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[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝 (真・恋姫†無双)
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2016/05/08 03:17


はじめまして、篠塚リッツと申します
遅ればせながら恋姫マイブームがやってきたのでSSを書いてみました
こういうところに投稿するのは初めてなので無作法あるか思いますが
どうかよろしくお願いします

一刀主人公の本編再構成物
一刀の周囲にオリキャラが出る予定です(まだ出てませんが……)

改訂版がハーメルン様に投稿されています。






 やってしまった……

 血糊のついた剣を呆然と見下ろしながら、北郷一刀は大きく息を漏らした。

 人を斬ったのだ。重い剣で肉を割いた感触は今でも一刀の手に残っている。自分が斬った人間の悲鳴は今も耳について離れない。

 殺していないと思われるのが、唯一の救いだろうか。無我夢中で振り回した剣が、たまたま相手の手の甲を割いた。びっくりするほどに血が流れたが、それは血を見慣れていない一刀を驚かせたのと同様に、相手も驚かせたようで、自らが流血していることに半狂乱になった男は子分と思われる二人に担がれて何処かに消えてしまった。

 逃げるという選択肢を相手が選んでくれなければ、報復を受けていたことは間違いない。その点では運が良かったのだろう。剣道を齧ってはいるが、真剣を手に大の男を三人も相手に出来るほどの腕前があるとは、お世辞にも言えない。

 相手が怪我をしただけで事が収束した。これは、考えうる限り最良の結果と言えるだろう。

 気分を落ち着かせるために、深く、深く呼吸をする。

 言い様のない興奮はまだ体の中に残っていたが、外の空気を取り込むことでようやく周囲を見渡せるだけの心の余裕が出来た。

 襲われたから身を守る、自衛のために剣を取った訳でも、狂気にかられて人を襲ったのでもない。北郷一刀はただ、人を助けたかったのだ。

「君、大丈夫かい?」

 剣を地面に放り、大木の脇に腰を下ろした少女に近寄る。年の頃は自分と同じくらいだろうか、小柄ではあるが釣り目で意思の強そうな瞳が印象的だった。凹凸のほとんどない体型と低い身長だけを見れば中学生か、下手をすれば小学生と言っても通じそうではあったが、腰を抜かして座り込んでいても隠しようのない知性的な雰囲気が、少女を見た目以上の年齢に見せていた。

 手足をすっぽり覆う丈の長い地味な衣服に、猫の耳を模したような頭巾も目を惹く。

 その猫耳少女は座りこんだまま、何故かこちらを親の仇を見るような目で見つめていた。視線で人を射殺せるなら、それだけで自分を殺すことが出来るだろう。鈍感と言われたことは何度もあるが、少女の視線が好意的な物でないというのは理解できる。

 何か不味いことをしたのだろうか。少女の厳しい視線を受けながら考えを巡らせるが、一刀には何が原因なのか解らなかった。感謝されるようなことはあっても、責められるようなことはないはずだ。

 少女の視線に憮然としたものを覚えないではないが、『この場所』が普通でないのは疑いようのないことだった。現代の日本は世界でも有数の安全な国である。間違っても頭に黄色の布を巻いて真剣で武装した男三人に、命を狙われるようなことはない。

 剣が偽物であればコスプレ、ドッキリということもまだ信じられたのだろうが、肝心の剣が本物で、かつ自分がそれで人を斬ったという事実が、この非現実的な状況を前に一刀を落ち着かせていた。

 自分の知らない場所であれば、そこには自分の知らない常識があっても可笑しくはない。無難に通したつもりであっても、座り込んだ少女にとっての常識では、何か無作法なことがあったのかもしれない。

 誠心誠意、相手を思って接すれば、例え言葉が通じなくても気持ちは伝わる、というのは敬愛する祖父の言葉だったが、果たしてそれはこの場合にも通用するのだろうか。

 自分のルール違反が致命的でないことを祈りながら、一刀は少女と視線を合わせるために膝を折った。迷惑そうに身動ぎする少女の瞳を、真っ直ぐに見つめる。

「俺は北郷一刀。見ての通り学生で聖フランチェスカ学園の二年生。特技は剣道」
「せいふらんせすか、って何よ」

 口調は棘々しいが、少女はようやく口を開いてくれた。想像していたよりもずっと甲高い声が、一刀の耳に残る。

 幸運なことに言葉は通じた。

 後は、気持ちだけであるが、少女の言葉には視線に込められたのと同様に、隠し様のない敵意が感じられた。

 思わずと言った風に、一刀の顔に苦笑が浮かぶ。少女は自分に向けられる感情には敏感だった。綺麗に整った眉をきっと逆八の字に吊り上げた。

 どうやら少女は気の長い性質ではないらしい。一刀は慌てて視線を逸らし、今思い出したというように口を開いた。

「何って、学校の名前だよ。まぁ確かにそうある名前じゃないけどさ」
「……あんたの言ってることは訳がわかんないわ」

 少女の言葉に、一刀はふむ、と頷いた。

 訳がわからないのはこっちなのだが、それを少女に当り散らしたところで良いことはなさそうだ。聞きたいことは山ほどあったが、現状唯一の情報源であるはずの少女はこちらに関しても気を払っていないどころか、明らかに邪険にしている。

 無理に聞くことは賢い選択とは言えないだろう。

 男と見れば野蛮で馬鹿で……という考えを持っている女子は一刀のクラスにもいたが、眼前の少女にはそれと通ずる雰囲気がある。間の悪いことに、気合の入りっぷりでは少女の方が上のようだ。

 八方塞な状況に一刀は溜息をつく。少女に何も聞けないとなると、一刀には出来ることが何もない。

 これからどうしたのものか、と一刀が一人で途方に暮れていると、少女はすっと立ち上がった。どこかに行くのか、と目で追うと、少女は足を引き摺るようにして三歩下がり、また腰を下ろした。

 逃げようとして失敗した訳ではなく、単純に距離を取っただけのようだ。少女の瞳はまだ、敵意を持って一刀を見つめている。

「……私、男は嫌いなの」

 何を今更……と言いかけた口を、一刀は慌てて閉じた。少女が自分から口を開いてくれたこの好機を、詰まらない失言で台無しにしてはいけない。

「でも、あんたは私を助けてくれた。助けてくれなかったら、きっと死ぬよりも辛い目に合ってたと思うわ。だから、その点は……その点『だけ』は感謝してる」

 心底悔しそうにしながらも、少女は地に膝をつき、はっきりと頭を下げた。

「……ありがとう」

 搾り出すような、本当に悔しそうな声だったが、少女は確かに礼の言葉を口にした。驚くのは一刀だ。今までの人生で一番体を張り命もかけたが、自分と同じ年くらいの少女に手をついて頭を下げさせるようなことは、間違ったってした覚えはない。

 土下座が少女にとって意に沿わないことだ、というのは猫耳頭巾に覆われた後頭部が嫌というほど物語っている。伏せられて見えない少女の顔は、屈辱の色に染まっていることだろう。

この状態を長引かせることは自分の命に直結しそうだ。

 早くやめさせなければ。

 一刀がそう思って声をかけようとすると、それよりも一息早く、少女は顔を上げた。頬をぴくぴくと揺らしながら、どうにか平静を保っている様子の少女は、再び立ち上がって服の土を叩くと、そっぽを向く。 

「これで貸し借りなし、ってことにしたいけど……本当にしたいんだけど、それが人道に悖るというのは賢い私は解ってるつもりよ。だから、あんたにはもっと別のお礼をしなきゃいけない。忌々しいけど、本当に忌々しいんだけど……」
「いや、別にお礼が欲しくて助けた訳じゃないし――」

 お礼をされて悪い気はしないが、嫌々やっていることが解っているのなら話は別だ。それで気分良くなれるほど、一刀の神経は太くない。普通の家庭で生まれた普通の高校生には、土下座だけで十分だった。これ以上何かをされたら、気分の上でこちらがマイナスになってしまう。

 右も左も解らない状態で、少女との関係を切ることは自殺行為だったが、そういう物を差し引いてまで相手のことを考えてしまうのが、一刀の長所であり短所だろう。先の言葉は間違いなく本心からの物だったのだが、一刀の言葉を受けて、少女は首を大きく横に振った。大仰な動きに合わせて、猫耳頭巾がひょこひょこと揺れる。

「あんたは良くでも私の気がすまないのよ! 命を救った人間を言葉一つで追い返したなんて荀家末代までの恥なのよ! 私は嫌だけど! 嫌なんだけど!!」

 あーっ!! と少女は頭を抱えて叫び声を上げた。嫌われたものだが、ここまで来るといっそ清々しさすら覚える。

 力の限り叫んだら落ち着いたのか、先ほどよりは少しだけ落ち着いた様子の少女は一刀の方に見向きもせずに歩き出した。

 置いていかれては叶わない。ついて来いとは言われなかったが、置いていかれるのはそれはそれで困る。一刀は少女の後を追って駆け出したが、手が届きそうな距離まで近付いたところで、少女は振り返った。視線には敵意を通り越して殺意が浮かんでいる。

 歩調を緩めて、少女から距離を取る。三歩下がって師の影を踏まず。少女は師でも何でもないが、怖い物は怖いのである。

 一刀が十分に距離を取ると、少女は安堵の溜息をもらして再び歩き出した。

「しばらく私の後についてきなさい。実家で歓待なんてしたくないけど、助けてもらった礼はきっちりするから」
「しばらくってどれくらい?」
「歩いて半日ってところかしら。馬でもあればすぐなのに……」

 馬ってお前……と呆れの言葉が口をついて出かける。少女なりのギャグなのかと疑ったが、自分相手に笑いを取りに来るような愛嬌があるとは欠片も思えない。

 つまりは移動の手段として、車よりも先に馬が出てくるのが少女にとって自然ということになるのだが……薄々と感じていたが、出来ることなら忘れていたかったことが、少しずつ現実味を帯びてくる。

「ちょっと聞いてもいいかな」
「なによ、話しかけないでくれる?」
「今、西暦何年?」
「また訳の解らない言葉が出てきたわね……なによ、セイレキって」
「キリストが生まれてから何年たったかって聞いたつもりだったんだけど……」

 聞いても無駄だ、というのは少女の顔を見れば解った。どうすれば理解してもらえるのか、と一刀は考えを巡らせる。

「質問を変えよう、ここは何処?」
「豫州潁川郡」

 少女の言葉は端的だった。早く話を終わらせてほしいという感じが嫌というほど伝わってくるが、ここで質問をやめる訳にはいかない。喋っていいる言葉は日本語として理解できるのに地名にはさっぱり覚えがないということは、

「もしかしてここは中国?」
「チュウゴクなんて場所は知らないわ。もういいから黙っててくれない? あんたの近くで呼吸してたら、妊娠するかもしれないし」
「俺はどういう生き物なのさ……じゃあさ、今、この辺の王様……あー、天子? は何処にいるの?」
「洛陽」

 言葉はどんどん短くなる。それでも答えてくれているだけ、少女なりに我慢しているのだろう。話しを聞いている感じ、おそらく後一度が限界だ。

 取り急ぎ知っておかなければならないことは何か。

 生きて少女の家とやらに辿り付くことが出来れば、世界の情勢を知ることは出来るだろう。少女の家族全員がこの調子でなければであるが、一人くらいは話の通じる人がいると自分の精神の安寧のためにも、信じておきたい。

 ならば、今聞かなければならないのは――

「君の名前は?」
「………………荀彧よ」

 嫌そうに、本当に嫌そうに。それでも少女は名乗ってくれた。

 それきり貝のように口を閉ざした少女の背中を見ながら、一刀は密かに溜息をついた。一つの疑問は氷解したが、また別の、もっと強大な疑問が生まれてしまった。

 ここは何処だ? 何て問題ではない。


 一体ここは、何なのだ?



   






[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二話 荀家逗留編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:48






 荀家。

 荀子を先祖に持つ大陸でも高名な家系で、多くの文官を輩出していることで知られる智の一族である。武門ではないために袁家は元より、曹家や夏候家のように多くの私兵を持つには至っていないが、一般的な視点から見れば十分に『有力者』と目される一族と言える。

 政治的背景だとか他の勢力との絡みだとか、荀家を荀家たらしめている要因というのは他にも多々あるが、三国志に関して齧った程度の知識しか持っていない一刀にとって、荀家を表現するのに適した単語はただの一つだった。

「君の家は、金持ちだったんだね……」

 何処までも続いていそうな重厚で真っ白な塀を眺めながら、一刀はぽつりと呟いた。漫画の中でしかお目にかかったことのないような金持ちの家が目の前に鎮座しているのである。根からの庶民である一刀に驚くな、という方が無理な話だったのだが、これが当たり前であるらしい荀彧は、不機嫌な顔をして――つまりは出会った時からの表情を崩さないままに、これ見よがしに溜息をついた。

「いいこと? あんたのことは私が紹介するから、くれぐれも勝手な口を挟まないようにね」
「それはこっちからお願いしたいくらいのことだけどさ、何て紹介するつもりなんだい?」
「暴漢から私を助けた住所不定無職の全身精液男」
「最後の単語だけ否定させてもらえないかな。一応、俺にも立場ってもんがさ」

 何も知らない世界に放り出されたのだから、住所が不定なことも無職なことも否定のしようのない事実であるが、それだけに全身精液などと紹介されてはそのまま首を刎ねられる展開にもなりかねない。

 法律が整備され治安維持のための機関はあっても、処罰の仕方や刑罰の重さは現代日本とは比べるべくもないだろう。軽い気持ちのルール違反が即座に死に繋がる可能性があるのだ。荀彧がこういう性質で男性不審だということは解っていても、それをそのまま口にされては命に関わる。

 言っても無駄だという予感はあったが、自分の命に関わることである。言わない訳にはいかないが、同様に眼前の少女には何を言っても無駄だろうという気持ちもあった。

 案の定、一刀の言葉に荀彧は顔を顰め、

「男なんて皆同じよ! あぁ、思い出しただけで気分が悪くなってきたわ……あんな臭い塊が三つも迫ってきたのよ!? アンタに私の気持ちが解るって言うの!!?」

 詰め寄る荀彧は本気も本気で、心の底から男を嫌悪している様子が感じられた。邪険にされれば怒りが沸くのが普通だろうが、ここまで突き抜けていると逆に気にならないらしい。目を吊り上げて怒鳴る荀彧を見ながら、怒ってる顔がかわいいな、と一刀は場違いなことを考えていた。

「――だからくれぐれも私の言うことに口を挟まないようにね。解った?」
「お嬢様の仰せのままに」

 大人しく、畏まった物言いで一刀が頭を下げると荀彧は気持ち悪い物でも見るような目を向けてきたが、反抗しないのなら取り合う必要はない、と判断したのだろう。軽く身なりを整えて、猫耳頭巾を外し背筋を伸ばす。

 そうして歩いて漸く屋敷の門が見えてきた。

 それは見上げるような大きな門で、両側には守衛がいる。守衛が個人の屋敷に……と、一刀の感覚では聊か大げさな配置に思えたが、現代におけるオートロックやテクニカルな鍵の代用だと思えば、守衛というのもそれほど可笑しなものではないのかもしれない。

 その守衛に挟まれて、侍女のような少女がいるのが見えた。一刀や荀彧よりも僅かに年上そうなその侍女の少女は、荀彧が気づくよりも早くこちらに気づいたようだった。荀彧を見て、続いてこちらを見て、その目が驚愕でまん丸に見開かれる。

 あれは、何か良くないことだ。

 何故、と考えるよりも早く、そう直感した一刀は荀彧にそれを伝えようとしたが、つい先ほど黙っていろ、という主旨のことを言われたばかりである。これで何か言ったら荀彧が烈火の如く怒り出すのは明らかだった。

 だが、自分の立場には代えられない。下手をしたら死ぬかもしれないのだ。怒られるだけで済むのなら安いものだと思い直し、一刀が荀彧に声をかけようとしたその時、

 一刀に遅れること数瞬、侍女に目を留め彼女が自分にとって『良くない』ことを直感したらしい荀彧が制止の声を挙げるよりも早く、侍女は門の内側に向かって駆け出し、大声で叫んだ。

「奥様、街の噂は本当でございました! お嬢様が婿殿を連れて帰ってまいりました!!」

 その大音声は荀彧にも当然届いた。何かを言おうとした状態で固まっていた彼女は、しばらく侍女が消えた門を眺めていたと思うと……

 ふっ、と糸が切れた人形のように崩れ落ちた。






















「あらまぁ、そうでしたの。ごめんなさい早とちりしてしまって」
「いや、こちらこそ荀彧さんにご迷惑をおかけしてしまって」

 恐縮する一刀の前でさらに恐縮するのは、荀彧の母――荀昆(※)と名乗る女性だった。気の強い荀彧の母とは思えないほど穏やかな面差しをした女性で、口調も立ち振る舞いにも気品が感じられる。

「娘の命の恩人に失礼をいたしました。あの娘では殿方にまともなお礼も出来なかったのでございましょう? 娘に代わり御礼申し上げます。娘を助けていただき、ありがとうございました」

 言って、荀昆は深々と頭を下げる。頭を下げられるようなことはしていないと、本音を言えば今すぐにでもやめて欲しかったのだが、口を差し挟むことすら躊躇わせるような雰囲気が荀昆にはあった。これが名家の気品とでも言うのか。頭を下げるその姿すら、一枚の絵画のように美しい。

「貴方さえ宜しければ、いつまでも当家にご逗留ください。望みの物も何でもご用意致しますので」
「何もそこまで……」
「いえ。娘の命を救っていただいたのですから、これでも少ないくらいですわ」

 穏やかに微笑む荀昆はなるほど、荀彧の母というのが納得できるほど強情な気配だった。決めたら梃子でも動かないというのが、ひしひしと感じられる。

 親子なんだなぁ、と苦笑を浮かべつつ、一刀は出してもらったお茶に口を付けた。飲むのに適度に温くなったお茶で、微かな甘さが口の中に広がる。

「ところで北郷一刀殿。二文字の姓に二文字の名前というのはとても珍しいですけれど、どちらのご出身で?」
「この辺りではないというのは解るのですが……何分、記憶がはっきりとしませんで」
「あら、記憶がないんですの?」
「細々とした知識は残っているのですが、こと自分のことに関することは……」

 と、いう自分で決めた設定を一刀は語る。人を騙すことに抵抗はあったが、未来から、異世界から来たという情報は、軽々に公表するべきではないと思ったのだ。助けてくれる人間のいない世界で、狂人と思われたら生きてはいけない。

 無論、いつまでもそんな世界に留まるつもりはない。固執はないが一刀の世界はあちらで、この世界は異世界だ。そのために、いずれ誰かには自分に関する情報を明かさなければならない時は来るのだろうが、それは絶対に信頼できる人間でなければならないと考えていた。

 人の良さそうな荀昆を疑うようで気分は良くないが、命がかかっているのだ。当たり前だが命は一つしかない。話すべき人間を決めるのは、人となりを知ってからでも遅すぎるということはないはずである。

「でしたら、当家の書庫をお使いくださいな。北郷一刀殿に見合うか解りませんが、蔵書量だけでしたら中々の物でしてよ?」
「お心遣い感謝します」

 あの『王佐の才』荀彧の生家の書庫ならば、この世界においては相当量の蔵書が期待できる。異世界に関する記述のある書物がそうそうあるとも思えないが、絶対数は多い方が良い。

「お疲れでしょう? 侍女にお部屋に案内させます。食事も用意させますから、御用の際には侍女にお声がけください」

 荀昆が手を叩くと、部屋の隅に控えていた侍女の一人が前に進み出る。荀彧を気絶させる原因になった、表の門で叫び声を上げた少女だった。

 少女は一刀を見ると穏やかに微笑み、頭を下げた。釣られて一刀が頭を下げると、荀昆が笑い声を漏らす。

「北郷一刀殿は当家の客人なのですから、もっと堂々と振舞ってくださいな」
「人に持ち上げられることになれていないようでして……何やら落ち着きません」
「庶人の出自なのでしょうか。それにしてはお召し物が腑に落ちません。そのような着物、庶人ではまず手に入れることは不可能でしょうから」

 庶人どころか皇帝陛下でも無理だろう、というのは言わない方が良いのだろう。化学繊維をこの時代で再現できるはずもないが、目立つ理由はない方が良い。

「早速で申し訳ないのですが、着物を用意していただけませんか? これよりももっと、地味なものが良いのですが」
「あらあら、そう仰られても、大抵の物はそちらのお召し物よりも地味だと思いますわよ?」
「ごもっともです」

 向こうの世界でも街を歩けば以上に目立つ制服だったのだから、この世界で目立たないはずもない。思えば、侍女の少女は荀昆に街の噂は本当だったと言った。

 つまりそれは自分達よりも噂の足が速かったということでもある。

 無論、荀彧がこの街で有名人だったということもあるのだろうが、自分が目立つ白ランを着ていたことにも原因があったのだろう。見覚えのない着飾った男性を未婚の女性が連れ歩いていたら、恋人であると勘違いされたって可笑しくはない。ゴシップの少ない時代ならば尚更だ。


「荀彧の加減はどうですか?」
「あれで肝の太い娘です。ほどなく意識を取り戻すでしょう。目が覚めましたらご挨拶に伺わせますから、それまでごゆるりとお寛ぎくださいませ」

 























 案内された部屋を見て、一刀は驚きで声を失った。

 実家にある自分の部屋の、優に五倍は広さがある。侍女の少女が言うにはこれでも客間の中では狭い方だと恐縮している様子だが、一刀にはも十分過ぎる程の広さだった。

「いや、ありがとう、と君に言うのは可笑しいのかな。とにかく俺はこの部屋に何も不満はないと荀昆様に伝えておいてほしい」
「かしこまりました、北郷一刀様」
「その北郷一刀様って一々言うの、疲れない?」
「疲れる疲れないの問題ではありません。字も真名も許されていない方をお呼びする時は、きちんと姓名をお呼びするよう、仰せつかっておりますから」

 当然だ、というよりは、常識だ、という物言いの侍女の少女に、一刀は小さく唸った。

 確かに、中国の歴史物で名字だけ、名前だけで呼び合っている場面はあまり見たことがない。親しい人間同士ならばまだアリなのだろうが、彼女は侍女で、自分は一応客人だ。自分個人の思いは別にして、砕けた物言いで良いはずがなかった。

 とは言え、一々フルネームを呼ばれるのは呼ばれる一刀の方も何だか面倒臭い。それだけならばまだしも、様付けだ。向こうの世界ではメイド喫茶の店員さんくらいしか使っていないような呼称が、一介の高校生に使われているのである。

 恥ずかしいというより、心が痛かった。自分がそこまでされて良いのかという思いが、北郷一刀様という呼称を聞く度に、ぐおぐおとの心中を渦巻くのだ。

「ならせめて北郷様か、一刀様にしてくれないかな」
「失礼ではありませんか?」
「俺がその方が良いんだ。頼むよ、俺を助けると思って」

 掌を合わせて拝み倒すようにすると、侍女の少女は困ったように微笑み、やがて頷いた。

「解りました。それでは北郷様とお呼びいたします。他の侍女にもそのようにお伝え致しますね」
「助かるよ。どうも落ち着かなかったんだ」
「それは失礼を致しました」

 くすり、と侍女の少女は小さく微笑んだ。ただの笑顔なのに、気持ちが華やぐ。この世界にきて初めて見た、同年代の少女の笑顔だからだろうか。

「申し遅れました。私は姓は宋、名は正、字は功淑と申します。北郷様が当家にご逗留されてます間、お世話を申し付かりました。御用命の際は何なりとお申し付けくださいませ」
「ご丁寧に。俺もそんな風に名乗れると良いんだけど、俺は姓名だけで字とかないんだよね」
「左様でございますか……奥様からは記憶がないと聞き及びましたが、忘れておられるとか?」
「どうなのかな。字と聞いても全くピンとこないから、本当にないのかも」

 取り繕った自分の物言いに、思わず冷や汗が流れる。筋書きを決めずに始めた自分の設定を通すことは、思っていたよりも緊張を強いた。侍女とは言うが、荀彧の家に勤めているだけのことはあり、眼前の宋正も頭は回りそうだ。

 不自然な態度をすれば、余計に怪しまれることになる。ここに留まるならば、もっと細かい設定を煮詰めておいたほうが良いのかもしれない。

「それでは、真名もお持ちでないのでしょうか」
「真名……ってなに?」

 まぁ、と宋正は驚きの表情を浮かべた。すわ、設定の煮詰めなかった弊害がもう出たのかと一刀が身を固くすると、気を悪くしたとでも勘違いしたのか、宋正は慌てて両手を振り、

「記憶がないのであれば無理からぬことです。お気になさることはありませんわ。真名というのはその人間の、最も奥深い名前。本当に心を許した者にのみ預ける、極めて神聖な名前なのです」
「宋正にもあるの? その、真名っていうのは」
「私だけでなく、この国に住んでいる者は皆真名を持っていますよ。それとご忠告申し上げておきますが、初めて会った方にはこちらから名を名乗り、相手の名を聞くところから始めるのが宜しいかと思います。親しい間柄ですとお互いを真名で呼び合うこともあるのですが、それを姓名だと思って呼びかけてしまうと大変です。許されていない真名を呼ぶことは大変失礼なことですので、血気盛んな方ですと、そのまま首を飛ばされかねません」
「物騒な世の中だね」

 名前を呼んだだけで殺されるなど堪ったモノではないが、これを知らずにいたらいつか理由も解らずに首を飛ばされていたこともあったかもしれないと思うと、肝も冷える。

「ですが流儀を守ってさえいれば衝突など起こりようがありませんから、物騒にしても些細な問題です。それにこの程度で物騒と言っていては、文若お嬢様の旦那様は務まりませんよ?」
「宋正はもう解ってると思うけど、出来る限り火消しに協力してくれると嬉しいな」
「お屋敷の中でしたらどうとでもなりますけれど、街の方はどうにも……」
「そんなに凄いことになってる?」
「荀家の傑物として、文若お嬢様は公達様と並んで有名人ですから」

 その有名人が男嫌いとあっては噂が広まるのも早かったに違いない。噂に怒り狂う荀彧の姿が一刀脳裏に浮かぶが、怒りは一方的にこちらに向かってくるのだろう。笑ってばかりもいられないのが苦しいところだった。

「私の真名、お教えしましょうか?」
「教えてくれるなら嬉しいけど、どうしてまた」
「いえいえ。どんな理由があれお嬢様がお連れになった最初の殿方ですから、見るべきところはあると思うのですよ。それに貴方は荀家のお客様で、私は侍女。お世話を申し付かったのですから、奉仕の心を持つのは当然のことと思いません?」

 小首を傾げて、宋正は一歩、一歩と近付いてくる。艶めいた雰囲気を感じた一刀は、宋正から逃れるように、ゆっくりと後退る。

「ほ、奉仕の心は大事だと思うけど、それで大事な名前を預けるっていうのはちょっと違うと俺は思うな」
「そんな物、私の気持ち一つです。お望みなら幾らでもご奉仕いたしますよ? 心と、体で」

 ぺろり、と宋正が舌で唇を舐める。それに見とれた一刀は足を縺れさせ、寝台に尻餅をついた。逃げないと、と一刀が体を動かすよりも早く、宋正はしなだれかかり、首に腕を回した。息のかかるような距離に、少女の顔がある。生まれて初めてのことに、一刀の心臓は不規則に鼓動を刻み始めた。

「北郷様が一言命じてくだされば、何でもいたしますよ? さぁ、貴方様の望みは何ですか?」
「俺は――」

 甘い声が頭の中に沁み込んでくる。自分の立場とか、今後のこととか、今してはいけないことが頭の中から煙のように消えて行き、本能が膨れ上がっていく。

 このまま勢いに任せてしまえば、どれだけ素敵なことが待っているのか。

 北郷一刀は健全な男子高校生である。人並みに性欲はあるし、今は非常時だ。慣れない環境によるストレスは身体と精神を蝕んでおり、本能が容易く理性を凌駕するような状態にあった。

 眼前には年頃の、見目麗しい少女がいる。吐息が一刀の首筋を擽った。

 あぁ、もう我慢する必要はない――

 一刀が全てを脳裏の彼方へと押しやり、宋正に手を伸ばしたその時――

「北郷一刀っ!!!」

 怒声と共に部屋の扉が蹴破られた。小さな肩を怒らせて入ってきたのは、猫耳頭巾の少女、荀彧である。

 荀彧は部屋の中に押し入ると、寝台の上でもつれ合っている一刀と宋正を見つけた。信じられない物をみた、と言わんばかりに目を見開き、持っていた竹簡を振り上げる。

 身の危険を感じたその時には、身体の動きは速かった。一刀は宋正を寝台に突き飛ばすと、自分は反動を利用して床に身を投げ出す。

 直後、一刀の頭があったまさにその場所を竹簡が通り過ぎていった。空気を切り裂いて飛んだそれは、壁に当たって床に落ちる。運動になど縁のなさそうな細身の身体に似合わない、中々の球威とコントロールだった。

「危ないぞ、荀彧。宋正さんに当たったらどうするつもりだったんだ」
「どうするつもり!? こっちの台詞よ!!! あんた、人の目がないのを言いことに功淑が妊娠するような卑猥なことするつもりだったんでしょう!!」
「いや、何もそこまでは……」

 先のテンションを思い出して見るにありえないとは言い切ることは出来なかったが、荀彧の剣幕を前に正直に告白することは憚られた。下手なことを言ったらそのまま首を絞められそうだ。

 首惜しさに一刀が口を閉ざしている間にも、怒りに狂った荀彧は持論を展開し、やはり精液男は死ぬべきだとか、実家に連れてきたのは間違いだったとか、孕ませ男にはどういう死刑が相応しいかというのを、驚くべきほどの理路整然さで喋り――いや、吼え続けている。

 流石は王佐の才と言うべきか。凡才とは頭の構造が違うのか、言葉が次から次へと出てくる出てくる。これが政治や経済を語っているのなら一刀も素直に感心出来たのだが、荀彧の口から出てくるのは、表現するのも憚られるような罵詈雑言である。

 精神衛生のために半分以上は聞き流していたがそれでも、荀彧がどれほど男が嫌いかというのは時間を追うごとに理解が深まっていく。

 放っておいたら力尽きるまで罵詈雑言を続けていたのだろうが、流石にそれは時間の無駄と判断したのか、寝台の上から復帰した宋正が、つつ、と荀彧に歩み寄った。

「まぁまぁお嬢様、お戯れはそのくらいに」
「功淑っ! あんた大丈夫なの!? 孕まされてない!?」
「お嬢様という心に決めた方がいらっしゃる殿方から、お胤を貰うような不義理な真似は出来ませんわ」

 ほほほ、と微笑む宋正に、先ほど気絶した時の再現のように荀彧の身体がよろめき……しかし、今度はしっかりと踏みとどまる。

「き、気持ち悪いこと言わないで! 想像して孕んじゃったらどうしてくれるのよ!」
「未婚の母というのも体裁が悪いですし、祝言でも挙げられては?」
「こんなのと番になるくらいだったら、死んだ方がマシよ!」

 荀彧に喜んで結婚しますと言われたら、身の危険以上に世界の終わりを疑わなければならないが、そこまでストレートに言われると一刀も男だ、荀彧ほどに脈がなさそうな少女相手と言えども多少は傷付くというもの。

 一刀がさりげなく落ち込んでいるのを宋正は目敏く見つけていたが、彼女の言葉でさらにヒートアップした荀彧は後ろ手に一刀を指差して続ける。

「大体、これから世話になろうって家の侍女に迫るなんてどうかしてるってもんでしょう! 今からでもお母様にかけあって、官憲に突き出さないと!」
「それは誤解ですわお嬢様。迫ったのは私の方からですし、北郷様は悪くありません」

 宋正の言葉に、荀彧が硬直する。気絶はしなかったが、言葉に衝撃を受けているようで金魚のように口をパクパクとさせていた。その顔が可笑しくて一刀が思わず噴出すと、それに宋正も釣られる。

 笑われたことで息を吹き返した荀彧は、さらに顔を真っ赤に染めて宋正に詰め寄るが、荀彧が何か言うよりも早く、宋正はゆぴをぴっと、荀彧の唇に添えた。

「もちろん本気ではありませんよ。私には愛する夫と子供がいますもの。お嬢様もそれはご存知でしょう?」
「それはそうだけど……」

 と、荀彧は何気ない調子で宋正の言葉を流すが、一刀は逆にこの世界に来て最大の衝撃を受けていた。

 人妻で! 子持ち! 

 昔は早婚早産だと聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると信じられないという思いで胸が一杯になった。宋正を見つめる目にも、複雑な感情が混ざるようになる。

 そんな複雑な感情を一刀が持っているのを知ってか知らずか、宋正はしれっとした顔で荀彧の怒りを受け止めている。お嬢様と使用人。どちらの立場が上かは考えるまでもなかったが、迫る荀彧に宋正が物怖じする様子はなかった。

「じゃあ、どうしてこんな孕ませ男に迫ったりしたのよ」
「他の女性が迫っているのを見たら、お嬢様も危機感を抱くのではと愚考いたしました」
「何の危機感よ余計なお世話よ何考えてんのよあんたは!?」
「ちなみに私だけの発案ではなく、侍女一同の総意でございますよ? 皆お嬢様が大好きでございますから、お嬢様がいつまでも殿方にめぐり合えないのでは、と心配なのです」
「いいのよ私は結婚なんてしないんだから!」

 そう断言し切れる荀彧は、この世界では珍しい部類になるのだろう。ふん、とそっぽを向いて臍を曲げた荀彧に、宋正は困ったような微笑みを向ける。

 名家ともなると、庶民の一刀には想像もつかないような『そういう訳にもいかない』事情があるのだろう。

 しかし、体験したことだから分かるが、荀彧の男性嫌いは相当な物だ。一応恩があるはずの自分にこの態度である。彼女の美意識から著しく反するような男が相手だったら、それこそ目も当てられないようなことになるに違いない。

 本当に結婚しないなどということが許されるのかまでは一刀には解らなかったが、こと男性と番になるということに関して、荀彧の考えと宋正の考えには相当な開きがあるようだった。

「で、荀彧は俺に何か用?」

 関わるべきではない話題にシフトしそうになった雰囲気を察した一刀は、自分から違う話題を切り出した。いきなり割って入ってきた一刀に荀彧は一瞬迷惑そうに視線を向けたが、この話題を続けるよりはマシとでも判断したのか、

「別に? あんたが功淑を連れ込んだって他の侍女から聞いたから、心配になって見に来ただけよ」
「俺はそんなに信用ないかなぁ……」
「男は皆同じよ! 女を犯して孕ませることしか考えてないんだから!」

 そういう部分があることは否定しないが、それが全部という訳でももちろんない……ということを説明しても、荀彧は聞き入れてくれないのだろう。固定観念もここまでくると、いっそ素晴らしい。

「ともかく! 功淑だけじゃなくてうちの侍女に手を出したら、あんたの汚い物をそぎ落としてやるから覚悟なさい!」

 一方的に断言して、荀彧は足音も高く部屋を出て行った。嵐のような少女がいなくなると、部屋には一気に静寂が戻った。

「騒々しい方でしょう?」
「でも、あれはあれで可愛らしいんじゃないですかね」
「あら、北郷様はお嬢様の良さがお解りになられますか?」
「いやいやそこまでは……」

 そう思わないと心が折れるだけのことで、宋正が言うような美しい話でもない。罵倒されることが至上の喜びであるという男には最高の存在なのだろうが、一刀はそんなマゾ趣味は持ち合わせてはいなかった。

「それでは私はこれで失礼いたしますね。御用の際は、表に誰か控えておりますのでいつでもお呼びください」

 見とれるような綺麗な仕草で頭を下げ、宋正は部屋を出て行った。

 人を呼ぶのにも人力なのかと気になって、ためにし扉を開いて外を見ると、宋正ではないが侍女の少女が控えていた。宋正が去ってすぐに部屋から出てきた一刀に何事かと目をむく侍女の少女に、何でもないと手を振るとすぐに部屋に引っ込む。

 ただの高校生には至れり尽くせりの待遇だった。元の世界ではこうはいかないだろう。今更ながらに違う世界に来たのだということを実感した。

 考えるべきことは色々あったが、その全てをとりあえず先送りにして、一刀は寝台に身を投げ出す。眠気は直ぐに襲ってきた。

 心地よい眠気に身を委ねながら、一刀はそっと瞳を閉じた。








※荀昆(本来は糸偏に昆です)
















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三話 荀家逗留編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:50
 

 荀家滞在一日目。荀彧に連れられてやってきたのは正午を過ぎてからだったから、一刀が部屋に案内された時にはもう、日も大分傾いていた。

 それから少しだけ睡眠を取り宋正に用意してもらった地味な服に袖を通し、案内された食堂にいたのは荀昆だけ。猫耳少女の姿はどこにもない。何気なくを装って荀彧はどうしたとやんわりと問うてみたら、気分が優れないとの返答が。

 あれだけ罵詈雑言を吐けて、気分が悪くて食事をキャンセルということもないだろう。こちらを傷つけないための荀昆の配慮に感謝しつつ、この世界に来て初めて口をつけた食事はとても美味しく、食後には何とデザートまでついた。油や水が合わずに腹を下すことまで半ば覚悟していた一刀にとっては、嬉しい誤算である。

 食後は荀昆と歓談する。彼女からこの異質な三国志の世界の情勢などを教わった後、宋正に荀家を案内してもらった。外の塀を見た時に感じた印象の通りに広大な屋敷は、一回りするだけでも相当な時間を要し、途中で色々と話し込んでしまったこともあって、部屋に戻った時には夜も大分深くなっていた。

 夜食でも持ってこようかという宋正の申し出を丁寧に辞し、ふかふかのベッドに勢い良く飛び込む。薄暗い照明の効果もあって、一刀の意識は直ぐに闇の中に落ちた。








 滞在2日目。

 子持ち人妻の少女に起こされるというレアな体験と共に、一刀の朝は始まった。

 時計がないために正確な時間がわからないが、窓から身を乗り出して見た太陽の高さから判断するに、まだ早朝と呼べるような時間と判断できた。

 最低限の身だしなみを整えてから、宋正に案内されて食堂へ。流石に一度往復すれば道のりくらいは覚られたが、客人は侍女に案内されるというのがこの世界では――少なくとも荀家では常識であるらしかった。

 案内された食堂にいたのはまたも荀昆だけだった。特に客人からの希望がなければ、客人と家人が揃って食事をするのも常識で――と宋正は説明してくれる。

 食事は相変わらず美味しかったが、やはりそこに荀彧の姿はない。全ての男に対してあの調子なら、同年代の男と差し向かいで食事をするなど彼女には耐えられないことだろう。顔を見れないのは残念ではあったが、荀彧はこの家のご令嬢であり、自分はただの客だ。

 一緒に食事をしたいから次からはそうしてくれ、と言葉にするのは簡単だが、それを口に出来るほど偉い人間でないというのは一刀自身、良く理解している。

 荀彧に会いたいのならせめて自分から会いに行くべきだろう、と考えて、荀彧の部屋が何処にあるのかも知らない自分に軽くショックを受けながら、それでも食事は全て平らげ部屋に戻る。

 寝台に身を投げ出し、天井を眺めながら気づいた。

 客人である自分に仕事があるはずもなく、この世界には学校も試験も何にもない。何をするでもなくダラダラすることなど元の世界ではあまりないことだったが、いざすることがない、という状況は本当に暇だった。

 このままでは暇にやられて気が狂う、と思った一刀は早急に元の世界へと戻る手段を探すべく、寝台から立ち上がった。

 この世界において一刀は外様で、何も知らないに等しい。何をするにしても人に聞くのが一番なのだろうが、それらしい情報を集めるためにはまずこちらの事情を説明せねばならない。

 違う世界から来た。それを信じてもらうだけのことだが、それが難しいことは一晩寝て考えただけの一刀にも解るほど難しいことだった。文明の利器である携帯電話も、充電するのを忘れていたせいで、今はただの金属の塊になっている。

 残っているのは制服であるが、珍しい素材というだけでは異世界からやってきたと納得させるには難しいだろう。

 彼女達を黙らせるような凄い知識でも習得していれば、と思わずにはいられない。

 知っている知識だけでどうにかならないものかと逡巡するものの、その考えはすぐに放棄した。ここは『あの』荀彧の家なのだ。剣道が少し得意なだけの学生に、三国志でも傑物とされる荀彧の一族を黙らせるような物言いがどうしてできるだろうか。

 こんなことになるのならもう少し真面目に歴史や政治経済の授業を聞いておけば良かった、と後悔しても後の祭である。

 大きく息を吸って吐くと、一刀は自分の頬を思い切り叩いた。

 過去の自分の不勉強を責めても始まらない。現状、時間は有り余っているのだから、せめてそれくらいは有効に使うべきだ。自分の内を曝け出せないのなら手足と目で情報を集めるしかない。

 まずは、書庫だ。

 部屋を出ると外で待機していた侍女――宋正とは違うが、こちらも一刀と同じくらいの年頃の少女だった――に声をかけ、書庫に案内してもらう。

 途中、中庭の近くを通りかかった時に、鎧で武装した男性の集団を見かけた。全てが男性ではなく中には女性も混じっていたが、この家に着てから初めてみる男性の姿に、一刀は思わず足を止めてしまった。

「どうかなさいましたか? 北郷様」
「いや、あの人達は何をしてるのかな、と」
「彼らですか? 彼らは荀家の私兵です。と言っても、戦争で使うための人員ではなく屋敷の警備を担当しているのですけれど」
「そうなんですか」

 無感動に答えながら、一刀は彼らから視線を外した。

 すると、整列する彼らの前に立ち、何やら指示を出していた男性が、一刀に気づいた。健康的に日に焼け、黒髪を短く刈り込んだ精悍な男で、如何にも武人といった感じの佇まいである。

 視線を向けられていることに気づいた一刀が視線を戻すと、その男性は姿勢を正し、深々と頭を下げて礼をした。男の前に整列していた人間たちもそれに倣う。

 突然のことに面食らっていると、侍女がくすくすと小さく笑った。

 お客様なのですから堂々となさってください、というこの家に来てから何度目かの忠告に感謝しつつ、しかし礼をされた以上はこちらも返さねば、という現代人の強迫観念にかられ、立ち止まって彼らと同じように礼をすると、僅かに先に行ってしまった侍女に追いつくため、僅かに足を速める。

 そんなアクシデントはあったものの、書庫には無事に辿り付くことが出来た。

 書庫、という名前の通り広大な蔵のような建物であるそれは、一個人が所有する書を保管するには大げさな建物のように思えた。両開きの木造の扉は固く閉められており、その両隣には侍女が二人待機している。

 まさか全ての部屋の前に侍女が、と一刀が疑っていると、一刀を連れてきてくれた侍女の少女が、待機していた少女と二つ三つ、言葉を交わす。

「中にお嬢様がいらっしゃるようです。宋正様もおられるそうですが……」

 お入りになりますか? と問う侍女の少女の声は控え目だった。荀家に仕えているのならば、荀彧の性格、主義主張は知っているだろう。男性が荀彧に会いに行くというのは、それこそ心を削られに行くようなものだったが、欲しい情報は自分で探すと決めたばかりだった。

 出だしから躓くのもゲンが悪いし、ここで引き返すのも荀彧にびびっているようで癪である。

 肯定の意思を返すと侍女の少女は書庫の扉を叩いて伺いを立てた。入ってもらってください、
という宋正の声と、それを制止する荀彧の声が扉の向こうから聞こえる。果たしてどちらに従えば良いのかと視線で問うと、侍女は三人とも一刀のために道を開けた。

 その顔には面白がるような笑みが浮かんでいる。荀彧という少女は、侍女にまで愛されているらしい。

 侍女達に会釈を返し、入ってくるな! という荀彧の罵声を耳に苦笑を浮かべつつ、一刀は書庫の扉を開けた。

 扉を開けてまず目に入ったのは、部屋を埋め尽くす書棚と、そこに納められている『書』である。一刀の感覚では書と言えば紙であるのが当然だったが、この時代紙は貴重品なのか、納められている書物の半分以上は竹簡だった。

 部屋の中央は開けたスペースになっており、大量の書を広げられるようにか、大きな机が一つといくつかの椅子が並べられている

 荀彧はその椅子のうちの一つ、入り口の扉を正面に見るようにして座っていた。傍らには宋正を従えており、眼前には竹で出来た書と紙で出来た書の両方が所狭しと並べられていた。

「おはようございます、北郷様。お加減はいかがですか?」
「宋正のおかげで快調だよ。今日は荀彧の世話を?」
「ええ。と言っても、それは午前中だけで午後からはまた北郷様のお世話に参りますけれど」
「それは楽しみだ」
「あら、人妻を捕まえてお世辞を言っても何も出ませんよ?」
「お世辞じゃないさ。宋正みたいな女の子に世話されたら、男は誰だって嬉しいもんだよ」
「あんた達、バカな話をするなら外でやってくれない?」

 努めて会話に入らないようにしていた荀彧が、汚物でもみるような目を向けて言う。あんた達と言ってはいるが、邪険にされているのは一刀一人で、視線には殺気すら篭っていた。

 相変わらずの荀彧の調子に、これでなくちゃ、という言い知れない興奮を覚えつつ、一刀は荀彧と机を挟んで向かいの椅子に腰を降ろした。視線に篭る殺気が一段と強くなったが、それには取り合わない。

「荀昆さんから就職活動中って聞いたけど、仕官の希望先とかあるのか?」
「お嬢様は曹操様の所で仕官を希望されておられるようですよ。今朝方その旨を記した竹簡を曹操様の下に送りましたから、しばらくはその返答待ちでございますね」
「じゃあ、曹操……様のところが第一希望ってこと?」

 呼び捨てにしようとした所で荀彧が傍らの竹簡に手を伸ばすのが見えたため、慌てて様を付け足す。間に合ったか……と質問が終わったところで一刀は荀彧を見やったが、彼女はこちらに聞こえるように舌打ちをすると、竹簡から手を離した。

 曹操を呼び捨てはNG、と一刀は心の中に強く刻んだ。

「ええ。先ごろまでお嬢様は冀州の袁紹様のところに仕官なさっておいでだったのですが、その方が、その……あまり聡明な方ではなかったようで……」
「はっきりと愚物と言っていいわよ、あんな奴」

 書からは視線を上げずに、荀彧が吐き捨てるように呟く。こちらの会話に割り込んでくるとは、よほど袁紹とやらに思うところがあったのだろう。自分と相対する時ほどではないものの、書を読み進める荀彧の顔には、はっきりとした苛立ちが見てとれた。

 荀彧が女性である以上袁紹も女性であると思うのだが……

 男以外にも、荀彧が嫌う物があるようだった。

「ところで北郷様は書庫へどういったご用件で?」
「記憶を取り戻す助けになればと思ってね。とりあえずこの国の民話とか説話を集めた物を読んでみようと思ってきたんだけど」
「それでしたら、私がいくつか見繕って参りましょう」

 少々お待ちください、と宋正が席を立ち、書庫の中に消える。扉の外に侍女が二人、書庫の中には一刀についてきた侍女が一人待機している。決して二人きりという訳ではなかったが、荀彧と出会った時以来の思いがけない状況に、一刀の心は躍った。

 聞いてみたいことは山ほどあったが、椅子をこちらから九十度横に向けて、視線を合わせようとしない荀彧からは、話しかけるな、というオーラがこれ見よがしに漂ってきていた。

 それをおして声をかけようと思うほど、一刀もチャレンジャーではない。出て行け! と言われないだけマシなのだと思うことにして、静かに宋正が書を持ってきてくれるのを待った。

「お待たせいたしました。とりあえずこれらなどいかがでしょうか」

 宋正が腕に抱えて持ってきたのは竹簡だった。編まれたものが三つ。それを一刀の前に置くと、定位置である荀彧の傍らに戻る。

「国内でも有名な民話、説話を集めた物をお持ちしました。ただ、こういった類の書物はあまり当家の書庫にも数がございませんので、これ以外にご入用の際は侍女に声をおかけくださいませ」
「これだけ書があったらそういう話もありそうなものだけど、ないの?」
「書庫に来てまでそんな物読もうなんて考えるのは、頭に精液の詰まってるあんただけよ」

 書から視線を上げぬままに、荀彧が吐き捨てるように呟く。出会って一日なのにそれをいつも通りと思ってしまう辺り、この環境にも慣れているのだな……と感慨深い物を感じながら、一刀は書物に視線を落として――その動きを完全に止めた。

「どうかなさいましたか? 北郷様」

 不自然に動きの止まった一刀を、宋正が不安そうに見つめてくる。書物を読み始めて動きを止めたのだから、それに原因があると考えるのが普通である。書物を持ってきたのは宋正だ。何か不手際があったのかと近寄ってくるが、一刀は書から視線を上げなかった。

 書物には、文字が書いてある。文字だけで挿絵などはない。三国志の世界なのだから、用いられているのは当然漢字であるのだが、そこには漢字『しか』なかった。ひらがなは愚か、レ点も何もない完全な白文である。古文の授業ですら中々お目にかかれないような物が、一刀の眼前に当たり前のように鎮座していた。

 国語の成績は並でしかなかった一刀に、補助なしの白文など読めるはずもない。言葉が通じるということで油断していた。世の中それほど甘くないらしい。

 さて……字が読めないということを、一体どうやって伝えたものだろうか。正直に告白するのが一番良いのだろうが、持ってきてくれと頼んだ手前、自分から告白するのは恥ずかし過ぎるが、読めないということをいつまでも隠し通せるはずもない。

 読んでるふりで誤魔化すのにも限界があるし、何より死ぬほど空しい。加えて情報収集しようと言うのに文字も読めない状況が続くのも不味かった。

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、という言葉もある。恥をかかねばならない時というのは、年端もいかない一刀の身にも確かにあるのだった。一刀は意を決して宋正を見つめ、

「どうも俺は、字が読めないようです……」

 身を切るような一刀の告白は流石に想定外のことであったらしく、宋正は呆然と一刀を見返した。隠していたエロ本を母親に暴かれた時のような気まずさを一刀が味わうなか、救世主のごとく現れたのは荀彧の心の底から他人を見下したような、冷たい声だった。

「あんた、死になさいよ」
「いやはや、面目次第もない……」
「孕ませ男のくせにあれこれ偉そうなことを言っておきながら、文字も読めない? はっ、と
んだ間抜けもいたものね。言って見なさいよ、生まれてきてごめんなさいって」
「文若様、何もそこまでおっしゃらなくても」
「智の一族たる荀家の屋敷に、文字も読めないような男が入ったのは初めてでしょうね。一族に名を連ねるものとして、恥ずかしいったらないわ」
「おっしゃる通りです、はい」

 体を小さくしながら、荀彧の文句というか罵詈雑言を受け止めつつ、一刀は助けを求めるように宋正に視線を送った。こちらの弱みを得た荀彧は、ちょっとやそっとのことでは止まりそうにもない。これを止めるには宋正の力が必要だったが、彼女の力を持ってしても、荀彧のマシンガントークに割ってはいるのは至難の業のようだった。

 興奮で高潮した荀彧の頬を見ながら、一刀はこれからの自分について考える。

 文字を読めないという弱点は、早急に克服しなければならない。

 そしてそれは荀家にいられる間にやる必要がある。荀昆はいつまで滞在しても良いと言ってくれたが、そんな社交辞令を本気にするほど一刀もアホではない。精々荀彧がこの屋敷にいる間、滞在できるのはそれが限界だろう。

 既に曹操に連絡は送ったというから、どんなに滞在を引き伸ばしてもその返事がくるまでが一刀のタイムリミットだ。

 それまでにこの世界で生きていく方法をある程度は身につけないと、何も出来ないまま死ぬ可能性が非常に高くなる。

 そうならないためにはこの荀家で、習得できるだけの技術を習得しておかなければならない。法律、軍事に経済、それと荒事をある程度解決できるくらいの武力である。剣の腕には聊か自信のある一刀だったが、それもこの世界ではどれだけ役に立つか解らない。

 今の一刀には知らなければならないことが多すぎるのだ。荀彧の罵詈雑言を聞くのも、それはそれで楽しみであったが、時間を無駄にはできない。

「文若様、北郷様も反省しておられるようですし、もうその辺で」
「……まだ言い足りないけど、功淑がそこまで言うなら」

 宋正の忠言、その効果は抜群だった。興奮はまだ冷めていないようだが、荀彧は宋正の言葉を受けて椅子に座り直した。

 しかし、そのまま書に視線を戻すようなことはせず、その釣りあがった視線は一刀に向いたままである。殺気の篭った視線が、改めて一刀を貫いた。

「で、どうすんのよこれから」
「どうするって言うと、どういうことだろう」
「精液男は本当に察しが悪いわね! 文字を読めるようにするのかってことでしょう!? うちに逗留するのに、まさかそのままでいるつもりなのあんたは!!」
「いやいや、滅相もない」

 文字が読めようと読めまいと、逗留させる側には何も不都合はないと思うのだが、名誉や格式のことを持ち出されると庶民の一刀は弱い。顔を真っ赤にして怒鳴る荀彧に、平身低頭。とにかく頭を下げてやり過ごす。

「――アホに助けられたなんて、あたしの沽券に関わるのよ。ここにいる間に、あんたには学問を修めてもらうわ。言っておくけど、拒否は許さないわよ? 嫌だなんて一言でも言ったら、股間の汚らしい物をそぎ落として口に詰め込んで、往来に放り出してやるから」
「荀彧様の仰せの通りに」

 必要以上にぺこぺこする、というのは荀彧的には正解だったらしく、気を良くした様子の荀彧はない胸を逸らして、大きく息をついた。そのまま視線を彷徨わせ、

「功淑、あんたこの精液男に教育を頼めるかしら」
「私が、でございますか?」
「あんた、この孕ませ男の世話係なんでしょう? その間、椅子に縛り付けてでも勉強させてやりなさい。私が曹操様の所に行くまでの間に、読み書きはもちろん、せめて初歩の学問くらいは理解させておきなさい」
「いや、そんなハイペースはちょっと――」
「言い訳は聞かないわ。私の言うことには『はい、喜んで』とだけ答えなさい。一週間後に成果を確認しにくるけど、その時までに書が読めるようになっていなかったら、屋敷から叩き出すからね、覚えておきなさい」
「……はい、喜んで」

 よろしい、と荀彧は鼻を鳴らし、書に視線を落とした。話は終わりということらしい。

 一刀は持ってきてもらった書を抱えたまま、たったいま教師の役を拝命したばかりの宋正に視線を送った。いきなり仕事を増やされた形になる彼女は、しかし嫌な顔を一つせずに微笑むと、荀彧に断りを入れ、一刀を促した。

 宋正に伴われて書庫を出ると、待機していた侍女からご武運を、と声をかけられた。礼を言うと微笑みを返され、手まで振ってくれる。割合的に女性からかけられる言葉のほとんどが罵詈雑言で占められていただけに、そんな普通の対応が涙が出そうになるほど嬉しい一刀だった。

「申し訳ありません。北郷様はお客様ですのに……」
「いえ。文字を学ばなければ、というのは俺も思っていたことです。むしろ機会を作ってくれた荀彧には感謝していますよ」
「そう言っていただけると助かりますわ」
「ついでと言っては何ですけど、剣の指導とかもお願いできませんか?」
「奥様に許可を得た後ならば。でも、北郷様がお望みなら奥様も許可をお出しにならないということはありませんでしょう。折角ですし主人には私から話をつけて参りますわ」
「宋正さんのご主人っていうのは、この屋敷でなにを?」
「この屋敷の警備の責任者を務めてますの。この時間ですと、中庭で部下に指示を出していたはずですが、おみかけになりませんでしたか?」

 見た! と思わず叫びそうになった一刀は、慌てて自分の口を塞いだ。その脳裏浮かぶのは書庫に行く前に見かけた男性である。

 あれが、宋正の旦那様?

 そういう知識を持って改めて考えると、見かけただけの人物も特別な人のように思えてくるから不思議だった。

 その男性、警備の責任者というからにはそれなりの年なのだろう。一刀の目から見ての話ではあるが、どんなに少なく見積もっても自分と一周り半は離れているように思えた。実直で真面目そうな印象も受けたが、それはこの際どうでも良い。

 問題はその男性が、眼前にいる自分と同じくらいの年頃の少女の夫で、その間には子供までいるということだった。年の差カップルにも程があるだろう、というのが正直な感想である。

 随分間抜けな顔をしていたのだろう。宋正がこちらの顔を見て噴出すのを見て、一刀は視線を逸らした。歩きながらだったので、既に今朝、男性を見かけた中庭が見える位置まで差し掛かっている。

 そこにあの男性がいれば、と期待を込めて視線を巡らせるがそこに人の姿はなく、庭師の手によって見事に整えられた庭園があるばかりだった。

「警備も鍛錬はしますし、声をかければそれに混ぜてももらえるでしょう」
「ありがとうございます。と言っても、ついていけるか心配ですが……」
「加減するように伝えておきますわ」

 くすり、と笑う宋正は、一刀の抱えた書を一つ摘み上げて、微笑んだ。

「さぁ、まずは北郷様の子孫繁栄を守るために、読み書きの勉強をしましょうか。文若お嬢様の区切られた期間は一週間。あまり時間はありませんよ?」

 
















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第四話 荀家逗留編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:50

 勉強が好きな学生など、この世にいるだろうか?

 いないと言い切れるほど捻くれているつもりはなかったが、好きではない部類に入る自分を鑑みるに、そんなことはない! と声を大にして言い返すことも一刀にはできなかった。

 学園には休まず毎日通っていたが、ただ通っているだけ。身体を動かす体育以外は惰性で参加していたようなものだ。微分積分なんて何の役に立つんだよ……と、何度思ったか知れない。

 そんな現代社会を生きた、平凡な学生であった北郷一刀が思っていてた。

 勉強が、学ぶことが面白い。

 やっているのは文字の読み方という、初歩も初歩な勉強だった。元の世界で言え小学校に上がる前に終わらせておくべき基礎過程である。それを世話係である宋正を先生に朝食を取ってから勉強を始め、昼食挟んだ後に再開。日暮れの時間までみっちり講義は行われた。

 幸い、漢字の大部分は書けたし意味も大雑把な物は理解できていたこともあり(文章を読めないのに大体の文字の意味は知っているという、傍から見れば非常に中途半端な知識習得しているらしい一刀を、宋正は怪訝に思っていたようだが)文章を読めるようにするだけの勉強は、一刀が自分で思ってたよりもサクサクと進み、一週間後、獲物を苛めることに快感を覚える拷問吏のような顔で現れた荀彧の前で、孫子の冒頭を読んで見せられるほどにはその語学力も成長していた。よほど穿った文字でもない限りは大丈夫だと、宋正に太鼓判も貰っている。

 何はともあれ、目標が達成されたことに一刀も胸を撫で下ろし、いくら荀彧でも少しくらいは褒めてくれるかと期待したが、彼女から与えられたのはちんこの癖に生意気だ、といういつも以上の罵詈雑言と、数冊の書物だった。

 それが次の課題である、というのは荀彧からではなく宋正から告げられたことである。

 ついでに、その書物による勉強の成果の確認は、一週間後ではなく毎日である、というありがたいお達しも同時に通告された。毎日か……抑揚のない声でと思わず本音を呟いてしまった一刀に、もはやお約束になりつつある罵声を一頻り浴びせると、勉強があるから、と荀彧はさっさと部屋を出ていった。

 足取りはやけに軽やかだったが、それはきっと罵詈雑言でストレスが発散できたからだろう。荀彧はそれでストレス発散が出来るから良いが、自分は果たしてどうすれば良いのか。

 答えてくれる人間のいない問題の答えを自分に問いつつ、荀彧の寄越した書物にざっと目を通す。

 軍学と、経済と、政治の書物が二点の、計四冊。内容のレベルは、ようやく文字を読めるようになっただけの一刀の学力では『ほどほど』に難解といったもので、有り余る時間を使って予習をし、明日の宋正の講義を理解すれば、荀彧のサディスティックな確認作業を突破出来る程度の学力を身につけられる……そんなギリギリの水準を保ったレベルだった。

 会話をしただけで学力の程度と、それで解決できるだろう内容まで決定できる辺り、流石かの荀文若といったところか。全力を尽くしてギリギリというラインを狙ってくることには心根の邪悪を感じるが、勉強に楽しさを見出してきた一刀には、あまり苦にはならなかった。

 文章も読めないような異世界に一人で放りだされて初めて、北郷一刀は学生としての本分を理解し始めたのだった。

 また、始めたのは座学だけではない。日が暮れ初めてから完全に沈むまでのおよそ一時間は剣の鍛錬に当てるようになった。

 宋正が話をつけると言ったのは本当だったらしく、彼女の夫であるところの警備隊長の計らいで警備隊の訓練に混じることが出来るようになった。

 自分でも忘れそうになることだったが、彼らは従者で、一刀は客人である。客人を下手に扱うことはできないし、怪我をさせては家の沽券に関わる。そんな立場の違いから来る遠慮と明らかにそこに集った誰よりもひ弱そうな男を、最初は彼らもどう扱ったものかと決めあぐねていた。

 本音を言えば参加してほしくなどなかったろうが、一刀が本人が参加すると言い、それを警備隊長と屋敷の主である荀昆が認めた以上、警備隊の面々には拒否権は存在しない。

 微妙な空気で始まった鍛錬の内容の根幹は、いつもほとんど変わることがない。

 即ち、刃を落とした真剣を用いた素振りと、実戦を想定した打ち込みである。

 フランチェスカの剣道部でやっていた鍛錬と基本的に変わるところはないが、寸止めが義務づけらているとは言え、真剣は重量が重量だ。気を抜くとすっぽ抜けて行きそうな重さのそれが直撃すれば、人体がどうなるかというのは想像に難くない。

 いつか持たせてもらった祖父の日本刀よりも真剣は重く、普段の訓練と言っても精々木刀が最重であった一刀に、この基礎訓練は思っていたよりも重労働だった。途中で何度も剣を取り落としそうになったが、ここでヘマをしたら荀彧にまた罵倒される、と心を奮い立たせ続けた。

 その思いが身体から力を引き出したのだろう。鍛錬が終わることには足腰が立たなくなっていたが、最後まで根をあげずに鍛錬についていったことで、警備隊の人間も親身になってくれた。

 夕方までは座学を行い、それから日が沈むまでは剣の鍛錬。

 
 そんな生活を続けて十数日。荀家にやってきてから数えて、十六日目













「これまで北郷様のお勉強を見て参りましたが……」

 勉強を教える時に気分を切り替えるため、と視力が悪い訳でもないのにかけている伊達メガネを指で押し上げながら、宋正が言う。しっくりこないメガネのせいで普段はタレ気味の目が若干鋭くなっていたが、それがまた言い知れない淫靡な雰囲気を彼女に与えていた。

 これが十代にして子持ち人妻である女性の魅力なのか……と一刀が一人で青少年特有の胸のときめきを感じていると、脛に鋭い衝撃が走った。声も出せずに蹲ると、ふん、と小さく息を漏らした荀彧が椅子ごとずりずりと、一刀から離れるように移動する。

 あんたの近くにいると妊娠するわ! と近寄ろうとしなかった荀彧の足が届くまで近寄られても、全く気づかなかった自分に唖然とする一刀。

 異常なまでに存在感のある荀彧に気づかないほど、メガネに夢中になっていたのだろうか。過去の属性を鑑みるに一刀にメガネ属性はなかったはずだが、普段メガネをかけていない人間がメガネをかける、という状況には遭遇したこともなかった。

 要するにギャップにときめいているんだな、と自分勝手な結論を出して、一刀は改めて宋正に向き直った。仕えるべき少女と、客人にして生徒である身分不詳の男性の間で問題が解決するのを律儀に待っていた宋正は、穏やかな苦笑と共に話を再開する。

「――見てまいりましたが、過去に北郷様に勉強を教えた者は、どういう計画性を持ってそれを行っていたのか、疑問が尽きません」
「何か可笑しなところがあったのかな」
「広く浅く、とりあえず目についた物を片端から詰め込まれているように見受けられます。知識とは所有するそれだけで意味を持つものではありません。活用して初めて、意味を成すのです。こう言っては何でございますが、北郷様の知識は活用できそうな気がいたしません」
「そんなに使えない?」
「ないよりはマシという程度でございますね。実用を前提とするならある程度深い知識が必要でございますが、北郷様の知識はどれもそこまでに至ってない様子。勉強する前段階とすれば納得できなくもありませんが、それにしては知識の幅が広すぎるように見受けられます」
「実用を前提とせずに知識を詰め込んだ、ってことなんじゃないかな」
「何一つ満足にこなせない人間に利用価値があると思う?」

 心底人を見下したような表情で呟かれた荀彧の言葉には、なるほど、この時代ならではの重みがあった。知識を持つ者の絶対数が少ない古代では、荀彧のような考えこそが常識なのだろう。

「ですから、北郷様の浅い部分の一部を深くしようというのが、お嬢様の企画なのですよ」
「荀彧、まさか俺のために……」

 冗談半分で思わせぶりに言ってみたら、間髪入れずに竹簡が飛んで来た。荀彧をからかうことに神経を割いていた一刀に、それを避けることは出来ない。竹簡が額に直撃し、その激痛に一刀は頭を抱える。

「何で私が精液男のために尽力しなきゃいけないのよ! 私は、私の周りに馬鹿がいることが
我慢ならないだけよ!!」

 迷惑そうにそう言い放った荀彧は椅子をひっくり返すようにして立ち上がると、足音も高く部屋を出て行った。痛みで目に涙を浮かべた一刀は、その背を言葉もなく見送り、慌てて自分に直撃した竹簡を拾いあげる。

 それは荀彧に課題として渡された書物の一つだった。竹は紙と比較して安価に手に入り、文字を記す媒体としては木と並んでスタンダードな物の一つだったが、衝撃に弱いのが欠点の一つだった。

 特に、人間に向かって放り投げて、それが額に直撃した上に床に落ちると、一部が破損して解読するのに苦労することがあることを、一刀は経験として知っていた。

 幸い、今日の竹簡にダメージはなく最初から最後まで文字が破損した様子はなかったが……

 書物が無事であったことに安堵の溜息を漏らした一刀は、宋正を顔を見合わせてお互いに苦笑を浮かべた。同じ荀彧のことで、苦労をしている。今この時、宋正は仲間だった。

 その宋正が行う講義に使っているのは一刀の客間だ。客間とは言え男の部屋に入ることに勉強成果の監督役である荀彧は激しい抵抗を示していた。

 成果を試すだけならば荀彧が部屋に入る必要などなく、講義を終えた一刀が改めて荀彧を訪ねるというのが、立場の上下を考えても筋の通ったことであると思うのだが、荀彧の方にも言い出した側としてのプライドがあったらしく、罵詈雑言を吐きながらも宋正の講義を共に聞くと言って譲らなかった。

 ただ、男一人に女二人という人数配分は、荀彧に許容できるレベルを超えていたらしい。

 本当は男と一緒の部屋にいるのも嫌という荀彧なのだから、使命感があるとは言え、男と同じ部屋にいることを肯んじたというだけでも、相当な譲歩だったと言える。

 譲歩したのだから残りは強行に押し通す、と荀彧が勝手に決めた妥協案は、部屋の内側に侍女を二人、外側に更に二人を待機させ、加えて部屋の扉は開け放つというものだった。

 それでも男と同じ部屋にいるということに荀彧は息苦しさを覚えていたようだったが、朝食後から始まる講義に最初から最後まで参加して耐え切れる程度には、嫌悪感も薄まっていたらしい。

「お嬢様もお帰りになられたことですし、本日の講義はここまででございますね」
「ありがとうございました、先生」

 終了を告げる宋正に挨拶をすると、台の上に広げていた竹簡と書を片付け、部屋着から訓練着に着替える。訓練時の正装はこれに軽装鎧と刃落としした剣が加わるのだが、それらは警備隊に支給されるものであって、一刀個人に渡される物ではない。

 それらは正規の装備と一緒に警備隊の詰め所、及び離れにある警備隊の宿舎に置かれていて一刀の部屋には警備上の理由で持ち込むことができなかった。荀昆は許可を出すと言ってくれたのだが、それは規則を曲げることになる。

 元より、条件は警備隊の面々も一緒なのだ。彼らと肩を並べたいという気持ちはあるが、規則を曲げてまでそれに挑むのは彼らに失礼に当たると思った。

 もとい、ちょっとやそっとの鍛錬で毎日欠かさず鍛錬をしている警備隊の面々に追いつけるとも思えなかった。彼らは仕事として警備を行い、有事の時は剣を持って戦い、場合によっては人を殺すことも、自らが殺されることも承知の上で鍛錬を行っている。

 二週間ほど前までただの学生だった一刀とは、根本的な部分が違うのだ。

 意識の違いは鍛錬の結果に影響する。祖父に施された鍛錬の密度は決して彼らしてきた鍛錬に劣るものではなかったと自負出来たが、剣の腕として現れる結果は、警備隊の誰と比しても一刀の惨敗である。一つ二つ年下の隊員と比べてすら、思い切り手を伸ばしても届かないくらいの開きがあるのだから、その成果たるや推して知るべしである。

「今の北郷様は凄く素敵な表情をしてらっしゃいますよ」
「そうですか? 今は毎日が楽しいんですから、それが原因なんじゃないでしょうか」
「以前は不満ばかりの日々であったと?」

 宋正の問いに、そうでもありません、と記憶喪失という自分設定を忘れて答えそうになる。彼女の探るような目つきを受けながら、一刀は首を横に振った。

「……どうなんでしょうね、記憶のない俺には良く解りません。でも、今が楽しいと思うということは、今よりは充実していなかった、ということなのだと思います」
「覚えておられなくても、今の北郷様があるのは過去の積み重ねの成果です。北郷様の過去を知らない私が言うのは差し出がましいことかと思いますが、御自らの過去は、誇っても宜しいのではないかと」
「俺は人様に誇れるような人間ではありませんよ」
「それならば、いつか人様に胸を晴れるような人間になることを目指せば良いだけの話です」

 そんなことも解らないのか、とでも言うように、宋正は両の眉を吊り上げた。同年代であるのに、親に叱られているような感じがしてむず痒い。

 これは言い合っても勝てないと悟った一刀は姿勢を正し、大人しく頭を下げた。

「これからは努力します。宜しくご指導ご鞭撻のほどを」
「こちらこそ。北郷様は私の始めての生徒でございますからね。是非立派になって、私の名を
引き立てていただかないと」

 宋正は一転して穏やかな表情を浮かべた。冗談めかした口調でそう言うと、一刀の衣服の乱れを手早く直す。侍女らしく、その所作は堂に入っている。

「さあ、立身への第一歩です。存分に鍛錬なさってきてくださいな」

 宋正に見送られて客間を後にする一刀の心は、軽かった。

















 一刀を見送った宋正は客間の掃除を手早く済ませると、後を他の侍女に託し足早に客間を後にした。廊下を急ぎ歩きながら、しかし荀家の侍女として走るような真似はせず、目的地を目指す。

 目指す部屋の外には、二人の侍女が控えていた。この屋敷で最も権力を持つ者――当主の部屋である。二人の侍女に目配せをすると、素早く身なりを確認する。

 問題はない。衣服に僅かの乱れもないことを確認すると、宋正は声を挙げた。

「奥様、宋正でございます」
「入りなさい」

 扉の向こうの主人の声に、二人の侍女が扉を開ける。滑り込むようにして部屋に入ると、まず目に入るのは自分の主である荀昆の姿。

 そして、その前に銅像のように立つ夫の姿だった。帯剣はしていないが鎧は着用したままである。この時間は警備に当たっていたはずだが……と疑問には思ったが、主の部屋に彼がいるということは、召しだされたということなのだろう。

 それを自分が知らないことに違和感を覚えたが、主の前で確認するほどのことでもない。宋正は夫と数歩距離を取った位置に立ち、主の言葉を待った。

「宋正、北郷殿はどうされました」
「私がこちらに向かう前に、鍛錬に送り出しました。今は裏庭で警備隊と共に鍛錬に励んでいるのではないかと」
「そうですか……壁に耳がないとなれば、遠慮はいりませんね」

 さて、と言葉を置いて、荀昆は椅子から僅かに身を乗り出した。

「北郷一刀という男性について、思うところを述べなさい。まずは、侯忠から」

 主の指名を受けて、夫――侯忠が一歩前に出る。無骨な気質の彼にしては珍しく、困ったような表情が浮かんでいた。彼は人を値踏みするという行為が本質的に好きではないのだ。苦手な行動はさぞ彼に心労を強いたろうが、夫が客人をどう評価するのか、宋正にも興味があった。

「一言で言うのならば……凡庸でしょうか」

 困惑した表情はそのままに侯忠は言ったが、その評価は芳しくない。

「少なくとも剣の腕に見るべきところはありません。鍛錬しただけの成果を挙げておりますがそれだけです。武才に特筆するようなところはありませんでしょう」
「では、役に立たないと?」
「そうは申しておりません。鍛錬しただけの成果は出せるようですから、鍛錬を続ければいずれそれなりの使い手にはなるでしょう。武によってのみとするならば、最終的に千人隊長には登るのではないかと」

 侯忠の物言いに、宋正は思わず苦笑を浮かべる。彼の今の仕事は荀家の警備隊長であるが、その前は州軍に所属していたのだ。その時の役職は、今彼自身の言葉に登った千人隊長である。

 そのまま軍に残っていれば将軍になることも夢ではなかったろうが、彼は父親が身体を悪くしたという報を聞くとあっさりと退役して故郷に戻り、実家が懇意にしていた荀家の警備という職に就くこととなったのだ。

 その侯忠の言う『自分と同じくらいにはなれる』という評価は、彼が人を評する時の常套句だった。自らを非才だと信じているのが、彼の短所の一つである。鍛錬さえすれば誰でも自分と同じところにまでは至れると本気で信じているのだ。

「いずれ、というのはどれくらいですか?」
「……今後を鍛錬に費やせば、三十年といったところですかな」

 その発言に、今度は荀昆が苦笑を浮かべる。今の侯忠の年齢は三十五。北郷一刀はどう見ても二十は過ぎてはいないだろう。そこから三十と言えば、今の侯忠から見ても一周り以上年上である。

 侯忠が千人隊長になったのは、二十八の頃だ。彼の見た北郷一刀との実力の差はその年齢差に現れていると言っても良い。

「武才に関してみるべきところがないのは解りました。では、知力はどうです? 宋正、答えなさい」
「高度な教育を受けたようではありますが、知識そのものは非常に広く浅いもので、今の段階では何処に出しても使えたものではありません」
「貴女も、彼のことを凡庸だと?」
「いえ。少なくとも、武に関するよりは見込みがあるのではないかと存じます。それでも突出したものは感じられませんが、物覚えは悪くありません。本腰を入れて勉強させれば、地方の役人ならば一年の後には勤まるようになるのではないかと」
「三十年先の千人隊長よりは、現実的で良いですね」

 まったくです、と主の冗談に宋正は微笑む。冗談を好まない侯忠は仏頂面のままだ。

「ですが、地方の小役人では面白みがありません。何か他にないのですか?」
「……いっそのこと、文若様の婿としてはいかがでしょうか」
「記憶喪失の男子が、実は高貴な身分であったというのは講談師に好まれそうな題材ですけれ
ど、彼の素性の手掛かりでも掴めましたか?」
「それは残念ながら」

 答えはにべもない。記憶喪失を装っていることは少し話せば解ることだが、それだけでは彼の来歴を知るには弱すぎた。手掛かりと言えば白い輝くような服だけ。これだけでは如何に智者の一族と言えども答えを知るには至れない。

「男嫌いのお嬢様は、男性に対する態度も苛烈です。今までお嬢様に近付いた男性はおりましたが、その尽くは歯牙にもかけられませんでした。知的でない、野蛮である。そもそものお嬢様の人物の好みからして、彼らは何某か資質にかけていたところもありました。八徳全てを供えたような聖人でなければお嬢様の隣に立つ資格はないのかと私も考えておりましたが……何のことはございません。必要とされる資質は一つでございました」
「あの娘の罵詈雑言に耐えるだけの心、ということかしら」
「然りでございます。八徳どころか、今までお嬢様に近付いたどの男性と比しても、北郷様の評価は低いでしょう。ですが、多少とは言えお嬢様は御自ら北郷様に関わろうとしておいでです」

 今まではどの男性も、荀彧と少し話すと自分から距離を置いていった。荀彧の溢れんばかりの才能が眩しくてというのも勿論あるだろうが、それ以上に荀彧のあの態度を受けても尚、彼女の傍にいようと思う男性はいなかった。

 北郷一刀は、荀彧の幾万の罵詈雑言を受けても尚、彼女にかかわり続けようという気持ちを持つ、宋正の知る限りでは唯一の男性だった。男性として荀彧に関わるという点に関する限り一刀の感性は天才的と言える。

「羽虫のような扱いと聞くけれど?」
「視界にも入れようとしなかった今までに比べれば、天地ほどの開きがありましょう。それでも現状で可能性は万に一つもないでしょうが、打てる手は打っておくべきではないかと」
「あの娘の子を見れないというのも寂しいですからねぇ……」

 母としての荀昆の言葉には、言い知れない諦念の響が込められていた。荀彧が男を嫌っていることは、母である荀昆が一番良く知っているはずだ。手を打っておきたいというのは、彼女も同じ思いのはずである。

「婿として迎えるからには、それなりの人間でなければならないのでは?」

 宋正と荀昆の視線が、侯忠に集まる。妻と主、二人の視線を受けた侯忠は一瞬たじろぐが、従者としての今の勤めは、意見を言うことだ。何も臆することはないと思い直し、一つ息を吸い自分の考えを口にする。

「北郷殿の人間性はなるほど、確かに見るべきところがあるでしょう。しかし、荀家は大陸でも有数の名家。婿入りとなれば多くの物が求められます。ですが、北郷殿にはそれがありません」

 武も智もなく、家柄も金も実績もない。まさしく身一つの一刀は確かに、大陸有数の名家である荀家に婿入りするには、大分頼りない。だが、

「北郷殿の非才はお嬢様の溢れんばかりの天賦の才で補えば宜しいでしょう。お嬢様が気に入りさえすれば、最悪そこに立ってるだけでも良いのですから」
「妻は賞賛を受け働いているのに、自分は立っているだけという境遇に大の男が耐えられるものか」

 それまで荀昆に向けて発言していた矛先が、妻の宋正へと変わる。口調も少しキツいものに変化した。主と妻では扱いが違うのは当然だが、理屈で分かっていたとしても感情は別だ。態度の変化にイラっときた宋正は、離れていた距離を自ら詰め、言い募る。

「愛さえあれば耐えられます」
「感情ではなく矜持の問題だ。夫婦となった以上、二人は対等であるべきだ。今持っている力
もこれから生み出すであろう結果も、北郷殿のそれはお嬢様には遠く及ばないだろう。それでは北郷殿があまりに不憫ではないか」
「それくらい我慢してくれても良いじゃありませんか。配偶者の才を認め、それを伸ばすように尽力するのも、正しい夫婦の形だと思いません?」
「それは否定しないが……」
「夫婦喧嘩はそれくらいにしなさいな」

 ぱんぱん、と荀昆が手を叩いた音で、宋正は我に返った。慌てて侯忠と距離を取り、姿勢を正す。

「お見苦しいところをお見せしました、奥様」
「私が仲人をした夫婦が、今も中睦まじいと確認できるのは良いことです。話を戻しますが、宋正の北郷殿を婿に、という案は一考の価値があると考えます。ですが侯忠の言うことにも一理ある。あの娘の罵詈雑言に耐える心根は素晴らしいですが、それだけでは荀家に相応しくはありません。何某か、北郷一刀という名前に箔をつけてもらわなければ……」
「この乱世です。気持ちさえあれば、名を上げることはできましょう」
「智も武も秀でていない、何の背景も持たない人間が持つには過ぎた野心ですね。過ぎた野心は身を滅ぼすものですが……宜しい。北郷殿には援助を致しましょう。本心を言えばいつまでもこの屋敷にいてくれて構いませんが、彼もそれを望んではいないでしょうしね。北郷殿が旅立つ時の助けになるような計画を練っておきなさい」
「挙兵の資金を出すおつもりですか?」

 こんな時代だ。名も何もなくても、金銭さえあれば兵士を集めることは出来る。無論、頭数が揃っただけの烏合の集では本物の軍隊に潰されて終わるが、ただ頭数が必要になることもある。纏まった人数を集められないようでは、そもそも形になりすらしないのだ。

 名を挙げたいと思う人間にとって、自らの手足となって動いてくれる兵というのは、喉から手が出るほどに欲しい物だ。そのために富豪や商人が資金を出す、というのも珍しい話ではない。その人物が名前を挙げてくれればそれを補佐したものとして利益を受けることが出来る。

 中途でも利益を追求できるから、極端な話、商人が援助をする人間というのは最終的に勝者でなくとも良い。利に聡い人間は旗色が悪くなれば直ぐに態度を翻す。名誉に主眼を置かない人間は、態度は身軽なのだ。

 だが、荀家は商家ではない。その目的は利ではなく人だ。優秀な人間を囲いこむこと、また、それらの人間との関係を築くことが荀家の目指すところである。

 先も言ったように、智においても武においても今の一刀は凡庸である。兵を与えたところで名を挙げられる公算は低く、矢尽き刃折れ死に至る可能性も非常に高い。援助をしたとしても、そうなっては丸損だ。
 
 一刀が成功するという見通しがほとんど立たない以上、彼に荀家として協力するのは分の悪い賭けと言わざるを得ないだろう。宋正の言葉は荀家の従者として出てきた物だったが、

「そこまではしませんよ。北郷殿が旅をするに当たって、その援助をする。その程度の物です」
「…………つまりは、段階に応じて援助をなさると?」
「名を挙げずとも、北郷殿の人間性は貴重なもの。出来ることなら生きていて欲しいのですが、事情がそれを許さないというのなら致し方ありません。しかし、生きていてもらうための尽力くらいはしても良いでしょう。その過程として彼が名を挙げるようなことがあれば、そこで初めて本格的な援助をすれば宜しい」
「それでも多少は名声を失うことになるかもしれませんが」
「北郷殿は桂花を助けてくれました。名誉を気にして手放しに援助をしないのなら、せめてそれくらいはしなければ人倫に悖るというもの。宋正も侯忠もそのように取り計らい、部下にはそう伝えなさい」
『仰せのままに』

 夫婦は唱和し、揃って頭を下げた。荀昆の下がって良いという仕草と共に退出し、屋敷の廊下を行く。


「北郷様は目がありませんか?」
「平時であればもっと目はあったろうが、今は乱世だ。彼一人に生き残れるだけの力があるとも思えん」

 夫の答えは、宋正が思っていたものと変わらなかった。乱世を生きるに、北郷一刀は向いていない。これは自分たちだけでなく、一刀本人も思っていることだろう。

「文若様のような方が補佐してくれるのなら、北郷様にも目があるのですけどね」
「あの方は王佐の才を持つお方だ。王たるには北郷殿では不相応だろう。それならば慎み深く柔軟な思想を持った公達様の方が北郷殿の補佐には向いていると思うが……」
「……ええ、意味のない比較でした」

 荀彧は既に曹操の元に仕官を希望する旨を送っている。彼女ならば仕官を断られるということはないだろうから、半ば仕官は決まったようなものだ。話に出てきた公達――荀彧の年上の姪である荀攸は、既に洛陽で宮仕えをしている。

 この時代、智者が主を変えることなどよくあることだが、宮仕えを放棄するとしたらそれは相当のことであるし、曹操はこの時勢にあっても傑物とされる人物である。それを蹴ってまで無位無官で実績のない一刀に仕えることなど――それ以前に、男性に臣下の礼を尽くす荀彧いうのが、宋正には想像できなかったが――あるはずもない。

「奥様の意には反しますが、地方の役人になるのをそれとなく薦めてみることにします」
「それがよかろうな。人間、分相応なのが一番だ」
「殿方は飛躍することを夢見るものではないのですか?」
「若い時はそうだったような気がするが、所帯を持ってから気が変わった。名誉や地位よりも大事な物が出来ると、人間変わるものだな」
「…………」
「急に押し黙ってどうした」
「……知りませんっ」











後書き
次回で荀家逗留編は終わりです。
二話で終わる予定でしたが、四話にもなってしまいました。
その次から飛躍編というか雌伏編というか燻り編が始まります。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第五話 荀家逗留編④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:50









 荀家に逗留を始めて二十五日目。

 客間を自分の部屋と認識できるようになり荀家での生活にも本当に違和感がなくなってきた頃、荀彧の元に曹操から書簡が届いた。以前に荀彧が出した仕官したいという旨の書簡、その返信である。合否については見るまでもない。一刀を含めて、荀家の人間は誰一人としてそれが断られるとは思ってなどいなかったくらいだ。使用人が書簡を持ってくると、荀彧はそれを受け取ると同時に、自分の部屋に引き返した。

 曹操から書簡の返事が来たことは最初に書簡を受け取った使用人の口から荀家全体に伝わり、やがて街にまで広まった。荀家の傑物が『あの』曹操に仕官するという噂は民草の格好の噂の種になり、宋正の買い物の付き合いで街に出た一刀も質問攻めにされた。

 婿であるという噂は流石に払拭されていたが、その候補という認識は未だに根強く、街の人間は一刀も当然のように荀家を出て、荀彧に着いて曹操の元へ行くものだと思っているらしい。

 勉強も武の鍛錬もそこそこ使えるようになっては来たが、それを持って曹操に仕えられると思えるほど、一刀も楽天的ではなかった。黄巾賊が跋扈するようになって以来、戦力はどこでも求められているため単純な兵力としてならば曹操陣営と言えども就職はできるだろうが、そういう所で戦い生き残ることがどれほど難しいのか、武の師匠である侯忠から嫌というほど聞かされている。

 自分の腕が武勇で名を成すことができるほどではないというのはとっくの昔に気づいていたし、異世界にふっとばされてる時点で、戦場で生き残るだけの運があるとも思えない。

 荀昆などは志は高く大きくと主張するが、宋正は分相応ほど素晴らしいものはないと説いていた。どちらが自分の身の丈にあっているかと言われれば、宋正の主張する『分相応』と言わざるを得ないだろう。

 無理をしないで生きられるのならその方が良いに決まっている。荀彧や曹操がいるのだから、他の三国志の英傑もいるだろう。そんなハイスペックな彼女ら――覚えている限りの名前を荀昆に確認し、彼女が知っている範囲で整合できた名前は全て女性だった。おそらく著名な武将は全て女性なのだろう、という認識に至っている――と肩を並べて北郷一刀というただの人間が覇を唱えられるとも思えない。

 だが男なら……という思いも心のどこかにあった。頂点に立ち天下を取りたいなどと大それたことは思わないけれど、眼前に今まさに羽ばたこうとしている少女がいるのに、それに刺激されないというのは男として、人間として格好悪い。

 自分には一体何が出来るのか。

 しかし、進学するか就職するかすら真面目に考えたことのない現代社会を生きた高校生に、そんな高尚なものが分かれば苦労はしない。何か秀でたものがあれば指針くらいにはなったのかもしれないが、生憎と知でも武でも光る物はないと太鼓判を押されたばかりである。

 いくら考えても答えは出ない。

 ならばすることは決まっていた。
 
 一人で考えても良い知恵が出ないのならば、誰かに聞けば良い。今自分はあの荀彧と言葉を交わすことが出来る場所にいるのだ。稀代の智者である彼女ならば、何か良い知恵が閃くに違いない。

 問題があるとすれば閃いた知恵を授けてくれそうな気がしないところだが、それはそれだ。口を開けば罵詈雑言ばかりが出てくる荀彧でも、会話をしているとそれなりに楽しい。

 明後日に出発を控えた荀彧である。精液男のために時間を取ってくれるかも怪しい。門前払いどころか顔を見せてもくれないかもしれない。それはそれで、凄く悲しいが……今一刀はどうしようもなく荀彧の顔が見たかった。いつものように口の端を少しだけ上げて、心底人を見下したような顔で怒鳴る彼女を見れば、 自分で何か閃くかもしれない。

 それにあの荀彧が曹操の下へ行くのだ。才気溢れる彼女のことである。直ぐに頭角を現し曹操軍になくてはならない存在になるだろう。そうなっては箸にも棒にもひっかからない自分ではおいそれを会うことは出来なくなる。多少身を立てた程度では姿を見ることもできないような場所に、荀彧は行こうとしているのだ。

 いまだかつて味わったことのない不安を抱えたまま、一刀は客間を出て荀彧の部屋に向かう。陽は既に暮れている。薄暗い廊下が、その不安をさらに助長させた。

























「じゃあ、旅にでも出れば?」

 不安その他色々なマイナスの感情を迎えて臨んだ荀彧への質問の回答は、その一言だった。あっさりと部屋に入れてくれたこともそうだが、素直に質問に答えてくれたことも一刀の予想を裏切っていた。

 何か悪い物でも食べたのかと思わず荀彧を凝視するが、視線が気持ち悪いと飛んできた小皿を受け止めるに至って、あぁ、いつもの荀彧だ、と一刀は安堵する。

 小皿をテーブルに置くと、空になっていた杯に酒が注がれた。ありがとう、と視線で礼を言うと、給仕役の宋正は静かに微笑を返した。

 荀彧の部屋には、一刀とそれから宋正の三人だけだった。あの男嫌いが男性を部屋に招き入れたことに、自分で言い出したことにも関わらず命の危険すら感じた一刀だったが、その部屋には先客がいたのである。

 荀彧は一人、宋正を相手に晩酌をしていたのだ。女性的な起伏に欠ける荀彧が酒を飲んでいるという事実には違和感が先立ったものの、杯を一人傾ける様子が中々様になっていたこともあり、一刀の口から荀彧の体を労わるような言葉が出るようなことはなかった。

 唐突な一刀の登場を荀彧は迷惑そうに見やったが、招き入れた以上出ていけなどと言うことはせず、宋正に全てを任せ、一刀を自分の対面に座らせた。勉強の時に顔を合わせてはいるが、こうして落ち着いて荀彧の顔を見るのは久し振りである。

 酒が進んでいることもあって、仄かに顔を朱に染めた荀彧ははっとするほど色っぽい。肌の露出はほとんどないが、だからこそ僅かに見える首筋とか、杯を持つ細く綺麗な指先とか、仕草が一々色っぽかった。悲しくなるくらいに幼児体型の荀彧に色気を感じている自分に驚きを感じつつも、それを悟らせないように酒が並々と注がれた杯を一気に呷る。

 名家のお嬢様が飲むだけあって、酒の口当たりは良かった。友達と悪乗りしてビールやら何やらを飲んだことはあったが、そのどれよりもこの酒は上手かった。

 酒は良い物だ。しかし、荀彧はほろ酔い気分の様子なのに一刀は全然酔うことが出来ない。酒を飲んでいるという自覚はあるのだが、それはすっと身体の中に吸収されていくようで、酔いとして現れないのだ。酒に強いからこうなるのか、それとも今の精神状態がそうさせるのか。酒に慣れていない一刀にその判断はつかなかったが、正気を保っていられることで今の荀彧を観察できるというのなら、それも良いことだと無理やり判断した。

「旅かぁ……いいかもしれないな。あー、でも、今黄巾賊が暴れてるんじゃなかったかな。一人旅って危なくない?」

「一人旅が危なくないことなんてありえないわよ。それと黄巾は曹操様他官民問わず軍が動員されて衰退の一途を辿っているわ。最終的には冀州で決戦が行われるだろうって話よ」

「冀州って言うとここから北か」

 荀彧や宋正に教え込まれたことで、現在の漢帝国の地図は頭に入っている。州の数は47都道府県よりは遥かに少ないためそれを覚えるだけならば楽だったが、では次は郡を県を、となると途端に難しくなってくる。

 荀彧は勿論、宋正まで県の配置を正確に覚えているらしい。知識人ならばこれくらい当然と彼女らは言うが、まるでそれを片手間のように覚えたような彼女らと自分の頭は、根本的に構造が違うのだろうと一刀は思った。

「つまり南に行けば行くほど安全ってことかな」

「比較的、と言葉の頭につけなければなりませんけれどね」

 一刀の言葉を継いだのは宋正だった。その顔に苦笑を浮かべ、一刀の杯に酒を注いでくれる。給仕が彼女の役目だからそれは不思議なことではない。見れば、荀彧の杯も空になっていた。一刀は近くにあった酒の入った小さな甕を取り、荀彧の杯に酒を注ごうとする。

 しかし、酔いの回った状態でもそれを察知した荀彧は杯をすっと、一刀の手の届かない位置にまで移動させてしまう。赤ら顔でギロリ、と睨みつけてくる荀彧に一刀は降参と両手をあげた。

 素面の時からこれなのだ。酌をするくらいは良いと思うのだが、そういう簡単なものでも男性との接触は嫌らしい。酔いが回ってからなら何とかなるかと先ほどから隙を伺っているのだが、流石は王佐の才。油断も隙もあったものではない。

「最低でも武術に多少の心得がないと、一人旅は危のうございますね」

「それだと商人の人たちはどうしてるんだ?」

「精液が頭に詰まってる人間は言うことが違うわね、功淑。今の時代、商隊を組まない商人がいるとでも思ってるのかしら」

「北郷様、黄巾でなくとも賊の類は多くございます。商人はそういう輩がいるからと遠回りは出来ませんから、護衛を雇うのが普通なのですよ。県や郡の正規兵よりもこうした市井の傭兵の方が近頃は腕が良いこともあるとか」

「旅をするなら商人と一緒に行くのが安全なのかな」

「不確定な要素を抱えて一緒に旅することほど危ないこともありません。賊と内通していないとも限りませんからね。よほど誼を通じてでもいない限りは、紛れ込むことは難しいでしょう」

「要約すると……」

「一人旅をしてるのは、よほどのアホか豪傑ということになるわね」

 まぁ、あんたがどっちか考えるまでもないけど、と荀彧は空になった杯を宋正に差し出した。飲みすぎを嗜めながらも、宋正は杯に酒を注ぎ足す。

 よほどのアホと言うが、それならば一人で旅をしていて盗賊に襲われていた自分はどうなのだ、という疑問は沸き起こったが、誰も並び立てないほどの知力のある荀彧が感情を抑制することを非常に苦手としていることは、付き合いの浅い一刀でも理解できることだった。

 それまで仕官していた袁紹は愚物と息巻いていたし、大方一人で勢いのままに飛び出し、しばらくしてから危険なことに気づいたものの、引っ込みがつかなくなって一人で旅してきたといったところだろう。

 実際には袁紹の側も何か手はほどこしたのだろうし、最初から最後まで一人旅ということはなかったろうが、一刀が出会った時には既に荀彧は一人だった。僅かの道程とは言え、腕に覚えのない女性の一人旅である。それが如何に危険なことであるのか、散々脅された後だけに現代人である一刀にも僅かではあるが理解が及んだ。賢い荀彧がそれを理解していないはずはない。それでも危険と矜持を秤にかけて危険を押し通す辺りが荀彧の荀彧たる所以なのだろう。

「旅にお出になられる前に、奥様に話を通されてみてはいかがですか? 紹介状を一筆書いていただければ、少なくともこの州で商いをする商人ならば同道を拒みはしないでしょう」

「そうしてくれるのならありがたいけど……大丈夫かな?」

 宋正は微笑みながら簡単に言うが、自分の名前を入れて身分を保証する紹介状を書くということは、その人間が何かヘマをした時、責任の一部を被るということでもある。紹介してもらう側の一刀にはこれ以上ありがたいことはないけれど、紹介する側の荀昆には百害あって一利もない。恩を受けてもそれを返すだけの当てがない一刀には、それがただの善意から出た物であっても、おいそれと受け取る訳にはいかない事情があった。

 既に一月近い時間を好待遇でおいてくれているだけでも破格の条件なのに、これ以上世話になるのも心が引ける。

 しかし、荀家の世話を抜ければ一刀は本当にただの人である。旅に出るにしてもここに留まるにしても、路銀やら身の回りの品やらそういった物の用意は誰かに頼らざるを得ない。

 それを稼ぐために荀家で下働きをする、というのもなるほど良い考えだと思ったが、それまで客人として扱っていた人間を下働きとして使うのはあちらも具合がよろしくないだろうと脳内会議で却下している。

 同様に、この街の中でも働くことは出来ないはずだ。荀家の客人であるというのは、街の人間の誰もが知っている。荀家はこの街の名家だ。そこで世話になっている人間を賃金を払って雇うことは出来ないだろう。

 いまだに荀彧の婿という噂が完全には立ち消えていないこともあって、そっちの線の方が絶望的なくらいである。

「大丈夫ってのはこっちの台詞よ。紹介状まで書かせて無様な真似してごらんなさい? 私の知識の限りを尽くして一生婿に行くことの出来ない、消えることのない傷を心に植えつけてやるから」

「滅多なことはしないよ」

 したくても出来ないからな、とは言わないでおく。物は言い様というのは荀彧と宋正の教えの中で理解した、現実でも直ぐに応用できる事柄の一つだった。要は屁理屈であるが、これを荀彧や宋正のような頭の良い人間がやると何者にも代え難い武器になる。荀彧がここは負けないと思った時は、たとえそれがくだらない口喧嘩であったとしても確実に勝利をもぎとって行くのだ。

 才能の無駄遣いと思わないでもないが、そういう時の荀彧は実に生き生きとしている。嗜虐的な笑みを浮かべている時の荀彧が、一刀の見たことのある表情の中で一番魅力的だというのは、きっと褒め言葉にはならないのだろう。宋正辺りならば賛同してくれるかもしれないが、それをここで確認するのは自殺行為である。

「でも北郷様が旅に出ると寂しくなりますわねぇ」
「そう? 私は清々するけどね。いつまでもこんな孕ませ男を屋敷においておいたら、私がいないのをいいことに、この部屋に忍び込んで口にするのもおぞましいようなことをするに違いないわ。猥本みたいに」

 口にしてからその光景を想像したのだろう、汚物を見るような目で荀彧はこちらを睨みつけてきた。してもいないことで罵倒されるなど日常茶飯事だから、睨みつけられたところでそよ風程度にも感じられない。

 一刀が平然としていると、荀彧は面白くなさそうに短く息を漏らし宋正に視線を送った。それを受けて今度は宋正がこちらに視線を向けてくる。

「……そろそろお暇することにします」

 本音を言えばもっと時間を共にしていたかったが、部屋の主に出て行けと言われたらそれに従わざるを得ない。

 むしろ、あの荀彧にしてはよくもこれだけの時間、男を部屋に入れたものだと感心するところだろうか。それだけ信頼されるようになった、と思えたら幸せだが、荀彧のこちらを見る視線にプラスの物が欠片でも混じっていると思えたことは今この瞬間を含めても一度もない。道は果てしなく、そして険しい。

「あまりお構いできなくて申し訳ありません」
「とんでもない。荀彧、お酒ご馳走さま」
「お礼なんていらないわよ、気持ち悪い。どうせ私のお酒じゃないしね」
「それでも部屋に入れて振舞ってくれたのは荀彧だろ? ならお礼は言わないとさ」
「……つまらないこと言うくらいなら、さっさと出て行きなさいよ」
「おやすみ、荀彧」
「おやすみなさいませ、北郷様」

 挨拶に答えたのは宋正だった。努めて視線をこちらに向けない荀彧に苦笑を浮かべると、その気配を悟られるよりも先に一刀は荀彧の部屋を後にした。









 














 

「お嬢様はお酒を召してもお嬢様なのですね……」
「言いたいことがあるならはっきりと言いなさいよ、功淑」

 目深に被った猫耳頭巾に下から殺気の篭った視線で睨み上げられて、自らの主張の正しさを理解した宋正は主筋の少女の将来を思って思わず溜息を漏らした。

 ここは荀彧の部屋で酒があり、彼女は酔っていた。そこに男を招きいれて、少しとは言え話をした。何か起こると考えるのは普通ではないだろうか。決定的なことよ起これと考えていたのは自分だけではないだろう。

 二人を取り巻く二人以外の人間全てが何かが起こることを期待し、また何かが起こると信じていたのだ。

 だが結果は宋正自身が見た通りだ。両方とも奥手という訳ではないようだが、お互いを意識しているのは間違いないのに、それが恋愛とは関係のないところにあり過ぎて、友人でも同志でも勿論恋仲でもない奇妙な何かに、二人の関係は変化しつつあった。

