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[19836] 【異世界トリップ・建国】黄金の帝国【完結】
Name: 行◆7809557e ID:4f0990fa
Date: 2020/12/25 19:28
「黄金の帝国」




 まえがき





○本作は2010年から2011年にかけて投稿し、一旦完結しましたが、改訂前版の反省を踏まえて今回全面改訂・リメイクをすることにしました。

○大筋に変更はありませんが、地名人名設定展開等かなりの変更があります。混乱の元ですので、改訂前版のことは忘れて読んでください。

○序盤はあまり変わりませんが途中からはほぼ一から書き直しています。

○本作は「小説家になろう」にも投稿しています。




〇電子書籍出版に際しての連絡用メールアドレスです。
 asou.yuki.ougonteikoku@gmail.cpom



[19836] 第一話「奴隷から始めよう」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/11 21:37





 黒井竜也くろい・たつや、一七歳。二ヶ月前までは××県の高校二年生。現在は、奴隷である。







「黄金の帝国」・漂着篇
第一話「奴隷から始めよう」







 太陽は黄金のように明るい光を放ち、雲は新雪のように白く輝いている。海はサファイアのように碧く燦めいていた。産業活動に一切汚染されていない美しい海と自然、それに夏の日差し。竜也はそれを全く他人事のように虚ろな表情で眺めていた――ガレー船の船体と櫂の間のわずかな隙間から。
 板子一枚下は地獄、と昔の船乗りはよく言ったそうだが、竜也の乗るガレー船は板の上こそが本当の地獄である。天井が低く狭苦しい船倉に数十人の男が押し込められている。全員身にまとっているのはボロボロの腰布一枚だ。足を鎖でつながれ、逃げることもできない。眠るときも座ったままで、大小便は垂れ流し。この目も開けられないような悪臭の中で食事もせねばならず、一日一回出される食い物はカビまみれのパン切れや半ば腐った干し肉だ。
 竜也の同僚等、つまり櫂の漕ぎ手だが、彼等のほとんどは白人で、ごく一部に中東系の白人や黒人の姿が見受けられた。彼等がしゃべっているのは竜也が今まで聞いたことのない言語だった。竜也は何度か英語による意志の疎通を試みたのだが、全くの徒労で終わっていた。それでも二ヶ月も彼等とともに櫂を漕いでいれば、必要最低限の単語は覚えるようになる。

「פדאל מהר!」

 赤ら顔の鬼のような船員が船倉に降りてきて、「もっと早く漕げ」と怒鳴っている。

【ころすころすころすころす……】

 竜也は小さく念仏を唱えるように悪態をつきながら、櫂を持つ手に力を込めた。

(くそっ……! 俺の中に眠る『黒き竜の血』が目覚めさえすれば! こんな船一撃で沈めて、あいつは八つ裂きにして、生まれてきてごめんなさいと言わせてやって……今目覚めないでいつ目覚めるんだよっ!)

 竜也は「黒き竜の血」を目覚めさせようと懸命に精神を集中するが、それが目覚める気配の欠片すら感じられなかった――まあ、「竜の血」などただの脳内設定なのだから当然だが。







 竜也が奴隷の身に落とされ、ガレー船の漕ぎ手となってすでに二ヶ月が経過している。
 二ヶ月前まで竜也は普通の高校二年生だった(その性格はともかくとして)。日本に百万人はいそうな平々凡々な高校生に過ぎなかったが(その内面はともかくとして)、それでも奴隷扱いされるような理由は全くなかったのだ(……多分)。

 二ヶ月前の夏休みのその日、竜也はクラスメイトと一緒に海水浴を楽しんでいた。
 お調子者の悪友はナンパを試みてことごとく失敗し、別の友人はクラスの女子生徒と良い雰囲気を作っている。竜也は一人浮き輪に乗って波に揺られながら、

【……ここで溺れて生命の危機に陥ったら、俺の中に眠っているかもしんない『黒き竜の血』が目覚めたりしないかなー】

 等と、たわけた妄想に浸っていた。もちろん竜也も「黒き竜の血」が自分の空想の産物でしかないことは百も承知だ。実際竜也はその空想を外部に示したり、他者に明かしたりしたことは一度たりとてない。両親や級友からの竜也の評価は「物静かで思慮深い読書少年」というものだった。
 だが竜也は、こうして波に揺られつつのんびり哲学でも思索しているように見えながら、その実真剣に考えていたのは「死なない程度の溺れ方」だったりする。
 そうやって、一七歳の夏休みという燦めくばかりの青春の一時をどぶに捨てるみたいな過ごし方をしていた竜也だが、浮き輪が潮に流されて思ったよりも沖合に出てしまったことに気が付いた。竜也は慌てて浜に戻ろうとする。
 そのとき何が起こったのか、竜也には今でもよく判らない。最初は不意に竜巻が現れ、それに巻き込まれたのかと思っていた。急に周囲が暗くなったかと思うと吸い上げられるように身体が宙に浮いて、巨大なミキサーにかき回されたかのようにもみくちゃにされたのだ。散々振り回された挙げ句に渦からはじき飛ばされ、長々と宙を飛んで、再び海に飛び込んだ。何が何だか訳が判らないまま這うようにしてどうにか海岸に上がってみると、そこは竜也の知る場所ではなくなっていたのである。

【……何? ここどこ?】

 竜也は唖然として周囲を見回す。先ほどまでは砂浜にいたはずなのに、上陸した場所は見たこともない港になっていた。粗末な石造りの桟橋があり、多くの船が並んでいる。船は帆船やガレー船、渡し船のようなボートばかりで、エンジンの付いた船が一隻も見あたらない。道路は舗装されていない砂利道で、行き交う車は馬車か荷車ばかりで自動車は一台も見つけられない。周囲の建物は粗末な木造の平屋が多く、一部に石造りの建物が混じっている。竜也の姿を見て不思議そうに騒いでいるのは白人ばかりで、日本人は一人もいない。

【あの海の近くにこんなところあったっけ? タイムスリップでもしたって言うのか? そんな設定考えたことないぞ】

 竜也が状況を理解できずに呆然としている間に、お城の衛士のような姿の官憲がやってきて竜也を拘束。特に抵抗せずに捕まった竜也は簡単な尋問の後(互いに言葉が全く通じないことが確認されただけで尋問は終了した)牢屋にぶち込まれた。そして次の日にはガレー船に乗せられ、以降櫂を漕ぐだけの日々が続いている。

 ガレー船に乗せられる前に唯一身に付けていてた海水パンツを取り上げられそうになり、竜也は抵抗した。が、船員の一人に棍棒で歯が折れそうなほど殴られ、皮膚が裂けるほど鞭打たれて抵抗をやめた。現実を受け入れた。
 自尊心とかヒューマニズムとかいう概念は綺麗な箱にしまって棚の上に片付けて、竜也の身体はただ生き長らえることだけを目的とした機械と化した。身体が現実を認めて苦痛に呻吟し、汚辱にまみれて櫂を漕ぐだけの日々を送り。その一方精神は身体から切り離され、身体の様子を全くの他人事として、俯瞰するように見つめている。
 要するに現実逃避の一種なのだが、そうでもしなければ彼の精神は三日と持たなかっただろう。そして精神につられて身体の方もとっくの昔に死んでしまっていただろう。――ただ、現実から切り離された精神は中二病が重篤にまで進行しているのだが。

 だが、精神的にはともかく身体の方は物理的な限界を迎えつつあった。必要最低限のカロリーも満足に補給できないまま劣悪を極めた環境で過酷な労働を強いられる状態が、すでに二ヶ月も続いている。竜也の隣に座っていた男が櫂を動かせなくなり、船員に引きずり出されて海に投げ捨てられたのは昨日の話である。竜也が同じ末路をたどるのも時間の問題――具体的には、早ければ残りあと数日の話だった。

【とにかく、早くここから逃げ出さないと】

 妄想で現実に復讐して多少なりとも気晴らしをした竜也は、今は過酷な現実を見据えた思考を進めていた。足をつなぐ鎖の目の弱そうな場所を選び、垂れ流される小便をなすりつけ、櫂を漕ぐのに合わせて床に擦りつけ続けてきた。二ヶ月間のその地道な努力が実を結び、鎖はちょっと力を入れればすぐに千切れそうである。
 後は逃げるタイミングだけなんだが、と竜也は船体の隙間から外を見、息をとめた。

(陸地――!)

 鬼のような船員がまた船倉に降りてきて、焦った様子でさらに怒鳴る。

「דרום ליד !בשורה משוטים מהר!」

 細かいことは判らないが大体のニュアンスは判った。「敵国の近くまで風で流されてしまった、もっと早く櫂を漕げ」というところだ。
 竜也達のガレー船は、東の中心地から西の国境沿いの町に食糧や物資を運ぶ仕事をしているようで、今は国境沿いから中心地への帰り道である。急いで中心地に戻るために夜も帆を張って航行していたのだが、方向を間違えたようで敵国のすぐ近くまで流されてきてしまったらしい。

(今しかない)

 竜也は脱走を決意した。竜也達にとっては鬼にも等しい看守のような船員が、姿も見せない「敵」に怯えている。船員だけでなく、竜也の同僚の多くも同じように「敵」の影に怯えていた。皆いつになく協力的に櫂を漕いでいる。

(今しかない。『敵』のところへと脱走する奴がいるなんて、誰も考えてない)

 竜也にとっては彼等が何をそんなに怯えているのか全然理解できなかった。あるいはそれはただの無知の産物なのかもしれない。だが「敵」がどれほど凶悪だろうと、逃げ込んだ先でまた奴隷にさせられようと、この糞そのものの船倉でこのまま息絶えるよりは何倍もいい。
 竜也は櫂から手を離し、両足を持ち上げて鎖を櫂に引っかけた。そして両手両足の全ての力を、全体重を鎖へと集中させる。鉄鎖の砕ける澄み切った音が船倉に響いた。
 船員も含めた一同が唖然としている間に竜也は走り出す。船員が慌てて竜也を捕まえようとするが、竜也は腰に巻いていたボロ布を使って船員の視界を塞いだ。船員の腕が空を切る。船員の横をすり抜けた竜也は足を振り上げ、踵を船員の側頭へと叩き込んだ。船員は崩れるように両手両膝を床につく。
 たった数秒の行動で、竜也は体力の九九パーセントを使い果たしたかのようだった。船員が頭を押さえてうめいている間に、竜也は梯子を上がり甲板へと身を乗り出す。他の船員が事態を把握できないうちに、竜也はそのまま転がるように海へと飛び込んだ。数拍の間を置き、竜也は海面へと顔を出す。竜也の身体はあっという間に潮に流され、ガレー船から遠ざかっていく。ガレー船の甲板では船員が竜也を指さし、何やら騒いでいた。

【あははははは!】

 この二ヶ月間のあらゆる汚辱や屈辱が、冷たい海水に洗い流されていくかのようだった。竜也は一七年間の中で最大級の歓喜を爆発させた。残された体力の全てを笑いの衝動につぎ込んでいく。

【あはははははははは! ざまーみやがれ! 思い知ったかー!】

 潮に流されて見る見る陸地が近付いていく中、完全に体力を使い果たした竜也は急速に睡魔に捕らわれつつあった。眠るにしても上陸してからにしたかったのだが、到底それまで保ちそうにない。

【あ、まずい】

 あるいはこのまま溺れ死ぬかもしれない、そう思いながらも、竜也はそのまま睡魔に身をゆだねる他なかった。竜也の意識は滑り落ちるように暗くなっていった。







 竜也は小さな漁村に漂着し、そこの村民に拾われた。
 スープを飲ませてもらい、餓死寸前の身体に栄養を補給。井戸端で何度も身体を洗って二ヶ月分の垢と汚れを削り落とし、粗末ながらも衣服をもらってようやく人心地ついた。貧しいながらも人情に厚い村人達の対応に、竜也は涙を流して感謝した。竜也は数日の間はゆっくり休み、体力の回復に努める。その後、身振り手振りで何とか意思の疎通を試み、薪割りや薪拾い、田畑の耕作等の雑用をするようになった。
 人間らしい生活を送るうちに、二一世紀の現代人らしい思考も回復するようになる。

【今はいつで、ここはどこなんだ?】

 竜也はガレー船の漕ぎ手をしていたときに火縄銃らしき銃器を運んだことがある。それに教会の尖塔と思しき建物を見たこともあったから、ここは中世のヨーロッパなのだろうと漫然と考えていた。陸地が北にあり、南が海。温暖な気候から考えて、場所は地中海だと思っていた。

【そうなると、陸地が南で北に海のこの場所は北アフリカ、ってことになるんだけど……】

 実際、漁村の住民は黒人系に属する人々だったし、住民の衣服や竜也がもらった衣服もヨーロッパのそれとはちょっと違うエキゾチックな物である。だが、中世の北アフリカであれば絶対にあるべきものがここには存在していない。

【これがこの村の宗教施設……なのかな】

 竜也は自信なげに首を傾げた。薪拾いの道中、竜也が立っている前には石造りの小さな建物――と言うよりは祠がある。石造りではあるが、雰囲気には日本の神社を想起させる。大きさは二メートル四方ほど、窓はなく正面に両開きの扉があるだけだ。扉の上部には、真ん丸が両側に翼を広げている紋章が彫り込まれている。
 その祠の前を通りかかったある村人はその祠へと会釈するように軽く頭を下げ、別の村人――肌も露わな若い女性は目にも留めない様子で通り過ぎた。乳児を抱えた老婆は長々と祈りを捧げ、その後同じように集まってきた村人達と世間話に興じている。
彼等の宗教が何なのかは竜也にはよく判らないが、原始的なアニミズム、またはそこから発達したもののように見受けられた。少なくとも村民がイスラム教徒でないことだけは間違いない。
 竜也の頬に大粒の雨が当たる。竜也は空を見上げた。

【――夕立か】

 竜也はその祠で雨宿りをすることにした。雨はただの通り雨のようで、勢いよく降ってすぐにやんだ。竜也の周囲には大地を埋め尽くすように草木が生い茂っていて、雨粒に濡れた緑の葉がエメラルドのようにきらきらと輝いている。

【暑さにしたって日本の夏とそれほど変わらないし、砂漠どころか砂なんて海岸に行かないと見られない。ここは本当に北アフリカか?】

 村の様子は竜也の知識の中にあった北アフリカの姿とはあまりにかけ離れていた。だが竜也とて実際の北アフリカに行った経験はないし、地理の専門家でもない。

【単に俺が知らなかっただけで、北アフリカにもこんな場所があったってことか? それともここは地中海じゃなくて、インド洋とか大西洋とか? でも、北側の町はただの植民都市じゃなくてヨーロッパの町そのものとしか思えなかったし】

 決定的に情報が足りない中で、悩んでいても結論は出ない。そのうちに思考は明後日の方向へと流れていく。

【もしかしたら過去の地球じゃなくて平行世界、異世界かも】

 よくよく思い返してみれば、北側の陸地で見かけた教会の尖塔の上に立っていたのは、十字ではなくT字だったような気がする。見かけたのがガレー船の中から陸地を見たときで、遠かったので断言はできないが。

【今ならあの距離でも見えると思うんだけどな。すごいね人体】

 日本にいた頃は近視のためずっとコンタクトレンズを使っていたのだが、気が付いたら視力が矯正されており裸眼でも不自由のない状態になっていたのだ。ガレー船ではずっと海を、遠くを見ていたのが功を奏したのだろう。
 だが、満ち足りれば次がほしくなるのが人間というもので、

【異世界トリップならデフォルトで言葉が通じるようにしてくれればいいのに。あと、この身に宿っているはずのチート能力もさっさと目覚めてくれ。具体的には『黒き竜の血』】

 竜也は薪拾いをしながら愚にも付かない妄想を弄んだ。

【現代知識を生かして金儲けや内政をするにしても、とにかく言葉が通じないことにはどうしようもない!】

 経過はともかく、出てきた結論はそれほど間違っていなかった。竜也は積極的に村民に話しかけて言葉を覚えることに注力した。







 そんな調子で半月ほど経過し、村の生活にも大分慣れてきた頃。二人の男が竜也の前に現れた。

「האם הילד הזה?(この子に間違いないんですか?)」

「נמלט האיש הזה מ שלנו(ああ、俺達のところから逃げたのはこいつだ)」

 竜也の肌が粟立った。村民の一人に案内されて竜也の前にやってきた男達は、嫌な雰囲気を漂わせていたのだ。竜也の身体はその感覚を覚えていた。暴力で他者を従わせること、踏みにじることに疑問を抱かず、むしろ悦びを抱く者――ガレー船の船員等と全く同じ気配である。

【――っ】

 竜也はその場から遁走しようとする。だが男達の方が早かった。竜也の逃げようとする先に回り込んだ男は、剣を竜也へと突きつける。竜也は逃亡を断念する他なかった。
 結局、竜也は腕を縄で縛られ、男達に引きずられて村を去っていくこととなった。村人達はそんな竜也を気の毒そうに見送る。一方の竜也は、

【あーる晴れたーひーる下がりー】

 自棄になってドナドナを歌う竜也を、男達は不気味なものを見るかのような眼で眺めた。
 竜也が連れられて移動した先には小さな帆船があった。竜也はその帆船の船倉の牢屋へと入れられる。牢屋には何人かの先客がいた。竜也が入れられたのは男だけの牢屋だったが、女だけの牢屋も別にあるようだった。女性や女の子のすすり泣く声が漏れ聞こえてきている。

【そーじゃないかと思っていたけど……】

 竜也を拘束したのは、以前のガレー船とは全く無関係の連中のようだった。奴隷商人には違いないようだが。
 おそらく、どこかで竜也のことを耳にして「この男は我々のところから逃げ出した奴隷だから返してもらう」等と適当なことを言って漁村の村民を騙したのだろう。村民に多少の謝礼を払っても、普通に成人男子の奴隷を手に入れるよりは安上がりなのだろう。

【状況は理解した、あとはとにかく逃げるだけだ】

 ガレー船のときと比較すれば気力体力ともに充実しており、条件は遙かに良い。竜也は身体を休め、静かに機会を伺った。







 その機会は意外と早くやってきた。
 竜也は日中も座るか寝るかして体力の温存に勤めた。何日かは何事もなく過ぎ、また夜がやってくる。その夜、竜也達を乗せた帆船は港から若干離れた沖合に停泊。竜也は船員に連れられ、すぐ隣に同じように泊まっている別の帆船へと移動させられていた。
 移動先の帆船はマストが二本、帆の数は四、五枚。大きさは二、三〇メートルはあるだろう。竜也だけではなく、幾人かの奴隷が同じようにその別の帆船の甲板に連れてこられているし、さらにまた違う帆船からも奴隷がやってきている。甲板には柄の悪い船員が充満しており、その中央にはボスと思しき男が偉そうに椅子に座っていた。
 そのボスに対し、竜也を漁村で捕まえた男二人が竜也を見せ示しながら何かをアピールしている。どうやらこれは、「商品」の仕入れ具合を部下達がボスに報告する会のようだった。なお竜也は知らないことだったが、中性的な顔立ちで珍しい色の肌をした竜也は、かなり高い商品価値を認められていた――男娼として。
 竜也に続いて数組の奴隷がボスへと紹介され、報告される。竜也は他の奴隷とともに甲板の片隅に押しやられた状態でそれを見つめていた。借金の形に売られたと思しき姉妹には船員から好色に満ちた視線が注がれ、姉妹はすすり泣く。竜也はその場で唾棄したかったが、何とか我慢した。

 そうして報告会は順調に進んでいき、とりを飾るのはこの組織の幹部と見られる男、その男が横に連れている少女だった。体格から見て少女の年齢は六、七歳。身にしているのは長袖の白いワンピースだ。上等そうなワンピースにはフードが付いていて、少女はフードを深々と被って顔の上半分を隠していた。そして、

【……ウサ耳?】

 フードの頭頂部には二つの穴が空いていて、そこから飛び出ているのは二本の兎の耳だ。竜也はあっけにとられてその少女を、そのウサ耳を見つめる。
 幹部の男はもったいぶった態度でボスへと一礼し、鞘に入れたままの剣を使って少女のフードをめくり上げた。声にならない驚きが甲板を満たす。

 幼いながらも美しい少女だったが、それだけではない。その少女は雪のような白い肌とルビーのような赤い瞳を持っていたのだ。作り物めいた、人形みたいに整った顔立ちに加え、その肌と瞳の色が少女の有り様をまるで幻想のように思わせていた。竜也は夢を見るかように少女を見つめ続けている。
 髪の色合いも薄い灰色で、おかっぱに近いショートヘア。その髪の上に兎の耳を生やしている。とは言っても本当に獣耳が生えているわけではなく、アクセサリーの一種のようだった。ウサ耳を付けたカチューシャを髪の中に隠しているのだろう。
 少女は柄の悪い船員に取り囲まれても動揺一つ示していない。まるで路傍の石を眺めるかのような冷たい目を周囲へと返すだけだ。大の大人ばかりの船員等が逆に気圧されたように沈黙した。
 小さな少女は傲然とボスへと向き合う。少女の横には幹部の男が立ち、自慢げに少女をアピールした。ボスは感嘆のため息をついた。

「זהו……(これは、白兎族の娘か)」

「חטיפה……(はい、ルサディルの豪商が飼っている娘を誘拐してきたものです)」

「שמועה……(噂には聞いたことがある。『悪魔』と呼ばれているというあの娘か)」

「כן……(その通りです)」

 これは高く売れそうだ、とボスと幹部は嫌らしく嗤い合った。
 そのとき、いきなり少女が幹部の腕を掴む。反射的に少女に向いた幹部の視線と、少女の視線が空中でぶつかった。

「להרוג……(近いうちにボスを殺し、自分がボスに成り代わるつもりでいる)」

「אתה!(貴様!)」

 幹部は力任せに少女の腕を振り払う。少女は甲板に倒れたが、倒れたまま幹部を嘲笑して見せた。

「רעל……(毒を使って殺すつもり。もう用意していて、梁の上に隠している)」

「אתה……(貴様! 適当な嘘を――!)」

 幹部は剣を振り上げ、少女を斬ろうとした。だが竜也が幹部に体当たりし、諸共に倒れる。竜也は素早く立ち上がり、少女を背に庇う位置に移動した。

(うおお??! 何やってんだよ俺?! 殺されるじゃねーか!)

 少女を助けるために身体が勝手に動き、結果として九割方殺されるだろう状況に陥ったことに、竜也は大いに混乱している。今まで何度か似たような真似をして痛い目に遭ってきたとは言え、今の危険の度合いはこれまでとは桁違いだ。

(うぉぉぉっっ! 目覚めよ『竜の血』! 速やかに目覚めてくださいお願いします!)

 惑乱し妄想へと現実逃避する竜也だがそんな内心はおくびにも出さず、毅然と幹部の前に立ちはだかっていた。少女はそんな竜也の背中を驚きとともに見つめている。
 幹部は竜也と少女をひとまとめに斬り伏せようとした。だが、

「חכה(待て)」

 ボスが幹部を止める。ボスは冷たい殺意に満ちた視線を幹部へと向けた。

「שקר……(ボス、こんな子供の嘘を信じないでください)」

 幹部は笑って誤魔化そうとするが、失敗した。嫌な沈黙と緊張がその場を満たす。脆くも絶妙のバランスの上に成立した、静止状態。それは外部からの衝撃によって崩された。

「אויב――!!」

 見張りの船員が何かを叫ぶ。見張りが指し示す方向には、髑髏の旗を掲げた一隻のガレー船が。そのガレー船はこの船の目と鼻の先まで迫っており、この船の横腹に衝角を向けて猛然と突進してきている。
 驚きのあまり全員が硬直している中、竜也だけが動き出していた。小柄な船員の一人に目をつけ、跳び蹴りを食らわせる。倒れた船員の持っていた短刀を拾い上げ、それを兎耳の少女に手渡した。少女は手早く竜也の腕を縛っていた縄を切る。
 竜也は右手に短刀、左手に少女の手を掴み、甲板の端へと走っていく。短刀を出鱈目に振り回して周囲の船員を避けさせ、ガレー船がこの船に激突するのとタイミングを合わせ、甲板を蹴って海に飛び込んだ。
 短刀は惜しかったが、邪魔だったので捨てた。少女を背負うように首に捕まらせ、夜の海を泳ぐ。途中、衝突で船から転がり落ちた見られる木の樽を発見。それを浮き輪代わりにできたため泳ぐのが大分楽になった。
 そのガレー船の正体は判らないが、髑髏の旗を掲げている以上穏やかな相手ではないだろう。そう判断した竜也は陸地まで泳ぐつもりでいた。だが、

【え、何?】

 首に捕まっている少女がしきりに陸地の反対側を、ガレー船の方を指差した。

【あの船に行けって言うのか?】

 少女は大きく頷く。竜也は多少迷ったものの、

【方向を間違えるかもしれないし、潮に流されるかもしれないし、陸地まで体力が持たないかもしれないし】

 いくつか不安があったこともあり、結局少女の言葉を容れてガレー船へと接近した。それほど近付かないうちにガレー船の船員が竜也達を発見、二人の身柄は髑髏のガレー船に確保されることとなった。
 甲板に上げられた二人には、海水をぬぐうためのタオルらしき布切れが渡された。竜也も少女も乱暴に扱われることなく、拘束されることなく、船長と思しき人物の前へと引き出された。

【うん、ここは過去の地球じゃない。異世界だ】

 船長と思しき人物の姿に、竜也はそう確信した。この船の船長は、中東系白人と黒人の中間くらいの肌の色の大男。半裸の身体は無駄のない鋼のような筋肉に覆われていた。頭部は真ん中を残してきれいに剃り上げられた、モヒカン刈りと言われる髪型。ただしモヒカンにはサメか何かの背鰭を模した冠り物をかぶせている。しかも背鰭の向きが前後逆なのでウルトラマンエースみたいになっていた。
 周囲を見れば、この船の船員の三割くらいは船長と同じ髪型だ。この、世紀末には救世主に指先一つでダウンされられそうな船員達が一方的に奴隷商人の帆船を蹂躙し制圧し、この時点で既にボスや幹部や船員の身柄を拘束し終えていた。

「נסיכה……(お嬢がルサディルのラズワルド、で間違いないですな)」

 船長の問いに、少女が無言で頷く。

「בקשה……(アニード商会の依頼でお嬢を助けに参りました。青鯱族のガイル=ラベクです)」

 ラズワルドと呼ばれた少女が少しだけ目を見張った。彼女が抱いた驚きと疑問を察し、ガイル=ラベクが説明する。

「זה הם……(あの連中にはあちこちから懸賞金が懸けられていて、あの連中の後を追ってルサディルを訪れたんです。そこでアニード氏から仕事を依頼されたんですよ)」

「באמת(そう)」

「בכל אופן……(とりあえず今日のところは客室で休んでください。数日中にはルサディルに返せるでしょう)」

「נמצאו החוצה(判った)」

 ラズワルドは船員の一人に案内され、船倉へと向かう。彼女は当然のように竜也の手を引き、一緒に移動した。竜也は戸惑い周囲を見回すが、助け船を出してくれる者はどこにもいない。竜也は彼女の手を振り払うこともできず、そのまま彼女と一つ部屋で一夜を明かし、さらに数日を共に過ごすこととなった。







 そのまま一生のほとんどを一緒に過ごすことになるとは、この時点では当然ながら想像もしていない。




[19836] 第二話「異世界のでの生活」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/11 21:40

 一隻の船が海を征く。その帆船は戦闘時には船の両舷から櫂を出して漕ぐが、巡航時はマストに帆を張って進むようにできていた。今はマストに白い帆を張っている。
 船の後部には大きな旗を掲げており、黒地に描かれているのは白い髑髏だ。髑髏の図柄は単純というか、稚拙な印象のものである。絵が得意な竜也は「俺に描き直させてくれないかな」等と考えていた。







「黄金の帝国」・漂着篇
第二話「異世界での生活」







 竜也とウサ耳の少女を乗せた髑髏の帆船は一旦東の港町に向かい、そこで奴隷商人等を別の船に引き渡した。どうやらもっと東の大きな町まで連行し、そこで裁判にかけるらしい。その上で船は西へと向かい、竜也も状況に流されるまま乗船していた。
 竜也は船室のベッドに腰掛け、ぼけっとした様子で物思いに耽っている。その竜也の足の間には兎耳の少女がすっぽり収まり、横座りになっている。少女は竜也の胸に半身を預けていた。その光景は、少女の年齢がもっと上ならば「愛し合う恋人の図」となるだろうが、現状では「兄に甘える幼い妹の図」がせいぜいだった。
 少女の身体からはわずかながら汗の臭い、そして蚊取り線香のような強い香りが漂っている。竜也の身体も同じ香りを放っていることだろう。最初に抱きつかれたときにその香りを嗅いで、

(何だろう、これ。この子の香水か? あ、俺の身体汗臭いんじゃないか)

 等と思っていたら、竜也から離れた少女が何かの壺を持ってきて差し出したのだ。見ると、その壺に入っているのは油のようだった。
 少女がその油を少し手に取り、首筋や手首足首に塗っていく。少女の視線で促されて竜也はその真似をし、自分の身体を蚊取り線香の香りで包んだ。

【香油か。臭いからして虫除けの効果もあるのかな?】

 最初はその臭いに閉口していた竜也だがすぐに鼻が慣れた。マラリアのような悪質な感染症をこれで防げるのなら文句のあろうはずもない。

 今、竜也の目の前では作り物のウサ耳がゆらゆらと揺れていて、竜也はそれを見るともなく見つめている。

(多分この子は良いところのお嬢様で、あの奴隷商人等に誘拐されたんだろうな。で、実家の依頼を受けてあのモヒカンが助けに来た。実家は西の方にあって、もうすぐそこに到着するところ、と)

 竜也はラズワルドという名の少女についてそのように推定した。腕の中の彼女が微妙そうな表情をしていることに、竜也は気付いていない。

(で、何でかこの子に懐かれた俺もこの子の実家に向かっている、と。まあ行く当てがあるわけじゃないから助かってるけど。仕事とか生活のこととか、この子の実家で色々助けてもらえるかも知れないし。でも、行く当てのない奴隷一人を子供が勝手に拾って連れて帰るのって、問題にならないのか? それとも問題にならないくらいにこの子の立場が凄いのか?)

 竜也が首をひねる一方、ラズワルドはふるふると首を振っていた。

(……それにしては船員の態度がいまいち変なんだけどな)

 ラズワルドは船員等から露骨に避けられていた。潮風を浴びるため甲板に上がったときは、竜也達の周囲から人がいなくなった。船の通路を歩いていると、船員等は曲がれ右をして姿を隠す。やむを得ずすれ違うときは、巨漢の船員までもが息を潜めて身体を縮めるような有様だ。豪放磊落を絵に描いたような船長のガイル=ラベクすらが、彼女に対しては事務的な、隔意ある対応に徹していた。

(それが、こんな小さな女の子に接する大人の男の態度かよ)

 と竜也は義憤を抱いた。ラズワルドは「うんうん」と頷いている。

(アルビノだから忌まれているって感じでもなさそうなんだけどな、よく判らん。こんなに綺麗で可愛いのに。成長したら物凄い美人になるだろうな)

 竜也は一〇年後のラズワルドの想像図を脳裏に思い描いた。グラビアモデル並みにグラマーで、バニーガールの格好をしていて、扇情的にしなを作っているのは竜也の趣味である。ラズワルドは恥ずかしそうに赤面して竜也をにらんだ。

(多分、実家に戻っても周りの態度はあんなのなんだろうな)

 周囲に忌避されるのは、彼女にとっては多分いつものことなのだろう。あるいは両親や肉親からも充分に愛されていないのではないかと思われた。
 竜也は腕に力を込め、少女の身体を抱き寄せた。ラズワルドは仔猫のように頬を竜也の胸にすり寄せる。少女の表情は大して動いていないが、それでも嬉しそうな雰囲気は察することができた。
 竜也の胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。

(うん、これは父性愛だ。父性愛に違いあるまい。俺はロリコンじゃないしな)

 竜也は自分の中に唐突に生まれた感情に戸惑いながらも、そう理屈づけた。
 竜也達二人は初日の夜に一つの客室に案内され、小さなベッドで身を寄せ合って一夜を明かした。ラズワルドがもう何歳か年上なら竜也もそんな不作法な真似はしなかったろうが、彼女の印象は幼稚園に通っている親戚の女の子と大差ない。彼女も嫌がるような様子を見せなかったので、遠慮なく同衾したのだ。
 以降、ラズワルドは竜也にべったりぺったりぴったりくっつき続けている。歩くときは手をつなぎ、座るときは膝の上。暇なときは背に乗り、眠るときは腕の中だ。正直ちょっと鬱陶しいときもあったが、愛情とスキンシップに飢えた子供にできるだけのことをしてあげようと思っていた。
 その代わり、ラズワルドは竜也にこの世界の言葉を教えていた。この時点の竜也は一つでも多くの単語を覚えることに力を注いだ。彼女はあまり口数が多い方ではないが、教師としては優秀だった。部屋の中にある物の名詞から始まり、基本的な動詞をゲームやクイズのような形式で教わり、覚えていく。竜也はこの数日でかなりの数の単語を習得していた。
 そうやって一日の大半を船室で過ごすこと数日。竜也は西の港町に到着しようとしていた。窓の外、水平線の彼方に陸地を見出した竜也は、「あー、うー」と何か言いたげに、しきりに陸地を指差した。

「זה העיירה……(あれはルサディルの町)」

「るさでろ?」

「ルサディル」

 竜也の発音をラズワルドが訂正する。竜也は「ルサディル、ルサディル」と正しい発音をくり返した。その発音を覚えた竜也がまた何か言いたげにする。ラズワルドは先回りして、

「בהגיעם בקרוב(もうすぐ到着する)」

「べくぅれう゛?」

「בקרוב」

 竜也は上を指差し、「れまあらあ」と片言で意志を伝える。ラズワルドは、

「סיפון……(甲板に上がるのね。行きましょう)」

 と竜也の手を引き、部屋の外に出た。
 連れ立って通路を歩きながら「それにしても」と竜也は思う。

(こんな片言で言いたいことのほとんどを、言ってないことまで理解してくれるんだもんな。恐ろしく察しが良いというか、まるで心が読めるみたいだ)

 ラズワルドがかすかに身を震わせた。竜也はそれに気付くことなく内心で肩をすくめる。

(まさかね。いくら異世界でもそれはないか)

 ラズワルドは同意するように「うんうん」と頷いた。







 ルサディルはソウラ川と呼ばれる大河の河口西岸にある港町である。人口は約四万人。
竜也とラズワルドを乗せた船がルサディルの港に入港した。下船した二人は数人の男達に出迎えられる。
 上等そうな衣服の、責任者と思しき初老の男。その護衛と見られる剣を持った男達。初老の男はラズワルドの家の執事か何かだろうと、竜也は推測した。
 執事(仮)のラズワルドに接する態度は感情を押し殺したかのような、事務的なものに終始していた。隔意があり、それ以上の嫌悪感があるのが見え見えである。
 ラズワルドが執事(仮)に竜也のことを何か説明している。執事(仮)は竜也のことを胡散臭げに見つめるが、何も言わなかった。竜也はラズワルドに連れられるまま移動する。
 ラズワルドの家(多分)に馬車で向かう道中、竜也は車窓からルサディルの町並みや人々を眺めていた。

【うん、ここは異世界だ】

 竜也は以前確信したことを再度確認した。
 建物は素朴ながら石造りの物が多い。町の雰囲気はヨーロッパ系とはどこか違う、エキゾチックなものである。人々の様子、市場や物売りの様子から、町が豊かで繁栄している様子が察せられた。
 町の住民の多くが黒人系。中東系、というかセム系っぽい白人の姿が次いで多い。一番多そうなのは両者の混血だ。そして、何パーセントかの住民に獣耳や尻尾が生えていた。
 犬耳と長い尻尾を生やした男が物売りをしている。猫耳の老婆と、その孫と見られる猫耳の子供がひなたぼっこをしている。牛のような角の男の一団が通りの中央を物々しく歩いている。馬のような耳の夫婦とその子供達が露天商で買い物をしている。いくら何でも過去の地球にこんな光景があったはずがない。
 やがて馬車は町の中心部に位置する大邸宅へと到着、竜也とラズワルドは馬車から降り立った。町の一区画を占有する広大な敷地に、贅を凝らした屋敷が建っている。ラズワルドは平然としたままその屋敷の中に入っていく。唖然と周囲を見回す竜也は引きずられるようにラズワルドに同行した。
 屋敷の奥の、一際豪華な一室。竜也とラズワルドはそこでその屋敷の主人と対面した。
 アニードという名のその主人は、日焼けしたセム系白人という色合いの、小太りの中年男だった。アニードは舌打ちでもしたげな表情で、酷薄そうな目を竜也達に向ける。竜也の心にアニードに対する強い嫌悪感が唐突に涌いて出た。

「בטיחות……(無事に戻ってきたか)」

「תודה……(おかげさまで)」

 ラズワルドとアニードは礼儀を保っただけの冷たい言葉を交わし合った。アニードが胡散臭そうな視線で竜也を示し、説明を求める。ラズワルドはアニードに竜也を拾った経緯を、竜也を連れてきた理由を説明した。

「רציני……(本気で言っているのか?)」

「ספק……(間違いない。彼はあなたの利益になる)」

「……קנס……(……まあいい、好きにするがいい。しばらくは置いてやる)」

 アニードへの事情説明を終え、承認を得られたのでラズワルドは速やかにその場を立ち去る。竜也も彼女の後に続いた。







 雑用やら言葉の勉強やらに明け暮れているうちに、時間は一気に経する。竜也がラズワルドに拾われ、アニードの屋敷に住むようになって四ヶ月が経っている。この世界にやってきてからは半年以上が過ぎていた。

【で、今日はシャバツの月の二〇日と】

 この世界の暦をまだ理解していない竜也は、今が何月なのかよく判っていない。この四ヶ月で多くの知識や常識を手に入れたが、知らないことの方がもっと多い。
 アニードはルサディル随一の大商人であり、何十人もの召使いを雇っている。今の竜也の身分はその中の一人というものだ。正確には、ラズワルド専属の雑用係というところである。
 アニード邸の一角に建っている小さいながらも豪華なコテージ。そこがラズワルドの住居だった。コテージには台所風呂トイレ等の生活に必要な設備は一式揃っていて、食事は老婆の召使いが用意してくれている。

【これで後はインターネット回線がありさえすれば、引きこもり生活を満喫できるんだけどな】

 と竜也は埒もないことを考えた。今の竜也の主な仕事はコテージ内外の掃除や薪割りくらいで、それ以外の時間はラズワルドから言葉を教わり過ごしている。しゃべる方はまだ片言だが、聞き取る分にはほぼ不自由はなくなっていた。しばらく前から文字の勉強も開始している。
 ラズワルドが自分の身の上について語りたがらないため、竜也は彼女の身分や立場についてよく判っていない。ラズワルドはアニードとは血縁関係もなく、家族でもない。アニードの仕事に何らかの形で力を貸しているようで、アニードに対しては対等に近い立ち位置を保っていた。
 相変わらず飽きもせずに竜也にべったりのラズワルドだが、不定期にアニードに呼び出されて本邸に赴くことがある。竜也はそれに付き添うことを許されず、コテージに一人残される。
 今日、竜也が一人コテージで暇を持て余していたのはそんな理由である。言葉の勉強をするにしても、一人では誰も間違いを指摘してくれないから非効率だし、第一やる気も起こらない。
 今竜也にできるのは、ベッドに寝転がってとりとめのない思考を弄ぶことだけだ。

【あ゛ー、『今異世界にいるけど何か質問ある?』とかスレッド立ててやりてー】





1 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 何でも答えるよー。


2 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 異世界wwww乙wwww


3 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 異世界ってハルケギニア? ムンドゥス=マギクス?


4 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 いや、多分オリ設定。もし商業だったらかなりなマイナー作品。


5 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 文明程度は?


6 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 江戸時代初期の日本と同レベルくらい? 全部人力、機械は存在せず。火縄銃は見かけた。


7 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 言葉は通じんの? 何やって生活してんの?


8 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 言葉が通じん! それでむっちゃ苦労した。今は少しは覚えたけど。
 今はウサ耳幼女に拾われてヒモみたいな生活。


9 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 ちょ、おまwww


10 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 文字はどんな感じ? 読める?


11 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 こっちで使われているのは三〇くらいのアルファベットの表音文字。横書きで、英文とかとは逆で右から左へと文字を読んだり書いたりしてる。
 アルファベットの形は全く見慣れないし、ぱっと見みんな同じに見える。それに、単語とか文章とかは母音を使わないで子音だけで表記しやがるんだこいつら。何考えてそんなわけの判らんことしてるんだか。
 本当、無茶苦茶苦労させられたけど、それでも時間さえかければ何とかある程度は読めるくらいにはなりましたよ。努力しましたから。


12 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 トイレとかどうしてんの?


13 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 これもまた辛いんだよー!!
 トイレは水洗とぼっとんの二種類。水洗は要するに側溝の上に便座を置いたような感じ。ぼっとんは、昔の田舎のトイレを想像してくれれば。回収したブツは結局海に捨ててるみたいだけど。トイレットぺーパーなんかないから、何かの葉っぱでケツ拭いてる。


14 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 古代ローマは風呂が発達していたけど、そっちはその辺どうよ?


15 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 今住んでるところは風呂付き。でも湯船はなくてサウナみたいな蒸し風呂形式。石鹸は存在しているけど贅沢品なんで、手ぬぐいで身体こすってる。


16 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 食い物はうまい?


17 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 作ってくれるお婆ちゃんには悪いんだけど、正直いまいち口に合わない。
 ちなみに今日の昼飯のメニューは、スープと野菜の煮物。
 スープはお湯で小麦粉を溶いて、千切ったパンを入れて山羊の乳のバターと塩で味付けしたもの。野菜の煮物はキャベツとかタマネギとか煮て塩とオリーブオイルで味付けしたもの。
 まあ奴隷やってた頃を思えば極楽みたいな食生活だし、出された物は全部残さず食ってますよ。時々白いご飯が食いたくて泣きたくなるけど。

 あ、食事は一日二食な。三食なんてありません。


18 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 服とかどんな感じ?


19 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 何というか、似非アラビア風?のワンピースとかズボンとかで、肌の露出を増やした感じ。みんな結構シンプル。この世界ももう冬だけど、冬っつっても気候は日本の秋くらいだから、いつもの服の上にマントっぽいの1枚羽織ってる。


20 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
 魔法はないの?


21 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
 俺はまだ見たことないけど――





【――見たことはないけど、魔法がないとは限らないんだ】

 脳内でわずかばかりスレッドを延ばしたところで、竜也がその事実に気が付く。その途端、居ても立ってもいられなくなった。

【そうだ、魔法があれば元の世界に戻る手懸かりだって見つけられるかもしれない】

 竜也はコテージを出、アニード邸を抜け出す。行き先に特に当てがあるわけではなく、町の中心部へと歩いて行った。
 この四ヶ月間、竜也は数えるほどしかアニード邸の外に出たことがない。ラズワルドと共に町に出る度、彼女が町中のあらゆる人間に忌避されている事実を突きつけられるのだ。それに、また誘拐されるかも知れないという警備上の問題もある。そのためラズワルドはよほどのことがない限り町に出ようとせず、竜也もそれに付き合う他なかった。
 だが竜也としてはこの世界の知識を得るためにも、もっと町を見て回りたかったのだ。だからラズワルドが仕事(?)で不在の今が絶好の機会であると言える。

【いー加減、雑用にも子守にも飽きたしな。魔法を習って『黒き竜の血』を目覚めさせればチートキャラになれるわけだし】

 竜也はラズワルドに対し家族としての愛情を抱き、惜しみなく注いでいる。だがだからと言って、四六時中一緒にいて息が詰まらないわけではないのだ。そろそろ気晴らしが必要だったのだろう。竜也は観光客気分でぶらぶらと町を、市場を見て回っている。それだけで充分に気分転換になっていた。
 露店で軽食でも食べたいところだが、懐具合が心細いために竜也はそれを我慢した。財布に入っているのはレプタ銅貨が十数枚。以前の外出の際にラズワルドからもらったお小遣い、それが今の竜也の全財産だ。

【……しかし、一体どういう異世界なんだろうか】

 市場には、林檎・桃・葡萄・キャベツ・レタス等々の野菜や果物と共に、インディカ米っぽい米や大豆が並んでいる。さらにはトウモロコシ・トマト・ピーナツまでもが平然と売られていた。トウモロコシ等は中南米が起源で、大航海時代以前には旧大陸にはなかったはずの食物だ。

【まあ、火縄銃があるくらいだから新大陸への入植が始まっていてもおかしくないか。そもそもここがユーラシアかアフリカかも判ってるわけじゃないし】

 竜也は食料品の並ぶ露天市場を抜け、安全そうな路地裏へと足を伸ばすことにした。

【おっ、何かそれっぽい店発見】

 表通りからあまり離れていない場所にあるその店は、どうやら本屋のようである。元の世界では重度の活字中毒だった竜也は、飛んで火に入る夏の虫のごとくその書店に誘い込まれていった。
 店の雰囲気は、元の世界の古いひなびた古本屋のそれに近い。ただ、大した数の本は置いていない。ざっと見たところ数十種類くらいか。元の世界と比べれば出版部数は何桁も違っているだろうから、これでもかなり充実した品揃えなのだろう。
店内には店主が一人と客が一人。店主は竜也を胡散臭げに見つめているが、竜也はその視線を気にする余裕もなく懸命に本の題名を読み取ろうとしていた。

「としのふしぎ……たびにおどろく……? むはんまど、るわー……?」

「しょこく、りょこーき……? れー……れー……みゅえ?」

「せかいの、ちず――地図!」

 竜也の手がその地図の本へと延ばされる。だがその手は店主のはたきによって撃ち落とされた。

「只読みは駄目だよ。読むんだったらちゃんと買いな」

 嫌味な口調で店主がそう言う。竜也は慌てて懐から財布を取り出しそうとした。

「その本の値段は一〇ドラクマだ」

 店主の言葉に、竜也の身体が硬直した。ちなみに三三六レプタで一ドラクマ、一ドラクマは普通の労働者が一日働いて得られる賃金に相当する。
 竜也は散々迷いながらも、なけなしのレプタ銅貨を何枚か店主に示しつつ提案した。

「あー、見る、試し、これ、代わり」

 店主は舌打ちしてその提案を却下する。

「冷やかしならさっさと出ていきな、貧乏人が」

 店主は腕ずくで竜也を店内から追い出す。竜也の目の前で書店の戸が無慈悲に閉じられた。

「地図……」

 竜也は恨めしげに書店の戸を見つめるが、結局諦めるしかない。竜也は肩を落として書店に背を向けた。竜也がその場から立ち去ろうとする、そのとき。

「待ってください」

 何者かに声をかけられ、竜也は振り返った。そこに立っていたのは二〇代半ばの、鹿角を持った優男。店の中にいたもう一人の客である。

「地図なら私も持っています。よろしければお見せしますが?」

「本当?」

 竜也の瞳が希望に輝く。優男は微笑みを見せながら竜也に語った。

「あの強欲店主には私も何度も苦い思いをさせられていますので。他人事とは思えなかったんですよ」







 竜也はハーキムという名の、その鹿角の優男に誘われるままに付いていった。一〇分ほど歩いてハーキムの自宅に到着する。
 町中の、木造の平屋の長屋。その一室がハーキムの家だった。八畳程度の部屋が二つ、ハーキムはそこに一人で暮らしているという。その部屋で特徴的なのは百冊以上の蔵書だった。この世界の一庶民としては破格の量と言えるだろう。
 この世界に来てからずっと抱えていた疑問がようやく解消できると、竜也は期待に胸を膨らませた。

「地図、一番大きい、お願いします」

「判りました」

 ハーキムが苦笑しながら本棚から何かを取り出してテーブルに広げる。広げた新聞紙ほどの大きさのそれは、一枚の絵地図だった。

「――」

 竜也は息をするのも忘れるほどに、その地図を食い入るように見つめた。竜也の様子を怪訝に思いながらも、ハーキムは各地を指差して地名を教える。

「ここがこの町、ルサディルです。こちら側の大陸がネゲヴ。こちら側がエレブ、こちら側がアシューとなります」

 竜也はここが異世界である事実を最終確認した。地図に描かれていたのは元の世界とよく似ていながら決定的なところが違う、それは地中海世界の地図だった。

「こちら側がネゲヴです」

 とハーキムが指差す場所は北アフリカ全域である。ルサディルのある場所はジブラルタル海峡のすぐ東の北アフリカ側だ。

「こちら側がエレブ」

 と示された場所はヨーロッパ全域。アシューとはアナトリア半島・シリア=パレスチナ・シナイ半島から東の全域。

「ここ、名前、何?」

 竜也は元の世界のジブラルタル海峡がある場所を指差す。ハーキムの答えは、

「そこはヘラクレス地峡です」

 というものだった。そう、この世界ではネゲヴアフリカエレブヨーロッパが地続きなのだ。

「こちらはスアン海峡です」

 と指し示された場所は、元の世界であればスエズ運河がある場所だ。ネゲヴアフリカアシューアジアは海峡によって隔てられていた。

「ここ、川?」

「西から、ソウラ川・ナハル川・チベスチ川・ナガル川です」

 ナガル川は、おそらく元の世界のナイル川に相当するのだろう。だが他にこんな大河がアフリカにあったなどという話を竜也は知らない。北アフリカの大地が、おそらくはナイル川に匹敵するような何本もの大河とその支川によって縦横に引き裂かれている。

「ここ、何ある?」

「この辺から南は全て大樹海アーシラトです」

 元の世界のサハラ砂漠などは全て緑化し、大樹海となっているそうである。

【どういう地殻変動があったんだよ……】

 あまりの違いにもう笑うしかなかった。

 ナハル川等の大河がサハラ砂漠に水を供給しているため、サハラが緑化。草木が水を保持し、草木から蒸発する水が雲となってサハラに降り注ぐため大河の水量が増え、ますます草木に水が供給され、草木が良く生い茂り、ますます水が保持されて……という好循環があったのだろう。その結果がサハラ砂漠の大樹海化だった。







「あー、凄い、力、ない?」

「は?」

 地図の衝撃を何とか乗り越え、飲み込んだ竜也は、今日の元々の目的を果たすことにした。だが魔法に該当する言葉を知らないために、伝えたいことが伝わらない。ラズワルドなら簡単に理解してくれるのに、と思いながらも竜也は知っている単語を重ねて思いを伝えようとした。

「あー、神様、力くれる。ない?」

「もしかしたらプラスのことでしょうか……」

 ハーキムも何とか竜也の言いたいことを理解しようとした。

「そうですね。あれに参加すれば直接目にすることができるでしょう。声をかけますよ」

 ハーキムの提案を竜也は喜んで受け入れた。後で大いに後悔することになるのだが。
 竜也はその後もしばらくハーキム宅で過ごしたが、夕方になったのでラズワルドの元に帰ることにした。

「それではまた今度」

「はい、さよなら」

 ハーキムに別れを告げ、夕焼けに染まる町を歩いていく竜也。ふと竜也は立ち止まり、沈み行く夕陽に背を向けた。竜也は地平線の向こうを見つめる。

【日本はあの方向か】

 日本の生活、日本の級友、日本の家族の思い出が不意に心の奥底から湧き上がってきた。今まで押さえ込んでいた蓋が外れてしまったかのようである。

【あれ、なんで……】

 竜也はこぼれそうになっていた涙を堪えた。
 父親は小さなスーパーマーケットの社長だが、経営状態は良いとは言えずいつも大変そうだった。母親は愚痴っぽい普通のおばさんだが、夫婦仲は悪くなかったし竜也に対しても決して悪い親ではなかった。
 夏休みは父親のスーパーでアルバイトをする予定だった。父親は「自営業なんてやるもんじゃない。公務員か大企業のサラリーマンが一番だ」と常々竜也に説いていた。だが竜也が会社を継ぐ意志を見せるとかすかに嬉しそうな様子を見せていた。
 心配をかけているだろう、諦めきれずに未だに捜索を続けているかも知れない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。このまま東に向かって歩いていきたい衝動に駆られた。だが何とか自制する。
 竜也は未練を断ち切るように西に向けて歩き出した。今竜也が戻るべき場所はラズワルドのところだった。
アニード邸に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。

「ラズワルド? いない?」

 竜也は明かりの灯されていないラズワルドのコテージへと入っていく。その途端、竜也は腹部に体当たりを受け、その場に尻餅をついた。

【な――】

 竜也はそのまま言葉を失った。体当たりをしてきたのはラズワルドで、少女は泣き顔を竜也の胸に埋めていた。
 身を切られるような強い不安、世界にたった一人ぼっちのような切なさ、そしてそれが覆った安堵と喜び。竜也の胸の内をそれらの感情が突風のように駆け抜けていく。

【ぐ――】

 竜也は自分の感情の動きが理解できず、唇を噛み締めて感情を押し潰そうとした。激しい情動は嘘のように消え去り、残ったのは腕の中で涙を流す少女の暖かさだけだ。
 竜也の胸の内は、ラズワルドに対する罪悪感と愛しさに満たされた。それは紛れもなく自分の感情であると断言できた。

【ごめん。もう二度と黙って出掛けたりしないから】

 竜也はラズワルドの頭を優しく撫でる。ラズワルドは気が済むまで竜也の胸の中で泣き続けた。






[19836] 幕間0・ラズワルドの日記
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/01 21:07





幕間0・ラズワルドの日記





タシュリツの月・二六日

 やっとルサディルに戻ってきた。
 奴隷商人に誘拐されたけど、髑髏船団が助けに来てくれた。アニードが頼んだらしいのでお礼を言わなきゃいけなかったのが忌々しい。
 タツヤをここにおいてもらえるようになったのはよかった。




タシュリツの月・二七日

 ばあやに心配かけたのは申し訳なかったと思う。ばあやはわたしのことを可愛がってくれる数少ない人だ。半分くらい惚けてるからだけど。




タシュリツの月・三〇日

 タツヤに使用人の仕事をしてもらう。
 でも火の使い方も知らなかったし、他の仕事も大してできない。掃除とか薪割りとか本当に簡単な仕事だけやってもらう。
 早く言葉も覚えてもらわないといけない。




アルカサムの月・七日

 タツヤがばあやの仕事を手伝っていた。ばあやの指示でタツヤが料理を作った。
 タツヤにばあやの仕事を取らないよう注意する。タツヤは不満みたいだったけど、ばあやの仕事がなくなってここをクビになったら他にどこも雇ってくれない、と説明したら判ってくれた。




アルカサムの月・一〇日

 タツヤがやることがなくてつらいみたい。暇なよりは、雑用でも何でも働いている方がいいというのはいまいち理解できない。
 今は早く言葉を覚えるべき。




アルカサムの月・二〇日

 アニードの仕事の手伝い。アニードの嫌われっぷりがちょっと楽しい。
 心が汚れたのでタツヤに癒してもらう。




アルカサムの月・二九日

 タツヤがリモンとかいう本邸のメイドとしゃべっていた。あのメイドは確かばあやの孫娘。
 まだ片言しかしゃべれないくせに随分と楽しそう。わたしが顔を見せたらメイドは慌てて逃げていった。いい気味。




