<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[2120] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/01 23:36






von diu swer sender maere ger,
der envar niht verrer danne her.
"Tristan"






1.overture






 空は橙と藍に二分され、境界には紫が燃えていた。西では太陽の残り火が揺れている。東からは重たそうに夜の帳がやってくる。さなかに浮かぶ半欠けの月は暖色の彩りをゆっくりと泳ぐ。その真下で美袋命は息を切らしながら走っている。

 髪を短く刈り込んでもみ上げだけを三つ編みにした少女を包む制服は、身の丈よりやや大きい。成長を見込んで仕立てられたものだと一見して知れたが、目尻の垂れた顔つきとあいまって、外見は年相応より幼く見えた。実際年齢を考慮しても、命は小柄だ。背に負った長大で無骨かつ制服に不釣合いな得物も、彼女のスケールを見誤らせる一助となっている。なんとなれば、命が背負う古めかしい剣は、ほとんど彼女と同じくらいの尺だったのだ。

 長袖を汗で湿らせながら、命は舗装もされていない道を疾駆する。水田が照り返す夕陽に目を細めながら駆ける彼女を、急きたてるのは空腹だった。

(お腹がすいたな……。でもどうしよう。こんな時間まで遊んでいたと知ったら、ジイは怒るだろうか)

 学年の別のない、廃校寸前といった風情の中学で、同窓生と日が暮れるまで命が遊ぶというのは異例のことだ。そういった時間の使い方をすることを、彼女を育てた祖父は毛嫌いしていた。

(晩ご飯を抜かれてしまったり、しないだろうか……)

 ありえそうな制裁を予感して、命は紅潮した頬を引きつらせた。一食でも抜かれたりしたら、明日の夜明けまでには餓えて死んでしまうかもしれない。こんなことなら、やはり同級生の誘いを断るべきだったのかも知れない。

(でも、楽しかった)

 ――おまえは舞姫になれ。そして美袋を再興させるのだ。
 酒が入ればことあるごとに命にそういって聞かせる祖父は、偏屈で頑固な老人として、同じ部落の住人には敬遠されていた。広大な敷地を所有しているにもかかわらず、最低限の農地しか拓いていない美袋の家は、周辺の人々から陰口を囁かれる事もしばしばだ。しかし命にとっては唯一の身内であるし、厳しいばかりでもない祖父は嫌いではなかった。むしろ、幼い頃に生き別れた兄の次に好きなくらいだ。

(とにかく、急ごう)

 と考えを打ち切って、命は家路を急いだ。
 四季は、冬を越して春に代わりつつあった。夜を控えた風は冷たいが、身を切る厳しさはもう含まれていない。上気した体には心地良いほどだ。
 さらに走るうちに、山へと続くあぜ道は近年敷設された車道によって途切れた。ここまで来れば家まではもうわずかである。命は走る速度を緩めて、アスファルトに足をかけた。
 山育ちの彼女は悪路をものともしないが、地面は平坦なほうが速度は出る。薄い靴のソール越しに拇指が力強く地を食むと、命の体は再び加速に入りかけた。
 それを押し留めたのは、横手から声がかかったためだ。

「あの、急いでる所を悪いけれど」
「……む?」

 機を外されて、命の体がつんのめる。転がりそうな勢いを地に手をつくことで抑えると、犬のような姿勢で彼女は首をきょろきょろと左右に振った。

「きみ、このあたりに住んでいる人?」

 薄手のトレンチコートを肩に引っかけた、若い男が道の横手に立っていた。命は男の質問には答えず、首を傾げて目を見開く。いよいよ沈みかけている太陽を背負っているために、男の顔立ちははっきりとは見えなかった。ただ声の調子と物腰からして、若いということだけは察せられる。命の周囲にはついぞいなかった年代の人間だ。

「誰だ、おまえは。あやしいヤツだ」

 言葉ほどに警戒心を表出せずとも、かるく眉根を寄せて質問した。ひょっとしたら学校で稀に取り沙汰される『変質者』という奴かもしれないと、わずかに身構える。その手は早くもせなにある剣へと伸びかけていた。

「怪しいかな? そんなことないと思うんだけど。俺はちょっと道を聞きたいだけでさ、迷子ってやつでね」
「なんだ、迷子か!」

 あっさりとその言を信じると構えを解いて、命はにこやかに男に歩み寄った。「それでどこに行きたいんだ?」と、拍子抜けしたらしい男の顔を覗き込む。

「ああ、うん。それがね、たしか……」

 ごそごそとコートのポケットを探る男の顔は、間近で観察するとひどく優しげに見えた。比較的整った造作のためか顔立ちに特徴はないが、フレームのない眼鏡の向こうにある瞳は黒々として深い。柔和な顔つきからして、命とそう年齢に開きはないようにも見える。高校生だろうか、と命はあたりをつけた。

(いや、ひょっとして……)

 ある予想に突き当たる。真偽を確認すべく命は口を開きかけたが、それよりも先に男の方が話を切り出した。

「実は人の家を探してるんだ。このあたりでは結構有名な名前だと思う。美袋さんっていうんだけど」
「――あ、え? みなぎ……? うん……聞き覚えがある」
「ホント? そりゃ良かった。遠路はるばる来たのはいいんだけど、バスから降りたら田んぼのど真ん中だし人通りもまったくないしで、えらい難儀してたんだ。もしよかったら、どっちの方向に美袋さんちがあるかだけでも教えてくれないかな」
「ちょっと待ってくれ、ミナギ、みなぎ……いま、思い出せそうなんだ」

 メモを手に問う男に、首をかしげながら応じる。数秒沈思して、「おおっ」と命は手を打った。

「ど、どうしたの?」
「それはきっとわたしの家だ!」
「はぁ」

 ぽかんと口を開けた男は、手にした紙切れに書かれた文字と命を交互に示した。

「えと、それじゃきみが美袋さん?」
「うむ。わたしの名前は美袋命だ!」
「へえ……。いや、驚いた。こんな偶然もあるんだ。俺は高村恭司。東京で考古学の勉強をしてる。きみのお爺さんには前もって連絡しておいたんだけど、よかったら家まで一緒に連れてってくれない?」

 ふむ、と命は頷いて、高村と名乗った男を見上げる。

「――恭司か。……もしかして、恭司は私の兄上か?」
「うん? 違うと思うけど、なに、やぶから棒に。そういうきみは俺の妹なの?」

 面食らった様子の高村を、命は真摯に見定めた。

「恭司には、妹がいるのか……?」
「いや、妹みたいなのならひとりいたけど、血が繋がったのはいないな。俺はひとりっ子だよ」
「そうか、ちがうのか……」

 気落ちした様子を見かねたのか、高村は困惑しつつ命に説明を求める。

「わたしには、兄上がいるんだ」
 無意識に肌身はなさず携帯している剣の表面を撫でながら、命は訥々と語った。自分には幼い頃たしかに兄がいたこと。しかし顔はもうおぼえていないこと。父親といっしょに兄はどこかに養子に出されてしまい、以来自分は祖父と二人きりで山奥の家に住んでいること……。筋道立てて何かを話すということがひどく苦手な命も、この話題に関してだけはすらすらと口が動いた。祖父には咎められているが、兄の手がかりを得たい一心で、今よりもずっと幼い頃から方々で人に同じことを聞いて回っているのだ。説明にも慣れようというものだった。
 気づけば黄昏時はすっかり終わってしまっていた。命は高村を伴い、家の方角へと歩を進めながら、こう締めくくった。

「ジイは良い顔をしないけれど……わたしはやっぱり、たった一人の兄上に会いたいんだ」
「つまり、生き別れのお兄さんがいて、それが俺じゃないかって思ったわけ? なんでまた」
「……うん。おそらく、恭司くらいの年だと思うんだ。それで、わざわざジイのところに来たというから、てっきり」
「残念だけど、俺に生き別れの妹はいないよ。なにか手がかりとかないの?」
「ある……」

 これだ、と命は胸元から首飾りを取り出した。剣と同じく、彼女が決して手放さない、今となっては唯一にひとしい兄の手がかりである。

「兄上もこれと同じものを持っているはずなんだ。恭司、これと同じものに見覚えはないか?」
「どうかな――でも、無差別にってわけじゃないんだ。それでも人探しにはあまりに頼りないと思うけど……。ちょっとそれ、見せてもらってもいい?」

 真剣な表情で顔を寄せて首飾りを覗き込んできた高村から、命はわずかだけ身を引いた。
 高村は指先で装飾を慎重に確かめながら、首を捻ったり唸ったりしている。命は間近にその様子を眺めながら、妙に居心地の悪い気分になった。新鮮な感情だった。
 気もそぞろにさまよう視線は、最終的に高村の指で落ち着いた。柔和な顔立ちに似合わない、それは無骨なつくりだった。短くはないが、太く、節くれだっている。剣を振るうせいで繊手とはとてもいえない命のそれよりも、また年月に塗り固められた彼女の祖父の大きな手よりも、はるかに硬質だ。
 高村の手は――人の手というよりは、なにか、研ぎ澄まされ、手入れの行き届いた武器か何かのように思えた。
 美袋命という少女の興味は、常にすぐさま行為へと転換される。このときもそれは同じで、反射的に彼女の手は高村の指へと伸びていた。

「やっぱり、かたい、な」
「うん、どうしたの?」
「恭司の手だ。これは生まれつきなのか?」

 高村は苦笑して違うよと言った。それからやはり首飾りの持ち主に心当たりのないことを告げてくる。心からすまなそうな彼を見て命は、

「いい」

 と笑った。

「恭司が兄上でなかったのは残念だけど、もともとそんなに簡単には見つからないに決まってる。向こうからやってくるなんて思っていちゃだめなんだ。兄上に会いたいなら、わたしが自分で、自分の力で探しに行かなくては」
「そうだな」と高村も微笑んだ。「こうして会ったのも何かの縁だし、俺も帰ったら回りにそれとなく聞いてみるよ。生き別れの妹がいる知り合いはいないかって」
「……おお。本当か?」
「ああ。及ばずながらね。これからきみのお爺さんにはちょっと世話になるつもりだし」
「で、でも、ジイにはわたしが兄上を探してるということは内緒だぞ?」

 祖父は父を『裏切り者』と呼び、命に『兄とは会うな』と厳命している。理由はわからないが、どうしても命と彼らを会わせたくはないようだった。高村が命の兄探しに協力すると知れば、何らかの約束を取り付けているらしい彼に対しても強硬な態度に出る可能性もある。
 それを聞いた高村は、心得たという風に請け負った。

「オーケイ。じゃ、二人だけの秘密だ」

 飾らない言葉に、命は「恭司はいいやつだな」と顔を輝かせた。
 指きりまでしたあとで、二人は連れたって美袋本家への道程をたどった。
 会話は、命がせわしく何かを話しかけては、それに対して高村が答える形式に終始した。大人の男といえば分校の職員か祖父しか知らない命にとって、高村とのやり取りは目新しいものに満ちていた。勢い口数も増えて、話は様々な事柄へと及んだ。
 雑談に熱中している間に、夜はさらに深まっていった。舗装された道からも外れ、命と高村はほとんど獣道といった風情の場所にいた。周囲は草か、でなければ木ばかりで、人影などはもうどこにも見あたらなくなっていた。辛うじて道が敷かれてはいるがその幅は狭く、両脇からは枯草が突き出している。既に美袋の土地へと入ったのだ。
 あたりには街灯のひとつもなかったが、命にとっては慣れ親しんだ道だ。暗闇に不便を感じることはない。高村もとくに不思議には思っていないようだった。
 異変は、家まであとわずかというところで起こった。
 ――見えざる何かが空気を響もしている。

「待て」

 項の産毛を逆立てながら、命は後続の高村を制した。

「どうかしたのか?」

 背後で首を巡らせる気配を察しながらも、命は高村を顧みはしなかった。余人の手届かぬこの山中で、生まれて以来練磨されつづけた感性が、少女に知らせていたのだ。

「音がない。おかしい。静かすぎる。それに……ミロクが震えている」
「ミロク?」
「気を付けろ、恭司」

 ――危険の到来を。

「なにか、くる」

 音もなく剣を抜き払う。闇に鈍く輝く金属の光沢に、高村がひそやかに息をのむのがわかった。

「それ、本物か? 来る……なにかって?」

 わからない、と言いかけて、命は頭を振った。

「敵だ」

 言下に暗がりから闇がまろびでた。

「危ない!」

 警句とほとんど同時、闇が視認すら難しい勢いで飛来し、命がいた空間を圧倒的な質量が薙ぎ払う。狂猛な爪を具した、それは長大な腕だった。鋼のように黒く、年経た樹木さながらに太い腕だ。
 伏せて一撃をやり過ごした命は、不意の暴力の主を睨み据えた。
「おまえ……」
 命の代わりとばかりに草を薙ぎ払った腕は、やはり同じように黒い胴体へと繋がっている。黒い装束を身に纏っているのではなく、地肌の色なのだと知れた。鋼色の体躯ははちきれんばかりの肉を詰め込んで、今にも爆発しそうに見えた。
 巨体である。胴回りでゆうに命の三倍、背丈も二倍近くある。奇形ですらなく、人型を模しているのは何かの酔狂としか思えない。
 闇の中でホオズキのように紅く点るのは、おそらく双眸だろう。命の優れた視力は、凝視するうちに光の収まる器を浮かび上がらせた。厳しく歪められた顔は、怒り以外の感情を知らないようだ。そのように象られている。広く人が、鬼と呼ぶもののかんばせに相違なかった。

「おまえ、おまえ……」

 しかし、敵の異形であることなど、命にとって問題ではなかった。それよりも気にかけなければならないことがある。剣の刃を起こし、動揺と興奮のはざまを行き来しつつ、命は叫んだ。

「――どうしておまえから、ジイのにおいがする!」

 血臭が、鬼の口から漂って、命の卓抜した嗅覚を刺激していた。
 叫喚を嘲るように、鬼の口元が歪む。爪と同じように鋭い牙が見え隠れする。夜に順応した目は、牙に張りつく赤色を見逃さない。
 その意味するところを悟れないほど、愚昧な少女ではないのだ。
 刹那に、命の意識は沸騰しかけた。血が滾り敵を倒せと叫んだ。本能の手綱を放すべきときがきていた。彼女は本能で理解していた。
 わたしは、この日のために鍛えられた。

「恭司、逃げろ……戻れ、道を、まっすぐ」

 歯軋りの隙間から、かろうじて理性的な言葉をこぼすことができた。戦えないものが戦場にいても邪魔にしかならない。思う様磨き上げた技術を発揮するには、背後の男は余計だ。
 返答は呑気なものだった。

「うん。そうしたいところだけど、まずいな。他にもいるみたいだ」

 注意を眼前の鬼から逸らさないまま、命も左右へ意識を向けて気がついた。確かに狭い道を囲むようにして、いくつかの気配が草場に伏せているようだった。

「……そうか」

 長大な剣の刃筋を立てながら、身を起こす。なすべきことは単純明快。高村を守りつつ、周囲の異形を鏖にすればいい。そして一刻も早く祖父の安否を確かめるのだ。
 決めてかかれば、簡単に思える。
 造作もないような、気がする。
 揺らぎが払拭され、命の矮躯を闘志が満たした。

「安心しろ、恭司。わたしがおまえを守るから」
「そりゃ、ありがたい。俺もせいぜい、邪魔にならないようにするよ」

 草を踏む音。高村がコートを脱いだ。腕を上げ構えた。後頭部に目があるかのように、その様が見える。感覚が冴え渡っている。

「いくぞ、ミロク」

 呼応するように剣が震えた。
 ――待っていろ、ジイ。
 囁いて、命は跳躍する。
 血戦が開かれた。


 ※


「本当に、埋めるだけでいいのか?」
「――うん。いいんだ。いつもジイは、死ぬときはこの山に還るって言っていたから」
「条令違反だと思うんだけどな。これ、死体遺棄になるのかな……」

 腫れぼったい目で、農具で地面を繰り返し穿つ高村を見ていた。
 祖父を埋葬するための穴を掘っているのだ。
 鬼たちを一掃して家にたどり着いたとき、祖父はもう事切れていた。死体が人のかたちを保っていたのが、せめてもの救いだろう。掃除の手間もさほどかからずに済んだ。しかしもちろん、そんなことは命にとって何の慰めにもならなかった。死体を発見した彼女はひどく取り乱し、先ほどまで高村になだめられていた。泣き顔も見られてしまった。今は落ち着いたが、ばつが悪く、それ以上に空虚な心地で、高村の作業を見守っている。
 傍らには目蓋を伏せられた『ジイ』の遺体が寝かされていた。五体満足だが、首はなかばから肉が噛み千切られており、赤々とした肉の断面や白い頚椎がのぞいている。ときおり目を移しては、居たたまれなくなって逸らすことを、命は繰り返していた。
 悲哀も寂寥もあったが、もっとも大きな感情は不安だった。いま、この世に美袋命は一人きりなのだ。生き別れの兄や父はどこかにいるのだろうが、探すにしてもその情報を持っていたであろう祖父は、もういない。
(――どうしよう)
 何をすればいいのか、わからない。

「恭司、やっぱりわたしも手伝う」
「いいから。いまはおじいさんのそばにいてやれ」

 断乎とした口調は、逆らうことを許さない。祖父と同じような頑固さを高村の中に見出して、命は口元をほころばせた。

「ありがとう」
「なにが。人として当然のことをやってるだけだよ、俺は」

 息を弾ませながらの答えは、命にとって少なからず意外だった。

「……そうなのか?」
「そうなのだ」
「そう、なのか――」

 羽織らされたコートの襟を合わせる。しばし、土を金具が刺す音だけが森に響いていた。
 頭上では、半月が晧々と照っていた。そのすぐ隣に、芥子粒ほどの光点があるのを命は発見した。今までは真冬の、風が澄んだ夜にしか見えなかったものだ。
 茫洋と光る、禍々しい赤色。
(媛星――)
 その星を指して祖父がそう呼んでいたことを、命は思い出していた。

「ジイ」

 嗚咽の衝動がぶり返し、命は高村のコートに顔を埋めた。
 鳴れないにおいが鼻腔を満たす。落ち着かない気分になった。

「ジイ」

 名を呼んでも、屍は答える言葉を持ちはしない。
 不意に頭に手が置かれた。ごつごつして硬い、しかし優しい指が命の髪を梳いた。
 これが兄の手ならばどれだけ心強いだろう。どれほど励まされただろう。こぼれる涙などたちどころに止まり、無理にでも笑顔を浮かべられたに違いない。
 いや、兄さえいればそもそも我慢する必要などなくなるのだ。妹として甘えることが許されるのだ。ならば命は悲しみのままに胸にすがりつくことができる。
 しかし今この場にいるのは、今日出会ったばかりの高村だけだった。命の頭を撫でる手も、兄のものではない。
 見あげた先には、もらい泣きしそうな顔をしている男がいた。
(兄上に、あいたい)
 弱さを見せたくはない。
 うつむき、命はさらにきつくコートを抱いた。
 高村が兄であったならどれだけいいだろうと思った。

 盛夏にはまだ遠い初春の夜、美袋命は独りになった。

 
 



[2120] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/02 20:46


ワルキューレの午睡




2.She spider






 結城奈緒が力を手に入れたのは、風華学園に転入してきて間もない頃の夜だ。
 浮かれていたし、解放感に満たされてもいた。一抹の気がかりは常に心にあったが、遊興にふければそれも忘れる事ができる。なにしろ彼女の夜はとても長かった。
 無条件で特待生として招きたい――いったい自分の何が琴線に触れたのかは知るよしもないが、よりによって名門の風華学園からの誘いである。書類を手に現れた学園の遣いを名乗る男に目を丸くして、彼女の保護者はししおどしみたいに頷き、了承のサインを預けた。
 兵庫と四国のはざまに浮かぶ片田舎でも、今の環境から逃れられるなら忍耐も苦ではない。奈緒ははじめそう思っていたのだが、新しい環境は思ったよりもずっと刺激に満ちていた。新しい部屋に新しい学校、そして新しい街。取り澄ました理事長を名乗る子供には胡散臭さをおぼえたが、ぶらさげられた好条件の前に、その程度の違和感はなしの礫だった。
 寮が相部屋なのは残念だったが、堪えることはできた。同室の上級生が奈緒に必要以上の干渉をする性格でなかったのも都合が良かった。
 問題となったのは遊ぶ金だ。親元からの仕送りもない身では、ろくに買物もままならない。月三万円の奨学金など、一度の買物で消し飛んだ。手軽に稼ぐ方法を彼女はもちろん知っていたが、実行するつもりはまるでなかった。男を相手に体を使っての『取引』など冗談にもならない。一部の同級生や街で知り合う女はじっとしてればすぐ終わると嘯き自らの低能を露呈して、奈緒はすぐに彼女らから離れた。同類と見られるのは我慢がならなかった。群れるのも元々性に合っていなかった。奈緒はこう思っていた。仮に男から金を得るのであれば――
 それは搾取でなくてはならない。
 しかし、腕力で圧倒的に勝るのが男だ。少女でしかない奈緒に、男を蹂躙することはかなわない。その逆は充分起こりえるのに、である。
 不公平だと思った。
 その現実を打開する方法は、独力では恐らく、ない。
 結果としていかに上手く、コストを最小限に調節しつつ男に金を出させるかが暫時の課題となった。しかし幾度か危い目に遭う内に、だんだんと街へと向く足も鈍り始める。彼女の長い夜は倦怠の一色に塗りつぶされそうになっていた。
 そんな折、怪物に出会った。
 比喩ではない。真正の化物だ。
 持ち合わせもなく風華町と月杜町の狭間をさまよう奈緒の前に、それは現れた。
 男でさえ手に余るのに、仰ぐほどの巨体を有する相手に抗えるはずもない。奈緒は一も二もなく逃げ出した。しかし怪物は奈緒を追ってきた。道々には他の通行人もいたにもかかわらず、怪物は彼らは襲わず――それどころか、余人の目には見えていないようですらあった。

「このままじゃ食べられちゃうよ、奈緒ちゃん」

 息せき切って駆ける奈緒の前に、いつの間にかそれはいた。闇夜に目立つ白髪を立てた、小柄な少年だった。民家の石塀の上に佇み、彼は告げてきた。

「力を使うんだ。キミにはその資格があるんだよ。さあ、このままじゃオーファンの餌食だ。獲物になるなんてそんなの、キミはイヤだろう? ぜったいに御免だ。そうだよね――」

 少女は年下と思しき少年に助けを求めたが、彼は飄然微笑むばかりだった。

「キミを救う力はキミ自身の中にある。億劫な時間の中でまどろんでいたけれど、今は目ざめつつある。さあ、立ち向かって。そして思い浮かべるんだ。キミには大切なものがあるだろう? 掛け替えのない、自分の命なんかじゃあがなえない、そんなモノが、あるだろう?」

 ないわよ、そんなもの――。

「嘘だね。奈緒ちゃん、嘘はいけないよ。それとも気づいていないのかな?――ま、どちらでもいいよ、どちらでもキミは守らなくちゃいけないんだ。何を引き換えにしてもそれを守らなきゃいけないんだ。誓えるかい、奈緒ちゃん?
 ――大切なヒトを守るために、自分の一番大事なモノ、賭けられるかい?」

 後に思うに、あれは悪魔との取引だったのだ。
 しかし、すぐそばには命の危険が迫っていた。
 
 結城奈緒は承諾し、そして退屈な夜に君臨する力を得た。
 

 ※


 赤、青、黄色。夜にだけ咲くけばけばしい電飾は、獲物を招く食虫花の極彩色めいていた。男たちはその花の匂いにふらふらとつられ、束の間の幻に浸り無聊を慰める。無為だが、代償は二束三文で済む。実に手軽な発散行為といえるだろう。
 今夜も街のどこかで、気の大きくなった誰かが笑声を弾けさせていた。

「――うるさい」

 結城奈緒は毒づいて、目元を歪めた。
 馬鹿な男の下卑た笑い声は、昼間の蝉しぐれよりも耳障りだと奈緒は常々思っている。男という性からしてほとんど憎悪しているといっていい彼女だが、その中でも取り分け忌むのは不細工と低能と、そして勘に障る笑い声の持ち主だった。
 時計代わりに使っている携帯電話の液晶を見れば、時刻は二十一時に差しかかろうとしているところだ。補導員が警邏を始める時間帯が近づいても、奈緒は特に気にかけなかった。通っている学園の制服を着たままの彼女などは格好の餌食だが、たとえ見咎められたとしても、なんとでも切り抜ける自信はある。

(今は、それよりも)

 繁華街に連れてきた友人の首尾が問題だ。
 今夜は六月に入り本格化した梅雨の貴重な晴れ間だったが、蒸し暑さは普段より増している。襟元に風を送りながら奈緒は目を細め、友人……美袋命という名の、一風変わった転入生が向かった通りを見やった。
 ここ数日で、彼女らは何度かの『共同作業』をこなしているのに、誘い方ひとつとっても命には慣れが感じられない。おそらく、絶望的なまでに向いていないのだろう。奈緒にもそれはわかっていたが、面白いのであえて命にその役目を振っている。
『狩り』に他人を、ましてやクラスメイトを同行させるなど、奈緒にとっては異例のことだった。
 生き別れの兄を探しているという野生児然とした命は、素行の異常さから早くもクラスでは浮き始めている。当初は風変わりでも表情豊かな命は可愛がられていたが、一学期も終わりに差しかかろうという今では、彼女の『天然』ともいうべき性格に、徐々に〝退いて〟しまうものも多かった。
 命に身寄りがいないことは、寮通いの生徒も多い風華学園ではそうマイナスに働くこともない。遠ざけられるのは単にその奇怪なパーソナリティからだ。他人と関係を結ぶ場合、特に友好的な繋がりを求めるのなら、相手が期待するとおりの自分を演じる必要がある。少なくとも奈緒はそう確信している。他者は全て加工された鏡に過ぎない。自分がどう映っているのか――自分にどうしてほしいのか――自分の望みをどう満たしてくれるのか――『友人』というカテゴリが内包する属性はそういったもので成り立っている。
 だから、〝足りない〟のだと一部で囁かれるほど天真爛漫な命には、たとえ本質がどうあろうとそのように振る舞う事が求められていた。元気で愛らしく、ものを知らない美袋ミコトは、仔犬や仔猫のような無知さと愛嬌だけを周囲に示していればよかった。
 だが命は、明るく活発なだけの少女ではない。常に背にある奇妙な剣と同じく、暗色の鋭さを帯びるものである。本質には昏い孤独のうろがとぐろをまいている。明確ではなくとも、奈緒は命からそういったにおいを嗅ぎ取っていた。おそらくは、命から距離を取り始めたクラスメイトも同じだ。
 転入からじき二ヶ月が経つ。そして美袋命という少女はまれに抜き身の刃じみた鋭さと凶暴性をのぞかせる人間だと、共に机を並べる彼女たちは気づきだしていた。彼女は無垢な小動物などではなく、あくびが多いだけの獅子なのだと悟りだしていた。
 つまりは、美袋命は愛玩するには手に余る存在なのだった。
 結果として、命は当然のように敬遠され始めた。
 奈緒と他のクラスメイトの差異は、命が持つその危さを受容できるか否かだ。
 さらに、奈緒と命の間にはもうひとつ共通点があった。二人が休日まで共に過ごすようになったきっかけも、同じものだ。

「……つーか遅い。なにやってンだか、あの子」

 待ちくたびれて、奈緒はモニュメントにもたれるのを止めた。舌打ちして、待ち合わせ場所にもよく使われている広場一帯を品定めするように見つめる。視線にはわずかに苛立ちが宿っていた。命が手間取るのもいつものことだ。しかし三十分近くも手持ち無沙汰にしていて、自分に声をかける男がひとりもいないのは妙だった。

(ここんとこ、派手にやったからなぁ)

 県につながる大橋さえなければ、ほとんど離島に近い風華市である。奈緒が繰り出す月杜町は地方都市の繁華街としては栄えているが、充分に広いとは言えない。また平日の夜に街に出て遊ぶような人間は、半分以上が変わり映えしない面子だ。奈緒自身は通行人の顔など覚えていないが、他の人間がどうであるかはわからない。
 奈緒は美しい少女だった。
 翻ってそれは彼女が目立つことを示している。〝遊ぶ〟ときには容姿に気をつかうし、流行を追う機微も備えている。田舎町には不釣合いな逸材だとも自認していた。迂遠に誘導して問うまでもなく、余人も同じ評価を下すだろう。しかも名門とされる風華学園中等部の制服に身を包んでいる。結城奈緒には、人目を引く要素が十二分にあった。
 そんな彼女が夜毎繰り返す行為を知っている人間は、十人や二十人では足らなくなっているかもしれない。

(ハシャぎすぎたカナ、こりゃ)

 反省する。浮かれていたことは否めない。しかし自制する気は欠片もなかった。これから気をつければいいだろう。
 嘆息した矢先、低い排気音が奈緒の耳に届いた。
 聞き覚えがある気がした。首を巡らせて音源を探すと、すぐに車道で信号待ちにあっている大型の単車を発見した。ドゥカティだぜ、と近場の少年が口笛を吹いて指差している。奈緒にはなんのことだかわからないが、恐らくはバイクの名前なのだろうと推察した。

「すげえ。あれ乗ってるの女じゃね?」

 全身を覆うライダースーツが浮かばせる肢体のラインが、運転手の性別を教えている。
(なにアレ、こんな真夏に。超ムレそう……)
 やや呆れながら、奈緒は換気のためかフルフェイス・ヘルメットを脱ごうとしている女の顔を拝んでやろうと目をすがめた。男勝りに大型の単車を乗り回すような女だ、どうせブスに決まってる。偏見でそう決め付けた。
 すぐに間違いだと思い知らされた。ヘルメットの下から現れたのは、髪の長い、控え目に評しても綺麗な、若い女だった。通りすがった男も、感嘆の息を漏らしている。
 その物憂げな瞳にも小作りの目鼻立ちにも、奈緒は知っていた。学年はひとつ上で年齢はふたつ上の、同じ学園の高等部に在籍する有名人だ。
 名前をたしか、玖我なつきといった。
 容姿も成績も周囲から頭ひとつ抜けているにもかかわらず、遅刻欠席早退の数がそれを帳消しにして余りあるほどであるため、学内では悪い意味で噂の絶えない少女である。中学に上がる前に留年しているという話もある。風華学園の規模は県内どころか全国でも有数だが、毎日大型の二輪で重役出勤をはばからない才媛がいれば、話題にあがるのは避けられない。

(たっかそうなバイク乗り回しちゃって……夜のツーリングってワケ? だったら海岸の方にイケっつーの)

 ろくに言葉を交わしたこともないが、奈緒はなつきを嫌っていた。かつてなつきに告白した男子生徒がふられた折に見物した、けんもほろろな態度が気に障ったのだ。
 水晶宮と呼ばれる学園の名物ターミナルでの一幕は、ある時期ちょっとした語り草にまでなった。半ば形骸化しているとはいえ今どき不純異性交遊の禁止を掲げる学園で、白昼堂々問題児の玖我なつきを呼び出し告白を敢行した男に対する、女の答えはすげなかった。

『おまえ、校則を知らないのか? この学園で恋愛はご法度だ。どうしても恋愛がしたいのなら、転校なりなんなりしたほうがいい』

 ピントのずれた断り文句に対して、校則を理由に自分を振るのかと、男は食い下がった。

『ちがう。そもそも、わたしにはそんなことをしている暇はないんだ。知らなかったか? 知らなかったのなら、おぼえておけ。――今後は他をあたるんだな』

 男に特に思い入れがあったわけではなく、ただ玖我なつきという女に嫌悪を感じた。男口調が鼻についた。さりげなく装われたアクセサリの高価さに反感をおぼえた。優れた容姿、能力、環境を与えられたもの特有の傲慢さと、であるにもかかわらず追い詰められたかのような雰囲気をまとっているのも、気に入らない。

「ん?」

 奈緒の視線を気取ったように、ヘルメットを被りなおしかけたなつきが、冷めた目を返してきていた。広い額にかかる柳眉は軽くひそめられている。制服姿を見咎めたのだろう。
 奈緒は冴えた眼差しを悠揚と受けとめた。可能な限り相手を不快にさせる表情作りにつとめながら。
 交錯は数秒にも満たない。なつきはすぐに小さく鼻を鳴らすと、関心を失ったかのようにヘルメットを装着した。信号が蒼いダイオードを発光させていたのだ。
 奈緒もそれ以上はなつきには構わず、踵を返して歩き出す。
(お)
 その進路に、若い男が立っていた。童顔に眼鏡がやや不似合いな、年ごろは最大でも二十歳そこそこといった雰囲気の青年である。顔立ちは悪くないが、ファッションはいわゆる街で遊ぶ人間のそれではない野暮ったいものだった。実体はともかく、外面から軽薄そうな印象は受けない。いつもは声をかけるのを避けるタイプだ。
 しかし、男の目線は目の前の奈緒ではなく、その背後へ向かっていた――バイクに跨った玖我なつきが停まっていた場所に。
 趣味とは違うが、あやをつける理由としては充分だ。
 奈緒は意識せず舌で唇を湿らせた。
 もう、命を待つ気は失せていた。

「お・に・い・さん」

 声をかけると、驚いた風もなく男の眼は捉える対象を奈緒へと移した。しかし呼ばれたのが自分だとは思っていないらしく、そのまま素通りしようとする。奈緒は男のジャケットにわずかに触れて、再度しなをつくり囁いた。

「もう、無視なんてひどい。おにいさんだよ、いま、アタシが呼んだの」
「え、俺? なんで?」

 男が目を瞬き、足を止める。すかさず距離を詰めて、しかし体は触れないようにつとめつつ、奈緒は上目遣いに男を見つめた。

「いまぁ、チョッとヒマなんだよね。よかったら遊んでくれません?」
「……もしかして逆ナンってやつ?」
「ヤだ、そんなんじゃないですヨ。ちょっと遊ぶだけ。でも、お兄さんならいいかもー」
「あ、ありがとう。でも」

 言いかけて口をつぐんだ男が、まじまじと顔を寄せてくる。

「きみ、前に俺とどこかで会った?」
「――へ?」

 演技を忘れ、奈緒も眼前の顔を見返した。ひょっとしたら以前に『援助』してもらった男かも知れないと思ったのだ。
 しかし、心当たりはなかった。

「ない、……と思うけど。なに、それ。口説き文句にしては古くなーい?」
「いや、そういうんじゃないよ。おかしいな。気のせいか」
(ありゃ。コイツはハズしたかぁ?)

 本気で首を捻る男に内心で眉をひそめながら、愛想笑いを浮かべる。

「お兄さん、おっかしいんだ。そんなのいーからさぁ、ね? ちょっと遊びに行こうよ。すぐ近くに、いい場所しってるんだぁ……」
「あ、ちょっと」

 半ば強引に腕を取った。体をぴったりと寄せて、小振りな胸を擦り付けるのも忘れない。多少食いつきが悪かろうが、人気のないところまで誘い込めば目的は果たせる。
 普段ならば連れこむまでの駆け引きも遊びの範疇だったが、玖我なつきへの苛立ちが尾を引いているせいか、この夜の奈緒には趣向を凝らすようなつもりは毛頭なかった。

「きみ、中学生だろ」

 優柔不断なのか、ずるずると引きずられながら、男が咎めてくる。奈緒は笑ってその険を受け流した。

「うん、そう、チューガクセー。お兄さん、若いのは嫌いなの?」
「中学生に限らず、年下全般、正直萎えるよ。……いや、そういうことじゃなくてな。ってか手! 離してくれないか?」
「だぁめ」

 広場脇の小道を折れて、並木の陰に隠れるように歩いていく。駅の近辺と繁華街は開発が盛んなだけあって、夜となれば人気の少ない工事現場がいくらでもある。奈緒は月杜町に点在するそれらの空白部分をほとんどおぼえていて、しかも頻繁に利用していた。なぜかといえば――

「そうお堅いこと言っちゃいや。ね、ここで、イイコトしてあげるからサ」

 掲げた手に、敵意の思念を纏わせる。間をおかず指先から腕にかけてが、熱い感覚に浸された。
 またたきの後、男に突きつけられた奈緒の右手には、金属質の鋭利な爪が出現していた。

「え?」

 呆然とした声。ほくそえんで、奈緒は舌を手の甲に這わせる。

「ちょ、っと。なんだそれ? 爪か? いま、どこから出した?」
「アンタには関係ないから」

 声をつくることをやめて、爪は逸らさないままに男の体を強く押す。
 が、びくともしない。触れた感触は厚いゴムのようだった。
(こんな顔で、意外と鍛えてる? ま、アタシには関係無いけど)

「関係ないって……危ないって! ちょっと刺さってる、刺さってるから!」
「うっさい。黙れ。とりあえず、財布。出してよ」


 ――こういった用途のために、うら寂しい場所は必要だったのだ。
「じゃないとザックリ、イッっちゃうよ?」
「うわっ、待てって! 血! 血が出る!」

 首筋に軽く凶器を刺された状態で、男が降参だというように手を上げた。

「だから嫌だっていったんだよ。よりによって美人局かよ……しかも単独で。怖い兄ちゃんが出てくるくらいのことは覚悟してたけど、まさかフレディもどきにカツアゲされるとは思ってなかった……」
「ああ、あの映画けっこう好き。ストライプいい感じだよね。……でもゴメンねェ、普段ならもうちょっと余裕っていうか、遊んであげてもよかったんだけど。今日アタシ、ちょっとムシャクシャしててさ」

 軽薄に笑って、手甲の指先から鋭い棘を伸ばす。

「運が悪かったって諦めて、ウサ、晴らさせてよ」
「――わかったよ。金を出せばいいんだろう」

 ぶつくさ呟きながら、懐から平べったい財布を取り出す。この素直さには奈緒も一瞬呆れて、

「おっと」
「あ、」

 男の手から財布が滑り落ちた。
 落下する物体を、瞳孔は追ってしまう。それは生理的な反射だ。
 瞬間に、奈緒の手首は拘束されていた。
「え――?」
 俯いた頭を押し下げられる。体勢が崩れ、腰が折れる。上方からのベクトルが膝にまで達したとき、男を牽制していた右手は、関節を極められていた。手首、肘、肩甲骨までが、円滑な連動によって掌握される。骨と筋肉が軋むのを感じながら、痛みから逃れるべく奈緒は身をよじらせる。
 そして宙に舞っていた。
(はァ!?)
 男に掴まれた右手が、人形の操り糸のように肉体を翻弄する。足は空へ、頭は地へと向かう。見る間に迫るアスファルトを前にして、奈緒は自由な左手で顔をかばった。
 肉薄する衝撃と痛みを予感して、目を瞑る。
 ――しかし、いつまで経っても何も起こりはしなかった。ただ、頭上から声が降ってくるばかりだ。

「……女の子を顔からは落とさないよ、いくらなんでも」

 はっと目を遥か上へと向ければ、男の手はいつの間にか奈緒の踝へと移動していた。逆さ吊りの体勢で、奈緒の体が地面に激突しないように保持している。
「こんッの……!」
 屈辱に激情が火を吹いて、奈緒は自ら地面に手をついた。腕を交差させ、体を旋廻させる。回転が男のいましめを弾き、奈緒は距離を取って立ち上がった。
 軽業師の所業だ。男は驚きに目尻を裂きながら、奈緒の顔を見つめた。

「すげえ運動神経」
「……ハン、今ので落としておけば良かったのにネ。損しちゃったよ、お兄さん。フェミニズムだかなんだか知らないけどさァ、――パンツ覗きながらブってんじゃねェっつーの!」
「口悪いな、おまえ。もしかしなくても、そっちが地だろ」

 落ちた財布を拾う、男の声音は強張っている。太股にズボンの布地を皮膚ごと裂いた、大きな傷が生まれていた。離れる瞬間、奈緒が爪で掻いたのだ。
 痛みにか傷つけられた事実にか、男の顔がしかめられる。

「いきなりかよ。人の一張羅、台無しにしてくれた。弁償ものだぞ」
「知るかよ、そんなこと」

 左手にも鉄爪をまとわせつつ、奈緒は嗜虐の興奮に打ち震えた。そして、

「次は一生消えない傷、作ってアゲル。――ジュリア!」

 召喚の声に、空間が慄えた。同時――
 男の表情が、愕然としたものへ変じる。目先は奈緒からその背後、さらに巨大なものへと向かいつつあった。
 奈緒も半身に振り返り、己が『子(チャイルド)』を誇る。
 三メートルに届く体長。蜘蛛を模した腹部からは鋭い節足が伸び、その中央には彫像のような女性の上半身が屹立する。
 紛うことなき異形の被造物が、寸前まで何も存在しなかった空間に、鎮座していた。
 乾いた声が、怪物の名を呼んだ。

「絡新婦(ジョロウグモ)……?」
「なに、それ」
「……妖怪の名前だけど、知らない?」
「知らなぁい。興味もなァい」

 軽やかに笑む。男がふっと嘆息した。今のやりとりで、多少なりとも混乱からは脱したようだった。深呼吸を言葉の合間にはさみながら、すり足で奈緒から離れていく。理性的な判断だ。奈緒は嬉しくなった。彼女のチャイルド――ジュリアを間近で見せ付けられた男は、大抵萎縮して動けなくなるか、錯乱しながら立ち向かうか――あるいは逃走といった、衝動的な対応に走る者がほとんどである。
 今夜のように、ジュリアではなくあくまで奈緒こそが脅威なのだと見抜くのは、稀なことだった。

「こんなことやってないで、ちょっとは本とか読んだほうが良いぞ」
「……余裕ジャン。漏らしそうなほどブルってるくせに」
「そりゃそんな蜘蛛見たら普通怖い。……しかし、アナ・ジョンソンの歌みたいな子だな」
 苦笑いの浮かぶ唇も、やや引きつっている。その名前は奈緒も知っていた。こちらは対照的に余裕の微笑で混ぜっ返す。
「いいこと言うじゃない。そ、だからわかるでしょ。ザ・ウェイ・アイ・アムってわけ」
「曲解だろ、それは」

 男はじわりと後退する。瞳は忙しなく左右に動き、どうやら逃げる機を窺っている。
 ここまで来て、逃がす手は無論ない。
「そうなの? ま、どうでもいいわ。それじゃあジュリア――」
 食べちゃいな――そう指示を下そうとしたとき、場に新たな声が割り込んだ。

「そこまでだ」



 涼やかな声だった。目をやれば、通りへと続く小道に、ライダースーツを着込んだ髪の長い女が佇んでいる。瞳は射抜くように奈緒と男を捉えており、両の手には二人それぞれに照準を合わせた小型の拳銃のようなものが握られている。
 見覚えがある闖入者の名を、奈緒は咄嗟に口にした。

「玖我、なつき?」
「ああ、わたしを知っているのか。そういえばその制服、中等部のものだったな」

 おもちゃのような銃口は微動だにしない。奈緒も迂闊に動けない。男は黙したまま苦りきった顔をなつきに向けている。

「それ、エレメントだよね。驚いたぁ。玖我センパイもHiMEだったんだ?」
「答える必要があるか?」

 高圧的な視線と射線が、奈緒の細身を貫いている。いつでもその場から移動できるよう重心を変えながら、奈緒は装着した爪の刃を軋ませた。

「……アンタ、いきなり来て、なにいばってんの?」
「先輩が後輩に威張るのは当然だろう? それとも男漁りが趣味の貴様には、そんな常識もわからないか。まあどっちでもいい。今すぐチャイルドを戻して、この場から消えろ」
「ハァ? 何いってんの。意味わかんない」
「見逃してやる、と言ってるんだ。いつもこんなことをしているのか? 正直貴様は気に入らないが、今晩だけならお仕置きは勘弁してやるぞ。いい話だろう?――次はないがな」

 思ったとおりの、いや思った以上にムカつく女だ。奈緒は頬を引きつらせた。

「……つーか、アタシ、そこのお兄さんと楽しんでたんですけどー。センパイってノゾキが趣味だったりするんですかぁ? あっはは、もしかしてそっちの趣味に夢中であんまり学校に来ないんだったりして」
「消えろ、と言ったぞ」

 挑発を無視して、なつきは一歩、その場から踏みだした。
 奈緒の感情が発熱の段階を通り過ぎて、急激に冷却されていく。なつきの一言一句が漏れなく神経を刺激した。蟲にでも齧られているようだ。

「……あたしに、命令すんな」
「怒ったのか? ふん、余裕がないやつだ。だが生憎と、その男はわたしが先約でな」
「なに、もしかして彼氏? 趣味わる――」

 軽口を叩きながら男を顧みようとした。
 ――いつの間にか姿が消えていることに気づいた。
 奈緒の脳裏に、数分前に腕を捻られた情景が蘇る。思考より早く、叫びは口を衝いていた。

「っ、ジュリア!」
 異形の蜘蛛が動き出す。奈緒が飛び退いた空間を玖我なつきの銃弾が穿った。姿勢を低くしながら男の姿を探す奈緒の視界を、黒い影が遮った。

「誰が二回も引っかかるかってぇのッ!」

 影に向けて貫き手を放つ。結果は空振りだった。突き出した手はあっさりと横合いから叩かれて軌道を逸らされている。あげく肘をつかまれ引き寄せられ、体勢が崩れた瞬間に足を払われた。
 呼吸するように容易く奈緒を転ばせた男は、もう奈緒を見ていない。迫り来るジュリアと玖我なつきを鋭い眼差しで睨んでいた。
 バックステップで奈緒の体を飛び越える。その際に男の片手が奈緒の腕をつかんだ。
 引き上げられ、膝を突いた姿勢から、強引に立ち上がらされる。
 男の左手が奈緒の右手を極めて、極められた奈緒の右手は自身の左手を極めていた。
 自分の体なのに、どう固定されているのかすぐにはわからないほど複雑な関節技だ。ぴくりとも動かない。冷や汗が奈緒の背を伝う。

「動いたら、二度と腕が動かなくなるよ」

 囁きは悪い冗談に思えた。構わず抵抗しようとすると――戒めるように、さっきとは比較にならない痛みが奈緒の全身を硬直させる。

「ッ、ぁ、いっ」

 満足に声も出せないほどだった。奈緒は男に盾にされる形で、玖我なつきと自らのチャイルドの矢面に立たされる。
 ――ジュリアは躊躇し、なつきは停まらない。

「退けッ」
(無茶言わないでよッ)

 涙目の反駁は声にならない。
 接近する鋭い眼は、背後で奈緒の腕を極める男へ向かっている。駆け抜ける勢いでなつきは進路を僅かに曲げて、奈緒の右側から鋭い蹴りを放った。
 呼気が漏れ、転瞬なつきの体はバランスを崩していた。奈緒のときと同じだ。一撃を躱され、カウンターで軸足を刈られている。しかしなつきは転倒することなく着地すると、低い姿勢から男に向かって銃口を定めていた。
 銃声は響かない。
 替わりにかつん――と軽い音が空気を叩いた。
 男の爪先が、なつきの手から銃身を弾き飛ばしている。反応してからできる仕業ではない。明らかに相手の思考を読みきった上での動きだ。
 なつきは舌打ちを落とすと、中空にある武器に構わず立ち上がって、残った銃を構えた。今度は確かな銃声が奈緒の耳を打つ。しかし弾丸が男を抉ることはなかった。なつきの銃は腕ごと男の手にいなされて、見当違いの方向へ発砲していたのだ。
 攻防は止まらない。
 半歩右足を引いて半身の姿勢になった玖我なつきは、眉間に皺を寄せている。

「貴様、やっぱり」
「ちょっと待て、えっと……そう、玖我! 話せばわかる!」
「問答ォ――無用だっ!」

 なつきが完全に奈緒の視界から消えた。腕を極めたままの男の背後を取ろうと目論んだのだろう。
(ちょ――そっちでやり合うんなら手離せよっ、このクソ馬鹿!)
 狙いが自分ではないとはいえ、見えない場所から攻撃される恐怖は想像以上のものだった。満足に動くこともできないとなれば尚更だ。下手をすればなつきの攻撃の勢いで腕が折れてしまうかもしれない。
 だが予想に反して、震動は下からやってきた。
 正確には地面が震えたのだ。奈緒はそう錯覚した。コンマ一秒も遅れずに、空気が破裂するような音が聞こえた。男の足が地を踏んだ音だとは、考えつきもしなかった。

「あ、まずい」

 頭の上で空気が抜けたような声がした。首を関節の稼動限界まで酷使して、男の向こうを視界に納める。
 数メートルも離れた場所で、玖我なつきが倒れていた。体をくの字に折って、悶絶している。
(……コイツがやったワケ?)
 少しだけ愉快な気分が、奈緒の苛立ちを癒した。鼻持ちならないクールぶった女が、表情を崩して苦しむ様は見物だ。

「だ、大丈夫か、玖我」

 自分で吹き飛ばしたのだろうに、男が弱腰で呼びかける。
 顔面に脂汗を浮かべたなつきが、凄絶な笑みを浮かべて上体を起こし始めていた。両手は腹部を押さえている。恐らくそこを打たれたのだろう。

「ま、だまだ……ッ」

 かろうじて立ち上がるが、膝はタップでも踏むかのように震えていた。
「最近の女の子、逞しすぎるぞ……」
 戦慄したのか、腕を拘束している男の手がわずかに緩んだ。機を逃さず身をよじって、奈緒は叫ぶ。
「――ジュリアっ」
 身動きを封じられていた絡新婦のチャイルドが主の求めに応え、節足のひとつを突き出した。狙う先は無論、男だ。
「とっ」
 目ざとく動きを察知した男は素早く奈緒から手を離すと、転がるようにジュリアの一撃をやり過ごした。片手間になつきを相手にした手際に比べると、幾分無様に見えた。
 体勢を立て直した男を前に、奈緒は獰猛な笑みを浮かべる。

「好き勝手、ヤってくれたじゃない」
「そっちが吹っかけてきたんじゃないか」

 取り合わず、奈緒は爪――エレメントと呼ばれる武器に、思念を込める。
 男は素手での戦いに関しては相当な実力を持っていると、この期に及んで分析できないはずはない。しかしやりようはいくらでもあった。一度離れてしまえば、奈緒とジュリアの敵ではない。
 踏み出しかけた足下で、甲高い音が炸裂した。
「……相手が違う、ぞ」
 玖我なつきだ。震える脚を腕で無理やり押さえ込みながら、覚束ない手つきで銃を構えている。声にも張りが欠けていた。
「玖我、無理するな。立ってるのも辛いはずだ」
「黙れ……一番地の、犬、め……」
「だからなんなんだよ、それは」
「とぼけるな……! 証拠は上がってるんだ……五月の頭に、貴様があの娘をこちらに寄越したんだろう……?」
「あの娘って、まさか」
「……あれも、HiMEだった。まさか知らないとはっ、……言わない、だろうな」

 男が僅かに眉をひそめた。対してなつきは顔面を蒼白にしながらも、視線を決して緩めない。

「無理して喋るな、玖我。何度も言うけど、俺はおまえが何を言ってるか、わからない」
「はぁ、お……大方外部捜査員か、ひ、HiMEを輸入するための末端だろうが、……ようやくつかんだ連中の尻尾だ。に、逃がして、たまるか……」

 感心と呆れを半々に、奈緒は興を削がれた不平を漏らした。

「……頑張りますね、センパイ。何の話か知らないけど、邪魔しないでほしいんだよね。それとも先にトドメ、刺してほしいのかなぁ?」
 しかしなつきは、あくまで奈緒に取り合おうとしなかった。
「邪魔、だ」
「ふーん。……それならそれでもいいよ、あたしは。せっかくお互いこんな便利な力、貰ったんだし。弱いものイジメばっかりじゃツマんないもんねェ? HiME同士のバトルってのも愉しいかも――。じゃ、ほら」

 空間を爪弾く。陶酔が身を焦がしていく。
 艶笑が、奈緒の面を彩った。

「呼んでみてよ、アンタのチャイルド――」

 なつきは蒼白な顔で、しかし不敵に笑う。

「――望む、ところだ」

 ジュリアが哭く。
 男が身構える。
 奈緒は期待と緊張に打ち震える。
 そして、なつきの口から吐瀉物が撒き散らされた。


 ※


「…………うわ」
「…………うわぁ」
「おるろろろろろ……」

 散々堪えた果てでの決壊なのか、なつきの口から逆流する未消化物の勢いは止まることを知らぬかのようだった。えずき、呼吸ができずに苦しげに喘いでは咳き込んでいる。慌てた男がなつきのそばに寄って、背をさすり始めた。弱々しい手が拒絶を示すが、取り合われない。
 湿った音と同期して、見る間に地面に広がる汚物から目を逸らして、奈緒は唾棄した。

「……っざけんなよ。あァーあ、一気に白けた! ゲロ女となんか汚くて付き合ってらんなぁい」
「く……だったら、さっさと帰れ……」

 一息ついたなつきが介抱していた男を突き放す。その顔色は蒼白だ。

「言われなくてもそうするよ、ヴァーカ」

 二人を尻目しながら、背を向けた。
 鈍い打撃音と素っ頓狂な声が耳に届いたのはその直後だ。

「み、美袋!?」
「……おお、恭司か?」
「ミコト?」

 振り返れば、いったい今までどこにいっていたのか――美袋命が抜き身の長剣を手に立っていた。足下には、どうやら命に一撃されたらしい玖我なつきが昏倒している。
 尻尾があれば喜んで振り出しそうな顔のクラスメイトは、男に向かって親しげに話し掛けていた。
(どういう知り合いよ)
 まさか、例の『生き別れた兄上』ということはあるまい。

「ミコト、アンタそいつのこと知ってんの?」
「うん! これは恭司だ、奈緒!」

 くるりと奈緒に向き直った命は満面の笑みで男を紹介してくる。男は困惑顔で命になぜこんなところにいるのかと聞いているが、会話は噛み合っていない。

「……名前はいいから。どういう知り合いなのかって聞いてンの」
「恭司は教師だ。そして友だちだ!」
「――は?」
「先生でも良いぞ!」
「え?」
「恭司、明日から同じ学校なんだろう?」
「まあ、教師と生徒だけど……そうなるな」
「え――ちょっと待って」

 まず、男を指差す。

「教師?」
 男は頷く。
「もしかして、風華の?」
 男は頷く。
「マジで?」
 男は頷く。
「……はぁ? ワッケわかんない……」
 頭をかきむしって、奈緒は顔をしかめた。
 今夜は何の収入もないことに気づいたのだ。

 ※

『遅い』

 呼び出し音を経由していない上、開口一番がこれだった。声音からはまったく判断がつかないが、たいそう不機嫌であることは理解できる。
 高村恭司は、素直に下手に出ることにした。具体的には、携帯電話に向かって頭を下げたのである。

「ごめん。色々あったんだよ。暴漢に襲われたり」
『お嬢様が寝てしまわれました。そんなことがいいわけになるとお思いですか』
「……怖いから平坦なトーンで凄まないでくれ。気分を悪くした生徒を家まで送ってたんだよ、仕方ないだろ」

 実情はほとんど泥酔した同僚の介抱だが、嘘ではない。

『正式な赴任は明日以降のはずでしょう。なぜもう生徒と関係を持っているのですか?』
「その言い回しはやめろ。……たまたまだよ。街を歩いてたら、たまたま」
『失礼ですが、貴方にはいまひとつ我らの同士としての認識が足りないと思います』
「じゃあいいよ、同士じゃなくて」

 途端、スピーカーが沈黙した。息づかいさえ聞こえない、全くの無音である。

「……おい?」

 怪物が潜むという深淵を覗いている気分になって、高村はあっさりと降参した。

「すいませんでした。なんかお土産でも買っていきます」
『――でしたら、お嬢様はチョコミントのアイスを好まれるでしょう』
「えー。コンビニに売ってないぞチョコミントなんて――って黙るな黙るな。わかったよ、探して買ってくるよ! あぁ、もう……切るぞ」
『なるほど。……お嬢様のおっしゃった通りですね』
「え?」
『私が電話中に黙れば貴方が素直になるだろうと』
「……へえ」

 苦笑を顔の見えない相手に伝えるにはどうすればいいのだろう、と高村は真剣に思案した。

『素直なのは大変素晴らしい事です。それでは、明日からよろしくお願いいたします、――高村先生』

 『それとチョコミントも』と言い残して、回線が遮断される。
 嘆息の反動で、頭上の月と、まだ小粒な紅い凶星を仰いだ。

「媛伝説ねえ」
 
 夏の濁った空気の中を泳ぐように、家路を急いだ。







[2120] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/03 20:01






3.Humint






 人が去りつつある船中で、少女二人が交錯していた。
 火線が走り、刃がそれを薙ぐ。
 玖我なつきは集中を逸らさずに駆ける。追走する影に二度三度と発砲しながら、コンテナの陰に飛び込んだ。
 直後に耳を聾する不協和音が鳴り響き、同時に金属製の匣が音を立てて拉げた。なつきを狙う敵の一撃が為したのだ。

「化物めッ」

 飴のように鉄を斬る手腕に戦慄しながら、それでもなつきは己を鼓舞して立ち上がる。コンテナがゆっくりと倒れた先にある薄暗がりに目を凝らすと、長剣を提げた影が見えた。彼女の胸ほどしか背のないその少女、美袋命が、離れ業の体現者である。
 呼吸を整えながら、なつきは命に銃を突きつけた。

「おまえ、どうあっても帰る気はないんだな」

 応えは敵意に満ちた視線だ。なつきの見知る日本刀とも西洋刀とも趣の違う得物が、妖しく輝きはじめる。

「なら、痛い目を見てもらおうか」

 言い終わるやいなや、二人は動き始める。機先を制したのは長剣を持つ命である。間合いの点で絶対的に不利な彼女には、そうする以外に行動の選択肢はない。そして無論、なつきもそれを承知している。美袋命の剣腕が、常軌を逸しているということもだ。
 雄叫びと共に地を蹴る命を、なつきは冷静に見定める。拳銃を手にする彼女は、単純に速さの点で命より数手上を行く。照準を合わせて発砲するまでには秒も要らない。
 ためらいなく放たれた銃弾を、しかし命はすんでで躱す。ほとんど直角の軌道である。なつきが同じことをすれば、即座に体を傷める動きだ。獣のような体術。しかし、なつきの予測を外れるほどではない。

「無駄だ」

 焦燥を億尾にも見せず、ただ銃口がスライドする。不意を衝くという意味では効果的な挙動だが、間合いの取り合いをする現状で読まれればただの悪手である。心中で幾分辛くそう採点して、引き金を引いた。
 甲高い音が貨物室にこだました。

「な、にぃ」

 口角を吊って、なつきは一瞬言葉を失う。
 命が、立てた剣の腹で銃弾を防いだのだ。得物の尺が背丈ほどあるといっても、人間業ではない。
 そして一瞬と置かず、そのままの姿勢で走り出した。我に返ったなつきが数度引き金を絞るが、命は些少の弾着をものともしない。太股を、脛を穿たれ、身に付けた制服が破れて血を流しても、決して速度を緩めずになつきに肉薄する。

「ばかっ、死にたいのか!」

 どこを撃っても致命傷になる。その距離まで接近されて、なつきは初めて選択を迷った。一度も最適手を見誤らなかった命との、これが明確な差となって決着を招く。剣の柄で顎を打たれ、傾いだ体を命の足が刈る。勢いよく床に倒れた体を、遠慮呵責のない蹴りが襲った。

「おまえには、無理だ」

 刹那呼吸を止めたなつきは、戦闘時には一変する命の狂的な表情に、かすかな嗤いを見た。
(――こいつ)
 その意図を即座に察して、なつきは歯がみする。
 底を読まれた。読んだ気にさせた。
 屈辱と共に、臓腑の底を熱が炙る。怜悧な外面に反し、なつきは激情の女である。一度怒り心頭に達すると、後先を顧みない所があった。

「……図に乗るな。誰が無理だと……?」

 突きつけられた剣の刃に、ひそかに再物質化させた銃を突きつけ、撃ち放った。手加減なしの最大出力である。それでも手放さずに大きく剣を泳がせただけの命は、やはり異常だ。しかしその間隙で、反撃には充分すぎた。全力で足を突き上げ少女を吹き飛ばすと、両手に構えた銃を乱射しながら、なつきは吼えた。

「来い、デュラン」
 大気が、凍結する。

 錯覚ではない。ありえざる現象が起こりつつあった。不可思議な物質の転移に、周囲の分子運動が急激に遅滞し始めているのだ。
 天井を格子状に走る水道管が破断して、流れる水が固体化する。気温までもが急激に下がり、直後には、空間を圧する存在感をともなって、一匹の魔犬が具象する。
「…………」
 満身創痍の命が、ひそやかに息を呑む。
 現れたのは異形であった。
 姿形こそ犬を模しているが、体躯は二メートルをゆうに越え、大型の狼と称した方が近い。力強く地を食む四肢は金属質の武装でよろわれ、背には一対の砲塔がそびえていた。
 高次物質化能力と呼ばれる超能力によって生み出される、≪チャイルド≫と呼称される超常の存在である。

「人が善意で手加減してやっていれば、ずいぶん嘗めた真似をしてくれるじゃないか。ええ、美袋、命。調べはついているぞ。……貴様。一番地の手引で風華に入るつもりだな?」

 名指しされた命は、やはり何も応えなかった。ただ昂揚する戦意に身を任せらんらんと眸を燃やすと、傷痍に臆することなく剣を掲げる。
「あくまでやる気、ということか」
 なつきもまた、火がついている。
 この期に引く、という選択肢はない。
 だから静かに命じた。

「デュラン。ロード、シルバー・カートリッジ」

 主の指示に、異形の魔犬は内包する暴力の解放をただ待つのみだ。
 まなじりを決した美袋命が、床に深々と剣を突き立てる。
 そして二人は、同時に叫んだ。

「射て!」
「ミロク!」

 ――直後、轟音と共に船体は両断された。

 ある夜、海上での一幕である。


 ※


 真昼の月の隣には、アクセントのように赤く燃える星がある。
 幼い頃、亡父にその星の名を聞いて困惑されたのが、鴇羽舞衣のもっとも古い記憶だった。
 ほどなくして生まれた弟にも、それどころか他のどんな人間にも月に寄り添う赤星など見えていないのだと気づいたのは、小学校に入学してからのことだ。
 同級生に散々からかわれても頑として星の存在を主張し、ついには淡く初恋めいた想いさえ抱いていた担任に優しく諭されても、彼女は考えを変えなかった。両親は星を舞衣の空想の産物と思ったのか、最初こそ幼い娘に話を合わせる形で色々と話題に上らせたが、娘が本気で星の存在を信じているのだと悟ったあたりで、家族の間では徐々に『星』の話が避けられるようになった。
 舞衣以外の人間で星の存在を本気で信じたのは、だから幼い弟が最初ということになる。

 母が死に、そして父が死んだ。
 病を抱えた弟と二人きりになって途方に暮れていた頃だった。放り出された厳しい現実に実効的な対処を考えるには日が浅すぎたのに、先の事を考えずにはいられない程度には、不慮の弔事から時間が経っていた。
 父の訃報を聞いても、はじめ舞衣は泣かなかった。母が死んだときは身も世もなく泣いたから、耐性がついていたのかもしれない。しかし泣きじゃくる弟を慰めるうちに、涙は時間差でやって来た。自分たちはもう二人きりになってしまったのだと気づいた。
 舞衣は、何に対しての涙なのかもわからなくなるほどに泣いた。十五歳になった今でも、往時を振り返るのには注意がいる。気を抜くと涙が溢れてしまうのだ。時間を置いてさえそんな調子なのだから、過去の自分たちはよく立ち直ったものだと、他人事のように感心している。
 実際、舞衣には自分が何をどうすればいいのかわからなかったのだ。
 一切が血縁ですらない人間に仕切られた葬儀を一通り終え、それでも悲しんで悲しんで、泣きはらした瞳が現実に向けられたとき、最初に捉えたのが弟だった。
 それは弱い生きものだった。儚くて脆く、優しく包み守ってやらなければすぐにでも壊れてしまう、繊細なこわれものだった。
 在りし日の、平和な昼下がりが不意に思い起こされた。
 微熱が続く弟に添い寝をしてやりながら、舞衣は窓間から見える白昼の月を指差して語ったのだ。

(星がねえ……あるんだよ、ホントに。みんなないって言うんだけどさ)
(そうなんだぁ。ぼくには見えないけど、ねえ、大きくなったらおねえちゃんと同じ赤いお星さま、見えるようになる?)
(うーん……どうだろうねえ。だめなんじゃないかなー)
(ええー。おねーちゃんばっかずるい。ぼくも赤いお星さま見たいー!)

 他愛のない思い出だ。追憶できたのが奇跡的なくらい、どうということのない出来事だった。
 しかし覚悟は、決まった。
 庇護者になろう、などと大仰な思いつきはありえない。
(この子を、守ろう)
 弟は子供だった。舞衣も子供だった。親戚もおらず、頼る当て所も持たず、二人が持ち合わせていたのは不安ばかりだった。
 けれど立つ瀬は用意されていた。
 そのときから、鴇羽舞衣は働く女子校生となったのだ。

 ※

「へえ。それじゃ引っ越しそのものは五月にはもう終わってたのか」

 感嘆する童顔の青年から心持ち距離を取りながら、舞衣は頷いた。

「……うん、まあ。ちょっとやることもあったし、入寮までの準備もあったから……しばらくは、前に住んでたところと行ったり来たりだったんだけど、この度晴れて、ね。まあ、ちゃんと授業に出るのは今日からなんですけど」
「ふーん。しかしそうすると、一日だけ鴇羽が先輩ってことになるのか。惜しいな。昨日の内に赴任自体は終わってたんだけど」

 なにが惜しいんだか、と舞衣は胸中で呟く。さすがにいくら納得が行かなかろうと、今日から教師だという人間に対して遠慮呵責のない半畳は入れられない。そもそも、舞衣としてはつい一日前に高村を生徒扱いして恥をかいているため、一礼してさっさと学園に向かいたい気持ちが大きかった。気安く話しかけてくる高村に対する苦手意識もある。
 代わりに頓狂な言葉を吐いたのは、ある意味で舞衣が青年よりも距離を取りたいと願っているルームメイトだった。

「それじゃあワタシは、学校では舞衣と恭司の〝せんぱい〟になるのか?」
「いや、ならない。俺は教師で、美袋と鴇羽は生徒。教える側と、教えられる側だ」
「む、そうなのか……。けど、教師というのはもっと大人なんじゃないのか? 恭司は若すぎると思う」
「おまえな、人が気にしてることをズケズケと……」

 独特の対人メソッドを保有する美袋命と、妙にかみ合った会話をこなすのは高村恭司だ。平和なやりとりを交わす二人は、傍目には仲の良い兄妹のようにも見える。
 しかし――高村はともかく、命の方はただの中学生ではない。舞衣は一ヶ月前に死にかけるまでそれを思い知らされたのだ。
(まさか、また会うなんて)
 あのとき命は、風華の制服など着ていなかった。だからもう二度と会うこともないと思い、忘れようと努めた。舞衣は昨日寮の自室に入るまで、五月初旬に洋上のフェリーで彼女がでくわした異常な事態をも、記憶の底に封じようと励んでいたのだ。そしてそれは成功しつつあった。
(なのに……)
〝あの出来事〟の渦中にいた二人の片割れである少女は、よりにもよって自分のルームメイトだというのだ。
 ――死にたくなければこの地から去るんだな。
(馬鹿みたい)
 沈みゆく船の上で投げかけられた高圧的な台詞を思い出し、舞衣は首を振った。
 およそ一ヶ月前、偶然乗り合わせた客船が、事故に巻き込まれ沈没した。幸い荷物は既に仮住まいのアパートに送っていたため、細々とした身の回りの品以外には被害もなかったが……。当の舞衣自身が、死の危険に晒された。
 事件当時の記憶は、なぜかおぼろげである。しかも船が水没する際に生じた渦潮に巻き込まれてから後のことは、まるで憶えていない。気がついたときには翌朝で、舞衣は転入予定の学園の敷地内でずぶ濡れの姿を発見された。執行部と称する上級生に、まるで罪人の如く校舎を引っ立てられた屈辱は記憶に新しい。もっとも明らかな不法侵入を、警察に届けられなかっただけ学園側の対応は寛容だったといえるかもしれない。
 ふと、その前後に身に降りかかった出来事が舞衣の脳裏に想起された。つまり柔らかい唇の感触や、あわや水死者に名を連ねそうになった瞬間のことをだ。
 羞恥と恐怖が胸中にこみ上げた。身震いと共に頬を紅潮させるという器用な真似をして、舞衣は何度目ともわからないため息をつく。
(人の噂もなんとやらとはいうけど、、あれだけ衝撃的なデビューしちゃったらそうもいかないんだろうなぁ)
 父の死で半ば諦めかけていた高校生活だ。友人は欲しいが、悪目立ちして注目されることはもちろん本意ではない。両肩が重いのは、発育のよい乳房ばかりのせいではなさそうだった。

「はあ……」

 そうした悩みとは無縁な二人は、不安に押しつぶされそうな少女を尻目に睦まじく歓談していた。

「それより恭司、さっきからいいにおいがするぞ。甘いにおいだ!」
「香水はつけてないぞ。……もしかして、これか」

 高村がジャケットのポケットから取り出したのは、大福だった。傍にいるだけで胸焼けしそうになるほど舞衣の饗した朝食をかきこんだはずの命は、それを見て顔を輝かせる。
「やろうか」包装をむしりながら、高村が命と大福を見比べる。
「くれ!」と一も二もなく頷く命は、今にも飛び掛りそうなほどだった。
「……ゆっくり味わえよ」
「ん!」

 しかし忠告むなしく、大福は一飲みにされるのだった。
 微笑ましいと評すべき光景を、舞衣は複雑な思いで眺める。前日の内に二人とは面識があったが、お互いに知り合いだということは今朝初めて知った。しかしいつ、どこで、どのように親交を結んだのかがわからない。

「で、聞いておきたいんだが、この学校ってどうなんだ? その、雰囲気とかさ」
「えっと……普通?……です」
「参考にならないぞ、それは」
「そんなこと言われても、あたしも来たばっかりだし」
 それもそうか、と高村が頷いた。「ところで、美袋」
「なんだ。まだなにかくれるのか?」
「そうじゃない。君のな、その背負ってるものなんだけど」

 高村が指差す先にあるのは、命の肩にかかるバットケースだった。舞衣が朝から何度となく言及しようとしてついにできなかった代物である。

「その中身って、やっぱりあれか」
「あれってどれだ?」と命がケースを揺する。
「つまり、例のでかい剣が入ってるのかってことだ」

 同意するように、舞衣も頷く。命が世間知らずで仙人のような生活を送ってきたということはそれとなく聞いている。だがそれにしても、凶器を携帯して当然のような顔をしているのは異常だ。美袋命は『世間知らずで変な女の子』だが、頭が悪いわけではない、というのが舞衣の印象である。だからこそ、あからさまに社会性の破綻した大刀が目立つのだった。

「おお、そのことか。そうだぞ。心配するな。ミロクは肌身離さず持ち歩いているからな。ん、安心だ」
「……そうか、まあしっかりな」
「ん、任せろ」
「……ちょっと」
 あまりにも早く諦めた高村の腕を突いて、舞衣は半眼を送った。
「そんなんでいいんですか? あれの中身カタナなのよ、カタナ! その、銃刀法違反とかになるんじゃ」
「いやだって、何度言い聞かせても手放そうとしないんだよ。これは大事なものだ、の一点張りでさ。しかもなんだか知らないけど、周りの人はあれ、それほど気にしてないみたいなんだよな。それにそうだな、そんなに言うなら鴇羽がなんとかすればいいじゃないか」
「はいぃ!? な、なんであたしが」
「それを言うならなんで俺が」
「あなた先生でしょ!? それに知り合いなんじゃない。親戚だかなんだかしらないけど……」
 高村はひょうひょうと肩を竦める。
「親戚じゃないよ。確かに知り合いは知り合いだが、仕事で一週間くらい一緒にいただけだからな」
「ふーん……。そのわりには、懐いてるみたいだけど」

 下衆の勘繰りとわかりつつ、高村の全身を品定めするように睨む。命との関係が存外深くはないのだと知って、むくむくと不信が芽生え始めていた。
 舞衣の体つきは同年代と比べて明らかに豊満だ。そのため多感な時期に生々しい男の視線も多く経験している。そんな舞衣にとっては父や弟以外の異性とは総じていやらしく、信用の置けない存在だった。
 が、高村は世の無常を悟りきったような顔で、

「懐かれてるのは、食べ物を世話してやったからだろうな、きっと」
「う」

 昨夜ラーメンを与えてからの命の変貌振りを連想し、思わず納得してしまう、舞衣である。「それに」と高村が付け加える。

「この年になって恥ずかしいんだけどさ、最近世の中不思議なことばっかりで、美袋くらいのはあまり気にならないんだよ。とりわけ凄いのは昨日だな。鴇羽、新しい職場で雇い主に挨拶しに行ったらそれが小学生だったときの俺の気分が想像できるか?」
「あー……」

 名物理事長十一歳の存在は、舞衣どころか学園全体にとっても謎である。同時に高村の言葉にまたフェリーで見た光景を思い出して、舞衣は言葉に詰まる。
(不思議なことなんて、要らないんだけど。平凡がいいよ、あたしは)
 梅雨に相応しくどんよりとした空を見あげると、視界の端に巨大な樹の枝振りがよぎる。校門手前の坂に差し掛かったのだ。
 舞衣も高村も、本格的な学園生活の初日である。しかし前途に差すのは愁いばかりで、二人はそれぞれ違った懸念を曇天に反映する。
 暗雲垂れ込める空の下で、美袋命ばかりが闊達に笑っていた。

 ※

 教師に善し悪しがあるとすれば、それは授業への取り組み方に大部分左右される。一般に進学校と認知されればされるほど、その傾向は顕著である。
 基本的に学年ごとの学習カリキュラムには文部科学省の意向が反映されていて、必然学習内容は画一的になりがちだ。そこをいかに飽きさせず、効果的に配分を構成し、教え込むかが手腕の見せ所になる。しばしば脱線と思われがちな教師の雑談もまた、大方は計算づくで配置される時間の使い方である。であるから、もちろん手を抜こうと思えば際限がないのは事実の一側面だった。極論すれば、教科書をゆっくりとなぞるだけでも、授業として最低限の体裁は整うからだ。
 では風華学園に新任としてやってきた社会科教師はどうかというと、論外の一言に尽きた。

「というわけでここからは気分を切り替えて、授業に入るぞ。口調も変えるからな。いい? いいな。はい。えー、さっきも言った通り、今日から古典は私の担当になります。といっても期末テストまであと一ヶ月の時点で担任に変わられてもみんなやりにくいだろうから、基本はプリント中心の授業という形式を取るからよろしく。さて、まあ身も蓋もないことを言うと、国語に属する科目は総じてセンスです。数学とは感性が違うけど、要求されるものはだいたい同じ。個人的にもいまいち納得しがたいんだけど、暗記系の科目以外はずば抜けてできる人は特に勉強しなくてもできるからね。あー、待ってください。別に努力を否定しているわけじゃありません。これはただ手順の問題で、むしろそういうセンスで突っ走ってる人たちが了解してることを教えることこそが学習であると、私なんかは思ってます。まあ古典は比較的暗記に近いから、やることやってりゃ点は取れます。少なくともやっきになって平均点下げようとはしません。あ、いま笑ったね。やっぱいるんだ、そういう先生。参るよね。まあ、今後の指針とかノウハウ的なことはプリントに書いておきました。じゃあそのプリントの内容にちょっと触れようか。え、これはわりと昔からいわれてることですけど、古典の基本は原典を読むことです。いわゆる教科書に載りやすい作品とか、受験で出題されやすい作品とかはだいたい相場が決まってます。あ、一部の難関私立でたまにでる超マイナーかつ難しい問題とかは別ね。あれはまさしく平均点を提げる事を前提にしてるので。というわけで、方丈記とか源氏物語とか徒然草とか平家物語とか奥の細道とか、そういうのを読んで、読みながら自分なりに噛み砕いた粗筋をノートにでも写せばあとはわざわざ勉強する必要はありません。あ、違う違う。違います。わざわざ古典そのままの本を読む必要はないの。メジャーどころは現代語訳されたのが出てるから。それを読むと楽勝です。内容の面白いつまらないに関しては、こっちに言われてもどうしようもないです。そこは他の普通の小説と同じ、それぞれの好みだからね。つかさー、っていきなり素に戻ったんだけど、俺がみんなくらいの頃ね、テストで源氏物語の葵上の章が出たわけ。臨月に六条御息所の生霊が苦しめてうんぬんって状況を説明せよって問題が。で、この中でもませた人は知ってると思うんだけど、源氏物語って要するに和製ドン・ファンみたいなものだろ。まあこっちが先なんだけど。そこでやっぱりませたアホがね、まあぶっちゃけ俺なんだけどね、その問題に『正妻と愛人が精神的な修羅場を繰り広げ、というのは詩的な表現で、実際には御息所の配下による嫌がらせや誹謗中傷があったに違いなく、結果的に御息所はライバルを追い詰めるが正妻もさしたるもの、最終的に二人の勝負はドローだった』って答えを書いたんだ。でもマルもらったから、まあこれは当時の先生が理解ある人だったっていうのも大きいけど、でもそう肩肘張らずに内容の輪郭だけでも押さえておけばだいぶやりやすくなるってこと。へたにわけわからない日本語を鵜呑みにしようとするから混乱するわけですね。はい。あ、でもさすがに単語くらいは別途勉強しなきゃならないだろうけど。といってもみんなは一年生だし、そう焦らなくてもいいと思います。それでも真剣に大学目指すっていう人はどんどん質問なりなんなり、先生に聞きにきてください。うん、でもいきなり梯子外すようでなんだけど、学校の先生って言うのはあくまで学校の先生であって、そりゃ中には例外もいるけど、単に『偏差値を上げるノウハウ』に関しては大手予備校の講師に譲ります。これは別に学校での勉強を蔑ろにしてるわけではなくて、相性の問題でもあります。向こうはそれで飯食ってるわけだしね。先生の中には予備校っていうと顔をしかめる人もいると思うけど、最終的に生徒自身のプラスになればそれが最善だと私は思ってます。とか初日からね。まあ学校と相補的に、うん、お互い補い合いながらってことだけど、やっていけばいいんじゃないでしょうか」

 ホームルーム中に堂々遅刻して入室して以来、休むことなく教壇で話す男に殺気を放ちつづけていた玖我なつきを含め、端から眠るつもりだった生徒をのぞけば全員が、呆気に取られつつも高村恭司の授業に耳を傾けていた。抑揚のある話し振りはカルト宗教の教祖か敏腕営業さながらで、しかも内容が奔放すぎた。
 なにしろ高村にしてみれば先任者が入院したため、引継ぎもろくにせず回された授業である。勝手などまるでわからない。だから結果的に好きに喋ることになった。

「そんなわけで、基本的にこの授業はあまり板書に重点を置きません。プリントを解いたら聞くことだけに集中してください。経験上人間って耳と目から同じ情報が流れ込んでくると即座に眠くなるからね。余計なことは書かないし、喋らない。以上で俺の方針については終わり。で、実際これ前の授業ってなにやってたんだ?……えーと、じゃあ玖我」
「……え? な、なんだ」

 不意打ちで指名されて、なつきは気の抜けた声をあげる。
 高村は笑みを崩さず、

「だから、前までの授業だよ。何やってたんですか」
「あっ、ああ。たしか、……日本書紀だか古事記だかを」
「はあ?」
 とたん、表情を凍りつかせる高村だ。耳を疑うような仕草をしてから、再度なつきに訊ねる。
「え、本当かそれ。なんで古典で記紀なんてやってるんだ? この学校右翼だっけ?」
「そんなこと、わたしに言うな。聞かれたから答えただけだ」
「まあそりゃそうか。ありがとう。でも、ふーん……。社会科で古典も意味わからないと思ったが、日本書紀に古事記ね……。わかった。わかりました。じゃあ次回以降はそっちから攻めようと思います」

 しきりに首を捻っているうちに、終業のベルが鳴る。定番のウェストミンスターの鐘ではなく、風華学園独特の調子であった。

「あ、時間か。それじゃ今日の授業はこれまでー。質問がある人は社会科準備室の高村までどうぞ」

 ※

「聞いたぞーう」

 放課後の社会科準備室。スチル製の机上で資料を整理しながら、高村は喜色満面で近づいてくる同僚を見つめた。

「何をですか、杉浦先生」

 へそ出しのボディーコンシャスにジャージのトップス、デニムのミニスカートにサンダルを引っかけるという変態同然の格好が不思議と似合う、その女の名前を杉浦碧といった。高村と同じく予定外の新任で、ついでにいえば隣のクラスの担任でもある。担当科目は日本史の、正しく同僚という立場だ。

「ノンノン、碧ちゃん、ね。ってそれはいいか。なんだか恭司くん、早速オモシロユカイげな授業やってるみたいじゃない。あたしも今度聴講してイーイ?」
「勘弁してください」二重の意味で高村は降参する。
「つれないなぁ。あ、そうだ。早速だけど、今日これからどっか飲みに行かない? 迫水先生が奢ってくれるっていうから。美人のお酌つきよん」
「わ、私ですか?」と声を裏返らせたのは教務主任の迫水だった。恰幅のいい体格にアフロヘアの、碧とは違った意味でユニークな見た目をしている。「ええ、そりゃまぁ、もしこの面子で行くなら私が支払いせざるをえないんでしょうけどねえ。でも杉浦先生、いいんですか? たしか土曜日にも」
「あ、そっかー」ぴしゃりと額を打って碧がうなる。「じゃあ取っておいたほうがいいのかな」
「土曜に何かあるんですか?」

 ずいぶんと砕けた職場だと、感心しながら高村は言う。先年に教育実習で出向した母校の殺伐さが嘘のようだ。教師間にも人間関係というものは厳然と存在するのだと、失望と共に悟ったのは苦い思い出である。

「うん、ホラ、あたしも来たばっかりじゃない? だから土曜の夜はあたしと恭司くんの歓迎会も兼ねて親睦会を催そうってことになってるのさ。で、どうよ。土曜は開いてるの?」
「特に予定はなかった、と思います」飲み会の開催が既定事項ならば高村にはそう答える以外に選択肢はない。
「ホント?」その内心を見透かしたように、碧が念を押す。「そういえば昼休みに遊びにきた子たちに聞いたんだけどさ、恭司くん彼女いるんでしょ? 大丈夫なの。こっち来たばっかりだし、フォローとかいれなくて」
「大丈夫ですよ。そのへんはわかってくれると思うんで」
「へーえ、いいなあ。理解ある彼女なんだ」
「ええ、まあ」

 とはいうものの、恋人の存在がそもそも嘘である。十年近く歳の開いた子供に何度も色事について聞かれるのが面倒で、捏造したのだ。

「それじゃ、詳しい日程とか場所は後でメールするからアドレス交換しよーよ」
「あ、はい」と取り出した機種が全く同じ型遅れのものだったので、二人ははからず顔を綻ばせた。頑丈でシンプル、ということだけを基準に選んだものが一致するあたり、杉浦碧の内面は見た目ほど軽薄ではないのかもしれない。そう頭の中で評価を修正して、高村は久方ぶりに自分が気構えなく笑えた事に気がついた。ここ一ヶ月は特に緊張の連続だったためだろうか。着任を終え初日を終えて、気が緩みつつあるのだ。
「やっぱりあんまり機能に凝られてもぴんと来ないよねえ。あたしゃー質実剛健の方が断然好みだよ」
「ですね」

 碧にとってはどうかわからない。しかし普通の学生のようなやり取りは、高村にとって意外なほど心地良かった。
 雑務と翌日の予習を終えて準備室を後にすると、既に日は暮れかけていた。いつの間にか雨も降り始めている。凝った首筋をほぐしながら、高村は後回しになっていた校舎の散策を開始する。
 端的に表現すると、風華学園はひたすらに広大だ。初、中、高と三つの校舎を有し、さらに体育館や武道場、図書館に学生寮など、施設の枚挙には暇がない。何しろ学園そのものが国から文化財指定を受けている。実に風華という土地そのものが学園を中心にして存在しているといってもよかった。
 高村が確認するのは主な生活圏となる高等部校舎である。他に学園の敷地裏にある、海に面した小山も表面上の調査対象だ。それら学園の敷地内のほとんどを監視するのが、高村恭司の課外の仕事である。

 彼が声をかけられたのは、おおよそ校内を一巡したときだった。

「こんにちは、センセ」

 雨音が、一瞬だけ掻き消えた。

「……」
 首だけを声のした方向へ戻す。目に入る、糊の効いたシャツに濃紺のスラックスは中等部の制服だ。目立つ白髪を短髪にして微笑する少年は、高村が通り過ぎたばかりの窓枠に腰掛けていた。
(今……誰もいないところから現れなかったか?)
 内心で訝りながら足を止め、振り返る。

「こんにちは。そんなところに座ってると危ないぞ」
「センセこそ。なかなか大胆な綱渡りしようとしてるみたいじゃない」
「いや、普通に廊下を歩いてるだけだが」

 思わせぶりな台詞に空とぼけながら、高村は関節部を意識して脱力する。不意の戦闘にいつでも対応するためにだ。

「んー、まあそういうことにしておこうかな」狐のように目を細め、少年は桟の上で肩を竦める。
「君は中等部の生徒かい? 雨宿りでもしてるのかな」
「僕? 僕は炎凪。よろしくね、高村センセ」
「え? いや、ああ、そうだな。よろしく……と、待ってくれ。あれ? 君は俺の名前を知ってるのか。今日の授業じゃあ、中等部は教えていないぞ」
「まあね。知っていますとも」

 高村は大げさに驚いてみせた。内心ではすでに少年の性向を分析し始めている。まず演出家的な精神を持っていることは断定してもいいだろう。さらに自己中心的で、場をリードする術に長けていて、享楽主義的な一面を持っている。目に見える発汗や痙攣といった末梢神経の乱れはない。若年の少年が大人に対しよく浮かべる敵意や反動形成にも似た斜っぽさも見受けられない。よく感情を制御し、そして場慣れしている。老獪な少年という表現は撞着しているだろうか。無論少年がただの生徒であるという可能性も外してはならないが、しかし警戒するにしくはない。だから高村は自分の印象を疑わなかった。彼はこの少年に良く似た人物をひとり知っていた。もしその直感が正しいのならば、それが彼に示唆するところはひとつ。つまり、
(俺の手には負えない)
 ということだ。
 そして、少年炎凪もまた、その事実を示威するために、この場所とタイミングを狙って現れた。
(警告か)

「あはは、ただ挨拶しただけなのに、そんなに怖がらなくってもいいじゃない。傷つくなぁ――って」

 軽やかに笑む少年が一瞬言葉を切り、深刻な表情で高村を覗き込んだ。

「センセ、……なんで生きてるの?」
「――え」

 今度こそ、俄仕込みの擬態は限界を迎えようとしていた。返答に詰まり、高村は咄嗟に胸部を見下ろす。
 そして顔を上げたとき、凪は陽炎のように姿を消していた。

「おい……」

 開かれた窓の向こうに、灰色の空と、針のような雨だけが見える。生温い風が高村の皮膚を舐めてはじめて、彼はおのれの発汗に気づいた。
 そして声だけが、耳に残響する。

「まあいいや。センセのことは内緒にしといたげる。どうせ聞かれないだろうしね。それより、ようこそ、と言っておくね。ようこそ。そして、よく来てくれたよ。センセのおかげで、今度の祭りはきっと、少しは楽しくなる。……それじゃあ、怖いヒトが来たから、僕は行くよ。ばいばい」

 高村は目眩をおぼえ立ち尽くす。数秒後に立ち直ると、静かに窓を閉じて施錠した。

「高村先生。そろそろ時間です」

 いったいどれだけの間そうしていたのか。ふと気づけば凪と入れ替わるようにして、彼の背後に音もなく少女が立っていた。こちらは高村にとっては、よく見知った顔である。
「わかってる」
 答えて、高村は自らの頬を張った。
 深優・グリーアは無表情のまま、赤い眼差しをどこへともなく向けている。
 何かを喋る気にもならず、無言のまま歩き出そうとして、ふと高村は思いつきを口にした。

「なあ、深優。いま、ここに誰かいたか?」
「いいえ。6,125秒前から現時点まで、この階層における生体反応は貴方以外にはありません」
「そうか。……ありがとう」
「いえ」

 聞かなければよかったと、高村は天を仰いだ。

 ※

 強まりつつある雨脚をくぐり、高村と深優が向かう先は学園敷地内のはずれにある礼拝堂だった。いわゆるミッションスクールではない風華学園では一際異彩を放っている場所である。海外の出資者の意向で建設されたプロパガンダ的な性格の強い施設ではあったが、神父やシスターも配備されており、聖歌隊に毎週のミサといった活動自体は堅実に行われている。
 豪奢な門扉を開けて、高村はやや湿気の篭った空間に足を踏み入れた。照明はすでに落とされており、夜に程近いことをしらせる闇色の中で、ステンドグラスの色彩がボウっと浮かんでいる。

「こちらへどうぞ」

 良好な視界には程遠い暗闇を歩いて、深優は迷うことなく高村を導いた。並ぶ長椅子を避けて奥の扉へ抜ける。引き離されないよう背を追いながらも、高村は物珍しそうに堂内を見回していた。
 ほどなくしてかつてはワインセラーに利用されていたと思しき空間へ出ると、深優はかがんで床に添えつけられた取っ手に手をかける。必要以上に重い音を立てて、地下への入り口が露わにされた。その先には、放置された防空壕を改修した回廊が広がっているのだという。

「仰々しいな」
「必要な措置です」

 予想外の広がりを持つらしい空間を歩きながら、高村は石造りの壁を指先で撫でる。年月を思わせる汚れと頑丈さに、ため息が漏れた。
 そこからは、異国の下水道を思わせる、半円状の通路がしばらく続いた。雨水がどこからか流れ込んでいるのか、床は湿り気を帯びていた。

「公式の見取り図では公開されてない道だな、これ。ざっと見た感じ、他にも似たようなものがたくさんありそうだったけど」
「それは考古学的な見解でしょうか」
「そう思ってもらってもいいと思う」高村は頷く。大学院での彼の専攻は、名義だけになりつつはあるが、一応考古学である。「こういう防空壕だとか抜け道のようなものが作られる理由はわかるか?」
「爆撃を避けるためです」
「……いや、そうなんだけどさ」簡潔極まりない答えに苦笑して、高村は首を振った。案外、教師は適職なのかも知れないと思いながら続ける。「もっと根本的な理由だよ。ただ避難のための場所なら、こんな市街地から外れたところにこれほど大規模なものをつくる理由がないだろう。遺跡、まあそういうかは微妙だけど、こういうものを調べるときには、まずその時代においてどんな役割を担っていたか、ということを考えるのが基本なんだ。当時の習俗や生活なんかを参考にして、色々とありえそうなものを想像する。その点からすると、そもそも空爆の的にされたかどうかも怪しいこの島で、こんな迷路みたいな通路をわざわざ造る理由っていうのはどんなものなんだろうな」
「これも、例の伝説に関係するということでしょうか」
「どうかな。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「その発言は、回答を保留している、という解釈でよろしいでしょうか」
「ああ。深優の好きに解釈したらいい」
「……」

 それから五十メートルと進まないうちに、二人は目的の場所へたどり着いた。壁を削って最低限の住居環境を作り出したスペースである。いわば即席の会議室として、高村のスポンサーが秘密裏に施工したのだ。

「おお。よく来たね、高村くん」

 しわがれた重厚な声と共に、古めかしい樫の机についた三人が高村と深優を迎えた。表現により正確を期すならば、中でも一際小さい影は、高村に突撃してきた。

「お久しぶり、お兄ちゃんっ」

 穴蔵に似つかわしくない溌剌とした声と金髪を持つ少女、アリッサ・シアーズである。

「ああ、暫くだねアリッサちゃん。……お久しぶりです、グリーア神父。それに九条さんもお変わりなく」
「あら。わたしはついでなの?」
「いや、だって」弁解がましく、高村は言いつくろう。「こっち来ることが決まってからは週に一度は連絡取ってるじゃないですか」
「そうだったかしら」

 からかうように笑う妙齢の女性は、尼僧の服に身を包んだ九条むつみ。そして始めに声をかけてきたのが、ジョセフ・グリーア神父だ。深優とアリッサを含めて、いずれも立場上は高村の上役に位置する顔ぶれである。

「さて」場をまとめたのはグリーアの一言だった。「積もる話もあろうが、それは後回しにしましょう。高村くん、着任早々ご苦労だが、報告をもらえるかね」
「はい」

 腰にまとわりついて離れないアリッサを抱えて高村も席につくと、持参した鞄から数枚の書類を取り出した。

「兼ねてから決まっていたとおり、無事風華学園の教師に就任しました。こちらの書類は現段階で判明している媛伝説についての、まあ下調べ同然のしろものです。で、ざっと見た感じ、明らかに粉飾されてますね、これ」
「ふむ」とグリーアが腕を組む。恐らくはこの程度は既に折込済みなのだろう。彼らが帰属する団体は土着でこそないが、単純な情報収集力では他の追随を許すものではない。
「粉飾というと、具体的にはどういう?」
「事情をちょっとでも知っていればすぐにわかる、という程度です」むつみに向かって、高村はいくつかの事例を挙げて答える。「民俗的には、口承の歪曲やあからさまな捏造などがこれにあたります。というのも、鬼や妖怪、神隠しといったありふれたモチーフに数えられる説話が、このあたりの地域一帯ではあまりに平均的すぎるんです。どこかで聞いた話の寄せ集め、パッチワークスばかりで」
「そちらのことはよく分からないのだけど、それはその、おかしなことなのかしら?」
「通時的に見て、おとぎ話というのは変遷を免れません。ほら、たまに桃太郎は桃から生まれたのかそれとも桃を食べて若返ったおばあさんから生まれたのか、なんてことが取り沙汰されるでしょう。あれと基本的には同じことで、地方によって似たような説話にも個性が生まれるわけです。で、このあたりはそのバイアスがあまりに強烈で、かえって無個性になってしまった。それで学問的には魅力の薄い地域になっていたんですが……」
「近年になって、媛伝説という独特の伝承が浮上した?」
「そうなります。あとは他にも、あまり全国にも類を見ない怪物の話なんかも。なぜかは知りませんが」
「たぶん、土着の組織の支配力が弱まったせいじゃないかな」高村の膝の上でアリッサが呟いた。「周期を考慮すれば、おかしなことでもないわ。うーん……。でも、もしかしたらわざと、というよりは必然なのかも」
「なるほど……噛みあわない存在によってなされた、と」
「ああ、それはあるかもしれないわ」
 納得する自分以外の面々を見て劣等感に苛まれながら、高村は首を傾げる。「あのう、わざとってどういうことですか?」
「つまりね」と、アリッサが高村を見上げた。「例の周期はあくまで周期だから、必ずしも、えーとえーと、punctualじゃないの。だからワルキューレや使い魔の原型は、おんなじ時代にいっせいに揃うわけじゃない。ということは、何十年かのずれのせいで〝間に合わない〟ワルキューレや〝早すぎた〟使い魔だっていた、ってことだよ、お兄ちゃん」
「……」

 笑いかけられて、しかし、高村は応じることができない。喉がひりつき、呼吸に痰が絡み、身動きが取れない。
 間に合わないワルキューレ――即ちHiME。
 早すぎた使い魔とは、つまりチャイルドだ。
(それは……つまり……)

「そして」と、むつみが結論を受け取った。「そういったHiME……ワルキューレが、常に連中、一番地に与したとは限らない。むしろ、イレギュラーであるだけに敵対関係になることも多かったんじゃないかしら。暴走したチャイルドも同様ね。そして対抗力の存在しないワルキューレとその使い魔は、体制にとって充分に脅威的だわ……高村くん?」
「あ、……はい」

 ようやく返答すると、気遣わしげなむつみの視線に出合った。

「……ごめんなさい。無思慮な話題だったわね」
「いえ、お気遣いなく」首を振って、高村はグリーアを見やる。「外部から調べられたのは、こんなところです。今後も調査そのものは続けるつもりですが、期待はしないでください。さすがに、この土地の隠蔽は年季が入ってるでしょうから。発掘の許可が出るはずもないし、素人がどうこうしたところで高は知れています」
「ああ、わかっている。もとよりそちらはデコイのつもりだからね。しかし、稀に有益な情報を得ることもあるだろう。そちらに関しては今後も特に口出しすることはない。好きなように続けてくれたまえ」

 高村は黙したままで首肯する。グリーアが言及した通り、スポンサーが高村に課した風華学園での役割はおとりである。諜報員としてはなんの訓練も受けていない高村は、末端としてさえあまりに粗末だ。第一に、適材は他にいくらでもいた。高村の本分は、敵性勢力の喉元で『あまりにもあからさますぎてかえって怪しくない存在』として振る舞う事にある。
 その後二三の打ち合わせを終えると、時刻は既に八時を回っていた。教会をあまり長時間空けるのも都合が悪い。グリーアの音頭で解散しようとした矢先、

「あ、そういえば昨夜HiME見つけました」

 場を凍らせる発言が高村の口から飛び出した。

「ホント!?」アリッサが膝の上で立ち上がった。うかつに動けば唇が触れそうなほど顔を寄せて喚く。「誰、誰」
「アリッサお嬢さま、近すぎます」

 すかさず深優がアリッサを高村から引き離した。

「……凄いわね。いきなりじゃない」
 九条むつみの顔が強張ったのを、高村は見逃していない。
「本当かね」さすがに度肝を抜かれた様子で、グリーアが言った。「つい先だって、ミナギミコトを発見したのも君だったな。それが事実だとすれば素晴らしい働きだ」
「まあ、チャイルド……使い魔も見ましたし、間違いないと思いますよ」
「それで、具体的には誰なのかしら」やや神経質な声音でむつみが聞いた。
「あー、すいません。名前はまだチェックしてないんですけど、この学園の子ですよ。髪を染めてちょっとシャギー入った、中等部の子。あ、美袋と知り合いだから、たぶん三年生かな。そういえばナオって呼ばれてました。美袋ほどじゃないけど身長は小さめで、けっこう美人です」

 特徴を挙げながら、高村は深優に目配せする。ほとんど間を置かず、求める答えが導かれた。

「美袋命の同級生かつ親交がある生徒の中で、条件に該当するのは結城奈緒のみです。ただし、美人というのは多分に主観的な評価であるため検索条件からは除外しましたが」
「それでいいよ」高村は投げやりにいった。
「その子、潰していいの?」はきはきとアリッサがいった。
「……駄目だよ、アリッサちゃん、そんなこと言っちゃ」

 あどけない問いが意味するものを想像しながら、ぎこちなく首を振る。

「えー。なんでえ。どうせワルキューレはみんなやっつけなきゃいけないんでしょ? わかった子から消していけばいいじゃない」
「とにかく、今は駄目」
「……むう。わかった。でも、いつまでもは待たないんだからね」
「これで、二人、か」そのやりとりを見計らい、グリーアが鼻を鳴らした。「出だしとしては上々、といったところだね。しかし高村くん、いったいどういった状況でその娘を?」

 説明を求めるグリーアに、高村は弱りきって手を振った。

「いや、半分偶然のようなものなんですけど。夜間の月杜町のほうで物騒な噂が流れてたのをたまたま耳に挟んだんですよ。辻斬りとか、出会い系の男を専門に狙った追い剥ぎとか。それでまあ、念のためっていうのと、あと地理をおぼえようとしてぶらぶらしてたら、声をかけられて暗がりに連れ込まれました。それでその先でいきなりでっかいクモみたいなのを出され脅されて慌てて逃げて」
「ちょっと待って」むつみが声を弾ませて話を切った。「女子中学生に声をかけられて? 暗がりについていった? そういったのね、高村くん」
「連れ込まれたんです」律儀に訂正するが、聴く耳を持つものはいなかった。
「高村くん……無論君の私生活について過干渉をする気はないが、そういった行為は控えたほうがいい。特に今日から君は聖職者となったのだからね」
「いや、ですからね神父。それはまったくの誤解で」
「……!」アリッサが無言で蹴りを飛ばした。
「痛い、いたいってアリッサちゃん、脛を蹴らないでくれ! なに怒ってるんだよっ」

 ひとり離れた場所で、マヌカンの如く佇む深優が呟いた。

「高村先生は淫行で逮捕ですか」
「してないから。されてないから」
「高村先生は淫行未遂で逮捕寸前ですか」
「……そっち方面のユーモアは心臓に悪いから、学習しないでくれ」
「ところで先生」
「なんだよ」
「昨夜先生が持参すると仰っていたお嬢さまのためのアイスクリームはどこでしょうか」
「……あ」
 高村はさっと目を逸らすが、目を逸らした先に深優がいた。
 明らかなスペックの無駄遣いであった。
「高村先生。お嬢さまのためのアイスクリームは」

 素直に泣きを入れることにした。

 ※

〝ありがとう〟

 手の甲を滑る指が描いたのは、その五文字だ。高村は微苦笑して、ただ首を振る。
 九条むつみは頷いて、〝またあとで〟とさらに書き足した。
 虚ろに笑って、高村は先を思いやる。
「長丁場になりそうだ」

 風華学園高等部社会科教師。
 シアーズ財団所属末端捜査員。
 高村恭司の肩書きは、今のところただの肩書きでしかない。
 



[2120] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン◆bcd22b31
Date: 2008/09/12 00:45




4.Firestarter (前)






「はい。各所で絶賛の呼び声も高い授業注目の二回目です。早速主任に説教されてへこんだので、今日は予告どおり記紀についていくつか喋りたいと思います。んで、ちょっとこれは喋りだすと私のほうが止まらない予感がするので、先にプリントを配っておきますね。プリントの方はキッチリテスト範囲を見込んだ内容をまとめてあります。答え合わせは授業の最後。で、前半は私、ひたすら記紀について喋るので、『記紀なんて常識だろ』という人や『最終的に受験に出ないなら必要ない』という人は聞き流してオーケーです。ただ教養が問われる今回は、例外的に何人かには不意を討って質問とかするから油断しないようにね」

 いつの時代も、嫌われる授業とは即ち生徒の負担が大きい授業である。いきなりざわつき始めるクラスメートに苦笑すると、高村は手早くプリントを配り始めた。

「そんじゃ早速。記紀神話について知ってる事、誰かに聞いてみます。まず皆さんがどれだけ知ってるか、っていうのを把握したいからね。最近の高校一年生の認識ってのはどんなもんなのか。じゃあ、えっと、瀬能あおい」
「はっ、はい」がたんと椅子を鳴らして、指名された女子生徒が立ち上がる。「えっと、日本神話? を集めた本だったりしたようなしなかったような……」
「うん、半分正解」高村は頷く。「でもちょっと足りないな。記紀って言うのは古事記と日本書紀のことなんだが、ではこの二つの違いは何にあると思う? 次、鴇羽舞衣」
「確か……日本書紀は勅撰で、古事記はそうじゃなかった、って教わりました。あと、日本書紀は正史だけど古事記は微妙に認めてられないとも」
「そうだな。大体においてそういう認識で問題はないと思う。いわゆる六国史、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、あとは日本文徳天皇実録に日本三代天皇実録だな……に連なる系譜の、一番最初がこの日本書紀というわけです。古事記が神話的だけに外向的な性格を持っている一方で、日本書紀は主に内向きの記録と言われています。っていきなり言ってもなんだかわからないだろうから説明するんだけど。それじゃ次の、春妹。この記紀が編纂されたのは八世紀初頭なんだが、どうしてこの時期に国史、国の歴史だな、これを明らかにするような動きが生まれたんだと思う?」
「国を支配する上での朝廷の正統性を、主張するためではないでしょうか」留学生の春妹は、小首を傾げる。「どちらもわたしは直接目を通したことは一二度くらいしかありませんが、古事記にしても、創世の神話という意味では宗教色が見えるものの、結果的には神武天皇から始まる皇家の血を筋立てているものである、と記憶しています。後年本地垂迹説によってあっさりと仏教に感化されるあたり、この頃はまだ神道も政治の道具以上の性格は薄かったのではないでしょうか」

 しん、と教室が静まり返る。すげえな、と真後ろの席に座る楯祐一が囁くと、春妹は顔を赤らめてうつむいた。

「ああ。ありがとう」やや呆気に取られながらも、高村が授業を再開した。「なんか一気に喋る事を取られてしまいました。よく勉強してますね。細かな部分では詰めが甘いけど、そうやって歴史の動きから当時を生きていた人間の思想や思考を推し量るのは大事な事です。記録とは即ち過去の人たちがどう生きたか、ということを念頭に置けば、興味や感情移入によって憶えやすくもなります。ところで、春妹は留学生なんだっけ?」
「はい……」恐縮しながら春妹が頷く。
「ちなみに、どこから?」
「アルタイです」
 高村が動きを止めた。「アルタイって、あのアルタイ共和国か。ロシアの近くにある」
「どこかはともかく、アルタイです」
「……他にもあるのか?」

 訊ねると、眉を下げて春妹は微笑むのだった。

「どうなんでしょう」

 ※

「しかし、授業って週何度もやるもんじゃないよなぁ」
「はあ、そうなんスか?」

 午前中最後の授業を終えると、とりあえず生徒会室に顔を出して言伝を預かるのが楯祐一の日課だ。いつもならば無為な思索に時間を潰しながら騒がしくなりはじめる廊下をただ歩くのだが、この日は珍しく道連れがいた。先日赴任してきた新任教師の高村恭司である。学園に来てからまだ見ていないのが生徒会だけだという事で、楯がその案内を頼まれたのだ。

「うん。教える方も教えられてる方もさ、週に二回も同じ授業なんか受けたら疲れると思わないか。しかも進学クラスなんか特に一時間目から七時間目までコマがびっしりだろ。今さらながら、俺はよく高校生をやってたと思うよ」
「でも、気分的には楽なんじゃないスかね」根が体育会系の祐一は、とても教師には見えない高村に対しても礼を尽くしてしまう。「高校入ってちょっとバイトなんかしたりすると実感しますけど、やっぱ楽っすよ、学生って。授業中だってただ座ってれば問題はないわけだし。それに比べると社会って厳しいなぁ、とか」

 中学時代は朝な夕なとなく剣道部で汗を流した祐一だ。ただ登校し、決められた授業を受けてさえいれば残りの時間は自由に使える立場の気軽さは身に染みている。もっともそれが彼自身にとって歓迎すべき事なのかは、まるで判然としなかった。ぬるま湯のような日々に、疲れきった心身が癒えているような感覚は確かにある。しかし末端から、築き上げてきた自分が腐り落ちていく心持ちも、決して錯覚ではないのだ。

「そりゃ高校生は気楽だよ。ただ、もちろん気楽さの中にも気苦労はあるだろ? 生徒会なんてのはその最たるもんだ。俺なんか、高校時代は極力関わらないようにしてたぞ」
「いやぁ。俺はなんつーか、ただの手伝いみたいなもんですから。本当にスゲェのは会長とか副会長ですよ。はっきりいって高校生じゃねーっすよ、あの人たち」
 完璧を絵に描いたような二人を思い浮かべて祐一は詠嘆する。
「嘱託ってことか」なぜか重々しく高村は呟いた。「それはそれで気苦労が多そうだ」
「……はい、実は結構」多分に本音を混ぜて祐一は嘆息した。
「ま、キツイときは適当に息抜きしろよ。若いうちは体は相当な無理にも耐えるんだけど、精神的にはなかなかそうも行かない。根性がある、とかそういうレベルじゃなくてな。不慣れなことが多いから、心の処理もスムーズには行かないんだ。これが歳を取ってくると逆になって、面の皮は厚くなるんだが、今度はちょっとしたことでも肉体の方が悲鳴を上げる。ままならないもんなんだ」
 俺なんか元気そうに見えるが実は余命幾ばくもないんだぜ、と笑う高村に噴出しながら頷いて、おや、と祐一は目を瞬いた。「先生って、もしかして武道かなんかやってました? じゃなければ、茶道とか」
「いや? 習い事とはトンと縁がないね。生まれてこの方文系一筋だけど、なんでまた」
「ん、いやなんか、歩き方がぴんと背筋通ってるっつーか。それに結構ガタイ良くないですか? 胸とか腕回りとか」

 童顔のために威厳や迫力には決定的に欠ける高村だが、独特の講義をはじめ立ち居振舞いや物言いには不思議な説得力があった。年齢は二十歳半ばということだから、そこはやはり社会経験の差なのだと祐一は思う。

「そうか? フィールドワークの成果かな」とんとん、と高村は腰を叩く。「そういう楯こそ姿勢がいいよな、歩くときは。授業中は前線の歩兵みたいに頭を低くしてたけど。トーチカでも見えてたか」
「そりゃだって……指されたくなかったんで」本音をこぼしてしまってから、祐一は失言に気づいた。案の定、高村は底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「じゃあ次回は一発目おまえからな」
「マジですか!? 勘弁してくださいって……あ?」

 と、生徒会室を目前にしたところで、祐一は引き戸の前で居心地悪そうに佇む少女を見つけた。またぞろどっちかの先輩の追っかけか、とため息をつきかけるが、そうではないとすぐに気づく。特徴的な髪型が、あまりにも見慣れたものだったからだ。
 目を剥いて、思わず大きな声で呼びかけた。

「詩帆。なにやってんだおまえ。ここ高等部だぞ」
「あ、お兄ちゃん」俯いていた宗像詩帆が、ぱっと顔を上げて駆け寄ってきた。「もう、遅いよ。どこ寄り道してたの」
「知らねえよ。なんでこんなトコまで来てるんだ、執行部に呼び出しでも受けたか?」
「ひっどーい。あたしそんな不良じゃないもん」いささか小児的に、詩帆が頬を膨らませた。「朝メールしたじゃん。お弁当作りすぎちゃったから持っていってあげるって。どーせ今日も購買のパンか学食なんでしょっ」
「あー。ンなもん適当でいいんだよ。余ったんなら夕飯で喰うか明日の弁当に回せばよかったのに」
 
 そういえばそんなメールがあったな、と祐一は吐息する。傍らの高村の視線が妙に気になって、気恥ずかしかった。十三歳にもなって昔のままの調子で時と場所を選ばずじゃれついてくる詩帆である。決して嫌っているわけではないのだが、邪険にしてしまうのだった。

「うちじゃそんなに食べないもん。それにこの季節に一日置いておいたらスグ傷んじゃうもん。せっかくお兄ちゃんのために大きいお弁当箱だって持ってきたんだから、責任もって食べてよう。はい、どうぞ。美味しいよー。お兄ちゃんの好きなものがいっぱいだよー」
「あのなぁ……」なんで余りものに好物がたくさん入っているのだ、とは口にしない。祐一も詩帆の意図するところぐらいはわかっている。
「折角なんだし貰えばいいじゃないか、楯」と、口を挟んできたのは高村だ。
「ですよね!」得たりと詩帆が勢い込む。「それでこちらは、お兄ちゃんのお友だち? 同じクラスの人ですか?」
「……」高村が凍りついた。
「ばっ、ばか! 背広着てんだぞ、見ればわかるだろうがっ。先生だよ先生! 新しく来た先生だっつーのっ」慌てて、祐一はフォローに回る。
「えーっ。そうなの? 見えなーい。わかーい」その努力を、一瞬で台無しにする詩帆だった。
「ど、どうもスイマセン先生、こいつ頭の中空っぽで」
「いや、いいよ」高村は諦観をまとう。「それより弁当、遠慮無く貰えって。ところで君は、楯の彼女?」
「違います。なんでそうなるんスか」
 言下に否定したものの、「そうでーっす」と詩帆が祐一の腕を抱いたために幾分空々しい空気が流れた。
「参ったなー。あたしたちやっぱりそう見えるんだよお兄ちゃん」
「見えねえよ。からかわれてんだよ。だいたいお兄ちゃんとか呼ぶんじゃねえよ」
「あ、どうも初めまして先生。あたし中等部二年の宗像詩帆です。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
「ああ、社会科新任の高村だ。そのうち中等部にも教えに行くと思うから、よろしく」
「聞けよ!」と祐一は声を荒げるが、詩帆にしても高村にしてもまったく動じない。
「とりあえず、妹ではないんだ?」高村が微笑ましそうに目を細めた。
「全くの他人っスね」

 ひどい、とまた詩帆が口にしかけたとき、がらりと音を立てて生徒会室の引き戸が開いた。

「それじゃ、失礼しましたぁ」

 気だるげにいって出てきたのは、祐一にも何度か見覚えのある少女だ。執行部の綱紀粛正に最近たびたび引っかかる中等部の生徒で、夜間外出の常習犯ということだった。そのため他には特に素行が悪いという内申はないのに、呼び出しの常連に名を連ねている。鬼の異名を取る執行部長に、完全に目をつけられたのだ。
 また彼女は援助交際をしている、という噂もあった。そんな話を聞けば、祐一も年ごろの少年である。性的な関心を含んだ目で見つめずにはいられない。色白で線のはかない、いわゆる美少女なのだが、どちらかといえば闊達で肉感的な異性が好みの祐一にも、彼女が売春などという行為をしているとは思えなかった。執行部長には多分に強引な所がある。今回もその手の誤解なのかもしれない。

「待ちなさい、結城さんっ。話はまだ終わってないんだから!」
「お昼食べる時間なくなっちゃうんでー」

 ぴしゃりと戸が閉じられる。背後から飛ぶ怒声を意に介さないあたりは、さすがに大胆である。少女、結城奈緒は、当世風にカットした髪に指先で触れながら、祐一とその腕を取る詩帆を関心なさそうに一瞥し、素通りしようとした。
 が、ぴたりとその歩みが止まった。彼女の視線は一箇所に固定されている。
 矢先には、ひらひらと手を振る高村教諭が立っていた。

「うげえ。ホントに先生だったんだ……」

 奈緒が小声で呟くのが聞こえ、祐一は眉をひそめる。奈緒のものであろう香水の馨りが、ほんの少し匂われた。
 肩を竦めると、奈緒は値踏みするように高村を見回した。双眸は警戒と猜疑心に満ちている。

「……この間はどうも」どうとでも取れる台詞は、出方を窺うかのようだ。
「よう。こっちこそ」対して高村は、泰然たるものだった。「明るい下で見た方が美人だな」
「……」一瞬だけ目を丸くし、徐々に表情に険を宿すと、唇を吊り上げて奈緒はいった。「それ、セクハラですよ」
「褒めても怒られるなんて、まともな社会じゃないと思わないか。女の子が追い剥ぎやる社会に比べれば、マシかもしれないけど」
「なにそれ。皮肉?」奈緒が乱暴に髪をかきあげる。面倒だとでもいいたげだった。「説教でもしたいんですか、センセイ?」
「されたいのか?」
「冗談。死ねって感じ」
「俺もする気はないよ。ただ、親を心配させるような真似は控えた方がいいぞ」
「――」

 反応は劇的だった。驚くほど鋭く変じた奈緒の眼を、祐一は危いと感じた。細い肩が強張り、握りしめられた拳が何かを掻くように動く。まるで攻撃の準備行動のようだと感じて、まさかな、と祐一は自身の判断を一笑にふした。いきなり教師に手を挙げれば、風華学園では最悪退学処分もありえる。
 しかし、その手は一瞬だけ鈍く輝き閃きかけて――
 高村の指が、ばちこんと奈緒の額を弾いた。
 うわ、と祐一は眉を集めて自分の額を撫でた。相当な快音が耳に届いたのだ。

「でこぴん」と高村はいった。「言ったそばから危ないヤツだな、おまえ」

 奈緒はすぐに答えなかった。両手で額を押さえて、悶絶している。指の隙間からきっと高村を見上げた瞳は、潤んでいた。しかしそれ以上は何も言わず、大丈夫か、と伸びかけた高村の手を凄まじい勢いで払い落とすと、早足で去っていった。

「おっかねえ女だなぁ」女っておっかねえなぁ、と言い換えるべきだったかも知れない。見てくれだけが真実ではないと学んだばかりの祐一は、とりあえず当り障りのない言葉を口にする。
 それを受けて、詩帆が呟いた。「あのひと、嫌い」
「なんで。なんかされたんか? おまえ学年違うだろ」
「そういうわけじゃないけど……なんとなく、ヤな感じなの」
「へえ」

 要領を得ない言葉に、祐一は鼻を鳴らす。大人しいようで内弁慶な詩帆は、意外と人の好き嫌いが激しい。今回もその範疇だろうと判断した。と、

「よーし。それじゃ、早速生徒会の見学と行こうか」
「……大物ですね、先生」にこやかに笑う高村が、祐一には宇宙人のように見える。「……って、先生、その胸なんですか?」
「え?」と祐一の指先を追って高村が胸元に目を落とし、うおっとうめいた。いつの間にか、高村が下げていたネクタイが、結び目の丁度真下から完全に分断されていたのである。この男が驚くのを、祐一は初めて見た気がした。「やられたな……。今全身鳥肌立ったよ、この蒸し暑いのに。冷や汗まで流れた」
「まさか」はっと気づいて、祐一は結城奈緒が去った廊下を振り返った。「あいつ、ナイフかなんか持ってたんじゃ」
「いや、いいよ。抛っておいて。きっとさっきのは、俺も悪かったんだろう」ばつが悪そうに、高村が後頭部を掻いていた。「今度会ったら謝っておく。あとネクタイ代せびる。ついでにズボン代も」
「……いいんスか、それで」
「うん。だからさっき言っただろう」したり顔で高村は頷いた。「歳を取ると、誰しも図太くなるんだよ」
「なんだか先生って、先生っぽくないですね」詩帆が不思議そうに呟く。
「これは、おまえらに言うべきことじゃないかもしれないけど」と高村が嫌そうな表情でいった。「心構えが雑すぎるんだよ、俺は。こんな調子じゃ、やっていけないと思う。教えること自体は割と好きなんだが、向いてないのかもな」
「……」

 ならなぜ教師になんかなったんだろう、と祐一は思う。思うだけだ。さすがにそこまで踏み込めるほど、彼らの間柄は近くない。しかしその意をすぐに汲んだのか、高村はネクタイを解きながら、微苦笑した。その顔が一気に十歳も老け込んだように見えて、祐一はぎょっとする。

「色々あるんだよ。俺みたいな凡人でも、生きてれば」

 ※

「ちぃーす」

 と、祐一が足を踏み入れると、ちょうど生徒会長の執務机に勢いよく紙束が叩きつけられる場面に出くわした。すわ決闘か、と高村は目を丸くする。

「だぁーかぁーらぁ! 貴女の采配はいちいちいちいち温いんです!」書類を手袋と間違えたのか、という勢いで少女が詰め寄る相手もまた、少女だった。風華学園生徒会執行部部長、珠洲城遥である。「今の結城さんに対してもそう! 一度ばしィーッと処分を下さない事には、周囲への示しがつきません!」

 そして彼女を向こうに回してのんびりとした表情を崩さないのが、生徒会長藤乃静留であった。

「そないなこと言いはってもなあ、珠洲城さん。確たる証拠もなしに処分を下すことはできません。見た感じ、あの結城さんいう子も意外としっかりしとるみたいやし……。そもそも、判例言うたら大げさやけど、夜間外出には訓戒が慣習どす。そこのところどうしはりますの」
「あ、まァーい!」血管が切れそうなほど激しく、遥が叫んだ。「証拠ですって!? 尋問すればいくらでも出てくるにきまってるわ! そんな日和見、甘ったるくて糖尿病寸前よっ! 判例だの慣習だのは、書き換えるためにあります! 問題が起きてからでは遅いんです! 風紀を取り締まる立場にはこれシーソー烈日の心意気であたるのが当然でしょうッ!」
「秋霜烈日だよ遥ちゃん……」小声で訂正したのは、書記の菊川雪乃である。
「せやかて、反省してます言われたらもう、うちらがそこまで厳しく追及するのはどないやろねぇ」
「あんなの! 表向きしおらしくしてるだけに決まってるでしょうっ」
「せやね。やけど、堪忍な、っていわれたら許すのも人の道思います」
「んああぁあーもう! そもそも最近何もかも色々おかしすぎるのよ! 先月はフェリーが沈んだのにローカル版でしか記事にならないし、やたら事故は起きるわ学内でも負傷者が続出するわっ。陰謀よ、陰謀の香りがするわ……! そしてそれもこれも会長、あなたの手ぬるい事なかれ主義がこまねいたものだという自覚はおありですか!?」
「こまねいたじゃなくて招いただよ、それじゃ意味が重複してるよ遥ちゃん」
「雪乃! 外野からいちいち人の重箱の隅を取らないで!」
「うん、ごめんね。でも取るのは重箱の隅じゃなくて揚げ足だよ」
「せやねえ」

 言いつつ悠然と茶をすする静留は、一枚も二枚も役者が上手という風情だ。

「ゲシュタポか特高みたいなこと言いながらボケてるけど芸人か、あの子」と高村が漏らしたのを聞いて、祐一は部屋の隅に退避しながら説明した。
「よその学校のことはよくわかんないスけど、ウチじゃ生徒会や執行部の権力が異様に強いんですよ。予算も半端じゃねえし。んで、学生自治が基本だから、自然に執行部は厳しくなるんです。……まあ、それにしてもあの緑のでぼちん、珠洲城先輩っていうんですけど、あの人は歴代でも特に厳しいっス。異様に使命感燃やしてるみたいで。……つっても、あの会長、藤乃先輩にはいいようにあしらわれてんですけどね」
「へえ。マンモス校はさすがだな……っていうか、あっちの京都弁の子が会長なんだな。俺はてっきり」高村は近づいてくる詰襟の青年を目線で示して、「彼がそうなのかと思ってた」
「やあ、楯くんいらっしゃい」微笑んで、神埼黎人が非の打ち所のない角度で会釈して、高村に右手を差し出した。「こちらは高村先生、ですね。他の先生方からもお話は伺っていますよ。僕は生徒会副会長の神埼黎人です。どうぞ、よろしくお願いします」
「社会科の高村だ。こちらこそよろしく」高村が、釈然としない様子で伸ばされた手を握り返す。「すごい色男だな」
「ありがとうございます」一寸の照れもなく、神崎は笑った。
「なんというか、ユニークな生徒会なんだな。それにカラフルだ。生徒会は色違いの制服を着る規定もあるのか?」

 そういえばそうだな、と祐一は遅ればせながら同意した。不純異性交遊を禁じているわりに、風華学園では制服の改造が半ば容認されている。それでも遥は緑、静留はベージュと一般生徒とは明確に区分できる。神崎の場合は冬服を夏場にも着用しているだけなのだが、目立つことに変わりはない。

「ええ。風華学園の生徒会役員、その幹部ともなれば、色々と責任がつきまといますからね。常に己の立場を忘れないためにも、という慣わしのようですよ、どうやら」
「大変なんだなぁ。下手したら教員よりよっぽど苦労しそうだ」
「まさか。先生方の労苦に比べたら、まだこちらは気楽ですよ。なんといっても、僕たちは学徒ですからね」
「俺も一応、まだ大学に籍はあるんだよなぁ。論文も書かなきゃならんし。あ、そうだ」と、そこで高村が手を打った。「なあ、このへんで珍しい伝説が残ってる場所とか知らないか。図書館に行けばすぐわかるんだろうけど、まだ忙しくてなかなか足を運べないんだ」
 それを聞いて祐一は、神埼と顔を見合わせた。「俺はちょっと。先輩はどうです?」
「そうですね。そういった話ならいくつか聞いた憶えがあります。とはいっても、珍しいというとどうでしょうね。僕も一時期そういった伝承を趣味で読み集めたことがありますが、傾向としては悲恋譚などが多かったような気がします」
「悲恋譚ねえ。俺はハッピーエンドが好きなんだけどな」
「僕もですよ。だけど、史実を元にした後に残る物語といえば、やはりどうしても悲劇になってしまうんでしょう」
「ま、そうだな」同意した高村が、目ざとく祐一にあやをつけた。「どうした、楯。納得行かないって顔だぞ」
「いや、別に大したことじゃないんですけど。なんで悲劇の方が後に残りやすいんですか?」
「完結しているからだ」きっぱりと高村がいった。「たとえばこうだ。二人は末永く暮らしました。めでたし、めでたし。でも本当に、そんなことあると思うか?」
「そりゃ、あるんじゃないですか」
「でも、つまらないだろ」口調はあっさりとしすぎていて、祐一は反感を抱く事さえできなかった。「ということは、薄まっていくんだ。結果、あまり印象深い物語にはならない。人の口には上らず、美化されることもない。幸福は、それ自体美しいともいえるが、結局のところ多くの場合現実的なものだ。娯楽的魅力に欠けるんだな。『めでたしめでたし』は、いわば営々と積みあげていく属性を持っている。後味が良いということは、すぐに消えるという事だ。だから、印象に残らない。だけど悲劇的な結末は、傷を刻む性質を具えている。後味の悪さは、ときに長く残留する。同情と共感を聞いた人に呼び起こし、なぜ幸せな結末にならないのか、という思考を促す。そうだな、恋愛物語で例えてみようか。必要最低限のストーリィとしてのセンテンスはこんなところだ。『二人は出会った』『そして恋に落ちた』『だが困難が訪れた』。起、承、転ってやつだ。さて、ここから結末は分岐する」
「……」

 いつからか、神崎と祐一以外の人間も高村の話に傾聴していた。珠洲城遥は奇妙な顔で、菊川雪乃は興味深そうに、そして意外にも、藤乃静留は真剣な顔で。

「ひとつは、『困難に打ち克って結ばれる』。もちろんもうひとつは、『困難に負けて破局を迎える』だ。だがここでは、後者のストーリィは物語として秀逸とはとても言えない。なぜかって? 不幸だが、ありふれているからだ。すなわちただ不幸なだけでも、やはり印象には残りにくい、ということ。まあ当人たちにしてみればそれこそ知ったことか、って感じだろうけどな。とにかく、劇的、嫌な言葉だな、劇的という属性を、平凡化によって失うわけだ。つまり、前者の『結ばれる』という結末が物語としてのカタルシスを生む。さらにその正負がそのまま大団円と悲劇的結末の別れ道になる。ロミオとジュリエットはみんな知ってるか?」
 神崎が頷いた。「ええ。それはもちろん。シェークスピア悲劇のひとつですよね」
「そう。リア王、ハムレットオセロゥ、マクベス……と来て、少しグレード下がってロミオとジュリエット。シェークスピアは知らずともロミオとジュリエットを知らんって人はなかなかいないくらい、これは恋愛悲劇の好例だ。まあかの大作家はストーリーテラーとしてずば抜けすぎていて、『十二夜』やら『真夏の夜の夢』を見れば分かるとおり、正直この類型には当てはまらないけどな。ま、これは物語というものが洗練される前の形式論だと思ってくれ。説話ってのは、別にプロが丹精込めて作り上げたもんじゃないからな。ってことで便宜的に有名どころを取り上げたが、実はこれ、今までの話には微妙にあてはまらん。……で、遠まわしにしてもしょうがないし、結論を言ってしまおうか。『結ばれた』『そして末永く幸せに暮らした』。『結ばれた』『しかしそれは死によってのみ果たされる約束だった』。さあ、どちらがドラマティックだと思う?」
「……なるほど」答えるまでもなく結論は出ていた。祐一にしても、飲み込める話だ。「そういうことなら、断然悲劇っすね」

 ほう、と誰からともなくため息が漏れた。「喋りすぎたな」と高村が頬を掻く。

「興味深いお話どしたなぁ」微笑みながらそう言ったのは、藤乃静留だ。「でも先生。その法則があてはまるにはもひとつ、大きな前提があらしませんやろか」
「そうだよ。欠点とも言い換えられる」こともなげに高村は頷いた。「いまのって全部、現実を下地にした話の場合なんだよな。ノンフィクション前提で、現代ではワイドショウの中でもなきゃ探せないんだ。事実は小説よりも奇なりじゃないが、面白いフィクションの条件は、必ずしも結末じゃない。ハッピーエンドだって後世に残る名作はたくさんある。これらは元からドラマとして作成されているからだ。だけど現実はそうじゃない。悲劇ばかりが、物語化されて、胸を打つ。現実だからこそやるせなくなる。そしてだからこそ、面白い。感情を揺さぶる出来事は、あまねく娯楽だ。皮肉な見方をすればこうなるな。『他人の不幸は、蜜の味』。お粗末」
「嫌なオチっすね」祐一は、苦笑するばかりだった。
「予定外の講義になった」そういうと、高村は背伸びして笑った。「さて、もういい時間だし、そろそろ食堂行かないとくいっぱぐれるか。それじゃ、邪魔したな」

 返事を待たず歩き去る背中に、面々が苦笑した。

「なんだか変わった先生ね」遥がぴんとこない様子で呟く。
「そうかな。でも、高村先生の授業は面白いよ」雪乃はなにか感じる所があったのか、得したとでもいいたげである。
「なんにしても、いきなり来はったと思うたら難しいこと喋りはってすぐ行ってしもうて、せわしない人やわぁ」
「――邪魔するぞ」

 と、高村と入れ違いで、閉じた扉が再び開いた。

「あら、なつき」静留が顔を綻ばせた。

 現れたのは玖我なつきである。彼女も結城奈緒と同じく問題児ではあったが、なぜか藤乃静留と懇意にしていて、特に用がなくとも生徒会室に入り浸っていた。

「高村がここから出てきたな」開口一番、なつきは静留に向かって訊ねる。「なにをしていたんだ、あいつは」
「そういうたら、高村先生はなつきのクラスの担任どしたな。面白い話を聞かせてもろたけど、それがどうかした?」
「どこに行ったかわかるか?」
「たしか、食堂に行くて……あ、なつき?」最後まで聴き終えず、また来る、と言い残してなつきは踵を返した。静留が無念そうに吐息する。「……もう。ここにもせわしない人がひとりおった。いけずやな」








[2120] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/06 21:15






5.Firestarter & Coolbeauty (中)




 風華学園のすぐ裏手には、浄水施設と山がある。地図上で見た場合はその認識は正しいが、正確には山の麓に学園が建てられた、というべきではある。国の検分は最低条件としても、広大な敷地があって初めて学校法人は成り立つからだ。

「そして古来から、学校が建てられる土地にはいわくがあるってのは、もはやセオリーなんだよな」

 と、高村はまさにその山の傾斜を歩きながら呟いた。
 玖我なつきは、関心のない様子で慎重に距離を置いて、彼の後についている。

「どうでもいいな」
「子供のクセに学術的好奇心に欠けるやつだな」高村は嘆息した。「ところでおまえ、なんでここにいるんだ? 放課後なんだからもう帰れよ。あのエロいライダースーツに着替えてさ」
「……おまえこそ、こんなところに何の用がある」やや唇を曲げたものの、なつきは挑発には乗ってこない。
「質問に質問で返すなよ。でも答えると、フィールドワークだ。このあたりの土地は色々興味深いんでな。論文に使える遺跡でもないかな、と。で、玖我は?」
「……信用できない。信用できないから、おまえを監視している」
「しつこいな、ほんと。一体俺がおまえになにしたっていうんだ」げんなりと高村はいった。内心はその行動力に舌を巻いている。同時に、かなり呆れてもいた。性分なのかも知れないが、なつきの尋問は短絡的すぎる。よほど焦っているのか、それとも今までがこの調子で奏効するような環境だったのか、どちらにせよ高村の心労は募るばかりだ。

(こりゃばれるのも時間の問題だな。最初は大した子だと思ったんだけど)

 学園に訪れたときにはなつきは高村を捕捉していた。美袋命を風華に送り届けた足取りも掴んでいるらしい。その時点で高村も特に隠蔽はしなかったし、そもそもそんな技術や資金はないのだが、それでもなつきの耳の速さは異常だった。大した手腕だ、と感心したものだ。
 いただけないのは、その後である。

「おまえが何をしたか、ではない。おまえが何かをする、とわたしは確信している。だいたい、こんなところでこれ見よがしに調査だと? 白々しいにもほどがある」

 と、なつきはにべもない。しかし思考の経緯は恐らく違うとはいえ、彼女の疑念は実はまったく正当だった。高村の専攻は考古学であって、民俗学や文化人類学ではない。重要な発見が報じられたわけでもない未発掘の地域を歩くのは、フィールドワークというよりただの趣味人的散歩である。この手の調査は、まず兆候の発見の上での徹底した文献の洗い直しから始まる。二千人からの生徒が集まって目下何ら遺跡の痕跡が知られていないような場所を、しかも個人で歩くのは、効率が悪いことこの上ない作業だった。
 無論例外はあるが、発掘とは通常大学や研究機関が機材や人員を集めて発掘団を結成し、行うものである。自治体や国の許可も不可欠だ。重機で地面を掘り返すのだから、当然といえば当然だった。
 しかし、遺跡はある。歩きながら、高村はその確信をますます深めている。理由はいくつか挙げられた。たとえば、周囲の木々が明らかに自生してはいないこと。またその分布にも恣意的な印象を受けることなどが最たるものだ。この森が自然発生的なものではなく、植林によって地形に手を入れられているのは間違いない。
 恐らくは見るべきものが見れば地形や地質にも不自然さが含まれているはずだ。もっとも、専門ではない高村にはそこまでは判断できない。

「この山が妙なことには気づいたようだな」既知の事実だったのか、高村の表情を見てなつきが告げてきた。「だったら、ロケハンからして間違っている事もわかるだろう。おまえが本当に研究者だというならばな」
「見習いでつまはじきもので、まあ中退がほぼ確定してるような身分だけどな。は、はは」乾いた声で高村は笑う。そしてさりげない動作で、懐から携帯電話を取り出した。「もういいや、信じないなら信じないで」と嘆きながら、口元で指を立てて液晶画面を注目するよう、身振りでなつきに促した。

『盗聴の可能性がある。何でもない風に振る舞え』
「……!」なつきの表情が研ぎ澄まされたそれに転じた。真意を確かめるような眼差しが、高村を貫く。
「生徒の話だと、この森の奥に潰れた神社があるって話なんで、とりあえず俺はそこに行こうと思う。折角だから玖我も来るか? 課外授業の特別サービスだぞ」取り澄ました顔で、『ついて来い』と高村は続けてタイプした。『口数を減らすな。疑う様子はすぐに止めなくてもいい』

「……興味はないが、どうしてもというのならばついていってやってもいい」ためらいながらなつきが頷くと、高村はさらに森の奥へと歩き出した。
 
「おお、珍しい。祭神が火之夜藝速男神だ、ここ。関西じゃあんまり見た事ないぞ、これは」果たして、高村の先導でたどり着いたのは確かに裏さびれた神社だった。無人のようだが手入れはされているようで、社もさほど劣化はしていない。説明もせず社屋周辺を歩いた高村が発した一言が、先のものだ。「すぐ近くに宗像大社系列の神社があるっていうのに、意味わからんな」

 そんな高村を見る、なつきはずっと仏頂面だ。ようやく尻尾を出し始めたことで気が急いているのか、高村が大喜びで神社を見ている間にも、始終無言で圧迫感を放ちつづけていた。

「……あながち演技でもなさそうだが、何がそんなに楽しい?」
「学問の楽しみは、いつだって知ることにしかない。自分が成長しているという、錯覚にも似た喜びと充実だ。ほかは全て副次的な夾雑物に過ぎない。……建前上は」答えて高村は、ポケットから温くなった缶コーヒーを持ち出した。プルトップに指をかけて、皮肉に笑う。「だけど、それを本職にするってことは、その他もろもろの厄介ごとを背負い込むってことでもある。本当に好きなことは仕事にするべきではないとはよく言ったもんだ。……玖我は将来これで食っていきたいと思うようなことはあるのか?」
「進路調査のつもりか? 馬鹿馬鹿しい」なつきが吐き捨てた。「ないな。そんなもの。わたしには今現在、全力を尽くしてやるべきことがある。それより」
「未来の事だぞ。馬鹿馬鹿しくなんてない。そんなことを本気で言うやつこそ、くだらない」声色を硬くして、高村はそう言っていた。自制の為に深く呼吸して、コーヒーを一口啜る。異様に甘かった。「玖我、おまえはもうちょっと、将来について真剣に考えるべきだと思うよ」
「そんなことは、誰も聞いていない!」語気荒く、なつきが高村に詰め寄った。「なんなんだおまえは。何かを喋る気になったんじゃないのか? 何のためにここまで来た。話すことがあるなら、さっさと話せ!」

 境内に鋭い声がこだました。ざざ、と周囲の梢が嘲るように震える。

「訊きたいことがあるのは、玖我のほうだろう。それで俺をつけまわしていたんだから」

 囁くように高村はいった。祭壇の階段に腰掛ける。放置された狛犬や、舗装が剥げかけた石畳に、歳月の流れが散見できた。古い記憶が、どこからか呼び起こされそうになる。

「なら聞く事はひとつだ。〝一番地〟について、おまえが知っている事を全て話せ」
「一番地。一番地、一番地一番地」これ見よがしに高村は嘆息した。「おまえはそればっかりだな。ほかに言葉を知らないみたいだ。ほかの言葉を聞きたくないみたいだ。だから違うといっても聞く耳持たないし、質問は漠然として主旨が掴めない。知っている事を全て話せだって? この国を、いやさ世界を、影から操ってる秘密の組織だと答えればいいのか?」
「……聞いたぞ」

 すっとなつきの表情が冴えた。刹那に手には件の拳銃が握られている。

「おまえの頭が良いことは、話せばすぐわかる。実際成績も良いし、俺なんかより機転も利くんだろうな。それで、そんな不思議な銃も持っている。美人だし、喧嘩だって強そうだ。およそ隙のない万能人じゃないか。まるでルネッサンス時代の理想みたいだ」それをまったく無視して、高村は続けた。既になつきは眼中になかった。どこか独白するような口ぶりになりつつあった。「なのに、おまえの質問は馬鹿そのものだ。だけどそれは、おまえが問題を整理できていないわけじゃない。そうじゃないか? おまえ、実際はその一番地について、ほとんど何も知らないんだ。調べても調べても、影すら掴めない。だから焦る。どうだ、図星だろう」
「影なら掴んださ」なつきは表情を苦くして、さらに一歩、高村へ近づいた。「おまえという影を」
「影は掴めない」高村はかぶりを振る。「おまえは掴んだつもりになっているだけだ」
「……今日は口数が多いじゃないか。その調子でもっと歌え」なつきの眼は明確に敵を見るものに変わりつつある。

 俺は喋りすぎているな、と高村も自覚していた。相手を煙に巻くための饒舌ではない。燻っていた苛立ちが、負の感情のタービンと舌を回している。
 玖我なつきには力がある。過酷な運命や現実に抗うための力がある。かつての彼にはなかったものが、彼女にはあるのだ。だというのに、なつきはそれを自覚さえしていない。高村には玖我なつきという少女が一体何がしたいのか、まるでわからない。中途半端にすぎて、彼女を守らなくてはいけないのに、ひどく疎ましくなる。
 八つ当たりだとわかっていた。なつきがまだ子供なのだということも、だからこそ彼女は保護されるべきだということも、である。
 しかし収まりがつかない。
 高村は立ち上がると、予告せずに手中のコーヒーを差し出した。片手で反射的に受け取ったなつきが、銃を構えたままいぶかしげに見あげてくる。

「玖我」無表情のまま彼はいった。「俺は正直、おまえにむかついてるんだ。おまえの迂闊さに」

「え?」と、なつきが驚く間もあらばこそ、高村は突きつけられた銃を手に取ると、自らの顔面に導いて眉間に照準した。すると予測どおりなつきはほんのわずかに怯みを見せた。握力が緩んだ瞬間を的確に捉え、高村は手首を捻り挙げて拳銃を奪い取る。
 はなせ、という言葉が口をつく前になつきの体を背負うと、高村は受身を取らせずに地面に叩きつけた。綺麗に背中から落ちて、体躯を反らせたなつきが肺の中の空気を全て吐き出す。同時に高村は倒れたなつきにのしかかるとその鳩尾を掌で打って、さらに彼女の口を塞いだ。

「っ……、っ」

 完全に呼吸器系を阻害されて、美しい少女の顔色は見る間に蒼ざめていく。片手で口を、もう片手でなつきの両手を拘束すると、高村は体をなつきの両股の間に差し込んだ。短いスカートのプリーツが捲くれあがるが、息のできないなつきにはそれを恥じる余裕がない。

「盗聴、なんて言葉を真に受けてのこのこついてきて。おまえ、ここで犯されて殺されて、そのまま死体さえ誰にも見つからない目にあう、と少しも考えなかったのか?」無力化した少女の顔を間近から見下ろして、高村は低い声で囁いた。「それとも警戒したが、なんとかなる、と思ったのか? あの銃があるから。腕に覚えがあるから。修羅場をくぐっているから。じゃあ俺がひとりじゃなかったらどうしてた。相手もおまえと同じように拳銃を持っていたら。あの結城奈緒みたいに不思議な力があったら。そのときおまえは、ここで俺程度に組み敷かれてるおまえは、どうやって危機を脱した? どうなんだ玖我。おまえが軽々しく名前を連呼している相手は、俺にさえできることができないような雑魚なのか?」

 喉を鳴らしながら冷や汗を流し始めたなつきは、それでも瞳から力を失っていなかった。恐慌が精神を冒す寸前で、敵意と憎悪を衝立にしてかろうじて平衡を保っている。鼻息が高村の手にかかり、じたばたと足を振っては、拘束から逃れようと身をよじっている。

「答えてみろよ、玖我。俺は聞いてるんだ」
「………ッ」

 真っ直ぐに突き刺してくる双眸から、耐え切れず高村は目を逸らす。

「……頼むよ。もうちょっと考えてみてくれ。自分がどういうことをしているのかってこと。面白半分だなんていわない。おまえにもどうしようもない事情があるんだろう。だけど、それでも、もっと慎重になってくれ。おまえには、心配してくれる人だっているはずだ。失いたくない大事な人間も」

 懇願のような響きだった。いや事実、高村は懇願していたのだ。なつきに、あるいはなつきではないなにかに。

「……?」
「悪かった。立てるか?」

 組み伏せられたなつきが、目を白黒させて高村を見上げていた。既に拘束は緩んでいる。口も手も自由になって、なつきは伸ばされた手を、ほとんど何も考えずに取った。
 一陣の風が吹いて森がざわめいた。
 いつの間にか落とされていたスチール缶が、境内をカラカラと転がった。

「おまえは……なんなんだ」制服についた土を払いながら、なつきが高村から目を外していった。
「悪いけど、内緒だ」

 他にどう答えるわけにもいかず、高村は立ち尽くす。自己嫌悪と後ろめたさが彼の胸中で吹き荒れていた。気まずいという以外にない沈黙が、二人の間に満ちていた。
 主の危機に反応して自動的に顕現したデュランが、高村を全力疾走する軽自動車のような勢いで吹き飛ばすまで、静寂は続いた。

 ※

「ところで俺の家も、元は神社でな。じいさんが宮司をやってた。結局社閣整理で取り潰しになっちゃったんだけどさ」

 デュランの突撃はこのつかみ所のない男にも相当な痛手を与えたようだ。なつきはなんともいえない気持ちで、地面に寝ころがる男を見下ろしていた。目立った外傷はないものの、躰に力が入らず起き上がれないらしい。
 吹き飛ばされたあとでなつきは慌ててデュランを制止したのだが、高村ははじめて見るなつきのチャイルドを転げまわりながら一瞥すると、ああ、おまえもか、と言っただけだった。以前に会った中等部の少女と比べたのだろうが、チャイルドに付いてどれほどの知識があるのかは量れない。演技のようにも見えるし、このぼんやりとした男なら驚いてもこの程度か、という気もする。
 追及の気持ちは、今のところ鎮火していた。なくなったわけではもちろんない。
 一瞬で組み敷かれた驚きと認めたくはない恐怖は、まだ彼女の心中に居残っている。女としての本能的な危険をおぼえたのは初めてではないが、さすがにあれほど直接的なものは経験にない。とりあえず高村恭司が本気で自分を暴行しようとしたわけではない、ということは了解できたものの、警戒は解けそうになかった。何しろ、平静を装っているがいまだ心臓は強く拍動しているのである。

「神社か」気まずさを取り消そうと、なつきはあえて無視することはしなかった。沈黙はときに、相手を必要以上に意識させる。「イメージと違うな。それとも、裏では一子相伝の暗殺拳でも伝えてるのか」
 正直半分以上真剣な感想だったのだが、高村は盛大に吹き出した。「ありえないだろそんなの。おまえ、漫画の読みすぎだ。もしかしてそれ、その宝塚口調も漫画かなんかの影響か」
「ほ、放っておけ!」少しばかり心当たりがあったので、なつきは赤面を禁じえなかった。「だいたいじゃあなんであんなに無駄に戦えるんだ、おまえは。達人の下で訓練でも受けたのか」
「その発想から離れろよ。現実はもっとつまんないものだぞ」高村の声は笑いを引きずっていた。「極めて汚きも滞り無ければ穢とはあらじ。内外の玉垣清し浄しと申す。なんつってな」
「なんだそれは。なんの呪文だ?」謡曲のようなこぶしを利かせて謳いだした高村を、なつきは呆れた目でみやった。
「祝詞だよ。一切成就のハラエっつってな。本当はみだりに軽々しく唱えちゃダメなんだが、出血大サービスだ」
「わたしは頼んでないぞ」
「そうだったっけ」高村が笑う。その顔が、普段よりずっとくたびれて見えて、なつきは息を呑む。「ちょっと自分語りするけど、恥ずかしいから聞き流せよ」
「内容による。本当に恥ずかしかったら絶対に覚えておく」
「根性悪いな」高村がうめく。「よくあるもしもの話だよ。うちが神社のままだったら、俺の進む道も違ったんだろうな、って。きっと俺は家を継いで、大学も別で、今みたいにはならなかった。この学園にも来なかった。当然、教師にもならなかっただろう。玖我はそんなこと考えないか?」
「考えない。考えたとしても、意味がないからだ」

 嘘だった。
 過去に戻れたらと、なつきは何度も考えた。あの忌まわしい覚醒の日に戻れればと、せめて母と自分が事故に遭う直前に戻れればと、数限りなく夢に見た。

「そうか。すごいな、玖我は」

 素直に賞賛する高村に対し、答えようとしたそのとき――
 なつきは、≪オーファン≫の気配を感知した。出現したか、今まさに出現しようとしているのだろう。風華学園の裏山は、異形の怪物が頻繁に現れる異界でもある。
 人を害し姿を晦ます、化物を倒す。それがなつきを始めとしたHiMEが風華学園に集められた意図だという。

(もっとも、それも怪しいものだ)

 無言のまま立ち上がると、なつきはデュランを再度召喚した。

「どうした?」高村が仰向けのままで聞いてきた。
「オーファンが出た」
「おーふぁん? 孤児か」
「知っているのか、知らないのか、それとも知っていて知らないふりをしているのかは、今は聞かずにいてやる」なつきは無視して続けた。「わたしは行く。ここからはHiMEの仕事だ。おまえはさっさと失せろ」
「そういわれてもな」よいしょ、と声をあげると、高村は上半身をあっさりと起こす。
「なんだ、おまえもう動けたのか」
「ああ、まあ。でも絶景過ぎて動くに動けなかったんだ」
「なに?」
「眼福眼福」といって、高村はなつきのスカートを指差してきた。「最近の高校生の下着はずいぶん凄いな。先生ちょっと欲情しちゃったぞ」

 その言葉が意味するところを悟って、なつきは今さら裾を押さえた。耳まで赤面するのを自覚して、高村の顔面に向かってエレメントを射撃する。

「危ない!」寸前で無様に転がって、高村は一撃を躱した。「いまのは躊躇がなかったぞ! 殺す気か!」
「死ね」とさらに十発ほど撃ってから高村が動かなくなったのを確認すると、なつきはデュランを伴い憮然として走り出した。

「……どこだ?」

 デュランと共に森を駆けながら、なつきはあたりを窺う。破壊の痕跡も戦闘の兆候も、どこにも見あたらない。
 HiME、高次物質化能力を有する人間には、チャイルドと同じ〝もの〟から生まれるオーファンの気配を察知する能力があり、オーファンもまたHiMEを狙うという特性を持っている。また知覚するといっても、具体的に対象の居場所を割り出せるほどその感覚は精緻ではない。漠然と、『近くにいる』とわかる程度だ。
 経験則から考えれば、なつきが現在知覚しているオーファンはその範囲ぎりぎりにいるといったところだった。従って、現れたオーファンはなつきを狙うものではないという結論が導かれる。おそらく別のHiMEか、HiMEに覚醒しかけている人間の元に現れているのだろう。もちろんだからといって、放置する道理はない。

(またあいつか)

 なつきの脳裏に浮かぶのは、得体の知れぬ白髪の少年である。人かどうかも怪しい彼は、導き手を自称してHiMEにオーファンを狩らせている。
 高村にはオーファン駆逐をHiMEの仕事だといったが、なつき自身は役割に懐疑的である。その存在が本当に危機的ならば、オーファンの存在を隠蔽する動機が薄すぎる。HiMEはなるほど人を超えた力かも知れないが、たとえば近代的な軍隊の戦力と比して圧倒的に勝っているとは思えない。
 自分たちに告げられていない理由が必ずどこかにある。そしてそれは正体の掴めない組織、一番地に繋がっているのだと、なつきは確信していた。
(いや、それも後回しだ。今は)
 オーファンを見つけて倒すのが先決である。
 ほとんど生理に訴えかけてくる感覚を慎重に吟味して、デュランの先導のもとなつきは森のさらに奥まった部分へ分け入っていった。未舗装の地面が目立ち、傾斜もきつくなりはじめている。なつきも未踏の領域である。

 そんな場所を、見覚えのある顔がふらふらと歩いていた。

「あれ、は」
 渋面とともになつきが想起するのは、一ヶ月前の苦い出来事だ。美袋命を追って乗り込んだフェリーで遭遇した少女。結果的に船は沈み、命の翻意もかなわなかった、記憶に新しい彼女の失敗である。
 洋上でHiME二人の戦闘に割り込み、エレメントのためと思しき特殊な能力を発揮した、まさにその少女が目の前にいた。

「鴇羽、舞衣といったか。くそっ。なぜこんなところにいる?」

 出会った時すでに風華学園の制服を着ていた舞衣だったが、調べても学籍はなく、また一ヶ月を経ても校内で見かけなかった。なつきは彼女が素直に忠告に従ったのだと思っていたのだ。

「おいっ」矢も盾もなく木蔭から飛び出して、なつきは舞衣の肩を背後からつかんだ。「すぐに山を降りろ。ここは危険だ。……聞いているのか?」

 かけた手をふりほどくと、舞衣はなつきを一顧だにせずひたすら山の上へ上へと進んでいく。夢遊病者のような足取りなのに不思議と転倒せず、まるで誰かに操られてでもいるようだった。歯がみして、なつきは進路へと割り込む。

「しっかりしろっ。何をやってるんだ、おまえは!」
「どいて」焦点の合っていない瞳で舞衣が呟いた。「たくみが、こっちにいるの。来たって聞いたの。危ないから、あたしが助けに行かなくちゃ」
「タクミ?」
「どいてよ」

 押し退けられる。予想外に強い力で、足場の悪いこともあってなつきはよろめきかけた。その体を、背後から何かが支える。

「どうなってるんだ」高村だった。追いついてきたのだ。「あれは鴇羽じゃないのか? どういうことだ」
「どうもこうもあるか」さっと腕の中から脱出して、なつきは吐き捨てた。「精神誘導らしきものを受けている。大方凪のやつの仕業だろう。それよりおまえ、あいつを知っているのか?」
「あ、ああ。ほとんど同じ日に風華に来たから……」高村は合点が行かないという様子だった。すでに遠のき始めた舞衣の背を目で追ってから、「凪だって? それって中等部の、髪が白くてつかみ所のない、なんか飄々としたやつのことか」
「そうだ。そっちも知っているんだな」
「知ってるというか、一方的にちょっかいをかけられた。あれもおまえたちの関係者か?」
「わからない。あいつに関しては何も。それより今は、あの鴇羽だ。鴇羽はもしかしたら、いやたぶん、HiMEだ。きっと最後の」
「ヒメ?」高村が鸚鵡返しに問うた。
「しらじらしい」なつきは心底呆れ果てる。「もう、いい。とりあえず、すぐに鴇羽を追おう。面倒くさいから、ありえないだろうがおまえが何も知らない人間だと思って説明するぞ」
「頼む」小走りに駆けながら、高村が頷く。
「ヒメとは、漢字ではなくアルファベットでHiMEと書く。ハイリィ・アドバンスト・マテリアライジング・イクイップメント。和訳は高次物質化装置、もしくは高次物質化エーテル。その頭文字を取って、HiMEだ。いわゆる超能力の呼称で、そのまま能力者そのものの呼び名にもなっている。遺伝子の都合らしいが、HiMEは女性にしか発現しない能力だからな。それで、姫、というわけだ。具体的には何もないところから〝なにか〟を利用して、エネルギー保存の法則を始め、既存の概念を超越して、物質を無から生成できる異能のことをそう呼ぶ。わたしのこの銃、エレメントや、デュラン、チャイルドと呼ばれる存在も、能力による副産物だ」一息に喋って、なつきは高村を顧みた。「理解できたか。なにか質問はあるか?」
「ああ。ひとつだけ」真剣な顔で高村は考え込んでいた。「Highly-Advanced-Materialising-Equipmentなら、なんでHAMEにならないんだ? そこはハメだろう、ふつう」

 手加減抜きで打ち放った裏拳を、さりげない動作で高村が躱した。

「ちっ。先を急ぐぞ!」
「とにかく、鴇羽もそのHiMEだってことなんだな。おまえや、結城って子と同じく」
「そしておまえが連れてきた美袋命もな」皮肉を込めて、なつきはいった。「しかし、鴇羽の場合はおそらくまだ間に合うはずなんだ。エレメントの物質化も以前のが初めてだったようだし、まだチャイルドがいる気配もない。HiMEはただHiMEというだけでは真のHiMEたりえない。エレメント、チャイルドが揃って初めてその真価を発揮するから。……今回のは、きっと凪のやつが鴇羽を本格的なHiMEにするために糸を引いているんだろう。だから今ならまだ、鴇羽は引き返せる。日常に」
「つまり玖我は、鴇羽はHiMEになんかならないほうがいいって思ってるってことか?」
「当然だろう。一番地の思惑に乗せるのも癪だし、なにより、不幸になるしかない道なんだからな」

 答えると、息を弾ませた高村が、意外な顔をするのが見えた。なんだ、と訊ねると、気まずそうに顔を逸らしてしまう。

「ごめん、玖我。俺、おまえのことを見くびってた。俺の中で玖我なつき株が急上昇だ」
「さっきからいつ言おうかと思ってたんだが」深いため息が漏れた。「おまえはほんとうにばかだな」
「さっきからいつ言おうかと思ってたんだが」高村が口調を真似た。「黒のレース穿いてる高校一年生ってどうなんだ? 背伸びしたい年ごろなのか真性の淫乱なのか。俺は親御さんに合わせる顔がないよ」
「訂正しよう」虚ろに笑って、なつきは二挺の銃を高村に突きつける。デュランも戦闘態勢に入った。「おまえは、心底! 馬鹿だ! それでも教師か!」
「実をいうと、脳みそちょっと足りないんだ、俺は」
「それは、ご愁傷様だな……っと」一時的なものだろうが傾斜が終わり、なつきと高村は平地に出た。一見しても舞衣の姿はどこにも見えない。足を止めて、なつきは視線を八方に振りまいた。「鴇羽はどこへ行った?」
「玖我」高村が途切れる気配のない森林の一角を指差した。「あまりにもあからさまなものがあそこに見える」

 なつきも高村に倣うと、なるほど立ち木に隠蔽される形で崖に洞穴が空いているのが見えた。岩肌に、ちょうど人がひとり入れるかどうかといった切れ目が走っている。岩盤のずれで生まれたにしては不自然である。それに、隙間から見える奥には相当な広がりがあるようにも見えた。周囲の森と同じく、人為的な仕掛なのかもしれない。

「あそこに鴇羽は入ったと思うか?」
「そうじゃないかな」高村は顔をしかめながらいう。「あれ以上はっきりとしたアフォーダンスを放ってるものはなかなか他にないぞ」
「アフォーダンス?」
「わからないなら、帰ってから辞書を引きなさい。先生からの宿題だ」言い置いて、高村は歩き出した。
「引き返すならここが最後なのは、おまえも同じことだぞ」

 そんな忠告を高村は意に介さないだろう。なつきにはわかっていた。無知を演じても、彼がいずれ彼女の与り知らぬ立ち位置で事態に関わるであろうことは疑いようがない。彼の前に姿を現したという炎凪は、なつきの知る限りHiME以外の存在に正体を見せたことはないからだ。
 案の定、高村は何も反応せずに洞窟の入り口をのぞきこむと、なつきを手招きした。
(こいつこそ、何ものなんだか)
 そんな人間のペースに引き込まれている。それがきっと苛立ちのもとだ。

「どうした。鴇羽はいたか?」
「いや、中が暗くてよく見えない」そう言うと立ち上がって、おもむろになつきの背後へ回る。「だから先に見てきてくれ」
「おい、な」

 そのまま、突き落とされた。

「にをぎゃー!?」

 浮遊感はほんの一瞬である。なつきはすぐに洞窟の内部に着地した。というより、激突した。
 間を置かずデュランも降ってきて、すばやくなつきの隣に位置取る。二メートルほどの傾斜の上にある入り口で、高村がじっと内部を観察しているのが見えた。

「よし、大丈夫みたいだな」
「ふざけるな貴様」そろりそろりと降りてくる高村の足を払って転ばせてから、なつきは厳重に抗議した。声も裏返った。「そこは普通男であるおまえが先に行く所だろうが!」
「何を怒ってるんだ、玖我」危なげなく着地して、高村が心底不思議そうに肩を竦めた。「尻穴にネギを突っ込まれた乙女みたいだぞ」
「そんな乙女がいるか!」
「楽しそうなところ悪いけど、鴇羽も心配だし早く行こうぜ」すたすたと高村は歩いていく。

 怒りで血管が切れそうになる感覚というのを、はじめてなつきは味わった。いまならあのがなるばかりの執行部長とも和解できるに違いなく、レートが振り切れたせいでうぶな中等部の生徒なら一撃で殺せそうなほどの可憐な笑顔も浮かべられるに違いなかった。
(こらえろ、こらえろ……あいつを殺すのは後でもいい)
 必死で自制を言い聞かせて、肩を震わせながらなつきは高村の後を追う。

 亀裂の内部は、進めば進むほど空間的な広がりを見せる。よほどの速さで進んだのか、舞衣の姿はいまだ露とも見えなかった。なつきと高村の頼りは高村がかかげるちっぽけな百円ライターの炎だけで、それは全容のつかめない闇の中ではいかにも心細い光でしかない。
 高村は自称研究者の好奇心をいかんなく発揮して、さすがに足を止めはしないものの、びっくり箱でも見つめる子供のような顔でしきりに感動していた。

「これは、どう見ても自然洞窟じゃないな」表情に呆れを乗せて、高村が感嘆した。「どうなってるんだ、この学園は。こんなのばっかりか。いつ頃できたんだっけな、ここ」
「開校は明治時代。現在は違うが、当時はミッション系の学園として、風花家を筆頭に幾人かの理事や資本家のもと、この風華学園は建設された。戦前戦中戦後と、多くの時代の節目を乗り越えてきたのがこの土地だ。それ以前にもきっと、数え切れないくらいの因縁があったんだろう」
「物知りだな」炎に照らされる高村の横顔は、わずかに緊張しているように見えた。
「調べたからさ。誰にでもわかることだ。ここまではな」なつきは鼻で笑う。「馬鹿な話だが、怨念、というものがこの風華にはこもっているのかもしれない、とたまに考えるんだ。釈迦に説法かもしれないが、知っているか? もともと風華とは、〝封架〟に当て字したものだそうだ。いったい何を封じていたんだろうな。怨念か、妄執か」
「いわゆる死人の恨みつらみっていうのは、それが実際にはないと仮定するのなら、生きている人間の罪悪感の産物なんだろうな」唐突に、高村はそんなことをいった。
「なんだ、急に」
「雑談だよ」と、高村は微苦笑する。「幽霊、怪物、妖怪、霊魂。どれでもいいが、こういった共同幻想と呼ばれるいまだ科学的に証明されえない存在には、当然ながら例外なくそれらを観測する側のバイアスがかかっている。枯れススキを幽霊に見せるのは恐怖。想像力とも言い換えられるな。実際のそれがどうであるかは知らない。あるのか、ないのか、それはこの際実は問題じゃない。それは客観、神さまの視座に対して提起される疑問だからだ。だからこれは、人の話。とにかく曖昧な何かがあって、それを何かだと思うと、脳は映像を〝そういったもの〟と判断する。ある種、主観が視る世界は恣意的なんだ。ロールシャッハテストって知ってるか? 学園で一回くらい受けた事があるはずだ。心理テストの一種で、どうとでも取れる複雑な模様を被験者に見せて、それが何に見えるか聞いて心理状態を量るってやつ。別の人間が同じ答えを書くことは、まあ、誘導されない限りあまりない。かように我らの世界とは不安定なのだ、ってことだ」
「暇潰しとしては、くだらないだけに悪くない」なつきは表情を緩めて、高村に続きを促した。「砂漠の蜃気楼がオアシスに見える、みたいなものか?」
「そうそう」我が意を得たりとばかり、高村は頷く。「怨霊は、だからたとえば罰されたいという人間が見る夢の一種、と定義できなくもない。罪業妄想。願望の幻視。良心の視覚化。どうとでもいえるな。そして恨みながら死んだ人間がすることといえば、復讐だ。……と、いうわけで、幽霊話の王道は祟りだな。さっきはおまえがいなかったが、じゃあ今度はシェークスピアもう一つの悲劇、ハムレットを引き合いに出そうか。復讐劇ならべつにモンテ・クリスト伯でもいいが、あれはちょっと長すぎるからな」
「なんだそれは」白けた調子でなつきは呟く。「手短にしろよ」
「保証しかねる。文系唯一の取り柄だからな」高村は笑う。「ハムレットの粗筋は知っているか? 物語の始まりはこうだ。父王を喪った王子ハムレットは、どうも親父を殺して後釜に座りやがったらしい叔父を疑い、さらに母親までそいつに寝取られて、精神的に参っていた。そんな矢先、彼の住む城の外に夜毎幽霊が現れるという噂が流れ始める。そいつが父の幽霊だと聞いたハムレットは、なんと驚きにもその亡霊とコンタクトを取って、やはり自分は弟に殺されたからその仇をとってほしい、と依頼されるわけだ」
「その話なら知ってる。後味の悪い話だった。叔父も母も、恋人もその兄も父も友人も、みんな誰もかれもが死んだ。ハムレットが……」ふと己の運命とこの戯曲が符合しているような錯覚をして、なつきは目を伏せた。「ハムレットが、復讐しようとしたせいで。関係無い人間が、大勢死んだ」
「ああ。ハムレットは狂っていた。途中までは〝フリ〟だったけど、模倣であろうと狂気は、必ず正気を害する。『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』。彼は結局死んだが、大多数にとっての正解はその場でさっさと死ぬことだったんだな」

 言動に反して、高村の語り口にはわずかに哀切が滲んでいた。もっとも、それがなつきの勘違いである可能性は否定できない。高村流に言うならば、『なつきの主観がそう受け取った』のである。

「さて、物語が終わってみて、これは一見幽霊の側が復讐を遂げたように見える。卑劣な手段で王を弑した弟王に、その罪を見破れずにいた人間すべてに対し、息子を利用することで報いてみせた、と」
「違うのか?」なつきにはまさしく、その通りであるように思えた。結果は惨憺たるものではあったが、とにかく復讐は果たされたのだ、と。あるいは、そう思いたかっただけかもしれない。
「穿った見方だけど、俺からすれば違う」高村は断言した。「この復讐の正当性は、立証されていない。なぜなら立脚点が幽霊なんていう妄想だからだ」
「そんなことはない」思わず、なつきは反論していた。「たしか、王になった叔父は終幕で独白したはずじゃないか。罪を……」
「そう。復讐が成り立つとすれば、まさにその瞬間からだった。でももしかしたら、それさえも叔父の罪業妄想かもしれない。兄嫁と婚姻し、罪悪感に怯え、やりもしなかったことをやったという狂気に犯されていた可能生だってある。……っていうのはちょっと苦しいか。でも、それ以前はすべて、ハムレットの狂気の産物だ。ま、フィクションにこんな突っ込みは不粋だよな。だけどこれはあくまで、幽霊は幻っていう前提に立ってる話だからさ。……だから、この物語はこんな風にも解釈できる。ハムレットは、愛してやまない父が死んだ時点で、悲しみのあまり狂っていた。その狂気と悲しみが伝播し、兵士にいもしない亡霊を見させ、語らせた。思い込みが彼を暴走させ、父の憾みを免罪符に、その無辺際な狂気が、人を殺した。復讐の皮を被った、狂気の悲劇だ、と。『復讐は悲劇しか生まない』っていうメッセージを伝えるための、壮大なストーリィだったのかもな」
「もういい」

 話は不快な方向になりつつあった。なつきは顔をそむけて、一方的に打ち切る。

「よくない。まだ話が途中だ」高村は聞かなかった。「教訓はいつだって正しい。『復讐は無益だ』『恨みは何も生まない』。古今東西、復讐が人生の転機になるような物語はあっても、復讐それ自体が何かを生み出すような物語はほとんどないといえる。たぶんな。……なるほどもっともだが、だけどこれはあまりに人の理性を信頼した言いようだって思わないか? 懊悩のあまり無意識下で亡霊を見てしまうような人の心のままならさを、汲みとっていない。もしくは汲みとった上で、無視している。体制の、社会のロジックだ。法は、人の上位に置かれるべきものだからだな」
「黙ってくれ。お喋りは終わりだ。鴇羽を探さないと」
「復讐を志すってことは、過去の虜囚になるってことだ。成長に背を向け、進んで行き止まりに向かうってことだ。同じところをぐるぐる回って、胸を抉るような感情のどぶに浸って脱け出さないってことだ」

 語りつづける高村の眼に虚無を見て、なつきは沈黙した。もはや彼が誰に向けて語っているのか、明らかではない。まるで彼の内部はすっかりうつろで、いつかどこかで誰かが囁いた言葉を反響しているだけなのだとしても、きっと驚かないだろう。

「だけど、知ってるか玖我。永遠に憎みつづけるなんてことは、人間には不可能だ。……お、頃合だな。そろそろ終着だ。話も、この洞窟も」
「なに?」

 いぶかるなつきの視界に、ライターとは違う光がよぎった。圧倒的な緋色。そして吹き付ける熱風。なにかが、行く手で起こっていた。
 高村は、憑かれたように話すことをやめない。

「炎が酸素なしでは燃焼できないように、時間は感情を生々しいままには留めておかない。だけど、あだ討ちの概念はなくならない。忠臣蔵はいつまでも美談だ。あんなもんテロリスト同然の所業なのにだぞ? なぜか。それは、そうすることでしか拓けない道が、確かにあるからだ。復讐を仕果たしたって益はない。愚かな行為だ。だがだからこそ、浮き彫りにするものがある。無為の中の有為。それが一抹の、ちっぽけな正義だ。ちょっとした種火だよ。そして、でも、暗いくらい道を歩いて復讐をするには、それだけの灯りがあれば、充分だった」
「へえ」第三の声が、嘲りをもって答えた。「それがセンセの哲学?」
「恥ずかしいから聞いてくれるなよ」高村が視線を動かした。「そんな大層なもんじゃない。生きる上での、ちょっとした心がけみたいなものだ」
「なるほど?」おかしそうに声が笑う。

 晧々と瞬く光源に照らされて、炎凪が岩肌に隆起した岩塊のひとつに腰を降ろしていた。手には古びたハードカバーの本を持っている。瞳は炎を映し込んでいっそう紅く輝いて、なつきと高村を見下ろしていた。

「……凪!」なつきがエレメントを構えるが、銃口を向けられても凪は平然と、高村に眼差しを送っていた。
「続きを聞きたいな。もうすぐ終わりなんでしょ? 待っててあげるから、どうぞ」
「恩に報い、恨みは雪ぐ」高村はそう締めくくる。「神さまから見れば無駄なんだろうけど、なにしろ俺たち人間だからな。なにがしかの意味は勝手に見つけて、そいつをうまく糧にするのはみんな心得たもんだ。……ところでおまえ、どうやってそこに登ったんだ?」
「どうって、普通にさ」高度が十メートル近くある場所で、凪は立ち上がる。「センセはつまり、プライドの話をしているわけかい? たとえ死ぬとわかっていても、いかなきゃならぬ時がある、ってサ」
「どうだろうなぁ。俺もよくわからないよ。そんなものもう残ってない気もするし。ただ先に行くには、ときに遠回りすることも必要だろうって話でな」
「でもセンセ。センセに先なんてあるのかな?」からかうように、凪がいう。
「それを言われると耳が痛いが、閉塞した状況を終わらせるのだって、ひとつの道だろ」
「ふむ」
「なにもかも台無しにするいい方をすると、腹いせや嫌がらせでもスカッとするなら生き甲斐になりうるってことなんだけどな」
「そうかな」怜悧な視線が高村を射抜いた。「スカッとするって、要するに虚ろになるってことだよ。残るのは、空っぽの器だけだ」
「馬鹿だなあ」高村が適当さ丸出しで答えた。「そうしなきゃいられないやつなんてのは、大体が心が一杯で苦しくて仕方ない。だから、虚ろになろうとするんじゃないか」

 雰囲気はもう常のものに戻っていて、それになぜか安心するなつきがいた。

「禅問答はそのへんにしておけ。……凪、鴇羽をどこにやった!」

 鋭い追及の声とともに発砲すると、凪は大げさに身を竦める。

「危ないなぁ。舞衣ちゃんならすぐそこにいるよ、ほら」

 と、洞窟の奥を指差した。これまでにない空間がそこには広がっている。さらに、数十メートルも上方には夕映えの空が見えた。天然の吹き抜け構造になっているのだ。
 その覗けた天を、紅蓮の柱が衝いていた。

「な」言葉を失って、なつきは足早に広場に向かう。「なんだ、あれは!」

 数千平米はありそうな空間のほぼ中央に、巨大な百足を模した怪物がいる。姿態はオーファンとしての一形態であって、驚くに値しない。なつきを叫ばせたのは、オーファンと対峙する人間大の影である。
 それは同時に、吹き上がる火の発端でもあった。
 大量の火の粉が舞い散って、熱量に気流が歪みつつある。火の竜巻の中心に浮いているのは、間違いなく鴇羽舞衣だ。その火勢には巨大なオーファンも攻めあぐねているのか、火炎に圧されるようにぐるぐると火柱の周辺を歩き回っている。頑丈そうな甲殻や腹節がうねる様は、遠目にも充分グロテスクだった。

「…………」高村が頭を抱えた。「玖我、俺はちょっと用事を思い出した」
「さんざん小難しいこといってそれか! おまえに意地はないのか!」己を鼓舞する意味も兼ねて、なつきは叫びながら高村の背中を蹴飛ばした。さっきから叫びっぱなしで喉が痛かった。襟首を捕まえて、耳元で怒鳴る。「おまえはもう本当にいい加減にしろっ! やることなすことにオチをつけなきゃいられないのか!?」
「お、怒るなよ。場を和ますための冗句じゃないか」後退しながらの弁解には、ひとかけらの説得力も無かった。

 だが、高村の気持ちもなつきにはわかった。火というのは、ただ本能的におそろしいのである。死と再生のモチーフとは、つまり生きている人間とは決定的に相容れないということでもある。なつきにしても、生身で今の舞衣に接近する術はない。
 凪は頭上で見透かしたように、にやにやと笑う。

「なつきちゃんもそんな、無理しなくてもいいのに。だいたい舞衣ちゃんそろそろ意識取り戻すよ。ほら」

 とたん、洞穴を明るく照らしていた光の全てが掻き消えた。熱の残滓だけが空気に止まり、残るのは手足に火の輪をまとっただけの無防備な舞衣と、障害の消えた怪物である。

「え……?」あまりにも急激な沈静化だったためか、それだけの舞衣の呟きは、その場にいた全員の耳に届いた。「なに、これ? ドッキリ?」
「現実だよ、舞衣ちゃん」

 役者のように通る声で凪がそういった。舞衣は現況を少しでも理解しようと情報を求め、あちこちに首を巡らせている。フェリーで遭遇したときも感じたが、これだけの状況下ですぐさま恐慌に陥らない舞衣は、なつきから見ても大した胆力の持ち主である。自分が浮いていることや目前のオーファンの理解を後回しにしたことも含めて、その認識能力は極めて優秀といえるかもしれない。

「あ、せ、先生……? これ、いったいなにがどうなって」腰の引けた高村の姿を目に留めて、不安が限界まで込められた顔で舞衣は訴えかける。が、なつきのことを認めると、すぐにそれはひきつったものに変わった。「あ、あなた! たしか玖我さんって……やっぱりこの学校の!」
「そういえばおまえら、知り合いか」

 高村の問いに答える余裕は、なつきにはなかった。オーファンがゆっくりと鎌首をもたげたのだ。

「鴇羽! 避けろ!」エレメントで攻撃を加えるが、百足もどきの注意を引くこともできない。「くそっ、デュラン!」

 間に合わない。獲物に狙いを定めたオーファンが、巨体をしならせて舞衣へ襲い掛かる。中空で呆然と向かい来る怪物に目を合わせた少女は、咄嗟に両腕で躰をかばった。無駄なあがきだ。なつきはそう思った。
 しかし――

「いやっ」

 叫ぶや否や、舞衣の手足に浮かぶエレメントらしき輪が高速で回転し始める。自動的に障壁が展開され、さらに舞衣を始点に火の鞭が伸びてオーファンを大きく弾き飛ばした。鞭は余勢を駆って岩壁をやすやすと削り、小規模な崩落すら引き起こす。地響きがなつきの足下にまで伝わってきた。

「な……」
「やるねえ」

 なつきは呆気に取られ、凪が口笛を吹く。
 高村恭司だけが舞衣へ向かって走り出した。

「玖我! 俺は鴇羽をどうにかする!」高村は必死の表情だ。「あの虫はおまえがなんとかしろ! 一般人の俺には荷が勝ちすぎる! マジで怖い! 超! 放射能で汚染されてるぞあれは絶対!」
「誰が一般人だ!」毒づきながら、なつきは体勢を立て直しきれていないオーファンに向き直った。「デュラン! ロード、クロームカートリッジ! 撃てッ!」

 デュランの砲撃の威力はエレメントの比ではない。放たれた火線はやすやすとオーファンの装甲を貫くと、金属の軋みめいた叫びを上げさせた。だが、とどめを刺すには至らない。

「しぶといっ」追撃をかけるべく、なつきは横目で高村が浮いている舞衣の足首を掴むのを確認した。
「あ、安心した。鴇羽の下着はちゃんと素朴だな」
「どこ見てんのよッ、あ、やめてちょっと、引き摺り下ろさないでー!」
「真面目にやれそこの馬鹿二人!」

 なつきが気を逸らした瞬間に、凪が囁いた。「困るんだよね、それでうまく行かれると」

 計ったようなタイミングで、オーファンの傷が急速に再生した。なつきが気取った瞬間にはもう手遅れだった。起き上がった大百足は、全身をバネと化して爆発的な勢いで高村と舞衣の元へ奔っていく。咀嚼のための鋭い刃が、血を求めて蠢いた。
 高村が舞衣を突き飛ばす。ばか、となつきは思った。舞衣であれば、まだエレメントの障壁が働いてどうにかなる可能性があるのだ。生身の高村では、どうあがいても巨大な質量を持ったオーファンの突撃は避けえず、防ぎえない。

「先生!」

 舞衣の絶叫がこだまする。高村の顔は、なつきの位置からは見えない。

 ――救い手は空から降ってきた。

「おおおああああぁぁあッ!」

 美袋命だった。
 誰も声を上げることさえできなかった。その身を必殺の一矢へと変えて、命はオーファンの頭頂部へ大剣を深々と突き立てる。遥か頭上の縁から、目的めがけてまっしぐらに跳んだのだ。常識外れという表現さえ生温い身体能力だった。
 怪物が体液を撒き散らし、不協和音さながらの悲鳴をあげて荒れ狂う。命は素早く剣を抜いて着地すると、たたらを踏みながら剣の大重量を絶妙に利用して円心を描く。地を削る剣先が火花を上げて一閃されたとき、命の十倍近い体躯を持ったオーファンは、胴体から真っ二つに両断されていた。

「……」

 全ては一瞬の出来事である。なつきは唖然として、オーファンの死体を見るともなしに見た。
 時間差で泣き別れた胴体が地に落ちる。命は荒い息をついて、構えを解く。そして尻餅をついたままの舞衣と、そのエレメントを見た。

「おお!」溌剌とした笑顔でいった。「舞衣もHiMEだったのだな! わたしと同じだ!」
「え、ええ? えっと、命? 違うの、これは手違いで……」まだ事態を飲み込めない舞衣は、しどろもどろに弁解した。
「そうか、それはテチガイというのか!」命が、嬉しそうに剣を示した。「これはミロクだ!――わっ」

 何ものかが、命を抱きすくめた。それだけに止まらず、小柄な命の体をぐるぐると回す。

「あ、ああ危なかった! し、死ぬかと思った!」九死に一生を得た、高村恭司である。「ありがとう、美袋。おまえは命の恩人だ! 愛してる!」
「お、おおう? 恭司かっ?」解放されると、ふらふらと目を回しながらも、命はようよう頷いた。

「やれやれ」蚊帳の外に置かれたなつきは、ため息をついてその光景を眺めている。「どうにか、間に合ったか」
「あっれぇ……」凪が目を丸くして、驚きを露わにしていた。「参るなぁ。命ちゃん、ずいぶん遠くにいたはずなのに。いつもいつもどうやって嗅ぎつけてるんだろう」
「ふん。思惑が外れたか?」
「いやいや。僕には別に思惑なんて大層なものはないけどね。それよりほら、舞衣ちゃんがきみに何か聞きたそうな顔をしてるよ?」

 振り返れば、確かに舞衣が安堵半ば不可解半ばといった顔つきで、なつきにもの問いたげな視線を送っていた。

「久しぶりだな」若干の怒りを込めて、なつきは舞衣を睨みつける。
「あ、うん……久しぶり。あの、ねえ、玖我さん、でいいんだよね? B組の。あたし、知ってるかもしれないけど、一年A組の鴇羽舞衣。それでさ……あたし、なんでこんなところにいるんだろう。それに、これ……あの怪物も。一体なんなのかな……?」
「関わるな、といったはずだな。忘れたのか? 風華を去れとも、わたしはいった」

 元々勝ち気な少女なのだろう。やや気分を害した様子で、舞衣は眉根を寄せた。

「そんないいかたって、ある。なによ、訳知り顔で。知ってるんなら説明してくれたっていいじゃない」
「関われば、好むと好まざると、今回のような事態に関わる事になる。もっとひどいことにも」なつきは彼女が思う冷酷な女性像を意識して振る舞う。「わたしがしているのは忠告だ。どうしてこの学園にそこまでこだわる? 命あってのものだねということもわからないのか」
「そんなこと言ってないわよっ」とうとう限界を迎えたのか、ヒステリー寸前の押し殺した声で、舞衣は歯を軋ませた。「あたしは納得がしたいだけ。理由もいわないで命令だけして、人の都合も考えないで押し付けて! そんなの、理不尽じゃない!」
「だから、それを知ったらもう――」

 なつきはそこで言葉を区切る。違和感があった。出所は決まっている。鋭い眼で、地に転がる分かたれたオーファンの死体を見つめた。
 オーファンは想念体である。致命傷を負えば光の塵に変わる。それがいつまでも肉体を残している――。

(妙だ)

 凪を見る。常に用が済めばすぐに消えるはずの少年は、いまだ場に残っていた。
 それが意味することはひとつだ。
 誰にともなく、なつきは叫んだ。

「まだ終わってないぞ!」

 ほぼ同時に、オーファンの上半身と下半身が蠢動する。一瞬でそれぞれ異なる怪物へと変身して、雄叫びを上げた。
 デュランが四肢を張る。命も高村も戯れるのを止めて、危機に対応しようとする。
 舞衣だけがひとり、よろめいてその場から後退った。

「もう、いや……。なんなのよ、これ」
「そこの通路を引き返せ。まっすぐ進めば、すぐ出口に突き当たる」彼女を振り返らず、なつきはオーファンに向かって歩き出した。「そのまま振り返らずに山を降りて、ここで見たことを全て忘れるんだ。そして退学届けなり転校届けなりを事務で受け取って、この土地には二度と近づくな。納得はできないかもしれないが、それが一番おまえのためだ」
「で、でも……」

 弱々しく、舞衣は頭を振った。理性と感情がせめぎあっているのだろう。その様子を見て、あと一押しだ、となつきは感じた。どれだけ気丈でも、舞衣は本質的に善良で平凡を愛する少女でしかない。異常な暴力と脅威を目の当たりにすれば、後悔するかもしれずとも、さし当たっての緊急避難を促すことは難しくないはずだった。

 戦いは、そしてもう再開している。

 オーファンはより強力になって復活しているのか、機先を制した命の一撃を難なく防ぐと、その小柄な体を吹き飛ばした。地面に激突しかけた命を慌てて高村が受けとめると、二人をオーファンの追い討ちが襲う。壁まで吹き飛ばされ、命をかばう形になった高村がぐったりと倒れこんだ。頭でも打ったのかもしれない。

「恭司、大丈夫か恭司っ」命の焦った声がなつきの焦燥も励起した。
「早くいけ」

 それだけを告げて、なつきは走り出す。
 いつものように、デュランと共にだ。
 それだけで、どこまででも戦えると思った。







[2120] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/06 22:01








6.Firestarter & Coolbeauty & Troublemaker (後)






 舞衣は金縛りにあっていた。影を縫われたように感じた。天蓋から差し込んでくる日暮れの光と、地下で繰り広げられる非現実的な光景を前に、呼吸さえも覚束ない。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしよう――)

 命が、先生が。それに、玖我さんが。
 震動する地面が心許ない。常識がまるごと打ち砕かれたように感じた。
 なつきが従える狼のような怪物が、宙を泳ぐ蛇さながらに動き回る敵を撃つ。命は背後の高村をかばって動けず、徐々に押され始めている。

(おかしい。変よ、これ絶対。あたしはただの女子高生で、趣味はアルバイトで、あの子のためにもしっかりしなくちゃいけなくて。霊感なんてぜんぜんないし、そりゃ運動は得意だけど本格的な喧嘩なんかしたこともないし。だいたい、あたしがこんな夢みたいな。ありえない。夢、よねきっと。でも夢の中だって、関わっちゃダメだよ、こんなの)

 逃げろ――と、玖我なつきはいった。
 舞衣もそうするべきだと思った。
 だが、足は動かない。

(だって、命はあんな怪我して、先生は倒れちゃって、玖我さんだって――
 それを、放っておいて逃げるの? あたし)

 鴇羽舞衣は、立派な人間になろうと思ったことはない。自分が特別不幸だと思ったこともない。彼女はあくせくした日常を愛し、せめてたった一人の弟のために恥ずかしくない人間であるようにと心がけてきた。それでも時折、疲れてたまらなくなることがある。弟の難病は進むばかりで一向に治癒の兆しすら見せず、家計は医薬品に入院費にと圧迫され、舞衣の労働時間は増えていく。よく底の抜けた桶で水を掻いている悪夢を見る。汗だくになって泥のような短い眠りから朝起きると、体を動かすのも億劫になって、人生の貴重な時間を浪費しているような気分にもなる。それでも弟を煩わしいと思ったり、疎んだりしたことはない。弟を愛している。それが舞衣の誇りであり、支えである。
 舞衣は目を閉じて思い浮かべた。ここで逃げたとする。彼女は明日、弟の病室に見舞いに行く。そして彼の世話を焼き、世間話をして、新しい学校がどんなところなのかを話し合う。弟は楽しそうに笑う。不思議なことが大好きな弟に、そうそう、と舞衣はこの夢みたいな出来事を話してやる。あたし怪物にあったんだよ巧海。それで同級生とかルームメイトが、そんなのと戦ってるの。おかしいよね。へえ。それでお姉ちゃんはどうしたの。お姉ちゃんも戦ったんでしょ。まっさかあ。そんな危ないことして万が一なんてことになったらあんたの面倒誰が見るのよ。だから逃げたわよ。すぐにね。玖我さんも逃げていいっていったし。弟の顔色は翳る。失望がその曇りない瞳に宿る。じゃあ、と彼は言う。ぼくがいなければ、お姉ちゃんはそこで勇気を出せたの?

「違うよ、巧海」声に出して、舞衣は決起した。「あんたのお姉ちゃんはね、スゴイんだから」

 震える手を見た。そこには変わらず、黄金色に輝く環がある。怪物を寄せ付けず、宙を飛び、そして反撃も可能だった。倒すのは無理でも、隙を作ることくらいならできるかもしれない。
(できる。やれる)

「でもそれじゃあ、心許ないよね」心を読んだとしか思えないタイミングで、ずっと黙っていた少年が口を開いた。「そんな舞衣ちゃんに朗報だ。君には戦う力がある。あの怪物――オーファンなんかめじゃない力が」
「ちから……」悪魔にでも誘惑されている気分で、舞衣は彼を見る。
「そう、力だ。君をずっと待っている子がここにはいる。何を隠そう、今日、君をここに呼んだのもその子だ」

 と、少年が頭上を指差した。そこには巨大な岩が二つ寄り合って立っている。道を塞いでいるようにも見えて、まるで高村の授業で聞いた、黄泉比良坂にあるという〝千引の岩〟だった。

「畏くも気高きその子の名は、カグツチ」戯曲でも諳んじるように、朗々と少年は告げる。舞衣の思考は酩酊し始める。「君は知っているはずだ。君を守る力の存在を。いつだって、カグツチは舞衣ちゃんのそばにいた」
「……カグツチ」

 光輪が輝いて、舞衣の体を宙に浮かばせる。二度目ともなれば戸惑いは薄く、あ、あたし飛んでる、とだけ舞衣は考えた。そのまま上昇して凪を飛び越え、閉ざされた岩の狭間に手を添えると、何かが強く脈打った。
 胎動に似ていた。
 幼い頃、身ごもった母にせがんで、舞衣が聞いた音と同じだ。

「でも、力には代償が必要だ。その子を受け取るならば、舞衣ちゃん、君の一番大事なものが懸かることになる。命がけの、それは契約なんだよ」
「いのち……ですって」繰り返して、舞衣は気丈に笑った。「そんなことで怖がるようじゃ、働く女子高生はやってらんないのよ。――あたしは、鴇羽家の大黒柱なんだから」
「それでこそ、僕の舞姫だ」快哉を叫ぶと、少年は用は済んだとばかりに踵を返しかけた。「そう、その剣を抜いてね」
「剣? そんなもの」

 どこにあるの、と言いかけて、舞衣は口をつぐむ。手の中には確かに剣があった。だが実像ではない。教科書で見た銅剣のような、幻の剣だ。
 迷わず引き抜いた。
 光が満ちた。炎が噴出し、舞衣の全身を舐める。しかし熱は皆無だ。むしろ包み込まれるような温かさを感じて、舞衣は陶酔に身を震わせた。

 炎の中で、舞衣は羽ばたきを聞いた。それは神話の産声だ。身も心も焼灼する浄炎の内部で、彼女は巨大な鳳を見る。内心かなり驚きながら、それでもいとおしげに嘴を摺り寄せてくるそれ、カグツチの思慕を察知する。生まれて間もない動物が母親にするような、原始的な愛情表現である。
 圧倒的な力が、舞衣を衝き動かした。あれほど恐ろしく見えた怪物が、いまは取るに足らない的でしかない。カグツチが一鳴きして威嚇すると、場にいたすべての存在が畏怖するように動かなくなった。
 全能感が彼女を満たしていた。

「すごい……これ、この子……」

 カグツチの口腔で炎が膨れがある。それはほんの吐息でしかない。だが放たれれば、ちっぽけな洞窟の中の全てを焼き尽くすだろう。いや――
 カグツチは焼き尽くしたがっている。

 だから舞衣は、母としてその願いに応えるのだ。

 ※

「やれやれ。一応、筋書き通り、かな?」

 陶然と神話を随える鴇羽舞衣を満足げに見つめて、炎凪は微笑する。これで彼の仕事はひとまず、終わりである。

「とりあえずはセンセにとっても、ここまでは予定通りなんだろうね」

 それだけ言い残すと、凪は闇の奥へ悠々と歩み去った。

 ※

「とんでもないな。想像以上だ」

 と、高村恭司は頭から流血しながら立ち上がる。視線の先にいるのは巨大なチャイルド、カグツチである。息吹だけで、玖我なつきのデュランでは問題にならないほどの脅威を感じさせる威容だ。

「恭司、大丈夫か」珍しく神妙な様子で近寄ってきた命もまた、舞衣から目が離せないようだった。「あいつはすごいな。舞衣はすごい」
「大丈夫だ。跳ね返した」ふらつきながらも、高村は笑う。
「跳ね返してなかったぞ? それに頭から血がたくさん出てる」
「それは主観の相違だな」そう返して、カグツチの嘴に炎が溜まる様子を見ると、ふと不安に襲われた。どう見ても、狙われているオーファンの片割れと同一線上に彼らはいた。「あれ? これ俺たちもやばくないか、美袋」
「うん。わたしも危ないと思う。逃げよう」

 顔を見合わせて走り出したまさにそのとき、カグツチが火を吹いた。
 火勢に巻き込まれたオーファンは一瞬で消滅し、その余波は高村たちのいる空洞の大半を吹き飛ばしてなお余りあった。
 轟火というのも生温い熱量が一線の軌跡を空間に刻むと、吹き荒れた熱気流が高村と命の尻先を炙る

「あつっ、あついぞこれ!?」命が加速して、高村は置いていかれそうになる。
「一日に何度死にそうになればいいんだ」諦めの境地で、高村は踊り狂う焔を見やった。

「チャージ」声が響いた。「シルバーカートリッジ、撃てッ!」

 炎と高村の狭間に、玖我なつきのチャイルドによる砲撃が突き立つ。冷気の弾丸だ。

「ばっ」

 一瞬で氷が気化していく様子を見て、高村は色を失った。もうもうと高熱の水蒸気があたりに垂れ込め、破裂して、霧のように一瞬で高村を巻く。絶叫しながら口元を袖で覆うと、半ば吹き飛ばされ、半ば転がりながら、異常な熱気の渦から脱出した。

「……おや?」心底訝しげななつきがそこにいた。「おかしいな。理屈では消火できるはずなのに」
「おや、じゃない!」立ち上がると、高村はなつきの額に自らの額をぶつけた。眼鏡のフレームが少し歪むが気にならない。「熱量の差を考えろ! 水蒸気爆発も知らないのかおまえは! ちょっと漏れたじゃないか! 馬鹿か! おまえは馬鹿か! 肺が焼けて死ぬかと思ったぞ!」
「馬鹿とはなんだ馬鹿! 痛いだろうが!」涙目で額を抑えて、心なしか顔の煤けたなつきが抗弁する。「……それより、どうも鴇羽は我を失っているようだ。ここは逃げた方が賢明だろう。ほら、次が来るぞ!」

 その言葉に、恐る恐る高村はカグツチを振り返る。萎縮しきった残る一体のオーファンを前に、巨大な鳳は胸を反らし、両翼の機械的なファンを凄まじい勢いで回していた。いかにも『次が本番だ』とでもいいたげであった。

「古代の兵法書『六韜』にこんなオチがある」神妙な顔で高村はいった。「三十六計、逃げるに如かず」
「全面的に賛成だな」どうでもよさそうにいうなつきはもう駆け出している。
「恭司! 早くしろーっ!」

 通路へ通じる穴の前で待つ命を見て、高村はほろりと涙ぐんだ。

「いい子だなぁ」
「おまえ、ロリコンか?」警戒心丸出しでなつきが睨んでくる。
「俺から見ると美袋もおまえも大して変わらないんだが」全力疾走しながらも、高村は反論を忘れなかった。
「なんだとうっ」
「なんだよ。わかったよ」唇を歪めたあとで咳払いして、露骨につくった声で高村は囁いた。「世界一可愛いよ、なつき」

 毛虫でも見るような目が返ってきた。

「……おえっ」
「傷つくだろうその反応は! なんだよちくしょう!」

 泣きそうになりながら回廊に飛び込んで、高村はさらに走る速度を上げた。目の前では命のおさげが勢い良く揺れている。
 そして、洞窟に侵入したときの亀裂はまだ遠い。走って一分もかからないだろうが、まるで永遠のように遠い。
(これは、間に合わないかも知れない)
 異常な熱の中だからこそ、冷や汗が高村の背を伝う。

「チャージ・クロームカートリッジ!」

 せめてもの壁にということなのか、なつきがデュランの砲撃で広間へ続く出入り口を破壊し、封鎖する。先ほど見た火力の前ではなんの慰めにもならないが、文字通りの焦眉の急だということを、明哲な彼女は理解してしまっているのだ。打てる手は打っておきたいのだろう。

 暗闇をものともせず、先頭の命は異常な速度で駆けていく。途中で高村を振り返りながら走ってもどんどん引き離されていた。彼女だけならば逃げ切れるかもしれない。そしてなつきにはデュランがいる。舞衣の例を見る限り、HiMEならば理論上念じさえすれば身を守ることも可能なはずなのだ。

(まずいのは俺だけか)

 廃神社でデュランに体当たりをされて以降、ひっきりなしに鈍い痛みを伝えてくるろっ骨を意識して、高村はいや、と独語した。

(玖我にだって、そんな保証はない。それに鴇羽のあれは異常だ)

 そのとき――
 沈思しながら走っていた高村は、命の背にぶつかった。

「どうした美袋。もう出口か? だったらぼさっと立ってないで」

 違った。
 通路が半ば崩落して、外部への通り道は完全に塞がれてしまっている。再三の衝撃に構造が耐え切れなかったのだ。
 これで、脱出の可能性は潰えたことになる。
 そこで、ずずん、と大地が揺れるような音が響く。オーファンが焼却されたのだろう。これで収まってくれればいいな、と高村は思う。楽観的過ぎる希望であることはわかっている。

「……なんてことだ」忌々しげになつきが舌打ちする。「仕方ない。おい、おまえら。デュランの背に隠れろ。あのチャイルドが相手じゃ心許ないが、障壁くらいは展開できる」
「待て」高速で思考を回転させながら、高村は周囲の岩や壁に手を触れていく。「美袋! ここ、ここの壁だ。その剣で掘ってくれ。人が三人くらい入れる凹みだ。なるべく幅よりも深さ優先で。思いっきりぶん殴ればそれでいい」
「わかった」緊急時の命は、ある意味三人の中でもっとも判断力に優れている。ふたつ返事で頷くと、勢いをつけて壁に斬りかかった。
「なにをするつもりだ? それよりも、早く」
「玖我は、俺が合図したら天井をぶち抜いてくれ。間違っても氷の弾なんか撃つなよ」有無を言わさずなつきに承諾させると、高村は上着を脱いだ。
「い、いきなりなんだっ。何のつもりだ貴様ァ!」
「うるさい」狼狽するなつきの頭に、背広を被せた。「髪に火が点いたら一瞬でハゲかアフロだぞ。美袋が掘った穴に入ったら二人で頭に被れ。気休めだろうけど、ないよりはましだ。ほら、ワイシャツも一応」
「あ、ああ」

 上半身裸になった高村の姿を見たなつきは、かすかに息を呑んだ。

「おまえ、その体……」

 いわれて、高村もおのれの躰を確認する。いびつに盛り上がった筋肉。胸部中央に十センチ近い手術痕。下腹部と背にも同じものが見られる。右手も下腕全体に縫合のあとがある。下半身も大差はない状態だ。見目良いとはいえないな、と高村は苦笑する。

「玖我、俺は実は一子相伝の暗殺拳の伝承者でな、この傷はその修行で」
「そのネタを引っ張るな」白けた顔でなつきがいった。「わたしも躰に傷くらいある。いちいち気にはしない」
「あ、そう」
「恭司、終わったぞ!」驚くべき速度で、美袋命による戦慄の突貫工事が終了した。『斬った』というよりはまさしく『粉砕した』といった風情のクレーターが、壁の一箇所に築かれている。
「よしいい子だ美袋! あとで角砂糖をやろう! 美袋と玖我は先にそこに入ってろ! その、えっとデュランはまだ外に出しとけよ!」

 無理やり二人を窪みに押し込めると、高村は目をつけておいた岩の前に立つ。両腕を成人男性ほどの大きさはある岩塊に回し、奥歯が磨耗するほど力を込める。眼球が膨張し、耐用限界を超えた肉体の酷使に無数のエラーが吐き出される。それでも高村はわずかに岩を持ち上げると、くぼみの真前に打遣った。

「はぁー……はぁー……」半ば閉じた穴の奥にいるなつきと命は、不思議そうに高村を見つめている。そんなふうに、彼には見える。
「お、おい、早くしないと」
「まだだ。タイミング、計る人間、外にいないと」

 何度目ともわからない地響き。終末の様相を呈している。高村は耳を澄ませて、最後の機を待った。
 未来における視界の端から、朱がやってくる。
 目視してからでは遅すぎる。感覚の命じるままに、高村はなつきに向かって叫んだ。

「今!」
「デュラン、撃てぇッ!」

 最大威力の火砲の反動に、強靭なデュランさえ宙に浮く。砲弾はあやまたず洞窟の上部構造に風穴を開け、意外と近い空を高村に見せる。山の上なのだ。当然といえば当然かもしれない。

「よし! もういいぞ高村、早くおまえも入れ! あとはデュランがなんとかする!」
「……」高村はふと思いついて、なつきに訊ねた。「玖我。おまえは、なんで戦うんだ?」
「何をいっている!? いま聞くことか、それが!」
「大事なことなんだ。教えてほしい」

 遅れて、竜のような火が回廊の奥からおぞましいまでの勢いで這い出した。地獄の光景があるとすれば、それはきっとこんなものだろう、と思わせた。
 一瞬で隘路を埋め尽くすはずだった炎は、天井に穿たれた空白という逃げ場を見つけ、我先に空へと逃れていく。しかしそれも、どれほども持つものではない。炎の規模が圧倒的するのだ。

「……復讐だ!」焦れに焦れて、なつきが絶叫した。「わたしはやつらに母を殺された! だから――」
「そうか」頷くと、予想よりずっと軽いデュランの体を抱いた高村は、ほとんど押し込めるように穴へ、狼のチャイルドを放り込んだ。「教師には引率責任があるから、じゃあ、またあとでな」
「―――は?」

 ぽかんとしたなつきの顔は、やはり年並みである。高村は満足すると、岩に手をかけた。

「俺は、俺のためにやってる。俺だけのために」

 呟いて、岩戸を閉じる。
 その寸前で、

「恭司――ミロク!」

 隙間を作ろうとしたのか、命の伸ばした剣が飛び出して、しかし勢い余って地面に突き立った。それを最後に、完全に窪穴は密封される。

「さて……格好つけたはいいけど、勢いでやってしまった感は否めない。っていうか、これ蒸し焼きにはならないだろうな……」

 肌先をちりちりと炙る熱を感じて、すでに高村は半泣きであった。

「……やばい。深優、助けて」

 自業自得でしょう、といわれた気がした。

「返す言葉もない」

 そして高村恭司は、炎に飲まれた。

 ※

 全焼だった。
 裏山の一部どころか海岸線まで、巨人の轍のような焼け跡が続いている。燃え残りはほとんど見られない。木も葉も土も石さえ、炭化して灰になった。

「……」

 なつきは襤褸切れになった背広を手にしたまま、呆然とその光景を眺めた。彼女たちがいた洞窟は、かろうじで骨組みだけを残している。蒸し焼きにならなかった原因は、恐らくデュランだろう。
 そしてその加護に、高村恭司が含まれていたのかはわからない。
 周囲を見回しても、人影はない。美袋命のほかには、無人の焦土が広がるばかりだ。ただ一本だけ、彼女の得物が灰の上に突き立って、赤熱していた。
 命は鼻を鳴らしてあちこちを歩き回ると、かなり遠距離で埋まっていた鴇羽舞衣を掘り返した。

(高村は探さないのか。懐いていたくせに)

 その様子に、なつきは得体の知れない、暗い怒りを覚えた。
 命の肩を借りて歩いてくる舞衣にも、自然きつい視線が向いた。舞衣は既に正気なのか、気まずそうになつきから顔を逸らす。
 そしてあたりに高村の姿がないことに気づくと、茫然と立ち尽くした。

「せ……先生、は?」
「ごらんのとおりだ」なつきは虚ろに笑う。加虐的な感情が彼女を衝き動かす。「草の根ひとつ残っていないな。何もかも丸焼けだ。わたしは何度も警告した。去れと! ろくなめに遭わないと! それを聞かず、凪の口車におまえが乗せられた結果がこれだ。見ろ! ひどいものじゃないか。大したものだな、鴇羽舞衣。ようこそ、HiMEに。そしておまえは、もう、まともな人生を、歩め……な、い……」

 鏡に向かって言葉を吐いている気分になって、なつきの言葉は尻すぼみに消えた。

「舞衣を、いじめるな」舞衣をかばうように立つ命を見て、一層惨めを誘われた。
「……すまない。おまえの気持ちを考えてなかったな」

 なつきは舞衣に向かって頭を下げると、静かに背を向けた。
 長々と続く灰の道はいまだ熱が冷め遣らない。まるで太陽がとおったようだ。

「ここで……馬鹿な奴だ」

 墓標のような剣は、触れるにはまだ熱すぎる。

(ハムレットの復讐は――)

 つまらない言葉を思い出しそうになって、なつきは目蓋を下ろした。
 夜を前にした風が吹いている。
 ――ぶは、と足下から妙な音が聞こえた。

「なあ舞衣」命があどけない声でいった。「なんでそんなに悲しそうなんだ。舞衣が悲しいと、わたしまで悲しくなってくる……」
「だって」湿った声で、舞衣がかろうじてこぼす。「先生、高村、先生が……先生を……あたし……」
「恭司か。恭司ならそこにいるぞ」

「…………」

 なつきは瞑目したまま難しい顔で、その言葉がどういった意味なのかを考えた。気休めか。慰めか。それとも幻を視ているのか。親しいといってもそれほどではなかった気がするが、ひょっとしたら悲しみに心が壊れたのかも知れない。それこそ、ハムレットのように亡霊を見るほどにだ。だとしたら哀れな娘じゃないか……。

「は、はいぃ!? せ、せんせい……なにやってんの、そんなとこで」

 ああ、なんということだ。なつきは絶望に暮れた。鴇羽舞衣までもが己の罪悪感に耐えかねて幻覚を見始めた。責めるような言葉を言うべきではなかったのか。しかし、責任は問われてしかるべきだったのだ。

「危ないところだったけど、なんとかミロクが間に合った」命が満足そうにいうのが聞こえた。「ん! 恭司には恩がある。わたしが守ってやらないとな!」
「……く」

 説明的な命の台詞に、いよいよ進退窮まってなつきは目を開ける。悪趣味極まりないが担がれている可能性も一応考慮に入れて、慎重に周囲を見渡した。だがやはり高村の姿はない。どこにもない。舞衣はあんぐりと口を開け、命はあくまで自信ありげに、なつきの足下を見ていた。

(……足下?)