 男を遠ざける荀彧の感性は本物だ。そんな奇妙な関係と言えども、男性との縁が全くないよりはずっと良い。荀昆もふざけて一刀のことを婿殿と呼ぶことがあるが、彼女だって彼を本気で婿にと考えている訳ではないだろう。

 付き合う付き合わないは荀彧本人が決めるとしても、男性と全く触れ合えないというのは主義主張とはまた別のところで、人間として宜しくない。異性に関して常識的な感性を持って欲しいというのは現時点では高望みかもしれないが、一足とびに物事を成すことは出来ない。

 そういう意味で、荀彧の態度にも物怖じせずそれでもなお荀彧と関係を持とうとする一刀の存在は金銀財宝よりも貴重な存在なのだった。

 宋正の知る限り彼は、荀彧と自発的に関係を持とうとした人間の中で、縁が切れなかった記録の最長記録を更新し続けている。

 それは男嫌いの荀彧をして、もしかしたらと周囲の人間に思わせるのには十分だった。それも女性の方が仕官し旅立ちもう逢うことは叶わない、そんな状況なのである。それとない気配を感じたら消えて失せるくらいの配慮はあるつもりだったのに、そんな状況にはまるでならなかった。

 お互いが満足しているなら他者が口を挟むべきではない。それが大人としてのあるべき姿というのも解っているが、期待を裏切られたという事実は宋正を少なからず落胆させた。

 無論、荀彧は主で宋正は従者である。ここで何が起こり起こらなかったかを喧伝することは勿論ないが、何もなかったということは荀彧と一刀の態度を見ればアホでも察しがつくことだ。一生一人身のままかもと今までだって心配されていたのに、これから彼女が仕えることになる曹操は、女性を性欲の対象としてみる人間として有名である。

 身辺警護を任務とする親衛隊すら、全てが一級の容姿を持つ美少女で構成されていて、日によって閨を共にする人間を変えるという噂があるほどなのだ。今でさえ危うい感性の荀彧がそんな所に行けばどうなるのか、荀家の未来を思うと気持ちは暗くなるばかりである。

「それはそうと、北郷様も旅立たれるようですね」
「清々するわ。これで私も心置きなく、曹操様の元に旅立てるというものよ」

 杯に僅かに残っていた酒を啜る荀彧の瞳に、嘘偽りの色は見られない。間違いなくそれは本心からの言葉だろう。

 本心に違いない。違いないのだろうが……荀彧という少女を知っている人間は、彼女の言葉を額面どおりに受け止めない。良くも悪くも彼女は屈折した感性の持ち主だ。悪意を感じ取るのは簡単だが、その中にある欠片ほどの好意を感じ取るのは本当に難しい。

 宋正は自分を、その好意を感じ取ることの出来る数少ない人間であると自負していた。目をこらさねば見えないような欠片ほどの好意であったとしても、それが荀彧なりの精一杯であると思うと、愛しくさえ感じる。

 あの才媛が、と思わないでもないが、人間何か欠点があった方が親しみが持てる。自分を含めた人間関係に関してのみ途端に考えが回らなくなるこの少女は、きっと曹操の所に行っても愛されることだろう。

「北郷様に贈り物でもしてはいかがですか?」
「私にこれ以上、あの精液男と関係を持てって言うの?」
「北郷様の境遇を考えましたら、これが今生の別れということにもなりましょう。元より北郷様とお嬢様の縁は、北郷様がお嬢様の命を救ったことより始まっております。受けた恩は計り知れません」
「この家に招待したことで義理は果たしたわ」
「私もそう思いますけれど、お嬢様も近々曹操様に仕官するという大事な時期。私や奥様、家の者はお嬢様の気質、心根を存じておりますが民草はそうは思わないでしょう」
「誰が何を思おうと知ったことじゃないのだけど?」
「しかし、評判というのは馬鹿にしたものではありません。荀文若は不義理であるという噂が曹操様の耳に入らないとも限りませんでしょう?」
「……」

 荀彧は黙して語らないが、憎々しく歪んだその表情が心中を語っていた。面倒くさい、であるとか精液男のために……という思いが、荀彧の中を駆け巡っているのだろう。それと同時にそうすることでどれだけ自分の益になるのかも冷静に計算している。

 その結果は直ぐに出た。

「今から蔵は開けられる?」
「では、やはりアレを贈られるのですね? 功淑もそれが良いのではと思っておりました」
「……貰い物をまた贈るのは、礼儀に反するかしら」
「良いのではありませんか? お嬢様は死蔵されていたのですし、北郷様がお使いになった方がアレのためにもなるでしょう。ただ公達様がお嬢様の就職祝いとして贈られた、という来歴を考えると、北郷様はしり込みしてしまうかもしれませんが」
「黙ってれば孕ませ男には解らないわよ。何があっても由来を話さないよう、家人やお母様にも伝えておいてちょうだい」
「お嬢様の仰せのままに」





























 一刀の旅立ちはあっさりと認められた。一応引き止められはしたが、旅に出たいと強く主張したら、荀昆もそれ以上は言ってこなかった。

 旅立つ一刀のために荀家でささやかな祝宴が開かれる。世話になった警備隊の面々は一刀が旅立つことを惜しんで餞別までくれたが、相変わらず荀彧が姿を見せないことに気づいて宋正に訪ねると、彼女は苦笑を浮かべるばかりだった。

 気分が優れないので部屋で休んでいるという。あの荀彧の気分が優れなくなることがあるとはどうしても思えないが、本人がそう言っているのならそれを信じた風に見せるより他はない。

 祝宴は夜通し続くということもなく、日付が変わる前にはお開きとなり、一刀は一人でおよそ一月の間使い続けた客間で眠りについた。

 翌日、荀家の護衛をつけて昼過ぎに旅立つ荀彧に先立って、荀昆の手配してくれた商隊の世話になって旅立つこととなった一刀は、荀家の正門前で見送りを受けていた。

 見送りに出ているのは現在の家長である荀昆と、使用人を代表して宋正、警備隊を代表して侯忠、それから仏頂面をした荀彧である。これからすぐに旅立つということで、荀彧はいつになくめかしこんでいたが、呼吸するように舌打ちでもしそうなその表情は一刀の心を安心させた。

「長い間お世話になりました、荀昆殿」
「お世話など。北郷様さえよければ、いつでも当家にお越しくださいな」

 穏やかに微笑む荀昆に頭を下げ、侯忠、宋正にも別れの挨拶を告げる。気配を感じると、正門の影から警備隊の面々がこちらを覗いているのが見えた。一礼すると、彼ら彼女らは微笑んで踵を返した。

 代表して侯忠が見送りにしたということで、警備隊の面々は今も仕事中である。本来ならばここに顔を出すのも職務規定に違反することになるのだろうが、それでもこうして顔を見せに来てくれたことに、感謝の念が堪えなかった。

「……」

 最後に一刀が立ったのは、荀彧の前だった。別れの挨拶をするだけ。ただそれだけのはずなのだが、これが今生の別れになると思うと、一晩考えた言葉も上手く口から出てこない。

 一刀が何も言えずにいると、荀彧は無言で袱紗を差し出した。受け取れ、ということだと解釈した一刀は、おっかなびっくりそれを受け取る。手にはずっしりとした重量感が伝わった。

 これは何だと視線で問うと、荀彧はぷいと視線を逸らした。助けを求めるように見送りに来てくれた荀家の面々に視線を送るが、彼女らはわざとらしく視線を逸らすばかりに何もしてはくれない。

 溜息をついて、一刀は袱紗を解き中身を取り出した。

 手にした時の重量から何となく察しはついていたが、中から出てきたのはやはり剣だった。地味な拵えの鞘から抜いて、刀身の一部を日の光に晒して見る。

 訓練で使っていた刃を潰した剣も、一度見せてもらった侯忠の剣も銀色の光を放っていて美しいとすら思ったものだが、両刃で少しだけ短く感じるこの剣はどちらかと言えば黒ずんで見えた。美しさで言えばそれらに勝るとはお世辞にも言えないが、鈍く光る刀身は一刀に言いようのない威圧感を与える。

 業物であるかどうかは解らないが、鈍、数打ちでないことは一目で理解できた。少なくとも悪い剣ではないだろう。

 荀彧に相変わらず言葉はない。まさかこれを見せにきただけ、ということはないだろうから、これは餞別ということになるのだろう。見送りに来てくれるとも思っていなかった身としては、無言の餞別と言えども言いようもなく嬉しい。

「……笑わないでくれる? あんたの笑顔って気持ち悪いから」
「それは酷いな。でも、餞別ありがとう。大事にするよ」
「剣を持ってても、あんたの腕じゃどうしようもないでしょうけどね。でもないよりはマシでしょうから精々使い潰してやりなさい。まぁ、私はあんたみたいな精液男が何処でのたれ死んでも構わないんだけど」
「なら、期待を裏切らないようにしないとな」

 荒事に関わって生き残って見せるとも、荒事を避けて無難に生きるとも、どちらとも取れる答えである。勿論、一刀は後者のつもりでそれを口にした。自分の腕前などたかがしれているし、荀彧のような志があるでもない。

 無駄に力を振るうよりは、危険が差し迫った時に自衛するだけの方が、この乱世だ。生き残る確率は高くなるだろう。

 そういう考えだったのだが、荀彧は前者というように受け取ったらしい。一気に沸点を越えた彼女の感情は、それが当然であるかのように爪先で一刀と脛を打ち据えさせた。

 痛みに蹲る一刀にそれだけで射殺せそうな視線を送ると、荀彧は足音も高く門の置くに消えた。一刀の耳に小さな笑い声が届く。笑っているのは宋正だった。

「今のはいただけません。お嬢様と相対する時には、言葉に気をつけませんと」
「いや、今の俺にはそこまでは……」
「殿方でそこまで、というのは素晴らしいことですよ。自信を持ってよろしいのではないかと」
「だといいんですがね」

 宋正は褒めてくれるが、他の例を一度も見ていないだけに荀彧とどれだけの友好関係を築けたのか把握できない一刀だった。顔も見たくない声も聞きたくない、という最低の線よりは上にいるようだが、友人であるかと言われると首を捻らざるを得ないし、恋人には間違っても見えないだろう。

 少なくとも一刀の感性ではそうなるのだが、荀家の面々の自分たちを見る生暖かい視線はそれ以上を期待しているようで、時折不気味だった。

 その荀家の面々の中で最もそういう期待を抱いていたであろう宋正の笑顔に見送られながら一刀は踵を返した。

 行く宛のある旅ではない。

 ただ、黄巾賊はここから見て北に集結しているというから、旅に出るならばそれを避けるように西へ、南へ行くのが良いと言う荀昆の言葉に従って、そちらに向かう商隊に混ぜてもらうことになった。

 何が知れるか、何が出来るのか。

 荀彧の言う、グズで察しの悪い精液男には解らないが……

 新しい場所に行ける。その事実は、ここが何処とも知らない異世界であっても、一刀の心を高揚させるのだった。












[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第六話 とある農村での厄介事編①
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51



「はい、終了。お疲れ様」

 一刀が声をかけると、子供達は揃って手に持った木刀を放り出し地面に身を投げた。息も荒く汗に塗れた彼らを苦笑と共に見下ろしながら、一刀は手拭で汗を拭う。

 たまにはということで子供達と一緒に素振り千本にチャレンジしてみた訳だが、慣れていない彼ら彼女らは良いとして、言い出した一刀も相当に疲れていた。

 苦なく出来ると思っていただけに、この疲労感には情けなさすら覚える。故郷の世界にいた時よりは身体も鍛えられ、少しは強くなったという実感もあるのだが全部が全部という訳にはいかないらしい。

「団長、稽古! 稽古つけて!」

 この疲れをどんな方法で癒すか、一刀が今晩のスケジュールを考えていると、疲れて動けない子供達の中から元気の塊のような人間が飛び出してくる。

 黒い長髪をきつめの三つ編みにして、肌は日に焼けて小麦色。全体的に細身だが華奢という感じはなく、口調と雰囲気も相まってその人物を実に健康的に見せている。

 名前は子義という。ここに集まった人間の中で最も若く、年齢は12、3歳――数を数えることが苦手だそうで、聞く度に年齢が変わるのだ――と一刀の感覚で言えばまだまだ子供である。

 そんな子供の無邪気なお願いに一刀は反射的に渋面を作りそうになる自分を意識し、視線を逸らした。疲れている時に、この子の相手は本当に疲れるのだ。

 一刀が子供達の面倒を見るようになって一月が経つが、その中で子義は群を抜いた才能を見せていた。他の子供よりも出来るとかそんなレベルでは断じてない。比べるのもおこがましいくらいの才能が、子義にはあった。

 最初は荀彧のように三国志の武将が美少女になっているのかと疑ったが、子義は正真正銘男の子だ。それ以前に、子義という名前の武将に心当たりはない。

 肩透かしを食らった気分だったが、強いからと言って必ずしも性転換された三国志の武将ということはないのだろう。美少女になっているのは荀彧他数名だけで、残りは皆男性のままという可能性だって捨てきれない。

 とは言え、可能性の論議をしてもただの人間である一刀にそれを確かめる手段はなかった。今は答えのでない問答をするよりも、目の前の仕事を片付けることの方が重要である。

 集まった子供達では五人でかかっても相手にならないので、子義の相手は一刀にしかできない。現状、辛うじて十戦しても全て勝つ状況が続いているが、子義との稽古はいつも冷や汗をかかされる。

 攻撃の組み立てが恐ろしく短調なせいで一刀程度の腕前でも辛うじて勝ててはいるものの、子義が考えることを覚えた瞬間に、勝つ見込みはゼロになるだろう。一緒に学んでいる子供には何も考えずに木刀を振るっても余裕で勝てるが、祖父や侯忠から指導を受けた一刀からはいまだ一本も取れていない。

 同年代での喧嘩では負けなしだったらしく、自分を負かした相手に大層感激したのか、それ以来子犬のようについて回られている。男の子とは言え子供に頼られることに悪い気はしないが、それが自分を遥かに凌駕する天賦の才を持った子供となると、荀家ではお前に才はないと遠まわしに言われ続けた一刀の心中は複雑になる。

 子義は一刀の返事を、目を輝かせながら待っている。助けを求めようにも返事にまごついている間に、他の子供達は団長さようならとさっさと帰り支度をして家路についてしまった。

 もたもたしていると日が沈む。ここは農村だ。日が沈んでからは田畑に出ないが、夜は夜で内職があるし、人手はいくらあっても足りない。

 また、農作業以外に身体を動かすということで、平常よりも疲れが溜まっている。疲れを蓄積させることは、何時の時代でもよろしくないものだ。彼らは基本的に早く寝て早く起きるという健康的な生活が染み付いている。

 目の前で目をきらきらさせている子義もこの農村の子供であるはずなのだが、彼は農作業や内職よりも木刀を振るうことに楽しみを見出しているらしく、子供達の中で最も才能に恵まれているにも関わらず、戦うことを学ぶのに最も熱心だった。

 反面、寺小屋の真似事で簡単な読み書きと計算を子供達に教えてもいるのだが、そちらの授業は隙を見てはサボろうとするので始末に追えない。単純な徒競走だと第二次成長が終わった一刀でも、子義には勝てない。逃げた彼を捕まえることは、この村の誰にも出来ないだろう。

 要するに、子義を相手に逃げたとしても足の速さの関係から確実に追いつかれるということだ。のらりくらりと言い逃れ続けたとしても、こちらがイエスというまで食いついて離してくれないのは目に見えている。

 ならば最初からいいよ、と言うのが賢い選択というものだろう。

「一本だけな……」

 しょうがない、という風を装って言うと子義は飛び上がって喜んだ。時間が勿体無いと一刀に木刀を押し付け、自分は大またでぴったり五歩距離を取り、木刀を正眼に構える。

 負けが込んでいるはずなのに、構えだけは異様に様になっていた。これで一刀の1%でも考えるようになればもっと強くなれるのだが、彼は一向に考えるということをしない。指導の方法が悪いのだろうか、と今では教育者のように考える一刀だったが、彼が考えることを始めた瞬間勝てなくなるのは目に見えているため、心の中には子義にはこのままでいてほしいと思う自分もいる。

 浅ましく醜い感情とは思うものの、どちらかと言えばもっともっと強くなった子義を見てみたいという気持ちの方が強い。どういう教え方をしたらもっと子義を強く出来るのか、今はそればかりを考える毎日だった。

 まるで先生だな、と自分の境遇に苦笑を浮かべながら、こちらの合図を待っている子義に宣言する。

「一本勝負。決着が付いたら終わりだし、日が沈んでも終わりな」
「わかりました! でも、手加減したら怒りますからね!」
「はいはい……」

 と、投げやりに返事をしても、子義の目には入っていないらしい。いきますよー! と吼えてかかってくる子義をどこか遠くに見ながら、一刀は荀家を出てからのことに思いを馳せた。


















 商隊にくっついての旅は順調だった。商人も一刀が荀家の客人だと理解していたから扱いも悪くなかったし、護衛として雇われていた面々とも早々に打ち解けることが出来た。護衛の隊長は侯忠と官軍時代共に働いていた仲らしく、見聞を広めるために旅をするのだという一刀にあれこれと物を教えてくれた。

 時間が空いた時には剣の稽古をしてくれたり、商人はこの世界における商いの基本を教えてくれた。荀家に居た時も元の世界では出来なかっただろう経験をしたが、商隊で学んだことは一刀の感性に大いに刺激を与えた。

 そんな有意義な時間を過ごしながら、最初に一行が辿りついたのは司隷河南郡のとある大きな街だった。割と都会であるらしいこの街は現在『あの』袁術の治める土地であるという。半端な三国志の知識がある一刀は袁術にはあまり関わるべきではないと思ったが、需要のあるところに品を届けるのが商人の仕事。浪費家であるらしい袁術は商人にとっては大事なお得意様であるらしく、商人は嬉々として街に足を踏み入れた。

 聞けば袁術は金色の髪をした大層な美少女であるという。性格と政治的手腕には難アリだけどな、と商人も言っていた。警備隊の中にも意見を同じくする者がいたようで、あぁ、顔だけはな……と重々しく頷くのが印象的だった。

 そこまで言うなら顔くらいは見てみたいと思う一刀だったが、性格がアレな権力者と個人的な関わりを持つべきではないという商人の尤もな意見でもって納得し、袁術の顔を見るのはまたの機会ということで持ち越した。

 さて、袁術相手の商売を終えた商隊はこれから北へ向かうという。集結した黄巾賊との決戦が近いので危険であると荀彧に言われ続けてたせいか、北という言葉に反応して一刀の脳裏に荀彧のいらついた顔が浮かぶ。行くか行かないか考える以前に、身体が向かうことを拒否していたのだ。残念だが、商隊とはここでお別れだ。

 北には行かないという事情は商人も聞いていたのか、一緒にどうだと無理に誘うようなことはせず、同道した間の手間賃――警備という名目での給料とのことだ――をいくらか多目に渡すと、脇目も振らずに北へ旅立っていった。

 何も態々危険な土地に行かなくてもと一刀は思ったが、戦争というのは商人にとっては稼ぎ時なのだそうで、曹操や袁紹などの金払いの良い、どちらかと言えば民間寄りの軍に糧食や鎧兜を売って荒稼ぎするのだそうだ。右から左へ物を流すだけで大もうけが出来るのだから商人にとってこれほど美味しい話もない。

 しかし、戦場に行くということは殺気だち武装した人間の大勢いる地域に足を踏みいれるということでもある。下手を打って荷物を奪われた挙句、無残に殺される商人も後を絶たない。

 自然、商人も護衛を雇うことを覚え、今では腑抜けた官軍よりも商隊の護衛の方が強いという現象が大陸各地で見られている。

 一刀が世話になった商人も豫州では名の知れた、精強な護衛部隊を抱える商人であるとのことだ。それだけ強い護衛を雇うとなると経費も嵩むため、自然と商売が大きな方、大きな方へと流れるだそうだ。

 とは言え、護衛が精強だからと言って、危険がない訳ではない。こちらよりも多数の賊に囲まれればそのまま殺されることだって十分に考えられるし、最悪、売るつもりだった相手に襲われることだってある。

 そうならないためにはまず、売る相手を見極めることだ……と商人は言っていた。彼が挙げていた大陸北部の上得意は三人。曹操、袁紹、袁術だ。

 例えば曹操は厳しいが公正な人格で、商人だからと言ってこちらを侮ったりはしない。適正価格で売らされるために一つ一つの儲けは少ないが、行儀の良い信用筋を紹介してくれたりと付帯効果が色々と多い。後々名を上げるだろうという見通しもあり、今最も交流を持ちたい武将であるとのこと。

 袁紹の人格は曹操に比べてお世辞にも褒められた物ではないが、名門の矜持があるのか値切り交渉などはほとんどせず、丼勘定で馬車につまれた物を根こそぎ買ってくれるという。こちらは商人風情と下に見られることが多いらしいが、大盤振る舞いしてくれる以上、それは商人にとって上得意だ。立ち寄った町で豪遊して帰っても儲けが鱈腹残るような支払いをしてくれるのならば、例え悪鬼でも福の神である。

 一番安心なのは袁術だ。彼女の勢力も黄巾賊を相手に戦ってはいるが、本人は本拠地から一歩も動かず、贅沢三昧をしている。危険な地域まで足を運ばなくてもよく、大好物らしい蜂蜜を持参するとそれはもう大盤振る舞いをしてくれるとのことで、贅沢品など利鞘の大きな物を金に糸目を付けずに買ってくれる。

 この他にも安心して取引できる陣営はいくらかあるというが、それはあくまで現状では、という枕詞がつく。栄枯盛衰は世の常だ。有力な武将が賊軍に負けて首を刎ねられるということも今の時代珍しくはない。商人が挙げた三人は、とりあえずしばらくは生き残るだろうという読みの上での、お得意様である。誰と取引をするのも勿論重要だが、何時取引するのかも重要なのだと、商人は得意先の話を締めくくった。

 さて、河南郡で商隊と別れた一刀は、実はその時点で途方に暮れていた。北へは行けないために旅を続けるならば南か西に行かねばならないのだが、肝心の足がない。徒歩で一人旅という選択肢もあるにはあるが、腕に覚えのない人間の一人旅は賊に襲ってくれと言っているようなもの。武人としては半人前の一刀では心もとない。

 それに徒歩だと不慮の事態に襲われた時に対応できないという欠点があった。何かの理由で足止めを喰らったら、野宿をせざるを得ないだろう。旅なれない人間の一人旅で野宿は自殺行為だ。現代日本の公園で新聞紙に包まり、夜を明かすのとは訳が違う。一人でいる時に獣に襲われたら逃げることも出来ないだろう。話が通じ、金品で解決できる可能性があるだけまだ賊に襲われた方がマシというものである。

 それら諸々の厄介事を解決するためにも、日があるうちに人里から人里まで確実に移動できるだけの足、もしくは賊や獣に襲われたとしても何とかなるだけの知識や腕を持った旅仲間が一刀には必要だった。

 まずは旅仲間と、一刀は荀家を出た時と同じように商隊を頼ることにした。身元に関しては荀家が証書を書いてくれたために、はっきりとしている。ここ河南に来るまでに商人の下働きの基礎は叩き込まれたし、護衛としては役に立たなくても下働きとしてならば働くことも出来る。

 待遇に文句をつけなければ、どこかしら拾ってくれるだろう、と楽観してそろそろ旅立つ予定の商隊を探したのだが、これからの一週間で街から旅立つ商隊は、軍需品を売るために北に行くか、荀家のある豫州に行くか、あるいは洛陽に行くかの三種しかなかった。

 前者二つは、一刀にとって選択肢とも呼べない物である。戦場になど行けないし、豫州にすぐさま戻るのなら何のために旅に出たのか解らない。商隊に世話になるとしたら洛陽に行くしかないのだが、権力闘争の只中にあるらしいあの都市に行って良いことがあるようにも思えない。

 だが、洛陽は何と言っても皇都である。この世界においては最も文化が洗練された都市の一つであり、物や人と一緒に情報も集まる都市だ。旅の目的は見聞を広めるという意味もあるが、最終的な目的は元の世界に戻ることだ。そのための手段を探すためには洛陽に行っておいて損はない。


 本来ならば多少の危険を冒してでも向かうべき都市なのだろうが……ただの人間である一刀には三国志的陰謀が大絶賛渦巻いているはずの洛陽で、生き残れる算段がなかった。何の権力も持たないただの男が陰謀の舞台に引き上げられるとは必ずしも言えないものの、何の情報もない異世界に叩き出された不幸を鑑みるに、都に足を踏み入れた途端官吏にしょっぴかれる可能性もないとは言えない。

 この時代、民主的な裁判なども期待できない。怪しい、と思われたらその場で首を刎ねられることだってあるだろう。

 況してや、今は戦乱の時代。そしてそこは洛陽だ。人の命など枯葉ほどの重さもない。なるべく北には行くなという荀彧の言葉もある。洛陽に行くなとは一言も言われていないが、まずは南、西に向かうのが安全という点では良いだろう。

 いつになったら元の世界への情報が集められるのか、と微妙に陰鬱な気分になりながら、一刀は酒場などを回って南や西へ一人でも安全に行ける手段を探した。

 二日程商人や街の人間から情報を集めた結果、一刀は馬を一頭買うことにした。安い買い物ではなかったが、ここでも荀家の証書の力が生きた。一刀の有り金全てを出しても本当ならば馬など買えないのだが、馬車を引くのを引退したばかりの聊か老いた馬を格安で譲り受けることになった。

 病気を持っているとか駄馬であるとか、厄介者を掴まされたのではたまったものではにないが、馬を見る最低限の目は荀家にいる間と、商隊に厄介になっていた間に鍛えられている。

 少なくとも目に見えた欠陥は見当たらない。気性が荒い訳でもないようだし、馬具も一通りセットになっている。決して安い買い物ではないが、悪い買い物でもなかった。

 即決でその馬を買い取る約束をすると、翌日、一刀はその馬に乗って河南郡を後にし、南へと向かった。出立前には地図を片手に、どこにどれくらいの規模の街や村があるのか綿密な調査を行ったのは言うまでもない。

 途中、武装した官軍や傭兵らしき集団とすれ違うことはあったが、特にいざこざには巻き込まれないまま、夜は街や村で宿を取り南下を続け、豫州を出て二月もした頃、一刀と馬は荊州に足を踏み入れていた。

 この時代、治安が良くないのはどこも一緒だが、噂に伝え聞く北部の状況に比べると平和そのものと言って良い風潮で、馬に乗ってパカパカ行くだけの一刀の旅も、順調に進んでいた。元の世界の情報も一応集めてはいるが、都会では学術的、あるいは実在の人物や地名に即した情報が手に入るのに対し、ほどよく田舎であるこちらでは、オカルティックな話が目立つようになっている。

 やれ、遠くのどこそこの山には仙人がいるとか、海の向こうにはこういう世界があるとか、御伽話と大差ないレベルのものだ。これが数ヶ月前、元の世界で聞いたのであればメルヘンな人たちもいるものだなぁ、と笑って受け入れていたのだろうが、実際に時間だか世界の壁だかを飛び越えてきてしまった以上、一概に笑うことも出来ない。何しろ一刀本人が、オカルトの体現者なのだから。

 本当に仙人がいて異界があって、そこに不可思議な力があり元の世界に戻れるのだとしたら、一刀にとってそれはオカルトなどではなく、確かな現実の一手段である。問題はそんなオカルトな存在とどうやって接触を持つかということだが、噂を語る人々もそこまでは知らないらしく、例えば仙人がいるという遠くの山も人によって名前や場所が変わったりと信憑性に欠けていた。当然、仙人にあったことがあるという人もいない。

 やはり与太話じゃないかと噂を集める旅に落胆する一刀だったが、どんな些細な話でも手掛かりには違いない。重要そうな噂だけ木簡に丁寧に書き記して行くが、一日一度は噂の整理のためにその木簡を見る物の、果たしてこれが何の役に立つのか……と気が滅入る毎日が続いている。

 反面、色々な知識も旅の過程で増えていた。

 荀家の書庫では知りえなかった、地元でしか知りえない風習。肌で知る治安の悪さに官軍の現状。民衆が賊をどう捉えており、そのためにどう対処しているのか。

 食べ物も同様だ。荀家が所謂富裕層であるのは屋敷に足を踏み入れた時から知っていたことだが、それを理解したのは屋敷の外に出てからだった。商隊で最初に出された保存食――小麦に調味料を混ぜて捏ねたものを火で炙ったもの――を最初に口にした時の顔は、商隊全員に大爆笑されたのを覚えている。

 その後は所謂、粗食だけどそこそこに美味しい物を食べさせてもらったが、宿を借りる村で出される食事は、極端に味が薄かったりあまり美味くなかったりと一刀の口に合わないことが多かった。

 最近はカップラーメンを食べたいと思う毎日が続いている。故郷にいた時は思い出したように食べていたものが、今となっては無性に懐かしい。

 時間が出来たら自分で作ってみるのが良いだろうか。カップラーメンに近い味を出そうと奮闘するなど現代の料理人が知ったらキレるかもしれないが、この時代にあの味は新しいはずだ。傍から見れば未知の味を追求しているのだから、文句を言われる筋合いもない。

 問題があるとすれば味の再現に成功したとしても、この世界の人間にウケるかということだが……その辺りは出来上がってから考えれば良いだろう。

 次に大きな街に行ったら市場にでも行ってみよう。どういう食材が良いのかとあれこれ考えながら馬を歩かせている時に、それは起きた。

 腹痛、などという生易しい物ではない。下腹部を抉られるような痛みに一刀は馬上で腹を抱えた。何が原因かと考えるよりも先に、このままここで倒れたら死ぬしかないという危機感が一刀を動かした。

 休むつもりだった村まで、馬を急がせる。朦朧とした意識の中でも、馬は良く一刀の意図を理解し、足を動かしてくれた。元々距離が近かったこともあり、日が暮れるよりも前、予定よりも早く村に到着した。

 馬に乗ってやってきた一刀を村人は珍しそうに眺めていたが、馬上で一刀が蹲っているのを見ると、慌てて駆け寄ってきてくれた。

 大丈夫か! という村人の野太い声を遠くに聞きながら、一刀は意識を失った。

















 目を覚ましたのは、しばらく後のことである。

 一体どれだけ眠っていたのか。ぼんやりとした頭で見回すと、自分が小屋の中に寝かされているのがわかった。土間に筵がしかれただけのものだったが、屋根があるだけ、面倒を見てくれただけでもありがたい。

 腹に痛みはぼんやりと残っていたが、我慢できないほどではない。差し込む日差しの明るさから、一晩はこうして寝ていたのが解った。

 筵の上で起き上がると、小屋の隅にいた女性が駆け寄ってくる。

「具合はいかがですか?」
「おかげさまで大分良くなりました」

 一刀がそう答えると、女性は安堵の笑みを浮かべた。笑うと目元の小じわが少しだけ目立つが、農村にしては物腰の穏やかな美人だった。

「昨日、村の入り口で倒れられた時には心配しましたけれど、これなら大丈夫そうですね。旅の方ですか? 何か商いをされているとか」
「いえ、見聞を広めるための旅の途中です。元々この村で宿を借りる予定だったんですけど、少し前の丘で具合が悪くなってしまって」
「村長様によれば、食あたりのようですよ」
「食べ物には気をつけないといけませんね」

 村が近かったから助かったようなものの、中間地点で具合が悪くなっていたらなす術もなく行き倒れていただろう。ここまでもった身体の頑丈さと、ただの行き倒れを看病してくれた村の人々に感謝である。

「俺を診てくれた村長さんにお礼を言いたいんですけど、村長さんはこの時間ご在宅でしょうか」
「ご高齢の方ですからお家にいらっしゃると思いますよ。行かれるのでしたらご案内いたしますけれど、まずはこちらを」

 そう言って女性が差し出したのは白湯だった。縁の欠けた椀に口をつけると程よい温かさが身体の中に広がっていく。何の味もついていない本当にただの白湯だったが、今はその温かさがとても心地よかった。

「ご馳走様でした」
「お粗末様でした。村長様のところから帰ってきたら、食事を用意いたしますね」
「何から何までありがとうございます。自己紹介がまだでしたね。俺は北郷一刀です。姓が北郷で名が一刀。字はありません」
「ご丁寧に。私は崔心と申します。お召し物はあちらに用意してますので、ご用意が整いましたらお声がけください」

 深く頭を下げると、崔心は小屋を出て行く。彼女に示された先には質素ではあるものの頑丈な仕立ての服が用意してあった。袖を通して見ると、丈はぴったりだった。荀家で一度着せてもらった軍衣に近い着心地だ。近いではなく、本当に軍衣なのかもしれない。

 農村に何故? と率直な感想を持つ一刀だったが、立ち入ってはいけない問題のような気がして、その疑問は胸の奥に押し込めた。帯を締めて身なりを整えると、小屋の隅にまとめて置かれていた自分の荷物の中から、剣を取り出す。それを帯に差し込んで、準備完了だ。

 帯剣して出てきた一刀に崔心は目を丸くしたが、直ぐに気を取り直して先に立って歩き出した。太陽が、ちょうど真上の位置にある。正午に近い午前中、もう少ししたら皆が昼食を取るような、そんな時間であるようだ。

 先の街で調べた所によれば、この村に住んでいるのはおよそ200人。村にしてはそこそこ大きな規模だ。農業以外に特に産業のような物はなく、村民はほぼ全員農業に従事している典型的な農村である。

 崔心に連れられて歩いていても、周囲に村民の姿が見えた。田畑の中で農作業をしてる彼ら彼女らの視線を受けながら歩くのは非常にこそばゆい。

「皆、俺が腹を壊して倒れたってことは知ってるんでしょうか」
「昨日は村中大騒ぎでしたからね。有名人ですよ、北郷さんは」

 どうりで視線が生暖かいと思った。村人達は一刀を見ると皆作業の手を止めて手を振ってくる。好意的に受け止められていることは喜ばしいことだが、そうなった原因が原因なので素直に喜ぶことは出来なかった。

 そんな視線を浴びつつも農道を行き、村の中央の広場を通り過ぎると、北の方へ向かう。他の家が小屋であったのに対し、村長の家はちゃんと家をしていた。隙間風が遠慮なく入ってきた崔心の家に比べて、こちらはしっかりとした造りをしている。どこに村長の家があるのか知らなくても、村全体を歩き回れば一目でこれが村長の家だと解るだろう。

 これならば一人で歩いても解ったかもしれない。昼間に看病から案内までつき合わせて申し訳ない気持ちになっていると、崔心はそんな一刀の心を知ってか知らずかずんずんと進み、村長の家の戸を叩いた。

「崔心です。昨日の旅の方をお連れしました」
「おう、入ってもらいなさい」

 しわがれた老人の声に、崔心が戸を開いて一刀を促した。先に入れということらしい。ここは知らない人間の家で、村長さんと言えば村では一番偉い人だ。既に死ぬほど世話になった後だが、何か粗相があったら不味いのではないだろうか。

 不安に思って崔心を見やると、彼女はただ微笑み返すだけだった。その笑顔が早く入れという催促に見えた一刀は心中で覚悟を決めると、敷居を跨いだ。

 天井が高い、というのがその家の最初の印象だった。勿論、荀家の部屋とは比べ物にならないほど質素だったし実際にそれほど高くはないのだろうが、気を失って目覚めた部屋の印象が強いせいかそう思える。

「具合はどうかな、お客人」

 声をかけてきたのは、皺だらけの顔に白く長いひげという、いかにも村長といった面構えの老人だった。あまりにもお約束な村長の見た目に一刀が噴出しそうになっていると、村長は自分の前の座布団を一刀に勧めてくれた。

 村長の奥方らしき女性がお茶を出してくれる。椀はやはりかけていたが、白湯ではなくてお茶だった。

 ご丁寧に、と頭を下げて茶を啜る。上等な葉を使っている訳ではないようだったが、淹れ方が丁寧だったのか、お茶は非常に美味かった。

「おかげさまで大分良くなりました。遅れましたが俺は北郷一刀と申します。姓が北郷で名が一刀です。字はありません」
「私は高志と申します。こちらの村で村長など勤めさせてもらっております」
「失礼ですが、医術の心得がおありで?」
「医術などとんでもない。少々野草についての知識があるだけでしてな。長いこと生きていると無駄な知識がつくこともあるもので、そうした知識を年甲斐もなく披露してみたくなることもあるのですよ」
「その知識のおかげで助かりました。改めて礼を言わせてください」
「いやいや、どうして助かったと言えばそれは客人の天運でございましょう。この村まで辿りつけさえすれば、例え儂がいなくとも客人は助かっていたはずです」
「死にそうなほどに腹が痛かったんですが、もしかして大した症状ではなかったのですか?」
「大事ではない、といったところでしょうかな。薬など飲まずとも客人くらいの体力があれば二日三日安静にしておれば快癒したことでしょう」

 それは良かった、と高志の話を聞いて一刀は心中で安堵の溜息を漏らした。これが大きな病気でまだ油断のならない状況が続いている、というのだったら一刀だって死にたくはない。矜持も何も捨てて、荀家まで舞い戻っていたことだろう。そうなると一生あの家に頭が上がらなくなるだろうが、死ぬよりはマシだ。

 勿論、高志が診断を誤っており実は酷い病気ということもあるが、それを気にしだしたらキリがない。医術方面の知識はどう考えたって高志の方がある。疑う理由もなし、問題ないと彼が言うのならそれを信じることにする。

「でも、今こうしてご挨拶に来られるのは村長様が俺を診てくださったおかげです。何かお礼をしたいのですが」
「礼などと。病の人間を見捨てるような薄情者はこの村にはおりませんよ。人間として当たり前のことをした。ただそれだけのことです」

 高志は言うが、黄巾賊が跋扈しているような世の中だ。都市部も農村部も困窮していることは間違いない。余分に人間を食わせるような余裕を持っている家など稀だろうし、どこの人間とも知れない人間を助けるなど、本来なら望むべくこともないだろう。

 知り人のいない土地で病に倒れることは、死に直結しかねない大事だ。

 もし、この村の人間がもう少し生きることに正直で、他の命に対して薄情だったら一刀は身包みはがされ今頃は野の獣の餌にでもなっていたことだろう。

 不幸な目にあって、なおかつ生きているということ。あらゆる力を持たない異邦人の一刀にとって、今の状況は奇跡に近いことだった。

 利よりも情を取って人を助けた村長は、礼など良いと言うだろう。

 だが、それでは一刀の気が納まらなかった。

「倒れた後で言うのも何ですが、体力にはそこそこの自信があります。いま少しの間で結構です。下働きでも何でも致しますから、ご恩を返させてください」

 お願いします、と一刀は床に額をこすりつけるようにして頭を下げた。村長は困惑するが、頭を上げろ、とは言わなかった。

 こちらの気持ちを斟酌してくれているのだろう。

 そしてここで初めて彼の中で利が動いているに違いない。

 労働力というのはいくらあっても困ることはないが、労働をするために人は食料を必要とする。ここに例外はない。一刀も高志も生きている以上腹が減るし食事もする。

 問題は、その食料が有限であるということだ。労働力が増えたとしても、それが消費する食料に見合わなければ善意の働きだったとしても赤字である。加えて眼前で頭を下げている男は農業の経験があるようには見えないし、病み上がりである。

 短い間と区切って使うとしても、村民ほどに役に立つとは思えない。なのに食料は同じだけ食うことになる。向こうから頼み込んできたとは言え、形の上では客人だ。仕事が出来ないからと言って無碍にすることは出来ない。

 快癒したのならば、さっさと出て行って欲しい、というのが正直なところだろう。一刀も頭を下げてから相手がそういう気持ちなのではということに思い至ったが、下げてしまった頭と口にした言葉はもう引っ込めることは出来ない。

 無限とも思える時間は、高志の唸るような声で終わりを告げた。

「客人は、読み書きは出来ますかな?」
「一通りは。計算も出来ます」
「ならば、村の子供達にそれを教えていただけませんかな。普段は私がやっているのですが、子供達も若い人間に教わった方が身も入るというものでしょう。お客人が完全に快癒するまで……そうですな、一週間もやっていただければよろしいかと」
「それでご恩が返せるというのなら、喜んで」

 妥協の結果の配慮だったが、その辺りが限界だろうと一刀も納得した。旅の目的を考えればいつまでもこの村にいる訳にもいかないのだ。恩返しをする機会を与えてもらっただけマシというものだろう。

「滞在する間の宿は、崔心、お前の家を貸してあげなさい」
「かしこまりました。村長様」
「良いのですか? その、俺が泊まっても」

 すんなりと村長の提案を受け入れた崔心に、一刀は慌てて声を挙げた。

 女性の家に男が上がりこむのは、常識的に不味い。田舎だからそういう感性が緩いのかもしれないが、何か間違いがあってからでは遅い。率先して間違いを起こすつもりは一刀にはなかったが、世の中万が一ということはある。

 健全な男子としてはそういう間違いが起こることを聊か期待しないでもないが、恩返しのつもりで滞在を申し出たのに、エロ脳全開でそれをぶち壊しにするのは流石に格好悪い。

 掘っ立て小屋でも何でも良いから場所を変えてくれ、くらいのつもりで一刀は声を挙げたのだが、しかし崔心は一刀の言葉を受けて穏やかに笑みを浮かべてみせた。

「北郷様は村のお客様なのですから、ご心配などなさらず。それに私の小屋が住んでいる人間が一番少ないのですよ。私と息子の二人だけですからね」
「……息子さんがいらしたのですか」

 とてもそんな年には見えない、と言ったら下心アリと思われたりしないだろうか、などと考えているうちに、宿は崔心の家ということで話は纏まってしまった。家の大きさを見るに村長の家に泊まるのが一番問題がないように思えるのだが、その辺りは余所者にはわからない村のパワーバランスのようなものがあるのだろう。

 高志が当然のようにそれを言い出し、崔心は少なくとも嫌な顔一つせずに受け入れた。それだけ解っていれば、泊めてもらう立場の一刀にはそれ以上言うべきことはない。彼女の他に人が、それも息子さんがいるのなら何も心配することはない。ちょっとだけ残念という気がしないでもないが……

 しかし、崔心がそれではと、その場を去ろうと促そうとしたその時、高志の家に飛び込んでくる人影があった。戸を蹴破るような勢いで飛び込んできたのは、黒髪の子供である。少年だか少女だか判断しかねるみつあみにされた長い黒髪の子供は、乱れた息も整えぬままに言った。

「賊がきました!」


 一刀の手が剣の柄に伸びる。気づくと一刀は立ち上がっていた。





言い訳という名の中書き
大分間が開いてしまいました。お久し振りです。
荀家を飛び出して今回から別シリーズが始まります。
反董卓連合に合流するまでの準備期間とお考えいただけたら幸いです。

一話目ということで一刀の他に原作キャラが出てこないというヤバい状況ですが
次話の終わりからようやく登場します。
誰にするか悩みに悩んだ、チームちんこ最初期からの軍師役です。
誰になるかは次話をお楽しみに。







[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第七話 とある農村での厄介事編②
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51
「賊とは何事だ、子義」

 飛び込んできた少年――子義に高志は僅かに声を荒げて問いただした。肝が据わっているのか、切迫した事態の割りに落ち着き払った子義は、高志の問いに淡々と答える。

「賊は賊です。武器を持った男が五人、村の入り口で食料を寄越せと喚いています。止めようとした魯宗さんが斬られました」
「斬られた……死んだのか!?」
「いいえ、腕を斬られただけです。血は出ていますが死にそうにはありません。今は皆で賊と睨みあってますが、乱闘になったら死人が出るかもしれません。ということで、村長を呼んでこいということになったので、俺が参上しました」
「そうか。ご苦労だったな子義」
「とんでもありません。それでどうしますか、村長」

 子義の問いに高志は唸る。賊に食料をくれてやるほどの余裕が村にあるはずもないが、既に怪我人が出ている以上、断っては何をされるか解らない。

 村長としては判断の難しいところだろう。食料を渡して帰ってもらうのが最も危険の少ない対処で、それは一刀でも思いつくことだったが、それで賊が大人しく帰ってくれるとも思えないし、居座られたらもっと厄介な問題を抱えることになる。役所に訴え出ても今の時代、五人という少ない賊を相手にこんな農村にまで官軍を回してくれるとも思えない。

 対処するとしたら自分たちでやるしかないのだが、それが出来たら高志も悩んだりはしないだろう。遠からず、食料を渡してどうにかお引取り願う、という結論に至るはずである。村民の数は五人の賊を大きく上回っているが、武器を持った相手に身内が傷つけられている以上、そこで爆発しない時点で、皆及び腰になっているに違いない。

 気がひけてしまえば、相手は何倍にも大きく見えるものだ。戦ったことのない、ましてや訓練を受けたこともない人々であれば、仕方のないことである。

「村長様、俺も一緒に行っても良いですか?」
「客人が? それはありがたいことですが、ご迷惑ではありませんか?」
「ご恩を返したいといいました。今は絶好の機会でしょう。俺が何とか出来そうな相手だったら何とかします。出来なさそうだったら、まぁ、その時に考えましょう。まずは現場に行くことです。お供しますよ」
「申し訳ない。ご一緒願います」

 腰を上げた高志を支えるように、一刀がその隣に立つ。農村の村長なだけあって、見た目よりも頑強な高志の足取りはしっかりとしていた。高志は妻らしき女性に食料の手配を頼むと、一刀を伴って家を出る。

 外に出ると、遠めに村人が集まっているのが見えた。小さく、賊らしき人間の怒号が聞こえる。人垣に動きがないことを見ると、事態は硬直しているのだろう。新たに怪我人が出たという気配もない。一方的に多数の死人が出るという最悪の事態は、今のところ回避できているようだ。

「ところで、元気になったんですねお客人。うちに担ぎ込まれた時は死にそうな顔をしてましたけど、元気になって良かった」
「おかげさまでね。うちってことは、君は崔心さんの?」
「はい、息子です。子義って呼んでください」

 村の入り口まで、ただ駆ける。全力疾走している訳ではないが、明らかに老人である高志が普通についてきているのは驚きだった。老齢であっても健脚ではあるらしい。賊の待つ場所に向かっているというのに、その足取りには淀みがなかった。

「子義、賊の五人なんだけど、頭に黄色い布を巻いたりしてた?」
「布ですか? いえ、全員頭には何も巻いてませんでしたよ」
「鎧とかは?」
「普通の服です。持っているのは多分、手に持った武器だけでしょう。五人全員が剣を持ってました。あまり強そうな剣ではありませんでしたね」

 落ち着き払った子義の説明に、村長が唸る。最初期ならばともかく、黄巾の乱も今は末期だ。冀州で決戦が行われるような状況であるから、街から離れた農村であっても黄巾賊がどういうものか、くらいは知っているだろう。最大の特徴である黄巾についても言わずもがな。

 無論、目立つことを嫌った連中が黄巾を外しているということも考えられなくはないが、五人という人数はいかにも少ない。黄巾賊とは無関係か、所属していた過去があったとしても決戦には加わらず少数で逃亡するような浅い関係……そんなところだろう。

「どうしますか、高志殿」
「……食料を渡して帰ってもらうより他はないでしょうな」
「納得して帰ってくれますか?」
「帰ってもらうより他はありませんでしょう。それ以上を渡すか、奴らに居座られでもしたら我々は飢えて死ぬしかありませんでな」
「危険を承知で提案なんですが、戦うことも考えませんか?」
「武器を持った賊を相手に、村人を危険に晒す訳にはいきませんぞ」
「尤もです。だから、危険を冒すのは俺だけです」
「相手は五人と聞きました。客人はそれだけの武をお持ちなのですかな?」
「誇るほどの武はありませんけどね……でも、考えるくらいはいいでしょう。賊が苦もなく食料を得て、この村の人が飢えるのは間違っています」
「世の中正しいことだけで回っている訳ではありませんぞ。誰もが戦うだけの力を持っている訳ではないのです」
「だから、俺だけです。駄目なようだったら手は出しません。俺だって死にたくありませんからね。でも、行けそうだったらやってみます。全員倒す自信はありませんから、残った奴は誰かに相手をしてもらうことになりますが……」
「客人は私の話を聞いておられましたか?」
「高志殿の許可がなければやりません。貴方が大人しくしていろというのなら、俺はそれに従います。貴方が戦えといい、俺もやれそうだと思えたら戦います」
「律儀ですな、お客人」
「ご恩を返せるとしたら、こういう時でしょう。いずれにせよ、決断は高志殿にお任せします」

 勝てる算段がある訳ではないのは話を聞いていれば解ったことだろうが、余裕のある物言いは高志を動かしたようだった。村の入り口の人垣は、もう間近に迫っている。村人達の幾人かがこちらに駆けて来る一段の中に村長がいるのを見て取っていた。結論を出すとしたら、今しかない。

「やれる、そう言っていただけますか?」
「やれるかも、としか答えられません」
「…………子義、お前はどうだ、賊と戦えると思うか?」
「五人しかいませんからね。武器を見て皆怯えてますけど、お客人が賊を一人二人倒してくれるなら、皆奮起すると思います」

 高志は否定的な意見をもらいたかったのだろうが、この中で最も年若い子義が、最も好戦的なようだった。一刀は思わず高志と顔を見合わせ、同時に溜息をつく。

「まず儂が賊と話を致します。客人は賊を見て、やれそうだと思ったのならやってください。機はお任せします」
「高志殿一人近すぎます。下手をしたら巻き込まれますが」
「その時は構いません。賊を倒すことを優先していただきたい」
「解りました。ご武運を」
「そちらこそ。やるのなら、頼みましたぞ」

 にやりと口の端を上げると、高志は人垣を割って賊の前に進み出た。一刀は閉じようとする人垣に割って入り、最前列まで進み出る。子義の言う通り、賊は五人だった。武装に関する話に齟齬はない。全員が武器――古ぼけた剣を持っている。高志の正面に一人、その男が五人のリーダー格のようだ。その背後に二人、さらに少し離れて左右に二人ずつ。全員が男で、一刀からみて一番左の男の剣に血糊がついていた。

 斬られた男性は応急処置を受けながらも、人垣の最前列に残っている。これも子義の言った通り、ただ斬られただけのようで命に別状はなさそうだが、録に手入れもされていなそうな剣で斬られたことで妙な雑菌が身体の中に入らないとも限らない。怪我をしたのは彼一人のようだが、治療をするのなら早くする方が良いだろう。

 そのためには賊を早急に排除しなければならないが……一人一人を丹念に観察した一刀は静かに、しかし大きく溜息をついた。

 どう見ても素人だ。それも、全員。

 人間は物を持つと重心が狂い、物が重くなるほどその狂いは大きくなる。真剣などになってくると持って普通に歩くだけでも慣れが必要で、抜刀して振り回すとなると違和感なく扱えるようになるまで相応の鍛錬が必要になる。

 眼前の賊五人は、明らかに剣を持ち慣れていない。身体は筋骨隆々とはいかないまでも決してひ弱ではないのだが、武器の取りまわしには不自然さが際立っている。武器を持って戦ったことがないのだろう。もしかしたら、賊の真似事をするのすら今回が初めてかもしれない。

 行くか行かないか、考えるまでもなかった。想定された範囲の中では、人数以外は文句なしに好条件が揃っている。子義に目をやると、彼は小さく頷いた。一刀がそろり、と歩き出すのに合わせて子義もこっそりと場所を移動する。

 一刀と子義が何かやろうとしていると気づいた村人の幾人かが、身体を強張らせるのが見えた。頼むから早まってくれるなよ、と心中で祈りながら一刀はそっと剣の柄に手をかける。

 高志の提案に首領格と思しき男が声を荒げた。足音も高く歩み寄り、高志の胸倉を掴み上げる。

 それが合図となった。村人たちは避けて一刀のために道を作る。遮る者のなくなった道を行きながら、腰帯から鞘ごと引き抜いて一刀は雄叫びを上げた。

 声に驚いた男が胸倉を離すと同時に、高志は年齢を感じさせない速度で飛びのく。驚いたままの男は剣を構えようとするが、遅い。鞘に納められたままの剣が男の脳天に叩きつけられる。鈍く気持ち悪い感触が一刀の手に伝わるが、それでも動きは止めない。

 駆けた勢いもそのまま体当たりするように男に肉薄し、鳩尾に容赦のない前蹴りを叩き込む。頭から血を流していた男はなす術もなく吹っ飛び、背中から地面に激突して動かなくなる。

 まず、一人。

 首領格の男が倒されたことで流石に賊も殺気立つが、心構えもさせるつもりはない。一刀から見て右手、剣をどうにか構えた賊の男の腕に、一撃。鈍い痛みに剣を取り落とした賊を見るとはなしに見つめながら、打ち込んだ剣の切っ先をそのまま胸に叩き込んだ。

 嘗てないほど綺麗に決まった『突き』に二人目の賊が崩れ落ちる。背後からの殺気が篭った叫び声に、一刀は咄嗟に飛びのいた。直前まで一刀のいた空間を、剣が通り抜けていく。そのまま足を止めていたらあれを喰らっていたと思うとぞっとするが、これは好機だった。

 避けられると思っていなかった男の剣は力の行く先を見失い、そのまま地面に叩きつけられる。がら空きになった男の胴を左から払い、涎を流しながら崩れ落ちる男の顔に、フルスイング。ハリウッド映画のやられ役のように綺麗に回転した男は、映画とは似ても似つかない嫌な音をたてて、地面に頭を打ち付けた。

 これで三人。

 後二人――と周囲を見回すと、一刀が駆け出すと同時に賊の一人に飛びついていた子義が、それを打ち倒すところが見えた。子義は素手、賊は武装していたが物怖じしない子義はそれでも果敢に勝負を挑み、特に怪我という怪我をすることもなく打ち倒していた。

 最後に残った一人は、たたらを踏んでいた。位置的に一刀に襲い掛かるはずだった男は二番目に一刀に倒された男が邪魔で前に踏み込めずにいるうちに、自分以外の全員が打ち倒されてしまったことで完全に腰が退けていた。

 怯えて縮こまっている人間ほど、怖くない物はない。もはや恐れる必要はないと看破した村人達は一斉に最後の男へと群がり、剣を取り上げるとタコ殴りにした。細く男の悲鳴が聞こえるが、自業自得だろう。流石に殺すまではしないと思うし、もし死んだとしてもやはり自業自得だ。

 一仕事終わった。気の抜けた一刀は剣を抱えたまま地面に腰を下ろした。使命感によって忘れていた疲労と、人を打ち、殺されていたかもしれないという恐怖が一刀を襲った。

「お客人、見事な手際ですね! もしかして傭兵ですか?」
「いやぁ、俺の腕じゃ傭兵なんて務まらないよ。今日出来たのは、運が良かっただけで……」

 子義に答えられたのはそこまでだった。最後の理性で子義を押しのけると、気合で押さえ込んでいた胃の中の物が地面に撒き散らされる。いきなりげーげー吐き出した一刀に、賊を取り押さえにかかっていた村人たちも驚きの目を向けた。

 胃の中身が空になり気分が少し落ち着くと、一刀にも自分の姿を省みる余裕が出てくる。

(キメきれないなぁ、俺……)

 微妙な視線を向ける村人の視線の中で、一刀はまだ酸っぱい匂いのする息を深く吐き出した。











 打ち倒した賊に死人はなかった。

 村人の一部は殺してしまえと息巻いていたが、ただの農民にそこまでする権利はない。しばらくは納屋に放り込んで反省を促すと高志が決めた矢先に、近くを官軍が通りかかるという情報が村に飛び込んできた。

 これ幸いと、一刀他村の男衆が中心となって官軍に賊を引き渡す。小さな賊狩りになど腰を上げてくれない官軍だが、既に打ち倒されているならば話は別だったらしい。荷物が増えたと嫌な顔はされたものの、賊は無事に引き取られた。

 恩賞を貰えなかったことに男衆は不満を漏らしていたが、村としては危険を遠ざけてくれるならばそれだけで十分だ。幸い賊の持っていた武器についてまでは言及されなかったので、回収した五本の剣は全て砥石を持っている高志の家に運び込まれた。

 研ぎ直さなくとも剣はいざという時の武器にも使えるし、武器は売れば金になる。人を傷つけるために存在しているようなものでも、持っていて困るようなことはない。剣五本。これだけが賊から得た収入だった。何も奪われず、得るものだけ得たと考えればこの上ない幸運と言えるだろう。

 思わぬ災難が降りかかり活躍の機会が訪れたが、一刀が高志から任された本来の勤めは村の子供たちに読み書き計算を教えることだ。

 元々腹を下した上に吐くほどの緊張を受けて身体はぼろぼろだったが、仕事はこなさなければならない。

 賊の襲撃を受けた翌日、官軍に彼らを引き渡して諸々の手続きを片付けてから村に戻り、子義の家で一晩を明かしてから高志の家に改めて報告に行くと、彼は神妙な面持ちでこう切り出してきた。

 曰く、村に自警団を創りたいので力を貸してほしい。唐突と言えば唐突な提案だったが、前から考えていたことではあるという。兵士の経験がある村人と協力して、せめて村人を安心させられるくらいの力がほしい、というのが高志の言い分だった。

 自分の力のなさは良く知っている。その提案をやり遂げる自信はなかったが、村には恩義があり、彼らを助けたいという気持ちは強く持っていた。高志の提案に否やはない。

 自分を頼ってくれるのならばそれは願ってもないことだろう。全力を尽くす、と高志に答えてその場で快諾し、最初に頼まれた寺小屋もどきも平行して準備作業を行い、兵士経験者の村人と共に自警団組織の基礎を作り上げることとなった。

 下は十二歳から上は要相談――参加メンバーの最高齢は五十六歳である――の健康な村民という条件で召集をかけた結果、二百十二人の村人の中の、五十三人が参加を申し出た。これは条件に合致する村民の全員である。

 自分と同年代の人間が沢山集まることを期待していた一刀だが、集まった人間の中にはその年代はいなかった。一刀よりも少し若いか、そうでなければ二周りは年上という構成である。数字のマジックで平均年齢は一刀よりも少し上ということになるが、それは一刀よりも年下の少年少女が年配の村人よりも大分多いという構成だからだ。

 働き盛りの人間は皆、出稼ぎに行っているという。彼らの手をなしに農作業をするのも相当な負担だろうが、彼らの稼ぐ金銭がなければ村の生活もまた立ち行かない。その上に賊の横行だ。今回はたまたま相手がハズレで村を守ることが出来から良いが、いつもっと大きな危険に見舞われるとも限らない。組織だった行動を考えておくというのは、当然の帰結と言えた。

 彼らを集めて一刀がまず行ったのは、従軍した経験のある世代を中心に班を作る事だった。個人の戦力差はないものとして、人数を均等に割り振る。それで十一人の隊が三つと、十人の隊が二つ作られる。

 これをさらに五人、あるいは六人のグループに分けて、それを最低数の構成とした。この五人組で仕事を割り振り行動するのだ。荀家の警備隊がやっていたのを真似ただけのことだが、官軍ではスタンダードな構成だったらしく、兵士経験者がいたこともあってこの割り振りは一刀が思っていた以上にきちんと機能した。

 次に活動する時間である。

 農作業を休むことは出来ないから、それ以外の時間に自警団としての仕事を割り振る。村の周囲に柵を造り、既存のそれを補修強化したり、夜間の見回りも行うことにした。仕事が増えたと文句を言う人間もいたが、備えがあれば憂いはないと高志の一声で却下される。

 自警団は形の上では即日運用されたが、形だけで運用することは出来ない。何をどうすれば良いか解っているのは、一刀と兵士経験者だけだったからだ。まずは他のメンバーにどういう意図でそれを行うのか、頭と身体で理解させなければならない。

 技術も同様だ。農作業をしていただけあって基礎体力、筋力は問題ないが戦うための技術はないに等しい。そういう訓練を施すのも、農作業を特に必要としない客人の一刀の仕事とされた。

 日が高い内はは農作業に参加しない老齢の村人と共に村の周囲の柵を補修強化し、狩の出来る村人の家で弓と矢を作る。日が沈み始めてからは作業の暇を見つけて村の子供達に教える読み書き計算の準備と、自警団の指導の確認をする。

 武器の持ち方から素振りの仕方、いざという時の戦い方など、事細かに、それ以上に解りやすく教えるためにはどうしたら良いか。侯忠に教わったことを思い出せる範囲で思い出し、この村の規模でも実現できる範囲で取り入れていく。

 勉強も自警団の訓練も農作業が終わってからの疲れている時間帯に行うが、文句は言いつつも村人はちゃんと勉強に付き合い――子義は隙を見ては逃げ出すが――訓練にもきちんと参加し、自警団としての仕事も行った。

 そうして一刀が当初滞在する予定だった一週間が経つ頃には、見切り発車の自警団はそこそこの機能を発揮し始めていた。暇な一刀が全力で取り組んだこともあり、柵は村をぐるりと囲むように構築された。ただの柵なので防衛機能は寂しい限りだが、あるのとないのとでは雲泥の差がある。折を見て強化する必要はあるだろうが、今はこの程度で十分だろう。

 慣れない仕事は村人全員に負担をかけたが、守るために何かをしているという事実は彼らに思った以上の安心感を与え、二週間もする頃には村人の誰もが自警団の仕事にやりがいを感じるようになる。

 その頃になって、近隣の村から人が訪ねてくるようになった。賊に襲われたら困るから、うちでも自警団を作りたい、力を貸して欲しいというのだ。

 村に世話になっている立場の一刀は、この問題に高志の助言を求めた。勝手に力を貸したら角が立つと思っての問いだったが、高志は快く快諾してくれた。

 ゴーサインを出されたら、今の一刀を止める者はいない。どこの村にも兵士経験者の一人や二人はいたから、同じ物を同じように作るのは簡単なことだった。一刀が行って基本的な部分を指示するだけで、何処の村でも高志の村と同じようにある程度の形にはなった。

 手を貸した以上一から十まで指示した方が良いのかとも思ったが、どうもあちらの村がやるならこちらも、という対抗意識が根っこの部分にあるようで、近隣の村々には高志の村所属とみなされているらしい一刀に、他の村の住民達はあまり手を借りたくないようだった。

 教わるだけ教わったらはい、さよならと丁寧に追い出そうとする村人に苦笑しながらも、何かあった時には力をあわせて連絡するという約束を、各村の代表を一応取りつけたことで、自警団のネットワークを作ることも出来た。

 頼りないネットワークであるが、ないよりはマシだろう。いざという時に助けてくれる人がいるということは、対抗する村の人々に安心感と、ほんの少しの連帯感を与えてくれる。

 形が整ったら、後は訓練するだけだった。基礎が済んだらそれと平行しつつ、応用の訓練も始める。実戦経験がなく錬度が低い子供が半分以上を占める以上、勝負をするとしたら連携でするしかない。

 複数で動くことを徹底させ、常に多数でもって敵に当たる。いざという時にチームで動いてどう対処するのか。他人の邪魔にならないよう、自分はどう動けば良いのか。教える一刀も頭では理解しているつもりだが、実行に移してみるとこれが難しい。

 構築の責任者として自警団の初代団長に任命されているから、一刀も一つの部隊を任されている。兵士経験者は全員隊長に割り振られているため、部隊のメンバーに年長者は三人ほどいたが、副隊長には子義が収まっていた。

 理由は簡単である。個人の戦闘では一刀以外、子義には勝てなかったからだ。兵士経験者にはかつての軍での経験があるが、寄る年波には勝てないようで継続的に農作業をするだけの体力はあっても、瞬発的な戦闘行動をすると身体が追いついてこなかった。無尽蔵の体力と驚くほど短調ではあるが苛烈な子義の攻めになす術もない。

 その子義をどうにかできることが、余所者の一刀が団長を一月も続けられる理由の一つであるのは、今更言うまでもない。一月経ったことで運用することに一刀が口を出すことはほとんどなくなっている。

 後は経験者が中心となれば自警団を回していくことが出来るだろう。一刀の役目はもうほとんど終わったと言っても良い。最初は一週間のつもりだったのに、一月も滞在しているのだ。元々旅をすることが目的であったのだし、この辺りが潮時と一刀は考えていた。

「団長、やっぱり強いですねぇ……」

 木刀を喰らって地面に転がっていた子義が、何事もなかったかのように起き上がってくる。細身の癖にタフなのだ。身体能力の点から見ても、身体の構造からして違うのかもしれない。

「俺が強いとか言ってたら軍に入って戦ったら腰抜かすぞ」
「それはそれで見てみたい気もしますけど、軍は母上があまり良い顔をしないんですよね」
「崔心さんは軍が嫌いなのか?」
「父上が戦で亡くなったそうで、それ以来あまり良い思いはしてないようです」
「悪いこと聞いたかな」
「お気になさらず。俺が生まれる前の話ですし、最近は軍に関しても前よりは理解はしてくれてるみたいですから」
「じゃあ、子義もしばらくしたら出稼ぎに軍に行くのか?」
「前よりもなだけで良い顔してくれる訳ではありませんからね。別の方法を探すことになるんじゃないかと思います」
「軍以外の方法って商家に奉公に行くとか?」
「それはちょっと……俺頭悪くて腕っ節だけですから、出来たらそういうのが活かせる仕事が良いんですよね。団長、どこか知りませんか? 軍じゃなくてそういうのが活かせる仕事」
「知ってるには知ってるけど……」

 一刀の脳裏に浮かんだのは、この世界で唯一のコネである荀家の屋敷だった。そこの警備ならば軍ではないが腕っ節がそこそこに重要視される職場で、戦に行く訳ではないから崔心もそれなりに安心してくれるだろう。

 客人とは言え関わりの薄い自分の紹介を受けてくれるか微妙に自信がなかったが、子義ほどに才能があれば拒まれはしないだろう。

「ただ、頭が良いことで有名な一族の屋敷だからお馬鹿さんは敬遠されると思うな」
「あぁ、じゃあ俺は無理ですね」
「そのために勉強しようとか思わないのかな、お前は」
「向いてる物を伸ばした方が良いはずですから!」

 前向きに後ろ向きなことを考える子義に、一刀は思わず頭を抱えた。崔心も子義の頭の残念さは心配しているようで、読み書き計算を教える一刀にはそこはかとなく期待の目を向けている。もう一月も厄介になっている手前、何とか形にしておきたいとは思うのだが、教えようにも逃げ出してしまうのだからそれ以前の問題だった。

 一応、簡単な計算は出来るようにはなったが、一桁の繰り上がりのない足し算を三回に二回は間違える状態を出来るということは、流石に憚られた。戦うこと以外は典型的なアホの子の子義である。

「礼儀正しいのにアホってあまり見ないけどな」
「そういうことは母上に教え込まれましたから、ちゃんと出来ますよ」
「先生としては、教えれば理解できるならもっと勉強してほしいんだけどな」
「あはは……」

 空笑いだけは、底抜けに明るい。

「団長こそ、軍に行ったりはしないんですか?」
「ないね。剣で名を挙げようと思ったことはないし、今は見聞を広げるって旅の途中だから」
「軍でも見聞は広げられると思いますけど」
「そりゃあそうだろうけどさ、何の制約もなく旅するのに比べたら見える物も狭いだろ?」
「じゃあ、軍に行く予定はないんですね」

 どこか落胆した様子で子義は溜息をついた。これ見よがしな態度に、一刀は軽く眉根を寄せる。軍で名を挙げられるほどの腕ではないと事あるごとに言ってきたつもりなのだが、どうにも期待されている節があった。

「俺が軍に行くと、子義は嬉しいのか?」
「団長が行くなら俺も! って手を挙げやすいじゃないですか。団長、結構母上には信用されてるみたいですから、団長が説得してくれるなら母上も許してくれると思うんですよね」
「結局子義は、軍に行きたいの?」

 崔心のことを考えている発言をしたと思ったらこれだ。戦うことは別に嫌いではないどころか好きな部類なのだろうが、それがなければ生きていけないという感じでもない。本人の気さえ向けばそれこそ他のどんな仕事だってやっていけるだろう。軍に拘る理由もないと思うのだが、

「それが一番稼げそうですからね」

 子義の答えは単純明快な物だった。金のために……と思うところないではないが、現代とは比べ物にならない程に格差のあるこの世界において、金を稼ぐというのは本当に重要なことなのだと理解できるようになったものの、自分よりも年下の子供から『金』という言葉を聞くことには、やはり抵抗があった。

「名を挙げることにあまり興味はありませんけど、母上には楽をさせてあげたいです」
「孝行するのは良いことだと思うけど、元気でいるのが一番だと思うよ。危ないことをしないで済むなら、その方が良いと俺は思うな」
「そうなんですけどね……まぁ、気が変わったらいつでも言ってください。団長にだったら俺はついていきますから」
「崔心さんの説得には巻き込まないでくれよ?」

 軽口を叩きながら、子義と二人で家路に着く。これから夕餉を取って一刀は自警団の仕事、シフトの入っていない子義は家で内職をすることになっている。家に篭るよりは自警団の仕事をする方が子義の性にはあっているようだが、崔心の言うことはきちんと聞く。これで手先もそこそこに器用で、縄なども綺麗に仕上げることが出来るのだった。

 職人とかも良いんじゃないか、と子義の将来について思いを馳せてみる。朝も早く起きて物造りに精を出す子義というのもイマイチ想像が出来ない。礼儀正しいし人懐っこいから気難しい親方などにも気に入られると思うが、少々考え方が雑なだけで身体を動かすことに関しては天賦の才を持っている子義だ。

 普通に考えるのなら、剣を持って軍に入ることこそが彼の才能を活かす一番の道だ。

 しかし、僅かではあるが人生の先達として、子義という人間を知る物として、子供を戦いに押しやることには抵抗を覚えるのもまた事実だ。平和に生きていけるのならば、それに越したことはない。それは何時の時代だって同じことのはずだ。

 それを解っているはずなのに、一刀はその子義を自警団の団員として使っている。強制した訳ではなくあくまで自発的に参加した子義だが、こんな子供まで立ち上がらなければ最低限の平和も守ることが出来ないのだと思うと、故郷の世界は何て平和だったのだと改めて思い知らされるのだった。

「どうした子義?」

 一刀が平和についてらしくもなく考えていると、子義があらぬ方向を見つめているのが目に入った。孝行息子なだけあって、子義は母である崔心のことを大事に考えている。家路についている時は、彼女のいる我が家のある方向から視線を外さないくらいなのだが、子義の目はそちらではなく、村の入り口の方を向いていた。

 一刀がこの村にやってきた方角である。何かったのか、と子義に問うよりも早く、一刀にも彼がどうしてそちらに視線を向けたのかが理解できた。

 土煙が上がっていた。人が駆けて出来るような大きさではない。おそらくは馬が力の限り速く駆けているのだろう。大きさからして大勢ではない、一頭か二頭……それよりも多いということはないはずだ。

 やがて土煙の中から見えてきたのは、一頭の馬だった。馬上には旅装束の男性がある。武装はしてないようだが、遠めに見ても薄汚れているのが解った。怪我をしているようには見えないものの、離れて見ていても尋常な様子ではないことは見て取れた。

 これは、有事である。

 そう感じ取った一刀は子義を伴って駆け出していた。走りながら大きく手を振り、こちらの姿をアピールする。相手の精神状態によっては無視されることも考えられたが、馬上の男は手を振る一刀の姿を見て取るとそのまま馬首をめぐらせ、近くまで来ると馬を棹立ちにさせた。

 馬の嘶きが、太陽の沈みかけた村に響く。間近で聞く馬の声に目を白黒とさせている子義を他所に男は転がり落ちるように馬上から降りた。

「村の代表者に会わせてくれ、大至急だ!」
「まぁ、まずは落ち着いて」

 男を眺めながら、一刀は子義に視線を送る。その意を汲み取った子義は高志の家へと走った。馬の嘶きと男の大声に、家々からも人が集まってくる。地方の農村であるから人がうやってくることなど少ない。それが血相を変えて飛び込んでくるのなら目を惹くのも当たり前だった。

「そんな暇などない、賊だ! こちらの方向にある村が、賊に襲われて滅びた!」

 こちら、と男が示したのは今さっき自分が馬で駆けてきた方角だった。あの方向にあってここから一番近い村にも覚えはある。この村に来る前に一刀も立ち寄り宿を借りた。規模はこの村よりも小さいが、人は素朴で温かかった。

 その村が滅びた? 男が嘘を言っている気配はなかったが、にわかに信じられることではなかった。

「嘘など言っていない。私は見たんだ! 黄巾の頭巾を巻いた連中が村を襲撃したんだ!」
「噂の黄巾賊ですか? あれは冀州で軍に打たれる直前と聞きましたが……」
「解らん。だが、北から来た」

 男は荒い息を吐きながら、事の顛末を語った。

 彼は旅の商人で、その村には宿を借りていた。太陽が落ちて夜も深まっていた頃、賊はいきなり村を襲撃し、家々を荒らしまわった。賊が襲撃してきた方向から離れた家に宿を借りていた男は只事ではない悲鳴に飛び起きて外に出た。

 見たのは、黄色い頭巾を巻いた連中が剣で容赦なく、村人を切り殺しているところだった。留まっていては殺される。そう悟った男は着の身着のまま自分の馬に飛びつき、村を飛び出したという。

 顛末を聞き終える頃には、男の息も整ってきていた。様子を見守っていた村人が差し出した椀に入った水を一息で飲み干す。大きく、それでいて疲れた溜息を漏らした男は、周囲にぽつぽつと集まった村人を見回す。

「賊が村を襲ったのは昨晩のことだ。私は村を飛び出してから馬で数里ほど駆けて夜を明かし、そのまま街道にそって駆けてきた。おそらく賊は、次にこの村を目指すだろう。用心した方が良いと忠告に来たのだ」
「賊の数は?」
「正確にはわからんが、二百はいたように思う」

 二百という数を聞いて、一刀だけでなく周囲の村人も絶句した。特に自警団に参加している人間は、その驚愕の色が濃い。

 自警団に参加している人間――この村においてはも戦うことが出来る人間――はおよそ五十人。男の言葉が正確だったとして賊の数はその四倍だ。期待を込めて実数はその半分だったとしても、まだ倍の開きがある。

 加えて彼らは黄巾賊で、人を殺すことにも躊躇いがない。戦闘の訓練こそ受けた人間は少ないだろうし、負けて南下してきたのなら決して万全の状態ではないだろうが、こちらは何しろ頭数のほとんどが、訓練を始めて間もない若い世代だ。

 数以上に、質の面においても大きく劣っていると言わざるを得ない。

「旅の方、詳しく話を聞かせてもらえますか」

 子義に伴われてやってきた高志は、息を切らせながらも男の話に耳を傾けた。高志が出てきたことで、村中に有事である、ということが伝わったらしく、内職や作業の手を止めて全ての村人が男の周囲に集まっていた。

 男は一刀にしたのとほとんど同じ話を高志に聞かせた。落ち着いて話しただけに緊迫感こそ減じていたが、それだけに事の深刻さはより正確に伝わる。賊の数がおよそ二百と聞いた辺りで眩暈を覚えたのか、高志はふらり、と身体をよろめかせた。

 搾り出すような声には、あまりに生気がない。

「ご苦労様でした。貴方様は、どうかゆっくりとお休みください」
「お気持ちはありがたいが、私はこれを他の村にも伝えねばなりません。これで失礼させていただきます」

 男は丁寧に水の礼を述べると馬に駆け寄り、来た時と同じくらいの速度で逆の方向へと駆けていった。今から他の村を目指しても、距離の関係で途中で野宿をする羽目になる。あんな軽装で夜を明かせるとも思えなかったが、賊が迫っているというのなら少しでも離れたいと思うのが普通だ。

 むしろ旅人という身軽な立場であったからこそ、彼は生き残り、逃げることが出来たのだ。その土地に根付いた生き方をしている人間は、そう簡単にはいかない。

 一刀は溜息をついて、どんよりと暗い顔をしている村人達を見渡した。土地に根付いた生き方をし、簡単には逃げ出すことの出来ない人間達がそこにはいた。

 住み慣れた土地を離れたくはない。そういう理由ならば話は簡単だった。命がかかった状況で感傷を優先させられる人間はそう多くない。賊が来る前に逃げられるだけ逃げる、ただそれだけで良い。

 だが事実として、村人達は一人として動こうとはしなかった。動けない理由があるのだ。

 逃げたとしても行くところがない。

 近隣にも村はあるが、どこも逼迫した懐事情を抱えている。二百人からの村人がやってきたところでそれを食わせるだけの余裕はない。

 食料を持って逃げるにしても持ち出せる量には限度があるし、食料の多くは地に根ざしている。農民というのは自らの土地を離れては食物の確保に難儀する職種だ。金銭の蓄えもあってないようなもので、生活の足しにはなってもしばらく生きていけるだけの貯蓄まで出来ているのは稀だろう。

 それに、逃げた所で賊は残る。村人が逃げられるということは、賊もまた追うことが出来るということだ。逃げる村人とただ進む賊。二者を比べた場合村人の方が足は早いだろうが、賊は村を荒らすだけ荒らしてはその数を減ずることなく、最も近い村へと再び襲い掛かる。

 いずれ官軍が賊の存在に気づいて重い腰を上げるだろうが、果たして村人全員が殺されるよりも早く、彼らはやってくるだろうか。村人達の顔色は暗い。助けてくれる、と思っている人間は一人もいないようだ。

 先ほどの男性が気を利かせて官軍の詰め所まで行ってくれたとして、その官軍がすぐさま賊を打つ為に動くとも考え難い。先も言ったがこの辺りは田舎で、最も近い官軍の詰め所にいる兵士は精々五十人。この村の自警団と異なり武装し訓練は受けているものの、四倍の数を相手にするには分が悪い。

 現在の官軍の風聞を聞くに、先ほどの男の話を聞いたとしても即座に動くようなことはせず、十中八九応援を待つという結論を出すだろう。この村の立場になって考えれば迷惑極まりない話だが、それが現実である。

 ならば自ら剣をとるか、と言えばそれは論外だ。

 素人ばかりのこちらでは勝てるはずもないし、よしんば痛撃を与えて撃退できたとしても、全滅に近い被害を受けることは想像に難くない。戦闘の舞台がこの村になるなら、田畑にも被害は出るだろう。

 戦っては死に絶え、逃げても生きる道筋が見えない。それを理解しているからこそ、村人は皆押し黙っているのだ。

 だが、いつまでも選択しない訳にはいかない。現実として、賊はすぐそこにまで迫っている。先の男が馬で逃げられたことから、賊の大部分は徒歩だろうが、襲った村で身体を休めることを考慮に入れても、明後日、遅くとも三日後の晩にはこの村にやってくるだろう。

 一番先に現実に戻ってきたのは、やはり高志だった。彼は村人を見渡すと苦渋に満ちた声で自らの考えを告げる。

「……纏められるだけ荷物を纏めろ。準備が出来たものから順次、隣村に避難する」
「ですが、村長――」
「ここに残って殺されるなら、少しでも生きられる可能性が高い道を選ぶ。金品は全て、食料は持てるだけもって移動するのだ。時間はないぞ、急げ」

 高志は急かすが、村人の動きは悪い。現実的に考えてそれしかないのは解っているが、誰もが高志のように割り切って考えられる訳ではない。郷愁がない訳ではない。どうせ死ぬなら賊と戦って、と思う人間もいる。戦えばもしかしたら勝てるのではないか。そういう甘い考えを捨てきれない人間だっていた。

「団長、何とかなりませんか?」

 子義もまたそんな村人の一人だった。期待と不安に満ちた目でこちらを見つめる彼の周囲には、自警団に所属する子供達が集まっている。賊は怖いだろうに、彼らは一刀が戦えと号令すればきっと戦うだろう。彼ら彼女らはどうせい死ぬなら、といった手合いだ。若さに見合った勇気と言えなくもないが、この状況でのそれはただの蛮勇だ。

 その証拠に、彼らは一刀が戦うと言わなければ戦うことをしないだろう。何とか出来ると一刀が言い、共に戦ってくれることを期待する以上に、逃げようと言い出すのを待っているようにも見える。

 要は切欠が欲しいのだ。逃げることは格好悪い、しかし、上に立つ人間が言うのなら仕方がない。子供の上下関係は単純だ。強い奴、凄い奴が上に立つ。村の理屈で言えば高志が頂点にいるのは当たり前だが、子供達の間では一刀の立場は驚くほど上位にあった。

 自警団の団長というのは、それだけ彼らにとって『偉い』存在なのだった。

 慕われることは悪い気はしないが、ガキ大将的な位置取りと考えれば納得である。ある程度言うことを聞いてくれるというのは、危機的状況においては好都合だ。

 どうにもならない。だから、逃げよう。一刀がそう告げようとした、その時、

「どうやら込み入った事情のようですね」

 聞き覚えのない声が一刀の耳に届いた。声の主に、戸惑っていた村人全員の視線が集まる。

 その視線の先にいたのは二人の少女だった。

 一人は眼鏡をかけ、茶色がかった黒髪をアップに纏めた釣り眼の少女だ。声の主はこちらだろう。特に不機嫌という様子はなさそうだが、眼鏡ごしの鋭い眼光が自身が気難しい性格であるとガンガンに主張している。

 もう一人はウェーブのかかった長い金髪をした背の低い少女だ。先の少女とは逆に見事なまでのタレ目で、足取りも眠っているのかと思えるほどにおぼつかない。倒れそうだったので注視していたら、薄く開いた目でばっちり視線を合わせられた。

 宝石のような翠色の瞳だった。タレ目の少女はにこりとする訳でもなく、ただ一刀の視線を少しの間だけ受け止めると、再びふらふらと夢遊病者のようにふらふらする作業に戻った。

 見ているだけでも危なっかしいのに、釣り目の少女にそれを気にするような様子はない。これがタレ目の少女の常なのだろう。肝が太いのか単に緩い性格なのか判断に苦しむところではあるが、それはこの際どうでも良い。

 見覚えのない二人に村人全員が注目する中、一刀はこっそりと隣の子義に耳打ちする。

「……あの妙な二人は何処の誰?」
「今日やってきた二人と一人のうち、二人の方の旅人です。昼過ぎに来たから団長とは入れ違いになったんですね。見聞を広めるための旅をしてるとか、軍師らしいですよ、二人とも」
「二人と一人ってなんだ、三人じゃないの?」
「さあ。別々に来たみたいですから知りあいではないのでしょう。もしかしたら残りのお一人は逃げ出してるのかもしれませんね」

 一刀の知らなかった情報を提供してくれた子義は、もう一人どころか今現在目の前にいる二人にもあまり興味はないようだ。身体を使って動くタイプの子義は、頭を使って何かをする人間と相容れない節がある。軍師と聞いた段階で、彼女らには興味を失っているのだろう。彼女らのことを聞こうとする一刀にすら、どこかつれない。

 こんな状態では、これ以上の情報は子義から得られそうにもない。一刀は諦めて旅の軍師という二人の少女に視線を戻した。話の主役は今や村人達ではなく、旅の軍師二人になっている。

 不安に怯える二百人の村人の視線をものともせず、釣り目の軍師は堂々とした態度で周囲を見渡した。

「今は時間がないようですし単刀直入に申し上げましょう。我々に協力させていただけませんか? 協力させていただけるのであれば、限りなく犠牲を少なくした上で、黄巾賊を撃退するための考え出してご覧にいれます」

 釣り目軍師の発言は徐々に村人へと浸透する。自信に満ち溢れた態度からは、もしかしたらやれるのでは、という思いすら村人達に抱かせた。その一挙手一投足が、釣り目軍師の言葉が正しいのだと裏打ちするように、その仕草が、鋭い視線が村人の意思を彼女の言葉に傾けさせる。

 だが、村人は誰も、釣り目軍師の言葉には乗らなかった。

 どれだけ魅力的な言葉を吐いたとしても、釣り目軍師は村人にとって余所者だ。子義はその存在を知っていたが、大半の村人は一刀と同じように彼女の存在を知らなかったらしい。こいつらは誰だ、信用できるのかといった類の視線がこの場で最も信用の置ける人物――高志の元に集まる。

 高志は村人達の視線を受けて、重々しく頷いた。少なくとも人格の面では信用できる。高志はそう保障した。二人に怪訝な目を向けていた村人も、それで一応は二人を信用することにしたようだった。

「初見の方々もいらっしゃるようなので、まずは自己紹介を」

 自分の話を聞く体勢が全員に整ったのを見て、釣り目軍師は姿勢を正し、軽く頭を下げた。

「旅の軍師、戯志才と申します。どうぞお見知りおきを」



















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第八話 とある農村での厄介事編③
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51





「では、お兄さんは風たちと同じ旅の方だったんですか~」
「世話になってまだ一月って所だけどね」

 農村の道を行きながら、金髪の少女はほ~、間延びした声で頷いた。相変わらず起きているのか立ったまま眠っているのか解らない寝ぼけた瞳をしているが、話してみると受け答えは驚くくらいにはっきりとしていて、たまに見せる鋭い物言いはこの少女が智者であるのだ、ということを一刀にも伺わせた。

 名前は程立というらしい。字は知らないが真名はおそらく風というのだろう。自分を示す言葉にそれを使うものだから、うっかり呼んでしまいそうになることも多々あったが、今の所許されていない真名を口にするという暴挙はせずに済んでいる。

 狙ってそれをやっているのだとしたら性格が悪いと言わざるを得ない。

 そんな程立は軍師であるのに主を定めず、戯志才と共に見聞を広める旅をしているという。こんな抱けば折れてしまいそうな少女が護衛も付けずに旅など大丈夫なのかと、実際に野党に襲われている軍師の少女を助けた経験のある一刀は思った。

 のんびりとした口調もふわふわした金髪もとても武術に縁があるとは思えない。屈強な男に守られるお姫様……の抱える人形など、程立には似合いそうな役回りだ。

「それまではどこに? 失礼ですが、あまり旅慣れているようには見えませんが」

 程立とは逆隣を歩く少女が害意はないが、無駄に鋭さの込められた口調で問うてくる。

 程立がお人形さんだとするなら、こちらは教育係だろうか。

 腕が立ちそうに見えないのは程立と同じだが、どちらが矢面に立ちそうかと言われればこちらの少女だろう。

 村人達の前で戯志才と名乗った軍師の少女は、大きな眼鏡のレンズの向こうにある切れ長の目を一刀に向けていた。

「豫州にいたよ。そっちも一月ほどだけど、荀さんって人の家に世話になってたんだ」

 一刀の物言いも、自然とぼかした物になる。

 話すのは、その戯志才に匹敵するほどの意思の強さを持った猫耳軍師の実家のことだ。右も左も解らない自分を拾って、知識を教えてくれた。向こうはどう思っているか知らないが、一刀はかの家に大きな恩義を感じていた。

 いくら感謝しても足りない彼女らのことを知り合って間もない戯志才を相手に教えるのは迷惑になるのではないか……

 そんな考えすらも一刀の頭を過ぎったが、別に隠さなければならないようなことは何もない。

 むしろ、荀家に辿り付く前の方が一刀にとっては隠さなければならないことだった。荀家以前のことに話が及ばないよう、出来る限りの注意を払いながらそう口にすると、『荀』という姓を聞いた戯志才は、一刀を見据えたまま僅かに目を見開いた。

「……豫州の荀と言うのは『あの』荀家ですか? 潁川郡の?」
「多分、その荀家なんじゃないかと思うよ」

 名家の事情には明るくないため、荀彧の一族の他に有名な荀家があることを否定できないが、何しろ『あの』荀彧の一族である。色々と無視できない相違点はあるが、ここが三国志の世界であるのなら彼女ら以上に有名な荀姓はいないだろう。

 それならば状況説明も容易いかと安心していると、戯志才は一刀に向ける視線に疑問の色を濃くした。

「あの屋敷は使用人に至るまでそれなりの学を身に着けていると聞きますが、貴殿はどういう理由で荀家に?」
「道中でお嬢さんを助けたことが縁で暫く住まわせてもらってたんだ。警備の人に混じって武術を学んだり、使用人の女の子に勉強を見てもらったりしてた」
「なるほど、つまり知識を見込まれて呼ばれたという訳ではなかったのですね」
「戯志才が俺をアホだと思ってるっていうのは良く解ったよ」
「評価はしていますよ? 村の子供達が読み書き計算を良く理解しているのは貴殿の仕事と言うではありませんか」
「あれは村長さんが元々やってくれてたからだよ。俺が教えたのなんて微々たるものさ」

 子義のようなアホの子を前にするとどうやって教えていいのかすら解らなくなるし、自警団に関しても元々軍経験者がいることが大きかった。主導したのは一刀だが、発案したのは高志であるし、一刀一人の力では決して村人達は纏まることはなかっただろう。

 この村での成果らしい成果といえば、既にある程度の骨組みが出来上がっていたものを、そこそこに軌道に乗せたことくらいだ。胸を張って他人に自慢できるかと言われれば、それほどでもない。

 だが、戯志才はそうは思わないようだった。

「実際、成果は出ているではありませんか。貴方が導いてこなければ、私の言葉に耳を傾けるだけの下地も出来ていなかったでしょう。胸を張れというと大げさですが、そこまで卑下することでもないと思いますよ」
「そう言って貰えると助かるよ」

 戯志才はにこりともしなかったが、例え嘘でも自分のやってきたことを評価して貰えるのは嬉しいことだった。

 村人からは感謝の言葉をかけられることも多いものの、一刀の視点から見ると彼らは身内と言える。同じ村に住んでいるということで、その仕事には贔屓目も混じるだろう。

 実際村人達は、余所者である一刀に驚くほど親身になって接してくれている。

 彼らを疑う訳ではないが、身内からの評価はいまいち正当とは言い難い。

 その点、戯志才は今日であったばかりの他人だ。言葉にしても手放しに褒めてくれているとは言い難く、先ほどの言葉にしても無論、初対面の人間に相対した時のリップサービスも含まれているのだろうが、この世界で自分のやったことを他人に評されるのは始めての経験だった。

 それがプラスの評価であったことが、酷く嬉しい。

「さて、私達以外の滞在者ですが、貴殿は会ったことがありますか?」
「ないね。というか、戯志才達がいることすらさっき知ったばかりだよ」
「使えねえ兄ちゃんだな、おい」

 可愛いヤサグレ声という生まれて初めて聞いた声に目を向けると、そこにいた――あったのは、この時代にしては随分と前衛的なオブジェだった。

 その存在感の奇天烈さに一刀がそのオブジェを凝視していると、視線に気づいた程立がのんびりと視線を上げる。

 自然、そのオブジェも一刀の方を向くことになった。

 気のせいか、先ほどとポーズが違うような……と不気味に思った一刀がオブジェに手を伸ばすが、思いの他俊敏に動いた程立の手が、一刀のそれを叩く。

「妄りに女性に触れるものではありませんよ、お兄さん」
「それは謝るけど、それは?」
「それとは失礼ですね。この子は宝譿というのですよ」
「宝譿……」

 男として微妙に抵抗のある名前だった。当たり前のことではあるが、一刀の呆然とした呟きを聞いても、宝譿は程立の頭の上に鎮座したまま動かなければ喋ることもしない。明らかに先ほどの声は程立の声だったが、一刀にはそれが程立の頭の上……早い話、宝慧から聞こえたように思えたのだ。

(腹話術かな……)

 何故こんな世界でと思うが、出来る出来ないは別にして腹話術の原理そのものは非常に簡単なものだ。三国志の昔からそういう技術があったところで何も不思議はない。

 何故程立が態々腹話術をするのかという疑問は残るが、女の子になった荀彧が猫耳頭巾を身につけてツンツンしている世界である。美少女軍師が腹話術をしているくらい、大したことではないだろう。

「よろしくな、宝慧」

 気にすることをやめると、前衛的なその形すら頼もしく思えてきた。動かないオブジェが握手などできるはずもないから、宝慧に目線を合わせてそう言うと、宝慧は照れたように視線を逸らし、

「まぁ、よろしくされてやるよ兄ちゃん」

 口の悪いキャラからして無碍にされることも覚悟していたが、宝譿はあっさりと一刀を受け入れてくれた。自然と一刀の顔にも笑みが浮かぶ。

 どんな形であれ、誰かと友達になれるというのは良いものだ。

 宝譿とのファーストコンタクトを成功したことに気を良くしていると、隣を歩く戯志才がこれ見よがしに呆れた顔をしているのが目に入った。

「程立が変わった少女であるのは良く知っているつもりでしたが、貴殿は貴殿で変わり者ですね、北郷殿」
「そうかな? 俺はこういう関係も悪くないと思うけどね。宝譿はどう思う?」
「俺も兄ちゃんは変わった奴だと思うぜー」
「酷いなぁ……」

 呆れた様子であくまで宝譿に向けて答える一刀に、戯志才だけでなく程立も疑問の表情を浮かべる。大抵の人間は宝譿はいないものとして話を進めるのが普通だが、一刀は宝譿の人格を尊重し――というのも可笑しな話だったが――話を進めている。

 宝譿の口を借りて程立が改めて宣言するまでもなく、奇矯な人間性だった。

「その変わった奴の北郷殿に最後の滞在者の説得をお願いしたいのですが、よろしいですか?」

 変人であっても変態であっても、一刀がこの村の守備責任者であることに変わりはない。交渉事というなら軍師である戯志才や程立がやった方が良いのは誰でも分かることだが、二人は今日村を訪れたばかりの新参者だ。

 一刀も村に来て一ヶ月と新参者ではあるが、自警団を組織するに当たってそれなりの信頼を村民から獲得している。何より、村長である高志が一刀に指揮を一任したのが決定的と言えた。

 今、村は一刀を中心に動いているのだ。軍師である戯志才と程立は勿論早い段階でそれを見抜き、自分たちの考えをより正確に伝えることが出来るよう、子分のように付き従っていた子義に力仕事を割り振ってまでその左右を確保したのだが、当の一刀は中心にいるという自覚が少ないようだった。

「俺で大丈夫かな。戯志才がやった方が良くないか?」

 この期に及んでこんなことまで言い出す始末である。戯志才の方を向いているため一刀の背中に隠れる形になった程立は、一刀に見えないようにこっそりと溜息を吐く。

 一方、正面から一刀に見据えられた戯志才は、『貴方には失望しました』という雰囲気を隠そうともせず、盛大に、堂々と溜息をついた。

「貴殿ならば私よりも成果を挙げることができるでしょう。さらに言えば、これは貴殿がやらなければならない仕事です。全てを理解し器用に立ち回れとは言いませんが、小集団とは言え貴殿も人を率いる立場にいるのですから、もう少し自覚をもって行動してください」
「肝に銘じておくよ」

 と、一刀は答えるしかなかった。

 こういう時にはこういう指揮をするべし、ということは荀家にいた時に散々荀彧と宋正に触りの部分だけとは言え叩き込まれているが、生まれてこの方人の上に立ったことのない一刀である。さらに今が有事となれば途方に暮れるのも当然と言えた。

 全力で事に望んでいるのは胸を張って言えるものの、それが実を結んでいるかどうかは結果を見るまで解るものではない。自分が向かっている先が、光に満ちた場所なのか、それとも闇に沈んだ場所なのか。解らないまま人を導くというのはこんなにも疲れるものなのだと、責任を負うようになった数分ではあるが、一刀は早速指揮者の不安を感じていた。

「もしもの時はフォローしてくれよ」
「貴殿の言う『ふぉろー』がどういうものか知りませんが、私も程立も補佐はしますので安心してください」

 助かるよ、と返事を返し、一刀達は足を止めた。

 眼前にあるのは一軒の民家である。一刀が寝泊りしている子義の家と大差ない。村長の高志の家に比べれば粗末で隙間風もびゅーびゅー入るという、この村では標準的な装いの家だった。

 この家に最後の滞在者がいるという。住民は村の中央広場で作業をしているが、居候である彼女は家から一歩も出ようとはしなかったそうだ。

 薄情な、というのが一刀の率直な感想だったが、この時代、厄介ごとに好んで首を突っ込む人間の方が珍しい。軍師であるにも関わらず積極的に顔を出した戯志才や程立の方が奇特なのだ。

 一刀が小さく咳払いをする。

 変わりに声をかけてくれないものかと、最後の望みをかけて左右の軍師を見るが、戯志才は憮然と、程立は茫洋とした瞳で一刀を見返すばかりだった。早くやれという心の声が聞こえてきそうである。

「たのもー!」

 他人の家を訪ねる時どう声をかければいいのか解らなかった一刀は、とりあえず戸を叩いてそう声を張り上げた。戯志才も程立も肩をこけさせたりはしなかったから、間違いではないだろう。

 だが、声かけが間違っていなくても相手が素直に出てくるとは限らない。何しろこの家本来の持ち主は中央広場で作業に参加しており、中にいるのは居候一人だ。賊が来たという話を聞いているのなら、既に逃げ出している可能性すらある。

 家主は既に逃げ出したものとしていたようだが、今は有事で戦力、人手は幾らあっても足りない。いる可能性が少しでもあるのなら、声をかけない訳にはいかなかった。

 空振りか、当たりか。

 一刀は当然、当たりであればいいな、と希望を持っていたが、希望と不安を胸に反応があるのを待っていると、家の中で音がした。はいはい、とやる気のない声も聞こえてくる。

 少なくとも逃げ出してはいなかったようだ。これで最低限の役目は果たせる、と一刀が胸を撫で下ろしていると、戯志才が脇腹を肘で突いてくる。油断するな、と眼鏡の奥の瞳が言っていた。

「心配してくれてありがとう」

 小声でそう返すと、戯志才はつまらなそうに視線を逸らしそっぽを向いた。気にしていないように見えるが、耳は真っ赤に染まっている。柄にもなく照れているらしい。

 見た目通りに遠慮しない、その上気の強い戯志才にも可愛いところもあるものだ、眼前の戯志才の姿を心のメモリーに刻み付ける。言い合いでは勝てそうにもないが、この頭の良い少女にもいつか反撃できる時がくるだろうことを信じ、今は最後の滞在者を待つ。

 戸は直ぐに開かれた。

 出てきた人間の姿を見た瞬間、一刀は目を瞬かせる。

 長袖のシャツにズボン。どうということのない格好だが、それは一刀の感覚での話だ。この世界に来る時に着ていた制服一式は、ワイシャツも含めてまだ処分していないが、荀家で一度脱いで以来、一度も袖を通していない。

 着慣れた服ではあるので、出来ることならそちらを着たいのだが、この世界であの制服は不必要なまでに目立つのだ。三国志世界に似た世界観であるだけに富裕層から貧民に至るまで、時代劇のような着物の者が多く、洋装をしている人間は一人も見たことがない。

 何故か下着だけは西洋化が進んでいるようだが、それはさておき……

 この世界では異質なはずのパンツルックを、少女は当たり前のように着こなしていた。宛ら某劇団のスターのように気取った仕草で、手に持っていたマフィア御用達のソフト帽を被ってみせる。

 これが劇ならばそのまま歌って踊りそうな雰囲気だった。少女の『華』に戯志才までもがどこか腰が引け気味だが、ソフト帽の少女にそれを気にした様子はない。

 緊張感がまるでない。飄々としていることなら程立も並ではないが、少女の雰囲気はそれに匹敵するほどだ。

 正直やり難さしか感じないが、いつまでも黙っている訳にはいかない。少女の人間観察は遠慮がなく、まるで匂いでも嗅ぐかのように顔を近づけ一刀達を観察している。男装しているとは言え、少女は少女だ。すぐ近くで二つのふくらみがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているのをただ眺めているのは、精神衛生上よろしくない。

 視線を悟られないうちに、と一刀は姿勢を正した。

「北郷一刀です。姓が北郷で名が一刀。字はありません。村の自警団の代表として参りました」
「二文字姓に二文字の名前か。それに字もないとは珍しい。君、どこの生まれだい?」
「東の海の島国です。まぁ、凄い田舎ですよ」
「その割には立ち振る舞いに品があるような気がするが……まぁいい。僕のことは単福とでも呼んでくれたまえ」
「本名ではない、ですよね?」
「あだ名みたいなものだよ。君を信用してない訳じゃないが、女の一人旅は何かと物騒でね」

 やれやれ、と単福は肩を竦める。格好だけでなく仕草まで洋風だ。自然と胸を張る形になるため、女性の象徴である二つのふくらみが強調される。格好は男なのにその部分の主張具合はこの場に集まった少女の中でも一番立派なものだ。