キスリムの月・九日

 タツヤを連れて町に出掛ける。一緒に串焼きを食べた。
 町の人のわたしへの態度がますます悪くなっている。それはわりとどうでもいいけど、タツヤに気遣わせる方がつらかった。早々に戻ってくる。




キスリムの月・一七日

 タツヤがまたリモンとしゃべっていた。お互いただの知り合いくらいにしか見ていないので、隠れて監視するだけで我慢する。




キスリムの月・二八日

 腰を痛めたばあやをタツヤが家まで送っていって、リモンに夕ご飯を食べさせてもらっていた。嫌な予感。




ティベツの月・一日

 ばあやが戻ってくる。「お礼」と称してタツヤを家に招待していたが、止めさせる。
 残念そうなばあやにはちょっと心が痛んだが、仕方がない。




ティベツの月・一一日

 タツヤが文字を習いたいと言ってきたので教材を用意する。
 正直、わたしも文字を読むのは得意じゃなくて言葉のときほどには上手く教えられない。一緒に勉強する。




ティベツの月・二一日

 アニードの仕事の手伝い。
 戻ってきたら、泥棒猫がタツヤとしゃべっていた。弱みを探ろうとしたら逃げ出していった。
 タツヤは泥棒猫から文字を習おうとしているけど、他に習う人はいないのか。




ティベツの月・二七日

 庭を散歩していたら、泥棒猫が他のメイドとしゃべっているのを見つける。わたしには気付かずタツヤのことをしゃべっていた。
 他のメイドがタツヤのことを馬鹿にしていて、泥棒猫がタツヤのことを「いいところもある」とかばっていた。
 しばらく泥棒猫と呼ぶのは止めておこう。




シャバツの月・二日

 やっぱり泥棒猫で充分だあの女。
 タツヤを誘って外に遊びに行こうとしているのを見つける。
 竜也が外出することをことわりに来たので、先手を打ってわたしの外出に付き添うようにお願いした。
 久々に一緒の外出。タツヤの服を買う。




シャバツの月・一五日

 タツヤがまた泥棒猫としゃべっているのを見つける。気付かれないよう近寄って何の話をしているのか聞かせてもらうことにした。
 タツヤはまだ片言なので、泥棒猫が一方的にしゃべっている。お金が貯まったらメイドを辞めて、何でもいいのでお店屋さんがやりたいそうだ。今すぐ辞めればいいのに。
 タツヤは今が精一杯で、先のことはあまり考えていないみたい。
 わたしは将来、どうしたいのだろう。少なくてもこのままここにいたいとは決して思わないけど。







[19836] 第三話「山賊退治」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/01 21:10




 シャバツの月の下旬。その日竜也は山賊退治の軍勢に加わっていた。山賊の元へはルサディルから歩いて二日の行程だ。

【何だってこんなことに……】





「黄金の帝国」・漂着篇
第三話「山賊退治」







 槍を手にした竜也は、死人一歩手前みたいな虚ろな表情で歩いている。槍の柄は二メートルほどの長い木の棒で、その先には古い錆びた包丁が縛り付けられている。仲良くなったメイドから、アニード本邸の厨房で一番古くて要らない包丁を譲ってもらったものである。五〇人ほどの軍勢の中で、竜也の持っている武器が一番貧相で見劣りしていた。

「だ、大丈夫ですか? タツヤ」

 並んで行進しているハーキムが竜也を気遣う。竜也は「大丈夫大丈夫」と強がって返事した。もっとも、ハーキムこそが竜也を山賊退治なんてことに巻き込んだ元凶なのだが。
 竜也は片言を駆使してハーキムから情報を仕入れようとする。

「山賊、誰? 何?」

「敵はエレブから流れてきた山賊です。ルサディルの近郊に居座ろうとすることが、何年かに一回はあるんです」

 そんなに頻繁にあることじゃないのか、と竜也は安堵した。

「エレブ人はネゲヴを『魔物の地』と呼んで怖れていますから。よほど追い詰められないとこっちには流れてこないんですよ」

(そう言えばあのガレー船の船員等もネゲヴのことを怖がっていたな)

 と竜也は一人納得する。でも、と竜也は軍勢の面々を見回した。
 五〇人の軍勢のうち腕が立ちそうに見えるのは多くても一〇人くらい、残りは町中でその辺にいる人を連れてきただけという感じである。隣を歩くハーキムにしても、小学校の教師がお似合いの優男だ。正直言って軍勢と言えるほど上等なものじゃない。

「勝てる? みんな?」

「まあ油断さえしなければ大丈夫でしょう。今回も山賊は全部で一〇人くらいと聞いていますし。戦い自体はムオードさん達に任せておけばいいんですよ。私達の役目は威圧のための頭数と、山賊を町の方に逃げさせないことです」

 ムオードはこの軍勢の責任者となっている、雄牛の角を持つ男である。一番色の濃い黒人と同じ肌をした巨漢で、年齢は四〇代くらい。

「……軍隊、ない? 仕事しない?」

「あなたが前にいたところは軍があって、山賊退治は軍の仕事だったんですね」

 ハーキムの確認に竜也は「はい」と頷いた。

「まあ、山賊なんて滅多に出てきませんし、出てきてもこういう有志の集まりだけで充分対応できるんですよ。だから軍というのは不要なんです」

 ハーキムが何を言ったのか、竜也は最初理解できなかった。

「軍隊、ない?」

「ありません。まあ、エレブやアシューの方は驚くと思いますけど、ネゲヴでは軍がない町の方が普通です。二百~三百年前までは軍もあったんですが、そのときあった軍も海軍中心ですし、陸の敵は傭兵で対応していました。海洋交易が廃れて大げさな海軍を持つ必要がなくなり、傭兵も雇う理由がなくなり、いつの間にか全廃に近い状態になったんです」

「で、でも敵、来る――」

 竜也の戸惑いに対し、ハーキムは柔らかに説明する。

「攻めてくる敵というのがいないんですよ。エレブからは山賊がやってくる程度だし、他の町にも軍はありませんから。ルサディルや他の町でも、収入に対する税率は多くても一割程度ですが、こんな税収では軍を維持できません。軍を持つには税を上げる必要がありますが、そんなこと誰にもできませんよ。こう反対されて潰されるに決まってます。

『他の町にも軍はないのに、誰もどこからも攻めてこないのに、何で税を上げてまで軍を持つ必要があるんだ?』

『どうしても必要なら傭兵を雇えばいいだろう?』って」

 どの町もそんな状態だから、どの町にも軍はないんですよ、とハーキムは話をまとめた。竜也は不明な点を確認しようとする。

「ちょ、ちょっと待って。税集める、誰? 王様?」

「ケムトの方には王様がいて、形式上ルサディルはケムト王に臣従しています」

 ケムトとは元の世界で言えばエジプトに相当する国である。

「ルサディルはケムト王から認められた自治都市……という建前ですが、税を納めているわけでもないですし、ケムト王なんていてもいなくても同じですね。ルサディルも含めてネゲヴの大抵の町はそんな自治都市です。民会で選出された長老が寄り合い、税を集め、町を治めています」

 なお、民会は一定以上の納税または軍務、いずれかの義務を果たしている成人男子が全員参加できる組織である。日本国に例えれば、民会が国会、長老会議が内閣に相当すると言える。

「税集める、仕事それ、人、いない?」

「それが専門の役人ですか? もちろん何人かはいますよ。私もそういう人に雇われて事務仕事をやったりしていますが、それが専門ではありません。まあムオードさん達くらいになるとこういう荒事がほぼ専門ですが、それでも役人や軍人とはちょっと違いますね。むしろ傭兵に近いです」

 つまり、役所は一応あって役人も数は少ないがいる。役人だけで対処できない仕事はパートタイマーを雇ったり、有志を募ったりして対処する、というところだろうか。そして、事務仕事のパートタイマーがハーキムで、荒事を専門に請け負っているのがムオードというところなのだろう。

「泥棒、人殺し、捕まえる、誰?」

「そういう治安担当の役人も長老会議の下にいます。その役人が情報収集を担当する人を個人的に雇っていて、実際の捕縛等の荒事担当はやはりムオードさん達ですね。まあ、そんな事件は早々起こりませんが」

(江戸時代の日本の岡っ引きみたいに、「情報収集の担当者」にはヤクザ者や犯罪者崩れを引き込んで使っているんだろうな、多分)

 ハーキムはそこまでは言わなかったが、竜也はそのように想像した。
 竜也は時間をかけてハーキムの言うことを咀嚼し、ネゲヴの社会を、ルサディルの有り様を理解し、腑に落とし込もうとした。考えるに、治安だけではなく社会全体のあり方が江戸時代の日本に近いのではないだろうか?

(江戸時代の日本だって、戦国時代から離れれば職業軍人と言えるような人はほとんどいなくなっていた。武士の大半はただの役人だったわけだし。日本がもっと広くて、幕府の目が国土の末端まで届かず、そもそも幕府にそれだけの力がなくて、それぞれの地域を治めている藩同士も距離があって、滅多なことでは戦争にもならない……そんな状態が何百年も続けばこんな風になるのかな)

 そんなことを考えているうちに、軍勢は――正確には「山賊退治の有志一同」というところだが――郊外の山腹にやってきた。その洞窟に山賊が居着いているという。
 こちらの接近に気が付いたのだろう。洞窟からは山賊がぞろぞろと姿を現した。

【……っ、多い】

 山賊は二〇人はいそうだった。薄汚れた革製と見られる鎧をまとい、槍や剣を手にしている。それを眼にした竜也の膝が震える。先ほど小便に行っておかなかったことを後悔した。

(安全な今のうちに覚醒せよ『黒き竜の血』! というかお願い助けて!)

 竜也が内心テンパっている間に戦いが始まろうとしていた。
 牛角のムオードが軍勢の前に進み出る。そして、その辺に転がっている一抱えもある大きな岩を持ち上げ、山賊へと投げつけた。

【は?】

 竜也はぽかんとしてしまう。ムオードが投げた岩は、最低でも百キログラムくらいはありそうな代物だ。それをムオードは二〇~三〇メートルもぶん投げてしまった。運悪く、山賊の一人がその岩に押し潰されてミンチと化した。
 混乱する山賊の中に獣耳の男達が突撃していく。虎耳の男が手から雷を発して山賊の顔を焼き、怯んだところを剣で斬りつける。犬耳の男が長剣で山賊をなぎ払い、倒れた山賊に犀角の男が鉄槌を食らわせ、文字通り叩き潰した。山賊の数はあっと言う間に半減した。

「悪魔! 化け物!」

 生き残った山賊等が悪態をつきながら逃げ出していく。ムオード達は深追いはしなかったが、潰せる連中は潰しておこうとした。ムオード達に追われた山賊のうち二人が竜也達の方に逃げてくる。

(うぉぉっっ?! こっちに来んじゃねーよ?!)

 竜也は足がすくんで逃げ出すこともできない。立ち向かうなど論外だ。震える竜也の様子を見て取り、ハーキムが山賊へと進み出て立ち向かった。山賊が振り回す剣を自分の剣で受け止める。両者が鍔競り合いをする中、山賊のもう一人がハーキムの背後に回って剣で斬りつけようとする。

【ハーキムさん!】

 竜也の身体は勝手に動いていた。山賊の首めがけ、粗末な槍を突き出す。

「ぐああっっ!!」

 包丁の穂先が首に刺さり、大量の血が流れた。だが山賊は竜也の槍を掴み、首から穂先を引き抜いた。竜也は槍を引き戻そうとするが、山賊が握りしめて離さない。

【ひ、ひいいっっ!】

 竜也の視界は汗とも涙ともつかないもので遮られた。だが、不意に槍が軽くなる。見ると、山賊は他の市民等の何本もの槍に串刺しになっていた。

「タツヤ、大丈夫ですか?」

 ハーキムが対峙していた山賊も既に斬り伏せられていた。ハーキムが竜也に駆け寄り、声をかける。竜也はその場に座り込み、

【は、は……】

 と痴呆じみた様子で返事をするのが精一杯だ。自分が小便を漏らしていることにも気付いていなかった。
 山賊退治は終わり、ムオード達は残務処理に動き出していた。







 その日は洞窟やその周囲で一夜を明かし、軍勢は町への帰路に就いた。帰りの行程も徒歩二日間だ。

「だ、大丈夫ですか?」

 竜也は往路以上に臨死の表情となっていた。ハーキムの問いに、竜也は「大丈夫大丈夫」と生返事を返す。
 人一人を殺したことは、想像以上に竜也の精神を苛んでいた。竜也はそれを誤魔化すためにハーキムとの会話に集中することにする。

「……あー、聞きたい。あれ、あの力、何?」

恩寵プラスのことですか?」

「プラス?」

「ええ。それぞれの部族の守神様から授けられる、特別な力のことです。ムオードさんは鉄牛族ですから剛力の恩寵。赤虎族には雷撃の恩寵」

 あれを見たかったのではないのですか?と問われ、竜也は何とも言い難い顔をした。あの力は確かに凄いが、竜也が探していたものとはかなり外れていた。

(あれじゃ、魔法と言うより超能力じゃないか)

 とは言うものの、それはそれで興味深い竜也はハーキムに訊ねる。

「ハーキムさん、恩寵、何?」

 その問いにハーキムは苦笑して見せた。

「私が使えるのは多少の身体強化くらいです。――ムオードさん達ほど強い恩寵を得られる人は少ないんですよ。部族に属していても恩寵を得ていない人の方が多く、得られたところで大した力じゃないことがほとんどです」

「その角、あの耳、部族の印?」

「ええ、そうです。私の一族の鹿角族は、鹿の守神を先祖に持っています。私達は鹿の守神の末裔であり、その印で身を飾るのです」

 とハーキムは誇らしげに語る。そのあり方はトーテム信仰の典型例と言うべきものだった。元の世界と少し違っているのは部族に属する者がトーテムに関したコスプレをすることであり、大いに違っているのは信仰する部族神が本当に神秘の力を授けてくれることである。
 竜也は今の話を聞いて、ある一人の少女のことを想起していた。竜也はおそるおそるという感じでハーキムに問う。

「……ウサギの耳は? 恩寵、何?」

 ハーキムは何でもないことのように返答した。

「白兎族ですか。白兎族の恩寵は人の心を読むというものだそうです」







 翌日の夕方、竜也達はルサディルに戻ってきた。
 ラズワルドにどう接するか決められないまま、竜也はアニード邸に到着する。そのまま惰性でラズワルドの住むコテージへと向かった。

「タツヤ!」

 竜也の姿を認めたラズワルドがコテージから飛び出してきた。竜也に抱きつこうとするラズワルドだが、一歩手前でその足が止まってしまう。ラズワルドは今にも泣き出しそうな瞳を竜也へと向けた。

【――っ】

 気が付いたら、竜也はラズワルドの腕を掴んでいた。竜也の心の中に、自分のものではない感情が流れ込んでくる。知られたことへの絶望。嫌われることへの恐怖。捨てられることへの不安。
 確かに竜也の中には、ラズワルドが自分の力を隠し、竜也の心を勝手に覗いていたことへの怒り・不快感があった。だが、ラズワルドの心を知ってその怒りも収まってしまった。彼女の立場になれば、力のことを言い出せなくても無理はないと思えてしまう。

(見てない! タツヤの心は最初の頃に少しだけ深いところを見ただけで、それからずっとほんの浅いところしか見てない!)

 ラズワルドが必死になって自分の心を竜也へと伝える。言葉ならいくらでも偽れる。だがラズワルドの心に嘘偽りは微塵もなかった。ラズワルドは竜也の胸に顔を埋める。

(タツヤの気持ちを感じてた。温かい気持ち、優しい気持ち、すごくすごく嬉しくて、ずっと感じていたかった)

 今ラズワルドは竜也に対し、全ての心の扉を開け放っていた。竜也の心にラズワルドの心が奔流となって流れ込んでくる。その経験が、その感情が、竜也の心を押し流そうとする。竜也は自分を保つために精神力の全てを使わなければならなかった。

(――ごめんタツヤ!)

 自分が何をしているのか気付いたラズワルドは心の壁を再構築した。それでようやく竜
也は一息つく。

「ご、ごめんなさい」

 口に出して謝るラズワルドの頭に、竜也は軽く拳骨を落とした。そしてラズワルドの頭を撫で、微笑みかける。ラズワルドは竜也の胸に頬をすり寄せた。
 心をつなげた二人に言葉は必要なかった。二人はいつまでも身体を寄せ合い、互いの体温を、心を感じ合っていた。







[19836] 第四話「カリシロ城の花嫁」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/08 21:33

「お金を儲けてほしい」

 ラズワルドは見も蓋もないことを言い出した。





「黄金の帝国」・漂着篇
第四話「カリシロ城の花嫁」







 竜也が知ったラズワルドの身の上をまとめておくと。
 まず、ラズワルドは白兎族の族長一家の生まれである。歳は一〇歳。

「もう二、三歳下だと思ってた」

 竜也が正直に吐露し、頬を膨らませたラズワルドが竜也をぽかぽかと叩いた。
 白兎族は人の心を読む恩寵(プラス)を持つため、あらゆる人々に忌避されている。このため白兎族は山奥に隠れ里を作り、そこに固まって暮らしていた。ラズワルドも生まれはその隠れ里だ。
 ラズワルド自身も真実は知らないが、彼女はどうやら族長一家の兄と妹が通じ合った結果の子供らしい。つまり、ラズワルドは生まれたこと自体が罪の証だったのだ。
 族長一家の血の結晶であるラズワルドは強力無比な恩寵を持って生まれてきた。強力すぎて、同じ白兎族からも恐れられ「悪魔」呼ばわりされるほどだというのだから冗談にもならない。

「どうせなら『白い悪魔』と呼ばれるのはどうだろうか」

 との竜也の提案に、ラズワルドは「どうだろうかと言われても」と思わずにはいられなかった。
 地球連邦や時空管理局のエースみたいで格好良くない?という竜也の思いは全く理解できなかったものの、

「タツヤがそう言うなら」

 とラズワルドはその提案を無条件で受け入れた。
 父親と目される人物は失踪し、母親は三歳の頃に衰弱死。ラズワルドはその生まれとその力で同族から忌まれ、恐れられながらも、六歳までその隠れ里で過ごしてきた。
だが六歳のある日、突然彼女は隠れ里から連れ出され、ルサディルに連れてこられた。一族は彼女をアニード商会へと売り飛ばしたのだ。アニードは彼女の力を自分の商売に利用し、莫大な利益を上げてきた。

「大事な交渉のときには隣の部屋にいて、相手の心を読んでアニードに知らせていた」

「そりゃ、そんな手が使えるならやりたい放題できるよな」

「でも、やり過ぎた」

 アニードが白兎族の力を利用していることが取引相手に広く知られるようになったのだ。このためアニードと取引しようとする人間が減り、取引をするときもラズワルドが力を貸せない状況を作って交渉を行うようになった。

「何年もずっと楽をしてきたから、わたしが力を貸さないとアニードはいいカモ。最近は損ばかりしてるらしい」

 ラズワルドはいい気味とばかりに薄く嗤った。その黒い笑みに竜也の腰がちょっと引ける。

「アニードはわたしのことが邪魔になっている。ここでの暮らしは、もう長続きしない」

 そうか、と竜也は嘆息した。

「俺も大分言葉を覚えたし、町に出て二人で暮らしていくくらいは何とかなるんじゃないか?」

 まだ続きがある、とラズワルドは首を振った。

「アニードはタツヤの知識を使って儲けられないかと考えている。タツヤがここじゃない、外のどこかから来たことは最初に伝えている。ここでは誰も知らない、すごい知識があることも」

「ちょっと待って。あのおっさんがそれを信じたのか?」

 竜也の疑問にラズワルドが頷いた。

「昔にもそういう人がいた。西の大陸はその人が見つけた」

 ラズワルドには充分な知識がなく、それ以上「そういう人」についての話は聞けなかった。

「まあ、あのおっさんが儲けようと破産しようとどうでもいいんだが」

 竜也自身がアニードから不利益を被ったことはなく、むしろ恩義があるくらいのだが、ラズワルドの心理的影響を受けた竜也はアニードに対して辛辣な態度を取っていた。
 ラズワルドは竜也の言葉には同意するが、それでもできるなら竜也の知識を金儲けに使ってほしかった。ラズワルドには全く理解できないが、それでも竜也の知識の凄さは判る。竜也はこの世界の誰よりも物知りで、この世界の誰も知らないことを知っている。ラズワルドは竜也の凄さをアニードに思い知らせてやりたかったし、町の皆にも知ってほしかったのだ。
 その上で、今の暮らしが維持できるのであればそれに越したことはない。
 竜也はラズワルドの思いを理解し、できるだけのことをしようと思っていた。だが、

「……金儲けと言っても、この世界にはもう火薬も銃器も活版印刷も存在してるしなー。異世界トリップのパターンで他にあるのは、コークス炉とか?」

 知っているのは概要だけで、実際にそれを作るとなると莫大な投資と長期間の試行錯誤が必要となるだろう。アニードがこんな思いつきじみた話に投資をするとは思えない。

「あとはノーフォーク農法とか?」

 やはり知っているのは概要だけ、農民を指導できるような知識もないし、そもそもそんな立場でもない。竜也が王様ならともかく、一庶民の身の上では大した役には立ちそうになかった。

「あと日本酒や味噌や醤油を作るっていうのもあったか。料理ってパターンも」

 酒造等も初期投資と時間が必要なことには変わりないし、この世界の消費者の口に合う商品を開発するにはやはり試行錯誤が必要だろう。料理は論外だ。便利な魔法も調理器具も保存手段もないこの世界で、どうやって料理で大儲けしろと言うのか。

(要するに、初期投資が小さくても大丈夫で、時間もあまりかからず、専門知識も不要な儲け話……ネズミ講でもやれってか?)

 竜也は首を振って自分の危険な発想を打ち消す。そして不安げな表情のラズワルドに笑いかけた。

「他に何か思いつくかもしれないし、もっと考えてみるよ」







「ということで、知恵を借りに来ました」

「いや、何がそういうことなんでしょうか」

 竜也はハーキムの家を訪れた。竜也が知る限りハーキムはこの町で一番の知識人だ。人にものを教えるのが大好きだし、温厚な性格の好青年でもある。知恵を借りるのにハーキムを選ぶのは当然と言えた。

「それにしても、昨日の今日で随分会話が上達してませんか?」

「色々ありまして」

 竜也は曖昧に笑って誤魔化した。「いつの間にか、ラズワルドの言語に関する知識が頭に流れ込んでいました」などと、気楽に打ち明けられることではない。
 ハーキムは書きかけの何かの原稿を疎ましげに眺めて、

「金儲けに関しては、むしろ私の方が知恵を貸してほしいくらいなんですが……」

「もちろんそのつもりです」

 と竜也が即答し、ハーキムが目をぱちくりさせる。

「この世界のことをまだまだ知らなきゃいけないので、その辺は力を貸してください。逆に俺は、この世界の人達がまだ知らない商売の種を知っている――かもしれません。西の大陸を発見した人みたいに」

 真剣なものとなったハーキムの瞳が竜也を見据えた。

「貴方は自分がマゴルだとでも言うのですか? 冒険者レミュエルのような」

「おお、その人のことが聞きたかったんです。是非教えてください」

 ハーキムは急に変わった話に戸惑いを見せながらも、本棚から一冊の本を取り出しながら説明する。

「冒険者レミュエルは今から四百年ほど前の人です。彼は自分のことを異邦人(マゴル)――つまり、こことは違うずっと遠くの国からやってきた人間だと称していました。事実、彼は今までこちらになかった多くの物を伝えたのです。火薬、鉄砲、活版印刷等は彼によってこちらに伝わりました。
 レミュエルは火薬の販売等で得られた儲けの全てを注ぎ込んで大型帆船を建造。その船で西の大洋へと船出していきました。

『西には大陸がある。そこの王国は金銀財宝を貯め込んでいる。こちらにはない食物があり、誰の物でもない豊かで広大な土地がある』

 彼はそう主張し、実際西の大陸まで到達したのです」

 竜也は無言で続きを促し、ハーキムが続けた。

「――ですが、レミュエルはその最初の航海では大した成果を得られませんでした。東への帰路で彼の船は嵐に遭い、何とか沈没だけはせずに戻ってこれたものの、積み荷の大半は流され、船はもう二度と使い物にならなかったそうです。
 全財産を失ったレミュエルは借金取りに追われ、失意のうちに病死したそうです」

 話を聞いて、竜也は何とも言い難い気持ちとなった。そのレミュエルが竜也と同じ境遇であることはまず間違いないと思われた。西への航路を求めたのも、あるいは彼なりに元の世界に戻る努力をしていたのかも知れなかった。
 西の大陸には一時期入植が盛んに行われ、いくつかの植民都市が築かれた。今でも細々とながら交易があるそうで、アニードもそれを取り扱っている商人の一人である。

「――レミュエルのようなマゴルと言われる人は他にもいるんですか?」

「歴史書上そうだろうと言われているのはレミュエルの他に二人です」

 その数が多いのか少ないのか竜也には判断できなかった。おそらくは歴史に名を残さず消えていったマゴルもいるだろう。三人の何倍、何十倍になるのかは見当もつかないが。

「マゴルが元の国に帰ったって話は……」

「三人ともこちらで一生を過ごしています」

 ハーキムの答えに竜也は「そりゃそうだろうな」と思うしかない。それに、例え「元の国に帰った」と伝えられているとしても、それが本当かどうかを確認する方法はどこにもないのだ。

「あれ、誰か来てるの?」

 突然女性の声がした。竜也が振り返ると、入口にハーキムと同年代の若い女性が佇んでいる。頭部には豹の耳。褐色の肌を惜しげもなくさらした、グラマラスな美人さんだ。

「彼女はヤスミンさんと言います。この町の劇場の看板女優です」

 ハーキムの紹介にヤスミンは「しけた小さい一座だけどね」と笑いを見せた。竜也は室内に入ってくるヤスミンに軽く頭を下げる。

「クロイ・タツヤです。最近この町に来ました」

 ヤスミンは「よろしくね」と軽く言って挨拶を交わしながら、ハーキムの横までやってきた。そしてハーキムが執筆中だった原稿を覗き込む。

「なによ、全然進んでないじゃない」

「うう、すみません」

 ハーキムは身体を縮めて恐縮した。不思議そうな顔の竜也にヤスミンが説明する。

「随分前から劇の脚本をお願いしてるんだけどさ、いつまで経っても脱稿しないのよ。アシューの王様に捧げる詩でも書いてるの? あんたはどこの大文豪?」

「いや、あの、鋭意努力はしていますので……」

「それとも前払いした原稿料、耳を揃えて返してくれるの?」

 どことなく楽しそうにハーキムをいたぶるヤスミンと、恐縮するばかりのハーキムに、竜也が口を挟んだ。

「あの、すみません」

 二人の視線が竜也へと向けられる。

「その話、もっと詳しく聞かせてください。力になれるかもしれません」

 竜也の様子は、興奮を押し殺し冷静になるべく努めているかのようだった。

「大して難しい話じゃないけどね」

 と前置きし、ヤスミンが説明する。

「うちの一座は先々代の頃からのいくつかの脚本を順繰りに上演しているだけなのよね。大抵のお客さんはうちのどの劇も一回は見たことあるから、どんどんお客さんが少なくなってるの。いい加減新作で一山当てないと、先細りする一方なわけ」

「その新作の執筆を依頼されまして。気軽に引き受けたんですが、まさかこんなに難しいとは……」

 説明を引き継いだハーキムがそう嘆息した。

「劇の内容ってどんなのなんですか?」

「うちは『海賊王冒険譚』をほぼ専門にやってるわ」

 ヤスミン一座で使っている脚本の一冊をハーキムが本棚から取り出した。ハーキムとヤスミンの説明を聞きながら、竜也はその脚本に目を通す。
 「海賊王グルゴレット」というのは三百年ほど前の実在の人物だそうだ。グルゴレットは海賊として、商人として、傭兵として、義賊として名を上げ、数々の伝説を残している。虚実入り交じったそれらの伝説を小説化・演劇化したものが「海賊王冒険譚」である。
 劇の内容は冒険活劇。元の世界で言えば「千夜一夜物語」のシンドバッドやアリババのエピソードを想起させるものだった。そこから魔法的な要素を抜いたものと考えればいいだろう。

「新作の冒険譚ということは、全くの作り話でも、今まで誰も知らないような代物でも構わないんですね?」

「むしろそういうのが欲しい。面白ければ何でも構わないわ」

 それならいける、と竜也は昂ぶる心を抑えながらハーキム達に告げた。

「俺が知っている一番面白い冒険譚を劇にしましょう。ハーキムさんには『海賊王』の話にするための改造を。ヤスミンさんには演劇向きにするための修正をお願いします」

 竜也達は脚本を書くための打ち合わせに突入した。

「まずは、グルゴレットに相棒が欲しいですね。銃の名人は出せませんか?」

「その当時には銃はほとんど普及してませんよ。今だってエレブではかなり使われているらしいですが、こちらにはろくにありませんし」

「弓の名人じゃ駄目なの? グルゴレットの好敵手にそんな奴がいるけど」

「じゃあ、その人とグルゴレットが今回はたまたま手を組んだことにしましょうか。あと、剣の達人も出したいんですが」

 ハーキムとヤスミンは少しの間考え込んだ。

「……剣と言えば、牙犬族よね」

 竜也は山賊退治の有志の中に犬耳と犬の尻尾を付けた男がいたことを思い出した。

「あいつらは『烈撃』っていう何でもぶった斬る恩寵を授かってるのよ。剣を持った牙犬族とは戦いたくないわね。得物なしなら怖い相手じゃないんだけど」

「彼等は一族総出で剣術修行を盛んに行っていて、牙犬族の戦士は全員が腕の立つ剣士でなんです。――そう言えば、牙犬族の剣祖と呼ばれる人物が海賊王と近い時代の人でしたね」

「剣祖?」

「ええ。剣祖シノンは三百年前にネゲヴに流れ着いた、マゴルと見られる人物です。優れた剣の使い手で、牙犬族に伝えたその術を『イットーリュー』と称していたと」

 竜也はずっこけそうになった。その剣祖とやらが同郷の人物であることはまず間違いないと思われた。「シノン」は「信之介」とか「忍」とかがなまった名前なのだろう。

「じゃあもう一人の仲間はそのシノンで」

「ですが、シノンとグルゴレットでは活躍した時期が何十年かずれてますし」

 とハーキムが難色を示すが、

「細かいことはいいのよ! そんなところにこだわるお客さんなんて来やしないわよ」

 とヤスミンが押し通した。

「それじゃ次にあらすじです。舞台はどこかの小王国、お話はそこのお姫様が花嫁衣装で逃げ出したところから始まります」







 打ち合わせは夜遅くまで行われ、大筋は完成した。あとはハーキムがそれを書き起こすだけである。
 翌日から竜也の生活が急に慌ただしくなった。
 メインは脚本執筆の補助である。竜也が「見てきたように」口述する台詞や展開をハーキムが文章化していく。ヤスミンは衣装や舞台装置、役者の手配に走り回った。

「うちの一座だけじゃ手が足りないし、これだけの劇なら大きくやらなきゃもったいないよ!」

 ヤスミンはそう言って、近隣をドサ回りしている旅芸人に声をかけていた。

「敵役の宰相の衣装はどうしたらいい?」

 と衣装係に訊ねられた竜也は「敵役はやっぱり黒だろう」と答えた。それで用意された衣装を見てヤスミンと竜也が、

「……なんか地味ね。角とか付けましょ」

「それに金銀の飾りがあれば。あとマントは不可欠」

 二人の補足により仕上がった衣装はネゲヴの人間にとっても異国情緒溢れるものとなった。中世ヨーロッパ風の騎士装束にアラビア風味を加味したような、幻想的なものである。
 脚本は完成したところから座員に渡され、稽古が開始される。絵が得意な竜也は書き割りの作成を手伝ったり稽古を見物したりしていたが、いつの間にか演出に口を挟むようになっていた。
 ヤスミンはシノンの役である。女泥棒の出番は脚本から削られたし、お姫様役にはちょっとばかり適さない。胸にさらしを巻いて小汚い格好をしたヤスミンは、ニヒルな剣士役を嬉々として演じていた。

「シノンが持っているのは斬鉄剣という伝説の剣で、鉄だろうと岩だろうと斬れないものはないんだ。このときの決め台詞は――

『我が剣に……斬れぬものなし』」

「くぅ~っ、格好良いわ!」

 とヤスミンが感動に打ち震える一方、ハーキムは、

「そんな言い伝えはどこにもないんですが……」

 と異議を唱える。が、

「細かいことはいいの(んだ)よ!」

 という二人の合唱に沈黙するしかなかった。

「殺陣は緩急をつけた方がいい。シノンと敵がじっとにらみ合う、にらみ合う、にらみ合って、お客さんが焦れそうになったときに動く! ここですれ違い、一瞬の攻防! そのままの姿勢を維持! お客さんに『どうなった? どっちが勝った?』って思わせて、シノンが納刀、そのタイミングで敵倒れる、そう! そこでシノンの決め台詞、

『――またつまらぬものを斬ってしまった』」

 おおー、と座員が感嘆し、

「くぅ~っ、いかすわ!」

 とヤスミンがまた感動に打ち震えている。ハーキムは、

「あまりに実際の斬り合いとかけ離れていると思うのですが……」

 と冷静な突っ込みを入れている。が、

「これがいいんじゃない!」

 という二人の合唱にまたもや沈黙を余儀なくされた。

「それで、最後の決戦での決め台詞は?」

「それはもちろん『今宵の斬鉄剣はひと味違うぞ!』」

「くぅ~っ! 最っ高っ!!」

 感極まったヤスミンに対し、ハーキムはもう何も言えない。

「あんたに足りないのはこういう外連味よ!」

 ヤスミンは一方的にそう言ってハーキムを切って捨てた。

「本当面白いこの話、凄いよあんた!」

 ヤスミンがばしばしと竜也の肩を叩く。

(本当に凄いのはモンキー=パンチや宮崎駿なんだけど)

 竜也は内心そう思い、忸怩たるものを感じた。だがそれはそれとして、この劇が良い儲けになるよう引き続き全力を投入する。

「スキラの知り合いに手紙を送ったわ。上手くすれば劇を見に来てくれるかもしれない。もっと上手くすればスキラで上演するときに援助してくれるかもしれない!」

 ヤスミンの報告に一座の面々が「おー」と感嘆した。話が見えない竜也がハーキムに説明を求めた。

「ヤスミンさん達は元々スキラ近隣で活動していたんですよ」

 スキラはネゲヴで最も大きな町の一つだが、先々代の頃のヤスミン一座はそこでそれなりに名の売れた一座だったらしい。だが同じ演目ばかり上演していたので段々客が呼べなくなり、別の町に移動して新しい客を開拓。が、そこでも同じ演目ばかり上演していたので段々客が呼べなくなり、また別の町に移動して……とくり返しているうちに、ついにこんな西の果てまで来てしまったそうである。

「この劇、絶対に成功させるよ! そしてスキラに返り咲く!」

 ヤスミン一座は新作劇に一層熱中し、その熱は竜也やハーキムを巻き込んで突き進んでいく。初上演はわずか一ヶ月と半月先、ニサヌの月の一五日と決定された。







「あ゛~、ただいま~」

 日はとっくの昔に暮れていて、元の世界であれば日付が変わるような時間帯。疲れ切った竜也がラズワルドのコテージに戻ってきた。明かりは灯されておらず、コテージの中は暗闇である。

「ラズワルドはもう寝てるよな……」

 と部屋の中へと入っていく竜也。だが、

「おかえりなさい」

 ラズワルドが真っ暗闇の中でテーブルに夕食を用意して待ち構えていた。竜也は思わず「のわっ」と奇声を上げて飛び退く。

「料理を用意するから少し待って」

「あ、ああ」

 動悸を抑えていた竜也は何とかそう返事した。
 それからしばらく後。皿に盛られた料理を差し挟み、竜也はラズワルドと向かい合って遅い夕食を摂っていた。メインディッシュの煮込み野菜はすっかり冷たくなっているが、元の世界のように手軽に温め直しができないので冷めたまま食べる。

「あー、何度も言ってるけど、こんな時間まで待つ必要ないんだぞ?」

「何度も言ってるけど、好きでしていることだから気にしないで。他にすることもないから」

 最早恒例となった会話が交わされ、二人はそのまま沈黙した。竜也は話すべき事柄を探す。

「……上演が始まれば暇になるから。あとちょっとの話だから」

 竜也の言葉にラズワルドは「ん」と頷いた。

「大した金じゃないかもしれないけど、俺達二人がここを追い出されてもしばらくはやっていけるくらいにはなるはずだから。ヤスミンさん達がスキラに行くなら一緒に行って、そこで小説を出版するとかすれば……ネタならいくらでもあることだし」

 竜也の独り言めいた言葉にラズワルドが相づちを打つ。

「劇も一回は見てもらわないとな。初日が一番人出が多いだろうから、いつものフードの中にそのウサ耳隠して、人混みに紛れればいいんじゃないか?」

 ラズワルドは微妙に嫌そうな、複雑な顔をする。それでも何も言わないラズワルドの腕を竜也が掴む。竜也の心にラズワルドの心境が流れ込んできた。

(白兎族の印に周りが何を思おうと、わたしのことをどれだけ嫌おうと、別にどうでもいい)

 ラズワルドは強がりでも何でもなく本気でそう思っていた。

(わたし一人で行くなら印を隠したりしない。隠したくない)

 ウサ耳をつけること、白兎族であることは――そのためにどれほどの辛酸を舐めてきたきたとしても――ラズワルドという少女を構成する最も重要な要素なのだ。他人の目なんて下らない理由で、自分自身を否定するような真似はしたくない。ウサ耳のカチューシャを外すのは論外だし、フードの下に隠すことも世間に負けて自分を否定したみたいで何か嫌だ。

(でも、わたしのせいでタツヤに嫌な思いをさせるのはもっと嫌。だから印を隠すのも仕方ない)

 だが結局、ラズワルドにとってそれが全てに優先するのだった。
 白兎族であることが知られたらお互いに嫌な思いをするだろうから――竜也は軽く考えていたが、それは白兎族を、ラズワルドという少女の何割かを否定することと同義だったのだ。考えが浅かったことを竜也は恥じる。

(でも、周りの反応が間違ってるとは必ずしも言えないんだよな。心の中なんて究極のプライバシーだろ。それを好き勝手に覗かれちゃ――その恐れがあるのなら忌避するのだって当然だ)

 竜也の場合、度々ラズワルドと心をつなげて彼女が力を乱用していない事実を確認しているが故に、彼女を忌避する理由がないに過ぎない。(なお、この時点の竜也は白兎族の力をあまりに過大に誤解していた。たとえ白兎族であろうと、接触テレパスのような会話ができる者などラズワルド以外には一人もいない。)

(初日だし、つまらん騒ぎを起こして上演にケチをつけたくないし、あんなに頑張ってるヤスミンさん達に迷惑かけるわけにはいかないし)

「……ごめん、今回は印を隠してくれ」

 竜也はラズワルドの言葉に甘えることにし、ラズワルドは「ん」と頷いた。だが彼女と付き合っていく限り、同じような問題は何度も出てくるだろう。

(どうするのがいいのか判らないけど、俺がしっかりしないと、考えないとな)

 竜也はそんな決意を新たにしていた。







 月日は流れ、ニサヌの月の一五日。町外れの広場には大勢の観客が詰めかけていた。竜也とフードの下にウサ耳を隠したラズワルドもその前列に混じっている。
 そして夕刻。ヤスミン一座による新作劇「海賊王冒険譚 ~カリシロ城の花嫁」の上演が開始された。ラズワルドにとっては初めての観劇であり、目を輝かせて舞台に見入っている。





『ああ、何ということだ! そのお姫様は海賊の力を信じようとはしなかった! その子が信じてくれたなら、海賊は空を飛ぶことだってできるというのに!』

『そうよ。かつて本物以上と讃えられた、ゴート金貨の震源地がここだ』

『ははは! 切り札は最後までとっておくものだよ!』

『連れて行ってください。海賊はまだできないけど、きっと覚えます!』





 ――「カリシロ城の花嫁」は大好評を博し、ルサディル中の話題を掠うこととなった。

「タツヤのおかげよ、ありがとう」

 ヤスミンが満面の笑みでそう告げる。竜也はようやく本当の意味で自分がこの町の、この世界の住人になったような気がした。






[19836] 第五話「都会を目指して」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/24 19:55
「黄金の帝国」・漂着篇
第五話「都会を目指して」







 「カリシロ城の花嫁」の準備をしている間にアダル月は終わり、月が改まってニサヌの月(第一月)。年も新しくなり三〇一四年となっている。
 この世界でも一年は三六五日だが、春分が元旦・一年の始まりとなっている。季節の経過、一年の経過は元の世界と完全に同期しているのではないかと考えられた。
 ニサヌの月が終わってジブの月(第二月)、ルサディルは祭の季節である。竜也はハーキムやヤスミン達と一緒に町の祭に加わっていた。祭の様子は日本のそれと大きく変わらない。町の男が総出で山車を牽引し、港から神殿までを行進するのだ。元の世界と少し違うのは、山車が船の形をしていることだった。船形の山車は全長一〇メートルを超え、その上には神像が奉られ、さらに金銀赤青とあらゆる飾りで彩られ、神像が埋もれるくらいに花を積んでいる。見ているだけで心が浮き立つくらいに華やかな山車である。
 竜也もまたハーキム達と一緒に山車を牽く行列に加わっていた。山車は町の大通りを通り、神殿まで引っ張られる。竜也は神殿の敷地へと入っていく山車を見送った。見上げると、神殿の門柱には真ん丸が両側に翼を広げた紋章が刻まれている。

「ここの神様って何を祀ってるんですか?」

「ルサディルの守護神と太陽神ですね。ネゲヴの大抵の自治都市では町の守護神と太陽神を祀っています。太陽神ラーはケムト由来の神様です」

 竜也の問いに答えるのはハーキムだ。

「ケムトの神様がこんな遠くで拝まれているんですか?」

「ええ、ネゲヴ中で拝まれていますよ。太陽神殿の神官は熱心に自分達の神様をネゲヴ中で布教して回ったんです」

 太陽神殿の神官が言うには、太陽神ラーはネゲヴに数多いる神々の長であり、ネゲヴに住む全ての民が太陽神の氏子だとのこと。竜也は怪訝そうな表情をした。

「エジプト……じゃなくてケムトの神様と恩寵の民の部族神は全然別物なんじゃないんですか?」

「昔は別物だったんです。一五〇〇年くらい前ですか、当時のケムト王が『バール人の奉ずる神々や恩寵の民の部族神は、全てケムトの神々に起源を有する。それらは名前が違うだけで元は同一の存在である』と主張しだしたんです」

 このケムト流の本地垂迹説を受けて、ケムトの神官は恩寵の民の部族神を始めとする出自の違う神々をケムト神話のパンテノンに組み込む作業に没頭した。さらには太陽神を祀るための神殿「太陽神殿」をネゲヴ全土に設立し神官を派遣、再構成した神話を広く知らしめた。一五〇〇年間に渡るその布教の結果、今日では恩寵の民を含む全てのネゲヴの民がその説を受け入れてしまっている。

「ケムト王は太陽神ラーの末裔を称していて、太陽神殿の神官長としてネゲヴ全土に君臨しています。ただ、その代わり政治の実権は全て手放して宰相任せにしています。ルサディルや各地の自治都市がケムト王に臣従しているのも政治的理由よりも宗教的意味合いの方がよほど強いですね」

 君臨すれども統治せず、権力はなくとも権威は至高、現実世界は支配せずとも精神世界は支配する。それがケムト王のあり方だった。
 竜也は「ほー」と感心し、教えられた知識を脳内のノートに書き記して意識の上からは削除した。実際、この世界にやってきてから宗教について意識したのは今回が初めてで、冠婚葬祭等の大きな行事以外では特に宗教を意識せずに生活できるのだろう。その気楽さは竜也にとってはありがたかった。

「厳格なイスラム世界やピューリタン全盛のヨーロッパみたいな世界だったら息苦しくてたまらんだろうな。ここがそんな世界じゃなくて本当に良かった」

 竜也がこの世界にやってきてすでに八ヶ月。「カリシロ城の花嫁」の上演が無事成功したこともあって、竜也もこの世界に、この町にすっかり馴染んでいる。

「ああ、ヤスミンさんのところの新しい子だね。次の劇が楽しみだよ!」

 竜也は町の人々からそんな風に声をかけられるようになった。ヤスミンや一座の面々も竜也のことを一座の一員としてすでに受け入れてしまっているし、竜也にも異論があろうはずもない。

「――ただ、あのおっさんがそれをどう思っているのかが問題なんだけど」

 竜也はルサディルの戸籍にはアニードの使用人として記載されている立場である。これを単に雇用者と被雇用者の関係、現代風に置き換えて社長と社員の関係のように考えるのはとんでもない間違いだ。竜也の社会的身分はアニードによって保証されているのだから。竜也はアニードの許可なくしては転居も転職も結婚も不可能だ。その一方アニードは竜也の食住を保証する義務があるし、竜也がもし犯罪を行った場合アニードが責任の一端を問われることになる。

「あのおっさんに禁止されたらヤスミンさん達の手伝いもできなくなるんだよな。実際そう命令されないのが不思議なくらいだし」

 演劇に関わるようになってからはアニード邸での仕事は必要最低限、申し訳程度しかやっておらず、それもラズワルドに手伝わせて何とか体裁を整えているくらいである。普通の使用人だったらとっくに馘首になっているはずだ。

「そんな心配はいらない」

 とラズワルドが首を振る。

「タツヤはわたしのもの。アニードもそれは判っている」

 ラズワルドの言葉が足りないため誤解を招く物言いになっているが、足りないところは読心の恩寵で補うのがこの二人のあり方である。要するに、そもそもアニードが竜也を使用人にしたのもラズワルドの要求に応えただけで、竜也の管理監督はラズワルドの権限のうち。よほどのことがない限りアニードが口を挟むのはむしろ筋違いなのだ。

「あのおっさんからすれば俺はラズワルドのペットみたいなものか」

 と竜也が自嘲し、それが正鵠を射ていたためラズワルドは返答に困った。竜也は助け船を出すように、

「それでも、俺がこうやって劇で小銭を稼いでいたらやっぱりあのおっさんが首を突っ込んでくるんじゃないのか?」

「多分それはない」

 とラズワルドは再び首を振った。

「アニードは劇なんかやっても儲からないと思っている」

「まあ確かにそれほど儲かる商売じゃないしな」

 大道具や小道具や衣装、多くの座員と、必要な設備投資の大きさに対して実入りは決して大きくない。普通に日雇いで働いた方が収入が多いくらいだし、実際ヤスミン一座の面々は家計の不足を日雇いの仕事で補っている。

「タツヤがマゴルだってことはアニードも理解したけど、儲けにはつながらないとアニードは失望している。ただ、だからと言って今すぐタツヤを手放そうとは思ってない」

「ラズワルドのことも?」

 竜也の問いにラズワルドが頷く。

「もうそれほど役に立たないとしても他人に渡して利用されたら困る、そう思っている」

 そうか、と竜也は天井を見上げて嘆息した。

「自由になれるのはまだまだ先かな」

 それでも、この世界にやってきてまだ一年経っていないのだ。焦る必要はないと竜也は思っていた。
 そうやって、アニード邸の使用人とヤスミン一座の一員という二足の草鞋を履く生活が続いた。次回作は黒澤明の「隠し砦の三悪人」を元ネタにした冒険譚を構想しており、そのあらすじをハーキムと打ち合わせたりしているうちに月日が過ぎ去り、シマヌの月(第三月)である。
 シマヌの月の中頃。エレブから流れてきた山賊がルサディルに接近したため、竜也やハーキムは山賊退治の有志に加わっていた。

「てえぇぃぃ!」

 接近する山賊に向け、竜也は槍を突き出した。竜也が用意したのは柄の長さが四メートルもある長槍だ。そんな奇妙な武器を使っているのは竜也一人なのだが、ロングレンジで一方的に敵を攻撃できるこの槍を竜也は重宝していた。
 山賊は槍の穂先をかわし、竜也へとさらに接近する。懐に飛び込まれたときにどうしようもなくなるのがこの槍の欠点なのだが、

「我が剣に――斬れぬものなし!」

 牙犬族の剣士がそれを補ってくれていた。竜也を護衛するように立っていたその剣士が山賊を一刀のもとに斬り伏せてしまう。その牙犬族は、

「ふっ……またつまらぬものを斬ってしまった」

 と空しげに呟きながら鞘に剣を収めた。

「ありがとうございます」

 竜也は内心「なんだかなー」と思いながらもそう礼を言う。その言葉に、剣士は片頬だけ吊り上げたような笑みを見せた。ニヒルな俺超格好良い!とか考えているのはラズワルドでなくても判る。
 山賊が全員死ぬか逃げるかして、その日の山賊退治は終了した。ルサディル側には負傷者はいても死者はいない。竜也はその長槍で山賊の何人かに手傷を負わせたものの、一人として仕留めることはなかった。

「タツヤ、怪我はありませんか」

「ハーキムさんも大丈夫ですか?」

 竜也とハーキムは互いの無事を確認し、安堵を共有する。ムオード達は残務処理に取りかかっていた。山賊の死体を集めて埋葬するのである。竜也もまたハーキム達と一緒に死体の一つを運んでいた。その男が山賊だったとは言われなければ判りはしないだろう。農村のどこにでもいそうな、くたびれた初老の白人男性の遺体である。竜也とルサディルの男達はその遺体を浅く掘られた穴へと横たえた。

「おっ、何か付けてるぞ」

「金になりそうか?」

 男の一人が遺体の首飾りに気付き、遺体からそれを取り外す。そして、

「何だ、ゴミか」

 とそれを投げ捨てた。それを拾った竜也は手に取ってじっくりと眺めた。

「どうかしましたか?」

 というハーキムの問いにも答えない。竜也は手の中の首飾りを見つめている。
 大きさは竜也の掌に収まるくらい。材質はおそらく鉛製、鋳造で大量生産されたのだろう。粗末な出来だが何が彫り出されているのかは判る。T字に組まれた棒に一匹の蛇が絡みついている、そんな形の工芸品である。

「ああ、聖杖教の象徴ですね」

 ハーキムが何気なくそう言う。

「聖杖教?」

 竜也がそれを問おうとしたとき、

「おい、あれ」

 と何人かが西を指差して騒いでいる。竜也達もその方角を見、その人影に気が付いた。
 ずっと向こう、何百メートルも離れた西の丘の上に、三つの騎兵の姿が見える。雑兵の類とは思えない。鎧で完全武装したその姿は、どこかの国の正規の騎士のように思われた。その騎兵が掲げている旗にもT字に蛇が絡みついた図柄が描かれている。
 騎兵は竜也達に背を向け、丘の向こうへと消えていく。それを見送った竜也は、

「何かが起こっている。起ころうとしている」

 そんな予感を抱いた――強い不安とともに。







 山賊退治の帰り道、竜也はハーキムからエレブと聖杖教について教わることにした。

「ムハンマド・ルワータという著名な冒険家がエレブについてこう書いています。『彼の地を他の地と違える最大の要因は聖杖教である』と。

 エレブには聖杖教という宗教があり、物乞いから王様までエレブの民の全てが一人残らずその宗教の信徒なのだそうです。何故なら、聖杖教を信じない者は殺されてしまうから――ムハンマド・ルワータはそう書いていますが、話半分くらいに割り引いた方がいいかもしれませんよ?」

 ハーキムはそう言って笑うが、竜也には笑えなかった。

「聖杖教徒は自分達の信じる神こそが本当の、唯一の神であり、それ以外の神は全て紛い物であると主張しています。だから、聖杖教の信徒にとっては我々のような恩寵を持つ民も皆殺しの対象なのだそうです。その昔、エレブにも銀狼族や灰熊族という部族がいたそうなのですが、聖杖教の手により村落ごと皆殺しになり、今は一人も残っていないとか」

「その聖杖教ってのは誰が始めたんですか? もしかしてマゴルが?」

「よく判りましたね」

 さらっと返ってきた答えに竜也は「最悪だ」と頭を抱えたくなった。

「エレブの地に聖杖教を伝えたのは預言者フランシスと呼ばれる人です。聖杖教の教会は公式に否定していますが、彼がマゴルであったことはまず間違いないと見られています。預言者フランシスが登場したのは七百年前、バール人の全盛期です」

「……えーっと」

 竜也の戸惑いを見て、ハーキムは苦笑を漏らした。

「もう少しさかのぼって説明しましょうか」

「お願いします」

 エレブや聖杖教について教わるために、その前提となるこの世界の歴史の知識が必要だったことに竜也達は同時に気付いた。ハーキムの説明が始まる。

「そうですね。まずおよそ四千年前、メン=ネフェルでセルケトがケムト王に即位します」

 えらいところから話が始まったな、と竜也は思ったが、話を止めたりはしない。

 ケムトは元の世界ではエジプトに相当するが、この世界のエジプトには四大文明と呼ばれるような華々しい文明は築かれなかったらしい。ケムトにあったのは古代エジプト王朝のような広大で強力な国家ではなく、メン=ネフェルという小国家を中心とする緩やかな小国家連合体だった。江戸時代の日本の各藩がさらに自治性や独立性を高めた状態、と考えれば判りやすいだろうか。

「メン=ネフェルのセルケト王朝は初代の王セルケトから今日まで実に四千年間、途切れることなく一つの血統により王位が受け継がれ続いています」

 とハーキムは言うが、竜也が「本当に?」と問うと肩をすくめた。

「……まあ、建前上はそうなっているというだけです。そもそも初代セルケトから千年くらいは歴史じゃなくて神話の領域ですし、王の子を排除して臣下が王位を継いだ話がいくつもありますし。臣下と言っても何代かさかのぼれば王家の血が入ってる者の即位ですし、その新たな王は例外なく先王の息女を王妃にしています。母系で見れば万世一系は貫かれている、と言えなくもない……ということです」

 ここ二千年くらいはそういう王朝の交代じみたこともなく、王位が受け継がれているそうである。だがそれはケムトの国際的地位が低下し、ケムトの王位の魅力が減じたことの結果に過ぎない。

「三〇一四年前、アシューのカナンにバール人が都市国家メルカルトを建国します。バール人は後にその年を海暦元年と定めました」

 とは言うものの、メルカルトは名前だけが残るのみで今日では所在すら不明となっている。三〇一四年という数字も神話の類であり、結局は伝説上の都市・伝説上の発祥地に過ぎない。(なお、カナンは元の世界のシリア=パレスチナ一帯に相当する地名である。)

「バール人はメルカルトを最初の拠点とし、数々の植民都市を地中海各地に建設しました。それらの諸都市は交易で結ばれ、航路の安全確保のために軍事的にも手を結ぶようになります。そうして海暦一五〇〇年頃に誕生したのがウガリット同盟(ブリット・ウガリット)、バール人によるバール人のための海洋交易・軍事同盟です。バール人は地中海の覇者として、千年以上にわたって君臨し続けます」

 バール人とは、元の世界ではフェニキア人に相当する民族なのではないかと竜也は推定していた。

「バール人に、宿敵となるような民族は存在しなかったんですか?」

 竜也の問いにハーキムは「うーん」と少し考え、

「ヘラス人は一時期海洋交易の競争相手でしたし、文化的には優越していたくらいなのでバール人にも多大な影響を与えました。ですが内部分裂で勝手に衰退しましたね」

「足みたいな形のあの半島にそういう競争相手はいなかったんですか?」

「レモリアですか? 植民都市が建設されたばかりの頃は土着の勢力と敵対していたそうですが、やがて吸収してしまったようですよ」

 ヘラスはギリシアに相当する勢力、レモリアがローマに相当するようだ。ローマという不倶戴天の強敵は歴史に登場する前に潰され、吸収されてしまっていた。強力なライバルをそうなる前に潰してしまったため、バール人は覇者となるまで勢力を拡大し続けられたのだろう。

「ヘブライ人は……いるわけないか」

 ハーキムが不思議そうな顔をしたので竜也は「何でもないです」と誤魔化した。
 元の世界のヘブライ人はフェニキア人と近い関係にある。この世界にヘブライ人に相当する部族や民族があったとしても、バール人に吸収され、同化しているだろう。竜也はそう考えたが、それは全く正しい。
 そもそも、元の世界のようにヘブライ人=ユダヤ人が成立するにはユダヤ教が成立する必要がある。そのためにはモーゼによるエジプト脱出が必要だが、この世界ではエジプトとシリア=パレスチナが海で隔てられている。
 さらにそもそも、海を挟んでいる以上ケムトがアシュー側と戦争をすることがなく、カナン近辺から奴隷が連れてこられることもない。ケムトは古代エジプト王朝と比較すれば素朴で小さな国家群に過ぎず、神官勢力と王家が先鋭的な対立をすることもなく、アクエン=アテンによる宗教改革も起こらない。アテン神を信仰していたと見られるモーゼが逃亡奴隷に一神教を伝道することもなく、一神教を紐帯としたユダヤ民族がこの世界に生まれるはずもないのである。
 竜也は脇道にそれた思考を元の路線に戻し、ハーキムの説明に耳を傾けた。

「……ウガリット、グブラ、シドン、ツィロ、カルト=ハダシュト、ゲラ。主導する都市は変遷しましたが、バール人の同盟(ブリット)は実に千年以上にわたって存続しました。バール人は地中海の覇者として君臨し続けます。

 バール語はアシュー・エレブ・ネゲヴの三大陸の公用語となり、地中海中の全ての民は母語の他にバール語を覚えるのが当然となりました。各地に入植したバール人と土着の民との混血も進みます。そんな状態が千年以上続いたのでネゲヴだけでなくエレブやアシューでも、多くの地で元々の母語がほぼ忘れ去られてバール語が母語化してしまっているくらいです」

 言語だけでなく通貨単位や長さや重さ等の計測単位、暦等の時間単位が各地のローカルなものからバール人のそれへと置き換えられる。バール人の基準がこの世界の、三大陸のグローバルスタンダードとなったのだ。だが、それでも盛者必衰、驕れる者は久しからず。バール人もやがて衰退を迎えることになる。

「……二七〇〇年代のゲラ同盟分裂を最後に海洋交易・軍事同盟は二度と再建されず、ここにバール人の時代は終わりました。ゲラ同盟分裂後はバール人同士の戦争が起こり、以降百年は無法時代と呼ばれる戦乱の時代となります」

 なお、海賊王グルゴレットが義賊や傭兵として活躍したのはこの時代のことである。

「航路の安全が確保されないために交易が途絶え、都市間の交流が絶たれ、各都市は自分の都市に閉じこもるようになります。戦乱の時代とは言っても戦う理由は交易利益の奪い合いで、戦場は海上にほぼ限られていました。つまり、交易さえ諦めれば都市の安全は確保できるんです。

 各都市がそうした、繁栄と引き替えにした安全を甘受することにより、戦乱の時代はやがて収まっていきます。そしてその後二百年、ネゲヴでは自給自足と相互不干渉による平和が続いている、というわけです」

「バール人と呼ばれる人達はどうなったんですか?」

「地中海中に広がったバール人は土着の民と混血し、外見や血の濃さでバール人かそうでないかを区別するのはナンセンスになりました。それでは何をもってバール人とそうでない人を区別するのでしょう?」

「バール人としての誇りや自覚。バール人としての文化や振る舞い。バール人としての美徳や美意識。そんなところですか?」

 竜也の答えにハーキムが目を見開いた。

「まさしくその通りです。バール人は海洋交易を誇りとし、生き甲斐としていました。そんな彼等が交易の道を絶たれてしまい、誇りも生き甲斐も見失ってしまう。仲間同士の繋がりも途絶えてしまう。

 そんな彼等の子供達は『自分はバール人ではない』『ケムト人だ』『ルサディル人だ』と思うようになります。血筋が絶たれたわけではないのですが、バール人はその数を急速に減じていくのです。

 今日でも海洋交易を行い、バール人として自覚している人も残っています。アニード氏も現代のバール人の一人です。ですが、今のバール人はかつての栄華と繁栄を極めたバール人とはやはり違うと思うのです」

 竜也達はしばしの間、しんみりと歴史に思いをはせた。

「ネゲヴの方は判りましたけど、エレブの方もそうして平和になったんですか?」

「そういうわけにはいかなかったようです。細かい事情はあまり伝わらないのですが」

 バール人の時代には盛んに行われていたネゲヴとエレブの交易・交流は、無法時代を挟んでぱったりと途絶えてしまった。ネゲヴの民が南の大陸に引きこもったように、エレブの民も北の大陸に引きこもったのだ。

「ネゲヴの民はさらに自分の都市に引きこもることにより平和を実現しましたが、それはネゲヴの気候が穏やかで農作物の実りが豊かで、引きこもっていてもそれなりの生活が維持できたからです。

 ですが、エレブは気候が寒冷で民も町も田畑も貧しかった。少ない実りを奪い合う戦争がくり返され、エレブの地は荒廃しました。聖杖教が急激に勢力を拡大するのはこの頃です」

 フランシスの伝道から長い間、聖杖教は田舎の弱小カルト宗教の域を出ていなかった。だが同盟の衰退と混乱の中、聖杖教は荒廃した人心につけ込むようにして徐々に勢力を拡大させる。まず不安に怯える民に浸透し、次いでその信仰心を利用しようとする領主階級にも入り込んだ。そして無法時代の戦乱の中で勢力を一気に拡大させる。
 ムハンマド・ルワータの言葉を借りれば「燎原の炎のごとく」――聖杖教の信仰の灯火は業火となってエレブの大地を舐め尽くしたのだ。
 各地の国王・領主は聖杖教を国教とし、それまで崇拝された多神教を禁教とした。あくまで多神教を奉じる人々は火あぶりとなり、多神教を守ろうとする領主はよってたかって攻め滅ぼされた。そこまでいけば、教会と領主の上下関係を逆転させることももう容易い。こうして聖杖教の教皇は諸侯や国王の上に、エレブの頂点に君臨することとなったのである。

「聖杖教の今の教皇はエレブの全ての軍勢を率いてネゲヴに侵攻することを公言しているそうですよ」

 ハーキムは笑いながら朗らかにそう言うが、

「大変じゃないですか!」

 竜也は怒鳴らずにはいられなかった。ハーキムは竜也の反応に戸惑いを見せる。

「あの教皇はもう何十年も前から馬鹿の一つ覚えのようにそう言い続けているんですよ? ですが未だにエレブの軍勢はやってきていません。バール人の時代からエレブの軍勢がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんですよ」

 ハーキムはそう言って竜也を安心させようとする。だが竜也の不安はむしろ募る一方だ。

(今まで一度も起こらなかったことがこれからも起きないと、どうして言える? 教皇が何十年もネゲヴ侵攻を、同じことを言い続けているってことは、それだけ強い信念を持っているってことじゃないのか? 侵攻のための準備に何十年間かを使ったってことなんじゃないのか……?)