 足下である。
 正確には、股の間というべきであった。

「よう、玖我」煤だらけの顔で、灰にカモフラージュされた高村がいった。なつきの股の下で。「なんだ。サービスか。あれ? なあ玖我。なんか……染みが」
「よし」全世界すら魅了できるであろう笑みを浮かべて、なつきは思い切りかかとを振り上げた。「改めて死ね」

 ※

 その顔面を踏みつけると、玖我なつきはすっかり憤慨して、大股でどこかへ歩き去ってしまったのだった。

「恭司」命が沈黙した高村に催促した「約束だぞ。角砂糖をくれ」
「まず、救急車を呼んでくれないか」

 それだけを言い残して、高村は眠りについた。






ワルキューレの午睡
序幕 「媛星」
これにて読切り








[2120] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/23 01:53







1.Fragments 








 鴇羽巧海の朝は早い。というよりは、病院で迎える朝は総じて早いというべきかもしれない。なにしろ患者の健康回復を目的とした施設なのだから、入院すれば結果として生活習慣の改善がなされるのは自明の理である。よってその人生の大半を『病人』というレッテルをつけて生きてきた巧海にとっては、病院の朝が早いということはすなわち彼が早起きであるということにも繋がる。
 それをさしおいても、巧海にとってその日の始まりは近来にない快適さであった。新しい環境に越してきてからは既に一ヶ月が経過していた。病院で過ごした日数は二十日を数えている。わけても、やはり今朝の目ざめは随一である。
 きょうは何かいいことが起きる。巧海は仰向けのまま冴えた目を天井に向けてそう考えた。あるいはこの先起こる飛び切り悪いことの帳尻合わせかもしれない、とも。
 時刻は八時を回る。姉の手料理に比べると嫌がらせに近い朝食を平らげると、巧海は散歩をすることに決めた。

 大なり小なり人が寄り集まって暮らす場所では、朝は慌しさと切り離せない。とりわけ激務で世に広く知られる看護士たちは、だからとぼとぼと廊下の端を歩く巧海をいちいち気に留めたりはしない。巧海も目立たないよう気を配りながら真新しい建物を探検していく。
 入院患者の重篤さは、基本的に病棟や病室で区分けされる。中には一日中どんな時間帯であってもまったくの静寂に覆われているような場所もある。現在巧海がいる病棟は、幸運にもそれほど陰気な場所柄ではない。今回の入院は、実質の名目が検査であるためだ。
(これで問題が何もなければ、学校へ通える)
 と、姉や主治医からは説明されていた。
 もちろん生い立ちから年齢の割りに達観した所のある巧海は、彼らの言葉を額面どおりに鵜呑みしているわけではない。夏を前にして、日に日に躰の調子が悪くなりかけているのは彼も自覚する所なのだ。具体的になにか明確な症状が表れたのではない。全体的に悪い。巧海はそう感じている。ちょうどぜんまいが切れかけたオルゴールのように、近ごろ彼の躰はしばしば息切れする。
 巧海は長いこと心臓を患っており、現状では率直に言って完治する見込みはない。根治のためには移植手術が絶対の条件で、それは現在の日本においてはほぼ不治であることと同義だ。彼にとっての死の水位は、発作の沈静や対症療法としての薬物投与でどうにか日常を繋ぎとめるのがせいぜいといったレベルであった。

(そろそろ、だめなのかな)
 後ろ向きに考えない。姉からは常々口を酸っぱくして言われているが、こればかりはどうしようもないと巧海は思う。むしろこの状況で前向きになれるとすれば、それは完全に死を吹っ切ってしまった人間の心境でしかありえない。巧海は育った環境からすれば奇跡的といっていいほど健全な少年である。だから自分の存在が周囲、とくに姉に及ぼしている影響を知っているし、負い目を持つ。死ぬのは怖くない。適当な理由を見つけてそう達観するのは実は容易である。単に目を逸らすだけで済むからだ。
 怖がりながら生きることこそ苦しいのだ。

「ちょっとぼく、危ないからぼうっとしちゃだめよ」
「あ、はい、すみません」

 通路の角であやうくぶつかりかけたのは、長い黒髪が印象的な妙齢の女性だった。巧海ははっと我に返って、自分が歩いている場所を確認する。考えにふける内に、外科病棟まで足を伸ばしていたのだ。
 しきりにわき目を振る様子を見て勘違いしたのか、女性が腰を落として巧海に話し掛けてきた。

「あら。もしかしてあなた、迷子?」
「い、いえ、大丈夫です」

 近づいた面立ちは美しくも少し冷たい感じがして、さらに少し慌ててもいるようでもあり、だから結局真偽に関わらずそう答えるほかはない。女性はやたらに恐縮する巧海をじっと見つめると苦笑して、

「本当に? ひとりで大丈夫?」
「はい」重ねて問われ、少しだけむっとして巧海は頷いた。
「そう。男の子だものね。……じゃあ、お大事に」

 そう言い残し、去っていった。リノリウムを靴底が叩くリズムは足早だ。お見舞いかな。巧海は思った。もしかしたら、子供を見舞いに来た母親かもしれない。彼が抱く漠然とした母親像はほとんど姉そのものである。だから今しがたの女性はイメージにずいぶんそぐわなかったが、ほんの少し、胸につかえのようなものが生まれた。彼は善良で純粋だが、だからこそ歪な形成である。その感情を僻みと呼ぶことなど知る由もなかった。
 首を捻りながらさらに歩くと、妙な二人組を見た。

「今度ばかりは死ぬかと思った。本当に。走馬灯を見た」横手の病室から、背広に腕を通しながら眼鏡に痩身の男性が退室してきた。頭と首に真新しい包帯を巻いている。「っていうか、学園ではどうなるんだあれ。さすがにニュースになるだろ?」
「公的発表はいまだ原因不明の火災、事故原因については現在調査中とのことです。それよりも先生、早く病室に」

 答えるのは、前髪をかなり短く切り詰めた短髪の少女である。日本人ではないらしいことがその髪の色や顔立ちでわかったが、巧海の目をひきつけたのはむしろ彼女が着る制服だった。
(あれ、お姉ちゃんと同じのだ)
 つまり、風華学園の生徒ということになる。いわば巧海の先輩である。
 先を行く男。その後ろを少女がついていく。二人のさらに後方を、興味しんしんで巧海は陣取った。

「へえ、あれを誤魔化せるのか。情報処理に関してはとんでもないな。十歩くらい先をいかれているんじゃないのか」
「これだけの限定された条件下では、むしろ相応の強制力というべきでしょう」小難しい言い回しで少女は答える。真実応答している、というにふさわしい口ぶりであった。「とにかく、お嬢様からは休むようにとのお達しです。病室にお戻りください」
「いいじゃないか。どうせ今日は半ドンなんだし。だいたい労災も出ないし……終わったら自宅でゆっくり休むよ。それにレポートも必要だろうから。どのみち、ここであんまりじっくり静養するわけにもいかない」
「それは、その通りですが」あっさりと、銀髪の少女は翻意して頷く。「ところで、エックス線撮影は」
「大丈夫。背中は特に撮られていないはずだ。まあ、火傷や打ち身擦り傷は数え切れないくらいだけど、特に骨身に影響がなかったのが幸いしたな。美袋に感謝、ってところだよ。それにまあ、万が一撮られてても、切開しなきゃ問題は無いはずだ。一応聞いておくけど、レントゲンでおしゃかになるほどやわなつくりでもないんだろ」
「はい。ですがそれとは別件で、お父さまからもう少し運用には注意を払うようにという要求が来ていますが」
「そんなこといってもなあ」自販機の前で、男が足を止める。少女もそれにならう。「緊急事態は基本的にどうにもできないよ。こっちから首を突っ込んでいるわけでもあるけど、だからってどうにかなるようなレベルじゃないって身をもって実感した。それよりなあ、またいくらか追加してほしいシーケンスが出来たんだけど」
「その種の陳情は私ではなくお父さまかシスターになさるのがよろしいかと思われます。そのための同居でしょう」
「ううん」難しい顔で唸りながら、眼鏡の男は懐から小銭入れを取り出す。「でもそうすると、一日がかりになるんだよな。あのひとも忙しいから、なかなか心苦しい」
「必要な措置です」

 無感動な言葉に男は渇いた声で笑って、自販機が小銭の代わりに吐き出したスチール缶を手に取った。
(何の話だろう)
 壁際の手摺にもたれて耳をそばだてながら巧海は首を捻る。会話から理解できたのは、あの眼鏡の男性は入院患者で、しかし早速退院しようとしているらしい、という程度だ。

「とりあえず、そろそろ行こう。連中の膝元にいるってのはいかにもぞっとしない。だいたいもう一時間無いし、早くしないと深優も遅刻しちゃうだろ」

 腕時計を見下ろした男がそういうと、少女も頷きを返す。まさかあの二人はこれから学校に行くのだろうか。と巧海は呆れた。風華学園ならば確かに時間的には問題なくたどりつけるだろうが、なんといっても男性は痛々しい包帯やらガーゼに顔を巻かれているのだ。
(そんなに学校が好きなのかな)
 もちろん、許されるならば巧海も学校には通いたい。ため息混じりに、羨望の視線を送った。
 そのせいというわけでもないだろうが、自販機から離れた男性と少女が近づいてくるのを見て、巧海は内心ぎくりとした。若干体を硬くしながら、何食わぬ顔ですれ違おうとする。
 胸の中央に痛みが生まれたのは、そのときだった。

「あ……」

 音に聞こえそうなほどの不整脈に冷や汗が流れる。巧海は豊富な経験則から、数秒後に自分の躰の自由が利かなくなることを察知した。寄りかかっていた手摺を強く掴み、自室から離れすぎたことを後悔する。胸に当てられた手が、パジャマ越しに別の生きもののような鼓動を感じ取って、巧海はあまりの忌々しさにやるせなくなった。
(さっきまでは、あんなに調子が良かったのに)
 こんなにも容易く崩れ去るのだ。痛みよりも、体の不出来さに涙が出そうになる。助けを求めて視線をさまよわせても、具体的に声をあげることが出来ない。早朝は外来が大量に来る時間でもある。
(もういいや)
 そう、巧海は思った。倒れていればさすがに誰かは気づくだろう。そして何もせずとも病室に帰してくれるに違いない。
 膝が落ちる。巧海の発作はすぐさま意識を刈り取る類のものではない。息苦しさに喘ぎながら、腕一つ動かせない倦怠感に体を満遍なく浸して、それでも眠りにはつけないのだ。
 そのまま倒れかけた彼を、誰かの手がしっかりと支えた。

「……っと。ちょっと君、大丈夫か?」

 慌てた声には聞き覚えがある。それも、ごく最近に。
 だからといってすぐに反応もできず、巧海は力なく太い腕の持ち主を見あげた。
 柔和な、はっきりといえば子供っぽい顔立ちの男が、眼鏡越しの素顔に困惑を表している。

 これが鴇羽巧海と高村恭司の、馴れ初めだった。

 ※

 呼び出しを受けた。目的地である理事長の私宅でもある風花邸は、何の衒いもなく豪邸である。鴇羽舞衣は広大な敷地と瀟洒な佇まいを目にしたとたん、朝から振り払えなかった気鬱も忘れ、アングリと口を開けた。

「なに、あれ」

 突如として欧州の景観が日本の山奥に越してきた違和感がぬぐえず、舞衣は騙し絵でも見ているような心地になる。延々と抉られた山肌を背景に伸びる青芝の先に、その洋館はあった。遠近感が狂うほどの建物面積は、それだけで庶民感覚に慣れきった彼女を仰天させるに充分だ。館に住んでいるのがほんの数人だと聞けば、根拠のない憤りさえ芽生えかねなかった。

「すげえだろ? 映画みたいで」生徒会会長補佐として舞衣を理事長宅まで案内した楯祐一が、苦笑混じりにいった。「金はあるところにはあるっつーかなんつーか……。我が町の大邸宅っていやあそこん家なんだけどよ。まあ、でけえゼネコンとか旧家とか、なんかわかんねえけど風華ってポツポツ金持ちがいるから、実際はあそこもあんまり目立たねーんだけどさ」
「目立たないって、あれで」

 茫然と疑問を呈す、舞衣である。まさに圧巻といった佇まいに、半ば中てられての受け答えだった。
 私学における理事長とは正しく首脳だ。特別枠に中途入学で滑り込んだ奨学生とはいえ、いち学生が直接理事長に目通りすることは、だから稀だった。よって当然、舞衣は風花邸を直接目にするのも初めてである。

「あのすっごい花壇にも驚いたけど、ホントにあんなお屋敷に住んでる人っているんだー……」
「まあ」楯が意味ありげに笑う。「家主がアレだからよ。色々とくだらねえ噂も尽きないんだけどな」
「家主? くだらない噂って?」
「家主って言えば決まってんだろ。例の少女理事長だよ」祐一が、何を今さらと肩を竦める。「家族もないらしいし、どうしたってゴシップの的になっちまうんだろうな」
「ああ、あの……」

 案内書に同梱されていたパンフレットと映像資料には何度か目を通している。春まで都内にいた舞衣としては、頼る術も持たない遠方への転居はかなりの冒険である。それだけに、選択には細心の注意を払ったつもりだった。
 もっとも結局は奨学金と学費免除に飛びついたのだが、風華学園の環境については重ねて目を通してある。中でも一際目を引いたのが、学園の名物理事長、風花真白についての項目である。
 特筆すべきは、やはりその幼さだ。彼女の年齢は当年とって十一歳。これは舞衣の弟とほとんど同年代である。そんな少女がマンモス校の理事長職についているのも充分驚きだが、彼女は海外で博士号まで得ており、さらに芸能界からオファーが来そうな美形ときては、誰にとっても笑うしかない存在である。
 舞衣にしてみれば前評判としてのラベルからして大仰過ぎて、そんな人間が自分を呼びつけるなどというのはどうにも実感の湧かない話だった。風花真白が経営する学園に舞衣はいるのだから、もちろん接点はある。しかしそれを現実的に想定できるかといえば別問題である。
 出来すぎていて、物語の中の人物のよう。そんな印象は、舞衣の脳裏にこびりついて離れない。

(物語ね。でも考えてみたら、こっちに来てからはそんなの珍しくないのかも)

 思い直して、舞衣は意識して目を逸らしていた光景を顧みる。
 疲れきり、取るものもとりあえずいっそ夢であれと眠りについた昨晩だ。
 しかし一夜明けても悪夢は覚めず、学園の裏山には『落雷による火災の影響』ということになっている傷痕が、まざまざと残されている。
 自分があれを引き起こした。その自覚は確かに舞衣にある。しかし、思い出すには痛みが伴う。カグツチに破壊を命じた瞬間の彼女は、明らかに心神喪失状態にあった。もっと正確にいうならば、件の不可思議な怪物――チャイルド、と玖我なつきは読んでいた――を呼び覚ましたとたん、その圧倒的な力の奔流に、舞衣は溺れたのである。
 そして、危く人間をひとり、殺しかけたのだ。
 結果的には高村恭司以外の人的被害はなかったということだが、遠目から山肌の惨憺たる有様を見てしまうと、それがどれほどの幸運なのか悟らずにはいられない。
 寒々しい感覚が背を走る。舞衣は身を竦め、その恐怖を忘れようと努めた。
(高村先生、大丈夫かな)
 昨日、事件のあとに意識を失った高村恭司を介抱し、命と二人で学園の保健室まで運んでから救急車を手配させたのは舞衣である。
 要領を得ない命の説明を整理すると、どうやら彼は命や玖我なつきをかばって怪我を負ったらしかった。あの鈍そうな男がよくぞと見直した、などという以前に、ただ感謝の念を覚える舞衣だ。彼の立ち回り次第では、事態はもっと深刻になっていたのかも知れない。

「鴇羽、オイ鴇羽」
「あっ、なに?」

 声に振り返ると、楯祐一が数メートルも先の方で足を止め、舞衣に不審な眼差しを送っていた。

「なに、はこっちの台詞だっつの。いきなりぼうっとしちまって」吐息して、楯もまた山の惨状に顔をしかめる。「ひっでえよな、あれ。カミナリであんなふうになるのかねえ。あんがい、放火だったりして」
 肩を強張らせて、舞衣は瞳をそぞろに彷徨わせた。「……そんなこと、あたしが知るわけないじゃない」
「そりゃま、そうなんだけどさ。それより聞いたか? 新任の高村、あれに巻き込まれて救急車に運ばれたんだってよ。来た早々、ついてねえ人だよまったく」
「うん……」ますます顔色を冴えなくして、とうとう舞衣はうつむいた。「ひどい、よね」
「どうも、おかしなことが続くよなぁ、最近。この学校でも物騒な事ばっかだし、あのフェリーの時にしてもそうだしさ」

 嘆く楯の台詞を聞いて、舞衣ははっとする。
(そうだった。あのとき、こいつも一緒にいたんじゃない)
 あやうく失念しかけていたが、一度思い出せばそれはなかなかに鮮烈な出会いである。きっかけは海面に漂っていた美袋命がフェリーの甲板に拾い上げられてすぐの救命劇だった。なぜか素人の舞衣が命に人工呼吸を施すはめになったのだが、その場には偶然、楯も居合わせていたのだ。

「そういえばさ、フェリーといえば!」話の矛先を変えるため、やや不必要に明るく舞衣はいった。「あのとき一緒にいた子、えと、なんていったっけ」
「詩帆か?」
「あ、そう、詩帆ちゃん」兄妹だとすれば不健全なまでに楯にべったりだった少女を思い出しながら、続ける。「あの子って、あんたの彼女?」
「違う」本人が聞けばさぞかし不満に思うだろう速さで、楯が即答した。「ガキの頃から付き合いがあるだけだよ、ただ。田舎ってすぐ家ぐるみの付き合いになるし、学校も特に変わんなかったから、そのままズルズルとな。って、これあん時もいったぜ」
「そうだっけ。でも家族っていうならともかく、普通中学生の女の子が年上の男の子と旅行に行くの、許したりしないと思うよ。向こうはそうは思ってないかも」
「すぐ悪乗りするのも、田舎の悪いところなんだよ。手近なトコで済ませようとしやがって」仏頂面の楯は、明らかにこの手の話題を嫌っていた。
「あぁー、そういうのはあるかもね」

 誤魔化し笑いを混ぜ返しながらも彼に芯から〝その気がない〟ことを見て取って、舞衣は少なからず意外に思った。寄せられた好意に気づいていないわけでもなく、気恥ずかしさから照れているのでもなく、楯は単に面倒を感じているのだとも理解できた。
 それはまったく理性的な往なし方である。恋愛そのものに興味がないのかもしれない。
(スケベだと思ったら……意外と硬派なのか、それとも単純にガキっぽいのか)
 一方的に熱をあげている少女を不憫に思いながらも、舞衣は胸中で楯の印象をやや修正した。普通あれだけ露骨に好意を示されれば、とくにその気がなくとも〝付き合って〟しまうのが年ごろの男であり、女というものだ。理由は単純極まりなく異性へ興味。平たく言えばセックスのためである。
 少なくとも舞衣が以前いた学校では、男女ともに性への関心から適当に相手を見繕うという風潮が、それなりにあった。――とはいっても、当の舞衣はアルバイト三昧の日々で、そうした青春らしい青春にはまるで無縁である。そのためか、舞衣にはやや耳年増のきらいがあった。
(それをしないってことは……なんだ、けっこう大事に思ってるんじゃん)
 第三者的な恋愛観については、だからいくぶんすれている舞衣だ。楯が詩帆に対してどういった感情を抱いているのかもなんとなく察せられた。

「ふーん」ひとり納得して、舞衣はにやにやと楯を見つめた。
「なんだよ、その顔」
「いやぁ、意外にいいお兄さんしてますなぁ」
「は? ワッケわかんねえし」
「で、ある日突然いつも隣にいたアイツの魅力に気づかされるわけか」

 と、楯でも舞衣でもない男が会話に割って入った。
 そうそう、と聞き覚えのある声に頷きかけて――舞衣は、一瞬ならず思考を停止させた。

「……はい?」
「やあ、ご両人」

 顔を包帯と絆創膏で武装した高村恭司が、気だるげに立っていた。

「なッ」楯が瞠目して、高村を指差した。「なにやってんすか先生!」

 驚くのも無理からぬことで、どう見ても高村の風体は異常である。白色まぶしく糊のきいたシャツに折り目正しい暗緑色の背広がいつも通りであるだけに、傷の痛々しさはひとしおだった。

「怪我人をやってる。あと教師」と答えて、高村は腕時計を見る。「あー、結局授業には間に合わなかったな。話が弾みすぎたか……。まあ、いいよな。しょうがない。入院してたんだし」
「ちょっと、高村先生っ」のんびり呟く高村の襟首をつかまえて、舞衣は楯から離れた場所に引きずり始めた。
「なんだよ鴇羽。ちょっと苦しいぞ」
「……あれっ?」

 力を抜いたおぼえもないのに、あっさりと拘束を外される。余勢でつんのめりながらも絶妙の身体感覚で転倒を回避すると、体を起こす勢いもそのままに、舞衣は高村に詰め寄った。

「なんだじゃなくて! 昨日救急車で運ばれた人がなんでこんなところにいるの!?」
「こんなところっていわれても、ここ俺の職場だし。あと顔、顔近いって」
「病院は!?」構わず、舞衣は口角泡を飛ばす勢いでまくしたてる。
「ふつうに退院した。まあ軽傷だったからな」襟を正しながら、高村はいう。「それに着任したばっかりなのにもう欠勤とかありえないだろ。社会は厳しいんだぞ」
「そういう問題じゃないでしょ……」眉を落として、舞衣はため息をついた。「玖我さんが呆れるのもわかるわ、ホント」
「それを言われると耳が痛い」伝染したのか、高村も深々と吐息する。「昨日はぼけっとしててセクハラを働いてしまった。PTAにでも駆け込まれたらまずいよな?」
「あー、いや……そういうことじゃないと思うんですけど。――でも、ほんとに大したことないみたいで、良かった。それで、あの、先生……」

 ごめんなさい、と頭を下げかける寸前で、高村に制された。「気にするな、とはいえないけど、あれは不可抗力だっただろう。自分の身も守れないのにあんなところをうろついてた俺も悪かったんだ。お互い様だよ」
「そういってもらえると助かるけど」素直に頷くわけにも行かず、舞衣は曖昧に作り笑いを浮かべた。きっとずいぶんぎこちないに違いない。「でも、やっぱりごめんなさい、かな」
「律儀だな、鴇羽は。高校一年生とは思えない」
「それってオバサンっぽいってことですかぁ」と、半眼を高村に向ける。深刻な空気を緩和するため、舞衣は故意におどけてみせた。

 ともあれ、いつもとまるで同じ調子の高村に、安堵した舞衣はまる一日ぶりに人心地つくことができた。相変わらず威厳に欠ける態度は教師としてどうかとは思ったが、重篤の彼を見舞うよりはずっと良い。

「ま、こうして無事に済んだのも美袋のおかげだから、改めてあいつには礼を言っておかないといけないな」しみじみと高村がいった。「俺もまだまだ偉そうに人のことを言えたものじゃないよ。もうちょっと考えて行動するべきだった」
「……そういえば、先生ってなんであのとき玖我さんと一緒にいたの?」

 さり気なさを装って挟まれた、それはかねてからの疑念である。昨日、舞衣が炎凪と名乗る少年に声をかけられてからの記憶は曖昧だ。ずいぶんと長くどこかを歩いた気もするし、いつの間にかあの倒壊した洞窟に立っていた感もある。そして我に返った舞衣の前には怪物がおり、そこに玖我なつきが高村恭司を伴って現れたのだ。彼女に理解できたのは、事態が暴力的なまでの性急さで推移しかけていたということ、加えて見知った顔が脅威に晒されつつあったという状況だけである。実情は、何ひとつわかっていないといってよい。
 誰も説明できるものがいなかったためだ。
 事件当時、玖我なつきは高村に腹を立ててさっさとどこかに行ってしまったし、高村は気絶して物言わぬ人となっていた。命に関しては問いただすだけ徒労だった。結局、舞衣は一日近くが経過した現在も、件の不可解な出来事について何らの了解を得ていない。なにやら訳知り顔の二人を、
(アヤシイ)
 と思わずにはいられなかった。

「それについては、追々な」芸のないはぐらかし方で、高村が手持ち無沙汰の楯に視線を向けた。「楯もあのまんまじゃ気の毒だし、話はここらで中断だ。そろそろ行こう。呼ばれてるんだろう、理事長に?」
「そうだけど、先生も行くの?」
「そのつもりだ」といって、高村は手に持った折箱を舞衣の面前に持ち上げた。

 箱の中身は、ケーキだと思われた。

 ※

 廊下には足首まで埋もれそうな絨毯が敷き詰められ、導かれた応接間は少なく見積もっても三十畳はあった。極めつけはアンティックなエプロンドレスに身を包んだ家政婦の存在である。車椅子に腰掛けた風花真白に目通りした時点で、舞衣の健常な経済観念は粉砕されかけていた。

「ようこそいらっしゃいました、鴇羽舞衣さん。それに……高村先生も」
「いや、事前の約束もなしに不躾な訪問、こちらこそ突然申し訳ありません、理事長。これ、つまらないものですが」
「あ、はい。座ったままで失礼します」高村に差し出された箱を受け取って、真白が少女らしからぬ微笑を浮かべる。「まあ……ケーキですか。お気を遣わせてしまい申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。よろしければ後でお召し上がりになってください」
「では、今ご一緒してしまいましょう? 二三さん、こちらをお茶と一緒に」
「はい、ただいま」ケーキを受け取った侍女は、優雅な仕草で一礼すると足音も立てず退室した。
「……」

 そして、一連の場面を絶句したまま傍観する舞衣である。
 完全に雰囲気に呑まれた形であった。
 高村は二度目なのだろうが、それでも受け答えには緊張や呆れが見て取れる。舞衣には自分より歳下の人間を上司に仰いだ経験はないが、この『理事長と教師』という構図には、不自然どころではない歪みがあった。
(どっちかっていうと小学校の先生と生徒なのにねえ)

「お怪我の具合はどうでしょうか。きのう、救急車で運ばれたと仄聞しましたけれど」

 包帯を一見して愁眉を開く真白に、高村は力なく笑った。

「ご心配なく。無傷とはいきませんが、職務に支障はありませんよ。ちょうど明日は休日ですし」
「ご無理はなさらないようにお願いします。怪我が悪化してかえって悪いことになっては元も子もありません」
「はい。そのあたりは重々、承知しています」

 見た目からして子供然とした真白はともかく、高村の立場を踏まえた応対は社会人としてごく自然なものだ。現在学生であるというプロフィールを踏まえ、彼をどちらかといえば『今風』を気取った教師であると類別していた舞衣にとっては、少しく意外な一面であった。
 女という性に生まれ、かつ様々なアルバイトを趣味とするだけあって、鴇羽舞衣という少女にとっての人間観は多様性と多面性に立脚している。人の性格は決して一面的でなく、時として常識を期待できない相手を向こうに回すこともある。接客業の荒波に揉まれ、泣きを見た経緯からその観念は培われた。むろん、年若い価値観は甚だ未熟なものではある。
 そんな彼女からすると、性格面は置くとしても、高村恭司には教師としての自覚が欠けているように見えたのだった。生徒にする砕けた会話や、面白いがどこか趣味に走った授業態度の端々から投げやりな態度が見て取れた。熱意がなく、程よく斬新に、刺激的であれと効率化された手際だけが目立った。その姿勢は教育者というよりは講師に近い。そして両者は似て非なるものだ。単に塾や予備校で講師を務めた経験があるだけかもしれないと思っていたが――。
 舞衣は考えを改めた。ざっくばらんな態度は高村の人格に由来しているのではない。真白への態度や物言いから鑑みれば、ある程度企図されたものなのだ。おそらく、高村にとって教職は腰掛けなのだろう。でなければ、本意ではない立場のどちらかだ。舞衣にも経験がある。長々と勤める気がないから、いっそ大胆に振る舞えるのである。
 同じような印象を受ける人間を、もうひとり知っていた。

(……そう、なんか碧ちゃんに似てるんだ。性格とか軽さとかは全然違うけど)

 舞衣のクラス、一年A組の担任は、現在のアルバイト先で『元同僚』だった杉浦碧である。舞衣は彼女にも高村に似た身の軽さを感じていた。
(ま、どっちも臨時採用っていうしね)
 たしか大学で専攻している科目も似ていた気がするし、研究者肌の人間とは概してそういうものなのかもしれない。そう舞衣が納得し終える頃には、高村と真白の社交辞令的な会話も終わっていた。

「それでは、鴇羽舞衣さん」器用に車椅子を操って、少女が舞衣に向き直る。

 頭脳に容姿に富にと恵まれ、およそ瑕疵に無縁の風花真白が持つ唯一の欠点が不具の足である。また血色も良いとはいえず、お世辞にも健康体には見えない。しかしそれがいっそう彼女の儚い、浮世離れした美しさを際立たせていた。顔といわず手足といわず、真白の体躯は全体的に小作りで、妖精のようである。
(顔小っさー……人形みたい)
 俗な感想を抱きつつ舞衣は唾液を喉に送り込んで、得体の知れぬ緊張を飲み下した。

「――はい」一度はらをくくれば、舞衣は物怖じというものをあまりしない。双眸は決然と真白をとらえた。「あの、ご挨拶が遅れてすみませんでした。……無茶な時期だったのに奨学生の枠を頂いて、本当に感謝しています。ありがとうございました」

 嘘偽りのない本音だった。舞衣は目の前の少女が主催する風花奨学金によって、なんとか学生生活を諦めずに済んだのである。
 それだけに、次の言葉には目をみはった。

「いえ、お礼には及びません。あなたの入学は、こちらにも思惑があってのことでした」
「え」鈴を転がすような声に戸惑いつつ、舞衣は言葉の意味を案じた。「……あ、はい。もちろん勉強の方はがんばります。せっかく奨学生として招いてもらったんだし、理事長……さん、に恥をかかせるわけにはいきませんから」
「それはもちろんですが、鴇羽舞衣さん。わたくしが申し上げているのは、そのことだけではありませんよ」

 真白が絶やさなかった柔和な笑みに、ひと刹那だけかげりが浮かぶ。
 ちくりと、嫌な予感が舞衣の胸を刺した。

「その、どういう意味ですか」
「あなたは昨日、見たはずですね。そして、高村先生もあの場所で」真白が視線を移す。その先には精緻な細工の施された窓がある。窓外には、いやでも目につく地を抉る創痕。「あれは、オーファンと呼称される怪物です」
「ちょっと、待ってください」にわかに暗雲垂れ込めてきた話の行く先を、舞衣は思わず遮った。「なんの話ですか。あたし、何のことだか……」
「今日来ていただいたのは、説明のためです。一晩経って、混乱もいくらか落ち着いたことでしょう」
「あ、ええ……と」

 知られている。真白の口ぶりに、舞衣は確信した。 
 言い逃れはできそうにない。唇を噛んで、舞衣は逡巡した。落ち着きなく両手を絡めて、視線を膝に落とす。認めてしまうべきか否か。確かに山を半分燃やしたなどと、許されることではない。だがあの場合はどうしようもなかった。何しろほとんど意識がなかったのだ。心も体もまるで自分のものではないようだった。
 だがそんなことは、なんの免罪符にもならないだろう。瞬時にいくつかの剣呑なイメージが舞衣の脳内を駆け巡った。謹慎、停学、退学。いずれも被害の規模に照らせばまるで足りない。警察に突き出されても文句はいえないのだ。
(……どうしよう)
 助けを求めるように、隣席の高村を見た。しかし、頬に貼られたガーゼが舞衣の罪悪感を煽るだけだった。冷静に考えれば頭の傷や細かな擦過傷は舞衣の仕業ではないのだが、このときにはそこまで考えが及ばなかったのである。
 その視線を敏感に気取って、だんまりを決め込んでいた高村が会話に割って入った。「よろしいですか、理事長。理事長は、鴇羽に何らかの処分を下すつもりで彼女をここに呼んだのでしょうか」
「あ、いいえ」わずかに慌てて、真白が首を振った。「誤解なさらないように。わたくしはあれについて詰責するためにこの場を設けたのではありません。今いった通り、純粋に、鴇羽さんの役割を説明する必要があると判断したのです」
「あたしの、役割?」舞衣は安堵しつつ、きな臭い単語に眉をひそめる。
「はい」
「それって……あの化物に関係あるんです、よね」
「ええ、その通りです」
 
 と、真白が頷くのに合わせて、トレイを手に戻ってきた侍女が、各人にケーキとティーカップを配膳し始めた。
 テーブルに置かれた透明なティーポッドのなかの湯は鮮やかに紅く、色づいている。かぐわしい芳香が舞衣の鼻腔をくすぐった。ポッドのフィルターでたゆたうのは茶葉ではなく、薔薇のつぼみであった。

「高村先生にいただいたシフォンケーキと、ローズティーです。ジャムはお好みでどうぞ」
「ありがとう、二三さん」

 饗されたケーキも紅茶も舞衣の食欲をかきたてたが、手をつける気分では今はなかった。胸中の懼れを拭うように屹然と、真白を見つめる。

「なんなんですか、役割って。それに、なんであんなワケわかんないものがいるんですか、ここ。もしかして、他にもまだいるの」
「はい。未知数ですが、あれで終わりということはありえません。オーファンは」真白はソーサーを持ち上げながら悠揚といった。「この世ならざるもの。人を襲う魔です。……といってしまうと、逆に真実味が薄れてしまうのでしょうね。わたくしからいえることは、ああいったものがこの風華の地には厳然と存在するということ。そして、鴇羽舞衣さん。あなたが出会った玖我なつきさん……それに美袋命さん。あなたがたHiMEには、オーファンを倒すための力が与えられている、ということのみ。いいえ、オーファンを打倒できるのは、HiMEの力を持ったあなたがただけなのです」
「――あの二人の事も知ってるんですか」飛躍した話題についていけず、舞衣はどうにか言葉尻だけをとらえた。「それにその、それだけじゃなくて、倒すための力って、ヒメって」
「それはもちろん、あなたが召喚したチャイルドのことです。HiMEとはチャイルドを従えるもの。あなたはHiMEなのですよ」

 答えて、真白が紅茶を啜る。
 舞衣は、唖然として二の句を次げない。

「……なにいってるんですか」ようやく言葉を紡がせたのは、反感だった。「またHiME? HiMEってなによ。あたしなんでそんなことに巻き込まれてるんですか。あなた、あたしをからかってるの?」
「見たままが現実です。舞衣さん。心苦しいでしょうが、お認めになってください。あなたはHiMEなのです。そして、オーファンと戦う運命――そう、星のもとに生まれついた。わたくしどもは、そのためにあなたをこの地にお招きしました」

 その言葉に――。
 かなうならば今すぐにでも忘れ去りたい光景が、舞衣のまぶたの裏で瞬いた。
 フェリーの沈没。玖我なつきと美袋命の戦闘。洞穴でみた怪物。少年の誘いに乗って呼び覚ました、カグツチ。
 厄介なことに巻き込まれた、と楯祐一はいっていた。舞衣もそう思っていた。自分はあくまで運悪く場に居合わせただけの被害者なのだと。
 しかし、全てはあらかじめ自分を含めて織り込まれた出来事だった。風花真白はそういっている。
(ずるい。ひどい)
 連鎖的に、季節はずれの奨学生枠に推薦された瞬間の事が思い出された。当時の教師から薦められた風花奨学金に、彼女は一も二もなく飛びついた。転居の経費に生活費、そして弟の治療費と、舞衣を悩ます諸々の金銭問題が、たとえ苦しいにしても働きさえすればどうにかやりくりできるという光明が見えたからだ。高校生に支給されるにはいささか多すぎる奨学金を、舞衣は単純に努力が認められた結果だと浮かれていた。アルバイトに打ち込みながらも、学業を決しておろそかにしなかった甲斐があったと、なんの疑いもなく喜んでいた。
(ひどい。最悪。あたし、いい人がいるもんねなんて、馬鹿みたいに)
 そんなうまい話があるわけがなかったのだ。
(餌で釣るみたいに、人を!)
 まんまと食いついた自分が、滑稽に思えてしかたない。
 気を抜くと、悔し涙が溢れそうになる。唇を噛んで、衝動をやり過ごした。

「それじゃあ、それじゃあ」それでも否定を欲して、舞衣はすがるように真白を見つめた。「最初から、あたしが奨学生に選ばれたのも、アレと戦わせるためってこと、ですか」

 真白はよどみなく首肯した。酷薄な優しさがその眼差しには見て取れた。

「そうです」

 同時に、激昂が舞衣の胸裏を満たした。それはむしろ醒めた怒りとして孕まれた。

「馬鹿にしないで」口早に舞衣はいった。
「はい?」
「馬鹿にしないで!」相手が理事長であることは、考慮の外だった。「変なことに、あたしを巻き込まないで! あたしは他にやることがあるの! 余計なものに関わってるヒマなんてないの! なによ、戦えって。そんなの警察とか、自衛隊の仕事でしょ? どうして学生にそんなことやらせるのよ。おかしいわよ!」
「もしかして、弟さんの事でしょうか?」心配顔で、少女は呆気なく舞衣の地雷を踏み抜いた。「もしよろしければ、わたくしが援助を」

 発作的に、舞衣の手が冷め遣らぬ紅茶がなみなみと注がれたカップに伸びかけた。あまりの怒りに目が眩むほどだった。後先を考えず、中身を真白に向けて撒き散らしてやろうと思った。
 その手を制したのは、高村だ。さりげなく舞衣のソーサーをずらして間を外すと、彼は「落ち着け」と短く呟いた。

「あたしは落ち着いてます!」

 噛み付くように吼えて、舞衣は大きく息を吐く。

「落ち着いてないだろう。今なにをしようとしたんだ、おまえ」
「……落ち着いてます」

 顔をしかめる高村に、舞衣は理不尽な失望を感じた。根拠もなく彼は自分の味方をするものだと思い込んでいたのだ。しかし立場上、彼は理事長につくのが当然なのである――。
 そう見切りをつけかけた矢先に、高村が真白に向き直った。

「風花理事長。僭越ながら、これは教員ではなく、若輩であっても少なくともあなたよりも年配の人間としてお伺いしますが」
「……はい」
「つまり理事長は、はじめからそちらの都合に巻き込むつもりで鴇羽に奨学生の打診を持ちかけた、ということでしょうか」
「そうなります」あっさりと真白は認めた。

 薄々理解できていても、やはり堪える事実だ。舞衣は歯がみして顔を伏せる。

「では」と高村が続けた。「そちらは以前から鴇羽を、その、特定していた、ということですね」
「それは、お答えできません」
「あくまで鴇羽とあなたの間の問題ですから、私は責めるつもりも資格もないんですが、話せない、というのは? 何か理由が?」
「……お答えできません」
「鴇羽を調べていたってことですよね。もしかしたら、他の人間も。具体的にはいつから? どうやって?」拒絶を取り合わず、高村は畳み掛けた。「オーファンといいましたね。あの怪物。あれはどこからやってくるんです? なぜ鴇羽たちでなくては倒せないとわかるのですか。それとも……ガキのようなことをいっていると笑わないでほしいのですが、我々一般人が知らないだけで、ああしたものは実は日本のどこにでも現れているのでしょうか。風華学園はなにか、全国的な秘密組織なのですか?」

 質問を募らせていく高村を見て、今度は舞衣のほうが彼を押し止めるべきか迷う。横目で顔色を窺えば、真白の穏やかな表情はどんどん能面じみたものへと変貌しつつあった。
(先生、やばいんじゃない)
 こっそりと肝を潰すが、退けない場面というものが舞衣にもある。ここは高村の尻馬に乗るべきであると判断した。
 だから控え目に意見した。

「あたしも……知りたいです」
「オーファンは古くからこの風華の地にだけ現れる存在です。具体的なことはいまだ判明していません。……その他の質問については、お答えできません」
「なぜ」
「高村先生。気になるお気持ちはわかります。わたくしどもの不手際でお怪我を負ったのですから、保障もいたしましょう。ですがこれはみだりに踏み込んでいい話題ではないのです。どうか、ご了承ください」
「俺には関係ないと?」
「いえ。そうではありません。あなたはもはや、関係者といってもよいのでしょう。だからこそ、これ以上は係わり合いにならないほうがいいのです」悼むように真白が眉根を寄せた。「ご心中、察するに余りあります。天河さんのことは大変な……」
 
 とたんに生木の爆ぜるような異音が響き、真白の口上が途切れた。舞衣にとっては何もかも一瞬の出来事であった。高村の体が椅子に深く沈んだと見えた次の瞬間、彼の腰掛けていた椅子の足がひとつ折れていた。当然バランスを崩して傾いだ背もたれを、すっと伸びた細腕が柔らかく受けとめた。時代錯誤なエプロンドレスに身を包んだ、それは真白の侍女の手に他ならない。
 いつの間に、と舞衣は思わず視線を行きつ戻りつさせた。あのメイドさん、今の今まで、あの子の後ろにいたのに。
 ひきつった顔の高村が、ゆっくりと背後に顔を向けた。

「まあ」のんびりと侍女が微笑んだ。「大変な粗相、すみません高村先生。こちらの椅子、どうやら老朽化していたようですわ。すぐに替えをお持ちします。少々お待ちいただけますか?」
「いえ。お構いなく」硬い声で答えて、高村は立ち上がる。降参するように両腕を挙げると、ため息をついた。「そう構えなくたって、社会人としての礼儀くらいわきまえていますよ」
「はい、もちろんですわ」どこまでも侍女はにこやかであった。
「それから、理事長」毒気を抜かれた様子で、高村は再度真白に水を向けた。「みだりに踏み込まないというなら、俺にとってその話こそそうなんですがね。いえべつに、たんなる不幸な出来事だったんですが、ほら。ごくごくプライヴェートなことですし、生徒の前で話して聞かせるようなことではないでしょう?」
「……はい。軽率でした」
「いや、こちらこそ、何か事情がおありのようなのに無神経に根掘り葉掘りと不躾でしたから」社交的な笑みを見せて、高村は取り残されている舞衣を見下ろした。「それで、鴇羽。俺はもうお暇するけど、おまえはどうするんだ」
「え、と、あたし?」
「そう、おまえ」
「あたしは」何かを訴えかけるような風花真白の顔から視線を外しながら、舞衣は呟いた。「あたしは物乞いじゃありません。あたしたちのことは、あたしたちでやります。……もちろん奨学金のことは感謝してます。今でも。だけど、危ないことなんてあたしはもう、二度としたくないです。それでこの学園から出て行けっていうなら……」

 次の言葉は、たやすくは接げなかった。今になって、玖我なつきの言葉が身に染みていた。
 持てるだけの勇気を振り絞って、それでも居残る事を選択した舞衣だ。
 その決意が、今は揺らぎかけていた。
(だからって、どうしろっていうの?)
 苦々しく、舞衣は吐息した。
 どうしようもないのだ。
 ここで真白に援助の打ち切りを宣告されれば、明日から舞衣は路頭に迷う事になる。真白がそんなことをするような人間には思えないが、可能性があるというだけで充分な脅威である。
(なんでこうなるのよ……)

「ですが」あくまで諭すような真白の口調だった。「オーファンを退治することは、引いてはあなた自身やその周囲の人々を守る事に繋がるのですよ」
(そりゃ、そうなんでしょうよ)

 そんな理屈は舞衣にだってわかる。ただ非凡さの塊である目の前の少女にはわからないことが、舞衣の基礎なのである。非日常が音を立てて舞衣の日常を侵食しようとしている。最初の譲歩が、きっといつかすべてを食い潰すことになるのだ。舞衣は確信めいた予感に、陰鬱となる。

「考えさせてください……」冷静さは時に毒だ。やっと紡いだ言葉は、当初の勢いを失っていた。

 あーあ、と高村がそんな舞衣を見て苦笑する。脛を蹴飛ばしてやりたい、と舞衣は心から思った。
 お人よしの己が性格とは十五年の付き合いだ。近い将来なし崩し的に厄介ごとに巻き込まれる自分が、舞衣にははっきりと見えたのだった。

 ※

「彼、まずいんじゃないの」

 客人を送り出したばかりの応接間で、炎凪が手付かずのケーキをつまんでいた。

「高村先生のことですか」唐突に現れた少年に驚きもせず、風花真白は瞑目して答える。
「なんかヘンなバックに取り込まれたみたいだしさぁ。妙なこと吹き込まれてるよ、絶対」
「そうだとして、わたしたちに何ができるでしょう。すべては筋書き通りに運ばれるだけです。彼が好んで舞台に身を投じるというなら、それを止める権利はきっと何ものにもありません」
「ま、あくまで主役はHiMEだしね」
「そういうことです」

 背もたれに体重を預ける真白の矮躯は、諦観から来る気だるさに支配されている。白昼に憂える美貌は絵画のような非現実さをたたえていた。

「そういえば、真白ちゃんは高村センセと面識があるわけ? 僕、聞いてないんだけど」
「連絡を頂いたのは先月で、直接出会ったのはそのときがはじめてです」
「命ちゃんのときか。でも……それじゃ計算が合わなくないかな」

 椅子の残骸。砕けた足と拉げた肘掛を見比べて、凪は掠れた口笛を吹いた。

「ええ。それよりも以前に、彼は一度この土地に来ていました。かの人々と縁を持ったのも、そのときの出来事が元なのでしょう」
「ふうん。ま、どうでもいいんだけどさ」ケーキを平らげた凪は冷めた紅茶に顔をしかめると、口はしを吊り上げた。「首には鈴、つけておくべきだと思うね。きみの管轄だろ?」
「手は打ちます」
「そ。さすが」

 賞賛の声にまぶたを上げると、そこに白髪の少年はいなかった。部屋にはただ、真白とその侍女、姫野二三が変わらず佇んでいるだけである。

「二三さん」静かに真白が告げた。「高等部の教務主任に連絡を。高村先生には創立祭準備会の臨時顧問に就いていただきます。藤乃さんにもその旨よしなにと」
「はい、真白さま」
「わたしは偽善者でしょうか」窓外に目をやって、真白は寂しげにそう漏らした。午後の燦々たる初夏の陽射しが、彼女の目を灼いた。「でも、正しいことは必ずしも善いことではないのですね」
「真白さま。偽善は、人の為の善と書きます」二三の手が、気遣うように細い肩に触れる。「どうか、そのように思いつめないでください」
「ありがとう」微笑んで、真白はふたたび目を閉じた。「少し……眠ります。お昼寝なんて、はしたないかしら……」

 車椅子の傍らに膝を屈すると、二三は静かに首を振った。

「こんなに気持ちの良い午後ですもの。どんなに忙しい方にだって、午睡をするくらい許されますわ」

 ※

 その夜――

 ※

 怪我人の体で歓迎会に出席した高村恭司を、杉浦碧は保険医兼悪友の鷺沢陽子と連れ立って、夜遅くまで引きずりまわした。とかく若年者にとっては気苦労の場になりがちな宴席を愉快なものに終始させたのは、彼女の人徳と押しの強さゆえによるものだといえただろう。

「夜はまだまだ長いよーッ」

 ※
 
 ロールシャッハという名のバーで、玖我なつきは懇意の情報屋に不正コピーした高村恭司の履歴書を手渡し、調査を依頼した。ヤマダと名乗る情報屋がおれはストーカーの片棒は担がんぞと冗談めかすと、なつきはスパークリングウォーターを不機嫌そうにちびりと飲んでこう言った。

「わたしはそいつが大嫌いだ。そのての冗談は二度と言うな」

 ※

「う、……うまい」
「あはは、大げさよ、あんたは」

 鴇羽舞衣は美袋命と、何の変哲もない夕食を囲んでいた。命がうろ覚えの兄についての話をすると、舞衣は自慢の弟の話をし返した。迷いはまだ何ひとつ吹っ切れてはいない。それでも、弟の顔を見れば大抵のことはへいちゃらになるのが、鴇羽舞衣のメンタリティである。それはちょうど命にとっての食事にも似た、いのちの洗濯なのだった。

「そういえばさぁ、ウチの弟ね、なんだか今日親切だけどヘンな人にお世話になったらしいんだけど、その人のこと師匠なんて呼んじゃってさ――」

 ※
 
 結城奈緒はいつも通り、夜の街にいた。目的はなかった。美人局も使命感に駆られてしていることではない。気が向かなければ、何もしない夜はある。チャイルド・ジュリアを駆ってビルの屋上に立ち、粘つく六月の潮風に髪をなびかせながら、うつろな眼差しで下界を睥睨していた。汲み尽きぬ苛立ちと鬱屈が彼女の全てだった。何もかもが煩わしく、どれもこれも消えてしまえばよかった。夜明けが近づいた頃にようやく訪れる眠気をただじっと待って、奈緒は内なる暴力の炎に身を焦がし続ける。

 ※

 浴室から出た藤乃静留は、携帯電話が着信を報せているのを聞いても慌てない。彼女にかかってくる電話というのはたいていが煩雑なものである。予算百億超の風華学園生徒会を預かる身分ともなれば、公私の別などないも同然だった。というよりも、静留の生活には〝私〟の要素が極めて薄いといったほうが正しい。実際二つ所有している携帯電話のうち、私用が急を告げることなどほぼ皆無だ。しかし寝室に入って着信音が明瞭になるや否や早足になって、静留は受話器を耳に当てた。

「――なつき? どうしはったの、こんな時間に。うちは今お風呂出たところやけど……もうかどにおるて、なんで? ……ふふ、そらこないな時間やし、ガソリンスタンドはしまってはるやろねぇ。えらい難儀おしたな。――ええよ、したらそこにいよし。すぐむかえに行きます」

 ※

 アリッサ・シアーズは深優・グリーアに見守られ、穏やかに眠っている。アリッサの寝相は驚異的に良く、深優は必要とあれば呼吸の振動さえ欺瞞できる。そんな二人の寝姿は、しじまに息する一対の彫像だ。しかしアリッサの寝言の名前によっては深優の顔色がわずかに変動することもあるが、余人はいざ、近しい人間ですら知らない秘密である。

「……うーん、お兄ちゃん……」
「……」






ワルキューレの午睡
第二幕
「舞」






 ――そして、ある夜に。

 高村恭司は、山深い森で一体の巨妖と向かい合う。梢を揺らす獰猛な唸り声に慄然としつつ、男は平静を保つために呼吸を繰り返す。彼は申し訳程度の武装として、腰のベルトに軽金属製の短棒を差していた。異形に相対する相棒としては甚だ心許ない得物である。正真正銘の怪物を対手に、無手同然で臨むなど、紛うことなき気違い沙汰だった。むろん、高村もゆえなく素手を保っているわけではない。まさか武術家ではあるまいし、おのれの肉体に自負も矜持も彼は持たない。
 欷歔のように不可知の獣は吠え立てる。存在の苦しみに対する、まさにそれは鋒鋩である。嬰児のように頑是無く怪物はわめく。己を生み出した世界を憾んでいる。仕えるHiMEを持たないオーファンが根本的に抱える寂寞は、耐えがたい苦痛となって彼らを責めさいなむのだ。
 高村には、聞き慣れた夜泣きだった。
 じりじりとオーファンから距離を取りつつも、宵闇にぼうと点る緑の三つ目は高村を逃がさない。

 たわむ巨躯。
 緊迫を孕んだ夜気が凍えた。

 動き始めたオーファンを、高村の両の目は捕捉する。危機意識がトリガーするのは連鎖的機構の第一段階だ。脊椎と脳皮質に埋蔵されたシステムの中核が神経を駆け巡る電気刺激に反応する。それらは計上するのも罵迦らしい情報量をそれ以上に理不尽な速度で処理化し、変換された疑似パルスが命令を伴って人工フィラメントをくだっていく。『高村恭司』という動体を導く何もかもが0と1に分解され、再結合される。蓄積・プログラミングされた膨大なコードの中から状況に最適な動作がデジタルな解として選択され、アナログな行動へと昇華される。
 それは失われた運動機能を代替するための施術。
 凡人に与えられた一欠けらの牙だ。

「Multipul
 Intelligential
 Yggdrasil
 Unit-Implant」

 ユニットを起動して、高村は敵を迎え撃った。







[2120] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/08/28 01:15






2.心裏時様→






 盲目的であろうとした愚かな時代が、九条むつみにはある。何が愚かなのかといえば、それが罪悪感から逃れるための手段でしかなかったことだ。彼女には近い将来必ず成し遂げなければいけないことがあって、そのためには財団において一定以上の成果をあげることが必須だった。
 往時を振り返れば、やはり自分は焦っていたのだとむつみは思う。その焦りは結果的に少なくない利益を彼女と彼女の帰属する団体にもたらしたが、取り返しのつかないものも確かにいくつか、失わせた。
 その一例が、とある青年の人生である。

 三年以上前の話になる。その日むつみはK県にある国立総合病院の待合室の一角にいた。

「彼の容態は?」
「思わしくはありませんよ、ミス・クジョウ」
 深みのあるテノールで答えたのは、暗色のスーツを着た白人の男だ。人の良さそうな痩身の中年を演じる男の瞳は、その実感情の機微の読解を、一切許さない。シアーズ財団広報第四課所属のジョン・スミス。それが男の通り名だった。本名ではない。そもそも、財団の広報部に四課は存在しない。アメリカの都市伝説であるメン・イン・ブラックのコードネームを名乗るのは、彼ら一流の諧謔と思われた。
「なにしろ医療班の見立てでは、相当なリハビリテーションを経ても体機能は完全には戻らないだろう、ということですからな」
「そう……」
 俯いたむつみを見て、スミスは淡く微笑んだ。
「案じることはありません、ミズ。確かに我が方が被った人的被害は楽観できるものではありませんが、いくらでもリカバーが可能な程度です。我々はワルキューレとその使い魔に関して、貴重なサンプルを確保できた。肝心かなめのプリンスも一命は取り留めた。そして例の機械人形も……大破はしたものの、リプロダクトは可能とのことです。問題点も浮き彫りになり、グリーア博士もより完成形に近い作品に打ち込めることでしょう。総体的に見ればなんとも素晴らしいではありませんか。そして、ミズ。これは、すべてあなたの手柄なのです」
「人が死んだわ。無関係な人も」
 きつく眉根を寄せて、むつみは顔を両手で覆った。肌といわず髪質といわず、深い疲労が全身に表れ始めている。
「屑のような命です。保護指定者の親族は不幸だったしかいいようがありませんが、他はしょせん一山いくらの傭兵どもですよ。いや失敬、警備会社、でしたかな。まあどちらも大差はありません。関係各所への粉飾は難儀しましたが、広報部としては久方ぶりの大仕事といったところですな」
「天河教授はどうなの?」反感を込めて、むつみは刺々しい声を発した。「彼が必要だと見たからこそ、あなたたちは援助を申し込み、協力したのではなくて? そんな人材を失って……」
「プロフェッサー・アマカワについては残念というほかありません」スミスはしかし、まったく堪えていない様子で肩を竦めた。「とはいえ、自ら死にに行くような人間につける薬はありませんよ。おめおめと彼を逃がしたのは担当者の手落ちでしょうから、ま、相応の処罰はあるでしょうが。それも、あなたとは関わりのないことだ」
 むつみはさらに自虐のための言葉を探したものの、見つかることはなかった。他にひとりの見舞い客もいない談話スペースで、飲料自販機の立てる虫の羽音のような唸りだけが尽きない。それは不眠のための耳鳴りとあいまって、むつみの精神をさらに責めたてる。
 シアーズ財団ではない、彼女自身の古巣が深く関わるある『現象』は、ここ数年以内に本格的な始まりが告げられる。数々の観測データや統計から鑑みてもそれは明らかだ。そして未曽有の革命をもたらす可能性を孕む事態に、シアーズほか世界の勢力は常に干渉しようと機を計ってきた。むつみは、そのプロジェクトの最前線に身を置かねばならなかった。
 贖罪のためである。
 それを全てとして、この数年を彼女は躍起になって生きた。
 だが、『九条むつみ』の本職はエンジニアだ。技術者にとっての現場は数あれど、むつみにとってのそれは即ちデスクであり、前線に彼女の居場所はない。さらに東洋人で元々は外部の人間となれば、仲間内でさえ受ける扱いは悲惨なものである。
 しかしその不利を覆して、いまむつみはプロジェクトの主導的な立場にいた。可能なことは全てやった。媚び、取り入り、裏切り、賄賂……。今では同僚で彼女を後ろ指差さないものは稀だ。反面、狙い通り上司の覚えはめでたく、研究者の枠内に止まらない地位と権威も得た。特権を保つことができれば、たとえ捨石であろうとも計画の実行時には現地に飛ぶことができるはずだった。
 むつみは満足してよい定礎を築いた。少なくとも、その労力に見合った報酬を手に入れた。
 それは今回についても、同じことがいえる。
 残務は手はずを調えるだけである。しかし、むつみの胸中には太虚があった。
「それでも、ちゃんと、やらなくちゃね」
 逡巡の時間を終えて、むつみはシートから腰を上げた。
「彼に面会ですか?」
「ええ。スミス、あなたは来なくていいわ。ご家族については、わたしから話します」
「はあ」スミスが揶揄するように唇を曲げた。「構いませんが、それでしたら弁護士か保険会社の人間に任せてもいいのでは」
「いずれ、事情は誰かが説明しなければならないでしょう」
「ミズ、それは酷というものです」道理を弁えぬ小娘を見るように、スミスは苦笑した。「彼はまだ子供ですよ。間を置いて、ケアをしてからでもよいのでは? ただでさえ、ここ数日の彼はひどいストレス下に置かれていました」
「そして何も聞かせないまま懐柔して洗脳して、気がついたらもう後戻りできないところにさっさと運んでしまうのね」
「必要ならば、そうでしょうね。たとえ我々がしなくとも、一番地は彼を放置しない」
「そう」据わった眼で、むつみは独りごちた。「どこにいても、変わらないわ。人間は……」
 歩き去る。すると、スミスが喉の奥でくつくつと笑った。
「同情ですか。ミセス・クガ。もしそうなら、あなたは傲慢だ」
 足を止め、冷たいまなざしで、むつみはかの諜報員を一瞥した。
「……まさか、彼の両親、殺したのはあなたじゃないでしょうね?」
「まさか」笑みを崩さないまま、スミスが首を振った。「酷い言いがかりですな」
「それと、間違えないで。わたしの名前は九条よ。九条むつみ」
 言い捨てて、もう振り返らなかった。
 取り付くしまもない背を追いかけたのは、最後まで調子の変わらない声だ。
「失礼。ミズ」

 ※

 見舞い客どころか看護婦とさえすれ違わない病院というのは、いくらなんでも問題があるのではないか。
 パンプスの靴音が異様に甲高く響く廊下を歩きながら、むつみはふと既視感に襲われ、あることに気づいた。深夜に重傷者を見舞うという構図にはひどく不快な覚えがあった。
 あのときの自分は、怪我を押し、何もかもを置いて逃げ出したのだ――。
 が、追憶に沈むすんでで目的の病室に彼女はたどり着いた。控え目なノック。答えはない。ためらい、ノブを捻りドアを開けた。
 規則的な電子音が、すぐに耳に入った。
 そこは奥行きのある個人用の病室だった。洗面所や冷蔵庫、エアコンはともかく、仮眠用のベッドまでもが設備として置かれている。身内が泊り込みで看護するための設備だと思われた。
 問題の青年が横たわるベッドからは、点滴チューブ、呼吸器、心電図用のケーブルなど様々な管が伸びている。それらの中心にはほぼ全身に治療のあとが見える人間がひとり。かろうじて目鼻口は見て取れたが、初見では性別を判じることも難しいほど仰々しく、ギプスや包帯が彼をデコレートしていた。
「……」
 予想していたほどの衝撃がなかったのは、結局のところスミスがいうほど彼個人に対して同情していなかったためだ。事実むつみと青年は事前に二言三言会話を交わしただけの間柄でしかない。スミスの向こうを張るほど機械的にはなれないが、むつみは大人であり、科学者である。身内ならばともかく、他人を相手にすれば人情や道徳をしばしば忘れる程度には、彼女も非人間的ではあったのだ。
 ――同時にその姿勢を徹底できない脆さが、やがて彼女を破滅に導くことになる。
 人間の呼吸としては不自然極まりない、未完成な楽器の出すような音がむつみの耳に届いていた。それが青年の寝息だと彼女はしばらくしてから気づいた。彼が集中治療を脱してからはもう五日が過ぎている。いまだ絶対安静には変わりないが、意識も戻っているとのことだった。時間を置けば、いずれ目を覚ますかもしれない。
 それを待たねば話にならない。しかしむつみは、彼に目ざめて欲しくはなかった。
 理由はひとつだ。

「後ろめたいのね、わたし」

 自らの偽善に聡いことは、生きていく上では不便である。悪に徹しきれない人間ならば、なおさらだ。
 むつみは捨て置かれた、座るもののいないパイプ椅子に腰を降ろすと、沈鬱な顔でため息をついた。
 十数分がすぐに経過した。事件の対応のためにした連日の徹夜が祟ってむつみは転寝しかけていたが、身じろぎの気配を感じて即座に覚醒した。
 血走った眼球が彼女を見ていた。首を動かせないためか、瞳だけがきょろきょろと落ち着きなくむつみの体を上滑りしては、怪我の痛みのためか時折うつろに焦点を散じた。もどかしげに肩を動かそうとしてくぐもったうめき声を上げる青年を、むつみは手で制した。

「無理に動かない方がいいわ。指先……左手の指先は動かせる?」

 ほんのわずかだけ、青年の顎が動いた。頷いたのだ。むつみは立ち上がり、彼の左手に自身の両手を添えた。現状で青年の右半身はほぼ付随の容態である。声を出すなどもってのほかだ。意思の疎通を図るならば、筆談を置いてほかにない。

「利き手でなくてやりにくいでしょうけど、がまんして。痛かったらすぐにやめるのよ。わかるわね? そう。じゃあ、てのひらに、聞きたいことを指でかいて」

 青年は苦しげに顔を歪めながらも、むつみの想像よりずっと器用にいくつかの単語を彼女の手に描いた。父、母、教授、そして……。
 むつみはその全てに、首を振った。できるだけ感情を交えず、淡々と。
 すぐに、絶望が青年の双眸を彩った。残酷なカタルシスがむつみの胸に去来する。同時に、熱を持っている青年の手を、強く握り締めた。
 そのとき、焼けるような感覚がむつみの手を襲った。青年が爪を立てたのだ。呼吸器の奥で歪む唇が、涙に濁った瞳が、彼の憎しみを如実に表していた。むつみは甘んじてそれを受け入れる。心電を刻む電子音が痛みを麻酔していた。かりりと皮膚の表面が削れて、むつみの荒れた手に一本のきずをつくった。すぐに血が滲み、清潔なシーツの白色を汚す。それを見て、青年は怯んだように力を緩め、むつみの手から逃れようとした。むつみはそれを許さなかった。痛まない程度に強く彼の左手を握り、深々とこうべを垂れた。
 すすり泣く音が聞こえ始めた。むつみもまた涙の衝動を感じとっている。しかし、決して場の雰囲気と情に絆されるまま、感情を排泄するようなことはしなかった。彼は不幸だ、とむつみは思った。その不幸の少なくない部分を自分が運んだことを否定はしなかった。彼には恨む正当な権利がある。……

 こうして、高村恭司は平凡な日常を剥奪された。しかし望むと望まざると、それは誰にでも起こりうる不幸でしかない。このままであれば、彼は単なる被害者として舞台に上ることもなくその役目を終えることができる。
 それもまた恐らくは、正当な権利である。
 しかし、後に魔女の手管は彼を共犯者にと引きずり落とした。
 心細い彼女は道連れを選ばずにはいられなかったのだ。
 互いにとってその選択がどのように作用したかは、また別の話である。

 ※

 六月半ば。ある日の夜に、高村恭司は山の斜面を駆けていた。

「死、ぬッ」

 走るというより、二本の足で転がっているといったほうが相応しい。地面から張り出した木の根に足をとられ、垂れ下がった枝に顔面をぶつけそうになりながらも、高村は疾走を止めない。止まらない。なぜならば、背後にはオーファンの巨体が迫っているためである。
 山頂部の洞窟でみたものとはまた異なる、四足に禽獣の顔をした、より獣に近いフォルムを持った怪物が、今夜の追手だ。

「は、はっ、ハッ、はァッ」

 沸々と汗が湧き出し高村の全身を濡らす。断続的な呼吸に合わせて上昇する体温。まるでボイラーになったようだ。無我夢中の境地に特有の、取り留めない思考を繰りながら、彼は背後への傾注を怠らない。
 群生する木々をまるで書き割りのように引き倒しながら、追走する気配は決して途切れなかった。大見得きって遭遇戦をしかけたはいいが、結局どうにもできずに逃げ出したというのが高村の現状だ。
(くそ)
 引き離した距離を確認するために、振り向きかけた瞬間――。
 風を裂く音が、高村の意識に警鐘を鳴らした。
 慌てて足を滑らせながら進路を変えると、飛来した円錐状の棘が地面に幾本も突き立った。ただごとではないその勢いに、高村は血の気を失う。

「無理無理無理! ムチャクチャだ!」

 毒づきながら、こまめに進路を変えつつ速度を緩めない。足の筋肉は引きつりかけているが、止まれば死ぬだけだ。
 高村に埋め込まれているユニットは、ときに肉体の耐久度を度外視した出力も可能である。しかしそれは、必ずしも超人化を意味しない。耐久力は当然として、筋力そのものも決して元来のスペック以上の向上は見込めないのだ。

『いいかね、高村くん』と、かつてのジョセフ・グリーアには何度も言い聞かせられたものだった。『かえすがえす言うが、きみにインプランとされたM.I.Y.ユニットの生身での運用は、根本的な開発コンセプトの外になる。またユニットの中核である高機能AIもカットされている。よってMIYUのMIYUたる真価の発揮などは、夢のまた夢だ。
 わかるね? これはほとんど実験的な運用であることを、常に念頭に置いておくのだ。きみが受けた恩恵はユニットのスピンオフ技術でしかなく、間違っても深優のような機動が可能になる、などと勘違いしてはいけない。もっとも、やろうとしてもそんなことは不可能だろうがね。よって、システムがきみにもたらす恩恵は、あくまで体機能の補助の域をでない』

 それをよくわきまえた上で、より良い検体たらんことを心がけてくれたまえ――。
 以来高村恭司は、マルチプル・インテリジェンシャル・ユグドラシル・ユニット制式型の、初の人体被験者としてシアーズ財団に貢献しつづけた。要するに、モルモットになったということだ。
 三年余りの慣熟期間を経て、高村とユニットの親和性はほぼ理想的な段階にまで達している。
 近年の数値検査においてグリーアからは、これ以上の伸びしろは物理的に高村の肉体を強化することでしか生まれえない、という墨付きが出た。これはテスターとしては満点に近い出来上がりである。それほど高村がユニットの研究に寄与した所は大きく、その所産は常に深優を始めとした機械工学の分野に生かされている。

 当初は松葉杖を用いて跛を引かねば歩くこともかなわなかった彼だ。大股で走れるまでに回復したことは、充分に奇跡的であった。
 しかし、人間の枠組みを飛び越えたわけではない。酸素が不足すれば筋肉に乳酸は溜まりつづけ、やがて身体に物理的な制動がかかることになる。なんといっても、
(体は気力じゃ動かない)
 のである。
(なんとか、あともうちょっとで……)
 力尽きるより先に、山を降りれば高村の逃げ切り。それ以前にオーファンに捕まれば、蹂躙された森と運命を共にすることになるだろう。
(これでリタイヤとか、冗談じゃないぞ)
 頬の輪郭を伝う汗の雫を払って、高村は顎を突き出し喘ぐ。地面を蹴る足は、発火したように熱かった。背後では、ばきりばきりと不吉な音が響き――。
 遠のいて、不意に止んだ。

「え……?」

 訝りながらも、高村は足の勢いを緩めなかった。下り坂で無理に止まれば筋を違える危険性もある。拍子抜けしつつそれでも駆け抜けると、前方の枝振りの密度が薄まり始めた。

「撒いた、のか……」

 安堵するよりも先に、肉体は多量の酸素を欲しがった。荒い息をつきながら、彼は山を抜ける。

「高村くん!」

 麓では、アイドリング状態の自動車に乗った九条むつみが待っていた。運転席のウインドウを全開にして、不安そうな顔をしている。

「どうだった?」
「無理です、無理でした」高村はほうほうの態で後部座席に転がり込む。「すぐ出しちゃってください。途中で諦めたみたいだけど、長居は無用です」
「だからやめておきなさいっていったのよ」あきれ返りながら、むつみが車を出した。
「そんなこといったって、自前のでやっちゃだめだっていわれたから、仕方なく」
「馬鹿ね。こうなるのが目に見えてたから許可が下りなかったんでしょうに。だいたい、使い魔の召喚はアリッサにも相当な負担がかかるのよ」一蹴して、後方に敵影の無いことを確認すると、むつみも嘆息する。「……ともかく、これでわかったでしょ? 調査するにも、この近辺では深入りすればするほど、オーファンと遭遇する危険がうなぎのぼりになる。少し戦えるからって、あくまであなた自身は生身の人間なんだから……自惚れないこと」
「きついですね」反論できず、高村は苦笑しきりである。
「事実だもの」むつみはにべもない。「これで結論も出たでしょう。当面は、HiMEへの過干渉は避けたほうが無難ね。またオーファン退治に巻き込まれて怪我なんて、したくはないでしょ?」
「……まったくです。面目ない。でも、せっかく目と鼻の先にカギがありそうなのに。……くそ」

 スモーク越しに、山の影を高村は睨む。あらゆる文献と調査結果が、学園とその背部にある小山の特異性を浮き彫りにしているのだ。だというのに侵入さえできないとあっては、愚痴をこぼしたくもなる。

「今はまだ駆け出しだから、どの陣営もそれなりに神経質になっているの。機会を待つしかないわ……。わたしも、あなたもね」

 バックミラー越しにむつみの柳眉を流し見て、高村はくたりとうな垂れる。汗みずくになったシャツを脱ぎ捨てながら、空調が送る風に目を細めた。

「ちょっと高村くん。レディの前よ。気を使ったらどう?」

 冗談めかして、むつみがいった。

「ねんねじゃあるまいし……」
「なにかいった?」
「なんでもないです」たやすくおもねる高村である。「それより九条さん。機会を待つっていったって、いつまでも手をこまねいてるわけにも行きませんよ。財団だってもうせっついて来てるんでしょう?」
「まあ、ね」
「タイムリミットは、年内ってところですか」
「たぶんあなたが思っているより、ずっと状況は悪いわ」ハンドルを握りしめて、自虐的にむつみが笑った。「年内どころじゃない。上層部は、どんなに遅くとも三ヶ月以内に結果を出すことを要求してきた」
「三ヶ月」

 絶句して、高村は脳裡にカレンダーを思い浮かべた。現在は六月の十六日。高村が赴任して、既に十日余りが過ぎている。
 決算は九月。声に出さず呟いて、高村はいかにも時間が足りない事を嘆いた。現状でHiMEの総数さえ把握できていないのだ。全てのHiMEが玖我なつきや美袋命のように表立って活動するはずもない。さらに調査と並行して教務や調査、理事長から押し付けられた仕事までこなすとくれば、頭を抱えたくもなる。
(こりゃ、教師の方は諦めるしかないな)
 複雑に交錯する思惑の中で、高村の立場はあくまでシアーズにおける末端の域を出ない。はっきりいってしまえば、縁故によってかろうじて現場に飾られているだけの、かかしである。上層部の打診に対しての折衝や調整を務めるのは、ジョセフ・グリーアや九条むつみにほかならない。高村は若く、世間知に乏しい。いくら努力しようとも、心がけではどうにもならぬ問題はある。
 それでも、動かずにいることは苦痛だった。無為に時間を潰すことは、高村にとって拷問に等しい。

「俺に、なにかできることは?」
「ないわね」むつみはあっさりと酷薄な現実を突きつけてきた。「高村くん? ことを仕損じたくなければ、焦らないことよ。わかってると思うけど、わたしたち、結構な危ない橋を渡ってるの」
「……」
「心配しなくたって、うまくやるわよ」バックミラーには、挑戦的な眼差しが浮かんでいた。「さしあたって、あなたはあなたの日常を謳歌なさい。耳障りな忠告かも知れない。だけどそれはきっと無駄なことではないわ。教会で小耳に挟んだんだけど、創立祭の仕事を任されたそうじゃない?」
「保健所やら父兄への対応を、体よく押し付けられただけですよ。俺じゃなきゃいけないって仕事じゃない。牽制、なんでしょうね」
「いいじゃない、べつに」ウインカーの上がる音に、むつみの楽しげな呟きが重なる。「わたしは楽しいわ、あの年ごろの子供たちに触れていると。彼らは未熟で、眩しいものね。どうしてああまで気楽にいられたのか、自分がどうだったかなんてことももう忘れてしまったけれど」
「俺にしてみると、そんな昔の話ではないんで」
「……ふうん」

 確かに懐かしくはあるが、郷愁を覚えるほど遠い時代のことではない。
 しかしむつみはそうではないようで、わずかに肩を震わせていた。

「あ、いや」

 失言の回復を図ろうとして、しかし高村はすぐに諦める。こういったときは、不用意に突けば薮蛇である。
 ウィンドウを下げて、過ぎ行く街並みに目を向けた。
 真夜中の風を涼しく感じる。
 それは夏の到来を告げる感覚だった。

 ※

 そして、早速の夏日である。
 蝉が余生を謳歌する季節であった。

「あつー」

 気象庁が梅雨明けを宣言して以来、連日太陽が大張り切りだ。少し前までは夏服に肌寒さを感じていた事も忘れ、風華学園の生徒たちは暑気に茹だりつつあった。
 溶けかかっているのは、生徒ばかりではない。高村と同じく社会科教師である杉浦碧も、視線のやり場に困る薄着でスチールデスクに突っ伏していた。

「あっついよー、あっついよー」
「ちょっと碧先生、そういうふうに連呼するとますます暑くなるじゃないですか」それでも背広を脱がない高村は、やる気を完全に喪失している碧に抗議する。
「涼しい涼しいっていっても涼しくならないからー。あたしは素直に気持ちを出すことにしたのー。っていうかねえ、エアコンつけようよエアコン。窓開けてても風なんか全然じゃーん。蝉うっさいし」
「ダメですよ。バレたらまた怒られますって」

 風華学園社会科準備室はクールビズと省エネの煽りを受け、現在エアコンは持ち腐れ状態である。また準備室は狭く、常駐する教師もごくわずか。さらに学年主任といった大御所に因果を含められては、若輩の高村や碧に抗する術はないのであった。

「まったく、横暴よのう」
「確かに参りますね。こう毎日毎日暑いと仕事の効率も落ちます」
「こうなったらホッ○ー飲もうかな」

 突然の暴言である。無視しようとも思ったが、さすがに看過しかねた。

「馬鹿な真似はやめてください。どうせなら俺のいないところで」
「なんで。あんなん炭酸麦茶じゃん。まっずいし」
「放課後になったらビールだろうが焼酎だろうが好きに飲んでいいですから、どうか今はこらえて」
「ええー。のーみーたーいぃー」
「ダメだこの教師……」

 ぶつくさと吐く間も、高村は向かい合ったノートパソコンから目を離さない。六月も後半に差し掛かり、教師陣は期末テストの準備に追われていた。もっとも、高村は試験問題の作成に関しては手抜きに徹すると決めているので、実態はどうあれ気分は楽なものである。
 碧はというと、意外にも凝り性で、かつ飽き性でもあるらしい。数分前までは鼻歌混じりに暗記科目ではもっとも嫌われる記述問題を量産していたのだが、不意に脱力すると「飽きた」と呟き、電源が落ちてしまった。

「あれ」と、陸に打ちあげられたアザラシのように唸っていた碧が声を上げた。「恭司くんて左利きなんだ?」
「え?」
「左手でほとんど打ってるよね」

 無器用にキーをタイプする高村の手つきを見て、そう思ったのだろう。隠し立てする事でもないので、高村はすぐに否定した。

「ああいや、違いますよ。利き腕は右です。ただ、細かい作業をするときは左手を使ってて」
「ふーん。癖?」
「昔事故に遭って以来、体の右側が微妙に鈍いんですよね。んで、リハビリに横着してたら左の方が器用になっちゃったってわけで」

 現在では治療と機械補助の成果で感覚は戻っているが、投薬暗示と催眠によるユニットの誤作動防止処置のため、平時高村の右半身には障害の名残がある。生活に不便を感じるほどではないが、軽妙なキータッチを可能にするほどの再生はさすがに不可能だった。

「へー。そいつは大変だったねえ。ご飯とか大変だったんじゃない?」

 この種の打ち明け話をしても、特に気を回さないのは碧の美徳だ。そうですね、と生返事をしつつ、高村は液晶から目を逸らさない。

「で、どーよ」
「何がです」
「創立祭の準備は」
「うんざりですね」

 率直な感想を述べると、からからと碧は笑った。

「はっきり言うな、おぬし」
「部活はテスト休みなのに実行委員は働かなきゃなんないとか、学生の本分をなんだと思ってるんでしょう」
「災難だったね。いやぁ、タイミング悪かったらあたしだったかもしれないし、感謝感謝。論文書かなきゃなんないのに余計な時間取られたくないもんね」
「論文書いてるんですか?」初耳である。碧のことは、修士課程を終えて職に炙れたパターンだとばかり思っていた高村だ。「専攻は俺と同じでしたっけ。じゃ、ドクターに上がるってことですよね」
「ん、まあそのつもりぃ」
「ちなみに、テーマは」
「個人的には恭司くんと同じで媛伝説関連かな。題材としちゃ超微妙だけど、面白いし。うちの先生はけっこう適当だからね、まあ書き上げちゃえばいいかなっと。学部生んときから追ってたテーマだし」
「へえ……凄いですね。さすが地元だ。羨ましい」

 いうまでもなく、媛伝説はひどくローカルかつ資料に乏しい分野である。それを数年前から調べていた碧の目の付け所には、純粋に興味があった。

「んでも、今腰据えてるのははダミーなんだぁ……」とたんにだらけた口調に戻って、碧は嘆息した。「あたし一応、大学に居座るつもりだからさ……将来的なことも考えると、紀要のネタとかもほしいし。ダルいけど、トラブった人たちにも反省してますってポーズ見せないとなのさ。あっはっはっは! あぁ、めんどい」

 空々しく笑い、哀愁を背負ってじたばたと手足を動かす碧に、「わかりますよ」と高村は心底同情した。
 先日の歓迎会の席では学会の実情について、同席した保険医の鷺沢陽子が引くほど相憐れんだ二人である。徹底的に根が明るい碧ですら酒が入れば洒落にならない愚痴が尽きないのだから、大学の状況というものはどこでもそれほど変わらないものらしかった。

「恭司くんはどうすんの? 研究続けてるってことは、このままこっちに残るってのはナシでしょ」
「そうですね」問題レイアウトの調整を終えてアプリケーションを閉じると、ようやく高村は一息ついた。「本音を言うと、教わりたかった人がもういなくなっちゃったんで、院に残るってのはキツイっていえばキツイんですけど。……でも、土掘り、好きですから。うんざりもするけど、まだ好きって言えるうちはバイトでもしながら糊口をしのぎますよ」

 背伸びして立ち上がると、折りよく予鈴が鳴り始めた。開かれたままの窓に近づくと、校舎の前を中等部の生徒たちがはしゃぎながら通過するところだった。遠目にも髪が濡れている様子からして、授業でプールを使用していたのだろう。

「プールか。ずいぶん行ってないな」
「気持ちいいぞう」と、恍惚とした声で碧。「あたしも昨日生徒に交じって入ったけど、最高でしたねあれは」
「あんた何やってんですか、いい年して」
 高村が白眼視すると、碧は心外そうに頬を膨らませた。「あたしじゅうななさいだし」
「はいはい。――ん?」

 冷たく往なした高村の周辺視野が、淡い黄色をした動体を捉えた。桟を挟んだ窓の向こうで舞う影を、ほとんど反射的に掴み取る。
 果たして影の正体は、手触りの良い布地であった。感触からして綿。フリルがあしらわれた掌に収まる大きさからしてハンカチか。何気なく手元に目を落とした高村は、次の瞬間目をみはった。

「なっ、なんだこれ」
「おお、パンツだ」と、いつの間にか高村の傍らにいた碧が答えた。

 果たして、広げたそれは確かに女性用下着だった。黄色いパンツ以外の何ものでもない。付け加えるなら、やや子供じみたデザインである。混乱しつつ指でつまんで、高村は顔をしかめた。

「汚いな」
「ブッ」噴出した碧が腹を抱えた。「正しいけど、健康な青年としてその反応はどうかな」
「そんなこといったって、誰が穿いてたのかもわかんない下着なんて気持ち悪いだけですよ。どこから来たんだ、これ」

 捨てるわけにもいかず、とりあえず机上に放り投げる。それをしげしげと眺めつつ、碧が唸った。

「風のイタズラってこともないだろうし、木に引っかかってたのが落ちてきたのかなぁ。さてさて。不届きなカップルどもめの所業か、はたまた過激な苛めか」
「どっちも厄介ですね」
「職員会議とか、やっちゃうかな」
「下手するとやっちゃうかもしれませんね」

 顔を合わせて相通じ合う二人の間に、瞬時にして結ばれた絆があった。届け出がなければ見なかった事にしよう、という暗黙裡の協定である。
 しかし、事なかれというその願いは、準備室に駆け込んできた少女たちによってあえなく潰えることになる。

「先生っ」

 現れたのは、いずれも見覚えのある面々だった。高村が担任する一年B組の女生徒たちだ。

「なんだ、きみたち。ノックもしないで」さっと下着を死角に滑らせ、落ち着き払って高村はいった。
「あの、大変なんです。その……」息せき切る勢いに反し、切り出しにくそうに身を寄せ合って、少女らは小声で話し合う。

 その様子に、高村の第六感が凶兆を嗅ぎ取った。面倒事だな、と彼はうんざりしながら思う。

「何か、あったのか? たしか今の時間は体育だっけ」
「はい……、プールです」

 答えたのは、日暮あかねという生徒だった。授業中によく携帯電話に気を取られているということ以外では、取り立てて目立ったところのない少女である。高村も自分のクラスでなければ記憶はしていなかっただろう。
 なるほど確かに、普段は結んでいる髪が、今はまとめられていない上に濡れていた。しかし、しきりに視線を動かしては口ごもる様子はどうしようもなく挙動不審である。

「おっ、あかねちゃんじゃん」その姿を認めて、碧が手を振った。「やっほう。カレシとはよろしくやってる?」
「み、碧ちゃん、そういうことここで言わないで……!」と、顔を赤らめて身を乗り出しかけたあかねが、はっとなって胸元を押さえる。
「ねえ、あかね」背後にいたひとりの少女が、あかねに耳打ちした。「やっぱさ、碧ちゃんのほうがよくない? 高村先生だとオトコの人だし、いいにくいしさ……」
「でも彼女持ちだってよ?」と別のひとりが異を唱える。
「それ関係無いじゃん。女同士のほうがいって、絶対」
「そ、そうだね」意を決するためか、あかねが深呼吸した。

 この時点で、高村も碧も彼女たちが飛び込んできた理由には察しがついている。

「泥棒が出たんです」と日暮あかねは泣きそうな顔で言った。「それも、下着ドロが!」
「そいつは不届きな輩だね」碧は案の定とでもいいたげであった。
「ほとんどみんなやられて、どうしようかって言ってて……最近このあたりでよく出るらしいんです」
「由々しき事態だ」既に逃走姿勢に入っている碧だった。
「どこ行く気ですか、碧先生」
「――む」

 華奢なようで形の良い肩をつかんで逃さず、高村は朗らかに笑った。碧は追い詰められたものの眼差しで高村を睨む。汗ばんだ肌から、懇願の波動が伝った。
(恭司くんのクラスのコじゃん)
(任せます)
(パス)
(任せましたから。頼られてるし)
(ダンコとしてパァス!)
 一秒の間に交わされたアイコンタクトとブロックサインである。
 ここでケツモチに任命された場合、当局への通報に本格派を気取った執行部の調書取りに保護者への申し開き等々、数々のタスクの追加が運命付けられる。平たく言って残業が決定されるのだ。そして、問題が発生した時点で担任の高村には逃れる術はない。これはひとりでも多くの道連れを得ようという、実にあさましい行動なのだった。

「……ふっ、青いな」

 逃げる機を失い、悔しげに眉を吊る碧の眼が、刹那きらりと輝いた。腕が素早く、高村の机へと伸びる。
 高村が動きを気取ったのは、遅きに失した後だ。間を置かず、碧の手がデスクの隅に追いやられていた黄色いショーツを巻き上げた。

「あ」

 と、誰かが呟いた。
 碧はもう、準備室の戸まで移動している。

「さてっ、仕事仕事ー! あっ、もう昼休みだし購買行かなくちゃ! あとねあかねちゃん替えの下着ならたぶんいくつか保健室にあるから陽子のところに行くといいよん。それじゃあ高村先生あとヨーローシークぅー! さらばいばいきーんっ」

 まさに一目散。脱兎の勢いで、杉浦碧は逃走に成功した。サンダルとは思えぬ脚力が、遠ざかる足音から窺えた。

「……」

 後には、痛い沈黙に晒された高村だけが残った。高村は沈痛さを隠そうともせず床に落ちた下着を拾い上げ、これに見覚えがあるかと訊ね、是がないことを確認すると、物憂げに再びデスクへ放る。深々とため息をつくとOAチェアに腰掛けて、眼鏡のレンズをクリーナーで拭きながら大真面目にこう言った。

「さて日暮。話を聞かせてくれ。担任として、こんな犯罪は見逃せない」








[2120] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/09/03 20:47






3.fusspot








 一念発起すれば、生来気質は真面目なのが高村恭司という男である。どれだけ疲労していても、労力を惜しむことはしない。
 そこで早速体育教師を始めとして学年主任、ついには内線で理事長にまで今後の対応についての指示を仰いだのだが、結果はいずれも判を押したかのごときに終わった。誰もが口を揃えて『そういったことは執行部に一任している』という答えしか返さなかったのである。

「正気かこの学校、じゃなくて、学園」

 準備室から所変わって、校舎の中心部である風華宮に高村はいた。首脳陣のぞんざいな対応にはさすがに気分を害して、途方に暮れる。

「被害者数十人の盗難は立派に事件だぞ。情欲を持て余した少年が好きな女の子の下着をパチったなんていう可愛らしい話じゃない」
「それ、可愛らしくないです、全然」

 その場の流れでついてきた日暮あかねが、複雑な表情で異を唱える。彼女を含めた一年B組の被害者には、既に保健室謹製の下着が支給されているが、当然全ての需要を満たすほどのストックがあるはずはなかった。

「まあ、隠蔽体質なんて学校じゃよくある話だけどな。って、生徒に聞かせることじゃないか」
「……そうかなあ。舞衣ちゃんのときは普通に消防車来てたし」
「マイ?」聞き覚えのある響きだ。まさかと思いつつ、高村は目を瞬いた。
「あ、A組の鴇羽さんです。鴇羽舞衣ちゃん。五月の頭に、けっこうインパクト大な登場したんですよ」
 まさに連想した少女の名前である。思わぬ偶然であった。「鴇羽と知り合いなのか、日暮。でもあいつ、今月転入してきたばかりじゃなかったっけ。なのに五月って?」
「そうです。先生よりもほんのちょっと前に。でもそれより前からアルバイトはしてて、そこで碧ちゃんとあたしと舞衣ちゃん、同僚だったんですよ」
「へえ。縁は奇なりだな。って碧ちゃん? 碧ちゃんって、もしかして」
「はい。杉浦先生です。おかしいでしょ」

 続けてあかねは、自分たちが月杜町のレストランに勤めていることを説明した。もちろん碧は既に辞めていて、しかし当時はやたらに皿を割っていたこと。舞衣が新人とは思えぬ客さばきの腕を見せ、即戦力として常にシフトのスケジュールに名前を連ねていること。
 会話の合間に茶々を挟みつつ、高村は内心で碧のフットワークの軽さに感心した。教員の採用枠は年々圧迫されている傾向にあるとはいえ、ウェートレスから社会科教師とはなかなか大胆な転身である。

「リンデンバウムっていうお店なんですよ。よかったら、先生もどうぞ」

 あかねの営業用と思しき微笑みは、なるほどなかなかに華やいでいた。人目を惹く美しさはないが、素朴な暖かみに溢れている。昨今の女子高生には欠けているものだな、と評しつつ、高村は無難な返答を選んだ。

「気が向いたらな。それより日暮、携帯鳴ってないか?」
「え? いや、鳴ってませんけど……ってあれ、あれ、ほんとだ。あの、すいません」

 勢い良く頭を下げ、あかねは一拍遅れてスカートから携帯電話を取り出す。

「もしもし、カズくんっ?」

 一オクターブ高い声音は、浮ついた少女像そのものである。例の『カレシ』か。そう納得しつつ、生乾きの髪から塩素と香料のにおいを嗅ぎ取って、苦笑交じりの高村は懐かしい気分に囚われた。かつて、彼が日暮あかねと同年代だった頃に感じたものを、ほんの一瞬だけ鮮やかに想起する。
 それは、今はこの世のどこにもない面影でもあり、常に隣にある顔でもある。
 濡れ髪から立つ香りという生々しい情景に、気まずさを覚えた。嗅覚は五感のうちで唯一、脳に直結した受容器である。九条むつみ言うところの青春の残像、あるいは残骸を実感して、高村は憂いと郷愁のない交ぜになった感情を持て余した。

「あのう、先生……」

 素早く電話を終えたあかねが、ひきつった笑顔で探りを入れた。高村もしばしば忘れかけるが、風華学園で不純異性交遊はご法度だ。時代錯誤だが、理由の想像はついた。
 形骸化していた条目の再強化は、風花真白が理事長としてした唯一の強権発動であるらしい。そこにあの達観した少女が当然持ってしかるべき幼児性を見出して、高村はただ、哀れに思うだけだった。

「節度を持って付き合えよ」特に関心も見せず、事務的に言った。「とりあえず、自分を安売りはするな。でもあんまり値を吊り上げもするな。彼氏が可哀想だからな」

 あとコンドームは必ず使え、と言おうとして、思いとどまる。昨今は、善意さえセクシャルなハラスメントとして受け取られる時代だ。

「は、はあ」
「行って良し。下着ドロについては、とりあえずこっちで色々働きかけてみるよ」
「……はい。それじゃ、失礼します」

 あかねは釈然としない顔で一礼し、去っていく。
 入れ違いに風華宮に現れた顔があった。
 玖我なつきである。

「なにやってるんだ、あいつ」

 しかし、様子が妙だった。
 常につんと気を張って颯爽と歩く仕草が、今日は明らかにぎこちない。
 しきりに周囲を気にしながら通路から広場へと入ってくるなつきは、あからさまに挙動不審である。

「ははあ」

 なつきもまた、あかねと同じく高村が担任する生徒だ。長い髪が湿っているのを見取って、だから高村はすぐに事情を察した。ぎくしゃくと歩く姿が酷く哀れを誘い、居たたまれなくなってベンチに深く体を沈めた。
 ――見なかったことにしてやろう。それが武士の情けだ。
 しかし、運命はなつきを嘲笑うかのように展開した。高村、なつきに続く第三の人物が、折悪しくも風華宮を通りかかったのである。
 色黒で短髪の、高村の知らない男子生徒だった。背筋を立てて姿勢良く歩く彼は、なつきの姿を認めると分かりやすく狼狽しはじめた。
 少年はなつきにとっても顔見知りの相手であるらしい。不審な態度が、傍で見ていて愉快なほどに極まりつつあった。
 なにやら因縁ありげな二人である。高村は固唾を飲んで成り行きを見守った。なつきのフォローをしようなどといった考えは頭に一切浮かばなかった。
 顔を赤らめ異常に警戒して後ずさりするなつきに、少年は真剣な表情で詰め寄ろうとする。状況はその繰り返しで、千日手と見えた。膠着状態を打開したのは、美袋命という名の突風である。

「あ、ちょっとミコト、ダメだって」

 遅れてやってきた鴇羽舞衣の制止に効果はなかった。
 なつきにとっては悲運で、少年にとっては幸運といっても良かっただろう。獣さながらの速度で疾駆する命がなつきの足下を過ぎるや、生じた些細な風はなつきの短いスカートを過剰に巻き上げた。悲鳴が轟くまでの一拍に、高村は愚にもつかないことを考える。ああ、きっとあいつはこういう星の元に生まれついてるんだな。
 十メートル以上の距離を開けてもなつきの顔が茹で上がるのがはっきりわかり、高村はあまりの情けなさに見ていられなくなって目を伏せた。しかし呆気に取られた後の舞衣の爆笑が耳に届くと、彼もこらえきれず、声を押し殺して笑った。



 ※



「おい玖我」

 赤面し、泡を食って逃げ出した少年を見送ると、手摺にもたれて世を儚みかねないなつきの背中に、高村は労わるように声をかけた。舞衣はいまだ呼吸困難に陥るほど笑っている。

「猥褻物陳列は犯罪だぞ」
「殺すぞ」

 完全に本気であった。剣呑な眼差しに、高村は死を予感する。
 腰を引きながら、猫のように襟首を掴んだ命を盾にした。

「な、なんだよ俺は何も悪くないぞ。だいたいなんではいてないんだ、おまえ。どうせおまえも盗まれたんだろう? ちゃんと日暮たちみたいに相談に来てれば、保健室の下着も貸し出しも間に合ったかもしれないのに」
「うるさい。黙れ」
「どうせ体裁を気にして、わたしが盗まれるはずがないだろうおまえらみたいな間抜けな女どもとは違うんだフンとかいって言い出せなくなったに決まってるんだよ。なあ美袋」
「よくわからないけど、恭司の言う通りだと思うぞ」

 ぶら下げられながら、命が器用に頷いた。天真爛漫な命だが、敵と認識しているなつきには容赦がない。

「ぐっ」

 言葉に詰まりながらも不敵に笑おうとして、なつきは頬を引きつらせた。

「な、なにを馬鹿なことを。わたしが変質者に下着を盗まれるなんて、そんな迂闊な真似をするはずがないだろう。あれは、というかこれは、わざとだ、わざと」
「そっちの方が始末に負えないだろ。痴女じゃないか。ツンケンしてるくせにスカートがずいぶん短いと思ったら、そういう趣味とは……破廉恥だぞ、玖我」
「恭司、チジョとはなんだ?」無垢な命の瞳は、未知の単語に興味津々であった。
「玖我のことだよ。辞書を引けば痴女の項には玖我なつきと……玖我?」
「あーはっはっは」しつこく舞衣は笑っていた。どうやら妙なつぼにはまったらしい。
「くっ……おいお前、笑いすぎだ!」
「だ、だってあんた、ひー、あっはは、だめぇ、なんでノーパンでミニ!」

 本気で落ち込みだしたなつきを見て、高村は肩をすくめた。

「替えの下着とかないのか」
「あったら着ている。静留……生徒会長に借りようと思った」ぶっきらぼうになつきは答える。
「そういうものなのか?」かつての記憶を引き出しながら、首を傾げる。「だって、突然生理が来たときとかどうするんだよ。替えがなきゃ大変だろ。まさかおまえ、汚れたのそのまんま」
「そんなわけあるかっ」なつきは噛み付かんばかりに吠え立てた。「終わったばかりだから油断してたんだ! それととんでもないセクハラだぞ!」
「うーん」高村は腕を組む。「田舎の女子高生はどうも感覚が違うのかな」
「恭司、セイリとはなんだ?」純粋な命の瞳は、未知の単語に興味津々であった。
「鴇羽に聞け」
「あ、あたしに振らないでよ」落ち着きかけた舞衣が動揺して、舌を出した。「先生、サイテー」
「うまいか?」
「俺は知らないけど、痛いそうだ。鈍器で延々と下っ腹を殴られてるような感じらしい」
「それは嫌だな」命が体を震わせる。「セイリは食中りか……気をつけよう、うん」
「それ絶対違う、ミコト……っていうかまだ来てなかったのね、あんた」
「変態どもめ」

 吐き捨てて、なつきはゆらりと立ち上がる。幽鬼のような佇まいに反して、双眸には闘志が漲りつつあった。

「許さんぞ、どこの変質者だか知らないが、見つけたら八つ裂きにしてやる」
「知らないかもしれないけど、人殺しは犯罪だぞ玖我」
「死なない程度に殺す」
 鬼気迫る、なつきである。高村は同情を込めて呟いた。「彼氏に見られたのがそんなにショックだったのか」
「彼氏だと?」不機嫌丸出しでなつきが眉をひそめた。「なんのことだ」
「今さっきここにいたあれ。おまえの彼氏じゃないのか」
「違う。武田……、あいつは、全くの無関係な他人だ! だいたいこの学園では恋愛は……もう貴様にはいい飽きたが! とにかく! それは、絶対に、ない!」
「照れなくたっていいじゃない」舞衣がにやにやと話に乗る。

 一層むきになって、なつきは歯を軋ませた。

「しつこいぞ、おまえら!」
「落ち着けよ玖我。過剰な拒否反応は、その実興味の裏返しだって心理を解釈する人間もいるぞ。自身の内在的な欲望に対する無意識の抑圧である、という、いわゆるフロイト的な思想だ」
「なんだと」

 火のついたように睨んでくるなつきの視線を避けて、どうどう、と高村は手を振った。

「まあ、正直俺は懐疑的だけどな。フロイトは頭いいけど、夢見がちなおっさんだよ」と笑って、高村は命をようやく地面に降ろした。腕が疲れたのだ。「俺はこれから執行部へ行って陳情してくるから、玖我は鴇羽にでも穿くもの貸してもらえよ。暑いからって下半身冷やすと風邪引くぞ」
「余計なお世話だ。さっさと失せろ」

 なつきの剣幕は、今にもエレメントを持ち出しかねないほどだ。
 年ごろの少女には、やはり相当腹に据えかねる出来事だったのだろう。あまり気に病むなとだけ言って、高村は踵を返しかけたが、

「……いや、待て」というなつきの声に足を止めた。
「どうした」
「昨日の夜、裏山にいたな? 何をしていた」

 不意打ちだった。うまく切り返せず、寸時高村は口ごもる。

「まさか、見てたのか?」
「オーファンに追われてる後姿を、ちらりとな。カマをかけてみたが、やっぱり貴様だったか」

 会心の笑みを浮かべるなつきに、高村は失態を悟った。今の今まで、確証を得ていたわけではなかったのだ。内心で冷や汗をかきながらも、平静を装って答える。

「あぁ、あのとき途中で追っかけてこなくなったのは、玖我のおかげだったのか。ありがとう、命拾いしたよ」
「感謝しているなら、正直に答えろ。何をしていた」
「前と同じだ。調査だよ、研究のための」
「あんなことがあった後にか? そいつは説得力に欠けるな」なつきは意味ありげに舞衣を見る。いまだ山を半焼させた痛手から立ち直っていないらしい舞衣は、居心地悪そうに首をすぼめる。「しかも夜にだ。一般人が取る行動か?」
「そんなこと言われてもね」
「ちょ、ちょっとあんた、高村先生はこれでも一応先生なんだから……」
「黙っていろ」

 抗議しかけた舞衣を一瞥で黙らせるなつきは、説明してみろと言わんばかりの挑戦的な表情だ。
 彼女がいまだ具体的な証拠を掴みあぐねていることを察して、高村は余裕を取り戻した。九条むつみの姿さえ見られていないのならば、いくらでも誤魔化しは利く。
 また情報を小出しにして牽制するのは、なつきが高村についてスタンスを決めかねていることの表れとも取れた。本当に高村を怪しんでいるのならば、周到に準備した上での一撃死を狙うだろう。
 スカートの裾を押さえながらめんちを切りまくるなつきに、高村は飄々としたポーズをわずかの間だけ取り去ることにした。

「結局さ、玖我は俺がどんな答えを返せば納得するんだ」
「なに?」
「俺がおまえの敵か味方かってはっきりさせれば満足か、って聞いてるんだ」
「まあ、そういうことだ」猜疑心たっぷりに、なつきは頷く。「ついでに何を企んでいるかも吐いてもらうがな」
「嘘つけ」高村は意図して侮蔑的に笑った。「おまえは最初、俺を敵として位置付けた。それ以外の正体を受け付けようとしなかった。いかにも怪しかった俺は、実際頭打ちの状況では格好の的だろうからな。だけどこの間の鴇羽との一件で、その確信が揺らいだ。違うか?」

 今度はなつきが口ごもる番だった。逸らされない眼には、向こう見ずな稚気と、そして成熟の階段に足をかけた少女の不安定さが同居している。

「……だとしても、貴様は嘘をついている。それは確かだ」
「否定はしないよ。教師だって人間だ。嘘くらいつく。たくさん」
「訳知り顔で、思わせぶりな態度を取って。そんな不審人物が目の前にいれば、詰問したくもなるさ」早口でなつきは言った。「だいたい、ああだこうだと首を突っ込んできて、いったい何様のつもりだ。曖昧に距離を取っているのは貴様こそそうじゃないか。どうせ、今だって本気で弁解しようとも思っていないんだろう? ふざけてばかりのくせに、大人ぶった顔でわたしを見下して、説教までしてくれたな」
「ま、教師だから、そういうこともある」
「そういう物言いが!」声を荒げかけて、なつきはトーンを落とした。「――気に入らないんだ」

 そういう役回りに沿っているからな。
 そう打ち明ければ、なつきはすぐに高村が内実の空虚な案山子であることを悟るだろう。しかし彼が負う撹乱の役目は、なつきに対してこそが本命である。簡単に疑問を解消させるわけにはいかない。しばらくは、道化た教師を振る舞う必要が、高村にはあった。

「怪しむのでもなんでも、好きにすればいいさ。無闇に頼られたりするよりは、百倍マシだ」
「それは本音か?」
「割と、そうかもしれない」
「そうか。もういい。行ってしまえ」

 おろおろする舞衣とマイペースの命を尻目すると、彼はじゃあなと手を振った。

「いつか化けの皮を剥いでやる」

 その台詞は、妙に耳に残った。



 ※



「あんたってさ」

 なつきにスパッツを貸した舞衣は、命を合わせた三人で校舎前の中庭にやって来ていた。人気がない場所を選んだのは、事情通らしい玖我なつきにいくつか問いただしたいことがあったからだ。

「なんであんなに高村先生に噛み付くの?」しかし、始めに口をついたのはそんな疑問だった。
「なんで、と言われてもな。怪しいからだ」

 なつきが芝生をむしる。風に流れる草切れを流し見て、舞衣は首を捻った。今ひとつ納得しかねる理由である。

「怪しいって、どこが? 普通じゃん。ちょっとおじさん臭くて、変わってるけど」
「はあ? あいつのどこが普通なんだ」
「どこって言われても……眼鏡とか」
「呑気なやつだな、おまえも」やれやれとでもいいたげに、なつきは首を振った。「いいか。HiMEの戦闘に介入してくる一般人など、ここ一年いたこともない。運悪く巻き込まれるような人間なら、それこそいくらでもいたがな。その時点で、不自然この上ない存在だと思わないか? 加えてあいつは、ここにいる三人以外にもHiMEと接触を持っていた。何か狙いがあってわたしたちに近づいた、と考えるのが自然だ」
「HiMEって……他にもいるんだ、やっぱり」

 風花邸での一幕を思い出し、舞衣は苦味を噛みしめた。高村のおかげで毒を抜かれた結果になったが、理不尽な行いに対する憤慨が晴れたわけではないのだ。

「ああ。総数はわたしも把握はしていないが、複数人いることは確かだ。そしてHiMEという能力を研究する連中がいるのだから、きっと昔から存在していた力なんだろう。とはいえ、まあ、詳しいことは定かじゃない。わかるのは、風華学園にHiMEを集めようという意思が存在すること。そしてそれがろくなものじゃないだろうということだけだ」
「じゃ、じゃあ、船とか洞窟であんたがあたしやミコトに帰れって何回も言ってたのは」
「その『意思』が、おそらくはわたしにとっての敵だからさ」フェリーでの失態を思い出してか、不満げな顔のなつきだ。「これ以上HiMEがこの学園に集まることは、なんとしても防ぎたかった。……もっとも、こうなった以上はしばらく事態の推移を見守ることになるだろうがな」
「……あんたは、高村先生がその、なんだかわかんない連中の仲間だって思ってるわけ?」
「そう思っていた。始めは。今は……」そこで始めて、なつきの口舌に戸惑いが生じた。「わからない。だから、油断だけはしないことにしている。おまえたちも、あまり無条件にヤツに気を許さないことだ」
「悪い人には思えないけどなぁ、あのひと。考えすぎじゃないの」

 呟いて、なつきは意識のし過ぎなのではないだろうか、と舞衣は思った。高村恭司は確かに時おり得体の知れない凄味を垣間見せるが、なつきの言うような陰謀めいた行動からは程遠い人物である。

「先入観は禁物だ」なつきは取り合わなかった。「警戒しておくに越したことはない。世の中には、思いも寄らないようなことが起きるものだからな」
「うん、そうなんだろうけど。でもなんか、ピンと来ない……」

 高村が風花真白に問いただしたような秘密組織を、舞衣はイメージする。しかし彼女のそれはあくまでフィクションからの借り物だ。現実にそうした虚構が存在するという自覚には繋がらない。
 舞衣にとっての現実はどこまでも磐石で、硬質だ。物語的な都合主義が意図的に排された世界観とも言い換えられる。少女期に差し掛かる以前に過酷な状況下で形成確立された彼女の感性には、ある種非凡な平衡感覚が備わっていた。

「それで正解だ。深入りしてもいいことはない。……ところでおまえ、真白にはHiMEについてなんと説明された?」
「……オーファン? を、退治するために集めた、って」
「それだ。どう思う?」
「どう思うって言われても、あんなバケモノがいるのは怖いって思うけど……」

 いまだオーファンの存在自体に懐疑的な舞衣である。もちろん実際に目にし、遭遇した以上、頑なに否定するつもりはない。

「だけど正直、あたしたちがそれと戦えなんていうのは全然別の話だし、納得できない、かな」
「なんだ、意外とまともに考えてるんだな」なつきが目を丸くする。
「どういうイミよ」

 半眼で問い詰めると、なつきは脱力して微笑した。そうするだけで険が取れて、整った顔立ちが強調される。改めて観察すれば、玖我なつきは大した美人なのだ。

「馬鹿にしたわけじゃない。あんな力を手に入れておかしなことに巻き込まれれば、状況に流されるのが普通だ、ということだ。しかしおまえは、少なくともまだ常識に重点を置いている。HiMEの中には、力を手に入れたことで頭に乗って暴れるようなのもいるみたいだからな、それに比べればはるかにマシだ」

 高慢に見えかねない態度のなつきだが、いちいち仕草が様になるのは実際容姿のために他ならない。容色にはある程度の自負がある舞衣も、この物腰にも関わらずなつきが意外ともてる、という噂には納得できた。

「褒めてんだか、よっぽどバカに思われてたんだか……素直には喜べないわね。って、今暴れてるって言った? そんな人いんの!?」
「いるとも。中等部の、名前は確か、結城奈緒だったか。わたしより、そっちのチビのほうが詳しいんじゃないか」

 顎で示されチビ呼ばわりされた命は、舞衣の膝の上に寝ころがっている。リラックスした体勢ながら、なつきに対する敵意と警戒はほんの一瞬も緩めていなかった。

「って、ミコト? 知り合いなの?」
「夜の街で一緒にいるところを見かけたぞ。大方、ろくでもないことをしていたんだろう」

 同居人の命には、その破天荒な明け透けさに複雑な母性を覚える舞衣だ。悪し様に決め付けるなつきの口ぶりには腹が立った。

「ちょっと。ミコトがそんなことするワケないでしょ。あ、でもたまにどっか行っちゃうよね。でもまさか。ねえミコト……ってなんで眼を逸らすのアンタ」
「う」

 膝枕を堪能していた命が、寝返りを打って舞衣の股に顔を埋める。生温かい吐息を感じて、舞衣は肌をあわ立たせた。

「こら! ごまかさない。あんた、何か悪いことしてるんじゃないでしょうね。ほら、顔上げるっ」
「してない」上目遣いで舞衣を見る、命の顔は頑なだった。「わたしは、兄上を探していただけだ。奈緒はそれを手伝ってくれた」
「またお兄さんか……」

 後ろめたさを隠し切れていない命の素行は気になるが、兄を求める彼女の純心は舞衣もよく知っている。叱るべきか、一概には決めかねた。
 弟と同じ調子で扱うことが多いものの、命は根本的に自立した少女である。常識に欠ける部分を諌める程度ならともかく、命にとっても繊細な部分である肉親について踏み込めるほどの覚悟を、舞衣はまだ持っていない。

「体よく利用されているだけじゃないのか?」なつきにはまったく遠慮がなかった。「あの娘、相当ひねくれていそうだしな」
「奈緒は友だちだ。悪く言うな」
「普通の友人は、美人局に巻き込んだりしないさ」
「はい? つ、つつもたせ!? ちょっとちょっと、どういうことよ」

 せいぜい夜遊びが関の山と思いきや、なつきが挙げた単語はいきなり犯罪行為である。
 こうなれば遠慮無遠慮関係なく、放置するわけにはいかない。舞衣は目を剥いてなつきに事情を問うた。

「どうもこうも、こういうことだ――」

 主観を交えず淡々と、なつきは奈緒の行動について語った。説明が進むにつれて舞衣の顔つきは険しくなり、太股の上の命は縮こまっていく。

「……命?」

 話を聞き終えると、舞衣は命の肩を掴み、強引に視線を合わせた。静かな怒りに触れて、命は後ろめたさを満面にしている。

「悪いことだっていうのは、わかってるのね?」
「……ん」
「なら、もう止めなさい」物分りが悪い少女ではないのだ。舞衣は諭すように口調を変えた。「あんたがやってることね、警察に捕まったっておかしくないんだから」
「でも、わたしは兄上を探さなきゃならないんだ。そのためにはなんだってする」

 強い口調で、命は言い放った。こうまで面と向かっての反駁を受けたのは初めてのことだ。

「だからって、それはあんたの都合で、悪いことをしていい理由にはなんないでしょ」わずかに鼻白んだが、しかし、舞衣もここで引くわけにはいかなかった。命は明らかに間違っているのだ。「それに、あんたのお兄さんだって、妹がそんなことしてるって知ったら怒るわよ、きっと」

 命の『兄』を持ち出したのは、ロジックとしてありきたりな仮託である。舞衣も深い考えがあってのことではない。
 しかしそれは、思わぬ苛烈さを命から引き出した。

「舞衣に、兄上の何がわかる! 舞衣は兄上じゃない!」
「……っ」

 声を荒げた命に対し、瞬間的に舞衣の感情も昂ぶった。

「怒鳴らないで。わかるわよ、あたしだってお姉ちゃんだもん。弟が悪いことしたら、ぶったって止める。だいたいね、子供が夜中に街に出ちゃだめ。いい、命、言うこときかないとあたしだっていい加減――」
「わたしはもう子供じゃない、大人だ!」

 屹と眦を裂いて立ち上がると、長剣を抱き命は走り出した。

「舞衣なんか、舞衣なんか……もう、知らないっ」
「あっ、待ちなさいこら! ミコト!」
「舞衣のバカ!」

 言い捨てて、命の背は見る間に遠ざかっていく。あちゃあ、と自己嫌悪に陥りながら、舞衣は嘆息した。

「地雷踏んじゃったかぁ……背伸びしたがる年ごろだもんね」
「まるで母親だな」傍観に徹したなつきは、呆れているようだった。
「ちょっと、やめてよ。そんな年じゃないんだから。それに……」
「それに?」
「……なんでもない」

 急に疲労を覚えて、舞衣はゆるゆると首を振った。もし本当の母親だったのなら、きっともっと上手く命を諌めたに違いないのだ。感情で怒ったのは、舞衣が未熟である証拠に他ならない。命にとっての兄の存在を軽く見積もったのも失敗だった。
 でも仕方がないことだ、と舞衣は思った。
 顔を合わせて一月足らずの他人同士である。舞衣には余裕があるとはいいがたいし、命だって呑気に見えて複雑な想いを抱えているに違いないのだ。互いを理解するには足りないものが多すぎる。命が妙に懐いてくるので、間合いを取り違えたのかもしれない。食事を与えて、一緒に寝て、命はあまりにも無邪気だったから、どこか小動物に接するような気持ちでいたことも否定できなかった。
 相手を人間として尊重するなら、距離を置くのが普通だ。舞衣にとっては慣れた作業だった。
 容易いことだ。関係性とは、ごくわずかな例外をのぞけばそのように構築されるのが常である。
 しかし、それで割り切るのには抵抗があった。

「――やっぱりなんか、同じ部屋に住んでるのに、そういうのは嫌だしなぁ……」

 理由は単純に、惜しいためである。袖擦りあうも他生の縁とは良く謂ったものだ。新鮮な他人との生活を、舞衣は今のところ楽しんでいた。
 だとすれば、強いて変える必要はないはずだった。揉め事のひとつやふたつは、いかようにでも頭を悩ませ通過儀礼として処理するべきだ。
 そう決め込んで、スカートの裾を払いながら、体を起こす。

「追いかけるのか」なつきもまた腰を上げて、鼻を鳴らした。
「んーん、ちょっと冷却期間置いた方がいいでしょ。放課後……はバイトだから、帰ってきたらじっくり話すわ」
「一応テスト前なのに、アルバイトか」
「あんただってほとんど学校に来てないみたいじゃない」

 苦学生だといって疲れを見せるのは楽だ。しかし、舞衣はそれをしない。もっとも、なつきには既に知られている可能性もあった。

「ふん? まあ、好きにしたらいい。さて、それじゃあ解散ということで構わんな。わたしは行く」

 語気荒く拳を作るなつきである。鼻息を出さんばかりの様子を、舞衣はいぶかしんだ。

「行くって、どこに」
「決まっているだろう。下着泥棒を捕まえにだ!」

 そうして、騒動が幕を開けたのである。



 ※



「これは、公然たる執行部への挑戦と見るべきね」

 放課後の生徒会室で、盗難届けの山を前に奮然と気を吐く少女がいた。誰あろう執行部長、珠洲城遥その人である。本人は否定するであろう愛嬌のある顔立ちを憤りに染めて、力強くデスクを叩いては吼えたける。

「断固としてっ、迅速なる拿捕がわれわれ執行部の急須ですっ。よくって、雪乃!?」
「それを言うなら急務だよ珠洲城」部屋の隅に控えていた高村は、機を逃さず間違いを正した。「一番間違えなさそうなのを間違ったな、しかし」
「失礼、急務です」咳払いしつつ、遥が言い直す。

 生徒会室に足を運ぶたび似たような状況に遭遇していれば、合いの手を挟む間も自然と覚えるというものだ。

「あ……」

 しかし仕事を取られた菊川雪乃は、切なそうな顔で高村を見た。

「すまない。出来心だったんだ」雪乃があまりにも消沈したため、慌てて高村は謝った。「一度やってみたくて。ツッコミは菊川の仕事だもんな。もう取らない」
「い、いえ。そんなことは……」
「そこっ。真面目に聞いてください! 高村先生も、臨時の上創立祭向けとはいえ顧問! しっっかりと、働いていただきます!」

 口角泡を飛ばす勢いで荒ぶる遥を、胡乱な目で高村は見つめた。

「拿捕っていうが、やっぱり警察には届けないのか」
「もちろんです」力強く遥は断言した。「当学園のモットーは自主、自立、自治! 官憲の出る幕なんてありません」
「あ、そう」

 性根が押しに弱い高村は、無駄に威勢の良い人間に相対した場合基本的に受けに回る。相手のペースを乱して切り崩す常套手段が使いにくいためだ。だから遥に対しては、常にやや遠慮がちな応対になった。しかし今がテスト前であることや彼女が受験生であることを指摘しないのは、ただの職務怠慢である。

「それじゃあ雪乃、配置を開始して。アリンコ一匹逃がさない包囲網で、じわじわとデバガメ野郎を追い詰めるのよっ」
「でばがめは覗きだよ遥ちゃん……」

 すかさずの訂正であった。高村は満足して頷く。

「やっぱりツッコミあってのボケだよな。本職は違う」
「え、ありがとうございます?」複雑な喜びを表現しつつ、雪乃が頬を上気させた。
「雪乃。開始」
「了解しました」遥の指示に従って、雪乃はインカムを通して執行部員に通達し始める。「一斑から三班は学園周辺の哨戒を。四班と五班の各執行部員は、あらかじめ指示された校内の所定位置について潜伏してください。同班内のメンバーとの連絡は密にして、連携を崩さないこと。不審人物や遺留品に関しての情報は、いつも通り生徒会のBBSに逐一書き込みをしてください。それでは、お願いします」
「本格的だな。出る幕はなさそうだし、じゃあ、俺はゆっくり待つとするか」感嘆して、高村は茶を煎れるためすぐ隣にある給湯室へ向かった。
 直後に、押し殺した囁きが聞こえた。「なんなのあのモヤシメガネは。覇気がないわ、覇気が」
「き、聞こえちゃうよ、遥ちゃん」

 頻繁に使われているためか、高村の目にも、シンクは綺麗に整理されているように見えた。銘柄にこだわるほど日本茶に詳しくはないため、とりあえず棚からは玉露を取り出す。匙で茶葉を急須に流し込みつつ、湯が沸くのを待った。

「うまいな、これ」

 湯飲みから舌が火傷するほどの滋味を口内に流し込んで、高村は無言で窓際に立った。遥と雪乃は休みなく部員に指示を送り続けている。事件発生から数時間後のローラー作戦にどれほどの意味があるのかは、運次第だろう。

「新規の目撃情報です」ノートパソコンを駆使して情報処理に集中していた雪乃が、はっと息を飲む音が聞こえた。「柔剣道場近くの沿道で、不審人物発見。どうするの、遥ちゃん」
「来たわねぇ」唇を舐めながら、遥が犬歯を剥き出しにして笑った。「頃合を見計らって、確保よ」
「いいのか、そんなにあっさり決めて」
「もちろんです。高村先生は安心して、お茶をがぶがぶ飲んでいてください」嫌味たっぷりに、遥が言った。

 大いに肩をすくめつつ、高村は残りの茶を一気に飲み下した。焼けるような熱が腑を駆け巡るが、立場上冤罪の発生をてぐすね引いて待つわけにもいかない。湯飲みをシンクに置くと、

「俺も現地に向かう」

 と告げて、生徒会室を後にした。特に呼び止める声はない。いてもいなくても、さほど影響はないと判断されたのだ。
 脳裏で学園敷地内の地図を思い浮かべつつ、早足で階段を降りて非常口から校舎の外に出た。無人のグラウンドを挟んで突き立つバックネットの裏側から、喧騒が起こり始めている。捕り物が開始されたに違いない。物見遊山の気分で、高村はのんびりと歩き出した。
 すると、横合いから声がかかった。

「高村先生」

 一瞬驚くが、声は高村が慣れ親しんだものだ。
 深優・グリーアが、音もなく校舎の陰に佇んでいた。

「どうしたんだ、深優。こんな時間に」
「これを見てください」質問を無視して、深優は手に持ったものを示した。
「うわ、なんだそれ」

 嫌悪に顔を歪めて、高村はうめく。深優が握っているのは、爬虫類にも似たうろこ状の皮膚を持つ異形の生きものだった。
 体長は五指におさまるほど小柄だが、いわゆる可愛らしさとは無縁の造型だ。ブラジャーを頭に被っているのが、唯一の愛嬌らしい愛嬌かもしれない。

「グレムリンみたいだな」注意深く眺めるが、グロテスクな生きものは微動だにしない。「もしかして、それ……」
「野良の使い魔でしょう。女性用下着を持って接近してきたため、屠殺しました」
「屠殺っておまえ、物騒だな」

 確かに、その小型のオーファンは既に息絶えているように見えた。ぎょろりとした眼は濁り、鋭利な牙の生えた口は半開きで、だらしなく舌を垂らしている。

「事件の真相見たりってところか。オーファンって、下着なんか盗むんだな」
「その種の思念が強ければ、発生することもあるでしょう」報告の役目を終えたと判断したのか、深優は腕のオーファンを打ち捨てた。濡れた音を立てて、死骸がアスファルトに接地する。遅れて、その上にブラジャーが落ちた。「それでは、私はこれで失礼いたします」
「あ、ああ。アリッサちゃんのお迎えか?」
「はい」と頷いて、深優は動きの少ない瞳を高村に向けた。「先生もご一緒しますか?」
「いや、せっかくのお誘いなのに残念だけど、もう少し仕事が手間取るみたいだ」

 高村が無念そうに首を振るのと、転がっていたオーファンが息を吹き返すのはほぼ同時だった。勢い良く矮躯を起こすと、ブラジャーを前脚にかけて飛び上がり、頭上の雨樋に乗り移る。
 反応できなかったはずはない。しかし深優は敏捷に離脱するオーファンを何もせず見送った。
 高村は、ため息混じりに呟いた。

「もしかして、わざとか」
「申し訳ありません。本体は別にあるようでしたので」
「いいよ。アリッサちゃんによろしくな」
「はい」首肯し、深優は去っていく。

 時刻が十八時に近づき、日暮れが間近に迫っていた。蝉時雨も失せている。遠目に捕り物がつつがなく終わったことを確認すると、高村は懐から携帯電話を取り出した。








[2120] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/09/05 07:46


 ※



 三年生で剣道部主将でもある武田将士という男が、執行部が挙げた容疑者である。
 部活動からの帰路の途中で、盗品と思われる下着を保持していたため、現行犯で逮捕されたのだ。
 ところが、彼は執行部長手ずからの尋問にも自供することはなかった。それだけに止まらず徹頭徹尾無実を主張して彼女の逆鱗に触れ、現在は執行部が手続き抜きで下す処分としてはもっとも忌み嫌われる『教会送り』に遇されている。

 生徒会首脳部は、揃ってこの逮捕劇に疑問を呈していた。火元責任者の遥にとっては面白くない展開である。スピード解決が誤認逮捕になりかねない。
 当然のごとく、彼女は猛反発した。
 いわく、『生徒会長の藤乃静留は容疑者のクラスメートであり公平性を失っている可能性がある。副会長の神埼黎人は容疑者の親友であり公平性を失っている可能性がある。生徒会長補佐の楯祐一は中等部時代剣道部員であり公平性を失っている可能性がある。そして、唐突に生徒会室に駆け込んできた部外者の玖我なつきは容疑者の恋人であり以下同文』。

「誰が恋人だ。誰が」憮然として、なつきは顔をしかめた。
「俺がいったんじゃないぞ。珠洲城の意見だ」

 高村はジョセフ・グリーア神父の説教好きという一面を見て、弱々しく反論する。幼少時代に彼の娘ともども何度も叱られた記憶がフラッシュバックしていたのだ。

「そもそも、なんで貴様がわたしの携帯の番号を知ってる。それが一番不愉快だ。このストーカーめ」

 オーファンを取り逃がした直後に、高村はなつきに電話で事情を説明していた。彼女に目立つ行動を取らせるのは指針に反しているが、オーファンを相手に高村では荷が勝つとなれば、対処にもっとも適材なのは玖我なつきを置いて他にない。そして今回のオーファンは、彼女自身も因縁のある相手である。高村からの電話を不審がりながらも、不承不承課外活動の参加を受諾したのだった。

「なんでっておまえ、俺は担任だぞ……。生徒の連絡先くらい知ってるに決まってるじゃないか。それをストーカー扱いかよ」
「……なに?」不意に考え込んだかと思うと、一拍遅れてなつきは手を打った。「ああ、そうか。そうだった。おまえ担任だったな、一応」
「頼むから、ちゃんと学校に来てくれ」
「くだらないな。わたしは色々と忙しいんだ」なつきは舌打ちして、高村をねめつける。「それに、担任だからって私用で呼びつけるんじゃない。個人情報保護法案という言葉は知っているか?」
「おまえこそ、銃刀法って知ってるか?」

 互いに黙り込むと、険悪な眼差しを交換した。

「貴様、また痛い目を見たいのか?」なつきが嗜虐的に笑った。
「なにかっていうと暴力だな」負けじと高村も言い返す。「即退学だぞ、そんなことしたら」
「情けないやつだ。権力に頼るのか。はっ、腰抜けめ」
「なんとでもいえ。力は使うためにあるんだ」
「二人とも顔つき合わせて内緒話やなんて、仲がよろしおすな。妬きそうなくらいどす」

 藤乃静留が割り込んで、二人は渋々と離れた。静留のみならず、神崎黎人や楯祐一といった面々の興味深げな視線にも気付いたのだ。生徒会室の片隅で教師と生徒が小競り合いを繰り広げるのは、確かにそれなりに面白い見世物かもしれない。

「……とにかく」仕切りなおすように咳払いして、なつきは静留に向き直った。「真犯人は別にいる。根拠は明かせないが、これは確かな事実だ」
「うちも、武田くんが下着泥棒するような人とは思しません」
「俺も。なんかの誤解だと思います」急遽呼び出された楯が、おずおずと手を挙げる。
「ということやけど、珠洲城さん?」

 静留の柔和な視線の先には、仏頂面で腕を組む遥がいた。重ねて功績を否定され、額には今にも青筋を浮かべんばかりである。

「だったら! 彼が下着を持ち歩いていたことは、どう説明するんですか? まさか偶然拾ったんだ、とでも?」
「そんなところじゃないかな。というわけで、僕も静留さんと楯くんに賛成だね」最後に、神崎がやんわりと遥の意気をくじいた。「これは友人としてではなく、副会長としての意見だと思ってほしい。遥さん、将士が持っていたその、下着は?」
「……ショーツが一枚です」
「でしょう? 盗まれた下着は、少なくとも数十枚。彼が犯人だとすれば一枚だけ持っておくというのはあまりにお粗末だし、何より彼には犯行時刻のアリバイがある。だよね、静留さん?」

 高校生らしからぬ、理路整然とした反論だ。高村は鷹揚とした神崎の物腰に目を細めた。伊達をしている風でもないのに、芝居がかっているように感じる。ある種の才能だろう。

「ええ」楚々と静留が頷いた。「今日の三限も四限も、武田くんはうちと同じ教室で授業受けてます」
「アリバイはともかく、彼が盗まれた下着を所持していたことは事実です! 物証が出た以上は、無罪放免というワケにはいきません。そうまでいうなら、真犯人を具体的に提示してもらいましょうか」

 風向きが明らかに悪いことを察してなお、遥には物怖じする気配はなかった。

「熱心だなぁ」
「頑固なだけだ」

 高村の呟きに、なつきが吐き捨てる。問題児であるだけに、遥とは不倶戴天の間柄なのかもしれない。
 その後も議論は踊り、そして大方の予想通り膠着状態に陥った。こうなると、遥もやすやすと過ちを認めるわけにはいかなくなってくる。
 傍目にも、彼女を頑なにさせる要素の中には多分に上役への対抗意識が含まれていた。しかしそれだけではなく、高村には遥がどうにか、政治的な折衷案をひねり出そうとしているようにも見える。
 珠洲城遥は一義的で直情径行のきらいはあるが、ずば抜けた感性で組織を運営している静留よりはよほどわかりやすく、欠点もあって親しみやすい。一般生徒の評判に反して直属の執行部員が彼女に忠実なのは、そうした性質のためだろう。

「確かに、珠洲城さんにも執行部長としての立場がありはりますし、そうそううちらの強権を使ういうのもどうか思いますし……」

 しかし鶴の一声は、やはり藤乃静留によるものだった。

「それなら、こういうのはどうやろか。武田くんには当面このまま教会にいてもらって、その間珠洲城さんやなつきには、下着泥棒の再犯があるか、ないか――女子寮の警備も兼ねて、その見張りをしてもらいます。それで真犯人が捕まればよし、もし何事もなければ、武田くんには泣いてもらういうことで。……どうどすか、珠洲城さん、なつき?」
「悪くはないけど……」

 譲歩を、ほとんどねじ込まれたようなものだ。遥は納得には程遠い表情で静留の案を容れた。

「決まりだな」と、なつきが不敵に笑う。「となれば、決戦は今夜だ。静留、わたしは準備するものがあるから一度家に帰る」
「手伝います?」
「大丈夫、すぐに戻る」
「頑張ってな、なつき。期待しとりますさかい」
 手を振って、なつきが足早に退室する。「任せろ」

 颯爽とした後姿は秘策ありと言わんばかりだ。高村は静留に尋ねた。

「……準備って?」
「さあ。うちは何も知りません」

 悠然と茶をすする静留とは対照的に、遥が慌しく動き始だしていた。菊川雪之を伴って、生徒会室の前に詰めていた部下たちに、手早く指示を出し始めている。

「聞いてのとおり、今夜は徹夜で女子寮の警戒に当たります。とはいってもテスト前だしこんな時間だから、実家から通っている部員は下校なさい。寮生でも、参加メンバーは有志から募ります。学業を優先するのは当然だし、遠慮はしなくていいわ。べつにペナルティを与えたりはしないから。……とりあえず、十五分後に残った各班長を集めてミーティングを開きます。それまでにどうするかは決めておいてね。はい、いったん解散」

 高村が三々五々散っていく生徒を手持ち無沙汰に眺めていると、神崎と楯が歩み寄ってきた。

「先生はどうなされるんですか? これも創立祭を控えた警備強化とするなら別ですが、通例では特に教師の引率は必要無いことになっていますが」
「うん、まあ居残っててもできることはないだろうし、かえって邪魔になりそうな気もするけど、見学もしたいし、どうしようかな。神崎はどうするんだ?」
「残念ながら」遺憾そうに神崎は首を振る。「今日はこのあとで予定があるので、失礼させていただきます」
 ふむ、と高村は考え込んだ。「じゃあ楯、おまえ残れ」
「え、なんで俺? い、いやですよ、徹夜とか。明日丸々潰れちまう」
「おまえが帰ったら男俺一人になっちゃうじゃないか」
「それなら、先生も帰ればいいじゃないっすか」
「往生際が悪いな。教師が頼んでるんだぞ」ためらいなく高村は強権を発動した。「臨海学校かなんかだと思えばいいんだよ」
「ええー……」

 満面に不満を表す楯の肩を、神崎がにこやかに叩いた。

「がんばりたまえ、楯くん」



 ※



 夜も更けて鴇羽舞衣がアルバイトから帰宅すると、彼女の住処である風華学園女子寮が、クリスマスツリーよろしく電飾で飾られていた。それだけではなく、建物の壁面を這う電線には万国旗さながら女性用下着が吊るされている。すわこれが田舎で稀に出会うという奇祭秘祭の類かと目を丸くしていると、見知ったいくつかの顔が敷地内で円陣を組んでいるのを見つけた。
 クラスメートの菊川雪之、楯祐一、それに三年の珠洲城遥、最後に教師の高村恭司。いずれも、ふだんこの時間に出会う人種ではない。
 それが難しい顔を突き合わせていったい何をやっているのかと、舞衣は労働にくたびれた体を引きずって円陣の中央を覗き込む。

「……はいー?」

 円心には、どう見てもトランプにしか見えないカードが積まれていた。

「七のペア」と楯がいった。
「八のペアでいったん切ります。次、エースのトリプル」手際良くカードを飛ばし、合いの手が入らないことを確認すると、雪之が最後の手札を丁寧に放った。「四、で上がりです」
「また雪之なの!?」遥が悔しげにうめいた。「くっ、八で切って、二の革命! 返せる人はいる!?」
「すごい、遥ちゃん」外野では雪之が感心していた。「先にやられてたらわたしも危なかったね」
「げ」と高村は悲鳴をあげる。「なんでこの土壇場で革命なんだよ。パスに決まってるだろ。……楯は?」
「俺も無理っす」
「そして、三のペアよ!」遥が好戦的に残りの対戦者を見回した。カードの強さが逆転した今、高村にも楯にもカウンターを当てられる余力はないようだった。「ふふん、クイーンであがりっ。まあちょっと機を読み違えたけど、わたしが本気を出せばこんなものね」

 次いで、楯が危なげなくあがる。最下位にランクされた高村が、うな垂れた。

「また俺がビリか……。いったん落ちると、パワーバランスが偏りすぎなんだよこのゲーム」

 舞衣は奇怪な情景を目の当たりにして、ひたすら眉間に皺を寄せる。

「っていうか、なぜ大貧民……?」
「いや、それをいうなら大富豪だろ」
「違うぞ楯。それはどっちも正解だ」茫然と手札を眺めていた高村が立ち直って、注釈を挟んだ。「ローカル色溢れるゲームだからな、鴇羽が前にいたところじゃそっちの呼び名がメジャーだったんだろう」
「はあ、なるほど」
「って、そんなんどうでもいいのよ!」宿舎とトランプの山を交互に指差して、舞衣は怒鳴った。「なぜトランプ!? そしてどーして寮にパンツやらブラジャーやらヒラヒラしてんの!?」
「――はっ」

 と我に返ったのは、遥ひとりだった。やおら立ち上がり、頭を抱えて叫びだす。

「わ、わたしとしたことがなぁんて迂闊なッ! いくらヒマを持て余したからって敵の術中にはまって札遊びに熱中するなんて、弘法も笛の誤り、一生の不覚だわ……!」
「弘法大師は笛じゃなくて筆だよ遥ちゃん……」
「そんなことはどうでもいいの雪之! ほら、あっちに戻って張り込みの続きっ!」

 せかせかと植え込みへ消えていく二人を横目に、舞衣は虚しさを持て余した。

「だから、なんなわけ……」

「あれは、エサだ」と答えたのは、ふらりと現れた玖我なつきだった。

「あんたまで。なんで寮にいるのよ」

 仁王立ちのなつきに、舞衣は半眼を送る。
 なつきは自宅から通学をしているはずである。当然、寮にいるはずもない人物だ。花壇を仕切る縁石にかかとを落とすと、舞衣は意気込んで説明を要求した。

「どういうこと?」

 なつきは一瞬トランプをしまう高村を白眼視すると、髪を手櫛で梳きつつ思わせぶりに目線をさまよわせる。舞衣が無言の圧力を掛けつづけると、嘆息の後に「話してもいいが」と前置きして、寮の通用口を指差した。

「おまえにも協力してもらうぞ」
「協力って、何の話よ?」
「まあ、詳しい話はおまえの部屋に行ってからだ」

 事情が飲み込めず、しかし厄介ごとが発する独特の気配を感じて、舞衣は尻込みする。逡巡する間にも、なつきは答えを待たず歩き始めていた。
 流されている、と自覚しつつ舞衣がその後を追おうとしたところで、高村の声がかかった。

「待て、鴇羽」トランプケースを背広の内側にしまいながら、高村が立ち上がる。「美袋がまだ帰ってないみたいなんだが、どこにいるか知ってるか」
「……命が?」

 昼間のいさかいを思い出して、舞衣は息を呑んだ。家出、というフレーズが胸裏をよぎる。

「ど、どうしよう。探しに行かなくちゃ」
「バカ、今何時だと思ってんだよ。携帯とか持たせてないのか?」と、呆れ顔で楯が聞いた。
「ない……」
「ったく。保護者気取るんならそのへんしっかりしとけっつーの」

 発作的にしかめ面の楯に反発しかけ、すぐにその通りだと悟ると、舞衣は消沈した。
 書類上美袋命の監督は風花家の名義になっているが、甲斐甲斐しく弁当まで世話しておいて、今さら彼の言葉を否定するのはただの責任逃れにしかなるまい。楯の言い様には正誤とは無関係に腹が立つが今はそれどころではなく、寮の変貌もなつきのことも忘れ、舞衣はきびすを返しかけた。

「アホ。だから、早とちりすんなっての」楯の手が、肩を軽く叩いた。
「……バカだとかアホだとかうっさいわね、馬鹿ッ」はやる気持ちを抑えて、舞衣は楯を睨んだ。「早とちりって、なにがよ」
「いや、おまえも一応女ではあるわけだ。まああんなもんに引っかかるマヌケがいるとも思えねえし、どうせそろそろ帰るところだったし。ってことで、ついでに先生と手分けして探してくるからさ」
「は……?」

 まじまじと楯を見つめ、次いで高村を窺うと、頷きを返された。

「とりあえず美袋が野宿やらなんやらくらいででどうにかなるとは思えないけど、知らない仲じゃないしな。そのあたりをちょっと回ってくるよ。なに、実は心当たりはあるんだ」

 心当たり、という単語に舞衣が連想したのは、結城奈緒という名前だった。恐らく高村も同じだろう。顔は知らないが、なつきの話からでは良い印象の持ちようがない少女である。不安は拭いきれなかった。

「それなら、あたしも行きます」
「いや。鴇羽はここにいたほうがいい。美袋と入れ違いになるかもしれないし」高村が意味ありげに、エントランスで腕組みしているなつきに目をやった。「玖我も下着泥棒を捕まえようって意気込んでるんだ。あっちを見ててくれ」
「ああ、下着泥棒……それで」

 ようやく大量の下着の謎が解けて、舞衣は得心した。
 しかし、寮の有様を見るに、泥棒を誘い出す方法としても限度があるようにも思える。これではまるで動物を狙った罠ではないか――。

「あ、もしかして」閃くものがあった。オーファンという天災にも似た怪物の存在が頭をかすめたのだ。「ねえ先生、下着ドロの犯人ってひょっとしてひょっとすると、……アレ?」
「どうも、アレらしい」
「へええー……」開いた口が塞がらないとはこのことだと、舞衣は思った。「そんなことまでするんだ、アレ」
「アレってなんだ?」

 訝しげな楯になんでもないと手を振って、舞衣はいい加減待ちくたびれていそうななつきと高村を、交互に見比べた。
 確かに命は、高村に対しても気を許してはいる。逆にいまの舞衣が無理に追えば、かえって頑なにさせてしまうかもしれない。何より、それでは過保護と過干渉の繰り返しである。
 心情はそれでも探すべきだと主張していたが――。
 しばらく思案して、舞衣は待つことを選んだ。帰ってきた命を迎えるという行為には、今後の二人にとってもそれなりの意味を孕むだろうという気がした。

「それじゃあ、命のこと……お願いしていいですか?」
「構わない。な、楯」高村が軽く肩をすくめた。「ところで、美袋とはけんかでもしたのか」
「まあ、そんなところ。あたしがちょっと、ね。無神経なこと言っちゃって」
「けんかなんてのはしてしまった時点で、例外なく両方悪いもんだ。せいぜい反省して、十分に気に病め」

 慰めとも追い討ちともつかない高村の台詞に苦笑すると、舞衣は二人を見送った。高村の言うように、命がどうにかなるなど想像しにくい事態だが、そうとわかっていても焦燥は拭えない。
 これはなんなのだろう。静かになった空間に自問が反響した。
 そうか、と舞衣は思った。自分は失うことを危惧しているのだ。舞衣は自身のことに手一杯であるため、とかく人付き合いをおろそかにしがちだ。それだけに、一度築き上げた関係が崩れる痛みを何より恐れている。

「とんだお母さんだよね」

 自嘲して、舞衣は後ろ髪引かれる気持ちを抑え、なつきの元に向かった。
 誰もいない部屋というのは当然ながら真暗で、まるで暗渠だ。アルバイトの疲れを引きずっていればなおさら気が重くなりもする。
 邪魔するぞ、と遠慮なく上がりこむなつきの背に、舞衣は疑問を発した。

「高村先生に聞いたんだけど、泥棒がオーファンってマジ?」
「ああ、間違いない」なつきが頷く。「凪にも確かめた」
「凪って……」
「髪の白いガキのことだ。この前の洞窟にもいただろ」
「あの子に聞くと、それが正しいってどうしてわかるわけ?」
 黙考したあと、なつきが難しい顔で呟いた。「わたしたちの前に現れるオーファンのいくつかには、あいつが関わっている。HiMEの覚醒を促す、導き手のような役割を持っているとか言っているが、よくわからん」
「なにそれ」意味がわからず、舞衣はうなった。「あんたって物知りなようで、けっこう、何も知らないよね」
「うるさい。軽薄なようで、あいつは肝心なことは何も口にしないんだ。なんだかんだいって隙の多いあの男より、よっぽどな」

 あの男、とは高村の事だろう。
 しかしそうなると、白髪の少年も謎が多い人物のひとりである。舞衣の眼には、高村などよりよほど怪しく映った。

「ふうん……。おびき寄せようってのはわかったけど、こんなにたくさんの下着、どっから持ってきたの?」
「家からだ」
「いや、だから誰の」
「……わたしの」

 たっぷり十秒、言葉の意味を吟味して、他に解釈のしようもないことを悟ると、舞衣は絶句した。

「ええ、マジっ? あれ全部あんたのなの?」呆れを通り越し、ひたすら驚くばかりだ。「だってなんか、みんな高そうなのに……。ガーターとかヒップブラとかなんて、何に使うのよ」
「コレクションだ、コレクション」そっぽを向くなつきの横顔に、薄く羞恥の色がのぞく。「全部着るわけじゃない。なんとなくな。ひとの趣味だ、放っておけ」
「お金持ちなのねえ……」

 何事もそうであるように、下着もまた蒐集に凝りだすときりというものがなく、なおかつ冗談のように値が張る品物はひきも切らない。
 なつきが適当に片付けるコレクションの総数は、金額に換算すればあきらかに百万円では足りなかった。舞衣は脱力して、ベッドに倒れこむ。

「寝るなよ」
「わかってるわよ。手伝えばいいんでしょ。あたしもとっときのを出すから。だけど」枕に顔を埋め、声を尖らせて切り返した。
「わかっているさ」アイロニカルに、なつきが笑った。「おまえは戦わなくていい。覚悟がない人間がいても邪魔なだけだし、なにより、こんなところでおまえのチャイルドを呼べば、今度は寮が吹き飛びかねない」
「……」

 もう少し、歯に衣を着せられないのか。
 なつきのひねくれた率直さが舞衣には疎ましく、同時に羨ましくもあった。はじめて出会ったときの印象に比べればなつきが意外にまともであることは充分理解している。気の合う部類だし、友人としてやっていくこともできるだろう。しかし、それでも折に触れて相容れない部分を見つけては、舞衣はギャップに苦しむのだった。
 そういった理解が、関係性を育む養分だ。認識を繰り返し積み重ねる以外に、人と人が心の距離を埋める術はない。
 ――あたしは命に、それをサボったんだ……。
 受け容れるつもりで、その実理解を放棄した。
 線引きを怠れば、ただ無神経に互いをなすりつけ合う関係に陥るだけだ。それは進展ではない。一個の人間同士の構図として、ただ歪である。修正しなければならない。
 だからといって、どうすればいいのかはわからない。ただ今は命の帰宅を祈るばかりだ。
 舞衣もまた、子供には違いないのだった。
 目線を上げて、枕元の置時計を見た。

 じきに、日付が変わろうとしていた。
 


 ※



 夏の夜は短い。しかし、あるいはだからこそ、狂騒が加速する傾向がある。妖精王オベロンとその妻ティターニアが引き起こしたかの痴話喧嘩のようにだ。
 一ヶ月前よりも明らかに動員が増加している繁華街を、楯祐一を伴って歩きながら、高村は一路人気のない方面へ向かっていた。いつかとは違い、今夜は明確に目的がある探索行である。夕方、美袋命が結城奈緒に連れられて学園を出たという証言を受けて、月杜町まで足を伸ばしたのだ。

「楯。面倒なら帰ってもいいんだぞ」
「いえ。どうせ帰り道ですから」

 隣を歩く硬い声を、高村はわずかに危ぶんだ。何がきっかけになったのか、街に近づくに連れ楯の発散する空気が険悪さを帯び始めたのだ。
 とげとげしい意思は高村に向かうものではなく、無差別に不特定の何かを突き刺していた。だんだんと口数も減り、眼つきも鋭くなって、先ほどから楯の視線に食いつかんとする血気盛んな若者も何人か、いた。そのたびに敵意を撒くのが面倒で、高村は場を和ませる話題を探す。

「そういえば、楯って剣道部だったんだな。てっきり、中等部から生徒会関係なのかと思ってたけど」
「……ああ、そうなんです。落ちこぼれて、ドロップアウトしちまったんですけどね」

 しまった。
 と、高村は楯の渋面に選択を間違ったことを悟る。
 どうするべきかと一瞬迷って、ままよと会話の続行を選んだ。ここで引くほうが空々しい。

「ドロップアウトって、故障か」
「……腕を、ちょっと」ちらりと左手に目を落として、楯がワイシャツの袖をまくった。

『ちょっと』などとはとても言えない重傷だった。手首から肘にまで及ぶのは、十数針はある縫合の痕だ。傷は深く、神経に達していることが知れた。利き手ではないにせよ、剣道の要である腕をこれほど痛めては、それまで通りには行かないだろう。
 いや、それ以前に――。

「……おまえそれ、まさか刃物傷じゃないよな」

 瞠目し肩を震わせて、楯が足を止めた。「よくわかりましたね」と、強張った声で答えた。当たったことに驚きながら、高村は「適当に言っただけだ」と誤魔化した。

「鋭い破片かなんかで切れれば、そうなることもあるだろ。……いや、すまない。こっちから言い出しといてなんだけど、無神経だな。話題を変えよう」
「いいですよ、別に」楯はようやく表情を和らげた。「信じらんねーでしょうけど、これ、刀でやられたんですよ。バッサリと」
「そうなんだ」
「そうなんだって、リアクション薄いっスね」吹き出して、袖を戻す。「やっぱ、信じてもらえるわけねーか」
「いや。そうじゃない。信じてるよ。ただ、どう答えていいのかわからなくてな。まあ、世の中色んなことがあるよな。ほら、俺も」

 そう言って、高村は背広を脱ぐと、右の袖を上げて楯に腕を見せた。楯と同等か、それ以上に深い手術の傷痕がそこにはある。

「奇遇じゃないか? 手首にはボルト埋まってるんだぜ。かっこいいだろ」
「……痛そうですね」
「おまえだってそうだよ。それにまあ、この時期はな。梅雨は、もっときつかった、傷が疼いて」

 冗談めかすと、いわくいいがたい光が、傷を見た楯の目に宿った。
 それでも高村に自分の気持ちがわかるはずはない、という当然の反発と、単純な境遇への共感。そして、恐らくは自身への気恥ずかしさ。
 いずれも高村が失ったものだ。だから単純に、彼は楯の若さを羨んだ。楯がピントのずれた憧憬を高村に抱いたのより、きっとずっと強烈に。
 瑕疵をある程度克服した楯の眼には、傷を物笑いの種にする高村は泰然とした人物に映っているに違いない。だが実態はまるで異なっていた。高村こそ、楯よりもよほど過去に縛られているのだ。
 高村は、いみじくも自分がなつきに吐いた台詞を思い出していた。復讐に囚われるということは、絶望の檻へみずから足を踏み入れるにひとしい。他の誰でもなく、自身を冷笑した台詞である。今や彼に、未来はなかった。

「じゃ、行こうか」
「あ、はい」

 以前高村が結城奈緒に押し込まれた袋小路が、もう近かった。ゴミを一杯に詰め込んだポリバケツを避けながら、高村は路地裏へと足を向ける。
 当惑しながらついてきた楯が、声を忍ばせた。

「先生、そっちけっこう危ないっすよ。ていうかそんなところには行かないんじゃ」
「まあまあ、念のためだ、念のため」

 開発計画がずさんなのか、それとも工程に不備があったのか、月杜町には都市的な死角、空白地帯が多くあった。それは後ろめたいことに利用してくださいとでもいわんばかりで、当然、溜まり場にしている集団などは少なくない。
 というようなことを楯が語ったが、デッドスペースや思わぬ通路、さらには人為的に開通された空間のいずれにも、人気はなかった。

「っかしいな」入り組んだ道を右に左にと折れながら、楯が違和感を口にする。「こんなに誰もいないのはちょっと妙ですよ」

 そう言われても、高村には比較検討する材料がないので、どうとも判断はつかなかった。そんな日もあるんだろう、と落ち着かない様子の楯に言い聞かせる。

「いや、でも」
「待て。ちょっと静かに」抗弁を遮って、高村は鋭く囁いた。「いま、何か聞こえた」

 楯が口を噤み、高村は耳を済ませる。遠い街の喧騒と、発電機やエアコンが立てる雑音のはざまに、何かがあった。静寂とカクテル・パーティ効果が相乗して、ともすれば聞き逃しそうな単語を聴覚が拾い上げたのだ。

「ミコト」

 と、ひそめてなお通る声は口にしていた。

「ビンゴかな」

 小走りになって、高村は路地の深みへ分け入っていく。楯が慌てて追走するのを、音だけで確認した。
 二度三度と曲折すると、不意に道が開けた。乗用車の一台くらいは余裕で通りそうな幅が、二十メートルほど伸びている。両辺が周囲と比べてひときわ背の高いビルであるため、間隔が取られたのだろう。
 左側には工事中のビルをかばうフェンスが立ち、行き止まりになっていた。トタンには『珠洲城建設』とゴシック体で社名が書かれた看板が下がっている。右側には高村と楯が抜けてきたような細い路地がもうひとつあって、どうやらその二箇所だけが、この不自然な空間に繋がる出入り口らしい。

「あっ」

 と、楯が声をあげた。高村もまた、いた、と小さく呟く。資材の鉄筋や工具が積まれた袋小路の奥に、三つの人影があった。うち二人は、美袋命と結城奈緒に間違いない。もうひとりは見知らぬ男だった。みな背を向けて、立ち尽くしている。

「なにやってんだ、あいつら」

 楯の呟きは意外なほど大きく響き、固まっていた三人が弾かれたように振り返った。中でも男の反応が劇的で、闖入者の姿を見て大げさに息を呑むと、突然に駆け出して、すぐにその場から逃げ出した。
 さては、俺と同じパターンか。なんとも言えない気分で男を一瞥して、高村は残る二人に顔を向けた。ひとまず安堵しつつ、足を踏み出す。

「逃げるよ、ミコト」高村の動きに反応して、奈緒が命の腕を引いた。

 しかし命は動じず警戒を解いて、剣に伸びかけていた手を下ろした。高村の姿に気付いたのだ。

「心配ない。あれは恭司だ、奈緒」
「キョージって誰よ……って」暗がりのもとで、奈緒が目を細めた。「あのセンコーじゃない」
「やあ、二人とも」

 露骨に舌打ちする奈緒に苦笑し、近寄ろうとした高村は、二人の背後にあるものを目に留めて、ぴたりと動きを止めた。
 うめき声が聞こえた。そこには両手で足を押さえ、体を丸めて地面に横たわる、上半身が裸の男の姿があった。

「まさか……」楯が、ひそやかに、しかし深く、息を呑んだ。
「何、してるんだ」高村は黙り込む二人に訊ねた。「その人、怪我してるのか?」
「……うん」

 命の答えを待たず、迂回して男の容態を確かめると、高村は言葉を失った。ただの怪我や、泥酔して人事不覚に陥ったのではないことは一目瞭然だった。男のズボンは真っ赤に汚れ、流血が地面に水たまりをつくっている。
 いてえ、と喘ぐ男に構わずふくらはぎを押さえて患部を目視し、高村は顔をしかめた。シャツを裂いて止血帯に応用したと思しき布きれが、夜目にもそうとわかるほどどす黒く染まっている。
 目を覆いたくなるほど鋭い傷は、両のかかとに刻まれているようだった。それだけではなく、膝下まで、場所を変えて何度も突き刺した痕跡がある。発作的な傷害ではなく、致命傷に至らないよう配慮しながら痛めつけたのだ。重傷の男が弱々しくしか反応を返さないのは、傷の痛みが激甚で、半ば気絶しているためだろう。

「……これは」

 どれだけの素人でも、その足がもう元の機能を取り戻さないことはわかる。すぐに救急車を呼ぶかためらって、高村は遠巻きにしていた命と奈緒を鋭く睨んだ。

「まさか、おまえたちがやったのか」
「違う」と、命が首を振る。
「んなワケないじゃん」奈緒もまた、高村の問いを一笑にふした。「ヤるならもっと上手くヤるって」

 しかし命は刃物を所持し、奈緒に至っては前科がある。馬鹿正直に弁解を鵜呑みにするわけにはいかず、高村は唇を舌で湿した。

「じゃあ、どういうことだ」
「別に。アタシらも今来たばっかだし。ただミコトが急にこっちに行って、その後を追って来たら、もうそいつが転がってただけ。ちなみに、シャツ破いて巻いたのはミコトだから。感謝してほしいくらいじゃない? おかげでカモ逃がしちゃったケド」

 怪我人を前に薄笑いする奈緒の感覚を、高村は計りかねた。
 真実を語っているのかもしれないが、とにかく状況が異様である。異能を持った少女が二人、意図せず傷害事件に関わる。そんな偶然があっていいものか、わからなかった。

「本当か、美袋」
「ほんとうだ」命はあっけなく頷く。疑われている、という可能性を微塵も考慮していないようだった。「恭司、そいつは、早く病院に運んだほうがいい」

 それはその通りだ。しかし、と高村は命の姿を改めて見直した。大きな凶器をかついだ彼女を、他人が善意の通報者として認めるかといえば、ひどく怪しい。

「……なに。もしかしてアタシらを疑ってんの?」険悪な形相で、奈緒が目を細めた。「どうせ、そうでしょ? 見なよミコト。善人面したって、教師なんてこんなもんだからさ。聖職者が、聞いて呆れるって」
「善人面したおぼえはないけど、俺が悪者か? だったら、疑われるようなことをするなよ」高村は慨嘆する。「だいたい、べつに疑っちゃいない。疑う理由がないからな。だったら、当然俺は生徒を信じるさ」
「偽善くさ。だいたいさあ」と、奈緒が被害者を軽蔑の眼差しで見下した。「やくざかなんか知らないけど、こいつ確か、このヘンで粋がってるショボいチンピラだよ。この怪我も、どうせ下らない理由に決まってる。いっそくたばったほうが気分いいくらいじゃん。……ていうか、そっちこそなんでここにいんの? しかも男二人で」
「美袋を探しに来た」
「わたし、を?」名指しされて、命が目をしばたいた。「なぜだ?」
「こんな遅くまで帰ってこないからだろ、ばか。今何時だと思ってるんだ」高村は、軽く命の額を叩いた。「鴇羽が心配してたぞ。遊びに出かけるなとは言わないから、連絡くらいしろ。同じ部屋で住んでるんだからな」
「舞衣が……?」
「ずいぶん落ち込んでたからな。帰ったらちゃんと謝らせて、おまえも謝れよ」
「……でも、わたしは……」

 しょげ返って、命は額を抑え俯いた。

「放っておけばいいじゃん。トキハってルームメートの女でしょ? アンタだって、子供扱いされてウザがってたんだからさ」
「ん……」

 答えながらも、命はだいぶ動揺しているようだった。そんな命を見て、奈緒がつまらなそうに鼻を鳴らす。
 わかりやすいといえば、わかりやすい反応である。徐々に舞衣も含めた構図が見えた気がして、高村は嘆息した。しかしそこに棹差せば、奈緒の過剰な反発は火を見るより明らかである。教師とはいえ、子供の人間関係にまで踏み込む気はなかった。

「ま、とりあえずは救急車だな。止血してあるとはいえ、放っておいていいことはないだろう」

 脂汗をかきながら完全に意識を失った男のポケットから、携帯電話を取り出す。その手を妙な顔で奈緒が見つめていた。なぜ自分の電話を使わないのか、と聞きたいのだろう。

「とんずらするからだよ」自重を心がけたばかりにもかかわらず、説明癖が顔を出した。「俺のを使うと、警察がきたとき、結局おまえたちがどうしてここにいたのか、まで聴取されるだろ。そうなったらうまく言い訳できるか? 俺は無理だ。ただでさえ夜遅いのに、そこまで行ったら面倒すぎる。だから救急車呼んだら、さっさと逃げる」
「誰も聞いてないんだけど。ひとりで何いってんの?」
「……妖精さんに向かって話してるんだよ」

 奈緒の冷笑的な態度に辟易して、高村は彼女を必要以上に構わないことにした。玖我なつきに噛み付かれるたびに逐一相手をするのは、少なからず彼女の境遇を知り、感情移入しているためだ。それに、打ち解けようという下心もある。奈緒に対してまで同じようにする理由もつもりも、彼にはまったくなかった。
 ――いや?
 ふと浮かぶ妙案があった。
 結城奈緒という少女は、意外に使えるかもしれない。
 だが、それはあと回しだ。高村は119番をコールする。壁に貼られた断り状を頼りに住所を伝え、怪我人の容態を報告し終えると――。

「おい、おまえ」黙りこくっていた楯が、真剣な顔で命の肩をつかんだ。「これ、やったやつ、見なかったか」
「……楯?」

 ただならぬ様子である。道中発していた若い殺気を、再び彼はまとっていた。乱暴に命の細肩を揺さぶっては、問い詰める。

「見ていない」不機嫌そうに手を押しのけて、命があっさりと否んだ。「わたしはただ、誰かがここに入った気がしたから、見にきただけだ」
「その誰かって、誰なんだよっ」
「落ち着け、楯」さすがに見かねて、高村は仲裁に入った。「美袋に怒鳴ってもしょうがないだろ。それより、美袋。誰かがここに入ったって言ったな。それは、この倒れてる人か?」
「違う。においが違う。もっと、いいにおいだった」

 即答である。辻褄に不合理を感じて、高村は首を左右に巡らせた。
 行き止まりの壁と、切り立った両側面。そして巨大な錠で閉ざされたビル内部に通じる分厚い扉をのぞけば、彼らが今立っている空間には、たったふたつの道しか通じていない。

「においはともかく、そいつはおかしいな。……結城、おまえらどっちから来たんだ」
「え?……あっち」

 興味なさげに携帯電話を眺めつつ、少し離れた場所で立ち去るタイミングをはかっていた奈緒が指差したのは、高村と楯が現れたのとは別の道だった。
 話を総合して、『獲物』を連れた奈緒たちが誰かとすれ違ったとは考えにくい。そして高村と楯も、彼女らを見つけるまでには誰とも行き会っていない。文字通り、この街の裏面は今宵、無人だったのだ。
 ――じゃあ、いたぶったあとであとで、放置したのか。
 そう捉えるのが自然だ。
 しかし、危機意識がざわつく。何か見落としている気がする。

「あ」

 と、高村は違和感の元を探りあてた。
 ――血だ。
 血液の凝固速度は、普通考えられているよりもずっと速い。少なくない出血だったとはいえ、高村が傷を看たそのとき、血だまりは乾ききっていなかった。その事実が指し示すことはひとつ。彼らが現場に集まったのは、凶行からそう時間を経てはいないタイミングだったということ。
 そして、この場から逃げた誰かを、高村たちはまだ見ていない。
 思い過ごしかもしれない。まともに考えればそうだろう。しかしにわかに緊張して、高村は視線を八方に振りまいく。疑いの目で見れば、資材の山にゴミの集積場にと、潜伏する場所はいくらでもあった。『犯人』が幽霊でないのならば、状況を鑑みて隠れている可能性は、決してゼロではない。

「おい、結城」

 奈緒は、白けた顔で鉄筋に腰掛けていた。呼びかけに応じないことに憤慨する余裕もなく、背を押されるように高村は歩き出した。速まる心拍数に応じて、彼に内在するユニットに火が入りつつあった。血流が加速し、視覚が夜陰に対応する。クリアになった意識は、空間に遍在する違和感の粒子を確かに知覚している。
 もはや錯覚ではない。
 何かが起こる。高村には確信がある。

「……?」

 無言のままに寄ってくる高村に、奈緒が奇異の眼差しを向けた。半秒後、彼女は高村に向けて毒々しい敵意を吐き出そうとするだろう。高村にはその光景がありありと見える。
 予知にも近しい彼の感覚は、ユニットによって拡張された五感の情報が統合整理され、擬似的な六感として結実したものだ。いわば『感性』のデジタル化であり、これはオリジナルの深優にさえ表れていない特殊な機構であった。
 そして、そのシステムが――。

 奈緒の背後に積まれた資材の山を、覆うビニルシートの裏側。
 鉄筋の隙間を幾重にも縫って、直線の精密さで放たれる白刃を、確かに幻視していた。



 ※



 夢を見ていたらしい。覚醒の無常というもので、目を開けたとたんに舞衣はその内容を忘れてしまったが、なんとはなしに幸せなものだったと思い込む。そのほうが楽しいからだ。
 しかし、制服のまま眠りについていたことに気付いて、舞衣は慌てて体を起こした。彼女はベッドの上にいた。部屋は暗く、窓は開け放されて、夜気が冷たい。さらに、ハンガーにはなぜか洗った覚えのない下着が大量に吊るされていて……。

「命、がいない……」寝ぼけ眼をこすり、欠伸しながら思考の再起動を待った。「……あ、そうか。オーファン」
「起きたか」

 眠たげな声が耳を打つ。
 なつきだった。

「ずいぶん疲れているようだな。いびきをかいていたぞ」
「え、うそうそっ。マジで」さあっと血の気を引かせて、鼻を押さえた。「やだぁ、ホントに……?」
「いや、嘘だ」

 しゃあしゃあとなつきが笑う。怒りに任せて、舞衣は枕を放り投げた。

「あんた、高村先生に似てきたんじゃない!?」
「冗談じゃない!」
「あだっ」

 投げ返された枕が、顔面を直撃する。鼻面を撫でて、舞衣は時計を見た。午前二時を十分過ぎている。よほどの夜更かしでない限り、世間の大抵は床に就いている時間だ。舞衣もご多分には漏れず、休みの前日でもなければついぞ起きていたことのない時間だった。

「オーファンはともかく、命、まだ帰ってないんだ。高村先生たち、なんかあったのかな」
「ほとほと心配性だな、おまえも」
「だってしょうがないじゃない。このあたりって結構物騒なんでしょ? あの子だって女の子なんだからさ」
「それをあれが問題にするかどうかはともかく、治安が悪いことは確かだな。通り魔だのなんだのと」
「と、通り魔? なにそれ」
「知らないのか? いや、転校生ならそんなものか。月杜町の辻斬りといえば、一時期はうちの学園でもずいぶん噂になった話だぞ。中等部からのクラスメートか地元の人間にでも聞けば、誰でも知っているはずだ」
「辻斬りって、大江戸操作網じゃないんだから……」穏やかならざる単語とはいえ、危機感に欠けるネーミングである。「どうせ、怪談とかそんなオチでしょ?」
「いや。確かに都市伝説のような話だが、被害者は実際に何人もいるんだ。刀を持った怪人が夜な夜な人を斬っているという証言も、あながち出鱈目じゃない。目撃証言もいくつかあるくらいだからな。――そう、去年の話だったか。執行部も夜っぴて街を見回りしたりもしたそうだ。結果は芳しくなかったようだが……」

 刀、というフレーズに反射的に命の姿を思い出すが、去年の話であれば、彼女が風華にいたはずはない。舞衣は不吉な妄想を打ち消すと、かぶりを振った。

「通り魔事件とか怪物とか地震とか、ホントこの土地ってヘンなんだね」
「だから、さっさと帰れといったのにな」
「また蒸し返すわけ?」
「ふ、冗談だ」

 勝手に淹れたらしいコーヒーをすすりながら、なつきが微苦笑した。揺れる琥珀色の液体の表面に白いものが浮いているせいで、エスプレッソのようにも見える。

「あれ? それウインナーコーヒー? 生クリームなんてあったっけ」
「似たようなものだ。おまえも飲むか?」
「ううん、いいや。夜にコーヒーなんか入れたら胃に悪そう」

 そうか、と掠れた声で返すと、なつきはベランダから見える夜空に目を戻した。目が冴えた舞衣も倣うが、外はまったく静かなもので、何かが起こりそうな予兆の一つも見つからなかった。
 しばらくは無言が続いた。しかし舞衣となつきは、二人きりの沈黙を楽しめるほど親しい間柄ではない。居心地の悪い静寂である。
 友人との宿泊といえば、幼い頃は何か特別な出来事めいて胸が躍ったというのに、十五歳になった舞衣はもう胸が膨らむような期待感をすっかり忘れていた。
 思えば、かつては親友と呼べるような人間が、舞衣にもいたはずだった。しかし父が死去して中学を卒業し、進学校に入学した時点の彼女には、弟とアルバイト以外のほかには何もなかった。
 その後風華学園に移ってからは、寮暮らしということもあってほとんど以前の環境からは断絶してしまっている。五月のフェリー沈没事件で携帯電話を紛失したせいで、状況が落ち着いたら連絡すると伝えておいた友人たちと渡りをつける方法も失われてしまった。
 いや、卒業アルバムを引っ張り出せば、連絡先はわかるはずだ。どこにしまったかな、とぼんやり舞衣は考えた。しかしすぐに、仮住まいにしていたウィークリーマンションを出る際、寮に持ちきれない本の類は全て換金するか処分してしまっていたことに気付いた。

 仕方ないか――。

 舞衣は自分でも薄情すぎはしないかと勘繰ってしまうほど、過去の人間関係にすんなり見切りをつけた。もう出会うこともないだろうし、それに中学最後の一年間など、とにかく慌しかったことしか記憶にない。受験に父の死に、将来の不安。その全てに追い立てられて、少女らしく友人たちと気楽に遊ぶ事など到底考えられなかった。
 それでも、近くにはたくさんの人間がいたはずである。どんなことを話したかな、と考えて、舞衣はややいびつに微笑んだ。
 がんばって。応援してるから。大変だね。
 そんな労わりの言葉ばかりが、記憶に浮かんだ。みな不幸な舞衣の境遇に同情した。仕方のないことだった。逆の立場であれば、舞衣も同じ反応しかできなかっただろう。子供は経験に乏しく、憐憫も直截的な形でしか表すことを知らない。まっすぐなそれらの善意はありがたくもあったが、しかし最終的には、舞衣にとってはただの重荷にしかならなかった。
 だから今の舞衣は、ごく平凡な少女然とした振る舞いを心がけている。
 きっと、目の前にいる玖我なつきなどには無縁の悩みなのだろう。そう思うと、胸から遣る瀬無さがこみ上げた。
 なつきがむっと眉を吊り上げた。

「なんだおまえ。人の顔を見てため息をつくな」
「ごめん。……はあ」
「そんなに眠たければ寝てもいいぞ」舞衣の悄気た顔を眠気のためだと勘違いして、なつきがいった。そう言う彼女自身も、目蓋がずいぶんと重そうだ。
「ううん。別に眠くはないんだ。今ちょっと寝たし。そのせいで体はちょっとだるいけど」
「……アルバイトか。わたしは特にしたことはないが、そんなに疲れるものか?」
「日による。お客さん多いと、やっぱしんどいよ。ああでも、ヒマなほうがキツイってときもあるかなぁ。忙しいと時間流れるの早いけど、退屈だと時間流れるの遅いし」

 それなりに興味がある話題なのか、もしくはただ眠いだけかもしれないが、なつきは大人しく聞き入っていたあと、

「熱いストーブに手を置いた一分間と、魅力的な少女と過ごす一時間」と言った。
「なにそれ?」
「アインシュタインの言葉だ。前者は一時間にも長く感じられ、後者は一分間のように短く感じられる。相対性、の話だな。楽しい時間はあっという間に過ぎる、という慣用表現があるだろう? 忙しいというのは、充実している、ということだ」
「やっぱり、ちょっと高村先生の影響を受けてない?」
「そんなことはない」若干むきになって、なつきが反論した。「第一わたしは理系だ。あいつは完全に文系じゃないか。……それよりもだ、おまえ、風花奨学金を受けているだろう。支給はあまり多くはないかもしれないが、学生ならわざわざあくせくバイトをする必要はないんじゃないか?」

 強引に話を戻すのは、やはり高村の話題を避けるためなのだろう。舞衣は悪いと思いつつ、失笑してしまう。
 口で言うほど高村を嫌っているようにも思えない。しかしやはりあの教師が、なつきは苦手なのかもしれない。舞衣の目から見ると高村に構いつけられる彼女は楽しそうに見えなくもないのだが、そこは当人同士の問題であろう。指摘しても、否定されるのは明らかだった。

「おい、聞いているのか」下唇を突き出して、なつきが憤りを表現する。
「あ、うんごめん。アルバイトだよね。えっとね、確かに奨学金はいっぱい貰ってるんだけどさ。色々将来のこととか考えて、貯金しなくちゃならなくてさ」

 弟のことは、あえて理由には挙げなかった。なつきが同年代に比べれば充分に思慮深いことは承知している。しかしどうしたところで当て擦りに聞こえてしまうし、他人に聞かせて好転する問題でもない。

「あんたは、バイトとかしないの?」
「そんなヒマはない」なつきはにべもなく言い切って、携帯電話で現在時刻を確かめた。「……もう三時か。くそ、どうして現れない」
「今夜は諦めたら?」
「そうはいくか。絶対に取り返す」

 なかば他人事なので舞衣は気楽である。しかし、命がいまだ帰宅していないことは憂えていた。
 野宿程度なら平気な顔でこなしそうな命だ。身の安全については舞衣もさほど心配してはいないが、逆に何かしでかしていないか、と不安になる。特に、なつきのように敵と見れば命は容赦を知らない。妙な真似をしてきた相手を、あの物騒な剣で斬り殺しかねないのだ。

「ありうる……」ぞっとして、呟いた。「ねえ、玖我さん。高村先生のケータイ番号とか知らないの」
「知るわけ」

 ない、と一蹴しかけて口を閉ざし、不服そうに訂正した。

「……知ってる。かかってきた、今日。あいつのほうからだからな。わたしが教えたわけでも聞いたわけでもない」
「わかってるって。じゃ、ちょっとかけてみてよ」
「おまえがかけろ」

 顔を背けて、なつきが手の中の携帯電話を投げて寄越す。それを危なげなく受け止めて、おや、と舞衣は内心で呟いた。携帯電話はプライベートのかたまりである。他人に内部の情報を見せることを極端に嫌う人間も珍しくない。舞衣も無断で覗かれれば気分を害するタイプだ。
 かの玖我なつき嬢は秘密主義に見えてオープンなのかと、認識を改めかけて電話帳を開いた瞬間、舞衣はそれが誤りであることを悟った。
 登録件数が、たったの六件だったのだ。
 うわぁ、と絶句し見てはいけないものを見た心境で、舞衣はそそくさとタ行の頁を表示させた。『高村』の名前は『タヌキ』の上にあった。タヌキは好奇心に訴えかける何かを発していたが、鴇羽舞衣は人並みに礼儀を重んじる少女である。自制して、目的の名前をプッシュした。
 ほどなくスピーカから呼び出し音が鳴り出す。しかし、いつまで待ってもそれ以外の音は何ひとつ聞こえなかった。やがて留守番電話センターに接続されると、舞衣は渋面で切ボタンを押した。

「だめだ。出ないや。まだ探してるのかな」
「案外、寝てるんじゃないのか。こんな時間だ」
「それはないと思うけど……」

 判別しにくいところはあるが、高村は基本的に真面目な男である。やると言った以上、やるだろう。
 またあとで掛け直すことにして、舞衣はなつきに電話を返そうと顔を上げた。

 ――オーファンがいた。

「……」

 開け放たれた窓から、小柄なのにちっともかわいげのない物体が侵入していた。丸く見開かれた赤い眼が忙しなく動き、リスザルのような前脚が器用に動いてはぱちんぱちんと洗濯バサミに留められた下着をあっという間に改修していく。Tバック、シュミーズ、ズロースにキャミソールにスキャンティ。あたるを幸いに、めくら滅法持ち去られる。
 なつきはまだ気付いていない。彼女のコレクションが秋の稲穂のごとく収穫されているというのに、うつらうつらと船を漕ぐ呑気ぶりだ。
 そしてついに、大枚はたいて購入した、舞衣のブラジャーもオーファンの毒牙にかかる。

「あ」と舞衣は言った。
「あ?」となつきが繰り返す。
「ああ」
「ああ?」
「あああァーッ!」スプリングを軋ませて、舞衣はベッドの上に立ち上がる。「出たっ、出たぁーッ!」
「なにっ!?」

 ことここに至ってようやくオーファンの気配を感知して、なつきが振り返る。
 そして「ひっ」と息を呑んだ。
 彼女の目と鼻の先で、大方目的を果たしたオーファンが、下卑た笑いを浮かべた――と思うや否や、目にも留まらぬ速さで跳躍し、窓から夜空へ踊りだした。

「あっ、待て!」

 なつきがエレメントを具現し、ろくに狙いもつけず乱射する。甲高い音を立てて窓ガラスが粉砕され壁に穴が穿たれるも、銃弾はオーファンを捉えない。
 しん、と室内が静まり返った。だがそれは束の間だ。
 顔を見合わせ、すう、と息を吸い込むと、示し合わせたように二人は叫んだ。

「わたしのコレクション!」
「あたしのブラッ!」



 ※



 死ぬ、と思った。

 ――軌道は奈緒の右鎖骨を通り、高村の心臓を目掛けている。狙いは俺か。一瞬で高村は理解する。M.I.Y.Uは既に起動していた。もはや五体は羽のように軽く、躱すだけならば何通りもの対処法を実行できる。反撃も可能だろう。しかし高村は、稼いだ時間的有利のすべてを、奈緒の体を退けることに費やした。

「きゃっ」

 実行には一秒もかからない。だがそれだけで形勢は一気に不利へ傾いた。小さく悲鳴を上げて奈緒が転がるのを見届けず、高村はおのれに迫る刃を凝視する。絶命の死線はまっしぐらに飛ぶ。闇の奥の奥に、殺意の火が破裂した気がした。
 半身を捻り、急所を右手でかばう。直後、痛みというよりは冷気が、深々と手首に侵入した。懐かしくも忌々しい、それは死の気配だ。
 果たして、そのまま胸に吸い込まれるはずだった刃先が金属補強された右尺骨の思わぬ強度により逸れたのは、僥倖以外の何ものでもない。期せず生まれた時間的空白に、高村は人間が反射によって為しうる最速の命令をねじ込んだ。
 すなわち、筋肉の収縮である。
 強靭に練り上げられた繊維が、束の間刃の自由を奪う。
 前腕を抜けて肩口に突き刺さった切先が、圧力にたわんだ。
 目先の救命を採っただけの、それはほとんど自傷行為だ。手先には神経が集中している。絶えがたい痛みを感じるというよりは想像して、高村は歯を食い縛った。腹筋に力を込め、余勢を駆って半身の姿勢からさらに反転し、腕から刃――剣先を引き抜きつつ、渾身の蹴りを目前の鉄筋に打ち込んだ。攻撃ではなく、間合いを取るための一手である。
 痺れるような手応えから、山が崩れ始めたことを彼は悟る。
 派手な音が路地裏に響き渡った。
 奈緒が高村に押し退けられてから二秒が経っていた。

「いった……」

 地面に尻餅をついて、奈緒が顔を上げる。彼女はまず目の前の高村を見、彼の右腕がだらりと下がって指先から血を滴らせているのを見ると、咄嗟に危険を感じてその場から飛び退いた。天性のものだとすれば、卓越した反射神経と判断力のなせる技だった。
 しかし、彼女の軽業に感心している時間はなかった。
 もはややり過ごす気は失せたのか。凶刃の主が、鉄筋の影から姿を見せていたのだ。高村も期待はしていなかったが、さすがに崩落に巻き込まれるほど鈍くはないらしい。

「……何? こいつ……」奈緒の右手にはすでにエレメントが現れている。夜狩りを前にした猫科の猛獣のように、彼女の瞳孔が拡大していた。

 季節はずれの外套。胸襟は開かれているが、それも躰の線が出る類の服ではなく、性別はわからない。
 顔は目出し帽の上にフードまで降ろされて、人相は定かではない。
 右手に握られた柄から伸びる三尺余りの殺意は、あまりにも如実であった。
 視界さえ確保できているかは怪しいのに、柳のように不安定な足場から地面に降り立つと、音もなく刀を青眼に構えた。

「……月杜町の、辻斬り?」

 誰ともなく、怪人の正体を言い当てたとき――。

「――テメェッ!」

 楯祐一が、その場の誰にも先んじて動き出した。拳を握り、一直線に覆面へ走り出す。
 丸腰での、帯刀した相手への突撃は暴挙以外の何ものでもない。ましてや怪人は、高村を殺すのに何ら躊躇を見せなかった。それは街中で遭遇するにはあまりに理不尽な脅威である。
 このままではみすみす彼を死なせることになる。高村は色を失い、楯に呼応した。
 本音では、奈緒か命をけしかけたい相手だった。彼は一合で理解していたのだ。怪人は相当な使い手である。大人しく逃げ出してくれないのなら、この場での最大戦力をもって当たるのが最善の策だ。

「くそっ」

 高村の血を吸ってなお、夜目に白々と濡れる妖しい刀身の輝きが、ゆらりと揺れた。握りを片手に変えて、切先が高村を牽制するように動いたのだ。日本刀の間合いは三メートル近い。真正面から素手で相手取るのは、高村にとっても至難を通り越して不可能に近かった。
 それでも高村が刃に身を晒せば、少なくとも楯をかばう動きにはなる。
 膠着は、しかし刹那に満たなかった。
 殴りかかった楯の動きは、予想外に洗練されたものだ。勢いも充分だった。突き出された拳は正確に怪人の顎先を狙っている。直撃すれば、人体構造上脳震盪は免れない。
 だが、楯の手が怪人に届くことはなかった。
 直撃を前にして唐突に鳩尾を押さえ、苦しげにうめいて膝を突いたのだ。
 高村は、すぐにその意味を悟った。
 ――鞘か。
 抜き身で刀を持ち歩くはずはない。腰か背中に差していたものを、咄嗟に利用したのだろう。ゆったりと余裕を持って再び青眼を付ける怪人に、高村は相対する。
 ネクタイを解きながら不気味な敵の向こうで嘔吐し始める楯を見、とりあえず死んではいないことを確認すると、集中を切らないまま、背後の奈緒に告げた。

「結城。あれ呼んでくれ。チャイルドってやつ」
「は? なんでアンタにそんなこと――」
「頼んだぞ!」色好くない答えを待たず、高村は仕掛けた。

 無為無策ではない。それでは楯の二の舞だ。接近に反応して刃が微動した機を逃さず、高村は左手に忍ばせた携帯電話を全力で投擲した。顔面に向かうプラスチックの固体には、相応の重量と強度がある。当たればただでは済まない。
 目論見どおり、怪人は回避に移る。すると必然的に、常に急所を付けねらっていた刀のラインがわずかにずれた。
 好機である。構わず突きに来る刃筋を往なすのは、こうなれば容易い。対応できない突きの軌道とは、初手のように悪夢的な直線のみだ。
 それでも、刃に触れた背広の袖は深々と切り裂かれた。皮も一枚や二枚は持っていかれただろう。布地の断末魔を耳にしつつ、高村は入り身する。
 奇策を弄し間合いを盗んでも、まだ打撃が届く距離ではない。
 残り半歩を、だから高村は力技で押し込んだ。
 異常な速度で戻る刃の背にネクタイを巻きつけた右手を滑らせると、刀身の中ほどで――真剣を、握ったのだ。
 ぶつりと音がした。
 ネクタイが裂かれ、そして指に刃が食い込んだ証だ。右足を怪人の股下に滑らせた瞬間には掌握を解いたため切断には至らなかったが、既に少なからぬ傷を負った右手である。もう、この場では使い物にならないだろう。
 だが、敵の拍子を狂わせることには成功した。峰に血まみれの掌底を滑らせ鍔元を右下方に押し込み、高村は腰を駆動させる。
 ――腹が丸見えだ。
 左拳を固め、槍に見立てて打ち出した。
 渾身の一撃は、しかし半ば不発に終わった。驚くべき俊敏さと決断力で、怪人はなんと自らさらに間合いを詰めたのだ。古タイヤを殴りつけるような感触と同時に、高村の左手首に鈍い痛みが走った。
 みごとに打点を狂わされた拳打にも、悶絶する程度の威力はあるはずだった。しかし怪人は死に体の高村を鍔で押しやる余力をいまだ有し、わずかに鈍った体捌きで後退する。

 その背後を、命の剣が襲った。

 対オーファンとは違う、ものも言わぬ接近であった。完全なる不意打ちである。大剣が大上段から唐竹割りの軌道で振り下ろされるのを見て、高村は思わず声を上げた。

「馬鹿! 殺しちまうぞ!」

 愚かしくもそれは、怪人を助ける結果を招いた。体よりも早く跳ね上がった刀が、命の得物を迎え撃つ。業物同士のぶつかりあいに、高村は火花を幻視すらした。
 体重で圧倒的に劣る命の体勢が崩れ、弾き飛ばされ、たたらを踏む。その隙が致命傷になった。命が構えなおしたそのときにはもう、怪人は長すぎる彼女の剣を足蹴に封じていたのだ。

「くっ」

 しかし、常軌を逸した光景はその後にこそ待っていた。
 命が、踏む怪人の体ごと、剣を持ち上げたのである。
 は。高村は呆気に取られる。なんだ、こいつら。雑技団か。

「ふ――ッ!」

 怪人の体が宙を舞う。とんぼを切って着地したその首を目掛けて、命の一撃が横薙ぎに奔る。
 それを怪人の刀は、最小の動きで翻弄した。仰角で剣の腹を叩き軌道を変え、さらに蛇のように刀身をうねらせ柄を掴む命の手を狙う。異常な反射神経で右手を離す命。だが片手の握りは、次ぐ怪人の渾身の一撃に耐え切れなかった。
 音を立てて、ミロクと呼ばれる命のエレメントが地に落ちる。

「美袋、よけろッ!」

 叫びは届かず、茫然とその様を見送る命の腹に、怪人が放った柄尻の一撃が吸い込まれた。軽い彼女の体は朽葉のように飛び、アスファルトに転がる。命は咳き込むと、すぐにぐったりと動かなくなった。

「野郎……!」

 地を掻いて、高村は彼女への追撃を防ぐために走り出す。その背後から――。

「――じゃま」

 声と共に、一閃が飛んだ。
 慌てて高村が体を倒すと同時、紅い糸が深々と夜を切り裂いた。
 固い地面も、金属のパイプも鉄骨も、区別されず真っ二つに切り裂かれた。縦横無尽に軌跡は疾り、触れる何もかもを切断する。奈緒のエレメントによる仕業に違いなかった。どれほど体術に卓抜しようとも、射線にいれば到底逃れえない範囲攻撃である。
 怪人はしかし、悠然と刀を収めると、足下に落ちていた命のエレメントを手に取った。風鳴りもなく迫り来る輝線を前に、大剣を振りかぶる。
 そして、一刀――。

「嘘」

 弦を弾くにも似た叫びのあと、奈緒の放った糸はことごとく両断されていた。
 怪人の行動はそれだけに止まらなかった。担ぐように命のエレメントを構えると、呆気に取られ、立ちすくむ奈緒めがけ、槍さながらに投擲したのだ。

「あ――」

 風を切って剣が飛ぶ。奈緒の細身を串刺しにする軌道で黒い刀身が疾る。
 それを叩き落としたのは、高村の腕だった。
 身を起こし、ずれた眼鏡を正して怪人を眇める。
 紛れもない殺意を少女に向けた。これ以上なく高村の癇癪を刺激する、それはやり方だ。

「今、なにしてくれた、おまえ」あまりの怒りに引きつり笑いさえ浮かべて、高村は言った。「結城は確かにろくでもないコギャルだけど、あのままだったら怪我じゃ済まなかったぞ」
「いやいまどきコギャルはありえないし……」素面で呟いた奈緒が、ごまかすように咳払いして、爪型のエレメントを軋ませた。「――でも、確かにいまのはムカつくよね」

 にじり寄る。と、怪人の横手で既に命も起き上がっていた。血の混じった唾を吐き捨てて、双眸鋭く敵を見据える。

「来い、ミロク」

 一声、彼女が静かに呼ぶと、高村の足下で剣が慄え、意思あるかのごとく舞い上がり、主の手中へ自ら舞い戻った。

「ってぇ……くそ」

 最後に楯が口を拭いながら、混乱しつつも怒気にまみれた表情で立ち上がる。
 四者に囲まれ、納刀した怪人はやはり反応らしい反応を見せなかった。顔といい躰といい隠されているのだから、見分けようがないともいえる。あまり考えたくないことだが、単純に動揺を引き出せていないという可能性もまたあった。追い詰めたようでいて、実際はひと繋がりの攻防を終えただけの構図だ。楯は言わずもがな、負傷した高村にもさほど余力はない。もう一度同じことして、上手く行く保証もなかった。
 見極めが肝要だ。高村は油断なく、相手の行動に注意する。
 しかし拍子抜けするほどあっけなく、覆面の辻斬りは身を翻すと、その場から走り去ったのだった。鮮やかな逃走だった。

「――待てっ」

 命がただひとり追う気配を見せたが、数歩も行かないうちに膝が折れ、再び地面に転がった。先ほど腹部に受けた痛手が響いている。

「あ、あれ? おお、なんだこれは。く、くらくらするぞ?」
「無理するな、美袋。いたた……」すっかり自分の血にもまみれた高村の手が脈打ち始め、本格的に痛みだした。「くそ、俺もまた病院だなこれは。うわ、ほんとに痛ってえ……。結城は怪我してないよな。楯、大丈夫か?」
「俺は、平気ですけど……」ふらつきながら近寄ってきた楯が、高村の惨状に顔を伏せた。「すんません。俺キレて、なんだかわかんなくなっちまって。先生にこんな……」
「何言ってんだ。気違いに刃物は明らかにあっちだろ。おまえは悪くない」あまり情けない姿を生徒に見せるわけにもいかない。見栄を張り高村は気丈に笑った。「それより、あれだ。たぶんそのへんに俺の携帯が落ちてるからちょっと拾ってきてくれ。壊れてないといいけど」

 素直に頷く楯はひどく落ち込んでいるようだが、やはり混乱からは脱しきれていないようだった。明らかに異常な奈緒や命について、まだ疑問が及んでいないのがその証拠だ。どちらにしろ説明は求められるだろうが、それは高村が憂慮するべき筋にはない。煙に巻けばいいだけの話である。

「よかったな、奈緒」不思議そうに覚束ない膝を眺めながら、命が朗らかに言った。
「何がよ。ちょっとミコト、ふらふらしてるけどアンタ本当に平気なの?」
「わたしは大丈夫だ、ん。鍛えてるからな」
「あっそ。で、何がよかったって?」
「さっきのことだ。二回とも、恭司がいなければ奈緒は危なかった」
「……別に」

 とたんに不快そうに黙り込む奈緒を、高村は努めて見ないようにした。恩を着せようと思ってしたことではない。そもそもそんな態度を見せれば、奈緒は即座に高村の排斥にかかるだろう。触らぬ神にたたりなしを、暗黙裡に高村は決め込んだ。

「ありました。はい、これ」良いタイミングで、浮かない顔の楯が携帯を手に戻ってきた。
「悪いな。……ああ、大丈夫だ、よかった」

 渡された携帯は細かな傷が増えていたものの、ともあれ壊れてはいないようだった。安堵の息をつくと、高村は疑念に満ちた視線に気付く。

「なんだ、楯」
「いや、その、なんていうか」口ごもって頭を掻き、楯は乱暴な口調で続けた。「ワケわかんねーんですけど」
「何が?」
「あいつらもそうだし」と、命と奈緒をちらと眺める。「先生も……ああ、なんだろ。なにから聞けばいいのかわかんねえ。とにかく全部、意味わかんないんス」
「そんなのは俺も同じだ」なげやりに、高村は答えた。「おまえこそ、あの変態的な通り魔とは知り合いか? 見つけた、とか言ってたな、さっき」
「それは……」

 恣意的に狙った、楯の繊細な部分に触れる質問だった。言葉を濁し、口数を減らす。

「俺から言えるのは、あんまり関わらないほうがいいことが、この世にはたくさんあるってことだ」それだけ言って、高村は地面に寝ころがった。血が流れたせいで、立っているのが辛くなったのである。「とにかく、俺は疲れた」
「ちょ、ちょっと先生。死んだりしないでくださいよ」
「大丈夫だ。たぶん」

 狭い夜空を見ながら答えると、高村は近づきつつある救急車のサイレンに気付いた。それで電話をかけてからまだ数分しか経過していないのだと気付き、慄然とした。時間の相対性を濃密に実感し、ビルの根から見上げる空の狭さと、今は見えない赤い星の存在を想った。

「楯。この路地入り組んでて救急隊員も見つけにくいだろうから、ちょっと道路の方に出て誘導してきてくれ。あ、あと怪我人がもうひとり増えたことも伝えてな。大丈夫か?」
「それくらい平気です」切り替えは早いほうなのだろう。いまだ足取りに障害を残しながらも、楯は言われたとおりに動いた。

 残ったのは高村と少女二人、そして員数外に気絶したままの怪我人がひとりである。
 反動をつけて上半身を起こすと、高村は奈緒と命に「早く帰ったほうがいいぞ」と告げた。

「おまえらのことまで説明するのは面倒だ」
「言われなくてもそうするけど?」奈緒はさっさと歩き去ろうとする。

 しかし命は、不安げに高村を見つめた。

「……なあ、恭司。舞衣は……」
「だから、心配してた、っていってんだろうが」煮え切らない命は、見ていてもどかしい。高村の口調も少しだけ乱れた。「早く戻って、安心させてやれ。いや、案外、おまえがいないせいで困ってるかもしれないぞ」
「困る? 舞衣が?」
「なんか玖我とオーファンを倒すとか言ってたけど、まあ、それとは別にさ」呼吸を整え、話す。なるだけ平易に、わかりやすく、それでいて、強い言葉を選ぶのだ。「鴇羽はおまえを子ども扱いするかもしれないけど、あいつだって子供だし、完全じゃない。美袋がいて、手伝ってやれることがある。そうだろ?」
「たとえば、なんだ……」命は納得行かない、という顔つきだった。
「ご飯をおいしそうにたくさん食べるとか」
「そんなものでいいのか?」
「そんなものでいいんだよ。いいからじゃんじゃん喧嘩くらいしろ。言いたいことは言え。譲れないものは譲るな。それでも、ひとりで塞いでるよりずっとマシだ。美袋のおじいさんだって、よくおまえが悪さをすると叱ったんだろ?」
「――うん」在りし日を懐かしむように、命は目を細めた。
「そしたらおまえは、家族を止めたか?」
「そんなことはしない」

 慌てて、首を振る。

「じゃあ、鴇羽にもそうしたらいいんじゃないかな」高村は頷き、追い払うように手を振った。「ほらいけ、しっしっ。帰って寝ろ。こんな時間まで起きてると不良になるぞ」
「うんっ」大きく頷くと、ミロクを抱いて命は天真爛漫に笑った。「なあ、恭司」
「なに」
「恭司はオセッカイだな!」

 そう言い残すと、工事現場を遮るトタンをやすやすと乗り越え、命は風のように走り去った。

「……なぜだ」
「いわれてやんの」ひとり居残った奈緒が、含み笑いで高村を見下した。「ザマないね」
「なんだと不良」命にオセッカイなる語彙を吹き込んだ根源を、高村は直観的に察した。「おまえさ、美袋と遊ぶにしてももうちょっとビギナーから入ってくれよ。あいつが将来悪女になったらどうしてくれる」
「おまえとか、キモいから馴れ馴れしく呼ばないでくれる?」
「……俺、そこまで嫌われるようなことをしたかな」
「べつに」満足したのか、奈緒もまた踵を返すと、エレメントから糸を伸ばした。「じゃ、バイバイ、センセイ」
「あ、いや、その前にちょっといいか、結城」蜘蛛のように糸を伝い頭上高く登っていく奈緒を、高村は呼び止めた。「結城は、金が欲しくて美人局してるのか?」
「は? また説教? いい加減ウザいよ、アンタ」

 少女の二面性。擬態を使いこなすということは、正常な社会性を保っているということでもある。凶暴な一面がたとえ本質であろうとも、評価が変わるわけではない。周囲が奈緒の外面に対して下すのと同じく、それは彼女自身にとっても括りである。
 奈緒が持ち、発散する敵意には方向性があった。打ち解けるには攻撃的に過ぎるが、距離を取って相利用しあうことならば、お互いに可能かもしれない。

「そうじゃない。もし金が欲しいなら、バイトしないかってことだ」
「冗談。だまってたってバカな男が財布貢いでくれンのに、なんだってわざわざ――」
「報酬は五千万だ。日本円で、五千万。冗談じゃないぞ。そして仕事は、俺の護衛」
「……え?」

 金額の大きさを計りかねてか、奈緒が年相応に幼い声を上げる。

「断っても別に構わない。話を聞く気になったら、いつでも言ってくれ。ただし、創立祭までにな」

 空中で体を固定したままの奈緒は、不審を全身で表現していた。

「……そんな話、誰が信じると思ってんの? バカみたい。教師の安月給でそんな金どっから出てくるのよ」
「いや、給料じゃない。だけど別に、信じなくてもいい。そう思うんなら、聞かなかったことにして無視してくれ。悪かったな、変なこといって」

 結城奈緒という少女がそう単純な性格をしているとも思えない。しかし彼女は、舞衣や命になつきといった他のHiMEたちとは、明らかに立脚点が違う。
 そこが付け入る隙になるかもしれない。
 近づく人の気配を感じ取って、高村は脱力した。
 眠りにつくわけにはいかないが、なにしろ深夜も深夜である。
 携帯電話が振動を始めたが、出る気分にはなれない。夜に浮く赤い少女を最後に目に焼き付けて、高村恭司は目蓋を閉じた。



 ※



 命が寮にたどりつくと、まさに玖我なつきと鴇羽舞衣がオーファンと交戦している場面に出くわした。
 舞衣は巨大なオーファンの触手に絡め取られ、なつきのチャイルドも身動きが取れず、戦況は思わしくない。
 ――何かを考えるより先に、躰は動いた。
 命はミロクを供に、舞衣を縛るオーファンを切り裂く。

「ミコト!」

 脱出した舞衣が嬉しそうに自分の名前を呼ぶのを聞くと、胸の中にある〝なにか〟が昂ぶった。

「なにやってたのよ、もう、バカ!」

 昂揚に身を任せ、剣を振るう。先刻打たれた腹には、実のところまだ痛みがあった。しかしそんなものはまるで気にならず、躰は自在に動く。
 オーファンの巨体を翻弄し、攻撃を加えるうちに、なつきのチャイルド、デュランが自由を取り戻した。
 鬱憤を晴らすかのごとく魔狼が吼え、砲撃し、チャイルドを撃滅すると――。
 夜空を、たくさんの白が飾った。
 肌触りのいい布地が舞い降りる。

「わたしの、コレクション……」

 膝を屈して涙声になるなつき。舞衣もぼろぼろになった布切れを手に、切なそうにため息をつく。
 が、すぐに命に向き直ると、その胸に彼女の頭を抱きしめた。

「おかえり。心配したんだから」
「……ん」
「高村先生に会ったの?」
「会った」
「ふうん。あとでお礼いっておかなくちゃね」
「恭司に……」
「ん、なに?」
「舞衣が、わたしを心配していると聞いて、帰ってきた」
「するわよ、それは。あたりまえじゃない」少し怒っている、舞衣の口調だった。「今度あたしになんの断りもなく夜遊びしたらお弁当もう作ってあげないからね」
「そ、それはいやだ!」慌てて、命は舞衣にすがりついた。「しない、もうしない」
「あはは。現金なんだから、もう。……えっと、あのさ。昼間……」いいかけて、舞衣は途中で止める。「ねえミコト。ごはん食べた?」
「……食べたけど、おなかすいた」
「しょうがないわねえ、あんたは。それじゃまだ朝ごはんにはずいぶん早いけど、夜食でも食べる?」
「食べる」

 歩き出しながら、じゃあなにが食べたい、と舞衣が訊ねた。
 なんでも。舞衣がつくるものならなんでもおいしい。いつもならば命はそう答える。
 けれど今夜は、いつもとは違うのだ。

「ラーメンが食べたい」
 
 はにかむように、命の腹の虫が鳴いた。









[2120] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/09/17 09:44



4.Edge




 赴任から一ヶ月を経て、高村恭司の授業の評判は実にまちまちである。散見できる法則性のひとつに、彼の授業を「面白い」「個性的」「退屈しない」と認めるものは大方が基礎学力が高いか、でなければ教養はあるのに学力が今ひとつ振るわない生徒である、というものがある。反面「つまらない」「わけがわからない」「自己満足」という至極もっともな評価を下すのは、古典や勉強自体にあまり興味を抱かない生徒である。
 悪貨が良貨を駆逐するのと同様、風聞においても悪評は好評に先駆ける。よって何をどうしたところで、これら生徒の声が早晩保護者や同僚に伝わることを防ぐ手立てはない。特に名門私立ともなれば職員の意識が偏っていることもあり、噂の伝播はよく避けえないのであった。よっていまだに、高村は上役に地味に説教を受けているらしい。

 ――とは、鴇羽舞衣の級友である〝学園の消息筋〟こと原田千絵が自ら社会科準備室に突貫して得た情報である。聞き役に徹していた舞衣は、古典の授業を前にした中休みを一言で締めくくる。

「先生も大変なのね」
「舞衣ちゃん、適当だね」

 苦笑するのは、同じく舞衣のクラスメートの瀬能あおいである。

「だって、終盤趣味に走ってるのは事実じゃない。テスト前の最後の授業なんか、もうやることないからって言ってえんえん安部公房の話してたじゃない。古典関係ないっつーの」
「それはたしかにねえ」と、千絵がいう。

 高村の聖職に対する態度はとうてい真摯とはいえないものの、大喜びで常識のメーターを振り切ろうとする杉浦碧に比べればまだハードルが低いというのが一般的な評価だった。幸か不幸か、〝美人で若い〟という形容詞のつく碧が相手では、地味な高村では印象が薄いといわざるを得ない。
 しかし期末テストを終え、いよいよ創立祭が一週間後に迫ったこの日、右腕を包帯で吊って一年A組に現れた高村は憔悴しきっていた。そのときの姿を思い出したのか、あおいが右斜め上の中空に丸い瞳を向ける。

「そういえば先生、また怪我してたよね。あれなんだろう」
「先月も頭に包帯巻いたりしてたし、意外と粗忽なのかね、カレ」と、千絵が言う。事故とのことだが、具体的な怪我の原因は彼女の耳にも届いていない。「まあ私としては、怪我よりも精神的な疲労のほうが気になったな。あれはきっと、怪我のせいで噂の年上彼女に相当絞られたに違いないよ」
「また年上彼女とか勝手に決めちゃって……。だいたい、そんなの見ただけでわかるわけ?」
「もちろん」己の観察眼を誇るように千絵は頷く。

 高村に恋人がいるというやはり千絵発の情報に、当初は半信半疑だった舞衣である。ところが現在ではやや信に傾きつつあった。その理由は高村恭司の身だしなみだ。変わり映えこそしないものの毎日欠かさずのりの効いたシャツを着込み、ネクタイもいまだ同じものを見た、という報告がないとなれば、確かに同居人の存在が疑わしくもなる。
 この事実を受けて、牽強付会な『高村教諭、世話女房と同棲』説は誕生したのだった。ちなみに単純に意外と几帳面なだけ、というあおいが提示した可能性は、千絵により言下に否定されている。

「いくら高村先生が神経質であっても、よほど病的でない限り怪我をしているときにまでそんな余裕があるとは思えない。そしていいかね舞衣くん、あおいくん。男ができると女は変わる。それは逆もまた真なり」千絵は含み笑いでそう言い、続けてこうも言い放った。「というわけで、私はこの説にはかなーり信憑性があると思うんだよね」
「思うんだよねって、それ千絵が広めてる話じゃないの?」
「うんにゃ。碧ちゃんに聞いた。飲みに誘うと、かならずどっかに電話してるんだってさ」
「あたしはそれで一気に信じる気が失せたわ」
「あ、あたしも……」

 舞衣とあおいが揃って苦笑いすると、まあねと言って千絵は肩をすくめ、話題の転換を図った。

「ところでもうすぐ創立祭だけど、舞衣は誰か呼んだりするの?」
「え? ――うん。弟とか、呼ぼうかなって」
「そうなんだ。でも舞衣ちゃんの弟さんって……」

 あおいが若干声をひそめて、気遣わしげな表情をつくる。クラスメートの中で特に親しくなった彼女と千絵に限っては、薄々ながら舞衣の事情を察しつつあった。

「うん、あんまりからだ、丈夫じゃないんだけどね。でも最近は結構元気だし、順調に行けば二学期からは編入も考えてるからさ。創立祭には遊びに来なっていってあるんだ」
「へえ、それは楽しみだ。ウワサじゃ、弟さんカワイイって話じゃない?」努めて何気なく振る舞う舞衣に、すかさず追従したのは千絵である。「ご来場のあかつきには、ぜひ、お姉さまが品定めしてしんぜよう」
「要らないってば」内心でフォローに感謝しつつ、舞衣。「だいたいどっからそんな話聞いたんだか」
「なになに、舞衣ちゃんの弟さんってそんなに可愛いの!?」

 自称『可愛いものに目がない系女子高生』であるあおいは、やや過剰に食いつく。その勢いに腰を引きつつも、舞衣は不敵に笑った。

「まあちょっとね……ていうか、かなり美少年?」
「……姉バカ」

 ぼそりと呟いたのは、隣席で突っ伏していた楯祐一だった。

「誰がバカですってぇ?」とげとげしく、舞衣は舌を出す。「だいたい、ホントのこと言ってるだけじゃない。あんたもあのとき見たでしょ、うちの弟」あのときとは五月、フェリーでの話である。「自慢じゃないけど文句のつけようがない美少年よ、うちの巧海はっ」
「見たけど、それを平気で言える神経が姉バカなんだっつーの」
「ぐっ」

 もっともな意見だ。舞衣は言葉に詰まった。
 前後して、教室の全部の戸が開かれる。
 高村恭司の到着だった。もちろん、右手は相変わらず吊っている。
 ざわついていた生徒たちは一斉に口を噤み、舞衣もなんとなく居住まいを正して、高村がのろのろと教壇に登る様に注目した。

「今日はまた、昨日までに輪をかけて眠そうだ」

 後席の千絵が、興味深そうにささやく。彼女ほど好奇心旺盛ではない舞衣は苦笑をこぼすだけに止めた。
 肝心の高村は、大儀そうにため息をついてプリントを置くと、

「濃緑なのに黒板とはこれいかに」

 といって白墨を取り、荒い筆跡で大きく、教室内の誰の目にも明らかな二文字を黒板に書き殴る。
『自習』とそれは読めた。
 利き腕でないにしては、それなりに見られた字であった。

「というわけで、申しわけないけど今日は自習です」

 予定外の吉報に、生徒たちがざわめき始める。舞衣も嬉しいといえば嬉しいが、どこか腑に落ちなくもあった。なにしろ高村の眼鏡の下には濃い隈取りが表れていて、顔色も優れない。ありていに言って、病人の顔であった。

「プリント終わったら日直、今日はグリーアか、が回収しておいてくれ。で、それをあとで社会科準備室に持ってきてくれるか?」
「かまいません」

 深優・グリーアが抑揚に乏しい音程で了解する。大抵の教師は非の打ち所のない優等生然とした彼女に苦手意識を持つのだが、高村にはまったくそれがない。同窓生にも難儀な、学園きっての才女にわけ隔てなく接するという荒業をごく自然体でこなすのだ。
 舞衣自身は確認したことはないが、二人には事前に面識があるらしい。さらに深優と高村、それに初等部の神童と誉れ高いアリッサ・シアーズを合わせた三人が昼食を囲んでいる姿も、幾度か目撃されている。鑑みて、高村本人というよりはその周辺の顔ぶれに、どうやら千絵の琴線に触れる話題の種はあるのかもしれない。

「それじゃ、悪いけどあとよろしく。あんまり騒ぐなよ」

 と、おざなりに手を振って、高村は足を引きずるように退室していく。その背中さえ褪色しているように見えるのは、茹だる暑さのせいだろうか。
 ぴしゃりと引き戸が閉じられると、ため息混じりのざわつきが教室に染みていった。その中で楯祐一が呟いたひとことは、なぜかはっきりと舞衣の耳を刺した。

「結局、何ものなんだよ、あの人」
「……?」

 声はかけないまま、横目で楯を窺う。頬杖をついた顔はしかめられていたが、前に座っている少女が振り向くと、あからさまに相好を崩した。スケベめ、となぜか面白くない気分で呟いて、舞衣はふと思い出した。
 つい先日のことだ。彼と同じく、浮かない顔で思いつめ、何かを腹の底に溜め込んでいた少女を見た覚えがある。

 舞衣の隣のクラスにいる友人で、アルバイト先の同僚でもあるその彼女の名は、日暮あかねといった。



 ※



 つまり結城奈緒は、派手に動きすぎたのだった。
 風華は発展こそしているが、基本的に人の出入りに乏しい。都市部より、はるかに新陳代謝で劣るのだ。よって過激な行動を繰り返せば、奈緒の顔が売れるのは道理である。チャイルドを利用した追い剥ぎ行為はなぜか表沙汰にこそなっていないようではあるが、その存在は水面下で囁かれ始めている。

 意趣返しを試みようと徒党を組んだ連中に誘き出されたことが、ほんの二日前にあった。
 もちろんすぐさま返り討ちに処したが、愉快な事態ではない。
 なんなく凌いだトラブルとはいえ、まんまと騙された怒りも含め、その夜の奈緒の報復は苛烈を極めた。集団の強みなのか、ジュリアを見てすら角材やナイフを手に向かい来る男の姿を見れば、手加減をする気も失せる。
 とはいえ、奈緒はHiMEである。身体機能もかつてに比べ向上されていた。だから止まった的を落とすような感覚で、命知らずをいたぶるには充分であった。結果奈緒の体には傷ひとつ付くことはなく、怪我人の山が築かれたのだ。
 実を言えば、はじめに血を見た瞬間には、体温が下がる感覚があった。
 しかし腕を振るうたびに苦悶の声をあげ倒れ伏す男たちを前に、体は熱を帯び始めた。
 全能感に酔い痴れて、奈緒はこれだ、と思った。カネなんかどうでもいい。そりゃあるに越したことはないけれど、そんなのよりも、あたしはこっちの方がいい。ずっと楽しい。バカな男、バカな女、バカな大人、バカな世界。それが、この力のおかげで変わった。すっきりした。自由になった――。
 我を失いつつあったのだろう。
 あわや男の一人に取り返しのつかない傷を刻もうとしたすんでで、制止が届いた。

「そのへんにしときなよ、奈緒ちゃん」銀髪の少年。炎凪だった。路地の壁際に詰まれたビールケースに座っている。「それ以上やったら死んじゃうよ、この人たち」
「かまうもんか」と奈緒は夢心地でいった。「こんなやつら死んだって、どうせ誰も困んない」
「きみは困るんじゃない? だって、人を殺したら人殺しだ。犯罪者だよ。いくらHiMEとはいえ、この法治国家でそんな真似はまずいんじゃないかなぁ。まあ、奈緒ちゃんはまだ中学生だし? 意外とその法律が守ってくれるのかもしれないけど、ね。ほら、いつかの人たちみたいにさ」
「――あ?」

 戯れるような言葉の意味するところを悟って、奈緒は思考を停止させた。
 冷や水を浴びせられ、火照っていた全身が急激に冷却される。
 ――知っているのか。
 驚愕に眼をみはって、奈緒は端整な細面を歪めた。
 ――こいつ、知っているのか。
 骨格ごと歯の軋る音と敵意が、口から漏れ出した。

「あ、んた。なんで、そのこと」
「なんのこと?」凪は空とぼける。邪気なく笑い、ワイシャツの胸ポケットから折りたたまれた紙切れを取り出した。「あっれー、おっかしいなぁ。こんなところに、誰かが捨てた葉書があるよ。ええ、なになに。おや偶然、宛名は風華学園女子寮の結城奈緒さまだって。それで差出人は、県立総合病院脳外科の――おぉっ?」

 手心はまるで念頭になかった。殺意を浸透させたエレメントによる糸の乱撃を奈緒は繰り出す。が、慌てふためきながらも転がって、凪は無傷で立ち上がる。

「ヒドイなぁ、いきなり」薄笑いを浮かべ、指先に挟んだ手紙を振る。
「……うるさい」
「こわい顔。せっかく可愛いのに、それじゃあ台無しだ。男の子もいまのきみを見たら、近寄ってこないよ」
「うるっさいんだよッ!」

 半ば叫び、双眸を尖らせる。追撃を仕掛けるために、奈緒はエレメントを凪へと突きつけた。
 しかし、少年の姿はなかった。
 消えたのだ。コマを落としたように。

「え――」

 声は頭上から降ってきた。

「HiMEの力を好きに使うのは、まぁいいよ。今までだってきみみたいな子はいたんだ。げに恐ろしきは人知を超えた能力!――そんなの貰って自分のために何にも使おうとしないのは、この世界じゃ逆に不健全なのかもね。ま、ぼくはそういう子のほうが断然好みなんだけどさ」

 見上げれば、虚空に炎凪の姿がある。浮いているのではなく、灯りの切れた街燈を足場に立っていた。吊りあがった猫のような瞳に、怜悧な光が揺れて奈緒を見下ろしている。うそ寒さを覚え、奈緒は知らず後退した。

「でもね、やりすぎはいけない。あんまりおイタが過ぎると――」

 まばたきの死角にひそみ、凪は再び姿を消した。
 奈緒の背後に気配が生まれる。咄嗟のことに振り向けず、奈緒はただ立ち尽くす。

「お仕置きだ」

 その凄味には、息を呑ませる何かがあった。

「なんなの、あんた」振り返らないままに、奈緒は疑問をぶつけた。「HiMEの何を知ってんの? あたしに何やらせたいわけ? ハ、でもお生憎、あんたが何考えてようと関係無い。あたしはあたしの、好きにやる。命令なんてまっぴらよ。いい? クソガキ。今度あたしの邪魔をしたら、……オシオキされるのは、あんたのほうだよ」
「怖い、怖い」こたえた様子もなく、凪はいった。「まあ、こっちも脅しじゃないからね。実際むちゃが行き過ぎると、かばうのにも限界はある。因果応報って言葉、忘れないようにね。結局は奈緒ちゃんの自由意志だけど、気には留めておいてよ」
「……」
「――あ、そうそう。高村センセになんか言われてたみたいだけど、悪いことは言わないから、カレにはあんまり近寄らないコト。センセ、悪い人じゃないんだけど、なんだかちょっと――ま、いいか。それじゃ、夜道には気をつけてね」
「高村って、アイツが何だって、……」

 ようやく振り向くと、そこにはもう、凪の影さえ残ってはいなかった。
 いや――。
 しわだらけになった手紙が一切れ、落ちていた。苦りきった顔でその紙屑を見下ろすと、奈緒は指を伸ばし、拾い上げる。
 昂揚は完全に消えていた。そうなれば転がる男たちに、玩具としての価値すら見いだせない。

「――吐きそう」

 呪詛を紡ぎ、手紙を破り、捨てようとして思いとどまり――ポケットに納めた。奈緒は病的な眼差しを夜に投げかける。光沢のない闇は残らず彼女の悪意を吸い込む。だがもちろん、何ひとつ返しはしなかった。



 ※



 石膏の白色と血液の赤色が水に溶ける。そして排水口へとまだらに流れ込む。ひとまず血が止まったことを確認すると、高村はプラスティックのコップに汲んだ水で口腔をゆすぎ、顔を洗った。
 真正面の鏡台は、世辞にも健康とは見えないおのれの顔を映じている。ため息を落として歯ブラシを手に取ると、高村は左手でリズミカルに歯を磨き始める。右腕ほど重傷ではないものの、実は左の手首も捻挫している。終始痛みをこらえながらの作業であった。
 授業中、高村以外に誰もおらず静まり返った社会科準備室に来客があったのは、ちょうどそのときである。てっきり深優・グリーアが予定を前倒ししてやってきたのかと思った高村は、ピンク色の歯ブラシ咥えたまま訪問者を出迎えた。
 結城奈緒だった。

「……ぎゅうき」結城、と発音したつもりである。
「なんで歯磨きしてんの」

 と、開口一番奈緒は言った。夜行性らしく、日中は下手に刺激さえしなければ気だるげなだけの瞳が、やや危険な光を放っている。なんだなんだと構えつつ、用件は、と高村は尋ねようとした。

「ぎょうけんは?」
「決まってんじゃない。例のハナシ。聞きにきたんだけど」
「ちょっひょまっへくりぇ」ちょっと待ってくれ、と発音したつもりである。
「……口にモノいれて喋んないでよ」
「うぐ」

 疲労と不眠のせいもあり、高村の思考はやや算を乱していた。とりあえず歯磨きを終えると、タオルで口を拭いて奈緒に着席を勧める。ふてぶてしい態度で腰を降ろす彼女に首を捻りながら、

「なんか飲み物でも飲むか」と高村は言った。
「いらない」
「紅茶、コーヒー、ジュースのどれがいい? あと昨夜準備会が持ち込もうとしたのを没収したビールと梅酒もあるけど、これ生徒に飲ませると馘首になるからアルコールはダメだぞ」
「いらないっつーの」
「じゃあジュースな」
「……」

 自宅では同居人のためにことさら不備を実感しなかったものの、いざ独りでなんらかの作業をこなそうと思うと、片手での準備は存外難儀である。タンブラーに氷と飲み物を注いでいると、不自由なのが右手ということもあって自然と過去のことが思い返された。
 振り切るように、さて、と吐息する。背広の内ポケットから常備している内服薬を取り出し、汗をかきはじめたコップを前に沈思した。薬剤の正体は強度の睡眠薬である。もちろん、医師の処方箋がなければ購入できない種類のものだった。
(鴨がネギしょって、てやつだけど)
 死角から奈緒の様子を窺うと、手持ち無沙汰で準備室を見るともなく見ているようだった。大抵の生徒は職員室に属する場にいれば萎縮するものだが、奈緒にそんな様子はない。役者が違うということだろう。
 高村が個人的に接点を持つ少女は、どこか浮世離れしていることが多い。それだけに、奈緒のような現代的、しかも十代なかばの少女と授業以外の空間を共有するということに、少しの抵抗があった。

 教師と生徒を隔てるのは、年齢差に加え、さらに『立場』である。つまり社会における役回り。同じ空間で酸素を共有しようとも、両者は懸絶する。例外はあろうが、そこを弁えないものは、教師として長く勤めることはできない。高村が履修した教職単位の授業は、『体罰の厳禁』とともにその種の教えを手を変え品を変え一貫して言い聞かせたものだ。
 高村の心象において、結城奈緒はどこか、玖我なつきに近しく感じられた。ふたりとも他者を遠ざけ、自身の領域を重んじる。またコミュニケーションの形式が、攻撃に傾倒している。触れるものには、まず排斥することから始めるのだ。どこか小児的な感性である。
 一方で、奈緒にしろなつきにしろ、HiMEなどとは関係なく、同年代と比べて優れた社会感覚や能力を保持してもいる。また性質は違えど、自ら恃むところが篤い。明らかに違うのは、なつきにとっての防壁が奈緒にとっての武器であるという一点だ。そしてどちらにも共通しているのは、外面的な要素としての秀麗さである。

「身も蓋もないな。これだから美形ってやつは」

 一言ぼやいて、高村は手中にあった水溶性のタブレットとオブラートに包まれた粉末を、残らずコップへと落とした。成分の調整が激しい炭酸ジュースならば、おかしな味もさほど目立たないに違いない。
 これでもう後戻りは出来ない。さっそく鎌首もたげた罪悪感に胸が悪くなる。高村は己の小心を呪おうとして、思い直した。もちろん心がけひとつで何が正当化されるわけではなくとも、些末だろうと悪行に心を慣れさせてはいけない気がした。小心は、だから汚泥の中一点の白なのだ。まったく私的なこだわりから、高村はそれを失いたくなかった。
 さらに砕いた氷を追加し充分にかき混ぜると、トレイを手に何食わぬ顔で奈緒のもとへ戻った。
 黙って差し出されたタンブラーを胡散臭そうに奈緒は見つめるが、十秒もそのままにしておくと、根負けして手に取った。温度差に締め上げられて、氷がからんと鳴いた。
 ガラスの表面に結露した水滴を目の当たりにして、そういえば商店会から差し入れされたチョコレートがあった、と高村は呟いた。案の定、冷蔵庫の奥まった場所に、色紙で包装された上リボンまで添えられた容器が隠されていた。いつの間にか貼られていた『みどりちゃんの』と書かれたメモを引き剥がすと、奈緒に見せて振ってみせた。

「デルレイじゃない」準備室に踏み入れて初めて、奈緒が陽性の反応を見せる。
「食べるか?」
「……くれるっていうんなら、もらう」
「ついてるな、買うと高くつくって話だぞ」
「そのサイズなら、四千円くらいするけど」
「本当か?」手の中の長方形を、高村はまじまじと観察した。「茶請けにしては高級だな。まあ、いいか」

 中身にはカカオの香る、見るからに高級といったチョコレートが十個並んでいた。単価四百円の計算である。その内ひとつを恐る恐るつまみ、一口に行くべきかそれとも味わうべきかと扱いあぐねていると、

「それで、バイトの話だけど」早々とひとつ平らげた奈緒が、やおら口火を切った。

 値踏みの視線を真向から受けとめて、高村は椅子に深く座りなおした。

「そうだな。まず確認しておこう。俺のところに来たってことは、少なくとも話を聞く気にはなった、ってことで構わないか?」
「念のため言っておくけど、まだ信じたわけじゃないから」
「わかってる。まあ、そう構えないで、話を聞いて判断してほしい」

 そこまで言うと一度眼を閉じて、高村はどう交渉するか、一寸黙考した。この段階で結城奈緒がこちらの話に乗ってきたのは、正直なところ意外である。可能性としては考慮していたものの、もう二手三手絡める必要があると判断していたのだ。結局その場では妙案浮かばず、正攻法で攻めようと決意した。

「順を追って話をしようか。俺が結城に頼みたいことってのは、護衛だ。これは言ったな、確か」
「聞いたけど、いったい何から守れっていうわけ?」
「オーファンだ」小細工は放棄して、単刀直入に高村は告白する。

 コップの口に唇を寄せていた奈緒が、眼を真丸に開いた。

「……どういうこと?」
「どうしても調べたいことがあるんだ。だけど、それを進めようとすると必ずオーファンの邪魔が入る。だから、オーファンを退治できるHiMEに守ってもらいたい。それで、その間に俺は用事を済ませたい。要はそれだけの話だ。報酬が大きいのは、危険手当とそして口止め料、あとはそれだけ重要な調査だって思ってもらえればいい」
「ふうん。それでごせんまん、ね」
「ああ。耳を揃えて五千万かっていうと微妙だけど、とりあえずそのくらいまでなら出せる。もちろん、一括ニコニコ現金払いってわけにはいかないから、受けてくれるならいくつかに分割して渡すことになるけど」
「それは今はいい。現物がなきゃ意味ないし。それよりさ」

 疑わしげな眼差しが、鋭くなる。一切の虚偽を見逃すまいとでもいうように。

「その、調べたい事ってのはなに?」
「色々ある。総括すると、HiMEのこと、オーファンのこと、そしてこの土地、つまり風華学園のこと、だな」
「……HiMEだとかオーファンだとかは、まあわかんなくもないけどさ。このガッコ叩いてどうすんの。何があるわけ」
「何がある、って」思わず、高村は吹きこぼした。「あからさまに怪しいだろう、この学校。HiMEを集めて、起きた事件をことごとく世間の目から隠して、オーファンの存在だって公表もしない。まだまだあるぞ」
「そういうことじゃなくて」やや苛立ちを見せて、奈緒。「どういう意味があるのか、ってこと」
「それについては、もうちょっと話を遡らなきゃならないかもな」待っていたとばかりに高村は軽く笑む。「まず結城に聞きたいんだけど、君はHiMEについて何を知ってる?」
「何をって……超能力みたいなもんでしょ」
「ロマンだよな、超能力。だけど、そんなに生易しいもんだと思うか? スプーン曲げたり透視したりするようなレベルじゃないぞ、HiMEの力はさ」唇を湿して、高村は続ける。「玖我なつきの話によれば、高次物質化能力、がHiMEの訳らしい。読んで字のごとく、〝なにもない〟を〝もの〟にする能力ってわけだな。これは簡単に言ってるけど、とんでもないことだ。超能力、の一言で納得するのは、ちょっとどうかと思うぞ」
「別に。テレビの中身を知らなくても見れるのと一緒じゃん」

 得たりと、高村は奈緒の言葉に大きく頷いてみせた。

「そう。まさしく、インターフェースの問題だ。エレメントやチャイルドを生み出す仕組みがテレビだとすると、結城や玖我、それに美袋はリモコンってことになる。HiME能力者は、生まれつきチャンネルの回し方を知ってるんだ。ということは、能力者以外でも、その方法さえわかれば同じ超能力者になれるかもしれない」
「……」

 奈緒は既に白眼である。若干呆れられていると自覚したが、興が乗ってきたところだ。構わず高村は喋りつづける。

「だから、もちろんそんな便利な力があれば、当然研究してる人たちもいる。そうして解き明かされたHiMEの原理はこうだ。能力はなぜか日本人の女性、しかも十代前半から二十代前半の年代にだけ見られ、さらにこの発現にはR25と呼ばれる遺伝子が関わっている、と。そしてエレメントやチャイルドという存在は、能力者が潜在意識に飼っているアルター・エゴである、と」
「それ」奈緒が言った。「初耳だけど、実際なんもわかってないのとどう違うのよ」
「鋭いな、結城。その通りだ。実際は、なにひとつわかってなんかいないのさ。少なくともこの説明じゃ、肝心なところは判らないままだ。エレメントも、チャイルドもオーファンも、もちろんHiMEの仕組みそのものについても」高村は苦笑して、指摘の正しさを認めた。「このR25ってのは近年までジャンクDNAとされていた。が、研究によりこんな役割が……ってもっともらしい論法に騙されるわけだ。玖我なんかは鵜呑みにしてるみたいだが、理系脳の弊害かもな。健全だってことでもあるんだろうが」
「……」

 話す間にも、奈緒はふたつみっつと高級チョコレートを口に放り込んでいる。瞳はやや眠たげに、とろんと潤んでいた。

「この論説は、オーファンの存在を無視している。結城も知ってるだろうが、オーファンとチャイルドっていうのは同じものだ。本質的にどうのなんて話じゃなく、一から十までそっくりだ。違うのは、HiMEを主に戴くか、戴かないか。それだけでな。同時に、HiMEの力とは、チャイルドの力とも言い換えることができる。よって、オーファンを解き明かすということはHiMEの正体に迫るために欠かせない手順でもあるわけだ。そもそも、高次物質化とはどういった現象なのか? 力学的な法則は俺にはわからない。相当な科学者にだって、しかしわかっていない。マテリアルのイリアステル。仲介を担うHiME、すなわち巫女が――結城?」
「……あに?」はっと顔を上げた奈緒の呂律は怪しい。首の座らない赤子のように、頭部が揺れている。「……え、なに、コレ……なんか……」
「なんだ、これからだってのに眠いのか。連日連夜夜遊びしてるからかな」高村はいった。「それともこのチョコレートのせいかな? ウィスキーが、ちょっときついみたいだけど。まあボンボンで酔うやつなんてそうそういないか。って、おい結城、結城?」

 名前を呼んでも、反応はない。なぜならば、奈緒はすでに意識の大半を夢中に遊ばせていた。目元の震えは睡魔への抗いか。しかし奮闘むなしく顎が完全に落ちれば、あとは呆気なかった。高村のデスクに腕を枕に突っ伏して、寝息を立て始める。
 高村は五分待った。
 その間に、奈緒は完全な眠りへと落ちていた。

「不眠症って話なのに、睡眠導入剤の常用者ってわけじゃないみたいだな。じゃあちょっと量が多すぎたか。……効き過ぎな気もするけど、処方は守ったからまあ大丈夫だろう。……たぶん」

 後頭部を見おろしながら呟くと、準備室の戸を施錠して、高村は準備に取りかかる。
 手早く三角巾を脱ぎ、高村は奈緒の腰と足へ両手を回した。軽い、と彼は思った。彼女がまとう色気の萌芽とでもいうべき雰囲気からはかけはなれた、細い、肉付きに欠ける体つきだった。そのまま、脱力した肢体を来客用のベンチシートに乗せる。目ざめる気配はまるでなかった。活力に溢れる若い肌だからこそ見た目には気付きにくいが、奈緒の精神はともかく肉体は、やはり充分な眠りを欲しているのだろう。なにしろ成長期である。

「しかしまるっきり変質者だな、これは」

 自嘲の呟きは、緊張を紛らわせるための軽口でもある。高村はさらに間断なく行動した。ロッカーに置いた自前の鞄から、数枚の用紙とポーチを取り出す。ポーチの中身はアンプルと注射キット、そして用紙の内容は九条むつみ謹製の注文状である。
 慣れた手つきで人差し指大の注射器を左手に持つと、高村はケースに密封された替え針をその先端に取り付けた。脱脂綿にアンプルのオキシドールをふりかけ、針を拭き、奈緒の腕を取る。露出した二の腕にゴムチューブをそっと巻きつけ、白い肌に血管が容易に透けて見える関節の継ぎ目を、やはり脱脂綿で消毒した。血行の促進のためというよりほとんど儀礼的に、皮膚を指で叩く。そして完全にポンプを押し切った針を注射し、採血した。赤黒い静脈血が、見る間に注射器の中へ吸い込まれていく。目方で一杯になったところで、静かに針を引き抜いた。その間、奈緒は声どころか表情も変えなかった。

「エレメントも出してくれるとありがたいんだけど」傷口を拭きながら、安堵ともに呟いた。「そこまで行ったら望みすぎか」
 
 キットを再びポーチにしまうと、緊張が解けたせいか、額に汗が滲み出した。時計を見ると未だ終業までには間がある。無防備に眠る奈緒を前に、高村は考え込んだ。打てる手は打っておくべきだ、と自分を納得させるようにひとりごちた。
 と、妙案がひらめいた。
 これはやるしかない。そんな気分が彼の背中を押した。
 いにしえにいう、魔が差した瞬間である。

「よし」

 準備室には、仮眠する教師のためにということなのか、なぜか寝具が一式そろっている。かといって仮眠室に相当するようなスペースはないので床で雑魚寝かシートの上かということになるのだが、今はそのあたりは考えずとも差し支えない。部屋の隅の収納から布団を運び出すと、高村は床にそれを敷いた。
 弾むような足取りでシンクへ向かい、コップに水を汲む。取って返し、実に楽しそうな顔で寝そべる奈緒の尺を布団と比較すると、おおよそ腰の位置と思われるあたりに、コップの中身を撒いた。当然、布団の綿は見る間に水分を吸い込み、染みは立派な世界地図となった。
 そして、仕上げである。高村は再度奈緒の体を抱え上げた。貴婦人にもそうはしないだろうという丁重な手つきで、少女の体を染み付きの布団に寝かせる。さらに様々な角度から検証し、いかに迫真の『寝小便した結城奈緒(15)』の画を作り上げるかに腐心した。納得の構図が出来上がると彼は満足そうに頷き、あとは無表情に私物のデジタルカメラで艶姿を激写した。無断の採血などよりはるかに犯罪的な男の姿がそこにあった。
 十枚ほどアングルを変えて撮影すると、高村はデジタルカメラと仕事用のノートパソコンとをUSBケーブルで接続し、データを余さず退避させた。さらにノートパソコンから自宅のパソコンのアドレスにバックアップしようとして、さすがにそれはまずいと思い直す。結果、一度だけプリンターを稼動させたあとで、高村は全てのデータを消去した。要ははったりさえ効けば問題ないのだ。

「保険、保険」と言い訳がましく口にした。

 証拠を処分し終えると、計ったようにチャイムが鳴った。深優・グリーアがプリントを持って来訪する予定を思い出し、彼は慌てて部屋を出た。



 ※



 短い中休みの合間である。社会科準備室がある棟は、静まり返っていた。足音ばかりが規則的に響いている。
 深優・グリーアが課題を抱え廊下を歩いていると、常よりも心拍数が高い高村恭司が、どこか浮ついた調子で向かいからやってきた。

「やあ、悪いな。問題はなかったか?」
 深優は頷く。「隣のクラスから一度クレームが来ましたが、概ね平穏な授業風景でした」
「まあ、そんなものか。こっからは俺が持っていくよ、プリント。ありがとう」
「しかし、先生は怪我をしていますが」冷めた目で深優は指摘する。「指、手首、肩の刺傷が総計十八針。さらに右尺骨の亀裂骨折に左手首の捻挫。これはデータベースに照らし合わせても重傷にカテゴライズされます。安静にするべきではないでしょうか」
「男だから、平気なんだよ」高村は苦笑する。
「ジェンダーの差はこの場合無関係かと思われますが。精神論は、常に有効とは限りません」
「いいから、いいから。深優は女の子だろ」

 と、高村は深優の腕からプリントの束を取る。これ以上の進言は個人の主義主張に関わるものだと了解し、深優は口をつぐんだ。そしてこの場合いうべき言葉を検索する。

「……ありがとうございます」
「どういたしまして」なぜか嬉しそうに、高村は返礼した。「それより、聞きたいことがあるんだけどさ。この学校に山岳部ってあったっけ?」
「山岳部……ええ、あります。ただし活動はあまり活発ではないようですが」
「いや、あるなら問題ない。そうか、あるか。部室の場所とか、わかるか?」
「ええ」

