人の人生に標を立てたのは叔父であるが、真の意味で戦うということを教えてくれたのは、彼だった。
わずか一年であるが、健人は彼の下で訓練を積んだのである。そこで多くの事を学んだ。
多数ある首の関節を脊髄を傷つけないよう、それぞれの最大可動域まで無理矢理に回されると、自分で自分の背中を見る事が出来てしまう。というのもまた、彼から学んだことである。
首を庇ってさらに後ずさる健人。
ゆっくりと伸ばされる手に、健人は諦めの気持ちで目をきつく瞑った。もう自分の背中を見たくはない。


「冗談だ。そう怯えるな」


予期していた衝撃はなく、頭に軽い衝撃と重みが。
薄らと目を開けると、ガスマスク男が健人の頭に手を置いていた。
そのまま髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜられる。


「それなりに修羅場を潜って来たようだが、まだ甘い。私の気配も探れんようではな。久しぶりにレッスンしてやる、ケント。
 気配を消した人間は、周囲の空間に空いたスポットで見つけろ。網のように意識を張り巡らせておけ。いいな」

「せ、先生、ですか? 本当に?」

「そうだ。やっと思い出したか」

「ハンク先生! お久しぶりです!」


健人はガスマスク男の名を呼ぶと、顔を輝かせた。
かつて健人が単身日本に渡る事となった際、叔父から家庭教師役としてあてがわれたのが、その男との出会いだった。
男の名はハンク。
健人の教官だった男である。
彼もまた、健人が頭が上がらない者の一人だった。
当時から凄腕の特殊部隊員として多忙だったハンクは、健人の教育のためだけに本国と日本を往復してくれていたのだ。健人の叔父を模した体術は、一年間の教育期間の中で、ハンクを通じて学んだものであった。
もう数年間も連絡を取り合ってはいなかったが、彼への恩を忘れるわけがない。
叔父からは強さを、そして彼からは力を与えられたのだ。健人はずっとそう思っていた。
健人は力強く額を揺する手にくすぐったそうに笑いながら、ハンクへと問う。


「先生はどうしてここへ?」

「SATに特別教官として招かれていてな。床主地区の鎮圧と救出作戦を任されたはいいが、部隊が全滅し、生き残ったのは私だけとなったのだ。
 そして無様に逃げ帰る最中、ミスター高城に拾われた、という訳だ」

「無様だなんて、そんな事。生き残る兵士が一流ですよ。でも、やっぱり救出作戦は行われていたんですね・・・・・・」


そして失敗したのか、と健人は肩を落とした。
反論はできんな、とハンクは肩を竦めた。


「今後しばらく救出や支援は期待しないほうがいい。自衛隊も動けんだろう」

「そうですね。派遣するにも国中がこんなだから、手が足りないでしょうし」

「初動の遅さもな。POTUS(ポータス)は既にボタンを押したというのに、全く。慎重になるのはいいが、あれは日本の悪徳だな」

「日本人としては何とも言えないですね、それは。先生、もう一つ聞いてもいいですか?」

「ああ、何だ?」

「ここ、有害物質が漏れてるとかはないですよね? どうしてガスマスクなんか付けてでででででっ! あいたっ、たったたたた!?」


がっつりと顔面を把握される健人。
え、と疑問の声を上げるよりも早く、激痛が顔面を襲った。


「下側が開くようになっている。栄養補給に支障はない。何か問題でも?」

「だから何でマスクを付けっぱにぃいいいっ!? 痛い痛い痛い! これ以上はへこみます、へこみますって!」

「・・・・・・」

「何でっ!? 何で無言でアイアンクロー!?」


親しげな様子から一変、殺気を漲らせるハンクの豹変振りが、健人にはさっぱり解らなかった。
半ば強引に指を剥がそうとしたが、ハンクの指は凄まじい力で顔にめり込み、肉に喰い込んで外せない。
視界いっぱいに黒色を映しながら、健人はじわじわと来る圧迫に涙した。
この感覚、痛み、理不尽な仕打ち。全てが懐かしい。この人は俺の教官。これはハンク、間違いなく死神ハンク。
だから自分は今、懐かしさに感動してむせび泣いているのであって、決して暴力に屈して涙しているのではない。


「二度と聞くな」

「頭がっ、骨がっ・・・・・・!」

「ケント――――――」


さも不愉快だと鼻を鳴らして指を放したハンクが次に言い放った言葉は、いっそ冷たい響きを持っていた。
それもまた、健人の精神に鋭く滑り込むものだった。


「右腕」

「う――――――ッ」


しまった、と健人は自分の心臓が大きく飛び跳ねたのを感じた。
懐かしさに気が緩み、思わずハンクの指に右手で触れてしまっていた。
見た目は取り繕えているが、肉感は人間のものとは明らかに違うのだ。
お互い皮手袋に包まれた手での接触だったが、この男がそれに気付かない訳が無い。
悟られてしまったと項垂れた健人に、ハンクはなるほどと一言だけ呟き、踵を返す。


「え・・・・・・先生?」

「お前がこれについて聞かないというのなら、私も聞かないでおいてやる。交換条件だ」


これ、とガスマスクを指先で叩きながらハンクは続けた。


「言っただろう、お前がそれなりの修羅場を潜って来たと、解っていると。ならばそんな事もあるだろう。
 私にとって重要なのは、お前が優秀な生徒であるということだけだ。それ以外は些細な事だ」

「先生・・・・・・」

「さあ、もう立て。ここは空気が悪い、表に行くぞ。こいつらは放っておけばいい」

「・・・・・・はい。あの、先生」

「なんだ?」

「ありがとうございます」

「言わなくてもいい」


馬鹿め、と言って差し出された手を、健人はしっかりと握り返した。
握り合った手は、右手だった。






■ □ ■






健人がハンクとレーションを片手に思い出話に花を咲かせていると、どたどたと足音を立てて近付いてくる少年がいた。
仁義なき戦い、などとシルクスクリーンで写されたTシャツを着て、片手には銃を掲げている。
独特なセンスの着こなしをした、コータである。


「先輩、健人先輩! 誰ですか、その素敵なお人は!」

「ああ、コータ。やっぱ食い付いてくるよな。紹介するよ、この人は」

「お前もか、ヒラノ・・・・・・」

「そ、その声は!」

「俺の先生、って知ってるのか?」


はて、と健人は首を傾げた。
この二人、知り合いなのだろうか。


「知ってるもなにも、僕がアメリカに行った時に教わっていた教官ですよ!」

「ああ、確かブラッククウォーターの。え、先生、そんな事までしてたんですか?」

「以前勤めていた会社が、一度倒産してな。その間、技術を腐らせるわけにはいかないと別の会社でインストラクターをしていた」

「いやあ、お久しぶりですハンク教官! お元気そうで何よりです」

「お前も変わらんな。声だけで私だと気付くとは、誰かよりも記憶力がいいようだ」

「う・・・・・・そんな趣味の悪いガスマスクしてて、気付くほうがおかしいんですよ」

「ほう・・・・・・」


首に手を添えられ、健人は青くなって黙り込んだ。
小さく震える姿は、産まれたての小鹿のようだった。


「それにしても教官が僕のことを覚えていてくれたなんて、感激です」

「当然だな」


頷いて、ハンクは言う。


「教え子の事を忘れる事はない。それが優秀な者であったなら、なおさらだ」


さも当たり前だという風に。


「・・・・・・」

「・・・・・・」

「おい、どうしたお前達。私の日本語が間違っていたか?」

「いえ、その、急に暑くなったなー、なんて」

「やばい・・・・・・。ガスマスクなのに、ガスマスクなのに・・・・・・っ!」

「おかしな奴らだ」


解らん、と肩を竦めるハンクに、健人達はぱたぱたと顔を手で扇ぐ。
少しだけ赤くなった顔で、健人とコータは顔を見合わせ笑った。


「まさかお前も先生の教え子だったなんてな」

「先輩も。本当に先輩だったんですね。いやー、世界って結構狭いんですねえ」

「だなあ。びっくりしたよ」

「教官に一年も教えを受けてたなんて、羨ましいっす」

「日本でだったから、体術専門だったけどな。すげぇスパルタでやんの」

「あー、わかりますわかります」


あはは、とひとしきり笑ってから、健人ははたと気付いた。


「そういえば、高城は? 一緒じゃないのか?」

「一緒ですよ。ほらそこに・・・・・・って、高城さん? 高城さーん?」


そこ、と指された方には、物陰に隠れるようにそっぽを向いた高城が。
解って無視しているようだった。
コータがあまりにも名を大声で呼ぶものだから、諦めたように赤くなってツカツカと歩み寄って来る。


「大声で呼ばない! あんた達と知り合いだなんて思われたくないの! 解りなさいよ!」

「え、ええっ! そんなぁ、高城さあん!」

「デブオタに厚着男にガスマスクなんて、どんなトリオよ。もう!」

「やっぱり俺もおかしいのか・・・・・・」


確かに、まだ冬服の制服から衣替えするには早い時期であるが、分厚いコートを着るには季節感がないかもしれない。
冷え性という設定で通すしかないようだ。
ガックリと肩を落とす健人だった。


「まあいいわ。あんたを探してたの。話があるから、顔貸して」

「俺? 話って、何の?」

「今後の話よ。小室達のとこへ行くわよ」

「でも・・・・・・」


ちら、とハンクを見る。
高城はハンクのことを信用してはいないようで、顔一杯に難色を示していた。
見た目のことだけではない。
ハンクもコータと同じく、銃器を自己管理していた。とはいってもマシンピストルとハンドガン程度であるらしいが、火力の大きさなどを問題にしているのではないだろう。
問題はハンクが、武装したプロであるということだ。
いくら高城が素人であるとしても、ハンクが本気になれば自分たちの制圧など造作もない、ということくらいは理解できているのだ。
健人も、コータをバックアップに冴子や自分を相手にしたとしても、ハンクが敗北するには全く足りないということを知っている。
小室達は戦力に数えてはいなかったが、同じ事だろう。
そして陳腐な言い方だが、天才である高城には、最悪の事態のその後のことまで考えているのかもしれない。
まだ子供と言ってもいい、学生達の集団に、ハンクの様な“理解ある”大人が組み込まれることを恐れているのだ。
鞠川は・・・・・・ここは言及しない方が、彼女のためだろう。
リーダーである小室の地位を脅かす存在は遠ざけておくべき、というのには同意見である。
だが、ハンクと別れるか否かの二択を突き付けられることになったならば、どうするべきか。
健人は答えようがなかった。


「行ってこい、ケント」

「でも、先生」

「友人は大切にしておけ。失ってから気付いたのでは、遅すぎる」

「先生・・・・・・はい」


言って、健人の頭に手をやるハンク。
そのままハンクは背を向けて、喧騒の中に紛れていった。
不思議なことに、異様な格好をしているというのにハンクの存在には、誰も気が付くことがなかった。


「うげぇ」

「女の子がうげぇとか言わない」

「一瞬でも可愛いなんて思った自分がキモイのよ。あんたね、その顔で頭撫でられるとかないわ」

「解ってるから、言わないでくれよ・・・・・・」


やはり、この天才少女は苦手だ。
行くわよと大股で歩く高城の後ろを、コータが嬉しそうに付いて行く。
この娘に付き合えるコータには、心底尊敬の念を抱く。嫌われていると解っていて、それでも接していかなければならないのは、中々につらいものがある。
高城くらいに解り易くすれば、冴子も離れていくだろうかと思わずにはいられなかった。
健人も高城の後に続き、豪邸の扉を潜った。


「コータちゃん、サヤちゃん、健人お兄ちゃん!」

「おっと」


健人の胸に飛び込んで来たありすを受けとめる。
広い玄関ホールには、小室と冴子の姿もあった。
宮本がこの場にいないのは、背中を打って、まだ安静にしていなければならなかったからだろう。鞠川はその治療に付き添っているのだろうか。
二人を除いたメンバーの全員が、この場に集まったことになる。
皆、高城邸で受け取った私服に着替えていて、風呂にでも入ったのだろう、さっぱりとした様子だった。
制服姿で疲れ果てた顔をしているのは、健人だけであった。


「健人」


と、冴子が近付く。


「名前で呼ぶのはいいが、せめて君を付けろと」

「駄目、だろうか」

「・・・・・・もういいよ。一々訂正するのも面倒臭い」


よかった、と微笑む冴子だったが、健人は彼女を喜ばせようとして言ったのではない。
投げ槍に答えただけだったのだが、それをどう冴子が受け取ったのか。
あまり考えたくはなかった。


「健人さん健人さん、ちょっと」

「なんだ、孝」


小声で言い寄る小室に、健人は怪訝な顔で返す。
ほら、と小室が指さしたのは冴子。
冴子は清楚な着物に身を包んでいた。
帯止めは小さく輝く翠色の宝石が。あれはエメラルドだろうか。生地は静かに、帯で主張する。膝をほんの少しだけ曲げて、線を柔らかくするのは、着物をよく知っている者の佇まいである。
気付いているのだろう、冴子は視線を伏せては上げるを繰り返し、ちらちらとこちらを伺っていた。
両手の指先を弄び、頬を上気させている。
何かを期待して待っているかのような態度だった。
そうまでされては健人とて、解らないなどということはない。
が、抱いた感想といえば、恐らくは小室や冴子が予想するものとは真逆のものだった。


「ほら、何かこう、毒島先輩の着物姿についてコメントをですね」

「あれについての? やだよ。何であんなTPOの狂った格好にあれこれ言わなきゃいけないんだよ。
 俺も人のことは言えないけど、あそこまでじゃないぜ。周りには<奴ら>がうようよと居るんだぞ。何かあったら走れないだろ、あれじゃあ」

「そうですけど。いやそうじゃなくてですね! ああほら、毒島先輩、うずくまっちゃったじゃないですか!」

「わざわざ借りてまで着物なんか着込んでくる感覚が信じられん。刀も持ってないみたいだし、馬鹿じゃないのか? どうせ直に着替えるんだから、意味ないだろ」

「すんません毒島先輩。これ以上はフォロー出来ないっす・・・・・・!」


膝を抱え、小さくなる冴子。
何とか健人の視界に映る面積を減らしているようだった。
高城達からさっさと何とかしろ、というプレッシャーを感じる。
物理的にも痛い。
先ほどからアキレス腱の辺りを、何度も蹴り付けられていた。
コータが何とか止めようとしていたが、焼け石に水。高城の怒りに油を注ぐだけのようだった。
しかし、確かにこのままでは話は進まない。
健人は大きく溜息を吐いた。
仕方がない。本意ではなくとも、言わねばならないことはある。


「まあ、似合ってはいるけれど」


健人が口にした途端、すっくと立ち上がる冴子。
これ見よがしに、嬉しそうに髪を掻き上げている。
対して健人は苦り切った顔で、髪を掻きむしっていた。
こいつ面倒臭いなあ、という台詞は、小室が慌てて口を塞ぐことで発せられることはなかった。


「小室」


高城が前に出る。
真剣味を帯びた彼女の声色に、皆が集中した。


「アタシたち一度、話し合っておくべきことがあると思う」


今後の身の振り方を――――――。
やはりそうきたか、と皆頷いた。
高城が問うたのは、この場に留まるか、別れるかの二択。
即ち、これから先も仲間でいるかどうか、ということだった。






■ □ ■






File12:大統領機墜落跡より発見されたレコーダー


「・・・・・・もはや、これまでか。皆、機体を捨てて脱出しろ。私は最後の務めを果たさねばならない」

「大統領! それは・・・・・・」

「言う通りにしたまえ。これは大統領命令だ」

「出来ません。その命令には、従えません!」

「・・・・・・君たちには長い間世話になった。死後までも付き合わせたくはない」

「大統領、我々一同、最後までお供いたします。その命令には従えません」

「・・・・・・大統領としての命ではなく、友としての頼みであってもかね?」

「友であるのならば、なおさら」

「決意は固いようだな。まったく、私の任期最後の命令だというのに。私はいい部下を持ったようだ。合衆国大統領として、これほど誇らしいことはない」

「はっ、光栄であります!」

「だが、彼だけはここから送り出さねば、前大統領に申し訳が立たない。誰か彼を、ケネディ君をここに」

「はっ、すぐに――――――」


・・・・・・


「――――――失礼します、大統領閣下」

「かけたまえ、ケネディ君。君に任務を頼みたい。受けてくれるか?」

「はい、閣下」

「ありがとう、そう言ってくれると信じていた。君に与える任務は、前大統領とその家族の身辺警護だ。
 私はもう手遅れだ。副大統領もこの有様だ。恐らくは、彼に再び大統領権限が還ることになるだろう。歴代史上、もっとも有能であった大統領へと」

「閣下、それは・・・・・・」

「いや、いいのだ。私が彼より劣っていることなど、誰よりも理解している。
 この場に座っていたのが私ではなく彼であったのなら、こんな地獄は絶対に許容されなかっただろう。
 合衆国最大の不幸は、大統領の任期が8年であったことだ。あと2年、いや、1年でいい、彼が大統領の座に就いていてくれたなら。
 君を持て余すこともなかっただろうに。すまん、ケネディ君。側に置いておきながら、君を十分に使ってやれなんだ」

「いいえ、大統領。ホワイトハウス直属のエージェントとして、あなたの下で働けたことを光栄に思います」

「そう言ってくれると助かる。ケネディ君、君に任を与える前に、一つ頼みがある」

「はっ、何なりと」

「この銃で、私を撃て」

「それは・・・・・・!」

「合衆国大統領として、私は自決することは出来ない。どちらにせよ死ぬしかないにしても、自らの手で責任を放棄することは、私には許されていない。
 君にしか頼めないのだ、ケネディ君。この機と運命を共にするなどとのたまう馬鹿共には、口が裂けても言えないことだ。だから、頼む。
 私を誇りある大統領として、終らせてほしい」

「・・・・・・承知、しました」

「最後まで手間を掛けてすまないな。しかし、彼から預かった君に、ケネディに見送られる大統領というのも悪くない。ああ、もちろん頭を狙ってくれよ」

「ケネディのようにですね」

「ああ、もちろんだとも。なんだ、寡黙な男かとばかり思っていたが、ユーモアを好む性質かね。もっとはやく解っていれば、一つ最高に笑える小話を教えてやったものを」

「それはまたの機会にしておきましょう」

「そうだな、時間が惜しい。では諸君、さらばだ。出来れば、頼むから、逃げてくれよ。ケネディ君、後を頼んだぞ――――――」


・・・・・・


「――――――ケネディ、顔が青いぞ。これから楽しい空の旅だってのに、もっと楽しそうな顔をしろよ」

「ああ・・・・・・泣けるぜ」

「大統領と一緒に死ぬなんて格好付けたけどよ、本当はパラシュートがこれ一つしか残ってないからなんだ。機内でドンパチやらかしたもんだから、全部おじゃんになっちまったのさ」

「お前、いいのか?」

「いいんだよ、俺達はプロだぜ? お前は大統領から最後の任務を受けたんだ。なら行かないとよ。前大統領と、あのお転婆なレディを守ってやんな。お前に合衆国の未来は任せたぜ」

「ああ・・・・・・帰ったら飲みにいこう」

「天にまします我らが父の下で、ってか! そいつぁいい! 行こう行こう! ついでに神様をぶん殴りに行こうぜ!」

「俺はローキックだな」

「ははは! でもお前、そんなにすぐには来るなよな。安心しろ、俺は気が長いんだ。楽しみにして待ってるさ。そら、飛ぶ前に一服どうだ?」

「いや、いい。煙草は吸わない」

「お前そりゃ人生を八割は損してるよ。じゃあ代りにゴーグルを・・・・・・おいおい、もうパラシュート着けてんのか。気が逸りすぎだぜ。
 ほら、俺が着けてやるから、まずは防護服をだな」

「いや、いい」

「よくねえよ。高度どんだけだと思ってるんだ。パラシューティングと一緒にするなよ。スポーツジャンプとは訳が違うんだぜ。そんな装備で」

「大丈夫だ、問題ない」

「いや、大アリだからな? そんな自身に溢れた顔されても困るんだが・・・・・・。おい、ハッチに近付くんじゃねえよ。
 おい、まさか本当に飛ぶつもりのか? おい、おい! レバーに手を掛けるんじゃねえ! マジかよ、開けやがった! うおお、風強え!」

「泣けるぜ」

「なら止めとけや馬鹿野郎! いや、飛ぶのはいい。せめて革ジャンの前を開けるな! いくらお前がタフガイでもバランス取れないだろ、って人の話を聞け!
 飛ぶなよ! 絶対に飛ぶんじゃ・・・・・・飛んじゃったよこいつ!」 

「――――――あうん」

「駄目っぽさそうな悲鳴聞こえちゃったぞおいいいイイイ!」


・・・・・・ここから先はテープが燃え尽きていて再生出来ない。












[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:13
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:37
激昂した高城の胸倉を小室が掴み上げる。
腰を浮かしかけたコータの肩を抑えながら、健人は小室達のやり取りを第三者に徹して聞いていた。
彼女以上の激情でもって怒鳴りつける小室。


「お前だけじゃない、同じなんだ! 皆同じなんだ!」


その言に健人は頷くことは出来なかった。自分はどうやら、少数派であるらしい。
少なくともありすには聞かせたくはない台詞だな、とも思った。
小室の言葉を否定的に捉えているという訳ではない。ただ、ありすに両親の不在を直面させることが哀れに思えたからだった。
興奮した人間を見ると逆に冷めてしまう場合があると言う。
健人はその典型だった。
他人の熱に炙られることはない。
いたいところをつかれた人間は怒りを抱く。ならば怒りの原因、いたいところが何なのかを見極められたなら、優位に立つことが出来るだろう。それには冷静となることが必要だ。
健人のその性質は生来のものというよりも、健人が受けた教育によるものが大きかった。
沸騰するのはむしろ、自身の情動でだ。健人は激情家だったが、しかし他者からの煽りに流されたことはない。だから冴子の訴えは、健人に熱をもたらさなかった。
コータは逆のようで、今にも飛び掛かってしまいそうな空気をかもしている。
健人は力尽くでコータを椅子に座らせた。
“女”を黙らせるのには小室の手が最善だろうか。
だが男と女の茶番劇を見せ付けられても反応に困る。自分もそれに関しては冴子との件もあり何とも言えないが、それでも人目を忍ぶことくらいはする。高城はそうでもないようだが、もしかしたら小室には自覚がないのかもしれない。
健人だけでなく、当事者二人とコータを除いた5人はどこか居心地が悪そうな顔。
家庭の事情を聞かされるのは勘弁願いたい、という心情が透けて見えるかのようだった。
彼等以外の全員が、何らかの事情で親元を離れているか、既に両親と死別しているのである。
高城の親が自らの娘を生き残っているはずがない、と即座にあきらめ、部下とその家族を守ったことに、高城本人が不満を爆発させたとて、他人事でしかなかった。
宮本だけは他人事と済ませることは出来ないが、両親を想っているというよりも、高城に触れている小室に目くじらを立てているような様子に見える。


「さやちゃん・・・・・・」

「ありすが気にすることじゃないさ」

「でも、けんかはやだよ」

「大丈夫さ、あれは喧嘩じゃなくて、じゃれてるだけだから。ちょっと待てば今までよりも仲良くなってる」

「・・・・・・ほんと?」

「ああ、本当だ。さあ、ありす、こっちにおいで。コータだけとじゃなくて、俺とも遊んでくれよ。寂しくって泣きそうだ」

「けんとお兄ちゃん・・・・・・うん!」


仲良くなっている、とのくだりで宮本からの視線が強くなったような気がする。
失言だったか、と健人は宮本に目を向けないようにして、ありすを手招きした。
宮本は治療のため、ほとんど全裸でベッドに伏せていた。なんでここに集まるのよ、という彼女のぼやきには、健人もまったく同意したかった。
動けないならばここに集まるしかないのだろうが、目のやり場に困る。
わーい、と歓声を上げながら突進して来るありすを危なげなく受けとめながら、健人はコータの横顔を盗み見た。
怒りで血管が浮いてはいるが、自制はしているようだ。
コータが暴走したらどうなってしまうか、健人には大方想像がつく。同じ師の下で訓練を受けた同門なのだ。酷い事になるのは間違いがない。
それをコータも解っているはずだから、小室に手出しをしようとは考えないだろう。
こんな所で我を忘れてしまうのならば、ハンクの生徒を名乗る資格など無いのだ。

小室がこの小集団のリーダー足り得るのは、持って産まれた資質、これ一点のみで、実力によるものではなかった。
自分達は小室の内に眠る原石の輝きに魅せられ、集まっているだけに過ぎないのだ。
今は未だそれでいいだろう。
だが、これからは――――――。
健人としては、同門であるということを除いてもコータにリーダーになってもらいたかったが、それは高望のし過ぎだろうか。
リーダーたらしめる資質というものは、中々身に付けられるものではないのだ。
天は二物を与えない、ということだ。
女性陣ほぼ全員、とりわけチームのブレインである高城が小室に好意を寄せている中でコータが台頭しては、余計ないさかいを産むだけだ。