 竜也の胸の内に黒々とした暗雲が広がっていった。







 ルサディルに戻ってきたその翌日。竜也はラズワルドを連れて町に出ていた。行き先はハーキムと知り合いになった書店である。ハーキムによると、あんなひなびた書店でも品揃えはルサディル随一なのだそうだ。

「こんにちは」

 と竜也は店主に声をかける。店主は胡散臭そうに竜也とラズワルドを見つめた。

「聖杖教に関する本があったら見せてほしいんですが。あ、ムハンマド・ルワータの『旅行記』はいりません」

「聖杖教? まあいいが」

 店主は横柄な態度で店の奥に姿を消す。戻ってきたときは古ぼけた薄い、一冊の本を手にしていた。

「ゲラ同盟時代、聖杖教の宣教師がこの町に来たときに置いていった、あの連中の聖典だ」

「正確にはその写本」

 ラズワルドの指摘に、店主は少しの間言葉に詰まった。やがて精神的に体勢を立て直した店主が竜也に説明する。

「この町にはこれ一冊しかない、貴重な本だぞ。二〇ドラクマでなら売ってやってもいいが」

「二ドラクマで売れたなら上出来だと思っている」

 ラズワルドは容赦の欠片なくそう指摘した。しばし絶句した店主は、怒りで顔を真っ赤にした。

「この……! 悪魔が……!」

 店主が腕を振り上げた。ラズワルドは竜也の背後に隠れながらも、

「悪魔じゃない、『白い悪魔』」

 と自己主張をしている。竜也は慌ててラズワルドを庇いながら、

「じゃあ五ドラクマで買います!」

 竜也はドラクマ硬貨を五枚店主に押しつけ、代わりにその聖典を取り上げるようにして受け取った。そのまま「お邪魔しました!」と逃げるように店から飛び出していく。
書店からかなり離れたところでようやく立ち止まり、店主が追ってこないことに竜也は安堵のため息をついた。ラズワルドも呼吸を整えている。
 向かい合い、ラズワルドを見下ろした竜也はため息をつき、

「ラズワルド、あれはやり過ぎ」

 とりあえずそう言わずにはいられなかった。きょとんと不思議そうな顔のラズワルドが竜也の手を取る。

(でも、余計なお金を使わずに済んだ。あの店主はタツヤからお金を騙し取ることしか考えていなかった)

(近代以前の商売人なんてみんなそんなもんだろ、怒っても仕方ない。ラズワルドのやり方の方がルール違反だ)

(せっかくの力なんだからこういうときに使わないと損)

(でも、その使い方がいかにも不味い。あれじゃラズワルドがますます嫌われる)

(別に構わない。好かれようなんて思ってない)

 生まれたときから他者に忌まれ、恐れられるのが当たり前の少女にとって、「他人に嫌われること」は己が行動を制御する理由にならないのだ。他者の感情を誰よりも理解できる少女は、まさにそのために他者の感情に誰よりも無頓着になっていた。

「とにかく。力を使うなとは言わないから、もっと上手い使い方をしてくれ。自分のためでもあるし、周りの人のためでもあるんだ」

 竜也の言葉にラズワルドが頷く。竜也が心配してくれていることを感じ取り、ラズワルドの胸は幸せな思いでいっぱいになった。今まで少女を心配してくれる人など、一人もいなかったのだから。

「ほら、行くぞ」

 竜也はラズワルドの手を引いて歩き出した。少女はその手をしっかりと握った。決してそれを離すことがないように。







 竜也はハーキムの家を訪れた。
 ラズワルドの姿にハーキムが怯えた様子を見せたので、「絶対に勝手に心を読ませたりしない」と竜也が堅く約束し、何とか一緒に部屋に上げてもらうことができた。
 白兎族の少女にぺったり貼り付かれても平然としている竜也の姿を、ハーキムは畏怖の目で見つめる。

「何と言うか、貴方は結構大物なのかもしれませんね」

 ハーキムの感嘆を、竜也は的外れのように感じて適当に受け流した。竜也はハーキムに本を渡す。

「今日はこの本を読んでもらいたいと思いまして」

 竜也も一応字は読めるが速度はかなり遅い。ハーキムに読んでもらって内容を要約してもらった方が早いという判断である。立派な活字中毒であるハーキムにとっても、どんな内容であれ本を読めるのであればその提案に異存はなかった。

「昔はネゲヴにもエレブからの宣教師が来ていたんですね」

「一時期かなり熱心に布教していて多少は信者を獲得したそうですが、無法時代の間にほぼ消滅しましたね。ネゲヴで未だに聖杖教の教会が残っているのはメン=ネフェルくらいじゃないでしょうか」

 メン=ネフェルは元の世界ならエジプトのメンフィスに相当する町である。この町には「聖モーゼ教会」という教会があり、エレブの教皇庁からは離脱して活動しているという。
 竜也とハーキムはその日の午後を費やして聖典を精読していく。夕方には読み終え、内容についての意見交換の段となった。

「……聖杖教が長い間広がらなかった理由がよく判りました」

 今エレブにここまで広がっている理由が理解できなくなりましたが、とハーキムは辛辣な笑みを見せた。竜也も全くの同意見である。
 聖典には、天地創造、エデンの園、カインとアベル、ノアの方舟、バベルの塔等、旧約聖書のよく知られたエピソードが書き連ねられていた。逆に言えば、よく知られたエピソードしか書かれていないということだ。しかもそのエピソードも竜也の知っているものとは微妙に、あるいは大幅に違っている。
 何故そんなことになっているのかは最後まで読み進めれば理解できる。預言者フランシスが作った教団は地元領主の弾圧により一旦壊滅しているのだ。

「預言者が我等に授けし聖書はその全てが炎の中へと投じられた」

 と聖典には大きな悲しみを持って記されている。さらにはフランシスも獄死し、教団が再建されるまで二〇年以上を要したという。再建に指導的役割を果たしたのはフランシスの弟子の一人で、名をバルテルミと言う。

「要するに、元の世界から持ち込んだ聖書がこのとき全部焼失して二〇年後にバルテルミ達が記憶を頼りに書いたのが今の聖典なわけだ」

 この聖典の中ではモーゼが一番偉大な存在として描写されている。推測だが、奇跡を連発しただけのキリストの生涯よりスペクタクルに満ちたモーゼの生涯の方が聴衆の受けが良かったのではないだろうか? フランシスの最初の布教は奴隷や貧民を対象としたものだったのだから。

「自分達にもモーゼのような指導者が現れて、この場所から連れ去ってくれないだろうか」

 布教を受けた奴隷や貧民はそんな風に、キリストよりもモーゼの方をより求めたのではないだろうか?
 その一方預言者ヨシュアと呼ばれているイエス・キリストの扱いは非常に小さなものとなっている。

「山上の垂訓を行ったのもフランシス、『罪なき者がまず石を投げよ』と言ったのもフランシス。一三人目の弟子に裏切られたのもフランシス、三〇枚の銀貨で売られたのもフランシス――イエスの名が残っているのはある意味奇跡かも」

 十字架に掛けられて刑死したイエスと、獄死したフランシス。両者のイメージが混同し、イエスの事績やエピソードの多くがフランシスのものへと書き換えられてしまっているのだ。出涸らしとなったイエスの名がほとんど痕跡だけになってしまうのも当然と言えた。こうして起こったのがキリスト教から聖杖教への移行なのだろう。
 フランシスが伝えたのはちゃんとしたキリスト教だったのだろうがその教えは断絶してしまい、その後バルテルミが記憶だけを頼りに再編した教えはキリストの名を冠すべき代物ではなくなっていたのだ。モーゼが神と直接契約を結んで一神教を創始し、預言者フランシスがその教えをエレブへと伝道――宗派の名前や象徴は創始者に因んだものが選ばれた。
 モーゼが神の命により作った青銅の蛇の旗印、蛇が絡みついた聖なる杖。それがこの新宗教の名前であり象徴であった。――だが、

「この、契約者モーゼの話などおかしいところだらけです」

 聖典の前半最大の山場はモーゼによるケムト脱出(エジプト脱出)である。

「『ケムトの皇帝はアシューのカナンを侵略し、獲得した奴隷をケムトへと連れ帰った』……そんな史実はどこにもないんですが」

 元の世界のエジプトやパレスチナを舞台にした話を、こちらの地理に無理矢理当てはめて記述しているのだ。そのためこちらの史実と全くそぐわない、奇妙な内容になってしまっている。
 モーゼは奴隷を引き連れてケムトを脱出する。神はモーゼとその民に「大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て」の地を与えると約束をした。「日の入る方の大海」とは地中海のことであり、つまり約束の地とは地中海東岸のシリア=パレスチナ一帯――この世界の地名ではカナンの地を指している。

「『モーゼの民はカナンの地に王国を作った』『だが王国は滅び、いくつかの国に服従する時代が続く』『ネゲブ全土を支配した皇帝がカナンも征服した』『皇帝により服従を強いられていた時代、そこに登場したのが預言者ヨシュアである』……もう無茶苦茶です」

 キリストの頃のパレスチナの支配者はローマの皇帝だったのだが、この世界にはローマに相当するような帝国は存在しなかった。そこで、モーゼにとっての敵役であるケムト王をここでも持ち出すしかなかったのだろう。その結果、ネゲヴにエジプト王朝とローマ帝国が合体したような超帝国が存在することになってしまっている。さらには時間を無視してケムト王が皇帝の名称を冠するようになってしまっている。

「だいたい、この皇帝(インペラトル)というのは何なんですか?」

 ローマ帝国が果たした歴史上の役割は、この世界ではバール人の海洋交易・軍事同盟が果たしていたと言える。だがその実態は都市国家連合であり、ローマ帝国のようにただ一人の指導者に支配される巨大国家ではなかった。「ネゲヴの皇帝」のモデルとなったケムトの王家にしても小国家連合に過ぎないのだ。
 どのような形にしろこの世界に「帝国」が存在しなかった以上、「皇帝」の称号がこの世界に由来するはずがない。それはフランシスが元の世界から持ち込んだ言葉であり、概念なのだ――聖杖教の宿敵として。
 巨大なネゲヴの大陸をただ一人で統治する、絶対の支配者。ネゲヴの魔物と軍勢を配下に置いた、恐るべき独裁者。聖典はそんな「皇帝」像をおどろおどろしく描写していた。「魔王」という言葉に置き換え可能と言えばどういうニュアンスで使われているのか判りやすいだろう。

「聖杖教の信徒は、エレブの人達は、ネゲヴがこんな状態だと信じているのか……?」

 竜也は暗澹たる思いを抱きながら呟いた。







 翌日、竜也は一人で港にやってきた。

「エレブと交易している船はありませんか?」

 竜也はその辺を行き交う人の中から温厚そうな人物を選び、訊ねる。多少時間はかかったが目的の船は何とか見つけられた。だがその船はアニードの所有する商船であり、間の悪いことに甲板で商品の積み込み等を監督していたのはアニード本人だった。

「何だ、お前は?」

 不機嫌そうなアニードがそう問う。竜也は内心天を仰いだ。そして、見つかったものは仕方ない、と竜也は気を取り直す。

「ちょっと調べていることがありまして。今のエレブの状況が知りたいんですが。エレブに戦争の動きはありませんか?」

「そんなこと、お前に何の関係がある?」

「エレブの軍隊がルサディルに攻めてきたら、無関係も何もないじゃないですか」

 アニードは「阿呆か、お前は?」と竜也をせせら笑った。

「そんなこと起こるわけないだろう。バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんだ」

(阿呆なのはお前の方だろう)

 そう言い返したいところを、竜也はぐっと飲み込んだ。竜也は感情的にならないよう努めながらアニードを説得しようとする。

「過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるんです。ルサディルには軍隊はないし、大した城壁もない。もしエレブの軍が本気で攻めてきたらこんな町ひとたまりもないですよ?」

「無駄飯食いの小僧が、誰に知ったような口を利いている!」

 アニードが竜也に罵声を浴びせた。

「屋敷から放り出されたいのか! 戻って自分の仕事をしろ!」

 竜也は「失礼しました」と頭を下げ、その場から逃げるように立ち去った。
 調査に行き詰まった竜也はアニード邸へ帰ることにする。が、足が前に進まなかった。竜也は波打つ海を見つめながら立ち尽くしている。

「どうせ見つかって叱責されるならラズワルドを連れてくればよかった」

 と自分の無力さ加減を噛み締めた。そのとき、

「あれ、どうしたの?」

 声をかけられた竜也が振り返ると、そこには立っていたのはヤスミンだった。ヤスミンの隣には見知らぬ少女が佇んでいる。竜也は「ちょっと調べ物があったんですけど」と簡単に事情を説明した。

「ヤスミンさんはどうしたんですか?」

「ついにスキラに行くことになったんで用意していたの」

「え、もうですか?」

 スキラはネゲヴで最も大きい町の一つである。場所はネゲヴのちょうど真ん中、元の世界で言うならチュニスとトリポリの中間に位置する。

「こちらが後援をしてくれるカフラマーンさん」

 ヤスミンは隣の少女を竜也に紹介した。カフラマーンという名のその少女は竜也と同年代の、闊達そうな美少女だ。身長は平均より若干高いくらいで、めりはりのあるプロポーション。バール人の血が強く肌の色は薄めで、明るい茶色の髪はおかっぱが少し長くなったくらいのセミロング。耳に付けているのは大きな琥珀のイヤリングだ。その琥珀と同色の、好奇心いっぱいの黄色い瞳が竜也を見つめている。

「初めまして。スキラのナーフィア商会に所属しているカフラマーンといいます。カフラと呼んでくださいね。あなたがあの劇の脚本を書いたんですよね?」

 竜也が「ええ」と頷くと、カフラは竜也の手を取る。

「あなたも是非スキラに来てください! こんな田舎町に引きこもってるなんてもったいないですよ!」

 目を白黒させた竜也が、助けを求めるようにヤスミンに視線を送る。ヤスミンは苦笑を見せた。

「『カリシロ城の花嫁』だけでこの先ずっとやっていくわけにもいかないし、わたし達もタツヤには一緒に来てもらわなきゃ、って思ってるのよ。それに、タツヤも前にそんな話をしてたじゃない」

 確かにその通りだが、こんなに急な話だとは思っていなかったので何の用意もしていなかった。

「返事はいつまでに?」

「来月、ダムジの月の一日には出港しますので、それまでには決めてくださいね」

 竜也はそれを了解し、二人に頭を下げた。

「一緒に行けるように努力しますので、よろしくお願いします」







 竜也はその足でハーキムの家へと向かった。

「残念ですが、私はこの町に残ります。私はこの町の出です。しがらみやら父祖の墓やら色々ありまして、簡単に捨てるわけにもいきません」

 ハーキムは以前にもスキラ行きをヤスミンから誘われたそうだが、そう言って断っていた。

「エレブの状況については、こんな田舎町よりもスキラの方がよほど情報を得やすいと思います。何か判ったら私にも教えてください」

「それはもちろん」

 ハーキムの依頼に竜也は頷いた。
 その夜、ラズワルドのコテージ。竜也はラズワルドにスキラ行きの件を説明した。

「この町には何も未練はない。わたしはタツヤについていく」

 ラズワルドの回答は以前にこの話をしたときと全く変更がなかった。竜也もまたラズワルドを置いて一人で行くことを考えもしていない。

「問題はアニード。例え邪魔になっていても、簡単にわたしを手放しはしない」

「確かに」

 竜也は腕を組んで考え込む。そんな竜也にラズワルドが提案した。

「アニードの弱みならいくらでも握っている。脅すのは簡単」

「最悪はそれも選択肢に入れるとしても、もっと穏便な方法はないのか?」

「アニードと交渉して手放させる。わたしがアニードの考えを読めば、交渉に勝つのはそんなに難しくない」

「言い負かすだけなら簡単かもしれないけど、それは交渉で妥協させるのとは違うんだ」

 竜也はたしなめるようにラズワルドに説明した。

「こっちにはろくな手札はないし、下手に追い詰めると失敗する。こっちに都合のいい答えを逃げ道にして、相手をそこに誘導するのが一番理想的な交渉術なんだけど……」

 竜也の脳裏にある考えが閃いた。竜也が脳内で材料を組み立て、崩し、再度組み直す。その過程はラズワルドでも読み取れないくらいの速度である。しばしの時を経て、竜也の脳内ではほぼ完全な作戦が組み上げられていた。ラズワルドもそれを読み取る。

「カフラさんに協力してもらおう」

 アニードは交易のためつい先日までルサディルを離れていたので、カフラが何をしにルサディルを訪れているのか知らない可能性は高い。

「それはわたしが確認すればいい。アニードにはお似合いの手」

「ふふふ」

「くすくすくす」

 竜也とラズワルドは悪辣そうな微笑みを交わし合った。







 それから数日後、アニード邸をカフラが訪れた。
 スキラのナーフィア商会と言えばネゲヴ有数の大豪商であり、その使者が会見を求めているなら会わないという選択肢はアニードにはない。例えその使者がほんの小娘であろうとも。アニードは最大限へりくだってカフラを出迎え、客間へと通した。その隣室ではラズワルドがいつものように待機している。

「――白兎族はもう用意されていますね?」

 挨拶も何もなく、カフラが先制する。アニードは返答に詰まった。

「さ、さて、何のことでしょう」

「下手な芝居は結構。白兎族の悪魔がそちらの手にある以上、普通の交渉は成立しないでしょう。ですが、わたしは交渉に来たのではありません。スキラ商会連盟の総意を通告しに来たのです」

 ラズワルドはいつものように手鏡を使ってアニードに合図を送った。アニードはカフラが嘘を言っていないことを知らされる。(なお、商会連盟とはバール人商人が中心となって組織している商人同士の互助会みたいなものである。)

「スキラ商会連盟に属する全ての商会はアニード商会との一切の取引を打ち切ります」

「そ、そんな……」

 ラズワルドがアニードに合図を送る。アニードの口から唸り声が漏れた。

「一体何故……?」

「貴方が普通に取引や駆け引きに勝ち続けただけなら、こんな決定はされません。ですが、貴方のやり方はあまりに卑劣だった。商人同士の仁義を踏みにじり、一方的に自分だけボロ儲けをし続けた。そのために他の商人からどれだけの恨みを買ったのか、まさか理解していないのではないでしょうね?」

 ラズワルドがアニードに合図を送る。アニードが大量の冷や汗を流した。

「……スキラと交易できずとも、ハドゥルメトゥムやカルト=ハダシュトの商人がおります」

「スキラの動きを知れば、ハドゥルメトゥムやカルト=ハダシュトの商会連盟も同じ決断をするのは間違いありません。ウティカやイギルギリもいずれは追随するでしょう」

 ラズワルドがアニードに合図を送る。アニードが顔面蒼白となりながら言い訳した。

「その、正直申しまして、私も少々やり過ぎたことを反省しているところなのです。白兎族の悪魔は故郷に帰しまして、元のように真っ当に商売をしようと思っていたところでして」

「故郷に帰したところで、貴方や他の商人が悪魔をまた利用しようとするかもしれません。手放すのであれば引き渡していただきましょう。悪魔は我々の商会連盟が共同で管理します」

 アニードが眉を跳ね上げた。

「……あの悪魔は私が高い金を出して白兎族から買ったものです。それを引き渡すとして、我が商会への見返りは?」

「悪魔が貴方の手元にないのであれば、取引を打ち切る理由もありません。それは見返りにはならないと? それに、白兎族に払った対価など端金に過ぎないでしょう? 悪魔を使って得られた儲けから見れば――我々スキラの商人が受けた損害から見れば」

 カフラが斬り捨てるような視線でアニードを見下ろす。アニードは身震いした。

「……最近スキラの商人の幾人かと疎遠となっているのですが……」

「口添えくらいはしましょう。取引を再開できるかはそちらの努力次第です」

 アニードはがっくりと肩を落とす。アニードが落ちたことを、カフラは理解した。







 交渉の翌日にはラズワルドはアニード邸を出てカフラの商船へと移動した。鞄二つにまとめられた着替えと多少の貯金、それがラズワルドの全財産である。竜也がその二つの鞄を持ってラズワルドに同行する。
 ラズワルドは踊るような軽やかな足取りで歩いていた。

「タツヤはすごい、こんなに簡単にアニードから自由になれるなんて」

「あのおっさんが迂闊なだけだよ。ラズワルドが敵に回ることを考えもしていないんだから」

 カフラがアニードに通告した内容は、実は全てカフラのはったりだったのだ。普通の商人ならこんなはったりは相手にもされないだろう。アニードが自力のみでカフラと交渉したなら、あるいはカフラの嘘を見抜けたかもしれない。

「でも、あのおっさんはラズワルドの力に頼って自分で考えようとしなかった。その肝心のラズワルドがカフラさんに協力していたんだから、あのおっさんが負けるのは当たり前だよ」

「当然の報い」

「そういうこと」

 竜也達が港に到着し、やがてカフラの商船が見えてきた。竜也達の姿を認めたカフラが大きく手を振っている。竜也は早足でカフラの元へと急いだ。ラズワルドは少し遅れて竜也に続く。

「カフラさん! ありがとうございます!」

 竜也は真っ先にそう言ってカフラに頭を下げた。

「にゃははは! 別に構わないですよ。わたしもこんなに楽ちんで愉快な交渉は初めてでした!」

 カフラはそう花咲くような笑顔を返した。

「それにしても、随分どきついはったりかましたんですね」

「ん? 全くのはったりってわけじゃないですよ。アニードさんの振る舞いはスキラの一部ではすでに問題になっていましたし、万一交渉が決裂したときは『白兎族の悪魔』の事実を知る限りの商会連盟に言い広めるつもりでしたから」

「『悪魔』じゃない」

 そのとき、ようやく追いついたラズワルドがカフラにそう言う。カフラは恐縮した。

「あ、ごめんなさい。でもあのときの交渉者の振る舞いとしてはあの言い方が最適だったから――」

 ラズワルドはカフラの言い訳を無視し、一方的に告げた。

「『悪魔』じゃない。『白い悪魔』」

 きょとんとするカフラの一方、ラズワルドは偉そうに胸を張っている。竜也は内心「余計なことを教えてしまったかも」とちょっと後悔していた。

「――ええと、ああ、うん。判りました、『白い悪魔』ですね」

 カフラはそう納得して見せてその話をさらっと流し、次の話題に移る。

「それと、ラズワルドさんの力を商会連盟で管理する、というのも嘘じゃありませんよ。少なくてもラズワルドさんにはどの商人にも力を貸さないことを確約してもらいますし、力を使うときは特定の商人のためにではなく、連盟のために使ってもらおうと思っています」

「その報酬は?」

 ラズワルドの疑問にカフラが答えた。

「不自由な思いはしないくらいの金額はお約束します」

 今度は竜也が自分の疑問をカフラに訊く。

「カフラさん自身はこの子の力を利用しようとは思わないんですか?」

「考えなくもなかったんですけど」

 とカフラは苦笑した。

「昨日のアニードさんの醜態を見て考えを変えました。ラズワルドさんの恩寵は強力すぎです。それに頼ると商人として駄目になっちゃいます」

「確かに」

 竜也は深々と頷いて同意した。

「――さて、出港まであと七日です。お二人の戸籍の移動とか、必要な手続はこちらで進めます。タツヤさんには船員の一人として働いてもらいますから、そのつもりでお願いしますね」

 判りました、と竜也が頷く。ラズワルドは用意された船室に移動し、竜也はカフラと一緒に船内に案内された。







 竜也はアニード邸で仲良くなったメイドのリモンと、ラズワルド付きのばあやに別れの挨拶をする。ばあやはラズワルドを孫のように可愛がっていたので、非常に寂しそうにしていた。ラズワルドも別れを惜しんで涙ぐんでいる。

「ラズワルドがいなくなったらおばあさんはクビになるのかな?」

 竜也はリモンに確認する。

「なるかもしれませんが、おばあちゃん一人くらいわたしが養ってみせますから大丈夫です」

 とリモンは胸を張った。そうか、と竜也は安堵する。

「それじゃ、元気で」

「ええ。タツヤさんも」

 リモンはどこか寂しそうな微笑みで竜也を見送った。
 そして七日後、月は変わってダムジの月(第四月)。竜也やラズワルド、ヤスミン等を乗せた船はルサディルを出港した。行き先はスキラ、約一ヶ月の旅程を予定していた。






[19836] 第六話「バール人の少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/24 19:56



「黄金の帝国」・漂着篇
第六話「バール人の少女」







 竜也達を乗せた帆船はスキラへと向けて海を走っている。
 ルサディルからスキラまでは直線距離でも一〇〇〇キロメートル以上ある。日本の本州の端から端までと同程度だ。帆船で急げば二〇日程度。あちこちに立ち寄る普通の商船なら一ヶ月程度の船旅である。
 ヤスミン達一座の面々が寝泊まりするのは船倉の大部屋だ。男女の区別もなく雑魚寝である。ラズワルドをそこで雑魚寝させるのはいくつかの理由で不可能だったため、狭いながらも個室が用意されていた。この船で個室を使っているのはカフラとラズワルドの二人だけだ。なお、竜也がお休みからおはようまでラズワルドの部屋にいて一緒に過ごしていることは言うまでもない。
 日中竜也やヤスミン達は船員見習いみたいな扱いで様々な雑用に従事している。旅費を多少なりとも浮かそうという、涙ぐましい努力である。もっとも、本職の船乗りでない竜也達が航海中にできる雑用など大した量ではなく、暇な時間は多かった。
 そんな航海の日々にもようやく慣れてきた頃。竜也とヤスミンはカフラから呼び出しを受け、カフラの船室へと向かっていた。

「あの子の実家のナーフィア商会ってスキラ随一、ネゲヴでも有数の大豪商なのよ」

「アニードさんと比べると?」

 竜也の問いをヤスミンは鼻で笑った。

「アニードさんのところも結構大きいけど、それでもナーフィア商会に比べれば木っ端みたいなものよ」

 竜也は「へー」と感心するが充分に理解できているわけではない。

「何の用かは知らないけどとにかく機嫌を損ねないようにね。あの子がその気になればわたし達なんて虫けらみたいに潰されちゃうわ」

 判りました、と頷く竜也。

「――でも、そんな家の子がどうしてたかだか芸人のためにわざわざ直接ルサディルまで?」

「わたしもあの子自身が来るとは思っていなかったわ。使いを寄越してくれれば上出来くらいに考えていたの」

 カフラはナーフィア商会の中で演劇や出版といった娯楽部門の経営を任されていると言う。

「え、ちょっと待って。カフラさんて今何歳?」

「たしか一七歳だったかな。ナーフィア商会全体から見ればほんの小さな部門だろうから……」

 ヤスミンはそこから先の言葉を濁したが言いたいことは伝わった。

(金持ち娘の道楽としてはちょうど手頃なくらい、ってことなのかな)

 ヤスミンはスキラへの再起を目標に、その足かがりを掴むためスキラへと旅したことがあり、カフラとはそのときに面識を持ったと言う。

「二年も前のことだし一度話をしただけだし、正直覚えているかどうかも判らないくらいだったんだけど」

 それでも他に心当たりもなかったヤスミンはカフラへと手紙を送ったのだ、「カリシロ城の花嫁」の脚本前半部分を同封して。

「前半だけでも劇の面白さは理解できる。前半だけなら勝手に上演される心配もない。後半が見たければルサディルに来るしかない。そういうことですか」

 竜也の言葉にヤスミンは「そういうこと」と頷いた。

「それにタツヤのことも最大限利用したわ。この脚本を書いたのはマゴルだ、彼はわたし達の知らない物語をたくさん知っているって」

「――そんな風に書かれたら興味を持つに決まっているじゃないですか」

 とカフラが突然戸を開けて顔を出してきた。「さあ、入ってください」と招かれるままに竜也達はカフラの自室へと入っていく。席に着いた二人の前にカフラが紅茶を差し出した。

「うおー、お茶だ」

 と小さくつぶやいて感動する竜也。この世界にやってきて以来お茶を飲むのは初めてである。

「たまたま所用でイコシウムまで来ていて、手紙はそこで受け取ったんです。ここまで出てきているんだからいっそルサディルまで足を伸ばそうと、その足で向かっちゃいました」

 なおイコシウムは元の世界ならアルジェリアのアルジェに相当する町である。ヤスミンは「運が良かったんだね」と安堵するようにため息をついていた。

「――さて。『カリシロ城の花嫁』のスキラ上演については約束通り支援します。ですが、その先の支援についてはタツヤさん次第です」

 と話を切り出すカフラ。竜也は「え、俺?」と自分を指差した。

「タツヤさんのマゴルとしての知識がナーフィア商会の、わたしの利益となるのかどうか確認させてもらおうと思います。タツヤさんの知っている他の物語が面白いものならこの先もヤスミン一座への支援をお約束しましょう」

 カフラはにこやかな笑顔だが言っている内容は合理的に過ぎると言うか、冷徹そのものだ。ヤスミンは顔を青くする一方、竜也は腕を組んで「うーん」と唸った。

「あ、物語は恋愛物でお願いしますね」

 とカフラは条件を絞ってくる。竜也は「うーん」ともう一唸りし、

「――劇にするかどうかはひとまず置いておいていいんですよね」

「ええ。劇にできないなら小説にすればいいですから」

 それじゃ、と竜也はある物語を語り出した。

「題名は『スキラの休日』。ヒロインはとある小さな国のお姫さま。その国は財政難に陥っていて、お姫さまは財政援助と引き替えにある大富豪の元に嫁ぐことになったんだ。こうしてお姫さまはスキラにやってくる」

 その物語は名画「ローマの休日」この世界に合うように翻案したものである。連日続くパーティに気疲れしたお姫さまは迎賓館を抜け出してスキラの町へと飛び出し、そこで危険な目に遭いそうになる。そのお姫さまを助けたのが一人のチンピラである。
 元の映画では新聞記者だった主人公はただのチンピラとすることにした。チンピラは小遣い稼ぎのためにお姫さまの身柄を確保、お姫さまはチンピラの元で世話になることになる。生活の違いや価値観の違いに衝突しながらも、二人は次第に惹かれ合うようになる。だが、

「……こうしてお姫さまの休日は終わりを告げ、お姫さまは迎賓館に戻っていった。そして結婚式の当日。花嫁衣装に着飾ったお姫さまが馬車で大富豪の元に向かおうとする。それを大勢の野次馬が見物していて、その中にはチンピラが混じっていた。二人はお互いに気付いて一瞬見つめ合う。でも、お姫さまは馬車に乗ってその場を去っていく。チンピラはただそれを見送るだけだった……」

 竜也がその物語を語り終えた。見ると、ヤスミンは「はー」とため息を漏らしながら余韻に浸っている。一方のカフラは、

「……何で大団円(ハッピーエンド)じゃないんですか? 確かに良いお話でしたけど」

 と不満そうな顔をしていた。

「いや、何でと言われてもこの話はこういう話だからだ、としか」

 と竜也は戸惑う。だがそんな解答ではカフラは納得しなかった。

「恋物語は大団円以外認めません。終わり方を変えてください」

 その要求に竜也は途方に暮れるしかない。

「……結婚式の真っ直中に突然チンピラが現れてお姫さまをかっさらっていくとか?」

「カリシロ城でもそれは使ったじゃない」

 タツヤそれ好きだね、とヤスミンが突っ込む。竜也としては発想の元は映画の「卒業」なのだが、「カリオストロの城」のそのシーンの方が「卒業」を元ネタにしているのだろう。

「いいですね、それ。それでいきましょうよ」

 とカフラ。だが竜也としては到底首肯できることではない。

「いや、どう考えても『そして二人はいつまでも幸せに暮らしました』とはならないでしょ。すぐに連れ戻されて終わりじゃないですか」

「実はチンピラさんはすごい武術の達人だったことにすれば」

「例え追っ手から逃げ切って二人で生活を始めたところで、生活水準の違いからすぐに破綻するのが目に見えてるんですけど」

「そんなの二人の愛の力で乗り越えられます!」

「それで結局、お姫さまの母国はどうなるんですか? 財政問題も愛の力で乗り越えるんですか?」

 竜也に言い負かされ、カフラは不満げに頬を膨らませた。ヤスミンが竜也の脇腹を強く肘で突き、小声で、

「ちょっと、カフラさんは支援してくれるんだからその要望にはできる限り応えないと」

「だからって話を滅茶苦茶にしていいわけないだろ」

 話を理解してもらうための翻案や、あるいは面白くするための改変なら受け入れよう。だがストーリー全体の整合性を破綻させるような結末の改悪など受け入れられるわけがない。それが名作として映画史に名を残す物語であるならばなおさらだ。

「ともかく。この話はこういう話でこういう終わり方なんです。大団円がご希望なら他の物語をお話ししますから」

 竜也は断固とした口調でそう告げて改変を拒否した。カフラはまだ不満そうだ。が、それだけではない思いがその顔に浮かんでいた。

「……それじゃ、その大団円の恋愛物を聞かせてもらえますか?」

 とカフラに命じられ、竜也は頭の中を検索する。だが、

「あ、ヒロインは政略結婚されられそうになっているお姫さまか大商人の娘でお願いしますね」

 と条件を絞られてしまう。

「えーと、えーと」

 と竜也は散々悩むが、さすがにこの場ですぐには条件に該当する話を思いつかない。結局この課題は竜也の宿題という形になった。

 ひたすら考えて結局該当する話を思いつかなかった竜也はカフラの要望に添った物語を自作することにした。その日以降、ラズワルドの部屋で頭を抱えて物語をひたすら考え込んでいる竜也の姿が見られるようになる。

「タツヤさん、お話はどうなりましたかー?」

 そこにカフラが突撃してくるのもまた恒例となった。カフラはにこやかな笑顔を絶やさないが、

「……『笑うという行為は本来攻撃的なものであり 獣が牙をむく行為が原点である』」

 竜也の呟きにカフラが「何か言いましたか?」と首を傾げ、竜也は「いえ、何も」とごまかした。

「それでタツヤさん、昨日の続きですが」

 と笑みを浮かべるカフラ。竜也は猫を目の前にしたネズミの気分を味わっている。この猫は腹を減らしていないため獲物で遊ぶことを優先しており、かえってたちが悪かった。

「えー、はい。商人の娘に拾われたマゴルの少年がその子に一目惚れをして、その子の気を惹くために金を稼ぐ手段を考えるんでしたね」

「はい、その通りです」

 「政略結婚されそうになっているお嬢様を助ける話」――その要望に応えて竜也が設定やキャラクターを発案し、カフラがそれを却下したり採用したりし、

「――ヒロインはとある小さな商会の一人娘。彼女の父親は人柄は良いけど経営手腕がなく、商会は倒産しかかっている。そのヒロインの前にふらりと現れたのが主人公」

「その主人公が知恵と力を絞ってその商会を立て直すんですね? それで、どうやってですか?」

「……主人公は恩寵の部族の出身で、腕っ節なら誰にも負けない、とか」

「武術の腕でどうやって商会の経営を立て直すんですか」

「それじゃ、主人公は白兎族の出身で、読心の恩寵を使って」

「現実味がありすぎて、それはどうかと。そんな小説を発表したら、小説の真似をしようとする馬鹿者達が白兎族にどんな迷惑をかけることになるか判りませんよ?」

 こんなやりとりが何日かくり返され、結局主人公の設定として採用されたのはマゴルだったのだ。

「……」

 ラズワルドはベッドの中からこの経緯を面白くなさそうに見守っていた。ラズワルドの恩寵については乗船前に竜也が「勝手に心を読ませたりしない」と固く約束したこともあり、カフラは気にしてはいないようだった。

「主人公は元いた場所では医者の卵で、その進んだ医術を使って」

「悪くはないですけど、タツヤさん自身はその『進んだ医術』を使うことができるんですか? その小説を読む人を納得させられますか?」

 カフラの問いに竜也はしばし沈黙する。

「……ペニシリンの精製とか」

 竜也は幕末にタイムスリップした医者の漫画を思い出していた。作中で描かれていたペニシリンの精製方法はある程度覚えている。だがその利用方法となると途端に心許なくなる。

「……医者でもない俺のうろ覚えの知識を中世レベルのこの世界の職人に伝えて、注射器を作らせて、それを俺が患者に使う……?」

 どう考えても不可能だ、そんな真似できるわけがない。竜也はその案を却下するしかなかった。

「俺が持っていて自信を持って使える知識……」

 竜也はしばし考え、

「……複式簿記はまだないかも」

「タツヤさんの言う簿記ってどんなのですか?」

 竜也は父親のスーパーの経営を継ぐために簿記の資格を取得しており、実務にもわずかだが触れている。カフラにしても商会の経営に携わっているのだから簿記や会計の知識は当然有しているし、実務経験は竜也よりずっと上である。竜也達はお互いの簿記や会計の方法について伝え合い、その結果カフラ達がすでに複式簿記とほぼ同じ会計方法を採っている事実を竜也は知った。

「このやり方は千年前に当時のバール人が発明して三大陸に広めたんです」

 とカフラは誇らしげに胸を張った。この世界のバール人達は竜也の世界の先人よりも数百年分先を進んでいたことになる。さらに言えば、バール人は千年前から為替取引や先物取引を広く行っていて、千年前から銀行や株式会社に似た仕組みを地中海中に広めているという。

「バール人すっげぇ」

 竜也は素直に感心した。

 そうやってあちこちに寄り道をしながらも、竜也がアイディアを出してそれをカフラが却下することが何日もくり返される。そして結局、竜也はカフラが納得できるようなストーリーを組み立てることができなかった。

「やっぱり条件が厳しすぎるって。もう少し条件を緩めてもらわないと」

 両手を挙げて言い訳する竜也にカフラは「むー」と頬を膨らませる。

「大体、ここまで現実に即した条件で金儲けの手段を思いつけるなら実際にそれをやってるって」

 狭い部屋にこもって連日おしゃべりを続けた結果、竜也はカフラに対して敬語を使わなくていいくらいには打ち解けていた。

「ええ。実際にそれをすることを考えていたんですけど」

 やっぱり皮算用でしたか、とカフラは肩をすくめた。

「……え、カフラに政略結婚の話が?」

「いえ、まだ具体的には。ですけどあの家に生まれた以上、家の道具としてどこかに嫁ぐことがわたしの運命であることには変わりありません」

 そう言ってカフラは儚げな微笑みを見せた。

「――だからわたしは恋愛物の、大団円のお芝居や小説が大好きなんです。現実の自分には縁のないものですから」

 竜也はそんなカフラに何を言っていのか判らない。カフラは表情を切り替えて普段通りの笑顔を見せた。

「さて、困らせてすみませんでした。今度はもっと条件を緩めて、普通の恋愛物のお話を聞かせてもらえますか? 大団円の」

「ああ、うん、そうだな」

 竜也もまた気持ちを切り替え、スポンサーの意向に応えようとする。

「それじゃこんな話はどうだ? 舞台は雪深い、北の町」

「雪?」

「……ええっと、どこかのひなびた、港町。父親の交易船に同乗している少年が七年ぶりに訪れたその町で一人の少女と再会する」

 偶然再会したその少女はその町で何かを探していた。少年はその探し物に付き合うことになる。だが探し物を見つけることで、忘れていた、心の奥底に封じ込めていた悲しい記憶が呼び覚まされる。全てを思い出した少年と少女の、最後の対面。

「『ボクのこと、忘れてください! うぐぅー!』」

「それのどこが大団円なんですかー!」

 悲しい物語のクライマックスにカフラは目に涙をためて思わず怒鳴る。一方ベッドの中でその物語を聞いていたラズワルドも「すんすん」と鼻を鳴らしている。

「いや待て。最後まで聞け」

 竜也はカフラを落ち着かせた上でエピローグを語り、

「そんな終わり方でいいんですかー!」

 カフラは再び怒鳴らずにはいられなかった。一方のラズワルドは「良かった」と満足げである。

「いやまあ、確かにとってつけたような終わり方だし、この前で終わってる方が物語としては綺麗だとは俺も思うんだけど、元の話がこうなってるんだから仕方ない」

 カフラはまだ何か言いたげだったがそれを口にはしなかった。代わりに別のことを口にする。

「……確かに一応恋愛物で、一応大団円です。笑いどころも泣きどころもありましたし、お話の面白さにも文句はありません。これを小説として出版することにしましょう」

 生活の糧を掴んだ竜也は内心でガッツポーズを取った。

「他にはどんなお話がありますか?」

「恋愛がメインの話じゃないけど、恋愛要素もある話でも構わないか?」

 カフラが「ええ」と頷いたので竜也はとっておきの物語を持ち出すことにした。

「古今東西の七人の英雄が魔法でよみがえって殺し合いをする話はどうだ?」

 ……カフラは時間さえあれば――なければ時間を作って――ラズワルドの部屋を訪れて竜也とおしゃべりに興じている。劇や小説の話ばかりではなく、話題は多岐に渡っていた。

「ナーフィア商会の令嬢があのような下卑の者と親しげにするなど」

 とカフラのお目付役は渋い顔をしているが、カフラはそれに構わない。今日も今日とてラズワルドの部屋を訪れるカフラだが、竜也はちょうど船内での雑用に向かうところだった。

「タツヤさんの分は免除するよう、わたしから船長に言っておきますから」

「いや、そういうわけにもいかないだろ」

 竜也はカフラの好意を謝絶して雑用の仕事に向かってしまう。その部屋にはカフラとラズワルドの二人が残された。

「……」

 ベッドで横になっているラズワルドはカフラに対し「邪魔」と言いたげな視線を送ってくる。カフラは内心で肩をすくめ、「また来ますね」とその部屋を出て行った。
 暇を持て余したカフラは甲板で一人海を眺めている。そこに、

「お嬢様、お暇でしょうか? あ、俺はヤスミン一座のギボールと言います」

 と声をかけてきたのはヤスミン一座の看板男優だった。ギボールは懸命にカフラに話を振ってくるが、カフラは気のない生返事を発するだけである。

(タツヤさんがわたしに気に入られているから、それなら自分だって、と勘違いしているんでしょうか)

 確かに男はそこそこ二枚目でそこそこ話術もある。だがカフラにはスキラという大都会で活躍するトップ男優とも親交があるのだ。そのカフラから見ればギボールは所詮田舎の旅芸人に過ぎなかった。その話題にもカフラの興味を引くようなものはない。

「――今日も暑いですね」

 話の流れを無視し、カフラは太陽を見上げる。

「え、ええ」

「お日様では何が燃えていてあんなに暑いんでしょうか。お日様は燃え尽きてしまわないんでしょうか」

 カフラの脈絡のない台詞にギボールは立ち往生してしまう。カフラは内心の侮蔑を無表情で隠した。

(歯の浮くような気障な台詞も、機知に富んだ面白い返しも言えないんですか? それじゃ太鼓持ちすら務まりませんよ?)

「なにやってんのあんたは!」

 突然現れたヤスミンがギボールを張り倒した。ヤスミンは這いつくばらんばかりにくり返し頭を下げ、ギボールを引きずって立ち去っていく。カフラはため息を一つついた。

「カフラ、何かあったのか?」

 そこに入れ違いで竜也が姿を現した。カフラは「さあ、何もなかったと思いますけど?」と返し、次いで笑顔を見せる。

「お仕事は終わりですか?」

「ああ」

「――今日も暑いですね」

 不意にカフラは太陽を見上げる。「ああ、そうだな」と竜也もまた空を見上げた。

「お日様では何が燃えていてあんなに暑いんでしょうか。お日様は燃え尽きてしまわないんでしょうか」

「あと五〇億年もすれば燃え尽きるらしいぞ」

 カフラはおなかを抱え、しばらく笑い続けた。そう、これだ。この返しだ。こんな返答、この男以外の一体誰ができる?