 深優はよどみなく部室棟の中から山岳部が占めるスペースを挙げる。高村はそれを一度でおぼえ、今度は彼がありがとうと言った。いえ、と深優は答える。

「それじゃ、またあとでな」

 踵を返しかけた高村を、深優は必要最低限の音量で呼び止めた。

「高村先生」
「ん?」
「対象がもうひとり捕捉されました」深優は単純明快に事実のみを告げた。「そして本国からの指令です。近々、まずは一騎を落とせと。プロジェクトもその方向で修正を図ることになります」
「……ここでそんなこと話していいのか?」苦慮に分類される表情で、高村がうめくようにいった。

 深優は肯う。

「盗聴の心配はありません。詳しいことは後ほど、お父さまからうかがってください」
「――そうか。わかった」瞳を閉じ、開くと、高村は軽い調子で言った。「なあ、深優。実は創立祭の慰労会のロケハンを頼まれててさ、それで明日か明後日あたり美星海岸に下見に行こうと思うんだけど、深優もアリッサちゃんと一緒にどうだ?」
「海、ですか。私と、アリッサお嬢さまと、あなたで?」
「そう。三人で」

 深優は真意を探るように、レンズの奥の瞳を見つめ返した。高村は動じない。

「そんな場合ではないでしょう」理知的な返答は、常の彼女のものだ。
「こんな場合だからこそ、だよ」それもまた、常の彼らしい答えだった。
「アリッサさまのご予定は、ご本人が――」
「きっといいって言うさ、彼女なら」
「……」

 確かに、あらゆる演算は二つ返事でのアリッサ・シアーズの了承を支持している。だが〝なんとなく面白くない〟ものを感じて、深優はつっけんどんにいった。

「でしたら、私からあなたとお嬢さまに何か申し立てる意思はありません」
「じゃあ、決まりな。詳しいことが決まったら、電話する」

 そう言って彼が立ち去ったあとも、しばらく深優は動かずにいた。不可思議な心の動きというものに、彼女は戸惑っていたのだ。
 高村恭司。主人が心を許し、自身への接し方も他と一線を画す男に対し、深優は不明瞭な『感慨』をしばしば持て余す。それは彼女がアリッサに寄せる暖かな感情とは異なる、二面性の想いである。
 深優の知らない深優を、彼は知っている。
 知るはずのない彼を、深優は知っている。
 未発達のプログラムが綾を成す。格子模様に翻弄されて、まだしばらく、深優はその場に立ち止まって『いたかった』。



 ※



 結城奈緒が目を醒ますと、そこはベッドの上だった。

「え?」

 驚きもあったとはいえ、抵抗なく目蓋が開いたのは実に久しぶりである。十時間も眠ったかのような熟睡の感覚に忘我して、奈緒は布団の中で寝返りを打つ。
 横臥する薄暗い空間には見覚えがあった。シングルベッドを囲むパーティションにかかったカーテンにもだ。紛れもなく、彼女が授業をたびたび抜けてもぐりこむ保健室の寝台だった。

「なんで……」

 記憶が繋がっていない。不安な面持ちで、奈緒は腕を眼前にかざした。独特の空気と体内時計が、時間帯の深いことを彼女に教えていた。冴えながらも快眠に名残を惜しみつつ上半身を起こし、携帯電話で時刻を確認すると、既に午後七時を回っていた。放課後どころか、いつもならば寮か町で暇を潰している時間帯である。
 鼻腔をくすぐり食欲を刺激する化学調味料のにおいを嗅ぎ取って、奈緒はベッドから足を下ろしカーテンを開けた。そこにいたのは、保険医の鷺沢陽子ではなかった。染髪した長めの髪をアップでまとめた薄着の女が、カップラーメンを前に手を合わせている。

「お、起きたか」女、杉浦碧は奈緒の視線に気付くと、にっと笑った。「ごめんね、創立祭の準備で怪我した子が出とかでさ、陽子いま付き添いで出てるから。んで、あたしが替わりに留守番してるのー」
「はあ」

 一度保健室に居合わせた碧に仮病を看破されて以来、独特の性格とあいまって奈緒は彼女を得手にしていない。なおざりに返事して、奈緒はさっさと場を辞そうとした。なぜ保健室にいたのかはわからないが、碧と二人きりで留守番などごめんだった。

「それじゃあたし、帰ります」
「あ、ちょっと待った待った」麺を啜りながら、碧がはふはふと吐息した。「結城奈緒ちゃんでいいんだっけ? キミのこと、恭司くん、ていうか高村先生ね、が運んできたんだけどさ」

 高村恭司。
 眠る前の自分が誰といたかをすぐに思い出し、奈緒は血の気の下がる思いを味わった。ほぞを噛み、咄嗟に着衣の乱れを確認する。異常はどこにも見あたらなかったが、何をされたかわかったものではない。なにしろ奈緒は眠ってしまったのだ。その間のことは、高村にしか知れない。
(よりにもよって、男の前で!)
 強張る奈緒の胸裏を見透かしたように、碧は落ち着いた笑みを浮かべた。 

「過剰反応だなぁ。大丈夫だって、恭司くん人畜無害だから。せいぜい面白いイタズラされてるくらいデショ。落書きとかさ。これに懲りたら、無防備にオトコのコの前で寝たりしちゃ、もうダメだよー」
「……っ」

 落書きと聞いて、奈緒はポケットの手鏡で顔を確認する。碧があっけらかんと言った。

「なぁーんにもないよ。今のはたとえだよ、たとえ」
「……帰る」
「だから待ってって。美少女なのにせっかちだなー、奈緒ちゃんってば。実は、話があるから目覚ましたら待っててもらうように言っといてって頼まれてるんだ。恭司くんも陽子たちと一緒に病院行って、もうちょっとで帰ってくるだろうし、悪いけど待っててくんない?」
「いやです」

 答えて、奈緒は上履きに足を通す。誰が持ってきたものか、私物のポーチは空いたベッドの上に置いてあった。これで教室に寄る必要はなくなったというわけだ。カップを手放さない碧を一瞥すると、足を出口へと向けた。
 戸が開いた。

「戻りました」高村だった。鷺沢陽子ともうひとり、中等部の生徒らしき詰襟姿を伴っている。「やあ。結城。目を覚ましたか」
「……どーも」

 毎度なんてタイミングの悪い男だろう。心中ひそかに毒づきながら、奈緒は高村を眇めた。チョコレートを食べてからの記憶がどうにも曖昧なことが不審だった。ありえないとは思うが、一服盛られた可能性も否定できない。また、『何もされていない』という碧の弁も到底信じられなかった。
 結城奈緒は、潔癖症というわけではない。性にうといわけでも、それそのものを毛嫌いしているわけでもなかった。彼女はただそれらを見下げているだけだった。そして自身を取り巻いて離れない負の感情の全ての行き場として、まともに頭を働かせばありえそうにもない、甘い話に食いつく愚かな男を置いていた。
 奈緒は知っていた。成熟に遠い女の春をめあてに大枚をはたく男が巷に溢れていることを。そしてその種の男が自分を前にどれほど好色そうな顔をするかを。無害そうな顔をしていたところで、高村とて肉と欲とをそなえた汚らわしい男には違いない。意識のない、無抵抗な自分を前にして、高村が何を思い、見、触れたのか――想像するだに総毛立つ。軽蔑と敵意をあからさまにしかけて、しかし奈緒は何とかそれを抑制した。授業を抜けわざわざ高村のもとに向かったのには、それなりの狙いあってのことだ。今だけでも、表面的に大人しく振る舞っておかなければならない。
 高村の背から顔を出した陽子が、ずるずるとスープを飲み込む碧を見て、眉を吊り上げた。

「杉浦先生! 保健室でそういうの食べないでください! においが残るでしょう、においが!」
「ええ? どうせ消毒液くさいじゃんこの部屋。中和、中和」
「とんこつのにおいのする保健室なんて近寄りがたいわよ! 食べるなら外で食べて!」
「今食べ終わりまぁす」
「あの」

 戯れあう碧と陽子を前に居づらそうにしていた詰襟の生徒が、高村に向かって軽く手を挙げた。

「なんだ、尾久崎」
「オレ、そろそろ作業に戻ります。わざわざ病院まで手間かけさせてスイマセンっした」

 尾久崎と呼ばれた生徒は、長髪をうなじでひっつめにした、声や細身も合わさってユニセックスを思わせる顔立ちをしていた。ただし物腰や言葉遣いは非常に体育会系で、どことなく不均衡を連想させる佇まいである。

「いや、こっちこそ個人的な用事に付き合ってもらって済まない」腕を吊ったままで、高村が器用に肩をすくめた。「ただの打ち身でよかったよ。そっちも大事にな。ああ、それと……」
「はい?」
「俺が言えた義理でも筋でもないんだが、もしよかったら、暇なとき、近くに立ち寄ったときでいいから、彼のところ、遊びに行ってやってくれないかな。俺はこれからちょっと忙しくて足を運びにくくなるだろうし、どうも、尾久崎ともっと話したがってたみたいなんだ」
「はあ。えー、あー……」合点が行かないという顔で、尾久崎が頭を掻いた。「別に先生の親戚ってワケじゃねーんですよね、あいつ」
「友人というか、同好の士というかだな。ダメか?」
「まあ、別にオレは構わないですけど。暇なときでいいっていうんなら」
「そうか」と高村が破顔した。「じゃあ、頼むな」
「……うッス」

 頷くと、失礼しました、と一礼して、颯爽と姿を消してしまう。どさくさに紛れてそれに倣おうとした奈緒を、高村が呼び止めた。

「どこへ行くんだ?」
「帰るに決まってるじゃん」奈緒は答えた。「もう七時でしょ」

 ふーん、と呑気な相槌が打たれるのを待たず、奈緒は高村の傍らを通り過ぎて保健室を出た。常の消灯時間は過ぎているというのに、校内ではあちこちにまばらな灯りが見て取れた。電球のフィラメントが燃え尽きたにも関わらず交換せず、歯抜けになってしまった電光掲示板の面影がそこにあった。
 創立祭の準備で居残りをしている生徒がいるのだろう。報酬もないのに進んで労働に身を投げ出す彼らを、奈緒は馬鹿馬鹿しいと思った。連中は浪費される時間を青春などと名付けて重宝がっている。無駄は無駄だ。一年後だろうと十年後だろうと価値は変わらない。今にしかできないことだからと、鬱陶しい連帯感に身を投じる気にはとてもなれなかった。今にしかできないことは他にも山ほどある。我意を通す力としてのHiMEを得た今となっては、いっそう強くそう感じていた。
 窓外では車からバッテリーを引いた照明が晧々と光っていた。屋台や舞台の設営に、生徒のみならず業者や付近の商店街の人員までが駆りだされているようだった。大声で指示を交わしあう熱気の渦がそこにあった。思いのほか手際良く彼らは動き回り、着々と祭りへ向けて準備を整えているようだった。奈緒は冷え冷えとした目で彼らを見おろすと、開いた窓から香るにおいに小鼻をひくつかせた。どこかで線香が燃えるにおいがしていた。虫除けのために焚いているのだろう。窓を閉じ鍵を閉めると、彼女は再び歩き出した。
 ずいぶん長く寝たせいか、いつも夜が深まるにつれ意識を蝕む不眠への憤りは薄かった。つまり暴力でそれを発散する必要も今夜はないのだ。そもそも『釣り』の仕込みをするにも今からでは遅すぎる。創立祭の前準備として明日の授業が午前中で終わることを思い出し、では久しぶりにひとりでレイトショウにでも足を伸ばそうかと思いたった。が、その計画は早速断念せざるを得なくなった。
 昇降口に高村がいた。
 下駄箱に上履きをしまいローファーを取り出し敷居をまたぎかけた奈緒は、その男の姿を見ていぶかしげに目尻を伸ばした。

「なにしてんの。ここ中等部だけど、先回りしたわけ?」
「ああ、保健室じゃ言いそびれたけど、結城にバイトの話。急で悪いけど、今からはどうだ? 体験ってことでさ。下見だから二、三時間で済むと思うんだけど」

 そういえば、と奈緒は思った。報酬五千万。とても信じられないギャランティー。昼はまさにそれについての話をしていたのだ。その際に突っ込んだ説明を受けたのかもしれないが、聞き流していた事もあってほとんどおぼろげにしか記憶はなかった。

「たしか、オーファンからセンセイを守るってやつ? なら、今夜はパス。ダルイし」
「あいにくと、そんなにノンビリ構えてる暇もなくなってな。結城なら夜更かしはお手の物だろ?」
「メンドくさいっていってんだけど?」
「金は払うよ、ちゃんと。さすがにすぐに五千万とはいかないけどな、手付ってことで」

 付け足された最後の台詞を、奈緒は不快に思った。金で易々と動く人間だと勘違いされるのは気に障る。しかしそんな矜持とはべつに、奈緒はしっかりと金銭の価値を知ってもいた。自由に――思い通りに生きていくために、実際それは何より有用な力なのだ。ことによると、HiMEよりも。
 高村は、静かな面持ちで奈緒の答えを待っていた。格好は夏が盛んになっても変わらない、いつもの背広にシャツにネクタイとスラックス。保健室と違うのは、ショルダーバッグを提げている点だけだった。

「……いくら?」

 あまり期待せず奈緒は尋ねた。この期に及んでも、高村にそれほどの資産があるとは思えなかった。数千万単位の貯蓄など、一流企業に定年まで勤めて得られるかどうかだ。奈緒個人の才覚によらず、金を持っている人間は得てして『そう』である雰囲気を発散せずにいられない。玖我なつきや生徒会長といった、校内でも目立つ人間を見ればすぐに判然とする。徹底して隠そうとでもしないかぎり、着衣、装飾、物腰に体型その他諸々が、富める気配を漏らしてしまう。そして、高村にはそれがない。手付などと断ったのが何よりの証拠である。
 いいところ一万から五万、相当奮発して十万だろう。あまり安く見られてはたまらない。奈緒は挑戦的に高村を見上げる。

「いくらよ」と再び聞いた。
「百万」と高村はいった。
「ひゃく?」

 高い声で鸚鵡返しにして、音にせず奈緒は「え」と呼気を漏らした。

「……え? マジ?」
「マジ。というか、本当だぞ」高村がポケットから無造作に厚みのある茶封筒を取り出した。「前金で三十万。無事にことが済んだら残り七十万を支払う」

 奈緒の答えを待たず、高村は封筒から札束を取り出した。ためらいもなく封を切り、真新しい紙を数え始める。高村に見えない位置で手の甲を抓りながら、奈緒はさすがに気後れして問うた。

「センセイ、マジでお金持ちなの?」
「……きゅう、三十、と。いや、そういうわけじゃない。ないけど、ま、結城には関係ないことだ。そうだろ? 心配しなくても、偽札じゃないからさ。ほら、さっきディスペンサーからおろしてきたから明細もあるぞ」

 手渡された三十枚の一万円札を、奈緒はなぜか検める気にならなかった。本物なんだろうな、という確信があったからだ。そして皺の寄った明細票を目にして、決して大げさではないため息をついた。
 まず預払金額三十万円が三枚。最後の一枚だけが十万円だった。そして残高には51,170,000という数が印字されていた。奈緒は目をみはり、大きな数字を覚え始めた子供のように、一の位から丁寧に桁を数え始めた。
 五千万、確かにあった。トリックやごまかしではない。
 ――マジ? これ貰えるわけ?
 内心でもう一度繰り返した。三十万円を握る手が汗ばみ始めた。日常を遥か下方に振り切るレートに、培った金銭感覚が揺らぎつつあった。金では動かない。そんな奈緒の思惑を一息に飛び越す現実が、淡白にそこに記されていた。
 十万を越える金を財布に入れて奈緒の毒牙にかかった人間が、皆無だったわけではない。それでも狩りにおける奈緒の狙いは、あくまで釣った男を一方的にいたぶることにある。幾度か出会い系サイトを股にかける内ほどほどにダンピングしたほうが食いつきがいいことを悟ると、奈緒はBBSに書き込む『お小遣い』の平均値を大胆に下げていた。はした金で中学生を買おうなどという人間ならば、気兼ねなく痛めつけられると思ったのだ。しかも収入があっても、大半は買物によって右から左へ散財され、貯めるといった発想はあまりなかった。だからもちろん、奈緒はこれほどのまとまった現金を目の当たりにするのは初めてである。
 ふと、彼女は考えてしまった。もし、本当に、高村から言い値のすべてをせしめ取ることができれば?
 いくつかの未来像が脳裏に去来した。何が欲しい、買えるといった卑俗な希求ではそれはなかった。使い方さえ誤らなければ、丸ごと変えられる、それだけの力が金にはある。無味乾燥なこの数字の羅列はそれだけの魔力を持っている。
(病院だって、もっといいところに)
 と反射的に考えかけ、慌てて奈緒はかぶりを振った。そんなことに使うはずがない。奈緒が思う自分はもっと孤高で、自由で、思うがままに生きる存在だ。
 思考を落ち着かせるために、深呼吸した。体育の授業でさえ、最近は久しくしていなかったことである。
(――よし)
 それを何度か繰り返すうち、動悸も治まりはじめた。下駄箱という、およそ大金に不釣合いなシチュエイションに身を置いているのは幸いだったかもしれない。金銭の現実感は、毒だ。大人びていようと斜に構えていようと関係なく、回りきれば酔う。アルコールと同じである。
 生唾を飲み込む奈緒を見て、高村がいった。

「なんだ、びっくりしちゃって。強盗やる割に、結城も意外と小市民だな」
「だ、誰が。たいしたことないっての。それくらい」と答えるのがやっとだった。
「そうか? 俺はこんな大金持ち歩き慣れてないからさ。ここまで来るのでも引っ手繰りにあったらどうしようかって、ずっと頭から離れなかったよ。学校内なのにな」
「……あ、そう」
「で、どうだ」高村が奈緒を窺う。
「な、なにが?」
「だから、仕事。俺の護衛。ちなみに場所はこの学園の裏山な。十中八九オーファンが邪魔立てするだろうけど、やる気になったか?」
「ああ……」

 本音をいえば、この時点で既に否やはなかった。ただ現金を見せられて飛びつくのでは、そこらの尻の軽い女と変わりないのではないか。そんなプライドが、彼女に頷くことをためらわせていた。だから次ぐ高村の台詞は、たとえ意図的なものだったとしても最後の一押しになった。

「それともやっぱり、オーファンは怖いか」
「ハッ、まさか」反射的に奈緒は答えていた。「チョロいよ、オーファンなんて。雑魚じゃん」
「よし。そうこなくっちゃな」高村が笑った。
「げ」

 ――乗せられた。と自覚した。
 が、頷いたものはしょうがない。毒気を抜かれて、奈緒は吐息した。どう見ても財布には入りきらない札束を、慎重にポーチに突っ込む。それを見た高村が、怪訝そうに言った。

「それじゃ教科書とか入らないんじゃないか?」
「え? あぁ、だって持って帰んないし」
「……結城。期末どうだった?」
「それより、裏山行くんでしょ? いってやろうじゃない」
「あ、ああ」

 大股で歩き出しながらも、足下がどこか浮ついていた。校門に向かって生温い夜風を細い肩で切りつつ、奈緒は思考を回す。
 律儀に高村の言う『仕事』を全うする気など毛頭なかった。都合良く、向かうのは人気がまったくないオーファンの巣窟である。
 後金だけではなく、今夜中に全てを貰い受ける手段はないだろうか。奈緒は思惟に沈んでいく。いつものやり方では強引過ぎる。何より暗証番号の問題がある。かといって言質など信用できない。どうにかできないか、どうにか――。
 爪を噛む。高村の足音は背後にある。重たげに揺れるショルダーバッグの衣擦れを耳にした。そういえば、と思い出す。高村は調査をするといっていた。そのため奈緒にオーファンを退けてほしいと、依頼してきたのだ。

「だったら……」

 奈緒は足を止め高村を見た。意識せず、微笑が頬を緩める。

「どうした?」
「――なんでもない」

 風華学園に燈る非日常の明かりに、彼女の影が長く伸びていた。



 ※



 煙草と酒と猥談を奪えば何もかもがなくなりそうな場所に彼女はいた。人との待ち合わせだった。見た目に反し待ち人は時間に几帳面な男だったから、早く着きすぎたのは彼女の方である。おかげでいつも通りノンアルコールのスパークリングウォーターを注文したあとで、彼女は十分ほど店内のあちこちから飛ぶ不躾な視線に耐えねばならなかった。
 午後八時。定刻きっかりに男はやってきた。面長に縁の丸い帽子を目深に被った猫背の風体はいつも通りだ。男は女の姿を見つけると、断りもせず隣に腰掛けてきた。きついニコチンが香った。女の長い黒髪にそれは臭いを残さずにはいられない。かといって、まさかバーを禁煙にしろなどとも言えるはずがなかった。

「久しぶりに関東まで出張った」と、男は言った。「まあそのぶん収穫はあったが」
「例の件か?」

 体躯の線も露わなライダースーツの女、玖我なつきの問いに、男が肯う。二人が並んで座るのは月杜町内にあるショットバーのカウンターだった。にもかかわらず、視線は一定して前方に向いたまま、互いを視界の端にさえ映そうとしていない。傍目には奇異なカップルだが、そのバーではありふれたことなのか、数分も経てば特別な注意を寄せるものはいなくなった。
 男は通称をヤマダといった。合法非合法を問わず情報を取り扱うことを生業にした、いわゆる情報屋である。実際にそんな商売が成立するかはともかく、なつきの認識においてはそうなっている。経験上、彼よりも確実性があり、かつなつきの需要を満たすような同業者はいない。そんなヤマダと交わす、月に一二度の短いやり取りは、もう半年以上も続いていた。

「で、黒だったのか、それとも白だったのか」
「グレーだ」

 臆面もなく言い放ったヤマダの横顔を、なつきの冷えた目が射抜いた。

「なに?」
「まあ聞けよ。言っただろ、収穫はあったと」

 咥えた煙草に火を点けると、ヤマダは懐からプラスティック製のケースを取り出し、机上を滑らせてなつきの手元へ送った。

「これは?」
「レポートだな。あんたが欲しいといってた高村恭司についての詳細な情報は、大方そこにある」
「面倒だ。口頭でも頼む」
「ま、そう言うとは思ったさ」ヤマダの鼻腔から煙が立ち昇る。ズボンのポケットから、使い古された黒革の手帳を取り出した。「始めから行こうか。定石どおり、とりあえずは本籍を当たったよ。これは父方の実家だった。が、祖父母は既に死去。母方についても同じだが、違うのは母系に身寄りがもうないらしいってところだな。いわゆる、お家断絶。となると婚姻が婿養子じゃなかったのが妙といえば妙だが、今日びそれほど珍しいことじゃない。――父方の実家に話を戻すと、今はここに親戚が住んでる。高村姓だったし、何の変哲もない一般家庭だ」
「それで」

 なつきはいつか高村恭司が語った神社について、聞こうとして思いとどまる。理由は特になかった。強いて言えば、それはごく私的な事柄であるという気がしたからだ。

「一応小学校まで遡ってはみたが、履歴書にあった経歴に嘘はない。当時の同級生も高村を覚えていたし、特徴も合致した。女は特に覚えが良かったよ。どうも、ぼっちゃん面の割にけっこうモテたやつみたいだな。しかしハーフだとかいう綺麗どころの幼馴染みがいてこいつと恋人関係だったから、特に浮名を流したわけでもなかった。カタブツだな。ちなみにこの恋人だが、高村と交際中に、これは完全な――人為的じゃないという意味でだ、不慮の事故で、死んでる」
「……余計なところはいい。本題に入れ」

 恋人が故人というくだりで、なつきはひそかに眉をひそめた。穿鑿によって掘り出してはならない他者の過去を覗き見た。そんな罪悪感が胸を過ぎったのだ。

「今から三年、いやそろそろ四年前になるのか」涼しい顔で、ヤマダは続ける。「丁度、大学二年から三年の時だ。ここから、高村の不幸は始まってる」
「不幸? 穏やかじゃないな。恋人が死んだ、という話か」
「いや、それは高校時代だな。十六かそこら――じゃあ高校時代から、と言い換えてもいいのか。ともかく、高村が所属している大学の考古学専攻、そこには当時アマカワ教授っていう、その筋じゃなかなか知られた学者がいた。学会では爪弾きだったが、生徒の人気はあるってタイプ。変わり者の研究者だ。……で、この天河ゼミに引っ付いて研修に出かけた先で、事故が起きた」
「……交通事故か」ふと重ね合わせている自分に気付き、なつきはかぶりを振る。
「ああ。旅行二日目にゼミでチャーターしたバスが、国道で横転したんだ」とヤマダは頷く。「重傷三名。軽傷八名。死人はもっけの幸いでゼロ。とにかく誰も死ななかったのは奇跡だっていうくらい相当大きな事故だったらしくて、現地新聞の地方版にも小さく載った。それによると、警察が運転手に聴取した所、こうこたえたそうだ。『大きな獣を轢いた』ってな」
「ケモノ? シカかイノシシか何かか」
「さてな。それについちゃ、結局、正体はわからず終いだった。問題はこの後だな。公私混同もいいところだが、なんとこのゼミ旅行には天河教授の子供がついてきていた。名前をサクヤっていって、当時中学に上がったばかりの一人娘だった」
「ということは、今は……わたしと同じ学年か」
「生きていれば、そうだ」
「生きていれば」となつきが繰り返す。
 吸い終えた煙草を灰皿でもみ消して、ため息交じりにヤマダは言った。「天河朔夜は、この旅行先で失踪している。事故の翌日だ。それっきり、今に至るも見つかってない」
「……なにがあった?」

 話題が話題である。声は自ずと押し殺された。

「さて――当事者の話を追えたのはここまでだ。こっから俺の推測が雑じるが、構わんか」

 ヤマダ本人は得体の知れないところがあるが、その能力にはなつきも一目置いている。黙したまま、目線で続きを促した。ヤマダは二本目の煙草を飲み始める。

「そんなことがあって、旅行は当然中止になった。そもそも事故があったしな。けが人以外はそこで解散。軽傷者のなかには天河教授もいたらしいが、いたってぴんぴんしてたって話だ。しかし、さすがに娘が旅先で行方不明ともなれば、血相を変えて探し回ったらしい。ゼミ生を帰しても、自分は残るって勢いでだ。当時天河は家を買っていてな、どうも研究との兼ね合いもあったようだが、先々はその土地に引っ越す予定だったようだから、居残ろうと思えばいくらでも残れたんだろう」

 一息置いて、

「とんだ災難だってことで、学生のほとんどは骨折なんぞした重傷者含め、真っ直ぐ家路についた。ただひとり、いなくなった天河朔夜の家庭教師をしてた学生以外は。それが――」
「高村、か」
「御名答」無感動にヤマダは言う。「高村恭司だ。責任感が強いのか、点数稼ぎしようとしたのか、恐らくは前者だな。周囲の人物像にも合致する」
「娘の失踪に高村やその教授とやらが関わっている、という線はないのか?」
「ない」
「なぜ断言できる?」
「アリバイがあるからだ。ついでに、教授にもな。第一、警察は甘くも無能でもないさ。少なくとも最初に天河朔夜が消えたとき、高村は怪我をした同じゼミの人間を見舞っている最中だった。――そして、一週間ほど天河と高村は現地に居残った。その間の仔細は不明だが、まあ必死になって捜索したんだろう。しかし、七日目になって二人は突然、地元に戻った。飛行機でな」
「娘が一人で先に戻っていたというオチか?」言ってから、「ああ、いや、まだ見つかっていないという話だったか。となると、どうなる?」
「わからない。そこまでは俺の仕事じゃない」ヤマダは小さく両手を挙げた。「その五日後、高村恭司の両親が死んだ。本人も生死の境を彷徨うほどの重傷を負った」

 なつきは眼をみはり、手先でもてあそんでいたスパークリングウォーターのグラスを、危く取り落としかけた。

「…………なんだって?」
「そして翌日、天河教授の死体が発見された」淡々とヤマダは事実を積み重ねていく。「詳細はやはり、不明だ。今じゃ高村家はとっくに売り地。教授の事情なんて学生が知るはずもねえ。もっとも、ちょっと調べただけで不可解な点は多々出てくる。たとえば死因だ。当時の日付からさらった新聞の訃報欄では、それぞれ事故死、心不全による急死となってるんだが……ところが近所じゃ、高村夫妻は強盗に殺されたって話もちらほら聞いた。教授に至っては、いなくなった娘以外じゃ身寄りもないのに、密葬だなんていって誰もその後を知らない。ただ墓だけがある。ご立派な、墓石でな。今でも研究者仲間や教え子はそこを参るらしいが――これは余談だ」
「つまり」乾いた声でなつきはいった。「隠蔽された……と考えて間違いないんだな」
 ヤマダが頷いた。「確証はないが、ずさんなのは確かだ」

 気を落ち着けるため、なつきは深々と息を吐いた。眼を閉じると、鴇羽舞衣がチャイルドを召喚した一件で見た、高村恭司の躯の傷が浮かび上がってきた。鍛えた体躯と不釣合いな、ひとつの体に刻むには大きすぎ、多すぎた傷痕。あれは、その『事故』のために出来たのだろうか。
 死。となつきは思わずにいられなかった。家族が死んだ。あるいは殺された。骨が軋むような痛みを覚えた。それは同情なのかもしれず、追憶なのかもしれなかった。

「高村は。高村恭司は、それでそのあと、どうなった……?」
「一時期は相当危ない所までいったようだが、知ってのとおりなんとか持ち堪えた。しかし、退院には三ヶ月、全治にはさらに数ヶ月かかる大怪我だったらしい。障害が残ったとか胃を全摘したとか小腸を二メートルばかし切ったとかいう話だが、さすがにカルテには手が出せなかったから、これも詳細は不明。担当医も何もさっぱりわからなかったしな。ともかく――大学もその年度は当然休学して、ドミノ倒しの留年は避けられなかった。そして退院後、都合一年近く、高村の足取りは途絶える」

 なつきは口を挟まず黙考した。ヤマダが途絶えたと口にした以上、それは空白の時間なのだ。当事者以外に全容を知るすべはないだろう。
 ヤマダが手帳をめくる。

「入院中も、高村の身辺は慌しかった。保険屋やら、自称親戚やら。ノンキに学生やってる時分に親が死んじまえば、そんなもんだ。しかし二親とも四十台で共働きだったってこともあり、事件後高村には相当な死亡保険金が支払われてる。俺のカンだが、相続分と合わせれば、控除申請ぎりぎりってところかな。つまり、数千万ってとこだ。さらにさっさと家も売り払った。治療費だの葬儀の費用だの税金だのでどれだけ残ったかはちょっとわからんが、それでも男一人が当面生きてくぶんには、相当なお釣りがくるだろうな」

 何の慰めにもならない注釈だった。なつきは前髪をかきあげ、苛立たしげに歯を鳴らす。他人のプライベートを暴く自分と、そして何かわからない不幸の根源のようなものに対する憤りが、彼女の胸裏で吹き荒れていた。白磁のような肌が紅潮し、グラスを握る指は白んでいた。やがて長く細い息をつくと、なつきはヤマダに眼を向けた。

「……それでも、院生になったということは復学したんだろう。住む場所は必要なはずだ。こちらに来るまでは、どこに住んでいたんだ?」
「六畳一間、家賃四万円のアパートに住んでた。質素なことだな」手帳の頁を戻しつつ、ヤマダは鼻を鳴らす。「ただし、今年の五月でそこも引き払ってる。風華学園に赴任するまでの一ヶ月は、あっちこっち飛び回ったり人の家に転がり込んだり。女の部屋に間借りしてたってウワサもあったが」
「あいつに女? ありえないな。あんなデリカシーのないやつ」わけもなくなつきは否定した。しかしヤマダが意外そうに唇を曲げているのを見て、「んっ、大筋はわかった。さすがだな。他に気になることは?」
「蛇足かもしれんが、キャンパスでの話だな」ヤマダは追及しなかった。ただ、かすかに笑ったように見えた。たいへん珍しいことである。「一年経ってふらっと大学に戻ってきた高村は、少し印象が変わっていたらしい」
「それは、それだけの体験をすれば人間なんて変わる」我が身に照らし合わせて、なつきは沈鬱に呟いた。
「まあ、そうだな。評判としてはこんな感じだ。『前より砕けた』『付き合いが悪くなった』『ふっきれた感じがした』『ときどき怖いことがある』『真面目なやつだったのに、授業にあまり出なくなった』『体を鍛えているようだった』。そして、『年上の女性と付き合いがあるらしい』。……実際、一年の音信不通の間に以前の交友関係はまとめてご破算にしちまったようだし、どこまでアテになるかはわからんがな」
「そんなものだろう」なつきはまともに取り合わなかった。「ワイドショウと同じだ。得てしてそういう連中は、表面上の印象しか語らない」
「異論はない」とヤマダは言った。「依頼の総括として私見を述べさせてもらおうか。高村恭司は、あんたが追ってる連中では、恐らくない。その点で白だ。しかし、ほぼ確実に、その〝連中〟に敵対的な勢力に抱き込まれている。それがどこかはわからんし関わり方もどの程度なのか、現段階ではわからない。しかし、その点では黒だともいえる。だからこその、グレーだ」
「……わかった。そうだな。話を聞いた今では、わたしも同意見だ」

 それは、同時に確信に近い思いでもあった。薄々気取っていたことだ。高村恭司はなつきの敵、〝一番地〟ではない。もし関わりがあるとしても、それは恐らくなつきと似たような関係性だと。つまり、敵対か、それに近い立場にいるということだ。
 背景は不鮮明だったが、それはあまり問題ではない気がした。ヤマダの話を聞く限り、四年前の高村は紛れもなく一般人でしかなかった。よくある、平凡な大学生に過ぎなかった。それが変化せざるを得なくなったのは――。

「天河教授とその娘と行った、旅行か」

 発端はそこにある。考古学。少女。不自然な失踪。不合理な帰還。整頓されていない死因。欺瞞。韜晦。思考が加速する。そして直感と経験則により、瞬時に迫真の位置にまでなつきは推測を進めていた。重要なピースが半分ほど足りないが、その内の一つはこの場で回収できる。

「その旅行先を、意図的にぼかしたな?」ヤマダを見てなつきは目を細める。「言い当ててやろうか。天河ゼミがやってきて、事故に遭い、天河朔夜が消えた土地。それは――」

 とん、と指先がカウンターに落ちた。


「――風華ここだ」






[2120] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/10/07 23:17




5.I do




 創立祭が終われば一学期も終わりね、と鷺沢陽子がいった。杉浦碧は化調によって豚骨出汁が過剰に演出されたラーメンをやっつけながら、「なにを今さら」といいたげな眼差しを旧友に向ける。

「別になんてことはないんだけどね。あんたが教師だなんてって、いまだに違和感を覚えるのよ、わたし」
「なにおう。生徒には大人気なんだぞ、あたしゃ」
「今のうちはね、物珍しがってもらえるから。でも適当に距離置いてないと、友達付き合いじゃないんだからそのうち痛い目見るわよ」
「べつにぃ」チャーシューと呼ぶのもおこがましいふやけた乾燥肉を最後に食べて、碧は顔をしかめた。「どうせいつまでも教師やってるわけじゃなしに、そんな難しく考えんでも」
「いつまでも、って。大学戻るつもりしてるわけ」
「トーゼンじゃん」碧は鼻を鳴らす。「絶対戻るね。ちゃくちゃくと準備中よう」
「そんなにあのオヤジがいいんだ?」
「オヤジいうなっ」
「呆れる……。いつまでも学生気分が抜けないんだから。これでうちの学校の採用条件って結構厳しいのに、どうしてあんたみたいなちゃらんぽらん雇う気になったのかな。しかもその前はファミレスでバイトしてたっていうじゃない。いくら臨時採用だからって……。聞いたことないけど、あんた、コネでもあったの?」
「あったような、ないような」

 質問をのらりくらりとかわして、碧は意味ありげに微笑んだ。へえ、と呟いたきり陽子も追及はしなかった。保健室の蛍光灯がちかちかと瞬き、碧は渋い顔で手元に視線を落とした。カップの内で油脂いっぱいのスープが揺れている。白濁した液体には、かろうじて人の顔だとわかる輪郭が映り込んでいた。
 白衣がすっかり様になっている陽子を見た。大学卒業とともに、碧は院へ行くことを、陽子は職に就くことを選んだ。分かれてからは二年経っていた。もちろんすっかり顔かたちが変わるほどの年月ではない。しかしまだまだ稚気の抜けなかった頃に比べれば陽子はやはり大人びた物腰になっていた。反面碧は自分が年々退行していくような心持ちによくとらわれる。若返っているのではなく、堂々巡りをしているような……。それはやはり身を置く環境の差異に起因するのだ。事実、碧は自分が成長しているとは思っていなかった。

「子供ねえ」感慨を込めて碧はいった。
「なによ」
「いやあ、あたしってば小賢しくなるばっかりだなって思ってさー。若返りたいー」
「みんな思うのよ、それは。生徒たちだって、何年かしたら必ずね」
「あたしは永遠のじゅうななさいなんだけどね」
「だから、イタいわよそれ」

 手厳しい、と碧が机に突っ伏すと、じゃまっけに陽子は椅子の背もたれを小突いてくる。定例的なざれ合いである。
 碧とは学部生時代からの付き合いである陽子は、まとう雰囲気の点だけいえば碧とは対照的な人間だった。しかし現状では、少なくとも碧にとってアクティブな友人は陽子ただひとりだ。気さくで催し物好きな碧の交友関係は広いが、継続して付き合うとなれば相手方には相応の根気が必要だった。また快活なようでいて淡白な性根や気分屋といった側面も、よく心得ておかねばならない。陽子にその両方や碧の無茶に堪えうる度量があったかはともかく、不思議とうまの合った二人である。
 じきに話題は他に聞く人のいないこともあって、遠慮のない方向へ進み始めた。彼氏の有無や婚期についてなど、あとさらに五年もすれば胃が痛くなるような話も、今はまだ気兼ねなく交し合うことができた。碧が風華学園に着任して陽子と再会したときから、こうしたガス抜きは頻繁に行われている。酒が深まると決まって「妻子持ちはやめておいたら」と言い出す陽子には辟易していたものの、気苦労の多い仕事場に気心の知れた人間がいるというのは存外救われる要素である。碧は彼女のことを、だからおおむねありがたいと思っていた。
 作業のため保健室の外でも賑わっていた人の気配が徐々に下火になり始めた頃、この日最後の来客があった。碧の担任する1―Aの生徒、楯祐一である。彼は開いた戸から半身をのぞかせると、保健室に視線を這わせた。誰かを探しているようだった。

「高村先生帰ってますよね? どこにいるか知りませんか?」
「恭司くんなら準備室じゃん?」と碧は答えた。楯の背後に、ちらと少女の姿を見た。
「いや、そっちはもう行ってみたんですけど、いなくて」
「ふむ?」

 思案顔で腕を組むと、碧は入用ならあたしが受け付けるけどと提案した。はたで聞いた陽子が意外そうにあら、と呟く。

「それじゃ、この図書館の鍵返しておいてくれますか。職員に預ければいいって言われてたんで」
「おっけー」
「すんません。お願いします」

 会釈し、楯が頭を引っ込めて戸を閉める寸前に、「お兄ちゃんはやく」という甘い声が聞こえて、碧は頬に手を当てた。これから一緒に帰るのだろう。青春ねと、陽子が苦笑するのが見えた。

「さて」と碧は立ち上がる。
「帰るの?」
「んー。というか、ちょっとこれから一仕事あってね。それが終わったら帰るけど」
「感心じゃない。残業するんだ」
「というより」

 碧は肩をすくめ、窓の向こうへと眼を移した。夜闇に覆われ今は見えないが、その方角には禿げた山と森が広がっている。

「課外活動なんだけどね」




 ※



「立ち入り禁止って書いてあるけど?」
「気にするな」

 デフォルメされた作業員の一礼を無視して、高村は薄いスチールの看板を除ける。手渡された懐中電灯の光をもてあそびながら、奈緒は飄然と工事現場に分け入っていく男の背を追った。
 山麓の森を抜け高村が向かったのは、先月失火によって景観を損なわれた尾根の、まさに焼け跡だった。
 隕石でも落ちたかのように抉れた地面は、いまだ復旧作業の途中である。何しろ遠近感が損なわれるほどの惨状であったので、一ヶ月単位の土木工事でもとの姿に戻るはずもない。今後土を盛りさらに植林なりをするとしても、数年後まで傷痕の違和感は残るに違いなかった。

「ふうん」

 密集していた木が突然途切れると、河が干上がったかのような陥没が数万平米の単位で続いていた。ちょうど底に当たる部分には運び込まれたのだろう土が敷き詰められて、ひところよりは見られる状態になっている。

「気を付けろよ、このあたりはまだ崩れやすい。梅雨にたっぷり水吸ったからな。火事の後の山じゃ崩落が起こりやすいっていうのは迷信でもなんでもないんだ」
「言われなくたってわかってる」

 足場を確認している最中珍奇なオブジェを目に留めて、奈緒は口笛を吹いた。
 それは三分の一ほどが完全に炭化した木である。しかも熱を浴びた部分と、辛くも難を逃れた部分が明確に塗り分けられているのだった。もちろん付火で負った火傷にしては不自然すぎる。明らかに普通の火災によるものではない。

「ま、信じてなかったケド」

 最初から感付いてはいた奈緒だ。街で頻繁に起きている不自然な事件と、原因は同じである。つまりオーファンとHiMEの衝突による被害だった。
 特に風華学園の周辺では、奇妙な出来事に対しての大本営発表が頻繁に行われる。裏山の焼失はさすがに飛びぬけた規模だが、工作が奏効してか今では話題に上げる生徒もいなかった。
 ではいったいどんなHiMEだろうか、と考えていると、高村がひとりで窪みへと踏み出し始めた。段差に仮設された梯子を使って、片腕ながらにすいすいと地形の底へ降りていく。後を付いていく気はさらさらない奈緒は、その奇行を見るともなしに眺めていた。
 足場を確認しながら溝の中ほどに達した高村は、提げていたショルダーバッグからいくつか機材を取り出した。夜目のため奈緒には詳しく判別はできなかったが、それは暗視スコープと数点の測量器具だった。双眼鏡のようなスコープをのぞき、高村は溝の彫られた山頂と麓とを交互に振り返りつつ、時おり定規を二つ直角に合わせたかのような道具で、奈緒が立つ岸をはかってもいた。
 五分が経ち、十分が過ぎた。さすがに退屈を持て余し始めたところで、ようやく高村は作業を終えた。昼間と打って変わって軽快な調子で奈緒のもとに戻ると、

「変な土地だよな」と言った。
「なにが?」
「この火事にしても、どう考えてもおかしいってみんな思ってる。なのに真相が明るみに出ることは絶対ないんだ。どうしてだと思う?」
「ばれたら困る連中がいるってことでしょ」

 高村が眉を上げた。

「そのあたりのことは誰かに聞いてるのか」
「ちょっと考えればわかるし」

 得意になって答える。高村が意地悪く笑った。

「まあ、そうじゃなければ結城はとっくに手が背中に回ってるよな」

 奈緒は顔をしかめて口を閉じた。実際その通りだろうと思ったからだ。
 途端に凪の『忠告』が脳裏をよぎり、紛らわすように話題の転換を試みた。

「それより、もう調査ってのはいいの。靴が汚れるからあんまり柔らかい土は踏みたくないんだけど」
「ああ、もうしばらくだ。この焼け跡のどっかには間違い無いからな。よし、またいったん森に戻ろう」
「はあ、まだやんの」

 奈緒は舌を出しかけたが、思い直して自制した。これまでのところオーファンも現れずさしたる問題もなく、実に楽な作業である。何事かは起きてもらわねば奈緒の思惑には反する。が、仮に平穏無事にことが済んだところで、あと二時間もこの道楽に付き合えば奈緒の手元には百万もの金子が転がり込む手はずだ。これほど割のいい話は、奇特にもほどがあった。
 何しろ法外な報酬である。
 若干の緊張と浮世離れした心地はまだあったものの、その使い道を考えるだけで、知らず奈緒の口元は綻んだ。

「眼がドルマークになってるぞ、結城」
「……ん」笑みを引き締める。

 高村は左手で後頭部を掻くと、大きく吐息した。

「実を言うと、結城は金には釣られないんじゃないかと思ってた」と続けた。
「なんで」
「だって、君はHiMEの力を自分のために使うのをためらわないタイプだろう」
「当たり前じゃない。何言い出すかと思えば……。あたしの力なんだから、あたしのために使って何が悪い?」
「誰の力だって、悪いことは悪いことだろ」高村の表情は曖昧で、口ほどに咎める様子もなかった。「最初に会った時のことをおぼえてるか? 俺がいきなり路地裏に連れ込まれたときの」
「そりゃ、まあ」玖我なつきの醜態を思い出しながら答えた。「それが?」
「少し考えてみたんだよ。どうして美人局なのかってな。あの日はなんだかずいぶん強引だったけど、普段は出会い系サイトかなにかでいちいち男を呼び出してから襲ってるんだろ? 手当たり次第にしては今のところ足がついてないみたいだし、一応最低限のルールはあるわけだ」

 手口のくだりで、奈緒は目を細めた。無論彼女は高村に狩りの手法を教えたことはない。

「ミコトにでも聞いたの?」
「そこは想像に任せる」高村は肩を竦めた。「で、なんでそんなことするかって考えた。だってただ金が欲しくて、おまけに犯罪にも抵抗が無いのならだ、そんな手間ひまかけた真似をしなくたって、HiMEの力なら他に何か方法がありそうなものだろ? それに繰り返せば、リスクだって増える。人が利益を度外視して何かにこだわるとき絡むのは、大抵は信念か意地だ。結城にも、それがある――んじゃないか、と思った」

 奈緒は足を止める。気付いた高村も歩みを中断して、奈緒を振り返った。森の濃い闇の中では、懐中電灯の光が無ければ数メートル先にある互いの顔も覚束ない。だから高村にというよりは彼の手を守る白い包帯に焦点を合わせて、奈緒はため息まじりに言った。

「なにそれ。勝手に人のこと、決め付けないでくれる? ……それにアタシは、街をキレイにしてるんじゃない。はした金で中学生とやれると思ってるようなクズをさ。男なんて誰も同じ。そろってマヌケだけど、中でも極めつけのゴミを、掃除してやってンの」
「じゃあ、結城は世直しのためにあえて美人局をやってるっていうのか? ゴッサム・シティのコウモリ男みたいに」

 割合好きな映画を引き合いに出されて、奈緒は半ば熱中の状態からはたと冷めた。寸前までの自分を顧みて、口ごもりながら目線を落とす。

「どうせならサム・ライミのほうがマシ」
「死霊のはらわたか」
「ははっ、なんでそっちなの。スパイダーマンのほうだって」

 合いの手のくだらなさに、思わず吹き出した。が、すぐさま笑みを押し殺す。
 無防備な瞬間を視られたように思ったのだ。それで口ごもったのだが、高村はさして気付いた様子もない。
 咳払いを交え、ことさらに低い声を発した。

「……べつに。やりたいからやってるだけ、だけど」
「やりたいから、ねえ」思わせぶりに、高村は言葉を溜めた。「他にやることないのか」
「ひとの勝手じゃん」
「部活とかしたらどうだ? いつも何に苛立ってるのか知らないけど、体動かすのは気晴らしになる」
「興味ない。団体行動とか、体育会系とか、馬鹿っぽい」
「ま、俺も文系だからそのへんは人のこと言えないな」

 うそぶく高村を尻目に、奈緒は思った。これではただの雑談ではないか。期待していたオーファンが現れず、高村が動く以上は、奈緒も付き合わねばならない。しかし親しみを覚えるには高村は得体が知れなすぎる。
 時間を潰す必要があっても、それが会話である必然性はない。奈緒は双眸険しく高村を見据えた。

「……あのさ、カウンセラー気取るくらいなら黙っててくんない? センセイは金を払う。あたしは仕事する。それだけで充分でしょ。ギブアンドテイクってやつ」
「雑談はお気に召さないってわけか」
「馴れ合うつもりはないんだよ」

 高村は臆すことなく見つめ返してきた。

「じゃあむだ口は止めて、実利的な話をしようか。そういえば、昼間は話が途中だったし」
「聞かなくてもいい」
「そういうなよ。結城にはなにか、気になることはないのか? たとえば俺が大枚はたいてまで何を調べようとしているのか、とか」
「興味ないね」即答し、奈緒は爪先で地面を蹴った。「それを聞いたからって、あたしが何か得するとも思えない」

 それに面倒ごとに巻き込まれる可能性だって増える、と奈緒は暗につけ足した。高村がいったい何を調べているのかはともかく、こそこそとかぎ回るような行為が学園に利する事柄であるはずはない。

「もっともだ」高村はさして否定もせず左肩の鞄を背負いなおすと、無造作な口調で続けた。「入り口を探してるんだ」
「入り口?」
「地下へのな。鴇羽のチャイルドのおかげで山肌が抉られた。学園側のアナウンスでは崩落の危険を見込んで即座に工事を始めたってことだが、それにしては規模や人員がせせこましいとは思わなかったか?」

 問い掛けよりも、突然持ち出された名前が奈緒を瞠目させた。

「トキハって、あのミコトが懐いてる鴇羽舞衣?」
「そうだよ」こともなげに高村は頷く。「知らなかったのか。彼女もHiMEで、そのチャイルドが山を燃やしたんだ」
「まあ、HiMEだってのはミコトから聞いて知ってはいたけど」放火魔とまでは聞き及んでいなかった。
「で、俺もその巻き添えを食って救急車の世話になったわけだが」

 半ば感心し、半ば呆れを交え、奈緒はほくそえむ。

「へえ、あの女がね……イイヒトぶった顔して、やることえぐいんだ」
「不可抗力だ。責めてやるなよ」

 諌めつつ、高村は不意に奈緒が照らす明かりの範囲から消えた。
 濃紺のスーツは夜中において保護色である。奈緒は目を瞬きながら、見失った彼の姿を闇に探した。右手から声が響いた。

「この山の、というか学園一帯の地下に空洞があることには気付いてるか? 山の右側、学園から見れば左だが、そこに浄水場があるから、てっきりその関係かとも思ったんだが、調べるとどうも違うようでな」

 風華学園は山と海とに囲まれた立地だ。何しろ手狭な地域であるから、生活のためのインフラ設備を築けばどうしても露骨になる。本土なり四国方面からそう距離があるわけではないのに、ほとんど市が一個で自活できるほど施設が充実しているのも、不自然といえば不自然な環境である。

「金持ちが多いからだろうな」と、高村は説明した。「だから税金もいっぱい取れる。というのは、まあ表向きの理由かもしれないけど」

 奈緒は声を頼りに、におい立つ青草を踏みしだいて道を外れた。実のところ彼女は山歩きに慣れていて、ソックスに夜露がついて湿り気がくるぶしを濡らすのも、さほど気にはならなかった。ここのところはめっきり機会も減っていたが、HiMEになる以前は街に足が向かない日も少なくはなかったのだ。そんなときは、決まって風華の森や山でひとり何をするでもなく時間を潰していたのである。
 ブナの幹に手をかけながら、奈緒は引き続き高村の姿を探した。目当てはすぐについた。木立を突っ切るとひときわ大きな木が屹立する空間が見つかった。根元の周辺では射光量の関係でかあまり草も育っておらず、即席の広場のようになっている。高村はその場に立って、頭上で梢を広げる大樹と、その向こうにある空を仰いでいた。

「ここは爆心地から、おおよそ直線距離で二、三百メートルってところだ。山の高度で換算すれば中の下くらいかな。大したもんじゃないか結城、スカートにローファなんてなりにしちゃ、ずいぶんすらすらついてきた」

 奈緒は答えず、高村を通して木陰に見えるオブジェに目を凝らした。

「それ、なに?」

 直径が一メートルほどの円筒が、草に紛れるようにして数十センチばかり地面から顔を出し、ぽっかりと口を開けていた。筒は土管ではなく石を積み重ねたものらしく、石と石との間からは雑草が伸び放題になっており、凹凸の激しい表面も苔むして緑色に変色している。素人目にも、よほどの長い年月を経た代物のように見えた。

「……井戸?」
「のように見える、隠し通路だと俺は踏んだんだがな。井戸にしては深さがそれほどでもないんだけど、前に見つけた時は準備もなかったから手が出せなかったんだ。今日は一応、ロープ持ってきてはいるんだが、この腕だし、様子見ってことにした」

 縁のきわに立つと、奈緒は暗渠に光を差し向けて穴を覗き込んだ。底は思ったよりもあっさりと見通せた。乾燥しきった壁面をたどっていけば、湿った土が見える。どうやら完全な枯れ井戸ではないのかとも思ったが、雨季を経たばかりだということに思いあたり、それが周囲の地面から染み出したか、あるいは湿気が結露したのだろうと推察できた。しかし――

「これ、べつに横穴とかなくない?」
「だよなあ。いかにもすぎるとは俺も思うんだ」盛大に高村はため息をついた。「でも、どうも怪しくってさ。それにほら、光を当ててよく見ると、底の部分の石質が微妙に違うように見えないか?」
「さあ」穴の深度と高村とを注意深く見比べながら、奈緒は生返事をした。
「さて、ここでようやく結城の出番が来る」

 というわけで移動だ、と告げると高村は目線で奈緒を促した。彼の背ではくだんの焼け跡のため、森が途切れていた。企図をはかりかねて、奈緒は口を半開きにした。

「は?」
「つまりな」と高村は言った。「穴掘りだ」
「はァ!?」

 十分の後、奈緒はジュリアを召喚し、井戸から数十メートルほど推移した地点に立っていた。そこはそのまま、鴇羽舞衣のチャイルドによって抉られたという地面でもある。匙で刳り貫かれたアイスクリームを連想させる懸崖を前に、奈緒は高村を振り返った。

「……ここでいいわけ?」
「たぶんな。とりあえず、この周辺にも網状に通路が走っていたことは間違いない。それが都合良くあのわざとらしい井戸に続いてるかどうかは、正直博打だ。で、地形図をみ、じゃなくてええと、パソコンに食わせてシミュレートした結果、このあたりが怪しいぞという話になった」
「この下に隠し通路があるって?」
「あるはず。あるかも」
「どっちよ」
「とりあえず、気持ち斜め下にその尻尾みたいなごついやつをグッサリ行ってみてくれ」
「はあ」

 九割疑ってかかって、奈緒は腰に手を当てた。
 なぜこうも素直に指示に従っているのか、自分でも釈然としないものを感じていた。恐らく充分に睡眠を取ったせいで、日頃の鬱憤が一時的に晴れているせいもある。ルームメイトの瀬能あおいならば「ご機嫌だね」と評する状態に彼女はあった。
 とはいえ、言われるがままというのはどうにも面白くなかった。ちらと高村をうかがうと、彼はわずかに距離を取って佇んでいる。奈緒とジュリアの動きを視界に納めつつ、どうとでも反応できる位置取りである。
(馬鹿正直に信用はしてないってこと)
 脅威というほどではなくとも、けが人の高村がHiMEになんの抵抗もできないほど無力ではないことは、奈緒もさすがに学んでいる。無意味に仕掛けたところで逃げられれば、今夜の報酬さえ水泡だろう。
(めんどくさ……)

「結城?」
「……はァい」

(とりあえず、早いトコ帰ってシャワー浴びたい)
 念じつつ、チャイルドに命じた。

「ジュリア」

 女体を模したレリーフの頭部が妖しく輝き、巨躯が音もなく駆動した。ジュリアは静穏性に優れたチャイルドである。反面モチーフとした蜘蛛と同じく、骨格は頑強とはいえない。ましてや土木作業には不向きと見えた。
 が、意外にもスムーズに掘削は進行した。土がいまだ柔らかかった事も影響してか、すぐに煤けた木の根が露出するまで掘り返し、やがて広い範囲で地面が蠕動し始めた。地崩れが起きかねないほどである。

「……大丈夫なの、コレ?」心持ちジュリアから離れて、奈緒は呟いた。
「気にするな。どうせ俺の仕事じゃない」高村はひどく無責任だった。「たぶん灰にはなってなくても、地熱でもう根が駄目になってたんだろ。今は平気でももう二ヶ月くらいして台風が来たらどうせ崩落してたよ。転ばぬ先の杖って奴だ」
「ものはいいようっていうか、……?」

 こぼしかけて、奈緒ははたと動きを止めた。
 ジュリアの尾を突き入れた地面が、不自然に震えたように見えた。
 見間違いではなかった。
 さらに静観を続けると、ふたたび地が揺れる。干乾びるような音を立てて土や小石が零落するさまを見、呟いた。

「地震?」

 ――ではなかった。震動に加え、今度は穏やかならざる音までもが耳朶を打ったのだ。雷鳴を低く重く規則的に響かせる楽器があれば、こんな音色だったかもしれない。

「オーファンかな」緊張した面持ちで高村がいった。

 違うと奈緒は思った。山をとよもすほどの衝撃だ。オーファンの威嚇行動にしては大仰過ぎる。それよりは、何か、とてつもなく堅牢で巨大な何かに、再三再四突撃をかけている、といった風情である。
 二人が耳を澄ませる間にも、音はさらに大きく、より間を空けて続いていた。比例して、ジュリアによって掘り返された地面のたわみも規模を増していく。
 しかし高村が首を捻り、

「なんだか、破城槌で門でも衝いてるような騒ぎだな」

 と呟いた直後、ぴたりと音が止んだ。
 すぐさま、真向かいの森から黒い小粒の影がいくつも飛び出した。鳥だった。一群の野鳥が、追い立てられて森から逃げたのだ。
 津波の前の凪。ひとつづきの起伏を前にした、せつなのトーンダウン――を、静寂は思わせた。
 高村が叫んだのはそのときだった。

「結城! チャイルドにつかまれ!」

 言われるまま、咄嗟にジュリアの脚のひとつに手をかける。すると見えざる波紋が足下を駆けた。地面がこのように歪むものだと、奈緒は初めて知った。
 次ぐ地鳴りが、地盤を致命的に脅かした。土地の核となる礎が、決定的に砕かれた――その断末魔だった。
 これまでにない轟音は異変に遅れてやってきた。耳を聾するそれはすでに爆音にもひとしい。もはや決定的だった。
 巨大な何かが、凄まじい勢いで地表に突撃を仕掛けているのだ。繰り返し何度も。その傷みで、地盤が悲鳴を上げているのである。

「やばい」

 漏らした高村の体が地割れに足を取られるのを、奈緒は肩越しに見た。

「ひゃっ」と奈緒も小さく悲鳴を上げた。ジュリアの巨体までもが、バランスを欠いたのである。

 地面が崩れる。危地に反応して、ジュリアがその多足をたわめ、一息に跳ねた。
 足場にした地面があっさりと陥没する様は、蜘蛛の巣を思わせた。
 十メートルほどの高度に達して、奈緒は警戒の視線を左右に散らせる。
(ん……?)
 奈緒たちがいる場所からさらに上った山の中腹あたりに、違和感を認めた。木が何本か、傾ぎつつあるようだった。しかし目利きの頼りは雲をかろうじて抜いた月光だけだ。眉間に皺を寄せてみたものの、仔細を把握することは放棄せざるをえなかった。

「ま、いいか。カンケーないし」

 夜風を堪能し、目を細める。
 ふと教師の存在を思い出した。足下に意識を向ければ、惨憺たる崩落の跡が広がりきっている。その中心で転倒し身動きを取れずにいる高村を視界に納めると、奈緒は薄笑いを浮かべた。

「……ラッキーじゃない?」



 ※



 度を越えて疲労した夜に、金縛りを経験したことがあった。今の自分の状態はそのときに良く似ていると、高村は分析する。声が出せず、からだの自由が利かず、まぶたの痙攣さえも思い通りには行かない。そもそも感覚が麻痺していた。四年前、怪我を負ったばかりの頃を想起させる不自由さだった。うすら寒い心地で、高村はじっと耐え忍んだ。朦朧としていた。しかし意識はある。痛みはない。ならば死ぬことはないはずだった。
 楽観し気を落ち着かせると、やや息苦しさを覚えるものの、深く呼吸を取れることに気付いた。少なくとも呼吸に関する筋肉は麻痺していないということになる。生き埋めや、致命的な怪我を負ったのでもない。
(そもそも、俺は……)
 独白し、意識が断たれる寸前へ思いを巡らせた。
 地面が崩れ、結城奈緒に警句を発したのだ。
 直後に赤い線が闇に飛び、首筋に痛みを覚えた。その後の記憶は無い。途切れたのはそこからだ。
(と、いうことは)
 気の進まないことこの上なかったが、徐々に事情は察することができた。
 そのまま数分ばかりまんじりともせず苦い思いに浸った。鈍かった体の反応が少しばかり上向いた。少なくとも眼を開けることはできる。
 とたんに目が眩んだ。強力な人工の灯が眼球を灼いたのだ。

「起きたの? 早いじゃない。ハイ、よく眠れた?」

 頭上の月から、少女の顔がのぞけていた。高村は混乱するが、すぐに月はただの穴なのだと思い至る。彼は穴の底にいて、少女――結城奈緒は、穴の縁に頬杖ついて高村を見おろしている。

「結城」
「気分はどう? とりあえず、喋れるくらいに回復したってことはわかるけどさ」
「なんでそんな高いところにいるんだ?」
「逆だって。ソッチが低いところにいんの。ジョーキョー、ちゃんとわかってる? バカ?」

 軽侮の笑みと呆れの調子。感じ入るところあって背筋の毛を逆立てながら、改めて高村は状況理解に努めた。
 彼がいるのは井戸の底だった。先ほど、奈緒をともなって検分した場所だ。
 ついでに、両腕を胸の前で畳まれて、体ごと粘着性のある糸のようなもので雁字搦めに縛り付けられている。

「……体が痺れてるのはどういうことだ? 毒か」
「そう、毒」と奈緒がいった。しなやかな指を振って見せながら、「あたしのエレメントでね、作れるのよ、麻酔ってやつ。イイ気分でしょ?」
「蜘蛛といえば毒か。穏やかじゃないな」軟性を有しながらもいっこうに緩まない糸に戦慄しながら、高村は頭上を仰いだ。「どっかでなんかやってくると思ったけど、やっぱりやられたか」
「油断したとかいうわけ?」
「まあね。不覚だった。結城のことだから、ぜったい何かやってくる気はしてた」
「それでそうなってちゃ世話ないね」
「まったくだ。リスクは織り込み済みで君を選んだつもりだったんだが」
「はっ、ミジメぇ」

 嘲笑が降ってくる。実際に言い訳しようのない醜態である。肩に疲労を感じて、高村は首を捻りまわした。

「で、さっきのは地盤沈下は結局なんだったんだ? 君の仕込みじゃないだろ」
「さあ? まあ、なんでもいいわ。日頃のオコナイってやつが味方したのかも」
「どの口でそんなことを」

 ぼそりと呟くと、耳ざとく奈緒は聞きつけたようだった。険悪な調子で舌打ちして、手に持った何かを高村に示す。

「覚えがないとはいわせないよ。これ、なぁんだ?」
「暗くて見えない」はじめから一瞥さえせず、高村はいった。手元に自分の鞄がないことにはすぐに気付いた。顔面から即座に血の気が引いた。まずい、と思った。
「処方箋。睡眠導入剤二週間分」無感動に奈緒がいった。「アンタのカバンに入ってたよ。おかしいと思った。やっぱり昼間の、アンタの仕業だったんだ」
「なんのことだか」
「手頃な石でも落としてやんないとならない?」
「……あー、すまない。悪かった」あっさりと前言を翻した。「でも誓って、結城には必要以上に触れていないぞ」
「信じると思ってるの、そんな言い分?」

 その程度ならば、追及されたところでなんの痛手でもない。高村は軽口に徹した。

「それは俺からはなんともいえない。ただ、結城が寝不足って聞いてな。お節介とは思ったんだが、つい。でもよく眠れたろ」
「下衆」奈緒に容赦はなかった。「どういうつもりであたしにちょっかい出したのかはわかんないけど、この借りは高くつくってこと、センセイに教えてアゲなくちゃ、ね」

 どう考えても酌量の余地は認められなかった。高村は居心地の悪さに狭隘な穴のなかでさらに身を縮め、己の迂闊さを呪う。採取した血液のほうは準備室のクーラーボックスに入れておいたことが、せめてもの救いだ。あれを見られればさすがにもう学園に居残る事さえ絶望的になるだろう。
 そしてそんな進退問題さえ些細としてしまう代物が、鞄の中には納められている。できる限り鷹揚と、平静を保ちながら、高村は奈緒に視線を合わせた。

「まあ、それについては全面的に俺が悪い。罵倒も甘んじて受けよう。で、俺にどうしろと? どうせ残りの報酬はもうパクったんだろう? 財布も抜いたみたいだし、この上は直接この身を差し出すくらいしか、結城の気を晴らせそうな持ち合わせはないよ」
「黙れよ」居直りが何らかの癇の虫を目ざめさせた。底冷えするような眼つきと声で奈緒が吐き捨てる。
「手も足も出ないんだ。口くらい出させてほしい。……カバン、返してくれよ。金以外に用はないだろ?」
「せっかくだから、もっと奮発してくれなぁい?」必要以上に嫌らしく、奈緒は笑った。「通帳はさすがにナシ、と。まあ本人確認があるから無理か。でも、カードはあんのよね、これ。ホラ、見えるぅ?」
「わざわざ見せなくていいよ」弱々しく高村は呟く。

 それでいくばくか満足を得たらしく、奈緒は上機嫌に鼻を鳴らした。

「とりあえず、暗証番号を――」
「0912だよ。俺の誕生日だ」
「……は?」奈緒の口がぽかんと開いた。
「0、9、1、2、だ」高村は繰り返した。「ATMに行ってカード突っ込んで暗証番号いれりゃ上限までは出せる。って、言わなくてもそれくらいわかるか」

 今度は素早い反応はなかった。奈緒の胸中でためらいと疑惑と慎重とが綱引き合う様が容易に想像できる。高村も大人しく口をつぐみ続けた。

「どういうつもり?」
 思案の間を置いたにしては、芸がないといわざるを得ない問い掛けだった。「そっちが教えろっていったと思うんだが」
「物分りがよすぎんだよ。アンタ、まだなんか隠してる?」
「隠し事なんてありすぎてどれのことだかわからない」紛うことなき本音の吐露であった。「いや怒るなよ。考えても見てくれ。俺は井戸の底にいて身動きも取れない。しかもここは人里に近いっていったって山の中で――声を張り上げたって蓋でもしてしまえば誰にも聞こえない場所だ。つまり、俺の生命線は君が握ってるんだよ。だいたい、そのつもりでこんなところに放り込んだんだろう? へたに逆らえないようにさ。だったら、意地張るだけムダだ」
「……いらいらする。なに余裕ぶっこいてんの?」
「諦めが早いだけだ。なにしろ俺は怪我人なんだ。なあ、もういいだろう。金はちゃんと渡すさ。なんならカードもそのまま預けたっていい。だからここから引き上げてくれ。強盗なんかしちゃいるが、殺人犯にあこがれてるってわけじゃないんじゃないか?」
「――はん?」

 ひたりと、宵闇さえ透徹して奈緒の怜悧な双眸のひかりが、遠慮のない刃先のように高村の胸裏を抉った。ぎくりと全身を硬直させ、高村は失態を悟った。喋りすぎたのだ。

「よく喋るねぇセンセイ。あたしになにか、してほしくないこと、あるワケ?」
「あ、いや」

 見通され、高村は反駁できない。
 その遅滞はこの鋭い少女に対して充分に致命的であった。

「クスリじゃない。カネじゃない。財布、でもない。……じゃ、なーんだ?」

 高村の反応をいちいち見定めながら、奈緒はわざと高村に見せつけるようにして、ショルダーバッグの内容物を漁っていく。
 少女の洞察は鋭敏過ぎた。高村の取り繕いがほつれ、動揺が露呈する。表情を閉ざすべきだと思いつつも、一度乱れた自制心を取り戻すのは至難の業だった。元来高村は腹芸の得手な人格ではないのだ。そして思わせぶりに奈緒が小型のアタッシュケースを取り出した瞬間、口元ははっきりと引きつってしまった。

「アッハハ、せんせーわっかりやすゥい。顔に出すぎ。これでアタリでしょ?」

 奈緒が手元の直方体をもてあそぶ。それは化粧箱ほどの大きさで、表面は光沢のない白色でコーティングされている。持てば驚くほど軽く、また触れれば陶磁のような手触りがするはずである。
 高村は腹を括った。匣に目をつけられた以上、騙しあいは彼の完敗だった。
 忸怩たるものはある。しかし些末なことだ。彼は二心なく訴えた。

「それは返してくれ。頼む。それは――」

 答えず、奈緒は微笑んだ。
 視界が暗転したのはその直後だった。穴の口に蓋がされたのだ。いったい何を使って、と高村は暗中で目をみはったが、すぐに自分の体を縛る糸を応用したのだと見当をつけた。

「バイバイ、センセイ」と奈緒の声だけが響いた。「気が向いたら、また来てあげるから」

 それから完全に気配が遠のくまで、一縷の望みにかけて高村は声を上げつづけた。それもすぐ力尽きて、ぐったりと肩を落とした。井戸の底は外気と違い冷えており、尻を湿す泥土の感覚に彼は身を震わせた。

「あのガキ」と高村は珍しく言葉を荒れさせた。が、結局は自業自得なのだ。自嘲を交えて嘆息し、「参ったな。笠原メイかあいつは」と静かに呟いた。

 視覚が断たれたせいもあってか、徐々に鈍磨していた感覚が戻り始めていた。これは果報ではなくむしろよくない兆候だった。
 障害の後遺症と脳手術の副作用のため、高村の五感は一定以上の負荷をかけると極端に先鋭化しはじめる。異常に鋭敏になり、暴走するのである。覚せい剤などの幻覚剤を服用するか、あるいは人間が生命の危機に瀕した場合、同じような症状を見せるケースがあった。彼の場合はその箍が壊れたまま二度と戻らなくなっているのだった。
 発作にも似た、一種自律神経の失調症である。問題なのは、日常生活において知覚が増大したとしても、利する点はほとんどないということだ。常人に聞き取れず、見取れない対象とは、すなわち大概が不必要な対象でしかない。受容体が脳に伝達する情報は常に取捨選択がなされているが、この状態の高村にはそれが不可能になる。そしてその果てにオーバーフロウを引き起こす。具体的には幻視、幻聴に加え、頭痛といったかたちでそれは現れる。
 術後三年を経て病状は安定しつつあったが、風華の地を訪れて以降は悪化の一途を辿っていた。とくにここのところの不眠不休がたたっているのは明らかだった。奈緒に盛った即効性の睡眠薬は、せめても睡眠を取るためにと九条むつみが彼のために都合したものだ。そして今、高村に無条件で意識を沈める薬効は望むべくもない。
 鼓動ごと突き上げる頭痛にうめきながら、高村は身を穴の底で横たえた。頬を水が濡らしたが気にならなかった。もとより視覚などまったく用を為さない暗黒のなかなのだ。
 一方鼓膜は水流の音をとらえていた。むろん幻聴である。
 神経が剥き出しになったような熱が、全身を発汗させ始めた。ギプスごと縛り付けられた右腕の筋と肉と骨とがそれぞれ痛んでは軋み、疼痛となってこめかみを刺す錐と手を取り合っていた。ふつりと何かの糸が途切れ、高村は感情の赴くまま自由になる脚を壁に向けて打ちつけた。手応えは綿のように柔らかだったにもかかわらず、足には当然の痛みが走った。しかし軟らかかったのだ。どうしてだろうと彼はおもった。壁面と人体の硬度が相対化されて置換されたに違いなかった。認識が齟齬を起こしていた。
 混乱はそれだけに止まらない。
 三半規管が酔っ払った。俺は立っているのかそれとも座っているのか泳いでいるのか伏しているのか。高村にはそれだけのことも判別できない。上下左右すべての黒が彼を圧迫している。取り巻く闇に高村は窒息し、耽溺している。閉じられたはずのまぶたから黒が滑り込み、眼球の裏側で蠢いてはちかちかと光り強く痛ませる。激しく瞬きして無理やりにも涙を流す。
 カバン。
 痛みに堪えきれず額を黒の濃度が強い部分にぶつけると、ぱしゃんという気を失いかねない爆音が井戸の中に響き渡った。眼鏡が落ちたのだ。高村はうるさいと叫んだ。その叫びがやはり耳を聾し彼は悶絶する。
 カバン。
 意識の電熱線が負荷に耐えかね白熱し、焼けていた。
 がむしゃらに高村は足を振るい、何度も壁を蹴った。何度蹴っても壁は布団のような手応えで、やはり足はしびれ、痛んだ。
 カバン! カバンを取り戻さないと!
 不意に足の抵抗がなくなったと思った瞬間だった。体がさらなる深みへ誘われ、抗する術も持たない彼はただ身の転がるに任せた。
 どこまでも――
 地下数メートルから数十メートルへ。転倒ではなく彼は既に落下している。
 ありうべからざる風に前髪が煽られる。
 それは闇そのものの吐息に相違ない。
 生臭い息吹に彼は辟易とした。
 ために頭の疼きが痛覚の閾値を振り切って、高村恭司の時間が混線した。
 そして、走馬灯を彼は見た。



 ※



「おかえり!」
「……ただい、ま?」

 奈緒が寮の自室に戻ると、見慣れたふたつの顔が出迎えた。ひとりはルームメイトの瀬能あおい。もうひとりは、隣室の美袋命である。
 高村恭司から巻き上げたショルダーバッグをベッドの上に放り投げる。と、満面の笑みのあおいと目が合った。

「なによあおい」
「ううん。ただ今日は奈緒ちゃん、早いなーって」
「あっそ」

 同室で暮らす人間としては、満点ではないにしても、あおいはまだ奈緒にとって許せる人格ではあった。とはいうものの、やたらと益体の無い話を好むのは難だ。ひたすら奈緒を「かわいいかわいい」といっては構いたがるもいただけない。なにより一度夜遊びに関して泣き落としされて以来苦手意識を持ってはいるが、それ以外では余計な詮索もせず、奈緒にとっては珍しく穏便な関係を保っていられる対象である。

「ミコト来てたんだ」
「舞衣ちゃんがバイトだからね」とあおいがいった。

 命が部屋を訪れるのは、決まって同室の鴇羽舞衣がアルバイトで留守にしているときだ。今夜もそのご多分には漏れないだろう。あおいなどは大喜びで命を迎えるし、奈緒にとってもいて気障りな少女では彼女はないので、来室は容認していた。

「あっ、あたしたちもうごはん食べちゃったけど、奈緒ちゃんどうする? 余りもので良ければつくるけど」

 奈緒は壁時計を見る。午後十時を回っていた。「いい」とそっけなく断った。

「太るし、今食べたら」
「えええ」あおいが目を丸くする。「それ以上痩せたら大変だよ。ちょっとでいいから食べようよ」
「いいっての。あんたらがバクバク食べすぎなの」
「じゃあ、わたしが食べる」と命が割り込んだ。
「あんたはもう食べたんでしょ」
 命がパジャマの腹部をさする。切なそうに虫が鳴いた。「でも、はらへった……」
「っていうかなんであんたってあれだけ食べて太らないわけ?」
「わたしはいつも腹八分だぞ? ジイと舞衣のいいつけをちゃんと守ってる。偉いか!?」
「八分って……」早弁用のドカ弁をつまんだ上で昼食に重箱を平らげる健啖を思い、奈緒はわなないた。「あんた胃下垂かなんかじゃないの? 食ったぶんはどこに消えてるのよ。あ、いや、答えなくていいから」
「あはは、じゃ、なんか作るね。奈緒ちゃんのぶんも」ベッドからあおいが立ち上がり、台所へ向かう。

 その背を見送って、奈緒はベッドに体を投げ出した。

「つっかれた……」

 枕に埋めた顔が、思わず緩む。懐の温まり具合を思い出したためだ。
 手持ちで百万。浪費しようと思えばいくらでもできる額だが、それでも使い道はとっさに思いつかない。
 クレジットカードと暗証番号も控えてあるが、積極的にそちらに手を出すつもりはなかった。ATMは必ずカメラで監視されている。不用意に物証を残すものではないだろう。
 高村については、一日置いて明日の夜には解放するつもりだった。少々手間ではあるが、さすがに死なれては大事になる。逆をいえば、殺さなければどうとでもなるという、ある程度の自信があった。後ろ暗いのは互いのことであるし、なにしろ奈緒はHiMEであり、いざとなれば学園理事長の後ろ盾があるのだ。
(しばらく財布代わりにしてやろうか)
 ほくそえむ。ともあれ、初対面から苦渋を味あわせてくれたあの男をやりこめたのだ。達成感と満足感にひたって、奈緒はにんまりと命に話し掛けた。

「ねえミコト、明日半ドンだし街に買物いかない? おごってあげるからさ。アンタも服とか新しいのほしいでしょ」
「ん……あれをやらないならいい」

 〝あれ〟とは狩りのことだろう。先月の辻斬り騒動の夜から、命はそのての〝わるいこと〟についてやや及び腰になっていた。無闇に悪事を働くものではないと、同居人に厳命されたらしい。

「ああ、あれね。いいよ。どうせしばらくはやる気しなかったし」

 徒党を組んで襲われた直後である。この上派手に動けば、ただ出歩くだけでも警戒が必要になりかねない。そう思い、奈緒は安く請け合った。もちろん、二度とやらないなどというつもりはない。あくまで一時休止である。

「また映画か?」
「さあ、面白そうなのやってるんならそれもいいけど」

 布団の上で転がりながら、枕元に置いてあるタウン情報誌を手にとってめくった。紹介頁で目立つのは全米や大仰な総制作費を枕詞に銘打たれたビッグネームばかりだが、奈緒の目当てはマイナーな単館やB級のリヴァイバル上映だ。命とあおい以外にはほとんど知るものもいない、奈緒のひそかな趣味である。

「これ、これがいい」奈緒の背にのしかかった命が、肩越しに頁の片隅を指差した。
「おもい。のっかるなっつーの。……で、なにこれ。アニメ? おいしい大冒険って……まあ短いしハシゴすればいいけど、あんたちゃんと大人しく見んのよ」
「ん。まなーだな。おぼえているぞ」

 得意げに胸を張る姿には、そこはかとなく不安を煽るものがある。大丈夫なのと念を押すと、任せろと命はますます背を反らすのだった。
 台所から、下ごしらえを終えたらしいあおいの鼻歌と、油の跳ねる音が聞こえ始めた。覗くまでもなく「ヤキソバ、ヤキソバー」と口ずさんでいるので、何を作ろうとしているかは明らかだった。

「いいにおいだ」命が犬のように鼻を鳴らした。と思うと、けげんな素振りで首を傾ける。「ん? おかしい」
「ヤキソバが?」
「恭司のにおいがする」
「……あ。ちょっと」

 奈緒が止める間もなく、命は即座に高村の鞄に目をつけた。

「これは恭司のものか」
「さあ? 拾っただけだから、あたし」と何食わぬ顔で奈緒はいった。
「そうか……」

 命は高村恭司に対して不思議と懐いていたから、食ってかかられることも予期はできた。しかし、予想に反して命は追及してこなかった。それよりも気になることがあるのか、釈然としない顔で鞄に何度も顔を近づけては、いつの間にか手にしていたエレメントの剣先で鞄を突いている。
 しばしば奇行に走る少女ではあるが、行動原理が動物に近いものだと一度わかれば、少なくとも表面的に複雑な性質では、命はない。
 このとき彼女が鞄に対して取るそれは、警戒のように奈緒には見えたのだった。

「なにやってんの?」
「わからない」困りきった顔で命が答えた。「わからない。けどなんだか、これ、おかしいぞ。ヘンな感じがする。ミロクが騒いでるんだ。ざわざわする……」
「あ、それ」

 断りもなく中身をまさぐって、命が取り出したのは匣だった。奈緒が見せたとたんに高村は狼狽しだしたのだから、よほど大事なのだろうと思われた。森ではろくろく観察もしなかったが、白々とした明かりのもとに置くと、どうにも不自然な印象のする匣だった。両手に持てば厚めの雑誌ほどの大きさなのだが、異様に軽く、まず材質からして判然としない。硬度は紛れもなく金属のそれだが、触れた感覚のなめらかさは陶器で、しかし比重は木か竹程度にしかない。あえて当てはめるならばセラミックがもっとも近しいが、奈緒にはっきりとした区別などできるわけもなかった。眺めれば眺めるほど、かえって物質としてのアンバランスさが際立ちさえした。
 手応えから何かを内蔵していることは間違いない。しかし、もっとも異質な点はそこにある。

「そのハコ……どうやって開けるのよ」

 継ぎ目がないのだった。番や取っ手さえない。溶接のあともなく、であれば既に『箱』という名称はふさわしくない。そういう形に鋳られたとしか考えるほかなかった。

「骨董品とか? には見えないし」

 指先で、突こうとする。と――
 奈緒の耳を鈴音が打った。眉をひそめて音源に目をやれば、命だった。茫洋とした顔つきで、エレメントを引っ提げベッドの上の匣を凝視している。
 彼女の胸元が、妖しく紅く、輝いていた。

「ミコト?」と奈緒が呼びかける。
「はい」と答えがあった。「はい。兄上」
「――は?」

 疾風のように突き出された切先が匣を直撃した。
 その瞬間だった。自動的に奈緒の手にエレメントが装着され、連動してチャイルドまでもが顕現されかける。あわやというところでその衝動を抑制し、奈緒は命に真意を問おうとした。
 できなかった。
 声が出ない。指先一つ、射止められたようにぴくりともしないのだ。視点も動かせず、時間が止まったかのようだった。意識だけが平常の時を刻んでいる。
(何?)
 恐慌を来たさなかったのは、ひとえに現実感の欠如からだった。自分が呼吸さえしていないことに気付いたが、酸素を取り込まずとも一切苦しみを覚えないのだ。
 静止した空間をつんざく激しい音も、気を逸らす一助となっている。
 発生源は、やはり美袋命のエレメント。そして、彼女が攻撃を仕掛けた匣だ。奈緒は両物質の中間にある毛先ほどの空白を見た。
 その空白が慟哭するのを聞いた。世界中で恐らく奈緒だけが聞く叫びだった。
 ハウリングのごとく、音程の上昇は際限を知らない。直線のように高音がどこまでも伸びていき、恐怖すら感じさせた。ふいに基礎的な理科の知識が奈緒の思考をよぎった。
 音叉の共鳴現象。
 徐々に空白が膨れ上がっていく。比例して、音も大きく、高くなる。
 成長しているのだ。
 表情筋が動けば、きっと顔を引きつらせていた。さらに音が高みへとのぼりつめる様を前にして、奈緒はただ見守ることしかできない。
(冗談じゃ――ないッ!)
 意思だけが支配下ならば、力をそこに集わせるだけだ。HiMEを扱うのと同じ要領で、奈緒は念じた。あらんかぎりの精神力で、不可解な状況の沈静化を願望した。その想いに呼応して、体の局所、エレメントをまとう指先だけが活動を再開した。あとは時間をかけてその力を全身に流すだけだ。奈緒は勢い込んだ。指から手、手から腕、肩、首をめぐって胴から下半身へ。泥を掻き分けるように、匣へとエレメントを伸ばしていく。
 そして触れた。
 とたんにすべての異常が掻き消えた。

「うわっ!?」

 命の悲鳴だ。冷や汗に前髪を湿らせながら、奈緒は億劫な視線を左側へ向けた。

「いたた」
「……なにしてんのよ」

 壁際で命はひっくり返っていた。弾き飛ばされたのだ。頭を打ったらしく涙目になっていたが、顔つきはすでに正気づいていた。いやそもそも、彼女が先ほど見せた表情が現実のものかさえ、奈緒は如何とも見分けられなかった。
 大きく息をつき、指先が触れている匣に目を移した。
 エレメントは、具現化されていない。
「なんなの」と奈緒は呟いた。すぐさま匣をショルダーバッグの中へと戻した。認めがたい不気味さが、打ち込まれた楔のように胸に残留している。
 井戸の底に落とした高村の顔を思い出した。人畜無害そうな、セルフレームの眼鏡の下にある童顔。言動は真っ当なようで奇矯。だがそんなものは、表層にすぎない……。

「あいつ、なに?」

 爪を噛む。あおいが湯気の立つ夜食を運んできたのはそのときだ。

「はい、できたよー」
「おおーっ」

 飛びつく命をよそに、奈緒は布団に寝ころがった。試しに目蓋を閉じれば、昼間あれだけ眠っていたにもかかわらず、急激な眠気が襲ってくる。夜に睡魔と出会う感覚があまりに久しぶりで、奈緒は面食らった。まだ薬が効いているのかもしれない。
(ああ、でも、だめだ)
 遠のかないままの命とあおいの談笑を聞いていた。浅い眠りの予感がした。泥のようなと形容されるほどの深い眠りを最後にしたのがいつだったか、奈緒は覚えていない。体はくたくたで、得体の知れない出来事により心労もかさんでいたが、それでも何もかも手放す気分にはなれない。安寧に身を任せようとすると、取り返しのつかないことになるという不安が必ず肩を叩くのだ。だから結城奈緒は決して熟睡しない。
 それでも束の間の微睡は、意識の逃避先として最適だ。名を呼ぶ声を揺り籠に、奈緒は浅い眠りへ落ちた。



 ※



 地を舐めていた。敷かれた畳の芳香が鼻をつく。這いつくばって身動きとれず、彼は荒く呼吸しては瀕死の虫のように手足を蠢かせた。
「起きなさい」
 厳しい声が降ってくると、脳はなけなしの体力に鞭打つ事を要求してきた。さもなければより悲惨な結果が待ち受けるのだと学習し、賢明な示唆を試みているのだ。
 だが無い袖は断じて触れない。彼は相変わらずうつ伏せのまま、声一つ上げずにいた。
 その背に硬い何かが触れる。
「起きなさいといっているでしょう」
 言葉と同時に、脊椎からわずかに逸れた一点を圧迫された。
 気が狂うかと思うほどの激痛が、全身を海老反りにさせた。のたうちまわり、命の危険を感じた彼はたまらず起き上がり、転がりながら上半身だけを起こした。抗議の意をこめて、無体な女性を見上げた。
「起きられるのではないですか」
 しかし、険しい双眸にぶつかるとすぐに意気がくじかれる。彼はこれほどこわい女を他に知らなかった。
 老女、といっていい年配に達していた。しかし老人と呼ぶには闊達すぎる。そんな雰囲気の女性だった。
 元は金色だったという髪はまったく褪せて銀色に変わっていたが、動作は極めて矍鑠として、背筋もぴんと伸びている。長身もさることながら、体型といい体力といい、面貌のしわや先に触れた髪や肌質のほかに衰えの要素を見いだすのは極めて難しい。美容整形をすれば二十は若返りそうなほどの堂々たる女丈夫である。
 ベースの中には、グレイスバートの中身は鉄だと本気で噂するものが少なくない。独身をもじられて、アイアンメイデン・グレイスバートと呼んだりするものもいた。そのたび敬老の精神豊かな彼は欧米人の物言いをいちいち不快に思ったものだが、今ではまったくその通りだと感じている。
「では、続きを」
 畳に膝を突きながら、彼は少し休ませてほしいといった。
「私は貴方に乞われて教えていると記憶していますが」
 口ごもり、消沈してその通りですと彼は答えた。だけど体がついていかないのですとも言った。手術は成功したそうです。血を吐くようなリハビリにもたえました。だけど体はまともに動いてくれないんです。油をさし忘れたブリキの人形みたいに。訥々と、われながら女々しいとしかいいようのない言い訳を彼は重ねた。
 女はその全てを黙って聞いていた。
「では、止めますか」
 彼は答えあぐねた。ただ休憩が欲しかっただけなのだ。ままならない体のために心が腐ってもいた。心身を衝き動かす感情の源泉さえ、不自由な身では維持するのも難しい。
 否定を見て取り、女はならば立ちなさいといった。
 唇をかみ締めた。笑いつづける膝を殴りつけて、彼は立ち上がった。
 何もかも失った彼を支える手立ては、気力だけだった。女はよろしいといって、頷いた。微笑みさえしなかった。
 今度は意識が飛ぶまで転ばされた。

「私は才能という言葉が嫌いです。なぜだかわかりますか?」
 仰向けに倒れたまま、彼は首を振った。今度こそ起き上がるのは不可能だった。
「劣等の言い訳にしか使われないからです」
 ハスキィな声は、あくまで淡々としていた。
「個々人に差異があるのは摂理です。厳然とそうしたものがあるのは事実。ならば、わざわざ口に出す必要はありません。非才はさらなる研鑚の理由にこそなれ、道を諦めるていのよい言い訳にはなりません。止めるならば、己の惰弱さのためなのです」
 彼はどうとも言えず沈黙を守った。彼女の言葉は正しいが、正しすぎる。強者の理屈である。
「それを踏まえた上で、あえていいましょう。ミスタ・タカムラ。貴方には才能がありません。素養についてもそうですが、身に負った障害が致命的です。年はいくつでしたか?」
 二十歳になりましたと彼は答えた。うつろな響きになるのはどうしようもなかった。こうまできっぱりと断じられれば、惨めな心持ちにもなる。
「二十歳ですか。いかにも遅い。ですが、可能性はあります。可能性だけは。ただし何事を成すにしても、そのために必要不可欠である充分な時間が貴方にはない」
 その通りだった。今さらの事である。女の言わんとしていることが計れず、彼は隙なく佇む姿を盗むように見た。
 目鼻立ちの際立つ造作は上品だが、拭いきれない険しさと厳しさをたたえている。彼女の鉄面皮は、自律と矜持によって保たれているに違いなかった。
 とつぜん、女は話題を変えた。
「先日、ひとり教え子を見ました。立場上は貴方の後輩です。まだほんの少女なのですが」
 生返事する。
「天稟というものを久しぶりに目の当たりにしました。彼女には貴方と同じニホンの血が混じっているそうですが……」
 つ、と女は彼を見おろした。もう一度貴方には才能がありませんと言った。
「諦めなさい。そしてどこかで平穏な生を送るべきです。ブトウのみならず、貴方には争いごと全般に対する適才が欠けています。これは、人としてまったく羞じることのない資質なのですよ」
「それでも」と彼は言った。「それでもですよ、ミス・マリア。俺には才能がないかもしれないけど、死に物狂いでやってものにならないほど見込みがないわけじゃないはずです。だから鍛えてください。お願いします。もう他にどうしたらいいのかわからないんです。これ以外何も残ってないんです。がんばります。がんばります。がんばりますから、どうか、お願いします」

 一転して、彼は屋外にいた。紅い日が海に没しつつあった。たそがれの時間帯。一年ほどのあいだ体技の指導をした女性は、技らしいものは何も伝授しなかった。彼はただ彼女の動きに倣い、教えを踏襲しつづけた。考えつづけ、動きつづけ、決してよどまず、感覚に身を明け渡しなさい。体格と障害のハンディキャップを常に念頭に起き、それらを利用して身を守る術を研ぎ続けなさい。
 言いつけを愚直に守る。彼に与えられた才と呼ぶべきものはそれひとつだった。
 彼はひたすらに型をなぞり、体を苛め続けている。白を基調とした部屋でベッドに寝かされ、頭部に電極を差しては、自分の意思を介さず電流と信号によって傀儡にされる手足を眺めた。そのたび体と人格が造りかえられるような違和感にさいなまれた。だがいつか死に接した折の発狂を思えば何でもないことだ。ジョセフ・グリーアは何度か検体を降りてはどうかと打診してきたが、だから彼はその全てを突っぱねた。苦痛は必要な代償だった。目的を決して忘れないためにだ。眼が醒めると、目の前に頬を膨らませた天河朔夜がいた。お兄ちゃん居眠りなんてヒドイと彼女は形ばかりの不機嫌さをアピールする。お互い疲れてるわねと九条むつみがいった。この頃の自分は彼女に恋をしているのかもしれないと彼は思った。
 大学時代の前半に住んでいた学生長屋の前の夜道を、彼は玖我なつきと歩いていた。いや九条むつみと並んでコンビニへ向かっているような気もした。優花・グリーアを伴って海にでも行っているのかもしれなかった。どれでも同じだけ理不尽だ。彼女たちとこんな時間を過ごした記憶は彼の中にはない。しかし真夏にもかかわらず真冬のように寒いことに比べれば些細な問題だった。
 風邪を引くかもしれないからと言って、彼はなつき/むつみ/優花の手を取った。空気が澄んでいた。急に自分の見目が気になったが、ここで鏡を確認すれば自己愛的にすぎると思い自重して、しかしこんなことを気にする時点で俺は自意識過剰なのかもしれないと己に対する不信感を持て余した。俺はナルシストなんだろうか?
 誰かに意見を聞いてみたかった。隣に顔を向けると、そこには鏡があった。取り立てて妙な顔ではなかったので、彼は安堵した。しかしすぐに恥じ入ってうつむいた。
 地面には星がよく見えていた。
「何みてるの、先生」鴇羽舞衣が言った。
「星だよ、鴇羽」
「星なんか見えないぞ」美袋命が眉をひそめた。「それにわたしは舞衣じゃない」
「そうだったな、美袋」
 夕刻のベイ・ブリッジを歩いていた。むろん隣には誰もいなかった。彼は寂寥と茫漠に耐えられず、その場にうずくまった。波音に意識を洗われてはすすり泣いていると、優しく肩に手をかけられた。鷺沢陽子だった。背後には迫水開示もおり、労わるような笑顔で彼を見つめていた。それから現実感がないまま、彼は鷺沢陽子と同じベッドの中にいた。これは果たして俺の女性に対する願望が顕在化しているのだろうかと彼は思った。荒唐無稽な筋は他に解釈しようのないほど直接的な内容であり、フロイトやユングの出番はどこにもなかった。裸のままベッドから降りて振り返ると鷺沢陽子は既に消えており、そこには無垢な寝顔をさらす結城奈緒がいた。健やかな呼吸が憎らしくなって、彼は奈緒をくるむシーツを剥ぎ取った。天体観察をするのにワイシャツとズボンだけでは雰囲気が出ないと思ったのだ。
「何をしているのです」厳しい声が問い掛けた。振り向かないまま彼は答えた。
「星を見てるんです。ほら、あの月の横にあるあの星を」
「そんなものは見えません」
「おかしいですね、それは。あれだけ光ってるのに。放物線みたいに真っ赤なのに。どうして誰も見えないんでしょう」
 落胆しながらふすまを開けた。そこは両親と過ごした実家の居間だった。虚を衝かれて立ちすくんでいると、急激な震動が世界を揺さぶった。柱が折れ梁が落ちて、また世界は暗黒に閉ざされた。いいかげんにしてくれ、と彼は怒鳴った。もうこんなのはたくさんだ。どれだけ続くんだこの穴は。俺を出してくれ。外に出してくれ。
 声がした。「恭司、そろそろ起きた方がよいでしょう」。聞き慣れているようで、久しぶりに聞く彼女の肉声だった。だから彼はもう少しだけこのままでいても良いかも知れないと考えを改めた。
 再び、声がした。

「わ。恭司くん!?」



 ※



 畳ではなく、冷たい石の上に転がって、高村は言葉にならないうめきを漏らした。腕は相変わらず糸で縛られていたが、いる場所は明らかに井戸の底ではない。今度はどこかの洞窟が舞台のようだった。

「え、ええー……。今、どっから出てきたの?」

 高村の目には杉浦碧の姿が映っていたが、彼はこれもまやかしだと判断した。碧の格好があまりにも奇矯だったからだ。
 月杜にあるファミリーレストラン、『リンデンバウム』のウェイトレスの制服を着ていたのである。どういう趣向なのか、強調された胸元のあちこち土汚れで煤けていて、ただでさえ扇情的に短いスカートの裾も何箇所かほつれている。おまけに手には中世の騎士が武器にしたハルバードのような得物を持ち、背後には車輪を牽く犀の化物までもいた。幻以外には考えられない取り合わせだ。
 高村は手を使わず器用に立ち上がると、混乱している碧を、据わった眼で見つめた。

「碧先生」
「は、はい。いやじゃなくて、あたしは通りすがりの正義の味方だけど――」
「じゃあ、正義の味方さん」
「ハイ?」
「優花はどこへ?」
「ユーカ?」碧は小首を曲げた。「誰それ。あ、わかった。彼女?」
「それはもういいです。よくないけど、いいです」高村はあからさまに失望して見せた。「ところで、リンデンバウムの和訳はなんですか」
「シナノキ」
「そう」得たりと高村は頷いた。「ウンター・デン・リンデン。北海道土産で有名なくまの彫り物もシナです。で、シナノキといえば巨樹。そそり立ってますよね。つまりこれはメタファーですよ」
「え、なんの」
「性欲の。ぶっちゃけ男根の」
「なにいってんのこのひと……」碧の白眼が不審人物を見るものに変わりつつあった。「恭司くん、下ネタとか言わない人だと思ってたけど」

 夢の中とはいえ、据え膳食わねば男の恥である。錯乱した高村は、不意を討って碧に飛びかかった。

「うおーーいッ!?」

 両手の自由は利かなかったが、運良くも高村は碧を押し倒す事に成功した。互いの体臭が香る距離で、高村は碧の首筋に鼻を埋める。狼狽した碧が半笑いの叫び声をあげたにもかかわらず、ずいぶんディテールの凝った夢だとしか彼は思わなかった。熱に浮いた高村の興味の矛先は、碧の汗ばんだ首から肩、隆起した胸へとくだっていった。

「ちょッ、待って待って、あははは、首で息しないで、え、なになに、どうしたのこれちょっとー! あっ。いやマジマジで! そこはやばいっ。おっぱい、ただのおっぱいだからそれはぁっ。セクハラかっこ悪いよー! っていうか殿中! 殿中でござるっ。うわー恭司くんが乱心したー! ……くっ、こうなったら、ていっ」

 ごん。
 目の眩むような一撃が、頭部を強かに打った。たまらず高村は碧の上から転げ落ちて、またも無様に地を転がる。まぎれもない現実の痛みに眼をしばたかせた。乱れた制服と、足を崩してへたりこむ碧の姿を見た。
 体温が二度ほど下がったと思う。

「…………えぇ」
「はぁ、は、はぁ……正気に戻ったか……」
「……え?」
「なに、そのハトが豆鉄砲食らったような顔」碧がきりきりと眦を吊り上げた。「かよわき乙女をあやうく手篭めにしかけた悪漢の末期にしちゃあふてぶてしいなぁ」
「え、リアル碧先生? ですか?」
「バーチャル碧先生がいるんかい」鼻息も荒く手にある物騒な得物を一振りする。「いや、あたしはただの通りすがりの正義の味方で碧ちゃんとは関係無いけどね?」

 息を乱し、ハルバードを杖にして、碧がようよう立ち上がった。きわどい角度で仁王立ちの彼女を見、芋虫のように這って距離をとると、高村はさめざめと泣いた。

「汚された……」
「あァ?」

 無表情の碧にハルバードを突きつけられる。

「ごめんなさい頭領。少し調子乗ってました」
「頭領って誰だ。けどまあ、うん、素直でよろしい。何があったか話せば許すのもやぶさかじゃないぞう」

 高村はしおらしく続けた。

「俺、血迷ってたんです。正気なら決して頭領を襲ったりなんか考えもしませんから、勘弁してください」
「それはそれでプライドが傷つくなぁ……」

 腕を組む碧を前にして、高村は内心で驚倒しきりだった。
 どう見ても、彼女が手にしているのはエレメントだ。
 ならば、背後に控える巨獣もチャイルド以外にありえまい。
 杉浦碧もまたHiMEだったのだ。
 疑問はいくつもあったが、その全てを棚上げにして、高村は深々と息をついた。安心したい所ではあったが、そうもいかない。
 ――ハコを盗られたのだ。取り戻さなければならない。

 ことここに至って、結城奈緒から手を引くつもりはもはやなかった。






[2120] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2006/10/29 10:31




6.Rocket






 多くの意思が集う空間には悪意がある。明確なベクトルはない。芽生えるのでもない。最初からそこに吹き溜まっている。
 澱である。その手の憑物は嵩が増えれば自然に行き場を求め、些細なことで発露する。集団の指向とはニュートラルであれば風見鶏よりも薄弱なものだ。
 取り分け弱みもないのにいじめの標的にされる人間は、だからほとんど生贄のようにして選出される。
 楯祐一のクラスである1―Aの場合もそれは同じだ。そして眼をつけられたのが、彼の隣に座る転入生の少女だったというだけの話である。
 
 祐一が誰もいない教室に足を踏み入れると、薄暗の空間に菊を生けられた花瓶が目についた。彼はおいおいとうんざりしながらひとりごちる。憤慨はなかった。くだらないと思い、道端で動物の轢死体に出くわした気まずさをおぼえて、後ろめたくもないのに周囲の気配を探った。
 舞衣の机には、花瓶だけでなく顔をしかめたくなるような落書きも書かれていた。身体的特徴や性格、アルバイトに精を出していることなどを最大に悪意的に解釈すれば、頷けなくもない文句である。
 標的は違っていたが、以前にも似たような仕業を目にしたことはあった。常習的にクラスメートを的にかける一派がいるのだろう。

「朝っぱらからくだらねーモン見せやがって」

 やれやれと、学生鞄を机に放った。
 創立祭の準備でよっぴき作業にかかった翌日である。ふだんより一時間早く登校した朝だった。秋にある文化祭のように生徒を半強制的に総動員できる催しとはことなり、地域の振興と学園外部とのふれ合いを目的とした創立祭では、日頃強権で鳴らす生徒会執行部はここぞとばかりにこき使われる。不摂生に親しんでしまった身にはきついスケジュールであったが、どこか懐かしい気分でもあった。一年ばかり前には、竹刀を手にもっと体に鞭打っていたのだ。
 ほろ苦い気分にひたり、鞄を机に置きに来た矢先に供花だ。いまどき小学生でもやらない貧弱な発想に、祐一は鼻を鳴らした。
 舞衣は気が強い上に自意識が過剰でさらに不当に祐一を貶める論外のやからではあったが、こんな陰湿な仕打ちを受けるほど〝嫌な奴〟ではない。せめて花をどかして落書きを消すくらいは、善意のクラスメートの分を出ない行動だろう。そう自分に言い訳すると、彼は花瓶を手に雑巾を求めて、掃除用具入れへときびすを返した。
 高村恭司がいた。

「イジメか?」

 祐一は一拍遅れて、

「……っくりしたぁ。眼鏡かけてないから一瞬どこのクラスの……どこの父兄が入り込んだのかと思いましたよ」
「言い直したなおまえ」
「いや、まあ。いつの間にいたんスか?」
「さっきからいたよ」溌剌と、素顔の高村はいった。昨日までの疲労が嘘のように血色がよい。さては眼鏡に生気を吸いとられていたのだと思わせんばかりだ。「声もかけた。だけどおまえ、義憤に駆られたのか真剣な顔で歯を食い縛ってたからな。気がつかなかったんじゃないか」

 え、と祐一は顔を撫でた。すると、いつものスーツではなくスウェット姿の高村がにやりと笑う。かまをかけられたのだ。仏頂面で口を尖らせた。

「……そんな顔、してねえッすよ」
「そこは鴇羽の席だったよな」眉をひそめて、高村が舞衣の机を見おろした。
「ですね」
「いつから?」
「さあ……俺も見たのは初めてで。今日からかもしれないし、前からかもしれねーし」呆れながら祐一はいった。「あいつ、鴇羽のことですけど、何があっても笑って平気な顔してるっていうか。大したタマなんですよ。なもんで、具体的にいつからってのはわかんねーです」

 これほど露骨なものは初見でも、舞衣が遭っているめについては、おぼろげながら雰囲気で察したというのが本音だ。それほど苛烈ではなく散発的に行われる嫌がらせのようではあるが、問題が表面化しないのは舞衣が全く騒がないせいもあっただろう。

「教師に優しい心がけだ」醒めた顔で高村は呟いた。「でも、実際に平気かどうかなんてわからない。そうだろう?」
「そりゃそうです」祐一も頷く。「けどそのうち止めるとは思いますよ。ちょっとしたことで。どうせ遊び半分でやってんですよ、こんなの」
「怖いな、今の子って。それとも鴇羽がなにかしたのか?」
「どーっすかね。なにもしてないと思うし、アホなことやってんなうちのクラスでも一部ですよ」弁解のようだと思ったが、事実である。祐一は不機嫌さを隠さずに打ち明けた。「女子ってグループとかメンドクセェでしょ。ちょっと気に障ったくらいで眼をつけたんじゃねえかな。見て見ぬふりばっかの周りも悪いんでしょうけど……。まァ、そんな感じで」

 熱っぽく語っている自分に気付いて、溢れそうな言葉を留めた。先ほどの高村の揶揄も、あながち嘘ではないのかも知れない。何をむきになってるんだと、祐一はばつの悪い思いにとらわれた。
(べつにオレがやられたわけでもねえのに)
 高村は肩をすくめただけだった。

「転入生ってことで色々あるのかもしれないけど、俺の時代じゃ美少女ってだけで一目置かれたものなのに。それともこのクラスがおかしいだけか」
「美少女ぉ?」

 思い切り胡乱な顔を作る。悪くはなくともそれほどずばぬけた美人ではないというのが、祐一の舞衣に対する印象だ。奇妙に快活な教師は、「眼が肥えてるな」と喉で笑った。

「鴇羽はカワイイだろう? スタイルもいいしな。同年代なら放っておかないんじゃないか」
「たしかに、高一であの胸は反則って感じですけど……」
「へえへえ」

 面白げな眼を前に、祐一は渋い顔になって口を閉ざした。むだ口を叩く暇ならば、さっさと不愉快な光景を清める行為に充てたほうが有意義である。

「仕事しましょうよ、お互い。もう今週っスよ、創立祭」
「そうだな。けど、その前にやることがあるだろ」

 先回りした高村が濡れた雑巾を投げて寄越した。いたずらっぽく笑う顔を見返して、祐一はためいきまじりに会釈した。

「じゃ、いっしょにやりますか?」
「是非もない」
「ヘンな先生っすね。悪い意味じゃなくて」

 いやあ、と高村がわざとらしく照れた。

「実は今日は悪いことをするつもりなんだ。だからここで善行を積んで徳のバランス調整をしとうという腹積りなのさ。情けは人のためならずの確信的使用例というわけだ」
「悪いこと?」
「女子中学生をひとりボコボコにしようと思って」

 あまりにも和やかに告げられたので、祐一はそれを冗談だと決め付けた。「それはワルいっすね」とやや引きつった声でいった。

「そういえば、昨日まで調子悪そうでしたけど、もう大丈夫なんですか」
「あんまり大丈夫じゃない。今朝がた栄養剤を注射して体をごまかしてるだけだ」机をごしごしと拭きながら高村がいった。「中身はわりとずたぼろだよ。寝てないし、この真夏に寒い思いはするし、肉体労働は控えてるし、そもそも俺けが人だし」
「あれ? そういえば三角巾どうしたんスか」いわれて初めて、祐一は高村の右手に注目した。スウェットの袖口が膨らんでいる。ギプスの厚みだろう。もちろん手先も相変わらず包帯で覆われていた。何針も縫う怪我だったのだから、一週間ていどで完治するはずもない。
「なくした」高村はぼそりといった。底知れないものを予感させる響きであった。
「な、なくしたって。もしかして、眼鏡もですか? ひょっとして、今日スーツじゃないのも……」
「なくした、なくした。なくしたんだ」投げやりな声だった。きりきりと歯軋りしそうな顔で続ける。「おかげで大目玉だ。いや、怒られちゃいないが、それよりよほどつらい。心底俺は反省したよ。人に迷惑かけるのは、やっぱりきついな」

 背景は不鮮明ながら、高村はなにか手ひどい失敗をしたのだと祐一は了解した。率直に意外であった。彼に対しては、何をするにしても卒のない男であるような印象を抱いていたのだ。

「つまらない慰めっすけど、そういう日もありますよ」
「ありがとう。おまえはいいやつだよ。カッコ良い」

 高村が笑った。邪気のない笑みだった。そののんびりとした空気にあてられて、ずっと気にかけていたものの、祐一は結局、あの辻斬りの事件について何ひとつ切り出すことはできなかった。
 清掃が終わると、どちらともなく息をつき、何ともいえない顔を見合わせた。吹奏楽部のクラスメートが教室に入ってきたのが頃合だった。ふたりは生徒会室へ赴くことにした。朝の仕事は、まだまだ終わっていないのだ。
 廊下を歩きながら窓外に目をやっていると、裏山から大型のトラックが出てくるのが見えた。荷台にはへし折れたらしい木を三本ほど積んでいた。昨夜は雨も地震もなかったはずだが、風華では不自然な天災など日常茶飯事だ。祐一の眼には、見慣れた景色のひとつとしか映らなかった。
 蝉が鳴き始める。歌はひねもす続くだろう。涼しげな朝は終わりを告げて、また盛夏の一日が始まるのだ。生徒会会議室に足を踏み入れ、既に集結している役員や各部の幹部たちを前にして襟を正す祐一を尻目に、高村恭司は真剣な顔つきで遠景に焦点を結んでいた。



 ※



「耳を澄ますと潮騒が聞こえるね」と杉浦碧がいった。「なんだかロマンチックじゃない?」
「こんなに泥だらけでなければ」と高村は答えた。
 碧は違いないと微笑んだ。
 二人はランタンの光に照らされて、倒れた木の一株に腰を降ろしていた。かたくなに自分は杉浦碧ではないと主張したウェートレスは既におらず、偶然だねとそらぞらしく嘘をついて入れ替わりに現れたのが、ツナギに着替えた碧だった。
 高村の拘束はすでに解かれていた。自称正義の味方がハルバードのエレメントを振るい、難なく戒めの糸を断ち切ったのだ。上乗せされた身体能力だけではなく熟練を感じさせる、見事な手際だった。
 状況が落ち着くと、高村にしても碧にしても会話の切り口に難儀するはめになった。なんといっても、高村には金で中学生を利用しようとしたという後ろめたさがある。恐らく地盤沈下を引き起こした張本人であろう碧も見つかれば不味いことになるのは決まりきっており、そうした事情が二人の口を貝のように固くしていた。
 趣味や性格はそれなりに合う二人だったから、暗黙のうちにもそのあたりの呼吸はしれたものだ。だからこそ糸口に困っていた。
 高村の場合は完全な被害者を装うのがもっとも無難な選択肢である。だがその場合は碧から話を聞くことは難しくなる。かといって関係者然とした態度を取れば、余計な勘繰りを招く事になるだろう。塩梅の見極めが複雑に絡んで綱引きしていた。
 しかし十分もだんまりを決め込めば、さすがに飽きが来る。
 腹の探り合いはごめんだ。高村は駆け引きを早々に諦めた。どうせ話術となれば碧が上手なのだ。
「碧先生」と彼は口火を切った。「単刀直入に聞きますけど、先生はさっきの正義の味方さんですよね」
「ちゃうよ」
 即答だった。
 高村は眉根を寄せて、換言した。
「誕生日は?」
「四月六日」
「身長」
「最近計ってないけど百五十七ー。六十はいってないよ」
「体重とスリーサイズを」
「いうわけねーだろ」
「失礼。年齢は?」
「じゅうななさい」
「……はぁ?」
「じゅうななさい」
「二回いわなくてもいいです。ちなみに干支は」
 実年齢に換算すれば、碧の干支は酉。当然十七歳ではないことの実証になる。にわか仕込みの年齢詐称なら即座に引っかかるトラップである。
 しかし、やはり碧は即座に、しかもポーズ付きで答えたのだった。
「辰年でーす」
「なんで合ってるんだよ!」
「修行が足らんのう」
 完璧だった。
 不敵に笑む大人げのない教師を前に、脱力して高村は最後の問いを発した。
「――それじゃあ、先生はHiMEですか?」
「うん」
「それはいいんだ……」
 杉浦碧は、どこに譲れない線があるのかわからない女であった。
「やっぱり恭司くんもしってるんだね、HiMEのこと。そっか、そういえば舞衣ちゃんが巻き込んだ人っていったらキミしかいないもんなぁ」
「鴇羽? 鴇羽のことを知ってるんですか」
「命ちゃんもね。ちょっと縁があった。前に……ま、色々あって」仄紅い光を瞳に宿しながら、碧がいった。
「オーファンがらみで?」
「それも知ってるんだ?」碧は一寸目を丸くした。「思ったより事情通なんだね」
「ほどほどには」
 あえて否定はしなかった。夜の山奥である。明らかにおかしな出会い方をした時点で、そしらぬ風を装っても空々しいだけだ。玖我なつきの場合と対応が違うのは、単に高村の趣味である。
「んじゃ、恭司くんがウチに来てからずっと調べてるのって、もしかしてHiMEのこと、だったりするのかな」
「それも入ってます。メインはあくまで伝説やこの学園について、ではあるんですけど」
「オーファンやHiMEの事情を知ってまだそういうことをするってことは、キミ、フリーじゃないね」
「いってることがよくわかんないですね」
「たかが論文ひとつのためにそんな大怪我してちゃ、割に合わないでしょーに」
「勉強バカですから」
「……かわすなぁ。もしかして、今あたしヤバめな話してる?」
 吊りあがり気味の瞳が、鋭さをもって高村を舐める。鳥を落とすような眼光の穂先は、身を射すくめるに充分だった。
「何にもないって言いたい所なんですけどね。答えなくちゃまずいですか」
「……ワケありか」
「碧先生が想像する程度には、誰だってわけありだと思いますよ」
 煮えきれない返答に、目を細める碧だ。
「言わぬが華かな?」
「気になりますか」
「そりゃね」碧は軽く首を傾ける。「こう見えてあたしもHiME歴長いからさ、なるべく関わらないよーにしてたけど、〝そういう人たち〟がいるってことも知ってる。だけどまさか恭司くんがそうだとは思ってなかったよ」
 口ぶりに精神的な距離を、高村は感じた。警戒されたのだ。
 落胆している自分に気が付き、呆れ、苦笑した。
 腹に一物隠したまま、誰にでもいい顔をするのは不可能だ。願うことさえ驕慢だし、虫が良すぎる。だから彼は軽く笑うのだった。
「誰にだって隠しごとくらいあるでしょう」
「一般論に逃げるのは、カッコいいとはいえないよ」碧の顔色がやや険しくなった。
「気をつけます」高村は、小さくすいませんと口にした。「でも、黙ってたことは悪いとは思いませんよ。俺にも事情があってしてることですから」
「そりゃあ、そうだろうね」
 さびしげに俯く素振りは十中八九演技だろう。そうとわかっていて、高村は口を縛る紐をほんの少し緩めた。
「まあこの際だからいっちゃうと、媛伝説について俺が論文を書く可能性はもうないです」
「そうなの? なんで……」言いかけて、碧はかぶりをふった。「そっか。もったいないね。せっかく、同好の士だと思ったんだけど」
 ものわかりの良さは、推察の行き届いていることの裏返しだ。碧の回転の速さには、高村も舌を巻く思いだった。
「いや、趣味なのは本当ですよ。実際院生だし、伝手で臨時教員になったのは、まあ否定しませんけど」
「そこはあたしも人のコトいえないや」
 カラリと碧が大笑した。恐らく彼女もHiMEであることを理由に招かれたのだろう。
「そんなわけなんで、俺に論を剽窃される心配はないってことです」
「あ、失敬だなぁ。そんなことする人だとは思ってないよ」と、碧はわずかに眉根を寄せた。「フーン。とりあえず恭司くんに関してはあんまり詳しく身上聞かないほうがいいってことで良し?」
 え、と高村は虚を衝かれ口を開いた。むろん願ったりかなったりの折衷である。しかし説得の過程を飛ばして碧が折れたことが意外だったのだ。
「いや、それでいんですか」
「イイもワルイもないっしょ。話したくないんだったら、べつに聞かないよ。知りたいことだったら自分で調べるし、知らなきゃいけないことならそのうち嫌でも知ることになるじゃん?」
 ありがたいが、物分りがよすぎて逆に疑わしい。高村は苦笑しつつ、
「女の子はみんな穿鑿が好きなものと思ってましたよ」
「そりゃ、恭司くんにいい女を見分ける眼が育ってないからじゃないかな」
「そうですか?」笑みを絶やさずいった。「でも碧先生も穿鑿してましたよね。地面を」
「ぎくり」
 わざとらしく碧が顔を逸らしたのを見て、高村は了見の広さの一端を踏みつけた気がした。
 元はといえば、高村が井戸でさんざんな目に遭ったのは突然の崩落のためである。あのような不測の事態に見舞われなければ、最低限逃げる程度の立ち回りを演じることはできたのだ。
 この上怪我らしい怪我の増えなかったことはまったくの幸運だった。傾斜が緩い場所であったため被害は転倒に留まったものの、崖の根元で土砂に埋もれれば当然怪我では済まなかっただろう。
 そして碧には、前後の事情についてはぼかしつつ、井戸に閉じ込められた経緯はすでに話してある。
「負い目があるのはお互い様ってことですね」高村は首を一寸すぼめていった。「大の大人がふたりそろって、ろくでもないなぁ」
「そういわないでよ」小さく碧が反論する。「あたしもあれはちょっとやりすぎたと思ってるんだからさ。いきなり地面がぼっこーって崩れだしたときはマジで血の気引いたよ」
「確かにあれは凄かった。世界の終わりかと思いました。やっぱりオーファンと?」
「うん。雑魚いのとね。でもそれだけじゃなくて、それは勢いみたいなもので……」気まずさを持て余してか、碧は乱暴に後頭部をかく。テールにくくられた髪が、オレンジ色の灯りを揺らした。
 いいよどむ様に、直感的に閃くものがあった。と感じたときには、高村はもうそれを言葉に換えていた。
「もしかして、この山のことを調べようとしていたんじゃないですか」
「恭司くんも?」勢いよく首を高村へ振り向けた碧が、前のめりになった。「やっぱ、図書館の水路図見た?」
「水路図?」
 聞き返すと、「あら」と彼女は身を引いた。
「ハズレかぁ。でも、じゃあなんで?」
「いや。たぶん俺たち、同じものを見てると思います」口調に熱を込めて高村はいった。シアーズや本来の目的からはいくぶんかけ離れた、彼自身の主体にとても近い好奇心に火が入りつつあった。「その話、ちょっと詰めませんか」
 きょとんとしていた碧は、すぐにその頬を緩めて話に乗った。見合わせる二つの顔は、傍から見ればそっくりに違いなかった。
 楽しげに、杉浦碧が語り始めた。



 ※



 自席に座るまでは、とても気分の良い朝だったのだ。
 その日の奈緒には、寝起き特有の、体を引きずるようなあの倦怠感がなかった。目覚ましより早く目を覚ましたことにもひそかな満足を覚えた。寝ぼけ眼の瀬能あおいが朝食のあいだ終始首を傾げていたことも気にならなかった。これだけ気分が良いのだからと街へ逐電を計ろうとした後襟を捕まえられたことも、戯れ合いで済ますことができる。奈緒は大半の生徒に先んじて、軽い足取りで校門のアーチを抜け、下駄箱を通り教室へむかった。朝練組と思しき数人の先客が、意外そうな目で奈緒を迎えた。奈緒は名前を覚えていない、たしか剣道部に在籍しているという坊主頭の生徒が、恰幅の良い体を揺らして笑顔を見せた。
「奈緒ちゃん、どうしたの? 今日は早いね」
「ううん。ちょっと眼が覚めちゃったの」と、猫なで声で奈緒は答えた。居合わせた女子が露骨に舌打ちするのが聞こえて、愉快な気分になった。
 そこまでだった。
 まず彼女は、教科書を全て詰め込んである机の収納スペースから、これ見よがしに伸びている飾り用のリボンに気がついた。更紗のような生地の先には茶封筒があり、まぎれもなくリボンはその封筒に添えられたものだった。
 封筒には堂々たる毛筆で『結城奈緒さまゑ』とだけ記されていた。花をあしらった意匠を見るに、まさかラブレターではあるまい。といって剃刀やおかしなしろものが込められている気配もなく、いたって当たり前の紙が納められているようだった。
 表面にも裏面にも差出人の名はない。
 奈緒は胡乱な眼つきで封緘された口を破り、中身を机の上に振り落とした。

「ぅえ!?」

 ちょうどいくつかのグループがまとめて教室に現れるのと、奈緒がひきつったうめき声を上げるのは同時だった。
 素っ頓狂な声を漏らした奈緒を、室内の視線が物珍しいとばかりに舐めまわした。彼女はぎこちなく取り繕いの笑顔を浮かべ、机に落とした和紙とA4のコピー用紙を腕で隠した。
 すかさず教室を脱け出した。
 行先は決まっていた。トイレである。それも出入りの激しい校舎のものではなく、実験棟の方のトイレだ。

「……っ」

 スカートのポケットにしまった手紙を力いっぱい握りしめ、奈緒は早足で個室へと滑り込んだ。扉を閉め、鍵をかけると背を戸に預け、目尻を震わせながら手紙の内容をあらためた。
『拝啓 結城奈緒さまへ』という字句で文章は始まった。
『盛夏の候ますますご健勝のことと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。今日もイカの足に似たヘアスタイルは絶好調のことと思います。つきましては本日放課後、昨晩私たちが居合わせた井戸があった場所でお待ちしておりますので、そこに荷物を持って来てください。むりじいではありませんのでよく考えて来るように。そうそう、同封した写真は心ばかりの気持ちです。以下に暗号を記しておくので、あなたにはちょっと難しいかもしれませんが、来るかどうかを決めるときの参考にしてください。さて、心のじゅんびはいいですか。いいですね? 暗号は〝こたないたとしゃたしんたばらたたまくたぞ、このズベ公〟です。ヒントはたぬき。がんばって挑戦してくださいね。敬具――K・Tより』
 宛先を小馬鹿に仕切った手紙を律儀に読み終えてすぐ、奈緒は紙面を八つに引き裂いた。爪を噛みながら、苛立ちもあらわに壁面のタイルに拳を打ちつける。

「あいつ、どうやって……」

 糸の拘束は完璧なはずだった。強度も硬軟も奈緒の意思ひとつで変化する材質だ。高村に巻きつけたものならば早くとも今日の夕刻までは決して弛まないはずだった。
 仔細はともあれ、高村は井戸の底から脱け出し、学園に現れて、奈緒の机に呼び出しの封筒を忍ばせた。それが現実だった。認めることから対応をはじめなければならない。予定通りにことが運ばない不快感に、奈緒は荒々しく息をつく。

「なに、これ?」

 声に出して呟いた。高村を閉じ込めたことも持ち物を奪ったことも、深い考えがあってしたことではない。そもそもあの男が悪いのではないか? 中学生を金で釣るような真似をして、しかも睡眠薬まで盛ったのだ。仕返しをされて当然の屑だ。それに高村の口座には何千万円も残高があった。そこから手間賃に授業料としていくらかの金をせしめ取ることくらい、大した痛手はない……。
 奈緒は歯軋りして『写真』を食い入るように見つめた。凝視するほどに、かっと耳から目の下にかけてが紅潮した。怒りや混乱や羞恥が一緒くたになって、思考がまとまらなかった。
 現像したのではなく印刷された画は、あられもない奈緒の姿そのものだった。
 ぱっと見は、布団の上であどけない顔で眠りにつく少女の図だ。問題は、下腹部の下敷きになったシーツにあった。
 染みがあるのだ。巨大な、地図のような、水分の染み込んだ跡があるのだ。
 どう見ても、寝小便の図だった。
 眠っているのが自分でなければ、奈緒もそう考えるに違いなかった。
 呼び出しに応じなければこれを衆目に晒す。封筒の送り主はそう言っている。
 いつ撮られたのか。
 ――考えるまでもない。

「は、はは」

 虚ろな笑いしか、もう出てこなかった。

「は、ぁはっ」

 力任せにその紙も細切れに破ると、奈緒はより自然に笑おうと努めた。馬鹿馬鹿しい。ガキと同レベルのイタズラじゃないか。こんな写真一枚の安っぽい挑発に乗ってたまるか。
 繰り返しそう考えようとして、失敗した。小刻みに肩を震わせながら、背を壁に預けて石膏の便器を蹴りつけた。
 あまりのくだらなさに、彼女は少しだけ眼を潤ませた。

「は……くっ、くだ……はぁっ、あっ、アイツ……こんっな……くだ、くだら、らない……」

 深呼吸を繰り返し、拍子を取るように何度も、後頭部で壁を叩いた。頭蓋骨に響く痛みが冷静さと真っ当な感情を呼び戻すと、奈緒はひどく低く乾いた声で一度だけ囁いた。

「――ブッ殺してやる」

 予鈴が鳴った。



 ※



 テラスには強い陽射しが降りそそいでいた。屋敷の主、風花真白にとっては半ば毒性を持った光線である。しかし日除けの下で学園校舎に目を向ける真白の面は、穏やかな微笑をたたえていた。

「創立祭の準備は順調のようですね」
「ええ。みなさん、がんばっていらっしゃいます」と、傍らに控える姫野二三が頷いた。
「もう今週ですものね。なんだかわくわくしてしまいます」
「きっと良い日になりますわ。生徒のみなさんにとっても」

 まったくそうなってほしいものだと、心から真白は思った。
 だが割って入った第三者の声は、淡い願いに亀裂を走らせた。

「そうもいかないかもよ」ガラス戸にもたれた炎凪が、珍しく真剣な調子で呟いた。「このところ水面下で騒がしい連中がいる」
「本部のことですか?」
「それもあるけど、違う」凪は首を振った。「あの連中はいつだってそんなものだよ。僕が言ってる連中ってのは、もっとイレギュラーな人たちのことさ」
「……高村先生のことですね」真白は眉根を寄せた。「報告は受けています。昨夜、裏山の岩戸がひとつ開かれたそうです。確認しておきますが、あなたの計らいですか」
「あれ、そっちのこと? あんなのただの手違いじゃない。繋がってた先も同じ山の中だし、たいした問題じゃないよ。ま、おかげで面白いものは見れたけど」

 拍子抜けという顔で、凪が首を捻った。真白も会話の齟齬に気付き、車椅子の肘掛に指を立てる。

「別件があると?」
「いや、同じ。まあ高村先生もその内に入ってるはずだよね。だけど……なんか真白ちゃん、っていうか本部か。そっちの見解と僕とじゃちょっと相違がありそうだ。そこをはっきりしておきたいな。――えっと、君たち、もしかして高村センセの動きが全部計算ずくで、HiMEたちにも承知の上で近づいたとか思ってない?」
「違うというのですか?」
「違う違う」凪はおどけながら肩をすくめた。「それじゃHiMEたちの情報だだ漏れだったってことになっちゃうでしょ。そんなことになってたらもうとっくにアウトだよ、冗談じゃない。そして現状そうなってないってことは、向こうもHiMEの素性についてはなおも調査中ってことだ。祭の本義は、まあさすがに知られちゃってるだろうけど」
「ですが、偶然というにはあまりに……」真白はいいよどみ、束の間言葉を探した。「そう。あまりに、出来すぎています。彼が既に接触したHiMEの数は、あなたならばご存知でしょう? 作為的でないと解釈するには偶然の要素が強すぎます。嘆かわしいことですが、星繰りの者は既に外洋の勢力に取り込まれたと考えるのが自然ではありませんか」

 それはどうかなと凪は笑う。手には、湯気の立つティーカップとソーサーが出現していた。

「僕もセンセのスタンスを掴んでるわけじゃないから、彼についてはっきりとしたことはまだ言えない。だけど、いまの真白ちゃんの解釈には少なくともふたつの誤りがある。ひとつは、センセが〝星繰り〟としての役目を心得た上で動いてると思ってること。ひとつは偶然をありえないものと切って捨てていること。ま、このふたつは本質的には同じ間違いかもしれないね」
「……あなたはそうではないと考えているのですね」

 当然とばかりに、少年が肯いた。

「だって、ありえないじゃない。小野が儀式から駆逐されて何回周期が来たっていうのさ。その間復権の動きも介入もなかった。僕だってもう血は絶えたものとばかり思っていたんだ。あるいは生きていても、一番地に根絶されることを恐れてもう関わってくることはないだろう、とね。そもそも、この国で生きつづけた星繰りの末裔たちのことをだ、僕らが知らないっていうのにどうして外様が知ってるのさ。それこそありえないよ。さっきもいったでしょ? 地の利はそうそう覆らないし、それが覆っちゃったらもうお終いだ」
「そう、でしょうか」

 凪の言葉は正論だった。だが違和感は消えない。真白は若干うつむいて、その元を胸裏に探った。すると、凪が先回りするように口を開いた。

「言い当ててあげようか? そこには真白ちゃんの願望があるんだよ。考えても考えてもどうにもならず、犠牲を看過しなければならない立場にあるきみは、高村先生を特別視している。閉塞した状況に現れた一縷の望み。今までの儀式とは違う展開と結末を、星繰りの末である彼に期待してるんだ」
「……そうかもしれません。否定はできないでしょう」真白は唇を噛んで、銀髪の少年を見つめた。
「言うまでもないことだけど、儚い願いだね」
「ですが、彼が星繰りの資格を持っているということは、他でもないあなたに知らされたことです。わたくしは、資料どころか実際に顔を合わせても、そんなことには気付きませんでした。ただ口承でのみ、その存在は聞き及んでいますが……。もう一度確認します。あなたの見立てどおり、高村先生は確かに、〝そう〟なのですか?」
「そこはね、間違い無いと思うよ。センセを見たときにすぐぴんと来たんだ。ああ、懐かしいものを見たな、って。同時に、とんでもないことするもんだなぁって呆れもしたけど」
「とんでもないこと?」
「おっとっと」わざとらしく、凪は口を押さえた。「それは内緒だ。ま、いっても仕方がないことだしね」
「ともかく、根拠があっての判断というわけですね」真白は嘆息した。「いいでしょう。追及はしません。しても答えてはくれないのでしょう……。なにより、わたしが高村先生にある種の期待をしていることは間違いありませんから。彼が真実かの血族であるということさえわかっていれば充分です」
「だから、その期待が的外れなんだって」凪もまた、ため息をついた。「センセは真白ちゃんが思うほど万能でも英雄的でもないと思うよ。彼はそうじゃない。すごく人間的で、臆病で無様で、醜いんだ。うん、僕が大好きなニンゲンそのものだ」

 姫野二三が、柔和な面差しをそっと曇らせた。真白にだけわかる不快の兆しだった。彼女も同じ思いだ。ひそめた声が、わずかに硬くなることを避けられなかった。

「あなたは人間ではないとおっしゃるのですか?」
「そこまで厚顔じゃないからね、僕は」飄々と彼はいった。「だからこそ、センセが全部計算ずくで動いてるなんて勘違いもせずにいられる。――あのね真白ちゃん、高村恭司という個人がことごとくHiMEたちに出会うのは、そんなさかしらな意図の下にはないんだよ」
「では、どんなものの下に?」
「運命の樹の下にさ」
「なるほど。それがもうひとつのわたくしの間違い、ですね。HiMEたちと出会いを果たさせたのは、彼の星宿――」
「いや、もちろん種はあるよ」凪は苦笑する。「ただ、彼に関してだけは、そう偶然や必然をわけて考えてもあまり意味がないってこと。――何しろ彼は、戯曲で擬えるならばまさに主人公なのだから、なんてね」

 やり取りを誘導する凪の意図に気付いて、真白は微笑した。

「同じことです。逆説的決定論に従属しているというのでしょう?」
「『頭がイイ子は会話の帰結をポンポン先読みするからニガテだよ』」誰かの口ぶりを真似るように、凪がいった。「ま、あれだ。僕から言えることはそんなに多くない。高村センセには偶然の種があり、行動原理だって、きっといたって普通のはずなんだ。だから、あまり肩入れしない方がいいよ。それはおそらく、真白ちゃんみたいな潔癖な子とは相容れないはずなんだ。彼は大人、だからね。そのことをきちんとわかっておいたほうがいい。でないと」

 ――きっと、失望するはめになる。
 そう苦笑を落とすと、一言の挨拶もなく、凪の姿は消えた。不意打ちのように現れ、唐突に消える。神出鬼没を体現する少年である。

「いつもながら忙しないかたですわ」二三が困り顔でいった。もてなす暇も与えてくれない客は、メイドとしては不得手なのだろう。

 まったくですと返しながら、真白は凪の思わせぶりな言葉を反芻した。

「……偶然、の、種……?」
 
 神妙に居住まいを正して、真白は凪のいた空間に向き直った。あの少年の役割に向かう意思は、ほとんど人間の域を離れ怪物的なまでに徹底されている。道化た振る舞いもすでに術中であると考えて間違いはない。言動を逐一深読みしたのでは、大勢を見誤ることもあるだろう。
 真白の脳裏には、赴任以前から現在に至るまで、高村が取った行動の軌跡が思い浮かべられている。
 彼がかつて風華で関わった〝事件〟からは、おおよそ四年近くが経過していた。だが真白が把握している彼の足跡は、事故後の療養に費やした半年と、現時点から一年ほど遡った範囲でしかない。つまり、完全なブランクがあいだに二年半存在していることになる。
 その時期の高村恭司の足取りは杳として知れぬ。が、推察を働かせることは容易だった。もともと彼の師である天河諭教授は、とある世界的企業のバックアップを受けて活動していたのだ。直接の弟子である高村自身も関連しているとみて間違いない。
 そして企業の背骨である財団は、風華学園とも因縁浅からぬ関わりを持っている。
 シアーズ財団。
 彼らは中世に端を発する、互助組織がその母体だという。いわゆるフリーメーソンに近いが、その権勢を鑑みれば現状では世界的な企業カルテルと呼ぶのがふさわしいかもしれない。欧州に本拠を置きながら米国を主戦場にする組織である。
 誰もが思いえがく虚構の中のフィクサー。それこそ高村の言い草ではないが、東亜圏を決して逸脱しない一番地に比べて、シアーズは規模も実力も段違いに巨大だ。戦後さらに弱体化したいまの一番地では、資金力からして勝負にはならない。

「斜陽を引き伸ばすために海を乾す彼ら。遠い夜明けを待ちきれず人工の黎明を灯す彼ら」真白は疲労を滲ませてひとりごちた。「どちらも、どちら……。やはり、そこから洗いなおすべき、なのでしょうね」

 伏せた顔を上げて、真白は二三を見た。

「二三さん。久しぶりにすこし卜占をしてみようと思います。盆の用意を」
「かしこまりました――」

 二三が一礼し、邸内へと向かう。すると前後して、外壁に設置された内線の子機が着信ベルを鳴らした。

「あら……」

 一瞬二三を呼びつけるべきか迷って、結局真白は自ら車椅子の車輪を漕ぐことにした。風花邸は真白の障害もあり一度全面的に改修の手が入っているが、やはり高度の面ところどころ以前の面影を残している。腕の力だけで軽い体を持ち上げて、鳴り響くスピーカーに手を伸ばした。

「はい。――え?」

 報せは急を告げるものだった。風華の土地において不可侵を約束された最深部に、賊が侵入したというのだ。正確には未遂に終わったようだが、それにしても異常事態には変わりなかった。

「はい、わかりました。いえ、警戒は続けてください。すぐ人をやります……」

 通信を切ると、真白は未発達な肢体をこわばらせた。陽気に汗ばんだ青白い首が、噛みしめた歯によって筋を浮かせていた。

「真白さま?」準備を整えて戻ってきた二三が、けげんな顔を桟の向こうからのぞかせた。
「次から次へと、問題が積みあがっていきますね」真白は小さく肯いた。

 微笑したつもりだったのに、二三にはそう見えないようだった。侍女は心からの労わりを表した。

「何が起きているのでしょうか」
「わたくしもそれが知りたいのです」

 気だるいいらえは熱っぽい吐息をともなった。脆弱な体があげる悲鳴だ。我が身のわずらわしさに、真白は極めて珍しい苛立ちを垣間見せた。
 遠いクマゼミの雑音を切り裂くように、頭上の高みで鳶が鋭く鳴いた。奇しくもそれは、終業のチャイムと同期していたのだった。



 ※


 
『確認したわ。荷物も持ってる。そっちに向かってるみたい。一応こちらでも確認は怠らないけど、意外と素直ね』
「ま、直情的なところはありますね」屈伸運動をしながら、高村恭司はインカムに向けていった。「でも、来るのか。やっぱり写真が効いたかな」
『写真?』
「いや、なんでも」

 授業がはけてすぐ、結城奈緒に指定した場所に彼はきていた。地面に突き立つ木漏れ日の槍が際立って見える、もはや馴染みの感が漂う山中だった。奈緒に文字通り陥れられた井戸が『あった』場所の近くである。
 林立に視界を遮られるわりに足場にあまり困らない、高村にとっては理想的な環境だった。標高がさほどでもなく、山腹には比較的なだらかな斜面が続く山だ。高村が立つ場所もそんな地形のひとつである。
 黙々とストレッチを続けていると、『ねえ』と耳につけたイヤホンが囁いた。『無理をすることはないんじゃない? 今すぐその場所を離れても、時間は充分に取れるわ。そもそも結城さんと、その、ケンカ? どうしてもしなければいけないの? 怪我もまだ治ってないっていうのに、どうしてそんなことをする必要があるのかしら』

「そのことについては、正直どうにも弁解のしようがありません」恐縮しながら高村はいった。「昨夜から手間取らせっぱなしで。ラボとの通いで、九条さんも俺なんかより全然忙しいっていうのに」
『謝るのはなしよ。それに、そのことはべつにいいんだけど……』九条むつみの声色には、心配をはっきりと感じとることができた。

 彼女の気遣いに満足を覚えるのは、いくらなんでも趣味が悪い。が、止められるものでもない。高村は自嘲を深めた。

「大丈夫です。こんなことはこれっきりだから」
『当たり前よ。そうそう何度もあってたまりますか』冗談めかしていたが、怒った口調だった。『でも、最初からあなたにはこっちのバックアップに回ってほしいっていうのも本音なの。重ねて聞いて悪いけど、そちらは必要なことなのね?』
「そうです」高村は答えた。「いや、どうかな。厳密には要らないことなんでしょうけど……」
『どっちなのよ』
「必要です」きっぱりと言い切った。
『最初からそう言ってくれればいいのよ。男の子なんだから』むつみの声には笑みの気配があった。何が可笑しいのかは、高村にはわからなかった。『……ま、仕方がないわ。ポジティブにいきましょう』
「肝に銘じます。……九条さん?」
『なあに』
「俺は馬鹿ですかね」
『どうしたの。急にそんなこと聞いたりして』
「ああ、いえ、なんというか、なし崩しにいよいよという状況になって、緊張しているみたいです」

 高村は恥じ入ってうつむいてしまう。情緒が不安定になっているのを自覚した。MIYユニットが脳神経に作用している影響なのかもしれず、単純に彼の精神の波が激しくなっているという可能性もあった。感情の抑制がままならないという状態はまったく厄介なものだった。

『そう気負わないことよ』むつみの優しげな声だった。『確かに突然だったわ。でも、いいきっかけだともわたしは思うの。このままずるずる安全策を取っていたら、機会を失っていた可能性もあるのだから。だからってもちろん、何も心配は要らない、なんて安請け合いはできないけれどね。それにあなた、いつも言っていたわ。危なくなったら――』
「逃げます」と高村はいった。ためらいなど億尾も見せなかった。
『よろしい。じゃ、健闘を祈るわ』といったあとで、むつみは小さく付け足した。『おばかさん』

 通信が切れた。
 高村は一息をつくと、インカムを取り外してジップロックつきのビニル袋へ三重にしまい、上着の内ポケットへおさめた。
 さらに数分ばかり簡単な調整運動を繰り返した。ほどなく主に顔面の皮下が熱を持ち出し、体表面がうっすらと汗ばみ始めた。ここ数ヶ月の通勤ですっかりスーツに慣れた体に、スウェットの可動性はずいぶんと着心地がよく、とつぜん身軽になったような錯覚すらおぼえた。
 仕上げに彼は、携帯電話をポケットから取り出した。眼鏡や服は昨夜泥まみれになったり紛失したりして使いものにならなくなっていたが、これだけは無事だったのだ。

「ああ、もしもし。高村です。はい、はい。それじゃ昨日言った通りの。え? いやだからなんでもないですよ、悪巧みなんて、はは。あるわけないですってば。ちょっとけじめをつけるだけで。ええ。お願いします。はい、もちろん約束のものは。それは当然。わかってますって。それじゃお願いしますよ碧先生、はい。じゃ」そこで高村は一度通話を切り、すぐにまたボタンを操作しはじめた。「よう鴇羽。元気か。え、誰かって? 何言ってるんだよ。おれおれ、おれだって。おれ。わかんない? あっ」切りやがった、と渋面で高村はつぶやいた。ツーツーという味気ない信号音がスピーカから響いている。彼はめげずにもう一度コールした。次はしばらく受話されなかった。「風華学園社会科古代史担任の高村というものですが。あのなあおまえ、まがりなりにも教師からの電話をだな、え、いや、はい。すいませんでした。ごめんなさい。今後はもうしないようにするので勘弁してください。いや、怒らないでくれ俺が悪かったから。あ、そう、あのな、そこに美袋いるか? いる? んじゃちょっと代わってくれないかな。用があるんだ、個人的な。あっ、もしもし美袋か? うん、そう、用っていうか頼みごとがあるんだ。ちょっとこれからいうことを、これからいう時間にやってほしくてさ。うん、頼む。お礼はする。いちご大福? ああいいよいいよ、そんなもんだったらいくらでもおごってやる。この先俺が生きてる間はおまえがいちご大福に不自由することは絶対にないことを保証しよう。やったな美袋、いちご大福大名だぞっ。よし、それじゃあ約束な。それでやってほしいことっていうのはだな、――」

 十分近くもかけて説明を終えると、あとは奈緒の到着を待つばかりになった。緊張を食べて鼓動が育ち始める。

「さて、細工はりゅうりゅうってやつだ」やおら双眸を閉じて、高村は手に持ったままの携帯電話へ語りかけた。
「――おまえも知ってのとおり、そろそろのんきに生徒と交流を育んでいられるような状況じゃ、もはやなくなった。昨夜の結城のことがきっかけといえばきっかけだけど、あれは引き金のひとつにすぎない。というのも、今日になって、上から突然人員の充当が事後承諾でねじ込まれたんだそうだ。しかも実質のチーフである彼女の頭を飛び越して、だ。これがなんとこっちのプロジェクトチームとは指揮系統も違うし、連携は取らないんだってさ。それがどういう意味を持つかはわかるだろう? じきに一学期が終わる。夏期休暇の終わりを座して待つほどのんびりするつもりは、シアーズにはない。そしてもちろん、俺たちだってそうだ。だから、もうなりふり構うのは止めるべきなんだと思う。……なんてことを今のおまえに聞かせたって、意味はないんだろうけど」

 間があった。
 草を踏み分ける足音が彼の耳朶を打ったのは、そのときだ。
 目蓋を押し開けて、高村は電話を懐に戻す。目線は山の麓側へと注がれていた。

「よう――」

 結城、と名を呼びかける間は与えられず、昨夜取り上げられた高村の鞄が一直線に飛来した。顔面を狙う軌道のそれを軽くかわして、ずいぶんな挨拶だと彼はぼやいた。
 におい立つ青草の香気の向こうに、結城奈緒がいた。
 半眼の眼差しは眠たげで、脱力したたたずまいには無気力さを感じさせた。だが彼女と対峙する高村はすでに総毛だっていた。

「それ、返すわ」と奈緒はいった。彼女の目は嫌悪すべき害虫を見るそれだった。「なにあれ? なにムキになってんの? バッカじゃないの?」
「ああ、果たし状のことか」意識して高村は軽薄に笑った。「気に入ってもらえたか? 写真うつりがいいよな、結城は」
「死ね」静かに奈緒は吐き捨てた。「もういい。メンドくさい。返すから、金輪際アタシには関わるな。それで、あのクソふざけた写真も捨てな。全部。それだけやったら、半殺しで勘弁してあげる」
「心配しなくても、写真はあれ一枚っきりだよ。良心が咎めたから、バックアップは取らなかった」
「それを信じろって?」
「べつに、お好きにしたらいい。参考までに、やらなかったらどうなるか聞きたいな」
「殺す。あんたの家も突き止めて、跡形がなくなるまで壊す」

 高村はこれ見よがしに肩をすくめた。奈緒の言葉を心からの本気だと信じたわけでも、はったりだと断じたわけでもなかった。だが結果的に彼女の言葉通りのことが起こることは充分にありえるだろうと思われた。稚さの定義のひとつは、衝動との親密な付き合いだ。そして衝動は、想像力の一時停止を意味する。『想像』の中には、未来や過去の一切合財が包含される。
 人を社会という幻想の成員たらしめるのは根本的な無力さである。無力さとは、理性の強さとも言い換えられる。
 体制という枠を決して超克しないことが、人間の条件だ。逆説的に、もし社会を単体で覆せる存在があるとするならば、それは怪物にほかならない。奈緒はいま、一時的にそういう怪物だった。
(いや――)
 そうではない。
 計算は働いているはずだ。高村は己を睨む少女の意思に理知の光を感得して、深く肯いた。結城奈緒という少女は充分に計算高い。原動は典型的な反抗期に根ざすものであっても、彼女自身が典型的な少女像にあてはまらない。それだけの複雑な事情と、そしてなにより特殊すぎる能力を持っている。
 それをよく心得た上で、猛獣つかいの荒業をやってのければならなかった。

「悪いが」と高村はいった。「『おまえ』の物騒な譲歩は全部却下だ。問題外だ」
「そういう口がきける立場だと思ってンの?」

 奈緒が一歩間合いを詰めた。その両手にはすでにエレメントが具えられている。
 大気が慄える様も、高村は見逃してはいなかった。HiMEの本質は、少女たちによりもむしろその環境にある。とりわけ風華という地においてはそれが如実だ。
 視線はひたと奈緒に据えたまま、高村はゆっくり後退した。地面になげうたれた鞄の中身を確認するために、爪先で分厚い生地を触診する。
 案の定、あきらかに足りないものがあった。

「……やっぱりな」
「気付いた?」声のトーンをあげて、奈緒が勝ち誇った。「センセイのだぁいじな大事な、あの気持ち悪いハコは、そん中にはないよ。ていうかさっき、海に捨てたから」

 もちろんはったりだということはわかっていたので、高村は黙殺した。また仮に海に捨てられていたとしても、さほど問題にはならない。匣の所在地は常に明らかだし、現時点で結城奈緒の寮部屋にあることも判明している。今日の『計画』に必須である匣の回収には、既に九条むつみが向かっていた。
 高村は両手を挙げた。

「本題に入る前に、結城、俺はおまえに対してちょっとした懺悔がある。聞いてもらえるか?」
「……はぁ?」

 これ以上不快な表情はできないだろうと思わせる素振りで、奈緒の眉が吊りあがった。こうまで他人に嫌われるということが新鮮で、高村は倒錯した快感さえ覚えてしまう。そしてああ俺も大分屈折してきてるんだなと今さらながらに実感するのだった。これじゃまるで好きな女の子にちょっかいをかけてしまう子供じゃないか。

「俺はなんというか、いい人ぶろうとしていたんだ」一息に喋る事に決めて、高村はまくしたてた。「だからってもちろん殊更に悪人になろうなんて思ってるわけじゃない。そうじゃなくて、今さらだが、おまえに対する俺の態度には一貫して誠実さが欠けていると思ったんだな。わざわざ金を持ち出して気を引いたりしたのは、非常によろしくなかったと思う。とても浅はかだ。いや、どうせもう俺にとってはあぶく銭だし、誰かにやるのは構わないんだが、それにしたっておまえにも選択肢があるようにいったのはまずかった。ああ、俺は、意図をごまかしたりせず、こういうべきだったんだな」切り口上で彼は締めくくった。「俺はおまえを巻き込むと決めた。おまえにはもう選択肢がない。だから黙って従ったほうがいいってな」

 奈緒の目に怒り以外の色が初めて差した。不理解と困惑だった。話す間は高村の言葉に耳を傾けていが、それもどうやら意図的な態度ではなく反射に近い対応だった。何の習い性かはうかがいしれなかったが、あんがい受けた親のしつけが厳格だったのかもしれない。
 高村は話をつづけた。

「一般的な大卒サラリーマンの平均生涯所得を知ってるか? だいたい三億くらいだそうだ。でかい宝くじの1等と同じ値段が、つまり人生の価値ってことだ。これが安いか高いかは知らん。実際に俺だってその具体的な重みを知っているわけじゃないから。でもおまえにやるといった報酬は、だいたいこの総計の何分の一かだな」
「……で?」
「ちなみに俺の月給は手取り二十二万。もっとも税金や保険料でもろもろ引かれて月に懐に入ってくるのは二十万には届かない。そしておまえが昨夜持っていった百万は、もちろん立派な大金なわけだ……」
「つまり、今さら返せって言ってるんだ?」奈緒ははっきりと嘲った。「ダッサ」
「べつにそれはもういい。手間賃みたいなものだと思ってる。あとは、授業料だな」高村は首を振った。「俺がしているのは、重みを理解すべきだって話さ。とにかく、おまえには今後俺に協力してもらわなきゃならない。是が非にも。否が応でも」
「あんた、さっきから何を」
「HiMEをめぐってよからぬことを画策する連中がいることには感付いてるっていってたな?」高村は奈緒の言葉を遮った。「要は、俺がそういう連中のひとりってことだよ」

 奈緒が苛立たしげに頭を掻いた。

「だから! 何のハナシしてんのアンタ。うざいんだよ、さっきから、最初ッから……!」
「察しが悪いな。ここまで話せばわかるはずだろ? 結城なら。大人の都合に利用されることなんて、もう慣れっこじゃないのか? 結城奈緒なら」
「なんですって……」

 高村はギプスをはめられた右手を眺めた。
 包帯の巻かれた五指を開閉した。
 高村は淡々と告げた。腰部に提げていた『工作』に手を回しながら。

「力尽くでも俺の言う通りにしてもらう。そういうことを、さっきからいっている」
「――あぁ。へえ、そう。なんだ。始めからそういえばよかったのに。ははっ。つまり、あたしを思い通りにしたいって、そういってるわけだ」

 ああ、と奈緒は無表情に何度も肯いた。

「わかってもらえたか」糸が限界まで張りつめた。高村は圧力に吐気さえ催した。

 しばらく、感情が伴わない笑い声を、奈緒の喉が奏でていた。
 奇形の笑声が泡のように弾けつづけた。少女の背後では、紅い粒子が虚空に渦を成し始めていた。

「ホント。最初からこうしとけば良かったんだよね。なに遠慮してたんだろう、あたし」
「おまえが素で遠慮した瞬間なんか珍プレー好プレーより希少だと思うぞ」
「センセイも悪いんだよ? あんまりしつっこくて、しぶとくて、下らなくて、バカだから」それはすでに内向的な呟きだった。「は、は。アンタもあたしにここまでやってくれたんだしさぁ。別にイイんだよね。――死んじゃっても」

 絡新婦のチャイルドが、骨格を軋ませながら顕現した。
 高村恭司は、もう走り出していた。



 ※



 フェリーのタラップから飛び降ると、身軽なステップで少女は着地した。編みこんだ髪を跳ね上げながら、勢いよく空を仰いだ。

「空だー! 青ぅい! 雲、しろーい! 夏だー! あっつーい!」
「大声を出すな。周囲の迷惑になる。そして空の色は本国と変わらん」軽くたしなめる声は厳しかった。先の少女に続いて地面に降り立った、やはりまだ成熟の域には達していない娘のものだ。
「ごめんなさーい!」と第一の少女が大声で答えた。

 彼女よりはいくぶん年かさに見える第二の少女は、無表情のまま嘆息した。

「地上に降りたとたん、ずいぶん元気になったな。船酔いでもしていたのか」
「いやぁーっ、あたしってフェリーなんて初めてだから緊張しちゃってっ。それにホラ、こんな綺麗な街もはじめてなんですよぉ。つい感動しちゃったんです! あのあのあの、自由時間とかあるんですよね! あたし、見学したい!」
「そんな暇はない。すぐにロッジへ向かう。そのあとはまた洋上だ」
「えぇーっ!? ヒドイ!」

(騒がしいやつらだな……)

 港で水平線と本土の影を眺望していた玖我なつきは、ひそかに苦笑した。少女たちは四月の沈没以来閑古鳥が鳴いている遊覧船のにぎやかしを一手に引き受けたかのようなはしゃぎぶりだ。一見して少なくとも静かなほうの少女は外国人そのものの身なりだから、おそらく酔狂な観光客だろうとあたりをつけた。本州から出ている遊覧船は、出身によっては珍しいものに映っても不思議ではない。
 昨夜ヤマダの報告を受け、夜を引いて資料を洗い、ろくに睡眠も取らずに朝を迎えていた。気が済んだ頃には六時を回っており、惰眠をむさぼるのにも半端な時間帯のため、眠気覚ましにシャワーを浴びたあと市内を適当に単車で流し、いきついたのが港だった。
 登校しても構わなかったのだが、なつきはあえて避けた。何をといえば、高村を置いて他にない。一夜の間に自分なりの推察を進めたのだが、結局彼に対して今後どのような態度を取るべきかは決めかねたのだった。
(しかし、またサボりだなんだとうるさくいわれるんだろうな)
 査定に響くんだと身も蓋もない頼み方をしてくる男の泣き言を想像して、なつきは吹きだした。
 妙な教師だった。そもそも教師らしくなく、へんに幼稚で、不自然に達観している。軽薄な態度で謎めかし、塗炭の過去を覆い隠している。

「しばらくは今までどおりにするしかない、か」

 週末には創立祭もあることだし、と付け加える。この上そんなイベントまでサボタージュを決め込めば、しつこくまとわりつかれるに違いなかった。
 彼の真意を問いただすにしても、それが今すぐである必要はない。なつきはそう思っていた。いつかは聞かねばならないことではある。だが、ことがことだけに慎重を期さねばなるまい。
 それまでの今少し、日常を謳歌しよう。



 ※



 最初のワルキューレが墜とされるまで、あと――






[2120] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2007/01/09 06:16




7.Rocked




 その日、アリッサ・シアーズの昼食はサンドウィッチだった。何ら特別ではない市販の品物である。深優・グリーアはやや難渋を示したが、アリッサはこれを取り合わなかった。

「そんなことより、もっと気にすることがあるでしょ」
「はい、お嬢さま。先生のことですね」
「そうよ。お兄ちゃんのこと」

 教会で、彼女たちは昼食を囲んでいた。たまたま居合わせたシスター紫子が微笑ましそうな視線を向けていたが、アリッサは彼女を意図的に無視していた。
 深優は一瞬の沈思のあと、

「現在は裏山にいるようです。ここからそう遠くはありませんね。ユニットは起動しています。恐らく、戦闘状態にあるのでしょう」
「ドクターは?」
「捕捉できていません」
「ふうん――」
「これまでの予測を基に、いくつかの推論が立案できます」
「細かいことはいいわ。もしかしたら、も要らないの。深優」

 深優が主の言葉を察する間は、ほとんどなかった。

「現時点で、両名は確実に独自の行動を起こしています。これはまず原則に沿っておりません。また本隊にバックアップを要請していない以上、その理念は秘密裏なものと推測されます。これらに加え、現在把握できる要素の動向から判断して――本日中に、警戒レベルの飛躍的な引き上げが懸念されます」
「もー。スイソクとかハンダンとか、深優ってそんなのばっかり」

 嘆息に対し、深優は無表情に首を傾げた。

「では、言語形式をファジイなものにせよという命令を取り消されますか?」
「だめ。深優、メーレー守ってないもの。だいたい今のはファジイじゃなくてファジイっぽくしてるだけじゃない」
「では、せめて厳密な定義を。ルーティンさえわかれば、お父様に勘案していただけます」
「それがないからファジイっていうのー」

 頬を膨らませて抗弁する。なるほど、と深優は真摯な面持ちで受け止めた。

「さすがお嬢さま。ご慧眼です」
「はあ……だめだめだよぅ、深優。これじゃお兄ちゃんを驚かせる日は遠いわ」

 最後の一切れを小さな口に無理やりおさめて、アリッサの頬は冬眠を前にしたげっ歯類に似る。パンくずを服から払い落とすと、彼女はステンドグラスから射す陽光に髪をきらめかせて、立ち上がった。

「それにしても、困ったお兄ちゃんだわ。アリッサのフィアンセなのにね」

 年格好に似合わない仕草で、アリッサは肩を竦めた。

「ちょっとそこのところ、オシオキしなくっちゃ。いいわね、深優?」
「はい。パナケアの調整は完了しています」深優も、アリッサに続いて腰を上げた。
「じゃ、いくわ」

 指先についたマスタードを赤い舌が舐めとる。舌先に走る刺激にアリッサは涙目になった。

「からい」

 深優はそっと水の入ったペットボトルを差し出した。

「あのー……」始終微笑んで黙っていたシスター紫子が、遠慮がちに深優に訊ねた。「ところでいま二人がお話していたのって、……英語、でいいのかしら?」
「ラテン語です」

 素っ気なく答えると、深優・グリーアは軽い足取りで教会を出る少女の後を追った。

 その背を見送った真田紫子は、ふいに表情を沈鬱なものへと変える。胸元のクルスを僧服の生地ごと握り締め、おびえるように陽射しを透かすステンドグラスへと視線を転じた。なにごとか誰にも聞き取れないほど小さな声で二三の言葉を漏らしたかと思うと、はばかるように教会の奥へと消えた。
 


 ※



 反復して学習する。肉体に負荷をかけ回復を促す。更なる上達のための創意工夫を凝らす。対峙するものがあれば、その弱点を探す。
「哲学的な求道を除外してしまえば、鍛えて強くなるということはつまりそれだけのものです」
「それは、そうでしょうね」
 いつも通り、ひたすらに畳とキスしたあとのことである。嘔吐寸前の態でうずくまる高村を見下ろしながら、あたかも鉄芯の通ったかのごとく背筋を伸ばして、白髪の女丈夫は訓示を垂れた。
「――貴方を見ていていつも思うのですが、言われたことをただ繰り返せばいいというものではありません。愚直は美徳などと、いったい如何なる人生訓が支持するでしょう? 模倣するのならばその理というものをどこまでも考察しなさい。競技格闘ではないのですから、足運びにせよ体捌きにせよ、周囲の環境に左右されやすいということも忘れずに」
「ひとつひとつ、技の意味を考えろということですか?」
「その理解力は、肉体に天与がある人間にはあまり備わらないものですね」女が肯いた。彼女が世辞めいたことを口にするのは極めて珍しい。「術理という言葉が日本語にはあるでしょう。洗練された技術体系というものは極めて合理的なものなのです。どうせ一年や二年教えた程度でものになる技術などないのですから、せめてそのノウハウやシークエンスを自分なりに咀嚼してみなさい。――最後にひとつ、個人的な質問があるのですが」
「はい」
「間借り人に頼らないのはプライドのためですか」
 答えあぐねる内に、女性は彼に背を向けた。

 高村にとって女は一応の師にあたった。脳手術後のリハビリ補助員として九条むつみに紹介されたのが最初の出会いである。彼女が基地で兵士を相手にした体技教導官を務めていると知ってからは、熱心に請うて護身術を学んでいた。
 といっても、女が高村に体系だった技術を教えることはなかった。もちろん彼女が専門にする軍隊格闘もだ。
 レッスンは単調ながら刺激に満ちたものだった。彼女はただひたすらにMIYユニットの調整を受けた高村を打ちのめし、その都度口頭で動きや戦術の善し悪しを批評した。高村は毎度せめて一矢報いようとものの本を読み、付け焼刃の特訓をしては返り討ちにあった。当然の結果だった。何かを学ぶのならば、専門の師を仰いだほうがはるかに効率的に決まっているのだ。
 ある日業を煮やしてとうとう意見してみたことがあった。
「俺は色々と試行錯誤していますが、これでは散漫になるばかりでちっとも上達しません。何かひとつの技術に的を絞った方がいいんでしょうか」
「それは許しません」と、彼女はいった。「案ぜずとも貴方にはせいぜい器用貧乏の素養がある程度です。ひとつところに打ち込めば、すぐ才の頭打ちに会うだけですよ」
 高村はうなだれた。「いつもながら容赦ないですね……」
「優しくしてほしいと?」
「いや、それはちょっと気持ち悪いかなぁ」
「よろしい。立ちなさい」
 このスタンスばかりは、高村がいくら望んでもとうとう変えられることはなかった。

 また別の日のことである。どうにか転がされる頻度が十秒に一度から三十秒に一度ていどに減ったころ、高村は彼女に聞いてみたことがあった。
「人間以外のものを倒すにはどうすればいいですか? バケモノ、たとえば大きい虎だとか、二メートル半あるグリズリーとかを倒すには」
「道具を使いなさい。火器が無難ですね」莫迦を見る目で彼女は答えた。「道具がないのならば斃すなどとは決して思わず、逃げ足を鍛えなさい。そもそもそういう状況に陥らないよう頭を働かせなさい」
 もっともだと肯かざるをえなかった。以降、高村は走ることだけは欠かすまいと決心したのだ。
「だけど、身も蓋もないですね。道具っていうと、たとえば銃とか、刃物ですか。そういえば、人間は銃を持ってはじめて動物と対等なのだ、なんてハンターの言葉がありましたっけ」
「どうしても戦う方向で行かせたいようですね。よいですか、ミスタ・高村? 私は猛獣使いではありません。もちろん猟師でもないのです」
「……では、さすがにミス・マリアでもケモノはどうにもならないと」
「いえ、熊や虎なら屠ったことはありますが」
「あなたは本当に人類ですか?」
「他の何に見えるというのです。有袋類や羊歯植物にでも見えますか」白刃のような眼光が高村を刺し、すぐに逸れた。「……冗談に決まっているでしょう。鍛えられた軍人でも、徒手では中型犬を殺すことさえ難事です。撃退、というだけならばそうでもありませんが、察する所貴方のいっているのはそういうことではないでのしょう?」
 本当に冗談なのだろうかという疑心を拭えず、高村は肩を縮こめてひきつり笑いを浮かべた。
「ええ」
「格闘技は、人間以外のものを相手にするようにはできていません」と、彼女はいった。「ですが、外敵から身を守るようにはできています。よって仮想敵としていわゆる害獣を想定するのは、非常識とはいえ、心底無駄なことではないのです。が、問題はそこにはありません」
 高村もばかではない。彼女の言わんとしていることは、さすがに理解できた。人間と猛獣とでは、生物としての強靭さの次元が違う。
「だから、道具が必要なんですね」
「間違ってはいませんが、正解ではないですね」彼女は高村を見つめた。「われわれのする狩猟の本質とは野を駆る闘争ではないのです。そこに宿る原始的信仰それ自体を否定するものではありませんが、あくまで物資の調達が目的。武器は補助器なのですよ。より効率的に獲物を斃すための擬似的な爪牙に過ぎません。畢竟、われわれが有する切り札とは――準備に尽きます」
「準備、ですか」と、高村はいった。
 満足げに彼女は肯いた。

「つまり、罠です」



 ※



 蜘蛛は、獲物を捕食する罠のかたちを生まれながらに知っている。巣の模様はだれに教えられるものでもない。天然自得の習性。彼らにとって自らが描くべき幾何学的形象は自動的だ。そも彼らに感情はない。ただ生きるためのメカニズムだけが備わっている。
 美しい蝶を捉えて殺す彼ら。毒をもって翅を蝕む仕業は残酷だろうか? 結城奈緒はそうは思わない。彼らは当たり前の営みをしているだけだった。捕食することもされることも、世界に織り込まれたシンプルなプログラムをただ履行しているだけにすぎない。そこには優しさも酷薄さも存在しない。美しくも醜くもない。
 しかし、人間の眼を通して視れば異なる意味付けがなされる。

 今でこそそう考える奈緒にも、その〝ムシ〟を毛嫌いした事実があった。幼い日、彼女は六本の節足を目にして震え上がった。理由はない。形状に対し生理的な嫌悪感が催されただけだった。自宅にあったベランダの隅でへたりこみ、まだそれの名も知らなかった奈緒は「ムシが」とかすれた声で人を呼んだ。やってきた女性は取り乱す彼女をあやしながら事情を問うた。子ども特有の要領を得ない不快感を説明して、奈緒は巣にぶら下がる一匹の小さな蜘蛛を指差した。

「潰して」

 女性は――きっと彼女自身も蜘蛛が得意というわけではなかったのだ――少し考えたあとで、かぶりを振った。奈緒はその反応が理解できなかった。不平をいっぱいに表して女性の背に回りながら、どうしてと訊ねた。納得がいかなかった。虫に命を見いだしていなかったということもあるが、蚊や蝿は殺すではないか? ではどうしてあの気持ち悪い虫を殺さないのだろう。

「かわいそうだから?」

 これも女性は否定した。やんわりと蜘蛛は益虫だから無暗に殺さずとも良いのだと語った。エキチュウという単語の意味がわからずに奈緒は首を捻った。女性は言い回しを少し変えて、クモさんはお家の守り神なのよ、と付け足した。幼い奈緒はこの言葉にいたく肝銘を受けて、以来蜘蛛を見かけるたびに手を合わせて拝むという少しばかり変わった習慣に親しむようになった。
 そんなことがあった――



 ※



 ――当たらない。
 獲物の身の軽さに、奈緒は歯軋りしてエレメントを振るう。狙う先にいる高村の動きそのものはさして速くもない。美袋命のような機敏さも運動能力も、男には備わっていない。彼の挙動はあくまである程度鍛えられた人間の域を逸脱するものではないのだ。
 だが奈緒の振るう糸は、高村を捉えきれない。危いところで躱され、捕まえたと思った瞬間には決まって手近な幹に進路を阻まれる。
 攻撃の軌道を先読みされているように、高村の足運びには捉えどころがない。胸の悪くなるような錯覚を、奈緒は攻撃の手数を増やすことで駆逐した。そもそも、体捌きだけで合計十本もの致死性の糸や、合間にチャイルドから放たれる針の攻撃から逃れられるはずはないのだ。
 最悪なのは、森林という周囲の環境だった。
 武器である爪型のエレメントから伸びる糸は、途方もなく鋭い。絡めば鋼鉄さえ斬ってのける。だが糸は刃物ではない。勢いと質量ではなく、摩擦で対象を切断するのである。目的の間に障害物を置かれては、思うように狙いがつけられない道理だった。
 もっとも、糸の先にはアンカーがついている。距離と空間さえ開ければ遠心力を利用し、一度に木を刈ることは不可能ではない。だが高村はつかずはなれず、常に一定の距離を置いて奈緒の猛攻をしのぎつづけた。奈緒がフェイントさえ駆使して大振りの一撃を加えようとすると、そのたびに距離を詰めようとしてくる。そうした素振りを見せ付けられては、奈緒も安易に隙を見せる気にはなれなかった。高村と出会った最初の晩に腕を折られかけた記憶は、苦く彼女の中に根づいている。
 チャイルド、ジュリアによる追撃にいたっては、それ以前の問題だった。高村は常に動き回り、自らとジュリアとを結ぶ線分の上に必ず奈緒を置いた。これも視界の悪い森の中でなければできるはずもない芸当だった。無理にジュリアを矢面に立たせると、彼は即座に背を向けて全力で逃げ出した。もちろん、山中である。人ひとりが身を隠す場所には困らない。そして標的が駆け込んだ木立にジュリアの巨体をけしかけた数秒後には、移動した高村が奈緒の背をうかがい、気付いた瞬間にエレメントで迎撃を計れば躱された。
 その繰り返しだった。

「おい」糸を放り投げた枝に絡ませてしのぐと、息を弾ませて高村がいった。「また石が行くぞ。しっかり避けろよ!」

 横手投げの投擲モーションから、拳大の石が飛ぶ。当然ながら躱すのはたやすい。一歩動けば済むからだ。だがその先にもまた、反対の手から投石が放たれているとなれば、面倒でも糸で叩き落とすことになる。結果そのぶん、後手に回る。これもまた十度近く反復されたやりとりだった。
 ここまでされれば、奈緒にも察しがついた。そもそも、いくら森の中とはいえそれほど手頃な石が都合良く十も二十も落ちているはずはない。明らかにおかしい――不自然なことはほかにいくらでもあった。高村を追って茂みに入れば、草で結ばれたアーチに足を取られ、危く転びかけた。寝かされた枝が突然跳ね上がって奈緒の顔面を狙ったのも一度ではなかった。あわやというところまで追い詰めた瞬間にどこかで目覚し時計の音がけたたましく鳴り響き、思わず気を取られたこともあった。
 そして何より、今、奈緒の視界は数十本の発煙筒から立ちのぼる有色の煙によって、著しく狭められていた。
 いうまでもなく高村は生身だ。すでに疲れも見えていた。時を待てば仕留めるのはたやすい。
 だが奈緒は、HiMEでもオーファンでもない対手に時間をかけることをよしとしなかった。それは手に入れた力に自ら泥を塗るような真似でしかない。

「ちッくしょうっ、畜生! ウザイんだよセコいんだよ、クソッ、バカにしやがって、ちくしょう――ジュリア!」

 呼びかけに応じて、ジュリアが硬質の上体を軋らせ駆動する。有機的なフォルムに無機的な質感。半ば人半ば蜘蛛という異質さは、白昼の元でますます際立った。
 蠢くチャイルドの胴体には孔がある。ノズルの役目を果たし、排気音にも似た悲鳴を上げる部位だった。
 尾が反り返る。顔面の下半分だけを露わにした彫像が、歌うように口唇を開かせた。
 無音の歌声が招くのは蒸気だ。一度に大量の糸を精製する前段階の咆哮である。

「おいおい、本気かよ……」
「いいかげん、くたばれ!」

 泡を食う高村を指差して、奈緒は声高に叫んだ。
 ジュリアの息吹によって人工の煙幕が吹き散らされる。渦巻く気流は目視すら可能だった。その中心には奈緒と、彼女が従えるジュリアがいる。
 絡新婦の鋭い尾は、地面に突き立てられていた。穿孔された大地を起点に罅が地を走った。意思あるように円形を描き、螺旋を写しては縦横に互いを繋ぎ合わせ、格子をかたどった。
 硬軟自在の糸に土木の別はなく、人も例外ではない。高村はすでにその術中にある。
 尾の先から糸を地中に潜らせたのだった。半径数十メートルにわたる『巣』のありさまに、高村が絶句して後退した。

「……やめておいたほうがいいぞ。昨夜の地盤沈下どころの話しじゃなくなる」
「そんなの、知るか。あたしは」

 後々の面倒など知ったことではなかった。奈緒はいま、目の前にいる男がとにかく気に入らないのだ。高村の大人ぶった物腰が、それを韜晦する軽薄なたたずまいが、こちらを見透かしたやり口が、ことごとく癇に障った。
 ――いや、
 と昂揚に身を浸しながら奈緒は唇を弓形に吊り上げる。彼女の怒りは必ずしも高村個人に向けられたものばかりではない。もちろん男は看過できない標的だ。そのことに一切の変更はない。しかし奈緒を炙る感情の焦点は、どこか無限遠にひとしい場所で結ばれていた。その瞋恚は既に焦げ付いている。悪性の腫瘍にも似ていた。
 望みはあった。それが叶わないことを彼女は充分に理解していた。
 だが切望はやまない。感情の制御は何年も前に破壊されている。
 彼女は『現実』がわからなかった。すべては空々しく、虚ろで、忌々しい書き割りにしか移らない。不快感は毒々しく吐露されて、精神と肉体を埋め尽くすのだ。
 夜毎宿主を痛めつけ、安息の眠りを許さない、宿痾に似た呪いのくびき――。
 それが結城奈緒を駆り立てる全てだった。
 衝動の塊に身を任せることだけが彼女を癒した。

「――アンタがいなくなれば、それでいいンだよッ!」

 叫びを聴いた高村は、この土地ではじめて彼を知った誰もが知らない感情を浮かべた。口端の歪みは食い縛られた歯を示した。眉根が寄せられ、眼が細められた。それは紛いなく、嫌悪だった。
 誰にも聞こえない声で、彼は何かを呟いた。
 転瞬、ヘキサグラムの格子が完成した。
 『糸』は地盤にまで達するものではない。表層だけを切り刻んで、跳躍するジュリアに引き上げられる。いわば変則的な投網だった。
 一帯の樹木が、茂みも含め、はかなく散らされた。多量の土砂が舞い上がり、粉塵が視界に満ちた。
 即席で耕された地表から、高村が素早く飛び退いていく。
 しかし、間に合わない。巣糸から逃れた先は、奈緒とジュリアの追撃の射程圏だ。
 迫るチャイルドの巨大な尾を、高村は身をよじって回避する。体勢が崩れた。途端に横手から伸びた脚の一本に、その細身が弾き飛ばされる。呆気ない軽さで高村は地に叩きつけられた。逆上せた奈緒の頭は容赦の無い追い討ちを決断する。手を振るった。糸が高村に向かう。かろうじて顔を上げた高村が、かばうように怪我を負っている右手を差し出した。糸が彼の手首をスウェットの袖とその下にあるギプスごと捕捉した。

「はッ」

 奈緒は勝利を確信する。ギプスの強度など、彼女のエレメントの前には物の数ではない。
(このまま引き寄せれば、終わる)
 奈緒は強く手を引いた。
 ――手応えがあった。
 切断する感覚だった。

「……え」

 と、誰かが間の抜けた呟きを発した。
 双方押し黙り、凝然と患部を見つめずにはいられなかった。
 高村の手首から先が消えていた。
 ありえないほどに美しい断面だ。それは、ギプスが断たれたためのものに他ならない。

「え……?」と、今度ははっきりと、奈緒が漏らした。「ちょっ……と、……手、どこ……?」

 呟きの後を追って、切り取られたギプスが地に落ちた。あまりにも軽い音だった。
 吹き散らされた土煙が、光景をモノクロオムに化粧していた。高村の目が丸く見開かれているのが奈緒の目に止まった。彼の着るスウェットの色が鮮烈だった。青。奈緒は勢いを減じていない右手に体を引かれ、たたらを踏んだ。倒れかけた背がジュリアの装甲にもたれた。
 そして、赤。
 それは思考の、ほんの空隙だった。
 高村が絶叫した。思わず耳を塞ぎたくなるほどの叫びだった。それが奈緒の空白に恐れを呼んだ。一時的な恐慌、それを決定的にしたのは、高村の『手の無い』右手首から迸る、鮮やかな赤色の液体だった。
(……あたし、やばい?)
 奈緒の意思に寄らず、体が硬直した。高村の叫びはまだ続いていた。地面を染める紅も、留まる所を知らないようだった。奈緒は土に吸われ黒ずんでいくその色から眼を離せない。
(あれ――死ぬ? 殺す? え。嘘――でしょ)
 動悸が急激に高まる。頭から、熱が一気に失せた。結城奈緒が現状を把握し立ち直るまでにはまだ数秒を要した。ほんの一度の深い呼吸で充分だった。それだけで彼女は我を取り戻し、自らの行ったことを冷静に顧みる余裕を取り戻したはずだった。
 だがその暇は与えられなかった。次の数瞬で起こったいくつかの出来事を、そうして奈緒は完全に無防備に受け入れた。

 ――戛然、オーファンが現れた。頭上からだった。黒い翼を広げたそれは、ジュリアの巨体に体当たりをしかけた。
 無防備な奈緒は、衝撃にいともたやすく膝を屈した。茫乎として顔を上げた彼女は一撃離脱をなしたオーファンの影さえ捉えない。すぐさままた空へと消えたオーファンの存在も、彼女は認識できない。
 目前に高村がいたからだった。
 咄嗟に奈緒が反応できたのは、半ば奇跡の領分だっただろう。だがそれもむなしく、足を払われて意味をなさなかった。

「……っ!」
「どうしてこの暑いのにわざわざ長袖を着てるのか、なんて考えなかっただろうな。ダイエットでもしてるんだと思ったか? 古典的なトリックだ、結城。おまえが切ったのは、ギプスだけだった。血はただの絵の具」

 千切れた袖から赤い液体に汚れた右手を突き出しながら、高村恭司は無表情に告げた。
 彼の手が閃いて、奈緒のエレメントよりもはるかに太い紐状の何かが伸びたのはそのときだった。重い感触が奈緒の手元に伝わった。いまだ驚愕から脱しきれていない奈緒は、それでも機敏な動作で己の手を認めた。
 右手に、無骨な手錠が架されていた。鋼の環から伸びているのは鎖ではなく、登山か、でなければ大型車の牽引にでも使うようなザイル。そのもう一方の果ては、高村の左手にある手錠に綯われている。
 悟った刹那には、全て仕掛けは終わっていた。

「さて、結城」
「アンタ……」

 高村が微笑んだ。一瞬、目を奪われるほどの無邪気な笑み。

「つかまえた」

 項を怖気が走った。腰を浮かし、振り返りざま奈緒はチャイルドへ向かって叫びを上げた。

「――ジュリ」

 ア、という語尾は空中で吐くことになった。たわんだザイルが視界でのたくっていた。あざなわれた蛇の死体のように。
 腰から地面に落とされ、奈緒は息に詰まった。咳き込みながら、右手が意思に反して真上を指した。高村が強制的に奈緒を立ち上がらせたのだ。
 ふらつく足を踏ん張って、奈緒は高村を睨みつけようとした。エレメントでザイルを断とうと試みた。
 不可能だった。高村はいまや全長百五十センチほどのザイルを挟んで近距離にいる。彼が一瞬で視界の端から動けば、奈緒も腕が胴につながっているかぎり倣わざるをえない。腕力ではなく、呼吸を制されていた。奈緒が何らかの反撃を考えたときにはもう、高村はその出がかりを潰している。動きを読まれているという次元ではなかった。対応に過ぎなかった掌握が、即応から封殺に至るまでは数秒もかからなかった。ジュリアの衝角さえ、奈緒を通しては高村を捉えきれない。
 それでも、奈緒は諦めなかった。一瞬の判断で手近に生き残っている木の幹へと、手空きのエレメントを飛ばした。糸でウインチのように回収して自分の躯ごと高村を引きずり、そこを攻撃する。そう考えた。だが伸びきった奈緒の肘に、高村の手がそっと添えられた。
 折られる。
 悪寒の命ずるまま奈緒は目論見を中断して腕をかばった。
 棒立ちの瞬間が生まれた。
 高村の肘が折りたたまれるのが見えた。手錠の嵌まった手のひらが、ぶれた。
 それは理想的な曲線を描き、奈緒の鳩尾に突き刺さった。
 奈緒の脳裏を過ぎたのは、あの夜、玖我なつきが自分の背後で吹き飛ばされた光景――。
 呼吸が止まり、胃液がこみ上げ、膝が砕けてから痛みがやってきた。言葉も無く、気の抜けた息を漏らして奈緒は腹部を押さえて跪いた。今まで経験したことがない類の痛みだ。腹痛ではない。生理痛とも違った。横隔膜を基点に躯の『なかみ』を一気に揺らされた、という感覚だった。玖我なつきが嘔吐したのも無理はない。奈緒はそう認めるほかなかった。吐く。吐かなければ、痛みがひどすぎて、これ以上は我慢できそうにない。
 だが、それでも奈緒は耐えた。最後の矜持だった。みっともなく吐瀉することだけは、死んでもすまいと決心した。

「……吐いた方が楽になるぞ」

 黙ってかぶりを振った。顔を上げる余力はない。荒れた地肌ばかりが奈緒の視界だった。
 ふと、ふるえる睫毛に重みを感じた。涙だった。
 唇から唾液が垂れて糸を引いた。土に吸いこまれ染みを作った。
 高村の追い討ちはない。そんな必要はない。時代錯誤の決闘は、ここに幕を閉じたのだから。
 まぶたもまた、降りかけた。大地に替わり暗幕が眸の大半を満たした。そこに去来したのは、やはり玖我なつきの立ち姿だ。
 ――あの女は、立った。
 唇を噛み破った。
 血の味で、正気づいた。
 反射にまで達しかけた奈緒の勝ち気が、最後の抵抗を呼び起こす。伏臥を拒絶するように、地面を両手で突き飛ばした。この期に及んで、土汚れが気がかりなのが我ながら妙だと彼女は感じた。

「っと」

 反動による頭突きを、危なげなく高村は躱した。激甚の痛みが奈緒の体の内部を揺さぶり、それを無視するというわけにもいかなかった。根性論では誤魔化す事しかできない。だから、めくら滅法に振ったエレメントの一撃も同じ末路を辿った。だが奈緒の狙いはそこにはない。
 反動で振った左手から伸びた紅糸のエレメントが、アンカーごと手出しができずにいたジュリアの多脚に絡み付いていた。

「――ジュリアアッ!」

 懇願にも似た主の叫びを、これ以上ないほど完璧にチャイルドは汲みとった。すべての足がいっせいに畳まれ、発条のように力をたくわえた。袖で目元を拭いながら奈緒は無理やり狂的な笑みを浮かべた。充血した双眸は苦笑混じりの高村を捉えた。ジュリアが噴霧を撒き散らして飛翔するまでの一瞬間――。
 ふたりは視線を交し合った。

「とことんやるってわけだ」
「当然だよ」

 加速が奈緒の意識を体ごと、どこか遠くへと追いやった。
 


 ※



「ちょっと悪者くん、いい加減にしてくれない? このあっつい中、山の中でオーファン退治なんてあんまりしたくないんだよ。どうせなら海にしてよ、海」
「碧ちゃんこそ、そのワルモノくんって呼び方、なんとかしてくれない」
「じゃ、イイモノなのかい」

 煤を払い、エレメントの柄をしごきながら、杉浦碧はその穂先を炎凪へと向けた。一帯をつんざく爆音の轟いたのはそのときだ。見れば、森の斜面から巨大な蜘蛛の化け物が飛び立つ所だった。
(もしかして、手遅れになっちゃったか)
 しかめらた碧の顔を見て取って、凪がわざとらしく両手を挙げた。

「さあ。とりあえず、高村センセのことなら心配は要らないよ。今のところはだけど。しかし、なんか、なんだかねぇ……。せっかくの小細工が無駄になった感じ。さて、あれはいったいどこからやってきたんだか」

 碧から逸れた凪の視線は、彼の背後に伸びる空へと向かった。伸びた目尻は、陽光のためばかりでもないようだった。

「わたしが恭司くんと合流する予定だってのは、どこで聞きつけたわけ」皮肉げに碧は唇を吊り上げた。
「――おっと。ひょっとして、あっちに何か用事があったんだ」わざとらしく凪が韜晦する。
「キミが邪魔さえしてくれなければね」

 眼光鋭く、碧はエレメントを振るう。少年との距離は一定に保っている。思う所は様々だったが、彼については現状、何らの確信も持てていなかった。仮説めいた懸念はいくつか抱いているが、どれも真実からは遠いように思えてならないのである。

「ぼくは別に邪魔なんかしちゃいないよ。心外だなぁ。たまたまここに居合わせて、どこか行こうとしてた碧ちゃんの目の前にオーファンが現れた。運が悪かったけど、それだけでしょ。それとも、デートの予定でもあった?」
「ま、似たようなもんが」碧のいう予定とは、昨夜交わした、高村との約束のことだ。もちろん、今では高村もまた警戒を抜きに接触を持つには穏やかではない存在だということも、彼女は心得ている。
「良かったらぼくなんかどう?」
「遠慮しておく」
「あら。あっさり」

 おどける凪を見ながら、碧は唇を舌先で湿した。
 高村と約束した場所に向かおうとした碧の前に、突如オーファンと、そして彼が現れたのは今しがたのことだった。オーファンそのものは、既にチャイルドによって駆逐されている。碧が疑問に思うのは、いつもながらあまりにも凪が現れるタイミングが適宜を心得ていることだった。
(ここで種明かしさせるのも手か。どうやら、恭司くんは自力でどうにかできてるみたいだし)
 予期せぬ一戦のため乱れた呼吸を、徐々に整えていく。そんな碧を、凪の猫を思わせる双眸は興味深げに捉えていた。

「単刀直入に訊くけど、悪者くんはマジで黒幕なのかい」
「……碧ちゃんそれ、ほんとストレートすぎ」凪が音もなく笑う仕草を見せた。「でも、ノーといっておこうか」
「それを信じるには、キミは毎度アヤシすぎるのよね」碧も好戦的に笑った。「あなたはたぶん、わたしが知らないHiMEのことも全員知ってるでしょ。これがまず変だと思う。誰かさんの言う通り、本当にHiMEがオーファンを退治するための異能者なんだとしたら、どうしてそれぞれ自由に戦って狩れ、なんて現状がまかり通るんだろうね。能力の秘密を保全するためとか、手を組んでよからぬことを企まないようにするためとか――。ま、色々思いつくだけは思いつくんだけど、どれもピンと来ない」
「うんうん、いいセンいってる、かもしれない」凪の態度は他人事のようだった。「でもそれをぼくに言うのはお門が違う。確かにぼくの立場は位置的にキミたちHiMEより状況を俯瞰できるところにあるけど、それはそれだけ核心から遠のいてるってことでもあるわけじゃない。まさか、個性豊かな碧ちゃんたちをぼくなんかが思い通りに操ってる! なんて言いがかりはないでしょ?」
「そうだといいけどね」
「意外と弱気だ。それに色々考えてる。いいよね、碧ちゃんのそういう二面的なところ。魅力的だよ」
「やァ、どもども」褒められるのはいつだって満更でもない。碧は素直に喜んだ。
「そもそも、黒幕の条件は何とする」
「決まってるじゃん。裏であくどいこと考えて糸引いてるヤツさ」
「単純すぎ」凪が吹きだした。「ま、粘着質なのは否定しないけどさ――」

 苦笑いしかけた凪の表情が、緊迫を孕んだのはそのときだった。
 碧もまた、体を貫くような鬼気にあてられ、面持ちを神妙にした。ふたりが同時に振り返ったのは、やはり彼らが身を置く山の、さらに奥まった地点である。先ほどチャイルドが飛び出した箇所からは、ちょうど碧と凪を結んで正対する座標になる。

「あらら、またか……」驚愕に賞嘆の色を混ぜつつ、凪が呟いた。「今度は命ちゃんと、あと舞衣ちゃんも一緒。今日だけで何度目だ、こりゃあ……もしかしなくても、もしかするのかな」
「おや、あの二人もいるんだ」耳ざとく聞きつけた碧が、警戒を解かず軽口を叩いた。「なになに、今日ってもしかしてオーファンの特売日だったりするの?」
「ふむ」顎に手を当てた凪が、黙考の構えを見せた。「じゃ、ちょっと碧ちゃんも来てよ。出方を確かめたいんでしょ?」
「出方って――キミの?」
「高村センセの、だよ」妖しく微笑む少年の眼光が白昼にきらめいた。「ちょっと凄いことになってるよ、いま。この山の結界内に、覚醒してるHiMEが半分以上集まってる。いやたぶん、集められてるんだ」
「全員? 全員って、いや、ちょっと待って」頭をかきながら、碧は混乱寸前の態でいった。「集められてるって、その主体は誰さ。もしかして、ラスボスって恭司くんだったりするの?」

 炎凪は、やはり肩をすくめるだけだった。ひしめく木々の奥底に澱む闇へと、その視線は注がれている。

「さあ。それこそ運命次第じゃない?」

 神ならざる碧の視点には捉えられない。しかし、上空から見ることがかなうならば、彼女にもはっきりと見えたはずだった。
 ――頂目指して次々と生み出され、森を吹き飛ばしていく黒曜石の渓谷をだ。
 それは、美袋命の剣による蹂躙に違いなかった。
 


 ※



 放課から三時間が経っており、昼時をずいぶん過ぎていた。しかしいまだ生徒たちは学園祭準備のため下校しておらず、そして風華学園の敷地に残っている人間のほとんどがその光景を見ていた。

 生徒会会長の藤乃静留や同書記菊川雪乃も無論その例外ではない。彼女らはちょうど文化部と体育会の代表者を合わせ、学園祭の最終申し合わせの席についている所だった。
 その瞬間まで、会議はここ一週間の内ではもっとも穏便な流れだったといって構わないだろう。学園祭はすでに総務の手を離れていた。小康状態とはいえ、開催までの短い期間に責任者達は束の間の休息を取ることが許される。やり遂げた感慨と疲れとが、彼らに年相応でない落ち着きを伝播させていたのだった。時おり文化部と角逐を合わせたがる珠洲城遥の険を含んだ言葉さえ、許すものの笑みで見守る人間が多いほどだ。
 徹底した工程管理のなせる技に、それは違いなかった。前日になって慌てるような醜態を、藤乃静留の辣腕は決して許さない。突発的なトラブルさえ、彼女は折り畳み傘でも取り出すような安易さで捌いてのけた。
 静留自身も、自分の働きについては概ね満足しているといえた。学園祭当日には彼女が主催する茶会などという文字通りの茶番も予定されているが、それこそ余儀でくくられる瑣事である。当日に目論んでいる『計画』を思って、静留は周囲にそうと判らないほど薄く笑んだ。
 もちろん疲れていないはずはなかった。彼女のここ一週間の平均睡眠時間は三時間を切っている。だが顔色を取り繕うのには慣れていた。もっとも親しい友人にさえ、静留は己の腹蔵を隠しきる自信がある。
 その顔色が変わったのは、会議の終わる間際のことだった。
 窓越しに飛び込んだ光景に、静留はゆっくりと目を丸くした。茶をすする音も消え、彼女は一切の動きを停止した。
「……静留さん?」
 これがただならぬ事態だと真っ先に気付いたのは、副会長の神崎黎人だった。隣席から彼女の目線を追って校舎の外へと向きを変えた彼もまた、おや、と呟くと沈黙した。
「あらまァ」と静留がいった。
「これは大変だ」神崎が頷いた。
「ちょっと、会議中よふたりとも!」珠洲城遥がバンバンと床机を叩いて注目を促した。彼女は窓に背を向けて座っていた。「いったい外に何があるっていうんです。よそ見なんかして……」
 そこまで言いかけて、何とも言えない場の雰囲気に彼女は鼻白んだ。
 異様な空気が生まれつつあることに気付いたのだ。
 憤っているのは遥だけだった。その場にいた彼女以外の全員が、絶句して窓外の景色に意識を奪われている。
「な、なによ、いったい。わたしが何かいった!? ねえ、ヘンなこといった!?」
 菊川雪乃が、恐る恐るといった様子で遥の袖を引き、皆が見ているものを指差した。
「ハルカちゃん、あれ、あれ」
「こら、もう、私語は慎みなさいって……もう、なによ。なにがあるっての。まさか、また火事ってわけでもあるまいし。ってなんだ、山にツノが生えてるだけじゃない。ツノが。……?」
 手庇をかざして山を見た遥は、無言で目を擦った。すぐにカーテンをしめると、眉間を指先で揉んで「むむむ」と悩めるパンダのような唸り声をあげた。顔を上げて深呼吸すると、閉じたカーテンを勢いよく引いて、窓ガラスにかじりついた。
 山から角が生えていた。

「なにあれ」

 彼女がここまで適切な言葉を発した快挙は、しかし誰の心にも留まらないのだった。
 


 ※



 厄介事が起きる前兆があるならば、今後それを余さず自分に知らせるべきだ。
 蒼褪めた顔色で大樹にしがみつきながら、鴇羽舞衣は埒もない考えにふけった。
 舞衣が見つめる先で、美袋命が猛っていた。局所的な震動と地響きに翻弄されつつ、舞衣はどうにかエレメントで安定をはかる。
 地震の原因は、命が剣を突き立てたことにあった。原理など想像も出来ない。ただ彼女がそうすると、剣が地面に映す影が拡大し、平面の闇をわだかまらせるのだ。そして闇からは、鋭い岩くれが次々と突出するのだった。

「ミコト! ミコトー! もう止めてってば! このままじゃ、山が崩れちゃう!」
「……」

 答えない美袋命の双眸は、縦横無尽に中空をゆく黒い影に釘付けだった。彼女がその異能で隆起させた大地は、針のような鋭さで周囲一帯を囲っている。まるで黒曜石の谷だった。地上数メートルの高度でふわふわと所在無く浮かびながら、舞衣は人の身を圧倒する水晶の鋒鋩に生唾を飲み込む。

(これは……ひょっとしなくても、目立ってるよ。ぜったい!)

 だが、突き上げられた地面は空のオーファンに対する牽制にもなっている。舞衣にもそれはわかる。だから、せいぜい命の邪魔にならないようにしているしかない。チャイルドを駆使するべきかとも思うが、場所が場所だった。一ヶ月が過ぎても、山肌を消し飛ばしあやうく人を殺しかけた衝撃は忘れがたい。

(だめだ……、やっぱり怖い)

 忸怩たる思いだった。だがいまは、ともかく年下の同居人に頼るほかに手がない。
 剣を天衝くように構える命の姿にも、いくつか鋭い傷が刻まれていた。もっとも深手なのはスカートの裾の下に覗く右腿の裂傷だ。黒い影――突如現れたオーファンの不意打ちによって負った傷だった。
 オーファンが現れたのは、ほんの数分前だった。急襲を許したのは、寸前まで何の気配も感じなかったためだ。そもそも舞衣と命が山を訪れたのは、あの高村恭司がもたらした突然の電話のためだった。舞衣がついてきたのは好奇心と責任感からだが、仔細は命しか聞いていない。いったいどういう用件で呼び出されたのか、こうなると物騒な疑念も湧いてくる。

「ミコト」ひとまずオーファンが距離を取ったのを確認して、舞衣は命に近づいた。「ねえ、どうなってるのよ。あのオーファン。もしかして先生がここにオーファンがいるっていったの?」
「ちがう。恭司はただ、ここで前のようにしてくれと頼んできただけだ」

 静かな声で否定し、命はかぶりを振った。舞衣が持たせているハンカチをスカートから取り出すと、縦に引き裂き、手早く太股の傷口に巻きつける。

「前みたいにって? 前ってなに?」突然の戦闘に、舞衣は明らかに混乱していた。自分が置かれている状況もその異常さもさすがにもう理解しているが、だからといって日常から非日常への急な振幅には慣れるはずもない。
「初めて会ったときのことだ。……ジイが、死んでしまったときの」
「おじいさん……、の」
「うん。恭司は、そのときずっと一緒にいてくれたんだ」

 それは命には似つかわしくない、複雑な感情をともなう告白だった。苦み、痛み、含羞に、そして温かい何か。舞衣は命がこんな顔を見せる場合をひとつだけ知っている。彼女は兄についてのわずかな思い出に心を馳せるとき、同じような色を見せるのだった。

「恭司はいいやつだ。色んなことを知ってる……。そして、わたしの力になってくれた。だから、わたしも恭司のお願いは、なるべく聞くようにしてる」
「うん」舞衣は落ち着きなく頷いた。高村がひとしなみに善良である事に異論はない。「それで、お願いされた事ってなに」
「この山の上のほうで、ミロクを使えといわれた」
「うん。……え?」危く聞き流しかけて、舞衣は口を引きつらせた。「え。え? な、なんで先生がそんなことを?」
「目立つように騒ぎを起こしたいといっていた」

 眼を白黒させて、舞衣は気圧されるように後退した。オーファンは置いておくとしても、高村が騒ぎを画策したと命はいう。だが舞衣の抱く高村の印象と、間違い無く大事に発展する行動を命に依頼するという行為がうまく結びつかなかった。いたずらにしては度が過ぎている。
(HiMEがいることを、みんなにばらしたいってこと?)
 そうだとしても、動機がまったくわからない。そんなことをして、高村になんの利益があるというのだろう。

「目立つようにって――どうして。意味わかんないよ。先生がなんで、そんなこと。それに、HiMEだってことがみんなに知られたら大変じゃない」
「なにが大変なんだ?」

 何気なく問い返されて、舞衣は絶句した。

「決まってるでしょ! 周りが大騒ぎになって、あたしたちだって今のままじゃいられなくなるの。ミコトだって、この力が普通じゃないことはわかってるよね?」
「それはちがうぞ」命が困惑気味に眉を下げた。「HiMEのことを目立たせようって言うんじゃなくて……、恭司がいったのはそうじゃない。えっと……うん、なんだろう。たとえば、舞衣はこの前あのすごく強いチャイルドを使った。だけど、それが舞衣がしたことだって、千絵もあおいも知らないだろう。だけど、わたしや恭司は知ってる。ん……、それと、同じことだ、と思う」
「……そりゃ、言葉でいうだけなら、そうだけど」
「心配しなくても、これはわたしのしたことだ」命が微笑み、舞衣を安心させるようにミロクの刀身を立てた。「舞衣のせいじゃないし、迷惑もかからない。そんなことをいってくるヤツがいたら、わたしが舞衣を守る」
「あ、は、は。ありがと……」ややひきつった笑みで、舞衣は応じた。「でもさ、やっぱり、HiMEの力は内緒にしておいたほうがいいよ。目立ってもいいことなんてないもん」
「なぜだ?」心底不思議そうに命が尋ねた。「それに、そうだ、目立てば、兄上もわたしのことを見つけるかもしれない。町でひとりひとり声をかけて探すより、ずっと早い」

 命と自分とでは問題にしている次元が違うということに、舞衣はようやく気付いた。それは既に受け入れている命と、いまだ覚悟の決まっていない舞衣との差だった。戦士と少女の懸絶とも換言できる。
 舞衣は、超常的な現象によって引き起こされる混乱そのものを危惧している。だが命は、害が直接自分たちにまで及ばないのであれば、騒動はむしろ歓迎すべきだとさえ考えているのかもしれない――。もしそうだとすれば、剣呑な命の方針には、やはり行方の知れない『兄』の存在が影響しているに違いなかった。どこまでも兄を探す事に執着するのならば、確かに命の手段は――褒められたものではないにせよ――有効といえる。
 だが、どこか命らしくない効率を求めた思考でもあった。舞衣は一抹の不安を覚えずにいられない。

(もしかして、そう、先生にでも吹き込まれたの――?)

 歓迎すべきでない疑問が、胸裏に浮上した。そしていまになって、一顧だにもしなかった玖我なつきの警句が舞衣の耳朶を打つのだった。彼女は高村に気を許すなといっていた。もちろん、彼が命に何を言い含んだにせよ、それはそうおかしなものではないのかもしれなかった。何しろ舞衣は、命と高村の間に起きたことさえ正確には知らないのだから。

(ううん、そもそも)

 命を見つめたままで、舞衣は唇を噛んだ。あらゆる言葉を呑み込んだ。高村への疑惑というよりは、改めて自分を取り巻く状況の不可解さと不自然さを見た思いだった。そもそも、玖我なつきや高村恭司の言うように、なぜ学園側は躍起になってオーファンやHiMEの存在を隠すのか? 真実危険ならば、むしろ注意を促すべきなのだ。しかし、彼らはそれをしない。もちろん怪物の存在など、常識として受け容れがたい代物ではある。だがそれだけが、果たして理由の全てなのだろうか。……
 同じような問いを風花真白に対して向けていたのもまた、高村恭司だった――舞衣は理事長宅での一幕を思い、その連想は彼女の迷いに拍車をかけた。誰がどの位置に居て、何を考え思い、そして動いているのか。彼女の立場からでは、到底俯瞰は不可能だった。
 けっきょく、舞衣はあからさまな言及を避けた。大きくため息をつくと、両手を命の肩に置き、視線を合わせた。

「――わかった。約束したもんね、あんたをただ子供あつかいするだけにはしないって。だから、あたし、ミコトを信じるよ。だから、あんたもけが……はもうしちゃってるけど、無茶しないこと。あたし、怖いけど、情けないけど、それでもあんたがピンチなら、あたしだって戦う覚悟くらい、できてるんだから」
「ん、わかった」舞衣の苦悩とは無縁の様子で、命はあっけらかんと頷いた。「心配するな。舞衣は、わたしが守る」
「オッケー。そんときは任せたわ」舞衣もフランクに応じた。それから頭上を仰ぎ、「んじゃま、とりあえずいきなりびっくりさせてくれたアイツをなんとかしちゃおっか。で、どうする? アイツ、飛んでるし。あたしがミコトを抱っこして上に行くって手もあるけど」

 黙考のあと、命が素早くその意見を却下した。

「それじゃだめだ。足場がないと狙い撃ちになる。だから――」

 命が提案した作戦は、いかにも彼女らしい無茶なものだった。それではどちらにせよ失敗する。そう反論を試みたが、どうやら他に好手はなかった。押される形で、舞衣は尻込みしながらも頷くはめになった。
 応急処置を終え、屈伸して傷の具合を確かめると、命はミロクを握りなおした。柄の手触りを確かめるように拳の位置を変えながら、きっと頭上の黒い蝙蝠型のオーファンを睨みつける。

「任せたぞ、舞衣」
「おっけえ……」いささか顔色を悪くして、舞衣も腹を括った。「成功したら今年いちばんのファインプレーだわ……」
「――ん!」

 言い置いて、爆発するように矮躯が駆け出した。向かう先は、地面から突き出たままの巨大な水晶の棘だった。ささくれのように鋭い節を立てたその表面を、命のスニーカーが踏みつける。所々に突き出た枝を、そして時には剣先を足がかりにして、垂直に近い傾斜を、少女はまるで平坦な野をゆくように駆けだした。
 ましらの身軽さ。オーファンは完全に命に狙いを定めたようだった。するすると上昇する体に向かって滑空し、その爪牙が水晶状の壁面を削る。命は八艘飛びよろしく、近場の棘に飛び移っている。反撃がオーファンの羽根をかすめたが、彼女自身も危く落ちかけていた。

「もう、危なっかしいなぁ」

 再度上方への跳躍を試みる同居人の背を追って、舞衣も飛翔する。作戦は単純なものだ。加速し、飛んだ命がオーファンを攻撃し、落下する彼女を舞衣が地面に落ちない内に捕まえる。

「できるかなぁ」ぼそりと弱音を漏らして、鴇羽舞衣は両手で頬を打った。「やるしかないか……。まっ、大丈夫! なんとかなる!」
 


 ※



 元々岬へと近づいていたのか、森を縫う心臓に悪いシチュエーションはほんの数秒で終わった。背部から蒸気を噴出して凄まじい勢いで飛ぶジュリアは蜘蛛というよりまるでハンミョウだ。高村はかろうじてチャイルドの装甲にかじりつきながら、強烈な向かい風に眸を開くこともままならずにいた。
 潮と風が周囲を取り巻いたのは直後だった。加速感と、落下感――。水面が近づいている。着水は何秒後かに迫っていた。
 内臓がまるごと逆立ちするような感覚に吐気を催しながら、高村は意識のどこかで鳴り響く警鐘に耳を傾ける。結城奈緒と繋がった右手が、わずかな抵抗を体に伝えていた。冷や汗が彼の背を伝った。まさかこの状態で何ができるとも思えない。が、奈緒の向こう気や我武者羅さには、既に何度も痛い目にあっている彼だ。無視できるはずもなかった。
 目を開くと奈緒が逆様になっていた。
 両手は完全に自由になっている。赤い糸が、高速の視界で天の川のように靡いていた。

「――……」

 彼女の体をジュリアと結んでいるのは太股だ。むろん少女の脚力で、おそらく時速百キロ近い速度の空気抵抗を相殺できるはずはない。奈緒は節足のひとつと己の両太股を例の粘ついた糸球で雁字搦めに拘束しているのだ。確かに、エレメントでもなければ切断できない糸は絶好の命綱だといえた。
 少女の応用力に、高村は手放しで拍手でも送ってやりたい気分だった。もちろん、実際はそんないとまも余裕もない。高村に許されたひと刹那、彼が思ったのはひとつだけだった。

(パンツ見えてる……)
「――」奈緒の口がわずかに開く。向かい風でないぶん、呼吸はできるようだった。だが猛風の中だ。何を言ったかなど聞き取れるはずもない。同じように高村は、自分の心の声が彼女に伝わらないことを天に感謝した。

 奈緒と高村の、埃や土、血や涙で汚れた顔がさかしまのまま向かい合った。血走った彼女の眸を見据えたのは半秒にも満たない時間のはずだった。たとえ錯覚にしても、高村は見た――奈緒の双眸を彩る勝利の喜色! 奈緒の両手がゆっくりと動いた。エレメントの糸は物理法則を踏破して、風を食らう紙魚のように身震いする。目指す先は大蜘蛛にとりついた高村だ。
 高村は全身から力を抜くと、体にかかる負荷に身を任せることにした。

「……―――」

 奈緒の口がぽかんと開き、鯉幟のように風に流れていく高村を見送った。が、それは一瞬に過ぎなかった。高村と奈緒のあいだには物理的な絆がある。この加速で、成人男性ひとりぶんの荷重が少女の腕にかかれば、もちろん軽傷では済まない。エレメントでザイルを切断するほどの時間もない。そのあいだに奈緒の肩は抜け、下手をすれば手首から先が肉ごと削り取られるだろう。一瞬のためらいもなく、あわや張力が限界に達するすんでで、奈緒は右手首を左手でつかんだ。エレメントの糸がすばやく彼女の両手を一体化し、繭のように包まって補強した。ぴぃんと張り詰めたザイルの張力がそのとき限界に達した。
 高村の肩にも少なくない負荷がかかり、しかしそれは奈緒に比べればまだ少ないものに違いなかった。奥歯が砕けそうなほど歯を食い縛る奈緒の表情は壮絶だった。高村は後味の悪いものを感じながら、ほとんど奇跡的にジュリアの女性形をした部分の頭部を左手で掴む事に成功した。奈緒と彼とをつなぐザイルはまさに命綱だ。そして奈緒の安定性が、いま高村をも助けることになる。高村はザイルをたぐって奈緒に近づいた。この状態ならば、高村はザイルパートナーに対して一方的に優位に立てる。
 落下はもう始まっている。岸はすでに何十メートルも彼方にあった。
 苦痛の波をやり過ごした奈緒の目が見開かれた。高村の接近を認めたのだ。海面に落ちつつあるジュリアの体躯において高村が上、奈緒が下という位置取りになっている。このまま着水すれば、足にくくりつけられた奈緒は身動きが取れない。着水の衝撃をまともに受け止めることになるだろう。
 永い、二秒間だった。
 高村は奈緒にたどり着き、水面は既に間近だ。
 覚悟を決めて、高村は奈緒の露わになった上半身を抱きすくめた。小さな頭をかかえこむと、奈緒の体が強張るのを感覚で悟る。

(ちくしょう、またこのパターンか――ああでもやっぱりこいつは見捨ててもい)

 ――瞬転、大量の水が世界に『落ちてきた』。
 衝撃を受け止めたのは当然、背中だった。水上でも受身は有効だとは高村の師匠である女性の教えだ。だが両手が塞がってはその教訓も意味をなさなかった。息が詰まり、大量の気泡が視界全てを埋め尽くした。水が鼓膜に押しかけるとき特有のあの耳障りな静寂が聴覚を満たした。意識を保つために思い切り腕の中の細身を抱くと、胸元からごぼりと気泡が漏れた。果てしない落下感が彼の身を包み込んだ――。

(……落下感?)