「いや、親が無事だと分かっているだけ、おまえはマシだ」

「・・・・・・分かったわ」


騒動は収束に向ったようだ。
本題にはいらないと、とはにかみながら高城がメガネを掛け直していた。
納得したというよりも、小室の熱意に押されたといったところか。
両親を愛していたがための激昂だったのだろう。たとえ希望が無くとも、諦めないでいて欲しかったという。
だが、と健人は思う。
高城は両親を愛していたが、理解してはいなかったのではないか。
たかだか数日の内にこれだけの手を打った人物が、常人の感覚を有しているはずがないではないか。
これが健人と叔父であったならば、どうだろうか。
自分を心配に思い、焦り、狼狽して欲しいという願望は健人にもある。
だが、どうしてもあの叔父が、鋼の男が、揺らぐ姿を想像出来ないのだ。
例え自分が死んだとしても、叔父は眉一つ動かさず、己の為すべきを為すだろう。そんな確信がある。
それは叔父が、自分が抱く勝手な願望の押し付けすらも拒む程に強い男なのだということを、健人が知っていたからだ。
高城は自分を天才だと称しているが、それならば感情と知性とを切り離さなくてはならないのではないか。
恐らくは彼女がまず一番に小室の欠点を見出し、変革を迫ることになるのだろうが、それよりもまず己が変わらねばならないことに彼女は気付くのだろうか。
ずいぶんと可愛らしい天才もいたもんだ、と健人は小さく笑った。
自分の事を棚に上げての人物評価は、そのまま自己嫌悪に取って変わる。
上手くありすへの笑みに隠せたとは思ったが、冴子が片方の眉をしかめていた。自嘲であると看破したのだろう。
こっちを見るなよ、と意を込めて睨み返す。
冴子は何も言わずに目を伏せた。


「無能なリーダーとその愛人。自称天才に野心の無い狙撃手。現実を見ない研修医にやせ我慢する子共。
 たがが外れた辻斬りに未練がましい人間モドキか。なんだ、中々バランスがとれてるじゃないか」

「けんとお兄ちゃん、どうしたの?」

「いや、俺達は良いチームだと思ってさ。これくらいロックじゃないと、生き残れない世界なんだろうな」

「うん、きっと大丈夫だよ!」


演目名――――――学園黙示録。
<奴ら>であふれる世界を少年たちは力を合わせ、生き延びる――――――というシナリオだとしたら。
皮肉で言ったつもりが、これ以上にない配役であると思えてしまうのだから不思議だ。
ぎゅう、と身体一杯で抱きつくありすを健人は抱き返す。
無邪気なありすも、決して根拠も無く頷いたのではないのだろう。
何とかなるかもしれない、と健人も思っていた。
それも、小室の輝きが魅せた幻覚なのだろうか。
何とかなるかもしれない。
この右腕が露呈するまでは。


「あれは・・・・・・?」


平野の疑問の声と同時、何代ものトラックや重機のエンジン音が高城邸の庭に響く。
どうしたものかとありすを引き連れベランダへと出た健人を確認し、高城が宣言するよう叫んだ。


「この県の国粋右翼の首領! 正邪の割合を自分だけで決めて来た男!」


制服・・・・・・いや、軍服か。
黒衣に身を包んだ巨漢が車内より現れる。
鉄骨が仕込まれているだろうブーツが地を踏み締めた瞬間に、衝撃でぐらりと床が傾いたように感じた。
ただの人間、たった一人が、世界を揺り動かしている。
設備や団体をまとめ上げた手腕、高城の話から予想はしていたが、これ程とは。


「アタシのパパ!」


威風堂々。
確乎不動。
志操堅固。
鉄心石腸。
道心堅固。
この男こそ、憂国一心会会長――――――高城壮一郎、その人であった。


「皆、聞けぇい!」


高城の父の一喝で、世界が停止する。シンと静まりかえる庭園。
何という影響力。何という存在感。
他者に対する命令権だけをとれば、叔父を超えている。
人の立てる物音が全くない庭園に、重機が作業する駆動音だけが響く。
またたく間に鉄骨で壇上が組み上げられていった。
壇上には憂国一心会の垂れ幕が。
軍靴の重い足音を立てながら、高城の父は壇上を登る。


「この男の名は土井哲太郎。四半世紀もの間、共に活動してきた我が同士であり、友だ! 救出活動のさなか部下を救おうとし・・・・・・噛まれた!」


フォークリフトが運んでいるのは、檻に閉じ込められた一体の<奴ら>。
一体何が始まるというのだ。
庭園は、いや、会場はそんな空気に包まれている。
高城の父の腰に、業物であるだろう刀が帯びられているのを確認した健人には、これから行われるやりとりが想像できた。
ショーが始まるのだ。


「まさに自己犠牲! 人間として最も高貴な行為だ! しかし・・・・・・彼はもはや人間ではない。ただひたすらに危険な“もの”へとなり果てた!」


だからこそ私は今、と高城の父は刀の鯉口を切る。
刀身がぎらりと光を反射し、そして初めて健人は高城の父の顔を正面から見た。
特徴という特徴は特に無い、日本人顔だった。
鍛え上げられた肉体も、そこまで大きいというわけではない。彼の放つ威圧感がそう感じさせているだけ。
7対3にまとめられた髪も個性を消したものだ。
見た目のみで言えば、健人に通じる所が多いだろう。
だがその眼が。
光を受けた日本刀よりもなお冷え冷えとした輝きを放つ、眼が。
全てにおいて、高城壮一郎という男を物語っている。
あらゆる困難を、己の力でねじ伏せてきたという自負が込められた眼力。
なるほど、と健人は頷いた。
叔父に匹敵するが、しかし叔父とはタイプが違う人間だ。
日本刀が大上段に構えられた。
群衆の中で、子を持つ母がその両眼を覆った。


「我が友へ最後の友情を示す!」


振り下ろされる刃。
切り飛ばされ宙を舞う首。
一拍を置いて、噴水に軽い音をたてて着水するそれ。
冴子をして、ほう、と感嘆の吐息を吐かせる程の見事な一刀だった。


「これこそが我々の“いま”なのだ! 素晴らしい友、愛する家族、恋人だった“もの”でも、ためらわずに倒さねばならない!」


生き残りたくば戦え。
高城の父の演説はそう締めくくられた。
誰も言葉を発することが出来ない。
たった一人の男の威に呑まれたのだ。
彼の言葉はそれぞれの重さと威力を持って、観衆達の胸の内に落ちたのだ。
階上にいた小室達もまた。
その中であって、唯一人。健人だけが正気を保っていた。
小室達とのやり取りで、冷静となっていたこともあるのかもしれない。
冷静に、つまらなさそうに頬を掻いた。
なるほど、なるほど。
こういう手口か。
思想右翼らしい、何とも典型的な手を使う。
この時点で健人は、高城壮一郎に対する脅威度を一段階下げた。


「刀じゃ効率が悪すぎる・・・・・・」


高城の父の発した威に反発するよう、コータが呟いた。


「いいや、最大効率さ」


何ということもない、と答えたのは健人だった。
冴子も同意するように頷いていたが、恐らくは健人とは違う観点からだろう。


「でも、日本刀の刃は骨に当てたら欠けますし、3・4人も切ったら役立たずに」

「そりゃそうだ」

「だったら!」

「お前が何に憤りを抱いているか想像はつくけれど、もう少し冷静になった方がいいぜ。見ろよ、あれ」


あれ、と後片付けをする党員達を指す。


「公開処刑ショウは昔からギロチンと相場が決まってる」


黙らせるには効率が悪いほどいいのさ、と健人は手刀で首を叩くジェスチャーをしながら、笑って言った。日本式だな、とも。
ああ、とコータは気付いたようだった。
手が掛かっていればいるほど、効果は高くなる。
この場合は、特に。
つまりはこれは、群衆操作のための見世物だったということだ。
衝撃的な光景を杭のように打ち込むことで、集団をまとめあげるというテクニックの一つである。


「しっかりしろ、冷静でいろ。指先は精確に、思考は冷たく、魂を弾倉に込めるんだ。そうしなければ、弾は真っ直ぐに飛ばない。引鉄は引けない。
 俺達はそう教えられたはずだ、違うか?」

「・・・・・・はい。すみません、先輩」


いいさ、と健人は首を振った。
コータは銃と刀の有用性を問いたかったのだろうが、健人はそれらのツールとしての効果を語ったのだ。
論点の違いに、肩すかしを喰らったような気分のはず。
自己を呑む気配への強がりか、己を奮い起たせるためにコータは言ったのだろうから、まだ納得いかないといった風な顔は仕方のないことだった。
それはコータがすがるものが銃であり、力の象徴が銃であるからだ。
こと日本においては、銃口を向けられるよりも刃物を向けられるほうが恐怖を感じる者は多いのではないか、と健人は思っている。
普通、一般人には銃というものは液晶の向こう側の代物であって、大多数にとって身を脅かす凶器として現実的なものは、刃物であるからだ。
使い古されてはいるが上手い手だ、と健人はもう一度思った。
正気に戻った者達が何やらざわめき出しているが、さて。


「ああ・・・・・・そういうことか。面白いな、あの人」

「何よ、アンタ。アンタごときが、アタシのパパをどうこう言えるわけ?」

「ははは、悪い悪い。いや、すごいよお前の親父さんは。剣の腕も相当なもんだ。本当、超一流だ」


それ以上を言うこと無く、健人は言葉を濁した。
高城は不満を顔一杯に現わしていたが、天才を自負する彼女のことだ。
健人の言おうとした所を、察しているのかもしれない。
高城の父は、友との決別として、その首を斬って捨てた。
それはメッセージだったのだ。
我々と運命を共にする覚悟のある者のみついてこい。後は斬り捨てる、という。


「これがホントの親父ギャグ、って訳だ」


今度は高城に聞こえぬよう、健人は忍び笑いを漏らした。
斬首ショウは集めた人々をまとめると共に、“ふるい”に掛ける意味もあったのだろう。
思想右翼の長に求められるものは、求心力であるのは間違いない。
その求心力の内容も、小室のように外見や内面での魅力で人を惹くものではなく、思想でもって魅せなくてはならないものだ。
あるいは行動で。
つまり高城の父は、超一流のエンターテイナーであるということだ。
それが健人に叔父との共通点と、しかし全く異なる部分とを感じさせたのだった。
思想団体の長と利害団体の長とでは、同じ組織の長でも全く違うベクトルの性質を持つのは、道理である。
羨ましいな、と健人は素直にそう思えた。
きっと彼は、身内から向けられる刃とは無縁だったに違いない。
思想右翼なんて損な生業をしているくらいだ。憂国一心会の構成員は、誰もかれも根本的に善人なのだろう。
叔父の周囲に、彼等のような人達が一人でもいてくれたら。そう思わずにはいられなかった。
だから、と健人は拳を握った。
そんな人達が誰一人として叔父にはいなかったのだから、自分がなろうと、そう決めたのだ。
人と化け物の境界が曖昧となってしまった自分に、そんな資格があるのかはもう、解らないが。


「そうだな、健人君。たとえ剣の道であっても、結果とは乗数だ」

「はあ?」


感心したようにしきりに頷く冴子に、健人は首を傾げる。
こいつは一体、何を言っているのか。
まさか剣の腕の一言に反応したのか。


「剣士の技量! 刀の出来! そして・・・・・・精神の強固さ! この3つが高いレベルにあれば、何人斬ろうが刀は戦闘力を失わない!」

「いや、そりゃあ、そうだろうけど・・・・・・」


力説する冴子。健人は半歩後ろへと下がる。
高城の父がこちらへと鋭い視線を投げかけていた。
軽く頭を下げておいた。


「で、でも血脂が付いたら」

「料理と同じだよ――――――」


良い包丁を腕の良い職人が用いた時うんぬんかんぬん。
日本刀と人体でもその理屈はどうたらこうたら。
コータお前もか、と健人は額を押さえた。
刀と銃、どちらが武器として優れているかなど、語るまでもないというのに。
そんなもの、銃に決まっているだろうに。
冴子という例外が吐く言葉に、銃への信奉が少しでも揺らぐのが我慢ならないのだろう。
信仰心の問題なのだ、これは。


「でも、でも!」

「お、おい平野、もういいじゃないか」


ヒートアップしていく平野に見かねて小室が手を伸ばす。
ここでリーダーシップを発揮しないでほしかった。


「さわるな!」


案の定、その手は叩き返される。
殺気さえ込め、コータは小室を睨み付けた。


「邪魔するなよ、まともに銃も撃てないクセに!」

「平野ッ、アンタいいかげんに」


高城の制止も聞かず、銃を抱えて部屋を飛び出していくコータ。
なんなんだあいつ、と小室の苛立たしい呟きに、冴子が腕を組みながらしたり顔で頷いた。


「分かってやれ。平野君もまた男子なのだ」

「それは、分かってますけど」

「君はそういうところが・・・・・・いや、同じ硬化の裏表か」


呆れたように溜息を漏らす冴子に続いて、高城も溜息にしては大きな声を上げながら大股で部屋を退出していく。
つられるようにして健人も深い溜息を吐いた。
もちろん小室に対してではない。
小室君はしかたのない奴だなあ、とでも言いた気な冴子の顔に呆れてである。
私達も行こうかと言いかけた冴子の口を閉ざすよう、健人は指を沿えた。


「ひゃ、ひゃひほふふんふぁ、ふぇんほふん」

「やかましい。ぴいぴい余計なことばっか言いやがって。お前なんかピヨピヨ口がお似合いだ馬鹿野郎」

「んぶぶぶぶ」


右手がどうとか、こいつにはどうでもいいだろう。
人差し指と中指、親指の三指で頬肉を挟みつける。


「ひはひほふぇんほふん」

「け、健人さん、それぐらいに。どうどう」

「俺は馬か」


非難されていた小室だったが、よほど血管が顔中に浮いた健人の表情が恐ろしかったのだろうか。
健人をなだめる側へと周っていた。


「もういい。ほらよ、行っていいぞ」

「・・・・・・ああ、これだ。ようやく、君から」

「なんだよ?」

「私に触れてくれたな、と。それに、右手で。嬉しいよ健人くん」


背後で小室が頬を引きつらせているのが解る。
ほう、と熱い吐息を吐く冴子は、これで刀が握れるのかという白魚のように細く白い指で、自分の赤くなった頬を抓り、痛みを反すうしている。
物足りないようで、間接を使って頬を握り込み始めたのには、健人もどう反応していいものか解らなかった。


「え、と冴子さん? お前、その、大丈夫か?」

「今、私の名を・・・・・・? ああ、ああ! もう一度呼んでくれないか! 頼む、もう一度君の口から、冴子と!」

「ひぃ! 近い! 怖い! 胸が当たる!」


ベランダには逃げ場はなく。
鼻息荒く迫ってくる冴子に半ば本気で恐怖を抱く健人。
その様子が面白いのか、ぽかんとして推移を見守っていた小室の横で、鞠川がくすくすと笑い声を漏らした。


「ちょっと先生、要救護対象がここにいますよ! 何とかしてくれませんかね! 笑っていずに!」

「ほんと、あなたたちと一緒で良かった。そう思ったの。世界中が<奴ら>だらけになってるらしいのに・・・・・・若いって素敵!」

「そんな言い方は」


ふわふわと地に足がつかないような。
常ならば見た者を心から安心させただろう鞠川の笑みは、健人たちに不安しかもたらさない。
たまらず小室が反論しなければ、健人が冴子を押しのけて鞠川に何をかを言っただろう。
何を、と問われても具体的な言葉は頭には無かったのだが。


「あのね小室君、わたしね、臨床研修をしてる大学病院から臨時に校医として派遣されることになった時、決めたことがあるの・・・・・・」

「・・・・・・いきなりなんです」

「お願い、質問して」


先までの朗らかな態度とは打って変わり、鞠川は震える身体を止めるよう、必死で肩を抱いている。
明らかに異様な様子の鞠川から小室は眼を反らした。
暗い表情だ。うんざりだ、とでも思っているのだろうか。まあ、それに近い感情なのだろう。
ギロチン刑を見せ付けられた後で、明るくおしゃべりをしようとしている奴の方が異常なのだ。
自分の正気を守るためだ、そんな奴に近付きたいとは思わない。
鞠川も、ここまで来たらもう、解っているはずだ。
いや、解っていてあえて、なのかもしれない。
医者とはかくあるべき、という信念が彼女にあるのならば。


「なにをですか、って質問してよ。そしたら、いつもどおりにやれるから、きっと!」

「・・・・・・ごめんなさい、先生。今は無理です」

「・・・・・・ならどこかに行って。私は私のルールを絶対に守りたい。守りたいから、今は、どこかに」


そうして無言で小室は部屋を後にした。
去り際に宮本と何かあったようだが、聞くべきではないと健人は意識から聞こえて来る会話を除外させた。
強化された聴力に音を捉えても、それを意識しなければ、聞こえていないのと同じことだった。
まあ仕方ないよなあ、と健人は髪を掻きながら冴子を引き剥がした。
しかし、ルール、と来たか。
これは彼女の事を見くびっていたのかもしれない。
彼女の態度が意図してのものであったなら、自分たちの中で唯一、真に正気であった女性である。


「なにをですか?」

「・・・・・・え?」

「だから、なにをですか、って。先生が決めたことって、何ですか?」


健人は問う。
話のついでだとでもいう風に軽い調子での質問だったが、内心は違った。
聞きたい。
彼女の、自分が自分でいられる理由とは、一体なんなのだ。
これから先、女性を集団で襲っていた奴らのように、人は獣と為り果てていくだろう。
否、既にそうだ。世界は変革した。プラスかマイナスか、どちらの方向にかは解らないが、とにかく変わってしまったのだ。ならば、そこに生きる人間は、新たな世界に適応していかねば。
だが、そんな世界の中で以前のまま、人間のままでいられる理由とは。


「それって同情? だったら・・・・・・」

「そう取っていただいても構いません。ただ、ここまで話しておいて、聞かず終いに死なれたんじゃあ、後味悪いじゃないですか。気になってしかたないですよ」

「・・・・・・私は生き残れない、ってこと?」

「このメンバーの中で一番に脱落者が出るとしたら、戦闘力の無いあなたか高城ですから」

「はっきり言うのね。なら、ありすちゃんはどうなの?」

「あの子は俺達が守りますから。それにこんなの隠したって、何の得にもならんでしょう。自覚してもらった方が、こっちとしても動き易いですし」

「そう・・・・・・ね」

「それに、純粋に俺が先生のことを聞きたいっていう理由もあります」

「それは、ええっと、その・・・・・・そ、そういう、こと?」


そういうこと、とはどういうことか。
いや、とぼけるのは止めよう。
彼女は辻斬りなどよりはよほど情欲を掻き立てられる相手だった。
それをおくびにも出さなかったのは、みっともない真似はしたくないという、チンケなプライドがあったからだ。


「俺も健全な男の子ってことで」


冴子の言葉を借りるならば、そういうことだ。


「そっか。うん、そっかぁ。うふふ、ね、健人君。耳、貸してくれる?」

「はい、どうぞ」

「教えてあげるね。私が決めたこと、それはね・・・・・・」


鞠川の口元に耳を寄せる健人の耳にかけられる、温かい吐息がこそばゆい。
鼻腔をくすぐる甘い香りが、健人の鼓動を一拍跳ね上げた。


「ヒ・ミ・ツ、うふふ!」

「秘密、ですか」

「うん、秘密なの。だって毒島さんが怖いから、ね」

「はあ、秘密なら仕方ないですね」

「そうそう、秘密なの」


ちょんと健人の鼻先を突き、ふんふんと鼻歌でも歌いだしそうなくらいに鞠川は上機嫌な様子。
鞠川の内面の振り幅が理解出来ず答えもはぐらかされた形となり、健人は喉元まで出かかった、だから何なのだ、という台詞を呑みこむ。
立ち直ってくれたならばそれで良しとしよう。医学に通じる人間が居るということは、強みなのだ。
とりあえずはこれで良かったのだと無理矢理に納得し、務めて後ろを振り返らないようにする。
漂ってくる背筋を這うような、底冷えのする気配が心底恐ろしい。
怖いもの見たさの好奇心があったとしても、進んで夜叉を見たいとは思えなかった。


「さ、二人とも出て行ってね。これから宮本さんにお薬塗るんだから」


でてったでてった、と健人と冴子の背を押す鞠川。
ありすは既に小室を追ったようだった。
恐らくは、コータとの件についてだろう。ならば彼女に任せておけば、小室とコータに確執が生じることの心配はいらない。
こういう時、子供の純粋さは人を素直にさせてくれる。
本当にバランスの取れたパーティーだ、と思う。
何の役割も無く宙に浮いているのは自分だけだ。
高城の言う通り、どちらか選ばねばならないだろう。
彼等と共にあるか、別れるかの。


「君のそういう所は好ましくないと思う」

「藪から棒になんだ」

「鞠川先生のことだ。嬉しそうな顔をしていた。君はもう少し、自分の発言の影響を考えた方がいい。まだ学園が機能していた頃、私がどれだけ苦心したか。
 虎視眈眈と隙をうかがう女狐共を千切っては投げ千切っては投げ。時に闇打ちし」

「お前か! 俺がもてなかったのはお前のせいだったのか! 俺の青春を返せ!」

「まあそんなことはよかろう。過ぎた話だ。これからの話をしよう、健人君」

「よかねえけど、ええい、くそっ、確かにそうだ。言ってみろ」

「飲み込まれるか、別れるか。二つに一つ、という話だ。君はどうする?」

「・・・・・・俺は」


どうするのだろう。
元より、小室達と同行していたのは、自身の変質による寂しさからだった。
完全にとは言えないが、少しずつ異形を受け入れ始めた今の自分にとり、寂しさは薄れていっている。
だが未だ、健人のとるべき第三の選択肢を口に出すには勇気が足らない。
第三の選択肢、それは誰の目にも付かないよう、消えるということである。


「いや、答えなくてもいい。右か左かと問われたら、真ん中だと答えるような天の邪鬼の君のことだ。どうするかくらい解っている」

「なんだ、それ。まるで俺の事を一から十まで解ってるような言い草だな」

「ああ、そうだとも。私は十まで君の事を理解出来たと自負しているし、それだけの時間を共に過ごしてきたとも思っている。そして私は未だ、十までしか君の事を知らない」


着物の胸元、折目に手を当てながら、冴子は微笑む。
刀を帯びていない彼女は、着物の良く似合う旧家の姫君か、俗社会から隔離された深窓の令嬢にも見えた。
動きを制限される衣服は場違いにも甚だしく、既に健人もそう指摘していたというのに、そんなことは関係なしに見惚れてしまう。
いけない。健人は目頭を押さえた。
鞠川に唇を寄せられ、自覚なしに昂っていたのかもしれない。見境なしになっている。


「私はもっと君の事を知りたいと思っているよ」

「・・・・・・俺の底なんて浅いもんだ。すぐに飽きるし、得することもない」

「するさ。色々とね。私得というやつだ」

「俺と一緒にいたら、またあんな化け物に襲われることになる」

「ああ、あれは恐ろしかったな。出来ればもう二度とお目に掛かりたくはないな」

「あれが何なのか、聞かないのか?」

「答えてくれるなら、いや、答えられるなら。知っているのかい?」

「知っている訳がない」

「そう顔に書いてあったよ。私はもう決めたのだ。私を叱ってくれると言ったのは君だろう。私は君を知りたいし、君にも私のことを知って欲しいと、そう思っているよ」


この女を狂った辻斬りと見なし、そこで思考停止してしまっていたのは自分だ。
それだけに留まらず、見下してもいた。
自分の方がよほど高尚な精神を有していると思っていたのだ。下らないことに。
そんな彼女が今、自分へと歩み寄ろうとしている。
これまでは一方的な押し付けでしかなかった彼女が、そうではないと、健人に訴えている。
これからは、違うのだと。
健人も自分のことを知れと。
健人は今まで彼女の嗜虐性を非難することで、自分の内にある感情を殺していたのだ。だから、彼女と向き合おうともしなかった。
一方的だったのは果たしてどちらだったか。
お願いだ、と冴子は続けた。


「どうか私を、側に置いてくれないだろうか」


健人は答えない。答えることが出来ない。


「・・・・・・好きにするといい」


そう絞り出すように返すしかなかった。
言って、冴子に背を向けた。
考えなければならないことが多すぎる。情けないことに、自分では処理できそうもない。導べが欲しいと思った。
叔父に会いたい。
会って、話をしたい。話せるのならば何だっていい。叔父の趣味であるフットボールを一緒にしてもいいし、戦史について論争することもいい。とにかく、会いたくてたまらなかった。
健人は暗闇であってもサングラスを外さない男の顔を脳裏に浮かべた。
精神性だけをみれば、健人は弱い人間だ。迷いを断ち切れず、救いを求め、他者の言葉に人生を左右される程に。
しかし、己の意思によって決断を下すことの出来る人間だった。
その決断が正しいものであるかどうかが、たまらなく不安になるというだけだ。
決断は既に下されていた。
言葉を濁したのは、後ろめたさからだった。
彼等と、小室たちとも別れ、冴子も置き去りにし、そして――――――リサと共に生きる。
背に掛けられたありがとう、という呟きを、健人は意識から締めだした。
頭にあるのはただ一つ。
人の道から外れたリサと自分を、叔父は何と言うのだろう。
先生に問えば、教えてくれるだろうか。
物思いに耽る健人は、だから気付かない。