「確かにタツヤさんは出自も定かじゃないですし礼儀もなっていませんし思いがけないところで常識も抜けています。ですけど、元いた場所では商人の跡継ぎだったそうですし、タツヤさんなりに礼節を心がけているのは判りますし、とんでもない知識を当たり前のように語って時々びっくりさせてくれます」

 要するに、暇潰しのおしゃべりの相手としては最適の相手なのだ。カフラは竜也の持つ自然科学・人文科学・社会科学のあらゆる知識をしゃべらせた。もっとも竜也の言うことの半分も理解できたわけではないが。

「……宇宙の開闢は一三七億年前のことと計算されている。宇宙は最初砂粒よりもずっとずっとずっと小さな一つの点から始まったんだ。それが爆発のように一瞬で大きく膨れあがって今の宇宙ができあがった。これを『大爆発』理論と呼んでいる」

「……人間の心には無意識という領域がある。おおざっぱに言って、意識は『自分が自分と認められる範囲』、無意識は『自分が自分と認められない範囲』だ」

「……そうやって、市場に任せておけば商品は適切な価格に落ち着くようになる。この市場の持つ価格調整機能を『神の見えざる手』と呼んでいる」

 竜也の航海の日々はそうやって元の世界の知識を伝えたり、あるいは物語を語り聞かせたりしているうちに過ぎ去っていく。そして時間は流れて、アブの月(第五月)に入る頃。竜也達を乗せた船はようやくスキラへと到着した。







 スキラ湖と呼ばれる湖は、元の世界で言えばチュニジアのジェリド湖やガルサ湖、メルリール湖を一つにつなげたものである。元の世界のこれ等の湖は水がほとんど存在しない塩湖だが、この世界のスキラ湖は大量の水を湛えた淡水湖だ。ネゲヴで二番目の大河と言われているナハル川がその水源となっている。ナハル川の水は一旦スキラ湖に流れ込み、また川となって海へと流れていく。
 スキラの町は、そのスキラ湖と海をつなぐ川の北岸にあった。川幅は一番狭いところでも二キロメートル近くあり、船を使わなければ向こう岸に行くことはできない。南岸にあるのは倉庫街、それに漁村や農村で、町の機能は北岸に集中していた。
 町の人口は二〇万とも三〇万とも言われている。ルサディルとは比較にならない賑わい方である。そびえ立つ三階建・四階建の石造りの建物、道を埋め尽くす人々の群れに、ラズワルドは目を丸くしている。
 気候はルサディルと比べるとかなり暑い。今が夏真っ盛りということもあり、日差しは強く気温は摂氏四〇度を越えているものと思われた。ラズワルドはうんざりしている様子だがカフラや他の面々は普段と変わらない。多分このくらいの暑さはいつものことで、ラズワルドは体質的に暑さに弱いのだろう。
 ナーフィア商会が一座のために長屋を用意しており、ヤスミン達はそこに向かって移動しようとしていた。竜也やラズワルドも一座の一員として住むため、それに同行するところである。

「タツヤさんにはヤスミン一座の一員としての戸籍を用意しています。ラズワルドさんはタツヤさんの被保護者です」

 この世界では一五歳になれば成人と扱われる。元の世界では半人前の高校生だった竜也だがこの世界では立派な成人男子である。一方未だ一〇歳のラズワルドは成人による保護が必要とされる年齢だった。

「今からでも保護者をタツヤさんからわたしに変更することもできますが……」

 何気ないカフラの提案に、ラズワルドは敵意をむき出しにしてカフラをにらむ。カフラがひるみ、竜也が「まーまー」と取りなした。

「俺が保護者だと何かまずいことがあるのか?」

 竜也の質問にカフラは「いえ、その」と口を濁した。

「……タツヤさんは前歴が前歴ですし、気にされてないようですけど」

 カフラは周囲を見回してヤスミン達が近くにいないことを確認すると、

「ラズワルドさんまでわざわざ旅芸人に身を落とす必要はないんじゃないかと、そう思いまして」

 とささやくように説明する。

「……ああ、なるほど」

 と竜也は得心するしかなかった。

(芸人の身分は高くないのか。考えてみれば江戸時代もそうだったわけだし)

 この世界には、ネゲヴには、江戸時代の日本のような厳格な身分制度があるわけではない。だが社会的身分というものは確固として存在するのである。

「わたしは気にしない。タツヤじゃない人の世話になるつもりはない」

 ラズワルドがそう断言し、カフラもそれ以上はその話を持ち出さなかった。

「さあ、行くよ!」

 ヤスミンの号令で一座の面々が荷物を持って移動を開始。竜也とラズワルドとカフラの三人はその最後尾に付いていった。竜也とラズワルドが並んでスキラの町を歩いていく。ラズワルドは日除けのフードを被っているがそこからウサ耳を出し、人目にさらしたままである。だが、この町の人々の反応はルサディルの町とは大きく違っていた。

(……? みんな珍しがってるけど、忌避するような目があまりないような)

(うん、確かにみんな珍しがってるだけ)

 竜也はカフラに意見を求めた。カフラは思うところを正直に述べる。

「実際白兎族が珍しいのは確かですよ?」

 ほとんどの白兎族は隠れ里に固まって暮らしているため、町中に白兎族が出てくるとは極めて希であると言う。名前は有名だが誰も見たことがない、「幻の部族」と呼ばれる所以である。

「ルサディルで忌避されていたのは、アニードさんに利用されていたことも関係しているでしょうし、ずっとあの町にいたことも理由としてあるんじゃないかと思います。今はまだすれ違うだけなので単に『珍しい』というだけで済みますが、町中に住んで隣人になるとなったら、また違う反応が出てくると思いますよ?」

「なるほど」

(なるほど)

 カフラの解説に竜也達は納得した。
 やがて一行は新居に到着する。新居と言いつつ古くて小さい、平屋の長屋である。引き戸の戸がずらずらと並んだコの字型の建物で、建物に囲まれた内庭に協同炊事場が設置されている。トイレも共同で風呂はなし。近所に共同浴場があるのでそれを利用することになるだろう。ヤスミン達はその長屋の一角にまとめて入居する。竜也とラズワルドは二人で一室を割り当てられた。
 六畳ほどの部屋が二間あり、家具はない。窓は雨戸が閉じられており、室内は暗かった。雨戸の内側に木製の格子戸があり、格子には薄布が張ってある。網戸の代わりに使うものと思われた。

「古くて狭いけど家賃はそこそこだし、町中にあって劇場もごく近所。言うことはないね」

 とヤスミン達には文句はないようである。以前住んでいたアニード邸のコテージと比較すればあばら屋に等しい住処だが、ラズワルドにも特に不平はないようだった。

「さあ、すぐに劇場に入って用意するよ! 上演まで一月ないんだから!」

 ヤスミンの指示に従い、一座は休む間もなく劇場へと移動した。大道具のほとんどは劇場の倉庫にあった物を流用するが、一部新作を必要とする物もある。竜也は例によって書き割りの作成を手伝った。
 そんな調子で半月ほど過ぎていき、「カリシロ城の花嫁」上演が目前となった頃。竜也が劇場に小道具を運んでやってくると、

「……反応が鈍い」

 楽屋でヤスミンが不機嫌な顔で腕を組み、カフラもまた眉をひそめていた。

「どうかしたんですか?」

 と竜也が問う。

「あちこちで『カリシロ城の花嫁』の宣伝をやってるんだけど、反応が全然なのよ」

「わたしも話題作りをかねて関係者にこの劇を見に行くよう言っているんですけど……」

 竜也は「ああ、なるほど」と納得する。

「ここはルサディルとは桁違いに人が多いけど、娯楽の種類もそれだけ多いんだよな。全く無名のヤスミン一座の芝居をわざわざ見に来る必要もないわけか」

「そういうことね」

 とヤスミンは雑な仕草で肩をすくめた。

「一回でも見てもらえればこの劇の面白さは理解してもらえるし、そこから人づてで話題になると思うんですが」

「一回でも見る気になってくれなきゃ話にならないわね」

 ヤスミンとカフラは腕を組んで「うーん」と唸った。

「とにかく、知り合いでも何でもいいから人に来てもらうのが先決ですね」

「こっちの知り合いなんて先々代の頃の伝手しか」

 と悩むヤスミン。

「タツヤも知り合いには絶対に声をかけておいて。招待券使っていいから」

 竜也は一応「判りました」と返事をして劇場を後にした。だが、

「俺に知り合いなんているわけないじゃん。ラズワルドに拾われる前は漁村の小間使いで、その前は奴隷船で櫂を漕いでいただけなのに――」

 竜也の足が止まる。

「……そう言えばいないこともなかったか、知り合い」

 無駄足になるかもしれないが、どうせ時間はあるんだし行って損はないだろう。そう判断した竜也は一旦長屋へと戻り、ラズワルドを連れて再び外出した。

「それで、どこへ行くの?」

「まずは港に」

 竜也はラズワルドとともに港へと向かった。

「港はどっちだっけ。あの人に聞いてみようか」

「……あれはやめた方がいい。あっちのおばさんの方が安全」

「そうか」

 道が判らなくなったらラズワルドが危険の有無を確認の上、人に道を聞いて回る。

「そこならその通りをまっすぐに行って――」

「それだったらあそこにいる男に頼めば――」

 そうやって竜也はいくつかの手間を省き、目的の場所に到着し、目的の人物に対面することができた。

「お前か、俺に礼を言いに来たとかいう奴は?」

 竜也がいる場所はスキラ港の一角の、停泊するとある軍船の前。竜也の前にいるのはその軍船の船長。モヒカン頭も輝かしい、青鯱族のガイル=ラベクである。

「その節はお世話になりました」

 と頭を下げる竜也。一方のガイル=ラベクは首をひねっている。

「……確かに会ったことがあるな。どこだったか」

「一〇ヶ月くらい前、ルサディルの近くで白兎族の女の子を助けたことがあったでしょう?」

 竜也の影に隠れていたラズワルドが一瞬顔を出す。ガイル=ラベクはそれで「ああ、あのときの」と思い出した。

「それで、こんなところで何をやっている?」

「色々あって、今は劇の脚本を書いたりしてます」

 と竜也は「カリシロ城の花嫁」の招待券を取り出した。

「是非見に来てください」

 と差し出された招待券を、ガイル=ラベクは「ほう」と感心しつつ受け取る。

「この劇の脚本を書いたって言うのか。面白いのか?」

「ええ、もちろん」

 と胸を張って断言する竜也。ガイル=ラベクは再び「ほう」と感心した。

「ま、時間があれば見に行ってやる」

 ガイル=ラベクは竜也達に背を向けて立ち去っていく。竜也にもそれ以上できることは何もなく、その場を後にした。
 そしてアブの月の下旬。「カリシロ城の花嫁」の上演が開始される日である。

「知られざる、若きグルゴレットの冒険譚! 完全新作! さあ見てらっしゃい!」

 ヤスミン達一座の面々が必死に呼び込みをやっているが、客の入りは芳しくなかった。すでに入場しているのはカフラの伝手でやってきた招待客くらいだ。

「まいったな。思ったよりもずっと悪い」

 ヤスミンの顔色も優れないし、様子を見に来たカフラも顔を曇らせていた。
 なかなか客が集まらない中、竜也もまた路上で懸命に呼び込みをやっている。そんなときかなり柄の悪い、傭兵と思しき十人以上の一団が通りかかった。先頭を歩いているリーダーと見られる巨漢の男が劇の看板に目を留め、足を止める。一座の者が怯えながらも劇の宣伝をしようとして、その前に男が動いた。

「よお、来てやったぞ」

「あ、ありがとうございます」

 と頭を下げる竜也。傭兵を引き連れて歩いていたのはガイル=ラベクだったのだ。

「招待客の席はこちら――」

 だがガイル=ラベクはその案内を無視し、

「ところで知っているか? 俺達髑髏船団は三〇〇年以上の歴史を持つ海上傭兵団で、この」

 と看板に描かれた、稚拙なグルゴレットの似顔絵を指差した。

「海賊王が作った傭兵団の一つが起源になっている。その俺達にこの海賊王の劇を見せようっていうんだな?」

 ガイル=ラベクの醸し出す迫力が路上に時ならぬ緊張感を生み出す。が、竜也はそれを全く意に介さず、

「決して損はさせません」

 満腔の自信を持ってそう答えた。ガイル=ラベクは「ほう」と面白そうに笑う。

「そこまで言うなら見てやるが、面白くなかったらただじゃ済まんぞ?」

 ガイル=ラベクは本気か冗談か判らない調子で竜也にそう告げた。一座の面々は顔色を悪くしているが、竜也は全く気にせずに、

「ありがとうございます! 団体様ご案内!」

 と傭兵達を客席に案内する。ガイル=ラベクは肩すかしを食わされたような表情で劇場内へと入っていった。ガイル=ラベクの後ろ姿が劇場内に消えていくのを見送ったカフラが、急いで竜也の元にやってくる。

「ちょっとタツヤさん! 何であの人を知っているんですか?」

「以前助けてもらったことがあったからお礼に招待したんだ」

 と当たり前のように答える竜也。カフラは頭痛を堪えているような顔をした。

「……怖いもの知らずというか何というか。あの人自身が言っていたように髑髏船団は三大陸でも随一の歴史と伝統を誇る海上傭兵団ですがそれだけじゃなくて、その戦力もネゲヴ最強として名高いんですよ。ガイル=ラベクは三〇代半ばでまだ若いのに、実力でその傭兵団の首領になった方なんです」

「へえ、凄い人なんだな」

 と素直に感心する竜也。一方のカフラは何かを悟ったような顔をした。

「……タツヤさんて、馬鹿じゃなかったらよほどの大物なんですね」

「それ、俺が馬鹿だって言ってないか?」

 タツヤの追求をカフラは、

「急に客足が延びてきましたね」

 と誤魔化した。
 だが実際、客が入っている。ガイル=ラベク達髑髏船団の面々が観劇するのを見て、路上の野次馬のかなりの数が入場料を払って劇場内に入っていったのだ。彼等は劇ではなく、髑髏船団が劇に怒って何か騒ぎを起こすことに期待しているらしい。
 一座の面々は不安そうな様子を隠せないでいるが、彼等を竜也とカフラが宥めた。

「大丈夫です、ルサディルのときと同じようにやればいいんですよ」

「ガイル=ラベクはその辺のチンピラとはわけが違いますから、いきなり暴れ出したりはしませんよ。劇の面白さは皆さんが誰よりも知っているはずです。自信を持って、いつも通りに演じてください」

 一座の面々は竜也達の言葉に調子とやる気を取り戻した。ガイル=ラベクのおかげで一応満足できる客の入りとなったところで、劇の上演が開始される。





『ちょっかい出して帰ってきた奴はいない、ってな』

『傷による一時的な記憶の混乱だ』

『もう十年以上前になる。あの頃の俺はまだ駆け出しの、青二才だった』

『さあ、おっぱじめようぜ!』

『奴はとんでもないものを奪っていきました。あなたの心です!』





 野次馬気分で入った客もすぐに劇の世界に引き込まれ、ガイル=ラベクのことなど忘れてしまった。グルゴレットと相棒のカシャットのやり取りに笑い、息もつかせぬ展開に手に汗を握り、お姫様の可憐さに涙する。
 そして終劇。ヤスミン達の熱演に、観客は万雷の拍手を持って応えた。満足げに劇場を後にする客を、出演者と竜也が劇場の外で見送る。ガイル=ラベクが客席から出てきたのは一番最後である。
 竜也がガイル=ラベクの前に進み出、問う。

「どうでしたか?」

 その問いにガイル=ラベクはにやりと笑い、

「髑髏船団団長の、青鯱族のガイル=ラベクが認めてやる! この劇の面白さは本物だ!」

 その台詞は芝居がかった大仰な調子で、一〇〇メートル四方に届きそうな胴間声だった。ガイル=ラベクに認められ、ヤスミン達は「やったー!」と歓声を上げて喜んでいる。竜也も少し安心したように息をついていた。もっともその内容は、

「この人が劇の面白さが判る人で良かった」

 というもので、この劇が面白くないかもなどとは微塵も考えていない。

「時間があったらまた見に来てやる」

 ガイル・ラベク達はそう言って去っていった。
 翌日以降「カリシロ城の花嫁」の客足は少しずつ伸びていく。「あのガイル・ラベクに『本物だ』と認められた」という噂が徐々に広まっており、物見高い人達がわざわざ見に来ていると言う。その客が客を呼び、評判が評判を呼ぶ。「カリシロ城の花嫁」はスキラの演劇業界を席巻しようとしていた。







(あとがき)
 長らくお待たせしました。今回で「序盤」は終了し、次回更新分から一から書き直した箇所に入ります。引き続きお付き合いください。



[19836] 第七話「牙犬族の少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/03/29 21:05



「黄金の帝国」・漂着篇
第七話「牙犬族の少女」







 月はエルルの月(第六月)に変わった頃。竜也がこの世界にやってきてから一年以上が過ぎている。
 「カリシロ城の花嫁」の上演が始まって半月が過ぎ、客足は順調に伸び続けていた。竜也は雑用の他、劇に端役で出演してヤスミンにぶった斬られたり、カフラと小説出版の打ち合わせを進めたりしている。一方のラズワルドは特にすることもなく専業主婦生活だ。

「よし、いただきます」

「いただきます」

 竜也は日本風に手を合わせてラズワルドの作った食事を取る。ラズワルドもまた竜也の真似をして手を合わせるのが習慣になっていた。
 夕食のメニューは黒パン、煮込み野菜、干し魚、林檎といったものである。煮込み野菜は材料費・燃料代節約のために一座の面々が協同で作った料理。他の食品も店で買ってきたものばかりで、ラズワルドの仕事はもらった料理・買ってきた料理を並べるだけだ。だが竜也はそれを非難するつもりはない。

「自炊するより買ってきた方が安上がりなんだもんな」

 料理をするには薪が必要なのだが、最初に流れ着いた漁村のように森に行って薪を拾ってくるわけにはいかない。スキラのような大都会では薪も店で買うしかないのだ。元の世界のガスコンロのように火の調節も簡単ではなく、どうしても必要以上に薪を燃やしてしまう。その手間と薪代を考えると出来合いの料理を買ってくるか屋台に行った方が安上がりなのである。
 食事が終わって後片付けの段となり、竜也達は協同炊事場に向かった。

「……?」

 竜也はラズワルドとその周囲を眺めているうちにそれに気が付いた。長屋の主婦達の中でラズワルドの存在が浮いている。互いに話しかけようともせず、無視し合っている。主婦達はラズワルドと竜也を見て何やら陰口を叩いているようだった。

「いじめられてないか? 周りの人と仲良くできてるか?」

 竜也は部屋に戻ってから確認する。ラズワルドは「大丈夫」と涼しい顔である。

「最初はうるさかったけどもう誰も寄ってこない。嫌がらせをしてくる人もいるけど、ちゃんとやり返してる」

 ラズワルドは「静かになって良かった」と嬉しそうに言う。一方の竜也は頭を抱えた。ヤスミンから苦情が寄せられたのはその直後である。

「あの子、もうちょっとどうにかならない?」

「俺ももっと早く気付けばよかったんだけど」

 と竜也はひたすら恐縮した。
 ラズワルドの話とヤスミンから聞いた話には大きな差はなかった。長屋の住民は最初は幼い白兎族の少女をそれなりに好意的に迎えたのだ。それを拒絶したのはラズワルドの方である。住民が話しかけたり世話を焼こうとしたりしてもラズワルドは面倒そうな顔をして逃げてしまう。それが何度もくり返され、住民側には反感が募り、やがて軽い嫌がらせが行われる。それに対してラズワルドが恩寵を使って痛烈に反撃し、住民側の反感が一気に拡大しているのだ。

「できるだけかばってはいるけど物には限度があるのよね。それに、本人が態度を改めないといくらかばっても無意味だし」

 竜也としてはとにかく頭を下げるしかない。

「判ってる。よく言って聞かせるから」

 その夜は竜也による説教タイムである。

「いいか? 人は一人では生きていけない。人という字は人が支え合っている形なんだ。人間とは群れを作る社会的動物であり……」

 竜也の説教はすぐに途切れた。その説教はどこかで聞いた言葉の寄せ集めであり、自分の胸の内から出た言葉ではない。「こんな心のこもらない言葉の羅列に意味なんかない」と気が付いたからだ。

「……ごめんなさい」

 が、ラズワルドは殊勝な顔で謝った。

「タツヤを困らせるつもりはなかった」

「うん、それは判っているつもりだ」

 竜也は「ああ、そうか」と腑に落ちる。ラズワルドが「悪いこと」をしたのなら反省させ行動を改めさせなければならない。だがラズワルドの行動が「悪いこと」、つまり倫理的・道義的な悪だとまでは思っていないのだ。ラズワルドの振る舞いには確かに困っているが、近所付き合いを面倒だからと切り捨てるラズワルドの感性にも共感できるところがないではない。

「確かにここの住人は下世話だし口うるさいしプライバシーなんて概念すら持ってなくて他人の領域に土足で入ってくるし話題と言えば噂話や悪口ばかりだし本を読むどころか文字も読めるかどうか怪しい人達ばかりだし、でも決して根っからの悪人てわけじゃ……」

「それは判る。でも、仲良くしたいとまでは思わない」

 ラズワルドの言葉に竜也は何も反論できない。結局、竜也もまたラズワルドと同じなのだ。この長屋では余所者であり、どれだけ努力しても彼等の中に溶け込むことなどできはしない。ただ竜也には人並み程度のコミュニケーション能力があるので波風を立てないように表面的な近所付き合いくらいはできるだけだ。ラズワルドはこれまでの経験が経験だったのでコミュニケーション能力が決定的に欠落している。コミュニケーション障害なんてものではない、コミュニケーション傷害と言うべきレベルである。

「……ともかく、自分から喧嘩を売るのは厳禁。反撃も自衛の範囲の最低限」

「ん、判った」

 とラズワルドは頷く。結局竜也にはラズワルドの振る舞いを改めさせることなどできはしなかった。ただ喧嘩の原因をできるだけ減らして問題を先送りしただけである。

「……引越も考えないといけないかも。でも、どこに」

 そんな中、竜也はカフラからある人物を紹介される。

「こちらはログズさんです。タツヤさんの代わりに小説を書いてもらおうと思います」

 現時点の竜也は一応文字は書けるくらいの水準で、小説など書けるわけがない。そのためカフラは竜也のためにゴーストライターを用意したのである。
 竜也は「よろしくお願いします」と頭を下げる。ログズという男は軽い調子で、

「おう、こちらこそ」

 と手を挙げた。

 年齢は三十に入ったところだろう。長身とそれなりに整った顔立ちをしているが、無造作に括った長髪と無精髭がどこかだらしない印象を与えている。どう見ても自由業以外の仕事が勤まりそうにない人物だった。

「お前さん、マゴルだってな。元いた場所はどんなところだったんだ?」

 物臭そうに見えて結構おしゃべりな男で人当たりもよく、気が付いたら竜也はいろんなことをしゃべっていた。面倒見もいいところもあり、

「住むところを探している? それならいいところを紹介してやる」

 と早速竜也を連れて移動する。移動した先は町中、繁華街の少し外れにあるカフェだった。

「ここが?」

「いや、この上だ」

 竜也はログズに案内されてそのカフェに入った。「いらっしゃい」と迎えたのは無愛想な女主人である。年齢は三十の少し手前。気怠そうにした、退廃的な雰囲気の美女だった。
 その建物はかなり大きい石造りの二階建てで、その一階がカフェ。二階に上がると、そこにあるのは何かの事務所だった。充満しているのはインクの臭い。様々な本が並び、冊子の束が積み上げられている。

「ここは?」

「俺が刊行している『スキラの夜明け』本社だ」

 竜也は「スキラの夜明け」の一部を見せてもらった。質の悪い紙にいくつものニュースが記されたその刊行物は新聞兼週刊誌というべき物である。竜也は興味深げにその新聞を読んだ。

「俺はこの上に住んでいる。まだ空き部屋はあるからお前さんとその連れくらいは住めるぞ」

 竜也は屋根裏の空き部屋を見せてもらうが、

「うわ……」

 まずその暑さに閉口した。窓はあるものの、熱がこもって非常に暑い。室温は間違いなく摂氏五十度を越えているだろう。

「何、日が沈めば気温も下がる。窓を開けておけば外と同じだ、眠れんことはない」

 部屋の中は非常にほこりっぽく、梁がむき出しだ。天井は低く、竜也が立ち上がると頭がつかえた。人が住むことを前提とした部屋ではなく、元々は単なる物置なのだろう。

「……少し考えさせてください」

「ああ、急ぎやしないさ」

 竜也はその場では判断を保留とした。その後、竜也は小説の打ち合わせもあってログズの元を頻繁に訪れるようになる。







 そんな毎日の、エルルの月も中旬に入ろうとするある日のこと。
 その日、竜也は劇場の仕事の手伝いをしていた。観客で混雑する入口で入場整理をし、入場料の受け取りをする。上演まで間もなくとなり入口の混雑もほぼ解消された頃、一人の少女の姿が竜也の目に止まった。少女としては平均的な身長で、スレンダーな体格である。

「……日本人?」

 少女が身にしているのは裾の広い袴みたいなズボンと、肩衣みたいな上着。腰には日本刀みたいな拵えの刀を差し、やはり和風な編み笠を被っている。よく見れば色々と間違っているが、一見だけならその姿は日本の侍そのもののように思えた。
 竜也はあっけにとられたまま不躾な視線を送り続けている。少女が編み笠を脱ぐと、その下からは凛々しく美しい少女が姿を現した。肌の色や顔立ちは日本人と言っても通用しそうだ。頭頂で結ったポニーテールは長く真っ直ぐな黒髪。その髪の中からは犬耳がひょっこりと突き出ている。

「――これを」

「あ、はい」

 少女が竜也に小銭を突き出し、竜也はそれを受け取った。少女が会場の中へと消えていく最後まで、竜也はその後ろ姿を、袴の尻でゆらゆら揺れる犬の尻尾を見つめていた。

「こら、タツヤ!」

「うわっ」

 一緒に受付をやっていた一座の者が竜也の首に腕を回した。

「なに女に見とれてんだよ。確かにきれいな子だったけど」

「いや、変わった格好だなと思って」

 と竜也は言い訳しつつ腕の中から抜け出す。

「あの子、牙犬族ですよね」

「ああ、牙犬族の部族装束だな」

 へえ、と竜也は感心する。剣祖シノンは剣術だけでなく様々な日本文化を牙犬族に伝えたようだった。

「ルサディルにも牙犬族はいたけどあんな格好はしてませんでしたね」

「そりゃ、ルサディルみたいな地の果てじゃあんな服は手に入らないだろ。ここは牙犬族の里にも近かったはずだしな」

 なるほど、と竜也は納得した。
 そして上演が終わり、ヤスミン達出演者が列を作って観客を送り出す段となる。その端に並んでいた竜也は帰っていく観客の中に牙犬族の少女の姿を見出した。

「ごめん、ちょっと離れる」

 竜也は一言断って列を抜け出した。雑踏の中に紛れそうになっている少女を見つけ、その後を追う。牙犬族の部族装束が幸いし、少女を見失うおそれは少なかった。

「でも、追いかけてどうしようって言うんだ?」

 反射的に追いかけ、ほぼ追いついた。声をかければ届く距離にいる。だが、竜也は無言のまま少女の後を尾行するだけだ。まるで不審者の振る舞いである。

「別に用事があるわけじゃない。剣祖や牙犬族の話が聞ければそれでいいんだ。でもどう話しかければいいのか……」

 その欲求がホームシックの発露であることに竜也自身は気付いていなかった。おそらくは日本人の血が流れる少女の姿に、異国で見た日本文化に、竜也の望郷の想いが刺激されているのだ。だが竜也はその事実から目をそらしている。望郷の想いを抑圧し、故郷の地を思い出さないようにしている竜也は敢えて判ろうとしていない。
 自分でも理解できない衝動に突き動かされ、竜也は少女を尾行する。少女は何か物思いにふけっているようで、竜也の下手くそな尾行にも気付いていなかった。少女が人気のない空き地へと足を踏み入れる。竜也はその後を追った。
 空き地に足を踏み入れようとし、竜也の足は止まってしまう。まるで結界が張られたように空気の質が変わっている。
 空き地の中心では一人の少女が佇んでいる。少女の前には同じくらいの背の高さの大きな岩があるだけだ。だが少女はまるで見えない敵と対峙しているかのようだった。少女から放射される殺気と緊迫感がその場の空気を支配している。それに呑まれた竜也は息苦しさすら覚えた。

「――ふっ!」

 少女の剣が一閃。目にも止まらぬ速さで剣が振るわれ、首がはねられるように目の前の岩の上部が断ち斬られる。少女は鞘に剣を収めながら、

「ふっ……またつまらぬものを斬ってしまいました」

 むなしげに呟いた。一方の竜也はずっこけそうになっている。

 それでようやく竜也の気配を感じ取ったようである。振り向いて竜也の姿を認めた少女は、

「いやあのそのこれは」

 と何やら混乱しつつ赤面している。竜也は笑いを抑えながら、

「君は牙犬族の子だよね」

 と話しかけた。
 怪訝な様子の少女に竜也は正直に話をする。自分がヤスミン一座の一員であること、「カリシロ城の花嫁」の脚本を書いたこと、マゴルであり剣祖シノンと同郷であること、等々。

「……ああ、言われてみれば確かに。顔立ちや肌の色が一族の者と似通っています」

 剣祖と同郷である点が少女の警戒心を解いたようだった。

「申し遅れました。わたしは牙犬族のサフィールです」

 それから二人は長い時間様々なことを話し込んだ。劇のこと、剣祖のこと、牙犬族のこと。

「剣祖が劇に出ているという噂を耳にして見に来たのですが――素晴らしかったです! 劇も面白かったけど剣祖があのような方だったとは……! 剣祖の剣技や振る舞いをこの目で見る日が来ようとは想像もできませんでした」

 と感無量のサフィールの様子に、竜也はちょっと引き気味である。

「……いや、あれはただのお芝居だから。剣祖とは別の剣士にシノンて名乗らせているだけで、剣祖の話なんて俺は知らないし、俺が聞きたいくらいだから」

 サフィールは「それは判っています」と言うが、それが本当かどうかは竜也には疑わしく思えた。

「ですが、一族の中で当代最強と言われる剣士がちょうどあのような方なのです。だから実物の剣祖もあのような方なのに違いありません」

 と拳を握って力説するサフィール。竜也もそれ以上はサフィールを白けさせるようなことを言わなかった。

「……まあ、元ネタの剣士の方もある意味サムライの理想像なわけだし、それが剣祖の実像と一致していてもそれほど不思議はないかも」

「その通りです」

 とサフィールは力強く頷いた。

「それにしても凄いね。これが牙犬族の恩寵か」

 竜也は断ち斬られた岩へと感嘆の目を向けた。斬り口はまるで磨いたかのように滑らかだ。

「確か『烈撃』だっけ」

「はい、剣に恩寵を流し込んで断ち斬る技です。劇の剣祖ほどではありませんが、似たようなことならわたしにもできます」

 と誇らしげに胸を張るサフィール。竜也はあることに気が付いて、

「その剣、少し見せてもらっていいかな」

 その頼みにサフィールは「はい、どうぞ」と剣を差し出す。竜也は剣を鞘から抜いて、

「え、何だこれ」

 と驚きの声を上げた。
 拵えこそ日本刀に似せてあるが刀身は全くの別物だ。刃はなまくらもいいところで、ホームセンターで売っている薄い鉄板と大差ない。その辺の包丁の方がよほど切れ味がいいだろう。鋭器と言うより鈍器である。ただ、美術品みたいな日本刀とは違って頑丈なのは間違いない。打ち合えば日本刀の方がへし折れるのは確実だ。殺傷力にしても、有段者が持てば木刀だって簡単に人が殺せるのだ。この剣が日本刀に劣っているとは思えなかった。ましてやこの剣を使うのは「烈撃」の恩寵を有する牙犬族である。

(真空の刃……じゃ説明がつかないな。恩寵っていう不可視の力で断ち斬っているのか)

「凄いな。こんな剣であんな岩を」

 竜也は剣をサフィールに返した。サフィールはそれを受け取りながら、

「本当の剣祖ならあの劇くらいのことは軽くできるでしょう」

「……いや、マゴルは恩寵なんて持ってないから。恩寵抜きじゃ岩なんか斬れないから」

 サフィールは「それは判っています」と言うが、それが本当かどうかは竜也にはかなり疑問だった。

「牙犬族の里はこの近くだと聞いたんだけど」

「大分離れていますよ。里に一番近い町はサブラタです」

 サブラタは元の世界で言うならトリポリの西に位置する町であり、直線距離でもスキラとは三〇〇キロメートル程離れている。だがルサディルと比較するなら近いうちに入るかも知れなかった。

「わたし達は普段は里から出ることはほとんどありません。ですが戦士の方達は傭兵の仕事で町に出てくることがあります。わたしの父は実戦には出ないのですが、傭兵の仕事を探したり報酬交渉をしたりといった仕事をしていて、今回わたしは父の付き添いとして町に出ることが認められたのです」

 ……二人は随分長いこと話し込んで、気が付いたら日差しが傾き辺りが薄暗くなっていた。

「ああ、もうこんな時間ですね。そろそろ戻らないと」

「そうか、残念だな」

 二人は空き地から道路に出て向かい合った。

「じゃあ良かったらまた劇を見てきてくれ」

「ええ、それはもちろん。今度は一族の者に声をかけてみんなで見に来ます」

 そうしてくれると嬉しいな、と竜也は笑う。そうしてサフィールと別れ、その日は終わった。サフィールが再び劇場にやってきたのはその翌日である。

「タツヤ殿! みんなで見に来ました!」

 とサフィールは朗らかに笑う。その言葉の通り、サフィールの後ろには十数人の牙犬族の剣士が並んでいた。男達の体格は総じて比較的小柄だった。竜也よりも背の高い者が一人もいない。だが、侍を絵に描いたような顔立ちの、武器を持った男が十数人もいて威圧されないわけがない。竜也は何とか笑顔を返すがその頬は引きつっていた。

「おぬしが剣祖と同郷というタツヤ殿か! 儂は族長のアラッド・ジューベイだ」

 と名乗るのは右目を眼帯で覆った初老の男だ。肌の色はやや濃く、年齢は五〇過ぎ。身長はサフィールより少し高いくらいだが、身体の厚みは竜也の倍くらいある。灰色の長髪をちょんまげ風に後ろで結んでいるがさすがに月代は剃っていなかった。

「剣祖の活躍を見せてもらえるそうだな。楽しみにしておるぞ!」

 と哄笑するアラッド・ジューベイ。

「え、ええ。どうぞ楽しんでいってください」

 と竜也は冷や汗をかきながらアラッド達を場内へと案内した。

「ちょっとタツヤ! 大丈夫なの?」

 案内を終えて戻ってきた竜也の元にヤスミンが駆け寄ってくる。

「わたしみたいのが剣祖を演じて、あの人達を怒らせたりしない?」

 見れば不安そうにしているのはヤスミンだけではない。他の出演者も同じく不安げである。竜也は彼等を宥めた。

「サフィールには好評だったし、大丈夫だと想いますよ。いつも通り格好良く演じればいいんですよ」

 ガイル=ラベクにも好評だったでしょ?と竜也は笑う。それでヤスミン達は落ち着きを取り戻した。

「そうね、わたし達はあのガイル=ラベクに本物だって認められたんだから。不安がることは何もないわね」

 と頷き合うヤスミン達。そして定刻となり、ヤスミン達は舞台裏へと向かう。間もなく劇が始まろうとしていた。
 ……それから数刻が経ち。上演が終わって場内から観客がぞろぞろと出てくるところである。

「あ、サフィール」

 竜也はサフィールの姿を見つけ、声をかけた。

「二回目ですが面白かったですね。ただ、ちょっと気になった点がいくつか。剣祖の刀の持ち方なのですが……」

「そこはやっぱりお芝居だから見栄えを優先させて……」

 そんな話をしているうちにしばらく経って、

「あれ、そう言えばアラッドさん達は?」

 牙犬族の他の面々の姿がないことに気が付いた。竜也とサフィールは劇場を出、通りを歩いていく。

「宿に向かったのならこっちでしょう」

 とサフィールが示す方向へと向かう。そのまま道なりに進み、二人は昨日話し込んでいた空き地へとやってきた。竜也がその空き地をのぞき込むとそこには牙犬族の面々が。彼等はそれぞれが空き地のあちこちに散らばって、

「またつまらぬものを斬ってしまった……」

「我が剣に斬れぬものなし……」

「今宵の斬鉄剣はひと味違うぞ……」

 等と芝居の台詞を呟きながら、ときたま剣を岩に、虚空に振るっている。竜也はその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。

「おや、タツヤ殿か!」

 竜也に気が付いたアラッドがそばにやってきた。竜也は「牙犬族って一体……」と疑問を抱きながらも何とか立ち上がる。

「サフィールがあまりに言うものだから見てやったが……素晴らしかったぞ! 剣祖があのような方だったとは。剣祖の剣技や振る舞いをこの目で見る日が来ようとは想像だにしておらなんだわ!」

「……いえ、あれはお芝居でお話ですから。剣祖のお話なら俺が聞きたいくらいですから」

 竜也は精神的に疲れながらも何とか言うべきことは言う。アラッドは「判っておるわ!」と笑うが、それが本当かどうかは竜也には極めて疑問に思われた。

「おぬしには剣祖の故郷のことを聞かねばと思っておったところだ。さあ、来い!」

 竜也はアラッド達に捕まり、そのまま連行されてしまった。行き先はアラッド達の宿泊先の宿屋だ。アラッド達は帰ると早々に酒を持ち出し、宴会へと突入した。竜也もそれに付き合う羽目となってしまう。

「剣祖と同郷となればタツヤ殿は我等が同胞も同じ! さあ、飲むがいいぞ!」

 と杯を渡される。竜也は辟易しながらも「ありがとうございます」とそれを受け取り、舐めるように酒を飲んだ。

「サフィールには剣祖の血が入っているんですか?」

「剣祖は当時の族長の娘と夫婦になったからな。族長の血筋には剣祖の血が流れておる。さあ飲め!」

 なおサフィールは前代族長の孫娘に当たるとのこと。

「剣祖が流れ着いたときに持っていたものは……」

「素晴らしい刀を持っておってな、今では一族の至宝だ。儂でも数えるほどしか見たことがない。あれの銘が斬鉄剣だったのだな」

「いやそれは」

「さあもっと飲め!」

 アラッドが好意で勧めてくれていることは判るので竜也も無碍にはできず、だが酒もよっぱらいも苦手な竜也は往生するしかなかった。竜也はその場を誤魔化すために、

「剣祖と同時代の剣士の話にはこんなのがありまして」

 と、とある剣術試合の話を語り出した。

「――狂気に犯されたその領主が開いた、真剣による御前試合。隻腕の剣士が剣をこう、肩に担いで剣を抜いて」

 気が付けばアラッドだけでなくその場の全員が竜也の語りに耳を傾けている。血生臭い、陰惨な話だが、酒の肴には向いているようだった。

「対する盲目の剣士が取った構えは、誰も見たことも聞いたこともない奇っ怪な構えでした」

 因縁の両剣士の、一瞬の決着。そして意外な結末。

「出場した剣士、一一組・二二名。敗北による死者八名、相打ちによる死者六名、射殺二名。生還者は六名、うち二人重傷――領主は乱行の責を負い、腹を切って自刃。多くの犠牲を払い、何物も得られなかった御前試合はこうして幕を閉じたのです」

 竜也の語りが終わり、一同が「ほーっ」とため息をついた。異国の剣士達の凄惨な末路に、言葉も出ないようだ。

「……なるほど、剣祖はそのような地で剣を学んだのか。いや、よく語ってくれたタツヤ殿」

 とアラッドは満足げな様子だった。後日、牙犬族の面々が虎眼流奥義「流れ」を会得し披露してみせ竜也は頭を抱えるのだが、それはまた別の話である。
 こうして竜也は牙犬族の面々と親交を深めることとなった。翌日以降も牙犬族の剣士達は入れ替わり立ち替わり「カリシロ城の花嫁」を見に来ている。数日後、アラッドやサフィールが里に帰る前には挨拶に立ち寄ってくれた。

「おぬしはすでに一族も同然。何か困ったことがあれば力になってやろう」

「ありがとうございます」

 と言いつつも竜也はアラッドの姿に何か違和感を覚えた。内心首をひねり、何がそう感じさせるのか考え込む。その様子にアラッドの方が気が付いたようで、

「タツヤ殿、いかがなされた?」

「いえ、前と何か違っている感じがして。気のせいです」

 ああ、とアラッドが自分の左目の眼帯を指差した。

「多分これのせいだろう」

 説明されてようやく竜也も気が付いた。

「……この間は確か右目にしてませんでしたっけ」

「その通り。今日は左目の日なのだ」

 竜也は引きつったようになりながらも「そ、そうなんですか」と頷いてみせる。

「それではさらばです」

「族長も、サフィールもお元気で」

 サフィールやアラッド達は竜也に背を向けて歩き出した。後ろ姿が豆粒よりも小さくなるまで見送った竜也は、

「……左目の日って何なんだよ!」

 虚空に向かって一人突っ込みを入れていた。
 こうして牙犬族の剣士達は去っていった。竜也が彼等と再会するのはしばらく先のことである。








[19836] 第八話「冒険家ルワータ」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/11 21:51

「黄金の帝国」・漂着篇
第八話「冒険家ルワータ」






 エルルの月(第六月)の中旬のある日。いつものように劇場で雑用に従事していた竜也はヤスミンにある仕事を頼まれた。

「タツヤ、色落ちした看板の代わりを描いてくれない?」

「ああ、確かにもう代えないと駄目でしたね」

 劇の看板はスキラの看板屋に依頼して作成したのだが、雨に濡れて絵の具が色落ちしてしまったのだ。

「やっぱり予算をケチっちゃ駄目ね」

 とヤスミンは舌打ちしている。

「幸い客の入りは良いから今度は予算をかけてもっと上等の看板を頼むことにするわ。その間のつなぎに使えるのが必要なの」

 看板に描かれていたのは海賊王グレゴレットの肖像画だが、竜也に言わせれば「小学生レベルの絵」でしかなかった。エレブでは写実的な絵画や肖像画が美術界で人気だそうだが、ネゲヴでは人物画の技法がまだそこまで発達していない。水準としてはヨーロッパの中世のせいぜい中期くらい。しかも描いたのは場末の看板屋である。

「俺に描かせてくれればいいのに」

 とずっと考えていた竜也は「まあ、やってみます」と内心張り切って引き受けた。
 そして劇が終わった後の舞台、竜也はそこに無地の看板を用意している。看板は二メートル四方の板に白い布を貼った物である。手にしているのは木炭鉛筆だ。絵の具も用意できるとヤスミンは言っていたのだが、竜也はそれしか使うつもりがなかった。
 広い劇場内に竜也はただ一人、看板を前に佇んでいる。照明は安物の油ランプだけだ。深呼吸をくり返した竜也は、

(よし!)

 木炭鉛筆を剣のように一閃させた。
 ……そして翌日、カフラがヤスミン一座の様子を見に劇場にやってくると。

「? 何かあったんでしょうか」

 劇場の前に人だかりができていた。野次馬が集まって劇場に入らず、劇場の前で何やら騒いでいるような様子である。カフラはその野次馬の一団の中に身を投じた。

「なんかすげえな!」

「ああ、何と言ったらいいか判らんが、とにかくすごい」

 人をかき分け、ようやくカフラは最前列へとやってきた。野次馬が囲んでいるのは看板である。白地に黒い線だけで人物が描かれている、ただそれだけの看板だ。だが、

「な――」

 カフラは絶句するしかなかった。
 一方竜也は劇場入口で入場料の受け取りをやっているところである。そこに、

「タツヤさん!」

 とカフラが飛び込んできた。

「ああ、こんにちは」

 という竜也の挨拶を無視し、カフラは竜也を劇場の片隅へと引っ張っていく。

「あの看板描いたのタツヤさんですよね!?」

「ああ、そうだけど何か?」

 結構好評みたいなんだけど、ととぼけた様子で言う竜也にカフラは脱力するしかない。

「……好評にもなりますよ。あの看板だけでお金が取れるレベルです」

 まさか、と笑う竜也にカフラはため息しか出てこなかった。
 短い制作時間と限られた画材。白地に黒一色だけで絵を描いて最大限の効果を発揮する、竜也がそのために選んだ手段は日本の漫画絵の流用であった。

(幼稚園の頃からずっと漫画を読んでいた。一時期は漫画家を志して、落書きノートを何十冊も使い潰した。知識やテクニックも蓄積した。その全てを今ここで活用する――!)

 そうやって、一筆入魂で描いたのは海賊王グルゴレットの肖像である。衣装は劇で見ているそれに加えてガイル=ラベクの格好を参考にし、できるだけ精密に。その一方顔は思い切ってシンプルに描写した。容貌の描写にも間近で見たガイル=ラベクの影響が多分に含まれている。絵柄としては小学生の頃によく模写した尾田栄一郎の「ONE PIECE」が基本だが、それをより写実的にしたものだ。リアルとデフォルメが絶妙の均衡を保った絵柄である。完成した肖像はモノトーンの落ち着いた描写でありながら迫力があり、グルゴレットのしたたかさがよく表現されたものとなった。

「うん。なかなか良い出来になった」

 と自分でも満足していたし、

「こんな絵見たことない」

 とヤスミンや一座の面々にも好評だったのだ。
 だが、ヤスミン達や野次馬にはこの絵の本当の価値を到底理解できないだろう。美術に造詣の深いカフラだからこそ判るのだ、竜也のこの絵がネゲヴの美術界にどれほどの衝撃を与えるかを。浮世絵が一九世紀のヨーロッパ美術界に衝撃を与え、ジャポニズムという潮流を生み出したように、竜也のこの絵はネゲヴの美術界に新しい潮流を生み出す――可能性もなくはないのである。

「タツヤさんにあんな画才があるなんて聞いてないです!」

「絵は得意だ、とは言ったよな?」

「ともかく!」

 とカフラは竜也の言い訳を打ち切らせ、

「あんな絵が描けるのなら肖像画も描いてもらいます。まずはわたしの絵を描いてもらいましょう」

 こうして竜也はカフラの肖像を描くこととなった。準備を整えて竜也がカフラの元へと向かったのは翌日である。それにラズワルドが同行する。
 カフラの家に到着し、その前で竜也は、

「……」

 言葉をなくして立ち尽くしていた。竜也の前にあるのは町の一区画を丸ごと占有した巨大な邸宅である。門からは建物が見えない。

「クロイ・タツヤ様ですね。どうぞこちらへ」

「あ、はい」

 武装した警備員に案内されてその敷地内へと足を踏み入れる。何分も歩いて、ようやく到着した建物の前で、

「……一体どこの王宮なんだよ」

 ようやく出てきたのはそんな言葉だけだ。豪奢を極めた、三階建の石造りの宮殿、そんな建物がそこにはあった。

「ああ、よく来てくれました」

 カフラ自身が宮殿から出てきて出迎えてくれる。竜也達はカフラに案内されてその建物の中へと足を踏み入れた。

「カフラの親御さんもいるのかな。ご挨拶しなくてもいいのかな」

 と竜也は気を配る。ただしその方向性は明後日どころか二年先くらいに全くの見当違いだったが。

「気にしなくてもいいですよ。ここはわたしだけが使っている別邸で、家族は本邸の方ですから」

「……ああ、そう」

 そうして竜也達は中庭へと案内される。四阿にはすでに絵の具等の画材やキャンバスが用意され、何人ものメイドがお茶会の用意も万全に整えていた。
 メイドがお茶を入れて去っていき、その場には竜也達三人だけが残される。お茶を一飲みして軽く休憩した竜也は早速画材の検分に取りかかった。筆や絵の具を手にして眉を寄せ、結局手元に残したのは木炭鉛筆だけで後は全て片付けてしまう。

「ちゃんとした絵の具で描いてほしいんですけど」

 と不満を言うカフラだが、

「これが一番慣れてて描きやすいんだ。他のじゃ上手く描けない」

 と竜也が言うので容認するしかなかった。キャンバスに向かおうとする竜也だが、その袖をラズワルドが引く。

「わたしも描いてほしい」

「ん、判った」

 竜也は軽く答え、用意されていたB5程のサイズの紙にさらさらと絵を描いて、

「ほら、完成」

 とラズワルドに渡した。カフラが興味深げに横からのぞき込む。
 そこに描かれていたのは二頭身までデフォルメされたラズワルドだ。絵柄はつくりものじ氏のそれで、氏の描くセイバーや間桐桜をほとんどそのままパクったものである。

「……すごいですね。こんな絵なのにラズワルドさんだって判ります」

 とカフラが感心し、頬を膨らませたラズワルドがぽかぽかと竜也を叩いた。

「ラズワルドの絵は今度描いてやるから」

 と竜也が宥める。気持ちを切り替えた竜也はカフラの肖像描画に取りかかった。

「……」

 姿勢を正してすまし顔をするカフラ。だが竜也はそのカフラの方をほとんど見ていない。ただキャンバスだけに目を向け、筆を振るっている。

「……モデルを見てなくてもいいんですか?」

「カフラのことはずっと見てきたんだから今更見る必要なんかないよ」

 そう答えながらも竜也の筆は止まらずに動き続けている。カフラは少し赤面しながら「そうですか」と答えて平静を装うべく努力し、ラズワルドはそのカフラをやや険しい目で見つめている。
 カフラはそれでもモデルたるべく、なるべく身動きせずに同じ姿勢で座り続けた。だがそれも一時間もしないうちに終わってしまう。

「よし、完成」

「え、もうですか?」

 竜也にしてみれば必要以上に時間をかけて丁寧に描いたつもりである。

「こんな感じになったけど、どうかな」

 竜也はキャンバスの向きを変え、カフラへと見せる。カフラは自分の肖像画を目の当たりにし、

「――」

 短くない時間言葉を失った。
 絵柄はやはり日本の漫画絵を流用したものだが、より写実的な路線である。中学生の頃に散々模写をした小畑健や矢吹健太朗の絵柄を基本とし、今の竜也に描ける美少女の極致を描いたと言える。

「でもやっぱり本職の漫画家には遠く及ばないし、実物の魅力を充分描けたともとても言えないし」

 と竜也としては不満の残る出来映えとなってしまった。だがカフラは、

「……どうした?」

 長い間彫像のように硬直していたカフラだが、いきなり立ち上がって自分の肖像画を四阿の壁へと向けてしまう。そして竜也の視線から隠すように身体を両腕で抱いた。その顔はトマトのように真っ赤であり、まるでヌードを見られたかのような振る舞いだ。潤んだ瞳でにらまれ、竜也としては戸惑うしかない。

「……あの、カフラさん?」

「タツヤさんはわたしの許可がない限り肖像画を描くのは禁止です!」

 一方的に言い渡され、さらには「今日はありがとうございました!」と屋敷から追い出されてしまった。閉ざされた門扉を前に、竜也はただ呆然とするばかりだ。

「カフラは一体何に怒っていたんだ? 判るか?」

「怒っていたわけじゃない」

 竜也は重ねて「どういうことだ?」と訊ねる。だがラズワルドはそれに答えなかった。無言のまま竜也の尻をつねるだけだ。ラズワルドは竜也を無視するように歩いていく。竜也は首をひねりながらその後を追うしかなかった。
 ……その夜、就寝にはまだ少しだけ早い時間。カフラは自室のベッドでうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。部屋の中央には架台があり、そこには竜也の描いた肖像画が置かれている。
 カフラはベッドの中からその肖像画を眺めた。自分と同じ顔の少女が柔らかく微笑んでいる絵――見るたびに自分でも整理の付かない様々な感情がこみ上げてくる。

「……タツヤさんにはわたしがこういう風に見えているんですね」

 カフラの反応が「まるでヌードを見られたようだ」と感じていた竜也だが、その想像はある意味正しかったのだ。だが竜也が見透かしたのはカフラの素肌ではない。

「ナーフィア商会令嬢のカフラマーンではなく、ただのカフラ。あなたにとってのわたしはそういう子なんですね」

 カフラは誰と相対してもその相手との間には必ず壁が作られる。「ナーフィア商会令嬢」という名の壁である。その壁を作るのは大抵の場合相対する相手であるが、カフラ自身が作ることもある。一つ言えるのは、その壁を透して素のカフラへと目を向ける者はいたことがない、ということだ。
 だが、竜也にとっては最初からそんな壁は存在していなかったのだ。カフラも何となく感じていたことだが、その事実を確固とした証拠付きで突きつけられてしまった。これまでも竜也に対しては好感を持っていたカフラだが、その質が変わりつつある。今はまだ小さな種のようなものだ。だがそれが育ってしまったなら、抑えきれないくらいに大きくなってしまったなら、

「――駄目です、こんな気持ち。現実には大団円なんてあり得ないのに」

 カフラは肖像画を布に包んで衣装箪笥の奥へとしまい込んだ。それと一緒に自分の心も奥底へとしまい込む。宝石のように輝くその小さな種が、決してこれ以上大きくならないように――。







 カフラが劇場にやってきたのはその翌日である。竜也は雑用の合間にカフラと面会した。

「昨日は失礼しました」

 と平静を取り戻しているカフラが頭を下げる。竜也は「それはいいんだけど」と受け流し、

「そんなにいまいちだったかな。あの絵」

 と落胆を隠せない口調で訊ねた。

「いえ、そんなことは!」

 とカフラは慌てて否定する。

「とっても素晴らしい絵でした! あの絵は家宝として残します!」

 竜也はその言葉を単なる誇張表現だと思い、聞き流した。

「……ただ、あまりに良すぎて。あの絵はしばらくは誰にも見せられません」

 と曖昧に笑うカフラに竜也は「どういうことだ?」と訊ねる。

「お母様があの絵のことを知ったなら絶対にお見合いに使います。あんな絵が出回ったならお見合いの申し込みが殺到しかねません」

 わたしはまだ当分自由でいたいんです、とカフラが話をまとめ、竜也はそれを理解した。

「それじゃ劇の看板を描くのも自重した方がいいのかな」

「そうですね、そうしてもらえれば助かります。ちゃんとした看板屋なら紹介しますから」

 だが、竜也達のその判断は結果として少し遅かったようである。竜也の描いた看板の評判がスキラに広まっているのだ。噂を聞いた人が看板を見るためだけに集まり(看板を見るだけなら無料である)小銭のある者は「カリシロ城の花嫁」も見ていき、評判がさらに高まる。それがくり返され、エルルの月が終わる頃には「カリシロ城の花嫁」は満員御礼が連日続くようになっていた。

「タツヤ、新しい看板描いて!」

 ヤスミンは当然竜也にそう依頼する。

「でも、カフラからはもう看板は描くなって」

 と難色を示すが、

「そんなのいまさらでしょ! 『カリシロ城』の今の評判は劇の面白さとあの看板がひとまとめになってるんだから。タツヤの看板がなくなったらお客さんだって納得しないよ!」

 ヤスミンの言うことももっともであり、竜也はそれに反論できない。竜也はカフラに一言断り、カフラもヤスミンの言い分の正しさを認めるしかなく、竜也は看板を新規制作することとなった。
 そしてタシュリツの月(第七月)の初旬。新しい看板のお披露目である。

「おー、今回もすげぇー!」

「なんか荒っぽい絵だけど、迫力は前よりもあるな!」

 朝一番から看板を見るためだけに大勢の見物人が集まっていた。見物人目当ての屋台が出て商売をしているくらいである。
 今回制作された看板は高さは約二メートル、幅は約四メートル。前回の倍の大きさがある。前回はグルゴレット一人しか描かなかったが今回はグルゴレットに加えてカシャット・シノンも描いた。グルゴレットは剣を振り上げ、カシャットは矢を番え、シノンは腰だめに剣を構える。戦いに臨む三英雄の図である。
 丁寧で精密な描写を今回は捨て、勢いと力に任せて描き殴った。このため非常に荒々しい描写となっているがその分迫力は段違いに増している。グルゴレット達が今にも動き出し、襲いかからんばかりだ。

「よしよし、今日も満員御礼になりそうだね」

 看板に人集りができている様子にヤスミンは満足げな笑みを見せる。竜也も満更ではないという感じで、カフラはちょっと複雑そうな表情だった。







 タシュリツの月(第七月)の中頃のその日、

「すみません、お世話になります」

「何だ、結局ここに来たのか」

 ログズは憎まれ口っぽくそう言いながらも竜也とラズワルドを招き入れる。竜也とラズワルドはついに長屋から逃げ出す羽目になったのだ。二人の引越先はログズの元、「スキラの夜明け」本社上の屋根裏部屋だった。

「それで、何をやって追い出されたんだ?」

 ログズの問いに竜也は気まずそうに沈黙する。ラズワルドは偉そうに胸を張って、

「わたしは悪くない」

 と開き直っていた。

「……まあ、ラズワルドだけが悪いわけじゃないよな。巡り合わせというか小さなことの積み重ねというか、色々あって」

 確かに全ての責任がラズワルド一人に帰するわけではない。だが最大の原因がラズワルドにあることは竜也にも否定できない事実だった。
 あるときは長屋の住人の一人が外に干していた竜也の服を狙ってくり返し泥棒をした。ラズワルドは他の住人の面前で、

「その靴はそっちの人から盗んだお金で買った。その服はあっちの人から盗んだ置物を売って作ったお金で買った。今着ている下着はこっちの人から盗んだもの。今日食べたパンは一昨日そっちの人から盗んだもの」

 その人物の盗み癖を徹底的に暴露したのである。元々手癖の悪さで白い目で見られていたこともあり、その人物は次の日には長屋を去っていった。
 あるときは長屋の住人の子供がラズワルドに嫌がらせをくり返した。物を奪い取って壊す、殴る蹴るなどの暴力を振るう、「悪魔」と呼んで馬鹿にする、等だ。ラズワルドはその子供とその両親が揃っている場面で、

「その子の父親はあなたじゃない」

 と突然暴露。その父親が血の気の多かったこともあり、かなり派手な刃傷沙汰に発展した。
 あるときは年若い主婦がラズワルドのことを「あの子は淫売の娘で父親が誰だか判りやしない。あの子自身も淫売だ」などと事実無根の誹謗中傷をし、さらにそれを言い広めた。ラズワルドはその主婦に対し、

「……カルト=ハダシュトで身体を売っていた。店の名前は『人魚の館』。店の金を盗んでスキラに逃げてきた」

 事実の指摘で対抗したのである。その女は憤怒と恐怖と屈辱に一度に襲われ、過呼吸を起こす寸前となった。

「あ、あ、悪魔……!」

 喘ぐようにラズワルドを罵倒するその女。だが少女は、

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 と冷笑を浮かべるだけだ。結局その女は次の日には姿を消していた。
 そんなことが何度もあればヤスミンだって庇いようがなくなる。