 ジュリアが、消えていた。奈緒が取り下げたのだ、そう高村は思ったが、それは淡い期待に過ぎなかった。水底に引きずられるように落ちていきながら、高村は胸の中の奈緒の様子をうかがった。
 完全に気絶していた。
 高村は死を予感した。水の中で服を着た人間ふたりが手錠でつながれ、一方には意識がない。パニックを起こされるよりましとはいえ、プロの潜水士でもなければ浮上は難しい。
 鼻の間から気泡を漏らしながら、高村はもう数メートルも遠くになった海面を見上げた。夏の午後の陽射しが強く、水を焼いていた。縫合が開いたのか、じわじわと痛みを強める右手を、彼は何度か握り、次の瞬間、その手には――。



 ※



「逃げられた……」

 地面で光に溶けていくオーファンの片腕を不満げに見おろすと、命は剣をバットケースに納めた。探りの眼差しを空に向けても、そこには天を刺す物質化された峰があるばかりだ。蝙蝠のオーファンは、傷を負うとすぐに逃げ出してしまったのだった。

「あはは、いいじゃない。とりあえず追い返せたんだから」

 舞衣は彼女ほど剛毅ではない。脱力してその場に座り込むと、安堵のため息をついた。
 そのうなじに、水滴が落ちたのはそのときだ。

「え、雨?」

 と、空を見上げるが、雨雲は何処にも見あたらなかった。晴天とは言えずとも、まずまず気分の良い晴れであり、何より太陽は燦々としている。

「狐雨か……」

 珍しい。指先で雨粒を捏ねながら、けがの具合を訊ねるために命をうかがった。

「なんとかキャッチはできたけど、あんた、ほんとになんともないの?」

 頬におちた水滴を舌で舐め取りながら、命があくびを漏らす。

「けがはない。だけどなんだか、眠くなってしまった」
「そりゃあれだけおお暴れすればね」
「うん……」

 答えもそこそこに、命はその場に横になると、舞衣の膝を枕に目を閉じた。止める間もなかった。一瞬後には、もう寝息を立てている。
 舞衣はしばし絶句してその寝顔を見つめ、途方に暮れた。



 ※



「打ちあげられたアザラシみたいだ」

 声に反応して、結城奈緒は飛び起きた。ところで強烈な立ち眩みに襲われる。ちかちかと明滅する視界でこうべをめぐらせれば、そこは崖の麓にある海岸のようだった。陽光で強烈に熱された岩の一つに、奈緒は寝ころがっていたのだ。
 髪がいやに重く、体は異常に気だるかった。水泳の授業の後のようだ。服はまるごと、余す所なく濡れているようで、下半身がとくに冷えている。靴はどこにも見あたらず、靴下も脱げてしまっていた。

(あたし――)

 やるべきことがあるはずだった。いや、まさに彼女は戦っていたのだ。疲労と混乱に茫乎としたままの頭で、とにかく高村の姿を探す。男の姿はすぐに見つかった。上半身は裸になっており、浅瀬に脛を浸しながら、さすがに気だるげに水面を眺めている。
 前後の見当もつかず、奈緒はのろのろと高村の背後にしのび寄った。水音に反応した彼がふと顔を上げて、

「ああ、起きたか」

 と言った。
 その顔面に素足を蹴りこんだ。
 会心の一撃であった。
 声さえ漏らさず、高村はもんどりうって水辺へ転がった。
 たっぷり十秒間、仰向けになった高村を睥睨し、奈緒は勝ち鬨を上げた。

「勝ったっ――」
「――俺がな」

 足首を掴み取られ、バランスを崩したところでひっくり返され、頭からは落ちないようにうっちゃられて、奈緒は水中に突っ込んだ。高村が朗らかに笑っていた。頭に血の上るまま、奈緒はすぐさま立ち上がる。

「こっ……のぉっ」

 へらへらと笑う高村の顔面を右拳で打ち抜いた。
 ――あれ?
 と、彼女は思った。
 ――当たった?
 首を傾げる。

「この……痛い、……だろっ!」

 同時に奈緒の首を、ラリアットが襲った。激しく咳き込んだが、今度は倒れなかった。痛みにうめきながらも、負けじと左拳、右拳を交互に打ち返す。高村は今度も避けない。かわりにきっちりと同数の報復を欠かさなかった。猫だましからの大外刈りで奈緒は沈められる。それでもめげずに蹴飛ばした。高村は奮然としながら浴びせ蹴りで反撃を試み、自爆して思い切り腰を打った。爆笑を送ると、高村は突然奈緒の手首を強く握った。わけがわからない内に腰が砕け、重心を崩されて、奈緒は両足を抱え込まれた。

「ひっ」近い未来を予感して、奈緒が息を飲んだ。「や、やめっ」
「いくぞーいくぞー」

 高村はどこまでも楽しげだった。奈緒の足を掴んだまま人差し指を天に向けると、気勢を吐いてその場で回転を始める。

「はい! いっ――かぁーいっ、にっっ――かぁーいっ、さんっっっかぁーーい!」
「あああああちょちょっとまじでやめてまじで放して」高村が素直に奈緒の足を放そうとすると慌てて、「ああじゃなくて放すな! いやダメだってバカ止まるな! ああでも止まってよ! クソ、このヤロウ死ねっ、死ねー!」
「おまえが死ね」

 高村が和やかに死刑を宣告した。奈緒は涙目になって絶叫した。

「ちょっ、本気でやばいってこのクソ教師! 放してって……!」
「は、は、は。それが人にものを頼む態度かこのガキ。おくすりを飲んだ直後の俺に泣き落としが通用すると思うなよ」このとき、高村の眼は有体に言って鉄格子のある病室に住む人のそれだった。「ほらななかーいはちかーい、ほらほらスピードアップだ。おえっ」
「きああああ、あぶっ」回す最中で岩肌が奈緒の額を掠め、水中を頭が通った。

 結局二十二回転めで高村は昏倒した。奈緒も諸共に岸辺へ倒れこんだ。荒い息をつきながら、奈緒は吐気を必死で堪えていた。疲れ、痛み、そして屈辱。何もかもが最悪だった。

「サイアク……」岩肌にうつ伏せになって呟いた。
「とりあえず、これで二人は仲直りだな」高村が爽やかにいった。

 奈緒の面が少女らしい、可憐な笑顔をかたどった。

「センセイ、もうヴァカを通り越して頭おかしいですよね」
「邪険にするなよ。俺は結城の寝ゲロまで見たんだぞ。写メ見るか?」

 高村がズボンから取り出した携帯を無言で奪い取ると、奈緒はそれを力いっぱい沖のほうへと投げ捨てた。遠くで小さい水しぶきが上がった。
 高村が気まずそうに告げた。

「いや……あれ、結城の携帯なんだけど……」
「え……」さあっと顔色を紙のようにして、奈緒は沖を見た。寄せては返す波が、静かに彼女の絶望を肯定していた。「えー……」
「ま、まあ昨夜の金で買えばいいじゃないか、新しいのを」
「はあ……」

 くしゃりと前髪をかきあげて、奈緒は今日いちばん大きなため息をついた。興ざめという言葉がふさわしい時間だった。すっかり高村のペースに乗せられて、しかも、どうやら認めざるを得ないことがある。

「あのさぁ」心底嫌な気分だったが、問わないことには胸がすかない。奈緒はそっぽを向きながら高村に尋ねた。「センセイ、なんであのとき、ああいうイミ判んないことしたの?」
「とりあえず、その関係代名詞だらけのフレーズをなんとかしてくれないかな」と言いつつも、高村は奈緒の言わんとすることを正確に察した。「と、言われてもだ。べつにさっきに限らず、結城に限ったって俺は何度か同じような事をしてると思うよ。だいたいこの右手だってそうだろう」
「あー……」言われてみれば、そうなのかもしれなかった。奈緒は嘲笑を浮かべる。「偽善者っていうかなんていうか……。バカじゃないデスカ?」
「よし」高村が膝を打って立ち上がった。「次は三十回転目指すか」
「……やめてよ! 反吐が出ンだよ!」奈緒は素早く転がって距離を取る。

 そんな奈緒を見て腰を落とすと、高村はあくびを噛み殺した。

「とりあえず、ゆっくりしてたほうがいい。死にかけたくらいだから体だってしんどいだろう。なんにせよこのままなし崩し的に結城も洞窟探険に同行するのはほぼ決定だし」
「はぁ!? 勝手に決めないでよ、そんなの」
「タダとは言わない」高村がにやりと笑んだ。「いま碧先生がコンビニに行ってくれてる。結城が俺たちに同行するっていうなら、先生がちゃんと結城にパンツを買ってきてくれるぞ」
「――――は?」

 高村の言葉が耳を抜け脳に届いた瞬間、奈緒はスカートの下の冷気の原因を遅まきながら悟った。絶望や失意が羞恥と屈辱に混交され、彼女は強くスカートの裾を握った。

「え?」高村が眼をみはった。「まさか、気付いてなかったのか!?」
「う、あ?」と奈緒はうめいた。
「い、いや、ほら。水着じゃないとゴムが弱いから、水を吸うと勝手に脱げたりしちゃうだろう。俺が脱がしたわけじゃないぞ」
「…………あぁ」

 奈緒の全身から力が抜けた。這うように岩陰に向かい、へたり込んで確認する。
 間違いなかった。
 奈緒は泣いた。

「あぁ、泣くな、泣くな結城」おろおろする高村だった。「あ、そうだ。このあいだ玖我もノーパンだったんだぞ。仲間だ。な?」

 奈緒は余計に泣いた。
 マジ泣きだった。






[2120] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2007/03/02 06:09






 8.ロックンロールイズメード






 水は人を殺す。当然のようで忘れがちな節理だ。九条むつみは口中のレギュレーターに激しく違和感を覚えつつ、ゆっくりと体を水中に沈めていく。
 ウェットスーツを取り巻くのは、夏場だというのに凍えそうな温度の水だった。緊張感に熱を孕んだ頭には、かえって心地がよい水温とも感じられる。
 視界が完全に暗中へと没する寸前には、無心で岩の天井を見つめていた。マスク越しの景色が黒色に塗り替えられると同時、むつみは思考の一切を機械的なものへと切り替える。ウェイトベルトにくくりつけられた錘以外の存在が、際立って意識された。
 ここまでは遠泳の範囲だ。スノーケルひとつでも、問題はなかった。だが、ここからはちがう。むつみが今から行おうとしているのは、玄人の手にも余るかも知れないテクニカルダイビングである。油断どころか充分に気を張りめぐらせていても、ひとつの不備が命取りとなりかねない。
 とりわけ、洞窟潜水となれば注意はいくらしても足りないくらいだった。足先のフィンをゆったりと動かしながら、むつみは夜よりも濃い闇の中へと潜っていく。行く手を照らすのは、か細い水中ライトの筋一つきりである。目的地までの道程と一通りの留意すべき事項は完全に頭に叩き込んではいるものの、圧倒的な水底の前ではそれも頼りないコンパスのひとつでしかなかった。
 エントリーから数分も経たないうちに、むつみは何度もコンピュータとコンソールゲージを確認する。タンクに貯えられた酸素量には十全を期している。万が一とは言わないまでも、百分の一の不運にでも見舞われない限り、溺水の心配はない。それでも、残像量を逐一確認せずにはいられなかった。
 左手には機材を運んでいるため、右手で瀝青のように黒く重たい水を掻き分けながら、むつみは更なる水深を目指していく。見えないながらもかなりの空間的広がりを感じさせるだけに、十メートルほど潜って底に行き当たる頃には、体も思考もずいぶんほぐれていた。
 が、本番はここからだ。目前でぽっかりと口を開ける横穴を前にして、むつみはわずかに呼吸を乱した。パーマネントラインすらないケイブダイビング。それが厄介とされる由縁は枚挙に暇ないが、いちばんの問題は水中における緊急の際、逃れるべき絶対の安全圏である水面が存在しないことにある。なおかつ周囲は鋭い岩に囲まれており、手狭だ。タンクが破損した場合、むつみは手もなく藻屑となるだろう。教習は受けても習熟したとはいいがたい彼女の力量では、手に余る冒険だった。

(……行かないわけにも、いかないんだけれど)

 さきほど文字通りの頭上ですれすれの無茶をやらかしていた共犯者を思って、むつみはマスクの下にある頬を緩めた。いつか、彼はいっていた――「冒険は男の特権です」と。しかし、こうも付け足したのだ。「でも、度胸ではぜったいに女性にはかなわないでしょうね」
 ふっと微笑すると、むつみは誘うような洞穴の縁へ手をかけた。そのまま体を滑り込ませる。視界が悪いだけに、他の感覚が伝える情報量はやや誇張された。レギュレータから漏れる気泡や水流、それに自身の鼓動。半ば触覚で洞窟に充分な広さのあることを探りあてると、温存しておいた水中スクーターを起動し、前方への推力に身を預けた。地図どおりならば、この回廊はもうしばらく続くはずだった。
 上下左右に曲がりくねる道は、あたかも生きものの胎だ。いくつかの岐路を慎重に進むうち、むつみの感覚はすっかり翻弄され、もはや深度は計器に頼りきるしかない。魚群どころか魚影ひとつさえなく、道々に見えるのはただ暗闇と、ときおり朽ちた貝や、光など届きえないというのに自生しているまばらな海藻ばかりだった。
 心理的な圧迫感は相当なものだ。潜行から十五分ほど経て脈を取りながら、むつみは自身に精神的な失調を認めた。体力的にも、さすがに余裕とはいえない。

(でも、減圧症や窒素酔いではないわ。単純にプレッシャーによるものね)

 九条むつみは、どういった意味においても自分が強靭であるとは決して思っていない。むしろ人間的には脆弱な部類に位置付けられるとも考えている。だからこそ弱さを克服するための工夫には常に迫られた。それはある場合では逃避であったり、または依存であったりする。どちらも見目はよくなくとも、効率的という観点では悪くない手段である。
 けれど、今はそのどちらも選ぶわけには行かない。むつみは背を炙る焦りを自身もよく知る観念に置き換えた。卑近なところで、ノルマの達成ならず受注の期日を迎えんとしている前夜の心境だ。そんな修羅場にならば、シアーズに身を置くようになってからも幾度となく経験している。
 気を落ち着かせ、ゲージに目を落とす。予定では、そろそろ行程の半分は消化されているはずだ。後半はこれまでほどスムーズには行かない隘路が続く。だが、冷静になればさほど難しくはないはず――。
 思った矢先、進路が壁に塞がれていることに気付き、むつみは愕然と身を震わせた。

(間違えた!? そんなはずは……)

 まず自身の記憶を疑い、反芻する。あらかじめ教えられ、覚えた手順に誤りはなかった。だとすれば、情報に過誤があったのか。戸惑いのなかで動悸に喘ぎ、むつみは胸元に手を置いた。
 戻るべきだという判断が頭をかすめた。しかし、それは最悪の場合にしか取れない行動だ。高村が今回打った奇手は、二度と通じるものではないだろう。
 複数のHiMEの同時扇動と戦闘行為、さらには多数の目撃者が生まれるように事態を仕組み、内通者の助力さえ借りて厳重な警戒網にわずかな綻びをつくる。それが、むつみと高村恭司がかねてから計画していた、シアーズにも知られていない腹案である。高村が備えた「HiMEやオーファンと引き合う」、特殊な蓋然性を逆手に取った策だった。昨夜の結城奈緒との衝突でやむなく緊急に実行に移ったが、それでも今のところ、偶然の助けもあり事態はむつみに味方するよう推移している。

(だけど、次は無い)

 ルビコンはとうに越えていた。
 仕掛けている相手、一番地のというよりは、彼女らの所属しているシアーズの問題だった。今回ばかりは、多少自由を許されている高村はおろか、むつみの独断専行も看過されまい。
 シアーズとて全く甘くはない組織である。本来技術屋のむつみが前線で責任者としての地位を得るまでには、相当の無茶があった。そんな彼女が現地の実働スタッフすべてを欺き、計画に支障を来たしかねない問題を画策したとなれば、更迭は免れない。よくて沖縄のラボに押し込められるか、悪ければ粛清の対象になるだろう。一枚岩ではないシアーズ内部を強引な手段で伸し上がってきたむつみの心象は、人種的な偏見を除いても最悪だ。無沙汰などという楽観はできるはずもなかった。
 ――だから、そう簡単に諦めるわけにはいかない。
 ライトを四方に向けながら、むつみは焦眉の態であるべき道を探した。真実行き止まりならば、ともかく前の岐路に戻ってみるしかない。
 果たして、通るべき穴は見つかった。しかし、むつみの心境は安堵にはほど遠い。向こう側へ通じていると思しき唯一の抜け道は、いたって小さな孔に過ぎなかったのである。

(サイフォン……では、ないみたいだけど。地図にはなかったはず。それにしても、ぎりぎりだわ)

 女性として相応に小柄なむつみが、タンクを外してどうにか通れるといった程度の隙間だ。凝然と狭洞を見つめたあとでどうにか拡張できないかと手を伸ばしたが、もちろん無駄だった。

(天井の基部に崩れたあとがある。地震か何か、かしら。どちらにせよ、そう古いものではなさそうだけど……)

 苦渋に満ちた目が、何度もいかんともしがたい現実をなぞる。脳裏に不安げな元同僚の言葉がよみがえった。
 ――古い、調整用の通路ですからね。もうずっと使っていないものですし、整備もされていない。安全とは言えませんよ。
 まったくだと、むつみは引きつった苦笑を浮かべた。だが、いつまでも迷っている時間は残されていない。逡巡のすえ、むつみはBCを脱いだ。タンクのひとつを放棄し、体と分離してどうにか穴を通過できないものかと考えたのだ。

(ステージボトルの応用ってことになるわね。もっとも取りに来ることはないし、時間的な猶予がずいぶん圧迫される事になるけど、他に手は無い)

 ステージボトルとは、長時間のダイビングに際して三本以上のタンクを用意し、その内のいくつかを復路における後顧の備えとして事前に置き去りにするタンクや手法自体を指す言葉だ。本来なら行程の過半を消化した上で行うものであり、また決して狭洞を通過するために取るべき方法ではない。
 が、背に腹は変えられない。むつみは蛮勇を選んだ。まずスクーターを押し込み、レギュレーターはくわえたまま、器用に足先から穴へ体を差し込んでいく。多少窮屈ではあるものの、見込みどおり崩れた穴自体の長さはそれほどではなく、腰まで穴に入る頃には足が不自由なく動かせるようになっていた。胸がややつかえた瞬間にはひやりとしたが、それも少し体をひねればどうにか通る。

(いける――)

 思った直後、ごうと水流が渦を巻いた。
 むつみが身を横たえた穴の足側から、それはやってきた。水槽を塞ぐ栓を、むつみはとっさに思い浮かべた。
 暗闇のなかで、泡立ちがマスクの向こうを大量に通過するのがわかった。ほとんどパニック寸前で、それでもどうにかむつみはレギュレーターを放さぬよう口元を手で覆った。余った手は、機材とタンクを包むBCを握りしめている。
 十数秒、ろくに身動きできないままむつみは耐えた。しかし不慮の流れがようやく緩んだかと見えたとき、あっと声をあげかける。確保していたはずのタンクのひとつが、彼女の腕から離れていたのだ。
 穴の向こうへと運ばれ落ちていくタンクを、むつみは見送るしかなかった。
 とにかく一度、穴を完全に抜けてしまわねばならない。残った最後のひとつを後生大事に抱え、ようやくのことで難所を脱した。
 コンピュータの示すエアーの残量は、半分といったところだ。むつみの最長潜水時間は一時間には届かない。予定では、あと二十分もあれば目的地には到達できるはずだった。強行軍をしてできないことはないものの、確実とはいえない。慎重を期すならば、もう一度穴をくぐってタンクの回収を試みるべきだ。
 うんざりしながら身を翻そうとしたとき、ヘッドライトの光に翳りが差した。
 ――頭上から巨大な闇が迫ってくる。
 咄嗟にフィンで水を蹴り、むつみは体を後退させた。先ほどとまではいかなくとも、むつみの体を吹き飛ばすには充分な渦が生じていたためだ。
 伝わる重い震動は、落石を連想させた。すぐに何かが体のすぐそばを通り抜ける気配を感じるが、ライトの灯りでさえ巻き上げられた泥に遮られ、あたりはまったき闇に等しい。

(なにかいる?)

 震動はなおも続いている。まんじりともせず、気泡を抑え呼吸さえ殺して、むつみは身動きを止めた。ライトの光もぎりぎりまで絞る。発見を恐れてのことだった。
 先ほどの潮流。そして今の気配。この水域には間違いなく何かがいる。
 恐怖が背筋を撫で上げ、むつみはタンクの回収を断念した。ついでに、スクーターの所在もわからなくなった。
 ようやく震えがおさまる。むつみもまたまとまらない思考をどうにか落ち着かせ、現状を把握したとき、心臓が一際強く脈打った。
 違和感がある。不安の正体はすぐにはわからなかった。少しずつ、確かめるようにあたりへ手足を伸ばし、そこに空間的な広がりのあることを確かめる。先ほどまでの回廊のような隘路では、既にない。よどむ水のためにはっきりとは視認できないが、開けた場所にいるようだった。
 今度こそむつみはうめいた。
 記憶では、まだ通路が続いているはずだったのだ。

(そんな、位置を見失った……?)

 装備を欠いた上で見当識を失った。致命的なミスに近い。
 空気は残り少ない。
 水面には上がれない。
 戻る道は、恐らく塞がれた。

(え……)

 体をくまなく覆うスーツの端から、ひやりと冷気が忍び込んできた。
 心がこわばる。

(待って、これ。え……)

 咄嗟に脱出経路が思い浮かばない。
 思考が促進を拒否している。
 命に替えても守ると決めた面影が、水位の低い闇に浮かんだ。

(え……?)

 周囲は水と闇と石ばかりだ。
 無機的な包囲は棺を思わせる。
 ――水禍の密室に囚われた。

(死ぬの……?)

 茫然と胸中でごちたとき、光が瞬くのが見えた。
 はっと身を竦めて、我に返る。ちかちかと、サインのように光が何度も明滅している。むつみからは右手側だ。
 鬼火。そんな名詞が脳裏をよぎる。あまりのタイミングの良さに、むつみは自身の正気を疑った。
 だが、どうやら光は現実だった。定期的な明暗の拍子は人為を意味している。

(人工物? 潜水艦じゃあるまいし、こんなところになぜ)

 眉をひそめ、身構えようとして、すぐに馬鹿馬鹿しいとむつみは苦笑した。死の恐怖が、目前の好奇にあっさりと奪われている。
 救いようがない人種だと自嘲する一方で、彼女は気を取り直すように頭を振った。どのみち、今はいくら妖しかろうと差し出された手を頼るにしくはない。

(鬼が出るか、蛇が出るか)

 地上ならば深く嘆息したに違いない。とにかくBCを着直して、タンクを背負うことを優先した。そろりと近場の岩に張り付き、腕の力で体を運ぶ。光が誘導する先へと、必死になって泳ぎ進んだ。
 目的の経路に復帰したのはそれから間もなくの事だった。安堵の息をつくと、光が離れていくことに気付く。一瞬だけ追うべきか迷うが、もちろんむつみには見送る以外できることはなかった。ただ腑に落ちぬ感謝の念を視線に込めて、遠ざかる影を見つめた。

 予定外の事さえなければ、元よりそう困難な道程ではない。あとはつつがなく運んだ。

 行程を予想より消化していたらしく、水中に見える景色の人工色がより如実になるころ、むつみはようやく出口にたどり着いた。先ほどの灯りとは違う、薄っすらとした緑色の光が、誘蛾灯よろしく水中隊伍をなして道をつくっている。その先には、ハンドル式の扉がむつみを迎えるように解放されていた。
 ここからの手順も教わっていた。扉の内側はカプセル状になっており、人間のひとりやふたりはやすやすと収納できる構造である。
 体をすっかり内部に滑り込ませると、今度は開かれていた扉を閉じ、ハンドルを回して固く封じた。と同時に、壁に備え付けられているL字レバーを操作する。排水のための仕掛けだった。
 水抜きが済むと、むつみは何よりも先にレギュレーターを外し、天然の空気を肺に取り込んだ。壁に背を預け眼を閉じると、疲労に身を浸す。

「……よし」

 きっかり一分を調息に費やすと、むつみは侵入時とは逆側にある扉へ手をかけた。むろん、ここでも注意は怠らない。腰に備えた得物へ手を添えながら、ゆっくりと桟を押し開けていく。
 間もなく見えた人影に、銃口を突きつけた。そうする彼女の口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。

「撃たないでくださいよ」両手を挙げた迫水開治が、破顔した。「まさか、本当にこの水道を通ってくるとは。いやはや、お若いことで」
「年だけど無理をしたのよ。こんなときに、そうでもしなきゃ入れないでしょう?」むつみはゆるゆると首を振り、銃を降ろす。「それで早速だけど、潜る前から状況は変わってないかしら」

 張り出た腹を揺らして、迫水が苦笑する。あまり冴えた顔色ではない。彼の立場を思えば当然だった。
 むつみはあえて気付かない振りを続けた。

「ええ。おかげさまでてんてこ舞いですな。高村先生も、ずいぶん無茶な人だったようです」
「ええ。大したものよ、彼。ほんとうに」むつみはそこで、微笑を深めた。「ところでさっき、鬼が出るか蛇が出るかって思ったんだけど」
「はい?」
「カエルって、海を泳げたかしら?」



 ※



 クレヴァスを突風が吹きぬける。水流が複雑な紋様を描き小船を翻弄する。風鳴りがまるで遠吠えのようだと結城奈緒は思う。やかましい水と風の音に負けじと響くのは、なぜか当たり前のようにいる杉浦碧の、能天気な歌声だった。

「はしりだせっ、ごーうごーうっ、かぜになれっ、ごーうごーうっ」
「ジャスラックに怒られますよ」
「……ふんふんふん、ふーんんー、だらら」
「まあ、お金を取らなければいいんじゃないですか」
(なんなの、この状況……)

 奈緒が見上げた先で、鍾乳石が雫を垂らした。彼女が脱力して体を預けるのは水面を揺れる艀。額に汗して櫂を漕ぐのは、高村恭司だ。

「無駄口叩いてないでさっさと漕ぐ漕ぐぅ。馬車馬のように漕ぎなさーい」船の縁に頬杖をついて、碧が女王のごとく命令する。
「いや、だからどうして俺なんですか。もうすぐにでもぐったり寝たいほどむちゃくちゃ疲れてるんですけど」ぎこぎこと上半身を動かしながら、高村が心底気だるそうに不平を口にした。言葉に違わず、顔色には疲労が濃く表れている。「それになんでモーター使わないんですか……。文明への叛逆ですよ」
「だってあたしトリーズナーミドリ。それにモーターは音が出るじゃん。あと帰りのことを考えると燃料は温存しておくべきでしょ。わかったら文句言わないの。あんた男の子でしょー」碧が吊り目がちの眸をさらに鋭くした。「それに生徒に最低のセクハラ働きをしといてこの程度の刑で済めばお徳よお徳」
「でも、あれは結城がいきなり蹴ってきたんですよ。いや、それにですね、さっきはちょっと事情があって、どうにもあの状態だと思いついたことをそのままやってしまうというか、自制が効かないというか」
「言い訳すんなー!」

 碧の一喝に、高村がうな垂れる。奈緒は碧のポニーテイル越しにその姿を認めつつ、舟底に深く身を沈めた。碧にやりこめられる高村には溜飲が下がらないでもないが、いまはとにかく眠気が強く彼女を捉えている。碧を真似て船縁に置いた腕に頭を預けて、遠ざかりつつある出口を半眼で見やった。
 本物の洞窟に、彼女らはいた。

 絶壁の根元にある岸辺で途方に暮れていた奈緒と高村に碧が合流を果たしたのは、陽が山の端にかかったころだった。碧は近所の量販店でわざわざ購入してきた着替えや、他得体の知れない雑多な機材を持って、船で現れたのだ。
 ひったくるようにして衣服を奪い、着替えた奈緒はもちろん早々に寮への帰路につこうとした。着衣水泳のあげく溺死しかけたせいか、体がくたにくたに疲れていたのだ。一刻も早くベッドへ飛び込んで眠りにつきたい気分だった。そこを呼び止めたのは高村ではなく杉浦碧で、彼女は奈緒に対し自分もHiMEであると告げるとしげしげと奈緒の体を天辺から爪先まで見回して、
「なるほど、あなたがねえ! ともかく、よろしく頼まれてちょうだい」
 訳知り顔で頷いたのだった。
 碧はそそくさと暇しようとする奈緒を陽気に引きとめた。
「まあまあ、ちょっと待ちんさい。これから行く所に、奈緒ちゃんもついてくるといいよ。あたしと同じHiMEなら、全然無関係ってわけじゃない場所を探そうと思ってるんだ」
「きついなら帰ってもいい、と思うぞ」
 と言い添えたのは高村だ。こちらは先ほどの狂態が嘘のように落ち着いている。むしろばつの悪そうに奈緒から距離を取って、あまつさえ気遣うような素振りさえ見せていた。あれだけすき放題に暴れておいてどういうつもりなのか。疲労の極致にあっても奈緒の反骨精神は健在だった。彼女は反射的に碧に答えていた――。

「いく」

 早まった、と思わないでもない。

 洞窟の入り口は、奈緒が目ざめた海辺から船で十分ほど島を東巻きにした地点にあった。壁面から蔦が繁茂し、傍目にはとてもそうと見とれないものの、大振りなクルーザー程度ならやすやすと飲み込んでしまえそうなうろが、そこには口を開けていたのだ。
 碧のゴーサインに高村は諾々として従って、奈緒は完全に他人事と割り切り事態の推移に身を任せることにした。
 なかば聞き流してはいたものの、冒険に胸を躍らせ嬉々として語る碧によれば――「この洞窟は人工的なもの」とのことだ。きっかけは図書館で彼女が見つけた、少なくとも昭和初期以前に学園に施された工事の図面だった。その資料には学園地下を網羅するいくつかの通路や、瀬戸内海と下水を直結させる計画などの進捗がこと細かに記されていたのだという。

「それでこの洞窟が作られたってことですか」合いの手は高村のものだ。
「ううん。それは違うみたい。その頃にはもう、この洞窟はあったんだ」碧が首を振った。「要はそのとき工事に当たった人たちが、偶然ココを見つけたってことなの。だもんだから、当時の人たちはそりゃビックリよ。突如! 目の前に現れた巨大な洞窟。神の御業かはたまた悪魔のイタズラ、いったい真相はいずこに……ってやってるあいだに、緘口令が布かれちゃったみたいね。まあ、あたしらが今通ってるこの洞窟は、さすがに天然の浸蝕ではできないと思うけどさー。まず規模が大きぎるし、地理的にも海流的にも、ここまでの天然洞窟はできるはずないもん」

 船が浮かぶ水路は、碧の言葉通り広く、また深い。既にいくつかの支流と合流し、地下でありながらほとんど河川か湖かといった様相を呈している。奈緒は意識の外にそれらの光景を置きながら、高村とは別の意味で舟を漕いでいた。

「さっきから何回か別の流れにぶつかってますけど、その図面だとこういう水路がまだ他にもあるんですか?」高村が言った。
「うん。というか、このルートは途中で通れなくなってるから、正規の道じゃないみたい。とはいえさすがに学園のほうがこれを知らないってことはありえないだろうし、探せば別の詳しい資料も見つかるかもしんないけどね」
「なるほど、ねえ」

 ところでさ、とそこで碧が揚々と切り出した。

「山型で、かつ迷路構造の巨大建築物っていうと、やっぱあれ思い出さない?」
「ピラミッドですか」
「そうそう」得たりと碧は笑う。「もう上の山が媛伝説と密接な関係にある土地ってのはほとんど確定だけど、まずあちこちにあるヘンテコな穴蔵の意味、あたしなりに仮説立てたんだよね。あれとかこれって、たぶん慰霊のための御社みたいな役割を持ってるんじゃないかな。そもそもさ、発破もない時代にこんな大掛かりな工事の施工できるワケないんだし、そこにはきっと――」
(ヤだヤだ、これだからヲタは)

 喧々と推論を戦わせる二人を尻目して、奈緒は欠伸した。彼女の興味は、碧が解説する洞窟の役割などにはなかった。気になるのは、それだけのことをやってのける存在についてである。
 命や玖我なつきといった他のHiMEと出会うまでは、単純に状況に酔っていられる余地があった。好きに街を狩場に変え、夜を住処に女王として振る舞うことができた。久しく求めていた自由と解放を彼女は手中に収めたのだ。
 だが、それが与えられたものだとすれば状況は変わる。甘い食餌をちらつかせ、巣に誘い込んで殺す。それは奈緒の常套手段である。そしてだからこそ、それをされる屈辱と危険性についても熟知している。

 ――『自分だけは大丈夫』なんてことはありえない。

 奈緒の双眸が倦怠と怜悧を交えた斑な光をたたえ、碧と意見を交わす高村をじっと睨みすえていた。熱中する横顔には、彼女をやりこめた面影はもはやない。子供のように瞳をかがやかせ、益体のない絵空事や目の前に広がる探険へと完全に意識をうばわれているようだった。
(玖我もコイツを追っかけてたっけ。あれは、そういえばなんで……?)
 ぼうっと昔日に意識をやっていると、高村が船底のランプを手に取り、奈緒に押し付けてきた。

「……なに?」
「聞いてなかったのか」高村が苦笑する。
「だってアタシ関係ないじゃん」
「これから碧先生が碧先生の独断と責任の元でディギングするんだ」奈緒の抗弁を、高村はさらりとかわした。
「え、なにげに恭司くんがヒドい」碧がうろたえる。「共犯だろー。つれないこというなよーう」
「ディギングってのは要するに塞がってる進路を削る事なんだけど」高村はやはり取り合わない。「今から碧先生がやるのはほとんど轟天号だから、ええとその、なんていうか、ヤバイ」
「ヤバイって……ていうか5.5ってなに?」
「あっ、その反応は時代を感じちゃう」碧が悲しげに呟いた。
「それで有毒ガスが出てきたりするかもしれないから、そのランプの炎の色がおかしくなったらすぐ教えてくれ」
「はあ!? 毒ガス!?」聞き捨てならない単語だった。「勘弁してよ。アタシ帰る」
「あはは、奈緒ちゃんは面白いなぁ。――そぉれ出ませい、ガクテンオー!」

 舳先に片足をかけた碧が、朗々と自らのチャイルドの名を呼ぶ。
 召喚の余波に水面が波を立て、突風が奈緒の異論をかき消した。

「とっかーん!」



 ※



 脱いだスーツを鞄に押し込め、持ち込んだシャツとタイトスカートに手足を通す。濡れ髪をアップにまとめてウィッグに押し込み眼鏡を装えば、即席の変装は完了した。費やした時間は二分にも届かない。反復練習の成果である。
 必要な機材は全て、手荷物として運べる程度のものだった。緊張感を作り笑いでほぐすと、むつみは閉じられた非常扉に手をかける。

「お待たせ」
「いえ、正直意外なほどお早い」言葉通りに眼をしばたいて、迫水がむつみの足下から顔面までを、まじまじと見つめた。「いやはや、なんというか……」
「どこかおかしいかしら」眼鏡のリムを押さえながら、むつみは自分の体を見下ろす。「念には念を入れてみたんだけど」
「いえ、一瞬別人が出てきたのかと」
「そう? なら成功ね」口早に答え、ふたたび手元の時計に目を落とす。時間を意識して焦っている所作だ。自戒するように呼吸を深くして、むつみは迫水に頭を下げた。「とりあえず、ほとんど心配はないとはいえ、万が一もある。怖い人たちに見咎められない内にさっさと移動することにするわ。ありがとう、迫水くん。ここから先は――」
「そこから先は、いいっこなし、でしょう?」迫水が台詞を遮った。「乗りかけた船です、私もお付き合いしますよ。それにまぁ、こんな僻地だ。今なら誰とも会わないとは思いますが、万が一を考えると、誰かあなたの身元を保証できる人間がいたほうが都合がいい」
「そこまで迷惑はかけられないわ。独りでだって平気よ」

 思いのほか強い口調であった。迫水の言葉に詰まった様子を見てむつみはすぐに己の失敗を悟り、目を伏せた。「ごめんなさい」と口にした。
 迫水は欧米人のような身振りで「お気になさらず」と答えた。

「ですが、これが危険な橋だとおっしゃるなら、どうか理解してください。ことはあなた独りの問題ではないでしょう? 何かあれば、あの娘にも累が及ぶことだってありうるんです」
「もう、儀式は始まる寸前だわ。今さら」アキレス腱をつかれ、むつみはうめくように言い訳した。「……済まないわね、本当に。どうやら、思ったより余裕がないみたい」
 迫水が笑った。「当然のことですよ」

 結局、むつみが提案に折れる形となった。先行する迫水の半歩後を、変装した彼女はついて歩き始める。

 九条むつみと、風華学園の教師である迫水開治に、書類上いかなる縁故も存在しない。せいぜいが同じ学園に職場を持っているという共通点のある程度だ。しかし、むつみがまだ『九条むつみ』になる以前、彼女は彼と近しい仲だった。今よりもよほど親密な、職場の同僚だった。迫水は彼女にとって貴重な友人だったとさえ言える。
 職場の名は、岩境製薬といった。
 紹介は彼女が学生時代、院で世話になった教授によるものだ。専攻が薬学系でない彼女としてはあまり興味をそそられる分野ではなかったものの、当地ではいわゆる一流に属する企業で、研究室のコネクションを用いた就職としては申し分がない進路だった。当時才媛として期待されていた彼女を受け入れる条件は思いのほか好待遇で、リクルートスーツでヒールをすり減らす労苦を思えば即決できた。何よりも、当時の彼女には無視できないハンデがあった。それすらも斟酌して雇用してくれる企業となれば、他に探すほうが難しい。
 だが違和感は入社後すぐにやってきた。
 彼女は研究者である。そしてそれに相応しい職務が、回ってきすぎていた。内容が新入社員がこなすものとしても製薬会社の業務しても、異様だったのだ。おかしなことは他にもあった。雁字搦めの守秘義務、単なるチームワークとは断じ切れない開発室の連帯感……。次から次へと与えられるタスクに忙殺されるとともに、彼女の内部で違和感は肥え太りつづけた。この会社は何かがおかしい。一年が経つころ、異様な昇給を見せた給与明細を前に、それは確信となっていた。
 薬品開発に後ろ暗い事情がつきものだということは、もちろん知っている。しかし通常それはいわば境界的な汚さともいうべきで、結果的には利益へと還元される企業努力だ。その綱渡りのリスクヘッジを見誤ったとき、企業は危地を避けえない。しかし、当時の岩境製薬が踏み込んでいたのは、とてもそんな単純な領域ではなかった。
 違和感を黙殺できたのは、単純にそれらの作業が魅力的だったからだ。彼女は有能で才気に満ち、知的探究心に溢れていた。周囲もそんな人間ばかりだった。遺伝子工学、応用物理――別分野の突出した才能とのやり取りは刺激に満ちていた。自分を高められる場所はここしかない、と彼女は理解していた。私生活も落ち着き、上向き始めた。家庭もうまくいっていた。勉強や雑務に追われていた学生時代とは違う。
 華があり、それを育てる潤いがあった。
 迫水と知り合ったのもその頃だ。

 ――何もかもに裏があるのだと悟るまでには、まだしばらく時間が必要だった。



 ※



「どうやら、この先に地底湖というか、大きな水たまりがあるみたいですね」

 中洲でデジタルカメラのシャッターを切りながら、高村はメジャー片手に測量に励む碧にいった。碧はレーザポインタを天井に照射しながら、不可思議なジェスチャーを交えつつ、

「えーさいんこさいんたんじぇんと」と唸っていた。
「何の呪文ですか」
「さ、三角比でスケールを計算しようとしてるんだけど、ノーパソ忘れた」
「あほだ……」高村は嘆息して、携帯電話を取り出した。気密していたおかげで機体はまったくの無事である。「じゃ、ちょっと数値ください」

 碧が投げやりに返した数字を聞くと、一拍置いて高村はすぐに正解を口にした。

「うおっ、スゲー! 恭司くん数学オリンピック!?」
「いや、計算したのは俺じゃないですから」
「へ、じゃあだれの仕業よ。フェアリーさん?」
「マルチプルインテリジェンシャルユグドラシルユニットさんです」
「ああ、なるほど」碧は訳知り顔で頷く。
「ご存知なんですか?」
「ウン。スーファミで多人数プレイするやつでしょ? ドカポンのとき使った。あとボンバーマン」
「さて、そろそろもっと奥に行って見ましょう」
「突っ込んでよーぅ!」ボートへと歩き出す高村に追従しながら、碧が喚いた。「あっ、で、でもエロい意味じゃないよ」
「呑屋のオッサンと同レベルだな、この人……」

 あきれ返りながら船に乗ると、碧は不満も露わに唇を突き出した。

「昨夜えろいことしようしたのはそっちじゃん」
「はいはい、すいませんでした」
「なんだその態度ー!」

 諸手が上がるたび、くくられた髪の毛も揺れる。高村は苦笑しながら、オールを手に取った。

「結城も寝ちゃったみたいだし、別にそんなにテンション上げてかなくていいですよ」
「あら、ホント?」と、碧が船底に目を落とした。顔面にタオルを被せて横になった奈緒はぴくりともしていない。「でもこのコがあたしらの前で寝たりするかね……。ぽんぽこたぬたぬぐーぐーかもよ」
「ぽん……? ああ、別に狸寝入りでもいいじゃないですか。要はこっちとコミニケイション取りたくないって意思表示をしてるかどうかですよ」
「フーン、ま、本人を前にして色々言うこともないね」

『よっこいしょ』と腰を降ろす碧に対して、高村はもう何も言わなかった。しかし白眼視することまでは止められない。碧はにこやかに「なにか?」と訊ねた。
 高村もまた何気なく答えた。

「碧先生って実は巨乳ですよね」

 碧は危く水面に落ちかけた。

「思ってることと全っっ然ちげーだろォーがぁー!」天に向けししくする。語尾が洞窟の中で幾重にも反響した。「ンもぅ、昨夜からあたし的高村恭司像のパラダイムシフトの連続なんだけどー。あんたってそんなお茶目キャラだったの?」
「いや、今ちょっと酔っ払ってて人格が安定してないんです。Nihil aliud est ebrietas quam voluntaria insaniaってやつです」と言ってから、唖然となって高村は自らの口元に手をやった。「……なんですか、今の呪文。何語でした?」

 冗長な空気を一変させた同僚を見る碧の目が、戸惑いを含んだ。

「何って……自分でいったんじゃん。セネカでしょ、たしか? ラテン語で……」碧が記憶を探るように目を細めた。「『酩酊は自発的な狂気に他ならない』……だったかな。酔っ払いはダメだぜって格言」
「ラテン語」と高村は鸚鵡返しに呟いた。かぶりを振り、嘆息して、荒々しくオールを漕いだ。「ラテン語ですね。なるほど、コンテクストは整合が取れてるわけだ」
「その、どうかした?」

 怪訝そうな物言いは追及の気配を含んでいる。しかし高村がなんでもないと答えると、碧はあっさりその矛を収めた。ただし口には出さないだけで、視線は疑惑を伴ったままだった。
 しばし、水の流れに沈黙を支配される。通ってきた支流が大きな水路に合流すると、水面から突き出す岩肌が明らかに目減りし始めた。どうやら本当に、この通路を利用している気配があるようだ。推論にしても穴だらけだった碧の見当は結果的に正鵠を射ていたというわけだ。その推量は、もはや神憑りの霊感とでも呼ぶべきかもしれない。
 両腕の前後動を機械的に反復しながら、高村はもの問いたげな碧の気配を黙殺しつづけた。かといって、彼女が口に出して訊ねてくるのならば、答える用意も彼にはあった。杉浦碧は大胆だが、同時に娯楽を優先して結果迂遠になる傾向がある。高村が致命的な解答を発して「つまらないこと」に陥るのを警戒しているという見方もできた。
 そうだとして、そこまで慮って行動する意図は高村にはない。間を繕うように、彼は個人的な疑問をぶつけることにした。

「碧先生にとって、HiMEの力ってなんですか?」
「なに、急に。質問タイム?」茶化すようでいて、質問の裏を咀嚼する怜悧さが、碧の面貌には宿っている。熟考とは呼べない束の間を挟んで、彼女は簡潔に答えた。「身を守る、もしくはオーファンをやっつけるための力、かな。少なくとも今は、それ以外の何ものでもないし、それ以外には力を使うべきじゃないと思ってる」
「歯止めが利かなくなるから、ですか?」
「ん、まあそういうことなんだろうね」碧は含羞の面持ちで頷いた。「そりゃぁさ、便利な力だよ。ホントいうと、まるっきり悪いことには使ってない、ってこともない。むしゃくしゃしたときなんか、峠でもいってゾッキーでも丸ごとぶちのめしたいなんて思わなくもない。独特の感覚なんだけど、チャイルドでオーファンを倒すと、凄くすっきりするんだ。あぁ、楽しいなって思っちゃう。オーファンだって生きものなんじゃないのかとか、結局殺してるだけじゃないのかとか、そういう考えはどっかいっちゃう。――そう、酔ってる」

 高村は、無言で続きを促した。

「だけど、やっぱり、HiMEってのは何かを壊すものなんだよね。いろいろ考えたけど、どうやらその他には使えそうもないものなんだよ。そうしたら、それはどうしても必要なときや、何かを壊す事で他の何かを守るときにしか、どうやら使えそうもない。そんな風に思うようになった。……まあ、そのへんのラインはずいぶん緩いと我ながら思うけどさ」

 さっぱりとした顔で碧はそう言い切って、

「――バッカじゃないの?」

 結城奈緒は、そう嘲った。

「会話に参加する気になったのか?」
「くだらない。せっかくの力なんだから、思い通りに使えばイイじゃん」高村を無視して、奈緒は碧にいった。「はっ、オーファンがどこのマヌケをヤろうが、あたしらには関係ないでしょ。こんな便利なモノ、自分のために使わないほうがよっぽど不自然だね」
「フーン」高村が曖昧に相槌を打った。「それで、結城は援助交際まがいのことやって男をフィッシュしてはカツアゲしてるわけだ」
「それが、なによ――」

 食ってかかりかけた奈緒を制したのは、碧の一言だった。

「でもさ。そういうことしてると、本当に好きな人ができたとき、後悔するよ」

 さしたる険しさもない台詞だ。含蓄を読み取る事もできないほど、何気ない。それでも高村は顔つきを改め、奈緒は犬歯を剥き出しにして火のように反駁した。

「ナンデスカソレ? ウザイんですケド。だいたい、クサい上に陳腐なセリフ! 恥かしくないわけ? 好きだとか愛してるだとか、ドラマの見すぎだっつーの。男なんてヤりたいだけのバカ。それに乗る女も欲しいのは結局金で、そのために体使ってるバカ。好きだの愛だのキレイゴトでうわっつら塗り固めてごまかしてるだけ! どいつもこいつも馬鹿馬鹿しい……」
「俺はおまえのせりふが恥かしい」高村が小さく呟いた。
「恭司くん、茶々入れない」碧がぴしゃりと言った。「まぁ、奈緒ちゃんも好きな人ができたらわかるかな。恋だ愛だって言葉や物語が陳腐に感じられるのは、それだけ世界に溢れてるってこと。それに、ごまかしだって決して無意味じゃない。きっと奈緒ちゃんもそのごまかしに助けられてるはずだよ。……ちょっとあたし、さっきからいいこと言いまくってない? いいこと製造マシーンじゃない!?」
「それを自分で言っちゃだめでしょうよ」
「ざけんな。勝手なこと言うな」奈緒が眦を吊り上げた。「あんたに……あたしの何がわかるんだよ」
「結城」空気を和ませようと、高村は柔らかく語りかけた。「そんなに昂奮するとまたパンツ脱げるぞ」
「――殺スぞ」奈緒がエレメントをちらつかせた。
「お、俺を殺してもパンツが脱げるぞ」
「死ね」
「空気読まないセクハラとかマジ最悪だよねー」碧も奈緒を支持する始末だった。「やっちゃえやっちゃえ」
「キモいんだよ毛虫!」
「眼鏡ないとキャラ薄いんだよ三葉虫ー!」
「今はこの仕打ちも甘んじて受け入れよう。はぁ、はぁ」高村は息切れしながら、激しくなりつつある潮流に歯を食い縛った。
「うわー、虫呼ばわりされて息荒くしてるこの人ー」碧が余計な一言を発した。
 奈緒の軽蔑しきった眼差しが高村を貫いた。「キモい。普通に気持ち悪い……」
「ちょっと待って、はぁ、違うんだ、これは、はぁ、はぁ……俺はあえて汚名を被ることで、はぁ、はぁ、危険な空気をどうにか、はぁ、…………奈緒たんはぁはぁ……」
「たん言った! たんって言ったー!」碧が大はしゃぎだった。
「……」奈緒は無言で艀の最後尾に寄った。

 空気の緩和には成功した。しかし高村は、二度と取り戻せない何かを失った思いだった――。

 罵倒に怯えながらも、一心不乱に船を漕いだ。さして時間も置かないうちに、舳先が固い感触にぶつかった。

「ようやく着いた」と呟き、高村は我勝ちに陸へ飛び移った。

 そこは、広大な空間だった。山の下にあるのだと、知識で知っていても認識が追いつかない。学園の運動場くらいならば収納してのけるのではないか。それほどの容積がある広間だ。

「こりゃ、すごい」

 後追いした碧も、さすがに絶句しているようだった。奈緒は無言のまま、薄気味悪そうに周囲を見渡している。

「ここが――」

「――そう。黒曜宮です」

 高村の台詞を継いだのは、碧でも奈緒でもなかった。
 にわかに空気が緊張し、三者の視線が声の出所へ向かう。
 先にいたのは、車椅子の少女だった。傍らには、独特のシルエットが控えている。風華学園理事長風花真白と、その侍従である姫野二三の姿に相違ない。
 問題は、その他にも多数の気配が存在することだった。まず四人の黒服が真白と二三の背後に控えている。さらに少なくとも十人単位の人員が、高村らのいる広間に集結しつつあった。目線を左右に走らせ、高村は包囲されていることを悟った。

「待ち伏せ……」碧が挑戦的に呟いた。
「後手にまわらざるを得なかっただけの話です。本来ならば、部外者がこちらにたどりつくことなどあってはならない事態でした。まさか、道を切り開いてくるとは思いませんでしたよ」真白が穏やかに実情を吐露した。「これは目論見どおりですか、高村先生? それとも主犯は杉浦先生かしら……」

 名指しされた二人は同時に答えた。

「恭司くんです」「碧先生です」

 痛々しい沈黙が降りた。
 真白は気を取り直すように咳払いして、厳かに高村を見つめた。

「行状が過ぎましたね。先生は慎重な方かと考えておりました。ことここに至っては、もはや看過はかないません」
「遅かったくらいだと思っています。これまでお目こぼししていただいて、ありがとうございました」

 清廉な双眸である。水晶のそれにもにた輝きに捉えられ、高村は居心地の悪い感覚に囚われた。

「ご真意を、お聞かせ願えますね」

 ――どうやら、肚の決め所のようだ。





[2120] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2007/03/03 16:12



 ――HiMEって、何かしら。

 目的地までもうあとわずかというところで、迫水が直截的な探りを入れてきた。大々的な破壊工作の類ならば強制的に止めると、暗にほのめかしているのだ。対してむつみは、はぐらかすようにそう返したのだった。

「何、ですか?」油断のならない瞳で、迫水はむつみの真意を汲むべく思考を進めていた。「何といわれても、不思議な力、としか私には答えられませんね。超常現象、オカルト、魔術だとか、そんな理解の外にあるモノだというのが本音です」
「そうね。そういう認識で正しいと思うわ」むつみは答えた。「高次物質化能力者、すなわちHiME。要するに超能力者よね。でも、ひところのブームで超能力にも色々な分類がなされたわ。たとえばESPにPSY、だけどHiMEが操るエレメントやチャイルド、それにオーファンは、こうしたものの縁戚としてはちょっと弱い。強いていうなら、そうね、アポーツという魔術があるでしょう? それとも手品かしら」
「たしか、遠くのものを手元に引き寄せるとかいう?」
「そう。そのアポーツ。正しくは、物体の座標を手を触れずに動かす力。これだけだと念動力とも言えるかも知れないけれど、HiMEはこれに近い現象よ」
「まあ、何もない所から何かを出す、という意味では、そうかもしれませんね」
「それよ」と、むつみはやや語気を強くした。「『何もない』というのはなんなのかしら。彼女たちは質量やエネルギーといった保存則を無視しているの? 傍目には確かにそれらの推移があるけれど、完全な形で交換が成り立っているとは思えない。となればどこかしら超法則的な解釈で辻褄を合わせなければならない。これは悔しいことだわ。少なくとも、科学者にとっては」
「あの? さえ――」
「それでも、見るままを理解するしかなかった。受け入れて、噛み砕かなくてはならなかった。彼女たちがその身に宿すエネルギィは、どこから調達されるものなのか? その解のひとつに、媛星がある。では、媛星とはなんなのかしら? HiMEにしか見えない超々高密度熱源? 馬鹿馬鹿しいわ。そんなものが地球に接近して、いまだに発見されないはずがない。あれには質量がない。実体がない。それは事実よ。でも、『ある』の。それもまた事実よ。少なくとも、視える人間にとっての、ね。
 ないけれども、あるもの。なかったけれども、あると思われていたもの。昔、エーテルと呼ばれた素子がそれだわ。エーテルは宇宙に、空間に満ちて、あらゆる波の媒介を担うはずの物質だった。それがなくては道理に沿わないから、当時の人は考えたのね。だからわたしたちも、『それ』があると考えてみた。高次物質化エーテル。では、それはどこにあるのか? それは、何を媒介するのか? そして、マテリアライズのシーケンスを、わたしたちは探った」

 いつしか、目的の扉の前に二人はたどり着いていた。むつみは口を休めないまま、荷物を手探る。目的のものはすぐに見つかった。高村恭司が所持していた切り札。結城奈緒に奪われ、むつみが奪還した一つかみの匣である。

「チャイルドやオーファンは、人の意思に感応して原型を作ると言われている。だけど、そんなもの実証のしようがないわ。集合的無意識まで持ち出さなきゃ証明できない代物、『科学的』に解明なんてできるはずもない。なぜ、彼らはふだん人の目に見えないのか? そしていざ現れると質量を獲得する。既存の法則に抗って起動する。頭がおかしくなりそうだった。そんな存在を認めるって……正直、ひどい屈辱よ。
 だけど思ったの。もしかしたらそれらは、本当は存在してないんじゃないかって」
「存在……していない?」迫水が眉根を寄せる。「いや、しかし、現実に……」
「現実ほどあやふやなものはないわ。だからわたしたちは式を書いて世界を写すんだから」むつみは微笑を浮かべたままで、匣に電極を取りつける。「といっても、集団妄想だとか認識がどうだっていう話をしてるんじゃないの。そういうレベルではないわ。もっと端的に言えば、実世界そのものが浸蝕されてるってこと。それこそ、夢と現実がない交ぜになるくらいに。
 それをするのが、高次物質化エーテル。それは素子であり、種子なの。信号であり、記号なのよ。そうね……一辺が百ある立方体のイルミネーションを想像してみて。ひとつひとつの電球はオンとオフの状態を持っている。高次物質化エーテルにおいては、オンの状態がすなわち現実を改変している状態なの。そして複数の電球が規則性を持って一斉にオンになると、何らかの形が現れる。これがエレメントでありチャイルドでありオーファン。
 それらは互いにネットワークを形づくり、感応して、一部一部が個性化されていく。ヒトという生きものの、意思や想像と呼ばれる指向性を模写しつつ、吸収されては吐き出される。そうして規則性――つまり輪郭を学習する。無個性な物質は、鋳型を求めるから、必要なのね。だからそれらにも必然的に好む環境があることになる。そして、だから必要な装置が要る。そのひとつが苗床である風華であり、出力装置でありノードでもあるのが、ヒメ。彼女らは三工程を経てその異能を使うわ。それがエーテル化イーサライズ結晶化クリスタライズ、そして物質化マテリアライズ
 つまりHiME――引いては媛星は、物質やそれに類するモノじゃない。
 現象よ。
 世界そのものをペテンにかけるくらい精巧な現実を模写する、騙し絵のアゾート――」

 語り終えると同時に、むつみの作業は終了した。匣は電極によって小型のバッテリーにつながれている。

「法則に合致しないから、否定するのですか?」迫水が難色を示した。「それは暴論にも思えますがね……」
「そうかしら? なんでもありだからなんでも受け容れようなんて考えの方が、わたしは暴論だと思うのだけど。ともあれ、だから……」胸に痛みをおぼえて、むつみは言葉に詰まった。原因はわかっており、それは心理的なものだとも自覚していた。「だから、とても強固で、同時にとても不安定なものなのよ。想いひとつで、揺らいでしまうくらい。チャイルドも、オーファンも、そしてきっと、あのワルキューレたちも……もしかしたら非在のもの、なのかもしれないんだわ」
「そんな、バカな」迫水がかぶりを振った。
「だから、それを検証しなくちゃね。そのついでに、不可侵だったこの施設をパッシヴで丸裸させてもらうわ。安心して、爆破だなんだなんて荒っぽいことはしないから。――まだ、ね」

 むつみは、扉に手をかける。錆びついたハンドルが軋みを上げ、赤い破片を散らしてゆっくりと開いていく。同時に、二人の立つ回廊に風が吹き込んでくる。外部と相応の気圧差が存在するのだ。
 長らく使用されていないその扉は、学園直下から一キロ弱の地点にある。もっとも、保安上の理由で今は海底と一箇所の通用口以外では、どこにも通じていない。
 なぜならば、その真下には、一番地と呼ばれる組織の心臓が存在する。
 施工は中途で打ち切られ、回廊は壁面から数メートルせり出しており、扉から百メートル以上もの落差がある地面まで降りる術は人にはない。
 けれど、人でなければ打ち棄てることは可能だ。
 むつみの手に匣がある。それは軽いが、とてつもなく頑健な、どこにもない物質でできている。非在の空想が、その匣の形に固定化されている。しかし、ひとたび特定の電荷をかけられれば、とたんにほどけてしまうよう調整されていた。

「紗江子さん――」迫水が、覚悟を確かめるかのようにむつみを、そう呼んだ。「彼は、高村先生は、知っているのですか? 今、もしかしたらもう」
「彼のことなら心配は要らないわ」むつみの髪が風にはためいた。「その……ええ、いいパートナーだもの。……他意はないのよ?」
「はぁ」迫水がどこか釈然としない様子で肯いた。
「さて、時間ぴったりね」腕時計を一瞥すると、むつみは懐中の匣を投棄した。

 その手から匣が離れ、宙へ落ちていく。匣の輪郭が一秒も待たず融けはじめる。春の淡雪のように、燐光が虚空へ散らばっていく。やがて、もとの寸法からかけはなれた大輪の華が咲き、瞬く間に散った。ハレーションの残滓が天使の環となり、その残渣は雨となって下界へ降りそそいだ。
 光の粒子は、ひとつひとつが高次物質化エーテルを食い尽くす指向性を持っている。
 この地下空間に充満したエーテルを消滅させることはできなくとも、地上に設置した観測機はいまだ未踏の地下構造を白日の下に晒すだろう。
 それこそが、九条むつみと高村恭司の狙いだった。

「これだけ希釈してしまうと実効性は維持できないだろうけれど」満足げにその結果を見おろして、九条むつみは吐息を漏らした。迫水を振り返り、自嘲を含ませて言った。「今のが、物質安定化素子アンチマテリアライザー。本当なら、対チャイルドの切り札だったの。まあ、今回は本領発揮とまではいかないけれど、狼煙としては充分だと思わない?」



 ※



 遠巻きに陣形を組む屈強なメン・イン・ブラックの勘定が五を超えた時点で、高村は自力での突破を諦めた。ただ敵を打ちのめせば罷り通る状況でもない。ましてや、専門の訓練を受けた複数の人間に立ち向かうなど論外だ。碧や奈緒の積極的な助力がかなうならばどうとでも切り抜けられる目算は立つが、裏を返せば彼女らの手助けがなければ、高村は絶対にこの場から無事に帰れないということでもある。
 膝下からは痺れのように焦りが募るが、それを表には出さない。説明を求める碧に曖昧な表情を送って、冬の泉のように静かな少女へ視線を戻した。

「真意というのは?」
「あなたが今なおHiMEに関わる動機、その裏にあるもの」風花真白は、好んで風貌に不釣合いな物言いを使う。「此度の扇動行為については目を瞑るのもやぶさかではありません。ですが、今後もこうした無謀を繰り返すというのならば、その限りではないのですよ」
「脅迫のように聞こえますよ」
「そう取っていただいても結構です」

 真白には確固たる追及の意思が見えた。
 その場しのぎの韜晦は無意味だ。
 高村もまた、肚を据えた。

「私の行動が理事長にとってどう煩瑣であるか、具体的に明示をお願いします。この場で! その上で、彼女たちにも事情を酌んでもらいましょう」
「それは、賛成」碧が気軽に応じた。エレメントはまだ手にない。しかし、警戒を怠ってもいなかった。「だいたい、か弱い乙女を囲むなんて穏やかじゃないなぁ。恭司くんが怒られるんならあたしも連帯責任だし、一緒に減俸くらいは満喫するよ」
「杉浦先生はHiMEです。HiMEに対しての詰責はわたくしの権限には含まれておりません」真白はやんわりと碧を跳ね除けた。「また、この件に関して杉浦先生や結城さんを始めとしたHiMEの方々に累が及ぶこともありません。あくまでわたくしどもと高村先生との間にのみ問題は生じているとご理解ください」
「なに、それ」さすがに碧が色めきだった。「あたしらはHiMEだから贔屓されるってこと?」
「その通りです。あなた方は特別なのです」真白は動じない。「事情はまだ説明できません。どうかご承知願います。わたくしも、できる限り穏便に取り計らうつもりです」
「なーんにも聞くな知るなまだ教えられませーん、ってそれで納得できるわけないでしょ! 同僚を売るには安すぎる言葉だね」碧が声を高くした。「理事長サンも事情があるっぽいけどさー、はっきりいって、激! ウサン臭い。特にバックの人たち! 左肩下がってんじゃない? どう見てもカタギじゃないでしょ」
「いいんじゃないですかぁ、別に?」と口を挟んだのは奈緒だった。「アタシらは特別扱い。ケッコーなことじゃん。そこのヴァカ先公がひとりでバカやって痛い目見るっていうんなら、あたしはむしろ賛成でーす」
「奈緒ちゃん……」咎めるような碧の声。

 高村は、そっと息を吐き出した。リストウォッチの数字は、定刻まであとわずかを報せていた。真白は高台で解答を待っている。

「ちなみに、理事長は俺がどんな意図で動いているとお考えでしょう」
「それは」真白が瞑目した。心痛に堪えないといった表情で吐き出す。「やはり、復讐ですか……?」
「俺に、復讐する動機がある、と?」高村は過剰に訝ってみせた。「いったいなんのことを言っているんですか」
「……天河さんのこと、ご家族のことは、確かに不幸な出来事でした」

 真白から引き出した言葉に、碧と、そして奈緒の顔色が、確かに怪訝なものへと変じた。高村はその変化を見逃さなかった。

「わかりました!」と、高村は叫んだ。「どうやら、ここまでのようですね。結城や碧先生に迷惑をかけるのは元々本意じゃない。大人しくお縄につきましょう。手荒な扱いは勘弁願いますよ。できればミランダ警告でもしてほしいです」
「ミランダ・ルールとは行きませんが、身の安全はもちろん、保障いたします」こくりと真白が肯く。「学園祭の後、数日拘禁願うことになるかもしれませんが、その間高村先生が不当な暴力に遭うようなことは決してないと、わたくしの名において誓いましょう」

 目配せに従って、二名の黒服が進みだした。碧が慌てて高村の肩を掴み、口寄せた。

「ちょ、ちょっと、それでいいの? なんか知らないけどさ……」
「あとは野となれ、山となれです」高村は硬い口調で笑ってみせた。「いうでしょう? 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ――そうだ、なあ、結城」

 傍観を決め込む奈緒が、顔を上げる。瞳には反感と嘲弄、そしてわずかの失望が読み取れた。
 高村は手に提げた携帯電話を、彼女へと投げ渡した。反射的に、しかし危なげなく電話を受け取った奈緒が、不可解な面差しで高村を見返した。

「なに」
「面倒なことにつき合わせて悪かったな。まあ、もう少しで終わると思う」
「あ、そう。よかったデスネ」答えた奈緒が手元に視線を落とし、顔面を引きつらせた。「……で、これなんのツモリ?」
「想像に任せる」

 決して矮躯ではない高村と比べても頭一つ高い男二人が、前後を固めた。導かれ、せっつかれるまま、高村は真白の元へと向かう。拘束は施されず、それはせめてもの救いだった。薄暗い洞穴の空気は湿っており、濁っていて、腐臭を連想させた。巨大な想念の死骸が目の前に横たわっているように思えた。
 雪のような光の雨が舞い降りてきたのは、ちょうどそのときだ。
 不思議な光だった。蛍火のようにはかなくきらめいて、実体がない。光とは熱でありエネルギィである。しかしこのとき不意に降りそそいだその光に熱はなく、また実体さえなかった。
 高村をのぞく全員が光の正体を求め天を仰ぎ、眼を奪われた。眩むような閃きの華が、そこで輪をなしていた。完全な意識の間隙が生まれたのを、もちろん高村は逃さなかった。よろめいたふりをして背後の黒服にもたれかかると、そのネクタイを手にとって太い頚を猛烈に絞った。その時点で気付いたのは碧と奈緒、そして遠巻きにしていた他の黒服勢だけだった。完全に標的の意識が落ちたことを確認すると、次いで高村は前方の黒服へ取り掛かる。身を低くして斜面の高度差を利用し、膝関節を完全に崩すと同時に両腕で片足を抱え込んだ。あとは思い切り体を捻ってしがみついた巨体を引き落とすだけだった。少なくない抵抗と後味の悪い感触が腕の中で広がった。苦悶の声を聞き流し、倒れ際に背広の胸元へ手を差し込み――高村は走り出した。
 真っ先に異変に気付いたのはやはり姫野二三だった。だが彼女は風花真白の背後に控え、そして頭から滑り込んだ高村の手は真白が腰掛ける車椅子の足に届いていた。力任せに車輪を引きずると、素早く二三の手が車椅子のストッパーに伸びた。ただちに車体には制動がかかる。この時点でようやく真白が小さく驚きの声を上げた。高村は地面に腹ばいになったまま体を旋転させ、渾身の力で下部から車椅子を蹴り上げた。
 真白の小柄な体が、地面に向かって車椅子から飛び出した。

「真白さま!」

 二三の主人は、高村の腕に抱きかかえられていた。細い肩をしゃにむに掴みながら、転がるように斜面へ戻り、体勢を立て直し、倒れている二人の黒服を飛び越えると、高村は暴走する心臓を押さえつけるよう、静かな声音で呟いた。

「理事長、すごく軽いですね。おかげで助かりました」
「高村先生、なにを――」
「すこし、黙っていただけると助かります」

 地盤を削るようにして、高村は立ち止まる。周囲の黒服は一瞬の忘我から立ち直り、既に気色ばみつつあった。碧はぽかんと口を開けていた。姫野二三は無言のまま駆け出しかけていた。奈緒ひとりがほぼ正確に高村の意図を掴んでいた。

「動くな!」高村は限界まで声を張った。腕の中の真白がびくりと身を竦めた。「下手に俺に近づいてみろ! この理事長十一歳がどうなっても知らないぞ!」

 時間が止まった。

「えええぇぇえー」碧がなんともいえない顔になった。「いいのか? それでいいのかぁ!?」

 その場にいる全員の心境を代弁したに違いなかった。

「取ったら迷宮がぶっ壊れるってわかってても財宝を選ぶのが冒険家ってやつでしょう。ですよね」高村は真白に同意を求めたが、困った顔が返ってくるだけだった。

 奈緒は既にボートに移り、エンジンに火を入れている。
 高村は揚々と駆け出しながら叫んだ。

「野郎ども、ずらかるぞ!」
「いいのかなぁ、これで」碧がぼやきながらボートに飛び乗った。「なんか違うような、取り返しのつかない方向に行っちゃってるみたいな……」
「あ゛ーダルいダルい超カッタルイ……」奈緒がうんざりといった。
「もしかして……」真白が真剣な表情で高村を見上げた。「わたくしをかどわかすおつもりですか?」

『遅い』と全員が声を揃えた。



 ※



「トァァーボッ・ダァァーッシュ!」

 気勢を発し、碧が艀の最後尾でエレメントを一閃した。海面が爆発し、船体がぐんぐん加速を始める。波を蹴立てるどころか切り裂く勢いだ。抵抗を受けた前方の舳が反っていた。既に小型船の限界を超えた速度が出ている。

「ちょっと! 髪が水で濡れる! せっかく乾いたのに!」
「細かいこと言いなさんな!」奈緒の不平に碧が一笑して答えた。「おっと、追手が来た模様」

 言葉通り、モーターの重奏が追いすがる気配があった。まだ船影は見えないものの、広間で岸につけられていたものにはモーターモービルやクルーザーまであった。フライングしたぶんの間隔は稼げているが、地力の差で徐々に詰められることは避けられない。

「せめてもうちょい小回りが活かせる地形ならなぁ」惜しいとばかりにうめく碧の双眸らんらんと輝き背後を見据え、揺れをものともせず縁を足が踏みしめる。「ふっふっふ、遺跡荒しとの死闘を思い出すわ」
「すごい突っ込み待ちの台詞ですね、それ」高村が息を整えながら笑った。「さっきより水位が上がってるな……」

 その背には険しい顔の真白が乗っている。

「わたくしを捉えたとしても、追及の手は緩みません。高村先生、杉浦先生も、どうか翻意なさってください」
「いやもうこうなっちゃったら毒皿でしょー」碧がからからと笑った。
「二人とも、無職おめでとうございまーす☆」奈緒が嫌味たっぷりに告げる。
「理事長、危ないからそんなに遠慮しないでもっとがしっと捕まってください」
「あ……はい。こうですか?」真白がはっしと高村の肩をつかんだ。
「それにしても、本当に軽いですね。男の子はもっと食べなくちゃだめですよ」体を揺すり、真白の位置を調整しながら高村が漏らす。
「はあ……え?」真白が首を傾げた。「今、なにかおかしな単語があったような」
「というか、真白ちゃんは船に乗った時点で解放しても良かった気がするなぁ」

 ぽつりと呟いたのは、いつのまにか第五のメンバーとしてボートに乗り込んでいた炎凪だった。

「おい」高村がかろうじて反応した。「神出鬼没にもほどがあるぞ。いつの間にいたんだ、おまえ」
「ふ、いつからだと思う?」凪が不敵に微笑んだ。「碧ちゃんと奈緒ちゃんに伝えておくことがあってね。言っておくけど、今、この洞窟の中――」

 その後頭部を碧がエレメントで勢いよく払った。

「ハイハイ無賃乗車お断り! スピードが遅くなるだろうがぁ!」

 悲鳴も残さず凪の体が吹き飛び、すぐに後方の水面に沈んだ。あとにはあぶくが一つばかり痕跡を浮かばせるのみだった。
 真白がか細い声で囁いた。

「今のは、あんまりなのでは……」
「ま、死にやしないでしょう、あの坊主のことだから」碧はどこまでも楽観的だ。「それより、今、なんつーかエレメントの手応えがおかしかったような」

 訝しげな視線の先に、白銀の質感を持つポールウェポンがその威容を誇っている。しかし、各々の意識が向けられる先で、碧のエレメントがわずかにその存在を揺らがせた。

「あらら? なんだろコレ、なんか眼がちかちかする」
「眼精疲労ですね、きっと」そんなことより、と高村。「凪の言ったとおり、理事長は乗せるまでしなくてもよかったかもしれません」
「じゃあそのへんで降ろせば?」

 奈緒の無情な声に眉をひそめて、高村が背なの真白に同情的な視線を向けた。

「理事長、あいつあんなこと言ってますよ。退学にしましょう。それか坊主。どっちがいいですか?」
「え、いえ、その、退学というのは行き過ぎな処罰では?」
「おい聞いたか結城! おまえ明日までに坊主にしてこいって直々のお達しだぞ!」
「ふざけんな!」奈緒が眉を逆立てて吼えた。
「た、高村先生……?」真白はいまだに様子の違う高村に対応できていないようだった。

「来たよ」

 平らかな碧の警句を受けて、高村も顔色を改めた。どのみち、真白を背負った状態で彼にできることは少ない。碧の後頭部越しに確認すると、ちょうど小型の高速艇が四台、編隊を組んで接近しつつある所だった。二三の姿はない。安堵するとともに、腑に落ちない布陣だとも感じた。
 無論あの年若い女性一人が迫る男たちより手強いなどと、決して常識ではありえない。高村もそれは理解している。だがそれでもなお、あの柔和な物腰の少女には警戒感を拭えないのだった。

「どうしようかねえ」エレメントを肩にかついで、碧が顎をしゃくる。「端から沈めてもいいんだけど、それはやりすぎな気もするし。そもそもあの人たちってどこの誰サンなの? あのガラの悪さで学校の警備員ってオチはないと思うんだ。そうだったら逆に面白い」
「一番地とかいう、HiMEを付けねらう秘密組織の戦闘員らしいですよ」
「ほう」碧の双眸に剣呑な光が宿る。「燃・え・て・き・た、ぞ!」
「高村先生!」

 無頓着なリークに真白が鋭い声を上げるが、高村は取り合わなかった。

「知ったことじゃないですよ」学園や一番地の秘密主義に協調する気が、彼には始めからない。やや苛立ちを交えて呟いた。「だいたい当事者にまで事情を全く説明しないって、どういうつもりなんです? どこの誰が得するのかって構図があんまりわかりやすくて、笑えるくらいですよ。こんな子供まで矢面に立てて!」
「まさか、いえ、やはり」真白が息を呑んだ。「ご存知、なのですか?」
「主語を明確にしてください。俺とあなたはそんなに親しいんでしたっけ?」

 強めた語気にあてられて、真白が口をつぐんだ。
 大人げない反応だった。謝る気分にはなれないが、高村もまた二の句は継がなかった。理由のひとつには気まずさがあり――
 もうひとつは、凛然とした声が洞窟内に響いたためだ。

「――お迎えに上がりました」

 前方右手からだった。
 わずかに増した水位が、かろうじて流れに繋がる細い横穴に浅瀬を形成していた。その上を、常軌を逸した高速で滑る水上バイクがある。停止など考えていない、飛び出せば対面の壁への激突は必至という加速度で、船体が跳躍する。
 駆り手は姫野二三。風花真白の傍らに行住坐臥侍る、洋装の少女――。

「先回り!?」

 喫驚する間に、二三は中空でボートから飛び降りる。一拍遅れ、轟音と共に無人の艇が岩盤に激突し、そのシルエットが歪なものへと変わる。二三は片足で壁を蹴った勢いで擬似的な足場を仰角六十度近い面に作り、疾走を始めている。
 高村らの乗るボートは当然勢いを緩めない。
 暴力的な相対速度の渦中にあって二三の視線はただ一点、風花真白へと定められている。他のもの既に彼女の眼中にない。主人の元へたどりつけぬという不安も彼女には恐らく、ない。まったくの無表情がわずかに引き締まり、二三が歯を噛んだことを高村は知る。直後、
 スカートがはためいた。
 両者が交差して、すれ違わない。

 ――姫野二三が船体に取りついていた。

「二三さん、なんて無茶を!」

 真白の声を、呆気に取られた高村はまったく同感だと支持した。運動能力、判断力、決断力のどれをとっても、人間の域を食み出していた。
 だから、縁にかけた腕の力だけで優雅に体を反転させ、難なく船底に着地する様も見送った。奈緒はもとよりこの期に及んでの没交渉を決め込んでいる。二三に取り掛かったのは碧ただひとりだった。

「ロックンロールなメイドさんもいたもんね」碧の口元は好敵手を見つけたとでも言わんばかりに緩んでいる。
「恐縮ですわ」二三はいつも通り、穏やかに笑むだけであった。毛ひと筋ほどのほつれもない。完璧な従者の会釈。

 呼気とともにエレメントが突き出された。二三は穂先の回避と反撃の布石を同時にこなした。馬鹿げた足捌きでありえないほど見事な入身を果たし、碧の広く取った両手の間を掌握する。間合いを許した碧の反応も相当に人間離れしていた。接近戦では分が悪いと見るや即座に身を沈め、得物から手を離して足払いをしかける。それを二三は見もせずステップを踏むように避けた。碧が眼をみはり、次の瞬間二三の手にあったエレメントが姿を消し、そしてまるで転移したように碧の手にハルヴァードが生まれている。今度は突きではなく横薙ぎ。空間が限定された船上で打てる手は少ない。受けるか、それとも流すか――。
 二三はそのどちらも選ばなかった。弧を描き唸りを上げて接近するエレメントに正対し、右腕をたたみ、両足を張り、腰を捻転させる。
 甲高い音がした。

「うっそ――?」

 碧の手からエレメントが飛んだ。
 二三の拳に、彼女の一撃が打ち負けたのだ。
 たたらを踏んだ碧を崩すのは赤子の手を捻るようなものだった。とん、と軽く二三の手が碧の胸を押した。それだけでバランスを崩し、碧の体は海面へと落ちた。

「ちっくしょー!」遠ざかる碧が捨て台詞を置いていった。「おぼえてろー!」

 二三がボートのエンジンを切る。徐々に速度が失われ、やがて緩やかな流れと慣性のみが船を押す動力となった。
 真白を船底に置いた高村は、奈緒を見てかるく驚いた。

「まだいたのか」
「もうすぐ終わるみたいだし、無様っぷりを見物してやるわ」
「そうか」高村は邪気なく笑った。「じゃ、特等席で見ててくれ」
「――」半瞬、奈緒は言葉に迷う素振りを見せた。「言われなくても」

 深呼吸を三度繰り返す。
 高村は、静かに眼前の二三を見返した。

「じゃあ、やりますか」
「無益な争いです。どうか矛をお納めくださいませんか?」二三が眉を下げた。「僭越ながら、わたくしも高村先生のご事情については些少、聞き及んでおります。我々には話し合う余地があります。そも、かの方々がこの国に対しどのような意図を持っているか……、先生はお気づきのはずですね?」
「理事長にしてもあなたにしても」と高村は言った。「さっきからまるで俺の気持ちを熟知しているような台詞回しをしていますね。俺は個人的にあなたたちみたいな優しい人は大好きですが、立場的に俺たちはどうやら相容れない。それでいいじゃないですか。それだけで充分じゃないですか? 同情が相手を惨めにするってことくらい、わからない人じゃないでしょう?」
「だとしても」と二三は譲らない。「この期に及んで干戈を交える意味がありますか?」
「ありますよ」と高村は肯いた。「えっと……姫野さんでしたか? 俺はあなたには勝てない。だから意味はあるんです」

 二三の困ったような表情に、ふいに理解の色が差した。次いで、たおやかな紅唇が新鮮なかたちを描く。驚くべきことに、それは微苦笑だった。

「……わかりましたわ。一手ご指南願いましょう」
「二三さん!?」真白が批難の声をあげかける。
「真白さま」二三が柔らかい声で告げた。「とのがたには意地の張りどころというものがございます」

 気遣うような視線は、高村と二三の両方に注がれた。不謹慎ながら、高村は癒される想いだ。優しい人間とは、つくづくこのごろ、縁がない……。

「わかりました」逡巡の間。「けれど、お二人とも、怪我は――」

 二三が動いた。
 その先手をユニットは予期していた。予期していながら回避は際どい。高村の顔面を狙って伸びる貫手が耳を掠め、頬を痺れが走る。むろん二三の攻勢は一手では終わらない。顔面を狙う動作は次手の布石になっている。それだけではなく、あらゆる攻守は連動し、すべての動きはひとつながりの生きもののように絡み合う。型とは本来そうしたものである。実戦を想定し、幾千、幾万と反復された、必殺の套路。二三の五体ことごとく凶器と化して、必死にしのぐ高村の急所を狙う。
(中国、拳法――?)
 かと思えば、硬軟自在の曲線的な熊手が外剛内柔の直線的な突きへ変じる。眩惑のためひらめく一指さえ点穴を狙う。手合わせから三十合を待たず、既に高村の傷を負った右手はその用途を封じられていた。打たれるたびに痺れが走る。痺れが波紋のように体の中で打ち合い、より大きな痺れとなる。その異物感の前では痛みさえ甘露だ。防いだ腕が壊される。外した骨がひび割れる。
 でたらめに速い。
 異常なほど強い。
 何より、途轍もなく巧い。
(人間じゃない)
 まるで、技を得た獣。
 既に防御もままならない。高村は打たれるままだ。奇策を弄する余地もなく彼は負ける。その未来が視えている。
 ――それでも、一矢報いる。
 狐拳が顎を捉えるのを読んで、高村は二三の手を取った。小手返しを始めとする関節技への連携は、苦闘の修練で彼が身につけた数少ない冴えた武器だ。掌握さえ成功すれば、技量において先んじられようとも痛手は与えられる。腕力に比して詐欺だと叫びたくなるほど細い、二三の左手首を握り締め、高村は血に塗れた唇を歪める。体に染み付いた動きがある。二三のそれと多彩さでは及びもつかぬといえども、費やした熱意には引けを取らない自信がある。
 触れる。触れさえすれば、捕れる。
 そう思ったのは、甘美な夢想に過ぎない。
 左手が二三をつかまえたときにはもう、高村の体躯に余力など一片も残っていなかった。
 押せば倒れる。押さなくとも待てばくずおれる。高村はすでにそんな状態だ。しかし二三は止めを刺さない。探るような瞳が、不自由な身体の表面を這った。高村は自棄の気持ちで呼吸に喘ぐ。意図は知れずとも二三が待つのならば、少しでも体力を戻さねばならない。

「ずいぶんと」二三が解せないといった表情でいった。「アンヴァランスなスタイルですけれど、二三にご遠慮は無用ですわ」

 とんでもない話だった。高村の徒手格闘に型がないのは、単に師が横着しただけのことなのだ。が、口の中身がずたずたで、うまく言葉を発する事もできない。高村はかろうじて首を振る。

「肉の付き方と癖から察しますに、ご専門は器械でしょうか?」だが二三は高村さえ感知していない領域へ、推察を進めていく。「尺は百センチに届かない、片手持ちの……短刀よりは長い……短杖術か、もしくは十手」

 短棒なら心得がなくはない。
 だが、二三の言うのはそれではないだろう。
 高村の深奥で揺らめく形があった。
 二三の考察が真実に届かないのは、その得物が武器本来の用途からわずかに外れていることに因がある。
 水影の月のように、うつろうシルエットが、定形を結ばない。ひやりと体を凍えさせるもの。いつだって高村を縛るもの。その正体と操法は、今はまだ彼の中で結実していない。ただ高村は漠然と思う。俺はそれを知っている。そいつを知っている。その使い方を知っている。
 だが、まだたどりつけない。
 つかみかけたひらめきは、二三がオールを折って作った棒を渡された瞬間泡となって弾けて消えた。無我夢中に突き出した一撃が、難なく流される。
(ああ、なんだ)
 二三の肘が高村の顎を跳ね上げた。真白の静止の声が届かない。眉をひそめた奈緒の顔は視界にある。旋廻するスカートのシルエットが鮮烈だった。みぞおちを爪先が貫き、かかとが側頭部を打ち抜き、足刀が喉を衝いて、膝が顔面を弾いた。痛みは既にない。鼻が血で詰まって呼吸が苦しい。意識が飛ぶ快感がある。天地が逆転する。精神力で意識は保てない。刈り取られ、稲穂のようにこうべが墜落する。
(やっぱり怒ってるじゃないか、この人――)
 倒れ、果てて、もう動けない。

 高村恭司の、これ以上無い完全な敗北だった。



 ※



 重石もなく漂う小船の上に高村恭司が崩れるのを、碧は濡れた前髪を通して見た。『倒れた』などという生易しい表現が通用する落ち方ではなかった。膝から前のめりに伏して、顔面が受身もなく船底の板に激突したのだ。あらゆる打撃格闘技で即座にレフェリーの制止がかかる、『二度と起き上がれない』ダウン。様子は見えずとも、血だまりに沈む彼の姿がありありと想像できた。
 船上の結城奈緒が息を呑み、うつぶせの高村を漫然と視界に収めながら言葉を失っていた。
 姫野二三は高村の脈を取り、呼吸の有無を確認し、眼球反応を診てから、主人に対し何でもないことのように奏上した。

「救急車が必要です」
「――はい」真白は厳しい面持ちで肯くと、すぐに指示を繰り出す態勢に移った。

 だが、その声が響くことはない。
 始めは、奇妙な風鳴りだった。曲がりくねった洞窟の中を、水流に撹拌された空気の塊が通ればあるいはそんな音がするかもしれないという程度の微音である。しかしそれは、天然のものでは全くなかった。
 白いものが高速で薄暗闇を過ぎるのを、少数が目撃した。船上で様子見に徹していた黒服のひとりがくぐもった悲鳴を上げ倒れたのは、その直後だった。かろうじて視認できる物体の飛来の、それが嚆矢だった。洞窟の出口側から、次々と紡錘状の白光が闇を裂いてやってくる。ひとつがふたつに、ふたつがやっつに、やっつが無数になって、輝く矢が水面を滑る。
 どこか幻想的だった、先ほどの光る粒子とはまるで様子が違う。
 破壊しか予感させないその奔流は、明らかな攻撃だった。
 矢は何の区別もしない。岩も船も人も水も容赦無く貫き、削り、打ち倒していく。浮かんでいた船はなす術もなく外装を剥ぎ取られ、直撃を受けた人間が海面へ落下し、みずから水中へ逃れようと試みた者も決して見逃されなかった。運良く障害物の陰に逃げ込めた二三と真白や、碧や奈緒のように自らのエレメントで身を守れる人間以外は、ことごとく光の餌食になる。
 充分な明かりと優れた動体視力があれば、識別できただろう。光の正体は『羽根』だった。
 危く碧の顔面をかすめて、拳大の羽根が間近の水面に着水した。「今度は何!」と碧はエレメントの陰で頭を低くしながら叫んだ。先ほどからチャイルドを呼び出そうとしているのに、召喚に対するレスポンスがこれまでにないほど遅いのも気にかかった。
 位置の関係で、碧からはいまだにこの不慮の襲撃の正体をつかむことができない。いまだ船上に止まり、最前列でエレメントによる糸を編んで光弾を逸らしつづけている奈緒だけが、訝しげな眼で襲撃者の姿を捉えていた。

「子供――?」

 爆音も水流もかき消すような朗々たる声が、呟きを覆った。

「Verweile doch!」

 流暢なドイツ語の発音だった。碧の脳裏にその台詞の引用元たるとある歌劇のハイライトが浮かび上がる。ところで青白い網目状の光が、十数メートル前方で有機的にうねりながら波間を走るのが見えた。押し寄せる光の前で、奈緒の髪の毛が逆立つ様が目に入った。
 次いで真夏とはいえ冷えた洞窟内ではおよそ出会うはずもない、ぬるい逆風が吹き寄せてくる。場違いな風は、鼻を刺激する嗅ぎなれない臭いを運んでいた。
(オゾン臭?)
 脳裏で思考がいくつかのジャンクションを駆け抜ける。電流。おかしな臭い。導電の前兆。ありえない、と思う。そもそも、そうだとしても本当にそんな前触れが感じられるはずがない。辻褄は合っているが、合っているだけだ。だいたい感じてから対応して、間に合う現象ではそれはない。そうも思う。気のせいに決まっている。
(だけど)
 暴走するトラックの前に飛び出す幼児を観た瞬間のような、名状しがたい危機感が碧の脊椎を駆け抜ける。
 喉も破れんばかりに叫んだ。

「今すぐ水から離れるか、思いっきり潜って!」

 ようやく実体化を果たしたチャイルドの背に飛び乗った。と同時に、眼を眩ませる極大の稲光が水面に突き刺さり、龍のようなあぎとを奈緒へと向けた。碧は「奈緒ちゃん!」と呼びかけて注意を促しつつ、不自然な雷霆の目前へエレメントを投擲する。狙いあやまたず斧槍の穂先は岩肌を抉り、すぐに紫電の餌食となった。
 即席の避雷針も一瞬の時間稼ぎに過ぎない。真打は半秒遅れて放たれた。先ほどに倍する悪夢のような神鳴りの枝が、光の速さで水を媒質に通電の波紋を広げていく。今海面に漬いている人間は絶対に助からない。碧は苦く、しかし冷静にそう判断した。やむを得なかった。危機はまだ持続している。ありえざる急激な電荷によって進む海水の電離によって生じる厄介事は、単なる電気ショックよりも問題かもしれない――。
 全てはほんの数秒の出来事だった。明滅する光の中で、焼け焦げる人体の放つ香りを碧は空想する。
 だが、現実には何も起こらなかった。

「……え?」

 光は立ち消え、いつの間にか弾幕も途切れている。水中で往生する黒服たちも無事だった。破壊の残骸だけが、傷や小船の破片としてあたりを漂流しているのみだ。

「生きてる、か」思わず頬を叩いてから、茫然と呟いた。

 真白を小脇に抱え、片手で天井の岩にぶら下がっている二三にも、大事はないようだった。碧の姿を認めると、眼下の流木に着地する。多少揺らぐだけですぐに優雅なバランスを確保するその姿に、碧は苦笑しきりだった。

「そちらさんも怪我はないみたいね」
「ええ、幸甚でしたわ」二三がにっこりと微笑んだ。が、すぐに顔色を曇らせて、「ですが……」

 彼女の目線の行き先は、今回の探険のために碧が拝借した小船だった。いま、そこに乗組員の姿はひとりとして見えない。

 高村と奈緒は、どこを探してもいなかった。



 ※



 一人乗りのジェットコースターというものがあれば、こんな具合に違いない。
 奈緒は間近に迫っては遠のいていく地面や天井や壁を見送りながら、何者かの手によって運搬されていた。乗り心地は当然のように最悪で、特に曲折するたび首には甚大な負荷がかかる。けれど文句のために口を開こうとすればすぐに舌を噛んだ。鉄さびの味で口腔を浸しながら、奈緒は非現実感に体と心を預けている。無理に抵抗して手を放されればどうなるか――考えるまでもなかった。
 真暗なトンネルの中を、とてつもない速さで疾駆するのが奈緒の担い手である。明らかな徒歩なのに、乗用車なみのスピードが出ている。
 危険な乗り物の同乗者は他にも二人いる。ひとりは気絶したままの高村恭司であり、もうひとりはどう見積もっても小児としか取れない背丈の低人である。後者は、先刻突然奈緒に攻撃をしかけてきた張本人でもあった。
 奈緒を含めた三人を、たった一人で担ぎながら常識を逸脱した速度で走るのが、あの一瞬で奈緒と高村をさらった犯人だった。
 奈緒も視界を晦まされ一部始終を確認してはいない。しかしエレメントがあっさりと切り裂かれ、防御を突破されたことは感覚を通して知っていた。そうでもなければ、あの状況で奈緒の体に触れることができるはずはないのだ。
 体感としては数分、実際には恐らく数十秒、不条理な強行軍は続いた。終着を教えたのは丸い穴から射し込む黄金色の光だった。ずいぶんと久方ぶりに触れる気のする陽光である。安堵には程遠い心地ながら、奈緒は心構えを引き締めた。御者がどこまで走るつもりかはともかく、永遠に止まらないはずはない。
 潮風が全身に吹きつけた。べったりと髪にまとわりつく質感は奈緒の嫌いなものだったが、澱んだ穴蔵の臓腑よりははるかに爽快な相手である。
 始まりも強制的ならば、降車も荒々しいものとなった。奈緒が船で連れ込まれた個所からは山の中心から見て同心円上にある、浄水施設へと通じる水門の目の前で、体ごと放り出される。整備のためか、人の出入りはどう考えても頻繁でないにもかかわらず、舗装された山道が山の外縁をぐるりと、大蛇がとぐろを巻くようにして伸びており、門はちょうどその終点なのだった。
 既に半ばを水平線に没しかけている太陽の光線は橙色だった。木々が伸ばす梢の隙間から染み出した残照が、その腕の中できらめく塵埃を遊ばせていた。
 夏の宵に相応しく、蜩が夜を歌い始める。
 奈緒が対峙するのは、二人の少女だった。どちらも顔立ちや特徴に異国の情趣を見いだせる。ふたりは黄金と白銀の髪をそれぞれ持っていたが、今この時間の中で、彼女らの色相は黄昏色とでもいうべき見目に彩られていた。
 二人組のうちせいぜい初等部の低学年にしか見えない金髪の少女は、不安そうにぼろぼろの高村に専心している。残る一人、奈緒と高村をあの場から連れ出した少女は、まるで意思というものが見取れない乾いた瞳で、草場に腰をつく奈緒を睥睨、否、観察していた。

「アンタたち……」

 どう続けるべきか判らずに、奈緒は口ごもる。まったく昨夜から、望んでもいない出来事が次から次へと舞い込んできており、常と違い今の奈緒は、まるきり事態に巻き込まれるばかりの立ち位置だった。対処を迫られる受身は彼女の流儀ではない。ペースを乱された原因は、手ひどく痛めつけられ半死半生の身だ。
 ともあれ、奈緒のスタイルは明快だった。乱入してきたこの二人は、決して友好的な態度ではない。どころか、明らかに普通の人間ですらない。そんな相手に対して結城奈緒が取るべき行動はひとつしかない。

「何か、用でもあンの、アタシに?」頬に添えた手が、武装をまとった。洞窟内では鈍かった反応も、この場ではいつも通りだった。
「話が早い」銀髪の女が無表情のままでいった。「結城奈緒。使い魔を召喚しなさい」
「ツカイマ?」聞き慣れない単語だった。
「貴女がたの呼ぶチャイルドのことです」

 女が、左手をかざす。かぎ爪のようにたわめられた指先に奈緒が見た印象は、凶器だった。連想を裏付けるように異変は起きた。夏服の袖から伸びる柔肌の表面に、幾何学的な紋様が浮かんだのだ。

「お嬢さま、よろしいですね」背後の少女を顧みて、女が問う。
「いいわ! 早くして!」少女がハンカチで高村の顔を拭いながら答えた。「すぐ、お兄ちゃんの手当てをしなくっちゃ大変だもの!」
「オニイチャン?」渋面を浮かべて奇怪な呼称を反復する。またぞろあの男の関係者というわけだ。奈緒はうんざりと嘆息した。「アンタら、そこのバカの知り合い?」
「なんて失礼な人かしら」少女が頬を膨らませて憤慨した。「ミユ! てかげんしちゃだめよ!」
「心得ております」女は軽く肯いた。

 付き合ってられるか。
 内心で毒づきつつ、チャイルド・ジュリアを実体化させた。奈緒自身の疲労はともかく、ジュリアに関しては高村との揉め事を経ても無傷だ。彼女の全能はいまだ何ひとつ損なわれていない。
 厄日のしめくくりにくらい、帳尻を合わせても誰も咎めはしないだろう。どちらにせよ、売られた喧嘩だ。買わない手はない。
 口元を好戦的に吊り上げて、いつでも応戦できるよう意識を鋭くした。
 ほどなく蜘蛛がその威容を露わにした。
 対峙する女は、朱に濡れる異形の装甲を前に眉一つ動かさない。

「ビビんないね。あんたもHiME?」眉を集めて奈緒が問う。
「いいえ。ですが、貴女が答えを知る必要はない」と、女は告げた。「予定通り、貴女には最初の供犠となってもらう」

 ――左手が剣に換わる。



 ※



「さようなら。いずれイダヴェルの黄金の夜明けで、まみえることもあるでしょう」

 深優・グリーアは、宝石色の瞳に太陽の映し身を閉じ込めて、アンチマテリアライザーを起動した。






[2120] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン
Date: 2007/03/08 01:23



9.イーヴンフォールとオッドナイト・イブ




 世の罪を除きたもう主よ――

 オルガンの伴奏に唱が溶けていく。昼下がりのひかりが天上のステンドグラスを淡く輝かせ、落ちてくる彩られた陽射しのもとで子供たちが粛然と調べを告げる。
 先日の夜間外出の罰として執行部に申し付けられた奉仕先で出くわした、思わぬ光景であった。
 鴇羽舞衣の胸に響くその声は、凡百の歌と同一視することがはばかられるほどだ。音でありながら形象として美しかった。
 彼女には歌唱技術の巧拙はよくわからない。しかし採点することさえ恐れ多いと思う。厳粛な心持ちになるあまり、床を拭くモップの手さえ止まっていた。
 耳を傾ければ、心を悩ませる様々のわだかまりが、一時的にせよ溶けていくような気がしていた。いつまでもこの歌を聴いていたいと心底感じた。
 陶然とする舞衣の視線はソロ・パートを歌い上げる金髪の少女に釘付けになっている。彼女は知るひとぞ知る有名人である。名はアリッサ・シアーズ。風華学園初等部一年に所属する、天使の歌声を持つと評判の娘だ。

「凄い、あの子」

 独唱が終わると、惜しみない拍手を送りたい衝動さえこみ上げてくる。しかし整然としていた列が崩れ聖歌隊の子供たちが三々五々散り始めるとタイミングを逸してしまって、一寸舞衣は立ち尽くした。
 感動と癒しの余韻にひたり、しばらくぼんやりとして動かないままでいた。放っておかれたらいつまでもそのままでいかねなかった。が、舞衣と同じく教会清掃の当番になっていた原田千絵に肩を叩かれ小声で名前を呼ばれて、ようやく我に返ったのだった。
 ごめんと舌を出そうとすると、あまり空気を読まない台詞が礼拝堂に響き渡った。

「さしいれでーす」

「はいぃ?」と舞衣が上げる声も低い。
 いったいどこの馬鹿かと音源に眼をやり、絶句した。
 高村恭司だった。どこから仕入れたのか、駄菓子がはちきれそうなほど詰まったビニール袋を抱えている。
 近所の青年がジョギングの途中で忍び込んだと言われても信じそうな風体に、舞衣、千絵の二人は思い切り腰を引く。やはり彼女らと同じく掃除当番の瀬能あおいばかりが、「紙芝居屋さんだ」と嬉しそうに笑っていた。

「き、今日見かけないと思ったらこんなところでなにしてんのあの人……。てか、また怪我増えてるし! なにあの顔面包帯!?」
「ミイラ男のようだ。行動が読めないねぇ」とモップの柄尻に顎を乗せて千絵が呟く。

 普段はいたって行儀のよい礼服の子供たちが、高村を中心に群がっていく。異様な光景である。コンビニやディスカウントストアでは見られない菓子の力を持って、男は童心を掌握しようと試みたのだ。

「あ、押さないで押さないで――」

 たちまち教会の中は合成されたソースや漬けダイコンをピンクに染める液体や酢イカのにおいで満たされた。
 教会建築に舞い降りた昭和的空間の完成である。
 すばらしい歌の名残など皆無になった。
 子供たちの指導係であるシスター紫子が、鍵盤を閉じるや大声で叫んだ。

「高村先生! 子供たちにかってにお菓子を与えないでください!」

 高村は、申しわけない差し入れのつもりだったんですとわざとらしい困り顔つくる。さらにその隣で納豆味のうまい棒をくわえる金髪碧眼の少女の姿を見つけると、舞衣は頭を抱えた。

「あああ。あたしの天使があああ。なんでよりによって納豆味なの!?」
「お、落ち着きなって舞衣。風味が確かにあれだけど、人によっては好きなんだから」どこかずれた千絵の慰めも、遠かった。
「それ以前にあれは駄菓子じゃないよねえ」もの欲しそうな目のあおいがそわそわとしはじめる。「あっ、ミコトちゃん子供たちの中に紛れてるよ。さすが、素早い……。あれ? でもそういえば今日、ミコトちゃん奈緒ちゃんと遊びに行くっていってたような。いや、でも奈緒ちゃんまた昨日からずっと部屋に帰ってきてないし……」
「それでいいのかルームメイト」千絵が半眼であおいを睨む。
「だ、だって奈緒ちゃん外泊常習犯だし……」
「結城さんだっけ? は、今日学校も休んだみたいよ。それで、なし崩しでヒマになっちゃった、と」ため息混じりに舞衣がいった。「はあ、それにしても楯といいあいつといい、ほんッと幻滅させてくれるなぁ、いろいろ」

 きなこ棒を一気食いしてむせるルームメイトの姿に諦めを覚えた。美しいものとはかくも儚いのだ。
(昨日のこと先生に聞きたかったんだけど――そんな空気じゃないな、コレは)
 無常を噛みしめていると、背後で出入り扉が開いた。現れたのは、同じクラスの深優・グリーアである。

「アリッサお嬢さま」

 ふだんの生活では微動する事さえない鉄面皮が、ほんの少し強張っていた。舞衣たちの姿など目に入っていない様子で、彼女はつかつかと高村とアリッサの元へ歩いていく。無言の圧力を放つ彼女に恐れをなしてか、集っていた子供たちが道を開けた。

「む」
「あ、深優。もう来たの?」

 高村をはさみ見えざる火花を散らせていた美袋命とアリッサが、闖入者へと目を移す。命はともかく、アリッサまでもが深優の登場を歓迎していないのを見取り、舞衣は首を傾げた。

「おむかえに上がりました」深優がアリッサを見つめ、いった。
「そ。だったらまだ早いわ。どっかそのへんの隅っこで邪魔にならないようにしてて」

 一瞥しただけでつんといい放つアリッサの姿に、あおいが嬉しそうな悲鳴を上げた。

「うわっ、きついねえあの子。でも超カワイイ……」
「サマ付けか。お家の関係か何かかね。アリッサ嬢は黄金の天使だなんて呼ばれてるらしいけど、いいとこのお嬢さんなのかも」腕組みする千絵は興味しんしんだ。
「にしても、あんないいかたってないと思うけど。反抗期かしら」

 可愛らしい見目をしているだけに、辛らつな態度は必要以上にとげがある。
 もっとも、深優はさほど気にはしていないようだった。一瞬だけそばで命をあやす高村に眼を放ると、アリッサの耳へ口を近づけていく。

「なあに。まだなにかあるの。アリッサ、お歌の練習の途中なんだけど、――え?」

 おや、と舞衣はいぶかった。深優が何かを囁いたと思しき間のあとで、アリッサの瞳が細められたのだった。

「それ、ほんと?」

 少女の問い掛けに、深優は無言で頷く。へえと呟くと、アリッサの顔が綻んだ。
 天使と呼ぶにふさわしい、無邪気な笑み。だがそれを、舞衣は寒々しいと感じた。
 アリッサ・シアーズはわずかに顎を引く。きっかり三度瞬きをしたのち、何かを思案するふうに腕を組むと、
(え……あたし?)
 一瞬だけ、その碧眼が舞衣を映し出した。
 向けられたのは無垢な微笑である。つられて、舞衣も頬を緩めた。が――

「お菓子を食べたらゴミはこの袋に入れてくださいね」

 子供ひとりをさらえそうなビニル袋を広げて、高村が礼拝堂を歩いていく。その姿に気をとられて顔を戻すと、もうアリッサは舞衣を見ていなかった。

「みなさん、休憩はもうお終いですよ!」

 シスターが柔らかに打鍵して子供たちに再召集をかけた。聖歌隊の子供たちは総じてしつけがよいらしく、菓子の味に後ろ髪を引かれることもないようだった。
 練習が再開されて、まず機敏に動いたのは深優だ。かぶりつきの席を陣取って、居住まいを正し、舞衣たちクラスメートにはとうとう一瞥をくれることも無かった。教室では一瞬たりとものぞかせない熱っぽい視線を、隊列のなかで一際目立つ少女へと向けて、微動だにしなくなる。

「クラシックでも聴こうかっちゅう佇まいだねえ」
「うん。気合入ってるって感じ」

 千絵と頷きあいながら、舞衣は高村恭司へと歩み寄っていくあおいの背を視界に納めていた。

「あおい?」
「ははあ」と千絵が手を打った。「さては、高村先生にインタビューを敢行する気だな。わたしもこうしちゃいられないね」
「インタビューって、なんの」
「そりゃ当然、深優さんやアリッサ嬢との関係についてでしょう」
「またそれ?」と舞衣は苦笑した。「お熱だねえ。学園の消息筋魂ってやつ?」
「いや、純粋に不思議なだけ。だって考えても見れば、おかしな取り合わせだよ。舞衣も気にならない?」
「ならないってことはないけど……」

 口ごもりながら、浅い午後を告げる時計に目をやった。創立祭準備週間は短縮日課になっており、今日の舞衣たちにはもう授業は残っていない。
 課せられた掃除も落着しようかという頃合である。教室に戻ることも考えたが、そうしたところで待ち受けているのは創立祭の前準備だけだ。アルバイトの前に体力を無駄にすり減らすのは好ましくない、と舞衣は彼女らしからぬ言い訳めいたことを思った。
(あれ、もしかして、あたし)
 教室に戻りたくないという意思に気付くと、しくりと胸が疼いた。閾値に達しない負の感情が刺した痛みだった。
 舞衣にとっていまやそこは安らぎの場所ではない。少なくとも、余事を忘れて無心に笑っていられる空間では、もはやなくなってしまった。

「舞衣、どうかした?」

 急な沈黙に千絵が首をかしげていた。
 なんでもないよと舞衣が微笑むのと、あおいの黄色い声が上がるのは同時だった。

「幼馴染み!?」
「正確には、その妹がグリーアだってことだけど」ゴミをまとめた袋を胸に抱きながら、高村が答えた。
「それじゃあそれじゃあ、深優さんとも子供の頃から知り合いなんですか?」
「いや、まあ、それは違う。お父さんとはその時分の付き合いだよ」

 高村は首を振って否定する。目を輝かせるあおいに、やや腰の引ける形となっていた。

 千絵が鼻を鳴らした。「これは、ちょっとしたニュース、かな」
 舞衣には賛同しかねる意見だった。「そう? わりとつまんないオチじゃない」
「でも、いろいろと想像の予知がある」
「憶測でものをいうのはどうかと……ていうか、あおいの食いつきがやけにいいよね」
「夢みるトシゴロだからね」
「そうはいっても、ひとごとじゃない」夢より実をとる舞衣は、自分には縁遠い心境だと嘆息したい思いだった。
「もうじき夏休みだもん。ロマンスにあこがれるヤカラも増えるってものでしょう」

 そう口にする千絵自身は、いたって平静である。

「千絵はないの? そういうの」
「私は、見聞きするほう専門なもんで」
「そんなんだと耳年増になっちゃうわよ」
「ご忠告どうも」うやうやしく一礼すると、千絵は指先で眼鏡のフレームを押し上げた。レンズ越しの顔立ちは存外に端整である。女子校であれば、間違いなく疑似恋愛の対象に祭り上げられるタイプであった。
「……モテそうなのに。なにげにスタイルいいし」
「いやいや、舞衣サンにかかったら形無しさぁ」男前に彼女は笑った。「褒めてもらっちゃったし、サービスで特だね教えちゃおうかな。ねえ、あのオルガン弾いてるシスター紫子のことは知ってる?」
「寮母さんでしょ?」

 進学校の学生寮とは思えないほど緩い規則の風華学園の女子寮は、そのまま校風が反映されているためか自治の趣が強い。ために風紀は乱れてはいなくとも、厳粛ともまたいえなかった。それというのも実質寮監も兼ねているシスター――真田紫子の入寮者に対する姿勢が、一貫して信頼に保たれているからだ。
 聞こえはよくとも、実質の放任である。
 といっても、紫子が規律にずさんなのではない。むしろ対応そのものは真摯極まりないとさえいえる。
 しかし、どこか甘い。育ちが良すぎるのだと、舞衣は分析していた。上に立つものとしての気概が見られないのである。気負いすぎる執行部部長とは正反対の性格だった。
 紫子は敬虔だ。よく生徒を信じており、人望も篤い。けれど、寮母として適材とは言いかねた。
 集団生活を円滑に回す上では、締めるべき所を締める必要がある。紫子はそれをしない。たとえば生徒間になにか問題が生じれば、一晩中かけてでもその原因をやんわりと追求しつづける。費用対効果のみならず、怒るべきときに怒れないというのは指導者として致命的な欠陥である。
 それでも寮内でさしたる問題が起こらないのは、そもそも育ちがよい生徒が多いことに助けられている。
 寮生に生徒会長の藤乃静留がいることも、秩序を保っている大きな要因だった。寮内は学内とはまた別個のヒエラルキィによって成り立っている。生徒間の軋轢や仲違いなどは日常茶飯事で、その場合にまずうかがいが立てられるのは紫子ではなく静留なのだった。
 紫子の不備よりも静留の処理能力が飛び抜けすぎていることに、むしろ歪みはあるのかもしれなかった。総じて立ち回りに不満はないものの、やはり責任者としてはいかがなものだろう。それが舞衣の、紫子に持っている印象である。

「よく見てるね。さすがバイトの鉄人」千絵は感心しきりだった。「しかも、けっこう辛口だ」
「いや、うん。べつに不満ってわけじゃないんだけどね。バイトで帰りが遅くなるのも見逃してもらってるし、なんだかんだで頼りにされてるっぽいしさ」

 けれど、少なくとも舞衣は深刻な問題を彼女に相談しようとは思わない。暗にそうほのめかすと、千絵も同感だといわんばかりに頷いた。

「でも、そんなシスターに浮いた話があるんだなぁ、これが」
「まじ!? だってあんな、神さまがコイビトー、って感じなのに……」
「まだ確証を得たわけじゃないけどね」千絵が片目をつぶる。「でもシスターに限らず、休みが近いせいであっちこっちで人知れずカップル成立してるからねえ。今週の創立祭もそうだけど、休みが終わってすぐにも玉響祭とかあるし、そのあとはいわずもがなのクリスマス。イベント目白押しだもの。校則第一条もないがしろにされることはなはだしいわけよ」
「さかっちゃってるわけかぁ」

 翻って我が身はと、肩を竦めて見せるのも半分以上はポーズだった。舞衣は本音では、さほど恋愛の必要性を感じていない。

「舞衣もカレシ作ればいいじゃん」
「相手がいればね」

 だから何の気なしに水を向けられても、苦笑しながら定型句で答えた。

「いるでしょ。楯とか」
「はい!? なんでそこでアイツの名前が出てくるの!」
「だめ? 仲良さそうだし……」
「だめ! 考えられない!」

 いささか過剰なまでに、舞衣は身振りで否定した。追及してくるかと身構えれば、千絵はあっさりと矛先を変えて、

「それじゃあ、副会長は? 麗しの黎人サマ。超優良物件だよ」

 思い浮かんだのは、寸前に挙げられた名前とは正反対の、非の打ち所のない青年の顔だった。確かにパートナーとして文句のつけようがない人物ではある。

「いやいや、黎人さんは会長さんとくっついてるんじゃないの。スーパーモデルでも呼んでこなきゃあの人には張り合えないと思う」
「それ、デマだよ。ホントは付き合ってないって。あの二人」
「そうなの? それはそれで、まぁそうかもって気はするけど……。でもそれこそ競争率高すぎるわ。ライバル多すぎ。あたし、恋愛に高望みはしないタイプだからさぁ。鞘当とかもごめんなのよ」
「そういうこと言ってる子に限って、なかなか腰を落ち着けないもんなんだよなぁ」訳知り顔で千絵は呟く。「あ、そうだ。じゃあ高村先生みたいなのは?」

 思わぬ候補を出されて、舞衣は返答に窮した。好み以前に、その対象として見たことがない相手である。

「またどうしてその人選なのよ……」
「え、だってわりとと人気あるんだよ、高村先生って」

 芳しくない反応こそ意外だとでもいいたげに、千絵は出所定かならぬ高村恭司の評判を披露した。若い男性教師というだけでも学校においては一種のステータスになる。くわえて彼の顔立ちはまずまずよく、人当たりもいたってやわらかい。奇癖を差し引いてもなお、主に下級生に好評を博しているのだった。

「いや、でも怪我ばっかしてるし」
「関係無いでしょそれは。それにホラ、子供にももててるし優しいし」
「どっちかというとアレはモノで釣ってるというか……」

 理解できないと、やはり舞衣はかぶりを振った。

「だいたい、見本市じゃないんだから品定めしたって意味ないでしょ」
「それをいっちゃおしまいってやつだ」言って、千絵は両手を挙げた。「難攻不落だね、舞衣は」
「もう、やめやめ。あたしはそういうのはいいの。パス!」

 強引に話を打ち切った。そもそも長期休暇中はいうまでもなく書き入れ時である。アルバイトを増やし、一日刻みでスケジュールに詰め込むつもりだった。稀に虚しく、人恋しい気分に浸ることもないではないが、今は遊びに興じる心境にはとてもならない。

 勢い込むあおいとは対照的に、高村の傍らで菓子のあまりを平らげていた命は話題には無関心のように見えた。ソースせんべいをかじりながら、聖歌隊の子供たちに漠然と眼差しを投げている。だが歌に聞き入っているふうでもなく、高村が言葉を濁すたび撫肩が反応していた。見つめるうち彼女の眉間がやや寄っていることに気付いて、舞衣はひそかにほくそえんだ。
(あれはやきもち妬いてるな)
 浮世離れの反動か、命は寂しがりの側面をたまにのぞかせる。常識に照らし合わせれば過剰なスキンシップは、その主だった表れだろう。また気に入った人間に持つ独占欲もあんがい強く、舞衣が弟の世話にかまけていると、露骨に嫉妬をすることもあった。自身でも処理しにくい感情であるらしく、そんなときは決まって構うように行動で注意を引こうとするのである。
 情操を育む上では、御座なりにすると後々不具合を起こす反応である。舞衣もそのような場合に命をからかったりはせず、素直に構いつけることにしていた。
(あ、なんかあたし、お母さんみたい)
 微笑むうちにも、命の口は鋭く尖りつつあった。
 ほどなくして、案の定命があおいに向かって「やめろ」といった。強い口調にあおいと高村が驚くと、いつもとは異なった弱々しい調子で「恭司がいやがってる。よくない話題だと思う」と続けた。自分でもなぜ会話に割り込んだのかわからずに戸惑っているようだった。菓子を食べ終えて手持ち無沙汰を装ったのは、彼女なりの意地かもしれなかった。

「はいはい、あおいもそこまでにしなって」

 腕まくりする素振りを見せながら、舞衣も仲裁に入った。



 ※



 子供たちが帰宅すると、なし崩しで清掃も終えるようにと紫子からの指示があった。さすがにひとりで大勢の遊び盛りを相手にするのは堪えるようで、尼僧服の下にある秀麗な顔には疲れの色が濃い。

「そういえば、もうひとりシスターさんいませんでしたっけ? ちょっとミステリアスでアダルティな美人」
「ええ、シスターむつみですね」千絵の言葉に、紫子が柔らかく返答する。「それがなんでもご実家で急用ができたとかで、しばらく留守になさると……」
「その間は神父さまと二人だけってわけだ。大変そうだなぁ」
「いいえ、ふだんわたしが未熟なもので、彼女にはいつも助けていただいていますから……こんなときくらい、しっかりしたいと思います」

 話し込む紫子と千絵だが、後者には隙あらばくだんの『お相手』の片鱗でもつかもうという気概が透けてのぞけている。舞衣はこっそりと苦笑しつつ、礼拝堂の隅で熱心に歌の感想を少女へ伝える深優を尻目した。
 額に包帯、頬にガーゼという顔の高村が、背広姿で現れたのはそんなときのことだ。

「着替えるにしても、どうして教会の奥からやってくるかな」呆れ顔で舞衣が呟く。
「それは、着替えを置いてるからだ」
「公私混同。職権濫用ー」
「生活の知恵といってくれないか」嫌そうに高村が抗弁した。
「てか、なんで眼鏡してないわけ? 色気づいたんですか?」
「すごいあんまりな質問だなそれ」吹きだしそうになりながら、高村がいう。「おまえ、ちょっと玖我に影響されてないか? 眼鏡は単になくしたから新調中なだけだよ」
「ふうん。で、その怪我は? 教師のクセにケンカでもしたの。それとも」周囲を気遣い、舞衣は声のトーンを落とした。「もしかしてまた、例の、アッチ系の……? だいたい、昨日だって突然ミコト呼び出してそれっきりだし」
「ああ」高村も、舞衣に合わせて声音を抑えた。「オーファンが出たんだってな。悪かった。単に目立って欲しかったってだけで、他意はなかったんだ。怪我とかは大丈夫だったか?」
「あたしはね」考えすぎだったか、と嘆息する。「でも、命は怪我したよ。女の子なんだからあんまり傷物になるようなこと、させないでよね」
「肝に銘じる」治療跡のため表情は読みにくいものの、高村の受け答えは真摯だった。「ところで、今日はこれからバイトだったりするか?」

 唐突な質問に一瞬答えあぐねて、舞衣は午後のスケジュールを脳裏に浮かべた。

「うん、夕方からね。それまでは命と……まあちょっと出かけるけど、それがどうかした?」
「いや、遅めの昼をあそこで取ろうと思ったから」あそこ、というのは舞衣の仕事場であるリンデンバウムというレストランを指していた。「鴇羽がいるならどうしようかと思ったけど、いないなら遠慮無く行くことにする」
「それどういう意味!?」
「だっておまえ俺の鍋焼きうどんへの熱意を阻むじゃないか。注文の多いレストランなんか嫌だよ、俺は」

 ぐ、と舞衣は言葉に詰まる。確かにそういう過去があったことは否定できない。

「でも、ふつう夏に鍋焼きうどんはないんじゃない! あたしは店員としては間違ってたかもしれないけど、人としては間違ってないわ」
「ほう」と笑う高村。「大言吐いたな鴇羽。じゃあ聞くけど、どうして夏の鍋焼きうどんはダメなんだ」
「そんなの、熱いからに決まってるじゃん。ただでさえ夏で暑いっていうのにさ」
「言ったな。おい、美袋! ちょっと来てくれないか」ステンドグラスを見上げて大口を開けていた命を、高村が呼びつけた。
「なにか用か?」
「アンケートだ。出来たて熱々の鍋焼きうどんと、ほったらかしてぬるくなった鍋焼きうどんと、わざわざ冷蔵庫で冷やした鍋焼きうどん。そしてまあついでにまずいと評判の冷凍冷やし中華。美袋ならどれがいい?」
「それは、デキタテのアツアツがいいに決まっているだろう」命は当然のように言ってのけた。
「ほらな」高村が勝ち誇る。
「なんかおかしくない!? 今のはなんかおかしいわ! サギっぽい!」

 喚く舞衣を取り合わず、これ見よがしにため息をつく高村だ。

「負けを認めろよ。往生際が悪い」
「む、むかつくなぁ……!」大人げない教師もいたものだった。「ちょっとミコト! あんたどっちの味方なの!」
「わたしはうまいものの味方だ」幸福そうに目を細める命の手には、水あめが握らされていた。
「買収されてるし!」
「それはともかく、おまえ筋トレの方法ちゃんと考えないとますます二の腕太くなるぞ」
「い、いきなりグサッと人が気にしてることを、この教師は……」

 散々だった。
 ともあれ、こうして話す限り高村恭司は少々たちの悪い教師でしかない。舞衣にとって、彼は疑惑を持つにはあまりに日常的な人物であった。怪我が多いのだって、きっと間が抜けてでもいるせいなのだろう。無理にでも、そう自分を納得させる。
 人知れず胸を撫で下ろす舞衣をよそにして、意外な人物が高村に話し掛けていた。

「あ、あの、高村先生?」紫子だった。「これから外食なされるというお話でしたが、今日はどちらかへお出かけになるのですか?」
「はい? あ、ええ」高村も一寸面食らって、ぎこちなく頷く。「グリーアやアリッサちゃんを連れて、美星に出かけようと思ってるんです。学園祭の打ちあげの候補地があそこの海岸らしいので……。ほら、執行部長の珠洲城って子がいるでしょう。彼女の家の別荘があちらにあるらしくって、経費も格安にまけてくれるって話ですよ」
「そ、そうですか。それは結構なことですね」

 そう言って微笑むと、紫子は会釈してすぐ礼拝堂の奥へと消えた。
 高村が不可解極まりないという顔で舞衣を見る。

「あれ、俺に惚れてると――」
「ありえない」皆まで言わせずに舞衣は首を振った。「それはありえないにしても、何だろうね、今の」
「すごい美人には違いないから、とりあえずお話できてよかったってことにしよう」
「先生って」さらりと容姿を褒めた手際に、舞衣は唇を吊り上げた。「もしかしてけっこう女慣れしてます?」
「なんだ、鴇羽。俺の貞操に興味があるのか」
「その言い方はなんかすごいイヤ! もうっ、下らないことばっか言ってないであっち行って! しっしっ」

 笑う高村は、じゃあなと言い置いて深優とアリッサの元へ向かった。



 ※



「あちぃ」

 毒づきながら、尾久崎晶は総合病院の門前を通り過ぎる。これで五度目だった。左手にぶら下げる缶ジュースの詰まったビニル袋も、痕がつくほど掌に食い込んでいる。
 学園祭用の飾り付けを買出しにでかけ、しかし予定よりもずっと早く仕事が終わったのがまず予定外だった。そこからさらに気まぐれを起こしいつもと違う帰路を選んだのも異例の事態といえる。さらに頭ひとつ抜けて見える病院の姿を見、そこにいるであろう顔を思い出してしまったのが運の尽きだった。

「あー、クソ、暑いっつの」

 六度目の右往左往。都合三往復を果たしたことになる。盛夏の午後陽射しは遠慮などしない。夏服の襟にもじんわりと汗が染みた。目撃者がいれば不審人物の認定を受けてもおかしくはない。
 迷うくらいならば早く進退を決すればよく、晶自身即断即決を信条に行動するのが常である。思い切れないのは往くことが自分の性に合っていないと自覚しているからで、かといって退けないのは後ろ髪引く面影のあるためだった。
 ――それもこれも、あの先生が関係ねえのにオレを見舞いになんか連れてくから悪ィんだ。
 晶は生粋の医者嫌いだった。治療を受けるのは元より、本来ならば足を向けることさえ忌避するほどだ。だというのにかかる事態に陥っているのは、すべて数日前の出来事が原因だった。
 きっかけは大道具制作の折りにした怪我にある。同級生が工具をしまい忘れ、看板をたてつける際に躓いて転倒したのだ。咄嗟にそれをかばった晶が、釘で制服と腕に小さくないかぎ裂きを作った。
 騒ぐほどの傷じゃない――と晶は素面で考えていたのだが、大量の流血に動転した周囲はそうはいかなかった。即座に顧問の教師に報告し、縫合が必要かも知れないという保険医の診察を受け、ものを言う間もなく車で病院に運ばれた。だが病院に着く頃にはもう傷口が癒着を始めており、外来の治療にあたった医者と看護婦は大げさに血は出ているが心配はないと太鼓判を押した。縫う必要も、当然なかった。それどころか別件で負った打ち身のほうが重傷だったほどだ。
 保険医がひとり、傷口を見て首を傾げていた。
 騒動が持ち上がったのは看護婦のひとりが待合室の顧問教師を発見してからである。なんでも腕を刺されて救急車で運ばれた翌日に脱走して以来の通院だったらしく、強制的に拿捕の命令が下ったのだった。診療室に連行されていく彼が、去り際手持ち無沙汰になった晶にとある病室の場所を指示したのが――
 巧海との出会いだった。
 
「来たぞこらぁ!」
「いらっしゃい」柔和な笑顔が晶を出迎えた。「晶くん」
「お、おう」

 勢いで照れ臭さをごまかそうとしたのに、当然のように受け入れられて出端をくじかれた形になった。決まり悪く視線を彷徨わせながら、晶は病室へ足を踏み入れる。そんな晶を見つめる巧海の相好は崩れていた。

「ほんとに来てくれたんだ……嬉しいな」
「まあ、な」晶は年上の威厳を意識しつつ鷹揚に振る舞った。「たまたまヒマだったからよ。気まぐれってやつだよ」
「十回くらい門の前ぐるぐるしてたもんね」
「見てんじゃねえよ!」余裕が一瞬で崩れ去った。
「でも、ほんと嬉しいんだ」巧海がはにかんだ。「もしかしたらあのまま帰っちゃうかな、とも思ったから。師匠やお姉ちゃん……以外のお見舞いなんてこっちに来てからは初めてでさ。ありがとう」
「いや……」

 ごまかすところのない巧海の台詞を浴びて、晶は返答に窮した。
 赤面を隠しながら窓を一瞥すると、確かにそこからは正面玄関から門が一望できるロケーションである。不覚、とうめいて晶は来客用のパイプ椅子を引きずり出す。吐息しながら「悪かったな」と呟いた。

「え、なにが?」
「オレは余計な気を遣うのも遣われるのも嫌いだ」晶は巧海の眼を見、告げた。「だからぶっちゃける。別にかったるいとか、見舞いが嫌だとか、そういうつもりはなかったんだよ。ただなんつうか、ガラじゃねえし、そもそも『また来てほしい』なんて社交辞令真に受けるのも図々しいだろ? それでぐだぐだしてたんだが」
「社交辞令だなんて、そんなこと。来てくれるだけで充分うれしいのに」巧海が口を開きかける。
「いいから、聞いてくれ」晶はそれを制して、「確かに来る前は迷った。けど結局オレはここに来た。自分で決めたんだ。ということは、もうオレとオマエはダチだ」
「ダチ? 友だちってこと?」
「う、まあそう言っちまうとなンかアレだけど」晶は咳払いする。「そういうことだ。わかったか?」
「そっか。友だちかぁ」どこか陰のあった微笑が、年相応の朗らかさを湛えた。「こっちじゃ初めてだ。ありが――いたっ」

 巧海の言葉を、手刀で遮った。瞬いた眼が、晶を見つめ返す。

「いいか? 男がそういうなよなよした言葉を安売りするもんじゃねえ」人差し指を立てて言い聞かせる。「ふだんはビッとしてだな、肝心なときに言えばそれでいい。それにだなー、見舞いに来たダチにいちいち礼なんか言わなくていんだよ」
「え? でもお礼はちゃんとしないさいっていつもお姉ちゃんが……いたっ」
「それはそれこれはこれだ」指を弾きながら、晶は断言した。「機に臨み変に応じる、故きを温め新しきを知る、だ」
「それは誤用じゃないかな」
「男が細かいこと気にすんな」ぴしゃりと言いつつ、土産の缶ジュースを取り出した。買ったときには汗をかいていたアルミの表面が、今はすっかりぬくもっていた。「つかヌルいなこれ……。冷蔵庫で冷やすか」
「ううん。いいよ、それで。あんまり冷たいのもだめなんだ」
「……そっか。じゃ、ほらよ。ありがたく飲めよ。オレのおごりだ」
「こういう場合はありがとうって言っていいの?」
「あー、テキトーでいいよ」

 缶を受け取った巧海がプルタブに指をかける。はっとするほど白く細い手でも、さすがに開けられないということはなかった。
 飲み口に近づく唇やうっすらと汗をかく首筋が倒錯的で、晶は意味もなく目をそらす。改めて見ると病室は殺風景ながら主の個性を反映したものだ。特に多いのは書籍で、晶の眼から見ても妖しげな背表紙が居並ぶ様はそこはかとなく圧巻であった。

「外、暑かった?」清涼飲料水を嚥下しつつ巧海が尋ねた。「今日は散歩ダメって言われたから外には出てないんだけど、お日さまがすごく出てるよね。海開きもしたみたいだし」
「あ? ああ。けったくそ悪いくらい暑ィよ」頷いて、そういえばと思いを馳せる。「海な。昨日ちょっと潜ってみたけど、まだ水温は低いカンジだったぜ。泳ぐにはまだ早いな」
「海か、いいな」巧海の口ぶりは夢みるようだった。「行ってみたいな。せっかく近くにあるのに」
「なんだよ、海くらいで」反射的に晶の口をついて言葉が出た。「退院したらいくらでも行けるだろ。どうせ泳ぎ方も知らねーんだろうし、気が向いたら教えてやる」
「あはは、そのときはお願いする」
「あぁ、任せろ……」

 果たせない口約束の典型だと晶は心ひそかに思った。自分の調子が狂ったままであることも自覚している。そもそも、たまさか知り合った子供の見舞いなど、決して必要な行動ではない。奇遇が味方したからといってわざわざ足を運ぶのは、やはり妙なことだった。

「でも、その前に学園祭かな」
「ん?」場違いな言葉に気を取られた。「んだよ、学園祭がどうしたって」
「うん。僕もお姉ちゃんと行けることになってるんだ。外出許可が出て」待ちきれないといった様子の巧海だった。「楽しみ。もしかしたら、晶くんにも会うかもね」
「どうだろうな。学校つっても広いし人も多いから。あー……」そこでふと晶は鋭く眼を細めると、腰を上げた。「ちっと野暮用だ。すぐ戻る」
「あ、うん――」

 足早に部屋を辞して廊下に出た。
 目線だけで素早く左右をうかがう。平日の昼間らしく、院内には忙しく立ち回る看護婦や見舞い客、患者の姿がまばらに見える。廊下側の窓からは、屋上に干された大量のシーツが見えた。清潔な色の布が、万国旗よろしく風に踊っている。
 晶は歩き出す。一切の個性を発さない独特の歩法である。無音ではなく、環境に溶け込む類の欺瞞を用いている。衣服が制服のままであるのは片手落ちだが、耳目を避けるだけなら充分な隠行であった。病室棟の長い回廊を抜け、渡り廊下へ向かう。あらゆる建物は初見でその構造を頭に叩き込むように訓練を受けている。目的地は院内で一種の死角である上階への非常階段だった。
 一歩ごとに人の気配や音から遠ざかる。晶は誰の記憶にも留まらないまま、薄ぼんやりとした照明のもとにある踊り場へたどりつく。一足で階段を駆け上り高度の有利を確保すると、冷めた双眸を空間に向けた。

「おい」感情を消して言った。「式神ごときがオレの眼を欺けるとでも思ったのか? こそこそかぎ回るんじゃねえ。消すぞ」
「それは、怖いな」

 飄々と返しながら階段を上って姿を見せたのは、炎凪と名乗る少年の姿をした存在だった。なぜか首に仰々しいコルセットを巻いていて、見目はひどく間抜けている。

「用件はなんだ?」口早に晶は問う。
「見ての通りさ」凪がコルセットを示した。「昨日、乱暴な人にやられちゃってね。散々だよもう。あ、昨日といえば、晶くんも確かあそこに――ってちょっと待った!」

 弾きかけた千本を手中でもてあそびながら、晶は半眼で凪を見下ろす。

「不干渉を気取るなら徹底くらいしろ。こうちょくちょく蟲が顔にまとわりつくと、潰したくなるだろ?」
「そう言われても、これがお役所づとめのサガってやつでさ」凪は弱った顔で笑った。「晶くんならそのへん理解してくれると思うんだけど」
「なにビビッてんだか」そこでようやく、晶も表情を動かした。「わかってるよ。オレひとりじゃアンタはどうこうできない。殺すくらいはやり方次第だろうが、調伏は無理だ。んで、それじゃ意味がない」
「わかってるなら、凄まないでくれるかな……」
「ウサくらい晴らさせろ」嘆息とともに、続けた。「三尸の真似事もこれっきりだ。次は警告ナシで射つぜ」
「ところが閻魔帳の管理者の子孫は、今ごろドライブ中なんだよね」
「は?」
「いや、なんでも」凪が珍しく言葉を濁した。「ところで、晶くん。最近体の調子におかしなところはない?」
「――っ」

 咄嗟に感情を殺したことが裏目に出た。凪の質問を肯定したのと同じことだ。白髪の少年がため息混じりに肩を落とした。

「やっぱりね。胸かな。それともお腹?」
「黙れ」
「余計なお世話かも知れないけど、そんな無茶は良くないよ。きみの体はもうとっくに二次性徴を迎えてなきゃおかしいんだ。それを薬で無理やり押さえ込んだら、体にだってガタがくる。ニンジャは体が資本でしょ。関節とか筋とか、だいぶ無理させてない?」
「……関係ないだろ。あとニンジャっていうな」
「まあ、結局はきみが決断する事さ」と凪はうそぶいた。「それじゃ、とっとと退散させてもらうよ。――お友だちに、よろしくね」

 ウインクを一つ残して、凪は階下へと歩み去っていった。もしかしたら本当に診察を受けに来たのかもしれない。

「は」笑える空想だった。

 目眩をおぼえて、晶は階段に腰を落とした。
 日ごとに偏頭痛が酷くなっている。原因は明らかだ。度重なる抗成長剤の服薬や投与が、晶の精神と肉体の両方に悪影響を及ぼしていた。
 自らの内部で膨らみつづける得体の知れぬ悪寒に、晶は恐怖を覚えた。痛みにではない。まとう肉を満たす心の歪さが、認識を軋ませる。擬似的にして強制的な同一性の障害。それが、晶を蝕むものの正体である。
「くそ」
 迷妄を噛み殺すつもりで歯を食い縛る。罵りが歯列の隙間から漏れたが、それが何に向かうものかは判然としない。




「あ、おかえりなさい」
「おう。――なにやってんだそれ?」

 病室へ戻るまでには、大事を取って大目の時間を遣った。態度に変化はない。巧海も特に気にはしてないようで、ベッドの上に置いた代物で暇を潰していた。
 膝の上に広がっているのは、一見ラップトップ型のノートパソコンだった。ただし機体に社名や開発元を示す印字が一切ない。ただシロツメクサをかたどったアイコンがモニタの背に刻まれているのみだ。

「うん、師匠に貸してもらったんだ。特にすることもないときは話し相手になってやってくれって」
「話し相手? パソコンだろ、それ」晶が覗くと、液晶ではプロンプタ画面が立ち上げられていた。黒地に白い文字で会話のログが流れている。話者は【TAKUMI】と【Y.U】の二人だ。「誰かとチャットでもしてんのかよ。ユー?」
「ううん。このYUさんって――ちなみにこの名前の由来はある雑誌なんだけど――人工知能なんだってさ」
「……は? 実はネットに繋がってるとかじゃなくて」
「なくて」巧海は何度も頷く。

 意外かつ脈絡のない取り合わせに、晶は絶句した。無言でログを確認する。『晶くん、まだ帰ってこないみたい』『――確かにすこし遅いですね』『うん、なにかあったのかな』『――あまり心配することもないとないと思いますが』『まあそうだよね。しっかりしてるみたいだし』『――晶さん=友だち=しっかりしている人』『そうそう』……。

「スッゲーな」感嘆が漏れた。「オレ、あんまこういうの詳しくないけど、人工知能ってまだ実用化とかされてねえんだろ? 普通に会話してるぜこれ。SFだな、SF。時代がここまで来たかー」
「うん。師匠が知り合いからモニターに選ばれた試供品らしくて」他人事ながら、巧海が誇らしげに胸を張る。「色々なひとと色んな会話をして、そのデータをあとで回収するんだって。でも忙しくてなかなか自分じゃ触れないから、僕とかお姉ちゃんとか看護婦さんなんかに手伝ってほしいって貸してくれたんだ」
「ちょ、ちょっとオレにもやらせてくれ」

 身を乗り出して、巧海のベッドに上がりこむ。巧海は嫌な顔ひとつせず、画面を晶に向けた。
 一本指でキーをタッチしながら、晶はいまだ半信半疑だ。まず巧海を装ってみることから始めた。それが三度の会話で見破られ(「あなたは誰ですか?」)、答えあぐねると即座に特定された(「あなたは晶さんですか? おかえりなさい」)。やや感じたぎこちなさは、更に会話を応酬する内すぐ払拭される。質問形式のコメントがある時点を境に激減し、話題は世間話から雑談まで多岐に渡った。歓談には最適なバランスを発揮する人数があり、二人よりは三人の方が会話は盛り上がりやすい。巧海と晶は間にこの奇特なAIをはさみ、しばらく時を忘れた。
 一時間ほど経って、人工知能が唐突にある質問を画面に提示した。それを見て巧海は「変なの」と笑い、晶は引きつったごまかし笑いを浮かべた。

「巧海ー」

 そこで見知らぬ少女が来室した。家庭的な笑顔が、同じベッドの上にいる晶と巧海の姿を認め、ぴしりと固まった。

「あ、お姉ちゃん」巧海は無邪気にその来訪に顔を綻ばせた。

 彼の姉、鴇羽舞衣の関節が、一時的にすべてブリキ製に変わった。

「えっと、……どなた?」

 晶はひたすら居た堪れない思いだった。

『――晶さんは女性ですか? Y/N』

 画面には肯定も否定もされないままの質問が浮かんだままだ。

 ――もちろん、現行電子情報工学の技術の粋を尽くしたところで、こんな人工知能は組み上げられない。



 ※



「あかねちゃん」

 言葉をかけられて始めて、日暮あかねは恋人の接近に気付いた。思考に没頭するあまり、今がアルバイトの最中だということも忘れかけていたのだ。鴇羽舞衣と同じく、ファミリーレストラン〝リンデンバウム〟が、あかねの放課後の職場だった。
 このところ学園祭の準備で空きがちだったシフトの隙間を、短縮日課を利用して埋めたのがこの日だ。申し合わせて出入りの時間を調整した倉内和也も一緒だった。
 平日の昼間である。客入りの少ないのをいいことに暇を持て余し、あかねは時間の許すまま物思いに耽っていた。和也に声をかけられるまで、かなり長い間沈思黙考に励んでいたらしい。

「あ、ご、ごめんねっ。なんかあたし、ぼうっとしちゃって」
「やっぱり、やりにくいよね」何かを合点したように、和也が頷いた。
「え? なにが?」
「ほら、担任がお客さんだとさ」と、客席を指差した。言われてみれば、テーブル席には確かにあかねの担任の高村恭司がいた。
 相席しているのは金髪の少女と、そして――深優・グリーア。

「深優、さん……」

 名を呼んだ刹那に深優の視線が動いた気がして、あかねは咄嗟に壁に身を隠した。

「あかねちゃん?」突然の行動に和也が目を丸くする。「どうかしたの?」
「ううん。別に、なんでもないの。あはは……」激しくなる動悸は台詞と正反対の感情を訴える。あかねは落ち着かない指先を握り締めて、態度を取り繕った。「それじゃ、注文取ってこようかな」
「いや」和也がさりげなくあかねの前に出た。「俺が行くよ」
「カズくん?」
「なんか、オーダー取りたい気分なんだ」

 止める機を逸して、あかねは和也を見送った。颯爽とした後姿だった。言葉にしなくても、彼が自分の身を案じているのがよくわかる。それだけの気遣いを受けて思い切れない自分が、あかねはもどかしい。しかし思わずにいられないのだ。こんなに居心地の良い関係が――果たして自分が化け物だと教えた後でも維持できるだろうか?
 血が頭から落ちていく感覚が、あかねの背を冷やした。冷房が効きすぎているような気もした。
(明日だ。明日……)
 あした、言おう。
 今日まで何度も繰り返し自分に言い聞かせ、とうとうこなかった〝明日〟だ。
 けれど、もう黙っているのは限界だった。和也に隠し事をするのは辛い。そのことについて心配させるのはもっと心苦しい。
 冷静に考えれば、あかねの抱える事情は誰にも明かすべきではないのかもしれない。そう提案する客観的な意識がある。
 だが、あかねはこれ以上楽になりたいという誘惑に抗えそうにない。打ち明けたい。そして和也と悩みを分かち合いたかった。恋人同士の親密さというのは、お互いだけが在処とかたちを知る合鍵を積み重ねていくことにある……。あかねはそうした考えの持ち主だ。
 告白し、受け入れてもらえるのならば、二人の絆はより強固になる。想いはどこまでも深まるだろう。
 そうなる期待がないといえば嘘になる。和也が自分を拒絶することなどないと信じている。あかねはただ万が一を恐れて踏み切れずにいるだけである。
 背中を押したのは、同僚の舞衣だった。彼女はあかねと同い年とは思えないほど強く、芯がある。あかねは自己主張の強い少女とはいえない。どちからかといえば消極的な性格で、何事につけ目立つ立ち位置でもない。だから、一本筋の通った舞衣のあり方に憧れた。彼女のようになれればと思った。

「明日は、きっと」

 トレイを抱いて祈る。オーダーが矢継ぎ早に飛び込んできたのは、それからすぐのことだった。



 ※



 シアーズに身を預け、九条むつみを名乗ってから覚えた健全な趣味は片手で数えられる。逆となると両手両足の指でも余る。
 わけても不健全な項目の代表が喫煙の習慣である。徹夜明けと作業的な情事のあとの煙草は彼女にとってのスイッチのような役割を担った。夢と現を切り分ける波のようなもので、依存症というよりは自家中毒に近い。
 昨夕身柄を拘束されて以降、むつみは睡眠を取っていない。高村ほどではなくとも臥所と縁遠い生活を送ることには慣れているとはいえ、肉体労働のあとの精神的な苦痛はさすがに堪えた。長時間視覚と聴覚を封じられたのも神経をささくれ立たせた一因である。
 おかげで、来客にも刺々しい態度を取らざるをえない。一脚の椅子が置かれているだけの部屋に現れた影が誰であれ、むつみは歓迎しなかっただろう。それがこの男ともなれば尚更だった。

「大それたことをしたものですね」
「貴方がメッセンジャー?」九条むつみは皮肉も露わに口端を吊った。「吉報ではなさそうね。どうやら」
「私も嫌われたものだ」ジョン・スミスは完璧な微笑を浮かべた。「親密だった女性につれなくされるというのは、なかなか堪える」
「無駄口から入るあたり、底が知れるわね」むつみは鼻で笑った。感情を制すためことさらに無表情を維持する。「単刀直入に話を進めましょう。わたしの処分は決まったの?」
「現在のポストからの降格。ならびに更迭。とうぶんは監視下での生活、ということになりました」
「シアーズも甘いわね。もっとも、来月には『その後事故により死亡』という末文で顛末書が結ばれるのかしら」

 さしたるショックもなく、むつみは事実を受け入れた。目的は半ば果たした。元より、現状へ至る布石を打ち終えた時点でシアーズという宿りの役目は達成されている。惜しむ気持ちもない。

「物騒なことを」とスミスが言う。「我々は営利団体だ。貴女のように優秀なスタッフをそのように使い捨てることなどしませんよ。何より、今日までに貴女がシアーズにもたらした恩恵を鑑みれば、少々の暴走など補って余りある。そうは思いませんか?」
「自分が微妙な位置に居ることも、そこまでにどれだけ敵を作ってきたかも、わたしは理解しているつもりだわ」そう言いきることの傲慢さも、もちろん自覚している。
「それは結構なことです。『つもり』なだけでないことを心から祈りますよ」スミスは右手で紙切れを振りながら、「これは辞令です。おや、不思議な顔をなさってますな。はは、今さら取り繕ってもしようがありませんよ。まあ、隠すほどのことではないですが――要するに、貴女が何らかの違背行為に走ることは、我々にとって折込済みだったということです」
「でしょうね」むつみは自嘲を隠そうとも思わなかった。自分の身元を知るシアーズが、風華にまつわる思惑を気取れないはずもない。「利用できるものは利用する。そういう方針は、正直、嫌いではなかったわ。浅はかで、いかにも無節操で、なりふり構わず無様になる必要のあったわたしにはぴったりだったから」
「ドクターの皮肉というのは少々迂遠ですな。私のような現場の人間にはわかりにくい」
「あらごめんなさい」むつみは全く悪びれなかった。「あいにくとわたしはカラードで、かつ生粋の日本人なものだから、どうもそちらのおめでたい連中がいうところの高尚な言語感覚には疎いみたい」
「その、おめでたい連中のお歴々ですが」スミスがやや語調を硬質に変えた。「今回のことでは、幾人かの責任問題まで発展するでしょうね。知ってのとおり、貴女をいまのポストへ強く推した方も含めて、です」
「それが本当なら、わたしの予想は外れだわ。だっていま、嬉しいもの」
「後ろ盾をなくしたという報せがですか?」
「あなたのほうがよっぽど迂遠ね」むつみは意識的に艶めいた態度を取った。万が一にもありえないが、自棄になって媚びている、とスミスが取れば僥倖だ。
「――で、しょうね。それも意外ではない。余人はいざ知らず、私は貴女のことを多少はよく存じ上げている。いわゆる売笑と陰口を叩かれる類の女性とは一線を画した種類の方だ」
「なんでも知っているって態度ね。だったら話すことなんて何もないんじゃないかしら。って言いたいところだけど、わたしからひとつ質問があるの」
「ほう。貴女が質問。なんですかな? 古い付き合いだ、ひとつに限り答えましょう」

 興味ありげというスミスの態度は八割以上演技だと、むつみにはわかった。そして彼が想定している質問の大半は、実際どうかすると口に出してもおかしくないものに違いない。質問を許可されるということは現状では相応に重要な問題である。答えを得られるかどうかはともかく、相手の反応から情報を得ることは可能だ。今後不自由な状態に陥ることが確定した今となっては、慎重に吟味すべき案件だった。
 けれど、むつみは境遇と好奇心をはかりにかけ、スミスの意表を衝くことを選んだ。

「結城奈緒についても、あなたたちの予想通りにことは運んだ?」
「――」

 淀みを知らなかったスミスが返答に詰まる。
 それだけで、むつみは大いに満足した。口を開きかけたスミスを遮って、さらにまくし立てる。

「ええ、もう答えてもらわなくて充分。――老婆心ながら言い訳には誤差の範囲内っていう箴言を薦めるわ。そして、これをきっかけに綻びが大きくならないよう、せいぜい気をつかいなさい」
「痛み入るお言葉だ」スミスは最後まで表情を変えなかった。「さて、付け足すようでなんですが、今回の失態の雪辱をはかるおつもりはありますかな? 上層部が貴女の忠誠心を試すのにぴったりな試験紙を見つけたようで、立場上打診せねばならないのですが――いかがでしょう。私見ですが、そう困難な課題ではありませんよ。にもかかわらず、見事やり遂げれた暁には、ややもすれば今以上の地位にゆけるかもしれない」
「本気?」むつみは眉をひそめた。「命令無視、情報漏洩、機材の無断借用・紛失。ならびに重度エープラスプラスのマテリアルを失っておいて、どんな魔法を使えば失地回復できるっていうの?」
「簡単なことです。例のワルキューレ、玖我なつきを貴女が説得し、我々シアーズに迎える――」

 スミスの声が途切れた。
 むつみはただ目を細めただけだった。
 身じろぎひとつしなかった。目線も手の位置も、なにひとつ動かしていない。にもかかわらず、明確に室内の空気は変質した。既に韜晦を用いてさえ会話は続けられない。双方にそう確信させる氷柱が、むつみとスミスの間に突き立った。
 スミスは、ほんの一瞬だけ、素の感情をのぞかせた。それは愉悦だ。稀少だが、しかし何の価値もない発見だった。むつみは呼吸を深くして、平静を装う。失言を羞じる気持ちはない。ことこの件に関して、彼女はどんな譲歩だろうとするつもりはない。

「行って。もう話すことはないでしょう、お互い?」
「ええ、ええ。そうさせてもらいましょう。異動の実効は今月が終わり次第、すぐです。身辺整理をお勧めしますよ。しかし――」スミスはしきりに頷いて言った。「まったく、たいした変わり身だ。いまの貴女はかつてとはまるで別人ですね。教えていただきたい。親子の関係とは、貴女にとって本当にそれほど重いものでしたか?」

 沈黙以外にむつみの口を出るものがなかったのは、拒絶のためだ。むつみはそう思い込もうとした。
 だが、実情は違う。スミスの問いは、彼女の脆い部分を確かに衝いていた。動揺が漏れずに済んだのは奇跡だった。もっとも、たとえむつみが狼狽する様を見ても、スミスは眉一つ動かさないだろう。確信が彼女にはあった。そんなとき彼は、昆虫のような瞳でその様子を冷静に観察するに決まっている。

「あなたには、家族がいないの?」背を向けたスミスに対し予定外の問いをぶつけたのは、悔し紛れだった。
「いたが、処分しました。どうも、邪魔だったもので」服に埃がついていた。だから払った。そんな口ぶりだった。

 何ひとつ衒いのない声を残して、スミスは部屋を出て行った。残されたむつみは不思議と納得していた。長年の疑問が氷解した思いだった。
 出会ってから初めて、ジョン・スミスという男に対するひとつの理解が生まれた。
 そういう人間もいる。それだけのことである。単純に割り切ってしまえるむつみも、やはりどこか欠落した人間には違いない。
 吐息ひとつで気分を切り替えると、椅子から立ち上がった。

「わかってるわよ、今さらだなんてことくらい」胸にさげたペンダントを軽く撫でながら、吐き捨てるように呟いた。

 我ながら、弁解以外の何ものでもないと感じた。






[2120] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a7634511
Date: 2007/05/05 03:44


 ※



「あっは、海だー!」

 後部座席の窓枠にかじりついて、アリッサ・シアーズが歓声をあげた。ハンドルを握る高村は、リアウインドウ越しに少女の満悦を眺める。

「意外と早く着いて良かった」
「うんうん、良かった!」アリッサの声は弾みっぱなしだった。「あっ、もう泳いでる人もいるよ!」
「いちおう、海開きはしたからね」

 俺も期せずして昨日着衣水泳したことだし。胸中で付け加えつつ、急カーブに備えて車体を減速させる。良好とはいえない体調もさることながら、アリッサの隣で常に眼を光らせている深優のこともあって、高村の運転振りは教習所よりも安全を心がけたものになった。おかげで何度後続に煽られたことかわからない。
 身の回りの事情が変わるまで、高村にとっての免許証はほとんど身分証明のための紙切れ同然だった。それが本来の効力を発揮し始めたのは、行動力の限界を思い知ったせいである。都内ではどこに行くにも電車で足りる。だがある一点をのぞき大部分が線路に網羅された都市など日本には東京のほかにない。フィールドワークで理解していたつもりだったが、一歩首都圏を離れれば自動車の利便性は欠かすべからざるものであった。
 といって、自前の車を購うほどのめり込めないというのもまた本音である。必要経費どころか無駄遣いしても問題ないほどの蓄えは当座ある。しかし人生の大部分を過ごした実家を処分して以来、高村はどうしても耐久財を所有する気分にはなれなかった。

「それにしても、風華からこのあたりの道路はホント運転しやすいな。市政と土建屋の絆の深さをうかがわせる。珠洲城の実家はたいしたもんだ」
「それでいて、有事の際住民を操作しやすい設置でもあります」アリッサに『じゃましないで』と命じられ、瞑目し物言わぬ彫像と化していた深優が呟いた。「この土地のインフラストラクチャは、実に合理的な思想に基いて設計されている。意図の明確でない拡張工事のあとが少ないのも、基盤となる指向が明確に示されているためでしょう」
「起きたのか」
「もともと眠ってはおりません」答える声は心なしか不本意そうだ。「ドクター九条の処遇が決定したそうです」
「そうか」とだけ高村は答えた。

 深優が若干、待つような間を置いた。彼女の予想をわずかでも外したことに、高村は底の浅い満足を覚える。しかし、

「仔細をお聞きにならないのですね」と深優が口にしたことに、逆に喫驚した。
「あ、ああ。左遷だろう?」ウインドウを操作して、深優の姿を掠め見る。「尻馬に乗った俺がいうのもなんだけど、偉い人たちにとっては噴飯ものの展開だったろうから」
「そうではなく」深優の静謐な双眸が、鏡越しに高村を射抜いた。「九条博士の進退は、彼女預かりの身であるあなたご自身の進退にも少なからず関わることです。気にはならないのですか?」

 なるほど。まったくその通りだ。高村は己の迂闊さを呪った。

「俺は馬鹿だけど、ものを考えられないほどじゃない」無駄と知りつつ言い逃れを試みた。「たしかにきっかけは彼女だったけど、事実上いまの俺はグリーア神父の検体だから……」
「それは理由になっていません」案の定、深優は見透かした。「お父さまもご憂慮なさっておいででした。今後、先生の立場はますます微妙になると」

 高村は思わず苦笑した。九条むつみとは方向を異にしても、ジョセフ・グリーアも腹に一物も抱えた人物である。今回の件にしても、彼は全てを知っていて見逃した可能性さえあった。組織に忠誠を誓う身ならば後々響かないとも限らない瑕疵だ。
 そして高村は知っている。グリーアには、未だ高村恭司を手放せない理由がある――。
 
「深優はどうだった?」と高村は言った。
「なにがでしょう」
「深優も俺を心配したかな」時おり彼女に仕掛ける、戯れめいた種類の問いかけであった。深優の答えは一定している。『興味がありません』『関わりのない事案です』『質問の意図が不可解です』……。
「ええ」と彼女は頷いたのだった。
「うん?」
「今先生にいなくなられては、お嬢さまのご機嫌に悪影響を及ぼしますので」

 噴出しかけて、尋ねそうになる。それは意図的な諧謔なのか否か? いまだ晧々と照る陽射しに眼を細めながら、高村はひとり笑いを噛み殺すことを選んだ。どちらだとしても、言葉にしてしまえば不粋なことに変わりはない。
 深優は確かに成長していた。風華で過ごした短い時間の中でも、彼女は日進月歩だ。
 高村とはまるで違う。そんな尊さを、無聊を慰めるだけのからかいの種にはできない。

「おにいちゃん、なにニヤニヤしてるの?」一頻り海に向かってわめき終えたアリッサが、不思議そうに言った。
 高村は首を捻る。「よくわかるね。顔面がこんなに隠れてるのに」
「それは、わかるに決まってるわ!」意味もなく、少女は誇らしげだ。「ねえ。それイタイ? 痕とか残らないかな……」
「大丈夫だと思うよ」安易に請け合った。「骨も折られなかったし、手加減してもらったんだろうね。ま、痛いかどうかでいったらはなはだしく痛いけど」

 ついでにいえば微熱もある。

「ハナハダシ?」
「とても」深優が助けを差し伸べる。

 アリッサはきっと隣席を睨みつけた。

「深優にいわれなくてもわかるもん! 余計な口はさまないで!」
「申し訳ありません」平坦に答える深優は、気のせいか優しげな顔立ちをしていた。

 微笑ましいやり取りを、「珠洲城と菊川みたいだな」と高村は見守った。

「ともかく!」アリッサが背もたれを叩いた。「これに懲りたら、お兄ちゃんはフィアンセとして相応しい行動を心がけること。じゃなくちゃ、アリッサも守ってあげられないんだから。わかった?」
「えっ。なにその、フィアンセって」

 いろいろな意味で物騒な呼称だった。光源氏の称号は高村にはいささか以上に荷が重い。何より、アリッサは確かに育てば冗談みたいな美人に育つだろうが、いまの時点では可愛らしい子供に過ぎないのだ。

「え? なにって、誰かがいってたの。お兄ちゃんはフォーチュンテラーで、冥府の王子さまの逆相だって。――それはつまり、シアーズにとっての王子さまということではなくて?」
「なくてって、なんか突然大人びた物言いをするね」

 鼻白みながらも、高村はハンドルを切る。
 そのために気付けなかった――やにわにアリッサの表情が趣を変えたことにも、深優がやや緊張する素振りを見せたことにも。

「ともかく、フィアンセってのはやめてよ」
「どうしてぇ」
「世間の目が怖いから」
「はぁい」

 アリッサが頬を膨らませた。
 純真だが、利発な少女だ。そう呼ぶことの意味がわからないはずもない。身近な年長の男性である高村に対して、彼女が求めてやまない父性を見ていることも理解していた。
 
(そういえば、なんで彼女は俺にこんなに懐いてくれてるんだろう)

 高村が少女と初対面を果たしたのは、実を言えば九条むつみやジョセフ・グリーアとの出会いよりもずいぶん後になる。当時から人懐っこい子供だとは感じていたが、高村個人に対してアリッサがそこまで肩入れする理由が、彼には思い当たらなかった。せいぜい人並みに構った程度のはずである。
 父性を投影するのならば、単純に考えて、背格好で似つかわしいのは高村ではなく、どちらかといえばジョセフ・グリーアのはずだ。
(なら、なぜ?)
 ふとそんな疑問を思いついたのは、海岸前の駐車場が見えたときだった。ハンドルを握る手に力を込める。筋肉の動きに連動して、全身の傷が一斉に鈍く疼きだした。
 昨夕とは趣の違う海岸を目にして、高村は己の無謀をふたたび顧み、苦笑した。



 ※



 高村が激しい頭痛と眠気の中で意識がつかまえたのは、戦闘の気配だった。夢現定かならぬはざまで、彼が見つめるのは現在ではなく過去だった。腫れあがるまぶたの下で熱を持った眼球が、褪せぬ記憶の象に焦点を結ぶ。
 切り結ぶのは少女と怪物だった。
 高村は恐怖に体躯を張り詰めさせた。
(朔夜?)
 おぼろげだった感覚が急激に冴える。
(朔夜――深優)
 高村恭司の現実すべてが零れ落ちたその夜を、剣戟はどうしようもなく連想させる。
 肩が震えた。

『おにいちゃん――』

 咽喉を胃液が通り過ぎた。

『――どうして?』

(やめてくれ!)
 口中に酸味が満ちた。土と草と血に混じり、それは口腔のなかである渋味を形成する。
 それは屈辱の味だった。忘れがたく舌根に刻み付けられた焼印だった。
 高村の両手が地面を噛んだ。
 体は休息を求めており、それを拒む理由はないはずだった。にもかかわらず高村は、状況の理解につとめた。そのまま夢に浸ることをこそ、彼は恐れた。呼吸が加速して、鼓動を昂じさせた。めぐる血流が頭蓋の中身を駆け巡った。むろん、それは鳴り響く頭痛をさらに助長させた。
 姫野二三に叩きのめされてからのち、どうなったのか。咳き込みながら押し開いた瞳にまず映りこんだのは、神秘的に輝く金色の髪だった。羅紗みたいな手触りを思わせる滑らかさが、高村の目の前で揺れていた。そんな金髪の持ち主には、もちろん一人しか心当たりがなかった。
 アリッサ・シアーズ!
 高村は身を起こした。
 その少女があるのならば、絶対にいなくてはならない存在が、記憶の肖像と一致した。

「深優」
「……お兄ちゃん。起きたの? もう、深優がぐずぐずしてるからぁ」

 うなるような囁きに、アリッサが呼応した。その碧眼が退屈な色をともなって、目前で繰り広げられる闘争に注がれていた。高村が彼女にならうと、視線は奥行きを持って広がる森へと向いた。昨日きょうと、やや見飽きた感のある風景である。少女が呼ぶ深優・グリーアの姿はそこにはなく、ただ破壊の後と、断続的に響く炸裂音が、高村の不安を煽るだけだった。

「アリッサちゃん。いったいなにが」
「休んでたらいいよ。もうすぐ、終わるからね」爛漫とアリッサはいった。「大丈夫だよ。今日は一人だけど、お兄ちゃんを苛めた子たちもすぐにやっつけてあげるから」
「ひとり?」

 何が起こっているのか、わからない。
 肉体と精神を占領する苦痛にあかせて、魯鈍さを装うのは簡単だった。現実に頬かむりをするのが、たとえ実際には何らを解決には導かなくとも、彼にとってはもっとも優しい処方なのだ。
 だが、そうはいかなかった。
 いま、思い出してしまった。
 状況はわかりきっていた。結城奈緒。もしくは杉浦碧。彼女らのどちらかが、深優と交戦を始めているのだ。
 ――高村恭司の炉心に火が入る。
 軋む肉と筋を動員し、骨を支えに、心の命じるまま、彼は歩き出した。
 高村を苛む痛手はひどいものだった。裂傷と擦過傷ならば数え切れない。骨折と刺傷も一箇所では済まない。彼はにぶく、辛抱強い男だったが、それでも痛みが好きなわけでは当然なかった。荒事とも、成人の直前までは無縁に近い人生を送ってきた。恐らくはずっとそうなのだろうと、根拠もなく信じながら生きてきた。
 だが、そうはいかなかったのだ。
 だから、高村は抗う手段を講じた。
 そのためにこそ、生き恥を晒し続けた。

「お兄ちゃん? どーしたの? そっちは危ないよ」
「アリッサちゃん」全力で走り出そうと思うのに、アリッサは難なく高村に追いついた。足首にへばりつく焦燥を振り切るように、高村は胸をかきむしった。

 すると、硬く冷たい感触に指が触れた。
 先刻、風花真白を拉致するさいに黒服の一人からうばった、自動拳銃のありかがまさにそこだった。
 高村は無言のまま、懐から拳銃を抜いた。熟練には程遠いが、興味本位で撃ったことはあった。最低限の扱いならば心得ている。アリッサは、突然得物を抜いて黙り込んだ高村を、無垢な顔で見上げていた。
 高村は一度、森の奥へと目を投じた。そこにあったのは、焦りと恐れを表情に張り付かせた、結城奈緒の姿だった。エレメントを振るい深優の接近を阻む彼女には、どう贔屓目に見ても余裕がない。
 彼女が侍らせるチャイルドもまた、満身創痍だった。八本の足のいくつかはすでに欠けてしまっている。得物を突き刺す鋭い尾も、先端が折れていた。森を刻む奈緒の奮闘は敗北を遅らせるだけの行為にしか見えなかった。
 奈緒と、そして拳銃とを、高村は見比べた。
 彼自身寸前まで意識しなかったことだが、奈緒の姿を見た瞬間、思考には安堵が過ぎった。高村は戸惑いつつ、グリップに食い込む己の手の平を見つめた。自分がなぜ安心したのか理解しがたかった――そう思い込むのはやはり、容易だった。しかし真相は手を伸ばすまでもなく触れうる位置にあったのだ。彼が結城奈緒に当て込んだ役目は、この時点ですでに終わっている。それが高村を安んじさせた理由だった。これが杉浦碧ならば、ためらう理由はなかった。ほかのHiMEであっても、彼は迷わず動いたはずだった。だが、結城奈緒では? ここであからさまにシアーズに反旗を翻すデメリットと、彼女を助けて得るちっぽけな満足。はかりにかけるまでもない取引だった。奈緒は見捨てるべきだった。もともと、高村は彼女に好意的な感情を向けていなかったのだ。
 奈緒をかばう理由はない。
 取るべき行動は決まっていた。
 高村は叫んだ。

「くそくらえだ!」

 勢いのまま銃身をスライドさせ、二度、天に向けて発砲した。三発目は、森の中へ撃ち込んだ。これにはさすがに動きを止めて、深優の怜悧な瞳が、ようやく高村の姿を捉えた。
 かすれた咽喉で声を張り上げた。

「深優! 結城! 今すぐ戦うのを止めろ! いいか! 止めるんだ! さもないと、さもないと――」

 ちらりとかたわらで耳をふさぐ少女に眼をやった。深優の姿勢が目に見えて緊張した。俺がこの子を撃つぞと脅すとでも思ってるのか、深優? 高村は裂けた唇を吊り上げた。痛みは少しだけ、彼の背中を後押しした。

「さ、さもないと!?」アリッサが問い返した。
「うん、アリッサちゃんもふたりにいってくれ。さもないと」高村は自身のこめかみに銃口を突きつけた。発砲に熱されたバレルは、彼の頭髪を焦がした。「俺が死ぬ。脳みそ撒き散らして死ぬ」

 一切本気で言い切った。

「……」奈緒が黙っていた。
「――」深優も黙っていた。
「え、えー」アリッサが唸った。

 高村はかみ締めるように呟いた。

「頼むよ」

 アリッサが要求を飲み込み、事態を把握するまでの三秒間。
 高村ができたのは自嘲だけだった。

 それが、風華学園の裏山をめぐる一連の騒動の、いったんの幕引きである。



 ※



 アリッサの小さな体には無尽の活力が宿っていた。高村は怪我に救われた思いだ。もし本格的に泳ぐということにでもなっていれば、いいように遊び相手に仕立てられただろう。
 また金髪碧眼で日本語に堪能な少女は、浜の方々で人気者だった。老若男女が声を上げて笑う彼女に注目する。とりわけ物怖じしない若年層を捌くのは骨だった。
 深優の外見に惑わされた遊泳者が「お子さんですか?」と尋ねてこなかったのは、高村の満身創痍に遠慮しただけのことである。とはいえ見知らぬ人間が近づくたびに深優がユニットを励起させるのには高村も辟易して、うまくアリッサを言いくるめてひと気の少ない岩場へと誘導した。
 浪打の神秘に見飽きたアリッサは、いま、磯の生物の征服に忙しい。岩陰につくった水場に蟹を追い込む姿を視界に置きつつ、高村はようやく人心地つけた。

「元気だな。あの調子じゃよほど鬱憤が溜まってたのかもしれない。昨日の今日でどうしたものかと思ったけど、来てよかったかな」
「もちろんです」深優はいっときもアリッサから眼を離さない。「アリッサお嬢さまはお喜びです。その点に関しては先生にはお礼申し上げます」
「やめてくれ」高村は乾いた声で言った。「そんな言葉はもったいない。だいたい、自分でもどうかと思うくらい露骨なご機嫌取りで、本音じゃすこし自己嫌悪してるくらいなんだよ」
「ならば、なぜあのようなことを」

 深優の声に詰問の調子はない。命令系統が一時保留という判断を下した以上、従うというスタンスは彼女にとって自然だった。問題は使命感と敵愾心が旺盛なアリッサで、高村にしても彼女に制動をかけることができたのはできすぎた幸運だったと思っているほどだ。
 自分の命を盾に遣うという下策は、おそらくもう二度とできない。あのとき深優が即座に対応できなかったのは、それがあまりに馬鹿げた振る舞いで、彼女のルーティンにない行動だったからにすぎない。MIYUの学習能力は人智を越えている。要求を飲む可能性があるのがアリッサだけである以上、そこには必ず深優もいる。次に同じことをしようとすれば、指先がトリガーにかかる前に両手を切り落とされるだろう。必要とあれば瞬きの間にそうするだけのスペックを、目の前の少女は確実に持っているのだった。

「そうだな……なんでだろう」
「ご自分のことでしょう」
「自分のことでもわからないものはわからないだろう」
「先生の返答は理不尽極まりありません」
「悪いな」高村は素直に非を認めた。「だけど――とりあえず結城のことに関しては、とお互いのために限定しておこう。後悔はしてないよ。俺は俺の裁量の範囲内で、やれることをしただけだ」
「理解できません」と深優は言う。「昨日先生の択んだ行動は、散漫な偽善以下の時間稼ぎでしかありませんでした。彼女にとっては結局、遅いか早いかの問題です」
「人間に、遅いか早いかより重大な問題があるか?」
「ええ」深優の肯いに迷いはない。
「ところが、俺にはないんだ」高村もまた、間断なくいった。
「ワルキューレは純粋な定義での人間とは異なる存在です」
「そんなことはない」柔らかく、静かに首を振った。
「――そうかもしれません」一拍の間は紛れもなく逡巡を真似ている。懊悩する人工知能はジョセフ・グリーアの業だ。「それが、先生の死生観なのですね」
「一般論の範疇だよ」

 詭弁で煙に巻くというつもりもなく、高村は口をつぐんだ深優を見つめる。相変わらずアリッサを捉えたままの瞳には、言葉遊びを弄する男への不快感は見つけられない。
 深優に対しての高村の物腰には、ほかにない気安さがあることを自覚していた。九条むつみや玖我なつき、その他の縁ある人間に彼が対応を使い分けるのには、ある程度恣意的な面がある。半ば自動的でありつつも、装っているという意識がある。かといって、では深優に自然体で接しているかといえば否だった。彼女の顔に、その素となった少女の面影を見ずにはいられない。星をみれば空を見ずにいられない。強制的な感傷と、彼女といれば高村は必ず向き合った。
 それにも、とうに慣れたようにも思う。
 だがいつまでも気まずさはぬぐえない。
 なまじ見た目ばかりが似通っているから、かえって認識が混線しているのだ……。

「私の顔に、なにか?」

 記憶の映像と目の前の顔が、いつしか視界の中で重複していた。高村の意識を追って、深優の細い指先が自らの造作をなぞっている。盲人がそうするような無頓着な手つきである。無表情だが、人間らしいそれを再現する人工筋肉が、柔らかい膚の下で確かに起伏していた。高村の耳を、今にも懐かしい声がくすぐりそうだった。優花・グリーアにとって、同年代の少女と比べてくっきりした顔立ちはコンプレックスだった。彼女を『外人』と呼んで、とたんに泣かれたこともあった。まったく同じ容貌を持つこの少女は、しかしそうした様々の記憶を、共有してはいない。

「顔は人間にとって最大の記号だ」おもむくまま、高村は呟いていた。「だけど、君にとっては、そうじゃない」
「はい」深優は肯定した。彼女にとって顔面の起伏はただそれだけの情報でしかない。人物を特定するのならば、虹彩の波形だけを照合すれば足りる。例外はただ一人、アリッサ・シアーズのみだ。
「だからってわけじゃないけど、頼みがあるんだ」まぶたを閉じて、高村は嘆息するように言った。
「現在、私に先生からの依頼を遂行する義務はありません」
「聞くだけでいいよ」打ち身が熱をはらみ高村を苛む。浮かされたような台詞を吐いたのは、だからだった。「どうか、この先何があっても、俺にくったくなく笑いかけたりはしないでくれ」
「なぜ」
「子供は人間のお父さんだって、英語のことわざにあるだろう」肩をすぼめて、高村は気弱に微苦笑した。「それだよ」
「いつもながら」と深優は高村を横目で一瞥しながら、ぶっきらぼうに告げた。「先生のおっしゃることは理不尽で不可解ですね」
「まあ記憶のメモリーに一行メモしておいてくれればいいからさ」
「それは語意が重複しています――」と言いかけたところで、

「お兄ちゃん!」

 アリッサの呼び声と手招きがあった。

「どうかした?」
「うん、なんだかトゲっとしたのがいるよ! トゲトゲっとしたのが! きてみて触ってみてアリッサのかわりに!」
「いや、それはたぶん普通にウニだと思うけど……」

 岩の間を飛び越えながら、少女のいる浅瀬へ向かう。
 ひとりごちるような深優の言葉はかすかだ。

「確約はできかねます」

 波涛に散るくらいの音程だったから、高村はなにも聞かなかったことにした。



 ※



 今からなら六限は間に合う。そんな殊勝な心がけで登校した玖我なつきを待ち構えていたのは、とうに放課後を迎えた校舎に盈ちる、前夜祭の空気だった。何気なく1-Bの教室に足を踏み入れると、今日に限っては同窓の視線が彼女に痛痒を感じさせた。机や椅子が片付けられた空間では、男子と女子が顔をつき合わせてレイアウトの相談らしき打ち合わせを熱心にしている。なにか手伝うことはないか――なつきの喉元まで出かかった言葉は、結局声にならない。そもそも彼女は、自分のクラスの出し物さえよく知らなかった。かろうじて、喫茶店のようなものを開くのだと記憶の片隅にあるばかりだ。

「ふう」

 悩ましげにため息などをつきながら、なつきは優雅に踵を返し、その場を後にした。若干の後ろめたさがあったことは否定できない。歩む足も速くなった。
 廊下に戻り賑わいの中に自己を埋没させると、どうにか落ち着くことができた。
 私生活はともかく学内では明らかに超然とした藤乃静留との付き合いではあまりわからなかったことを、近ごろのなつきはとみに自覚する。HiMEでありながらごく真っ当な少女でしかない鴇羽舞衣や、またことあるごとに教師のような物言いをする高村恭司との接点が増えたせいに違いなかった。自分がいわゆる、人生で二度とない貴重な時期をいたずらに消費しているような、それは焦りである。かといって他に重視すべき目的がある事実は厳然として、動かしがたい。何よりも、なつきには今さら普通の女子高生のように振る舞う気も自信も希薄だった。
 とうに後戻りのきかない場所に、彼女はいる。
(らしくないじゃないか……)
 生徒会室に向きかけた足も鈍る。学園祭の準備だというなら、もっとも忙しないのは執行部の幹部のはずだった。いつもならあまり顧みない静留の迷惑を思い、なつきは目的をあてのない散策に切り替えた。
 まだ本番ではなくとも、祭りの空気は嫌いではない。眠りかけた感傷の虫がまたなつきの中で騒ぎ出した。幼い時分に父と母に連れられて縁日に出かけた。そんな当たり前の記憶がある。
 祭りの場でなければ欲しいとも思わないようなものをねだったこともあった。なつきはほぼ正確に当時の記憶を追想しながら、同時に思い出の内で笑う少女をほとんど第三者としてしか認識できない自分に気がついた。過去の肖像に対して覚える違和感とは種類を異にしている観念だった。そう感じてしまう理由は明らかだ。なぜならば母はもうおらず、優しく家族思いの父は幻想で、いま現在の玖我なつきはそれに気付いており、そしてかつての彼女はそんな現実を想像さえしなかった。
 なつきにとって、分析的な思考は歯止めの利かないひとり遊びに似ていた。精神的な自傷行為にも近い。外聞はどうあれ、痛みに没頭するという行為がそれなりに心地良いのは確かだった。
 だからこそ、埒も無い空想を彼女は振り切る。
 頭を振って、苛立ちまぎれに髪の先をもてあそんだ。
(疲れているな。自分で自分を哀れもうとするなんて!)
 聞き捨てならない噂話を耳に挟んだのは、それから間もなくの事だった。
 きのう、裏山で異常現象が起きた――。
 見知らぬ男子生徒が交わす会話を聞きとがめ、なつきはさりげなく耳をそばだてた。普通の人間を相手に締め上げて情報を聞き出すという手段はまず用いない。高村という例外があるにはあるが、それは相性の問題だとなつきは納得していた。
 なにより、無責任に話題を求める手合いというのはソースとしては信憑性が低い。学園内で起きたことならば、執行部か理事長である風花真白に探りを入れたほうがよほど話は早い。
 この日、なつきが訪れたのは後者の邸宅だった。豪奢な邸宅へと向かう道すがら、裏山の様子に気を配るが、目立った異変はやはり六月に舞衣が刻んだ火災の痕跡しか見えない。裏山と皆が呼びはしてもスケール自体は完全な山岳のそれであるから、地形が崩れる瞬間に居合わせでもしないかぎり変化を認めることは難しい。やはり、舞衣のチャイルドがもたらした被害が際立って大規模なのだった。
(あいつがその気でなくて助かった、か?)
 ひとりごちながら、風花邸の門扉を叩く。
 が、いつまで待っても返事はない。念のため裏口に回っても、施錠された扉は人の気配を伝えなかった。なつきは肩をすくめて嘆息すると、髪を払って山に正対する。
「調査の基本は足ということか?」
 呟き、チャイルドを呼ぶ場を探して茂みへ分け入った。




「あ、なつきちゃんだ」

 デュランの背から降りて人の気配を頼りに森を抜けると、土嚢をかついだ杉浦碧に出くわした。

「……何をしている?」
「何って、見てわからない?」

 問い返されて、なつきはまじまじと碧の格好を観察した。
 つなぎを腰で絞りタンクトップを露出した上半身には健康的な汗が光っている。作業用のヘルメットには『安全第一』と印字され、後頭部からはおさまりきらない頭髪が尻尾のように飛び出していた。
 加えて、下を見れば荒れた地面があり倒れた木々がある。やや離れたところには二トントラックが停車しており、荷台のコンテナに土嚢や転がされたつるはしの姿があった。

「なんというか、その、工事か?」
「うむ。普請である!」
「無意味に元気なのはいつものこととして、それにしてもなぜひとりで」
「ホントは恭司くんと奈緒ちゃんにも手伝ってもらいたいんだけどねえ」珍しくげんなりと、碧がため息をついた。「二人とも行方がわからないからしょうがなく。一応あたしにも責任の一端はあるってことで……あと、正しい給料のために」
「高村と……結城奈緒だと?」想像外の取り合わせだった。どう考えても相性のよい二人とは思えない。そこに碧が加わるとなればなおさらだ。「何かあったのか」
「話せば長くなるのよ」陰をにじませて碧は笑った。「あとあたしからも聞きたいんだけどさ、なつきちゃんって恭司くんと仲いいよね」
「よくない」
「いやそんな会話のワンクッションを一刀両断にせんでも」
「ないものは、ない。事実無根だ」なつきは言い捨てた。
「ふーん」碧は目を細める。「じゃあいいや。やっぱり聞かなかったことにして」
「それはないだろう」なつきは碧を側目し、ため息をついて見せた。「子供のようなことをいうな」
「べつに、嫌がらせってわけじゃないよ」

 足下に転がる小枝を拾い上げるとふたつに折って、碧は思案げに鼻を鳴らした。

「ただ、なにやら事情が込み合っていそうだから、なつきちゃんがどこまで知ってるかも知らんコトにゃ、あたしもなにをどこまで話していいか判断がつかないだけサ」
「義理立てか。意外と律儀だな」
「アハハ、人の事どんなふうに見てるのかなーこの子ってば」
「ともあれ」となつきは逸れかけた話題の方向を修正した。「おまえが詳しく話さなくたって、おおよその見当はついたさ。要するに、昨日またオーファンが出て、HiMEが戦っているところを一般人に見られて騒ぎになった、というところだろう? それなら、まあ事後処理は例によって一番地がやるさ」
「それなら話は簡単かもね」

 蒸れたのか、暑苦しげにヘルメットを脱いで、碧が首を鳴らした。社会科教師らしからぬ健康的な色をした肌の上を、鎖骨から肩へのラインをなぞるように汗が落ちていく。湿り気を帯びて濃緑を深めるタンクトップの繊維を見るとはなしに見ながら、なつきは眉をひそめた。

「おまえ、ブラジャーくらいつけろ。……簡単とはどういうことだ? つまり、それよりもややこしいことになっているというのはわかるが。そこに、高村と結城奈緒が絡んでいるというワケか」
「ん。どうなんだろね。――ああ、そんな怖い顔しないでよ。べつにもったいつけてるわけじゃない。あたしゃなつきちゃんみたいに事情通ってわけじゃないんだからさ、色々と状況を整理しようにも不透明な点が多すぎて困ってるんだ。そもそも、キミが舞衣ちゃんとかにも言ってる、その、一番地? アングラな組織なんだと思うんだけど、それってようするに、この学園のことでいいのかな」
「その件については、深入りしない方が――」
「保身が好奇心に先立つくらいなら」碧は悪戯っぽく笑い、なつきの言をさえぎった。「そもそもこんなガッコでキョーシなんてやってないわよ。そこはそれ、一応大人ってことで信用しちくり。だいたい、HiMEでもない恭司くんが深入りしてるんだしさ」
「ああ、なるほど」碧のそのせりふは、ほとんど彼女の情報を吐露したようなものだった。つまり、高村がようやく尻尾を出し始めたのだ。

 また、得心したなつき自身の素振りも、碧にいくつかの確信を与えていた。少なくとも高村と彼にまつわる不明瞭な事情の一部か、あるいはすべてに、なつきが通じているということだ。

「やっぱり、お二人さんは浅からぬ仲ってことだ。なおさら気になるね。ねえなつきちゃん、たぶんあなたにとってみたら抵抗のあることなんだろうけどさ、話せる範囲でいいからあたしの疑問に答えてくれない? それならあたしも知ってるかぎり、なつきちゃんの知りたいことに答える用意があるよ」
「やけにこだわるな」やや呆れて、なつきは碧を見返した。「はっきり言って、知ったところで厄介事が増えるだけだ。好奇心でとおまえはいうが、わたしがそれを話したことでこうむるデメリットについては無視か?」
「それは堪えてとしか言えないな」苦笑して、碧。「でも、いつまでも知らん振りも決め込んでらんないでしょ。パターン的にさ、こう、のんべんだらりとオーファン退治だけやってられるような気もあんましないんだよね。なら、攻めあるのみって思うのよ。これっておかしいかな? 理由としては足りない?」 
「それはわたしが判断することじゃない」

 しかし、おそらく、高村恭司にはそれに足る理由があるのだ――。
 浮かびかけた反駁を、なつきは労せず押し止めた。他言してよい類の話題ではない。にもかかわらず碧を試すようにねめたのは、何かしらなつきの中に碧の態度に対する反感が芽生えたせいだった。杉浦碧という人間が悪質な存在だとは、なつきも考えていない。ただし無条件に信頼するには、碧はいささか〝大人〟すぎる。ポーズとスタイルを使い分ける人間の手強さというのは、なつきも幾度か経験していた。
 だが、ここでただ沈黙を貫くのは、子供の頑迷さでしかない。なつきは高村に、というより彼の境遇に肩入れしかけている己に自重を命じた。碧も高村も、なつきが目的を達するための駒としてこそ、有用に使うべきだった。

「ふん、そもそもそうなると、いま話を聞くべきはおまえではなくあいつだ。手間が省けたじゃないか」
「でも、恭司くんは今いない。まあ、死んでるってことはさすがにないだろうけど……相当ぼこぼこにされてたからなぁ」
「ぼこぼこ? オーファンにか。相変わらず、身の程を知らないやつだな」

 それでは命がいくつあっても足りないと接ぎかけるが、かぶりを振る碧を前に、二の句を止めた。

「いや、あの姫野さんだっけ? 理事長にいっつもくっついてるメイドさん」
「……はあ?」どこか、蒲公英のような印象のあるエプロンドレスの女を正しく思い浮かべて、なつきは聞き違いを疑った。しかし碧はやはり、高村恭司は姫野二三に痛めつけられたのだと繰り返した。「なんだ。いったいなにがどうなったらそんなことになる」
「だから、話せば長いんだって言ったじゃん……」

 戸惑うなつきを前にした碧も、同じくらい困った調子で肩をすくめた。



[2120] ワルキューレの午睡・第二部十節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:562093a6
Date: 2007/12/26 07:53



10.少女の死



 真田紫子は恋を知らずに育った。異性には決して触れなかった。両親は彼女と同じく厳格な信仰者であり、彼らは親というより教師だった。その生き方を踏襲するべく彼女は教育された。
 貞淑に、厳正に、清潔を旨にして神を愛した。
 信仰の発端とはなんだろう? それは啓示だと彼女は思っている。
 周囲の同類たちも、その意見には異を唱えない。誰もが、彼女の言わんとした微意を掴み得なかったためである。彼女は神を愛していた。経典をそらんじて熱心に戒律を守った。
 ただし内実は空疎だった。
 そうあるべくと教えられた。強いて逆らうほどの意思を彼女は持たなかった。がんじがらめの要素は彼女から自発的な行動を大方奪ったから、生来の大人しい気性は自分を元からそうした人間なのだと納得させ、さらに定義づけた。
 だが、信仰に関してはどうしてもよくわからなかった。思春期のはるか以前から彼女は真剣に考え続けた。神について、信仰について、御業について、奇跡について、天国について思惟した。答えはもちろん出なかったが、紫子はその理由を内に求めた。明解でないことは、自分自身に理由があるのだと強く思いこんでいた。
 どこかで、神に対して疑いを抱いていたのかもしれない。彼女は神に救われたこともなければ、信仰に心身を支えられた経験もなかった。七難八苦に遇されない身上が、常に後ろめたかった。教えを仰ぐ上位者が当然のように神の愛を説くことに対する嫉妬も、意識はされなかったが、あった。
 そのまま育った。
 挫折とも恋愛とも反抗とも無縁のまま、十九歳になった。義務教育を終え、高校を卒業し、成績優秀ではあったが進学は選ばず、神の仔となるべくそのまま尼になった。周囲では多くの人が彼女の選択を奇異な目で見つめた。紫子はまだ若く、美しく、優れていた。少々思い込みが強く空想癖はあったが、愛嬌で済ませられるものだった。そんな少女が社会に背を向けて僧籍へ入るのは、やはりひとしなみではなかったのだろう。
 紫子もそれは自覚していたが、疑問は持てなかった。これでいいのだ。そう信じていた。
 でなければ、自分の一生とは、なんだったのだ?
 悩むことが信仰なのだ。疑いを抱くことは罪なのだ。篤信こそが美徳であり、信じて殉じることが生涯の命題なのだ。紫子は潔癖で、お仕着せであろうとも十数年の生涯を覆すことはできそうもなかった。彼女はけがれを知らないまま、僧服に身を包んだ。
 啓示は得られないままだった。
 ときおり、とてつもなく寝苦しい夜がある。下腹部が疼き、全身が熱を帯びる。それは主に生理の直前に彼女を襲った。つよく抑圧された意識下で、自制を餌に育った衝動は近ごろほとんど怪物と化していた。
 夢でなら彼女は奔放だった。
 ありえざるべきことだが、夢中、偶像化された神と彼女はみだらに交わることさえあった。秘めることさえはばかられるような内容で、起き抜けに嘔吐感を催すこともしばしばあった。古今の聖職者が誰しも折り合いをつけられずにいた問題である。紫子は性欲に強い忌避を持っていた。にもかかわらず潜在意識のあらわれとされる夢で、彼女は放恣な妖婦なのである。撞着した理性は、負担を増し続けた。
 誰かに相談すればよかったのだろう。
 しかし、そんな相手は紫子の周囲にはいない。
 同じ教会に身を置く人々からは、常に妙な距離感と疎外感を感じていた。同僚の九条むつみは頼れる女性だったが、彼女の振る舞いは明らかに戒律から逸脱しており、紫子はむつみに対してはあこがれと軽蔑を同時に抱いていた。ジョセフ・グリーアに至っては父親ほどの年齢差があるとはいえ異性である。何を持ちかけるはずもない。
 他は年下ばかりだった。寮監でもある紫子と触れ合うのは主に風華学園の生徒たちで、彼女らにとって紫子は頼るべき対象でしかない。もしくは、口うるさい指導者か。紫子もそれは重々承知しており、またそれほどに親しくできるような存在も寮内にはいなかった。
 友人は、かつてはいたような気もする。しかし、今となっては皆無だ。風華の大学へ足を運べばいつでも会えるし、向こうは気安い顔をするかもしれないが、積極的に紫子とつなぎを取るような存在はいなかった。昔から紫子は周囲から浮いていた。生真面目すぎる姿勢がそうさせていたのだろう。悪感情からでなくとも、人は孤立しうる。
 本当に、容易に、人間は独りになってしまう。
 真田紫子の不幸は、それを理解できなかったことにあった。神と差し向かいするには、彼女の根幹は少女でありすぎた。

 ある平凡な昼だった。彼女はオルガンに向かっていた。清掃や寮の管理を終えて手持ち無沙汰になると、向かうような場所は教会しかない。神との対話は毫も彼女を慰めない。無心に鍵盤を叩くのは楽しかった。いつしか没頭して、賛美歌からクラシックへ流れ、童歌へ移って、誰も聞いていないのをいいことに街で耳に挟んだような他愛ないラブソングをアレンジして奏でた。踊る指は無意識になって、神も信仰も性欲も苦衷も瞬間、脳裏を留守にした。あとにいたのはひとり、少女の真田紫子だけだった。
 小一時間もうたっていただろう。気が済むまで弾き終えて、紫子は腰を上げた。それからほんの数秒で、彼女はシスターとしての全てを取り戻すはずだった。いつも通りの、矛盾と無自覚に満ちた日常へと再帰する。
 その直前の、もっとも無防備な瞬間を見られた。
 いつの間にか教会に闖入者がいた。紫子よりもいくつか年上の、ぎりぎり青年にとどまる年頃の男である。どこかで見た顔だと思えば、学園の美術教諭だとわかった。手にスケッチブックを持った彼は、やわらかい表情を紫子に向けていた。
 バタン! とオルガンの蓋を後ろでに閉じると、紫子は赤面してあたふたと弁解を始めた。寝姿を見られてもこうはなるまいというほど動揺して、涙目になって、どうか他言はしないでほしいと哀願し、真っ先に保身を考える自分に絶望して何も言えなくなり、うなだれた。
 美術教師はそんな彼女を見てちょっと笑った。恨みがましく紫子が顔を起こすと、彼は謝罪して、無礼かと思いましたが、とスケッチブックに描かれた鉛筆画を紫子に見せた。
 その少女は楽しそうに笑っていた。放心して絵を見つめる紫子に向かって、よろしければと画用紙が差し出される。無反応にそれを受け取るのを見届けて、教師は教会を出て行った。紫子はしばらく、オルガンを弾く自分を眺めていた。

 その後に、オーファンや、チャイルドや、またそれらにまつわる悪意を持った勢力についての話を彼から聞かせられる。そのために紫子は事態へ関わっていくのだが、それはさしたる問題ではない。重要なのは一点だけだった。
 つまり、彼女にとっての啓示が、この瞬間だったかもしれないということだけだ。


 ※


「どういうことだ?」

 予兆らしきものは何もなかった。海からの帰り道、ただ気がつけば、きりのない道に迷い込んでいた。
 センターラインを縁どる白線が、いつまでも続く。迂遠な高速道路でならばともかくも、美星海岸沿いの道路は広くはあるが基本的には一般の車道に過ぎない。安全運転を心がけているとはいえ、二十分も信号にも交差点にも行き当たらないはずはないのだ。
(迷ったのかな。どこかで道を間違えて……)
 もっともありえそうな可能性を検討したが、すぐに断念せざるを得なかった。
 高村は困惑しきった眼差しをナビゲータに向けた。逐次衛星とリンクして周辺の地図を更新する装置の表示は正しい。鳥瞰図は問題無く帰路を保証していた。
 しかし何かがおかしい。
 明文化できない違和感を視線に込めて、彼は後部座席を見やった。
 深優の紅い双眸は揺らいでもいなかった。

「何か?」
「何か、じゃない。わからないのか?」
「……何のことです」

 深優・グリーアは嘘をつかない。とぼけるということもない。
 明確な論拠があるわけではない。強いて言えば、彼女のパーソナリティにそぐわないというだけである。しかし高村は半ば決め付けるようにして深優の無器用な実直さか、もしくは融通の利かなさとでもいうべき印象を信じ込んでいた。

「いや」

 言葉を濁して、再度黙考に戻った。
 こと状況認識の正確さにおいて、深優を疑うのは現実的ではない。深優・グリーアが何も異常を感じとっていない。ならば変化は外部ではなく高村自身にあるということになる。
 心当たりはいくらでもあった。昨夜遅くまで発熱していた体は疲れきっていたし、いわずもがな彼の全身はいたるところに傷がある。
 精神的な磨耗も無視できない。既視感や未視感といった認識の錯誤は、一般に脳が困憊するほど増加するといわれている。まことしやかなその説を、今の高村に否定する理由はなかった。
 だが胸騒ぎがぬぐえない。
(なんなんだこれは)
 何もおかしいことなどない。道は続いている。途切れなく、永遠に繋がっている。それはまったく、地図のとおりだった。彼の仕事は、道なりに車を走らせることなのだ。過誤はない。
 一時間が経った。
 高村はまだ車を運転していた。先刻と寸分違わぬ道を走っていた。アスファルトの継ぎ目の数さえ、もう暗記できていた。
 もはや疑う余地はない。道は完全に閉じていて、どこにも通じていない。
(それは、はたして道なのか?)
 脳裏が疑問符で埋め尽くされる。不可解なのは、後部座席の二人がこの状況に何ひとつ疑問を覚えていないことだった。アリッサははしゃぎ疲れて寝こけていたし、深優はじっとその寝顔を見つめたまま、飽きるということを知らない。
 しかし何にもまして納得が行かないことがある。それはなぜ自分が運転を止めないのかということだった。
 ラットのように環をなぞる徒労を、高村は実感していた。後続や対向車がいっこうに通りかからないことも手伝い、彼は白日夢でも見ているような心地になっていた。助手席の窓越しに見える水平線の上で、日が照っていた。日没までにはまだ時がある。ガードレールの帰先を視線がたどる。途切れ目に崖が見える……。
 ふいに、車体に震動を感じた。高村は虚ろな目を進路に向けた。索漠とした意識で、前方を捉える。
 すぐに目が醒めた。
 対向車が真正面にいたのだ。

「――ぅお!」

 反射的にブレーキを踏もうとする足を押し止めて、高村はまず右側にハンドルを切った。トラックのフロントがすでに数メートルも置かない距離にあった。間近すぎてナンバープレートの表示まではっきり見えるほどだった。兵庫ナンバーだった。
 こめかみを焼く危機感に肩を強張らせながら、高村はアクセルを踏んだままサイドブレーキを上げ、拍を置いて下げる。
 甲高い音とともに車体のフレームがぶれて路面をスライドした。
 シートベルトにかかる慣性と連動して悲鳴を上げる傷にうめきをもらしたものの、なんとか無接触でやりすごすことができた。いつの間にか止めていた呼吸を再開し、崖の足下で偶然綺麗に停車させた状態で、高村は冷や汗をぬぐう。あまり上等ではなかった自分の運転技術を見直したいところだが、もちろんそんな暇はない。高村はシートの背後に首を向けた。

「アリッサちゃん、深優、」

 振り返ったとたん、高村の世界が暗転した。



 ※



 夏日の昼下がり、濛々と陽炎の立つ路上に、佇立するオブジェクトがある。

「ヴラス」

 ナイトのマテリアルを模した彫像の傍らで、胸に手を寄せ顔を伏せるのは、烈日に不釣合いな尼僧服の女だった。



 ※



 ――どうやら意識を失っていたようだった。押し問答のような声に高村恭司は覚醒を促された。

 いつの間に寝たんだろう。
 ぼんやりと呟いて、まばたきを繰り返した。バスの中は騒然としていた。おまけに、少しばかり傾いてもいるようだった。
 すぐに、彼が大学で所属する研究室の旅行先で、事故に遭遇したのだと思い出した。
 高村は窓際に座っていた。すでに日は暮れており、外の景色を見るともなく窓ガラスへ頭を預けていたとき、ふいにクラクションの鳴り響く音が聞こえたのだった。
 直後に体ごと振り回されるような衝撃を感じ、気がつけば気を失っていた。
 ようやく正気づくと、高村は顔をしかめた。
 窓枠にぶつけた頭がじんわりと痛んでいたが、ともかく大きな怪我はしていないようだった。それから彼は、隣席の同級生の無事をまず確かめた。眼を閉じた様に一瞬肝を冷やしたが、呼びかけると唸り声が返ってきた。どうやら気を失ってはいても、大事はないようだった。
 次いで、通路を挟んで座っていた教授の娘――天河朔夜の姿を探した。しかし、彼女の姿はどこにも見えなかった。
 朔夜がベルトを締めていたかどうか、高村はとっさに思い出せなかった。締めていたような気もする。しかし確信は持てない。ひょっとすれば、事故の衝撃でどこかに投げ出されたのかもしれない。
 彼女の名を呼びながら、慌てて高村はシートベルトを外し、席を立った。あちこちから苦悶の声が上がっていることに、彼はそのとき初めて気付いた。頭痛のためどこか現実味はなかったものの、たいへんなことになった、とぼんやり考えていた。ゼミの旅行は中止になるかもしれないと思った。
 彼の担当教官である天河諭教授は、最前列の席にいるはずだった。ふらつきながらも彼の姿と助言を求めて、高村は不安定な通路を歩いていった。
 彼がようやくバスの外の光景に注意を払うのと、ごく身近でくぐもった悲鳴が上がるのとは同時だった。
 悲鳴を上げたのは、バスの運転手だった。高村がそう判断したのは実際に運転手を見たためではなく、車中で知らない声というものに他に心当たりがなかったからだった。彼の眼差しは茫洋としたまま、びっしりとひびに覆われた窓の隙間から見える異形に、釘付けにされていた。
 けものだった。

(ちがうだろう)

 傾いだ視界のなかで、体表面を黝い毛並みに覆われた四足の獣が、喉を鳴らして高村を凝視していた。
 大きさが異常だった。二十人は乗れるマイクロバスの窓の高さに、その牙を剥き出しにした顔が見えているのだ。立ち上がれば、体長はあきらかに三メートルを超える。象でもなければありえない巨体だった。
 金縛りを解いたのは、獣のものと思われる低いうなり声が、高村の耳を打ったためだった。
 ――ひっ。
 我知らず、高村は息を呑んだ。ふだんならば、理解が追いつかずただ戸惑うべき場面のはずだった。しかし常識に先立つ本能的な恐怖があった。
「うわ、きょ、教授。教授、だれかっ」
 助けを求めるには、あまりにも芯のない、か細い声だった。運転手の悲鳴はいつの間にか途絶えていた。早々に失神したのだ。運転手も合わせて、高村の声に答える余裕のある人間は車内にはいないようだった。頼みの綱の天河は、これは娘と同様、いつの間にか姿を消している。
 生唾を喉へと送り込みながら、ともかく早くけが人を連れて脱出しなければと高村は思案した。横転しかけた車内に留まって、展望が開けるとも思わない。しかし、外に出た場合、皆をあの得体の知れない獣の前にさらすことになる。
 そこではっとある仮定に行き当たって、高村は表情を強張らせた。行方の見えない天河とその娘は、もしや外に出てしまったのではないか。少なくとも車内に二人の姿は見あたらない。となれば、発想の正否はともかとして、このまま見過ごすわけにはいかなかった。
 高村が意を決するまでにさほど時は要さなかった。彼は痛む頭を抑えつつ、昇降口へと体を向けた。案の定ドアが半開きになっているのを見ると、懸念はさらに深まった。
 いざ踏み出そうとすると、目蓋の裏に獣の眸が放つ剣呑な光が閃いたように思った。とたんにぎくりと体が凝って、彼は怯懦に立ちすくんだ。

(そうじゃない)

「教授、朔夜」
 かたく眼を閉じてそう呟き、高村は迷ったすえ運転席の脇に備えられていた発煙筒を手に取った。頼りないが、ないよりはましだと思った。
 一足で外に飛び出ると、高村はまず獣の姿を探した。道路は規模の小さな崖の谷間にあるらしく、周囲は薄暗かった。数十メートル先に街灯の光が見えたが、当座の助けにはなりそうもない。怪物と称するにふさわしい、得体の知れない獣の姿を思い浮かべながら、高村は呼吸を早めた。
 そろりとフロントを迂回して、サイドミラーの陰にひそむように、高村は獣がいた場所をうかがった。なにかの幻覚か、動転した自分の見た妄想であって欲しいと、心底から願っていた。
「そう。ツキヨミっていうんだ。うん。わかるよ……もう大丈夫だから」
 舌足らずな声が聞こえると同時に、はかない希望はあっさりと打ち砕かれた。獣は変わらず、うっそりとバスの側面に沿うようにして佇んでいた。
 さらに、その間近に朔夜の姿を認めると、高村は矢も盾もたまらず飛び出した。
「朔夜!」
 獣の注意を引くために、両手を振りながら大声を上げた。しかしびくりと肩を震わせたのは獣ではなく朔夜のほうで、その幼い顔が、いたずらを見咎められたような怯えに飾られて、高村を振り向いた。
「だれ!」
 緊張した声が、高村の姿を見つけると、すぐにゆるんだ。
「なんだ、お兄ちゃん」
「そいつから離れるんだ、朔夜」
「え、どうして?」
 事故に遭遇した直後であり、異常な怪物のすぐそばにいながらも、朔夜の声色は平静のそれだった。高村はむしろその変わり映えのなさに混乱した。もしかしたらあの怪物が見えているのは自分だけで、実は頭を打ったショックで脳に異常が起きたのではないかとさえ思われた。
 朔夜は、なだめるように微笑んだ。
「大丈夫だよ。ねえ? お兄ちゃん、この子、ツキヨミっていうんだって。けがしてるんだよ。かわいそうだよ。怖い人に追いかけられて、ここまで逃げてきたんだって。朔夜を探してたんだよ、ずっと」

(ああ……そうだ)

 幻でよかった。
 嘘であってほしかった。
 高村は『いま』、そう心から思う。
 だが、『このとき』の高村はそう思わなかった。
 むしろ、突如として舞い込んだ不可思議な体験に胸を躍らせさえしたのだ。
 彼の目の前に広がる景色はあまりに精巧だった。何もかもが寸分違わず四年前を再現していた。だからこそ彼は乖離に気付けた。過去と現在との隔たりは、それほどに大きく、深かった。連続性を持った自己でありながら、高村恭司のありようはそこまで偏向していたのだ。
 彼は胸に鈍痛を覚えた。
 その中心には空虚な穴が空いており、深淵の底では鋭鋒が常に彼を狙っている。このあとに起こるすべてを彼は知っている。おそるおそる朔夜に導かれるまま近寄って、異様な獣に触れようと伸びる自身の手を、高村はきわめて客観的に観察した。
(やめろ)と高村はいった。
「ツキヨミって?」『高村』がたずねた。
「だからぁ、この子の名前だってばぁ。ね、大丈夫でしょ」朔夜は無邪気に笑っていた。

「ばかめ」と、誰かが彼をあざけった。

 ささやきは過去に置き去られることなく、時間に追いついた。体内の空洞で反響する言葉に、高村はその通りだと相槌を打った。かなうならば泣きたいと思った。本当は死にたかった。このとき彼はつまり、絶望を学んだ。
 時間軸が錯綜する。
 嗚咽が喉の戸に押し寄せた。
 吐気をこらえるように、高村は両手で顔面を覆った。
「お兄ちゃん?」

「ちょっとお兄ちゃん?」アリッサ・シアーズの声がした。「そろそろ起きて!」


 ※


 女の手が、熱いものに触れたように跳ね上がった。目尻にアクセントをつける黒子の上を、冷や汗が伝った。

「どうしました?」傍らで無線機を手に趨勢を見守っていた男が、いぶかしげな視線を送ってくる。

 それに対して曖昧に首を振りながら、彼女は震える手でエレメントを握り締めた。
 揺れる眸の先には、ふらふらと危なげに振れる車体がある。

「もうひとりいる……?」


 ※


 盛大に火花が散った。フロントガラスが粉々に砕け、高村の目前で断末魔の悲鳴を上げる。同時にばきんと物騒な音が腰の下で響いた。背後からとんでもない力でシートの背もたれを引き倒せば、そんな音を鳴らすはずだった。
 九十度近く変転した視野に映るのは閉塞感あふれる天井ではなく、透きとおった青空だった。さらに、豊かではないがそれなりに質量のある乳房が、鼻先をくすぐっている。
 高村に覆い被さるような上半身は深優・グリーアのものに違いなく、彼女の手は高村に替わってハンドルを巧みに操作していた。

「なんだなんだなんなんだ! いつの間にオープンカーになってるんだこの車!」

 深優は一言で疑問のすべてを氷解させた。

「襲撃です」
「なるほど」高村は裏返った声で答えた。「は? なんだそれ。いつのまにそんなことになってるんだよ」
「ちょうど八十秒前、運転の途中で先生がこちらの呼びかけにいっさい応答しなくなったのと同時に弾着を確認しました。アリッサお嬢様のおみ足が先生の頭部に触れなかったら、先生の体積は八パーセントほど減失していたと予測されます」
「八十秒? 俺が? なんのことだか――」舌を噛んだ。「いてえ。まあそれはいいや。で、どこの誰の仕業だ!」
「本気でいっているのですか」さすがに深優の平板な声にも呆れが差した。
「言ってみただけだよ」高村は投げやりに呟いた。
「……」

 昨日の今日である。あれだけ奔放に敵の本拠地で好き放題暴れておいて、これまでのようなお目こぼしを期待するのはさすがに都合が良すぎる。そういう理屈なのだろう。理解はできる。
 しかし、

「それにしても、これは急展開過ぎないか……」

 高村は渋面で助手席へ退避しようとしたが、即座に深優の手に体を押しつぶされた。

「対物ライフルで狙撃されています。私が許可するまで絶対に体を起こさないでください」
「いや対物ライフルて……」顔色を急速に蒼褪めさせて、高村。「それたしか人間に向かって撃っちゃ駄目なやつだろう? 当たったら原形止めないうえかすっても死ぬってやつだろう?」

 深優は答えなかった。
 その沈黙が高村の危機感を煽った。面積を半分方に減らした天井から吹き込む強風はやけに涼やかだった。
 ところで、深優が思い切りよくハンドルをきった。銃弾を避けているらしいが、高村にはいったいどういう原理でそんな真似ができるのか理解できなかった。

「深優ミユ深優!」後部座席で身を潜めていたアリッサが声を上げた。「どっちどっち? どこから!?」
「弾道計算開始します」深優が正確な動きで手足を駆使するたび、魔法のように滑らかに車体は奔った。「終了しました。方角西北西、誤差は二、仰角二十三、距離二百――」
「わかんないよそんなの! 指でさして!」
「あちらです」

 すっと伸びた白い人差し指の示す方向を、アリッサの碧眼がとらえた。
 と、彼女の背にきらびやかな双翼が生まれた。幾何学的な模様の這う羽は軋みながら総体をかたどり、鋭利な切先が主の意識にしたがってうごめいた。シートが切り裂かれて綿が舞い、彼女はまるで天使だった。

「いけえ!」

 完全に屋根が吹き飛んだ。
 アリッサのエレメントが放つ攻撃は、逆流する光の滝だった。合板を吹き飛ばし、勢いを緩めないまま、沿岸の山肌を抉っていく。松林に大量の羽は吸い込まれて、針葉樹の葉をあたりに散らせた。

「当たった!?」
「いえ」深優が無情にかぶりを振った。「次弾来ます。数八」
「ハチ!?」アリッサが素っ頓狂な声をあげた。
「ああ、そっかそっか」蚊屋の外で納得する高村だった。「まあまともに考えたら、相手がひとりなわけはないよね」
「お兄ちゃん、のんきすぎるよー!」
「マルチプル・インテリジェンシャル・ユグドラシル・ユニット、起動」

 深優の左腕が剣へと変わる。
 無言の一閃直後、彼女の肩が大きく撓った。と見るや、耳を聾する不協和音が甲高く響く。
 飛来した大口径の弾丸を弾いたようだった。
(――なんだそりゃ。本格的にもうだめだな、これは)
 高村は呆れながら目立たない程度に両手を挙げた。
 もう自分が介入できる次元を遥かに越えてしまっている。
 諦めの吐息がねじを緩めたように、自動車のバランスが崩れた。タイヤを狙われたのだ。
 コントロールを失ったボディを、深優は絶妙の舵取りでガードレールにぶつけ、緩やかに停止させようと試みる。鮮やかなブレーキ痕をアスファルトに描きながら、最終的に車体が落ち着いたのは足下に海岸を臨む、山肌に沿うカーブがもっとも膨らんだ地点だった。おあつらえむきに遮蔽物は存在せず、そしてやはり周囲にほかの車や人影は見えない。
(海水浴客はどこに行ったんだ)
 それとも、「どこか」へ来たのは自分たちのほうなのか。いまだ白日夢の名残から抜けきらず、浮かぶ思考は実を結ばない。
 その間もアリッサはめくらめっぽうエレメントによる射撃を続けていたが、間を縫って飛ぶ深優の警句には、翼を閉じて防御に専念することを余儀なくされていた。
 高村は頭を低くしながら、唇を噛んだ。
 乗用車の装甲はライフルの前では紙も同然だ。その上足まで止められた。
 襲撃地点はあらかじめ設定されていたとして、気がかりなのは敵の規模だった。初期位置からはある程度移動したにもかかわらず、射撃は数を減じていない。相当な大規模で囲まれていることが予測されるが、だとするととどめの役を担う後詰めもすぐにやってくるだろう。しかし……。
(ハリウッド映画じゃないんだぞ)
 まさか白昼堂々、少なくない数の動員をして銃火器を用いた襲撃をしてくるとは予想外だった。襲撃の絵図を描いているのが一番地であることは疑いないが、この報復は彼らの第一原則である隠匿に真っ向から反するリアクションだ。不自然といえば、それは確かに不自然だった。
 気がかりはまだある。
 果たして、襲撃の主眼が高村に置かれているか否かという点である。前者ならば深優とアリッサは名目上巻き込まれたことになり、自ずから彼女らの異常性も露見したことになる。それ自体は構わないが、しかし後者だとした場合、多少問題があった。これほど早いレスポンスである以上、敵はシアーズの腹蔵をあらかじめ承知して風華に招き入れた可能性が生まれるのだ。

「ん?」

 と、そこで高村は己の過ちに気付いた。

「あぁ……。そうだ、そういえば昨日二人とも出張ってるんだった……なんだ、じゃあ気付かれて当たり前じゃないか」
「誰のせいだと思っているのですか」
「ごめんなさい」いつになく厳しい深優の口調におそれをなして、高村は首を垂れた。
「もー!」
 ふたりをよそに、アリッサが癇癪を起こしている。エレメントを展開して追撃を防いでいるようだったが、現状では打開策がないことに苛立っていた。
「しつこい! うざい! めんどくさい! 深優、いいよね!?」
「いけません、お嬢様」せわしなく全方位に注意を向けながら、深優が主人を掣肘した。「敵は使い魔ではありません。それに未だ――」
「知らない! せっかく楽しかったのに、もう、台無しじゃない! アリッサ、怒ったんだから!」

 少女は決然と翼を広げた。

「――Sancte deus」

 潮風が渦を巻く。

「――Sancte fortis」

 金色の髪が不意に輝いて、か細い腕が悠々と十字を切った。

「――Sancte misericors salvator」

 紫電が空間を縦横によぎる。帯電した大気は光背へ化成する。
 視えざるエーテルが、少女の唱に応えた。

「わが前に、メタトロン!」

 ――人造の天使が現れた。 
 イオン化する大気は居合わせた人間の鼻腔に、嗅ぎなれぬにおいを届ける。
 横薙ぎに衝撃が大地を舐めた。路面に光のナイフが突きとおされる。
 天使から放射状に放たれる熱波に吹きさらされ、高村は手庇の向こうに浮かぶ荘厳な威容に目を細めた。
 アリッサ・シアーズが擁するチャイルド、メタトロン。シアーズ財団が獲得したHiMEという力の最高峰といえる怪物だった。
 天使の名を冠した二翼の巨体は、単純な大きさだけで言えば高村が一度だけ見た鴇羽舞衣のチャイルドをも凌駕していた。肉眼で間近に捉えるその容姿は、神々しさよりも単純な生物的畏怖を呼び起こす。

「やっちゃえ!」

 指揮棒を振るうように、アリッサの指が漠然と空間を切った。と同時に、メタトロンの有機的な躯体が発光をはじめる。ほとばしるのは紫電であり、稲妻の穂先は四方へと無辺際に伸びていく。轟くのは、雷をスケールダウンさせたような鋭い響きだった。
 さすがにチャイルドの召喚は予想外だったとみえ、襲撃者たちの銃撃は一時的に停止していた。危地を脱したと判断し、高村も警戒を解いてメタトロンを見上げる。

「なんだか、前よりもでかくなってるような……」

 圧倒される高村をよそに、深優は無表情ながら仁王立ちするアリッサの背中を凝視していた。

「どうかしたのか?」
「いえ」深優はいつでも動きだせる姿勢のままだった。
「アリッサちゃん、うまく使えてるみたいじゃないか」
「当然です。彼女はアリッサ・シアーズなのですから」しかし、と深優はいいたげだった。「先生は追撃がないと予想しているのですか?」
「うん? それはそうだろう。だって、アリッサちゃんがHiMEだってばれた以上、こっちを爪弾きにする理由は少なくとも向こうにはないはずだ」

 一番地はHiMEを集め、HiMEの存在を完璧に隠蔽するが、HiME自身に積極的に干渉することはない。むしろ不自然なまでに巫女たちからは距離を置いている。
 何らかの規約によるものなのか、もしくは高村らの与り知らない理由が存在するのかはともかく、状況はほぼ確実にそのルールを裏付けている。鴇羽舞衣、美袋命、杉浦碧、そして結城奈緒の例を見ればそれは明らかだった。
 現時点で唯一の例外は玖我なつきだが、彼女にしても一番地の肝煎りというわけでは決してない。因縁から積極的に敵対しているというだけのことだ。
 そうした傾向に則するならば、アリッサがチャイルドを顕したいま、一番地があえて敵対する根拠は薄いように思えた。単純に戦力だけをかんがみても、HiMEを敵に回したところで利はないからだ。ならばすぐこの騒ぎも収まる。高村はそう分析している。
 だが深優の意見は別にあるようだった。

「そもそも」と彼女は言った。「ヴァルハラの門を管理する彼ら一番地が、もっとも重大事である一連の儀式とワルキューレたちの身柄についてそれほどの慎重策を取るメリットが未だ明確になっていません。現状での傾向がそうであるからというだけでの楽観は禁物です。ことは我々の生死に直結するのですから」
「それはもっともだが……」高村は不承不承、頷いた。「HiMEと距離を置く理由なら、例の刀のせいなんじゃないのか? あれが連中の核のはずだ。そしていまは美袋の手にある。少なくとも十五年遡っても美袋に一番地との接触がなかったのは調査部の人が行方不明者とか出しながら調べたから確かだぞ」
「しかし、霊刀ミロクの遺失から半世紀以上を経てなお、激動の時代を越えてくだんの組織は存続していたのです。そしてなによりも要目すべきなのは、ここ風華の土地のプロパティは彼らにあり、剣がいまやその胎内にあるということではありませんか?」

 高村は瞑目し、深優の言葉を注意深く吟味した。
 刹那に、メタトロンによる砲撃が途切れる。
 広がる感覚野に触れる異物感を正しく捉えて、高村は姿勢を正した。

「正論だ。そしてたぶん、その認識のほうが正しいな」

 目差した先に、不可思議な物体が在った。
 一見した印象は、一角獣のオブジェだった。
 もしくは、チェスの駒だ。生気の無い馬のデスマスクは石膏のように滑らかな質感に飾られて、浴びているはずの陽射しを全く照り返さない。そしてじっと見つめて高村も初めて気付いたのだが、その物体には影がないのだった。

「オーファン……」
「ちがうよ」深優の呟きを訂正したのはアリッサだった。「アリッサ、わかるよ。あれ使い魔だよ。メタトロンと同じ感じがするもの。メタトロンよりずっと弱そうだけど、なんかヘンな感じ」

 それはチャイルドであると少女は言い切った。
 であれば、と高村は思った。
 宿主がいることになる。

「……まいったな。いきなり仮説が崩れたわけか」
「好都合でしょう」

 応える深優の双眸は、太陽にあらがうように冷たい光をたたえたままだった。全身に帯びる空気もまた凍えている。
 焼けそうなほど熱をはらんだアスファルトに膝を落としながら、高村は表情にためらいをのぞかせた。
 機先を制するようにして、深優は彼を横目する。

「横槍はもうご遠慮ください」
「……」
「高村恭司。その人道的な配慮に、我々は一定の理解を示してきたつもりです。しかし」深優の言葉には力があった。「シアーズの総意に刃向かうのならば、よく考えて選ぶべきです。貴方の信条がどうあれ、また同じことを繰り返すのであれば、それはお嬢様の信頼に対する裏切りに他なりません。返報を、お覚悟の上で――」
「気のせいかな」高村がいった。
「何がです」
「説得してるみたいに聞こえる」

 深優は口をつぐみ、応えなかった。
 高村もまた、底意地の悪い質問だと理解している。
 緩衝材となりうるアリッサは、現れたチャイルドに釘付けされていた。友好的でない存在なのは確かだが、数十メートルほどの距離を置いて動きを見せないのは不気味である。救いなのは、正体不明のチャイルドが現れてから、厄介な銃撃がぴたりと途絶えていることだった。しかしそれももちろん、相手に退く気配が見えない以上は一時的なものだとしか判断できない。
 現状でもっとも警戒すべきことは、高村にとってそのいずれでもなかった。先刻から幾度も感じている意識の途切れや認識の錯誤についてだ。単純に『病状』が悪化しているということも考えられるが、タイミングが敵の襲撃と符合しすぎている。何らかの仕掛けがあると考えておくべきだった。
(いや、俺の頭じゃ休んでるのと同じだ)
 高村は頭を振ると、深優に向き直って苦笑してみせた。

「止めたりはしない。この状況でそんなことを言うくらいなら、最初から君らに協力なんてするべきじゃなかったんだ」
「賢明です」
「そういうわけで、俺はこの場を離れたほうがいいんだろうな。さすがに戦争屋とは張り合えない」

 嘆息を交えながらも、肩をすくめて軽口を叩く程度の余裕が高村にはあった。男としては含羞してしかるべき場面かも知れないが、そんな殊勝な心地に浸るには深優もアリッサも規格外に過ぎる。

「『離れる』。なぜでしょうか」と、深優が表情豊かであれば『なに言ってるんだコイツは』とでもいいたげな調子で、「戦力的にもっとも貧弱である先生が分離する意味がありません」
「あ、いや……そうなのか?」一緒にいたほうが危険だというのは、やはり素人考えなのだろうか。
 高村が前言を翻そうとした矢先、深優が手振りでそれを制した。

「いえ、そうですね――」

 深優は簡素に肯うと、口早に逃走経路を指示し始める。高村は何がなんだかわからないまま、彼女の言葉に耳を傾けた。
 そうして提示された行動方針は単純だった。深優がオフェンス。そして高村はディフェンスとして逃げの一手を打つという形になる。

「アリッサちゃんは?」
「お嬢様は」

 そこで言葉を止めると、深優は目線で背後のアリッサを、次いで真正面の高村をさした。何気ない仕草で自らの胸元を指先で叩き、かるく顎を引いて、高村をじっと見つめた。
 横目でふたりをうかがっていたアリッサが一瞬眸をさまよわせ、すぐに破顔一笑して歯を見せた。高村も深優の言わんとするところを察して、頷いてみせる。

「……お嬢様には、こちらに残っていただきます」
「ああ、わかった。まあ、なんとかなるだろう」

 海岸沿いの丘陵地帯を抜ければすぐに樹林帯に接するため、いくら土地鑑のある追手がいようとも逃げきれるだろうというのが深優の読みだった。

「待ち伏せされてるかも」
「できませんか?」

 口にして見せた不安には、挑戦的な眼差しが返された。

「まさか」
「ならば結構です」

 実際に深優の表情に変調があったわけではない。ただ、高村にはそう感じられたのだ。

「何を笑っているのですか」
「いや、少し惚れた」
「――では時計を合わせてください」深優は顔を逸らした。「ホットラインは確保していますね。しかし通信はほぼ確実に傍受されるでしょう。秘匿度の高い情報についてはいっさい口にしないでください。固有名詞にも符牒を利用するように。先生に異論が無いのならば、ユニットの上位権限で暗示を促進させることもできますが、」
「じゃあ頼む。正直そっちのほうは全然自信がない。自慢じゃないけど、俺は迂闊だ」
「正しい自覚であると支持します」
「容赦ないなぁ……じゃ、よろしく」

 脊髄と小脳に付設された高村の感覚および運動中枢を補佐するM.I.Y.ユニットにはいくつかの応用法がある。そのひとつが上位互換体である深優のユニットとの遠隔通信だった。高村が生身である以上相互的な情報の伝達は不可能だが、深優の側から高村のヴァイタルデータおよび位置情報を知ることはいつでもできる。また、親機である深優のユニットには、独断で高村のユニットを停止させる権限さえ与えられていた。
 しかしここで深優が口にした『暗示』とは、それらのデジタルな連結とは少々勝手が異なり、より即物的な行為を意味している。
 軍機を含む重度の高い情報を高村が知る上で施された、それは保険だった。意識に対して、権限者の許可なく情報を口にしないよう、リミッタが設けられているのだ。そうした投薬と専門の技師による処理を、彼は複数受けている。ディティールとプロセスは異なるが、つまり一種の後催眠暗示である。
 深優は手早く簡易的な手続きによってキーワードをキックした。
 とたんに深層心理に刷り込まれた暗示が、情動の浮沈を例外なく駆逐する。こうして高村の精神は一時的にフラットな状態へ引き戻された。次に正気づくまでに費やす時間はほとんど一瞬だったが、しかしその刹那の間に高村の認識は確かにフィルタリングされていた。
 試しに『星詠みの舞』に『黒曜の君』と発音しようとすると、頭の中で音と意味がほどけるように散らばって、形をなさなくなった。音声化もできない。

「いつやっても、これは不思議だなぁ」
「遊んでいる場合ではないでしょう」深優は子供をしかるように言った。もっとも、本当の子供である所のアリッサに対し彼女がこんな態度に出た場面を高村は見たことがない。「では、段取りどおりに」
「ああ。そっちも怪我しないように」
「私は人間ではありません。したがって、怪我もしません」
「なにいってるんだよ」高村は取り合わなかった。「アリッサちゃん!」

 アリッサは眸だけで応じた。ちらりと高村に見せた横顔でウインクして、令嬢にはやや似つかわしくない仕草で、ぐっと親指を上げる。
 まかせて、と言っているように見えた。
 高村は頷きを一度送ると、きびすを返し、その場を離れた。


 ※


 ふたりとわかれてすぐ、高村は携帯電話を手に取った。繋がらないかとも思ったが、電波はまだ通じているらしい。すばやく110番と119番をそれぞれコールして、場所と事件があることを伝え、連絡を切る。十中八九握り潰される通報だろうが、打てる手を打たない理由もない。ともかく衆目がある場所まで無事に逃げ切れば、今日のところはやりすごせるだろう。
 しかし――

「教師は、もう潮時かな」

 こうなった以上、これまでどおりの日常生活を営むのは危険が大きすぎる。
 思ったよりももったというべきではあった。しかし、早すぎるという感想を抱かずにはいられない。大体にして、凶報の到来は早すぎる結末を告げるものだ。
 ありていにいって、未練があった。
 高村にとっては、見方を変えれば渡りに船ではある。恐らく最後となるであろう日常を楽しんではいたが、日中学園に拘束される生活様式には限界を感じていたところだ。そもそも、最初に玖我なつきが自ら関わってきた時点で、彼があえて教師を続ける理由は失われていた。
 それでも惰性で続けていたのは、高村自身が望んだからに他ならない。
(それも、無事に帰れたらの話だな)
 この場での投降も含めて、次手を何通りか吟味する。
 高村が取る行動の基準は三つ存在する。ひとつはシアーズ財団が想定していたプラン。これはアリッサや深優といった財団内部でも会長派と呼ばれる派閥が練った計画表である。完成度にしても動員される規模にしても、現行では最善だろう。ただしその最善は、高村が最後までシアーズにつくという前提に基くものだ。そして高村の手ではどうしたところで流れを変えることはできない。
 ふたつめは、九条むつみが個人的に示唆したタイムスケジュールだった。基本的には財団の導く流れに沿いつつ、要所でジャンクションを設けて最終的に効果が生まれるように組まれているらしい。
 前者は物理的に、後者は能力的に、高村では全容を理解できない。実質唯一の切り札を用いたとしても、事態に一石を投じて波紋を生む程度が関の山だ。だからこそ、タイミングは慎重に計らねばならない。
 そこで第三の基準として高村自身の裁量に比重が傾くのだが、今のところ余計な場面に首を突っ込んで怪我を増やしているばかりなので、さすがにそろそろ保身に走らねば、愛想を尽かされそうな気もしていた。シアーズにも、むつみにもである。
(ただでさえ、アンチマテリアライザーの消費は予定外だった)
 過日、九条むつみが用いたマテリアルの精製には、高村が人生を百回棒に振っても釣りが出るほどの労力と費用と時間が注がれていた。誰が責めずとも、責任を感じずにはいられない。むつみは何も言わないが、彼女のシアーズでの部下の中には文字通り身の破滅を迎えた人間だっているだろう。
 小走りにアスファルトを駆けながら、高村は頭に巻かれた、汗のにじむ包帯をむしりとった。その日の朝取り替えた包帯には、もう血痕はない。姫野二三にはよほどうまく加減されたようだ。
(その割にはやたら頭を打たれけど)
 本来ならば精密検査が必要だが、高村のバイタルデータは基本的に深優を通して随時モニターされている。その点でも二三の『授業料』にぬかりはないらしい。
 高村は陰から陰へと移動しつづけた。
 近場に人の気配はない。セミの声だけは溢れている。すでに数百メートル後方となったアリッサと深優のいる場所からは、もう何の物音も聞こえない。
 何はなくとも気がついたら撃たれていた、という事態だけは避けなくてはならない。注意深く崖側にはりつきながら、高村は手庇をつくって空を見た。におい立つような濃い碧空は、まさに夏そのものの風情だった。海岸線にそびえるような入道雲は、近い夕立を予感させる。
 周囲の静けさは非日常の気配をまるで感じさせない。岬を渡る風に不穏を気取るのは、高村の逼迫した精神状態のためだ。
 高村は鼻を鳴らした。

「これでもうすぐ世界が滅びるなんて、誰が信じるっていうんだ」
「――ええ、本当に」

 声は頭上からだった。
 高村は、その出所を確認するため顔を上げた時点で致命的な間違いを犯した。落ちてきたのは声だけではなかったのだ。
 音も気配もなく飛来した銀紙細工でできているような光が、彼の胸を貫いた。
 痛みはなかった。悲鳴も上げられない。自分が死ぬという気も、不思議としなかった。ただ、高村恭司はさすがに理解せざるをえなかった。
 結城奈緒に出し抜かれたことにはじまり、姫野二三に完敗し、そして今また、凡庸な過ちを犯してしまった。
(ここまでってことなのか)
 舞台は端役をそでに押しやろうとしはじめていた。
 表立って自分が踊る必要性は、もうないのだ。