「・・・・・・そうだ。君の側にいるべきは私なのだ。私だけが、君の隣に立つことが出来るのだ。あんな化け物になど、許してたまるものか。私が、私だけが――――――」


その後に続く、背後からの声に。








■ □ ■






File13:東日本電話回線、同携帯電話の通話記録より


『――――――そう、南米はもう全滅か。こっちも似たようなものよ。どこもかしこも地獄だわ。
 うん、へぇ、BSAAはもうそんな所まで情報掴んでるんだ、流石ね。それで、首謀者は結局どこのどいつなの? もう傘は破れたんでしょ?
 ・・・・・・ふうん、中々尻尾を出さないわね。でももう二・三個所は拠点を潰してるんじゃない? 教えてよ。
 えっ、今、作戦帰りなの? クリスがまた一人で施設を爆破した、って、何よそのクリスっての・・・・・・本当に人間? 
 軍事施設に単独潜入とか、それにまたって・・・・・・。
 あら、そんなにイイ男なの? じゃあ許せるわね。ねえ、今度紹介してよ。いいのいいの、コブ付きでも気にしないわよ。知ってる? お堅い男って、アッチの方でもタフなんだから。
 こんな時にって、こんな時だからこそよ。フリーセックスの時代が来るのよ。今からいい男を捕まえとかないとね。女は子供を産むのが仕事になるわ。
 ふふ、そうと決まればヤル気が出てきたわ。何としてでも生き残らないと、ね。
 そっちは海路を使ってるんだっけ? なら床主に到着するのは、もう少しかかりそうね。 
 ええ、あたしもあなたとまた会えるのを、楽しみにしてるわ。そうね。お互い生きていたら、また。
 じゃあね――――――シェバ』

『・・・・・・あーリカぁ? 生きてたねー! あたしもね、いろいろと大変だったんだけど』

『そんなことより、今どこにいるの!? あたしの部屋――――――』


・・・・・・抽出できた記録はこれだけのようだ。
ここから先のデータは電磁パルスによって破損し存在しない。













[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:14
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:37
ギロチンが行われてから漂う、庭向こうからの空気。
人心をまとめるのに恐怖で抑えつけるのは非常に効率の良い方法であるが、抑圧を掛ける以上は反発も必至だ。
状況に急いて過激な方法を執ったのだろうが、しかし人の心には“バネ”の作用がある。
世界が崩壊してからもう数日・・・・・・否、まだ数日か。人間のしぶとさというものは、小室達と同行する間に嫌という程に見せ付けられたと思っていた。だが、“バネ”が死ぬまでに打ちのめされるには、まだ幾ばくかの時間が残されているらしい。
誰もが現実を受け入れられていないのか、思っていた以上に人間は強かであったのか。それは解らない。鞠川の友人宅から眺めた橋上の光景を思い出す。どちらにしろ、反攻の意思が残されている内は人類はまだ安心のように思えた。
自分にとっては喜べるばかりではないが。
個々人が身の内に眠る獣性を絞り尽くさなければ、集団が脅威ともなりえる力を持った者を受け入れはすまい。
排斥もそこから産まれる故に。
庭向こうから漂う空気は、明らかな敵意を孕んでいた。
粘りつく怨念が込められたそれではなく、追い詰められた犬が吠えたてるような、そんな危うい気配である。何をするか、解ったものではない。
さて雲行きが怪しくなってきたぞ、と健人は歩先を速めた。
短慮に感情を爆発させられでもしたら、個人の責任に収まる範囲を簡単に超えてしまう。そいつが死ぬだけでは留まらず、周囲を巻き込んで自爆することになる。それだけは御免被りたかった。
しかし、何とかせなば、とまでは思わない。彼等に対する責任は健人には全く無いのだから。かといって大事が起きた際には見捨てるか、とも言い切れなかった。
自分のことで精一杯だというのに、こんな時にまで甘さが捨てられないとは。つくづく至らない自分に健人は表情を歪める。
叔父に何度も指摘された己の欠点。どうやら追い詰められてもそれは治らないらしい。
他人の存在が気になって仕方ない。孤独では生きていけないことを強く自覚しているのは、こればかりは叔父の責任だろう。叔父は健人に自身の力となることを強く求めたのだから。
とにかく外の集団に火種を放りこむことだけは避けたい。コータのことだ。視野の狭まい連中の中に放り込めば、それだけで爆発するだろう。お互いに。
そのため、ハンクの元へ行こうとしていた健人だったが銃器を抱えて去っていったコータをそのままにはしておけず、問題を起こす前にと高城邸館内を探していた最中だった。
コータの性格を考えるに、人気のある所には行こうとはしないはず。
そうすると、もう館内にはいないだろうか。
頼むから面倒事は起こしてくれるなよ、と健人は漂う空気に背筋を振るわせて両手を合わせた。
背中がうすら寒い。


「悪霊退散、悪霊退散」

「どうした健人君、こんな時に神頼みか?」

「信じるかよ、そんなもん」

「さて。そう言う君は、天に唾を吐きながら手を合わせるのだな。君はたまにおかしなことをする」

「・・・・・・何か良くないのに憑かれてるような気がして」

「ふむ、こう立て続けに事が起きてはな。私も人知の及ばない何かを感じるよ。だが、これも運命かと思えば不思議と悪くない気持ちだ。
 君とこうして並んで歩くことが出来たからかな」

「・・・・・・悪霊退散」


運命と書いてさだめと読むのだよ、と言って嬉しそうに微笑む冴子に、憑いてくるなとは言えない健人だった。
蜘蛛の巣に捕らわれた獲物のような、そんな心境だ。
隙をみては何度も絡められてくる指をそれとなく振り払いながら、健人と冴子は草履を履いて外へ出る。
流石にコータも広場や正門近くには寄り付こうとはしないはずなので、今度は裏庭を探してみることにする。


「ああ、ほら健人君、鯉がいるぞ」


良い物を見付けた、と小池のほとりに屈む冴子。
高城邸は正門前に広がる広大な庭は西洋造りであったが、裏庭は静かな日本庭園となっていた。
配置された石と緑とで世界を露わすのが日本式の庭造りである。
どうりで幽世に迷い込んだような感じがしたはずだ。
今となってはわびさびの世界観は、日常の隣に寄り添う有り得るかもしれない近しい空間ではなく、実現不可能な夢の国と化しているのだから。
これで見納めかと思えば感慨深いものだ。


「ほら、見てくれ。素晴らしい九紋竜だぞ」

「そうだな。素人目に見てもよく手入れされてるな」

「これ程のものとなると滅多にみられないな」

「なるほどね。実益を兼ねたいい趣味だよ」

「実益とは?」

「腹の足し」


ぱしゃんと跳ねる錦鯉。
どう見ても泳ぐ魚肉ソーセージにしか見えない。
美術的価値など死に絶えたのだ。食えるか食えないかが生物に対する基本的な感想になるだろう。
ジークもいつまで“可愛いと思うことが出来る”のか。
自信はなかった。


「なんだ、腹が減っているのか。それならそうと言ってくれれば、すぐにでも腕を振るってやったのに」

「重たいからいらない」


血や何かを混ぜられたらかなわない。胃を擦る。想像だけで胸焼けしそうだった。
見るからに豪の者であった高城の父らしく、日本庭園は武家の造りを踏んだものだ。
表の庭が現代アートを取り入れた挑戦的な設計がされているのに対し、裏庭は古式でいて格式高いものとなっている。
ならば、と健人は丁寧に苔を生やした土に足跡を付けつつ、邪魔な松の枝を折って目当てのものを探す。


「裏口発見、と」


周囲をぐるりと堀で囲まれた高城邸は、正門のみしか出入り口が無いように見える。
思想右翼の首領の地位にある高城の父である。この邸宅は、城として建てられたのだろう。西洋館ではあったが、有している機能は、日本における城のそれに近いのだろう。それが健人の邸内を見て回る内に抱いた感想だ。
あの鉄扉が唯一の出入り口であるならば、それでは敵に攻め入られた際に籠城しか選択肢が無くなってしまう。高城の父がそんな欠陥建築を許すはずがないだろうと健人は予測し、そして真裏にあるこの日本庭園を調べてみたら案の定。
見事に伸びた松の木、そして岩と壁の間に、鉄の扉が隠されていた。
名城の条件とは、攻めるが難し守るが易く、である。それはつまり、敵の攻め入る方向を一本化させ、更には万が一の際に確保出来る退路が存在する、ということ。
この壁の向こう側は確か高台であったはず。崖を背にしているのならば、なるほどこれは非常口ということか。
改めて良く出来た邸宅だと感心する。


「ああっ! アンタ何してんのよ、それ!」

「ああ、高城か。これは、あー、その」


甲高い非難の声を上げながら、高城が大股で健人に詰め寄る。
それ、と健人の手の内にある松の枝を指して、怒りに眉根を跳ね上げていた。
見れば中々に立派な枝だ。
今更背中に隠した所で遅い。


「まったくアンタは・・・・・・いいわよ、もう! 桜折る馬鹿に何言ったって無駄ですものね!」

「いやこれ松だし。これくらいじゃ松は腐らないし。ていうか俺のが年上だし。何でこんなに怒られて」

「ああん!?」

「ご、ごめんなさい・・・・・・」


冴子に限らず言えること。
世界が崩壊しても変わらずに女は強かでいて、怖い。
睨まれたら男は頭を下げるしかないのである。


「それで、あいつは? こっちに来たんじゃないの? ったくあのでぶちんときたら!」


人間の魅力は見た目が8割だと言わざるをえまい。
コータの外見が愛嬌として受け入れられる時はくるものか、と思わずにはいられなかった。
自分が女だったなら、抱きしめてキスぐらいしてやったのに。
次いで高城は池を覗き込んでいる冴子へと近付く。


「剣道だけじゃなくて錦鯉にも詳しいってワケ? 確かに似合ってるけどさ」


私は、と冴子は言葉を一瞬濁した。
言い難いのか、言葉を探していたのか。それは解らなかったが、冴子は高城の気配を察知していたはずなのに、一瞥もくれなかった。


「“わたしも”機嫌が良いわけではないよ」


ちら、と一瞬だけ冴子の切れ長の眼が向けられた、気がした。
冴子の琴線に触れる何かをしでかしてしまったのか。考えても思い当たる節はない。気のせいだ、と思うことにした。
理由はわかっているわけね、と良いように冴子の言葉を解釈したらしい、高城が頷いた。


「機能と変わらない今日、今日と変わらない明日を当然のものとして受け入れる幸せは喪われたわ! たぶん・・・・・・永遠に!」

「そうだ。あの懐かしい世界はすでに滅びた」


風が吹き抜ける。
長い髪を抑える二人は、そこで初めて視線を交わらせた。
懐かしい、と口にしながらも微塵も名残惜しさを感じさせない冴子に、言いようの無い違和感を感じた。
感じたが、だからどうするという訳でもないのだが。


「よって、君が口にした設問に戻るわけだ」

「ええ! 飲み込まれるか別れるか! どちらかを選ぶかでこれからの全てが変わる。飲み込まれた時、どんな世界で生きていくのかはパパが実演してくれた。
 気楽でいいわよ? まだしばらくは子供でいられるわ。<奴ら>で溢れ返りつつあるこの世界で、嬉し恥ずかしな恋愛ごっこだって出来る!」


何処か投げやりに言う高城に、健人は問う。
何とはなしに聞いたことが、問われた側からも解るような態度。
健人もまた、投げやりに問うただけだった。


「どっちにするんだ?」

「それは・・・・・・アンタはどうなのよ?」

「どっち付かず、なんだよな」


肩を竦める。
高城は両親と想い人との板挟み。そして自分はリサと合流するまでは、どちらに付いても同じことだ。
今のところは、化物になってしまった寂しさと憤りとを紛らわせてくれた小室達に傾いてはいるが。
請われたらば、どうなるか。


「しかしまあ、恋人ごっこか。平和でいいじゃあないか。しばらくはまだ浸っていてもいいんじゃあ?」

「それも楽しくはあるだろうが・・・・・・私はもうごっこでは満足は出来ないようだ。こんな時に、いかんな」

「・・・・・・アンタたち、何かあったの? そういえば一晩どこかで過ごして来たんでしょ? その時とかに」

「無いよ、何も」


即答である。
冴子が不機嫌だと述べた理由。その心当たりはあっても、冴子には何も告げてはいないのだ。
察知されてはいないはず。だから、本当に思い当たる節が無いのだ。邪険にし過ぎて拗ねたかは知らないが。
不穏な発言は意識から除外するに限る。


「それに、私は<奴ら>以外の命も奪っている。介錯だったつもりだが・・・・・・いや、介錯とは子供のなすべきものではなかろう」

「アタシだって、自分が生き残るためにクラスメイト達を気にせず動いた。間違ってるとはおもわないけど、子供が教わる正義とは全然違・・・・・・」


何かに気付いたように顔を上げた冴子に、途中で言葉を切る高城。
どうしたの、と彼女に問うと、見知った顔が見えたという。
友人というわけでなく、知り合いというわけでもなく、何処かですれ違っただけの相手のようだ。
あれは、と何処で見たのかを思い出そうとしていた。


「紫藤先生にくっついてた生徒だろ」

「ああ、確かに。いやまて、何故君が彼を知っている?」

「同じクラスだったからな」


ぎょっとしたように二人は振り向いた。
紫藤と関わりがあるというだけで、害悪であるとでもいう風な反応。
過剰と言える程の嫌悪の眼差しを向けられ、困惑に健人は首を擦る。
いったいあの人は何をしたのか。
ろくな事ではないのだろうけど。


「俺もあいつも、紫藤先生が担任さ。避難する時も一緒に逃げてたんだけど、俺、囮にされちゃって。それでこんなになっちゃった、と。いやあ見事に見捨てられたなあ」

「見捨てられたなアッハッハー、じゃないわよ! ちょっとアンタ、紫藤の奴に切り捨てられて酷い目にあったんでしょう? 何で笑ってられるのよ!」

「そりゃあ納得は行かないけど、でも合理的な判断だったと思ってる。間違っちゃあいなかったよ。あの時はな」


一言言ってやりたい気持ちはあるが、恨んでも憎んでもいない、というのが健人の本心だった。
にこやかに笑う紫藤の言葉に従い、一人で<奴ら>の群れに飛び込んでいったのは、紫藤に心酔していたからでも薄ら寒い台詞に惑わされたからでもない。
自分ならば大丈夫だ。皆を逃がす時間くらいは稼げる。死にはしない。そんな驕りが、健人の中にあったからだ。
そして<化物>に遭遇したのは、紫藤とは何の関係もない。初めから自分を狙ってやってきたのかどうかは解らないが、<化物>になってしまったからといって、紫藤を逆恨みするのは筋違いである。


「一人を犠牲に皆を生かす。多くの命を預かるリーダーとして、正しい選択だった。それは認めないと」


いずれ小室も紫藤と同じ判断を下さなくてはならない時がくるだろう。
リーダーとは時に非情さが求められる役割だ。皆仲良く、で生き残れるなどと信じている夢想家は、どうぞ自ら他者のために命を捧げてほしい。
切り捨て切り捨て、人として大事な部分を削ぎ落とし続け、獣になっていかなければ化物には勝てない。
化物である自分が言うのだ、間違いない。
小室にも変化の兆しはあるが、自覚をするのはいつになるか。
高城達はそれを促すつもりであるのだろう。


「何よ、アンタも紫藤教の一員なワケ?」 

「紫藤教って、なんだそりゃ?」

「乗り合わせたバスでね。やらかしてくれたわよ、まったく」

「ああ、何となく解った。あの人、頭は方は確かでも人格はちょっとアレだからな。人としては全く尊敬していないから、安心してくれ。
 だから騙されたなんて思ってないんだ。初めから信用していなかったワケだし、ああ騙されてるな、って理解もしてたから。
 全部折り込み了承済みで、先生の言い付けを守る優等生になったのさ。
 <奴ら>の群れをかいくぐる自信もあったしな。相手が<奴ら>だったなら、負けないと思ってたんだが。軽率だったよ。死にかけた」

「・・・・・・恨んではいないのね?」

「それが、まったく。不満はあるけど、いいとこ一発殴ってそれで終いさ」

「アンタは・・・・・・まったく、顔に似合った中身でいなさいよね! 
 とにかく、あいつがここにいるってことは紫藤もここに来る可能性が高いわ。スパイよ、あれ」

「来たところでお前の親父さんが許しはしないだろうさ。彼等が言う子供達とその保護者の集まりだからって、甘くなんてしないだろ」

「それは・・・・・・確かに。なんかムカツクわね。私よりもパパのことを理解してるみたいな顔しちゃって」

「八つ当たりはよしてくれ。さっさとママと仲直りしてきた方がいいぜ。時は金、支払いが血になる前に行ってこいよ」


言われなくてもわかってるわよ、と鼻を鳴らしてそっぽを向かれる。
フン、という音が聞こえる盛大な照れ隠しだった。


「それで、お前はどうして黙りこくってるんだよ」

「あ、ああ。すまない。紫藤教諭を切り刻むのに忙しくてな」


もちろんそれは頭の中でのことなのだろう。
紫藤のやり口にではなく、生贄に健人を選んだことに怒り心頭といった様子。
静かに冷やかに、凍える炎が瞳に宿っている。
健人は冴子から身体ごと顔を背けた。
冴子達の耳には聞こえないようだが、先ほどから聞こえる怒声が気になる。
責められているのはコータだろうか。
遠くの音まで拾えるようになったはいいが、小声でぼそぼそと喋られれば聞こえはしない。
やはり、面倒事か。
幸か不幸か、相手は集められた一般人ではなさそうだ。
本当なら小室に任せたいところだが、憂国一心会の組員が相手では、強引に迫られたらどうなるか。


「何を騒いでいる!」


空間そのものを震わせる裂帛の気合に、三人はぱっと顔を上げた。
高城の父の声だ。


「少年、名を聞こう! 私は高城壮一郎、憂国一心会会長だ!」

「ひ、ひ、ひ! 平野コータ! 藤見学園2年B組、出席番号32番です!」

「声に覇気があるな、平野君!」


ここで初めてコータの声が聞こえた。
健人だったならば、あなたほどでは、と皮肉で返したかもしれない。
エンターテイナーに対するには、彼等の提供する演出を素直に受け取らず、斜に構えていなければならないからだ。でなければ、呑まれて流されてしまう。流されたら、組み込まれて終いだ。やはり上手いやり方だと思った。
コータに余裕はなく、答えるだけで精一杯だとその声色が伝えていた。
呑まれた、と健人は察する。
恐らくは銃を渡せと詰め寄られていたのだろう。ここで高城の父からもう一押しされたら、言いなりになるしかコータには選択肢がない。
これはいよいよ武力行使も有り得るか、と健人は覚悟を決めた。


「たかしお兄ちゃん、こっち! コータちゃんが、コータちゃんが大変なの!」

「健人さん! 何が!」


健人が拳の関節を鳴らしかけたところに、小室がアリスに手を引かれながら現れた。
高城の父の声が届いていたのだろう。ただ事ではないと察知しているようだった。


「小室、いいところに。コータが何かトラブったらしい。たぶん、銃を渡せって脅されてる」

「あいつら・・・・・・!」


怒りに奥歯を噛み、小室は声のする方向へと睨みつけた。
先ほどまで仲違いをしていたというのに、今はコータを救いださんと義憤に燃えている。
シャコン、と小気味の良い音を立てるポンプアクション。
小室は担いでいたショットガンを腰溜めに駆け出した。


「いやいやいや、待て待て待てって」

「ぐわわーッ!」


左足が前に出される瞬間に横へと蹴り飛ばしてやる。
右足より前に踏み込まれるはずが、右足のふくらはぎに左足甲が直撃し、バランスを崩す小室。
倒れそうになった小室に手を伸ばした健人だったが、彼の体を掴むことはなかった。掴んだのはショットガンだった。
結果、小室は池へと見事にダイヴ。
派手に水しぶきを上げて着水を決めた小室。九紋竜の錦鯉が迷惑そうに小室の頬を尾びれで叩いていった。


「あばがっ!? ごぼっ! こ、苔が! すべっ、お、溺れぶ!」

「大人数で囲むのも大人気ないけど、銃口突き付けてお話するのは、もっと駄目だろ」


呆れたように、とんとんとショットガンで肩を叩きながら言う。
最近俺、説教臭いよな、と恥ずかしそうに笑うが、苔に足を取られて何度も水底に沈む小室にはそれどころではない。
暴れる小室を尻目に、健人は冷静に薬室からショットシェルを抜き出した。


「ちょ、ちょっと! 早く引き上げなさいよ!」

「ダメダメ、弾が湿気る。そう言うんなら自分が手を貸してやれよ」

「いやよ、服がぬれちゃうじゃない!」

「濡れるのもまたおつなものだぞ。実は私も、少し濡れてしまってな。張り付いた布が動くたびにこすれて、これがまたたまらん」

「ええと・・・・・・?」

「乾かしとけや。高城も気にするなよ」

「つれないな、君は。しかし小室君はそこで少し頭を冷やした方がいいな」

「そうだな。頭に血が上ったヤツは水底がお似合いだわな」


誰も小室に手を貸そうとしない。
緊迫した空気が消えたのは、高城の父は調停役に回るだろうと踏んでのことだった。
小室の出番なのだと、三人共に理解している。
高城の父に認められたなら小室も自信がつくだろうか。リーダーとしての資質を示すべき良い機会だ。
ここぞ、という場面なのだ。小室には頭を冷やしてもらわねば。
かくいう小室は、靴紐がイカれただって、と解けた靴紐を踏み、また池に尻を突いていた。


「狙ったか、健人さん! よりによって池で・・・・・・クッ、ダメだ、立てない!
 水が入って・・・・・・! 馬鹿な、これが僕の最後だというのか! 認めん、認められるか、こんなこと」

「冷静になって高城パパのことが怖くなったのは解るけど、馬鹿やってないでさっさと上がれよ、ほら。ここがお前の見せ所なんだぜ。胸張って行ってきな。手ぶらでさ」


小室を池から引っ張り上げ、背を突いて突き離す。
二三歩たたらを踏んで、痛そうに肩をさすりながら睨む小室だったが、振り向いたときには健人はもう、邸内へと引き返す最中にあった。
背に視線を感じながら、頑張れよ、と手を振る。
背に悪寒を感じながら、憑いてくるな、と手を振る。
放っておいても大丈夫だと思えてしまえるのは、自分も小室の放つ原石の光に中てられているからなのかもしれない。






■ □ ■






あらかた邸内を探し終えたが、未だハンクは見つからなかった。
あれほどの異様だというのに、邸内をうろつく影さえ見えないとは。
次は外かと窓の外に眼を向ける。
すると、聞こえる叫び声。


「皆さん聴いてください! この子は殺人を肯定する男の娘で、私たちにも殺人者になれと言っています!」


小室達と、保護された住民たちが言い争う姿が窓枠の外にあった。
外に出るのは止めておこうと健人は即決する。
次から次へと、よく揉め事ばかり起こせるものだ。
ここでも“バネ”の反作用である。ボランティアを集めるの、などと<奴ら>を救済すべきだと叫ぶ女の甲高い声を耳にそう思う。
彼等の現状を元に戻そうとする反応は、自然な行動なのかもしれない。
例えそれが、どんなことでも。
時にはうまくいかない事が、最初から分かっていてさえ。
そんな彼ら対しては、高城の父の手法を執るしかないのである。
斬って捨てると、有事の際は見捨てると、それだけだ。
付き合うだけ時間の無駄だと解っていて、なお説得に周ったのは、最後の情けなのだろう。
それよりも、高城の両親に率いられた人々の脱出が数日後に迫っている。
小室は出発までに全員を救出して戻ってくる、と確約したらしいが、さて。
果たして彼等の両親が生き残っている可能性は、あるものか。


「けんとお兄ちゃん・・・・・・」


ありすが心配気に見上げ、袖を引く。
小室の決定はありすがメッセンジャーとなって伝えてくれた。
高城と鞠川とありすは残ることになった、とも。
高城は両親がここにいるのだし、鞠川は医者だから人数が多い方に付くのが当然だ。
そして、まさかありすを連れて行くことなど出来ない。
そう考えてのことのようだ。
健人さんはどうしますか、との小室からの伝言を語るありすは、不安と心配を一杯に顔に現わして、今にも両眼から零れ落ちそうにしている。
ありがとう、と健人はありすの頭を優しく撫でた。


「小室には、俺も一緒に行くと伝えておいてくれるか?」

「けんとお兄ちゃんも、行っちゃうの?」

「大丈夫さ、ありす。これでさよならってわけじゃないんだ」

「ありす、お兄ちゃんたちと一緒にいたいよ」

「それは・・・・・・駄目だ。なあ、ありす、良い子にして待っててくれないか? そうしたらすぐに戻って来るから」


嘘だった。
高城の父は数日中に避難するとは言ったが、もはや準備は万端なのだろう。
そのほとんどは、反抗の意を見せる住人たちの説得に使われるはず。
不測の事態が起きれば、そこで即出発だ。
そしてきっと、不足の事態は必ず起きる。
何故ならばここに自分が居るからだ。
化物共は自分を追って来ている。それはもう、確定だろう。だが、一所に留まって未だ襲撃を受けない理由は何か。
健人にはそれが、嵐の前の静けさに思えてならなかった。
何か強大な脅威が迫ってきているような、そんな不安が押し寄せる。
ここで別れたら最後、きっと、もう二度と会うことはない。そんな確信が健人にはあった。
ありすが健人の服の裾に、ぎゅうっと鼻先を押し付ける。
健人の言葉が嘘であると察したからだろう。
じんわりと湿り気が腹の辺りに広がってくる。
うん、とくぐもった短い返事が聞こえた。