「ごめん、もう無理」

 とヤスミンは両手を挙げた。これ以上ラズワルドを庇えばヤスミン一座全員に被害が及ぶと判断。ヤスミンは一座の面々の安全のために竜也とラズワルドを切り捨てたのである。

「すみません、迷惑かけて」

 竜也としては今まで庇ってくれたことを感謝こそすれ、ヤスミンを逆恨みしたりはしない。ヤスミンの部屋を出た竜也は自分の部屋に向かうが、その竜也を長屋の住民達は無言のまま見つめている。その視線に込められた感情に竜也は悪寒を覚えた。ヤスミンが竜也達を見捨てたことはもう知られているとしか思えなかった。
 暴力沙汰となればラズワルドは非力そのものだし竜也だって五十歩百歩だ。

「さすがにそろそろ危ないかも」

 とラズワルドも警告するので竜也は次の日の朝には長屋を引き払ったのである。

「まあ、スネに傷を持つのはお互い様だ。歓迎するよ、お隣さん」

 ログズはそう笑って竜也達を迎え入れた。
 「スキラの夜明け」社が入っている建物の一階は「マラルの珈琲店」というカフェで、経営しているのはマラルという名の女性である。マラルは建物全部の所有者のようで、竜也はマラルと賃貸契約を結んで部屋裏部屋に住み着くこととなった。引越以降竜也達の生活のリズムも大分変わってくる。
 屋根裏部屋は寝る以外に何もできない場所で、熱がたまりやすく日が沈んでも暑い状態が続く。このためそこで眠るのは深夜から午前のかなり遅い時間まで、となる。それ以外の時間、竜也は「スキラの夜明け」社で場所を借りて小説を書いたりしているし、ラズワルドはマラルの元でカフェの手伝いだ。接客をすることはほとんどなく、掃除や皿洗い等の裏方を担当している。
 客のいない時間帯に竜也が店の様子を覗いてみると、マラルとラズワルドは横に並んで布巾を使ってカップを磨いているところだった。ラズワルドは普段とほとんど変わらない仏頂面だが、それなりに楽しそうである――もっともそれが判別できるのは竜也くらいだろうが。
 マラルもまたラズワルドと同じような、退屈そうな無愛想な面相だ。だが、あの人付き合いが悪く人間嫌いでコミュ傷なラズワルドが結構懐いているのだ。マラルが悪人ではなく、またラズワルドのことを嫌ってもいないことだけは確かだった。
 「マラルの珈琲店」は珈琲やお茶、簡単な軽食を提供する健全な喫茶店である。店内には「スキラの夜明け」を始めとする新聞・書籍が置いてあり、ある程度の小銭と教養を有する小市民が集まって新聞を読んで議論をする、一種のサロンだった。竜也はログズと一緒にときたま議論に加わっている。
 長屋のように自炊できる設備はないがその代わり一日二食珈琲店のまかないを食べさせてくれ、それも賃貸契約の一部である。このため住環境が劣悪な割に家賃はかなり高額だった。家賃を払ったら手元に現金がほとんど残らないだろう。だが竜也達に大きな不満はない。

「毎日寝苦しいけど、そのうち慣れる。元の長屋よりもここの方がずっと居心地が良い」

「確かに」

 ラズワルドの言葉に竜也は全面的に同意した。マラルは下宿人に対して無関心・不干渉という立場で、ラズワルドにはそのドライさ加減が心地良い。ログズやカフェの常連も教養があり、竜也にとっては馬が合う人達だった。







 新居と新しい生活にも多少は慣れてきた頃、月はアルカサムの月(第八月)になっており、その月初め。スキラの書店には「小さな奇跡の物語」という小説が並んでいた。物見高い者達がさっそくその本を手に取っている。

「誰の小説だ、これ……『ニッポンノ・エンタメ』? 変な名前だな」

「ああ、それを書いたのは『カリシロ城の花嫁』と同じ人だって話ですよ」

 と抜け目ない書店の店員が宣伝をする。

「へぇ、期待できそうだな。じゃあ買うよ」

「はい、毎度ありがとうございます」

 一方書店の片隅では竜也とカフラがいて、本の売れ行きを伺っている。目の前で何冊かが売れていくのを確認し、竜也達はその書店から立ち去った。

「売れ行きは順調そうですね。増刷の準備をしておきましょうか」

「その辺の判断はカフラに任せるよ」

「でもタツヤさん、名前を出さなくても本当に構わないんですか?」

 「小さな奇跡の物語」刊行にあたって竜也が選んだペンネーム、それが「ニッポンノ・エンタメ」であった。

「名前を出したくないんだよ。あれは俺が考えた話じゃないんだから」

 それが、他人のふんどしで相撲を取ることに対する最低限の節度だと竜也は思っている。カフラには竜也のこだわりはよく理解できなかったが、竜也の意志を軽んずることもしなかった。

「この分なら『小さな奇跡の物語』は売れるし、評判になるでしょう。もう何冊か出版して売れっ子になったら印税契約に切り替えますから、頑張ってくださいね」

 こちらでは出版物の印税契約は売れっ子の特権らしく、普通は作者に支払われるのは原稿料だけだとか。その本がどれだけ売れても作者には一レプタも入らないが、その代わり本が全く売れずに在庫が山積みになったとしても損害を受けるのは出版社だけである。

「こっちの商慣習がそうなら仕方ないよな」

 と竜也も納得している。

「家賃を払っても結構残るかな。何か美味しいものでも食べに行くか。いや、少しは貯金して、ラズワルドに新しい服も買ってやらないと」

 等と計算をする竜也は完全にこの世界の小市民だった。
 「小さな奇跡の物語」出版から間を置かず、謎の小説家ニッポンノ・エンタメ執筆の小説版「カリシロ城の花嫁」が書店で販売された。さらにその月の中旬にはヤスミン一座が海賊王冒険譚の新作劇「隠し砦の三海賊」の上演を始めている。前作の好評を引き継ぎ、「三海賊」は初日から満員御礼となった。




『馬鹿を言うな。グルゴレットって言や有名な大海賊じゃねぇか!』

『姫も一七、あの者も一七。同じ生命に違いがあろうか!』

『へっ、残念だったな。その娘は唖だ』

『裏切り御免!』




 「隠し砦の三海賊」は黒澤明の「隠し砦の三悪人」を元ネタにした劇だが、かなりの改変を加えている。元ネタでは武将だった三悪人のリーダーにグルゴレットを配置。グルゴレットがとある小国の依頼を受けてお姫様を亡命させる、その逃亡劇を描いたものである。危機一髪が連続し、知恵と勇気で苦難をくぐり抜け、小悪党の二人が足を引っ張り、また笑わせる。
 「三海賊」の面白さもまたスキラ中の評判となり、満員御礼が連日続いた。「三海賊」の好評に伴い脚本を執筆した竜也の評判も高まっている。そんな風に、竜也は順調にスキラでの地位を築いていった。







 アルカサムの月の下旬、竜也を訪ねてカフラが「スキラの夜明け」社へとやってきた。竜也はカフラを「マラルの珈琲店」内の個室へと案内する。その個室はログズや店の常連が応接室代わりや密談等に使っており、重宝している部屋である。

「どうした? 浮かない顔をして」

「はい。どうしようかと思いまして」

 とカフラはため息を一つついて説明を始めた。

「招待状? 俺に?」

「はい、今度催される内輪向けの展覧会です。タツヤさんの看板や小説の評判はかなり上にも届いているんです。招待状を送ってきたのはジャリールさんという方で、ナーフィア商会とも取引があってとても無碍にはできません」

 ジャリールはスキラ有数の大豪商・ジャリール商会の当主である。また、美術品の熱心な収集家としても知られ、多数の芸術家をパトロンとして支援している人物だという。

「古典芸術だけじゃなくて新しいものにも目がない人ですから最初に動くとしたらこの人だと思っていましたけど、予想通りでしたね」

 カフラはまたため息をつく。竜也もその様子を見て気後れがしてくる。

「こっちの礼儀作法とかは全く判らないから、堅苦しいところには行きたくないんだけど……」

 カフラは少しためらっていたようだが、やがて「いえ」と強めに首を振った。

「やっぱり行かないわけにはいきません。タツヤさんの礼儀は確かになっていませんが、タツヤさんが思うように礼儀正しくしていればいいと思います」

 大丈夫です、わたしも一緒に行きますから、とカフラは続けて竜也を安心させた。
 そして何日かを経て、スキラの山裾の高級住宅地の一角。竜也はカフラに連れられてその場所を訪れた。三階建ての石造りの建物は元の世界の超高級ホテルのような印象を受けた。

「ここはどういう場所なんだ?」

「ジャリールさんの別邸です。こういう展覧会を開いたり賓客をもてなしたりするのに使われていますね」

 竜也はカフラの後を付いていくようにその建物へと入っていった。
 竜也達はその別邸のホールへと通される。ホールに着飾った大勢の人々が集まっていた。竜也もまた普段着ではなくカフラに用意してもらった見栄えのする衣装を身にしているが、それでもやはり気後れしてしまう。
 ――脈絡なく突然目覚める黒き竜の血! 人間の殻を破り捨て、黒真珠のような鱗の巨大な竜が天を飛翔する!

「おお、あれは何だ!」

「雨雲か?」

「雷雲か?」

 いや、黒き竜だ! 人々は天空の竜を畏怖の目で見上げている!

「タツヤ、すごい」

 とラズワルド。

「きゃー! タツヤさん格好良い! ステキ、抱いて!」

 とカフラが

「タツヤさん、どうかしましたか?」

 と聞いてくる。心を読まれたならラズワルドにすら愛想を尽かされそうな妄想から現実に帰ってきた竜也は「何でもない」と誤魔化した。妄想で自分を奮い立たせた竜也はカフラよりも先に立ってそのホールの中央へと進んでいった。
 ホールの中にはあちこちに彫像や絵画が展示されていて、数人程度が集まってそれぞれの話に花を咲かせている。

「これはアーテファ女史の新作か。是非とも手に入れねば」

「ヘラスの彫像はいつ見ても見事だな!」

「これは私のコレクションに加えたいのだが」

「いえいえ、これは到底売れませんよ。あちらなどはどうでしょう?」

 芸術談義だけではなく商談も話されているようだった。売買されているのはバール人の時代に制作されたような古典芸術よりは、新作の美術品の方が多いようだ。それらの作品の作者もまたこの場にいて、コレクター等に熱い眼差しを送っている。
 こんな場所は生まれて初めての竜也は、

「へー、ほー」

 と感心するばかりである。
 そのまま会場の一番奥へと進むカフラ、それに続く竜也。カフラはそこでこの展覧会の主催者と対面していた。

「ご無沙汰をして申し訳ありませんでした、ジャリールさん、イフラースさん。今日は楽しませていただきますね」

「ああ、よく来てくれたな」

「お久しぶりです! 相変わらずお美しい」

 ジャリールの年齢は五〇の手前、恰幅が良くエネルギッシュな印象の男だった。その横のイフラースは二〇代半ばの育ちの良さそうな青年だ。容貌からして二人は親子のようだが、ジャリールと比較するとイフラースの線の細さが目に付いた。

「今度僕が後援をしている者の演奏会があるのですが……」

「そうですね。予定を確認してからでないと……」

 イフラースの方は熱心にカフラに話しかけ、カフラも礼儀正しく応対している。だがカフラはちょっと辟易しているように見受けられた。カフラの後ろに佇む竜也だが、ジャリールからもイフラースからも一顧だにされていない。どうやら竜也のことはカフラを呼び出す口実でしかなかったようである。

「できれば助け船を出したいところだけど」

 下手に動くとカフラの顔を潰すだけだと判断し、竜也はカフラから少しずつ距離を置いていく。手持ち無沙汰となった竜也は並んでいる展示品に目を落とした。

「うーむ。これなんかギリシア・ローマの彫像そのものだよな」

 美術品には元の世界との共通点や違いなどが見出され、竜也は一つ一つを興味深く見て回っている。そんな竜也に、

「ああ、そこの君」

「はい?」

 声をかけられた竜也が振り返ると、そこにいるのは軽薄そうな一人の男である。年齢は三〇前後。美女を脇に侍らせ、指輪や首飾りをむやみやたらと光らせているその姿に竜也が好感を抱くことは困難だった。

「君は作品を出展していないのかい?」

 男の問いに竜也は「はい、してないです」と返答する。

「それじゃあこれまでどんな作品を?」

「ヤスミン一座の劇の看板制作を三、四点ほど」

 途端に男は「はっはっは!」と殊更に大声で笑った。

「看板屋か! 確かに看板をここに出展するのは難しいかもしれないね!」

 嘲笑がさざ波のように広がる。どうやら男は最初から竜也を笑い物にするつもりでいたようである。竜也は「ぐっ」と怒りを噛み締め、
 ――脈絡なく突然姿を現す巨大な黒き竜! 阿呆のように口を開けるしかない男に向かい、大きく顎門を開いてその上半身を一飲み! 男は足を残して全身を食いちぎられ……
 妄想で気晴らしをした竜也は一呼吸置き、そのまま怒りを飲み込んだ。

「そうですね、大きな看板は腕の振るい甲斐がありますよ。時間があれば何か出展したところなんですが」

 竜也はにっこり笑いながらしれっとそう答える。男には竜也の切り返しが不愉快だったようである。

「ふん。あんな殴り描きみたいな絵、大して時間はかからないだろう。今からでも描いたらどうだ?」

「そうですね。そうさせてもらいましょう」

 竜也は念のために用意していた画板と木炭鉛筆を取り出し、

「しばらく動かないでください」

 有無を言わせずそう告げると鉛筆を紙へと走らせた。
 しばらく黙々と筆を動かす竜也だが、

「ほうなるほど! こうやって立体感を出すのか!」

 いきなり大声で話しかけられ、びっくりした竜也が横を見るとそこには一人の男が立っていた。年齢は六〇の手前くらいで、かなり太った体格。頭部は半分禿げて、残っているのはぼさぼさの白髪。アインシュタインに体重とおおざっぱさを加えたような老人である。

「え、ええ。光が当たらない方向には陰ができますから、それをこうやって」

「うむ、素晴らしい技法だ!」

 自分の技法を解説しながらも手を動かし、それほど時間はかからずに絵は完成する。絵はデフォルメなど一切行わず、余計な感情も入れず、ただ見たままを紙に写し出しただけのものだ。技術的にはそれなりに高度で写実的だが、ただそれだけの絵である。
 だがそんな絵でも、エレブならともかくネゲヴにおいてはほとんど見られない。この場にいる者なら判らないはずがないのだ、それがどれだけ高度な技術の蓄積の上にある絵なのかが。

「はい、どうぞ」

 男はそれを貶すこともできず、ただ受け取るだけだ。溜飲を下げた竜也はその男からの関心をなくし、男から背を向けた。その竜也に、

「あの『カリシロ城の花嫁』の看板を描いたのは君だそうだな! あれは途轍もない絵だったぞ!」

「あの劇の脚本や小説を書いたのも確かあなただと聞いたのだが」

「マゴルだっていうのは本当? 前にいたのはどんなところだったの?」

「次はわたしの絵を描いてくれないかしら」

 大勢に囲まれた竜也は四方から話しかけられ、目を白黒させた。竜也はその中で一番話しやすい白髪の老人と話をする。色々話をしているうちにもう一度デッサンの技法を解説することとなり、

「それじゃ実際に描きながら説明しましょう。モデルはそうですね、あの方にお願いしましょうか」

 竜也は未だカフラに食い下がっていたイフラースという青年をモデルに指名した。こうして竜也だけでなく、白髪の老人や何人かの腕自慢が加わって時ならぬ写生大会が催される。モデルとなったイフラースは、

「何でこんな目に」

 と思いながらも笑顔を絶やさず、立派にモデルの役目を務めた。竜也はイフラースに対して特に悪意があるわけでもないので、しっかり真面目にその肖像を描いていく――数時間ほどかけて。
 絵が仕上がる頃にはこの展示会は終わりを告げる時間となっていた。竜也はさすがに疲れた様子のイフラースに描いた絵を進呈する。そこでようやくジャリールが竜也へと声をかけてきた。

「今度は私の絵も描いてくれ。もう少し手早くな!」

 ジャリールはそう言って笑う。竜也は恐縮するしかなかった。
 展覧会がお開きとなり、竜也はカフラに連れられてそそくさと会場を後にした。

「――今日はありがとうございます。おかげで助かりました」

 帰り道、馬車の中でそう言うカフラに竜也は、

「いや、俺の方こそ。どうなるかと思ったけど、結構楽しかったよ」

 と笑う。カフラにしても、竜也が思ったよりずっと上手く立ち回ってくれたことに大いに安堵していた。
 この展覧会参加は竜也にとっても大きな利益となった。ヤスミン一座ともナーフィア商会ともつながりのないところに人脈ができたのである。







 何日かを経て、キスリムの月(第九月)に入った頃。竜也は一人でスキラ港を訪れていた。港のその一角は造船所が集まっている場所である。建設中の船がいくつも並んでおり、船大工が忙しく働いている。竜也は、

「おー」

 と感心しながら通りを歩いていった。地図と周囲を見比べながら歩くことしばし、一隻の建設中の船が竜也の目に入った。

「え……なんだこれ」

 竜也は言葉を詰まらせる。目測だが、その船の全長は一〇〇メートルを優に越えている。船底から甲板までの高さは約二〇メートル、甲板の上の構造物も一〇メートルくらいの高さがありそうだった。信じられないくらいの巨船である。
 竜也はぽかんとしながらその巨船に沿うように歩いていき、そしてようやく目的地に到着した。巨船の横に建っているオンボロ小屋。竜也はその小屋の戸をノックする。戸が内側から開けられ、出てきたのは白髪の老人だった。

「おお、君か! よく来てくれたな、入ってくれ!」

「はい、お邪魔します。ガリーブさん」

 竜也が今日訪問したのは展覧会で知り合いになったガリーブという老人である。カフラはこの老人についてこのように語っていた。

「元々建築家として有名になった人で、金持ちの要望に応えて奇抜な建物を数多く設計・施工していました。ナーフィア商会でも何度も仕事をしてもらったことがあります。画家としても優秀です」

 ジャリール商会の展覧会に参加していたのも画家としての参加だったのだろう。

「――ただ、稼いだ金を奇妙な機械を作ることに費やして、すぐに散財することでも有名です。近年は船の設計建造にも手を出すようになったのですが、変な趣向を凝らしすぎて造る船がことごとくすぐ沈没するので『沈没王』の異名で呼ばれるようになっています」

 要するにレオナルド・ダ・ヴィンチや平賀源内のようなマルチタレントなのだろう、と竜也は理解した。

「ところであの船、凄いですね。あれの建造もガリーブさんが?」

「おう、ハマーカ商会のゴリアテ号だ! 全長八〇パッスス・全幅三〇パッスス! こんな巨船は三大陸中に二隻とあるまい!」

 元の世界の単位で言うと、全長が約一二〇メートル・全幅が約四五メートルとなる。排水量は四千トンから五千トンになるだろう。

「それにしても、あれだけの船を運用して採算が取れるんですか?」

 竜也の疑問にガリーブは「さあな!」と笑顔できっぱり言い切った。

「ハマーカ商会はすでにもう倒産寸前だ! 何とか進水まで商会が持ってくれればいいんだがな!」

 はっはっは!と豪快に笑うガリーブ。笑い事じゃないだろうと言うべきか、それとももう笑うしかないのか。判断に迷った竜也は曖昧に笑っておいた。

「ザキィ! 茶を頼む!」

 ガリーブの弟子と見られる20代半ばの青年がお茶を出してきたので竜也は遠慮なくそれを飲んだ。お茶というよりはお茶風味の白湯と呼ぶべき代物だったが、竜也に特に不満はない。
 ――竜也は何か用事があってガリーブの元を訪れたわけではない。展覧会でガリーブに「いつでも遊びに来い」と言われた竜也は素直にそれを受け止め、ガリーブとの親交を深めにやってきたわけだ。それが目的の一つである。

「あれだけ大きな船だと櫂では動かせないでしょう」

「おう、もちろんだ! 帆を使って航行する!」

「俺の元いた場所には外輪船というのがあって――」

「それなら儂も作ったことがあるが、やはり櫂の方が――」

「構造を複雑にすると耐久性に――」

 弟子のザキィも加わったお茶会は大いに盛り上がった。竜也が元の世界の知識をガリーブ達に伝え、二人がそれに鋭い指摘を入れる。ガリーブ達が竜也へとこの世界の技術を教え、竜也もまた疑問点を追求した。三人の知的好奇心は強く刺激され、三人は時間を忘れて語り合った。

「――ガリーブさんはヘラスに留学したことがあると聞きましたが」

「うむ! もう三〇年も前のことだが、実に有意義な経験であった!」

 会話がそんな方向に流れていき、竜也は目を鋭く光らせた。ここを訪れたもう一つの目的をようやく果たせそうである。

「ヘラスのことを、エレブのことを是非教えてほしいんですが。エレブに住む者は全員が聖杖教という宗教の信徒で、そうでない者は殺されてしまうと聞きましたが」

「うむ、その通りだ! 多少の誇張はあっても決して嘘ではない! だがヘラスはその辺はかなり緩やかだったぞ!」

「聖杖教の教皇がネゲヴ侵攻を公言していると……」

「ああ、そう言えばそうだったな!」

 とガリーブは能天気に笑う。

「儂がヘラスに行ったときは今の教皇が就任したばかりだったが、そのときからそれを言っていたし、その前からずっと言っているそうだ!」

「そんな……! それが実現する心配はないんですか?!」

 焦ったような竜也の様子にガリーブは戸惑いを見せた。

「うむ、だが儂がいた頃のエレブは戦乱続きだったからな。よそに攻め込む余裕なんぞありはしなかったぞ」

「それじゃ、今は?」

 うーむ、と腕を組んで考え込むガリーブ。

「彼の地を離れてもう三十年経つし、そもそもヘラスは今のエレブでは辺境みたいなものだからな」

 そうですか、と竜也は失望を隠しつつ答える。そこにザキィが、

「今のエレブのことを知りたいのならあの方を紹介してあげれば」

 と口を挟んだ。ガリーブも「おお、それが良かろう!」と膝を打った。

「今のネゲヴではあの男以上にエレブに詳しい者はいるまい! 紹介状を書いてやろう!」

「どなたのですか?」

 竜也の問いにザキィが「ムハンマド・ルワータさんです」と微笑みながら答える。竜也は驚きに一瞬息を止めた。

「あの『旅行記』の著者の……まさかそんな方を。ありがとうございます!」

 紹介状を手にした竜也は意気揚々とガリーブの元を後にした。竜也は翌日にはムハンマド・ルワータに面会すべく手続きを進める。

『聖杖教の教皇がネゲヴ侵攻を公言していることを聞き、私は危機感を持っています。ですがエレブは遠く、その情勢を知ることは困難です。昨今のエレブ情勢についてネゲヴで最も詳しいのはあなただとガリーブ氏からは聞いております。是非私にそれを教えてほしいのです』

 竜也はログズに代筆を依頼して手紙を作成。ガリーブからもらった紹介状を添付してそれをムハンマド・ルワータへと送ったのだ。

「でも直接送れるわけじゃないんだよな。本当にこれで届くのかな」

 ムハンマド・ルワータもまたバール人の血筋であり、スキラ商会連盟に所属しているという。連絡が取りたければ商会連盟を経由するのが一番確実だそうで、手紙も商会連盟に送付を依頼したのである。
「これで後は向こうから連絡が来るのを待つばかり」

 果たして何日かかることか、そもそも無視されずにちゃんと返答してくれるだろうか、と竜也は心配していたのだが――。







 商会連盟に手紙の送付を依頼して二日後。
 時刻はすでに昼近くだが、竜也達はまだ起き出したばかりである。竜也は朝食兼昼食の前に珈琲店前の道路をほうきで掃いて掃除していた。

「今日は次の小説の推敲くらいしか予定が入っていないけど、どうしようか」

 等と考えつつ機械的に手を動かして掃除が終わった頃、見慣れない人物が接近してくるのが目に止まった。立派な身なりで、年代は三〇代半ば。おそらくバール人商人だろう、海焼けした肌は浅黒い。背が高く、洒落た口ひげを蓄えた伊達男である。
 その男は竜也の視線を受けながら真っ直ぐに竜也へと接近してくる。竜也は出迎えるようにその男へと向かって一歩進んだ。
 男は竜也から数メートルの距離を置いて立ち止まった。男は笑みを見せながら、

「ここにクロイ・タツヤという者が住んでいると聞いたのだが、君がそうだな?」

「はい。あなたはもしかして」

 ああ、と男は頷き、

「私がムハンマド・ルワータだ」

 と誇らしげに名乗った。
 やはり、と思いつつも竜也は驚きを禁じ得ない。

「……まさかわざわざ来ていただけるなんて。連絡してもらえればこちらから伺ったんですが」

「いや、ここは私が出向く方が筋というものだろう」

 とルワータは不敵な笑みを見せる。そして聞き惚れるくらいのその渋い声で、

「すまんが金を貸してくれ」

 いろんなものを台無しにする、それがムハンマド・ルワータという男との出会いであり、最初の会話だった。







[19836] 第九話「日常の終わり」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/12 21:11



「黄金の帝国」・漂着篇
第九話「日常の終わり」





 キスリムの月(第九月)の上旬。「マラルの珈琲店」にムハンマド・ルワータが訪ねてきたところである。竜也は彼を珈琲店内の個室へと招き入れた。
 ラズワルドが運んできた冷水で軽く口を湿らせ、竜也は最初に断った。

「まず、わざわざ来ていただいたことにはお礼を言います。ですがそれと借金の件は別です」

「ああ、判っている」

 とルワータは手を振った。

「君の暮らしぶりを見れば言いたいことは判る。だが私は何も君自身へと借金を申し込もうというのではないのだ。君がナーフィア商会令嬢のカフラマーンと交流があることは聞いている」

「ナーフィア商会への借金に口添えをしろ、ということですか?」

 その通りだ、とルワータは力強く頷いた。竜也が何か言う前にルワータが続ける。

「私はもう一度エレブに行かなければならない。行ってこの目でエレブの状況を確かめなければならないのだ――手遅れになる前に」

 ルワータの鋭い眼光が竜也を射貫く。竜也もまた真剣な眼差しをルワータへと向けた。

「……エレブ情勢は不確かな噂しか聞くことができず、詳しい話が判りません。情勢はそれほど切迫しているのですか?」

「ああ。聖杖教の教皇が今日、今、ネゲヴ侵攻を正式に宣言しても何の不思議もない。私はそう思っている」

 ですが、と竜也は戸惑いを見せた。

「ネゲヴの人達には全然危機感がありません。隣国の最高権力者が戦争を公言しているというのに」

「何も判っていないのだ!」

 ルワータは吐き捨てた。

「この平和なネゲヴにいてあの戦乱続きだったエレブの、何が判る! 数多の神々が崇められるこのネゲヴにいて、たった一つの神しか崇めることを許されないエレブの、何が判る! 彼の地を知るには彼の地に行くしかないのだ、彼の地に行った者の話を信じるしかないのだ。それを……」

 ルワータは歯ぎしりをする。ルワータが自分の気持ちを静めるまで少し間が空いた。

「――失礼した」

 いえ、と竜也が返す。竜也は用意しておいた地図を机の上に広げた。ハーキムの持っている地図を模写した、自作の地図である。

「基本的なところから確認させてください。エレブは戦乱が続いていると聞いています」

「ああ、しばらく前まではな。今は大きな戦争は起こっていない」

 エレブには数多の王国があるが、主要なのは次の五つで五王国と呼ばれている。
 フランク(フランスに相当)。
 ディウティスク(ドイツとオーストリアに相当)。
 イベルス(スペインとポルトガルに相当)。
 レモリア(イタリアに相当)。
 ブリトン(イギリスに相当)。

「このうち一番の大国はフランクだ。聖杖教の中心地、教皇庁もフランクのテ=デウムという町にある。ほんの三〇年ほど前まで、フランクは有力諸侯が好き勝手に勢力争いをくり返し、国王はそれを制御できないでいた。それは他の王国も同じだった。そんな小競り合いや戦乱は無法時代からずっと続いていることだったのだ」

 だがその流れは先代のフランク国王アンリの時代から変わってくる。フランク王アンリは王権強化を打ち出し、その実現に邁進したのだ。彼は国内諸侯の自治権を制限しようとし、軍権を自分の元に一本化しようとし、税収を国庫に一元化しようとした。

「それは、猛反発を受けるんじゃないんですか?」

「当然そうだ。もちろんアンリは一足飛びにそれらの政策を実現しようとしたわけではない。何年も何十年もかけて少しずつ、一つずつ諸侯の特権を剥奪していったのだ」

 この王権強化の動きはフランク王国だけではない。ディウティスク等他の四つの王国においても軌を一にして王権強化が進められた。

「この背後には教皇庁の、教皇インノケンティウスの意志があったと私は考えている。彼は教皇に就任する前からネゲヴ侵攻を主張し、エレブ中を遊説して回っていたのだ」

「教皇はエレブ中の全ての軍勢を率いてネゲヴに攻め入ろうとしていると」

 その通りだ、とルワータが頷く。

「エレブ人同士で争っている限りそんなことは夢のまた夢だ。だからまずはエレブ人同士の争いをやめさせる必要があったのだ。そのためには争う諸侯の力を削ぐ必要があり、そのためには王権を強化する必要があった。これを見てくれ」

 ルワータが何かの書面を取り出し、竜也はそれを受け取る。竜也は書面に目を落とした。

「七年か八年前になるが、私が聞いた枢機卿アンリ・ボケの演説を書き起こしたものだ」

「え、そんな機会があったんですか」

 と驚く竜也。

「ああ。教皇は民衆に直接語りかけることをくり返しているし、その部下達もそれになっている。枢機卿アンリ・ボケは教皇の腹心として有名な男だ。一回だけだが彼の演説を聞く機会があった」

 あの熱狂は凄かったぞ、とルワータは引きつったような笑みを見せた。竜也はその演説を読み進めた。





『……神はアブラハムに「乳と蜜の流れる地」を与えると約束をし、モーゼに人々を約束の地へと導くよう命じた。そして神は我等に約束の地を取り戻すよう命じたのだ。約束の地とは、「大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て」。大海とは西の大洋のことであり、つまりカナンやエレブだけでなくネゲヴもまた約束の地なのだ』

『……神が我等に与えた約束の地は、今忌まわしき異教徒によって奪われ、汚されている。彼の地に巣くう異教徒と悪魔の民を排除し、神と我等の物を我等が手に取り戻さなければならない。異端に奪われた信仰の証を奪還しなければならない』

『……彼の地に巣くう異教徒を生かしてはならない。悪魔の技を使う、呪われた民を生かしてはならない。異教徒に阿り、真の信仰に背を向ける異端を生かしてはならない』

『……神の戦士よ、聖戦の騎士よ。立ち上がれ、そして南へと向かえ。汝等こそまさに神が振り上げる聖なる鉄槌。神の栄光は汝等のものである……』





 そこに書き連ねられていたのは、文字の形をした狂信の結晶。「神の栄光」の美辞麗句の裏には、異教徒を人間として認めない狂気と妄信が。「約束の地を取り戻す」という宗教的情熱の裏には、豊穣なネゲヴの地を奪わんとする悪意と強欲が、隠しようもなく潜んでいた。

「十字軍……! 十字軍が、この世界で……!」

 預言者フランシスの布教から七〇〇年。フランシスが持ち込んだ一神教の狂気と妄信は七〇〇年を経て十字軍の再現という形で結実しようとしているのだ。恐怖とも憤怒ともつかない激情が竜也の臓腑をかき回す。雨に濡れたような大量の汗が、竜也の額を流れた。

「タツヤ?」

「――ああ、すみません」

 ルワータの怪訝そうな問いにタツヤは何とか返事をする。平静を装った竜也は不明な点を確認する。

「ここにある、『信仰の証を奪還しろ』とはどういうことですか?」

「聖杖教の伝説上の創始者、モーゼが使っていた杖のことだ。聖杖教の名の由来でもあり、象徴でもあるその杖がメン=ネフェルの聖モーゼ教会に所蔵されている」

 今から四百年前のゲラ同盟時代のこと。布教のためケムトにやってきた宣教師がメン=ネフェルでモーゼの使っていた杖を発見。それを記念し、杖を守護するために建てられたのがメン=ネフェルの聖モーゼ教会である。

「テ=デウムの教皇庁は聖モーゼ教会に『モーゼの杖』を教皇庁に移管するようくり返し要求したが聖モーゼ教会はこれを拒否。最後には互いに破門し合って、両者は完全に関係を絶っている」

 バール人の時代には多数の教会がネゲヴに建てられたが無法時代を挟んでそれらは全て自然消滅してしまい、現在生き残っているのは聖モーゼ教会とその周囲のいくつかの教会だけである。また、聖モーゼ教会は現在生き残っている唯一の聖杖教の分派でもあるのだ。

「『モーゼの杖』を奪還することは教皇庁にとって長年の悲願なのだ」

「まさか……彼等は杖一本のために戦争を起こそうと……?」

 竜也は愕然としつつそれを問う。ルワータの答えは、

「それだけが目的なわけではない。だが大きな目的の一つになっていることは確かだ」

「馬鹿げてる!」

 竜也は炎を噴くような剣幕で吐き捨てた。

「どう考えも偽物じゃないかそんな杖……! そんなもののために戦争をやろうだなんて……!」

 仮にモーゼ、あるいはそれに相当する人物が実在だったとしても(おそらくは実在するのだろうが)、仮に彼の使っていた杖が三千年の時を経て現存していたとしても(限りなくあり得ない話だが)、それがあるとするなら元の世界であって、この世界にそんなものがあるはずがない。

「確かに君の言う通りだ、あまりに馬鹿げている。……だが、教皇庁にとってはそれは戦争する理由に足るのだ。聖杖教の信者にとっては生命を懸ける理由に足るのだ」

 ルワータは深々と嘆息しつつ首を振った。そして気持ちを切り替えて説明を続ける。

「教皇に言わせればネゲヴ侵攻こそが神の意志、それに反対する者こそ不信心者であり、異端――教皇は自分に協力する王室にそんなお墨付きを与える一方、反対する諸侯に対しては破門をちらつかせて脅迫した。教皇と五王国の王室は互いに協力し合い、利用し合いながら王権強化を進めてきたのだ」

 もちろん特権を奪われる諸侯側の反発も強かった。諸侯側は剣を取って決起し、王室側もそれを迎え撃つ。激しい戦火がエレブ中を舐め尽くした。

「このためこの三〇年はエレブ中で戦乱が絶えることはなかった。この戦乱の印象が強いからこそ、こちらの誰もが『ネゲヴ侵攻などあるわけがない』と思い込む理由になってしまっている」

 ルワータは苦々しげな顔をした。そして「だが」と続ける。

「私の協力者からの連絡ではこの戦乱はもうほとんど収まっている状態なのだ。もちろん戦乱の火種はそこら中に残っている。だがそれぞれの国王に刃向かえるような勢力がもう全く残っていない。王権強化は達成されたと見るべきなのだ」

「――エレブの戦場では鉄砲や大砲は使われるんですか?」

 不意の質問にルワータは若干戸惑いながらも、

「そうだな。以前はあまり使われなかったが、ここ三〇年間の戦乱で急速に広まっている。今では鉄砲や大砲なしの戦争など考えられないくらいだ」

 竜也は「なるほど」と頷いた。
 冒険者レミュエルがこの世界に銃器を伝えたのが四〇〇年前。だがアイディアや現物がいくら伝わってこようと、それを製造し利用するには社会的なバックボーンが必要だ。冶金技術の向上やネジの発明・製造。高価な銃器や火薬を大量生産できるだけの経済力。そういった社会の総合的体力があってこそ初めて銃器を戦場で活用できるようになる。エレブは鉄砲伝来から四〇〇年を経てようやくそれができるだけの背骨を、体力を持つようになったのだろう。

「銃器がなければ戦場で勝つことはできない。それも一丁や二丁じゃない、何百何千と揃えないと戦場では意味がない。でも鉄砲も火薬も非常に高価な代物です。中小の諸侯ではとても何百何千は揃えられない」

「ああ、確かに」

「それができるのは国王か大規模な諸侯に限られる。鉄砲を揃えないと戦場で勝てないのなら、勝てるのは国王と大諸侯だけ。そして教皇庁は国王に味方をした……諸侯が力をなくして特権を奪われていったのはそんな背景もあるんじゃないですか?」

 竜也の指摘にルワータは瞠目した。

「ああ、言われてみればその通りだ。確かにそれは大きな理由だろう」

 竜也の念頭にあったのは日本の戦国時代だ。一〇〇年続いた戦国時代が織田信長の登場により終息していった、その理由。織田信長に鉄砲の威力を認める先見性があったのは言うまでもないが、それを真に戦力とするには先述したようにそれだけの経済力が必要なのだ。雌雄を決するのが経済力となり、小規模諸侯の自主独立は消えていき、大規模諸侯とその連合だけが残っていった。
 織田信長の跡を継いで一応の天下統一を果たしたのは豊臣秀吉だが、彼はその後何をしただろうか?

「……エレブでは長年戦乱が続いていたが今は収まっている、そう言ってましたね」

「ああ」

「これまでは騎士や兵士、傭兵が戦場で戦い続けてきた。でも戦乱は収まってしまった。彼等はどこに行くんでしょうか。故郷に戻って畑を耕す、そんなことができるんでしょうか」

 ルワータは竜也が何を言いたいのかを理解した。

「中にはそういう者もいるだろう。だが大半の者には帰る場所などあるまい。もし何もなければ、奴等は山賊となって跳梁するだけだ」

「何かを考えないといけないですよね。失業した兵士や傭兵の行き先を」

「そうだな――考えるまでもないだろうが」

 竜也とルワータは一つの未来を想像していた。暗澹たる思いを抱きながら。







 その日の夕方。カフラが次の劇の打ち合わせのため竜也の元へとやってきた。だが竜也は演劇の話などそっちのけで、聖杖教の脅威について言葉を尽くしてしゃべり続けた。
 しかし、カフラと同席したログズの反応は竜也の望むものとはかけ離れていた。

「だがタツヤ、バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんだぞ?」

 ログズさん、あなたもですか、と竜也は頭を抱えたくなった。

「名前は聞いたことがありますが、その人は本当に信用できるんですか? 詐欺を働こうとしていることは」

「いや、それはない。ラズワルドが確認している」

 ムハンマド・ルワータが過去エレブに何年も滞在し、深い知識を持っていること。彼のエレブに対する危惧と恐怖が本物であること。二点ともラズワルドが恩寵を使って確認しており、疑う必要はなかった。

「今まで過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるだよ。本当に侵攻が始まってからじゃ何をしようとしても遅いんだぞ? 動くなら今すぐ動くべきなんだ」

 ログズはその言葉に早い理解を示すが、カフラは当惑したままだ。

「ですが、それならどうすればいいって言うんですか?」

「ムオードさん達町の有志程度じゃ本物の軍に対抗できるわけがない。傭兵を雇って対抗するしかないと思う。でも、エレブの軍勢は最低でも数万、場合によっては十万二十万が攻めてくる可能性だって考えられる。そんなの、ルサディル単独の力じゃどうにもならない。ネゲヴ全体の力を合わせるしかない。ネゲヴ全体の被害を最小限に留めるためにはルサディルで敵を撃退する必要がある。そのためにネゲヴ中の町が協力して、ネゲヴ中の町が傭兵を雇って、ルサディルに送り込むべきなんだ」

 竜也の主張を吟味していたカフラは「んー」と首を傾げ、

「おそらくそれは難しいでしょうね」

 と結論した。竜也は「どうして」と反発する。

「傭兵を雇うにはそれだけの費用がかかりますけど、それを誰が負担するのかという問題があります。わたし達中央の者は『当事者の西ネゲヴの町が負担するべきだ』と主張するでしょう。西ネゲヴの人達は『金を持っているバール人がより多く負担するべきだ』と言い出すかもしれませんし、東ネゲヴの人達は『我関せず』と負担を拒否するかもしれません。仮に敵に対抗して十万二十万の傭兵を集められたとして、それを誰が指揮するのかという問題もあります」

 竜也が問題点を理解しているのを確認し、カフラが続ける。

「負担と指揮を巡ってネゲヴ中の町が対立し、話はまとまらないと思います。話がまとまるとしたらエレブの軍勢が目前まで迫って、どうにもならなくなってからじゃないでしょうか。本気になって動くのはルサディルが落とされてからになるかもしれませんね」

「そんなの……!」

 問題の深刻さを理解させるために町一つを見捨てろ、と言うのか。竜也は無力感を、唇を噛み締める。
 竜也の心の奥底で、黒い何かが身をうねらせた。

(――っ、待て、そんな場合じゃない)

 竜也は首を振って意識を切り替えた。

「ログズさんはどうすべきだと思いますか?」

「タツヤ、俺は場末の新聞屋に過ぎないんだぜ? できることがあるとしたらルサディルの民会か長老会議に警告をするくらいだろう」

「そうですね。それで長老達が相談して、戦うなり逃げるなりの結論が出ればそれでいいんじゃないんですか? タツヤさんにできるのはその程度でしょう?」

 その他人事のような物言いに竜也は反感を覚えてしまう。

「でも、あの町には知り合いがいるんだ」

「ですが、タツヤさんにはどうしようもないことでは? その知り合いに警告して、その方達が自分の判断で逃げて、無事でいてくれればそれで充分なんじゃないんでしょうか。一介の庶民に過ぎないタツヤさんがそれ以上何をする必要があるんですか?」

 カフラは不思議そうに問いかける。竜也はそれに何も答えられなかった。







 その夜、一人屋根裏から屋根の上へと出た竜也は星空を見上げていた。産業活動に一切犯されていない大気はどこまでも澄み、空は宝石箱のように星々が燦めいている。

(確かに、俺の力じゃラズワルド一人守ることだって満足にできない)

 竜也は握りしめた拳を見つめる。大して筋肉のついていない、細い手を見つめた。

(でも、俺には『黒き竜の血』が――)

 エレブの侵略軍が何万、何十万と押し寄せようと、それが目覚めさえすれば皆を助けられるのだ。
 竜也は自分の内側を見つめるように目を瞑った。『黒き竜の血』を目覚めさせるべく精神を集中させた。
 魂の奥底に眠る力を探すつもりで、記憶の奥底に眠る何かに光が当たっていく。

(……ぼくには、ほんとうはすごいちからが……)

 そう言えば、どうしてこんなことを考え出したのだろうか。小学生の頃にはもう信じていた。

「今の親は僕の本当の親じゃない。僕は橋の下で拾われた子で、黒い竜が本当の親なんだ。いつか僕は竜の血に目覚めるんだ」

 確か、最初に考え出したのはそんな設定だった。敖順とか何とか、親の名前や設定も図書館で調べて考えて。竜王族内部の確執があって、親は僕を育てられなくなって人間界に一時的に避難させるつもりで……とか。
 中学生になる頃には、さすがに両親との血のつながりを否定できなくなったし、肉体的に竜の子供だという設定に無理を感じるようになった。だから、

「黒き竜が人間界に転生した姿で、竜の魂に目覚めれば黒き竜の力が使える」

 そんな設定に変わっていったんだ。それで、竜の魂のことを象徴的に「黒き竜の血」と呼んでいて……。
 竜の力を使って、自分が人間じゃないと信じてまで、俺は本当は何がしたかったのだろう。確かそう、小学生の頃、許せなかったものがあったのだ。
 例えば九・一一の同時テロ。その報復としてのイラク戦争と、民間人の殺戮。グァンタナモ等の収容所。アメリカは民間人を殺戮すること、イスラム教徒を侮辱することが目的なのであって、テロとの戦いは単なる口実にしか思えなかった。
 例えば、三・一一の東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故。それまでの生活が奪われ、困窮を余儀なくされる人達がいる一方、事故を引き起こした者達は責任逃れに終始し、何ら処罰もされず、負担や賠償の回避に汲々としている。
 仮にも民主国家で何故こんな非道が認められるのか、どうしても理解できなかったし、許せなかった。悲しいニュースは見たくなかった。悪い奴等をぶん殴って成敗したかった。泣いている人達を助けたかったのだ。
 だけど現実の自分は無力な子供でしかなく、「自分は竜の血を引いている」と信じ、空想の中で悪い奴等をやっつけるしかなかったのだ。

「無力な子供……今でもそうだ。何も変わらない」

 悲惨な戦争が始まろうとしている。多くの人が死のうとしている。それなのに何もできない、何の力もない小さな手を、竜也は強く握り締めた。







 竜也はカフラにムハンマド・ルワータに対する支援を依頼。カフラの回答は、

「エレブの問題はナーフィア商会だけで対応するべきことではないでしょうから、ルワータさんへの支援は商会連盟として行うのが筋だと思います」

 カフラの言うことはもっともで、竜也はぐうの音も出ない。

「ナーフィア商会が支援実施を提案するよう働きかけてみますから」

 とも言っていたが、カフラ自身も結果については自信がなさそうだった。商会連盟を運営しているのは評議会で、有力商会の当主またはその代理人が評議員となっている。ナーフィア商会から評議員になっている人間はカフラにとっては顔見知りだが、命令を下せるような立場にあるわけではない。何かの機会に進言をするのがせいぜいだ。

「……何かもっと確実な方法は」

 竜也は思い悩み考え、やがてある方策にたどり着いた。

「これだってとても確実とは言えないけど、カフラに頼みっぱなしってわけにもいかないしな。俺がしっかり説得すればいいことだ」

 竜也は早速行動を開始、向かう先はジャリール商会である。

「すみません、ジャリールさんにお会いしたいんですが」

「お約束のない方とお会いすることはできません」

 正面突破を計った竜也は敢えなくはね飛ばされる。だがそれも想定内である。

「でしたらこれを」

 竜也は用意していた書状を秘書らしき人物に手渡し、その日は素直に退散した。竜也がジャリールから招待されたのはその数日後である。竜也は意気揚々とジャリール商会へと向かった。
 ジャリール商会本館の応接間で待つこと小一時間、ようやくジャリールが姿を表した。竜也は出迎えるように立ち上がった。

「クロイ・タツヤです。今日はお時間を作っていただきありがとうございます」

「面倒な挨拶は抜きだ、座れ」

 ジャリールはどっかりとソファに腰を落とす。竜也もまたジャリールに向かい合って座った。

「なかなか良い絵を送ってくれたな。礼を言おう」

 とジャリールはにやりと笑う。竜也はジャリールの興味を引くために書状に似顔絵を添付しておいたのだ。例によって木炭鉛筆で描かれたジャリールの素描である。写実的な描写で、好意を得るために三割増しで美化しておいたのが功を奏したようである。

「さて、あまり時間はない。用件は手短に頼む」

「は、はい。ムハンマド・ルワータという著名な冒険家がいます。彼のエレブ調査に支援をいただきたいのです」

 竜也は現在のエレブ情勢について、ネゲヴ侵攻を公言する教皇について、調査の必要性について熱を込めて説いた。事前に資料とカンニングペーパーをまとめておいたこともあり、竜也の説明は簡潔ながら要点を突き、判りやすいものとなった。

「ふむ、なるほど」

 一通り説明が終わり、ジャリールが頷く。

「エレブの状況については交易している船長からも不安の声を聞くことがある。本格的な調査が必要なのかもしれんな」

「はい。商会連盟として調査をするのであればその費用は連盟の運営費から支出されます。ジャリール商会が特別損をするわけではありません。ナーフィア商会のカフラマーンにも協力してもらっています」

「うちが提案し、ナーフィア商会が賛成するなら評議会で通らない議案はないだろうな」

 ジャリールはそのまま沈黙する。竜也もまた口を閉ざし、ジャリールの発言を辛抱強く待った。

「……エレブ調査の件、うちが評議会に提案してやってもいい。だが条件がある」

「何でしょう」

 竜也は身を乗り出した。竜也の必死な視線を受け、ジャリール人の悪い笑みを見せた。

「先日の展覧会で、時間があれば何か出展したかったと言っていたな。その作品を見せてもらおうじゃないか」

「絵画ですか」

 と竜也は若干戸惑う。

「彫像でも構わんぞ。だが詩作や小説は駄目だ。その作品を私が所有し、人に見せびらかして自慢できるものでなければならん」

 ジャリールのあまりにあけすけな物言いに竜也は少し呆れる。だがその裏表のないところはむしろ好ましく感じられた。

「最低限、あの展覧会に出展して恥ずかしい思いをしないもの。望ましいのは人目を引いて話題をさらうくらいの凄いもの……」

 竜也のつぶやきにジャリールは「そういことだ」と頷いた。

「それでどうするのだ?」

「やります。少し時間をください」

 ジャリールの問いに竜也は即答。ジャリールは「よかろう」と鷹揚な態度を取った。

「必要な費用は出してやろう。急ぐ話ではない。一年でも二年でも待ってやる」

 ジャリールはそう言い残し立ち去っていく。竜也もまたジャリール商会を後にした。

「そんなに時間をかけられるか。エレブがいつどうなるのか判らないのに」

 スキラの町中を早足で歩きながら、竜也は何を作るべきか懸命に考えを巡らせた。

「やっぱり絵が一番手っ取り早いよな。でも、以前書いた看板よりインパクトのある絵なんて描けるのか? そうなると彫像……でもヘラス彫刻に匹敵する彫刻なんて俺にはとても……いや、デザインだけやって実際に掘るのは人任せでも構わないか」

 ぶつぶつ呟きながら通りを歩く竜也は前方不注意のため向かいから歩いてきた傭兵風の男とぶつかった。

「すみません、すみません」

 とくり返し頭を下げる竜也。その傭兵は舌打ちをして去っていく。竜也は安堵しながらその鎧を着た男を見送った。

「ん? 鎧……そうか!!」

 エウレカ、とばかりに叫ぶ竜也は周囲の注目を集めるが、竜也はそんなことには構わない。竜也は下宿先の珈琲店に向かって走り出した。
 下宿に戻った竜也は「スキラの夜明け」社の一角を占拠し、制作に取りかかった。ラフデッサンを何枚も何枚も描いてデザインを決定し、それに基づいて完成予想図を何種類か描いて、さらにそれに基づいて設計図を作成する。二日徹夜し三日目にダウンし、その翌日には体調を整えて外出した。向かう先はスキラ港の造船所である。

「おお、タツヤではないか! 今日はどうしたのだ!」

 ガリーブの元を訪れた竜也は経緯を説明した。

「――それで、彫像を作ることにしたんですけど絵と違って自分では作れないんで、良い職人がいたら紹介してもらおうと思いまして」

「ほう! それで、どんなものを作るつもりなのだ?」

 これです、と竜也は机の上に完成予想図を広げる。ガリーブとザキィはそれをのぞき込み、しばし言葉を失った。

「……これは、何と言っていいのかも判らんな」

 と首を振るガリーブ。

「これはもしかして鎧ですか?」

 ザキィの問いに竜也は「ええと、一応」と答える。ガリーブは不思議そうな顔をした。

「こんなもの着れんぞ? 人間はこんな骨格をしておらん」

「ええ、まあ、見た目でジャリールさんを驚かせるためのもので、実際に着て動くことは考えなくていいと思うんです」

 竜也はちょっとばつが悪そうにそう言う。

「それなら鉄じゃなくて木で作ったらどうですか? そっちの方が早いし安上がりですよ」

 竜也は「早い」という言葉に強く心引かれたが、

「でも、木と鉄じゃ質感が全然違います。木じゃあまりに安っぽくなるでしょう?」

「その辺は塗装で何とかしたらいいのでは? こんな曲線の鎧を打ち出すのは腕の良い鍛冶屋でもかなり難しいと思いますよ?」

 竜也も同じことを薄々と感じていたのでザキィの進言を受け入れ、結局それは木材で作られることとなった。

「ここで働いている職人を紹介しますよ」

 と木工職人も同時に手配してしまう。

「造船の仕事はいいんですか?」

「最近は職人への日当も遅配ばっかりで、みんなろくに働いてないんです。彼等にとってもいい小遣い稼ぎになりますから」

 とザキィは虚ろな目で説明する。竜也にできるのは同情だけだった。
 翌日には木工職人を六、七人揃え、鎧の制作が開始される。竜也の指示に従い職人達が木材を切り、削り、それぞれの部品を作っていく。ザキィがそれを補佐した。さらに竜也はガリーブと一緒に塗料の研究を進める。

「一番綺麗な赤が出るのはどれですか?」

「うむ、やはりこれだろう!」

「下地にこっちを塗って、乾いたら本番の塗料を重ね塗りして、仕上げにヤニスを塗って――」

 そうやって試行錯誤をくり返し、本体の作成でも失敗ややり直しを何度も重ね、ようやく満足の仕上がりを見た頃には暦はティベツの月(第一〇月)を通り過ぎ、シャバツの月(第一一月)となっていた。
 シャバツの月の上旬、竜也はジャリールの屋敷を訪れていた。作品のお披露目と納品のためである。カフラがそれに同行した。

「一体何を作ったんですか?」

「ま、それは見てのお楽しみだ」

 屋敷に招き入れられた竜也はジャリールに簡単に挨拶をし、隣室に移動して準備をする。その応接間にはジャリールとカフラが残された。

「一体何が出てくるんでしょうか。ジャリールさんはご存じですか?」

「知らんな。知ろうと思えば知ることはできたが、それでは楽しみがなくなるだろう?」

 とジャリールは楽しげである。カフラは気を揉み、ため息をついた。

「お待たせしました」

 そこに竜也が姿を現し、台車に乗せたそれを運んできた。高さ二メートルを超える彫像のようだが、白い布をかぶせてあり姿は見えない。同行した二人の職人が倒れないように支えている。
 その彫像は部屋の真ん中に設置される。「それでは」と竜也が白い布を一気に引き、彫像がその姿を現した。全身が真紅のその彫像に、

「……こ、これは」

 と言葉を失うジャリール。カフラもまた同じように驚きに見舞われているが、

「ああ、やっぱりタツヤさんですね」

 と心のどこかで納得していた。

「……これは、一体何なのだ」

「一応鎧?です」

 何で疑問符付きなんですか、とカフラは内心で突っ込んでいる。竜也が作成したその鎧?を元の世界の人間(日本人)が見たなら、

「ガンダムに出てくるモビルスーツみたいだな」

 と感想を述べるだろう。もっと詳しい人なら、

「『逆襲のシャア』でシャアが乗っていたサザビーにそっくりだな」

 と言うに違いない。身も蓋もない言い方をすれば十分の一スケールの木製ガンプラ、偽サザビーのウッドモデルである。
 基本は逆シャアのサザビーだが記憶が曖昧な箇所は「天空のエスカフローネ」のガイメレフや「ファイブスター物語」のモーターヘッド等の要素を取り入れている。それに作成者の木工職人達がこの世界の鎧に意識を引きずられたため、サザビーを基本としながらも中世的要素が多く取り込まれた。結果として完成したのは、未来的先鋭的デザインと中世的懐古的デザインが融合した、ファンタジー的としか言いようのない鎧っぽい何かである。