 ※


 赤錆の浮いた電波塔に、コイル状のモーメントで電流を流す。アリッサ・シアーズはチャイルドに命じて鉄塔を巨大な電磁石へと変えた。電波妨害と、付近一帯の電力を落とすためである。物質の透磁性や伝導係数を考慮すれば滅茶苦茶な現象ではあるのだが、チャイルドの特性を用いれば実質不可能なことはない。HiMEと呼ばれる力の本質は、実際的な自然現象としての燃焼や放電ではなく、あくまでそれを模倣した結果を現出させることにある。アリッサは理論としてその理を解してはいなかったが、感覚的には充分に直観できていた。
 かといって、HiME――アリッサがワルキューレと呼ぶ少女たちがそのまま万能の力を持つことにはつながらない。認識や出力の限界は厳然として存在する。九条むつみの理論によれば、根本的な仕組みとして能力に対するリミッタのようなものが設けられているのだという。
 そしてそれは、同種の存在を駆逐するたびに外れていくのだとも。
 もっとも、アリッサにはどうでもいい話だった。難しい話は得意ではない。意欲があれば理解できる素地はあっても、少女には他に興味深いことが山ほどあった。同時に、自分の役目に直接関係のないことには極力無知でいなくてはならない。それは時として常識が枷となるワルキューレの立場を案じられての処置だ。

「フンフフ、フーン」

 鼻歌をうたいつつ、森を抜けていく。目的地は手持ちの携帯電話が案内してくれる。
 常にそばについて離れない深優・グリーアは、いまアリッサのもとにはいなかった。本人の設定はともかく、深優の現状でのプライオリティは敵性体との交戦に置かれている。そしてアリッサも、深優とわかれてすぐ高村に追いつくつもりだった。先ほど路上で交わしたやり取りは盗聴を警戒してのものだ。

「お兄ちゃんは、どっこかなー」

 当面、深優やジョセフは、アリッサが戦闘するにあたってあるひとつの制限を設けていた。それは、敵性のチャイルド――シアーズにとっては使い魔――が複数でなければ、極力彼女の『メタトロン』を行使するべきではないという方針である。
 理由はアリッサには教えられていない。相手が単騎ではものたりないと思うアリッサも、強いて逆らうつもりはなかった。
 無論、火の粉を払う場合は話が別だ。

「ふぅん――」

 散歩のように軽いステップを止めて、アリッサは歌を中断した。
 木蔭から複数の気配が現れて、彼女に銃口を向けていた。

「……だれ?」

 バイザーの降りたメットにタクティカルジャケットという出で立ちで統一された、計六人のチームだった。アリッサも何度か触れたことのある、職業的な軍人に近い空気を身にまとっている。昨日、洞窟の中で軽く揉んだ男たちと同種の空気だ。
 油断なく銃をかかげたままで、ひとりが声を発した。

「アリッサ・シアーズだな」
「そーだよ」

 全員が微妙に距離を取った配置で、アリッサを扇状に包囲しつつあった。エレメントやチャイルドによる攻撃を警戒して、木立を巧妙に盾にしつつ囲みを狭めようとしている。
 アリッサがつぶらな瞳を揺らしながら首を傾げると、再び声が語りかけてきた。

「我々は全員、対電撃用の備えをしている。抵抗は無駄だ。チャイルドや、エレメント、それに類する力を行使するな。大人しく投降すれば手荒な真似は加えない」
「なにいってるかわかんなーい」

 唇を尖らせる。アリッサの真正面に立った男は、くぐもった声でいい直してきた。

「何もするな」
「やだよ」

 顔いっぱいに笑顔を咲かせて、アリッサは片手を振るった。正面の男はためらいなく銃爪を引いた。

「わ」

 銃声はひとつで、アリッサも驚きに悲鳴をあげただけだった。放たれた弾丸はあらぬ方向を貫いている。
 発砲した男も含め、アリッサに迫っていた六人すべてが一瞬地にふして痙攣していた。全身を棒のように硬直させ、声もなく激痛に喘いでいる。
 アリッサは胸に手を当て、大きく息をついた。

「びっくりした。いきなり音おっきいよ」

 頬を紅潮させ、歩みを再開させる。足下に銃を撃った男を見たところで、思い出したように告げた。

「ホントに電気を流してるわけじゃないんだから、ゼツエンタイなんかいみないよ」

 いわゆる超能力といった、HiMEに類似した力は世界中で例がある。しかしアリッサが振るうのは、紛れもなく元々はこの国から来た力なのだ。なのに原住民が知識に精通していない。それはアリッサをして妙だと思わせることだった。
 しかし次の瞬間にはもう懸念を忘れて、アリッサはオーファンを召喚することにした。少なくともあと何人かが、アリッサのいる高台の林には配備されている。せっかく口うるさい深優がいないのだ。邪魔をされず高村に合流してそのままどこかに遊びに行きたいのに、今度は知らない連中が余計な面倒をかけてくる。
 と、そこまで考えて、アリッサは足を止めた。

「あれ」

 森の中で、ぐるりを何度も見渡す。

「アリッサ、どうして……」

 敵の使い魔と対峙していたはずなのに、なぜこんなところに移動しているのだろう。
 算段ではあった。深優を山中に飛ばして迅速に各個撃破させる。その間にアリッサは敵性の使い魔を目に見える場所に釘付けにして、可能ならば打倒する。そのあとで高村に合流し、支配圏から離脱する――。
 そのはずだった。
 その過程の先に今があるはずだった。
 だが、この森に至るまでの記憶がない。
 少女の感性が、違和感と危険を同時にとらえた。何かされた。もしくは、何かを『されている』。
 動悸が速まる。背後をおびやかす凝視の気配を、確かに感じていた。草地に膝をつきながら翼のエレメントを展開する。
 風が森をわたる。

「……だれ」

 曇天下とはいえ充分に明るいはずの景色が、夜のそれに変貌した。群生する針葉樹が笑いさざめきアリッサを囲う。
 遥か頭上に銀の月。
 深淵の底流に身を浸す樹海。
 白銀が世界を化粧する空間に彼女はいた。

「ここ……」

 見覚えのある景色だ。凍える空気も同様に。
 現実から離れ、極東からは何千キロと離れた生まれ故郷にアリッサはいる。
 今はもうない、三歳までを過ごした研究所の敷地内だ。

 ものごころ、という認識をアリッサは持っていない。生まれた瞬間から彼女には自我が植え付けられていた。だから彼女が獲得したのは、ただ肉体の作用のみである。
 通常人間の感覚は、生まれつき長じているものではない。視ることも聴くことも、母胎から出、外界に触れるうちに生育順応する。従って生まれた瞬間を知らないのは単純に記憶力だけの問題ではない。物理的に周囲を認識することが困難な状況だから、保存することができない。
 たとえば成人の意識が嬰児の肉体に宿れば、たとえ神経プロセスの問題を無視したとしてもほどなく発狂するだろう。
 アリッサは違う。
 感覚に先立つ自意識があった。集団内の異物という自己が認識できていた。生まれた瞬間から、彼女は大きなものの一部だった。群体『Alyss-A』の153番が彼女の役回りだった。アリッサの起源は機械的な役割に根ざしていた。
 植え付けられた自我。しかし、発露したのは彼女独自の人格だ。
 ふたりにひとりが不適格として機能停止を迎える『Alyss-A』たちの中で、他の追随を許さない高次物質化適性を発現させた異常性がきっかけである。

 ――153番。
 彼女のルーツは、東方で産まれ、生き、そして死んだ、ある少女にあった。
 だから、雑種と呼ばれた。
 シアーズ内部でレイシズムの風潮が極端なのではない。しかし『アリッサ・シアーズ』の原型は、現総帥の、十年以上も前に死亡した孫娘にある。

 ――『Alyss-A』。
 プロジェクトの発祥は、ただ、失われた命の蘇生を目差しただけのものだった。
 それがいつしか、来る戦いのための人形製造へと主眼を変えたのだ。
 よって、後半のナンバーの鋳型にはもとの『アリッサ』の細胞が用いられているが、HiME能力への親和性のため、遺伝子には幾度も改良が施された。趣旨から逸れ、機能だけを追い求めた極限が、アリッサを始めとする『Alyss-A』たちである。

 ――仕組まれた『アリッサ』には共通した特徴があった。
 彼女らの多くが、生まれてすぐ父性を希求したのである。それ自体は、アリッサも例外ではない。父がすべて。父の役に立つことが存在意義。シアーズが、父が求める『黄金時代』のために自分たちは生まれた――。
 アリッサは違う。
 同じだが、少しだけ違う。彼女の組成に関わる部位には、ワルキューレになりそこなったワルキューレがいるからだ。彼女の名も存在も、アリッサは知らない。だが確実に影響下にある。

 ――いつのまにか、吹雪いていた。

 半ば雪に埋もれて、アリッサは暖かみを感じている。この世界には安定があった。孤独は寂寞を彼女にもたらすが、膨大な同位体に個性を紛らわされることもない。アリッサがアリッサでいられるのは、誰かに選ばれた瞬間だけだった。
 たとえば、『父』に一度だけ抱いてもらった記憶。それ以前も以後も、顔を合わせることのない人物が与えた温もりが、アリッサの原風景にある。
 そしてもうひとつ。
 とぼけた顔をした、あの東洋人の青年。彼と初めてあった瞬間に、アリッサは強烈な引力を感じた。愛情ではない。その対象は『アリッサ』にとって父だけだ。だが彼から眼を切れない。
 最後に――認めたくないが、認めるしかない。深優。深優・グリーア。無愛想で無表情で無感動な彼女。いつもそばにいてくれるあの少女。アリッサと、深優と、そして青年。この組み合わせは意識されないまま、アリッサの中で不可侵の領域を形成していた。
 どうして――?
 問い。アリッサは答えられない。
 降りしきる雪が声を掻き消した。
 皮膜のように霜が降りた表情が動く。手を伸ばせば届く距離にたたずむ少女の存在のためだった。

「ミユ?」

 に、よく似ていた。
 だが、違う。深優・グリーアは悲しそうな顔など決してしない。少なくとも、まだできない。
 深優に良く似た誰かは、何ごとかを言葉にしようとして口を開くと、すぐに消えた。

「読まないで……」アリッサはひどくゆっくりと発音した。「もう、わたしを、読まないで……」

 動揺の気配が周囲に漏れる。それに対してさして反応もせず、アリッサは重たくなるまぶたに反抗できない。
 精神の眠り。それは死に近い。

 心を透徹するチャイルド、『聖ヴラス』の影響下で、アリッサは緩慢に死へ向かって歩いていく。
 やがて、完全に瞳が閉じられると、アリッサ・シアーズの心臓が鼓動を止めた。


 ※


「え……?」

 ヴラスと精神を同調させていたカソックの女、真田紫子が、茫然と声を漏らした。慄く口元を抑え、見開いた眼を伏臥する少女へ向ける。つい先刻、紫子の奏でるオルガンに合わせてうたっていたアリッサは、身動き一つ見せない。
 その精神も同様だった。
 もとより鈍かった精神の返す反応が完全に消えた。熟睡のなかでさえ途絶えない精神活動が、停止したのだ。

「どうしました? シスター」
「うそ……。そんなはずは……だって、ヴラスは人を傷つけたりなんて……」

 背後の声に答えることもできず、紫子は強張った指で襟元のクルスを握りこんだ。金属の突端が手中に食い込むが気にならない。いや増す動悸、呼吸がうまく行えず、急速に視野が狭まった。先刻、高村恭司を射たときから忍び寄りつつあった罪悪感が一挙に水位を上げ始めている。懸命に声をかけてくる傍らの存在にも応えられず、彼女は青白い顔を伏せた。
 しかし、その視線の先には倒れ、拘束された高村恭司がいる。たまらず目を閉じて、嗚咽をこぼした。

「シスター!」
「無理です、やっぱり、私には、こんなこと……」ふるえる声で紫子はうめいた。「無理だったんです。だれか、あの子を助け、助けてあげなくちゃ……」
「落ち着いてください、シスター! なにがどうしたというんです!」

 しきりに声を上げるのは、長身の青年だった。眼鏡の奥で細まる柔和な眼差しが、緊張感に歪んでいる。力なく首を振って、紫子は彼を見返した。

「先生、これは、本当に、子供達のためなのですか……?」

 縋る心地に、青年は一拍沈黙を落とすと、柔らかく微笑んだ。

「そのとおりです。辛いかもしれませんが、どうかご理解ください。シスター……あなたもわかっているはずです。このまま彼を」と、青年が高村を見下ろした。「引いては彼らを自由にさせては、大変なことになる。生徒たちにも被害が及ぶ。いえ、すでに及んでいるんです。いつ誰が犠牲になってもおかしくないんだ。僕にはそれを放っておくことはできません」

 熱っぽい口調に諭されて、紫子もようやく平静を取り戻しつつあった。あるいは、心を別の色で染められたのかもしれない。その危険性は紫子もおぼろげに感じ取っていた。だが、抗えない。その種の麻薬めいた魅力が、男の声にはあった。いや声だけではない。姿が、指が、目が、なにがしかの引力をもって紫子を惹きつけた。心のどこかでおびえる一抹の不安さえもが、この衝動に身を任せる快楽をいや増させていた。
 誰もが落ちる陥穽に彼女はいた。同時にたいていの人間がいつしかそなえる階梯を、彼女は持っていなかった。かわりに手には円匙があり、ますます深みへと掘り進んでいく用意だけが整えられている。
 吐息は腐乱した果実のように甘い。毒と知りつつ鼻先を寄せてしまう妖しさがある。

「わかっています。必要なことです。先生のおっしゃっていた通り、彼らはとても……とても罪深いことをしようとしています。先ほど、それは確信いたしました。けれど……」

 彼女は十一番目のHiMEだった。
 紫子自身は知る由もないことだが、玖我なつきを端緒として、能力を持つ巫女の席の数は十二ある。その席にアリッサ・シアーズは含まれていない。また彼女らの闘争が持つ真の意味も、紫子は知らされていない。ただ外洋の勢力が悪意を持って学園の秘密を狙っているとだけ教えられていた。
 疑問はあったが、それを上回る感情があった。信頼ではない。単に、彼の役に立ちたいという、ひどく利己的な思惑が紫子の動向を示唆している。

「わかりました」と、男は心苦しげにうなずいた。「確かに、そうですね。シスターを争いごとに巻き込むなんて、僕がどうかしていた。すみません、こんな危険な目にあわせてしまって……。ですが」
「わかって、います」ひりつく喉を鳴らして、紫子は何度も頷いた。数百メートル離れた車道に置いたチャイルドを消して、ほっと息をつく。

 それから、手短に、入手した情報を口伝えにした。紫子にとっては意味のわからないことばかりだったが、男にとってはそうではないようで、彼は細い目をみはって、何度もしたり顔で頷いていた。

「お役に立てたでしょうか……」
「充分です。充分ですよ、シスター。これでみんな、守れるかもしれない」

 彼の破顔に救われる想いだった。すると不安が、最前のアリッサへと及ぶ。紫子のチャイルド、ヴラスは対象の意識や記憶を丸裸にして、彼らが視る現実を自在に改ざんすることができる。一度に異なる世界を発現することはできないが、距離さえ離れていなければ複数をまとめて術中に陥れることもできる。個人を相手取った場合には、ほぼ無敵といっても良い能力だった。この能力を用いて、彼女は彼と協力し、学園近辺に現れたオーファンを倒したことがある。
 しかし、人に対して能力を用いたのはこの日が初めてだった。高村恭司に相対したときには、常と同じだった。ついでアリッサをターゲットにしたのだが、予期せぬ異変が起きた。
 読まないで――。
 アリッサの声が耳に張り付いていた。現実として聞いたわけではないが、ヴラスを通して紫子の意識に、その哀願は確かに伝わっている。いたいけな子供を傷つけ、人事不省においやった可能性が頭から離れない。
 不吉な考えを振り払い、紫子は腰に力を入れた。差し伸べられた手をおずおずと取って、男の横顔を盗み見るようにうかがう。緊迫した面立ちで、彼はどこかしらと連絡を取っているようだった。
 そのまま見つめていたい気持ちを自覚すると、即座に視線を切った。含羞もむろんだが、状況を鑑みた後ろめたさが圧倒的だった。すぐそばで倒れる高村の素性がどうあれ、紫子自身は彼をあまり悪人だとは意識していない。だから、エレメントによる狙撃も相当手加減した。しかし高村の眠りは予期せぬほどに深い。先ほどの精神干渉がまた慮外の障碍を残しているのかもしれない。
 急に恐ろしくなって、紫子はひそかにヴラスを喚んだ。高村の心が無反応な、廃人のそれだったらという心配を引きずったままでは帰れない。
 一角獣のオブジェクトの相貌がきらめいて、振動する。眼光が伏臥した高村を捉え、彼の心を丸裸にした。
 紫子はそして、夢に少女の姿を幻視した。
 同時に、上空に音もなく巨大な天使の姿があらわれた。


 ※


 深優・グリーアは迷いも躊躇もなく最善の選択を最速で行う。四百六十メートル離れた位置にいるアリッサ・シアーズの心停止を確認すると同時に、無力化させた六人の狙撃手を全員殺害した。周囲に他の生命反応はない。高村恭司は数分前に意識を失ったが、すぐに覚醒して、以来動かずにいる。予定合流地点に向かっていないことから拘束されているのかもしれない。だが現状での優先度はアリッサにある。
 鼓動停止のシグナルを得た一秒後にはもう飛翔していた。森を眼下に置いて、脚部パーツを拉げさせつつ、深優は風を置き去りにして奔った。障害物はすべてなぎ払った。指部マニピュレータが数本千切れたが頓着しなかった。梢の枝が顔面の皮膚を深く割いて擬似血液を溢れさせるのにも構わなかった。五秒後にはもとの車道に戻り、胸を押さえて伏せる小さなアリッサの姿を確認した。体温が異常にあがっている。高次物質化能力の暴走が始まっていた。

「コード404、エマージェンシー」

 すぐさま衛星『アルテミス』とのリンクを介して媛星とアリッサとの供給パイプをカットするべくコールした。コンマ五秒に百四十四回のコール繰り返しその全てにエラーが返された。原因は不明だ。アリッサへの『力』の流入は収まらない。アリッサの心臓がそのとき、一度だけ、微弱な反応を起こした。それきり、完全な沈黙へ回帰する。まるで末期の揺らぎだった。深優は主人の呼吸と脈が絶えたことを物理接触で確認した。
 黒い。
 そうとしか表現できないものが擬似思考プロセスを蔽いつくした。深優はプログラムに組み込まれた一切の人間的な処理を忘却した。そのうちいくつかはそのまま棄却される。表情APIが軒並み潰れた。戦闘ルーチンの中核が二十パーセントオミットされた。そのかわりにアリッサの救命・延命処理に関しての天文学的容量のデータがダウンロードされた。文字通りの刹那に、MIYUは性能以上の電子演繹を履行した。半径数十キロに点在する大小問わないすべてのサーバをハングアップさせるほどの暴力的な手際であらゆる医療情報をダウンロードした。痕跡についてなど考えも及ばなかった。深優を深優たらしめる最重要の存在が壊れつつある。その前では倫理も、規定も、コードも、使命も、思慮の外だった。

「コード409、人工ワルキューレ、アリッサ・シアーズの緊急蘇生処置を実行」

 エラーだった。
 暗い。
 比喩ではなく、深優は絶望を学習した。この場での開胸手術から最寄の病院への搬入、さらには一番地への投降と情報提供を引き換えにした場合のアリッサが助かる可能性等々、数百も検討した。成功確率が五パーセントを上回るものはひとつもなかった。時間があまりにも切迫しているのだ。その間もアリッサへの流入は続いている。心臓は電気マッサージで揺り返せても、すぐにこの小さな体は生物としての輪郭を崩してしまうだろう。深優は憎しみを抱いた。何に対してか? それはわからない。強いて言うなら世界に向けての殺意だった。現実を拒絶する心が芽生えつつあった。
 一方、頭上でアリッサのガーディアンであるメタトロンが暴走状態に入ろうとしている。深優は反射的にアリッサの体を抱えて待避行動に移る。助けを。助けを求めなくてはならない。
 だが、誰に?
 天を、翼を広げつつあるメタトロンを仰いだそのとき、彼女の電脳に短くつたないメッセージが届いた。

 【Kyouji.T(16:44:03/09/07):まかせろ】

 それが悪魔の囁きでも、このときの深優ならば迷わず乗っただろう。疑義の余地はない。放電するメタトロンの攻撃をいなすと深優は跳んだ。崖をかけのぼり高村の心拍が示す座標へ邁進した。追随する天使の巨体は彼女に倍して早い。ソニック・ブームが細い木立をたわませ花粉の気流を渦巻かせた。高村を狙っているのか? 深優はすでに限界を超えた躯体をさらに酷使すべくコードを自前で改変した。最上級装備であるミスリルドレスがないのが『悔やまれた』。 悔やまれた? 深優が平静だったならば、その感情をいぶかることもあっただろう。だが今の彼女は、ただアリッサを助けるための機械と化していた。少女を腕に抱えたまま、高村がいると思しき地点に接近する。いち早く現場にいたメタトロンは発光して砲撃の準備についていた。深優は迷いなく手近な木を選んで足場にし、駆け上り、樹上に躍り出た。空いた片手にアンチマテリアライザー・ブレードを発現させ、一切の迷いなくメタトロンの片翼を切り裂いた。歌声か、でなくば怨嗟のような悲鳴が天使から立ち上る。血の飛沫で半身を染めて、アリッサだけをかばいながら無様に深優は着地した。バランサーが破損していた。左足が脹脛から折れて、肉を突き破り骨が現れていた。邪魔なので切り落とした。深優は視界に高村の姿を探した。

「こっちだ」

 憔悴した声を拾って、すぐさま片足で跳んだ。高村は幹に背を預けていた。上空で未だ絶叫するメタトロンを見、ついで青白い顔のまま深優と抱かれたアリッサを目にした。痛ましげに眉が寄せられている。深優は無言で彼を促した。
 高村は静かに頷いた。

「アリッサちゃんを寝かせてくれ」

 言われるままにした。言語化の間も惜しんで、深優は高村のユニットへ、彼がそれを読解できないことも忘れ大量の疑問を送りつけた。それを察してか、高村は消耗した顔で力強く笑うと、「大丈夫だ」といった。「まだ間に合う」

「どうするつもりですか?――いえ、それよりも早く、アリッサ様を」
「わかってる。なあ、深優、これから見ることをさ、」と言いかけて、高村は首を振った。
「先生?」
「いや、なんでもない。――じゃあ、なんとかしようか」

 呟くや否や、高村の手に光が集まった。蛍光か粒子のようだった。空からは地に突き刺さると爆発する羽が大量に吹き降りていた。深優は終末的な景色で、アリッサの顔だけをただ見つめた。
 そして、高村の手に短剣が物質化された。深優は当然だが表情を変えず、何一つ言及はしなかった。ただ時間の歩みの遅くなることを痛切に願っていた。アリッサの心配停止から、三十秒が過ぎていた。
 高村の手がひるがえる。
 剣の切先がアリッサの胸に添えられた。
 深優はここではじめて声をあげた。

「何を」
「大丈夫だ」高村は血を吐きそうな声でいった。「大丈夫だ。アリッサちゃんがこれで死んだなら、深優、俺を殺してくれ。――はは。おまえは覚えてないんだろうけど、実はこの台詞も、初めてじゃない」

 短剣が、深々とアリッサに突き立てられた。


 ※


 高村が目覚めたのは教会の地下だった。隣のベッドではアリッサ・シアーズが健やかな寝息を立てている。その柔らかい頬を指先でつつくと、彼は嘆息した。笑いかけて、目頭を押さえ、発作的に土壁を拳で殴った。痛みが肩を走りぬけた。
 ほかに人の姿はない。
 彼はその場を後にして、亡者のような足取りで、教会の外へ出た。
 すっかり夜になっていた。いよいよ翌日に控えた祭のために、思ったほどの静謐は望めない。ただし、星だけはどこまでもよく見えた。忌むべき媛星もあかあかと赫いている。
 教会の裏手に回ると、土肌にそのまま腰を降ろし、高村は茫洋と空に対峙した。終わったな、と呼気だけで呟いた。深優に見られてしまった。今ごろはシアーズの上部にも報告がいっているだろう。こうして空を見つめられるのも、今が最後に違いない。

「なんだろうなあ。どうしてなんだろう。見捨てる覚悟だって、してたはずなのに、黙っておけば済むことなのに、そうしたら、自分は落ちなくて済むのに、なんで、誰かを助けたいなんて思うんだろう」
「後悔しているのですか?」
「いや、それがないから、つまり問題はそこなんだろうと思ってた」

 不意の声を振り向かないままで、高村は答えた。

「感謝します」
「なんだよ急に。いいよそんなの。あれはな、ほんとうにさ、そういうんじゃないんだよ。未必の故意ってやつなのかな。いや、薄々はわかってたのさ。俺は、どうもそんな大それた器じゃないってことだったんだ。俺はな、深優、前の君がいなくなってしまって、何もかもなくなって、それからあの人にあって、色々と知ってから、考えたんだ。とても考えたんだよ。無い知恵絞って考えて、誰の味方するかも選んだんだ。それが意味するところ、つまり誰を見限って、誰を助けないってことなんだとか、傲慢な悩みも持ったりしたんだ。いま考えるとお笑い種だ。結局、その覚悟にさえ、殉じ切れなかったわけだから……」
「とりとめがない言葉ですね」
「うん。ごめん」高村は乾いた笑いをあげた。「なんだろうな、へこんでるけど、俺は今、感動してる。あのとき、深優が身も蓋もなくあっちこっちにシグナル飛ばして、俺のユニットも励起されたとき、凄いな、って思ったんだ。ああ、深優は必死になってる、アリッサちゃんを本当に助けたいんだろうってさ。その気持ちに、打たれたっていえば聞こえはいいけど、要するにただ、俺は甘えてただけなんだ。考えたけど、それだけだった。頭の中だけのことで、目の前であのかわいいアリッサちゃんが死んでしまうってことを、ちっとも理解してなかったんだな。何もできないなら、きっといたましく思っても、それだけだったんだろう。だけど、似たようなことは前にもあって、それで今度は助けられるかもって思ったら、当たり前みたいにしてた。自分以外にとったって致命的な選択なのに、迷いもなかった。いや嘘だ。ごめん、ほんとは少し迷った」
「そうですか」
「だけど、結局、やってしまったんだ。で、後悔してない。思慮が足りないってことなんだろうな。そういえば前にも、誰かに脳みそが足りないって言われたっけ。実際ちょっと減ってるんだけど、やっぱりあのときに、どこかに落としちゃったのかなあ」
「……」
「深優、調子はどうだ? 怪我は問題ないのか」

 ようやく深優・グリーアを顧みて、高村は問いかける。

「ええ。活動には支障ありません」

 というには、少女の姿は満身創痍だった。右手と左膝下は丸々カモフラージュのギプスで保護されている。お揃いだな、と高村は笑った。深優は普段以上の無表情で、その頬にもガーゼが貼られていた。人工皮膚が定着するまで十数時間はかかるのだと言う。

「女の子なんだから、顔の怪我にはもうちょっと気を遣おうな」

 高村の軽口を無視して、深優が静かに眸を伏せた。

「高村恭司。貴方は、私たちに敵対するのですか?」
「ああ」高村は自分で思うよりも、ずいぶん軽妙に頷いていた。「正確には、そのつもりだった。もうおじゃんだ。わかっているだろう」
「なぜ」と問うてから、やや遅れて深優が補足する。「つまり、それならばなぜ、アリッサ様を?」

 難しい質問だ、と感じるのはごまかしに過ぎない。高村は率直に己の心理を認めた。

「死なせたくなかったからだ。それだけだな。結城のことも、結局、それに尽きる。俺はとんだ甘ちゃんってことだ」
「矛盾ではないのですね」
「そうだ。麻のごとく千々に乱れ、ってな。ある心象が、並行する別の心象を押しのけるなんてことは日常茶飯事だ。結局のところ、人の成果っていうのは行動でしか表れない。真髄は精神にあるのかもしれないが、結果は発露によって見極めるしかない。そしておよそあらゆる苦悩や煩悶の思惟というのは、行動という快刀の前に無力だ。どんな高度な思考実験も、行為にかかれば、それがよほどのなまくらだって手もなく両断されてしまう。それは悲劇だし、喜劇だし、というのは要するに、当たり前だってことだ」
「それは要約しすぎだと思いますが」
「助けたいから助けたっていってんの」高村は嘆息した。「だって、アリッサちゃん可愛いんだものな。懐いてくれるし、素直だし、ほんと、いい子なんだよ。死んだら悲しいだろ。そんなの、間違ってるだろ」
「正しくなくても、人は死にます」
「そうだな」高村は立ち上がり、深優に正面から向き直った。「じゃあ、頼みがある。きいてくれないか」

 深優は珍しく即答しなかった。

「……おっしゃってみてください」
「俺を殺してくれ。今、この場でなくてもいい。とりあえず、本部に引っ張られる前にな。黙秘とかどうせやるだけ無駄だし、後腐れなく死にたい」
「お断りします」
「そっか」予想はついていた。「悪い。冗談だ。変なこと頼んで、ごめん」

 となれば、無駄と知りつつ逐電あるのみだ。高村は脳裏に潜伏先を描きつつ、その場を後にしかけた。
 深優が沈黙を破ったのは――かなり後になっても高村はこの数秒を不思議に思った――そのときだった。

「今日のことは、この会話も含め、記録されていません。報告もいたしません」
「なんだって?」
「言葉どおりの意味です。メモリの破損が大きく、復旧に際しても完全な復調は望めませんでした」

 真丸に目を見開いて、高村が深優を振り返る。どこまでも無表情な少女は、暗がりでじっと高村を見つめていた。それがとても神聖なものに思えて、吐息混じりに囁いた。

「深優……、君は、ちょっとおかしいぞ。それは、全然、合理的じゃない。俺が一方的に得をするだけだ」
「そうではありません」深優は不動のまま否んだ。「あのとき、先生には私に対し取引を持ちかける選択肢がありました。それを貴方は吟味したはずです。しかし、そうはしなかった。何も言わずにアリッサ様を助けた」
「だからなんだ。かっこつけただけだぞ、そんなの」
「それはよくわかりません。ですが、私はあのとき、取引を持ち掛けられれば、断る術を持たなかったでしょう」
「かもしれないな。でも、たとえそうでも、君が俺をかばう理由にはならないな」
「アリッサさまは、尊いお方です。かけがえがないと、それは『私』自身にとっての価値なのだと感じています」

 はっきりと、感情のこもった宣言だった。眩しいものを見つめるように、高村は細目する。後々のジョセフ・グリーアの狂喜を思って、若干の苦味も感じた。

「貴方は、その尊い命を繋ぎました。私はその行為に価値を認めます。いずれ先生が敵対するのだとして、私は貴方をのぞくことにためらいは持たないでしょう。しかし、私の中でアリッサ様の尊さを損なう行為は選択できません」

 知らず、高村は泣きそうになる自分を発見した。衝撃のあまりよろめきそうになった。深優・グリーアは故障したのか? それとも獲得したのか? いずれにせよ、奇跡の瞬間に、彼は立ち会っていた。
 隠すように、苦笑を浮かべた。

「遅かれ早かれ死ぬんだから、今は見逃してやるってことか?」

 深優の動かないはずの顔が、すこしだけ、動いた。

「遅いか早いかより重要な問題は、先生にはないのでしょう」
「――」

 高村は絶句した。深優の表情に釘付けになって、ふらふらと歩み寄る。
 錯覚だという可能性がもっとも高い。それを知りつつ。指先を深優の頬に寄せた。触れた感触は人工のそれとは思えぬほど自然だった。
 一瞬だけ浮かんでいた微笑のように、自然だった。

「それは止めてくれって、言っただろう……」

 見返す紅い眸は夜を吸い込んで黒々とひかっていた。高村は深優のつむじを見つめて、深く息をつく。彼女からは、ミルクのにおいがした。
 そのとき、

「ああああーーーー! お兄ちゃんが深優とチュウしてるううーーーーー!!」

 余韻をぶち壊しにするアリッサの声が響いて、高村は弁解に三十分も費やす羽目になった。

 







[2120] ワルキューレの午睡・第二部最終節1
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609
Date: 2008/02/11 03:51




 月杜駅を出た始発列車が朝靄を泳いでいく。通勤時間にはかなり早いこともあり乗客の姿はない。揺れる車内で結城奈緒は思考に沈み、高村恭司は大荷物に頬杖をついている。二人は差し向かうシートの対角線にそれぞれ位置を取って、一切視線を合わせない。会話もない。敵意さえ彼女はかけらも見せていない。完全に自己に没頭している。
 示し合わせて同じ電車に同乗したわけではなかった。ただの偶然で、二人はまた互いの顔をつき合わせている。

 十数時間前、高村の居宅であるマンションのリビングにおいて、両者のあいだで最後に交わされたやり取りはごく簡素なものだった。

「遅くなってすまないが、勘弁してほしい。まず、結城の立場をわかりやすく説明する。俺たちにとって、という意味じゃない。もっと全体的な君の立場だ。前置きは九条さんからも受けたはずだな。かいつまめば、HiMEという能力の意味のことだ。それが導く厄介ごとについてだ。それらを踏まえた上で、今後、結城にはシアーズとして行動してもらうことになる」
「しあーず?」
「ああ、そっか。ええ、言い換えると、俺とご同輩になるというか、そんな感じだ。厳密には違うけどさ」
「はあ? ふざけんな。シスターとあんたらがぐるだっていうのはわかったよ。だけど、それはあたしには関係ないでしょ。虫唾が走る。かってに一緒くたにするな」

 反発は予想通りであり、いくらか道理を踏まえたものでもあった。高村が深優を制止した件も含めて、彼が奈緒について関わった出来事は本来奈緒には訪れないはずのものだった。この上何らかの制限が加えられるいわれはない。そういった主旨の発言を、続けて刺々しく吐き出した。
 高村はつとめて冷然と、告げた。

「気の毒だが、拒否権を使える段階は、もう過ぎてるんだ結城。脅迫? そう受け取ってもらってもいいけど、そうじゃない」
「意味わかんない」
「そうだな」と、高村は無責任に肯った。「まあ、本当に詳しい話は、明日するよ。俺はこれからすることもあるし、おまえも創立祭、楽しめるといいな」

 奈緒は渋面で髪をかきあげて、鼻を鳴らした。

「無断外泊直後にそんなノンキにしてられるかっつーの。それとも、融通利かせてくれるわけ。あのシスターが」
「残念だけど、九条さんはもう、学園には戻らないよ」高村は苦笑して首を振った。
「え? なんで」
「時間切れなんだよ」高村はいった。「それはなんにだってやってくるんだ。みんなそれを、少しでもどうにかしようとがんばってる。勝ったやつを、俺は見たことがないけど」

 奈緒は怪訝さを保ったままで、じっと高村の顔色を見透かしてくる。少女には達眼があり、洞察力は確かに鋭い。それは、見ずともよいものと向かい合い続けてきた証でもある。哀れだ、と思えば、それは奈緒を蔑むのと同意だと高村は感じた。だから彼はついぞなかったほど素直な心持ちで奈緒に面と向かう。

「……なに。キモいから直視しないでくれる?」

 面罵は、まともに受ければやはり少しは心に重い。相手を対等に見なすというのはこういうことだと、高村は肝に銘じた。

「別に義務が責任がとは言わない。おまえも、そんなのはまっぴらだろう。だから、もう、おまえは俺にはかかわらないでいい。俺も出来る限り距離を置く。明日、全部を話したら、おまえの処遇はもっと致命的なところまで一気に運ばれるだろう。だけど、そこから先は好きにしていい」
「さっきと言ってることがちがくない?」
「だから、もう少し経ったらだ」ごまかすように、高村は肩をすくめた。そそくさと席を立つと、そのまま自室に引きこもった。戸を閉めて居間の様子に耳を澄ませた。苛立ちを織り交ぜた吐息が無音の部屋に溶けて消えるころ、奈緒は一言もなくマンションを出て行った。

 彼は無言でベランダへ出た。
 街に背を向けた棟から明かりは見えない。媛星も位置の関係で視界には移らない。空調の庇護から抜けて浴びる夜の風は不穏な生ぬるさを孕んでいた。月に雲の端がかかっており、他の光も星彩きらきらしくとはいかなかった。

「そういえば今年の七夕も、天の川は見えなかったな」

 その後翌日のために整えておいた資材の最終確認を行うと、高村は久方ぶりに自室のベッドで眠りに就いた。

 ※

 そんなやり取りのあとで始発待ちをしていた奈緒と高村が駅で遭遇したときには、互いにもうどうしたものかと途方に暮れた。結局穏便に無視をしあうという形に落ち着いて、今ひとつ格好の決まらない二人は、学び舎へとひた走る列車にしばらく揺られ続けた。



 11.stigma



 七月初旬曇天、風華学園創立祭はつつがなく開催された。市中はおろか県外からも客を募るイベントは、僻地ながら県下有数の催しであった。規模に比して学園の文化祭としての側面はむしろ些少で、催事としての主眼は市全域の活性化と、地元名士たちの懇親会にある。県会議員や国会議員を少なからず輩出する土地柄、風華市では政商の結びつきが堅固であった。
 もっとも、学園に所属する大多数の生徒には大して関連のない話である。


 ※


 姉に手を引かれる鴇羽巧海は、小ぎれいな外観に蝟集する人々の多さにやや気後れしながら、素直に久方ぶりの祭りの空気に触れて胸を弾ませていた。そんな彼を見る鴇羽舞衣の表情も柔らかく和んでいる。同時に少しばかり緊張もしていた。弟の話では、きょうはかねてから巧海が世話になっている『師匠』なる青年と待ち合わせする手はずになっているのだ。
「っいっても、こりゃ聞いてた以上にすっごいねえ」巧海の額をハンカチでぬぐってやりながら、舞衣がぼやいた。「千絵たちとの合流もままならなそうだよ。携帯、電波通じるかな」
「大丈夫だと思うよ。いちおう、待ち合わせ場所みたいのは聞いてるし」
「水晶宮だっけ。うーん、なら大丈夫かなあ」
 連絡のための電話番号を巧海は知っているが、どうやら自分でつなぎを取りたいようで、直前までは舞衣にも教えないと意固地になっている。聞き分けが異常に良い巧海がこうした我意を通したがるのは珍しいことだ。舞衣も強くは言えなかった。
 ここのところ巧海の体調は良好で、直接的な陽射しのないことも安堵の一助となっている。それは吉事だが、しかし、やはり緊張する。弟づてに聞く『師匠』の印象は好青年そのもので、じゃっかん年上趣味のきらいがある舞衣は、数時間後にいまの自分を思い出して壁に頭を打ち付けたくなることも露知らず、何度も巧海に髪型はへんじゃないかクリーニングのタグを取り忘れたりはしてないかと確認を取ったりしつづけた。


 ※


 玖我なつきは平常ならば遅刻が確定している時間にのんびり起きると、シャワーを浴び、制服に着替え、ゆったりとマンションを出た。単車を暖機するあいだ自販機で購入した清涼飲料水を飲んでいると、携帯電話が藤乃静留からのメールの着信をしらせた。
 それなりに珍事である。静留は当然文章では標準語を用いるのだが、どうやら妙なこだわりがあるようで、それをあまり人に見せたがらない。メールをするくらいなら電話を、というのが彼女のレギュラーな判断である。肝心の文面は短く、たんに『登校したら生徒会室へ』とだけしたためられていた。それからなつきは大渋滞を起こしている道路を縫って登校し、裏山に愛車を隠し、人ごみに辟易しながら校舎へ入っていった。言いつけどおり生徒会室を訪れると、こぼれんばかりの笑みをたたえた静留が待ち受けていた。
「おはようさん、なつき。待っとりましたえ」
「ああ、おは、よう。……静留?」
 呼びかけには答えず、
「堪忍な」
 と彼女は言った。いさ理由は知らずとも、この台詞を聞いてなつきはとてつもない悪寒に襲われた。
 もう遅かった。
 ぽん、と歯切れのよい音を立てて静留が扇子を開き、口元を覆う。
 飾り扇子が歯を隠す。通りのよい声が生徒会室に響いた。
「確保」
 玖我なつきは、こうして手もなく捕獲された。


 ※


 アリッサ・シアーズは憤慨していた。理由はいくつかある。まずは本日予定されていたワルキューレへの宣戦が、深優・グリーアの破損により延期されたこと。そして、ここ数日張り切って練習していた聖歌隊での合唱コンクール参加が取りやめになったこと。伴奏者である真田紫子が不調により寝込んでしまい、なし崩しで幼年組の出場が取り消しにされたのである。
「なっとくいかないわ」
 礼拝堂の長椅子で足をぶらつかせるアリッサは、フラストレーションを堆積させ続ける。外見的には包帯とギプスで偽装された深優のほうがよほど重態であった。
 実際、安静を言い渡されてはいるが、一時は危篤状態に陥ったとは思えないほど、アリッサの体内は活力に満ち溢れていた。ジョセフ・グリーアの忠告は完全に頭から締めだして、かたわらの深優をよそにほくそえむ。こうなったら空いた時間を思い切り自由に過ごすべきだと、小さな拳を握って意思を固めた。
「お兄ちゃんを呼ぶわ! さっきいたよね、深優。呼んできて!」
「高村先生なら先約があるそうで、もう他所に行かれました」
「なんだとー!? どおしてえ!? もう、きのうの感じだとアリッサルート決定でしょ!?」
 深優が静かに堂の奥へ眼をやった。
「お父さま、またお嬢さまにローカルな日本語をお教えになられましたか」 
 その先に、なにやら上機嫌で、朝からワインをあけるジョセフがいるのである。


 ※


 美術教師の石上亘は、完成に近づく婦人画を前にひとつ頷くと、イーゼルに布を被せて席を立った。美術室の窓から設営の完了した会場を見下ろすと無表情にカーテンを閉め、準備室へ戻る。
 私物の少ない机上ではノートPCが立ち上げられていた。メーラーを起動すると、ある件についての回覧が符丁を交えて届けられていた。要約すると末端の構成員が数名出奔したという内容であり、彼らのプロフィールが細大漏らさず添付されている。発見次第当局へ通報する旨が厳命されているが、もちろん、彼らは一人として生き残っていない。とうに肉片に分解されて海に撒かれて魚の餌だ。
「気の毒なことをしたかな」
 他人事のように嘆じて、石上はウインドウを閉じた。
 同時に、戸外から声があがる。
「先生。尾久崎っすけど。そろそろ出展する絵並べないと時間がないとか」
「ああ。わかりました。ご苦労様です、いま行きますね」
 柔和に言葉を返して、彼は再び日常に埋没した。


 ※


 当然のように泊り込みで庶務に従事していた楯祐一は、限定的に解放された職員用の談話室で、八割がた燃え尽きていた。周囲には床となくベンチシートの上となく、累々と同じような屍が横たわっている。
 雑魚寝である。あるいは古戦場の現出だ。
 いずれにせよ、余力あるものは再び死地へと赴き、ないものはここでこうして冷蔵庫の乾電池のごとく再起動を待たれている。
 どれだけ精緻に企画しようとも、当日現場では必ずなんらかのトラブルに見舞われる。――とは会長と副会長が再三口を揃えて言い含めていた事案だが、まさにその通りであった。取り揃えていたはずの椅子や机が足らず、開会前から迷子が出て、来客より先に委員にけが人が出た。ついでに顧問の教師には連絡がつかなかった。
 二日前から姿を見せなくなった顧問に対しては、

「顧問がいないってどういう冗談だよ商店街との渉外どうすんだよ会長企業いってるしよー」
「なにしてんの高村?」
「なに、グリーアさんとドライブ行ったまんま帰ってこない?」
「はあ?」
「でも代理人に碧ちゃん指名してったよー」
「杉浦とかなんの役に立つんだよ」
「かわいいじゃん」
「趣味わりーなああいつ足くさそーじゃね?」
「いや、なにげに胸でかいよ」
「それをいったら珠洲城もかなりいい体してるよ」
「でぼちんはどうでもいいよ」
「ごめんおれひそかにファン」
「死ぬほどどうでもいい」
「ええ? ハルカちゃん超かわいいよ? 菊川だっけ? 一年の子とかもよく面倒みてんじゃん」
「女が言うカワイイは絶対に信用できねえ」
「全米ナンバーワンより信用できねえ」
「百万人が泣いたより信用できねえ」
「エロゲーの発売日よりは信用できる」
「でも実際女子には人気あるよねえ、執行部長」
「会長ほどじゃないけどなあ」
「それは比べる相手が悪い」
「でも藤乃先輩はなんかこう、違うよな。性的な意味で」
「やめろやめろ。あの人をこういう話で引き合いに出すとマジで夜道歩けなくなるぞ」
「なんか碧ちゃん見てると超ムラムラしてくるから近くにいられると困る」
「あのミニスカは眼に毒だなー」
「男子セクハラやめろ!」
「うるせえよ女主張するならせめて学校でパックとかするのやめろアホ。ダダかてめーは」
「ともかく高村だよ。なんでいないのあのひと」
「だから打ち上げのロケハン行ったまんま帰ってこないんだって」
「あいつ死ねマジ死ねつーかコロス」
「でもまた怪我して病院運ばれたのかも」

『……あー』

「おーい、図書館裏の倉庫で土砂崩れだって!机の!遭難者出た!」
「うっわーマジかよ。あそこ整理すんの?」
「えマジで? 今から?」
「あたしもう二日ねてないよ……」
「おれ三日。なんか楽しくなってきた」
「徹夜は五日くらいから幻覚見えるらしいよ」
「もう死にたい」
「いっそ殺せ」

 といった具合に怨嗟だかなんだかわからないものが男女問わず上がり続けたが、それも昨日深夜からはついに絶えた。怒りがなくなったわけではなく、誰もが感情の出力に疲れただけである。
 もとより、高村への不満も現状を楽しむための肴でしかない。それは楯も承知している。
 大掛かりな、それも大人の介入もある行事の司会進行などという役職は、基本的に子供の手に余る。見返りもせいぜい内申に色がつく程度であり、翻せば他の面で満足できるような物好きしか集まらないものだ。
 風華学園において生徒会執行部が慮外の権利を持つのは、風土の特殊性に根ざしている。独立不羈にして朋党比周、よくいえば昔かたぎの、悪くいえば閉鎖的な地方の名残を、共同体に採用しているのである。
 もっとも、若者に関してはその逆の向きもある。外界への憧れは強い。東京、とは言わないまでも、都市部へ出て行く住民は年々増えている。そのあたりは、そこかしこの田舎と同様であった。
 鴇羽舞衣へ向けられる、一部の人間の害意についてもその限りなのか、それは楯にはわからない。あちらにはあちらの言い分があるのだろう。正しくなくとも、理は立つのである。それを強いて追求しようとは思わない。舞衣はいずれ、独力でどうにかするだろう。そう信じさせる強さが、彼女にはある。
(後ろめたいのをごまかしてるだけだ)
 そうも思う。しかし、考えても詮無いことだ。
 楯と舞衣とは、他人である。恋人ではない。友人かどうかすら、怪しい。
 求められてもいない手を伸ばすのは、お節介というべきものだ。ありがたくとも、負担になる。どちらをよしとするかは個々人の資質と状況次第だ。
 楯祐一は後者だった。鴇羽舞衣も、恐らくそうなのだ。
 正当化を終えると、彼はかぶりを振る。仕切りなおすようにつぶやいた。

「さて、もう一仕事か」

 数十ダース単位で供与された近隣薬局の栄養ドリンクの封を切ると、カフェイン臭をただよわせる液体を一息であおる。いっそクソ不味ければ眠気も覚めようが、微妙に甘ったるく調整を施されたりしているあたり思い切りが悪いと楯は常々思っている。空き瓶を大口開けて寝こけた同級生の口にねじ込むと、よいしょとばかりに腰を上げ、据わった眼を扉へ向けた。

「あ、お兄ちゃんいたいた。やっほー、おっはー」

 睨まえたせいというわけでもないだろうが、期を一にして、扉の向こうから宗像詩帆が姿を見せる。奇抜な髪型も血圧の高い笑みも常どおり。楯はわが身をかんがみ、眉を集めた。

「うぜえ」
「いきなりそれ!?」詩帆がオーバーに仰け反った。「め、めげちゃうなあかなり。お兄ちゃん、今朝はまたご機嫌ナナメみたい。ちょっと昔っぽいよ」
「それは言うな……」痛いところを衝かれて、楯は険をほどいた。「んで、なんの用だよ。言っておくけどまだしばらく外には出られねーぞ、俺は」
「知ってるよぅ、それくらい」口を尖らせる詩帆だ。あまりに仕草が幼すぎる。こういうところがなければとは、楯も思わなくもない。「用があるのは、あたしじゃなくて、倉内先輩だってば」
「和也が?」

 肩をすくめる。詩帆の言葉どおり、戸口で気楽に笑うのはまさしく友人の倉内和也である。手を振る彼に生あくびを返して、楯は近ごろすっかり付き合いの悪くなった友人へ半眼を投じた。

「日暮といちゃいちゃもしねーでなんでこんな汗臭いとこ来てんだよ」
「いやそんなひがな一日いちゃいちゃしてるような言い方するなよ」
「してる、と言わないのは友の情けだ」
「言ってるし」自覚はあるようで、和也は目を線にすると鼻の頭をかいて誤魔化した。「まあそれはいいよ。楯、さすがに生徒会って言ってもずっと拘束されてるわけじゃないだろ。いつ空く?」
「あ? あー、昼前にはまあ、ひと段落つくけどよ。なんで」
「一緒に回ろうかと思って」
「勘弁しろよ」情景を思い浮かべるだけで、充分に辟易させられた。「恨まれるの俺だろ、それ。そういうのはいいから、素直に日暮と回れ」
「うん、あかねちゃんも一緒だけど、おまえも一緒にどうかなって」
「もっと勘弁しろよ! なんだそのサムい構図。俺どんだけ肩身狭い思いすりゃいいっつーんだ」
「じゃん!」と、詩帆が唐突に割り込んだ。指を立てて、高らかに、「そこであたしの出番なんです。いわゆる、ダブル・デートです! やっほー! ビバ青春!」
「和也、俺は生徒会の端くれとして校則違反を見逃すわけにはいかねえよ」真面目くさった顔で楯はいった。
「あはは……。ま、まあそれはともかくさ、何も俺たちだけでって話じゃないんだ。何なら鴇羽さんとかも誘ってさ。みんなで一緒に、にぎにぎしく創立祭を回りたいってこと」
「二人して完全スルーしたよおーい! 倉内先輩、話がちがうじゃないですかぁ!」

 クアド・テールとでも言うべき奇矯な髪を振り回して詩帆がししくする。何らかの密約を和也と交わしたと見て、楯は嘆息した。

「ともかく、デートとかはなしな。会ったら一応話しておくけど、鴇羽も予定とかあるだろうし、ダメなときは諦めろ。んで、なんでいきなりそんなこと言い出してんの」
「いや……それは、さ」

 瞬間、真剣な面差しを見せて、和也が口ごもる。あの二人に限って不仲はない、というのはもちろん外部からの視点にすぎない。

「なんだよ。ケンカか。なんでもいいからそういうのは謝っちまえ」
「あっ、お兄ちゃんそれ不誠実! 何が悪いのかもわかんないのに謝るなんて、むぐ」
「お前はちっと黙ってろ」詩帆の首を腕で固め、口を掌でふさぐ。
「けんかとかじゃないんだけどね」和也は言いにくそうに、とつとつと言葉を吐いた。「なんか最近、茜ちゃん元気ないんだよ。理由聞いても話してくれない。ってことは、たぶん、俺に問題があるのかなって気がしてさ」
「はあ、なるほど」

 カップルの痴話喧嘩ほどどうでもいいものはないが、言下に切って捨てるのも不義理がすぎる。楯はそれなりに親身に思考をめぐらせた。
 聞きかじりにすぎないが、日暮あかねは複雑な家庭環境にある。別の意味で、和也もまた一般的な立場から浮き出している。
 いわゆる道ならぬ恋、とまではいかないが、平成の御世に相応しからぬ身分違いの恋人たちなのだった。本人たちに齟齬がなくとも、不協和音の元は周囲にいくらでも転がっている。一般に外圧は絆を強め、かたくなにさせるが、子供が無視して流せるほど安穏としたしろものでもない。
 和也が気にしているのはそんなところだろう。なるほど深刻な懊悩であるらしい。しかし、
(なんだかな)
 と、楯は人知れず息をついた。平和なことだ、と思う。倨傲な感性であることは自覚している。比べるものでもないだろうが、和也とあかねを向こうに置いて、どちらが上等かというのならば、それは二人のほうなのだ。畢竟、楯は彼らをうらやんでいる。やっかんでもいる。
(やだやだ、みっともね)
 情けなさとあくびのせいで、涙が落ちた。と、和也が微妙な顔で楯を指差している。

「指、食われてるぞ……」

 嫌な予感と触感に、眼をおろす。

「んふー」

 かいなにすっぽり収まって、詩帆が口を大きくはだかっていた。覆いかぶさる楯の指を、容赦なくその口蓋におさめている。
 熱いぬめりが指先を這う。細かく固い感触が、関節の腹を食んでいる。
 生理的な悪寒に立つ鳥肌と、どうしようもなく性的な連想に、楯はそれとなく腰を引いた。悟られればことだ。詩帆は積極的だが、無暗である。性的な方面には、実は大して強くない。戯れつきも本能的な面が多々あって、今している行為も、たとえば和也が認識するほど大胆なものだとは自覚していない。逆に指摘すれば、ひどく狼狽してしばらく視線も合わせなくなるだろう。
 詩帆には両親がいない。祖父の男で一つで育てられた。ゆえに自意識に欠けたところがある。
 何しろ初潮のさいに真っ先に相談を受けたのも楯だった。今ではその話題に及んだ瞬間張り手を食らうくらいには成長しているが、そこまで見た相手を異性と認識するのは、思春期の少年には現実的に難しいものである。そういうところも、楯が真面目に好意を受け取れない理由のひとつであった。
 しかし今、詩帆は満足げに眼を細めていた。

「噛んじゃうぞー」
「おまえ、変態だよ……」

 わが身よりも憂えるのは、幼馴染の将来だ。ドリンクで補給した気力が早々に萎えるのを、楯は感じていた。


 ※


「いやはや、開会前だってのにすっごいねこの人ごみ。というか学生より明らかに外部の出展の方が多いしお金かかってるし、やっぱり、いくら土地があるからって学校の創立祭でこの規模は大げさすぎるんじゃないかねえ……」
「そうかな? あたしはいいと思うな、楽しくて」
「にしても、車だの重機の展示とか、どう考えてもちょっとおかしいよ。しかもなに、あのフランス料理屋台って」
「それより千絵ちゃんさあ、どこから回る? あたし的にはねえ、このコスメ無料体験ブースに惹かれるものがあるよ?」
「私はそういうのはいいかな……。たぶんそっち系が混みあうのは午後からだろうし、開会したらあおい行ってきたら? その間に私はミコトちゃんと食べ物回りをシメてこようかな」
「えーっ、ひとりじゃヤダよー一緒に行こうよぅ。ね、ね、ミコトちゃんもお化粧とか興味あるよね? 綺麗になりたくない?」
「わたしはそういうのはいい」
「だよねえ……ウン、そう言うってわかってた」
「はは、命嬢はまだまだ花より団子だからね。逆にそういうのに興味がありそうな子っていうと、ほら、あれは? キュートでロンリーウルフなルームメートの」
「奈緒ちゃん? 奈緒ちゃんはね、昨夜、っていうより今朝か、二日ぶりに帰ってきて、そのまま執行部から教会への直通コースへ行っちゃったよ。今日は一日奉仕活動だってさ」
「……勝手気ままにもほどがあるなあ。普通なら停学ものだと思うんだけど」
「あはは、悪い子じゃ、な……い? いや、うん、ワルいコではあるのかなぁ……あそうだ、奈緒ちゃんといえば高村先生だよ。なんかね、さっき教会のところでね、奈緒ちゃんの隣で、凄い勢いで頭下げ倒してたの、先生。いつの間にか仲良くなってたんだ、あの二人。なんか嬉しいよね。ひょっとしたら、外泊先も先生のところだったりして! きゃー千絵ちゃんのエッチ!」
「ちょっと、その感想も光景も想像しがたいところがあるけれど、まあ、高村先生だものねえ」
「うん、恭司だからな……」
「ミコトちゃんに遠い目をさせるとは……千絵ちゃん、高村先生ってスゴい人だったんだね」
「あの生傷の絶えなさが特筆に価することは確かだけどねえ。……あれ。今私、凄いことに気づいたかもしれない」
「え、なに?」
「うん、あのね。私さ、高村先生の素顔ぜんぜん思い出せない。包帯湿布絆創膏と、あと眼鏡ばっかりイメージに残ってる」
「……あー」
「しかも昨日見たときはその眼鏡もなかったから、なんか怪我で識別してた気がする」
「……ああー」
「おまえたち、恭司をなんだと思ってるんだ……」
「命ちゃんに言われたよ千絵ちゃん!?」
「あはは、面目ない。次会ったときは顔ちゃんと観察しとく。そういえば、舞衣はそろそろ来るのかな。弟さんとうまく合流できるといいんだけど。さ、そろそろ開会だ。私たちもいったんクラスへ戻ろう」


 ※


 特設ステージで風花真白のスピーチが行われる。いささか理不尽に大人びた整い方の造作が柔和にほころんで、壇上の大型ビジョンに映し出されていた。そつのない挨拶を尻目にして、一方高村恭司はあくせくと資材の搬入にいそしんでいる。かたわらには杉浦碧もいた。社会科準備室で高いびきをかいていたところを捕獲したのである。

「おかしい……。なんで重労働でくたくたになって寝てたっつーのに、あたし自分のクラスもほっといてばっくれた恭司くんの出し物の手伝いなんかしてるんだろ……」
「何言ってるんですか。聞きましたよ。食材ぶちまけるわ用意したコップ一ケース粉々にするわで追い出されたんでしょう」
「ドジは愛嬌じゃん! そりゃリンデンバウムのバイトもそれでちょっと、クビになったりはしたけど」
「ファミレスで皿割ってクビになるって漫画じゃないんだから」
「いや、お尻とおっぱい触ってきたちんぴらの肩を抜いただけ」
「いやだ、そんなウエイトレスはいやだ……」
「あたし悪くないもーん」

 日は射さずとも右肩上がりの熱気に辟易とした調子で、碧が自棄的な笑いを浮かべる。普段からあまり化粧気のない顔は、疲労と寝不足で水気が失せていた。

「そもそもこのスペース、一応碧先生も名義人ですからね」
「そうだけどさー。結局本番当日まで何やるか教えてくれなかったしさー」
「一昨日にいきなり誘った俺もけっこうあれですけど、即オーケーした先生もたいがいだから、まあバーターってことにしましょうよ」
「あーつーいー。ビールのみたぁいー。もう創立祭なんかどーでもいいー。帰ってねーるーのー」
「まあまあ。すぐ終わりますから。あとで一杯おごりますよ。あ、それこっちの下に置いてください」

 高村は適当に笑うと、段ボールから取り出した土偶を机辺に並べた。次いで待機していた運営委員に合図を送り、数人がかりで巨大な直方体をスペースに配置する。
 ゆうに他社の二倍はあろうかという不公平な敷地が、そのオブジェクトによってさらに威圧感を増していた。
 左右に陣取る企業の社員が、とても不安げな顔つきで手際よく組み立てられるセットを眺めている。そういう視線は問題にしない碧は、なんだか自分に似ている気がするフェルトの手人形をもてあそびながら、手渡された台本をうろんな瞳で見下ろしていた。呆れ混じりに自由配布の冊子を手に取りめくって、碧の眉がひそめられた。

「ん、ああ、媛伝説やるんだ? でもこれ知らない説話だね。鎌倉後期の白姫と奥崎氏と、あとは……宝永の富士噴火!? うわあ、ムーだねムー臭すげーねこれ。大好き。……だけど近世の宝永年間って珍しいなぁ。どっちかつーとこれ日文じゃ……つか、創作? 参考文献なに?」
「天河教授の遺稿を総ざらいして注釈つけてまとめただけです。文献の原典は見つからなかったんですよ」
「孫引きじゃだめじゃん。しかも未発表でしょ? あたしの論文の役に立たないじゃん!」
「アンタちょっとは心の声をひそめてください」

 それでいて憎めないのは、もはや資質なのだろう。恬然と胸を張る碧をいなして、高村は妥協案を提出した。

「きょう、ここでしばらくお留守番してくれたら、教授の遺稿もお貸ししますよ。それをうまく使えば、あとは碧先生次第なんじゃないですか」
「え、ほんとに?」慮外の提案だったようで、碧は眼を白黒させた。「ありがたいけど、それマズくない? いちおう、それを譲り受けたのは恭司くんなわけで……。少ないけど天河先生の生徒さん、まだ学会にいるよ?」
「いいですよべつに」高村は肩をそびやかす。「先生もああいう人だし、だいたい媛伝説は大学のほうとはあんまり関係ないですからね。それより、いいですか」
「ん。なにかね」
「聞かないんですね。おととい、結城と俺がいなくなったあとのこと」

 業を煮やして、というわけでもない。純然と不思議に感じて、高村は自ら話題を持ち出した。
 数拍、碧は押し黙る。視線を周囲の喧噪から切って、高村に定めると、双眸が笑みをかたどった。

「だって、今日はお祭じゃない。楽しい日でしょ。ハレの日に、そういうむつかしそうな話題は持ち出さないことにしてるんだ」
「そうですか」

 なんともいえず、高村は茶を濁した。碧の達観には、時おり感服させられてしまう。

「あ、でも、なつきちゃんはイロイロと恭司くんに聴きたいことがあるっていってたよ。言っておくけど一昨日のこともだいたい話したからね。覚悟しておいたほうがいい。代わりってワケじゃないけどさ、あたしはともかく、あの子にはちゃんとしてあげてね」
「ああ、それはちょうどいいです。俺も今日はあいつに用がある。というわけで、じゃあ行ってきます」

 碧がポカンと口を広げた。

「え、ちょ、あたしは!?」
「だから留守番でしょ」
「いや待って待って待って」

 わめく碧を背後に置いて、高村は揚々と歩を進める。時計を見ると、午前十時十五分を回ったところだった。真白のスピーチが終わる。会場のあちこちから拍手が巻き起こる。
 退場していく真白と姫野二三を、高村はなんとはなしに眺めた。距離は百メートル近く開いている。まさか気取ったわけでもないと思いたいが、かすかに肩を揺らした二三の横顔が、高村へ向かうような動きを見せた。我知らず体と意識を硬直させて、会釈する二三から目を逸らす。
 高村のクラスの実行委員から、携帯電話に連絡があったのはそのときだった。かねてからの打ち合わせどおり、それは玖我なつきの捕獲を知らせるものである。


 ※


「いやだ!」
「いやだじゃないよ」高村はため息をついた。「いいじゃないか別に、思い出づくりだと思えば」
「こんなの思い出になるか!」これ以上ないほど赤面して、なつきは生徒会室のカーテンにくるまっていた。「恥部にしかならないだろ常識的に考えて!」
「うるさいなあ。おまえ一切クラスのために働いてないんだから、多少サービスして客引きするくらいこころ良く引き受けろよ。度量が狭いぞ」
「静留、はやく着替えを持ってきてくれ!」
「困りましたなぁ」

 繊手を柱に顔を支えて、静留が呟く。婀娜な装いはみごとな和装である。綸子の付け下げは涼しげな鶸萌葱の地、広く間を取った若枝の飛び柄をわずかに浮かせて、金箔の乗った古典柄京袋帯で締めている。
 とどめに頭上でまとめた長髪に簪を後差し、威風堂々たるたたずまいであった。とても女子高生には見えない。
 惜しむらくは、藤乃静留は何を着ても様になるというだけで、別に和服を着こなしているわけではないということだ。洋風のプロポーションに着物を合わせるには、見えない箇所で様々な努力が要求される。しかしそんな想像を許さないのも藤乃静留の特性だった。『体育に出てるはずなのに体操着姿が思い出せない女子でもナンバーワン』の称号は伊達ではないのである。
 とりあえずなつきから目を切って、高村は静留の着物を誉めることにした。

「綺麗な付け下げだな、それ。藤乃なら友禅でも着られることはなさそうだけど、よくそう見事に着つけできるよ」
「おおきに。さすがにお茶会で友禅はあらしませんけど」
「持ってるのは否定しないのか……」
「実家やったらともかく、今は寮住まいやさかい、そう何着もあっても困るだけどす」
「も、もしかして行き着けの呉服屋さんとかあるのか」ドキドキしてくる高村だった。
「ええ、まあ」当たり前のように頷く静留だった。
「すまん、藤乃。写真撮っていいか。この感動をとどめおきたい」
「はあ」

 困惑する静留へ携帯電話のカメラを構えて、高村は激写した。

「すいません目線くださーい!」
「ええと、これでよろしおすか?」

 しゃなり、とポーズを決める静留である。

「なにやってるんだ馬鹿! 静留を変な目で見るな!」

 あわやシャッターを切るすんでで、カーテンから飛び出したなつきが視界を遮った。
 ボンネットが揺れる。ふんだんにあしらわれたフリルが飛ぶ。スカートが翻る。厚底のブーツが合板を甲高く打ち鳴らした。
 ゴスロリである。それも白。加えてややロリィタに比重がある。
 和服の京美人と並び立つ様は、アンバランスを通り越して奇妙に拮抗する様相だった。
 素で力の入った衣裳のチョイスが、ひかえめにいって、イタかった。
 着る者を選ぶことに関しては、和服をゆうにしのぐファッションである。スタイルと容姿には文句のつけようもないが、その上に『玖我なつき』の名前がつくと、これほどトンチキな組み合わせになるのであった。

「世の中ってふしぎだなー」

 高村はそのまま連写モードでなつきの姿をフィルムにおさめた。
 が、シャッターを切りながら、直視できずに眼は逸らした。なつきは固まっている。誉めねばなるまい、と彼は思った。それが教師の責務である。張り付く上唇を舌で押し上げ、会心の賞賛を教え子へと捧げた。

「……似合ってるぞ……」

 心がとてもこもっていなかった。

「うわぁああああ、おおああああァあああーッ!!」

 なつきが発狂した。
 グルグルパンチに走りかねない有様である。頭を抱え、膝は折れ、それでもなお倒れないのは精神の業ではない。たんに静留が支えているのであった。

「ほんまによく似合っとりますえ、なつき」
「やめて、もうやめて、アハハウフフ――」なつきはもうダメになっていた。
「じゃあ藤乃、ついでにそのままクラスまで牽引してやってくれ」丸投げしつつ、高村は背広の内ポケットからメモ用紙を取り出し、眺めた。「あとは……『ランダム物真似(含無機物)三十連発』と、『玖我なつきゲリラリサイタル(運動場大ステージで)』か。藤乃はどっちがいいと思う?」
「そうどすな、ならリサイタルで」
「じゃあそうしよう」

 ペンで丸印をつける。
 壊れかけのなつきが、よどんだ眼をメモに向けた。

「なんだ、それは……」
「『玖我さんにやらせたい罰ゲーム』、もといクラスから募った『玖我を許すためのいくつかの試練』だ。その中でもとりわけソフトなのを選んでおいた」
「もうどっから突っ込めばいいのかわからないが、これでソフトだと……?」
「ちなみに、他にはどんなのがありましたのん?」なつきの腕を取りながら、静留が訊ねた。
「ちょっと待ってくれ。こっちに書いてある。そうだな、面白そうなところでは、『公開赤ちゃんプレイ』、『一日ドクロちゃんになる』、『昔の日記を公開する』、『全部自作自演で収録したラジオ番組を毎日昼休みに流す』とかがある」

 なつきの顔が即座に青ざめた。

「わかった。もういい。これでいい。リサイタルでもなんでもやってやろうじゃないか、祭りの恥はかきすてだ」
「おお、そうこなくっちゃだ、玖我。見直したぞ」
「だがひとつだけ教えろ」なつきの眼光が鋭く高村を刺した。「そんなナメた要求をしてきた阿呆の名前だ」
「ああ」

 思案のあと、高村はあっさり答えた。

「俺と藤乃と結城と碧先生」
「クラスメートはどこへいったんだ!?」
「ワンフォアオール、オールフォアワンだ玖我」
「一人もいないだろ!?」
「ゼロフォアオール、オールフォアゼロとも言うな」
「それじゃだめだろ!」けほっ、と咳を払って、なつきは憔悴した呟きを漏らした。「複雑な気分だ。クラスの連中からどんな眼で見られてるのかと一瞬思ったじゃないか。ところでじゃあ、他のやつらには最初から何も言ってないのか」
「いやちゃんと今朝のホームルームで急遽募ったんだが、なんかみんな優しくてつまんなかったから没にした」
「そうか、要するにおまえが全ての元凶か……」

 なつきのクラスメートへの好感度が上がった。

「よかった。俺のクラスにイジメはなかったんだ」しみじみと高村が呟いた。
「教師から生徒へのイジメのほうが問題の気がするぞ……」

 なつきの担任への殺意と不信感が上がった。

「いじめじゃなくてだな、俺はただ玖我にクラスに溶け込んでもらおうと、言うのはただの嘘で、ほんとはただ面白そうだからやってみたかっただけだ」

 凝然となつきが高村を見やる。

「おまえ……とうとう取り繕わなくなってきたな……。今までは最低、学校の中で人目があるときは大人しくしてたくせに」
「オンオフだろ。ハレの日ってのはそういうものなんだよ。同じアホなら踊らないと損だって昔から言うじゃないか」
「楽しんだもの勝ち、いうことどすな」くすりと笑って、静留がなつきの耳元に口を寄せた。「あとでうちも見にいくさかい、あんじょうきばりやす。心配せんでも、いざとなったらうちがどうにかします」
「ぐ、うう、できれば今すぐどうにかしてくれ……」

 手を振って別棟の茶室に向かう後姿を見ながら、悔しげにうめくなつきだ。
 しかし深呼吸を重ね、胸を張ると、とたんに振る舞いが落ち着きを取り戻す。さすがに肝が据われば強い。涼やかな流し目が高村をとらえた。

「まあいい。こんな悪ふざけに乗るのも今日かぎりだ」ふん、と鼻を鳴らした。「そのかわり、おまえにも色々と聞きたいことがあるからな。もうはぐらかしの時期は終わったんだ。時間もあまり残っていない。そろそろ、はっきりさせてもらうぞ」
「そうだな」高村は頷いた。「気づけば、もう赴任から一ヶ月が過ぎたのか。確かに、いろいろなことがもう動き始めるんだな」

 感慨深く、吐息する。拍子抜けした顔でなつきが横顔をうかがってくるのを感じたが、高村は意識しなかった。
 それはそれとして、アドレスから九条むつみの名前を検出すると、今しがたとった写真を添付して、メールを送った。


 ※


 碧の担任するA組は喫茶店、高村の担任するB組は蚤の市と、どちらも高校生らしい、あまり手のかからない出し物で出展していた。B組の前では場違いなまでに着飾った玖我なつきがとてつもなく投げやりに客寄せを続けたが、A組の喫茶店が集客難に迫られた結果急遽コスプレ喫茶にシフトチェンジしたので、幸いその晴れ姿はあまり注目を浴びずに済んだ。
 とはなつきだけが思っていることだ。実際には翌週の掲示板で大判で写真が張り出され、数値上は全校生徒の二十パーセントにそのブロマイドが行き渡るはめになる。

 なつきの処刑をひとまず終えて、高村が自前のスペースに戻ると、肩で汗した碧がやけくそになって媛伝説の講義を一席ぶっていた。聞けば偶然立ち寄った風花真白が自由配布のパンフレットを一見するや吹き出して、即刻撤退を懇願したのだという。碧は当然のようにスルーしたが、十分後、入れ替わり立ち代わりで黒服がやってきて、どんどん資料を持って行こうとした。条件反射的に彼らを畳んでいるとますます攻勢が苛烈になってきたので、結局パンフレットの内容を大声で読み上げ続けることにしたらしい。

「それにしても、なんで真白ちゃんはあんなにびっくりしてたんだろーね」碧は思案顔で首を捻っていた。
「さあ」と高村もそれにならう。「ひょっとして、ご先祖様のことでも書いてあったんじゃないですか」
「まっさかー。あはは」
「ははは」
「はははじゃないよ……。どこで見つけてきたんだこんなの……」

 パンフレットを凝視してこめかみを押さえるのは、炎凪であった。途中から碧に捕まって一緒に店番をしていたらしい。

「そうやって滅入ってるってことは、その内容って実際にあったことなのか?」と高村は尋ねてみた。「正直、洒落本も出てないころにそんな内容の書き物が残ってたなんて信じられないんだが」
「実際あったというか、むしろ後半戦のハイライトというか」凪は困り顔だった。「まあ、肝心なところはぼかしてあるからいいけどさあ。……いやでも懐かしいなあ白姫。この子真白ちゃんにそっくりだったんだよ。可愛かったなあ」
「それは、当時の基準で言うとひょっとして超ブサイクだったんじゃないのか。虫愛ずる姫君みたいな感じで」
「容姿の話じゃないよ」と、凪は心外そうに顔を曇らせた。「性格がいい子だったのさ。お兄さん思いでね……カグツチ、あの子もよく懐いてた」
「というか、当然のように六百年前の娘の人物像を語るな」碧が呆れて口をはさむ。
「あ、ああ、そうだね、ごめん碧ちゃん。懐かしさのあまりキャラが崩れちゃったよ」枯れた目つきを空に流して、凪が眠たげに瞼を降ろした。「雨、降らないといいね」

 高村と碧も倣って、曇り空を仰いだ。

「ああ、そうだな」

 予感とともに高村が眼を戻すと、少年の姿は消えている。異常な事態にはとうに順応していたが、平凡からかけ離れるにつれ、遠のいた日々を儚む気持ちも湧いてくる。
 日常は消費されるべきである。尊崇されるべきではない。
 かみ締める喜び。それはあるだろう。だが常化されて、なお暴落しない価値はない。
 万人が今日を喜ぶ世界が来るとすれば、それは終末だ。高村はだからいまひとり、世界の終わりに漸近していた。
 現実感のないまま、いずれ世界は滅ぶのだろう。そう高村は信じている。思ったよりその日が近いことも、知っている。
 杉浦碧は知らないはずだ。だがなにがしかの予感を持っている。本能か、理性か、あるいは外的な啓示が巫女に下されたのか。いずれとも読みきれない。女は複雑だった。
 複雑なまま、会話の口火を切ってくる。

「ねえ、恭司くん」
「はい?」

 碧は形容しがたい表情を紗のように顔にかけて、指で唇をひと撫でした。

「いいよね、こういうの。普通に騒いで、普通に楽しくて、普通にめんどくさいの。あたし、こういうのも好きよ。冒険もいいけどさ」
「……そうですね。俺も、同じ気持ちですよ」そこでまた時計を見て、「あ、もう時間だ。待ち合わせがあるんで俺は行きます。じゃあ午後も留守番よろしくお願いしますね」

 碧ががくんと腰を落とした。

「ちょ、え、また!?」
「シーユーレイター」
「レイターじゃないよ! うおーい! うわあまた黒服が来た! ちょっとしつこいよあんたらー!」


 ※


 時計が回った。


 ※


 大所帯になりつつあった。水晶宮で鴇羽舞衣は『師匠』の真実を知った。以降葛藤にまみれた顔つきで談笑する実弟と隣のクラスの担任を眺めている。聞けば高村はとっくに巧海が舞衣の縁者であることには気づいていたらしい。「だって鴇羽なんて珍しい苗字だしなあ」とのことだった。
(恥ずかしい。なんだかわからないけどとにかく恥ずかしいわ!)
 気づいてたんならもっと早く言って欲しかったと思いつつも、弟が世話になったことは事実なので何もいえずに混乱する舞衣なのだった。描いていた優しいイメージの人物と、目前の高村恭司の印象が、まだ少しうまくかみ合っていない。昼食をともにするうちにその齟齬もほぐれかけたが、そこに新たなメンツが加わり事態が混迷を深めた。

「げえ鴇羽」
「やあ、舞衣さんじゃないですか。高村先生も」
「げえってなによ! あ、神崎センパイ、おつかれさまですっ」

 楯祐一と神埼黎人の二人である。ようやく激務から解放されたはいいが、中途半端な時間では空いた友人もおらず、顔をつき合わせて食事に向かう途中だったという。断る理由もなかったので、二人も席に加わった。
 巧海が「お久しぶりです」と楯に会釈する。そういえば、巧海と楯はフェリーで面識があったのだと舞衣は思い出した。しかし彼らに巧海と高村と、ついでに自分を合わせた関係を説明するのはかなり面倒だった。それとなく、目線で高村にフォローを依頼する。高村は任せておけとばかりに指を立てて、席も立った。
 三分後に戻ってきた。
 結城奈緒と美袋命、原田千絵と瀬能あおいも一緒だった。

「なんでその四人を……」なつきほど付き合いがよくない舞衣は、疲れた様子でため息をつくのだった。
「だって鴇羽、男女比が極端で気になったんだろう。違ったのか? こら、結城、逃げるなよ」奈緒の襟首をさりげなく押さえつつ高村がいった。
「ああ、そういう……いやもうなんでもいいわ」舞衣はなにかを諦めた。
「てめえ、ちょっ、昨日と言ってることが違うでしょうが!」奈緒が歯をむいて高村に食って掛かる。「なんなの!? つーかどうやって……せっかくのエモノをっ。離せっ、ぐえっ、あ、今は離さないでよ!」
「細かいことは気にするな」高村が笑っていなす。「そういえば携帯なくしたままだっただろう。ちょうどさっきショップの出張店舗を見つけたから、あそこで契約しようぜ」
「くっ、足もと見やがって……!」

 やりあう二人をよそに、千絵とあおいと命が隣のテーブルに腰を降ろした。

「なになに、舞衣、ハーレムじゃない?」
「そういうんじゃないのよ。マジでとほほよ」目元をぬぐう仕草でおどけてから、舞衣は巧海を初見の二人に紹介した。「あ、千絵、あおい、この子が不肖の弟です。ほら巧海、挨拶なさい」
「鴇羽巧海です」巧海がぺこりと頭をさげて、微笑んだ。「お姉ちゃんがお世話になっています」
「これはどうもご丁寧に」千絵が会釈を返す。「原田千絵です。こちらこそ、お姉さんにはよくしてもらってるよ」

 あおいが鼻血を吹いた。
 真正面の楯のオムライスを、滴が強襲した。

「うおわああああ!?」
「あ、ごべん楯くん、ちょっど、あまりの美少年度に、漏れちゃった」ハンカチで鼻面をおさえながら、あおいが巧海に握手を求めた。指には血がついていた。
「どうも」巧海はなんのためらいも見せずにハンドをシェークする。半生を病院で過ごす彼は、血を見慣れた小学生なのだった。
「くそ……大物だな」楯は未練がましく皿の上のオムライスを見つめると、切なげに嘆息して、携帯電話を取り出した。「……あ、もしもし、和也か? 西棟の純喫茶わかるか? そう、文化部ペースのところ。その華道部のところで今みんなとメシ食ってるから……あ、詩帆? なんでおまえそこにいるんだよ。いいよ来なくて……あっ、切りやがった」
「しかし喫茶店多いな。これで三つ目だ。鴇羽のところもそうだったよな。いかがわしい感じになってたけど、おまえはネコミミつけないのか」高村がチャーハンをレンゲですくって命に与える。
「あたしは調理係だもん。あんま玄人はだしな接客するとウケないんだって。わけわかんない」舞衣がぼやいた。「あ、別にコスプレはしたくないわよ」
「俺も見たくねえなあ」楯がいった。
「僕は見たいなあ」神崎がいった。
「票が割れたね」千絵がほくそ笑む。「巧海くんはどう? 舞衣のコスプレ姿、見たい?」
「はい、どうでもいいです!」元気な答えだった。
「……どうせ。いいよーだ、お姉ちゃんはかわいいかっこなんか似合いませんよーだ」

 舞衣が盛大にへこんだ。

「ブラコン?」「ブラコンだ……」千絵とあおいがくつわを並べた。
「奈緒もチャーハン食べないか。うまいぞ!」命がレンゲをひたすら不貞腐れる奈緒に寄せた。「ほら、アーン」
「いや、ちょっと、要らないって……。もう、はい、んぐ」

 俺のレンゲだが言わないでおこう、と高村は思った。
 と、そこに、

「あ、お兄ちゃんいたー! おーいっ」

 さらに三人の参入である。宗像詩帆、倉内和也、日暮あかねが入店して、純喫茶『HaNA』の店内はこの一団によって過半を占拠されるかたちとなった。
 総勢十二人である。飲食店でも普通にめんどくさがれる数だ。
 夏生地の紬をたすきがけ、前掛けの白が鮮やかな華道部員が、苦笑いで注文を取りに来た。

「あれ、雛菊さんじゃない」千絵が店員の名をいいあてた。「そっか、華道部員だったっけね。私はアイスミルク抹茶で」
「雛菊?」高村は聞き覚えのある名に眉をひそめる。「ああ、雛菊巴か。そういえば鴇羽と原田たちとは同じクラスだったな。そのアシンメトリィな髪型には見覚えがある。俺は半チャーハンおかわりで」
「かしこまりました」さらさらと雛菊巴がメモを取る。「他のお客様は?」
「ぼくは、えっと、」
「あ、ねえねえ巧海、あたし抹茶頼むからはんぶんこしようよ。ね」
「仲がよくてうらやましいですね。僕はアイスティを」
「ベタベタしすぎじゃねっすか? 俺は水でいいや」
「えー。これだけかわいい弟ならわたしだって可愛がっちゃうなぁ。……うーん、わたしはねー、じゃあこのファイナル抹茶で」
「なにがファイナルなんですか、それ。……あたしオレンジジュース」
「ラーメン」
「あ、俺たちはもう食べてきたからいいや。ね、あかねちゃん」
「う、うん、そうだね」
「ご注文を復唱します。原田さんがアイスミルク抹茶、鴇羽さんと弟さんが抹茶、神崎先輩がアイスティ、瀬能さんがファイナル抹茶、中等部のあなたがオレンジジュース、そちらの子がラーメン。以上でよろしいですか?」
「あの、俺の、水は」楯が手を挙げた。
「そのへんの水道でどうぞ。セルフです」優雅に腰を折って、雛菊巴がきびすを返した。

「……フン」

 ひとり沈黙を守っていた奈緒が、刹那にやりと悪い笑みを浮かべた。
 企む顔である。
 と見るや、嬌声をあげて高村の腕に体全体ですりよった。

「え~~~せんせぇ、ホントにおごってくれるんですか~~~~、わぁ、嬉しいなぁ。じゃあ店員さん、ここの払いは全部こっちのセンセイにお願いしまぁす。さすが、最年長っていうかぁ、年上ですもんねぇ? マジ気前いいー!」
「なんだいきなり。その喋り方ますます頭悪く見えるからやめたほうがいいぞ」
「マジすか!」楯が勢い込んだ。「じゃあやっぱ俺オムライスもう一杯で」
「お、お兄ちゃんが食べるならあたしも……」詩帆が便乗した。

 次々と後続が頻出した。みな、教師へのたかりに遠慮は一切なかった。高村は無意識に財布の重みを確かめて、奈緒に食って掛かる。

「ふざけるなおい。おまえ、俺から大金パチっておいて……。なんでおごらなきゃならないんだよ。おまえが払え」
「ええ~」奈緒がへらへらと笑った。「聞きましたぁ、みなさん。センセイってば、こんなこと言ってますけどぉ。ちょっと、せこくねえ? っていうか、貧乏くさいんですけどー。まじやばーい」

 文章化すれば多量の(笑)が咲き乱れるような語調であった。
 高村は切歯する。耐え時であった。男として、大人として、教師としての度量がいま、試されている。

「あとラーメン」命が四杯目のラーメンを当然のように先行入力しようとしていた。
「美袋ごめんそのへんで勘弁してくれ」

 泣きが入った。

「楽しそうじゃないか、ひとを地獄に送り込んでおいて……」

 そこに十三人目の登場である。
 玖我・ゴシックロリータ・なつきであった。『1-Bでフリマ開催中! きてネ☆』という知能が低そうな丸文字で頭の悪そうなあおり文句の書かれたプラカードを、ツルハシのごとく肩に担いでいる。
 色々な意味であまりな格好に、空間が凍りついた。

「やだ、玖我さんかわいい……!」

 あおいだけが食いつき、奈緒と舞衣が鼻水を出すほど吹き出したが、他の人間はおおむね引いていた。既知である和也とあかねだけは、反応に困った笑みで場を濁している。
 なつきはみごとに恥を掻き捨てていた。

「笑え笑え。笑ってくれれば気も紛れるさ」
「あははっははははっ」高村は言われたとおりにした。
「貴様は笑うな」

 肘鉄が鎖骨へ縦に落とされた。左右を巧海と奈緒に囲まれた配置である。回避は不可能だった。

「師匠……、この人の格好は、趣味なの?」
「違うぞ、巧海くん」痛みに顔をしかめながら、高村は首を振った。「生き様だ。あれぞライフだ」
「なるほど」
「ちょっと、巧海にヘンなこと教えないでくださいってば」舞衣が笑いすぎで泣きながら巧海をかばった。
「午後、どこ行こうか。せっかくだからみんなで動きませんか?」和也が取り成すように提案する。
「つっても、この大所帯で出店とかは、邪魔にしかなんねーぞ」楯がうなった。「詩帆、午後からやってるイベントって何があった?」
「プログラムによるとー、教会で聖歌隊の合唱、で、グラウンドで芸能人のトークショーのあとライブイベントだって。プロの人の前座で、うちの学校の軽音とか文化系の人たちが演奏するみたい」
「トークショウは別に興味ないかなあ」舞衣が巧海を見下ろした。「聖歌隊は聞いてみたい。ねえ先生、アリッサちゃんも歌うんでしょ?」
「いや、あれはシスター紫子が体調不良になったとかで、幼年部はなしに――」

 いい差したところで高村の電話が鳴った。着信先は深優・グリーアだった。昨日の今日なので、つい受信をためらうが、無視することもできない。おっかなびっくりしつつ、スピーカに耳を寄せた。

「はい」
「あ、お兄ちゃん?」予想に反して、耳朶を打ったのはアリッサ・シアーズの声であった。「あのね、今からね、アリッサたちうんどうじょうのほうのステージに行ってお歌うたうから! 深優、何時だっけ?――そう、二時くらい! ちゃんと見に来てね。聞きに来てね。ぜったいだよ。じゃあまたね!」

 切れた。
 よほど不可解な顔をしていたのか、周囲の視線が高村に集まっている。疑問を代弁するように、巧海が「どうしたの?」と質問した。

「さあ、どうしたんだろう」高村も答えあぐねた。「よく、わからないな。呼んでるんだから行ってみてもいいけど」

 改めて時刻を確認するが、まだ昼時は終わっていない。アリッサのいった刻限までは間がある。昼食を全員が終えるであろう時間を多めに見ても、多少暇を持て余してしまうだろう。

「あの、いいでしょうか」そこで神崎が控えめに発言した。「僕のクラスではお化け屋敷をやっているんですが、雑務にかまけて準備などは遥さんに一任するかたちになってしまいまして。ですからよければ一度顔を出しておきたいんです。よければみんなで一緒に行きませんか?」
「俺は構わないけど、ほかに意見はあるか?」高村が一同を見回した。「正直べつに固まって動く必要はないから、行きたいところがあるなら構わないと思う」
「いや、せっかくだから一緒に」と、倉内和也が率先していった。「あ、いいかな、あかねちゃん。なんか勝手に決めちゃったけど。もしほかにどっかあるなら……」
「え、いいよ、あたしはカズくんと、その」そこで言葉を切って、あかねが慌てて首を振る。それから気遣わしげな眼を、高村と、そして神崎に向けた。「なっ、なんでもないです」

 恋愛禁止、のフレーズが、今さらながら暗黙裡に浮かび上がった。

「べつに、僕は何も見てないよ」神崎は穏やかに微笑んだ。
「俺はもともとそんなのあんまり気にしてない」高村も同様だった。
「……」なつきひとりが、険しい眼であからさまな恋人ふたりを見ていた。それからため息交じりに、「お化け屋敷だって? くだらない。お言葉に甘えて、わたしは別行動を取らせてもらう……」
「怖いの?」

 と、余計な一言を発したのは奈緒であった。
 なつきは露骨に眉をひそめて、鼻で笑った。

「馬鹿な。子供じゃあるまいし。幽霊や妖怪の何が怖いんだ」
「そうですよね」と同意したのは、意外にも巧海である。「ぼく、けっこうよく見かけるけど、基本的に話しかけたりしなければ平気だもんね」
「あー」と、舞衣が苦笑いした。「そういえば昔から巧海はそっち系、強かったね」
「ぼくだけみたいに言わないでよ」巧海は口を尖らせた。「もともと、お姉ちゃんが言ってたんじゃないか。星が見えるとか見えないとか。ぼくはその影響を受けただけだと思うな」
「あ、あれ。そうだっけ、あはは……」ごまかし笑いで受ける舞衣だった。ぼそりと、「最近じゃ、そういうのばかにできないしなぁ」
「…………と、とにかく、興味がない。わたしはいかない」

 かたくなに言い切るなつきだ。奈緒はますます笑みを深めた。背もたれに肘を乗せて、嘲笑をなつきへ差し込んでいる。

「くらーい」
「このガキ……」なつきの瞳に怒りがよぎった。
「こわーい」
「こら、だめだよ奈緒ちゃん!」めっ、としかりつけるのはあおいである。鼻にティッシュが詰まっていた。「だれにだって苦手なものくらいあるんだから。ごめんね、玖我さん」
「……いやあのな」

 なんとも言えず、押し黙るなつきだ。静留しかり、悪意がない相手に弱いのである。対人経験の薄さというよりも、性格の問題であろうと思われた。
(犬系に弱いと見た)
 ヒモに引っかかりそうなタイプだなと、口には出せないことを考える高村である。これからなつきはどうするべきか、局地的な未来に思案が巡る。なんのかんのとついてこさせるのがパターンである。ならば、それを脱却してもいいかもしれない。
 高村は口を出しかけて――
 つぐんだ。

「……?」

 何かが視界をよぎった気がした。
 何かとはなにか? いてはならない何かだ。
 視線を無作為に散らした。喫茶店のブースを区切るのは薄い仕切りと部室に備わる硝子窓だ。
 閾下の違和感は、当然外に求められた。丁度可知差異とも呼ばれる、かすめた毛先のように曖昧で儚いシルエットの残像を、眼球が覚えている。すなわち、既知の存在との相違がブザーの正体である。
(……なんだ?)
 存在自体が不自然な形象。それを観測したのだとすれば、いよいよ怪しいのは高村の感覚だ。服薬していない状態でも、幻覚が現実を侵しはじめていることになる。
 彼は静かにかぶりを振った。疲れているのだろう。ならばそれは脳によるごく真っ当な処理でしかない。
 意識を戻すと、結局なつきもお化け屋敷に同道する方向で話がまとまりつつあった。高村は違和感の共有を求めて、メンバーの顔をそれとなくさらっていく。眉目なりにわずかとも動きが見えたのは二人だけだった。
 美袋命と、鴇羽巧海だ。後者はともかく、前者の鋭感は議論を待たない。高村は少女に何かを聞こうとしたが、止めた。杉浦碧の言葉が思い出されたからだ。
 瞬間が尊い。水面に、いまは無駄な波紋を描きたくない。凪いでいるから、美しい。
 間違った感性に、今日の高村は抗えなかった。深優・グリーアとの一件が尾を引いている。彼はほとんど子供のように浮かれている自分を発見した。

「おい」
「ん?」

 千絵とあおいと舞衣に座らされたなつきが、仏頂面で高村を見ていた。

「心配しなくとも、わたしのぶんは自分で払う」
「そうか」高村は的外れな心遣いに苦笑する。「心遣いいたみいるよ。跼天蹐地の心境だ」

 穏やかに中天が過ぎていった。


  ※


「だからな、おい、聞いているのか。わたしはべつに怖がったわけじゃない。あれは驚いただけだ。おい、こら、高村。ちゃんと聞け。というか、なんだあれ。あれのどこがお化け屋敷だ!? 入って即座に真っ暗になって後ろでは扉に施錠されて、やっと明かりがちょっと見えたと思ったらその先で赤ん坊の蝋人形を抱えてる女とか……、なんか方向性が違うだろ!? そのあともバスルームで死体を解体するシーンの再現とか、あれはお化け屋敷じゃなくてスプラッタ・ハウスっていうんだ。ちょっとびっくりしてもしょうがないだろ!? おい――」

 午後一時五十分になっても、ライブ会場である特設ステージ前の客数はまばらだった。ステージ下では放送委員と思しき生徒らがPAの最終チェックを行っている。
 交通の阻害にならないようポールと警備員で客席を区切っているのだが、欠けたパズルを思わせて、その内海はうら寂しい。その日招いているのはファンもそれなりにいるメジャーなアーティストであるらしいが、前座でさえ、学園の即席バンドには荷が重いのかもしれない。

「それがそうでもないんですよ」といったのは原田千絵だった。「うちは部活系には文武ともけっこう力入れてますからね、軽音部にもちゃんとした顧問もいるし、それに神戸あたりからも名の売れたバンドを呼んでいるらしいですし。ただ、まあ……」
「遥さんが、なんとも体育会系びいきでしてね」神崎があとを引き継ぐ。「実際前年度まで運動部の部費が多少減少傾向にあったので、結果的に文化部は減収されているということです。そして、それがまた軋轢を生み出していると」
「有力なところは百万単位だっていうもんなあ、風華の部費って。部ごとに会計と監査がいるんだろ?」高村は呆れてこぼした。「正直なところ、この学園のそういうところは評価できないな。金勘定は命と同じくらい大事だけど、他にすることが山ほどある時期なのにさ」
「あんたがいうことか」奈緒がぽつりと呟いたが、誰にも聞こえなかった。
「ちょ、先生、ひゃくまんってマジ?」頓狂な声をあげたのは舞衣だった。こちらは弟ともども、お化け屋敷も問題なく抜けている。「初耳なんですけど。どっからそんなお金が出てるのよ……」
「そりゃ、鴇羽とか結城とか美袋とか、そういえば日暮もだったな、おまえら一部の特待生以外からはがっぽり取ってるんだよ。私立の一貫だし、資金源はよくわからんしこの学園」
「市議やゼネコンや教育委とがっぷり組んでるからな」まだ少し顔色の悪いなつきが注釈した。「この学園で改装や大規模工事の発注が多いのは、まあ言わずもがなだろう。地元名士の子息も多く通っているから、票田の宝庫でもある。連中にとっては現在と未来、二重のお得意先というわけだ。真白は意外とそのへん鷹揚だし、静留もやり手だ。貰えるものは貰ってるぞ、あいつら」
「おお、ダークな話題」千絵が眼を輝かせた。
「あの、あんま副会長の前でそういう話は……」楯が疲弊した調子でいった。
「別に構わないよ」神崎は笑みを崩さない。「そんな事実は、一切ないからね」
「その迷いのない否定が怖いです……」詩帆が恐々としていた。その手はずっと楯の裾を握っている。

 その後入場整理でチケットが人数分に届かないことが判明したが、神埼が学生証を見せただけで、以下十名以上がフリーパスとなった。貴賓席が押さえられているらしい。権力の使いどころがわかっているやつだと、高村はどうでもいいところで感心していた。
 無人の舞台では、ドラムや、ストンプモデルのアンプが所在なさげに置かれている。彼らがその存在感を発揮するのは、歌い手を迎えた時である。コンサート前特有の、緊迫感を孕む空気に身じろぎしつつ、高村はちょこなんと座る巧海に声をかけた。

「巧海くんは、音楽とかよく聞くのか」
「いや、それが、実はあんまり」
「そっか。いや、俺もなんだ。こういうの詳しいのって誰だ? 鴇羽は?」

 水を向けると、舞衣は首を傾げて答えた。

「あたしも、まあ流行りのくらいは聴くし、バイト先でも有線聞いてるからけっこう覚えてはいると思うけど、詳しいってほどではないよ。基本ポップスだし。今日のはけっこうコアなんでしょ? たしか、ロックは玖我さんが詳しかったよね」
「そうなのか」と、高村。
「詳しいってほどじゃない。なんとなく……習慣として聴き続けているだけだ」なつきはつまらなげに髪を弄りながら答えた。
「ああ、じゃあもしかして、デュランって、バンドから肖ってるのか」
「その話は、あまりしたくない」静かな声音で、なつきはいった。「……ほら、トップバッターの出番のようだぞ。手と足が一緒に出そうなほど緊張しているみたいだが」

 先陣切って壇上にあがったのは、4ピースのガールズバンドであった。衣装から手作りで、ステージに臨む気概は充分に見受けられる。四人とも高村の知らない、高等部の生徒だった。遠目に見えても彼女らの動きは硬く、浮き足立ってぎこちない。妙な緊張感は客席にまで伝播して、他人事にも関わらず高村は軽く手に汗を握った。
 ヴォーカルの少女が、マイクを合わせる。楽隊を振り向いて、頷いてみせると、ハイハットが8ビートで走り出した。合わせる形でギターがリフレインを響かせる。ベースも危なげなく底を取っていた。
 水を打たれた会場に、息継ぎの音が大きく染みる。
 唄が始まった。
「あ、これ知ってる」と舞衣が誰にともなく呟いた。流行歌のカヴァー・アレンジであることは高村も知っている。肝心の演奏は、これが案外、上手かった。少なくとも、高村が引き合いに浮かべたような、大学で同好会が文化祭で演じるレベルはゆうに超えている。さらに技術の巧拙はともあれ、観衆を飲み込む熱があった。暑気を切り払うような音程は、野外に鋭く伸びていく。会場の外、学内を行き交う人々も、何事かと足を止めていた。
 音には、ある種の中毒性と常習性が存在する。とらわれた人間は、間断なく距離を詰めたがるものだ。
 もうひとつの効能は、環境を構築する力にある。たとえば、無音はたやすく個室を作る。音から切り離されれば、雑踏の中であろうと人は孤独を錯誤できる。その逆もまたしかりだ。他のすべてを駆逐するほど強い音は、一定のラインを超えると、人間を周囲から切り取ってしまう。切り取られた人間は、同じ境遇の人間と並列化される。
 結果世界がもうひとつ生まれる。熱狂が行き交い、乱舞する空間である。
 音楽や舞踏が、宗教的儀式と密接に関わるのはそのためである。拍子と和音は、個から垣根を取り払う。忘我を導き、神を呼ぶ。空と交わす、原初の信号。音楽とはそれなのだ。
 一曲めが終わると、いつの間にか観客の数が増えていた。ヴォーカルの少女によるMCで、メンバーの名前が紹介されていく。奮わなかったオーディエンスはすっかり温められて、いちいち合いの手を返していた。もはや完全に彼女らの舞台だ。前座の役目が暖機にあるとすれば、充分以上に担われている。
 続く二曲目で、これ以上はあるのかというほど客席は盛り上がった。後続のテンションなど考えないペースだ。奏者たちはもともと最高のパフォーマンスを目指すべきなのだから、それは正しい。
(それにしても、ちょっと、おかしくないか?)
 高村は戸惑いながら、聴衆を一望した。熱狂振りが極端すぎる。ライブとはこういうものだと言われれば納得するしかないが、いち学園の祭事でしかないこの場所で、誰もがその作法を心得ているとも思えない。あらゆる意味で雑多なのがこういった催しの常であるはずだ。望まれずとも、白けることもあるだろう。
(うまくいってるんだ。いいことなんだろうけど)
 釈然としない面持ちで、最後だという三曲めのアナウンスを待つ。そのとき――

『――ここで特別ゲストの紹介ですっ。初等部の、アリッサ・シアーズちゃん!』

 聞き捨てならない音声を、アンプが飛ばした。
 高村は「あ?」とだけ呟いた。

「……シアーズ、だと?」なつきが顔をしかめた。

 舞衣は「え、ほんとに?」と素直に顔を輝かせている。神崎は眉をひそめ、命は首をかしげ、奈緒はちらりと高村へ視線を移した。他の人間は、いつの間にか席を離れ、前方の群集へ飛び込んでいた。
 二百は下らない視線がつどう。矢のように一箇所に収斂していく。指向性が力さえ持った。
 それを、悠揚と受け止める少女がいる。幼い。そうはっきり言ってしまえるほどに、彼女は小さい。
 だが、壇上の覇者だった。ゆっくりと、一挙手一投足で、耳目を束ねていく。蒼い眼が客席を撫でていく。高村も、誰しも、固唾を呑んで視線を受け止めた。しわぶき一つ押し殺されて、最前の音素も残らず掃われる。
 熱気だけを残して。
 アリッサが、足音も立てずステージを歩む。眼下を睥睨する表情は支配者のそれだ。酷薄で、無邪気で、純粋で、美しい。年齢と無垢さはかかわりない。アリッサは、ただそのように振舞っている。
 確かに、天使が実在したのならば、そんな容貌であろうと理解させられる。不可触な空気を充溢させて、アリッサが、満足そうに笑った。ゆっくりと手を挙げる。舞台度胸の域を超えた存在感が、小さすぎる全身から発されている。
 質量ある存在感。距離を置いても眼を惹く立ち居。
 背後の大ビジョンに映る顔は、すでに陶酔している。
(あれは、だれだ?)
 昨日までのアリッサとは違う。明文化できないしこりを抱いたまま、高村も群れの一角と化している。
 アリッサが破顔した。すべての客が、解放されたように息を吐く。呼吸の機微さえ制されていると、どれだけの人間が気づいたのか。それをしたアリッサさえ、意識はしていないだろう。

『アリッサ、うたいます! 大バッハ、BWV244・ロック・アレンジ。あとアン・ディー・フロイデ!』

「歓喜の歌はどうにかわかるけど、……べーべーはお?」高村が唖然と鸚鵡返しにした。
「マタイ受難曲だ」なつきが律儀に解説した。「いくら編曲したって、屋外でロックバンドが演る曲目じゃないぞ……。というか、なんだ、この空気は……」

 呟きが終わるか否かのうちに、すべての音が押し流された。
 前奏に追随して、すでにアリッサの声が走っていた。風か、あるいは水に似た流動性の気配が、人垣を通り抜けていく。声であると判断するには物質的すぎる。不純物を押し流すように津波が寄せて、そのあとに、奔流が来た。七つに満たない少女の声ではなかった。それどころか、人間の声量をゆうに越えているように思われる。肌膚がふるえるほどの声がひとりの少女を因にするのだとすれば、高村の常識は覆るだろう。しかし思考は音程にせき止められ、和音に誘導され、声楽に剥離させられていた。
 圧倒的な早業だった。人智を完全に逸していた。ホールでもない場所で、安物のアンプを用いて、こんな魔法が実現される。聴衆はすでに埒を越え、学園全域に及んでいた。アリッサは編み上げるように音を連ねていく。発声しているのではなく、彼女という太虚から、なにか異質なものが流れ出しているようですらあった。
 声の大樹が急速に生育する。枝葉は瞬く間に校舎を蓋い、祭りの空気を塗り替えた。アリッサ・シアーズのうたはしかし、決してある一定の空間から先には響かない。誰もその異常な事態に気づかない。なすすべなく意識を歌に奪われて、同一化されてしまう。
 すべてがアリッサに対する一個となる。無我は音にたゆたい、翻弄されて、浮沈する。うたうアリッサにすらその制御は不可能だ。ただ、彼女はうたうだけの装置でしかない。
 入神――
 伴奏する少女たちさえその例に漏れていない。強引に領域へ連れ出されている。無形の一体感にひたる内、歌は物語を帯びた。息苦しさを人々は感じた。涙を流すものがいた。歌で泣く? と高村は思った。あるのかもしれない。そんな気分になったことは確かにある。
 だが、これはそれと同じなのか?
 疑うが、疑念もまた暈けて融けてゆく。視界が光に満ちている。打ちひしがれた重圧が、群集を朦朧とさせている。演奏が段落へ向かうことを〝歌〟は示していた。それは救いだ。だが誰もが離れがたくなっている。
 それでも、歌はいやおうなく終わる。物語とはそうしたものだ。簡略化され、暴力的に節をつけられたフレーズが終息すると、ステージに促々あがる影があった。
 風花真白である。いまだ茫乎とした心境で、高村はその様を眺めている。あちこちで、興奮した声が吐き出される。会話にも言葉にもなっていない。それは原始的な鳴き声に近い。しかし、交信に不都合はない。誰しもが、隣人と繋げられている。
 真白は、厳しい面持ちでアリッサへ向かう。なにかを口に出している。汗みずくのアリッサは、それを意にも介さない。全能者のような振る舞いで、年かさの少女を流し目している。
 多数の視線にまみれ、ふたりの少女が対峙する。精神的なメタファを想起させる絵図だった。車椅子にかけた真白が、さらに何かを言い募ろうとしたとき、アリッサが、笑った。
 いたずらをする笑みだ。高村だけが直観的に理解した。
 金髪の少女が、一転友好的に真白へ歩み寄る。戸惑ってそれを見やる真白の背後で、姫野二三がいつもどおり控えていた。あらゆる害意から主人を守る従僕が、かすかに肩を揺らす。彼女の視線が一瞬だけ真白から切れる。
 ずっと人目につかず忍んでいた、深優・グリーアがいた。二三の意識が数瞬、奪われた。アリッサにはそれで充分だった。
 アリッサが、真白のスカートをめくった。

『え――――?』

 マイクによって、呆然たる声がギャラリーに届けられた。さらに、真白が着ているのはワンピースで、ウエストのリボンをするりとほどくと、アリッサはさらにその服を押し上げた。抵抗する真白の手腕は、するりと避けられた。
 高村も抱えたことのある肢体が、車椅子から引き摺り下ろされる。地に這う真白は無駄に色めく姿勢で、痴態を披露している。
 大きい友達を主にして、聴衆がどっと沸く。不可侵の聖域であった美少女理事長の秘部(※下着)が、衆目にさらされる。名前の通りに白皙の、ふくらはぎから太腿、さらにほっそりとした腰部が露出して、臍部が見え隠れした。
 背後のビジョンは逐一その様子を追っている。放送部がいい仕事をしていた。
 オーディエンスは最高潮だった。
 無論、姫野二三は動いていた。
 だが、深優に制されている。
 怪獣大決戦であった。
 アリッサは止まらない。
 ついに、胸元まであらわになった。
 真白の悲鳴は声にならない。彼女を知るものなら誰もが信じられないほど、顔が赤く染まっている。

「ば――」なつきが面白い顔になった。
「ひゅぅ」奈緒が口笛を吹いた。
「脱いだ」命が客観的に発言した。
「ちょちょちょぉ!」舞衣が高村の袖を引いた。「どどどどーすんのあれぇ!?」
「あわわわわ」

 高村はおろおろしていた。

「使えないこの教師ー!!」

 舞衣が頭を抱える。その間にも舞台は次のシーンへと切り替わっていた。真白から離れたアリッサが、マイクを手に、アンプへ足をかけ、よく通り過ぎる声で絶叫した。

『このロリコンどもめ――――――っ!!!』

 世界中が同時に湧いたかのような歓声が応えた。
 そのまま歌に突入した。先ほどの緻密な檻とはまた違う、感情を叩きつけるようなよろこびの歌が、沸騰したボルテージをさらに昇華させる。二三によってそでに引かれていく真白を気の毒に思いながら、高村は再びアリッサにされるがままになった。
 熱の渦動が全てをさらっていく。過去の悲劇も未来の憂慮も押し流す。脳髄を痺れさせる甘い毒に、ほとんどの人間がおかされてしまう。例外はHiMEたちだ。舞衣はごく一般的に熱中し、なつきはやや引きずられ、命は取り残され、他者を拒絶する奈緒は気分が悪そうに顔をしかめている。高村は、彼女たちほど耐性がない。じきに取り込まれる予感があった。それを拒む理由もないように思われた。委ねてしまえば安堵に浸れた。泥濘は暖かだった。やがて、暖かい雨までもが降り出した。それは予想されたような、興ざめの空気を運びはしなかった。アリッサの歌が世界を震わせ雨を招いてみせたのだ。陳腐な神話の再生が眼前で行われている。巫女たる少女は変性意識の命ずるまま、恍惚と天上の滴に打たれ、至福を歌い上げている。騒がしいのは声、声、声だ。音が何もかも歌になる。言葉はほどけて意味を失いまた結び合わされて象られる。有為と無為が相互に反射して無分別になっていく。個我が、いよいよ、波線から線分へ分解されようとしている。歌が最高潮へ向かう。夢中へと手を引かれながら、高村は――

 現実へ引き戻される。

「立ち去るべき人、それは汝だ」





[2120] ワルキューレの午睡・第二部最終節2
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609
Date: 2008/02/11 03:52


 ※


 ひそんだ低い声だった。
(――)
 背後から、首筋を掴まれる。瞬間的に体がこわばった。振り返ろうとして、制される。

「そのままさがれ。ゆっくりと、だ。周囲に気取られないように」

 声だけが耳朶に囁かれた。

「振り向くな。貴様には私を見る必要がない。言葉での応答も要らない。頷くか、首を振ればいい。高村恭司だな?」

 高村は頷く。言葉どおりに後退する。さらに背中からかすかにスーツを押し上げる、突きつけられた異物の存在を知る。
 鋭い利器を思わせる指先が、人ごみに紛れて高村の死命を握っていた。さらに鉄の感触が背部の急所に添えられている。身動き一つで、容易に命を奪われる。圧倒的な実感が、高村を酩酊から一息で引き離した。

「私はドクター九条の同志だ。ここで貴様に危害を加える理由はない」
「なん……」言葉が漏れかけた。背中を痛みが刺した。刃物だ。わずかに皮膚を破っている。
「喋るなといったな」

 発言の内容と、態度がかみ合っていない。高村は混乱冷めやらぬまま、唾液を喉に送った。

「説明をしている暇はない。貴様に人並みの頭があれば、いまに嫌でも理解する。だから、要件だけを簡潔に言おう」
「……」
「初夏からこちら――」声の調子が不意に和らいだ。「よくやったな。頑張ったな。多くのワルキューレと接触し、教員として勤め上げ、彼女らと生活をともにした。すばらしい働きだ。望外の成果といえる」

 高村は反応を返さない。
 いまだ凶器は皮一枚を貫き、内臓を狙っている。背後の声の主に腹蔵があることは嫌でも知れた。
 声は続けた。

「だが、無駄だった」口調には断定だけがあった。「私は貴様を少しばかり観察したのだがな、失望したと言わざるをえない。この一ヶ月弱のうちに、貴様がやったことはなんだ? 手札をさらし、無駄な危険を冒し、あまつさえ消費すべきワルキューレにまで情を移した。それで、どうするのだ? 貴様は何がしたいのだ? 最後から二番目の切り札まで用いて、残っているのはその身ひとつだ」
(勝手な、ことを――)

 歯を噛んだ。刹那のいとまに、行動すべきか、高村は逡巡した。切先を逸らし、背後へ向き直り、瞬時に相手を拘束する。技量を勘定にいれなければ、実行だけはできるかもしれない。
 声は、そのためらいを切り払う。

「私は迷っている。貴様を、……のぞくべきなのか」

 悪寒が内股から腹部へ駆け上がった。ユニットが今さらながら、起動する。

「貴様は衝動で動いている。目先の倫理でたやすく、軌道を変えてしまう。平時ならばそれでいいだろう。だが、今、その体はシアーズに帰属するものだ。……どうなのだ? 私はひどく不安だ。貴様は、もしもの時、たやすく全てをなげうってしまうように思える」
「……」
「――それとも、貴様に理解をうながして是正するべきなのか。貴様がドクター九条のもとにあるのなら、選ぶべきは後者だ」

 是正。どうしようもなく不吉な単語に、高村は棒立ちのまま、めまぐるしく思案した。外界は変わらず、アリッサの歌に狂っている。高村は望まぬままそこから放り出され、理不尽な脅威にさらされている。
(……九条さんの、同志だって?)
 そんな話は聞いていない。
 無論、九条むつみが高村を用いて企図する所は彼も知っている。ならば、計画に携わる人間も他にいるのだろう。少なくない数の協力者がいなければ、到底実現しえない目的だからだ。
 たいていの人間は、利得を頭に入れて動くものだ。彼らが信倚するのは予想であり、予定であり、つまりは把握できる絵図である。その種の信念からすれば、高村の動きが目障りであることは、理解できなくもない。
(だからって、自称仲間に刃物を突きつけられるなんて)
 皮肉も極まった感がある。高村は場をわきまえずに苦笑した。虚言を疑うのは、現実的ではない。この場合問題となるのは、真偽ではなく意図だ。
(とにかく、殺すつもりは薄い。ないとは言い切れないが……優先順位は低いはずだ。でなければ、こんな迂遠なやり口をしてもしょうがない)
 あえて楽観を押し出して、ともかくも死の可能性を追いやった。瞬間まみえる程度ならまだしも、持続的に向かい合うには、死は思考を傾倒させすぎる。その存在感を受け流すほどの剛胆は高村にはない。
 高村はいやます鼓動を意力で伏せる。思索の糸をからげて、この忠告者の真意を探る。

「貴様が本当に王冠であるなら、局地的な流れに拘泥するのもいいだろう。ままごとに最後まで付き合って、世界の命運とやらの裁量を受け継ぐがいい。無知な女子供と、手と手を取って」

 一センチ、刃先が傷を深く抉った。
 高村は、ただ、呼吸のために、喘いだ。

「その場しのぎの選択を繰り返せば、いやでもそうなる。そしてこのまま変わらないつもりであれば、もう、貴様は我々に関わるな。すでに邪魔でしかなくなりつつある」

 後頭部に焦げつくのは視線だ。燃犀の眼が、残像となるほどに集中するのを感じる。

「試してみるか。できるか、できないか。今ここで、貴様の覚悟を問うてみる。黙って、見届けてみろ」

 ふっと、視界の右端に影が過ぎった。背後から手が伸びていた。左手で凶器を突きつけられているのだと、高村は悟った。有益な情報だ。しかし、それにもまして見逃せないものが、眼前の右手に握られている。
 小口径の拳銃だった。ひたすらに鈍いマズルは、つや消しされたように黒い。雨だれに濡れた銃身は、その重々しさに比して、あまりに突拍子もなかった。
 ふらりと銃口がさまよう。品定めの動きだった。高村は痛みにでも恐怖にでもなく、体を緊張させる。咄嗟に手を伸ばすべきだと思う。とたん、さらに強く背中の刃物が押し込まれる。血が流れて臀部に達するのを彼は感じた。本気で刺してくる、という意思表示だろう。ブラフはどちらだ、と高村は思った。銃か、ナイフか、それともすべてか――。
 交渉をしかけるべきだった。高村は口を開きかけた。
 間に合わなかった。

「撃つぞ」

 宣言と同時、ほとんど間断なく、三度、引き金が引かれた。気の抜けた空気の音が耳元で爆ぜた。
 照星の先にいたのは、鴇羽舞衣と巧海の姉弟だった。時間が延びるようなこともない。転瞬、舞衣の背中に二発、巧海の肩甲骨に一発、弾着があった。
 高村が悲鳴を押し殺せたのは、意思によるものではない。ただ動顛のあまりだった。
 発射されたのがペイント弾だと、気づくのが遅れたのもそのためだ。たっぷり数秒かけて、変わりなくコンサートに興じる二人の姿を眼に収め、すぐに小ぶりの雨による染みと見分けがつかなくなった塗料を確かめて、高村は大きく息を吐いた。

「いま、見捨てたな」

 吐いた息が凍った。

「見捨てたのだ。制止する余地はあったはずだ。貴様の能力と資質から、それが可能だと、少なくとも私は判断していた。だが、しなかったな。結果的にあの二名は無事だったが――」
「詭弁だ」高村は強く言葉を吐いていた。
「そのとおりだ」あっさりと、声は認めた。「大事なのは結果だ。肝に銘じておくのだな」

 言葉と同時に、高村は背中を突き飛ばされた。たたらを踏んで、振り返る。
 人いきれがそこにあった。高村のいる場も例外ではなく、全方位を人間の垣根に囲まれている。不自然にあたりを押しのけて逃走をはかる影などは、まったく見当たらない。
 白日の夢に近い数分を、証するのは確かに薄く貫かれた背中だ。疼いて痛みを発する傷口に触れ、流血を確かめて、高村は顔をしかめた。
 ついで、スラックスのポケットに手を運んだ。別れ際に何かを差し込まれた感触があったのだ。果たして、指が触れたのは、一枚の紙片だった。流麗な筆記体で短いメッセージが記されている。

 ――正門の前に結城奈緒を連れて来られたし。

 何度確かめてもそう読めた。高村は紙を握りつぶすと、アリッサ・シアーズの歌の終わりを待たずに、結城奈緒の姿を求めて人ごみをかきわけだした。


  ※


「凄かったねえ千絵ちゃん……。今のライブ」
「うん……。いや、本気で、一生モノかもしれない」
「あとでアリッサちゃんにサイン貰っておく?」
「それいいね。なら、高村先生に頼んでおこうか。あ、舞衣、高村先生は?」
「え、あれ? さっきまでここにいたんだけど……。はぐれちゃったみたい。って、命と玖我さんもいないや」
「そういえば、あかねちゃんと倉内くんもいないね」
「あの二人は、まあ、そっとしておいてあげようよ」


  ※


 倉内和也が日暮あかねに告白されてから、三ヶ月ほど経っている。世間的には、まだまだ序の口というところだろう。和也自身もそう思っている。
 部内の仲間にあかねとの関係の進展を尋ねられると、たいていは曖昧な笑みでかわした。ごく僅かな親しい友人にだけは、ふたりの間にいまだ性を感じさせる接触がないことを打ち明けている。すると彼らは、いずれかの反応を示すのだ。さもありなんと頷くか、または、遅すぎると呆れるか。
 性行為は、学生の社会生活で隠れたバロメータのような位置づけにある。よほど放言しなければ、どうとでも虚偽でつくろえる程度のものでしかない、つまり取るに足らないことであると和也は思っているが、全体的に見れば彼は少数派に属した。大半の男女は、きそうように恋人か、あるいは不特定の相手との交渉を、披露するしないに関わらず、勲章のように考えているふしがある。未熟か、成熟か、経験の有無でそれらを断ずるのは真っ当なことである。しかし付随する諸々の煩瑣なやり取りを欠けば、ただの排泄に成り下がるのが性行為だ。薄利で自前のそれをさばく人間を、和也はどうしても受け付けなかった。
 それを軽薄だ、と感じる心象は、和也の育ちに起因している。

 彼はいわゆる富豪の息子だった。親は風華でも指折りの名士である。片田舎では、そうしたラヴェルは存外大きい。旧い家柄を保ち、今なお財をたくわえる親族は、誇りの意味を知っていた。
 注目を受ける存在にとって、矜持とは常に外面に示されるものであった。それは本来のあり方とは切り離されて評価される。親、子供、孫……連綿と紡がれる家系に、向けられるのは善悪問わず多数の視線だ。
 牢記すべきは、警戒は悪意にだけ向けるものではないということだった。油断をすればのぞかれる。のぞかれた箇所が隙であれば、権威に傷がつく。傷は錆を招き、やがて骨身を腐らせる。
 スキャンダルと一口で片づけられない闇が旧家にはある。彼らは何より醜聞をいとう。風土と、文化と、気質が、そんな性を育てる土壌となっている。和也もまた、幼い頃からその環境に親しんできた。
 そつなく生きることを求められた。失敗をしても挫折をしても構わないが、逸脱だけはしてはならない。愛を持って彼を育てた家族は言葉にしないまま、和也にそれを伝えていた。誰にとってもなかば習性のような気概である。あるいは誰一人意識していなかったのかもしれない。
 地元の近い年代に神崎黎人という傑物がいたこともあり、誰も完璧であることを和也には求めなかった。ただ、無難であればよいとされた。ただしそのアヴェレージは、一般のラインよりは引き上げられている。
 とはいえ、さすがに男女交際を厳しく制限するほどではない、と和也は思っていた。
 だから意識下の防波堤に、日暮あかねの告白は妨げられなかったのだ。
 屋上に呼び出されたとき、彼が最初に懸念したのは、上級生による呼び出しか、もしくは悪質ないたずらだった。可愛らしいシールで封緘された丸文字の手紙というのが、あまりに定跡を思わせて、ためらいを呼んだ。
 倫理は比較的強固だという自負はあっても、過ごした時間はあくまで現代に沿っている。交際といえば、メールか電話か、もしくは身内からの紹介で、というのが和也にとっての常道だった。ゆえに彼の思考は迂回路を右往左往して、あまりにストレートな出口にたどりつかなかった。
 かなり緊張した様子で和也を待ち受けていた少女には、かろうじて、隣のクラスで見かけたことがある、という印象だけを持っていた。とすると、手紙に署名がある「日暮あかね」とは間違いなく彼女のことなのだ。そこでようやく本物のラブレターだ、と多少呆気に取られた和也に向かって、哀れなほどどもりながら、あかねは単刀直入に切り出した。

「あっ、あの、きっ、きてくれてありがとうございますっ。あ、わ、わたしと、その、だめだと思うんですけど、つつ、付き合ってください!」

 視線は逸れていた。おまけにあかねは頭を下げて和也に手を差し出している。漫画みたいな子だなと、動揺しながらも和也は思ったものだった。
 ありふれてはないにせよ、奇抜な馴れ初めだったわけでもない。
 三ヶ月を経てもあかね本人にすら言えずにいる秘密がある。このとき逡巡した和也が咄嗟に告白を受けたのは、実のところ、あかねが泣きそうだったから、という程度のものだった。軽佻浮薄な気風に対する反骨とは矛盾するかもしれないが、彼もやはり異性には興味があった。中学時代も何度かそんな空気を感じたことはあるが、気恥ずかしさが勝り、まともに女子と向き合えずにいた。
 見たところあかねは可愛らしく、一見で断る理由もなかった。和也にも、特に気にかかるような女性がいなかったこともある。
 告白を受けると、あかねは信じられないような顔をした。
 そしてやはり、泣いたのだった。
 予想と違っていたのは、それが顔を歪めるような泣き方ではなかった点だ。嬉し泣きや悔し泣き、というのを和也はしたことがない。子供の頃から続けているサッカーでも同じだった。辛勝しても惜敗しても、それなりに喜び悔いはしたが、落涙するほどの経験はなかった。
 悩んだことも気にしたこともなかった。他愛ないことだ。
 しかし、日暮あかねは、それをたやすくしてみせた。
 瞳全体が潤み、下睫毛のふちに滴が溜まるのを和也は見た。震える目尻に水滴が傾いていった。決壊の瞬間はほどなくやってきた。涙はあふれ、こぼれて、まるいあかねの頬の輪郭をなぞっていった。
 感情の結晶だ。和也は、子供のように感心した。
 興味の始端はこのときだった。あるいは、和也もこの瞬間にあかねに恋をした。
 互いに初めてづくしの交際は、一日とも気の休まるときはなかった。思うように詰まらない距離、体臭を感じただけで勃起するどうしようもなさ、手を握る一事さえ、思うように運ばない。初めて家に招き、翌週に母親が和也に伝えた言葉。それは日暮あかねとの絶交をやんわりと勧めるもので、理由は彼女の家柄にあった。もちろん和也はそんな横槍は問題にしなかった。父だけが、こっそりと和也を応援してくれた。それらの大半は、あかねには当然おくびも見せていないが――
 付き合い始めて少し経ったころ、交わした約束があった。

「くらう、じゃなくて、ねえ、和也くん?」放課後の帰路だった。バイトをともにせず、まだ名を呼びなれないあかねが、はにかみながらある提案を持ち出した。「あのね、あたし考えたんだけど」
「うん」
「ルールが要ると思うんだ」
「ルール?」部活疲れもあって、心持ち思考のめぐりが悪かった和也は、鸚鵡返しに尋ねた。「それは、俺たち二人にってこと?」
「そう」あかねは神妙に首肯した。「そういうのあったほうが、長続きするんだって」
「ああ……その番組、俺も見たよ」
「あ、ばれちゃった」あかねが舌を出した。「で、でさ、どう思う?」
「いいんじゃないかな。実際守れるかどうかってのもそうだけど、何が大事かって相手にちゃんと教えるの、いいことだと思うし」
「だよね!」勢い込んで力を得たあかねが、勇みつつ指を折り始めた。「まずね、浮気はしない!」
「それは当たり前でしょ。ルール以前だ」
「そ、そっか……ごめん」いきなりしなびて、あかねがため息をついた。「あっ、倉内くんのこと信じてないってことじゃないよ! でもね、倉内くんって……」
「和也」
「か、和也くんって、すごく、もてるの。人気あるの。だからあたしがかってに不安になっちゃうの」
「え、そうなの?」水面下で人気があるといわれて嬉しい気はしないが、どうせならもっと早く知りたかったと思う和也である。「でも、それをいったらひぐら」
「名前!」
「あかね、ちゃん、も、もてそうだけどな」女性を名前で呼ぶのは、和也にとってあんがい気恥ずかしいことだ。
「ええっ。そんなことないよ、全然!」

 咳払いで話題を変えた。

「いや、褒め殺しあってもしょうがないんだ。ルールの話でしょ、ルール」
「そうでした」あかねが上目遣いで和也を見た。「えー、でも、あと何かあったかな。うーん、体重は聞かない、じゃなくてー。……そだ、デートは割り勘!」
「えー」
「えーって! なんでだめなの! 和也くん、だって今、バイトも何もしてないでしょー」
「いや、男にはさ……体面っていうの? そういうのがあるんだよ。それに、バイトはそのうち始めるってば。今、部活に慣れるのが優先ってだけでさ」
「そうなの? じゃあ、よかったらあたしと同じバイト先にするといいよ。ちょっと忙しいけど、給料いいし、カワイイ子が多い……から、やっぱり止めようか……」

 見る見るうちに渋くなっていくあかねの顔を横目しつつ、

「あかねちゃんはさ」と、和也はいった。「自信、持っていいと思うよ。俺、たぶん、あかねちゃんが思ってるより、あかねちゃんのこと、好きだよ」
「そっか。そうだと、いいな。うれしいな。ありがとう」赤面するかと思いきや、あかねは率直に、喜色をたたえて微笑した。「でも、たぶん、あたしのほうが、もっと和也くんのこと好きだと思う。どれくらい好きかって知ったら、きっとひいちゃうくらい。地球より好き」
「地球って、大きく出たなぁ」
「それくらい本気ってことです」あかねが胸を張る。「あ、もういっこ思いついたよ、ルール。こういうのどうかな。『隠し事をしない』」
「俺は別にいいけど」和也はにやりと笑ってみせる。「あかねちゃんはいいの。聞かれたら恥ずかしいこととか、聞いちゃうかもよ」
「そ、そういうのじゃないの! もう」頬を膨らませて、あかねが人差し指を立てた。「なんでもかんでも話すってことじゃないよ。誰にだって、話したくないことはあるもの。あたしにも、たぶん和也くんにもあると思う。だから、隠し事っていうのはそういうのじゃなくて、二人がね、うまく付き合っていくために、きっと色んなことがあると思うんだけど……」
「たとえば、不満とか?」
「そう」あかねが頷く。「あたし、けっこうヤキモチやきだから、それで困らせちゃったりとか、あると思う。自分でも気をつけるけど、それを忘れちゃうこともついあるから、そういうときには、和也くんが、ちゃんとしかってほしい」
「叱るのとか、苦手なんだけどなぁ」
「だめ。ちゃんとするの」いたずら含みに、あかねが笑った。「ただくっついてるだけじゃなくて、それだけでもあたしは十分幸せなんだけど、あたしはできれば、和也くんにも幸せになってほしいんだ。だからね、相手に言いたいことがあるときや、甘えたいときや、叱ってほしいときは、ちゃんと、そうとわかるようにしたい。してほしい。そうすれば、素敵だと思うんだ」

 理想論といえばそうに違いない。しかし目に見えない含蓄がある、あかねの言葉だ。和也は何度も頷いた。

「そうだね。それは、すごくいいと思う」
「でしょ。だから、あまり考えたくないけど、考えるだけでも辛いけど」言葉どおり、あかねがしんから怯えた素振りで、つま先を見つめた。「和也くんに、ほかに好きな人ができたり、あたしが嫌いになったりしたときは、ちゃんと、言ってね。あたし、もしかしたら、また泣いたりしちゃうかもしれないけど、でもさ」
「あかねちゃん」和也はあかねの言葉を遮った。
「はい!」あかねがぴんと背筋を伸ばして、和也を見つめた。

 彼女へ和也は手を伸ばした。気概は体ごとぶつけるほどだ。心の距離を詰めるため、臆している場合ではなかった。
 あかねは凝然と差し出された掌を見る。

「えっと?」

 和也は、切りつけるように重々しく、いった。

「俺と、手を繋ぎませんか」
「はい」ぽかんとあかねが答えて、手を取った。「つなぎましょう……」

 はじめは握手のかたちだった。それでは歩きにくいことに気がついて、どちらともなく、指をからめた。あかねはしきりに、水仕事で荒れていて恥ずかしいという類の言葉をいったが、和也はただ強く握り返すことで応じた。
 それから岐路にさしかかるまで、ほとんど眼を合わせなかった。手を繋ぎながら、関係のないことばかり喋りあった。
 そのときのことを、倉内和也はよくおぼえている。まだ寒々しい五月の風が、無言の約束でわざと遠回りをして通るあぜ道が、暮れた日が飛ばす紫と緋の雲の切れ端が、強烈に和也の記憶に残っている。

 ――そして、ここのところずっと塞いでいたあかねが、いま、ライブを終えて、はしゃぎつかれている。

 はじめ控えめに歌を聴いていた彼女も、観衆の熱気にあてられ、徐々にまとめていた髪を振り乱すほど歓声をあげていた。右手をステージにふる傍らで、和也は彼女の左手をずっと握っていた。ライブがはけても、ずっとつないだままでいた。あかねも拒まなかった。
 人垣から離れ、無作為を装って、和也はひとけのない方へと歩を進める。

「はは。汗びっしょりだ。すごいんだね、ライブって」あかねに笑いかけた。
「あたしも」あかねが薄く笑った。「やだ、汗臭くないかな」
「平気だよ。雨もちょっと降ってたし」
「そうなの? ぜんぜん気づかなかった。それにしても、暑いね……」
「うーん、じゃ、裏山のほうに行こうか。こっち通ればすぐだし、あそこなら涼しいと思う」
「あ、でも、舞衣ちゃんたちに何も言ってない」
「大丈夫。楯にさっき言っておいた」嘘ではない。あらかじめ、あかねと二人きりになって話をするつもりが、彼にはあった。「よかった。少し元気出たみたいだ」

 数拍息を詰めて答えあぐねたあと、観念したように、あかねは目を細めた。

「……うん。そうだね。カズくんのおかげ」
「だといいんだけど、どうも、思ったみたいにスマートにはいかないね」苦笑で受け止めた。「正直、あの初等部の子のおかげって感じがしてしょうがない」
「あの子、すごかったもんね」今度こそ屈託なくあかねが笑った。それから、深く息を吸った。「――あのね、カズくん」
「あ、ちょっと待って」

 タイミングをはかるあかねの機を、和也はあえてずらした。引いていた手を離し、かわりに彼女の正面へ向き直り肩に手を置いた。されるがままのあかねの顔を間近で見つめた。

「カズくん?」

 そうして、自分としては慎重に、あかねにとってはかなり性急に、唇を重ねた。汗や、雨や、草の立てるあおい匂いに、遠のいた喧噪を背後に回して、ただ触れるだけのキスをした。あかねの肩がわずかにこわばったが、それもやがて和らいで、柔らかな手が和也の胸に添えられた。
 唇が離れると、やや上ずった声で、和也はいった。

「俺は、あかねちゃんが好きだよ。たぶん、これからもずっと、なにがあっても、好きだと思う」
「うん。……うん」
「言っておくけど、地球より好きだよ」
「あは、それ覚えてたんだ」
「当たり前だよ」
「嬉しいな。ただ好きっていってくれるだけでも凄いのに、そういうこと言われちゃうと」

 人差し指と中指で己の唇に触れながら、あかねもまた、かすれた声で答えた。

「俺さ」考えをようよう整理しながら、貴石でも並べるような心持ちで、和也はいった。「『隠し事はしない』っていうあの約束、ちゃんとおぼえてる。あかねちゃんが迷って、悩んでるのも、きっとそういうことなんだろうなって思う。それで、すぐに言えないってことは、きっととても大変なことなんだと思う。それなりに必死に、ずっと考えてたから、足りるかはわからないけど、覚悟はしてる。……ああ、うまくまとまんないな。だめだな俺。だから、あのさ、結局はこういうことなんだ」

 気を抜いた。背伸びをやめて、和也は率直に、あかねに告げた。

「相談してほしい。力になるよ」
「……うん。ありがと」

 手が背中に回される。和也は体温ごと、あかねの心を受け取った気がした。
 和也は今また、あかねの感情の結晶を見た。心が満たされる。触れて通じるだけで、ただの他人がここまで近しくなるのだ。これはとてつもないことだ、と彼は思った。素晴らしいことだ。

 ――そこに、第三者が割り込んだのだ。


 ※


「すいませーん。ちょっと聴きたいことがあるんですけどー」

 年のころ13、4と思しき少女だった。やや野暮ったいシャツと白い麻のパンツを着飾っており、あかねよりもやや小柄で肩幅も狭い。それでいて華奢な印象がないのは、全身に活力が見て取れる溌剌さがあるためだ。日系の造作で際立つのは、天然であろう編まれた茶色の髪と、双眸の蒼だった。

「そちらのヒトは、ヒグラシアカネさんでいーですか? あの、人違いじゃないですか?」
「え、ええ……」あかねが、戸惑いながら頷いた。突然の闖入者に反応しきれず、いまだ和也の腕の内にいた。
「ああ、よかったぁ」少女がほっと胸をなでおろした。「間違えたらタイヘンですからね。ふふ。あっ、自己紹介しなくちゃ!」

 そこでぴしりと敬礼の所作を取ると、少女は元気に声を張り上げた。

「あたしは夢宮ありかっていいます。中学二年生です。よろしくお願いしますね、アカネお姉さま!」
「あの、あたしになにか……?」

 訝りを満面に込めて、あかねが問う。和也は口を差し挟む機会を逸していた。少女、夢宮ありかの独特な調子にも一因はあるが、もっとも大きい理由は、ありかが完全に和也を無視していることにあった。
 意図は感じられない。悪意もないようだ。ごく、当たり前に、和也はありかの視界から外れている。闊達で軽躁な挙措とその陰湿な行為が結びつかず、ひたすらに言葉を封じられる。
 ありかは変わらず笑んでいる。爛漫な瞳の輝きに、底が知れない。大げさな身振りで両手を広げると、訴えるように胸で組む。表情ひとつに、わかりやすい言葉が見えた。請願のゼスチュアだ。
 どこまでも真摯にありかがいった。

「あたしと、戦ってください。世界と命と未来を賭けて」

 乞われたあかねは、返事すらできなかった。間近にいた和也が、突如としてくずおれたからだ。
(え……?)
 膝から地面に落ちた和也も、声ひとつ漏らせない。脇腹が熱かった。異様な熱と極端な冷たさが、腰の上から上半身全体へ拡がった。

「かっ、カズくん!?」

 頭上で慌てるあかねの声が、いやに大きく聞こえた。力の抜けた下半身を膝でどうにか支えつつ、左手で熱のもとを和也は探った。
 冷たく、硬い感触がそこにある。腹部から生えている。形状は細く鋭く小さい。視線を下げれば、小ぶりなナイフが深々と、腹に突き立っていた。夏服の生地を、赤黒い液体が次から次へと湧き出して朱に染めている。
 痛みはない。
 恐怖と困惑がある。
(なんだこれ)
 全てに対して、和也はうめいた。

「抜かないほうがいい」

 四番目の声も、頭上から落ちてくる。
 またもや少女だった。いつからいたのか、ヨットパーカーとショートパンツでラフに装った異国の少女が、鋭く乾燥した目つきで和也とあかねを見つめていた。この少女に刺されたのだ。遅まきながら和也は事態を察した。

「やだ、血が」

 震えるのはあかねの声だ。和也はわずかな身じろぎもできない。自分の体内に金属が埋まっているという事実が恐ろしい。へたな動きがどれだけ悪い事態を招くか予想もできない。あとから溢れる血はひきもきらない。逆さにしなければと彼は思う。このままでは、体中の血がこぼれてしまうのではないか。
 白む視界の上方で、変わらず明るい声が響いていた。

「ここががんばりどころですよ! 勇気を出して、ファイトです!」

 あかねを逃がさねばならない。
 急激に乾く喉に空気を通しながら、和也は湧き出す汗を鬱陶しいと思った。目の前に水平な地面が見えた。いつの間にか横たわっていたらしい。怪我は大したことがないはずだ。無理やりにでもそう思い込んだ。足腰に力が入らないこの感触には覚えがある。貧血だ。
 こんなものは我慢していればすぐに直るのだ。
(あかねちゃんに伝えなきゃ。平気だって)
 なのに、声が出せない。情けなくてしようがない。

「カズくん! カズくん!」

 胡乱で狂った世界のなかで、あかねの声と顔だけ鮮明に感じた。曇空を背負ったあかねの顔から涙が伝っていた。彼女をこういうふうに泣かせたくはないのにと、彼は思った。


 ※


 蝶が飛んだ。玖我なつきの視界をゆっくり横切った。誰にも何も告げず、なつきはライブ会場から離れ、校舎へと足を向ける。招くような蝶の動きに、誘われるかたちだった。玄関の靴箱を抜けると、蝶は墜落してリノリウムの上に咲く花となった。水仙が白い花弁を広げ、即座に萎れて朽ちて落ち、残骸が白いうさぎになった。うさぎは「遅刻だ、遅刻だ!」と叫ぶと、後ろ足を跳ね上げ、さらに学校の奥へと走っていった。

「ずいぶんと、メルヘンな趣向だな」なつきは皮肉な笑みを浮かべた。

 手にはもうエレメントを提げている。
 行く手に待ち受けていたのは異界へ通じる穴ではなく、使われていない無人の教室だった。開いたままの扉を抜けると、完全な午後がなつきを迎えた。
 外界と隔絶された昼下がりがそこにあった。陽光の育てる黄金に満ちたテラスに、白いテーブルひとつとデッキチェアが二脚、あつらえられている。
 椅子のひとつに、なつきへ背を向けて座る人がある。なつきは微塵も油断せず、引き金に触れながら誰何した。

「凪じゃあないようだな」
「ええ、違います。彼はここには来れませんから」

 幼くも上品な声が返される。はじめて聞く調子にも関わらず、その声に、なつきは覚えがあるよな気がした。

「子供か」
「そう、子供です。貴女と同じですね、玖我なつき」
「アリス気取りの賢しらなガキに、ガキ扱いはされたくないな」
「それは失礼しました」

 金色の髪が揺れて、正面に回ったなつきの眼に目映く見えた。蒼い瞳の直視を受けて、かすかになつきはたじろいだ。
 全天を圧する力が、少女の五体からあまねく投射されている。先刻感得した異様な力と、それは同質だ。容貌の相似性に感覚が後押しをして、なつきはとある名前を口にした。

「アリッサ・シアーズ……?」

 顔は違う。雰囲気も違う。体格も年齢も違う。同じなのは髪と、眼の色くらいのものだ。しかし、座して紅茶をすする少女は紛れもなくアリッサだった。

「そうですね」と、少女は頷いた。「わたしはアリッサです。名前ではなくそういうシーニュです。今となっては……たんなる記号、銘辞にすぎない。ですから、シアーズと認識していただければよいでしょう」
「どういうことだ?」なつきがいった。「さっき歌っていたアリッサとは、どういう関係にある」
「姉妹ですよ」と『シアーズ』は答える。「貴女と同じにね。彼女と貴女につながりはありませんけれど、わたしと貴女にはつながりがある。そういうことです」
「姉妹、姉妹か」なつきは口はしを歪めて黙考する。「まて。わたしとおまえだと?」
「あの子は最高の性能を有しています」シアーズは一方的に続けた。「システムから離れて独自のアカウントを形成した。外的な要因が、それをさせたのでしょう。そこは、もとのわたしに似ているかもしれませんね」
「招いたのなら、わかるように喋れ。貴様は……つまり、シアーズ財団の手のものだな?」
「わたしの元の肉体には玖我紗江子の遺伝子が、一部流用されています。姉妹とはそういうことです」
「―――――――え?」

 不意を討って、予想だにしない答えをつきこまれる。致命的だと知りながら、なつきの思考は一瞬で漂白された。

「貴女はとても優秀で直線状です。最終的には誰よりも真相に近づけるでしょう。けれど、脆弱ですね」

 いとけない仕草で、シアーズは笑う。注がれた紅茶に何度も息を吹きかけ、慎重に液体をすする。

「待て……待て。何を……言ってる……? 玖我、紗江子だって? 貴様が、わたしの、母さんの?」
「しかたのない人」シアーズがため息をついた。「感情が、思惟を阻害していますね。大切なのは、どちらでしょう? 玖我紗江子の存在ですか? それとも貴女のなかの彼女の記憶?」

 目眩がなつきを襲う。気付けに舌を噛み、凶悪に眼を眇めて、彼女はシアーズに銃をつきつけた。

「嘘を、つくな。こんなペテンにかかってたまるか。母さんに、わたしのほかに子供なんて、いるはずない」
「そうですね」シアーズはやすやすと頷いた。「彼女は、わたしを、娘とは認めないでしょうね。そもそも、わたしはどこにもいないのかもしれません。この世界と同じですね」
「……もう、いい。わたしが聞きたいのはそんなことじゃない。シアーズについて」
「世界をどう思いますか?」
「真面目に会話する気がないのか」
「いえ、ありますよ」シアーズは苦笑した。幼さに見合わない表情だ。「ただ、この階層ではいろいろと、不都合なことが多いもので……。いけませんね、伝えることに、横着になっています。玖我なつき。わたしが言いたいのはこういうことですよ。なぜ、この広い世界の中のこの狭い地域に、世界の命運がかかるのか? どうして、その天秤を少女が担うのか。疑問に思ったことは、あるはずですね」
「どうやら、ずいぶんと事情通のようだ」なつきは捨て鉢にいった。「考えたことはあるさ。だが、貴様にはかかわりのないことだ。それでも答えるなら、そうだな、運命とかいうヤツの仕業じゃないのか? それをさらにどうして、だなんて考えたって意味がない」
「もっと考えてみてください。真剣に、世界の実相を透徹する俯瞰に立って視るのです」アリッサは教師のように丁寧に言い含めた。「見えてくるものがあるはずです。ワルキューレならば。この、不自然に傾斜した世界のありように気がつくはずです」
「哲学者の仕事を奪うつもりはない」
「それをしているのが、まさしくこの世界なのですよ」シアーズは冷めた顔で告げる。「因果が、一段高みで操作されている。高きから低きへと流れ込むように。このとき、この場所以外のすべてが、ないがしろになるように。錆びたマキナのデミウルゴスが、馬鹿げた箱庭をつくって遊びに興じているのです。創世と末法を繰り返し、矮小な価値観と狭隘な掌の上で」

 なつきは馬鹿馬鹿しさに鼻を鳴らした。

「宗教の勧誘ならよそでやれ。わたしは無神論者だ。運命とはいったが、それが神の手によるものだとは思わない。媛星も、滅びも、HiMEだって、すべては現象だ。説明はできるんだ。オカルトを持ち出すなよ。そういう年ごろなんだろうが、な」

 アリッサは紅茶を飲み干すと、ゆっくりと否んだ。

「神の話はしていません。それを冒涜する偽神のお話です。ヤヤウキ・テスカトリポカ、あるいは――」

 そこではじめて、敵意を見せる。意思によらず漏洩する、それは冷えた殺気だった。

「『黒曜の君』と呼ばれるものです」

「ハイ、それまで」

 とたん、空間がひび割れた。
 ガラス質の破砕音を立てて、一面が光の粒へと融けていく。
 演出された昼下がりが、もとの塵埃と湿気と暑気に侵食されはじめる。ティーセットも机も椅子も、蜃気楼のように揺らめき、消えかける。当惑するなつきに向かって、シアーズはゆったりと微笑みかける。

「言霊を呼んでしまいましたね」
「それ以上喋るのは許可してないよ」聞いたこともない、鋭い声色で、炎凪がシアーズをねめつけていた。「キミはなんだい? ずいぶん物騒なことをするね。へたをしたら、この学園ごとそっち側にまっさかさまだ」
「血を分けた人との歓談です。大目に見てください」シアーズは凪を一瞥さえしない。
「だめだね」凪の眉目が、さらに険しくなっていく。「読めてきたぞ。高村センセに手を加えたのも、キミかい。ひとが一生懸命考えた脚本を台無しにしてくれちゃって、どうしてくれよう」
「さて」シアーズは答えない。「ではまた。いずれ、殺しにうかがいます。貴方の上役ともども」
「……化物め」

 敵意もあらわに、凪は吐き棄てた。
 シアーズは意にも介さず、なつきを見つめた。

「生き残りたければ、高村恭司を使ってください。彼も真の黄金時代は迎えられないとはいえ、有用な道具ではあります」
「待て。高村は、高村が……」咄嗟に言葉をうまく紡げず、なつきは結局押し黙る。
「時間が余りましたので、もうひとつ忠告を。これから出会う騒がしいあの子が粗相をするかもしれませんけれど、死にたくないのであれば、決して彼女と干戈を交えてはいけませんよ」
「……待てといっている。おまえは、本当に……」

 妹、なのか。
 最後の言葉が吐き出せない。それを留めるものの正体は、なつきにもわからない。
 見透かしたようにシアーズは笑うと、軽く小さな手を振った。

「ごきげんよう。見知らぬ異国のお姉さま。また、午睡する世界でお会いしましょう」

 無邪気な笑みとともに消えた。
 立ち尽くすなつきと渋面の凪だけが教室に残された。


  ※


 奇形の大樹が、節くれだつ幹を地に据えて、甘いにおいを漂わせている。桃は夏が収穫の時期である。しかし、『運命の樹』とも呼ばれる風華学園前に生えるこの樹木になる果実を、食そうという人間はいない。異常があからさまだからである。

「ここで、何があるっての?」

 不意に押し黙った高村を見もせずに、奈緒があくび交じりにいった。コンサート会場から彼女を連れ出すのは存外簡単だった。あの空間が、よほど耐えかねたものらしい。

「用ないならショップの出店はやく行かない? 新しいケータイ買わないとなんないし」

 なんとも答えかねて、高村は引き続き沈黙した。
 奈緒はあからさまに気分を害した様子で、舌打ちした。

「シカトかよ。感じ悪いな。アンタって、なにがしたいの?」
「……結城も、それを聞くんだな」思わずうつむく高村だった。「俺はそんなに行動に一貫性がないか」
「イッカンセイ? わかんないけど、説明は別に要らない。まあ、なんか、あれよ。……ちょうど、あたしもセンセイに聞きたい事があったんだ」

 居心地悪そうに両手を組みながら、奈緒がそっぽを向いて、口を開きかけた。

「色々とあるんだけど、やっぱあれ? あたしって、アンタに、助け――っと?」

 彼女のセリフを切ったのは、樹の前に横付けした高級外車だった。黒塗りのメルセデス・ベンツである。背後のナンバープレートを目にして、高村はひそかに息を詰めた。
(青地白抜き。ってことは、外交官ナンバーか)
 いよいよ、庶民の世界からかけ離れてきた。
 奈緒は停まる高級車に、じろじろと不遜な眼を向けている。
 ほどなく後部ドアが開くと、高村は前に踏み出した。

「まさかこれに乗るの?」嫌そうに奈緒がいった。
「そういうことだ」負けず劣らず、高村も気が進まない。

 息を整え気を引き締め、くるぶしまで埋まりそうな絨毯へと、高村は安物の革靴を押し込んだ。
 車内は空調が利いていた。革張りのソファ、テレビ、ワインクーラーが、クリスタルのテーブルを中心に配置されている。

「ヒッデェ内装」奈緒が呆れてぼやいた。

 高村も同意見だった。彼も外交官仕様の車に二三度乗ったことがあるが、ここまで悪趣味に飾られた車は見たことがない。

「私も、これはさすがにどうかと常々思っています」苦笑で答えたのは、上座に位置どる男だった。「ようこそ、高村恭司さん、結城奈緒さん。私はシアーズ財団広報四課のジョン・スミスと申します」
「ジョン・スミス……」

 呟き、奈緒がしかつめらしく眉を集めた。映画に明るい彼女だ、ジョン・スミスがあからさまな偽名であり、相手にそれを隠す気がないことを悟っているのだろう。奈緒ならば仮装空間ではなく西部劇のほうを連想するのだろうと考えながら、高村はスミスに向き直った。

「お名前はかねがね。それで、用件はなんでしょう」
「直截でよいですね」スミスが破顔した。「そういうのは、好みです。では前置きを省いてこの会合の主旨をご説明いたしましょう。まあ、確認と、報告と、相談ですな。手始めの確認というのは言うまでもなく、そちらのお嬢さん――結城奈緒さんでしたね。彼女についてです」
「……」容易に口は開かず、奈緒は品定めするような目をスミスへ射る。
「ある程度のことはドクター九条から説明を受けていると思いますが、具体的には何を? 簡潔でよいので、答えていただけませんか」

 奈緒は興味なさげに視線を切った。ついでのように、投げやりに答える。

「他のHiMEと戦うってだけ。別に、誰を、とかは言われてない」
「ああ、それだけわかっていただければ十分ですね」スミスがわざとらしく安堵した。「それで、条件は飲んでもらえたのでしょうか?」
「条件もなにも」奈緒が笑った。「選択肢なんてないでしょ。たとえば、ここでイヤだって言ったらどうなんの?」
「まあ、死んでもらうことになりますね」スミスが穏やかに答えた。「貴女にも、貴女のお母様にも」

 奈緒の余裕が一瞬で切り崩されるのを、高村は見た。

「……なんで……」

 慄然と、奈緒が口元に手を当てた。急にせわしなく視線がさまよった。
 スミスは平然と、奈緒を真正面から見詰めている。事務的な口調は変わらずに続いた。

「結城奈緒さん。風華学園中等部三年、女子寮在住。実家は○○県■■市。19××年六月十三日生まれ。血液型はABO分類でB、Rhではプラス。スリーサイズの情報も一応ありますが、レディの気持ちを鑑みて、省略させていただきましょう。――とまあ、この程度は十秒もあれば誰にでも調べられますな。家族構成は、母ひとり子ひとり。もとは四人家族でしたが、五年前、奈緒さんが十歳のおり、実家に強盗が押し入り、お父さまと弟さんが殺害されておりますね。ああ、お母さまもこのとき暴行され意識不明の重体に陥り、今なお快復の兆は見えない。……端的に言って、なかなか珍しい環境でお育ちのようだ」
「あ……ぐ」奈緒の顔色が見る間に褪めていく。
「スミスさん」高村は思わず口を挟んだ。「それ、なにか意味があるんですか?」
「ありますよ。ですから確認といったでしょう」スミスはこともなげに頷いた。「情報に過誤があれば大事ですからね。――さて、事件の後、お母さまは入院、結城さんは父方の祖父母のもとに引き取られるも、折り合いがつかず、転校した小学校でも問題を起こし、さらに母方の伯父夫婦の元へ転居。ああ、この機会に父方の親類とは絶縁状態になっているのですね。しかし残念ながら、この伯父夫婦の下でも、問題が起きた。児童相談所に届出の記録が残っています。しかしこの際、当局の介入はなかったようですな。その後、当時の担任の勧めで心療内科に通院し、PTSDの症状が認められるが、三度めの来院以降、徹底して治療を拒否するようになり、この頃から素行が荒れ始める。地元の中学校にも進学後、三ヶ月で不登校になっていたそうですね。しばらく家にも帰らない日々が続き、それが二週間を越えたところで、かつて住んでいた町で補導され、家出が終わった。それから一ヶ月ほど学校に通いますが、今度は学内で傷害事件を起こし、自主的な転校を要請され……そこに風華奨学生制度の勧めを担任から受け、現在の風華学園に編入した。……どうでしょう。ここまでの記録に間違いはありませんか。ないようでしたら、先を続けますが」
「やめろ」

 爪を噛む奈緒は、スミスを殺しかねない目で睨んでいた。音がなるほど歯を軋らせ、一度だけ俯き、次に顔を振り上げると、もうそこには敵意しか残っていなかった。

「なにか質問でも?」スミスがいった。
「死、ね」瞬く間にエレメントを装着し、奈緒が手を振るった。
「では、お母さまを道連れにさせていただきます」

 アンカーがメルセデスの天板を引き裂き、耳障りな音を立てた。ソファが深く切り込まれて、内部の綿が露出した。ワインボトルが中途から割れて、アルコールの饐えたにおいが車内に充満した。
 異常に気配を研ぎ澄ます結城奈緒は、すんででスミスへの攻撃を止めている。しかし害意を収める気配は毫もない。爛々と濡れる瞳は血走って、彼女を狂猛に駆り立てた。

「そんなんで、脅しになるとでも思ってんのかよ。あんな死に損ない、今さら死んだって誰も困らないんだよ!」
「事実を言っただけですので」スミスは動じない。「そう、最後に貴女がたのガーディアンが敗れた場合のリスクについてです。これはご存知でしたか?」
「命だろ」唾を吐くように奈緒は答えた。
「……そうらしいですな」スミスが軽く肩をすくめた。「では、次は報告です。私も忙しい身ですので、これは手短に済ませましょう。ドクター九条が失踪しました」
「ちょっと待ってください」高村はすっかり割り込む機会を逃していた。突然の言葉に、慌てて身を乗り出す。「失踪って? 九条さんは昨日沖縄に行ったんじゃないんですか」
「ですから、そこで、失踪したのです。以降の足取りはつかめません。事件と事故の両面から目下調査中ですが、さて、叩いて埃さえ出てくるものかどうか」
「そんな……」脱力して、高村はシートに背中を預けた。
「ということですので、以降貴方にはジョセフ・グリーアの指揮に従って行動していただきます。なに、基本的にはなにも変わりませんよ。なんなら、教師を続けてもらってもいいくらいです」

 高村は目頭を押さえ、大きく深く息を吐いた。不意に意識されたのは、傍らでいらいらと足を震わせる奈緒の存在だ。落ち着きなく揺れる頭が、引きつった目尻が、浅く早い呼吸が、彼女に余裕のないことを示している。
(俺が、しっかりしないとだめだろう)
 じくりと刺された背中が疼いた。痛みが苦い訓戒を教えている。
(うまく、行かせるんだ。できることで、最善に導くんだ)
 昨日、深優とアリッサに対してしたように。
 本当の無力などない。高村は、吃とスミスと瞳をあわせた。

「それは今後考えましょう。それで、最後の用件は。確か相談だとか言ってましたが」
「ええ、そうなのです」スミスは最後まで変わらずに穏やかだった。「今日、今からワルキューレをひとり落とします。予定を元に戻したいのでね。それで、誰からにしたものか、貴方に決めていただこうと思いまして」
「――」

 淡々と告げられた。言葉は鮮やかに理解のくぼみへ落ち込んだ。スミスの意図するところも、これから自分がすべきことも、あの忠告の意味も、瞬間で高村は理解した。
 心が乱れてまとまらない。思考はほつれて、結べない。織り上げ磨いた意思が、頼りない。高村は決めかけた覚悟が揺らぐのを感じた。
(やるか? ここで、こいつを)
 抜き身の刃を握る心地で、真剣に吟味する。
 ところで過ぎったのは、やはり先ほどの忠告であった。
 衝動で何もかもを擲つとは、まさにそうしたことだ。
(……だめだ。まだ、だめだ)
 牙の使いどころをわきまえなければ、獣以下でしかない。高村は少なくともまだ、人間であり続けなくてはならない。
 ジョン・スミスが並べるのは、見知った少女ばかりの顔だった。
 鴇羽舞衣。
 美袋命。
 杉浦碧。
 そして、玖我なつきだ。
 隠し通せていると思っていたわけではないが、現実的に提示されると、動揺は隠せない。高村は掌中ににじむ汗を、スラックスにこすりつけて隠した。
 本来ならここに、奈緒が加わるのだろう。そもそも、最初に選択されたのはまさしく結城奈緒なのだ。彼女は今にも敗北しようとしていた。そして、その負債を背負う寸前だった。
 見過ごせずに防いだのは高村だ。全てが己に返ってきているだけだ。そうと知っても焦りを消せない。
 さらに二人の少女の写真が、テーブルの上に並んだ。
 アリッサ・シアーズ。

「ちょっと、待て……」高村は震える声で呟いた。「なんだ……。どういうことだ。どうして、アリッサちゃんを?」

 スミスは、そこで初めて笑みを消した。

「差別はいけない。それだけです。彼女もまたワルキューレなのだから」

(バカな)
 媛星の力を手に入れる。それがシアーズの目的だと高村は考えていた。であればワルキューレ=HiMEの存在は必須なのだ。アリッサは、ラグナロクとかいう、馬鹿げた名前の作戦に不可欠な要素のはずだった。
(それを切り捨てるのか)
 あるいはこの会話自体が高村に対する試金石なのか。即時に判断するには、あまりに急迫しすぎていた。
 そして、最後のHiMEの顔を高村は知っている。しかし、彼女がHiMEであることは知らなかった。
 日暮あかねだった。
 はじめて受け持ったクラスの、はじめての生徒だった。今日も、今の今まで、行動をともにしていた。恋人の倉内和也と歩いていた。微笑ましく見ていた二人のうちの一人だ。
 吐気がこみ上げた。自己嫌悪のためだった。高村はすでに、計算を終えている。このなかで、誰が消えれば都合がよいか? 誰が落ちても支障がないか? 感情の箍から遠い場所で、脳内の算盤が勘定を遂げた。答えは明白だ。もっとも親しみがなく、もっとも付き合いが浅く、もっとも利用価値が低い少女。
 日暮あかねを切り捨てる。
 答えはあきらかだった。傷が痛んだ。心が言葉を反すうした。衝動が高村の体内で暴れまわっている。自問が反響している。全てを台無しにしてやれ。あいつに任せてしまえばいい。スミスを殺し、運転手も殺し、そのまま逃げてしまってもいい。世界の終わりなんか無視するべきだったのだ。九条むつみに乗ったのが運のつきだったのだ。短い余生と知っても、どこか自分と関わりのないところで、知らない少女が命をかけて世界を救うのなら、安閑としていられるのだ。それでいいんじゃないか。およそ、世界はそんな風に回っているのだから。車輪の下にしだかれた、瓦礫や骸を数えたところで不毛なだけだ。
 いや――
 それでも選ぶべきだと思った。苦しみを飲み偽善を排して、理性の判断を支持しなくてはならない。自分の手を汚したくないばかりに全てを擲つことこそ害悪だ。正しく、多数を救える方策を選ぶ。
(それでいいのか。あのトンチキな祭りと同じで、いいのか)
 独りでは決めかねることもある。答えの出ない問いもある。解に苦痛が伴う場合は山ほどある。それでもせねばならない。
 人間が、そんな折よすがにするものが二種類ある。両者は相反している。すなわち――

「スキか、キライかだ」
「……は?」奈緒が妙な目で高村を見た。

 気配を感じつつ、高村の腹は決まった。
 あとは言葉にするばかりだった。

「俺の……選択次第で、彼女たちの誰かを?」
「参考にはさせていただきますよ」スミスは計る眼で高村を観察する。

(決めたぞ。俺は覚悟を決めた)高村は拳をつくった。心が折れたとき、比喩ではなく高村恭司という存在は死ぬ。(見捨てる覚悟じゃない)と、高村は胸中で半ば暗示のように繰り返す。感情の地平までをもさらって、思いつくためらう要素を、軒並み吹き飛ばす。

(なげうつ覚悟を、決めた)

 暴挙に出る活力がほしい。手ごろな場所に、結城奈緒の追い詰められた顔がある。
 実のところ、いけすかない少女だ。世を拗ね大人を舐めて、そのくせいやに鋭く頭が回る。顔がかわいいのが始末に終えない。下手に出ても懐かないし、上手に出ればともかく反発される。爪に毒があり、大仰な牙を隠し持っている。塵界に背を向けひとり街を行く、彼女はまるで野良猫のようだ。
 高村は、そして猫が嫌いではない。

「結城」
「……んだよ」奈緒が刺々しく答えた。「早く決めれば? カミサマ気取りで。は! いい身分じゃんか」
「そうだな。まあそんなことはどうでもいいんだ。おまえはいつか、いいこと言ったぞ」
「は?」
「『やりたいことを、やればいい』」

 固めた右手を打ち出すまでの半秒間に、いくつかのことが起こった。
 まず車体が急停車した。仕切りの向こうで運転手が「ミスター、オートバイが一両併走して」と言ったところで、耳をつんざく激突音が、車を横から揺さぶった。
(バイク、乗れたのか)
 玖我なつきの顔を思い出しながら、ともかくも高村はスミスへ拳を突き出した。それを悠々といなして、スミスがため息をついた。奈緒は衝撃で床に投げ出されている。
 続けて、重い音が立て続けに四度響いて、断続的にメルセデスへ振動を伝えた。スミスの横手の窓に、拳大の凹凸が音の数だけできていた。窪みの周辺は細かくひび割れており、窓の外の様子はまったくうかがえなくなっている。スミスは表情を変えないままで冷静に呟いた。

「防弾仕様の窓ガラスです。無駄なことを――」

 そのセリフをあざけ笑うように、金属板を靴底に仕込んだブーツが、窓ガラスを蹴破った。
 飛び込んだ足はそのままスミスの顎をしたたかに打った。不安定な姿勢で腰を落としたスミスの眼前で、穴のあいた窓ガラスから次々と破片が零れ落ちてきた。ソウドオフ・ショットガンの台尻で突き崩しているのだ。米国産車上荒しもかくやというほどの手際で枠以外の全てを綺麗に削り落とすと、革のジャケットの袖とレミントンの銃口が車内につきこまれて、ぴたりとスミスをポイントした。

「こんにちは」と銃の持ち主はいった。「元シアーズの九条むつみです。ご機嫌いかが? あ、全員、手を挙げてね」

 遅いですよ、と思いながら、高村は「銃が相手じゃ勝ち目がないな」とわざとらしくいった。
 奈緒はひきつった顔で笑ったあと、不貞腐れたように「ちょっと、アンタらのことがわかってきた」と呟いた。
 反対側のドアを開け、這うようにして高村は路上へ出る。続く景気の悪い奈緒に手を差し出すと、鼻を鳴らして跳ね除けられた。

「調子が出てきたみたいじゃないか」
「……やっぱ、知ってたんだ」虚ろな目つきで、奈緒が高村を見た。
「ああ、お母さんのことか? 入院してるのは知ってた」高村はあっさり頷いた。とりわけ隠していたつもりもない。「しかし、過去のことはあんなに詳しくは知らなかったぞ。どうでもよかったから、基本スルーだ」
「どっ――」
「面倒だろう。好きでもない女の子の事情には、俺はそんなに深く関わらないことにしてるんだ」

 もう遅いけどな、と思いながら、かねてからの本心を打ち明ける。

「どうでも、いいって……」

 奈緒が、ぽかんと口を開けた。一瞬、なんともいえない顔になる。眉を下げて唇をゆがめたあとで、堪えきれなくなったように高い声で笑った。

「は――ははっ。あははっ」
「今のやりとりのどこに笑いどころがあったんだ?」
「はは、うっさい、バカ!」奈緒が、エレメントをつけたままの手で、高村の背を思い切り撲った。「バーカ、バーカ! アンタ、むかつく! あはは!」
「いってーなバカ!」傷口に響いて、高村は少し本気で腹を立てた。「おまえのほうがムカつくっていうの!」

 腹立ち紛れに、奈緒の足を払って転ばせる。地面に転がっても、奈緒はまだ断続的に笑っていた。気味が悪くなって、高村は彼女から目を切った。

「……」

 窓越しにスミスに銃を突きつけたままのむつみは、眼だけで高村を促した。学園へ戻れと言っているのだ。
 今しばらくは、彼女と行動をともにはできない。高村は頷くと、くつくつと笑う奈緒を引きずり起こした。

「立て、結城。たぶんまだ終わってない」

 周囲の景色にはあまり見覚えがないが、車内に居たのはほんの十数分だ。タクシーでも捕まえればすぐ学園に帰れるだろう。
 高村は最後にもう一度むつみを見た。強い頷きが返される。
 奈緒の手を引いて、走り出した。


 ※


「やはり、裏切りますか。どうしても、母親という役にこだわりたいらしい。なぜですかね?」
「あなたが知る必要はないのよ、ミスター・ジョン・スミス」九条むつみは平坦な調子でいった。

 銃口は逸らさない。

「彼らを向かわせても、もう遅いのですよ」とスミスはいった。「ひとりめには接触済みです。さきほど連絡がありました」
「そのために二人を引き離したの……」
「べつに理由はそれだけではありませんが、まあ、そうですな」スミスの眼が試すようにむつみを見た。「それで、どうなさるおつもりですか、ドクター。条件次第では、この行為にも眼をつぶっても構いませんが」
「あら、寛大ね」むつみは顔色を変えずにおどけてみせた。「じゃあ、そうしてもらおうかしら」

 固定したまま、彼女は引き金に指をかけた。

「娘のためなら殺人も辞さないと?」
「違うわ。わたしはわたしのために、あなたを殺すの」むつみはいった。「だいたいスミス、あなたおこがましいわ。もう人間でもないくせに」

 そのまま発砲した。
 結果を一目して、運転手がまだ意識を失っていることを確認すると、むつみは再びバイクにまたがり、アクセルを絞った。


 ※


 一度上がった雨が、また降り始めた。


 ※


 倉内和也の体温は刻一刻と下がっていく。周囲から懸絶した竹林の中枢で、日暮あかねは既に理性をひも解きかけていた。原初の感性にもっとも近い部分が、強引に表層へと引きずり上げられていくのを感じる。彼女のおよそ平凡だった半生で、ついぞ味わったこともない出力が脳を驚くほど撹拌していた。
 憎悪と殺意。
 絶望と敵意。
 憤怒と害意。
 ある種の感情の組み合わせは、人間から人格を失わせる。今のあかねもまたそれに近い状態にあった。どこからか召喚されたオーファンを一顧だにせず召喚した虎のチャイルド、ハリーで殲滅した。盛大な拍手を惜しまない夢宮ありかは、それを見て、あかねにこう言った。

「じゃあ、次はいよいよ本番です。今度こそ、あたしと戦いましょう!」

 さすがに鼻白むあかねを後押ししたのは、ありかに同行するもうひとりの少女がした、和也への銃撃だった。今度もまた、ためらいなく彼女は和也の足を打ち抜いたのだ。

「断れば、こうなる」と、少女がいった。流暢な日本語である。「撃てる場所があるかぎり撃つ。そのたび、この男の生き残る可能性が減っていく。死ぬ前に、そこの夢宮ありかを貴様が倒せばいいのだ。ルールは簡単だろう?」

 その情報をあかねが認識したとき、感情が沸点を越えていた。

「ゆる、せない」

 呼吸がうまく行えない。
 涙がこぼれて止まらない。
 好きな人には絶対に見せられない、修羅の貌で、あかねは刹那に決意した。

(この人たちを、殺そう)

 ハリーが二回りも体躯を増大させ、獰猛に吼える。無手の夢宮ありかは、その様子を見てもひるまない。腰を落とし、両腕を広げ、正面から猛獣を迎え撃つ体勢だった。
 直に、創立祭が終わる。
 夕暮れが近づいている。
 後夜祭を前にして、緋の燃える空に、大きな花火が上がった。

「すぐ終わりにするからね、カズくん。そしたら病院へ行こう。あたし、毎日お見舞いにいくよ」

 穏やかに独語した。
 構える夢宮ありかを指差した。
 昏い眼が少女を捉える。チャイルドが唸りをあげて四肢をたわませる。変質した少女の殺意は、指向性を有してありかへ刺さった。

「倒して、ハリー」

 巨像ほどもある虎の後肢が炸裂した。

「あ。これ、やばい」

 と、ありかが言った。咄嗟に差し出した左手がハリーの前足を受け止め、しかし御しきれず、あっさりとへし折れる。残る手を地に付きながらロンダートを切って、着地した瞬間に追撃が彼女を襲った。頭からの体当たりで軽く数メートルほど吹き飛ばされながら、ありかは泣き顔で「ミス・マリアのうそつき! むりじゃんこれぇ!」と叫ぶ。よろめきながら着地して、その場でえずくと胃のなかみを吐き出した。胃液には血が混じっていた。ハリーは間を置かない。即座にありかに飛びかかり、前脚でありかの体をあっさり押さえつけた。
 あかねは病的な眼差しで、和也と、銃を持つ少女を見やった。

「……まだ、やるの? ほんとに殺しちゃうかもしれないのよ?」
「構わない。夢宮を殺さなければ、この男もおまえも死ぬだけだ」少女にはまったく脅えたところがない。
「――そう」

 心を以って、あかねはチャイルドへ許可を与えた。ハリーがありかへ向けてあぎとを開いた。牙が少女の鎖骨と肩甲骨を丸ごと噛み砕き、柔肌を貫いて、赤々しく流血した。夢宮ありかは悲鳴を押し殺し、両腕を封じられた姿勢で、まだ諦めていない。驚異的な柔軟性で足をハリーの首に押し付けると、

「よい――っしょぉ!」

 勢いだけで跳ね上げた。
 ハリーの体が浮いた。

「……うそ」
「あー。死ぬかと思ったよぉ……痛い、かなり痛い」

 ようよう立ち上がるありかの顔色は冴えない。その左上半身は、酸鼻を極める状態になっていた。皮が引き裂かれ、筋肉どころか骨まで薄く見えている。内臓も傷ついているのだろう。口角から血混じりの泡が零れている。ありかはしかし、なおも戦意を消さなかった。蹌踉としつつも腰を落として、動く右腕を突き出して、無傷のハリーへ挑みかかる。

「さあこい!」
「っ」もう後には引けない。あかねは倫理をねじ伏せて、絶叫した。「ハリー!」

 転じた刹那に、虎は四肢を爆発させてありかへと殺到した。視認も難しい速度は一切の小細工を排した突撃だった。大質量の激突は、それだけで人体を砕く。
 ありかは、それを真正面から受け止めた。
 え、と茜が呆然と声を漏らした瞬間に、ハリーが身を細らせるような苦鳴をあげた。見れば、ありかの小さな手がその胴体に食い込んでいる。

「やっ、た。あは、は」

 獣を相手にがっぷりと四つに組んで、しかしありかもまた痛みに顔面を歪ませていた。首筋にはふたたび鋭利な牙がまともに突き立っている。ホラー映画で見るような派手な血飛沫はなく、傷口からはゆったりと、しかし大量の血液が規則的に湧き出していた。
 あとは茜が介在する余地のない死闘になった。
 首筋を噛み切られたありかの肉が地面に落ちる。鼻口を血で濡らしながら、致命傷を負ったはずのありかは止まらない。突き上げるように彼女の足が地を踏むと、ハリーに食い込んだ手先が肘ほどまで埋め込まれた。身をよじる虎は咆哮を上げて怨敵の顔面を一飲みにかかる。ありかは苦悶するまま、咄嗟の動きで左手を虎の眼窩へ埋め込んだ。もはやハリーは吼えなかった。ありかも軽口は叩かない。静謐のままに、戦局が最終局面へ移行した。
 いつしか、あたりは夜になっていた。
 再び花火があがる。
 笹が風に揺れて、竹林をざわめかせた。
 呼吸を合わせた約束のように、ありかとハリーの体が分離する。両者が遠のき、足を地に置き、そして地を這うほどの低さで対手を見定めたのは全くの同時だった。真夏の匂い起つ青臭さのなかに、吐気を催すほどの血臭が混ざり合って、茜の現実感を奪っていた。
 血まみれのありかの眼は、もはや焦点が合っていない。瞳孔が明らかに拡大している。足取りだけは確かなまま、体幹もハリーへと垂直に向いている。

「ハリー……」

 と、夢宮ありかが呟いた。

「ハリーかぁ。ハリー……いい名前ですね。いいコだよね。あー、そうだ、……先に、いっておかなきゃ。
 ハリー。さようなら。じゃあ、またね。世界はあたしに、まかせてね」

 光が見えた、とあかねは思った。
 十七秒後に決着がついた。

 ハリーは斃れ、倉内和也は死亡して、雨に濡れるままの日暮あかねが発見されたのは、それから一時間以上も経ってからのことだった。


 ※


 傘も差さずに、高村恭司は地面に寝そべっていた。空から落ちる雨だれが針のように見えた。白けた顔で、彼は長いあいだ考えていた。思考の矛先は、守れたものについてだ。間に合っても間に合わなくても、結局のところ、高村の手が届いたのは、自分の心までのことでしかない。結果的に日暮あかねは敗北し、倉内和也は死んだ。いま、後夜祭の打ち上げにいるであろう鴇羽舞衣といった他のHiMEにその情報は伏せられているが、今夜中には炎凪が彼女らの元に訪れるはずだ。
 そしてルールを発表するに違いない。
 祭、あるいは星詠の舞と呼ばれる儀式が始まる。
 エントリーするのはHiMEもしくはワルキューレと呼ばれる異能の少女達だ。
 そして、彼女らが賭けるのは、地球の命運と、最も大事に想うものの命である。
 馬鹿げたその内容を、さも重大そうに発表される少女らの心境を想って、高村は同情的な気分になった。
 結局先ほどまで一緒にいた奈緒には、あかねを見つけた時点で全てを話した。近場にいた凪もそれを止めなかった。
 反応は、ほぼ皆無だったといっていいだろう。結城奈緒は、あまりに複雑すぎる。心をのぞくような人間でもなければ、彼女の全景を見通すことはできない。見通せたとして、理解できるかは別の話だ。
 些少なり、理解するには踏み込まなくてはならない。ときにそれは攻撃とも取られかねない。
 侵攻、あるいは侵犯。干渉は常に反発の可能性を孕んでいる。
 相手が人であれ、世界であれ、それは同様だ。
 そして高村恭司は、ようやくここで、自分の意義をさとった。
 正義では、彼は戦えない。愛は恐らくもう、枯れている。本質的に、彼という人間はもう終わっていた。四年前からそれは変わらない。それだけの時間をかけて、わかったことはひとつかふたつだ。
 ならば、それを後生大事にするだけだと思った。
 息を吐く。細く長い。糸のような。
 決して途切れないつもりでいたところで、いつか限界はやってくる。肺のすべてを虚ろにして、高村はしばらく、呼吸を止めた。鼓動の音に耳を澄ませ、眼を閉じた。
 足音と、涼やかな声を聞いた。

「立てるでしょう?」
「もちろんです」

 九条むつみに、強がって見せる。見つけたもののかすかな光が、高村の全身に行き渡っていく。
 これでいい。このままいけばいい。そう思えるだけの価値があるはずだ。同じ道を行く先達を、高村は眩しく見つめた。差し出された手を、やんわりと握り返す。ほとんど力は借りずに立って見せた。
 なんとなく立ったままで、ふたりは見詰め合う。飛び交う沈黙と視線に無数の意味が込められて、届かずに落ちていく。時おり琴線に触れても、それはかすめる程度だ。わかりあうには、人と人には、あまりに距離がありすぎる。ゆえにかすめた音の響きだけで、相手の心を慮るしかない。
 むつみは、穏やかに高村へ訊いた。

「教え子だったのね。日暮さんは」
「そうです」(笑え)
「もう、いやになった?」
「いえ、それはあとでしますから」(笑え――)

 高村は笑う。無理なく微笑する。九条むつみが、かすかに驚きを見せた。

「どうってこと、ないですよ」


 ※


「ひゃあ。すげえ雨」

 雨合羽を着ての撤収活動を手伝い終えて、楯祐一はげんなりと肩をすくめる。祭は準備も最中も楽しいが、後片付けばかりは救われない。無数の波紋を石畳に描く雨粒を数えながら、下駄箱のある玄関へと向かった。さっさと打ち上げに合流して、みなとともに騒ぎたい気分だった。今ごろ、舞衣や命、詩帆などはカラオケにでも興じているのだろう。
 やるせなくため息をつく。そのとき、照明のない軒先でぽつねんと立ち尽くす少女を見つけた。

「何してんだ」
「あ……」

 びくりと、所在なさげにしていた少女が震える。楯を見る眼が蒼いことに、まず驚かされた。

「えっと、中等部のヒト?」年ごろと制服姿から類推して、訊ねてみる。「もう帰ったほうがいいぜ。友だちでも待ってんのか?」
「あ、いえ。はい? うん、えっと、どっちだろう……まだ?」少女は困惑して、しかめつらになった。
「なんだそりゃ。用がないならとっととけーれけーれ」
「……ム」

 不満げに見上げられる。言い方がまずかったかと、楯は弱る。つい詩帆と同じような調子で接してしまう。
 謝るべきか迷ったところで、少女の腹が盛大に鳴った。可愛らしい、とはとても思えない音である。笑うべきかもしれないが、いまひとつそんな気にもなれず、楯は、

「ハラへってんのか」

 と、いった。

「そうみたいです」と少女は答える。
「ああ、じゃあ、メシとは言わないけど、ジュースでもおごってやるよ。ちょっときな。すぐそこに自販機があんだ」
「え。あ、はい」

 少女はおずおずとついてくる。人を疑う様子もない。なんだか心配になってしまう無警戒ぶりであった。問題なく到着し、薄暗い踊り場でほの光る自販機を指差すと、少女は強張っていた顔をわずかにほころばせた。

「キレイだなぁ」
「……」またヘンなやつと知り合いになった、と楯は思った。「何飲みたい?」
「はい?」少女がきょとんと聞き返した。「あ、ああ。じゃあ、おいしいので」
「なんだその注文。ここは夏なのにあったか~いもあるレアな自販機なんだぞ。バリエーションもけっこうあるんだ。もっとちゃんと選べや」
「そ、それじゃあ、その、あったか~いので」
「じゃあココアな」

 コインを入れて購入する。楯自身は、無難にスポーツドリンクをあがなった。念のためプルタブを開けて渡してやると、少女は戸惑いがちに、飲み口へ唇を寄せる。小さく喉を鳴らしてココアを嚥下すると、あからさまに顔が明るくなった。

「うんまいですねコレ!」

 一瞬で一缶を飲み干し、無言のうちに楯におかわりを要求してきた。乗りかかった船である。楯は調子に乗って連続で四杯ほど与えてみた。そのすべてをあっさり乾して、口の周りをココアで汚しながら、少女は淑やかさのかけらもない仕草でゲップした。

「ご満足いただけたようで」
「はい! ありがとうございました!」勢いよく少女が頭をさげた。「このご恩は一生忘れないですよ。ばっちゃが言ってた。受けた恩は犬でも忘れないって。あたし犬じゃないんで、忘れるかもしれませんけど……」
「いや、そんな大げさなことじゃねえし」楯は苦笑いで答え、ゴミ箱に缶を投げ入れた。「じゃあ、俺、行くわ。アンタも早く帰れよ。守衛に見つかったらどやされっぞ」
「あ、ちょっと待ってください!」少女がぴょんと跳ねて、楯の前に立ちはだかる。「ご恩ついでに、ちょっと相談に乗ってほしいんですけど!」
「通販じゃねーんだぞ。……まあ、いいけど。なに?」
「好きです!」
「はえーよ! なんだそのスピード展開!」
「ま、間違えた!」少女が頭を抱えた。こほんと咳払いする顔は、赤い。「スイマセン。ち、ちがうんです。今のは、忘れて」
「そーする」
「あ、あのですね。あたし、いいことをしたんですけど、したと思うんですけど」言葉を選びつつ、少女がゆっくりと話し出した。「でも、それは、ある人にとっては、ひどいことなんです。さっきまで、わからなかったんですけど、急に、ひとりでいたら、わかってきちゃったんです。それで、ちょっとあたし、どうしたらいいかわからなくなって……。どうでしょう。そっちょくな感想かもしくはアドバイスが欲しいんですけど」
「わりぃ、何言ってるかわかんね」

 楯は率直な感想を吐いた。
 少女は打ちひしがれた。

「よくわかんねえけど、俺なりに噛み砕いてみるとだな」楯は義理で生真面目に考えてみた。「良かれと思ってしたことで、実際いいことなんだけど、それを迷惑に思うやつもいたってことだろ?」
「そ、そうです、そうです!」少女が喝采した。「頭いいですね、センパイ!」
「い、いや。そんなことはねーけど」照れる楯である。
「で、どう思いますか」
「まあ、しょうがねーんじゃねえの? 誰にとってもいいことなんて、世の中にはほとんどねえしさ。だったら、せいぜい、自分が良いって信じることをこつこつやってくしかねーんじゃね。つか、俺に聞かれてもなあ。そんなのはもっと立派なやつに聞いたほうがいいぜ?」
「信じて、こつこつ……なるほど!」

 やおら少女は立ち上がる。力強く頷くと、両手を組んで感謝のポーズを取った。

「なんだか迷いが晴れた気がします! たびたびありがとう!」
「いや、そんなたいしたこと言ってねーし。アンタどんだけ簡単なんだよ……」
「えへへ」
「褒めてねえ」

 はしゃいだ様子でそれじゃあと立ち去りかける少女を、今度は楯が呼び止めた。

「あ、おい。カサ持ってんのか?」
「カサ? 持ってるように見えます?」ヒラヒラとスカートの裾をつまみながら、少女が聞き返した。
「み、見えた」
「え、どこに?」
「いやそっちじゃなくて」楯は目線を外して、脱いだカッパを少女へ差し出す。「じゃあ、これ貸してやるよ。夏っていっても雨に打たれたら風邪引くかもしれないしな」
「……あ」

 呆然とそれを受け取って、少女は楯をまじまじと見る。それから、見ているほうがつられてしまいそうな笑顔で、はにかんだ。

「じゃあ、借りる! ちゃんと返すから!」

 走りながら、手際よくレインコートを着込む少女だ。うさぎのような後姿を和みながら見送っていると、少女は途中何度も振り返って楯に手を振りながら、やがて校門の外へ消えていった。


 ※


 夜――海岸道路。
 道にひとけはない。倉内和也の死体を搬送する無音の救急車は、悠々と病院ではない施設へ向かっている。車内ではほとんど会話もない。呼吸も鼓動もなくなった和也の死体の周囲には治療器具さえない。運転手はこのところの重労働に眠気を覚えながらハンドルを切って、なだらかなカーブを走っていく。

 その道の先に障害物がいた。巨大な蜘蛛の怪物と、爪を持った少女である。
 
 資料にある姿に、運転手は瞠目する。急ブレーキで車体を止め、至急連絡を取ろうと電子機器へ手を伸ばす。その手を遮ったのは紅い光の一閃であった。車体を中央から両断する勢いで、半部をこの上なく鋭い糸が引き裂いていく。
 何を、と声をあげたところで、後部から筒状のケースが投げ込まれた。間もなくケースからは多量の煙が吹き上がる。呼吸を止めるも間に合わず、微量を摂取したところで、運転手の意識は闇に落ちた。
 眠りに就く寸前で、可愛らしい猫の鳴き声を聞いた気がした。

「ニャァオ」

 





 









ワルキューレの午睡
第二幕 「舞」
これにて読切り
三幕へ続く



[2120] ワルキューレの午睡・第三部一節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609
Date: 2008/02/11 03:53


0.dawn on yawn.



 風華学園占拠事件から一夜明けた。誰にとっても今さらだったが、その朝になって、結城奈緒はようやく世界の終わりを実感した。
 彼女が運び込まれた病室の備品であるテレビの中で、日本一高い山が濛々と白煙をあげていた。そこから遠く離れた東京の女性アナウンサーが、美意識にまで昇華されたプロ意識でもって、冷静にニュースを報じている。ところどころ声が上ずる点を除けば、年齢に比してアナウンサーの働きぶりは上々と評価できた。問題は、富士山が噴火したという現実があまりに陳腐化しすぎていて、誰もがそれを虚構的にしか受容できないという点だろう。

『失礼いたしました。今入ったニュースによると、先ほどのニュースに誤りが――』

 情報は錯綜しているようで、五分もしない内に新しいニュースが飛び込んでは以前の口上が修正されていく。視界の左半分をふさぐ眼帯をひと撫でして、奈緒はテレビの電源を断った。
 とたんにバックノイズだった病室の外の騒ぎが耳に飛び込んでくる。夜明け前に起きた大規模な地震は本土でも相当な被害を出しており、風華もその例外に漏れない。いまだ夜に半ば属するような早朝だというのに、外の足音はひっきりなしだった。夜番で疲れきった顔をした看護士も、地震直後に一度だけ奈緒の様子を見に来たきり現れない。床に落ちて砕けた空の花瓶も、だからそのまま放置されていた。
 学園で負った足の傷の痛みはまだ引かない。自由に動くことは困難だ。左目はやはり眼帯を外せる状況ではないし、地震直前に奈緒を襲った発作のような胸の痛みも尾を引いている。それだけの悪条件下、さらに混迷する状況に対して、奈緒は意外なほど落ち着いていた。
 気がかりは母親だけだが、どのみち携帯電話も使えない状況では病院に連絡も取れない。完全に封殺されると、精神はかえって凪いでしまうものだ。それになにより、奈緒の感情は今、水位が低すぎた。激情を排出しすぎて、心が一時的な麻痺状態に陥っている。昨日から学園にいた生徒たちならばみな同じ心境にいることだろう。不幸を嘆いて、理不尽に怒って、反抗のために力を絞り、偶然に助けられ、地獄に叩き落された。そのあとでは、大震災も噴火も余り物でしかない。
 チャイルドを砕き、命の終わりを見た瞬間の感触は、奈緒の手中に残存している。
 後悔はない。奪われるくらいなら奪う。それが結城奈緒の鉄則である。
 ただ今は、すべてを棚上げにしたかった。罪も罰も、それに付随する是非も、等しく鬱陶しく、胡乱に感ぜられた。奈緒は無痛だった。今も病院にはけが人が担ぎ込まれ、富士のふもとでは人が逃げ惑い、地震に遭って命を脅かされる人々がいる。これから世界が滅びに向かうというのなら、それらはもはや日常なのだろう。だからなのだ、と奈緒は結論を下した。
 悲劇はもうない。
 誰もが均等に欠損を味わう世界が訪れた。
 相対化が彼女をすくいあげた。
 当たり前のことに心を砕く必要はもうない。
 結城奈緒は、救済されたのだ。
 奈緒は唇を吊り上げた。

「――ばかじゃないの」

 心から吐き棄てる。自分にだけ聞こえる音程で呟きを次いだ。

「ばかみたいだ。なにをしてるんだ。くだらない」

 勢いをつけて、ベッドから上半身を引き起こした。寝台とともに体が軋んで痛みを発した。傷の治癒が明らかに遅い。どうやら、本当に力は失われてしまったらしい。
 苛立ちと空虚感は今もなお奈緒の中心を蝕んでいて、自分がどれだけ能力に依存していたのかを思い知らされた。関係ない、と囁く声はことさら無力だった。寄る辺がない。どこにもない。もう、どうして生きているのかも思い出せない。
 だが奈緒は生きている。
 殺しても生きている。
 殺したから、生きていられる。

「ぐ」

 真田紫子が流した血を思い出して、奈緒は嘔吐した。胃の中は空で、喉を焼く僅かな酸だけがリノリウムを汚した。えずきながら、右目からは涙をこぼし、左目からは血を流した。咥内にとどまる胃液を嚥下すると、エウスタキオ管で耳鐘が反響した。首の付け根から肩にかけてひどく冷たくなって、残暑の夜中だというのに身震いがおさえられないほど奈緒をさいなんだ。

「だからなんだ……。あたしを、誰が責めるっていうんだ……ばかばかしい。あたしは、悪くない」

 奈緒は、半眼で床を睨み続けた。
 眼の奥がいつまでも熱を持って、痛みを唱えていた。
 病院の外では鉦が鳴っている。寒蝉のこえだった。夏の終わりは世界の終わりと繋がっている。
 高村恭司の言葉を、奈緒は口中で舐め続け、置かれていた松葉杖を手にとって、部屋を出た。
 廊下から見える窓の外は暗かった。対して院内はほとんど常夜営業のようで、立ち回る看護士の数こそ少ないものの、せわしない様子は同じだった。誰も奈緒を気に止めるものもいなかったので、彼女はそのまま待合室と受付のホールを抜けて、正面玄関から外へ出た。
 明け方の空気は、秋を感じさせて、若干冷たかった。軽く肩を震わせながら、奈緒は今さら自分の見た目のことを気にした。きっと見られたものではないだろう。だが、どうしようもない。服はともかく、怪我はすぐには治らない。
 ぼんやりと駐車場を横切った。傷だらけのBMWが停まっており、その目の前で力なく腰を落とす、見知った顔を見つけた。

「奈緒ちゃん……?」

 杉浦碧だった。顔色も服装も、ひどい有様だ。憔悴とほこりと、なにより血に汚れている。一昼夜でずいぶんと消耗したようで、昼間の溌剌さは既にどこにも見当たらなかった。

「よかった。ケガ、してるみたいだけど……無事、みたいだね」碧がほろ苦く笑んだ。

 無事か、という問いは意図的に無視して、奈緒は碧に尋ねた。

「ねえ、アンタ、高村見なかった?」

 碧は、すぐには答えなかった。呻吟するような間があった。彼女は迷うような、怖がるような様子で膝を抱いたあと、ぽつりと、呟いた。

 恭司くん、死んじゃった。

 そう、と乾いた声で答えると、奈緒は特に反応もせず、きびすを返した。どこをどう通って病室へ戻ったかは、自分でもわからなかった。自室へたどりつくと真直ぐにベッドに飛び込んで、そのまま、二度と目覚めないくらい深い眠りに落ちようとした。しかし結局は、二時間ほどで、嫌な夢と物音に起こされた。窓から見る地面には、白いものが降り積もっていた。まさか八月に雪もないだろう。テレビをつけて確認すると、これは降灰という現象らしいということがわかった。それきり興味をなくして、電源を落とすと、部屋はまた沈黙に包まれた。
 ハンガーに吊るされた、ぼろぼろの背広を奈緒は眺めた。病院に運び込まれたときに彼女が着ていたものだ。
 高村が着せたものだ。
 ふらつきながら壁へ向かう。あちこちほつれ、血の染みまである布地に、奈緒は額づいた。眼を閉じ、体中の全てを絞るような息をついた。

「うそつき」

 と、呟いた。

「帰ったら、話、聞いてくれるって、言ったのに」

 そのまま、しばらく動かずにいた。やがて、看護士が朝食を、ごく少量、やはりあわただしく運んできた。昼食は炊き出しになるから、出てこれるようなら駐車場へ出てきて欲しいと奈緒に告げると、早足で退室した。奈緒は終始無言だった。彼女は食事には手をつけなかった。背広を握ったまま蒲団に戻ると、また眼を閉じてひたすら眠りの訪れを待った。
 午後を過ぎるころ、ようやく彼女は意識を切ることができた。今度は夢も見なかった。


 ※


 そして、人生で一番長かった一日のことを追憶した。

 






ワルキューレの午睡
第三幕 「ワルキューレの落日」




[2120] ワルキューレの午睡・第三部二節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609
Date: 2008/11/15 07:17
von diu swer sender maere ger,
der envar niht verrer danne her.