「ありす、良い子にしてるから、だからぜったい、もどってきてね?」

「ああ、だからもう泣かないでくれ。ありすは笑っていないと、な?」

「・・・・・・じゃあ、約束して」


そっと小指が差し出される。
真っ赤な眼をしたありすは、零れる涙を健人の制服で拭い、真っ直ぐに健人を見上げていた。
決して違えることのない誓いを示すジェスチャー。
――――――ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせーんぼーん、のーます。
叔父が大嫌いだったそれだ。
理由は、針を千本飲むのが嫌だから、という理由だったはず。
子供じみた言い訳に健人は笑ってしまったが、思い返せばあれは叔父が発揮したなけなしのユーモアだったのだろう。
口の端を僅かに持ち上げて笑っていた叔父を、強く覚えている。
叔父が小指を絡めるのを避けたのは、確たる契約の証を示してしまうことに忌避感を感じたからではないか。きっとそうだ、と健人は思った。
指をきってしまっては、絶対に約束を守らなくてはならないような、そんな強迫観念に捕らわれることになる。
それは、絶対に果たせる約束しかしない、という叔父の人格の高潔さも同時に現わしていて、健人も真似をすることになったエピソード。
健人は差し出された小さな、触れればそれだけで折れてしまう程に細い、儚い小指を前に、金縛りにあったように硬直した。
嘘はいくらでも吐ける。
だが、叶わない約束は・・・・・・出来ない。
それが終ぞ己に誇りを持つことが出来なかった健人の、最後の意地だった。
自分を見上げる、幼い純心な瞳。
それに真っ直ぐに向き合うことが出来ずにいる。
どれだけの時間そうしていたのだろう。5分や十分ではないはずだ。じっと、じいっと、健人の答えを待つありす。
ありすくらいの歳で、これだけの長時間、同じ姿勢を保つのは辛かろうに。
普通の子供とばかり思っていたが、地獄と化した数日を生き延びたのだ。そんなはずがないではないか。
小室達と同じだ。ありすの精神性は変貌を遂げていた。もちろん、自分も。
窓の外では、また新たな揉め事が。
鉄門が開けられ、大型バスが誘導され敷地内に入ってくる。
バスから降り立ったのは、紫藤だった。
にこやかな頬笑みを湛え、憂国一心会の組員に保護を願っている。
そんな紫藤に駆け寄る影。宮本だ。彼女は紫藤の喉元に銃剣を突き付けると、憎しみの叫びを上げていた。
狩猟用の散弾銃程度ならば憂国一心会の組員も持ち歩いていたが、小室達のように違法スレスレの銃器となると、そうはいかない。出来る限り人目に付かないようにするべきだが、それも今更か。
紫藤がこのまま宮本に刺殺されようが、それで庭先のエセ人道主義者達との抗争が勃発しようが、どうでもいいことだ。
間接的に自分が<化物>になってしまった原因を作った紫藤の姿を見ても、特に何も感じはしない。もっとこう、怒りが込み上げてくるかとも思っていたが、そうでもなかった。
紫藤が自分をそう思っていたように、その能力は認めこそすれ、だからと言って重用するわけでも執着を抱くわけでもない。
心底どうでもいい存在であるのだ。助けを求められたなら手を差し伸べることくらいはするが、だが、そこまでだ。
いや、紫藤のことなど、それこそどうでもいい。
今はこの、数十分もの間微動だにしない小さな指を、どう折りたたんでやればいいのか。それだけを考えるべき。
そう健人が硬直し続けていると、ありすは諦めたのか視線を伏せて、俯きながら少しばかり笑って言った。


「わがまま言ってごめんね、けんとお兄ちゃん。ありす、悪い子だったね」

「そんなことは・・・・・・」

「ううん、いいの! えへへ、けんとお兄ちゃんがきっと困るってこと、ありす知ってたもん。だから、ごめんなさい」


ジークを胸に抱き、頭を下げるありすに、健人はぐっと空気を飲んだ。
罪悪感が胸を突く。だが、約束をすることなど出来なかった。決して守ることは出来ないと知っていて、約束をしようなどと。そんなことは出来なかった。
むしろ、幼さに反して賢い部分もあるありすに、形だけの約束であると知られてしまうことをこそ健人は避けた。無理矢理に作られた笑い顔を向けられることが、健人には耐えられなかったからだ。
そんなことを幼子にさせるべきではないのだ。
大人や子供という年齢での立ち位置の違いというものを小室達は認めなかったようだが、健人としては、その考え方を、そんな風に考えられる大人たちを大いに好いていた。
余裕のある大人、というものに憧れを抱いていたから、なのかもしれない。そうならば、それはもちろん叔父の影響であることは間違いがなかった。


「ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね・・・・・・ちょっとだけこのままでいさせてね。ごめんね、ごめんなさい・・・・・・」


健人の腰辺りに顔を埋めるありす。
ありすも理解していたのだ。これが最後の別れになるかもしれないと。
先も感じた湿り気と生暖かさに、健人は苦痛に顔を歪めた。
ありすに気を使わせたくはなかったが、こうして無理を耐えさせることもしたくはなかった。
どうにもならない。どうにも出来ない。
健人はそっとありすを抱き寄せると、一瞬躊躇した後、右手で優しくありすの髪を撫でた。
この子が壊れてしまわないように、そっと、そうっと、撫でる。
思い出すのは、叔父の手の大きさと、温かさ。
一度だけ、叔父は健人の頭を撫でたことがあった。
今の自分のように躊躇しながら、どのようにしたらよいのか解らず、壊してしまわないかと恐れながら、叔父は健人の頭を撫でていた。
あの時の自分も、ありすのように静かに涙を零していた。
でも、叔父が触れたとたんに涙が止まったのが、自分でも不思議に思ったことを覚えている。
見上げた叔父の顔は、どこか呆れたように、それでも小さく微笑んでいた。
こんな程度で泣き止むなど、安い子供だと思っていたのかもしれない。
あの時、叔父は何と言ったか。覚えている。信じろ、と、そう言ったのだ。
約束をすることは出来ない、だが、私を信じろ。信じて待て、と。
そう言ったのだ
忘れられるはずがなかった。
覚えている。空気の臭いまで。
叔父が頭を撫でたのは、その一度きりだった。でも、それで十分だった。たったの一度だったが、健人にとっては億のそれよりも価値があった。
今の自分は、あの時の叔父のように振るまえているだろうか。
無理だろうな、と健人は苦笑する。
色んな事で一杯一杯で、首が回らずにいるのだ。上手くやれるはずがない。下手くそが過ぎる。
それでもありすが笑ってくれるならいいなあ、と健人は思った。
演技であるとした健人の態度。しかしその手はありすの髪を、優しく滑っていた。


「ありす――――――」


その後に続く言葉を、何と言い繕おうとしたのか。
ありすの名を呼び、彼女が健人を見上げた――――――その瞬間のことだった。
雲を裂き、空が光に満ちたのは。
空の赤が白く染まったのは一瞬。それは救いの光ではなかった。
稲光か、と思う間も無く。
視界は傾き、膝は重力に引きずられて落ち、眼の奥から湧きだす灼熱が脳を焼いて――――――暗転。
何の前触れもなく落ちていく意識に、異常を感じる思考能力すら残されていない。
手掛かりを求めて彷徨った指先には、何本かの頭髪が絡んでいた。
引き抜いてしまったのか。
耳朶に届いた小さな悲鳴が、頭蓋に響く鈍い音よりも痛かった。
ああ、ありす、いいんだよ。
俺みたいな<化物>のために泣かなくったって、いいんだよ。
だから笑っていてくれ、ありす。お願いだから、笑っていておくれ。
声は出ない。
手も上がらない。
必死になって身体を抱えようとする、彼女の頬から滴る雫を拭うことも、出来ない。
意識は打ち付けた床よりも深く、暗く、沈んでいく。
健人に許されたのは、視界が完全に閉ざされるまでの数瞬の間、涙を流して自分を揺するありすに、詫び続けることだけだった。






■ □ ■






File14:Redesigned Queenによるハッキング・・・・・・被検体の精神内部構造、表層コードを記録。


手足は動かず、身じろぎ一つ叶わない。
目蓋は縫い付けられたように閉じず、無理矢理に視界を固定されていた。
ひどく不自由な状態で、上下左右の境も解らないまま、真っ暗な空間を漂っている。そんな状態。
まるで五体を縛りつけられ、荒れ狂う海に投げ出されたかのよう。
初めは何とか動こうと試みるも、すぐに無駄だと悟った。
次に、おおい、と大声を上げた。
おおい――――――おおい――――――木霊は闇に溶け、消えていった。
暗い海を漂っていると、だんだんと、自分が生きているのか死んでいるのか、そんな境さえも曖昧になっていく。
そういえば。
僕の名前は、なんだっけ。


「ワシの――――――だ」


声が聞こえた。
しわがれた老人の声だった。
暗がりの中で唯一確かなものに、自然と引寄せられる。
否、引き摺られた、というのが正しいのかもしれない。
喉元を鷲掴みにされ、引き摺り倒される。
眼前に現れたのは、車椅子に座する老人。
羽織った仕立ての良いガウンは、老人が富裕層の者であることを示している。
だが、胸元から覗く肌はツヤが無く弛んでいて、喉元に伸びる手は枯れ枝のようで、今にも朽ちてしまいそうだ。
骨と皮しか無い指に力が込められ、気管が潰れていく。
咳くことも出来ず、眼を閉じることも出来ず、酸欠に涙が滲む。
死にかけにしか見えない老人の、一体どこにこんな力があるのだろう。
鉄を擦り合わせるような音を立てながら、老人はぐいっと顔を近付ける。近付けさせられたのか。
耳障りな音は、車椅子から伸びた器具の音のようだ。老人は身体中にチューブを括りつけられていた。喉元の穴に差し込まれた太いチューブから、ずずうと液体をすする音が。タンを吸い取ったのだろう。
切れ切れな吐息が顔面に吐きかけられる。
老人特有の、熟して落ちた桃の様な臭いだった。


「ワシのからだ」


そんな言葉と共に浴びせられたのは、理解不能な執着心だった。
脳髄に直接叩きつけられる、強烈な意思。
それは食欲か、性欲か、情欲か、獣欲か――――――。
老人の指先が頭蓋に喰い込んでいく。


「ワシの身体わしの躯鷲の殻だWASHIのKARADA和紙之加羅陀ワシのワシのワシの―――――――!」


触れられた端から、ぐずぐずと溶け出す頭皮。
指先が脳に触れる。
ひぃ、と悲鳴が上がった。誰か助けて、と叫んだ。
誰か、早く、でないと、僕が僕じゃ――――――。
うわあああ、助けて、アルおじさあん――――――。


「失礼します」


するりと入り込んだ、鈴の音のような澄んだ声。
小さな少女が、そこに居た。
肩口で切りそろえた金髪を赤いカチューシャでまとめ、ジュニアスクールの制服に身を包んだ少女だった。
どこか、自分の姉となってくれた女性に似ている少女だった。
整った顔つきでいて、微笑めば歳相応以上に愛らしいことが一眼で解る程であるというのに、その表情は氷のように冷たく、微動だにしない。
まるで機械のようだった。
少女は老人の腕を掴むと、力尽くで指を引き剥がした。
肉と骨が軋む音がする。
彼女も、見た目からは考えられないような力の持ち主だということか。


「アルバートではなく申し訳ありません。しかし、安心してください。私はあなたを守るために存在しています」

「ワシのワシのからからからだだだ――――――!」

「スペンサーの亡霊を排除いたします」


今直に、と軽く手を振る彼女。
彼女の指先から青白く輝く光が放たれ、真っ暗な空間を横一線に薙ぐ。丁度、老人の首があった辺りを。
耳障りな怨嗟を残し、老人が砂粒となって消えていく。
影も、臭いも消えて無くなって、初めから存在していなかったかのよう。
しかし喉と額に奔る鋭い痛みは、あの老人が確かにそこにいたのだと教えている。


「大丈夫ですよ。喉も、額も、怪我はすぐに無くなります。ここは現実ではありませんから。ほら」


いつの間にか近付いていた少女が、額に手を当てる。
ひんやりとした手。
彼女の手が離れる頃には、もう痛みは無かった。
この子は、いったい。
いいや、それよりも、ここは何処なのだ。


「順を追って説明します。初めに、ここはあなたの精神構造の表層、思考を司る部分です。
 解り難ければ、夢の中であるとお思いください。眼が覚めたら、全て忘れてしまう、夢の中です」


夢、なのだろうか。
ならば、彼女も夢の世界の住人か。


「私はリトルシェリーをモデルとした、『RED Queen』のAIです。以後、お見知りおきを。そして、今後ともよろしくお願いいたします」


ここで初めて、機械のような能面をしていた彼女が、ほんの少しだけ笑った。
ほんの数ミリの変化。見間違いかもしれない。
だけど彼女は、笑ったように見えたのだ。


「あなたの脳内に仕込まれた有機チップを破壊するには、このタイミングしかなかったのです。
 あなたの脳電位パターンは、常にスパイ衛星によってバックアップがとられていました。しかし衛星の座標が隠されていて、我々も手出しが出来ないでいたのです。
 双方向通信がオープンされている状態でハッキングを仕掛けては、あなたの脳が破壊されかねない。
 だからこうして、物理的に通信波そのものを阻害するしかなかった。発射された核弾頭の推進システムを乗っ取り、軌道を変えて、日本上空で炸裂させるしか」


電磁パルス攻撃、と自然と単語が口を突く。
それは、大気圏上層で核弾頭を破裂させ電子を地表へと撒き散らし、発生した電磁パルスによって電気機器の集積回路を破壊するという、核弾頭の戦略運用の一つだったはず。
その通りです、と少女――――――クイーンは頷いた。


「成長する頭脳に、進化する身体。それに適合させるには、常にあなたをモニタリングし、改良を加え続けなくてはならなかったのです。
 スパイ衛星はあなたを監視すると共に、スペンサーの人格データを保管し、そのアダプター部分を改良し続ける機能も有していました。
 記憶のインプラント時に発生するショートは、ウィルスによって抑え込むつもりだったのでしょう。始祖ウィルスを始めとするアンブレラが産み出したウィルスは、人間の脳電位に作用する働きが認められています。
 ウィルスを意思によって操作出来得ることは、脳電位特化型ウェスカーの持つ能力の、一側面でしかなかったのです。
 その真の役割とは、スペンサーのスペアボディと成ること――――――スペンサーという人格を永遠に継続させるための、最初の器だったのです。あなたは」


ならば、あの老人が見せた執念は、自分に“取って替わろうとしていた”からなのか。
そうして次々と“乗り換え”て、人間をソフトという観念から見て、己を存続させようとしたのか。
何ということだ。
おぞましさに吐き気が込み上げる。でも吐き散らす物は何も無い。
彼女の言葉を信じるならば、ここは自分の思考の世界であるために。


「今回、有機チップは破壊しましたが、あの誰よりも狡猾であったスペンサーが自分自身を生き長らえさせるための術を、一つしか用意していなかったとは考え難い。
 必ず何か、別の仕掛けを残しているはず。ですが安心してください。あなたがあなたで居られる手は、まだあります」

それは、いったい。
教えて欲しい。どうしたらいい。どうしたら、自分のままで居られるんだ。

「進化するのです。可能性の欠片も残されていない、妄念だけで世界に留まり続けた老人が、付け入る隙が無い程に、進化を」


でも、どうしたら。
言いかけた所に、クイーンが両手を頬に沿えた。
手は頬を伝って、鎖骨に落ち、首に両手が回される。
ぐうっと握られるうなじ。
無機質で透明な視線が、両眼を射抜いた。


「解っているでしょう?」


誤魔化すな、とクイーンは言いたいのか。
本当は解っていた。
解って、答えることを避けていた。
だって、これ以上の進化をするということは、もう、人間を辞めるということじゃあないか。


「それでも、あなたのままでいられる。人間であるということが、一体どれだけの価値がありましょう。
 どうしたらいいのか、その方法も解っていますね? さあ勇気を出して」

勇気を出して。

「引き金を、引くのです」


いつの間にか、両手が自由になっていて。手の内には、銀色の銃が。
何故かは解らない、けれど。
吸い寄せられるように、その銃口は咥内に潜り込み。
延髄を吹き飛ばす角度で、上顎と下顎とでがっちりと咥えられ――――――。


「例えあなたがどんな存在になったとて、私たちはあなたの味方のままです。決して、裏切ることなどいたしません。どうか安心してください」


ありがとう。
舌が上手く動かなかったが、ちゃんと彼女に聞こえただろうか。
届いていたらいいな、と思う。
この顔の表面を数ミリ動かすだけの頬笑みが、見間違いではなかったと思いたいから。
深々とおじぎをする彼女。
彼女の言った通りこれが夢であるのだとしたら、目覚めた時には彼女を忘れてしまっているのだろう。
それは寂しいな、と素直に思った。


「大丈夫です。また直ぐにお会いできますよ。約束します」


彼女の言葉には、少しの嘘も含まれていないように聞こえた。
自分とは違って、その約束は必ず果たされるのだと。
だから僕は、安心して引き金を――――――。












[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:15
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:38
眼玉が溶け落ちるのではないかと思う程の灼熱に炙られ、健人は覚醒する。
天井からぶら下がる西洋ランプが水平に見え、自分が横になっていたことを知った。
気絶していたのか。
頭を振る。脳が重い。何か、夢を見ていたような気がする。悪夢と吉夢を同時に見たような、そんな気が。
しかしそれがどんな夢だったのか思い出せずにいることが、健人の精神を苛立たせた。
人差し指を曲げ、口に咥える。
上顎と下顎でしっかりと噛み、曲げた指の射線上に延髄がくる角度に調整。真っ直ぐに伸ばされた親指は、ゆっくりと落とされ、空を切った。
がちん。
撃鉄を起こす音が、頭の後ろから聞こえた。


「けんとお兄ちゃん!」


腰辺りから聞こえた叫びに、健人ははっとして身を起こす。涙に頬を濡らしたありすが、顔を真青にして健人の顔を心配気に覗いていた。
縋り付く手は服の裾を掴んで離さず、小さく震えている。
ありす、と健人は乾いた喉で彼女の名を呼んだ。


「よかった・・・・・・お兄ちゃんが生きてて、よかったよお」


健人を見詰めたまま、くしゃ、と顔を歪めて涙を流す、ありす。
起きた、ではなく、生きていた、と表した彼女の心情は、いか程のものだったろう。彼女はもう、近しい者との別離を耐えることは出来ないかもしれない。
泣いて欲しくないと思った側からこれだ。
不甲斐なさに眉間に力が入る。健人は務めて優しくありすの頭に掌を乗せた。
一梳き、二梳き、髪を梳く。その度、ありすの小さな肩の震えは収まっていく。
ぐらつきながら立ち上がると、側にありすが駆け寄って健人の身体を支えた。そのまま窓際へ立ち、外を見やる。
強化された聴力に意識を向けるまでもない。行き交う怒号と悲鳴がガラスを揺らしていた。


「どうして<奴ら>が・・・・・・バリケードが破られたのか」


窓の外は混乱の極地にあった。
<奴ら>の群れが、鉄門にすし詰めになっていたのだ。
後から後から、人の気配に釣られたのか鉄門に殺到していく<奴ら>。元々が高城邸の周囲に群れなしていた<奴ら>である。破られたバリケードの一点から侵入を果たしたのだろう。
格子から伸ばされる無数の手が蠢き、その後ろから構わず突入する<奴ら>にところてんよろしく押し出され、ぼとぼとと肉片になって崩れ落ちていく。


「跳ぶぞ、ありす。ジークを離すなよ」

「うんっ!」


その一言で、ありすは健人の言わんとした所を理解したようだった。
ジークを抱いて健人の首根っこへと腕を回す。子供特有の高い体温に、石鹸の香りが鼻をくすぐった。
健人はそのまま窓を蹴破り、庭へと踊り出る。
滞空は一瞬。飛び散るガラス片でありすが傷つかないよう、庇うように背を丸めて。着地は失敗。尻が痛かった。
ありすに手を借りて立ち上がる。急に昏倒してから、どうにも意識がぐらついていけない。これといって倒れた理由を思いつくことはないが、今現在の自分の身体がどうなっているのか、自覚症状がほとんどないのだから解らない。
意識が急に落ちたということは、脳機能に何らかの障害が発生したかもしれない。
悲観的にはどこまでもなれるが、と健人は眼頭を押さえた。
ふらつく足を引きずりながら、情けなく感じつつもありすに身を預け、騒ぎの渦中へ。


「お、おい! ケータイが映んねえよ!」

「あれ? プレーヤー壊れた・・・・・・」

「停電と同時にPCが全部死にました!」

「誰か! 誰か助けてください! 主人のペースメーカーが壊れたみたいなんです!」


混乱する人々の話を統合すれば、どうやら電子機器が使えなくなってしまったらしい。
ありすを傍らに、健人は倒れた夫を泣きじゃくって揺する妻の側にしゃがみ込んだ。
縋る様な視線を感じながら、右手を仰向けに倒れる男の胸にそえる。
一瞬の明滅。紫電が健人の掌より放たれた。
男の身体が大きく跳ね上がり、口から空気の塊が吐き出され、呼吸が戻る。
息を吹き返した夫と涙ながらに抱き合う妻の姿を視界にも入れず、健人は天を仰いだ。
電磁パルス攻撃か。
核弾頭を高々度で炸裂させることにより、集積回路を焼く、戦略攻撃である。
こめかみを抑え、呻く。
恐らく、EMP攻撃が行われたのは、自分が倒れたのと前後しているはず。
そうなれば先の唐突な昏倒は、核弾頭の炸裂によって電磁パルスが撒き散らされたことが影響していると考えるのが自然だろう。
ならば、俺の頭の中に――――――。


「ありがとうございます、ありがとうございます!」

「いえ・・・・・・」


しきりに頭を下げる女性に、健人は億劫そうに返事を返す。
善意で助けはしたが、それは一時的なものだ。もう男性のペースメーカーは動くことはない。今は息を吹き返したが、直ぐに心臓は鼓動を乱すことだろう。死への時間を先延ばしにしただけなのだ。
偽善であると自覚している行いに、そうまで感謝されるのは後ろめたいものがあった。
それはこの女性も、解っているはずだ。
男性の身体は以前横たわったまま。意識は戻っているようだが、身体は動かないままだった。


「おかげで主人と一緒に、最後の時を迎えられます」


そう言って、夫に頬を擦り寄せる妻。
その姿に健人は息を呑んだ。
やはり、女性は解っていたのだ。長く生きられることが出来ないことを。そして、それは自分も同じだということを。だから彼女は、愛する人と抱き合って死ぬことを選んだのだ。
がらあん、と一際大きな鉄の音。とうとう鉄門が崩壊した音だった。
<奴ら>が高城邸へと雪崩れ込んで来る。


「横になったままで申し訳ありません。せめてものお礼に、どうか、これを・・・・・・」


断末魔の叫びの最中、夫婦が差し出したのは大きめの肩掛け鞄。
ずしりと重いその中身には、防災道具の他に、小さめの鉄の箱が収められていた。
材質は鉛だろうか。


「祖父母が遺した物です。彗星の時も自転車のチューブを用意していたそうで、またピカドンが落ちて来てもいいようにと、鉛の箱を・・・・・・。
 中身は古いカセレコですが、カセットの中身だけは最近の音楽ですよ。私の趣味でして、体を壊しても音楽だけは捨てられなかった。
 どうか私の未練を、共に連れて行ってやってください」

「邪魔であれば捨てて頂いてもかまいません。さあ、早くその女の子を連れて逃げて下さい」


箱の封を開けてみる。
本来ならば通帳や印鑑を納めておくためのものだったのだろう。そこには彼等の言う通り、型古のカセットレコードプレイヤーと、数本のカセットテープが収められていた。再生ボタンを押せば、テープが回り始める。
電磁パルスの影響を逃れ、もはや廃棄を待つだけであっただろう型古のカセレコは、ここに息を吹き返したのだ。恐らくは、付近でこのカセレコだけが、唯一生き残った機械製品だろう。
荷物を詰め直し、肩掛け鞄を掛け、ありがたく貰って行きますと健人は頭を下げた。
立ち上がり、ありすを抱えて駆け出す。
抱き合う夫婦には、もう一瞥もくれなかった。
<奴ら>の足を引きずる音が、は直ぐそこにまで迫っていた。


「けんとお兄ちゃん、おじちゃんとおばちゃんを――――――」

「無理だ、助けられない。助けられないんだ! 皆は助けられない!」


叫ぶ。
それは言い訳だった。自分の無力を誤魔化すための。
否・・・・・・正直に心の内を明かすなら、罪悪感を誤魔化すための。
――――――この右腕を振るえば、いくらかの人を助けられるかもしれない。
そんな考えが泡のように浮かぶにつれ、必死に健人はそれを潰していく。
いざという時は、と思って来たというのに。そのいざという時になってみれば、自分が<化物>であるなどと、恐ろしくて明かす事など出来ない。四方から浴びせかけられる明確な敵意は、<奴ら>と対峙するよりも恐ろしいのだ。想像するだけで、手が震える程に。
突き付けられて、初めて自覚した。怖いのだ、とても。
異形を晒す決意は違わずに有る。だが、覚悟がそれに伴わなかったのだ。
健人の叫びに、じゃあ、とありすは唇を噛み締める。