 控えめな程立は元より、どちらかと言えば大きい寄りの戯志才でも勝負にならない、誰がどう見ても大きな膨らみがそこにはあった。

 思わず一刀が凝視していると、足元に激痛が走る。躊躇いなく足を踏み抜いたのは戯志才だ。声もなく蹲る一刀を他所に、戯志才は平然と自己紹介を始める。

「私は戯志才。旅の軍師です。そちらは程立、私の旅仲間で彼女も軍師をしています。偶々居合わせた縁で今はこの村に雇われています。まぁ、参謀とでも解釈してください」
「穏やかな雰囲気ではないけど、戦か何か始まるのかい?」
「こ、黄巾賊がこの村を通るかも、って情報が入ったんだ。数はおよそ二百。ほとんどが武装してるらしい。到着予定は二日後の夜になると思う」

 蹲ったままの一刀の報告に、単福はふむ、と顎に指を当てて考える仕草をした。

「この村の規模を考えると、戦える人間がそれほどいるとは思えないな。なのに旅の軍師を二人も囲って腰を据えてるってことは、まさか黄巾二百をこの村で迎え討つつもりかい?」
「迎え撃つどころか殲滅するつもりですけどねー」

 大きく出た程立の物言いに、単福は感嘆の溜息を漏らす。

「それは……何とも愉快な話だね。一騎当千の強者でもいるのかい? それとも神算鬼謀を司る軍師殿が、村人たちに何か妙案を授けたのかな」
「どちらかと言えば後者でしょうね。ですが、いくら策が優れていても頭数が足りなければ話になりません。正直な話、策を十全に実行するにはギリギリの人数なのです」
「つまり、僕に手を貸せと?」
「かいつまんで言うと、そういうことになる……かな」

 戯志才の言葉を引き継いだ一刀の視線は、頼りなくふらついていた。

 成り行きとは言え滞在するに足ると選んだのだから、単福もこの村がどの程度の規模なのか理解しているだろう。自警団の錬度までは知るはずもないが、官軍が常駐していないことくらいは調べなくても分かる。

 それで数に勝る黄巾を相手にしようというのだ。普通ならば鼻で笑っていても可笑しくない状況だが、単福は言葉にひかっかるところはあるものの、笑ったリ馬鹿にしたりはせずに話を聞いている。

 食いつきは悪くない。それどころか、この状況を楽しんでいる風ですらある。

「わかった。手を貸すよ」

 単福の決断は速かった。一刀が礼を言うのすら待たず家の中にとって返すと、荷物を掴んで戻ってくる。かちゃかちゃと音が鳴っているのは、武具でも入っているからなのだろう。単福はその中から使い込んだ印象の鞘に入った剣を取り出して腰に帯びると、これまた着古した感のある上着をシャツの上に羽織った。

 その着古した上着に、戯志才が目敏く目を付ける。

「それは、水鏡女学院の制服ですね? 貴女は水鏡先生の門下なのですか?」
「そうだよ。と言っても卒業生だけど。ちなみに制服は上着だけだよ? 本当はもっとひらひらした可愛らしい制服なんだけど、僕にはどうも合わなくてさ」

 言って、単福は苦笑するがひらひらした可愛らしい制服――スカートのことを言っているのは何となく想像がついた――を着る単福というのも悪くない気はする。可愛いというのとはまた違った印象を受けるだろうが、男装が嵌りすぎて本人が受け付けないというだけで、これだけ顔立ちが整っていれば何を着ても似合うだろうと思う。

「ですがその制服ほど貴女の身分を保証してくれるものはないでしょう。それだけでどこかの武将の軍師に納まれたはずですが、何故旅を?」
「仕えるに値する主ってのが中々見つからなくてね……まぁ、その辺りは君達だって同じだろう?」
「私と程立はそうですが、北郷殿はただの一人旅ですので一緒にしないように」
「酷いなぁ……」

 と、一応の抵抗はしてみせるが、見聞を広めるための旅と言っても戯志才のように目的がある訳ではない。就職活動のために歩き回るのと目的のない自分探しの一人旅では、どちらが好印象なのかは言うまでもないことだ。

「この時代に目的もない一人旅とは珍しいね。それを聞いて興味が沸いてきたよ。北郷殿、僕は君の話が聞きたいな」
「時間もないので追々話しますよ。今は賊を迎え撃つ準備をするのが先決です」
「ならば華麗に賊を退治するとしようか。だけどその前に一つ言っておくことがある」
「なんです?」

 村の中央広場に向かって歩きながら一刀が振り返ると、単福は顔を間近に近づけて凄んで見せる。整った顔立ちだけに、そういう表情には中々迫力があった。

「一緒に戦う仲間に気を使われるのは気に食わない。君はもう少しざっくばらんに話すべきだ」
「年上の人間には礼節を尽くすべしというのがこちらの常識と聞きましたが……」
「僕が良いと言ってるんだから良いだろ。それとも、君は僕がそれに値しない人間だとでも言うつもりかい?」
「とんでもない!」

 反射的にそう答えるが、本音を言えば敬語で通したいところだ。助けて貰う側という立場もある。例えざっくばらんにというのが本人からの申し出であっても、礼儀を尽くすのが正しい対応というものだろう。

 だが、それが単福の譲れない点であるというのは、さりげなく剣に手をかけたことでも理解できた。提案を拒否したところで、まさか本当に剣を抜くとも思えないが、それだけ本気だというポーズには違いない。

「じゃあ、単福と呼び捨てることにするよ。それで良いか?」

 結局、口調くらいならば安いものだ、ということで一刀は折れることにした。間近で凄んでいた単福は途端に笑みを浮かべる。剣からは勿論、手を離していた。

「是非もない。僕も君を一刀と呼ぶからね。厳しい戦いになると思うけど、よろしく頼むよ大将」
「こちらこそ」
「話が纏まったところで、今後の方針を説明してもよろしいですか?」

 がっちりと握手を交わした一刀と単福を、戯志才がじろりと睨んでいる。慌てて一刀は手を離すが、単福に悪びれた様子はない。よろしく、と戯志才や程立にも同じように手を差し出し握手する。

 あくまで自分のペースを崩さずない単福と、キツい性格の戯志才では相性が悪いのかもしれない。戯志才の単福を見る視線には苦手意識が混じっているように思えた。

「……では、説明します。現在村人総出で準備を行っていますが、我々はそれに平行して実際に賊と戦う人間を配置分けしなければなりません。当然、それを率いる人間も必要となる訳ですが、場合によっては単福殿、貴女にその一つを任せることになるかと思います」
「百人くらいまでなら指揮してみせるよ」
「貴女一人にそれだけ任せられる余裕があるのなら、そもそも策を弄したりはしませんよ。今更言うまでもありませんが、我々は寡兵でもって事に当たらなければなりません。当然厳しい戦いになるでしょうが――」

 そこで、戯志才は言葉を切った。作業の続く中央広場へと歩みを進めながら共に歩く一同を見回し、口の端をあげる。

 そのよく言えば自信に満ちた――率直に言えば酷く怜悧で邪悪な笑みに一刀は背筋がぞくりとするのを感じた。

「私と程立の策、それに北郷殿が鍛えた自警団の戦力があれば、賊など物の数ではありません」







後書き

最後の軍師は単福さん(仮名)でした
荀家の人々の同じように今回のシリーズのゲスト参戦ですが
後々のレギュラーを引っ張ってくるための重要な役割も担ってます
彼女の正体についてはまた後ほど






[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第九話 とある農村での厄介事編④
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51













 黄巾賊残党――冀州で死闘を繰り広げる本隊から離脱し、戦乱を逃れるように南下する集団の頭目は李恒という男だった。黄巾賊内部での位はそれほど高くなく、十万を越える集団において百人隊長を務めていた、その程度の男だ。

 元来、黄巾賊はある歌姫三人を崇める集団だった。歌姫が何処へ行きたいと言えば皆で移動し、何が欲しいと言えば略奪してでも調達してきた。それらの行為が行き過ぎたために逆賊、朝敵と断じられ、官軍に狙われることになった。

 攻撃を仕掛けられたら、反撃するのが世の常だ。黄巾賊は歌姫のために最後の一兵になるまで戦うことを決意したが、所詮は烏合の衆である。精強な官軍に追われに追われて数を減らされ、残った本体も冀州に追いやられている始末である。

 本気で歌姫にほれ込んでいるのなら、彼女らのために戦って死ぬのは本望なことだろう。

 だが、李恒はそんなことで死ぬのは死んでもご免だった。

 歌姫のための集団である黄巾賊でそういう考えの人間は少数も少数だったが、十万以上の人間が集まれば、そこには李恒のような考えの人間は少なからずいた。そういう連中は旗色が悪くなったのを見ると示しを合わせて黄巾賊を離脱した。

 黄巾賊を離脱した段階で、李恒についてきた人間は二百五十人を越えていた。賊徒としてはちょっとした規模である。大多数の官軍の目が冀州の本体に向けられている今が、略奪の最大の好機なのではと李恒は考えた。

 まずは黄色の布を外して冀州から離れることに専念した。

 そして冀州を出て、大きな官軍の気配がなくなってから、略奪を開始した。黄巾賊にいた頃は頭巾を外すことはなかったが、離脱してからは略奪する時だけ黄巾を巻くことにしていた。

 官軍の目を引いてしまっては元も子もないが民衆の間で黄巾の力は絶大である。大した力がなくとも、黄巾を見るだけで逃げ出す者もいるほどだった。

 勿論、立ち向かってくる人間もいるにはいたが、二百人を越える武装集団を相手に出来る組織が官軍以外に多くあるはずもない。官軍を相手にすることは徹底的に避け、組織だった反抗をしそうな所も避け、冀州の本体から遠ざかるように李恒の集団は南下を続けた。

 しかし、補給の全てを略奪に頼った代償は決して小さくはなった。

 小さいながらも抵抗は受け続け、表立って街に寄ることもできない。医術の知識がある者など黄巾本体ならば兎も角、逃げて燻っているような集団にいるはずもない。

 怪我をした者、病にかかったものからバタバタと倒れて行き、二百五十を数えていた仲間も、荊州に入る頃には百五十人割り込んでいた。無傷な物は一人もおらず、中には歩くことすら覚束ない人間もいる。

 武装集団としての格は地に落ちつつあった。今の状態で官軍に襲われたら一溜まりもないだろう。頼みは数と、全員が武装しているということ。後は腹を空かせている人間が少ないということくらいだ。

 士気も低くはない。定期的に行っている略奪が辛うじて、集団の闘志を繋ぎとめていた。他人を殺し食物を奪いそれを貪り食うことで、自分たちが上位の人間だという意識を保っていられた。

 それが長く続かないということを、解っていない人間はいない。緩やかに破滅に向かっているのだということを、李恒を含めて全員が理解していた。

 だが、今更止まることも出来ない。一度道を踏み外してしまった人間が、元の道に戻ることは並大抵のことではないのだ。

 戻るための機会は、何度もあった。黄巾賊を離脱した時に、それから初めての略奪をする前に。どこかの街で、農村で、慎ましく生きることを覚悟できれば、賊に身を落とさなくても生活することは出来たはずだ。

 その選択を、李恒達は自らの意思で放棄した。

 賊は賊だ。それ以外の何者でもない。

 そこに矜持などあるはずもないが、今更他の生き方もできない。そういうロクデナシの集まりなのだ。

「頭、あの村変じゃあないですかい?」

 そのロクデナシの集団において李恒の右腕を務める男が、今晩の標的である村を視界に納めるなりそう言った。景気が悪いことこの上ない。ギロリ、と思い切り睨みやると、男は萎縮する。

 気の弱い男なのだが、それだけにそこそこ目端が利く。李恒は不機嫌な顔を崩さぬまま後続の手下達に止まれ、と手で合図をした。暗がりの中で、二拍ほど遅れて手下達が足を止める。

「何が変だ?」
「静か過ぎやしませんか?」
「日が沈んでるんだから静かでも不思議じゃねえだろう」
「そりゃあそうなんですが……」

 李恒は正論を言ったつもりだったが、男はまだ何かを言いたそうだった。強く出れば言われたことには従うのに、今日はやけに粘るものだ。気の弱い男がそれだけ食い下がるということは、それなりに自信があることなのだろう。

 考えることは苦手だ。こちらの視線を伺う男に話せ、と身振りで促すと、男は嬉々として、しかしひっそりと話し始める。

「難しいことはわかりやせん。強いて挙げるなら勘でしょうか」

 殴り飛ばしてやろうか、と李恒は思ったが、握り締めた拳は微かに動いただけで、振り上げられることもなかった。

 勘に頼って行動して碌な目にあったことがない。それで命を救われたこともあるが、そんな物、片手で数えられる程度しかない。悪い目の方が圧倒的に多いのだ。一度など、勘に頼って行動して別の賊と鉢合わせ、全滅しかけたこともある。

 ここまで食い下がってきたのは今回が初めてであるものの、それだけでは男の言葉を信ずるには足りない。

 危険が待っている、という言外の主張を真っ向から信じるなら今すぐ進路を変更して、眼前の村には立ち寄らないというのが、正しい選択だ。

 しかし、ここで集落に立ち寄らないということはありえない。前に襲撃した村で火を放った時に食料のほとんどが焼けてしまったため、食料は既に底を尽きかけていた。今すぐに餓死するほどではないが、何も口にしないまま長時間移動することは肉体的にも精神的にも堪える。

 村を攻めるしかないというのは、男も解っているだろう。それを踏まえた上で何かあると言うのだから、用心せよということか。

 李恒はぼりぼりと頭を掻いた。やはり、考えることは苦手だ。

「……何人か人をやって調べてこさせよう。待ち伏せなら近くまで行けば分かるだろう。敵がいりゃあ逃げる。調べてなにもなきゃあ、全員で正面から打って出る。それで文句はねえな?」
「まぁ、そこまでやってくれるのなら……」

 納得はしていない男の顔に、今度は躊躇いなく拳を叩き込んだ。顔を抑えて呻く男を他所に李恒は手下の内、適当な人間を見繕って指示を出した。

 軍で言うならば斥候だ。歌姫三人の中に頭の回る奴がいたらしく、本隊にいた頃は本隊を離れ周囲を探るという仕事を良くやったものだ。本職に比べれば児戯のような斥候でも、やるのとやらないのとでは大きく変わってくる。

 それすらも李恒は面倒臭いと考えていたが、乗りかかった船だ。やると決めた以上、さっさとやり村に押し入ると、そう決めた。

 適当に選び適当に指示を出された部下は、適当にそろそろと村の周囲を調べ、大して時間も経たないうちに戻ってきた。

 見える範囲に人影はなかった。一番近い家の戸に耳を当ててきたが、人の気配はなかった。解ったのはその程度のことだ。

 面倒くさがりの李恒には、それだけ解れば十分だった。

「行くぞ」

 短い李恒の宣言に、手下達が続いた。

 その村には柵があった。珍しい物でもないが、それが気になった李恒は何の気なしに触れてみた。

 木で作られた簡単な柵だった。鉄で補強されてもいない、騎馬にでも攻められればあっという間に破壊されそうな弱い物だったが、作りだけは非常に丁寧だ。最近作られた物なのか、まだ木の匂いがする。

「頭、どうされました」

 手下の一人に呼び止められて、李恒は柵を気にすることを止めた。

 柵があったからと言ってどうにかなるものでもない。侵入者を阻むようには作られていないその柵に、村と外の境界を示す以上の意味はなかった。柵には目もくれず村に入る手下に続き李恒も足を速める。

 村はどこにでもある普通の村だった。柵の拵えられた入り口付近には田畑が広がり、人の住むための小屋もちらほらと見える。小屋が密集しているのは村の中央部のようだ。比較的高い屋根もその辺りに見える。食料なり金銭なり李恒達にとって価値のある物があるとしたらあの辺りだろう。

「駄目です。人っ子一人いやしません」

 通り道沿いにある小屋は一応探るように指示を出したが、未だに村人を見つけたという報告はなかった。小屋からは食料や服が持ち去られており、勿論金銭もない。

「逃げ出したんでしょうかね」
「どうだろうな」

 手下の一人の問いに、李恒はおざなりな返答をした。

 村人がいない。それが全てだ。

 殺しを楽しみにしている手下もいるが、李恒の考えは違った。戦わないで済むのならばそれに越したことはない。人を殺すにも体力がいる。必死の抵抗をされれば怪我をしかねないし、場合によっては返り討ちにされることもある。

 李恒を始めとしたこの集団はきちんとした訓練を受けた訳でも、黄巾賊の中核をなしていたような、実戦経験を多く積んだ精鋭でもなかった。殺すのに躊躇いがなく、少し腕が立つだけの素人の集団なのだ。

 そんな集団にとって力とは数である。百人を超す多数だけが李恒達の武器だ。人的損耗はそれだけ今後の仕事に影響を及ぼし、各々の死期を早めることになる。

 人がいないというこの状況は、願ったり叶ったりと言えなくもなかった。

 食料が持ち出されているのは痛いが、全てを持ち出せた訳でもないだろう。村の外では野宿していたことを考えると、雨露を凌げる場所が確保できるだけでもありがたい。

「中央の家からやるぞ。音は立てるなよ」

 小声で指示を出し、集団の中でも腕の立つ人間三人を先頭にぞろぞろと進む。

 中央広場はこの規模の村にしては広く、百人を超える李恒達が集まってもまだ余裕があった。手下に指示を出し、目に見える全ての家に張り付かせる。一番大きな家には腕の立つ三人を配置した。

 隠れている村人に反撃された時の対処だが、戸に耳を当てて中を探る手下からは『人の気配なし』という合図が返って来た。

 息を顰めて隠れているのか、それとも本当に逃げ出したのか。どちらだったとしても、李恒のやることに変わりはない。

「やれ!」

 李恒の合図と共に、家々に張りついた手下の全てが戸を蹴破って部屋の中に雪崩れ込む。家を破壊する音と、手下達の怒号。村を襲う時のいつもの光景だが、聞こえてくるのは手下達の声だけで、村人の抵抗するような気配はない。

 本当に空振りか……

 安堵と失望の入り混じった溜息を吐きながら、李恒は周囲を見渡した。簡単な家捜しを済ませた手下が戦利品を持って飛び出してくる。決して大漁とは言えないが、それでも先日襲った村よりは多くの物を得ることが出来た。

 これならば二三日はこの村に滞在してもまだ余裕が持てるだろう。纏まった勢力を差し向けられる前には逃げなければならないが、休息は必要だ。

「頭、あの家が……」

 腹を満たして泥のように眠る自分を想像し、気分の良くなっていた李恒を、手下の声が現実に引き戻した。あの家、と手下が示す家を見て、李恒は顔を顰める。

 腕の立つ手下を差し向けた、目に見える範囲では最も大きな家だった。村の代表が住む家なのだろう。ただ大きいだけでなく、権威を示すように造りがしっかりとしており、服なり食料なり、何か上等な物があるような雰囲気があった。

 その家に押し入った手下が、一人も出てこない。他の家に押し入った手下は既に戦利品を運び出し終えて、検分まで始めている。一度で抱えきれないほどの量があるとしても、一人も、全く顔を見せないのはどう考えても可笑しい。

(抜け駆けか)

 大方、見つけた食料を貪ってでもいるのだろう。手下の浅ましい行動に、李恒は深々と溜息を吐いた。

 気持ちは解らないでもないが、飢えているのは李恒だって他の手下だって同じだ。同じ立場だったら李恒だってそうしなかったとは限らないが、抜け駆けは厳しく罰しなければ他の手下にも示しがつかない。

「馬鹿ども、さっさと戻って来い!」

 争う音は聞こえてこない。住民の抵抗に合っているということはないはずだ。食料なり金銭なりを懐に入れようとでもしない限り、もたもたする理由はない。

 李恒の声は恫喝に近い。いくら数が力の集団と言っても、最低限守らなければならない規律はある。奪った物を勝手に持ち出すのは死罪に近い規律違反だ。それはこの集団に所属している者ならば、誰もが知っていることである。李恒の言葉は、『今ならば命だけは助けてやる』という最後通告に等しい。

 だが、踏み込んだ手は出てこなかった。一分、二分。反応を待つ。それでも誰も、一人も出てこない。反応のないことに、流石に李恒も危機感を抱いた。残った手下にも不安が広がっていく。

 手下に警戒を促そうと李恒が声を出そうとしたその時、家の中から出てくる者があった。

 女だ。きちんとした拵えの金属鎧を着て、腰には剣を佩いている。月明かりしか光源のないこんな夜でも、陰影だけで女性であることが伺える、こんな状況でなければ思わず生唾でも飲み込んでいたろう、中々御目にかかれないほどの美人だった。

 その女が、腕に抱えていた物を地面に放る。数は三つ。見慣れた顔がそこに並んでいた。

 三つの首に悲鳴を挙げなかったのは、不幸中の幸いだろう。。味方が殺されたことに動揺は広がったが、恐慌は起こさない。それくらいの修羅場は潜っていたことを感謝しながら、李恒は剣に手をかける。

 こちらは百人を超える。相手がいくら手練でも一人ならば殺せるはずだ。

 時間をかければ怯えが広がり、倒すのに手間がかかるようになる。やるのならば速攻だ。李恒は腕だけで素早く指示を出し、鎧の女を囲むように手下を半円中に広げる。

 時間をかければ不安が伝染する。殺すならば早くやるしかない。経験でそれを知っている李恒と手下達は、じりじりと包囲を狭めていく。


 忍び寄る死の気配に、しかし、鎧の女の顔に不安はなかった。女は役者のように気障ったらしい微笑みを浮かべると、大きく腕を掲げる。百人を越える元黄巾賊の視線が集まるのを十分に待ってから、女は指を打ち鳴らした。

 夜の済んだ空気の中、音が遠く、深く響く。

 すると、どうだ。その音に吸い寄せられるように、女の出てきた家から、その周辺からぞろぞろと人の気配が現れ出でた。その数、十や二十では利かない。暗いせいで顔までは解らないが全員が鎧で武装しているのが見て取れる。

 李恒は混乱する。

 気配は突然現れた。まるで地面から湧き出るように、百人を超える人間が現れたのだ。これだけの人間をどうやって……声に出さずに戦慄するも、それに答えてくれる人間はいなかった。

 はっきりとしているのは、今自分たちが圧倒的不利に立たされているということ。どうにかこの状況を打開しなければ、残らず殺されるということだ。

「賊軍が、まんまと罠にかかってくれたな」

 一歩前に進み出た女の堂々とした振る舞いは、武将のそれだった。一人の将に従う歴戦の戦士のように、女が率いる兵にも士気が満ち満ちている。敗残兵とそれを討伐する兵士。戦の構図はこの時定まった。

 勝てない――李恒は一瞬で形勢を判断した。

「撤収!」

 判断が決まれば、指示を出すのは迅速だ。戦って勝てないのならば、逃げるしかない。李恒の声を聞いた手下達は、我先にと包囲の隙間を目指して駆け出して行く。

 その手下達に、女の兵の放つ矢と石が降り注いだ。狙いもつけずに撃たれたようなそれらは誰にも当たらずに地に落ちる物も多くあったが、避けることも防ぐこともせず、ただ逃げるだけの手下達の中には、そんな飛び道具にも当たる運のない人間が何人もいた。

「かかれ!」

 女の号令と共に、咆哮を挙げながら鎧の集団が突っ込んでくる。第一陣として突っ込んできた人数は両手で数えられるほどの少数だったが、彼らと手下達では勢いが違う。

 中でも鎧の女は次元が違った。女が剣を一度振るうたびに、手下の首が一つ飛んでいく。血飛沫の舞う中、剣を振るうその姿は整った美貌と相まって凄絶な魅力を振りまいていた。

 鬼神の歩みを止められる者が、、手下の中にいるはずもない。李恒を含めた全員が必死に逃げながら考えることは、自分だけでもどうにか生き延びること、ただそれだけだった。

 全ての賊が必死に逃げていたが、ここでこの村に来るまでに負っていた怪我の具合が明暗を分けた。李恒を始め、比較的負傷の軽微な者が逃げる集団の先頭を走るようになり、重い怪我を負った者が後列に追いやられる。足の遅い人間を省みるようなことは誰もしない。

 逃げ遅れた手下は鎧の女に首を刎ねられ、あるいはその兵に剣で斬られて命を落としていく。手下達の断末魔が、李恒の足をさらに早くした。逃げなければ殺される。それは呪詛のように李恒の、賊達の心を埋め尽くしていった。

 その呪詛に拍車をかけるように、李恒の耳に轟音を届いた。

 走るペースを緩めないまま振り返ると、今さっき李恒達が通ったその場所に、土煙が立ち込めていた。煙に遮られてその向こうは見えないが、痛みに呻く手下の声と、さらにその向こうに剣戟の音が聞こえる。

 女とその兵は煙の向こうで足を止めたようだが、まだ生きているはずの手下達も追ってこない。敵地の中で走りながら、李恒達は孤立した。

「ちくしょう!」

 腹の底からの咆哮が、夜の空に響く。『土煙』で分断されたことで、李恒についてくる人間は三十人ほどになった。自分についてくる人数が減ることが、まるで自分自身の命が削られていくことを意味しているように感じられ、平静を欠いていた李恒の心はさらに不安定になる。

 とにかく外へ、外へ。田であろうと畑であろうと構わずとにかく一直線に村から出ようと李恒達は走る。

 背後の怒号もいくらか小さくなった頃に、李恒達は村の柵を越えた。ここから先はなだらかな道が暫く続き、一時間ほど道を行くと野営をしていた森がある。

 そこには僅かではあるが食料があり、負傷してはいるが仲間が残っている。

 そこまで逃げれば。李恒達の思いは一つになっていた。身体は当に限界を超えていたが、足が止まることはない。身体の限界を超え、精神の限界を超えても、死にたくないというその本能によって足は動き続けていた。

「いまだ、撃て!」

 降って湧いた女の声に李恒が足を止めなかったのは、奇跡と言って良いだろう。敵襲の気配を感じた手下達のほとんどはその場で足を止めてしまう。一度止まると、限界を超えた身体は動いてはくれない。飛来した矢を成す術もなく受けて、一人、また一人と打ち倒されて行く。

 矢を撃った敵は弓を捨て、武器を持って駆けて来る。矢を受け足を止めた手下達に、それを受け止めるだけの気力は残っていない。槍で剣で背後で手下達がばたばたと討たれて行くのを聞きながら、李恒と生き残った手下は足を止めずに走り続けた。

 その前に十数人の集団が現れた。農民が見よう見まねで武装したような貧相な集団だが、全員がこちらに向けて弓を引いている。

「撃て!」

 集団の先頭に立った男の合図で矢が一斉に放たれた。李恒は咄嗟に剣を抜き放ち矢を払い地面に転がる。それが出来たのは李恒を含めて五人だった。走らされて疲労の極地に達していた手下達は矢を受け、崩れ落ちるように倒れていく。

 眼前の集団から咆哮が上がった。戦う気に満ち溢れた集団が武器を手に勢い込んで駆けてくる。

 若い人間が目立つ。男が多いが女もいた。二十を越えている人間はその中に一人もいないだろう。先頭を駆けている男が頭目のようだった。

 こんな小僧どもに殺されるのか……

 そう思った瞬間、疲れた李恒の身体に力が戻った。これが最期の戦いになる。腹の底から雄叫を上げ、自分を鼓舞した。

 死ぬのは別に、それで良い。

 だが、黙って殺されるのは我慢がならない。ここで死ぬのだとしても一人でも多くの人間を殺す。

 先頭の男を追い越して飛び出してきた少年に、李恒は剣を叩きつける。

 小柄な少年は急停止し、自らの剣で李恒の剣を受けながら地面を転がった。空いたスペースに先頭の男が駆け込み、剣を振るう。

 細身の身体の割りに、良い一撃だ。二合、三合と打ち合う。その隙に少年が起き上がった。一緒にかけてきた他の仲間は、背後の集団を相手にすると決めたようで、李恒の脇を通り過ぎて行く。

 
 相手は子供二人。不満はあるが、相手に不足はない。

 少年が剣を突き込んでくる。男の攻撃よりもずっと鋭い。農村に住んでいる子供が放てるような攻撃ではなかった。李恒の想像を遥かに超える速度のその一撃は、李恒の腹部を浅く裂く。それと共に生命力が失われていくのを感じ、李恒はさらに激昂した。

 雄叫びをあげる。獣のようなその咆哮に、男と少年は思わず足を止めた。それを見逃す李恒ではない。

 剣を振るいながら、身体ごと少年に突っ込む。体重の軽い少年は成す術なく吹っ飛ばされ地面を転がった。

 残された、男の方に向き直る。

 少しは怯えているかと思ったが、男は随分と落ち着いていた。剣を正眼に構え、左足を大きく後ろに下げる構えで、右に左に小刻みに動いている。 

 人と戦うことに慣れているようだ。淀みなく動いているが、随分とお行儀が良い。人を殺したこともないのだろう。剣を持つ腕には固さが見て取れる。

 これならばまだ、少年の方が強いかもしれない。こいつにならば勝てる。李恒はそう確信した。

 大きく吼えて、剣を打ち込む。細身の男に腕力では負けるはずもない。力を込めた攻撃を数度打ち込むと、力負けした男の剣は軽々と弾き飛ばされた。返す刀で首を狙う。殺った――李恒がそう思った瞬間、男は迷いなく地面に身を投げ出した。

 行き場をなくした剣は地面を穿つ。腕に走る衝撃に李恒は顔を顰めた。

 男は地面を転がって距離を取る。その時には吹っ飛ばされた少年も復帰していた。目には怒りの炎が灯っている。吹っ飛ばされたことを根に持っているらしい。男よりも遥かに鋭い動きには、やはり天性の物が感じられる。

 このまま修行を続ければ、きっと一角の剣士になることだろう。その才能が、酷く癪に障った。

 殺すならこの少年だ。ただの人間を殺しても面白くない。何が何でも殺す。刺し違えてでも殺す。

 そんな李恒の前で、少年は口の端を挙げて哂った。こちらを小馬鹿にしたその笑みに、李恒の頭に血が登る。

 李恒が、雄叫びを挙げる。剣を構えた少年は――剣を放り出し、倒れこむようにして地面に伏せた。

 何故――

 そう思った李恒の背中に、鋭い痛みが幾つも走った。口から血がごぽり、と溢れる。痛みを堪えて振り返ると、そこには弓を構えた男の仲間達がいた。李恒の手下は血溜まりの中に横たわり身動ぎもしない。

 弓を構えた連中の先頭いるのは、眼鏡をかけた釣り目の女だった。見るからにいけ好かないその女は、見た目の通りのこちらを見下すような口調で、言った。

「まさか卑怯などとは言いませんよね?」

 腹部に熱が走る。少年の剣が李恒の腹を貫いていた。溜まらず剣を取り落とし、地に膝を落とす。目の前に少年の首がある。最後の力を振り絞り、その首をへし折ろうと手を伸ばすと、少年は剣を残して大きく跳び退った。

「団長!」

 少年の声を受けた男が、剣を持って戻ってくる。男の腕には不相応の一目で名剣と分かるそれを振りかぶり、低く小さな声で呟く。

「悪く思わないでくれよ」

 それが李恒の聞いた最後の言葉だった。

 振り下ろされた男の剣は李恒の鎖骨を裂き、流れ出した血は地面を真っ赤に染めた。薄れていく意識の中、最後の力を振り絞って李恒は顔を上げる。

 自分を殺した男の、今にも泣き出しそうな顔が目に入った。

 流れそうになる涙を必死に堪えて自分を見下ろす男に、李恒は笑みを浮かべる。憎まれ口を叩く力すら残されてはいなかった。口から大きな血の塊が溢れる。
 
 だから、李恒はただ男を見つめ続けることにした。男がこれからの人生、自分の死によって少しでも苛まれるように。目を逸らさずに、ただじっと男の瞳を見つめる。

 喚き散らしてくれれば、溜飲は下がった。そういう醜態を見るがための行動だったが、男が涙を流すことはついになかった。

(つまんねえ人生だった……)

 誰にも聞こえることのない文句を心中で呟きながら、李恒の人生は終わった。



二次創作なのに原作キャラの名前が一回も出てこない……
当初の予定ではこの後に一刀と戯志才の遣り取りが入って事後処理編に突入する予定でしたが、
それでは流石に不味かろうということで話を分けました。
今回が賊視点のお話。賊視点なので一方的にやられています。
次回が一刀達視点の種明かし編です。
よろしくお願いします。







 


 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十話 とある農村での厄介事編⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51






「戦で勝つためにどうすれば良いのか……北郷殿、貴方には分かりますか?」
「敵よりも頭数を揃える」

 戯志才の問いに、一刀は淀みなく答えた。戦については荀家で色々と考えさせられることも多く、軍学についても初歩ではあるがあの荀彧から手ほどきを受けた。

 だから戯志才の問いにも自信を持って答えたのだが、一刀を見る戯志才の目は冷たかった。とても正答を褒めるという雰囲気ではない。

「五十点ですね」
「厳しい採点だなぁ……」
「頭数を揃えることは戦においてまずやらなければならないことの一つですが、それにしても絶対ではありません。それに戦いが数だけで決まるのならば我々軍師は必要ないでしょう。戦において軍師の成すべきことは何か……それは「我々にとって有利な状況を作ること」です」

 村人達にすべきことを伝えていくらか作業を手伝った後、賊と戦う時に村人を率いる役割を担った人間全員が戯志才の指示によって高志の家に集められた。集められたのは作戦を立てた戯志才に程立、それから一刀と旅の軍師単福の四人である。他の村人は老若男女全てが、外で賊と戦うための下準備を行っていた。

「有利な状況?」
「ええ。今回の場合、それを設定することが肝要……いえ、全てです。賊を見た者の証言から見た敵対勢力を二百と想定しますが、これは我々の総数と同程度です。数字だけを見れば拮抗していますが、この中で武器を持って戦えるよう訓練された者はおよそ四分の一。正攻法でやるのならば四倍の数を相手にしなければならない状況です」
「何の柵もなかったら、迷わず逃げ出してる戦力差だね」

 相槌を打つ単福の調子は軽い。この場で最も確かな腕を持つ彼女にとって、二百人の賊など物の数ではないのかもしれない。全てを殺しきることなど出来ないと単福は言うが、自分の身一つ守るだけならば何も問題はないだろう。余裕のある態度はその自信の表れだ。

「ですから、正攻法は徹底的に避けます。寡兵でもって大軍を撃ち破る。軍師の魔法をご覧に入れましょう」
「魔法の一部になれるのは光栄だよ」

 願わくば誰も死なず、怪我もせずに終わらせたいところだ。村人を捨て石にするような作戦を立てるなら是が非でも追い出すつもりでいたが、作業を監督し指示を出す戯志才の態度には信用出来るものを感じていた。

「原則として敵には攻撃をさせません。我々だけが賊が全滅するまで攻撃を続ける。そんな一方的な展開が望ましい」

 戯志才の目が単福に向いた。眼鏡の奥の切れ長の瞳が、男装の麗人を見据える。

「単福殿、貴女が計画の要です。本来はこの役目を北郷殿にやってもらうつもりだったのですが、これにはどう考えても貴女の方が望ましい」
「俺の腕じゃ頼りないか?」

 非難するような口調で問うが、一刀も自分の腕が単福に遠く及ばないのは一度の手合わせで理解していた。作戦の要に必要なのが腕の立つ人間ということならば、自分から単福に切り替えられるのも納得できる話だ。戯志才の決定に不満はない。

 だが、一刀の言葉に戯志才は視線を逸らした。単福はくくっ、と低く笑い声を漏らす。二人とも何か隠している風だった。疑問、というよりも心に不安を覚えた一刀がそれを問いただす前に、この集まりに参加している最後の軍師が、それはですねー、と暢気な声でもって口を開いた。

「お兄さんでは映えないからですねー。お兄さんのお顔も中々整っているとは思いますが、単福さんに比べたら見劣りしますから」
「……もしかして顔で選ばれたってこと?」
「正確には迫力ですねー。実際、お兄さんが凄んでもあまり迫力はなさそーですし」

 本当かと戯志才を見ると、彼女は気まずそうに目を逸らすばかりだった。その反応に程立の言葉が真実であることを否応なしに理解させられた。

 戯志才が普通の人間ならば言い難いことでもズバズバと言う性質なのは一刀も知っている。そんな戯志才が言い淀んでいるというのだから、これは『よっぽどのこと』なのだ。

 戯志才を見た延長で、単福を見やる。暗い室内でも男装の麗人には華があった。見る者がいたら思わず溜息を漏らさずにはいられない、それほどの容姿だ。

 そういう方面でも単福に劣るというのは分かっていたつもりだが……それを女性に明言され、かつ気を使われてその事実を伏せられたという事実は、一刀の心を少しだけ傷つけた。

「貴殿も割りと整った顔をしていると思いますよ」
「気遣いどうも」

 返事も投げやりになってしまう。おそらく、割りと整っているという戯志才の言葉は本心からの物だったのだろうけれども、その気遣いが一刀には痛かった。消沈した一刀を程立が微笑ましく眺める。子供を見守るような母親のようなその顔を、一刀は見ていなかった。

「とにかく、単福殿には堂々とした立ち振る舞いが期待されます。作戦の成否は貴女の振る舞いにかかっていることを肝に銘じておいてください」
「期待以上の働きをするのが僕の流儀だ。まぁ、期待しておいてくれ」
「実に頼もしい。さて、単福殿には高志殿の家にて待機していただきます。供には自警団の中でも年齢の高い者を連れて行くと良いでしょう。自ら打って出る必要はありません。賊が家の中に侵入してきたらそれを殺してください」
「戦闘不能にするだけじゃ駄目なのか?」

 口を挟んだのは一刀だ。現代的な感性を持っている一刀にとって、できることならば殺したくないと考えるのは当たり前のことだ。

 だが、この時代においてその考え方はどうしようもなく甘い。殺さないことをを選択できる権利は圧倒的な強者にしかなく、一刀達はたかが賊を相手にした場合でも、その強者ではないのだった。

 それを良く知っているはずの一刀を、戯志才と単福が見やる。その視線には一刀の甘い発想に対する非難の色が込められていた。

「ごめん、馬鹿なこと言った」
「愚かであるとは思いますが、その発想は大事にして良いと思いますよ? 思うだけならば自由です。そしていつか、貴方が力を手にした時にそれを実行すると良いでしょう」
「無力なうちには理想を持つなって風にも聞こえるけど」
「思うだけならば自由と言いました。実行するのも自由ですが、貴方は人を率いる立場にいるということを忘れないように。世の中の多くの物には取り返しがつきますが、人の命はそうではありませんからね」
「肝に銘じておくよ」

 そのために賊を殺すことにまだ抵抗はあったが、世話になった村人とただの賊を比べたら、大事なのは村人の方だ。賊を生かしておくことで村人の命を危険に晒すのなら、賊は殺すしかない。

 今この場において、それは正しいのだ。一刀はそれを深く心に刻み付けた。

「話を続けます。賊の首は出来ればその場で刈り、外に出た時残りの賊の前に転がしてください。侵入してきた全員の首を刈るかどうかは、単福殿の判断に任せます」
「ただの賊なら、五人くらいまで僕一人で何とかするよ」
「最初に家に押し入ってくるのは精々その程度でしょう。賊は村の中央広場までおびき寄せます。広場沿いの家に人員を割くとすれば、一つの家に押し入れる人数はそれくらいが限界です」
「家に侵入してくるのはそれくらいで良いとしてまだ外に百人ほど残ってる訳だけど、賊を仲間の首でどうにかできるものかい?」
「そこを何とかするのが策です。既に村人に指示を出して、人数分作るようにしているのですが……」

 戯志才が背後の荷袋からそれを取り出す。

 車座になった一刀達の前にいくつかの木片が放り出された。削られた木片に紐が通せるように加工されたそれは、一刀には見覚えのあるものだった。

「木鎧じゃないか」

 木鎧というのは一刀が適当に決めた仮名だが、他に候補もなかったので村人はそれを採用して、木で作られた鎧を指すのに使っている。単福が持っているような金属鎧に比べればないよりマシという程度の防御力しかないが、あるのとないのとでは安心度が段違いだった。

 木を削って身体にあわせなければいけないために、まだ自警団員の数しか作れていないが、いずれは予備を作るつもりでいるので、加工前の木材だけは沢山保存されている。

「それを沢山作るのか?」
「ええ。それらしく見せるためには小道具も必要です。夜闇の中、これを着た人間がずらりと並んでいるのは壮観でしょう? 演出を加えれば、官軍の一団と思わせるには十分な程に」
「ただの村人を官軍に見せるのか」

 戦う時に着用するのならば木の内側の加工が必要だが、それらしく見せるだけならばそれも必要ない。これで炭でも使って目立たないようにすれば、夜闇の中で遠目ならば金属鎧と区別がつかないだろう。

「余裕があれば兜も作るつもりでいますが、それは期待してないでください。太陽の光の中で見れば一目瞭然ですが、夜の闇と単福殿の演出が加わればこれでも話は別です。ただの農民が官軍になれるかが単福殿にかかっている訳です。北郷殿でなく単福殿を採用した理由こと、これで納得していただけましたか?」
「そういうことなら単福でしょうがないな」

 改めて自分で言葉にすると敗北感が生まれたが、横目で見た単福の顔は男の一刀の目から見ても非常に勇ましくてかっこよく、なるほど、映えを基準にするのなら彼女しかいないな、というのが心から理解できた。心から敗北した瞬間でもある。

「怯ませたら、後は攻撃するだけです。小屋の屋根や広場の外に配置した村人、自警団の人員による矢、及び投石で賊の逃げる方向を誘導します。誘導のための攻撃を指揮するのは程立、貴女に任せますよ?」
「大船にのった気持ちでいると良いですねー」

 相変わらず眠そうな程立の返答は、どこか頼りない。ふわふわとしたその態度に一刀は不安になったが、彼女を良く知る戯志才はそんな返答にも目くじらを立てない。慣れたもの、というその雰囲気に、性格の全く異なる二人の絆の強さを感じる一刀だった。

「追い込んだ先には落とし穴を作ってもらっています。大人の男性が飛び込んでもすっぽりと納まってしまうような深い穴です。賊の逃げ遅れた連中をここで足止めしますので、単福殿は自警団の一部を率いて、これを討ってください」
「少ない人数で賊と戦うのって危なくないか?」
「中央広場から落とし穴まで、いくらか距離があります。落とし穴で足止めされているということは、集団の最後列にいたということです。さて、彼らは何故最後列にいるのでしょうか」
「……速く走れない理由があった」
「正解です。賊が満足な支援を受けられるとは思いませんし、二百人もいれば怪我をしている人間も多くいることでしょう。そういう連中は速く走れませんし体力もありません。一方的に討つには十分でしょう」
「賊が丸々残ったら? 形勢逆転で一気にやられるかもしれないぞ」
「落とし穴の蓋には、少しくらいならば耐えられるように細工をします。細工と言っても蓋をする木の下部に切れ込みを入れるだけですが……これも上から土でも被せておけば、必死に走る人間には見えないでしょう。先頭の比較的怪我の軽い奴らを落とし穴の向こうに。平均的な体力の残っている連中を穴に落とし、単福殿が相手にするのは残りです」
「もちろん、穴の底には罠をしかけますよー。落ちた賊は、まず復帰しませんからご安心をー」

 落とし穴くらい一刀だって作ったことがあるが、それで人を殺すという発想を持ったことはなかった。戯志才の指示で今も作業が行われているが、会議に出席する前に見た限りでは、既に一刀の腰くらいにまでの深さになっていた。

 これから夜通し作業を続ければ、穴はもっと広く深くなるだろう。底に罠まで仕掛けるのならば、人くらいは簡単に殺せるように思う。

「本当、よくこんなこと考え付くな……」
「褒め言葉と受け取りましょう。さて、穴を飛び越えた連中ですが、これを迎え撃つのが我々の役目です。北郷殿、貴方には最後の仕上げをしてもらいますよ。私と北郷殿で自警団の残りを率い、これを村の外で迎え撃ちます。まずは時間をおいて弓で攻撃し、それから突撃です。ここに作戦は特にありません。見える敵を片っ端から切り捨ててください」
「最後は力頼みなんだな」
「村の外にも落とし穴が作れれば良いのですが、残念ながらそこまでやる時間はありません。危ない橋を渡って貰うことになりますが、そこは我慢していただくより他はないでしょう。北郷殿が鍛えた自警団の底力に期待させていただきます」
「まぁ、小船に乗ったくらいの気持ちでいてくれると良いよ」

 大船とはどうしても言えなかった。威勢の悪さに程立と単福から非難の篭った視線が向けられるが、賊なんて! と大言壮語を吐くことはできなかった。
 
 自警団員だけならば張れる虚勢も、周囲が軍師だけでは意味がない。

「俺達は待ち伏せしてれば良いのか?」
「広場で騒ぎが起こってから、村を出る賊を先回るように移動します。落とし穴は一つですからそれほど誤差は生まれないでしょうが、微調整は必要です。それは私が指示しますので、北郷殿はそれに従ってください」
「戯志才も仕上げ組に?」
「可笑しいですか? 私が提案した策なのですから、それを見届ける義務があると思うのですが」
「軍師なんだから、付き合わなくても良いと思うけどな」

 軍師と言って思い出すのは、荀家の猫耳少女だ。あの猫耳も怖いくらいに頭が回ったが、剣を持って戦うようなことは断じてしなかった。運動神経そのものはそれほど悪くはない、ということだが(それでも良くはないらしい……)軍師は考えるのが仕事、というのが荀彧のポリシーのようだった。

 一刀もそれで間違っていないと思うが、戯志才は当たり前のように剣を持つという。剣がどうのと言うのならば、単福もそうだ。軍師であるのに剣を持って戦うというのは、一刀の持つ軍師のイメージと合致しない。

 もし義務感だけで言っているのならば、遠慮してほしい。一刀の発言にはそういう意味も含まれていたのだが、一刀の内面を知ってか知らずか、一刀の発言に戯志才は苦笑を浮かべ、首を横に振った。

「剣と弓の腕だけならばそこそこの物である自信があります。少し前まで一緒に旅をしていた仲間が、腕に覚えのある者でしたので、彼女に手ほどきを受けました。賊を一人二人斬るくらいならば、何とかなるでしょう」
「無理をされても困るんだけどな」
「引き際くらいは弁えていますよ。無理と思ったら、他の方に任せて引くことにします」
「まぁ、それなら……」
「僕らも仕事が片付いたら急いで合流するよ。君の腕を信用してない訳じゃないが、仲間は多い方が良いだろう?」
「単福の手を煩わせないよう、頑張ることにするよ」

 何から何まで今日出会った人間に手伝って貰うのは、流石に格好悪い。初の実戦に恐怖がないではないが、やらなければ、という思いは今もなお一刀の心の中で燃えていた。


「作戦はとりあえず以上です。何か質問はありますか?」
「賊が色々な方向から攻めてきた時はどうするんだ? 落とし穴は一つだし、そういう時のことも考えておいた方が良いと思うんだけど……」
「無論、考えてあります。今話した策は敵が全て正面からやってきた場合のものです。他にも考えてありますから、北郷殿には全て頭に叩き込んでもらいますよ?」
「うん、まぁ、お手柔らかに頼む……」

 策が幾つ想定されているのか知らないが、いずれにせよ、全部覚えるのは簡単なことではない。手加減など欠片も考えていない戯志才の怜悧な視線を受けて、一刀はそっと溜息をついた。
















「正面から、全員か……」

 斥候役の村人から情報を受けて、単福は一人ごちた。

 結局、賊は戯志才が想定していた中のこちらが最も与し易い陣形で挑んできたことになる。
賊の血の巡りに期待していた訳ではないが、これほど考えなしだと流石に拍子抜けする。

 だが、今回かかっているのは、自分一人の命だけではない。二百人という『少数』とは言え、他の人間の命を預かる立場にあるのだ。敵が与し易いのならば、それだけ味方のためになる。そう考えることにして、単福は思考を指揮官のそれに切り替えた。

 賊の動向は村の東西南北に配置された斥候役の村人から送られてくる情報で大まかにではあるが掴めている。急ごしらえの斥候ではあるが、賊が来たか来ないか、その数は多いか少ないかの四つだけを符丁で送れるようにしてあるので、素人でも最低限の役割は果たしてくれる。

 何より、ここは彼らの地元で縄張りだ。一人二人が見つからないように行動するだけならば、賊の二枚も三枚も上手を行く。危険だ、と反対した一刀が目を剥くほどの活躍を、斥候はしているのだ。

 戯志才が想定したところに寄れば、賊は途中にある家々を家捜ししながら、中央広場にまでやってくる。めぼしい物がありそうな家、屋敷はこの辺りにしかない。一つ一つを当たるよりは一度に全ての家に電撃的な奇襲をかけた方が成功率は上がる。そのくらいの判断は賊にもつくはずだった。

(個別に来てくれた方が楽ではあるのだけどね……)

 学がないに違いはないが、楽することばかりを考えてもいられない。戯志才の読み通りに賊が行動すると仮定して、単福も思考した。

 今頃、やはり斥候から報告を受けた戯志才と一刀の隊が、賊の退路を断つ形で移動しているはずである。戯志才などは落ち着き払ったものだが、一刀の顔には緊張の色が見て取れた。

 聞けば、初陣であるという。自警団の面々に指示を出す姿は中々堂に入っていたが、緊張した面持ちと僅かに固い動きは、確かに新兵のそれだった。

 新兵が素人の集団とは言え、兵を率いているというも可笑しな話だ。一刀はこの村の人間ではないし、自警団の中には軍属だった者もいる。剣の腕は確かに一刀があの中で一番かもしれないが、全体を見渡し指示を出すだけならば一刀は参謀になり、団長は村出身の戦経験者にやらせた方が上手く行くように思う。

 だが、外から来た一刀は見事に村人の信頼を勝ち取り、自警団を率いている。兵としての錬度はこの規模で一刀が面倒を見たことを考えれば最高に近い状態に仕上がっていた。

 何より目を見張るのは、士気の高さだ。全員が、村を守るという行動のために協力して事に当たっている。元から愛郷心というのはあったろうが、それをさらに強固にし、一刀の元に一つに纏まっている。

 これで錬度と装備さえあれば、賊など物の数ではなかっただろう。彼らに足りなかったのは時間と資金だけだ。賊がやってくるのが後一年遅ければ、戯志才達や自分の補佐などなくとも彼らだけで賊を討てた、そんな気さえするのだ。

 北郷一刀。

 指揮官や指導者として優れた人間であるとは思えない。剣の腕も頭の出来も、悪くはないが凡庸だ。いつだか遠めに見た曹操や孫策のように、見る者を惹き付けてやまない、強烈な人間的魅力がある訳でもない。

 しかし、あの男ならばやれる。他人にそう思わせるだけの何かが、一刀にはあるような気がした。錯覚かもしれないが、話してみるだけの価値はあるように思う。

 完成された存在よりも、未完成な人間を見る方が面白い。仕えるのならば、手伝うのならばそういう人間でなくては、知識も冴えも見せ甲斐がないではないか。

 これが終わったら、話をしてみよう。彼の価値は何処にあるのか、非常に興味がある。


 かたり、と戸が揺れた。単福の部下に割り当てられた自警団員は、屋敷の奥で息を潜めている。何かあれば賊に対応できる。そんな距離にいるのは単福一人だった。光が当たらぬよう、戸からは離れた位置に黒ずんだ布をかぶって床に伏せている。

 鎧は身に着けている。下手に動くと音が立ち、賊に感づかれるだろう。

 動く時は、一瞬で片を付ける。一人、二人……三人が屋敷の中に足を踏み入れた。後続がある様子はない。この屋敷にやってきたのは、三人、それで全員である。

 それを見定めた瞬間、単福は動いた。地を這うように疾走し、抜き身の剣を切り上げる。暗闇から、一瞬の銀光が走る。剣は狙い違わず、賊の首を跳ね上げた。首が飛び、血飛沫が舞う。首を刎ねられた賊が、自分の死を自覚するよりも速く単福は動く。

 異変が起こった。仲間が死んだその時に、残りの賊が感じ取ったのはその程度だ。危機感よりも単純に、心に浮かんだ違和感を解消するためにゆっくりと振り向く賊の背に、剣を突き立てる。

 十分な加速の乗った剣は肉と骨を断ち、賊の身体を貫通した。賊の命を奪った自分の剣をそのままに、賊の持っていた剣を奪い取る。

 最後の賊は、ようやく敵対する者が屋敷の中にいることに気づいた。血を被った黒い布に覆われた単福の姿を見て、悲鳴を挙げる――それよりも早く、単福の右手が閃いた。放たれた短刀が賊の喉を貫く。口から漏れたのは、乾いた空気の音だけ。

「やれやれ……」

 誰に愚痴るともなく、単福はゆらり、と床を滑るように走り、大上段から剣を振り下ろした。愛剣に比べると切れ味は物凄く悪かったが、剣は剣だ。単福の腕によって凶器となったそれは賊の身体を斜めに切り裂き、血の雨を降らせた。

「これで第一段階は終了だね」

 血の雨を浴びないよう、布できっちりとガードしながら賊の死体を改める。出来ることならば鎧を引っぺがしておきたかったが、そこまでやる時間はない。持っていた剣を奪い、待機している自警団員に放る。

 残りの死体も調べたが、使えそうなのは一人一本持っていた手入れのなっていない剣と、やはり手入れのされていない短刀が四本だけだった。

 戦果としては寂しい限りだが、この村においては武器はそれだけで貴重品である。有事であるならば尚更だ。

 奪い取った武器を配分する。軍経験者だけあって、死体を見ても顔色一つ変えない。渡された武器の具合を確める様は、農業で鍛えられた身体も相まって死体になった賊よりもよほど賊に見える。

 それを官軍に見せろというのだから、戯志才も無茶を言う。自分一人の演技だけで果たして二百人の賊が騙されてくれるのか……

「徐元直、一世一代の大芝居だ」

 騙されてくれなければ乱戦になる。そうなれば外にいる一刀達は間に合わず、村人達の多くが死ぬ。そんな過酷なプレッシャーなど物ともせず、刈り取った賊の首を抱え、単福は屋敷の戸を潜った。

 夜の空の下、広場を埋め尽くすように賊が並んでいる。ゆっくりと、威厳を感じさせるような仕草でもって、数を確認する。多いが、二百はいない。精々百五十、その程度だろう。薄汚れた人間が目立ち、明らかに怪我をしているような連中までいる。

 状態としては下の上といったところだが、これだけ数が多いと威圧感がある。正面から相対していたら、村の戦力では確かに相手にするのは厳しかっただろう。戯志才の策、様々だ。

 来訪を予期して策を弄し、罠まで張った。ここで更に駄目押す。

 抱えていた三つの首を放った。賊に動揺が広がるが、恐慌を起こすには至らない。頭らしき男の合図で賊が単福を包囲するようにゆっくりと動く。仲間三人を殺されたというのに、対処は実に慎重……悪く言えば臆病だ。ここで一気に押し包むように攻撃してくれば、自分の首くらいは取れたかもしれないのに、彼らはその機を逃した。

 戦況が徐々に自分に傾いていくのを感じながら、単福は芝居がかった仕草で腕を持ち上げ、指を打ち鳴らした。

 乾いた音が夜の済んだ空気の中、遠く、深く響く。

 それは村人達に対する、出て来いという合図だった。単福の指示を受け広場の外から木鎧で身を固めた村人達が続々と現れる。今度こそ、賊の中に動揺が広がった。彼らから見れば地面から湧いて出たように見えたことだろう。


 実際には建物の影になるような位置に穴を掘り隠れていただけだが、賊がそれを知ることは永久にない。自分たちを包囲しているのは、精強無比な官軍だ。そう誤解したまま、彼らは死んでいくのだ。

「賊軍が、まんまと罠にかかってくれたな」

 自分達が負けることなど、微塵も考えていない。そんな風を装って声を挙げる。たとえそれが見かけだけの物であっても、自信に満ちた指揮官は指揮される人間に安心感を与える。今晩のように、素人ばかりの時はその効果も顕著だ。戦闘訓練すら受けていない、官軍に化けた村人達の発する気配は、明らかに賊を圧倒していた。

 後、一押し。それだけで勝負の大勢は決する。だが――

「撤収!」

 賊の頭は半端に頭が回った。頭領が行った撤退宣言に、自分が生き延びることしか頭にない賊達はわれ先にと逃げ出していく。

 見切りが早い。撤退の手際の良さに、単福は焦りのうめき声を与える。逃げて二度とやってこないのであればそれで良いが、食い詰めた賊が行く場所はもうこの村しかない。村のことを考えるのならば、彼らはここで皆殺しにしておく必要がある。

 逃げる人間を追って殺すのは容易いが、散って逃げられると全てを殺すのは難しい。包囲が完成していない今では、本当に逃げられる可能性がある。

 かかれ! と村人をけしかける言葉を単福が躊躇っていた、その時、賊に矢が降り注いだ。程立指揮による、自警団員の射撃である。広場周辺の屋根に配置された射撃の得意な者による攻撃は、的確に逃げる賊を撃ち倒していく。

 矢による攻撃は、賊軍を誘導する。まさに天の助けである矢の雨に感謝を捧げながら、単福は吼えた。

「かかれ!」

 今か今かと待っていた村人達は、単福の号令に合わせて雄叫びを挙げた。地を揺るがすような咆哮を放っているのは、大多数が戦うことの出来ない村人だ。数を誤魔化すために配置された彼らにも、戦える人間が沢山いると賊に誤解させるという重要な役割があった。
 
 事実、咆哮を背に聞きながら賊は尻尾を巻いて逃げていく。あの声がただの農民の物であるとは微塵も気づいていない様子だ。

 戦う意思のない逃げるだけの賊の背に、単福は容赦なく刃を浴びせる。湯水のように血を吹きながら倒れる賊を踏み越え、次の獲物を求めては刃を振るった。単福についてきた自警団員も次々に賊を打ち倒していく。

 逃げるのに手一杯で、反撃してくる賊は一人もいない。咆哮はまだ断続的に聞こえ、程立隊の矢や投石も降り注いでいる。足を止めたら殺されるという恐怖もあるだろう。振り返ってこちらを見る賊の顔には、色濃い負の感情が張り付いている。

 そんな恐怖を浮かべた賊の首を、次々に刎ねていく。起き上がって反撃してこないよう、一撃で殺すための処置だが、手入れを欠かしたことのない名剣でも、流石に切れ味が鈍ってきた。

 十人目の首の半ばで受け止められたことで、単福はその剣を手放し、賊の剣を奪ってその持ち主を刺し貫いた。賊の死体はそこかしこに転がっている。切れ味は悪いが、武器の調達には困らない。手近に転がっていた剣を二本蹴り上げ、両手で構える。

 手近に見える賊を片っ端から斬っていたせいで、集団との距離は少し開いてしまった。広場から遠のいてしまったことで、程立の弓矢からも距離を離すことに成功している。矢の届かなくなった程立隊は急いで小屋から飛び降り隊伍を組んでいる最中だった。

 彼らに準備が出来次第後を追うように告げると、単福は駆け出す。自警団員は遅れることなく単福に着いてきた。単福よりも一回りは上の世代ばかりだが、息は切らせながらも音は上げない。単福にとっても実に頼もしい仲間だ。

「良く鍛えられてるね。正直、驚いたよ」
「団長の方針で毎日走っておりますからなぁ、体力には聊かの自信がございます」
「農作業の後にかい? 疲れるだろう、良くそんな指示に従ってるね」
「最初はこの若造殴りとばしてくれようかと思いました。ただ身体を鍛えるために走るなど軍にいた時以来でしたからな。ですが、これは必要なこと、と熱心に説かれる団長を見ているとやってみようかという気分になるのですよ」
「信頼してるんだね、北郷殿のこと」
「甘い所はありますが、良い青年です。従って戦うに足る御仁ですよ」
「ならその御仁に、僕も良いところ見せないとね!」

 走りながら、一番後ろを走る賊に剣を投げつける。剣は賊の足に当たり、足を縺れさせた賊はその場に転倒する。

 転んでうめき声を上げる賊を、単福は無視して通り過ぎる。転んだ賊は疲労と怪我で、もう立ち上がることも出来ない。それにトドメを刺すのは、後から合流する程立隊がやってくれるだろう。今すべきは、少しでも戦闘可能な賊の数を減らすことだ。

 走るペースは落とさぬまま、単福は賊の走る方角を見やった。

 賊の進行路は怖いくらいに戯志才の読みと合致している。彼女の読みでは賊の数はもう少し多かったが、少ない分には問題はない。単福は無言で手を挙げると、着いて来る自警団員に速度を落とすように指示を出した。

 大雑把な手順しか頭に入れていない彼らにも、そろそろ決行場所だというのはそれで理解できた。単福達の移動速度が速足くらいになって暫くした頃、賊の集団の中ほどから大きな悲鳴があがった。

 次いで、夜の闇の中でも分かる白い土煙があがる。

 これこそ、今回の作戦で最も時間を割いた落とし穴だ。最終的な規模は戯志才が予定した物よりもさらに大きく深くなり、底には木を削って作った槍や棘が無数に配置されている。集団で走っていた賊は成す術もなくあの穴に落ちたことだろう。

 穴に落ちた集団の直ぐ後ろを走っていた面々は、立ち込める白い煙と仲間の断末魔、そして運悪く生き残ってしまった仲間の呻き声に蹈鞴を踏んでいる。

 そして、怪我と疲労が。足を止めてしまった体力のない負傷している賊は、目の前の現実に膝を屈し、次々と崩れ落ちていった。

「追い詰めたぞ、賊どもめ」

 単福が追いついても、賊達はそこにいた。死人のような顔つきをした彼らに、もう戦うだけの力は残っていない。血糊のついた剣を見ても後退る体力すら残っていないようだ。

 だが、死に対する恐怖だけは残っているようで、単福を見る視線には、いまだ色濃い恐怖が張り付いている。どうすれば生き残ることができるのか、血の巡りの悪くなった頭で必死に考えているのが、単福には手に見て取れた。

 賊達を前に、単福は大きく溜息をつき、片腕を上げた。賊は何事かと、掲げられた腕に視線を集めさせる。

 そして、腕が振り下ろされた。

 単福の背後から矢が打ち出される。放ったのは合流した程立の部隊だった。彼らが放った矢は地に蹲った賊を次々に貫いていった。即死する者もいれば、喉に矢を受けて生き残ってしまった物もいる。最後の力を振り絞って命乞いをする賊もいたが、その声が届いても矢の雨はやまなかった。

 一頻り矢を撃ち終わるのを待ち、単福は賊に歩み寄った。最初からついてきた自警団員も、程立隊の面々も途中で拾った剣を持って後に続いている。賊は既に息絶えている者がほとんどだったが、落とし穴の淵にまだ一人、息のある男がいた。

「なぜ……」
「君達が賊だから、と答えよう。君たちが善良な流浪民だったら、また違った道もあったのだろうけどね。残念ながら君達は僕達から奪うためにこの村を訪れ、僕達はそれに抵抗し君達の命を奪うに至った。筋道は通っているだろう? 疑問が解決したのなら、安心して逝きたまえ」

 短刀が賊の喉を深く裂く。それで賊は絶命した。

「落とし穴に落ちた連中にトドメを指したら、逃げた連中を追うよ。可能性は低いけど分散して逃げた賊が反撃に出てくるかもしれないから、何人かはここに置いていく。程立!」
「はいはい、なんですかー」
「隊の半分を借り受ける。残りの半分は君が指揮して周囲の警戒に当たってくれ」
「要するに打ち合わせの通りってことですねー」
「まぁ、そういうことだね。全く、君達の策は怖いくらいに上手く行く」
「まだ完結した訳ではありませんよ? 最後の仕上げは、お兄さん達にかかってますから」
「なら僕はその仕上げを特等席で見るとするよ。落とし穴はどうだ!?」
「大丈夫です。穴の下の方までは見えませんが、見えるとこにいる奴は皆息がありません」
「ならばよし。皆、疲れてるところ悪いけど、もう一働きしてもらうよ。我らが団長殿を助けに行こうじゃないか」

 単福の提案に、村人達は夜空に吼えることで答えた。

 この声は、一刀達にも聞こえているだろうか?
 











「どうやら始まったようですね」

 村の方角から咆哮が上がったのを聞いて、戯志才が呟く。夜間でも目立たぬよう暗色の布を被っての移動中だ。賊の相当数が正面からやってきたというのは、一刀達も目視で確認していたが、それが現状の全軍であることは斥候役の村人から報告を受けていた。

 一番与し易いルートできてくれた、ということである。

 最初から一つの集団であるのなら、程立と単福ならば上手く誘導してくれることだろう。一刀は村での作戦が成功するかどうかの心配をすっぱりと止めた。自分が成功できるか、の方が遥かに心を悩ませる課題なのだ。

「第一案で作戦を決行します。内容は覚えていますか?」
「戯志才の隊が村に近い方で展開。最初に矢で攻撃した後に、進路を塞ぐように展開した俺の隊が矢で攻撃。それでも賊が動いているようだったら直接応戦。戯志才の隊と挟撃する」
「よろしい。では、予定通りに」
「戯志才も気をつけて」

 励ましには無言で手を振ることで応えた戯志才は、隊を率いて配置についた。待機する場所は戯志才が決めるため、一刀達の移動は戯志才の配置が完了してからだ。歩幅で大雑把な距離を測りながら、戯志才に事前に指示された間隔を開けて、一刀達も配置につく。

「いよいよですね団長」

 当然のように一刀隊になった子義が、装備の点検をしながら小声で囁く。剣の数が足りないため、ほとんどの隊員の武器が木刀や石器時代のような槍なのに対し、子義だけは真剣を持ち弓も本格的な拵えの物を使っていた。

 年齢こそ一番若いが、自警団の中で子義が実力者であるのは疑いようのない事実だ。武器は優先的に回されているのもそういう理由である。弓は鳥や獣を狩りに行くこともある村の老人から借り受けた猟師用の弓だ。剣以上に弓に才能があることに気づいたのは極最近のことだが、子義の腕があれば夜の闇の中でも、人の額くらいは確実に射抜くだろう。
 
 弦の具合を確める子義の目は、興奮で爛々と輝いていた。

「子義はさ、人を殺すのに抵抗とかない?」
「人じゃなくて賊ですよ、団長。殺さないと盗られたり殺されたりするなら殺すしかないじゃありませんか」

 抵抗はない、そんな顔だった。他の団員を見ると聞くともなしに話を聞いていた者は皆、子義と同じような顔をしている。

 誰も自分の考えには共感してくれない。ここでは北郷一刀ただ一人が異端なようだった。

 やるしかないと頭では解っていても、どうしたって抵抗はある。現代日本で生まれた者としてはきっと正しい感性なのだろう。こんな世界に放りだされて尚、この感性を持ち続けていられたことは幸福なことなのだと思う。

 生きるために命を削らなくても良い。あの国は本当、どこまで平和だったのか。

「そうだな、可笑しなことを言った」
「不安なんですか? 大丈夫ですよ。団長のことは俺が守りますから」
「子義には期待してるよ。でもほどほどにな。お前、お馬鹿さんなんだから」
「真顔で言わないでくださいよ……」

 ははは、と周囲の団員達から小さな笑い声があがる。自警団の中でも最年少の子義は、皆から愛されているのだ。全員から馬鹿と言われたようで子義は不貞腐れてそっぽを向いたが、戯志才隊から合図があったことで、表情を引き締めた。

 全員が弓を持ち、矢を番える。

 獣のように息を殺し、待つこと数分。村の方から足音が聞こえてきた。不規則で大きなそれは相当に余裕がないことを伺わせる。策は上手く行っているようだ。戯志才隊からは、このまま予定通りに、という最後の合図が送られてきた。

 後は、戯志才隊のタイミングに合わせて、こちらも動くだけ。

 矢を持つ手に緊張が走る。弓の腕はそれほどでもないが、真っ直ぐに飛ばすくらいは一刀にもできる。矢が当たれば、人は死ぬだろう。自分の撃った矢で人を殺す光景を想像して、ぶるりと震えた。

 吐きそうになるのを、ぐっと堪える。やるしかない、やらなければいけない……

「いまだ、撃て!」

 戯志才の声が聞こえた。命令に従い、団員達が矢を放つ。村から走ってきた多くの賊が矢によって倒れたが、それでも全員ではない。速度を緩めずに走ってきた賊に、今度攻撃するのは一刀達の隊だ。

 遠目に先頭を走っている男の顔が見えた瞬間、一刀の覚悟は固まった。

「用意――」

 一刀の言葉に従い、全員が弦を引く。ぎりぎりと弦が音を立てるのを聞きながら、賊を十分に引き付け――

「撃て!」

 号令一過、一刀隊全員が矢を放つ。いや、子義一人だけは号令を無視して、矢を放たずにいた。一刀達の矢が賊に命中する。中には剣で矢を払うような者もいたが、放たれた矢のほとんどは賊の身体に命中した。

 子義が矢を放ったのは、全ての矢がどうなったのかを見届けてからだった。その矢は一筋の光のように伸び、一人の賊の額を貫く。即死だったのだろう。額から血を噴出した賊は、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 自分が生み出した成果を見て、子義は手を叩いて喝采を挙げた。相当数が矢で倒れたがまだ動いている賊はおり、そのうち何人かはこちらに向かって駆けている。戦いはまだ続いているのだ。

 そして、もう一度一斉射撃をするような余裕はない。

「いくぞ。皆、油断するなよ」

 それだけを仲間に告げると、一刀は駆け出した。全員がそれに追従する。一人で喜んでいた子義が僅かに出遅れたが、この中で一番足が速いのも子義だ。あっという間に一刀を追い越し先頭になる。

 だが、そこで想定外のことが起きた。

 最後の力でも振り絞ったのか、賊の一人が機敏な動きを見せたのだ。斬りかかるよりも先に踏み込んできた賊の力任せの一撃を、子義は身体を地面に投げ出すことで避けた。後転して距離を取る子義を横目に見ながら、子義が追撃されないよう身体ごと割り込んで賊の剣を受ける。

 子義以外の仲間は切り結ぶ一刀には目もくれず、他の賊に襲い掛かった。彼らは『戦う時は必ず相手よりも多い人数で』という教えを律儀に守り、負傷して動きの悪い賊であっても、一人を相手に二、三人で剣を交えていた。

 数の利は既にこちらにあった。この場面を切り抜ければ勝利は目前である。一刀の剣にも力が篭るが、眼前の賊は聊か一刀の手に余った。荀家の侯忠ほど強い訳ではないが、自分よりは明らかに場数を踏み、剣の腕も上であると感じられたのだ。

 一人では勝てない。早い段階で理解できたのは、訓練の賜物だろう。

 数合切り結んで不利を悟った頃、転がった子義がすっ飛んで戻ってきた。一刀が賊の剣を受けたタイミングを見計らって、賊に剣を突きこむ。鋭く、速い突きだ。これだけを見たら一角の剣士に見えなくもないが、攻めのパターンが単調という欠点はまだ直っていない。

 長丁場になれば必ずボロが出る。自分が気づいたようなことを、修羅場を潜った賊が気づかないとも思えない。

 どうやって賊を倒すか、考えを巡らせた瞬間、その賊が雄叫びを挙げた。あまりの声の大きさに反射的に動きが止まる。一刀も、子義もだ。それを見逃す賊ではなかった。

 賊は子義に身体ごと突っ込んだ。軽い子義は成す術もなく吹っ飛ばされる。ギロリ、とこちらを睨む目は飢えた獣のそれだった。男の剣に、さらに力が乗る。一つ受ける度に大きな痺れが走った。腕力の差は歴然だ。気を抜けば腕ごと剣を持っていかれそうな攻撃は、止む気配がない。

 せめて子義が復帰するまで。そう思って必死に剣を受けたが七合が限界だった。高々と剣を跳ね上げた賊は、返す刀で首を狙ってくる。慌てて一刀は倒れこむようにして身を投げた。

 土を味わう羽目になったが、力任せに振りぬかれた剣は近くの地面を穿つに終わった。腕も首もまだ繋がっている。死んではいない。子義の戻ってくる気配を感じた一刀は、そのまま地面を転がって賊から距離を取った。

 吹っ飛ばされたことを根に持っているらしい子義は、猛然と賊に攻め込んだ。いつもの五割増しくらいの速度で攻め続けているが、パターンはいつもと変わっていない。男は後手に回っているが、子義の剣を受けることには成功し続けている。

 次に何処に来ると確信が持てている訳ではないのだろう。男が子義の剣を受けられるのは、きっと経験に寄るところが大きいはずだ。荒削りの天性だけで修羅場を潜った人間を押し込めるほど、剣に関して子義の才と錬度は高くない。

 どうやって子義を援護するか、そう思案している途中に賊の背後に動く影を見た。子義もそれに気づいたようで、こちらに向けて足で合図をする。タイミングを合わせる。そう言っているのだと理解した一刀は、『あちら』に向けて構わずやれ、というサインを送った。

 次の瞬間、 子義が賊の身体を盾にするように伏せた。それと同時に、戯志才達が一斉に矢を放つ。的は子義と切り結んでいた賊ただ一人。戦うことに夢中になっていた賊は、背後の気配に気づくことは出来なかった。

「まさか卑怯などとは言いませんよね?」

 口の端をあげて笑う様は、さながら悪の大幹部だ。

 賊よりも悪役らしく戯志才が微笑むのを他所に、子義は自分の役目を真っ当していた。無言で剣を拾い上げると、躊躇いなく、男の腹部にそれを突き込む。賊が吐血する。まだ死なない。

 首に伸ばされた腕を払いのけ、子義が後退する。

「団長!」

 その声は、どこか遠くに聞こえた。背に矢を受け腹に剣を生やした賊は、ついに膝を突いた。手から剣が零れ落ちるのを見て、安堵する。生き残ることが出来た……ならば、これからこの男を殺そう。

「悪く思わないでくれよ」

 これが、務めなのだ。

 そんな言い訳を思い浮かべることもないまま振り下ろされた剣は、易々と男の首を刎ね飛ばした。











「ご無事ですか、北郷殿」

 呆然としていたら、いつの間にか時間が流れていた。戦場だった場所は慌しく動き回る自警団員で溢れている。彼らは賊の死体から鎧や武器を引っぺがし、不要になった死体を一つ所に集めている最中だった。

 それは弔おうとしての行いではない。死体は疫病などの原因になるから、埋めるか焼くかするしかないのだ。日が高ければ直ぐにでも穴掘りを始めていたのだろうが時刻は深夜だ。最低限の作業だけを今のうちに行い、穴を掘って埋めるのは日が昇ってからに行う。

 これは事前に決められていたことで、自警団員には一刀が伝えたことだ。自分がぼ~っと突っ立っているだけで作業の邪魔にしかなっていないことに今更気づいた一刀は、慌てて後退り戯志才から距離を取った。

 意味のない奇怪な行動に、戯志才は不快そうに眉を顰める。機嫌のバロメータがマイナス方向に傾くのを感じた一刀は、あー、とかうーなど、やはり意味のない単語を数言呟いた後に、

「ごめんなさい……」

 と、素直に頭を下げた。

「……開口一番がそれというのは、空しくありませんか?」
「言って早々後悔してるよ。柄じゃないのかな、こういうの……」
「肌に合おうとそうでなからろうと、大将には相応の振る舞いというものがあります。気を抜いて良い時を見誤っては、示しがつきませんよ?」
「良く覚えておくよ。それで、どうだった?」

 周囲を見るに、既に村へ一人か二人は人をやっているはずだ。単福の姿が見えないが、村に残っていたはずの人間の姿もちらほらと見える。

「上出来と言えば上出来です。怪我人は村とこちら合わせて多数出たようではありますが、全員命に別状はありません。賊は殲滅……出来たかどうかは知りませんが、目に見える範囲にいる賊は全て討ち取りました。結果だけを見れば大勝利と言えるでしょう」
「不満のありそうな物言いだな」
「怪我人が出た、というのがよろしくありません。賊の規模、錬度、負傷の具合を考えれば本当に一方的に勝負を決めることも出来たはずです」
「完璧主義なんだな、戯志才は」
「振り返ってみればできなくもなかった。そう思うと悔しいではありませんか。次に同じ状況が巡ってきた時には完璧に遂行できるよう、何がいけなかったのかを検討するのは軍師として当たり前のことです」
「問題点が解ったら是非教えてくれよ」
「当然です。団長である貴方が知らないでどうしますか」

 まるで教師の物言いだ。これは当分逃がしてくれそうにないな、と一刀は誰にともなく苦笑を浮かべた。戯志才は澄ました様子で周囲の自警団員に指示を出している。賊が使っていた武器防具の他に、自分たちが撃った矢も可能な限り回収していた。


 人体に刺さった矢は使い物にならなくなっている物が多いが、当たらずに地面に落ちた物もいくらかある。正規軍が見たら笑ってしまうような粗末な造りだが、村の財政状況を考えると矢の一本も無駄には出来ないのだ。

(弓の命中精度が次の課題だな……)

 待ち伏せしてしっかり狙い、それでも当たらなかった矢があるというのは、改善すべき点である。問題は指導する方法だ。弓の手ほどきは荀家で受けたが、剣や体術ほど熱心に学んだ訳ではない。基礎の基礎くらいは教えることができるものの、そこから先は我流でやってもらうより他はない。

「戯志才、弓を教えたりできるか?」
「正規軍の調練方法は把握しています。私自身の腕は大した物ではありませんが、素人が見よう見真似でやるよりはマシでしょう。弓の調練場も見たことがありますから、小規模なそれを再現するくらいはこの村でも可能なはずです。それが完成すれば、今よりずっとまともな調練が出来ますよ」
「それは助かるけど……それまでこの村に残ってくれるのか? 俺ももう暫く残るつもりでいるけど、戯志才は旅の途中なんだろう?」
「急ぎの旅ではありませんからね。それに乗りかかった船です。形になるまで面倒を見るくらいはしますよ」
「正直、ちょっと意外だ」
「貴女が私を冷血を思っていた、というのは理解しました」
「そうじゃない。戯志才には凄く感謝してる。戯志才がいなかったら、俺達はずっと大きな犠牲を出してた。いくら感謝してもしたりないよ」
「気持ちだけ受け取っておきましょう。私も程立も当然の仕事をしたまでです」

 報酬を要求しても良い働きをしたのに、戯志才の態度は素っ気無い。それが何となく一刀の悪戯心に火をつけた。困っている顔が見てみたいと思ったのだ。

「とにかく、俺は感謝してる。ありがとう、戯志才」

 そう言って、有無を言わさず戯志才を抱きしめた。抱くというにはあまりに力の篭っていない、軽いスキンシップのようなもので、厭らしい気持ちなど欠片も持たずにそれを行った。

 それで慌てるなり怒るなりしてくれれば、それで良かった。殴られて謝る羽目になったとしても全然後悔はしなかっただろう。それで何か、戯志才が大きな反応を返してくれれば、一刀は満足だった。

 だが、戯志才の反応は一刀の予想の斜め上を行っていた。

 まず、抱きしめても反応がない。緊張で強張っているというのでもなかった。身動ぎ一つしないのである。

 まさか気絶でもしているのかと顔を覗きこんだが、目は開いていて呼吸もしている。意識もはっきりしているようだ。

 間近にいても聞き取れないようなことを、真っ赤な顔でぶつぶつと呟いている戯志才を見て、これは失敗したかな、と一刀が少しだけ後悔をし始めた時、視界が真っ赤に染まった。

 ぶぱっ、と耳に残る鮮明な音を立てて、戯志才が大量の鼻血を噴出したのだ。当然、正面にいた一刀はそれを頭から被ることになったのだが、何が起きたのか理解の追いついていなかった一刀にとって、自分が血塗れになることなど些細な問題だった。

 支えようとする一刀の腕を逃れるように、戯志才の体はゆっくりと後ろに倒れていく。止まらない鼻血は弧を描き、月と星の光の中で鈍く輝いていた。

 戯志才が倒れたのは、作業をしていた自警団員全ての目に留まった。誰もが鼻血を流して倒れている戯志才という事実を理解できなかったが、十秒、二十秒と時間が経つにつれて、慌しく動き出した。

「軍師殿が倒れたぞ!」
「団長も血塗れだ!」
「誰か、村長呼んでこい! 大至急!!」

 倒れ付す戯志才は、年頃の女性がしてはいけないような間抜けな顔をしてぴくぴくと痙攣していた。

 悪戯心から手を出した行動が正しかったのか、間違っていたのか……戯志才の何とも言えない姿を前に、一刀が答えを出すことは出来なかった。

 






今までよりも大分長くなってしまいましたが、これで戦闘編は終了です。
次回の事後処理編を経て、次の連合軍編に移ります。
村での出来事にもう少しお付き合いください。









 
 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十一話 とある農村での厄介事編⑥
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:57

 
 死体を埋める穴を掘る作業は、思っていた以上に憂鬱な作業だった。


 まず、現代ほどに道具が充実してはいない。人数分のスコップがあれば簡単に終わる作業で
も原始的な道具ばかりでは思うように作業も進まない。慣れない道具で時間がかかれば余分に
疲れ、身体も痛みを訴えてくる。


 決して鍛錬をサボっていた訳ではないが、この重労働は徹夜明けの身体に堪えた。


 次に、やはり死体はグロいし臭い。


 現代日本で死体と言えば、綺麗な死体が普通だ。一刀も葬式の時の清められた死体しか見た
ことはない。


 だが、この世界の死体はどれも綺麗とは言い難い。木刀で頭をかち割られた死体がある。身
体中に矢を受けた死体もあれば、剣で首を断たれた死体もある。どれにも正視に耐えない気色
悪さがあった。


 殺し合いに参加したことで死体に耐性ができたのだと勝手に思っていた。死体を埋めるくら
い命を賭けて戦うことに比べたら何ということはない。そう思っていたのだが、明るくなって
から改めてみた死体は一刀の想像以上のものだった。


 だから今現在、一刀の胃の中身は空である。


 一方、吐く一刀を他所に子義をはじめとした自警団のメンバーは平気で死体に触れていた。
聞けば死体を埋める作業をするのも始めてではないらしい。


 自分よりも年下の子供が平気でいるのに、自分だけ吐いていては格好悪い。


 そう思った一刀は一層気を引き締めて作業に望んだが、腹の中には何もない。気を引き締め
たところで、死体がグロいことに変わりはない。黙々と穴を掘る作業と相まって、一刀の心は
沈んでいくばかりだった。


「団長、もういいぜ」


 村から死体を運んできた村人の声で。一刀は作業を作業を止めた。無我夢中で掘っていた穴
は、何時の間にか人一人が横になれるだけの広さになっている。のっそりとした動きで場所を
空けると、村人は無造作に穴の中に死体を放り込み、村へ帰っていく。


 もっこを担いだ彼らは、村からここまで死体を運んでくる役割だ。一刀他数名は穴を掘って
死体を埋める係である。これは、戯志才によって決められた役割分担だ。


 小さくなっていく村人の背中を見るとはなしに見ながら、一刀は死体に土を被せていく。死
体の胸には一文字に大きな傷が走っている。鋭利な刃物で斬られた傷。単福が斬った賊だろう。


 傷は生々しいが、それほど苦しんだ様子がないことから、比較的楽に死ねたのだと解る。


 これが落とし穴に落ち、かつ即死しなかった死体であると始末が悪い。身体の欠損もそうだ
が、彼らは苦しみながら死んだため、夢にまで出てきそうな苦悶の表情を浮かべているのだ。


 そういう死体に比べれば、ただ斬られただけの死体など綺麗なものだ。そういう風に割り切
れるようになった自分を、少し怖く思う一刀である。


「団長、そろそろ休憩にしませんか?」


 一刀の気分が限界に近付いて来た頃、作業に区切りのついた子義が声をかけてきた。穴掘り
作業を割り振られたのは、自警団の中でも若い連中である。


 夜明けを待ってから、単福が中心となって村の周囲を警戒し、それは今も続けられているが、
賊の生き残りが戻ってくる可能性もゼロではない。戻ってきた時、対応できる人間が近くにい
ないと、出さなくても良い犠牲を出すことになる。


 戯志才のそういう判断により、村の外で作業する者には、比較的腕っ節の強い人間が割り振
られた。よく言えば選抜メンバーである。指揮は一刀。従うのは、昨晩も共に戦ったメンバー
だ。子義を始め全員が、一刀に気安く接してくれる。部下というよりも子分のような雰囲気で
あるが、一刀にとっては背中を預けて戦った、頼りになる仲間たちだ。


「そうだな。昼飯にしようか」


 一刀の宣言に、団員達から歓声があがった。小躍りしながら穴掘り道具を放り出し、てきぱ
きと昼食の準備を始める。一刀は作業に区切りをつけると、既に運ばれ野ざらしになっている
死体に覆いをかけた。死体を見ながら食事をする神経は、まだ一刀にはない。


 食事は直ぐに始まった。一刀は車座になって座る一同の中に足を投げ出して座り、前身の力
を抜いた。ふっ、と遠くなる意識を首を振って繋ぎ止める。気を抜くと眠ってしまいそうだ。


「団長、どうぞ」


 子義が水筒を回してくる。口の開いたそれに口を付け、喉に一気に水を流し込んだ。温く、
少し土の味のする水が、何だかやけに美味い。


「始めた時はどれくらいかかるのかと思いましたけど、これなら今日中には終わりそうですね」
「穴掘りに人を割いてくれて助かったよ。その分俺達が疲れるけど、明日から死体を見なくて
済むなら安いもんだし」


 一刀の言葉に、団員達もそろって安堵の溜息を吐く。


 医者に簡単にかかることの出来ないこの時代では、疫病などの元になる死体を片付けるのは
最優先の仕事だが、同時に落とし穴を埋めなおしたり、荒れた田畑を修繕したり、村の周囲の
警戒を続けたりと、しなければならないことは多い。緊急時だからと言って通常業務をサボれ
るほど、村には余裕がないのである。


「明日からは農作業に戻るのかな」
「田畑の修繕は今日中に終わるのかね。ちゃんと見ないでこっちに来たから俺全然知らないん
だけど」
「おかんの話では終わるみたいっすよ。明日からバリバリ働けって念を押されました俺」
「じゃあ、明日からは通常営業だな」


 はは、と笑う一刀に追従する者、微妙に嫌そうな顔を浮かべる者など様々だ。


 農民だからと言って、喜んで農作業をしている者ばかりではない。自警団の中にも剣によっ
て名を挙げて、一角の人物になりたいと考える者がいる。今は乱世。立身出世の道はそこら中
に転がっているのだ。


「団長が兵を挙げたら俺も参加するんですけどね。しないんですか?」
「やるならもっと早くやるべきだったろうなぁ。黄巾の乱はもう直ぐ終わるみたいだし、兵を
挙げても戦う相手がいないぞ」
「どうせそのうち戦が起きるって大人は皆言ってます」
「だからってなぁ……」


 子義の声に、一刀の反応は渋い。


 下手に挙兵すると言ってしまうと、そのままついてきそうな連中がこの中にもいるのだ。戦
に出て戦うことは村を守るために自警団を結成するのとは訳が違う。ついてくる人間がいると
いうことは、その人間の生死にまで責任を持たなければならない。


 責任は、誰かが取らなければならないだろう。例えばこの村で挙兵するのならば、自分がリ
ーダーになるだろうことは一刀にも想像ができた。戯志才達が最後まで付き合ってくれる保障
がない以上、他に選択肢がないのである。


 村には恩義がある。やれと言われたら否やはないが、自警団の面々を率いて戦場で活躍する
自分というのが、一刀にはどうしても想像することが出来なかった。


 戦いに出る以上、子義達だって死にたくはないだろう。戦功だってほしいはずだ。そんな彼
らの要望に答えることは出来そうにないのが、心苦しい。


 優秀な補佐――例えば戯志才や程立、単福などが力を貸してくれるのならば別だろうが、彼
女らが自分などに付き合ってくれるとも思えない。優秀な人間ならばそれだけ働き口は存在す
る。


 まして、一刀の知る通りに話が進むのであれば、黄巾の乱が収束しても世の中は安定せず、
戦乱の世に突入する。このような田舎では世の情報も集まり難いが、旅の軍師ならばある程度
の情報は集めているだろう。戦の臭いを感じ取っているのなら、素人の補佐についてくれるは
ずもない。


「俺についてきたっていいことないぞ」
「戦が起これば俺達のうち何人かは出稼ぎに行くことになってますからね。俺達だけで行くこ
とに比べたら、団長に面倒見てもらった方が遥かにマシじゃないですか」
「子義、お前戦に行くのか?」
「行きたいって前から言ってるじゃないですかー」


 やだなー、団長、と子義は気楽に笑う。年若いメンバーが集まる中でも一番若い子義が乗り
気なことに、世の無常を感じずにはいられないが、この中で武術の腕があり、才能があるのも
また彼である。金や名誉を求めて戦に臨むのならば、子義以上の適任はいない。


 嫌々ながら行くというのであれば止めたのだろうが、子義は非常に乗り気である。村に身を
置いて経済事情まで知ってしまった今となっては、青臭い人道論を盾に反論することも出来な
かった。


「だから、戦に行く時は必ず俺も連れてってくださいね」
「行く時はな。旅はするつもりでいるけど、戦に参加するかどうかは分からないから約束はで
きないぞ」
「えー、行きましょうよー」


 休日、父親に遊園地行きを望む小学生のような軽いノリに、一刀は眩暈を覚える。人道がど
うとかは別にして、旅に出る前にこの子には色々なことを教えなければ……と一刀は決意を新
たにした。


「何か、盛り上がってるみたいだね」


 戦に行くという言葉を引き出そうとする子義に難儀する一刀を救ったのは、ハスキーな女性
の声だった。自警団員の少女達から、黄色い歓声が挙がる。今村にいる人間の中でこういう扱
いをされるのは一人しかいない。擦り寄る子義を引き離しながら、一刀は振り返る。


「辺りはどうだった? 単福」
「平穏無事さ。馬で少し散歩をしてきただけだったよ。君らは働いてるのに申し訳ないね」
「見回りだって必要なことだろ? まぁ、今から村に戻ってもすることは沢山あるだろうから
しばらく散歩してた方が、楽は出来たかもしれないけど」
「今は凄く仕事をしたい気分だから、それも望むところさ」


 まるで舞台上の貴公子のように笑い、単福は馬からひらりと飛び降りる。賊を相手に大立ち
回りをした彼女は旅の人間とは言え村の人気者だ。その容姿振る舞いから少女相手に人気が高
く、他の世代相手の態度も如才ない。戯志才や程立と同様に、人の中心に立つことに慣れてい
る風だった。


「ご飯は村に戻ったらあると思うけど、一息どうだ?」
「いただくよ」


 単福はスープの入った椀を受け取り一刀の隣に腰を降ろした。自分の隣に、と席を作ろうと
していた女性団員が、一刀に向けて遠慮なく不満そうな視線を送ってくる。その圧力に一刀始
め周囲の男性団員も腰が引けるが、単福はそれを気にした様子もない。


 ただ、その強烈な視線の要因の一つに自分が関わっていることには気づいたようで、睨んで
くる女性団員達に向けて、ぱちり、とウィンクした。それで視線の方向性は百八十度変化した。


 今や熱視線に変わったそれを若干鬱陶しく思いながら、一刀は溜息を吐く。


 単福は美人であるから一目を引く。それは理解できる。シャツを押し上げる大きな胸など、
男の視線をひきつけてやまない。事実、単福の近くに座る男性団員などは単福の胸元にちらち
らと視線をやっていた。単福に構わないで食事を続けているのは、色気より食い気の子義だけ
だった。


 女性団員の単福に向ける視線は、男性団員よりも熱い。何というか尊敬以上の物が篭ってい
るような気さえする。単福が迫ればそのまま行くところまで行ってしまいそうな不安定さが、
女性団員にはあるのだった。


 普通、こんな視線を向けられれば困るだろうが、単福に動じた様子はない。貫禄すら感じさ
せるその振る舞いは、こういう視線にさらされることに慣れていることを感じさせた。きっと
女学院では毎日がこんな風だったのだろう。


「団員に手を出したりはしないでくれよ」
「おや、一刀は僕をそんな風に見てるのかい?」
「思わないと言ったら嘘になるかな」
「正直な男は好きだよ」


 ははは、と単福は小さく笑う。それにうっとりとする女性団員に、手を振ることも忘れない。
サービス精神旺盛な単福に、やはり一刀は溜息を漏らした。


 女性同士のそういうことに一刀も興味がないではないが、村のような閉鎖社会でそういう問
題が起こるのはよろしくない。単福が短慮な行動に及ぶとは思わないものの、治安維持の責任
者としては釘を刺しておかなければない。


 言って守ってくれるかどうかは、神のみぞ知るところである。言うだけは言った。後は単福
の性癖がノーマルであることを期待するより他はない。


「ところで、戦の話で盛り上がっていたようだけど、一刀、君は挙兵するのかい?」
「まさか。何に対して兵を挙げるっていうんだ」
「政治や社会情勢に不満が全くない訳じゃないだろ? 黄巾だって元はそういう人間の集まり
だったと噂じゃないか。まぁ、実際は違うんじゃないかって話は良く聞くけど、それはこの際
どうでも良い。今の時代じゃ誰が兵をあげたって可笑しくはないんだ。君が兵を挙げたってお
かしくはないだろ?」
「俺はそういう器ではないよ」


 単福の目に宿る期待の色から逃げるように、一刀は視線を逸らした。温くなってしまった
スープを音を立てて啜る。助けを求めるように視線を巡らせるが、女性団員は相変わらず単福
しか見ておらず、何やら難しい話が始まった気配を敏感に感じ取った男性隊員は、話を振られ
ないように視線を合わせようともしない。


 孤立無援だった。団員達は戦うことそのものに興味はあっても、戦うための主義主張には大
して興味を示さない。きちんと金銭が支払われ、それが人道に大きく悖らないものであるのな
ら、彼らは文句を言わずに戦うことだろう。主義主張について考えることができるのは、大抵の
場合生きることに余裕がある人間だ。


「そうかい? 君は良く村の人々を率いていたと思うけどね。自分で思っているよりは向いて
いると思うよ」
「褒めてくれるのはありがたいけどさ。だからと言って、それで英雄になれる訳じゃないだろ
う?」
「最初から英雄とは、随分と高望みをするね」


 単福にそう言われて一刀は渋面を作った。生き残ることすら不安な実力なのに英雄とは、確
かに高望みが過ぎる発言だった。真面目に上を目指している人間相手ならば、鼻で笑われても
可笑しくはない。単福に馬鹿にした様子が見えないのが救いだった。


「例えで言っただけだよ。本当に英雄になりたいと思ってる訳じゃない」
「目標は大きく高く。それがどんなものであっても、夢を持つのは良いことだよ。それに命を
かけられるなら尚素晴らしい」
「単福には夢があるのか?」
「僕はこれでも軍師だからね。身を立て名を挙げるのは、全ての軍師の夢なのさ」
「戯志才や程立もそうなのかな」
「ふわふわした彼女は分からないけど、ツンツンした彼女はしっかりとした目標を持ってると
思うよ。指揮する姿や立ち振る舞いに芯が通ってるのを感じる」
「それは程立の目標がふらふらしてるってことか?」
「つかみ所がないってことだよね。戯志才はほら、解りやすいだろう? 色々な意味で」


 単福は口の端を挙げている。こちらの反応を楽しみにしている、意地の悪い顔だ。反射的に
問いに答えそうになっていた一刀は、その顔を見て言葉を引っ込めた。衆人環視のこの場で頷
くことは、自分の立場を決定づけることになる。単福の言葉は、捉えようによっては悪口だ。
自警団員の口から『北郷一刀が悪口を言っていた』という情報が戯志才耳に入れられたら、ど
んな仕返しをされるか解ったものではない。

 
 昨日の鼻血の一件で弱みというか秘密というか、戯志才の意外な一面を知ったことで距離は
縮まったように思うものの、そのせいでもっと遠慮なく物を言われるようになってしまった。
今朝も穴掘りに出るまでに、三度も怒鳴られている。


 一刀としてはこのままではそのうち殴られるのではないかと気が気ではない。荀彧には良く
蹴られたものだが、好きで蹴られていた訳でもない。怪我なく息災で生きたいというのは、英
雄になることに比べたら、高望みでもないはずだ。痛いのは誰だって嫌なのだ。


「そういうところはかわいいと思うよ」
「なら、それは顔を見て言ってあげると良い。きっと、戯志才も喜ぶ」


 笑いながら単福は言うが、そんなことをしたらまた鼻血を出して倒れることは目に見えてい
た。普段はあんなにもキリリとしているのに、色恋やエロい方面にはまるで耐性がないという
のだから可笑しな話である。


「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。ご飯ご馳走様」
「もう少しゆっくりしていけば良いのに」
「僕だけ油を売る訳にもいかないだろう? 働かざる者食うべからずさ」


 単福はひらりと身を翻して馬に跨る。別れを惜しむ女性団員に手を振ることも忘れずに馬の
腹を蹴って、村へと歩みを進ませていく。


「夢とか志とか、そういう物について戯志才達と話してみるといいよ!」


 別れ際にそう言って、馬は加速した。単福の背中はあっという間に見えなくなる。女性団員
達の溜息が漏れた。食事のペースもはっきりと落ちている。午後の作業の進み具合にも関わり
そうな深刻さに、一刀の不安も募る一方だ。


「団長、団長の夢ってなんですか?」
「俺の夢ねぇ……なんだろうな」


 子義の問いに、一刀は首を傾げた。現代高校生の身に将来の夢というのは、地味に難解な質
問だった。

























「単福!」

 作業する村人の集まる中央広場まで馬を進めた単福は、探していた人物の声を聞いた。探す
手間が省けた、と一人笑みを浮かべると、急ごしらえの厩に馬を預け、一晩で随分気心の知れ
たその人物に駆け寄る。


「帰りがけに一刀に会って来たよ。あっちの作業も順調なようだね」
「それは重畳です。周囲の様子はどうでしたか?」
「静かなものだよ。少なくとも、徒党を組んでこの村を襲うような連中は近くにはいないよう
だ」
「それを聞いて安心しました。ですが、警戒だけは怠らないようにしましょう。北郷殿には夜
間の警戒を解かないよう、申し伝えるつもりです」
「それが良いだろうね。僕も身体は空けておくから、遠慮なく使ってくれたまえよ」
「元よりそのつもりです」


 相変わらず愛想のない戯志才の言葉を気にもせず、単福は無言で手を差し出す。戯志才は無
言でその手に藁の束を乗せた。柄杓で桶から水を汲み取り近くにあった鎧を湿らす。後は屈ん
で只管擦るだけだ。


 一刀が穴を掘るのが仕事なら、これが戯志才達の仕事である。賊の持っていた道具を保存す
るために、最低限の手入れをしなければならないのだ。武器や防具についた血は腐食の原因に
もなる。売るにしても自分たちで使うにしても、汚れと一緒に落として置かなければならない。


 眼鏡軍師の隣に屈んで、ごしごしと鎧を擦る。手入れなどしていなかったのか、血以上に土
や汗の汚れが目立つ。単福の持っているのは金属鎧と言っても金属を紐でつなぎ合わせただけ
の粗雑な物であるが、こんな鎧でも使用者のことを守ってくれていたようで、剣や槍で付けら
れたと思われる傷が幾つも散見される。粗雑な鎧であっても、命を救うことはあるのだ。


「ところで戯志才、君は一刀のことをどう思う?」


 会話もないのは寂しいと、適当に切り出した話題のつもりだったが、戯志才にとっては適当
の一言で片付けられる物ではなかったらしい。ごしごしと鎧を擦っていた藁の束は戯志才の手
からすっぽぬけ、単福とは逆の方向に飛んで行き、作業していた村人の顔に直撃した。


 ぎゃあ、と悲鳴を挙げる村人に、戯志才は慌てて頭を下げる。村人の顔は汚水に塗れたが、
相手は何しろ村を救った作戦の立案者である。謝り倒す戯志才に村人は笑顔すら浮かべて席を
外した。顔を洗うための水は、少し離れた所にしかない。


「君もそそっかしいところがあるね」
「貴殿がおかしなことを言うからです!」
「そうかい? 僕は彼を人間としてどう思うかと聞いたつもりだったんだが……」


 それ以外の意味に解釈してくれることを期待しての質問だったが、それは黙っておく。案の
定、ひっかけられたと気づいた戯志才は顔を真っ赤に染め――その鼻から血がたらり、と流れ
出した。