それゆえ恋物語を欲するものは
ここより先へ行くなかれ




1.アドゥレッセント(揺籃)(38日前~)





 昼間の個室を薄暗く感じるのは、窓がひとつしかないせいだ。雨曇りは太陽を覆い隠し、南向きのビジネスホテルは日の恩恵に浴さない。分厚い窓は雨音と大気と騒音を遮って、市内を走るパトカーのサイレンだけを通している。
 結城奈緒は皺だらけのシーツにくるまれて、ベッドでうつ伏せに溶けていた。まどろみに漸近する覚醒のうちで、聴覚だけがテレビから流れる音を捉えている。枕元のデジタル時計の表示は十七時を示していた。

『――あたしたちは、正義の味方だって! そう言ったのは貴方でしょう!』
『それは今でも変わらないさ。掲げた思想を違えるつもりは私にもありはしない。だが、それでも君は知っているはずだ。人がそこにいて争う限り、安穏な、継続した経済活動など望むべくもない。とりわけこの植民地化した日本では。古人も言ったよ。戦争が軍隊を養うんだ。経済はその流れの中でも生じている。レジスタンスはボランティアではない。抵抗活動をするかたわらでも、家族は養われねばならない。だから私は彼らに給料を払うさ。地下銀行も整備した。だが、そのための資金はどこにある? 君はその金策について少しでも考えをめぐらせたことはあるか?』
『それは――! でも、たからって麻薬を売るなんて!』
『そう、それが正しいんだよ。その美意識を君は常に持ち続けねばならない。君の母親を貶めた悪魔の産物を、君は決して許してはいけない。私は悪を巨悪で討つものだ。だからといって君がそうする必要はない』
『……ひとつだけ聞かせてください。ここ半年、世間を騒がせているブリタニアの通貨買占め。アレも、貴方の仕業、なんですか……?』
『ほう。異なことを言う。世界に名だたるヘッジファンドや資産家に対して、一介のテロリストである私がどう働きかけると? だが私見を言わせて貰えば、昨今の流れはブリタニアに対して極めて不利ではあるだろうな。確かにあの国は常勝不敗の強国だ。EUや中華連邦を下すのにも、あと十年は要るまい。だがそれは、裏を返せばあの国にはそれ以上戦い続けることができないということも意味している。莫大な戦費をまかなうのは戦勝国の特権たる賠償金と植民地化政策による各種の利権だ。この国のサクラダイトはその最たるものだろう。……しかしあの国はあまりに戦後を軽視している。むしろ無視しているというべきかな。優生劣滅の思想を称揚する一方で、植民地への治世などお粗末なもの。戦後復興など夢のまた夢……。心当たりはあるだろう?』
『…………はい』
『武力には限りがある。我々が現在国際社会で認知された国体でない以上、いやそうであったとしても、資本には厳然たる頭打ちが存在するんだ。――そう、これは言わば毒さ。それもとびっきり強烈な。……無論、私も麻薬は撲滅されるべき所産だと思っている。事実軍内でそんなものが蔓延しないよう、細心の注意を払ってもいる。君の抱く嫌悪感はもっともだ。忌避も軽蔑も甘んじて私は受けよう。だが決して幻滅はしないでほしい。虫のいい話ではあるがな』
『そんな! 私は貴方を軽蔑なんて! ただ……少し驚いただけです。ごめんなさい、深い考えもないのに……』
『違うな、間違っているぞ。言ったはずだ、その感性は正しいのだと。そんな君だからこそ私は親衛隊を任せることができた。だから、君に新たな役目も与えたい』
『あ、新しい仕事ですか? だけど、私には戦うことくらいしか』
『構わないさ。憲兵というものは君も知っているかな。要は軍内の風紀を取り締まる警察だ。近ごろ人員の増大と共に物資の流れも複雑化している。横領や着服が徐々にではあるがはびこりつつある。それは組織にとって危険極まりない瑕疵となりうる。だからこそ、この荒んだ状況下でも正しさを忘れない君にこの仕事を任せたい。……受けてくれるか?』
『は、はい! もちろんです! やらせてください!』
『(――堕ちたな。強烈なカリスマに追従する憲兵隊の進路……それは畏怖と孤立を招くものでしかありえない。眼に見えぬ優越感と特権が、君の正義感によらず君を周囲から隔離するだろう。同時に君は私を弾劾する芽も失ったのだ。条件は全てクリアーした。あとは操った投資家による一斉の通貨の売り浴びせで、ブリタニアをぶっ壊……)』
『あ、あの、それともう一つ、お知らせしたいことが……』
『ん? なんだ?』
『実は私、あの、ル、じゃなくて――貴方の赤ちゃんができたみたいで!』
『……なん……だと……!?』

 そこでエンディングに突入した。
 景気のいいBGMと共にナレーションされた次回予告のタイトルは、『産婦人科でも 仮面』。
「……」
 半ば夢中にあって、奈緒は眉をひそめる。
 これはひどい。
 なんだか、夕方の時間帯だというのに非常に生臭い話が繰り広げられていた。昼メロと紛わんばかりだ。
 憂鬱な息を吐き出して、身を起こし、テレビのスイッチを断つ。シャワーを浴びるべく服を脱ぎ、ユニットバスの備えられた浴室に踏み入れる。
 そこには両手足を拘束された高村恭司が転がっていた。
 奈緒は二秒たっぷり、息を吸い込む。高村は手錠のかかる手先を顎の下で組みながら、死んだ眼で衝撃に備えている。

「なにやってんだテメェー!」
「お前がやれって言ったからやってるんだろうが!」

 二人は風華市から百キロも離れた街にいる。


  ※


 明けた空梅雨の間違いを取り戻すように、雨がまた降り出した。創立祭は表面上つつがなく終わり、日暮あかねは病院へ搬送され、倉内和也の遺体は失踪した。少女たちは異能の意味と目的を押し付けられ、同日新任の男性教師を確保に向かった組織の人員は、蛻の空のアパートを眼にすることになった。野分の合間に訪れるぬるい凪の中で、風華の地を取り巻く各勢力の均衡が崩れつつある。
 一番地は名目上国家の公機関である。しかしその実独立派閥としての趣が強い。オカルトを標榜して長年オフィサーとして振舞い続けたのも、せいぜい戦前戦中までの話だ。およそ六十年前、敗戦直後、表裏同時に致命的な失策を犯して以来、地縁と皇家に連なる権力地盤は幾度となく削がれ、揺らがされ、疑問視された。いまとなっては孤立はさらに深まっている。この機に復権が叶わなければ、早晩風華の地は解体も同様の憂き目にあう。古くからこの地に住まい、幾ばくかでも事情を共有する人々は、そうした危機感を共有していた。

「……」
 
 儀式が遂げられない場合の被害を思えば、そんな心配など馬鹿げている、とは思わない。
 姫野二三には、それらの懸念も人間の業としてある程度理解することができた。今回の祭は、そうした意味で試金石でもある。『世界の崩壊』を真剣に受け止めているものは、組織の長を含めてどこにもいない。楽観視しているわけではなく、問題視するにあたらない、それはただの現実だった。
 なんとなれば、『祭』の達成条件そのものは、全く難しくない。むしろ容易である。二三の知る限り、四つの勢力が即日勝者を一人に絞り込める工作を終えていた。
 本当に『手段を選ばない』のであれば、一日を俟たず悲劇は終わる。誰もそれをしないのは、制止のための強大な力が働いているからだ。それだけの話でしかない。
 本来ならば、それは儀式を取り仕切る一番地の仕事である。しかし今の一番地にそんな力はない。
 古式ゆかしい茶番のプロセス。それを律儀に踏襲させようとしているのは、よりにもよって舶来の勢力だった。

「シアーズ――」

 その目的も意図も、二三には未だ読みきれない。ただ一髪千鈞を引くほどに緊張だけが高まっていく。彼女は肌でそれを感じている。
 恣意的に状況を混沌へみちびいている。二三の主人は彼らの暗躍をそう評した。

『その果てにあるのは、おそらく』

 そこで言葉を切ると、少女は憂い顔を伏せて、唇を噛んだ。
 二三は何も問わない。好奇心も疼かない。ただ、できるかぎり彼女の傍にいるだけだ。何年も前から、そのためにだけ生きようと決意している。

 崩れた空の模様はそのまま一気に傾斜した。長雨に煙る代休中の風華学園はその色彩を落としている。巨大な桃の木の前に群生し、重たげに花をつけてうなだれる紫陽花から目を切ると、二三は肩にさした傘を手中でもてあそんだ。
 穏和に細められた瞳が、背後に立つ異邦人へと向かう。

「当学園は本日全面的に休校となっております」
「存じ上げていますよ。ヒメノフミさん。今日はいつものスタイルではないようだ。よくお似合いですよ」

 男の風貌からは、日本人ではない、という情報以外は何も読み取れない。何度か出会っては剣呑な別れを繰り返したエージェントの全身を、二三はくまなく観察した。
 整形暦があるのは間違いない。体もアスリートさながらに鍛えられている。秀でた額からは相応の年齢を感じさせるし、違和感のない日本語の発音は間違いなく長期にわたる習熟を経たものだ。二三の学んだ知識に照らせば、言語は個人の文化背景を推察する上でもっとも有意な要素のひとつである。呼気と発声と滑舌を耳にすれば、おおよその語圏を把握できる自信が彼女にはあった。
 しかし、目前の男にはそれが通用しない。不自然なまでに完璧に、男からは個性が消されている。

「御用向きがおありでしたら、ここでわたくしがうかがいますわ。五人目のミスター・スミス」
「おや、もうそんなになりますか。このやり取りも何度目になりますかね。なんだか私は、あなたに親しみめいたものを感じていますよ」

 微笑みながら、ジョン・スミスが一歩退いた。スーツの肩に留まった水滴が振り落とされて、雨中に散った。同時に円形の波紋が足下のアスファルトに描かれる。
 二三はかすかに傘を揺らめかせた。パンプスを履いた足が霞むほどの速さで八字を切って体を捌くと、背後の路面に亀裂が走り、延長線上に立つ鉄格子が音もなく拉げた。
 電柱ほどの胴回りを持つ腕が、拳の鉄槌を振り落としたのだった。ただしその輪郭は雨滴でかろうじて視認できる程度である。追撃に移るべくたわめられた肘の関節部に左足を打ち込むと、余勢を駆って二三はとんぼを切った。
 中空、旋転する視界で、荒らぶる獣の鼻息を風と雨の間に聞く。巨腕の持ち主は、筋骨粒々とした鬼である。シアーズの人工オーファンの亜種に相違ない。
 二三は花柄の模様を突き出すように傘を手放して、胸元にひそめた刀子を鞘から払った。
 着地と同時に、横殴りの一撃が彼女を襲う。這うほどに身を伏せてやり過ごすと、腕の戻りを待たずに懐へ入り身した。息づかいを感じるほどに接近して、怪物の体温を肌が感知する。頭四つ分は高い位置にあるおとがいへ、刀子を深々と突き刺し、引き抜いた。無色だが粘着質の液体が勢いよく噴出した。巨体がうずくまり、跪拝するように二三へとこうべを垂れる。少女は様相を変えず、眉間と耳穴とこめかみを一度ずつ深々と刺突した。巨躯は二三度大げさに痙攣すると、そのまま動かなくなった。
 二三はさらに手首を返す。半ば伏せた目を物言わぬ鬼へと投じると、液体に滑る刀身を五たび振り下ろした。
 由来を鎌倉まで遡る業物をそうして、オーファンの延髄へ突き刺した。硬い感触とともに手の内を返すと、場違いな拍手があたりに響いた。

「お見事」ジョン・スミスがいった。
「裏芸ですわ」返り血をぬぐわず、姫野二三は観客を一瞥した。

 断末魔もなく、『不可視』の特性を持った怪物が本物の空虚へ融けていく。髪も服も雨に濡れるに任せて、捨て置いた傘を二三は手に取ると、畳んで見せた。ゆるゆると持ち手を確認する。特注品の傘の先端部は不必要なほど鋭利だった。ビスクドールにも似て、完璧な曲線で構成された二三の面差しが、軽薄に手を叩く異邦人へ向いた。

「いやいや、何度見ても凄まじい、」

 四メートル近い距離を一瞬で潰して、口上半ばのスミスの胸部を一尖がぬいた。正常な人体であれば正確に肋骨を抜いて臓器に届く一撃は、奇妙な手ごたえを残して不発に終わった。スミスはずいぶんと遅れて自らの胸元に空いた穴を見下ろすと、哀れを請うような笑みで二三を見た。

「手厳しいですな」
「今日は、茶番にお付き合いする気分ではありません」
「残念です。人形遊びがお好みと聞いたのですが」
「ひとつ、お伺いしたのですが」
「貴女からご質問をいただけるとは光栄です。答えられるかどうかはわかりませんが――」
「この、彼らの」漠然とオーファンの死体が散った空間を示して、二三は朧々とたずねた。「素因に、人間を用いましたね」
「ほう」スミスが感嘆した。「やはりそういう違いはわかるものですか? いや、実はそうなのですよ。あまり費用対効果は良くないのですがね、先日貴重な物資の盗難を許した方々への、まあ罰則といったところですか。オリジナルには及ぶべくもありませんが、彼らくらいのエーテルでも集めれば即席の使い魔くらいは精製できるのです。ご存知でしたか? HiME研究の副産物というか、援用というか、スレイヴ・システムと呼ばれるものです。出力は……しかし、見てのとおりでして。武装した人間が数人もいれば、処分も難しくはありません。これでも一応二十人ほどに燃料を供与してもらったのですがね、どうも『変換』のさいにどこかで決定的なロスが生じてしまうようだ」
「その、人たちは?」二三は声を抑えていった。
「死んだんじゃないでしょうか。いま貴女が倒してしまいましたから」スミスは関心なさげに頭を振った。「いや、眼福でしたよ。まさか触媒どころか火器すら使わずに――で、貴女は結局ワルキューレなのですかね。それを確認することも仕事なんですよ、実は」
 
 二三はきょとんとスミスを見返した。
 次いで致命傷を受けてそ知らぬ風の男へと、たおやかな微笑みを手向けた。

「ミスター・スミス」と二三は言った。
「はい」
「わたくし、折り入って貴方にお願いができました」
「ほう。なんでしょうか」
「今すぐ消えてくださいな」

 笑みを崩さないまま、二三の手元が霞んだ。スミスの眉間へ傘の先端が埋まった。
 双眸の間に剣呑なオブジェを生やしたままで、スミスが最後に呟いた。

「これでも目は肥えているつもりですが、貴女の腕前だけは未だに上限が見えませんな。しかし、これで消えては芸がない。きょうは私も工夫してきました」

 異邦人の面影に、物質にはありえないノイズが走る。
 身震いのようなさざなみが、輪郭をまたいで大気へ波及した。転瞬、その全身が、巨蜂の群へと変成した。
 高次物質化の応用である。炎凪が常用する術式を、三段は落とした稚拙なものだ。だが彼のようなほとんど擬人化された神に近い存在の能力を、模倣できるというだけで冠絶している。
 シアーズの力は底が知れない。思惑と同様に。距離を取りながら、二三は足場を確かめる。
 簇々と蝟集する大群は、攻撃的な羽音を撃って彼女の四囲を瞬時に巻いた。

「芸がないというなら、これこそそうでしょう」

 全身を雨に濡らした二三は、僅かに弾む呼吸を調息すると、虚ろな目で傘を一振りした。切先はろくろく狙いもつけずに放たれて、正確に拳大の蜂の胴体を貫通した。
 ふいに、閃いて散り、溶けて消える光のイメージが二三の脳裏に去来した。
 だが、手も足も、休める理由にはならない。侍女の歩調はゆるぎない。眼は決然と死線の包囲網に対峙した。毒針を凶悪に隆起させた二百匹余のオーファンが、斉に二三へ襲い掛かる。
 二三は四十秒でそれらを殺しつくした。
 ようやくあたりが静かになると、使い物にならなくなった傘を丁重に抱えて、壊れた門扉へ背を預けた。雨は相変わらず降り続いている。天を仰いできつく目を瞑ると、彼女は強く唇を噛んだ。
 押し出すようにうめき、無限の波紋を連ねる路面を、見るともなしに見た。運命をうたう大樹も、醜く傷ついた景色も、何一つ変わり映えしない。今日、二三の手によりどこかで消えた命の群も、大河の一滴でしかない。燃えるように熱い身から、焼けた吐息を搾り出す。
 主人の名を祈るように囁く二三に、声をかけるものがあった。

「風邪引くぜ」

 夏服に男装のたたずまい。結んだ襟足を長く伸ばして揺らすのは、尾久崎晶だった。安物のビニール傘を片手に、冷めた眼差しを二三へと注いでいる。

「尾久崎さん」反射的に姿勢を正すと、二三は完璧な侍女の姿を即座に取り戻した。「ごきげんよう。なにか御用でしょうか?」
「ああ、ゴヨーだゴヨー」晶は剽軽に頷いた。「聞きたいのはひとつだ。余計な言葉はいらん。今のも一部始終見てた。シアーズ財団広報四課のあのハゲとの二度目の交戦からも見てた。当然高村恭司や杉浦碧との一件もだ。監視者には気づいてただろ?」
「ええ。候補者は絞りきれていませんでしたが」
「いや、気づくだけすげえと思うよ。アンタくらいのはオレも知らない。納得できるって意味なら、まだあの機械人形のほうがわかりやすいくらいだ」

 二三は無意識に身構える。それを知ってか、晶はぎりぎり間合いの外に留まっている。既にその手中にはエレメントが招かれていた。無機質な双眸が、濡れる二三の肢体を捉えて離さない。
 彼――いや彼女は、すでに観察の段階を終えている。二三はそう直観した。たしかに、ここ数日手の内をさらしすぎた覚えはある。
 そして、二三は学園の経営側である。晶がどういった素性かも詳しく心得ている。そうした存在を晶が嫌うことも、無論理解していた。

「貴女の素性でしたら、わたくしどもには守秘義務があります」
「それはいまはいい。どうせこうなったらあまり意味がない」晶は仏頂面で言い切った。「祭とやらのメンツも昨夜までにだいたい把握した。確証にはあとちょっとかかるだろうけど、時間の問題だ。まあ、そっちを教えてもらえるとは思ってねえよ」
「でしたら、何を?」

 あくまで落ち着き払って、二三は促した。
 対する晶は焦れている。苦無を指先でもてあそびつつ、切り込むように二三を見た。

「姫野二三、アンタ、HiMEか? 是なら今すぐやろう」
「お応えしかねます」
「そっちの立場もわかってるけどよ。なあ、ご同業、選手がフィールド外で傍観者気取りってのはこすくねえか。そういうの気に入らねぇんだ、オレは」

 心も体も、幼少期から人為的に誘導操作された少女は、常の怜悧な風貌を落とし掛けている。垣間見えるのは年相応の情緒の揺れだ。二三はそうと知れぬ程度に眉を寄せる。
 危険な兆候に見えた。
 中部地方に根を張る素破の末裔。そう称せば冗談のようだが、尾久崎の血筋は五百年、連綿とその本義を失していない。『儀式』に関しても、独自の口伝を残している。ただし、晶個人の資質は別にある。二三は彼女一流の直観で、そう感じた。

「さしで口を利いてしまいますが、隠密としては、尾久崎さんはあまり向いていないような気がいたします」
「ほっとけ」晶は口を尖らせたが、否定はしなかった。

 気のない仕草で傘を畳んだ。
 その動作に半瞬先駆け、二三が大きく後退した。入れ違いでアスファルトに弾着があった。晶が小声で、まじかよ、と呟いた。遅れて銃声が轟いた。二三はかるく発射地点と思しき高台に手を振ると、やりきれない笑みを浮かべた。

「なんで今のタイミングで狙撃が避けられるんだ」晶がしかめつらで言った。
「コツはたゆまぬ精進とここ一番の集中力。そして奉仕の心でしょうか」
「うそつけ」

 晶は傘を振り捨て、エレメントを手中に具現化させる。さてどうやって逃げ切るかと思案しながら、二三は水澄ましのように路面を滑った。


   ※


「うぁー」

 情報屋から受け取った紙束を、玖我なつきはひとしきり眺め終わる。得られたのは有意義な真相というよりも、不毛な確信だった。OAチェアに体重を預けて、眼精疲労に喘ぐ首から肩を揉みほぐす。凝り固まった筋肉に血流が通う感覚は、うら若い乙女が味わってはいけないものである気がした。

「ああああ」
「…………」

 徹夜に軋むこめかみを、指先で突く。取り寄せで購入したボトルにアロマキャンドルを乗せ、マッチで火をつけた。無機質な灰色をした机上から立ち上る香気を吸いながら、なつきは闖入者へ半眼を向ける。

「はあああぁ」
「五月蠅い」
「ごめんなさい」

 素早く居住まいを正し、ソファで正座したのは鴇羽舞衣だった。昨日の打ち上げの帰り、学園の門前で凪から『宣告』を受け取ると、そのまま美袋命を伴いなつきの居室に押しかけたのだ。つまり二人はなつきの部屋に一泊したということになる。藤乃静留さえ軽々に侵害しない生活圏を乱されて、なつきは険相を崩せずにいた。それでも邪険になりきれないのは、命はともかく舞衣は未だにほとんど部外者だという意識があるためだ。
(どういったものか)
 『祭』についての知識が、なつきにはある。形式や具体的な詳細は舞衣と同じく初耳ではあった。しかし想い人や媛星、HiMEという力の由来を探っていけば、そこに何らかの思惑が存在することは読み取れる。利得のない行為に介入する組織など存在しないし、代償のない巨大な力もまたありえない。なつきと舞衣を隔てるのは、知識というよりその気構えの差異と、何より実際的な脅威の不在に他ならない。
(少し後ろめたくはあるが、しょうがない)
 なつきは腹芸が不得手だ。だから、率直に困惑する舞衣を正面から見つめた。

「鴇羽」
「はい」

 答える舞衣の顔は、青白い。日暮あかねの処遇や、チャイルドのシステムを明かされ、それが相応に堪えている。なつきがするのは、しかしその軽減ではなかった。

「おまえ、どうする?」
「え?」と舞衣は鼻白む。
「つまりだ」なつきは極めて淡々といった。「凪の言った『祭』、『儀式』に乗るのか反るのかという話だ。世界の崩壊をもたらす媛星を回避するために、われわれHiMEは相争わなくてはならない。チャイルドを人間との角逐に用いなければならない。そしてチャイルドが敗北した場合、媒介である想い人もまた失われる。想い人を――それこそ、日暮あかねのように失いたくなければ、道はふたつにひとつだ。つまり、戦って戦い抜いて、最後の一人になるか。もしくは」
「徹底的に戦わないで、……チャイルドも、死なせない」
「そうだ、な」〝死ぬ〟という強い言葉を舞衣がチャイルドに用いたことを、なつきはひそかに危ぶんだ。すでに感情移入が深まっている。思えば、舞衣には最初からその傾向があった。「まあ、その様子なら今すぐわたしと戦おうって気分じゃないようだ」

 と、

「そんなのあたりまえでしょ!?」

 壁が震えるほどの声量だった。むしろ悲鳴に近い。打ち上げで興じたカラオケの名残か、あるいは単に疲弊のためか、掠れた声は裏返っている。対するなつきは楚々として、憤慨する舞衣をなだめにかかった。

「落ち着け。美袋が起きるぞ。ただ、まあ、考えてみろ。普通なら、おまえの意見が大勢だろうさ。世界が滅ぶと聞かされたって、事実、今のところ眼に見える範囲で何がどうこうってわけでもない。加えてHiMEには顔見知りも多い。碧が言っていたように、明日行くという海で、『休戦協定』とやらを結ぶに、わたしだってやぶさかじゃないさ。ただ、考えてみるべきだ。わたしたちが『戦わない』と言って、果たしてそれは通ると思うか?」
「思うかって言われたって」舞衣は困惑した様子で肩をすくめた。「思うしかないでしょ……。だいたい、おかいしいよ。本当に世界がどうにかなるの? 確かにあの赤い星、前より大きくはなってるけどさ、だからって他の人には全然見えてないものなんだよ? 地球に隕石が降ってくるようなものなのに、あたしたちしかどうにかできないなんて、ふつうに考えてありえないよ」
「もっともだ。そのあたりはわたしも懐疑的だが、あいにく個人では検証のしようもないからな。ただ、そうなると信じている層は確かにいるし、そいつらは馬鹿にならない力を持っている。デタラメに踊らされる連中が、人死を隠蔽するほどの工作や、人から記憶を奪う技術なんか持っているはずはない。また、高次物質化能力については、わたしたちこそが生き証人なんだ。それにしたってせいぜい山火事がせいぜいの出力だが……、とにかく、そこはしっかりと認識しておけ」
「……一番地、だっけ? 玖我さんが追いかけてるとかいう」山火事のくだりで頬を歪ませ、舞衣は神妙に頷く。「あのナギってやつもそう? ただの中学生じゃないとは思ってたけど」
「というか、あんな生徒は存在しない。前に言わなかったか? たぶんあいつは人間でもないと思うぞ」
「人間じゃないって、じゃあなによ?」
「しらん。というかそこは別にどうでもいい」なつきはすげなく言って、話題の修正をはかる。「それよりも意図的に話を逸らしているな? 目下おまえがもっとも注意すべきは、おまえの媒介――『想い人』の存在だぞ。それが誰かは、あえて聞かなくても、わたしにだって予想がつくが」

 切り出した本題を突きつけられて、舞衣が息を呑む。面相はありありと恐怖に飾られている。それを失う未来を常に案じ続けてきた彼女だ。恐らく、他のどのHiMEよりも実感は強い。

「巧海、だよね。やっぱり……」恐る恐る、口にする。それだけでも忌まわしいというように、舞衣の声は震えていた。
「他に好きなやつや、恋人がいないのならな」
「……いないって。いるわけ、ないって。そんなヒマ、なかったし」

 苦笑いすら、痛々しい。なつきが舞衣を危ぶむとすればこの点だ。HiMEの間にある愛情の多寡を論じるのは無意味だが、舞衣は、意識せずとも現時点でもっとも『祭』の主旨を体現している。想い人のために身を削り、献身し、心を砕いている。その遠いようで近い延長線上に、まさしく『祭』は存在している。些細なことで、彼女を良識に押し止める堤は砕けるのではないかと、なつきは懸念していた。

「たとえば。そうだな、たとえばだが――」ふいに、嗜虐と自虐につかれて、なつきは口走った。「弟を、誰かに人質に取られたとする。秘密裏にだ。そして誘拐犯は、おまえに力をつかって戦うことを要求したとする。この街にいる以上、警察はおまえを助けてはくれない。友人も、HiMEの存在に関知しない以上、誰も、おまえを助けられない。そうしたら、どうする? ただでさえおまえの弟は病身だ。そうしたら、おまえは、どうする?」

 舞衣を挑むように睨みつつ、意地の悪い問いだと、なつきは自覚していた。だがかつて己の身に降りかかったことでもある。それを強いた一番地への容赦も寛容も持ち合わせずとも、今ならば理解はできる。もし本当に世界が滅びるのならば、それこそ手段を選ぶ余地はない。誰もがあらゆる手をつかい、なつきを、舞衣を、闘争に駆り立てるだろう。
 舞衣は、真直ぐになつきを見詰め返した。
 そしていった。

「玖我さんに、助けてもらうわ」
「悪くないな。及第点はやろう」なつきは澄まして答えた。「だが、それだけだ。もしわたしがその気になっていたら? あるいはすでに、他のHiMEに敗北していたら? どちらもありえない可能性じゃないぞ。もちろんわたしはこのくだらんイベントに興味はない。ただでやられる気もない。平和主義ではないんでな、降りかかる火の粉は払うさ。だがそれも絶対じゃない。状況は変わるし、協定も絶対じゃない。これは推測が混じるが――たぶん」

 一息を置いて、なつきは告げた。

「わたしたちは、『想い人』のためなら、世界を滅ぼせる。たまたまじゃない。そういう人間しか、HiMEにはなれないんだろう。ああ、見境がないと言ってるわけじゃない。ただ、状況次第でそうなりうる素養があるというだけだ。誤解を恐れずに言えば、異常者しかHiMEの力には親和性を持たないんだろうな。近視眼的というか、盲目的というか、とにかく、そういう傾向がある。これはわたしやおまえ、美袋に碧といった類例から考えただけの仮説に過ぎないが、なんというか、わが身ながら説得力はあると思う」

 熟慮の間を挟み、舞衣も消極的に首肯した。それでも双眸には反発の色がある。なつきはやや彼女を見誤っていたことを認めた。

「でも、あたしはやっぱり、誰とも戦いたくないよ。玖我さんだからとか、命や碧ちゃんだからとかじゃなくて、それもあるけど、もっと根っこのところで、そんなことするべきじゃないって思う。しちゃいけないって思う。大事な人の命なんかがかかってるのなら、なおさらだよ。誰にも、そんな思いはさせちゃだめだよ。あかねちゃんだって……。ねえ玖我さん。あかねちゃん、本当に、倉内くんも、もう……」
「酷なようだが、それはほぼ間違いがない。結果自体にうそをつく意味がないからな。それにあれは凪たちにとっても予想外のようだった。まあ、疑心暗鬼を煽るためにあえてイケニエにした、というタチの悪いことも考えられないじゃないが」
「そんな!」考えもしなかったのか、舞衣は素直に憤った。
「……が、やはりそれはないと思う。日暮をやったのが誰か、はわからないが、糸を引いている連中についてなら、実は少し想像がついてるんだ。というか昨日、文化祭の最中にわたしも接触を受けた」
「じゃあやっぱり、一番地、ってやつら?」

 はばかるように声色を落とした舞衣に首を振る。
 ――シアーズだ。
 そう告げるのは容易だが、なつきはあえて言葉を押し止めた。現状で舞衣に余計な負担を強いるのは得策ではない。舞衣のチャイルドはなつきが知りうる中でもっとも強力だ。暴発の危険性はどんな小さいものでも摘み取っておくにしくはなかった。
(言うのも聞くのも、まずは高村だ。あいつ、どこに行ったんだか知らないが――)
 黙りこんだなつきを不安そうにうかがい、舞衣はぽつりと呟いた。

「高村先生にさ、相談したいな」
「はあっ?」素っ頓狂な声は、思考と同期した名前に動揺したためだった。咳払いしつつ、「あ、ああ。そうだな。昨夜からあいつとも連絡が取れないが、碧はメールで海へ行くことは伝えたと言うから、ヒマなら来るだろう。あの怪我じゃ来ても泳げなそうだが……」
「やっぱり、玖我さんの好きな人って先生なの?」唐突に舞衣がいった。
「……。ええ?」なつきは唖然と応じた。「え? なに? なんで?」
「あ、違うのか。ゴメン」すぐに舞衣が笑って誤魔化しにかかった。「はは、まあ、そういうのは聞かないほうがいいよね。さっきの話じゃないけど、なるべくさ。ただ、ちょっとそうなのかなーって思っただけだから。なに言ってんだろ! 気にしないでね?」

 いや、と生返事を返しながら、胸に生じたさしこみのような感覚を、なつきはいぶかしんだ。空調の作動音をなんとはなしにとらえながら、喉元に手先を添える。高村恭司のことを考えてみた。
 すぐに、止めた。
 距離感を間違えている、という自覚だけを思考に刻む。藤乃静留や、目の前の鴇羽舞衣、何度も好意を告げてくる武田将士、それに高村恭司。
 なつきを戸惑わせるのは、拒絶の壁を意図的に抜いてくる人間だ。彼女は望んで孤立している。強さを保たなくてはいけないからだ。舞衣に言ったように、HiMEは強力だが、ひどく脆い一点を持っている。それは情だった。
 人間の理性が、感情の制御をする。だが『力』を操っていると、しばしば倫理や道徳が消し飛ぶ瞬間がある。なつきのエレメントが拳銃を模しているからこそ、その認識は顕著だった。はじめは人に向けるのもはばかられた凶器を、今では頓着せず脅しに使うことができている。必要とあれば発砲もためらわない。必要だから慣れたのか、必要になる前から慣れていたのか、彼女には区別できない。解離症状――ヒステリーに似ているようで、違う。衝動の暴発と切り離せないはずの罪悪感を、今のなつきは一切覚えなくなってしまったからだ。
 親しい人間ひとりのために、大した葛藤を伴わず大勢の人間を殺せる。なつきには冷たく硬い確信がある。その異様さと危険性を知っているから、誰とも深い関係を築きたくはなかった。

「……鴇羽。これからどうする?」
「ん? ああ、とりあえずミコト連れて、いったん帰るわ。その前に病院寄るかな。で、明日に備える! 晴れるといいよね」

 そういうことではない、と言いかけて、なつきは笑った。舞衣がこのまま弟から離れずに日々を過ごすつもりではないかという不安を、あっさり否定されたからだ。

「おまえ、大したやつなのかもな」
「それ、ほめてんの?」
「いや、呆れてるんだ」そっぽを向いて答えた。

 そこでちょうど隣室から出てきた命が空腹を訴えて、三人は外出することにした。

 翌日は快晴になった。生徒会と執行部、文化祭実行委員に判明しているHiMEを召集しての海水浴は、問題なく決行された。
 ただし、高村恭司と、そして結城奈緒の姿はそこにはなかった。


  ※


「どういうつもり」

 ホテルをチェックアウトし、スモークを貼ったワゴンで市内を走る。車内では、空調とワイパーの作動音、時おりする身じろぎの衣擦れが、寒々しい空気を演出している。ところが始終寡黙だった奈緒は、目的地に近づくにつれ剣呑な気配を発し始めた。

「どういうつもりって」ステアリングを保持しながら高村は答えた。「本土まで来てこの街にいるんだから、結城はてっきり想像がついてるものだと思っていたよ」
「それが、どういうつもりかって聞いてんだよ」

 酷く低い声が、不機嫌を全面に表していた。
 昨夜、高村、奈緒、九条むつみの三人は、倉内和也の体を搬送する一番地の車を襲い、そのまま風華市から逐電して県境を抜け、さらに西へと進路を取った。むつみは二三善後策を提示すると、和也の遺体とともにいずこかへと発っている。残された高村と奈緒は、そしてある場所へ向かった。

「昨日のスミスとの話、忘れたのか?」高村はため息を交えずにいった。「おまえのお母さんの病院もマークされてる。だからどうこうってわけじゃないけど、様子くらい見ておくべきだろ」
「要らねえよ」切断するように頑なな語調であった。「だいたい、これからどうすンの? なんかいい手でもあんの? あのオヤジをやっちゃってさ、シアーズとかいう連中とアンタら、もう切れちゃったわけでしょ? なんか知らないけどさ」
「それはまだわからないな。あと俺たちだけじゃなくて、おまえもだ。あの状況で結城ひとり、無関係を決め込めるとは思ってないだろう?」
「そこまでメデタクはないっつの」苛立ちを隠しもせず、奈緒が細い足でシートを蹴りつけた。「あーあ、メンドくさ。どうなってんだよコレ。まあ、別にどうだっていいけどさ……」
「どっちだよ」高村は軽く笑う。赤信号を目にして、ブレーキを踏み込んだ。「まあ、俺のほうはともかく、結城はひょっとしたらお咎めなしの可能性はあるな。お祭はもう昨日付けで見切り発車したようだし、おまえたちの立場は一晩でだいぶ変わってると思うよ。スミスの脅しも、今の時点では見せ札でしかないはずなんだ。だからって、切らないとも限らないけど」
「オマツリ、ね」

 気のない口調で唱える奈緒も、すでに炎凪から儀式の詳細を受け取っている。高村やむつみに対して彼女が何かを自発的に話したわけではなくとも、雰囲気でそうとは察せられた。にもかかわらず戸惑いの気色が薄いのは、元々シアーズに引き込んだ時点で、彼女に他のHiMEとの敵対を示唆していたためだろう。
 高村は、だからその話題を振ることに特に頓着しなかった。積極的に渦中へ巻き込んでおいて悪びれれば、奈緒はかさにかかってあざけるだろう。ヒールを気取る少女が準じる規則性のようなものを、この頃の高村は見出しつつあった。

「で、結城はどうする。やりあう気なのか? 他の連中と」
「もちろん」奈緒は即答した。「って言ったら、どうすんの? 怒るワケ? アンタの立場で。だったらうけるんだけど」
「怒りはしないけど、一応止めるかな」挑発的な態度をかわしつつ、高村も応じた。
「へえ。なんで? センセイだから?」
「それは当然ある」信号が青へと変わる。アクセルを踏みながら、サイドミラーで後続車を確認した。「あとパターン的な問題もあるな。こういう……、バトルロイヤルっていうのか? 十年位前の小説以来、プロレスくらいでしか見なかったこの単語、妙に市民権を得てきたけど、概念自体はイメージしやすいよな。四面楚歌というか、同舟相救うというか。そういう場面でだ、率先して興行に参加するやつって、だいたい場と状況を引っ掻き回して消えるんだよな」
「ばっかじゃないの?」奈緒は鼻で笑って取り合わない。「そんなんつくりごとの話じゃん。現実だったら先手必勝がいちばんだよ。特に、……オメデタイ頭してるヤツが多いみたいだし」
「いやいや、そういう『お約束』はこの世界じゃなかなか馬鹿にできないみたいだぞ。胸糞悪いことに」
「なにそれ?」
「……ま、それはいいとして、結城にやる気がないでもないっていうのはわかったが、ちょっと遅かったな。碧先生は明日、判明してるHiMEを集めて遊びに行って、状況確認と休戦協定を結ぶそうだ。俺も、あとおまえも一応誘われてるけど、当然参加はできないな」
「はっ。そんなん元から行くつもりもないし? いいんじゃないの、群れたいのは群れてれば。どうせオチは見えてる」
「それも、一理あるんだけどな」

 文字通り昨日の今日で打たれた杉浦碧の対応は、舌を巻くほど迅速で的確だ。思惑がどう転ぶにせよ、この状況下で彼女のリーダーシップは少女たちに心強さを与えるだろう。もっとも、部外者である高村の懸案はその先にこそあった。実質は遅滞効果を狙った方策であり、おそらく碧自身は『協定』の瓦解を視野にいれている。
(問題は、そこで碧先生がどう動くかだ)
 一ヶ月の間職場を共にして、結局高村は杉浦碧を計りきれなかった。信頼できる人物ではある。能力もある。力と、それを行使する意味も知っている。
 だが、ほとんど本音を明かさない。高村の持つ白紙委任状を渡すことを、思い切れるほどの関係は築けなかった。
(半分自業自得か)
 高村がむつみとの目的を果たすには、ある程度〝蝕の祭〟を進行させる必要がある。そこには誤魔化しようもなく、見知った人命の取捨選択が存在する。計画を前倒しするならば、実のところ、奈緒が踊るのは好都合といえる。ただしその過程で高村は極力彼女のフォローをしなければならない。最善を尽くして誘導し、操縦し、必要ならば心身をすり減らし、奈緒を共犯者に仕立て上げる。
 むつみや他人に命じられたわけではなく、それは彼にとって、もうひとつの責任だった。

「なんでよりによっていきなりカツアゲしてきたガキなんだろうなぁ……」
「なにセンセイ、カツアゲなんかされたの? アッハ、だっさ!」
「死ねよおまえ」少し本気で苛立った。
「あぁ!? ケンカ売ってんの!?」
「それはおまえだろうが。ちくしょう……おまえなんかどこを探しても顔とカンくらいしか取りえもないくせに」

 毒づく声に、バックミラーの顔がふいっと逸らされた。

「うざい。キモい」
「いい加減その手の悪口は聞き飽きた。ニワトリだってもっとバリエーション豊かにディスってくるぞ。ちなみにこれはおまえの脳みそをチキン以下だって言ってるってことだからな。わかるよな? もっとわかりやすく言ったほうがいいか? もっとひらがなとかふんだんにつかったほうがいいかバーカバーカ」
「ぶっ殺す!」怒らせるだけならば、実にたやすい結城奈緒だった。

 伸びてくる手を意識しつつ、高村は急ブレーキをかけた。
「ぐえっ」と鳥のように鳴きながら、身を乗り出しかけた奈緒が後部座席で横転する。悪口が飛んでくるが、目的地には到着したので取り合わない。市街地からはやや離れた、ホームセンターと農地に囲まれた立地にその施設はある。直方体の建物に刻まれた『○○府立総合病院』という文字を認めながら、高村は一転穏やかに語りかけた。

「行ってきたらどうだ?」
「……」無言で、奈緒はねめつけてくる。鏡越しの表情には、怒りと、若干の訝りがあった。
「結城の想い人って、ここで入院しているお母さんのことじゃないのか?」
「……違うし」
「違ってもなんでもいいけど」高村は嘆息していった。「せっかくなんだからお見舞いくらいしてこいよ。あんだけ反応したってことは、大事にしてるんだろう、お母さん。いちばんかどうかはともかくとして、家族なんだからさ」

 ある程度予想はしていたが、奈緒はそれを上回る苛烈さで応じた。

「はぁ!? 何決め付けてんの!? ンなわけないだろ!」
「怒るなよ。違うなら何ムキになってるんだよ」高村はつとめて穏やかに返した。「じゃあ他に心当たりはあるのか? 別に俺に言う必要はないよ。ただもしその人の身柄をだ、どっかの悪い奴らに利用されるとか、」
「そんなもんいない」早口で奈緒は言い切る。
「はい?」
「そんなモンいねぇつってんだろ!」表で通行人が車を振り返るほどの叫びだった。「しつっこいんだよ! ……だいたいなに馴れ馴れしくしてんのアンタ。オモイビト? オモイビトぉ? ――なにそれ。んなもん、あたしにいるわけないじゃん? いないもんに心当たりなんかあるわけないでしょ? わざわざこんなトコまで連れてきて、気を利かせてるつもりかよ。余計なお世話なんだよなにもかも! あんたなんざ適当に悪巧みしてヘラヘラ笑って思わせぶりな台詞でも吐いてオナってりゃいいんだよ! マトモな大人ヅラなんか、今さら過ぎてヘドが出んだよ!」
「はいはいそうですね結城さんは正しいですね」
「っ、バカにしてんだろ!?」
「いやもうどう答えればいいんだよ」
 
 加減を見ていらえつつも高村は困り果てた。つくづく奈緒は扱いが難しい。命や瀬能あおい、そうでなくともむつみと話す際には、こうまでヒステリックな反応は起こさないのだ。ならば問題は、高村にもあるのだろう。珍しく上機嫌になったかと思えば、すぐに曲線は下降する。思春期という安易な言葉だけでは片付かない不安定さが奈緒にはある。
(家族ってのが地雷なのかな)
 高村は、奈緒との親密な関係の構築は出会って十分で放棄している。今なおその印象は覆っていない。結局、彼もまた歩み寄ろうと見せかけているだけで、実質は何もせずにいるのだった。高村は胸の内を何一つ奈緒に語っていないし、語ろうとも思えない。
 要は、と高村は思った。こういうことだな。

「なあ結城、俺なあ、おまえが嫌いなんだよ」
「え――」
「いや嫌いというか、もう、ぶっちゃけ面倒くさい」
「……あ、そ」

 犬歯を剥いていた奈緒が、不意を打たれて眼を白黒させる。高村は一気呵成に喋り続けた。

「大人げないことを言ってるのはわかってるんだが、まがりなりにも教師として心がけといて自分がこんなこと言うのはちょっと信じられないんだが、どうもそうらしい。というか、このことについてはおまえをあんまり子供だとかは、思わないで扱ったほうがいい気がしてきた。寄ると触ると弾けて、よほど俺が気に食わないんだろう? それはわかるよ。昔は俺もこんな感じじゃなかったんだけど、て言ってしまうのはいいわけがましいな。……だいたい、おまえも俺のことは嫌いだろうから、別にそれについてどうとは思わないだろう? だからともかく、俺はそれでいいと思う。俺が疎ましいなら、俺は別におまえにわざわざ構ったりしないよ。おまえも俺を気にしなければいいと思うよ。おまえの大切にしているそのラインに、俺の存在はまとわりついて邪魔なんだろうけど、ただそれだけは眼をつぶっていればいいんだ。他には何もしないし、当面おまえの敵に回ったりとか、不利益になるようなことはしない。これは信用してくれていい」

 奈緒は黙然としてうつむいている。爪を噛む仕草は目まぐるしい思考の表れだろう。高村は、丹念に言葉を織った。

「そういっても信じる気にはなれないだろうが、俺はそこまで責任は持てない。ただそうしてもらうための努力はする。これはおまえへの好悪とは別のことがらなんだ。……なあ結城。おまえはとりあえず人の心情については鋭いというか過敏みたいだから、俺やむつみさんが、悪意を持っておまえを陥れようと感じてるなら、一人でどこへなりとも行けばいいんだよ」
「……いまさら」奈緒は忌々しそうに吐き捨てた。「放り出そうっていうんだ? 無責任……」
「いや、放り出しはしないよ」高村はかぶりを振る。「ただしおまえがどこか行ったら、俺はおまえを追いかけるよ。それで、不満を聞くし、話をするし、なんならまた喧嘩しても構わない。で、おまえを説得して、必ず連れ戻す。他の人はみんな忙しいから、俺がそうするしかないっていうのは微妙かもしれないけど、どこにいったって俺は結城を見つけるよ。ストーキングしまくるよ」
「いやそれ、……さっきと言ってることが違うってーの。きもいし」奈緒が苦笑する。
「いや違わない。そうなった時俺がおまえを追うのは、別に好きや嫌いの話じゃないからだ。なぜなら、おまえはHiMEだし、俺は俺だからだ。俺はなんだか成り行きでおまえをこっち側に引きずり込んで、ただでさえハードな状況に、余計な荷物を持たせた負い目がある。だから、俺は、おまえを守る責任があるんだ。教師だし、加害者として。そうしなければ、たぶんおまえは今ごろ日暮の代わりにベッドにいて、倉内の代わりにおまえの大事な人間が誰か死んでいたんだろうけど、だからって今後それがおまえの身に起きないと約束されたわけじゃない」
「だから! そんなのいないって」

 先ほどよりも随分落ち着いた語勢も、高村は言下に退けた。

「それは、ないんだ。そんなむしのいい話は、世界のどこにも落ちてないんだよ。……何度も言うけど、俺はおまえのそれが誰かなんてことを、聞こうとは思わない。興味がないというだけじゃなくて、それはあくまでおまえの問題だからだ。どう処理するべきかという方策も、おまえにはあらかた全部提示されてる。そう考えれば、おまえらはむしろ恵まれているほうなんだよ。だから誰も今のおまえや、他のみんなに、そんな約束はできない。残念だけど、もう世界の誰一人、可哀想なだけの女の子たちにばかり感けてられる場合じゃなくなってくるからだ。俺みたいにやけになってる関係者以外は」
「世界が、滅びるって、やつ? あれやっぱりマジなの?」心なしか引きつった顔で、奈緒が問う。信憑性など欠片もない脅迫に、現実感が伴っていない。
「滅びるよ。むしろ滅びなきゃ困るな」だからこそ軽く、高村は肯定した。助手席のダッシュボードから、クリアファイルにとじられた航空写真を十数枚取り出し、奈緒に手渡す。「そんなわけで、じきに異変も表面化するだろう。ちなみに、それはエクリプス01ていうインチキみたいな性能の人工衛星の画像をパクってきた写真だ。場所は、どこだったかな、オーストラリアと南北アメリカと東南アジアのどっかだと思うんだけど、その写真見て、なにかおかしいと思わないか?」
「……」

 奈緒は無言で目の粗い写真を手繰っていく。数秒もすると、その眉根が深いしわをつくった。

「まあ一発でわかるよな。それは三枚一組で、十秒おきにある街なり地域なりの特定のポイントをフォーカスしたものなんだけど」
「……二枚目で、人が、消えてる」感情もなく奈緒が引き取った。「なのに三枚目で人が戻ってる。フーン。確かに時間はそんなに離れてないみたいだけど、こんなのどうとでも作れるでしょ」
「まあな。合成ですらないよな。うさんくさいだろう」高村は薄く笑んだ。「でも本当なんだよ。その瞬間、写真の地点から半径十キロ以内の人間は消滅したんだ。正確には観測ができない状態に『ばら撒かれた』らしいけど、俺にはよくわからない。本人たちはだけど、自分が消えていたことには一切気づかず、消滅から三秒後に現世……うん、現世に復帰している。ボスがキングクリムゾン使ったときみたいなジャンプは、ちなみにない。彼らの意識も動作も、調べた限りでは全く連続している。ただし、人間は一回の異変につき三十人くらい、――消えたまま、戻ってきてない。シアーズの広報さんたちの調べによればな」

 くだらないとこぼして、奈緒が写真をつき返してきた。

「そんなのニュースにも何にもならないわけないじゃん。ハイハイゴクローさま。そこそこ面白かったケド?」
「なってるよニュース」受け取りながら、高村はおどけてみせた。「現地では結構騒がれてるよ。日本でもネットのニュースサイトで挙げられたりしてる。今のところ場所がばらけてて範囲が広いからそうでもないけど、ただ北アメリカではわりと厳しく統制されてるな」
「は……。マジで?」信じられないと言いたげな奈緒だった。
「まあこの消えた人たちはたぶん高次物質化エーテル化したんだろうって言われてる。要するに消えたまま融けちゃったんだな。そのままオーファンになったり、オーファンの顕現のよすがになったりしてるんだろう。……おまえそう『うっそでー』みたいな顔してるけど、それなりに大きな国ではわりとあちこちこれ、騒がれてるみたいだぞ。少なくともあと二ヶ月以内にはリアル日本沈没するとか言ってる人もいるしな。俺は日本以外全部沈没のほうが楽しいと思うけど」
「んな、バカな話って、ありえんの?」もはや開いた口が塞がらないという様子で、奈緒は高村の話を半分以上鵜呑みにしていた。高村は思わず笑う。
「バカな話なんて、クモの化物がおまえの前に現れた瞬間から始まってるんだよ。なに寝ぼけてるんだ? 変なところで常識を後生大事に抱え込んでるみたいだな。ここじゃ何だって起こりうるんだって、おまえはチャイルドやオーファンと付き合って少しでも思わなかったのか? 鴇羽のチャイルドは知ってるか? あれが学校の裏を焼いたって話はしたよな? あのチャイルドなら三十分で風華市を焼け野原にできるぞ。一ヶ月あれば日本の主要都市も半分灰にできるな。まあその前に当然対処されるだろうし、鴇羽はそんなこと絶対にしないだろうが……。でも、おまえにだって似たようなことはできるじゃないか。たとえば今から新幹線で東京へ行くだろう? 上野で降りて一泊して翌朝地下鉄で国会議事堂前に結城が向かう。そこでチャイルド……ジュリアだっけ? あいつを呼び出す。ガードマンをぶっとばす。次に議員をぶっとばす。銃で撃たれてもチャイルドは平気だ。それにおまえはすぐ逃げる。犯行声明をネットでばら撒く。それだけで歴史に名を残せるぞ。国は別にそれでも大して問題なく動きそうだけど、でも類を見ない犯罪には違いない。簡単だろ?」
「……ま、言うだけならね」奈緒はあんがい悪くない案だとでもいうように、頬を緩めた。
「そりゃそうだ。極論だ。言っておくが絶対実行しようとかは考えるなよ。そのときはお前の寝ゲロ画像やおねしょ画像が全世界に流出する覚悟を」
「しねえよ!」奈緒が吠えた。「そのネタひっぱんなよ!」
「問題は想像力なんだよ」高村は無視した。「ありえないとか言ってる場合じゃないんだ。ありえないことが起こっただろ。それはおまえの世界に深く食い込んだだろ。残りの『ありえない』の全てはその『ありえたありえないこと』の延長上にあるんだよ。世界だって、だから滅びるんだよ。それがあのクソ媛星のせいかはともかく、みんなだっていずれ世界は終わるだろうなっていう漠然とした予感はあったはずなんだ。末法とか末世とか、ハルマゲドンとかなんとかさ。そういうものがいよいよ来るかもなっていうタイミングなだけなんだよ。そう大したことじゃない。なんだか話が飛びまくっているけどさ、俺がいいたいのは、つまり」
「つまり?」

 シート越しに、高村は奈緒を振り返る。上目遣いの瞳を、覗き込むようにして、彼は少女に告げた。

「俺はおまえの味方をするってことだ。一番の、ではないし、おまえのことは好きじゃないけど、行きがかり上、そうなった。借りができた。縁が、できてしまったから」
「……だ、だから?」
「いちいち、噛み付かなくてもいいってことだよ。試すな。考えろ。回りをバカだ偽善者だって言うんなら、おまえこそ思慮深くあるべきなんだ。やたら吠えるのは格好よくないだろ。……そう、これが言いたかったんだ、俺は。おまえが突っかかってこようが唾吐こうが喧嘩売ろうがパンツ脱ごうが、俺は気を悪くしこそすれ、このスタンスは変えないと……」
「脱がねーよボケ!」目尻を染めて奈緒が怒鳴る。「なんでいちいちオチつけんだアンタ! 最後まで真面目にしゃべれクズ!」
「玖我と同じこと言うなよ。それになんか照れるだろ、中学生にこんな少女漫画のつっけんどんなヒーローっぽい台詞……。うわあ気持ち悪い。おまえどうしてくれんだよ!」
「なんで逆ギレしてんの!?」
「うるせー!」高村もまた語気荒く反駁した。ドアを開けて降りる。霧雨が肩口を濡らす。そのまま表から後部座席を開け放ち、腰を引こうとする奈緒の首をつかむ。「いいからお見舞い行って来い! 俺はこれから密談があるんだよ! それでも行きたくなかったら霊安室前のベンチでひたすらうなだれて泣き真似しながらナンパ待ちでもしてろバーカ!」
「ええー!? なにその無茶振り!」

 そのままうっちゃった。空中で一回転しつつ危なげなく路面に着地する奈緒を置いて、高村は再び運転席に飛び乗る。エンジンの点いたままの車体は、アクセルを踏むと滑らかに走り出した。

 サイドミラーの奈緒は、途方に暮れたようにその場に立ち尽くして、雨に濡れていた。


  ※


 二ヶ月振りの院内は、やはりいつも通り森閑としていた。一般病棟と重篤患者のそれを分かつ、不自然なまでの静謐がある。廃墟を思わせるこの重く沈んで澱んだ空気が、奈緒は嫌いではなかった。
 受付も介さず足を踏み入れて、真直ぐに目当ての病室へと向かう。平日の昼日中、病棟を私服で歩く奈緒に、すれ違う看護婦が若干怪訝な眼を向け、会釈をよこした。奈緒は顎先だけで応え、やがて目的地へたどり着く。
 重たい遣戸越しに、クリーム色の照明が漏れている。奈緒は緊張とは別種の感覚に襲われ立ち尽くした。伸びかけた手が拳をつくる。ジョン・スミスの警句を思い出し忙しなく眼を左右に走らせたのは、警戒ではなく時間稼ぎのためだった。実際、高村が危惧したような脅威は、今のところ見当たらない。
 とても、静かだった。
 奈緒は慎重に扉へ触れる。
 最近では病室に名札が貼られることは少なくなった。この病院でも例に漏れず、だからもし患者が移動していた場合、改めて来院受付を通す必要がある。しかし奈緒の見舞いのあて先には、そんな心配は無用だった。

「……」

 踏み入れた先には、ただ現実が置かれている。
 物言わぬ女性は横たわっている。いくつもの管を体から生やし、栄養剤の点滴で生かされ、肌は青白く、ところどころ黄味がかってさえいる。見えない背中にはひどい床ずれがあることを奈緒は知っている。電子音と呼吸音が生命が発する生存証明で、今の奈緒は、その痛々しさも、見慣れた光景としてしか捉えられなかった。
 病室には生活感がない。かつては足しげく通っていたのであろう病室の主の親類も、昏睡状態が数年に及べば、常時詰めているというわけにもいかないだろう。その意味で奈緒は誰を咎める気もなかった。
 高村に連れてこられなくとも、以前まで、月に三度は病院を見舞っていた。その足が遠のいた理由を考えようとして、止める。オーファンの存在を危ぶんだことや、異能に酔いしれていたこと、いずれも理由には当てはまる。ただ本当のところは、奈緒の行為に殊勝な意味などなかった。緘黙した女性――母を、奈緒はただ遠ざけた。それだけのことなのだ。本当にごくたまに、生物的な痙攣として、目覚めない母はまぶたを薄く開け、閉じ、また身じろぎし、容態を急変させる。昏睡という状態が文字通りの完全な眠りではないと思い知らされたのはずいぶん前のことで、ただの反射に恢復の予兆を見出しては落胆することも、奈緒が中学に進む前に止めた。 
 病室の母に、美しい思い出など何一つない。追憶すら拒むほど苦々しく、毒に満ちている。だから奈緒は、この眠る物体に、つとめて感情を持たないようにしていた。大きく固く冷たい容器を用意して、厳重に封鎖し、さして深くもない胸裏の底に放置した。夜明け前に一瞬だけまどろみ、見るイメージがそんな具合だった。奈緒は硬質の寝台に横たわる自分そっくりの少女の腹を割くと、いきものを麻酔にかけて解剖するような気持ちで、疵口から内臓をつまみあげ、観察し、その臭気と毒々しい色合いに顔をしかめる。あるいは息を詰めるほど美しく、触れがたい宝石が、時おり痛んだ臓器からまろびだし、ひたすら怖気に駆り立てられる。それほどにわかりやすく感情が換喩されるのは、それだけ何度もくりかえし思考が及んだ領域だからだ。奈緒は自らが飼う怪物にある程度自覚的だった。生来機微に聡い彼女を悪意に走らせる根源がそこにあることも理解していた。
 病室の母を訪うたびに、これが死なのだろうなと、奈緒は意識させられる。反応せず、返答せず、自発せず、生存だけをしている。他のすべてをはぎとられて、緩慢にいつ来るともしれない結末の汀に遊んでいる。やがて隣人は突きつけられる絶望を受け入れ、馴化して、忘却の手続きを踏む。今では、誰もが母の死を予期している。奈緒も例外ではない。期待と諦観は並立する。手が届かない場所にあるものに明け渡すしかないときに、人は歩みを止めるのだ。
 それだけの、まっさらな、営みだ。
 感情を排他して、心安らかに、母は眠っているのだろうかと奈緒は思う。それとも苦しんでいるのだろうか。あるいは何もないのだろうか。
 奈緒はエレメントを具現化する。命を容易に刈り取る凶器を右手にたずさえ、穏やかに語りかける。

「ママ、ママ。まだ生きてたいですか?」

 母と母であったものの中間にいる女性は、何も奈緒に返さない。意識と眼を凝らして傾注する奈緒にも、何ら意思の発露は認められない。生きたいとも死にたいとも、母は思っていない。生かしたいとも殺したいとも、奈緒には思えない。
 エレメントを消して、奈緒は踵を返す。
 誰にも会わないまま、病院を出た。駐車場に通じる裏口から、いまだ雨もよりの天を仰ぐ。

「……つか、お金ないんだった」

 新しい携帯電話は与えられていた、アドレス帳にはまだ高村恭司の名前しかない。こちらから連絡を取るつもりは毛頭ない奈緒は、あっさりそのデータを消去した。陰湿な達成感があった。同時に、この端末につなぎをつけるものがいるとすれば高村以外にはないのだという自嘲が、感慨に水を差した。あの男を待つ必要はないし、チャイルドを用いるか、あるいは恐喝を働けば学園に帰ることは難しくない。だが雨に濡れてまで向かう場所を、奈緒は持たなかった。
 庇の下で、雨どいから落ちる水に眼を向ける。タイルに広がり、アスファルトを群青にけぶらせる液体は、ひたすらに生ぬるい。足をそろえて腰を落とすと、突然、視界がかげった。

「……?」

 茫洋と顔を上げる。

「こんにちは。……結城さん」

 幾度となく奈緒に説教をした女が、傘を広げてそこにいた。常の尼僧服ではない、落ち着いた夏の装いだが間違いない。驚きに眼をみはり、驚愕を即座に緊張と警戒へ転化して、奈緒は忙しなく立ち上がる。

「なんでアンタがここにいる?」
「あなたとお話がしたかったの」真田紫子が、泣き黒子のある目元を柔らかく細めて言った。「わたしもあなたと同じだから」
「……どこの神サマの電波受信してんの?」

 軽口を叩き、二歩下がる。如実に広げた距離に悲しむそぶりも見せず、紫子は口を引き締めた。

「わたしもHiMEなの。結城さん」と、紫子がいった。「すこし、歩きましょう?」


  ※


 奈緒とわかれてすぐに、高村は病院の外周を車で流した。同居人からの連絡で、風華の自宅にすでに監視が入ったことは知っている。だから一番地ないしシアーズ本隊からの接触を当て込んだのだが、結局どちらも空振りに終わった。本来ならいてしかるべき連絡員の姿も見当たらない。単に高村が見落としているだけという可能性も高いが、彼の心情はスミスのブラフを受け入れたがっている。

「まあ、考えても埒があかないか」

 どう解釈したところで、独力で解決できる問題ではない。そもそも危機回避能力自体は、奈緒のほうが高村の何倍も高いのだ。
 嘆息を交えつつ、高村は『密談相手』に連絡を取った。まだ待ち合わせまでには間があるが、存外近くにやって来ているらしい。慌てて近場の有料駐車場に停車すると、準備を整えることに専心した。
 ダッシュボードから小ぶりな医療キットを取り出し、ミネラルウォーターで各種タブレットを計三十錠嚥下する。ついで手早く左の二の腕にバンドを巻くと、新品の注射器を開封し、針を取り付けアンプルから薬品を吸い上げた。傍目にはどう見たって薬物中毒だとうそぶきながら、高村は迷いなく血管を探り当てる。関節部は、目立たないながらも注射痕でやや変色し、皮膚が硬質化していた。

 薬剤が血流を巡る実感がなくとも覚醒効果はすぐさま表れる。瞑目して二分で高村は全能感に包まれる。世界の果てを見渡せるようになる。無闇な力が内奥から湧きあがる。思考が加速作用を起こす。混沌そのものの単語が口からあふれ出る。時系列を砕かれた場景が眼球の表面を慌しく飛びかう。氷塊が内耳の奥から小脳へ突き進む。冴え冴えとした痛覚が針状となって視床下部を捉える。limbiqueをパペッツ・モデルになぞらえられた電流が帯状に走り抜けた。小さな小さな意を持つ粒子が穴だらけの情動を補填しようと悪戦苦闘する。
 M.I.Y.U.が作動する。意思に反応して点滅するエーテル素子が、確率変異を起こしながら高村恭司という記号にいくつかの新規コードを上書きしていく。注入された高次物質エーテル群は情動サーキット網を掌握すると、抑制性細胞を強制的に発火させる。辺縁皮質上に存在する帯状回(認識)と眼窩前頭皮質(決定)が瞬間的に麻痺させられて、つかぬま、高村恭司は廃人であった時代に戻る。エーテル素子がその時点での記憶と意識に結節され、扁桃体・乳頭体に干渉する。
 高村は須臾のまにまで、擬似的な過去遡及を体験する。数千倍に加速された偽時間感覚において、M.I.Y.Uに入力された経験が幾度となく再演される。高村はほどなく記録を己がものとしてしまう。しかしそれは感情やエピソードを伴わない学習だ。彼はただのオルガンとなって音譜をなぞっていく。十二分に不快な状況に高村の意識とその深層に眠る獣とその獣を飼いならす少女はいたく気分を害するが、九条むつみが手ずから《高村恭司》の銘辞に埋設した器物が覚醒を徹底的に許さない。それどころか側坐核を介さないまま、脳内報酬系へと化学物質の分泌を要請しさえする。その命令は簡単に実行されて、高村は満足する。高村と彼を構成するそれ以外の意識に解離が生じ、高村恭司は浮上する。……
 火花が、鼻梁の根元で大量に破裂する。火薬の匂いが満腔に盈ち、虧ける。
 感慨は皆無だ。高村はこの異質な絶頂を完全に統御している。だから中毒にはならない。
 意思ではなく、器械が彼にそれを許している。それは克己による達成と何ら差異はない。

 数分の行為だった。
 四十度近くにまで上昇した体温を感じながら、高村は青息吐息だ。見れば右手のドアに拳大のへこみが生じており、治ったばかりの右手の皮膚が裂けて赤い血を流している。強張る拳を広げてみれば、粉々に砕けたシリンダーの破片が掌中に突き刺さっていた。足もとに落ちた使用済みの針を回収し、こんこんと流血する鮮やかな液体を舌で舐め取りながら、高村は降車した。
 地面に足をついた瞬間、上下と自他の区別が曖昧になった。服薬後にはままある症状で、副作用というのもはばかれるほど些細なものである。と、高村は思っている。
 彼はうつろに、天を仰ぐ。度のないレンズ越しに雨の軌跡を二百近く捉えて、これが針ならばおれはすぐ死ぬ死ぬ死ぬなと、ほとんど平常の声音でいった。

「あそこか」

 と、四十メートルというほとんど耳元に近い距離で誰かが大声を出した。ここで顔をしかめる高村ではない。なぜならば来訪者は待ち人である。
 長身に眼鏡のたたずまいに、暗色の傘を連ねた姿は、どことなく高村自身を連想させる。人を無条件に油断させる穏和な雰囲気も近い。ただし彼のそれは高村の物腰よりも遥かに洗練されている。針金を立てたように伸びた背が、高村の視線と直角に交わった。
 おぼつかない足取りで、高村は待ち人へ歩み寄っていく。なるだけ陽気に振舞った。

「ご足労ありがとうございます、石上先生」
「いえいえ」と風華学園美術教諭であり一番地の構成員でもある石上亘は微笑む。「お元気そうで何よりです。昨日もご活躍だったようで、頭が下がりますね」
「ええまあ。先日はどうも」高村はきわめて朗らかに笑う。「おかげでようやく怪我も治ってきましたよ」
「誤解なさらないでいただきたいのですが」石上は眉を下げる。「一昨日の件については、決して高村先生を標的にしたものではないこと明言させていただきたい。貴方については静観するようにと、上からのお達しもありまして」
「いやいやそっちじゃないですよ石上先生!」高村はいった。今はもうギプスのない腕を示した。「俺が言ったのはこっちのことです。そ知らぬふりってあんまりじゃあないですか? さびしいなあ! ねえそうでしょう。そういえば今日は刀は持ってないんですか?」

 緩やかに雨が落ちてくる。その向こうで、虚飾の微笑が張り付いた面がかすかにこぼれる。細い双眸からのぞけたのは蛇の目のそれだ。
 高村の知覚が押し拡がる。全身の毛穴が開く感覚とともに、駐車場の出入り口にある石塀の陰、左斜め後ろに停車する乗用車の背後、車道の向こうで自然体を装ってたたずむ人影と、計七つの関係注察を感得した。
 相手が単身乗り込んでくると考えるほど高村も暢気ではない。九条むつみの差配で、こちら側も高村に知れぬ形で人員は配置されているだろう。気配の発する警戒心のベクトルにまで観察を及ぼせば、なるほど全てが全て石上に属するものではないようにも思えた。
 問題はこの感覚が錯覚や追尾妄想と区別できないことだが、高村は頓着しなかった。払える気は全て払うだけだ。ユニットを敷設されてからの高村は一度もその種の警戒を怠ったことはない。
 受容体が貪欲に稼動する。あらゆる情報体を咀嚼し、峻別する。左足薬指の裏が踏む小石の形状さえ三次元的に把握しながら、高村は石上に笑いかけた。

「――月杜の辻斬りさん?」
「なんだ、気づいてたんですか」と石上亘は言う。






[2120] ワルキューレの午睡・第三部三節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609
Date: 2008/11/15 07:16





 記憶も記録もくしけずられる。さほどの時間を遡らなくとも、今となっては当人以外の誰もが忘却した日々があった。十年以上むかし、青年は少年だった。彼は神童であり、地縁で結びついた偏狭な共同体で、長らく誕生を待たれた出色の寵児と目された。実際に彼がそれほどの傑物だったのかどうかは、当時それほど問題ではなかった。時宜というものがあったのである。暗がりの木陰にたたずむ闇がしばしば妖しく映るように、彼という少年は誰もが望んだ塑像に押し込まれた。何しろ期待があった。待望の三百年紀だった。そこで選ばれた血筋から彼はすんなり現れ出でた。
 誰もが確信したのだ。
 彼は〝黒曜の君〟であると。
 物心を得て頭角を現し始めると、彼は元いた家から養子に出された。代々の長を襲名するその家に入ることこそ誉れであり、彼がゆくゆくは〝黒曜の君〟と成りうる証左だ。親類縁者はこぞって彼に高度な教育をほどこした。いと高き人がそうであるように、少年は私的な全てを抹消された。元の家族、元の記録、元の好悪、元の関係。いずれもただの思い出となった。やがて思い出ですらなくなった。記憶は削除されたのだ。
 〝黒曜の君〟とは神の名代だった。その階梯をのぼらされる少年は、だから全能へ至るために万能であらねばならない。世界が丸ごと様変わりするほどの積年、その妄執を彼はその身ひとつで受け止めた。つまり――
 少年は万能の人間を目指された。
 求められたのは全てだ。あらゆる人間的な瑕疵は否定された。個性というものが欠落で、人格がその集合体であるならば、人間とはくまなく凹凸に飾られた球体である。それがない人間とは、真球の存在に他ならない。完全で巨大な球体が少年の目指すべき地点だった。もちろん全員が狂っていた。完璧とは幻想上の産物でしかない。重力と大気に満ちた地上でいっさい歪みのない球形を目指すならば、現実を拒む以外に処方はなかった。大前提に狂気があったのだ。だから全員躊躇なく狂った。少年も満遍なく狂った。
 そして失敗した。
 当然の帰結である。少年は空手徒歩で現実の最果てから狂気の海へ飛び込んだ。圧力は彼をあっさり潰した。原型が失われるほど拉げてしまった彼を見て、周囲の人間は失望と困惑を浮かべながらも、自分らの過ちをようやく、薄々と、認めた。誰も少年を責めはしなかった。少年は何しろ〝黒曜の君〟となるべき人材である。その不興を買うわけにはいかない。
 以来少年は、最低限欠くべからざる義務だけを履行すればよいだけとなった。すでに飽和し心を砕かれていた彼は、日がな与えられるだけの存在と成り果てた。かつてあったかも知れない野心、復讐心、向上心、それら一切はばらばらに砕かれて、かろうじて在りし日の面影を残す残骸がこころにまばらに落ちている。彼はそれを見つめる日々を送った。
 やがて肉が与えられた。
 高次物質存在と呼ばれるものの血肉である。
 〝黒曜の君〟は、それを啖べなくてはならない。黄泉戸喫と呼ばれる儀式であり、生得の舞巫女ではない男児が〝黒曜の君〟となるには、必ずせねばならぬ通過儀礼であった。なぜならば彼らの長は人ではない。むしろ神に近い。人の身で神となるからには、血も肉も心も魂も刷新されねばならない。それによって強い力と強烈な呪力を、人は得ることができる。捕食とはもっとも単純な存在の強化法である。単純で、そして根本的なのだ。人より上たらんと欲するのであれば、人以上の存在を食わねばならない。王化の法から逃れでて、少年もまた化外の住人となることを要求された。
 換骨し、奪胎するにひとしい外法である。当然のように行為には苦しみがつきまとう。もっとも、死ぬものはいない。それが原因で不具となるようなこともない。直接精神を害されるわけでもない。
 ただし、永遠に消えない痛みを孕む。
 眠りも安らぎも、彼からそれを取り除くことはできない。それは不意にやってくる。骨身が腐り、爪が剥がれ、筋が分解され、歯神経が酸にひたる。その種の痛みが場所と時を問わず宿主を冒しつづける。耐えることは難しくない。ただし、途方もない時間を耐え続けなくてはならない。そして肉は常に喫し続けていかなくては意味が失せる。
 千年も前から、代々の長はその地獄を越えてきた。一番地と呼称される集団の長、三人の老婆が齢二百を越えてなお健在であるのも、血肉を喫したためである。
 当然、〝黒曜の君〟はこの責め苦に耐える。やすやすと乗り越える。痛みを感じるとも決して漏出させず、王者の振る舞いで臣下を睥睨する。そうでなくてはならない。少年がこの期待に応えることを、やはり、誰もが疑わなかった。残骸を見つめていた少年もまた、その気になった。

 そして、やはり、駄目だった。

 少年は失敗した。
 不要と断ぜられた。
 烙印を押されたのだ。
 少年は養子に出された家を、放逐された。元の家には戻されなかった。どことも知れない平凡な家柄に堕した。衆愚に伍するを良しとせず、などという観念さえ持ち得なかった彼は、ただひたすら、流されるままだった。拗ねることも嫉むこともなかった。選民的な思想など彼には育つ余地もなかった。彼は常に一人だったからだ。優越感など持っていなかった。唯一の座標だけが提示され続け、彼は漠然とそれが決して届かぬ極みであることを悟りつつ、鈍く歩みを進めていたからだ。
 それも全て徒労に変わった。いや、最初から徒労でしかなかったし、少年も実はそれを理解していた。ただ、思ったよりもずいぶんと早い結末に、拍子抜けした気分があった。
 いったいだれが、と彼は呆然と考え続けていた。

 あんなものに耐えられるっていうんだ?
 カミサマになるって、なんだ?
 それは人がすることか?
 していいことなのか?
 するべきことなのか?
 どんな人間が、あんな、矛盾した思想の刷り込みに応え切れるというんだ?

 そんなものはいるはずがない、と彼は結論付けた。
 挫折は始めから運命付けられていた。王座は空位でありつづける。長い、本当に永い不遇と圧迫が、一番地の思想を偏向し、変質させてしまったのだ。
 集団の大望はヒステリー化してありもしない偶像をつくりあげた。彼らは永遠に、決して現れない救世主を待ち続けるのだ。少年の域からは脱しつつあった彼は、むしろ哀れみに近い感興を抱いた。それがたとえ自分の心を守るための心理であったとしても、胸中にはかすかな、しかし確かな未練があったとしても、そう感じたのは事実だった。

「永遠にそこで待てばいい。朽ちてしまうまで」彼は言葉を捨てた。「あなたがたが思う聖者など永遠に現れないんだ。それは芸術の極点にひとしい存在なんだ。かつての〝君〟だとて、それほどのものであったはずがない。なぜなら、結局何度の蝕を越えても世界は存続しているからだ。連続性を保っているからだ。この不完全な世界を、神が本当に全能なら許容するか? そんな神は、誤謬を認めない不完全者でしかない。巨大な力を持っただけの人間でしかない。八百万もいるうちの一柱でしかない。あなたがたも本当は気づいているはずだろう! 失われたミロクが真実万能の神器だとしたのならば、そもそも失われるはずなどなかったのだと! 弥勒は利器に過ぎず、黒曜は星を模した石でしかない。……どうして気づかないんだ。僕だからだめじゃなかったんだ。僕たちは最初から間違えていたんだ! 僕は……もう止める。言われるまでもなく降りてやる。僕は絵を描く。この不完全な世界で美しいものを探す。それを描くんだ。どうだ、あなたたちには、こんな真似はできないだろう! 僕は絵を描くんだ。ほんとうにきれいなものを、描き出してやるんだ! ……あなたがたは、そこで待っていればいい。ゴドーはいつまでもやって来ない。さようなら。腐ってしまえ」


  ※


 だが、〝黒曜の君〟は、現れた。
 誰もが望んだかたちで。
 彼がかつてそうあろうとしたかたちで。

「しょうがないことなんですよ」〝黒曜の君〟は彼に向かって言った。「あなたはただ劣っていただけだ。世界は劣勢を咎めない。ただ淘汰するだけだ。そこは居心地がいいでしょう? 低く暗く湿っていて心地よいでしょう? 天蓋からのぞける濁った陽射しの温かみに落ち着いてしまうのでしょう? ならばあなたは自分の居場所とやらを見つけたんでしょうね。うらやましいことです。正直、僕はこの玉座さえ、物足りなく思えるのだから」

 裂いたイーゼルが目前にあった。少年と言うのも差し支えるほど幼い主君を前にして、彼は呟いた。

「いま、あなたは、僕を討つべきだ」
「へえ?」
「でなければ、いずれ僕はおまえを否定しに行くだろうから」
「ああ、それはいいな。楽しみにしていますよ」〝黒曜の君〟は美しく笑う。絵に留めたいほどに綺麗に。「世界は簡単すぎる。僕は敵がほしい。だからあなたは悪意を撒いてください。毒を盛ってください。それでも駄目なら剣を向けてください」
「大物ぶるなよ、ガキが」いつしか、彼の心には感情が生じていた。純粋ではなく、空虚でもない。卑近で醜い、劣情と呼ぶべき焔が燃えていた。「簡単だって? 君がこの世の何を知っているっていうんだ。君はただ優秀なだけだ。本当にただ、それだけだ。哀れだよ。心から哀れだ」
「僕も同感ですよ。僕は本当に優秀すぎます。それに確かに、とてもかわいそうなんだ。わかってるじゃないですか。だから同情してくださいよ、そうやって妬まれるのでもなんでもいいんですよ。僕はあなたにちっとも関心はないけれど、そんなあなたも、僕を無視することができないわけだ。これは、すごく、いい気分だなあ」〝黒曜の君〟はいった。「だいたい、僕が大きく見えるなら、それは僕が装ってるからじゃない。あなたが小さすぎるだけですよ。――凪、彼には手を出すなよ。好きにさせておけばいい」
「はいはい、了解マスター」どこからともなく声がした。「物好きだねえ。陰湿ー」
「後悔させてやるぞ」

 内にこもるような宣告だった。
 事実それは、彼自身に向いた台詞でもあった。

「……後悔させてやる! 人は、そんなものには、なれないんだよ!」
「生まれつきそうだっただけですよ」

 それほど昔のことではない。

「このくらいで、言いたいことは全部ですか? なんだ、案外とつまらなかったな。あなた結局、芸術だなんて言って、のめりこむこともできてないじゃないですか」

 ただし、もう彼以外、誰も覚えていない。
 そんなことが、あった。




 2.レティセント(沈黙)




『石上が高村に接触しました』
「そう、あの子が来たの。……なるほどね」雑音を交えて少女の声を伝えるスピーカを受けて、九条むつみは口元のマイクへ短く返す。「では状況を始めます。結城さんのほうはどう?」
『そちらには真田紫子がいるそうです。対象は病院施設内を遊歩しています。会話の内容からして、真田は結城の勧誘の任を負っているようです。確保しますか』
「放置でいいわ。あの子じゃどうせ何も知らないでしょうし、無駄に損害を受けて終わりだろうから」潔癖の同僚であった少女の顔を思い浮かべながら、むつみは即答した。「当面そちらは監視だけを続行しなさい。顕著な戦闘行為、ないしその前兆があると判断した場合のみ指揮所に回して。もし結城さんが恭順の素振りを見せても、強いて奪回や説得の必要を本部は認めていません。これは戦闘の帰趨についても同様よ。彼女の進退そのものに、我々は無関係でいること。いいかしら?」
『了解』

 返答に頷きながらも、むつみはひっきりなしに手を動かしている。彼女は三方をモニタとインタフェースに囲われた、二畳半ほどの個室にいた。左側面には高村恭司と石上亘の密会を望遠で捉えたリアルタイムの画像が映し出されている。同様にして正面には倉内和也の遺体が鳥瞰されており、右面は九千キロ離れた北アメリカ西海岸部に属する都市の映像を中継していた。

「高村くんのほうは、記録できている?」
『画像は御覧のとおりです。音声は、かろうじて』
「繋げられる?」
『少々お待ちください。……どうぞ。回線はE2です』

 一時会話を切断し、むつみが耳を澄ますと同時に、安くない集音機が捉えた音の洪水がスピーカから流れ出した。といっても情報の大半は雨音に塗りつぶされている。記録はしているので後でノイズをキャンセルすれば問題なく内容は把握できるとはいえ、いまはむつみの好奇心が勝った。意識して聴覚をそばだてる。高村には発信機と盗聴機が外科的に埋設されているため、一方の声だけならばクリアに拾って補正することはできた。

『気づ……ですか』雑音を縫って、石上の声がする。教会でも幾度か聞いた、穏和で耳心地の良い低音だった。
『実のところ、割と早い内に気づいてましたよ』と高村。『第一の証人は楯です。あいつ実はその月杜の人斬りだか辻斬りだか言う失笑ものの怪人の被害に遭ってるんですよ、一度。つまり実際の犯人を見たことがあるわけで、それは一年前の話だったそうですが、まあ要するに身体的特徴が記憶と合致しなかったというわけです』
『……れだけ……か?』
『それはどちらかというと傍証のひとつですね。というか、これだけじゃ辻斬りとかいう気狂いが複数人いるってことしかわからないですよ。むしろ他の身長とか体重とか、俺が打った腹をかばう動きとか知り合いが患部の熱探知やったとか、あの日足取りのつかめなかった風華学園関係者だとか、そういう枝葉末節の集合が大きいかな。でも一番の決め手は普通に物的証拠、指紋です』
『指紋?』雨脚が弱まったのか、トーンが上がったのか、石上のその台詞だけが鮮明に浮いた。
『指紋』と高村は答えた。『つまんない種明かしで悪いですけどね、あのときあんた美袋の剣を振ったでしょう。さすがに指先を覆ってあの剣豪っぷりは無理でしたか、やっぱり。でまあ、今日び指紋取るくらい小学生でもできますからね。問題はその同定だけなんですけど、まさか警察に持っていくわけにもいかないし、と思ったら、偶然! 俺の生徒に目視で指紋の確認ができるという稀有な特技を持っているやつがいました。あ、すごい怪訝な顔していますが本当ですよ。プライヴァシーを考慮して実名を伏せてM・Gとしますけど、いやまあご存知の通り深優・グリーアなんですけど、こいつにお願いしたら3秒で先生の名前を挙げてくれました』

「また深優にそういう変なスペックの無駄遣いを……」一応末端ながら開発に携わった研究者として、むつみの口から慨嘆が漏れた。「先月、高村君が刺されたときの話か……。それにしても、彼が通り魔、のニセモノとはまた、……くだらなくなってきたわね」

 呟いて、雨中の会話から興味を失った。回線を戻して哨戒に当たっている少女へ話しかける。

「状況はどう? 相変わらず実働の規模は小さいままかしら」
『肯定です。とはいえ周辺警戒に当たっているチームは錬度が高いように見えます。また、指揮車に類する拠点が発見できません。石上本人が使った足はただの乗用車のようですが』
「そう、なら確定ね。今回の件に一番地本隊は関与していないみたい」むつみはうっすらと微笑んだ。「『会談』の運びがどうあれ、石上亘の切れるカードの底が見えたわ。とりあえず現状は映像と音声の収集に専念してください。素材が集まり次第編集して、いつでも切れるようにしておいて。二日前の襲撃の件と合わせてね」
『了解。……石上との交渉には用いないのですか?』
「それはむしろあちらが望んでいることでしょう。実際、あのタイミングなら深優はともかくアリッサをそのまま逃がしたのは不自然だわ。まあ、あちらはあちらでどれくらいコンセンサスが取れてるかわからないから予断は禁物だけれど、その件で高村くんに対して一つ貸しをつくったと考えれば、この周りをはばかる接触の目的も見えてくる。叛意……とまでは行かないかもしれないけど、シアーズに独自のパイプを通しておきたいのかもしれない。今となってはかなり了見違いだけど、それを正してあげる義理はないしね。向こうの要求があったとして、せいぜい悪化しつつある高村くんの身柄の擁護と引き換えに、頭越しにわたしへの交渉材料を呈示するていどでしょう。それならば、こちらも応じる用意がないわけじゃない。遠慮なく利用させてもらいましょう」
『であれば、高村が口外する危険性は検討しなくてよいのでしょうか』
「大丈夫よ。彼にはわたしたちのバックについてはほとんど何も教えていないし、気づいているとすればせいぜいわたしが組織だって動いているってことくらいかしら。教えたところで余計な気を回させるだけだし、それなら自由にさせておいたほうがいいわ」
『では、石上がそのことに感づいた場合、面倒なことになります』
「さあ、どうかしら。高村くんもそこまで間が抜けているとは思いたくないけど……、どう転ぶにせよ、もうちょっと強かに立ち回ってもらわなくちゃね。それにどうも彼、石上先生は、独断で動いている公算が高いわ。シスター紫子……ワルキューレを独自に囲っているようだしね。それは一番地のシステム運営に反した行いなの。非合理ではあるけれど、あそこはそういうことを大事にする場所なのよ。だから彼個人との交渉には価値はほとんどないわ。とにかく一番地本部につなぎを取れれば構わない。さて、高村くんのほうは膠着しているようだから、その間に続きを進めましょう。あの調子なら穏便に進むでしょうし」

 言って、むつみは和也の遺体に医学と科学と形而上の三面でアプローチを試みているチームに指示を下した。昨夜強奪した現状唯一の停止した『媒体』への実験は、夜通しで行われている。現在のところ、蘇生治療、投薬、高次物質による干渉などあらゆる手段を用いての試みはことごとく失敗に終わっていた。倉内和也の心臓は停止しており、脳波も同様にフラットな線を引き続けている。

「高次物質化エーテルの投入でも反応はなし。生物的には完全に死亡か」

 汚物を吐き出すような心地でむつみはひとりごちる。頭痛と疲労と不快感は際限知らずに彼女を責めさいなんでいたが、何一つ行為を止めるつもりはなかった。必要な以上彼女はやる。幸い倫理観を無視することにも、その揺り返しに苦しむことにも、彼女は慣れていた。好奇心を充たす高揚と罪悪感による希死念慮は、むつみにとってもはや十年以上付き合った隣人である。
 そして現実としてわたしは今も生きている、と彼女は思う。ならばこの後悔は結局免罪符でありその辛酸を余さず味わう義務が自分にはある。そう硬く信仰している。

「問題は、彼が『いつ死んだか』」疑問すると同時に思考は数十の回答を提示している。指先はほぼ自動的に駆動し、ディスプレイに十行ほどの結論をタイプした。

 ワルキューレとチャイルドの存在にも増して非合理なのが媒介の存在である。現状システムを円滑に進める人質以外の何物でもない彼らが、強制的に儀式へ組み込まれている状態にはいくつかの不自然さが見受けられる。
 つまり、思想が近代的過ぎる。
 神話の御世から続く慣習にしては、あまりにセンチメンタルだった。
 人質という概念自体は旧態依然としたものだ。だがその取捨選択が現代性を帯びている。かつて、むつみを始めとしたシアーズ財団に籍を置く技術者たちは、こぞってその矛盾を指摘した。そうすることがHiMEの力を強固にする、とむつみと同じように一番地から引き抜かれた、ある男は言った。だがむつみも在外の人々も、そんな弁には到底納得し得なかった。『想いの強弱』という測定のしようもない方法で『唯一の人間』を選択するのは誰なのか? 宿主の識閾下が行うのならば、その決定のタイミングが問題となる。チャイルドを従えた瞬間なのか、あるいは、産まれたときから、ワルキューレは最愛の人間を呪いながら生きているのか。むつみの考えではこれは否だった。
 単に因子を持つ候補者だけならば、シアーズが把握しているだけで千は下らないほどにいる。実際にチャイルドと契約する少女とそれ以外の候補者たちには、厳然たる差異がある。
 現時点で、本当の意味でチャイルドを失い想い人を失ったワルキューレは日暮あかねただ一人である。倉内和也の身柄だけはすんでで押さえたものの、むつみの陣容ではあかね本人には手の出しようがない。それ以前に恋人を失い喪神した少女を前に自分がどの程度科学者でいられるかの見当も、彼女にはつかなかった。

「歳ね」

 意識的に軽飄にうそぶいてみる。ところがそれは逆効果で、思考と身体に募る疲労はその自覚がまったく正当なものであると訴えていた。集中力が切れた瞬間にせき止めていた様々なものが溢れ、深く腰掛けた椅子と体幹と内臓が混ざり合うような錯覚を起こした。視力もかなり落ちている。

「高村くんの用件が済んだら、さすがに仮眠しないとね。ほんと、いやだわ、時間って」

 誰にとも向けていない発話が増えたのも、端的な睡眠不足の症状だった。いまベッドとアルコールを与えられたら、そのまま二度と立ち上がれなくなる自信がある。別室で待機する部下にコーヒーを頼もうとしたところで、ホットラインの一つに着信があった。

『九条!』
「やおら人の名前を呼びつけなんて、あなたらしくもないわね」疲れを微塵もにじませぬよう腐心して、むつみはいった。「まあ、それを言うならあなたがわたしに直接連絡を取るというのもたいがいだけれど」
『無駄話をする気はない。今どこにいる?』硬質な声は、明快に相手の状況を教えていた。
「ずいぶんせっかちじゃない。余裕ぶった話し方を貫くのが趣味なのかと思っていたのに」
『今、どこにいるんだ』焦燥に怒気が混じって、むつみの耳朶を打った。
「答えるわけがないでしょう。自分で把握すればいいのよ」むつみは幼子に言い聞かせるようにいった。「シアーズ極東方面管理責任者さん」
『その名はもう形骸だ』不意に、糸が切れるように男の声色から角が落ちた。『二人めのアリッサ・シアーズを名乗る娘が来日しているのは知っているな。昨夜零時付けで、そいつが今後プロジェクトを仕切るとさ。何の冗談か知らんが会長はあの人形に本気でご執心らしい。悪夢を通り越して喜劇だよこれは。どうせ君が一枚噛んでいるんだろう?』
「そこはイエスでもありノーでもあるわね。でもそれならべつにあなたが更迭されるってわけでもないでしょう。追われる身としてはその点だけでもうらやましいわ」

 むつみは内心驚嘆していた。予期していた一手ではあるが、投入の時期が一ヶ月以上早い。通話を続けつつ、手振りで部下を呼びつけると、この誤算が及ぼすスケジュールの組み換えを目まぐるしく計算し始めた。

『馬鹿にしているのか。私への処置も事実上の軟禁だ。信頼できる部下は全て遠ざけられた。身動きなど一切取れん。この連絡も、最初で最後になるだろう。今は機械人形が身を固めている。おまけに――おまけにだ、九条! あの娘がこの国に何を持ち込もうとしているか、知っているか?』
「私兵でしょ」
『軍隊だ! 艦船を領海に招くんだとさ! 大真面目にだぞ?』男は乾いた笑声を弾けさせた。『教えてくれよ九条。会長は狂ったのか? 日本人のガキどもがふけってる戦争のごっこ遊びに本腰をいれようとしているらしい。あの老人の頭からは政治も経済も吹っ飛んでしまったのか?』
「さあ」むつみは冷然と告げた。「あなたも知っての通り、わたしは今や反会長派の走狗です。殿上人の思惑だなんて、とてもとても」
『では君は何を知ってる?』
「あなたはわたしのことが嫌いだと思ってたけど」
『嫌いに決まっている。君がそうであるように私は君が嫌いだ。WASPだなんだと脳が硬質化したような意味で言っているのではない。本当の意味で君を慕う者などシアーズにはいないよ。我々は矜持と研鑽と能力を持って、それぞれの務めをまっとうせんと励んでいる。銀の匙をくわえて産まれたものもいるさ。逆に泥水を啜って生きてきたやつもいる。きれいごとも汚いものも含めて、皆、手ごわいコンペティターだったさ。だが君はどうだ? 君が何をした? 研究者ふぜいが、妙なオカルト技術を引っさげて、鳴り物入りでデビューだ。おまけに会長に遺伝子を提供したと思ったらとんとん拍子に出世だ。領分を侵し、政治に顔を突っ込み、知らん顔で私の視界に入ってきた東洋人の女。これで好けというほうが無理だ。おまけに若作りで美人というのが気に入らない!』
「……ああごめんなさい、ちょっと耳を離してたわ。もう一回いってくれる?」
『そういうところが嫌いだと言ったんだ!』
「というかあなた、もしかしてわたしを口説こうとして失敗したことを根に持っていたの? ちなみにわたしは、別にこれといった理由とかはなくて、ただ顔とか声とか思考回路が生理的に受け付けないからなんだけど」
『地獄に落ちろ』
「そのうちね」むつみは軽やかに応じた。「で、用件は恨み言で終わりかしら。もうこうして話すこともないでしょうね。最近じゃいちばんのニュースだわ」

 会話を断とうとしたすんでで、制止がかかった。

『待て。私もそちらに噛ませろ。幹部会は何を考えている? クーデターか?』
「そんなのどうあれ、わたしから話せるわけがないでしょうに」冴え渡っていたかつての同僚を思って、むつみは本心から落胆の息をついた。
『私もなりふり構っていられないんだ。なあ九条、財団はこのプロジェクトをどうしたいと思っているんだ。確かにAエネルギーの獲得は魅力的だ。が、その割に周辺の動きが胡散臭すぎる。OPECやスリーメジャーズもだんまりだ。なのに諜報機関の動きが異様に活発化している。それもフウカではなく、トウキョウでだ。まあ、そもそも高次物質のエネルギー転用には私も懐疑的だったが……、なあ、君は何を知って動いているというんだ。私を脅迫し、さんざんいいように使ったのだから、その恩を返してもいいんじゃないか』
「さっきみたいにわたしのことを認識していて、弱みを握らせるほうが馬鹿よ。はっきり言って」むつみはいった。「あなたも本当は察しているんじゃないかしら。薄々わかっているはずよ。今わたしたちを取り巻いているものは、状況自体が関連の許諾を選定するたぐいの非常識なの。それがわかっているから、会長もあの子を寄越したんでしょう」
『またオカルトか? そういうはもうたくさんだ、私は……』

 心底から弱りきった素振りは、おかしくもあった。ただむつみとしては、愉快さと憐憫が半々というところだ。利用したこともされたこともある。どうあっても好意的には転化できない関係が、二人の間柄だった。

「そうこだわらず、〝二人目の〟アリッサにつけばいいだけではなくて?」
『それは無理だ』男はきっぱり言った。『私にはあの娘は理解できない。理解できないものには尽くせない。そもそもあれは私を必要としていない。むしろ、君にいたく感心があるようだ』
「……そう」

 複雑な心境は、声にも及んだ。男は耳ざとくそれを聞き取ったようだが、指摘はしなかった。本当にもう余裕がないのだろう。改めて疲れを持て余しながら、むつみはようやく変化が起きはじめた右側のモニタを注視した。日本からは十六時間の時差があるその街は、現在未明だった。きのうときょうの境界にあって、大都市の燐光は炯々として目映い。
 その俯瞰からの光景に散在する光が、一瞬、蛍火のように揺れた。

「ねえ、あなたそういえば、出身はシスコだったかしら。そうなら89年のロマプリータ地震は経験した?」
『いきなりなんだ。もちろんしたよ。あれは酷いものだった。娘が産まれたばかりで……、ちょうど今の季節だったな。幸い、身内に被害は出なかったが、友人の家族が不幸に遭った。あのときはこの世が終わったのかと思ったよ。こちらに来たら地震にも慣れてしまったが……、それがどうかしたか』
「いま、ご家族はまだあの街に?」
『いや、一家そろって日本にいる。家族は一緒にいるべきだろう』

 耳が痛いな、と思いつつも、「ならよかったわね」とむつみは言った。『なにがだ』と男が問い返してくる。

「いま、サンフランシスコが、崩れたわよ」とむつみは言った。


   ※


 石上との対話は、近ごろの高村としては珍しく大方穏便に終わった。食事でも、という厚顔な誘いは流石に断って、高村は奈緒の姿を探すべく病院へ足を戻した。
 黄昏と驟雨にけぶって、車窓越しにそびえる病院のシルエットは墓碑を思わせる相を呈している。ビニル傘に猫背を押し込めて歩く高村は、想像よりもあっさりと奈緒を発見した。不機嫌そうな、もの問いたげな顔か、あるいはそれなりの確率で絶縁状を突きつけられるかと思いきや、少女はごく淡白な反応しか見せなかった。ちらと眠たげな半眼を高村に向けると、彼の手から柄をひったくり、さっさと歩き出す。無言の反抗といった風情でもなく、まったくいつも通りの結城奈緒だった。

「シスター、来なかったか?」何となく釈然としないものを感じて、高村はつい自分から話題を切り出した。

 奈緒はやはり沈黙を通した。ただ傘がくるりと回って、高村の後背を漠然と示した。
 そこに、真田紫子がいた。私服のせいでふだんは目立たない女性的な曲線がはっきり見えて、高村には彼女がまったく別の人間のように見えた。といって何か彼女にかける言葉があるわけでもない。高村は無難に会釈をして、自らもきびすを返しかけた。

「高村先生」
「はい」

 唐突に紫子からかかった声だったが、高村はさほど動揺もせず足を止めた。そういうこともあるだろうと思っていた。紫子は、怯みと剄さが混じった瞳を、高村に正面から突きつけてきた。
 高村には、紫子がどの程度石上の意図を受けているのかは判じかねた。ただその視線から、何らかの隔意があることは容易に読み取れる。深優、アリッサを交えた遭遇と先ほどの石上との会話から、彼女がどういった能力を有しているかの推察はおおよそついていた。そしてその場合、一般的な人間が彼に対して抱く心象と言うのは、想像に難くない。

「あなたが何を考えているか、わたしは知っています」かすかに震える声で、紫子が言った。「わたしは、あなたを、最低だと思います」
「そうですか」とくに意表をつかれることもなかったので、高村はただ頷いた。「それじゃあ失礼します。石上先生によろしく言っておいてください」
「え?」

 きょとんと、可愛らしく目を丸くする紫子の顔を観察したい誘惑を振り切って、高村は歩みを止めない奈緒の背中を大またで追った。紫子に対する、じゃっかんの後ろめたさが彼にはあった。
(同じだな。俺と結城と、石上とシスター)
 立場も事情も違っても、構図は相似を描いている。そうと意識しながら、紫子の糾弾に些細だろうと抗弁する気にはなれない。同じようにして、石上へも紫子の件についての詳しい追求は避けていた。
 コンパスの違いで、先行する奈緒へ追いつくのは簡単だった。いつも不機嫌そうな少女なので、その心中がどうであるかを推し量るのは、高村には荷が勝ちすぎている。とりあえず歩きながら買っておいた缶コーヒーを目前に提示すると、奈緒は目線で開封を命じてきた。高村は素直にプルタブをあけて奈緒に手渡した。
 奈緒は迷わず缶を逆さに返すと、その中身を歩きながら全てばら撒いた。琥珀色の液体が濡れたアスファルトに短い線分を刻んだ。高村は苦々しく顔を歪めた。

「本当に可愛げがないな、君は」
「アンタの出した飲み物は、金輪際飲む気がしない」
「すいませんでした」半分以上自業自得だったので、高村はせめてもと罪のない飲料の冥福を祈った。「ところで、突然だけどなんとか風華に帰れる目途が立ちそうだぞ」
「……」奈緒が不意に足を止めた。「ていうか、今の今まで帰れないことになってたわけ?」
「結城はどうか微妙だけど、俺はそうだった。厳密に言うと帰らないほうが面倒が少ないことには変わりないんだけど、土地に足を踏み入れた瞬間どうこう、という可能性は減った、と思う。石上先生との口約束だから信憑性はまだ微妙だけども」
「石上……センセイ?」
「そうだ。結城も知ってるだろう。美術の石上先生。あの人と紳士協定というか、取引をした結果、ある程度一番地から俺への追求の手は緩みそうなことになった」
「ああ」ふと、奈緒が目を細めた。「そういえばあのシスター、美術の石上とデキてるとかいう話があったっけ。マジだったんだ?……はん、結局そういう繋がりなわけか。なに寝言いってんのかと思ったら……、純真無垢ってツラしてけっこうあのシスターもヤることヤってんじゃん?」
「シスターの口説き文句はお気に召さなかったわけか」
「別に。存在自体ウザいだけ。アンタと同じにね」
「俺と同格って、またずいぶん凋落してるなシスター」
「……」奈緒がなんとも言いがたい顔になった。「そういう、まあ、……そういうわけ」

 奈緒の険相の理由が自分ではなく紫子にあると見て、高村はいぶかった。奈緒の高村に対する心象は底を打っているという自覚が彼にはある。その嫌悪感を措いてまで紫子に毒づくというのが意外だった。もっとも、二人の相性が良いようにも思えない。奈緒の敵意は常時全方位的に発散されており、高村の知る限り例外は美袋命か瀬能あおいの二人きりだ。
 ほどなく乗用車にたどりつき、シートに腰を降ろし、エンジンを回して病院を後にするまで、高村と奈緒の間に会話は一切なかった。もっとも奈緒を相手にした関係性の構築や間を持たせる努力の放棄を宣言した以上、断絶に近い没交渉は高村にとりいっそ気楽に感ぜられた。ハンドルを握りながら思弁に没頭すると、ラジオが緊急ニュースを報じ、アメリカ西海岸で最大マグニチュード8.3の大地震が発生したことを告げた。
 高村は無言でパワーウインドウを下げた。ぬるい風に打たれながら、思い出したように奈緒にいった。

「腹へった。なにか食いたいものあるか?」
「カニ」後部座席の対角線で窓と睨めっこしていた奈緒は寸分の迷いもなくいった。
「ああ、カニいいなあ」高村も異論はなかった。「でも殻剥くのめんどうじゃないか? あれ」
「きまってんじゃん」奈緒が鼻で笑った。「アンタはカラを剥く係、あたしは中身を食べる係」
「指でもしゃぶってろビッチ」
「あァ!?」

 夏の夜はいつも通りに更けていく。


   ※


「だーめだ、やっぱ恭司くん繋がんないや」

 携帯電話を放り投げて、杉浦碧が投げ槍にぼやいた。チューブトップにホットパンツの装いで、無防備にベッドへ寝転がっている。現在彼女らが集っている部屋に男性はいないとはいえ、玖我なつきにとって碧の粗暴さはやや目に余った。
 生徒会執行部の慰安旅行に便乗する形で碧がHiME関係者を巻き込んだイベントは、折りよく晴天に恵まれた。ただしやはり、高村恭司と結城奈緒の姿はなかった。高村からは早い段階で不参加の旨を伝えるメールが届いたというが、以来直接の連絡は途絶えているらしい。すでに一日目の泳ぎは終えて日も暮れかけ、珠洲城家提供のコテージには、厄介な問題を共有する面子が集まっていた。
 主催の杉浦碧、鴇羽舞衣、美袋命、そして押し切られる形で参加したなつき。ここに奈緒と既に『脱落』した日暮あかねを含めた六名が、現状で彼女たちが把握しているHiMEの総数だった。現状維持という面で碧の提案した不戦協定は悪くない対処ではあったが、参加者が母数の三分の一では心もとないというのが、なつきの見解だった。

「そうでもないよ」皮肉に傾いたなつきの意見を、碧が否定した。「うーん、言い方は悪いけど、このメンバーでも抑止力としては充分だと思う。なにより、なつきちゃんの存在が大きいわ。たぶん、HiMEの中でも君はかなり事情通なんでしょ?」
「それは言い切れない。わたしもすべてを把握しているわけじゃないからな。現に結局、今、この状況に至ることをどうにもできなかったわけだ」
「ま、そういうジギャクはあとあと」勢いをつけて立ち上がると、碧がウインクした。「ここらで事情の整理といきまっしょう。まずうちらが置かれてる状況の再確認から。おーけ?」
「構わない」
「お願いします」舞衣も真剣な面持ちで、固唾を呑んだ。

 ただし命は寝ていた。
 一瞬白けた気配を発しながらも、碧は咳払いして、なつきと舞衣に視線を戻した。そして始めからそのつもりだったのだろう、旅行鞄から小ぶりのホワイトボードを水性マジックを持ち出すと。いくつかの文言を箇条書きにした。

「まず、これが基本構造よね」

『A.我々はHiMEである
  a.HiMEとは呼称であり高次物質化と呼ばれる超能力の名称でもある
  b.HiMEは複数存在し全て少女である
  c.HiMEはチャイルドを従える
 B.HiMEはオーファンと敵対する
  d.オーファンはHiME以外による打倒が困難である(暫定)
 C.ある勢力XにとりHiMEは戦うべき存在である(暫定)
 D.HiMEがチャイルドを失った場合媒介として人命が失われる(暫定)
 E.世界は滅びに瀕している(暫定)
  e.HiMEが互いに争い勝者を規定することにより世界は救われる(暫定)
  f.HiMEが戦わない場合世界は滅ぶ(暫定)
  g.勝ち抜き最後に残ったHiMEは世界を手にする権利を得る(暫定)』

 項目を頭から終わりまで二三度見返すとペンを置き、碧は注目を促すように手を打った。

「ハイ、まずラージエーからラージイーまでが、現状を貫通する主幹、主軸になります。これはなるべく客体に近い、余分なものを漉した観点に立脚させてみた。この内AからCまでは、一昨日までのあたしたちにとってもある程度まで合意の取れていた共有知だよね。んでDとEが新たに判明した事実で、この確認は取れていないながら、あっさり無視するわけにもいかない厄介なものとなっているわけだ。そしてスモールエーからスモールジーまでの項目は、主軸にまつわる枝葉。枝葉つっても情報構造として見た場合の話で、あたしら当人にとってはやっぱり厄介ごとには変わりない。――それじゃあご意見ご要望をどしどし応募しまーす」
 
 理不尽なほど達筆な文章を見て、なつきは手を挙げた。

「はい! なつきちゃんどーぞ!」
「……少女?」
「やだーもうなつきちゃんったらナルシィ!」碧が『少女』の前に『美』を付け足した。「これで文句はあるまい!」
「いちいち突っ込まないぞ」なつきは白眼をつくり、「勢力Xというのは、つまり一番地ということか?」
「名称はしんない。それもなつきちゃんから聞いただけだしね。実態も話だけじゃピンと来ないし。でも、とりあえず何らかのバックグラウンドがこの仕組みに存在するのは当確路線。てことで、エックスです。それに、これはカンだけど、そのコミックバンチさんだけとも限らない」

 なつきは一寸感心した。鋭いところを衝いている。恐らく高村の行動から類推したのだろう。

「はい……」舞衣がおずおずと挙手した。「その、かっこのなか、なんて読むの? ごめん、無知で」
「ざんてい」碧が答えた。「まだ未検証だけど、とりあえずこうだ、とあたしたちに示されていること、だね。真実か事実かは、やっぱりわかんない。世界滅ぶとかスンゲーうそくさいし……、ま、普通は信じないでしょ」
「でも、昨夜」
「はいストップ」碧が舞衣の意見を遮った。「気持ちはわかる。でもそれは保留にしよう。余計なものはしょいこまないほうがいい。そもそもだよ、『世界が滅ぶ』と言われたって、それがどんなかたちで訪れるのかあたしらには明示されていない。それが自然現象として起こるかもわからない」
「そ、そっか。そうだよね。偶然だよね。きっと」舞衣が半分以上納得していない口ぶりで言った。「でもホント、いきなり世界が滅ぶとか言われても困るよ。映画とかでさ、隕石が落ちてくるとかあったけど、ああいう感じなのかな」
「媛星が落ちてくる、という可能性はわたしも検討した」なつきも口を挟んだ。「眉唾だが、真白の話ではあれは知性を有した存在全ての陰、シャドウらしい。つまり原理的にはわたしたちのチャイルドと同じ説明になる。それが正しければ、チャイルドやオーファンの規模を単純に数千、あるいは数万数億倍に拡大したものと考えてよいだろう。縮尺については、天体望遠鏡などを通した場合姿を見失うため、目測で同時期に同程度の光量と大きさを持つ他天体からの距離を比較して、大雑把な直径を計算したことがある。去年の話だしそもそもあれは恒星じゃなくて隕石に近い上、あの現象を光と見なしていいのかもわからんが、だいたい百キロ前後だ。いま引き合いにだしたが、これが隕石と同じ勢いで地球に落下し、激突時に物質化するような仕掛けだった場合――」

 舞衣が固唾を呑み、碧がにこにこしながらホワイトボードに落書した。

『地球\(^0^)/終わった』

「……」舞衣は黙り込んだ。
「……おまえな」なつきは呆れていた。

 碧が戸惑った。

「え、笑おうよ。シリアスやめようよ……。場を和ませようって努力してんのに……」
「が、媛星の接近速度は非常に緩やかだ。またあの大質量が単純に落下するだけの物体だとすれば、そもそもHiMEやらなにやらの介在する余地があるとも思えない。どう手を講じようと地球はとっくにダイエットに成功して、月以外の衛星がとっくに生まれていただろう」
「じゃあ、とりあえず落ちてぶつかる心配はしなくていいってこと?」
「たぶんな」なつきは舞衣に向かって頷いた。「かといって、安心していいかどうかはわからない。実在する存在ならば、今言った通り何もわたしたちが何かをする必要なんてないわけだからな。政府なりなんなりが必死で策を講じるだろうし、その成否に限らずわたしたちに許されるのは祈ることくらいになる。他人に命運を託すという点では意見がわかれるかもしれないが、本音を言えばこのほうが面倒はない」
「同感。ま、そりゃそうよ」
「しかし、結局のところ、より大きな組織なり国家なりが現状どう動いているかは、当然わたしたちでは把握できない。極端な話、我々が共通した幻覚を見ている可能性も捨てきれないわけだが、そうするとチャイルドやオーファンに伴う物理現象の説明がつかなくなる。この説はオミットだな。同じように現象の根源を媛星を求める論拠も稀薄だが、この手の疑念を突き詰めても不毛なだけだ。やはりペンディングする。
 さて、今組織と言ったが、単純に問題に対抗し、解決しようとする場合、もっとも効率的なのが専門家、ないし機関に頼ることだ。餅は餅屋、飴は飴屋というわけだな。そして大雑把に説明してしまうと、一番地こそがそれにあたる、とわたしは考えている。というのも、あの組織はもともとHiMEの力を研究していたからだ。いや、三百年周期で媛星の危機が訪れると言うのを真に受けるならば、いま取り上げた『機関』そのものが、一番地に当たるのだろう。実際、媛星、HiME、オーファン、チャイルド、その媒介――いずれもやつらにとっては既知であり、われわれHiMEはやつらによってこの風華の土地に集められた。わたしがこの問題についておまえたちよりいくらか情報を得ているのも、一番地を探っていく上で知った副産物という面が大きい」
「要するに、ほんとうなら真っ先に頼れる専門家の人たちが、あたしたちに、その、……戦えって。そう、言ってるってこと?」舞衣が考えをまとめるように、核心を口にした。
「違う」なつきは首を振った。「心得違いをするなよ? わたしたちには演繹的にその解決策が処方されたわけじゃない。連中は頭からわたしたちに戦うよう言ってきたんだ。それも、ある程度わたしたちに交わりが生じてからだ」
「腑に落ちないのはそこなんだよねー」碧がいった。「本当に国難っつうなら、あたしたちはもっと以前から、問題に対してずっと自覚的であるべきなんだ。心構えのあるとなしとじゃ大違いだし、それこそ三百年前ならともかく、人権どーのと叫ばれて久しい昨今、てめーらいいからしのごのいわずにバトれや的なことを頭ごなしに言われるっていうのが……ピンと来ない。なのにあたしたちはほとんど事情も知らないまま事態の真ん中に押し込められている。そうこうする内に、あかねちゃんが、不幸な目にあっている。それがイレギュラーだったにしても、どうせどこかのタイミングで同じようなことが、誰かに起きていたと思う。このやり口はうまくないよ。情報を意地悪して伏せとくメリットが見当たらない。実際こうしてあたしたちは誘導に反発してるわけだし」
「あ、いっこいいかな」頭をひねりながら、舞衣が問うた。「玖我さんがその一番地に詳しいのは、そいつらをやっつけたい、からだよね」
「そうだ」なつきは頷いた。「もっと言えば、わたしは幼い頃、一番地に関わっていた。HiMEの力も研究されていたんだ。本当の最初に能力が目覚めたのも、そこでの実験が元だった」
「あ、ごめん……」

 舞衣が言葉に詰まる一方で、碧がさらに疑問を深めた。

「て、ことはだよ。あたしたちを争わせたい人たちは、やっぱりあたしたちに余計な知恵をつけてほしくはないってことだ。だって、具体的に何がいつどうなるのかはわからないけど、この期に及ぶまでHiMEがどこの誰か全然わからなかった、それが最近になってようやく判明したって線は、今のなつきちゃんの体験談で消えたわけだからね。……うん。どうなるにせよ、ちょっと希望が見えてきたかもしれんねこりゃ」
「え、なんで」舞衣が訊ねた。
「わたしたちの知識を限定しているということは、この『ゲーム』の主催側に、知られては困る事実がある可能性を示唆しているからだ」なつきが答えた。「どう扱うにせよ躍らせるならそのほうが都合がいいからな。まあ、へたに知ると余計身動きが取れなくなる可能性もあるが」
「それは確かにある」碧があっけらかんと同意した。「混同しがちだけど、『媛星が落ちてくる』ことと『HiMEが争う』ことに直接の因果関係はないからね。あくまで前者を防ぐ手立てとして後者を促進しようとしている層がいる、ってことを頭にいれておかなければならない」
「てことは」舞衣が結論を取りまとめた。「あたしたちがすべきことっていうのは、こうよね。まず、HiME同士で戦わない。かといって、その、一番地をただどうにかすればいい、ってわけでもない。戦わずに媛星が落ちてくるってピンチを、どうにかしなくちゃいけない。オッケー?」
「おっけー」碧が親指を立てた。
「あくまで媛星が落ちてくる、という前提に立った場合だがな」なつきも条件付きで支持した。碧が方針をボードに書き込む様を尻目しつつ、「もったいぶってもしょうがない。わたしが知っていて、かつ個人的でない事柄を、この際開示してしまおうと思う。
 まず、HiMEの総数だ。確定した情報ではないが、これは十二人であると、以前凪が口を滑らせたのを聞いたことがある。実際は多少前後することもあるようだが、ひとまずこれを念頭に置いて、わたしは動いていた。具体的にはHiMEが集まるのを妨害していた……さっき言ったように、これは徒労に終わったがな。……判明しているHiMEは、さっき確認した通り、わたし、鴇羽、碧、そこでずっと寝てるバカ、結城奈緒、そして仄聞だが日暮あかねの六名だ。つまり残り最低六人のHiMEが存在することになる」
「あ、あとさ」と、右手でペンを動かしながら碧が左手を挙げた。「真白ちゃんのメイドさん。姫野フミさん? あの子、一応HiME候補にしておいて。かなり怪しい」
「そうなのか? 個人的にはシロだと思うが、まあいい。説得でも対応でも、HiME同士の積極的交戦の回避が方針なら、現状でまずするべきは残りのHiMEの正体を明らかにすることだ。そして可能ならば協力を、最低でも一定の理解を得ること」
「でも、どうやって? HiMEにだけわかる方法で、そうだ、チラシとか配ってみるとか」舞衣が手を打つ。
「集める方法も重要だが」なつきは明言した。「あくまでこちらに敵対を選ぶ相手がいる場合についての対応をまず明らかにしておこう。碧、『協定』と言い出したからには、わたしたちの集合を抑止力にしようと考えているんだろう?」
「ま、そりゃね。あくまで最終手段だけど」碧が肯定する。
「え、どういうこと?」舞衣が目を白黒させた。
「分からず屋には容赦しない、ということさ。そのために複数のHiMEを集めて自衛の戦力を充実させたんだ」なつきは舞衣の顔色が見る見る曇る様を見た。「おい、アレルギー的な浅慮でかんしゃくを起こすんじゃないぞ。これはおまえのチャイルドみたいに加減の効かない馬鹿出力を案じての方策でもあるんだ」
「……えっと? なんか馬鹿にされてるあたし?」
「ええい、わからんやつだ」なつきは嘆息した。「やる気のやつがいる。おまえは一生懸命説得する。だが聞く素振りはない。チャイルドを出せ、勝負しろ、さもないと殺す……と言ってくる。凶悪なやつだ。さあどうする。戦うか?」
「やだ」舞衣はきっぱり言った。
「いや、嫌だじゃなくてだな、じゃあ殺されるのか? 無抵抗非暴力不服従実弟過保護か? おまえはガンジーか? あいつはCivだと容赦なく核撃ってくるぞ?」
「とにかくイヤ」どこまでも頑なな舞衣だった。「あたしは、大事な人を失うのも、失わせるのも、そんな可能性のあることをするのも、嫌、よ。これははっきりいっとく。あと過保護ってなによー! 弟可愛がって何が悪いの!?」
「おまえなー! だからだな!」

 ばんばんとベッドを叩くなつきを見、碧が苦笑しながら換言した。

「つまり、なつきちゃんは、そういうどうしようもないとき、こっちのほうがずっと強ければ、相手を説得しやすくなるし、なるべく安全に取り押さえられるってことを言いたいわけよ。子供同士のケンカならふとした弾みに行くところまで行っちゃうけど、分別のある大人なら、子供が殴りかかってきてもいなせるでしょ。そういう感じで」
「あ、なるほど。なんだ、そうならもっと簡単に言ってよ」
「言ったろ。わたしちゃんと言っただろ。……まあいい。とにかくそんなわけで、具体案は追々詰めるとして、敵対的なHiMEにもし遭遇した場合、こちらが独りで説得が難しいと判断したら、すぐに逃げることを徹底しておけ。そして、わたしなり碧なりそこの美袋になりすぐに連絡を取れ。よっぽど戦いたくないんだろう?」
「あたしに限定してるのがそこはかとなくアレだけど……、わかったわ。ありがと」
「後は、残りのHiMEについてだが、これは待ちに徹したほうが懸命だろうな。とりわけわたしと美袋はあからさまに面が割れているから、あまり他者を刺激しないように振舞うべきだろう。とくにそこの単細胞と結城奈緒には注意が必要だと思う。おいわかってるのか保護者」
「うっ……」舞衣も不安に駆られた様子で胸を押さえた。「き、肝に銘じます」

 高村恭司の縁者である天河朔夜については、黒に近い灰色ながら、なつきは言及しないことにした。彼女について取りざたすれば、自然高村のかなりプライベートな部分にまで踏み込まなくてはならない。ここ数日その件について確認をしようとしているのだが、すっかりすれ違っており、タイミングを逸し続けている。本来ならば秘めるには重要な情報かもしれないが、無断で漏らしていい過去でもない。碧などはかなり怪しんでいるようだったが、説明するつもりはなつきにはなかった。

「続いて、碧がやたらこだわるHiMEとこの状況に関わる『勢力』についてだ。察するところ一番地以外に心当たりがあるんだろう? 今まで触れずにいたが、これに関しては、実のところ学園祭の日にわたしは接触を受けている。連中の名称は『シアーズ』。あのアリッサ・シアーズと同じ名だが、これがあのガキの保護者であるシアーズ財団と同じ組織だとすれば、はっきり言って民間人の手には余る大物だな」
「アリッサちゃんが関係してるの? まさか……あんな小さい子だよ?」舞衣は半信半疑といった口ぶりだった。
「あれに関係してるかどうかは、今のところわからない。予断は禁物だ。まあ、せっかくのご指名だからな、この件についてはわたしが独自に探りをいれてみるさ。ちょうど、いくらか心当たりもある」
「……ふうん。じゃ、そっちは任せちゃうわ」

 そう言って碧があっさり引いたのは、なつきにとって結構な意外だった。なつきの言う心当たりが高村であることには気づいているはずだ。というよりもあからさまに示すことで出方をうかがうつもりであった。
(透かしてきたか。曲者だな、こいつは)

「最後に」鼻腔から息を漏らしながら、なつきは宣言した。「凪の言う『オモイビト』、チャイルドの媒介についての同意を得たいと思う。もし明らかに害意を持ってわれわれに接する場合、そういった連中が真っ先に狙うのは直接武力を持ったHiMEではなく、こちらにアプローチをかけるだろう。同様にして、たとえばこの協定における最大の懸念もそこだ。わたしたちを離間させようとするなら、この想い人を人質に取るのがもっとも効率的だからな」
「あたしも」舞衣が真剣な面持ちで頷いた。「そのことをずっと考えてた。とくにあたしなんかバレバレだもんね」
「返答に困る言い方をするな……。そういう例も含めて、言い方は悪いが、想い人についての事案は慎重にあつかうべきだと思う。対象を打ち明けるか打ち明けないか、保護に協力を求めるか求めないか、それは各人の意思によるべきだ。協定という題目に矛盾するようだが、この時点で他人に心臓を預けろと強制するのは難しいだろう。特に、今後この協定に参加するものにとってはな」

 いるとすればの話だ、とは思っても、口中に留めるなつきだった。

「もっともなんだけど」ここで碧が難色を示した。「そうするとさ、協定自体がナンセンスなものになっちゃうんだよね。嫌な言い方だけど、この状況じゃ、それこそ弱みをさらけだしておかないと、信用なんて難しいでしょ」
「それは、そう、だな」なつきは口元を手で覆う。「だが、どうする? わたしは構わない。鴇羽も事実上周知に近い。美袋は、どこの誰かはわからないが、存在だけははっきりしている。例の『兄上』だろう。……こうなると、碧、おまえがこうむるデメリットが一番大きい」
「あれ、心配してくれてるんだ」碧が破顔した。「ありがと。でもいいよ。言いだしっぺだしね。それに、この好きな人告白――うーわ、よく考えたらこれ旅行の夜そのものじゃんね。まだ夕方なのに。もうちょっととっとくべきだった。えへん、うん、告白だって、信憑性は結局それぞれの判断に任せられるじゃん? うがった見方をすれば、舞衣ちゃんに弟くんじゃない想い人がいる可能性も、命ちゃんのお兄さんは実は性転換して姉上になってる可能性もあるわけで……」
「なに!?」命が叫んだ。「兄上は姉上だったのか!?」
「うおおおびっくしたぁ! いきなり起きないでよ!」碧が素面で驚嘆した。「いや、たとえ話。ああちょっとべそかかないでよ。大丈夫だよ、きっとニューハーフにはなってないよ。工事前だよ。モロッコは遠いよ。……というわけで、あたしの好きな人だけでも、みんなにはオープンにしたいと思う。まあ、年長者っていうか責任者的な立場なわけだしね」
「碧ちゃん……」舞衣が感動していた。
「それぞれの胸の誓いなの」小学三年生っぽい高音で碧が言った。
「年を考えろ」なつきが引いていた。
「うっさい。それじゃあ、改めて改訂版を書いてみました」

 そう前置きして、碧が再度ホワイトボードを呈示した。

『A.我々はHiMEである
  a.HiMEとは呼称であり高次物質化と呼ばれる超能力の名称でもある
  b.HiMEは複数存在し全て【美】少女である
   b´.HiMEの総数は十二人である(暫定)
  c.HiMEはチャイルドを従える
 B.HiMEはオーファンと敵対する
  d.オーファンはHiME以外による打倒が困難である(暫定)
 C.ある勢力X(一番地)にとりHiMEは戦うべき存在である(暫定)
  C´.XはHiMEを招集したがHiMEが事情に精通することを嫌っている
  C´´.ある勢力Y(シアーズ?)は事態に介入している(暫定)
 D.HiMEがチャイルドを失った場合媒介として人命が失われる(暫定)
 E.世界は滅びに瀕している(暫定)
  e.HiMEが互いに争い勝者を規定することにより世界は救われる(暫定)
  f.HiMEが戦わない場合世界は滅ぶ(暫定)
  g.勝ち抜き最後に残ったHiMEは世界を手にする権利を得る(暫定)』

「続いて、以上のルールを踏まえてあたしたちがするべき具体策でーす」

『みどりちゃんの すごい わかりやすい! HiME☆戦隊 の方針!!

 1.HiME戦隊のメンバーは相争うなかれ
 2.HiME戦隊のメンバーは可能なかぎり他のHiMEを探すべし
 3.HiME戦隊は新たなHiMEに対して理解を得るべく尽力せよ
 4.HiME戦隊は世界が本当に滅びるのかそこんとこ実際どうなのか探りかつ回避する手段も探れ
 5.HiME戦隊はHiMEを利用している組織を逆に利用する気概を持て
 6.HiME戦隊メンバーによる想い人の告白は杉浦碧以外自由意志に任せる
 7.HiME戦隊のメンバーは死んだらいけない死なせてもいけない飲んだら乗るな乗るなら飲むな

 以上七か条を違えた場合下着姿で「レイプ希望(はあと)」と書かれたプラカードを持って街を歩くべし

 結成メンバー
 杉浦碧(レッド)
 鴇羽舞衣(レッド)
 美袋命(レッド)
 玖我なつき(イエロー)

 ※HiME戦隊リーダー杉浦碧の想い人は在籍していた大学の担当教授である佐々木教授(既婚)である 』

 舞衣が噴き出した。

「ちょっと! これ! 罰がかなりガチなんですけど!? ほんと洒落にならないんですけど!?」
「街は危険が一杯なの?」また小学三年生になった。
「碧ちゃんキモい!」今度は一蹴する舞衣である。
「そりゃ社会的に殺す気だモン」碧は可憐な笑みで言った。「命かかってるのに不逞の輩に容赦するほどあたしゃ温厚じゃねーぞ」
「ひいい……」戦慄する舞衣だった。戦慄しながら、舞衣もまた、自らの媒介が鴇羽巧海である旨を、最下段に書き記した。「うっう、こわぁ。やらないってわかってても、こわぁ……」
「ノンキだなおまえらしかし、っておい。なんでイエローなんだ。ブルーだろ。わたしは普通ブルーだろ!?」
「え、でもなつきちゃんカレー好きじゃないの?」
「判断基準それだけか!」

 肩を落とすなつきを横目に、前後を把握していない命までもが、『兄上』と書き連ねた。
 舌打ちしながら、なつきは結びの文言をしたためた。

『玖我なつきの想い人である母は、既に鬼籍の人である』

 室内の温度が、一気に冷えた。


   ※


 深夜、寝付けない舞衣がコテージを抜け出すと、テラスに神崎黎人が佇んでいた。群雲から降る月光に照らされた立ち居は役者のように絵になっていて、声をかけるのがためらわれるほどだ。
 おかげで、先に見つけたにも関わらず、声をかけたのは神崎からだった。

「あれ、舞衣さんじゃないですか」
「ど、どおも」

 五月、フェリーの水没事故の翌日に出会ったころからそうなのだが、この二つ年上の青年は、後輩の舞衣を常にこう呼ぶのだった。父親以外の男性に名前で呼ばれた経験がない舞衣としては、それだけでなんとも気恥ずかしい相手である。とはいえ、神崎は申し分のない男であった。そのために気後れする部分があるとはいえ、あからさまに優しくされて何も感じないほど、舞衣も晩生ではない。

「どうかな。楽しんでいるといいんだけど」
「あ、はい。それはモチロン」ぎくしゃくと舞衣は答えた。「ってまあ、昼間バイトやってて言うせりふじゃないんですが……」
「いや、立派だと思うよ」
「あはは、ありがとうございます」

 と、返しながらも、ふと思うことがあった。この人は果たして、アルバイトなんてしたことがあるのだろうか。舞衣には神崎があくせく労働に従事する姿が全く想像できない。善し悪しや釣り合いではなく、本当の意味で繋がらないのだ。
 冗談を通り越して悪夢のような話だが、風華の生徒会執行部は場合によっては億単位の金額が動く事業に関連するという。まさか率先して携わるはずもないとはいえ、末端だけでも舞衣には及びもつかない世界という意識があった。若い身空で勤労に専心した弊害か、何とはなしに、舞衣には己の労働を金額に換算する勘所のようなものが働いていた。能力や効率や経験に実績を反映して、このまま努力を積み、順調に成長し、ある程度の運不運に左右され、自分がどの程度の場所に行けるかが、かなり現実的に予想できてしまう。
 悲観するほどの余裕はない。ただ、舞衣も若い少女である。ごくまれに、虚ろで茫漠した現在を劇的に変える存在を待望することもある。けれどもその空想に浸るほどの容量も、畢竟いまの舞衣にはないのだった。

「アルバイトをしたこともないくせに、って思ってるかい」

 ぎくりとした。取り繕った。だがまたも神崎は見透かして、微笑んだ。

「構わないですよ、別に。事実だしね。ただ、だからって苦労知らずのおぼっちゃんだなんて思われてるなら癪だけど」
「さすがに、そうとは思ってないですよ」舞衣は感慨を込めていった。「苦労を知らずに生きてる人なんていないし、そんなの元々比べるものじゃないでしょう? もし苦労と縁がないみたいな人がいるんなら、それって知らないんじゃなくて、わからないだけなんじゃないかな」
「苦労が、わからない?」
「うん。そうじゃないかなって、思うだけなんですけど。なんかわかる気がするんです。辛いこと、きついとき、誰だってあるんだけど、そういうのが、ふと、どうでもよくなるというか、頭からサッて消えちゃう瞬間ていうのがあるんですよ、あたし」
「ああ」神崎が、吐き出すように呟いて、深く頷いた。「それは、わかるな。すごく、わかる気がします」
「そ、そうですか?」思いもかけず同意を得て、舞衣ははにかんだ。「あのね、自分が飛んじゃう感じなんです。夢中ってよくいうけどホントそんな感じで。頭の中が晴れ渡って、とても涼しい風が吹いてるみたいで、でもカラッポみたいな感じもして、手足から糸が見えてるみたいで……ってうわー、言ってることワケわかんなくなってる」
「いや、続けて」
「は、はい? あー……って、まあ、そんな長い話でもないんだけど。――まとめるとですね。そういう時の自分って、なにか、すごく惨めなんですよね」
「惨め?」神崎が目をしばたかせた。「何故ですか? 聞いているだけだと、それはそんなに悪くなく思えるのに」
「上手く言えないんですけど」舞衣は緊張しながら言葉を選んだ。「すっごいシンプルになっちゃうというか、わき目も振らないというか、そういうときって、周りが目に入らないのね、あたしの場合。他人はなんだかそういうのを見て凄いねとかどうしてそんなに頑張るのとか言うんだけど、あたしは全然そんな意識なくて、その『ズレてた』時間っていうのが、出来すぎているみたいで、まるで自分じゃないというか……後ろめたい、のかな」
「……うん」
「で、それが時間とか場合とか全然選ばないの」舞衣はもう、全てを吐き出す気でいた。慣れない敬語も忘れていた。「そういうふうになるのにはコツみたいのがあって、だいたいそういうのも、あたしはわかってる。今はそうでもないんだけど、ここに来る前、すぐ前、ちょっと大げさなんだけど、もう人生どうでもいいやー、みたいな時があったの。だけどそういうわけにもいかないし、でも辛いしでワーっとなっちゃって、そうだ、ならあのボーっとした感じでずっといればいいやーって思ったら、本当に、色んなことがスムーズに片付いたんだ。お葬式とか、挨拶周りとか手続きとかさ。本当だったら歯を食いしばってがんばらなきゃいけないことも、『そのあたし』はきちんとこなしちゃった。で、ひと段落ついたなぁって思ったとき、
 ――あ、平気だな。
 って、感じたの。そしたらすぐ、もの凄く怖くなった。我に返って振り返ってみて、本当にいろんな物事だけは上手く納まったんだけど、代わりに、いろんな人が遠のいてた。巧海も……、弟も、心配してた。けど、その時すぐには、なんでこんなことになったのかわからなかった。何が怖いのかも、どうしてみんなに距離を取られたのかも。でもね、そういうの全部、ある朝鏡を見たら、一発でわかっちゃった」
「鏡、ですか?」
「そう!」舞衣はつとめて大げさに振舞った。「それがもう、すっごいブス顔で! え、なにこれ、あたし!? ってあっけに取られちゃって! スマイルは嘘くさいし、目元にはクマ! もうありえないでしょ? 花も恥らう乙女なのに!」

 吐息して、舞衣は神崎に向き直った。

「で、もうやーめたって思ったんです。大変なことを他人事みたいにして、それでなんとかこなしたって、それはなんか違うんじゃないかなって。大事なことを当たり前に大事にするんなら、大変なことも、大変にしなきゃだめだなって。……そっ、そんだけ、です! うわ、語り入ってましたねあたし、超恥ずかしい……」

 血が頭に上る感覚に耐えかねて、手で頬を仰ぎつつ、舞衣はその場から立ち去ろうとした。どうも間が持たないとおかしなことを喋ってしまう。
 その矢先、コテージから離れた砂浜でゴムボートを牽引するなつきの姿を見つけた。渡りに船と、「あ、玖我さんだ」とわざとらしく呟く。

「何してるのかなぁ! ちょっとあたしもいってみようかしら!」
「舞衣さん」
「はい」双眸を線にして、舞衣は神崎を振り返った。
「今、好きな人とか、いますか?」と、神崎が言った。

(うわ)

「いや、今は特にそういうのはいないですねうんいない」極めて口早に舞衣は言い切った。空々しくそれじゃあと言ってテラスから地面へかかる階段に足をかけた。

(うわ、うわ、うーわー)

 右手にある部屋で、いかにも寝起きでございといった様子の楯祐一が、仏頂面で舞衣を見ていた。突然後ろめたい気持ちが湧いた。意味がわからない。目を泳がせたまま、舞衣は大股で砂浜を横切った。

「玖我さん! どこいくの!」
「向こう岸だ。そこの廃墟にむかし、母が勤めていたのを突然思い出してな」既に気づいていたのだろう、水着に着替えたなつきは、舞衣に驚かない。「用事は終わったのか? 口説かれてたように見えたが」
「は、はいっ!? ぜんぜんそんなのじゃないし!」
「余計なお世話だろうが」と前置きして、なつきはいった。「誰と親しくなるにしても、その結果を考えてから動けよ。わたしたちは、一方的な都合で誰かの全てを奪いかねないんだ」
「――あ、うん」凄まじい冷や水を浴びせられて、舞衣は一気に醒めた。同時にもの悲しい思いにとらわれた。つまりなつきは、ずっとこんな気分で生きてきたのだろう。「ごめんね。ありがと。……ねえ」
「なんだ。おまえも一緒に来るのか? 言っておくが、たいしたものはないぞ、たぶん」なつきはつっけんどんだった。彼女も今しがた、何かあったのかもしれない。
「それもあるけど。あのさ、なつきって呼んでいいかな」そう切り出すのには、少し、勇気が必要だった。
「はあ? 好きにしろ」なつきは怪訝な顔で答えるだけだ。

(コヤツ、かなりニブい)と呆れる舞衣だった。してみると、いつか直接的になつきへアプローチしていた上級生のやり方は、存外正しいのかもしれない。

「んじゃ、なつきもあたしのこと名前で呼んでいいよ。呼んでみ呼んでみ。会長さんにしてるみたいに」
「馴れ馴れしいなおまえ。なんだいきなり」なつきが面食らいながら、ボートのエンジンを引いた。「静留は中学からの親友だぞあつかましい」
「いいからー。呼んでみてよー」舞衣はわざとらしく絡んだ。「一昨日から、まあ昨日地震のニュース聞いてからずっと怖かったんだけど、旅行来てホント良かったよ。やっぱり相談できるっていいよね。なんか、ぐっと気分が楽になったもん」
「実質的には状況をまとめただけで何一つ快方には向かってないぞ」なつきはにべもない。
「なつきってマジで盛り下げてくるよね……」
「フン、性分だ」あくまで彼女はふだん通りを貫くようだった。「ぼやっとするな。行くなら早くするぞ、舞衣」
「――はいはい。じゃ、行きますか」

 伸ばされたなつきの手を取って、舞衣はボートに乗り込んだ。数時間後に目の当たりにするヒッチハイクの顛末で、またなつきに対する印象が変わることになる。ただなし崩しだった命とはまた違う経緯で、舞衣は奇矯な友人を得たのだと、この日はっきり認識した。


   ※


 慰安旅行から一週間が過ぎた。風華学園は夏季休暇に突入した。なつきは旅行から帰って以来妙に気だるい体を引きずっている。
 炎凪は仰々しく開戦を宜ったが、これまでの日常に如実な変化は、今のところ見当たらない。水面下でどうかはわからないが、日暮あかね以外のHiMEが墜ちたという話もない。そのあかねはというと、一切消息を絶っていた。恐らくは一番地の治療施設へ運ばれ、記憶の処理を受けているのだろう。
 炎天下の陽炎に、白い校舎が揺れている。静まり返った学び舎を後にして、なつきは徒歩で自宅への道のりを踏み出した。単車は整備に出したばかりなのだ。
 日常の大勢に、変化はない。
 高村恭司は、学園祭以降、今日に至るまで一度も姿を見せていない。
 風花真白には病欠の旨連絡があったという。クラス担任の代理は、別の教師が務めた。碧やなつき、舞衣には何一つ音沙汰がない。中でも碧は何度か結城奈緒に接触を取っていたが、結局回答は得られないようだった。
 どうやら奈緒と高村には独自のラインがあるらしいが、奈緒が高村の現在地を知らないことには間違いがない、となつきは思っている。自分が知らないのだから、奈緒が知っているはずはないのだ。
(……?)
 近道の公園を横切ろうとしたところで、急な立ちくらみに襲われた。白煙に巻かれるように白む視界と、急激に血が降る感覚が催吐感を煽った。なつきは手探りでベンチを求める。揺らめいた手が、異様に熱された金属のポールに触れた。何度も唾液を喉に送り込み、空えずきをして、冷や汗をかいた。もつれるようにベンチへ腰掛けると、上体を倒し、木目と向かい合って容態が落ち着くのを待った。
 そこに、声がかかった。

「おい、玖我。大丈夫かおまえ。顔面蒼白だぞ」
「……あ?」

 高村恭司だった。当たり前のようにいた。怪我は大方治っており、眼鏡も戻り、腕も吊っておらず、安っぽいスーツも初めて会ったときと同じものだった。なつきは彼の素顔をずいぶん久しぶりに見た気がした。
 急にどっと力が抜けて、なつきは力なく笑んだ。

「おまえ、どこ行ってたんだ、今まで……」
「ちょっと野暮用だよ。サボりだ」高村はまったく気まずい素振りも見せない。「あと、ケガの治療」
「この、不良教師が……」なつきは大きく呼吸した。「あのな、言っただろう。おまえには、いろいろと、聴きたいことが、……はぁ、あるんだ」
「ああ、そういえば俺もあるよ」
「なんだそれは……もういい。どこか、適当に、喫茶店でも、……ああだめだな、なるべくひとがいないところがいい、か。どこが、どこか、ええっと……」
「頭回ってないぞ玖我。ちょっと失礼」高村の手が伸びて、なつきの首筋に触れた。意図しない声がなつきの喉から漏れた。「結構熱あるな。風邪か」
「どうもそうらしい。気安くさわるな……セクハラだぞ」手を払うだけの仕事が、ずいぶん億劫だった。「馬鹿じゃないからな。風邪くらい、ひくさ」

 言い切ると、息も切れた。動悸が増した。これは弱っているなと、客観的な視点がなつきに告げていた。こういうときは誰かに関わるべきじゃないぞと、それは言っていた。これは隙だ。おかしなことになりかねないぞ、と。
 だが、ずいぶん勿体つけられた高村だ。ここで逃がすのは、碧や舞衣にも申し訳が立たない。そう腹に決めてなつきは高村の背広を強く握った。身動きできない高村が途方に暮れているのがわかった。だがあいにくと、なつきも本調子にはほど遠い。まとまらない思考が常の百倍は遅い感覚だった。
 ややあって、高村が鋭く舌打ちした。妙にその音に竦んで、なつきは上目遣いに男をうかがった。高村はやるせなげに笑っていた。

「相当参ってるな、おまえ。悪いけど、家まで遅らせてもらうぞ」
「え?」

 否定も肯定も待たずに、高村がなつきの体を抱えあげた。抵抗もできず、いつの間にかなつきは彼の背中に納まっていた。暴れて降りようとしても、両手が太腿のかなり微妙なところに添えられており、下手な身動きができなかった。

「ちょ、おまえ、何してるんだ、離せ馬鹿! こんな、こんな格好で……!」
「ああはいはい、何期待してるんだよこのゲーム脳が。通りに出たらすぐタクシー捕まえるに決まってるだろ」
「ぐ……」

 あっさり説き伏せられて、なつきは腹いせとばかり、高村の鎖骨の隙間に親指を突き入れた。ただごとではない様子で咳き込む声を遠くに聞きながら、なつきは目を伏せた。
 そして、囁くように、訊ねた。

「おまえ、シアーズだろう」

 答えを待たないまま、都合良く訪れた睡魔に身を委ねた。








[2120] ワルキューレの午睡・第三部四節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/01 06:10


3.ピュートレセント(腐爛)




 高村が石上亘の手引きで風華市に再度拠点を構えることに、九条むつみは異議を差し挟まなかった。ただ気をつけてとだけ、手短なメッセージが届いた。
 アメリカ西海岸を襲った大規模な地震の余波は、少なくともかの国の内部では様々な場所にまで及んでおり、むつみはその動揺に乗じて動いている節が見受けられた。シアーズを放逐されてなお、むつみには後ろ盾があるということだ。高村は彼女の背景について、今やほとんどの見当識を失っていた。とはいえ恐らくはそのバックボーンこそがむつみにとっての生命線であることは間違いない。詮索にせよ偶発にせよ、高村がその仔細を知ることは即座に致命傷へと繋がる。高村にとって、深優・グリーアとジョセフ・グリーアに対しての守秘は物理的に不可能であるためだ。むつみが高村の行動と選択を座視する事とは真逆の力関係ではあるが、当面むつみを信用するしかなかった。

 一方日本国内はというと、平静そのものだった。ニュースでは政治家の発言が取りざたされ、人が死に、企業の汚職が発覚し、動物園では象が飼育員を踏み潰し、競馬場から逃げた馬が老人を引きずって高速道路を疾駆する姿が目撃され、奥多摩でアンドルフ様というあだ名で近隣住民に親しまれていた元ペットのオランウータンが野生のパンダを率い、群をなして市街地を襲撃し、これを当地住民のペットである狐とうさぎと鶏とカエルが迎撃していた。カエルは死んだ。海を挟んだ場所で起きた悲劇については、経済関連はともかく、巷間での認識において、日常の合間に広く義捐金を募る程度である。
 石上の高村への扱いは、まずまず厚遇であるといってよかった。仮住まいとして用意されたのは、何のつもりか玖我なつきと同じマンションの別棟である。石上がなつきと九条むつみの繋がりに気づいていないことに、一定の確信が高村にはある。紫子の能力がそれほど全能だとすれば、そもそも石上が高村の頭越しに九条むつみへ接触しない理由がない。彼女の所在も目的も、だから石上は把握していないはずである。ならば単純に高村となつきの関係を当て込んだ上での処置であると判断できた。
 高村の裏で糸を引く存在には、カードが少ないこともあって手を出しあぐねているというのが本音だろう。あるいは、暗黙裡のうち、石上と真田紫子の間にあるような力関係を築くことを、要求しているのかもしれない。

「あの地震、媛星の影響なんですかね」

 と、高村が石上に尋ねたことがあった。高村が結城奈緒とともに風華市内へ帰ったその翌晩のことである。一人住まいには過度な広さを持つ家具の一つもない部屋で、年若い教師ふたりが顔を突き合わせていた。シュラフとジャンクフードの空袋だけが転がった光景に顔をしかめると、石上は鼻で笑った。

「そうでもそうでなくても、大して違いはないだろうね」幾分口調が崩れていた。高村はかすかに匂う傲慢さをかぎつける。作為的なものではない、自然の感触だった。
「違いはない」
「違いはない」と石上が繰り返した。見えないカンバスにクロッキーを描くようにして腕を振った。「媛星の接近には天変地異が伴う。それは伝承だ。けれど別に媛星が関与しない時代でも災害は起こっている。ならば、認識のフィルターをこの期に及んで変える必要はない。結局防げない現象ならば、最悪の結果だけを予防する。それが一番地の方針だ」
「それだけじゃないでしょう?」
「無論、媛星の力を手に入れることは最重要事項だよ」石上は呆気なく秘匿すべきカードをさらした。「その程度のことは君もシアーズ財団も知っているんだろう?」
「ええ、きっと」
「まさか僕の善意を信じているわけじゃないよね」
「腕を刺してくれた人にそういうものは期待しません」高村はわざとらしく腕を振った。
「僕が君に期待するのはひとつだよ」石上がいった。「踊ってくれればいい。せいぜい目立つように。引き続き、踊り子たちと関わってね。それがクサナギの担い手、星繰りの者のあるべき姿だ」
「色々とご存知でらっしゃる」知れず、ため息が漏れた。未知の単語を追及して石上を喜ばせる真似はしたくなかった。「ところで、シスター紫子は石上先生のことを愛してらっしゃるんですか?」
「さあ。僕は彼女じゃない。彼女の気持ちはわからない」石上は不必要にいやらしく笑った。「ただ、大人としてごく健全な『お付き合い』を、僕はしただけだよ。その結果シスターが僕に対してどう思うかは、これは個人の自由だ」
「剛胆ですね」

 言外に、石上が紫子の想い人であることをあてこすった。自分が非難できる立場にないと知ってなお、言わずにいられなかったのだ。そんな若さを、石上は恐らく見透かしていた。

「彼女は負けないよ。アリッサ・シアーズ、鴇羽舞衣、結城奈緒、それに玖我なつき、誰にもね。それは君もわかっているだろう、高村先生」
「恋する乙女は無敵ですか」
「彼女はもう乙女じゃないがね」

 その露悪的な態度が狙ったものだとわかっていながら、高村は不快感をおぼえた。同時に、明らかに無謀な叛意を抱き、殉じようとしている石上と、硬化した幼い悪意に巻き込まれつつある紫子に対して哀れみを感じた。他人事のようにそれらを眺めながらも、このまま流れに乗り続ければ、高村もまたこの迂遠な心中への同道が不可避となるのは明瞭だった。だが、高村を利用しようと考えるのは石上ばかりではない。誰かの尻馬に乗るだけでも、石上を見切ることは可能だろう。今すぐそれをしてもよかった。だが高村は実行を踏みとどまっている。自分と重なるこの小人の結末に、少しだけ興味があった。
 この人には同情の余地がない、と石上を見つめながら内心で呟いた。少なくとも高村には忖度できない。石上亘は遠からずつけを支払い、間違いなく死ぬだろう。自滅に巻き込まれるわけにはいかない。

「時々なにもかも放り出したくなりますよ」高村は心底から本音を吐いた。「自分ていう存在の陳腐さに絶望します」
「誰もがそう思ってるって、僕は信じているよ」眼差しを真剣なものへと変えて、石上が呟いた。
「俺はきっと、すぐにあなたを裏切るでしょうね」余計な一言を、高村は発した。
「それを言わずに居られないから、君は僕にならずに済んでいる」

 あっさりとやり込められて、高村は閉口した。


   ※


 朦朧とした玖我なつきを負って、高村恭司はタクシーを下車する。教え子の住居である風華市有数の高層マンションは、一学生の在所としては少々以上に奢侈だった。認証式の玄関を難なく抜けて、エレベーターホールにたどり着いたところで、公園からこちら全く声を発さないなつきの体を揺さぶる。少女の全身はかなりの熱を孕んでおり、呼吸は苦しげで、身じろぎして開いた瞳の焦点も合っていなかった。

「玖我の部屋は何号室だ? あと、誰か世話してくれる友だち呼んでおけよ。藤乃とか、鴇羽とか、……他に思いつかないけど」
「悪かったな、孤独で……」むずがるように幼くぼやいた後で、なつきは自らの部屋番号を呟いた。高村がマンションに入れた理由には、思考が至らなかったらしい。

 なつきの居宅にたどりつく過程で、高村は二三のマンション住人とすれ違った。一様に好奇の目を向けてきたが、高村としては開き直るしか術がない。なつきの体重は見た目通りに軽かったが、それでも玄関を前にすると彼の口からは自然に嘆息が漏れた。

「ほら、着いたぞ」背中から降りたなつきは、意外にしっかりとした足取りで立った。高村を茫洋と見上げる顔は、熱のためか目元が赤らんでいる。これが含羞のためならば可愛げもあるが、表情を見る限りそういったことはなさそうだった。「ああ、まあ、今日はどうも日が悪いみたいだから、出直したほうがいいな。それじゃ」
「いい」気だるげに鼻息を漏らして、なつきが顎をしゃくった。「あがっていけ。これを逃したら次がいつになるか信用できないからな」
「まあ、おまえがいいなら俺も構わないけど」

 なつきの心情をおもんばかったつもりの高村は、腑に落ちないながらも肯った。時間を無駄に出来ないのは彼にしても同じことだ。が、鍵をシリンダーに差し込んだなつきの背中が、ぴたりと止まった。吐気でも差したのかと呼びかけると、なつきは開いたドアの隙間に病人とは思えないほど素早く入り込み、勢いよく閉じた。無機質な施錠の音を聞いて呆気に取られる高村に、扉越しに声がかかった。

「着替える。ちょっとそこで待ってろ。……帰るなよ」
「わかった」高村は肩をすくめた。「一応言っておくけど、掃除とかはしなくてもいいぞ。素のままで」
「いいから黙って待ってろ」

 しばらくすると、掃除機の音が聞こえてきた。
 壁も床も暖色に整えられた回廊で、観葉植物を眺めながら高村は立ち尽くした。苦笑をこぼして手すりに体重をあずけ、ガラス越しに眼下の景色を一望する。ここ数日でいくらか見慣れたが、風華における高所の景観は、海を臨むこともあってなかなかの眼福だった。吹きさらしでないのが、少しだけ残念に感じた。
 二十分近く待たされてから、玄関が開かれた。シンプルだが質のいい白地のレースカットソーと七分丈の黒いレギンス、チェックのミニスカートに着替えたなつきが、仏頂面を崩さず促してきた。
 高村はため息をついた。

「おまえなあ。ジャージでいいだろジャージで」
「馬鹿か」より大きくため息をついてみせるなつきだった。「男と一緒にするな。たとえおまえみたいなアホの極致が相手だろうと、最低限ととのえるべき体裁というのが女にはある。……いいからはやく入れ」
「はいはい。お邪魔します」

 框をまたいでスリッパに履き替え、左右に便所と浴室を見送りながら三メートルほどの廊下を抜けると、十二畳のLDKに行き当たった。重厚なカウンター越しに見えるシステムキッチンには、ケトル以外の調理器具は一切見当たらない。食器洗い機もほとんど使われている様子はなかった。
(ブルジョアめ)
 批判よりも憐憫を催す閑散さがあった。高村は理由なく九条むつみも家事が苦手であることを想起する。フローリングを踏みしめながら、やはり消耗しているのか早々にソファベッドへ座り込むなつきを見下ろして、口を開いた。

「じゃあ、話ってやつを聞こうじゃないか」
「ああ」

 頷いて、なつきが差し出してきたのは、数枚のレポート用紙だった。要所に引かれた付箋と注釈と思しき金釘文字を目に留めて、高村はすぐにその内容を察した。神妙な顔のなつきを見返すと、物怖じしない瞳に遭遇する。

「だが、その前にひとつだけ。済まない。おまえに関して、わたしは必要以上の事実まで暴いた」

 玖我なつきが、姿勢をととのえ、折り目正しく、一礼したのだった。
 初対面の人間に銃を突きつけ悪びれなかった少女の直截な謝罪に、高村は一瞬面食らった。だがすぐにその効能を察して舌を巻いた。自然の所為か計算のなせる業か判断に迷う。だがこうして頭を下げられた以上、高村の立場とこれまでの振る舞いから、なつきを責めるという選択肢は消えている。もっともなつきの真意がどこにあろうと、彼の答えに差異はなかった。

「謝られてもしょうがない」腹蔵なしに、高村は胸襟を開いた。「あれだけ思わせぶりに振舞ってたんだから、調べてもらわなければ逆に困ってたよ。もともとそれが目的でもあったんだ」
「そうか」何食わぬ顔を持ち上げると、なつきはそっけなく頷いた。ようやく疑問が晴れたという口ぶりで、「では、美袋命を連れて学園を訪れ、わざわざ目だって見せたのも、わたしをおびき寄せるため、か?」
「そこまで買いかぶられるもやっぱり困る」高村は肩をすくめた。「美袋と同道したのはほとんど偶然だ。多少世話をしたのも、タイミングが重なったせいとしかいえない。元々は、亡くなったあいつのお爺さんに用があったわけだしな」
「美袋の実家については、わたしも機先を制された形だ。現場にもいったが、殺されたのか」
「ああ。行き違いになった」高村はそこでトーンを落とした。「美袋はきちんと、その場で仇を討ったよ。相手はオーファンっぽい化物で、絵図を描いたのが誰かは、結局わからず終いだが」

 一番地に関しては何を話しても実になる要素が少ないと見てか、なつきは命のいきさつを聞いても、黙して語らなかった。
 前哨戦は消化したと見て、高村は早速本題に切り込むことにした。

「それにしても、この資料を見る限り、創立祭の前にはもうある程度目途が立ってたみたいだな。前から不思議だったんだけど、どうやって調べたんだ。興信所を使いでもしないとなかなかこうはまとまらないだろう」
「以前、ちょっとした縁で優秀な情報屋を紹介されてな。思いのほかこれが使えたものだから、おまえの件では頼りにさせてもらった。普段頼んでいるのが都市伝説まがいの噂話だけに、きな臭かろうが実態のある事件には熱意を燃やしたようだ」
「なんとも高校一年生とは思えない人脈だな」それほど有能な情報屋というのが、よりによって風華近辺にいる不自然さを思いながらも、高村は言及しなかった。そのあたりのことは彼の領分ではない。「そうか、じゃあ四年前のことについてもおおよそ輪郭はつかんでいるわけだな」
「ああ。いくらか正誤はあるだろうが、差し支えない範囲であればわざわざ訂正しなくていい。思い出して気分の良いものではないだろう」
「その配慮、玖我とは思えないな。熱のせいか」あえて空気を読まずに、高村は軽口を叩いた。

 だが、よほど体調がふるわないのか、なつきはまんじりともせず、高村の反応をうかがっている。別人と話しているような錯覚に襲われて、高村は咳払いで誤魔化した。
 レポートは、高村が学部生時代に遭遇した交通事故から始まり、両親と恩師を亡くす結果に終わる一連の事態を、ほぼ正確にトレースしていた。もちろん外部からは知りようがない事情は省かれている。とはいえ今となっては、当事者の内で真実を語る口を持っているのは、高村と九条むつみの二人だけだ。
 想起して、心がざわめかないといえば嘘になる。ただ四年も経てば、事件自体を客観化してとらえる素地は充分にあった。ましてや思慮なく暴かれるのならばともかく、なつきに関しては高村自身が誘導したこともある。付け加えるならば、彼がなつきに対して仕向けたのは、シアーズにも九条むつみにも繋がらない、独自の行動でもあった。

「それで」大儀そうに身じろぎしながらなつきがいった。「そこに書かれていることは事実と受け止めて、いいんだな」
「少なくとも表層はとらえてる」高村はうなずいた。
「内面に関しての質問はある程度まとめてある」
「質問に答えるのはやぶさかじゃないが」高村は前もって釘を刺すことにした。善後策というよりも話題となつきの意識を誘導する必要があるからだ。「全面的な暴露は期待するなよ。また、俺が何もかも知ってるなんて思うのも心得違いだ。おそらく玖我が一番欲しいであろう一番地について、俺は具体的な実態はほとんど知らない」
「それくらいは見当がついているさ……」なつきが口端を歪めた。「単刀直入に聞こう。まずはおまえ個人の目的だ。おまえはなにがしたい? そこにある過去とやらを踏まえて、何をするためにここにいる?」
「それこそ、ある程度目算がついてるんじゃないか?」

 高村が切り返すと、若干白々しい沈黙が降りた。冷房の稼働音が、ふたりの定まらない思惑をいくらか緩和する。高村はぐったりと体重を背もたれに預けるなつきを見、なつきの焦点は高村を通り過ぎ、不可視の思考に結ばれているようだった。

「復讐か。以前言ってたのは、つまりそういうことか?」
「そうまで格好のいいものじゃないけど、おおよそそんなところだな」
「問題は、その対象だ。相手は一番地と考えていいんだな?」
「そこにちょっとしたおまえとの相違がある」高村は告げた。「俺の目的はもっと局地的だし、具体的なものだ。つまりおまえも当事者である媛星がどうとかいうこのシステムを、台無しにするつもりで動いている」
「まあ、そうなんだろうな。意外とまともで、少し拍子抜けの感はあるが」なつきは曖昧に笑う。「そのやり方にどうこう言う気もするつもりも、わたしにはない。ただ、……ああ、今、言葉を選んだな? おまえのそれはたぶん、わたしや舞衣みたいなHiMEに、直接益する類の妨害じゃあ、ないんだろう。たとえば、HiMEに被害を出さず媛星の落下を防ぐといったようなものじゃない。もっと破れかぶれで、捨て鉢なものだ」
「ああ」

 なつきの口調に容赦や糾弾の響きがあれば、高村は保身のため真意を韜晦するつもりでいた。だが少女の浮かされた表情には、ただ諦観と無関心があった。降って湧いた終末への疑念ではなく、高村という個人への同情や理解でもなく、もっと根源的な、未来への深い断念があった。
(……こいつは)
 高村の背に、冷たいものが差した。玖我なつきという少女について、何か決定的に読み違えているものがあるように思えた。
 瞳も向けずに、なつきはその逡巡を見透かしたようだった。小さく鼻で笑って、宥めるように言葉を継いだ。

「そう不思議がるようなことか? いつか自分で言っただろう。過去をよすがにして生きているような人間は、結局そういうふうになるんじゃないか。見つめる先が違うなら、等閑になるものも出るのは当然だ。……もちろんわたしも、世界が滅べばいいと思ってるわけじゃない。誰も傷つかず、犠牲を出さない冴えたやり方があれば、当然それを選ぶ。ただ、……碧や、舞衣は、あえて触れないようにしていたが、仮に世界が滅ぶとして、十人ばかりが礎になってそれが回避されるというならば、それは実際限りなく最善に近い解じゃないのか? とわたしは思う」
「率直に言うぞ」高村は苦々しさを隠さずいった。「おまえらが含められた因果は理不尽だ。でも、おまえの言うとおりだ」
「べつに、おまえが気まずく思うようなことじゃない」なつきは笑った。「そうだな、結局は運が悪かった、それだけのありふれた話なんだろう。巻き込まれたほうはたまったものじゃないが、それこそ無関係ならば、日常でも見過ごしている程度の悲劇なんだ、これは。倫理の問題ではなくて、……だから、わたしは、この仕組みそのものに、義憤に駆られるということは、あまりない。より正確を期すならば、その余裕がない」
「問題は」高村は言い添えた。「システム自体を提示した相手が信用に足るかどうかという点だ」
「そうだ」なつきは諾った。「そして、その点を一番地が充たしているとは言いにくい。実際、最善を尽くさず、悪趣味としか言いようがない状況を仕組んだ連中をこそぶち殺してやりたいと思っているが、……いや、結局はこの儀式も一番地が作ったのなら、そうでもないのかな。ともかく――最終的に、わたしがチャイルドを供することでしかどうにもならないとなれば、捧げてしまうだろうな。……なんて、想い人がもう死んでいるからこそ、こんな暢気なことが言えるんだろうが」

 なつきの吐露を受けて、高村は是非を問わなかった。なつきもそんな応答を望んでいるわけではないだろう。高村もなつきも、他のHiMEや触媒とは立場が違う。予備知識があり、事前にある程度の事情を察していた。その上で自身の思惑と画策を優先し、結果、すでに日暮あかねと倉内和也という犠牲が生じている。
 そして、この後奇跡的に争いを介さず媛星による終末を回避する方策を編み出したとしても、今となっては都合の良いその最善手さえ、現状の縮小形でしかない。一身に被害を背負ったあかねと和也に対して向ける顔は、誰にもなくなってしまうだろう。あらゆる術を模索する現時点は、そうした意味で奇妙な均衡を得ているのである。その輪から外れた位置に立つ高村やなつきは、後ろめたさを共有していた。

「おまえの触媒、想い人っていうのは」
「母だろうな」なつきは、その単語を抱くように口にする。「他に心当たりがない。母が死んでからのわたしは、大切なもの、人、場所、……そういったものから、なるべく縁遠くあるよう生きてきた。完全にうまくやれたとは思わないが、それでも、やっぱり、いちばん大切な人は、母なんだ」
「なるほどな」
「そういうわたしだから」自嘲を加えてなつきは続けた。「前向きな展望が見えない。舞衣がチャイルドを呼んだ時に、少しおまえとそんな話をしたな。充分かなんて知らないけれど、……何度も考えたことはあるんだ。一番地を……、相手取って、どうするのか。儀式、祭の進行に従って、さすがに連中の尻尾は見えてくるだろう。わたしはその機会をずっとうかがっている。手の打ちようもなかったこれまでとは状況が変わる。現実的に、組織を敵に回して、HiMEの力を使って相対する。どうなると思う?」
「殺すか、殺されるかにしかならないだろうな。そしてかなりの確率で後者になる」高村は衒わず答えた。「おまえにいわゆる社会的権力はない。立場もない。経済力も個人としては上等だが、破格では全くない。あるのは暴力だけだ。それも、おまえが人間である以上、使いようをどこかで間違える」
「そしてわたしは呆気なく死ぬ」なつきが続きを引き取った。「一番地にとって目障りな動きをしながらもわたしが特に問題視されていないのは、腹立たしいが連中に対して実質的損害を与えられていないからだ。土俵にさえ上がれていない。はぁ……、あとは単に、この儀式との兼ね合いだろう。要するに、奴らが描いた絵図からはみ出た場合、どう対応してくるかはわからない。そしてわたしには、不特定多数の人間に害意を向けられた場合、これを勝利条件を達成するまでしのぎきるのは、……不可能とは言いたくないが、限りなく近い難事ではある」
「いやに殊勝じゃないか。一ヶ月前からそうなら助かったんだけどな」

 高村の揶揄に、なつきは苦笑で応じた。

「熱のせいということにでもしておけ。……まあ、この頃は、焦りで手段を選ぶ余裕がなかったのも事実だ。それに、結局、わたしはこういう具体的なことは、ずっと考えたくなかった」

 と、

「ストップ」

 続けて言葉を連ねかけたなつきを、高村は制した。なつきが答弁以上の領域に没頭しかけているのを感じたからだ。いぶかしむ気配を対手から見出すと、高村は気が進まないものを感じながらも、明言することを決めた。

「盛り上がってきたところに水差して悪いがそのへんにしてくれ。今日この場で俺たちがしようとしてるのは悩み相談じゃない。おまえが何を感じてきたのか、どう思っているのかについては、俺よりももっと話すのに相応しい相手がいるはずだ。よく考えろって、前にも言っただろう? 俺とおまえの付き合いがどれほどのものだって言うんだよ。二ヶ月かそこらだろう? それにしたって、腰を据えて育んだような関係じゃない。頭から疑ってかかられるのも難儀だが、今日のおまえは少し素直すぎる。もっと俺に対して警戒してたはずじゃないか」
「……」寒気をこらえているのか、吐息を震わせながらなつきが瞑目した。ややあって、彼女は戸惑いがちにいった。「……そう、だな。あまり頭が働いているとは言えないのかもしれない。……くそ、それもこれもおまえが妙な振る舞いばかりしているせいだろうが。……ちっ、だいたいなんでわたしが下手に出なきゃいけないんだ?」
「なんでそこでいきなり切れるんだよ。そもそもいつ下手に出たんだおまえ」今度は高村が戸惑った。「まあちょっと冷静になったんならいいけどさ」
「つまらん感傷なんだ」なつきはきっぱり言い切った。「自分でも意外だが、舞衣や命、おまえの境遇に少し感じ入るものがあるのかもしれない。日暮のこともな。精神的にも肉体的にも疲れているのは事実だ。……それに何より、負い目を感じている。同じくらい、疑念も」
「何にしても、その手の苦慮はやすやすと解消できるものじゃない」高村は手を挙げた。「他人にできるのは気休めくらいだ」
「その気休めもするつもりはないんだろう、先生は?」
「まあ」
「妙なところで厳しいよ、おまえは」

 投げ槍に呟くと、なつきは大儀そうに席を立った。たわむソファを横目にしながら、高村はその動きを目で負った。不穏な確信が芽生えつつあった。

「玖我?」
「聞きたいことは数あるが、どうにも頭に入らない。だからこれだけを聞いておく」

 なつきの手には、拳銃のエレメントが具現化されていた。高村はほろ苦く笑んだ。

「馬鹿の一つ覚えか?」
「恫喝は交渉術の一種だ」なつきに不調以外の揺らぎはない。「極端な話、こんなざまのわたしでも、チャイルドを用いればおまえを拘束することは可能だ」
「極論つきつけるのも詐術の常套手段だよな。俺もよくつかう」高村は微苦笑した。「それをしないのが譲歩とか言うんじゃないだろうな」
「だめか?」なつきがわざとらしく目を瞬いた。「……だいたいおまえ、いま、そんなに余裕ぶっていられる立場なのか?」
「……どういう意味だ?」高村はあえて空とぼけた。
「苛立たせようとしても無駄だ。いまのわたしには思考以外に割くリソースがない」なつきはきっぱり告げた。「だからこういう手もできる。気分は最悪だが、案外悪くないタイミングだったのかもな。……一週間前、おまえが出勤しなくなったタイミングがいつか、忘れたわけじゃないだろう? 日暮の脱落をきっかけにして、わたしたちを中心にした構図が劇的に変動した。日暮は何かに敗北した。HiMEは儀式の意味と存在理由を知った。前後しておまえが消えた。それに、――結城奈緒もな」
「なるほど、そこにつなげるわけか」高村は嘆息した。「俺と結城がつるんでるのは誰に聞いた? ああ、碧先生か。まあ、一緒にいたしなぁ。あの状況じゃしらを切るわけにもいかないか。で、日暮の件についての容疑者が俺たちだと?」
「そこまで短絡的に思われるのは……ま、否定できないが」なつきが鼻をすすった。
「おい」
「瓜田李下というわけだ、先生」なつきが唇を吊り上げた。「……そこだけははっきりさせておかなければならない。結城は正直、信用できない。顔見知りのHiMEの中では、儀式に乗るであろう馬鹿の最右翼だ。それとも、おまえが手綱をとっているわけか?」
「あいつにそれは無理だ」
「だろうな」なつきはなぜか満足げだった。「では、スタンスはどうだ。話をしてないはずはないな?」
「不明瞭だ」高村は正直に述べた。「結城は結城で複雑だよ。直情径行なきらいはあって、確かに単純なんだけど、天邪鬼だからな。誰かの思惑通りだと知ってだれかれ構わず喧嘩を売り歩くのも癪だっていうのが、本当のところだと思う。少なくともこの一週間は動きを見せてないだろう? ただ、それもべつに俺の指示じゃない。俺はそのことについて、好きにしろとしか言ってない」
「……ずいぶん仲が良いみたいだな」胡散臭げになつきがいった。「止めろとも言ってないのか」
「それを言うと、あいつの場合逆走する可能性がすごく高い」高村はため息をついた。「仲の善し悪しについては、ノーコメントだな。ただ個人的にはあいつほど可愛げがないやつも珍しいと思ってる」
「じゃあ、結城は日暮を、やってないんだな」なつきが慎重に核心を切り出した。
「誓ってそれはないよ。アリバイがある。俺にも、あいつにも」高村は真直ぐなつきを見返して、答えた。「そもそもあいつが最初に狙うのは十中八九おまえだ」
「違いない」なつきが苦笑した。「そう、か――」

 長々と息を落とすと、気抜けしたようになつきは頬を緩めた。エレメントも一瞬で虚空に溶ける。緩んだ反動か、不意にキッチンへ向かいかけた足取りがもつれたのを見て、高村はなつきを支えた。
 手にすんなりと納まる小さな肩は、先ほど触れたときより、明らかに熱を持っていた。明朗に会話を続けていられるのが不思議なほどだ。高村はつと不安を覚えて、反応のないなつきを見下ろした。
 変わらず、少女の瞳から剄さは消えていない。突き上げてくるような視線に圧されて、高村は目を逸らした。
 声と吐息が追いかけてきた。

「返事をまだ聞いてなかったな」誰かをはばかるような、それは囁きだった。「結局、おまえはシアーズに帰属しているものと見ていいのか?」
「この間まではそうだった」どう説明したものか迷いながら、高村は答えた。
「なに?」
「今はちょっとわからない。ただ、そうだな、俺の立場っていうのがなかなか微妙なんだよ。そもそもシアーズ財団の説明自体が難しいんだけど」
「難しいなら、今はいい」瞳の焦点が、徐々にほどけていく。「知りたいことは調べるさ。肝心なところはもう聞いた」
「そうしてくれると助かる。俺がおまえに話せるところなんて実質もう売り切れだ」

 それは明らかな嘘だったが、なつきは信じたようだった。少なくとも、そう振舞ってみせたのだった。あるいはそれが少女が奇怪な教師にした最大の譲歩だった。

「シアーズはわたしの敵か」
「敵にはならないだろう。あらゆる意味でな。それは一番地と同じだ。相手にもならない」
「じゃあ」なつきが数秒の沈黙をはさんだ。「おまえは?」
「教師は生徒の味方だ」高村は迷わなかった。
「ふん、信じてやるよ先生、その臭い台詞」

 呆れたように吹きこぼすと、なつきは体を離した。確かな足取りで寝室へ向かっていく。

「もう帰れ。そろそろ静留が来る。……話の続きについては、二三日中にこちらから連絡する。携帯はそのままだな?」
「ああ、そのままだよ。なあ、玖我、俺からもひとつ聞いていいか」なつきが振り向いたのを見てから、高村はいった。「どこでシアーズについて知ったんだ?」
「もうひとりのアリッサ・シアーズが、創立祭の日にわたしに接触してきた」

 なつきは簡素に答えた。それ以上語るつもりのないことは容易に察せられた。その返答を聞いた高村が文言に迷った時点で、なつきはある程度まで彼の関知があることを認識したようだった。

「おまえは隙が多すぎる」なつきの感想には若干の哀しみと諦念があった。

 高村はつたない辞去の言葉を述べると、そのままなつきの自宅を後にした。名残はなかった。混乱が胸に迫っていた。もうひとりのアリッサ・シアーズ、と彼は胸裏で呟いた。
(九条さんは知ってるのか?)
 知らないという可能性は低い。だが、『シアーズ』がなつきに接触したという事実は看過できない。当面九条むつみとの連絡は控える予定だったが、無茶をする必要があるかもしれない。その是非も含めて、慎重に吟味せねばならない。
 諸々の事情で進退を同舟する九条むつみにしても、『九条むつみ』としての思惑全てを高村に語ったことはない。むつみにはむつみの、高村には高村の思惑がある。彼らは共同歩調を取っており、高村にはむつみが不可欠だが、むつみにとってどうかといえば、必ずしもそうではない。
 高村はむつみに情を寄せている。むつみもまた、少なからず己に目をかけているという意識もある。公私共にその程度の関係は育んできた。
 だが、むつみは高村とは違う。目的に相対した際に意志の純度を保つ透徹さを、彼女は持っている。それは高村が得んとしてつとめて、結局諦めざるをえなかったものだ。能力というよりも両者の経験と性質がもたらした違いだった。九条むつみは感情の塋域を持っている。高村は、取り分けこの数ヶ月で、その種の割り切りが絶望的に不得手であることを自覚していた。
 いま、風華はステージの過渡期にある。主導権の争奪戦は激化して、夏の終わりまでに傾斜しきるだろう。誰かが決定的な舵を握ってしまえば、高村が望みを果たす目は消滅する。
 一番地にも、シアーズにも、むつみにも、無論HiMEを含めたその他の誰一人、混乱を収拾させてはならない。儀式をまっとうさせてはならない。ましてや元凶たる媛星を打倒するなど論外である。真田紫子が低劣と断じた彼のアルケ。

 媛星が墜ちる瞬間、現世界最後のその日まで狂騒を続けることが、高村の目的だった。

(これはチャンスか?)
 胸に昂揚の予兆が差した。儀式の開始、石上との提携、なつきの疑惑、グリーアの目的、むつみの動向に、『シアーズ』の介入。全面的に駒のひとつでしかありえない彼が、一端なりとも主導権に関わるための、極めて細い道が見えつつある。
(利用できるのは誰だ)
 問題なのはその選択と、タイミングだった。はじめに切られた期限が迫っている。アリッサと深優を始めとした先遣隊はいま、焦れに焦れているだろう。高村が万端準備を整えるまで、強攻策を実行しないと考えるのは都合が良すぎる。
(しくじったら、死ぬかな、今度こそ)
 アリッサ、深優に寄り添い、全面的に彼女らの庇護下にあった頃からは、事情が変わってしまっている。求めれば応じられる可能性は低くないが、その場合高村が差し出すのは余生の全てになるだろう。一身上の信条をかんがみても、そこまで恥知らずな真似は、彼にはできそうもなかった。
 にわかに緊張感が増した。高村は黙考しながら、靴を履いた。かえりみた廊下に、見送りの影はない。
 唾液を嚥下する。覚悟を問うように、喉から不自然な音が鳴る。
 瞳を伏せた。直前に吐いた白々しい言葉が、それに対する教え子の答えが、鮮やかに再生された。

「じゃあな、玖我」

 ゆっくりと、後ろ手に扉を閉じた。


   ※


 目の前に藤乃静留がいた。


   ※


 静留は常の通りだった。背筋を立てて柔和に微笑み、一週間ぶりに現れた教師が友人の部屋から出る場面を目撃しても、振舞いに崩れたところは一切ない。
 むしろ仰天したのは高村のほうだった。動揺を表に出さないことだけに苦心しながら、それが成功していないことを自覚せざるを得なかった。現場を押さえられた間男のようだと、倒錯した、場違いな感想さえ思い浮かんだ。
 少女から脱しつつある彼女は優雅に会釈し、歩み寄ってくる。高村はわけもなく静留に道を譲る。何かしら言葉をかけるのが普通の対応だと思う。だが不思議と言葉が出ない。被害妄想じみているが、静留の微笑に、彼は拒絶を汲み取っていた。

 静留がいった。「お久しぶりどすなぁ、高村先生。怪我のぐつわるかったそうやけど、もうよろしゅおすか?」
 高村は答えた。「もう問題ないよ。それよりも玖我のほうが大変みたいだ。悪いけど、看てやってくれ」

「そのつもりどす」静留は莞爾とした様を崩さない。「すぐ黎人さんやら鴇羽さんも来やはるさかい、先生もせわしのう帰らへんとまだおいなはったらいかが?」

 静留の笑顔はそのままだったが、かえってその硬直性に、高村は言外の非難を受け取った。ほとんど直観的に、これはお茶漬けを出されているのだろうなと悟る。学園に来ず、おまけに不調の親友の家に上がりこんだ教師に対しての態度だとすれば、なるほど納得するしかない。

「看てやってくれ、なんて傲慢だったな」高村は静留に頭を下げた。「いや、折角だけど俺は退散するよ。他の連中には、よろしく言っておいてくれ」
「おかどが広おすなあ」そこで初めて、静留が少しだけ声を低めた。「はばかりさんどす」

 高村は曖昧に笑うと、早足で歩き出した。なつきの部屋も静留も、振り返りはしなかった。
 逃げるように立ち去る背中に、張り付いて離れない視線を感じた。


   ※


 数時間が経った。見舞いに来たのか遊びに来たのか分からない人々は、明日の補習を最後の最後で告げて、既にかまびすしく帰っていた。
 玖我なつきは、未だ臀部に残る違和感をもてあましながら、布団に包まれ身じろぎする。一日にあれほどの人を部屋に迎えたのは初めてのことで、空調の稼動音を残してすっかり静かになると、より存在の不在が際立った。思えば小学生の折、無心に友人たちと戯れていたころは、こんな喪失感とも懇意にしていた覚えがある。
 薬が効いたのかネギの効能か、おそらくそのどちらでもなくHiMEの力のなせる業なのだろうが、熱はすっかり引いていた。消耗した体力を取り戻すための食事も充分にあった。舞衣がつくっていった粥の余りにマヨネーズをかけて食べながら、なつきは腰にしいた巨大な枕のファスナを下げ、綿をかきわけて内部からくたびれた人形を取り出した。舞衣と共に忍び込んだ岩境製薬の跡地、なつきの母も所属していた研究室で見つけたぬいぐるみである。一家が揃って暮らしていた当時に飼っていた犬を模したものであることは一目でわかった。モデルは、なつきにとっての『最初のデュラン』だ。
 それがただのマスコットであれば、なつきは見えない古傷を疼かせるだけで済んだ。だが、ぬいぐるみの内部には、指先ほどの香水瓶が押し込まれていた。空き瓶ではなく、紙片を封じ込んである。明らかに暗号とわかる文字列が記されており、脳内でマトリクス表を描くと、なつきは数秒でその意味を理解した。数年前に母が死んで後、父から回されたいくつかの遺産のなかに、パスワードが不明なまま放置されていたデータバンクの存在がある。
 不吉な予感を感じながら、なつきはPCを立ち上げ、玖我紗江子のドメインで該当データバンクにアクセスした。胡乱な気分で解読した暗号を打ち込んだ。
 通った。
 その残高を見、なつきは絶句した。口座が開設されたのは、紗江子が死んだ日付の、ほとんど直前である。にも関わらず、八桁に及ぶ入金が即日で行われている。いくら母が高給取りだったとはいえ、真っ当な民間人が一括で受け取れる金額ではなかった。何より、玖我紗江子のメインバンクは決してこの口座ではない。夫であるなつきの父さえ、紗江子が死ぬまで存在を知らなかったのだ。
 明かりの落ちた部屋で、液晶モニタを見つめるなつきの相貌は、青白くかがやいていた。乾いていくその瞳の裏側で、知りえた数多の情報が分解され、咀嚼され、再構成されていく。『シアーズ』の少女――その言葉と出自――高村恭司――そして、この出来不明の入金。

「あ、れ?」

 推量を吟味する過程で閉じたまぶたの裏に、閃いた光景があった。

 風邪。看病。このにおい。暗い部屋。

 薄ら寒くなるほど鮮烈なデジャヴがなつきを襲った。
 いつか、幼い玖我なつきは風邪を召したことがあった。今日、この日と同じようにだ。
 なつきは内気だったが体は丈夫で、母を失った事故までは、大きな怪我をしたことはない。ただし大病には届かぬまでも、年に一、二度、手ごわい風邪を引いて寝込むことがあった。そんな日は商社に務めながら激務に励む父も早く帰っては、疲れた体もいとわずなつきの様子を看てくれた。母も仕事を早く切り上げ、寝込むなつきの看護をした。
 ただし、父は仕事柄頻繁に海外へ足を運んでいた。なつきが子どもの身でいくらぐずろうと、どうにもならないときも、確かにあった。人一倍親を恋しがる性質であったなつきは、そういう時期には母の仕事場にまでついていった。病身ならば、孤独感はさらに煽られたはずだ。なつきが心から慕う優しい母は、熱に喘ぐ娘に対し、過保護なまでに接したはずである。なつきの記憶にはそうある。
 なぜかその記憶は、紙片を封じた香水瓶から香るにおいと不可分だった。
 マリリン・モンローが愛用した、それは世界でもっとも有名な香水だ。シャネルの5番である。なつきの感性からするとややけばけばしいまでの香気だ。間違えるはずはない。
 違和感だけがあった。娘を案じ、母は薬を与えた。娘は眠気にとりつかれた。高熱に魘された。寝汗に寒気を感じ目を醒ました。
 部屋は真っ暗だった。
 手を握っているはずの母はいなかった。
 むせるような香水のにおいが残されていた。
 ファンシィなぬいぐるみの、うつろなボタンの目が、暗がりから涙ぐむなつきを覗き込んでいた。

「……なん、で? 」

 記憶には、当たり前に錯誤がある。食い違うこともある。捏造さえ起こりうる。それが尋常の人間である。
 だが、玖我なつきにとっては違う。彼女の記憶力は常軌を逸して優秀だった。この手の錯覚には免疫がない。
 だからこそ、不快感が募るのだった。

「お母さん……、ママ。母さん。母親。玖我、紗江子。わたしの。大好きなひと。もういない。わたしは」

 突き刺さるような痛みが、眼窩の横から襲ってきた。
 茫然と、なつきは核心を紡いだ。

「何かを、忘れてる?」


   ※


 その年の七月が、最終週に突入した。二三度強い雨が降り、時おり激しい風が吹いて、酷暑を和らげた。例年と同じく、いつになく蝉のこえが多く感じられる、当たり前の夏であった。

 表面上均衡を保ち続けている風華市では、いくつかの罪のない出来事が消化された。目を背けたくなる類の事件も水面下では起きた。前者については、終業式の翌日、鴇羽舞衣の誕生日を祝う催しがその代表例であろう。杉浦碧が家庭科の補習を名目に行った調理実習には、最前の海水浴では不参加を貫いた結城奈緒もその顔を見せた。
 結果として食中毒患者を量産し、碧には謹慎と減給の沙汰が降りたが、彼女は少女たちの集いに概ね満足したようだった。
 合理的に職務から解放される名分を得ると、碧は改めて媛伝説についての研究資料を総浚いしはじめた。結果は芳しからぬものだったが、いくつかの収穫と、ある椿事が彼女を驚かせた。
 いつも通り払暁に床に入り、ワンルームマンションの玄関を訪れた物音に目を醒まし足を向けると、そこには分厚い封筒が投函されていたのである。
 差出人の名前は高村恭司だった。ただし彼自身の伝言のたぐいは一切なかった。封を開けた碧が目にしたのは、故天河諭教授が生前に費やした研究成果の全てであった。


   ※


 十六歳になった鴇羽舞衣は、ルームメイトの美袋命とともに、若干の警戒を残しつつも、努めて日常的であろうと振舞い続けた。
 夏場に入ってやや体調を崩した弟を連日見舞い、アルバイトも欠かさず、家に帰れば命の面倒を見た。その合間で意識せざるを得なかったのは、同僚でもある日暮あかねと倉内和也の不在だった。他の人間の、失踪した二人に対する反応はまちまちだった。純粋に応援するものもあれば、無鉄砲さと無責任さを呆れるものもあった。
 舞衣は話を振られるたびに、どちらともつかない態度で返答を留保するしかない。あかねは倒れ、和也はわけのわからない理由で死んだなどと、どうして言えるだろう。むしろ気がかりは他人や自分ではなく、二人の家族だった。あかねはともかく、凪の言葉を信じるならば、和也は死んだのだ。彼の家族は、それをどのようなかたちで知るのだろう。あるいは、彼という人間そのものの痕跡が消されてしまうのだろうか。聞けば、一番地という組織にはそれほどの技術があるという。にわかには信じがたいが、もし本当だとすれば、この上なく的確で、残酷な処置であると舞衣は思う。
 死について、舞衣はよく考える。比較するのも妙な話ではあるが、同年代の平均的な少年少女を見渡せば、いささか過剰なほど、考えている。それは既に両親を亡くしているためでもあるし、病にとらわれている弟を意識せざるをえないためでもある。手ひどい理不尽を押し付けられ、それを乗り越えたつもりでいる舞衣は、だから同様に、いわゆる『悲劇的』とカテゴライズされる人間が落ちやすい陥穽にいた。死への怕れは無論ある。何より避けたいとも思っている。でありながら、同時に慣れ親しもうとさえ、識閾下で思っている。
 誰にも気づかれないままで、鴇羽舞衣の精神はもっとも危うい傾斜に立っている。

 命はというと、結城奈緒と時おりどこかに連れ立ちながらも、以前のように帰宅が遅れるようなことはほとんどなかった。このことは舞衣を大いに安心させたが、同時に一抹の不安ももたらした。玖我なつきの言を待つまでもなく、結城奈緒が能力の行使にためらいを持つ人間ではないことは明らかである。命と彼女が友人だとしても、舞衣の目から見た関係性はひどく危うげで、到底健全なそれとは判じかねた。
 具体的な解決案は持たないままで、舞衣はともあれ奈緒と一度談合の機会を持ちたいと、なつきと碧に提案した。なつきは気の進まない様子だったが、これを碧が快諾した。
 奈緒に関しては、まず消息をつかむ時点で難航した。とにかく寮にいつかない少女なのである。最終的に命の嗅覚という微妙に信頼の置けない要素に頼りつつ、どうにか探し当てた奈緒は、舞衣に対して関心なさげに振舞うだけだった。どころか、明け透けな敵意さえ見せた。

「嫌なこった」

 舞衣の職場でもあるリンデンバウムにて、出された水に口もつけず、奈緒は舞衣の要請を突っぱねた。命は同席させないほうがよいと判断したので、先に帰らせてある。代理として適材かはともかく、隣席ではなつきが一言も口を開かないまま、無関心を通していた。が、その存在だけで奈緒を刺激しているのは明らかだった。

「ど、どうして?」舞衣は食い下がった。「奈緒ちゃんだって、ミコトと友達じゃない。だったらHiME同士で戦うなんてしたくないでしょっ?」
「はん。まだそんなこと言ってんの?」奈緒は侮蔑もあらわにいった。「ていうかさ、そういう話ならミコトがすればいいだけじゃん。なんでアンタが出てくるんですか? 保護者ってやつ?」
「そういうわけじゃ、……ないけど」
「あたしは誰に命令されるのも嫌。それだけ」奈緒の鋭い目が舞衣を突き刺した。「ヤりたいときに、ヤりたい相手を、あたしはヤる。あんたらが言ってるのって、売られたケンカもまともに買うなってことでしょ? 冗談じゃない。舐められたらやり返すに決まってるだろ」
「だけどさ、もし負けちゃったら」
「しつこいよ。それこそアンタには関係ない」奈緒が苛立ちをあらわにした。「あんた、……ホント、イイコぶってむかつくわ。弟がビョーキなんだって? そんでせかせかバイトしまくってんだって? あおいがよく言ってるよ。『マイちゃんはすご~い、すっご~い!』ってさ。もう、耳にタコができるくらいだわ。……なに、あんたにとってはあたしもそういう対象なわけ? 守ってクダサルわけですか?」
「そういうんじゃないよ……」舞衣は尻すぼみに「なんで? あたしおかしいこと言ってる? どうしてそう……」
「うざいんだよ」

 途端に声から感情をそぎ落として、奈緒がいった。舞衣は面食らって黙り込んだ。まともに口も利いたことのない相手に、こうまで嫌悪感を持たれる理由が思い浮かばない。頼りのなつきは、黙々とグラタンを平らげながら沈思していた。

「――なんで、そこまで言われなきゃいけないわけ」さすがに語調を固くして舞衣はいった。
「べつに。ただ生理的にむかつくだけ。そこの玖我と同じ」奈緒はむしろ軽やかにいった。満面の笑顔だった。「そのさぁ、がんばってます、大変なんです、でも全然平気、みたいな態度がね、イラつくのよ。弟ってあの創立祭のときのガキでしょ? いかにも体弱そうだったけど、学校通ってないらしいじゃん? つまりそこまで悪いんでしょ。それを高校生がアルバイトでどうにかしようとか、……馬鹿じゃないの? どれだけ働いたって無理があんでしょ。なら素直にあのガキんちょ理事長にでも頼ればいいのに。出してくれるんじゃない、涙流しておねがいしますぅって土下座でもしたらさ?」
「それは、大変なのは確かだけど」舞衣は口ごもった。「でも、誰かに頼りたくないだけ。それにこれこそ、奈緒ちゃんには関係ないことよ」
「あっは、ムッと来てるの? ごめんなさい鴇羽センパイ、私ったら正直でぇ。……ホラ、ボロが出てるんじゃん。つまりアンタ、必死じゃないんだよ。見栄とか自分の力でとか、それこそ『わたしはイイコです』って周りに言って見せてるようなもんじゃない。ミコトに関してもそうでしょ? ホントは自覚してんじゃないの? いいお姉さんぶって、うすら善人面して、……アンタ、そんなんでミコトのことわかってんの? 自分は保護者だからとか思って、適当にあやしてるだけじゃないの? ペットかなんかだと思ってんじゃないの?」
「あはは、……奈緒ちゃんには、そう見えてるわけだ? まいったなぁ」

 自制を命じながらも、舞衣の問いは重たく低いものへ変わった。いくつか痛いところをつかれたせいもある。傷口を狙って穿つような奈緒のやり口が、悲しいせいもある。

「ほら、またポーズ。余裕のつもり? はっ」奈緒が鼻を鳴らした。「馬っ鹿じゃないの!? ムカついてんなら怒れよ。気に食わないならそう言いなさいよ。そんなハラも見せないで一方的に言うコトを聞けとか、心っ底、……反吐が出ンだよ。嫌々オトモダチごっことか、馬鹿にするのも大概にしてくんない?」
「ごっことか、そういうんじゃなくて!」

 言い募った舞衣を、制したのはなつきだった。

「もういいだろ、舞衣。こいつには何を言っても無駄だ」
「そうそう、わかってんじゃん」奈緒が頷いた。
「わかってるさ」なつきが笑った。「おまえがどうしようもない反抗期のガキだってことくらいな。嫌いなものは偽善者か? 典型的過ぎてあくびが出るよ。それにさっきからおまえが舞衣に言ってる言葉、僻みにしか聞こえなかったが?」
「……んだと」奈緒が表情を改めた。細められた瞳は、嗜虐から、明快な攻撃色のそれへと転じる。
「チャイルドをつかってすることが小悪党の所業そのものではな」なつきはさらに嘲った。「やりたいこともない。することもない。だから何かに夢中になっている手合いが羨ましいんだろう? 美袋命が自分より懐いているのが気に入らないんだろう? おまえが言っているように本当に関係のない相手なら、そうして突っかかることもしないだろうさ。ガキだな。本当にガキだ。意識しているって自分で触れ回ってるようなものだ。……聞こえなかったら、はっきり、言ってやる。おまえは舞衣を、僻んでるんだよ、クソガキ」
「アンタ……」奈緒が歯を軋らせた。
「なつき止めて!」

 奈緒がエレメントを持ち出しかけ、なつきが呼応し、舞衣がそれを止めにかかった瞬間、レストランの店内に、軽快な着信音が響いた。

『……』

 三人の間が、微妙に外される。出所は奈緒のスカートからであった。なつきから視線を外さないまま舌打ちを落とすと、奈緒がポケットから携帯電話を取り出した。液晶の表示を見て一瞬顔を歪めると、いかにも嫌々といった様子で受話し始めた。

「なに。なんか用」ぶっきらぼうに奈緒がいった。「え? ゴハン? 知らないわよそんなの。一人で食べてろよ。寂しいとか、……バカじゃないのキモイキモイ。……いや、なんでよ。いや、いやいや違うってだから、はあ!?……そう、そう、ってそれディ○ニーじゃないのよ! あそこ酷い改変ばっかだから、……だーから、あたしが言ったのはコクトーの、ジョゼット・デイが超キレイなやつで……だからそれじゃないっつーの! アニメだろそもそもそれ! 目腐ってんじゃないの? ああもうわかった、わかったようっさいな!……チッ」

 啖呵を切って嘆息を漏らすと、携帯電話をしまい、奈緒は不承不承、舞衣と、そしてなつきを見下ろした。

「……アンタらよりムカつくやつがいたわ。じゃあね。これに懲りたらあたしに余計な命令しないで」

 それだけを言い置いて、二度と振り返りもしなかった。足早にレストランを出、タクシーを捕まえ、消えていく。
 舞衣が茫然と呟いた。

「なんだったんだろ。うまくいったんだか、いかないんだか。……それにしてもあの電話、なんかずいぶん仲良さそうな相手だったねえ」
「……どこが?」

 怪訝な目つきのなつきを横目にすると、舞衣はこの少女の鈍感ぶりに対する確信を深めたのだった。


   ※


 過日姫野二三にあしらわれた尾久崎晶は、額におおきな絆創膏を貼って、しばらくは寮の自室にこもって静養した。窓から見える景色を目に留めては、ひたすら手元のスケッチブックに模写した。
 彼女の実家でもある尾久崎の人々は、率先して手勢を派遣し、逐一風華近辺の動向を探り続けていた。いま現在、日本国内でもっとも諜報戦が激化しているのは、近畿地方と、意外にも首都圏であった。CIRO(内調)の意を受け、本来の火元責任者である一番地を他所にして二十年前に設けられた『高次物質災害対策室』が、尾久崎家の現在のスポンサーである。シアーズと提携して一番地に圧力をかけ、介入権を得る一方で、独自のプランと研究者、HiMEと比べればいかにも些細な異能者を招集し、事案の解決に当たっている組織だった。
 晶の親戚縁者は、今こそ一族の興亡を賭さんと、ここ数十年で絶えて久しかった活気を取り戻し、日夜どこかの誰かの手足となって、敵と定めた相手をあざむき、陥れ、屠っているようだった。枝分かれしたもう一つの風華――星之宮財団を筆頭にした諸外国の諜報機関のみならず、公安調査庁、警察庁警備局、防衛庁(現在の防衛省)情報本部との牽制が入り乱れて、状況は混迷の一途をたどっており、とりわけ地元県警本部との緊張が高まっている――そんな知らせも受けた。
 晶は年長の世話役である伊織という禿頭の青年の伝言に、ただ水飲み鳥のようにして頷くだけである。求めてもおらず、十三歳の少女とも少年ともつかない晶には処理しかねる情報ばかりが、次々と手元に集ってきた。結果として、核心にいる晶こそ部外者として扱われると言う、奇妙な事態になった。
 晶はどうあれ家の傀儡でしかなかった。すぐにでも動ける気構えと敗北感を引きずりながら、自身が位置する空間と、その延長上で繰り広げられている暗闘にどうしても連続性を見出せず、彼女の倒錯した精神は朽葉のごとく翻弄された。なまじ文面で状況を知りえるだけに、晶の疑問は日ごと肥大していくのだった。
 こうして、実地で命を賭さねばならぬ自分たちをよそにして、すでにやり取りが始まっている。その結果いかんでは、低い可能性とはいえ、一夜明けたら全てが終わってしまうこともありうるという。世界が、つまり極大化し、複雑化した社会がそういうものだと聞かされても、晶には納得できそうになかった。彼女にとっての世界とは、思惟と手が及ぶごく狭い範囲を指した。自らを殺傷せんとすると鋭い錐の群れと、それらに四囲を封じられ、ただ頑健で強固な絆を持つ集団の中でさえ、常に疎外感を持て余す定まらない己が、晶にとっての世界観である。画用紙に描けない視界の外で起きた出来事が、自分や世界にとってあまりにも決定的であるという現実は、ひどく絶望的に思えた。
 晶が敬愛する実父からの言葉も、絶えて久しい。何かを打ち明けられるような存在も、晶には皆無だった。
 彼女はもはや少なくなったオーファンを探しては狩った。炎凪の揶揄への対応からも余裕が失われつつあった。同じHiMEを襲うことは禁じられていなかったが、晶は未熟と情報収集を言い訳に戦闘を避けた。姫野二三との一戦は、彼女が思う以上に尾を引いた。
 自然発生するオーファンが見当たらなくなると、今度は絵画に没頭しようとした。だが集中した時間が途切れると、晶はいつも混乱と孤独に打ちのめされた。それでもなお、彼女は孤高で強靭たらんとつとめた。それが父の求める理想像だと知っているからだ。
 いつしか、朝から夕方まで、知人ともつかぬ少年のいる病室を訪れる回数が増えた。他に気兼ねなく話し合える友人を持っていなかった晶にとって、取るに足らぬ存在である彼は存外な余暇の潰し相手だった。性を感じさせない年下の少年の前でなら、晶は男でも女でもなくてよかった。少年が晶と同じHiMEである鴇羽舞衣の触媒であるということも、晶を病室へ運ぶていの良い言い訳になった。やがて晶はこの少年が死病に侵されていることを知った。気の毒には思わなかった。世界そのものが滅びに瀕しているのが、今と言う時代であるらしいのだ。
 だから晶は剽軽に「でもおまえが死ぬ前に世界のほうがくたばるかもしれないぜ」と言った。巧海は深刻な顔で「それはいやだなぁ」と答えた。なぜかとは問えなかった。沈黙する晶を見ると、巧海は儚げに笑い、病的そのものに白い手を伸ばし、晶の頬に触れてきた。

「また泣いてるよ」と彼は言った。
「ああ、ほんとだ」晶は目元に触れながら平坦にいった。取り繕う素振りは見せない。

 実家の典医の言によれば、ホルモンバランスの乱変動による弊害であるらしい。近頃はステロイドの注射は少なくなったが、それでも抗エストロゲン作用のはたらく生薬や漢方は、日常的に服している。そのためか否か、激昂したり沈鬱したりという感情の上下動は、もはや晶にとって日常だった。だからこそ学園では冷静のパーソナリティを堅持している。
 だが巧海と素面で話していると、それが突き崩されることが、稀にあった。こいつに気を許しているわけじゃない、と晶は冷静に思った。それは事実である。晶にとって、巧海はもう半ば死人だった。
 巧海の顔には明らかに死相がある。晶はトキハタクミという木のうろに向けて、どこにも預け場のない感情を排泄しているにすぎなかった。だが巧海はそんなことには関知せず、もらい泣きしては、結果的に晶がしぶしぶ、彼を慰めるはめになった。
 七月が終わりに近づいたころ、晶はふと漏らした。

「おまえって見た目はそこそこいいし、オレ人物画はあんまり描かないんだけどよ、練習にちょうどいいかもな」

 巧海の食いつきは凄まじかった。即座に自分を描きとめるよう晶に要求した。あまりの勢いにたじろぐ晶を見て、同席していた舞衣が苦笑し、複雑な表情をのぞかせていた。
「でも」巧海がはにかんだ。「できればみんないっしょの絵がいいな。ぼくも、お姉ちゃんも、晶くんも、ミコトさんも、それに師匠も」
「いやそれじゃ絵じゃなくて写真だろ」

 それでも、晶は無理やりに頷かされたのである。







[2120] ワルキューレの午睡・第三部五節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/08 17:11
4.クワィエッセント(停止)





「さて」

 七月が終わり、八月が幕を開けた。雲は重たく蒼穹に帆をはって、時おり慈雨をたなびかせ、何か鈍重な生き物のように頭上を遊弋する。
 窓越しの光景を眺めながら、高村恭司は身体の完全な復調と、感覚の先鋭化を完了させた。風華市に戻ってからの数日余りは、六月からこちら酷使した肉体とユニットの恢復に費やしていた。ステロイドの投与も控え、メタンフェミンの服用も中断した。脳内制御系はユニットの統御下にあるため、禁断症状は実際には起きているが肉体的な痙攣として時おり表れるのみである。これについては諦めるしかない。
 H.G.ウェルズの著作にあやかって『加速剤』と呼ばれている、高村から見れば正体不明のナノマシンの注射も、あえて行っていない。むろん、体内にいついた異物はもはや半ば彼の心身と同化しているため完全な透析は不可能である。それでも久方ぶりにじねんな自身に立ち返ると、心には晴れ晴れとしたものが兆した。

 マンションに放り込まれてからの高村の日常は、世辞にも自由なものとは言えなかった。あまり目立つように動けば、シアーズも高村を押さえにかかる。一番地が高村をどう判断しているかは不明だが、少なくとも石上には何らかの腹案があるようだった。
 その証左として、住居には始終石上の部下による監視が張り付いた。外出は申告すれば大抵許可されたが、はばかりのない尾行者の存在が大前提である。アンテナも繋がっていないテレビを除けば最低限必要な家具さえない居室で高村がすることといえば、ツタヤで乱売されていた格安のDVDをプレイヤーで日がな眺めるか、階下の住人に気を遣いながらする鍛錬ばかりだった。
 ありていに言ってこむら返りを起こすほど暇な日々である。それだけに、常にストレス下にあった高村の心は休まった。
 唯一の難点は、時おりどころではない頻度で結城奈緒が部屋を訪れることだった。

「寮にいるとウザイ連中がくる」

 というのが、奈緒が口にした最初で最後の理由らしい理由である。この言い分に呆れた高村がおまえもウザイから近寄るなと言ったところ、奈緒はチャイルドを用いた占拠という暴挙に出た。危ういところで見張りの女性が仲裁に入り、事なきを得たが、高村は結局束の間の安寧を諦めざるをえなくなった。
 以後、奈緒はよほど気が向かなければ高村に挨拶もせず、勝手にマンションの一室を領有して断りもなく出入りした。世帯主は高村ではないので彼にこの行動を非難する正当な権利はなかったが、それはそれとして不愉快である事実には変化がない。いっかな意見を聞かない奈緒に業を煮やすと、高村は大人げない嫌がらせを試みたりもした。具体的には見張りの人に借りてきてもらったエロDVDを奈緒が寝ている部屋の前で再生して外出したりと、その程度の邪気のない悪戯である。
 果たしてロードワークから帰宅した高村が見たものは、特に恥らう様子もなく赤裸々な交合のありさまを鑑賞する奈緒の姿だった。あまつさえ少女は「この女優ブサイク」とまで言った。高村は疲れ果てて「結城の性格はブスキモカワイイ」と賞賛した。管理人から苦情が来るほどの喧嘩になった。
 奈緒にまつわるトラブルは他にもあった。監視者への嫌がらせのためだけに高村が炎天下を練り歩いていると、鴇羽舞衣のアルバイト先のファミリーレストランで、奈緒が玖我なつきと舞衣と差し向かいになって、剣呑な雰囲気を発している場面を目撃したのだ。すわ一触即発かと思われた矢先に、高村は機転を利かせマンションにいるふりをして奈緒を呼び出した。
 万事が万事はりねずみのような返答ばかりの奈緒だが、映画に関する話題にだけは若干リソースを振り分けている。その点を利用して奈緒を釣り上げ、暴発を回避したのだった。
 マンションに帰ると奈緒がひとりでDVDを見ていた。今度は石上がやってきてさんざん悪し様にこき下ろされるほどの被害が出た。

 ともすれば危機感を失してしまいかねない時間の数々に、その都度水を差すのは頭上の凶星だ。空を眺める機会が増えたのは、高村ならずとも、赤い光を空に見出せる少女ならばみな同じだろう。

「どうすんの? マジで世界どうにかなっちゃうの」珍しく、奈緒が高村に声をかけた夜があった。風呂上りの濡れ髪を丁寧にタオルで拭きながら、ベランダの高村を見つめる目には距離感がある。口元には薄笑いが浮かんでいた。「あのアメリカの地震ってもしかしなくても、アレなわけ?」
「さあ。俺からはなんとも」みな同じことが気にかかるのだなと思いながら高村ははぐらかした。「じゃあ、もし世界が滅びるとなったら、あの星がここに落ちてくるとなったら、いよいよ他に方法がないとなったら、時間がなくなったら、結城はどうするんだ? 戦うのか、他のHiMEたちと?」
「そんな理由がなくたって、気に入らなきゃぶつかるだけでしょ」奈緒は淡白に答えた。「でも、そうね……、まあ、他にどうしようもないんなら、やるしかないって思うヤツはいるんじゃない?」
「なるほど」高村は頷いた。また媛星を見上げた。「なんで世界って滅びちゃ駄目なんだろうな」
「は?」
「なんでもない」

 高村は笑ってかぶりを振る。奈緒は関心を失い部屋へ閉じこもる。寡黙にふたりを監視する石上の部下は、怪訝な視線を観察対象へ向けている。夜は幾兆繰り返されたとおり更けていく。終末が切った期限へ向けて砂が落ちる音を、聞いている人間が確かにいる。


   ※


 高村と連絡を取ろうと考える人間は幾人かいる。杉浦碧がその筆頭で、次点に玖我なつきと鴇羽舞衣、風華学園の事務があった。
 履歴に連なる女性の名前に何となくいい気分になりつつも、メールアドレスと言わず携帯電話と言わず着信を告げる彼女らの求めは、玖我なつきを除いておおむねのらくらとかわした。代わりになつきを通して碧や舞衣へ情報が渡ることについては、とくに禁止するつもりもない。ともかく高村へのホットラインがなつきにあることを主張するのが目的だった。
 そうした試みが奏功したのかあるいは呆れられたのか、八月を過ぎて以降、なつき以外からの呼び出しはほとんどなくなった。
 楽観的でも神経質でもない対応であり、端的に言って煮え切らない選択であることは高村も理解している。些少なりとも他者を傷つける行動であることへの自覚もあった。だが取るべき方針としてはベターなものだった。
 現在の居所が判明して困るのは高村ではないが、大勢に対する実効的な影響力を持たない以上、諾々と暦が進むのを見送るほかに、出来るのはせいぜいが人間関係の調整ていどのものだ。そしてそれも、万全にはできない。
 高村が赴任当初から心がけているのは、なつき以外のHiMEと判明した少女とあまり密な関係を持たないことである。それでいて、高村が事情に通じていることをアピールしつづけた。結果思惑通り、高村への間口はなつきへ集中することになった。ある程度なつきの信用を得られれば上等だが、たとえ悪感情を持たれようと、高村以外の手がかりから意識誘導できれば問題はない。ともかくなつきとの関係を切らないことが肝心であった。
 ただ、アリッサからの連絡には必ず応じることにしていた。

『お兄ちゃんどうしてさいきん教会に来ないの?』

 深優を通して、三日に一度ほど、アリッサからはそうした言葉が飛んできた。これを邪険にした場合、即日高村の生活は教会地下でひねもすアリッサの暇潰し相手を勤めるものへと変わるだろう。現状とそう変わらないのは悩みどころである。とはいえその場合高い確率で運動能力を奪われるので、抗いようのない相手であるグリーアと深優、つまりアリッサの機嫌を損ねるわけにはいかなかった。

「怪我を治してるんだよ」できるだけ虚偽を交えず、高村はアリッサに語った。「そう遠くない内に会えるんじゃないかな」
『ほんと? ぜったい?』

 二心のない親しみを向けられると高村の胸は痛んだ。我ながら軟弱な意思だと認めないわけにはいかなかった。その自認があるからこそ、他のHiMEと顔を合わせることを極力避けるのだ。

『高村くんか』グリーアからの連絡もあった。『なかなか難しいことになってるようだ』
「俺の扱いって今どうなってるんでしょう」高村の言行はグリーアに筒抜けなので、韜晦する意味はない。余計な駆け引きを省けるのはありがたかった。
『ログには九条博士との具体的な画策は残っていない。ジョン・スミスの端末はあの通り一度消えればリセットがかかる。映画に影響されているようでなんとも滑稽だが』苦笑を交えるグリーアだった。『もっとも君に関しての情報は、障りがあったとしても差し止めるよ。だから今のところ君は引き続きわたしと深優の指揮下のままだ。むろんそれにも限界はある。持ってあと一ヶ月か、短くて一週間というところだろう。それまでに去就を決めてもらいたいところだ。わたしと交わした約束は忘れていないだろうね』
「ああ、まあ……」高村は言葉を濁しかけた。が、グリーアはむつみとは異なる意味で高村の命綱である。おざなりな返答はできない。「アリッサちゃんに見つからないんであれば、俺は今すぐでも構いませんよ」
『そういうことなら今は無理だな』グリーアが嘆息した。『どちらにせよ、近ごろは深優の調整も覚束ない。言葉にこそ出さないがアリッサ嬢は深優にべったりだ。どうも先の暴走未遂が思ったより深刻な影響を及ぼしているようで、能力の行使にも陰りが見られるよ。少し前に召喚したオーファンの操作も利かなくなったらしい。いかに利発でもあの年ごろでは無理からぬことだがね……。特に君と深優を合わせて精神の均衡を保っていたようなところがあるから、次に君が近づいて離れようとした場合、彼女は実力で束縛にかかるだろう。そうなれば深優は敵に回るよ』

 奈緒との話し合いで碧の代わりに横槍を入れてきた蝙蝠型のオーファンだと、高村はすぐに見当がついた。アリッサが形成するシアーズ・オーファンは確固とした志向性を持たない。これについては碧たちがチームプレイを取っていることもあり、放置したところで問題はないだろう。それよりも意外なのはアリッサの状態だった。

「アリッサちゃんに、戦うのを止めてくれって言ったら、聞いてくれると思いますか?」
『まあ、無理だな』肯定を期待したわけではないが、グリーアの即答は高村へ響いた。『アリッサの君への思い入れは手近な父性希求の代償行為と、彼女の高次物質化能力の素となったあの子の残滓が原因だ。アリッサたちの精神には何をおいても実父であるシアーズ氏への感情が刷り込まれるよう処置が徹底されている。その思惑に反するようなことを言えば、いたずらに戸惑いを与えるだけだろう』
「以前、グリーアさんはシアーズ氏の気持ちがわかるって言いましたね」高村は質問の矛先を変えた。「それは今のアリッサちゃんを見ても変わりませんか」
『彼とわたしは衝動の一部を共有しているだけだ。当然本質的にはまったく違う種類の人間だよ』グリーアは穏やかに応じた。
「もし優花が本当に甦ったとして、あなたはそれからどうしたいんですか」
『もし媛星を本当に落せたとして、君はそれから先の責任が持てるかね?』

 相手がグリーアでなかったら毒づいたかもしれない。高村はかろうじて自制に成功した。抗弁はすぐに思いついた。だが何を口にしても無駄なことだ。高村とグリーアの望みは同質のものだが、自我と他我の点で峻厳な隔たりがある。

『親は子に生きていた欲しいと思う。それだけだよ』老人そのものの、疲弊しきった声で、最後にグリーアがいった。『光があってほしいと思う。幸いであってほしいと思う。喜びも哀しみも含めて、子や良人と愛を育む時間を持ってほしいと思う。全うできなかった日々を今度こそ楽しんでほしいと思う。仮に人倫に背こうとも、その妄執を実現できる手段があるならばためらわない。そしてたまたま、手に届きかねない位置にそれが見えてしまった。腕を切り落としてでもそこに指を届かせようと思った。わたしはただそれだけの男だよ。全ての親がそうであるとは言わない。またわたしが良き父であるとも思わない。でもできるならば、あの子の恋人であった君には理解して欲しいと思っている』
「何かを怨んでひねくれながら生きていくより、あなたはきっとはるかに立派なんでしょうね」高村は明言を避けた。
『他人事ながら、君が息災でいられることを祈ってるよ。怪物や死人の脳から記憶を抜くのは骨なのでね』

 それを最後に、通信は切れた。フローリングに寝転がる高村の視界にむき出しの蛍光灯が映る。どこからか舞い込んだ蛾が激しく羽根を羽ばたかせながら、白熱するフィラメントへ何度も身を投じていた。
 ため息を一度だけ落すと、高村は玖我なつきへ連絡を取った。


   ※


「本当に最初のところから話すと、シアーズ財団というのは慈善活動を目的とした財団法人だ。このあたりはロックフェラーと同じだな。ただしあちらと違い、こちらは特定の大企業もしくは個人が原型というわけじゃない。北アメリカへの入植前にまで系譜を遡って、近世ヨーロッパで結成された秘密結社がシアーズの元であると言われてる。そのメンバーの一人、もしくは複数人が、あちらの革命ラッシュを避けて移民したんだろう」
「秘密結社ぁ?」なつきが素っ頓狂な声を上げた。「薔薇十字なんとかとか、黄金の夜明けとクークラックスクランとか、ああいうのか」
「元はって話だ」高村は念を押した。「現在はそういう思想的信条はない……と思う。つうか、よりによってその三つを引き合いに出すあたり、おまえの読書遍歴がうかがい知れて担任として欝になる。陰謀論とか人前で話すなよ」
「脱線するな不登校教師」なつきがぴしゃりと言い切った。
「わかってる。……とはいえ、さすがにここまでの老舗になってくると、その起源なんかはよくは知らないというのが本音だ。少なくとも俺は黄色人種って理由で差別は受けなかったぞ。常識以上には。まあそもそも英語なんかほとんど話せないから向こうでも何言ってるかわかんないときばっかりだったが」
「そんなものが現代に生き残ってるというのも驚きだが、なんでまた慈善活動家が日本くんだりのローカルなサバトに顔を突っ込んでくる?」
「だからそういう根本的な質問をされても困るんだよ」高村は頭を乱暴に掻いた。

 二人顔を見合わせて、ため息をこぼした。芸術的に色が配分されたカフェモカが、手繰られたスプーンにとって均衡を乱されていく。
 なつきは補習帰りらしいが、高村の意向で一度帰宅を促して私服に着替えていた。単純に、風華学園の制服が目立つせいである。
 二人がが相席するのはマンションの近くに軒を連ねるカフェテラスである。夏休みの昼下がりらしく、市街地の中心部に近い店内は若者でごった返している。なつきには同じマンションに間借りしていることは話していないので、待ち合わせには視線を撒きやすい駅前をもっぱら利用する高村だった。
 なつきが風邪をこじらせた日から後、情報交換の名目で彼らはこうした逢瀬の機会を設けていた。なつきの真意は懐疑と監視と保護がそれぞれ等分といったところだろう。高村の都合で一度の接触にあまり時間は割けないため、情報というよりは来し方の説明めいた会話も、これで三度目になる。とはいえ元々高村に話せることなどそう多くはない。シアーズについての詳細な知識など彼にあるはずもなかった。

「おまえほんとに普通に何も知らないな……」

 呆れた様子のなつきである。
 高村は黙殺することにした。

「ああ、とにかく続けるぞ。そのへんの推測も含めて話してみるから、ちょっと黙って聞いておけ。慈善活動を掲げた団体といっても、それはあくまでシアーズ財団を単体として見た側面だ。経理面ではアホでも知ってるような大銀行が絡んでいるし、資金源には軍とがっちり組んでるような軍需産業……軍産複合体も存在している。ただ、これ自体は別にきな臭い話でもなんでもないんだ。扱うものがなんであろうと商売は商売だし、ここで戦争商売の善悪について一席ぶつのも馬鹿らしい。米国で五指に入る財閥という時点で庶民のスケールを逸脱してるわけだから、俺たちの尺度で語ってもしょせん雲をつかむような話でしかないわけだ。ましてや、俺は経済アナリストでも軍事評論家でもなんでもないからな。おまえはこっち方面詳しいか?」
「人並みだ」なつきはつまらなげにいった。「そういうのは静留が詳しいな」
「その歳で人並みに知識があるならたいしたもんだよ」高村は続けた。「なら漠然と、とにかく巨大な存在であると理解してくれればいい。FTCの目や反トラスト法なんかで煽りを食らいはしたが、それでもなお果てしなくでかい図体で、おまけにその胴体へ指図する脳はふたつやみっつじゃない。足や手は十や二十ではぜんぜん足らない。全体の足並みが揃うことは物理的に有りえない、という、そういうグロテスクな怪物。そんなイメージでいい」
「まあ、大きくなりすぎたシステムというのはそういうものなんだろうな」なつきが頷いた。「ん? 待て。ということは」
「そうなんだ。べつに今度の件にしても、その大財閥全体が噛んでるというわけじゃない」高村は断言した。「というよりも、正規の企業活動にしようがない以上、ありえないと言うべきか。だからこそ、この件に関して、身内の間ではシアーズ『社』ではなくシアーズ『財団』として呼称するのがセオリーになっている」
「では財団単体で見ると、シアーズとはどういう組織になる?」
「あくまで現代表であるシアーズ氏の意向を受け、かつ常識の逸脱しない範囲で寄付、投資、研究、発表を行う組織、だな。ここ十数年の活動分野は主に医療だ。ただ、本体とは比べるべくもないとはいえ、氏の直轄組織である以上、それなりの規模は持っている。私設研究所、協力企業、独自の広報――まあ、諜報機関って言ってもいいかもしれないが、それにあとは、繋がりのある各機関からの、人材の抱えみ。そのあたりは普通だ」
「掏り合わせについては問題ないようだ」自ら問いただしておきながら、ある程度の知識は既に得ていたのか、なつきは興味なさげに評した。「由来なんぞは初耳だが、真白の実家、風花系列に少なからぬ寄金をしていることは調べがついている。おまえと親しげな、アリッサ・シアーズ、それに深優・グリーアも縁故なんだろう?」
「そりゃ、苗字からして否定はできない」高村は肩をすくめた。「向こうにも隠す気はない」
「それが理解できない」となつきは指摘した。

 HiMEにまつわる一連の状況、その主導権は確実に一番地にある。そして長年に亘って土地ぐるみの隠蔽工作が徹底されている以上、組織が囲っているのは明らかな権益である。知識ないし何らかの利得を守るのが主目的であれば、その基盤を脅かしかねない外敵が、シアーズ財団であるはずだ。にも関わらず風華学園は異物であるアリッサ・シアーズを受け入れており、かなりの確度でその息がかかっている高村恭司を腹中に受け入れた。

「それはなぜだ?」なつきがいった。「余裕の表れではないだろう。個人ならばともかく、システムがそんな真似を許す意味がない。もっとも考えられる理由として思い当たるのは、一番地とシアーズの間に何らかの密約が交わされている可能性だ。とりあえずアリッサとグリーアがこの土地から排斥されない程度には行動の自由が保障されているのは自明だ。あるいは人質の意味もあるのかもしれない。が、となれば両者の間に引かれたラインが問題となる。おまえは観察を許された程度の部外者としては、積極的に事態に関わりすぎている。HiMEとも知り合いすぎている。……わたしたちの情報は、シアーズに筒抜けか? 当然そのはずだ。だが、一番地の大前提にはHiMEに関連する事項の隠匿がある。この矛盾が説明できない。二つの組織は敵対的なのか、協力的なのか、あるいは他に全く別の要素が介在しているのか。わたしが問題にしているのはそこだ」

 これもその通りだった。
 また未だなつきのあずかり知らぬことではあるが、アリッサと深優は既に儀式への本格的介入を表明している。実行にも及んでいる。会戦も二度、行われている。翌日に追撃は来たが、それも一番地の総意というよりは特定個人からの牽制という面が強かった。そして、以後干渉はない。これが現状で彼女らの動向を見失ったがための放置なのか、あるいは単純に外部勢力の横槍を許容する結論に落ち着いているのかは、高村自身も判じかねている。
 腕を組み、首を傾げる。

「そんなの一般人が気にしてもなあ」高村は面倒になって早々と思考を放棄した。「そうなんだからそうでいいじゃないか。なんでそんなのが気になるんだ?」
「おまえな……」なつきが目尻を震わせる。「よく考えてみろ。もしくは何か思い出せ。シアーズと一番地の関係を! そこがわからないと、わたしは」
「玖我は?」
「……とにかく、知りたいんだ」一息にティーカップを呷ったなつきが、苦しげに胸を押さえた。熱かったらしい。

 その時である。
 二人が囲むテーブルを巨大な影が過ぎった。俯き加減で黙考していた高村となつきが、揃って顔を上げる。

「それについては私がお話しましょう」

 くぐもった声。メタボリックの権化とばかりに威勢良く突き出た腹。上下スウェットに身を包み、顔面はプロレスラーのような覆面で匿われ、頭上からアフロヘアーが飛び出している。
 変な人がそこにいた。

「うお!?」高村は思わず腰を引いた。
「なんだおまえか」なつきはすぐにティーカップへ視線を戻した。「どういう風の吹き回しだ? 狸が……そちらから情報提供の真似事とはな」
「玖我!?」驚くばかりの高村だった。「なに普通に話してるんだっ。この人……人? 知り合いか!」
「騒ぐな。目立っているぞ」
「このただならぬ注目度は明らかに俺のせいじゃない」
「では失礼しますよ」高村の困惑をものともせず、覆面の巨漢は空席に腰を降ろした。尻が椅子からはみ出ている。圧倒的な肉感だった。

 恐々と反対方向に身を寄せた高村は、巨漢が有する個性的なフォルムに微妙に心当たりがあることに気づいた。

「あれ、迫水先生……」
「話をする前に、まず一番地一番地と連呼しないことを約束してもらいましょうか」巨漢が落ち着いたトーンで切り出した。明らかに聞き覚えがある声だった。「その名を口にすること自体が、無用な警戒を招きますからね。……さて、わが社とシアーズ財団との関係でよかったですかな、お嬢?」
「ああ」なつきは神妙に頷いた。
「え、これ笑ってはいけない系のコント?」高村だけが置いていかれていた。

「調べればすぐわかることですが、風華学園の出資者にはシアーズ財団も名を連ねています。これは昨日今日の間がらではないことを意味している。それだけではありません。風華を代表する企業、珠洲城建設とも彼らの母体は取引を持っています。しかし、ここが話の勘所なのですが――これは必ずしも『わが社』の希望によって成り立っている関係ではありません。身内びいきを覚悟で言わせてもらうならば、そうですね、弱味につけこまれたとでも申しましょうか。周知のとおり、彼らの資本力は莫大ですからな」
「まさか買収されたというのか?」なつきが顔をしかめた。
「俺の質問は無視する方向なんですか?」高村がしつこく食い下がった。「迫水先生、シャツが引くほど汗で濡れてるんですけど……ジャージまで湿ってるんですけど……、マスク取ったほうがよくないかなあなんて」
「わが社の由来というのは、遡れば中世以前、組織としては宗教じみた気風を持っていまして。お二人ともご存知でしょうが、文明開化以後のわが国では、いえまあお隣の文革ほどではないにせよ、オカルト、迷信の払拭と啓蒙が推進されておりました。その決定打となったのがいわずもがな、敗戦ですな。時同じくして、わが社の先代、先々代の頃ですか、この時代に組織の存在意義そのものに関わる失敗を、トップがしでかしました。もともと、わが社の係累をたどれば、それはそれはやんごとない話題に突き当たらねばならないため、そのあたりの明言は避けさせていただきますが……まあ、そうですな。今風に言うとあれでしょうか。社長がミクシィで組織ぐるみの不正をうっかり書いちゃって大炎上みたいな」
「うわあ。わっかりやすーい」高村がが手を叩いた。
「でまあ」巨漢がタオルで首筋を拭きながら続けた。「それまでにそれなりの権勢を誇ったわが社も一気に落ち目の下降線を描いたわけです。ふつうの組織なら瓦解なり再編成なり底力を発揮して頑張るなりと色々方策もあったのでしょうが、あいにくわが社はそういう性格の組織ではありません。かといって消滅などもってのほかです。しかし権威を象徴する……ううん、そう、土地権利書とか株式とかそういうものがドサクサでなくなり、大枠だけは残ったものの、内実はボロボロでした。ブログを炎上させた社長本人も含め、さぞかし頭を悩ませたことでしょう。彼らはどうにか失地回復できないものかと考えに考え抜きました。風華はもともとわが社の特異性によって栄えていたような土地であります。国を挙げて復興へ邁進する一方で、神性を喪失した当時の人々はどんどんと落ちぶれていきました。もはや組織の維持さえも危うい、――と、そのとき、あからさまな救いの手が差し伸べられたのでした。そう、海の向こうの人々、戦勝国からやってきた外資であります。それが――」
「シアーズと一番地との、馴れ初めか」なつきが答えを引き取った。

 巨漢は頷く。
 汗が飛び散った。
 高村のアイスコーヒーが入ったタンブラーへエッセンスが混入した。

「すいませんお姉さん、ちょっとコーヒー交換してください」

「当然、わが社はそれを受け入れざるをいれませんでした。忍従のかまえだったのでしょう。臥薪嘗胆の気概で彼らは捲土重来を期しました。であるからには投ぜられた資本を有効活用いたしました。開発が進みました。閉鎖的な組織形態に是非を問い、政官財への人材の派遣を重視しました。そうして過ごした幾星霜、半世紀が過ぎる頃、わが社は国への影響力こそ戦前に劣るものの、一国の内にほぼ固有の領土とさえいえるほどの……そう、王国を築きました。もはや外様の援助などいりません。あとは穏便に関係を消滅させていこう。そう一部の人が考えました」
「そう考えないものも、いたわけだ」なつきが呟いた。
「そのとおりです」巨漢が肩をすくめた。「昔になかったとはいいませんが、近代的組織運用の徹底は、分業化と縄張り意識の助長、つまり明らかな派閥化を生みました。従来地縁血縁的結合から成り立っていたわが社は、外部から有能な人材を取り入れ、外部での有力な組織との結びつきを得る代わり、本来備わっていた完全な独立性を失ってしまいました。これにより古参新参といった不必要な勢力の鼎立も起きました。すべては強大化の弊害というやつです。またこれまたやんごとなき事情により、戦前のわが社にとっての最高意思決定機関は実質その機能を発揮できなくなっています。これが分派の発生に拍車をかけたのでした。さらに十年二十年が過ぎ、あなた方も既知のとおり、わが社はひとつの節目に立っています。……驚かれるかもしれませんが、非道暴虐であると、われわれの行いを批判する人も、社内にはおります。むろん少数派であることは否めませんがね」
「要するに」なつきが巨漢の言説を取りまとめた。「おまえらは一枚岩ではない。派閥が存在し方針にも食い違いが生じている。その発露がシアーズとの奇妙な併存というわけだ。……ということは、真白がシアーズ擁護派になるのか?」

 巨漢はゆっくりと首を振った。

「彼女は確かに優秀であり、また将来的な権力も保証されていますが、結局はまだ幼い子供で、何よりも社会的弱者です。御庭番……風花本家を支える姫野家はかなり以前に零落して、今ではひとりが彼女の後見人として残るのみですが、姫野嬢もまた未成年ですからな。実質その影響力はいかにも乏しく、立場的にはむしろ、お嬢、あなたたちに近いかもしれません。先ほど申し上げたわが社のとり行う『儀式』に否定的な人間、その最右翼が彼女ですよ。そのことも手伝い、わが社での彼女はやや肩身が狭い思いをしているようですが」
「蓋を開けてみれば、単純な構図だったな」なつきが明らかな揶揄を見せた。「超然とふるまい、掌中に運命をもてあそんでいるつもりで……人の思惑に振り回され、身動きに不自由している。しょせんは人間のすること、か」
「いやはや、お恥ずかしい話で」
「それはぶっちゃけおまえにも当てはまる形容だよな」無視されるとわかっていても、言わずに居られない高村だった。

 が、意外にもなつきは、拗ねたように唇を尖らせた。

「それくらいわかってる。こんなことを知ったところで、前におまえが言ったとおり、わたしにできることなんてたかが知れていることもな。しかしたとえ身動きできない風見鶏だとしたって、風に翻りながら考えていけないことはないはずだ。自分の立ち回りくらい自分で決定したい。そう考えるのは、それほど滑稽か?」
「……いや、すまない。ちょっと茶化しすぎた」高村はなつきに頭を下げた。「いいと思うよ。そういう考えなら、俺はおまえを全面的に支持するよ。だって俺も、そういうふうにやって行きたいものな」
「そう言ってくれると思ってたよ、先生」やや複雑な色を交えながらも、なつきは小さく微笑んだ。

 女と見るには無理がある。が、なつきの顔は単純に造型として美しい。滅多に見せない気安い表情に目を奪われる高村だったが、思考は石上の動向へ及んでいた。
 どうやら一番地内でのシアーズは、思う以上に火種であるらしい。だとすれば、単身火薬庫に足を踏み入れた石上の思惑は、単純に叛逆、背約と切っては捨てられない。
 せめぎあう両勢力の中間で藻屑のごとくあがく虫。それが高村が思う己と石上の立場であったが、巨漢の話を鑑みると、多少穿ってものを見たくもなる。あるいは同僚の迫水開治かもしれない彼がこのタイミングで現れ、こんな話をしてみせたのは、なつきのみならず高村への警句と見ることもできる。
 未だ姿を見せないだけで、背後に暗躍する何かがいるのかもしれない。好奇心ひとつで身を任せ続けるのは危うい相手だと、今さらながら高村の正常な判断が働き出した。
(できれば、シアーズが大掛かりな動きを見せてからが良かったんだけど)
 奈緒はともかく、ここでなつきとの線を切るわけにはいかない。
 難事である。だがやらねばならない。
 そのとき、再度の逃走へと算段をつけはじめる高村を尻目にして、なつきが迷いをにじませた口調で切り出した。

「ようやく繋がった、のかもしれない」うめくようになつきが言った。「高村。もしかしてシアーズは、最初からわたしを知っていたんじゃないのか。おまえが知っているかどうかはわからないが……、玖我紗江子、という名に聞き覚えはないか?」
「――え」

 一瞬、高村の頭に空白が生じた。右手に座る巨漢の雰囲気にもはっきりと変調が兆した。なつきは没頭するように、独語に近い推察を続けた。

「そう考えると、繋がるんだ。高村にはまだ言ってなかったな。わたしの……、死んだ母は、一番地にいた。そして、つい最近、母が遺した口座に、亡くなる直前に外資系企業からの入金を見つけたんだ。尋常な額ではなかった。それで、もしかしたら母はそいつの言うシアーズ寄りの人間で――傍証はあるんだ。つい最近、母を知っているというシアーズの人間に会ったから」
「お嬢、それをここで話す必要があるのですか?」高村をうかがいながら巨漢がいった。露骨に何かを警戒している様子だった。
「いいんだ。わたしもこいつの過去を暴いたから」あくまでなつきはこだわった。「ただ、わからないことがある。こんな致命的な欠落に、今まで気づかなかったことが信じられない」
「なにがだ」

 高村が思うよりもはるかに硬質の音が喉から鳴った。なつきが鼻白んで高村を見返した。高村は「欠落ってなんだ」と繰り返した。

「ああ。……その、わかりにくいかもしれないが、記憶が混線してる。詳しい点は省くが、わたしが最後に母を見たのは一番地の研究施設なんだ。そこはもうなくなってしまった。わたしが破壊したんだ。HiMEの力を暴走させ、……て」

 言葉が、怯えと震えをまといはじめた。

「だけど、そのあとの記憶が途切れてる。いきなり別の場面に挿しかわっている。自分の記憶なのに信憑性がないなんて、こんなのははじめてなんだ。だが確かにそうとしか思えない。わたしは力に目覚めたときに、怪我を負って入院した。何ヶ月も入院した。学校にも一年遅れて通うことになった。けれど妙なんだ。力が暴走して、どうしてそんな怪我を負うんだろう? どうしてわたしは研究所で暴走したその瞬間しか覚えてないんだろう? ……なぜ今まで、こんなことに気づかなかったんだ? 決まってる。思い出したくなかったんだ。とても嫌な記憶だから。そうに決まってる。でも、なあ迫水、おまえは知ってるんじゃないか。そもそもあの研究所はどこにあったんだ? 本当にあれは実在した場所なのか? わたしはいつあそこにいてどうやって病院に運ばれたんだ? あああでもデュラン、デュランはあそこにいたんだ。よく連れて行って……違う、わたしが連れて行ったんじゃない! でも確かにあのとき。でもそのあとで、ママがわたしを連れて」

 堰を切ったような話し振りだった。今、たまさかこの場で思い当たった懸念でないことは明らかだった。よほど抑制した結果なのだろう。外面が剥がれかけるほど、なつきは自らの記憶に踏み込みつつある。
 気圧され、警戒し、逡巡した高村はすぐに考えを改めた。
 好機かもしれない。
 玖我なつきがほつれつつある。彼女の経歴は虫食いと孤独と理不尽に塗れている。元来の性格と知能も含めて、精神構造は常に張り詰めたものであるはずだ。その破綻を防ぐために彼女は敵として一番地を想定し、冷徹のパーソナリティを維持していた。
 例外が母への感情だ。玖我なつきという少女の最深に位置する塗り固めた壁の中心部には、ワルキューレの本質である過剰な愛と執着が息づいている。その発露を高村は目の当たりにしている。

「お嬢! 落ち着いてください」巨漢が口を挟んだ。「考えることはない。そんな必要はないんだ。思い出せないことならば、それはなかったことなんです!」
「だめだ玖我。続けろ」高村はいった。
「高村先生! あんたなにをいってるんだ!」巨漢が高村の襟首を掴んだ。

 高村はそれを振り払った。
 なつきはそのやり取りを見もせず、目を見開いてコースターについた水滴を注視している。そこに記憶が隠されているともいわんばかりに、爪を乱暴につきたてた。

「わからない。それから先は、わからない……車に乗ってたんだ。怖い人が来るって母は言って逃げ出した。それから研究所へ……あれ違う、違うだろうそうじゃないどうしてそうなるんだ? 繋がっていない……事故に! 事故にあったわたしと母さんは。落ちたんだ、すごく車が揺れていた。黒い車が何台も追ってきた。その、げ、現場に、ぃいっ、今も、花を投げている。どうして? 母さんは、研究所から、見ていない。それから後に、死んだって。だ、だ誰か言ってたんだ」
「それは大事なことだ。おまえにとって何よりも。そうだろう? 玖我なつきは母親の復讐のために生きてきた。どれだけの犠牲を払ったんだ? 家庭も、時間も、娯楽も、心も。それだけのものをなげうったことだ。費やしたんだおまえは。全部洗い出せ」
「わたしは、」

 茫洋となつきが記憶をさまよう。高村は固唾を呑んで彼女を見守る。巨漢は疑わしげに高村をにらむ。混雑するカフェの一角を占有する彼らは不自然なほど周囲に意識されていない。店内にはオルゴール調のポップミュージックが流れている。断線された言葉が無秩序に飛び交っている。八月の陽光が通りに面したガラスから飛び込んでいる。
 そして、

「――だめだ。やっぱり、わからない……」

 なつきが途切れた。意識の焦点が現在へ立ち戻る。
 玖我なつきというにはあまりに無防備な顔がそこにあった。
 高村は彼女の両肩に手を添えた。なつきが緊張に身をすくませた。凝然と開かれた眼を正面から受け止めるのは高村だった。
 力強さを意識した。思考の間隙を埋めるような。
 甘言を弄した。弱った少女につけこむような。

「大丈夫だ」と高村はいった。「他ならぬおまえのお母さんのことなんだ。きっと思い出せるさ。今日は、タイミングが悪かったんだ。こんな場所じゃゆっくり考えごともできないだろう? 大丈夫だ、大丈夫だよ、玖我」
「あ、ああ。そう、だな。まだ風邪でぼけているのかもしれない。……すまない、取り乱した」なつきが顔をうつむかせた。「お、おいっ、なに馴れ馴れしく触ってるんだ。はなせばかっ」
「あ、悪い」高村はあっさりと引いた。

 すると、三人の間に、白々しい空気が流れた。
 高村以外の二名が、彼へ向ける意識はあからさまだ。ただしその傾向は懸絶していた。
 投射された感情のすべてを、人間に読むことはできない。予測しうる結果を踏まえた上で、高村はただただ気楽に、なつきへ提案した。

「なあ玖我。こんな状況だけど、今度ちょっとぱーっと遊びに行かないか。海のときはついていけなかったしさ」


   ※


 シアーズ財団の母体であるシアーズ財閥は、たとえば一代の傑物が築き上げた類の、怪物的企業群とは様相を異にしている。現在は新大陸に本拠を移した彼らの起源の一方は中世に勃興した金融業者であった。そして残る一方が、異端の神秘主義者である。彼らは典型的なメセナの関係を結んだ。徐々にそれは互助的な組織となり、すると時を待たず為政者に食い込むほどの結社となった。表面上彼らの信条は伏せられたが、権能は時勢と才覚に恵まれ増す一方となった。
 シアーズの名が歴史に登場したのはこの頃である。
 長い血筋と広範な人脈は営々と拡大をつづけ、いつしか欧州は彼らのノードが結節する巨大な網脈によって覆われるまでになった。
 それだけに、シアーズの血統に連なり、名を持つものは少数に留まらない。ハプスブルク家がそうであったように、彼らの縁は結婚と金脈によって結ばれた。時代が変わり、世界が変わっても、根底に不変と称すべきものはある。すなわちより大きな資本を掌握したものが、常に覇者の座をうかがうという法則である。シアーズの一族は、世界にベクトルがあるとするのなら、紛れもなくある分野での最先端に位置する人々だった。
 いくつかの財閥と同じく、近代における彼らの形態も、家族経営であり、世襲制であった。もちろん人材の頭打ちなど無縁だった。少数の例外を常に含みながらも、シアーズ家の若者たちはおおよそ突出した才能を見せた。華々しい彼らの戦歴が今後も次代を担っていくであろう事を、当代の親たちは確信していた。
 が、斜陽が兆した。要因は複合的だった。新興の財閥と敵対関係に陥ったこと、戦争の混迷による分家の亡失、のち未曾有の恐慌による煽りをまともに受けたこと、そして幾度か続いてしまった不運の極めつけが、当時財閥の中核をなしていた多数の人々が、原因不明の失火により一夜にして失われたことである。因習と血を尊んだシアーズの屋台骨は一連の悲劇によって完全に揺れた。だが世界経済の巨人は、その圧倒的な資本体力により、安易に転ぶことさえ許されない。半ば屈従の形態でありながら、盟友の関係にあった他財閥との吸収併合は確定的と見られた。
 結果としてそうはならなかった。
 その手腕を発揮した、現在シアーズの長についているL・シアーズは、先のような意味では一族における異端児であった。彼は元々学者肌の男だったという。頭脳は異様なまでに切れたが体格と精神は貧弱で、しばしば病に臥した。彼は家族をよく愛し彼もまた慈しまれたが、そこには憐憫も含まれていた。長じるにつれ健康は安定を見せたが、それでも知能はもとより肉体においても完璧であった兄弟に比べれば、彼はいかにも頼りなかった。そんな男が、中枢一族亡きあとのシアーズを見事に切り盛りしたのだ。立志伝中――というにはいささか条件が整いすぎていたきらいはある。しかし中興の祖とは確実に言えるだろう。

 そんな男と、九条むつみは、一度だけ会ったことがある。

 一番地という日本の組織から、ヘッドハントされた腕のいい研究者。当時のむつみはそれ以上の存在ではなかった。あるいは、現在でも同じかもしれない。シアーズ財団という組織の代表は確かに財閥の長と同一人物ではあるが、当然ながら実務はまったく別の機関が執り行っているはずである。彼がそうであると、誰もむつみに紹介したわけではなかったが、経済誌で顔を見知っていたこともあって、彼女は対峙していた相手が世界有数の資産家であることに一瞬で気づいた。
 そのような人物と対面するには、やや荷が勝つ空間に彼女らはいた。香港島中西区中環、ヴィクトリアハーバーを臨むホテルの一室とはいえ、最上級では決してない。ましてやむつみは大きな事故で怪我を負い、逃亡者そのものの体で国外に脱出したばかりだった。同行者のジョン・スミスは、新たな身元と整形手術の準備のため部屋にはいない。ほとんど言葉も交わしたことのないボディガードの手引きで、むつみは突然慮外の大物と引き合わされたのだった。
 呑んでかかろうという無用の虚勢のせいかもしれない。むつみのシアーズへの第一印象は、『小さい』であった。何がしかの言行を見た結論ではない。単に一見して感じたそのままの思いである。
 シアーズは女性であるむつみと比してそう変わらぬほど小柄だった。年齢相応に老いており、なおますます盛ん、といった形容からは程遠く枯れた雰囲気をまとっていた。瞳ばかりが鋭いがそれは能力に自負と裏打ちを持つものならば珍しくない特徴である。当時のむつみにとってはそれも別段特別なものには感じられなかった。
 緊張しつつも洞察を留めないむつみを見るともなしに視界に納めると、老人はゆったりと口を開いた。

「盲人と会った人は、ことごとく己の印象を問うそうだ。なぜだかわかるかね、お嬢さん」

 美しいまでのキングス・イングリッシュである。彼が爵位を持っていることを思い出しながら、むつみは「いえ」と答えた。本音では見当がついていたが、相手の望む答えで応じることが会話の基礎であると、身に染みていたからだ。
 しかし、シアーズはその答えを不満に感じたようだった。灰色の瞳を閉じて、吟じるように続けた。

「わたしの名を浮かべ、君が想像し相対しようとしたのは人ではなく実績だということだ。その種のくだらない思い違いをする人間は、存外多い。社交界と呼び習わされるような華美な世界で育ったものでさえそうだ」

 言葉の真意を問うのは、たといそれがあろうとなかろうと、自らの無能を証明するようなものだ。むつみは瞳を細めて思考を回転させた。ほどなく答えにたどりついた。

「つまりそれがあなたの敵ですね。ミスター・シアーズ」
「子供はいるか」だが、老人はさらに次の話題を切り出した。
「娘がひとり」むつみは平静のまま答える。
「愛しているか?」

 言葉に詰まった。
 どう繕っても、彼女は、男について唯一の子供を捨てたばかりの女でしかない。
 それだけでシアーズは返答を待つことを止めた。「わたしは愛していた」と自答した。

「だが、失われた」淡々とシアーズは続けた。
「存じ上げて、おりますが」
「だからまたつくろうと思っている。わたしは愛を試そうとしている。死が奪っていったものは甚大だ。だがこの身にはまだ存念が燻っている。それは神への憎悪なのだと思う」

 眼前の男にどんな思惑があろうと、消耗したむつみにとってそれらは意味の取れない台詞でしかなかった。もっともらしく頷くことも、何かを問うことも、シアーズのまとう空気が許容していなかった。やがて無言の内に立ち上がった老人は、むつみを見下ろすと、言葉少なに、一言だけ命じた。

「服を脱ぎたまえ」

 その号令に対する安心を自覚した瞬間、まだ九条むつみでなかった女は、己への期待や希望といったものの一切を、放棄することを決意した。もう何年も前の話だった。今では笑い話にさえ消化できるような、そんな時代――。

 ――であるはずは、なかった。

 九条むつみは覚醒する。汗に塗れた五体をなげうつ臥所に対する見当識を失って、すぐに思い出した。
 そこは京都府内にある賃貸マンションの一室である。彼女の現在のスポンサーが用意した、日本国内にいくつかある拠点のひとつだった。
 むつみの横たわるベッドの四辺は色気のない白い壁とむき出しのフローリングに囲まれている。また隣にはもう一つ、インスタントベッドが設えられており、仰臥する女性が静かに寝息を立てていた。むつみより一回り年下の彼女は、沖縄に研究所を構えていた時分からの部下である。
 今ではその数を半分以下に減じた、かろうじて馴染みといえる共犯者だ。
 アンチマテリアライザーを私物化したむつみを糾弾し、石もて追ったもう半分の仲間は、すでにこの世の人ではない。むつみの精神と臓腑を責めるその事実を忘れさせる瞬間は、薬物と怱忙の間にのみある。またそうして自責することだけが、彼女の罪悪感を些少なりとも希釈する唯一の術であった。
 ベッドから立って、洗面所へ向かう。時刻は深夜のようだった。隣室からは液晶モニタの光が漏れている。誰かが起きている気配はなかった。
 思わずヒステリックに怒鳴り込みかけて、留まる。現状は忙中の閑といったところで、当面むつみらにできることはついになくなったのだった。