「どうでしょう? 職人さん達も良くやってくれましたからなかなか満足のいく出来となったと思うんですが」

 だが竜也の期待に反し、ジャリールの反応は芳しくなかった。ジャリールは深々とため息をついて首を振っている。

「……確かに出来自体は悪くない。だが我々の常識とはあまりにかけ離れていて、何と比較してどう評価していいのかも判らん」

「そうですね。二の腕や太腿がひどく小さいのがあまりに珍妙ですし、そこから先が随分膨らんでいるのもまた不細工のように思えます」

 思いがけないカフラの酷評に竜也はためらいがちに反論する。

「いや、それが格好良いんだけど……」

「そう言われればそんなような気がしなくもないです。でも、それを理解できる人が果たして何人いることか」

 タツヤさんは未来に生きすぎです、とカフラはため息をついた。

「……え、それじゃ約束は」

 竜也は顔を青ざめさせる。だがジャリールは首を振った。

「いや、君は充分な仕事をしてくれた。エレブ調査の件、約束は守ろう」

「あ……ありがとうございます」

 竜也は安堵で膝が崩れそうになりながらも踏み止まり、深々と頭を下げた。

「ところでこれは何なのだ。君の元いた場所では戦士がこんな鎧を着て戦うのか」

「いえ、これは人気のある絵物語に出てきた鎧で、実際に着て戦うことを考えてあるわけじゃないんです」

 ジャリールとカフラは四方八方からしげしげとその彫像を眺めている。

「そのお話ってどんなのなんですか?」

「この鎧、本当は物語の中じゃこの十倍の大きさがあるんだ。騎士がこれに乗って戦うんだよ」

「そんなもの、どうやって動かすんですか?」

「核融合……じゃなくて、太陽の力で」

 竜也達はその彫像を中心に、しばしの歓談を楽しんだ。
 そしてシャバツの月の下旬、スキラ商会連盟本館にて定例の評議会が開催される日である。ジャリールは今回代理人に任さず当主自ら出席。ジャリールに伴われてムハンマド・ルワータが参考人として出席した。またカフラも発言権は持たないものの、傍聴人として同席している。
 一方竜也は出席も同席もできず、会議場の外で待つことしかできない。議場に続く通路の片隅で背中を壁に預け、竜也は目を瞑って佇んでいた。気を許すと貧乏揺すりをしたりそこらを歩き回りたくなったりしてくる。竜也は心身の動揺を抑えるのに精神力と体力を費やした。

「……静かなること林の如く、動かざること山の如し」

 明鏡止水の境地には程遠いものの、少なくとも身体は彫像のように微動だにせず。竜也はただ静かに会議が終わるのを待つ。
 一体どのくらいの時間そうやって待っていたのだろうか。時刻はすでに夕方になっている。不意に議場の扉が開いて評議員の面々がぞろぞろと退出してきた。竜也はその中に見知った顔を探した。

「カフラ、どうなった? ルワータさん、支援は」

 そんな竜也をジャリールが呼ぶ。

「ついてこい。部屋を取ってある」

 返事を待たずにジャリールが本館の一角へと進んでいく。竜也は慌ててその背中を追い、それにカフラとルワータが続いた。
 ジャリールが向かった先は応接室の一つだった。それなりに見栄えのする部屋の中には ソファとテーブルのセットが置かれている。ジャリールは中央のソファに座り「座るがいい」と促す。竜也達は空いている場所に着席した。
 一呼吸置いてジャリールが話を始める。

「まず伝えておこう。スキラ商会連盟はムハンマド・ルワータに対し、エレブがネゲヴを侵攻する可能性についての調査を依頼。必要な支援を行うことを決定した」

 竜也は目を見開き、思わず立ち上がっていた。竜也はジャリールとカフラに対して深々と頭を下げる。

「ありがとうございます! ジャリールさんも、カフラも」

「何、礼を言われるほどのことでもない」

 とジャリール。次いでカフラが、

「エレブでの現地調査はルワータさんにお願いするとして、その報告や別口で入手した情報を報告書にして評議会に提出する、そういう役目をする人が必要です」

 なるほど確かに、と竜也は頷く。カフラはちょっと呆れたように、

「その役割をタツヤさんにお願いしようと思っているんですけど」

「え、俺に?」

 竜也は意表を突かれたような顔をした。

「それは構わないけど、いいのか、俺で?」

「どうせタツヤさんことだからルワータさんに任せきりじゃなくて自分でも動こうとするでしょう? それなら商会連盟のそういう仕事をしてもらった方がいいと思ったんです。安いですけど報酬も出ますし」

 ああ、それは助かるな、と竜也は破顔する。

「ありがとう、カフラ」

「礼を言われるようなことじゃありません」

 竜也は屈託なく澄んだ笑顔で礼を言い、カフラは素っ気なくそう答えてやや赤らめた顔を竜也から背けた。竜也はそれに気付かずにルワータの方へと顔を向ける。

「それで、ルワータさんはいつエレブに?」

「できるだけ早く。準備が整い次第すぐだ」

 竜也の真剣な瞳に、ルワータもまた真摯な眼差しを返した。

「どうかお気を付けて」

「ああ、もちろんだ」

 ルワータは両商会から支持を受け、商会連盟から充分な支援を受け、万全の準備を整えた。ルワータを乗せた船がエレブへと向けて出航したのはアダルの月(第一二月)の中旬。ルワータがエレブの拠点に到着したのはその月の終わり、間もなく三〇一四年が終わって三〇一五年になろうとする頃だった。
 竜也が元の世界にいたならば高校を卒業して大学生になろうとしている頃だろう。だがこの世界にやってきてから一年半が過ぎ、そんな風に元の世界のことを考えることもほとんどなくなっていた。「このままこの世界に骨を埋めるのだ」と、覚悟も悲壮感もなく、ただ自然にそう思えるようになっている。
 それと同時期――







 年も新しくなり、海暦三〇一五年ニサヌの月(第一月)・一日。教皇インノケンティウスが聖戦を発動、ネゲヴ侵攻の宣戦を正式に布告した。竜也達がその事実を知るのは少し先のことである。







[19836] 第一〇話「エレブ潜入」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/19 21:07



「黄金の帝国」・戦雲篇
第一〇話「エレブ潜入」







 ときは海暦三〇一五年ニサヌの月(第一月)の中旬、ムハンマド・ルワータがエレブに旅立って一ヶ月が経った頃。竜也の元にルワータからのエレブ情勢第一報が到着した。

「聖戦を発動……!」

 教皇インノケンティウスが聖戦を発動し、ネゲヴ侵攻を正式に宣言。それが第一報の内容である。竜也は戦慄を禁じ得なかった。あるいはと恐れていたことが現実のものとなったのだ。
 竜也はその第一報を握り締めてナーフィア商会の一支部、カフラの事務所に直行。カフラに面会を申し入れる。幸いカフラとはすぐに会うことができた。

「ああ、本当にこんなことを言い出しているんですか」

 だが竜也の期待に反し、カフラの反応は暢気としか言いようがないものだった。

「でも良かったです、ルワータさんへの支援が無駄にならなくて。これでうちもジャリール商会も面目が立ちます」

「そんなこと言ってる場合か!」

 たまらず怒鳴る竜也。カフラは竜也の剣幕に当惑するしかない。

「でもタツヤさん、『教皇はエレブ全ての王国と諸侯の軍勢に集結を命じた』『総数百万の軍勢を持ってネゲヴに侵攻する、と噂されている』……いくら何でもこれは」

 とカフラは半笑いを頬に浮かべた。竜也も多少は気まずそうな顔をしたが、あくまで真剣である。

「確かに、百万ははったりが過ぎるだろうと俺も思う。でも、その十分の一でも十万の大軍勢なんだ。何か対策を考えないと」

 カフラは「落ち着いてください」と竜也をたしなめた。

「確かにこれが実行されるなら大事ですけど、まだ第一報でしょう? 次の報告には『やっぱり中止になりました』って書いてあるかもしれないじゃないですか」

「そんなの……」

 と竜也は唇を噛み締める。

「傭兵を雇うには腰が抜けるくらいのお金がかかるんです。連盟を動かすには事態をもっと明確にしないといけませんし、わたし達はそれをお仕事としてタツヤさんにお願いしているんです」

 カフラの言葉に竜也は何も言い返せなかった。
 カフラとの面会が不首尾に終わり、竜也は下宿に帰ってふて寝したい衝動を堪え、商会連盟の事務局に向かった。事務局でスキラ港の入出港記録を調べ、エレブとの交易を行っている商会や船をリストアップ。スキラに帰着している船を訪ねてエレブ情勢について聞き取り調査をするのである。
 連盟傘下の各商会にはエレブ情勢の情報収集に協力するよう要請がされている。このため面会し、聞き取り調査を行うこと自体はそれほど難しくはなかった。ただ、エレブと交易を行っている船はそれほど多くない。聞き取り調査ができるのは数日に一回のペースである。集まる情報のあまりの少なさに、そしてあまりの遅さに竜也は呆然としてしまう。一番早くて半月前の情報なのだ。

「ここにグーグルでもあればいいのに」

 と埒もない愚痴が出てしまう。二一世紀の高度情報化社会の真っ直中に生きてきた竜也にとっては信じられないくらいの迂遠さだった。
 それでも何とか集めた情報を取捨選択し、ひとまとめにして報告書にする。

『……フランク王国・マッサリアを拠点とするムハンマド・ルワータからの報告。ニサヌの月一日、聖杖教教皇インノケンティウスは新年祭で発せられた勅書にて、ネゲヴ侵攻を正式に布告……』

『……その日、テ=デウムの教皇庁には五王国の大使や使節を始めとしてエレブ中の各国代表が参集しており、教皇は全員に対してネゲヴ侵攻軍に参加することを命じた。各国代表は全員一致で聖戦の戦列に加わることを宣誓した……』

『……教皇は百万の軍勢を集めることを命じた。集結地はイベルス王国のマラカ。集結日はアダルの月・一日……』

『全軍の総司令官にはフランク国王王弟・ヴェルマンドワ伯ユーグの就任が予定されている。遠征軍付き枢機卿としてアンリ・ボケの随行が決定している。また、アンリ・ボケは全ネゲヴの教区統括者となることが内定しているという……』

『……すでにバール人の商会には聖戦への喜捨が求められている……』

 そうやってエレブ情勢速報を二回提出しているうちにニサヌの月は過ぎていく。ジブの月(第二月)に入ってすぐ、ルワータからのエレブ情勢第二報が到着した。竜也は港まで出向いてそれを受け取り、その場ですぐに開封して目を通す。

「だーーああっっ!! だめだーっ!」

 奇声を上げて頭を抱える竜也が港の人々の注目を集めた。だが竜也にはそんなことを気にする余裕もない。

「半月待ってこの程度の情報しか集まらないなんて。一日でも早く動かなきゃ間に合わなくなるかもしれないのに……!」

 ルワータが役割を果たしていないわけでは決してない。彼は現地のバール人商人と親交を結び、あるいは人を雇ってあちこちに派遣し、様々な噂話を収集している。ただ、そこに竜也が求める精度の高い情報が含まれていないだけである。だがそれをもってルワータを責めるのは酷だろう。竜也の要求が法外なだけなのだ。

「……やっぱりやるしかないか」

 竜也は以前から考えていたことを決断する。竜也はその場でルワータ宛の手紙を書き、エレブ行きの船に託した。その後ナーフィア商会に向かった竜也はカフラと面会、

「エレブに行く」

 その決断をカフラへと告げた。







「……ちょっと待ってください」

 竜也の思い詰めた瞳がカフラに向けられている。カフラは竜也が本気で言っていることを理解するしかなかった。

「エレブにはもうルワータさんが言っているじゃないですか。タツヤさんがそこに行ってどうすると? 自分ならルワータさん以上のことができるって、そう言いたいんですか?」

「いや、まさか」

 竜也は即座に首を振った。

「人一人が見て集められる情報なんてごくわずかだ。ルワータさんは大勢の人から、エレブの各地から噂話を集めてその中から精度の高い情報を抜き出そうとしている。俺も同じことをここでやってるけど、ルワータさんのしていることと比べれば子供の遊びみたいなもんだ」

「タツヤさんがエレブに行っても意味がない、それは判っていると?」

 カフラの問いに竜也は頷く。

「それじゃ一体何をしに?」

「散々考えたけど、一つしか方法を思いつかなかった。ラズワルドの恩寵を使う」

 カフラの瞳が驚きに見開かれた。

「教皇なり将軍なりに面会できるのが一番なんだけど、さすがにそれは無理だろう。でも、野次馬として垣間見るだけならかなり地位の高い人間でも何とか見ることができると思うんだ。そんな状態でも、ラズワルドの恩寵ならきっと何かを掴めるはずだ」

 カフラは難しい顔をして考え込んだ。最初考えていたのは「どうやって竜也を翻意させるか」だ。かなり長い時間考えて、結局それは無理だと思うしかなかった。
 カフラは深々とため息をついた。

「……予算ならわたしが何とかしますから、しっかりした護衛を雇ってくださいね」

「ああ、判っている。ありがとう」

 竜也は屈託のない笑顔で感謝を述べる。カフラはちょっと顔を赤らめ、そっぽをむいた。
 竜也はその日のうちに護衛の手配へと向かった。危険極まりない異国への潜入と情報収集だ。まず目立たないことを最優先とすべきだし、予算の都合もあるし、多人数を護衛とするわけにはいかない。

「雇えるのは三人か、せいぜい四人。ラズワルドの護衛は女の人が望ましいし、それで最精鋭で信用できるとなると、やっぱり選択の余地はないよな」

 竜也は傭兵の仲介業者に依頼、二日後にはその人物と会う段取りとなった。その日、「マラルの珈琲店」にやってきたのは、

「拙者、牙犬族のラサースと申す」

 ラサースは泥鰌髭が特徴的な、貧相な中年男だった。女房に逃げられて幼い子供を抱えて途方に暮れながら傘貼りの内職をしている貧乏浪人みたいな風情の人物である。竜也はラサースと「珈琲店」の個室で対面する。

「牙犬族の剣士ではサフィールという子と知り合いになったんですが」

「ほう! サフィールと」

 ラサースは嬉しそうに相好を崩した。ラサースの反応に竜也がちょっとびっくりする。

「サフィールは自慢の我が娘です」

 とラサースは胸を張った。

(全然似てない……)

 竜也はそう思わずにはいられない。ラサースの嫁はよほどの美人で、サフィールは母親似だったのだろう。
 竜也とラサースはサフィールの話や劇の話、剣祖の話でひとしきり盛り上がった。結構長い時間そんな話をし、ふと会話が途切れたところで竜也は表情を切り替える。

「――今回依頼するのは非常に危険な仕事です。少数精鋭で、何よりも誰よりも信用できる、その条件に適うのが牙犬族の剣士以外にありませんでした」

 竜也はそう前置きして仕事の内容を説明した。

「……そんなわけで、任務はエレブ潜入に当たっての護衛です。人数は三名ですが一人は女性をお願いします。まず第一に目立たず、次にできるだけ強い剣士を。それが護衛の条件です」

「ふむ、なるほど」

 とラサースは頷いた。

「いや、タツヤ殿を我が一族も同然と思えという族長の言葉、拙者も聞き及んでおります。金獅子族や赤虎族でなく我が一族を選んだタツヤ殿の意、決して無碍にはしませんぞ」

 ラサースはそう胸を叩いて竜也の依頼を引き受けた。
 その後、竜也は自室へと戻り、

「本当にこれで良かったのかな」

 といまさらながら思い悩んでいた。自分が危険な目に遭うだけなら何も問題はない。だがラズワルドを危険にさらすことには、

「他の方法はなかったのか」

 と改めて後悔の念が湧いてくる。

「そんなこと、気にしなくていい」

 ラズワルドはそう言ってベッドに座っている竜也の足の間へと腰を下ろした。そして竜也の腕を取って自分の身体を包むように回す。出会ってから一年半が経ち多少は成長しているラズワルドだが、それでも実年齢より二、三歳幼く見える発育の悪さには変わりなく、竜也にとっての印象も出会ったときそのままである。客観的に見ても今の二人の様子は未だ「兄に甘える妹の図」を抜け出していなかっただろう。

「わたしなら恩寵で危険を避けることもできる。恩寵もない上にろくに戦えないタツヤの方がよっとぽど危険」

 竜也は「それもそうか」と苦笑する。実際誰が一番足手まといになるかと言えば、ラズワルドよりもむしろ竜也の方かもしれないのだ。

「危険な目に遭わせて悪い。でもラズワルドの力が頼りなんだ」

 竜也はラズワルドの身体を抱く腕に力を、優しさを込める。抱き寄せられたラズワルドは「ん」と返事をしながら仔猫のように目を細め、竜也の胸へと頬をすり寄せた。







 エレブ側に受け入れ準備を要請する一方、その返事を待たずに竜也もエレブへと旅立つ準備を始めている。路銀を用意し、船の手配をし、エレブに関する情報を集める。牙犬族の護衛が到着し、全ての準備が整ったのはジブの月の月末である。

「壮健そうで何よりです、タツヤ殿。まさかこんなに早くまたお会いすることになるとは」

 まず護衛の一人、女剣士の枠を埋めたのはサフィールだ。嬉しそうに笑うサフィールに、

「君が来てくれたのか」

 と驚く竜也。ラサースは、

「女剣士に限るならサフィールは一族でも一、二の使い手だ。授かっている恩寵も強い。エレブ人の有象無象くらいなら二十や三十は一人で相手できるだろう」

 と誇らしげに胸を張る。その横でサフィールが同じように胸を反らしていて、竜也も、

「ああ、本当に親子なんだな」

 とようやく実感を得ていた。

「そちらはバルゼル殿。一族の中で当代最強の剣士だ」

 バルゼルは無言のまま竜也に会釈する。年齢はまだ三〇代に入ったばかりなのだが見た目の印象が渋く、四〇代でも通りそうな面立ちだ。背は竜也より少し低いが前後左右がかなり分厚い。全身を鋼のような筋肉で覆っている、巌のような体つきである。その容貌もまた同じく巌のようにごつごつとしていて、殴ったら竜也の拳の方が傷だらけになりそうだ。とは言っても決して醜悪ではない。

「こういう渋い大人になりたいよな」

 と竜也に憧憬を抱かせるくらいには魅力があった。

「そちらはツァイド殿。剣の腕前は並みだが、敵陣に忍び込んだりするのが得意だ」

「よろしくお願いしますね」

 とツァイドはニコニコしながら手を差し出す。竜也は彼と握手を交わした。
 ツァイドは身長も体格も並であり、特徴がないのが特徴みたいな人物だ。犬耳も尻尾も付けておらず、服装も部族衣装ではなく普通の服である。常に笑顔を絶やさない様はバール人商人を思わせ、竜也がこれまで会った牙犬族の剣士達とは毛並みが全く異なっていた。

「船はもう出航準備ができている。あとは俺達が乗り込むだけだ」

 竜也は早速護衛を引き連れて船へと向かおうとする。が、

「タツヤ殿、その前に」

 とツァイドが何かの荷物を取り出した。そしてサフィールとバルゼルを連れてどこかへ移動する。待つこと十数分、ようやく牙犬族の三人が戻ってくる。だが、竜也は一瞬彼等が誰なのか判らなかった。

「サフィール、それ……」

 サフィールとバルゼルは日本の侍みたいな部族衣装を脱ぎ、普通の服を身にしていたのだ。さらには犬耳も尻尾も外している。手にしている刀も似非アラビア風、ネゲヴ風の拵えだ。

「うう、守神様の恩寵が、一族の誇りが……」

 とサフィールは半泣きになっている。バルゼルは沈黙を守っているが、内心ではサフィールと似たようなものだっただろう。ツァイドがサフィールをなだめた。

「敵地に乗り込もうというのですよ? あんな目立つ格好をしてどうするのです。剣を振るわずに事を終わらせるのが最上の勝利なのですから」

「え、ええ。確かに俺が求めているのはその通りです」

 竜也は戸惑いながらも確認する。

「でも、犬耳も尻尾もなしで恩寵は」

 その問いにツァイドが「ああ」と笑う。

「勘違いしている人も多いのですが、あの扮装と恩寵の使用は無関係です。要は気の持ちようです。どのような格好をしようと、守神様は常に我等と共にあるのですから」

「その通りだ」

 バルゼルが初めて言葉を発した。

「守神様の恩寵はこの血の中に、剣祖の技はこの腕に、だ。それを忘れるな、サフィール」

 サフィールは姿勢を正して「はい」と返答した。
 竜也はラズワルドを連れ(当然ラズワルドもウサ耳を外している)、牙犬族の三人を伴い、船へと乗り込んだ。竜也達を乗せた帆船がスキラ港を出港する。帆船は帆に風を受け、北へと向けて海を進んでいった。







 ……竜也達を乗せた帆船はまずネゲヴの港町、ハドゥルメトゥムを経由してカルト=ハダシュトへとやってくる。カルト=ハダシュトは元の世界ならチュニスに相当する町である。かつてはバール人の海洋交易・軍事同盟の根拠地として一時代を築いたこともあり、町並みには歴史と伝統が満ちあふれていた。
 竜也達はここで船を乗り換え、別の船へと乗船する。その船が港を離れ、次に陸地に着いたときにはそこはもうネゲヴではなくエレブである。
 ネゲヴを離れて一昼夜、竜也達の船からはすでに陸地が肉眼で見えている。

「あれがエレブ……」

「ええ、トリナクリア島です」

 トリナクリア島は元の世界ではシチリア島に相当する。竜也達が入港したのはトリナクリア島のセリヌスという港町だ。船は停泊するが、竜也達は船の中に留まっている。陸地に出るのも船荷の積み下ろしを手伝うときくらいである。セリヌスを出航した帆船はレモリア半島(元の世界のイタリア半島に相当)本土へと到着するが、そこでも竜也達はずっと船の中だ。レモリアのいくつかの港町を経由し、竜也達がフランク王国のマッサリアに到着したのはシマヌの月(第三月)の中旬。スキラを発ってからは一五日が経過していた。
 マッサリアは元の世界ならフランスのマルセイユに相当する。バール人によって築かれた歴史と伝統ある港町である。町並みは中世ヨーロッパそのままで、できるものなら観光気分であちこち散策したいところだ。だが、そんなことは不可能だった。

「タツヤ殿、目立っていますよ」

 ツァイドに小突かれて注意され、竜也は「すみません」と謝った。そして船荷の積み下ろしを続ける。今の竜也達はバール人商船の乗員であり人足といった風を装っているのだ。船荷の積み下ろしが終わると、竜也達はまた船へと戻っていった。
 ムハンマド・ルワータがその船へとやってきたのは日が暮れてからである。

「ようこそエレブへ! 歓迎しよう」

「ありがとうございます。迷惑をかけますがよろしくお願いします」

 竜也とルワータは握手を交わした。
 竜也達はルワータの案内で移動する。港にほど近い、石造りの一軒家。それがエレブ諜報網の本拠地であり、ルワータの家だった。

「長旅で疲れただろう」

「いえ、それほどでも」

 竜也達は椅子に腰掛けて一息ついた。ルワータの用意したお茶をそれぞれに飲む。久々に人目を憚る必要がなくなり、サフィールやバルゼル達も少しだけ気を緩めているようだった。

「それにしても、たった半月でスキラからここまで来れるんですね。どうして教皇はマラカなんて地の果てを集結地に。レモリア半島を南下すればすぐネゲヴなのに」

 そう首を傾げる竜也にルワータは苦笑する。

「理由はいくつかある。まず我々はスキラを中心に物事を考えがちだが、エレブ人にとってスキラなどネゲヴの中の数ある町の一つでしかないということだ。連中の目的はヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴの全てを征服すること。そうであるならばいきなりカルト=ハダシュトに上陸する方が理屈に合わないだろう?」

「あ、確かにそうですね」

「それにそもそも、敵軍が何十万になるのかまだ判らないが、それだけの兵を乗せる船を用意することなどどこの誰であろうと不可能だ。少ない船で何十往復とするしかないだろうが、それでは各個撃破のいい的になるだけだろう。それにエレブ人はまともな海軍を持っておらず、海軍はバール人の武装商船か海上傭兵団が中心だ。エレブ人はバール人を決して信用していない。バール人に生命を預けて船に乗るより、どれだけ遠かろうと陸路を歩いた方がエレブ人にとってはマシな選択なんだ。こんな言葉がある、曰く『真っ当なエレブ人なら海を恐れる』」

 まるで古代ローマ人だな、と竜也は思いながら小さく笑った。
 お茶を飲み終えて休憩も終わりとし、竜也達は打ち合わせへと突入する。

「これがこの国の地図だ。マッサリアはここ」

 ルワータは卓上に地図を広げ、その一地点を指差した。

「フランク王国の首都のルテティアはここ、聖杖教の根拠地テ=デウムはここになる」

 ルワータは地図上の二箇所を指差した。一箇所は元の世界ではパリに相当する場所、そこが王都ルテティアであり、もう一箇所が元の世界ではリヨンに相当する場所、聖都テ=デウムである。

「諜報対象として最も望ましいのは二人、王弟ヴェルマンドワ伯と枢機卿アンリ・ボケです」

「王弟への接触は現実的ではないだろう。ルテティアは遠く、我々がエレブ人に紛れてそこまで行くのは困難だ。それに王弟が庶民の前に顔を出す機会もほとんどない」

「それではアンリ・ボケの方を?」

 ルワータは「その通りだ」と頷いてもう一度地図上のテ=デウムを指差した。そして指を下方へと滑らせる。

「ここにローヌ川という川がある。これを川船に乗って上っていく。五、六日もあればテ=デウムだ。教皇庁がここにあり、教皇や枢機卿もここにいる」

 ルワータが確認するように視線を送る。竜也が、ツァイドが、バルゼルが無言で頷いた。

「我々は巡礼者の集団に加わる。巡礼者なら枢機卿や教皇に一目会おうと行動しても何の不思議もない。枢機卿は庶民や巡礼者の前に顔を出すことが多いと聞くが、実際に会えるかどうかは運次第だな。それに、巡礼者は大体こういう外套を着ている」

 とルワータが取り出したのは、黒い外套だ。フードが付いていて、身にすれば頭から膝までを全て覆い隠すことができるだろう。外套の胸にはT字に絡みつく蛇の、聖杖教の紋章が描かれていた。

「ああ、身を隠すにはちょうどいいですね」

 と竜也とツァイドは喜ぶ一方、サフィールは不思議そうな顔をしていた。

「ですが、剣はどこに持てばいいのですか?」

「巡礼者が武器など持つか」

 とルワータは呆れ顔だ。

「外套の下に短刀を隠し持つのがせいぜいだろう。剣は別の者に運ばせるように手配している」

 サフィールは「うぐ……」と呻いていたがそれ以上何も言わなかった。バルゼルも不満そうではあるが無言を貫いている。

「それと、念のためにこれを手と顔に塗っておく」

 とルワータはドーランのような白粉を取り出した。

「マッサリアのような港町ならともかく、内陸に行けばエレブ人しかいないからな。顔立ちはどうしようもないが肌の色はそれで何とか誤魔化せるだろう」

 サフィールが興味深げに白粉を手に取り、試しに手の甲に塗っている。ラズワルドがその真似をしようとし、竜也が「ラズワルドには必要ないから」と笑いながら止めた。実際、肌の色だけならラズワルドより白い者などエレブ人にもほとんどいない。

「あとは、我々が六人で固まって動くと目立つだろうから三人三人に分かれるべきだろうな」

 ルワータの言葉にバルゼルとツァイドが「そうだな」と頷く。

「サフィール、お前がタツヤ殿達と一緒に動け」

「判りました」

 サフィールが姿勢を正して返答する。こうして竜也達は女子供チームとおっさんチームに分かれることとなった。

「明日の朝には出発する。今日は早めに休んでくれ」

 打ち合わせが終わり、竜也達は早々に就寝。そして翌朝夜明けと共にその家を出、テ=デウムへと向かって出発した。
 マッサリアの港から船に乗ってローヌ川河口に移動。そこから川船に乗り換えて川上へと遡っていく。船には近隣から集まった巡礼者が何十人も乗っていて、竜也達はその中に紛れ込んでいた。巡礼者は善良そうな老若男女の白人だが、年寄りの数が多いように見受けられた。

「あらまあ、随分可愛らしい巡礼者さんねぇ。どこから来たの?」

 ラズワルドは隣り合った老婆の目に止まり、しきりに話しかけられている。往生するラズワルドに代わって竜也が答えた。

「レモリアのポプロニアからです。おばあさんは?」

「わたし達はセットの近くの村からよ。教皇様に寄進をする金貨を持ち寄って、わたし達は村の代表で」

 へえ、と竜也は感心して見せた。

「僕達、テ=デウムへの巡礼は初めてなんです。おばあさんは?」

「わたしは今回で四回目かしら」

「へえ、ベテランですね」

 その老婆は「ええ、そうね」と笑った。

「わたしが最初に巡礼をしたときはもう危なくてねぇ。道中何度も盗賊に襲われて、テ=デウムに着いたときには人数が村を出たときの半分になっていたものよ。わたしの姉も、あのときに盗賊にさらわれてそれっきり」

 老婆は長い長いため息をつき、不意に顔を輝かせた。

「今みたいに安全に巡礼ができるなんて、あの頃を思えば本当に夢のようだわ」

「それはやっぱり、教皇様と枢機卿様のお力ですよね」

 教皇インノケンティウス、そして枢機卿アンリ・ボケ――ネゲヴ侵攻を主導している二人である。竜也は散々予習をしてきたその二人のプロフィールを思い返していた。

「ええ、本当にその通りだわ! 枢機卿様は徳の高いお方でねぇ、わたし達のような下々にも分け隔てなく加護を授けてくださるのよ」

 枢機卿アンリ・ボケは今年で五六歳になるという。教皇庁の中では傍流の聖堂騎士団に属しながら、巡礼者を盗賊から守る活動を通して名声を高めてきた。その活動でアンリ・ボケは「旅人の守護者」という異名で呼ばれるようになり、聖人に準ずる世評を得ている。

「二回目の巡礼は子供が生まれた後だったかねぇ。身体が弱くていつ天に召されてもおかしくなかったから、枢機卿様の鉄槌で病魔を祓っていただいたんだよ」

 前代の教皇が死んで教皇選挙が行われた際、アンリ・ボケは聖堂騎士団の騎士を率いて対立候補を鉄槌で殴り殺し、インノケンティウスを教皇の座に就けた――という噂である。
 その功績を持ってアンリ・ボケは枢機卿の座を手に入れている。聖堂騎士団の出身者で枢機卿まで出世したのはアンリ・ボケが最初である。枢機卿になってからもアンリ・ボケは騎士団を率いてエレブ中を転戦し続けた。異端・異教徒を殺し続け、屍の山を築いてきた。七〇〇年間の聖杖教の歴史の中で、アンリ・ボケほど人を殺した聖職者はいないと言われている。

「赤い枢機卿」

 敵の血を全身に浴びて赤く染まった枢機卿――それがアンリ・ボケの異名の一つである。公然とその名で彼を呼ぶ者は一人もいないが。

「教皇様がこの間ネゲヴへの聖戦を宣言しましたけど」

「ああ、素晴らしいことだねぇ!」

 老婆は聖杖の首飾りを手にし、それを天へと掲げた。

「ケムトの異端が持っている聖杖を奪い返すことができるんだよ。聖杖がテ=デウムに戻ってきたなら、巡礼のときに見せていただく機会もあるかもしれないよ」

 聖杖とは契約者モーゼが使っていた――ということになっている――聖遺物「モーゼの杖」のことである。ケムトのメン=ネフェルにある聖モーゼ教会がそれを所蔵しており、聖杖の奪還は聖戦の大きな目的の一つだった。

「教皇様が聖杖を手にして導いていただいたなら、わたし達はきっとみんな天国に行けるんだよ」

 老婆の瞳は夢見る乙女のように清らかだった。老婆の言葉に周りの誰かが賛同する。

「ネゲヴの連中は邪神を拝んで生け贄を捧げている。聖杖の教えでそんな邪教を一掃するんだ」

「ネゲヴに入植すればうちの次男坊三男坊も自分の畑を持って、嫁も取れるようになるに違いないよ」

「うちみたいな小さな農家でもネゲヴ人の奴隷を持てるようになるって話だ」

 巡礼者は口々に聖戦への期待を、それがもたらす明るい未来を語っている。竜也は人々の無邪気さに目眩すら覚えた。竜也はそっとラズワルドの手を握る。

(……こいつら、本気か? 本気でそんなことを考えて戦争を……)

(間違いなく本気。心の底からそう思っている)

 念のためにラズワルドに確認させたが、その答えは予想通りのものだった。だがだからと言って衝撃がないわけではない。

(ここにいるのは巡礼者、聖杖教信者の中でも信心深い人が集まっている。この人達だけでエレブの動きを判断するわけにはいかない)

 竜也は自分をそう戒めた。もっとも半分以上は、

「戦争を望んでいるのは一部の信心深い人達だけで、他の一般の人達はそんなことを望んでいない」

 そんな風に考えたかったためでもある。だが、竜也のその思いは数多のエレブ人によって裏切られた。

「ネゲヴに行けば俺も村持ちの領主様だ」

「なんの、俺は諸侯様だ」

 川船に乗船した貧乏騎士達はそう言って笑い合っていた。

「ネゲヴは長い間戦争がなかったって話だ。やりたい放題できるぜ」

「二つか三つの町で略奪すれば一生遊んで暮らせるだろうさ」

 街道ですれ違った傭兵達はそう言って欲望をたぎらせていた。

「良い鍬だねぇ。これをもらおうか」

「おや、鍬を新調するのかい?」

「ネゲヴに行って自分の畑をもらうんだ。もう部屋住みの厄介者なんて立場はごめんだからな!」

 鍛冶屋の店先では農家の二男坊か三男坊と見られる者が期待に胸を膨らませていた。

「ネゲヴから何を仕入れれば一番儲かるんだ?」

「それはやっぱり奴隷だろう。ネゲヴ人はどれだけ奴隷にしてもいいと、枢機卿様からはお墨付きが出ているんだから」

 宿屋ではバール人と見られる商人達が皮算用に勤しんでいた。

(……こいつら、本気で……一人残らず本気で……)

 エレブで出会う者、その誰も彼もが聖戦を喜び、侵略に希望を託し、征服地に明るい未来を思い描いている――本気で、心底から。

(何て愚かな……!)

 エレブ人全員を力の限り面罵したい衝動に、竜也は何とか耐えている。歯を食いしばり、背中を丸める竜也の姿を、ラズワルドやサフィールは気遣わしげに見つめるしかなかった。
 テ=デウムへと遡上する道中の数日間、何百人のエレブ人とすれ違ったか判らない。その中で聖戦に反対する者・不安を抱いている者はごくわずか、せいぜい十数人。その十数人にしても表面上は聖戦を大いに喜んでおり、ラズワルドがその内心を読んで初めて聖戦に否定的だと判るのだ。

「戦争反対を口にできる空気じゃないんですね」

「庶民が聖戦に反対すれば周囲から袋叩きに遭うだろう。諸侯や聖職者が反対したなら異端として火あぶりになるかもしれない。我が身が可愛いなら内心はどうあれ聖戦に賛同するしかない状態なんだ」

 ルワータの言葉に竜也は頷きながらも若干の訂正を入れていた。

(「内心はどうあれ」……心底から戦争に賛同している連中ばかりじゃないか)

 暗澹たる思いが竜也の足取りまでも重くするが、それでも竜也は歩き続ける。マッサリアを出発して六日ほど、ようやく竜也達はテ=デウムに到着した。

「ああ、ここが聖地」

「神よ、我等を救いたまえ」

 巡礼者は感激して地面に伏し、石畳の道路に接吻をしたりしている。ラズワルドとサフィールは物珍しげに周りを見回しており、竜也は注意深く周辺を観察した。
 建ち並ぶ巨大な建物は教会ばかりである。天を突くような尖塔が数え切れないほどに連なる光景は壮観という他なかった。町の風景や建物の様式は、竜也がテレビで見たバチカン市国のそれとよく似ている。ただ大きく違っているのはこの町には十字架が一つもなく、その代わりにT字に蛇が絡みついた聖杖の紋章が無数にあることだ。
巡礼者達の移動に伴い竜也達も移動する。移動した先は町の中心地、そこには大きな広場があり、その先には一際巨大で豪奢な教会が建っていた。

「あれは?」

「聖バルテルミ大聖堂。聖杖教の総本山だ」

 預言者フランシスの獄死から二〇年後、教団再建の中心となった人物がバルテルミであり、そのバルテルミが刑死した場所に建てられたのがこの聖バルテルミ大聖堂である。後の教皇庁はこのバルテルミを初代教皇と見なしている。竜也から見れば聖杖教というキリスト教系新興宗教の真の創始者だ。
 一般の巡礼者には聖堂で礼拝することはもちろん、聖堂前の広場に入ることすら許されていなかった。広場につながる通りに長い行列を作り、広場前の入口から大聖堂を拝んですぐに移動するのだ。

(こんなの、教皇や枢機卿の顔を垣間見るどころじゃない)

 竜也は内心で舌打ちを連発した。

「それにしても、教皇様や枢機卿様のお顔を拝見できないのは残念ですね。何とかは拝見する方法は……」

「枢機卿様はルテティアに行かれているそうだから、拝見するのは無理のようね」

 巡礼者の一人の言葉に竜也は落胆する。だが、

「枢機卿様はもうすぐ戻ってくるらしいぞ。四日か五日くらい待てば町をお通りになる枢機卿様を拝見できるかもしれない」

 誰かの言葉に、

「本当?」「本当ですか?」

 と巡礼者達が色めき立った。それは竜也も同じである。

(ここまで来て手ぶらじゃ帰れない。何としてもこの機会を逃さない)

 竜也は決意と共に拳を固く握りしめた。
 それから数日間、竜也はラズワルドとサフィールを連れてテ=デウムの町をあちこち見て回って過ごした。アンリ・ボケ以外の教皇庁の高官を偶然でも見かけることを期待してのことである。だがさすがにそんな僥倖は転がっていなかった。

「仕方ないな。帰り道のアンリ・ボケを捕まえることに最善を尽くすしかないか」

 竜也はさほど落胆することなくそう考えている。一方のラズワルドとサフィールは観光気分である。

「タツヤ殿のおかげで貴重な体験ができました。里に戻ったら一族の者に自慢できます」

 と無邪気に喜ぶサフィールに竜也は苦笑する。

「別にいいけど、まだ油断しないでくれよ。明日こそ本番なんだから」

 判っています、とサフィールは頷いた。

「――タツヤ殿」

「ん?」

 不意にサフィールは真剣そのものの表情となる。

「タツヤ殿がご命令になるのであれば、わたしとバルゼル殿の二人で敵の隊列の中に突っ込んでアンリ・ボケの首級を挙げることも」

 竜也は慌ててサフィールの口を手で塞いだ。

「滅多なことは言わないでくれ! どこに人の耳があるか判らない」

 サフィールは赤面して何度も頷く。だが周囲を警戒している竜也はサフィールを抱きしめるように拘束したままだ。

「聞き耳を立てている人はない」

 ラズワルドが竜也とサフィールの間に身体を強引に割り込ませる。サフィールはようやく竜也から解放され、大きくため息をついた。ラズワルドが竜也とサフィールの手を取り、その心をつないだ。

(そんな無計画な暗殺じゃ成功するかどうかも判らない。確実なのはサフィールもバルゼルさんも生命がないことだけじゃないか)

(おー、これが白兎族の恩寵ですか。すごいですね)

 サフィールの能天気な感心に竜也はずっこけそうになる。だがサフィールの内心もすぐに真面目なものになった。

(――ですが、本当の戦争となったら無辜の民がどれだけ死ぬか判りませんよ? わたしとバルゼル殿の二人の犠牲で戦争が止められるのなら)

(サフィールだって道中にエレブ人の様子をずっと見てきただろう? 枢機卿だろうと教皇だろうと、人一人が死んだくらいで彼等が止まるとは到底思えない)

 竜也の正しさを認めてサフィールが沈黙する。

(それに、恩寵の戦士……悪魔の民が枢機卿を暗殺したとなったらエレブ人の聖戦意識が余計燃え上がるだけなんじゃないか? 報復っていう正当性をエレブ人に与えかねないし、そうなったら牙犬族が戦争の原因扱いされてネゲヴで肩身の狭い思いをするかもしれない)

 竜也に説得され、サフィールの戦意は急速にしぼんでいった。

(何もできないのですか……悔しいですね)

(何もできないなんてことはない。万一の場合はサフィール達に退路を開いてもらわなきゃいけないんだから。危険な目に遭わせてすまないけど、もう少しだけ付き合ってくれ)

 サフィールは無手のまま剣を抜くような仕草をし、

「お任せください! タツヤ殿とラズワルドの安全はこのわたしが守ります、この剣に誓って!」

(いや、剣ないから)

 と竜也は内心で突っ込みつつも、

「頼りにしている」

 と笑顔を見せた。
 そして翌日、アンリ・ボケがルテティアから戻ってくるという日である。
 その日、テ=デウムの中央通りには朝早くから行列ができていた。アンリ・ボケを一目見ようと集まった巡礼者達が通りの両側に列を作って並んでいるのだ。当然竜也達もその列の中に加わっている。教会の聖職者がパンやスープの配付をしており、竜也もまたそれを受け取って食べていた。
 ひたすら待つこと丸一日。アンリ・ボケが戻ってきたのは夕方、日が暮れる直前の時間帯である。
 最初に姿を見せたのは騎兵の一団だ。数十人の騎兵全員が全身鎧で完全武装しており、その鎧が夕陽を浴びて赤く輝いていた。その一団が掲げる旗には×印のように交差した二本の槌が描かれている。その騎士団の中心にいる、黒い法衣を身にした巨体の男。

「枢機卿様!」「枢機卿様!」

 巡礼者が歓喜の声を上げ、祈りを捧げている。感涙にむせんでいる者もいる。竜也もまた熱狂を演じながら、細心の注意を払って枢機卿アンリ・ボケの姿を凝視した。
 年齢を図りがたい面相だが五六歳という年齢より大分若々しい印象で、四〇代くらいに見受けられる。身長はおそらく一九〇センチメートルに届いている。顔も胴体も横幅が広いが太っているような印象は受けない。積み木で作った人形みたいに四角い顔と胴体である。眼は細く、線にしか見えない。口はやたらと大きく、まるで着ぐるみのようだ。柔和な笑みを絶やさず湛えており、堂々とした体格と相成って聖者としての風格を充分備えているように思われた。
 自分の周囲の巡礼者を見回していたアンリ・ボケが静かに手を一振りする。

「全隊、止まれ!」

 騎士隊長の号令がかかって騎士の一団が即座に静止。微動だにせず、しわぶき一つせずに次の号令を待っている。全員が指先から爪先まで同一の姿勢を保ち、眉の角度すら綺麗に揃っている。驚くべき水準の練度であった。
 路上に立ち止まっているアンリ・ボケの周囲に巡礼者達が徐々に集まってくる。始めは躊躇いながらも、少しずつ大胆に。竜也とラズワルド、サフィールは周囲に押されるようにして否応もなくアンリ・ボケへと接近した。

(近い、近すぎる。とにかく怪しまれないように)

 と焦る竜也。その竜也にラズワルドが、

(大丈夫、アンリ・ボケも他の誰もわたし達のことを怪しんでない)

 ラズワルドの言葉を受けて竜也は落ち着きを取り戻した。

(ともかく、絶好の機会であることには間違いない。このままアンリ・ボケの心を――)

「お前達、何をしている」

 腹の底に響くような低い声での静かな問い。竜也は心臓を鷲掴みにされたように冷や汗を流した。

「お前達はここで何をしているのか、と訊いている」

 アンリ・ボケが再度問い、巡礼者達の間に戸惑いが広がった。互いに顔を見合わせる巡礼者達。その中の一人が意を決して、

「はい、私共はセットの村から巡礼に。枢機卿様のご尊顔を一目与りたいと」

「馬鹿者!!」

 アンリ・ボケの叱責はまるで雷鳴のようだった。巡礼者は等しく身を縮めて頭を抱えている。

「教皇聖下が我等に聖戦を命じたことを知らぬ者はいるまい。お前達は赴くべきはテ=デウムではない、ネゲヴだ!」

 アンリ・ボケは殊更に腕を大きく振って南を指差した。

「ネゲヴには全てがある。奪われし聖杖が、約束の地が、新たなる神の王国が、永遠の楽園が!」

 おお、感嘆する巡礼者達。だがその中の一部の者がおそるおそる、

「ですが枢機卿様、わたしはもうこんな年寄りでとてもネゲヴまでは」

「私も、自分の畑を置いてネゲヴまで行くのは……」

 その反論にアンリ・ボケは「判っている」と頷いた。

「教皇聖下は我等に百万の兵を集めるようご命じになった。お前達の村にも出征する兵が割り当てられる。村人百人につき四人の兵、まずはその割り当てを守る! それこそが聖下の御心に適うことなのだ。巡礼にかける費用などどこにある! その金は出征する兵の支援に遣え!」

「百人につき、四人……」

 竜也は骨が折れるかと思うほど強くラズワルドの手を握りしめた。痛みに顔をしかめるラズワルドだが、文句一つ口にせず恩寵を使い続ける。生まれて初めて恩寵の全力を解放するラズワルドだが、アンリ・ボケの心をどれだけ探っても嘘偽りを何一つ見つけることはできなかった。
 巡礼者達がざわめいている。「百人につき四人」という割り当てが何を引き起こすのか想像しているようである。アンリ・ボケとて、それがどれだけ途方もない負担なのかは百も承知である。だが、

(まさかそんな……本気で)

 それでもアンリ・ボケは本気で百万の兵を集めるつもりでいた。エレブがどんなことになろうと、どれだけの血が流れようと、幾万の無辜の民が死のうと。それでも一人として欠けることなく、百万の兵を揃えることはアンリ・ボケにとっては変更不可能な決定事項だった――教皇インノケンティウスがそう命じたから、ただそれだけの理由で。
 竜也の顔から血の気が失せている。顔だけでなく身体中の血がどこかに流れ去ったかのようだ。全身から体温がなくなり、自分が死体になったかのような寒気を覚えている。身も心も凍えさせながら、竜也はアンリ・ボケの言葉に耳を傾け続けた。

「――確かにお前達には苦難の道を歩ませることとなるだろう。ネゲヴに出征する者も、その行く道が平坦であるはずがない。だが、それこそが神の御元へと続く道なのだ! その道に楽な道があるものか!」

 アンリ・ボケは握りしめた拳を振り上げた。

「兵を出征させればその一家が救われる! 割り当てを守ればその村が救われる! それがこの私が保証しよう! 神の栄光を前に、現世の金貨に何の意味がある? 永遠の楽園を前に、今のこの生命に何の意味がある?」

(嘘がない……この男には嘘がない)

 ラズワルドがアンリ・ボケの心を奥へ奥へと進んでいく。だがその場所のどこにも嘘がなかった。神の栄光の前には金銀財宝も、生命すらも全くの無価値――アンリ・ボケは本当に心からそう思っている。自分の生命にすら神の栄光を、教皇インノケンティウスの理想を実現するための道具としての価値しかなく、他人の生命はそれ以上に無価値な消耗品だった。
 ラズワルドはついにアンリ・ボケの心の最深部へとたどり着いた。ラズワルドはその扉に手をかけ、開く。
 アンリ・ボケは背に負っていた巨大な鉄槌を片手で持ち上げ、高々と掲げた。

「お前達は神の先兵、神が今まさに振り下ろさんとする、聖なる鉄槌! 穢れに満ちたネゲヴの大地を浄化の炎で焼き尽くすのだ!」

 心の扉を開けた瞬間、ラズワルドの全身が炎に包まれた。扉の奥から無限に沸き上がる炎が四方へと広がり、大地の全てを覆っていく。地獄のような業火が何もかもを焼き尽くす――

「神の栄光を!」

 巡礼者の一人が感極まって叫ぶ。それに全ての巡礼者が続いた。

「栄光を!」「栄光を!」「栄光を!」

 巡礼者の熱狂的な歓呼が続く。鉄をも溶かすような熱狂の直中にあり、竜也はただ一人心を凍てつかせていた。竜也の腕の中では気を失ったラズワルドが横たわっている。竜也は身体の震えを抑えるために、ただラズワルドの身体を抱きしめるしかなかった。
 巡礼者の熱狂の宴はいつ終わるともなく続いていた。







 情報収集に成功した竜也達は逃げるようにテ・デウムを後にする。ローヌ川を下り、船を乗り継いでマッサリアに到着する頃にはシマヌの月も下旬となっていた。

「やはり、直接見なければ判らないこともあるな。礼を言う、タツヤ」

「いえ、こちらこそ」

 ネゲヴに戻るための船が用意され、竜也達はそれに乗り込むところである。その見送りにルワータが来ていた。

「私は引き続きこちらでの情報収集を行う」

「ネゲヴに戻ったら、俺はエレブで見たものをできるだけ多くの人に知ってもらおうと思います。それだけじゃ足りないけど、まずはそこから」

 竜也とルワータは固く握手を交わす。それが別れの挨拶となった。竜也達を乗せた船がマッサリアを出港する。
 復路も往路と同じく、トリナクリア島のセリヌスの港を経由する。セリヌスでエレブの船からネゲヴの船に乗り換えた竜也達はセリヌスを出港。竜也達はトリナクリア島を、エレブを離れていく。
 竜也は船の最後尾に立ち、遠ざかるトリナクリア島を、エレブの大地を見つめていた。

「この船にはもうエレブ人はいないですよね」

 視線をトリナクリア島に固定したまま竜也が問い、ツァイドが「ああ」と頷く。そうですか、と呟いた竜也は大きく息を吸い込んで、

「お前等は馬鹿だ!! 大馬鹿だ、どうしようもない愚か者だ!!」

 エレブの大地に向かって力の限り叫んだ。

「戦争なんだぞ!? 人が死ぬんだぞ!? ネゲヴ人だけじゃない、エレブ人が、お前等の家族が、恋人が、お前等自身が! 何人も、何万人も死んでいくんだ! 何でそれが判らない! そんなに戦争がしたいのか! 殺したいのか、死にたいのか!」

 竜也は甲板にひざまずき、拳を床に叩きつけた。

「畜生、畜生……!」

 手が切れて血が流れるのも構わずに拳を床に叩き付ける。流れる涙が床を塗らした。そんな竜也をサフィールが制止する。

「タツヤ殿……」

 サフィールはそれ以上何を言えばいいのか判らなかった。無言のまま竜也の手に手巾を巻いて血を止めようとする。竜也は乱暴に涙をぬぐいながら、

「ごめん」

 と立ち上がった。
 竜也が振り返ると、ラズワルドが、サフィールが、バルゼルが、ツァイドが竜也を囲むように立っている。竜也は真っ直ぐにバルゼルに向き合った。

「……エレブ人と戦わなきゃいけない。ネゲヴを守らないといけません。牙犬族の力を貸してもらえませんか?」

「判った」

 バルゼルはそう即答した。

「用意はしておく。いつでも呼べ」

「ありがとうございます」

 竜也は深々と一礼。そしてもう一度トリナクリア島を、エレブの大地を見つめる。トリナクリア島は水平線の向こうに隠れてすでに見えなくなっている。だが竜也はそこに敵の姿を、百万の敵影を見出していた。




[19836] 第一一話「エルルの月の嵐・前」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/04/26 21:02




「黄金の帝国」・戦雲篇
第一一話「エルルの月の嵐・前」








 竜也達がエレブからネゲヴへと帰還し、スキラまで戻ってきたのはダムジの月(第四月)の中旬になろうとする頃である。

『……最近のエレブではネゲヴ侵攻軍のことを『聖槌軍』の通称で呼ぶようになっている』

 スキラに戻ってすぐ、竜也は船の中で書きためた原稿を使ってエレブ情勢速報を提出した。

『これは枢機卿アンリ・ボケが説教でくり返し使っている『(ネゲヴ侵攻軍は)神が今まさに振り下ろさんとする聖なる鉄槌』という語句に因んでの命名である。また、枢機卿アンリ・ボケが鉄槌を武器として愛用していることにも因んでいる。今後、本速報においても敵・ネゲヴ侵攻軍のことを聖槌軍の通称で呼ぶこととする……』

 さらに竜也は速報の内容を使って聖槌軍の脅威を訴える冊子を発行しようとした。スキラだけでなくネゲヴ中の人に、できるだけ多数の人に聖槌軍の脅威を理解してもらうためである。だが、

「いや、それは認められないでしょう」

「どうしてですか!」

 スキラ商会連盟の出版部を利用しようとした竜也だが、その利用が認められなかったのだ。竜也の前には事務局の職員が立ち塞がっていた。

「あなたの仕事は情報の収集と分析であって、それをどう利用するかは評議会の仕事じゃないですか。『聖杖教の脅威を広く訴える』なんて、勝手な真似をされては困ります」

「だけど……!」

 竜也はその職員を説得しようとするが、とりつく島もなかった。竜也は失意のうちに事務局を後にする。

「それでわたしのところに?」

「ああ。カフラの力を借りたい」

 次に竜也が赴いたのはカフラのところである。カフラは竜也と、何故か竜也に付いてきているラズワルドを等分に見比べた。

「わたしにできるのはうちの評議員への口添えくらいですが……」

「それもお願いしたいけど、それはまた今度でいい。――はっきり言うと、今の時点で連盟に何かを期待するのはやめることにした」

 と竜也は雑な仕草で肩をすくめる。カフラは戸惑いを見せる。

「エレブが、聖杖教が脅威だと思っていた俺だって、実際にエレブまで行ってみて自分の想定がとんでもなく甘かったことを思い知らされたんだ。今のネゲヴの人達に聖杖教の脅威が理解できないのも仕方ない。連盟が事態を甘く見て動こうとしないのも仕方ないことなんだ」

「それじゃタツヤさんはどうするんですか?」

「できることをやる。やるべきことをやる」

 竜也は拳を握りしめた。

「カフラにお願いしたいのは借金だ。一レプラでも多くの金がいる」

「どのくらいですか?」

「一千タラント」

 カフラは椅子から転がり落ちそうになった。

「たた、タラントですか? ドラクマじゃなくて?」

 竜也はあくまで大真面目に頷く。なお、労働者が一日働いて得られる賃金が一ドラクマで、六千ドラクマが一タラントとなる。小型商船一隻の相場が一タラント、大型商船なら三、四タラントとされている。カフラは深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせた。

「……タツヤさんだって、自分がどれだけ無茶を言っているか判っていますよね? お母様ならもしかしたら用立てできるかもしれませんが、わたしには到底不可能ですよ」

「もちろん判ってる」

 と竜也は頷き「順を追って説明する」と一枚の紙を取り出して机の上に広げた。カフラがそれを見つめる。

「事務局でもらってきた。レプティス=マグナでやっている先物取引の価格表だ」

 レプティス=マグナはサブラタの東にある町である。江戸時代の大阪のような、ネゲヴの小麦取引の中心地となっている町だ。

「小麦価格の推移を見てほしい。戦争が近付いているんだから暴騰しているかと思ったけど、全然上がっていない」

「そうですね。今年は作柄も良さそうですし、本当に戦争になるかどうかまだ判らないと踏んでいる人が多いんでしょう」

「戦争が近付けば絶対に暴騰する。今のうちに買っておかなきゃいけない」

 カフラは非難がましい目を竜也へと向けた。

「先物取引に手を出そうというんですか?」

「誤解しないでくれ」

 と竜也が首を振る。

「丁半博打で濡れ手に粟の泡銭を手にしよう、っていうんじゃない。とにかく穀物が、食糧が必要なんだ。考えてもみてくれ、ヘラクレス地峡を越えて何十万って聖槌軍が西ネゲヴに侵入してくるんだ。略奪や殺戮がくり広げられる、まともな作付けなんかできるわけがない。西ネゲヴの二百万、三百万って人達が飢餓に瀕することになる」