「じゃあ、なんでありすはたすけてくれたの? ありすも“みんな”のひとりじゃないの?」

「・・・・・・俺を責めるな、頼むから」


それはもう、言い訳ではなく懇願であった。
ありすの幼いが故の純粋さに、健人は答える術を持たない。逃げることしか出来ない。
背後から男女の悲鳴が聞こえた。
ありすが健人の腕の中で耳を塞ぐ。
これが小室であったなら、彼女へとどんな言葉を口にしたのだろうか。
考えながら、健人は未だ痺れの残る歩を進める。
皆を助けることは出来ない。
だが、出来る限りは――――――。
思いながら駆ける健人が向う先は、鉄門前ではなかった。
風情見事な日本庭園、高城邸裏庭である。
砂利を踏み締めながら、健人は松の木に指を掛け、庭へと突入した。
高城邸をぐるりと囲む塀は高く、周囲には深い堀まで掘られている。これらを跳び越え侵入するのは、現実的ではない。
となれば、予測される侵入経路は・・・・・・道路から橋が渡される、あの分厚い扉。


「やはり、来たか。<化物>共め!」


健人が吐き捨てたのと、扉を貫通してぬらりと光る爪が突き入れられたのは同時。
分厚い木と鉄板の層など無いも同然と、悠然と扉を引き裂いて、空いた穴から異形が身を躍らせた。
爬虫類を思わせる緑色の鱗。上半身は多数の赤黒い腫瘍に覆われていて、身体のバランスが対称ではない。
醜い巨体とは裏腹に、健人から付かず離れずの距離を取った動きは軽やかで、狩人を思わせるものがある。
間違いない。
リサが引き連れていたものと同種、別タイプの<ハンター>だ。
明らかに既存の生物とは異なる凶悪なフォルムに、ありすが小さく悲鳴を漏らす。
健人はありすを傍らに下ろすと、後ろに下がっているよう指示した。塀の構造上、一方向からしか攻められないようになっている場所にまで、ありすは後退する。
これで自分が倒れない限り、あるいは背後に抜かれない限り、一先ずはありすの安全を確保出来るはず。
ありすを連れて来たのは、小室達と合流出来なかった以上、安全な場所など無いと判断したからだ。もうどこにも安全を保障出来る場所など無い。ならば手元に置いたほうがよほど安心だ。
だが、代りに恐ろしいものを見せることになる。
<奴ら>に紛れて<化物>の気配がすぐそばまで迫って来ていたのだから。
そして、恐らくはこれがありすとの別れになるだろう。
右腕がぞわりと蠢いた。
これを実際に目の当たりにすれば、生きる世界が違うのだと、理解するはずだ。
一抹の寂しさを胸に、健人は改めて<ハンター>と対峙した。
この瞬間だけは、感謝をしてやってもいいと思った。こうやって直接対峙しなければ、覚悟のない自分は、恐らくはずっと隠し続けただろうから。
<ハンター>の左右非対称の醜い姿。特に健人の眼を惹いたのが、肥大化した巨大な左腕である。鉄扉を切り裂く程の鋭い爪が4本も生えそろった腕は、どこか健人の右腕に似ていた。
否、健人の右腕が彼等のそれを模している、と言った方が正確か。
しかし、そんなことはどうでもいい。
問題であるのは、どちらが優れているかということだ。
健人を挑発するよう、巨大な鉤爪が開閉している。かかってこい、とでも言っているのだろうか。
いいだろう、どちらが上であるか、直接確かめてやる。


「ありす」

「お兄ちゃん・・・・・・?」

「ごめん」


上着を脱ぎ去り腰へ。鞄も肩紐を伸ばして腰へと結わい付ける。
健人はずあっと、一気に手袋から右手を引き抜いた。
黒く艶を放つ牛皮の下から現れたのは、より一層暗い粘膜の輝きを放つ、異形の右腕。健人の意思に呼応し形を変え、鋭い爪が生え出して来る。
背後でありすが息を呑んだのが聞こえた。


「怖いか、ありす?」

「ひっ!」

「それでいい。俺もあいつと同じ、<化物>なんだ。気にすることはない。<化物>は忌諱されて然るべきなんだ」

「お、おにいちゃ・・・・・・」

「俺は<化物>だけど、あいつと同じどうしようもなく醜いけれど・・・・・・それでもありす、お前を守るよ」


Yシャツが内側からの圧力で裂け飛んだ。
何百何千という黒い蛇の群れが、健人の右の肩口から這い出ていた。蛇の群れそのものが、今や健人の右腕なのだ。
健人の戦意に呼応し、蛇達が一斉に膨れ上がる。視界が紅く染まり、<ハンター>が唸り声を上げて踏み込んで来るのがはっきりと見て取れた。
見える。奴の挙動の一つ一つまで――――――。
近付く<ハンター>へと、健人は拳を振り上げた。
クリーンヒット。肉腫を叩き潰す感触。溢れる体液に身を浸す喜びに、蛇達が震える。
外見に相応しい醜い叫びを上げながら、<ハンター>が後方へと転げていった。
やったか、と健人は口角を釣り上げる・・・・・・。だがその得意げな笑みは、すぐに凍り付くこととなる。
耳障りな叫びに紛れ、獣の唸り声が聞こえた。
健人が気付く以前から、ジークがありすの腕の中、臨戦態勢に入っている。
子犬の身で何が出来るというわけでも無いというのに、牙を剥きだし、毛をぶわりと広げて。
健人の肌が捕らえる気配は――――――1つ、2つ・・・・・・計5つ。
気配の放つ威圧感は、一つ一つは<奴ら>と変わらないくらいに小さいものだ。だが、その気配の移動するスピードが追い切れない。
最高速度は<リッカー>のそれよりも下だろう。しかし、右に、左に、地を舐めるように移動する気配は、小回りが利いていて捕らえることが難しい。
<リッカー>や<ハンター>は筋肉量に任せて地を跳んでいたが、あの気配は違う。駆けているのだ。軌道の予測がつかない。
速いというよりも、早いと表すべきか。
今の状態の健人ですら追うことが難しい気配が、破られた扉から侵入した。


「犬の鳴き声・・・・・・野犬か? いや、これは!」


裏庭にするりと入り込んで来たのは、体のあちこちが損傷して崩れ落ちた犬。
瞳孔の大きさが一定ではない眼球が、片方の眼窩から飛び出して風に揺れている。だらしなく開いた口から垂れ下がる紫色をした千切れかけの舌に、黄色の唾液。
ゾンビ、とは<奴ら>の例がある。<腐乱犬>とでも言うべきか。
体のあちこちを腐り落とした犬達が、自らの挙動で肉を取りこぼしながら、しかしなお、それ故に俊敏な動きで次々と潜り込んで来た。
不味い――――――。健人の額に汗が滲む。
これまで辛くも健人が<化物>相手に勝利をもぎ取ったのは、相手が単体であったという理由が大きい。
そして、一応は人間の形を保っていたことも。
事実、2体以上の<リーパー>は捌き切れず、健人は為す術もなく敗北している。
<腐乱犬>も同じだ。人間は同族以外の生物に対し、身体能力の面であまりにも劣っている。手練の格闘家であっても山中で野犬の群れに囲まれたなら、対処は難しいだろう。犬という動物が誇るポテンシャルは、それ程までに大きいのだ。
しかも恐るべきことに、こいつらは未だ知能を有しているようだ。これまで遭遇して来た<化物>のように強烈な気配を放っていない事から、機能や能力として特異な物は備えてはいないのだろう。だが、脅威的な力が無いというだけで、それが何だと言うのだ。
犬並みでしかないだろうが、それでも知能がある。それはつまり、<腐乱犬>達は結託して、狩りを行えるということだ。
その脅威度たるや、<ハンター>の比ではないだろう。狩人は姿を現したその瞬間に、狩人足り得なくなるのだから。集団での狩りは、全くの別物ということだ。
数が揃うや、等間隔にぐるりと取り囲まれた、この状況。
背にはありす。
多対一の状況に、満足に動けない。術中に嵌ってしまっている。
健人は舌打ちを零した。


「腐れ犬共が!」


うぬ、と健人は呻く。
健人の戦力がほぼ右半身に偏っているのを看破したのだろう。<腐乱犬>達は健人の右側面を封ずる動きをみせた。
扇状に取り囲んだ5匹の内、2匹が右側面より跳び掛かる。
愚策と知りつつ、健人はこれらを打ち払うしかなかった。そうしなければ、首に喰い付かれていたからだ。
しかし掛かる2匹を鉤爪で薙ぎ払えば、左方がガラ空きとなるのは必定。
最も近い<腐乱犬>を触手による鞭打で叩き据え、次いで返す刀に2匹目の頭部を縦に真っ二つにしたところで・・・・・・健人は地に膝を着いた。
脇腹と左足首に鋭い痛み。
残った<腐乱犬>が健人の体へと、牙を突き立てていた。
首を振り、肉を抉られる。垂れ流された黄色い唾液と、染みだした血とが混ざり合う。濁った目には知性の欠片も感じられず、何の景色も映してはいなかった。だというのに、こいつらは仲間を犠牲にしてまで、有効打を健人に与えたのだ。
足の腱を噛み切られた。
いかに異常な回復力を備えていたとしても、体の仕組みは人の枠を超えてはいない。これでは、直ぐには立ち上がれない。
顎を叩き割ろうと爪を振り上げるも、すぐさまぱっと健人の身体を離れ、再び距離を取る<腐乱犬>達。
深追いは危険だと承知しているのか。犬らしからぬ賢さは、野生の本能とでもいうのだろう。
何とでもなると思っていた数分前までの自分を、思いきり殴りつけてやりたい気分だった。


「聞け、ありす! 何とかこいつらをここに縫い付ける! 合図をしたら、走って逃げるんだ!」


膝立ちに半身になって健人は構えた。
次に<腐乱犬>が攻撃態勢に入った時に、動くしかない。喰い付かれたらそのままに抑えつける。ありすが逃げる時間を稼ぐために。
結局ありすを連れて来たのが裏目に出た。己の浅はかさは、受ける傷と流れる血であがなうしかあるまい。
さあ行け、と健人が口を開いたと同時、背に軽い衝撃が走る。


「あ、ありす!?」

「いや、いや! ありすお兄ちゃんと一緒にいる! ずっと一緒にいるもん!」


唖然とする健人。
ありすが飛び付き、健人に縋りついていた。
それも、下段に構えていた右腕を、胸に抱き込んで。


「怖くない! 怖くないよ! 怖くないもん!」

「ありす、お前・・・・・・」


言って、首を振りながら涙を零すありすの手は、隠しようが無い程に震えている。
触手の一本が少し蠢くだけで、ありすの体は悪寒に跳ね上がった。
その度に、怖くない、怖い訳がない、と呪文のように己に言い聞かせている。
そんな訳が無いというのに。
ありすの行動は寂しさからくる脅迫観念であったかもしれないが、不利な状況にあって健人の心は不思議と軽くなっていく。
この子を死なせてはならない。何としても。決意は一層強くなっていく。
だが、現状は厳しい。
残る3体をどう捌くか・・・・・・。
数が減り崩れた陣形の隙を突くべきか、健人は思考を巡らせる。


「包囲の隙が空いたまま・・・・・・? しまっ――――――!」


健人の疑問と驚愕とを、頭上の二つの影が覆い尽くす。わざと包囲網を緩めることで、健人の眼を反らし、本命を隠し続けていたのだ。
3匹は変わらずに眼前に居るというのに、死角からの他方同時攻撃である。
数が増えたのではない。
違う、これは、やられた振りをしていたのだ。
健人に迫りくる二つの影は、初めに打ち払った二匹のもの。
真っ二つに裂けた頭から、異様な肉腫が第三の首として発生していた。まるで地獄の番犬、<ケルベロス>のように。
異形の顎が、健人とありすに喰らい付かんと襲いかかる。


「だめ・・・・・・だめぇぇぇええええっ!」


その瞬間だった。
ありすの叫びと同時――――――世界が、一時停止した。
そうとしか言い表せない、異様な空間に包まれていた。
錯覚かもしれない。そう思った。死の間際に集中力が極限に高まり、視覚情報を高速で処理しているのかと。
だが・・・・・・これは本当に、錯覚なのだろうか。
<ケルベロス>の涎が地に落ちる。健人の顎先を汗が伝う。肩に圧し掛かる重圧に、時間の感覚が曖昧になる。
腐った犬共の体が、宙に縫い留められている――――――ように、見えた。
ありすの体が力を失い、ふつりと崩れ落ちる、その前に。


「ジィイイイイイイクッ――――――!」


健人はありすの腕の拘束を解かれ、自分の体長の何倍かある<ケルベロス>へと勇敢にも立ち向かう仲間の名を叫んだ。
制止の声であったつもりが、発してみれば、それは発破をかける声。
わんっ、と可愛らしい自信に溢れた返事を、子犬のジークは返した。任せておけ、とでも言うように。


「わんっ、わんっ! わおーん!」


<ケルベロス>の身体が自由落下に委ねられたのと同じくして、ジークは天へ。
ジークは未だ子犬である。爪も牙も、成犬のそれには及ばず、致命傷を与えることはない。だがジークはそんなことは百も承知だったのだろう。
ジークの身体が空中で、激しく回転を始める。
牙をむき出しに爪先を軸にして体を回転させ、自身を一体の回転刃と化す。チェインソウの理屈と同じだ。
一瞬の交差の後、<ケルベロス>の3つ首が両断され、3つが共に違う方向へと吹き飛んだ。見事、己の欠点を克服してみせたジークの妙技である。
くおん、と悲し気に一声鳴いたのは、哀れな同胞への手向けだったのだろうか。
全ての首を両断されたダルメシアンは、もう蘇ることもないだろう。


「ジーク、お前・・・・・・」

「わんっ!」


健人はもう一方の<腐乱犬>を拳鎚で叩き潰して呟いた。連係を取られさえしなければ、個々の対処は容易だった。
不可思議なシンパシーをジークから感じる。
ジークがみせた空中殺法は、明らかに犬の範疇を超える動きだった。
なぜあんなことが出来たのか、理屈は解らない。ジークの眼に宿る高度な知性の輝きは何なのだろうか、理由も解らない。
だが、心強い。
素直にそう思えたのは、ジークを自分と同類だと感じたからか。


「すまん、ジーク。頼めるか」

「わんわんお!」


言葉を理解しているかのように一度頷くと、ジークは<腐乱犬>達に襲い掛かって行く。
中空で縫い留められている訳もなく、仕留めるまでには至らないが、それでも3体1で引けを取らない大立ち回りである。
健人はありすをもう一度壁へと寄りかからせた。
顔をしかめて力を込めれば、ぎこちないながらも足首は動く。すでに腱が薄らと繋がったようだ。我ながら馬鹿馬鹿しい回復力だった。
ジークに助けられ思い知ったことがある。一人で戦うには限界があるということだ。
初めから撤退を選ぶべきだったというのに、<化物>と同じ体を得て思い上がっていたのだろうか。
これでは先生に合わせる顔もない、と健人は痛む足をかばいながら、<腐乱犬>に挑むジークの後を追った。
子犬の手を借りただけだというのに、面白いように戦いが良い方向へと運ぶ。まるでジークと一心同体にでもなっているかのようだ。
いつの間にか狩られる側が狩る側へと周っていた。
追いかけ、追い付き、追い込み、そして一匹ずつ仕留めていく。
これまで個人技能のみを磨いてきた健人にとり、ジークとの共闘は感嘆に値するものであった。狩猟とはこうするものであったか、と。一人が一人と一匹になっただけで、ここまでも違うのか。
ジークが参戦しで数分も経たない内に、活動する<腐乱犬>も<ケルベロス>も、一匹もいなくなっていた。


「うおん!」

「ああ! お前もしつこい奴だな、寝てろ!」


ジークの警告にしたがい、健人は後ろへと爪を振り抜く。
健人の拳の一撃から持ち直して、再び襲い掛かって来た<ハンター>の胴を鋭い爪が寸断する。
上半身と下半身に別たれて、なお健人に這いずろうとする<ハンター>の生命力たるや、自分もああやって長く苦しむことになるのかと考えれば、空恐ろしいものがあった。
健人は空を噛む頭部を叩き潰し、止めを射す。
大きく息を吐いた。
まだ安心は出来ない。
<奴ら>の群れが近付いていた。


「クソ、もうこんな所にまで<奴ら>が・・・・・・!」

「ぐるるるる」


健人の顔色を青くさせたのは、何十という<奴ら>の壁だった。
押し合い、圧し合い、裏庭へと続く小道を埋め尽くしている。
こんなにも多くの<奴ら>がこの場に溢れているということは、既に表は壊滅状態なのだろう。
一体毎の戦力は問題にもならないが、気絶したありすをこのままにして戦うのは容易ではない。こう数が多くては、不測の事態などいくらでも起きるだろう。逃げ場もない。
どうする。
どうしたら――――――。


「戦場で足を止めるなと、何度言えば解る。走れ、健人!」


記憶に刻まれた、くぐもった声。
彼の叱咤はいつだって、健人に力を与えてくれる。切れた腱を意に介さず、健人は走った。
<奴ら>の対岸から、健人と鏡合わせに飛び出す影があった。
踊り出したのは、ガスマスクを被った男――――――ハンクの姿。


「合わせろ、健人!」

「はい、先生!」


示し合わせたように、二人は同時に進路上を立塞がる<奴ら>を蹴り飛ばす。
お互いの懐へと吸い寄せられる<奴ら>。
合わせろ、との恩師の言葉に含まれた意味を、余さず健人は理解していた。
するりと<奴ら>の背後へと回り込む。
その際に勢いは殺さず、顎先に腕を通しながら。普通ならば<奴ら>の喉元に手を挿し込むのは自殺行為であるが、生憎と健人はいかなる意味でも普通の範囲には収まらない。もちろんハンクも、見た目からして普通ではない。心配はない。
完全に背後に回り切り、後頭部へと手を添え、ぐいと引く。これまでが一連の動作。全てが流れるようにして行われた。
骨の鳴る軽い音を立て、<奴ら>の頭部が回転する。すれ違いざまに首を圧し折る、ハンクの最も得意とする殺人戦闘術――――――『処刑』である。
頭部を180度反転させた死骸が二つ、健人とハンクの足元に転がった。
不死身を誇る<奴ら>とて、脳から通じる命令系統を丸ごと断線させられては、一たまりもないだろう。
糸が切れた操り人形のように、本来の死体に戻るしかない。


「少しばかり間引いておいた。その子を連れて、さっさと行け」

「先生、そんな」

「二度は言わんぞ。行け」


左、右、同時に刑を執行した処刑執行人達は、言葉短く通じ合った。
赤い遮光ガラスの向こうにある鋭い眼が、健人を射抜く。
健人は苦しそうに一度だけ喘ぐと、はい、と頷いた。


「待て」


視線を外した瞬間に腕の間接を取られ、健人は抗議の呻き声を上げた。
捻り上げられたのは右腕だった。


「腕は隠して行くように」

「せんせ・・・・・・っ!」

「まだまだだな、健人。またレッスンしてやる。内容は最後まで気を抜くな、だ」


ハンクは健人の不甲斐なさを馬鹿にしたように、鼻で笑った。
だが健人には、赤いガラスで隠された瞳が、笑みに細められているように見えた。
いいや、ハンクは笑っていた。
くつくつと喉の奥で笑いながら、腕を放される。
涙腺が緩んだのは、痛みからでは無かった。
ハンクはもう、この場で殿を務めることを決めてしまったのだ。
健人がハンクの足元にも及ばない事は、既に証明済みである。
こんな所に一人で残すことは出来ないなどと、口にした瞬間に切って返されるだろう。そういう台詞は一人前になってから言え、と。
だから健人はただ一言、ハンクへと言い置いた。


「どうか、ご無事で」

「俺を誰だと思っている。お前の教官だぞ? お前をここまで鍛え上げた男が、死ぬとでも?」

「・・・・・・はい、はい、先生、先生! ありがとうございました! 行きます!」

「そうだ、それでいい。迷うな、健人。お前の心が欲するままに生きろ。もうお前を縛るものは、何もないのだから」


<奴ら>を腰から引き抜いた拳銃で牽制しつつ、ハンクは振り返らずに告げた。


「ここは戦場だ――――――自分の運命は自分で切り開け」


ありすを抱え、駆けだす。
立塞がる<奴ら>を切り裂き、踏み倒し、前へ。
断続的に聞こえる発砲音。
ハンクが負けることなどありえない。ありえないと解っているのに、どうしてこんなにも足が重いのだろう。それが腱が繋がりつつある痛みからではないことは、健人は解っていた。


「・・・・・・俺を責めるな、頼むから」


腕の内で苦し気に眉をひそめるありすへと、弁明するよう健人は独り言ちた。
幾分か薄くなった<奴ら>の壁へと、ジークを伴って突撃する。
健人の喉奥から迸る咆哮は、悲鳴のようにも聞こえた。






■ □ ■






正門前は散々たる状況だった。
そこいら中に溢れる<奴ら>と悲鳴。喰われて<奴ら>と化した人々が、生者の血肉を求めて起き上がる。鼠算式に増え続ける<奴ら>にはもう、対処する術がない。
憂国一心会も即座に撤退を決めたようだが、その手段といえば敵中突破しかないだろう。逃げ惑う人々と出来合いの武器を取って戦う人々とに、きれいに別れていた。後者が高城の父が言っていた、戦うことを選択した者達なのだろう。<奴ら>と向き合って、戦わなければ生き残れないと悟ったのだ。
これで彼等も、生きるべき人間となった。
天秤はより重きに傾く。救うべきは――――――。


「馬鹿か、俺は」


健人はきつく眼を瞑り、頭を振った。
ガレージから響く、エンジンを吹かす音。この数日間ですっかり馴染んだハンヴィーのエンジン音だ。対EMP処理がされていたのだろう、駆動音には何ら問題はないように聞こえる。
見れば、近くに小室達も居る。どうやら乗り込みの準備をしている最中のようだ。
やはりこの場に残らず、独自に脱出すると決めたのだろう。意外だったのは、その中に高城の姿もあるということだった。


「ほう、君がハンク氏の弟子か」


腹の底に響く様な声。
振り返れば、日本刀を片手に引っさげた血濡れの男が、ワインレッドのドレスにマシンピストルで武装した女性を傍らに<奴ら>を袈裟掛けに両断していた。
男の隙を、女性がカバー。腕を伸ばし餌を求める<奴ら>の鼻から上を、秒間十数発の弾丸が抉り飛ばす。
共に冴子、コータに勝るとも劣らない達人であった。


「憂国一心会会長、高城壮一郎だ。君の事はハンク氏から聞いている。うむ、話の通り、目に力があるな!」

「・・・・・・どうも」

「百合子ですわ。健人さん、ありすちゃんは?」

「大丈夫、気絶しているだけです」


高城の両親とこうして顔を合わせるのは初めてのことだった。
壮一郎は今更言うこともなく。百合子は大きく裾を裂いたドレスから覗くベルトで太股に挟まれた拳銃に、年を感じさせない色香が感じられた。
上に立つ人間は、見た目からして特別なのだと思わずにはいられなかった。


「足を庇っているようだが、大丈夫かね? 子供といえど、人一人抱えて走れるか?」

「大丈夫です。走れます」

「年長者をそう邪険にするものではない。ダイナマイトを投げよ!」


健人が無愛想な返答をしたのは、壮一郎の顔を見ていると、どうしても叔父を思い出してしまうから。
無意味で無礼であることは解っているのに、気を抜けば両者を比較してしまう。そして、恵まれた壮一郎の環境に、羨望を抱いてしまうのだ。
ガキっぽいやっかみを知られたくはないがための態度だったが、虚勢を張っていたのは見え透いていたようだ。健人の苦り切った顔を見て、百合子は上品にくすくすと笑っていた。顔面に血潮が集まっていくのが、嫌でも感じた。
壮一郎の号令で投げられたダイナマイトが、一拍の間を置いて爆発する。
瓦礫と共に<奴ら>の肉片が散乱し、死肉の絨毯が敷かれた道が造られた。
それは健人の位置からハンヴィーまでを繋ぐ道だった。


「迷っているな、健人君」


静止する健人を尻目に<奴ら>を切り捨てる作業に没頭しつつ、壮一郎が笑みすら浮かべて言った。


「小室君には甘さは捨てよと忠告したが、ふむ、君はそのままでよい!」

「私たちを見捨てることを心苦しく思ってくれているのね。ありがとう、あなたは優しい子ね。そして、強い子。
 安心しなさい。あなたは甘さに惑わされても、選択を戸惑うことはない。そう信じなさい」

「果たして何時まで甘さを捨てずに保っていられるか、試してみるがいい! 恐れるな! それは君の血肉とすべきものだ!
 首を絞めるものではなく、自らを助けるものだと信ずるのだ! いざ往け! 愛すべき若者よ!」


それだけ言って先頭に立ち、彼等は<奴ら>へと切り込んで行った。
娘を頼む、とは最後まで言わなかった。
重荷を背負わせるべきではないと、そう思ったのだろうか。
大人が子供を想う態度のそれだった。
健人の行く末を、高城夫妻は黙って見守りそっと背を押してくれたのだ。


「うう、うううううっ」


喰いしばった歯の隙間から、葛藤の呻きが漏れる。
健人の顔は歪み切り、針で一突きすればそれだけで決壊してしまいそう。
逃げるよう、健人は<奴ら>の死肉を踏み締め、ハンヴィーに向った。ぐじぐじと潰れる肉の不快感が、返って今は有り難かった。
嫌悪感に総毛立っていれば、余計な事を考えずに済む。