 鏡で見る顔色にむつみはげんなりとした。ここ一ヶ月で数年も老け込んだ気がした。三十路も終盤に来てとうとうと、やるせない嘆息を唇が生成する。
 むつみは生来的に女性だった。自意識に敏であり、己を飾る必要性を良くも悪くも熟知した人間である。だからどれだけ他事に没頭しようとも、容色に対する手抜かりをしたことはなかった。
 整形手術を施す際にさえ、そうだった。
 元シアーズ財団客員主席研究員、九条むつみ。それ以前は一番地において高次物質化能力のエキスパートとして、プロジェクトチームの一翼を担っていた。名前も違っていた。顔も違っていた。であれば、それはもはやどんな主観記憶の保証があろうとも、他人の人生なのかもしれない。疲労困憊そのものの意識でむつみは益のない思考をもてあそぶ。
 鏡面の『九条むつみ』は皮肉げに唇を吊る。あざけるようなその肌からは、皺こそないものの、確かな老いの迫りが見て取れた。かつてより切れ長になった瞳、通った鼻、削れた輪郭。いずれも形態的な美を孕んでいた。とはいえそれが嘘であるという認識から、むつみは決して逃れられない。人為が加われば、純粋さは損なわれる。たとえ元通りに顔を復元したとしても、皮膚にメスを入れた事実は覆らない。

 たとえば高村恭司は、この顔のむつみしか知らない。彼にとっては以前のむつみこそが別人である。だが過去の写真を見れば、意識は確実に変わるだろう。そのようなことを、酒盃を交えて彼と語ったことはある。返答は独特なものだった。

「以前教授から聞いたことがあります。なんでも美的感覚っていうのは生得的なものだそうですよ。つまり人間は赤ん坊でさえ、生まれつきに美しいものを知っているってことです。たとえばほら、愛玩用の動物を可愛らしいと感じるのは顔のパーツ比に理由があるってよく言うじゃないですか。俺たちには審美眼が備わっているわけです。面白い話だと思いませんか。とかくもてはやされる内実に関して人間はたいてい無力ですけど、ともあれ美感はひとしなみに授けられる。だから、ええといわゆる漫画古典的表現を腐すわけじゃないんですが、自分をきれいだと自覚してない美人なんて意識して仕向けない限り、いないってことなんですよね。同じように、よほどのナルシストでもなけりゃ充分だろうっていうくらい美形の男女も、こうすればもうちょっと、っていう部分があるんです。日本ていう国はなにかというと自然を愛するわけで、それは美徳だと俺も思いますが、だからって加工することの恩恵を、それに浴した人がぞんざいにあつかうのはどうかって思いますよ。なにが言いたいのかというと、九条さん美人なのにそういうこと言い出すとちょっと厭味に思う女性も多いんじゃないですか、という」

 慰められているのか諭されているのか、よくわからない席になったのを覚えている。
 移植したユニットや他諸々が安定し、帰国がかなうまでの一時期、高村はむつみと起居をともにしていた。それ以前にはジョセフ・グリーア指導のもとで、M.I.Y.U.の慣熟に専心していた。以後の彼は学生と検体として、二重生活を営んでいた。出席は等閑になったが、それでも無事卒業し院へ進学するなど、周囲にとっては理解しがたいかたちで、彼は彼なりの日常を崩さぬようつとめてみせた。ただしそれは定規もなしに延長線を引いたようなもので、やはり歪にならざるを得なかった。実際院入学から風華学園赴任までの二年弱の期間は、ほとんど身体と精神の鍛錬に比重が置かれていたようである。
 彼への罪悪感も手伝って、むつみも多忙の合間を縫い、よく顔を合わせていた。高村のリハビリ兼体技指導をつとめた教官もむつみの紹介である。食事を共にし、信頼感を得るために私生活にも引きずり込んだ。
 あくまで心身のケアのつもりだったが、いつしかむつみ自身も、高村への転移を自覚するはめになった。

 結局こうなるのだ――むつみは嘆かずにはいられなかった。わたしは同じ間違いを何度も繰り返す。寂しさに打ちのめされる。その補完を男に求める。それも、一回り以上も下の青年に。

 理解していて、なおも断ち切れなかった。そうしてずるずると関係は続いた。立場に関わりない青年は、周囲をほとんど敵で蓋われたむつみにとって非常に心安い相手だった。ラボでは人間として扱われていない高村もまた、むつみに日常を見出した。
 明確な契機はなかったと、むつみは思う。いつの間にか、彼女は目的や過去さえも、高村に話していた。
 むつみの過去は、現在の部下たちこそ知らないが、とりわけ機密に属するものではない。むしろ高村の肉体などよりも詳らかな情報といえる。シアーズでも一定以上の立場にあれば、祖国に家族を捨て去った女のことは知っている。家族への心情に重きを置くことは異国だからこそ顕著な美徳であった。非人道的な実験に携わりながら、人倫に照らしてむつみを揶揄する者すらあった。むつみはそんな人間へ皮肉を返すでもなく、粛々とうなだれるばかりだった。
 話を聞いた高村の反応は、拍子抜けするほど呆気なかった。

「じゃあ、協力しましょう。その子を、俺たちでなんとかしましょうよ」と、彼は言ったのだった。「手伝わせてくださいよ。そのかわり、むつみさんも少しくらい俺に融通を利かせるってことでどうですか」

 その結果として今がある。高村は、彼が自覚しているよりも、ずいぶん悪い立場にいる。恐らく彼をかばい立てする人間は、もう小さなアリッサとグリーア親子しかいないだろう。シアーズ財団からは、すでに切り捨てるものとして勘定されているはずだ。むつみが強権を用いなければ、恐らく彼はもっと有利に立ち回れただろう。むつみは彼からその選択肢を奪った。
 心細かったからだ。

(つけは払うわよ)

 眉根を寄せた鏡像へ、むつみは小さく毒づいた。あらゆる意味での終末が迫っている。ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどを巻き込んだウエストコーストの大地震に便乗して、シアーズの母体企業へ当たるを幸いに揺さぶりをかけ続けた。大げさではなく不眠の一週間だった。事前に接触を取っていた投資家の損害を回避させ、うまうまと益を食わせた。信頼と現金を勝ち取った。情報を流した。犠牲を払った。その結果、財団が踏み切ろうとしている不穏な動きを、今や少数の幹部ならずも知りかけている。今後しばらく、シアーズ内部では疑心暗鬼の嵐が吹き荒れるはずである。
 ここまでに切ったむつみの手札は、少なくない。忌憚なくいえば、もう残弾はない。最後にあった良心のひとかけらさえ、万に及ぶ人命を見殺しにすることで、失った。
 この働きに、むつみの現在のスポンサーは大層な満足を見せた。陳腐な表現で括るならば、彼らはシアーズ内部に巣食う、現代表の政敵である。上院議員と手を組み、ヴィントブルームという小国に本部を置くとある財団との癒着を弱味として、今はもういないむつみの上司に浸けこませたのが始まりだ。
 数年の布石は全て現在のためにあった。巨頭に喩えても生易しい怪物を、ほんの一瞬だけ麻痺させる。生じた隙にむつみはここまで得た全てを注ぎ込むつもりだ。自分ではなく、過去に置き去りにしたひとりの少女に対してできる、それが最善の行為だと彼女は信じている。

(もうすぐ)

 むつみが自らに課した責務はじきに終わる。『九条むつみ』として、かかわりを持った人間に対する責任は果たさねばならない。
 むつみは永遠を想起した。万感交々胸裏を行きかい、疲労と成果を引き換えに卑近な満足を得た。最も大事にすべきことは未だ棚上げだった。わたしは死ぬまでそれを直視はしないだろう、と彼女は思った。
 鏡の向こうに女がいる。彼女は女で、母ではなく、人間以前だった。九条むつみに対して、彼女は静かに言葉を送った。

「ごめんね、夏姫」といった。「あなたのお母さんは、もうずっと前に死んだのよ」

 翌日、高村恭司から至急会いたい旨を告げる連絡が届いた。日時の指定は二日後。八月八日の夜である。



[2120] ワルキューレの午睡・第三部六節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/08 17:13






 そして八月八日の朝が来た。高村恭司は今やほとんど眠らない。体力的な問題が生じないのであれば、睡眠は彼にとって時間の浪費でしかないからだ。洗顔し、朝食を取り、歯を磨き、身繕いをしていると、夜明け直前に部屋へ忍び込んでいた奈緒が、眠たげな顔で洗面所に現れた。彼女がプライベートでは眼鏡を利用することを、このマンションに来て初めて知った高村である。
 飾り気のないポニーテイルの下でレンズ越しの目を不快そうに歪めると、奈緒は高村を押しのけ、蹴飛ばして顔を洗い始めた。
 高村は屈んだ奈緒のうなじに水を垂らした。大げさに肩を震わせた奈緒が無言で高村の肝臓を狙う。日に日に鋭くなる足刀をさばいて掴むと、高村はそのまま動きを止めた。
 握る足首は怯むほどに細く白い。磁器めいた肌理の細やかさは少女というより子供のそれで、高村は今さらながら、奈緒の若さを実感した。
 片足立ちの姿勢を保持し、前髪から水をしたたらせながら、奈緒が簡潔につげた。

「離してよ。もしくは死んでよ」
「何その二択……」戦慄した高村はすぐに前者を選んだ。さらに声をひそめて、「それよりここ、俺は今日で引き払うぞ」

 万年不眠症ながら、奈緒の理解は早かった。侮蔑をあからさまに顔面に示している。

「アンタってなんか逃げてばっかりね」ダサ、と付け加えた。「え、ていうかあたし、服とかここに置いてあるんですけど?」

 知るかボケ、と高村は思った。

「知るかボケ」口にも出した。

 また小競り合いが起きた。

「ていうかさ」よれたシャツの襟元を気にしながら、奈緒が半眼で呟いた。「そんなアッサリ裏切るんならそもそもここに来た意味なくない?」
「この土地に無事戻ってきてルート押さえた時点で手引きの九割は終わってるんだよ」曲がった眼鏡のつるを直しながら、高村も答える。「立地でわかるだろ。それくらい察しろよ。一学期の評定いくつだったんだよおい。どうせ保健体育だけ5だろ? エロ! やーいエロ女ー!」
「小学生かよ!」

 更にけんか雲が飛んだ。

 ともあれ奈緒については、高村も対人関係以外ではそれほど心を砕く必要もないと判断している。彼女には触れずにいることがもっとも穏当な対処なのである。殴り合って得た結論としては実がないが、その種の人間は決して少なくない。わかっていながら奈緒を挑発してしまうのは、ひとえに高村の未熟さによるものだった。
 高村から巻き上げた大金で散財を繰り返す奈緒は、結局大量の衣類を放置して正午前に部屋から消えた。HiMEである奈緒は石上の部下からも持て余されている。完全に存在を無視されながらも、奈緒を見送る屈強な男性は安堵した様子だった。
 高村がなつきと待ち合わせている時間まで、残り一時間弱を切った。丹念にストレッチで身体をほぐし、軽い運動で筋肉を温め、高村は監視の男の様子をうかがった。
 上背は177cmの高村よりも五センチ以上高い。横幅は同程度だが、職掌が職掌であるだけに心得のない見掛け倒しということはないだろう。さらに室外にもひとり見張りは立っているはずである。水も漏らさぬ警戒態勢には遠くとも、一声上げる暇があれば、逐電の算は容易に乱れる。真正面からの揉め事になれば疲れるのは明らかなので、なんとしても避けたいところだった。
 高村はとりあえず彼を立てなくすることにした。
 純粋に身体的な力量で打撃による喪神を狙う場合、顎を狙って正面に立つ危険を冒すか後頭部を鈍器で襲って殺人を犯す覚悟をせねばならない。また胸鎖乳突筋のそばには天鼎穴という経絡があって、その道の達人はこのツボを一打するや意識を断つと言うから、好奇心に任せて狙うという手もある。
 どれも遠慮したい高村は、ホモセクシャルを装って男の背中に寄りかかった。雑談もこなす仲である。上役の珍客という距離感をはかりかねてか、男が戸惑いを見せた。
 高村は耳元で囁いた。

「あの、実は俺、あなたに告白したいことが。え、と。同性愛ってどう思いますか?」

 目の前でたくましい首筋に鳥肌が立つのを眺めながら、硬直した太い頚部を両腕でロックした。
 トラウマでもあったのか、拍子抜けするほど見事に極まって、ものの三十秒で意識は落せた。失禁がともなわなかったことを幸いに思いつつ高村は素早く行動した。クリーニングされた衣服に付属していたハンガーをほぐして、気絶した男の両手首を厳重に拘束した。白目を剥いた顔の呼吸を確認し、奈緒が置いていった靴下を二足ほど口中に詰め込んだ。できれば下着を用意したかったのだが、奈緒はそちらはすべて回収してしまったようである。
 最後に男の靴下を剥ぎ取ると、両足の親指を脱臼させた。
 意識を取り戻し、女子中学生の靴下をほおばりながら拘束されている自分に気づいたときの彼の絶望を思いながら、高村は部屋を後にした。もちろん、携帯電話と胸に隠し持っていた拳銃は回収してある。オーストリア製らしきそれを適当にもてあそび、マガジンから残弾を全て抜き、チャンバーに初弾が装填されていないことを確かめ、ふたたびマガジンを戻した。
 部屋を出た。いつぞや奈緒との喧嘩を仲裁した女性が、気さくな調子で手を振ってくる。どことなく杉浦碧を連想させるなかなかの美人で、基本的に年上好みの高村は進んで良好な関係を築いていた。
 高村もまた陽気に応じながら、拳銃の持ち手を差し出した。女性がきょとんとそれを受け取った。
 高村はのんびりと告げた。

「俺、今から脱走します」

 女性の顔色は即座に改まった。訓練された反射神経が正しく作動した。手中の拳銃を素早く構えた。威嚇のためか、一歩後ずさりつつ、女性はあらぬ方向へ銃口を定めた。
 当然空砲である。
 両手を拳銃に占有されがら空きの腹部へ、高村は渾身の前蹴りを放った。女性が肺の息を全て搾り出した。
 なおも双眸の光は死んでいない。実包の込められていない拳銃を床に落すと、前かがみになりながらも腰から小口径の拳銃を抜いた。
 その間に高村は間合いを詰め、狙いを定めている。
 掌を右下から女性の細い顎へ向けて、素早く引き上げた。
 確かな手ごたえとともに女性の顔面が九十度近く跳ね上げられた。
 眼球を覚束なく乱動させながらも彼女は発砲を諦めない。刹那の静止を経て膝を折りながらも意思は不尽であった。下半身の安定をあっさり放棄して、なおも照準をつけてくる。
 その動きをユニットで予測していた高村は、すんなり女性の親指を獲った。心得のあるものに対して関節技の類は極端にその効力を失うが、まともな判断力を欠いていれば話は別だ。発砲も許さないままに指、手首、肘、肩を順番に制圧した。女性を腹ばいに引き倒し拳銃を取り上げ、ボディチェックをしたあとで、先ほどと同じように喉を締め上げた。
 高村は拘束のさい、「おっと」と呟き、偶然女性のおっぱいに少しだけ触れていた。薄着の下で振舞われるかなりの業物である。主張の激しいわがままな脂肪が、絡み合ったのでたまさか接してしまった、という体裁だった。
 もつれ合う。
 とっさに腕を引いた。
 違和感があった。
 偽乳――。
 たまらぬパッドであった。

「ちょっ……」
「いやすいませんすいませんわざとじゃないんです」

 さらに強硬な抵抗にあい、完全に締め落とす形に持っていくまでには二分近くかかった。女性の虚栄心と高村の左腕に、深い爪あとが残った。彼が暴行犯ならばあとあと致命的な証拠となっただろう。

「本当にすみませんでした」

 夢枕ごっこでも希釈できないほど凄まじい罪悪感を感じたので、携帯電話を奪って手早く拘束すると、深々と一礼する。
 それ以上は何もせずに、二週間以上を過ごした仮の宿りをあとにした。


   ※


 石上亘と真田紫子は、その一部始終を監視カメラ越しに見ていた。石上は内心でほくそえみ、紫子は高村がそのマンションに軟禁された経緯も知らないままに、はっきりと憤りをあらわにした。

「女性に暴力を振るうなんて……」
「いや、まあ、そうかもしれないがね」

 隠して鼻で笑うつもりが、苦笑へ化けた。石上は自分でも、紫子へ対する反応がずいぶんと気安いことを認めている。情が移っているのだろう。その程度の自己分析はできた。ある意味好都合だった。女は盲目的でありたがるが、時として途方もなく鋭い。真実彼女に愛を向けられるのであれば、それに越したことはないのだ。
 重要なのは、愛よりも高い位置に目的を掲げ続けることである。
 去っていく高村の背中を画面越しに見つめながら、石上は眉を持ち上げた。
 画面の中、カメラの視点から見れば手前側にある通路の角から小さな頭が飛び出して、高村の背後をうかがっている。

「結城、奈緒か――」

 その頭の名前を呟いて、石上はあるかなきかの笑みを浮かべた。


   ※


「……」

 約束の時間に五分遅れてやってきたなつきは、高村の格好を見るなり渋面を浮かべた。こげ茶色のキャスケットとペイズリー柄のネッカチーフに挟まれた顔が、胡散臭げに高村を品定めしている。
 高村はなつきによる無言の要求に折れるかたちで、相互の格好を見比べた。なつきのスタイルは夏服というには露出の少ないもので、白無地の七分袖シャツの上にスクエアネックの寒色をしたチュニック、ボトムにカーキベージュのストレッチパンツを合わせて、足元は頑丈そうなレザーブーツといった出で立ちである。
 対する高村は、いつもの安物のシャツとスラックス、サマージャケットだった。彼は散々幼馴染に仕込まれた過去からこうしたケースでの対処法を参照して、なるべく刺激しないようになつきを褒めた。

「いやあなつきさん、今日はまたいちだんとぺっぴんさんですな! わっはっはっは!」

 無視された。

「おまえ、ちょっと来い」

 有無を言わさず、なつきは高村の腕を引いた。足早に向かう先は商店街である。進路には折悪しく一見では入りにくそうな服飾店が看板を出している。

「さすがにその格好で連れまわすのはゴメンだ。ちっ、こんなことなら普通にバイクで来るんだったな。歩きでさえなければ……」
「制服の下にパーカー着てるタイプのおまえにおしゃれ指導をされるとはな……」引きずられるままの高村である。「というか、そんなに駄目な格好かな。一張羅だから今さら酷いとか言われても困るよ」
「別にそういう意味で着替えろと言っているわけじゃない。バランスの問題だ。学校と同じ格好でいられると引率されているみたいじゃないか」
「まあ、それも一理ある」高村はなつきの意向を尊重することにした。「そういえば、鴇羽とか碧先生には今日のこと伝えたのか? さっき二人からメールが来たぞ」
「下衆の勘ぐりだ」なつきがへの字に口を結んで吐き捨てた。「一応誘ったら、『ごゆっくり』だとさ。何を勘違いしているんだか……どうもあいつらときたら、楽観的にすぎる。本来ならもっと神経質になってしかるべきなのにな。気晴らしが必要なのはむしろ連中だと思っていたんだが、杞憂だったようだ」
「今に至るも進展がないんだろう? 少なくともわかっている限りでは、HiMEの戦闘も起こっていない。他のHiMEも見つかっていないし、名乗り出る気配もない。凪あたりから誰がどうなったという話も聞いてない。結局は小康状態ってことだ。なら気が緩むのもしょうがないさ。人間そうそう長いこと気を張ってたら疲れるもんだ」
「程度問題だろう、それも」

 喧噪と盛夏の熱射から逃れて、シックな色合いに統一された店内へと踏み込んだ。整然と並ぶハンガーラックの群れと飾られたマヌカンが彼らを迎え入れる。琥珀色をした間接照明の下でエアコンに吹かれながら、高村は三歩離れた位置で真剣に見立てを始めたなつきの様子をうかがった。
 先日の混乱はまったくなりを潜めている。あの場でこそ深く言及しなかったが、誰よりなつき自身が含羞の念を持って場景を記憶しただろう。良くも悪くも彼女の自意識は強い。おそらく帰宅するなり、徹底的に自己の分析を始めたはずである。だからこそ醜態を目の当たりにした高村を前にしても平静でいられるのだ。
 分析の視線を顧みず、なつきはしかつめらしく唸った。

「無駄な筋肉のせいで身長なみのサイズが合わない。道理でいつもしまらない服の着こなしだと思っていたら、そういうことか」

 ほとんど拷問のようにしごかれ、半ば強制的に鍛えられた体躯でも、明け透けに貶されると心痛に来るものがあった。高村はうなだれる。

「じゃあ、わざわざこんな高い店じゃなくていいよ。別の場所でパーカーとジーンズでも買うから」

 なつきは取り合わなかった。店員を呼び寄せ、一そろいの衣服を指差すと、慣れた様子で高村の採寸を命じる。高村はぼんやりとその光景を眺めていた。眺めている内に股下と胴回りと腕の長さを巻尺で計測された。レジスターの前に連れられて言われるがまま財布に入っていた全ての紙幣を供出した。
 足りなかった。
 おずおずと告白すると、店員が気の毒そうに目を逸らした。
 なつきが信じられないものを見る目で高村を凝視した。

「やめてくれ、そんな目で見ないでくれ!」
「……まあいい。ここは埋め合わせしてやる。そのかわり、今日は全部おごれよ」勝ち誇ったなつきが、気前よく残金の負担を申し出た。高村の視界に入った可愛らしい意匠の財布には、明らかに二十枚以上、福沢諭吉の肖像画が収まっている。

 恩着せがましさに乏しい物言いに、高村はなつきの本心を見た思いだった。年齢に見合わない濫費は明らかに保護者へのあてつけが本意である。成熟のポーズを好む彼女にしては反抗のやり口が幼いが、相手が父親であれば話は別なのだろう。
 なつきの真意がどこにあれ、受けるわけにはいかない厚意だった。というよりも、この手の行動を当然と思う女に育てさせてはならない。妙な義務感が高村に芽生えた。

「ちょっと待っててください」
「あ、おい」

 店員となつきに断りをいれて、高村は最寄りのコンビニエンスストアへ走った。目的はむろんATMである。カードは奈緒が持ち去ったまま返そうとしないので、彼はふだん通帳を持ち歩いている。数秒の躊躇を経て限度額一杯まで預金をおろすと、明細に打たれた残金の表示に目を剥いた。以前からまた数十万も減っている。
(結城マジで容赦ない)
 今すぐ呼び出して取り上げたいところだが、そんな暇はない。何より、元々奈緒を金で釣ろうとした後ろめたさがある。絞るようなため息を飲み込むと、小走りに店へ戻った。
 出迎えはなつきの呆れ顔である。店員は微笑ましげだった。

「意外と見栄を張るんだな」
「これは常識だ、馬鹿」半ば本気で高村はなつきを叱った。「おまえまさか友達にもこういうことしてるんじゃあないだろうな」
「いや」なつきは顎を引いて口ごもった。「静留はわたしより全然裕福だし、舞衣はこういうのは嫌がるから」
「あるものが出せばいいっていうのも真理ではある」高村は念を押した。「おまえのお父さんがおまえに自由にさせている金だ。どういう目当てで何に遣おうと他人が口を出すことじゃない。好意を買おうとするような浅ましさが玖我にないことはわかってる。ただ、投げやりな金の使い方は金輪際止めろ」
「わかってる。ちょっとした手間の省略のつもりだった」なつきはばつが悪そうにそっぽを向いた。「もうしないよ。悪かった」
「こっちこそ」高村は嘆息した。「悪いな、甲斐性のない担任で」

 その台詞を聞いて、店員がぎょっとした顔を見せた。あえて理由は聞かずに、高村は直しにかかる時間を聞いた。一時間ほどだとの答えを受けると、二人は遅めの昼食を取ることで意見の一致を見た。
 衣装の対極を行くようになつきが選んだ店はファストフードだった。八月の客層にはやはり若年が多い。ピークを外してもイートインでは席がなく、紙袋を抱えて店を出た高村は木陰のベンチを指差した。
 月杜町の外観は非常に小ぎれいである。商店街のアーケードも、地方都市に似合わないほどテナントが充実している。本土や四国からわざわざ足を伸ばすものも少なくない。都心の絶対数には及ばないとはいえ、高村は風華が人口で見れば小都市であることを忘れかけた。

「暑いな」

 今さら気づいたかのように、なつきが呟いた。目線は真正面を向いている。陰の網がかかった白い頬の輪郭が、やけに鮮明だった。たたずむだけで汗ばんでくるような陽気にあって平然さを保つあたりは、つくづく上品な令嬢そのものの造作である。
 当人はそんな評価は露知らず、包装を手早くむしる。小さな口を開いてバンズにかぶりつく。がさつな振る舞いであった。
 すると、かじりついた姿勢のままなつきが瞳を横に滑らせた。高村の観察を受けて、半眼をつくる。

「なに見てる」
「ハンバーガーのその中の肉はパティと言うんだぞ」ごまかしに雑学以下の豆知識を披露した。
「知ってる。舞衣に聞いたことがある」しかも無駄だった。
「ふうん、結構仲良くしてるんだな」
「意外とでも言いたげだな」
「そう悪く取るなよ」高村もまた、ポテトをかじり始める。揚げたてなのか、歯ごたえだけは感じられた。「遊びに行ったりとか、よくしてるんだ?」
「たまにだな」唇についたマヨネーズを、舌が舐めとった。はしたないというよりも、妙になまめかしい仕草である。「服を買ったり、した、けふんっ、小物を買ったり、他のことを話さないわけじゃないが、……まあ、結局HiMEについての話ばかりになる」
「たしかに」苦笑が盛れた。「そんな共通点でもなけりゃ、玖我と鴇羽はあまり袖が近づくタイプじゃないのかもな。おまえはそんな感じだし、鴇羽も面倒見が良いようで妙に達観したところがあるし」
「背負い込むやつだよ。物好きだ」またひと口、なつきはハンバーガーを咀嚼した。口が小さいせいであまり量が減っていない。「元々いろいろ抱えているせいで、チャイルドの力もあっていちばん危険因子として見ていたんだがな、見込み違いだったようだ」
「あの年で一家の大黒柱だし」舞衣への褒辞には高村も異論がない。「正直、ここに来て色んな子供を見たけど、いちばん凄いと思ったのは鴇羽だ。あいつより優秀な生徒はそれなりにいるが、あいつよりバランスがいい人間は滅多に見ない」
「べた褒めじゃないか。本人に言ってやれ」
「俺が言ったって、胡散臭がられるだけだ。褒め言葉ってのは間接的に聞かされるのが一番いいからな。というわけで、玖我からちゃんと伝えておいてくれ」
「考えておこう」なつきが力の抜けた笑みを見せた。「で、服を受け取るわけだが、そのあとはどうする? 言いだしっぺであるからには考えがあるんだろうな」
「ああ、まあ、風華をちょっと出ようかなとは思ってる」高村は何気なく言った。
「なに?」なつきが眉を持ち上げた。「……それも考えないではなかったが、恐らく尾行がつくぞ。この時期だから足止めされるかもしれない。少なくとも儀式以前でさえ、わたしがこの土地を離れる際には十重二十重に監視がついた。見つけるたびに潰してはいたが、振り切れるものじゃないだろうな」
「べつにされて困るものでもないだろ。空気みたいなものだ」高村は無器用なウインクで応じた。「それに、どうしても気になるなら気になるで、対処法はあるさ」


「で、フェリーか」

 陸路での包囲封鎖を受けるより、最初から入出が限定される航路ならば必要以上に気を配ることもない。また港でなつきと高村の後に乗船した人間さえ認識しておけば、彼らのいずれかは尾行者なのである。顔も分からない不特定多数の監視者よりは、幾分か組しやすくなるだろう。本土の波止場へは既に人員が派遣されているだろうが、風華を根城にする勢力は、領域外ではその影響力を極端に落とす。焦りからなつきへの直接接触を選べば暴力の餌食である。その事実は異なる意味の危険をもたらしかねないが、なつきにとっては一番地から遠ざかるというだけでも、充分に肩の荷が下りた様子だった。
 そのなつきは、遊覧船の手すりにもたれて潮風にあおられている。隣の高村は新調した服に居心地の悪さを感じている。高価な服は確かに良質で、着心地は以前のスーツとは比べ物にならない。ただし高村の意識までもが服に合わせて変わるわけではない。着られている印象は払拭できなかった。
 なつきはそんな高村を面白がって、

「どうせなら靴も合わせるべきだな。これが本当の足もとを見られるとボロが出るという」
「誰が上手いことを言えといった」高村は弱りきった顔で反論した。「じゃなくて、いやもう、勘弁してくれ。俺のような未熟な研究者はさもしくひもじく貧しくあるべきなんだ。清貧をもって尊しとなすというやつだ」
「就職もしないディレッタントがなに言ってるんだ」なつきは容赦なく痛いところを衝いてきた。

 懸念に反して、到着した先でも掣肘らしきものは受けなかった。風華市からついてきた尾行者も半ば開き直って、視界に納まる位置でくつろいでいる。高村が直接知る一番地の監視員とは妙に温度差を感じた。

「連中は別にプロの諜報員や軍隊ではないからな」なつきが説明した。「そもそもが常時活動的な組織ではないし、本当の意味で本格的に活発化したのはせいぜいここ三十年というところだろう。無能ではないだろうが、副業に精を出しすぎて主客転倒したせいで、何しろ組織として実務に当たった経験に乏しい。そこが警察などとは違うところだ。それに前の儀式は三百年前だと言うし、参考になるはずもない。……とはいっても、構成員には特殊な訓練を受けたものもいるようだし、高い実力を持つものもいるはずだが、そうした精鋭は恐らく外事の折衝に当たっているはずだ。取り分け、迫水の話だと連中はまず侵入を防ぐことに重きを置いているようだからな」
「あ、やっぱりあれ迫水先生なんだ」最後の部分にだけ高村は反応した。「正体とかにはさほど興味がないけど、いったいどういう縁でおまえと組んでるんだ? 問題ないのか、あれ」
「さあ。よくわからん」なつきは平然といった。「以前女子寮に下着を盗みに入ったところを捕まえて、以来それをネタに脅迫して言うことを聞かせている。狸だがな」
「え、下着ドロて……」高村の内部で迫水に対する評価が相当下方修正される情報だった。

 時刻はちょうど昼下がりである。二人は停留所からバスに乗って市街地へ繰り出した。明確なプランのない遊びについては、一応普通の大学生であった高村のほうに得手がある。優花・グリーアや天河朔夜との経験も生かして、当たるを幸いに店々を冷やかした。
 追ってくるような人影は、もうなかった。
 恋人関係ではなく、趣味が合うでもなく、しかも年齢差のある異性のコンビでは、間を持たせる一点だけでも相当に苦労を強いられた。元々舞衣か碧には緩衝材の役割を当て込んでいたのだが、おかしな気回しのせいであては外れた。しかし彼女らが同道していれば、今度は都合よくなつきから引き離す工夫をせねばならなかっただろう。

「帯に短しだな、ほんと」
「なにがだ?」ソフトクリームをがつがつと食べながらなつきがいった。高村の苦労の甲斐あってか、まだ退屈な素振りは見せていない。
「おまえ、こういう風に男友達と遊んだりとか、するの? いや友達がいないのは知ってるけど」
「するか!」なつきが憤りを見せた。「おまえはうちの校則をなんだと思ってるんだ、まったく」
「無免許でバイク通学なんかしてる子に言われたくないんですけど……」
「わたしは一年留年しているので、来週には十七だ」なつきが胸を逸らした。
「いやあの単車明らかに大型だろ。車検どうしてるんだおまえ」
「いいんだよそんな細かいことは」
「なんで処分受けないんだよマジで」藤乃静留の明らかなえこひいきだった。「それは置いておくとして、今だってそうだが、何も男と女が遊んだら即恋愛ってわけでもないだろうに。何時代の人間だよ、おまえは。変なところで保守的だな」
「なんだか理不尽に責められてる気がするぞ……」なつきが眉をひそめた。「なんだ、おまえ結城奈緒みたいな尻軽なのがいいとでも言うのか?」
「ううん」高村は返答に困った。「あいつはあいつでやり過ぎなんだよ。病気とか心配だよな。避妊はしてるんだろうか……。でも、なんだか美袋の話だと、あいつも男子にチヤホヤされるわりに友達いないみたいだ。足して二で割れとは思わないけど、案外おまえたちって似た者同士かもしれないぞ」

 なつきが思い切り舌を突き出した。

「気色悪い話をするな。このわたしとあの暴走ガキのどこが似ているというんだ」

 言い終えるや否や、派手に転んだ。咄嗟に転倒を察知した高村が腕を支えて事なきを得たが、不審な様子で足もとを何度も確認している。

「おいおい、何でこんな何もないところで転ぶんだよ。人の前でドジをアピールするやつは八割イタイぞ」
「ち、違う」なつきがふらつきながら体勢を立て直した。「今何かが引っかかったんだ。……何もないな。気のせいか」

 しきりに訝しがりながら歩みを戻すなつきから目を切って、高村は前後左右を見渡した。繁華街まで足を運ぶと、さすがに追跡を明察するにはあまりに技能が足らない。そもそも尾行の意図は威圧であるので、受け手が神経質になりすぎては本末転倒である。
 十六時を回ると、街路を行き来する人の数はさらに増えた。聞きなれない言葉の奔流は関西の趣に染められている。

「そういえば、藤乃は明らかに京言葉だけど、うちの学校ってなんであんな標準語ばっかりなんだ。玖我だって地元このへんだろう?」
「うちは両親が元々関東圏の出だ」なつきが昔を懐かしむようにいった。「訛りを出せないわけじゃないが、べつにその必要も感じない。それに風華は全国から学生を募っているからな。舞衣もそうだし、命はそもそも日本語が覚束ないし、……結城奈緒はどうだったかな」
「ああ、あいつもそうだ、そういえば」

 ようやくと言うべきか、雑談に興じるなつきから力が抜け始めた。高村もそれほど腐心したわけではないが、意識して観察すると、玖我なつきという少女は、隙が多く面白い不運に恵まれる反面、感情の素地を無防備にさらすことをしない。
 男言葉に近い語り口調からもうかがい知れるが、人格を演じている意識が強いのかもしれない。高村の乏しい経験知から反映されるこの種の人間は、性向こそ多彩でもたいていが本心を滅多に漏らさない点で一致している。なつきがそうした人間かどうかはともかく、彼女が人付き合いを忌避していることは、関係を持った三ヶ月弱の期間だけでも充分に知れた。

 思えばなつきが声を上げて笑うような場面に、高村は出くわしたことがない。舞衣や静留の前では恐らく違うのだろう。玖我なつきの根底には、異性への緊張が常にある。容姿に恵まれた少女の思春期にはありがちな性質ではあるが、なつきの年齢を考えると晩生と評さざるを得ない。
(ふつう、美人ってのはどんどん男慣れしていくもんなんだけどな)
 ごちては見るものの、高村の見解も身近な例から拾い上げただけの恣意的類推である。なつきがあまりに頑なな原因を彼女の父親像に求める一方で、心理を解き明かす無意味さも悟っている。
(そういうのは俺の仕事じゃないんだろ)
 半ば放棄し、半ば逃げるように結論付ける。
 煩瑣な駆け引きは抜きにして、高村はなつきを引きずり回し、なつきが高村を引きずり倒すこの時間を、精一杯楽しもうとつとめることにした。

 本屋に入り、なつきが漫画を好むことを知った。行きがけのペットショップでは、やはり犬を好んで鑑賞していた。日も暮れてゲームセンターへ足を伸ばすと、なつきがクレーンゲームを荒しつくした。取れるだけの景品を回収し、無償で子供に配り、感謝されていた。スロットゲームでは異常としかいいようがない動体視力でコインを乱獲し、店員の目が痛くなったので店を出た。
 高村は年相応の玖我なつきを、飽きずに眺めていた。打てば響くようなやり取りも小気味良かった。それだけに、相好を崩しかけて顔を引き締めるなつきとは対照的に、彼の心は深く暗く冷たい場所へ沈みこんでいった。
 夜が目の前になった。
 心なしか満足げななつきに、高村は言った。

「ちょっと、ついてきてほしい場所があるんだ」


   ※


 高村がなつきを招いたのは、歓楽街にはいくつもあるような雑居ビルのひとつだった。店子は風俗業や飲食店ではなく、違法金利に近い金融機関や、または見るからに流行っていない代書屋の事務所が主である。ただし彼がエレベーターから降りたフロアは、そのいずれにも属さない空間だった。

「ここは?」

 狭く短い廊下から、たてつけの緩いドアを開けると百平米ほどの部屋に通じる。拡がったほとんど漆黒の室内を見すえて、なつきが怪訝そうに呟いた。視線の先には通りに面した窓がある。ただし全面が黒いテープで目張りされており、外界からの視線と光の一切は遮断されていた。

「俺の知り合いが使ってた事務所」高村は簡潔に答えた。
「事務所? なんのだ」
「人材派遣とか職業斡旋かな、ニュアンスとしては」
「それはまた聞くからに怪しいな。……電気は生きてるのか」

 入り口の横にある壁際のスイッチに触れると、蛍光が点灯した。明暗差に瞳を細めながら、なつきが空間を一望する。
 漆喰の壁とリノリウムの床は、なんの変哲もない一室のそれである。四隅には塵埃が薄っすらと積もっている。生活感の名残のように端々にはレシートが落ちている。地歩を確かめるようにつま先を鳴らすと、なつきは細かい刺繍が施されたショルダーバックを床に落とした。
 長い吐息を、高村は聞いた。

「玖我?」

 呼びかけに返事はなかった。落ち着いた歩調でなつきは部屋の中央へ進んでいく。表情を確かめることに気後れして、高村は入り口から動けずにいた。
 背後でエレベーターの扉が閉じた。
 なつきがゆっくりと高村を振り返った。
 その顔はもう、平常の玖我なつきだ。

「で」となつきは言った。「ずいぶん遠回りしたが、ここが本題なわけか。わざわざ風華を離れたってことは、おまえも相応に本気なんだろうな」

 挑みかかる眼差しに射られて、高村は脱力した。
(なんだよ)
 首をひねり、肩を落とそうとして止め、頬を掻き、髪を上げて、最終的に眼鏡を外し、深く深くため息をこぼした。

「なんか凄い道化だな俺、徒労感」声色は自然と細くなった。「ばればれだったわけか。今日一日無駄か」
「ばればれじゃないと思っていたのなら、本当に道化だ」なつきがおかしげに笑った。「何かにつけうるさいおまえが、説教もしないし、ホストに徹するし妙に大人しいし、そもそもわたしを遊びに誘うなんていう時点で普通は怪しむだろう」
「そりゃそうだよな」高村はすぐに開き直った。「あーあ、いい面の皮だよ。畜生」
「十年早いってことさ、先生」なつきが胸を張って指を立てた。「でもまあ、その、なんだ。楽しくなくはなかった……という気がなきにしもあらずだな、うん」
「それならそれでよしとしよう」高村は胸をなでおろした。「でも、そこまでわかってて何で付き合ってくれたんだ? いつもの玖我ならいいからさっさと要件を言え、くらいは言いそうなものだけどな。客観的に見て、俺の行動はとても怪しいと思うんだ」
「……さあな。気まぐれということにでもしておけ」

 濁す唇に反して、瞶めてくる双眸はひたむきだった。婉曲な単細胞と高村を笑うなつきこそ、彼から見れば直線的に過ぎて危うく思える。
 だから高村は、思いのままを告げた。

「玖我、おまえって、なんというか」
「なんだ」
「馬鹿丸出しだよな」
「喧嘩売ってるのか!? 買うぞわたしは!」
「いや良い意味でだよ、良い意味で」
「どう受けても悪くしか取れないだろうが!」

 高村がなつきに感じる感情の舎密は、花火のように鮮やかで美しい。印象に通じるのは、高村からの遐さだった。畢生を賭して存在にしがみつく彼にとって、志操に殉じるを迷わない少女たちはいずれも眩しい。高村はそれを若さや視野がもたらすものだとは思いたくなかった。この世にはそうした、単純に美しいものがあるのだとしておきたかった。
 だからといって、高村は美の信奉者ではない。

「用件というのは、つまり単純だ。玖我、俺がおまえを心配しているってことだよ。それに尽きる」
「はあ?」拍子抜けしたようになつきが帽子に触れた。「前にも聞いたぞ、それは。今さらなんだ? また説教か」
「今度はどちらかというと説得だな」高村は軽薄に笑った。「なあ玖我、おまえ、逃げる気はないか?」

 息を呑んで、なつきは高村をまじまじと見返した。意図するところが正確に伝わったと見て、高村も満足を含んで少女の視線に合わせる。なつきがやや険相をつくった。

「何から。どこへ」
「HiMEのごたごたから、この国の外へ」
「どうやって」見る間に怒りを蓄積させ、それを抑える調子で、なつきが問うた。
「ツテはある」高村は平静のままだった。「一番地も、何とかしてみせる」
「シアーズか?」
「違う。さすがにそれより上の信頼と安全は望めないけど、こっちもまずまずだと思うぞ」
「念のため聞いておく。……それは、まさか、わたしひとりだけ尻尾を巻いて逃げろと言っているんじゃ、ないよな?」

 高村の五感を、戸外の空気が急速に離れていく錯覚がとらえた。なつきの牽制には願望が色濃く反映されている。どう転んでも、高村には応えられない類の感情だった。

「今この場にはおまえ一人しかいない」と高村はいった。「でも、たとえ今日他に人がいたとしても、最終的にこの話を持ちかけるのはおまえだけだったろうな」
「どうして?」
「ああ、勘違いしないでくれ」高村は補足した。「べつに、他に望む人がいるんなら、それが鴇羽だって碧先生だって、俺は配慮していいと思ってるよ。折を見て話すこともあるかもしれない。でも、俺は玖我を選んで話した。おまえが一番浮いているし、戦う理由が稀薄だ。今日ずっと一緒にいて、ここのところ色々な話もして、改めてそう思った」
「理由ならある。意味も」

 なつきは切りつけるように囁いた。
 高村は苛立ちを露出させる教え子を、感情を圧した目で見つめた。

「なら、こう言い換えてもいいんだ。俺は、その理由じゃ納得できなかった。意味もないと感じた。だからこの話を持ちかけてる」
「おまえを納得させる義理なんてない」

 わななきかけた唇を、なつきは指で押さえたようだった。瞳が動揺に揺れている。
 その仕草を目の当たりにした高村はいぶかった。なつきが当然向けてくるべき鋭い洞察が感じられない。彼女の思考は内向きに走っているように見えた。

「もちろんそうだ」高村はいった。「でも、俺はそんなにおかしなことを言ってるかな? 俺から見ればおまえたちもおかしい。生活の面、好奇心、義務感や恐怖は、そりゃあっただろうさ。でも十人以上いるっていうHiMEの誰一人、オーファンを狩るって時点で逃げ出そうとしなかった。周りの誰もおまえたちの逃走を疑わなかった。それって、なんか変じゃないか?」
「知るものか、そんなこと。なんなんだ突然」なつきが不快感をあらわにした。「だいたい本当にさらってしまえるなら、それをしてやるべき相手はわたしじゃない。日暮あかねであり、倉内和也だったはずだ。おまえだってそれくらいわかるだろうっ。……どうしてだ? なぜ今になってそんなことを言う。何を試しているつもりだ。謎かけはもうたくさんだ!」
「皮肉なもんだよな」高村ははぐらかした。「散々他の子に覚悟を問うてきた玖我だ。だけど自分はどうなんだ? おまえにとっての力は、他のワルキューレとは意味合いが違ってる」
「ワルキューレ?」降って湧いた単語に、なつきが眉根を寄せた。
「HiMEのこと。おまえらのことだ」高村はいった。「誰かや何かを守る力だって、碧先生は言ったよ。鴇羽も同じだろう。美袋はよくわからないけど……はじめから、HiMEとして戦うつもりでいた子だからな。翻って、玖我、おまえはどうだろう。理由がないっていうのは、一番地うんぬんじゃなくて、そういうことなんだよ。玖我は自棄じゃないか。おまえは自分の中で明確に敵を作ってる。おまえにとってのHiMEはそれを倒すためのツールで、積極的に活用してる。おまえは結城をよく言わないけれど、正直、俺から見た玖我と結城のスタンスには、それほど差はないよ」
「冗談だろう?」なつきが声を震わせた。「――どこが同じなんだ。あいつはただ憂さを晴らしているだけだ。わたしとは違う」
「そうかな?」高村は挑発的に反問した。

 なつきがわずかに、言葉に詰まった。

「仮にそうだと認めたとして、わたしが結城と同じだということが、なぜ放棄へつながる?」
「充分につながるだろう。おい玖我、本気でどうした?」高村は続けた。
「……そうだ。わたしは、確かに、人に褒められることをしているわけじゃないさ。オーファンを狩ったのだって、一番地の目論見を潰すことが念頭にあった。人助けなんてがらじゃないし、つもりもなかった。だが、おまえも知ってるだろう? わたしは母を連中に殺された。そのために、身につけられた力を遣うのが、他のHiMEとどれほど違う? わたしは取られた。だから取り返そうと思っただけだ。それを諦めるつもりがないだけだ!」
「落ち着いたほうがいい」高村は低い声で言い聞かせた。「自分で自分の言葉に興奮してるぞ。そしてこれもやっぱり早とちりしてほしくないんだが、俺は力の処方について可否を論じてるわけじゃない。復讐を今すぐどうしろとも、思ってないんだ。目的がはっきりしているぶん、他のHiMEはどうあれ、おまえがどこかで必ずチャイルドを失い、力を失う危険性が高いってことを言いたいんだよ。ましてや、おまえは自分に想い人がいないと思ってる。そのせいで事態への関わり方が傍観気味になってるのは自覚していただろ?」
「それが、おまえの気にすることか!」一際高く、なつきが言った。「わたしはわたしの思うようにする。ずっとそうしてきた。正しいかはわからなくとも、するべきことではあるはずだ。……だいたい、おまえにそんなことを言う資格があるか? 自分だって私怨で動いているはずだ。なら、大義があれば身を砕いていいとでもいうのか? それは、一番地と同じ論理だ」
「それも一番最初に答えた」まずい方へ向かっていると悟りつつ、淡々と高村は答えた。「俺はどこまでも私情で動いているよ」
「なのにその当人が、わたしにそれを禁じるのか」苦々しくなつきが言い募った。「言うに事欠いて、逃げろだって? それはありえない。一番地に……、たとえ勝てなくたって、通さなければいけないものがあると、そう思うんだ。HiMEの争いより、世界の存亡より、それは一番大事なことなんだ。……おまえだって、それを知っているはずだ」
「だからそれは違うって……、ああ、なんだおまえ、なんか変だと思ったら、同情してくれてたのか」高村は軽く息を吐いた。「それが態度の軟化の原因か? きついこと言うようだけど、いい訳に見えるな。俺とおまえの境遇やそれに対して思うところは全然別だぞ。混同するな」
「わかってるさ」

 視線を逸らしながらなつきがいった。歪んだ目元が、いくばくか傷ついた色を見せていた。高村はその反応に戸惑ったが、切り出した以上は話を止めるわけには行かない。時間も差し迫っている。今日を置けば、次の機会はやってこないかもしれないのだ。

「ええっと……」高村は言葉を選びながら語りかけた。「突然な話だし、混乱するのもわかる。もっと疑えと言った手前、俺も安易に信用してもらおうなんて思ってない。だからさ、少しでいいんだ。話を聞いてくれないか。それから、乗るかどうか、判断してくれればいい」
「必要ない」なつきがはっきりといった。「もういい。そんなことを言いたいがためにわたしをここへ連れてきたんなら、話は終わりだ。これ以上は時間の無駄にしかならない。……もう、帰る。じゃあな」
「いや、待ってくれよ」

 躊躇なく出口へ向かいかけたなつきを、高村は体で遮った。意想外の反応に少し混乱していた。理を持って真意をちらつかせれば、なつきは裏を認めた上で乗ってくる。その確信があったのだ。遅まきながら話の切り出し方を失敗したことを認めて、高村は挽回を試みた。

「頼むから、そう意地にならないでくれ。悪かったよ。俺の話し方がまずかったんだ。回りくどいのは知っての通り悪い癖だった」
「何を謝ってるんだ?」なつきの声も顔も、硬質だった。「おかしなこともまずいことも、おまえは言ってないさ。『復讐は無益だ』、『勝てる見込みがない』、そういうことだろ? 聞き飽きた陳腐な台詞なんだ、そんなものは。風邪で倒れた日にそう言っただろう? 無謀を承知でいるわたしを、心配してくださるわけだよな、『先生』は!……だが、そんな気遣いそのものが的外れなんだよ。考えろと、おまえはわたしに言ったな。自分こそ考えてみろ。想像力を働かせてみろ。誰かに言われて止まるものなら、後ろ指差されたり、嫌われたり、孤立したり、その程度で思い切れるなら苦労はしないんだ。意地になるなだと? 馬鹿だおまえは。意地以外の何が、わたしにあるっていうんだ! 何も分け合おうとしないおまえが、言葉だけで翻意させようだなんて、思い上がりだ……」
「だからそういうつもりじゃないんだよ。何を聞いてたんだ」高村は必死で弁解した。話が妙なほどかみ合わない。「復讐を止めろなんて偉そうなことは言ってないだろ? なんでそうなるんだ。俺が言いたいのはそうじゃない。ちゃんと聞いてくれ。いつものおまえならわかるはずだろう。冷静になって、」

 なつきが激した。

「おまえは、卑怯だ!」叩きつけるように、そう言った。「自分の言いたいことばかり押し付けてくる。知ったような顔で近づいて、なのに、こっちの言うことなんて聞きもしない! 自分のことしか考えてない!」

 苦々しさが促した嘆息を、高村は苦労して隠した。ひどく身勝手な感慨が彼の胸裏に兆していた。何がなつきの銃爪を弾いたのだとしても、彼女が均衡を欠いていることに疑いはなかった。こうなると、鎮めるための言葉をいくつ重ねても効果は薄い。
(優花は、どうだったっけかな)
 比べかけてすぐに止めた。相手が恋人であれば全て覆ってしまう。単純な積年の共有知は人間関係において、純金よりも重い。高村は、なつきとそれを持たないからこそ努力をせねばならない。
(しょうがないな。これも俺の自業自得だ)
 穏便に話を運ぶことを諦めて、高村は奇手を打つことを決めた。

「頼むからちゃんと考えて喋ってくれよ、玖我」ことさら軽く告げた。「そんな台詞はおまえに似合わない。自分をわかってくれって言うだなんて」
「なっ」消耗した光の下ではっきりとわかるほど、なつきの耳が赤らんだ。

 反駁の間は与えない。冷静に立ち返る隙も退ける。高村は畳みかけた。

「とは言ったけど、でも玖我なつきらしさって何だろうな。クールだけどそれを通せない。優秀だけど間が抜けている。孤高だけど妙に付き合いがいい。他人から見たおまえってのは、いやたぶん他の大多数に取ったって、こんなもんだよ。違いってのはせいぜいオチの部分のあるなしくらいだ。でも、藤乃や鴇羽は違うと思う。俺も、今日の付き合いがなけりゃ、同じように思ったはずだ。だっておまえは何も語らないものな。人を遠ざけて、無関心なそぶりで別のことに熱中してる」
「知ったふうなことをいうな」なつきがこもった声で反論した。
「でもそれはポーズだ」高村は無視した。「そして結局、それがおまえっていう人間の輪郭なんだよ。中身なんてどうでもいいんだ。出力が個性なんだよ。内面は回路だ。そうだろ? 人間そんなもんだ、なんてのは一番つまらないまとめだけど、おまえの場合は特にそうだ。〝らしさ〟っていうのは、関係性が構築する。交渉も没交渉も含めて、あらゆる環境との圧力が、発信される情報を整形して総体をつくりあげる。ところがおまえは情報を回路でぐるぐる巡らせて閉ざしている」
「言っている意味がわからない」
「わからないように喋ってるんだよ。実はおれもわからない」と高村は言った。「でも聞く姿勢はできたよな? だから聞け。俺はなんとなく確信した。ひょっとしたら、おまえも感づいていると思うけど」
「……なんだ」

 高村は指を立て、なつきの注目を誘った。言葉を切って、二の句を待たせる。
 そして決して聞き漏らすことがないように、はっきりと言った。

「おまえたぶん、一番地に記憶を操作されてる」


   ※


 一見したなつきから、それほどの驚愕を、高村は感得しなかった。予知していたのでなければ、感情が追いついていないのだろう。腕時計が示す時刻を確認すると、彼は反応を待たずさらに続けた。

「傍証の連続になるが、根拠を挙げてみよう。はじめは『蝕の祭』あるいは『星詠の舞』と呼ばれるこの儀式、因習、なんでもいいが星の命運を司る大イベントにおける『玖我なつき』の配役からだ。まず、おまえは最初のHiMEだった。時期的にどうかということはこの際問題じゃない。HiMEないしワルキューレという少女たちの代表としておまえはいる。未だ過半は個人として動いているであろう明らかじゃないHiMEたちも含めて、彼女らが最初に悟る他のHiMEは、恐らく高い確率でおまえになる。なぜならおまえは、強いて自らの異能を隠さない。他のHiMEと見れば警句を発すべく素早く動く。一番地の痕跡を感じれば能力を用いてこれを暴きにかかる。チャイルドやオーファンについての不可視性はこの論でさしたる反証にならない。これはあくまで属性であって隠蔽には繋がらないからな。
 この線を突き詰めていくとどこに届くんだろうな。始端がおまえなら、終端はなんだ。どんな線分になると思う? 俺が思うのは、たとえば案内人だ。おまえは一連の事象で導入の項目を担っている。聞いてるか? おまえの妙な義務感を、俺は指摘してるんだよ。おまえは鴇羽に警告し、美袋を危険視して、俺を警戒した。一番地の思惑を頓挫させたいって言うなら、本気でそれだけを考えるなら、もっと直接的な手立てがあったはずだ。だからお節介だ、根が優しい娘だと納得しながらも、はじめから、ずっと、疑問に思ってた。最初からオーファン退治に身を投じていた碧先生や、力を受け入れて利用していた結城にも、一切リスクには触れなかったからな。だからおまえは、まるで、まだ日常にいるHiMEたちを非日常に誘ってたみたいなんだ。凪やオーファンとは違う立場で、同じ役割をこなしていた」

 高村は息を落とした。
 なつきは立ち尽くしている。
 彼女の唇は冗談を笑おうとして失敗したかたちを描いていた。白く整然とした歯列の間から、力ない言葉が漏れた。

「言いがかりだ。牽強付会な……」
「断章取義であることは否めないかもな。でもそう思うなら、ものはためしだ、最後まで聞いていけよ。お代は要らない」高村は意に介さない。「さて、おまえはある程度HiMEとチャイルドと媒介の関係性に自覚的だった。でありながら、恐らくはもっともHiMEを倦厭させるのに適当な手段であろうこの情報の開示をしなかった。一番地にとって手間なのは集めたHiMEが本当にどこかに行ってしまうことだからな。労を割けば防げない問題じゃないとはいえ、嫌がらせだろうと、それが無駄だからってだけの理由で内緒にするのは、玖我の行動指針に合わない。違うか?
 また、具体的におまえがこの情報に言及したのは、日暮をのぞいたすべてのHiMEにこの事実が明かされてからだ。おそらくは自覚的じゃないんだろうが、おまえの中には他者に対して教えられる情報に制限を設ける……、そうだな、暗示のたぐいがかけられているのかもしれない」
「そんなはずは――」
「ないならないで、それは問題なんだ」高村は機先を制し続ける。「なぜなら、意図的に情報を伏せることは、おまえにそれをする理由がまた別に生じるってことだからな。境遇を同じくするHiMEを引きずり、仇敵である一番地に些少にせよ益することだ。それをする意味ってなんだ? 思いつくか? 差し支えない答えがあるなら言ってくれよ。俺もおまえも、それで安心できる」
「検証のしようがなかったからだ。言っても仕方ないと思った。だから……」そこでなつきの言は途切れた。
「それは今考えた理由だろ」高村はその内心を拾い上げて、突きつけた。「今のは意地が悪い質問だったな。べつにおまえが潔白を証明する必要はないよ。責任は常に疑う側が負うルールだ。だから俺は疑わしい材料を取り出して並べているわけだ。恣意的なのは、当たり前だ。知ってるか? 研究論文ってのも、こう書くんだ――でも、改めて、どう思う? 確かに、宿敵にいいように利用されているかもしれないって懸念は考察するだけでも抵抗があるはずだ。印象論かつ卒爾ながら、だからってそれだけで玖我なつきがこの説を今の今まで一考もしなかったっていうのが、俺としてはかなり不思議なんだよ。だから確かめたかったというのはある。でもおまえはここ最近の段取りで、俺にその手の懸案は一切話さなかった。もちろんあらかじめそうした疑いを持っているからってそいつを他人に簡単に話せるかといえば別だ。特に俺は知っての通り怪しい奴だからな。だけどあえてきわどいところに水を向けても、おまえの口から自分の身辺に対する疑雲は上がらなかった。そいつははっきり手落ちだ。今なら認められるか?」

 なつきは答えない。目は高村に向きながら、高村を見ていなかった。焦点が完全に他者を通して自己へ当たっている。

「俺の考える工程はこうだ」高村は仕上げにかかった。「玖我がお母さんを亡くしたっていう数年前、その記憶はどうやら君の中で曖昧だ。つらい出来事だったんだろう。さらに大怪我を負ったというんだから、記憶が曖昧なのはしょうがない。だけど考えてもみてくれよ。おまえは確かにHiMEで、一番地にとってはある意味重要人物だったのかもしれない。だがそうだというだけで、間近に控えている重要なイベントの遂行に害を及ぼしかねない事案を放っておくかな? ましてや一番地っていうのは、人間の記憶をいいようにつくりかえて処理する術を持っているんだろう? リスクコントロールの面で見て、自分たちへの悪感情をそのまま放置しておくメリットは存在するんだろうか?
 能力への影響、それはあるかもしれない。好悪の情がHiMEにとっての力の源だというから、センチメンタルかつ都合のいい話だが、つくりあげた記憶ではその真価を発揮できなくなるとか、そういうカバーストーリーがあってもいい。でもそれはどちらかといえば玖我にとってのカウンターパートだ。『亡くなった母親』という存在がおまえの中であまりに大きいからこそ成り立つ論理であって、構造的にはこの問題はそう難しいものじゃない。だって、おまえには、言い方は悪いが、まだお父さんがいるんだからな。おまえが大怪我から立ち直り、日常に復帰するまで、尽力したのは誰だ? 知らない誰かか、医者か看護士か。違うだろ? 今おまえが素直に慕えないお父さんのはずだ。その後、どこの家庭だって潜在的に持っている問題が表面化して、疎遠になったのかもしれない。でも心向き次第で、それは変わりかねないものだ。たとえば……おまえが過去より未来を向くことを決断したり、とかな。ちょうど鴇羽みたいに。
 つまりおまえが受け止めた母の死っていうものは、充分に補填が可能な欠落だったんだ、――とまで言ってしまうのはおこがましいが、事件前後が不透明であることがその疑問に拍車をかけている。おまえが立ち直るのを待ち、頃合を見計らって利用し、他の面へ目を向けさせるのに充分な時間はあった。
 おまえが報仇を心に決めてから、経った時間はいくつだ。五年か、六年か、あるいはもっとか?……それだけの年月を、しかもまだまだ世界を広げていく子供が、面影だけ見ながら費やせるなんて、なかなか常人には理解しがたい。だから思うわけだ。あるいはこのとき、まだ幼かった玖我なつきは何らかの処理を施されたんじゃないか? それは顕在化こそしないもののHiMEの一人であるおまえを有用に誘導するための伏線だったり、しはしないか?……もちろん、俺は、おまえが持っているお母さんへの心情を貶めたいわけじゃない。ともかく、それは私的な宝だ。他人がどうこう言っていいものじゃないさ。だけどその有り様について一言するくらいは許してくれよ。
 おまえは、固定されている。当時の記憶は不確かになっている。一番地には記憶を操る技術がある。また先に言ったとおり、そしておまえも自覚していたとおり、玖我なつきは本当の意味で儀式の妨害は達成できていない。おまえは状況の中で日常を崩壊させるきっかけであり、その背後にある正体不明の組織を意識させるタームだった。何人かのHiMEはおまえをきっかけに非常識へ導入された。おまえは彼女らにとってのショックでありイニシエーションだった。客観的な事実がこれだ。そして順序はこうだ――玖我なつきが暗示する、オーファンが提示する、炎凪が啓示する。そしてまた最後に、玖我なつきが教示する。なあ、こいつはれっきとしたシステムじゃないか、実際? こう丁寧に段階を踏まれると、うまいこと、巻き込まれた人間は非常識を受け入れてしまいそうだって、思わないか? 他にも似たような役割を負ったHiMEがいるのかもしれない。あるいは他の誰かからこの説を退ける反証が表れるかもしれない。でも俺がこれまで、玖我なつきを間近で見てきて、思うことはこれだ。抽出できる要素はこれなんだ。おまえの行動や思想は確かに反組織的だが、存在が状況に利すぎている。おまえの存在は、いいように使われていたように見える」

 ちがう。
 ほとんど音をなさない声だった。なつきの口が紡いでいた。顔色は蒼白になっている。左手が乱雑に、流れた髪の先を絡げていた。右手は俯いた顔の行き先になっていた。
 ちがう。
 もう一度、なつきが繰り返した。

「違うと思いたいに訂正しろよ」高村は冷厳と告げた。「俺は、おまえがそう思うことも信じることも否定しない。でも、真実はどうあれ、不都合な事実かもしれないものをおまえは意識した。どう折り合いをつけるにせよ、おまえは一度はこのことについて考えなくてはならない。押し付けがましいだろう? 腹立たしいだろう? そう思うのは構わない。俺に怒りを向けたり怨みに思ったり、それを活力に転化するのはおまえの自由だ。俺はむしろそうあってほしいと思う。でも、頬かむりだけは駄目だ。それをしていいのは、最初から舞台に登っていないやつだけだ。この疑念と不自然は、おまえが『自分だと思ってるもの』に選ばせて進んでいる道に咲いたものなんだから、どういうかたちでもおまえが処理するべきだ」

 一息に喋り終えてから、はじめて高村は喉の渇きをおぼえた。
 なつきの意識と体は頼りなげに揺れている。
 その様を吟味して目の前の現実に専心していたいと高村が思うのは、ただの懈怠にすぎない。なつきは彼が全力で守る存在ではない。短く広い矩形の道のりで出会った他人のひとりだ。あやして、慰めて、守るのは彼の仕事ではなく、尊重という言葉に言い換えて、少女を突き放すことこそが、高村が行うべきことだった。
(わかってるけど)
 心情は揺れる。
 若輩でも彼はなつきの師であり、年長者である。そうした存在として対峙した以上は、力が及ぶかぎり意識的に振舞うべきだと決めていた。高村の心や目的がどこにあるかを、生徒に触れ回ることはできない。理解も得られないだろう。
(だから聖職者ってのは荷が勝ちすぎる)
 四年前までは、漠然と、研究者に挫折した場合を思って教師を志していた覚えもある。今では信じられない気持ちだった。数十人の子供の未来に対する責任の一端を担う。言葉でさえ、まともに受け止めれば気が遠くなる職務だ。
 立ち竦むなつきをよそに、目張りされた窓枠に近づいた高村は耳を済ませた。時刻は完全に夜へ没している。外界では喧噪がぽつりぽつりと生まれ始めていた。約束の刻限までもう数分である。

「なあ……」

 背後からかかった声に、高村はうなじをあわ立たせた。
 なつきの呼びかけだった。
 顧みた顔は未だ青白い。目つきも確固たるものとは言えない。
 だが地に足がついている。歯を食いしばり、憔悴と虞れをのぞかせながら、なつきはまだ立っている。
(それでこそだ)
 内心で快哉を叫びながら、高村はなつきへ向き直った。

「なんだ?」
「わたし、おぼえてないんだ」呆けたような口調で、なつきが言った。「この前の喫茶店で、ふいに気づいてしまった。母さんの死の瞬間を……わたしは知らない。見ていない。でも、母さんはいなかったんだ。それだけは……ひとりだったことは、はっきり思い出せる。腰と背中と胸がとても痛かった。担ぎ込まれたときのわたしはひどいもので、今でこそ水着になれるくらいほとんど傷跡も見えないが、肋骨は半分以上砕けて肺に刺さり、腎臓の片側と脾臓が破裂して、下腹部には金属片が刺さっていたんだとさ。太ももなんか、こう、付け根から膝のあたりまで、長々と割けて、骨が見えそうだったらしい。……それがすっかり治るのだから、HiMEの力は、少なくとも女としては、ありがたいんだろう」
「そういえば、言ってたな」高村は静かに相槌を打った。「俺も腎臓は片方ないが」

 少しだけ、なつきが笑んだ。さらに独白を続けた。

「点滴と包帯と、呼吸器とカテーテルとケーブルと……見知らない管をたくさん体につながれて、とても怖かったのをおぼえてる。そのくせ長く寝すぎたあとみたいに頭は霞がかっていて、体は指の先までぜんぜん動かせなかった。すぐに意識が途切れて……そういうのを、何度か繰り返した。やがてはっきりと覚醒すると、いちばんに聞いた。わたしはいった。『ママはどこ?』って。そうしたら誰かが気の毒そうに答えたんだ。『お母さんは亡くなった』って……はは、子供になんて言い草だって思うよな。でも、わたしはなぜか、それをすんなり受け入れたんだ……死体を見たわけでも、ないのにな」
「葬式は。通夜はどうだった。納骨は?」高村は優しく訊ねた。

 なつきは緩やかに首を振った。

「わたしは入院して、意識不明だったから、そのあたりのことはすべて父任せだ。墓参りも、だいぶあとになって、一度行ったきりさ。どうしても、あれが母さんのいる場所だなんて思えなかったから。でも、もしかしたらこれも忘れているだけで、わたしはもっと酷いものを見たのかもしれない……たとえば目の前で母さんが死んでしまうところ、とかな。ショックによる心因性の部分健忘なのか、あるいはおまえの言うように、一番地がわたしに何かをしたのか……それは、わからないが」
「まあ、真に受けて考えるのも、なかったことにするのも、さっき言ったようにおまえの自由だよ」高村はいった。「ただ、何らかの決着はつけろってだけだ。無責任極まりない言い様だけど、それは結局過去のことで、今からどうすることもできない種類のものだ。もちろん今後に何か反映されないとも言い切れないけどな」
「……ああ、わかってる」なつきは深刻な様子で黙り込んだ。「おまえが逃げろだなんて言い出したのは……その不安があるからか?」
「それもあるけど」

 そのとき、高村は、なつきの背中越しに、放たれたままの扉の向こうに起きた動きを感得した。
 エレベーターの作動音だった。なつきは気づく余裕も失しているようで、ぼんやりと高村を見上げたままだ。

「……けど?」なつきが言葉尻をつかまえた。
「一番の理由は」高村は目線を示すように動かした。「あの人のことを、俺が知っていたからだよ。記憶のことも、ほとんど後だしジャンケンみたいなものだ」
「え――?」

 なつきが、ゆったりと首をめぐらせた。
 二人が意識を向ける先に、妙齢の女が立っている。
 女は二者の目を受け、眉をかすかに集めた。硬質な表情と灰色のサマースーツをまとい、一瞬だけなつきへ、すぐに高村へ、刺すような視線を突きつけてくる。
 それを高村は、素直に怖いと感じた。

「こんばんは、九条さん」高村はいった。

「こんばんは、高村くん」九条むつみが答えた。「それに、玖我なつきさん」

「え? あ――」なつきが、むつみの姿を見て目を瞬かせた。混乱と不審のあとで、理解の色が瞳に灯る。「シスター。確か、シスター……むつみ?」

 むつみの口元に苦笑が浮かんでは消えるのを、高村は見逃さなかった。痛みのようにも安堵のようにも見えた。
 だが、高村の意図はひとつだった。突きつけられた制止の目をあえて振り切り、なつきへ問いかける。

「そんな他人行儀な言い方はどうだろうな」と高村はいった。「玖我、シスターむつみ、九条むつみさんだ。顔は知ってるな?」
「あ、ああ」なつきが頷いた。「近ごろ赴任してきたシスターだろう? 面識はあまりないし、最近姿も見なかったが。そうか、そういえば彼女も教会の人間だったな。……あなたもシアーズ、なのか」
「ええ、まあ」複雑な面持ちのまま、むつみが頷いた。

 高村は胃からせりあがるものを意識した。異常な緊張がこみ上げていた。
 なつきを挟んでうかがえるむつみの顔に、諦観と理解が差している。今夜この場に彼女を呼び出す際に、なつきのことには一切触れていない。にもかかわらず、むつみはすでにおおよその事情と、高村の狙いを察したようだった。相も変らぬ異常な飲み込みの早さである。前向きな心理が働いたようには見えないが、それでも利用するにしくはない。

「で、どうしますか、九条さん」頭越しにむつみへ、高村は問うた。「あなたから話しますか」
「紹介は任せるわ」不気味なほど淡白に、むつみが答えた。「それが、あなたのお望みってことなんでしょうから」

 ちくりと刺された棘に、頬をゆがめる。確かに、高村がこれから行うことは節介以外の何ものでもない。だがためらえば、これから先も常に無視できないリスクを抱え続けることになる。
 何を取り繕おうと、高村がすることは、あるひとつの夢の破壊だ。万遍なく粉砕せねばならない。
 玖我なつきの小さな顔を見据えると、彼はつまらない真実のひとつを口にした。

「玖我、九条さんの九条むつみっていう名前な、実は偽名なんだ。もともと彼女は一番地の傘下企業のひとつである岩境製薬って会社で働いていて、何年か前までは旦那さんも娘もいた。今でこそ名を変え顔を変えてシアーズに所属して、そのシアーズもつい先日出奔してしまったんだけどさ」
「え?」なつきがきょとんと、むつみを見つめた。高村が与えた情報を踏まえた観察の目が、目前の女性を舐めていく。

 唐突に、驚愕でなつきの顔が彩られた。
 むつみから、この場所にあってはならない面影を見出したのだろう。高村はすぐにそれを察した。

「いわさか、製薬って。それは……それに、その顔。整形――え? は、あ、え?……どう、いう……?」
「彼女の本当の名前は玖我紗江子」高村はよどみなく言い切った。「おまえが死んだと思っていたおまえのお母さんだ」
「―――――うそだ」

 恐れるようにむつみから意識を引き剥がし、なつきが半笑いの表情で高村を見た。

「嘘じゃない。こればっかりは」高村は首を振った。
「嘘だ。嘘だ。なんでそんなことを言う? ねえ、先生!」なつきが一瞬で解れた。「やめてくれ――空似だ、そんなはずない……あの人は違う、これは違う!」

「嘘じゃないのよ。ごめんね」九条むつみが冷淡に告白した。「お久しぶり、夏姫。本当に……大きく、なったわね」

 強いて平板さを保っていると思われる言葉に、一瞬、抑揚が立ち現れた。その場で気づいたのは、恐らく高村だけだろう。

「シスターまで何を言ってるんだ!? こんなやつの冗談みたいな悪ふざけにのらないでくれッ!」

 なつきがすがる。
 むつみは末魔を断つのにためらわなかった。続けられた語調は、軽やかですらある。

「冗談みたいな言葉でも、現実は現実なの。聞き分けなさい。そして認めるの。わたしが、あなたの、死んだはずの、お母さんよ」

 玖我なつきの心が割れる音を、高村は聞いた。




5.エヴァネッセント(夢幻儚影)







[2120] ワルキューレの午睡・第三部七節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2009/04/14 00:40
6.フロゥレセント(水辺の花)



「どこから話せばいいかしら。長い上につまらない話よ」

 むつみの雰囲気が一瞬で変貌した。紛れもなく意図的なものだった。高村はそれを知りつつ、口を挟まなかった。状況は高村が仕込んだ。手配も彼がした。だが細部は親娘二人の手に任せるべきだと思った。
 結果生じる負債は、全て自分が負う心算だった。むつみはそれを見越して、あえて気だるげに振舞っているのだろう。
 なつきは連続して突きつけられる暴露に、取り戻しかけた自制心をまたも失っていた。完全に混乱の極みにいる。彼女がいまむつみの話に耳を傾けようとしているのは、反射的な反応であろう。眼窩からはすでに理性的な光が半ば消えかかっている。

「まあでも、結局は死んだと思っていた玖我紗江子が実は生きていた、でまとめられるのかもしれないわ。でも、それだけで納得しろというのもひどい話よね。ひどい母親であることは、自分でも、疑いがないと思うけれど……、そもそも、いまのわたしは、まだ貴女の『母親』なのかしら。どうもそのあたりの自信がないわ。ねえ?」

 なつきは何も答えない。

「少し、外でふたりの話を聞いていたわ。なつき……って、呼んでもいいかしら? 変に遠慮するのもなんだから、そのままで呼ばせてもらうけど。――そうね、結論から言えば、なつき、貴女の記憶が一番地によって編集されているというのは事実よ。だって、わたしがそう依頼したんだもの。そう、交換条件としてね」
「――え」

 わずかになつきの瞳が揺れた。

「恐らくいくつかの記憶が錯綜しているのね。事故後の貴女は重傷を負って心身ともに不安定だから、記憶の改竄にもそうした不具合が出たのでしょう」
「な、どうして、そんな」なつきが、舌をもつれさせながら何かを言いかけた。
「はじまりは、貴女に現れた、HiMEの証である痣よ。左肋骨のすぐ下に、今もあるでしょう?」

 なつきの左手が、むつみの言い当てた場所に触れた。

「ある時期から、風華近辺で産まれた全ての女児の体は、産後すぐあらためられるの。その痣を探すためにね。また土地に限定されず、いわゆる有力な血筋のものは、常に監視体制が取られている。……そんなに大げさなものじゃないけれど。もっとも、これには実は個人差があって、かろうじてそれと識別できるレベルから、明らかに何らかのマークを模していると思われるものまで、多岐にわたる。一般に後者に近いほどHiMEへの親和性が強く、将来的に強力な能力者になると見越されているわ。こうして一番地は囲い込みを始めたの。いまも、実際に力を発現した娘ばかりでなく、それに次ぐ候補者たちはこの土地に集められているはずよ。不測の事態に備えるために」

 これは高村もはじめて聞く話だった。同じ赤い痣は彼の幼馴染である優花・グリーアにも見られたが、であれば彼女もやはり一番地に見つけられていた可能性が高い。

「貴女の場合は、わたしの知り合いからその話が漏れてしまったんでしょうね。貴女はもう忘れてしまったでしょうけれど、わたしの実家というのは元々憑き物筋とか言われている家柄でね、まあ小さい頃から地元じゃ色々苦労したわ。そして偶然かどうかはともかく、それはHiMEの発現家系と一致していた。わたしは一番地系列の会社に就職した当時、そんな裏があるなんて全然知らなくて、しかももう貴女は産まれていたから、HiMEと呼ばれる超能力についてある程度の知識を得たときには、もう遅かった。何より研究が面白かったから。
 それであるとき、上役から要請されたわ。君の娘はHiMEに対してとても高度な順応性を持つ、稀有な素材だ、是非協力してくれって。……わたしは戸惑って、驚いて、……さすがに最初は貴女をかばおうとしたのよ? おなかを痛めて産んだ、実の娘だもの。誰も好き好んで実験動物扱いなんてしたくないわ。でも抗いきるには無理があった。だから常にわたしの監督のもと、常識の範囲内での検査になら協力するって約束した。貴女もおぼえているんじゃない? 小さい頃、よくわたしの職場へ遊びに来ていたでしょう。今考えて、ちょっと不自然だとか、思わなかったかしら。だって、あそこは製薬会社で、わたしは研究開発を行っていたのよ。その研究所に子供が自由に出入りできるなんて、ってね。気づかなかったんなら、それも誰かがフォローしてくれたのかもしれない。どうでもいい話だけど。でも――思えば、ここでした譲歩が、後々の全てを狂わせたんだわ」

 投げ槍に、むつみが顔の横で右手を開閉させる。なつきは唇を震わせて、軽薄な母の姿から目を逸らしていた。

「最初にこの均衡を壊したのは、わたしの元夫。あなたのお父さんよ」
「父、さん、が?」かすれた声でなつきが反問した。

 むつみは頷くと、次のように語った。
 実験の仔細を知らずとも、わが子をサンプルとして扱う妻の行いに、玖我なつきの実父は烈火のごとき怒りを見せたという。彼は外資系商社の出世頭であり、その多忙さは一月に家にいる時間を数えられるほどだった。それでも若くして一戸建てを妻子のために工面して、なおも仕事に励み、家族を愛していた。妻も子も同じように思慕を返していた。だが不幸にも、思考ばかりは完全な一致を見なかった。
 最愛の娘としてなつきを溺愛していた彼は、年齢と職掌に見合わぬ収入を得はじめた妻に疑心を抱いたのである。彼もまた優秀な人間であり、商社の人間にはつき物である広範な人脈を生かして、不完全ながら事実の一端にたどりついて見せた。そしてなつきが何も知らぬままに験されていることを知ると、妻に対して口を極めて罵るほど我を失った。信頼を裏切られ、愛するものを侵されたからこその激昂だった。

「ショックだったわね」むつみはあっけらかんと述懐した。「愛していたし、信じていたから、丁寧に説明すれば、わかってもらえるって思った。でも、全然駄目だったわ。結局この人はわたしより娘が大事なんだなんて、思ったりもした。それでわたしたちの何かが、ぷっつりと途切れたのかもしれない。今考えるとわたしも行き過ぎていたから、彼にしてみればそれがあからさまに見えてしまったということなんでしょうね。ともあれ、非がわたしにあるのは明らかだったから、さすがに貴女を実験に使うことは、もうしないって会社に上申したわ。表面上、それは受け入れられた。――わたしも、それで、終わったと思った」

 しばらくは、以前どおりの日々が続いた。なつきは母の職場に遊びに行く機会が減った。自然家でひとりで暮らす時間が増えた。父も、そして母もできる限り彼女のそばにいようとつとめたが、両者が共働きの高給取りであったことが災いして、娘の孤独はいよいよ抑えがたいものになった。ホームヘルパーだけではまかない切れない淋しさを、夫妻はペットを与えることで癒そうと考えた。

 なつきが、虚ろにその犬の名を呟いた。

「デュラン二世……」
「あのひと、海外のロックバンドが好きだったからね」むつみが補った。「アフガンハウンド。灰色の毛並みで愛嬌のある、可愛い子だったわ。わたしにも懐いていた。いちばんは貴女だったけど……、逆に名づけ親のあのひとにはあんまりで、ちょっとおかしかった」

 懐かしむように言うむつみを、なつきは直視しないよう苦労しているように、高村には見えた。未だ、なつきの内部ではむつみと母を結ぶ記号が成立していないのだろう。無理からぬことだ。
 その抵抗を、むつみは徐々に取り払おうとしている。それはしかし、必ずしもなつきの望むかたちではない。

「このあとに起こったこと、貴女は少し覚えているんじゃない?」

 完全に玖我家を打ち壊す楔となったのは、一番地から岩境製薬に出向していた男だった。家柄が重視される組織から来た男だけあって、優秀でも名誉欲が行き過ぎている人物で、なつきに優秀なHiMEの素養があることを知ると、すぐに彼女を実験に引き込むことを要求してきた。
 九条むつみ――当時の玖我紗江子は、当然これを突っぱねた。

「だって、家庭崩壊の瀬戸際だもの。さっきも言ったけど、わたしの実家は、あまり……、そう、いいところではなかったわ。だからせっかく手に入れた幸福を、わたしは失いたくなかった。それは大枠にしがみつくだけの、浅ましい思いで、もしかしたら純粋にあなたたちを愛していたわけじゃなかったのかもしれないけれど、ともかく断った。無駄だったけれどね」

 玖我なつきは、小学校からの帰り道に略取されたのだった。
 この件は当然、真っ先に紗江子のもとへ伝わった。首謀者から直接なつきに引き合わされたのである。男はさらに、なつきが大切に慈しんだペットも用いて、少女を脅迫した。文言はこうだった。

『君が守らなければ、大切なものがいなくなる』

 そして犬が撃ち殺された。大切な存在を奪われたなつきは次に母を持ち出され、ついに度を失った。能力を発現させ、暴走させ、皮肉にも画策されたとおり、研究に成果を寄与する結末になった。

「それまでの計測で、エレメントやチャイルドの本格的な発現には、媛星の接近をもう数年待たなくてはならないという見込みが立っていたから、貴女が起こしたこの事件は一番地全体を活発化させたわ。資金も下りた。皮肉なことにわたしの立場も上がった。……あなたは、デュランを目の前で殺されて、自閉症に近い状態になった」

 なつきが目をみはった。
 むつみは大げさに嘆息した。

「当然、すぐに夫の知るところになったわ。二度目はなかった。……彼はすぐに離婚を突きつけて、貴女の親権を主張した。無駄なのにね。でもそう説得しても聞耳を持たなくって、貴女は少し回復してもふさぎ込む時間ばかりになって、わたしの家は火が消えたようになった。あれだけ望んだ、しあわせな風景が、一気に色あせてしまった。貴女はわたしが視界から消えるとすぐに不安を訴えた。夜になると寝ても突然泣きながら起きだして、デュランの名を呼びながら、わたしが寝ていてもおかまいなしに起こした。あのころ貴女はもう高学年だったのに、いきなりずいぶん幼くなってしまったみたいで、夫はそれをいつも苦々しく見て、ますます貴女に過保護になっていった。わたしはだんだん……家に足が向かなくなった。
 だから、外に男を作ったの」

 引きつったような音がした。
 なつきの喉が鳴らした声だ。

「あ、あああああ、あぁ」

 持ち上げられた両手が、帽子越しに頭髪をかきむしる。
 ほんの一瞬だけ、苦痛に耐える顔をして、むつみは残酷な吐露を続行した。

「そのひとは一番地と微妙な同調関係にあった、シアーズからの出向だった」

 玖我紗江子には自負があった。自らの優秀性とそれを証明する行為にはばかりを持たなかった。だが娘や夫との一件がその心理に陰りを産んだ。家庭内の不和は急速に肥大化して、すでに外面の維持すらおぼつかなくなっていた。
 思う以上の負担を、それは紗江子に与えた。睡眠不足が疲労と苛立ちに加速をかけた。やがて彼女は夫と娘を愛すと同時に憎むようになった。その逃げ場として、外部に窓口を設けた。矛先がシアーズに所属する諜報員だったのは、相手にとっては必然でも、彼女にとってはそうではない。仮に無辜の第三者がこの位置にいたとしても、変わらず依存しただろう。
 やがて来るべきときがきた。ジョン・スミスというその男が、玖我紗江子に一番地への裏切りを囁いた。
 手土産は研究成果と紗江子自身。そして、娘だった。

「わたしは、それに乗った」

 もはや、なつきは何の反応も見せなくなっていた。いとけなく汚れた床に尻をついて足を崩し、うずくまるように頭を押さえて動かない。時おり肩を震わせて、高村の耳には届かない何事かを呟いている。
 痛ましい姿だった。
 だが、通らねばならない道なのだろう。
 そう思うことで、ようやく高村は目を逸らすことをせずにいられる。
 見やれば、むつみの瞳が赤く染まっていた。声だけが変わらず冷静だった。よほどの胆力が、彼女を支えている。
 芽生えた罪悪感を、高村はかみ締めた。紛れもなくこれも、彼が望んだ結果である。むつみは即興でありながら、高村が想定した以上の結果を招いていた。あるいは、彼女も手の一つとして、この状況を予測していたのかもしれない。
(だけど、それは逃避だ)

「あとは、だいたい予想がつくんじゃないかしら」むつみがいった。「わたしは貴女を連れて海外に、シアーズに逃げようとした。大金と新たなポストに食いついて、新天地でやり直そうと思った。でも、知っての通りすぐにその試みは露見して、阻まれた。わたしたちは事故にあい、わたしも小さくない怪我を負って、貴女はそれどころじゃない危篤状態になってしまった。一番地に拘束されたわたしは、交換条件を持ち出して、そのかわりに、身柄の解放を要求した」
「その、条件ていうのは?」なつきの代わりに、高村は訊いた。
「ひとつは当然、玖我なつきを置いていくこと」高村を見つめて、むつみは無感動に答えた。「もうひとつは、当面のなつきの媒介……想い人として、わたしを固着させる暗示に協力すること。目覚めたなつきがわたしの裏切りを知れば、なつきはわたしへの想いを失い、人への感情も失いかねなかった。だから一番地はストーリーをつくる必要があった。わたしへの愛情を持って、一番地を憎みつつ、それでもHiMEとして生きていく、そんな物語をね。そのついでに、夫の記憶も改竄した、というわけ。……でもそれがまさか、何年も変わらずに抱き続けられるものだなんて、わたしにとっても彼らにとっても予想外だったでしょうけど。ここまで詳しく話したのは、高村くんも初めてよね。つまりわたしって、こういう女だったのよ」

 高村は、無言で天井を仰いだ。
 待ち合わせてからこれまでの、なつきの顔が思い返された。高村の行為は容赦なく、それらを拭い去った。奪ったのかもしれない。
 再び立ち上がる毅さを、高村の立場で期待することは傲慢である。彼がなつきに添えられる手は、即物的なものを除いて、すべて擲たれたのだ。
 むつみが、これだけは心底からの感情を込めて、自棄的に締めくくった。

「これで、おはなしは、おしまい」

 なつきの震えが止まった。
 もう何も呟いていなかった。
 伏せた体の下で、地につく指が爪を立てていた。か細い繊手に、力がこもっていく。ある面で顔より如実に感情を伝えるのが手先だ。だが高村が読み取ったなつきの表情は、渾然となってひとつも実態がつかめない。

「どうして、だ」底冷えするような声でなつきが言った。顔は俯いたままだった。「それなら、どうして、今になって現れた。なぜ、風華になんてやってきた。あなたが……玖我紗江子だとするなら、そしてシアーズ財団の九条むつみなら、どうしてまたわたしに近づいたんだ」
「べつに、個人的に貴女がどうこうってことはないわよ。勘違いさせたなら悪いけど」素っ気無くむつみが答えた。「それとひとつ訂正よ。さっき高村くんも言ったけれど、いまのわたしは財団から籍を移しているの。色々とこちらでも煩わしい事情があるのは変わらないわ。これはきっと、世界のどこにいっても同じなんだわ」
「わたしはみとめない」なつきは更に言い募った。「あなたは母じゃない。わたしが想った母が、あなたなんかであるはずは、ない」
「それはそうよ」むつみは頷いた。「貴女に植えつけられた母親像はわたしを原型にしたもので、実態はただの幻想よ。貴女は貴女の中の母親を想い続けた。目の前から母親がいなくなっても想い続けた。そして実像を持たない思いはとても偏向されやすい。一番地の施した処置のせいもあって、貴女はいつしか自分が理想とする母性を玖我紗江子という型にはめこんだの。仮にわたしが貴女の母を騙る贋物だったとして、だからといって貴女の中の母親が実物に即しているわけでもないわ」
「母が! いなくなって!」慟哭のような叫びを、なつきは上げた。「家が、どうなったと思ってる。みんなが住んでいたうちは、もうない。人手に渡った。壁は塗り替えられた。知らない家になってしまった。あのころのデュランは死んでしまった。父とはもうしばらく会ってない。海外に、別の女がいるそうだ。そいつにわたしと会ってほしいなんていうんだ。わたしに話しかける声は、いつも膜ひとつはさんだみたいで、遠いんだ。わ、わたしはいつも、それを鬱陶しく思ってしまう。大好きだったのに。あんなに好きだった、父さんなのに。……い、一度だけ、エレメントを向けたことがある。家のものを壊した。そんなことがしたいわけじゃなかったのに、わたしたち家族の間を埋めていたものが、それで、もう、どこかに消えた。
 ――ぜんぶ、めちゃくちゃだ。台無しになったんだ。母さんが、ママが、いなくなったから、一番地に、殺されたから……」
「なつき。貴女のそれは、愛情じゃない。執着であり信仰よ」むつみは慈しむように見えた。それがいっそ残酷ですらあった。「事実ひとつで壊れるものもあるかもしれない。でも貴女が信じたものは、貴女が思うよりずっと前にひび割れてしまっていたの。それをしたのがわたしなのよ。貴女の思う優しくて暖かくて完璧な母なんかではない、見ての通りの、女なの」
「黙れ」

 なつきが、はじめて、顔を上げた。
 その横顔に高村は言葉を失った。
 何一つ歪んでいない。美しい顔立ちはそのままだ。
 ただ大きく見開かれた瞳から、大粒の涙がこぼれていた。際限なく落ちて、彼女の頬と顎をつたい、服を手を、床を濡らしていた。
 全身から、可視性の光が立ち上っている。高次物質化能力の余波に間違いなかった。本人の制御を離れ、力が暴走しかけている。

「おまえの言うことが本当だったとして、……はは、それはなんだ?」なつきが無表情に涙を流しながら、いった。「母さんは生きていて、シアーズで、裏切り者で、わたしたちを捨てたって……なんなんだ、それは? わたしの今までって、なんだったんだ? あはは……。道化じゃないか。そんなの、わたしは、ただの、ああああ、コマじゃないか。だ、誰かの手で、いいようにされて、信じたものも、想ったものさえ不確かだなんて―――ふ、ざけるなよ、なぁ。なんでそんな、そんなことを、今さら言うんだ。物語だっていうなら、それは嘘だって必要なものじゃないか? だから、わたしは生きて来れたんじゃないのか? それを、どうして今さら剥ぎ取るんだ。わたしを、指差して笑うためか?」

 虚心の問いだった。流れる涙はそのままに、なつきの全身に燐光がからみついている。
 むつみはまるで物怖じしなかった。ちらと高村を見やった。高村はその視線を受け取った。このやり取りを経て、高村は自分の思惑がむつみに見透かされたことを確信した。
 彼女に言わせていい台詞ではない。
 だが、制止をかければ、むつみの意思に砂をかける真似になる。
(最後まで、勝てないのか)
 忸怩たる思いでむつみを見つめる。高村が憬れた女は、問い詰める娘を前に、最後まで仮面を被りとおした。


「だって、貴女のチャイルドが死んだら、わたしが死んでしまうでしょう?」


 なつきが呆けた。

「だから言ったの。明かしたんだわ。わたしにもすることがあるから。果たす責任があるから。それは陰から捨てた娘を見つめてくだらない保護欲と罪悪感を疼かせる行為より重い意味があるから。そんな貴女の自覚のない無謀に巻き込まれたくないから」むつみは目を細めた。「わたしにも見栄はあるから、いい母親のように想われて、それで死ぬのは満更でもなかったのよ? でもごめんなさい。わたしは結局、貴女を一番にはできないの。……そういう女なの。こういう母親も、いるのよ」

 呆けたまま、なつきが立ち上がった。

「は。はは」

 乾いた笑いを、高村は聞いた。一瞬のあと、なつきを巻く光が消え、そして炸裂した。
 とたん、頭上の蛍光灯が音もなく粉々に砕けた。分解と称すべきかも知れない。破片は目に見えないほど細かく散った。明かりが途絶える寸前に、高村は背後の窓枠の内部で、テープが青白い炎を上げて燃え尽きる様を見た。ガラスもまた電灯と同じ末路をたどった。一度だけ波打つように振動したかと見るや、ふくらみ、ふるえ、弾けて、消えた。全ての破壊は静謐の内に行われた。屋外からぬるい熱帯夜の風が、暗闇に包まれたフロアに吹き込んできた。
 漆黒のはらわたのなかで、中心たる玖我なつきはいった。恐らくはまだ涙を流したままで。

「さようなら」

 そして、静かな足取りで、迷いなく出口を目指すと、エレベーターを開き、階下へ消えた。
 目がくらむほど長い沈黙が、あとに残された。

「わたし、上手くやれたかしら」むつみの声がした。「これでいいのでしょ? 高村くんは満足したの? 誰が、こんなことを頼んだのよって――それくらい、何も見えない台詞を吐けるなら、お互い楽だったのにね」
「でも、俺の仕事まで取られました」高村は強いて空元気を見せた。「なんでわざわざ、露悪的に振舞ったんですか」
「自分で言って、気づいたから」訥々とむつみが応じた。「言ったとおりなの。わたしは、あの子の思う母親のまま死ぬなら、志が半ばでも、あなたやほかのみんなを投げ出しても、それならいいかと思ったの。それを、さっきこの場に来るまで、高村くんに乗せられたってわかるまで、知らないふりをしていたのよ。でも、そんな自分に気づいたら、そのままにはしておけない。だから、自分で、その芽を摘みたかったの。……娘の前で、かっこうをね、つけたかったの。ばかみたい」
「格好いいですよ、紗江子さんは」高村は心からいった。「言っておきますけど、あなたのフォロー、するなって言ってもしますよ。あれはあんまりだ」
「あの子が明かりを消してくれてよかった」火の消えたような声で、茫洋とむつみがいった。「わたし、今からきっと泣くわ」

 するべきことはわかっている。高村はそれには答えず、短く告げた。

「追います」
「お願い」応じるむつみの語尾が上ずった。

 鼻をすすり上げる音に背を向けた。
 これも逃避の一種だと、高村は考えた。ここで九条むつみを支える選択もあるのだろう。だがむつみの求めはそこにはない。彼の手はふたつ、指は十もある。だが掬える人は二人もいない。
 ともすれば、一人もいないのかもしれない。
 その無力な指先が、エレベーターの昇降ボタンを探り当てた。
 と、

「九条さん?」

 高村の背に体温が触れた。暗闇も手伝い、心臓が一際揺れる。振り返った胸元に、小ぶりな頭が当たった。ちょうど一日隣に置いた玖我なつきと、それは同じ位置だった。毛髪から香る女性特有の体臭に思考をかすかに酩酊させて、高村は懐中のむつみの言葉を待った。

「ごめんなさい。十秒だけ、借り、るわ」
「……こんなものでよければ、どうぞ」

 なつきに見繕われた背広を、むつみの手がきつく絞った。腕に納まる狭い肩幅の中心から、引き絞るような息づかいが聞こえた。涕涙を堪えるための仕草だった。水分の滲んだ声が、暗がりで高村の耳を打った。

「駄目な母親ね。弱い女よ。わたしは、ほんとうに」
「あなたをそんなままのお母さんには、俺がさせておきませんよ」

 一瞬だけ、高村はむつみを抱きしめた。
 脅えるように竦んだ小柄な体を、すぐに柔らかく突き放す。

「行ってきます」

 なつきのいないエレベーターが、高村を迎えた。


   ※


 行くあてはない。かといって流離うほど街は広くない。彷徨うには自意識を保ちすぎている。ネオンのきらめく夜の街路を、玖我なつきは浮遊するように逍遥した。
 去来するものは何もなかった。完全な無が彼女の胸を占めていた。価値観の一切と、かろうじて築き上げていた心裡の塔は、基礎地盤から選択を間違えていた。今はただ蹉跌が積みあがっているだけだ。感慨もない。奇妙に客観的なもうひとりの玖我なつきが、いまのなつきを品定めしていた。いま抱きしめられれば、あるいは異なる価値観を与えられれば、犬のように尻尾を振ってわたしはそれにすがりつくだろう。洗脳はそうして行われるわけだ――揶揄ではなくただの事実として、現在の心情をそう評価していた。そしてそれはほぼ正鵠を射ている。

「ハァイ」

 だが、なつきの目の前に現れたのは保護者ではない。純然たる敵対者であった。
 他校の制服を着た結城奈緒が、近場の壁にもたれかかり、腕を組んでなつきを見つめている。表情にはこぼれんばかりの喜色があった。
 なつきの情動はほぼアパシーの域にあった。色のない瞳で奈緒を見返した。なぜ彼女が風華の外の路傍にいるのだろうという疑問さえ浮かばなかった。

「はは、ボロボロじゃん、玖我センパイ?」そんななつきを見て、奈緒がいっそう微笑を深めた。「いっやーん。面白そうだからつけたはいいけどスゴイ退屈でもう帰ろっカナーって思ってたらぁ、最後の最後に超面白いもの、見ちゃったぁ。っていうか、聞いちゃった、カナ? あはは!」
「用がないならわたしは行くぞ」なつきは歩き出しかけた。
「待てよ」その肩を奈緒がつかんだ。「せっかくグーゼン、こんなところで会ったんだからサ、退屈しのぎに付き合ってよ。ねえ?」
「他をあたれ」なつきはにべもない。他者がひたすら疎ましかった。
「ごっきげん斜めねえ。そんなに高村たちに担がれたのが悔しかった? 凄い顔よあんた。もうなぁんにもなぁい、カラッポですーって感じ」

「――おまえ」

 凪いでいたなつきの心中に、小波が走った。奈緒はその様を、喜悦に細めた瞳で観察している。

「いたのか、あそこに」
「聞いてただけよ」奈緒が気さくに笑った。「たまたまじゃん。でもさあ、糸電話とかどうかしらって思ったけど、意外と聞こえるのよねェ、アレ。ぷっ、全部筒抜けだったわよ?」

 盗聴を咎めるよりも先に、なつきを脅かしたのは、唐突にこみ上げた吐気だった。目前で笑う奈緒の顔が歪む。蹌踉とするなつきを尻目に、奈緒は笑声を弾けさせた。

「つまりアレでしょ? 全部茶番だったわけ? アンタが一人でいきってカタキ取るとか吹いてたことも、スキスキってしてた母親も、すかした態度で決めてた色んなことも、ぜんぶ、全部! ――ウ・ソ♪、だったわけだ!」
「ぅ、あ」

 よろめくなつきの胸を押して、奈緒はけたたましい哄笑をあげた。

「うっはぁ、ミ・ジ・メぇ! でも最っ高に笑えるわアンタ。あっはは、カラダ張るならともかく、人生張ってピエロって! すっごいよ、そんなマヌケ見たことないよ!? どんだけ面白いの、ねえ!? どんな気分なの、全部否定されちゃってさぁ! なんだっけ? 『わたしには復讐しかない』? 『意地』ぃ? って、どんなザマでそんなセリフほざいてんだっつうの! ネタフリにもほどがあるから!――ねえ?」

 突然に、奈緒が声のトーンを下げた。一切の笑みを消して、喘ぐなつきの顔を真正面から凝視する。

「これであんたも、分かったんじゃないの? 母親なんて信じたって馬鹿みるってさ。いや、もう見たのか。……ああ、惨め惨め。で、どうすんの? 泣かないの? もしかして今夜もさ、ママのオッパイが恋しい恋しいって言いながら寝たりして? そうだったら、もうホントうけるんだけど――ねえ。なんとか言ったら? 『甘ったれのガキ』にこんな言われて、悔しくないの?」
「まるで。こたえないな」それでも、なつきは言い返した。「『甘ったれのガキ』のいうことだ。なんら、痛痒を感じない。キンキンキンキンと小うるさいだけだ。ふん、犬のほうがもっと節度を持って鳴くぞ、ガキ」
「――いい度胸だわ。ほんと」

 なつきの襟首を捉えた奈緒の手が、腕力に任せて体ごと路地へ引きずり込むべく働いた。なつきは逆らわず、たたらを踏んで夜光の恩恵から離れた。
 逆光を負って、奈緒が残酷に顔を歪ませた。

「いつかも、こんなことがあったわね。……それじゃあ、HiME、狩っちゃおうかな」

 いつかよりも一際凶悪に鋭く変じたエレメントが、奈緒の手を飾る。なつきも応じようとして――留まった。
(あ、れ?)
 あるべきものが欠けていた。
 求めればすぐに応じる気配だ。数年来、なつきの隣人であった高次物質の思念が、その存在を微塵も感じさせなくなっている。
 眼前の脅威も忘れて、なつきは己が手をまんじりともせず眺めた。薄く白い掌がそこにあった。エレメントとして具現化された拳銃など、どこにも見当たらない。痕跡さえない。
(ああ、そうか)
 動揺の振幅は微小だった。枯死した情動が回答を親切に促していた。
 HiMEの力の源は感情である。使い手が唯一の人間へ向ける慮外の熱量が、少女をして異能の駆使者となさしめる。
 ではその源泉を失えばどうなるのだろう。
 答えがなつきの手中に示されている。
 人ならぬ何かが、その判断を行ったのだ。手続きは当人さえ知らぬままに踏まれていた。
 左上半身の中心に、灼けるような痛みがはしった。神経が剥がれ落ちていくような不快な感触とともに、とても重要で深刻なものが、玖我なつきの体から離れていく。
 不思議なほどあっさりと、その事実は腑に落ちた。

「わたしは、もう、HiMEじゃないのか――」
「はぁ?」奈緒が盛大に顔をしかめた。「なにそれ。ブラフ? そういうのはいいんですけど」

 なつきはただ自分を嘲笑するだけだった。ついに、最後の寄る辺も失ったのだ。虚空に向けて、長年の相棒の名を呼んだ。寂寥の念か、あるいは惜別か、ひょっとしたら未練を込めた。

「デュラン」

 当然、召喚はなされない。だが、なつきの耳はあるかなきかの遠吠えを捉えていた。
 永訣の咆哮なのかもしれない。

 なつきは独りになった。

 もう何もない。今度こそ、完全に、玖我なつきは孤立したのだ。今まで全てを注いでいた世界からさえ、三行半をつきつけられた。

「え、マジで?」拍子抜けしたように問うと、奈緒は改めて嗜虐的に笑った。「はは……じゃあ何。一方的にこっちが苛められるんだ? 物足りないけど、まあいっか。じゃ、ちょっと顔に消えない傷でも刻んであげよっか」

 エレメントを構えた奈緒となつきの間に、そのとき、割って入った声があった。

「それはちょっと、聞き捨てなりませんなぁ」

 柔らかい語勢と、聞きなれた京訛りだった。路地の出口から、奈緒の肩越しになつきを見つめる瞳がある。
 繁華街に似つかわしくない着物姿だが、間違えようがない。なつきの友人である、藤乃静留がそこにいた。

「静留……?」
「生徒会長?」

 期せずして、なつきと奈緒の疑問が重なった。静留は笑みかけて、なつきの顔を一見するや、かすかに頬をこわばらせた。奈緒を押しのけるように路地に足を踏み入れてくる。

「……なつき。泣いてはるの?」
「あ、いや、これは、その」腫れた目元に触れようとする静留の手から逃れて、なつきは弁解した。「違うんだ。ちょっと、そう、目にゴミが入った」
「嘘やね」優しく、しかしはっきりと静留がいった。「ええよ。いいたくあらへんのやったら、うちも詳しく聞かんようにするさかい。それより――」

 静留の意識が、そこでようやく、奈緒へ向いた。無視されたかたちである奈緒は双眸を吊り上げて、闖入者へ剣呑な気配を発している。

「また空気読まないのがきたわねえ。どっから湧いてきたの、アンタ」
「それはこっちのせりふどす」静留はいつも通り、穏やかに問い返した。「執行部はこの近くのホテルで高校総体の壮行会やっとるさかいにな。夏休みのこの時期は恒例の行事どすえ? 後援会の皆さんもいらはるし、うちはちょうど宴会の会場に遅れて向かっとるところどす。……結城さん、いわはったね。あんたこそ、他校の制服着はって、なんや知らん間に転校しはったん?」
「着物きてるババ臭い女に言われたくないわよ」奈緒が鼻で笑った。「それより、ちょっとそこどいてくんない? あたし、今からそこの玖我センパイにさ、ちょっと用があるのよ。一緒にイジメてほしいっていうんなら、ま、考えてあげなくもないけど」
「そら、物騒な――」

「やめろ」

「なつき……」

 静留の肩を押しのけて、なつきは前に出た。結城奈緒が、能力の有無で手心など加えないのは先刻承知の通りだ。この上静留まで危険にさらし、怪我でも負わせれば、なつきには立つ瀬がない。
(それに、もう)
 投げ槍な心理が働いていることは否めない。
 全てに対する関心と意欲が枯れている。喜怒哀楽さえ、いまのなつきは演じることに苦労している。静留をかばうことも、こうであろうというルーティンに従っているにすぎなかった。たとえ本当に目の前で親友が傷を負っても、いまのなつきは、ただ悲しむふりをすることしかできない。その確信があった。
(どうでもいいんだ。なにもかも)
 そして、だとしても、そんな光景だけは、絶対に見たくない。
 奈緒が、憤りを交えて吐息した。

「友情ゴッコかよ。おままごとならよそでやってくんない?」わざとらしく、目を丸くして、続けた。「あーあー、そういえば、そこの会長ってなんか、レズってウワサあるじゃない! 下級生とか手当たり次第食いまくってるとかさぁ、オトコいないせいでそんなふうに言われてるのかと思ったけど……もしかして、マジだったりするんじゃなぁい? ねえ玖我、アンタ狙われてるのかもよ? それとも、もうデキてたりするのかしら。――うーわ、キモ」
「下衆が」なつきは静かに吐き捨てた。「下卑た勘繰りしかできないのか? 程度が知れるな。親の教育も行き届いていない」
「――あっそ。じゃあ死ねば」

 予告もなく奈緒が片手を振った。なつきは咄嗟に静留をかばい、体を伏せる。耳をつんざくような高音が響いた。
 恐る恐る、顔をあげる。
 息を呑むなつきの目前に、ぞっとするほど深い亀裂が生じていた。左右の壁も、せり出した部分を綺麗に切り取られている。時間差を置いて、コンクリート片がアスファルトに落ち、重い音を立てた。
 奈緒が愉快そうに声を張り上げた。

「あっは! そんなにビビんないでよ! まだ全然小手調べじゃない!」
「貴様……」

 拳を握りかけたなつきの手に、静留がそっと指を寄せた。

「なつき。ええよ。うちにまかしとき。……なんとか、するさかい」
「そんなわけにいくか。おまえはわたしが守る」

 言い聞かせて、われながら空虚な言葉だと、なつきは感じた。まるで実がない。根拠もない。本当の意味の虚勢である。
 そして、無力をかみ締める反骨心さえ、いまのなつきには欠けていた。
 無意味に立ち向かい、無様に這い蹲るのだろう。道化には似合いの結末だ。
 捨て鉢に動きかけたなつきを制したのは、囀りのような静留の言葉だった。

「かわいそうな子やね、結城さん」

 裏腹に包含された嘲弄を受けて、奈緒が口元を緩ませた。

「安い挑発……」
「せやね」静留が薄く笑んだ。「へたに気ぃつくさかい、余計なもんが見えはるんやろ。目に付くものぜんぶに噛み付いて、……ちっちゃなころから、人の顔色ばかりうかがっていはったんとちゃいますか? せやから、なつきのことが気に入らへんようになる……うらやましいから、突っかかる」
「この状況わかっててそんなセリフ吐けるなら、そこの腑抜けより上等かもね」奈緒が顔をひきつらせて、エレメントを掲げた。「でも、さて、これを見てもそのお澄まし顔、そのままかな?――ジュリア!」
「バカが。ここは風華じゃないんだぞ……」なつきは静留の手を引いて、路地を逆行した。「静留、逃げろ! このままじゃまずい!」
「あ、なつき……」裾を手繰りながら、静留も走り出す。

 狭い路地を圧壊させて、半人半蜘蛛のチャイルドが、威容を見せた。舞う土ぼこりの向こうで、奈緒が高みから逃げ惑う二人を見下ろしている。指揮棒を振るように手を一振すると、なつきの進路に赤い網が出現した。

「くっ」
「バーカ! そっちは仕込み済みだっての!」奈緒が吠えた。「はい、ゲームオーバー……」

「馬鹿はおまえだ」

「――へっ?」間が抜けた奈緒の呟きが、いやに大きく響いた。

 高村恭司の声だった。となつきが認めた刹那、奈緒はチャイルドの上から引きずり落とされている。夏服の襟をつかまれ、地面に押し倒されて、両手は背後で極められている。

「なんだよ! ちょっと、離してよ! 服が汚れちゃうじゃない!」
「いいからチャイルドしまえ。見つかったら大事になるだろ。ほら」
「いった! ちょ、いったいいたい! うぎゃー!」
「いやうぎゃーっておまえ……」
「マジで痛いんだってばこのボケ!」

 わめく声をよそにして、なつきは苦く、顔を歪めた。

「なんで、来るんだ……」
「なつき?」案じる静留の声に、なつきは応えることができない。

 静留がいなければ、それこそいつかの夜の焼き直しだった。
 だが今の玖我なつきはHiMEではない。高村を疑ってもいない。
 疑いはないが、比べ物にならないほど深い隔絶がある。

「……どうして、おまえなんだ」

 処理しきれない感情を持て余して押し黙るなつきの横顔を、藤乃静留が注視していた。


   ※


 結城奈緒を足下に組み伏せて、高村恭司は、呼吸を整える行為に腐心した。なつきの姿を求めて数百メートルを休みなく疾駆した反動が、汗となって服を湿らせ始めている。
 ほんの数メートルほど背後では、奈緒のチャイルドを目撃した通行人が、足を止めて言葉を交わしていた。狂猛なジュリアの姿を前に、逃げるでもなく携帯電話のカメラを向けている。危機感の欠如について、高村は他人に意見できる立場にいないが、賑々しくはやし立てる人々には文句のひとつも投げつけたいところだった。
 もちろん、今はそんな場合ではない。

「ようやく追いついた。歩くの早いぞ、玖我」十メートルは離れた場所に立つなつきへ、目配せする。「って、藤乃もいるのか。なんでだ」
「部活の壮行会だってさ」奈緒がぼやいた。高村の力が緩んだ隙を見計らい、するりと体を脱出させる。「つうか、むかつくんですけど。なんであたしを抑えるのよ。ヤるならあっちでしょ」

 立ち上がりしな、エレメントとチャイルドを収めて、奈緒が一笑した。周囲の残骸を歯牙にもかけず、衆目へ向けて鋭い目つきを飛ばす。不穏な気配を感じ取ってか、それで集りつつあった耳目の過半は散った。
 高村は安堵にため息をこぼした。

「そもそも、そう言う結城はなんでここにいるんだ?」
「う」と奈緒の口端が引きつった。ぎこちない態度で、顔を背ける。「……まあ、変な偶然てやつじゃない?」
「つけてたのか」正確に事情を看破して、高村は頭を抱えた。「なんでまた……暇人かよ」
「そうよ。暇だったからつけたのよ」奈緒が開き直った。「玖我とアンタのデートなんか、絶好の見世物じゃん。文句ある?」

「……デート?」

 困惑気味に反問したのは、なつきにかばわれる立ち位置のままの藤乃静留だった。訝しげな目が、なつきへ向かう。自然高村と奈緒も追従するかたちになって、三者の意識が渦中の少女へあつまった。
 なつきは、無表情にそれを受け止めている。口を開くそぶりも見せない。陰鬱に黙然として、疲労の極限か、あるいは病んだ老犬のように鈍い瞳を、暗がりで揺蕩わせていた。

「それよりさあ、傑作だよ」ひとり場違いな陽気を装い、奈緒が続きを引き取った。「あいつ、もうHiMEじゃないんだってさ。エレメントもチャイルドも出せないみたいよ? ねえ、玖我センパイ? 何の取りえもない根暗女になった気分とか、けっこう興味あるんですけど?」

 なつきは黙許して奈緒の暴露を見送った。問う高村の視線にも、反応らしい反応を返さない。
 ひとり静留だけが、かすかに目をみはり、なつきの肩に恐る恐る、触れた。

「いまの、……ほんま?」
「ああ」

 極めて短い答えに、静留が刹那だけ打ちひしがれた表情を見せた。どうやらなつきにあらかじめ聞いていたのか、あるいは学園の長という立場ゆえか、事情に通暁している気配だった。

「あら、会長サマもちょっとはもの知ってるみたいね」興が乗った様子の奈緒が、芝居がかった語勢でまくしたてる。「じゃあ、そこの玖我が前代未聞のマザコンってことは知ってた? で、その大好きなママが、実は死んでなくて、そいつを捨ててどっかに行っちゃっただけって話はどうよ。それもなんと、その正体はつい最近まで学校にいた、シスターむつみよ? あげく玖我はさっきのさっきまでそんなこと全然知らなくて、――つまり、ずーっとずーっと騙され続けた、馬鹿丸出しの一人芝居に酔ってるイタイ女だったってコト! おまけにそのことを知らされて、ショックを受けたカワイソウなカワイソウななつきチャンは、傷ついちゃってえ、もうHiMEじゃなくなっちゃいましたあ! 残念でしたあ! あはははっ! かわいそうかわいそう、超かわいそう!――ってさ。ねえ、玖我、アンタのオトモダチにそのこと言ってあげないの?」

 静留が絶句した。言葉もない様子で、なつきに触れた指を震わせている。
 なつきは疵口を抉る声に、顔色を紙のようにしていた。痙攣する手を口元にやって、吐瀉をこらえるように背を曲げている。立っているのがやっとの様子だった。

「結城、よせ」高村は静かにいった。
「なにが?」奈緒は快感すらおぼえているように見えた。「全部ホントのことでしょ。ごまかしたってしょうがない。だいたいセンセイが自分であいつにしてやったことじゃないの。それを善人ぶるとか、やめなよ。はは、らしくないって。ああ――でも、ある意味では善いことだったのかもね。だってさあ、とんでもない勘違いをちゃんと正してやったんだから。フフ、それなら逆に感謝されてもいいくらいだよね。はっ――惜しいことしたわ。できるならあたしもあの場所にいて、泣き喚くアンタの顔を、じっくり見たかっ」

 手が出てから、高村は失策を悟った。
 遅れて耳朶を枯れ木の爆ぜたような音が叩いた。
 奈緒の頬を、高村の手が張った音だった。

 全員が沈黙に陥った。

 高村は凝然と自らの手を眺めていた。なつきはえずきながら、瞳を落としたままだ。静留はそのなつきを介抱しつつ、高村と奈緒から距離を取ろうとしていた。
 そして、結城奈緒は、打たれた姿勢で止まっている。捻った首をそのままに、高村の手が触れた箇所に、奈緒の指が触れた。
 極めてにぶく引き戻された奈緒の顔が、高村に据えられた。

「………………………ああ、そ? なら、もういいわ」

 その瞳を見て、高村は怯んだ。完全にすべての色が消えた眸だった。親しみがもとよりなかったとしても、いかばかりか関心と慣れを含んでいたはずの色が、単一のそれに変化していた。
 無価値なものを見る眼そのものだ。
 高村と奈緒の間にあったのかもしれない温度が、全て消えたその瞬間が、見えるようだった。

「もういいわ」

 と、奈緒が繰り返した。高村にも、なつきにも、静留にも、もう一瞥もくれなかった。スカートを翻し雑踏に消えていく。小柄な背中に万言に勝る拒絶が見えた。
(なんだこれは)
 独言は、虚ろだった。
(喪失感って、馬鹿か、俺は)
 高村は常に見送る側だ。去る奈緒から早々と視線を切った。取り戻せないものはある。許容できないものもある。奈緒が早晩その線を踏み越えるであろうことを、彼は常に想定していた。
 今は、それよりも、玖我なつきだった。
 静留に支えられた少女へ、一歩近づく。気取ったなつきが、脅えるように身を竦ませた。その仕草があまりに九条むつみに酷似していて、高村はそれ以上の接近をためらった。

「なにか、用ですやろか」静留が、事務的にいった。
「ああ、玖我に、一言な」高村はこたえた。発した自分が慄くほど、擦り切れ、掠れた声だった。
「……ひとつ、ええどすか」静留がいった。「さっき、結城さんが言わはったこと……」
「本当だよ」高村は頷いた。「言い方はともかく、内容に訂正すべき点はない。あいつがいったことを、そのまま俺は、玖我にした。あるいはもっとひどい仕打ちも、含まれている」
「残念やわ」いつか一度だけ聞いた低い調子で、静留は呟いた。高村を見る眼は既に据わっている。「高村先生やったら、なつきのこと、わかってあげられる思うとったさかいに」
「ぽっと出の他人に、そんな期待をするなよ」高村は簡素に、静留の思い違いを正した。「玖我」

 呼びかけに、なつきは反応しない。暑さのためではない脂汗で額を濡らして、消極的に外界を拒んでいる。藤乃静留という服に包まれて、過ごすことを選ぶのなら、それもひとつの選択だと高村は思う。静留がいるのならば、なつきをいたわるのにこれ以上の適任はいないだろう。
 だが、かける言葉がまだ残っている。

「今夜おまえに言ったことが、なくなったわけじゃない」と高村はいった。「全部残ってる。おまえも覚えているはずだ。今すぐじゃなくてもいい。……落ち着いたら、そうだな、ごはんが食べられるようになったら、考えてみてくれよ。俺や、お母さんの言ったことを。おまえの身に、今日も含めて、起きたことを。……本当のところ、それはそんなに悪いことなのかな? 俺はそう思うんだ。だから、少しだけでいいから、余裕ができたら、考えて欲しい」

 なつきは、やはり、応えない。

「言いたいこと、それだけどすか?」静留が、静かな言葉で突き放した。

 高村は肯んずる。
 静留が眼を伏せた。ひどく珍しい、苛立ちの吐息をさらしていた。次に高村を捉えた半眼には、ただ品定めするような怜悧さだけが宿っている。

「えぞくろしいなぁ。……ほな、さっさと帰りや」


   ※


 気づけば、高村は一時間近く噴水の縁に座っていた。見知らぬ街で、慣れない言葉の奔流に浸りながら、旦夕紡がれる営みの末端に浴している。この上ない夜にいながら、彼が目にするのは痛々しいほどの光ばかりだ。露光反射で眼球が行う微動が、彼が表面上で行う唯一のものだった。
 呼吸さえ、憚るように繰り返している。
 自分が打ちひしがれていることを高村は認めた。全て承知の上でいながら、当然の帰結として生じた結果に、かなり参っている。せめて一晩は何も考えずにいたかった。
(ああ、そういえば、九条さんにデータをもらうのを忘れていたな)
 本来ならば、死活問題になりかねない重要事である。今夜むつみを呼び出した目的の半分がなつきへの暴露ならば、残り半分がそのデータの取得にある。だが、いまの彼には瑣事だった。歯車を回す油は時間だ。高村には休む間が必須だった。
 だとしても、状況は彼のコンディションを忖度しない。携帯電話が無遠慮な着信を告げた。液晶には『石上亘』の名前が表示されている。今さら受けても恨み言をもらうくらいだろうが、高村は彼と話がしたい気分だった。

「はい」
『お疲れさまです』開口一番、石上はそう言った。

 高村は眉をひそめた。

「俺に、石上先生が最初に言うことが、それですか?」
『他にはちょっと思いつかないねえ』石上が陽気に告げてくる。『僕は君を労いたい。ああ、それは真摯な気持ちだよ』
「……?」

 鈍磨していた感性が、違和と危機感を得て活動を再開し始めた。

『君たちは用心深かったつもりなんだろうが、結局は素人だった。そういうことさ』石上は構わず続けた。『本腰を入れた追跡者の手から逃れる用意は、どれだけしても充分とは言えないんだ。現代社会にある覗き窓は、何も人の耳目ばかりを通すわけじゃない。町中に眼がある。耳もある。本当の逃走者とは、安住を求めてはいけないんだよ。あるいは、自分が安らぎを覚えたら、次の瞬間にはもう拠地を移す構えを終えていなければならない』
「何を……」
『迂闊だったってことさ。君も』石上が笑う。『そして九条むつみも。いや、玖我紗江子も、かな? どちらでもいいか。――だから、お疲れさま、さ。僕が君たちに当て込んだ役割は、今夜終わったよ。おかげで、シアーズとの交渉は円滑に進んだ』

 高村は腰を浮かせた。一瞬で数百の罵倒が心中を埋め尽くした。無論己に向いたものだった。


「お話、もう終わった? お兄ちゃん」


 アリッサ・シアーズが、満悦の表情で隣席に腰を落としていた。薄いショールを肩に羽織って、地に届かない足を、縁の上で遊ばせている。いつからそこにいたのか――あるいは、いないのか。高村を見つめる瞳は無邪気そのものだ。
 高村は狼狽する。回線を通した石上か、もしくはアリッサから、少しでも距離を置こうとする。

「むかえにきたよ! お兄ちゃんいつまでも帰ってこないんだもん! さ、かえろ!」アリッサが笑う。
『さようなら、高村先生。短い付き合いでしたね』石上も笑う。

 通話の切れた電話を手に、高村はアリッサへ眼を戻した。爛漫な笑みを崩さない少女は、うだるような暑気の中でひとりだけ清廉だった。人種の違う肌色よりも、根本的な気配に由来を発するのだろう。アリッサは俗世からひとり劃されて妖精のようだ。
 高村はあとずさる。

「アリッサちゃん、ごめん」口早に言った。「俺はまだ帰れない。やることがある」
「え?」アリッサが冗談でも聞き流すように眼を細めた。「だめだめ。そんなの関係ないよ。わがままいうなんて、お兄ちゃんったら、こどもー」

 踵を返した。
 全力で走り出した。一瞬で速度を上げて、ストライドを大きく、跳ぶように足を前へ、

 ――運ぼうとした瞬間に転倒した。

(あ)

 硬球を至近で投擲された衝撃が、背部で爆ぜる。腰となく太腿となく、無数の弾丸が高村を打擲した。彼に振り返る余裕があったのなら、満面の笑みで翼のエレメントを展開し、衆目と高村を区別なく打撃する天使の姿が見えただろう。
 怒号と悲鳴が、夜の町に弾けて消える。
 こめかみへの一撃を受けると、嘔吐の前兆を感じて、高村は昏倒した。

「じゃあかえろ。パパのためにいっぱいいっぱいワルキューレを落とそうね、お兄ちゃん!」

 朦朧たる意識の間で、高村は何かを応えた。
 アリッサの高く美しくそれゆえに嘘のような声が、それを笑った。

「なにいってるの? 無理だよ。お兄ちゃんには無理無理。なにもできないよ。だってお兄ちゃん、深優がいなきゃ立つこともできないのに。歩くのも走るのもアリッサよりへたになっちゃうのに! それでなにができるの? おにいちゃんが強いのはね、ぜーんぶ、ミユのおかげなんだよ! つまり、アリッサのおかげってことでーす! だから無理だよ、お兄ちゃんにはなにもできないよ。お兄ちゃんは深優といっしょにアリッサのそばにいればいいんだよ。そして遊んでくれたらうれしいな。それでわたしはしあわせなの! ねえ、パパみたいに褒めて、だっこして、お絵かきして、遊ぼうよ! お兄ちゃんは、それだけできればいいんだよ! そうだよね? ミユがいなきゃ、お兄ちゃんは、ニンゲンでもないんだもんね! だからほかには、なんにも、なにもできなくていいんだよ! でも心配しないで。もうすぐわたしが、お兄ちゃんをしあわせにしてあげるから!」

 ぷつりと途切れた。


   ※


 拠点へ戻る九条むつみの足取りには、軽さも重さもなかった。長年の荷を捨て、かわりに新たな責務を負った。今夜彼女に起こったのは、結局そうしたことである。
 生きる上では、時として避け得ない出来事が起こる。生老病死に、それは限らない。
 むつみを慰めるのは、そんな当然の摂理だ。
 タクシーを何度か乗り換えて、いくらかは親しんだ郊外のマンションを、妙に懐かしく思いながら仰ぎ見る。むつみらが使っているフロアは二階にあった。いざという時に、手間をかけず逐電するためである。
 むつみは嘆息する。帰るといっても、そこは家ではない。激務と責任だけが彼女を待っている。安らぎなどは到底、望み得ない。
 なのに古巣を望むのは、人が持つ本能なのだろう。
 合鍵をポケットから取り出したむつみは、帰宅を告げながら、扉を開いた。

 見知らぬ少女がそこにいた。

(え?)

 どこにでもいる、可愛らしい少女だった。タイトなシャツとパンツが、体の線を浮き彫りにしている。若々しさと瑞々しさに溢れたフォルムである。流れた髪の質は絹糸のようで、それだけをとっても、美しいものだ。
 だが活力というべきものが一切見えない。
 なぜという疑義に、むつみの洞察が即答した。
 少女の立ち居だ。
 彼女はただ、リビングでたたずみ、むつみを迎えただけである。
 単純な、それだけの動作から、汲み取れる生活感が皆無だった。直観がむつみに囁いた。
(この子)
 少女が、むつみへ向けて一礼する。

「こんばんは、ドクター九条。お初にお目にかかります、わたくしはシアーズ社より参りました汎用アンドロイド・タイプMIYUの四番、呼称は開発名にならい、M-4-Aprilとしていただければ幸いです」

(深優の……!)

 咄嗟に背後を意識する。後ろ手に、扉を閉じたことが悔やまれた。そうでなければ、今すぐ飛び出せただろうに。
 だが、問わねばならないことがあった。むつみは唇を湿す。無機質な微笑を張り付かせたままのM-4へ、ひとつだけ訊いた。

「ここにいた人たちはどうしたの?」
「わたくしが殺害いたしました。四人のご遺体はすでに搬出済みであります」M-4は微笑みながら応えた。「シアーズ社円卓会議における採決の結果ですので、あしからずご了承ください。また過日のサンフランシスコ沖地震に関する情報の隠匿と背任罪によって、ドクターの身柄の拘束もしくは秘密裏な保護あるいは抹殺の命令も、わたくしは受けています。無用な苦痛をもたらす可能性がございますので、どうかご抵抗はなさらぬよう愚考する次第です」
「シアーズは、いつから暗殺粛清なんて行うようになったのかしら」
「五百十二年百十三日と六時間四十九分前からです、ドクター」

 M-4が無手を上げる。それだけの動きに、むつみは死を予感した。身じろぎひとつできない。左右に身をかわす遊びはない。口内が急速に乾燥する。むつみを見つめる少女のガラスの眼の中で、間抜けな女が呆けていた。絶対に間に合わないと知りながら、女は懐中の拳銃へ手を伸ばす。生涯最高の速度でホルダーからバレルを抜いた。ろくに狙いもつけず腕を伸ばした。セーフティを解除した。
 M-4はもう射線にいない。
 自動拳銃が火を吹いた。

(終わ)

 むつみの手先に、熱が走る。飴を溶かしたように遅化する感覚の中で、肌色の指が宙を舞うのが見えていた。細い筋のような赤い線が断面から伸びていた。M-4に断たれた九条むつみの右手人差し指と中指と薬指だった。爪のかたちにあまりに見覚えがありすぎる。完全な死に体で、むつみは落ちていく拳銃を眺める。床に這うような姿勢で、M-4が右手のナイフを一閃し終えていた。むつみの手の甲の先にあるべきものがない。断面は鮮やかで、骨と筋繊維まで見えた。桃色の肉が見えた。すぐに真っ赤な血が滲んだ。痛、とむつみは思った。実際はまだ痛覚は追いついていない。痛みよりも先に死が訪れるだろう。

(った)

 M-4がナイフの切先を構えた。むつみはまだ銃を構えた姿勢のままだった。むつみは眼を閉じた。浮かぶ、というほどそれは自動的な行為ではない。ただ娘の顔を思った。彼女が幸せであればいいのだろうか、とむつみは自問した。それでわたしは満足だろうか? どうやらそれは違った。むつみはなつきと話したかった。恨み言でも構わない。彼女の言葉をもっとぶつけてほしかった。逃げた母がそれを求める勝手を知っている。自分がなつきの立場であればきっと許さないだろう。だが思うことは自由だ。意思は完全に自由だ。その囲われた自由でしか、むつみは満足な母ではいられない。
 それが、寂しかった。

 後頭部に、涼風を感じた。

 あるいは刃が突き抜けた感触かもしれない。死が通り抜けた音なのかもしれない。
 いずれも違った。
 むつみの命に触れたM-4の刃を、もうひとつの剣が、寸前で掃っている。

「深優・グリーアを確認いたしました」M-4が姉の名を呼んだ。「交戦の意志が認められます」

「いいえ」

 一瞬でドアを五つに刻んでむつみを救った深優・グリーアが、冷静に訂正した。

「これは排除です。戦闘にはならない」

 二機の少女が、銀の光を交し合った。


   ※


 藤乃静留は茫然と立ち尽くしている。彼女は学園執行部が予約したホテルの部屋にいる。寸前まで、憔悴しきったなつきは、その部屋のそのベッドに身を横たえていた。
 静留が外出したのは数分程度だ。部屋のロックは厳重だった。実際ドアから誰かが侵入した痕跡はない。

 ただ、窓が消滅していた。

 割られたという次元ではない。破片も残さずに消えているのだ。
 そして、玖我なつきも同様に、姿を消している。

「なつき……?」力ない声で、静留はなつきの名を呼んだ。今夜だけで、何度目かもわからない。そして、今日に限って満足行く返答があった試しはなかった。

 寝巻きのままで、静留は絨毯に崩れ落ちた。高層に吹く強い風が、彼女の長い髪を乱暴にかき乱した。委細に構わず、静留は呆け続けていた。

 玖我なつきは、こうして消えた。

 八月八日の夜はこれで終わる。


   ※


 結城奈緒の長い一日まで、残り七日を切っている。






[2120] ワルキューレの午睡・第三部八節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2009/07/27 00:36



7.クレセント(上弦)





 八月九日の午後、前日の快晴を引きずってか、空は続いて好天に恵まれている。蝉の生を謳歌するひたむきさも手伝い、炎天下の不快指数は右肩上がりである。
 額に汗をまぶして風華学園の敷地内を疾駆する鴇羽舞衣は、進路上に風花邸の姿を認めると趨走の歩幅を縮めた。
 弾む胸を鎮めるよう、呼吸の拍子を広く取る。じっとりと湿る襟元を扇ぎながら見上げる邸宅は、時勢に置き去りにされた過去さながらの装いだ。
 以前舞衣が風花邸を訪れた際には、楯祐一の先導があった。屋敷の内部では主人であり学園理事長でもある少女と、高村恭司を交えて一戦に近いやり取りを交わしもした。それらの記憶は、舞衣にとってあまり快いものではない。そして今日再びこの蒼然とした邸宅に招かれた理由も、明るいものとはいいがたい。
 玖我なつきが消えた。
 杉浦碧を通してその連絡があったのはその日の早朝だった。

『舞衣ちゃん。落ち着いて聞いてね。きのうの夜、なつきちゃんが――』

 深夜と早朝の電話は凶報しか告げない。舞衣はそのジンクスへ抱く負の信頼をよりいっそう深めた。
 命のための朝食を用意している最中に一報を受け取った舞衣は、腰が砕けるような脱力感をおぼえた。日暮あかねの敗北を後になって知ったときと同じ感覚だった。ついで反駁するように碧の勘違いを疑った。ほんの一日前に、舞衣と碧は共謀し、高村に誘われたというなつきを一人で『デート』へ赴かせたばかりなのだ。
 不運が何を囁こうとも、日常は崩れない。舞衣はそう信じたかった。異変はあくまでスタンダードのスパイスなのだ。決定的に平和が崩れてしまうような事態が、これ以上自分の知己に訪れたなどとは、どうしても考えたくなかった。
 そもそもなつきは一人暮らしである。そして彼女が軽薄だとは思わないが、ひょっとしたら舞衣が思う以上に親しいのかもしれない年ごろの男女が、出かけた先で予期せぬ進展を見せることもあるかもしれない。そうした邪推をすればきりがない。または何らかのトラブルに見舞われ外泊したとも考えられる。
 舞衣が思いつく程度の発想ならば、当然碧にとっては検討済みだった。
 元々は野次馬根性と年長者としての配慮から彼女がした勘ぐりが発端であったという。深夜から夜明けにかけて、碧がなつきと高村の双方に何度か取った連絡はことごとく不通であった。顔を直接合わせなくなって数週間になる高村はともかく、意外にもなつきは情報の交換に対して真摯な姿勢を見せていた。必要な用件であれば、時間を問わず彼女は何らかのアクションを返していたのである。にも関わらず、とうとう日が昇るまでなつきからの返信は碧へ届けられなかった。高村も同様だった。
 以後なつきが自宅に帰った様子はなく、朝駆け同然に風花真白を強襲して問い合わせたところ、市外で玖我なつきが消息を絶ったという情報がもたされたのだった。
 碧の言葉を受けて、舞衣は午後に風華邸で落ち合う約束を取り付けた。外せない予定でもあった午前のアルバイトを、舞衣は手のつかない状態でこなした。シフトは夕方まで組まれていたが、気もそぞろな舞衣を見かねて、上司が暇を出した。
 われながら危機感に欠ける行為だと、舞衣も思わないわけではなかった。途方もなく重い命運を負わされた人間が、友人の危地を二の次にして労働に勤しむ心理は、薄情なのかもしれない。だが舞衣には日常化が必要だった。たとえすでに名残であろうと、かりそめの安定を欠いた瞬間に、自分は転ぶ。その確信が舞衣にはある。
 なつきもまた、舞衣にとってはもはや日常を同道する少女だ。異常な縁が結んだとはいえ、どうにも上手く行きかねている学園生活で、新たな友人を得て嬉しくないわけがない。
(なのに、なんでいなくなるのよ)
 舞衣は思わずにいられない。
(普通だったじゃない。昨日まで)
 黒々とした思念が、彼女の腹腔を満たした。歯噛みの奥で、飲み込まざるをえない事実がある。経験が、今まで幾度も舞衣に教えたことだ。不幸は時も場所も選ばない。狐雨のようにいたずらで、嵐のように容赦がない。慈悲もない。時おり気まぐれに落としていく救いを、すがった刹那に摘みもする。
(来週はお祭りだって、暇だったら遊ぶって、なつきも言ってたのに)
 母がそうだった。
 父もそうだった。
 弟の病も同じだ。
 あかねも、その恋人も、舞衣やその仲間を取り巻く得体の知れない理不尽が荒らし、奪い去っていった。

(これは……暴力じゃないの?)

 天意や運命と名づけられた瞬間、人は頭を垂れ、唯々諾々としてそれらを受け入れるようになる。母を喪った幼けな時分から、舞衣は巨大すぎて影すらつかめないその存在に、無形の敵愾心を抱いていた。
 誰もに受け入れがたく思うことを強いるそれが、舞衣は不愉快だ。打ち砕きたかった。だが何をどうしたところで、永遠に主体が不在の概念に指は届かない。
 そんな敵を心に据えているからこそ、舞衣は空元気の効能を熟知している。彼女は常に自身の内部に器を思い浮かべていた。容器の中身はちょうど月の虧盈のように、あるいは潮のように、満ち引きを繰り返し、年経るにつれ舞衣は情動を手繰る術を体得していった。こころを液性を含んだ器物として、いつも見つめていた。彼女の自制心と平衡感覚は、そうしたある種虚無的な思想に端を発している。そしてだからこそ、空虚であろうと外面に見せる努力や気宇が憂いを払うことを、舞衣は疑わない。
 だが物質として措定した以上、罅隙はどこかに生まれうる。安定を願う気持ちにはもうほつれがある。舞衣は唇をきつく結ぶ。直視を拒む太陽は熱を輻射して地面を焙る。影がまんじりともせず地面に寝転んでいる。舞衣は自分が立ち止まっていた事に気づく。

「舞衣ちゃん」その時、炎凪の声がする。

 白い髪と白い肌。夏服の少年は涼しげな面立ちだ。舞衣は無言の敵意を乗せて彼を睨む。凪はおどけたそぶりで手を挙げた。

「怖いな」と彼は言う。「真白ちゃんが待ってるよ」
「わかってる」

 そのまま凪の横を通り過ぎた。声が後方から追いかけてくる。

「何をしてもしょうがないよ。無理なことっていうものがあるんだよ。そんなの、きみはとっくに知ってるじゃないか」

 舞衣は答えなかった。振り向きもしなかった。蔦の這う格子の門を抜け、敷石のアプローチを小走りに進んでいく。周囲には夏期特有のむせ返るような熱気と、かぐわしさにもいささか過剰のきらいがある花香が満ちている。舞衣の胸元近くまで繁茂した花垣は迷路のように通路を囲っていた。文化財にまで指定される建物に加え、これほどの造園を維持、剪定する手間とはどれほどのものだろう。舞衣は反射的に勘定してしまう。悪癖だという自覚もあるにせよ、家計を預かる人間にとっての麻疹のようなものだ。
 玄関では美袋命が待っていた。てっきり以前のようにいるものと思っていた侍女、姫野二三の姿はない。命は張り詰めた舞衣の顔に萎縮したように、普段に比べるとずいぶん小さな声で話しかけてきた。

「舞衣。大丈夫か?」
「大丈夫よ。へいき、へっちゃら」舞衣は笑って見せた。「ありがとね、命。じゃ、行こうか。碧ちゃんはもういるんでしょ?」

 扉を開ける。適度な空調が館内を冷している。外界を焼く熱がすぐに遠い出来事になった。舞衣は大股で長く柔らかい廊下を歩いていく。ところどころに置かれたアンティークや壁にかかる額縁を、果たして見るものがこの広大な邸にどれだけいるのだろうかと彼女は思う。意味があるのか? これは僻みかもしれない。まず間違いがない。だが考えずにいられない。焦りと苛立ちを舞衣は自覚する。短慮を起こしかけている。このまま風花真白や杉浦碧に出会えば、必ずよからぬ失敗を犯すに違いない。
 舞衣は目的地である客間の前で足を止める。深呼吸する。長剣を担いだ命が戸惑うように舞衣を見上げていた。舞衣は荒々しく息をつく。

「そんなすぐに気持ちが切り替えられるかってえの」と笑う。
「舞衣は辛いのか」命がいった。「なつきは、きっと大丈夫だ」
「当たり前よ」

 応じて、ノックして、名乗ると、ノブを握った。
 重厚な扉を、蝶番を軋らせながら押し広げる。上辺から下辺まで三メートル近くある大きな窓から、風と陽射しが室内に注ぎ込まれている。揺らめくカーテンの影が躍るそばに、杉浦碧が立っていた。彼女から数メートル離れた位置に、車椅子に腰掛ける風花真白と、その傍に控える姫野二三が見える。
 ここまではいつもの配置だった。最後に真白とティーテーブルを挟んで対峙する女性の姿を認めて、舞衣は眉を集める。
 初めて目にする人物だった。どころか、日本人ですらない。舞衣の位置からは顔が見えないが、小さな頭から伸びて華奢な肩と背中を隠す長い金髪は明らかに自然の産物だ。アンティークドールのような真白の向こうを張っていささかも違和感を覚えさせない服装も、舞衣の感性に含まれないものだった。

「誰?」

 と舞衣は手を振って近づいてきた碧に訊ねる。碧は首を捻って「お客さんだってさ」と答えた。

「でもずっと英語で話してるから何言ってるんだかわかんないんだよねえ」と碧がいう。「いやあ、コプトエジプト語とラテン語ならわかるししゃべれるんだけど」
「そっちのほうがよっぽど凄いと思うけど……」舞衣は咳払いして話題を変えた。「それより、なつきのことは? そもそも他にお客さんいるのにあたしたちここにいていいのかな?」

「構いませんわ」

 と、いったのは碧ではなく、真白と対談中の女性だった。長い巻き髪を振り向きざまにかきあげながら、舞衣と碧へ蒼い双眸を寄越してくる。想像よりもずいぶん若い、清楚な面立ちであった。白色人種でも民族によって顔立ちは異なるが、あくまで知識でしか事実を捉えていない舞衣にとって、異国の女性に抱いた第一印象はとても単純なものである。
(なんかテニスやってそうだなぁ)
 巻き毛だけしか見ていなかった。
 舞衣の直截な感想など露知らず、女性は欧米人特有の大げさな身振りを交え、訴える。

「そこのあなたたちからもこのこども理事長を説得してくださいな。私はちょっと学園を見学させてくださいって言っているだけですのよ? なのにこの娘ったら、しのごの理由をつけて」
「あ、日本語うまい」碧が暢気に呟いた。
「ほんと。ぺらぺらじゃない」舞衣も同意する。
「でも礼儀はなってないぞ」よりによって命が突っ込んだ。
「いえ、……ですからあの、ミス・クローデル?」真白が弱った様子で女性を見上げた。「あなたのおっしゃるようなお知らせを当学園は受け取っていませんし、それは事務でも確認済みです。たってのお願いということで当家にお招きはしましたが、やはりアポイントもなしに部外者を学内で自由にさせることは致しかねます。その、『ガルデローベ』でしたか? そちらの機関に今ここで連絡が取れないのでしたら、一度お引取りいただいて、確認を取り次第正規の手続きを行ってください。わたしから申し上げられるのはそれだけです」
「まあ!」クローデルと呼ばれた女が、眼を吊り上げた。「戦地をまたにかけて女性の権利向上のため日夜奮闘する英雄的国際NGOの代表代理人であるこのロザリー・クローデルに対して、ずいぶんな言い草ではありませんか! だいたい何をそんなにナーヴァスになっているんですか。まさかテロリストに狙われているわけでもなし、こんなに可愛らしくて美しい私が講演をしたいといっているのですからさせてくれればいいのに!」
「えっ」真白が眼をまるくみはった。「あの、見学というお話では? というかその、今は夏期休暇の最中なので、部活動に参加している方々しか生徒もいらっしゃらないのですが……そもそも講演って、いったい何を」
「わかりました、わかりました。みなまでおっしゃらないで。そんなに言うのでしたらしょうがないわ!」

 ロザリー・クローデル女史が、うんざりしたように肩をすくめる。次に彼女がやおら椅子から立ち上がると真白はほっと一息をつきかけていた。だが舞衣はなにやらよからぬ胸騒ぎを感じている。

「潔白を証明します!」ロザリーが宣言した。「ごらんなさい! 私の何が危険だというのか!」

 そして脱いだ。
 萌葱色のワンピースを落とし、その下のドレスシャツのボタンを外し、あっという間に下着姿になり、惑う間もなく紐同然のブラジャーを投げ捨てる。
 すべてはリズム良く運ばれた。ロザリーの脱衣速度はためらいを微塵も感じさせない。ついに残る牙城は一見ショーツに見えなくもない布切れとハイソックス、ローファのみである。
 ほとんど全裸だった。

「はあー!?」そこでようやく、舞衣は我に返った。「なんで!? どの流れで!?」
「どうやらまだ満足していないようですね」

 ロザリーが頬を紅潮させつつ不適な顔で真白を挑発的に見つめた。実際のところ真白は、珍しいことに姫野二三も、あっけに取られているだけのように、舞衣には見える。ロザリーはお構いなしだった。

「相手にとって不足なし。ええ、安心なさい。靴下は脱がないから!」

「へっ、へんたいだー!」舞衣は驚倒した。
「そこの人、淑女とおっしゃって!」

 そしてロザリーは、一息にパンツも脱ぎ捨てたのだった。

「とくと見なさい。Il faut qu'une porte soit ouverte ou fermee――妥協を許さないその姿勢、少女としてまずは見事といいましょう。ですが何事にも寛容さは必要です。杓子定規なばかりでは大切なものを見失ってしまう……私は年長者として、あなたがそのような大人に育ってしまわないか、不安に思います」

 ロザリーがひとりで何かを言っていたが、他の誰もが固唾を呑んでいた。
 舞衣は言わずもがな、碧と命さえ絶句している。ロザリーは仁王立ちで腰に手を当てて、真白と二三へ明け透けに己のヌードを見せつけていた。要所を隠そうともしていない。後姿だけでも確かに同性さえ見惚れさせるような肢体だが、それとこれとは完全に別だと舞衣はぼうっと思考した。

 蝉がみんみん鳴いていた。窓から見る夏の日差しはきらめいていた。風に枝葉がさえずり、木漏れ日がつくる陰もつられて踊った。
 真白が紅茶を飲んだ。二三は微妙に腰を引かせていた。命は気まずげに長剣へ眼を落としている。碧は顔を引きつらせている。
 そして謎の外国人は靴下以外何も身につけていない。

(なに、この……なに?)

 舞衣はなつきの安否を気にかけつつ、この前衛的な空間をどうしたものかと、途方に暮れた。


   ※


「こんにちは。あなたが生徒会長の藤乃さんかしら?」

 昼下がりの風華学園生徒会室には主が不在だった。ロザリー・クローデルと名乗った金髪碧眼の女性は、にこやかに珠洲城遥へ握手を求めている。差し伸べられた右手を取りながら、遥は引きつった顔で訂正した。

「……いえ。藤乃は体調が優れず欠席しているため、本日は私が会長代理を務めさせていただきます。珠洲城と申します。お会いできて光栄ですわ、ミス・クローデル」
「あら、日本風でいいですわよ。気さくにクローデルさんでも、なんならロザリーさまでも」ロザリーは巻き髪を揺らして、小首を傾げる。「スズシロというと、ひょっとして珠洲城建設のご親戚でらっしゃいます?」
「父が代表取締役をしています」誇らしげに遥が答えた。

 こういった場面で、一切萎縮や謙遜をしない遥を、菊川雪之は純粋に尊敬する。高名な縁者を持つ人間であれば誰もが持たざるを得ない卑屈さから、珠洲城遥はもっとも縁遠い少女だ。学園の生徒は彼女を指してヒステリックと称するが、雪之からすればそれはとんでもない思い違いだった。遥はたんに近視眼的で頑固で融通が利かないだけである。

「そうなんですか?」ロザリーが顔を輝かせた。「実はかねてからこの国の慣習について不思議に思っていたことがありまして、ぜひお伺いしたいことがあるんです。よろしいかしら?」
「もちろん。遠慮なくなんっでも聞いてくださいまし!」豊かな胸を逸らして、遥が請け負った。
「日本の建設会社ってみんなマフィアなんでしょう?」

 ロザリーの質問は本当に遠慮がなかった。

「い、いえ」遥がこめかみを震わせて否定した。相手が客人でなかったら怒鳴り声か拳が飛んでいてもおかしくはないと、雪之は傍から分析する。「なんとか組とか、そういうきらいがないわけではないですし、よく勘違いされますし、まあ作業柄荒っぽい性格もあるかもしれませんが、必ずしもそういうわけじゃありませんよ? ね、ねえ雪之?」

 そこで振られても困ると如実に顔に出しつつも、雪之は苦笑いで頷いた。
 すると一転、関心をなくした様子でロザリーが肩をすくめる。その仕草を眼にした遥の怒張がさらに膨れ上がるが、雪之にできるのは珠洲城遥の自制心というインフレ下の紙幣にも等しい概念を信用することだけだった。

「それにしても、日本の夏って本当に暑いです」

 夏期休暇中の生徒会室では、空調は使用されていない。湿気を払う素振りのロザリー・クローデルは、とても外国人には見えなかった。
(そもそもこの人、なんなんだろう。NGOの人って言われても)
 ボランティアやなにがしかの保護団体とは、また趣が違う組織であるらしい。題目はフェミニズムに寄っているようだが、ロザリーには思想家特有の熱がない。
(というか、こんなきれいな人がそういう活動するってイメージわかないなぁ)
 雪之はモデルのような美貌に圧倒されながら、ひとりごちた。
 困惑交じりにロザリーの来訪と校内見学を伝えてきたのは理事長の風花真白である。日ごろは私立の理事長らしく表立つこともなく、学園の運営について滅多に口を挟んでこない少女が、珍しく用件を下達したかと思えば、正体不明の外国人を遣わしてきた。
 昨日まで藤乃静留、神崎黎人と連れ立って市外へ出ていた遥としては、連日の接待である。家柄ゆえか社交に慣れていないわけではない遥だが、喋りながら自分の言葉にストレスを感じるタイプであるから、生来の短気も手伝い歓待やもてなしといった行為には不向きであった。そしてその方面では高校生とは思えぬ無類の強さを発揮する会長と副会長の両人は、本日揃って欠席である。結果、心労はいつも通り雪之が一手に引き受けるはめになっている。

「えーそれでなんですか、うちの施設を使ってクローデルさんは講演がしたいと」

 一気にぞんざいな口調になった遥がロザリーへ水を向けた。こくこくと頷く異邦人の前で聞こえよがしにため息をついて、雪之をはらはらさせる。

「あのですねえ、本来でしたらそういったイベントというものはまず学園事務を通すかぁ、PTA、教育委、もしくは市、県などの推薦か斡旋を経て行われるものなんです。何の研究してんだか知らないけど本出してる学者だの、テレビで干されかけた芸能人だの、歴史小説書いてる小説家だの、檀家増やすのにも飽きてワイドショー出てみたりしたい坊主とかが、そうしてドサまわりして小金をせびっていくわけです。アダージオだかネオジオンだか知りませんけど、それをいきなりきて、が、ガガ、ガチロリデローベ……?」
「遥ちゃん、『NGO』と『ガルデローベ』だよ」雪之はいつもの訂正を入れて、何となく心の安息を得た。
「私はもちろんロリもいけます」ロザリーが不要かつ不穏なカミングアウトを果たした。
「――ともかくっ」遥が荒々しく咳払いした。「急な話ですし、理事長直々のご依頼でもありますから? とりあえず来週の登校日に機会をもうけますがっ、当方としては謝礼金といったものはそれほど出せませんし、宣伝もせいぜいHPや掲示板に張り出す程度になります。それでもよろしいかしら!?」
「もちろん、構いませんわ!」両手を打ち合わせ、感激した様子のロザリーが遥の手を取った。「ありがとうございます、おでこの人! 尊敬と親愛を込めてデボチンって呼んで差し上げます! ナイスデコ! でもそのアイシャドウ、紫はちょっとどうかしら」
「ゆきのーゆきのー、この人ぶっ飛ばしたら外交問題になったりするのかしらー」遥の声が上ずっていた。
「大丈夫だろうけど、……止めておいたほうがいいと思う」雪之は半歩引きながら提言するに留めた。

 日時と場所の都合がつくと、ロザリーとするべき話はほとんど残らなかった。遥も向学心より癇癪を刺激される客人とあっては、長々会話をする必要はないと判断した。雪之に目線で命じ、体よく校舎の案内を押し付けてくる。
 この結果を覚悟していた雪之は、不安を極力隠してロザリーに微笑みかけた。初対面どころか他人そのものと話すことが不得手な雪之だが、異国でひとりであるロザリーもまた心細いであろうという希望的観測がある。

「じゃ、じゃあよろしくお願いします。申し遅れましたが、わたしは書記の菊川雪之です。……あの、クローデルさんはどこか見たいところとか、あるでしょうか?」
「それがわかんないから案内するんでしょ。しっかりしなさいよ、雪之」遥が呆れた顔で半畳を入れた。
「あっ、ごめんなさい」早速の失敗に、雪之は目元に熱が灯るのを感じた。

 そのやり取りを眼にしたロザリー・クローデルは、薄っすらと微笑んだ。凄艶ささえ漂う目つきで、こぼすように呟いた。

「仲がいいんですね、ふたりは」

 何気ないその言葉に、理由もなく雪之は寒気を感じた。端麗だということ以外汲み取りようのない異人種の顔色は読み取れない。過剰な身振りを除けば、雪之にとってロザリーはやはり典型的な異邦人であった。なまじ言葉が流暢であるため、その懸絶が浮き彫りになっている。


   ※


「困ったね」と杉浦碧が呟いた。

 同調するかたちで、舞衣も頷いた。命を合わせた三人は、すでに必要な情報を得て風花邸を後にしていた。当面行くあてもなかったため、現在は碧第二の根城である社会科準備室に上がりこんでいる。
 夏休みの風華学園はひと気に乏しく、反面音に富んでいた。吹奏楽部が各所で鳴らす多様な楽器の音や、グラウンドで交わされるコーチや運動部員の怒声が天然のバックグラウンドを埋めている。総合体育大会真っ最中の季節ということもあり、全国圏の運動部も多い学内には不在の部活動もあったが、目に見える成果を残せず夏を迎えた部も少なくない。中学以来クラブ活動を経験していない舞衣としては、懐かしくもあり羨ましくもある雑音だった。
 だが、黙って耳を傾けるには、今の舞衣は忙しなさ過ぎる。腕を組み、唸り声をあげつつ、彼女は天井を見上げた。

「なつき、HiMEじゃなくなったのかあ」

 鼻息と共に漏れたのは、真白から得たばかりの情報だった。碧も苦笑して、紙コップに注がれた麦茶を飲み干した。

「寝耳に水だったけど」嘆息交じりに碧がいった。「よかった、って言うべきなのかな。幸いにして誰かが亡くなったってことでもないようだし」
「ううん、わかんないな」舞衣は自問するようにいった。「昨日高村先生と遊びに行くまでは、普通だったんだよ。そこで何があったのかはわからないし、実際なつきがいなくなったことには変わりない。安心はできないよ」
「そりゃま、そうか」

 真白から伝え聞いた玖我なつきの消息は、舞衣と碧が把握しているものと大差はなかった。かろうじて、失踪に至るまでの経緯の詳細が明らかになったことが収穫といえる。
 昨日、やはりなつきは高村と行動を共にしており、その姿は真白の消息筋でも確認されている。彼女らは昼過ぎに風華市を出て、フェリーで本土の港に降り、そこからバスで市街へ向かった。以後夜まで一度姿を見失い、なつきが一人で繁華街を歩いているところで結城奈緒が襲った。すんでのところで偶然近場に居合わせていた藤乃静留が合流しことなきをえたが、その時点でなつきはすでにHiMEの力を喪失していた。すぐに予約を取って生徒会とともにホテルへ宿泊する手はずを整えたのも静留である。
 だが、夜半、静留がほんの数分目を離すと、なつきは部屋から消えていた。現場には司直の手が入り、検証の結果はどういうルートでか真白のもとにも伝わった。『一番地』の影響力の賜物だろう。そしてなつきが力を失った事実を確認した彼らが下した結論は、ひどく舞衣たちを憤らせた。

『一番地は、玖我なつきさんの消息を放置することを決めました』と真白は語った。『組織、人員、時間のいずれをも、割いて向けるつもりはないということです。……つまり、探すのであれば、尋常の手段……橋向こうの警察の方々や、もしくは、貴女がたのような有志の力を用いるしかありません』

 苦々しさを込めて言うと、真白は頭を下げた。

『身勝手極まりない話であることは、重々承知しています。すべては、わたくしの力不足が原因です。……申し訳ありません。せめてわたくし個人だけでも、微力を尽くしてお手伝い差し上げようと思っています。そして、……心苦しいですが、この件に関して官憲が積極的に動く目算はあまりないのです。一番地……われわれの上部組織は県下一帯に影響力を持ち、国政にも発言力を持つとはいえ、やはり警察権力とは一線を画した非合法な存在です。とみに近年においては、水面下での衝突も少なくありません』

 日常的に接しすぎて忘れがちだが、少なくとも国内において、非日常の集積地点として有数なのが警察である。彼らが事件を扱う以上、一番地との角逐は避けられない。完全な地元であれば掌握できるイニシアティブも、外部では逆転することもある。
(理屈はわかるけどさあ)
 それはただの『常識的』な現象でしかなかった。だからこそ舞衣は苛立ちを堪えきれない。非常識どころか明らかな異常を押し付けてくる存在が、そんな当たり前の制約に縛られるというのだ。

「日ごろの行いが因果となって返ってきた、と。人類滅亡とかスケールの大きいこと言っておいて、ずいぶんとまあありきたりな足の引っ張りあいですこと」碧が皮肉を隠さず呟いた。「自業自得って笑ってやりたいところだけど、煽り食らってるのがうちらじゃあ、そうもいかないよねえ。……しっかし順当に考えて、やっぱり恭司くんが何かしたのかしら」
「なにかっていったって」舞衣は沈鬱に答えた。「なにかしたらHiME辞められるなら、あたしもあやかりたいもんだわ。それに高村先生も一緒にいなくなってるんでしょ?」
「それは、まあ、元々ふらっとどっか行くようなやつじゃん」

 舞衣は口をつぐむと、思考をめぐらせる碧を観察した。後ろ前にOAチェアに腰掛けて、背もたれに腕を載せる碧は、深刻さに欠けていた。少なくとも舞衣にはそう感ぜられた。なつきの安否に関して、彼女には舞衣にも明かせない何らかの担保があるのかもしれない。もしくは単に、HiMEではなくなったなつきが危険な目に遭うことはないと楽観視しているのかもしれない。いずれとも考えられたが、舞衣には違うように思えてならなかった。 
 高村恭司について、同じような隔意を、なつきからも感じたことがある。
 舞衣から見た青年教諭の印象は、弟を通した交流を経て贔屓目があるという点をのぞけば、出会った当初からほとんど変動していない。不真面目さと生真面目さが同居しており、奇矯な言動が目立ち、顔に見合わず妙に腕が立ち、そのせいか厄介ごとによく巻き込まれ、痛々しい怪我を負っている。なつきと張り合い、命をよく構って、碧に振り回され、弟やアリッサ・シアーズに懐かれている……。
(それだけの人、じゃ、ないよね。やっぱり)
 HiMEについて、舞衣よりよほど知悉しているとった疑念の断片を、なつきなどから漏れ聞くことがあった。一度などは命に積極的な能力の行使を求めてきた。疑心というほどではないが、総じて鑑みると、部外者というにはあまりに人間関係に偏りがある。なつきや碧が彼を気にかける理由は、舞衣が知らない彼の一面に由来しているに違いなかった。
 問えば、碧は答えるだろう。だが率先して告げない意味に考えが至ると、軽々に口にすべきではないとも舞衣は思う。確信に至っていないからこそ、碧は言葉を濁しているのだ。
 荒む空気の緩和を、舞衣は命に求めた。

「ミコト?……って、あんたさっきからどうしたのよ」

 ところが思惑に反して、命の立ち居は鋭い緊張を含んでいた。物怖じはせずとも警戒心が旺盛なため、元々真白に相対する際の命は攻撃的になる。だが風花邸を後にしてしばらく経つ今も、彼女は長剣ミロクの柄を抱いていた。窓際から校庭へ顔を向けたまま、塑像を思わせる半眼を維持して微動だにしない。声をかければ答えは返るが、明らかに意思はなく気はそぞろだった。
 二の句を次ぎかね、舞衣は口をつぐむ。目尻をわずかに歪めた命がふと言った。

「空気が変だ」
「なにそれ」苦笑を交えて碧が問う。
「舞衣、わからないか?」戸惑いがちに命が舞衣を見た。「ざわざわする。なんか、こう……とても、へんだ」
「そういわれても」

 碧と二人、舞衣は目線を交わした。命が余人に知れない何かを感得するのは珍しいことではない。たとえば道を歩いていれば、いつの間にかふらふらと炊事のにおいに誘われもする。単純に嗅覚が優れているというより、時機に対する直感が並外れて鋭いと評すほうが正しい。
 その命の野生が、警鐘を鳴らしている。逆説的に、言い知れぬ悪寒を舞衣は感じた。

「やめてよ。この上何があるって……」

 最後まで言い切れない内に、舞衣は絶句を強いられた。
 救急車の来訪を告げるサイレンが、休閑する学園に響き渡ったからだった。


   ※


 感覚の鈍磨が高村恭司の意識を茫洋とした区画へ導いていた。薄い膜のような麻痺が右半身を間断なく蓋っている。彼にとっては懐かしい感覚だった。ただ決して親しみを覚えることのない他者でもある。

 彼が重傷を負う契機となった事件がある。高村はその際に両親と恩師とその娘を同時に失った。肉体の完全性はいわばついでに損なわれたものだ。だが後々を生きていくのならば、それはあるいは前者よりも深刻な後遺症だった。
 肉体がもっとも活性する時期に与えられた障害を、安閑と受け入れる達観も器量も物分りのよさも、若い高村には備わっていなかった。だから九条むつみが示し、ジョセフ・グリーアがちらつかせた取引に飛びついた。ちょうどリハビリテーションの苦痛にもっとも打ちのめされていた時期だったことも手伝っている。その先に待ち受けていたのはさらに妥協のない甚大な苦痛だったが、ともかくも彼は目前の辛酸から顔を背けたかった。二度とまともに歩けず身寄りもない自己を直視するには、あまりに時間が足りていなかった。
 高村に話を持ちかけた人々は恐らく、彼のそんな弱さを見抜いていたのだろう。

 もたらされた結果がM.I.Y.Uユニットの敷設と、二度と得らるまいと尋常の医師に太鼓判を押された満足な五体の復活、そしてある面では以前の高村恭司では及びもつかない特性だった。

 もちろん、施術にリスクがないわけではなかった。まず一度ユニットをインプラントした場合、高村は以後二度とその恩恵なしには生きていけなくなることが説明された。並行して行われる脳手術の結果いかんでは、即日死亡する可能性も示唆された。術後一年は憲法が保障する基本的人権の範疇から外れる扱いを受けることにも、法的効果の怪しい幾枚もの書面で同意しなければいけなかった。何より、彼は厳密な意味では人間ではなくなることへの覚悟に備えねばならなかった。
 全ての条件を、高村は満たしたわけではない。恐らく彼に実感はなかった。突きつけられた言葉の内実をすべて理解する経験も余裕も、高村恭司には足りなかった。後に彼の脳を披いた人々もきっとそれを悟っていた。その上で利用したし、されたのだ。
 ユニットを生身の人間に移植する目的は、麻痺の治癒と神経系の制御、そして運動の遠隔操作である。それらは当該分野において長らく不可侵の領域であり、今後も解き明かされない難問のひとつとして人類に立ちはだかる壁の打破を、公然とする行いだった。
 そもそもM.I.Y.Uとは人工の知性、総体としての世界を再現するための装置である。深優・グリーアが戦闘兵器として目される最大要因である躯体性能など、ほんの瑣末事であった。莫大なコストを投じて人型の兵器をつくる理由が、財団にはない。ほかのあらゆる軍事機関でも同じ事だった。深優の製造に費やされた人材と技術と資金の全てを用いれば、戦術的には何倍も有意な兵器が生産できるからだ。
 当たり前の計算から逸脱したM.I.Y.Uには、だからチューリングテストでまかないきれない人の秘奥をも解き明かす、懸絶した技術の粋が用いられている。開発の代表的人物こそジョセフ・グリーアだが、つぎ込まれた人材と資産は決して個人の範疇に納まりきるものではない。

 純然たる希望と熱意が、渾然とした利権と妄執が、ユニットの開発には凝集されていた。それはとうてい一学生がたまさかに浴していい代物ではない。いわば人類の未来を担う宝物が、どこのものとも知れぬ東洋人の不具者に与えられる完全な善意を、さしもの当時の高村も信じたわけではなかった。九条むつみが私情を交えて高村を取り込みにかかったのと同じことが、グリーアと高村の間にも起きた。ただそれだけのことだ。
 つまり二人はごく私的な、そしてありふれた互酬の関係にあった。グリーアが高村に力と体を与える代わりに、高村もまたグリーアが欲する事物への用意がある。生体へのユニット移植は、プロジェクトとして秘されながらもシアーズ財団の内外から被験者の公募が行われた。数十項目に及ぶ守秘義務と違反した場合の罰則を承知で、なお数百数千のモニタが集った。椅子は限られていた。だが誰もが満足な体を欲していた。中には生来歩いたことさえない小児すらいたという。
 高村が、自分がグリーアに対して迷いもせず手を挙げた意味を知ったのは、結局すべての術式が終わってずいぶん経ってからのことだった。
 希望者の中から高村恭司が選ばれたのは、だから何の奇跡でも偶然でもない。グリーアに言わせれば、彼と高村がある少女の死と年月を経て再びこうしたかたちで再会した運命そのものが、『主の御心』なのだった。抽選の過程を飛び越え、たんにグリーアの失われた娘ともっとも親しかった青年だというだけで、高村恭司は慮外の権利を手に入れた。

「後ろめたいかね?」老神父は青年にいった。「だが幸運とはこんなものだ。不運も同じだ。人為がたずさわろうと、だからそれは人智の及ばぬ領域にあるのだよ。冒涜の汚名を恐れない不信心者だけがそこをのぞける。きみはまだそうではないね」

 神父の能力と人柄を信じる、全ての人間への、それは背徳に違いない。だが真っ向から罪を受け入れて、グリーアは全く揺るぎがない。彼が口にしたのは確かに平凡な事実だった。生きていけばどんな局面でも突き当たる論理でしかない。
 高村は納得しなかった。
 だが手に入れた結果を跳ね除ける勇気も、彼にはなかった。

「だがそれだけで君が選ばれたわけではない」と、グリーアが語ったこともある。「残念ながら、本当の意味では、人類が尽くせる手立てだけではまだまだM.I.Y.Uの想定性能には及ばない。足元にも、届いていないかもしれない。だから我々は、その丈を埋める手段を探した。求めた。答えは、わたしにとってだけ皮肉なことに、あんがい近い場所にあった。わかるかね? それはHiMEだよ、高村くん。高次物質化能力は、ユニットの構成に不可欠なものだった。むろん将来的には脱却しなければならない課題だろうが、今はともかく、使えるものならば使うつもりだ。そして君が選ばれた必然性もそこにある。わかるだろう? 君の中に根ざしているHiMEとの親和性が、君を今の状態へ導いたのだ。――なあ、これはただの幸運なのだよ。そう思ったほうがいい。いくらか負い目をきみが抱こうが、では、再びあの不満足な状態へ戻れるかね?」

 明らかな慰めを、高村は肯定も否定もしない。悩むことそれ自体を釈明に換えるほどの愚かさも持てなかった。ただ皮肉に思っていた。
 皆が運命を口にする。天河諭も、天河朔夜も、九条むつみも、ジョセフ・グリーアも、そして壊れた最初の深優・グリーアも。どうやら高村の身近にいた人々は運命論者で、世界と社会の骨子としての構造を信じていた。高村自身はその思想を拒みはしない。否むこともない。思想は人間があまた持つレンズの一つだ。過度な歪曲をもたらすものでなければ、誰もが多少の偏向を視野に施している。それは当然であって、ただ持つというだけで指をさされる類のものではない。
 だが、優花・グリーアが高村にそんな台詞を吐いたことはない。
 そして高村恭司の人生で、両親よりも天河諭よりも巨大な薫陶を受けたのが優花の存在だった。最至近の異性。そして兄妹であり姉弟のような他人。高村の心象にいる彼女は多義的で奥深く、永遠に汲みつくせない黄金の泉だ。優花はどこまでも人間を信じていた。少女期がもたらす傲慢さと紙一重でありながら、明らかに隔絶した高みに彼女はいた。高村恭司の優花・グリーアは実存のイデアだ。そして少しまぬけな幼馴染でもある。将来を問われればいつも傍らに置いてしまうような恋人が、優花だった。優花は高村の妹であり姉であり友であり敵であり師であり恋人であり、幼馴染だった。かといって尊崇しているわけではなかった。高村は優花の生々しさも不完全さも熟知していた。だからこそ触れ合えたし、万事に優れた彼女のそばに高村はいることができた。
 記憶に美化の傾向があるのは、高村自身も否定できない。今はもう永遠の面影になってしまった少女だ。一葉の肖像のなかで、優花はいつまでも変わらない。
 その生き写しが、あるいはデスマスクが、ユニットを限定停止させられ身動きの取れない高村の、目前にいる。視力によらずとも、独特の透明すぎる気配が、彼に彼女の存在を教えていた。

「深優か」

 声を虚ろに響かせながら、その名を呼んだ。牢獄を連想させる部屋に置かれたひとつきりの寝台に、高村は横たわっていた。彼の衣服は下着を残してすっかり脱がされている。あちこちに手術痕の目立つ上半身もあらわになっていた。その肉体の真上に位置する天井からは無影灯がぶら下げられており、壁面にはタイルが張られ、床は排水溝を中心に緩く傾斜のついた構造になっている。

 アリッサ・シアーズに拘束された後のことは、おおよそ覚えていた。四年前に手術を受けて以降、高村は強い薬に頼らなければ深い睡眠に陥れなくなった。不思議とそれで肉体や精神が衰弱するということはなかったが、おかげで気絶して肉体的な痛みから逃れるという真似もやりにくくなっていた。七月初旬の海岸で石上亘と真田紫子の襲撃を受けた際も、同じ要領で意識を取り戻して交渉したのである。
 翼のエレメントから打ち込まれた波状攻撃は、高村をもろともに彼がいた一帯を恐慌状態に陥れた。人、建物、オブジェ、全て万遍なく、アリッサは打ち砕いた。高村がグリーアの出した車に連れ込まれる頃には、周囲は無残な傷跡を残すばかりとなっていた。風華から出て前線に赴いた事も含めて、極力無関係な犠牲を避けていたアリッサとグリーアの方針には実にそぐわない行動である。
 だが厳然として起きたことだ。アリッサの変心の理由も、おおよそ察しがついている。グリーアが以前言ったとおり、紫子に喫した敗北が、純粋な少女の意識下に変調をもたらしたのだろう。攻撃性は恐怖の裏面である。もともと敵対者を屈服させるためには容赦しない傾向のあったアリッサは、より苛烈な手段を用いることにためらわなくなったということだ。
 目隠しをされ、手足を封じられ、さらにユニットまで制御権を奪われて、高村に残されたのは思惟だけだった。一度短いまどろみをおぼえ、覚醒し、眠気と空腹の状態から逆算して、すでに日付が変わってずいぶん経っていることは察せられる。また、昨夜あの場に深優・グリーアが不在であった意味も、薄々と理解できていた。
 仰向けのまま、高村は深優のいるであろう方向へ質問を投げた。

「君は九条さんを確保しに向かったのか」
「はい」

 久しぶりに聞く深優の肉声は、記憶のとおりだった。高低には差があるが、抵抗をすり抜けて高村を無警戒にさせる響きはそのままだ。

「深優なら上手くやったんだろうな」

 ため息混じりに、高村は不思議な信頼を寄せた声を発した。九条むつみと行動を共にしていたであろう人々の安否も、さほど心配していなかった。彼らの元がシアーズの所属なのであれば、深優やアリッサが無闇に傷つけるとは考えにくい。金銭的な懲罰もしくは司法によった処分はありえるが、暗黙裡に殺害するような行為はまずありえない。シアーズ財団はマフィアではないし、構成員も高村のようなちりあくたからは程遠い人物ばかりだ。思慮なく彼らを手にかける真似には害しかないはずである。数年をかけて元のイメージを矯正された高村だけに、その認識は確固としていた。
 だが、深優はあっさりとその思考を否んだ。

「いえ。九条博士は重傷を負い、背任を共謀した四人も死亡しました」
「……なぜ?」

 まったくの考慮外ではない。だが意外には違いない。高村は半身を起こそうとして失敗しながら、再び尋ねた。

「シアーズ本社の円卓会議において、財団ならびに現会長への不信任が採択されました。それにともない九条博士のバックアップに暗躍していたメンバーが更迭され、彼女の身柄と活動の痕跡を全て抹消し、シアーズ全体の方針としてこのプロジェクトから撤退する旨が決議されたのです。私が九条博士の身柄を確保したとき、すでに彼女以外のメンバーは遺体ごと処分された後でした。おそらく小隊規模のチームが動員されたものと思われます」

 深優の回答は簡潔だった。この上なく明快で、絶妙に言葉が足りない。要を得た深優の答えから、高村が事情を大まかに察するまでさほどの時間はかからなかった。

「つまり」まとまりを欠いた思考を束ねて、高村はいった。「俺は企業の事はよくわからないけど……、シアーズの、本社のほうでクーデターに近いことが起きた。その動きは九条さんのスポンサーを追い落とすもので、ついでにいえば財団のトップでもある現会長の失脚が決まったってことだから、……深優たちはもう、戦う理由がなくなったってことか?」
「そう認識していただいて構いません」といったあとで、深優が付け加えた。「もっとも、最後以外の話です。アリッサ様の父君は確かに本社の頂点から退かれましたが、直属の機関である財団に対する人事権は本社にもありません。また、父君が所有する持ち株や個人資産も、依然本社の幹部が無視できる規模ではありません。現状は膠着状態であると表現できるでしょう」
「まあ、そうだよな。いってみただけだ」高村はぼやいた。「結局、盤上から小粒なのが弾かれたってだけの話か。九条さんは流れに乗り遅れてその波に巻き込まれた。深優たちはたぶん、蚊帳の外にされてるくせにいつまでも現実を見ないわがままばかりほざいている俺への抑えとして九条さんを確保にかかって、その後だか前だか最中だかに、シアーズ本社の意向を受けた物騒な連中と揉めた。結果、九条さんは怪我を負った、と。ああ、ようやく頭が少し回るようになってきたよ。……重傷って言ってたけど、九条さんは無事なのか」
「右手の指を三本切断されました」深優があっさり答えた。
「……まさかとは思うけど、拷問か?」
「いえ、違います」高村に眼を剥く間も与えず、深優が続けてくる。「お父さまが止血はいたしましたが、処置が遅れたこともあり、予断は許さない状況です」
「グリーアさんが?」高村は顔を青ざめさせながら首を傾げた。「っと、そっか、そういえばあの人はもともと医者だったな。どっちかというと研究者だったらしいけど。……命に別状はない、と思っていいのかな?」
「断言はできません。しかし確率的にはそうお答えして差し支えないと考えます」

 ともあれ、高村は安堵した。吉報とはいいがたいが最悪の結果ではない。ちらと、昨夜の玖我なつきの顔が思い出されて、彼の胸が痛みを発した。同時に、去り際の背中が思い返される。
(結城は……大丈夫だろう)
 気鬱な疼痛が、抵抗をともなう沈思を阻害する。まとわりつく存念を振り切って、高村は話題を変えた。

「それで、財団の事情が変わったことは、君たちにどう影響しているんだ?」
「訂正させていただきます」深優が冷たくいった。「『われわれ』の内部には、未だ貴方も含まれていることをお忘れなきよう」
「もったいないお言葉です」高村は空とぼけた。
「まず、現状での指揮権はジョセフ・グリーア博士から後詰の『黄金艦隊』へ完全に移っています。九条博士の更迭に端を発した命令系統の空洞化をつかれるかたちで、彼らは我々の指揮下にあった人員と機材をほぼ完全に接収いたしました。よって計画の中枢近くには未だ踏みとどまりながら、お父さまとアリッサお嬢さまの立場はほぼ孤立したものとなっています」
「俺と深優は?」
「私と高村先生については、始めから備品扱いです」深優がいった。「状況は極めて繊細です。黄金艦隊の帰属そのものは財団にありますが、トップである極東支部の責任者はシアーズ本社からの出向であるため、後詰として差し向けられた財団の構成員とは緊張関係にあるものと判断できます」
「判断?」高村は深優の物言いに疑問を覚えた。「直接事情を確かめたわけじゃないのか。孤立しているっていってもそこまで村八分ではないだろうに」
「現在、われわれに指示を下しているのは、支部長の代理を名乗る人物です」深優は答えた。「ですが彼らは引き続き当初財団が推し進めていた計画を続行し、かつ実行を早めるよう要求しています。これは本社の意向と相反するものであり、また拡充された人員があくまで財団の方針に拘泥し本社との対立を辞さない構えならば、依然本社側からの掣肘が昨夜の暗殺任務に限ったものであることに疑問が生じます。大掛かりな人事の刷新が気配を見せない現状を鑑みて、おそらく現在進行形で水面下での政治的な取引が行われており、計画そのものが水際にある状態だと推察されますが、お父さまの現在の権限ではそれらのネゴシエーションに介入することも全容を知ることも不可能です」
「にもかかわらず相変わらずせっつかれているってことは」高村は深優が言及を避けた部分を衝いた。「決戦はもう避けられないってことか」
「はい」

 濁すこともなく、深優は肯定した。
 高村は無力だ。肉体を封じられて、アリッサと深優につかまった以上、グリーアはもう寛恕を見せない確信がある。彼が電話越しに伝えた台詞は寸毫の余地もなく本気だった。

「俺たちの動きをそっちに教えたのは石上亘だな?」残る気がかりはひとつだった。「彼は何の目的で動いている? どうして俺をかくまい、一番地に背いてごたついているシアーズに協力した? 単にその動きを察知してなかった親シアーズ派だったなんてオチじゃないことを祈ってる」
「彼が我々に明かした意思、見返りに求めた協力はひとつです。真偽の判断はしかねますが」
「構わない」高村は促した。

 深優はわずかの遅滞も見せずに語った。

「学園占拠の手引き、人員配置の隠蔽」と彼女はいった。「そしてその際に彼が行う、一番地首魁、〝黒曜の君〟の暗殺への協力」

 高村は、ぽかんと口を開けた。
 石上の叛意を嗅ぎ取っていた。破滅的な予感も同様にあった。
 だが、そのためにここまで手段を選ばない選択を取ることは、考慮していなかった。
 素人目に見てさえ、あまりにも勝算が低い。無差別なテロリズムに比肩するほど無謀かつ、周囲に被害を撒き散らす行動である。

「本気か」かすれた声をあげ、高村は身じろぎする。痺れた体に活をいれ、どうにか起き上がろうとした。
「お嬢様の進退は瀬戸際に追われています」深優は頓着せず続けた。「他に選択肢がない以上、彼の手引きを利用し、六日後、アリッサお嬢さまと私は、黄金艦隊のバックアップを受けて風華学園を占拠。のち生徒を人質に取り、殺害も辞さず、残るすべてのワルキューレに対して決戦を要求します」
「負けるぞ」高村は、あがきながら、簡単な予測を披露した。「まだ全員の身元も割れてない。生徒を見捨てる思い切りと不意打ちを決める肝が相手にあっただけで、無抵抗の一撃を受ける羽目になる。最悪、複数から。それに、一手も間違えなくたって人が死ぬぞ。大勢、怪我をさせるぞ。アリッサちゃんをそんな眼にあわせるのか? そんなものを見せるのか?」
「私がお嬢さまを守ります」
「何から」
「無論、全ての敵から」
「その敵の顔も、わかってないんじゃないか!」高村は思うまま激した。無責任な言葉を吐き散らかした。「それが黄金時代とやらの礎だっていうのか? 忘れてないよな。アリッサちゃんは死に掛けただろう? 怖がっていただろう。助けてって言ってたよな。……学校の占拠なんて、後々どう立ち回るつもりだ? それに運良く生き延びて、万が一残りのワルキューレを全部倒せたとしてだ、そのあと君らがどうなるかなんて分かりきってるだろう? 面倒だから体よく死ねって言われてるんじゃないか。なんでわかっててわからないふりをするんだよ。深優、君がアリッサちゃんを守るなら、まずそいつらからだろ。あの子を死なせるかもしれないものを放置して、何を守ってるっていうんだよ……」

 言葉を募らせるほど――
 高村の喉元に、空々しさが積み上がった。語尾は尻すぼみに融けていく。口先ばかりの台詞の全てを、一句も余さず深優は記録したに違いない。羞恥とやるせなさが、高村からそれ以上の追求を奪った。

「そうだとしても」

 怖気をふるうほど怜悧な声に重なって、軋む寝台が悲鳴を上げた。
 高村以外の重みが、一畳に満たない手狭な台座に加わった。
 深優・グリーアが、両手諸膝をついて、間近から高村を見返していた。
 赤い瞳に揺れはない。波立たず、静かで、人工的だ。

「逃げたあなたが、私に言える言葉ではない」

 高村は緘黙した。
 これ以上ない正論の槍が衝き込まれた痛みもある。
 だが、最大の要因は別にあった。
 おとがいをそらし、青白い深優の首から鎖骨をたどり、胸部へ視線を滑らせていく。視界に納まった深優の全容に、高村は息と唾液を飲み込んだ。

「深優」
「はい」

 眩むほどに肌は白く、傷も染みも見当たらない。太腿に接した肌の触感は、陶磁といえば陳腐だが、深優に対する形容としては皮肉なほどふさわしい。
 彼女の滑らかすぎるテクスチャの正体は不明だった。ただわかるのは、深優の体には当然ながら産毛すら一本も生えていないことだ。オリジナルの少女も白子であり、全体的に透明な印象を見るものに与えたが、深優のそれはまたニュアンスが違っていた。だが柔かみも、気のせいか温かみも、人工の質感は備えている。整いすぎた造型が人間性を減じており、それはかえって高村に倒錯した刺激を与えた。覆いかぶさる姿勢から重力に従って垂れる乳房の慎ましやかなふくらみを、高村から遮るのは薄く白く味気ない綿の下着一枚である。腰骨と骨盤のラインをあからさまにした深優の下半身がまとうのも、やはりただ一切れのショーツだった。
 深優は無臭だった。彼女の皮膚は擬似的な代謝をも可能にするが、人間の生理とは意味合いが違う。だが必要ならば呼吸さえ再現してのける躯体には発声器官はもとより内臓まで搭載されている。深優・グリーアは、生物と無機物の中間にいた。アンドロイドというよりはホムンクルスという形容が近いのかもしれない。
 高村の視線と赤い目が絡み合う。
 両者は言葉も持たず、吐息のかかる距離で停止した。
 異様に乾き始めた喉に唾を送るべく四苦八苦して、高村は引きつる舌をもどかしく回す。

「どうして、そんな格好なんだ」
「お父さまからの言伝です」と深優はいった。「『約束を果たしてもらう』といえば、意図は伝わると」

 瞬時に事情を了解した高村はうめきを漏らした。


   ※


 ぬるい水を頭から浴びせられて、玖我なつきは半端なまどろみから復帰した。前髪を経由した水流は頬をつたい、うなじを這い、鎖骨をたどって、丸一日着たきりの衣服を湿らせる。

「……」

 身じろぎを試みて、それを封じる幾重もの拘束を意識した。鉄骨が突き出した床に張り付いた目線を、胡乱にさまよわせる。身体をきつく束縛するのは、結城奈緒が擁する蜘蛛のチャイルドによる糸だった。硬質の粘性を具した感触はなつきの頚椎にまで及び、一端は天井にまで伸びて、なつきが爪先立ちになってようやく床に届く状態で固定されていた。完全に体重を預ければ、即座に頚部が圧迫され、おちおち意識を切ることもできない。
 既に十時間以上を、なつきは同じ体勢で過ごしている。
 それを強いた結城奈緒はというと、身動きできないなつきを過剰にいたぶるでもなく、どころか今となってはほとんど話しかけてくることさえなかった。空のペットボトルを片手に、半眼で濡れ鼠のなつきを見やって、鼻を鳴らす。

「オハヨウ」

 なつきは返答しなかった。
 奈緒がしたたかになつきの頬を張った。
 素手による一撃は鋭く、痺れと痛みは確かになつきの感覚を刺激した。だがそれだけだった。なつきは首を傾げたような姿勢で、腕を振り切った姿勢の奈緒を見返した。奈緒が忌々しげに舌打ちした。

「アンタ、もう壊れちゃったわけ? それとも、……ああ、まあいいわ。どうでも。なんか飽きたわ、もう」

 それきり、ブルーシートの敷かれた床に腰を落とし、奈緒は手中で携帯電話をもてあそび始めた。施工途中の天蓋を抜けて、ほこりを切り取る光線が差していた。茫洋と舞う粒子に指を伸ばしつつ、奈緒は物思いにでもふける様子だった。まさか殊勝な動機のはずもないが、奈緒もまたなつきと同じように一睡もせず夜を越えている。にも関わらず眠たげな素振りは皆無だった。何か、内圧が高まっていく機関を連想させるたたずまいのまま、結城奈緒は玖我なつきを黙殺し続けている。
 昨夜の様相との落差はなつきを戸惑わせたが、他の全てと同様に、それ以上の何かを感じさせるものではなかった。無気力と倦怠感だけがなつきの心の水位を占めている。岩礁のようにささくれ立つ心地が全ての思考を引き裂いて、聡明な知性は見る影もない。
 時おり、呼吸さえ忘れた。
 息を詰め、気がつくと、九条むつみと名乗った女のことばかりを考えている。
(たかが、考え違い程度のことで……子供だったのは、わたしも同じか)
 唇をゆがめるだけのことに、途方もない労力を要した。そうまでしたところで甲斐はなかった。痛みのない自嘲があることを、なつきは知った。この疲労感が単純に母親に対する失望によるものだけであるとは、自意識が認めてはくれない。そんなときに縋るのは、高村恭司がなつきに告げた一番地による暗示だった。
(そうだ……この気持ちも、痛みも、吐気も……全部だ。本来は、わたしのものじゃない……きっと……高村の言ったことは正しかった。わたしが弱いんじゃない)
 客観的に見て、なつきが打ちひしがれることなど起きていないはずだった。誰もが自身の状況と理と利に沿って判断し、選択し、行動しただけのことだ。結果として、思い込みの激しい少女が一人、数年の徒労に気づかされた。
 それだけのことだ。
 それだけのことに、なつきは意味もわからないほど傷ついていた。奈緒を目の前にして、外聞もなく涙さえ流した。嗚咽だけはこらえたが、隠しきれたはずもない。

 藤乃静留の部屋をチャイルドで強襲し、なつきをさらったのは奈緒である。彼女はそのまま海路で風華に帰還し、月杜町の一角にある建設途中のビルのフロアを占拠して一夜を過ごした。
 奈緒は折々で、携帯電話を手にどこかに連絡しようとする素振りを見せては、それを思いとどまっていた。
 鬱屈が、なつきから一次的に食欲を奪っていた。そのために空腹で時間は計れないが、体内時計はすでに中天を過ぎたことを教えている。
 更に一時間以上、なつきは奈緒と沈黙を共有した。
 不意に、なつきを見ないまま、奈緒がいった。

「そのまま、服でも脱がせて、そのへんの男どもにレイプさせようかなって思ってた」
「…………」

 唐突にされた物騒極まりない告白に、なつきはこれまでとは別の意味で言葉を失った。憔悴に陰った瞳を見開きながら、ようようもつれる舌で言葉を紡ぐ。

「……言っておくが、そんなことをされるくらいなら、舌を噛んで死ぬからな」
「そうね」奈緒が頬杖をついて、なつきに流し目を送った。「今のあんたにそんな度胸があるかはさておき、考えてみたら別に、それってあたし自身はあんまり面白くないじゃない? 気持ち悪いから見る気もしないし。だからやめたわ」
「それは、助かる、が」はらわたから搾り出すように、なつきは囁いた。「そんなに気持ち悪いのに、……おまえ自身は、どうして体を売るんだ」
「はあ? ばかじゃん?」そこで初めて、奈緒がまともになつきへ顔を向けた。「演技じゃなけりゃ男なんかに指一本触らせるかっつーの。ましてや、抱かれるなんて絶対にありえない。それこそ死んだほうがまし」
「……そう、か。悪かったな」深く、なつきはため息をついた。

 奈緒は一瞬だけ眉をひそめた。口をつきかけた台詞を飲み込むような仕草を見せた。最終的に、彼女の顔にはいつもの露悪的な笑みが浮かんだ。細められた双眸がなつきを刺した。

「だからって、安心されてももっと白けるのよね」奈緒は芝居がかった手振りを加えていった。「そこで考えたのよ。あんたはもうHiMEじゃない。でもHiMEのオトモダチがいっぱいいるじゃない? だからさ、せっかくだから――」
「エサになれ、と?」
「……察しがいいじゃない」
「ああ、すまない。悪気はないんだ」なつきは無表情のまま、ぼそぼそと弁解した。「陳腐すぎて、反射的に先取りしてしまっただけだ……よければ、続けてくれ」

 頬を引きつらせて、奈緒がシートを蹴飛ばした。

「……あんたってやっぱ、ほんっと、……むかつくわ。調子出てきたわけ?」
「お互い様だ」

 手も足も出ないまま、なつきは笑おうとした。ほんのかすかでも、それが出来たのなら、動き出せる気がした。
 だが実際には、こぼれたのは笑みではなくまたも涙だった。奈緒が、げ、と身を引いた。途方に暮れて居るのはなつきも同じだった。
 母を失って以来、誰にも、父や親友の藤乃静留にさえ、玖我なつきは涙を見せたことなどなかった。慟哭の代わりに、暴力に身を染めた。唇を噛んだ。拳をつくった。知性を働かせた。それらはすべて鎧だった。
 いま、外殻は砂になって崩れ、散って消えた。弱虫だった玖我夏姫が、久し振りに帰ってきたのかもしれない。なつきは涙を流し、鼻水を垂らし、唸るように声を漏らした。身をよじり、歯噛みして首を振った。
 滲んで揺れる世界で、奈緒がしかめ面のまま立ち尽くしている。
 彼女もまた泣きたそうに見えたのは、壊れたなつきの錯覚に決まっていた。
 

 



[2120] ワルキューレの午睡・第三部九節1
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2009/09/21 01:05
8.イリデッセント(虹彩)



 まばらな環視に晒されて、救急隊員の手で生徒が運ばれていく。担架に乗せられ毛布に包まり、寸毫も身動きしない人影は、中等部か、さもなくば初等部といった風情の小柄な少女だった。人垣越しに認めた顔色はひどく青白い。肌の露出した華奢な両肩からも血の気が失せている。
(でも、知らない子だ)
 その顔に見覚えがないことを確かめて、安堵しかける己を、鴇羽舞衣は戒めた。囁きを交し合う生徒たちの物見高さから距離を取るようにして、二歩三歩と後退する。汗に張り付く襟ぐりを摘んで空気を取り入れながら、きびすを返しかけた。
 その矢先に、耳元で囁く声があった。

「貧血だそうですよ」
「わひゃっ!」

 品の良い香水の芳しさに吐息の生暖かさがほの混じる、掠れとかすかな異国のアクセント。文字通りの至近距離で呟いたのは、ロザリー・クローデルだった。

「あ、ああ」首筋に鳥肌を張り付かせて、舞衣はロザリーから離れた。「え、えーと、ロザ、じゃなくて、変態、でもなくて、そう、クローデルさん。ヘンタイの」
「どちらにしろ枕詞はそれですか」ロザリーは優雅に微笑した。「マクラコトバ。使い方、あってます? 菊川さん」
「え、ええ、まあ」

 振り返るロザリーの視線の先に、舞衣のクラスメートである菊川雪之がいた。目立たない女生徒ではあるが、執行部に所属しているだけはあり、舞衣に対する迫害めいた行為にも参加した素振りはなかった少女である。そしてそれだけで、舞衣が好感を抱くには十分だった。

「おはよ、雪之ちゃん」舞衣はにこやかに手を振った。「っていうには、ちょっと遅いけど」
「ううん。おはよう、舞衣ちゃん」雪之も柔和に笑んだ。「どうしたの? 夏休みなのに……部活、は確かまだ入ってないままだよね?」
「ああ、うん、そう、ちょっと碧ちゃんに用事があってね」
「あの運ばれている女の子」と、口を挟んだのはロザリーだった。碧眼に退屈の色を浮かばせて、ささやきを交わす生徒たちを眺めている。「ちょっとまずいですね。この状況はけっこう致命的ではなくて?」
「は、え。なにがですか?」舞衣は目を瞬かせてロザリーを見返した。
「想像力を働かせなさいな」ロザリーは嫣然と微笑んだ。「貧血で倒れただけならまだしも、あの娘、発見当時に全裸だったそうですわ。それをこんな好奇の目に晒してしまって……。事実はわたくしも存じ上げませんが、周囲はもう彼女をレイプ被害者としか見ないんじゃないですか?」

「対策は打ってあります」厳しい声で割り込んだのは珠洲城遥だった。「そうした口さがのなさを放置するほど、我が校の風紀は乱れてはいませんわ。そして、ミス・クローデル。これは当学園内の問題ですので、どうかお構いなく。それよりも、もう見学はよろしいんですか?」
「そーですね。ま、だいたいは。ね、菊川さん?」切りかかるような遥の言葉を、ロザリーは気にした素振りもなく受け流した。「なので、もう案内は結構ですわ。そのうち飽きたら帰ります。……あ、そうだ。たぶんこれから毎日遊びに来ますので、紅茶はいいもの用意してくださいね!」
「はあ」と遥は曖昧に頷いた。「……はあ!? 毎日!? 何いってんの貴女! 部外者を自由に出入りさせるわけないでしょう!」
「あん、もう、スズシロさんったらオデコが硬いんですね。そんなんじゃボーイフレンドも逃げてしまいますわ。ねー、菊川さん?」
「は、はあ……」雪之が目線を右往左往させた。「え、そ、そんなことないですよ? 遥ちゃんかわいいし、スタイルもいいし……」
「そもそもが余計なお世話よ! しゃらっぷ!」顔面を高潮させた遥が両腕で全身をかばった。
「ほほお」ロザリーが好色そうな目つきで遥の全身を舐めまわした。「あーはん? 確かに、男好きのしそうな体ですわね。あら、なにげにそっちのマユゲ太い娘よりおっぱいが大きいわ。2センチ……ううん、1センチくらい? ウエスト、ものすごく細いですね……。すばらしい。その体で処女ではさぞかし夜泣きして大変でしょう? オナニー週何回してますか?」
「見るな! 想像するな! 黙ってちょーだい! っていうかなんなのこの外人! こんな下劣な方面で日本語うまいとか最悪じゃない! 存在が条例違反じゃない! 雪之! 塩もってきて! 塩化ナトリウム中毒にして事故に見せかけて殺すから! もしくは欧米人がデビルフィッシュと恐れるタコを釣ってきて!」
「えええ、無茶だよ遥ちゃん」それでも一応、塩やタコの姿を視界に探す雪之だった。
「触手プレイですか」ロザリーが神妙な面持ちでうなった。「さすがは名だたる日本の女子高生。それはさすがに未体験。アウターゾーンですわ」
「マユゲ、ふとい……」関係がないのに端的に特徴を表現された舞衣は、盛大にうなだれた。「ちゃ、ちゃんと手入れしてるもん。太くないもん。たれ目だから今くらいのバランスがいちばんいいのよ……」
「あら、気にしているんですか? ごめんなさい、鴇羽舞衣さん」ロザリーがしおらしく謝罪した。完全に表面だけの仕草だった。「でも、キュートですよ。ほら、しょーりしょり」

 驚くほどすばやく身を翻すと、一撫で二撫で、ロザリーのしなやかな指先が舞衣の眉毛を愛撫した。

「それ、あいぶれーしょん。しょしょりしょーり」さらに調子に乗った。
「さささ、触るなぁ! へんたいがうつったらどーする!」
「感染りませんよ」ロザリーが苦笑した。「粘膜接触しなければ」
「生々しい保障をしないでよぉ!」舞衣は今までにないタイプのロザリーに相対しすでに半泣きであった。

 と、そこで、杉浦碧の声が場に割って入った。

「おい、あんたら」腕組みをして仁王立ちの彼女の目は、明らかに怒りを湛えている。「あのね、病人が出てるの。楽しそうで結構だけどさ、そういうのはどっか別の場でやってくれない? そこのクローデルさんも」

 よりにもよって碧に注意され、しょげ返る学生とは対照的に、ロザリーは面白げに碧を見返すだけだった。

「ハイ」
「この時期に、学校に来て、そういう目立ち方をしてる」碧が唇だけを弓状に吊った。「つまりあなた、あたしらの関係者なのかしらん?」
「……」

 にわかに表情を引き締めると、ロザリーは押し黙った。いきおい、舞衣も口をつぐんで息を呑む。遥と雪之は、好機とばかりに環を離れ、搬送中の下級生の様子を見に向かう。
 唇を一舐めすると、碧は続けた。

「さっき運ばれた子の名前は野々宮清音ちゃん。中等部の子で、合唱部に所属してるそうよ。いま話題になってた通り、さっきランニング中の剣道部の子達が、木陰にマッパで倒れてた彼女を保護、即通報、保険医の鷺沢先生の診断によると、症状は貧血による失神みたい、――というわけなんだけど、ね」
「服を脱がされていたにも関わらず、暴行の形跡はなかった、ですか?」含みのある碧の視線を悠揚と受け止めて、ロザリーが接ぎ穂を加えた。
「よくわかるじゃない?」碧が肩眉を上げた。
「そんなの処女でもなければにおいでわかりますわよ、普通」ロザリーが当然のように言った。
「いやいやいやいや」予想だにしない答えに碧が一瞬途方に暮れたのを、舞衣は見逃さなかった。
「ああ、すいません。別に特定の非モテ層を揶揄する意図はないんですのよ?」挑発的なまなざしを送るロザリーだった。「ただ、なんというか……、ふふ、失礼。杉浦さんでしたかしら? 貴女、彼氏いない暦何年ですか? 不倫にはまって破滅する相が見える気がします」

(ひええ! こわ! この人、こわ!)