「だから今のうちに食糧を買い占めておく、と……」

 カフラの確認に竜也が頷く。

「でも、そんなの個人でやるべきことじゃないでしょう?」

「誰も動こうとしないじゃないか! どの町も、商会連盟も」

 竜也は憮然とした顔で言い捨てた。

「だから俺が、今のうちに安値で現物を確保しておいて、それを必要とする人達に渡せるようにしたいんだ。できるだけ原価に近い価格で」

 竜也は価格表を裏返し、そこに数字を書き込んでいく。

「現時点の小麦の市場価格が一アンフォラで〇・五ドラクマ。高くも安くもない、平均的な数字だと聞いている」

 一アンフォラは約二六リットル。人一人の一ヶ月分の消費量より少し多いくらいである。なお、〇・五ドラクマという数字はあくまで先物取引での市場価格であり、消費者が買う際の小売価格はその七倍くらいとなる。

「西ネゲヴの人口は二百万とも三百万とも言われているけど、とりあえず百万人分を一年分。それで一二〇〇万アンフォラ、金額は六〇〇万ドラクマ、つまりは一千タラントだ。先物取引なら証拠金があれば取引ができるだろう? 一千タラントの何十分の一かの」

 竜也の説明にカフラは唸るしかなかった。

「確かにそのくらいならわたしの裁量で……それでも一千タラントには届かないでしょうけど、二百か三百くらいなら」

 竜也は「それで充分だ」と頷く。

「だけど……もしこれがお母様に知られたら。表が出るならまだともかく、もし裏が出たなら」

 カフラは顔を青くして震え上がった。

「お母様って?」

「お母様は今のナーフィア商会の当主です。ナーフィア商会は代々女性が当主を務めているんです」

 へえ、と感心する竜也。

「じゃあカフラがその跡を?」

「いえ、わたしは末っ子ですから、いずれどこかの家に――ああでももし表が出たなら」

 今度は何故か赤面したカフラは、

「タツヤさんはスキラ有数の大金持ち、お母様だって認めてくれるはず。どこかのドラ息子に嫁ぐよりはその方がずっと」

 等と小声でぶつぶつ呟いている。そんなカフラを竜也は不思議そうな顔で、ラズワルドは白けたような目で見つめた。

「カフラ?」

「へ? あ? はい、失礼しました」

 竜也に声をかけられ、ようやくカフラは戻ってきた。熱を持った頬を掌でぺしぺしと叩いて冷まし、真面目な顔を作る。

「あ、お母様のこととですね。ナーフィア商会の代々の女性当主は名目だけの当主で、実務はそのお婿さんが担います。使用人の中で最も優秀な人間を選んで当主の婿に迎え、実務を任せる。そうやってナーフィア商会は発展してきたんです」

 女性当主は商会のオーナー、迎える婿は雇われ社長、というところか。と竜也は理解した。

「……ただ、当代当主のお母様は誰よりも優秀な方でした。父を婿に迎えても父に実権を渡さず自分で握り続けたんです。反発した父は先物取引に手を出して大失敗をします。父は閑職に回されて飼い殺しとなり、夫婦仲は完全に冷め切ったものになってしまいました」

 カフラは寂しそうな顔で小さなため息をついた。

「元々ナーフィア商会には『先物取引に手を出すべからず』っていうのが代々の家訓にあるんですが、この一件でお母様の先物取引嫌いは決定的になったんです。だからわたしがそんなものに手を出したと知られたなら……」

 カフラは怯えの表情を見せる。竜也はそんなカフラの両手を包むように強く握った。

「カフラには迷惑ばっかりかけてすまないと思っている。でも、俺にはどうしてもカフラの力が必要なんだ。西ネゲヴの人達を救うために」

 竜也の真摯な瞳が真っ直ぐにカフラの瞳を見つめた。間近から見つめられ、カフラの頬に赤みが差す。カフラはそれを誤魔化すようにその手を振り払った。

「……タツヤさんがエレブで何を見てきたのか知りません。何を根拠に戦争が起きると言っているのか判りません。タツヤさんにとっては値上がりが確実なことでもわたしにとっては博打でしかないんです」

 カフラは立ち上がり、真っ直ぐに竜也へと向き合った。

「タツヤさんはわたしが納得できるだけのものを見せられるんですか?」

「そう言うだろうと思っていた」

 竜也は退屈そうにしていたラズワルドを視線で呼ぶ。二人の元にやってきたラズワルドが両手を差し出し、竜也がその片方を握った。二人が無言のままカフラを見つめる。
 カフラは少しためらったが手を伸ばし、一方に竜也の手を、もう一方にラズワルドの手をしっかりと握った。次の瞬間、カフラの心の中に何かが流れ込んでくる。
 ――戦争を望むエレブの人々、聖都テ=デウムの光景、聖杖教の騎士団と枢機卿アンリ・ボケ、そして大地を焼き尽くす紅蓮の炎――
 一瞬意識が途切れていたようだ。気が付いたらカフラは床に座り込んでいた。竜也が心配そうにカフラの顔をのぞき込んでいる。

「大丈夫か?」

「あ、はい」

 カフラは竜也の手を借りて立ち上がった。カフラは竜也とラズワルドに交互に視線を送り、

「タツヤさん、今のは一体」

「ラズワルドに心をつなげてもらった。俺達が見てきたものをカフラにも見てほしかったんだ」

 カフラは竜也に何か言おうとして、何も言葉にならなかった。何を言うべきなのか混乱していて判らない。何を見せられたのか、雑然としていてよく判らない。ただ一つ言えるのは、戦争が間違いなく起きるという竜也の判断には明確な根拠があるということだった。竜也はアンリ・ボケの心の中という究極のインサイダー情報を元に先物取引をしようとしているのだ。
 カフラは長い長い時間黙っていた。その間竜也もまた口を閉ざしている。たっぷり五分以上の沈黙を経て、カフラは殊更に大きなため息をつく。

「……結局問題はタツヤさんが信じられるかどうかなんですよね」

 そしてカフラは澄んだ微笑みを見せた。

「わたしはタツヤさんを信じます。わたしの生命をタツヤさんに預けます」

 カフラの宣言は大仰でも何でもない。表が出るなら何も問題はないだろう。だが裏が出たならナーフィア商会が大損害を被ることになる。破産の可能性だってゼロではない。カフラがしたことは自分の一家一族の財産を竜也の博打のカタに入れたに等しい。もし裏が出たなら自分の生命を持って償うしかないとカフラは決心している。

「ありがとう。カフラの気持ちは決して無駄にはしない」

 竜也はそう礼を言うと、次にどんな手を打つべきか考え込む。カフラはそんな竜也の横顔を眩しいもののように見つめていた。







 竜也は次に聖槌軍の脅威を訴える冊子を独自に作成・配付することにした。作成や編集にはログズが、印刷・配付や資金面ではカフラがそれぞれ協力する。ログズへの報酬は安いものだし、カフラは自前の印刷工房を持っている。とは言えその費用は決して小さくないのだが、

「一千タラントから見れば端数みたいなものです」

 とはカフラの弁である。先物取引と冊子印刷、もし協力要請の順番が逆だったなら決して上手くはいかなかっただろう。竜也の作戦勝ちである。
 冊子の内容はこれまで作成したエレブ情勢速報のまとめと、エレブでの見聞録である。 竜也はエレブで見てきたことをありのままに書き綴った。日本語ならまだともかく、この世界の文章で技巧を凝らせるほどの文才も知識も竜也にはない。竜也にできるのは稚拙だろうと朴訥だろうと構わずに、赤心と誠意を筆に込めて思いの丈を訴えることだけだ。

『彼等はやってくる。間違いなくやってくるのだ。想像を絶するほどの大軍がやってくる。数百年間戦争をくり返してきた、精強な軍勢がやってくる。自分達以外の信仰を一切認めない、恐るべき侵略者がやってくる。恩寵の民を悪魔と呼んで根絶やしにしようとする、恐るべき狂信者がやってくる。間違いなくやってくるのだ』

「文責クロイ・タツヤ、と」

 最後にその一文を書き添えて冊子は完成する。「スキラの夜明け」をパクって「ネゲヴの夜明け」と名付けられたその冊子は商会連盟を通じ、ネゲヴ中の自治都市の長老会議に、各都市の商会連盟に、恩寵の部族の族長宛に送付された。

「それじゃこれをジューベイさんに」

「はい。お任せください」

 牙犬族宛の分はサフィールを通して送ることにした。エレブから戻ってきてからもサフィールは竜也の元に留まったままなのだ。
 エレブからスキラへと戻ってきたその日、竜也は港でバルゼルとツァイドとは別れた。だがサフィールは竜也に付いてくる。竜也は首を傾げて、

「あれ、サフィールはこっちに何か用事があるのか?」

「いえ、そうではありません。わたしはタツヤ殿の護衛ですから」

 サフィールの返答に竜也は困惑する。

「え、でももうスキラに戻ってきたんだから護衛は必要ないし、報酬はもう払えないし」

「ご心配なさらず。報酬は不要ですし、滞在費はちゃんと用意してもらっています」

 少しばかり押し問答があったがサフィールは「バルゼル殿の命令です」で竜也を押し切ってしまう。こうしてサフィールは竜也達と同じく「マラルの珈琲店」の屋根裏部屋に住むこととなった。初日はマラルの部屋に泊めてもらい、次の日には屋根裏部屋の一つに移動している。
 下宿の隣人として落ち着いたサフィールが竜也の元を訪れて、途方に暮れたような顔で問うた。

「わたしはここで何をすればいいのでしょう?」

 竜也は「知るか」の一言で終わらせたい誘惑に駆られたが何とか我慢した。

「戦争が近付けばやってもらうことはいくらでも出てくると思うんだけど、まだそんな段階じゃないんだよな。仕事ができたらお願いするから、しばらくは英気を養ってくれ」

 はあ、と曖昧な返事をするサフィールだが一応納得はしたようである。ただ、サフィールは何もすることがない状態を苦手とするようで、

「やっぱり日本人の血が流れているんだな」

 と竜也は感心する。ラズワルドなどはひたすら惰眠を貪って満足そうにしているが、どちらかと言えばラズワルドの方がこの世界のスタンダードである。
 一日中木刀で素振りをするサフィールを見かけたヤスミンが「暇ならうちの芝居に出てみない?」と声をかけ、サフィールは「カリシロ城の花嫁」に端役で出演することとなった。役柄はカリシロ国宰相の手下、雑魚その一。剣祖シノン役のヤスミンにぶった斬られて退場する、ただそれだけの役なのだが、

「てええいっ!」

 勢い余ったサフィールが逆にヤスミンをぶった斬ってしまう。使っているのは木製の模造刀だが、木刀で思い切り腹を横殴りにされて悶絶しないはずがない。シノンは身動き一つできなくなり、そのまま舞台から退場してしまった。
 舞台の上にはシノンに勝ってしまった雑魚役のサフィールが残される。サフィールは何とかその場を取り繕うべく、

「ええと、ええと――はっ、今の太刀筋は兄上! ああ、何てことだ、兄上をこの手で殺めてしまうなんて! わたしは心を入れ替えました。兄上の意志はこのわたしが継ぎます!」

 説明くさい台詞を棒読みで述べた上でそのシノン弟は唐突にグルゴレット側に寝返ってしまった。シノン弟はグルゴレットやカシャットを置き去りにして一人で大活躍、敵のほとんどとカリシロ国宰相までもその剣で成敗してしまう。敵役の面々が舞台の上で死屍累々となり、観客は呆然としたまま幕は降りて、芝居は終了するのであった。
 この日の芝居は常連客には思いがけず好評だったそうだがヤスミン一座は数日の休業を余儀なくされ、サフィールには二度と声がかかることはなかったという……。
 そんなサフィールにようやく仕事を与えることができ、竜也はほっとしている。子供の使いに毛の生えたような仕事だがサフィールも非常に張り切っていた。

「それじゃ、これを白兎族の族長に」

 と竜也から「ネゲヴの夜明け」を渡されたラズワルドは微妙に嫌そうな顔をした。

「……白兎族は他の部族みたいな身体強化の恩寵を持ってない。むしろ普通の人よりもひ弱なくらい。戦争の役には立たない」

「そんなことはない」

 ラズワルドの言葉を竜也は強く否定した。

「白兎族の力の意味は今回のテ=デウム潜入でラズワルド自身が証明したじゃないか。俺の元いた場所には『情報を制する者は世界を制する』って言葉がある。白兎族の恩寵にはそれだけの力がある。聖槌軍と戦うにはその力が必要なんだ」

 気が進まない様子のラズワルドだが竜也の熱意にほだされ、族長宛の紹介状を執筆する。

『「情報を制する者は世界を制する」ってタツヤは言っている。白兎族の恩寵にはそれだけの力がある、ってタツヤは言っている。エレブ人と戦うのに力を貸すならあなた達がわたしにしたことを大目に見てやってもいい』

 書き上がった紹介状を見せてもらい、竜也は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。

「こんな内容の紹介状じゃ逆効果じゃないのか?」

 と思わずにはいられないが、その一方ラズワルドの同族に対する複雑な感情を無視することもできない。結局竜也はその紹介状の一字一句も削ることなく、付け加えることなくそのまま「スキラの夜明け」に添付した。

「白兎族には旧知の者がおります。私が配達を引き受けましょう」

 とツァイドが申し出てきてくれたので竜也はツァイドに配達を委ねることにした。
 一方、スキラ内の有力者に対しては竜也自身が「スキラの夜明け」を手に配付に回っている。配布先はスキラの長老会議メンバーやスキラ商会連盟の評議会に加わっているバール人商人等である。

「百万の大軍勢? 法螺を吹くにも限度というものがあるだろう」

 長老会議の面々はまだ危機感が乏しく、そんな風に竜也を嘲笑った。冊子を受け取りもせず、門前払いにされるばかりである。
 一方のバール人商人は直接会って竜也の話に耳を傾けてくれる者が多かった。エレブと交易し、その情勢を肌で感じているからだろう。
 バール人商人以外にも戦争の気配を肌で感じている者がいる。

「最初は逃亡奴隷、次に劇の脚本を書いていたと思ったら、今度は商会連盟の使いか」

 巨漢の男は面白そうな視線を竜也へと送った。髑髏船団首領のガイル=ラベクが竜也の面会申し込みに応じてくれたのだ。

「エレブの動きについては俺達も独自に注意を払っている。確かに、これまで経験したことのない大きな戦争になるかもしれんな」

「はい。エレブ人は総力を挙げてネゲヴに攻め込んできます。それに対抗するのにネゲヴ人も総力を結集する必要があるんです」

 熱意を込めた竜也の言葉にガイル=ラベクは腕を組んで考え込んだ。

「……お前の言いたいことは判る。戦争となったら力を貸してやらんでもない。だが、今のままではどれだけ戦力を集めてもエレブ人には勝てんだろう」

「どうしてですか?」

「簡単な話だ。エレブ人は教皇が中心になって聖槌軍を指揮しているんだろう? ネゲヴにはまだ中心となる者がいない」

 ああ、と竜也は納得する。

「それじゃ、誰が中心になれば」

「難しく考える必要はない、スキラも含めてネゲヴのほとんどの自治都市はケムト王に臣従しているんだ。ケムトから国王か、国王の勅命を受けた将軍でも連れてくればいい」

 自治都市がケムト王へと臣従し、ケムト王は自治都市を防衛する――それは形式的な主従関係に過ぎないが、その形式こそがケムト王の権威に大きく寄与しているのは間違いない。ケムト王が自身の権威を守りたいなら義務を果たす必要がある――確かにガイル=ラベクの言う通りだ。
 竜也は大急ぎで商会連盟の事務局へと向かい、商会連盟を通じてある人物に面会を申し込み、翌々日にはその人物と会う段取りとなった。
そして二日後、スキラ市街の外れ。今竜也の目の前には石造りの神殿の建物がある。高い正門に刻まれているのは真円が両側に翼を広げている紋章。その神殿の名は太陽神殿と言い、それはネゲヴ最大の宗教団体の名だった。
 竜也は以前ルサディルにいたときにハーキムに聞いた話を思い出す。

「一五〇〇年くらい前ですか、当時のケムト王が『バール人の奉ずる神々や恩寵の民の部族神は、全てケムトの神々に起源を有する。それらは名前が違うだけで元は同一の存在である』と主張しだしたんです」

 それはバール人の勢力拡大に危機感を抱いた当時のケムト王の、ささやかな抵抗の試みだったのだろう。だが歴代のケムト王とその周囲の神官はこのケムト流本地垂迹説を本気で信奉し、さらには広く布教した。太陽神殿をネゲヴ各地に設立し、神官を派遣して信者を集めて布教し、自身の教説を広める。この一五〇〇年間に渡る努力の結果、今日ではバール人も含む全てのネゲヴの民がこの説を受け入れてしまっている。
 その一方、この教説がネゲヴ中に浸透するに連れてケムト王室もまた変質した。祭政一致が長く続いていたケムト王は次第に「政」を手放して「祭」だけに集中するようになる。数百年前から「政」は宰相に任せきりでケムト王は実務には一切関わらないのが常態となっている。

「初代王セルケト以来四千年間途切れることなく続くセルケト王朝の王、太陽神ラーの末裔、太陽神殿の最高神官」

 ケムト王は政治の実権を全て手放した代わりに、ネゲヴで他に並ぶ者のない権威を手に入れたのだ。多神教と一神教の違い、信者に対するスタンスの違い、他にも差異はいくらでもあるが、その存在はエレブ人における聖杖教の教皇に匹敵すると言えるだろう。

「お待たせいたしました」

 神殿内に通された竜也が応接室で待つことしばし、その部屋に神殿長が現れた。神殿長は日焼けした肌のケムト人で、七〇歳近い老人である。身にしているのは爪先までを隠す白い神官服で、その神官服にも太陽神殿の紋章が描かれていた。

「時間を作っていただきありがとうございます。今日こちらに伺ったのは他でもありません、エレブの聖槌軍のことです」

 竜也は挨拶もそこそこに本題を切り出した。エレブ情勢を、教皇庁の動きを、聖槌軍の動向を説明する。

「聖槌軍という恐るべき侵略者がネゲヴにやってきます。聖槌軍は聖杖教という宗教を心の支えにしている。ネゲヴの中でそれに対抗できるのは太陽神殿を置いて他にはないんです」

「確かにその通りです」

 その神殿長は力強く頷いた。

「私達もエレブの動きについては不安に思っていたところです。これらの情報とあなたの志は必ずメン=ネフェルに伝えましょう」

「ありがとうございます」

 竜也は深々と頭を下げた。







 ダムジの月(第四月)が終わり、アブの月(第五月)に入る頃。竜也はエレブ情勢をまとめて速報を評議会に提出しようとした。が、

「……君は大規模な侵攻があることを確信しているようだが、それに否定的な情報に目を瞑っていないかね?」

 そう言って評議員の一人が報告書を読みもしないで机の上に置く。

「どういうことですか?」

「『聖槌軍は百万を公称するがその実勢力は五万以下。実際に侵攻に参加するのは二、三万程度』――そんな情報が我々の元に入っている」

「そんな馬鹿な……」

 竜也は呆然とするしかない。

「だが落ち着いて考えてみれば、百万を号する大軍勢よりそちら方がよほど現実的だとは思わないかね? 聖槌軍総司令官のヴェルマンドワ伯ユーグは聡明な人物だと聞いている」

「確かにおっしゃるとおりです。でも、今のエレブはそんな道理が通用する場所じゃないんです」

 竜也はその評議員を説得しようとするが、彼は手振りで竜也の口を塞いだ。

「我々が知りたいのは君の信念ではなくエレブの実情だ。このままならムハンマド・ルワータと君の活動に対する支援は見直す他ないだろう」

 竜也は追い出されるようにしてその部屋から出ていく。その後、竜也は港に行って噂を集めた。

「どうやら何とかっていう枢機卿が失脚したらしいな。それで敵の規模が大分縮小されたとか」

「教皇が倒れたって聞いたぜ? 教皇はもう八〇前の年寄りだ。教皇が死んだら後継者争いが始まって、聖槌軍どころじゃないだろう」

 確かにそんな噂が広く流れている。だがそれはただの噂である。しかもエレブでは流れていない、ネゲヴでしか聞かれない、事実とは異なる噂だ。

「枢機卿アンリ・ボケは元気にエレブ中を飛び回っているし、教皇インノケンティウスも健在だ。一体誰がこんな噂を……」

 ムハンマド・ルワータから直接情報をもらっている竜也には「今のネゲヴで俺以上にエレブ情勢に詳しい奴なんていない」という自負がある。その竜也からすれば「枢機卿失脚」も「教皇不予」も根拠のない、流言飛語の類に過ぎなかった。
 だが、そんな流言飛語も馬鹿にならない力を持つことがある。

「……今日も来てないか」

 どうやら「聖槌軍の実総勢は二、三万」という噂は相当広範囲に広がっているらしい。竜也の作成・配付した「ネゲヴの夜明け」に対する反応も非常に乏しい状態だった。即座に返事をくれたのは牙犬族のアラッド・ジューベイだけだが、牙犬族はもう身内みたいなものなので勘定には入れられない。恩寵の部族では、他には赤虎族と金獅子族が返信をくれた。

『エレブ人の無法者共がネゲヴの大地を穢すなら我等赤虎の戦士が奴等を皆殺しにするだろう。安心するがいい』

『我等金獅子族はネゲヴを守護する者、エレブ人の侵略を許しはしない。より詳しい状況が知れたならまた連絡を頼む』

 恩寵の部族の中でも最強と言われる両部族の言葉は心強く感じられる。だが彼等が事態をどれほど深刻に受け止めているのかは心許なかった。
 竜也は折れそうになる心を奮い立たせ、「ネゲヴの夜明け」第二弾を作成する。

『聖杖教は自らの神を唯一絶対と称し、他の神や信仰を一切認めていない。もし聖杖教にネゲヴが征服されたなら太陽神殿は全て破壊され、神官は処刑され、聖杖教の教会が建設されてその崇拝が強制されるだろう。恩寵の民は村ごと皆殺しとなるだろう。エレブ人はまさしくそのようにしてエレブを聖杖教一色に染め上げたのだから』

『聖杖教に改宗すればあるいは殺されずにすむかもしれない。だがそれは恩寵を持たない人達だけの話である。恩寵を持っている人達は決して生き残ることを許されない。改宗した我々が彼等を迫害し、殺すことになる。聖杖教は我々の神を殺しにやってくる。我々の友を殺しにやってくる。我々の良心を、尊厳を殺しにやってくる。我々を奴隷にするためにやってくるのだ』

「……文責クロイ・タツヤ、と」

 末尾にそれを付けた冊子は再びネゲヴ中へと配付された。
 一方、レプティス=マグナに行っているカフラからの手紙が届けられた。

『小麦の買い占めは順調です。すでに三〇〇万アンフォラ分確保しています。価格は一アンフォラでわずか〇・六ドラクマ、暴騰すればタツヤさんはネゲヴ有数のお金持ちですよー』

「……上がらないのは助かるけど」

 噂のおかげで小麦相場も落ち着いており、買い占めを進める良い機会となっていた。だが「本当に暴騰するのか」とカフラも不安になっているようで、その思いが文面からにじみ出ていた。

『根拠のない噂が流れているけどエレブ情勢に大きな変化はない。小麦の買い占めはこのまま進めてほしい』

 竜也は手紙にそう書いてカフラへと送った。
 さらにその一方ヤスミン一座では、

『――このままじゃ村は全滅だ。エレブ人共にはもう我慢ならねぇ』

『村長、どうすれば?』

『――海賊雇うだ!』

 脚本ニッポンノ・エンタメの新作劇「七人の海賊」の上演が始まっていた。言うまでもなく黒澤明の「七人の侍」を翻案した劇である。舞台はネゲヴのとある寂れた漁村・ヌビア村。ヌビア村はあるエレブ人海賊に目を付けられていて、破産寸前になっている。海賊の横暴に耐えられなくなった村人が決意し、グルゴレットやシノンといった傭兵を雇って海賊に抵抗する、というストーリーである。基本的には元ネタとほぼ同じだが、一箇所だけ大きく変更したところがある。

「……確かに面白いけど、ちょっとタツヤらしくないかも」

 最初に脚本を読んだときヤスミンはそんな感想を漏らした。

「集まった七人のうち二、三人は最後の決戦で死んだらいいんじゃない?」

「俺もそう思わなくはないんだけど」

 エレブ人と戦うために集ったのは七人。カルト=ハダシュト近辺を拠点とする海賊グルゴレット、マゴル出身の剣祖シノン、東ネゲヴの傭兵カシャット、他にはバール人商人・太陽神殿の神官・西ネゲヴの傭兵・恩寵の戦士、といったメンバーだ。元ネタでは七人のうち四人が死んでいるが、「七人の海賊」では最後まで一人も死んでいない。

「エレブ人と戦うのにネゲヴ人が総力を結集させてるんだ。その中から犠牲者を出したくはない」

 ヤスミンは何か言いたげにしたものの竜也の主張を受け入れた。ヤスミンは誤魔化すように別の話題を取り上げる。

「ところで、ヌビアってどこにある村?」

「元々はケムトの南の方の地名だから、あるとしたらその辺かな」

 名もなき貧乏漁村に「ネゲヴの別名とか古語とか雅語とかの名前を付けたい」と竜也は要求、ゴーストライターのログズが提案したのは「ヌビア」という村名である。ログズが竜也に解説する。

「――ウガリット同盟よりも古い時代、エレブ人はケムト南部から大量の黄金を輸入していた。このためエレブ人はケムト南部のことを古いケムト語で『黄金』を意味する『ヌブ』にちなんでヌビアと呼ぶようになり、やがてこの言葉はネゲヴ全体を意味するようになった。だがバール人がエレブに入植してバール語が浸透するにつれ、この言葉は使われなくなったんだ」

「ヌビア……『黄金の国』か。良い名前だ」

 ネゲヴにもその単語が輸入され、ネゲヴの知識人も自分達の大陸のことをヌビアと自称していた時期があった。一五〇〇年ほど忘れられていたその地名を竜也は掘り起こしたのである。

『戦には旗印が必要だ』

 と劇中でバール人商人が用意していたのは、中央に大きめの丸印、その周囲に少し小さい七つの丸印が配置された、シンプルな旗だった。観客は劇の展開に熱中し、食い入るように舞台を見つめている。
 「七人の海賊」も例のごとくに好評を博し、順調に客足を伸ばしていた。そしてアブの月が中旬に入る頃、竜也の元を嵐が襲来する。






[19836] 第一二話「エルルの月の嵐・後」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/06 19:37

「黄金の帝国」・戦雲篇
第一二話「エルルの月の嵐・後」







「ナーフィア商会からのお呼びです。どうぞお乗りください」

 アブの月(第五月)の中旬のその日。竜也の元に、「マラルの珈琲店」にやってきたのはナーフィア商会が使わした馬車である。馬車の御者には武装した傭兵、さらには二頭の馬と騎乗した傭兵が二人付いている。
 傭兵達の態度は比較的丁重だったが、もし断ったなら無理矢理にでも連れていくつもりなのは明白だった。

「いかがしますか」

 とサフィールは今にも剣を抜きそうな体勢だ。竜也はサフィールを手で制した。

「判った、乗ろう」

 タツヤ殿、と文句を言いたげに名を呼ぶサフィール。竜也は、

「すぐ戻る。待っていてくれ」

 そう言い残し、馬車に乗り込む。竜也を乗せた馬車はすぐに走り出した。
 少しの時間を経て、スキラ市街の中心地。竜也を乗せた馬車がその建物へと到着する。石造りの四階建ての巨大なその建物はナーフィア商会の本館だった。竜也は傭兵に連行されるように建物の中へと連れていかれる。そして建物の最深部、おそろしく豪華な会議室か、無闇に大きな応接室か判断に迷うその部屋へと放り込まれる竜也。

「タツヤさん!」

 名を呼ばれて竜也は顔を上げた。

「カフラ――」

 竜也はそこで言葉を詰まらせた。カフラがそこに立っている、カフラは溢れんばかりに目に涙を溜め、首には鉄製の頑丈な首輪を付けていた。かつて奴隷だった竜也にはすぐに判った、その首輪が奴隷用の物だということが。

「あなたがクロイ・タツヤですね」

 女性の冷たい声が竜也の名を呼ぶ。カフラの横には一人の女性が席に着いて座っている。年齢は五〇代のふくよかな、上品そうな女性である。微笑めば聖母みたいに見えるだろうその女性は、今は凍て付くくらいに冷たい怒気を放射していた。

「はい、そうです。あなたはもしかしてナーフィア商会の当主の」

「ミルヤム・ナーフィアと言います。今日来てもらったのはこの愚か者のことです」

 ミルヤムは視線でカフラを射貫く。カフラは針で刺されたように身を縮めた。

「先物取引の件ですよね。何か問題でも」

 竜也のとぼけた物言いにミルヤムが歯を軋ませる。ミルヤムは深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせ、話を始めた。

「『絶対に値上がりするから』とあなたがこの者をそそのかして先物取引をやらせた、それに間違いは?」

「ありません」

 竜也はその問いにそう断言する。カフラは、

「お母様! タツヤさんに責任は――」

「お黙りなさい」

 ミルヤムの静かな一言でカフラは言葉を途切れさせた。

「そんなことは判っています。いくら全ての取引がクロイ・タツヤの名前で行われていようと、それにナーフィア商会の名前を使って保証を与えたのはカフラマーン、あなたです。私がクロイ・タツヤをこの場に呼んだのは確認のためだけ。全ての責任があなたにあることは言うまでもないことです」

「はい……」

 カフラは俯いて涙をこぼした。

「あの、説明してもらえませんか。カフラが俺の依頼で先物取引をやった、そこまでは知ってます。それから何が起こったんですか?」

「この愚か者がいくらの取引を契約したかご存じですか?」

 竜也は首を傾げつつ、

「ええっと、以前聞いたときにはたしか三百タラント」

「今日までの時点で二千タラント、二千万アンフォラを越えています」

 竜也はいくつかの驚きを一度に味わった。

「ええっ? そんな額の取引をどうやって。それに価格が全然上がってない?」

「現時点の取引価格は一アンフォラ〇・五四ドラクマです」

 竜也は当惑するしかない。

(この期に及んで何で下がる? エレブの動きに誰も気付かないのか?)

「この愚か者はレプティス=マグナの人間にはめられたのです。『証拠金の差入はいつでも構わない』という取引相手のハーゲス商会の口車に乗せられ、事実上無制限の取引を実行してしまったのです。ハーゲス商会から証拠金の請求が届き、わたしは初めてこの事実を知りました」

 竜也はその説明をゆっくりと咀嚼する。

「……ということは証拠金の差し入れさえしなければ取引は成立しないんじゃ?」

「ナーフィア商会の名で交わされた契約を反故にしろと? 違約金がいくらになるのか判りますか? わたしが彼等とどれだけ不利な取引をしなければならないか判りますか?」

 ミルヤムは冷たい視線で竜也を薙いだ。そしてため息をついて、

「……ですが、実際そうするしかないでしょう。違約金を払うことになっても、どれだけ不利な取引することになっても、このまま契約を実行するよりは損害は小さくなります」

(何で損をすることが前提なんだ?)

 竜也の中の違和感は大きくなる一方だ。

「『この契約を交わしたのはナーフィア商会の人間ではい』――その証拠としてカフラマーンをナーフィア商会の籍から抜いて奴隷として売り払う。そんな言い訳が通用する相手ではありませんが、やらないよりはマシです。それでもおそらく、わたしは東ネゲヴに有している権益のいくつかを彼等に譲ることになるでしょうが」

「……もしかして、ハーゲス商会は最初からそれを狙って?」

 ミルヤムは苛立ちに満ちた目をカフラに向けて、

「ハーゲス商会は海千山千の相場師を相手にしつつレプティス=マグナの先物取引市場を主導し続けています。採算無視の道楽商売しか経験のないこの愚か者など、彼等からすれば赤子同然、手玉に取るなど容易いことです」

(――そこまで利に敏い連中が、何でエレブの動きに気付かない? 戦争の気配を無視している?)

 竜也の中の違和感は頂点に達していた。

「ですが、エレブ人の大軍勢が西ネゲヴに侵攻すれば穀物価格が上がらないわけがありません。わざわざ損な取引をする必要は」

「エレブ情勢を調べているのは自分だけだとでも思っているのですか」

 ミルヤムは呆れと侮蔑、半々の目で竜也を見る。

「わたしの手の者が独自に調査しています。今エレブには厭戦気分が広がっています。聖槌軍も数万程度の小規模な軍勢をネゲヴに送ってお茶を濁し、教皇の面子を立てるのがせいぜいです」

(どこの世界の話なんだそれは)

 今度は竜也が呆れる番だった。

(その「手の者」って奴はちゃんと仕事をしているのか――)

 その瞬間、竜也の中の違和感が全て消失した。足りなかった最後のピースが揃ってパズルが完成したような気分である。パズルには見事な絵が描かれていた。絵の題名は「ハーゲス商会の陰謀」だ。

「……何がおかしいのですか?」

 不審とわずかな苛立ちを込めてミルヤムが問う。竜也は知らずに作っていた笑いを抑え「失礼しました」と謝った。

「ミルヤムさん、俺と賭をしませんか?」

「賭け事が好きなのですね、あなたは」

 ミルヤムは馬鹿を見る目で竜也の提案を迎える。だがその程度では竜也は怯まない。

「俺は勝てる賭しかしませんよ」

 と不敵に笑う竜也。ずっと俯いていたカフラが顔を上げ、その大きな瞳で竜也を見つめる。

「俺が負けたなら、俺もカフラと一緒に奴隷に売ってください。その代わりもし俺が買ったなら、証拠金を差し入れて二千タラントの取引を実行してほしいんです」

「話になりませんね」

 言下に否定するミルヤムだが竜也はそれを無視し、賭の内容を告げた。ミルヤムはカフラと同じような驚きの表情で目を見開いている。







 ……場所はスキラ市外の一角、そこに建っているのは一見したなら普通の商館のように見える建物だ。時刻はすでに深夜近いのにその建物は不夜城のように明かりが煌々と灯っている。そこは一種の高級娼館なのだ。主要な客層は庶民の中の比較的高所得な層、それにバール人商人の中堅以下の層である。
 その商館を一人の男が訪れていた。年齢は五〇代。かつては端麗な容姿だったのだろうが、加齢以上の何かがその容貌を負の方向へと歪めていた。

「お待ちしておりました、インケファード様。どうぞこちらへ」

 インケファードと呼ばれた男は店員に案内され、館内の一室へと案内される。その娼館の中でも最上級の部屋で待っていたのは、高級娼婦ではなく中年男だった。禿げ頭をすだれ髪で隠しているのが特徴くらいの、どこにでもいそうな男である。

「ミルヤム・ナーフィアは契約を反故にしようと動いている」

 インケファードは前置きもなしにそう告げた。

「『娘が勝手にやったことだ』と主張している。娘を除籍し、奴隷として売り飛ばすつもりだ」

「そうですか。予定通りですね」

 と頷く中年男。

「しかし、よろしいのですか? カフラマーンと言えばあなたの」

「言うな。もう決めたことだ」

 インケファードは自分の感情を切り捨てるようにして命じる。中年男はしばし口をつぐんだ。

「それより、契約は守ってくれるんだろうな」

「はい、もちろん。ナーフィア商会から海運路線のいくつかを譲らせ、それをあなたに任せる。あなたもこれで念願の独立商人ですよ?」

「そうか。長かったが、それもあと少しだ」

 そうですな、と頷いて中年男は立ち上がった。

「それでは私はこれで。最後まで油断なきよう」

「判っている」

 中年男はそう言い残して出て行った。一息ついたインケファードは手酌で葡萄酒を飲もうとする。そこにドアがノックされた。

「誰だ? 空いているぞ」

 ドアが開いて何人かの人間が入ってくる。インケファードは葡萄酒の入ったコップを手から滑らせた。葡萄酒が血のように絨毯に広がる。

「み、ミルヤム……何故、どうして」

「あなたが知る必要もないことです」

 ミルヤムの横にはカフラが立っている。インケファードはさらに動揺した。カフラはすでに奴隷用の首輪を外しているがその事実はインケファードにとって何の慰めにもならなかった。

「か、カフラ……」

「お父様……」

 カフラの涙のたまった瞳を向けられ、インケファードは思わず目を逸らす。ミルヤムは重苦しいため息をついた。

「……今すぐスキラを去りなさい。二度とわたし達に関わりを持とうとは思わないことです。そうすれば天寿を全うするくらいはできるでしょう」

「お前が!!」

 その一声には十年分の恨み辛みが、劣等感が、憎悪が、あらゆる負の感情がこもっていた。インケファードは怨嗟の声を続ける。

「お前が、そうやって俺を馬鹿にして、俺に何もするなと……! もう少しだったのに! もう少しでそのすまし顔に吠え面をかかせてやったのに……!」

「他に言いたいことは?」

 だがミルヤムの反応は氷壁よりも冷淡だった。インケファードは血が出るほどに歯ぎしりをした。

「最後の機会です。言いたいことがあるのなら全て聞きますよ?」

「……くそっ、くそっ!」

 インケファードはその部屋を飛び出し、逃げていく。今生の別れと思いそれを見送るカフラとミルヤムだが、その背中はすぐに見えなくなった。
 それからしばしの時間を経て。カフラとミルヤムは娼館の一室へと戻ってきた。

「カフラ、ミルヤムさん。どうなりましたか?」

 とカフラ達を出迎えたのは竜也である。その部屋では竜也の他、ラズワルドとサフィールが二人を待っていた。待ち疲れたラズワルドはソファに丸まって眠っている。

「全て終わりました」

 ミルヤムが端的に説明する。ミルヤムはそれ以上何も言うつもりはないようだ。説明を求めるようにカフラを見る竜也。だがカフラから返ってきたのは悲しみに満ち、涙に溢れた瞳だ。

「……その、カフラにはミルヤムさんもいるし、俺達だってついている。あまり気を落とさないでくれ」

「タツヤさん……」

 カフラが竜也の胸に飛び込む。竜也は一方の腕をカフラの背中に回し、もう一方の手でカフラの頭を撫でた。カフラは夢心地で酔うようにその温かさに身も心も任せる。が、突然頭を撫でていた手が失われた。
 見ると、竜也の右腕にラズワルドがぶら下がっている。ラズワルドは威嚇するような敵意に満ちた目をカフラへと向けた。対抗するようにカフラは自分の身体を竜也の胸へとすり寄せた。

「――これからの話をしましょう。カフラ」

「あ、はい」

 母親の声に、カフラは名残惜しそうに竜也の腕の中から抜け出る。竜也達はそれぞれソファに座った。着飾った一人の老婆がミルヤム達にかいがいしく給仕をしているが、ミルヤムはそれを空気のように扱っていた。その老婆はほんの半日前までこの娼館の主人だった人物である。ミルヤムはインケファードと対決するためだけに金貨を積み上げてこの娼館を丸ごと買い取ったのだ。
 竜也の両側にはラズワルドとカフラが座り、竜也に身体を預けてくる。竜也はカフラの身体の重みと柔らかさ、その体温に動揺しながらもそれを隠しつつ、

「それで結局、インケファードさんがナーフィア商会を裏切ってハーゲス商会に通じていた。それは間違いなかったわけですね?」

「はい。あの男の裏切りをこの目で確認しました」

 竜也の確認にミルヤムが頷く。

「あなたとその子の言う通り、あの男だけでなく他の多くの店員が与していることも間違いないのでしょう」

 ナーフィア商会の中に、それもミルヤムに近い立場の人間の中に、ハーゲス商会の意を受けて動いている者がいる――それが竜也の賭の内容だったのだ。普通なら簡単に勝ち負けが判明する賭ではないが、竜也の元には反則技の固まりみたいな少女がいる。ラズワルドの調査の結果、裏切り者の名が芋づる式に挙がってきたのだ。

「でもまさかお父様がハーゲス商会に通じていたなんて」

「まったくです。わたしも油断していました」

 裏切り者の筆頭はミルヤムの夫・カフラの父親のインケファードだ。慣例を無視して商会の経営権を握り続けているミルヤムに対して、商会の店員全員が信服しているわけではない。密かに反発している人間も数多く、インケファードはそんな人間を口説き落として自分の配下に組み込んでいったのだ。そしてそれをハーゲス商会が全面的に支援する。
 十年前に先物取引で大失敗をした後、インケファードはハーゲス商会と手を切るのではなくより深く手を結ぶことを選んだのだ。それまでは先物取引を介した関係でしかなかったのだが、それ以降は同じ陰謀を企てる盟友となる。十年という時間とハーゲス商会の全面支援、ナーフィア商会に組織的裏切りという病巣を広げるには充分であろう。そしてカフラが先物取引に手を出したのをきっかけに収穫へと動き出す。先物取引と言えばハーゲス商会の独壇場だ、ナーフィア商会を罠に填める絶好の機会だと判断したのは当然である。

「それでも『まさかあの者達までが』と思わないではいられませんが」

 裏切り者の中にはナーフィア商会の情報部門を統括する人間も含まれていた。このためミルヤムも誤ったエレブ情勢を信じ込んでしまい、圧倒的に不利な取引をしてしまう寸前だったのだ。
 「エレブで厭戦気分が広がっている」という噂を流したものハーゲス商会ではないかと竜也は考えている。最終的に小麦価格がどう動こうと、ハーゲス商会にとってはどちらでも良かったのだ。今しばらくの間ミルヤムに「小麦価格が下落する、このまま取引をしてしまったら大損だ」と思わせられたなら。インケファードとハーゲス商会の陰謀は九分九厘成功を見ており、ミルヤムは権益を譲ってでも取引を中止する寸前だった。
 彼等の誤算はただ一つ、ラズワルドがナーフィア商会のためにその恩寵を使ったこと、ただそれだけである。

「賭は俺の勝ちです。『大規模な戦争は起こらない』と、ハーゲス商会がナーフィア商会に信じ込ませようとしたことが明らかになったと思います」

「そうですね」

 すでにそれを認めているからこそミルヤムはカフラから奴隷用の首輪を外している。カフラの処分は保留という扱いである。

「じゃあ、事実はどうなのか? だからと言って『大規模な戦争が起きる』とは断言できない、そう言いたいんじゃないかと思います」

 竜也はそう言いつつミルヤムに「ネゲヴの夜明け」やエレブ情勢速報、その基となった資料をまとめて渡した。ミルヤムがそれを読んでいく。

「……確かに、あなたが聖槌軍に危惧を抱くのもよく判ります」

 長い時間をかけて全ての資料に目を通し、ミルヤムはそう結論づけた。そして、決断を下す。

「判りました。百タラントの証拠金、差し入れましょう。小麦の買い占めを成立させましょう」

「本当ですか?!」

 竜也は思わず立ち上がった。ミルヤムは頷く。

「ええ、もし裏が出て小麦価格が半額になったとしても損失は千タラント。その程度でナーフィア商会は潰れはしません。もし表が出たなら、そのときこそきっと見物というものです」

 ミルヤムは悪辣な笑みを見せる。

「表が出ますよ。俺は勝てる賭しかやらないんです」

 竜也もまた不敵に笑う。竜也とミルヤムはしばし笑みを交わし合った。
 ――アブの月の月末、ナーフィア商会の使者がレプティス=マグナを訪れ、百タラントの証拠金を差し入れる。これにより二千万アンフォラに及ぶ小麦の売買取引が正式に成立した。小麦価格が暴騰を始めたのはその瞬間からである。







「にゅっふふふ……」

 レプティス=マグナから伝書鳩で届けられた小麦の価格表を握りしめ、カフラは堪え切れない笑いを漏らしていた。

「にゅっふふふ……にゅるっふふふ……にゃっははは……」

 カフラの笑いは徐々に大きくなっていき、

「にゃっはっはっはー! にゃーっはっはっはっはー!!」

 最後には哄笑、大哄笑に至っていた。目も口も緩み切って、口からは少しよだれが垂れている。

「カフラ、少し落ち着こう」

 竜也は腰が引けた状態になりながらもそう呼びかける。カフラは赤面し、

「失礼しました」

 とよだれをぬぐった。
 さて、月はすでにエルルの月(第六月)に入り、その初旬。場所はナーフィア商会本館である。賽の目が出たという知らせを受け、竜也はそこにやってきたのだ。竜也にはラズワルドとサフィールが付いてきている。

「タツヤさん、見てくださいこれ!」

 カフラが突きつける価格表を受け取り、それに目を通す竜也。

「一アンフォラ二・二ドラクマ。随分急騰しているな」

 竜也の態度はまるで他人事のようであり、カフラにはそれが物足りない。

「二千万アンフォラで七千タラント以上になります。五千タラント以上の儲けなんですよ! しかも高騰はまだまだ続いているんです!」

 そうは言われても、と言いたげに竜也はサフィールに視線を送った。サフィールもまた事態を飲み込んでいないようで、小首を傾げている。

「金額が大きすぎて理解が及ばないんですが。五千タラントってどれくらいですか?」

「一タラントが六千ドラクマ。一ドラクマが労働者の平均的な日当、だったっけ」

(一ドラクマが三三六レプタ、一日分のパンの代金が四二レプタ……)

 竜也は脳内で様々な数字を組み合わせて計算した。実際の購買力から見れば一ドラクマは一二〇〇円から一三〇〇円だが、生活実感から見れば一ドラクマは五、六千円くらいにはなるだろうか。

(一ドラクマを五千円とするなら、五千タラントは一五〇〇億円か)

「おー、そりゃすごいな」

 ようやく竜也が笑顔を見せる。だがその淡泊な反応にカフラは脱力した。

「何でそんなに他人事みたいな反応なんですか。これ全部タツヤさんのお金なんですよ?」

「え、何で?」

「何でって、そういう契約になっているからです」

 契約を結んだ本人であるカフラが白々しくそう答えた。

「タツヤさんがナーフィア商会から借金をして保証金を用意し、タツヤさんの名前で結んだ契約なんです。タツヤさんはナーフィア商会には借金返済の義務しかありませんから、利子を付けて返したって丸々五千タラント残りますよ」

「そんなお金俺には管理できないからカフラとナーフィア商会に任せるよ。それよりも」

 竜也は真顔になってカフラとミルヤムを見つめた。

「俺が必要としているのは穀物なんだ。聖槌軍の侵攻で西ネゲヴの人達が危機に陥ったときに支援をする、それができるだけの穀物を用意したい。契約書や為替、借金の証文をいくら積み上げたって、それで腹は膨れはしないだろう?」

「要するに、実物の穀物を積み上げる必要があると言うのですね」

 ミルヤムの確認に竜也は頷く。

「どこにですか? 倉庫はどうします? 輸送船の手配は? 保管はどうするのですか? 集めるのは小麦だけですか?」

 ミルヤムが畳みかけるように問うが、竜也は照れたように頭をかいて、

「その辺は全部ナーフィア商会にお願いしたいと思ってるんです。だからこそ五千タラントの管理をお願いして、必要経費はそこから出してもらって」

「そうですね。それが妥当でしょう」

 とミルヤムも頷いた。竜也は続けて、

「これだけ小麦価格が急騰しているとレプティス=マグナがひどいことになるんじゃないかと思うんですが」

「なるでしょうね。五千タラントの支払いを強要したならいくつの商会が倒産するか、何人の商人が首を吊るか」

「だから、あまりひどいことにならないようにしてほしいんですよ。貸しを作って小麦じゃなくても、大麦とか燕麦とか米とか蕎麦とかトウモロコシとか芋とか、長期保存の利く食糧を用意してもらうとかして」

 ふむ、とミルヤムは再度頷く。

「わたしとしても、不必要に恨みを買うことを望むわけではありませんが――ハーゲス商会は別として」

「それは俺も同じです。これからエレブ人と戦わなきゃいけないんだから、ネゲヴ人同士でいがみ合う理由はできるだけ減らしたいんです」

「いいでしょう」

 ミルヤムは竜也に対して手を差し出した。

「あくまでネゲヴを守らんとするあなたの志、決して無為にしないことを約束しましょう」

「よろしくお願いします」

 竜也はミルヤムの手を固く握る。これ以降、ミルヤムは竜也にとっての最大の支援者となる。







 ――エルルの月から始まった小麦価格の暴騰はレプティス=マグナを中心として東ネゲヴのバール人達を大混乱に陥れた。ミルヤムが気を回す時間もないうちにいくつもの商会が倒産し、何人もの商人があるいは首を吊り、あるいは夜逃げをする。なお最大の損害を被ったハーゲス商会では当主一家が追放され、ナーフィア商会の完全な傘下に入ることで形上だけは存続した。
 ナーフィア商会を訪れたレプティス=マグナの商人達に対し、ミルヤムが支払い猶予を宣言してようやく混乱は終息。その代わり、レプティス=マグナの経済界はナーフィア商会に支配されたも同然となった。
 この一連の騒動はバール人商人達によって「エルルの月の嵐」と呼ばれるようになる。そしてこの嵐の記憶と共に「クロイ・タツヤ」の名もまたバール人達の胸に刻み込まれたのだ。







[19836] 第一三話「ガフサ鉱山暴動」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/15 20:41

「黄金の帝国」・戦雲篇
第一三話「ガフサ鉱山暴動」







 エルルの月(第六月)の中旬に入った頃。竜也はカフラの案内でナハル川南岸を訪れていた。
 スキラの町の機能はナハル川の北岸側に集中しており、南岸側にあるのは倉庫や漁村・農村である。竜也が訪れたのは倉庫が建ち並ぶ一角だった。

「とりあえずこの一角の倉庫を在庫ごと買い取っています」

 とカフラが指差すのは道路に区切られた一区画全部であり、そこには三十棟以上の倉庫が並んでいた。竜也は「ふむ」と頷く。

「でも、よくこれだけの倉庫をまとめて買えたな」

「所有していた商会が倒産したので安く手に入れられました。確かハマーカ商会でしたか」

 その名前に聞き覚えのあった竜也は少し考え、思い出す。

「ああ、ガリーブさんのところの。それじゃゴリアテ号はどうなったんだ?」

「あの馬鹿船ですか? 倉庫を買ったら付いてきました」

 地中海最大の巨船がまるでお菓子のおまけのような扱いだった。

「あんな船動かしても持て余すだけだから港に浮かべて倉庫代わりにしようかと」

「いや、動かせるのなら使うべきだ。様子を見に行こう」

 竜也達は船を使って北岸の造船所が並ぶ一角へと移動、ゴリアテ号の前へと直接乗り付けた。竜也はその事務所で久々にガリーブに対面する。

「おお、久しいなタツヤ! 君がこの船のオーナーになったそうだな!」

「お久しぶりです。ゴリアテ号は動かせますか?」

「それはその目で確認してもらおう!」

 とガリーブは言い、竜也達を連れてゴリアテ号へと向かう。全長百メートルを越える巨船を見上げ、カフラも感嘆を禁じ得なかった。

「こうして改めて見ると、大したものかもしれません」

「よくこんなもの造ろうと思ったよな」

「ええ。よほどの途轍もない阿呆だったんでしょう」

 竜也達はガリーブの案内でゴリアテ号内を見て回った。船内は幾層にも別れているが、階層内での仕切りはほとんどない。何十本もの柱が建ち並ぶ空間が広がっているだけである。

「艤装は終わっているし、必要最低限の設備も整っている! 船として充分に使えるぞ!」

「そうか、ならこの船も穀物輸送に使ってくれ」

 竜也はそう即決してカフラに指示を出す。カフラは若干不満そうな表情を飲み込んで何も言わずにその指示を受け入れた。

「多分実際に動かすと色々と問題が出てくると思うんだ。それを洗い出して、次の船の建造に生かしてほしい」

「おお、判った!」

 ガリーブはそう言って胸を叩く。こうして竜也はゴリアテ号を運用することとなった。それを小耳に挟んだミルヤムが竜也に提案する。

「タツヤさん、ゴリアテ号を貸していただけませんか。あれを西ネゲヴに派遣したいのです」

「それは構いませんが、何をするんですか?」

 はい、とミルヤムが説明する。

「ヘラクレス地峡に近い町から順に回り、美術品や貴金属、金貨を預かって回る事業をするつもりです。西の町は聖槌軍に侵略され、戦火や略奪にさらされます。貴重な美術品が灰燼に帰す前に、ネゲヴ人の財産を敵に奪われる前に、それを西ネゲヴに移動させるのです」

 ほう、と竜也は感心した。

「確かにそれは早めにやっておいた方がいいですね」

「はい。それに、財産が東に移動すれば人間も東に逃げようと思うようになるでしょう。そうやって逃げる人間が増えればそれだけ助かる人間が増えるというものです」

 なるほど、と竜也は強く頷いた。でも、竜也は首を傾げる。

「別にゴリアテ号である必要はないんじゃ?」

「確かに絶対に必要というわけではありませんが、ゴリアテ号を使うことが望ましいのです。財産を預ける人間にとって一番大切なのはそれが失われないこと。持ち逃げされたり、預けた船が沈んだりしないことです。持ち逃げしないという信用にはナーフィア商会の名前が有効ですが、その上であの巨船を使って見せれば言うことはありません」

「船の大きさは財力の大きさ、ってことですか。それにあれだけの巨船なら簡単には沈まない、って誰もが思うでしょうし」

 そういうことです、とミルヤムが頷いた。
 なお、ミルヤムは人命尊重だけを目的としたわけでなく、明確にナーフィア商会の大儲けを企図していた。竜也がそれを理解するのはしばらく先のこととなる。
 こうしてゴリアテ号はナーフィア商会に貸与される。ゴリアテ号が西ネゲヴ方面、ルサディルへと向かって出港するのはエルルの月の月末。ナーフィア商会だけでなく他のいくつもの有力商会がこの事業に参加していた。
 聖槌軍のネゲヴ侵攻まであと半年足らずとなり、エレブでは戦争準備が急ピッチで進められている。大規模侵攻が現実となろうとしていることが誰の目にも明らかになってきたのだ。

『エレブでは銃器や大砲、剣や鏃が盛んに作られていて、鉄が極端に不足している。各国の王室は庶民に対して鉄製の鍋・釜の供出を呼びかけた』

『供出した鉄の鍋・釜の代わりに土鍋を使う家が増え、薪の消費が増えて燃料不足もまた深刻になっている』

『生煮えの麦粥を食べて腹を下し、倒れる者も急増している。体力のない老人や子供が次々と死んでいる』

 エレブでの鉄不足はネゲヴにも波及している。バール人商人がネゲヴの鉄をエレブで売って大儲けしているため、ネゲヴにおいても鉄の価格が上昇する一方なのだ。経済動向に敏感なバール人がエレブ情勢に無関心でいられるわけがない。竜也の提出するエレブ情勢速報を評議員達は食い入るように読んでいた。以前とは大違いである。
 「エルルの月の嵐」の騒動により竜也は自分の名前をスキラとその周辺に轟かせた。さらには竜也が早くから聖槌軍の脅威を訴えていたことも知られ、竜也は聖槌軍問題の第一人者と見なされるようになる。