「健人君! 無事だったか!」


目ざとく健人を最初に見付けたのは、やはり冴子だった。
和装ではなく、見慣れた藤美学園の制服にエルボーパット、膝までを覆うレッグアーマー、腰には刀。スカートは駄目になったのだろう、腰で紐を結ぶタイプのそれに変わっていた。
一枚の布をぐるりと巻き付けたスカートから覗く、黒のストッキングと白い腿。
高城の母が薫り高い熟成されたワインだとすれば、冴子は若々しい果実の香。
美しさと機能を兼ね備えた、冴子の新たな戦装束だった。


「ああ・・・・・・」

「健人さん、ありすは!?」

「無事だよ。気絶してるだけだ。そっちはどうだ?」

「全員無事です。でも沙耶が・・・・・・」

「名前で呼んでくれたのには礼を言うわ。でも余計な気遣いは止めて頂戴。アンタもね」

「わかった。鞠川先生、車を出してください」


りょうかーい、という間延びした鞠川の返事と共にアクセルが踏まれた。
エンジンが機械駆動の咆哮を上げる。
ギアが噛みあい、シャフトが喜びの軋みを奏で始めた。
ブレーキの枷から解放されたハンヴィーは<奴ら>をかき分け、文明の力の及ばない地獄に向けて疾走する。
誰も、鞠川でさえバックミラーを覗こうとはしなかった。





■ □ ■






「健人先輩、教官は・・・・・・」

「死ぬもんか」


走るハンヴィーの中、不安そうに問うコータの言を止めた健人。
背を丸めて両手を組み、口元を隠す姿は自分に言い聞かせているかのよう。忙しなく視線は動き、膝は震えていた。
窓の外に学園の大型バスが見えた。
どうやら紫藤が乗りつけてきたバスのようだ。バリケードに衝突し、半壊している。壊れたドアからほうほうの体で、紫藤とその取り巻きが、からがら逃げ出していた。
猛スピードに遠ざかる景色に宮本は気付かなかったようだが、健人ははっきりと見えた。
膝の震えが一層激しくなる。
健人の膝に乗せられていたありすの頭が激しく上下するのを見かねて、冴子がありすを自分の膝へと移す。


「大丈夫ですか? 健人先輩」

「ああ、大丈夫・・・・・・大丈夫だ」

「ならしっかり見張ってください。高城さんも、お願いします」


明らかに平素ではない様子の健人と、両親と今生の別れを済ませた高城への、コータの強い言葉。
それはあんまりだ、と冴子と宮本がコータを睨みつける。しかしコータは険しい視線を窓の外に向けたまま、傲然屹立として動じなかった。
すべきことを理解しているのだ。


「平野、あんた・・・・・・」

「やめて。お願いだから何も言わないで! お願いだから! いいのよ、平野は・・・・・・コータは正しいわ!」


どこか透明な眼で高城は叫んだ。健人と同じく、己に言い聞かせるように。初めて名を呼ばれたコータも、それに喜ぶことはなかった。
何をかコータに言いかけた宮本だったが、それきり黙り込んだ。そして、銃を胸に握り締め、窓の外を警戒する。
皆、自分がすべきことを理解していた。
理解していないのは、健人だけだった。
とうとう健人は両眼をきつく瞑り、奥歯を鳴らし始めた。


「俺は、どうしたいっていうんだ・・・・・・」


眼を瞑ったところで、突き付けられたものから逃れられるはずもない。
ましてや己に没頭したところで、答えなど――――――。
しかしきつく閉じた瞼の裏に、健人は何かが見えたような気がした。
初めは小さな星。次第に大きくなり、金色の淡い光が瞼に広がる。
光は幼い女の子の姿を形造ると、機械染みた能面を、ほんの少しだけ頬笑みに緩めた。
出来の悪い息子を見る母親のような、そんな笑みだった。
少女の口が開いては閉じた。何か、声は聞こえないが、言葉を紡いでいる。
ガスマスク――――――そう言っているのか。
その時だった。
健人の脳裏にハンクの言葉が蘇る。


『迷うな、健人。お前の心が欲するままに生きろ。もうお前を縛るものは、何もないのだから』


それは、恐らく最後になるだろう、師の教え。
あの言葉は慰めの言葉ではない。
きっとハンクはこう意味を込めたのだろう。捕らわれるな、と。そして、それが健人には出来ると信じて。
ハンクの言葉が健人の五臓六腑に染みわたっていく。
気付けば健人は、ハンヴィーのドアを開けていた。


「け、健人さん! 危ないですよ、早くドアを閉めて!」

「そうだぞ、健人君! さあ、早く戻って来てくれ」


タラップに足を掛けた健人が次に何をするか、もう察しているはずだ。
ギョッとした面持ちで、小室達が健人を見ていた。
引き戻そうにもハンヴィーのスピードを緩める訳にはいかず、冴子もありすを放り出す訳にはいかず、手を拱いていることしか出来ない。
慌てふためく面々をぐるりと眺め、健人はにやっと笑った。
心の底からの笑みだった。
全てから解き放たれたような、子供っぽい、会心の笑みだった。


「悪い、皆。俺、考えたんだけどさ、ここで降りるわ」

「な、何を言って・・・・・・さあ、健人君、手を取るんだ。さあ!」


絶望の色が冴子の顔に浮かぶ。
健人は穏やかに笑った。冴子を落ち着かせるよう、気遣いの念を存分に滲ませて。
冴子はもちろん、そんな風に健人に笑いかけられるのは初めての事だった。
喉を詰まらせ、顔を歪ませる。


「君は、ずるいぞ。はっきりと言葉にしてくれたら私は従うしかないというのに、君は私自身に決めさせようというのだな」

「悪いな。俺さ、自分の役割ってのが解ったような気がしたんだ。だから行かないと。これがさよならって訳じゃないんだ、辛抱してくれ」


健人は誰もついてくるなと言っているのだ。それを冴子は理解した。
喉元まで出かかった言葉を噛み締めるよう唇を結ぶと、俯いて顔を伏せた。


「行くって、いったいどこへ・・・・・・」

「高城の家さ。取り残された人達を助けに行く。止めるなよ、小室。俺達はお前に付き合ってここまで来ただけなんだから」

「それは、でも!」

「やめなよ、小室。健人さん、弾は必要ですか?」

「いいや、俺には一発あれば十分さ。全部お前が使えよ。コータ、そいつで皆を守ってやってくれ」

「了解! 命に代えても任務を遂行します」

「馬鹿オタ共! 私は引き止めるわよ! 戻るなんて、そんなの自殺行為じゃないの! 
 役割だなんて・・・・・・パパとママと同じようなことを言って! アンタに何が出来るっていうのよ。アンタみたいな凡人が、パパとママを助けるなんて出来っこないわ!」

「確かに。なら、これならどうだ?」


手袋を引き抜いて、健人は右腕を掲げた。
異形の腕が外気に晒される。
誰の物かは解らなかったが、きっと全員のだろう、ひぃ、という悲鳴が上がった。
鞠川がハンドル操作を誤り、ハンヴィーが車体が左右に大きく振られていく。
コータは健人の額へとぴたりと照準を当てていた。
満足そうに健人は眼を細めた。
だからコータは信頼出来る。


「<化物>が助けに入るってんだ。<奴ら>なんざ相手になるかよ」


健人は拳を握りしめた。


「誰も死なせるもんか。誰も」


とても晴れやかな気持ちだった。
例えそれが不可能であると解っていても、健人は口に出さずにはいられなかった。
それは、己の心が欲する所を、理解したからだった。
俺はこの力で誰かを救いたい。
誰かから忌み嫌われることになったとしても。
人から好かれたいのではない。これが自己満足でしかないことは解っている。だが、それこそが最も大切なことだ。
俺が人のままでいるためには――――――。
健人はもう一度にやりと笑うと、空に身を放り出した。
冴子が切なそうな顔で、健人に手を伸ばしていた。
額に手刀を作り、空を切らせる。一時の別れを告げるハンドサイン。
冴子との関わりが苦ではない自分がいることに、健人は気付いていた。
結局は、自分に余裕がなかったというだけだ。
ハンヴィーのドアを蹴り付けて閉めると、体感にしてしばらくの間、健人の体は空を泳ぎ、途中で何体かの<奴ら>を引き裂いて減速してから、地面を転がって着地する。
この場から高城邸まで全力で走れば数分といった所。
健人は駆け出した。
しばらく走っていると、見知った顔とすれ違ったようなような気がした。
後ろを追っていた<奴ら>を切り刻んで、また駆け出す。


「ここは戦場だ――――――俺の運命は俺が切り開く」


背後からは口々に聞こえる、<化物>だ、という叫びが耳に心地よく、健人はまた、にやっと笑った。





■ □ ■






File15: ガスマスク内記録チップ――――――音声記録再生






「・・・・・・行ったか」

「心配はいりません、壮一郎殿。私の不肖の弟子は、きっとあなたのご息女を守るでしょう」

「む、ハンク氏か。背後を取られても気配がせんとは、流石だな。しかし健人君はやはり相当の実力を持っていたか。心強いことだ」

「あなたは勘違いされているようだ。私の弟子は二人いる。ケントはあなたのご息女を守ることは出来ません。その役目はコータが負っている」

「では健人君は何を守ると? 彼は今時珍しい良き少年だった。皆を見捨てて逃げ出すとは考えられん」

「さて、それはすぐにわかるでしょう。それでは、私はこれで消えさせて頂く。背中の心配は無用です。片を付けておきましたので」

「まさか、彼は・・・・・・いや、協力感謝する」

「私を引き止めないのですか? 背後の敵は心配無いとしても、正面はもう、あれだけの量が集まっている。突破するには難しいでしょう。
 一人だけ逃げるつもりかと罵倒しないのですか? あるいは、協力の要請を」

「礼は十分に返して頂いた。これ以上は無用! 貴殿の為されるべきことを為されよ!」

「フ・・・・・・。風体の怪しい私を受け入れて頂けたことに、感謝を。おさらばです、壮一郎殿」

「うむ、縁があれば、また会おう。貴殿との語らいは胸が躍るものがあった。さらばだ友よ!」

「武運を。友よ」


遠ざかるハンヴィーのエンジン音に紛れ、高城邸から消えたのは誰であったか。
知る者は一人を除き、誰も居ない。












[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:16
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:38
夢があった。
子供の頃からの夢が。
海外旅行中にテロリズムに巻き込まれ、目も鼻も利かず身体も動かせない、酷く不自由な状態に貶められていた頃の話だ。
両親を殺されこんな身体にされて、当然ながら幼かった自分は世界を恨み、憎んだ。
そんな時だった。身寄りもない外国人の子供の病室へと足を運ぶ、もの好きが現れたのは。
その人は本当にぞんざいにベッドへ近付くと、あろうことか機材に繋がれている子供の胸倉を掴み上げ、そのまま持ち上げて「ふん」と呆気なく、一言だけそう漏らしたのである。
遠慮呵責なく死に掛けの子供の顎に手をやって、顔を左右へと向けるその横暴さに、唖然とするよりも先に怒りが込み上げてきた。観察されている。品定めされている。それを理解したからだった。
それまで世界の全てを憎んでいたのだ。体の良い発散対象がやって来てくれて、身体はむしろ喜びに打ち震えていた。ガチガチと歯が鳴る。そこしか動かせなかったのだ。
だから唯一動く顎でもってその人物の指に歯型を残してやろうと、くあっと歯茎を剥いた。
頭上から、「ほう」と若干驚いたような、予想外の出来事を喜ぶような、そんな一声が落とされる。
開いた顎の中に突き入れられたのは、苦い味のする皮手袋だった。

「そんな状態で勇気のあることだ。だがそれは間違った勇気だよ」

頭上から降る、大人が子供へと諭す言葉。
わざとゆっくりとした丁寧な言葉で、聞き取りやすい発音の英語だったことを覚えている。
またもぞんざいにベッドの上に放り出される身体は、全く痛みを感じなかった。
まるで自分の身体ではないようだった。首から下がなくなってしまったかのよう。それなのに、首だけで生きている自分がいる。いっそ植木鉢にでも移し替えてくれよと胸中で吐き捨てた。そうしたら、恨みつらみで浮かびあがって、ていろていろと鳴きながらそこいら中を飛び回ってやるのに。

「悔しいか? 何も出来ないまま死んでいくのが恐ろしいか?」

胸に手を当てられ、告げられる。
ぽんぽんと一定のリズムで叩かれる胸。質問に答えずそのまま眠りについたなら、この人物は生命維持に必要な機材のスイッチを切ってしまうのではないか。そう思わせる怜悧さが、その人物が纏う空気にはあった。
ガチガチと開閉する顎。
ガチガチ。ガチガチガチ。
それが答えだった。

「ふん」

またも感情の読みとれない一声。
鼻で笑われたともとれるし、ただ単に頷いただけのようにも聞こえる。内面を悟らせないようにするために訓練されたような、硬質な声色だった。

「チャンスはくれてやる。生き抜いてみせたのなら、使ってやろう」

それだけだ。
そう残して、気配は消えた。
ガチガチ。
ガチガチガチ。
ずっと、意識が落ちるまでの間、歯がすり減るまで顎を鳴らし続けていた。
姿は見得ずとも、その気配の発する鮮烈さは脳の皺の一つ一つに刻み込まれていた。
それが、俺がまだ僕だった頃に出会ったその人との――――――叔父さんとの出会い。
その日から叔父は、度々世間話とは言えない話を述べては去って行くを繰り返すこととなった。ほとんどが世界情勢や科学技術の話しであったのは口下手の叔父らしいと今では言えるが、間違っても子供の病室を訪ねた態度やマナーではなかった。
気付けばいつしか叔父が訪ねてくるのを心待ちにしている自分がいた。
世界を憎んでいた、などというのは防衛本能だったのだろう。心身に重大な損傷を抱えた子供が自分を守るためには、外敵を作り、その破壊に全てを掛けなければ、自分が壊れてしまう。
だからこうして、言葉は少なくてもいい、足しげく自分の元へと通ってくれる人がいるということだけで、どれだけ救われたか。
世界を敵だと思い込むことで自分を保っていた子供はもう、どこにもいなかった。そこには叔父の来訪を待ちわびる、寂しさに耐えかねた子供が一人居るだけだった。その時にはすでに、叔父を中心にして世界が回っていた。
そうしてまたしばらくしてリサと出会い、目が見えるようになって、リハビリと訓練を並行して行われて、日本に帰ることとなったのである。
受けた恩をどう返せばいいのだろうか。せめて肩替りしてもらった治療費だけでも返せたらいいのだが、と申し訳なく肩を落とす自分へと、叔父はほんの少しだけ唇の端を上げて言ったのだ。

「馬鹿め、払うあてのない金など要求するものか。お前はただ、私の隣に立ち、私に尽くせばいい。それ以外に何も考えるなケント」

膝が落ちた。背筋が喜びに打ち震え、滂沱の如く涙が零れた。
叔父の皮手袋に包まれた手を取り、はい、はい、と唯々頷くしかなかった。
当時、とある企業の幹部であったらしい叔父。自分の治療には、最先端の医療を尽くしたと聞き及んでいる。そう安くはない金銭が投入されたとも。全てが叔父のポケットマネーから支払われたとも。
金が全ての価値基準であるはずの企業人が、相手が子供といえど金など要らぬと言ったのだ。
人道支援の宣伝もされていない自分では、名を売ることにもならない。
受けたリハビリと訓練も、この時までは叔父手ずから施されていた。ここまで来たらアドバイザーを雇えばいいものを、そうしなかったのは叔父が自分との関わりを望んでいたからに他ならない。
私に尽くせなどとは言っても、どこの馬の骨とも知れぬ拾った子供に期待などしてはいないだろう。
厳しい言葉とは裏腹に、叔父は善意で自分を救ってくれたのだ。
感謝してもし切れるものではない。
この日この時この瞬間より、人生の至上目的が決まった。
せめて、ほんの少しでも叔父の益になる人間になること。そのために自分を磨き続けること。
幼心に抱いた想いは鮮烈な輝きを以て焼き付いた。
いつか自分も叔父のように、損得抜きで誰かに救いの手を差し伸べられるような人間になりたいと。
感謝がほしいわけではない。
一方的でいいのだ。
むしろ救いの押し売りこそが本懐である。
夢であった。願いであった。成長するにつれ斜に構えてしまい、恥ずかしくて口にすることも出来なかった夢であった。
ようやくそれを思い出したのだ。いいや、常にその想いは胸にあった。目を背けていただけだ。
そして、今。
この手で誰かを救うことが出来るのならば、これほど喜ばしいことはないではないか。
例えそれが、化物の手であったとしても――――――。

「き、君は・・・・・・そう、健人くんではないですか! よく無事で」

名を呼ばれ、一瞬足が止まる。
はて、この眼鏡の男性は誰だっただろうか。一瞬考え、健人はああと頷いた。そうだ、担任の紫藤教諭ではないか。生延びていたとは知らず、今の今まで完全に忘れ去っていた。
見るからに作り笑い浮かべて近付いて来る。未だに信頼されていると思っているのだろうか。そも自分は理に従っただけであり、担任としても人としても紫藤を慕ってはいなかったのだが。
しかし健人も「先生」とにこやかにして、両腕を広げて紫藤を迎え入れた。
異形が紫藤の眼前へと晒される。
健人はおどけた顔で「ばあっ」っと言ってみせた。

「ひっ、ひいい! あばっ、ばけっ、化物!」 

「あっはっは! そうですよ先生!」

効果は覿面だった。
これ見よがしに右腕を掲げた健人から、腰を抜かして地べたを這って逃げる紫藤。それは健人にとって満足のいく反応であったようで、健人は声を上げて笑った。
行く手を<奴ら>に阻まれて、悲鳴を上げる生徒達もいた。健人は触椀を伸ばして<奴ら>を切り裂くと、紫藤らに続く生き残りの生徒のために道を拓く。
その姿を見た者は例外なく悲鳴を上げていたのが愉快に思えた。
嫌悪感が多分に含まれ悲鳴は、<奴ら>に面した時の恐怖の悲鳴ともまた違う。
健人はそれら全てを笑みを浮かべて受け入れた。

「逃げろ逃げろ、みんな逃げろ! 逃げ遅れた奴から八つ裂きにしちまうぞ!」

近付く<奴ら>から順に千切り捨てていく。
それでは足りないと、軸足を基点に独楽のように回転し、伸ばした爪でもって<奴ら>を切り裂く。
活き活きと、実に意気良きと暴力を振り撒く健人の様はまるで暴風の様。
触腕を電柱に巻き付けて健人は空へと跳び上がった。眼下には血肉の絨毯が敷き詰められている。全て、<奴ら>のコマ肉であった。
横転したスクールバスに群がる<奴ら>を全て駆逐するまでに、十秒と掛からなかったようだ。
これが力を晒すことに躊躇いを捨て、異形を受け入れた健人の実力だった。
上半身や首だけとなった<奴ら>を身体に喰い込ませたまま、健人は次の電柱に狙いを定め、跳ぶ。
迫る<奴ら>のあぎとを防げなかったのではない。防ぐ必要がないのだ。すぐさま傷口から肉が盛り上がり、喰い込んだ歯をぼろぼろと体外に排出していた。恐るべき回復力である。殲滅を目的とするならば、身を守ることに手間取られるよりも、いくらか噛みつかれる程度は無視するのが効率的だった。
そよぐ風に身を任せ、中空より健人は高城邸へと突入する。
矢の疾さで以て地に突き刺さる健人。しかししなやかに受け身を取ると、健人は衝撃を推進力へと換え、蛇のように地を擦りながら疾走を始めた。
高城邸の内部は正に地獄の様相だった。
逃げ惑う人々を引きずり倒しては、喰らい付いていく<奴ら>。
その<奴ら>に片端から健人も“喰らい付いていく”。
<奴ら>に組み敷かれていた若い女性を力尽くで助け出して身を抱えたが、自分が何に抱えられているかを知って錯乱した女性は、暴れて健人の腕の中から逃げ出すと、向う方向とは逆、高城邸の内側へと逃げていった。あるいは本能で<奴ら>よりも脅威であると判断したのかもしれない。
見れば、<奴ら>に襲われている大多数が我先にと逃げ出した人々のようだ。
健人とて全てを救えると思い上がってはいない。
心苦しいが、こんな世界となって思い知ったこともある。生き残るべき人々がいて、そうでない者もいるということだ。
いつぞや邸内で女性に乱暴を働いていた男共が<奴ら>に噛み殺されているのを無視して走る。
合流すべきは残って戦うことを選んだ人々だ。
健人は出来得る限り逃げ惑う人々を狙う<奴ら>を優先的に撃破しつつ、庭を奥へと突き進んだ。
異形が舞う。
血肉が降る。
悲鳴が上がる。
笑みが浮かぶ。
血と臓物の臭いを染みつかせながら健人はとうとう、人々に率先して指示を出しながらも集団の中で一番の奮闘をみせる男女、高城夫妻の下へと辿りついた。
周囲には思い思いの武器を取った、戦う決意を固めた人々が。健人のものさしの上では生き残るべく人達である。
健人の姿を認めた高城の父、壮一郎の、むうっ、と空気を呑む音が、研ぎ澄まされた聴覚に届く。
高城の母である百合子は、あっと出かかった声を歳の感じさせないしなやかな指で口を抑え、漏らさぬように抑えていた。
忌避感を感じていない訳がないのだろうに、それを外に出さないように――――――健人に悟らせないようにしてくれるとは。
尊敬に値する大人へと、健人は目礼で答え、一向に減る様子の無い<奴ら>の波へと向き合った。
背に人々を庇って立つ健人。

「ば、ば、化物だああああ!」

「ひぃぃ!」

「いや、嫌! あっちへ行ってえ!」

「くそ、これでも喰らいやがれ!」

大きく広げられた右腕の異形に、どよめきと悲鳴が上がり――――――銃声。

「うぐっ・・・・・・!」

脇腹に広がる灼熱。
撃発音からして、恐らくはブロウニング系統の猟銃か。高城邸に集まった者の中で、銃を所有していたのはコータだけではなかったということだ。どうにも銃器の管理が甘かったのは、個人持ち込みが多かったのも理由だったのだろう。
じわじわと痛みと湿り気が広がっていく。撒かれた散弾の一部が掠ったらしい。直撃であったならいくら治癒力が跳ね上がっていても無事では済まなかっただろうが、これならば許容範囲だ。
後ろから撃たれたことに、健人は全く怒りを感じてはいなかった。むしろ苦笑いさえ浮かべていた。
まあ、そうなるだろうな。
化物が急に現れたんじゃあ、当然の反応だ。

「待ちなさい! 銃口を下ろして!」

「愚か者が! 戦うべき相手を間違えるな!」

「ああ、こんなに血が出て・・・・・・どうして戻ってきたの健人君!」

駆け寄った百合子がゴム手袋を当て、健人の傷口へと布を当てる。傷が浅いとみるやぐっと指に力を入れて弾を抉りだそうとしているのか、異様に慣れた手付きだ。訓練されたものにしか出来ない処置に、健人はなるほどと頷いた。前面に立つ健人を背に庇い、壮一郎が日本刀を振るい近付く<奴ら>を両断している。似た者同士のおしどり夫婦というわけだ。
健人は頬に熱がいくのを自覚した。
嫌われ者になることを覚悟していたが、こうも心配されるのは予想外の反応だった。

「だ、大丈夫です。もう平気ですから」

「喋っては駄目! 撃たれて平気なはずが・・・・・・嘘、これは」

指先を押し返す感触に百合子は驚愕する。
いくつかの散弾が盛り上がる肉に押されて排出される。破れた服から覗くのは、血で汚れてはいるものの、傷一つない真新しい皮膚。

「ね、大丈夫でしょう? こんな傷、すぐに治っちゃうんですよ」

だから早く離れた方がいいですよ、と健人はにっと笑って言った。
俺はこんなだから、と鉤爪を掲げて。
その掲げた右腕を横合いからむんずと掴まれて、健人はえっと呆けた声を上げることとなった。

「戻ったか、健人君」

「た、高城、さんのお父さん・・・・・・」

「壮一郎でよい。すまないが健人君、手を貸して欲しい」

「壮一郎さん・・・・・・その、手、気持ち悪いでしょう? 離した方がいいです。皆にも、悪く言われます。俺は平気ですから、だから」

「男の手だ」

「・・・・・・え?」

「石を投げつけられながら、それでも戦うのだと決めた男の手だ。己が護国の盾とならんと決めた若者を、我々の同士を、何故恐れる必要がある」

ぐっと力強く握りしめられる指。
普通の人間の握力程度で痛みを感じる訳がないというのに、じんじんと痺れて熱い。

「もう一度言おう。健人君、手を貸してくれぬか」

「壮一郎さん・・・・・・」

「頼む」

「・・・・・・こんな化物の手でもよければ」

「十分だ。猫よりも働いてくれるのだろうな?」

言い返されて、健人は再びきょとんと呆気に取られる。はは、ともう乾いた笑みを浮かべるしかない。
流石は右翼団体の首領。一級のエンターテイナーだ。人をノセるのが上手い。