「戯志才、鼻血が出てるよ」


 指摘をすると、戯志才は藁の束を放り投げ慌てて手拭を顔に当てた。口を手拭で覆ったまま
眼鏡の奥から睨んでくる戯志才に、逆に単福は笑みを返す。


「妄想逞しいのも結構だけど、考えただけでそれじゃあ先が思いやられるな。君と一生を添い
遂げる人間は、苦労しそうだ」
「貴殿が心配せずとも結構」


 ちーん、と大きな音を立てて鼻をかみ、手拭を放り投げる。赤くなった鼻から、鼻血はもう
流れていない。藁の束を拾って再び鎧を擦りだす戯志才に、努めてこちらを無視するかのよう
な意思を感じた。


(これはからかいすぎたかな……)


 内心で単福が反省していると、戯志才が鎧を持って立ち上がった。鎧についた水滴を手拭で
丁寧にふき取っていく。金属部分から綺麗に水分をふき取り終わったら、残りの仕事は村長達、
村の年寄り達の仕事だ。


 戯志才達が作業している場所から少し離れた場所では、年寄り達が保全の作業を行っている。


 取り替える必要のある縄は取り替えて、金属部分には油を差す。鎧や剣はもちろん、自警団
が後々使う予定であるが、半分以上は売り払って金に変える算段が立っている。駄目になった
作物などの補填としての意味もあるので、村にとってはかなり重要な案件だ。


 賊が使っていたようなものであるので買い叩かれるのは目に見えているが、汚れている物を
持って行けば、足元を見られるどころか買取を拒否されることすら考えられる。綺麗にしてお
くに越したことはない。


「別に怒ってはいませんよ」


 本当かな、と思ったが流石に今度は口には出さなかった。次に鼻血を出されたら、進む話も
進まなくなる。


 戯志才はまた藁の束を掴むと、新しい鎧を磨き始めた。


「北郷殿の話でしたね」
「ああ。彼についてどう思うか、一度軍師の意見を聞いてみたいんだ」
「軍師として、ですか。私よりも程立の方が良いのでは?」
「もちろん彼女にも聞くさ。でも、まずは君からだ」
「貴女も話すという条件でなら話しても構いませんよ」
「交渉成立だ。では、僕から?」
「いえ、私からにします」


 柄杓で鎧に水をかけ、藁の束で鎧を擦る。ごしごしという音で、自分の考えを纏めているの
か、しばらくの間、戯志才はただ鎧を磨き続けていた。


「武も知もそこそこですね。仮に私が人を使う立場だとしたら、彼を使うことはおそらくない
と思います。彼くらいの力量を持った人間ならば、今の時代他にいくらでもいますから」
「確かにね。弱い訳でも馬鹿な訳でもないけれど、もう少し改善の余地があるね彼には色々と」


 本人を前には言えないことでも、軍師相手だとすらすらと出てくる。勿論、他の人間に聞こ
えないような配慮も忘れてはいない。これは本当に、ここだけの話だ。


「ですか、人を率いるということに関しては、見るべきところがあるようにも思います」
「それはこの村だからではないのかな。僕らから見ればそこそこでも、この村ではそうではな
いだろう?」
「それを差し引いても、ということですよ。この村にやってきて一月かそこらの彼に対して、
村人達は良く彼の言葉を聞き、従っています。全幅とは言わないまでも、大きな信頼を得てい
る言っても良いでしょう。それは、貴女も感じたことでは?」


 ちら、と戯志才が視線を向けてくる。切れ長の目が、単福の心中を見透かそうとするかのよ
うに細められていた。


 色気すら感じるその視線に、単福は肩を竦める。賊と戦っている最中にも、日が昇ってから
の哨戒活動の間にも、村人からそういう言葉は何度も聞いていたからだ。


「確かにね。つまり戯志才は、一刀の人間的な魅力に参ってしまったと言う訳か」
「そういう纏め方をされると私がただのアホのように思えてならないので、訂正を求めます」
「失礼。戯志才先生は、一刀の人間的魅力を鋭い観察眼でもっていち早く見抜かれたと、こう
いう訳か」
「釈然としないものを感じないではありませんが、よしとしましょう。私の思うところは、そ
んなものですね。貴殿はどうです?」
「んー……彼ほど仕え甲斐のある人間もいないと思うかな」
「それはまたどうして」
「完璧な主なんてつまらないじゃないか。ほどよく欠けたところがある方が、自分の仕事があ
って良いだろう?」
「そう思えるのはかなり特殊だと思いますが……言わんとしていることは理解できます」
「でも、仕える判断をするにはもう少し時間が必要かな。君のように腰を据えられたら良いん
だけど、今の僕には少々急ぎの用事があるものでね」
「急いでいるのに油を売っていて良いのですか?」
「義を見てせざるは勇なきなり。これくらいなら、先生も許してくれるさ」
「水鏡女学院に戻る予定だったのですか?」
「世の情勢を調べて報告せよと、先生から仰せつかってね」


 実際は水鏡先生本人が回る予定であったらしいのだが、それは現在の生徒と教師総出で止め
られたのだと言う。それも当然だ。先生が優れているのは知の分野だけで、身を守る武の方は
からっきしなのだ。


 学院に集まる人間は教師まで含めて、知に重きを置く人間が多く、単福のように武にまで手
を出す人間は少数派である。学院に名を冠するような人を乱れた世に送り出す訳にはいかない
と考えるのは、当然のことと言える。


 そんな事情もあって、自分の身を守れる程度には武に自信があり、旅慣れている単福に話が
回ってきたのだった。学院を卒業してからも放浪を続け、主を定めていなかったが故の依頼で
もある。


 傑物と噂される人間は一通り見定め終わった後であったため、里帰りのつもりで引き受けた
依頼だったが、今では受けて良かったと思ってさえいる。


 断り、主を決めていたら、この村を訪れてはなかっただろうし、戯志才や程立、一刀に出会
うこともなかった。彼女らに出会えたことは、学院を卒業してからこっち、一番の幸運である
とさえ言えた。


「だから、君とはもっと色々と語り合いたいのだけど、残念だが時間がない。作業も今日中に
は一区切りつきそうだし、明日には旅立とうと思っているよ」


 それから先は、また旅に出て見ようと思っている。これから世は乱れ、軍師の必要とされる
場は増えるだろう。また戦になれば、これまで見つけることの出来なかった英雄の資質を持っ
た者達が出てくるかもしれない。


 主を決めるのは、それらが出揃ってからでも良い。最悪、学院に戻って勉強の日々に戻るの
でも良いのだ。人事を尽くせば、天命が待っている。急いてもきっと良いことはない。


「急な話ですが、目的があるというのならばそれも仕方ありません。水鏡先生には貴女の弟子
を引き止めて申し訳ありませんでしたと、よろしくお伝えください」
「時間が取れるようだったら、訪ねてみると良いよ。聡明な人間を先生はこよなく愛される。
君や程立ならば、きっと歓迎されるだろう」
「北郷殿ならば、どうでしょうね?」
「どうだろう。何しろ僕の先生だ。教え甲斐があると奮起されるかもしれないよ?」
「北郷殿が女性でないことに、感謝しなければなりませんね」


 戯志才が冗談で結んだところで、単福も一つ、鎧を洗い終えた。戯志才と同じように水滴を
綺麗にふき取り、村の子供にそれを預ける。年端もいかない、少年だか少女だかも一目には判
断のつきにくい童は、二人、三人で協力して鎧を年寄り達の下へ運んでいった。


「さて、次は貴殿の番ですよ。北郷殿について思うところを述べてもらいましょうか」
「語ることについて否やはないけれどね、もう直ぐ食事の時間のようだよ?」


 眼鏡をキラリと光らせて凄んでみせる戯志才の背後を示す。炊き出しを行っていた村の女性
達が、昼食が出来たことを触れ回っていた。穴掘り班以外の全ての昼食を賄っているため、か
なりの量である。


 村の内部で作業をしていた者は皆手を止め、食事をするために集まっていく。戯志才も単福
もそれに加わらなければ、食事はできない。椀だけ持ち出し離れて食べるということはできそ
うになかった。有名人である単福や戯志才が、村人達から逃げられる道理もない。


 既に程立は村の子供達に腕を捕まれ、あれやこれやと質問攻めにされていた。いつも飄々と
している程立が慌てている。珍しい物をみた、と戯志才と単福は顔を見合わせて笑った。





































「見送りはこの辺りまでで良いよ」


 馬に乗って村から離れて三キロほどの位置で、単福がそう切り出した。指示に従って馬が足
を止め馬上で単福が揺れる。単福の頭を離れた帽子を一刀がキャッチできたのは偶然だった。


 埃を払って帽子を返すと、単福は珍しく照れくさそうに笑った。


「悪いね。仕事があるのに付き合ってもらって」
「恩人を見送る以上に大事な仕事があるもんか」


 一刀の言葉に、単福は笑みを深くして帽子を被りなおす。賊と戦った時のような勇ましい鎧
姿ではなく、動きやすい旅装束だ。シャツにパンツ、水鏡女学院の制服を羽織り、頭にはトレ
ードマークのソフト帽。出会った時と同じ装いの単福がそこにいた。


「急に言い出さなければ、もっと盛大に見送れたんだけどな。子義とか残念がってたぞ。もっ
と面倒みてもらいたかったって」
「少し見ただけだけど、彼は筋が良いね。特に弓だ。いずれ大陸でも指折りの実力者になるは
ずだよ。君に懐いているようだから、上を目指すのならば手放さないことを薦めるよ」
「進路は子義が決めることで、俺が関知するところじゃないさ」
「黙って俺について来い、というくらいの甲斐性が、君に必要な沢山の物の一つだろうね」


 からかうような単福の笑みに、一刀は視線を逸らす。欠けた物が多いのは一刀自身が一番理
解していることだ。策を考える頭も剣の腕も、戯志才や程立、単福に遠く及ばない。せめて何
か一つでもと思うが、およそ政治、戦に関わることで彼女ら三人に勝てそうなことはいまだに
見つかっていなかった。


「風達がいますから、お兄さんのことはご心配なくー」


 単福と一刀の間に、程立が馬ごと割り込んでくる。励ましの言葉が、地味に落ち込んでいる
身にはありがたい。少女に庇われている自分、と客観的に見ると死にたくなるが、女の子に遅
れを取ることなどこの世界にきてからは日常茶飯事だ。この程度を気にしていたら、とっくに
荀家で死んでいる。


「君なら大丈夫だろう。僕の分まで一刀をしっかり教育してやってほしい。どこかの鼻血軍師
殿では、聊か心配だからね」
「…………」


 普段ならば憎まれ口の一つも放つ戯志才が、今は暗い雰囲気で沈黙していた。雰囲気だけで
なく、顔色まで悪い。一刀達の会話が聞こえていないはずもないのだが馬の上でぐったりとし
たまま動こうともしない。正直、馬に乗ってここまで来れたのが奇跡のような有様だった。


「あまりからかわないでやってくれよ。二日酔いと出血多量で二重の苦しみを味わってる最中
なんだ」
「どうせ酔った勢いで――ってその先でも想像したんだろう?」
「うっ……」
「だからやめなってば……」


 戯志才は口ではなく、鼻を押さえて体を折り曲げる。こんな状態で鼻血を出したら、本気で
生死の境を彷徨いかねない。短い付き合いの一刀でさえ、心配なのだ。生まれた時から自分の
身体と付き合っている戯志才は、普通に命の危険を感じているだろう。


 戯志才がこうなっていることには、昨晩のことが影響している。


 単福に薦められて戯志才、程立と今後について話し合う機会を設けたのだが、何故か村人達
が気を利かせて、誰の邪魔も入らない一軒家と酒、それから人数分の椀を用意してくれた。


 村人の意図を一目で察したのは一刀だけだったらしい。そういうことにはならないと婉曲に
断りを入れたのだが、村の大人たちはそれを照れ隠しと思ったらしい。若いんだから頑張って
ください、と逆に励まされた一刀は、どうしたものかと首を捻りながら二人と共に小屋に入っ
た。


 この時、単福は高志の家に呼ばれて席を外していた。彼女がいればまた違った展開になった
のかもしれないが、後悔先にたたずである。


 何事もなく終わらせるには、真面目な雰囲気で乗り切るしかない。一晩中戯志才の罵詈雑言
を浴びる覚悟で一刀がいると、程立が普通に酒を注ぎ始めた。戯志才もそれを拒まない。一刀
がそれを断ることなどできるはずもなかった。


 そのまま暫く酒飲みが続き、十分もした頃だろうか。ただ酒を飲むことに専念していた戯志
才がふと視線を巡らせたのである。小屋の中には何があるでもない。一刀達三人と、酒と椀。
後は一組の布団と、三つの枕があるだけだった。


 布団といっても現代日本にあるような上等なものではないが、明らかにそういう類の配慮が
された寝具がそこにあると認識できさえすれば十分だった。


 その時始めて寝具一式の存在に気づいた戯志才は、酔ったその状態よりもさらに顔を真っ赤
にし、漫画のように勢い良く鼻血を流した後、急な出血のため気持ち悪くなって顔を青くし、
最後に胃の中身を吐いてからその場に気絶した。


 その有様に、程立すら目を点にしていたことを良く覚えている。鼻血とゲロのコンボに一刀
は女の子に対する幻想がガラガラと崩れていく音を聞いたような気がした……


 戯志才の調子が悪いのはそんな事情なのである。


「彼女を身近に置いておくのは中々刺激的な毎日になることだろうけど、くじけないようにね」
「頑張ってみるよ」


 差し出された単福の手を、一刀は握り返した。


「さて、名残惜しいけれどそろそろ行くよ。次会う時まで達者でね、三人とも」
「単福も元気で」
「おげんきでー」
「…………」


 戯志才は力なく手を振るだけだった。苦笑を浮かべて、単福は馬の腹を――蹴る前にもう一
度振り返った。


「一刀、君はどんな世を作ってみたい?」
「何を言い出すんだいきなり」
「何となく聞いてみたくなったのさ。君ならきっと、面白い世界を作ろうとするんじゃないか
ってそんな予感がするんだ」
「俺が世の在り方を決められるようになるとは思わないけどな」
「だからこそ聞いてみたいんだ。北郷一刀、君はどんな世界を作りたい?」


 どうでも良いとはぐらかそうかと考えたが、単福は逃がしてくれそうになかった。ふざけた
調子で聞いていても、瞳は答えるまで逃がさないという、強い意志を持っていた。答えない訳
にはいかない。


 しかし、どんな世界を作ってみたいかなど考えたこともない、ついこの間まで北郷一刀はた
だの高校生で世界の行く末などに関わっていなかった。


 それが何の因果か可笑しな世界に飛ばされた。そこでも勿論世界の行く末などには関わって
などいないが、ある意味元の世界よりも充実した生活を送っている。


 帰ることを諦めた訳ではない。元の世界に未練はあるし、やりたいことだってある。便利の
中で暮らしていた一刀にとって、この世界は不便の連続だ。戻れることなら今すぐにだって戻
りたい。


 だが、世界全体から見れば取るに足らない物とは言え、北郷一刀はこの世界に関わってしま
った。乱れた世がこれから更に乱れ、戦乱の時代に突入することだろう。


 そこでは多くの物が壊れ、多くの人が死ぬ。そういう人達のために、何か出きることがある
のではないか……賊の死体を埋めながら、一刀はそんなことを考えた。


 自分に何が出きるかしれない。才能がないとは荀彧に太鼓判を押された。世界を変えような
どと高望みをする訳ではないが……


「人が天寿を全うできるような世界にしたい」
「その心は?」
「戦で人が死ぬなんて馬鹿げたことだと思う。やっぱり人間は、やりたいことをやりたいだけ
やって、それから死ぬべきだ。生きるために生きるとか、生きる糧を求めて命を賭けるとか、
そういうのって寂しいだろう?」
「これから戦乱の世になるというのに、君は戦を否定するのかい?」
「戦うことは必要だろう。戦う人達にはそれなりの理由があるってのも解るんだ。俺の国は平
和だったけど、世界にはずっと戦いがあった。幾ら世界が満たされても、戦ってのはなくなら
ないと思う。でも、それを極力減らすことは出きると思うんだ。だから、俺に世界を差配する
力があるなら、人が生きるだけ生きて、それから死ねるようなそんな世界を作りたい」
「そのために戦う。君はそう言うのかい?」
「機会があったらね。大それた話ではあるけど、やれるならやってみたいかな」


 少女を相手に夢を語るのは、思いのほか恥ずかしい。これで笑われでもしたら一刀はしばら
く立ち直れなかったろうが、単福も隣にいた程立も笑わずに聞いてくれた。


 一刀の言葉を噛み締めるように、単福は目を閉じる。


「いい夢じゃないか。軍師の活かし所は少なくなるだろうけど、そんな世界になるのなら、僕
は見てみたいと思うよ」
「ありがとう。最初から他力本願ってのは格好悪いけど、単福の力が必要になったらその時は
頼らせてもらうことにする」
「徐庶だよ」
「……ん?」
「僕の名前だよ。気づいてたとは思うけど、単福というのは偽名なんだ。僕は徐庶、字は元直
という。そして、真名は灯里(あかり)だ。僕のことは、これからそう呼ぶと良い」


 一刀は二度驚いた。


 偽名の代わりに出てきた本当の名前が、聞いたことのある名前だったこと。


 そして、最後にあっさりと真名が告げられたこと。


 荀家で聞いた。真名とは、本当に信頼のできる相手にしか許さない物だと。姓名しか持たな
い一刀にとっては馴染めない物だったが、真名を軽々しく口にすることの危険さは、荀家でも
散々説明された。


 その真名を呼ぶことを許された。この世界に来て初めてのことだ。単福……灯里の言葉を自
分の中で吟味し考え、ようやく一刀が口にしたのは、


「ありがとう」


 ただ、それだけだった。返礼に何かを出せる物もない。信頼の証として真名を預けてくれた
のならば、こちらもそれを返すのが礼儀のはずだが、一刀には真名がない。信頼に応えるもの
として一刀が用意できるのは言葉だけだった。


 言葉だけの返礼に、灯里は笑顔を浮かべてくれた。受けいれてくれてありがとうと言葉を
添えて、帽子を目深に被りなおす。頬が少し染まっているのが見えた。少し、照れているらし
い。


「最後に夢を聞かせてくれた君に贈り物をしたい。戯志才と程立がいるのなら必要ないと思っ
ていたけど、君が高い志を持っているのなら多くあっても困るものでもないと思い直した。た
だ、二つを得るのはやりすぎとも思う。だから君に決めて欲しい。どっちもかわいいことは僕
が保障するよ。だから気楽な気持ちで、思ったことを口にしてくれて構わない」











「臥龍と鳳雛、どっちが欲しい?」

















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十二話 反菫卓連合軍編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:58







「…………」



 打つ手がないというのは、こういう時のことを言うのだろう。


 戦略戦術の訓練にも使われるという軍師御用達のボードゲームを前に、一刀は無言を貫いて
いた。盤上を隅々まで見渡しても、まるで打つ手が見えない。決してこの時点で詰んでいる訳
ではないのに、勝つ自分というのが全く見えないのだ。



 盤上を見るふりをしたまま、対戦相手の少女を見る。ふわふわの金髪をした少女で、名前を
程昱、字を仲徳と言った。以前は程立と名乗っていたのだが、ある日突然『お日様を持ち上げ
る夢を見ましたー』と言い出し、その日のうちに改名した逸話を持つ、少々風変わりな少女で
ある。


 黙って座っていればお人形のように愛らしい少女の顔には、ふふふーと得意げな笑みが浮か
んでいる。自分の勝ちを確信し、かつ、こちらが苦心しているのを楽しみにしている顔だ。普
通ならば小憎らしく思うようなその仕草も、仲徳がやると絵になる。


 何も考えずに仲徳の姿を眺めていたら、それはそれで幸せな気分になれたのだろうけれども、
状況が一刀にそれを許してくれなかった。次に打つべき手を考えて五分ほど。いくら気の長い
仲徳でもこれ以上待ってはくれないだろう。


 一刀は大きく息を吐いた。


「……参りました」
「まだ打つ手はあるはずですけど?」
「速くて五手、遅くても十手で詰みになるだろ。仲徳がこういう所で手を抜くとも思えないし、
もう俺の負けさ」
「それに気づくのに随分時間がかかりましたね、お兄さん」
「気づけただけでも進歩だと思うんだけどなぁ……」


 今までの人生の中で、これほど先の物事を考えたことのなかった一刀には、ボードゲームの
手を考えるだけでも相当な集中力を要した。こちらの世界に来る前だったらそれこそ考えるこ
ともしなかっただろうことを考えると相当な進歩だと思うのだが、超一流の軍師であり、一刀
の教育係でもある仲徳達は、そう考えてはくれないようだった。


 曰く、それくらい出来て当たり前なのだという。


「まぁ、段々持ちこたえられるようになってきてるみたいですし、腕は上がってるみたいです
ね」
「毎日これだけ扱かれて進歩がないようだったら、もう人生諦めるしかないな」


 ははは、と意識して笑い声を上げると、仲徳もそれに続いて微笑んだ。どういう意味の微笑
みだったのかは、ちょっと怖くて聞けない。


 いずれにしても、これで盤上での訓練は終わりである。挑戦者の義務として駒とボードを片
付けると、仲徳の履物を用意する。高志宅の縁側を借りての講義であったため、持ち主である
高志とその妻に礼を言って辞し、村の外へと向かう。


 盗賊に襲われて以来、村は変わった。村の自警団が盗賊を撃退したということで、あの村は
安全という噂が広まり、流浪していた民がいくらか定住することになり人口が増えた。今では
村の人口も三百人に届こうとしている。


 それに付随して、自警団の人数も増えた。流入してきたのはどちらかと言えば非戦闘員の方
が多かったものの、それでも力仕事や自警団の仕事ができる人間が皆無だった訳ではない。昨
今の国の対応を見て、奴らは当てにならないということを経験で理解している彼らは、自警団
参加の誘いに、是非にと言ってくれた。


 加えて、三人の軍師の存在がある。


 多少軍務経験者がいるだけで、村の自警団は素人の集まりだ。それが普通以上に戦えている
のは、普段どう訓練し、有事の際にはどう動くか、それを考えてくれる人間の存在が大きい。
彼女ら三人がいるだけで、素人の集団は余計なことを考えることもなく、強くなることに専念
することができた。


 今となっては、下手な官軍よりも強力とすら言えるだろう。装備が貧弱なことが難点ではあ
るが、スポンサーのいない民兵としては最高水準であると言っても良い。


「今日はどっちが勝つかな」
「十中八九稟ちゃんでしょうねー」


 仲徳の答えには淀みがない。稟――戯志才改め、郭嘉の真名である――が勝つということを
微塵も疑っていない様子だった。


 これを聞いた一刀は思わず苦笑を浮かべる。自分も、同じ答えを考えていたからだ。


「奉孝は手加減しないからなぁ」


 軍略や政治について毎日講義を受けているが、説明したことを理解できない時や設問を間違
えた時などは、容赦のない厳しい言葉が飛んでくるのだ。学校には所謂怖い先生というのが一
人二人はいたものだが、その誰よりも奉孝は厳しい。


 しかし、その教育を悪いものだと一刀は思わなかった。厳しい先生というのは往々にして学
生から避けられるものだが、自分のために身を砕いてくれていることが心の底から理解できる
と、その厳しい言葉も悪くないもののように思えるのである。


 罵倒されるのは荀家で慣れていた、というのもあるかもしれない。蹴りや平手が飛んでこな
いだけ、奉孝の指導は優しいとも言える。その代わり淡々と厳しい言葉を投げかけてくるのだ
が……どちらが良いかというのは、好みの問題だろう。


 一刀自身は、どちらもどんとこいというスタンスである。自分は精神的マゾなのかも、と疑
う一瞬だった。


「見えてきた……あぁ、やっぱり奉孝の方が勝ったみたいだな」
「風の言った通りでしたねー」


 世間話をしながら村を囲う柵の外――村に程違い広場が視界に入るようになると、そこに人
垣があるのが見えた。粗末でも手入れの行き届いた鎧を纏った集団――自警団の面々である。


 人垣は何かを囲むようにしている。事前に聞いた今日の訓練の内容を加味するに、彼ら彼女
らが今日、奉孝の指示で動いていた面々のはずだ。


 つまり、勝ったのは奉孝ということになる。仲徳の予想通りだった。


「いらっしゃいましたか、一刀殿」


 人垣が割れて中から出てきたのは奉孝だ。固い表情の上にメガネをかけた顔が無表情なのは
いつものことだが、目じりが僅かに下がっていることから少し得意になっていることが解る。


「良い勝負だったみたいだな」
「ええ。実に充実した時間でした」


 奉孝的には大満足の時間だったようだ。反面、相手になった彼女にとってはどうだったのだ
ろうか……想像するだけでかわいそうに思えてしまうのは、彼女の人格のなせる業だろう。奉
孝には口が割けてもいえないことだ。


 心中を見抜かれては面倒だ。奉孝に顔が見えないようにしながら、人垣の中に踏み込んでい
く。お疲れ様です、と声をかけてくる団員に手を振りながら、中央へ。


「ごめんなさい、私のせいで!」


 汗に塗れてぶっ倒れている子義の隣で、先のまがったトンガリ帽子を被った少女が必死に声
をあげている。精も根も尽き果てた様子の子義は首をあげるのも億劫なようで、目線だけを少
女に向けていたが、一刀がやってくるのが分かるとぐぐぐ、と首をあげて、パタリと落とした。


「随分こっぴどくやられたみたいだな……」
「いけると思ったんですけどねー。いつの間にか包囲されてぼこぼこに」
「あわわ、子義さんは良くやってくれました。負けたのは私の采配が悪かったせいです」
「そんなことありません!」
「先生は悪くないっす!」
「俺たちがヘボなばっかりに!!」
「先生にご迷惑を!!!」」


 と声をあげたのは子義ではなくさらにその周囲で倒れていた団員達だった。子義と同じよう
に五体倒置していた彼ら彼女らは倒れた子義を踏みつけながらとんがり帽子の少女を囲む。


 あわわ、という声を最後に見えなくなる少女。その一瞬の後には胴上げされて宙を舞ってい
た。励ましの言葉は途切れることなく続いている。少女が皆に愛されているという証拠だ。


「愛されてるのがよく解る光景だなこれは…」
「ああいう愛され方が好みなら、お兄さんも頼んでみては」
「いやぁ、俺は普通が良いかな。俺を胴上げするのは皆、疲れるだろうし」


 年端も行かない少女があわあわ言いながら宙を舞っているのが楽しいのである。男子高校生
が同じことをされていても、誰も喜んだりはしないだろう。


「最初はあの性格でどうなるものかと思ったものだけど、随分馴染んでるよな」
「特にご婦人とご老人への受けが良いようですね。喜ばしいことです」


 逆にその層にはあまり受けが良くない奉孝が言うと説得力もある。それを羨ましいと思う様
子があればまだ可愛げもあるが、そんな様子は微塵も見受けられなかった。信頼されているこ
とと、受けが良いというのはまた別の話である。奉孝はきちんと、村の人間から信頼を勝ち得
ていた。


 だが、奉孝も仲徳も信頼されてはいるが、少女ほどに愛されてはいない。見た目、雰囲気、
性格、他人に好かれる愛される要素は色々とあるが、少女はその全てを兼ね備えているよう
に思えた。それらは努力してどうこうなる問題でもない。


 少女が愛されるのは、もはや天賦の物と言えるだろう。


 少女の名前は鳳統、字を士元と言った。かの有名な――どの程度有名なのか、一刀はイマイ
チ理解できていないのだが――水鏡女学院の卒業生で灯里の後輩である。ランドセルを背負っ
ていても違和感のなさそうな仲徳よりも小さい容姿であるが、これでも鳳雛という大層なあだ
名で呼ばれる一角の軍師である……そうだ。


 その士元が灯里に連れられてこの村にやってきて、半年が過ぎようとしている。見た目通り
小動物のような士元は多分に人見知りをする性質らしく、最初は誰と会話するのにも苦労して
いた。


 救いだったのは、その性分を士元本人が理解し克服しようとしていたところだ。一刀を始め
村の人間は少しずつお互いのことを理解してゆき、そうして士元は感極まった自警団員に胴上
げされる程の信頼関係を築くに至ったのである。


 奉孝など最初ははっきり物を言わない士元にイライラしている所もあったが、彼女の力量を
理解した今では、自警団員を使った模擬戦の相手に好んで指名していた。指揮能力については
士元の口下手なところもあってか奉孝に分があるようだが、勝敗表を見る限り、奉孝が七、士
元が三ほどの割合で星は推移している。


 村内には奉孝の方が圧倒的に指揮が冴えているという印象が広まっているが、数字の上では
それほど差がある訳ではないように一刀には思えた。意思伝達をもう少しきっちりと出きるよ
うになれば、数字はもう少し拮抗するようになるだろう。


「結局今日はどんな模擬戦をしたんだ?」
「士元が率いたのが子義を中心とした自警団の若手精鋭十名。私がそれ以外の全員です」
「随分ハンデつけたなぁ……それでどれだけ勝負ができたんだ?」
「半刻(三十分)ほどでしょうか。本当は直ぐに包囲して勝負を決めるつもりだったのですが、
あの少数を良く使っていました」
「でも、奉孝が勝ったんだろ?」
「これだけ貴殿の言う『はんで』をつけたのですから、私が勝つのは当たり前です。ここまで
粘った士元こそが素晴らしい」
「で、なんでまたこんな勝負を?」
「劣勢の時にどういう指揮をするのか、見てみたかったのですよ。落ち着いて対応できるかど
うか、把握しておいて損はないでしょう?」
「眼鏡にかなったと見て良いのかな」
「申し分ありません。こと戦術に関する限り、士元は天才です。学んだ時間が同じであれば、
彼女は私の先を行っていたことでしょう」
「奉孝が手放しで褒めるなんて珍しいな」


 それだけ士元が凄いということでもある。ここまで、というか明確に褒められた覚えのほと
んどない一刀には羨ましい限りだ。


「貴殿も、士元に負けないくらい研鑽を怠らないでもらいたいものです」
「いつか奉孝に満足してもらえるように頑張るよ」


 稀代の軍師殿が満足するのがどの程度なのか……想像すると気分が参るばかりである。


 そうこうしている内に胴上げ組も飽きたようで、目を回した士元を地面に降ろし、汗塗れの
身体を拭くために水場へと移動していった。奉孝が指揮していた面々は、既に移動している。
この場に残っているのは遅れてきた一刀と仲徳、指揮をしていた奉孝に士元、それにまだ動く
のが面倒くさいらしい子義の五人だった。


「士元、お疲れ様。大変だったみたいだな」
「あわわ……」


 とんがり帽子の上から頭を撫でると、士元は顔を真っ赤に染めた。真っ直ぐな反応が実に良
い。奉孝も仲徳も美少女には違いないが、こういうことをしても奉孝は冷めた目線で、仲徳は
何を考えているのか良く解らない瞳でこちらを見返すばかりで実に有り難味がない。


「子義も大活躍だったみたいだな」
「十人くらいは叩きのめしたはずなんですが、気づいたら袋叩きにされてました。俺もまだま
だ修行が足りません」
「十人も倒せるなら大したもんだよ」


 自警団の面々も毎日鍛錬をしているだけあって、ヘボではない。それを十人も倒せるという
のは一重に子義の非凡さを現していた。一刀でも最高に調子が良くて五人が限界だ。子義は現
状の自警団では文句なしに最強の使い手である。


「次は人数を更に減らしてみますか。一刀殿の指揮でどこまでやれるか」
「さらに減らすとなったら五六人だろ? それじゃあもう鍛錬じゃなくて鬼ごっこだよ」

 一刀が苦笑と共に言うと、奉孝は解っていますよ、とにこりともせずに言った。彼女なりの
冗談だったのは一刀にも解ったのだが、冗談を本気で実行しかねない所が彼女にはある。十倍
以上の人間に追い回されるなど、正気の沙汰ではない。


 自分が追いまくられるところを想像して、一刀は身震いする。


 しばらくは奉孝を怒らせるのは止めよう。一刀はそう心に誓った。


「さて、鍛錬も終わったことだし食事にしようか。良ければ皆でどうだ?」


 残った面々を見渡して、呟く。最初の頃は子義の家に世話になっていたが、今は一応一刀に
も自分の家――小屋が存在していた。村民が増えた際に小屋を幾つか建てる必要に迫られ、ど
うせだからと自分の分も一緒に建てたのだ。


 世帯ではなく一人で暮らしているため他の小屋よりも幾分狭いが、少人数が集まって食事を
する分には問題はない。奉孝や仲徳を誘って食事をするのも、週に一度くらいの割合で行って
いる。女性を部屋に呼んだ回数は、この村で過ごした期間だけで、それまでの人生のトータル
をあっさりと越えていた。男女関係に限定して言えばこちらの世界に来てからの方が充実して
いるかもしれない。


 これでそれなりの関係になっているのならば文句はないものの、手を握ったりすることもな
い。実に健全な関係だった。


「良いですね。今日は本腰を入れて貴殿に説法でもしようと思っていたところです。風も士元
もどうですか?」
「稟ちゃんが行くなら風もご一緒しますよー」
「わ、私もです」
「子義は――」


 と一の子分である子義に話を振るが、先ほどまで動くのも億劫そうだった子義の姿はどこに
もなかった。何時の間に消えたのかも解らなかった。三人の軍師に目を向けるが、全員揃って
首を横に振っている。


 誰に気づかれることもなく消えたらしい。難しい話が始まる気配を察したからだろう。ただ
食事をするだけならば子義だって喜んでついてきたはずなのだが、相変わらず難しい話に対す
る嗅覚と逃げ足の速さには並外れている。


「まぁ、あいつは今回はいいか。じゃあ今晩はこの四人で――」
「お兄さん、どうやらお客さんみたいですよ」


 と、移動しようとした矢先、仲徳によってその行動を遮られた。彼女の視線を追う。村をぐ
るりと囲うように張り巡らされた柵。入り口として設定された場所の向こうから、馬がやって
くるのが見えた。


 かなり急いでいるようで、土煙の高さが並ではない。一刀達以外にも気づいた村人が何事か
と武器を持って寄って来るが、仲徳が何でもないと手を振ると三々五々散っていく。


「アレは敵だったりしないのか」
「いくらなんでもこんな村に単騎で来たりはしないでしょう。伝令係のように見えますが、誰
か急ぎの文の遣り取りでもしているのですか?」


 仲徳も士元も首を横に振る。当然、一刀にも覚えはない。荀家のように村の外にも 知りあ
いはいるが、ここまで急ぎで文を出すような間柄の人間には覚えがなかった。村の誰かに用が
あるのだとすれば奉孝か仲徳だと思うのだが、彼女らにも覚えはないと言う。


 何か良くないことでもあるかもしれない。一刀の心に不安が首を擡げる。


 やがて、早馬は村の中に入ってきた。農道を行き、村人達の視線を集めながら騎上の人間は
ぐるりと周囲を見回し、こちらに目を留めた。


 それから真っ直ぐに馬を走らせ、こちらに向かってくる。


「俺たちの誰かに用があるみたいだぞ」
「荒事になったら一刀殿、対応をお願いします」
「まぁそうなるよなぁ……」


 そこそこに腕の立つ奉孝はともかく、残りの二人は剣を持ったらそのまま倒れてしまいそう
なほどに身体が細い。戦わせるなどもってのほかだ。彼女らのために戦うことに一刀も否やは
ないが、騎上の人間は軽鎧の上に布を纏って帯剣までしている。その装いは旅なれた……もっ
と言うならば戦い慣れていそうな人間のそれで、ちょっとやそっとでは太刀打ちできなさそう
な気配を感じさせた。少なくとも自分よりは強いと判断する。子義がこの場にいないのが悔や
まれた。


 馬が一刀達の前で止まる。ひらりと降りてきた人間は、迷わず一刀の前に立った。やはりお
前か、とでも言いたげな視線が三軍師から集まるが、ここまで来ても一刀に覚えはない。


「俺は北郷一刀。相手を間違えてないか?」
「いいえ。北郷一刀殿であるのならば間違いはありません。徐先生より文をお預かりして参り
ました。お納めください」


 声が予想していたよりも高く、女性のものだと知れた。砂塵避けのための覆いを外さないた
めに顔の全体を見ることはできないが黒い髪に黒い瞳と、金髪美少女の仲徳に比べると東洋人
然とした容貌をしていた。


 差し出された二つの竹簡を手に取ると、女性はひらりと馬上に戻る。少しだけずれた覆いを
キツく巻きなおすと、馬上で村を見渡した。


「それでは私はこれにて」
「お茶くらい出すよ」
「ゆっくりしたいのは山々なのですが、これから水鏡女学院にも行かねばなりません。とにか
く急げと、徐先生にも言われておりますので」
「灯里は今どこに?」
「私が最後にお会いしたのは、洛陽の手前でした。これから洛陽を見て周り、それから涼州へ
向かうとのことです」
「わかった。灯里にはよろしく伝えてくれ」
「了解しました。北郷殿も、ご武運を」


 拳礼をすると、女性は馬を飛ばして去っていった。土煙が消えるのを待ってから一刀は竹簡
に視線を落とす。灯里から急ぎで渡された代物。それがお互いの近況を知らせるだけのもので
あるはずがない。


 軍師たちから視線が集まる。聡い彼女達は、一刀以上に事の重要さが解っているようだった。



「とりあえず、何か腹に入れようか。話はそれからだ」

 




















「結託し、菫卓を討つべしねぇ……」


 食事を手早く済ませて全員が竹簡に目を通す。二つあった竹簡は全て灯里の直筆で、一つは
彼女個人の思惑が書かれたもの、もう一つは既存の文章の写しだった。


 一刀の立場からすれば、ついにきたかという思いがある。三国志前半の山場。反菫卓連合軍
の結成だ。そういうことがあった、程度の知識しかない一刀に、書面はより具体的な情報を与
えてくれる。


 集合する場所、時期、洛陽の状況と自分たちの正当性。一刀の世界の史実と同じ物であるの
か定かではないものの、現物を目の前にしてみるとどうにも主観的過ぎるように思えた。


「菫卓ってのはどんな人?」
「姿を見たという話は聞きませんね。涼州出身の幹部が警護しているため、上級の役人でも姿
を見ることはできないようです。ただ、側近である賈詡を始め有能な軍師を多数抱え、呂布や
張遼など一騎当千の武将を配下に従えていることから、君主としての評価は決して悪い物では
ないかと思います」
「それなのに皆でよってたかって攻撃するのか?」
「宦官の専横を止めることができなかったのが大きな要因でしょう。彼らの行いのせいで洛陽
が乱れていたのは事実。それを止めたのも菫卓ですが、止めるのが遅すぎたようですね」
「対応が後手になっただけだろ? それで袋叩きにしようぜって提案に皆が賛成するのか?」
「大義名分に人は弱いのですよ。回復に向かっているとは言え、洛陽が乱れていることに変わ
りはなく、また菫卓一人が大きな権力を持っているのは揺ぎ無い事実。名家の人間である袁紹
他、今の時代力を欲する者は掃いて捨てるほどいますから、多くの人間は渡りに船と参集する
ことでしょう」
「やだなぁ、何かそういうの」


 個人の感想としてはそうだが、落ち着いて考えてみると諸侯がそういう反応をするのも解ら
ない訳ではない。出世の機会が悪く言えば暴力的に訪れるこの時代では、これが普通のことな
のだろう。そのせいで多くの人が死ぬが、それも時代なのだ。


「で、おにーさんはどうするんですか?」
「参加……せざるを得ないだろうな、今の状況では」


 戦に参加するなど幾ら命があっても足りない。頭脳も武力も自分には欠けていることを十分
に実感している一刀は、正直戦などには係わり合いになりたくないのだ。


 だが、参加するつもりの何人かが、一刀も参加することを望んでいる。それを断れるような
雰囲気ではないし、また、一刀自身も応えてあげたいと思う。自警団を組織して、彼ら彼女ら
を色々とやる気にさせてしまったのは一刀だ。その責任くらいは、取らないといけない。


「参加するならば、私たちも知恵をお貸ししましょう」
「感謝するよ。でも、いいのか? 奉孝たちなら、それこそいくらでも働き口があるだろ?」


 今の三人は知る由もないだろうが、彼女らは本来、仕える主が決まっている。その何れも三
国志の世界では超のつく有名人だ。間違っても凡百の北郷一刀と比較も出来ないくらいの彼女
らに仕える機会を棒に振ってまで、付き合うメリットがあるはずもない。


 断るならば今だ。一刀の問いにはそんな思いが込められていたのだが、奉孝は何を今更、と
にこりともせずに言ってのけた。


「貴殿を見限るつもりならば、もっと早くにやっています」
「それもそうだ……」
「愛想が尽きたらそう言いますから、私達からそういうまで、貴殿は何も心配をする必要はあ
りません。留意しておいてください」
「助かるよ。もう、俺からこんな質問はしない」
「結構です。では、連合に連れて行く人選ですが……士元、どう見ますか?」
「自警団九十一名の中から、若い方を中心に上位十名が妥当なところだと思います。これから
戦で治安も乱れるでしょうから、村にも自警団は必要です。それに、徴兵された時のことも考
えなければなりませんから、村に人は残さざるをえません」
「そんなところでしょうね。十名という数字は参集する諸侯が集める兵の数を考えると寂しい
限りではありますが……」
「その辺りはお兄さんに何とかしてもらいましょう」
「俺は兵の出てくる魔法の壷なんて持ってないぞ」
「私達も貴殿に面妖な力があるとは思っていません。貴殿に使っていただくのは口です。諸侯
に合流するまでの間、共に戦う人間を言葉で勧誘してもらいます」
「何でそんなことを……」


 既に決まっていることをすらすらと読み上げるような奉孝の調子とは逆に、一刀の声は僅か
に掠れている。一緒に戦おう、と言葉にすれば簡単だが、口にするのは難しい。第一、何を言
って誘えば良いのか全く思いつかない。


「何事にもはったりというのは重要です。十名が百名になった所で万の兵を指揮する諸侯には
誤差も良いところでしょうが、何事も少ないよりは多い方が良い。それに、人を前に何かを話
すというのは中々あることではありませんからね。将来のことを考えれば、練習をしておいて
損はないでしょう」
「俺の将来設計まで考えてくれるのはありがたいけどさ、それで兵が集まると思うか?」
「そんな弱腰ではいけませんよ。貴殿の仕事は、兵を集めることです。必ずやる、そういう気
持ちで臨んでください」
「……努力はするよ」


 そう答えるのが精一杯だった。疲れた顔をしている一刀に、士元ががんばってください、と
小さく囁く。素直な励ましが実にありがたい。とんがり帽子越しに頭を撫でると、あわ、と声
をあげるのも面白い。


「そんなお兄さんにはお仕置きですよー」


 調子に乗って士元の頭をぐりぐりやっていると、口に飴が突っ込まれる。適当に狙ったのか
思い切り前歯に当たり、地味に痛い。いつも舐めている飴をぐりぐりと口中に押し込む仲徳の
瞳はいつも通りに平坦な感情を映し出していたが、微妙に機嫌が悪いようにも見える。


 いつも以上につかみ所のない表情をした仲徳に、一刀は何と返して良いものか解らず、とり
あえずといった感じで、口中の飴に歯を立てた。子供向けのチープな甘みが口の中に広がる。


 これも間接キスになるのかな、などど、溶けた糖分以外の液体で濡れた飴をしゃぶりながら
仲徳を見ると、彼女はもう一刀のことを見ていなかった。どこから取り出したのか新しい飴を
口に咥えて、車座になった一同の中央に置かれた竹簡に視線を落としている。

 自分だけ意識するのもバカらしいな、と思いなおした一刀も、竹簡に視線を向ける。


「連れて行く人間は決まったとして、集合場所まで行くのか?」
「それに何か問題があると御思いですか?」
「そりゃあ……あるんじゃないかな」


 奉孝の視線が教師のそれになっていることに気づいて、一刀は僅かに言い淀んだ。これは、
試されている。間違った答えを言ったらいつもの冷たい視線でじっと見据えられた末、静かに
罵倒されるだろう。それも正直悪くはないが、ここはできれば正解したい。


 一刀は思考を巡らせ、正解を探す。


「集合場所まで行くと不味いと思う。まず、有力者が集まってる中でまだ兵を集めてると思わ
れるのは良くない。兵が欲しいのは皆同じだろうけど、この期に及んで自分の力に自信がない
と思われたら名前に傷がつくから、積極的に募兵はしてないだろう」
「ですが名誉のために使える兵を使わないというのも愚かな話でしょう。そうでない人間もい
ると思いますが?」
「だろうな。だから、集合地で採用された兵は集団の盟主の預かりになると思う。盟主は多分、
袁紹だろう?」
「集まるだろう人間を分析する限り、十中八九彼女になるでしょうね」


 奉孝の顔には苦々しい色が浮かんでいる。一刀は荀彧から袁紹は愚物であると聞いていたが、
奉孝もその噂は聞いているのだろう。もしかしたら、本人に会っている可能性もある。


 いずれにしても、愚物という荀彧の評価は間違ってはいないようだ。


「盟主の預かりにして、集団全体の兵として運用されるだろう。そうなると、その役割は死兵
だ。特別危険なところに配置されて、死ぬことが前提に運用される。これはとても良くない。
特に、俺たちのように弱小勢力だったら尚更な」
「では、貴殿はどうするのが良いと思うのですか?」
「集合場所が駄目なら、そこに着く前の諸侯を捕まえるしかない。問題は誰を捕まえるかって
ことだけど……」


 ここで一刀は言葉を切った。案を出したのは良いが、誰がどの程度有力なのか、一刀の頭に
は入っていない。政治や軍学についての講義を受けてはいても、現在の情勢についてまでは頭
が回っていないのだ。


 ここまで答えれば少なくとも及第点は貰えるはず。一刀が奉孝を見る目には、縋るような色
が込められていた。雨の中で濡れる子犬のよう……であったのかは定かではないが、一刀の祈
りが通じたらしい奉孝は、大きく溜息をついて『まぁ、いいでしょう……』と小さく答えた。


「誰を頼るかというのは重要な問題ですが、集まるであろう面々を考えると自ずと答えは見え
てきます。まず袁紹、袁術です。兵力、財力と申し分のない存在ですが、彼女らにあるのはそ
れだけです。平民の兵など使い捨てられるのがオチでしょう。身を寄せても良いことはありま
せん。それは私が保証します」
「それは頼もしい」
「続いて北の公孫瓉に、西の馬家ですが彼女らの主力は騎馬兵で、我々が入る隙はありません。
歩兵も必要とされはするでしょうが、腕に自信がなければ騎馬の活躍に埋没してしまうでしょ
う。より活躍をしようと思うなら、避けるべきです」
「なら曹操か?」


 その名を口にした一刀の脳裏に浮かぶのは、以前世話になった荀彧だった。曹操の所に仕官
したというが、彼女のことがあっという間に出世して重要な位置にいることだろう。同じ陣営
に属することがあれば、会う機会もあるかもしれない。自分から曹操の名前を口にしたのは、
そういう期待もあってのことだった。


「傑物との誉れ高く、厳しくも公正であると聞いています。私個人の好みからしても、曹操殿
の所に身を寄せるのに否やはないのですが……」


 珍しく、奉孝は言い難そうに言葉を切ったが、それも一瞬の間だった。小さく咳払いを一つ
して言葉を続ける。


「曹操殿の兵は既に精強であると聞きます。我々が今更行ったところで入り込む余地はないで
しょう」
「それじゃあ俺達が向かうのは……」
「孫策殿の軍、ということになりますね。袁術に頭を押さえつけられているせいで兵力が不足
しており、気風からして民兵であったとしても悪質な差別を受けたりはしないでしょう。集合
場所以前に合流するというのも、位置関係から問題ありません」
「なら、その方向で行こう。いつ出発する?」
「早い方が良いでしょう。早急に荷物を纏めて、一両日中には出発です」
「了解。それじゃあ早速皆に伝えてくるよ」
「明日でも良いのではありませんか?」
「早い方が良いだろ? 子義とかまだかまだかって言い続けてたくらいだし、準備はしてたに
してもいざとなると時間もかかる」
「解りました。では、士元、一刀殿に着いて行ってもらえますか?」
「わ、私がですか」
「全員で行くのも騒々しいですからね。それに私や風が行くよりも、貴殿が行った方が受けも
良いはずです」


 沈黙が部屋に訪れた。これが笑い所なのかどうか、一刀には判断がつかない。士元も難しい
顔でうー、と唸り一刀を見上げている。


「じゃあ、士元と一緒に行ってくるよ。奉孝達はこれからどうする?」
「一度小屋に戻ります。風と意見を詰めておきますので、何かあるようだったら遠慮なくいら
してください」
「了解。それじゃあまたな」


 士元の手を引いて、一刀は小屋を出る。最初に向かうのは村長高志の家だ。前から伝わって
いたと言っても、自警団員が減るということは村の安全にも関わる話である。まずは彼に話を
通さなければならないだろう。


「一刀さん、難しい顔してます」
「いよいよ旅立つことになるからかな。何だかんだでこの村にも長居しちゃったし、出て行き
ますというのは、何となく言い出しにくいんだ。そういう意味じゃ、士元がいてくれて助かっ
たよ。おじいさんおばあさんに受けが良いもんな。頼りにしてる」
「が、がんばりましゅ!」


 噛んだ。うぅ……と口元を押さえて呻く士元を見て、一刀は声をあげて笑った。
 



















「おいねーちゃん、話が違うぜどういうことだ?」


 宝譿の地味に座った声に、奉孝は静かに溜息をついた。


 孫策の軍に合流するということで話は纏まったが、事前に風と相談した時には曹操軍とどち
らにするか、四人で話し合うということになっていた。それを勝手に話を纏めたのだから、宝
譿――風と言えども一言くらいは言わなければ気が済まないはずだ。


 元々、どちかに相談して決めようというのは稟が自分で発案したことだ。どちらでも良いと
いう意見だった風はそれに追従していた形になる。どちらでも良いと主張していた以上、話が
代わったところで風に損はないが、稟が自分で意見を翻したという事実は、風の興味を引くに
は十分だった。


 風のぼんやりとした瞳の奥には、正直に理由を話すまで梃子でも動かない、という意思が見
て取れた。正直に話すのは恥ずかしい話ではあるが、それなりに長い付き合いである風の追求
から逃れられるとも思えない。


 溜息と共に、稟はこの場で恥をかく覚悟を固めた。


「曹操殿は才人を愛されると聞きます。私や風、士元も彼女と知己ではありませんが、共に仕
事をすればきっと重く用いられることでしょう」
「大きくでましたねー」
「事実ですからね。ですが、一刀殿はそうはいきません。見所があるといっても、現状、彼は
それほど使えるという訳ではありません。いくら曹操殿と言っても、一刀殿を重く用いるとい
うことはしないでしょう」
「風達が仕官する代わりに、という条件を付けることもできると思いますけど?」
「臨時雇いならばまだしも、公正な曹操殿が実力不相応な地位を好んで用意するとも思えませ
んし、何よりそういう配慮は一刀殿のためになりません」
「尤もな意見だと思いますけど、それは孫策軍でも同じことですよ。力を示せば今の時代、自
分のところに仕官を勧めるのは当然のことです。曹操殿が公正で才人を求めるという要素はあ
るにしても、風たちからすればそんなの、大した差ではないと思います。それでも稟ちゃんが
意見を変えたのは、もっと他のことが原因だと風は思うのですが……」


 どうですか? と首を傾げる風に、稟は瞠目した。風にしては珍しく深く突っ込んでくる。
言いたくはないのだが、言わなければならないようだ。


 本当に恥をかく覚悟を固め、稟が口を開く――


「まぁ、稟ちゃんも乙女ですからね」


 解ってますよー、と言った顔で風が顔を逸らした。ふふふーと笑うその顔に、覚悟が肩透か
しになった稟はカチンときた。


「下種な勘ぐりはやめてください。私の何処が乙女だと?」
「お兄さんがお世話になった軍師さんが、曹操殿の陣営にいるから遠ざけたいと思ったんです
よね?」


 事実そのままを言い当てられて、稟は押し黙る。


 確かにその言葉だけを見れば、乙女と言われても仕方がないが、自分の中にそんな感情がな
いことは稟本人が良く理解している。風が期待しているような、男女の感情などあるはずがな
いのだ。


「稟ちゃん、鼻血が出てますよ」
「貴女のせいですよ!」


 風は懐から布を取り出すと、なれた様子で鼻をかむように促してくる。ちーん。鼻の奥に溜
まった血を残らず出し切ると、意識も幾分すっきりとした。


「一刀殿の思想の行く末を見てみたいと思いました。それは貴女も同じはずです。ですが、一
刀殿が自分の意思で寄る辺を決めてしまうと、彼の思想を実現することは難しくなってしまい
ます。曹操殿は強烈な個を持たれたお方、きっと一刀殿もそれに従ってしまうことでしょう」
「だから、お兄さんが好き好き言っている人とは、なるべく接点を作りたくないということで
すね」
「好き好き言っていた記憶はありませんが、一際興味を持っているのは事実でしょう。一刀殿
の話と噂を総合する限り、例え顔を合わせることがあっても、陣営に引き込むような誘いをし
てくるとは思えませんが……」


 荀家に居た一月の間も、基本的に罵詈雑言を浴びせられて過ごしたという。それも悪くはな
かったよ、と静かに笑う一刀に、稟は特殊な性癖でもしているのではないかと疑い一度鼻血を
流したものだが、殴られたり蹴られてり罵られて性的興奮を覚えるような特殊性癖はないと判
断するに至った今では、そこそこに仲の良い異性の友達くらいの認識をしている。


「思えませんが、それでも誘ってくることがないとは言えません。ですから孫策殿の陣営に参
加しようと思ったのです。勝手に言い出した事に関しては謝罪します」
「別に良いですよ。風はどっちも良かった訳ですから」


 風には本当に気にした様子はない。勝手をしたことを怒られることが心配ではあったが、そ
んな様子もない。それに稟は心中でそっと、安堵した。あの場で風に反対されていたら、話は
もっとややこしいことになっていた。


 最悪、一刀本人が曹操陣営に行きたいと言い出したかもしれない。結果、話し合いになれば
稟が自分の意思を通しただろうが、自分の意見が通らなかったという事実は残る。無駄な対立
がなくなったのはありがたいことだ。


 話はそれで終わりと、風はそれきり何を言い出さず黙々と飴を舐める作業に戻った。風が会
話を切り出してくる様子はなく、沈黙が苦になっている様子もない。その沈黙が稟には辛かっ
た。


(やはり怒っているのでしょうか……)


 いくら風相手でも、それを直接聞くのは憚られた。


 居心地の悪い空気は、一刀と士元が戻ってくるまで続いた。

















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十三話 反菫卓連合軍編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57




「今日も疲れたわね」


 兵舎の天幕三つ分ほどの広さを誇る個人用の天幕。そこに置かれた背もたれ肘掛のついた椅
子に雪蓮は身を投げ出すようにして座った。そのまま、うーん、と伸びをする。背筋を伸ばす
ことで強調される豊かな胸。惜しげもなく晒されるすらりとした長い脚。女の自分でもどきり
とせずにはいられない色香がある。男の兵には、相当な目の毒だろう。


「今日も募兵に応じる人間は来るかしら」
「でしょうね。払いが良いという噂は明命を使って広めてあるし、私達の場所は分かるように
してある。この辺に住んでいて戦で稼ごうと考える人間は、こぞって孫呉の軍を目指すはずよ」
「使える連中はいた?」
「中々いないわね。ままならないものだわ」


 はぁ、と冥琳は小さく溜息を吐く。


 人材確保は、兵数を袁術に制限されている孫呉にとって急務である。長いこと兵の増員は却
下され続けてきたが、有事ということでその制限が解除されているのだ。新たに雇用するのは
今まで土を耕していた素人ばかりだが、思春が調練をほどこし、洛陽に辿り付くまで実戦を経
験すれば、素人も精強な兵士にならざるを得ない。


 そういう人間をできるだけ多く囲いこむことが、この戦の目的の一つでもあった。雪蓮にも
冥琳にも、戦全体の勝利についてはそれほど拘りはない。袁紹が召集し、諸侯が集まるのだ。
これは勝って当然、そして勝たなければならない戦である。


 今後の戦略についても、勝つことを前提で組まれている。その際に必要なのは兵力、次いで
情報だ。兵士は道中雇用できるだけすれば良い。扱いに不満を持っている兵や将を見つけたら
引き抜いても良い。幸い、蓄えだけはそこそこのものがある。


 地元の豪族も、今のところ協力的だ。孫呉が飛躍するためという理由ならば、援助を惜しん
だりはするまい。


 金を理由に引き抜かれる人間がどれほどのものかと揶揄する人間もいる。事実、冥琳も金を
理由に動く人間は好きになれないが、先立つものがなければ人間は生活できない。それが最後
の一押しとなるのなら、金だって何だって使う覚悟だ。戦いにおいて数というのはそれほど重
要な要素なのだ。


「明命と言えば、味方の情報はどう?」
「万全よ。袁術はこちらに戦力のほとんどを出しているから、領地の兵は質の悪い人間ばかり。
大して私達は数こそ少ないけれど、祭様と蓮華様を将として残してきた。事前の根回し、あの
二人ならば上手くやってくれるでしょう」
「蓮華についてはちょっと不安だけどねー」


 正直な雪蓮の物言いに、冥琳は苦笑を浮かべる。蓮華は雪蓮の妹。雪蓮の子供がいない現在
では雪蓮の持つ代表の権限を真っ先に受け継ぐべき人間であるが、大器の片鱗は感じさせるも
のの、現在の実力は雪蓮の言う通り今ひとつだった。


 蓮華が孫呉ではなく外にいたのであれば、冥琳もその実力に目を見張っただろう。今ひとつ
と言ってもそれくらいの実力はあるのだが……惜しいかな、彼女の姉は正真正銘の天才で、君
主として申し分ない力量を持っている。


 比較すべきではない。個々の実力を見るべきだと思っても、部下、仲間としてはどうしても
比較してしまう。雪蓮が姉であるというのが、蓮華にとっての幸福であり、同時に不幸でもあ
った。乗り越えるべき壁として、雪蓮はあまりにも大きい。蓮華にとっては自慢の姉ではある
のだろうが、同時に悩みの種としても存在している。


(力を持ちすぎるのも、時には考え物ね……)


 今回の作戦では祭がついているとは言え、蓮華にとっては自分で指揮する初めての大きな作
戦となる。


 これが飛躍の一助になってくれれば良いが……と、思わずにはいられない。


 雪蓮を見る。何でもない風に装っているが、このへそ曲がりが妹思いなことは冥琳が一番知
っていた。この手のことでからかって怒らせると長く尾を引く可能性があるので、決して軽
軽しく口にしたりはしないが、蓮華に対する感情は自分の何倍、何十倍はある。こういう時に
無関心を装うのも、照れと期待の裏返しなのだ。


「ニヤついてどうしたの? 気味が悪いわよ、冥琳」
「そうね。悪かったわ」
「悪いと思ってる感じじゃないけど、まぁ良いわ。で、他の情報は?」
「曹操は思っていたよりも兵を連れてきていないようよ。精強ではあるけれど、数はそれほど
でもない」
「手のうちは見せたくないってことかしら。袁紹のところは?」
「袁術と同じ。これ見よがしに着飾った兵が凄い数……質の方は想像の通りよ。ただ、袁紹の
側近の顔良と文醜、この二人は侮れないわね」


 特に、顔良だ。袁紹が愚物であるとは周知の事実であるが、その愚物を陰日向に支え、勢力
維持に心血を注いでいるのが、彼女であるという。いわば影の実力者だ。無計画な方針を袁紹
が打ち出しても、軌道修正を顔良が行うことで、被害を最小限にまで食い止めている。


 冥琳の目から見ても、並の手腕ではない。加えて、顔良は武にも長け、一軍を率いて戦にも
出るという。文武両道とはこのことだ。袁紹のお気に入りでなければ是非とも呉に欲しいとこ
ろではあるが、袁紹の愚かさと同時に二枚看板の忠誠心の高さは遠く呉にまで聞こえてきてい
た。


 どれだけ大金を積もうとも、良い条件を出そうとも、袁紹自らが暇を出さない限り、顔良が
離反をすることはない、というのが冥琳他、呉の軍師が出した結論である。それに、袁紹本人
も無茶にへこたれない顔良をそれなりに気に入っているようだ。周囲にどう見えるかは別とし
て、本人達の関係は良好らしい。


「つまりその二人さえどうにかすれば、後は烏合の衆ってことでしょ?」
「烏合の衆でも数がいれば脅威よ」
「それを何とかするのが軍師の仕事でしょ。その時は期待してるわよ、冥琳」
「はいはい……」


 呆れた風を装って見るが、雪蓮に頼られることに悪い気はしない。彼女の軍師は自分しかい
ないのだと、思える瞬間である。


「明命です! 入ってもよろしいでしょうか!」


 静かな喜びに冥琳が浸っていると、天幕の外から声がした。密偵役の明命である。定時の報
告の時間ではない。何か緊急の案件だろうか、と雪蓮と視線を交錯させ、冥琳は入室を許可す
る。


 失礼します! という声とほぼ同時に、二人の前に跪いた少女の姿が現れる。相変わらずな
身のこなしに感心しながらも、冥琳は雑談する幼馴染から孫呉筆頭軍師の顔に戻って、明命に
先を促した。


「報告します。本日も募兵に応じて近隣の住民から志願する者が現れました。現在数は二百。
まだ増えておりますので、正確な数字は改めてご報告に参ります」
「そんな嬉しい報告をしにきた訳ではないな? 用件を早く」
「はい。その中に五十人ほど……正確には四十八人の集団がありました。ここまで来る道中で
志を説き、兵を募ってきたそうです」
「ありがたいことだけど、五十ってのはちょっと少ないわね……」
「個人で集めたらそんなものでしょう? それで、その約五十がどうしたの?」
「その中の三人が、お二方に会わせろと言っています。何でも自分達は旅の軍師であるから、
特別に用いてほしいと」


 明命の物言いに、冥琳と雪蓮は思わず顔を見合わせた。


「どうする?」
「追い返すというのも一つの手よ」
「追い返したら兵も帰っちゃうわよ?」
「五十なら誤差みたいなものでしょう。兵士と違って軍師は頭数がいれば良いというものでも
ないわ」


 孫呉は勢力の規模に比べて軍師が多く、兵士ほど不足している訳ではない。別働隊である蓮
華の部隊により軍師の数を割いたため、頭数で言えば不足していると言えばしているが、それ
は冥琳と穏だけでも、十分に処理できると思ったからこそだ。


「冥琳は必要ないと思うの?」
「末端の処理を文句を言わずにやってくれるというのなら良いのだけどね。この時期に登用を
望むということは、そうじゃないということでしょう」
「良いんじゃない? 野心ある人って私嫌いじゃないわよ」
「野心の方向性が問題なのよ。大事な時期に問題を自ら抱え込んでどうするの……」
「そう? 仲良くやっていけると思うんだけどな、私」
「根拠を聞かせてもらおうかしら」
「勘よ、勘」


 あっけらかんと言ってのける雪蓮に、冥琳は押し黙る。勘に頼って行動するなど、軍師の許
すところではないが……


「貴女の勘は当たるのよね……」


 その勘に、何度か命を助けられたことがある。閃きと、その閃きに命を預けることのできる
決断力が、雪蓮の魅力の一つだ。武将として、友人として、何度も道を切り開いてきたそれを
持ち出されては、冥琳も首を縦に振らざるを得ない。


「貴女の勘に敬意を表して、とりあえず会うだけはあってみましょうか」
「ありがとう、冥琳」
「ただし、使えないと判断したら放り出すから、そのつもりでいてちょうだい」
「大丈夫よ。きっと使える人たちだから、あ、そうだ。会うついでに試してみたいことがある
んだけど――」


 そう言ってにやりと笑う雪蓮の顔を、冥琳は何度も見たことがある。彼女の決断は結果とし
て間違うことがない。雪蓮という人間は、閃きで最良の選択を選ぶことができる、正真正銘の
天才だ。


 ただ、天才はその過程にまで頓着しない。結果さえ自分の望むものであれば、道中どんな厄
介ごとが待っていたとしても、笑いながら弾き飛ばして突き進むのである。力強い本人はそれ
で良いかもしれないが、道を共にする人間にとっては堪ったものではない。


 そして大抵の場合、道を共にするのは冥琳の役目だ。面倒くさいことになりそうな気配に、
いっそ聞く前から却下してやろうかという気持ちが冥琳の中で持ち上がる。強行に反対すれば
いくら雪蓮でも聞き入れてくれるだろう。却下するなら今しかないのだが……


「解ったわ。ただし、あまり大掛かりなものはなしよ」
「流石冥琳。愛してるわ」


 ぎゅー、と気持ちを込めて抱きしめられる。飼い猫のように喉を鳴らす雪蓮の髪に、冥琳は
ぽんぽんと手を乗せた。上手く乗せられた気がしないでもないが、雪蓮が満足するならそれも
良いかなと思える。


 何だかんだ言って、冥琳は雪蓮という人間が好きなのだった。話を聞く理由など、それだけ
あれば十分である。
























 周泰と名乗る少女に先導されて、稟は歩いていた。傍らにはいつも通りぼーっとした風とい
つも以上におどおどした士元がいる。風に関しては何も心配していないが、士元はもう少しど
うにかならないものかと思う。


 半年ほど前には自分と話すのにも一苦労だったことを考えるとこれでも進歩した方だが、人
と話すのを苦手としているようでは、軍師として仕事ができない。


 士元に視線を送る。もう少ししゃんとしなさい。声に出さずに念じただけだったが、それで
も士元には伝わったようだった。背筋を伸ばし、意識して表情をキリリとしてみせる。本人的
にはそれでしゃんとしたつもりなのだろう。


 確かに稟にもその意思は伝わってきたが、右手と右足が一緒に前に出ている現状では、認め
られるのは努力だけだ。静かに息を吐く。誰にも気取られないようにしたつもりだったが、前
を歩く周泰がちらりと視線を向けてきた。


 非常に耳の良い少女である。よく見ればこれだけ近くにいるのに足音が全くせず、刀をさげ
ているのに音もしない。その種の訓練を受けているのは見て取れた。


 そんな少女に案内されているという事実に、もしかしたらこのまま殺されるのでは、という
疑念が稟の脳裏を過ぎった。


 剣を使えるには使えるが、武を専門にしている人間からすると素人も同然の腕でしかない。
一緒にいる風や士元は戦うなど論外だ。兵に囲まれるまでもなく、眼前の少女一人だけでも自
分たち三人の首を落とすのに瞬き一つの時間もかけないだろう。


 軍師として雇ってくれといきなり現れるのも、我が事ながら怪しいものだ。今は大事な時期。
疑り深い人間ならば情報を引き出せるだけ引き出して殺すということも考えられないではない。
軍師と偽った殺し屋という可能性だってないではないのだ。


 力ある者を多く望むのは力ない民だけだ。多くの有力者にとっては、現在、そして将来相対
するだろう敵の数は少なければ少ないほど良い。力ある者を破ってこそと考えるものもいるが、
理想論を大真面目に語ることができるのは、本当の強者かただのアホだけだ。


「こちらが孫策様の天幕になります」


 周泰に案内されたのは、陣の中でも一際大きい天幕だった。見た目の豪華さから案内されず
とも一目で重要な人間がいるのだと知れる。どうぞ、と先を促す周泰。何気ない仕草ではある
が、こちらの一挙手一投足に気を払っていた。妙な動きをすれば命はないぞ、と顔ではなく行
動で示している。


 稟は小さく息を吐いた。行きますよ、と二人を促し、率先して天幕の中に入る。大きさに反
して天幕の中は質素な装いだった。世話係一人もいない。幹部がずらりという光景を想像して
いただけに、拍子抜けである。


 少なくとも、寄ってたかって袋叩きにされる展開はなさそうだ。嫌な安心の仕方だなと思い
ながら、機械的に状況を確認する。上座に椅子に座った人間が一人と、その傍らに控える人間
が一人。両方とも赤い衣を纏った、肌の浅黒い女性である。


 それらが孫策と周瑜であることは一目で見て取れた。礼を失してはいけない。稟は迷わずに
孫策の前に跪いた。続く風と士元もそれに倣う。


「お初にお目にかかります。私は郭嘉、字を奉孝と――」
「あー、少し待て」


 声を挙げたのは、上座に座った女性だった。跪いた状態のまま、奉孝は肩越しに振り返る。
声をかけた立場が上の人間を肩越しに振り返るなどあってはならないことだが、今この状況な
らば許されるという確信があった。


 現に、上座の女性は肩越しに振り返った奉孝を叱責することもなく、顔には苦笑を浮かべて
いる。その視線は奉孝と、跪かれた女性とを往復していた。頭の上で女性が肩を竦めるのが解
る。何かを諦めるように、上座の女性は大きく大きく溜息をついた。


「ウケると思った案が滑った気持ちはどう?」
「流石に私も一瞬も騙せないと思わなかったわ」


 ははは、と明るく笑いながら、女性二人は立ち居地を入れ替えた。稟も改めて上座に座りな
おした女性に向かい、身体の向きを入れ替える。


「改めて、私が孫策よ。そっちが軍師の周瑜。貴女たちの名前を聞かせてもらえるかしら」
「私は郭嘉、字を奉孝と申します」
「程昱、字は仲徳です」
「ほ、鳳統です! 字は士元ともうしまひゅ」


 やはりというか何というか、士元は口上を噛んだ。うぅ、と顔を真っ赤にして俯くのが気配
で分かる。孫策の気質によっては機嫌の急降下が予想されたが、士元を見る孫策の瞳には慈愛
の色が見られた。士元のような人間は、孫策に受けが良いようである。


「最初に聞いておくけど、どうして気づいたの? もしかして私に会ったことある?」
「お会いするのは勿論、お見かけしたこともありません。正真正銘、孫策様とは本日が初対面
でございます」
「ならどうして?」
「孫策様に関しましては、容姿に関して噂を聞いたことがございました。桃色の髪に青い瞳と
いうことでございましたので、お二方を比べた時には貴女様が孫策様であると確信できました」
「髪と瞳の色だけじゃ、根拠に弱いわね。似た容姿の人間をおいて天幕の外に控えてるってこ
とは考えなかったの? こういう悪ふざけを考えるのなら、外からこっそり見てるってことも
考えられるんじゃない?」
「孫策様は何事もご自分でなされることを好まれるとも聞いております。自ら仕掛けたのであ
れば、間近で見ようとするのではないかと推察いたしました」
「……んー、少しは慌ててもらえるかと期待してたんだけどね」
「申し訳ございません。これも、性分であります故」


 深々と頭を下げると、孫策は笑い声を漏らした。愉快で堪らないといった雰囲気に稟は山を
一つ乗り越えたことを感じた。


「それで特別に用いてほしいということだそうだけど、どういうこと?」
「反菫卓連合軍に参加するに当たり、我々の知恵を使っていただきたく参上いたしました」
「私に仕えたい、ということ?」


 笑みを浮かべているが、視線は欠片も笑っていない。こちらの考えを底の底まで読もうとす
る猛禽のような瞳に、背筋が震えるのを感じる。その問いにすぐに答えようとして、奉孝は一
拍、間をあけた。小さく息を吸って、吐く。


「私どもを雇っていただけないか、という提案でございます」


 仕える気はないかという問いに、否定の意味を返す形で放たれた言葉に、孫策と周瑜は顔を
見合わせた。これは『お前に仕える気はない』と宣言したに等しい。


 気の短い人間ならば、ここで激怒したろう。現に周瑜の顔には不快の色が浮かび上がってき
ている。ここで追い出されればそれまでだ。窮地にある自分を振り返り、背筋がぞくぞくする
のを感じる。


 だが、策が上手く行くという確信はあった。孫策は身を乗り出して、こちらを見つめている。
噂どおりの天才肌の人間。人を見る目は確かだという評判は嘘ではない。


 孫策の視線に、周瑜は大きく頷いた。稟にはそれが『お前に任せる』という意思表紙に見え
た。


「貴女たちの値段は?」


 その問いに、稟は勝利を確信した。笑みが浮かびそうになるのを隠しながら、用意しておい
た答えを告げる。


「我々三人に関しましては、三人で寝泊りできる天幕だけで十分でございます。後は食を保障
してくだされば、それ以上は望みません」
「他の連中……五十人ほど兵を連れてきたと部下が言ってたけど、彼らについて何かあるの?」
「その兵の中に一人、是非使って頂きたい人間がおります」
「将軍にでもしろって?」
「滅相もございません。分不相応な地位は身を滅ぼすというもの。現在の彼の器量ならばどん
なに贔屓目に見ても百人隊長辺りが精々でございましょう。率いてきた兵に約五十の兵を与え
てくだされば、それで十分にございます」
「百人隊長とはまた、低くでたものね。その彼は、どんな人?」
「一言で言うなれば凡人です。知も武も特筆すべきところはありません。どちらも筋は悪くな
いと思いますが、その二つのどちらかで天下に飛躍することはありませんでしょう」
「なんでそんな人間を売り込みにきたの?」
「いつか彼が語った志というものに、僅かではありますが心を打たれました。そんな世界であ
るのなら、私も見てたい。そう思ったのです。彼が英傑であったならば、私も手出しはしなか
ったでしょう。強烈な光を放つ人間には自然と人が集まるものです。ですが、先にも申し上げ
ました通り、彼は凡人です。一人でそれを成すには才も地力も足りない。私どもが手を貸して
いるのは、そんな事情があってのことです」
「凡人に付き合って栄達の道を諦めてるって聞こえるんだけど、貴女はそれで良いの?」
「我々はなんとなれば、独力でも身を立て名を挙げることができますが、凡百の身である彼に
はそれは敵いません。我々は彼を必要としませんが、彼は我々を必要としています。同道する
のはそれが理由です」
「その凡人くんは、私よりも興味深い?」


 孫策の視線に、背中がぞくりとした。自らに絶対に近い自信を持つ強者の視線だ。間違えた
答えをすれば不興を買う。そして、ここで不興を買うことは命の危険を意味した。


 否定することは簡単だが、嘘を見抜けない孫策でもないだろう。ましてここには当代最高の
軍師の一人である周瑜もいる。嘘を嘘として見抜かれるようでは、軍師失格だ。僅かの逡巡の
後、奉孝は正直に答えることにした。


「才に溢れた貴女様に栄達の道を見出すのは容易い。凡人を導いてこそ、軍師の腕の見せ所が
あるというものです」
「ふられちゃったわ、冥琳」


 孫策は声をあげて笑った。冥琳と呼ばれた周瑜が、額を押さえて苦い顔をしている。厄介な
ことになった、とその表情が物語っている。自分たちの扱いに関して、二人の意見は対立して
いたようだった。賛成派だろう孫策が笑い、反対派だったろう周瑜が苦い顔をしている。


 処遇がどうなるかは、一目瞭然だった。


「良いでしょう。貴女の出した条件を一度全て飲むわ。三人とも軍師として雇用し、凡人の彼
は百人隊長の地位を授ける」
「ありがとうございます」
「といっても、今回は新兵の比重を大きくした部隊を一つ編成するつもりなの。その内の百人
隊だから言っちゃえば新兵の集まりでしかない訳だけど、そこは恨まないでね」
「十分です。熟練した兵の指揮が彼にできるとも思えませんので」


 ただの兵士ではないという状況こそが、奉孝の望んだものだった。ただの兵と指揮する立場
とでは、つめる経験が圧倒的に異なる。知も武も突出して光るものがないのならば、可能な限
り生存できる環境においておいた方が良い。相対的な話であるが、直接戦うのと指揮をするの
とでは、まだ指揮をする方が一刀には向いている。


「さて、凡人の彼は百人隊長として扱うよう通達を出しておくわ。新兵部隊を指揮することに
なる将軍はうちの娘の中でも荒っぽい方だから、下手を打つと一兵に格下げになるかもしれな
いけど、そこは運命とでも思って諦めてね。不相応な地位においておけるほど、私達には余裕
がないの」
「仰るとおりです」


 環境を整えるまでが稟の仕事。そこから成果を出すのはあくまでも凡人の彼、一刀の仕事だ。
戦に出る以上、そこで死ぬことだってある訳だが、その可能性については四人で議論し尽くし
ている。一足飛びに地位を得ることはできない。時間をかけて人を集め、力を蓄える選択肢も
ないではないが、時代が動くこの状況を見逃すことはあまりにも惜しい。


 結局は、どこかで危険な橋は渡らなければならない。それが遅いか早いかの違いだけだ。特
に一刀のような人間が飛躍しようと思ったら尚更である。


 実は高貴な血筋であるとか、都合の良い背景でもあれば良かったのだが彼の出自に関してど
れだけしつこく聞いても答えをはぐらかすばかりで、口を割ろうとしない。


 これがお話であるのなら、ひたすらに隠そうとするその過去にこそ、その人物を飛躍させる
鍵があるものだが、何が自分にとって都合良く働くかどうかを判断できないほどに、一刀も愚
かではない。


 誰にだって秘密にしたいことの一つや二つはある。一刀の過去も、それに触れることだと判
断した稟は、それ以上を聞くことをやめていた。彼は北郷一刀で、自分はそれを支える軍師。
それだけ解っていれば、現状は十分だ。話したくなれば一刀の方から話してくるだろう。


「凡人の彼はそれで良いとして、しばらくは貴女たちの能力を見させてもらうわ。鳳統は私、
郭嘉は周瑜に、程昱は凡人の彼が配属される新兵部隊の隊長を補佐する軍師として働くこと。
今日から仕事にかかってもらうわ」


 御意に、と答える中で、分散して配置されることをあまり考えていなかった郭嘉は、内心で
頭を抱えていた。三人で一つの天幕という案が通り、風が一刀と同じ部隊に配属されたことで
最悪の状況は免れたが、三人で顔を合わせる機会が少なくなるのはあまり宜しくない。


 しかし、こればかりは文句を言うこともできない。雇い主は孫策だ。雇用される側がいきな
り配置に文句を言っては流石に角が立つ。風が一刀の近くにいることができる。この状況をこ
そ、今は喜ぶべきだ。


「お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」


 跪いたまま、風が質問の声をあげる。


「風や凡人のお兄さんが配属される新兵部隊の隊長さんというのは、どういう方ですか?」
「どういう方ねぇ……」


 うーん、と孫策は腕を組んで考える。


「一言で言うなら、かわいい娘よ」


 その評価に、周瑜が噴出すのが見えた。稟を含めた三人が視線を向けると、何でもない風を
装って視線をあさっての方へ向ける。


 さらに噴出すのを堪えているような顔だった。嘘を吐かれているのか。孫策の顔を見ると、
彼女の方は自信満々だった。自分の言葉に疑いを持っている様子はない。かわいいと思ってい
ることは事実なのだろうが、きっとかわいいだけではないに違いない。


 少なくとも、士元のように直球でかわいい人間でないことは確かだろう。会話したのはこれ
が初めだが、孫策が遊びを好む人間だということはよく理解できた。隙あらばこちらをからか
おうとする厄介な人間。誰をしても堅物とされる稟のような人間とは、とても相性が悪い。


 なるべくならば、目を付けられないようにしよう。孫策とは視線を合わせないようにしなが
ら、稟は固く心に誓った。






















「お待たせしましたお兄さん」


 軍団の大将である孫策に売り込みに行って来ると出て行った三軍師の内、戻ってきたのは仲
徳だけだった。彼女は当たり前のようにの隣に立つと、指示があるまで待機と指示を出され手
持ち無沙汰になっていた一刀達を先導して歩き出した。


 金髪の美少女に五十人からなる人間がぞろぞろと連れられる様は、傍から見れば間抜けに見
えるのだろう、何だこいつらは、という奇異の目がそこかしこから向けられてくる。そういう
視線に慣れていない連中は居心地悪そうにしているが、仲徳には何処吹く風だった。


「先生、他の二人はどうしたんです?」


 そんな中、他人の視線など毛ほどにも意識しない子義が仲徳に質問する。問われることを今
か今かと待っていたのだろう、振り返った仲徳の顔にはふふふー、得意そうな笑みが浮かんで
いた。


「風たちの頑張りで売り込みに成功しました。士元ちゃんは孫策様の、稟ちゃんは周瑜様の預
かりになったので、しばらくは別行動になりますね。あ、風はお兄さんが配属になる隊の隊長
さんの預かりになりましたから、これからも一緒ですがー」
「大将とその側近の預かりになったのか。二人とも、いいクジを引いたもんだな」
『……この場にいない女よりも今ここにいる女に声をかけてやるのが、男の務めってもんだぜ、
兄ちゃんよ』
「これ宝譿、めったなことを言うものではありませんよ。お兄さんの気がきかないのは、いつ
ものことなんですから」


 他人の口を借りるという迂遠な、けれどもこれ以上ないくらいストレートな方法で対応の不
味さを忠告された一刀は、居心地悪そうに押し黙る。遣り取りを眺めていた面々から、笑い声
が上がった。流石先生、と囃したてられもする。士元ほどではないが、見た目美少女な風はそ
れなりに人気があるのだ。


「その気が利かないお兄さんから質問だけど、俺たちはこれからどうなるんだ?」
「配属になる隊は新兵ばかりみたいですけど、気の利かないお兄さんはそこで百人隊長をする
ことになりました」
「ということは、ここのメンバーに五十人加えるってことか」
「そういう風になるように稟ちゃんが頑張ってくれたので、お兄さんは後でお礼を言っておい
てくださいね」
「奉孝にはいくら感謝しても足りないな」


 戦場ではたった一度のヘマが命の危険に繋がる。自分の実力で百人隊長というのはでき過ぎ
な気もするが、意思疎通のできる面々と離れ離れにならなかったことを考えれば、その程度の
苦労などどうということもない。


「後の問題は、俺の上司がどういう人かってことか。どんな人か聞いてるか?」
「孫策様はかわいい人と言ってましたね」
「かわいいか……士元みたいな?」
「…………」


 今度ははっきりと、仲徳は一刀を無視した。頭の上の宝譿すら、一刀から視線を逸らしてい
るように見える。子義以外の後ろの連中は盛大に溜息をついていた。自分の人格が全否定され
たようで面白くなかったが、そこまでやられてようやく自分が失敗したことに気づいた。


 しかし今から『ごめん、仲徳もかわいいよ』と言うのもそれはそれで手遅れのような気もす
る。頭を捻って考えてみても妙案は思い浮かばない。こんな時こそ普段の勉強の成果を発揮す
べき時と思うものの、奉孝や仲徳の行う講義に女性の扱い方というのは含まれて入ない。


(というより、女の子から女の子の扱い方を教わるようじゃ、男として終わりだよな……)


 自分で習得するしかない訳だが、会話一つで女の子の機嫌を悪くするようでは、道は遠そう
だ。沈黙する仲徳と平然としている子義、これだからうちの団長は……と小声でぼそぼそと話
す団員――後から加わった者は自警団員ではないため団員ではないのだが、子義が団長と呼び
続けるために、自分たちは『団』なのだという認識が定着した――でぞろぞろと陣の中を歩く。


 待たされていたのは比較的外周の中でも比較的中央に近い位置だったのだが、段々と外の方
へと誘導されていく。当然、外周にある物ほど重要度は低く、集まる人間の地位も下がる。兵
として来たのだから当然とも思うが、それでも段々と外に追いやられていくのは一刀の心に不
安を覚えさせた。


 ひょっとしてこのまま人気のないところに連れ出されて仲徳に仕返しをされるのでは……と
埒もない妄想が一刀の頭の中に生まれた頃、一刀たちの行く手を遮るように、男が現れた。


 柄の悪い男である。身長は一刀よりも頭一つは高い。装いは一刀とは比べるべくもない正規
兵のものだ。高位の者には見えないが、それなりの立場にいるのだということは一刀にも理解
できた。


「北郷と程昱ってのはお前達か」
「俺が北郷です」
「程昱は私ですねー」


 男は一刀と、一歩だけ前に出た仲徳をじろじろと眺め回す。値踏みをするような視線に身が
固くなるのを感じたが、男が一刀達を見ていたのは僅か数秒だった。


「お前達二人はついてこい。頭に引き合わせる。残りの連中は――」


 言葉を切って、男は周囲を見回し東の方角を指差す。


「あっちに新人が集まる場所がある。今日来たって言えば、そこにいる連中が案内してくれる
だろう。そのうちこいつらもそこに行くから、適当に待ってろ」
「了解しました。では団長、またあとで」


 残りの連中を代表して子義が応答すると、彼らは特に文句を言うでもなくさっさと歩き出し
た。素人にしては迅速な行動である。指示されたらとにかくさっさと動けというのは、調練の
時に三軍師全員が口を酸っぱくして言っていることだった。


 士元を勢いで胴上げするような愉快な連中ではあるが、やる時はやるのだ。


 見れば、団員たちを見て男が僅かに目を丸くしている。少なくない驚きの色に、一刀は胸が
すくような思いを抱いた。


「……ついてこい」


 呆けていた自分を誤魔化すように、低くした声で男が指示を出す。何気なく仲徳を見ると、
彼女も一刀を見上げていた。何を言うでもなく、二人して微笑み会う。仲徳の笑顔は不敵だっ
た。


 自分のしてきたことが評価されるというのは、どんな時、誰が相手だったとしても嬉しいも
のだ。不敵に笑う仲徳のその表情からは、先ほどまでの機嫌の悪さを伺いしることは出来ない。


 許してくれたのだろうか。仲直りを意図して手を差し伸べる。仲徳もその小さな手を差し出
し――意識が手に集中していたのを逆手にとって、思い切り足を踏みつけてきた。


 仲徳は小さい。つまりは軽い。その軽い仲徳が踏みつけたとしても威力はタカが知れている
が、油断していた所にこの攻撃は効いた。何より、現代と異なりこの時代では履物など簡素な
物である。防御よりも攻撃する側が有利なのだ。軽い女の子の攻撃でも、痛いものは痛い。


「……いこうか」


 それに声を挙げないのは、男としての意地だ。強がっているのが解ったのだろう。仲徳は得
意そうな笑みを更に深くした。声に出すとしたらふふふふー、だろう。ふが一個多い。それだ
け得意さも増しているということだ。


 普段ならば小憎らしいとでも思っていたろうその笑みも、直前に落ち度があった身としては
ありがたい。少なくとも、今の仲徳を見て機嫌が悪いと思う人間はいないはずだ。その足音も
軽い。いつもの、飄々とした仲徳がそこにいた。

























「貴様が北郷一刀か」


 新兵を率いる隊長が『かわいい』と本気で表現する人間がいるとしたら、そいつの目はきっ
と節穴なのだと思う。


 それほど目の前にいる人間は一刀の思う『かわいい』というイメージからはかけ離れた存在
だった。


 誘導した男は、その隊長の脇に控えている。彼のことも悪い顔だと思ったものだが、隊長は
それに輪をかけている。面構えという意味ではない。容姿に関する話をするなら……かわいく
はないと思った直後に認めるのは抵抗があるが、文句なしに美形の部類に入るだろう。


 だが、隊長全体として見た場合、これを好むかどうかは判断の分かれるところだ。


 丈の短い赤い装束。ミニスカートなんて目じゃないくらいに露出した足は、健康的に引き締
まっている。腰の後ろには肉厚の刀。荀彧に貰った剣とはまた違う、鉈のような形をした武器
だった。見ただけで重さまでは分からないが、人の首を跳ね飛ばす目的に使うのだったら、自
分の剣よりもいい仕事をしそうな印象がある。


 藍色の髪はひっつめて、後頭部で結い上げている。かなりきつめに結っているのか、元々釣
り気味の目がさらに釣りあがっているように見えた。それでも狐目のように見えないのは、彼
女自身の生まれ持った才能に寄るものだろう。かわいくは見えないが、美人には違いないのだ。


 美人は得である。


 ここまでならば、ちょっとキツめの容姿をした女子高生が、武装していきがっていると見え
なくもない。一刀自身はお目にかかったことはないが、盆と暮れに東京のとある場所では、こ
ういう特殊な格好をした人間が大手をふるって闊歩する場所が存在するという。粋がっている
だけの素人など、武装した賊と夜の闇の中戦うことに比べればそれほど怖いものではない。


 視線を、はっきりと、隊長と合わせる。


 赤い、綺麗な瞳だ。強烈な意思を感じさせるその瞳を持った少女が、武装した厳つい連中を
大勢脇に従えていた。コスプレバカが百人勢ぞろいなんて愉快な状況では断じてない。どいつ
もこいつもすれ違ったら全力で道を譲らざるを得ないような、凶悪な顔が勢ぞろいしている。


 正規兵の格好をしているから彼らが兵と認識できるが、そうでなければゴロツキとしか思わ
なかっただろう。その中心に立つ隊長がどういう素性の人間なのか……想像するのも、怖い。


 どうしたものかと背中にだらだら汗を流しながら思考を巡らせていると、筋者集団からは見
えないように、隣の仲徳が腿をつついてきた。その意図を察した一刀は、ゆっくりと膝を付く。


 リーダーである一刀がそうしたことで、隣の仲徳はすっとそれに倣った。


「姓は北郷、名を一刀。字はありません。大将、孫策様のご指示とのことで参上いたしました」
「甘寧だ。お前のことは既に聞いている。孫策様はお前を百人隊長にせよとの仰せだ。連れて
きた連中が五十人ほどいるそうだが、それに宙に浮いている五十人を追加することとなる。お
前、百人隊を指揮したことはあるか?」
「今までの最多は、五十人です」
「ならば、訓練時に貴様の采配を見させてもらおう。孫策様は百人隊長として使い続けろとは
一言も仰られておられない。もし私の目から見て不適当と判断したら、容赦なくただの兵にま
で落としてやるから、そのつもりで励むように」
「心得ました」


 と、答えるしかない。冗談でも挟もうものなら、首を飛ばされる――今まで出会った人間の
中でも、甘寧はトップクラスに冗談の通じない人間だ。名前を覚えられただけのどうでも良い
関係で口答えをしたら、すぐに刀が――とまではいかなくとも、それだけで射殺せそうな視線
が飛んできそうな、そんな気がする。


 視線は痛い。その事実をこの世界にきて始めて、一刀は認識した。奉孝の問いに見当はずれ
な答えを返した時、彼女はメガネの奥ですっと、目を細める。


 その視線が、今はとても怖い。軍師である奉孝の視線でさえそうなのだ。見るからに武闘派
な甘寧の視線ならば、身体に穴くらい空きかねない。


 心得ました。自分の口から吐いたその言葉には、一片の嘘もなかった。誰だって命は惜しい。


「それで、貴様が軍師か」
「程昱、字を仲徳と申します。孫策様の命により、甘寧将軍の軍師を務めることとなりました。
以後、お見知りおきを願います」
「軍師が付くとは、私も偉くなったものだな」
「良かったですね、頭」


 それを呟いた男は次の瞬間、猛烈な勢いで吹っ飛んだ。見れば、腰の後ろにあったはずの刀
が抜き放たれている。斬ったのか。目を逸らしてなどいなかったはずだが、気づいた時には男
は吹き飛ばされていた。


 並の技量ではない、と感心するよりも先に自分の確信が絶対になったのを感じた。この女性
は、言葉よりも先に手が出るタイプなのだ。それを自ら体験せずに理解することができた。


 これほど喜ばしいことはない。一刀は心中で、目の前で吹き飛んでくれた男に感謝した。


「頭ではない。隊長か、将軍と呼べ」
「……申し訳ありやせん」


 鼻血をだらだらと流しながら、男は素直に謝った。謝罪されてそれで気が済んだのか、甘寧
はふん、と小さく息を漏らすと刀の血を拭ってから、腰の後ろに戻す。


「見ての通り、私の部下にはあまり学がない。私も軍学は齧った程度だ。知恵を授けてくれる
ことは嬉しく思う。苦労をかけると思うが、是非協力してくれ」
「微力を尽くします」
「まずはそうだな……先も行ったが、私の部下には学がない。今後の指示を円滑に出すために
も、一つ、奴らに戦術の一つも講義してやってくれないか」


 ざわ、と声を挙げたのは当の部下達だった。顔色から、甘寧のその指示が彼らの意に沿わな
いものだというのが解る。学がないというのは、学ぶべき環境になかったから、というだけで
は成立しない。


 単純に勉強するのが嫌いだ、苦手だという人間もいる。特にこの世界では知識を持つものと
そうでないものの差が激しい。勉強という行為そのものに苦手意識を持っていたところでおか
しくはなかった。


 甘寧に刀で殴られた男が、一刀を見る。何とかしろ、とその視線が切実に訴えていた。殴ら
れても素直に謝ったところを見るに、彼らは甘寧に意見できる立場にはない。加えてその立場
にも納得しているようだ。


 ならば勉強することを受け入れても良いものだが、それとこれとは別の話ということなのだ
ろう。見れば見るほど、全員、育ちの悪そうな顔をしている。皆、勉強なんてしたくないと顔
に書いてあった。


 その気持ちはよく解る。少し前まで、自分もただの学生だった。


 だが、良く考えても見てほしい。貴方がたにできないことが、果たして自分にできるだろう
か。たった今百人隊長を拝命したばかりだが、一刀の立場というのはその程度でしかない。甘
寧はその百人隊長を何十人も束ねる立場にあるのだ。


 単純計算で、権限の強さは最低でも数十倍ということになる。何より、見た目が怖くて冗談
が通じなさそうだ。突っ込みが刀で行われるのもいただけない。無理して逆らって、そのオチ
が刀での殴打では割に合わない。


 決定を覆るような提案が受け入れられないだろうことも見えている。結果の解っている、し
かも、自分が痛い思いをするだけで達成できないようなことを、自分からする気にはなれなか
った。


「さて、程昱はそれで良いとして残りは貴様だ。貴様はこれから調練となる。一日目で音を上
げてくれるなよ。逃げることは許さん。孫策様が目をかけてやった恩を反故にするようならば、
この陣を出るよりも先に首を刎ねてやるから、そのつもりでいろ」
「逃げるつもりはありませんが……まってください。これから調練ですか?」


 調練そのものに否やはないが、その心構えは全くしていなかったので驚いた。


 調練を始めるには、時間が遅い。この地に腰を据えているのならば良いが、もうすぐ日も暮
れようとしている。調練を始めるには時間が遅い。やらないものと思っていたのもそれが原因
である。


 だが、それは一刀にとっての普通だ。甘寧にとっては遅すぎることはない。その事実がただ
一つ追加されるだけで、一刀にはどうしようもなくなる。


 甘寧の顔はとてつもないやる気に満ちていた。嘘や冗談ということは、おそらくないだろう。
そういうのが得意なようには全然見えない。


「そうだ、これから調練だ。私の仕事は、貴様ら新兵どもを少しでも使えるようにすることだ
からな」


 覚悟しておけ、とにやりと笑う甘寧は、いつだか映画で見た鬼軍曹を顔をしていた。


 泣いたり笑ったりできなくなるんじゃあるまいか……甘寧の顔を見ると、その言葉も冗談と
は思えなかった。
























[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十四話 反菫卓連合軍編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57
 女の子を抱えて馬に乗るというのは、男が想像する最高のシチュエーションの一つに数えられると一刀は思う。それが美少女であるのなら言うことはない。ふわふわの金髪、女の子らしい甘い臭い、腕の中にすっぽりと納まるお人形のような小さな身体。

 ただ馬に乗っているだけならば、一刀も素直に幸せを噛み締めることができたと思う。一刀も男だ。美少女と触れ合える機会は大事にしたいという下心も持ち合わせている。それが健全な少年の正しい姿というものだ。

「――というのが、韓非子の思想というものなのです。解りましたか、おにーさん」
「ああ、解ったよ……多分」

 一刀の腕に抱えられ、馬にぱかぱかと乗りながら仲徳がしていたのは、政治思想の講義だった。今日のテーマは韓非子。秦の始皇帝にも愛された思想家である。政を行うには、多くの思想に触れておく必要がある。自分でどういう政治を行うにしても多くの考え方を知っておいた方が有意な政ができる……というのが奉孝をはじめとした、軍師の考えだ。

 そういう講義に対する成果は……実の所、あまり実感できていない。思想についての勉強など、こちらに来るまで一度もしたことがなかった上に、活かせるような環境にもまだめぐり合っていないからだ。

 言われたことをなるべく覚えるようにはしているものの、活かす機会のない知識はこのまま頭の中で腐っていくような気がしてならない。学園で覚えたはずの化学式など、こちらにきてからはもう忘却の彼方である。

 使わない知識は忘れてしまうもの。一刀にとってはそれは当たり前の論理だ。元々物覚えの良い方ではない。土台、使わない知識を覚えておけというのが無理な話なのだ。

「多分ではいけませんよー、おにーさん」

 しかし、そんな凡人の論理を、多分なんて曖昧な言葉を許してくれるほど、軍師殿は甘くないのだった。腕に抱えているため、逃げ場はない。頭の宝譿をアゴの下にぐりぐりやりながら、曖昧な返答を追及してくる。

 理解の度合いがそれほど深くないことは、しっかりバレているだろう。これで追試は免れない。愛らしい見た目に反して、仲徳は結構スパルタなのだ。見た目どおりスパルタな奉孝に比べればマシではあるが、指導する人間としてはあまり優しいほうではない。教わる側としては、一長一短だ。

「将軍はどうでしたか?」
「理解はした。活かせるかどうかはまた、別の話ではあるがな。お前さえ良ければ私の部下にも話を聞かせてやってほしいところではあるのだが……」

 轡を並べて講義に耳を傾けていた甘寧が、ぐるりと周囲を睨みやる。通常の行軍であれば近くに集まっているはずの甘寧直属の正規兵は、今は全員一定の距離を開けている。

 仲徳の声がぎりぎり届かない、そんな距離だ。話に関わるつもりがない、関わりたくないという意思表示でもある。甘寧としては学を身に着けてほしいのだろうが、多くの人間はそう思っていないということだろう。

 勉強をしたくないという気持ちは痛いほど理解できるが、甘寧の部下であるのに彼女の苛立ちの視線を受け止められるというのも、一刀からすれば凄いとことだ。調練の際もことあるごとに張り倒され罵声が飛んできたりするが、その迫力たるや鬼神の如し。それを受けてあえて逆らおうという選択肢は、一刀には浮かんできそうにもない。

 彼らは彼らで勇気ある選択をしているのだ。そう思うと、強面集団にも親近感が沸いてくる。最初は甘寧の軍師となった仲徳の近くにいる邪魔な奴として、さらには甘寧と軍師の仲徳、加えて直属の正規兵二百以外は全員徒歩の甘寧隊において、百人隊長の身分で仲徳を抱えてとは言え乗馬を許されている一刀は邪魔を通り越して憎悪の対象だった。

 最初はその視線だけで殺されるのでは、という強烈な感情に一刀も辟易していたが、甘寧に移動している間だけでも一日三度は吹っ飛ばされるのを見て態度が軟化し、さらには小難しい仲徳の話を飽きもしないで聞いているのを見るや、一目置かれるようになった。学がない人間にとっては、軍師の言葉は呪文か何かに聞こえるらしい。完全に理解はできなくとも、ただそこで耐えていられるというだけで凄いことなようだった。

 今では仲間、とは言わなくとも邪険には扱われていない。視線で殺されていた最初の頃と比べると雲泥の差だった。苦労体験は絆を深めるというが、今の一刀の状況は正にそれである。行軍中、訓練中合わせて十度甘寧に吹っ飛ばされた時など、記録更新だな、と強面軍団に肩を叩かれて励まされもした。

 顔が怖いだけで、それほど悪い人間たちではないのだ。実際、百人隊の指揮などでミスをした時も、ここはこうした方が良いという具体的なアドバイスまでしてくれた。聞けば、強面軍団は皆甘寧将軍が孫呉に来る前からの部下で、孫呉に来てからは百人、あるいは五百人までの指揮はこなしてきたのだという。

 だからそんなに甘寧の舎弟のようなオーラが出ているのか……と一人で納得する一刀だったが、ふざけた感想を抱きながらも、甘寧と彼らの信頼関係については舌を巻いていた。甘寧が苦言を呈するくらい学はなくとも、意思疎通はきっちりとできている。新兵軍団が調練で甘寧直属隊と戦った時も、百対千という戦力差にも関わらず、甘寧の指揮の下、一糸乱れぬ動きをする彼らに完膚なきまでに叩きのめされたものだ。