 舞衣は胸中で戦慄した。
 ロザリー・クローデル。変態だが、直観力にはただならぬものがあるらしい。
 かすかに、碧の背に鬼気が揺らめいた。

「……あのね、今執行部の子に確認したら、詳しいことはわからないまでも、同じような事件が市内でも最近二、三度起きてるって話なんだよ。被害状況的に、他にもいくつか潜伏してるケースがありそうだけど、とりあえず目下判明してる範囲では、そのどれもが、若い女の子が通り魔的に襲われたが幸い怪我はなくものも盗られなかった、って届出ばかりなんだってさ。さて、服を脱がされたかどうかは、まあ警察が教えてくれるわけないから推測するしかないけどね。いまの野々宮さんにしたって、貧血とショックはありそうだけど、クリティカルなダメージは負ってない。……これ、どう思います、クローデルさん」
「どうって、不幸中の幸いというものではないかしら? コトワザで言うならば」ロザリーはあっけらかんと答えた。「犯人は女性の裸自体が目的なんでしょう、普通に。そういうジャンルの変態さんです。最低ですね。死ねばいいのに」
「正直あたしにはどっこいなレベルだなあとしか……」

 舞衣はしんみり呟く。
 そして見た。
 碧の額に青筋が浮かんでいた。

(うわ、これはマズイんでは)

「よし! とりあえず選択肢から変態を外そう!」碧が自棄的にわめいた。眼が据わりつつあった。「はい変態消えた! もういませーん! さあ、それじゃあどうして犯人は女の子の裸に興味があるのか! 碧ちゃんはきっとそこになんらかの特徴を探してるからだと思いましたっ!」
「なんて、決め打ちの推理」ロザリーがはしゃぎ始めた。「素敵ですわ、こうやって陰謀は進行するのですね」
「ええーいもうまだるっこしい!」とうとう、碧が外聞をかなぐり捨てた。鋭鋒のごとく人差し指を突き立てると、ロザリーに向けて突きつける。「ミコトちゃん! そのヒトはどう考えても妖しい、もとい怪しい! やっておしまい!」
「ええー……」わざわざ出を待っていたらしい命が、珍しく腰の引けた様子で現れた。「なんか、いやだ。そいつ。気持ち悪い」
「碧ちゃん、ちょっと、理事長のお客さんにそれはまずいんじゃあ」心中で支持しつつも、舞衣は一応常識人としての立場を堅守した。
「だいじょうぶ!」碧が力強く請け負った。「このタイミングでやってきた時点で怪しさ大爆発だよ。今はなつきちゃんのためにも、どんな些細なことでもいいから情報が欲しいんだ。真白ちゃんも警察も頼りにならない。恭司くんもいない。なら、あたしらが動かなきゃならない。……それにさ、その人なら、間違えて殴っても、なんか気持ちいいからとかいって許してくれそうだし!」
「最後! 碧ちゃん最後に本音が!」

 ロザリーは鼻で笑う。絵になる動作で、豊かな金の巻髪をかきあげ、肉体を誇示するように胸を張った。

「だいたい合ってます」

 そして、その場で命だけが、ロザリーの次手を認識できていた。枕をほぼ消した動作で半歩分右足が進んでいる。進路には碧がいる。命は肩にかけた長剣ミロクを地に落とす。その落下を追いかけるように自身も体躯をたわめ、ロザリーの膝よりも低い姿勢で地を蹴り加速した。

「ちょ、速っ」初めて、ロザリーが焦りの声を上げた。

 そのときには、命はもう肉薄している。
 激突を予感して、舞衣は反射的に瞑目した。
(――!)
 大地が震えた。
 そう錯覚するほど、鈍く重い音が響いた。

「……マジで?」

 呆然と響いたのは碧の声だ。恐る恐る、舞衣は瞳をひらく。ほどなく、薄目は驚愕の瞠目へ転じた。

「……っ! ……っ!」

 そこに、額を抑えてのたうち回る命がいた。
 そして、青ざめた顔で下腹部を押さえ、うずくまるロザリーがいた。

「はう、ぽんぽ……ぽんぽ痛い……ほんっと、痛い……痛気持ちいい……とか、そういう余裕はなく、痛い……」

 うわごとのような呟きが聞こえた。

「あ、だめ。寝ます。もう」とロザリーがいった。すぐにこてんと地べたへ転がった。「きゅぅ」
「う、うう。かなり頭痛いぞ」命がふらつきながら立ち上がり、碧を見た。「おい。やったぞ碧」
「……」碧は返事をしなかった。「そんな馬鹿な。あっけなさすぎる……」

 未だ衆人の目があることを思い出しつつも、舞衣もまたギャラリーの一人と化して、碧を冷たい眼で見つめた。
 来客の外国人に人間凶器をけしかけ、気絶させた。
 そういう絵にしか見えなかった。
 困り果てた様子で、碧が舞衣を振り返った。

「舞衣ちゃん、これ、どうしよう」
「あたしに聞かないで」

   ※

 風に錆のにおいが混じった。大海を望む風華の立地は潮と酸化から切り離せない。肌となく髪となくまとわりついてくるこの海風が、結城奈緒は嫌いではなかった。海岸の生臭さにだけは辟易しないでもないが、潮騒も、水のはらむ人間と一線を隔す怜悧さも、悪くはない。少なくとも人間の吐く息よりはずっと好ましい。
 いま、領空を望める高楼に彼女はいて、白雲に対峙するように佇み、孤立している。猛烈な日差しに焼かれて、資材でごったがえすビルの屋上に落ちる影は濃い。目線はどこでもない場所で浮いている。時折だらりと下げた両手の指先が痙攣するようにうごめいては、表情ともつかないわずかなふるえが奈緒の細面で波立った。
 少女のそれでしかない小柄な体躯の内奥で、意識をどこまでも沈下させていた。
 水底に漂い、決して浮上しない澱のように注意ぶかく、指先とその延長に有るイトに心を沿わせていく。
 まず姿勢が、次に呼吸が、そして最後に有りようが、奈緒の望むかたちに最適化され始めていた。

「聞いたところによると」耳障りな幻聴を、奈緒は意識の末端で聞いた。「すべては思いこみなんだ。フッサールにも顔をしかめられそうなメソッドだが、いま一度ルネ・デカルトの境地に立ち返る必要がある。できるとは思うことはできる。もちろん、できないことはできないが、可能なことはすべて可能になる。HiMEならぬ身には想像するしかない話だが、どうなんだ結城、いまの話に何か感じいることはあったりするのか? まあなくても別にいいや」

 子細はともあれ、力の実感が奈緒にはある。男の言葉の意味はわかったし、発信源への好悪は別として、実践する価値もあった。
 彼女が試しているのは巨大な綾取りだ。両手指十本に装着したエレメントから、それぞれ微細な糸を無辺に伸ばす。糸は意思を持って光を透過させ、不可視となって這っていく。速度はない。気を抜くとまま風にさらわれてしまう。普段ならばありえないほどの辛抱強さで、奈緒は糸を繰っていく。
 張力は要る。だが硬度も軟性も不要だ。この世でもっとももろく張りつめた繊維を、奈緒は自身が巣食うビルの四方に張り巡らせた。
 文字通りの警戒網を築くためだ。
(6……いや、5……も、だめだ。4くらいか……)
 十本の糸全てに注意するのはまず無理だった。異能ではない純然たる能力の頭打ちがある。克服には訓練と時間が必要になるだろう。思いつきにそこまでの労力を割く気はない。リソースがひどく限定されている以上、索敵だけに全力を振るわけにはいかない。かといって鳴子では相手にも気取られるリスクがある。理想は、指から切り離した状態でも糸に触感を同調させることだが――。

(……面倒だな)

 暑気と倦怠が、ふいに集中を断絶させた。我に返ったのかもしれない。
 今更何を警戒するというのか。
 結城奈緒が警戒するというのなら、それは周囲の世界全てであった。目新しいことは何もない。いつも通り慎重に、抜かりなく、敵があれば欺いて陥れるだけのことだ。

「あほらしい」

 吐き捨てると、奈緒は足を階下へ通じる扉へ向けた。長く立ちすくんでいたせいか、影がとけて地面と混ざったようだった。歩みのたびに足がコンクリートに張り付くように感じる。その鈍重な歩調に合わせて、この十数時間を想起した。
 高村恭司と決別した。玖我なつきを捕らえた。いたぶった。嗜虐心を満たした。一夜と昼を費やして、起こったのはそれだけのことでしかない。
 玖我なつきは、奈緒が何かをする以前にもうほつれていた。見せ物としてはなかなかでも、折り甲斐のある芯はすでに失われていたのだ。そんな形骸をいたぶったところで、それは常から奈緒が嗜んでいる遊びと何ら変わりがない。
 奈緒の意識下で、急激に玖我なつきへの感情が褪せつつあった。あるいは、それは何事によらず、同じなのかもしれなかった。
 今さら地べたで人狩りに精を出す気にもなれない。ならば他のHiMEでも狩るのだろうか。たとえばあの気に入らない鴇羽舞衣を?
 悪くないかもしれない。
 だがそれだけのことでしかない。
 美袋命や杉浦碧を敵に回してまで、得るべき対価では明らかにない。
 とたんに、奈緒は吹き出した。あまりにも自分が無目的であることに気づいたのだった。刹那に生きているつもりだった。だが、瞬間の中にひらめく余興さえ、今ではとっさに思い浮かばない。動かないための理由を数えすらして、退屈を受け入れ始めている。
 変化といえば変化だった。その理由を求め、袖を引かれた素振りで奈緒は足を止めた。
 日陰へ届く一歩のすんでで、はかったように胸元に納める携帯電話が着信を知らせた。淀みのない手つきで液晶の表示を確認すると、見覚えのない番号が通知されている。少なくとも、高村恭司の番号ではない。眉をひそめて、奈緒はスピーカを耳に寄せた。

「誰?」
「やあ、石上です」明朗な声が奈緒の耳朶を打った。
「は?」予想だにしない名前に、寸時言葉に詰まる。
「一応、君にとっても教師で、そしてつかの間だけど家主でもあった、あの石上亘で間違いないよ。結城奈緒さん」

 声と名乗りと、その持ち主の顔を繋げた後で、奈緒ははばかるように声を低めた。

「なんの用?」
「玖我なつきの身柄がほしい。むろん、ただとはいわないよ。見返りは用意してある」

 作為的なほど時機をとらえた単刀直入さに、奈緒はまず監視の可能性は疑った。大いにあり得る話だ。

「あいつはもうHiMEじゃないってのに、今さら何のようがあるわけ? シスター……紫子のほうにでも頼まれた?」
「彼女はきみが玖我なつきを拉致したことなんて知らないよ。僕も教えていない。一応、消息を絶ったらしいということだけはそれとなく教えてあるがね」
「あらあら」奈緒はわざとらしく呆れてみせた。「いいのかなぁ? 石上センセイってば、シスター紫子の"オモイビト"ってやつなんじゃないの? そうじゃなくたって、高村の話じゃ裏でこそこそツルんでるみたいじゃない。それなのにそんな相手に黙ってあたしに他のオンナをよこせだなんて取引持ちかけちゃって、後ろめたくないんですかァ?」
「ああ。とくに思うところはない」石上の語勢に迷いはない。
「ふうん。だと思った」白けた口調で奈緒も応じた。

 学校生活ではほぼ没交渉であり、マンションでの短い日々においても、奈緒と石上が交わした言葉など数える程度のものだった。にも関わらず、奈緒は、そしておそらく石上も、互いにある種の共通点を見いだしている。
 それは欺瞞の色彩だった。二人は赤と紫ほど違うが、紫と赤程度には通じているということでもある。
 石上はそれを感得してなつきの身柄を要求したのだろう。彼が切るカードは、奈緒をして満足せしめるものに違いない。
 だが、奈緒は別の見解を持っていた。彼女の関係性に対する哲学は大前提に拒絶がある。合目的的か否か、利益があるかどうかは、考慮されることもあれば、無視されることも往々にしてある。
 まれにその垣根を越えるものもいる。だがそういった例外は、得てして奈緒とはまったくそぐわない特性を持つ場合が多い。
 自分に少しでも近いと感じる人間に、奈緒は寸毫も妥協する気はなかった。
(こいつは論外)
 奈緒は即座に断じた。

「お断りだね。何がねらいなんだか知ったこっちゃないけど、あいつはあいつでこっちも利用するつもりなんだ」
「そうかい。残念だ」動じるふうもなく、石上はこたえた。「取引がかなわないなら、奪うしかない。まあ、それでもきみはかまわないと言うんだろう。けれど、対価が何かくらいは聞いてもいいんじゃないか?」
「喋りたいなら止めないけど」奈緒はせせら笑った。「ま、試しにさえずってみたら? うまく歌えば、あたしの気も変わるかもね」
「きっと気に入ってくれると思うんだ」

 石上が、前置きもなく核心にふれた。

「きみの家族が殺された事件の真相を、知りたくはないかな?」

   ※

 高村恭司と優花・グリーアの出会いに劇的な要素は皆無だった。あえて言うなら出会った場が教会であるという一点が奇異なのかもしれないが、それにしてもジョセフ・グリーアが神父を務めていたからにすぎない。
 高村の母が週に一度足を運んでいた日曜の礼拝に、高村が渋々同行したのが契機だった。他の幾人かの子供たちを交えて交わした目線が、高村と優花がした最初の疎通だ。
 そこで高村は優花の銀髪赤目に対して興味を示し、幼少期から聡明で機敏であった優花はありふれた反応にただ嘆息で答えた。そういったわけで、むしろ優花の側は、当初好奇心が旺盛で少年らしい無神経さに満ちた高村を嫌い、避けていた節さえあった。
 ただし年齢が小さいこともあって、少なくとも高村の側には男女の意識は存在しなかった。だからこそ、単純接触の原理が正常に機能したのだろう。顔を合わせる機会と交わす言葉の数が増え、共有する記憶が一定の割合を越えると、ふたりは自然に打ち解けた。どちらかといえば、優花のほうが歩み寄る姿勢を見せたのだ。
 その時節、優花は浮き世離れした少女だった。頭はいいはずなのに、雲を追いかけて町外れまで歩き、警察に保護されるような抜け目があった。高村はしばしばそんな道行きに付き合わされては、一緒になってジョセフ・グリーアに説教をされた。そのころ、主導権を握っていたのは優花であるのに、周囲は高村を優花の保護者と目すようになっていた。理由は単純だった。
 いつの間にか、優花が高村に懐いていたからだ。
 きっかけは、あったかもしれない。なかったかもしれない。高村の記憶には目立った原因は見あたらない。
<それをこそ知りたいのに>

「きょうじくん」

 やや舌足らずな発音を、高村は日に何十回も耳にした。優花はいつも笑んでは、高村を観察するようについて回った。今の彼が備える面倒見の良さは、こうした経緯で形成されたのかもしれない。
 やがて男女の性差が否応なく意識される年齢になると、距離を取ったのは意外にも優花のほうだった。同級生をはじめとして、人の目がある場では不自然なほどよそよそしい反応を示すようになったのだ。
 優花はそういった意味でも聡かったのだろう。幼い高村は、潮目のように引いた優花にかえって気を惹かれた。隣に彼女がいないことに違和感をおぼえ、次に寂漠を感じ、中学に上がる頃には焦がれるようになった。優花が日毎に美しく成長し、病的だった白子の様相が、性格相応の快活さをたたえ始めたのもそのころだ。周囲は優花を放っておかなかった。高村はさらに焦りをおぼえた。しかしそれは、ほどなくして諦観に変わるであろう感情だった。高村の世界もまた、優花だけで閉じていたわけではない。新しい環境や新しい友人は彼にも用意されていた。
 
<彼女はなにを考えてそんな振る舞いをしたのか?>

 そして高村恭司が十四歳になった夏に、優花・グリーアは彼を監禁しようとした。

 計画は年単位で考え尽くされ、練り尽くされ、計算し尽くされていた。万が一にも露見される恐れはないと判断し、優花は実行に踏み切ったという。むろん、仮に突発的な事態によって事件が外に漏れるとしても、高村やその家族と優花の父であるグリーアは決して表沙汰にはさせないだろうという予測も働いていた。
 優花は、長年連れ合っても恋人気分の抜けない高村夫妻が例年夏になると二人だけで長い旅行に行くことを知っていた。父親が娘の夏期休暇を見計らい、学者としての用事で本国に一時帰国することも織り込んでいた。高村の交友関係を調べ尽くし、彼のスケジュールに三日以上の空白が生じる日時を心得ていた。高村が決まった曜日の決まった時間に近所のコンビニエンスストアへ雑誌を立ち読みしに行くことなど知っていて当然だった。

 その日優花は、気の抜けた格好で家を出た高村に声をかけてきた。優花の当日の装いは、鮮烈なまでに高村の記憶に刻まれている。日差しにとても弱い肌のはずなのに、胸元に大胆なカットのある白いブラトップにベージュのショートパンツという、比較的露出の多い出で立ちだった。真っ白なスニーカーにはほこりひとつの汚れもついていなかった。そうした健康で活動的な身なりから、差したレースの日傘だけが浮いていた。様々な要因から、高村はそんな優花にどぎまぎしはじめた。

 一方優花は、あくまで偶然を装っていた。遊びに誘い、素直ではない高村が戸惑いがちに断るという可能性も、むろん念頭には入れていた。しかしそれでもなお意に介さず、優花は疎遠になった幼なじみを強引に教会兼自宅へ招いた。
 グリーア不在の閑散とした聖堂には、住み込みのシスターも帰省のため留守だった。父子家庭であるグリーア家には他に家人はおらず、教会はそう狭くない敷地の隅々まで静まり返っていた。つまり、優花の行動を邪魔するものは、もうなにひとつなかった。最後まで一切の油断をせず、ついに優花は高村を、本人にさえ気取られず監禁するための手はずを整えた。
 優花は小学生の折からたんたんとその機会をうかがっていた。感情の萌芽だけならば、もしかしたらさらにその数年前から芽生えていた。

「ずっとそんなことばっかり、考えていたんだ」後に優花は悪びれず高村にそう語った。「子供の頃から。ほんとうに、びっくりするくらい小さな頃から。どうにかしてきみを閉じこめて、独り占めにして、わたし以外の全部から遠ざけたかった。そんなのムリだって知ってたし、本気で実現させる気も少ししかなかったんだけど……、なかったはずなんだけどね。だって、犯罪だもんね。でもね、やっちゃった! あはは!」

 いみじくも十年後の夏に彼が横たわっている場所と似た、優花の生家でもある教会の地下に、高村は気づかないまま閉じこめられた。すべては徹底的に試算され、慎重に慎重を期して大胆に実行された。唯一の不合理があるとすれば、それは優花がこのような行動に踏み切るというその一点だけだった。

「恭司くん」と、後ろ手に地下室の鍵をかけた優花は熱っぽくささやいた。

 名前そのものが祈りの情感を孕んでいた。
 その声にこもる温度に気づかず、高村は口を開けて始めてみる地下室を観察していた。

「恭司くん」と優花は夢見るように繰り返した。「恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん」
「なんだよ、急に?」突如自分の名前を連呼しはじめた幼なじみを、のんびりした顔で高村がかえりみた。「グリーア、おまえな、おれたちもう中学生なんだから、おまえも苗字で呼べよな」

 優花は笑った。

「ぜったいに、いや」と言った。

 地下室は空のワインセラーだった。オーク材と思しき痛んだ棚の列と、酒気の名残を帯びた空気だけが漂う打ち捨てられた空間である。光源は即席で備え付けられたらしい裸電球がひとつきりだった。地下の冷気よりも夏がはらむ暑気に浸されて、高村と優花は共に汗ばんでいた。ゆっくりと閉じた天扉を背に石段を降りながら、優花はきっと尋常ではない覚悟を秘めていた。自らの望む言葉を高村から聞き出すためならば、何日であろうと彼を閉じこめるつもりでいた。そんな異常な結論に至るまでに、優花の中で高村の与り知らない葛藤がいくらでもあったに違いない。

<しかしその感情は、まだ回収できない>

 どちらにせよ、このときの優花・グリーアは踏み切ったのだ。あるいは振り切れたのだ。
 膨大な感情の質量がそこにある。
 社会性の埒外にひそむ、恋慕の怪物。
 どこまでも平静のまま恋情と倫理をはかりにかけ、いともたやすく前者を択る、それは仕組まれたワルキューレの資質であったかもしれない。

「優花と呼んでよ、恭司くん。前みたいに」優花の懇願は、半ば命令のニュアンスを持っていた。
「ええ、いやだよ」高村はまったくそんな機微に気づかなかった。

 そんなすげない反応も、優花にとっては予測済みだった。

「わかった。しょうがないなあ恭司くんは。いつまで経っても恥ずかしがりやさんなんだから」肩をすくめ、余裕ありげに優花は嘆いた。ただし、声も肩も足も手も、高村には気づかれない振幅で震えていた。「それじゃあ、名前はしばらくあきらめる。そのかわり、ひとつ、わたしのお願いを聞いてほしいな」
「なんだよ、それ。無茶なことじゃないだろうな」高村は半眼で優花を見やった。「まあ、簡単なことならいいけどさ」
「簡単なことだよ、もちろん!」優花は勢い込んで請け負った。「誰にだって条件を満たせばできることです。もちろん、恭司くんにもね。ただ今すぐってわけには行かないと思う。だけど、努力とか、そういうものは要らないよ。そういうのはわたしが全部してあげる。だから、恭司くんは今うなずいて、約束してくれるだけでいい。本気じゃなくてもいい。ただ、忘れなければいい。ねえ、簡単でしょう?」
「その念の入れようが逆に、なんか詐欺っぽくないか?」高村はやや及び腰になった。「それで、具体的になにを約束しろっていうんだよ」

「結婚しよう」

 と優花・グリーアはいった。
 十年前の高村恭司は、思考を停止させた。

「いま、ここで、うなずいてほしい。恭司くんがそれをしたら、わたしはわたしにできる全部を使って、恭司くんを幸せにする。そして、賭けてもいいけど、ぜったいにきみはわたしを好きになる。好きにさせて見せる。だって、わたしよりも恭司くんを好きになれる人は、世界にきっとそんなにいないよ。きみの鈍感で視野が狭いところや、いざとなったら怖いくらいに極端なところや、理想論に傾いてるくせに結局踏み切れない情けなさを、わたし以上に正しく愛せる人なんかいるはずないって思うよ。だから、きみにわたしがいない明日なんて想像もできないくらいにする。その目にわたししか映らなくする。心のいちばん深い場所にわたしを植えつけてみせる。たとえ今そんな気持ちがほとんどなくても、絶対に。絶対にだよ。言葉だけでも、今日ここできみがそれを誓えば、未来は絶対にそうなる。そうしてみせる。
 ねえ恭司くん。黄金時代って知ってる? ひとが、いちばん幸せに輝けるその瞬間のことだよ」

 呆然と、高村は首を振った。

「わたしがきみのそれだよ」優花は語った。言葉には確信しかなかった。「そしてきみが、わたしのそれなんだ」
「ちょ、ちょ、落ち着け、優花」高村は完全に混乱していた。「なに言ってるんだ? 俺なんか……、いや、その、気持ちはうれしい。けど結婚とか、俺たちまだ中学生だぞ? いやいや、意味わかんねえよ、やっぱり! ドッキリか! なんなんだ!」
「落ち着けってねえ、きみ、ピントがずれすぎだよ」優花が嘆息した。「これは、落ち着いて、きみを好きだなって自覚した四年前くらいから、熟考に熟考を重ねた上での結論なの。今後の戦略とか人生設計とかプロセスとかもうかんっぺきに網羅してるの! あとはきみが頷いてくれたら、わたしはゴールへ向けてスタート切るだけなんだよ。レーンに入って、ブロックに足をつけて、クラウチングスタイルを取る。あとは合図を待って、さあ! 走り出そうってところで、ピストルを掲げたスターターが、『おい、選手たち。まだ準備が足らないんじゃないか?』なんて言ったところで意味はないでしょう? 恭司くんの心配はそれと同じだよ。あ、でも、名前で呼んでくれたね。嬉しい!」

 ほころんだ表情に、高村は光明を見た。

「そ、それじゃあ、約束もなしで。名前で呼ぶからさ。ああ、もちろん返事はするよ。だけど、急な話で、ちょっと時間が」
「それは駄目」優花はみなまで言わせず却下した。「わたしのことは名前で呼ぶ。返事もここでする――ううん、ちょっとね、落ち着いて状況を考えてみてほしいな。ここはずっと教会に通っていた恭司くんも知らない地下室で、鍵はわたししか持ってない。そしていまうちには誰もいない。恭司くんのパパとママもお留守にしてる。恭司くんがわたしとここにいることを、この世の誰も知らない。だからね、考える時間ならいくらでもあるんだ。ここで、いま、わたしの前で――」

 薄暗がりで、優花がわずかに輝いたように、高村には見えた。

「きみは、頷くの。誓うんだよ。それをしないと、ここからは出られない」
「……本気か」
「これを冗談で済まそうっていうんなら、わたしはまずお医者さんに行くべきだと思う」冗談めかして、優花はいった。

 高村はまったく笑えなかった。
 気おされ、狭い地下室で後ずさる。ラベルの剥げかけたワインボトルを目端でとらえる。壁の漆喰は一部が欠けており、赤錆の浮いた鉄骨が内臓のように露出していた。頼りない光源に照らされる優花の表情は真剣そのものだ。若干十四歳の少女の真摯さは紛れもなく実在する。だが真摯さがパッケージングする意思の中身は普通ではない。
 まんじりともせず、高村は沈黙を余儀なくされた。言葉が思い浮かばないわけではなかった。頷くことはたやすかった。もとより、優花ほど苛烈ではなくとも、彼女に対する好意は存在したのだ。だが、優花がここまで追い詰められた行動を起こす理由が気になった。

「譲ってよ、恭司くん」優花は切迫した面持ちで、希った。「きみの、時間をさ、わたしにも一緒に過ごさせてよ」

   ※

 この時期の優花は、と高村は思った。たしかに焦っていた。追われるようだった。結果的にこの場で、高村は頷いた。そうせざるを得なかった。了承を得た直後、優花は腰から崩れ落ち、へたり込み、子供のころより激しく泣いた。そんな彼女を抱きしめることも、高村にはできなかった。優花の抱えたものが、あまりにも隔絶していると感じたからだった。優花はすぐに泣き止み、胸のつかえが取れた様子で高村に謝罪した。そして、赤裸々に監禁計画を語り、高村を閉口させた。
 そうまでして自分に迫る幼馴染の心理を気にするほどの余裕は高村にはなかったし、この一件は翌日以降、なぜかほとんど二人の話題に上ることはなかった。ただ結果として特別な関係になったという事実だけが生まれた。
 恋人関係は三年間続いた。三年続いた末、優花が事故で他界し、全てはあっけなく終わりを告げた。優花の葬儀は行われなかった。事故後すぐに、教会の人々は丸ごと姿を消した。翌月には、新しい神父が教会に赴任した。ジョセフ・グリーアと優花の遺体の行方は杳として知れなかった。
 高村には致死量の絶望と、一握の夢だけが残された。

 優花の言葉通りに魅了されたのかどうかは、今もってなお高村自身には判断がつかない。優花は死に、その死を経てなお、高村は生きている。天河諭や考古学との出会いが立ち直らせたと見ることもできる。だが本気で娘を蘇生させようと試みているジョセフ・グリーアからすれば、娘の恋人は薄情な男なのかもしれない。
 何も言いつくろえない。
 高村は、死んだ恋人の記憶を、矮小な復讐を遂行するための代償に選んだ。グリーアさえ知らない優花の顔が、あるシステムの完成には必要だった。それを差し出すことで、高村は少なくない見返りを得る。
 幼馴染であり恋人でもある少女と、育んだ無数の時間があった。
 社交性に溢れた優花である。そのエピソードの網羅は不可能に近い。だが、彼女がもっとも世界を共有したのは、父と、そして恋人だったことは間違いがない。
 記憶は記憶でしかない。秘匿に値する機密だったというわけでもない。世界でただひとり、ジョセフ・グリーアにとって有意義な秘密で、高村にとっては、大切だが余りある思い出の群れに過ぎない。
 何も失われてはいない。
 だが、喪失感が高村を襲った。
 泣きながら、彼は目覚めた。

   ※

 碧は理事長邸に呼び出しを受けた。確実な減俸を予感して逃走をはかる彼女を捕まえたのは姫野二三だ。子牛のように泣きながら、十七歳を名乗る私立教師(24)は抵抗むなしく連行された。
 残された舞衣は、なぜか気絶したロザリーを運ぶ羽目になった。華奢な見た目に見えて、存外西洋の女性は骨格肉付き共によく、重たい。肉体労働で鍛えた舞衣の体力でも難儀するほどである。
 どうにかようよう保健室にたどり着くと、部屋の主である鷺沢陽子は不在だった。先般の下級生の付き添いで救急車に同乗してしまったらしい。汗まみれでため息をついた舞衣は、袖まくりの仕草で、まず額を真っ赤に腫らした命の治療にかかった。

「それにしても、珍しいわね。あんたの石頭が、こんなおっきいタンコブ」
「指の関節で打たれた。ほんとうは目と目の間をねらってたんだ」命が興味深そうに軟膏をにおいながらいった。「あとちょっと頭を沈めるのが遅れてたら、危なかった」
「ふうん……よくわかんないな」と首を傾げながら、舞衣はつぶやいた。「碧ちゃんは頭からあの人のこと疑ってかかってたみたいだけど、命はどう思った?」

 問われた命は鼻の頭をかいた。あまり深刻ではなさそうに、中空を見上げる。丸くて黒い瞳から伸びるまつげは意外に長い。そうと気づいてみれば、命の顔立ちはとても整っている。ただしその造作も、大臼歯まで見えるあくびをしては台無しだった。

「HiMEでは、ないとおもう」
「それは、あたしも同感」舞衣はうなずいた。「だったら何かっていったら、そりゃ怪しい人なんだけどね。昨日の今日だし、碧ちゃんがなつきのことと繋げて考えるのもわかるんだけど、どうもそういう露骨な裏がある人には見えないんだよなぁ。それとも、あたしたんに、人を疑いたくないだけかな?」
「わたしにはわからない」命は首を振った。「……そういえば、前に恭司がいったことがある。信じたいことを信じなくてはならないときと、信じたくないことに備えなくてはいけないときがあるって」
「高村先生が?……に、しては、常識的っていうかなんというか、ふつうにいい台詞ねえ」
「前から思ってた」命がふと不安げな顔つきになった。「舞衣はもしかして恭司のことがあまり好きではないのか?」

 不意打ちに近い質問に、へっ、と舞衣は間の抜けた呼気を漏らした。
 脳裏をよぎったのは弟の顔と、弟と談笑する高村の顔だった。

「いや、……そんなことはない、けど」
「よかった」命が安堵のため息を漏らした。「じゃあ、好きなんだな。わたしと同じだ。最近は、あまり会えなくて寂しいけど」
「まあ、嫌いではないけどね。巧海も懐いてるし」舞衣はあえて言葉を濁した。「懐いてるっていえば、命はまあ仲良くなればだいたい同じかもしれないけど、アリッサちゃんもそうだよね。あの人って、子供にもてるオーラでも出てるのかな」
「……わたしは子供ではない」命が頬を膨らませた。
「そう? あたしはまだまだ子供でいたいけどねぇ」舞衣は微苦笑で応じた。「急ぎ足ではやく一人前になりたくもあり、今を楽しみたい気持ちもあり、まったくままならないなぁ」
「そういえば、舞衣は黎人のことは好きなのか?」突然命が爆弾を投下した。
「そういえばって」舞衣は頬をひきつらせた。「な、なんでいきなり黎人さんの話題が出るかなっ? 前フリ全然なかったじゃない!」
「昨日、なつきが恭司と遊びに出かけた話をしたら、千絵とあおいが、じゃあ舞衣のホンメイは黎人か祐一だといっていた。ホンメイというのは好きなひとのことだ。舞衣はあのふたりが好きなのか? って思ったから、聞いた」
「あ、あの二人」舞衣は肩を落とした。「やっぱり女子寮って教育上良くないなぁ……。って、祐一!? 楯がなんでまたそこで出てくるわけぇ!?」
「それは二人に聞いてくれ」命が至極もっともなことをいった。
「まったく、女の子ってつくづくコイバナが好きよね。あたしも嫌いではないけどさ。こんな時でさえなかったら」
「こんな時ってどんな時ですか?」
「なにいってんのよ。そりゃもちろん、」

 そこまで言いかけて、舞衣は二の句を飲み込んだ。
 命の合いの手ではない。
 ロザリー・クローデルが、青ざめた顔のままベッドの上で半身を起こしていた。

「あ、っと、っと、っと、えーと」舞衣はとっさに鍛え込まれたスマイルを繕った。「おかげん、いかがですかっ?」
「なんですのその笑顔。気持ち悪い」ロザリーが辛口で評した。「二重の意味で気分悪いです。ちょっと、そこの子供。わたくしにいったい何の恨みがあるんですか。返答次第じゃ一生の思い出を今ここで作っちゃいますよ」
「み、碧がやれといった」身震いするほど不吉な予感におそわれたのか、命が動揺混じりに責任転嫁をはかった。「おまえが悪いヤツだと聞いたから……んん」
「素直すぎるのも考え物ですねぇ」

 ロザリーが慨嘆しながら、ベッドから足をおろした。さらけ出された脚部はシーツと比べて遜色ないほど白く、そしてなまめかしかった。あれなら見せたい気持ちもわからなくない、と舞衣も一瞬考えてしまうほどだ。

「主体性があまりないのはどうかと思いますよ」けだるさを語調に引きずって、ロザリーが命を投げやりに指さした。「あなたすごく決戦用暴力装置って感じですね。美袋翁もろくでもないデザインをしたものです。……ま、亡くなられたのならしょうがないですね」
「ミナギオウ?」命が首を傾げた。「わたしと苗字が一緒だな。誰だ?」
「あなたのおじいさまのことですわ、美袋ミコト」とロザリーはいった。
「ジイを知っているのか!」命の瞳が驚きにまるく見開かれた。
「直接の面識があるわけではないですけれど」ロザリーがこたえた。「タカムラのことはご存じでしょう? 童貞くさい眼鏡のお兄さんです。そういえばこの学校で教師をしてるのではなかったかしら。春先に彼があなたのおじいさまを訪ねたのは、わたしの手引きだったんですよ」
「え? ちょっと、待ってください」突然の見知った名前を危機とがめて、舞衣は口を挟んだ。「クローデルさんって高村先生と知り合いなの!?」
「恩人の教え子ですよ。知り合いですけれど仲良しではないですわね」ロザリーが驕るように鼻を鳴らした。「まったく、思い出したらお腹が勃起してきました。あのヒトを囲ってた理不尽なセキュリティを二度も無効化するのにわたくしがどれだけ他人の骨をへし折ったか……。シアーズなんかとまともにやり合ってたら命がひとつじゃ足りませんわ」
「あのっ」

 矢継ぎ早に繰り出される意味の分からない単語はひとまず置いて、舞衣は追求に身を乗り出した。行方が知れないのはなつきだけではない。一緒にいたはずの高村も同じなのである。

「高村先生、今行方不明なんです。どこにいるか知りませんか? 連絡先とか、心当たりとか、なんでもいいんですけど!」
「期待を裏切るようで悪いですけれど」ロザリーはあっさりと否定した。「そこの美袋さんとの件で関係があったのは事実ですが、いまタカムラがどうしてるのかなんて知ったことじゃありませんわ。老婆心ながら忠告させていただきますが、基本的に彼とはあまり関わらないほうが無難ですわよ」
「な、なんでですか」垣間見た光明を見事に空振りして、舞衣は眉を下げた。
「破滅型ですからね、彼」ロザリーは不治の病人を語る医者の口振りだった。「ブレーキが壊れているのは、まあよくいるといえばよくいる人間ですけれど……、ただ、異常なほど悪運に愛されてるから始末に負えません。酷い戦場で独りだけ生き残って、だらだらどーでもいいこと引きずって、それで結局その後自爆テロをするアホですよ、あれは。マトモにつきあってはいけませんわ」

 舞衣は閉口するしかなかった。淡々と知人を狂人のように語り始めたロザリーにもだが、彼女が話す人柄が、とても高村への印象と符合しなかったからだ。

「いなくなったというのなら」ロザリーは構わずに続けた。「そうですね、高い確率でもう死んでいるんじゃないかしら」
「……そんな、まさか」

 軽々しい口振りに、舞衣は陰鬱な否定だけを返した。

「おい」黙して語らずにいた命が、剣呑な表情でロザリーを睨みやった。「恭司のことを悪くいうな。……とても不愉快だ」
「へぇ」ロザリーは楽しげに目を細める。「よく手懐けられていますね。彼のことが好きなんですか、美袋ミコトさんは?」
「恭司も、舞衣も、わたしは大好きだ」命は力強くうなずいた。「そして、わたしの好きな人間を困らせるヤツが嫌いだ」
「嫌いな人も好きな人も多そうで、たいへん結構なことですわ!」とロザリーはいった。「で、疑問なんですけど、中でもいちばん好きなのはどこのどちらさまなんですの? タカムラですか? そこの鴇羽さんですか? それともわたくしの知らないほかの誰かかしら?」
「それは」

 答えかけたところで、命が口ごもった。困惑に目が泳いでいる。

「決められないんですか? あらあら、たぁいへんですわぁ。考えたこともなかったのかしら。月面の旗みたいに健全な娘ですこと」ロザリーがわざとらしく眉をしかめた。「でも、そんなはずはないです。決めかねるなんて、そんなことは、絶対にないですよね。貴女、考えたことがないのではなくて、考えないようにしているだけです。ねえ、恥ずかしがらないで言ってみて御覧なさいな。あなたのいちばん大事な、誰より尊い人は誰なのかしら? ほら、勢いでもいいんですよ。いま、頭の中でぐるぐる回っている面影は、みっつかしら、それともふたつかしら? 言葉にしてみればいいんですよ。想いのシニフィエを」
「……うるさい」命が突っ慳貪につぶやいた。
「残念です」

 ロザリーは目を奪うほど美しく微笑した。


「予言しましょう。貴女は決めあぐねたその全てを、いずれ失います」


「……おまえ」

 そうと知れるほど命の目尻が歪むのを、舞衣は見逃さなかった。風華にやってくる以前の来歴を、舞衣もつぶさに承知しているわけではない。ただ、命が永い間酷く孤独な時間を過ごしてきたことは察せた。何かを失うといった物言いに、命は酷く敏感である。夜毎舞衣のベッドに潜り込んでくるのも、人恋しさと不安の現れであろうと踏んでいる。ロザリーの言は残酷なほど的確に命の急所を衝いていた。

「やめてください」押し殺した声で舞衣はいった。「もう、いいです。用が済んだのなら、帰ったらいいじゃないですか。服脱いだりとか、高村先生やミコトの悪口言ったりとか、そんなことがしたくてここにいるんですか」
「全然」ロザリーがあっさり答えた。「でも、その言い様はどうかと思いますよ。わたくしだって、突然お腹を殴られてたいへん痛い思いをしたのですから。その意趣返しをしただけで悪者扱いですか? おとなげのなさがわたくしのチャームポイントなのに、過保護ですねえ、どうも」
「それは……たしかに、すいませんでした」正論に鼻白みながら、舞衣は頭を下げた。まともなのか異常なのか、ロザリー・クローデルという人間の実体が計りかねた。
「貴女に謝罪されるいわれはないでしょうに」そこでふっとロザリーは表情を緩めた。「でも嫌いではないですよ、そういうの」
「命も、ほら、謝って」

 舞衣が促すと、口を尖らせながらも、命は素直に頭を下げた。

「……ゴメンナサイ」心底嫌そうな口ぶりだった。

 その頭に、ロザリーが触れた。

「よしよし。いいこいいこ。わかりました。これでお互い、うらみっこなしですわ!」満面の笑みでロザリーは手を打ち合わせた。「さて、それじゃあちょっと真面目なお話をしましょうか」

 そして、おもむろに服を脱ぎ始めた。

「またかぁ!!」舞衣は絶叫した。「いい加減にしてください! 子供の……っていうか、誰の前でも! 脱がないで! はしたない!」
「ちょっとちょっと、誤解を招くような物言いはやめてくださいな」ロザリーがブラジャーを外しながら心外そうにいった。「そんな人を……露出狂みたいに」
「ほかに! どう! 解釈しろと!」舞衣は力いっぱい抗議した。
「お聞きなさい。鴇羽さん」やおらロザリーが真剣な表情をつくった。「ひとは誰しも――生まれたときは裸です。そして」
「そ、そして……?」
「狂気の沙汰ほど面白い……!」
「自覚してるじゃないですか!」舞衣は頭を抱えた。「だめだ……正しい意味での確信犯だ……」
「まあ冗談はほどほどにして」ロザリーがふにゃっと笑った。脱ぐ手は休めていない。
「冗談!? 何が冗談!? そのぱんつ脱いでるのがですか!」
「しようがないですわ」ロザリーがいう。ショーツを明後日の方向へ投げ捨てた。「脱がないと感度が上がらないんですから」
「感度!?」

 舞衣は雷鳴に打たれたかのごとく身を震わせた。必ずやこの淫猥狎褻の女を除かねばならぬと決意した。

「そ、そういう意味ではないですわよ」舞衣の反応の意味を察したロザリーが顔を赤らめた。「言葉通りです。嫌ですわ。鴇羽さんくらいのお年頃ではしかたないのかもしれませんけれど……エロ脳です、エロ脳」
「ほかにどういう意味があるっていうんですか……」もはや反論する気力もない舞衣だった。
「こういう意味です。フムフム、ちょっと失礼」

 微笑んだロザリーは、またもやソックスを残してほぼ全裸の様相だった。頓着のない素振りで舞衣ににじり寄ってくる。無造作に伸ばされた右手が舞衣の首筋を狙っていた。
 舞衣は貞操の危機を予感した。思わず眼を閉じ、両肩をこわばらせ、棒立ちになった。声も出なかった。
 恐らく命のものであろう、息を呑む音が、やけに耳についた。
 ロザリーの指が優しく舞衣の制服に触れる。

「ん……!」

 そして、すぐに離れた。
 一瞬だけの感触のあと、舞衣は十秒たっぷり硬直し続けた。
 想像だにせぬ恥辱にただ怯えるつかの間を過ぎて、いつまで経っても続きがやってこないことを悟り、訝り、薄っすらまぶたを押し開く。

「……?」

 正面五センチの距離にロザリーの顔があった。
 驚きに声を上げるまもなく、似つかわしくない野趣溢れる眼前の笑みに言葉を奪われる。顔と顔の間にある微々たる隙間に、ロザリーの指がつまむ小さなボタン状の何かがあった。

「な、なにそれ」
「いけない虫です」ロザリーが囁いた。

 さして力を込めた様子もないのに、摘み上げられたそれは容易く指の狭間で圧壊した。プラスチックと金属の入り混じった破片が、舞衣の鼻先で落下していく。指先に吐息しながら、ロザリーがこの場にいない何者かを鼻で笑った。

「うら若い少女に盗聴器とは、どこの誰だか存じ上げませんが、卑劣千万な糞野郎ですわね。――あら、失礼」
「と、盗聴器!?」舞衣は反射的に襟元を探った。「あ、そ、それ、今、あたしの制服についてたんですよね? なんで。洗濯したばっかりなのに……いや、そもそもどうして」
「さて、どうしてでしょうね。心当たりくらいあるんじゃないですか?」とロザリーがいった。「この保健室はまだ少ないほうですが、この学校、さっきざっと歩いただけでも、迷彩されたマイクやカメラの数が十や二十ではぜんぜん足りませんでしたわ。もちろん、防犯カメラ以外のもの限定で、です。トイレにまでありましたし、ほとほと酷いところですね」
「うそ」舞衣は青ざめた。こみ上げる嫌悪感に口元を押さえる。「え、ええ? そんな、ずっと? 嘘やだ、どうしよう。嘘」
「まあまあ」ロザリーは朗らかに笑った。「見られたものはしょうがないです。減るものじゃないですし、ともかく落ち着きましょう」

 舞衣は唇を引きつらせた。ロザリーの白々しい笑みが異様に癇に障った。
 困惑ばかりが膨張している。思考に幾筋もの亀裂が走った。玖我なつきと高村恭司の行方、弟の病状、HiMEの前途、そして目前の現実。夏の暑気も、胸を圧迫する不安の重みに一役を買っている。震えた喉から吐き気を逃がし、舞衣は両腕を握り締め、爪を立てた。
 ふと、背後に気配を感じた。猛然と振り返ると、カーテンが風に揺れる景色があるだけだった。昼下がりの日光に含有される禍々しい熱に、舞衣は眼も眩む思いだった。

「舞衣?」命が気遣わしげな声を発した。
「……もう、嫌」舞衣に応じる余裕はなかった。眼を硬くつむった。

 衝動が決壊に転じつつあった。まずいなと、舞衣の内部で呟く部分があった。でもそろそろ限界かもしれないな、ともそれは言っていた。もう無理だった。普通のように装っても、限界はすぐそこにある。そう指摘する理性が存在した。
 舞衣はうずくまりたかった。疲労が彼女の肩に一斉にのしかかりつつあった。腹部に刺すような痛みを感じた。脂汗と冷や汗が彼女の背筋を伝う。不規則な呼吸で、舞衣は視線を当て所なくさまよわせた。

「鴇羽さん」ロザリーが、優しい仕草で舞衣の手を握った。余った手は、背中をゆっくりと擦りあげてくる。「深く、呼吸をしてください。顎を上げて」

 舞衣は言われるままにした。目の前の女の正体に対する猜疑心が、不意に鎌首をもたげた。その心理を自覚して、舞衣はほとほと嫌気をおぼえた。

「眼も閉じて。――そうです」

 言われるままにしてから、「眼?」と舞衣は思った。
 瞳を開けた。
 キスをされた。

「――――!?」

 探るような先触れが舞衣の項で悪寒に変わった。全身の毛穴が開く感覚と共に舞衣は全力でロザリーの体を押し返そうとする。が、舞衣の右手をきつく握る手と背中を硬く抱く腕は微塵も緩まなかった。
(ちょっまっ)
 助けを求めるように命を横目で見た。
 命は目元を赤らめて視線を逸らしていた。
 そうこうする間に今度は顎と後頭部を押さえられた。上唇が啄ばまれた。下唇が吸われた。歯列をくまなく舌が這った。舌鋒は緩急と剛柔を自在に使い分け、懸命な防御に一点の瑕疵を見つけるやたやすく隙間を抜いてきた。異常に長い舌がとうとう舞衣の口腔に進入した。
(…………)
 とてつもなくいい匂いがした。吐息の熱が意識を焦がした。舐られ、噛まれ絡まれ、ほどかれ吸われ、舞衣の脳にどんどん熱が溜まった。鼻から抜けるような甘い声を聞き、耳の裏側をくすぐられ、砕けた腰を支えられ、舞衣はとうとう考えることを止めた。涅槃の境地に達して遠い眼をした。なんとなく、楯祐一の顔が思い出された。気持ち悪いくらい気持ち良かった。
 気がつくと接吻は終わっていた。舞衣はロザリーのかたちの良い乳房に顔を埋めていた。ほぼ全体重を受け止めてもロザリーは微動だにせず、舞衣を抱きかかえて、頭を優しい手つきで撫でていた。

「落ち着きましたか?」

 一仕事終えた声で、ロザリーが尋ねた。

「おちつきました」舞衣はロボットのような声でいった。

 目じりの涙を指先で拭う。一連の行為の末に、絶対に認めてはならない類の感情が胸に兆していた。ゆっくりと重心を移し、両腕でそっとロザリーの裸身を押しのけた。それからハンカチを取り出し、注意深く、丹念な手つきで自身の唇を拭う。

「ま、まい?」恐る恐る、命が声をかけてきた。

 舞衣は答えず、冷静な素振りで周囲を見渡した。心は完全に平静だ。腸は完膚なきまでに煮えくり返っていた。スチール机を見つけ、パイプ椅子を認めて、重たく息を吐いた。

(ファーストキスは命だった。セカンドキスは痴女だった)

 また涙が溢れそうになった。その衝動を振り払い、舞衣はパイプ椅子を掴みあげると振りかぶった。
 ロザリーがそそくさとパンツを履き直そうとしている。

「あ、やだ、ちょっと待ってください鴇羽さん、落ち着いて落ち着いて!」ロザリーが逼迫した様子で叫んだ。「せめて! せめてパンツははかせてください! そうしたらいいですから!」
「じゃあ、それが遺言ってことで」舞衣はこの日、殺意を知った。
「きゃー!」

 手加減なく振り下ろした。
 ロザリーは自ら倒れこみ一撃を回避すると、衣服を回収し、ベッドの足元を滑るように潜り抜け、鮮やか過ぎる速度で保健室から逃げ出した。数秒後に、いたいけな男子生徒のものと思しき悲鳴が聞こえた。
 舞衣は時間をかけて体の緊張をほぐすと、椅子を元の位置に戻す。空しい勝利の味は忘れえぬ苦渋で満ち満ちていた。

「はぁーあ」と力いっぱい、嘆息した。「ねえミコト」
「う、うん。なんだ舞衣」恐々としながら応える命だった。

「なんか、嫌だね、こういうの」
「……うん」
「いや変態がって意味じゃなくて」
「…………うん?」

 首を傾げる命に乾いた笑いを送って、舞衣はふとスカートのポケットに異物を発見した。
 それは丁寧に折りたたまれた紙片だった。折り目を開くと、流麗な筆記体で綴られたアルファベットが眼に入る。短文を構成するのは難しい単語ではない。それこそ、舞衣でも読み解ける程度のものだ。

 ――明日夜21時 風華駅前 HiMEの件について

 何度確かめても、そう読めた。

   ※

 八月九日の深夜、結城奈緒は風華市内のビジネスホテルに宿泊していた。室内に二つ並んだベッドの窓側で、はめ殺しの窓から代わり映えのしない夜景を眺めている。地方都市の夜は酷く静かで、今夜に限っては夏の夜も休眠を謳歌しているようだった。
 高村恭司からせしめた金銭は、当座生活にしのぐだけならば十分残っている。夏休み中ということもあり、服装と出歩く場所にさえ気をつければ宿泊する場所にも困らないし、補導員などに声をかけられる心配もさほどない。
 石上との取引について、考える時間と場所が奈緒には必要だった。
 落ち着ける場所だというならば、何もホテルではなく寮に帰ってもよかった。玖我なつきをさらったのが奈緒だと確実に知っているのは、現状では石上だけである。その石上にしても、市外から奈緒をマークしていたからこそ知りえた事実なのだ。鴇羽舞衣や杉浦碧は今ごろなつきの失踪を知って行方を探っているかもしれないが、なつきと奈緒とを結ぶ発想があれば、彼女たちはまずは奈緒に連絡を取ろうとするだろう。現時点でそれがない以上、それほど警戒の優先度は高くない。
 そして高村恭司は、なつきの身柄を欲する連中に既に捕らわれている。情報源はやはり石上である。確度のほどはともかくとして、高村や九条むつみ、深優・グリーア、そしてアリッサ・シアーズからは今のところ何の音沙汰もない。そもそも、高村の預かりになって以降の奈緒が、彼女たちにどう認識されているのかもわからなかった。
 シアーズどころか高村とも決裂した以上、次に奈緒が深優とアリッサに見えれば今度こそ戦闘は最果てまで行き着くことになるだろう。目下、直接的な脅威としてもっとも大きいのはこの二人である。戦力的にも、性格的にも、それは確実だった。
 頭を枕に預けて、ひとしきり考えをまとめ終えると、奈緒は山積する厄介事の数にうんざりした。時間が経つにつれ、奈緒を取り巻く状況がどこまでも悪化し、複雑化している。気がつけば周囲には敵しかおらず、先行きの目処はまるで立っていない。

(面白いじゃない)と奈緒は思った。

 孤独を実感すると、心は奮い立った。五体に力が湧いてきた。
 ドアが開閉される音を聞き流しながら、左手を軽く握る。

(他には――ああ、そういえばまだ生徒会長がいたっけ)

 石上亘と高村恭司を除けば、なつきの失踪に関わる当事者とも言うべき人間がもう一人、いた。風華学園生徒会の長を務める藤乃静留である。
 藤乃静留が取るに足らない人間である、とは奈緒は思わなかった。静留のなつきに対する執着は、奈緒の目からはやや行き過ぎに見えた。昨夜の状況下でチャイルドを召喚した奈緒の前に立ちはだかるメンタリティは、健常のそれではない。意気を振り絞ったという気負いも、静留からは感得できなかった。生徒会長として、ある程度HiMEの存在に通じているというだけでは説明がつかない振る舞いだ。
 いみじくも静留本人が指摘した通り、奈緒は人間を観る眼に長けている。生まれつきの観察眼もあったであろうし、環境が育てた側面もある。その経験則が静留に対して鋭く高い警鐘を鳴らしていた。
 藤乃静留は空ろな人間だと、以前の奈緒は思っていた。ほぼ全てを備えているが、その能力を持て余している。子供の全能感と大人の諦観の中腹で、ただ亡羊と漂っている。そんなイメージだった。
 だが、なつきを前にした時の静留を見た瞬間、印象は払拭された。静留はそれほど生易しい生き物ではない。見た目は似ても似つかないが、内面には美袋命に近いものがある。そう奈緒は判断を改めていた。取りも直さず、それは奈緒にも近しい性質であることを意味した。

「ねえ」と奈緒はいった。「藤乃って、あんたの何?」

 シャワーを浴び終え、黙然と濡れ髪をタオルで拭いていたなつきが、捉えどころのない目つきを返してきた。


 次第によっては今晩限りの但し書きがつくが、いまのなつきは奈緒のルームメイトである。
 手首と両足には変わらず奈緒のエレメントによる糸の枷がある。だが伸縮性にはずいぶん遊びを持たせていた。走ることはできないが、タクシーから降りてホテルまで歩くのに苦労するほどの拘束ではない。
 夏場に人間をひとり、誰の眼にも触れずに隠しておくというのは、奈緒が思ったよりもずっと難易度の高い所業だった。完全に自由を奪うならば、食事の世話も、排泄の世話も要る。そんな真似を奈緒がしてやる気はまるでなかったし、かといってどこかに放置しておくわけにもいかなかった。なつきの身柄を欲する酔狂な人間が複数いるとなればなおさらである。
 石上が――認めるには癪な事実だが――看過できない対価を提示した以上、なつきにはこれまでとは違う価値が生じてしまった。それは奈緒の中で褪色した『玖我なつき』の項目にぴたりとあてはまった。彼女は既に奈緒が蹂躙するべき敵ではなく、ただ今後を占う賽の目のひとつに過ぎない。
 幸か不幸か、なつきは監視が緩められても逃げる素振りも見せなかった。その双眸には、奈緒どころかなつき自身さえ映っていない。いつか映画で観た、情動を奪われた人間のようだった。
 そんな評価を裏づけるように、なつきは朴訥とした言葉で奈緒にいった。

「……友人だ。いちばん大切な」
「口で言うのは簡単よねえ。プロフィールを読み上げてるみたい」奈緒はせせら笑った。「じゃ、あんたはどれだけ生徒会長のこと知ってるのよ? 逆に、自分のことをどれだけあいつに話してたわけ?」
「……いわれてみれば、そこまでプライベートな話をしたことはないかもしれない」なつきは自嘲気味にいった。「母のことにしても、死んだ、という事実以外は教えてなかった。わたしも、静留のことはほとんど知らない。あいつも母を亡くしている、と聞いたことはあるが、それくらいだ」
「だいいち、学年ふたつも違うじゃない」奈緒はかねてからの疑問を口にした。「あんたから近づくってガラじゃないわよね。おおかた、向こうからちょっかい出されたんでしょ」
「よくわかるな」なつきは頷いた。口ぶりに違えて、少しも感心している様子はない。親友との馴れ初めを想起させる会話に、何ら心を響かせている気配もない。
「その様子じゃ、あんたはトモダチでも、向こうはどうかわからないね」何かに苛立ち、口早に奈緒はいった。「寂しいモノ同士でくっつきあって、本音は何も話してない。それで『いちばん大切』ぅ? そんなの、他に何もないからたまたま目に付いてるってだけじゃん」

「そうだ」なつきはうつろに呟いた。「わたしは、そんなことばかりだ」

「だから可哀想だって?」唾棄するように奈緒は返した。
「いや――」なつきは浮かされたような口ぶりだった。「そんなふうには、思わない。わたしは馬鹿なのかもしれない。道化で、それ自体は、惨めだと思う。だけど奈緒」
「気安く呼ぶな」
「……何かを大事にしていて、それが人から見て滑稽だったとして、それは何かを間違えているから滑稽なんだろうか」なつきの言葉は自問に近かった。「履き違えた間抜けさが、勘違いした巡りの悪さが、失笑に値したとして、それを哂う誰かは、そんなに確固とした何かを持っているんだろうか」
「はあ?」奈緒は唖然となつきを見た。仰向けのなつきは、天井の回らないフィンを凝然と見つめていた。「くっだらない。アンタ、そんな意味わかんないこと考えてんの」
「似たようなことを」なつきは頷いた。「これまでのことを、ずっと考えている。ずっとずっと、考えている。でもわからない。どんなふうにすれば、今みたいにならなかったのか。あるいは、今が本当に最悪なのかどうか」
「ずっと敵討ちをしてやろうと思ってた母親に裏切られて、もっと底に行けそうなら教えてよ」奈緒はあくびをかみ殺した。「ま、あたしにとっちゃどうでもいいけど。それはきっと、結構な見世物だろうからさ……」

 奈緒は断りも入れずに照明を落とした。
 睡眠剤には持ち合わせがなく、隣に他人がいては、眠れるはずもない。だが暗がりで瞳を閉じるだけでも、体と思考を休めることはできる。
 家族、と奈緒は思った。奈緒にとっては、もはや観念だけでしか存在しないものだ。家族の定義を結ぶ家は解体されて既にない。病室で眠る母は、相変わらず生と死の水際にいる。それ以前に、今までの人生で、奈緒は家族に対して実感を持ったことがない。同じ家に住んだだけの人間ならば、余人と比べて抜きん出て多いとさえ言える。だが、心の底から何かを共有できるような他人には、出会えた記憶がない。
 ――あるいは母とさえも。
 暗鬱な思考を断ち切ろうとした奈緒は、暗闇に鼻をすする音を聞いた。鬱陶しげに鼻梁を歪めて、鋭く呟いた。

「うざったいなっ! いつまでメソメソ泣いてるんだよ、気持ち悪い!」
「その通りだ」ぞっとするほど平然としたなつきの声だった。「この涙はどこから来るんだろうな。どのわたしが泣いてるんだろう。わたしは壊れてしまった気がする。わたしは何を悲しんでいるんだろう」
「知るかよ……そんなの」奈緒は身を起こしかけた。このまま朝まで夜の街に出かけようと思い立った。いまの玖我なつきは、少しならず不気味だった。
「へんな感じだ」となつきはいう。「落ち着かない。夜、眠る時に、おまえが隣にいるなんて、想像したこともなかった」
「そりゃ――こっちのせりふよ」

 大いに共感しかけて、奈緒は戸惑った。些細な波紋が重なった。そんな気がした。

「おやすみ」となつきは言った。

 奈緒は応えなかった。不快感に、顔をしかめる。

「そうやって、手近な何かで間に合わせようとするのがアンタの弱さよ」奈緒は囁いた。「あたしは絶対に違う。考えたりしない。何が悪かったかなんていちいち悔やまない。それは取り返せないものなんだ。どうしたって、もう、手なんか届かない。お生憎様、あんたは明日、売られるの。そうしたらもうサヨナラよ。好きなだけ大好きなママのことでも何でも考えて生きていけばいい」

 寝息が聞こえた。奈緒は遣る瀬無さにため息をついた。
 そして、相変わらずの眠れない夜を過ごした。

   ※


 藍色の闇に、虎の死体が輝いていた。エメラルドグリーンの燐光は、狂った蛍の軌道で死骸を取り巻き、螺旋を描いて空へと上る。粒子は見上げる高さに至ると、一瞬強くひらめき、すぐに淡く中空へ溶け消えた。
 雨だれに打たれるままになって、日暮あかねは放心していた。
 あかねのチャイルドであるハリーは破れた。年端もいかぬ小柄な少女に、正面から力でねじ伏せられ、屠られた。血塗れの急所をさらけだし地面に寝そべる猛虎の巨躯に、今や生気は皆無である。完全に絶息し、エーテルの波へ還元される渦中にあった。
 チャイルドの喪失。その意味するところを、あかねは正確には知らなかった。契約の際、炎凪はただチャイルドを得る代償を「何よりとうといもの」とだけ称した。必然、それは容易に命へ結びつけられた。
 だが、別の危惧もあった。
 大切なものが、必ずしも命とは限らない。ことが生死にかかわるだけに、一度だけ、あかねは凪を問いただしたことがある。ハリーの死が自分を殺すのかという露骨な疑義に、凪は言葉を濁した。言明しなかった。ただ、このように繰り返した。

「大切なものだよ。何よりも。それを亡くしたら、きみたちは死んでしまうだろうね」

 不吉な予言が、成就するときが迫っていた。死か、それに比肩しうる恐怖に迫られて、あかねは遅ればせながら慄然とする。縋る心理が求めたのは恋人の姿だった。単純に、刺され、拳銃で撃たれた倉内和也への心配が先立ったせいもある。
 果たして、気絶と見えた和也は意識を保っていた。うつ伏せに泥濘に倒れ、痛みに悶えながらも、瞳は力強くあかねを見つめていた。あかねは安堵と恐怯を同時に感じた。永遠に見つめられていたい視線から、次の瞬間にも自分は永遠に隠されてしまうのかも知れない。いてもたってもいられず、萎えた足を奮い立たせた。膝頭についた泥の汚れにも構わず、和也の元へ歩きだした。
 ハリーを下した少女、夢宮ありかは、満身創痍だった。この場で次に命を失う可能性がもっとも高いのは、間違いなく和也よりもありかのはずである。それほどの深手だった。
 だが、やはりありかに死の兆候は見られなかった。恬淡とはいかずとも、和也よりも重い傷を負いながらしっかりと両の足で地に立っていた。鼻腔も口腔も血であふれ、衣服はほとんど布切れの状態にあり、表情は憔悴と苦痛にまみれている。ただ場違いなほどに溌剌と、両の碧眼が光っていた。

「かず……くん、かずくん……」

 あかねは死出にあるように恋人を呼ぶ。異能者ゆえの優れた直感が、思考と認識の埒を飛び越えほぼ正確に未来を察知していた。
 その様を見て、たまりかねたようにありかが重体に鞭打ち足を踏み出した。

「もう眠ったほうがいいです。アカネ……さん」
「だまれ」

 十六年余になんなんとするあかねの生涯において、ついぞ覚えのないほどの剣呑な声音がこぼれた。全長数メートルの虎に物怖じしなかった夢宮ありかが、息を詰めておし黙る。
 同じく黙しながらも、ありかとは対照的に表情を変えないものもいた。和也を刺し、撃った長身の女である。既に銃口は降ろしていたが、立ち居振る舞いに弛緩した点は皆無だった。
 自然、あかねは少女と目線を交わすことになった。倒れ伏す和也の眼前に位置取る少女に、退く気配は見つからない。

「どいてよ」
「なぜだ?」少女がいった。「意味がない。貴様は負けた。善戦したな。だが、敗れた。もう終わりだ」
「いいからどいてってば!」

 相手が拳銃を所持していることも忘れ、あかねは激した。反射的に彼女が行使しようとしたのはHiMEの力だった。だがもちろん、今の彼女はただの娘でしかない。超常的な現象は何一つ起きなかった。
 力の喪失は、あかねに多少の悲しみをもたらした。それよりも遙かに勝るのは、やはり安堵と不安なのだ。懸念を衝動で埋めるように、あかねは吼えた。脱力感に満ちた五体を引きずり、丸腰のままに地を蹴り進む。力任せに、押し退けるようにして躰を少女へぶつけた。
 腕が触れたと見えた。
 一瞬で天地が逆転した。

「ぅあっ」

 強烈な衝撃が背中からやってきた。受け身も知らないあかねは、首と後頭部を守ることもできない。呼吸を阻害され、大きく喘いだあかねの口腔に雨粒が入り込んだ。
 すぐさま立とうとした。できなかった。足腰へ意思が伝わらない。
 悔恨に歯噛みして、指が湿った土へ爪痕をつけた。せめてもと抵抗の意思を込めて、自らを放り投げた少女を睨みやろうとした。
 そして、あかねは絶句した。
 和也が立ち上がっている。
 酷い顔色だった。息は荒く、眼の焦点も合っていない。白いシャツの背部は黒ずんだ血に汚れ、色合いのためそうとは見えないズボンも同じく血塗れのはずだった。

「かっ」あかねは叫んだ。「だめだよっ、カズくん! 動かないで! いま救急車呼ぶから! そうだ、携帯っ」
「それは、させない」

 スカートのポケットをまさぐろうとするあかねの手を、女の腕がつかみ取った。関節は一瞬で固定され、延髄に膝の重みがのしかかる。激甚な痛みが肘にはしったが、あかねは委細構わず身をよじった。骨よ折れよとばかりに暴れても、しかし、拘束を解くには至らない。涙と汗と泥で顔面を汚して、あかねは無力感に嗚咽を漏らした。

「ラウラ先輩」おずおずと、口を挟んだのは夢宮ありかだった。「もう、いいんじゃないかなぁ。もう……」
「怖じたか、夢宮」ラウラと呼ばれた女が、鋭い目をありかへ向けた。
「そんなんじゃないよ」ありかは目線を落とした。「ただ、見たくないだけ。わかりきってるし、感じるもん。そのひと、もう、終わるよ。今すぐにでも」
「貴様が渡した結末だ」女はいった。「最後まで見届けるべきではないのか?」

「どうでもいいけどさ」

 ラウラとありかのやり取りに、口を挟んだのは和也だった。
 明らかに朦朧とした意識を、気力で必死につなぎ止めているのが見て取れる。あかねの素人目では、一見して彼がどの程度重篤なのかは計り知れない。ただただ痛ましいだけだ。だがその容態でなお、和也は力強く告げた。

「あかねちゃんから、今すぐどけよ」

 若干の間があった。あかねは首を捻り、凝然と地べたから和也を見上げた。自分がいま、どんな感情でどんな表情を浮かべているのか、とっさに理解できなかった。

「ラウラ先輩」誰よりも早く応じたのはありかだった。「その人の言うとおりにしよう。責任は、……うう、あたしのせいってことでいいから」
「貴様に責任を取らせる人間も、貴様がとれるような責任も、ありえるとは思えない」言いつつ、女はあかねから身を退いた。「だが、まあいい。どのみち時間を使いすぎた。死体を回収する時間はない。散るぞ」

 拍子抜けするほどの他愛なさで、ラウラと呼ばれた女は身を翻し、その場から鷹揚とした足取りで離れた。あかねと和也どころか、満身創痍のありかすら一顧だにしない。

「おまえも」和也がありかにいった。傷の痛みに耐えかねてか、絞り出すような声色だった。「消えろよ。僕は正直何もわからない。疑問もたくさんある。けどとにかく、今はあかねちゃんの前からいなくなってくれ」
「そうします」ありかは素直にうなずいた。「あの、でも、その前に、ひとつ」
「え?」ありかの視線を受けて、和也の横顔だけを注視していたあかねは、はっと向き直った。

 ありかが、あかねへ向かい、粛々と告げた。

「忘れないで下さい。あなたから、何より大事なものを奪ったのは、このあたしです。だから、絶対に忘れないで下さい。恨むのでも、憎むのでもいいから、その想いを無いものにはしないでください」

 ありかが全てを言い終えると同時に――。

 和也の足から力が抜けた。精魂が尽きたとしても、あまりに前触れのない転倒である。前のめりに地に伏す和也を目の当たりにして、あかねは目をみはった。

「え?」
「それじゃあ」ありかは平坦な声でいった。「さようなら。……ううん、またいつか」

 その言葉はあかねの耳に届いていたが、意識を毫も揺らすものではなかった。日暮あかねの全神経は、今度こそ微動だにしなくなった和也へ注力されている。
 手を伸ばした。
 名前を呼んだ。
 手を伸ばした。
 名前を呼んだ。
 反応はなかった。

「かずくん?」

 遠ざかる少女の姿も、目に入らない。
 力ない恋人の肩に触れたあかねの目に、立ち上る燐光が見えた気がした。
 ハリーの骸が煙らせた命の光に、それは酷似している。
 発作的に両手を伸ばした。しかし、掌が掴むのは雨滴ばかりだった。感触もなくすり抜けた光には、なぜか涙を催すような温もりだけがあった。
 そしてやはり、前触れもなく粒子は散逸した。瞬間に、名状しがたい絶望があかねの胸裏を塗りつぶした。理性や知識を一足で乗り越えた理解が、現実を知らしめた。
 倉内和也は、死んでいた。

「…………ええ? なんでえ?」

 笑みすら浮かべて、あかねは問うた。和也の体へ縋った。引き起こした彼の顔は、苦悶の表情しか認められない。目を見開き、口角は歪み、まるで別人のようで、あかねは左右に本物の和也の顔を探したが当然あるはずもない。指先の震えが止まらない。和也の頬に触れようとしても、うまく狙いが定まらない。震動が全身に伝播しているからだ。さらに耳障りな音も聞こえていた。薄気味が悪い唸り声だった。
 あかね自身の叫びだった。

「あああああああああああああああぁ」

 喪ってしまった。
 喪われてしまった。
 絶対に手放してはならないものだった。
 何よりも大切に守らなくてはいけない宝物だった。

 なのにもう、手から零れてしまった――。

   ※

 ゆっくりと、瞳を開いた。
 日暮あかねの意識が捉えたのは、赤い照明とけたたましいサイレンである。明滅する光と、防災訓練で稀に耳にするような警報は、容易に危機感を呼び起こした。
 次に視界に移ったのは、女だった。見知らぬ、中年の女性である。白衣を着ており、一見医者のように見えた。その印象を裏付けるように、右手には針のついた注射器を持っている。鋭い針先からは透明な液体が滴っていた。残る左手は、寝そべる姿勢のあかねの左腕に添えられていた。

「なにしてるんですか?」とあかねはいった。

 問われて初めて、驚きに凝固していた女が反応らしい反応を見せた。すばらしい速度で、取り繕うような笑みがその顔に浮かんだ。完璧な微笑だった。象られる過程を見ていなければ、あかねも釣られて微笑んだに違いない。

「落ち着いて、日暮あかねさん」女性は穏やかな口ぶりでいった。「あなたは入院したのよ。ちょっとした、病気ってほど大げさなものじゃないんだけれど、そういうのでね。体に痛むところはない? このお注射はね、痛み止めだから心配は」
「カズくんはどこですか?」遮断するようにあかねは訊ねた。

 女性の表情は、変わらず笑みを保っていた。

「ああ、すぐに会えるわ。心配しない、」

 半ばまで女性の言い分を聞いた時点で、あかねは億劫な体に迅速な行動を命じた。半身を起こし、意識の空隙をついて苦もなく注射器を奪い、ためらいなく女性の首に針を突き刺した。
 語尾を間延びさせて、女性が牧歌的な悲鳴を上げかける。だが、針を引き抜いた傷口から驚くほどの血液があふれ出すと、悲鳴は声帯を軋らせるような奇怪な音へ変じた。
 あかねはそっと女性の口元を抑え首に手をかけると、自分が身を横たえていたベッドに遮二無二引き倒した。
 血走らせた両の眼を、息がかかる距離まで女性に寄せる。
 赤黒い血液に汚れた注射器を振りかぶると、女性の顔が恐怖に引きつった。
 先前女性が浮かべたそれに比べて大分無様な笑みをつくると、あかねは囁いた。

「うそつき」

 腕を振り下ろし、注射針を突き刺した。

 ――枕へ。

「うそつき。カズくんは、もういない」

 くぐもった悲鳴が、あかねの手中で生暖かい呼吸に化けた。耳を聾するサイレンのなかで、断末魔は小さなノイズに過ぎない。あかねは奥歯が欠けるほど歯を食いしばる。掌中のアンプルが半ばで砕け、枕へ刺さったままの針も中途で折れた。液体と血液と、女性が排泄した尿が混じりあい、臭気となってあかねの鼻腔を刺した。
 眉をひそめて、あかねは身を起こし、ベッドから離れる。思い出したように女性が甲高い悲鳴を上げる。ぼんやりと傷と血と破片と薬剤にまみれた右手を眺めやり、あかねはここはどこだろうと呟いた。四囲は壁。窓はなく、扉がひとつだけある。部屋の中心に置かれたベッドには種々雑多なケーブルと、それらと端子で繋がれた計器が設置されている。枕元と、そして天井の二箇所には、カメラの姿もあった。
 そうしたオブジェに感慨を持つこともなく、あかねはまっすぐに扉を目指した。内開きのドアは外側にだけ物々しい鍵が取り付けられている。部屋が面する通路は、天井ばかりが高く道幅は狭隘で、圧迫感を覚える構造だった。やはり外界の情報が得られるような窓はない。壁にはカレンダーとホワイトボードがぶら下げられ、右側奥には化粧室が見えた。赤色等が明滅しているのは室内と同様で、気のせいか熱気まで感じられた。あるいは、火災の最中なのかもしれない。

「火事なんて、初めてだなぁ」とあかねは呟いた。

 ところで、建造物全体が揺れた。
 直下型の地震に並ぶほどの震動だった。その動揺に見舞われた人間ならば、あかねならずとも致命的なものを感じ取っただろう。中核的な何かが損なわれる感触に、しかしあかねはさしたる危惧を覚えなかった。澄み切った感性の命じるまま、出口と感じる方角へ足を向かわせる。
 喧騒、悲鳴や、慌しい足音。そういったものを所々で耳にしながらも、あかねは一切人間に会わぬまま、通路を抜け、階段を降り、扉を開いた。すると、ふいに毛色の違う空間に出くわした。
 全体的に閉塞性に満ちたこれまでの間取りとは異なり、そこは右手側の全面がガラス張りにされた回廊だった。ようやく得た眺望から、時刻は夜もかなり深い時間であること、自分がいまいる建物は岬に面していることなどを、あかねは知った。だからといって、やはり感興は起きない。そんな情報よりも、よほど見捨て置けない光景に、あかねの目は釘付けだった。

 巨大な蛇がいる。
 頭ひとつだけで、今はもういないあかねのチャイルドに匹敵するほどの、多頭の大蛇である。
 そんな怪物が、裂けた顎の内側で舌の代わりに炎をちらつかせている。夜に聳える濃緑のシルエットは、うそ臭いほどに禍々しい。ああ、あの怪物に、ここはいま襲われているのだと、あかねは納得した。

「怖いね、カズくん。怖いよ」

 目覚めてはじめて、あかねは人間らしい感情を覚える。ただし、それは建物もろともに彼女を消し炭に変えんとする怪物を対象にしたものではない。
 蛇頭に悠々と佇み、長物を携えた人影をこそ、あかねは恐怖した。
 今にも焔を放とうとする大蛇の射線にさらされて、永らえた敗者は独語する。

「でも、あなたがいない世界ほどじゃないよ――」

 火焔が放たれる。計五つの紅蓮が、つかぬま、白昼の太陽に匹敵した。
 未明の夜空を、火線が真っ二つに引き裂いていく。

 ――風華市沿岸部に居を構えていた『一番地』の施設は、この夜こうして焼失した。死者、重軽傷者は多数にのぼり、被害程度は甚大だった。
 決して公開されない行方不明者の名簿には、日暮あかねの名も連ねられた。

   ※

 石上亘が指定した玖我なつきの引渡し場所は、風華市民なら誰もが知る大型のショッピングセンターだった。いわゆるアウトレットモールである。地元生え抜きの企業が幅を利かせる一帯では珍しく、国内の商社と提携した外国資本が出資した施設で、単純な来客数では市内でも随一を誇っている。
 テナントにはシネマコンプレックスも含まれているが、商店街の外れにある寂れた名画座を贔屓にする奈緒自身はさほど足を運んだことのない場所であった。美袋命や、稀に瀬能あおいに引き連れられて数回訪れた記憶はある。だが施設そのものに肌の合わないものを感じて、このアウトレットモールを、奈緒は敬遠していた。言葉にいわく言いがたい、演出された健康的な空気にどうしても馴染めなかったのだ。
 開店間もない昼前の店内は、七割ほどの客入りだった。施設全体の集客率から換算すれば、現時点で既に数百人単位の人間が集まっているだろう。紛れ込めるほどの雑踏はないが、逆に群集から注視された場合は、ほぼ気づく手段がない。
 石上が信用ならない相手であるということを、奈緒は直感的に理解していた。奈緒らが施設に足を踏み入れた時点で監視がつけられたと見て間違いない。そもそも、取引自体の信憑性も疑わしい。真偽は措いても、くだんの話題をカードとして切れば、高い確率で気を引けると踏んでいたはずである。
(真相、ね)
 あからさまな餌に、食いついた自分が奈緒は少しだけ不思議だった。
 事件。事件だ。奈緒はかすかに、口角を吊った。
 結城奈緒の人生に分岐点を数えるとして、もっとも大きなジャンクションであることは間違いない。だが奈緒自身、自分がどのようにあの一夜を位置づけているかは不明瞭だった。
 ある人間は疵と呼んだ。そして大抵の人間は、『それ』を奈緒にとって思い出したくもない、忌まわしい記憶なのだと勝手に解釈した。概ね間違いではないのかもしれない。悪夢とさえ言えるかもしれない。だが、事実から少しだけ離れてもいる。
 そもそも忘れられるはずのない出来事だった。それでいて、故郷から離れた風華でも、知っている人間は知っている、ただの事実でしかない。他者に過去を知られることについて、今や奈緒は特段感想を持っていなかった。一家を襲った不幸を、隠しておきたい秘密とも認識していない。ただ、知られれば面倒であるため、強いて口外はしないだけである。
 麻痺している自覚はあった。事件直後の環境では、周囲に奈緒の身に起きた事件を知らないものはいなかった。奈緒が見知らぬ人々の誰もが、奈緒のことを知っていた。可哀想な少女として彼女を見つめていた。吐き気しか催さない状況であった。
 警察には幾度となく事件当夜の記憶を口述させられた。カウンセラーの中にも事件の記憶を掘り起こさせようとするものはあった。忘れえぬ一夜は惨劇として銘打たれ、ラッピングされ、デザインされた。そのように奈緒の記憶は他者や自己の手によって解剖され、つまびらかになり、手垢にまみれた。
 事実として、奈緒にとって深い傷ではあるのかもしれない。だがあまりにもあからさまで、事件そのものに、奈緒はもう何らの痛痒も感じることはなかった。繰り返し要求された客観化が、当事者の奈緒をさえ疎外したのだった。
 情報化された事件は、金銭を目当てにした複数人による犯行であることと、死者二名、重傷者一名という数字と、目覚めなくなった母という結果だけを奈緒に残した。他のものは、すっかり奪い去られた。既に何もかもは奈緒の手を離れており、事件の裁判さえ、もはや二年以上会っていない親族の手に委ねられている。
 家族を害した犯人たちの顔を、奈緒はもうよく覚えていない。一審では主犯に死刑、従犯ともに無期懲役との判決だった。遺族と検事は控訴をしたはずである。恐らく、犯人たちは次の判決を待ちながら、宿にも食事にもあぶれることのない暮らしを謳歌しているのだろう。そのことを思えば、確かに、奈緒は憤らずにはいられない。

 だが何よりも、よく、わからなかった。
 事件に対して奈緒に何か思うところがあるとすれば、不可解という一言に尽きてしまう。
 これまで奈緒を担任した教師は、全員奈緒の経歴を知っている。理事長である風花真白は当然として、保険医の鷺沢陽子や、寮長である真田紫子もどこからか情報を得ていた。無断外泊を常とした奈緒に堅物の紫子がさほど強く踏み込んで来ずにいたのは、性格の相性よりも主として奈緒に対する同情心が原因だと思われた。干渉を避ける方便として、奈緒の悲劇的な来し方は非常に有効だった。積極的に活用するほど割り切れていたわけではないが、かといって都合のよい扱いをまるでしてこなかったわけでもない。
 その程度のものだ。
 すべては今さらだった。
 奈緒の足元にへばりつく濃い影の因果はそこにある。だが、生れ落ちた以上、素因はどこまでも素因でしかない。
 深刻な沈思を試みれば、発作のような動悸と頭痛、吐気が奈緒を苛んだ。結局、奈緒の心理には雑多なままに放置された未整理で不可侵の一角が根付いている。奈緒自身も持て余す闇の深さは、結論どころか問題の提示さえも拒んでいた。
(それを、今さら――)
 新しい意味づけをして、何がどう変わるともわからない。石上がどんな戯言を提示するかは、ある程度想像がつく。石上がもたらす情報は一石を投じるのかもしれない。投じたところで、何も変わらないのかもしれない。何れにせよ、自分がどんな反応を返すのか、奈緒には興味があった。玖我なつきを持て余したという単純な事実に次ぐ理由があるとすれば、その屈折した好奇心だけだ。

 清潔な床を踏みしめ、エスカレータを昇り、先行する奈緒は背後のなつきを顧みもしなかった。奈緒自身の感性からすればやや野暮ったいパーカのポケットに納めた両手には、エレメントを装着している。余人からは眼を凝らしても見えないほど細く、しかし頑強な糸が指先から伸びて、なつきの首と腰、そして足を戒めている。
 二日前から着の身着のままのなつきは、変わらず澄ました顔立ちだった。物憂げにうつむく造作は、同性の目から見ても非の打ち所がない。実際に喋ればその印象は覆るものの、なつきが美しい少女であることは余人の言を俟たないだろう。事実、すれ違う人間はまず奈緒の顔を見、すぐになつきの雰囲気と容貌に目を奪われた。
 一路上階へ向かう内に、開店間もない店内は人影も疎らになりつつあった。しかしテナントの職員すら見当たらなくなると、流石に意図的な演出を感じざるを得なくなった。
 石上の指定したフロアに到着し、無人の周囲を見回すと、奈緒は思いついたままの疑問をなつきへ投じた。

「復讐って何をすればいいのか、あんた知ってる?」
「……?」なつきは視線で訝りを表現した。
「ああ、違うか」奈緒はしきりに頷いた。「あんたは、どんな復讐をしたかったの? オメデタクも全部無駄だったわけだけど、そうなる前は。誰を殺してやるとか、そういうの」
「組織を潰そうと思っていた」なつきはいった。「だが、知っての通り、無為だし……無理だった」
「へえそう。よかったわね」奈緒はおざなりに相槌を打った。「ま、そんなもんか……」

 ふと、なつきの目が焦点を遠景に結んだ。

「前に、高村と似たような話をしたことがあるよ。同じ疑問を、あいつにも尋ねてみたらどうだ。退屈しのぎの無駄話くらいは聞けるかもしれない」
「興味ないわねぇ」奈緒は鼻で笑った。説教癖の教師が言いそうなことは、容易に想像がつく。「と、お待ちかねみたいね。いよいよ、アンタともお別れのときがきたかしら」

 石上亘は、特に勿体をつけることもなく姿を見せた。ショッピングモールの多くがそうであるように、この建物もまた採光を考慮してフロアの中央が吹き抜けになっている。石上がいるのは、各階に何箇所か存在する休憩用のスペースだった。四脚ほど木製のベンチが並んでおり、石上以外に人の姿は認められない。薄手のジャケットとスラックスはともに白く、薄緑のシャツを合わせたプレーンな出で立ちの石上は、懐中に布で覆われた棒状の物体を抱えていた。ちょうど腕を広げた程度の尺である。奈緒は眉を上げて、唇に指先を触れさせた。
(武器?)
 石上に腹案があることは疑いない。確実に奈緒となつきから確認できない場所に人員が配置されているだろうが、無論、意に介する奈緒ではなかった。
(いざとなれば、ジュリアを使えばどうとでもなる)

「ここに来てくれたということは」石上は開口一番本題に触れた。「僕との取引は呑んだものと解釈していいのかな」
「さあね」奈緒はわざとらしく嘯いた。「まずは話してみればいいじゃない。どうするかは、それから決めるわ」
「そうだなあ。何から話したものか」

 石上は不自然なほど朗らかに笑う。中空を見る瞳に、感情らしい感情はない。奈緒が事前に想定していたような、わかりやすい本性の発露はなかった。
 面と向かってわかることもある。脅迫も恫喝も、石上は必要とあれば躊躇わないはずである。奈緒の来歴について知悉しており、真田紫子と通じているということは、当然奈緒の母に関するカードも手札には含まれていると見るべきだ。
 組し易い相手と見ていたわけではない。
 だが、予断があった。せいぜいが、高村恭司と同程度の人間と踏んでいた。いくらでも裏のかきようがある獲物だと思っていたのである。今となっては、楽観が過ぎたと認めざるを得ない。
(これは、ちょっと面倒だな)
 表面上の恭順も含めて、打つ手を考える必要がある。奈緒は目を凝らし、石上の挙動に集中した。わずかなりとも、この男に関する情報がほしい。

「まず、そうだな、きみの知りたいことから、やはり始めよう」と、石上はいった。「その様子じゃ予想はしているみたいだね。少し甲斐がないが、しかたがない。ああ、きみの思っている通りだよ。それが『真相』だ」

 奈緒の腹部に、得体の知れない圧力がかかる。
 石上の言葉を反芻して、茫洋と奈緒は尋ね返した。

「そんなどうとでも取れる言葉はいいからさ。はっきり言ってくれない?」
「きみの家族を殺したのは『一番地』だ」

 石上の吐露に――。

「……なに?」

 目を見開いたのは奈緒ではなく、部外者であるなつきだった。

 予期はしていた。ただあまりにも陳腐な真実の開陳に、奈緒は嘆息で応じるしかない。むしろなつきのほうが衝撃そのものは大きいようだった。二日前からこちら、ようやくなつきが見せた人間らしい感情の発露である。

「どういう、ことなんだ?」聞き取りにくい声でなつきがいった。「殺されたって?」
「どういうことも何もないわよ。言葉通りの意味しかない」

 奈緒はつとめて軽快に振る舞った。実際は、表に見せる反応ほど淡泊な心境ではない。古くとも傷は傷だった。他人に触れられれば、何の痛痒も感じないというわけにはいかない。ただなつきの前で、以前の彼女がまとっていたものと同種の深刻さを見せるのが癪だった。

「それで」奈緒は石上に向けていった。「もったいぶってばらしてくれてどうもですケド、それがどうかした? それを教えてもらったところで、結局あたしが何を得するっていうの?」
「得をするかどうかは、きみが決めることだ」石上がいった。「明言したことはなかったが、そちらの玖我さんも、薄々感づいているかな? きみと仲の良い迫水先生はご同輩というわけだ。僕もまた『一番地』に籍を置くものだよ。ま、この風華の地においては、誰であろうと潜在的に一番地の構成員ではあるが、そういうのとも違う。いわゆる重責の末端をも、僕は負っている。そんなわけだから、手前味噌ではあるが、ある程度情報の信憑性は請け負えると思うよ。どうだい? 興味は惹けたかな」
「……結城奈緒」玖我なつきが低い声で呟いた。「わたしの進退はさておき、あの男はおまえの思考を誘導しようとしている」
「は? 何言ってるか意味わかんない。つか、あんたは黙ってろよ、景品なんだから」奈緒は必要以上に刺々しくなつきの言を退けた。石上を睨みやり、意図を探る。「そもそも犯人はもう捕まってんだけど。別に真犯人がいるとでも言い出すつもりかしら」
「ああ、そうだ」石上が頷いた。「きみはのんびり眠っていたから、もう覚えてないのかな? あの夜、きみの家族を殺したのは僕だ」
「――――」

   ※

 水面下の夜。
 月の光も歪んでいる。
 階段の影からのぞいた臥所に、影が見える。
 母に圧し掛かる黒く大きな獣がいる。
 助けを求めよう、と彼女は思う。
 けれども体と心は、意のままにならない。
 やがて生臭いにおいと毒々しい太陽が体を刺す。

 全てが終わったあと。
 結城奈緒は、その夜に起きたこと全てを、忘れてしまう。

   ※

 音が消えた。

 奈緒の表層意識をオペレートしていたあらゆる見境が消し飛んだ。人格さえ霞むほど圧倒的な衝動の出力が起きた。思考だけが奇妙に平静で、本来肉体の主導権を把握するべき意識は、唐突に手綱を奪われ、呆然とするばかりだった。ポケットから両手を抜くと同時に、抜き打ちのように双方からワイヤーによる斬撃を放った。耳に障る音を立てて、視界に映る様々なものが両端から寸断されていく。進路上に、石上亘がいる。ああそうか、と奈緒の意識は納得した。あたしはこの男を殺すんだな。
 挟撃に対して、棒立ちの石上は、わずかに腰を落とし、獲物に右手を添えてみせるだけだった。瞬きの瞬間にスライスされる人体を思っても、奈緒の変性した感覚はまったく忌避を伝えなかった。
 先に絡みついたのは右手の糸だった。正確には、緩やかに石上が振った棒に、五本のワイヤーがことごとく絡め取られたのだ。エレメントがただの鋭い糸でしかなく、奈緒が高村恭司と一戦を交えた時のままの認識であれば、右手は死に体である。
 だが、今の奈緒は想念の自在さを、HiMEという力の本質を、一端なりとも心得ていた。
 想えば徹る。
 だから奈緒の衝動は、糸に対して圧縮を命じる。
 空気の変質が、空間にはっきりと兆した。奈緒の指から伸びる赤い糸の群が、一際紅く輝きを発した。石上によって逸らされた軌道が、物理法則にあらがって慣性を帳消しにした。と同時に、棒状の物体を自ら幾重にも巻き取り、圧壊させようと蠢き始めている。奈緒は右手を引いて、石上の手から棒を取り上げた。
 宙を舞う棒、真剣の鞘をよそにして、奈緒は左腕を振り切った。手応えは皆無だった。残る五本の糸のうち、四本までもが石上が抜いた白刃に断たれている。残る一本は、軽く屈んだ石上の頭上を行き過ぎた。
 即座に新たなワイヤーとアンカーを生成しつつ、奈緒は平行してチャイルドを召喚した。玖我なつきのデュランという例外をのぞけば、HiMEがチャイルドを召喚し、その本体が顕現するまでには数秒以上のラグがある。アウトレットモールの一角を異界に変えて、節足を床に突き立て這い出る巨大な蜘蛛を、悠長に待つ気は奈緒にはない。石上も恐らく同じだった。
 エレメントから繰り出す糸の射程を、奈緒は恣意的に絞った。間合いをせいぜい向こう二間まで減じさせ、アンカーの質量を加重する。甲高い音を立てて旋回させた糸の刃を、駆けだした石上の横面に振るった。
 高村恭司なら避ける。
 だから石上亘が切り返しまでをもよりあっさりと避けて見せたとしても、驚くには当たらなかった。日本刀などという時代を勘違いした武装を選んだ以上は、心得があるに決まっている。三足の間合いまで踏み込んできた美術教師を、奈緒は見開いた眼で見つめた。
 一秒も経たず、石上の膝から下は切り落とされる。奈緒が誘導した石上の進路上に、エレメントから分離させた極細のワイヤーがある。初動が欠点であることは、何度かの小競り合いで奈緒も十二分に自覚していた。そのためフロアに足を踏み入れ、石上を認めた瞬間に、荒事を見越して奈緒は不可視の伏線を張っていたのである。

(死ね)

 心中冷酷につぶやく奈緒は、最後まで何がそれほど自分を怒らせたのかについて、考えが至らない。半瞬後に訪う惨劇を思い、わずかに溜飲を下げたその刹那に、しかし、石上が足を止めた。
 弾む息。細められた目つきはそのままに、長身から無機質な意思が奈緒へと落ちる。
 抜き身を下げて、石上は微笑んだ。

「もちろん、いまのは嘘だ」と、いった。「だがそれを、きみはほぼ確実に察していたな。つまり、いまの殺意は僕個人へ向いたものではない。試された事実に即刻思い至るほど、きみは聡くもない。よって、怒りを端緒とする反応でもない」
「変わった遺言ね」

 奈緒もまた微笑んだ。
 前後して、ジュリアがその全容を表し終えた。
 巨体とはいえ、八つの足はチャイルドを道理に反した機敏さで駆動させる。単純な速力ではなく、限定された空間内であれば、ジュリアの機動力は全チャイルド中でも屈指である。障害物もなく開けた空間にあっては、対峙した人間に逃げ場などない。

「なんだかんだいって、人を殺すのは初めてなんだ」奈緒はいった。自身意外なほど円滑に、彼女は殺人を決意した。考えたところで、石上がそれほど癇に障った理由はわからなかった。「よかったわね、アタシのはじめてがもらえてさ」
「待て、奈緒」なつきが何かをいいかけた。
「防衛本能が、きみにチャイルドを招かせた」石上は淡々と言い募った。「きみの攻撃性の本体とは、つまるところそんなものだ。慎重に結びつかない臆病さが、価値観を従容と受け入れることへの抵抗が、そのチャイルドと結びついた。なるほど蜘蛛とは、きみにふさわしい半端な神のかたちだな」

 石上に向けて、ジュリアが衝角を差し込んだ。刃の背で硬質の皮膚を滑らせながら、石上はゆったりと後退を始める。奈緒は無言のままエレメントを振るう。唐竹、袈裟、逆袈裟、水平と、矢継ぎ早に繰り返した攻撃はすべて防がれるか、かわされた。石上の動きは決して早くない。ただ適切なだけだった。日本刀そのものの、度を超えた頑丈さも、あるいは奈緒の攻勢を凌ぎうる一因だ。それが刀本来の特性か、あるいは石上の技量がもたらすものなのかは、判別しかねた。

「呼び出され、誘い込まれたその場所で、前後も省みずきみは力を行使する」防戦に傾注する石上は、表情に焦りを見せつつも、口調の余裕は決して失わせなかった。「きみには未来という発想がない。そして過去を決して見たがらない。きみは現在しか見えないという障碍を持っている。であれば、結城奈緒、きみはけだものと同じだ。異能を備えようと、おそれるには値しない。……高村先生がきみに目を付けた理由が、よくわかるよ。きみはどのHiMEよりも聖人から遠く、俗物から遠い。素質を与えられただけの数合わせ、にぎやかしの道化、舞台を進行させるための装置だ」

 石上の長広舌の間に、奈緒は四度殺すつもりで仕掛けた。すべてやり過ごされた。悠々とではなく、手傷を負いながらも、石上は五体満足でジュリアと奈緒の勢力圏から逃れてみせた。

「古来、異能を得た人間に人生を狂わせなかった例はない。けれどきみは、例から漏れる稀有な人間かもしれないな。たとえHiMEでなかったとしても、きみは当たり前にほつれていっただろう。緩慢に、確実に、愚かな女として。薬か男か、はたまた金か、それは与り知らないが」
「いい加減」

 ジュリアが跳躍した。奈緒は全霊を込めて、エレメントを振るう。

「その口を――閉じろよッ!」

 雲霞を払うように品物を吹き散らしながらも、石上を捉えることは適わない。床下を貫くチャイルドの追撃もまた、同じようにすんでの所でかわされた。

「怖いな。死ぬところだった」

 頬に汗と切り傷を浮かべながらも、石上は余裕の体で身を翻す。返したきびすの行き先は、より奥まったフロアである。家具や細々とした雑貨が展示されたショーケースの立ち並ぶ目抜き通りを、石上亘が駆けていく。ジュリアの俊足であればたやすく先回りができる速度だった。
(見え見えの罠。……だけど、なんなんだよ。くそっ)
 呼吸を挟んでやや鎮静化した胸裏で奈緒はつぶやいた。石上の言を認めずとも、一理を感じないわけにはいかない。ここまで招かれ、取引に応じる心づもりでいた。それを、些細な揺さぶりで覆したのは誰あろう奈緒自身である。
 常に思い、決して悩まなかった問いがある。
(あたしは、何がしたい?)
 生き残った意味は棚上げにした。そのうちに意味などないと知った。ふとした不運で奪われるのが宝物だった。奪う側に立つ優位性を知った。優位であることのくだらなさを知った。眠れぬ夜の長さを知った。長い夜の退屈さを知った。退屈がはらむ毒を知った。毒が至らせる死と同義の生を知った。思考の無意味さを、理性のつたなさを、感情の所在なさを、彼女は一から十まで知っていた。
 あえて石上を追い立てず、ジュリアを従えて、奈緒は悠揚と歩を進めた。足音を刻むたびに冷静になる自意識と、何としてもここで石上を除かねばならぬとわめく衝動が拮抗した。その衝動と奈緒は、とても長いつきあいだ。幼い頃からそうだった。彼女には生まれつき、未来を思い描く能力が欠如している。
(知った風なことを、わざわざ面と向かってあたしに言ってくる……)
 その性質を、この場で石上亘が指摘する意味がある。挑発ならば、石上本人が姿を現す必要はないはずである。玖我なつきの確保が目的であるとするなら、今この時が絶好の時宜だ。しかし念のため顧みても、なつきは悄然と立ちすくんでいるだけだった。予想していたような手勢が現れる気配は、一向に見えない。

「……あ」

 直感が閃いた。
 奈緒は上方を眇め見た。追従するジュリアは警戒音を発し、足を止めて待機する。

「利用されて捨てられるんだ、きみは」石上亘の声だけが、どこからか響いた。「親族に、一番地に、高村恭司に」
「……最高におめでたい勘違い、してるわ」奈緒はいった。「そもそもあたしは、誰にも拾われたことなんてない。もたれることもしない。捨てられた覚えもない。……あたしは! いつだって! 捨てる側だ!」
「なおさら、哀れだよ」

「ジュリアぁ!!」

 チャイルドが、咆哮した。巨体が小刻みに震動を始め、質量などないかのように振舞っていた体躯が突如として重みを得た。自重によって頑強なリノリウムの床がたわみ、軋み始める。ジュリアの頭頂部では五つの複眼が赤く輝き、人型の胸部があぎとのように開かれる。常は毒と粘液を射出する胸郭が、陽炎を立たせるほどの熱を輻射した。
 汗ばむ熱気の傍らに身を置いて、奈緒は冷然とジュリアに命令した。

「全部、貫け」

 一閃がジュリアから奔る。
 それはエーテルで精製された鋭利で細い刃だった。粘性を帯びた刃は真っ直ぐに伸びきり、秒を待たずに広大なフロアの端に行き届き、バックヤードを貫き、外壁を砕いて建造物を内側から縫いとめた。
 胸郭の中央部から糸を突き出したジュリアは、さらに大きく身を仰け反らせ、尾部から聳える剣が天を刺すほどになった。震動が最高潮に達すると同時、張り詰めた糸が前触れなく撓んだ。本体の震動が伝播し、次いで二本に枝分かれした。分裂は瞬く間に幾度も行われ、分かたれた糸と糸とが組み替えられ、空間を行き交い、途上にあるものすべてを区別なく刺し貫いた。
 フロア全てが、奈緒とジュリアを基点とした蜘蛛の巣に包まれる。上下左右前後を網羅したそれは、三次元の鋭利な檻だった。
 建造物の柱石を含め、切り裂かれた物体が聞くものを不安に駆り立てる悲鳴を上げ始める。だが人の声は一切聞こえない。意識的に避けた心算はなかったものの、見れば棒立ちの玖我なつきは全く動いていなかった。にも関わらず無事であるのは、奈緒にしても奇跡としか思えない。
 そして、同じ奇跡が同じ瞬間に起こることはまずありえない。
(これで生きてたら、人間じゃない。けど)
 石上は凌ぎきったはずだ。奈緒には確信がある。
(いるんでしょ……シスター紫子が)
 雨の日、母を見舞った病院で、停戦を呼びかけてきた真田紫子。その後直接顔をあわせることはなかったが、石上と高村の会話を仄聞し、紫子と石上が親密な関係にあることは察している。
 石上がこの状況で暗躍するというならば、その傍らに紫子がいないはずがない。奈緒はそうあたりをつけた。
 その予測を裏付けるように、奈緒の耳に足音が届いた。赤い線が張り巡らされた空間を、規則正しく歩むものがいる。石上の靴音ではない。たとえば女性が履くようなローファが立てる音に、それは酷似している。

「やっぱりね」奈緒はエレメントを構えた。「いると思った。だよね……石上が、アンタの〝オモイビト〟なんだもんねぇ!? そうでしょ、シスター!? いくら強くたって、普通の人間じゃあ、この通り! あたしが本気になればすぐ殺せる! だったらさぁ、やっぱりHiMEが守ってあげなきゃなんないよねえ!?」

 ジュリアに命じて、奈緒は〝巣〟の糸を蠢かせる。それは構造物にとってほぼ致命的な瑕疵となった。天蓋が軋み、白く清潔な外装に深く大きな亀裂が走る。巨大な照明が落下し、派手な音を立てて砕け散る。奈緒の眼前にも、拳大のコンクリートが落下し、床を陥没させた。石膏交じりの白煙が、其処彼処で立ち上る。
 足音は、勿体をつけるように近づいてくる。かろうじて限界を残す商品棚の影に、その持ち主はいるようだった。奈緒は気まぐれにエレメントを振るう。
 人体を両断しうる速度で迸った二本の糸は、しかし一瞬で空間に散った。

「……?」

 防がれたとしても、奇妙な手ごたえだった。いぶかしむ奈緒の眼前で、スチールの棚が断末魔の悲鳴を上げて倒れ始める。
 足音の主が現れた――。
 果たして、そこにいた。

 深優・グリーアが。

「…………え?」

 制服姿ではない。袖を切り落とし裾を靡かせた、革に似た光沢を放つコートを深優は着込んでいる。左腕は半ばから、切っ先が地面に届くほどの大剣に変じていた。
 瞬間に、奈緒の脳裏に黄昏が蘇った。高村恭司と杉浦碧に巻き込まれ、学園地下の水路を巡った記憶だ。剣を突きつけられ、チャイルドを召喚し、交戦した相手がまさしく深優だった。

「結城奈緒」と深優はいった。「契約に基づき、貴女にはわれわれの指揮下に属する義務がある。抵抗を止め、玖我なつきとともに来なさい」
「え、いや、なんで……ちょっと」奈緒は反射的に後退した。
「否であるのならば、かつての続きをいたしましょう」深優は粛々と通告した。「貴女を救う恭司は、ここにはいない。選択しなさい、結城奈緒。未来の如何に関わらず、われわれはその意思を尊重します。――安心なさい、ジョン・スミスのように、ご母堂の命を楯に取ることはいたしません」
「なんであんたが」奈緒は混乱のまま、疑問を口走った。「石上といるのよ?」
「アリッサもいるよ!」ひょっこりと深優の背後から姿を見せたのは、アリッサ・シアーズだった。だが奈緒には興味がないようで、半眼で深優を見上げている。「……ねえ深優、いまキョージって言わなかった?」

「冗談じゃない」奈緒は吐き捨てた。脳裏では、逃走の算段をつけ始めている。「アタシがアンタに従うって? そんなの、高村が勝手にあんたらとしただけの約束でしょうが。あたしは納得したおぼえなんてないし、そもそも、高村もシスターむつみも、もうあんたらとは仲間割れしたんでしょ。だったら――」
「無論、そのことも踏まえた上での問責です」深優は言い切った。「だからこそ、貴女の自由意思に任せると申し上げています。服従か、敵対か。至極単純な選択であると思われますが」
「敵敵。敵でいいよ」アリッサが挙手してわめいた。「あのおねえちゃん、アリッサあんまり好きじゃないしぃ」
「お静かに、お嬢様」深優が微笑んでアリッサを制した。
「おおっ?」アリッサが目を丸くして、従者を凝視した。「ふーん……へー……やっぱり深優、ちょっと変わったねぇ」
「そうなの『かもしれません』」応えた静謐な少女の横顔から、視線が奈緒へと飛んだ。「――石上亘、貴方の役目はこれまでの筈ですが」

「いや、これで仕上げだよ」奈緒の至近で、石上が答えた。「ここまで来て逃げられてもつまらない。そうだろう?」

「な――」

 奈緒が反応するよりも数段早く、石上が白刃を振るった。無防備な左半身を晒していた奈緒は、側面からの一撃をまともに受けた。膝下からひかがみにかけてを、冷気と熱を同時に宿した物体が通り抜けていく。痛みや恐怖よりも先に、暖かい液体が切り口から漏れる感覚が脳へ届いた。それから数瞬も経ず、激甚な痛みが奈緒の全身を劈いた。

「ぃあ、あああぁっ」

 漏れかける悲鳴を歯軋りで抑えた。傷に宿る熱と痛みが思考を塗りつぶす。気づけば奈緒は地面をのた打ち回り、悶え苦しんでいた。ジュリアが石上を脚の一つで跳ね飛ばすも、危なげなく受身を取って着地する光景が見えた。

「うっ、あ、つ……く、そっ、くそっ、糞!」大量の血で塵埃にまみれた床を更に汚しつつ、奈緒は蹲り、立ち上がろうと試みた。ついた手が血溜まりに滑り、服が赤黒く染まった。「ぃ、ぃいっ痛、痛い、っつ、よくもっ、糞! 殺してやる、殺してやる! 絶対、絶対絶対殺してやるっ」

 目じりにためた涙を落とし、奈緒は石上へ殺意を向ける。
 呼応したジュリアが、胸部の大口を威嚇するように軋ませた。
 それを遮るように、アリッサ・シアーズが立ちはだかる。

「ねえ、おねえちゃん。いまのお話、聞いてなかったの?」苛立たしげに少女がいった。「なんで答えないの? なにも決められないの? どこへ逃げるつもりなの? どうせどうせ、そのままだったら死んじゃうのに」
「どけよっ、クソガキ!」奈緒は血走った眼で、至近距離からエレメントを振るった。
「――こどもなのは、そっちでしょ」

 鉄さえ断つ糸が、刹那に展開された金色の羽に吹き散らされた。輝く弾丸が、アリッサの背後に次々と装填されていく。荘厳な光景を前にして、痛みと憎悪に染まった奈緒の意識が、一瞬だけ萎縮した。

「運なく思慮なく志さえなく、自らの能を浪費する塵芥。誇りの当て所さえ自覚しないものは、ワルキューレどころか人間ですらありません」

 蒼い瞳が茫と耀く。アリッサの言葉に、常と異なる趣が混ざりこんだ。

「――結城奈緒、貴女は失格です。未分化の想いもろとも、ここで潰えて消えなさい」

 奈緒が面罵する間もなく、光の雨が彼女の体を打ち据えた。弾幕は満遍なく降り注ぐ。かろうじて割って入ったジュリアの装甲さえ、羽弾は削り取っていった。庇い立つチャイルドを、光弾は曲線を描いて避け、奈緒自身を執拗に狙い打つ。痛みが脳を揺さぶり、体を打ち据え、絶叫を上げながら、奈緒は心中で毒づいた。
(役立たずのチャイルド。役立たずのあたし)
 腹部に重い一撃が来た。胃液を吐き出しながら、奈緒は薄っすらと微笑んだ。
(死ぬのか)
 諦念が兆した。
 拒絶がそれを、切り裂いた。
(――いやだ。いやだいやだ)
 拳を握り締める。
 目を見開き、体に力を込める。
 だが、活路は見出せない。意志を振り絞ったところで、奈緒は既に袋小路にいた。アリッサ・シアーズを深優・グリーアを出し抜いて逃げ延びる術など思いつかない。
(糸、を――)
 屋内の縦横を貫く糸を、イメージでより合わせていく。拡散から集中へと、属性を変化させ、ひたすらに身を守る防壁を欲した。
 赤い格子を織り上げる。ジュリアと奈緒を取り巻くように、筒状の繭を編み上げた。一重が弾丸に散らされ、二重が解かれても、三重の壁が攻撃を凌ぐ。絶え間なくエレメントから糸を放出しながら、奈緒はジュリアにもたれるように立ち上がった。

「へえ」アリッサが感嘆の声を上げた。「おねえちゃんは、結構力の使い方がわかってるほうだね。うんうん」
「……うっ、さいんだ、よ、くそがき」息も絶え絶えに、奈緒は唾棄した。急場をしのいでも、死地にあることに変わりはない。「とはいえ、ちっ、どうすればいいんだか……ぇほっ。……うげっ」

 口中の胃液を吐き出すと、大量の血が混ざり合っていた。どうやら奥歯が一本折れている。痛みとは別の次元で悋気をおぼえて、奈緒は鼻をすすった。飲み下した液体は、血の味しかしない。呼吸のたびに右半身が痛み、左手を動かそうとすると激痛が走った。鎖骨や肋骨に異常が生じている様子だった。そして、石上がつけた足の傷はもっとも深い。恐らく骨まで達している。溢れる血に、止まる気配が見出せなかった。貧血の症状も併発しているのか、立っているだけで後頭部が冷え、視界が眩みつつある。
 往生際の悪さが信条の奈緒といえども、両手を挙げるしかない状況だった。

「わたしに考えがある」と、玖我なつきが耳元で囁いた。
「うぇ!?」驚きに身をよじって、奈緒は走った痛みにうめきを漏らした。「っ、って、あんたなんで、いふのまに近ふに来てんのよ……」
「歯が折れたのか。舌も……」奈緒を見て顔をしかめながら、なつきは答えた。「別に、さすがに弱いものいじめを見るに見かねただけだ。で、仲裁しようとしたら、この目に悪そうな悪趣味な糸に囲まれた」
「……あ、そ。余計なお世話ね」奈緒は痛みを忘れるほどの不快感をおぼえた。よりによって、玖我なつきにだけは同情などされたくなかった。「エレメントも出へあい。チャイルドだっていないくへに、アンタになにができうってんだか」
「人質になれる」なつきは大真面目に言い切った。
「……なにそれ」
「わたしもよく知らないが、シアーズとわたしにはちょっとした因縁があるようだ」なつきは自嘲気味に答えた。「あの石上がわたしの身柄を要求したのも、どうやら一番地ではなくシアーズよりの目的とみえる。であれば、アリッサとグリーアにも交渉の余地はあるだろう。……しかしあの二人、関係者だろうとは睨んでいたが、二人ともHiMEなのか? グリーアのほうは少し毛色が違うが」
「……急によくひゃべるじゃない。いじけるのはやめたわけ?」
「さあな」なつきはいった。瞳は変わらず、虚無的な色をたたえている。「正直なところ、どうでもいいというのが本音だ。おまえやわたしの生き死にも含めてな。ただ、……なんだろうな、そう、浮浪者に貞操を捧げずに済んだおまえの気まぐれに対して、わたしも気まぐれで応えるのもいいか、と思った」
「……ふうん」

 呟いた奈緒は、断りもせず、なつきの首にエレメントを巻きつけた。うっ血するほど締め上げると、なつきは顔色を赤くして咳き込むが、抗議の声はなかった。人質を取って逃げ出すとは、ますますあの日の焼き直しだ、と奈緒は思った。

「相談おわったー?」アリッサがタイミングよく声をかけた。「うーん、そっちのおねえちゃんをヒトジチにしても、べつにいっしょにやっつければいいだけなんだけど……でも、たとえばさー、ここから逃げられたとして、おねえちゃんたちそのさきのこととか、考えてる?」
「……正論だな」なつきがいった。「確かに、戦わずに逃げたところで、追跡を振り切れるわけじゃない」
「っていうか、そもそも人質が無駄っぽいじゃない」奈緒はため息をついた。
「差し出口、いいかな」観客に徹していた石上が、思い出したようにくちばしを挟んだ。「可能性はさておくとして、ここから逃げるという手は悪くないが、そちらのアリッサ・シアーズが言ったとおり、問題はその後だ。というのも、いま、結城さんの立場というのが、実は酷く悪くてね」
「……ああ?」隙あらば頭越しに攻撃を加える意図を隠しもせず、奈緒は石上を見やった。
「昨夜……いや今朝もか。昨日今日の未明にね、一番地の施設がHiMEのチャイルドによって壊滅させられた」石上はいった。「当然、組織は上へ下へのおおわらわさ。だからこそ、僕が今日ここでこうして大胆に女の子と密会なんてできているわけだがね」

 なつきが静かに息を呑んだ。
 奈緒は意味がわからず、眉根を寄せた。

「だからなんだってのよ」
「いや、容疑者とか、動機とか、そういうのはさておきね」石上は愉快げに笑う。「『それ』の犯人は、結城奈緒、きみってことになっている。まあ、僕がそう仕向けた。さて、当然だが、この二夜に行われた襲撃は、これまでそちらの玖我なつきがしてきたような嫌がらせとはレベルが違う。それなりに大打撃だ。元々死者も出ており、もみ消すというには苦労する被害さ。一番地は元々あまり資金が潤沢な組織というわけでもないし、立場も非常に繊細で、おまけに非営利団体だ。……そこでまた話を変えるが、HiMEというのはね、結城さん、きみが思ってるよりも世界中で注目の的なんですよ。当然、隙あらば身柄をさらおうと思っている連中は五万といる。シアーズがその最右翼だ。そして、そうした連中からHiMEたちの情報を守っていたのも一番地だ。だが……果たして、本格的に牙を剥いてきたHiMEを、それも元々力をほしいままに行使し、後処理に苦渋を舐めさせられてきたHiMEを、組織はそれでもかばいつづけると思うかい?」
「……ああ、そういうこと」事態を飲み込んで、奈緒は辟易した。「ふまり、あたしを、ハメようってわけなんだ。くそ、本っ気で……ああ、胸糞悪いわ。アンタ」
「襲撃での死者、怪我人は数十人はいて、その家族にも、伝えて問題のない場合はきみのことを包み隠さず教えてある」付け加えられた石上の言葉は、看過するには重過ぎるものだった。「そして、報復は特に禁じていない。想像できるかな? まあ、とはいえこの風華市内において、いまきみを恨みに思い、何らかの報復を実行する行動力があるような人間は、せいぜい数人といったところだ。道を歩いていて、突然刺されるような不運は……宝くじに当たるよりは、少し高いくらいかな」
「……冗談じゃ」
「ああ、公共機関は、もう使えないと思ってくれよ」石上が楽しむ素振りで付け足した。「一番地は地域密着型の組織だから、役所やら病院やら銀行は……チャイルドで襲いでもしなければもうきみには門戸を開かない。きみが今よく使っている高村先生のキャッシュカードも含めて、使用は制限させてもらった」
「病院、も、……ね」

 悪態をつく気力も萎えて、奈緒は奇妙に浮ついた心境にある。
 足場が信じられないほど不確かで、それは手に入れた力で左右できない類のものだった。
 力を発揮するには土台が要る。石上はその基底から切り崩した。そうして奈緒は、直接干戈を交えるまでもなく八方を塞がれた。煎じ詰めれば、この上なく合理的な手法だった。
 言外に、石上は奈緒の母についての進退も示唆しているとわかった。あからさまにそれを口にしないのは、反発を予期してのことだろう。

「なによ、それ」馬鹿馬鹿しさも極まった。奈緒は苦笑する以外に、反応を思いつけなかった。

 石上が一方的に述べた内容を、すべて把握したわけではない。傷の痛みや疲労が、奈緒の思考力を大幅に低下させてもいた。だが、言葉の一端なりとも理解すれば、状況が絶望的であることは理解せざるを得なかった。

「……いいわね」奈緒は自棄的に笑う。腰から力が抜けて、ジュリアに半身を寄りかけた。「卑怯で……は、は。そっ、か。そういうことも、できちゃう、わけだ……」
「それで」なつきが奈緒に代わるように言葉を発した。視線は深優へ向かっている。「そうした諸々の不具合から、庇護できる力を持つのはシアーズ、という筋書きか」
「そういえば、まだ答えとやらを聞いてなかったね」石上が肩をすくめた。「そういうことになるかな。迷う余地はないと、僕は思うよ。……ちなみに、玖我さん、きみにはそういった考慮はされていない。きみに関しては完全にゲーム・オーバーだ。シアーズがきみの身柄を欲する所に、一番地の意図は噛んでいない。そしてそれを守ることもないだろう」
「承知の上だ。それに、やはり貴様らの世話になるのは業腹だからな」なつきは捨て鉢な気色を交えて応じた。

「それで、どうするの?」

 問うたのはアリッサだった。倒れた棚のひとつに腰を下ろし、悠然と脚を組み、頬杖をついて奈緒を眺めている。赤い格子の守りを越しても、余裕は圧倒的だった。控える深優も、交戦の姿勢を解いてはいない。逃走を図ったところで、脱出するまでに迎撃されるだろう。抗戦を選んだところで、消耗した自分に勝機があると思い込めるほど、奈緒は楽観的になれなかった。窮鼠の恃みであったなつきという人質は、どうやら機能する気配がない。手向かいの代償には、命を奪われないとしても、それに準じるものを捧げなければならないだろう。
 だが従ったところで、無事が保証されるとも限らない。少なくともこの場で脱落せずに済む可能性があるというだけだ。シアーズの目的の一端程度は、大まかに奈緒も聞き知っている。

「飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らる」深優・グリーアが、その内心を読んだかのようにいった。「貴女の危惧はもっともです。そして正しい。シアーズは、確かに強いてその身の安全を請け負うことはしないでしょう。知っての通り、服従したところで、貴女に課されるのは他のワルキューレとの戦闘です」
「そういうことか」なつきが顔を手で覆った。「周到なことだな。……そこまで自信があるのか。こんな下らないイベントに、企業ともあろうものが大真面目に乗るなんて、世も末だ」
「まさしく、その通りだ」石上が笑みをかみ殺した。

(なんなのよ、これは)
 酷い理不尽と敗北感を、奈緒は苦杯として味わった。論理を構築すれば、この場にうまうまと誘き出された時点で、奈緒に降伏以外の選択肢は用意されていなかったとはっきりわかる。
 痛苦と憔悴と諦念が、奈緒の足を絡め取る。鋭く痛む頭部に手で触れながら、震える声で呟いた。

「ここで、どっちかを選んで……たとえばアンタらにつくって言ったところで、それを信用できるっていうの? 高村のときみたいに、一緒にどっか行くってこと?」
「いいえ。玖我なつきの身柄は預かることになりますが、当面、貴女の行動を縛る予定はありません」深優は簡潔に否定した。「繰り返しになりますが、貴女のこの街における生活は、もう破綻しています。これまで行ってきた自侭の振る舞いの報いが与えられたとして、今ならばまだ能力を用いて対処することもできるでしょう。ですが、一度でも敗北すればその限りではない。そちらの玖我なつきのように、なにかの拍子で全てを失わないとも限らない。力を備えていても、反応できない瞬間に致命的な危害を加えられる可能性は否定できない」
「きみに未来はない」情感を込めて石上が補足した。「風花奨学金も、当然今月で打ち切りだ。生活の基盤はこれで全滅かな。学費も払えない。すぐに寮を追い出されるということはないけれど、この非常時ではなんともいえないな。帰る家も、残念ながらない。――なに、若干唐突で、確かに悲劇的かもしれないが、よくある程度のハンデでしかないよ。きみのバイタリティなら、シアーズからも一番地からも逃れて、身一つで生きていくことも可能かもしれない。健全な手法で、となるとハードルは跳ね上がるけれど」
「むつかしいことはよくわかんないけど」アリッサが朗らかに結論した。「おねえちゃんはシアーズに従って使い捨てられるか、ここで負けてボロボロになっちゃうか、あと……すっごい大変だけど、アリッサにもミユにも勝って、ほかのワルキューレも全部ひとりで倒して、イチバンチもシアーズもやっつけちゃって、その間おねえちゃんの大切なひとをいろんなものから守り続けることができるなら、それもありかなぁ」

 具体的に口にされて、その不可能性を悟らないわけにはいかなかった。足がもつれ、視線が右往左往した。惨憺たる有様のショッピングモール内にいて、奈緒は精神の均衡が欠けていく過程をまざまざと感じる。罅割れた内装に心象を見る。どこか懐かしく、そして二度と繰り返すまいと決めた、失調の感覚だった。
(どうしようもない)
 力を手に入れた。
 劣るものを蹂躙した。
 そして、その上を行く力に、されるがままになるしかない。
 横隔膜が痙攣する。涙が目じりに滲む。嗚咽をこらえたのは、最後の意地だった。

「解せないな」

 と――
 静かな声で疑問を口にしたものがあった。
 玖我なつきが、首に赤い糸を巻いたまま、醒めた顔で場の人間を睥睨していた。

「まずひとつだ」注目が集まる間を取りつつ、なつきは二の句を次いだ。「いま貴様らが結城奈緒に提示した全ての事由は、この場で言いそやす必要のないことばかりだ。稚拙な脅迫、いや恫喝だな。だが、そうしたものはカードとして用いてこそ意味がある。そいつは実際頭がいいつもりの馬鹿というもっとも御しやすいタイプの人間だが、それにしても心を挫くためだけに直接チャイルドとの交戦という無意味な危険を冒す理由がない。恐らく、そこの石上が言ったような処置は既に行われているはずだな?」
「……続けたらいい」石上が興味深げになつきを見た。
「ふたつめ。……これは結城奈緒のみならず、HiME全般に言えることだが、われわれの存在価値には大別して四つの種類がある。ひとつは儀式の勝者足りうる可能性。ひとつはそれとは逆の敗者、儀式のための人柱となる必要性。ひとつはそうした内向けのヴァリューからは隔絶された、外部から見た、介入するための媒介である『状況の当事者』である有用性。最後は、それ以外のなにか。わたしは敗北以外のケースで脱落したというレアケースだが、それでも恐らく後者ふたつの価値は残されている。わたしの身柄を欲そうというのは、恐らく九条むつみか――」

 その名を口にした瞬間に、なつきの顔があからさまに歪んだ。

「――ともかく、そういったものに関連した理由があるんだろう。いい迷惑で、本音としては知ったことじゃないといいたいところだが、な。そして、翻って奈緒はというと、まだ、HiMEとしての意義は何一つ失われていない状態だ。さんざ脅してすかして、社会的基盤を奪うのは、控えめに見ても極道のやり口だが……、ふん、まだまだ詰めが甘いな。揺さぶりをかけて傀儡に仕立てあげるにしても、やり口が直接的過ぎる。『どちらでもいい』と口にしながら、本気で奈緒を仕留めようとしたのは一瞬だけだった。その後は、何のかんのと理由をつけて、始末を引き伸ばしている。不自然さが、際立っているぞ?――そもそも、一番地を名乗りながら、石上はなぜ単独でここにいる? どうしてシアーズの名代が女こどもしかいない?」
「へえ……まぁまぁじゃないか」石上が手を叩き、深優の睨みにさらされ、沈黙した。
「そうした状況的な不自然さを、権力の行使で補っているのがみえみえなんだよ」なつきは続けた。「嘘はついてないんだろう。一番地の施設は確かに襲撃され、その犯人が奈緒という情報をでっちあげたんだろう。だが、その浸透性は? 持続力は? 妥当性はどのように用意した? 儀式を取り仕切るのが一番地の本分であれば、まさかHiMEの反逆を予期していないはずはない。そうだな、差しあたり、図抜けて強力な舞衣、それに無鉄砲なそこの奈緒なんかは、監視対象として相当、重視されているんじゃないか? どう考えてもトリックスターの一人である高村恭司に手引きされていた奈緒から、常識的に考えて目を離すか? その程度のリスクヘッジができない連中が、わたしに暗示をかけるなんていう上等な策を弄せるとは思えない」
「すごい」アリッサが呆れて呟いた。「すごい、じしんかじょー……」
「うるさいぞ幼女」
「ふんだ。そっちこそしゃべりすぎよオバサン」アリッサがめかこうした。
「おばっ……」なつきの額に青筋が立った。「……ふうっ。とまあ、ことほどさように、貴様らの手口は荒が目立つわけだ。急造の陰謀だな。本当に精神的に追い詰めたければ、動物の死体を枕元に置くところから始めるべきだ」
「なんてヒドイこというの!?」アリッサが怒りを露にした。
「たとえばだよ。しかし……あっちはともかく、おまえはぜんぜん似てないな」ふいに、なつきが肩から力を抜いた。「以上のような考察から導かれる結論はこうだ。貴様らは相応に追い詰められており、結城奈緒とそのチャイルドをキーカードとして欲してもいる。なるべくなら倒したくはないが、しかし展開次第では始末することも考慮に入っている。そして、現時点では無用な危険を冒しただけのこの会合には、まだ最後の一手が残されている――」

 ぽかんと口を開けて、奈緒はなつきの独演を聞き終えた。当事者ではないからこその視点でもあるのだろうが、蒙を啓かれたような感覚がある。不思議と屈辱感はない。唐突に視界が広がったような心境だった。
(って、それじゃあ)
 なつきがしたのは状況の分析であり、盤面を覆したわけではない。
 変わらず彼女は死地にある。
 だが、少なくとも奈緒には利用価値がある。そう思われている。
(だったら、付け入れる)
 萎えかけた意思に喝を入れる。

「おいおい」そんな奈緒を見て、なつきがいった。「別に、ピンチであることには何も変わりはないぞ。おまえの人生がほぼ終わったことも事実には違いない。結局、こいつらに従う以外の手はないんだ」
「うっさい」奈緒は鼻を鳴らした。「知ってるわよ、そんなのは。けど、だからって卑屈になる気もない。だってつまり、こいつらにはあたしが必要だってことなんでしょ?」
「……ここまでいいようにされて、おもねるのか」なつきの顔が嫌悪感に染まった。「信じられないな。プライドはないのか」
「そんなもんにすがった結果が、いまのアンタの無様でしょ」奈緒は薄く笑った。「頭がいいでちゅねー、なつきちゃんは。ははっ、大好きなママに似ててよかったじゃん?」
「くそがきが」
「マザコンが」

 なつきが鋭く舌打ちして、奈緒から目線を切った。
 アリッサが不可解を満面に浮かべていた。

「よくわかんないね、あのふたり」
「私はわかりやすいと思いますが」深優が無表情に応えた。
「ご名答だ」石上が、降参だとでも言うように両手を挙げた。「すばらしいな。さすがは至上の才媛、玖我紗江子の忘れ形見だよ。――けれど、ひとついいかな?」
「なんだ」なつきが仏頂面で応じた。
「その推察、この場で全てしたのでなければ、なぜ彼女に警告しなかったんだい?」
「今日いちばん頭の悪い質問だな。おい奈緒、仲間がいたぞ、よかったな」なつきが嘲笑した。「美術の……石上だったか? 貴様、策を弄して策に溺れるタイプか。あのなぁ、なんでわたしがこいつに忠告なんてしなければならない? こいつはわたしが嫌いだし、わたしもこいつが嫌いだ。貴様らがこいつとつるみたいなら、好きにしろ。そしてもうひとつ」
「ふむ」石上が頷いた。「なにかな」

 鬼気が揺らめいた。

「不用意に、わたしの前で母の名を出すな」となつきがいった。「殺すぞ。必ず、殺す」
「そういう言葉も、十分みっともないがね」石上は軽飄に笑んだ。「おぼえておこう。女性の不興は買いたくない」

 昨晩までのしおらしい姿は消えて、なつきは全身で苛立ちを表現していた。無気力な表情のなかで、怒りだけが炯々と目立っている。

「なんか、まとまっちゃうねぇ」アリッサがつまらなげに呟いた。「あーあ、べつに良かったのにな、倒しちゃっても。ていうか、倒していい?」
「ご自重ください、お嬢様」言い含めて、深優が石上を一瞥する。

 心得た素振りで、石上が奈緒に告げた。

「さて、紆余曲折あったが、取引はまとまったと見ていいのかな」
「選ぶ意味はないんでしょ」殺意を隠さず、奈緒はようやく、ジュリアの守りを解いた。左足の傷は、出血こそHiMEの力で収まったものの、痛みは全く引いていない。
「きみは玖我なつきの身柄をわれわれに引渡し、そちらのシアーズに今後従ってもらう。報酬は、これまでと、そして『これから』起こる悲劇の容疑からの解放だ」
「これから?」奈緒はうんざりと、訊き返した。「この上、まだなんかあるのかよ」
「あるよ」石上がいった。「このモールの地階を爆破する。大勢人が死ぬだろう。きみにはその犯人になってもらう」

「…………は?」

 何度目かの絶句が、奈緒から体温を奪っていった。

「チャイルドを引き連れて、そのまま街を闊歩するんだ」石上は淀みなく告げた。「儀式に反対するHiMEはきみを追うだろう。きみが何がしかの罠に嵌められたと気づいたものも、きみを追うだろう。そこで弁解するのも、交戦するのも、きみの自由裁量に任せるとのことだ。きみには勢子になってもらう。追うものと追われるものが逆になるが、そこはご愛嬌だな」
「じょっ、冗談じゃ」奈緒は慌てて石上へ詰め寄った。「そんなことしたら、誤解も何もないだろ!」
「当たり前だろう」石上は柔和な微笑みを崩さない。「まさか、まだ『元の日常に帰れる』なんてむしのいいことを思ってたんじゃないだろうね? ないよ。そんなものは二度と来ない。だからもう、諦めなさい。ああ、不思議な顔をしているね。何が返らないのかと思ってるんだろう?――全てだよ。思い描いたもの全てだ。それは、もう、二度ときみの手には戻らないよ」

 その言葉を裏付けるように、地の獄から吹き上げたかのような爆音が、建物全体を震動させた。先ほどのジュリアの攻撃に倍する衝撃に、奈緒の足が膝から折れた。またいくつか、天板が床へ落下する。

「あ……」

 断続的に響く轟音と震動に、奈緒は階下の惨劇を直感する。
 休日のショッピングモールだ。
 どれだけの人間が訪れているのか、想像もつかない。

「じゃあ、なるべく早く逃げたほうがいいな。僕らも危ない」と石上がいった。「くれぐれも、チャイルドを使って逃げてくれよ。……僕たちの目は、とても多い。逃げるなら、この国から出る心算でなければいけないよ」
「クズが」なつきが吐き捨てた。「……おい、グリーア。わたしを連れて行くつもりか」
「その予定ですが」深優が心なしか冷たい口調でなつきに応じた。
「逃げはしない。わたしはしばらく奈緒についていくぞ。こいつ一人じゃ、上手くやれることもできなくなるだろう」
「……シアーズに協力すると? 意外ですね。貴女はわれわれを嫌悪しているはずですが。ですがどちらにせよ、その提案は呑めません。貴女の身柄はこちらの前提条件です」
「なら、わたしはここで死ぬ」

 静謐な覚悟を込めて、なつきが言い切った。

「つまらないフロックです」深優は断じた。なつきへ一歩、足を踏み出す。
「そうか。じゃあ、しかたがないな」

 と、いって、なつきが目を閉じた。首にかかったままのエレメントを、手で握り締める。奈緒が何を言う間もなく、そのまま一息に糸を――

 引き絞ろうとしたところで、光弾に手の甲を打ち抜かれた。苦悶するでもなく、なつきは半眼を金髪の少女へ向ける。

「親切だな、意外と」
「だめだよ、深優」アリッサが素早く告げて、深優の腕を引いた。「いま、そのおねえちゃん、本気だったよ」
「……」改めて、深優が凝となつきを観察した。無機質な面に、あるかなきかの波紋が揺れる。「貴女は恭司の教え子だと思っていましたが、そうではないようですね」
「誰だって?」なつきが歪んだ笑みを浮かべた。
「今夜午前零時に、再度その身を引き取りに出向きましょう。お嬢さまとともに。――結城奈緒、貴女の首尾も、そのころまでには決しているはずです。指示は都度、通信端末にて送ります。死力を尽くしてください」

 一方的に言い捨てると、深優はアリッサの手を引き、きびすを返した。階下への通路ではなく、屋上へ続く階段を目指し、シアーズの少女たちは歩み去る。後には奈緒とそのチャイルド、なつき、石上が残された。

「追い詰められてるな」なつきの声は、死を連想させるほど静かだった。「わたしたちも、シアーズも、恐らく一番地も。それだけ佳境ということか」
「佳境など来ないよ」石上が、真摯な声音でそういった。「その前に、全ては終わるんだ。……では、僕も行くよ。なんだかおかしなことになったが、健闘を祈っている。しかし、僕ときみたちとでは、もう会うこともないかな」
「ぬけぬけと、よくもまぁ」

 嘆息した奈緒は、石上の背中へ全力でエレメントを放った。
 五つの斬撃が、赤い軌跡を残して男へ殺到する。

 その全てを、飛来した銀色の矢が打ち払った。

「……誰だ?」なつきが訝った。
「ほらね」奈緒は笑う。「いるんじゃん、やっぱり」

 直線距離にして数十メートルは離れた一角に、その女はいた。黒い衣装と、対照的な白いチャイルドを傍に控えさせている。構えたエレメントは長弓のかたちを模していた。いまも、紫電のように光る矢がつがえられている。
 真田紫子の表情は、この距離ではまったく伺えない。
 奈緒はそのことを少しだけ残念に思った。

「爆破テロを平気でやらせるようなやつに、それでもアンタはついていくんだ?」と奈緒は言う。「もとからそうだったのか、それともそれでもいいってことなのか。どっちにしろ、くっだらないわ」
「……あれは、シスター紫子か」なつきが沈鬱な顔で呟いた。「石上と、か。そう、か。そうなったのか」

「さてと」

 傷の痛みと、疲労と、屈辱と、様々なものを込めて、奈緒は唇に笑みを象らせた。
 体は重く、心は重く、未来は暗く、過去はない。

「テロリストに、なりますか」

 だが、生きている。



[2120] ワルキューレの午睡・第三部九節2
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2010/03/19 02:00
   ※

 商店街のアーケードでは提灯が鈴なりだった。地元企業や有志の名が連なる様は、万国旗さながらだ。週末に控えた玉響祭では、都心の夏にもおさおさ劣らない数の花火が打ち上げられる。今年は風華学園の創立祭に倍する人の出入りが見込まれており、例年になく機運が高まっていた。

「なーんか、最近いつもお祭りの準備してる気がする。学祭が終わったばっかなのに、もう今週は玉響祭かぁ。そしたら次の日は登校日でー、もう夏休みが残り二週間になっちゃう。はぁ、いやだなぁ」

 嘆じた宗像詩帆が、踊るようにその場で回る。進路に背を向けたまま歩き始めた年下の幼なじみを見るともなく、楯祐一はうだる暑さに不平を吐いた。

「ただでさえ暑苦しいのに、この時期は人があっちこっちから来るからなぁ。そういや、おまえんちもそろそろなんかやる時期だろ」

 詩帆の祖父が神主を務める封架神社では、元来の地祇に宗像の神を勧請して合祀している。というのも、宗像家は代々風華に根付いた家系ではなく、昭和後半、詩帆の祖父が神主として派遣されたのが発端なのである。そのため神道の組織図としては親に他社を持つ形を取ってはいるが、神社そのものの歴史は大変に古いと言われている。
 宗像が派遣される以前から封架神社では有志によって文献のたぐいが管理保管されており、ために研究者等ごく一部の好事家に名が通っていた。反面単純な神社としては、参拝客など年末年始の隣人しか詣でない零細である。地鎮祭は土地の貸し出しに並ぶ、宗像家の貴重な収入源なのである。

「そうだねえ。今年も巫女のバイトしておじいちゃん手伝ってあげなきゃ」詩帆が閃いた顔つきになった。「お兄ちゃんも好きでしょ? 詩帆の巫女姿」
「見慣れた」
「えー」詩帆が舌打ちした。「それじゃあ、旅行しようよ、旅行」
「ふざけんな。つながってねーだろ」祐一はしたり顔をした妹分の提案を一蹴した。「だいたい金もねえし、ゴールデンウィークに似たようなことして散々な目に遭ったの覚えてないのかよ」
「ああ、あれは凄かったね」詩帆が往事を振り返り神妙な顔になった。「ま、まあ、誰もケガとかしなかったみたいだし、見ようによっては貴重な経験だったのかも?」
「危うく海の藻屑になるとこだったっつーの」
「大丈夫」詩帆は力強く断言した。「溺れても、きっとお兄ちゃんが助けてくれるもんね。人工呼吸で!」
「それは鴇羽にでも頼め」
「女の子同士なんで不毛だからヤ」
「それ、人工呼吸じゃねえだろう」

 不毛と言えば不毛な会話を交わして、二人は日陰を選びながら歩いていく。目的地は大量のテナントを納めた地方にありがちなショッピングモールで、目当ては今更新調すると言い出した詩帆の水着であった。

「もう八月も半ばだぜ。海だってそろそろクラゲが増えるし、プールは休みが終わるまで人の海だろ。せっかくの小遣いなんだから別なモン買えばいいのによ」
「いいの! 初めて見たときから絶対買おうと思ってたんだから。この夏をあの水着が乗り切ったのはかんっぺきに運命なんだもん。あの渦巻き柄は、詩帆を待ってるんだよ」
「それはふつうに売れ残ってるだけじゃねえかな……」

 四つ尾という奇抜なヘアスタイルからも伺い知れることだが、詩帆のセンスには独特を極めた感がある。若干十三歳にして独自のファッションを確立しているのならたいしたものだが、祐一としては虫の習性に近い嗜好にしか思えなかった。
 もちろん、詩帆があれこれと理由をつけて誘いをかけてくることの意味はある程度心得ている。気落ちした彼を、慰めようと言う趣旨もあるに違いなかった。
 親しい友人である倉内和也が恋人の日暮あかねと共に消息を絶って、一ヶ月近くが過ぎていた。巷間は名士の令息である和也の失踪を駆け落ちとして取り沙汰したが、祐一にはそんな楽観的な見方はできなかった。
 和也は確かにあかねに関して盲目的な部分はあったが、元来聡明で堅実な少年である。いくらアルバイトでの蓄えがあるとはいえ、周囲を巻き込んで事件に発展しかねない軽挙に走る性格ではない。ましてや、身内にも友人にもいっさい前兆を気取られずに大胆な計画を実行できる人間ではないはずだった。
 いわゆる非行に走った過去のある祐一とは違い、和也には友人も多い。無責任にゴシップを堪能する外野でなければ、祐一と同じような違和感を抱くものがいてもおかしくないはずである。
 しかし実際には、本来もっとも騒ぎ立てるべき倉内家の人間が不気味なほど沈黙を保っているのが現状だった。日暮あかねの実家もまた、二人の失踪以来何らかの行動を起こした気配はない。もっとも、日暮家については、倉内家よりも明らかに立場が弱いという背景もある。娘が名家の跡取りと逐電したことについては、別の意見があるのかもしれない。
 いずれにせよ、問題はうやむやのまま、学園は夏期休暇に突入した。話題としてさえ、二人の消失は一過性のものとして扱われた。生じた空白を、いまだに持て余している自分が奇態なのかと祐一が自問するほど波風は立たなかった。
 責められるべきは誰なのか。
 数日前に、祐一がぽつりとこぼした心情に、生徒会副会長である神崎黎人がそんな疑問を呈した。「恋愛禁止」を校是に掲げているにも関わらず未然に事態を防げなかった学園。本人らの近い場所にいても前兆を気取れなかった家族。あるいはほかの何か。

「物事には落とし所が必要なんだとさ」祐一は神崎の発言を気まぐれになぞった。
「でも実際には、あかねさんたちのこと、誰も問題みたいにしてないよね。お家の人なんか、ふつうならここぞとばかりに学校に文句言いそうなものなのに」
「そうなんだよな」祐一はため息をついた。「落とし所どころか、誰が悪いなんて話さえ出てこない。みんなあっさり、あいつらがいなくなったことを飲み込んじまった。いくらなんでも物わかりよすぎねえか?」
「お兄ちゃんは、それがずっと気になってるの?」

 前触れのない発言ではあったが、詩帆は言葉の由来を正確に察したようだった。時折不思議な鋭さを見せる幼なじみである。

「そりゃあ、色々あんだろうさ」祐一はいった。「そのことにしたって、俺らに話が伝わってこないだけで、どっかで何かあったっておかしくねえし。大人連中がカタつけちまったってことだって、ありえるだろうよ」
「ある日、突然さ」詩帆が明るく笑った。「結婚しましたー、とか、子供ができましたー、なんて手紙が二人から来たらさ、素敵だよねっ」
「んな……」うまくいくかよ、という言葉を、祐一は飲み込んだ。「……ま、そんなんなったら、なんもかんも全部、笑い話だよなぁ」

 苦笑して、祐一は街路樹の木漏れ日に目を細めた。
 現実には、と彼は思った。和也とあかねの失踪が駆け落ちであるという見込みさえ、確実ではない。二人の失踪に事件性がないと端から決めつけられた一連の動きは明らかに不自然で、それはただの高校生である祐一にさえ気取れる違和感だった。
 だが、それを詩帆や他の誰かに対して口にすることの無意味さもわかっていた。邪推は、あるいは真実の一端を掠めているかもしれない。だが残酷で、何より噂と同程度無責任だった。
(それがわかってて、俺はあいつらを、探そうなんてしてもないんだ)
 幼い罪悪感の自覚が、沈黙を選択した由来だった。無力感を共有することの不毛さくらいは、祐一も知っている。

「参るなぁ」万感を込めて、祐一はつぶやいた。「暑くてよ。毎日、毎日」
「ほんとだね」

 同意した詩帆が、若干の驚きをもって祐一を見つめていた。祐一の返答を意外に思ったのだろう。互いに、それがわかるほどの時間は積み上げている。だからこそ祐一は詩帆に対して時折やりきれなくなる。彼女が寄せてくる真っ直ぐな感情を重荷に感じる。
 祐一は、ずいぶん長い間、いずれ詩帆を手ひどく傷つけることを予感している。むしろ、そうせねばならないと覚悟を決めようとしている節さえある。少年らしい潔白さが彼に結末を促し、だが一方で、詩帆が寄せる好意に、何ら具体的な返答をしないまま甘受しつづけてもいる。
(悪くはねえんだ。そうしたところで、何が悪いってわけでもねえんだ)
 逃避している自覚が彼にはあり、だから常になく詩帆との距離が近いこの夏は、多少息苦しかった。目的地であるショッピングモールの他を圧する威容が視界に入ったとたん、だから彼は安堵する。とにかく何かで詩帆に報いている間、祐一の感じる後ろめたさは軽減されるからだ。彼は思考を取り留めのないもので埋めていたかった。
 そんな散漫さが、彼に偶然の発見をさせた。

「あ」と祐一は声を上げた。

 進路上のカフェテラスに、少女がいた。アイスに大口でかぶりつく顔には碧眼が光り、目鼻立ちに異国の情趣がある。一見して目立つ容姿だった。身長に比して長い手足が、活動的なタンクトップとホットパンツに映えている。栗毛を後頭部でまとめてお下げを二つ揺らす仕草に、祐一は見覚えがあった。
 学園祭後の夜に一度だけ話した顔に間違いなかった。名前は確か聞いていない。名乗った覚えもない。ほんの数分、雨宿りを共にしただけの間柄である。昼日中に偶さか見つけて、判別がついた事実に軽い驚きすら覚えるほど浅い縁だ。

「んー?」

 と、少女が祐一を見返した。これもまた、奇遇の出来事だった。祐一は軽く手を振り、目礼した。アイスを手に持ったまま、少女が腰を浮かした。どうやら、祐一のことを覚えていたらしい。
 そのまま、すれ違う。少なくとも祐一はそのつもりだった。顔見知り未満の関係である。再会したところで話題もない。何より、詩帆は嫉妬深い。見知らぬ少女と話す祐一を見て、無闇に火種を起こさないとも限らない。

「あ、あ、あ! 見つけたー!」

 しかし、少女はそんなことはお構いなしに大声を上げた。祐一を指差し、席を立ち、小走りで駆け寄ってくる。

「やっと見つけた! ほんとに探したよ、もう!」
「え、だれ」詩帆が呟いた。「知り合い? ウチの学校のひと?」
「いや、さあ」祐一は正直な心情を吐露した。
「このあいだはどうも!」腰を折って少女が辞儀をした。めりはりのある動作だった。「いやー、そのセツはお世話になりました!」
「えっと、そんなたいしたことはしてない……よな」思いのほか律儀に接されて、祐一は戸惑った。
「いえいえいえいえ」少女が失敗を悔いるように、神妙な顔で首を振った。「あたし、よく世間知らずって言われるの。だからもう、なんていうか、お兄さんには恥をかかせるようなことをしてしまい、だけどそれは誤解で……まずはお互い、お友達からがいいかなあって」
「ちょ、ちょっと待て」祐一は言い募る少女を制した。「なんだ。なんの話してるんだ」
「な、なんのはなしって……」少女が頬を赤らめた。うつむき、アイスを一口舐めて、手足をもじもじさせた。「あ、あたし、なな、ナンパなんて生まれて初めてだったから」
「ナンパぁ!?」詩帆が声を裏返らせた。「お兄ちゃん! なにそれ!」
「ナンパ!?」祐一も喫驚した。
「その、流儀っていうのかな?」少女は続けた。「そういうの、ぜんぜんわかんなくて、ただ親切だなーって思ってたの。でもセンパイにお兄さんのこと話したら、それはナンパだって……だからあたし、びっくりしちゃって」
「違えぞ。それは違え」祐一は少女を落ち着かせようと試みた。詩帆が容疑者を見る視線を右から刺していた。「あれはナンパとかじゃねーって。落ち着いて、冷静に考えてみろ」
「ええ?」少女が上気した顔で上目遣いをした。まず親指を折りながら、「まずぅ、夜、あたしがひとりでいたら、声をかけてきて」
「おう。だよな」
「ダウト」詩帆が早くも割り込んだ。
「それで次に、おごってくれる、って言われて」人差し指が折れた。「ジュースをおごってもらって、とっても美味しくて」
「う、うん」祐一は一寸声のトーンを落とさざるを得なかった。
「ダウト!」詩帆が鋭く言った。
「それでそれで、雨が降ってたから、これを使いなよベイビーって、自分が濡れるのも構わずレインコートを貸してくれて」
「ベイビーとかは言ってねえぞ!」祐一は訂正した。
「ダウト!!」詩帆が叫んだ。
「最後に」四本目の指が折れた。「また会おうねって約束した」
「それそっちが言っただけじゃねえか!」
「ギルティー!」詩帆が高々と有罪を宣告した。よどんだ眼で、祐一の脛をリズミカルに蹴り始める。「あぁーあ、あぁーあーあ。最近よーやくちゃんとしてきたと思ったのに。グレてた頃の悪いお友達もすっかり縁を切ったと思ったのに。どうしてこう、綺麗にしたと思っても後から後から湧くのかなぁ?」
「痛えから止めろバカ」

 言いざま、詩帆の蹴り足を掴み取った。ホールドした足首を胸元まで持ち上げると、当然の帰結としてマイクロスカートがめくり上がった。色白な脚の付け根までを露出させて、詩帆は瞬時に赤面した。抗議の拳を振り上げる。

「話せばかー! うわきものー!」
「浮気っ」少女が耳ざとく詩帆の発言を捉えて、祐一から一歩距離を取った。「も、もしかしてそこの人、お兄さんの恋人なの? あたし、もてあそばれた!?」
「そうよ!」詩帆が即座に肯定した。「あなたなんかねぇ、どこの誰だか知らないけど、ぽぽいのぽいっ、よ!」
「違うって」祐一は沈鬱に否定した。「浮気でもねえし、そもそもナンパなんかしてねえ。めんどくせえな、もう。俺、帰っていいか?」
「……もっと慌ててくれたっていいのに」ため息をつくと、詩帆はあっさりと糾弾の姿勢を解いた。「ごめんお兄ちゃん。おこんないでよ。詩帆、べつに本気じゃないから。お兄ちゃん、年下の子ってあんまり好きじゃないもんね。……足、放して?」

 祐一もまた、嘆息をもって詩帆の謝罪に応じた。いつものことだった。とかく詩帆は、祐一の異性関係に過敏になりがちである。同時に苛烈でもあって、その女性性のようなものはしばしば祐一を鼻白ませた。詩帆も自らの性質に自覚的で、そのために祐一に疎まれることを酷く恐れている節がある。
 十年来の付き合いである祐一には、ある程度慣れがある。問題は二人に巻き込まれる側だった。詩帆の嫉妬に対して、表れる反応はわかりやすい二つしかない。寛容か敵対である。祐一の頭を本当に悩ませるのは、その点だった。詩帆はほとんど謙るということをしない。憚ることもない。感情の抑制が不得手であり、自意識のある部分にとても鈍感だった。そこに人見知りの性格が合わさって、彼女の人間関係を限定的なものにしている。
 様子をうかがうように、祐一は少女を横目した。融けかけたアイスクリームを慌てて舐め取る素振りに、怯えや怪訝は認められない。少し話してすぐにわかったことだが、どうやら少女は一風変わっているようだった。豪胆かつ大雑把という表現がぴったり合う気がした。

「あれ? お話はまとまりました?」少女がお下げを揺らしながら問うた。
「あなた、なんかへんな人ね」詩帆が顔を引きつらせていった。
「あはは、まあそれはそれとして」少女が顔中で笑った。「ナンパはともかく、あたしこっちに来たばかりで知り合いとかぜんぜんいないんだ。そんでね、せっかくだから、二人には友達になってほしくって。お兄さんもそっちの子も、風華学園の生徒でしょ? あたしもね、ちょっとの間だけど、九月から通わせてもらうことになってるの」
「転入生なんだ。って、そういえば日本語上手すぎて忘れてたけど、外国の人っぽいもんね」詩帆がやや警戒心を薄くして、少女をまじまじ見つめた。「お兄ちゃん、そういう話聞いてる?」
「いんや」記憶を探ったが、祐一に心当たりはなかった。「そういや最近、学校に外国のお客さんが来たとか、そんな話聞いたけどよ。あれは違うかな」
「全裸の痴漢が校内に出没してパトカーが出動したって、詩帆は聞いたよ」
「それ初耳だぞ」執行部長の剣幕を思って、祐一は青ざめた。「ま、まあ夏休みだし、ほとぼりもその内冷めるか。てか、この炎天下に立ち話ないだろ。いい加減なか入ろうぜ」
「あ、うん」自侭に歩みを再会した祐一を、詩帆が追う。笑顔で少女を振り返った。「あ、それじゃああたしたちこれから買い物に行くから――」
「はい!」少女が頷いた。「ぜひ、ご一緒させてくださいね! うわあ、楽しみ!」
「え゛っ」詩帆が露骨に顔をしかめた。「いやいや、ちょっと貴女、空気読みなさいよ……」
「南南西の風ですねー。ぬるいですー」少女がにっこりと笑った。「あ、名前名前、そういえばまだ自己紹介してなかったじゃん! これは失礼しましたっ」
「いや、名前とかは別に」
「あたし、夢宮ありかっていいます!」溌剌とした名乗りだった。
「わざとよね!? あんたそれわざとでしょ!?」詩帆がついに声を荒げた。
「俺は楯祐一」肩越しに詩帆と夢宮ありかを振り返り、祐一はなおざりに応じた。「そっちは宗像詩帆。まあ、そいつトモダチすくねーからよ、良かったらよろしくしてやってくれよ。……って、そーいやおまえ、何年だ? たぶん中等部だよな」
「えーと」ありかが記憶を探る目つきになった。「ばっちゃが今年十四歳くらいって言ってたから……」
「? 今年十四なら二年だな。なんだ、学年も詩帆と同じかよ。よかったな、友達増えたぜ」
「詩帆友達少なくないもん!」詩帆が祐一の腕を激しく揺さぶった。「お兄ちゃん、これは話が違う! デート! リコール!」
「しゃあねえだろ」祐一は嘆息した。「ここでそれじゃあっつって別れたら仲良くする気はありませんって言ってるようなもんじゃねえか」
「する気、ないもん!」
「なんなら俺帰るからよ、二人で遊んできたらいいんじゃね?」
「そんな選択肢はありえないでしょぉ!?」大げさに地団駄を踏む詩帆だった。「せっかくのデートなのにぃ……」

 落ち込む詩帆をよそに、祐一は空を見た。
 濃厚な碧空の半面を、佇立する建物のシルエットが切り取っている。美術展の開催を告げる垂れ幕が壁面に流れ、左方の立体駐車場は混雑している様子だった。この分では、建物内も人いきれに違いない。実際カフェテラスの窓から見える店内には、うんざりするほどの人間が行きかっていた。主な客層はやはり子供を連れた家族である。恋人同士と思しき組み合わせも間々見えた。無意識に和也とあかねの姿を探している自分に気づいて、祐一は自嘲した。
 無為な休日に、名目を与えて自分を慰めようとしていることに気づいたのだった。
 汗ばむ体は、体力を持て余している。日ごとに鈍る肉体は運動を渇望しているのに、障害の残る腕だけが黙然として主人に何も応えようとしない。
 友人が消えた夏に、彼は腐ったままだった。少なくとも、自分ではそう感じてならなかった。
(何やってんだ俺は――)
 言葉を聴いた。
 

「――あ。二人とも、そのまま歩くと死んじゃう」


 意味まではつかめなかった。
 転瞬、祐一の身頃を強大な力が握りこむ。さらに観れば右手にすがりついていた詩帆の髪が二房、鷲づかみにされていた。まともに首を痛める制動をかけられて、詩帆が痛みに小さく悲鳴を上げる。喉を絞められた祐一も、同様にうめいた。
 唐突な横暴を行ったのは、無論夢宮ありかに違いなかった。風変わりな少女へ早速抗議の視線を向けようとして――

「 あ ?」

 かなわなかった。
 熱のこもった風が、不意に前方で膨張した。皮膚の数ミリ先で火炎が燃え盛る熱を感じる。と覚えた刹那に、祐一はたたらを踏んだ。何の誇張もなく、吹き付けてきた突風で体が浮いたのだ。
 足先から吹き飛ばされそうになる体を片手で抑えるのは、祐一よりも頭ひとつ以上小柄な少女の腕力である。考えるまでもなく異常だが、ありかの怪力よりもなお信じがたい景色に祐一の意識は奪われていた。
 何もかも不可思議な光景だった。
 左でベンチが直立していた。
 右で詩帆がありかに庇われていた。
 胸に詩帆を抱きしめた夢宮ありかの、視線の行く手は正面に座すショッピングモールの一階である。祐一は無音の暴風の中で、かろうじてその視線を追った。
 地獄が見えた。
 視界で一際目立つのは全面が蜘蛛の巣のような罅に覆われ、今にも崩れ去る寸前のガラスだった。印象は過たず、半秒後ガラスは全て砕け散った。詩帆と祐一を異様な怪力で引きずったありかが、立ち上がったベンチの影に滑り込んだ。祐一は硬直したまま、目端に捉えた光景に息を呑んだ。風の暴発に遅れて、赤い焔が膨れ上がるのが見えていた。どう見ても自分の半分ほどしか背丈のない子供が、二人まとめて火に飲まれるのが見えた。アスファルトを冗談のような勢いで滑る物体が、子供を抱いた女性だとすぐに気づけなかった。
 最後に、音が来た。
 耳を劈いた衝撃に、遅ればせながら祐一は思考を再開させた。
 爆発した、と彼は思った。爆発した。何かが、今まさに足を踏み入れようとしたショッピングモールで、爆発したのだ。
 そうと気づいた瞬間、はっとして祐一は即座に動いた。詩帆と、そしてありかを守らなければならない。直前に自分がまさに守られたことにまでは、まだ考えが回らなかった。
 激痛が両耳の奥でほとばしった。鼓膜が破れたのかもしれない。だが頓着せず、彼は身近な少女二人を抱きすくめ、地面に引き倒した。詩帆が胸にすがりつき、何事かを口走るのが触覚でわかった。お兄ちゃん、と言ったのだろう。
 砂利が、飛礫か、もしくは硝子片が、ベンチの障害を貫いて祐一の体を打った。祐一は何事かを叫んだ。言葉にならない悪罵だった。
 死のイメージが頭を過ぎった――。
 かつて、腕に刃を突きこまれた瞬間と同じだった。怯えに身が竦んだ。守るようでいて、頼るように祐一は腕に込めた力を強くした。
 その腕を、ありかの手が優しく叩いた。そのまま彼女の手は、蹲った姿勢で耐える祐一の両耳に添えられた。いぶかる余裕もない祐一は、ただ至近距離にある顔を見つめ返した。
 暖かい何かが、ありかの手から流れ込んできた。
 痛みが潮のように引いていった。嘘のような唐突さで。

「大丈夫だよ」とありかが言った。優しさに溢れたその声ははっきりと聞き取れた。「大丈夫。大丈夫だから」
「何がだよ」消え入るような声音で祐一はいった。

 ありかは応えなかった。するりと祐一の腕から抜け出し、その場に立ち上がった。これまでの印象にそぐわない、無表情に近い面持ちが印象的だった。
(なんなんだ)
 祐一は咳き込んだ。掌をついた地面に滲む太陽の熱が、今は別種のものに感じられてならない。汗を拭うつもりで頬に触れると、指先に血液が付着した。大した痛みはないが、鮮血の赤さは平静を失調させる不吉な色だった。
 頭上には真黒な煙がたなびいていた。周囲で輻輳する悲鳴と泣き声が聞こえた。誰かを呼ぶ声も絶え間なかった。大挙して変わり果てた入り口から逃げ出そうとする人の群れがあった。女性の長髪に火が灯り、それを同行する男性が必死の体で消そうとしている。転んだ子供の手を引こうとした年長の少年が、乳児を抱いた中年の男性の足に激突して自らも転倒した。
(なんなんだよ)
 覚束ない心地のまま、祐一もまた身を起こした。正義感や義侠心に持ち合わせがあるつもりはない。
 だが、何かをせずにはいられなかった。
 ふらつく足取りを、だが、引き止めるものがあった。

「お兄ちゃん……っ」

 詩帆だった。腰が抜けたように座り込んで、祐一の腕を決して放そうとしなかった。激しくかぶりを振って、この場に放置されることを拒んでいた。それを一瞬だけ都合良く思って、祐一は吐き気をこらえた。偽善にも偽悪にも関心はない。だが、彼の自意識は醜さに敏感だった。

「こういうのは、嫌だな」ありかが呟いた。見開かれた瞳から大粒の涙を流していた。「嫌いだ。嫌いだよ……酷い」

 そう言って、ありかは頭上へ眼を向ける。挑むような目つきだった。

「……上?」

 憔悴した祐一もまた、ありかが認めた異形をすぐ眼にすることとなった。
 轟音とともに、十数メートル離れた地点に着地する巨体があった。
 瓦礫が散逸する。駐車場であったスペースを滑る様は、むしろ墜落といった様相だった。はじめ祐一は、屋上の貯水槽が落下してきたのかと考えた。地階の爆発による影響でそこまでの衝撃は考えにくいが、落下物はそうとでもしなければ頷けないほどの大きさだったのだ。

「……え?」だが正体を認めて、祐一は呆けた声を上げた。

 蜘蛛の怪物。
 そう評するしかない代物だった。
 歩脚と触肢、そして鋏角――シルエットと機敏な動き、いびつに膨らんだ前体と後体は日ごろ見かけるそれと同様である。違いは中心部に屹立する女性を象った彫像と、スケールしかない。
 ショック状態が奏功したのかもしれない。非現実的な物体を前にして、恐慌を来たすでもなく、祐一はまず自身の正気を疑った。だが、彼と同様に、他の人々も同じ異形が見えているようだった。反応は示し合わせたように一様で、皆々が口をつぐんで、じっと眼前の物体を注視していた。悲鳴や混乱そのものは蜘蛛に対するものではない。不気味な一拍の静謐を、目撃者たちは共有した。

「なに、あれ」詩帆が上ずった声を発した。「なんなのよぉ」
「……さぁな」彼女をかばう位置に立って、祐一はぶっきら棒に応えた。

 それよりも、眼を引かれてならないものがあった。大蜘蛛の化物は体積にして人に十倍する威容を誇っている。人間を運搬することなど容易く思えた。そして、実際に蜘蛛は人間を二人、載せていた。

(あれ?)

 もっとも、目視は一瞬のことだった。大蜘蛛は八本の足をたわめると、一転高々と跳躍し、濛々と黒煙を吐く壁面へ二脚を突き刺し張り付いた。さらに巨躯にそぐわぬ機敏な動きで、三十秒も経たない内に、衆人の環視から脱した。

「あ」と漏らしたありかが動き出しかけて、ふと迷う素振りを見せた。

 呆気に取られる祐一と、怯える詩帆を顧みる。表情には戸惑いが見て取れた。
 が、すぐにそれも消える。あたりの惨状に眼を向けると、夢宮ありかは毅然と宣言した。

「あたし、ちょっと中に入ってけが人さんたちを運んできます!」

 止める間もなく走り出し、ありかは文字通り一瞬で、いまだ炎上する店内へ消えた。見送る祐一は、根拠もなくありかの無事を確信していた。物理的にありえないことだが、ありかが何かに害される、というイメージがどうしても浮かばない。

「情けねえ話だ」ため息しか出なかった。無力感にうなだれかけて、自分を見つめる詩帆に気づいた。「怪我は?」
「ないよ。ありがと」詩帆が、強張った表情で、無理やりに笑った。「お兄ちゃんが、守ってくれたからだよ」
「俺はなんにもしてねえよ」

 何もできなかった。ただ巻き込まれただけだ。以前、高村恭司を交えてあの辻斬りに出会ったときと同じだった。
 ただ場に居合わせて、そして流されている。息巻いて不貞腐れ、結局動き出せない。
 空は、数分前と全く変わりない。ただ地上は、何もかも様変わりしている。詩帆の手を引いて助け起こしながら、祐一の意識は別の場所に飛んでいた。先前、眼にしたものが網膜に焼き付いていた。
 蜘蛛の化物に跨っていた二人の顔は、どちらも彼の見知ったものだった。

「あれは、玖我と……結城奈緒じゃねえか」

 サイレンの音は、どれだけ待っても聞こえてこない。

   ※

 首尾を確認して、石上亘は吐息する。痛ましい犠牲が大量に出た。良心が痛むのを感じた。真田紫子の前で涙を流し、懺悔して見せた。
 紫子は、それを赦すことしかできない。
 それを知っていて、石上は愛を囁いた。
 はじめ、紫子の体を奪った際には薬を用いた。だが二度目以降、紫子は罪悪感を訴えながら、むしろ積極的に石上に抱かれている。真田紫子には、淫乱の気質があった。同時に間違いなく聖女の素質を有している。この矛盾した女を、石上は確かに愛していた。とても優れた道具として、愛着も感じている。それは概ね、余人の語る愛情と区別できないものだった。紫子も石上の言葉を嘘ではないと感じているからこそ、彼から離れられずにいる。
 だが、石上の目的がある面で人道にもとると察して以降、紫子の顔が晴れることはなくなった。愛し合うときばかり、彼女の反応は激しくなった。石上について離れず、ことあるごとに翻意を呼びかけた。その全てを、無論石上はかわしている。

「きみがHiMEである限り」石上はいった。「紫子、きみはぼくの女神だ。変わらない愛を誓うよ。神にだって、何にだって」
「……亘さん」

 髪を撫でられ、紫子の目が細まる。と同時に、石上に連絡が届いた。不満げな素振りの紫子は、珍しく稚気を見せている。その彼女に沈黙のサインを送って、石上は携帯電話を耳元へ当てた。

「はい。ええ、お察しの通りです。――ええ。やり方は一存するとおっしゃられたので、そうしました。いささか乱暴ではありますが、効果は覿面でしょう。この機に乗じようという輩はすでに手引きしてあります。ほどなく、風華の地は飽和状態に陥るでしょう。であれば、僕たちの共通の宿願である黒曜の命も、貰い受ける機会が巡ってくるというものです。……ですから、必要な犠牲ですよ。そうでしょう? これまでだって何百年も、命を見捨ててきたのです。今回だけだなんてそんなうまい話はないのですよ」

 通話の相手は、口ごもる。
 石上は冷笑とともに、空を見上げた。

「そうそう、結城奈緒と玖我なつきがあなたを頼るかもしれませんが、心得ていますね。それをしては台無しというものです。彼女らこそ、尊い人柱です。――お願いしますよ、風花理事長」

 媛星の姿が、いまの彼には見えていた。

   ※

 風華市内で大規模な『爆発事故』が発生した同時刻、尾久崎晶は例によって鴇羽巧海の入院する病院へ足を運んでいた。決してほかにすることがないわけでも巧海にほだされたわけでもない、と自分に言い訳する晶の足取りは軽い。生まれてこの方得たことの無い気心の知れた友人を訪う楽しさに、彼女の鋭さは少しならず鈍っていた。
 心中、危惧を囁く声は確かにある。
 連日、一番地の施設を襲撃するHiMEの存在も正体も晶は知っていた。シアーズ財団と本社の間に不穏な動きが見えることも、異国の諜報員が風華市に潜り込んだことも心得ていた。この時点で、晶の持つ情報的なアドバンテージは市内を跋扈する組織と比べても決して遜色はなかった。そして晶の正体を知るものは、一番地を除けば間違いなく皆無である。そうした状況に対する余裕が、今ならば多少の油断は許されるという意識へ晶を誘導していた。
 スケッチブックを小脇に抱え、歩を進める晶の装いはいつになく軽装であった。襟ぐりが深く肩を露出し、つるりとした脛を外気にさらした格好は、少年と少女の区別を曖昧にさせる。その面立ちの端麗さもあいまって、今の晶を初対面の人間が見て男性と判じる確率は低い。言語と印象の狭間で、晶は巧海に自分の正体を見破られるかもしれない、というスリルを楽しんでいた。無論知られれば晶は巧海を殺さねばならない。だが晶が否定する限り巧海が真偽を判別する術はない。出目のわかっている博打はつまらなくも面白い。浮ついた気分で闊歩する晶はいま、少女でしかなかった。
 だからだろう。
 巧海の病室へ向かう道中、人間ではない少女人形とすれ違っても、全く気づくことはなかった。その少女が巧海の部屋に置かれていたノートPCを持ち歩いていたにも関わらず、晶は見過ごした。炎凪の隠行を一瞬で見破った彼女の犀利さは、このときどこかに捨て置かれていたのだ。

 病室の扉を開けるその瞬間まで、巧海の笑顔が自分を迎えてくれると、晶は信じて疑っていなかった。

   ※

 四年前、高村恭司の実家で、それは起きた。

 満天と身体を徹底的に圧する暗闇と、物理的な重量感。脊椎に何か平たく硬く重たいものが押し当てられ、内臓を潰そうとする勢いで迫ってくる。
 やがて、肺が持ち合わせた呼吸のすべてを諦めてしまう。酸素は血液からも搾り取られ、眼球は盲いた黒から眩んだ白を直視する。肋骨の軋む音が聞こえる。咽喉をなま暖かい流動物が通り過ぎる。鼓膜が高周波のような耳鳴りをとらえ始める。口唇から唾液の糸が落ちた。
 気がつけば涙も流していた。半身の感覚が失せていた。下腹部をあいまいに浸す不快な温もりは大方糞尿に由来するものであると想像がついた。惨めだった。だが惨めだから泣いているわけではない気がした。叫びを打つべき喉はただ胃液を生む楽器になっている。目は用を為さず涙滴を排泄し続ける。毛筋ひとつの身じろぎも許さない拘束は痛みと狂おしいほどのもどかしさを伴った。途切れる呼吸の狭間で言葉に満たないうめきがいくつもこぼれ落ちた。精神の汚濁を煮詰めて抽出されたその意思はいっそ純粋で、途方もなく美しいのかもしれなかった。ただし無意味だった。
 何の意味もない美しさが、どうしようもない無力さに符合する。遠彦に似た己の喘鳴を聞きながら、利己的な狂気と向かい合い続ける。音に届かない声を振り絞り続ける。
 願いがあった。
 単純なひとつの希求だった。それを自意識のゲシュタルトが砂礫になるまで繰り返しこいねがう。切望する。ほんのひとかけでもこの祈りが届くならば、他の何もいらないと心底思った。
 天河諭は死んだ。朔夜に殺された。その朔夜にしても最早死人も同じだった。殺してやるのが明らかに慈悲だった。だが手ずから教え子を殺める意気はない。どこか隔たった場所で誰かが朔夜に手を下すのだろう。それを悼むことを責務に選びたかった。たとえば優花・グリーアのデスマスクをまとったあの少女人形が、子犬のように自分に懐いていた娘を殺めるのだ。痛ましい出来事だった。永遠に距離を置いておきたかった。

 高村恭司は死にたくなかった。

 勇敢さを振り絞った瞬間もあった。ほんの数十分前の出来事だ。ある生命のために己が身命を賭すことにためらいも悔いもなく、彼は荒れ狂う怪物の鼻先に剥き身の魂をさらした。
 生まれつき、高村には極端な性が備わっていた。そうでなければ、行動力溢れる幼なじみに感化されたのかもしれない。普段の穏和さとかけ離れて、彼は必要と判断した暴力の行使にまったく迷いを覚えなかった。その根幹には他に類を見ない責任感か、もしくは使命感とでもいうべきものがあった。特に自任した役割を果たすためならば前後を省みないところがあって、そのために他者と衝突することさえまれにあった。今度もまた、異常な状況であっても、教え子のために危地へ自ら躍り出た。
 結果、家族が死んだ。
 陽気な両親だった。年を経ても夫婦仲はむつまじく、子供ながらに家庭では疎外感を味わうこともあったが、それでもふたりは一人息子に惜しみなく愛を注いだし、その甲斐と恋人の存在もあって高村の精神的自立は早かった。彼が家を出た後は、肩の荷を降ろした様子で、夫婦水入らずの生活を楽しんでいるのを、高村自身も屈託無く喜んでいた。今回、季節外れの帰郷にも、二人は素直に喜んだのだ。まさか、息子が自分たちの死を運んできたなどと、思いもよらなかったのだろう。
 自責はある。悔恨がある。怒りも復讐心も悲しみもある。だがそれらの何一つ、意味はなかった。高村自身もまた孤独と闇の中で息を絶やそうとしている。呼吸の実行さえ危ぶまれる危地に追いやられ、徐々に思考は単純な直線に集約され始める。
 過去も、未来も、消えていく。
 死がこころを埋める。いや、心そのものになる。希死と拒死の念慮がせめぎあい、言葉がほつれて形をなさなくなり、彼はやがて考えることを放棄する。

 ――。

 それは夢ではなく、彼の現実だった。それから四年近くが過ぎたいまでも、高村恭司の一部は同じ場所にいる。
 まぶたの裏には、暗闇や安息ではなくもう一つの世界があるだけだ。
 瓦礫に埋もれたすぐ傍で、だから彼はいつでも両親に会うことができる。入院中に荼毘にふされた二人は、彼の心象において一抱えの骨壷だ。ものいわぬ無機となった両親の名残を、悪夢にする己の心理を高村は憎む。
 長く退屈な夜を夢の中で過ごすことで、疲労は確かに癒えていく。だが、代償は重い。この場に立ち返るたび、高村は追憶を要求される。内界にあって外的な出力が働き、高村に最低の夜を繰り返し体験させている。
 何がそうさせているのかを、高村はすでに知っている。
 だが、何のためにこんな思いをせねばならないのかは、まるで理解できなかった。

「そろそろいくの?」という声は、優花・グリーアのものだった。姿はない。この世界で肉体をもつものは高村だけだ。
「そろそろ起きなくちゃな」と高村は答える。「いいかげん妄想と現実の区別がつかなくなってる。俺はもう飽き飽きしてる。懐かしいおまえの声をつかってありきたりな自問自答を繰り返したって、それはせいぜいトートロジカルな開き直りにしかならないんだ。ばかばかしいよ。そうだろう?」
「結局」声だけが、生々しい情感を持って、再現された。「恭司くんはもう、わたしのことは、消化してしまったんだね」

 高村は答えなかった。確かに、優花の夢などここ数年の間、一度も見たことがない。先刻再生された優花との思い出は、ジョセフ・グリーアと深優・グリーアによる処置のためだ。優花の面影を強いて悼むのは決まって深優を通してのことで、それはきっと薄情なのだろう。

「でも、もうすぐ会えるよ」と優花はいう。深優の顔で。深優の声で。
「でも、それはおまえじゃないんだ」と高村はいう。あたりを指し示して、どこへともなく言い聞かせる。「この世界と同じなんだ。どう思う? わかりやすい、陳腐な風景だ。まるでツールだ。罪悪感や後悔やらをいっしょくたにして、心象風景でございなんて顔をしてる。俺は正直、うんざりしてる。もうわかったよってずっと思ってる。十分苦しんでるし、そんなことを、わざわざ誰かに言い続けられなきゃならないなんて、自業自得とはいえ面倒すぎる。そう思わないか――『ほら、ここに傷があるぞ』って、いったい誰が誰へ主張してるんだろうな。俺か? それとも朔夜か? どっちにしても、妄執の産物なんだよ。それは希望なんかじゃないんだ。きっと、ただの慰めでしかない。そんなものなんだよ。本当に……」

 昨夜と同じだった。顔面が引きつっている。泣きながら目覚める感覚があった。
 だが頬に濡れた後はなかったし、泣き喚いたあとのような空虚さも感じない。
 あいも変わらず、眠った気がしないなと彼はごちた。

「本当に、惨めなだけだ」高村はあくびをしながら繰り返した。 

 寝台から上体を起こすだけの動作に、随分と労力を払わなければならなかった。清潔なシーツを握りしめ、歯を食いしばり、全身にびっしりと細かい汗を浮かべて、仕果たしたのがそれだけの運動だ。鍛えた肉体も、今は重たい枷でしかない。
 昨晩、一度目覚めた際、体の自由はまったく利かなかった。しかたなく目を閉じて都合のよい眠りを期待したが、意外と言うべきか、近年では稀有なほど熟睡したようだった。その間に深優・グリーアに押し倒された部屋からは移されたようで、見渡した空間の調度に見覚えのあるものはない。
 例外は、隣の寝台で目を閉じて仰向けに横たわる九条むつみだけだった。
 時間の感覚は曖昧だったが、およそ一日半振りの再会である。その間に、高村は見通しと満足な体をまた失い、むつみは右手の指をいくつか失った。それを示すように、むつみの右手先には仰々しい包帯が巻かれている。左腕からは点滴が延びて、微動だにしない顔の血色はとても悪い。麻酔が効いているのか、彼女は昏睡に近い状態にあるようだった。
 いまのむつみが夢を見るとすれば決して穏やかなものにはならないことは、高村にもわかる。彼女の眠りがなるべく深くあるように、高村は願った。
 数秒、むつみの寝顔を眺めていた。健やかとはいいがたい寝息を立てる女が、十七の娘を持つ母と言われたとして、高村ならば猜疑する自信がある。
 むつみはかつて顔を変えたが、美容整形ではなく単に外科的な処置であったと聞いている。だからか否かはともかく、彼女は決して非現実的な美貌を備えているわけではない。どんな目方にも符合しない若々しさがあるのでもない。むつみのまとう陰や儚さは、生来の雰囲気にとけて区別がつかないほどだ。能力やキャリアが飛び抜けたむつみに対して、若輩極まる高村が根本的な気後れを抱かずにいられる理由はそんな印象にあった。

「ナースコールがないのは残念だな」

 うそぶく高村は、断崖を臨むように恐々と寝台から足を落とした。半身の緩やかな麻痺は痺れに止まっている。自由は利かないが、ユニットが制限されたからといって完全な無感覚に陥ったわけではないようだった。深優の温情でないのならば、費やした数年が、高村の肉体を快方に向かわせているということだ。あともう何年かをかければ、生活に不都合のない程度の回復は望めるのかもしれない。
 意味は、全くない仮定だった。

「さて」

 目覚めたタイミングを計った誰かが、一から十までを説明してくれる幸運には恵まれなかった。であれば、彼が頼れるのは己だけである。
 九条むつみを覚醒させるという選択肢は浮かばなかった。怪我をおもんばかったためでもあるし、根本的に、彼女はすでに目的を果たした人間であると高村が判断したためでもある。実子に事実上の決別を宣言した直後の母親に、これ以上何かを要求するのははばかられた。
 無論、不要な気遣いではあった。高村にしてもそれはわかっていた。ただ、気の進まないことをあえてやるだけで好転するような状況ではないことを、悟っていただけである。
 足を引きずり、汗を垂らして、彼は部屋を出た。鍵はかかっていなかった。扉ひとつを隔てて、すでに見慣れた地下道に出くわした。潮のにおいと錆びた風。シアーズが一番地からもぎ取った空間に、人の気配はない。アリッサの騒がしい声も、深優の落ち着いたつぶやきも聞こえない。水路を流れていく水音を耳に捉えて、高村は歩きだした。
 目的であるジョセフ・グリーアの部屋からは、明かりが漏れていた。当然ながら地下には日の光は届かない。まばらに吊られた即席の電球が唯一の光源である。潤沢な光は闇の中で目映かった。
 高村は、ノックもせずに戸を開いた。
 視界に入る室内は、いつもと同じく意想外のギミックに満ちている。身震いするような室温と、仰々しくうなりをあげるサーバ、そして正装の神父の背中。モニタに向かい合い途切れなくキーをタイプする初老の男に、高村は声をかけた。

「お役に立てましたか」
「望外の結果だったよ」とグリーアは答えた。「すでに九割方、私という人間の目的は果たされた」

 振り返らない背中に、高村は白けた視線をぶつけた。古い知人に対するにしては、彼自身意外なほど冷え冷えとした心地だった。グリーアの能力と心境に対して嫉妬をしていることを、高村は自覚した。

「グリーアさんの九割は、優花が持っていってしまったんですか」
「そうではない」グリーアは手を止めずに答えた。「あの子の死は、やはりあの子だけのものだ。私はただ、傲慢で勝手なだけの父親だし、人間だよ。愛がそうさせるのだとは、言うべきではないな。きわめて利己的な感情に基づき、私はあの子を再生させようとしている。……ああ、これで最後だ」

 そこでようやく初老の神父は高村へ顔を見せた。差し迫った状況下だからというわけでもなく、グリーアの面貌に高村は不意をつかれた気がした。
 老いた男がそこにいた。優花はグリーア夫妻にとって遅くできた娘ではあったが、それでもジョセフ・グリーアは未だ壮年といっていい年齢のはずである。激務による疲労や、愛娘を失ってから過ごした年月が、彼から様々なものを取り去ったのは間違いない。時間、若さ、信仰、倫理、あるいは他のなにか。たとえば、ありえたはずの生き方すべてだ。
 それを惜しむ男には、きっと深優・グリーアを起動させることはできなかった。正誤はいさ知らず、高村にしてもその点には感服する他ない。
 高村と視線を交わして、グリーアは微笑した。到底、神のしもべにふさわしい穏和な笑みではない。野心の成就に手をかけた男のそれだった。

「まず、何を措いても礼をさせてくれ」グリーアは真摯な瞳で高村を見つめた。「きみなくして、深優の……今のかたちでの完成はありえなかっただろう。ありがとう。本当に、ありがとう」
「その言い振りだと、俺抜きでも完成形はいくつか見えてたようですね」
「それは当然だ」グリーアはいった。「結局のところ、作品としての深優とは、やはりユグドラシルユニットの入れ物でしかない。パーソナリティは堅持せねばならないが、それが人為的なものである必要はなかった。むしろ、余人の意思が介入することは好ましくなかっただろうな」
「でも、あなたは深優をつくった」高村はいった。「優花に似せた顔、保存された生体部品に、声色。からだつきまで、そっくり仕立てた。俺は、四年前に彼女をみたとき、優花が蘇ったのだと思いました」
「それはとんでもない誤解だ。心外なほどだ」グリーアはいった。「四年前のあれを優花と間違えるなど、娘への冒涜だよ、高村くん。深優はあくまで器にすぎない。優花のアイデンティティに連続性を持たせるための、いわば演出の一環だ。開発の進展にともない、赤子も同然だったインタフェースに、パーソナリティともいうべきルーティンが生じたのは望外の結果だった。長足の進歩なのだろう。だが、それでもやはりMIYUとはいまだスタブ以上のものではない」
「そうですか」高村は神父の多弁に抗さなかった。信念を持った人間と論議することの無意味さは知っている。

 ジョセフ・グリーアには悲願がある。
 死んだ優花・グリーアの復活である。
 無論、狂気の沙汰でしかなかった。ジョセフ・グリーアが聖職にあることも、同時に科学者であることも問題にはならない。
 なぜならば、人に魂はない。
 高村には不思議な確信があった。突発的な不遇が植え付けた後遺症なのかもしれない。宗教や思想、信心や志操は関係ない。この世界の人間は、誰一人、魂と呼ぶべきものを有していない。
 その点において、高村はグリーアほど深優と優花を区別はしていなかった。両者の隔たりは、魂や精神の有無ではない。もっとずっと私的で卑俗な差異である。生前の優花を知らない人間にとり、深優は深優でしかない。あるいは兵器であり、あるいはアンドロイドであり、世界を救う鍵であり、従者であり、少女なのだろう。それは深優だけが持つ特殊性であって、優花・グリーアの入り込む余地は無い。

「深優があなたにつくられたと知って、まず疑ったのは技術よりも正気でした」
「私のかね? それとも君の?」グリーアがいった。「だが、君がいまペンディングした技術という一面をとっても、MIYUは狂気の沙汰なのだよ。いまのユニットが本番運転に漕ぎ着けるまでに、どれだけの人材と時間が費やされたと思う? そしてそれらのほとんどは、実質無為だったのだ。入力、出力、学習、データベース、……そもそも、既存の設計という概念では、人間はつくれない。まあ、システムと人間性は、根本的なところで相反する。これは致し方ないことだ。開発モデルそのものを一から創造するようなもので、完全性など求めるべくもなかった。みなが本音では思っていたのだ、『こんなものなど実現できるはずがない』とね。だから、奇跡に頼るしかなかった。……そして人為の奇跡は起こり、すべての障害と労力を取り払い、実現に手をかけたところで、人間らしい人形のプログラムが出来上がるだけだ。レプリカですらない。ただの模型、おもちゃだよ」
「知性や知能の創造というだけなら、何もHiMEを用いなくとも可能性はあったと聞き及んでいます」
「そうだな」グリーアは頷いた。「私の思う困難さとは、結局優花の再生に根付いていた。何が娘を娘たらしめるのか。それは肉体、記憶、環境、そして選択の蓄積と、観点だ。このうちいずれか一つでも瑕疵があれば、それはよく似た別人となる。いや、そもそも――」
「同一人物をつくろうという意思が働いてしまっている」高村は呟いた。「その想いがある限り、まったく同じものを作り上げたとしても、意味はない。それは畢竟高度な作品でしかないからです」
「そうだ。だから、私は優花をつくろうと思ったことはない」グリーアは瞳を伏せた。「技術、資源、能力、すべて瑣末だ。ひとを蘇らせるとはそういうことではない。発想が間違っているのだ。ほんとうにかけがえの無いものを、また作り直そうなどと、造物主どころか人間そのものへの侮辱なのだ」

 だから、と神父は語った。

「私は死の定義を変えた。すると、道は開けた。優花は、ここに、そこに、確かにに生きている」グリーアの指が、自身と高村を順繰りに指した。「きみが言うとおり、世界も私も狂ったのだろう。量化された想念など、もはやメルヘンの領分だ。だが実在するとあらば、その狂気をこそ、私は歓迎する」

 言わんとするところを悟って、高村は渋面をつくる。
 グリーアの言葉は、額面そのままの意味だった。胸の中の面影を偲ぶ行為。それは健全な追悼である。擦り切れるほどに使いされたフレーズで、つまりはそれほど多くの慰めを与え続けた概念だということだ。
 だが、この場でのそれは、百八十度意味が変わっている。
 かつて、高村恭司は優花・グリーアの短い終生を伴う恋人だった。実父であるグリーアを除くか、あるいは含めても、優花についてもっとも多くの記憶を保持しているのは高村に違いない。優花自身がある時期から寸毫も高村について離れなかったこともあり、客観的な視座において、高村と優花の歴史は大部分が共有されている。
 身体の不具を解消しうるユニットの移植と引き換えにグリーアが高村に求めたのは、まさしくその記憶だった。同時に、高村自身の肉体にも、HiMEは綿密に関わっている。ユニットを完成させても優花の復活に挫折していたグリーアにとって、高村の存在は天恵そのものだった。高村の体を切り開き、心を供託することで、グリーアは彼岸の娘へと距離を詰める。高村は生きる目的と理由を同時に手に入れる。
 誰にも損の生じない取引だった。高村が後ろめたさを感じるとすれば、それは彼自身の『優花』に対してだ。それはやはり、グリーアの想う『優花』とは異なっているのだろう。

 記憶から実存を取り出す。
 失われた命を、情報として再生させる。

 グリーアが今まさに手をかけている優花・グリーアの蘇生とは、その不可能事の実現に他ならなかった。

「画餅のような話ですよね。絵に描いた餅を、取り出して食べてしまう。まるで頓知だ。そしてそれはどちらかというと、哲学の領分なんです」と、高村はいった。「現象に対置されて本質が存在し、世界という相を見る人間は態という視点に縛られる。人類に次の進化があるとすれば、それは精神的なものだろうなんていうのは、古今SFで使い古された命題ですよ。その意味で、ワルキューレの特性はこれ以上ないブレイクスルーだっていうのは、何も理論を知らなくたって感覚的にわかります」
「とはいえ、その悟性の体得はきみ独特のものだ」グリーアの瞳に、わずかだけ酷薄な色が差した。「そう日本語をめかしこまなくとも、結果はシンプルだよ。空想を実現させる力。それを技術によって後押しすれば、この世に悉皆死別の悲劇は消えうせる。わかるだろう、この意味が。天国が、降りてくるのだ。なあ、高村君。私には見えない媛星とは、結局のところ人類が神代から空想し続けた『死』という概念の顕現なのだと感じるよ。そこには全てがあるのだ。喪われたものが、古今、誰もが観測し得なかった想いとやらが……」

 熱っぽく語るグリーアへ反駁しかけて、高村はその無意味さを悟った。紛れも無く高村はグリーアの協力者だったし、そもそも優花が真実蘇るというのならば、倫理はどうあれ、高村恭司はそれを否定できない。むろん歓迎することもできない。波のまにまに遊ぶように、成り行き次第で対応はどうとでも変わることだろう。
 生命そのものの在りようが問われる命題であろうとも、高村を悩ますのは卑近な疑問だった。果たして、そうして復活を果たした優花・グリーアは、いまの自分を見てどう思うのだろう? 高村にとって肝心なのはその点だけだ。他は想像すら覚束なかった。

「お疲れ様です、としか俺にはいえません」高村はため息をついた。「ともあれ、これでもう、俺に支払えるものはすべて支払いました。首尾も上々なんでしょう。……深優は、どうなるんですか?」
「どうにもならない」グリーアは答えた。「あれはあれだ。……予想外といった顔しているが、それほど不思議なことかね? どれだけ膨大な情報量とはいえ、人間一個の人格に左右されるほど、MIYUは柔ではない。ユグドラシル・ユニットというオペレーティングシステムが、深優・グリーアというハードウェアにインストールされている。この上に走るアプリケーションが人格だ。一つや二つ追加されたところで問題は生じないさ。ユニットにとって、個性とはその程度のものでしかない。ただし、ダウンロードと再構築には相応の……そう、少なく見積もっても数十日の時間は要するだろうがね」
「そのころに、世界があればいいんですが」
「似合わない台詞だな」グリーアは痛ましげに高村を見た。「いまのきみを見れば、優花は悲しむだろう」
「いや、それは絶対にないです」反射的に高村は反駁していた。口にしてから、わずかに驚きを見せるグリーアを認めて後悔をおぼえた。「……ないと、思いますよ。あいつは、そういうのじゃない」
「そうかね」やや気分を害した様子で、老神父はいった。「いま、懐かしい感情をおぼえたよ。きみに対する嫉妬だ。わたしの知らぬ娘の一面を知るきみへのな。まったく、父親などなるものではない。そうよく思ったものだ。最終的には、愛娘を他の男にやらねばならない。無様な感情だ」

(でも、優花は死人だ)

 胸裏に湧いた思いを、高村は言葉に換えなかった。分別ではなく、グリーアへの共感がそうさせたのだ。

「……それで、これから俺をどうするつもりなんでしょう」
「アリッサ次第だな」グリーアの返答はあっけないものだった。「あれが敗北し、死ぬようなことがあれば、きみは自由だ。同様にきみへの興味を失っても、きみは自由になれる。気に入らないからと殺せるほど、あのアリッサも幼い性分ではないからな。だが、きみがどこかで期待しているように、父であるシアーズ氏を差し置いてきみを第一に思うようなことはないよ。こればかりは、プロダクトとしてのアリッサの基本要件なのだ」
「そこまで虫のいいことは考えていませんよ」
「そうかね」グリーアは鼻を鳴らした。「――早い話が、ほんとうにきみがわれわれを見限りたいのであれば、アリッサに嫌悪の情を告げればいいのだよ。あるいはあのひたむきで幼い好意を踏みにじればいいのだよ。赤子の手を捻るように簡単なのだ。それを知り、しかしきみは、アリッサの望むように振舞っている。深優をまるで独自の少女のように扱っている。それでいて、まるでこちらに現状の原因があるようなことを言う。それは、どうなんだね? ほんとうに、きみに問題がないといえるのかね?」
「いえませんね」強いてあっさりと認めることで、高村は正論の痛みを韜晦した。
「まあ、しようがないことだ。この数年、きみにとってわれわれは新たな家族だった。分かちがたく思うのは、人情というものだ。――だが、未熟だな。なあ、高村くん。私ときみは古馴染みだ。だからとは言わないが、老婆心ながら忠告させてもらうよ」

 そこで神父は、高村をじっと見詰めた。彫りの深い造作の奥で、灰色の光が揺れていた。

「きみには無理だ」とグリーアは言った。「誰かを見捨てることも、生き延びるために自侭に振舞うことも。ましてや世界を滅ぼすことなど、夢物語を通り越している。ただのポーズだよ。無様だし、哀れだ」

 生理反応に近い怒りが、高村の喉から漏れかけた。それを押しとどめたのは理性ではない。
 グリーアがデスクの抽斗から取り出した拳銃が、高村へとその銃口を向けていた。
 予想だにしない、というほどの出来事ではなかった。高村とて、想像もしなかったわけではない。ジョセフ・グリーアが亡娘へ向ける愛情は常軌を逸している。その質量ではなく、形態が狂っている。性器まで具した、娘の似姿を取らせた人形を作る。蘇生を目論む。知性を与える。空想の段階に、誰もがとどめざるを得ない絵空事を実現させつつある。
 それはもう、愛ではない。少なくとも高村の感性は、もっと悍ましいものと捉える。
 一度も口にしたことも突き詰めたことも無いが、彼はグリーアの情念を単なる親心とは捉えていなかった。

「なにを――」高村は押し殺すように囁いた。「裏切るんですかだなんて、言ってしまえば、さすがに見下げられるんでしょうね。俺を殺すのは……、嫉妬ですか?」
「そんな気恥ずかしさを誤魔化す半端な分別こそ、わたしがもっとも見下げ果てている部分だよ」凶器にそぐわない穏やかな声音でグリーアはいった。「ずっと不思議に思っていた。優花はなぜ、きみを選んだのだろう? 親の欲目ではあるが、あれはできすぎた娘だった。容姿も、知性も、才能も、常人の枠に留まるものではなかった。誰より広い世界を見る高みへ、たどり着ける子だった。幼い時分でさえ、そう感じていた。だが、あれを地に縫い付ける何かがあったのだ。飛ぶ羽を温存して、空を舞うことよりも優先すべき何かを、選んでいる風情があった」
「同じ事を、俺も思ってましたよ」高村は卑屈に笑った。「あいつは何かに追い立てられてた。生まれながらに制限されていた。そしてその中で、俺を……俺と、いなきゃいけない理由があったみたいだ。結局それは、わからずじまいでしたが」
「そうだな。きみは結局、何もわからない。だが、わたしにもひとつ言えることがあるよ。それは、だからといってあの子が嫌々きみといることを選んだわけではないということだ」

 グリーアの手の中でバレルが回転した。銃把を高村に向けて、神父に似つかわしくない仕草で肩をすくめる。

「撃つ権利は、あると思いますよ」恐々としつつも高村は強がった。
「きみの体を人でなしにした。それだけでも、娘を取られた代価にしては大人げがなさすぎたほどだ」グリーアは笑おうとして失敗したようだった。「……きみの殺害命令は出ていない。また、今の時点ではだれもきみの消滅を望んでいない。海上にいるアリッサは、きみをつかって何かを企んでいるようだ」
「海上の……?」

 不自然な表現に対して、高村は首を傾げた。

「ああ、そうか。それもきみはまだ知らなかったな」グリーアが大儀そうに息をつく。「いま、きみがよく知るアリッサ……あれが正常に分娩された存在でないことは知っているね。そしてまた、そうした『アリッサ』がひとりではないことも」
「それは、まあ」高村は頷いた。

 七月の終わりに、玖我なつきの部屋で聞いたせりふが脳裏を過ぎる。
 ――もうひとりのアリッサ・シアーズが、創立祭の日にわたしに接触してきた。

「九条さんから聞いてもいますし、最初に会った深優もそんなことを言っていました。……つまり、もうひとりのアリッサちゃんがいて、その子も日本に来ているってことですか?」
「そうだ」グリーアは首肯した。「アリッサという名前は、ずいぶん以前に亡くなったシアーズ会長……『元』会長の娘の名だよ。生まれつき免疫系に不備があり、延命のため人も設備も惜しまなかったが永くは生きられなかったと聞く。それで妄執にとりつかれるというほどシアーズ氏はナイーブではなかったが、彼がこの世ならざる力に本腰を入れ始めたきっかけにはなったのだろう」

 財界に伝説を残したほどの男が、娘の死によって歯車を違えた。そんな悲しい、だがありきたりな話ではないようだった。九条むつみやジョセフ・グリーアから伝え聞くシアーズには、ほとんど人間性らしきものが見出せない。娘と同じ名前を持つ少女に異能をパッケージングして戦場へ送り込む心根に、親心など汲み取れるわけもない。

「元々、シアーズという集団は」高村はいった。「魔術結社というか、オカルト的な集団に起源があったと聞いていますが」
「起源は起源だ。間違いはないのだろうが、それは本分とは別のものだよ」と、グリーアは答えた。「……さて、『アリッサ』たちは代を重ねる。亡者を連綿と襲名していく。それはいつしかシアーズの一部で人工生命研究そのものを指す言葉へと変わった。クローンが絵空事ではなくなっても、会長の感心は肉の器にはまるでなかった。彼はひとの意識そのものを解き明かしたがっているようだった。だから『アリッサ』は様々なかたちで生成された。ゴーレムだとか、ホムンクルスだとか……話しているほうもが恥ずかしくなるような単語だが、その題目のために行われていることはれっきとした学術的な研究だった」

 その話し振りに、高村はふと閃くものがあった。

「グリーアさんとシアーズとの付き合いは、ひょっとしてその頃から?」
「そうだ」グリーアは苦笑した。「さすがにかつて鳴らしたとはいえ、所帯を持って後島国にこもって時折学会に足を運んでいた程度の身分でシアーズにポストは貰えん。そういった意味では、アリッサの誕生にもわたしは関わっているといえるかもしれない。――そうして創りだされた『アリッサ』だが、この名を名乗れるのはもっとも優れたナンバーだけだ。つまり、最高の高次物質化能力を保有し、最強のチャイルド、メタトロンを従える160番目のあの子のことだ。だから、厳密には『もうひとりのアリッサ』という言い方は正しくない。いま海上にいて黄金艦隊の名代となっているあの少女は、『前代のアリッサ』と呼ばれるべきなのかもしれんな」
「俺の信じていた常識ってものは、世界のいろんなところで踏みつけにされてる」高村は不快感を吐き出した。「もうひとりだの前代だの、コピーペーストするみたいに軽々しいですね」
「それでも、こと『アリッサ』に関してはそう表現するしかないのだよ」グリーアは淡々と告げた。「父性への渇望を生後すぐ定着させられる彼女らは、ここ十年の間に猛烈な勢いでプロダクトされた。無論倫理はもとより法に背く行いだったから、一時はFBIに尻尾を掴まれかけ、財団が危地に追い込まれかねない場面もあった。だが会長は生産ラインを止めようとはしなかった。誰が見ても自滅行為だったのに、彼にはなんとしても間に合わせる必要があったのだろう。この地で起こるであろう『蝕の儀式』にね」
「まず、どうやったら世界有数のお金持ちが、日本のローカルなフォークロアに興味を抱いたのかが気になりますよ」
「答えは簡単だ」とグリーアはいった。「彼が蒐集した末世の神話とはなにも日本に限ったものではなかった。世界中のありとあらゆる滅びの歌をシアーズ氏は集めた。財団の力を使ってね。文化的側面もある、というより文化的側面しかない行いだったが、キャッチィな題材であるだけに資料や研究者には事欠かなかったようだ。きみの師であったアマカワ・サトシもそのなかのひとりだよ」
「先生のことは興味深いですけど、それ、答えになってないですよね」論点の摩り替わりを、高村は指摘する。
「ふむ」

 問われ、グリーアは口を閉じた。これまでの饒舌さがなりをひそめて、表情に苦いものがきざし始める。手元の拳銃を今さら持て余したかのように眺めると、早口で呟いた。

「シアーズ氏には疑念があった。あるいは確信を持っていた。だがその確信には根拠がなかった。ある種の妄想に衝き動かされていたのだと見るべきなのかもしれない。その裏づけを得るために、シアーズ財団は創設された」
「お金持ちの考えることってのはわかりませんね」高村はいった。「で、結局なんのためにですって?」
「世界配列(ユグドラシル・ユニット)を証明するため、だそうだ」グリーアはつまらなげに告げた。「率直に言って、錆付き、古びた世界観だよ。シェークスピアよりもずっと前から、賢しらな人々の口にのぼりつづけた考えだ。いわく、この世は大樹である。枝葉は可能性である。幹は時間である。そして樹幹は……終末である。われわれは神ではなく、それを模したシステムによって幾度と無く生まれ、滅び、再生し、また滅んでいる。繰り返し、繰り返し、可能性の粒が現在時点に堆積し続けている。それらは無限のシークエンスを経てあらゆる事象を孕んでいる。奇跡は、だからやすやすと引き起こされる。ある種の人間にとって、祈りとは通天するものではなく手指で引き寄せるものとなる。だから――」

「だから世界は、傾斜している」

 口をついた言葉は、高村本人のものではなかった。どこかで誰かに囁かれたものだった。だがグリーアの言葉を、高村は実感を以って受け入れることができる。
 疲れた口ぶりで他者の思想を語ったグリーア神父は、同情を込めた目で高村を見つめた。

「馬鹿馬鹿しい話だ。子供の妄想のような思考実験だ。だがきみもグリーア氏も、どうやら思い当たる節があるらしい。であればひょっとしたらわたしも、この荒唐無稽な論説の支配下にあるのかもしれんな。だが、どちらにせよ、きみらは哀れだよ。いまやわたしがいえた義理ではないが、主はお嘆きになるだろう」
「グリーアさんは信じてないんですか?」むしろ意外に思えて、高村は首を傾げた。「では、高次物質化能力っていったいなんなんです? ひとの想念を物質化させる現象なんて、そもそも理にかなってないんだ。俺は、わかる気がします」
「そうではない。わたしが哀れといったのはスタンスの問題だ。高村くん。きみは、そしてシアーズ氏も、『それ』と戦う気でいる」
「そこまで大層な心がけかはともかく、まあ、お気持ちだけありがたく受け取っておきますよ」高村は微笑んだ。「さて、随分長々話しましたね。どちらにせよこの体じゃあ満足に逃げられるわけもないですけど、結局あなたは俺に何がいいたいんですか? まさかお礼を言いたかったわけでも、思い出話をしたかったわけでもないでしょう」
「ただの気まぐれだよ」グリーアが笑う。「きみはその身ひとつでこれからも戦おうというのだろう? シアーズとも、一番地とも。ならば、その敵についてわたしの知る情報くらいは与えようと思っただけだ。なにしろ高村くん、きみはあるいはわたしの息子になっていたのかもしれないのだから」
「……そうですか」グリーアの率直な厚意は複雑な思いを高村に与えた。発言を素直に受け止めることができないことも、居心地の悪さを助長する。

 うなだれかけた高村に対して、グリーアが無造作に銃を放ったのはそのときだった。とっさに左手で銃身を受け止めて、高村はグリーアの真意を探る。

「こんなもので、俺に何をしろと? 自殺を勧めてるんですか?」
「それだけは絶対に許さん。きみ、わたしの生業を忘れたのか?」唐突なほどの剣幕でグリーアが高村を睨み据えた。「くだらんことを言うな」
「ご、ごめんなさい」反射的に頭を下げかけて、高村は幼年期の呪縛について苦々しく思いをはせた。「じゃあ、あなたを人質にでもとれっていうんですか?」
「その必要はないだろうな」とグリーアはいった。「この場からきみが逃げるための用意は別にしてある。……コード・アルファ・セブンナイナーだ」
「Aの79番」高村はいぶかしげに繰り返した。「なにかの符丁ですか」
「深優に仕込んだ裏コードだよ」グリーアがこともなげに答えた。「一時的にプライマリを上書きすることができる。だから当然、深優に『見逃せ』といえば通じるだろう。仮に自害を命じたとしても、恐らく強制させられる。ただしアリッサについてだけは……何が起きても不思議ではない。保障はしかねるな」
「そんなことするわけないだろうが」語気荒く高村はグリーアの語尾を奪った。「わからないな。ほんとうに、あなた、俺に何をさせたいんですか。深優の裏コードだって? 馬鹿馬鹿しい。あんな機密の塊に、たとえ製造責任者だろうがそんなデッドロジックを誰にも気づかせないで仕込めるわけがないでしょう」
「普通ならそうだ。普通ならな」含みを持たせた口調だった。「使うも使わぬもそれはきみの裁量だよ、高村くん。まあ、まだ時間はたっぷりとある。深優やアリッサが戻ってきたところで、決断をしなければならないわけでもない。いずれにせよ、シスターむつみの覚醒を待たないわけにはいくまい? きみはこのところ働きすぎたし、傷つきすぎた。休む時間が必要だよ。さあ、改めて、祝杯を挙げようじゃないか。我らふたり、形は違えど優花を愛したもの同士なのだから」

 高村に否やはない。思考は完全にグリーアの言葉に奪われている。否定を口先だけのものにしない自信は、彼にはなかった。

   ※

 白昼、衆目のある街をチャイルドが疾駆する。頭上を飛翔する異形にまるで気づかないものもあれば、不可思議な視線を送るものもいた。ただし大多数の興味は爆発の起きたアウトレットモールに向いており、人々は消防車や救急車の出動がないことに首を傾げている。
 意識の合間を縫うようにジュリアが跳んだ先は、玖我なつきの指示したマンションだった。奈緒はそこで初めて、二日前まで自分も入り浸っていたマンションになつきが住んでいることを知った。
 深優・グリーアの指示に従うにせよ従わないにせよ、奈緒には治療が必要だったし、なつきにも考える空間が必須だった。チャイルド一度送還し、自室に奈緒を招き入れたなつきは仏頂面のまま部屋中をひっくり返した。沸騰を知らせる薬缶と同じ頻度でため息をつきながら、彼女が奈緒へ放り投げたのは消毒液と包帯、湿布である。

「自分の世話くらいは自分でできるな」

 なつきは反問のいとまを与えずそう言い切ると、服を脱いで浴室へ飛び込んだ。ほどなくシャワーの音が聞こえ始める。
 奈緒は不慣れな手つきで擦過傷と打撲を処置すると、石上によってつけられた切り傷へ慎重にふれた。予想に違わぬ鋭い痛みが患部に走る。だが痛みそのものはさして問題ではない。膝下からふくらはぎにかけての麻痺こそが深刻だった。石上の一刀は奈緒の筋骨を断ち、神経までをも傷つけている。HiMEの力が肉体の性能をどの程度向上させるかについては、具体的な指標はない。奈緒はこの麻痺を快癒への過程であると楽観することにした。いまこの時に、傷の容態を深刻にとらえても処方はない。石上の言を信じるならば、病院へは駆け込めないのである。
 陰鬱な吐息を漏らして、奈緒は玖我なつきの部屋を一通り品定めした。まさか足を踏み入れるとは夢想だにしなかったが、まったく奈緒の印象を裏切らない光景だった。とうてい、高校生が一人で暮らすような物件ではない。

「はあっ……」

 ソファに体を沈めて、中空を仰ぐ。蛍光灯のカバーにうっすらと積もるほこりが見えた。何の気なしに壁時計へ目をやれば、まだ正午にもならない時間帯だった。これから訪れる一日の長さを思って、奈緒は今更ながらにおののいた。
 その震えに同期するように、携帯電話が着信を知らせた。液晶にはついぞ登録した覚えのない深優・グリーアの名が浮かんでいる。訝ることも面倒で、そういうものかと納得した。呼吸をひそめ、奈緒は唇を手中に寄せる。

「もしもし」
『そこにこれから敵が訪れます』

 深優の言葉は直接的にわかりやすく、だからこそ難解だった。

「……なんて?」
『私が人間ではないことはご存じですか』
「いちおう、高村から聞いて、知ってはいるけど」実感しているかと言えば、否といえた。科学的な常識云々ではなく、そもそも深優ほど精巧な人形と人間の区別が、奈緒にはつけられないためである。
『貴女がいまいる玖我なつきのマンションに、私の同型機が向かっています。数は二。戦力は、現時点でやや私に劣る程度でしょう』
「はあ」実感の薄い危険を知らされて、奈緒は曖昧に言葉を返した。「そいつらも、なんていったっけ、アンド……ロイド、だっていうわけ?」
『少なくとも一機はその通りです。もう片方は、人間の姿態とはいえない匡体ですが』
「ふうん? そいつらを使ってほかのHiMEと戦えっていうことか。気が利いてるじゃん」
『いいえ』と深優はいった。『二機の目的は玖我なつきの身柄を確保することです。つまり、我々とは敵対的な勢力に分類できます。貴女の殺傷も含めて、手段を選ぶことはないでしょう。本来であればこちらで対応する予定でしたが、玖我なつきが貴女についたため、即応した模様です』

 数秒、奈緒は耳元から携帯電話を引き離した。喉元に不快感がこみ上げ、下腹部に得体の知れない重みが加わっていく。服のボタンをうまく留められない時のような、発作的で衝動的ないらだちが心身をさざ波立たせる。瞬時の激発を抑えたのは生傷の痛みと、そして嘆息の効能だった。

「つくづく、あの女は疫病神ってわけだ」奈緒は口調にあきらめをにじませた。「それで、いつごろ来そうなの、そいつら……」

 尻すぼみの語尾にかぶせるように、スピーカが突然のノイズを吐き出した。擦過音に似た音響は一瞬で止み、代わりに澄んだソプラノが奈緒の耳朶を打つ。

『今』

 明らかに深優・グリーアの音声ではない。
 そしてとうてい、人工のそれとは思えぬ発音だった。

『――すぐに』

「そう」

 奈緒はすでに装着していたエレメントを解放した。

「ま、そんなとこだろうと思ってたわよ」

 そうして、煮詰めたような刹那が訪れる。
 瞬間の火花に似た複数の事態が、玖我なつきの部屋を襲った。
 衝撃は下方と左方、二面から訪れた。甲高く耳障りな音が、堅牢な玄関の末期を知らせている。廊下に対して水平に飛ぶ扉という光景は、少しだけ見応えがある。ソファの上で反動をつけて立ち上がった奈緒の足に、激甚な痛みが走る。安っぽいジオラマのように崩れ始める床下を眺めやり、片足で飛んだ直後、下方から現れた直径二メートル弱の半球がソファを弾きとばした。エレメントを天井に突き立てた奈緒は空中で揺らめきながら、黒く光沢を放つその物体を観察する。
 半球の全容は、一見ジュリアに似たフォルムを持っていた。昆虫的なシルエットからはマニピュレータが突き出ており、アシダカクモに近い機動で自ら突き破った床から這いだそうとしている。80年代後半のB級アクション映画の敵役を思わせる見目である。
 顔をしかめた奈緒が視線を転じた先には、ありふれた格好の少女が、ありふれた笑顔を浮かべて立っていた。姿形から唯一見いだせる奇異な点は右手に握ったコンバットナイフで、刃渡りだけで三十センチはある得物は鈍く輝き、奈緒の脳裏に石上亘の白刃を連想させる。
 玖我なつきが濡れ髪をなびかせ、全裸にタオル一枚を引っかけて浴場から飛び出してきたのはその瞬間だった。
 出し抜けに刃物を持った人間に対する反応としては、なつきの対処は完璧を通り越して出来すぎているといってよかった。なつきの露わな姿を目にした少女が何事かを口走ろうとしたのと同時に、水滴をまとった裸足がひらめいている。上体を反らせて一撃を回避した少女の胸を、返しの足刀が押し退けた。バランスを崩して廊下の壁に背をついた少女の顔面を、三度蹴撃が襲う。
 塗り壁と少女の後頭部が激突し、不吉な音を立てた。

「なんだ! なんなんだいったい!」着地した勢いで盛大に足を滑らせたなつきが、心底慌てた様子で叫んだ。「どうなってるんだおい、――っと!」

 艶やかな髪が水しぶきと軌跡を置いて宙を滑る。尻餅をついたなつきの足があった場所へ、少女が振り降ろしたナイフが突き立った。側転して難を逃れたなつきの肢体から、水気を含んだタオルがはらりと落ちる。

「あんたが目当てなんだって」投げやりに奈緒はいった。「シアーズからのお客さん」
「わたしに? シアーズが?」目を白黒させかけたなつきは、瞬きひとつの間に事情をほぼ了解したようだった。「……こんなざまだということは、グリーアやアリッサとは別口というわけか。くそ、面倒にもほどがあるぞ。落ち込んでいる暇もない。……くちっ」
「へんなくしゃみ」奈緒はいった。

 振り子の反動をつけて、崩落した床を飛び越え、ベランダ側へ降り立った。踏みしめた地面に危なげな印象はない。伊達に高級マンションではないということなのか、豪快に床を砕かせながらも、即座に部屋ごと崩壊する気配はなかった。
 玄関からは、ナイフを持った少女、ほぼ全裸のなつき、オーファンに似た怪物、そして奈緒という位置取りになる。

「あたしがいちばんまともなわけだ」全身に塗り込まれた倦怠と傷痍の疼きに渋面をつくって、奈緒はつぶやいた。

「提案がある」赤面してタオルで前を隠しながら、なつきが少女向けて挙手をした。
「はい。なんでしょう」

 存外、穏やかに、見知らぬ少女は応答した。なつきは意外げに眉を上げながらも、投げやりな調子でこういった。

「まず服を着させてくれ。話はそれからだ」
「バカなの? 死ねば?」奈緒は反射的に感想を述べていた。
「なんとでもいえ」なつきは真剣だった。
「どうぞ」少女は朗らかに快諾した。
「いいんだ……」
「いいのか……」

 もそもそと髪を拭きながら、なつきは少女を警戒した素振りで脱衣所に出戻った。
 渦中の標的が消えてしまうと、場には自然、居心地の悪い沈黙がやってくる。そろりと怪物から距離を取る奈緒を、少女のまなざしが柔らかく貫いた。

「貴女に関しては、特に用事もないのです。邪魔をしないのであれば、ここから消えてかまいませんよ」

 おや、と奈緒は思った。

「それは結構なんだけど、そもそもどいつもこいつも、玖我になんの用があるのよ。いっとくけど、あいつはもうHiMEじゃあないわよ」
「ワルキューレの資質は、この際問題ではないのです」少女は親切にも返答をしてみせた。「アリス・エーのアクセス権限を彼女が有していることこそが問題なのですよ」
「アリス・エー?」奈緒は鸚鵡返しにつぶやいた。
「Artificial-Legion-Yggdrasil-System of Synonym-Alyss――ただのノタリコンですわ、お嬢さま」
「はあ」奈緒は乱暴に髪を掻き毟った。「そういうさぁ、意味ありげな単語とか口走るけど、説明してるようで、実はわからせる気とか全然ないってやつ。あんたロボットっていうわりに、ニンゲンの頭悪いとこマネしてんのね」
「おっしゃる意味がわかりかねますが」人工的な微笑を崩さず少女はいった。

 頬にかかる髪を払うと、奈緒は唇を吊り上げた。

「ぶっ壊れろって言ったんだよ」

 刹那に部屋全体に紅い死線が張り巡らされた。5センチ辺で編み上げたエレメントの壁が、奈緒と襲撃者の狭間に現出する。首を掻き切る仕草と同時に、調度もろとも獲物を切り裂く格子がほとばしった。
 少女と異形の動作は全くの同時だった。奈緒に向かうのではなく、なつきが引っ込んだ浴室周辺を守る位置に布陣する。完全に予想通りの動きを見せた相手に、奈緒は笑みを深めた。

「バラバラになっちゃいな!」

 梁や鉄骨が致命的な傷を負う音が聞こえた。今度こそ本格的な崩落が始まる。揺らぐ足場を確かめ、ジュリアの召喚に意識を割きながら、奈緒は半球形の瘤を背に持つ異形へエレメントが食い込む手ごたえを感じていた。
(よし、押し切れ、)

 奈緒の頬に爪先が食い込んだ。

 疑問や衝撃、痛みを置き去りにして、奈緒は床に叩きつけられる。揺れる脳が視界を砕く。

「……っあ、ぐっ」

 吐気が神経を焼き、それに倍する熱の怒りが奈緒の全身を行き交う。合わない歯の根を強引に噛み合わせ、手をつき膝をこすって振り返った奈緒が見たのは、寸前まで確実に存在しなかったもうひとりの乱入者であった。

「なんっ、なん、だ、よっ」乱動しようとする眼球を必死でとどめて、奈緒は誰何した。
「黙ってろよ、屑」

 返答は息を呑むほど怜悧な視線だった。
 矮躯といえる総身から、抜き身の剣呑さが発されている。目深に被ったパーカと口元を覆うマスクで表情こそ隠されているが、その人物が怒り狂っていることは自明だった。
 だが、怒りならば奈緒も負けていない。よりによって顔を蹴られた。決して許せない。なつきや少女のことも忘れ、奈緒の敵意は目前へ集中する。

「あんっ、た、ふざ、ふざけんじゃ……」
「うぜえな。黙ってろ。殺すぞ」

 それを全く意に介さず切り捨てて、第三の人物はある一点を凝視していた。
 視線の先には、奈緒の攻撃で傷ついたオーファンがいる。正確には、鋭利な傷口がある。たとえば人間であれば一人二人は十分に格納できる大きさの瘤は、傷口から乳白色の体液をとめどなく流している。乱入者の目線を追った奈緒は、その間隙にありえないものを見て一瞬だけ戸惑う。

(子供の手?)

   ※

「返せよ」と、尾久崎晶はいう。「そいつはオレのだぜ」
「高次物質化反応を検知」と呟いたのは、傷ついた異形の影に佇むナイフの少女――MIYU-M4-Aprilだった。「ようこそ、新たなるワルキューレ。私どもは、貴女を歓迎いたします」

「来い、ゲンナイ」

 晶は呟く。手には苦無のエレメントがすでにある。
 崩落するマンションの一角にいて、彼女の目は、鴇羽巧海からひとときも離れない。
 
   ※



[2120] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2011/02/25 00:16
生徒

鴇羽舞衣:風華学園高等部一年A組所属。HiME。チャイルドは迦具土。本編の主人公。
美袋命:風華学園中等部三年。HiME。舞衣のルームメート。生き別れた兄を探している。本編の主人公。
玖我なつき:風華学園高等部一年B組所属。HiME。チャイルドはデュラン。『一番地』という組織を追っている。本編の主人公。
結城奈緒:風華学園中等部三年。HiME。チャイルドはジュリア。本編の主人公。

原田知絵:舞衣のクラスメート。
瀬能あおい:舞衣のクラスメート。奈緒のルームメート。
日暮あかね:なつきのクラスメート。(風華学園高等部一年B組所属)HiME。チャイルドはハリー。
倉内和也:舞衣のクラスメート。あかねの恋人。

楯祐一:風華学園生徒会預かり。舞衣のクラスメート。和也の友人。元剣道部所属だが、故障により引退。

宗像詩帆:風華学園中等部二年。楯祐一の幼馴染。楯に好意を寄せている。

藤乃静留:風華学園生徒会会長。玖我なつきの親友。
神崎黎人:同副会長。
珠洲城遥:生徒会執行部部長。学園内の綱紀をあらためる。でぼちん。
菊川雪之:生徒会書記。珠洲城遥の幼馴染。

武田将士:剣道部主将。玖我なつきに好意を寄せている。楯を先輩として気遣っている。神崎とは友人同士。

深優・グリーア:風華学園高等部一年B組所属。アンドロイドであり、M.I.Y.U.と呼ばれる人工知性発現ユニットを搭載している。正式名称はM-2-February。シアーズ財団所属。オリジナルは優花・グリーア。
アリッサ・シアーズ:風華学園初等部所属。六歳。深優・グリーアのマスター。人造のHiMEであり、正式名称はA.L.Y.SS.A-160-High Order。オリジナルはアリッサ・シアーズと優花・グリーア。

尾久崎晶:風華学園中等部一年。男装の少女。特殊な氏素性であり、投薬によって性徴を人為的に抑制している。HiME。

炎凪:自称風華学園中等部二年。銀髪の少年。実際は学園に彼の籍はない。『蝕の祭』『星詠の舞』と呼ばれる儀式の司会進行役。

田島恵利子:舞衣のクラスメート。イジメの主導者。
鈴木耀:なつきのクラスメートでありストーカーだが、本編には登場しない。


学園関係者

風花真白:風花家当代であり、風華学園理事長を務めている。ただし法定代理人は別個に存在しており、書類上法人の経営責任・能力はない。足が不自由であり、移動には車椅子を用いている。十一歳。
姫野二三:真白の侍女であり護衛。経歴不肖のメイドさん。十九歳。

杉浦碧:風華学園社会科教師。二十四歳。HiME。チャイルドは愕天王。
高村恭司:風華学園社会科教師。二十三歳。シアーズ財団所属。優花・グリーアの幼馴染。本編の主人公。

迫水開治:風華学園社会科教師であり、主任。『一番地』の構成員でもある。

石上亘:風華学園美術教師。一番地構成員。

ジョセフ・グリーア:学園内にあるカトリック系教会の神父。授業は宗教学、倫理を担当している。シアーズ財団の所属であり、深優・グリーアの開発者でもある。
九条むつみ:教会に所属するシスター。シアーズ財団所属。物語当初の作戦責任者でもある。

真田紫子:教会に所属するシスター。元々は学園の卒業生であり、シアーズ財団との関連はない。HiME。チャイルドは聖ヴラス。


外部

鴇羽巧海:鴇羽舞衣の弟。心臓を患っており、莫大な費用のかかる移植手術を行わない場合、余命幾ばくもない。高村恭司を『師匠』と慕う。

アリッサ・K・シアーズ:シアーズ財団所属。黄金艦隊統括。人造のHiME。正式名称はA.L.Y.SS.A-123-Choir Master Plan。高次物質調律機関『ハルモニウム』の繰り手。
A・シアーズ:シアーズ財団所属。160番のアリッサと酷似した相貌をしている。人造のHiMEであり、アンドロイド。正式名称はMIYU-12-December。

夢宮ありか:――

ラウラ・ビアンキ:シアーズ財団所属。夢宮ありかの世話役であり監視役でもある、銀髪に褐色の肌を持つ少女。

L・シアーズ:シアーズ財団代表であり、シアーズ財閥会長。『アリッサ』たちの父。

ジョン・スミス:シアーズ財団広報四課所属。

M.I.Y.U.:優花・グリーアを祖形として開発された、精神と肉体を人工的に自生させるシステム。現在稼動しているのは2番(深優)、4・5番(シアーズ社)、6番(シアーズ財団)、7番(高村恭司)、10・11・12番(シアーズ財団)。

優花・グリーア:ジョセフ・グリーアの娘であり、高村恭司の恋人でもあった。元HiME。既に死亡している。

天河諭:高村恭司の恩師であり、考古学者。媛伝説の権威であり、シアーズ財団以外からも援助を受けていた。既に死亡している。

天河朔夜:天河諭の娘。四年前の十二歳当時、父とその教え子たちと共に旅行した風華市で失踪した。HiME。

ヤマダ:玖我なつきが重用する、正体不明の情報屋。

ロザリー・クローデル:金髪碧眼の美女。『一番地』とも『シアーズ』とも異なる外部勢力のエージェントで、元少年兵。整然の天河諭や嵯峨野と懇意にしており、彼の依頼と上層部の命令により、高村恭司と暮らしていたことがある。変態。

嵯峨野:天河諭の友人。老齢だが堂々たる偉丈夫。

銀髪の老婦人:高村のリハビリテーションと体技指導を行った達人。他に夢宮ありか、ロザリー・クローデルといった教え子がいる(弟子ではない)。

伊織:尾久崎晶の世話役である、禿頭の青年。尾久崎本家の意を受けて、現地で一番地他各勢力を相手に行われている情報戦の指揮を執っている。

佐々木:杉浦碧の在学時の指導教官であり、天河諭とも面識がある。


※※※※
ワルキューレの午睡

最新話までのあらすじ
※※※※


序幕
「媛星」
第一節「overture」
早春、美袋命は祖父を喪い高村恭司と出会う。

第二節「She spider」
初夏、高次物質能力――HiMEと呼ばれる力を手にした、結城奈緒という少女。
高村恭司、玖我なつきと遭遇する。

第三節「Humint」
五月に新天地へ足を踏み入れた鴇羽舞衣の受難。
シアーズ財団の末端構成員として風華学園に配属された高村恭司は、
アリッサ・シアーズ、ジョセフ・グリーア、深優・グリーア、九条むつみの面々と再会を果たす。

第四節「Firestarter」
教師としての高村と、風華学園生徒会。
悲劇のメソッド。

第五節「Firestarter & Coolbeauty」
鴇羽舞衣を追って玖我なつきと学園裏手の洞窟に侵入した高村は、
オーファンと呼ばれる怪物とHiMEの覚醒を目の当たりにする。

第六節「Firestarter & Coolbeauty & Troublemaker」
鴇羽舞衣が従えるチャイルド・迦具土が発散する暴力は、爪あとにも似た轍を大地に刻む。

第二幕
「舞」
第一節「Fragments」
病床の鴇羽巧海と、通院する高村恭司。
理事長である風花真白に招かれ、HiMEとオーファンについて通り一遍の状況説明を受けた舞衣は、到底納得できない。
各人の長い夏の始まり。

第二節「心裏時様→」
九条むつみが高村を巻き込んだ経緯。
下着泥棒現る。

第三節「fusspot」
高村に猜疑を募らせるなつきと、美人局の片棒を担ぐ命と言い争う舞衣。
二人は下着を盗んだと思われる犯人がオーファンであると当たりをつけ、罠を張って待ち構える。
命を探して深夜の街に出向く高村と楯祐一は、そこでかつての通り魔――月杜の辻斬りに遭遇する。
このとき高村が結城奈緒に取引を持ちかけ、二人の奇妙な付き合いが始まる。
一方、オーファン打倒を果たした舞衣は、命と和解を遂げる。

第四節「Edge」
儀式の司会進行役、炎凪からの奈緒に対する警告。
奈緒を金銭で釣ろうと試みた高村は一服を盛り、昏倒させた奈緒から血液を採取する。
奈緒に対して持ちかけた依頼の内容は、学園を調査するに当たり障害となるオーファンから、彼を護衛すること。
同日、なつきは懇意の情報屋ヤマダから、高村恭司の素性を耳にする。
約四年前、都内の大学にて天河諭教授のゼミに所属していた高村は、風華の土地で旅行中、奇妙な事故に巻き込まれていた。
その事故を切欠にして、天河の娘、朔夜は失踪する。
また、事故から十二日後、高村は重傷を負い、彼の両親と、そして天河諭教授が死亡した。

第五節「I do」
奈緒とともに裏山の調査を行う高村だったが、碧の「課外活動」の余波に巻き込まれ、気絶する。
その隙に奈緒に拘束され、金銭およびアンチマテリアライザー・インゴットを強奪される。
井戸に押し込まれた高村は、塞門をくぐり空間を渡る過程で過去を幻視した。

第六節「Rocket」
舞衣に対するクラスメートからの苛め。
奈緒に報復を期す高村は、碧を巻き込み一計を案じる。
高村が奈緒と対峙したそのころ、風華に二人の少女が上陸した。

第七節「Rocked」
高村の姦計対奈緒の暴力。
高村に扇動され、命と舞衣はオーファンと戦闘。
前者は高村の反則負け、後者は標的の取り逃がしにより灰色決着。
高村、人生で初めて女の子を泣かす。

第八節「ロックンロールイズメード」
水中から風華深部・黒曜宮への進入を狙う九条むつみは、危急の際巨大な異形に救われる。
碧と合流した奈緒と高村もまた黒曜宮へ足を踏み入れ、そこで真白、姫野二三と対峙する。
むつみのアンチマテリアライザー起動による援護を受けつつ、真白を略取することに成功した高村一行は、追いすがる二三に捉えられる。
碧、高村をあっさりと下す二三。
決着と見た刹那、アリッサ、深優による介入が行われる。
高村と奈緒を現場から連れ去った深優は、奈緒に凶器を突きつけ、HiMEとして供物になることを要求した。

第九節「イーヴンフォールとオッドナイト・イブ」
舞衣を含む少女たちの、平和な恋愛模様。
高村を通して知り合った尾久崎晶と鴇羽巧海の交友。
恋を育む日暮あかねと倉内和也。
アンチマテリアライザー遺失により、九条むつみに財団の査問が行われる。
そのころ、高村、深優、アリッサの三人は海へやってきていた。
奈緒の進退は、高村がアリッサを脅迫するような形でシアーズへ取り込むことに落ち着いている。
深優はその判断は単なる時間稼ぎと評するが、高村にとってはそれで十分だった。
文化祭を控え、なつきは迷いの渦中にいる。

第十節「少女の死」
海岸からの帰路にて、アリッサ、深優を新手のチャイルドが襲撃する。
真田紫子の背徳。
アリッサ・シアーズの絶望。
深優・グリーアの感情。
高村恭司の失策。

最終節「stigma」
七月初旬、風華学園創立祭が開催される。
成り行きでシアーズに帰属することになった奈緒は、高村と行動を共にする。
鴇羽舞衣は弟の巧海とともに、彼が「師匠」と呼ぶ相手に見える。
玖我なつきは藤乃静留に補足され、コスプレを強要される。
楯祐一は幼馴染の妹分、宗像詩帆に連れまわされる。
倉内和也は恋人の日暮あかねと若干の不和を抱えたまま、その日を迎える。
杉浦碧は高村によって出展スペースの留守居を押し付けられる。
一堂に会した彼らは、アリッサ・シアーズがライブに飛び入り参加する現場を目撃し、少女が歌で築いた世界に取り込まれる。

ライブの最中、高村に凶器を突きつけ警句を発した人物は、自らを九条むつみの同志と称した。

同刻、絆を強める和也とあかねの前に、夢宮ありかと名乗る少女が現れ、あかねに決闘を申し入れる。
さらに現れた女によって和也を人質に取られたあかねは、覚悟を決めざるを得なかった。

同刻、幻想の蝶によって黄金の茶会に招かれた玖我なつきは、「もうひとりのアリッサ・シアーズ」と対面する。彼女はなつきの母、玖我紗江子の遺伝子を継ぐ、なつきの姉妹であるといった。
炎凪へ宣戦を布告し、彼女は去った。

同刻、高村は奈緒を伴いシアーズ財団のジョン・スミスと面会する。スミスは奈緒の来し方を暴き、むつみの更迭と、そしてHiME――ワルキューレの即日処分を高村に打診する。
選べない高村はシアーズとの訣別を決断し、現れた九条むつみによって救われる。

夢宮ありかによる日暮あかねとそのチャイルドの打倒により、倉内和也は死亡する。
HiMEと呼ばれる彼女たちが従えるチャイルドが、敗れたそのとき支払われる代償とは、想い人の命だった。
舞衣をはじめとするHiMEたちは、炎凪にその事実を宣告される。

同日深夜、倉内和也の死体が強奪された。



第三幕
「ワルキューレの落日」

第一節「dawn on yawn」
八月中旬、さまざまなものが終わりを迎えた後の話。
日本列島は未曾有の災害の渦中にあった。
降灰が世界を白く染めつつある朝。
結城奈緒は高村恭司の死亡を知った。

第二節「アドゥレッセント(揺籃)(38日前~)」
創立祭の翌日、シアーズを裏切り、高村は奈緒と共に風華から逐電した。
姫野二三は何人目かのジョン・スミスを殺害し、「スレイヴ」と呼ばれるシアーズ謹製のオーファンと駆逐する。
そこに尾久崎晶が現れ、二三に戦闘を仕掛ける。
舞衣は命、なつき、碧とともに、今後の方針について相談する。HiME同士の争いは断固として防ぐ姿勢を決め、親睦会を兼ねて海水浴を企画するが、そこに奈緒と、ついでに高村の姿はなかった。
高村によって、入院中の母のもとに連れて行かれた奈緒は、心中に屈託を抱えたまま、病床の母と対面する。ものいわぬ母にもはや諦観しかおぼえない彼女の前に現れた真田紫子は、自身がHiMEであることを告白した。
そして高村もまた、紫子と行動を共にしていた石上亘と待ち合わせていた。

第三節「レティセント(沈黙)」
"黒曜の君"であり続けることに挫折した石上亘の過去。
高村と石上の会談を盗聴する九条むつみは、奪った倉内和也の死体を用いて、チャイルドと命を同期させるメカニズムの解明に努める。
シアーズに残した旧知からの連絡に対して、彼女はアメリカ西海岸の崩壊を予言して見せた。

海水浴にやってきていた舞衣、命、なつき、碧の四人はHiMEによる同盟を締約する。彼女たちの基本方針は殺されず、殺させないことである。
夜半、生徒会副会長の神崎黎人に告白めいた言葉をかけられ、舞衣は焦りの余りなつきのもとへ逃亡する。

一週間後、体調を崩したなつきの元へ、高村恭司が姿を見せた。

第四節「ピュートレセント(腐爛)」
なつきとの距離を詰める高村に、藤乃静留が冷たい警告を残していく。
熱で朦朧とするなつきは、自らの記憶にある齟齬を自覚した。
七月の終わり、謹慎中である杉浦碧のもとに、天河諭の研究資料が届けられる。
誕生日を迎えた舞衣は、命を通して奈緒の説得を試みるが、すげなく拒絶される。
性を抑止する服薬を続ける尾久崎晶は、不安定な精神のひとときの安寧を、鴇羽巧海との逢瀬に見出し始めていた。

第五節「クワィエッセント(停止)」
八月に入り、シアーズを裏切ったはずの高村だが、未だ具体的な沙汰は彼の身に降りかかっていなかった。
それどころか、アリッサやジョセフ、深優との連絡も途絶えていない。
腑に落ちないものを感じつつもなつきとの時間に重きを置く彼は、一番地とシアーズの因縁を通して、なつきの記憶に仕掛けられた矛盾を指摘した。

九条むつみは、美しかった様々なものを泥に浸して生き延びた女の名前である。
風華から落ち延びて京都府内に潜伏する彼女は、媛星による災害を予期して不法な市場操作を行い、シアーズと渡り合っている。それは一瞬の均衡状態であり、彼女にとってはそれで十分な隙だった。
九条むつみは、玖我紗江子という女が娘を捨てた後に得た名前である。

第六節「エヴァネッセント(夢幻儚影)」
八月八日。
高村となつきのデート。
その結末に、なつきは最愛の母と再会する。

第七節「フロゥレセント(水辺の花)」
むつみによって、なつきの不鮮明な過去の全てが明かされる。
行動の源泉であった復讐心さえ植えつけられたものだと知ったなつきは、自失状態となり、HiMEとしての力を失った。
面影の母との訣別だった。
高村となつきを尾行していた奈緒がそこに現れ、チャイルドを用いてなつきを狙う。
静留、高村と連続して入った邪魔により襲撃は断念され、高村と奈緒の奇妙で近しい関係も破綻を迎えた。

自身で思っていた以上に奈緒に肩入れしていたと気付いた高村は、なつきへした仕打ちの迷いもあり、動くこともできずにいた。
そして、痺れを切らして現れたアリッサによって打ち据えられ、拉致されてしまう。

なつきと別れた九条むつみの前に、彼女の仲間を殺したとのたまう少女が姿を現す。
深優の同型――「M-4」と名乗る彼女は、むつみに死を宣告した。
そこに深優・グリーアが現れ、すんでのところでむつみを救う。

静留に連れられ一時難を逃れたなつきは、再度現れた奈緒の手によって身柄を攫われた。

第八節「クレセント(上弦)」
高村、なつきの失踪を知った舞衣は、焦燥と理不尽への怒りに駆られる。
真白のもとへ赴いた先で、ロザリー・クローデルという変態淑女と遭遇した。

生徒会書記・菊川雪之は、学園に訪れたロザリーの案内を押し付けられる。

一方、アリッサに拉致された高村。
深優の口から、彼女たちが置かれた繊細な状況を知る。
シアーズ財団とは、アリッサの父であるシアーズが所有する私的機関である。
一方で、複合企業体シアーズ本社ではクーデターが発生していた。元トップであるシアーズに対して、経営幹部陣からの不信任案が提出されたのである。それは事実上、儀式からの撤退を意味している。しかし、本社から出向しているはずの現・計画統括である極東支部長は動きを見せず、その代理を名乗る人物は計画の続行を深優たちに示唆している。混乱を深めた状況で、アリッサ、深優は、石上の手引きを得て、武力による学園の占拠を計画していた。

第九節「イリデッセント(虹彩)」
学園の生徒が、吸血鬼(と噂されている犯罪者)の犠牲者となった。
変態ロザリーに翻弄される舞衣。

なつきをさらった奈緒は、あつらえられたような市内の廃ビルで、倦怠に取り付かれていた。
そんな彼女に、石上から取引が持ちかけられる。
要求されたのはなつきの身柄。
引き換えに彼女が得るのは、家族が殺された事件の真相である。

高村恭司と優花・グリーアの過ごした年月。

ロザリーによる舞衣へのセクハラと、密会の誘い。

日暮あかねを収容した一番地の施設を襲う、巨大なチャイルドを従えたHiME。

八月十日。
市内のショッピングモールにて、奈緒は石上と交渉を行う。石上は奈緒の家族を襲った事件が一番地の手によるものだと告げる。しかし、全ては奈緒にとって今さらの事実でしかなかった。誰が殺したかが問題だったわけでもない。「そのとき」を想起させるもの全てが、奈緒を支配する傷害欲求に直結されている。
交渉は決裂し、奈緒はチャイルドを召喚し、石上が応戦する。真田紫子を警戒する奈緒の前に現れたのは、アリッサと深優、シアーズの少女たちだった。なつきの身柄を欲していたのは石上ではなく彼女たちである。
奈緒はアリッサに手立てもなく打ちのめされる。更に石上により、「一番地を襲っているHiME」として仕立て上げられ、次いで彼が行ったショッピングモール爆破の犯人として振舞うことを要求される。
さもなければ、死ぬことになる。
明らかな使い捨てであり、前途が閉塞されていくことを悟りつつ、奈緒は頷かざるを得ない。

ショッピングモール爆破の現場には、楯祐一、宗像詩帆、夢宮ありかも居合わせていた。
炎熱と煙幕と阿鼻叫喚が現実感を削ぎ落とす状況下で、楯は逃走する怪物と、その背に乗る奈緒、なつきの姿を目撃する。

奈緒と同程度に自ら危地へと進む石上亘は、一番地による風華の統制を砕くためだけに行動している。そして彼が胸に期す謀反の共犯者は、風華学園理事長、風花真白である。

その日も鴇羽巧海の元へ見舞いに訪れた尾久崎晶は、巧海が何者かにかどわかされた現場に遭遇する。

深優とのリンクによって優花にまつわる記憶を補填した高村は、ジョセフ・グリーアから深優の裏コードを教えられる。

ショッピングモールから逃走した奈緒となつきは、ひとまずなつきのマンションに腰を落ち着ける。しかし、息をつくひまもなくシアーズ本社から派遣されたM-4がなつきの身柄を求めて襲撃を仕掛けてきた。
M-4とともに現れた「スレイヴ」に奈緒が攻撃を加えたそのとき、尾久崎晶が現れ、参戦する。
晶が見つめるスレイヴの胎内には、奪われた鴇羽巧海が隔されていた。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
2.0579450130463