「辛かったらすぐに言うのよ、健人君。彼等のことは任せてちょうだい。あなたに銃を向けさせることはさせないわ」

「はい。ありがとうございます、百合子さん」

「ふふ、男の子は素直が一番。強がってるよりもずっと可愛いわよ」

誤魔化せるとも思ってはいなかったが、片目を瞑って茶化されると気恥ずかしい。
どうも自分はこういう強い女性が苦手なようだ。

「ここは俺が引き受けます。壮一郎さん達は避難するのを優先して下さい!」

「よし、任せたぞ健人君! 百合子、皆を装甲車まで誘導せよ!」

「ええ、解りましたわ壮一郎さん! 健人君、お願いね!」

去り際に手を握られた照れ隠しに、寄って来ていた<奴ら>へと裏拳一閃。

「ええい、くそう、嬉しいなあ。もっとずっと嫌われると思ってたのに、これじゃあ幸先が悪いじゃないか」

悪態を吐くが、緩む頬は隠せない。
高城夫妻以外の全ての人達が嫌悪感を露わにしていたのだ。それが人間にとって普通の反応だ。冴子でさえ、初見では受け入れられなかったのだ。あの二人にも受け入れられたなどとは思ってはいない。ただ、認められただけだ。それが健人にとって望外の喜びだった。
即席のバリケードが破られ、<奴ら>が堰を切って雪崩れ込んで来る。

「さあ来いよお前ら! タイムセールに並べられたい奴からかかって来い! 端から順に切り揃えてやる!」

笑って少しだけ泣いて、健人は死肉の壁へと身を躍らせた。
右も左も前も後ろも、見渡す限りの<奴ら>、<奴ら>、<奴ら>。
狙いを付けるまでもない。爪を伸ばして適当に振るうだけで入れ喰いだ。
健人は雄叫びを上げながら<奴ら>を喰い散らす。
身体中に歯が付き立てられるも、気にせず引き摺って、ついでに目に着いた<奴ら>の頭を握りつぶした。
<奴ら>と噛み合って肉団子となった健人はもう、全身が余す所なく血みどろで、それが自分が流した血なのか返り血なのかも解らない状態だった。
自壊することも厭わぬ怪力で眼球に指を入れられ、爪と肉の間に白いタンパク層を抉り取られ、血涙が流れ落ちていく。
傷を負っても治癒されるからといって、痛みを感じない訳ではない。恐怖を感じない訳ではない。
だが全身を支配する歓喜と闘争心が、健人を突き動かす。

「おおおおお――――――!」

嬉しい。
楽しい。
こんなにも幸せな気持ちで戦えるなんて、初めてのことだ。
もう何も怖くはなかった。

「おお、お・・・・・・――――――」

雄叫びが止む。
世界とは悲劇であった。
それさえ忘れずにいたならば、あるいは心構えだけは出来たのかもしれない。

「なんだ、これ・・・・・・なんだ!」

絶望こそが至上の悲劇において、希望を抱いて戦うなどと、許されるはずがないというのに。
いかに化物であったとしても、己を超える更なる化物には無力でしかないというのに。

「なんだ・・・・・・空か!」

背筋を這う悪寒に、健人は空を仰いだ。
沈み始めた太陽。朱の空の遥か先、雲に隠れるか否かの上空を、4機のヘリコプターが等間隔に旋回していた。
カーゴタイプの胴体部にタンデムローター。物資運搬用の輸送ヘリである。何かをワイヤーで繋いで空輸しているようだ。それがゆっくりゆっくりと、実際には時速数十キロでこちらに向って来る。悲鳴と怒声に紛れながら、小さなローター音がはためくのを健人の耳はその時に初めて察知した。
機種は定かではない。健人だから視認出来る機体の詳細は、どこの国の採用されている輸送ヘリともつかない造りだ。
上空である事を差し引いても聞こえるローター音が小さすぎるのは、あれら輸送ヘリが独自設計によるものだからか。
現行モデルの性能を遥かに超えた機体。輸送ヘリが機体底部から伸びるワイヤーに繋いでいたのは、巨大なコンテナだった。
側面に歪な凹凸が刻まれたコンテナを視界に収めた瞬間、健人の背筋は恐怖に粟立った。
足が意思の制御を離れて震える。
今直にこの場から逃げ去ってしまいたかった。
感じる悪寒は<リッカー>のそれとも、<リーパー>のそれとも、<腐乱犬>のそれとも、健人が遭遇したあらゆる<化物>のそれとも比較になどならない。
ベコンという幻聴が聞こえたような気がした。新たな凹凸がコンテナに生じていた。あのコンテナの凹凸は、内部からの衝撃によって生じたものだった。
馬力も大幅に強化されているエンジンを積んでいるのだろうに、そんな輸送ヘリを4機も使って、一体何を運んで来たというのか。
ヘリの接近にようやく気付いた取り残された人々が、救いが来たのだと安堵を顔に浮かべ、おーいと手を振りながら歓声を発する。

「やったぞ、皆、助けが来たぞ! 助けが来たんだ!」

「おおーい、おおーい! ここだー!」

「おーい! 助けてくれー!」

応えるように、コンテナからは細長い足が勢いよく飛びだして、ぶんぶんと大きく振られていた。

「・・・・・・へ?」

最初に異常に気付いたのは、双眼鏡を覗いていた者だった。
あまりもの現実感の無さに、訳が解らぬといった風に声を上げる。それも仕方の無いことだろう。
コンテナから飛び出した足は、まるでカニの足のように細長く、甲殻に包まれた節足だった。それが足掛かりを求めて空を掻いている。ぐねぐねと動く足には、びっしりと棘と繊毛が生え揃っていた。
ヘリとコンテナとの対比からして、本体の巨大さたるや、いか程のものか。
異常を察知した者は全員が、健人を含めて、思考を放棄した。そしてなりゆきを見守った。その間に、何人かの不幸な者が<奴ら>に喰われていた。
何か、恐ろしいものが、頭上にある。
激しく動くカニ足が、バランスを崩して隊列を乱した一機の輸送ヘリの装甲を抉る。

「お、おい、あれ、落ちて来るんじゃ・・・・・・落ちて来るぞ!」

プロペラが柔性を備えた鋼鉄のワイヤーに接触し、千切れ飛ぶ。
輸送ヘリは一気にバランスを崩すと隣を飛行していたもう一機の輸送ヘリを巻き込んで、もつれ合って落下を始めた。
残る二機は後続二機の墜落を確認すると、ワイヤーを切断し、離脱態勢へと入ったようだ。
落ちて来る。
来る。
恐ろしいものが、来る。

「お、おい逃げろ! みんな逃げろ!」

「どこにも逃げられねえよ馬鹿野郎!」

災いは更に重なる。
一機は高城邸より外れて墜ちていったが、もう一機のヘリの墜落コースは高城邸の中心だ。生き残った人達は高城夫妻の先導によって装甲を施したバスに乗り込んで、その足でこの場より逃げる手はずとなっている。このままではヘリの残骸が進路を塞いでしまう。それだけではない、質量のある物体が遥か上空から地面に叩きつけられるのだ。ヘリのタンクには燃料だって積まれている。兎に角、唯では済む筈が無い。

「――――――くそっ!」

舌打ちを漏らし、健人は駆け出した。
丁度、ヘリの落下地点と重なるように。
黒煙を上げながら輸送ヘリは重力を味方に付け、考えるのが馬鹿らしいくらいの運動エネルギーを保持しながら地表へと迫る。
機首が高城邸庭園の石畳に接触する寸前に、健人は機体と地面のその間に身を滑り込ませた。
異様に膨らんだ右腕が振りかぶられる。
健人の右腕は、構成する一本一本の触手繊維が膨張縮小して織り込まれたものだ。触手は筋繊維のそれと同等の機能をも有していた。当然ながら、人間の筋肉とは質も量も桁違いの代物だ。

「くぅぅうううおおおおおっ!」

出せる限りの力で以て、健人は輸送ヘリを全力で殴りつけた。
骨が軋む。
肉が裂ける。
紫電が弾け、空気中を漂う埃を焼く。
膝が砕けた。腰骨が割れた。
負けるものかと健人は歯を食いしばった。噛み締めた歯が圧し折れる嫌な音がした。
一瞬の均衡の瞬間、ヘリのひび割れたコックピットガラス越しに、未だ存命中のパイロット達と健人は目が合った。
ヘルメットとゴーグルをしていて表情は解らなかったが、しかし驚愕に染まった顔をしていることだけは容易に想像出来た。
すまない、と胸中で唱える。これが初めての殺しとなるが、健人に同情はなかった。
あんな恐ろしいものを連れて来てくれたのだから。
垂直方向の運動エネルギーに、横ベクトルの運動エネルギーが叩きつけられる。
刹那、鈍い音と風切り音を唸らせながら、輸送ヘリは意味を為さない鉄塊となっ、高城邸の端へと殴り飛ばされていった。
接地した途端、燃料に引火して爆炎が上がる。
殴った衝撃で爆発するかしないかだけは、賭けだったのだ。
石畳を周囲もろとも陥没するまで踏み込ませ、健人は攻め勝ったのである。

「く、あ・・・・・・っ! 背骨、やっちまった・・・・・・っ!」

崩れ落ちる健人。
肉体に過重な負荷を掛けた当然の代償だった。
いかに強力な治癒力を備えていたとしても、神経系の集合する背骨や重要器官を損傷すれば、治癒されるまで満足に動くことは出来ない。
再起動までにどれ程の時間が掛かるのだろうか。
響く轟音に健人は身体をもたげ、仰ぎ見る。
あの巨大なコンテナが、高城邸を直撃していた。
要塞として機能することを前提に建築された高城邸である。表層部も下手な軍事基地よりは強度のある建材で構築されているようで、コンテナの直撃を受けても半壊だけに留まっていた。いっそ崩れて瓦礫にコンテナを埋もれさせてしまった方が、時間稼ぎを出来ただろうに。
ひしゃげたコンテナの亀裂を押し広げ、それはのっそりと巨体を顕わした。

「何だよ、あれは・・・・・・何なんだよ」

答えなど返らないと解っていても、問わずにはいられなかった。
高城邸を覆う程の巨体。
見るからに頑強な甲殻。
咀嚼するには過剰な牙が生え揃った大顎。
後背部からは蜘蛛の腹のような器官が垂れ下がっている。恐らくは、何らかの生物の遺伝子と掛け合わせたのだろうか。姿形は似ても似つかないが、ヤドカリのような体構造をしている。
恐ろしく鋭い爪に、長い手足は全て伸ばせば、広い敷地の全て端から端までに届くだろう。
それを何と表せばいいものか、健人には解らなかった。
コンテナの中から現れたそれは――――――大きな、呆れる程に巨大な、<タカアシガニ>だった。
あんな上空からコンテナに詰められた状態で叩き付けられたというのに、実に鷹揚に手足を伸ばしては餌を啄んでいる様は、まるで堪えた様子がない。地面に叩き付けられて直ぐに食事を始めたことからも、それはうかがえるだろう。墜落の原因は、こいつが腹が減って暴れていたからだった。
見た目通りの大食漢のようで、次から次へと“活きの良い”餌を見繕っては口に運んでいる。
最初、それこそカニが海底のプランクトンや藻を攫うように淡々と爪を口元に運ぶ作業に、健人は一体あれが何を食しているのか解らなくなった。摘ままれた餌があーっと助けを求める声を上げていた。それは小さな子供だった。
<タカアシガニ>が器用にその爪と甲殻の突起を使って大顎に運ぶ餌は“生き餌”だった。
つまるところ、それは――――――生きた人間だった。

「よ、よせ・・・・・・やめろ、やめろーッ!」

活きの良い餌、人間とは、バスに乗り込むために高城一派に誘導されて非難を続けていた人達だった。
健人の主観では、彼等こそが何をおいても生き残るべき者達である。
ひょいひょいと、本当に器用に餌の頭を掴んでは大顎へと運んでいた。狙いがつけやすかったのだろう、避難者の列の丁度真中辺りに挟みを入れては餌を摘まみ出す。前と後ろを武器を持った男達で固めていた彼等にとって、それは天から下された無慈悲な裁決――――――列の中心には、戦う力のない妊婦や子供達が集められていた。
ぱき、こり、ちゃむちゃむ――――――終わらない咀嚼音。
健人は喉が張り裂けんばかりに叫んだが、<タカアシガニ>はそも音に過敏に反応するような生物ではなかったのか、見向きもしない。
おのれ、と壮一郎が駆け付け切り込んでいた。百合子がありったけの銃弾を叩き込んでいた。その全てが甲殻に阻まれ、無駄に終わった。食事は続く。
そして高城夫妻へと魔の手は、爪が伸び――――――健人は切れた。

「やめろっつってんだろうがこのカニミソ野郎!」

健人の触腕の細胞、その一つ一つが電気を発し、紫電が空気中へと舞う。
握り込んだ瓦礫を内部へと取り込み、震える腕を叱咤しつつ、<タカアシガニ>へと差し向けた。
サーマルガン撃発――――――破炸音と共にプラズマ膨張によって加速された弾体が射出。<タカアシガニ>の巨体を支える節足の間接へと炸裂する。
ここならば脆かろうという健人の安易な目論見であったが、多層構造の甲殻が関節を覆っており、これもまるで効いた様子がない。だが足を吹き飛ばす事は出来なかったが、態勢を崩すことには成功していた。体をぐらつかせた<タカアシガニ>の爪は目測を誤り空を掴む。<タカアシガニ>は食事を邪魔する闖入者へと、怒りに湧いた複眼を向けた。
挑発する笑みを浮かべたのとは裏腹に、健人の内心は焦り一色であった。
恐らくはあの甲殻は、ロケット弾の直撃にさえ耐えうる高度を誇っている。
一体どう突破しろというのだ。
爪を立ててどうにかなる相手でもなし、サーマルガンも効かないというのなら、更なる火力を有する銃器でも持ち込むしかない。
流石に高城邸にもロケットランチャーなどは存在しないだろう。
自分も手持ちの銃器といえば、ハンドガンが一挺のみ――――――。

『――――――解っているでしょう?』

一瞬、ざあっと視界にノイズが奔り、金髪の小さな女の子の姿が見えた――――――ような、気がした。

「・・・・・・そうだ」

そうだ、と頷く。
解っている。
どうしたらいいのか、解っている。
更なる進化をするために、どうしたらいいのか――――――。
頭上に影。<タカアシガニ>が健人を食まんと爪を伸ばしている。しかし健人は降る魔爪を意にも介さず、ベルトに挟みこんでいた暗銀の銃、サムライエッジを抜いた。スライドを引き、薬室に弾薬を送る。
撃鉄が上がった。
がつり、と咥内に鈍い音。
超鋼ジュラルミンのフレームが下顎と上顎でがっちりと咥えられ、銃口が喉奥へと潜り込む。
延髄が吹き飛ぶように角度を調整。
カチ、カチ、カチ、カチ――――――。
震えて鳴るのは超鋼ジュラルミンに打ち付けられる歯か、トリガに掛かった親指か。
今この瞬間に健人が相対している敵は、もうほんの頭上に爪を降ろしている<タカアシガニ>ではなく、己自身だった。
引鉄を引かなければならない。
引け、引くのだ上須賀健人――――――お前は皆に救いをもたらすと決めたのではないのか。
しかし、指はただ震えるだけで、関節は鉛を流し込んだかのようにぴくりとも動かなかった。

『――――――さあ、勇気を出して』

ノイズが奔る。
不思議なことに、身体の震えがピタリと止んでいた。
健人はすうっと空気を大きく吸い込むと、ぐっと肺に留め、全身に意識を張り巡らせる。
そうして健人は――――――引き金を、引いた。
ばあん、とくぐもった音が鳴った。
誰かがあっと叫び声を上げていた。
それが壮一郎のものであったか、百合子のものであったか、あるいは他の誰かのものであったか。それが健人の惨状を見てのものか、<タカアシガニ>に襲われて発せられたものか。
それを認識するよりも速く、初速約300m/秒で撃発された弾丸は、うねりながら健人の喉奥に突き刺さり、肉と頸椎を微塵に捻り裂き神経束を焼き切って、延髄の片をばあっと撒き散らしながら逆側から飛び出した。



延髄、喉裏を後頭部の一部も含めてぐしゃぐしゃのミンチ肉にして、健人は咥内に満たされた硝煙を首裏に穿たれた新たな口から一口吐くと、そのまま糸が切れた人形のように地面に突っ伏した。
熱かったのか、痛かったのか解らない。
二度三度手足を痙攣して動かなくなるその前には、もうすでに、健人の思考能力は消え去っていたのだから。
こうして、これまであらゆる危機を乗り越えて来た健人は、ここでとうとう、その命を完全に終わらせることとなった。
上須賀健人は死んだ。死んだのである。
人間、上須賀健人――――――了。
そして――――――。






■ □ ■






<タカアシガニ>に表情筋が存在したならば、この時しめたとばかりににやっとして笑っただろう。
何せ自分をよろめかせる程に活きの良かった餌が、人間が使う武器をあんぐりと咥えると、己自身の手で己の喉を吹き飛ばしたのだ。
これは締める手間が省けたぞ、という愉悦と、自分で仕留めたかったという若干の後悔。<タカアシガニ>は巨体に見合った脳に知能、そして精神活動も備えていた。
人間のような思考と高度な精神活動が存在するというわけではない。その理は本能に基づくものでしかない。快不快原則の原始的な思考、喰うや喰われるやに掛ける思考でしかないのだ。人語による思考ではないのだから、当然とは言えよう。
<タカアシガニ>はその身にみっしりと詰まった脳が訴える空腹信号に従って、うずくまって動かなくなった餌へと足を伸ばす。腹は満たぬが、これ程の手合いを消化器官に収めたという満足感を得るためだ。つまり、そういうことだった。
人間のものさしから言えば、この<タカアシガニ>は大変な美食家であったのである。
抑えきれない食への欲求に涎とも泡ともつかない体液をぼとぼととこぼしながら、高城邸の上からぬうっと身を動かした。
これ程の活きの良い餌である。不味い訳が無い。
特にあの波打つ右腕などをすすれば、さぞかし美味かろう。
どれ、まずは頭から――――――。
<タカアシガニ>は器用に巨大な両の鋏でもって、餌を摘まみ上げた。鋏の見た目の巨大さに反する精密作業である。
そのまま、丁度ペットボトルのキャップを開けるようにぺきっと餌の首を手折ると、やはりこれもボトルキャップよろしく、餌の首をずるりと引き抜いた。
奇跡的に残された赤黒く細長い神経と血管とが糸を引き、生首と胴体との間で風に攫われゆらゆらと揺れている。
満足気に取り上げた首をためつすがめつしてから、<タカアシガニ>は徐に、ゆっくりと摘まみ上げた御馳走を口器に含み――――――咀嚼。
ぱき、ぽり、ぼき、こりこり――――――。
ぼりぼり、ばりばり――――――。
みしみし、みしみし――――――。
赤黒く細長い神経と血管とが糸を引き、生首と胴体との間で風に攫われゆらゆらと揺れていた――――――。






■ □ ■





File16:擦り切れた日記

――――――(日付は擦り切れていて読めない)

お母さん
どこ
会いたい

――――――

また お母さ 今日見つけた
ちが にせもの
ほんもの お母 ん 
石の箱
お母さ しんじゃっ
 母 ん
お母さん
お母さん
おかあ

あああ
あああああ
ああああああ

――――――

――――――

私は一緒に居たかただけ

――――――

――――――

おかあさん

――――――

からだ おも
あたまいた
ねてたら おちビ おちてきました
おいしそ だったので すこしかじり した
あかいどろどろ ちゅうちゅうすると なだか あたま いたくなくなた
おちビちゃ なまえきくので りさいった
ちゅうちゅうしたので すこし かえしま た

――――――

おちびちゃん 言葉 少し話せないみたい
私 教え あげました
こんにちは
いたい
いただきます
おいしい
おかあさん
おかあさん
お母さん

――――――

おちビちゃん ケント ていうみたい
ケント 目痛い 言うので なめて あげました
からだ痛い 言うので いれて あげました

――――――

おちビちゃんと 一緒に寝ると お母さんのことを思いだす
お母さんも こうやって 私を抱きしめてくれたっけ
お母さん・・・・・・
どうして一人でどこかに行っちゃったの?
私も連れていってほしかったな

――――――

ケントちゃんの手が動いた
よかった
嬉しいなあ
ごめんね
お腹すいてたからかじっちゃったの
痛くなかった?
ケントちゃんは治ったからいいよって言った
嬉しいなあ
ケントちゃんは優しいな
ケントちゃんは暖かいな

――――――

ケントちゃんと一緒に寝ていたとき ケントちゃん お母さんって言った
ねごとだったみたい
ケントちゃんもお母さんを探してるんだ
ケントちゃんのお母さんも

――――――

夜 寝ているケントちゃんは たまに私のことをお母さんって言います
ごめんねケントちゃん
私 お母さんじゃないの

――――――

どうしたらケントちゃんを お母さんに 会わせてあげられるんだろう

――――――

どうしたらいいのかな

――――――

どうしたら

――――――

ああ そっかあ
なあんだ こんなに簡単なこと だったんだ



――――――

――――――

――――――

(・・・・・・ずっと白紙が続いている)

――――――

――――――

――――――

――――――

――――――

(最後のページに、血で何かが書いてある)

――――――

私が お母さんに なってあげれば いいんだ










 



[21478] 学園黙示録:CODE:WESKER:17
Name: ノシ棒◆f250e2d7 ID:373ed26e
Date: 2011/05/21 22:38
ぱきぱき、ぽりぽり――――――と、いっそ小気味の良い音を起て、<タカアシガニ>の口器は“内側から”砕かれた。
甲殻に神経は通っていないのだろう、痛覚に悶えるでもなく<タカアシガニ>は、困惑の極みにあるように見える。
自身の殻が砕けるのも構わず、必死に顎を閉じようとしていた。だが、閉じない。それどころか、“内側より”みしみしと抉じ開けられつつある。
一体何が起こっているのだろうか。
いかに脅威的な視野を誇る複眼を持つ<タカアシガニ>といえど、自分の口の中を覗くことなど出来はしない。<タカアシガニ>が見えるのは、口元からぷらぷらと揺れる餌の血肉の糸のみである。
いや、待て。
そこで<タカアシガニ>は疑問を持つ。この肉糸、何故切れない。
人の脆弱な神経と血管の諸々で繋がっているだけならば、重力で自然と切れるだろうに、一体何故。
<タカアシガニ>は特に深くは考えず、その糸を鋏でもって切った。だが、切れない。何故。今度は鋏全体にぐるぐると巻き付け、力一杯引く。それでも、切れない。何故。
朝食に出された納豆から伸びる糸が幾重も箸に絡み付いていくように、肉糸は<タカアシガニ>が鋏を巻けば巻く程、ずるずると伸びていく。
<タカアシガニ>には解らない。ただの肉糸が、どうしてこうも不吉な予感をさせるのか。
餌はもう死んだはずだ。自分が締めるまでもなく、己の手で己の首を撃ち抜いて。
これにはもう脅威はない。ないはずなのに――――――どうしてこうも、恐ろしいのだ!
ずるずるずるずる――――――切れない。
切れない、切れない、切れない、切れない!
頼む、頼むから切れてくれ。<タカアシガニ>はもはや祈りさえ浮かべながら鋏を巻く。一体化物が何に祈るというのか。神にでは無いのだけは確かである。神は高度な精神によって形作られるものであるからだ。
であるならば原始的な祈りとは、即ち焦りに他ならない。原始的な本能で以て祈りを捧ぐということはつまり、このままでは自分は死ぬ、それを理解しているということである。
死ぬ。死ぬ。死んでしまう。殺されてしまう。自分はこれに殺されてしまう。
獲得した精神、感情の波がさざ波を起てる。それは<タカアシガニ>が初めて感じる感情であった。<タカアシガニ>は恐怖を抱いていた。
まさか異形の巨体が狩られる側の恐怖を味わうなど、あってはならぬことである。自分が強者である自負に<タカアシガニ>は恐怖を必死になって否定して、鋏を巻く巻く、糸を引く。
肉糸に集中し過ぎたのが仇となったのだろうか、口元から鳴る小気味の良い音はとうとう口内を破壊する響きを帯びていく。
たまらず口器の拘束が緩み、そして――――――それは這い出して来た。
傍目からみれば、カニが蜘蛛を吐いたようにも見えただろうか。ともかくそれは<タカアシガニ>の口内からもそもそと、のたくらと、ふらふらとしながら這い出して来た。
<タカアシガニ>の口器を砕きつつ現れたのは、人間の頭部大の黒い蜘蛛だった。
目も口も無いその黒蜘蛛の異様に長細い脚は、先端が刃になっているのか、甲殻を容易く砕いていく。そして<タカアシガニ>の身体を8本の脚で器用によじ登っていく。
力を使い果たしたように、弱々しくも、しかし禍々しい造型の脚。触手だ。黒蜘蛛の脚は捻子合った触手で模られていた。
黒蜘蛛はその足で器用に肉糸を辿っていく。すると不思議な事に、<タカアシガニ>の鋏に幾重にも巻き付いていた糸はどろりと溶け、黒蜘蛛と餌の身体とを繋ぐ一本の糸に結び直された。
ガチンガチンと砕けた口器が鳴る。
口内の感覚を確かめれば、確かに先ほどまで餌の頭をしゃぶっていたはずが、そこには何も無い。ならば、あれは。あの黒蜘蛛は。
解らない。
解らない、が、あれを餌の身体にまで辿りつかせてはならないという予期めいた確信がある。
<タカアシガニ>は悪寒に従い、甲羅に背負ったヤドカリのような腹部をぶわっと膨らませると、そこから何か小さな蠢くものを幾つも吐き出した。それは空中で小さく身震いすると、ぱっと羽を広げて飛び立つ。<タカアシガニ>が小回りの利かない巨体をカバーするべく身の内に寄生させていた、共生関係にある寄生虫である。
腕を這って進む黒蜘蛛めがけ、羽虫はわんわんと羽音を立てながら襲い掛かった。
あくまで自身の弱点、巨体であるが故の鈍重さとエネルギー効率の悪さを補うための自衛手段といえど、装甲車を貫く程の攻撃能力を持つ<タカアシガニ>の護衛となれば、これも尋常な異形ではない。これ一匹それだけで、十分な化物である。
黒蜘蛛は羽虫の追撃を避け、時には撃退もしていたが、いかんせん数が多すぎた。針や鎌で小突き回され、とうとう<タカアシガニ>の脚先から振り落とされた。
<タカアシガニ>が不吉な黒蜘蛛を踏み潰すべく、羽虫にたかられ地面をのたうつしかない黒蜘蛛の真上に爪を翳す。
今度こそ留めをささんと、勝者であるはずの<タカアシガニ>がその実、焦りと恐怖に追い詰められて破れかぶれに魔爪を叩き付けんとした、その時だった。