 素人と正規兵という違いはあっても、見通しのよい場所でお互いに徒歩、合図と同時に動き出したのにも関わらず十倍の戦力差をひっくり返されたのだ。新兵の未熟さを差し引いても、強面軍団の非凡さ、甘寧の優秀さが伺える。

「あっちの怖い兵士さん達は調練に忙しいみたいですから、いじめたらかわいそうですよー」
「必要最低限というものがあると思うのだがな……上手く行かないものだ」

 やれやれと甘寧が肩を竦めて視線を逸らすと、強面軍団はほっと溜息を漏らした。その気配を見逃さず甘寧がぎろりと睨みやると、そんな事実はありませんでしたとばかりに視線を逸らす。ここでも一糸乱れぬ行動を披露している。離れてみているとギャグでしかないが、チームワークは中々のものである。これが自分の隊でもできれば、もっと大きな成果を挙げられるかもしれない……

「さて、ここでお兄さんに質問です。もうすぐ連合陣地に着く訳ですが、そこではまず何が行われるのでしょうか」
「……何で俺にそんな質問を?」
「風の話を理解してるかと思いましてー。今までの話をきちんと聞いていたのなら、ちゃんと想像できるはずですよ?」
「ちなみに、不正解の場合は?」
「甘寧将軍がおにーさんに優しく怒ってくれるそうです」

 その言葉を聞いて一刀は憂鬱な気分になった。優しく、何てものが甘寧の中にあるとも思えない。それに怒るということはかなりの高確率で実力行使を伴う。自分の血を見るのは避けられないだろう。

 痛い思いをしたくなければ、正解を導き出さなければならない。思えば甘寧の下についてからこんなのばっかりだ……とは思っても口にも顔にも出さないように気をつけながら、仲徳に言われたことを考える。

「……盟主を決めるんだろ? 集まるだけ集まっても頭を決めないとどうにもならない」
「盟主は誰になると思いますか?」
「十中八九、袁紹だな」

 荀彧も奉孝も愚物という評価を下していたが、彼女以外になり手がいないというのも事実らしい。官位、家柄、財力、兵力。本人の資質以外のどれを取っても最高である。資質能力以外のところにケチをつけるとするなら生まれが若干卑しいことがあげられるが、対抗馬として存在する袁術が幼いこと、資質能力や評判を見ても五十歩百歩なところから、まだ集団の手綱を上手く握れている袁紹の方がマシという評価である。

 これは一刀が考えたこと、というか、奉孝と仲徳が孫策軍と合流する前に話し合っていたことだ。話を聞いていたという一刀のアピールに仲徳は満足そうに頷いた。その背後で残念そうに刀の柄を撫でる甘寧は、努めて見ないようにしながら仲徳の次の言葉を待つ。

「話が前後してしまいましたけど、諸侯についておにーさんに質問です。孫策様以外に、目立った人達の名前を挙げてください」

 これはちょっと自信がない。一刀は中空に視線を彷徨わせながら考えた。我知らず仲徳の腰を支える腕に力がこもり、当の仲徳が小さく呻いていたのだが、これに一刀は気づかない。

「まずは曹操。兵力、財力も十分。傑物という評判も聞いてる。他には……北の雄公孫賛。白馬で統一された部隊を有する騎馬隊運用の名手で、その手腕は神速の張遼にも通じると言われてる。その部下……いや、客将には劉備。最近頭角を現した人間だから風評については他の諸侯に比べると劣るかもだけど、関羽、張飛という豪傑を従えていて戦にもめっぽう強い。兵数が比較的少ないことが弱点と言えば弱点かな。後は盟主最有力の袁紹。評判は芳しくないけど、それ以外の要素に恵まれていて兵数は現時点で一番多い。袁術も同様だけどこっちは袁紹に比べて部下に恵まれず、本人もわがままって聞いてるな。ところでこの二人仲が悪いって噂を聞いたけど、本当のところはどうなんだ?」
「風はあったことないから本当のところはわかりませんけど、袁術の方が袁紹を避けているという話は聞きますね」
「そうか……まぁ、俺たちには関係のないことだよな。他にもいるんだろうけど、目立った諸侯ってのはこんなものだと思う。こんなところでどうだ?」
「90点ですね。西涼連合を挙げることができれば『ぱーふぇくと』でした」
「西涼……あー、馬騰の代理で馬超が代表で来るって聞いた……ような気がする。ここも騎馬隊が強いって話だったよな」
「北部、とりわけ異民族と対峙する機会の多い地方出身の方々は、騎馬に強くなるのですよ」
「反面、我々のように南部に拠点があると騎馬よりも水軍に重きを置くようになる」
「騎馬が苦手、というように聞こえるのですが……」
「あくまで比較論だ。それに、水軍に関してはどこにも負けん」

 ぎろりと甘寧に睨まれて、一刀は慌てて視線を逸らした。ここ最近ずっと甘寧に扱かれていた一刀としては、騎馬を苦手とするというイメージが甘寧に上手く合致しなかったのだ。馬を駆る甘寧は颯爽としていて、誰が相手でも一撃の下に切り捨ててしまうようなそんな凛々しさを持っていた。

 上には上がいるというのは骨身に沁みて理解していることでもある。凛々しい甘寧がこの世界で最強の存在であるとは思わないが、それでも騎馬で遅れを取る甘寧というのは一刀の想像の外にあった。

 それが何と平和な幻想であったのか。一刀が知るのはもう少し先の話である。

「ところで将軍。俺たちもう直ぐ集合地につく訳ですけど、何をすれば良いんですか?」
「何もするな。盟主はすぐに決まるだろうが、実際に軍団が動き出すまでには一日二日時間がかかる。戦うのが仕事の我々はその間特にすることがないのだ」
「そうすると暇ですね……」

 昼は行軍、日暮れ前後は調練。日が沈んでからは休息……にはならず、仲徳たちの講義に付き合って勉強していた。孫策軍にやってきてからは村にいた時よりもずっと密度の濃い一日を過ごしている。

 それがいきなり暇になると、することが思いつかない。調練がなくなったところで仲徳たちの講義の時間は減らないだろうが、彼女らだって仕事がある。調練、行軍に当てていた時間が丸々講義に変わるということはないだろう。とにかく暇だ、暇なのだ。

「将軍。何でも公孫賛軍には白馬だけで構成された騎馬隊があるとか」
「白馬陣だな。大陸でも最強の騎馬隊の一つであると有名だ」
「……見学に行きたいんですが、駄目ですかね」
「駄目に決まっているだろう馬鹿者。協力しているとは言え所詮は他人だ。末端の兵がうろうろして、余計な問題など起こされては堪らん」
「ですよねぇ……」

 もっともな話だ。予想はしていた返答ではあるが、一刀は少なからず落胆した。白馬なんて故郷でも見たことはほとんどなかった。それが部隊を作れるほど集まっているのだから、さぞかし壮観だろうと白馬陣の話を聞いて以来、見れたら良いなと子義と盛り上がっていたのだが、甘寧の様子を見る限り、見学できる可能性は低そうだった。

 仲徳を抱きしめて項垂れていると、甘寧が咳払いをする。落ち着いて聞けばとてもわざとらしいものだったが、これにも一刀が気づくことはなかった。

「だが、他所に伝令を出すくらいのことはあるかもしれん。行き先によってはその帰りに見ることはできるかもしれんぞ」
「ありがたい話ですけど、俺が伝令に出されることなんてあるんでしょうか……」
「知らん。それを決めるのは私ではない」
「おにーさんが良い子にしていたら、孫策様が願いをかなえてくれるかもしれませんよ?」
「それなら大丈夫だな。皆には黙ってたけど俺、実は良い子なんだ」

 軽い冗談のつもりだったが、あたりは大爆笑に包まれた。聞き耳を立てていた強面軍団をはじめ、甘寧すら顔を逸らして笑い声を上げるのを堪えている。仲徳も似たような有様だ。

 釈然としない気持ちではあったが、部隊が明るい雰囲気に包まれたのは良いことだ。笑う仲間に混じって、一刀は無理やり笑い声を上げた。























『面倒臭いからお願いねー』

 雇用主のその一言で、奉孝の運命は決定した。周瑜と共に今後の予定について協議するはずだった予定は、それによって急遽『会議の出席』に変更されたのである。

 降って湧いた幸運に、心中でほくそ笑む。郭奉孝という軍師は、名は売れていても実績がない。諸侯の集うこの会議。後の乱世、必ず仲間、あるいは障害となる人間を直接見聞きする機会は、喉から手が出るほど欲しかったものだ。孫策の気まぐれには感謝してもし足りない。

 さて、そんな無上の喜びと共に出席した会議であるが……会議が進行して数分にして、奉孝は早くも出席したことを後悔し始めていた。

 その原因は、居並ぶ諸侯の上座に座る人間にある。

 袁紹だ。解っていたことではあるが、彼女の頭が大変よろしくない。その上、とても騒々しい。金色の鎧も目に毒だ。唯一、縦に巻かれた金色の髪は美しいと思ったが、全体としてみるとその髪も主張が強すぎ、宝の持ち腐れとなっていた。

 そんな持ち腐れが、自分たちの盟主である。先ほど、多数決でそう決まった。

 諸侯の力関係を考えたら、そうならざるを得ないことは袁紹本人を含めて解っていたことだ。私が盟主になる。袁紹が一言そう言うだけで片付いた問題だったはずが、彼女が持って回った言い方をして他薦を求めたため、無駄な時間を費やす羽目になった。

 袁紹の知己が気を利かせていたら、無駄な時間は少なくなっていただろう。側聞するに、曹操や公孫賛は袁紹と少なくない親交があるようだったが、彼女らは袁紹を積極的に支持をすることはなかった。

 気持ちは解らないでもない。積極的な支持を表明した人間は袁紹が盟主である間、何かの間違いで大失敗をした時にその責任の一端を負わなければならないからだ。人物を見るに、袁紹がそうなる可能性は極めて高い。二人が消極的になるのも解るというものだ。

 予定通り盟主となった袁紹はご満悦だが、諸侯の雰囲気は酷く落ち込んでいた。袁紹こそが盟主に相応しい。そう思っているのは本人だけだろう。あれほどの力を持っていて、これほど人望のない人間も珍しいと、奉孝は逆に感心すらしていた。

 何はともあれ、盟主は決まった。次に決めなければならないのは、誰が貧乏くじを引くかだ。一番槍と言えば聞こえは良いが、要するに相手の力量を測るための捨て駒である。

 こういう時、割を食うのは力のないものと相場が決まっているが、困ったことに弱すぎてもいけない。第一の関門である汜水関には十万弱の兵がつめているのである。一千単位では話にならず、かといって兵が多すぎる、あるいは強すぎても勝ってしまう可能性がある。求められるのは弱すぎず強すぎず、間違っても関を突破することのできない勢力だ。

 そんな都合の良い勢力が……諸侯の中に一つだけあった。

 北の雄、公孫賛の元で頭角を現した劉備である。

 勢いはある。関羽、張飛という豪傑も従えている。生まれの帝室に血を引いている……と、本人は主張しているが、この場に集まった人間の中では位も低く、資金もない。後ろ盾と言えば公孫賛くらいのものだ。彼女は望まれない盟主袁紹の知己であるが、先々の遣り取りを見るにあまり覚えは良くないようだ。繋がりを活かそうと思っている節もない。懸命な判断である。

 そんな立場の劉備だ。袁紹が名指しで行けと言えば、断ることはできないだろう。実際、今日の夕食の献立を訪ねるくらいの気軽さで使命された劉備は、消沈した様子ではあったものの特に異論を言うまでもなく一番槍を引き受けた。

 その様子に奉孝は違和感を覚えた。いくらなんでも、諦めが良すぎはしないだろうか。

 劉備が受け入れたことで、会議は収束に向かっていく。時間は無限ではない。しなければならないことは山ほどあるのだ。ここで無駄な時間を費やすことはないと、袁紹以外の出席者の心はこの時一つになっていた。

 劉備が勝つと思っている人間はいないだろう。袁紹は元より、袁術も曹操も同じ考えのはずだ。

 汜水関の兵数は約十万。公孫賛の兵を当てにしても精々同数だ。守り手よりも攻めての方が兵数を多く必要とするというのは、軍学の初歩である。まして汜水関は難攻不落の関として名高い場所だ。どんなに少なく見積もっても、正攻法で攻略するならば倍の兵数が必要となる。

 そういう観点に立てば、劉備が汜水関を攻略するのは不可能である。そのはずだ――


 奉孝の考えが纏まるよりも先に、袁紹の声により会議は散会となった。まずは袁紹が退出し、袁術がそれに続く。客将であるはずの孫家の周瑜には、何の言葉もなかった。側近である張勲から、頑張ってくださいねーとおざなりな言葉がかけられただけである。奉孝本人は雇われ軍師であるが、孫策は現状の主だ。それを馬鹿にされたようで思わず頭に血が上る。当の周瑜は袁術の態度にも涼しい顔だ。

「この程度でイライラしていては、一週間も経たずに憤死するぞ」
「見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
「いや、人間として正しい反応だ」

 周瑜と並んで、孫策の陣地へと歩みを進める。行きかう兵は周瑜を見ると息を飲んだ。その美貌もさることながら、当代最高の軍師として顔と名前が売れている彼女は、集合地に集まった人間の中でも抜群の知名度を誇っている。今が有事でなければ多くの人間が彼女の元を訪れ学問について教えを請いに来たことだろう。そんな周瑜の隣に立つことができるのは言うまでもなく幸運なことではあるが、同時に悔しさも感じていた。

 周瑜にばれないように、熱くなった頭を冷やすために息を吐く。負けず嫌いを表に出しては、また風に笑われてしまう。熱くなりやすいのは自分の悪い癖だ。

「さて、何人出すべきだと思う?」

 周瑜は視線をこちらに向けぬまま、主語をつけずに問いかけてきた。周瑜が同じ疑問に行き着いていたことに嬉しくなりながら、奉孝は温めていた答えを口にする。

「五千。こちらとあちらの事情を加味するに、これが限界でしょう。甘寧将軍の部隊を使うのが良いかと存じます」

 劉備は少なくとも、何か手段を講じるつもりだ。敵の状況の良く解らない状態での一番槍は確かに貧乏くじであるが、会議までやって誰が戦うかを決めた以上、邪魔が入る可能性は限りなく無に近い。自分たちだけで戦える、言い換えるなら手柄を総取りできる状況は、後に行くに従って減っていくだろう。何しろ劉備は、有力諸侯の中では最も立場が低いのだ。他が手柄を求めるようになったら、後方に下げられるかさもなくば今よりもっと危険な場所に配置されるかもしれない。

 劉備が手柄を立てるならば、今しかないのだ。

 ならば、今自分にできることは何か。手柄を立てるのが確実ならばそれに乗るのが得策だが、どういう作戦なのか解らない以上、全力で乗っかるのも不味い。如何に『臥龍』諸葛亮と言えども、失敗の可能性は確かにある。それに、劉備がやると決まった会議のすぐ後に、全力で支援すると表明しては、会議そのものを、引いては袁術、袁紹の顔に泥を塗ることになる。

 支援するにしても、角が立たない程度にやる必要がある。奉孝が考え導き出したそのギリギリの線が、甘寧隊五千だった。相手との交渉によって、この人数がさらに削られる可能性はあるが、劉備にしても本音は兵を欲しいはずである。貸与すると言えば、断られるということはないはずだ。

「同じことを思う人間がいないとも限りません。動くおつもりならば、お早く」
「そうしよう。では、私はこれを雪蓮に進言してくる。お前は陣内をぐるりと回ってから帰ってこい。見れる範囲で良いから、他勢力の情報を頭に入れてくるのだ」
「心得ました」

 満足そうに頷くと、周瑜は一足先に陣営に帰っていった。その背中を見送ってから、奉孝は集合地の外殻に向かって歩みを進める。見れる範囲を見て来いと周瑜は言うが、奉孝の自由時間にも限界がある。気になる劉備の陣営はこれから孫策が手を回すのだから良いとして、限られた時間で見るべき陣営はどこか。

 曹操の陣営を見てこよう。結論が出たのはすぐだった。孫策陣営に組するものとして、そしていずれ天下に覇を唱えようとする者として彼女を無視することはできない。外から見るだけで何が得られるとも限らないが、陣営の雰囲気、兵の質を直に見れるというのは中々あることではない。

 敵対していないこの時期にこそ、やっておくべきことだ。できれば一刀を供回りとしたかったが、一兵士である彼を連れまわすには理由が弱い。一人で見に行くしかない。それを自覚した奉孝は、気持ちが落ち込んでいるらしい自分に気づいて思わず苦笑を浮かべた。女々しくなったものである。

 しかし、こんな気分は悪くはない。一緒にいたいと思える人間がいるのは良いものだ。後はもう少し頼りがいのある人間になってほしいものだが……と一刀への指導要領を考えていると、背後から声をかける人間があった。

「失礼。ちょっと良いかしら?」

 その声に、足を止め振り返る。行動は迅速だった。声には聞き覚えがあり、それは今時分、最も無視してはいけない人間だった。警戒すべき相手、知っておくべき相手。

 これから向かおうとしていた陣営の頭目、曹操である。

 髪が金色であるのは袁紹と同じだが、品良く纏められたそれは嫌味には見えない。小柄な身体に黒い衣装。若干釣り気味の目には強い意志の光が輝いている。見た目もさることながら、特筆すべきはその雰囲気だ。こうして対峙するだけで、圧倒的な存在感を感じずにはいられない。思わず平伏したくなるのを、奉孝はどうにか堪えた。

「何か御用でしょうか、曹操殿」
「『神算の士』郭奉孝に名前を覚えてもらっているとは光栄だわ」
「私の方こそ天下に名立たる曹操殿に知っていただいているのは、光栄至極に存じます」
「才ある者を知り集めることが、私の趣味であり義務のようなものよ。貴女を知っているのは当然とも言えるわね」

 曹操の人物評は辛いことで有名だ。この手放しの賞賛に奉孝は少なからず喜びを覚えていたが、それを顔に出すようなことはしなかった。かつて仕えることを夢見た女性の褒め言葉であるとは言え、それで舞い上がっては判断が鈍る。

 一軍師から情報を引き出す。そんな狡賢いことをあの曹操がするとも思えないが、気は引き締めてかからなければいけないだろう。曹操の才は先の会合で話を聞いて、こうして対峙することで嫌というほど理解した。当代でも最高の頭脳を持っていることは疑いようがない。

 努めて、冷静に。奉孝はできうる限り表情を消して、恐縮です、とだけ答えた。食いつきの悪さに曹操が片眉をあげてその顔に疑問符を浮かべたが、それも一瞬のことだった。

「貴女を誘いたいところだけど、孫策の下にいる貴女にそうするのも無粋なこと。今回は顔見せだけにしておくわ。この曹孟徳が貴女の才を欲しているということ、覚えておいてちょうだい」
「勿体無いお言葉です」

 一刀に出会う前の自分だったら、今すぐにでも彼女の胸に飛び込んで鼻血を流していたことだろう。頭を下げたせいで曹操に顔は見えていないが、にやけるのを堪えるので奉孝は必死になっていた。どういう状況であっても、自分の才能を褒められて悪い気はしない。それが曹操ほどの傑物であるのならば尚更だ。

 気分良くしていると、それに水を差すような人物が視界に入った。無意識に、視界から排除していたのかもしれない。先の会合でも見ていたはずだが、不思議と奉孝の印象には残っていなかった。

 背丈は小柄な曹操よりも更に低い。肌を露出したがる近年の流行に反して、両手と首から上しか露出していない服装は日差しの照る今日の天気の下では暑苦しく感じられた。後ろにさげられた頭巾には、猫の頭部のような形をしている。武芸を嗜んでいるようには見えないから軍師なのだろう。

 あの曹操の隣に侍ることを許された軍師。その筆頭ともなれば、一人しか名前は浮かばない。

 『王佐の才』荀彧。曹操の下に仕官しておよそ一年で筆頭軍師まで上り詰めた才媛だ。奉孝たちの世代においては一番の出世頭と言えるだろう。その辣腕ぶりと度を越した男嫌いは、風の噂にも聞いている。

 しかし、奉孝が意識していたのはそれ以前のことだった。荀彧の名前は度々、一刀から聞かされている。あの村にやってくる前、彼女の生家で世話になっていたのだとか。学問の基礎を教えられたとかで、軍学、政治学については念入りに手ほどきをされたらしい。

 とは言え、彼の頭のできに加えて仕官に関し曹操の返事待ちというあまり時間のなかった状況である。手ほどきを受けたのも一ヶ月という短い期間であったというが、一刀の認識では荀彧は先生の一人、つまり自分や仲徳、士元と同列ということになっていた。

 はっきり言うと、面白くない。彼女が優秀なのは認めよう。結果も出している。すでに筆頭軍師である立場を考えてみれば、あちらの方が上と認めるのも吝かではないが、理屈ではどうにもならないこともあった。

 それについては向こうも同じ考えだろう。曹操と話しているこちらを、親の仇のような目で睨みつけている。忠誠心は見事なものだが独占欲が強すぎはしないだろうか。才能ある人間を愛すると自分で言うだけあって、曹操は悪く言えば多情な性格をしているという。いくら筆頭軍師という立場にあっても、その寵愛を一身に受けることはないだろう。

 そう考えると同情的な気分になるが……馴れ合おうとは思わない。彼女は他人。入れ込むだけの理由はないのだ。

「さて、私はこれで失礼するわ。いくわよ、桂花」

 曹操が荀彧を促し、踵を返す。荀彧は奉孝をきっと睨みやってからそれに続こうとして、動きを止めた。その視線は奉孝を通り越して彼方を見つめている。呆然。信じられないモノを見たという顔だ。追ってくるべき人間が追ってこないことに曹操も疑問に思ったのか、足を止めて振り返る。その視線も、荀彧の視線を追った。

 奉孝も釣られて、それらの視線を追った。行きかう兵士の中に、見覚えのある姿がある。一般兵の鎧姿。いつものように子義を連れた一刀の姿があった。奉孝は理解した。荀彧が見つけたのはこれなのだ。一刀を会わせるべきではない。この邂逅をどうにか阻止しようと奉孝の頭脳が高速に回転するが、一刀がこちらを見、次いで後ろにいる荀彧の姿を認めて破顔したことでその目論見は既に手遅れであることを知った。

「荀彧!」

 それはもう嬉しそうな顔をして、一刀は小走りに寄ってきた。こちらのことなど目にも入っていないような様子に、いっそこのまま思い切り殴り飛ばしてやろうかと思ったが、つかつかかと肩を怒らせて歩く荀彧の姿を見て、稟は自制した。再会を喜んでいるという風ではない。怒りに震えた様子の荀彧は、一刀に無言で歩み寄ると、無言で腕を振りかぶり、思い切り、その頬を張った。

 小柄な少女の力だ。打った力もたかが知れている。それほど大きな音ではなかったはずだが、その音は辺りに良く響いた。

















 奉孝の背後にその顔を見つけた時、嬉しくなった。

 思わず名前を叫んでしまう。恥ずかしいことをするなと怒るだろうか。怒られて蹴飛ばされる自分を想像して、一刀は苦笑を浮かべる。それも良いなと思っている自分がいた。手が出ない荀彧など荀彧ではない。怒られなかったら蹴飛ばされなかったら、どうしたのだと逆に心配してしまうだろう。

 案の定、いらついた顔で荀彧が歩み寄ってくる。つかつかと、あれは機嫌が悪い時の歩調だ。蹴飛ばされ罵声を浴びせられると解っていても、足を止めて荀彧がやってくるのを待つのは悪い気分ではなかった。

 荀彧が目の前に立つ。癖のある前髪の下から、怒りに染まった瞳がのぞいていた。ああ、この瞳だ。鬼気迫るその表情に、背筋がぞくぞくするのを感じる。自分は変態なんじゃなかろうかと心配するのも他所に、一刀は荀彧の第一声を待った。

 頬に衝撃が走る。次いで、ばちんという音がした。頬を張られたと気づいたのは、さらにその後だった。

「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ……」

 怒りを押し殺した低い声に、一刀は呆然とする。荀彧が怒っているのはいつものことだが、荀家にいた一月の間に見たことがないくらい荀彧は激怒していた。思わず一歩後退ると、荀彧の腕が伸び襟首を掴んだ。上背のせいで見上げるような状況になるが、加減ができないほど強く握り締められた荀彧の手は真っ白になっていた。

 反面、今にも本人の制御を離れそうな怒りのせいで、顔は真っ赤に染まっている。頭に血が上っているというのはこういうことを言うのだな、とぼんやりと考えながら、こういう表情こそ荀彧だなぁ、とも思った。

「私や功淑が言ってたことの何を聞いてたのよ! 兵士なんて向いてないからやめておけって言ったでしょ!」
「いや、その……ごめん」

 決して忘れていた訳ではない。自警団の仕事をしている時はともかく、孫策軍に合流しようという話になってからは荀彧のその言葉を毎日のように思い出していた。現場を押さえられたら、こうして激怒するだろうことも容易に予想できた。

 それでも荀彧の言葉に従いやめようと思わなかったのは、自分にできることをやってみたいという気持ちが芽生えたからだ。それを説明すれば理解してくれる……とは何度シミュレートしても欠片も思うことができなかった。激怒され、足腰が立たなくなるまで蹴られ殴られるまでは予定調和だと思っていた。ビンタ一つ、胸倉を捕まれるだけで済んでいるこの状況には違和感すら覚える。

 違和感を覚えるで済んでいるのは一刀だけだった。荀彧の主である曹操をはじめ、周囲の人間は兵も軍師も何もかも、いきなり修羅場を始めた二人に視線を注いでいる。これで明日の話題は独り占めだなと詮無いことを考えつつも、悪い意味で有名になることがどれだけマイナスになるのか、考えられない一刀ではない。

 事実。視界の隅にいる奉孝から静かな怒りのオーラが湧き上がっていた。差し当たり何とかしなければならないマイナスだ。奉孝は荀彧に匹敵するくらいに激怒している。理由までは解らないが、早いうちに対処しないと不味いことになる。本能は今すぐ駆け寄って土下座せよと言っているが、胸倉を掴み挙げたまま豊富な語彙を駆使して罵倒の言葉を吐き続けている荀彧がそれを許してくれない。

 荀彧に罵倒されるのは時間が巻き戻ったようで楽しくすらあったが、状況は刻一刻と悪化していた。対処するならば早い方が良いが、理性的にそう思っているのは一刀ただ一人だった。周囲の人間は曹操を含めて割って入ってくれそうにないし、軍師の二人は今まさに理性的でなくなっている。

「――って訳よ。わかった!? 解ってないでしょうね! こんな愚かなことするくらいなんだから!」

 考えているうちに、荀彧の罵詈雑言にも一区切りがついたようだった。息継ぎのためにぜーぜーと荒い息をついている彼女の額に汗が浮いているのを見て、袖で拭おうと手を伸ばす。触んないでよ! と電光石火の勢いで叩かれた。そのおかげで襟首は解放される。

 無言で視線が交錯する。困ったような表情の一刀。相変わらず怒っている荀彧。奉孝の怒りのボルテージは上がり続けていた。もう時間的猶予はない。

「俺が言えた義理じゃないのは解ってるけどさ、もうその辺で……」
「うっさい。黙ってなさい」

 そう言われると黙って項垂れるしかない。

「……で、あんた、どこの兵になったのよ」
「孫策様のところで百人隊長として働いてます、はい」
「あんたにしては良い武将に目をつけたわね。まぁいいわ。付き合ってあげる。案内しなさい」
「すまん。頭の悪い俺には荀彧が何をしたいのか解らないんだけど」
「あんたみたいな役立たずを雇ってても損になるだけだって説明してあげるわ。百人隊長一人なら、話し合いでも何とかなるでしょう。そのせいで支出があるかもしれないけど、その分は私の元で奴隷として働いて返してもらうから、キリキリ働きなさい」

 荀彧の顔にはまだ燻ったままの怒りがある。不本意というのは誰の目から見ても明らかだが、これが荀彧なりの優しさであるのは痛いほど理解できた。他人の、それも男のために身を砕いてくれるというのは、荀彧からすれば破格の扱いだ。そこまでしてくれることは素直にありがたい。何の柵もなければ軽口の一つでもいって、荀彧の蹴りを甘んじて受け入れるくらいの遊びをしたいところなのだが、今は周囲を取り巻く全ての状況が悪い。

 そうこうしている内に奉孝が動き出した。諦めたら試合終了とどこかの誰かが言ったが、諦めるべき時はあるのだな、と一刀は覚悟を決める。

「その辺りにしていただけますか? ここで言い合っていても、お互いの益にはならないでしょう」
「忠告どうも。でも今、不本意ながら大事な話をしてるの。後にしてもらえる?」
「大事な話というなら、私も同席します。彼は一応、私の同志でありますので」

 不本意ではありますが、と荀彧にならって奉孝は言葉を付け足す。こちらを見向きもしないのが、言い知れない恐怖を誘う。

「我々は共に行動をしています。彼はその中心にいると言っても良い。そんな彼の行く末を他人である貴女に決定されるのは非常に不愉快です」

 他人の部分を強調する奉孝に、燻っていた荀彧の怒りが再び炎になる。口を開いて罵詈雑言を浴びせようとしたのだろう。奉孝に踏み出した一歩にはとてつもない力が篭っていたが、そこで荀彧は冷静になった。視線の先には曹操がいる。この状況を楽しんでいるように見えるのは流石だが、荀彧にとってはこの世で最も敬愛すべき主だ。その曹操の前でいつまでも醜態を晒す訳にはいかない。

 荀彧は怒りを飲み込んだ。内包された怒りを瞳に込めて一刀を睨みやる。その右手が奉孝を示し、自分を示した。どちらか選べ。そういうことだろう。これに関しては考えるまでもなかった。荀彧と共に行くのは魅力的だが、一刀には一刀の事情がある。

「すまん」

 意思を伝えるのは、その一言だけで十分だった。興味をなくしたように小さく息を吐く。荀彧が一刀を見ることは、もうなかった。曹操に合流し足早に去っていく。一度だけ曹操がこちらを振り返り興味深そうに見つめてきたが、それに何か意思表示をする余裕はなかった。嵐は一つ去ったが、まだ一つ大嵐が残っている。荀彧が去ったことで怒りが収まるかと思えたが、より大きくなっている様子だ。

「貴殿は悔しくないのですか……」
「……悔しい?」
「こんな公衆の面前で侮辱されたことがです!」
「いや、でも事実だからな」

 元々荀彧との遣り取りはあんなものだ。今日は少々激しかったが、誤差の範囲だろう。あれで一々苛立っていたら、男の身で荀彧と付き合っていくことなどできない。罵詈雑言にしても、検討はずれなことを荀彧は言わない。能力について扱下ろす時は、彼女なりにしっかりとした根拠を持っている。精液男という不名誉な単語が出てくることもあるが、それはまぁ、無視しても良いはずだ。少なくとも北郷一刀という人間を見て、精液という単語を連想する人間はいない……はずだと思いたい。

「事実でも言って良いことと悪いことがあるでしょう!」

 奉孝は吼えるが、むしろその一言に一刀は傷付いた。落ち着いて言われると、事実だとしても堪えるものである。反論したいが、ヒートアップした奉孝は止まらない。よほどストレスが溜まっていたのか、文句は次から次へと出てくる。周囲の視線は今や二人締めだ。悪目立ちしているこの状況は、好ましいものではない。

「そもそも、貴女は彼女に甘い。こうまで罵倒されて平然としているなど、普通ではありませんよ」
「荀彧はちょっと気性が荒いところがあるんだ。根は悪い奴ではないんだけどさ……」

 ということを他人に説明しても、信じてもらうには多大な時間を要するだろう。事実、奉孝は欠片も信じていないどころか、荀彧を庇う一刀に不審の目を向けている。

「まさか貴殿と彼女は、よからぬ関係なのではありませんか?
「よからぬってのはどういうことさ」
「よからぬとは……よからぬことです」

 怒っていたことも忘れて、奉孝は顔を真っ赤に染めた。人一倍想像力が豊かな彼女のことだ。頭の中ではその『よからぬこと』が臨場感たっぷりで上映されているのだろう。頭の良い彼女をこういう風にしていると思うと、男としてのプライドが擽られる。荀彧に怒鳴られている時とは別の意味で背筋がぞくぞくするが、ここが公衆の面前であることを考えると良くない兆候だ。

 つつ、と奉孝の鼻から真っ赤な鼻血が出た。奉孝が気づいた様子はない、指摘しようか一刀が迷っているうちに『そもそも!』と奉孝が再びヒートアップし始めた。

「私に卑猥なことを言わせるとは何事ですか! 貴殿はやはり――」
「待ってくれ奉孝。お前は誤解してる。俺と荀彧はそんな関係じゃないぞ」
「卑猥な関係の人間は皆そういうものです!」
「いや、その理屈はおかしい」

 正論を言ったつもりだったが、奉孝には通じなかった。鼻血はいまやどばどば流れ出している。普段ならばここで卒倒するはずなのに興奮がいつも以上なのか、意識ははっきりとしていた。そのせいで鼻血を流しながら詰め寄ってくるというホラー軍師ができあがっている。公衆の面前で罵倒されることが不名誉なことであると奉孝は言ったが、衆目の中鼻血を流しながら説教する軍師というのは、果たしてどの程度の扱いになるのか。

 自分がどう見られるのか。普段の奉孝ならば気にしていたであろうことにも頭が回っていない。名誉が完全に失墜するのが先か、鼻血が出尽くすのが先か。どちらに転んだとしても奉孝にとっては大損だ。

 ならば仲間として何をするべきなのか一刀は考えた。多くの人間に目撃されているから、もう鼻血を流しながら説教する軍師という汚名を漱ぐのは不可能だ。少しでもダメージを少なくするには、一刻も早くこの場を脱出するしかないが、言って聞くような精神状態ではない。

 実力行使しかない。そう結論付けた一刀の行動は迅速だった。後で殴られたり蹴られたりすることを覚悟して、一刀は無言で奉孝を抱きしめた。おぉ、と観衆から声が上がる。狙い通りに奉孝の説教はぴたりと止んだ。真っ赤な顔で一刀をみやり、くたり、とその場に崩れ落ちた。血が登っていただけに落ちるのも早い。そのせいで最後に勢い良く噴出した鼻血を頭からかぶって酷いことになってしまったが、考えうる限り最悪の名誉失墜に比べればこんなもの安いものだ。

 返り血を浴びたように真っ赤になったまま、努めて何事もなかったように振舞いつつ、奉孝を背負い直す。これはどういうことだと質問しようとする人間が現れるよりも先に、一刀は堂々とその場を後にしたのだった。




 その甲斐空しく、その日のうちに『鼻血軍師』という不名誉なあだ名は広まってしまった。










 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十五話 反菫卓連合軍編④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57






「始まったわね……」

 呟く孫策のはるか前方では戦が始まっていた。連合軍が結成されて最初の、董卓軍相手の大戦である。先鋒を任されたのは公孫賛軍の客将劉備、その数およそ四万。これに公孫賛の白馬陣を中心とした騎馬およそ三千と、甘寧を隊長とした孫策軍の新兵部隊五千を加えたものが連合先鋒部隊の総数だ。

 約五万という数字は決して悪い数字ではないが、攻める場所は大陸でも難攻不落の関の一つである汜水関。詰めている兵は十万とも言われている。その中には大陸最強とも名高い張遼の騎馬隊も含まれているのだ。守るよりも攻める方が兵士を多く使うというのは常識である。難攻不落の関を相手の半数で攻め落とせというのだから、捨石になれと言われているに等しい。

 普通ならば悲観に暮れるところだろう。

 だが、劉備はそうではなかった。関を攻める劉備の部隊には悲壮感などなくこの関を抜いてやるのだという気概に溢れていた。必勝の策があるのではないかという疑念に、奉孝はこれで確信を持った。劉備自身の頭のデキについては知らないが、彼女の軍師は『臥龍』諸葛亮。才女の集まる水鏡女学院において、士元を差し置いて主席で卒業した正真正銘の傑物だ。

 そんな軍師が何もしないはずはない。どうすれば五万であの関を抜けるのか、周瑜や孫策と共に検討を重ねたが絶対と言えるほどの策はついに出てこなかった。倍近い兵数と、難攻不落の関。これは多少の策ではどうしようもない。関に篭られたらこちらに勝つ術はないのだ。戦うとなればまず、相手を関から引っ張り出す必要がある訳だが、篭城の有利を放棄してまで打って出るなど、普通の神経をしていたらまずありえない。

 つけ込む隙があるとすれば、将の一人華雄が猪武者と評判なことだ。彼女は孫策の母孫堅と因縁のある相手で、その勇猛さと突撃バカっぷりは孫策軍の兵にすら知れ渡っている。孫策軍には彼女を引っ張りだすネタがある。誇りを傷つけるような発言であれば猪武者も黙ってはいないはずだ。孫策本人が出て行けば激昂して関から出てくる可能性も格段に上がることだろう。

 しかし、孫策はここにいる。劉備軍の中に華雄と因縁のあるような人間がいるとは聞いていない。それに将軍が華雄一人であるのならばまだしも、他に同等の権力を持った将軍、軍師がいるような状況では、その猪武者ですら引っ張り出すのは難しい。劉備のように時間が限定されるのならば尚更だ。

 ならば一体どうするのか。

「内応する者がいる、ということでしょうか」
「郭嘉、何か言った?」
「いえ。どうすれば劉備殿の軍があそこまで自信を持てるのかと考えていたのです」
「まだ考えてたんだ。軍師って大変ね」
「貴女は気にならないの? 雪蓮」
「気にならないって言ったら嘘になるけど、そんなの終わってから聞けば良いじゃない。信頼する私の軍師が結論を出せないのに、私一人で考えてもしょうがないし」
「貴女の閃きはこういう時にこそ発揮してほしいものなのだけど……その話はまた今度。内応する者と言ったわね、郭嘉」
「はい。やはり、今から策を用意するのではどれも確実性に欠けると思うのです」

 今から策を弄したのでは間に合わないが、それ以前――連合軍の陣地の到着する遥か前から仕込みを行っていたのだとしたら話は別だ。

 劉備が先鋒として指名されたのは偶然ではない。陣地に来る前からある程度諸侯の力関係というのは把握できていただろう。纏まった力を持った武将の中では、自分が一番心もとない。それは劉備にも分かっていたはずだ。一番槍という名の戦力調査に借り出されることも容易に想像できたはずである。戦う場所と仕掛ける時、それさえ解っていれば策も仕込みやすい。

「内応できる者を送り込んでおけば、劉備殿が攻めるのに呼応して妨害工作もしやすいのではと」
「後々から送り込んだ間者が上の地位に行けるとも思えませんし、離間するにしても董卓軍の上層部は強く結束してると聞きますがー」
「何も意思決定に関わる人間を引き込まなくても良いのよ。関内に混乱を起こすだけなら、一兵士でも構わないでしょう?」
「へ、兵士を欲しがっているのはこちらもあちらも変わらないと思いましゅ」

 検討には、風と士元も参加している。孫策軍の中心部。御旗である孫策を中心に、軍師筆頭の周瑜に次席の陸遜。雇われた自分たちはそのオマケという形だが、護衛の兵士すら少し離れた位置にいるのに声の届く範囲に置かれているというのは、それなりに信頼されているということなのだろう。一刀の……ではなく、彼の上司である甘寧の軍師である風がここにいるのは、戦についていっても役に立たないからという配慮があってのことだ。

 ちなみに士元以外の全員が騎乗しているが、士元は孫策に抱えられてここにいる。愛玩動物のような扱いであるが、本人以外にその扱いを気に留めている者はいなかった。小動物のような愛らしさを持っている彼女がそうされているのは酷く様になっている。軍師としての頭脳も認められてはいるが、孫策が何よりも士元を手元においておきたがっているのは、その愛らしさからだろうというのは今もぎゅっと抱きしめられている士元を見れば分かるというものだ。

「問題はどの程度の間者をどれだけの数送り込めたかということですね」

 策のために死んでくれるくらいの間者が一人でもいれば、それはとても心強いことだ。生還を前提としなければ、策の幅も広がる。そういう作戦を奉孝は好まないが、全ての軍師がそうだとは限らないし、そうせざるを得ない状況も存在する。天下を狙う者としての劉備の立場ならば、この戦は正に正念場だ。汚い手の一つや二つ使っても勝利は欲しいはずだ。彼女が思わなくても、軍師や周囲の人間が思うかもしれない。組織の長の知らない所で謀略が進んでいる。今の世では、良くあることだ。

「うちも今何人か送り込んでるけど、関の警備状況はそれほど厳重でもないそうよ」
「十万も兵士が詰めているのだから、当然と言えば当然ね」

 流石に出入り自由ということはあるまいが、出入りがないという訳でもない。潜入する機会は幾らかあるし、入り込んでさえしまえば人の波に紛れて情報収集ないし、破壊工作もしやすいだろう。何しろ数が数だ。

「間者をもぐりこませることができたとして、貴女たちならどうする?」
「私ならば兵糧を燃やします」
「井戸に毒でも放り投げますかねー」
「冥琳は?」
「いっそ指揮官の暗殺でもできれば良いけど、流石に間者にそこまでの能力はないのでしょう?」
「明命にできるくらい、と判断してくれれば良いわ」
「なら、郭嘉や程昱の言う通り、糧食を損耗させる方法を検討するわ」
「でも向こうもそれくらいは警戒してるんじゃない?」
「間者を使い潰すくらいの気持ちでいないと駄目ね。情報を集めるつもりなら、破壊工作は諦めないと」
「情報を吸い上げつつ破壊工作もできたら良いんだけどね」
「そこまで上手いこと世の中回らないわよ」

 それもそうねー、と孫策は暢気に笑う。最前線から距離があるとは言え、ここも戦場だ。周囲の兵にも緊張が見え、郭嘉も幾らか緊張はしているが、孫策にそれはまるで見られなかった。この肝の太さは一刀にも見習ってほしいものだ。主の態度は周囲に影響を及ぼす。これだけの美貌を持った孫策がどっしりと構えていれば、それだけで兵は安心して力を発揮することができるだろう。

 この主ならば、勝てる、どうにかできる。例え根拠などなくとも、そう思わせることのできる何かが、上に立つものには必要なのだ。今の一刀にはそれが致命的に欠けている。奉孝から見ると物凄く頼りなく見えるのだが、兵は今の一刀でも十分なようで孫策軍に来てから一緒に行動するようになった兵まで、彼によく従っている。

 不思議なことに受けも悪くないようだ。どうにも『手の届く所にいる』というのが、彼ら彼女らには重要らしい。どんなつまらないことでも一刀は耳を傾け、一緒になって考え笑ってくれる。奉孝からすれば取るに足らないそれが、一刀の主としての全財産だった。

 本当頼りない。頼りないが……これは、一刀だからこそできること、とも思える。

 孫策も一度顔を合わせた曹操も素晴らしい主だ。彼女らと一刀を比べたとしたら――比べるのもおこがましいが――多くの人間が彼女らの方を支持することは間違いない。彼女らには凡人を遥かに超越したような要素がある。自分たちとは違う、というのが彼女たちの大前提なのだ。容姿、能力、経歴、出自。どれを取っても、彼女らは非凡だ。武将として一刀が勝つことのできるものは何一つないと言っても過言ではない……まぁ、一つくらいはあるかもしれないが、他の全てで負けているのならば、この場合は無視しても良い程度のものだ。

 ともかく、一刀にしかない物もあるにはあるが彼には欠けているものが多すぎる。知も武も他人に頼らざるを得ないのなら、せめて落ち着いてくれれば良いのに何でも自分でやりたがるのだ。

 それを向上心があると取ることもできる。弟子としては物覚えの悪さも含めてそこそこに教え甲斐のある人間だが、主としてみると不安ばかりが先に立つのだ。一刀にはいずれ土地を治めてもらうことになる。いつになるか解らないが、自分たちが知恵を貸している以上、そう遠くない未来であるのは間違いない。

 その時、全ての事柄に目を通し、皆と一緒になって作業をしているようでは身体がいくつあっても足りない。彼のような凡人ならば尚更だ。できること、できないことをきちんと把握し、任せるべきことは他人に任せる。人を使うことをいい加減に覚えておかないと、大成する前に自滅してしまうだろう。

 百人隊長をするようになって、人に指示を出すということも徐々に形になってきたようだが、まだ甘い。孫策のようにというのは高望みし過ぎかもしれないが、もう少し、後少しと思うことを止めることはできなかった。

「稟ちゃん、鼻血が出てますよー」

 風の囁く声にはっとなって鼻を押さえる。掌に慣れ親しんだ血の感触はなかった。からかわれた。そのことに気づいた奉孝はきつく風を睨みやるが、並の兵ならば縮こまらせるような眼光を受けても、風が怯む様子はない。むしろ、頭に血の上ったこちらを見て、楽しんでいる風すらある。ふふふーと笑うその表情が憎らしい。

 奉孝が過敏に気にするのにも理由があった。先日、曹操陣営の小生意気な猫耳とやりあった時に広まった鼻血軍師というあだ名である。たかがあだ名と侮るなかれ。奉孝が気を失って意識を取り戻した時に、そのあだ名は陣地内に広まっていた。流石にまだ顔が売れていないこともあって顔と名前、それからあだ名が一致する人間は他の陣営まで含めると少ないが、孫策の周囲にいることを許されている人間として、孫策陣営では顔と名前が売れている。必然的に不名誉なあだ名についても広まっており、すれ違う兵に苦笑を向けられることもしばしばだった。

 これについては、誰に文句を言うこともできない。言うとすれば一刀だが、彼に文句を言うのも格好悪いことのように思えた。笑いたい奴には笑わせておけば良い。不名誉なあだ名は実績で挽回すれば良いのだと思うことにして、風については額を小突く程度に留める。

「解答が帰ってきたみたいよ」

 孫策の視線の先を見ると、遠目に周泰が見えた。間者を統括する立場にある人間で、愛らしい見た目ながら忍の技も使う。その周泰が馬を物凄い勢いで駆っている。只事でない様子に周囲の兵にも緊張が走るが、孫策は緩いままだった。平然とした様子に周瑜が抗議の視線を送るも気にしない。

「そんなに慌ててどうしたの明命。汜水関の兵糧が燃えて井戸に毒でも放り込まれでもしたのかしら?」

 孫策の軽口はやってくる途中の周泰にも届いた。周泰は馬上で驚きの表情を浮かべると、馬を棹立ちにさせ飛び降りた。軽やかに着地すると、孫策の前に控える。

「周泰、ただいま戻りました」
「思ってたよりも遅かったけど、どうかしたのかしら」
「真偽の判断に困る情報を掴みましたので、その裏を取っていました。遅れましたこと、申し訳ありません」
「時間を決めてた訳ではないんだから別にいいわよ。で、汜水関で何かあったのかしら」
「汜水関の兵が秘密裏に撤退を始めております。もう、二割ほどの兵が虎牢関に向けて進軍を開始した模様です」
「……詳しく話を聞かせてもらえるかしら」

 流石に、孫策の顔からも余裕が消える。

「詳しい工作の内容については現地に残してきた部下が調査中です。汜水関の兵糧は十箇所以上に分けて保存されていたのですが、そのほぼ全てに破壊工作が実施され、三割が完全に消失、残りの六割も使い物にならない状態になっております」
「こっちから火事とかの気配は確認できなかったのだけど?」
「兵糧が燃えたのは我々が到着する前のことのようです。消火活動が迅速に行われたようで焼失した分はそれほどでもないようですが、毒物や汚水を使った工作によって汚染されたとのことです。なお、井戸にも毒が投げ込まれており、飲料水の確保にも難儀している模様」
「随分と陰湿な兵糧攻めね。どこの誰がやったかまで解る?」
「コレに関しては裏が取れておりませんが……おそらく、劉備か公孫賛陣営の間者ではないかと」
「強気な姿勢にはこういう事情があったのね」

「加えて、汜水関に移送される輜重隊が謎の騎馬部隊に襲撃されて壊滅的な打撃を受けております。これは一月以上前から続いており運び込まれる兵糧そのものが、汜水関には不足していた模様です」
「騎馬って言っても、汜水関には張遼の騎馬隊がいるでしょう? 奴らよりも強い騎馬隊が輜重隊を襲ったと言うの?」
「張遼騎馬隊が洛陽方面からの輜重隊の護衛についている訳ではないようです。汜水関から十分な距離のある地点で襲撃し、兵糧を奪うなり燃やすなりして速やかに撤退するそうです。護衛部隊もいるにはいたそうですが、彼らのどの馬よりも早く追っても追いつけず、無理に追えば騎射で全滅させられるとのことでした」
「その情報は確かなのね?」

 董卓軍もバカではない。一度襲われたとなれば、部隊の強化をするだろう。最前線の汜水関の兵は割けないまでも、虎牢関の兵を使っても良い。精強な兵で固めれば早々、兵糧を失うなどという事態にはならないはずなのだが、所属不明の騎馬隊はそれをやってのけたという。話としてできすぎている。確かにこれは周泰でなくとも真偽を疑う情報だった。

「兵を十人ほど締上げて確認したので、ほぼ間違いないと思われます」

 しかし、周泰は自信を持って頷く。所属不明の騎馬隊に寄る襲撃は、当座、事実であるということだった。納得できなくても、納得するしかない。そういう騎馬隊が存在し、襲撃は成功したのだ。

「確認するけど、兵の撤退は今も続いているのね?」
「最終的には汜水関を放棄し、全ての兵を虎牢関に移すつもりのようです。汜水関に残った兵糧を考えると篭城は難しく、十万の兵を移動することを考えると、現在の兵糧ではギリギリの線です」
「今外に出てる兵は、面子のために戦っている訳ね」

 負けて撤退するのも格好悪いが、一度も戦わずに関を放棄するのはそれ以上だ。戦わずに関を完全に放棄し、最小限の兵だけで守らせておけば兵の損耗は少なくなるが、それ以上に軍が軍として立ち行かなくなる可能性が出てくる。戦わずに逃げるような人間が自分たちの上にいるのだと知ったら、果たして民衆はどう思うだろうか。

 不満に思い文句を言うだけならばまだ良い。それで利敵行為をされるようになると、戦況が一気に傾いてしまう。

 董卓軍としてはたとえ懐事情が厳しかったとしても最低でも一戦は戦わなければならないのだ。その一戦で大打撃を与えられるのならば時間も稼げて言うことはない。士気を維持するのも時間が経てば経つほど難しくなる。既に軍の一部が撤退を始めていることを考えれば、汜水関における戦はこれが最後になる可能性が高い。

 つまりはこの戦を有利な状態で終わらせることができれば、自動的に汜水関を落とすことにも繋がる……可能性が高い。汜水関を落としたとなれば、その名声は一気に内外に広まることになる。謀略を行ったという過程こそあまり誇れたものではないが、勝った落としたという事実の前には些細なことだ。

「今から突撃すれば、汜水関を落とせるってことかしら」
「落とせるでしょうけど、今から動くには理由が必要よ。最低でも袁紹と袁術を納得させられるだけの詭弁を、貴女は用意できるのかしら」

 周瑜の反論に孫策は押し黙る。会議まで開いて盟主袁紹が劉備に任せると宣言し、そのように部隊を配置した以上、それを覆すにはそれなりの理由が必要になる。劉備が敗走し追っ手が差し向けられているならばまだしも、戦はまだ始まったばかり。既に関の兵が撤退を始めているという情報も、孫策軍の間者が掴んできた情報で確度の高いものだが、物的証拠は何もない。

 動くからには最低でも袁術を納得させられるだけの何かを差し出さなければならないのだ。この場合は『兵が撤退している』という情報がそれに当たるが、バカ正直にそれを告白したところで、こちらに利点は何もない。

 じゃあわらわが行くのじゃ、ということになれば、目も当てられない。

 抜け駆けを強引に納得させられるような立場にあれば良かったのだが、一応、使われている立場である手前、勝手過ぎる動きは厳禁だ。

 結局は、立場の違いが今の状況を生み出したのだ。一番弱いという立場にいたからこそ、劉備はこの千載一遇の機会を生かすことができた。作戦そのものは成功率の低いものだったろう。話に聞くだけでも、この作戦には博打のような要素がとても目立つ。今回のような結果が生み出せたことは、幸運に寄るところが大きい。

 だが、幸運を引き込むのも大将の仕事だ。こういう場面で幸運を引き込むことができた劉備はやはり何かを持っているのだろう。

「関一つの功績が兵五千か……何だか寂しいわね」
「言わないの。関はもう一つあるんだから、私達はこの次にどうにかすれば良いわ」
「できたら良いんだけどね……」

 立場の弱い劉備が関を落としたとなれば、袁紹のことだ、次は自分がと言い出すに決まっている。彼女の軍は数こそ多いが、質はそれほどでもない。虎牢関には飛将軍呂布がおり、撤退した汜水関の軍もこれに加わる。数だけで倒せるような並の相手ではない。二枚看板の二人が奮戦したとしても、敗走するのは手にみて取れる。

 自分たちの課題は、いかに敗走する袁紹軍を上手く処理し、かつ、敵に相対することができるかということだ。それには袁紹軍や袁術軍以外の軍との連携が必要になってくる。建前上の盟主ではあるが、心中では誰もが袁家の味方な訳ではない。いずれ敵になる勢力ならば兵力は削いでおきたい。そう考えているのは孫策だけではないのだ。

「孫策様、曹操殿に使者を出されてはいかがでしょうか」
「んー、恩売ったばかりの劉備や公孫賛の方が良くない?」
「劉備公孫賛勢力はそれとして、他に名前と顔を売っておくのも良いのではないかと。いずれ覇を競う相手ならば、その情報は少しでも多い方が良いはずです」
「それも一理あるわね……いいわ。貴女の案を採用する。冥琳と一緒に、上手いこと話を纏めなさい」
「御意」

 その時、遠くで声が聞こえた。前線の情報を集めるべくそこかしこの陣営で伝令が動き始める。

 戦が動き始めた。

















「散るな! 小さく固まれ!」

 自らの指揮する部下達に大声で指示を出しながら、自身も剣を振るい道を拓いていく。関羽、劉備、張飛の部隊が汜水関へと仕掛け門から迎撃の軍が飛び出してから既にニ時間は経過しただろうか。初の大戦に緊張してた身体も興奮で解れていた。顔にかかった返り血を袖で拭いながら、自分の下に再集合した部下をぐるりと見回す。

「団長、百人全員います」

 点呼の報告をするのは副長の子義だった。数を数えるのも怪しい子義だが、報告をあげるくらいならばミスもしない。最初はあまりのアホの子ぶりに団員からも不満ではなく不安の声があがったが、部隊内で一番の剣の腕に加えて百発百中の弓、誰にでもそこそこ礼儀正しく何より一刀の言うことには素直に従ったため、次第に不安の声は小さくなった。

 子義の仕事はあがってきた報告をそのまま一刀に伝えることと、一刀の指示をそのまま部下に伝えることである。役職こそ与えられているが、その仕事はアホの子でもできるものだ。必要なのは認められているということだけ。その点、子義は上手くやっていた。腕っ節とその性格で、彼を嫌う者は部隊の中には一人もいない。

「まだ一人もかけてないのは多分奇跡だな」
「団長の指揮が良いんですよ」
「持ち上げてくれるのは嬉しいけどそれはないな。指揮がどうのと言うなら、甘寧将軍だろう」

 新兵五千人の指揮をしつつ直轄の千人隊まで動かす甘寧の手腕は一刀の目から見て並ではなかった。強面の直属兵と共に戦場を動き回り、兵を手足のように動かしては自分も剣を振るい続ける。自分でも相当な数の敵を斬ったつもりでいたが、甘寧は優にその五倍は斬っているだろう。強面軍団の技量もそうだが、甘寧の技はさらに群を抜いていた。一日に何度も吹っ飛ばされたことから理解していたつもりだったが、実際戦場で敵兵の首を何度も跳ね飛ばすのを見て、その考えを改めるに至った。

 安っぽい表現ではあるが、あの人は化物なのだというのを実感した。

 鐘の音が聞こえた。音の間隔から指示の内容を理解する。甘寧本隊から発せられたおおまかな指示を伝える信号だった。

「本隊の所に集合だ。分散せず、纏まっていくぞ」
「了解しました。本隊まで移動!」

 子義の声に従って北郷隊が移動を始める。先に突破してから敵の姿は近くにはない。本隊から少し離れて動いていたが、百人隊が大きく離れることなどほとんどない。再集合の目印となる甘の旗を目指して、只管に駆けていく。

「団長、あれどうします?」

 それに最初に気付いたのは子義だった。子義の指差す方には、同じ甘寧千人隊に所属する百人隊の姿があった。ただし、進軍速度が非常に遅い。北郷隊が駆け足で移動しているのに、彼らは並足だ。戦場での移動にしては不自然なまでに遅い。負傷者が多いのだろう。先頭を行く人間すら具合を悪そうにしているのが見て取れた。

 子義が気付いたように敵も気付いたようでのろのろと移動するその百人隊に目を付けた敵の一団が、彼らに向けて移動するのが見えた。味方に比べて敵は元気なものだ。あれは自分の獲物だといわんばかりの駆け足で、味方へと迫っていく。味方は敵の集団に気付いたが進軍速度は上がらない。このままでは追いつかれ、殲滅させられるのは時間の問題だった。

 これに関して、本隊からの指示はない。気付いていないのか、本隊からは再集合の鐘が鳴り続けていた。お伺いを立てるような時間はない。彼らをどうするのか。決断するのは自分の意思だ。

 一刀は唸るように溜息を吐いた。

「隊を二つに分ける。指揮は子義。俺が当たるのを見て、反対側から突撃して敵を割る。合流したら、それからは俺が指揮する」
「了解しました。一から五隊、俺について来い!」
「六から十隊は俺に続け!」

 決めたら迷わない。言葉にしたらその通りに行動せよ。甘寧に殴られながら覚えたことだ。人に指揮する者が迷っていては、ついてくる人間の立場がない。心中でどう思っていたとしても、それを顔と行動には出さないことだ。

 仲間を率いて駆け足で目標に迫る。僅かに敵の方が早い。逃げ遅れた味方の最後尾と敵が接触する。味方は仕方なく応戦するが万全に近い敵との戦力差は火を見るよりも明らかだ。このままでは全滅させられる。悲壮感漂う味方を鼓舞するように、一刀は雄叫びを上げた。それに、五十人の部下も追従する。

 意識をこちらに向けた上で、側面から突撃する。反撃の態勢が整うよりも先に、一方的に攻撃を開始。一人、二人と斬り伏せたところで敵の体勢も整う。腰を据えて迎撃しようとこちらにしかと意識を向けるのが解った。援護された味方は礼を言うのもそこそこに、本隊の方へと移動を開始する。相変わらず動きは遅いが、時間は稼ぐことができた。

 後は無事に本隊と合流できるよう、祈るより他はない。

 さて、問題はこちらだ。体勢を整えた敵は目標をこちらに変え、ごりごりと押して来る。装備からして董卓軍の正規兵のようで、一人一人の錬度もこちらより上だった。一刀も先頭に立って奮戦するが、じわりじわりと押され、後退する。これは本当に不味いか、一刀の背中に冷や汗が流れたその時、敵部隊の向こう側で雄叫びが上がった。

 子義の声だ。後背を突かれた敵に動揺が走ったのを、一刀は見逃さなかった。雄叫びを上げ、味方に再度突撃を指示する。挟撃された敵部隊は浮き足だち、体勢を崩していた。錬度で勝っていても、こうなってしまえば関係ない。動揺している人間を狙い定めるように、一人、また一人と協力して打倒していく。

「ご無沙汰です」

 返り血を頭から浴びた子義と、ほどなくして合流した。全体の指揮を再度預かり、体勢を整える。攻撃の手を止め、本隊に背を向ける形でしかと腰を据える。敵部隊はこれ幸いとこちらから距離を取り、体勢を整えた。いくらか殺したはずだが、全体として見るとそれほど減っているように見えない。逃げてくれればシメタものだったのだが、敗走する気配もなかった。

 逃げるか、戦うか。考えるまでもない。

「本隊に合流する。全速転進――」
「団長、待ってください。何かヤバイのが来ます」

 子義の声に、一刀は命令を中断した。彼の指し示す方向に視線を向けると、そこには土煙が。

 大規模な騎馬隊だ。少なくとも五千はいるだろうか。そんな規模の騎馬隊が高速でこちらに向かっていたのである。先頭近くを走る馬が隊の旗を持っていた。紺碧の地に『張』の一文字。そこにいるのが誰なのか、誰の指揮する騎馬隊なのか、瞬時に理解してしまった。

「張遼が来たぞ! 全員下がれ!」
「下がるんですか? このまま本隊に合流した方が」
「いや、無理だ。俺達が合流する前にあの騎馬隊に襲われる」

 張遼騎馬隊と、一刀から本隊を結ぶ直線の距離はおよそ500メートル。馬が時速60キロで走るとしても騎馬隊が通り過ぎるよりも先に本隊に合流することはできない。

 しかも、こちらは一直線に走らなければいけないのに対し、向こうは方向をある程度調整することができる。えっちらおっちら走っている時に側面から騎馬隊の突撃を受ければ全滅は免れない。

「やってみませんか? 騎馬隊が通り過ぎるよりも先に、本隊に合流できるかもしれませんし」
「どうして無理か説明するためにはお前の嫌いな数字を使う必要があるぞ?」
「無理なものは無理ですよね。俺、今わかりました」
「解ってくれて嬉しい。ちなみに合流するためには俺達全員が最低でも馬以上の速度で走る必要がある」
「そんな人間いるはずないですね」
「世の中広いからな。甘寧将軍とか、馬以上の速度で走ったとしても俺は驚かないぞ」
「それは見たいかも。走る時には俺にも教えてくださいよ」
「ここを何とかできてから考えることにしようか。さっきの敵部隊を追うぞ」

 騎馬隊がやってくるのと反対方向に逃げたとしても的になることには変わらない。被害を受けないためには騎馬隊の進行ルートから離れる必要があるが、その方向には先ほど交戦したばかりの部隊がいる。そちらに逃げれば再び交戦するのは明らかだ。

 しかし、そちらに行くしか生きる道はない。張遼騎馬隊の前に出るよりは、まだそちらの方が生き残る可能性は高いだろう。

「さっきの連中とまた戦うぞ。全員準備だ」
「団長。弓を使っても良いですか?」
「交戦までに何射できる?」
「十回はやれます」

 敵部隊との距離は100メートルもない。こちらに気づいた敵部隊も移動しているので、ぶつかるまでの時間は多くはない。話している間にも子義はどこかで拾った弓に矢を番えていた。走りながらで不安定であるはずなのに、狙いを定める上半身は定まって動かない。敵の雄叫びが耳に響くような距離になって、子義は第一射を放った。劣悪な条件が重なった中で放たれたはずのその矢は、しかし、敵部隊の先頭を走っていた兵の眉間に吸い込まれる。血を吹き上げて倒れる敵兵。いきなり倒れた味方に、敵部隊の動きが止まった。止まっている的など、子義にかかっては造作もない。

 立て続けに放った矢は五射目まで一矢で敵兵を討ち取った。このまま全員とばかりに子義は射撃を続けるが、矢で射られていることが解ると流石に敵も対応を始めた。簡素ではあるが盾を用意して、矢を防いだのである。良い弓、良い矢を使っていれば子義の腕ならば薄い盾など貫いていただろうが、拾った弓矢ではそうもいかない。

 舌打ちをして悔しがりながら、弓を放り捨てて抜剣する。敵兵はすぐそこだ。

 部隊の先頭が、ぶつかる。正規兵だけに押して来る力が凄まじい。人数がこちらの方が多いのに既に押されていた。これ以上押されたら死ぬ。それぐらいの気持ちで一刀は踏みとどまり、仲間に檄を飛ばした。雄叫びをあげ、自らも剣を振るう。荀家を出る時に、荀彧から譲り受けた剣だ。仲間が支給品を使っている中で、一刀だけが自前の剣を使っている。

 かなりの人間を斬り武器を受け止めたはずだが、見た限り刃毀れ一つもしていない。元の持ち主に似て、根性の座った剣である。

 この剣を使っている以上、無様に負ける訳にはいかない。ここで死んではこの剣を誰とも知らない人間に回収されるかもしれない。そんなことは死んでもご免だった。

 この剣は、俺のものだ。

 そう思うと力が湧いた。この剣を持つ限り、無様な戦いはできない。一刀の意識が澄み渡る。

 正面、髭面の男。頭から被ったらしい返り血が、風に乾いているのが見えた。目が合う。男がニヤリと笑った。こいつになら勝てる。そういう顔だった。やってみろ。振り下ろされた剣を渾身の力を込めて払う。侮っていた男の身体が僅かに流れた。返す剣を降り降ろす。首筋を狙った一撃は、男が大きく飛びのいたことで避けられた。

 だが、今は乱戦だ。男の後ろにも兵がいる。大きく下がっても十分に下がることはできない。男の体勢が整うよりも先に斬りつける。僅かに体勢を崩していた男は剣を受け切れなかった。弾き損ねた剣が、男の首筋を浅く割く。噴出した血が一刀の顔にかかった。

 鉄の臭いに血が沸き立つが、致命傷ではない。間に剣が割って入ったことで威力が殺されている。

 だが、斬られたという事実は男を動揺させた。楽に倒せると思っていた相手からの思わぬ反撃。戦場では一撃が致命傷になりうる。攻撃を通してしまったということは、その一撃で殺される危険もあるということだ。僅かな逡巡の後に、男から油断の色が消えた。今まで以上に冴えた、力の入った攻撃が一刀を襲う。

 三合受けて、悟る。この男は自分よりも強い。十回戦えばおそらく九回は男が勝つだろう。経験も腕力もおそらく体力も向こうの方が上。正攻法で戦ったところで勝ち目はほとんどないが、これは戦であって試合ではない。

 六合目。男の剣を受けた時、横合いから差し込まれた剣が男の首を割いた。今度こそ勢い良く噴出す血を浴びながら、一刀は踏み込み男の首を刎ねる。舞い上がる首には見向きもせず、力を失った男の身体をせめて敵兵の邪魔になれとばかりに思い切り蹴飛ばす。

「ありがとう子義」
「どういたしまして。でも、ヤバいですね団長」
「ああ、不味いな」

 ゆっくり言葉を交わす暇もない。新たに襲い掛かってきた敵兵の剣を受け止めながら、戦いの趨勢を試算する。大局的に連合軍と劉備軍どちらが勝つかは知らないが、今のこの局面だけで判断するのなら、北郷一刀の運命は割りと差し迫った所まできていた。

 子義の活躍で敵の数を減らすことができたが、それでも有利不利は変わらない。このまま続ければこちらが全滅するのは火を見るよりも明らかだ。

 張遼の騎馬隊を避ける際に深く踏み込みすぎたせいで、本隊との距離はさらに離れてしまっている。他の百人隊は既に合流してしまっているのか、自分たちがしたように助けに来てくれる気配はない。

 ならば、本隊に伝令を出して援軍を求めるべきだろうか。考えてもすぐに結論はでなかった。

 まず、援軍を出してくれるかどうかが微妙なところだ。百人隊一つを助けるために本隊の戦力を甘寧が割いてくれるか、一刀には判断がつかなかった。それに援軍を出してくれるとして、そのためにはこの窮状を伝える伝令を出さなければならない。その伝令が無事に本隊までたどり着いたとして、全て歩兵で構成されている本隊から援軍がやってくるのはそれからだ。

 その往復分の距離は一キロを越える。援軍も即参上という訳にはいかない。援軍を待つのならば人がそれだけの距離を走る時間を耐えなければならない。しかもそれは、最高に上手く事が運んだ場合の試算だった。こちらの戦力を削って伝令を出した結果、援軍は出さないという決定を出される可能性も否定はできないのだ。

 それなら最初から背中を見せて逃げた方が上手く行くのではないか。多少では済まない犠牲が出るだろうが、確実に本隊との距離は縮まる。距離が近ければ近いほど生存確率は上がるのだ。

 留まるか、引くか。考えている間も、敵兵は攻撃の手を緩めてはくれない。考えれば考えるだけ味方は傷つき、倒れていくのだ。あまり時間を割くことはできない。


 全力で撤退する。一刀はそう決めた。殿を自分と子義他、腕の立つ人間で務めて他の人間を可能な限り遠くまで逃がす。これならば生き残る頭数は多くなるだろう。反面、残った人間はより地獄を見ることになるが、逃げつつ戦うのだから留まるよりは楽なはずだ……と強引に自分を納得させる。腕の立つ人間を集めた十人隊を二つ残し、残りは全て本隊に向けて全力疾走。

 生き残るにはこれしかない。一刀は覚悟を決めた。

 その命令を全員に伝えるため、隣で奮戦する子義に声をかけようとしたまさにその時、敵の勢いが大きく弱まった。敵兵が近付いていることを誰かが叫んでいる。聞き覚えのない声であるから、おそらく敵兵の誰かなのだろう。

 味方の援護だ。一刀の腕に力が戻った。

「押しまくれ!」

 これはチャンスだ。生き残るための絶好のチャンスなのだ。腕に今まで以上の力を込めて、剣を振るう。新手に気を取られている敵兵は先ほどまでよりもずっと簡単に討ち取ることができた。

 敵兵の向こうに、彼らの言う新手の姿が見えた。白馬の騎馬隊だった。少なくとも五百はいるだろうか。全てが白馬で統一された騎馬隊が敵兵に向かって突っ込んでくる。先頭を駆けるのは、白い鎧を着た女だ。手綱を持たずに馬を操り剣を振るっている。彼女が一つ剣を降る度に、敵兵の首が飛んだ。精強な騎馬隊である。先の張遼騎馬隊にも劣らないだろう。数は少ないが、それだけの圧力を一刀は感じた。

 味方としてこれほど頼もしいものはない。相対する人間からすれば、これ以上の恐怖はないだろう。留まれば死ぬ。それを悟った敵兵たちは一刀たちの部隊には見向きもせず、散って逃げ始めた。

「今度こそ転進だ! 本隊に合流するぞ、走れ!」

 一刀の声を受けて子義が命令を復唱する。それは直ぐに部隊全員に伝わった。生き残った人間は全てその命令に従い、本隊に向けて駆け出していく。敵兵の追撃がないのを殿で確認しながら、一刀は駆ける。

 本隊までは何も遮る物はなかった。次の敵軍に向けて移動している最中の本隊ではあったが、合流したこと、それから状況の説明のために甘寧の元へと急ぐ。

「遅かったな」

 いつも通り甘寧は仏頂面だったが、いつも以上にイラついているように見えるのは決して気のせいではないだろう。本能が近付くことを拒否しているが、仕事上そういう訳にもいかない。敵兵に挑む時よりも悲壮な覚悟を決めて、一刀は甘寧の前に立った。

 拳が飛んでくる。一発目は顔に。吹っ飛ぶのはどうにか堪えたところに立て続けに腹部に二発。流石に蹲ってしまう一刀に、甘寧は溜息を漏らした。

「参集に遅れたこと、命令に背いたことは重大だが、味方を救ったことに免じてこれで済ませる。これ以上の処分はない。部隊に戻れ」
「ありがとうございます」
「二度は言わんぞ。さっさと行け」

 どこか照れた様子の甘寧に頭を下げ、一刀は部隊に戻った。








 劉備の部下関羽が汜水関を落としたと報告があったのは、それからさらに二時間後のことだった。張遼は自らの部隊と共に虎牢関に向かい、華雄は公孫賛客将の一人である趙雲との一騎打ちに破れ、公孫賛軍に約一千の配下と共に降った。

 大半の人間の予想を覆して、汜水関での戦は一度で終わり、劉備はその勝利によって名を売ることに成功したのだった。













[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十六話 反菫卓連合軍編⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57
「以上が報告になります」

 簡潔な報告だけを述べて、女は書簡を渡してくる。朱里はそれを改めることもなく退出の許可を出す。一礼し、女は音もなく去っていった。書簡の内容について女と確認する必要はない。彼女の担当は調査及び連絡であって、書簡の内容を吟味することではないからだ。報告が確かでそれを十全に届けてくれるのなら、それ以上を求めることはしない。

 無言のまま、朱里は書簡に目を通した。記されているのは氾水関戦の分析結果だ。勢力ごとの動員兵力及び損耗、それが敵味方に関わらず細かに記載されている。氾水関は董卓軍の施設だったが、連合軍が押さえたことでその検分も始まった。使えそうなものはこちらで使い、攻められた時のことも考えて施設の補修、食料や装備の搬入が進んでいる。

 今は駐留する人員の選別を各勢力の代表が集まって協議しているところだ。どこからどれだけ人を出すかもそうだが、それを誰が指揮するのかという問題もある。今は急いでいるということが袁紹にも解っているため、比較的素早くこの問題は片付きそうだった。本来ならば最初に決めておくべきことだったのだが、それをとやかく言う段階でもない。盟主を決めた時のことを考えると、この決断の早さは奇跡の産物だ。上手く行っているのだからそれで良い。

 このまま順当に行けば遅くとも明日には全ての話が纏まり、虎牢関への移動を始めることができる。配下の兵士にもそのつもりで出立の準備をさせていた。軍の運用に問題はない。仕込みは万全だ。

 不意に、苦しくなった。

 胸を押さえて朱里は小さく咳き込む。咳音が漏れてはいけない。慌てて口を手拭で塞ぎ、小さく蹲る。体調の変化は急だった。動悸は早まり身体がガタガタと震えだす。それを堪えることができたのは数秒だった。耐え切れずに胃の中の物を吐き出す。昨日の夜から何も口にしていないため、出てくるのは胃液ばかりだったが、嘔吐感はしばらく続いた。

 はぁ、と大きく溜息をつく。汚れた口元を手拭で拭い、椅子に体重を預けた。大きく深呼吸をして、心を落ち着ける。

 策については万全を尽くした。考えられるだけ考え、手配できることは全てやったと断言できる。それでも覆されることはあるだろうが、これで駄目ならと諦めがつくくらいには、人事を尽くした。これ以上は人間の手の及ぶ所ではない。

 頭は嘗てないほどに冴えていた。文字が、数字が、地図が、あらゆることを自分に教えてくれる。今の自分には見抜けない物などないそう錯覚すらするほどに、諸葛孔明の知は研ぎ澄まされていた。

 その反動は体調にきているが、この程度ならば問題ない。不調程度で知力が研ぎ澄まされるのならば、世の軍師は喜んでその身を捧げるだろう。

 もっとも、明確な症状を無視し続けてそれが大病だったというのではあまりに無残であるので、定期的な医者の診断を欠かしてはいない。おかげで大病の気配はないと複数の医者からお墨付きを貰うことができた。まだまだ桃香のために多くの仕事ができると思うと、頭もより冴え渡っていく。

 そんな知力の冴えは桃香軍に合流してからずっと続いている。これまでの戦でも桃香を勝利に導いてきたし、初の大戦となった先日の氾水関の戦いでも、大勝を納めることができた。桃香と自分にとって理想的な勝利が続いている。軍師の成果としてこれ以上はないくらいのものであるが、朱里の冴えた知性は勝利の先に暗雲が立ち込めているのを感じ取っていた。

 桃香は大徳ある人物だ。関羽も張飛も真っ直ぐな性格をした武人で、兵を良く指揮している。そんな面々についてきた兵だからこそ、彼ら彼女らもまた、気持ちは真っ直ぐな人間が多い。

 それ自体は悪いことではない。朱里もそんな彼女らが大好きだし、そうだからこそ軍師として付き従っているのだ。

 問題は別にある。彼女らは綺麗過ぎるのだ。気持ちが真っ直ぐな彼らは、他人を落としいれようとしない。桃香は相手を信じるところから始め、関羽は自らの正義心情を貫くことが前提となっている。二人に比べれば張飛はまだ中庸の気持ちを持っているが、必要に応じて正邪を選べるような柔軟さはない。

 この世に明確な正と邪があるならば、極端に正に偏った集団。それが今の桃香軍だった。

 桃香がそうありたいというのも理解している。その意思がきちんと伝わった今の桃香軍は、彼女の軍としてあるべき姿をしているのだろうが、その綺麗さだけで勝てるほど全てが充実している訳ではない。軍師の目から見て明らかに、桃香軍には欠けているものがある。

 軍師として早急に進言するべきであるが、しかし、朱里はそれを口にすることはできなかった。理由は単純である。今の桃香軍はその正しさで持っているようなものだからだ。この時代に理想を語り、それを体現しようとする桃香だからこそ、兵はついてきている。人を陥れる行為を平然とやる。人を率いるのであれば、乱世であれば許されるその行為も、桃香からは程遠い。

 兵はそんな桃香の姿に理想を見た。生き残るための当たり前の行為が、桃香の神性を失わせてしまう。兵力は諸侯の力を決定付ける重要な要素の一つなのだ。対抗する術がないと見られれば、乱世の今では即座に叩き潰されるだろう。一度叩かれてしまうと、再起するのは難しい。既に袁紹や曹操などとは兵力や財力で圧倒的な差をつけられているのだ。兵力を失ってしまえば、戦う前から勝負が決まってしまう。

 何も知らない人間は言うだろう。そういう劣勢を覆してこその軍師ではないかと。

 何も知らないのはお前の方だ。誰が好き好んで劣勢を選ぶものか。戦う前に可能な限り有利な状況を築き上げること、それが軍師の仕事だ。劣勢のまま戦うことになった時点で半端仕事である。そうなってしまったのなら、それは軍師の手落ちだ。

 そうならないために朱里はあらん限りの知恵を絞った。生き残るためにはどうしたら良いか。勝つためにはどうしたら良いのか。

 桃香に足りないものは、全て自分が埋める。桃香が考え付かないような謀も、桃香が思いもしないような汚れ仕事も一切合財全て。

 それで軍が立ち行くならば、軍師冥利に尽きるというものだ。敬愛する主たる桃香のためになること、そのためにならば何でもする。

 決意を固めたら朱里は躊躇わなかった。可能な限りこちらが一方的に攻撃する。戦う前に勝利が決まっているのならばなお素晴らしい。敵将を暗殺できないか、兵糧を潰すことはできないか、不和を起こすことはできないか、散を乱して逃げるように仕向けることはできないか。昼夜を問わずそういうことばかりを考えた。

 おかげで他にも足りないものが見えてきた。策を実行するための資金が不足している。今後の大きな課題だ。策を十全に実行できるように予算をひねり出さなければならない。桃香軍は決して大きな勢力ではないが、だからこそ金を調達する方法はまだいくらでもある。資産の運用なども考えておくべきかもしれない。兵と一緒で金はいくらあっても困るものではないのだから。

 当然、策を実行するための人手も足りない。今回の作戦では公孫賛軍に人手を借りた。連合軍への出立の前に公孫賛本人に秘密厳守として念を押し、作戦を全て説明した。正々堂々としていないその行為に公孫賛もあまり良い顔をしなかったが、結局は勝利を取った。誇りは人を導くのに必要不可欠であるが、負けてしまっては何の意味もないということを、公孫賛は良く分かっていた。

 今回は公孫賛の力を借りてどうにかなったが、いつまでも彼女に頼る訳にはいかない。秘密を守ることができ、策を実行する優秀な人材が桃香軍にも必要だ。

 性格が性格なだけに、桃香軍の中にそういう繊細な仕事を得意とする人間はごくごく少ない。内部からの登用は無理だろう。いたとしてもそれを大っぴらに集めることはできるはずもない。自分のやろうとしていることを知れば、桃香は絶対に反対する。彼女の栄達のためだと説明しても、きっと聞き入れてくれないだろう。

 いざという時には悪名全てを自分が被る必要がある。

 いくら桃香がそういうことに精通していないと言っても、いつまでも隠し通せる訳もない。いつかは桃香にもバレる時が来るはずだ。これは早さの勝負でもある。露見するその時までに桃香の立場を確固たるものにできなければ、この仕事に手を出す意味がない。

 それに軍師の頭数も足りない。桃香軍はまだ勢力としての基盤が整っていないし、いくつもの謀を同時に進行するためには最低でも後一人、秘密を共有することのできる補佐が必要だった。

 雛里がいれば何も問題はなかった。雛里と一緒ならば謀に偏った方法に寄らずとも、桃香が望む形に近い方法で策を実行することができただろう。

 だが、彼女は灯里の紹介で北郷一刀という人のところに行ってしまった。どんな人間かも知れない男性に雛里ははっきりと恐怖していたが、灯里の紹介とあっては断る訳にもいかなかった。在学中には何かと世話になった先輩である。軍師を育てる学院でも、上下関係は意外ときっちりしているのだ。

 灯里がただの先輩風を吹かすだけの凡人ならば、朱里も雛里も勇気を振り絞って反発しただろう。自分の人生に関わることだ。先輩とは言え、全てを強制する権利はない。

 しかし朱里も雛里も灯里が有能な人間であることを知っていた。特に人を見る目については水鏡先生からも一目置かれていたほどだ。その灯里の紹介である。卒業後は二人で旅をと約束していた雛里であったが、その約束を知っているはずの灯里からの紹介ともあって、気持ちも揺らいだのだろう。

 彼女が強引にでも薦める以上、何か見るべきところがあるはずである。いくら知を極めたとしても、良い主とめぐり合うことができなければ軍師は十分な能力を発揮することができない。良い主というのは、喉から手が出るほど欲しいものなのだ。

 誘惑に負けてしまった雛里を、朱里は攻めることができなかった。それは軍師の性のようなものである。指名されたのが自分だったら朱里だって、雛里と同じ決断をしただろう。自分のことを考えること、それ自体は悪いことではない。

 ただ、灯里の紹介とは言え、それでも雛里が男性に仕えるというのは心配だった。自分と一緒で人見知りをする雛里が、男性の主と上手くやっていけるのか。何しろ雛里はかわいい。不埒な考えが頭を過ぎり、そのまま襲われてしまうことだってあるかもしれない。

 雛里が旅立ってからの毎日は戦々恐々としたものだったが、彼女からやってきた最初の手紙に、今の環境には満足しているという一文を見てからは、その気持ちも消え去った。良い主を得たという友達を、今では心から祝福できる。連合軍に参加するために、孫策陣営にかけあってみるつもりだという手紙を最後に遣り取りは途絶えているが、彼女のことだから上手くやっていることだろう。

 その、雛里を連れて行った灯里。学院の先輩で学院では珍しい剣も嗜む軍師である。旅歩きを繰り返しているせいか見聞が広く、巣立って日の浅い自分よりもずっと幅広い知識を持っている。

 灯里ならばきっと、自分では考えもつかない方法を思いつくだろう。理想とは違った形であっても、桃香をより良い方向に導くことができるに違いない。

 二人のどちらかが入れば、謀や汚れ仕事に頼らなくても良かった。

 だが現実として二人はおらず、勢力を維持、拡大するためには誰かが手を汚さなければならない。

 勿論それをしないで済むにこしたことはないが、いざという時に手が動かないのでは話にならない。今必要なのはそういう仕事を十全にこなせる、芯が強くて頭の切れる人間だ。

 幸か不幸か一人だけ朱里にはそういう人間に心当たりがあった。

 理性に従うのならば、彼女を呼び出すために早急に手紙を書くべきだ。応じてくれるか分からないが、出すのならば早い方が良い。順当に行けば彼女は今期で学院を卒業してしまう。学院を出てからでは居場所を捕捉するのも困難だ。

 手紙を書くのに躊躇う理由はない。

 しかし、感情は筆を動かすことを拒んでいた。

 朱里は彼女のことが苦手だった。決して公正とは言えない性格も、僅かな恨みにも必ず報復する姿勢も、自信に満ち溢れた瞳も、全てが苦手だった。

 同じようなことは彼女も思っていただろう。お互いに全ての要素がかみ合わなかったと言っても良かったが、勉学には真摯に取り組む彼女は後輩としてはある意味理想的な存在だった。性格が合わなくても先輩を立てるだけの筋は通してくれたし、やっかみを受けて雛里と一緒に孤立しかけた時も、嫌々ながら守ってくれた。

 とは言え、良い人か悪い人かで言えば朱里の観点では悪い人寄りである。できれば係わり合いになりたくないというのは今でも変わらない朱里の感情だったが、少なくとも謀や汚れ仕事に関して彼女に勝る才能を朱里は知らなかった。

 補佐として呼ぶならば彼女しかいない。

 朱里は迷いを断ち切るように、大きく溜息をついた。筆を取り、木簡に走らせる。余計な言葉を一つも入れなかったので、用件を伝えるだけの簡素も簡素なものになってしまったが、彼女への手紙はいつもこんなものだ。

 人を呼んで、学院に急ぎで届けるようにと念を押す。これで卒業前には間に合うだろう。返事は出してくれるだろうが、受けてくれるかは半々というところだ。彼女ならば仕官の先などいくらでもあるだろうし、うまの合わない自分の下で働くことを是としてくれるかも未知数だ。

 期待はしているが、きてくれないことも覚悟はしている。その時は今度こそ自分一人でやるしかない。

 雛里がいてくれれば……と、切に思う。あわあわ言っていた親友に、何だか無性に会いたくなった。

 
















 士元の前では一刀が陰鬱な顔で作業をしていた。

 氾水関内、孫策陣営。北郷一刀個人に割り当てられた幕である。百人隊長に幕が割り当てられるというのも剛毅な話であるが、これには事情がある。

 二日前に劉備軍が氾水関を落とし、連合軍の首脳陣は意気揚々と氾水関に入った。全ての兵を受け入れるには準備が足りなかったため、兵の多くは関の外で死体の処理をしつつ野営などをしている。百人隊長である一刀も昨日までその作業に参加していたが、昨晩甘寧から各部隊の隊長に生存者と死亡者の目録を作って持ってくるようにとの指示が出て状況が変わった。

 目録を作成するためには文字を書く必要がある訳だが、百人隊長の多くは読み書きが苦手だ。一刀のような例外はあるが、基本的に兵というのは学がない。そんな彼らに目録を作れというのも酷な話である。

 酷だろうと何だろうと仕事は仕事だ。苦手な文字と格闘しながら百人隊長達はせっせと目録を作成していたのだが、それを見かねた一刀が彼ら全員に代行を申し出た。誰それが死んだということだけ解っているのなら、目録を作成するのはそれほど難しいことではない。甘寧直轄の千人隊所属の百人隊、自分のところを含めて十組全ての仕事を代行しても、一刀ならば一晩もかからずに終わる。

 読み書き計算を十全にこなす一刀にすればそれは大したことではなかったが、他の百人隊長にとってはそうでなかったらしく代行を申し出た一刀は大層祭り上げられ、その晩の食事が少々豪華になり、一人では食べきれないからと自分や奉孝、仲徳も呼び振舞う騒ぎとなった。あまり健啖ではない士元にとって食事が増えることはあまり嬉しいことではなかったが、嬉しいことは皆で分かち合おうという一刀の方針はありがたく、彼の隣でもそもそと食事をしながら小さな幸福を味わった。

 それは穏やかで楽しい夜だったが、目録を持って甘寧が怒鳴り込んできたことでまた状況は変わった。目録の作成を百人隊長に任せたのは、各隊の状況を隊長に良く認識させる目的もあった。それを代行しては意味がないと、百人隊長を並べて説教する甘寧の怒号は、夢に見そうなほどに鬼気迫っていた。自分が怒られた訳でもないのに、思い出しただけでぶるりと身体が震える。直接怒られた一刀達の恐怖は、この比ではなかっただろう。青い顔をして頭を下げる一刀を思い返すと、同情を通り越して悲哀すら覚えるほどだ。

 説教は一時間ほど続き、代行を頼んだ隊長たちには改めての目録の作成が申し付けられた。代行を請け負った一刀は仲徳と甘寧の協議の結果何故か一番罪が重いとされ、甘寧隊全体の事務処理が言い渡された。夜があけて朝一番、個人の幕となった場所で、一刀は黙々と作業を続けている。

 これは元来甘寧とその補佐役である仲徳の仕事なのだが、彼女らは関に残す兵選抜の会議に出席するため、この場にはいない。孫策、周瑜、陸遜、周瑜の補佐である奉孝も同様だ。士元も本来は孫策の補佐であるのだが、一刀の監督役として残ることを許された。

 自分はいらない娘と言われているようで不安にはなったが、一刀を一人放っておくのもかわいそうではあったし、最近は話す時間も取れなかったこともあって、ゆっくり顔を見たくもあった。仕事をやりながらではあるが、時間を持てたことは士元にとっては幸運だったと言える。

 その辺を見越しての孫策の配慮なのだろうか。破天荒な生き方をしているのに、こういう機微にも理解がある。孫策というのは本当に不思議な人だ。

 筆を置き、一刀が大きく溜息をついた。背中を伸ばすとごきごきという音がする。仕事に一区切りがついたようだ。自分の割り当てはとっくに終わっていた士元は一刀の眺める作業をやめ、用意していた茶を勧める。既に温くなっていた茶を一気に飲み干し、一刀はさらに溜息をついた。

「戦に出るよりは楽だと思ってたけど、長い時間こうしてるとやっぱり疲れるもんだな」

 軍師ってのは凄いんだなー、と奉孝に聞かれたらまた小言を言われそうなことを一刀はぼやいている。消去法的に軍師寄りの一刀には武を磨くよりも知を磨いてほしい、というのが奉孝の決めた方針だ。士元もそれについては賛成で、村にいた時は勉強などをよく手伝ったものだった。

 今は仕方なく百人隊長などをしているが、はやく領地でも持ってもらって治世に力を注いでもらいたいというのが正直なところである。頭の良さは学のある人間の中では普通だが、発想の突飛さには目を見張るものがあった。彼の発想は乱世ではなく平時でこそ生きるものだろう。

 これで武を任せることのできる人間がいれば安心なのだが、雇われの百人隊長である一刀に自前で動かせる兵はほとんどない。自分の損得を無視してまでついてきてくれそうなのは、子義を中心とした二十人弱くらいだ。私兵と呼ぶにもあまりに少ない。村にいた時の自警団よりも少ない……というのもそこから引き抜いた人間が中心となっているのだから当然である。天下に覇を唱える日は遠そうだった。

「さて、目録についてはこんなものかな」
「お疲れ様です」
「こうしてデータで見ると、部隊の再編って大変だよな。減ったところに補充するだけって、もっと簡単に考えてた」
「なるべく均等に、というのが甘寧将軍の方針ですから、まだ楽な方ですよ。偏りを持たせる方針だったら、もっと神経を使って微調整をしないといけません」
「うちの部隊だと甘寧将軍の部隊がそれだよな」

 一刀の言葉に士元は頷いた。一刀たちは新兵で彼女らは正規兵なのだから当然と言えば当然である。甘寧の指示で動く彼らは彼女の元で戦ってきた古強者で、孫策軍全体で見ても実力者が集められている。個人的に甘寧との付き合いも長いようで、孫策軍の一員というよりは甘寧の部下という気持ちの方が強いようだった。

「編成の草案を考えたのは将軍だったかな」
「そうです。仲徳さんも手伝ったみたいですけど、ほとんど口は挟まなかったと言ってました」

 軍師の力を借りる必要もないほど、自分の部隊の人間について甘寧は把握しているということだ。把握していると言っても、五千人である。顔と名前が全て一致するということはないだろうが、部隊単位でどういうことができるのか、そういう『でーた』はきっちりと、甘寧の頭の中に入っているようだった。

 氾水関の戦では、甘寧部隊の約一割が戦闘不能となった。内、甘寧直属部隊の被害はなし。損害は全て新兵の中から出ている。約五百の内、死者が約四割、兵として働くのは無理なほど重傷を負ったものがニ割、次回の戦闘には参加できそうにない人間が残りの全てである。

 ちなみに北郷隊の被害は二十四人。死者八名、重傷者十名、負傷者六名がその内訳である。死者の中には村から一緒に出てきた者もいてそれを知った一刀の落ち込みようは凄まじいものがあったが、二晩もたった今は落ち着きを取り戻している。普段よりも影があるのは否定できないものの、いつものように振舞おうとしているのは見てとれた。思っていた以上に、心の強い人である。

 北郷隊の欠けた戦力については今朝の編成で補充も済んでいる。全体で一割かけたので、ほとんどの部隊が百人隊ではなく九十人隊になってしまったが、一つ戦を乗り越えたという経験は兵たちの大きな助けとなるだろう。鍛錬を見ても、動きが違う。新兵の域は脱していないが董卓側の正規兵もこの部隊を軽く見ることはできないはずだ。

「いつかは、俺もこういうことをしなきゃいけないのかな」

 一刀のぼやきには、俺にできるかな、という内心の不安が溢れていた。これにできますよ、ということは簡単である。士元は反射的に励ましそうになるのを、ぐっと堪えた。甘やかしてはいけない、という奉孝の言葉が思い返されたのだ。厳しく行くくらいでちょうどいいという彼女の教育方針は、士元の目から見ると厳しすぎるように思う。

 褒めるべきところは褒めていると奉孝は主張するが、鞭九に対して飴は一くらいだ。一つ間違えば、一刀がグレてしまってもおかしくはないのに、一刀はどれだけ怒られてもそれを受け入れて、次に生かす姿勢を崩していなかった。発想以外のどれをとっても物足りないが、一刀はよく自分が足りないということを自覚している。曹操のような万能超人であればまだしも、そうでない人間にとっては他人の意見を柔軟に受け入れるという心持ちは、非常に重要なことだった。

 その点については、厳しい奉孝も良く信頼している。一刀ならばできると思うからこそ、厳しく接しているのだろう。それが自分の役割と割り切っている節もある。

 一刀にも飴は必要だが、本当は奉孝にも必要なのではないだろうか。その飴を与えることのできる人間は今のところ一刀だけである。

 一刀が奉孝を褒め称えているところなど……実は結構良く見る。欠けていることを自覚している一刀は、自分よりも優れたところを持つ人間を尊敬することを忘れない。凄いと思ったことは素直に褒めるし、その表情、態度から本当に凄いと思っているのだと感じられる。

 だから、気難しい奉孝も一刀に褒められると満更でもない。満更でもない顔をしながら課題を容赦なく十倍に増やしたりする。流石にそういう時は一刀も迷惑そうな顔をするが、そんなことを奉孝は気にしない。あれも奉孝の愛情表現であるということに、一刀は気づいているのかいないのか……心の機微にそれほど聡くない士元には分からなかったが、関係が良好に見える以上、他人の事情には口を挟むべきでもない。お互いが嬉しそうなら、それで良いのだ。

 嬉しいと思うのは奉孝だけでもない。一刀に褒められると、皆嬉しそうな顔をする。子義など、見えない尻尾が振られているのが見えるようだし、仲徳は地味に口数が増える。部下の兵達も一緒だ。褒められると嬉しいからより頑張るし、頑張るからより良い結果を出せるようになる。そうしたらまた褒められるから、また頑張る。

 こうして部隊の力が向上すると共に、一体感も生まれる。甘寧のように厳しく育てるよりも成長は遅いだろうが、連帯するという意思に関しては、一刀の部隊は目を見張るものがあった。甘寧隊の百人隊の中では間違いなく随一だろうし、正規兵と比較しても引けを取らないだろう。個々の実力が低いせいで正規兵よりも結果を出すことはできないが、どういう戦いかたをしても驚くほどの粘り強さを見せるし、何より良く一刀の指示に従う。

 これくらいの規模の部隊指揮ならば、一刀は十全にこなすことができるのだろう。このまま突き詰めていけば、類稀な指揮力を持った百人隊長になれるかもしれない。

 考えたところで、士元は心中で苦笑した。奉孝ならば言うだろう。どうして貴殿は他のところで才を発揮できないのですか、と。百人隊長は現場職だ。できるに越したことはないだろうが、上を目指す人間にはそれほど意味のある才能でもない。上に行けば行くほど、より広く、より多くを見なければならない。百人ならば十全にできるということは、百人までしか見通せないということでもある。

 視野を大きく持って欲しいという奉孝の気持ちも分からないでもない。仕える人間にはなるべく偉大であってほしいと思うのは、軍師の性だった。

「一刀さんならできますよ」
「そう言ってくれるのは士元だけだよ……」

 ありがとなー、と何気ない仕草で一刀は頭を撫でてくる。男性に触れられるということに恐怖で身体が震えるが、撫でられるとそんなことはどうでも良くなってしまった。褒められた、撫でられたということが凄く嬉しい。

 劉備軍の主席軍師の朱里と比べれば雲泥の差だが、腕の振るい甲斐があるのは一緒である。一から自分たちでやっていく感覚がある分、楽しみは大きいかもしれない。勢力の大きさで見れば劉備は全体の中でも大国寄りではあるが、中の範囲を出てはいない。大きな勢力には頭を抑えられ、小さな勢力の台頭に目を光らせるような、そんな難しい立場である。

 その点、こちらは下も下。まだ勢力として成立してもいないような少数勢力だ。飛躍するも没落するも今の働きにかかっている。その綱渡り感は癖になる。学院では大軍を指揮する前提であることが多く、漠然と思い描いていた仕官先もいつも大国を考えることが多かった。小国、小勢力は自分の力を試すのに相応しくないと無意識に思っていたのかもしれない。

 だが、やってみたら面白い。知力を研鑽しあうことのできる仲間もいる。優しい主もいる。武を任せることのできる人間たちも……少ないがいる。地を這いながら大空を狙うという大望が、軍師としての血を刺激している。

 働く環境としては最高だ。朱里も無理やりにでも誘えば良かっただろうか。あの優しい少女ならば、奉孝や仲徳とも上手くやっていくことができるだろう。軍師過多と奉孝などは笑うだろうが、大勢で考えた方が良い知恵も浮かぶというものだ。その勢力で養っていける限り、人が多くいて困ることはない。今は少数勢力だから、そこにいれるかどうかというのは気の持ちよう一つだ。

 とは言っても、朱里を誘うのが無理というのは、士元にも分かっていた。村に落ち着いた時にもらった手紙では、朱里も劉備を良い主だと褒めちぎっていたからだ。その人に一生を捧げても良いというくらいに熱の篭った文章を思い返すと、今更こちらに誘うのは憚られる。学院時代には一緒にいようねと約束したのに、世の中上手くいかないものだ。

「困った」
「どうかしました?」
「必要な目録が一つ足りない」
「じゃあ、私がとってきます」
「手伝ってもらってるのに悪いよ。俺が行くから士元はここで待っててくれ」
「いえ、一刀さんこそ働きづめなんですから休んだ方が……」

 食い下がる士元に、一刀はふむと頷く。

「……なら、間をとって二人で行こうか。お互い、少し歩いた方が頭も回るだろ」
「いいかもですね」

 大きく伸びをしてごきごきと背中を鳴らす一刀の隣に、慌てて移動する。良く転び背も小さい士元は、早めに移動をしないとおいていかれるのだ。一刀の隣に並ぶまでの十歩に満たない距離でも一度転びかけたが、そんな士元を見て一刀は軽い微笑みを浮かべた。そんな一刀がん、と差し出した手を士元はまじまじと見つめ返す。

「外で転んだら危ないだろ。迷子になっても大変だし、手を繋いでいこう」
「さ、流石に迷子になるほど子供じゃ……」

 ないとは言い切れない。人は多いし規模も大きい。現在位置を一度見失ってしまったら、誰かに聞かずに元の場所まで戻ることは不可能に近い。

 そして鳳士元という人間は、人に物を尋ねるのに多大な精神力を必要とする難儀な人間だった。軍師としてはあまり褒められたものではない性質であるのは自覚していて、直そうと頑張ってはいるのだが、どうにも上手くいかない。大きい男性などを見ると、いまだに恐怖の方が先に立つ。甘寧直属の強面軍団など、遠目に見ただけで足が止まってしまうほどだ。

 一刀の差し出してくれた手をそっと握る。意外なほどにごつごつとして大きな手がそっと手を握り返してくると、士元の背がびくっと震える。心臓がどきどき言っているのが聞こえた。顔を見られるのが恥ずかしくなり、空いた手で帽子を目深に被りなおす。

 そんな士元を知ってか知らずが、暢気に鼻歌を歌いながら一刀は歩き出した。手を引かれる、というよりは少しだけ引き摺られるような感覚で、士元はとことこついていく。

 軍師である、ということは知れてきているとは言え、兵士に手を引かれる少女というのはとても目立つ。行きかう人間は皆一度は士元の方を見るが、一刀が身体で視線を遮ったり、挨拶を交わしたりして視線を遮ってくれた。何でもない風な配慮が、嬉しい。

 ぎゅっと手を握り締めると、一刀は少し驚いたような顔をして、手を握り返してくれた。











中書き

今回は拠点パートになります。氾水関と虎牢関の間です。
次回は虎牢関戦闘パートになります。











[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十七話 反菫卓連合軍編⑥
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57

















 虎牢関を攻略するに当たって、袁紹軍には一つの命題が化せられた。

 功一等を、自陣で獲得するということである。

 氾水関を名前を覚えてもいなかった劉備に落とされたのが麗羽は大層お気に召さなかったらしく、虎牢関は私達で落とすのですわ! と幹部を集めて態々宣言した。

 自分たちで、というのはどこの軍も思っていることだろうが、今回の麗羽に限ってはその本気度はいつもと桁が違う。目立ちたがりがいつも以上に奮起しているのだ。

 これを失敗したらどういうことになるのか……想像するだけで気分が滅入ってくる。

 猪々子などは気持ちを高ぶらせて部下と熱心に議論を重ねているが、逆に斗詩は気持ちが冷めていた。麗羽が命じたのは、袁紹軍単独での虎牢関攻略である。それが如何に難しいことであるのか。悲しいことに、袁紹軍の中で気づいているのは、斗詩を初めとした幹部の極一部だけだった。

 麗羽と大多数の兵は、自分たちが最強の軍であることを疑ってない。度し難いほどの緩い思考であるが、最強という評価については強ち間違ってもいなかった。大将である麗羽の家柄は申し分なく、資金力も豊富である。金に物を言わせた装備の充実っぷりは大陸でも最高の部類に入るだろう。

 武装についてもそうであるし、特筆すべきは攻城兵器の数々だ。派手な物が好きな麗羽はこういう物に散財を惜しまない。結果、多くの技術者が麗羽の元に集まり攻城兵器を開発、製造していく。頭数、質共に、これについてだけは大陸でも最高であると胸を張って言うことができる。

 その代わり兵の質については残念極まりないが、攻城兵器の力を導入できる城攻めならば、実際の力よりも高い力を発揮することができる。如何に堅牢とは言え、虎牢関も『城』だ。そういう観点に立って考えれば、虎牢関を攻めるのは渡りに船と言えるかもしれない。

 だが、戦はこちら側だけで成立するものではない。戦には相手もいるのだ。虎牢関には大陸最強の武人呂布がおり、最強の騎馬隊を指揮する張遼もいる。氾水関で公孫賛軍の捕虜になった華雄の部隊もその半数以上が健在だ。これに加えて虎牢関に詰めている人員の総数はおよそ20万という試算が出ている。

 非戦闘員もいるだろうから実戦力はもう少し少なくなるだろうが、それにしたって袁紹軍よりも兵数で上回っているのだ。連合軍に集まった諸侯の中でも麗羽は最大の兵力を有しているが、それでも単独では兵数を上回ることができない。

 ほぼ唯一の強みが数であるのに、それが負けているのでは話にならない。第一、守るよりも攻める方が兵力が必要なのは常識である。攻城兵器を考慮に入れても、単独で虎牢関を落とせというのは、無理とは言わないまでも難しい話だった。

 普通の軍師ならば他軍との提携を提案する。お飾りとは言え盟主という立場は強力だ。麗羽が共に行くべしと言えば断ることは難しい。袁紹軍単独では上回ることができなくとも、他の軍も引き込むことができれば数で同等、それ以上になることもできる。

 頼もしいことに他の軍は袁紹軍と異なり、正真正銘の精兵である。いつもは争うばかりの彼女らであるが、今この時は味方なのだ。それを使わない手はない。

 それなのに、麗羽の頭の中は自分だけでという思考で埋まっている。これを覆すことは誰にもできないだろう。明確な敗北が突きつけられてもなお、彼女はそれを認めないかもしれない。結果も出ていないうちからどうこう言っても、聞き入れはするまい。

 自分たちだけでやるしかない。心の底からそれを理解すると、行動も迅速に行うことができた。

 まず、戦の采配に麗羽が関わることは極力排除した。決める時にだけ麗羽はいれば良い、まずは露払いだと納得させ最前線からは遠ざける。時間がかかるということを予め念を押しておくことも忘れない。これで少なくとも、話が違うと叱責を受けることはないだろう。

 諸侯の怒りを買うのを承知で陣地には麗羽の無聊を慰める物を大量に持ち込んでいるが、あの麗羽のこと。座して待つことができるのはもって五日というところだろう。

 それまでに関を落とす下準備を終えることができなければ、袁紹軍は転落するより他はない。主の名誉は自分の肩にかかっているのだと思うと、斗詩の気持ちも引きしまる。

 麗羽には適当な仕事やどうでもいい事柄に目を向けさせ戦の情報を極力耳に入れないよう排除した上で、斗詩は軍団を運用した。持ってきた攻城兵器は全て導入し、兵には昼夜兼業で関を攻めさせた。部隊は一度に全てを投入せず、昼も夜も断続的に攻撃を続ける。

 虎牢関の兵も流石に精強で小分けにした攻撃では小揺るぎもしないように思えたが、袁紹軍も兵の質は悪くても攻城兵器の威力だけは本物だ。関の壁も大門も度重なる攻撃で痛みを重ねていく。

 間断のない攻撃を六日も続けると、虎牢関の傷みは遠目にも分かるようになってきた。特にその大門は傷みが酷い。内側から補修を重ねてはいるのだろうが、大外にある大門そのものが破られるのは時間の問題のように思えた。

 このまま行けば勝てる。斗詩は確信したが、それには時間も兵も足りなかった。

 まず、豊富にあった攻城兵器はその全てを使い潰した。壁を攻撃するのも大門を攻撃するのも、これ以降は通常の兵器を使うしかない。

 兵の消耗も激しい。会戦する前、袁紹軍は約15万の兵を有していたが、この三日の攻撃で戦に参加できる兵の数は十万を下回った。実に五万の兵を失った勘定になる。関の兵にも少なくない被害を与えたはずだが、袁紹軍以上の被害は出ていないだろう。

 そもそも、兵の数は向こうの方が上なのだから、数の不利は更に広がってしまったことになる。

 前線の軍を指揮する傍ら斗詩は麗羽の懐柔に奔走した。単独での攻略を諦め他の軍の力も借りるべきだと、理屈ではなく感情で麗羽に説いて聞かせた。何もかもを自分一人でというのは、王者のすることではない。下地を作ってやった上で諸侯にも機会を与えるべきだ。諸侯と競合した上でなおかつ袁紹軍が一番乗りを果たせば、その名もより広く広まることになるだろう。

 乗ってくれるかどうかは賭けではあったが、最終的に麗羽は斗詩の提案に首を縦に振った。

 七日目の攻略には、諸侯の軍も参加することになったのである。

 麗羽の居丈高な参加要請にも諸侯はすんなりと応じた。腹の底では麗羽を殴り飛ばしてやりたいと思っていただろうが、虎牢関が無視できないほどの傷みを受けているのは、誰の目にも明らかだ。到達したその時よりも、今の虎牢関はずっと攻略しやすくなっているのは間違いはない。

 そこに参加しても良いという許可を盟主自ら出したのだ。これに飛びつかない話はないだろう。

 しかし、誰が参加するかということについては、麗羽はしっかりと注文をつけた。

 まず、氾水関にて戦功を上げた劉備軍、公孫賛軍については最後尾の配置を命じた。これには諸侯の全てが遠まわしに賛成したため、すんなりと決まった。当の劉備は不満を訴えたが、軍師諸葛亮に諌められて発言を引っ込めた。見た目こそ幼い少女であるが損得勘定を冷徹に行っているように見受けられる。

 理想主義の劉備に良くもこんな軍師がついたものだと思ったが、参加不参加を損得で判断してくれるのならば願ったり叶ったりだ。後ろで大人しくしてくれるというのならば、斗詩としては他に言うことはない。

 問題は袁術である。虎牢関攻めで袁紹軍の数が減じたため、最大の兵力を有しているのは彼女ということになってしまった。次は袁術軍が単独で、ということになれば彼女の軍が虎牢関を攻め落とすということも考えられたが、あのお嬢様は何を考えているのか、戦に参加することには大して興味を示さなかった。

 代わりに客将である孫策が名乗りを挙げたため、これを袁紹軍の後ろに配置することになった。

 中央は袁紹軍が勤め、右翼に曹操軍、左翼に馬超軍を配置。描いていた構図と変わらぬ配置となったことで、斗詩の目的は半ば以上達成することができた。

 ここまでやれば十分である。関を落とせるに越したことはないが、決定的な敗走をしないことこそが肝要なのだ。虎牢関を損耗させたのは袁紹軍であると、諸侯の誰もが理解している。仮に関を落とすという名誉を得ることができたなかったとしても、その功績を無視することはできるはずもない。

 いや、無視させることなどさせない。そのための権力、そのための盟主なのだ。

 自軍が関を落とせなかったことについて麗羽は文句を言うだろうが、それを受け止めるのも自分の仕事と斗詩は割り切ることにした。自分が叱責されるだけで済むのならば安いものだ。軍が暴走しないよう目を光らせていけば、この戦を袁紹軍に都合の良い形で乗り切ることができる。

 できるだけの仕事はしたのだ。後は、他人に任せておけば良い。

 本音を言うのならば、七日目の戦闘に参加することすらしたくなかったのであるが、一応、虎牢関を落とすことを諦めていないという振りくらいは、麗羽にも諸侯にも見せておかなければならない。

 これでさらに兵の損耗を避けることはできなくなったが、虎牢関を突破することができれば残りの要所は洛陽ただ一つ。連合軍全体の数もそれほど減じてはいないのだから、その時くらい後ろで座していても文句は言われまい。

 盟主として洛陽に入ることができれば、面目は保たれるのだ。

 後は――

「さあ、それでは華麗に全速前進ですわ!」

 考えていた全てを台無しにする言葉は、麗羽から発せられた。斗詩が否定の言葉を吐くよりも先に兵達が咆哮をあげる。その全てが麗羽の言葉を支持するものだった。度重なる戦で兵数を減じても、虎牢関を落とすのは自分たちだと疑っていない。

 愚鈍もここまで行けば武器にもなる。平時であればそれを頼もしく思うものだが、今は状況が違った。ここで単独で攻めるのは得策ではない。それを麗羽には折に触れて説明したはずなのに、敬愛すべき主はすっかり忘れていたようだった。

 せめて他の二軍も一緒であるなら。かすかな希望をもって両翼を見るが、馬超軍も曹操軍も動く様子はない。単独で事に当たるので手出し無用、という話が通っているとしか思えなかった。

 自分の知らない間に、使いまで出したのか。用意の良さに内心舌を巻くが、これについては気づくことのできなかった自分にも落ち度はある。単独では虎牢関は落とせない。まともな思考をしているのならば、それを理解することはできるだろう。曹操も馬超も分かっていたからこそ、単独での行動を見逃したのだ。

 今日のこの行動で虎牢関が落とされることはないと、彼女らは確信している。これから行われる戦闘は、自分たちが関を落とす準備に過ぎないと、心底で理解しているのだ。

 いずれ敵になる人間に利する行為をやらなければならない状況に歯噛みするが、吐いた言葉を引っ込めることはできない。盟主、袁紹の言葉であるのならば尚更だ。彼女は殊更、名誉というものを重んずる。それが他人から見れば見当違いのものであったとしても、彼女にとってはそれが何よりも重要なのだ。

 斗詩は思考を切り替える。

 主にとって重要であるのならば、自分にとっても重要には違いない。その目的を達することこそ、臣下である者の勤めだ。敗走が不可避であるのならば、被害を少なくするしかない。壊滅的な打撃を受ける前に、曹操たちに最前線を譲る。

 大門に向けて一直線に進軍しながら、斗詩はその策を幾重にも考え始める。

 その考えを嘲笑うかのように、大門に動きがあった。

 ゆっくりと、それが開いていくのだ。その奥には精兵が並んでいる。覇気に満ち満ちた董卓軍の兵が大門が開け放たれるのを待ちきれないように動き出す。咆哮があがった。袁紹軍の兵ではない。董卓軍、次から次へと大門から出てくる敵兵が、天を劈くような声をあげている。

 その気合に、袁紹軍の兵は飲まれてしまった。先頭の兵が進軍の足を止め、後続の兵がそれにぶつかり混乱が起きる。

 退却。その号令を出すのも遅れた。

 それを見逃すような董卓軍の兵ではない。

 先頭を駆けているのは、紺碧の張旗。神速を誇る張遼の騎馬隊が先陣を切り袁紹軍を蹂躙していく。

 自らの身体に刃が振り下ろされるに至って、ようやく袁紹軍は算を乱して逃げ始めた。逃げるなと怒号を飛ばす麗羽を抱えるようにして斗詩も退却する。あれだけの突破力のある張遼隊にとって、袁旗など良い的だ。

 逃げなければ殺される。斗詩はそれを理屈ではなく本能ではっきりと理解した。

「あたいが殿を務めるよ」
「ごめん、文ちゃん」

 いいってことよー、と軽く応えて、猪々子が部隊を率いて突撃していく。二枚看板の名前は伊達ではない。彼女が走りながら号令を発すると散っていた部隊は瞬く間に体裁を整え始めた。壁となった軍を前に、流石の張遼も進路変更を余儀なくされる。猪々子に率いられた部隊はそのまま、麗羽の撤退を援護するように展開し、後続の歩兵部隊を受け止め始める。

 両翼は、ようやく動き始めていた。関から敵が出てきてくれたのだ。兵の強さに自信のある武将にとって、これは好機だろう。

 もっと早く動いてくれれば。忌々しく思うが、彼女らを責めることはできない。

 それが恥の上塗りになることを、斗詩は知っていた。

 袁本初の旗の元にいる自分の不名誉は、翻って主の不名誉にも繋がる。主の顔に泥を塗るような真似をする訳にはいかない。

 天に向けて叫びたくなるような気持ちを抑えて、斗詩は駆けた。




 


















「一週間。あの戦力にしては思ったほど粘ったものだけど、流石にこの辺りが限界のようね」

 虎牢関から湧き出てきた董卓軍に蹴散らされ、敗走する袁紹軍を見ながら華琳は一人呟いた。

 袁紹軍の敗走に合わせて曹操軍も既に動き出している。予想よりも大分早い出番ではあるが準備について抜かりはない。袁紹軍は負けるものとして、馬超軍にも共闘の話は持ちかけてある。飛び出す時については各々の判断に任せると大雑把にしか決めていなかったが、流石に錦馬超も歴戦の武将。こちらが動き始めるに呼応して関に向かって駆け出していた。

 中央の袁紹軍を追い散らした董卓軍は、それを迎え撃つように大門の前に布陣した。元華雄隊を中心とした董卓軍の歩兵部隊である。錦馬超の騎馬隊とて大陸最強の一角ではあるが、槍をずらりと並べて迎え撃つ歩兵が相手では如何にも分が悪い。そのまま関を落とさんとする勢いだった馬超軍は大門を前に進路を変更。後続の歩兵の到着を待っての攻略に切り替えたようだった。

 曹操軍は変わらず、大門を目指して進軍する。城門の上から弓兵がこちらに狙いをつけているのが分かるがそれは多少の犠牲と割り切ることにした。火急目指すべきは大門の攻略、関の中に押し入ることだ。

「先鋒、春蘭。二万を率いてあの歩兵に当たりなさい」

 指示を伝えると、伝令は軍の先頭へ駆けていく。一番槍は春蘭自ら志願してきたものだ。氾水関の戦いでは遅れをとり、此度の戦いでは一週間も袁紹軍に頭を押さえつけられた。戦場で縦横無尽に駆けるのが、春蘭の本分である。ようやく自分の見せ場が来たと気合も十分な彼女以外に、先陣を任せられる人間はいない。

 春蘭隊二万が、軍全体から離れて進軍していく。馬超軍だけを相手にしていた董卓軍の一部が迎え撃つべく大きく前に出た。大門が開け放たれているせいで、関の中からは続々と兵が出てくる。

 元より相手の方が数が多く、その全てが出てくるとなれば劣勢は否めないが、一度敗走させたとは言え文醜の率いるおよそ二万がまだ留まり続けており、敗走した袁紹軍も時間が経てば体勢を建て直し、またやってくるかもしれない。

 何よりその後方にはまだ手付かずの袁術軍が残っている。袁紹軍と比べても遜色のない雑兵軍団であるが、攻城兵器に財力を割いていない分、心持ち兵の質も良い。どんぐりの背比べであるが、その少しが勝敗を分けることもある。連合軍の中で最大数を誇る軍が投入されては、勝負の行方も分からなくなる。

 董卓軍としては、後方の軍がまともに機能する前に勝負を決めたいはずだ。守備のために出てきたとは言え、早いうちに勝負を決するためにその攻めは苛烈なものになるはずである。

 そんな精兵を前に曹操軍は約六万。これには連合軍に参陣した兵のほぼ全てを投入している。精強な騎馬隊とそれを補佐する歩兵という攻勢で、合わせて三万強の馬超軍のおよそ倍の兵力であるが、虎牢関に詰めている董卓軍はこれを合計した数の更に倍はある。

 この二軍で事に当たるのならばなるほど、確かに不利ではあるが、ただ関を落とせば良いだけのこちらと異なり、董卓軍は奥の軍にまで注意を払わなければならない。短期決戦に臨んでいる分、戦術にも選択肢が限られている。

 それを組みやすし、と見るより他はない。出てきた兵は皆殺しにするくらいの気持ちで、華琳は戦に臨んでいた。

 あの麗羽が最前線を譲った。十全な戦力で攻略に臨めるのは恐らくこれが最後になるだろう。

 目障りな幼馴染の下につくのを是としてまでここまでやってきたのだ。ここで功を立てなければ、自分の誇りにも、付き従っている兵にも申し訳が立たない。

 麗羽が愚にもつかない名誉に拘るのと同様に、華琳は己の名誉に拘った。自分の目指す物が彼女の目指す物と同じ名前をしていることに憤りを感じないではないが、他人が何に誇りを抱くのかにまで干渉するほど暇でもない。

 自分が何をすべきか知っていれば良い。何が大事なのかを理解していれば良い。

 他人など、特にあの麗羽など関係はない。覇道の邪魔をするものは、この力を持って蹴散らすだけだ。

「敵騎馬隊、進路を変更しました。約一万五千、こちらに向かってきます。紺碧の張旗、張遼です!」

 大陸最強の騎馬隊が、こちらに向かって駆けてくる。先頭を行くのは無論、張遼だ。

 こちらの主力は歩兵である。董卓軍と戦うに当たって、騎馬隊迎撃のための調練を特に積んでいる。張遼隊が大陸最強の騎馬隊であることに異論はないが、こちらの錬度がそれを上回っているという自信もあった。

 加えて兵数でもこちらが上回っている。関に近づけまいと、城壁の弓隊の援護もおぼつかない距離だ。数的有利を持ったまま相対すれば、撃破できるのは目に見えている。そういう引き算のできない張遼ではないと思うが……こちらに駆けて来る騎馬隊からは、玉砕覚悟という気風は感じられない。

 敵を掃討するのだという気配が、ありありと感じられる。何かこちらを倒す算段を持っていると考えるべきか…

 華琳が考えてを巡らせていると、右翼から悲鳴が上がった。陣形が崩れるのを感じ取りながら、状況確認の声をあげる

「呂布です!」

 応えた声は、この上もなく簡潔だった。後から入ってきた詳細な報告によれば、呂布が約五十の供回りを連れて、騎馬で突っ込んできたのだと言う。これを兵は撃退したというが、一つ突っ込んできただけであるのに、百人単位の犠牲者が出たというのだ。

 袁紹軍の兵士とは違う。曹操軍の兵士が、百人だ。これで呂布の部隊には――大軍の激突にあって、部隊というにはあまりにも少数だったが――被害らしい被害は出ていない。

 彼女が突っ込んでくる度に、兵が百人減っていく。毎回百人もって行かれるとして、率いている兵は四万。呂布が諦めずに攻撃を続けていたとして、全て使い潰すつもりでも、四百回の突撃を耐えることができる。

 その試算に、華琳は愕然とした。自分の精兵がたかが四百しか持ちこたえることができないのだ。如何に呂布が脅威であるかを思い知った華琳は、どうにか呂布を排除できないかということに頭を巡らせた。

 単騎で討つのは、おそらく不可能だろう。あくまでそれを挑むのならば春蘭を当てるしかないが、彼女は今精兵二万を率いて進軍している。本隊から離れている春蘭を呼び戻すのは、関を巡る戦いに参加することの放棄を意味していた。

 華琳は春蘭に伝令を飛ばした。こちらはこちらで処理する故、任務達成まで帰ってくるな。

 これくらいやらなければ春蘭のことだ。虎牢関の攻略を放ってこちらにやってきかねない。春蘭抜きで呂布をどうにかできるかは怪しいが、長年の部下にどうにかすると大見得を切ったのだ。それで覇王曹操ができませんでしたでは、格好がつかない。

「秋蘭、貴女は呂布だけを狙いなさい。アレが喰らい突いてきたら射殺すように。貴女の部隊の指揮は私がやるから、呂布に専念するのよ」
「御意」

 と短く答えて、秋蘭は一人移動する。大外から喰らい突いてくる呂布を狙うには、位置取りが肝だ。指揮を華琳が引き継いだ以上、秋蘭がここに留まる理由はない。

 騎馬隊の指揮に張遼、馬超が類稀なる才能を見せるように、秋蘭は弓の腕でその名を知られている。その強弓でもって繰り出される矢は如何に飛将軍呂布と言えども無視はできまい。

 秋蘭の一矢で呂布を討ち取れるかは、彼女の力量を知っている華琳の目から見ても微妙なところだったが、それで少しでも呂布の勢いを削げるのならば、指揮官としての秋蘭を手放したとしても十分にお釣りがくる。

 呂布については、これで問題ないと割り切る。後は張遼を討ち果たし、春蘭に合流するだけだ。

 張遼が仕掛けてくる。左翼。凪が守っている辺りだ。春蘭の率いていた部隊に比べると質の面で聊か劣るが、指揮官である凪に良く従う良い部隊だった。その凪の部隊が槍を構え、張遼の騎馬隊を押し込める。

 流石に敵は大陸最強の騎馬隊。厳しい調練を潜り抜けた凪の部隊に喰らいつき、突破してやろうと押し込んでくるが、先陣に立ってその拳を振るう凪の活躍により、張遼は突破を諦め、再び外へと抜け出していく。

 勝負になっていることに、華琳は僅かに安堵した。

 張遼の騎馬隊が、幾つもの部隊に分かれていく。一千単位で分かれたらしいその騎馬隊はその位置を目まぐるしく入れ替えながら、四方八方から曹操軍に仕掛けていく。多重攻撃に軍全体が軋んだような音を上げる。

 圧力こそ分散したが、周囲全てから襲い掛かってくる張遼の騎馬隊のやり方は、曹操軍に嫌な圧をかけてくる。腰を据えて戦えているのに、相手の気風に飲み込まれているような気持ち悪さが、華琳の心に湧きあがった。

 相手の良いようにされてはいけないのに、張遼は我関せずと攻めてくる。

 口の端をあげて、にやりと笑った。この気持ち悪さは、嫌いではない。自分を苦しめている難敵の出現に、華琳の心は高揚していた。

 右方から悲鳴があがる。呂布の突撃だ。凄まじい速度で突っ込んでくる真紅の呂旗に向かって狙い済ましている影が一人。兵の海の中でもその姿は一目で分かった。秋蘭だ。自慢の強弓を引き絞り、ただ一人呂布に狙いを定める姿は、美しい物を見慣れている華琳の目から見ても、素直に美しいと思えた。

 研ぎ澄まされた殺気が、矢と共に放たれる。一息で、二矢。呂布の身体に吸い込まれるようにして飛来したその矢は、その戟によって弾かれる。

 失敗した。

 しかし、呂布の勢いは大きく減じることとなった。最初の二射を皮切りに、秋蘭の射撃は続いている。呂布ただ一人を狙って立て続けに行われる執拗な狙撃を、呂布は戟をふるって叩き落していく。兵の海の中、正確に呂布を射る秋蘭も秋蘭なら、それを何事もないように迎撃する呂布も呂布だった。

 その呂布の勢いが、完全に止まる。兵の中で足を止めてしまった騎馬隊は、たちまち歩兵に囲まれた。呂布を討たんと兵が群がっていくが、呂布は事も無げに戟を振るい、その首を刎ねていく。腰を据えても兵を皆殺しにできたろうが、それは秋蘭がいなければの話だ。

 流石に秋蘭の矢を捌きながら兵まで相手にするのは無理を悟ったのだろう。供の兵を引き連れて踵を返した呂布を、兵達は追うことはしなかった。去るのならば追うなというのは、華琳の指示だ。

 ここで呂奉先を討つ必要はない。討つに越したことはないが、彼女を無視しても虎牢関を越えることはできる。兵の数は力だ。無理に呂布を相手して、力を減ずるのは如何にも惜しい。

 こうしている間にも、大門を巡る攻防は続いている。春蘭の率いる部隊は数こそ虎牢関の全軍に大きく劣るが、曹操軍の中でも突破力に優れた兵だけを集めた精鋭だけに、董卓軍の兵をぐいぐいと押し込んでいる。董卓軍も城壁の兵にて援護を続けているが、敵味方入り乱れての場所に矢で援護をするのは至難の技だった。

 兵数に劣る勢力に押し込まれていることに、董卓軍にも焦りが感じられ始めた。

 馬超軍の騎馬隊も良い仕事をしている。先に飛び出した歩兵部隊が春蘭軍の方に全力を傾けないよう、全軍を上手く指揮してその行動を封じていた。

 張遼の騎馬隊と呂布については、曹操軍が引き付けている。大門を落とすならば今なのだ。

 その好機を逃すまいと、撤退する袁紹軍の中を逆走して突っ込んできた軍があった。

 右翼寄り、曹操軍に近い位置に颯爽と現れたのは、真っ赤な孫の旗。江東の虎と恐れられる孫策に率いられた勇猛果敢な軍である。

 その軍が二つに割れる。全軍のうちのほとんどが大門に向かい関の攻略を目指すのに対し、五千ほどの部隊がこちらに向かってくる。
旗は甘。

 華琳でも思い出すのに少しだけ時間を要した。

 確か甘寧という、江賊あがりの将の部隊である。新兵ばかりを集めた弱小の部隊と聞いていたが、氾水関の戦いでは関を落とした劉備軍の援護のために参戦し、主たる孫策が劉備に恩を売ることに一役買っている。

 先の戦いで数を減じてはいるが、実戦を経験した兵の力量は以前とは比べるべくもない。まだ新米には分類されるだろうが、良き将に率いられた兵は、驚くべき力を発揮する。援護としては心強い相手だった。

「江東の孫策から援護がきた。ここで醜態を晒せば、大陸全土に広まることになる。曹操軍の誇りを彼らに見せよ!」

 華琳の飛ばした激に、将兵は雄叫びを挙げて応えた。






















「団長、俺達は関を落とすのではないんですか?」
「関を落とすのはうちの大将の役目。俺達は曹操の援護だってさ」

 我先に逃げようとする袁紹軍の中を逆走し、開けた場所に出た一刀の見たものは、氾水関以上の激戦だった。何故か大門は既に開かれているらしく、その近辺では凄まじい攻防が広がっている。向かって左では董卓軍の歩兵と連合軍の騎馬隊が死闘を演じ、右では董卓軍の騎馬隊と連合軍の兵――曹の旗が見えるから、曹操軍だろう――が戦っていた。

 そちらには、張の旗と呂の旗も見える。あの張遼と呂布がいる。その事実を知っただけで、一刀の背に気持ち悪い震えが走るが、甘寧隊が向かうのはその元凶たる二人の敵将がいる戦いの只中だった。

「関の戦いに参加した方が美味しくありませんか?」
「矢が雨の様に降る中を通って、俺達の何千倍もの兵と戦いたいか?」
「何千倍ってのがどれくらい凄いのか良く分からないです」
「夜空の星の数くらいと思ってくれれば良い」
「それなら、あっちの連中と戦った方が良さそうだ」

 さあ行きましょう、と気楽な調子で子義は答える。戦場での緊張など全く感じさせない物言いに、一刀だけでなく他の隊員の気も紛れた。良い意味でも悪い意味でも深く物事を考えない子義の気楽さは、一刀隊の精神的な支柱でもある。

「これより、曹操軍の援護に入る。各員、孫策様の名に恥じぬ戦いをせよ」

 曹操軍との距離が二百メートルを切った辺りで、甘寧からの檄が飛んだ。彼女の荒っぽい直属兵を中心に雄叫びが隊全体に広がっていく。ここまで近付くと張遼隊の方も近付く敵対勢力アリと認識するようで、万を越える騎馬隊の一部が、こちらを標的に捕らえた。

 その騎馬隊に対し、甘寧隊は足を――止めない。

 敵の騎馬隊にも動揺が走るが、突撃力では騎馬に分があるのも道理だ。およそ千人ほどの騎馬隊が正面から一つ、右側面から一つ甘寧隊を蹂躙しようと突っ込んでくる。

 二つの騎馬隊に捕捉されたのが肌で感じられるようになってようやく、甘寧隊は足を止め槍を構える。騎馬隊からすれば、それはあまりにも遅すぎた。向かって正面の騎馬隊が速度を挙げる。騎手の顔が判別できる、それくらいの距離になってようやく、甘寧は号令を発した。

「明命! やれ!」

 その号令と共に、正面の騎馬隊の先頭を走っていた兵の首が飛んだ。突然舞った血飛沫に、正面と側面の騎馬隊の足が遅くなる。

 そうなると格好の的だった。影のように湧き出た徒歩の一団が正面の騎馬隊に取り付き、その騎手を次々に屠っていく。謎の軍団の出現に甘寧隊の兵にも動揺が広がるが、今まさに襲われている騎馬隊はそれどころではない。甘寧隊など無視して、謎の兵団の掃討に全力を注ぐこととなった。

 あまりと言えばあまりの光景に、甘寧隊にも動揺が広がる。一刀も仲徳が独り言を装って教えてくれなければ、ここがどこであるのかも忘れて見入っていたことだろう。敵軍だけでなく甘寧隊の足も止まってしまったが、甘寧の怒号によりすぐに復活する。

 誰も皆、甘寧のことが恐ろしいのだ。

 甘寧の号令で向きを変更した部隊は気勢をそがれた右側面の騎馬隊に正面から突っ込んでいく。勢いのない騎馬隊など、ただ大きいだけの兵に過ぎない。元より、数も勝っている。直属隊を先頭にした甘寧隊は瞬く間に騎馬隊を撃退する。

 三百ほど数を減らした所で、右の騎馬隊は戦線を離れた。殲滅するには至らなかったが、まずは快勝と言ったところだろう。

 正面の騎馬隊は奇襲の効果もあって、半分ほど数を減らしたようだった。それを成したのが小柄な美少女の率いる百人ほどの部隊だというのだから、毎日殴られながら調練をしている一刀としては驚くばかりだった。

 綺麗な黒髪をした丈の短い忍服を着た少女は、殺した騎馬隊の残していった馬を奪い取ると、甘寧に向かって一礼して部下と共に駆け去っていく。

 普段は密偵を率いている立場の少女だが、今日の戦はここ一番と武将として参戦していると仲徳から聞いた。あの細い体のどこにあんな芸当を成す力があるのかと、少女を前にしても疑問に思わずにはいられなかった。

 人は見かけによらないということを、この世界にきて嫌というほど味わった一刀だったが、その驚きはまだまだ消えそうになかった。

 だが、驚きに浸ってもいられない。敵を倒せば、また新しい敵を見つけて交戦する。

 それが今の一刀の仕事なのだ。
 
 向かってきた騎馬隊を蹴散らしたことで、曹操軍の合流するのを阻むものはなくなった。曹操軍は円陣を組んで張遼隊と相対している。甘寧隊は最も近い部隊に近付いた。楽の旗を掲げた一団は今まさき騎馬隊の攻撃を受けていた。突破力に物を言わせて曹操軍を蹴散らそうとする騎馬隊に、曹操軍は槍を並べて対抗している。

 兵の質で劣っているのか、一刀の目には騎馬隊有利に見えたが、曹操軍の兵の中で一人獅子奮迅の働きをしている者がいた。顔立ちまでははっきりと見えないが、銀色の髪をした少年とも少女ともつかない人間である。恐らく、将軍なのだろうその人間が『拳』を振るうとそこからオーラが発生し、敵兵を馬ごと吹っ飛ばすのだ。

 言葉にすると正気を疑われかねない光景だが、事実なのだから仕方がない。部隊全体は押され気味ではあったものの、常軌を逸した戦法で敵兵をなぎ倒す将の活躍により、騎馬隊は進路を変更して外に飛び出してくる。

 そこに、甘寧隊は待ち構えていた。

 今まさに駆け出そうとしていた騎馬隊に、勢いはない。それでも強引に加速して突破しようとする騎馬隊に甘寧隊は次々に取り付いていく。これを好機と見たのか、曹操軍の方からの兵が踏み出してきて、挟み撃ちの体勢になる。

 いかに神速の張遼隊と言えども、前後を挟まれ、その機動力を封じられては真価を発揮することはできない。足を止められても勇猛果敢に戦ってはいたが、一人、また一人と討ち取られていく。

 敵を倒している。剣を振るいながら、一刀は高揚感に支配され始めていた。

 男ならば、人間ならば誰しもが求めるものだろう。自分は強い。そう思えるような光景が目の前に広がっている。自分一人の力ではないが、そんなことは関係がない。

 敵を倒している。その事実の何と心地よいことだろうか。

 そのまま突っ走っていたら、取り返しのつかないことになっていただろう。自分を律することのできないものは、長生きすることはできない。荀彧にも奉孝にも仲徳にも、最近では甘寧にまでずっと口を酸っぱくして言われ続けたことである。

 正気に戻れたのは、その教えを思い出したからではない。一刀の背に例えようのない恐怖が走ったからだ。

 唐突に訪れたその感覚に一刀は攻撃の手を休めずに辺りを見回す。敵の槍が頬を掠めたが、そんなものなど気にならないほど、その悪寒は一刀の本能に警鐘を鳴らしていた。近くで戦っていた子義が、遠くの一点を見ているのが見えた。

 そちらに視線を向ける。真紅の旗が見えた。五十にも満たない騎馬の一団。それがこちらに向けて真っ直ぐにかけてきている。

 旗には『呂』とあった。

 まずい、と思った時にはもう遅い。逃げる騎馬隊を挟み撃ちにするべく、甘寧隊は結構な深さまで敵部隊まで食い込んでいる。逃げるにしても迎撃するにしても、完全に行うには時間が足りない。一番外側にいた兵が気づき、槍を並べているが、そんなもので呂布の勢いは止まらないだろう。張遼隊の兵にしても決して二流所ではないのだろうが、一刀の素人目に見ても、呂布の部隊は格が違った。

 甘寧が自身の部隊の中ほどまで強引に移動し、呂布迎撃のための指示を出す。甘寧隊のおよそ半分がその指示に従い、呂布に向けて槍を並べる。甘寧もそちら側に参加した。それによって挟み撃ちの構図は崩れ、張遼隊が外に向かって逃げて行くが、それを追うだけの余裕は甘寧隊にはなかった。

 呂布の部隊が甘寧隊と接触するよりも十秒ほど早く、一刀は動きだしていた。本能に従って呂布から距離を取ったのではない。悪い予感に従って、なおかつ、呂布に向かって足を踏み出していた。号令を出した訳ではないが、突然動き出した責任者に、一刀隊は全員でついてくる。仲間の足音を背後に頼もしく感じながら、一刀は駆けた。

 甘寧隊の先陣が呂布と接触する。戦闘では決してない。呂布に攻撃しようとした兵は、それを達成することもなく絶命した。馬で駆け、戟を振るう。呂布がしているのはそれだけであるが、ただのそれだけで兵は死体になった。一振りで十人は殺しているだろうか。銀髪の将がオーラを放っているのを現実味がないと思ったばかりだが、呂布の強さはそれ以上だった。

 鬼神のような呂布は、一直線に駆けている。進路を塞ぐものは全て敵と言わんばかりに、戟を振るい殺していく。甘寧の直属兵が立ちふさがっても、それは同じだった。精強な兵がゴミのように蹴散らされるのを見て、一刀の足は速まった。

 あれと戦ってはいけない。あれは人ではなく災害だ。戦えば殺される。共に戦った仲間が殺されることに、一刀は耐えられなかった。

 隊を率いる甘寧は、一刀よりもずっと内心で感情の嵐が吹き荒れていただろうが、やってくる呂布に相対する彼女の表情は落ち着いたものだった。彼女の腕ならば一人逃げることはできただろう。この場にいる呂布を除いた人間の中で最も強いのは甘寧だ。

 しかし、甘寧は逃げなかった。呂布に勝てないというのは、甘寧にも解っているはずである。逃げなければ殺されるということも、重々分かった上で、甘寧は逃げなかった。

 それが武人としての誇りなのか何なのか。一刀には分からなかった。理解したいとも思わない。

 ただ、どんなに身勝手な思いであっても、甘寧には死んで欲しくないと思った。

 だから、一刀は動いた。

 仲間の首や胴体が舞う中、甘寧は静かに愛刀を構えた。呂布が彼女を捉え、戟を振りかぶる。

 あれが振り下ろされれば、殺される。その段になっても甘寧は逃げない。この剣で呂布を討ち取ってやる。静かな瞳にはそんな気概すら感じられた。

 間に合え、間に合え。

 心の中でそう念じながら、一刀は足を踏み切った。十分な速度と渾身の力を込めた体当たりである。少しでも呂布から遠ざけるように甘寧を抱きとめ、地面に身を投げる。腕の中で甘寧が驚きの表情を浮かべるのが見えた。

 最初に耳に届いたのは、耳に残る嫌な金属音。次いで衝撃だった。

 腰を砕くような一撃は、そのまま一刀と甘寧を吹き飛ばした。地面を転がりながら後続の仲間に指示を飛ばす。

「将軍を守れ!」

 一刀の言葉に、仲間たちは躊躇わなかった。子義を先頭についてきた仲間たちは、呂布の騎馬隊に怯むこともなく、槍を並べて一刀と甘寧を囲み、迎撃する。

 敵の先頭である呂布が既に通り過ぎていたことで、圧力のピークは過ぎていたが、呂布に続く敵騎馬もまた精強だった。ここにいるのが敵部隊の大将であることを感じ取ったらしい彼らは、行きがけの駄賃とばかりに圧力をかけていく。

 その攻撃に一刀隊の仲間も無事では済まないが、彼らは一刀の指示を忠実に守り、甘寧を守ることに尽力した。

「退け!」

 腕の下から拳が飛び、一刀を吹き飛ばす。這い蹲りながら一刀が見たのは、一刀隊を飛び越えて愛刀を振るい、敵の首を飛ばす甘寧の姿だった。そのまま馬を奪い最後尾の騎馬隊を追い回すが、敵兵の中に甘寧と戦おうとする者はおらず、一目散に逃げる敵兵を追うことを甘寧はしなかった。

 点呼を命じる甘寧に追従するように、一刀も同様の指示を出す。子義が持ってきた答えは、ちょうど五十だった。仲間を半数近くも失い眩暈を覚える一刀を襲ったのは、絶望以上の激痛だった。

 どうにか立ち上がるが、腰が尋常でないほど痛む。歩けない、走れないほどではないが、その傷みは決して無視できるものではなかった。

「分不相応なことをするものだ」

 馬に乗ったまま、部隊の再編を命じた甘寧がやってきた。自然と見上げるような形になるが、上を見るというただそれだけのことでも身体は痛みを訴えてきた。

「呂布の前に身体を投げ出すとはな。お前には自殺願望でもあるのか?」
「将軍を守らなければと必死でした」

 お前が言うな、という気分ではあったが一刀は正直に答えることにした。心の内を包み隠さず話すのが、甘寧に殴られないための秘訣である。

「その剣に感謝するのだな。呂布の戟を受け止めてかつ折れないなど、常識外れにも程がある」

 甘寧の視線は、一刀の腰の剣に向けられている。呂布の一撃で鞘は吹き飛んでいたが、刀身は健在だった。見た限り刀身に傷もない。呂布の戟を受け止めてこれなのだから、確かに常識外れだ。

「送り主に似て、根性が座っているのです」
「そうか……その送り主には良く感謝をしておけ」

 甘寧の直属隊の点呼も終わった。この戦に望む前には約二百いた直属兵は、七十にまで数を減じていた。呂布の部隊を受け止めた、ただそれだけでこの被害である。如何に呂布が凄まじいのかを思い知る一刀だった。

「北郷、お前の隊は私の直属に編入する。お前も含めて、この戦が終わるまで私の指示をで動くのだ」
「了解しました」

 子義が隣で不満そうな顔をしていたが、上司がそういうのだから一刀の答えは是しかない。一刀はすぐさま隊を集め、甘寧に指揮を明け渡した。直接指揮をするのは初めての部隊だったが、流石に経験の差か、甘寧は瞬く間に再編成を終え、直属兵の生き残りも含めて一つの部隊とした。

「お前は副官の一人としよう。私の近くで戦え。身体は痛むだろうが。それで気を抜くことはないようにな」
「それはもう。肝に銘じておきます」

 こんな乱戦模様で気を抜けば、待っているのは死だけだ。頭に血が上っているのならばいざ知らず、今まさに鬼神のような呂布を前にした後では、生きるということに謙虚な気持ちにならざるを得ない。身体の痛みも良い方向に影響していた。戦に臨む前よりもきっと、生きるということに関しては注意を払えることだろう。

「それから、そうだな……」

 甘寧は一つ咳払いをすると、人を払った。距離こそ大して離れていないが、声を潜めればその声は届かないだろう。何とか近寄ろうとする子義が直属兵達に阻まれているのを横目に見ながら、一刀も声を潜める。

「何でしょう。何か粗相がありましたか?」
「いや、お前の部隊は良くやっている。それについては、相応の褒美が与えられるだろう。私の口ぞえで報酬は正規兵と同様。本人が望むならば正規兵としての雇用を約束する」
「隊長の俺としては、奴らのことを思うと嬉しい限りですが、良いのですか?」
「働きには相応の報酬でもって応えるのが上に立つ者の勤めだ」

 そこで甘寧は言葉を切った。何やら視線も安定していない。即断即決の甘寧にしては珍しい態度だった。

「……中でも、お前の働きには感謝している。先はああ言ったが、良くやってくれた」
「当然のことをしたまでですよ」
「お前はそう言うが、命一つの借りだ。これを軽々しく扱うことはできない」
「相応の褒美が与えられるのでしょう? 俺はそれで十分ですよ」

 仕事以上のことをしたとは思っていない。百人隊長として敵を討つのと同じくらいに、仲間を、指揮官を守るのは当然のことだったからだ。褒美を約束してくれたのだから、それ以上を望むのは強欲なことである。一刀は心底それで十分と思っていたが、甘寧は納得しなかった。

「それは職務としての対応だ。私は私として、お前の働きに報いなければならん」
「そこまでしてもらう必要は……」
「命一つの借りだ。お前はそれだけの働きをしたのだ。黙って受け取れ」

 口調にも熱が篭ってきた。これ以上口答えをすると拳が飛んできそうだったので、一刀は大人しく頷くことにした。褒美がほしくてやったことではないが、話が纏まり始めたこの状況で殴られるのは、流石に割りに合わない。

 甘寧は頬を僅かに染めながら、視線を逸らして呟くように言った。

「お前に私の真名を許す。これから私のことは、思春と呼ぶが良い」
「……今なんと?」

 思わず聞き返した一刀の顔に拳が飛んで来た。今までで一番力の篭った良い一撃だった。地面に転がり、割に合わないと思いながら甘寧――思春を見上げると、彼女は既にこちらを見ていなかった。

 慌てて、その後を追う。顔を見ようとしたら目を背けられた。思春は柄にもなく照れていた。

 大きく息を吐くと、思春に睨まれる。その視線をやり過ごしながら、一刀も努めて何でもないように言った。

「承りました。信頼に応えられるよう、微力を尽くします」
「お前の働きに期待する」

 その話はそれで終わったが、戦はまだ終わっていない。編成を終えた甘寧隊は大きく数を減じながらも戦線に復帰する。

 曹操軍と連携しながら張遼隊との戦いを続けたが、状況が変わったのはそれから暫くしてのことだった。

 大門の方で、一際大きな歓声が挙がったのだ。

 そちらを見ると、孫の旗が大きく揺れているのが見えた。董卓軍の旗と夏侯の旗は見えない。その両方が関の中に消えたということ、そしてそれが意味することを理解するのに、少しの時間がかかった。

 動揺が、甘寧隊と曹操軍全体に走る。

 董卓軍の動揺はそれ以上だった。曹操軍を攻囲していた張遼隊はすぐさまそれを解き、大門に取って返した。呂の旗もいつの間にか消えている。連合軍側に状況が大きく傾いたのだ。

「行くぞ。我らも孫策様に続くのだ」

 孫の旗も関の中に突入しようとしている。体勢を立て直した袁紹軍の一部も、夏侯の旗が関の中に入ったのを見て、動き出していた。少なくとも、袁紹軍に遅れを取る訳にはいかない。

 まだまだ新兵の気が抜けない一刀には分からないが、孫策配下の思春には色々と思うところがあるようだった。奴らよりも早く、と厳命する思春に従いながら、一刀も関に向かって駆け出した。














 後年、董卓軍と連合軍の最大の戦いとされた虎牢関の戦いは、この日終結した。

 虎牢関につめていた董卓軍は最後まで激しい抵抗を続けたが、夏侯惇、孫策などの活躍によって退けられ、十万を越える兵を失い、虎牢関から撤退した。

 張遼と呂布については、捕虜となった董卓軍の兵もその行方を知らなかった。あわよくば生け捕ろうと思っていた袁紹などは大層悔しがったというが、呂布に相対した人間は、生け捕りを強制されなかったことに安堵した。

 できればもう二度と、相対したくない。呂布を前にした人間の、それが共通の心理だった。 

 一刀もそれは同様で、自分が呂布の戟を受けて生き延びたことを、酒の席で面白可笑しく仲間に話しながら、もう会うまいと杯を空にする度に念じた。
 
 もっとも、近いうちにそれは破られることになるのだが……

 虎牢関を落とした祝いの席で珍しく酔いつぶれた一刀に、それを知る由はなかった
 




 

戦パートはこれで終わりです。
次回からは戦後処理編に入ります。











 















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十八話 戦後処理編IN洛陽①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58
 


 虎牢関攻略戦を乗り越えて甘寧隊副官の地位を得た一刀だったが、待遇自体はそれほど変わらなかった。

 まず、いくら思春直々に召し上げられたと言っても、正規兵と同じ能力を持っている訳ではない。副官としての仕事など一刀はしたこともないし、正規兵扱いになっている北郷隊についても同様だ。

 むしろ、格差については北郷隊の方が酷いと言える。新兵に毛が生えた程度の彼らに正規兵と同じ働きなどできるはずもないが、同じ待遇にすると言った以上、働きについては同じだけの物が求められるのも仕方のないことだ。

 使う側も頭から完遂することを要求している訳ではないが、長いこと思春の部下を務めてきた人間からすれば、色々と足りない北郷隊の面々は頼りなく見えるようで、今も影に日向に怒鳴り声が飛んでいる。

 部下が外で右に左に走っている時、本来彼らを率いるべき一刀が何をしているのかと言えば相変わらずの事務仕事だった。これぞ副官の仕事とばかりに、思春は甘寧隊ほぼ全ての事務仕事を押し付けてきたのだ。戦死者の処理に部隊の再編。しなければならないことは山ほどある。

 自分一人で決められるのならば良いが、資料を元に再編案を作ってもその決済には思春他、千人隊長の承認が必要だった。その彼らがまた捕まらないのである。

 接収した敵施設を使っているだけあって、まだ関全体の把握もすんでいない。安全が保障され自由に使って良いスペースが各軍に割り当てられてはいるが、その中ですらゴミゴミとしている有様だ。関全体について把握している人間は一人もいないという状況で、誰もが事態を把握しようと躍起になっている。

 そんなお祭のような状態が、一週間も続いているのだ。敵を倒すまでが戦ではないのだと思い知る毎日である。

 嵐のような忙しさであるが、最初の三日に比べればこれでも落ち着いてきた方だった。約二万人を越える捕虜の扱いと、敵味方合わせて十万を越える戦死者の処理である。書類についての処理は後でするとしても、伝染病などの元になる死体の処理は急務だった。

 しかも数が数である。関の内外に打ち捨てられた死体は放っておけば放っておくだけ、こちらに害をもたらす。各軍の兵達は共同でこの処理に当たり、全ての死体の大雑把な処理を済ませるのに昼夜兼業で二日かかった。只管穴を掘り、死体を運ぶだけの作業に比べればただ忙しいだけの日々など、天国にも等しいと言える。

 戦争がもうすぐ終わるかもしれない、という思いもそれに拍車をかけていた。

 董卓軍の要所は二つの関と洛陽であり、既に防衛拠点であるところの二つの関は攻略した。残っているのは洛陽であるが、非戦闘員を大勢抱える洛陽まで敵を呼び込んで戦うことはできない。戦うとなれば郊外の平地でということになるが、兵数においては既に互角、しかも勢いのある連合軍を相手に、董卓軍が持ちこたえられるとも思えない。

 どんなに遅くとも半年もあれば、洛陽を落とせるだろうというのは思春の分析である。兵を率いて戦う武将らしく、実に実践的な分析を披露してくれた思春であるが、そんな彼女も今は虎牢関にいた。

 孫策軍本体他、連合軍の主力は既に虎牢関を発ち洛陽に向かっている。

 つまりは、居残り組だ。勇猛果敢な思春はこの扱いが不満であるようだが、誰かがやらねばならないこと、そして位の高さと率いる兵の状況から見て、自分が適当だということで表面上は納得しているようだった。その皺寄せは周囲の人間に来ているが思春の周囲を固める直属兵たちは思春の過激なツッコミをむしろ喜んで受け入れていた。

 それには一刀にも原因がある。先の虎牢関での戦いの最中、一刀は思春に真名を許された訳だが、彼女が真名を許すということは彼女を知る人間にとっては晴天の霹靂であったようで、一刀がその真名を口にした時、孫呉軍に激震が走った。

 中でも直属兵達の反応は凄まじく、主孫策が関を落とした功労者となったことよりもめでたいことだと大騒ぎしたものだった。そんな乱痴気が思春に好かれるはずもなく、目に付くように大騒ぎをする人間は彼女の拳によって静かにさせられたが、その熱気はいまだに留まるところを知らない。

 当事者の一人である一刀にもその熱波はやってきたが、正直、真名がない環境で育ったせいか、真名を許されるということの凄さがどれほど凄いのかというのが、イマイチ実感できていないのである。大きな信頼の証というのは分かるが、それだけだ。

 逆に、真名を許されていないからと言って信頼されていないとも思わない。お互いの真名を知らなくても、信頼しあっている人間は大勢いるだろう。一刀にしても、奉孝や仲徳、士元のことは信用している。真名を許されている人間よりも下に見ているということは断じてない。

 ないのだが、どうも真名というのは一刀の理解よりも大変重要なものであるらしく、先を越された形になった軍師ズたちに大きな衝撃を与えたようだった。奉孝などは変にこちらを意識しているのか対応がギクシャクしていたし、仲徳は普段どおりに見えて言葉の端々に棘が見えるようになった。ちゃんと拗ねてくれた士元などかわいいものだったが、そのかわいさをからかっていられるほど一刀に余裕はなかった。

 真名を預けることが信頼を示す一つの手段であっても、真名を持たない一刀にはそれが使えない。これによる信頼関係の構築については必ず後手に回ることになるのだ。真名を預けるタイミングは人それぞれだろう。本当の本当に最後の手段としている者もいれば、比較的早い段階で預ける人間もいる。

 一刀にとっては灯里や思春は後者で、奉孝たちは前者である。それだけの違いであるのだが、早い段階から行動を共にしている奉孝たちからすれば、先を越された、という思いは強いに違いない。

 誰が悪いと判断できる問題でもないから、その感情は行き場所を見出せないでいる。

 その結果として現在の関係がギクシャクしてしまっている訳だ。結局、真名についてはよく話もできないまま奉孝と士元は孫策について洛陽に向かってしまったし、虎牢関に残っている仲徳も忙しいことを理由に話をする時間をもてていない。

 彼女らを仲間と信用してはいるが、気持ちがすれ違ったままでいるのに平気でいられるほど一刀の心は強くはない。何とかしていつも通りの関係に戻りたいと思いつつも、仕事が忙しいこともあり手を打てないでいた。今まで喧嘩したことはあったが、一週間もこんな状態になったのは初めてのことだった。仕事をしながらも、仲間のことを思う毎日である。

「団長、ただいま戻りました!」

 非常の関係に陥る人間もいれば、全く変わらない人間もいる。子義はいつもと全く変わらない屈託のない笑顔を浮かべて、部屋に飛び込んできた。訓練などがない時は、暇を持て余した彼はいつも一刀の近くにいる。今は難しい話をする面々がいないだけあって、顔を見る機会も多くなった。

 落ち込んでいる時に気を使わない存在というのはありがたい。その天真爛漫さを鬱陶しく思うこともあるが、子義だから仕方がないと諦めてもいる。

「おかえり、子義。ゆっくりして行け……といいたいところだけど、またお使いだ。甘寧将軍を見つけて、これを渡してきてくれ」

 たった今作成の終わった木簡を子義に渡す。部隊について、思春の決済の必要な書類だった。計算がほとんどできず難しいことを考えることの苦手な子義であるが、こういうお使いならば十全にこなす。これだけ広い虎牢関にあっても、何故だか人を見つけるのが上手いのだ。

 木簡を受け取った子義は分かりました! と元気な返事を返し、嵐のように部屋を飛び出していく。良く言うことを聞いてくれるし腕も立つ。周囲においておくのにこれほど安心できる人間もない。

 これでもう少しお勉強に興味を持ってくれれば、と思うものの、あれもこれも要求するのは間違いだと思い直す。灯里のようにどっちもできる人間の方が稀なのだ。既に才能を発揮している面もあるのだから、子義についてはそれを大いに伸ばしてくれれば良い。長所を可能な限り伸ばし、短所は皆で補ええば良いのだ。

 それが一緒にいるということだろう。考えることが苦手ならば、周りの人間が考えて支えてやれば良いのだ。

 仕事に一区切りをつけた一刀は椅子に背中を預けたまま、大きく伸びをする。本当に一人でやっているだけに士元に手伝ってもらった時に比べると非効率的だったが、流石に何度も書類仕事をしていればそれにもなれた。扱う規模と責任は大きくなったが、やっていることに変わりはない。作業効率も最初に比べると格段に上がっているだろう。

 作業量は増えているから疲れてはいるが、今はそういう時だと諦めてもいる。戦にも一区切りつき、留守居の部隊に割り振られたこともあって、虎牢関を前にしていた時ほどの緊張感はない。きちんと食事も取れるし、睡眠も取れる。夜中に敵襲と叩き起こされる可能性も少ない。

 少し前の環境に比べれば、天国だ。

 しかし、天国の中にあっても一刀の表情は晴れなかった。以前よりも仕事の内容や環境は良くなったのに、仕事量が増えたことを差し引いても精神的な疲れが溜まっているのである。

 その原因については嫌というほど分かっていた。

 同時に、それが取り除けない類のものであることが、一刀の頭痛の種となっていた。

「失礼、北郷一刀殿はおられるでしょうか」

 その頭痛の種が、畏まった声で扉を叩いている。陰鬱な気持ちが一刀の心を支配したが、それを吹き飛ばすように大きく息を吐く。自分の役割というものを思い出し、努めて笑顔に。微笑みを作ることには失敗していたが、仏頂面よりは大分マシだと割り切ることにして、声の主に入室の許可を出した。

 失礼します、と絵に描いたような兵の動きで入室してきたのは、銀髪の少女だった。

 日に焼けた浅黒い肌に、肌の上に走る傷。一目で歴戦の戦士と分かる佇まいだったが、その銀色の髪は一刀の記憶を刺激した。どこかであったことがあると思うが、それがどこだったのか思い出せない。こんなに目立つ容貌ならば会話をすれば忘れないと思うだが……

 数秒思考を巡らせた後に、一刀の脳裏に閃くものがあった。

 確かに彼女を見かけたことはある。

 ただし、会話をしたことはない。会ったのは戦場だ。虎牢関攻略戦、曹操軍の援護に駆けつけた時、彼女はそこで戦っていた。遠目に見ただけだからあの時は性別すら分からなかったが、この銀髪、この雰囲気は一角の将で間違いはないだろう。

 あの時見た旗は『楽』。曹操軍でその姓を持つ将軍は、現在一人しかいない。

 自分よりも立場が上の人間の来訪に、一刀は席を立ち頭を下げた。

「北郷は俺です。曹操軍の楽進将軍とお見受けしますが、相違ありませんか?」
「ご丁寧にどうも。自分は確かに楽進ですが、そこまで畏まらなくともよろしいですよ。此度のことで北郷殿は甘寧将軍の副官に出世されたと聞きました。私も五千の部隊を預かる将ではありますが、まだ新参です。どうか楽になさってください」
「そう言っていただけると助かりますが、私の位は暫定的な物。将軍の職について日が浅いと仰いならば、私こそ暫く前までは百人隊長だった身。将軍に失礼な口は聞けません」

 軍という組織において上下関係が如何に大事かというのは、骨身に沁みて理解している。百人隊長は確かに部隊を預かる身ではあるが、将軍と言えば雲の上の人に等しい。甘寧と大体同じ位と言えば、アホの子の子義でもその凄さは理解できるだろう。所属する組織が違うのだからそれほどまでに敬意を払う必要はないと言う人間もいるだろうが、それでも将軍という位は無視できるものではない。

 それに、出世したと言っても言葉の通り、一刀の位はあくまで暫定的なものだ。仕事こそ副官と同じものが振られているが、あくまでこれは戦中の暫定処理なので、孫策からはまだ正式に認可されていない。従軍する前に奉孝たちが出したらしい条件にも反するから、正式に副官の地位を与えられることは恐らくないだろうと見ている。

 正式な将軍と暫定的な副官。その立場の違いは明らかだったが、楽進は引き下がることに難色を示した。

「しかし、北郷殿はかの飛将軍呂布を相手に一騎打ちを挑まれ、これを退けたとか。武勇について敬意を払うのは武人の常。何もそこまで遠慮されることはありますまい」

 微かな尊敬すら混じった熱い眼差しは、ここ数日見慣れた、そして一刀を悩ませているものでもあった。

 呂布の戟の前に晒された思春を身を挺して庇った。言葉にすればそれだけのことだが、自分で口にするには大分勇気の必要なそれが尾鰭をつけて広まっていた。

 呂布を退けたというのが、何故か事実として広まっているのである。事実に反するのならばこれを収める必要があると思うのだが、孫策陣営はこれを助長してた節すらある。使える物は何でも使おうという魂胆なのだろうが、噂の主人公にされた人間は溜まったものではない。

 自分のしたことが正しく評価されそれで褒められるのならばまだ受け入れることもできるが、恐ろしいまでに誇張されたソレは一刀を苦しめるだけだった。やってくる人間を前に否定することは簡単だが、主筋の人間が否定しなかったそれを立場の弱い人間が否定するのは角が立つ。

 結果、日本人らしいアルカイックスマイルを浮かべてなぁなぁでやり過ごすのが一刀の常となっていたが、それが一刀の精神力をゴリゴリと削っていた。身の丈に合わない嘘をつき続けるというのは、神経をすり減らすものなのである。

「運が良かっただけですよ。それに甘寧将軍の助力もあってのこと。俺一人の力ではありません」
「……」
「何か? 楽進将軍」
「いえ。手柄を上げた人間はそれを誇るものですが、貴方は実に謙虚であられる。それに感心していたところです」
「お褒めいただき恐縮ですが、自分の武はいまだ誇れるものではありません。日々精進。この言葉を痛感する毎日です」

 本心を言っただけだが、楽進はさらに尊敬の念を強くしたようだった。犬気質とでも言うのか、どこか子義に通ずるものを感じる。基本的にこちらの話を聞いてくれるが、根本にあるものは梃子でも動かない。そんな良く言えば芯の強さ、悪く言えば頑固な内面を感じつつ、一刀はポットに手を伸ばした。

「ところで楽進殿、お時間はよろしいですか?」
「しばらくは大丈夫です」
「それは良かった。実は休憩をしようと思っていたところなのです。宜しければ付き合っていただけませんか?」

 誤魔化しの言葉を使うまでもなく粗茶であるが、一応、お茶が用意してある。

 将軍さまに振舞えるようなグレードのものではないが、これが用意できる限界なのだから仕方がない。部屋の様相から、お茶がどういうものかくらいの判断は相手にもつくだろう。拒絶するならばそれで良いくらいのつもりで問うてみたが、意外なことに楽進は二つ返事でOKを出した。

「貴方さえよければ、是非に」
「おかけください。今、用意をしますので」

 椅子を勧めて、お茶の準備をする。子義がいれば彼に任せるのだが――決して上手い訳ではなにが、やらせないと怒るのだ――彼は今お使いで席を外している。この部屋で客をもてなすのも初めてだな、と詮無いことを考えながら、自分と楽進の二人分の椀を用意し、楽進の対面に座る。

「どうぞ、粗茶ですが」
「いただきます」

 丁寧に礼を言って、楽進は椀に口をつける。客人が口をつけたのを見て、一刀もそれに倣った。可もなく不可もなくのお茶である。実に今の自分に合ったレベルだと思ったが、果たして楽進の口に合うのかどうか。椀を投げ返されでもしたらどうしようと今更不安になる一刀だったが、楽進は済ました顔で椀をそっと机の上に戻した。

 顔を見る限り、不満はなさそうである。文句が出なかったことに、心中でそっと安堵する。

「北郷殿は――」
「失礼。俺はそれほどの身分ではありません。そこまで畏まらなくても良いですよ?」
「貴方はそう仰りますが、私にとってはそう簡単な話ではありません。まして貴方は他の勢力に所属しておられる。失礼があっては、我が主の沽券にも関わるのです」
「では、個人的に友誼を結びませんか? 友情に乗っ取り、この部屋で起きたことは口外しない。それならばもっとざっくばらんに行けるでしょう?」
「ですが……」
「もっとも、私などと友人になりたくないというのなら、話は別ですが……」

 わざと悲しそうな表情を作ってみせると、楽進はぐぬぬ、と呻いた。隠し事や腹芸のできない性格なのだろう。分かりやすいその反応に一刀は好感を持ち、友達になってみたいという思いを強くした。

「……お前は少し、性格が悪いな」
「最近は持ち上げられてばかりだったからさ、たまには仕返ししてみたくもなるんだ」
「それを何も私にしなくても良いだろう?」
「都合よく俺の前に現れたことを、不幸だと思ってくれ」
「私のことは、文謙と」
「俺のことは一刀で良い」

 笑うと、楽進も一緒になって笑ってくれた。

 それから話したのは、あまり大したことではなかった。お互いの身の上話をしたり、部隊の動かし方について話してみたり。驚いたことに楽進は将軍としてのキャリアが浅いだけでなく、従軍の経験も浅いということだった。兵になってからの期間は一刀とそれほど差がないのである。

 それで将軍というのだから、能力の高さが伺える。奉孝たちの力を借りてようやく百人隊長になった身分からすると、羨ましいことこの上ない。

「虎牢関では手柄も立てたのだろう? そう遠くないうちに領地を貰えるような身分になれると思うがな」
「どうだろう。それについては雲行きが怪しくなってるような気がするよ」

 臨時雇いという契約ではあったが、自分はともかく有能な三人の軍師を孫策が手放したがると思えない。約束を反故にしないまでも、強烈に引き止めるくらいのことはしかねない強引さが孫策にはあった。

 奉孝たちも時代を代表する軍師であるとは言え、今は流浪の身。地盤をしっかりともった孫策に強く出られては、断りきれるかどうか怪しいものだ。

 それをどうにかするのが軍師の腕の見せ所だと奉孝は言っていたが、果たしてその弁論が孫策と周瑜相手にどれだけ通じるものか……頭の回転が遅いと自覚している一刀にさえ、旗色は少々悪いように思えた。

 孫策陣営に就職となれば、領地を得て上を目指すというのは難しくなるだろう。奉孝たちはともかく、自分一人で領地を任せられるほどの才覚を示したとは思えない。領地をどうこうというのは、あくまで奉孝たちがセットだからこそ考えられることだ。自分一人では精々部隊長が良いところ。条件が整っていることもあり、このまま甘寧の配下に納まるというのが、一番ありそうな未来に思えた。

 それはそれで良いかな、とも思える自分が悔しい。甘寧はどうも自分のことを信用してくれているみたいだし、それに応えたいと思う自分もいる。怖くて口にできていないが、最悪、孫策陣営に所属するのでも良いとすら一刀は思えていた

 勿論、独立して上を目指すという奉孝の論を軽んじている訳でもないが、今のままではそれも厳しいかもしれない、というのは肌で感じていた。

 およそ自分の関係ないところで、処遇は決定するだろう。ここまでの働きがどう評価されるのか、それは一刀には分からないことだった。

「そろそろお暇する。久し振りに楽しい時間が過ごせた」
「良ければまたきてくれよ。俺も書類仕事ばかりで退屈なんだ」
「時間が作れれば、そうしよう。私も楽しかった」

 差し出された楽進――文謙の右手を、握り返す。徒手を得意とするだけあってゴツゴツとした女の子らしくない手だったが、不思議と暖かい。ぎゅっと握り返すと、照れた表情を浮かべて視線を逸らす。女の子らしい仕草が、実にかわいらしい。

 ではな、と文謙が踵を返しかけたところで、扉を叩く音がした。思わず顔を見合わせる。別に良い、という返事があったので一刀は入室を許可した。

 失礼する、という短い言葉と共に扉を開けた声の主は、まず一刀を見て、隣に立つ文謙を見て、困ったような表情を浮かべた。あー、とかうー、とか意味のない言葉を数秒続けた後に、

「お邪魔だったのなら出直すが……」

 実に申し訳なさそうな口調に、思わず肩をこけさせた。

「お邪魔などとんでもない。お会いできて光栄です、公孫賛殿」

 先に立ち直ったのは文謙だった。彼女はさっと居住いを正すと、軍人らしい所作で声の主――公孫賛を迎え入れる。文謙が将軍ならば公孫賛は一軍の長だ。連合における立場で言えば、文謙の主である曹操と同等の立場である。畏まった態度も当然と言えばそうなのだが、型どおりの文謙の反応に、公孫賛はさらに困惑を深めた。

「別にそこまでしなくても良い。私はただ、噂の北郷一刀の顔を見に来ただけで、部隊の検分をしにきた訳じゃないからな」
「そういう理由でお越しならば、私こそがお邪魔でしょう。一刀のことは存分に。私はこれで、失礼致します」

 ではな、と短く挨拶をして、文謙は脇目も降らずに部屋を出て行った。引き止めるための言葉を出す間もない、見事な引き際だった。

「何だか、本当に邪魔したみたいだな」
「お気になさらず。あれは奴の性分のようなものです」
「アレは確か曹操軍の将軍だったな……友人なのか?」
「はい。と言っても、友人となったのはついさっきのことなのですが」
「その割りには随分と親しそうじゃないか。英雄色を好むというのはこのことか?」
「お戯れを……」

 尾鰭のつきまくった噂については聞き及んでいるようで、静かに抗議の声をあげる一刀を公孫賛は豪快に笑った。

「まぁ冗談はさておき、だ。呂布を退けたという噂の男を一目と思ってきたんだが……私はどうも相当出遅れたらしいな」
「確かに嫌味も賛辞も一通り言われた後ですが、公孫賛殿は忙しくてらっしゃいますから」

 一軍の長であるのに居残り組。そう考えると今の立場を押し付けられたようにも思えるが、虎牢関に残った戦力の指揮を自ら請け負ったのが、この公孫賛なのだった。誰もが手柄を欲する中での立候補である。当然それには裏もあるのだが、諸侯はこれに諸手を挙げて賛成した。

 すんなりと虎牢関の暫定責任者となった公孫賛は様々な勢力の戦力を纏め上げ、一つの組織として見事に運用している。

 目立ったところはないが、実にそつなく仕事をこなすというのは仲徳の弁である。悪く言えば『普通』ということあるが、それは全ての能力が高水準で纏まっているということでもあった。上を目指す一刀としては見習わなければならない人間の一人だ。

「ところで公孫賛殿、氾水関ではお世話になりました」
「確かに私は氾水関の戦に参加したが……すまん、お前のことは記憶にない」
「無理もありません。私はただの百人隊長でしたから。味方の合流に遅れて敵に包囲されかかっていた我々を、救ってくださったのが公孫賛殿の白馬陣だったのです」
「すまん。そこまで言われても思い出せない。甘寧隊の近くの通った記憶は何度もあるんだが……」
「無理もありません。俺の部隊は旗も出していませんでしたから」
「百人隊じゃしょうがないかもな。でも、今度のことでお前も自分の旗を立てられるくらいにはなるだろう。それなら、今度すれ違ったとしても絶対に記憶に残るな。北郷なんて姓を戦場で二つも見るとは思えないし」
「旗ですか……」

 考えたこともなかったが、順当に出世を重ねれば立てることになるものだ。自分の姓が旗になって翻っているのを脳裏に描いてみるが……それがあまりにも様になっていなくて、思わず噴出してしまう。

 何より、ただ一文字の旗ばかりの中で北郷と二文字も使うのは座りが悪いように思う。それを素直に口にしようとする一刀だったが、寸前でやめる羽目になった。座りの悪い二文字姓の人間が、目の前にいたからだ。

 何かを言いかけたのを引っ込めた様子の一刀に、公孫賛は怪訝な顔を向ける。一刀は取り繕うように咳払いを一つ、

「お、俺には柄ではないような気がします」
「名誉なことなんだけどなぁ……でも、実感が湧かないというのも良く分かるよ。私も初陣を迎える前まではそうだった」
「姓を堂々と掲げるというのも何だか偉そうな気がするのですよね。それならばもう少し分かりやすい、文字が読めない人間でも俺と分かるようなマークの方が良いと思うんです」
「まーく?」
「あぁ、失礼しました。地元の方言でして何と言いますか、記号のようなものです」
「記号か……それも良いかもしれないな。それを見れば誰もがお前を思い描く、というのもそれはそれで素晴らしいじゃないか」
「何か良いお知恵はありますか?」

 この際だからと聞いてみる。それくらいは自分で、と突っぱねられるかと思ったが、公孫賛は嫌な顔一つすることなく付き合ってくれた。悩むこと数秒、

「十字というのはどうだ? 十字を描いて、それを丸で描こうんだ。難しい記号でもなし、それなら誰でも理解できるだろう?」
「急な時、自分で書くこともできそうですね」
「……まぁ、書きやすいということは偽造されやすいということでもあるから、一長一短なんだがな……だが、理解しやすいという一点に限って言えば、これ以上はないだろう」
「大変参考になりました。いずれ俺がその旗を作った時には、真っ先に公孫賛殿にお見せしますよ」
「その時お前が敵でないことを祈ってるよ。何しろ、呂布を退けた男だ」



「急報でごさいます!」

 ノックもせずに部屋に飛び込んできたのは、見覚えのない男だった。急な来訪に一刀は腰の剣に手を伸ばしかけるが、それを制したのは公孫賛だった。

「私の部下だ」

 静かに言った公孫賛は男の差し出した木簡を受け取った。男の退出を待つでも、一刀に退出を促すでもなく公孫賛はさっと木簡を広げる。素早く目を通した公孫賛の顔に、驚愕の色が浮かんだ。ついで、顔が段々と赤く染まっていく。羞恥ではなく怒りの赤だ。木簡を握り締める手はガタガタと振るえ、今にも木簡を握りつぶしそうだった。

 読み終わった木簡を畳むと、持ってきた男に返す。男は入ってきた時と変わらぬ勢いで部屋を飛び出していった。

 怒りを納めるのに時間をかけている公孫賛の、怒りがおさまるのを辛抱強く待つ。

「良い知らせと悪い知らせ。どっちから知りたい?」
「俺が聞いても良いのですか?」
「誰かに話したい気分なんだ。頼むから聞いてくれ」
「では、良い方から」
「董卓軍は洛陽から撤退したようだ。大きな戦端が開かれることはなく、こちらにはほとんど被害はでなかったらしい」
「では、誰が洛陽に一番乗りを?」

 公孫賛は言葉を切った。忌々しそうに顔を歪め、天を仰ぐ。

「……事実だけを言うのならば袁紹だが、今現在連合軍の誰も洛陽の中に入っていないそうだ。皇帝陛下の命により、連合軍の将兵は全て、洛陽に立ち入ることを禁止されている」
「一体どういうことです?」
「袁紹軍が洛陽の民に手を挙げたそうだ。董卓軍の残党が民の中に紛れて扇動したという情報もあるが、定かではない。結果として袁紹軍は民を相手に乱闘騒ぎを起こし、それが広がり街に火までついたらしい。最終的には禁軍まで出動する騒ぎになったようだ」

 一刀は額を押さえて、大きく溜息をついた。考えうる限り最悪の結果だ。董卓軍の圧政から民を解放するという名目で起こった軍が、その民を害していては何が何だか分からない。

 これから、連合軍はどうするのだろうか。

 まさかその乱闘騒ぎに袁紹自ら加担したとも思えないが、兵がそれに参加したのなら責任者が責任を問われるのは自然の流れである。

 しかもそれが連合軍の盟主であるのだから、付き合って共にここまで来た諸侯たちも立つ背がない。首脳会議はどれだけ重苦しい空気に包まれているのか。想像するのも恐ろしい。

「どういう結果に落ち着くとしても、一度軍は合流することになるだろう。お前の上司の甘寧にも、既にこの情報は行っているはずだ。すぐに召集がかかる。どういう答申をするのか、今から考えておいた方が良いぞ」
「公孫賛殿は、どうするのですか?」
「私は……一足先に領地に帰ることになるかもしれないな。こういう形になったら、あの麗羽もさらになりふり構わなくなるかもしれない」
「袁紹……殿と戦になるということですか?」

 癖で呼び捨てになりそうになったのを、慌てて補足する。一刀の物言いに公孫賛は苦笑を浮かべたが、突っ込んでくるようなことはしなかった。

「元より邪魔な董卓を皆で排除しようと起こったのが連合軍だ。その董卓を排除できたのなら、次はお互いを蹴落とす番だ。間の悪いことに、私の領地は麗羽――袁紹と隣り合っているからな。南下して曹操を叩くよりは組みやすいと見て、真っ先に戦をしかけてくるのは間違いない。準備だけはしてきたが、すぐにでも防備を強化しないと、なし崩しに領地を取られることになるかもしれない」
「黙って聞いておいて何ですが、俺にそこまで話しても良いのですか?」
「聞いてほしいといったのは私だぞ? まぁ、お前に知られたところで、困ることは何もない。袁紹が私の土地を狙っているというのはここに詰めている将兵なら誰でも知っていることだしな」

 曹操と公孫賛。先にどちらと戦うかと考えれば、ほとんどの人間が後者を選択するだろう。

 まして相手はあの袁紹だ。此度の戦で戦力を減らし、不名誉を得た彼女が率先して強敵たる曹操に挑むとも思えない。挑むのならば公孫賛だ。それも、可能な限り早い段階での開戦が予想される。

「御武運をお祈りしています」
「そんな泣きそうな顔をするなよ。私だって負けるつもりで戦をするんじゃない。やる以上は、勝つつもりでやるさ。都合の良いことに今回の戦で袁紹軍は兵を多く失ったし不名誉も負ったが、私は桃香と一緒に名を挙げることができた。案外、あっさりと私が勝つかもしれないだろ?」

 軽く笑ってみせる公孫賛に、一刀も釣られて笑った。
 
 その言葉を一番信じていないのは、当の公孫賛本人だろう。不名誉を負い、兵を多く失ったところで袁紹の最大勢力はいまだ揺るがない。公孫賛も優れた武将であるが、数の力を覆すのは並のことではないのだ。二度の大きな戦で、一刀はそれを嫌というほど思い知ったばかりである。

「じゃあな。次に会う時には、お前の旗を見せてくれよ」
「約束します。重ねて、御武運をお祈り申し上げます」

 ひらひらと手を振って、公孫賛は部屋を出て行った。

 急報、と子義が部屋に駆け込んできたのは、それからしばらくしてのことだった。










 

















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十九話 戦後処理編IN洛陽②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58

 洛陽に着いた一刀を待っていたのは予想を超える光景だった。

 董卓が暴虐の限りを尽くしていると信じていた訳ではないが、例えそれが建前であったとしても全ての戦が終わった後には住民にそれなりの歓待を受けると思っていたのだ。

 事実、何事もなく話が進んでいたらそうなっていただろう。連合軍が安全に洛陽に入れるということは即ち、権力者の首がすげ変わったことを意味する。

 どんなに言葉を尽くすよりも明らかなそれは、民衆の目にこそはっきりと映ることだろう。

 次の頭が自分たちであること。

 それを民衆に知らしめることが連合軍結成の目的の一つであったはずなのだが……連合軍を迎え入れるはずの洛陽の門は、大火の影響で煤けていた。戦闘のせいか門も激しく痛んでおり、燻った臭いが門の外まで届いていたのを覚えている。

 街に入ってみれば見渡す限りの廃墟だった。どういう事情で火災が発生したのか詳しいことは知らないものの、大規模な小火程度と考えていた一刀に、街の数区画が全焼しているという光景はショックなことだった。

 住民は遠巻きにしてこちらを眺めているばかり。今すぐ排斥しようと血走っている訳ではないが、決して歓待している雰囲気でもない。こんなはずじゃなかった、と自分でも思うのだ。各勢力の代表者たちは、心の底からそう思っていることだろう。

 だが、いつまでも愚痴を零してはいられない。何もしなければ本当に自分たちは間抜けで終わる。ここまでやったのだからせめて何か得るものがなければ。そう考えた諸侯達は、連合軍結成以来、初めて結束を固めた。

 門の外に退去すべしと命を出したのは皇帝陛下であるから、まずはそれを解除してもらわなければならない。その交渉のために諸侯は最適な人員を探し、周瑜、荀彧、諸葛亮というおよそ正史では考えられないようなチームが編成され、帝室との交渉に当たった。

 非は明らかにこちらにある。宦官を排斥した董卓に少なからぬ恩義を感じていた帝室は連合軍に対して頑なな態度を貫いていたが、董卓が行方不明である今、自らが皇帝であるということ以外に権力基盤を持たない帝室は、新たな庇護者を早急に求めなければならなかった。

 こちらでも話がまともに進んでいたら、である。

 本来ならば受け入れることに否やはなかったのだ。

 それを余計なことが起こってしまったから、遠回りをする羽目になっている。受け入れたい人間と受け入れてほしい勢力。両者の願望は最初から合致していたのだが、それをいきなり口に出しては世の中回るものも回らない。

 物事を成すには、手順というものが必要なのだ。

 三軍師の仕事はその手順を出きる限り省略しつつ、帝室と連合軍、双方に最大限の利益が齎されるよう、落とし所を探すことだった。

 自分の役割というものを熟知していた三軍師の仕事は迅速だった。一ヶ月はかかるかと思われた話し合いを一週間で纏めてきた彼女らは、居並ぶ諸侯を前に、帝室との間に纏めた内容を諸侯に公表した。

 一つ。此度の責任の所在を明確にすること。責任を取るべきは、即ち、連合軍の責任者である。

 一つ。破壊された街区については連合軍が責任をもって補修し、死亡または負傷した人間についてはこれを補償すること。 

 他にも細々としたことはあったが、大きく分けると条件はこの二つに集約された。二つ目の条件については本来であればいらない支出ではあったが、一つ目の条件については諸侯にとっては渡りに船だった。

 皇帝陛下のお墨付きで、袁紹を排除できるのである。下手を打ったこの状況で功の等級も何もあったものではないが、一番良いところを掠め取る可能性の高い人間を排除できることは、戦後の分配で大きく利することになる。

 もはやどれだけ損をせずに話を纏められるかの勝負なのだった。戦が終わった今、仲間の頭数は少なければ少ないほど良い。

 当然、袁紹は猛然と抗議したが、反論したのは彼女一人だけとあっては覆すことはできなかった。途中の戦で兵を減らしていたのも禍した。政敵である袁術の軍にほとんど損耗がなかったのも大きい。

 交渉役の軍師の中に袁紹軍の人間を入れることができていればまた違う結果になったのだろうが、他の三人と互角に知恵比べをできるほどの人間が、袁紹軍にはいなかったのだ。

 結果、袁紹軍は洛陽に入ることなく、保障のための金子を吐き出せるだけ吐き出して、帰り支度を纏めて領地への帰路についた。公孫賛の心配が当たった形になる。諸侯全てが領地から出払っている状況で一人本拠に戻ることは、自衛の面においては甚だ危険であるが、いくら袁紹といえども、兵を大きく減らし金銭的にも大きなダメージを受けた直後に戦に打ってでることはないだろう。

 公孫賛が領地に戻り、戦に備えるだけの時間は十分にあるはずである。友人と言えるほどの関係でもないが、既に公孫賛は知己である。袁紹よりは彼女に勝ってほしい。洛陽の空の下、今は遠い地にある恩人のことを思いながら、一刀は大八車を押す現実に溜息をついた。

 袁紹軍が排除されたことによって諸侯の取り分は増えただろうが、兵の数も同時に減ってしまったため兵の仕事は余計に増えたと言っても良い。正規兵ですら復興作業に割り当てられている始末である。一刀達新兵は言うまでもなく、作業の中でも比較的キツい仕事を割り当てられていた。

 ガレキを撤去しては指定の場所まで運び、その後は家々の修繕である。この時代で最も洗練された都市でもある洛陽だ。修繕については本職の大工がおり、実際の仕事は彼らが行ってくれるが、何しろ補修する面積が広大すぎて、とても本職だけでは手に負いきれない。

 木材の運搬、大工の助手などするべきことは山ほどあった。兵はその仕事に忙殺され、管理する立場の人間は兵にそれを割り振らなければならない。その点、一刀の甘寧隊の仕事は他の隊に比べてスムーズに行われていた。仕事を管理している軍師仲徳が優秀であったのが大きい。より効率的に人員を動かせるよう、兵の能力まで見極めて配置する様は一種芸術とさえ言えた。

 俺もこれくらいできるようになれれば……と感心すると共に、人間の限界まで挑戦した酷使っぷりには、調練ばかりで体力のついてきた身にも堪えるものがあった。

 こんなはずじゃなかった、というのは諸侯だけでなく、兵にも共通する感情だった。

 だが、復興作業も悪いことばかりではなかった。洛陽の住民と触れ合う機会を持つ内に、住民の連合軍に対する視線も柔らかいものになっていったのである。三軍師の流した『悪いのは袁紹である』という噂も効果を発揮しているようだ。何処に言っても犯罪者でも見るような目で見られていたのが、今はそれもなく大分過ごしやすくなっていた。

 思い描いていた物とは大分違うが、環境は少しずつ改善されてきている。命を賭けて戦ったのだ。何か得るものでもないとやっていられない。誰かを上に仰いで戦ったことで、兵の気持ちというものが徐々にではあるが理解でき始めていた。

 上に立つ人間は、そんな気持ちを持つ兵を使うのである。

 最初から上に立っていたら、気づくことはできなかっただろう。生き残ろうと必死で戦った末に得た気持ちだ。無碍にできるものではない。

「北郷、ちょっといいか?」

 効率よく仕事を回すためにと甘寧直属隊から切り離され、再び北郷隊として井戸さらいをしていた一刀の元に現れたのは、その直属隊の人間だった。暫定副官になったとは言え、立場はまだまだ一刀の方が下である。男の声に一刀はすぐさま直立したが、そんな一刀の反応に男は苦笑を返した。

「何もそこまでしなくてもいいんだぜ?」
「しかし、礼を失する訳には……」
「頭が認めた以上、お前は俺たちの仲間だ。むしろ、お前を狙って扱いているなんて思われた日にゃあ、俺たちの立場が危ういのよ」

 お頭の折檻は過激だからな……と呟く男の顔は地味ににやけていた。明らかに殴られるのを楽しみにしている顔である。甘寧直属兵は彼女が孫呉に合流する前からの部下が多いため、孫策よりも思春に忠誠を誓っている人間が多い。付き合いの長い人間が多いこともあり、結束力は孫呉の中でも随一と言って良い。

 反面、荒っぽい人間が多い呉の人間の中でもとりわけ荒っぽい人間が多く、風貌も雰囲気もヤクザを通り越して賊そのものな人間ばかりである。一刀もいまだにその雰囲気には圧倒されることがあるが、仲間意識が強いのが救いだった。一度仲間と認めた人間については意外なほどに親身なので、こういう連帯しなければならない時にはとてもありがたい。

「何か御用のようですが、俺に何か?」
「ああ。実はそこで牢を見つけたんだがな、検分に付き合ってくれないか?」
「牢ですか?」

 牢というからには罪人が入っているのだろうが、それを見つけたというのも可笑しな話である。

 設置する目的上、牢の警備は厳重でなければならない。脱走などされたら意味がないし、囚人を解放しようと敵対勢力が押し寄せてきた場合、これを撃退しなければならない。

 現に一刀の知っている洛陽の牢はどこも厳重で、城壁の中にあったり一目でそれと分かるような兵がいたりと、現代日本の刑務所のような様相だった。牢の役割と認識については現代日本と大差ないはずである。

「実はな、怪しい奴がいたから適当に締上げたんだが」
「聞き捨てならないことを聞いたような気がするのですが」
「いいんだよ、細かいことは。でだ、その締上げた奴は実は牢の番人だった訳なんだが、その牢が宦官に反抗した政治犯? の収容所だったらしい」

 声を潜めて言う男に、それならばと一刀も頷いた。最初から牢を秘匿しておけば警備や施設そのものに割く費用人員は少なくて済む。見つかってもその時はその時と考えているならば尚更だが、

「宦官に反抗した政治犯ならもう二年は牢の中にいるんじゃありませんか?」

 宦官を粛清した董卓一派を一掃したいから連合軍が結成されたのだ。牢の中にまだ生存者がいるとしても、その彼もしくは彼女は二年も牢の中にいたことになる。狭い牢の中で過ごすことでも気の狂いそうなことなのに、その中に二年だ。

 現代人の感覚では生きていることが不思議なくらいの環境であるが、男が態々話を持ってきたということは少なくとも一人は生存者がいたということなのだろうと、質問してから気づいた。

「いや、そもそもそこの収容されてたのは一人だけだ。その一人を数人で世話してたらしい」
「なら、さっさと助け出しましょう。二年も牢の中にいたのなら、早く医者に見せないと……」
「その辺りが俺達には判断がつかなくてな。解放しても良いもんかね」
「そりゃあ……」

 勿論だと言いかけて、一刀は言い淀んだ。秘匿された牢に収容されているということなど状況から鑑みて、凶悪犯ということはなさそうだ。個人的な感覚としては解放しても問題ないと思うが、誰が収容されているかというのも問題になってくる。

 というのも、それが高貴な身分の人であれば、解放することは大きな手柄となるだろう。それだけで褒美が与えられるかどうかは怪しいが、名を上げる機会というのはいくらあったとしても困るものではない。

 折りしも連合軍は失点を回復することに躍起になっている最中である。これが名誉回復の手段となるならば、喉から手が出るほど欲されているはずだ。

 強欲な人間。いや、普通の神経をしていても、ここは自分がと手柄を上げることを考えるだろう。

 それなのに男は一刀に話を持ってきた。自分が手柄を上げることよりも、その上の人間――思春の名誉を気にしての行動だった。見上げた忠誠心だと感心すると共に、自分がそういう心を持っている人間の一人だと思われていることに、喜びと恐れを感じる。

 思春のことは尊敬しているし大事ではあるが、彼女を一番として行動することはできそうにもない。

 自分は彼らの信頼を裏切っているのではないか……そんな考えが一刀の脳裏を過ぎるが、答えを待つ男の顔を見てそんなことはどうでも良くなった。

 彼らはそこまで深く物事を考えてはいないだろう。仲間だから話を持ってきた。そのくらいの単純な心で、自分を信頼してくれている。

 ならば、自分も真っ直ぐな心でその信頼に応えれば良い。信頼を裏切る云々は、主義主張がぶつかった時にまた考えれば良いのだ。

「とりあえず、誰が捕らわれているのか見てから決めましょう。そんなに大したことなさそうだったら、俺らだけで大丈夫なはずです」
「そうか。まぁ、お頭の手をわずらわせなくて済むなら、それで良いか……」

 反応の薄さから、手柄にならない可能性が高いとでも思ったのか、男の声が沈んでいく。

「でも、どうして俺に話を持ってきたんです?」

 検分に付き合うことに文句はないが、自分に声をかけるくらいならば思春を直接捕まえた方が話は早い。思春ならば自分が考えつくようなことは考えつくだろうし、手柄を立てるチャンスだったとしても、もっと上手く使ってくれることだろう。

「お前がたまたま近くにいたからだよ。お頭は今も探しちゃいるが、軍師先生と一緒で忙しそうだったからな」
「こういう事情なら思春も無碍にはしないと思いますがね」
「俺もそう思うが、考えるのが必要なことはまずお前と思ったんだよ。俺たちゃ皆、学がないからな」

 ははは、と豪快に男は笑う。その言葉は信頼の証でもあったが、その信頼がむず痒い。

「何しろお前は我らが副長だ。お頭に話を通す前に、耳に入れておくのは必要だろうよ」
「暫定の身分はそこまで偉くありませんって」
「暫定だろうと何だろうと、お前は上で俺たちは下だ。頑張れよ、副長。お頭の信頼を裏切らないようにな」

 肩をバシバシと叩きながら、男は豪快に笑った。決して副長とやらにする態度ではないが、信頼してくれているのは良く分かる。彼らには表裏がない。良くも悪くも思っていることが顔や態度に出やすいのだ。思春の部下だからこうなったのか、こういう人間だから思春の下に集まったのか知れないが、こういう信頼関係も悪くないな、と一刀は思った。














 案内された牢があるという施設は民家に偽装されていた。この地下室に牢があるのだという。怪しい人間を締上げたと言っていたが、そういう事情でもなければ、ここが牢であることに気づくことはないだろう。現に、周囲の住民は突然やってきた兵に何事かと目を向けていた。

 民家の中にあるというのも、偽装に一役買っていたのかもしれない。これが刑事ドラマとかならば聞き込みでもするのだろうが、必要なのは周囲の声ではなく、ここにいるのが誰であるのかだ。

 男を伴って民家の中に入る。

 外観以上に家の中は簡素な作りだった。家具はほとんどなく、テーブルと椅子が一脚。その上には酒の入った椀があった。ここで時間を潰すための暇つぶしの道具だろうが、どうやらここの管理人はあまり仕事熱心な方ではなかったらしい。

「締上げたって人はどうしました?」
「ふん縛って下に転がしてある。流石にぶっ殺すのは不味いと思ったんでな」
「そりゃあそうです」
「陸の上じゃ、死体刻んで水に流すって訳にもいかねえからな」

 男の物騒な言葉には取り合わないことにした。地下には階段で降りるらしい。石で作られた、中々に立派な階段だった。松明を受け取って、その階段を降りる。腰の剣は自然に抜き放っていた。後ろを歩く男が笑いをかみ殺したのが分かったが、今更取り消すことはできなかった。暗がりから何かでてきたら困ると思っての行動だったが、考えて見れば仲間が確保した場所で、周囲を警戒する必要もない。

 況してはこれから行くのは、行き止まりの牢だ。囚人以外に誰もいない場所で、一体何を警戒するというのか。臆病者と笑われなかっただけ、彼らには優しい対処だっただろう。恥ずかしさを押し殺して、一刀はそのまま進む。

 たどり着いた地下室は、意外なほどに広かった。階段を下りた先には一刀の足で十歩分の奥行きがあり、右手には牢がある。広さは八畳ほど。想像していたよりも大分広い。

 ただ、臭いはいかにも牢という感じだった。虎牢関で董卓軍が連合軍の兵を押し込めていた牢を見たことがあるが、そこと同じような臭いがする。規模が小さい分、臭いもどこかキツく感じた。

 ここで二年も過ごすのは大変だろうなと重いながら、牢の中を覗く。奥のほうに、小柄な人影が寄りかかるようにして座っていた。伸びっぱなしの髪が邪魔して顔をうかがい知ることはできないが、シルエットからして女性のようだった。

「俺は孫策様配下、甘寧将軍の下で副官をしております、北郷と申します」
「孫策?」

 か細い声には、意思の力が篭っていた。壁によりかかったまま、女性がゆっくりと視線を上げると青みがかった瞳が見えた。

「……小覇王と名高いお方が、何故洛陽に?」
「董卓軍を討つために袁紹殿を盟主として連合軍が結成されました。董卓軍は洛陽より撤退。今は連合軍が洛陽外に駐留しております」
「難しい状況、ということですか」
「理解が早くて助かります。詳しい話は、牢をお出になってからお話します」
「助かります。情勢が動いているのでしたら、早いうちに情報を耳に入れておきたい」
「失礼ですが、牢からお出しする前に、貴女のお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
「分かりました。そちらに行きますので、しばしお待ちください」

 ずりずりと、床を這うようにして女性が近付いてくる。足を悪くしているのか動きは凄まじく緩慢だった。時間にして約十秒。部屋を縦断するには長すぎる時間をかけて、女性は格子の傍にまで移動してきた。

 臭いが流石に気になったが、女性を前に顔を顰めるようなことは不味いと考えるだけの配慮は一刀にもあった。口を開こうとする女性の声を聞き逃すまいと、腰を下ろす。女性の口は動いていたが、それでも聞き取ることはできなかった。

 これでも遠いのだろうか。更に身を乗り出し、格子に耳をくっ付けるほどにすると、

「北郷!」

 男が警告を発するのと、女性の腕が閃いたのは同時だった。囚人とは、女性とは思えない力で一刀の首を掴むと、強引に引き寄せる。首には何処に隠していたのか、太い針が突きつけられていた。

 突然のことに一刀が目を丸くしていると、女性は顔を近づけて、地獄の底から響いてくるような声で耳打ちしてきた。

「私が聞きたいのは、一つだけです。嘘だと思ったら殺しますので、そのつもりで聞いてください」
「わかりました……」
「貴方が手にしているその剣ですが、それは何処で?」

 女性が視線だけで、剣を示す。剣は女性に拘束された時点で一刀の手を離れ、床に落ちていた。荀彧からもらった自分には不相応な業物である。

「滞在した家の女性が、俺が旅立つ時に餞別としてくれたものです」

 噛み砕いてはいたが、何一つ偽りなく答えた一刀の喉に女性は遠慮なく針を突き刺した。深さは約5ミリほど。小さな痛みと共に血が出るが、刺されたという事実に一刀の背筋は凍った。死んだかも、という感覚が後からやってきた。生きてることを実感するとそれ以上に全身に汗が沸いてくる。

「嘘を言わないでください。その剣の持ち主は、男が死ぬほど嫌いなはずです。貴方が男性であるのなら、持ち主から剣を貰ったなど考えられません」
「い、いや、嘘じゃありません。俺は確かに、その女の子から剣を貰ったんです!」
「じゃあ、その女の子の特徴を詳細に述べてください」
「猫耳頭巾を被った背の低い吊り目の女の子でした!」
「その少女に不埒なことをして剣を奪ったと?」

 今度こそ本気で刺してきそうだと確信した一刀は、全てを話すしかないと直感し、覚えている限りのことを全て話し始めた。荀彧との出会いから、荀家での生活。特に荀彧がどんな少女で何を言われた、何をされたかなど事細かに話して聞かせた。素面であれば恥ずかしくで地面を転がるようなことまで口にしたせいで、一緒についてきた男など、仲間が刃物で脅されているのも忘れてニヤニヤし始めていたが、それを気にするような余裕すら一刀にはなかった。

「……そういう訳でその女の子の家を出る時に、俺はこの剣を貰ったのです」
「わかりました。では、これが最後の質問です。貴方にその剣をくれた、その女の子の名前は?」
「それは答えられません」

 今までの狼狽が嘘のように、一刀ははっきりとそう答えた。女性の腕に力が篭る。

「言わなければ、殺しますよ?」
「死んでも言わない。貴女の素性がはっきりとしない限り、あいつのことは話せない。貴方があいつの害にならないなんて、誰が言えるんだ?」
「……いいでしょう。貴方のことを信じます」
 
 針をその場に落とし、女性は跪いて頭を下げた。

「無礼をいたしました。この身についてはご随意に」
「いや、別に良いんですけどね……」

 少なくとも、この女性が荀彧の関係者で彼女のことを好いていて、それなりに人格者であるらしいということは分かった。解放する分には問題ないだろう。手柄がどうとかいう話は、何だかもう面倒くさくなってきた。命を盾に脅された後には、全てのことはどうでも良く思えてくる。

「鍵、ありますか?」
「いいのか?」
「あー、何かもういいんじゃないっすかね」

 投げやりな一刀の態度に、男は特に突っ込むことはなかった。牢の鍵を外し、女を外に連れ出す。とりあえず医者の所に連れて行くと言い残して連れられていく際、

「私のことについてはいずれ。改めてうかがわせていただきます」

 名も知らない女性はそういい残して去っていった。その背を見送りながら、剣を拾い上げて鞘に納める。

 この剣一つで何だかどっと疲れたが、休む訳にはいかない。

 仕事はまだまだ腐るほどあるのだ。

 
 










 








「どうしたもんかな……」

 牢の一件から三日後、一刀は自分の執務室として割り当てられた民家で途方に暮れていた。

 時刻は夜。復興作業は一時中断され、警邏の仕事がある人間以外は街に繰り出すか床についている時間に一刀の周囲には三人の軍師が勢ぞろいしていた。子分の子義は、難しい話がされると直感し姿を消している。

 直感の鋭い少年であるが、今日はそれが抜群に冴えていたらしい。彼女らと過ごすようになった随分時間が経ったように思うが、今日のこれはとびきり深刻な問題だったからだ。

「どうしたもこうしたもありません。これは天の与えた好機。貴殿はこれを、自ら活かすべきです」

 そう主張するのは奉孝だ。眼鏡の奥の切れ長の目を細めて詰め寄る彼女はいつも以上にぴりぴりとした雰囲気を纏っていた。視線の先には、机の上に投げ出された物がある。

 井戸さらいの中で子義が見つけてきたものだ。土で汚れてはいるが、拵えは上品な布袋に収められた『それ』がこの状況の原因だった。中身は皆で確めた。

 伝国の玉璽である。真贋の判断はつかなかったが、材質から本物だろうと結論付けた。皇帝が書類の決裁などに用いる、始皇帝の時代から伝えられる、国宝の一つである。

 これを持つものが天子たる資格を有するとか。要するに、権威付けのアイテムの一つだろうというのが一刀の認識であったのだが、これの扱いを巡って軍師の意見は割れてしまった。

「それは不味いと思いますけどねー。今のお兄さんにコレが扱いきれるとは思えません。それならこれを売り渡して、先立つものを確保する方が良いと思うのですがー」

 間延びした声で淡々と語るのは仲徳だ。玉璽を自ら運用すべしという奉孝とは逆に、さっさとこれを手放すべきと主張している。

 どちらも、正しいとして譲らないのだ。お互いに自分の論理を展開しては、思い出したようにこちらに話を振って来る。展望の話については高度すぎてついていけないため生返事を返すしかないのだが、普段であれば説教の一つも飛んでくるそんな態度も気にならないほど議論は白熱していた。

 置いてきぼりを食らっている感が否めない。軍師だけれど話に乗り遅れた士元と一緒に、言い争いを続ける二人を呆然と眺める作業にはそろそろ飽きてきた。

「結論、でるのかな……」
「さぁ、私にはちょっと……」

 手持ち無沙汰だった士元は今、一刀の近くに佇んでいる。思春の真名の件で距離を置かれていたが、いつの間にかそれもなくなったようだ。顔を見る度に顔を背けて頬を膨らませる士元は、その小さな体格も相まって非常に可愛らしく、頬をつついて遊ぶのがそれはそれは楽しかったのだが……仲が修復されたのならば、それに勝ることはない。惜しいことなど何もないのだ。