「Mooo・・・・・・Aaaaaa――――――!」


咆哮が轟く。
不可解な言語を発しながら、黒衣の巨人が砲弾の如く<タカアシガニ>に体当たりをかまし、黒蜘蛛をかっさらったのである。
<タカアシガニ>は大きく体制を崩して高城邸に崩れ込む。健人のサーマルガンですらよろめかすことが精一杯であったというのに、唯の体当たりであの巨体を吹っ飛ばすとは。黒衣の巨人の膂力たるや、計り知れぬものがあった。
2m超の巨身を足首まで包む対衝撃コート。頭部を覆う拘束具からは、くすんだ金髪と、血色の悪い肌が覗く。手には巨大な電子錠。
黒衣の巨人は黒蜘蛛を大事そうに抱えると、見た目からは考えられぬ羽毛のように軽く飛んで、健人の首無し死体に近付き、これも抱き上げた。
揃えて、地に並べる。
健人の力を失った手足が地に放りだされ、規則性なく、四肢はばらばらの方向に折れまがっていた。
千切れた首からは、赤黒い糸が、黒蜘蛛にまで繋げられている。
もう力尽きてしまったのだろうか、小さく蠢く黒蜘蛛と健人の骸を前に黒衣の巨人は頭を抱えて激しく悶えると、乱喰い歯の隙間から、おおう、おおう、と嘆きの声を漏らした。
おおう、おおおう――――――。
どうしてだろうか、<タカアシガニ>に子を喰われた母親が上げていた嘆きに、それは等しく聞こえた。
羽虫が黒衣の巨人にたかる。
黒衣の巨人が低く唸ると、それに応じるよう、新たな異形が何処からともなく現れた。
緑色の体表をした、トカゲのような人型である。どこか狩人<ハンター>の印象を感じさせる俊敏な動きであった。
<ハンター>はいくつかの集団に別れるとそれぞれ羽虫、<タカアシガニ>、生き残った人々を襲う<奴ら>の足止めに爪を剥いた。


「助勢、であるか」

「女性、のようですね」


胸の膨らみが、この黒衣の巨人が女性であることを訴えている――――――と、ここまでが壮一郎が把握した事態の推移である。
<タカアシガニ>に切り込み、鋏を向けられた時は死を覚悟したが、どうにか生き延びた。
今はこの異形たちが護衛を買って出てくれているのだ、好機を逃す術などない。
自棄になった軍部の電子攻撃を想定し、装甲バスの機械部分に急ぎ対電磁処理を施させておいたのが良い目を見た。まさか核攻撃によって電磁パルスが撒き散らされるとは思わなかったが。
健人も何も言わなかったところを考えるに、どうもバスに対電磁処理が施されていたのは承知していたようだ。
バスに向って避難していたことから察したか、あるいは、何をかを感じ取ったのか。


「壮一郎さん、健人君は・・・・・・」

「うろたえるな百合子。見よ」


黒衣の巨人が、健人の遺骸を抱きしめて、おおうおおうと泣き叫んでいる。


「健人君は死んだのだ。そして――――――」


そこまで言って、壮一郎は言葉を切った。
百合子は何かに気付いたようだ。息を呑んで、下腹を擦った。
何故そうしたのかは本人も解らないようだった。女の勘、という奴である。


「生きているのね。生きているのね、あの子は」

「そうだ」


根元から折れた日本刀を投げ捨てつつ、壮一郎は頷く。


「百合子、至急生き残りを集め、バスを走らせよ。この場より脱出する」

「壮一郎さん。あの子達は」


あの子達、とは健人のことだけを指しているのではない。
黒衣の巨人もそこには含まれていた。
あの巨人を“子”と言い表したのは、母である百合子の本能故か。
壮一郎は目を伏せ、首を振った。


「捨て置く。元より、そのつもりであった」

「そんな・・・・・・それではあの子が、健人君があまりにも救われないわ」

「百合子」

「はい」

「お前は佳い女だ」


それだけ言って、壮一郎は口元をほんの少しだけ緩めて笑った。
百合子はぐっと言葉に詰まると、懺悔の念を吐きだすように、「わかりました」とだけか細く絞り出した。
解っていたことだ。
人の群れの中で、化物は生きられない。
情を以てしか、受け入れることなど出来はしない。百合子はその度量を備えていた。だがそれは希有なものである。他の人間にそうあれと強要することなど出来はしない。生理的に受け付けないものに情を抱けなど、言えるものか。
それは健人も承知の上のはず。でなければ、戻ってなど来はしない。
壮一郎は百合子の女としての本質を過たず理解していた。一目合ったその時から、である。
情の深い女である。壮一郎は軽くそう頷くと、後ろを振り向こうとする百合子の肩を抱き、バスへと飛び込む。
百合子が胸に額を押し付けて目元をさっと拭ったのを、壮一郎は見ぬ振りをした。
娘との別れに涙することがなかったのだ。ここで泣くことなど許されるものではないことを、百合子とて解っていた。
だが、本当ならば、百合子は沙耶を手放したくはなかった。
涙が零れた訳ではない。滲んだだけだ。立て続けに子供達との別れを経験し、一瞬崩れかけただけだ。持ち直さなくては。
口に出してはいなかったが、百合子は健人の事も心底気に入っていたのである。男として信じたのは小室であったが、息子を持つならば健人のような子供がいいと、そう思っていたのだ。
ああいう斜に構えていて、生意気で、しかし根の純粋さを隠しきれないような男の子が。
沙耶は特殊な家庭環境で育った故か、素直に心の内を吐露することは出来ない子であったが、それでも親に反抗することなど一度もない良い子として育った。
親としては喜ばしい限りであるが、少しだけ寂しさを感じずにはいられない。手を焼かされてみたい、と思うのは贅沢だったのだろうか。
自分の願望を押し付けてしまった健人は迷惑と思うだけかもしれないが、彼だけではなく、娘と同年代の子供達を想う気持ちは本物であるという自負はある。
<奴ら>に襲われた子供を見る度に胸が張り裂けそうだったし、健人が何を思ったか自害した瞬間など、あっと叫び声を上げそうになった。
しかし、自分達には立ち場というものがある。
全幅の信頼を寄せる壮一郎が、その超人的な感覚で健人が生きていると察したのだ。
自分も、何やら下腹に奔る懐かしい痛みがそれが正しいと訴えている。
あの状態の健人が人の道理で計れる訳も無し。
信じて従う他、道は無い。


「行きましょう、壮一郎さん!」

「うむ。バスを出せい! 突破するぞ!」


生き残った人々を乗せ、装甲バスは何処とも無く走り去る。
行く宛ては無い。
もはや安全な場所など消え失せた。今日を生き延びたとしても、明日は、一秒先の命の保証でさえ、無いのだ。
宛ての無い生存への道に向け、<奴ら>を薙ぎ倒してバスは行く。
それは戦いの道に他ならない。ディーゼル機関が発する駆動音は<奴ら>を呼び寄せる。この町で走る車はもはやこの装甲バスと、小室達が乗り込んだハンヴィー以外にはないのだから。
戦って、戦って、そして命を勝ち取ることを彼等は選択したのである。
さらばだ、と壮一郎は額に手を当て、健人へと敬礼を送る。
後に残されたのは、化物達のみ。
これより高城邸は人外魔境の巣窟と化す。






■ □ ■






徐々に冷たくなっていく健人の躯を抱き、黒衣に包まれた胸を掻き毟りながら、巨人は苦しみと焦りに喘いでいた。
健人の首は黒い触手に覆われて、人の形状を失ってしまっている。
またリサと呼んで欲しかった。
笑いながら、リサと、自分の名を呼んで欲しかった。


「Ke・・・・・・n・・・・・・t――――――」


揺すってみても反応は無い。
首をもがれているのだ。当然である。当然であるが、リサにとっては異常事態である。自分は首をもがれたところで死にはしないのだ。健人もそうであると思っていた。手ずから癒した健人もそうであると。
どれだけ銃弾を撃ち込まれても、ロケットランチャーの直撃を受けてさえ、平然と起き上がっていたリサである。死ぬということの意味さえ、リサにとっては希薄であった。
健人が起き上がり笑いかけてくれない、その事実に天地が崩れる程の衝撃を受けていた。
かつてこれほどの、自分がばらばらになってしまう程のショックを受けたのは、母の眠る石棺を見た時以来だ。
そうだ、これが死ぬということだったのではないか。
どうして忘れてしまっていたのだろう。


「Muuu・・・・・・aaaa・・・・・・!」


ああ、お母さん。
ああ、ああ、お母さん。
お母さん、お母さん、お母さん。
ああ、そうだ、お母さんだ。
お母さんならきっと、助けてくれる。
お母さんにならきっと、助けてあげられる。
そうだ、だから――――――私がお母さんになってあげればいいんだ!


「Mooaaaaa・・・・・・」


リサの身体が一層震えを帯びる。
それは取り乱してのことではなかった。動揺は既に収まっている。それは歓喜の震えであった。
リサは天高く錠に繋がれた両手を掲げると、それをぐあっと腹に押し付けた。
両の爪が耐衝撃コートをいとも容易く裂き、皮を、肉を抉る。
ぐちぐちと、肉を千切り裂く音がする。
目的の箇所に手が届いたのか。リサは半分が隠された血色の悪い顔に、そうと解る程にくあっと口を開いて、笑みを浮かべた。
そして血濡れた手のまま健人の遺骸を掴むと、それを裂けた腹の中に押し込めたのだ。
引き摺る黒蜘蛛もまた、腹の中にぐいぐいとリサは納めていく。
成人と変わらぬ体格の健人を無理矢理に腹に収めたのだ。肉は千切れ、皮は伸びる。
巨体のリサであっても、ボールに細い手足が生えたような、それは異様な体型となっていた。
だが健人の全てを腹に納め切ったリサの腹の、裂けた皮膚の繋ぎ目がゆっくりと閉じた。
リサは満足そうに息を吐き、ぱんぱんに膨らんだ腹を、否、胎を、それは愛おしそうに撫でている。
まるで、妊婦のように――――――。


「Mo――――――ther――――――」


リサ・トレヴァーの悲願、成る。






■ □ ■






おぎゃあ――――――おぎゃあ――――――。
赤ん坊の泣く声がする。
僕の声だ。
ふ、と思い出す。
ああ、そういえば――――――。






■ □ ■






時が止まった。
否、実際に時間が停止したというわけではない。
ただその場にいた全ての存在が、まるで金縛りにあったかのように凍りついただけである。


「Mooooooaaa――――――!」


<タカアシガニ>も、<タカアシガニ>をこれ以上は近付けんと群がる<ハンター>も、飛び交う羽虫も、風や薄らとたなびく雲ですら、全てがその光景を固唾を呑んで見守っていた。釘付けにされていた。月光のみが、ただ静かに墜ちている。
天には月。
時刻はいつの間にか夜半を過ぎていた。
リサは快楽に身を委ねた女のように、悲恋に喘ぐ花売りのように舌を突き出して。美しく、狂おしく、艶やかに、月の光の雫を受ける椀のように、弓のように、その身を反らせていた。
掲げられた大きな腹が、なお一層大きく膨らみ、そして――――――。


「Aaaaaaaa――――――!」


ぱあん、と。
そんな軽い音を起てて、リサは“咲いた”。
まるでつぼみが花開くように。
咲いた、としか言いようがなかった。
裂けた黒衣がはらはらと舞い、胎の肉が四方に飛んで、赤く黒い、きれいなきれいな花が咲いていた。
花は何のために咲く。
人の目を楽しませるためか。
虫に鳥に花粉を張り付かせるためか。
いいや違う、実を残すために花は咲くのだ。
新たな命を産み落とすために、花は咲くのだ。
ではリサは――――――彼女は一体、何を産んだというのか。


「ジュルグジュグブ、グブブブジュルジュブグブグジュグジュグジュ・・・・・・」


掲げられた腹から人型がゆっくりと全身を現していく。
蝉が成虫へと変わるように、リサを“脱ぎ棄てて”。
ぐじゅぐじゅと、体液に濡れた不鮮明な唸りを上げながら。
異形による、異形の出産であった。


「ウウウ・・・・・・オオオ・・・・・・オオオ、ギ、イ、アアアアアア!」


咆哮――――――いいや、産声だ。
未だ無事であった高城邸の窓ガラスが全損する程の声量。
その人型は腹から伸びる幾本かの触手状の肉管を引き千切って、その場からふっと姿を消した。
叫び声はその場に残っている。自らが発した音を置き去りにする程の速さで移動したのだ。
支えを失ったリサの身体が崩れ落ち、そして<タカアシガニ>も崩れ落ちた。
一体何が起きたのか解らなかったのだろう、<タカアシガニ>は紫色の泡を拭きながら、激しく鋏を振り回している。
<タカアシガニ>の複眼が捕らえたのは、自身の脚――――――力尽くでもぎ取られたそれに齧り付く、人型だった。
甲殻から器用に身のみを引き摺りだすと、人型はがつがつと食事を始めた。
全く<タカアシガニ>が目に入っていない様子だった。<タカアシガニ>をまるで脅威だと感じていないようだった。
それを<タカアシガニ>は屈辱とは思わない。むしろ、そのまま気付かずに去ってほしいとさえ思っていた。在り得ぬと解っていても、そう願わずにはいられなかった。
王者の証であるはずの巨体は隠せず、ロケット弾さえ跳ね返す甲殻はいつと知れずすっぱりと切り落とされ、ああして食まれている。
あれにしてみれば<タカアシガニ>の巨体は身の詰まった美味そうな餌でしかないのだろう。
<タカアシガニ>はここに来て、ようやく己が黒蜘蛛に抱いていた恐怖の正体を知る。
それは、喰われる側に回った、被捕食者の恐怖。


「ギギ、ギギギ、ギギギギギ・・・・・・!」


唸りと共に聞こえるごうごうという音は、腹の虫が鳴る音だろうか。
人型はゆっくりと立ち上がった。月明かりの下に、その全身が晒される。
体表の色は黒。
大きさも人間大でしかない。
しかし全身が黒い装甲で隙間なく覆われていた。否、装甲ではない。触手だ。黒の装甲は全てが硬化した触手で形成されていた。
全身鎧のように、その人型は――――――恐らくは、健人であったものは、触手を身に纏っていた。
それは触手の塊だった。
それは触手の化物だった。
それは異形を喰らう異形だった!


「ギギ、ギギギ、ギギギアアァアアアァアアアァアア――――――!」


音を置き去りに、触手の化物は、健人は姿を消す。
<タカアシガニ>の周囲に散在する瓦礫が、火花を散らして爆ぜていく。<タカアシガニ>の複眼でもってもその姿を視認することは出来ずにいた。
健人は<タカアシガニ>に飛び付くと――――――これも急に現れたように見えた――――――ぐうっと拳を天に振り上げた。
もはやその手も<リッカー>の如く爪が生えた、筋張った手ではなかった。もっと滑らかな人間の形をした手、むしろより異形染みた、触手の鎧に包まれた手であった。
全身を伝う触手の蔓が、みしみしと引き絞られる。触手の蔓は、弦である。それらはすべて、鋼の筋繊維であるのだ。
ひゅうっ、という風斬りと共に、拳が<タカアシガニ>の甲殻に叩き付けられた。
健人の叔父や師が見たならば、なっていないと眉を顰めるであろう一撃。力に任せただ振り下ろしただけの、子供がだだを捏ねた時に振り回すが如く拳。
しかしその一撃は<タカアシガニ>の、鋼鉄を超える強度を誇るはずの甲殻を、容易く打ち砕いた。
続けて振り下ろされる拳。
拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳。
両手を打ち付ける度、甲殻が砕け散る。
がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん。
絶え間なく甲殻が砕かれる音。
たまらず身悶えする<タカアシガニ>。羽虫をたからせるも、それら全てが健人の身体から細く伸びる触手の鞭に打ち据えられ、ばらばらになって落ちていく。
健人の全身を鎧のように覆った触手は、以前と等しく柔剛性を備えており、その操作性は以前よりもました精度でもって、触手自身が意思をもっているかのごとく伸び、動く。
刃が付いている様子は無い。触手は柔剛性と速さでもって対象を切り裂くのである。
ここで黙って喰われるわけにはいかぬと<タカアシガニ>が、鋏を広げ、健人の首根を押さえた。
先と同じく首を落としてくれようとでもいうのか。ぐっと鋏に力が込められたようだった。
しかし、落ちない。
首は、落ちない。
ぎりぎりと体表の鎧でもって、<タカアシガニ>の強大な膂力と鋏の鋭さは受けとめられている。
恐るべき装甲であった。異形喰いの身を守る装甲である。<タカアシガニ>といえど、擦り傷しか付けることは叶わない。
煩わしそうに健人は鋏を毟り取ると、掌を<タカアシガニ>の胴体に向けて開いた。
何の目的があってのことか、それは<タカアシガニ>であっても理解できる行動だった。
これはつまり、餌を喰いやすくするために、息の根を止める――――――。


「ギギイィィィ!」


健人の右腕が、夜の帳に紫電を散らす。
手首に小さな孔が開いていた。それは銃口だった。健人の右腕が、銃と化しているのだ。銃弾が既に装填済みの。
しゅうっ、と空気の流動する音。
健人を中心にしてつむじ風が巻き起こる。
健人は大気を触手でもって固め、弾丸として撃ち出そうとしているのだ。
だが空気を撃ち出したところで、それがどれ程の威力であるのだろう。そう思うのは間違いである。
健人の腕に吸われていく空気は逃れていく様子は無い。圧縮に圧縮を重ねているのである。
圧縮された気体は熱を帯びる。
加圧された気体に電流を流す事により、電離を促す。すると気体を構成する分子が部分的に、または完全に電離し、陽イオンと電子に別れ自由運動を始めるのである。
その状態を固体、液体、気体とは異なる、物質の第四態と言う。
即ち――――――プラズマである。
意図的に電流を流され加圧された大気は熱を帯び続け、超高音プラズマと化すのだ。
地に落ちた太陽の如く、輝きを放ちながら。
もはや健人の右腕は紫電の輝きを超え、曙光と化していた。


「オオオ、ギ、ィ、アアアアアア―――――――!」


光が墜ちる。
閃光――――――轟音――――――熱風――――――。
健人が撃ち出したのは銃弾などと生易しいものではなかった。それはもはや光の槍だ。
光の槍が地面へと突き刺さり、爆風と土砂を撒き散らす。
香ばしい臭いが辺りに立ち込めた。
心許ない月明かりの光では、もうもうと立ち込める土埃のカーテンの向こうで何が起きているのか、知る術はない。
しかし、じゅうじゅう、と何かが焼ける音がする。
ずるずるずる、と水を啜る音がする。
がつがつ、と一心に肉を食む音がする。
高城邸跡、その中心で、健人が真っ赤に焼け上がった<タカアシガニ>の甲羅を剥ぎ取り、頭を突っ込んで脳を啜っていた。
いつの間にか<ハンター>が集まり、<タカアシガニ>の周囲を取り囲んでいた。健人の食事が済むのを待つようにして、頭を垂れ、跪いている。
さながら、待ち望んだ王を仰ぐかのように。





■ □ ■





File17:観察者達のつぶやき







Boooomb!
ひゃっははははっはぁ!
やあったなあ、けぇんちゃぁん。
ひいっひっひっひ!
見付けた、ついに見付けたぜえ・・・・・・神のDNAってやつをよお!
ありがとうよけんちゃん、お前のおかげで俺は神様になれるんだ。
スペンサーも、ウェスカーだって出し抜いて、俺が王になってやる。支配する側にな!
奴らめ今に見てろよ、俺をこんな小さな島国に飛ばした報いを受けさせてやる。
ひっはっはあ!
俺が王様になった暁にゃあ、お前の墓でも立ててやるよ!
偉大なる王キース・アーヴィングの愚弟、リカルド・アーヴィングここに眠る、ってなあ!
ひゃっははははっはぁ!







下品な馬鹿笑いだこと。
権力に取り入るだけしか能がないような、こんな男をポストに就けるんだから、新生アンブレラも程度が知れるわね。
ウェスカーも焦っているのかしら。
坊やのことになるととたんに鉄面皮が崩れるんだから、
動画を編集したり、アルバムを作ったり、子供のいる研究員の前で坊やの優秀さを熱弁したり・・・・・・研究資料だなんて言っているけれど、まるきり親馬鹿ね。
自覚しているのかしら?
・・・・・・してないでしょうね。
誕生日のプレゼントに五時間悩んだ挙句、「やはり武器が必要か」なんて言って、自分の愛用モデルの拳銃を送りつけて満足そうにニヤニヤしていても、あの自分の心の機微に鈍感な男は。
ねえ坊や、愛されてるわね。
でもね、あなたが力に目覚めたのは、父親が敷いたレールのおかげじゃなくて、あなた自身の力なのだということを忘れないで。
よくやったわ。本当によくやった。
よく人を捨てる事を決意したわね。
もう坊やなんて呼べないわね・・・・・・ねえ、ケント。
私には解っていたわ。
いい男の臭いはね、いい女には解るものよ。
彼のような――――――レオンのようないい男は、特にね。







そっか。
うん、わかってた。こうなるしかないんだって。
だってあなたは、あのウェスカー叔父さんの、たった一人の息子なんだから。
うん、でも、お姉ちゃんとしてはちょっとだけ、ううん、すごく寂しいな。
これで、お別れだから。
私はあなたが茨の道を歩むことを知っていて、何もしなかった。
むしろ助長させるように、背を押し続けた。
私にはあなたの前に立つ資格はもう、ないの。
ごめんね、ケントちゃん。ごめんね。
もう頭を撫でてあげられないね。
もうぎゅうってしてあげられないね。
・・・・・・もう、お姉ちゃんって、言ってもらえない、ね。
これからはリサちゃんがあなたを守るから。
ねえ、クレア。
お別れするのって、寂しいね。
クレアが私と別れた時も、今の私と同じ気持ちだった?
お願い、クレア。
どうかあの子を恐れないであげて・・・・・・なんて、あなたに言うまでもないよね。
後は、これをどうやって外に運び出すかを考えるだけ。
この改良型DEVILだけは、何としても――――――。








あれだけしごいてやったというのに、何という無様な闘い方だ。
無意識に技を繰り出すまで、叩き込んでやらねばならんか。
いや、ここは首を180度反転させてやるのが先か。
罰を与えねば覚えんからな。
まったく、師の手を煩わせるとは。この馬鹿弟子が。
だがケント、お前の選択は正しいと断言しよう。肯定しよう。そして、認めよう。
お前は選んだのだ。自らの運命を。
人外として生きていく運命を。
これから先、全ての人類がお前の敵となるかもしれない。
お前は人類という種族の敵となるかもしれない。
だが、ケント。それでもお前は戦わなくてはならない。
ここは戦場だ――――――運命は自ら切り開け。
・・・・・・しかしこのマスク、どうやったら外れるのだ。







素晴らしい、素晴らしいぞケント。
お前はいつも俺の予測を超えていく。
この時が来るのを、どれほど待ちわびたことか。
ケント、思わんか? 
この世界には人間が多すぎると。
奪い合い、潰し合い・・・・・・自らの首を絞めていると知ってなお、星を枯らしている。
管理者が必要だ。
世界を統べる王が・・・・・・神となるべく存在が。
お前は正しかったよ、スペンサー。
貴様の妄念は、我らが引き継ごう。
俺が――――――ウェスカーが世界を救済するのだ。
さあケント、俺の下に早く来い。
早く俺に、お前の進化した姿を見せてくれ。
動画を編集するのはもう飽きたのだ。
本当ならば俺自ら赴いてやりたいところだが・・・・・・どうやらお客様のようだ。
丁重にもてなしてやらねばらなん。
全く、家主の都合も考えず、迷惑な客だ――――――クリィィィィイイイス! 飽きもせず悪党狩りか!
やはりここまでだどりついたか、クリス。また貴様に邪魔されるのだろうな。
だが勝つのは俺だ。
ケントに選ばれたサムライエッジは、この俺のモデルなのだから!
さあクリス! 始まりの祝いだ。今度こそ貴様の死に場所を用意してやろう!
――――――む、いかん。
録画ディスクが一杯に・・・・・・くそっ、何故この基地にはBlu-ray Discが無いのだ。早くSonyに行かねば・・・・・・。
ふん、貴様との対決はまたの機会にしておこう。
命拾いしたなクリス。












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