「士元はどう思う?」
「私は暫く温存して、一刀さんが自分で使うのが良いと思います。今から使うというのは、あまり良い方法だとは思いません」
「でも、奉孝がそう主張してるってことは、あいつには上手く使う算段があるってことでもあるんだよな」

 それが簡単か難しいかは別にして、奉孝がそう主張する以上それは可能なことなのだろう。天子の証たるものを使えば、一気に勢力を拡大できるし、何より大義名分がつく。今後を大陸に覇を唱えるならそれも良いように思えるが、今の自分についてくる兵はほとんどいない。玉璽を使うタイミングを誤ればそれこそ一瞬に、舞台からの退場を迫られるだろう。

 奉孝の方法は実に綱渡りに思えるが、奉孝ならばそれを舵取りできるようにも思う。

 どちらが良いかというのは自分が結論を出さなければいけない問題なのだろうが、それにはまず軍師が結論を纏めてくれないことには話もできない。エキサイトしている二人に、割ってはいることはできそうにない。もう夜も遅いのだが、議論はまだまだ続きそうだった。

 明日も仕事がある身としてはもうそろそろ終わりにしたいのだが、この争いに割ってはいる勇気を一刀は持ち合わせていなかった。

 誰か救いの神でも現れてくれないものか。そう思い続けて二時間少々、神はいまだに現れてくれない。いい加減待つのにも飽きてきた一刀は、何となく腕を伸ばして士元の帽子を取り上げてみた。

 あー、と士元が小さく声をあげて帽子を取り返そうと身を乗り出してくる。その小さな手の届かないよう、腕を伸ばして高く掲げて見せた。飛び上がれば届くかもしれない。そんな距離であるから、士元はぴょんぴょん飛び跳ねて限界まで手を伸ばす。目の前でひらひらと揺れるスカートが地味に楽しい。これを続けていると癖になりそうだ。

 適当な所で帽子を士元の頭に戻し、腰を抱え上げて膝の上に乗せる。士元は悲鳴を挙げそうになったが、一刀が唇に指をあててしー、と口を鳴らすと途端に静かになった。その代わり、顔は耳まで真っ赤である。

 言い合いをしている二人に気づかれたくないのか、士元は息を殺すようにしてじっとしている。

 今なら、何をしても許されるのではないか。そんな邪悪な考えが一刀の中に沸きあがる。

 そっと、お腹に手を伸ばしてみた。身体を抱え込むようにして抱き、指で擦るようにしてお腹を突付く。ひゃ、と空気が漏れるよな声をあげる士元だったが、逃げたりはしない。何かの使命感にでも駆られているのか、ここで耐えることが自分の仕事とでも言うように目を固く閉じて一刀からの行為に耐えているのである

 それに調子に乗った一刀は、より一層士元のお腹を撫で回した。身体は小さいだけあってどちらかと言うと痩せぎすな士元であるが、さすがに女の子。お腹周りは実にぷにぷにしていて気持ちが良い。突付いて見ても撫でてみても手触りが良く、これならいつまでも触っていたいと思えるほどだった。

 たっぷり服の上から堪能した後、ふと服をまくって直接触りたいという思いに駆られる一刀だったが、今更ながら『そこまでしていいのか』と思い逡巡する。

 そもそも、今の時点でもセクハラではないのか。

 いや、相手が嫌がっているのならばともかく今の士元は恥ずかしがっているだけで嫌がっているようには見えない。というのも、加害者側からの勝手な言い分のように思える。士元の性格なら、嫌だと思ってもすぐには言い出せないだろう。直接顔を見てということにならば尚更である。

 士元はもう声を出さないことに一生懸命で、こちらを見る余裕すらない。そんな風に頑張っている士元を見ると自分が最低の人間のような気がしてきて心が萎えかけるが、士元のお腹はとても気持ちが良かった。

 触っているのもお腹であるし、ギリギリセーフなのではあるまいか。別におっぱいに触れたりスカートの中に手を突っ込んだりしている訳ではない。これが奉孝を相手にしているならばお腹であっても犯罪臭が凄まじいが、士元は知識はともかくとして見た目は幼い。客観的に見れば兄妹が戯れているように見えなくもないだろう。

 だからこれはセーフ、セーフなのだ……

 もはや自己弁護なのか客観的な分析なのかすら分からなくなってきたが、それでも一刀は士元を手放さなかった。でも、お腹を触るのはほどほどにする。地獄から脱出できたことに士元は溜息を漏らしたが、それをどこか不満そうに感じるのは男の勝手な思い込みだろうか。


 その可愛らしい反応に満足しつつ、帽子の上から士元の頭に顎を載せる。

 これほどいちゃいちゃしても、二人の軍師の討論は終わることはない。これは徹夜になるかな、と一刀が覚悟を固めた矢先、小屋の扉は叩かれた。

 瞬間、二人の言い争いがぴたりと止まる。自分たちのこれからについて大事な案件であるが、その中心には玉璽がある。これを北郷一刀が持っているということを誰かに知られるのは如何にも不味い。視線で玉璽を隠すように指示すると同時に、膝の上に据わっている士元が目に入った奉孝はそのまま怒鳴ろうとしたが、客人の前でそれは不味いと重い留めた。

 それでも頭に上った血はどうすることもできず、行き場を失った感情は鼻血として表れた。ああ、と慌てながら血をどうにかする物を探す奉孝を他所に、仲徳は人形のような愛らしい顔に薄い笑みを浮かべている。

 これが氷のような視線であれば畏まるばかりだったが、その視線には生暖かい物を感じた。次は自分の番だと言っているのが、聞こえるようだ。

「どうぞ」

 一刀が告げると同時に士元は膝から飛び降りた。そのまま距離を置こうとして転んでしまうのを、手を差し伸べて助ける。ありがとうございましたっ、と言いつつ飛び退る士元は、いつになく俊敏な動きをしていた。そのまま部屋の隅でこちらを伺いながら、ぷるぷると震えるその姿はウサギのようでかわいらしい。

「失礼します」

 そんなカオスな部屋の中と関係なく、訪問者は扉をあけた。

 部屋に入ってくると彼女は部屋をぐるりと見回す。鼻血と格闘している奉孝と、微笑む仲徳。部屋の中で縮こまっている士元に、ただ突っ立っているだけの一刀。何も知らない人間がみたら、一体どう思うのか……

 体面を気にするならば言い訳でもした方が良いのだろうが、良い知恵が浮かばない。そういう誤魔化しは奉孝の役目なのだが、彼女は今鼻血と格闘していて忙しい。士元はテンパっているし、仲徳は協力してくれそうにないどころか、何か言わせたら余計に状況をかき回しそうな気さえする。

 自分で何とかするしかない。一刀はない知恵をめぐらし、しかし、一瞬で結論を下した。

「ようこそお越しくださいました」

 即ち、なかったことにする。こちらから触れなければ相手は触れてこないだろう。今のこの状況を見てどう思うかまでは干渉できないが、そこまでは知ったことではない。どうせ呂布を退けたという、分不相応な噂で困ったばかりだ。これに何が加わったところで、怖い物は何もない。

「夜分に恐れ入ります」

 そう言って、女性は静かに頭を下げた。その仕草一つが恐ろしいまでに様になっている。歩き方、頭の下げ方まで洗練された、明らかに自分とは住む世界の違う人間の雰囲気に、一刀だけでなくその場の全員が姿勢を正した。

 頭を上げた女性はそんな面々を見渡し、にこやかに微笑んだ。その微笑すら、今まで見たどんな人間よりも高貴な物を抱かせる。

 身長はそれほどでもない。奉孝よりも少し小さいくらいだろう。当然、自分よりも小さい。足が悪いのか杖をついているが、背筋そのものはしゃんと伸びていた。元々足が悪いのではなく、何かの事情で足を悪くしているようだ。裾を地面に引き摺るくらいの長衣を着こんでおり指先と首から上以外の肌は全く見えない。緩い癖のついた髪は肩口を過ぎた辺りで切り揃えられており、フードのような頭巾の上に広がっている。

 青い瞳はたれ気味で顔立ちは優しい。十人の男に問えば、十人が美人と答える顔立ちだろう。これでボリュームがあればパーフェクトだったのだろうが、そこは残念ながら贔屓目に見ても普通以下だった。

 ぺったんことまではいかないものの、膨らみがあると辛うじて分かる程度のものである。

 しかし、それを残念とは思わせない雰囲気があった。スレンダー美人とでも言えば良いのだろうか。女性っぽい身体つきをしていないことを、マイナスに思わせない、そんな雰囲気が女性にはあった。

 その柔和な微笑みに、一刀の記憶が刺激される。この瞳を、つい最近どこかで見たような……

 思考に結論が出ない内に、女性は解答を口にする。

「先日は、お世話になりました」

 その言葉に、目の前の女性が牢の囚人だったことに思い至る。それでも、あの時の汚い格好をしてた女性と目の前の美人が結びつかない。

 当然、三軍師は彼女のことを知らない。大したことではないと思っていたので、報告もしていなかったのだ。一刀にとっては再会であるが三軍師にとっては突然の来訪で、しかも一刀の知りあいであるという。女性の言葉からその事実を理解した三軍師は『またか……』という顔で一刀に視線を送ってきた。

 何も悪いことはしていないはずなのだが、この後ろめたい気持ちはなんだろうか。

「どうやってこの場所を?」
「身分と名前を名乗られたではありませんか。それを覚えておりましたので、人に聞いてこちらまで」
「そうですか……あー」

 女性の名を呼ぼうとして、それを知らないことに思い至った。牢の中で相当会話したような気分になっていたが、思い返してみればあれは自分が一方的に喋っていただけだった。

 こちらが名前を知らないということは、その態度だけで伝わったらしく女性はたおやかに微笑むと、優雅に腰を折った。

「改めまして。私は荀攸、字を公達と申します。以降、お見知りおきを」


















 肩を怒らせながら荀彧は夜の洛陽を歩いていた。共周りはなく一人である。時の人曹操の筆頭軍師にしては無用心にも程がある行動だったが、これには一人にならなければならない理由があった。

 行く先は孫策軍の陣営である。曹操軍に所属する荀彧には、聊か足を踏み入れ難い場所だ。無論、公的な用事があるのならば誰憚ることはない。主の命令であれば、どんな場所にでも行く覚悟が荀彧にはあった。
 
 しかし、今回は全くの私事である。

 しかも、理由はどうあれ男を尋ねるのだ。これが噂で広まったら荀彧の人生はお終いである。身命を主に捧げたというのによりによって男に懸想したと勘違いされたら、死んでも死に切れない。

 これがバレたらそれこそ破滅である。ならば最初から堂々と行った方が安全だったと今更にして思うのだが、男に会いに行きますと口にすることは、死んでもできなかった。

 どうあっても、隠れていくしかないのである。道を行きながら、荀彧は羞恥と怒りで顔を真っ赤に染めていた。

 どうして自分がこんな思いをしなければならないのか。

 それもこれもあの精液男のせいである。あの男があの時、さっさとこちらに来ると言っていればここまで手間をかけなくても済んだはずなのだ。郭嘉の邪魔があったとは言えあの時に決着がついていれば、間男のように人目を忍んで夜道を歩くこともなかったのに。

 考えていたら、また怒りが湧いてきた。

 口を酸っぱくして何度も言ったのだ。お前の腕は大したことないから戦には出るなと。氾水関の前では平手打ちまでして説教したのに氾水関では撤退の遅れた味方を援護して孤立しかけ、虎牢関では隊長である甘寧を守るためにあの飛将軍呂布の前に身を投げ出したという。正気の沙汰ではない。いや、頭がおかしいとしか思えない。

 自分の力量が解っていない訳ではないだろう。実家にいた時からあの男は愚かではあったが、無知でも無能でもなかった。物事を理解するだけの最低限の知恵は持ち合わせていたのだ。

 だからこそ、再会した時には小間使いに取り立ててやろうと思ったし、今もそのために歩いているのである。

 何であんな男のために、というもう何度目か知れない疑問が荀彧の頭に湧くが、その疑問にも結論は出ていた。

 どうしようもなく愚かで精液男であるが、あの男が命の恩人であることに変わりはない。忌々しいことに実家での覚えも良いし、引き上げる機会があったのに袖にしたと実家に伝われば、それこそ実家から何を言われるか分かったものではない。

 機会があれば続けるつもりではあるが、これが最後の機会となるだろうことは荀彧にも察しがついていた。お互い洛陽から去ることになれば、これが今生の別れとなることだって考えられる。こちらが連絡を取ろうと努力しても、あの馬鹿が戦場に出ることをやめなければ、そのまま死に別れということもないではない。

 今日は何が何でも、話に決着をつける。郭嘉や他の連中がいるだろうが、そんなものは知らない。敵方を論破できなくて何が軍師か。

 意気込んでいるうちに、目的の場所についてしまった。中からは女の声が聞こえる。

 時刻は一応、深夜である。あの精液男のことであるから、そういうコトに及んでいることもあるだろうが……と思い至って、荀彧の動きが鈍いものになった。

 別に一刀がどういう女と付き合って孕ませようが知ったことではないが、好き好んでその現場に踏み入ろうとは思わない。

 目にしてしまったら目が腐り落ちるかもしれない。そうなってからでは遅いと、扉に耳をあてて中の様子を伺ってみる。男の声に、女の声が四つ。男は当然一刀であるが、女の声は誰だろうか。

 一刀とつるんでいる軍師は三人であることは調べがついている。以前言い合った『神算の士』、鼻血軍師の郭嘉とその友人である程昱。それから名門水鏡女学院の卒業生『鳳雛』の鳳統。いずれも傑物と名高く、引く手数多の人間だった。

 それがどういう経緯であの男とつるんでいるのか。同じ軍師として興味がないではないが、それは今はどうでも良い。問題はもう一人の声である。一刀とて、いつも四人でいるとは限るまい。誰かが欠けることだってあるだろうし、逆に誰かが加わることだってあるはずだ。

 誰とつるもうと関係はない。そのはずなのだが……いつもの怒りとは全く逆の、言い様のない不安が荀彧の心を支配しているのである。

 どうにも、最後の声を聞いたことがあるような気がしてならないのだ。

 それも、良く知っていて、できれば係わり合いになりたくないような、そんな声。

 それは誰だと考えて……脳裏に思い浮かんだ相手は一人しかいなかった。ここは洛陽である。奴が現れてもおかしくはない――

 もはや躊躇うだけの時間も惜しい。誰何の声をかけることなく、荀彧は扉を開け放った。無礼は承知であるが、事は一刻を争うのだ。手遅れになってからでは何もかもが遅い。口にされては不味いことを、あの女は色々と知りすぎている。

「あら、お久し振り」

 こちらの顔を見て、その女はたおやかに微笑んだ。純粋にこちらとの再会を嬉しく思っている、表裏のない笑顔だ。

 それがまた癪に障る。突然の登場に呆然としている一刀や三人の軍師を他所に、部屋を横切って女の腕を取る。そのまま外に連れ出そうとしたが、これには女も抵抗した。苛立ちながら視線を向けると、女は顔に困惑の色を浮かべていた。。

 まずは事情を話せと、視線で言っている。

 その顔に頭に血が上った荀彧は一切合財をぶちまけてやろうと口を開きかけるが、最初の一語を発するより先に脳裏に閃くものがあった。女の目を見る。自分を真っ直ぐに見つめている目には、困惑も逡巡もない。何一つ予定から外れたことはないとでも言いたげなその瞳に荀彧は自分が乗せられていることに気づいた。

 急速に頭が冷えていく。大きく溜息をついて身体の中の熱を追い出すと、荀彧は改めて女の腕を引っ張り退出を促した。

 女が苦笑を浮かべる。初めて予定が狂ったとでも言いたげなその顔に、荀彧は軽い満足を覚えた。部屋の中に視線を向けると、一刀が何か言いたげな顔をしているのが見えた。

 その顔を見て、逆に荀彧は言葉をかけることをやめた。自分から言い出すのはやはり間違っている。どれだけ分不相応な場所であったとしても、この男は自分で決めてそこに立っているのだ。

 それを邪魔するような権利が自分にないとは言わないが、無理に連れ出すのは美しいことではない。かじりついてでもこの男を孫策陣営から引き抜くことは、それこそ、自分も名誉を犠牲にするだけの理由が必要になるだろう。

 一刀の評価は最初に比べれば上がったろうが、陣営の壁を越えてまで引き抜く理由にはならない。重く用いるのならばそれでも角は立つまいが、他の三人ならばともかく一刀は精々現状維持か小間使いに格下げである。

 頭の緩い一刀はそれでも納得するかもしれないが、これに孫策や周瑜が難色を示すのは目に見えている。それを論破してこその軍師であるが……それも今はもういい。

 今度は女も抵抗しなかった。一刀達に短い別れの挨拶を済ませ、荀彧に従って部屋を出る。こつこつという女の杖を突く音が夜道に響く。

「足、悪いの?」
「二年ほど牢にいたからちょっと弱っているの。しばらくすれば問題なく回復するって、お医者様も言っているわ」
「そう……牢!?」

 聞き捨てならない単語に思わず声を荒げて聞き返すが、女は涼しい顔だ。

「牢よ。ちょっと権力闘争で下手を打って二年ほど幽閉されていたの。それを助けてくれたのが一刀さんだったのよ」
「初めて知ったわ……お母様はこのこと知っているの?」
「私から知らせたことはないけれど、察しはついてると思いますよ」

 実家に引き下がってはいるが、智の荀家を担う人間である。世の情勢には目を光らせているし、智者の情報、特に一族の人間の安否については念入りに情報収集しているだろう。中でもこの女は洛陽で宮仕えをしていた。政争の援護はできなくとも、牢に入れられたとなれば彼女の耳に入らないはずはない。

 そんな中自分に話が回ってこなかったことに納得がいかなかった荀彧は、歩きながら女から事情を聞きだす。幽閉された牢が秘匿されたものであり、関係者のみがその存在を知っていたこと。牢を管理する人間も管理せよという指示しか受けておらず、その背後にいたのが十常侍ということも知らなかったこと。おかげで彼らが失脚し収監する意味もないのに牢に捕らわれ続けていたこと等々。

 不幸な出来事が重なった人生だった。本当に一刀に発見されなければ、今でも牢に捕らわれたままだったろう。軍師としての女は掛け値なしの優秀な人物だったが、政争に負けるというのはこういうことなのだと思い知る話だった。

 自分に関係ないことだと言い切ることはできない。今は曹操軍の筆頭軍師を実力で勝ち取っているが、それを蹴落とそうとする人間だって出てくるかもしれない。明日は我が身と思うと、軽々に女を扱うこともできなかった。

「でも、復帰できたのなら良かったじゃない」
「ええ。でも陛下にはしばらく療養しなさいって言われてしまったけど」
「そう言えばあんた、陛下の教師だったのよね。私はお会いしたことないけど、どんな方なの?」
「聡明な方よ。こんな時代でなければ、名君として歴史に名を残していたかもしれないわ」

 皇帝陛下のことを語る女には、喜色が浮かんでいた。言葉の一つ一つに主に対する愛情が感じられる。優秀であることを喜ぶ以上に、その陛下に対して忠誠を誓っているのだろう。荀家の人間はどうも同性に大きな愛情を抱く傾向があるが、この女もその例に漏れないようだった。

「機会があったら、桂花ちゃんのことも紹介するわね」
「そうね。機会があったらね」

 帝室との関係は作っておくに越したことはないというのが荀彧の考えであるが、主は独力での大陸制覇を考えている。諸侯との同盟ですら躊躇いがちであるのに、いまや権威しか持たない帝室では首を縦には振らない可能性が高い。皇帝陛下が優秀であるというのならば尚更だ。大きな権威が力を持つようになれば、いずれ大きな敵になることだろう。

 主は強大な敵を自ら打ち倒すことに喜びを見出す人間であるが、態々英雄の芽に水を与えるほどに酔狂でもない。気のない返事は余計なことをするな、という釘刺しの意味もある。

「それはそうと私の方こそ驚いたわ。桂花ちゃんが男性にときめいてるなんて」
「ちょっと待ちなさいよ! どこからそんな話が出てくるって言うの!?」
「だって、私の上げた剣を彼に餞別であげたんでしょう? 男性と話をするのも嫌がってた桂花ちゃんが、家庭教師までしたって聞くし、これはもしかしたらもしかするかもって考えるのも、仕方のないことだと思うの」

 まるで実家の女中や母のような論理に、荀彧は髪を掻き毟って唸り声をあげた。この手の誤解は曹操軍に就職してからは無縁のものだったはずだが、郭嘉とやりあって以来、噂として荀彧に付きまとっている。鼻血の印象のせいで切っ掛けを覚えている人間は少ないが、主をはじめ、多くの人間が諍いの原因が一人の百人隊長であることを記憶していた。

 曹操軍では男嫌いということで通している。内外にそれは知れ渡っているため、曹操軍の中であっても声をかけてくる男性は皆無に近い。そんな人間が男を間に挟んで、他の勢力の軍師と言い合いをしたのだから、話題に上らないはずはない。

 口さがない噂だって、何度握り潰したか知れない。言葉にした以上の意味はなく、含むところもないのだから下種な勘ぐりをされるのは迷惑以外の何ものでもないのだが、身から出た錆であるため誰に当たることもできない。主が生暖かい視線を向けてこないのが唯一の救いではあるが、それが配慮されてのことだとしたら死にたくもなる。

 一刀のことは、荀彧にとってできる限り表には出したくないことなのである。こっそりと一人でここにきたのもその一環であるし、引き抜きが成功していたらさっさと処理を済ませて、人の話題にも上らないようにする手はずだったのだ。

 それもこれも、こういう話を誰かとしないための配慮だったというのに……この女はあっさりと、それを最悪の形で踏み越えてきた。

「やめてよ気持ち悪い。あんな精液男とは何もないわ」
「ないの?」
「ないに決まってるでしょ!?」
「天邪鬼な桂花ちゃんの言葉だから信じ難いのだけど……でも、今回は信じることにするわね。話してみたけど、あちらも桂花ちゃんの良い人というには、ちょっと距離を感じたもの」
「……あの男と何を話したの?」

 ときめいたりはしていないが、距離があるという表現にはひっかかりを覚えた。こちらが遠ざけるのは良いが、あちらが遠ざかるのには抵抗があった。食いついてきた荀彧に女はにやにやと厭らしい笑みを浮かべるが、それには取り合わない。

「大したことは話してないわ。助けてもらったお礼と、近況報告。困ったことがあったら頼ってくださいねというお願いをして、後は桂花ちゃんについてあることないこと話そうとしたところで、桂花ちゃんがきたのよ」
「どうしてあんたはそういう余計なことを……」

 まさか嘘八百を並べ立てることもなかろうが、面白可笑しく脚色して話すくらいは、この女ならやりかなない。知られて困るようなことは何一つないものの、それをあの男の耳に入れるのは虫唾が走った。話す前に止めることができたのならば、僥倖である。

「私については何も話してないのね?」
「一つだけ。私が一刀さんと話す切っ掛けになった剣の来歴については話したわ」
「……そう」

 それもできれば耳に入れたくないことではあったが、女から貰ったアレを一刀に贈ると決めたのは自分である。後ろめたさも少しはあるから、強く言い返すこともできない。

「あと、銘を知らないみたいだったから教えてきたの。一刀さんに伝えられたのは、誓ってそれだけよ」
「銘なんてあったの?」

 手渡された時にはそんなことを知らされもしなかった。あの剣について知っているのは、女が大枚を叩いて洛陽一の鍛冶師に『とにかく頑丈で折れない剣を』と注文を出したということだけである。そのせいで女性が持つには無骨で飾り気のない剣になってしまったが、元来剣に興味のない荀彧には、それも気にならないことだった。

 それ以上のことは実家の人間も知らないだろう。使っていれば剣を分解して知ることもあったろうが、剣を持ち歩くということを考えもしなかったから実家の蔵に死蔵していたし、蔵から出たらそれは一刀の手に渡ってしまった。

 こうしてこの女が言い出さなければ知る機会もなかっただろう。既に自分のものではなくあの男のものだが、興味がないと言えば嘘になる。

「あの剣は『銀木犀』よ。桂花ちゃんにちなんだ名前にしたの。そんな剣が一刀さんの近くにあるんだから、私も嬉しいわ」
「気持ち悪いこと言わないでよ……」

 想像するだに気持ち悪いことであるが、あの剣は既に一刀のものである。今更どうこうすることはできないし物にまで文句を言っていたらキリがない。あの剣――銀木犀については気にしないことにして、荀彧は歩みを進めた。

 既に岐路である。曹操陣営に帰らなければならない荀彧はここで左に折れなければならない。記憶にある限り、この女の屋敷はこの大路をこのまま真っ直ぐだ。

「今日はこれでお別れね。時間があったら、手紙でもちょうだいね」
「今度幽閉される時は、誰かに助けてもらえるように配慮しておきなさいよ」

 一族の中でも傑物と名高い軍師だ。落ち目の帝室に仕えてはいるが、その知性は失われて良いものではない。曹操軍の利益に反しない限りであれば、荀彧も最大限の協力をするつもりでいた。目を逸らしながら言う荀彧に、手を合わせて嬉しそうに微笑む。

 そんな年上の姪の顔を見るのが恥ずかしくなった桂花は、努めてぶっきらぼうに別れの挨拶を口にした。


「それじゃあね、橙花。また会う時まで元気で」







明日の地主のためにその1。
今回は助走編で、次話でジャンプとなります。









[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十話 戦後処理編IN洛陽③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:54
「まったく、婆やにも困ったものだわ……」

 通りの影に隠れるようにしながら、少女は一人ごちた。大通りから少し外れた、少女が一人でいるには似つかわしくない場所である。少女本人は隠れているつもりでもその実凄く目立っており、周囲の目を集めに集めていたが、隠れたつもりになっている少女だけがそれに気づいていなかった。

 目立たないようにしながら、気息を整える。家からついてきた追っ手は今撒いてやったばかりだ。今ごろ血相を変えて辺りを探しているはずである。いずれ見つかってしまうだろうが、故あって人を多く割くことができないので、見つかるまではまだ時間がかかるだろう。

 それまでは、自由な時間だ。

 とは言え、街を一人で歩くのは初めての少女にとって、いきなり自由と言っても持て余すだけである。

 何しろ、何処にどんな店があるのかも良く知らないのだ。一人で歩いて良く分からない店に入り勝手に失礼を働いては、自分の名誉に関わる。

 そうならないために案内役が必要なのだが、その人選に少女は難儀していた。

 普段の供回りは先ほど撒いたばかりなので、案内役は現地で調達しなければならない。地元の人間であることが望ましいが、それも絶対ではなかった。求めるのは一緒にいて楽しい人間である。こちらの立場を邪推したりせず一人の少女として扱ってくれ、かつ、淑女として自分を立ててくれる。

 そんな貴族的でありながら庶民的な、できれば顔立ちの美しい男性が少女の求める人材だった。

 追っ手から逃げつつもそんな男性を探しているのだが、少女の眼鏡に適う男性はいまだに見つかっていない。

 これだけ人がいるのだから一人くらいは、と楽観していたのだが、それが甘かったのだろうか。

 もしかして高望みをしているのかも……と刻一刻と消費されていく時間を思うと不安になるが、せっかく追っ手を撒いてまで一人になったこの状況で、妥協しても楽しくはない。

 自分の意思で決めて、ここまで来たのだ。良くない結果が先に待っているとしても、自由でいられる間は絶対に妥協したくない。

 萎えそうになる気持ちを叱咤し、追っ手の目を気にしながら街を移動する少女の脇を、一人の男性が通り過ぎた。

 その瞬間、少女は振り返り、その男性の腕を掴んでいた。

 その行動に理由があった訳ではない。一番驚いていたのは、少女自身だった。腕を掴れた男性も何事かと目を丸くしている。

 手を繋いで見詰め合う男女に、周囲の視線が集まっていく。

 いつまでもこのままでいる訳にもいかない。

 この男性がどういう素性の人間かさっぱりだったが、自分の嗅覚はこの男性は『当たり』と告げていた。

 不細工ではないが、美形でもない。容姿としては中の上の域を出ないことが不満と言えば不満であるが、容姿以外の条件は満たしていそうなこの男性を逃すことはできなかった。

 生まれてからこれまで、一番緊張している自分を意識しながら、少女は口を開いた。


 











「この街に不慣れなの。案内してくださらない?」

 昼飯を食べようと一人で街を歩いていたら、いきなり腕を掴れた。

 兵士をしているとそういうこともないではない。洛陽は大都市で、そこには多くの人間がいる。覚えのない喧嘩に巻き込まれることも日常茶飯事だ。

 腕を掴れたその瞬間、また喧嘩か……と内心辟易したものだが、振り返った先にいた少女の姿を見て、一刀は目を丸くした。

 目の覚めるような美少女だった。

 仲徳や士元も相当だが、眼前の少女は更にその上を行っているような気さえする。

 年齢は士元と同じか、少し下くらいだろう。肌の全く露出しない長衣は動きやすさを考えつつも、所々に装飾品のアクセントがある。その一つを取っても、目の飛び出るような金額がかかっていそうなことが、一刀の目にも解った。

 仲徳と同じくらいの長さである黒髪は絹のようで、良く手入れされているのが解る。立ち振る舞いにも口調にも、隠しようのない気品が感じられた。

 先に知り合った公達に高貴なものを感じた一刀だったが、この少女は雰囲気はそれ以上だ。

 どこか由緒ある家の姫様か金持ちのお嬢様か。いずれにしても、そんじょそこらの庶民ではあるまい。間違ってもただの兵である自分が関わって良いような身分でないのは一目で解ったが……何がどうなっているのか、少女は自分に案内をせよと言っている。

 これが人生のモテ期という奴かしら……と内心で冗談も言ってみるが、世の中そんなに甘酸っぱくはない。

「一人?」

 一刀の問いに、少女はこくりと頷いた。

 これに一刀は疑問を抱く。

 少女が高貴な身分であるのなら、一人で出歩いているはずはない。戦争も一応の決着を見せたとは言えまだまだ物騒な世の中だ。こんな人の多い場所を歩くのなら、護衛の一人や二人はいないと絶対に可笑しい。

 少女の行動に配慮しているのかと辺りを見回してみるが、護衛らしい影はない。

 尤も、その護衛が思春クラスの実力者であれば自分に感知できるはずもないが、護衛する立場からすれば今の自分は不審者も不審者である。そんな自分が排除されないということは、きっと護衛はいないのだろう。

 すると今度は『護衛はどこにいったのか』という疑問が湧き上がってくる。

 一番最初に思いついたのは、眼前の少女が護衛を撒いてきたという可能性だ。高貴な雰囲気を漂わせているが、お転婆な感じもひしひしと伝わってくる。

 兵士としての感性では、この少女に付き合うべきではないと感じている。付き合うふりをして少女を探しているだろう護衛の方々に引渡し、何事もなく昼食を取って通常の業務に戻る。それがデキる兵士の過ごし方というものだろう。

 しかし、困っている美少女の面倒を見てあげたいというのも、男として当然の感性だと思うのだ。

 きっと自分が断れば、違う人間を探して声をかけるのだろう。

 それを想像すると、そんなことをさせてなるものか! という気分になった。男というのは正直な生き物である。

「俺はこれから昼飯なんだけど、一緒にどう?」
「むしろ望むところよ。私、一度街で食事をしてみたかったの」

 一刀の誘いに、少女は二つ返事でOKを出した。

 お嬢様に貧乏人の食事など口に合うのか心配だったが、少なくとも少女は乗り気のようだ。同行にOKを出してもらったことで、一刀の今日の食事は少しだけグレードがあがった。場末の食堂で一番安いメニューを頼むつもりだったが、いくら少女が乗り気とは言え、甘寧直属隊御用達の店に行くのは気が引けた。

 少女に人目は不味かろうという配慮もあったが、何より今は知り合いに会いたくない。

 先日、公達を助けた件で奉孝達には目をつけられているのだ。この少女をエスコートすることに疚しいことなど一つもないが、喧嘩する原因になりそうなことを排除しておくに越したことはない。

 幸い、口が固そうで軽い子義も今はお使いで席を外している。

 完全に、少女と二人きりの状況だった。

「じゃあ行こうか。少し人ごみの中を歩くから、はぐれないようにね」

 だから手を繋いでいこうと、手を差し出したつもりだったのだが……少女は差し出された手を、不思議そうに見つめるばかりだった。握ろうともしないし、かと言って拒絶しているようにも見えない。

 手を差し出したまま固まる一刀と、それを見ているだけの少女。傍から見ると実にシュールな光景だった。

「……私はこの手をどうした良いの?」
「はぐれるといけないから、手をつながないか?」

 いや、別に嫌なら良いんだけども、と補足することも忘れない。初手をスルーされたことで、地味にナイーブになっている一刀である。その焦りが伝わったのか、少女の顔にからかうような笑みが浮かぶ。

 孫策が士元をからかう時のようなその表情に、手を差し出したまま僅かに身を引いてしまう。

 そんな一刀を追いかけて、少女はそっと手を握ってきた。見た目の通り柔らかい手だったが、微かに固さも感じる。剣か拳か、何か武術を嗜んでいる手だ。

「武術も淑女の嗜みなのよ」

 疑問が伝わったのか、少女が笑みと共に教えてくれる。気を使われたようで、少し恥ずかしい。

「そう言えば自己紹介がまだだった。俺は北郷一刀。北郷が姓で名前が一刀。字はない」
「私は劉姫よ。字は伯和。よろしくね、一刀くん」

 小学校でも行き違いになりそうなほどに年の離れた少女に『一刀くん』と呼ばれるのがこそばゆかった。こちらの世界に来てからは初めてかもしれない。

 初めてが年下の美少女というのは良いことなのか悪いことなのか分からないが、少女を上に置くことに違和感はなく、くん付けで呼ばれても不快な感じはしなかった。


 伯和の手を引いたまま、道を行く。相変わらず人は多いが、やってきた時に比べると治安も良くなった。二つの関と異なり、戦火に巻き込まれたのは最終戦、それも門の付近だけ。その復興も終わりつつある今、洛陽の街は戦前の姿を取り戻そうとしている。
 
 一つの戦が終わり、次の戦のための準備が始まろうとしていた。

 各軍の上層部は今、此度の戦の論功行賞について話し合っている。得られるものは当初の予定よりも遥かに少なくなったが、董卓を洛陽から追い出したことで、宙ぶらりんになった利権がいくつかある。その分配が済み次第、各軍は撤収、領地へと戻ることになるだろう。

 身の振り方を考えなければならないのは、一刀も一緒である。

 この戦の間だけという契約ではあったが、孫策が何か手を打ってくるというのは目に見えていた。思春も言葉では好きにしろと言っているが、一刀は残るものとして話を進めている雰囲気がある。

 仲間として認められているのだと思うと嬉しい限りだが、奉孝たちのことを考えると独立の思いを捨てることもできなかった。

 彼女達の知恵に見合うよう一生懸命に戦ったつもりだったが、それが今、彼女達を苦しめることになっている。

 世の中難しいものだ。

「ここにしようと思う」

 一刀が足を止めたのは、大衆食堂だった。

 当初食事をする予定だった屋台よりは値段が張るが、適度に清潔感に溢れているし客層も大人しい。何より同じ部隊の人間と顔を合わせる可能性が低いというのが、選んだ理由だ。

「へえ……一刀くんは普段、こういうところで食事をしているのね」
「まあね。あぁ、足元に気をつけて」

 伯和の手を引いて店内に入る。

 昼時ということもあって、店内は賑わっていた。兵士に大工に商人にその他諸々。立場の偉そうな人間は一人もいない。まさに庶民のための庶民の食堂だった。

 そんな中、突然現れた育ちの良さそうな美少女に、皆が目を奪われる。

 それでたじろぎもすれば騒ぎになったのだろうが、肝が据わっているのか、男たちの無遠慮な視線に晒されても伯和は全く動じなかった。
 男たちはそれで、大きな興味を失ったようだった。何しろ美少女であるから視線を集めはするが、どういう人間なのかという興味は失ったようである。

 彼らは再び働くエネルギーを得るために食事をしているのであって、食事そのものを楽しみにきているのではない。自分に関係のないことに関わっているような時間は、彼らにはないのだ。

「いらっしゃい。二人かい? 角の席を使っておくれ」

 給仕のおばちゃんが示したのは、ちょうど良いことに二人席だった。奥まった場所にあるので、あまり目立たない。知り合いに会わないようにと思っていた身には絶好の場所だ。

「どうぞ」

 席を引くと、当然のように伯和は腰を下ろした。ありがとう、と礼を言うことも忘れない。

 まるで自分が紳士になったようで、少しだけ気分が良くなった。

 伯和の対面の席に座ると、伯和から正位置になるようにメニューを渡す。ラインナップは前に来た時と変わっていない。冒険をしたメニューもないのは残念ではあるが、それだけに何を頼んでも外れはない。

「目移りしちゃうわね……」
「この中ではラーメンがお勧めかな」
「じゃあラーメンにするわ。一刀くんも同じもの?」
「もちろん」
「お揃いね。嬉しいわ」

 微笑む伯和を横目に見ながら、おばちゃんに注文する。

 食堂の雑多な喧騒の中、伯和を見た。場末の食堂の中にあっても、美しさが損なわれることはない。長い黒髪を指で弄りながら、面白そうに周囲を見回している。

「こういう場所、初めてなんだよな?」
「ええ。実家の食堂以外で食事をするなんて、数えるほどしかないわ」 
「連れてきた俺は責任重大だな」
「そうね。これで口にあわなかったら、終身刑にしちゃうんだから」
「それは怖いな……でも、俺が払える範囲で食った中では、ここは一番の味だよ。これで駄目なら大人しく獄に落とされるしかない」
「期待してるわよ」

 待っているうちに、ラーメンが運ばれてきた。湯気の立つラーメンに、伯和が感嘆の溜息を吐く。

 お嬢様過ぎてラーメンを知らないのか、という可能性に今更思い至ったが、いただきます、と両手を合わせた伯和は迷うことなく箸を取り、麺を啜っていく。

 実にお上品な食べ方に、思わず一刀の頬も緩む。

「私を見るのに夢中だと、麺がのびちゃううわよ」
「……いただきます」

 どうにも、この少女とは相性が悪いようだった。

「一刀くんって兵士よね?」
「そうだよ。所属は――」
「江東の孫策旗下、甘寧将軍の部隊に所属してるのよね?」
「もしかして、前に会ったことあるか?」
「貴方、有名人よ? かの飛将軍呂布に一騎打ちを挑んで退けたって。そんなに腕が立つように見えないけど、本当なの?」
「挑んでもいないし、退けてもいないよ」
「でも、あの呂布の前に立って生き残ったのは事実なんでしょう? 凄いじゃない」
「ありがとう。麺がのびるぞ」

 この話はこれで終わり、という意味を込めて食事の再開を促すと、伯和は上品ににやりと笑った。

「甘寧部隊の副官になったと聞いたけど、このまま孫策に仕えるつもりなの?」
「そういうことになるかもしれない、ってところかな。この戦の間だけって契約のはずなんだけど、どうも雲行きが怪しいんだ」
「呂布を退けた渦中の人だものね」

 まだ言うのか、と軽く睨むが伯和は何処吹く風だ。

「でも、私が孫策の立場だったとしても一刀くんを手放したりはしないと思う。それに、一刀くんから見ても悪い話じゃないはずよ? 孫策は曹操と同等の有力株だもの。袁紹が脱落しかけてる今、乗る勝ち馬としては申し分ないわ。立身出世もしやすいはずだけど、何が不満なの?」
「自分の領地を持ちたいと思ってるんだ」

 見た目に反して情報通な伯和に舌を巻きながらも、関係者でないことから一刀の口も滑らかになる。仲間の軍師が三人いること。彼女らとの目標で、自分の領地を持ちたいこと。

 そしてできるなら、天下に覇を唱えてみたいこと。

 大それた望みだとは自分でも思うが、あれだけ有能な軍師が一緒にいるのだ。せめて彼女らに見合うだけの舞台は用意してあげたいし、それに相応しい実力を持ってもみたい。

 それは一刀の切実な願いだったが、現実はそうもいかなそうなこと。

 ラーメンを食べながら、気づけば今の状況を詳細に伯和に話していた。

 全てを話し終わった後、子供にする話でもなかったかと遅まきながら伯和の顔色を伺う。伯和は真面目な顔をして思案していた。ラーメンの丼はいつの間にかスープを残して空になっている。

「元々の契約を反故にするのはあちらなのだし、お仲間の軍師も優秀みたいだから、話のもって行き方次第では孫策の下でも領主になれると思うのだけど」
「それだともっと上に行くには、いずれ孫策様を押しのけないといけないだろ? 世話になった人にそういうことをするのを前提に仕事するのは、ちょっとどうかと思うんだ」
「押しのけるだけが出世の手段じゃないと思うのだけど……本当、貴方は変な所で真面目なのね」
「他に何か手段があるような言い草だな」
「孫策は女性なんでしょう? 一刀くんの魅力で篭絡してみたらどうかしら」
「馬鹿を言うなよ……」

 そんな恐ろしいことができるはずもない。身分の差があるし、第一、自分自身が孫策に相応しいと欠片も思うことができない。

 せめて立場がもっと近ければアタックをしようと思うこともあったろうが、若干の出世を果たしたとは言え、孫策はまだまだ雲上人だ。恋愛の対象として見ることはできそうにもなかった。

「良い線行くと思うのだけど? 一刀くんってばそんなに悪い顔をしてる訳じゃないし」
「命がいくつあっても足りないよ」

 美人でスタイルも良く、女性として魅力に思うのは事実であるが、呉の人間らしく孫策も気性の激しい人間だ。狼藉を働いた賊を皆殺しにしたとか、無礼な人間を笑顔で半殺しにしたとか、そういうエピソードにも事欠かない。

 尊敬はしているし、雇ってくれたことに感謝もしているが、怖いものは怖いのだ。

 そんな後ろ向きな気持ちでは、篭絡できるものもできないだろう。

 第一、仮に上手くいくのだとしても、奉孝たちの視線が怖すぎる。色々な意味で孫策にちょっかいをかけるのは、一刀には不可能なのだった。

「つまり一刀くんに結婚の予定はないのね。その年で寂しいことだわ」
「まだまだ自分のことで手一杯だよ」
「私が子供を産める年齢になって、その時私の周りに相応しい男性がいなかったら、一刀くんをお婿さんにしてあげても良いわ」
「期待しないで待ってるよ」

 内心の動揺を悟られないように気のない返事をしたつもりだったが、伯和はそれを見透かしたような薄く微笑んでいる。

 とても、自分より年下の少女とは思えなかった。

 仲徳と言い伯和と言い、見た目が幼いのにこういう表情が似合う少女は、成長したらどんな女性になるのか。詮無い想像をすることをとめることができない一刀である。

 仲徳などは十年経ってもあのままのような気もするが……あれで胸や尻が薄いことを気にしているようなので、本人の前では決して口にはできないことである。

「私に何ができる訳じゃないけど、貴方の夢が叶うことを祈ってるわ」
「伯和にそう言ってもらえると叶いそうな気がするよ。道は険しいけど、頑張ってみる」

 女の子の食事が終わったのにいつまでも男だけ食事をしている訳にもいかない。ペースをあげてスープまで完食すると、おばちゃんに会計を済ませて店を出る。

「俺はこれから仕事に戻る。家まで戻るなら送ってくけど」
「遠慮しておくわ。私の家、ここからちょっと遠いの」
「そうか? まぁ、そう言ってくれると実はちょっと助かる。治安は良くなったけど、一人歩きには注意するんだぞ? 人の少ない路地とかに入っちゃ駄目だからな」
「分かってるわ。一刀くんは心配性なのね」
「当然のことを言ってるだけだよ」

 くすり、と伯和は笑って一刀から距離を取る。その目は一刀の肩を飛び越えて、さらにその奥を見据えていた。何か不味いものを見つけたという体で、逃げの体勢に入っている。

「名残惜しいのだけれど、また後で。機会があったらまた食事でもしましょう?」
「ああ。伯和も元気で」

 別れの挨拶もそこそこに、伯和は長衣を翻しながら駆け出していく。小さく細い身体なのに、その動きは俊敏だった。人の流れの中を縫うようにして走る伯和の姿は、すぐに見えなくなる。

 さて、仕事に戻ろうか、と振り返ると、その先にいたのは異色の一団だった。

 完全武装こそしていないが、全員が帯剣しており物々しい雰囲気である。所属を表すようなものは何一つつけていなので、誰の旗下というのはさっぱりだが、身のこなしから相当の使い手であるというのは分かった。

 壮年に差し掛かった女性を筆頭に、女性ばかり三人の集団である。特に先頭の女性の雰囲気はただものではない。完全武装こそしていないがその物腰からかなりの使い手であることが見て取れる。

 その集団は周囲の人波に目を光らせながら、速足で通りを進んでいた。

 物々しいその集団とすれ違いながら、一刀はどうして伯和が逃げたのかを理解した。

 おそらくこれが伯和の護衛集団なのだろう。少女一人に三人、それもかなり腕の立つ人間を使っているとは、思っていた以上に高貴な身分であったことが伺える。

「そんな娘にラーメンとか食べさせたのか俺……」

 喜んで見えたから良かったものの、これで伯和の趣味から外れていたらどんな処分が下されていたのか。

 まさかいきなり斬首ということはなかろうが、この時代、金持ち及び高貴な身分の人間の不興をかって命を失う人間の話など掃いて捨てるほど転がっている。自分がその中に一人にならないとは、断言できない。

 自分の首が今も繋がっていることに感謝しながら、一刀は通りを歩いていく。

 洛陽の大路は、今日も盛況だ。





言い訳的後書き

今の仕事を辞める関係でちょっとスランプ気味です。
今回は少し短めですが、次話をなるべく早くアップできるよう頑張ります。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十一話 戦後処理編IN洛陽④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58











「ついにこの日がきましたか……」

 重厚な扉を前に奉孝は一人ごちた。傍らには仲徳と士元もいる。そこには一刀に協力する軍師が勢ぞろいしていた。

 連合軍の全ての折衝が終わって数日。後はその折衝で決まったことを皇帝陛下を中継して配分するのみとなっていた。既に各軍は領地へと戻る準備を始めており、それは孫策軍も例外ではなかった。

 そしてここからが奉孝の仕事の始まりである。

 契約はしっかりと結んだつもりだった。この戦の間だけという約束を最初は孫策も守るつもりではあっただろう。

 しかし、今はそれが守られるという保障はない。自分たち軍師は手を抜かず全力で献策してきたつもりだし、一刀も思っていた以上の戦果を挙げた。挙げてしまった。

 今はどの勢力も兵と軍師を欲している。孫策が、自分たちを手放す理由はない。

 普通に考えれば孫呉は悪くない仕官先だ。両袁家を候補から除外するなら残されるのは孫策か曹操くらいしかないのだから。多くの軍師、そして兵が彼女らに仕えることを望んでいる時代に、如何に孫策から離れるかを考えている軍師は、おそらく自分だけだろう。

 大きく息を吐くと、奉孝の頭は冷えていった。

 孫呉を穏便に離れるための交渉を、これから行わなければならない。相手は当代最高の軍師と名高いあの周瑜だ。一緒に仕事をして、彼女の頭脳の冴えは嫌というほどに思い知っている。

 それに孫策。周瑜には勿論他の軍師にも大きく劣るだろうがあれで中々に弁が立つし、特に直感には目を見張るものがあった。軍師でないからと油断していたら、痛い目を見るのはこちらである。交渉相手としては恐ろしいまでに難物だ。

 しかし、これを乗り越えなければ自分たちに未来はない。主として孫策は申し分のない人間であるが、それは自分たちの望んだ主ではない。

 北郷一刀と共に。

 それが奉孝たち三人の、偽らざる願いなのである。

 全力を尽くすつもりでいるが、勝てないかもしれないという思いが奉孝の脳裏を過ぎっていた。下手に断ることになれば、命はない。手放した優秀な人間が他軍に属することになれば、それは大きな損失となる。自分たちに組しないと決定された時点で首を刎ねるということは、考えられないことではなかった。

 名声に傷がつくことを考えればそれは軽々とできることではないが、孫策がそれを選ぶかどうか、五分といったところだった。命を盾にされれば、奉孝たちはそれでお終いなのだ。

 弱小勢力である自分たちに、孫呉の武を押し返すだけの力はない。

 だから、そうされる前に何とか話を纏めなければいけないのであるが……あの二人を相手に果たしてどこまでできるのか、奉孝をしても見通しが立たなかった。

 先行きは暗いが、やらなければならない。ある種の悲壮感を持って、奉孝たちは扉の前に立っていた。

「暗い顔をしていたら、幸せが逃げていきますよ」

 いつも通り気の抜けた表情をした仲徳が隣で呟く。彼女とて緊張していない訳ではないのだろうが、その表情を見る限りそれは微塵も感じられなかった。こういう交渉の時は、本当に頼りになる存在である。

 その隣では、士元が小動物のように震えていた。

 こちらは仲徳と異なり、心情が思い切り顔に出ている。経験不足なのか元来の性質なのか、こういうところはいくらか場数を踏んでいるのに改まる様子がない。相手の気に飲まれやすいというのは、交渉事には不向きな性質である。

 これについては追々、改めていかなければと思っているが……そんな士元の姿が逆に、奉孝の心に力を与えた。

 ここで自分まで無様を晒しては、総崩れになる。こうあるべしという姿を見せられないのなら、士元の先達でいる意味もなかった。

「……そうですね。私としたことが、力が入りすぎていたようです」
「これで失敗したとしても、道が閉ざされた訳ではありませんからね。失敗したら次の機会を待つ。それくらいの気持ちでいた方が、成功するかもしれませんよ?」
「それはそれで後ろ向きする気がしますが……いえ、変に追い詰められるよりはずっと良いのかもしれませんね」

 仲徳の言葉に奉孝は笑みを浮かべる。一刀の元を出てきてから、今日、初めて見せる笑顔だった。

「では、今度こそ行きましょうか。我々の腕を、お二方に思う存分見ていただきましょう」

















「おかえり。思ってたより早かったけ……ど……」

 どんな結果になったとしても明るく迎えようと、せめて見た目くらいはと明るく気楽に奉孝たちを迎えた一刀は、彼女らの雰囲気に言葉を詰まらせた。

 どうしようもなく悲痛という訳ではなかった。一言で言うならば、彼女らの顔に浮かんでいるのは『不可解』である。奉孝も仲徳も士元も一様に訳がわからないという顔をしていた。

 何故そんな顔をしているのか分からない一刀からすれば、余計に訳が分からない。

 それでも話が悪い方向に行ってしまったという訳ではないようだった。最悪夜逃げという選択肢も頭に浮かんでいたため、そうはならなそうなことを悟った一刀は、こっそりと安堵の溜息を吐く。

「改めて、おかえり。お疲れ様、三人とも」
「ただいま戻りました。一刀殿」

 執務室、というには聊か狭い一刀の仕事部屋には、一刀が書類仕事をするための文机以外にはテーブルはない。人数分のお茶を用意した一刀は、手ずから奉孝たちに渡していく。

「それで、話はどうなった?」
「……結論から申し上げますと、我々は孫呉より離れることとなりました」
「それは良かった、ってことになるのかな。とにかく、奉孝たちの頑張りのおかげだよ。まさかあの周瑜殿に打ち勝つとは正直思ってもみなかった」
「いいえ、我々が交渉の末にそれを勝ち取ったというのではありません。この勝利は我々から見れば、偶然の産物です」

 そう言って、奉孝は一つの巻物を差し出してきた。木簡でも竹簡でもない。紙の書類である。現代ほど製紙技術が発達していないこの時代において、紙というのは貴重品だ。

 それが使われているということは、この書類がそれだけ重要なものだということである。

 そんなものを見ても良いのかと奉孝を見るが、彼女は眼鏡の奥で目を細めるばかりだった。

 それを了解の意思表示と取った一刀は巻物を受け取り、それを広げる。

「これはどういうことだ?」

 最後まできっちりと読みきった一刀の口から出てきたのは、そんな言葉だった。軍師が三人も集まって『不可解』な顔をしていたのが、今にして漸く理解できた。

 書面には、北郷一刀に領地を与えるとあった。

 何かの冗談かと思ったが、紙の巻物といい格式ばった文体と言い、一刀一人を担ぐにしては出来過ぎていた。

 だから本物、というのは早計に過ぎるというものだが、冗談で済ませるにしては奉孝たちの雰囲気も軽くはない。

「私にも良く分かりませんが、孫策殿からそれを頂戴しました。どういう内容なのかは彼女も知っていたようで、これは任命書であるということを渡す時に仰られました」

 つまり我々は、彼女らと交渉はしていません、と奉孝は自分の言葉を締めくくる。

 思っていたよりも早く奉孝たちが帰ってきたのもそれで合点がいった。

 しかし、この書類については謎が深まるばかりである。

「任命書ということは、領地を賜ったのですか?」
「そうみたいだな。此度のことに功ありと認め、領地を授けるとある」

 自分で言っていても半信半疑だ。理由として尤もらしく書いてあるが、自分のしてきたことを振り返っても、それだけで領地を貰えるようなことだったとは思えない。

「功というのは与える側が判断するものです。我々のあずかり知らない所で何かがあり、褒美が与えられるというも珍しい話ではありません」
「でも、それは上の方できっちり話がついてるのが普通ですねー。孫策様は寝耳に水と言った感じでしたし、そうなると彼女以外の誰かがお兄さんを陛下に売り込んだということになりますが」

 そんな人間に心当たりはいない。自分本人はともかく、軍師三人を手元においておきたいと考えるだろう孫策が、そんなことをするとも思えなかった。他所の軍からの工作ということも考えられなくもないが、結論を出すには材料が足りない。

 一刀の脳裏に浮かんだのは、どこぞの猫耳軍師である。

 彼女ならばどんなに迂遠な方法でもきっちりと成果の挙がるような策を行うだろうが、自分一人を孫策軍から引き抜くために周到な作戦を立てるとも思えなかった。自分一人で乗り込んできて、堂々と交渉する方が荀彧らしいというものである。

「誰がどうしたってのは後で考えよう。それよりも問題はこれからのことだ」

 書面は軍師三人の手を渡り、再び一刀のところに戻ってくる。内容については全員の知るところとなった。考えることは一つである。

「……并州楽平郡の県一つか。俺にはそれが何処にあるのかも良く分からないけど」
「星ちゃんの地元の隣の郡ですね。州区分は違いますがー」
「良いところなのかな」
「危険度で言うのならば洛陽とは桁違いに危険ですが、些細なことです。我々が良くしていけば良いだけの話なのですから」
「それはそうだけどさ」

 人間、できることとできないことがある。奉孝たちのことは良く知っているし、その能力が最高のものであることに疑いはないが、戦いが数で決まるというのもまた、真理である。

 領地を得るといってもそれは小さいものであるし、固有の兵というものは今の一刀にはほとんど存在しない。少ない勢力は大きな勢力に潰されるというのは、世の常だ。

 そんな弱小勢力である自分のところに奉孝たちのような軍師が三人もいるというのは宝の持ち腐れであると思うが、それを口にしたら、奉孝はきっと一週間は口を利いてくれないだろう。今更、彼女らが仲間であるということを疑いはしない。

「何はともあれ。これで一刀殿は小さいながら領主となりました。おめでとうございます」
「任地に着くまで油断はできないけどな。でも、ありがとう。俺がここまでこれたのは、皆のおかげだよ」
「そう言ってもらえると私としてもありがたい。そして、これは一つの節目でもあります」

 言葉を区切った奉孝は一刀から距離を取ると、その場に跪いた。仲徳、士元もそれに倣う。型どおりの臣下の礼に一刀は面食らうが、言葉を差し挟むことを許さない雰囲気が三人にはあった。

「私は郭嘉、字を奉孝、真名を稟と申します」
「私は程昱、字を仲徳、真名は風です」
「私は鳳統、字は士元、真名は雛里です」

 それは稟たちだけでなく、一刀も待ち望んでいた光景だった。

 真名を預けられたことも勿論嬉しいが、それ以上に、やっと始めることができると歓喜に震えていた。有能な軍師を日陰で腐らせること幾年月。辛い思いも惨めな思いも何度もさせてしまった。

 だがこれで、彼女たちがその智を振るうに最低限の土台を作ることができる。

 それを思うと嬉しくて仕方がなかったが、その喜びを皆に伝える前にどうしても言っておかなければならないことがあった。

「勘違いしてると困るから一応言っておくけど、俺は皆を臣下とか思ったことはないぞ。俺たちは仲間だ。ここに上下はない」
「貴殿がそう思っているのは存じていますが、対外的に序列は必要です。それにいざという時、誰の言葉が最も優先されるのか。決まっているのといないのとでは大きな違いがあります。そういう時優先されるのが貴殿と認識してくれれば良いのです」
「言ってることは分かるけどさ……」

 詭弁じゃないか、とも思うのだ。

 気持ちさえしっかりしていれば初志を忘れることはないと言い切れるほど、自分の心が強いとも思えない。命令することに何も感じなくなってしまったら、それこそ、ただの支配者になってしまう。一刀はそれが不安なのである。

 そんな一刀を見て、奉孝――稟は微笑んだ。

「貴殿が間違ったら、我々が正します。貴殿は貴殿の正しいと思うことをやってください。我々はそんな貴殿に可能性を見て、ともに歩くと決めたのですから」
「責任重大だな」
「おうおう、今更気づいたのかよにーちゃん」
「宝譿。おめでたい席なのですから茶化すものではありませんよ」

 仲徳――風の一人芝居も、今はありがたい。自分は良い仲間に恵まれた。心の底からそう思うことのできる自分は、間違いなく幸せ者だ。

「頑張りましょうね、一刀さん」
「これからもよろしくな、雛里」

 先の折れたとんがり帽子をどけて、直接雛里の頭を撫でる。出会った頃はそれこそ小動物のように怯えていたものだが、今はこの手を目を細めて受け入れてくれている。小動物という感想に変わりはないが、最初を雨の中の子犬とするなら、今は炬燵の中の猫とでも言えば良いのか。気持ち良さそうに小さく唸る様は、見ていて心地良い。

 そのまま放っていたら何時までも頭を撫でていたかもしれない一刀を現実に引き戻したのは、稟の大きな咳払いだった。それに驚き慌てて距離を取った雛里は、その勢いで転んでしまう。

 すいません……と帽子を押さえて立ち上がる様には哀愁すら漂うが、助けに入ることを稟が許してくれそうになかった。

 視線が冷え冷えとしているのを感じる。見せ付けるように頭を撫でたのがいけなかったのだろうか。

 しかし、一刀の手は自然と出ていたものだ。これをしないという選択肢はありえなかった。

 ならば稟の頭を撫でればそれでイーブンかとも考えるが、彼女が頭を撫でられて喜ぶとも思えない。

 何か別のことで埋め合わせをしようと、心に決める。言葉に出しても良かったが、今この件に関して口にすると、余計な雷が落ちそうな気がしたのだ。真名を預けられても、稟に怒られるのは怖いのである。

「さて、領地を得ると決まりましたがそれまでにすることは山ほどあります。挨拶周りに根回し、資材や人材の準備もしなければならないでしょう。できる限り早急に出立できるのが望ましいですが、その辺りは孫策殿の予定を加味して決めるのが良いでしょう。ともあれ、貴殿にも我々にも暇はありません。これからしなければならないことを挙げていきますから、きちんと覚えてください」
「ちょっと待ってくれ。今メモを探してくる」

 書くものを探している最中にも、稟はこれからするべきことの列挙を始めている。慌てる一刀を風は微笑ましく、雛里ははらはらとした表情で見つめていた。

 結局、メモを見つけるまでに早口気味だった稟の説明は終わっていた。

 新たな生活を始めるというのに、そのスタートは貴殿には準備が足りないという説教から始まったが、一刀をはじめ誰一人暗い顔をしてはいなかった。

 皆で思い描いていたことが、実現したのだ。こんなに良い日は、ない。



















 怒涛の一週間が過ぎた。

 稟の挙げたしなければならないことというのは思っていた以上に多く、一刀と軍師三人で分担してもすぐには捌ききれるものではなかったのだ。

 一刀がいなければ処理できない案件が多いのである。代理の人間でも処理できないことはないのだが、それらには出世する一刀の顔を売る側面もあるために、本人がいなければどうしようもない面もあった。

 結果、一つしかない一刀の身体では処理が追いつかず、処理待ちの案件ばかりが溜まっていく。

 思うように仕事が進まないことに稟辺りはイライラしそうなものだったが、思うように進まないこの雰囲気を楽しんででもいるのか、最近の稟は何だか機嫌が良かったりする。

 いつも薄い不機嫌を纏わせているような稟を見ているため、機嫌の良い稟を長く見ていると逆に『もうそろそろ爆発するのでは……』と言い知れない不安に襲われる一刀だったが、女性の態度がころころと変わるのは経験として知っている。

 今の稟はどの程度不味いのかと、仲間の中では最も付き合いの長い風に聞いてみるが、彼女はいつものふわふわとした態度であれなら大丈夫という太鼓判を押していた。

 風が大丈夫というのならそうなのだろうが……環境が変わろうとしている最中だからなのか、今までならばスルーできたことがどうにも目に付いて仕方がないのだった。

 それでも、時間は流れ進んでいく。

 北郷一刀の立場は甘寧隊の暫定副官から県令へと立場が着々と移行していた。

 領地を得るということを甘寧に報告した時、彼女は長く沈黙してから祝いの言葉を述べてくれた。甘寧隊の面々も残念だと言ってくれささやかではあるが祝宴を開いてくれた。同じ釜の飯を食った仲間が出世するのに喜ばない人間はいないと、心に響く言葉を言ってくれたのは良いが、要は何かと理由をつけて酒を飲みたかったのだろう。

 最初からペースを考えずに浴びるように飲みまくる乱痴気騒ぎは日が沈んでから日が昇るまで行われ、最終的に甘寧の拳で持って終局となった。頬は今でも思い出したように痛むが、今までで一番楽しかった宴席だったのは言うまでもない。

 領地まで連れて行く兵については孫策に相談し、北郷隊の中からどうしても着いて行きたいという人間がいれば引き抜いても良いという許可を貰った。この時勢に少数とは言え兵を引き抜いていくのは心苦しくはあったが、その好意はありがたかった。

 隊の人間全員ときちんと話をし、約100人の中から16人を引き抜くことが決まった。

 それが多いのか少ないのか一刀には分からなかったが、孫呉で働くよりもこちらにいたいと言ってくれた仲間である。16人で一緒に挨拶にきてくれた時には、思わず涙したものだ。

 その16人の中には当然のように子義もいた。待遇が孫呉の方が良いだろうことを全く理解していない可能性もあったので、この上なく噛み砕いて何度も説明したが、彼の結論は変わらず『団長と一緒にいるのが良いんです』ということだった。

 ちなみに、子義からも真名を預かっている。

 稟たち三人に遠慮していたらしく、彼女らが預けたら自分も預けると心に決めていたのだそうだ。

 というか、二年近く付き合っているのに、子義が字であるということをその時初めて知った。

 彼は太史慈。『字』が子義で、真名を要というらしい。

 太史慈と言えば一刀でも聞き覚えのある名前の一つである。既に『郭嘉』や『程昱』が周囲にいることに比べたら、そこに一人加わるくらい誤差のようなものであるが、最初から言ってくれればまだ心構えもできた。

 何で言わないんだと食ってかかったら、知ってるもんだと思ってましたとあっけらかんと答えられてしまった。稟や風は要が太史慈であると知っていたらしい。村から出てきた人間は言わずもがなだ。二年もの間、知らなかったのは自分だけという間抜けな状況だが、へらへら笑う要を見ていると、そんな悩みもどうでも良くなってしまう。

 何より、彼がついてきてくれるというのは心強いし楽しい。

 それに比べればどんな問題も些細なものだった。

 稟たちと真名の交換をしてから一週間、一刀は洛陽の街を駆け回っていた。あらゆる役所に行き、商人のところに行き、知己になった人間に挨拶に行き、諸侯にも会えるだけ会う。

 孫策軍の主だった面々には早急に挨拶を済ませ、残りの諸侯にも顔合わせを……と努力はしたのだが、時間が合わずにほとんどを達成することができなかった。

 馬超軍は出立の準備で忙しく曹操軍はアポを取れず、雛里のコネを期待していた劉備軍はどうも上層部でゴタゴタがあったらしく誰も時間の都合がつかなかった。

 顔を売る機会が潰れてしまったことを稟は嘆いていたが、逆に一刀は安心していた。偉い人間と顔を合わせて、何を話して良いのか分からないからだ。劉備だの曹操だの、三国志の英雄との場で呂布と戦ったことなど話題に出されたら恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。

 そんな中、文謙だけは時間の都合をつけてくれ、近況を報告することができた。領地を持てたと報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。彼女は、変わらずに曹操に仕えるのだと言う。お互いの息災を祈り、一度二人で食事をしてその場は別れた。文の遣り取りをする約束を取り付けていたので、領地で落ち着いたら文を出そうと思っている。

 荀彧には会うことができなかったが、彼女にはどうしても自分から今の状況を伝えなければいけないと思い、手紙にして近況を報告することにした。直接、荀彧に当てたものを一通と、荀家を経由したものを一通。内容は同じであるが、何かの間違いで届かないことを考えると、保険をかけておくに越したことはなかった。

 もっとも、荀彧のことだからこちらの動きくらい既に掴んでいる可能性はある。

 旅立つ前に顔くらいは見たかったが、ただの県令(予定)であるこちらと違い、あちらは立場も仕事もある身だ。諸侯と時間が合わなかったのと同様に、会えない可能性は十分に考えられることだったが、寂しいものは寂しい。

 任地に行けばより一層会えなくなるだろう。手紙のやりとりくらいはできるだろうが、顔を見る機会は激減する。

 もしかしたらこれが最後の機会かもしれないのだ、と思うと顔を見たいという気持ちは募るばかりだったが、そんな気持ちであることを知ったら、荀彧はきっと嫌悪の表情を浮かべてこういうだろう。

『気持ち悪い……』

 罵詈雑言すらない。ただ一言、呟くように言うに決まっている。

 諸侯に空振りした時点で、諦めも半分はついている。出立の日までアプローチは続けるつもりだが、どうしてもという訳ではない。北郷一刀の予定と荀彧の予定では、あちらが重いのは当然のことだ。

 凡人一人の我侭で、要人の予定を狂わせる訳にはいかない。寂しくはあるが仕方のないことだと自分を納得させ、今日は要と共に洛陽の大路を行く。

 今日は役所に任地の状況の確認に行った。通信網が発達していないこの時代では、任地までいかなければ分からないことは多いものの状況報告は義務付けられているため、専門の役所に行けばそれを確めることができる。

 任命書を持って朝から役所に行きそれを調べていたのだが……酷い状況かもしれないと散々脅しをかけていた稟から言われていたよりはずっとマシな環境だと書面からは察することができた。

 しかし、実際この通りという保障はどこにもない。

 この書類が提出されてからの間に変わることだってあるし、そもそもこの書類が正しいとも限らないのだ。役人が賄賂で私腹を肥やすなどよくある話で、それで民が圧迫されているのだと思うとまだ赴任してすらいない任地のことであっても、気が気ではなかった。

 自分が有能であるとは思わない一刀だったが、少なくとも汚職に手を染めたりはするまいと心に決めている。自分にできる範囲のことで全力を尽くそうと、改めて心に誓った。

「団長、今日はこれからどうするんでしたっけ」
「事務所に戻って稟たちと打ち合わせだよ。明日商人と会うから、その準備をしないといけないんだ」
「物を買うだけでしょう? それで何で準備がいるんです?」
「長い付き合いになるかもしれないから、舐められるといけないそうだよ。俺は綺麗な格好をして稟の横に突っ立って、もっともらしい顔して頷くのが仕事らしい」
「それじゃ団長いらないじゃないですか」
「俺もそう思うんだけどね。そうもいかないってのが実情らしい」
「大人の世界ってのは面倒くさいですね、本当に」

 単純に生きている要らしい感想である。面倒くさいことに関わらず、難しい話をされるとすぐに逃げ出すフットワークの軽さは、相変わらずだった。一刀についてくる兵の中では古参であり、その実力から稟たちを含めて全員に一目置かれてはいるが、その気質から長のつく仕事は任せられそうにない。

 優秀には違いないのだが、今一歩足りない……と稟などは愚痴を漏らしているが、兵や護衛としては十二分に役に立っていることだし、一刀本人はこれで良いと思っている。要にはやりたいようにやらせるのが、今のところ唯一の使い道だ。

 それで使いものにならないのではあれば考えもするが、兵や護衛としては優秀であるのは稟も認めるところである。きっちりと与えられた仕事はこなしているので、稟であっても強くでることはできない。

 北郷隊の中でも、ある意味最も特殊な立場にいるのが要だった。

「それにしても今日のラーメンは美味かったですね。いつも行くところよりちょっと高めだったみたいですけど」
「たまには良いだろ? 昨日街を歩いてたらこの前食ったこと思い出してさ」
「この前は誰と行ったんです? 軍師先生とですか?」
「……誰だったかな。ちょっと記憶にない。まぁ、美味かったんだから良いだろ?」

 脳裏に不敵な笑顔を浮かべた伯和が過ぎる。別に秘密にすることではないのかもしれない。街で出会って、それきりの少女だ。疚しいところは何もないし今は連絡を取る手段もない。

 ただ、人によっては良くない想像を掻き立てられる可能性もあることから、何となく秘密のままになっていた。街で出会った女の子と一緒に食事をした。言葉にすればただそれだけの関係でも、邪推することは十分にできる。

 そもそも見方を変えればナンパしてデートしたと言えなくもない。雛里よりも幼く見える少女をひっかけたとなれば、弾劾裁判は免れないだろう。ロリコンの汚名を着せられては、一刀の信頼も地に落ちるというものである。

「全くです。美味かったんだから何も問題ありません」
「お前がそういう奴で助かったよ」

 深く物を考えない要の性質に、一刀はこっそりと安堵の溜息を漏らした。

「わふ!」

 一刀の元に小さな来客があったのはその時である。

 気づけば足元に子犬が纏わりついていた。茶色い毛並みの人懐こい奴で、首には赤い布を巻いている。良く手入れされている雰囲気から飼い犬だろうと言うのは分かるが、いつまで立っても飼い主は現れない。

「迷子かな……」

 抱き上げてみても、子犬は抵抗しないどころか一刀の頬を舐めてくる。どういう訳か気に入られてしまったようだ。気に入られるということに、子犬相手でも悪い気はしなかった。
 
「こいつを探してる人はいないみたいですね」

 要が周囲を探しながら呟く。隠れているのならばまだしもあちらもこの子犬を探しているのなら、要に見つけられないということはない。やはり飼い主はこの近くにいないという結論になるが、それは同時にこの愛すべきかわいい子犬が迷子であることを意味していた。

「軍師先生に怒られませんか?」
「放っておくのもかわいそうだろ」
「そりゃあそうですが……」

 今日出会ったばかりの子犬のために、稟たちに怒られることは要には抵抗があるようだった。ぼんやりと不満の感情を顔に浮かべるが、強く反対することはしていない。

「お前だけでも帰って良いよ。俺が勝手にこいつの飼い主を探し始めたって言えば、お前は怒られないはずだ」
「団長だけ怒られるのもかわいそうじゃありませんか。お付き合いします。二人で探した方が、飼い主も早く見つかるでしょう」
「悪いな」
「今度またラーメンでも奢ってくれれば良いですよ」

 要に悪びれた様子はなかった。付き合うのが当然だといった風であるが、要の場合不味い状況になったら逃げるという選択肢もありうる。稟相手に退避行動が取れるのは一刀の知る限り要だけだ。ある人間はそれを勇気ある行動と褒め称えるものの、一刀はそれがその場しのぎでしかないことを知っている。

 逃げられた程度で叱責を諦める稟ではないのだ。彼女は怒るべきと判断したら、例えどれだけ時間がかかっても改められていない限り必ず怒る。要も例外ではなく逃げ切れたことは一度もないのだが、結構な頻度で要は稟の前から逃走する。

 今度こそ逃げてやるという使命感すらその背中には感じられた。間違った方向に成長している要であるが、稟相手にそれができるというのも、それはそれで頼もしく思える。

「さて、お前のご主人様はどこにいるのかな」

 顔を見合わせて子犬に訪ねると、子犬は一刀の手を離れ地面に降りた。そのまますたたと歩き出し、少し離れた所で一刀を振り返った。

「ついてこいってことでしょうか」
「迷子じゃなかったのかな」

 だとしたら随分間抜けなことをしたものだと思う。稟たちとの待ち合わせもあるし、帰っても良いかという考えが一刀の脳裏を過ぎるが、あのかわいい子犬の飼い主に会ってみたいという思いもあった。

「……あいつの足ならそんなに遠い所でもないだろう。ちょっと挨拶したらすぐに帰れば、稟も目くじら立てたりしないはずだ」
「そうですか? 何か俺は係わり合いになるべきじゃない気がしてきたんですが」
「あんなかわいい犬の飼い主が悪い奴なはずないだろ」
「それはそうかもしれませんが……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、要はついてきた。基本、一刀の行動には口を挟まない要だが、今日この日に限っては帰りませんかということを良く口にした。

 流石にいつもはないことであるので一刀も要のその『悪い予感』が気になり始めたが、そんな気持ちが湧き上がった頃には子犬はある屋敷の前で足を止めていた。大路から外れて十分ほど。閑静な住宅街に位置する屋敷だった。

 周囲には同じくらいの規模の屋敷が見られるが、どれも人気が感じられない。董卓軍の幹部が使っていた屋敷が近くにあったため、この辺りに住んでいた官僚などは別の所に居を移したはずだ。

 であるから、屋敷の規模の割りに手は入っておらず、寂れた雰囲気を感じさせる。まだ人が住む分には問題なかろうが、後三ヶ月もすればそうも言っていられなくなるだろう。

 こういう屋敷をどうするのか。洛陽の治安を守る上での課題の一つであるが、一刀の立場でそれを気にしてもしょうがない。それよりも今は子犬の飼い主だ。

「お前のご主人様、ここに住んでるのか?」

 一刀の問いに一鳴きすることで答え、屋敷の中に正面から入っていく。門は開け放たれていた。遠めに覗く分には人の気配はないが、果たして廃墟とは言え、金持ちが住んでいそうな家に足を踏み入れて良いものか。

 要を見ると、無言でやめましょうと訴えているのが見えた。口にしないところを見るに、確定的な危険を感じ取った訳ではないのだろうが、しかし、悪い予感は今も消えていないようで居心地悪そうに佇んでいる。

「挨拶して帰るだけ、ってことで」
「……お供します」

 妥協点としては中途半端な案を採用した一刀は、子犬を追って屋敷に足を踏み入れた。門を潜り、庭にさしかかっても人の気配はない。無人の庭を子犬は横切っていくが、その庭にあった痕跡を一刀は見逃さなかった。

 何かがいた形跡がある。人間ではない。獣の類が群れていたような跡があるのだ。足跡だったり糞であったり様々だが、問題はそれが放置されていないということだった。糞は明らかに片付けられているし、足跡も消えているところとそうでないところがある。

 それは、庭のメンテナンスをした人間がいるということ、そしてここには、子犬以外にも獣の類がいるということである。

 ならばその獣たちはどこにいったのか……一刀が考えを巡らせていると、要が声も挙げずに体当たりをしてきた。

 全力の体当たりに一刀はなす術もなく突き飛ばされる。地面に倒れながら振り返ると、要が抜剣したところだった。その背後に、大槍を振りかぶった影がある。

 その槍を、要は受けきることができなかった。跳躍力と落下速度も加えた大上段からの一撃である。腕が立つとは言え、要の細身ではそれを受けきることができず、そのまま弾き飛ばされる。

 数打の剣は半ばから断たれてしまったが、その身を守るという使命は果たしてくれた。本来であれば要の身体を真っ二つにしていただろう一撃は、要の肩口を浅く斬るだけに留まった。

 殺し損ねた。その事実に襲撃者は意外そうな顔をする。本当にこれで殺すつもりだったのだろう。要がまだ生きているのが信じられないという様子だったが、それで手を止めるようなことはしなかった。着地すると流れるような動作で石突を繰り出し、要の鳩尾を打つ。

 一瞬で、要の意識は刈り取られた。なす術なく崩れ落ちる要に一刀は声を――挙げられない。

 首の裏に突きつけられる刃物の感触に、一刀は呼吸を含めた全ての動きを止めていた。

「なんや、勢いで生かしてもうた……」

 頭をかきながら要を引き摺るのは、一番最初の襲撃者だった。

 いや、こちらが侵入者であるのだから、彼女は撃退者か。

 上半身はさらしに上着を羽織っただけという扇情的な装いで、吊り目気味の目に髪をアップにまとめている。これに下駄と袴を合わせるという、この世界で出会った中でもっとも奇抜なファッションをしたその女に、一刀ははっきりと見覚えがあった。

「張遼将軍……」
「なんや、ウチのこと知ってるんかいな。見たところどっかの兵みたいやけど……まぁ、こっち側ではないやろな。そんなに強そうやないし」

 要を適当に放ると張遼は腰を降ろし、こちらに視線を合わせてきた。さらしに包まれた豊かな胸がアップになるが、それを鑑賞するだけの余裕はない。猫のようなくるくると表情の変わる色をした瞳だが、こんな邪気のない顔をしたまま、この人間は人を殺すことができる。
 今まさに、自分は命を握られているのだ。

 その事実が、一刀の心臓を強く締め付けていた。プレッシャーで吐きそうになるのを堪え、どうにか、張遼を見つめ返す。

「根性座っとらん訳じゃないみたいやけどな。しかし自分、なんでこんなところにきたん?」
「首に赤い布を巻いた犬に連れられまして……」
「セキトに?」

 その声は背後から聞こえてきた。邪気以前に抑揚の感じられない声だったが、不思議のその声は一刀の心に染み渡ってくる。間違いなく聞き覚えのない声だったが、その声を聞いた瞬間、一刀の悪寒はかつてない程に高まった。今すぐこの場から逃げなければ、殺されるという死の恐怖が一刀を支配する。

「自分運ないなぁ……子犬についてきてこんな目にあっちゃ、割りに合わんやろ」
「今は少し、後悔しています」

 要の忠告に従っておけばと全力で後悔したが、それも後の祭だった。

「そんな訳で、悪いとは思うんやけど、自分には死んでもらわんとならんのや。せめて苦しまずに殺したるから、あまり恨まんといてな」

 銀木犀に手をかけることも許されない。ゆらりと、殺気すら纏わないまま張遼が大槍を振りかぶった。

 これに抵抗する術はない。身体を支配していた恐怖はもはや一刀の認識を振り切っていた。汗は流れきり、口の中はカラカラに乾いている。自分の危険を認識するほどの余裕すら、今の一刀にはなかった。


 振り下ろされた槍が、戟に受け止められる。自分を殺すはずの刃が目の前で受け止められている様に、一刀の時間は再び動き出した。
小さく、悲鳴が漏れる。喉が渇きすぎて、声が声にならなかった。盛大にむせて、その場に崩れ落ちる。

 地面に跪いたまま見上げたその先、自分を助けた戟を持っていたのは、あの日、自分を殺そうとした飛将軍だった。

 感情を映さないガラス玉のような瞳が自分を見つめている。

「なんや、恋。この兄ちゃん殺さへんの?」
「セキトが駄目って言ってる」

 這いつくばったまま見れば、ここまで一刀を連れてきた子犬がつぶらな瞳でこちらを見つめていた。視線が合うと、大丈夫だといわんばかりに力強く頷いてくる。犬に助けられた事実に、一刀の口から乾いた笑いが漏れた。

 パチリとウィンクをしてセキトに感謝を伝えると、彼はかわいらしくも力強くわふ、と吼えた。

「どうしても駄目か」
「どうしてもダメ」
「そっか……なら、仕方ないな」

 折れたのは張遼だった。大槍を肩に担ぎなおすと、その場にどっかりと腰を降ろす。
 
「とりあえず殺すんは止めにするわ。兄ちゃん、セキトに感謝しとき」
「俺たちは助かったんでしょうか」
「とりあえず言うたやろ。これからどうなるかいうんは、ウチにもわからん」
「そうですか……」

 一刀は安堵とも落胆ともつかない溜息を漏らした。

 とりあえず、というその場しのぎの言葉が、これほど身体に染み入ったことはない。大の字になって、地面に寝転ぶ。生きている。ただそれだけなのに、それがやけに嬉しい。

「兄ちゃん、ウチのこと知ってるんやろ? どこの兵だったん?」
「孫策軍、甘寧将軍の元で此度の戦に参加しました。氾水関、虎牢関でも従軍しています」
「あー孫策軍かぁ。アホ袁術の下で苦労してるって聞いてるで」

 張遼のトーンはもはや、友達のそれである。気安く微笑み、肩まで抱いてきそうな勢いに一刀は面食らう。将軍ではなく、張遼個人の気質はこうなのだろうが、命の遣り取りしかしてこなかった人間にいきなり友達になられても、戸惑うばかりだった。

 それでも答えることができたのは、張遼の気質のなせる技なのだろう。少し話しただけであるが、張遼が悪い人間でなさそうというのは、一刀にも感じられた。

「せやったら、そっちの呂布も知っとるん?」
「存じ上げております。虎牢関で――」
「覚えてる。虎牢関の外で戦った」

 答えたのは一刀ではなく、当の呂布だった。一刀の命の恩人たるセキトを膝にだき、地面に腰を降ろす。

 殺されかけた人間が隣に座ったことで、相対した時の恐怖が蘇るが、それ以上の驚きが一刀を支配していた。

 天下の飛将軍が、覚えていると言ったのだ。

 これには張遼も驚いたようで、目を丸くして呂布を見つめている。

「珍しいなぁ。恋が戦った相手覚えてるなんて。とっぽいように見えてこの兄ちゃん、そんなに強いん?」
「大したことはない。でも、殺し損ねた。殺したと思って殺し損ねたのは、生まれて初めて。だから覚えてる」

 ほー、と張遼が溜息を漏らす。細められた目は、獲物を狙う狩猟者のそれだった。

「……そう言えば、噂で聞いたなぁ。天下の飛将軍を退けた兵が孫策軍におるって話。なんや、それが兄ちゃんのことやったんか」
「俺の剣が運良く将軍の戟を受け止めてしまっただけですよ」
「恋の戟かて相当な業物やで? それを受け止めるなんて一体どんな名剣使ってるんや。ちょっと見せてもらってもええか?」
「構いませんよ」

 本音を言えば他人に触らせるのは嫌だったが、かの張遼を相手に断れるほど一刀の心は強くなかった。渋々といった雰囲気は出さないように気をつけながら、腰から鞘ごと銀木犀を外し、張遼に渡す。

 張遼は鞘から銀木犀を抜き放つと、日の光に翳した。角度を変えて眺めてみて、ほぉ、と感嘆の溜息を漏らす。

「随分な業物やな。一兵士が持ってて良いもんやないけど、兄ちゃん、どっかのボンボンやったりするん?」
「ただの雇われの一兵士です。その剣はお世話になったさる屋敷を発つ時に、餞別として頂いたものです」
「嘘つき、盗んだんやろ? と普通なら言うんやけど、兄ちゃんがそう言うならそうなんやろ。これをくれた人間には、感謝しとき」
「今度、感謝の手紙でも贈っておくことにします」

 それを読んでくれるか分からないが、と心中で付け加える。

「さて、これからどうしようなぁ。孫策軍の兵やいうなら益々見逃す訳にはいかなくなったんやけど」
「どうにか生かしてもらえませんかね。俺、まだ死にたくはないんですが」
「うちも別に殺したい訳やないんやけどな。のっぴきならん事情ってもんがあるんよ。そのためには兄ちゃんには死んでもらうんが一番手っ取り早いんやけど……どうしたもんかな」

 助けを求めるように、張遼は呂布に視線を向けるが、呂布はセキトを撫でることに夢中で、興味を示そうともしない。話を聞いているのかも怪しかった。命を助けてくれたのだからもう少し興味を持ってくれているのかと思ったが、自分の意見が通った時点で、興味の対象からは外れたらしい。

 呂布は当てにならないことを察した張遼は、深々と溜息をついた。将軍という立場であったのだから、色々と考えることは多かったのだろうが、話してみた限り、軍師のような思考が得意というタイプには思えない。自分と比較すればそれは頭は回るのだろうが、考えるよりは身体を動かす方が得意、というタイプに思えた。

 それでも張遼は考え、悩んでいる。悩む顔には、人の良さが滲み出ていた。

「ここで将軍たちに出会ったことは、決して口外しないと約束しますが」
「それが絶対という保障はないやろ。漏れたら困るんや」
「将軍たちほどの武人ならば、諸侯も無碍にはしないと思いますが……」

 そこまで口にして、一刀は一つの可能性に至った。

 一騎当千の猛者である呂布と張遼が、まだ洛陽に留まっている事実。その気になれば単騎でも包囲を突破し、安全圏まで逃げ切れるだけの実力があるのに、彼女らはここにいる。

 つまり、留まらなければならない理由があるということだ。

 そして一刀の想像の及ぶ範囲で、この二人が無駄な危険を冒してまで洛陽に留まるほどの理由は一つしかない。

「やっぱり、兄ちゃんには死んでもらわんといかんのかなぁ」

 表情から何かを察したことを感じ取ったのだろう。哀愁漂う口調で張遼が呟く。その手には大槍が握られていた。呂布も戟を握って立ちあがる。セキトも一刀を守るように、一歩前に進み出た。

 また自分の関係ないところで、自分の命運が決定しようとしている。かつて自分の命を脅かした存在が、かたや自分の命を守るために、かたや自分の命を奪うために。

 訳が分からなかった。

 今もピンチが継続中なのは理解できる。今のうちに逃げるということもできない。要を見捨てて逃げられないし、この二人を相手に逃げ切るなど、できるはずもない。

 今はっきりと、自分の命は他人に委ねられた。いつも通りのことだと笑うこともできない。勝手にしろと笑うには、自分と要の命は重すぎた。

 呂布と張遼は一触即発の雰囲気である。

 せめて巻き込まれないよう、少しずつ、少しずつ地面を這って二人から離れる。

 それすら見咎められるようならもう命を諦めるしかなかったが、既に臨戦態勢に入っている二人にはお互いしか見えていないようだった。
 それでも、本格的に逃げようと行動に移せばすぐに看破されるだろう。

 一刀にできるのは要を引き摺って少しでも安全な場所に移動することだけだった。



「やめてください!」

 場に満ちた気だけで人を殺せそうな殺伐とした空気の中、二人を止めたのは少女の声だった。

 その声に、二人の殺気が霧散する。呂布は淡々と、張遼は困惑の表情を浮かべて声の主の方を見やった。一刀も、それに追従する。

 屋敷の奥から少女がやってきた。装いこそ質素ではあったが、ついて歩く人間の多さからこの集団の中で重要な位置にいることは見て取れた。少女は鬼気迫った表情でこちらに歩いてくる。

「仲間同士で戦うなんて、絶対に駄目です。お二人とも、武器を下ろしてください」
「でもなぁ、この兄ちゃん何とかせんことには、手詰まりやで?」
「それでも、です。私達の都合で関係のない人が死ぬなんて、私は耐えられません」

 少女の言葉に張遼は武器を降ろし、その場に膝をついた。戦う意思はないというアピールである。呂布は既に戟を手放していた。セキトを腕に抱えなおし、一刀から離れた位置に腰を下ろしている。

 二人の戦いが未然に防げたことを確認すると、少女は地面に降り、こちらに歩み寄ってきた。

 肩口までの銀色の髪には少しの癖があり、額を出すように纏められたそれは丁寧な手入れをしていることを伺わせる。振る舞いからや雰囲気から育ちの良さは見て取れるが、ただのお嬢様という雰囲気ではなかった。

 ただの美少女ではない、というのは見ただけでも分かる。

 そして、この状況で呂布と張遼を従えることのできる人間を、一刀は一人しか知らない。

 一刀は張遼と同じように姿勢をただし、跪いた。

「俺は北郷一刀、姓は北郷、名が一刀。字はありません」
「私の仲間が失礼しました」

 
「私は董卓。字を仲穎と申します」






















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十二話 戦後処理編IN洛陽⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58









「暇そうね」

 机に頬杖をつき、何をするでもなく窓の外を見ている雪蓮に、冥琳は溜息をつきながらそう訪ねた。暇ならばしてほしいことは掃いて捨てるほどあるのだが、進んで手伝うということを雪蓮がしないことは、長年の付き合いで知っている。

 決して薄情な訳でも仕事ができない訳でもないのに、気分で行動を決定する気質からどうにも遊んでいる印象が付きまとってしまう。君主としてそれはどうなのかと思うことは多々あるが、配下の面々にはそういうところも『らしい』と受け入れられていた。

 それも雪蓮の戦略か、と思わないでもない。そういう印象を普段から持たせておけば『たまに』が『頻繁に』に変わっても、部下はそういうものだと納得して雪蓮を放っておくことだろう。

 今も気分が乗らないから、という風で椅子の上で気を抜いている。寛いでいるという風でもない。何もしないことをしているという風の幼馴染は、冥琳の苦言にあっけらかんと答える。

「英気を養っているのよ」
「軍師としては、仕事を片付けてから養ってもらいたいものだけれど」
「最終的には終わらせるんだから良いでしょ?」
「そういうことは私の手を全く煩わせることがなくなってから言ってほしいものね」
「冥琳、愛してるわ」
「私もよ。だから仕事をしなさい」
「冥琳のいけずー」

 頬を膨らませて抗議する雪蓮を無視し、執務机の上に木簡を置く。その表題を見るや、やる気のやの字すら見られなかった雪蓮の身体に気力が戻った。目の色を輝かせてこちらを見上げる雪蓮に、冥琳は肩を竦める。

「例の調査の最終報告よ。雪蓮の期待に沿えるものかどうか解らないけれど」
「それでも何も知らない今よりはマシよ」

 雪蓮は木簡を紐解き、食い入るように読み解いていく。報告書、という体を取っているだけあって文量こそあったが、内容はそれほど濃いものでないことを、先に読んだ冥琳は知っている。期待に満ちていた雪蓮の目に、明らかな落胆の色が浮かんだ時点で、冥琳は温かい茶の入った湯のみを差し出した。

「これだけ?」
「それだけね。調査に時間と人をかけることはできるけど、それ以上の成果は得られないでしょうね」
「そう……」

 それきり興味を失ったように、雪蓮は木簡を執務机の上に放り投げる。木簡の表題には『北郷一刀調査報告』とあった。先日、皇帝陛下より領地を賜り、孫呉を離れることが決まった男である。

 その男について、自分たちは何も知らないと言って良い。三人の軍師と共に荊州にて自警団をしていたというが、知っていることと言えばそれだけだ。

 それほど目立ったところのない彼にあれほどの軍師が三人も付き従っていることも疑問ではある。その可能性に惚れこんで、というのが彼女らの弁であるが、ただそれだけで仕官を蹴ってまで付き従えるものなのか。

 疑問に思った冥琳は北郷について調べてみることにした。四人が孫家軍にやってきた時から調べるように指示を出し、折に触れて報告はあったが、当座できることはやりつくしたということで、最終の報告書を受け取ったのだ。

「荀家って曹操のところの猫耳の実家よね?」

 確認するように問うてくる雪蓮に、冥琳は頷いて答える。

 智者の一族として知られる、かの荀家である。孫呉にはあまり馴染みがないが、その筋では有名な一族だ。雪蓮が例に挙げた曹操軍の猫耳もそうであるし、皇帝の教師をしている荀攸もそうだ。どちらも流石智の一族と目を見張るほどの才媛である。

 その一族の本家に厄介になっていたというのが、北郷の経歴の中で最古のものだ。賊に襲われた猫耳を助けたのが縁であるらしく、本家での評判も上々だ。一時期は猫耳の婿と扱われていたこともあるとかないとか。

 その辺りの真偽のほどは定かではないか、問題はそこではない。

 最古の経歴ということは、そこで一刀の足跡は終了ということだ。彼についてはそれ以前の経歴を入手することができなかった。出身は元より、荀家に来る前に何処にいたということすら、さっぱり解らないのである。

 言うまでもなく、これは異常なことだ。人間、生きていれば必ず痕跡を残すものである。綺麗に掃除をしたとしても、それを調べる専門の人間が時間をかけて調べれば、隠し通すことは難しい。今回、そのための時間を十全にかけたとは断言できないが、報告では痕跡を欠片も見つけることはできなかった、とあった。

 常軌を逸した錬度で自分の痕跡を消すのに長けているか、そうでなければこれはもう、降って湧いたとでも考えるより他はない。荒唐無稽な話であるが、想像でしか補えないというのなら、それで完結させておくのが精神的にも良いだろう。他に考えることは山ほどあるのだ。孫呉にとって損となることが判明しないのならば、捨て置いても良い。過去というのは、その程度のものだ。

「奴については、天涯孤独と考えて問題ないでしょう。問題はこれからのことだけど、雪蓮、どうするつもり?」

 引き止めるつもりであったことからも分かるように、北郷一刀には価値がある。高い能力を持った軍師が三人もいたことに加え、連合軍に参加して得た名声。加えて、県令という立場も持つことになった。雪蓮に比べれば立場こそ低いものであるが、軍師たちの能力も加味すればいずれ飛躍してくることも考えられないではない。

 恩を売っておいて損はない相手だが、その分量が問題なのである。

 あまり恩を売りすぎても回収できなければ意味がない。懐の広さを見せるという意味ではアリかもしれないが、先を見れないボンクラと思われてはお話にもならない。雪蓮の勘でも冥琳の分析でも、北郷はイケると踏んでいるが、果たしてそれがどの程度のもので、どれくらいの時期から開花するものなのか、判断がつきかねているのだった。

「うちに残っててくれればやりようはあったんだけどねー」

 雪蓮の言葉にも哀愁が漂っている。その通り、残ってくれていたのならば、やりようはいくらでもあったのだ。

 一番手っ取り早い手段は、縁談だろう。孫呉の関係者と北郷を番とし、離れられなくするのである。雪蓮の血縁を宛がうのが常道ではあるが、このまま順当に北郷が功績を重ねていったとしても、雪蓮の妹である蓮華や、小蓮などの婿とすることはできなかっただろう。兵からの叩き上げとしては目を見張るものがある功績も、豪族たちを納得させられるほどのものでもない。

 ならば誰を宛がうのが最も良いのか。雪蓮と冥琳が候補を絞った中で、最も適していると判断されたのが思春だった。

 実力と実績から考えると聊か低い地位にあるが、忠義の程は皆が知るところである。人格と実力については申し分なく、何より思春を推す理由となったのは、彼女には五月蝿いことを言う親戚がいないということだった。北郷とも知らない仲ではないし、雪蓮が縁談を持ち掛ければ、思春も嫌とは言わないだろう。北郷も、孫呉に仕官していれば断らなかった、と思う。

 無論、北郷を憎からず思っているあの三人は良い顔をしないだろうが、縁談を結ぶというのは北郷の出世にとっては悪い話ではない。最終的に、縁談は纏まるはずだ。

 後は煮るなり焼くなり、こちらの自由にできる……そうなるはずだったのだが、それも過ぎた話だ。

「本当、誰が陛下に根回ししたのかしら」
「解らないわね。あの三人に皇室に繋がりがあるとも思えないし……」

 北郷に有利な話が出たのは、今回が最初のことだ。領地の裁定に関して口を挟めるほどの繋がりがあるのならば、もっと早い段階から使っていたことだろう。

 ならば一体誰が。北郷の過去にその秘密があるのではと望みを持っていたが、現状ではそれも妄想の域を出なかった。これ以上を望むならば、北郷よりも皇室に探りを入れるしかない。

 しかし、腐っても皇室である。探りを入れるには骨の折れる相手であるし、北郷一派の繋がりを探るという目的では、実入りよりも出費の方が多く出そうな気もする。調査打ち切りは、懸命な判断と言えるだろう。

 無論、何か新しい情報が出てきたら調査をする必要はあるだろうが、今は待ちの時間だ。

「いずれにしても、奴とは繋がりを切らないということで問題ないわね?」
「いいわよ。どれだけ出世してくれるのか、今から楽しみだわー」
「他の勢力に潰されるということは考えないの?」
「あの子たちならやれるでしょう。私の勘がそう言ってるわ。今も、何か面白そうなことに首を突っ込んでるんじゃない?」
「まさか。今の時期にそんな無謀なことをするはずがないわ」

 県令として赴任することが決まったこの大事な時期に、治安も良くなったこの洛陽で一体何に首を突っ込むというのか。普通の危機意識をしていたら、厄介事には関わろうとしないはずだ。北郷も決して頭の切れる方ではないが、流石にそのくらいの判断はつくだろう。あの三人が目を光らせているのならば尚更である。

「そんなことないって。私の勘がそう言ってるの。今絶対、面白いことになっているに違いないわ」
「確かに雪蓮の勘は当たるけど……」

 こんな誰のためにもならないお告げは初めてだった。迷信などを信じる性質ではない冥琳であるが、雪蓮の勘だけは別である。

 まさかこの言が北郷に不幸を呼び込むということはなかろうが。孫呉から独立し、新たな道を歩もうとしている若者のために冥琳はそっと心の中で祈りを捧げた。


  
 

 






















 董卓に対する洛陽の民の評判は、実のところそれほど悪いものではない。

 専横を働いていた宦官を排斥し、民のことを考えた政治を行っていた名君であるというのが、偽らざる彼女のイメージだった。どういう層に聞いてもそういう答えが返ってくる辺り、支持率は言わずもがなである。

 そんな董卓と敵対した連合軍が洛陽の民に受け入れられたのは、運が良かったというのもあるのだろう。

 戦の詳細までは民にまでは伝わらない。呂布も張遼も最強の武人で、董卓軍は最強の軍であるというのが民のイメージだ。

 それを連合軍が破ったのである。なまじ、最強の軍というイメージがあったのが良かったのかいけなかったのか。

 いずれにしても、民は連合軍に反抗するという選択肢を最初から排除される形となった。民の抵抗が袁紹と問題を起こしたアレ一度で済んだのは、一刀達にとっては紛れもない幸運だったと言えるだろう。

 余計な人死はでなかったし、復興も果たすことができた。戦はこれで終わったのだと、誰もが思うことができたのだから。

 さて、そんな状況の中でも董卓の行方というのは杳として知れなかった。

 死んだとも言われるし、逃げたとも言われる。連合軍の上層部もその行方を追ったが、側近の賈詡や将軍二人も含めて捕捉することはできなかった。

 稟も、既に地元涼州まで逃げたのだろうと分析し、風と雛里もそれを支持していた。一刀も特に何かを考えることもなく、そういうものかと思っていたのだが、その董卓は涼州どころか、まだ洛陽にいた。

 側近も勢ぞろいしている。

 一刀の正面には董卓。その脇には二人の軍師、賈詡と陳宮――と名乗った少女が控えている。董卓を心配そうに見つめながら、こちらを射殺さんばかりに睨みつけている辺り、好感度は最悪といっても良いだろう。

 一刀の両脇には二人の武将、呂布と張遼がいる。二人とも武器に手をかけていないのが救いであるが、何かあった時には容赦なく、一瞬でこちらの首を狩ってくるだろう。命の危機はまだ去っていなかった。

 ちなみに、張遼に昏倒させられた要はまだ意識を戻しておらず、一刀の脇に転がされている。気付けをしようかと張遼が申し出てくれたが、一刀の判断でそのままにしておいた。難しい話を聞かせても、要はきっと理解できないからだ。余計なことを言って場を混乱させるよりは、黙っていてもらった方がお互いのためである。

「先ほどは私の仲間が失礼いたしました」
「こちらこそ。勝手にお邪魔して申し訳ない」

 董卓と名乗る少女の態度は随分と丁寧だった。連合軍がでっちあげていたイメージは元より、街で聞いた噂から築いていたイメージからも程遠い。

 正直、この美少女が連合軍を相手取った董卓軍の首魁であると言われても、信じる人間はいないだろう。メイドさんでも侍らせて、静かに読書でもしているのが似合いそうな、そんな雰囲気である。

「月、この兄ちゃんどないする?」

 そう問うたのは張遼だ。主である董卓が出てきても、持ち上がっていた問題が水に流される訳ではない。命の危機は絶賛継続中だった。敵の頭数が増えた分、状況はより絶望的になったとも言える。

「解放しましょう。私達にこの方を裁く権利はありません」
「でも月!」
「私はこれ以上、自分の都合で人に死んでほしくないんです」
「この男を信用するの?」
「仲間が信じた人なら、私もこの方を信じます」

 賈詡が董卓に食ってかかるが、多少怯みはしたものの、董卓は一歩も譲らない。

 董卓が梃子でも動かないと知った賈詡はぐぬぬ、と口中で呻き、こちらを睨んでくる。視線に篭った殺意が、二段階くらい上がった気がした。小柄な身体を精一杯にいからせて、不満を露にしている。何となく、荀彧とは壊滅的に気が合わなそうだなと思った。

「ウチはそれもどうかと思うんやけど、主の決定ならしゃあないな。良かったな、兄ちゃん。これでおうちに帰れるで」
「……ご配慮に感謝します」

 納得のいかないことは多々あったが、とりあえず命は助かったのだ。心変わりしないうちに、この場を去る。それが拾った命を繋ぎ止める最も賢い選択だ。気絶したままの要を担いで稟の所に戻れば、これまでの生活に復帰できるだろう。

 北郷一刀が取りうる選択の中で、それが最も安全なものであるのは、いくら一刀でも理解はできたのだが、

「差し出がましい質問で恐縮なのですが、各々方は何故今も洛陽に?」

 気づけばそんな質問が口をついて出ていた。董卓が驚きで目を剥き、張遼が先ほどとは別の意味で溜息を漏らす。

 帰って良いと言ったのに、自分から首を突っ込んできたのだ。これを愚かと言わずして、何というのだろうか。

 その問いに答えて良いものか、董卓は逡巡した。これに答えたら、この男は無関係ではいられなくなる。せっかく無事に帰せる算段がついたのに、話してしまえば完全にご破算だ。

 常識的に考えれば話すべきでないのは分かったのだろうが、それでも董卓が逡巡したのは、今現在がよほど危機的状況であることの証左に他ならない。本心では誰かに助けを求めたいのだろう。一刀にはそれが解ってしまった。

「脱出に手間取ったのよ」
「詠ちゃん!」
「聞いたのはこの男だよ? 月。逃がしてやると言ったのに、この男はそれを手放した。なら、やれることはやってもらわないとね」

 責める董卓に、賈詡は不敵に笑う。感情で動こうとしている董卓に対して、賈詡はより現実的に動いている。こちらを見つめる賈詡の目に、人間的な温かさはない。あるのはこの人間をどう使えば、自分たちが利することになるのか。その打算的思考だけである。

「虎牢関が破られた時点で、ボク達は洛陽からの撤退を決めたの。一斉に逃げると混乱するから、分散してね。先に文官やついてくる民を脱出させて、次に兵。騎馬隊とかの足が早い部隊とボク達は最後、そんな割り振りだったんだけど……」

 そこで賈詡は言葉を区切った。脱出の予定が組まれていたのならば、幹部ばかりここに残っているのは説明がつかなかった。責任をもって殿を務めたがったのだとしても、虎牢関が破られてから動き出したのであれば、連合軍が洛陽付近に布陣するまでの間に、十分に逃げることはできたはずだ。

 名軍師賈詡が音頭を取っていたのならば尚更である。単純な脱出劇に手間取るとは、どうしても思えなかった。

「恋の家族を纏めて逃がすのに、ちょう手間取ってなぁ。ウチらは殿って約束やったから最後になってもうたし、連合軍の展開が思ってたよりも早くて、逃げ遅れたんや」

 賈詡の言葉を継いだのは張遼だった。苦笑を浮かべながら語る張遼は、屋敷の奥に視線を向ける。それを追った先にいたのは、大小様々な動物だちだった、犬もいれば猫もいる。その数は三十では利かないだろう。

 これが呂布の家族というのなら、なるほど、彼ら彼女らを纏めて移送するのは一苦労だと思った。

「初期の頃に一緒に移動すれば良かったのでは?」
「人間が生きるか死ぬかいう話してんのに、恋の家族とは言え犬猫運んだりはできひんやろ? 元よりウチらの順番は最後やったからな。
言った傍から横紙破りする訳にもいかんねや」

 ままならんもんやなぁ、と張遼が言葉を結ぶ。笑い話の雰囲気にしているが、董卓達からすれば事態は深刻だ。呂布張遼がいるとはいえ敵陣の只中に留まっているようなものである。生きた心地などしないに違いあるまい。

「この子らも恋以外には懐かんし、三人か四人ずつ外に出してるところなんや」
「それでもこれだけ残っている訳ですか……」

 状況が落ち着いてから始めたにしても、今現在これだけの数が残っているということは、外に出す作業のペースはそれほど早くないのだろう。全部外に出すのに、後どれくらいかかるのか想像するだけで気分が滅入ってくる。

「連合軍もそろそろ洛陽から出て行くようやし、これからは脱出もしやすくなるかなぁ、思ってた矢先の出来事やったんよ。兄ちゃんがここに来たのはな」
「それはまた、申し訳ないことを……」

 要がやめようと主張したのを、無理矢理ここまできた。彼の言葉に従っていれば、少なくとも董卓たちは連合軍側の人間に発見されることはなかったし、自分たちも命の危険に晒されずに済んだ。

 ついでに言えば一度は見逃してもらったのに首を突っ込んだのは自分だ。つき合わされている形になる要には、このまま殺されたら申し訳が立たない。そうするのが良いと思ったからの行動だったが、要のためにも、この場をやり過ごす方法を考えなければならない。

「呂布殿の家族を、外に出す算段がつけばよろしいのですか?」
「早い話がそういうことやな。人間だけなら外に出る方法はいくつか用意しとるし」
「彼ら、俺が運ぶというのはどうでしょうか? 実は県令として并州に赴任することが決まっていまして、遅くとも一月後には洛陽を発つことになっているのです」
「犬猫ばかりぎょうさん連れて赴任言うのもおかしな話やと思うけど?」
「それで咎められたりはしないでしょう。事前に話を通しておけば、その可能性も低くできるはずです」

 何も禁制の品を持ち出そうという話ではない。また余計なことを、と稟は良い顔をしないだろうが、そういう根回しくらいだったら問題なく行えるはずだ。全員を乗せる乗り物を用意しなければならず、決して潤沢とは言えない財政状況がさらに圧迫されることになるが、命のかかったこの状況で金銭の心配をしてもしょうがない。

 咄嗟に思いついたにしては我ながら名案だと思ったが、張遼は苦笑を浮かべて首を横に振った。

「名案やけど、それが実行できるかはそれは先方に聞いてみんとな」

 言って、呂布の家族たちを示す。そもそもきっちりと彼らが言うことを聞くならば、小分けにしてでも正門から出て行けば良かったのだ。それが実行されず、呂布が手ずから外に運んでいるということは、彼らに言うことを聞かせることができるのが、呂布しかいないからに他ならない。

 彼らが懐いてくれるのなら、全ての問題は解決する。

 逆に、それができなければ何もできない。そうなった時は今度こそ、自分と要の首は張遼の大槍で断たれることだろう。

 一刀は緊張の面持ちで呂布の家族へと歩み寄った。一歩、また一歩と近付いていく。

 しかし、彼らは誰一匹逃げることなくその場に留まってくれていた。張遼から感嘆の溜息が漏れる。信じられない、と呟いているのは賈詡だろうか。

 歩数にして十歩、ただそれだけの距離を歩くのに、随分な時間をかけたような気がする。

 それでも、彼らは逃げずに一刀がくるのを待っていてくれた。手を差し伸べると、とてとてと、寄ってきてくれる。信頼されている。言葉にすればそれだけのことだが、こんなにも嬉しいと思ったのは久し振りのことだった。

「うちはこの兄ちゃんに任せてもええと思うで。恋もそう思うやろ?」

 張遼の問いに、呂布はこくりと頷いた。セキトも一声、大きく吼える。

 董卓が顔色を伺うように、賈詡を見た。内心では反対なのだろう。新たな人間を受け入れることは、それだけで危険を伴う。女所帯で男を引き込むというなら尚更だ。賈詡が危機感を覚えるの気持ちも良く分かる。

 しかし、賈詡は軍師だった。軍師は感情ではなく論理で行動する。このまま北郷一刀を殺してその場しのぎをすることと、呂布の家族を預けること。どちらがより董卓を安全にするかを考えれば、それは当然後者となるはずだった。

「そこの男が成功するかは分からない訳だけど……恋と霞はそれでも信用するっていうの?」
「恋が運んだって最後まで全部上手く行くかは分からん訳やしな。それなら一度に全員運んだ方が安全や」
「恋も信じる」

 武将二人は既に覚悟を決めたようだった。

 そこに、軍師一人で反対するのも限界がある。賈詡は最後の望みを込めて陳宮を見たが、

「ねねは恋殿に従います」

 味方が望めないことを知った賈詡は、折れた。深々と溜息をついて、一刀をギロリと睨む。

「ボクもこいつに賭けることにする。でも、全てを任せるのは気に入らない。細部について色々と詰めさせてもらいたいんだけど、まさか嫌とは言わないわよね?」
「こちらからお願いしたいことでした。俺が何度も足を運ぶのは安全の意味でも望ましいことではありませんが、何とか連絡をつけられるようにしましょう」
「一応聞いておくけど、そっちには軍師とかいるの?」
「信頼がおけて能力も最高な軍師が三人ほど」
「あんた、一体どういう立場なのよ」

 呆れたように呟く賈詡に、一刀は苦笑を返す。董卓軍を支えた賈詡を前に、最高と言えるような軍師が三人である。間違っても、これから県令になろうという一兵士についている数ではない。

 自分の仲間がどれだけ素晴らしいのか。語るに吝かではなかったが、今は時間も足りないし、賈詡もそんな気分でもないだろうと思い直す。

「仲間に恵まれてるだけの、ただの兵士としか……」

 それは他人を納得させられるような答えではなかったが、董卓にはそれで十分だったらしい。思わず噴出してしまった彼女に、その場にいた全員の視線が集まる。

「へぅ……」

 と、董卓は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 そうしていると、本当に年頃の美少女にしか見えない。可憐な仕草に一刀の目を奪われるが、目敏く気づいた賈詡に今までで一番殺気の篭った視線を向けられる。

「言っておくけど、ボクの月に色目使ったらくびり殺してやるから、覚えておくことね!」

 殺意の篭ったその目に、一刀はただこくこくと頷いた。






















「遅い……」

 漏らした呟きはもう何度目か。

 足音も高く室内をうろうろする様は、誰が見てもイライラとしているのが見て取れる。これが普段であれば取り繕うくらいの知恵も回ったのだろうが、今はその余裕すら見受けられない。

 雛里などは怯えきって、稟に関わることを諦めてしまった。今は私は置物です、と言わんばかりに部屋の隅で椅子に座り、読書に勤しんでいる。書物の向きが上下逆なのはご愛嬌だ。

 それでも、稟がたまに呟きを漏らすたびに、びくりと肩を震わせるのは彼女の気の小ささ故か。

 その度に何とかしてくれとこちらに視線を送ってきていることには気づいていたが、それは華麗に無視していた。理由は単純だ。その方が面白いからである。

 ふふふ、と湯のみで口元を隠しながら、風は静かに笑う。稟がいらいらと怒っている顔が綺麗に見えるように、雛里はおろおろしている様が可愛く思える。

 言葉にすると果てしなく倒錯した趣味のように思えるが、これについては一刀も同じ意見だと確信を持っていた。同志がいるのだから別におかしなことではない。自分たち二人しかいなかったとしても、それはそれで良いことだ。

 世界に二人。それだけで何だか、幸せな気分なれる。

「稟ちゃん、そんなに怒っていると顔にお皺が増えますよー」
「怒ってなどいません!」

 明らかに怒っている口調で怒っている稟の表情は、ぞくぞくするほどに魅力的だった。一刀が帰ってくる頃には、この怒りもほどよく熟成されていることだろう。稟に怒られてしゅんとしている一刀も、それはそれで良い。落ち込んで、また奮起するその姿には、自分もやるぞ! という気分にさせてくれる。

 これは、自分たち全員の共通見解だと確信している。程度の差こそあれ、自分たちは皆、一刀のことが好きなのだろう。彼の力になりたい。心の底からそう思っているからこそ、出世などを度外視して彼の元にいるのだ。

 一刀の何がそうさせるのか、それを考えるのは無粋というものだ。稟などは理由を求めようとするのだろうが、そういうのは言わぬが花である。さしあたって、一緒にいたいから一緒にいる。それで良いと思うのだ。

 湯のみのお茶が空になってしまった。三杯目で少しお腹もたぷたぷしていたが、ただ待つだけというのも間が持たないのだから仕方がない。しなければならないことは大体片付いてしまったし、これからの仕事に取り掛かるには一度、一刀を交えて話し合いをする必要があるから、現時点でできることはほとんどない。

 それが稟をイライラさせている理由でもあるのだが、果たして一刀は気づいているのかどうか。

 ちなみに現段階で二刻の遅刻である。稟が時間に厳しいことは皆の知るところであり、一刀もそれを良く知っている。それでもなお遅れているということは、そこにはのっぴきならない事情があると理解できる。

 またぞろ、良くないことに首を突っ込んでいるのではないか。稟が考えているのはそんなところだろう。風もそれは考えないではなかったが、戦も終わったし治安も回復してきた今、要もついているのに対処できないような危険に見舞われるとは考え難い。

 それでも、そんな危険を引き寄せかねないのが一刀という男だが、信じて待つくらいのことはしても良いと思う。

 ……自己分析するに、後二刻が限界そうだ。自分では気の長い方だと思っていたのだが、存外に程仲徳も気が短い。

 とぽとぽ暢気にお茶を淹れていると、部屋をうろうろしていた稟の足が止まった。呼吸さえも潜めて耳を済ませているのを見て、

「稟ちゃんの鼻がお兄さんを感知したみたいですねー」
「犬みたいに言わないでください!」

 軽口を叩くと、稟が顔を真っ赤にして抗議するが、稟の鼻の性能は確かであったらしく歩いてきた足音は扉の前で止まった。

 だが止まっただけで、部屋の中にまで入ってこない。

 おや、と風は首を傾げる。一刀にしては珍しいことだ。少なくとも、こういう行動をしたことは風の記憶にはない。

 すぐに入ってくるものだと思って息を整えていた稟も、機を外されて肩をこけさせている。

 早く会いたいなら自分で扉を開ければ良いのに、それでもこちらから扉を開けるようなことを、稟はしない。帰ってくるのを待ちわびていたと思われるのは、格好悪いことだと思っているからだ。

 他人から見ればバレバレのことであっても、それを行動で示すのは恥ずかしいらしく、誰にでも見栄を張りたがる稟も、一刀の前では更に格好をつける。一刀ですらそのことにはぼんやりと気づいているのだが、稟の態度が改まることはなかった。

 要するに距離の取り方の問題なのである。格好良い自分を見ていてもらいたいという願望が、恥も外聞も捨てて甘えたいという願望よりも稟の中で強いからこその、この行動なのだ。

 それを指摘したとしても稟は認めたりはしないだろう。自分で気づくか、自然に甘えられるようになるかするしかない。

 そんな稟を見てみたいような、見てみたくないような。一番の親友を自認する風としては、微妙な気分である。

 一刀ならばそんな稟を見せてくれそうな気もするのだが……そんな素敵なことを考えるのは、また別の機会にするとしよう。

 今は、一刀のことだ。

 時間にして十秒。扉の前でじっとしていた一刀は、ゆっくりと扉を開けた。

 見た目に変わった様子はない。体調が悪いとかそういうことではないらしく、風はこっそりと安堵の溜息を漏らした。

 だが、表情は緊張している。遅刻したことを怒られるのを恐れているだけではないだろう。

 それ以外の要因があることに稟も雛里も気づいたのか、言いたいことを全て棚上げして、一刀の言葉を待った。

「皆に、協力してほしいことがある」

 そう言って一刀が切り出したのは、三人にとっても驚くべき内容だった。

 董卓がまだ洛陽にいる。そのこと事態は特に驚くべきことではない。おそらく外に出ているだろうという見通しはしていたが、可能性としてはありえる話だったからだ。

 しかし、一刀がその董卓と接触したというのは無視できる話ではない。

 更には彼女らが洛陽を脱出する手助けをするという約束までしてきたという。全てを語り終えた一刀は地面に頭を擦り付けんばかりの勢いだったが、風たち三人は一刀のことなど知らないとばかりに沈思黙考していた。

 風の頭に最初に思い浮かんだのは、董卓の居場所を孫策に知らせることである。既に領地に戻る準備をしているとは言え、董卓がいるとなれば兵を差し向けざるを得ない。曹操がまだ洛陽に残っていることも幸いした。二軍の中から精鋭部隊を編成してその屋敷を強襲するということになるだろうが、問題はそれで董卓陣営を殺しきれるかということだった。

 兵が差し向けられることになれば、董卓陣営は一刀が話を漏らしたことを真っ先に疑い、刺客を差し向けてくるだろう。呂布に張遼である。連合軍が一度の強襲で殺し切れればそれでも良いが、一騎当千の猛者を確実に殺せるとはどうしても思えない。

 身の安全を考えれば、裏切るということは避けるべきだった。

 しかし、董卓の居場所を黙っているとなると、今度は連合軍に対しての背信行為となる。県令の辞令を受け取ったことで孫策との契約は既に切れているが、少し前まで主従の関係にあった人間だ。敵方大将首の情報を黙っていたとあっては、向こうも良い顔をしないだろう。

 これから上にのし上ろうと考えている時分に、大勢力に悪い印象を持たれるのは避けておきたい。董卓に協力するにしても、とにかく秘密裏にやるのが大前提だった。

 協力するか、裏切るか。風たちの取れる選択肢は大きく分けてこの二つである。

 そのどちらを取るべきなのか……個人的感情を別にすれば、それは考えるまでもないことだった。

「先方と細かい話を詰める必要があるでしょう。隠れているのならば直接会うなどは避けた方が良いのですが、連絡手段などは決まっているのですか?」
「それについては向こうの軍師から提案書を預かってる。まずはこれを読んでほしい」

 一刀が懐から出した木簡は、それなりの大きさがあった。紐解く稟の横から、雛里と一緒に木簡を覗く。

 連絡の遣り取りから実際の計画について詳細に書かれている。一刀の話ではこの軍師には今日であったということだが、ここまで計画が詰められているというのは少々驚いた。

 咄嗟に思いついたのではなく、元から案の一つとして温められていたのだろうが、それを一刀に預けてくる辺り、あちらの本気具合が伺える。

 木簡の最後には軍師と、その主の署名がなされていた。賈詡、そして董卓とある。その筆跡が本物であるのか判断はつかなかったが、向こうはこの計画に本腰を入れているというのは、本当のようだ。

「董卓は本物なのですか?」
「それはわからないけど、呂布と張遼は本物だと思う。それが董卓って扱いをしてた訳だから、本物なんじゃないかな」

 一刀の答えも頼りがない。董卓の容姿についての情報は、風たちでも掴みきれていないことだ。兵をしていただけの一刀に、本物かどうかの判断がつくはずもない。稟もそれは分かった上での質問だったのだろうが、予想通りの答えに少し苛立ちの篭った溜息を漏らす。

 それに、一刀がびくりと身体を振るわせた。叱られるのを警戒している子供のような仕草に、稟の視線が向けられる。

 こちらは、控え目に行っても獲物を前にした獣のようだった。子供ならば泣き出しかねない雰囲気に、一刀も一歩二歩と後退る。

「どうして逃げるのです?」
「いや、怒られるのかなぁ、と思って……」
「ほう。屋敷に踏み込んだのは不味かったと思いますが、その後の判断については最善を尽くそうとしたことが見られますので、今回は説教は見送ろうと思っていたのですが……なるほど、貴殿がそこまで望むというのであれば、普段の五割増しくらいで言いたいことがあるのですが、それを聞いていただけると?」
「ごめん。余計なことを言ったのは謝るよ」

 素直に頭を下げる一刀に、稟は解れば良いのです、と溜息を漏らす。小言を言いたいのは本当だろうが、今がそんな状況でないのは稟も良く解っている。

 今はこの綱渡りの状況を可及的速やかに解決しなければならない。

「謝罪を受け入れる代わりという訳ではないのですが、私からも貴殿に聞いておきたいことがあります」
「なんだろう。何でも言ってくれよ」
「……成功するしないは別にして、この案件を我々の耳に入れずに処理することもできたはずです。犬猫を大量に連れてくるだけならば、我々も小言を言いこそすれ拒否はしなかったでしょう。あえて我々に相談したのは、一体どういうことですか?」

 何だそんなことか、と一刀は安堵の溜息を漏らした。

「そりゃあ俺一人でどうにかできるならそうしたけど、皆で相談した方が上手く行くに決まってるだろ? それに危険を背負い込むことになるんだから、それを伝えないのはあまりに不誠実だ。俺たちは仲間だろ?」

 一同を見回して当たり前のように言う一刀に、稟は何も答えることができなかった。直球過ぎる言葉に、返す言葉が見つからないのである。稟も馬鹿ではない。こういう答えが返ってくることは想像がついていたはずなのだが、実際、一刀の口から言われるとその衝撃も相当なものであったらしい。

 ぷるぷる震える背中からは、鼻血を堪えているのが見て取れる。一刀の言葉は激しく、稟の心を刺激したようだった。雛里も何だか嬉しそうだ。自分の顔は見えないが、きっとにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべているのだろう。

 思いを言葉にされるのは、こんなにも気持ちの良いことなのだ。幸福感に包まれながら、しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。風がつんつんと背中を突付くと、稟は小さく悲鳴を挙げて正気を取り戻した。

 一連の感情の流れが理解できなかったらしい一刀が首を傾げているのをこれ幸いと、大きく咳払いをし、話題を元に戻す。

「危険はありますが、有力者に恩を売る機会と考えればこれは好機です。連合軍に洛陽を追われた身とは言え、董卓が有力者であることに違いはありません」
「どれだけの利が得られるかが、風たちの腕の見せ所ですねー」

 董卓の地元は涼州と、一刀の任地である并州からは距離がある。流石にいざという時の援護は期待できるものではないし、董卓と関係を持っていると知られれば、連合軍に所属していた諸侯から狙われる可能性もある。

 ほとぼりが冷めるまでは、この関係は秘匿しておくべきだろう。大きく利を得ることができるのは、ある程度時間が経ってからだ。

「では、話も纏まったところで今日の予定を消化しましょうか」

 稟が切り出すと、一刀が慌しく動き始める。董卓に拘束されていた時間の分だけ、今日の予定は押している。待ち人がいる訳でもなく急ぎの案件でもないが、時間を無駄にすることを稟はよしとしない。

 既に無理を通してしまったため、居心地の悪さもあるのだろう。簡単な準備をするだけなのに部屋を行ったり来たりする背中には明らかな焦りの色が見える。

 その背中を、稟は微かな笑みを浮かべて見守っていた。普段ならばイライラしつつ、小言の二つ三つも言う場面であるが、それもない

「稟ちゃん、機嫌が良さそうですね」
「……ようやく、物事が動き始めたのだと実感していたところです」

 慌てる一刀は、雛里にぶつかった。軽い雛里は吹っ飛ばされ、尻餅をつく。平謝りする一刀を横目に見ながら、風は稟だけ聞こえるように囁いた。

「まさか董卓とは夢にも思いませんでした」
「上に行くためには危ない橋も渡らなければなりません。それがたまたま最初に来た。それだけのことだと思いましょう。むしろ、最初に来てくれて良かった。失うものが少なければ、再起もまた容易い」
「恐るべきはお兄さんの『引き』ですねー」

 運命力とでも言うべきか。良くも悪くも、癖のある人間に出会う運命のようなものを、一刀は持っているような気がする。これまでやってきたことに比して、彼の人脈は驚くほどに濃い。二年かそこらでこれなのだから、さらに二年後にはどうなっているのか。考えるだけでぞくぞくする話である。

「濃い人生ということは、それだけ破滅も近いということ。我々は一刀殿が道を外さぬよう、助言をしていかなければなりません」
「導く、とは言わないんですね」
「先頭に立つのは彼の役目です」
「お兄さんなら、俺たちは一緒に歩いてるんだ、くらいのことは言うと思いますが」
「私もそう思いますし、貴女も雛里もそうでしょう。ですが、それを知っているのは我々だけで良いのです。対外的にまでそうだと思われては、一刀殿が舐められます」

 どうやら本気で言っているらしいことに気づいた風は、稟を見上げた。

 その視線に気づいた愛すべき友人は、微かに、しかし誇らしげに微笑んでみせた。














後書き

かつてないほどに筆の進みが早く、アップの運びとなりました。
次回、洛陽を出立します。






[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十三話 戦後処理編IN洛陽⑥
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:21f8c4b6
Date: 2014/12/24 04:59
 見送りは必要ないと遠まわしに伝えておいたはずだが、それでも一刀たちが洛陽を出立するその日、その周囲には少なからぬ人間が集まっていた。

 孫策に周瑜に、陸遜もいる。甘寧隊からは思春本人と直属隊の幹部が十人ほど参加していた。一刀からすればこの人数でも多いくらいだったが、これでも希望者をかなり削ってきたのだという。特に甘寧隊の希望者が多く、全員を連れてきていたら軽く千人は超えていただろう、というのが当の甘寧の弁だ。流石にそれでは交通の妨げになるからと食い下がる面々を鉄拳と怒号で黙らせてきたらしい。千人の兵士を相手に大立ち回りをする思春を想像するのが簡単すぎて怖い。

「支度金まで頂いてしまって申し訳ありません孫策様」
「気にすることないわ。これから何かと入用でしょうしね。でも、大切に使うのよ。遊ぶのに使ったと噂でも聞けば、即座にその首を落としに行くからね」
「肝に銘じておきます」

 冗談めかした口調ではあったが、内容は別に冗談ではないのだということを一刀は理解していた。孫策はやると言ったら必ずやる人間である。どの辺りから遊びに入るのか、よく考えておく必要がありそうだ。

 背中に流れる冷や汗を意識しながら、孫策の代わりに正面に立った思春を見やる。

 いつも通りの仏頂面であるが、今は緊張しているようで日に焼けた顔が僅かに朱に染まっている。まるで年頃の乙女だ、と率直な感想を口にすると殴られるのだろうが、思春の後ろで目を爛々とさせている直属隊の面々を見ると、それも良いかなと思えてくる。気づかないうちに、大分甘寧隊のカラーに毒されていたらしい。不用意な発言をして殴られるのを期待している彼らを、視線でもって威嚇する。

 構われたことに気づいた彼らは、歓声を挙げた。いつも通りのそのノリが、今は非常に鬱陶しい。

「達者でな。軍師の言葉をよく聞いて、職務に励むのだぞ」
「お世話になりました、思春。今の俺があるのは貴女のおかげです」
「私がしたことなど大したことではなかろう。私こそお前に命を助けられた。命一つの借りは、一生涯忘れん」

 大げさな物言いであるが、それが思春の本心であることは良く解っている。実直な人柄についても、殴られながら少しは理解することができた。まっすぐで不器用なこの女性のことが、一刀は嫌いではなかった。手が早いことについては色々と思うところはあるものの、これでしばらくの別れだと思うとそれも良い思い出のように思えた。

 やはり自分はマゾなのかもしれないと、一刀は苦笑を浮かべる。

 そんな一刀を胡乱な目つきで見やりながらも、思春はその腕を取り、そこに飾り紐を結びつけた。鈴のついた簡素だが丈夫な作りの一品である。試しに音を鳴らしてみようと腕を軽く振ってみるが、期待したような音はならなかった。耳を近づけて振ってみると、やはり全く音がしない。

 これでは鈴として機能しない。何かの手違いでは? と見ると、思春は苦笑を浮かべて首を横に振った。

「それは元々そういうものだ」
「鈴なのに音が鳴らないのですか?」
「鳴らない鈴が鳴るから意味があるのだ。その音が聞こえた時、それはお前に何かが迫っている時と思え」

 中身がないのならば音が本当に鳴るはずもない。それでも音が聞こえるということは、要するにお呪いの類かと一刀は納得する。

 思春にしてはメルヘンな発想だと思ったが、軍師のような真面目な人間よりは戦場で命を賭ける人間の方がそういうものを気にしたりするというのは、孫策軍で学んだことだ。。どちらかと言えば呪いなどはあまり信じない一刀にとってこの鈴の効果のほどは半信半疑ではあったが、異世界にやってきた自分の身を振り返ってみれば、呪いの一つや二つくらい存在しても良いように思える。

 それに何よりこれは思春からの贈り物だ。憎からず思っている女性からのプレゼントなのだから、それがどんな物であっても嬉しい。

 大事にしますと言うと、思春は満足そうに微笑んだ。

 それで終わりと安心していた一刀は、思春の行動に反応が遅れる。気の緩みを見て取った思春は自然な動作で一歩踏み込み、一刀の身体を強く抱きしめた。直属隊から歓声があがり、孫策も揶揄するような声を挙げる。逆に、背後からは刺すような視線を感じた。仲間が、その中でも特に稟がどんな表情をしているのか思うと心底恐ろしいが、腕の中の思春がその恐怖を打ち消した。

 抱きしめられた者の礼儀として抱きしめ返すと、その身体が意外に小さいのだというのが良く解る。孫策をはじめ、女性として恵まれた体型をしている人間の多い孫呉中にあっては、思春の身体つきは聊か貧相と言わざるを得ないが、女性としての柔らかさまでは失われていなかった。わずかな汗の匂いに混じって甘い香りもする。これが思春の匂いかと思うと、途端に気恥ずかしくなる一刀だったが、思春がまるで恥じらう様子がないのに男一人が慌てるのも相当に格好悪い。そういう間抜けは直属隊の面々や孫策を喜ばせ、後々の稟の説教を無駄に長引かせる要因になりかねない。

 男には見栄を張らなければならない時もあるのだ。表情を無理やり引き締めると、孫策と目があった。にやにやと、邪悪な顔で笑っている。内心を見抜かれてしまったことを理解した一刀は背中に冷や汗をかくが、見栄を張ると決めたばかりである。顔にも雰囲気にも出さないよう気を引き締めると、腕にも力が篭った。

「力が強いぞ」
「……申し訳ありません。あまり慣れていないもので」
「そうなのか?」

 思春の視線が一刀の肩を越えて稟たちに向けられる。そういう関係に見える、とその顔が言っていた。恋愛事に興味のなさそうな思春が思うのだから、他の人間も思っているのだろう。美少女を三人もはべらせた人間がどう思われるのか想像に難くない。

 何とか対処しなければと思うが、この手の問題に限って言えば三人の軍師は全く当てにならないのである。恋愛の経験がなさそうな雛里は当然として、風は面白がって放置するに決まっている。稟などは相談するだけ無駄だろう。勝手に脳内で盛り上がった挙句、鼻血を出して終了になるのが簡単に想像できる。

 自分一人で対処できるはずもない。始まる前から八方塞な問題だった。

「まぁ良い。身辺には気をつけるようにな」
「ご忠告痛み入ります」
「……離れていてもお前は我々の仲間だ。息災に暮らすのだぞ」
「思春こそ。お元気で」

 お互いに背中をぽんと叩くと思春は何事もなかったかのように取って返し、冷やかして来た直属隊の面々に鉄拳を見舞った。相変わらずのマゾ集団に苦笑を浮かべる一刀に殺気を纏った稟が寄って来る。

「一刀殿、そろそろ」

 出立の時刻を定めていた訳ではないが、いつまでもこうしていては先に進むことはできない。一刀は改めて孫策たちを見やると、深々と頭を下げた。

 集団の先頭に立っていた孫策がひらひらと手を振ってくる。その気安さが、また嬉しい。暖かな気持ちを抱きながら、一刀はまさに『今思いついた』という体を装って、孫策に駆け寄った。

 まだ何か? と目を丸くする孫策に、一刀は懐から取り出した布袋を差し出した。粗末とは言わないが、それほど金がかかっていないのは見れば分かる程度の品物である。

「これを、孫策様に」
「私に?」

 送り出す側が物を受け取る理由はあまりないが、くれる、という物を受け取らない訳にもいかない。差し出されたから受け取った、という気安さで、孫策はその布袋を受け取る。孫策の掌にも納まる程度の小さなものだが、硬質であるその中身は掌に確かな重みを与えていることだろう。

「大したものではございませんが、我々の感謝の気持ちです」
「へぇ……ここで開けても良い?」
「それはご勘弁を。できましたら、周瑜さまと一緒に、こっそりと見ていただけたら幸いです」
「……良く解らないけど、ありがたく貰っておくわ」

 疑問は払拭できていないようだが、言葉には従ってくれるようだった。布袋を懐にしまった孫策に満足すると、一刀はまた深々と頭を下げ、今度こそ孫策たちに別れを告げる。

「これで良かったのか、と今でも思います」

 馬車まで戻った一刀を迎えたのは、稟の苦い顔だった。アレをどうするかは一刀たちの間でも意見の分かれることだったが、一刀の出した結論は稟には受け入れられるものではなかったのだろう。考え直すようにと何度も言われたが、それを時間をかけて説得したのは記憶に新しい。

 今の不機嫌はそれが尾を引き、形となって現れたものだ。大人気ないと一言で片付けるには、稟の心中を知りすぎている。自分の案が採用されなかった。それも不機嫌の原因ではあるだろうが、彼女は彼女で自分の案こそが北郷一刀のためになると今も信じているのだ。

 それが成せなかったことで、皆の覇道が遅滞するのが悔しいのである。自分の案を仲間に信じさせることができなかったのが悔しいのである。その悔しさが分かるから、一刀の心中も複雑になるのだった。

 それを言葉で癒すことはできそうにない。風も雛里もこれについては匙を投げている。稟とて優秀な軍師だ。きっと時間が解決してくれると、その時を待つしかない。

「お久し振りです。一刀さん」

 複雑な気持ちのまま馬車を走らせ、そろそろ北門に到達しようかというところで見知った顔に声をかけられた。

「ご無沙汰しています。公達殿」
 
 御者台から降りて挨拶をすると、公達は微笑みを浮かべて小さく頭を下げた。
 
 旅立ちの準備をしている段でも二度ほど顔を合わせていたからそれほど久しい訳でもなかったが、こちらの顔を見て笑顔を浮かべてくれる女性を見て、男として悪い気はしない。 自然と表情も緩んでくるが、稟の咳払いがそれに待ったをかけた。眼鏡の奥の剣呑な光に、一刀は身震いする。

「見送りにきてくれたのですか?」
「それもありますけど、今日はお届けものをしに」
「お届け物?」

 一刀の疑問の声に公達の背後に控えていた従者が、そっと風呂敷包みを差し出す。手に持つと、ずっしりとした重みを感じた。菓子折りの類ではないだろう。表面をなぞってみると硬質の感触はない。一刀をして一抱えはあるそれの中身は、全て紙かそれに近いものであるようだった。

「すぐに内容を改められるものでもありませんから、領地についてからゆっくりご覧になってください」
「これはどういったものなので?」
「一言で言うなら教科書ですね。政治、経済、軍学その他、一刀さんのための知識が網羅されています」

 更に『直筆ですよ』と付け足した公達のその返答は、軍師たちに緊張を走らせた。

 一刀と公達には浅からぬ因縁があり、友人と言っても良い関係を結んでいる。官位も持っており、今上皇帝に近い立場である彼女は公的にも敬うべき立場にいる。先達として敬うべき人間であるというのは軍師三人の共通見解であるが、そんな彼女であっても他人には違いない。

 それが教科書を贈ってきたのだ。事前に相談でもあれば話は違ったのだろうが、いきなりこれでは暗に『お前達の教育は当てにならない』と行動で示しているようなものだ。当然、気分が良くなるはずもない。稟ははっきりと不快だという顔をしているし、風や雛里も顔色こそ変えていないがその表情が強張っている。

 彼女らのことを考えるのならばここで受け取らない選択肢もないではないが、先にも言ったように公達は友人であると同時に高位の官僚でもある。漢帝国の視点に立てば大分上の上司なのだ。立場が上の人間からの贈り物を大した理由もないのに断ることは、礼儀に反する上に自分の首を絞めることになるだろう。

 初めから一刀に断るという選択肢は存在しないのだった。胃がきりきりと痛むのを感じながら、ありがとうございます、と簡単な礼を述べる。

 その声に緊張が出ていたのだろう。聡い公達は一刀と軍師たちの心中を全て察し苦笑を浮かべた。

「私もどうか、とは言ったのですけどね……あの娘がどうしてもと言ったものですから」
「公達殿が用意したのではないのですか?」
「これを用意したのは荀文若ですよ。私は貴方に渡すよう、頼まれただけです」

 それを聞いた瞬間一刀の心を喜びが満たしたが、その直後に背中に走った恐怖がそれを台無しにした。

 連合軍の陣地でやりあって以来、稟はずっと荀彧を意識していた。敵視していると言い換えても良い。荀彧が戦においてどういう采配をしたのかは人を使って調べさせたし、会議の場での発言も多くの時間を割いて分析した。

 そんな難しい時期を乗り越えた稟は自分で結論を出した。荀彧とはおそらくソリが合わないという今更のものである。仲良くしているところを想像することすらできないのだから、相当なものだろう。もっとも、荀彧と仲良く戯れることができる人間がそういるとも思えないが、少なくとも、稟のようなタイプでは荀彧と上手に付き合っていくことは難しい。

 荀彧はかなり、稟も中々我が強いところがある。同じ運命共同体ということで稟は一刀に大分譲歩している感があるが、荀彧の場合はそれが全くない。本来ならば稟も荀彧と同じくらい我を曲げないだろうことは、二年近くの付き合いで理解していた。上手くやっていきたいという稟の気持ちが感じられることは嬉しい限りであるが、見方を変えれば荀彧のようなタイプに無理をさせているということになる。

 怒られることは勿論怖いが、ある日突然尋常ではない爆発をされたらもっと怖いし、困る。せめて稟に負担をかけないよう、もっと頼り甲斐のある男になろうと努力はしているが、今のところ実を結んだ気配は感じられなかった。平穏無事な生活への道は遠いのである。

「あの娘のこと、嫌わないでやってくださいね。きっと、貴方の前に出てくるのが恥ずかしかったのです」
「アレがそこまで柔な神経をしているとはどうしても思えませんが……ともあれ、ありがとうございます。任地に着いたら文を出すつもりでいますが、近く顔を合わせることがあったら、北郷一刀が喜んでいたと伝えてください」
「必ず伝えましょう」
「話は終わったかしら?」

 握手のために手を出そうとしていた公達を遮るように、公達の背後から声が聞こえた。公達の背中越しに見やると、そこには見覚えのある少女がいた。目が合うと、少女はにこりと微笑んだ。相変わらず、笑顔一つとっても卒がない美少女っぷりである。

「見送りにきてくれたのか?」
「今日が出立の日だって知ったのは偶然だけれどね。でも、間に合って良かったわ。お姉さん、ちょっと道をあけてくださる?」

 言われた通りに道を開けた公達の顔が、少女の顔を見た瞬間驚愕に染まる。街中で熊に遭遇したとしても、こんなに驚きはしないだろう。そも、公達が驚いているところを初めて見た気さえする。何がそんなに驚きなのか。公達の表情の意味が理解できない一刀は彼女を見やるが、公達は一刀の視線から逃れるように背を向け、大きく咳払いをした。これほどわざとらしい咳払いも珍しい。明らかに何かを誤魔化している風ではあったが、それに突っ込める雰囲気でもなかった。これについては何も聞かないでくださいと、その背中が必死に訴えていた。

 そんな公達をにやにやと眺めながら、少女――伯和は一刀の前に立った。

「急だったから何も用意していないのだけれど、せめて言葉だけでもって思ったの。元気でね。一刀くん。病気とかをしては駄目よ?」
「お前こそ。お転婆して、護衛の人を困らせないようにな」
「平気よ。今日はちゃんと、婆やもつれてきているんだから」

 その顔に笑みを湛えたまま、伯和は一刀の背後を示した。その視線を追うと、その先には仏頂面の武人が立っていた。見覚えのある顔である。伯和と出会ったあの日、街ですれ違った女性だった。伯和が婆やと呼んではいたが、それ程の年齢には見えない。行っていても四十というところだろう。切れ長の目をした少々キツい印象の美人であるが、腰の下げた剣と身に纏う殺気がその美貌を台無しにしていた。

 これが良い、という人間も中にはいるのだろうが、いくら甘寧隊でマゾ資質を開発された一刀と言っても、進んで針の筵に正座するような趣味はない。この不本意な状況は貴様のせいかと射殺すような視線を向けてくる女性は、必死で見てみぬ振りをした。正直、生きた心地がしなかった。今日は女性関係でこんな気持ちばかり味わっている気さえする。

 任地に出発する、今日は門出の日だったはずなのだが、一体どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

「よく許してくれたな。あの人」
「きちんと説明したら許してくれたわ。おかげでお勉強の時間が増えてしまったけれど、それで一刀くんを見送れるなら安いものよね」
「すまない。この埋め合わせはいつかするよ」
「なら、お手紙が欲しいわ」
「任地についたら必ず書くよ」
「直接送られると婆やに握りつぶされてしまうかもしれないから、仲介が必要よ。こっちのお姉さん宛なら安心だと思うの」

 伯和に指名されると、公達の挙動不審にさらに拍車がかかった。意味もなくきょろきょろとして、伯和の方を見ようともしない。悪戯を怒られた子供のような所在のなさである。楚々とした振る舞いを崩したところなどを見せたこともない公達の、一刀が初めて見る一面だったが、垂れ気味の目じりに涙が溜まっているのを見ては、何も流石に聞かない訳にはいかなかった。

「良いのですか? こいつ、こんなこと言ってますが」
「問題ありません。へ、いえ、その御方の仰る通りになさってください」
「……顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「あまりの出来事にちょっと眩暈が。大丈夫です、お気遣いなく」

 力なく微笑む公達は、明らかに大丈夫ではなかった。息苦しいのか胸を押さえているし、顔色も青く見える。普通ならば医者を薦める場面なのだろうが、生憎一刀は先を急ぐ身だった。

「本当にご無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう。そちらも身体には気をつけて」
「勝手に死んだりしたらだめよ? 洛陽に戻ってきたら、また遊びましょう」

 強張った顔の公達と微笑みを浮かべた伯和に見送られて、一刀は足を進めた。馬車と共の人間もそれに続く。好奇心丸出しで伯和を見ている要のことは、きっぱりと無視した。あれは誰ですか? 等と稟たちの前で質問したりしないよう、後で釘を刺しておく必要があるだろう。勿論、稟たちにも説明しなければならないだろうが、聞かれて答えるのではなく、こちらから説明する形にしなければ、立場が微妙なものになる。

 突付かれて疚しいことは何もないが、自分から公開することと、掘り返されて露見するのとではイメージが大きく異なるのだ。悪いイメージを持たれたままでは、相手に勢いを与えることになる。せめて誠実さを見せておかないと、余計に立場が悪くなること請け合いだ。

「貴殿は随分とおモテになるのですね」

 伯和たちの姿が人波の向こうに見えなくなってから、稟はぽつりと呟いた。その言葉に風も雛里も頷いている。何も悪いことをしていないはずなのに、針の筵に座らされているようだった。 

 それからほとんど会話もないまま、一刀たちは北門にたどり着いた。門には守衛がおり、行き来する人間と荷物をチェックしている。個人の検査は簡単なものだが、大荷物を抱えた馬車の一行はそうはいかず、一刀たちの他にも守衛のチェックを受けている集団がいた。事前に申請はしているので普通よりは早く済むはずであるが、流石にフリーパスとはいかないようだった。並ばされるのも、彼らの後ろである。

 県令としての門出、その第一歩である。一刀は緊張した面持ちで役人の所へ歩いていく。

「北郷一刀と申します。あちらは供のものです。荷物は事前に申請した物が奥の方の馬車に、手前の馬車には犬猫が乗っています」
「聞いております。荷物について簡単な検査をしますので、少々お待ちください」

 順番はそれほど待たずにやってきた。前の馬車のチェックを終えた数人の兵士が、先頭の馬車に寄って行く。その馬車を覗いた兵が、中の物を見て驚きの表情を浮かべた。大人しくしているように言い聞かせたばかりなので静かにしているが、犬猫ばかり三十匹ほど集まっているのは、中々お目にかかれない光景である。兵が驚くのも無理はない。

 犬猫に驚くなどの小さなトラブルはあったがそれ以外は滞りなく進み、守衛のチェックは五分ほどで終了した。

「それでは皆様下馬願います。こちらの門は、歩いてお通りください」

 御者台の人間に座っていた兵に声をかけ、彼らが皆地に足を降ろすのを見届けると、責任者の男はようやく行って良しという仕草をした。一刀は男に一礼し、粛々と門を潜る。

 結局、最後まで心づけを要求されたりはしかった。北門の守衛は末端の人間にいたるまで実に忠実に職務に励んでいる。そうでないことを期待していた訳では勿論ないのだが、只管に職務に励む彼らの姿を見て、一刀は何だか肩透かしを食らったような気分になった。

「流石に、かつて曹操殿が管理していた場所なだけはありましたね」

 稟が口が開いたのは、洛陽を出てから三十分ほど経った時だった。いい加減沈黙に耐えかねた一刀が、受けないのを承知で小話でもしようと思った、その矢先である。

「曹操殿が?」

 無駄に滑らなくて済んだことに心中で安堵の溜息を漏らしながら、相槌を打つ。

 呂布の家族の乗った先頭の馬車、その御者台だ。これから県令になろうかという人間が、わざわざ御者をする必要など本来はないのだが、何しろ客人が客人である。他にも御者をできる人間はいたが、万が一があってはいけないと一刀が自ら手綱を握っていた。

 動物受けを考えると風でも良かったのだが、彼女は早々に稟に一刀の隣を譲ると最後尾の馬車に引っ込んでしまった。荷物と一緒に揺られながら、昼寝でもするつもりなのだろう。雛里も風に付き合って最後尾の馬車にいる。その他、馬車を操っている兵以外は皆徒歩だ。要も当然、徒歩である。

「最初に得た官職が北門の武尉だったのですよ。割と有名な話だと思うのですが、ご存知ありませんか?」
「聞いたことあるようなないような、そんな程度だな」

 曹操については『顔を見たことがある』程度の繋がりしかない。荀彧が仕えている人間であるから興味がないではないのだが、荀彧と稟がやりあった過去があるため、どうにも関係を深め難いのだった。

 うちの荀彧とどういう関係なのかという質問を荀彧がいる場でされたら、どんな空気になるか解ったものではない。後で荀彧から邪悪な復讐をされるくらいなら、いっそ係わり合いにならない方が良いと、今では思っている。洛陽で曹操に会えなかったのは、運が良かったのだと思うことにした。

「情報は武器と申し上げました。全てを知っておく必要はありませんが、このくらいは知っておいてもらわないと」
「ごめん。もう少しアンテナを高くしておくよ」

 解れば良いのです、と稟は済ました顔で頷いた。アンテナ、という単語にも突っ込んでくることはない。カタカナ言葉については故郷の方言という解釈が浸透したらしく、口語で使うようなものについては、稟たちの間でも解読が終了していた。今では故郷にいた時と変わらない調子で会話しても、普通に成立するほどである。

「それはそうと、曹操殿のところの軍師から何やら貰ったようですが……」
「後で皆で見よう。何か俺の悪口とか書いてあったりすると困るから、最初は一人で読ませてもらうけど」

 かの荀文若が書いたものとは言え、中身は初心者用の教科書だ。一線級の軍師である稟にとっては、ほとんど価値はない。それでも共に見ようと提案したのは、筋は通した方が良いと思ったからだ。荀彧には世話になったが、今の教師は稟たちである。

「一人で読まれても良いのではありませんか?」
「何か問題があったら、言ってもらわないとな。今後一緒に仕事をすることになるんだし、考え方が離れてたら困るだろう?」
「貴殿は、あちらよりも我々を信ずるというのですか?」

 そこで、一刀は押し黙る。

 稟の機嫌を取るのならば迷わずに肯定すべきだったのだろうが、それはそれで嘘になる。仲間である稟には嘘をつきたくなかった。

「どちらをより、という話だと難しいかもしれない。荀彧には恩義があるし、俺はまだそれを返してないからね。最初の先生だからってこともあるけど、とにかく荀彧のことは信頼してる」

 あっちがどう思ってるかは解らないけどな、と付け加えると、稟は苦笑を浮かべた。

「でもそれは稟や風や雛里だって同じだ。一緒に戦った仲間だし、過ごした時間は稟たちの方が長い。だからより信頼してるとは……ちょっと言えないかな。信頼の方向性が違うというか何というか、そんな感じなんだ」
「では、我々とあの軍師殿、どちらを取るかと聞かれたら、貴殿は答えることができますか?」
「そりゃあ、稟たちだよ。考えるまでもない」
「どっちがより、と答えられなかった割りには即答するではありませんか」
「差し迫った状況で一緒にやってる仲間を選べないなら、そっちの方が問題だろ?」
「それはそうですが……」

 何か釈然としないものを感じているのだろう、稟の言葉ははっきりとしないが、突っ込んでくることもしない。人の内面に踏み込むような話は、元々稟の好む話ではないのだ。今も相当に無理をしているのか、頬がほんのりと赤い。

 そこまでして聞きたいものだろか、と手綱を握りながら、空を見あげて考える。

 自分に置き換えて考えてみた。例えば稟に前の主がいたとする。それは自分と同じくらいの年齢の男で、美青年だとしよう。能力も自分と同じかそれ以上な男が、稟と会話したりプレゼントしたりしていたら……

 考えただけで胸がムカムカしてきた。なるほど、こういう気持ちになっていたのかと理解できると、稟に対して申し訳ないような気持ちになってきた。

 これからはなるべく、稟たちの前で荀彧の話はしないようにしようと一刀は心に誓った。








この後に并州に入ってから月チームとの再会を書く予定なのですが、IN洛陽ではなくなってしまうため話を分けました。
現在鋭意製作中です。今月中にはアップできると思います。



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十四話 并州動乱編 下準備の巻①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59





 洛陽を出立してから一刀一行は問題なく歩みを進めていた。孫家軍にいた頃の行軍と比べると速度は劣ったが、それでも予定よりも大分早く司州を出て、并州に入ることができた。

 そして、并州に入って二日目のことである。

 いつものように朝食を取り馬車に乗ってかぽかぽ進んでいると、突然先頭を歩いていた要が緊張した様子で足を止めた。それを見て全ての人間が足を止める。すわ敵襲か、と兵にも緊張が走ったが、その緊張を打ち破ったのは底抜けに明るい、聞き覚えのある声だった。

「やー、久し振りやな。もうちょいかかるか思ったけど、随分早いやん」

 声の主は向かって右側の森から現れた。サラシを巻いただけの上半身に羽織と下駄。一度みたら忘れることのできない特徴的な装いは、紛れもなく張遼だった。氾水関で遠目に姿を見たことのある兵が驚きの声を挙げて距離を取る。『張来々!』と大騒ぎする彼らを気にする風もなく張遼は御者台にあがり、呂布の家族たちを見やった。

「無事に脱出できたようやな。と言うても、うちじゃ全員いるかどうか解らんけど」
「呂布将軍はどちらに?」
「この先にある屋敷におるよ。月たちも一緒や」
「では、そちらで受け渡しということでよろしいのでしょうか」

 そう問うのは、一刀の横に座っていた稟だった。洛陽での遣り取りは間に数人挟んでの手紙が主だったため、稟が張遼と直接顔を合わせるのはこれが初めてである。話に割り込んできた稟に張遼は軽く眉を顰めたが、頭から爪先までその姿を眺めると、彼女が軍師であることを察したらしく、旧来の友人にするように人懐っこい笑みを浮かべた。

「せや。あんたが郭奉孝やな。一刀から聞いとった通り、眼鏡の似合う美人さんやな」

 美人、という単語に稟の頬が一瞬で朱に染まる。恨みがましい目で睨んでくる稟を華麗にスルーしながら、余計なことを喋り捲りそうな張遼に、お手柔らかに、と釘を刺す。

「俺たち全員で押しかけても良いのですか?」
「別にええよ。恋からしたら、一刀たちは恩人やからな。一時的な避難先みたいな場所やから大したもてなしはできんけど、暖かい食事と屋根のある部屋は用意できるで」

 張遼の言葉を黙って聞いていた兵達から歓声が挙がった。孫家軍での調練から野宿にもはや抵抗はなくなったが、屋根のあるところで寝られるというのなら、それを断る道理はない。温かい食事が出るのならば尚更だった。

 あまり世話になるのは避けたかったが、一度こういう雰囲気になってしまったものを壊すのは忍びない。額を押さえて小さく呻いている稟を横目に見ながら、一刀は張遼の招きに応じることにした。












 屋敷というだけあって、張遼に案内された場所は本当に立派な屋敷だった。要を初めとした兵達は『おー』と感動の声をあげている。屋敷とは縁のない生活を送っていた人間ばかりだから、余計に珍しいのだろう。荀家で世話になっていた経験がなければ、自分もああしていただろうと思うと、彼らの態度にも親近感が湧く。

「馬車はあっちになー」

 張遼の言葉に従い、呂布の家族を乗せたもの以外の馬車がそちらに引かれていく。残った馬車は屋敷の正面に横付けされた。そこでは戟を持った呂布が相変わらずぼーっとした様子で待っている。一団の代表として、一刀がまず呂布の前に歩み出た。

「お久し振りです、呂布将軍」
「ん」

 呂布は言葉ですらない一音を発して、挨拶もそこそこ、御者台に飛び上がる。そのガラス球のような瞳で馬車の中を確認すると、天下の飛将軍は大きく頷いた。

「みんな、いる。ありがとう、かずと」
「お役に立てたのなら何よりですよ」

 今度は返答すらなかった。馬車の扉を開けた呂布は大事な家族との再会で忙しいらしい。旅の途中ではあれだけ懐いてくれた動物たちも今は呂布のことしか見ていない。元々彼女の家族なのだから当然であるが、妙に寂しい一刀だった。

「黄昏ているところ申し訳ありませんが、一刀殿。そろそろ」

 御者台の周囲には軍師が勢ぞろいしていた。招待されたのなら、それに応じなければならない。呂布と家族の再会は、一刀達にとってはついでのイベントに過ぎないのだった。

 こっちや、という張遼に案内されて、屋敷の中に入る。

 屋敷は床の隅にまで掃除が行き届いていた。空気も淀んでいない。避難先というから使われていない屋敷をどうにかしたのかと思っていたが、そうではないらしい。

「ここはウチの知り合いの屋敷でな。事情を話して貸してもらっとるんよ」
「張遼将軍は并州のご出身で?」
「ウチだけやなくて恋もそやで? 幼馴染、言うにはちょう付き合いは短いけどな。洛陽に来る前からのツレなんや」

 たわいもない世間話のように、張遼と会話をする。隣を歩く稟をはじめ、軍師三人は一言も口を開かない。会話をするのはお前の役目と言わんばかりだった。それでも会話そのものには耳を傾けているのだろう。稟などは反応が顕著で、会話の内容が変わる度に肩を震わせたり、目を細めたりと微細な反応を繰り返していた。

 採点されているようで、緊張する。彼女らも巻き込んでしまえば、この空気も晴れるのではと無駄な抵抗をしてみる一刀だったが、会話を振っても振り替えされ、結局は一刀と張遼の会話に戻ってしまう。軍師殿らはよほど、観察に徹したいらしい。

 これで会話もなくなってしまったら地獄だったが、張遼は見た目通り話好きのようで、それについては特に不自由することもなかった。

「――まぁ、そんなとこやな。さて、これから月にあってもらう訳やけど、そっちはこの四人でええの?」
「はい。俺と軍師の三人でご挨拶させていただきます」
「そか。そういえば自己紹介しとらんかったけど、中で一緒にさせてもらうわ。ほな、いくで」

 案内されたのは屋敷の中でも最も奥まった部屋だった。中央のテーブルを挟んで向かいに董卓と賈詡がいる。供の人間がいないのは、これが密談の類だからだろう。あちらはその二人と張遼で全員のようだった。

「陳宮殿はいかがされました?」
「ウチらに任す言うて恋のとこにいったわ」

 そうですか、とだけ答えて一刀は董卓の対面に座った。一刀が董卓の真正面で、左右に稟と風。雛里は風の隣に腰を下ろした。張遼が月の背後に付き従うようにして立つと、董卓が一度立ち上がり、深々と頭を下げる。追従するように一刀たちも立ち上がり、董卓の礼に応える。

「私は董卓、字を仲穎と申します。まずは、お礼を。仲間の家族を無事に連れていただき、ありがとうございました」
「董卓殿のお役に立てたのなら、何よりです」

 お互いの自己紹介はここでついでに行われた。着座すると、張遼が給仕を始める。その所作は意外に危なげがない。一刀たちが驚いているのを見ると、張遼は悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべてみせた。何も口にしなかったが、『意外やろ?』と得意になっているのが良く解る。

 張遼の淹れてくれたお茶は本当に美味しかった。茶葉が良いものなのは分かるが、淹れ方も良いようである。張遼の意外な特技を見た一刀は、素直に感嘆の溜息を漏らした。

「董卓殿は、今後どうなさるのですか?」

 いきなり突っ込んだ問いをするのは、稟である。テーブルの向こうで賈詡が迷惑そうに目を細めているが、稟にとっては何処吹く風だった。北郷軍の対外交渉担当でもある稟の胆力は、多少のことではびくともしない。

「いずれは涼州に戻るつもりだけど、しばらくは何処かに身を隠すつもりでいるわ」

 稟は確かに董卓に問うたはずだが、その質問に答えたのは賈詡だった。今度は稟が目を細める。対する賈詡は得意顔だ。こちらの交渉役が稟であるように、向こうは賈詡がこういう面倒くさいことを担当しているのだろう。確かに、お嬢様然とした董卓がやるよりも、話は早くまとまりそうだ。交渉する側としてはそれも痛し痒しである。

「当てはあるのでしょうか」
「どこで情報が漏れるか解らないし、その辺りは秘密にさせてもらうわ」
「左様ですか。これから我々は并州に根を張る身です。一県令の立場ではありますが、お役に立てることがありましたら何なりとお申し付けください」
「ご丁寧に。でも、恋の家族をここまで連れてきてくれただけで十分よ」

 ありがとう、と礼を言う賈詡の顔には微かに笑みが浮かんでいるが、言葉そのものは突き放すようである。稟はどうにかして董卓軍と関係を持とうとしているが、あちらはそれほど乗り気ではない。

 それも解る気もする。この関係は弱小勢力である北郷軍にこそメリットは大きいが、都落ちしたとはいえまだ強大な勢力である董卓軍には、それほどの旨みはない。恩を売ったという事実こそ残り、董卓も賈詡もこれを無碍にしたりはしないだろうが同時に、構築できるコネはその程度で終わってしまう。

 これでは軍師としては面白くない。どうにかしてもっと恩を売りたい、関係を持ちたいというのが稟の本音なのだが、賈詡の反応冷ややかである。

 それでもめげずに当たり障りのない会話を続ける辺り稟の粘り強さも相当なものであるが、これは無理だろうな、というのが一刀にも何となく解ってしまった。風など既に諦めモードで、うつらうつらと船をこぎ始めている。張遼も退屈そうだ。

 雛里はその中でも頑張っていたが、交渉役が稟一人であるためにこの場ではすることがない。緊張を強いられる場面で、行動に逃げられない人間は活動している人間よりもい疲れる。

 間の悪いことに雛里はプレッシャーに弱い性質であるので、この状況は酷く堪えるのだろう。脂汗をかいたその顔は既に青くなっていたが、体調が悪そうだから中座しますとは言い出しにくい雰囲気だった。相手が気を使ってくれればと董卓陣営を見るが、賈詡は稟の相手で忙しく張遼は暇そうに佇んでいるだけでこちらを見てはいない。董卓は周囲に気を配っている風ではあったが、こちらよりも仲間の賈詡が気になるらしく時に微笑ましく、時にはらはらとしながら自らの軍師を見つめていた。

 助けを求めるように雛里が視線を送ってきても、申し訳ないがどうしようもなかった。一刀にできることは、雛里のために祈ることだけである。


 幸い、稟と賈詡の話し合いは雛里の胃に穴が開く前に終了した。

「話が終わったところで、ちょっとええかな」

 これでゆっくりできる、と立ち上がろうとしていた雛里は張遼の言葉で体勢を崩した。倒れそうになる雛里を寸でのところで抱きとめる。『はわわ……』と呻く雛里は相変わらず可愛くその身体は癖になりそうなくらい柔らかかったが、それを堪能するには周囲の視線が多すぎた。稟のいてつくような視線に、一刀はわざとらしく大きな咳払いをすると、雛里を椅子にそっと降ろす。

「お騒がせしました。お話を伺わせていただきます、張遼将軍」
「話の前に聞いときたいんやけど、一刀んとこ、兵ってどないなっとるん?」
「それは何とも。これから赴任する先の県の兵を使うことになりますが、何分洛陽で目録を確認しただけですので実数はわかりません。俺個人の、ということでしたらおよそ二十人といったところでしょうか」
「つまり、表にいる連中で全員ってことやな」
「そうなりますね。お恥ずかしい限りですが」

 孫呉を蹴ってまで自分についてきてくれた仲間である。彼らにはいくら感謝してもし足りないが、大軍団を指揮していた張遼を前にするには、聊か物足りないのは事実だ。
発言には思うところがあるものの、事実であるので仕方がない。言葉を吐いたのが張遼ならば尚更である。

「確かに頭数は少ないけどな、仲間をそんなに卑下するもんやないで。ええ奴らやないの。皆、一刀についてきたくてついてきたんやろ?」
「俺には勿体ない仲間です」
「そか。せやったら、ウチもその仲間に加えてくれんかな」
「……なんですって?」

 言葉の意味は理解できていたが、とっさに聞き返していた。稟たちは元より、賈詡も董卓も目を向いて張遼を見ている。平然としているのは、張遼本人のみだ。

「そのままの意味なんやけどな。ウチを一刀のとこで使こうてくれへんかなー、いう話なんやけど、どないや?」
「いや、俺としては願ってもない話ですが……」
「どういうことよ霞!」
「そりゃあウチは武人やからな」

 答える張遼は邪気のない笑みを浮かべる。

「戦のないところにおってええはずがない。月にも詠っちにも恩義はあるけど、ほとぼり冷めるまで再起はせえへんねやろ? せやったら、腕を錆びさせておくんももったいないし、これから大事な時期の一刀とこに世話んなろうかなー思ったんよ」
「思ったんよってあんた……」

 張遼の物言いに、賈詡は押し黙ってしまう。武将がその腕を生かす場所を求めて主を変えることはこの時代良くある話だ。

 故に有能な武将、軍師を抱えている勢力は彼ら彼女らに逃げられないよう待遇を良くしたりして対応する訳だが、戦から距離を置こうとしている董卓と戦場を求める張遼とでは、求める環境が全くと言って良いほど合致していない。

 ならば新たな戦場を求めて、という張遼の言い分もわからないではないが、大陸を二分した勢力の将軍が一県令の下に着くというのは前代未聞である。張遼ならばそれこそ曹操軍でも孫策軍でも、いくらでも仕官先があるはずなのだが……

「一刀のとこ、面白そうやからな。恋の家族も気に入ってたみたいやから悪い人間やなさそやし、これから軍団を編成するなら仕事も沢山あるやろ?」
「将軍にご満足いただけるような戦場は提供できないと思いますが……」

 汜水関で張遼を前にし、死ぬ思いをしたのを思い出す。あんな環境にそう何度も巡り合うとは思いたくはない。彼女ほどの武人が近くにいてくれるのならばこれ程ありがたいことはないが、北郷一刀に張遼ではどう考えても宝の持ち腐れだ。

 それにいくら差しあたって戦う予定がないとは言え、放出する側からすれば溜まったものではないだろう。こちらの世界にきたばかりの頃ならば諸手をあげて歓迎していただろうが、今は自分の立場を考えるくらいの余裕はある。董卓軍との関係を考えたら、すぐに飛びつくのは得策ではない。

 隣で稟が小さく頷くのが見えた。対応は、間違っていなかったようだ。

「いらん言うなら無理にとは言わんけどな。ま、今日いっぱいは考えてみてな。ウチは別に逃げへんし、お仲間と相談する時間も必要やろ」
「お気遣い感謝したします」

 別に気にせんでえーよー、と張遼の口調は緩いままだ。態度から、その真意は測りかねる。今の主である董卓を前に口にしたのだから、冗談の類ではないはずだが、それでも、戦がないところにいたくはないと口にしてしまった以上、董卓のところに留まる理由も消えてしまった。

 これで自分が断ったら、彼女は一体どこへ行くのだろうか。止せば良いのに、と冷静な自分が声をあげるが、現実の一刀は躊躇わずに小さな自分に反逆した。

「気を悪くされないで聞いてほしいのですが、もし俺が断ったら、将軍はどうなさるのですか?」
「んー? まぁ、実家に帰るんもええか思っとるよ。并州はウチの地元やしな。昔の仲間んとこ戻って身の振り方でも考えるわ」
「もしや、呂布将軍も?」
「恋はどないやろな。まだ話しとらへんのやけど、案外恋も同じこと言うかもしれへんで。家族はみーんな一刀に篭絡されてもうたみたいやし、恋ももうころって落ちてもうてるかもな」

 ははは、と張遼は笑うが一刀は全く笑えなかった。賈詡の視線が痛い。董卓も視線を一刀と張遼を交互に見つめ、落ち着かない様子だ。いずれにしても、張遼は董卓軍から離れるということを決めているようだった。ならば移籍のための交渉をするのも、悪い話ではない。

 だがここで飛びつくのはよろしくない。ゆっくり考えてくれと向こうから言ってくれたのだから、お言葉に甘えて考えることにする。

 まとめ方こそアレな感じとなってしまったが、この屋敷での最初の会合はアレで終わりのようだった。何やら忙しくやりあっている賈詡と張遼を他所に、給仕が入ってくる。いずれも若い少女だったが、立ち振る舞いが異様に洗練されている。いざという時は兵の役目も担うのだろうことは、一目で解った。例えばここで剣を抜いて飛び掛ったとしても、三合と持たずに切り捨てられるだろう。

 相変わらず、自分の腕は大したことないなと心中で苦笑しながら、董卓たちに挨拶をし、部屋を出て行く。扉がしめられ董卓たちの姿が見えなくなると、雛里が大きく安堵のため息をついた。横を歩きながら、お疲れさま、と雛里の頭を撫でる。それで青い顔をしていた雛里は真っ赤になった。手を払われなかったのを良いことに、ぐりぐりと頭を撫で続けていると、凛がわざとらしく咳払いをした。

 名残惜しいがお楽しみの時間は終了である。未練がましく今度は稟の頭に手を伸ばすと、間髪いれずに叩き落とされてしまう。稟の顔は真っ赤に染まっていた。羞恥というよりは怒りの色が濃い。これ以上調子に乗ったら殴られると察した一刀は、早々に降参の意思を示した。

 軽く両手を挙げると、稟はつまらなそうに小さく息を吐いた。これだから貴殿は……という心の声が聞こえてきそうである。

 でも、稟の頭はがしがしと撫でてみたい。撫でさせてくれない相手にこそ、一刀の魂は燃え上がる。稟が雛里とはまた違った反応を見せてくれることは想像に難くない。それには殴られたり文句を言われたりする覚悟が必要になるが、荀彧を相手に鍛えられた一刀にはそんなものはどこ吹く風だった。いつか絶対撫で回してやると廊下を行きながら固く心に誓う。

 視線を下げれば、思わせぶりに頭を差し出している風が見えた。こちらを見てはいないが、ふふふーと底意地の悪い笑みを浮かべているのは手に見て取れた。撫でてほしいから頭を差し出しているのだろうが、これを撫でたら即座に稟から報復があるのは目に見えている。報復を恐れたりはしない一刀だったが、流石に今この時に冒険するのは躊躇われた。ここで風を相手にオイタをしたら、稟は多分口をきいてくれなくなる。殴られたり罵倒されたりするのは耐えられるが、放置プレイは勘弁してほしい。

 一刀が何もしないことがわかると、風はあっさりと頭を引っ込めた。何も言ってはこなかったが、頭の上の宝譿が一刀を非難するように動いた……ように見えた。

 そもそも、人形が動くはずはない。疲れてるのかな……と一刀は目をこする。

 給仕に通されたのは一人部屋だった。一刀以下、三人の軍師には個室が与えられ、それ以外の兵は大部屋である。一刀個人は大部屋で枕投げでもして遊びたかったのだが、世の中そういう風にはできていないらしい。立場というのは面倒くさいものである。

 食事の際にはお呼びいたします、とだけ残して給仕は部屋を出て行った。扉がしまっても、一刀は去っていった給仕の背中を思い浮かべていた。荀家でも思ったが、この世界の給仕服には華やかさが足りないように思える。一刀個人の好みとしては、もう少しひらひらしてても良いと思うのだが、その好みがしっかり採用された給仕服というのはこの世界ではまだ見たことがない。

 ひらひらしたメイド服の採用は権力者になったらやってみたいなーと思っていたことの一つである。口にしたら縁を切られそうなので、まだ誰にも言っていないが。自分ではデザインはできないから、企画を服飾師に持ち込んで製品化してもらうことになるだろう。技術的には問題ないはずなので、後は予算の都合がついて稟に邪魔されなければ
メイドさんを侍らすことは可能となるはずだった。

 デザインが受け入れられるかという問題もあるが、軍師の学校がミニスカを採用してるくらいである。給仕にメイド服を採用したところで、それが奇抜すぎるということはないはずだ。実際に給仕をする人間がOKと言ってくれれば、それ以上の問題はない。

 メイド服を着た稟を想像して、一刀はほくそ笑んだ。拝み倒しても着てはくれないだろうが、想像するだけならば自由だった。何か罰ゲームの権利でも勝ち取った時に提案してみることにした。

 深呼吸して、気分を切り替える。旅の疲れもあったが、食事まで時間があるのならできることをしたい。扉をあけて廊下を見る。給仕さんの監視はついていなかった。稟たちに声をかけようかとも思ったが、一人で歩き出す。下手に立ち入り禁止のところに突っ込んでも問題があるから、そそくさと、寄り道をせずに、今日通ってきた場所だけを通って、一刀は外へと繰り出した。

 横付けされていた馬車は厩の方に片付けられていたが、動物たちはまだそこに残っていた。ご主人様とその子分も一緒である。闖入者に子分の方は無遠慮な視線を向けてくるが、親分であるところの呂布はガラス玉のような視線を持ち上げ、ぺこりと頭を下げるだけだった。一拍おいて、一刀も慌てて頭を下げる。ぼーっとしている呂布を見ていると忘れそうになるが、彼女は当代最強の武将なのである。礼を払って払いすぎるということはない。

「ご家族はどうですか」
「みんなげんき。ありがとう、かずと」
「将軍の手助けができたのならば、何よりです」

 言葉を返すと、ぱたぱたとセキトが駆け寄ってくる。

「久しぶりだなーセキト」

 抱き上げると、セキトは遠慮なく顔をなめてきた。身体を撫で回すと、気持ち良さそうに小さく唸る。暖かな毛並みに柔らかなお腹を遠慮なくぐりぐりと撫で回す。北郷一刀、至福の時だった。

「おいちんこ県令。話があるのです」

 自分が呼ばれていることは状況から判断できたが、即座に返事をすることには抵抗のある呼称だった。呼びかけてきたのは、董卓軍の軍師であった陳宮である。これまた奇抜な衣装をした少女が、親の仇でも見るような目でこちらを見上げている。彼女に粗相を働いた記憶はないが、悪印象を持っているのは間違いがなかった。なにしろちんこだ。

「私のことでしょうか?」
「お前以外に誰がいるのですか。頭の悪いちんこ県令なのです」

 ふふん、とぺったんこな胸を張る仕草が異様に様になっていた。いつまでも偉そうに見えないと稟に小言を言われる立場としては、地味に羨ましい特性である。

「話の腰を折って申し訳ありません。それで、私に何か御用でしょうか軍師殿」
「お前、霞から例の話は聞いたのですか?」

 霞、という名前に首を傾げるが、それが張遼の真名であることにはすぐに思い至った。

「例の話といいますと、張遼将軍が私のところに、という話でしょうか?」
「そうなのです。お前、霞の奴をどうするつもりなのですか?」
「良い話だとは思いますが、同時に難しい話でもあります。色々なことについて考えなければなりませんから」
「霞を御せると思ってるのですか?」
「私のところに来ていただいた場合、という仮定で話を進めさせていただきますが――」

 陳宮の視線は鋭さを増している。余計なこと、ふざけたことを口にしたら蹴飛ばしてやると、何より視線が言っていた。細いその足は無限の可能性を秘めているように思えた。あの足で蹴られたら、もの凄く痛いだろう。脚力どうこうという話ではない。おそらく陳宮は、何の手加減もなく、容赦なく、全力でこちらを蹴飛ばしてくる。

「大体の部分をお任せするという形になるでしょう。俺は大軍団を指揮した経験はありませんし、仲間の軍師も同様です。将軍の知識経験は、俺たちの大きな助けとなることと思います。正直、喉から手が出るほどに欲しい人材です」

 我ながら惚れ惚れするくらいの、型どおりの返事だと思った。これは相手が張遼でなくとも一字一句違えることなく利用できる文言である。陳宮の目つきが胡乱なものに変化する。言った自分が理解しているのだから、聞いた陳宮がどう思うかは想像に難くない。どうにも直情径行型の人格なようだから、馬鹿にされたと判断したら即座に蹴りが飛んでくるかもしれない。いつ蹴られても良いように一刀は密かに防御体勢を取ったが、蹴りは飛んでこなかった。

 陳宮の顔には不満と書いていてあったが、それだけだった。じっと一刀を睨んだ陳宮は不機嫌さを全く吐き出さないまま、

「恋殿。このちんこはこんなことをいっておりますぞ」

 判断を呂布に丸投げした。呂布は構っていた家族を地面に降ろすと立ち上がり、足音一つ立てないまま一刀の眼前まで移動した。目の前でじっくり見ると、武将であることが良く解る。むき出しのお腹にはしっかりと筋肉がついていたし、細身ながらも引き締まった身体をしている。それでも一刀の故郷の世界の強者よりはずっと細身であるのだろうが、美少女は理解不能なパワーを発揮するこの世界において、呂布の身体つきは相当に強そうな部類に入るように思えた。

「かずとのところは、人手が足りない?」
「あって困るということはないと思います。何分、領地となる場所の状況を、俺も把握しておりませんので」

 まずは現地についてからですね、と一刀は言葉を締めくくったが、次に呂布が言い出しそうなことについて、何となく察しがついてしまった。陳宮の機嫌が悪いのは、要するにそういうことなのだろう。

 呂布はガラス玉のような瞳に、小さじ一杯分の好奇心を滲ませて、言った。

「かずと、恋のご主人さまにならない?」
















「……貴殿の手腕には目を瞠るばかりです」

 稟の声には温度というものが感じられなかった。褒められているはずなのに、怒られているような気さえする。椅子の上で、思わず正座をしてしまったほどだ。身体が痛いのですぐに膝は崩してしまったが。

 一刀の部屋として割り当てられた部屋に、軍師全員が集合していた。要たち兵は全員、大部屋で盛り上がっている最中である。『俺たちでも飛将軍に一矢報いるにはどうしたらいいか』という果てしない無理難題について、熱心に議論している彼らを止めようか迷ったが、たまたま部屋の横を通り過ぎた陳宮が完全無視を決め込んだので、放っておくことにした。どんなものであれ、夢を追いかけるというのは良いことだ。

「呂布将軍まで、貴殿の元で働きたいと?」
「そういったね」
「本気なのでしょうか」
「嘘を言ってるようには見えなかったな。陳宮殿は不機嫌そうだったし」

 何度も蹴られそうになったよ、と苦笑を浮かべながら付け加えると、稟は大きくため息をついた。メガネを外して目を閉じ、指でまぶたを揉み解している。稟に一番似合う仕草だ。何だか嬉しくなってにやにやしていると、メガネをかけなおした稟がぎろりと睨んでくる。一刀は微笑みを浮かべて視線を逸らした。

「何れにしても良かったのではありませんかー? あのお二人が仲間になってくださるのなら、風たちとしては万々歳ですし」
「しかし、董卓殿との今後の関係にも関わる問題です。軽々に決めるのはどうかと思うのですが」
「でもさ、張遼将軍はどっちにしても出て行くつもりみたいだぞ? それに向こうからこっちに来たいって言ってるんだから、それを受け入れない手はないと思うんだ」
「頭から信じてかかるのは危険なのでは?」

 稟の声音はあくまでも落ち着いている。張遼の言葉に、何か裏があるのではと疑っているのだ。穿ちすぎでは、というのが一刀の所見であるが、稟の言うことにも一理あるのも事実である。一刀は椅子に深く腰を落ち着けて、大きく息を吐いた。

「稟は、将軍たちを受け入れるのは反対?」
「大賛成です。董卓殿のことを考えなければ、そも反対する理由がない。我々の戦力不足は深刻ですから。ここで両将軍を迎え入れることができれば、大分楽になります」
「要するに、角が立たないように受け入れられれば良いんだろ?」
「それができれば苦労はしません」

 まったくだ、と一刀は項垂れる。さてどうしたものかと考えていると、風が椅子から立ち上がりすすす、と近寄ってくる。なんだなんだと見ていると風は軽く首を横に振った。否定の仕草ではない。確証はないが『退け』というのが一番近いだろうか。椅子から退けというのならばこれほど横暴なこともないが、さてどうしたものか。とりあえず身体の正面を空けてみると、それが正解だったのか風はぴょんと一刀の膝の上に飛び乗った。そのままもぞもぞと膝の上で動き、自らの収まりの良い所を探し始める。

 初めてのことではないが、仮にも男性である一刀は気が気ではない。年頃の美少女が膝の上でもぞもぞしている光景というのは、色々な意味でよろしくなかった。雛里は気まずそうに視線を逸らしているし、稟は苛立たしげに踵を鳴らしている。何もなければ迷わず逃げ出しているところだが、膝の上の風が重しになって逃げられない。何だか前にもこんなことがあったような気がする……と過去の記憶を引っ張り出そうとした一刀の口に、ぐるぐる飴が突っ込まれた。

 あぁ、前もこんなだったな、と納得しながら飴の甘ったるい味をかみ締めていると、すわりが良くなったのか風はようやく動きを止めた。ベルトのように一刀の腕を前に回してようやく完成である。

「風に妙案があるのですが、聞いてもらえますか?」
「私はあなたの行動に関して問いただしたい気分ですが、ひとまずそれは置いておきましょう。それで、どんな手なのです?」
「いやー、別に大したことではないんですけどねー」

 ふふふーと微笑む風の表情は、しかしそれが大したことがあると物語っていた。風が不敵な笑みを浮かべる時は、何気に自信がある時なのである。

 風は自分に皆の視線が集まるのを待ってから、薄い胸を張って堂々と言ってのけた。

「いっそのこと、幹部の皆さん丸ごといただいちゃうのはどうでしょうか」











すいません、間に合いませんでした。
今回から并州パートです。月たちとの話し合いは次回でまとめて、次々回からはついに領地につきます。



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十五話 并州動乱編 下準備の巻②
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59
「ようこそ。程昱さん」

 董卓軍筆頭軍師である賈詡の部屋を一人で訪れた風を迎えたのは、彼女のとってつけたような笑顔だった。無理やり作った感が滲み出ているその笑顔を軽く受け流しながら、風は部屋に足を踏み入れる。

 董卓軍が名実共に解体された今、ここを仕事部屋というのは適切ではないのかもしれないが、資料で溢れたこの部屋はまさしく軍師の仕事場だった。常に情報を集め、分析し、自分のものとしなければ落ち着かない。軍師というのはそういうものだ。都落ちして気落ちでもしているのではないかと同じ軍師として密かに心配していた風だったが、この部屋の有様を見て安心した。やはり、軍師というのはこうでなくてはいけない。

「お願いを聞き届けてもらって恐縮です」

 安心を全く顔に出さずに、風は頭を下げる。立場はこちらが下であるので、礼を失してはいけない。今更多少の礼を失したところで賈詡は気にしないだろうが、こういうことは形が大切なのだといつも稟に口を酸っぱくして言われている風であるから、その辺りの所作は自然と身についていた。

 それほど広くない仕事部屋の中から椅子を引っ張り出し、風にはそのうち片方を薦めてから賈詡は腰を下ろす。賈詡が座るのを待ってから、風もそれに倣った。

「さて、僕と内密に話したいことがあるってことだけど、手短にお願いね。こうしてる間にも、月に何かあったら困るから」

 この会談が設けられている間に、董卓にこちらが接触することを確信している物言いである。事実その通りであるのだから、風としては笑うしかない。

「用件は他でもありません。董卓さま達の今後についてです」
「前にも話したと思うけど、この件にそっちが関与する必要はないわ。安全上の問題もあるし、部外者には立ち入ってほしくないの」
「部外者、と言われてしまうと弱いですねー。風はちょっと仲良くなったつもりでいたのですがー」

 少し踏み込んだ物言いをしてみると、明らかな怒りを込めた視線で睨まれた。仲良く、という単語に聊か過剰な反応を示した。一刀のいつの間にか相手の懐に入り込む才能には風も一目置いているが、この賈詡に限って言えばその力も及んでいないらしい。呂布と張遼はあんなにも骨抜きにしたというのに、何という片手落ちか。

「率直に申し上げます。董卓さまと賈詡さん。まとめてこちらに来ませんか?」
「あの男の軍門に降れってこと? 冗談じゃないわ」
「いえいえ滅相もない。今のは言葉通りの意味ですよ? お客様としてしばらくお兄さんの領地に滞在しませんか、という申し出です。もちろん、滞在期間はそちらが自由に決めてくださって構いません」

 風の申し出に、賈詡の雰囲気にも変化が現れた。話を聞く体勢になった、と感じた風はそのまま言葉を続ける。

「連合軍との戦こそ終わりましたが、戦の興奮はいまだ冷めていません。どこに隠れるにしても、そこの土地を管理する人間の助けが必要です。風たちの勢力は弱小ですが、それ故にあまり注目されていません。いざという時の備えには呂布将軍と張遼将軍がおりますし、しばらく身を隠すのにこれほど都合の良い環境はないかと存じます」

 注目されていないというのが、董卓側への売りである。中央で即座に身を立て直す手段がない以上、董卓が取れる手段はどこかに身を隠すか地元に戻るかの二種類しかない。国を二分するほどの権力を一時は手中に収めた董卓であるが、都落ちした今、中央には敵が多く、地方は連合軍に参加した武将たちの領地が点在している。隠れるにしても場所を選ぶ必要があるのだ。諸侯が領地の安定に手を焼いている今は隠れるに絶好の機会であるが、手空きの戯れに兵が差し向けられないとも限らない。

 まして、今は誰もが戦力を欲している。落ち目の董卓の首は誰に売り渡したとしても格好の出世の材料になるだろう。身を落ち着けるのだとしたら、そういう可能性が低いところにしなければならない訳だが、その選定に賈詡は苦慮しているはずだ。誰がどの程度信頼できるのか。その判断材料が賈詡にはほとんどない。今并州にいるのは呂布の家族を受け取る用事の他に、張遼呂布の両将軍の地元というのがどれだけ信用できるのかを探る意味合いもあるのだろう。

 それが駄目となれば、いよいよ多少の危険を冒してでも領地へ戻るという選択が現実味を帯びてくる。これは風たちにとっては面白くない。こちらに合流する意思こそ張遼、呂布の両名は示しているが、即座に移籍が通るほど世の中甘くはないだろう。董卓が地元に戻るという判断をすれば、あの二人はそれについていく公算が高い。こちらに合流するとなればその後ということになる。あの二人が言葉を翻すような無責任な人間には見えないが、合流が遅れることは十分に考えられるし、拠無い事情で合流そのものがなくなることもないとは言えない。

 目立った武将のいない北郷軍にとって、あの二人は喉から手が出るほど欲しい存在である。手に入らなくなる可能性は、可能な限り潰しておきたい。そのためには、厄介者である董卓も受け入れる覚悟である。賈詡と一緒に働いてくれるならば大助かりだが、高望みはしない。彼女らは呂布と張遼のオマケとこの際割り切ることにした。

「あんた達のところに世話になるくらいなら、涼州に戻るって手もある訳だけど?」
「それは色々な意味でお勧めしませんねー。風が曹操さんや孫策さまの立場だったら、洛陽から涼州までに網を張ると思いますし」

 風の言葉に、賈詡が渋面を作る。その可能性は低いと風も思うが、否定することもできない。董卓討つべしと兵を挙げたのに、洛陽で捕縛できなかったのは連合軍にとって大きな痛手だった。袁紹が問題を起して勝手に敗走したことでうやむやになってしまったが、董卓が最大目標であったことに変わりはない。とは言え、大きな戦も終わった今は増えた領地を安定させるのが急務。既に過去の敵となった董卓にばかり構っている訳にもいかない。

 だから捜索のために割かれる兵は、ギリギリの数になるだろう。余裕のあるところでも合計で千人にも満たないはずである。その最大千人で、洛陽から涼州までの主要な道を監視するのだ。いざ董卓が通り、これを捕縛できるようであれば行う。兵を沢山連れていて対応できないようなら、そのまま引き返してくれば良い。元々逃がしてしまった敵である。それをさらに逃したところで連合軍が瓦解してしまった今、それほどの痛手ではない。現在位置を知ることができるだけでも御の字だ。

 そんな博打のような配置であっても、それを突破する董卓軍にとっては大事だ。何しろ寡兵である。呂布、張遼の両将軍がいるとは言え、遠く涼州を目指しながら董卓を守りつつ道を行くのは、難事に違いない。強行に戻ることにもそれなりの危険が伴うのだ。

 さて、と気を引き締めて風は賈詡を見た。

 軍団の最高権力者は董卓であるが、意思決定に一番大きな力を持っているのが眼前の賈詡であるのはある意味周知の事実だ。最終的な意思決定こそ董卓に委ねるだろうが、董卓の意思はふらふらとしている。賈詡が強く主張すればこの問題に関してならば納得するだろう。張遼、呂布は一刀側に大分傾いており、陳宮は呂布に追従する。後は賈詡を抱き込めば詰みなのだ。これを何としても口説き落とすのが、風の役目である。
 
 実際に網を張っているかは解からないが、董卓側にすれば可能性だけでも十分だ。旧連合軍側は当たればいいなくらいの軽い気持ちであるが、董卓側はそれが直撃すればおしまいなのである。涼州までは遠く険しい道が続いている。情勢の緊張している今、そこを寡兵で通り抜けるのは、いかに両将軍を抱えていても危険なことだった。

 安全度を高めるには何か手段を講じる必要があるが、ここから洛陽までの間に信頼のおける仲間がいるとは思えない。それならば賈詡はもっと余裕のある振る舞いをしているだろう。涼州からの援軍を要請するにしても時間が必要だ。強行軍という選択肢を排除する以上、どうしたって援軍がやってくるまでの安全を確保する必要が生まれる。大事な大将の身を任せる訳だから、それは信頼のおける相手でなければならない。一刀はそういう意味では、その条件を満たしているように思える。他に匿ってくれる候補があったとしても、それと秤にかけられる程度には信頼を勝ち得ているはずだ。

 賈詡が腕を組んで沈思黙考する。後一押しだ、と風は確信した。

「涼州に戻る際にはこちらも援助しますよ。涼州までの連絡を待つ間の安全は、風たちの力の及ぶ範囲で保障します」
「それでそちらが得るものはなに?」
「助けられる人は助けるというのが、お兄さんの方針ですから」

 少し偽善的過ぎただろうか、と思いながら風は賈詡の顔を伺う。まさか言葉通りに受け取ったりはしないだろう。風も善意だけでどうにかしようと思っている訳ではないし、賈詡もそれは承知しているはずだ。だが何事にも体面というものがあり、今はそれを使う時でもあった。嘘をつけ! と相手が一言文句を言えば崩れてしまうような危ういお約束ではあるものの、それを踏襲しお互いがお互いの利益を尊重する限り、大抵の話は無難に転がる。

「董卓と相談する時間をもらえるかしら。そっちの出立はいつ?」
「明日にはお暇しようと思っています」
「じゃあ、今晩までに返事するわ。それまで待ってもらえるかしら」
「ええもちろん。お互いにとって、良い結果になることを期待しています」

 椅子から立ち上がった風は、賈詡に握手を求める。賈詡はしばらく風の手を見下ろした後、躊躇いがちにその手を握り返した。























 董卓を口説き落とせと風から指示を受け取った一刀は、その命令を実行しようとした矢先から途方に暮れた。董卓が部屋に引きこもって出てこないのである。会いたい旨を世話係に伝えはしたが、体調が優れないということで取り合ってもらえなかった。伝えるそぶりこそ見せてはいたが、あの分では本当に伝わっているかも怪しい。

 本音を言えば限界まで粘りたかったが、女性が体調不良を訴えているのにそれに無理やり会わせろというのも男のすることではない。第一、一度体調不良ということで突っぱねてしまったのだから、多少のことではこれを翻したりはしないだろう。男で客人である一刀にこれ以上尽くせる手はなかった。

 お大事に、と幾分力ない言葉で安否を気遣う言葉を残し、屋敷の中をとぼとぼと歩く。風たちと対董卓の作戦会議をしたのが昨日の話。明けて今日、朝食を食べた後の時間は董卓と話すことに費やすつもりでいたのだが、引きこもり作戦によってそれもご破算となった。急ぎの用事は他にない。ならば勉強でもしようかと、割り当てられた部屋に足を向けると、庭で寝転がっている一人の少女が目に入った。

 呂布である。芝生の上に身を投げ出した彼女の周囲に、犬猫が思い思いに群がっている。人間を警戒することの多い動物であるが、呂布の周囲にいる犬猫たちは安心しきっているのが一刀にも理解できた。種族を超えた信頼関係がそこにはあった。犬猫とはここまでの道程を一緒に過ごしてきただけに、一刀も暖かい気持ちになる。

 自然と一刀の足は庭へと向いていた。屋敷を出て呂布の近くまで行くと、ぱたぱたとセキトが駆け寄ってくる。そんなセキトを抱き上げ近くまで行くと、呂布は寝転がったまま視線を向けてきた。ガラス玉のような視線に見つめられ、虎牢関で殺されかけた思い出が一刀の脳裏に蘇る。

 あの時は本当に無謀なことをしたものだと、過去の自分を振り返りながら呂布の隣に腰を下ろした。犬猫たちもそろりそろりと一刀の近くに寄ってくる。

「ここは良いところですね」
「広い庭は必要。みんな、走ったりするから」

 呂布の言葉に、一刀は心中で納得する。確かにこれだけいれば、一緒に過ごす家は広大なものにならざるを得ない。土地が余っている田舎ならば確保もそれほど難しくはないが、それをこの時代最も栄えた都市である洛陽でやるともなれば、そこには色々な困難が伴う。幸い呂布には天賦の武があり、その功績で将軍となり家屋敷を確保するにいたったが、もしそうでなければこれだけの家族を洛陽で養うことは難しかっただろう。食事代だけでもバカにならないだろうし、普通の稼ぎでは一緒に暮らすこともままならないに違いない。

「一刀のところは、この子たちは暮らせる?」
「土地に関しては問題ないのではないかと。遊んでる土地も結構あるみたいですから、手頃な物件がなければ自前で何とかできますし」

 豪奢な造りにすると色々と角が立つだろうが、広いだけならばそれほど目くじらも立てられまい。犬猫たちは呂布の言いつけを良く守る。敷地から出るなと一度彼女が言い含めておけば、しっかりとそれを守るはずである。武人としては相当高い地位にいた呂布であるが、家族と自分の食事に関すること以外は驚くほど質素な生活をしていたらしい。内装には無頓着で最低限の手配しかせず、家に客人を呼ぶこともなかったせいで、屋敷にいたのは家族とその世話をする人間だけ。まさに動物屋敷という有様だったというが、国士無双の武人呂布が動物を愛する心根の優しい少女であると言っても、誰も信じなかっただろう。近所に住んでいた人間の中には、そこが呂布の屋敷であると知っていても、この赤毛の少女が呂布であると知らなかった者も大勢いたに違いない。

「それをきいて安心した。セキトも、皆も、一刀は良くしてくれたって言ってる。これからも仲良くしたいって」
「それは光栄ですね。俺も、セキトたちのことは大好きですよ」

 一刀が言うと、その言葉が理解できるのか、セキトが小さく唸りながら身を寄せてくる。動物を身近に置くことにあまり縁のなかった一刀にとって、甘えてくれる動物というのはまさに天使だった。

「お前、かわいいなぁ……」

 ぐりぐりとお腹を撫でると、セキトも気持ち良さそうな声を挙げる。嫌がらない程度に思い切り撫で回すのが、一刀流の可愛がり方だ。ぐりぐり、なでなで、指で手の平でセキトの体中を触り捲くる。そんなかわいがりをセキトは嫌な顔を一つせずに受け入れ、気持ち良さそうに息を漏らしていた。わふー、という気の抜けたセキトの声が一刀の腕を更に大胆に動かした。もはや二人の世界である。

 そのまま何もなければ飽きるまでセキトを撫で回していたろうが、幸か不幸か、その場にはもう一人人間がいた。そのもう一人の人間――呂布はセキトの体を無造作に掴むと、優しく、しかし問答無用に放り投げた。突然のことにセキトは空中で驚きの表情を浮かべたが、流石に天下の飛将軍の飼い犬。空中で体勢を整えるとその四本足で見事に着地する。

 抗議の視線を向けるセキトと唖然とする一刀を他所に、今まさにセキトを放り投げた呂布は何を言うでもなくそのままごろん、と地面に寝転がった、先ほどまでと同じ体勢である。なら何故セキトを……と一刀が混乱していると、寝転がったまま呂布がじーっと視線を向けてきた。ガラス玉のような視線はいつもと変わらなかったが、そこに僅かな期待の色があるのを、一刀は見てとった。

 元々お腹を出した衣装だが、今は更にそれを見せびらかすようにしている。服従を誓う犬のようなポーズだ。あの呂布がそうしていることに、意味の解からない興奮を覚える一刀だったが、その意図を推察して一応の結論を導き出すに至り、本当にそうして良いものかどうか流石に迷ってしまった。

 犬のようにしているのだから、犬のようにしてほしいに決まっている。しかし犬は序列に厳しい生き物だ。生物としての格付けはどう考えても、呂布が上で一刀が下である。それを覆すことは犬でない一刀であっても、激しい抵抗があった。本来ならばこうして近くにいることも恐れ多い存在であるが、その呂布が完全に弛緩した状態で、無防備な姿をさらしている。

 自分の推察が間違いでないのか。考えに考えた一刀だったが、それ以外の予想はできなかった。ふらふらと呂布に歩み寄る。近くにそっと腰を下ろし、そのお腹に指を伸ばし突付いてみた。しっかりとした筋肉の上にほどよい脂肪がついている。雛里のようなぷにぷにしたお腹と比べると幾分固いが、これがこれで良いものだと思った。呂布が抵抗しないことに調子に乗った一刀は、身を乗り出して本格的にお腹を撫で始める。ん、と呂布が小さく息を漏らすと一刀の興奮も頂点に達した。

 これはもう抱きかかえて触り倒すしかない。普段の一刀ならばあの呂布を抱えるなど考えられなかったろうが、今の一刀は正気ではなかった。興奮に浮かされた目で呂布の体を起そうとする。不思議そうな首を傾げる呂布を見ながら身を乗り出し――その時初めて、その声を聞いた。

「ちんきゅー……」

 陳宮は既に一刀めがけて踏み切っていた。その目には隠しきれないほどの殺意が込められている。こちらを蹴り飛ばすべく必殺の威力を込めて折りたたまれた足を見た時、熱に浮かされた一刀の頭はようやく自分の身が相当にヤバイことを理解した。蹴りを受けることは考えなかった。回避するべく動き出す一刀。しかし、興奮に任せて前のめりになってたせいで、急に動き出すことはできない。本人は全速力で動き出したつもりだったが、実際にはただその場で立ち上がっただけだった。

 せめて横に身を投げ出すくらいの判断ができれば違ったのだろうが、頭に上っていた血は正常な判断を下す思考力を完全に奪い去っていた。結果――

「きーっくっ!!!!!!」

 必殺のキックが一刀の胸部に直撃する。身体ごと吹っ飛んだ一刀はそのまま地面を転がり、木に激突することでようやく止まった。そのままごほごほと咳き込む。心臓の真上に食らったせいで、呼吸が困難になっている。甘寧隊で殴られたり蹴られたりしていた経験がなければ、そのまま気絶でもしていただろう。心中で思春に感謝しながら、痛む身体を堪えつつその場に立ち上がる。

「まだ生きてやがったのですか、このちんこ県令!」
「そこそこに討たれ強いのが自慢でして……」
「ならばそこに直るのです。今度こそその息の根を止めてやるのです!」

 小さい身体を存分に使って、怒りを表現している陳宮。怒りの根は深そうだ。今の今まで自分のしていたことを振り返れば、彼女の怒りも理解できるだけにかける言葉が見当たらない。興奮の収まってきた頭が、ようやくことの重大さを理解し始めていた。対応に困って呂布の方を見るが、かの飛将軍は小首を傾げるばかりである。その仕草は実にかわいらしかったが、今はその可憐さに見とれている場合ではなかった。色にボケたままの頭では、このまま亡き者になれる公算が高い。

 身体の中の熱を追い払うように、一刀は大きく息を吐いた。気持ちを落ち着ければ何か名案が浮かぶかと思ったが、何も浮かばない。そもそも欲望に負けて女性の腹部を撫で回していたことは事実なのだ。一応合意の上というのが救いではあるのだろうが、そんなものは陳宮の前には関係ない。

「ちんきゅ、待つ」

 気が済むまで蹴られることを半ば覚悟した時、ようやく呂布から助け舟が来た。

「恋殿とめないで下され。このちんこを、今ねねが退治するのです!」
「かずとは悪くない。セキトみたいにお腹触られるの、くすぐったいけどきもちいい」
「恋殿は優しすぎるのですぞ! こうなっては蹴り殺すのも生ぬるいのです。洛陽にいた時の書物を引っ張りだして、このちんこを腐刑にせねば……」

 ちなみに腐刑というのは、ちんこをそぎ落とす刑罰のことである。去勢とも言う。死刑よりも重い刑罰というが、合意の上でお腹を触っただけでそれは流石に重過ぎるのではないか、とは口が裂けても言えない。余計なことを口にすれば、その瞬間に閃光のような蹴りが飛んでくるのは目に見えていたからだ。沈黙は金である。

 がみがみと言い募る陳宮に、淡々と答える呂布という構図が続いた。軍師らしく陳宮の論は実に整然としていたが、呂布は呂布で必要なことだけを端的に口にしてそれに応じた。議論というほどのものではなかったが、その趨勢は徐々に呂布の方に傾きつつあった。陳宮の呂布に対する忠誠というか懐きっぷりは一刀の予想以上だったらしく、彼女は基本的に呂布の言うことを聞くようにできているらしい。怒りこそ収まってはいなかったが、いつの間にか腐刑の危機は過ぎ去っていた。足腰が立たなくなるまで蹴り飛ばされるくらいで済みそうである。

 なんだ、それならよし、と一刀が安心して抱えたセキトを撫で回していると、不意に呂布がこちらを向いた。その視線は一刀の顔から腕の中のセキトに向けられる。

「立て込んでおられるようですし、俺はそろそろ失礼しようかと思うのですが……」

 どうでしょう、と呂布が余計なことを言い出す前にそれを口にした。陳宮としてはまだまだ言い足りないだろうが、視界から邪魔者を消す方が優先とでも判断したのか、仕草だけで『さっさと行け』とやった。腕から降ろすとセキトが名残惜しそうな声をあげる。それに後ろ髪を引かれるような思いはしたが、今はわが身の方が少しだけ可愛い。呂布と陳宮に頭を下げて、その場を後にする。

「恋殿。何をなさるのですか!」

 一刀の背中に、陳宮の悲鳴が届いた。どこか喜んでいるような、期待に満ちたその声音に振り返りたい欲求に駆られたが、今まさにそれで身を滅ぼしかけたのを思い出し泣く泣く自重した。


















「月、お待たせ」