「私はレモリアから帰ってきた交易船の者です」

「俺はフランクに行ってきて昨日帰ってきたんだが」

 今や情報を集めに歩き回る必要がない。竜也の下にはエレブ帰りが入れ替わり立ち替わりやってくるのだから。さらには有名な傭兵団の首領も訪ねてくる。

「エレブ人と戦うならうちの傭兵団がお買い得だぜ?」

「俺に一声かけてくれれば千人の兵士を集めてやるぞ」

 現時点では誰の指揮でどこでどうやって戦うか、何一つ決まっておらず、今傭兵を雇ったところで持て余すだけである。彼等もそれは承知しており、彼等の目的は顔と名前の売り込み、要するに営業である。それに応えて、竜也は彼等の顔と名前をしっかりと脳裏に刻み込んだ。
 また、恩寵の部族の族長、またはその代理が何人も竜也を訪ねてやってきた。

「お前がバール人をだまくらかして巨万の富を稼いだクロイ・タツヤか! いや、痛快痛快!」

 そう言って大笑いをしたのは赤虎族の族長だ。

「貴殿が何人ものバール人を破産させて首を吊らせたと……いや、責めているのではない、その逆だ。あの連中も自分達が普段他人に何をしているのか、これで少しは理解するといいのだがな」

 そう言ってやはり薄く笑っていたのは金獅子族の族長代理である。竜也の下を訪ねてくる大抵の人間が似たようなことを言ってくるのだ。

「どれだけ嫌われてるんだ、バール人」

 と竜也は驚き半分、呆れ半分だった。だがその感覚は竜也も一部共有している。バール人がエレブに鉄を輸出している事実に竜也は愉快ではいられなかった。

「その鉄は剣や鏃、鉄砲の弾丸に使われる。ネゲヴ人の生命を奪うのに使われるんだぞ? それが判らないのか?」

 竜也がそう憤っても鉄の流出は続いた。ネゲヴでも鉄の価格が急騰しようやく流出が止まろうとしているところである。
 そんな中、エルルの月の終わり頃。ある人物が竜也を訪ねて「マラルの珈琲店」へとやってくる。

「全く、お前ほど会うたびに立場が変わる奴は初めてだ」

 そう言って笑うのは髑髏船団首領のガイル=ラベクである。竜也は、

「わざわざ来ていただけるなんて」

 と恐縮した。竜也は例によって珈琲店内の個室を応接室代わりに使っている。ラズワルドが持ってきた珈琲をガイル=ラベクは、

「なかなか良い珈琲だな」

 と旨そうに味わっていた。ガイル=ラベクは周囲を見回し、

「しかし、お前まだここに住んでいるのか? お前さんも今じゃスキラ有数の大富豪なんだろう?」

「いや、あれはネゲヴ防衛のためのお金ですから。俺個人が自由にできるお金なんてありません」

 そんなものなのか、とガイル=ラベクは驚く。そういう反応にも慣れてきた竜也だった。竜也はしばらく前のカフラとのやりとりを思い出す。

「タツヤさん、いつまであそこに住むつもりですか?」

 とカフラは竜也の前にいくつもの不動産の権利書を広げた。スキラ市内で売りに出されている豪邸・屋敷の権利書、その写しである。

「タツヤさんはもうただの庶民じゃないんです。聖槌軍と戦うためにネゲヴを主導しなきゃいけない身分なんですよ? その身分を判りやすく示す服を着、屋敷を持たなきゃいけないんです」

「カフラの言うことは判らなくもないんだけど」

 竜也は困惑を曖昧な笑みで隠した。

「あれはネゲヴ防衛のための資金なんだから、無関係なことに使うべきじゃないだろう」
「関係はあるじゃないですか。今日だってどこかの傭兵団の首領が呆れて帰っちゃいましたし」

 竜也の元を訪れる商人や傭兵は数多いが、竜也の質素な暮らしぶりを見て呆れ、あるいは竜也を軽侮して帰っていく人間も決して少なくはない。だが、

「甘い汁を吸えそうにない、って判断されただけだよ。むしろ好都合じゃないか」

 と竜也は気に留めてもいなかった。
 その後も何度か同じやりとりがくり返されたが、結局竜也が自分の意志を変えることはなかった。

「タツヤさんて結構頑固なんですね」

 とカフラもすでに諦めている。こうして「マラルの珈琲店」が聖槌軍対策本部として機能したまま今日に至っている。

「ところで、今日は一体どんな用件で」

「ああ、これもネゲヴ防衛に全く関係しない話じゃない」

 竜也の問いに、ガイル=ラベクは用意していた地図をテーブルの上に広げた。

「ここにガフサという大鉱山がある。所有者はワーリス商会だ」

 ガフサ鉱山はスキラから西に百キロメールほどの場所に位置している。

「ああ、先日ここで大きな暴動が起こったと」

 竜也の言葉にガイル=ラベクは首を振った。

「いや、それは違う。起こっているのは大規模な奴隷の反乱だし、先日の話ではなく今このときも続いていることだ」

 竜也は小さく驚いた。ガイル=ラベクが説明する。

「ガフサ鉱山一帯で二千人以上の奴隷が使われている。その大半がアシューで売られた戦争奴隷だ」

 アシューには百の王国があると言われ、小さな国同士の戦争が長く続いている。戦いに敗北して捕虜になった兵士が奴隷として売られる、それが戦争奴隷である。

「ここしばらく鉄の価格が急騰しているだろう? ガフサ鉱山でも鉄を増産するためにこれまで以上に奴隷を酷使しようとしたらしい。それに耐えられなくなった奴隷が反乱を起こしたんだ。奴隷の全員が反乱に加わり、奴隷の監督官は殺された。監督官の部下は全員鉱山から追い出され、鉱山は奴隷によって占領されている。俺はワーリス商会から反乱鎮圧を依頼されたんだ」

 はあ、と竜也は判ったような判らないような返事をした。話の内容は理解できる。判らないのはその反乱の話と自分との関わりだ。そんな竜也に、

「お前、俺の代わりにこの反乱を解決してくれんか?」

 竜也は飲んでいた珈琲を吹き出しそうになった。ぎりぎりそれを我慢するが珈琲が気管に入ってしまい激しく咳き込む。少し時間をおいて、何とか竜也は落ち着いた。

「船長、一体何を」

「陸の上は専門外だからな。最初は依頼を断ろうとしたんだ」

 ガイル=ラベクは肩をすくめる。

「だがそうも言っていられなくなった。反乱奴隷に古い馴染みが加わっていてな、そいつが助力を求めてきたんだ。

『このままじゃ使い潰されるだけだから反乱を起こしたが、決してやりたくてやったわけじゃない。何とか穏便にことを収められないだろうか』

 ――ってな」

「穏便に、ですか」

 竜也は腕を組んで唸った。

「俺が依頼を断ればワーリス商会は別の傭兵団に話を持っていくだけだ。そいつ等が正面から反乱を鎮圧するなら大量の血が流れる。そいつは避けたいから依頼を断っていないんだが、どう解決したものかと」

 とガイル=ラベクは両手を挙げる。

「俺には良い方法を思いつかんが、もしかしたらお前ならって思ってな。それで話を持ってきたんだ。それに、お前にとっても決して悪い話じゃない。もしこの反乱を無事解決できたらどうなると思う? アシューで戦い慣れた二千の兵士、それが丸々手に入るんだぞ」

 竜也は目を見開き、次いで口に拳を当てて考え込んだ。少しの時間をおき、竜也がガイル=ラベクを見つめる。

「――まずは現状の把握が必要かと。解決の糸口があるなら、できるだけのことはします」

「判った」

 竜也の回答にガイル=ラベクは満足げに頷いた。







 竜也は即座に動き出した。

「船長はガフサ鉱山に人を送ってください。反乱の代表者と会談を持ちます」

「サフィール、護衛がいるんだ。牙犬族に連絡を」

「カフラ、ワーリス商会って知ってるか? 紹介状を書いてほしいんだ」

 竜也の依頼を受けてそれぞれが行動し、竜也は翌々日にはワーリス商会の当主と会う段取りとなった。竜也はカフラを伴ってワーリス商会本館のあるスファチェへと向かう。
 スファチェはスキラから百キロメートルほど北にある町である。竜也達は船を使って移動、その町を訪れた。港ではワーリス商会の出迎えが待っていて竜也達は馬車で市内を移動、ワーリス商会本館に到着する。竜也はそこでワーリス商会当主のワーリスと会談を持った。

「よく来てくれたの。お主には前から会いたいと思っておったところじゃ」

 ワーリスは非常に小柄な老人で、体格はラズワルドと変わらないくらいに見えた。年齢はおそらく六十代後半。頭頂から七割くらいの範囲はきれいに禿げ上がっているが、下三割には長い髪が残っている。大きな鷲鼻と甲高い奇妙な声が特徴の男であった。
 初めまして、と簡単な挨拶をし、竜也は早速本題に入る。

「ワーリス商会はガフサ鉱山で反乱を起こした奴隷をどうしたいと思っていますか?」

 ワーリスはカフラにちらりと視線を送り、姿勢を崩した。

「正直に言えば、どうすべきか決まっておるわけではない」

「そうなんですか」

 竜也は軽く戸惑うがそれを隠した。

「儂はナーフィア商会に負けんくらい手広く色々とやっておる。ガフサ鉱山はそのうちの一つじゃ。じゃが、穴を掘っとりゃいい鉱山運営なんぞバール人の商売としては醍醐味が足りん。じゃから部下に任せて放ったらかしにしておったんじゃが……そうしたらこの始末じゃ」

 ワーリスは忌々しげに舌打ちをした。

「収益を出すためにかなり悪質な監督官を使っていたようじゃ。その監督官と手を組んで、収益の一部を自分のポケットにねじ込んでおった。その部下はすでに追放しておるが、後任は決まっておらん」

「それなら、殺された監督官の仇を取るつもりは」

 竜也の言葉をワーリスは鼻で笑う。

「それじゃ、この反乱をどうするおつもりなんですか?」

「これを読むがいい」

 ワーリスは竜也に何かの書面を差し出す。竜也はそれを手に取って目を通した。

「『一つ、労働時間は日の出から日の入りまでとする。一つ、まともな食事を提供する。一つ、薬と医者を用意して怪我人・病人を手当する』……これは?」

「奴隷が監督官に突きつけた要求書じゃ。監督官はそれに鞭打ちで応え、反乱を起こされたということじゃ」

 竜也は唖然としてしまう。

「こんなの、当たり前の要求ばかりじゃないか」

「この程度なら応えても構わんが……奴隷は甘やかせばつけ上がる。反乱を起こせば際限なく要求を通せる、そう思われてはかなわん。じゃから傭兵を使って皆殺しにするのもやむを得んと思っておる」

「ちょっと待ってください」

 竜也は反射的にそう言い、脳内で必死に計算をした。少しの時間をおき、竜也はワーリスに提案する。

「――今のガフサ鉱山、奴隷も含めて丸ごと全部。いくらなら売ってくれますか?」

 カフラが慌てたように「タツヤさん」と制止しようとするが竜也はそれを無視。ワーリスは即座に、

「五〇〇タラント」

「買います」

 竜也がさらに即答し、取引は成立した。この間一〇秒もかかっていない。一呼吸おき、

「タツヤさん!」

 とカフラが金切り声に近い口調で抗議しようとした。

「ごめん、でも考えがあるんだ。少し任せてほしい」

 と笑みを見せる竜也。カフラは抗議の言葉を何とか飲み込んだ。そんな二人の様子をワーリスは面白そうに眺めている。

「さて、今度は何をやってくれるのじゃろうな。楽しみじゃて」

「そうですね、一月も時間をもらえれば。支払いはそのときでいいですか?」

 ワーリスは「それくらい待ってやるわ」と笑った。
 ワーリス商会本館を出、竜也達はスキラへの帰路に着く。馬車に乗り込んで身内だけとなって、

「何考えてるんですかタツヤさん!」

 カフラはずっと我慢していた言葉を吐き出した。

「五〇〇タラントあったら何万人の傭兵を雇えると思ってるんですか。戦争奴隷だって一体何万人買えることか。それを、たった二千人の戦争奴隷を手に入れるために使うなんて」

「五〇〇タラントは鉱山だけの値段だろ? ワーリスさんは反乱奴隷を全員処分するつもりだったんだから奴隷の値段は含まれてないよ」

 竜也の少しずれた回答にカフラは戸惑いを見せる。

「それじゃ、タツヤさんは鉱山がほしかったんですか?」

 竜也は「いや」と首を振る。

「二千の戦力、それを手に入れる」

 竜也はそう言い、その拳を握った。







 月はタシュリツの月(第七月)に変わってすぐ。竜也は様々な準備を整え、ガフサ鉱山へと向かった。竜也に同行するのはラズワルドとカフラ。護衛は全員牙犬族で、サフィール・バルゼルを筆頭とする四十名程の剣士である。
 護衛の半数の騎馬を用意しており、護衛は交代で騎乗している。竜也達三人は馬車に乗っていた。荷馬車の台車に乗って荷物に腰を下ろしている状態で、カフラは日差し除けに傘を差している。

「馬車じゃどう頑張っても二日かかるか。こりゃ馬の乗り方を覚えないと」

「そうですね、今後を考えれば今のうちに習っておくべきでしょう」

 スキラからガフサ鉱山までは約百キロメートル。少し無理をすれば馬なら一日で移動できる距離である。

「でもタツヤさん。いくら牙犬族の腕利きの剣士でも、たった四十人で二千の反乱奴隷の相手をするのは……」

 と不安がるカフラを竜也がなだめた。

「この面子で反乱を鎮圧しようっていうんじゃないだろ。交渉に行くだけだ」

 竜也もいきなりガフサ鉱山に乗り込むつもりはない。まず鉱山の麓で反乱奴隷の代表と会談を持つことになっていた。その立会人としてガイル=ラベクも同行している。

「反乱奴隷の代表ってどんな人なんですか?」

「元はアシュケロンの軍人で名前はマグド。アシューの軍人としてはそれなりに名前が売れている方だ」

 ガイル=ラベクの答えに竜也とカフラは顔を見合わせた。

「有名なのか?」

「聞いたことないです。でもわたしが名前を知っているアシューの軍人なんてエジオン=ゲベルのアミール・ダールくらいしか」

「さすがにそこまで大物ではないな」

 とガイル=ラベクは苦笑した。そこにバルゼルが口を挟む。

「名前くらいなら聞いている。部下の助命のために敵に降伏し、奴隷として売られたという話も」

「なるほど、その人望で奴隷の代表をやっているのか」

 と竜也は一人納得した。
 そんな話をしているうちに一行は目的に到着した。鉱山へと続く道の脇に一本の木が生え、それなりの大きさの池がある。その周囲は草原が広がっているだけで非常に見通しの良い場所だ。鉱山との間を行き来する者にとっては格好の休憩所となる場所だろう。
 そこにはすでに先客がいて竜也達を待っていた。人数は三十人ほど、全員痩せこけ、非常に粗末な身なりである。剣や槍、弓を持っているのが半数、残りの半数は棍棒や鶴嘴を手にしていた。
 牙犬族の護衛の間に緊張が走る。竜也は無言のまま手でそれを制した。竜也達の一隊がその場に止まる。奴隷の一団との距離は百メートルほどだ。竜也とガイル=ラベクの二人が一隊から抜け出し、奴隷の一団へと向かってゆっくりと歩き出した。
 一方奴隷の一団からも一人の男が竜也達に向かって歩き出している。他の奴隷はその場に留まったままだ。接近するにつれてその男の姿が目に入ってくる。
男の年齢は四〇代くらい。身長は竜也とそれほど変わらないが、胴回りは竜也の倍くらいあるように見えた。一件中年太りのように見えるが、腹に詰まっているのは脂肪ではなく筋肉であることは間違いない。顔つきは山賊みたいに凶悪だ。さらに右眼は刀傷で潰れ、右腕の肘から先がなかった。
 竜也がその男――マグドと接近する。数メートルの距離を置き、両者は同時に足を止めた。

「お前さんがあのガイル=ラベクか。世話になったな、無理を聞いてくれて礼を言う」

「何、構わんよ」

 マグドはまずガイル=ラベクにそう話しかけた。それから一呼吸おき、竜也へと視線を向ける。

「それで、お前さんがクロイ・タツヤだったか。凶悪な反乱奴隷である俺達とどんな話をしようっていうんだ?」

 マグドの試すようなその問いに竜也はにっこりと笑い、

「そうですね、商売の話を」

 まるでバール人のようにそう言った。マグドは若干の戸惑いを無表情で隠している。
 奴隷の一団と牙犬族の一隊の距離は約百メートル。両者のちょうど中間に竜也・マグド・ガイル=ラベクが立ち、話を続けていた。カフラはいろんなことを心配しながら竜也の背中を見つめているが、竜也達が何の話をしているのかは全く聞こえない。だが、

「がーっはっはっは!」

 突然マグドの哄笑が轟いた。カフラはサフィールと戸惑ったような顔を見合わせる。一方奴隷の一団でも似たような光景が見られた。カフラは懸命に耳を澄ませるが時折発生するマグドの哄笑以外何も聞き取れなかった。
 竜也達の会談は一時間ほどにも及んだだろうか。やがて竜也とガイル=ラベクが牙犬族の一隊の元に戻ってくる。マグドもまた自分の部下の元に戻っていくところだった。

「タツヤさん!」

 カフラが一隊から飛び出して竜也を出迎える。サフィールがカフラに続いた。

「交渉は成立した。予定通りいくぞ」

 竜也は太々しく笑う。

「ここから先はカフラ達の出番だ。頼りにしている」

「え、ええ。任せてください!」

 カフラは一瞬の戸惑いを飲み込み、張り切ってそう答える。

「バール人の本領発揮です。鼻血も出ないくらいに搾り取ってやります!」

 一方マグドの方も部下達に取り囲まれていた。

「お頭」「首領」「将軍」

 部下達はマグドのことを好き好きに呼んでいる。

「あの連中と一体どんな話になったんで?」

「鉱山に戻ってから話す。先に戻って各隊の隊長を集めておけ」

 マグドはにやにやしながらそう言うだけだ。マグドの命令を受け、足の早い一人が先行して鉱山へと戻る。笑いを浮かべるマグドと、戸惑う様子の奴隷の一団がそれに続いた。
 そして数刻後、マグド達がガフサ鉱山へと戻ってきた。マグドは奴隷達の期待や不安の視線を一身に集めながら鉱山の敷地内を歩いていく。向かう先は鉱山の中心部、高台に建っている事務所である。少し前までそこは監督官とその部下や傭兵が集まる場所だったが、今はもうその連中の影も形もない。
 今そこに集まっているのは二十人ほどのマグドの部下だった。マグドは軍隊式に二千人の奴隷を百人ずつ二十の隊に分け、各隊のリーダーとして百人隊長を指名していた。

「将軍、それで一体どんな話になったのですか」

 部下の一人が改めてそれを問う。マグドの言葉を待つ部下達に、

「商売の話だ」

 マグドはそう言ってにやりと笑う。戸惑いを見せる部下達にマグドは最初から説明した。

「ワーリス商会はこの鉱山をどこか余所の商会に売却しようとしているそうだ。ナーフィア商会や他の商会と交渉しているが折り合いが付かず、交渉が長引いている」

 マグドは少し間をおいて、

「決着するのは一月くらい先になるとのことだ」

 戸惑う隊長達がそれぞれに話をしつつマグドの言葉を咀嚼する。ようやく理解に及んだ様子の隊長の一人が、

「それじゃ、その一月の間ここはどうなるので?」

「このままだ。少なくとも一月は攻められる心配はない」

 薄く笑みを見せるマグドに対し、隊長達は途方に暮れたような顔を見せた。

「しかし将軍、この鉱山にはもう食糧が……あと何日分も残っておりません」

 判っている、とマグドは力強く頷いた。

「だから商売の話をしてきたんだ。――ガイル=ラベクに紹介してもらった商人が俺達に食糧を売ってくれる」

「しかし、我々には金なんか」

 馬鹿だな、とマグドは笑い、

「ここは鉱山だぞ? 金はなくとも金目の物ならいくらでもあるだろうが」

 と両手を広げて周囲全てを指し示す。周囲の山々を見回し、隊長達に理解の色が広がった。

「……しかし、それは盗掘と言うのでは?」

「ああ、その通りだ。だが、それがどうした?」

 とマグドは鼻で笑う。

「あの連中は俺達を散々こき使ってボロ儲けしていたんだ。一月やそこら、この鉱山で俺達が好き勝手やったところで大した損失にはならん。こき使われた分を取り戻すためにも一月で少しでも掘り出してやらんと」

 確かにそうだ、とばかりに隊長達が頷いた。

「明日には隊商が食糧を持ってやってくる。精製した鉄が少しは残っているだろう、それを売って当座をしのいで、その間に鉄を掘り出す」

 マグドの命令に隊長達は頷き、了解を示した。
 そして次の日。マグド達は前日のうちには売却する銑鉄の延べ棒を耳を揃えて用意し、隊商の到着を今や遅しと待っている。太陽が中天に達する頃、

「おい、あれじゃないのか?」

 目の良い者がそれに気が付いた。鉱山に向かって何者かが接近している。大量の荷物を抱えた隊商の一団だ。奴隷達が一斉に歓声を上げた。一同は期待に胸を膨らませて隊商の接近を待っている。だが、近付くにつれてその全容がよく見えるようになり、

「何だ、あの連中……?」

 一同に戸惑いが広がっていった。やがてその隊商が鉱山に到着、唖然とする奴隷達の視線を浴びつつ隊商は鉱山の中へと入っていった。
 隊商の人数は百人以上、そのうちの三分の一は護衛で全員が牙犬族だ。隊列を作っていたのは屋台である。さらには何十匹もの牛・山羊・豚を引き連れていた。

「毎度お世話になっております、クロイ商会です」

 と愛想良く笑うのは隊商の中心にいる若い男だ。挨拶を受けたマグドは「お、おう」と何とか返事をしていた。

「それでは早速取引を。銑鉄の方は?」

「おう、ここに」

 マグドは何台もの荷車に乗せた銑鉄の延べ棒を持ってこさせる。一方の竜也も、

「はい、確かに。こちらがお約束の代金となります」

 竜也もまた荷車を移動させた。荷車に乗っているのは大きな木箱だ。マグド達の目の前で、木箱がバールによってこじ開けられる。奴隷達の間にどよめきが広がった。木箱にはドラクマ銅貨がぎっしりと詰まっていたのだ。

「四千ドラクマ、ご確認ください」

 マグドは「おう」と答え、部下と手分けして勘定をする。何分かの後、

「確かに四千ドラクマあった。これで取引成立だ」

 と答える。竜也は「はい、ありがとうございます」と答えた。

「それで、食糧は?」

「こちらで商売をさせていただきます。必要なだけお買い求めください」

 見ると、同行している屋台が店の準備を進めている。連れてきた牛や豚が次々と捌かれ、肉片として切り分けられていた。
 マグドは奴隷達の期待の視線を一身に集めている。マグドは苦笑しつつ、

「この金は全員に均等に分ける、一人二ドラクマだ。各隊の隊長から受け取れ」

 爆発が起こったかのような歓声が轟いた。奴隷がそれぞれ自分の隊長の下に集まり、お金を受け取るための行列を作っている。その間にも屋台の準備が進んでおり、肉が焼ける良い香りが鉱山中に充満していた。奴隷達は空きっ腹を抱えて呻いている。
 金を受け取った奴隷の全員が即座に屋台へと走っていく。

「肉! 肉をこれで買えるだけ!」

「さ、酒もあるのか?! ど、どうする」

 奴隷達は目の色を変えて屋台に群がっていた。

「ああ、酒にすべきか肉にすべきか」

 とハムレットのように悩んでいる奴隷も少なくない。買う物を買った奴隷達は肉にかぶりつき、酒で喉を潤し、

「……ああ」

 と至福の表情を浮かべていた。どんな麻薬よりも甘美な味が舌を、喉を伝って胃の中へと落ちていく。二ドラクマは雪よりも淡く手の中から消えていた。
 あっと言う間に無一文になった奴隷達は恨めしげに屋台を見つめている。奴隷の中には店主を脅して只食いをしようとする不埒者もいたが、即座に牙犬族の護衛に叩き潰されていた。
 日が沈んでその日の商売が終わり、

「まさか一日で全部回収できるなんて」

 銑鉄を買って支払ったはずの四千ドラクマ、その全額が竜也の手元に戻っていた。

「……何か、詐欺で騙されたような気分だ」

 マグドは少し納得がいかないような表情である。竜也は「いやいや」と説明する。

「酒と食い物を売ったじゃないですか。代金を支払ってもらうのは当然です」

 その、酒と食い物の価格がスキラで売っている価格の倍以上だったことまでは説明しない。

「それはそうなんだが」

 とマグドはまだ首をひねっていた。

「ともかく、この調子で明日以降も商売をします」

 と竜也は話を変える。

「マグドさんは鉱山で働くように皆を誘導してください。『鉱山で鉱石を掘り出して金をもらう』『その金で食い物と酒を買う』、この循環を作るんです」

「ああ、判っている」

 そして翌日、ガフサ鉱山では朝早くから奴隷の一団が坑道へと向かっていた。

「お前等ー! 肉が食いたいかー!」

『おーっ!』

 班長の呼びかけに何十人もの奴隷が鶴嘴を振り上げて応えた。

「酒が飲みたいかー!」

『おーっ!』

「なら、掘るぞー!」

『おーっ!』

 マグドは百人の一隊をさらに四つに分け、一隊に四班作った。二五人一班で採掘に従事し、一部の班は製鉄を担当する。日当の支払いは班ごとの出来高制である。二十人の百人隊長はマグド直属として全体の統括監視を担当だ。

「作業に加わっているのは全体の三分の一くらいだ」

 とマグドは浮かぬ顔である。

「思ったよりも少ないですね」

 と竜也は言うが、その表情は平静そのものだ。

「ま、もうすぐ第二陣が到着しますから、明日には全員が作業に加わるでしょう」

「……何をたくらんどる?」

 とマグドは問うが、竜也は笑みを浮かべたまま沈黙を守った。
 坑道の外では作業に加わっていない大勢の奴隷達が、何をするでもなくただぶらぶらとしていた。そこに、新たな隊商の一隊が到着する。暇を持て余していた奴隷達が見物に集まり、

「おい、おいあれ……」

「お、女だ」

 派手な衣装を着崩した、扇情的な女達。そんな女が何十人もいる。どう見てもそれは娼婦の一団だった。
 下卑た笑みを浮かべた男達が彼女達に接近しようとする。が、その前に抜き身の剣を持った牙犬族の剣士達が立ちはだかった。男達は悔しげな顔で、未練がましく女達を遠巻きにするしかない。

「あら、そこの色男さんどうしたの? こっちに来てくれないの?」

 女達がそうからかい、艶やかな笑い声を上げる。その女が指差す看板には「一回一ドラクマ」の文字が太々と記されていた。
 女達と看板を忙しげに見比べていた男は、意を決して女達に背を向ける。鶴嘴を握りしめた男は坑道へと向かって突進するように歩いていった。一人、また一人とそれが続いていく。女達の前から奴隷がいなくなるまでそれほど時間はかからなかった。

「思った以上に効果的でした」

「……まあ、そりゃそうなるわ」

 と語るのは竜也とマグドである。その日のうちに奴隷の全員が採掘その他の作業に加わり、仕事をしない人間は一人もいなくなった。

「あまり働くな、少しは休め」

 数日後にはマグドはそんな命令を出す羽目になったくらいである。マグドは採掘作業を日の出から日没までとし、日没後は採掘禁止を命令。鉱夫達は不平を言いながらもそれに従った。
 日の出とともに坑道に入って懸命に働き、日没後は屋台で飲み食いをし、ときたま女を買う。十日ほどでそんな生活パターンが成立し、ガフサ鉱山は一つの町として機能するようになった。採掘機械でも使っているのかと疑うような勢いで鉱石が掘り出され、製鉄されて銑鉄の延べ棒が見る間に積み上がっていく。だがそれだけで満足する竜也ではなかった。
 ある日のこと、マグドは作業の前に奴隷――鉱夫の全員を広場に集めた。二千人の鉱夫を前にマグドは大声を張り上げる。

「今日から医者がこの鉱山に来てくれることになった! 怪我をしても手当をしてくれるぞ!」

 鉱夫達が喜びの歓声を上げる。マグドは静かになるのを待ち、一同に告げた。

「診察料は一回につき五ドラクマ! 薬を使えばもう五ドラクマだ!」

 広場に驚きが満ち、次いでブーイングが広がった。マグドがそれを手で制す。

「奴隷になる前、町にいたときのことを考えろ! 医者にかかれば普通にそれくらいは取られただろうが!」

 鉱夫達はそれに反論できず黙っている。だが不満はたまったままだ。

「判っている、確かに普段から酒ばっかり飲んでいるお前達が、あるかどうかも判らないいざというときのためにそんな金を貯められるわけがない! だから代わりに俺がその金を貯めてやる! お前達に支払う日当のうち二十分の一を俺がもらう! だが怪我人が出たならただで治療をしてやる!」

 聴衆が戸惑うようにざわめいている。マグドが続けた。

「病人も同じだ! 働けない間はずっと飯を食わせてやる! どうだ、文句があるか?!」

「もし怪我しなかったら、その金は返してもらえるんで?」

 鉱夫の一人の問いにマグドは、

「返さん!」

 と断言した。

「だからお前等、怪我や病気はするなよ!」

 鉱夫達は爆笑し、マグドの提案は受け入れられる。こうしてガフサ鉱山に治療費積み立て……を口実とした医療保険が成立した。今までまともに治療を受けていなった何人もの鉱夫が気軽に治療を受けるようになる。
 またある日のこと、マグドは百人隊長と各班の班長を全員集めて布告した。

「坑道の一番奥で採掘する者には、今日からこれを頭に被ってもらう」

 とマグドが手に持って示したのは木製のヘルメットだった。戸惑う班長達の手にそれが次々と渡される。

「とりあえず百個用意した。そのうち全員分用意する……そうだ」

 その木製ヘルメットを手にした班長達は手で叩いてみたり、頭に被ってみたりしている。

「兜ですか? 木製の」

「鉄兜を被って採掘なんぞできんだろうが」

 とマグド。一部の班長は渋い顔だ。

「しかし、こんな煩わしい物を被っての採掘など」

「怪我をされるよりはマシだ。いいからこれは命令だ」

 とマグドは強引に押し通す。班長達は若干の不満を飲み込んで了解した。木製ヘルメットを渡された鉱夫の全員ではないが大半がそれを被り、いくつかの怪我の危険から守られることとなる。

「あっしはこんな身体になっちまって、もう鉱山で働くことは……」

「判っている、俺に任せろ」

 負傷により採掘や精製に従事できなくなった者は屋台に雇われて働いた。また、鉱山内で治安維持に当たっている警備員も牙犬族から奴隷出身者に少しずつ置き換わっている。すでに警備員の半数以上がマグド配下の元奴隷である。
 その一方、マグドは情報公開を徐々に進めていた。

「あのクロイ・タツヤって若いのは先物取引でバール人を出し抜いて何千タラントもの金をボロ儲けしたそうだぜ。何人ものバール人に首を吊らせたって話だ」

 百人隊長の一人が仕入れてきたその情報を披露、他の隊長達が「ほー」と感心する。隊長達は事務所の窓から鉱山の中央広場を見下ろした。そこには竜也の姿がある。ヤスミン一座を連れてきた竜也は入場料の受け取りをやっていた。

「でも、そんな奴が何で反乱奴隷相手の屋台なんか?」

 首をひねる百人隊長の面々。そこにマグドが口を挟んできた。

「そりゃ、あいつがこの鉱山の持ち主だからだ」

 百人隊長達が驚くのを面白がりながらマグドが説明する。

「あいつは先物取引で儲けた金を使ってワーリス商会からこの鉱山を丸ごと全部買い取っている。俺達も含めてな」

「しかし将軍」

 と一人が問い質す。

「それなら俺達を普通に働かせればいいんじゃ? 屋台なんかやってないで」

「『働け』と命令されたからって、働いたか? 俺達が」

 マグドは逆に問い返した。隊長達は顔を見合わせる。

「……待遇が前と変わらないなら絶対に働きはせんでしょう。牙犬族に脅されようと」

「だがだからと言って、突然ここまで待遇を改善してもやはり働かない恐れがある、と考えたんだろう。『もっと粘ればもっと待遇が改善する』、そう考えたに違いないからな」

 あいつは俺達が自発的に働くよう仕向けたんだ、とマグドは説明をまとめる。隊長達は再び窓の下を見下ろした。広場ではヤスミン一座による「七人の海賊」上演が開始されている。

「……あの若いのはエレブ人と戦うために傭兵を集めているって話だ。先物取引で儲けた金も全部それに使うらしい」

 隊長達の視線が自然とマグドへと向かった。

「将軍、どうなさるおもつりで?」

「そんなもの、決まっているだろう」

 マグドは不敵に笑い、それだけを答える。だが百人隊長の全員がその答えに満足したように頷く。心地良い沈黙がその場を満たしていた。







 そして月はアルカサムの月(第八月)に入り、その初旬。

「……何じゃここは」

 ワーリスは周囲を見回し、呆然と呟いた。場所はガフサ鉱山、反乱奴隷によって占拠されたままとなっている鉱山……のはずである。

「今日の安全目標は『指差し呼称の確実実行』だ! 安全唱和、やるぞ!」

 奴隷の班長が「安全第一・利益が第二!」と安全標語を独唱、それに続いて奴隷の班員が唱和する。標語の唱和で気合いを入れた奴隷の鉱夫達が張り切って坑道と入っていった。
 鉱山の中央大通りと言うべき場所には屋台が立ち並び、酒や食い物が売られ、それを奴隷が買っている。怪我により採掘に従事できなくなった奴隷が屋台で肉を焼いていた。通りの反対側には娼婦が客引きをしており、武装した奴隷が警備を担当している。奴隷達は笑顔に満ち、鉱山は活気に溢れていた。

「ようこそ、ガフサ鉱山へ」

 とワーリスを出迎えたのは竜也である。ワーリスは竜也の招待を受け、ここまでやってきたのだ。

「何じゃここは、まるで一つの町ではないか。お主、一体何をしたんじゃ」

「説明します。こちらへ」

 竜也の案内に従いワーリスは鉱山内を歩いていく。牙犬族の剣士が竜也達を護衛した。
 竜也が向かった先は鉱山の一角、製鉄所である。そこには製鉄された銑鉄の延べ棒が山のように積み上がっていた。それを見てワーリスはさらに目を丸くする。

「この一月の経営についてはこちらにまとめてあります。収支決算書はこちらです」

 竜也から渡された資料に目を通すワーリス。

「……奴隷に金を払っていたと。そんなことをして採算が取れるわけが」

 だが収支決算書に目を通し、ワーリスは沈黙を余儀なくされた。竜也は資料を追加する。

「こっちは俺がここを買う以前の収支決算書です。見比べてもらえますか」

 ワーリスは二つの収支決算書に目を通した。

「……じゃが、今は鉄の値段が高騰しておる。こんなもの比較にはならんじゃろ」

「ええ、ですからこちらは鉄の採掘量だけを比較した資料です。一番下の数字が採掘単価」

 ワーリスはそれにじっくりと目を通し、

「……待て、お主の出しておる採掘経費には奴隷の購入費用が入っておらん。それがなければ」

「ええ、だって買う必要ありませんから」

 竜也の反論にワーリスは沈黙する。

「スキラでもスファチェでも、普通に人を集めて雇えばいいんですから。日雇いに負けないくらいの賃金は出しているでしょう?」

「しかし、奴隷に金を払ってどうして採算が改善するのじゃ。そんな馬鹿なことが」

 竜也は苦笑して肩をすくめた。そして順を追って説明する。

「今までの処遇というのがどんなものなのか、まず考えてみてください。……一日に十数時間も働かせ、全く休みなし。食事もろくに提供されず。働かない奴隷を無理矢理働かせるために監督者が暴力を振るい放題。油断をすれば奴隷が暴動を起こすから、一定数以上の武装した監督者が不可欠。酷使された奴隷がすぐ死ぬからまた買ってくる必要がある。――じゃあ、それが全部逆になるとしたら?」

 ワーリスが目を見開いた。

「……充分な休養が取れて、食事もちゃんと食べられる。少なくとも暴動は起きんか。監督者は武装する必要がないし、数も最低限で済む。奴隷が長持ちするから度々追加で買ってくる必要がない……じゃが、そんな環境で奴隷がまともに働くとは」

「休みも取れず食事もまともに与えられず、暴力を振るわれる環境で誰がまともに働きますか? 監督者がいなければ全力で仕事を怠けるに決まっているでしょう? 労働者が逃げ出さない環境を整えて、後は懸命に働く動機付けをすればいいだけです」

「動機付け?」

 ええ、と頷いた竜也は遠方に見える屋台と娼館を指し示した。

「労働の成果に応じて支払われる賃金、そしてそれで買うことのできる酒・食い物、そして女」

 ワーリスはおかしそうに笑った。

「なるほどなるほど、確かにそれは効果的じゃ。思えば当たり前のことじゃった。奴隷であっても人間であることに変わりはない。牛や馬のように鞭だけでは働かんか」

 そういうことです、と竜也は頷いた。

「ところでワーリスさん」

「ん、何じゃ」

「今のガフサ鉱山、五〇〇タラントで買いませんか?」

 ひょっほっほ!とワーリスは大笑いをした。

「お主、最初からそのつもりじゃったか。よかろう、喜んで買ってやろう」

 ありがとうございます、と竜也は一礼した。そして、

「さらにところで、あの屋台と娼館と隊商は別売りなんですけど、いくらで買いますか?」

 ワーリスはさらに爆笑する。笑いすぎて呼吸困難となり、竜也を心配させるくらいだった。
 こうしてガフサ鉱山の奴隷反乱は誰もが想像もしない形で終息する。ワーリスとの取引を終えた竜也の元にマグドが、百人隊長の面々が、数百人の奴隷が集まってきた。竜也は彼等をなだめるように先回りして説明する。

「鉱山の所有権はワーリス商会に戻りますけど、皆さんの処遇に変わりはありません。その点は安心してください」

「ああ、それはいいんだが」

 何でしょう、と竜也は首を傾げた。

「お前さん、エレブ人と戦うつもりなんだってな」

 ええ、と頷く竜也。マグドは胸を張り、自らを指差した。

「なら俺達を使え。これでも俺はアシューじゃちっとは名の通った将軍だったんだ。アシュケロンの将軍マグドとガフサ鉱山の二千人は、クロイ・タツヤ、お前に忠誠を誓ってやる」

 竜也は瞠目し、マグドを、その配下の百人隊長を、数百人の奴隷達を見つめる。そこに並ぶのは過酷な戦場をくぐり抜けてきた、百戦錬磨の戦士の目だ。その目が篤い信頼を湛えて竜也を見つめている。

「あ……ありがとうございます」

 感無量となった竜也はそれだけを言うのが精一杯だった。
 竜也は忠勇無二の二千の兵力を手に入れ、戦争準備をまた一歩進めることができた。その一方、エレブからの戦雲はより暗さを増していくのである。







[19836] 第一四話「エジオン=ゲベルの少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/17 21:10


「黄金の帝国」・戦雲篇
第一四話「エジオン=ゲベルの少女」







 時間は少し前後して、エルルの月(第六月)の中旬。ガイル=ラベクにガフサ鉱山暴動の解決を依頼されるより前のことである。
 その日、竜也は穀物買い占めの件でカフラ達と打ち合わせするため外出しており、夕方になって「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。

「ああタツヤ、お客さんに待ってもらっているわ」

 顔を見せるなりマラルがタツヤにそう声をかけてきた。

「判りました、すぐ行きます」

「あの子の知り合いだったみたい。今はあの子が応対しているわ」

「ラズワルドの?」

 タツヤは一瞬首を傾げ、すぐにある可能性に思い当たった。タツヤは大急ぎで個室へと向かう。ノックと同時ぐらいにドアを開けると、

「タツヤ」

 ラズワルドと一人の男が向かい合っているところだった。
 座っている状態でも判る、かなりの長身と痩身。年齢は計りがたいが、四〇前後ではないだろうか。肌は病人のように青白く、長めの髪は黒。長い前髪に半分くらい隠れていて非常に判りにくいが、瞳の色は鈍い赤だ。目は細いが決してそれは笑い顔ではない。笑い顔が想像もできないような、酷薄な印象の男だった。
 竜也の元に駆け寄ったラズワルドは竜也の背後に隠れるような位置に立ち、竜也の手を握った。ラズワルドの強い敵意がその手を通じて伝わってくる。
 竜也はラズワルドを連れてその男と向かい合う位置に移動、席に座った。

「俺がクロイ・タツヤです。あなたは白兎族の――」

「私は白兎族の族長補佐をしているベラ=ラフマという者です」

 やはり、と竜也は思いながらも同時に疑問も抱いた。竜也の視線を感じ取ったベラ=ラフマが説明する。

「この髪は染めたものです。地毛はラズワルドと同じ色です」

 なるほど、と納得する竜也。だがまた別の疑問が湧いてくる。

「でも、何故髪を染める必要が?」

「白兎族と悟られないためです。知られれば何かと面倒ですので」

 そう言えばウサ耳も付けていない、と竜也は今になって気が付いた。ラズワルドが侮蔑を口に浮かべる。

「一族の誇りはどうしたの」

「私の誇りの有り様はお前とは違う。それだけのことだ」

 ラズワルドは反発を強めた。

「苛められるのを怖がって印を外すなんて、臆病者のすること」

 ベラ=ラフマはかすかにため息をつく。

「少しは変わったかと期待していたが……お前は周囲をはばかることを覚えるべきだ。お前をアニード商会に売るのを、ホズン様が好きで認めたとでも思っているのか。お前がもっと自重していたなら私もそこまでやる必要はなかったのだ」

「あー……」

 竜也は内心でベラ=ラフマに同意していた。以前住んでいた長屋での振る舞いから類推するに、売り飛ばされた理由のある程度はラズワルド自身に帰することだったのだろう。
 何か言おうとして言葉を詰まらせるラズワルド。ベラ=ラフマは竜也へと水を向けた。

「クロイ・タツヤ、あなたなら理解できるのではありませんか? あなたは印を外した我々を動かそうとしているのでは?」

「エレブに潜入したときはラズワルドだってそのウサ耳外していただろ? それと同じだとは思えないか?」

 竜也に諭され、ラズワルドは沈黙を余儀なくされた。その間に竜也とベラ=ラフマが話を進める。

「それで、あなたは我々に何をさせようというのですか?」

「エレブに潜入してムハンマド・ルワータさんの手助けをしてほしい。聖槌軍の情報が欲しいんだ。規模・作戦・補給・人事・指揮官の傾向・噂話、ありとあらゆる情報を集めてほしい」

 ふむ、とベラ=ラフマは少し間を置いた。

「しかし、そのような情報が何故必要なのですか?」

 ベラ=ラフマは試すように問う。

「――聖槌軍の規模はどんなに少なくても総勢数十万。もしかしたら本当に百万の軍勢が攻めてくるかもしれない」

 竜也が少しずれた返答をし、ベラ=ラフマはかすかに戸惑いを見せた。

「……しかしそれは」

「俺とラズワルドはシマヌの月にテ=デウムまで行って、枢機卿アンリ・ボケの姿をごく間近に、直接この目で見ている。ラズワルドがアンリ・ボケの心の中を直接探っている。それで判ったんだ、アンリ・ボケは本当に本気で百万の軍勢を揃えるつもりでいる。どれだけの犠牲を払っても、エレブがどんなことになっても」

 ベラ=ラフマがラズワルドへと視線を送り、ラズワルドが無言のまま頷く。ベラ=ラフマの表情はほとんど動いていないが、どうやら衝撃を受けているようだった。

「……その情報は公表されていないようですが?」

「公表したって信じてもらえるわけがないでしょう? ラズワルドの恩寵がどれだけのものか、知っている人間しか信じられるわけがない」

 竜也は雑な仕草で肩をすくめた。

「ラズワルドがいなければ何の備えもないまま百万の軍勢と戦う羽目になるところだった。ラズワルドがいるから百万と戦う準備ができるんだ。俺の元いた場所には『情報を制する者は世界を制する』という言葉がある。白兎族の恩寵にはそれだけの力があると思っている」

 竜也の真摯な瞳がベラ=ラフマを見つめる。ベラ=ラフマの能面のような表情からは何の感情も読み取ることができない。ラズワルドがその恩寵を解放してもベラ=ラフマの分厚い精神防壁に阻まれ、その心中を読み取ることができなかった。

「……判りました。クロイ・タツヤ、あなたに力を貸すことを約束しましょう。白兎族はあなたの目となり、耳となりましょう」

「ありがとうございます」

 竜也とベラ=ラフマが固く握手を交わした。こうして竜也は白兎族とベラ=ラフマの協力を得ることとなる。竜也にとっては万余の軍勢に匹敵する戦力である。
 ベラ=ラフマは早速自分の部下をエレブへと送り込んだ。その一方自分は竜也の元に残り、情報収集分析に従事する。竜也を訪ねてやってくるエレブ帰りから話を聞き、あるいは竜也の元に集まってくる情報を整理し、取捨選択し、精度の高い情報をまとめる。エレブ情勢速報の作成や「ネゲヴの夜明け」編集はそのほとんどをベラ=ラフマが担うこととなった。

「それじゃ、後はよろしくお願いします」

「はい、お任せください」

 竜也がスキラを離れてガフサ鉱山に行くことができたのもベラ=ラフマあってのことである。何日かに一回ずつはスキラに戻ってきたものの、タシュリツの月(第七月)の大半はガフサ鉱山で過ごしていた。その間もベラ=ラフマがエレブ情勢速報を発行し、

「前よりもずっと分析が鋭くなった」

 と好評を得ている。
 アルカサムの月(第八月)に入り、ガフサ鉱山暴動を解決して竜也はスキラに戻ってくる。

「この一月助かりました。それで――」

「はい。この仕事はこのままお任せください」

 と、竜也は引き続き情報収集分析・エレブ情勢速報の発行をベラ=ラフマに任せることとなる。

「さて、手が空いたけどどうしよう」

 場所は「マラルの珈琲店」の個室。その部屋はすでに竜也専用みたいな扱いとなっていて、今は会議室代わりである。室内にはラズワルド・カフラ・サフィール、それにベラ=ラフマが顔を揃えていて、それぞれ珈琲やお茶を飲んでいる。竜也が飲んでいるのは熱々のブラックコーヒーだ。

「やっていただくことならいくらでもありますよ?」

 と告げるのはカフラである。カフラが飲んでいるのは埋め立てするような勢いで砂糖をぶち込んだ珈琲だった。

「タツヤさんがガフサ鉱山でやったことはバール人の間じゃ大評判になっているんです。『うちの鉱山も改善してほしい』ってお話があちこちから舞い込んでいます」

「ナーフィア商会は?」

「うちはもう始めてます」

 と胸を張るカフラ。

「父上から聞いた話ですが」

 と次はサフィールが竜也に伝える。サフィールが飲んでいるのは普通のお茶(紅茶)だが、使っているのは日本風のマイ湯呑みだった。

「恩寵の部族が集まって聖槌軍と戦う義勇軍を作ろうという話が出ています。今はまだ近場にいる族長が集まって色々相談している段階ですが、タツヤ殿にもその相談に加わってもらえたら、と父上が言っておりました」

「いいのか? 俺なんかで」

 と問う竜也に、

「タツヤさんがいなきゃどこでどう戦ったらいいかも判らないと思いますよ」

 とカフラがちょっと呆れたように解説した。
 ラズワルドは黙って話を聞いている。飲んでいるのは竜也に作り方を教えてもらいお気に入りになったカフェオレだが、竜也から見れば「珈琲風味の牛乳」と呼ぶべき代物になっていた。
 最後にベラ=ラフマが話を切り出す。

「オエアが気になる動きをしています」

 なおベラ=ラフマが飲んでいるのはただの水だった。

「オエアというと……あの場所か」

 竜也は脳内でネゲヴの地図を広げる。オエアは元の世界ではトリポリに相当する町である。

「オエアの商会連盟が各地の商会連盟に呼びかけをしています。『聖槌軍に対抗するために海洋交易・軍事同盟を再建しよう』と。スキラの商会連盟にも話は行っているかと思いますが」

 一同の視線がカフラへと集まる。カフラは侮蔑の表情を浮かべた。

「ゲラ同盟分裂から何年経ったと思っているんですか。時代錯誤もいいところです」

「確かに三百年前そのままの再建は考えられないだろう。でも、名前は同じでも中身は大幅に変えて、ならあり得る話じゃないのか?」

 竜也の問いにカフラは少し考え、やはり首を振った。

「いえ、どう考えても現実的じゃありません。千年前のバール人なら自腹を切って、自分達が先頭に立って聖槌軍と戦いネゲヴの民を守ったことでしょう。でも、この時代にそんなことをするバール人が果たして何人いることか。傭兵を雇うのに自腹を切ることすら嫌がる人達が大半でしょう」

「少なくとも、恩寵の民は同盟には絶対に協力しないでしょう」

 とベラ=ラフマが告げる。

「当時のバール人にどんな扱いを受けたのかを恩寵の民は決して忘れていません。同盟の復活を望む恩寵の民が一人でもいるとは思えません」

「そんなのバール人だって望んでいません」

 とカフラ。

「普通に商売をしていた方がよっぽど儲かるじゃないですか。わざわざそんな負担を背負い込もうという人達の気が知れません」

「……バール人だって全員が全員商売繁盛で順風満帆、てわけじゃないんだろ? カフラの言う『普通の商売』ができない人だって多いんじゃないか? そういう人達が過去の栄光にすがり、思いを託し、一発逆転を狙っているんじゃないかな」

 竜也の言葉にカフラが沈黙する。ベラ=ラフマが「おそらくはそうなのでしょう」と竜也の見方を肯定した。

「オエアで聖槌軍対策の議論を主導しているのはギーラという人物です。かれに与している者の多くが中小以下の経営が苦しいバール人商会のようです」

「ギーラ……聞いたことのない名前ですね」

 とカフラが首を傾げる。

「私も簡単に調べたのですが何も判りませんでした。バール人であることは間違いないようですが」

「判りました、うちの商会で調べます」

 とカフラ。竜也が「それでも」と話を戻した。

「動機やら名前やらあり方やらはともかくとして、聖槌軍と戦うのにネゲヴ全体が力を合わせる必要があることは間違いない。そのための話が今オエアで進んでいるのなら、それに積極的に加わることもありなんじゃないか?」

 その竜也の問いにカフラ達三人は否定的な様子を示した。

「タツヤさんを差し置いてそんな話をしている連中、相手にすべきじゃないと思います。少なくてもこちらから話をしに行くのは駄目です、タツヤさんの格が下がっちゃいます」

 サフィールが「その通り」と言わんばかりに大きく頷く。

「俺の格なんて別にどうでも」

 と言う竜也を無視するようにベラ=ラフマが話をまとめた。

「東ネゲヴのことはオエアに任せておくべきでは? 我々は近場の中央と西の町を集めましょう。中央と西で方針を一本化しておけば東と合同しても主導権を握れるでしょう」

「そうですね、それがいいでしょう」

 とカフラが頷く。竜也の意向は置き去りにされたまま重要な話が進んでいく。

「『ネゲヴの夜明け』を使って各町の代表をスキラに集める呼びかけをします。『クロイ・タツヤ』の名を呼びかけ人の筆頭とし、その意志に賛同する者の名を連ねるのです」

 とベラ=ラフマが企画し、カフラとサフィールが全面協力。カフラがナーフィア商会を始めとしてジャリール商会・ワーリス商会といった大豪商の名を、スキラ・スファチェ・レプティス=マグナの長老会議の名を集める。サフィールは恩寵の部族の族長名を集め、さらにはマグドや有名な傭兵団が賛同に加わった。

「ふふん、オエアごときがタツヤさんに対抗しようなんて、身の程知らずもいいところです」

 豪華な名前を連ねた「スキラの夜明け」を手にし、カフラは満足げな笑みを見せる。「スキラの夜明け」はオエアを含むネゲヴ全土に配付され、クロイ・タツヤ名による聖槌軍対策会議への参加もまたネゲヴ中へと呼びかけられた。
 アルカサムの月も中旬となり、竜也達は対策会議の準備を進めている。カフラの元に要請のあった「各地鉱山の経営改善」はカフラとマグドが協力して対応をしているところである。ナーフィア商会・ガフサ鉱山から人材を派遣し、指導をするのだ。さらには、

「にいちゃん、良い身体をしているな。奴隷軍団に入らんか?」

 マグドとその部下の百人隊長は各地の鉱山の元戦争奴隷を片端から口説き、自らの軍団に組み込んでいく。マグド隷下の元戦争奴隷は「奴隷軍団」を名乗り、その陣容を二千から三千、三千から四千と急速に拡大させていった。もっとも「戦争が始まったらマグドの下で兵士になることを承諾している人間がそれだけいる」という意味であり、現時点で即座にそれだけの兵を動員できるわけではない。だが、今のネゲヴにそれだけの戦力を動員できる町も傭兵団も存在しない。竜也に匹敵する、あるいは超える戦力を有しているのは片手で数えられるほどの数のケムトの有力諸侯、およびケムト王国そのものくらいのものだった。
 その一方、オエア側も戦力の充実を急いでいる。

「タツヤさん、やられました」

 不意に現れたカフラが悔しげに竜也にそう報告する。場所はスキラ商会連盟本部、そこでの打ち合わせがちょうど終わったところである。

「誰に、何をだ?」

「オエアのギーラに、です。彼は聖槌軍と戦う傭兵の総指揮官として、エジオン=ゲベルからあのアミール・ダールを招聘したんです!」

「ああ、どこかで聞いたことのある名前だな」

 カフラはまず脱力し、次いで何かを悟ったような顔をした。

「……そう言えばタツヤさんはそういう人でしたね。そうです、タツヤさんですら名前を知っているくらいの、アシューで一番有名な将軍なんです。戦争の名手と謳われている人なんです」

 エジオン=ゲベル王国はエラト湾(元の世界のアカバ湾)一帯を領有する国だ。百の王国があると言われるアシューの中では比較的大きく有力な国である。アミール・ダールはそのエジオン=ゲベル王の弟であり、王国将軍である人物だ。

「独立不遜で通っている各地の傭兵団だって、アミール・ダールが指揮を執るならその配下に収まることを納得するでしょう」

「良いことずくめじゃないか。何が問題なんだ?」

 暢気な竜也に、カフラは吠えるように訴えた。

「タツヤさんが主導権を取れないことが、です! このままじゃオエアに、ギーラやアミール・ダールに主導権を取られてしまいます。タツヤさんは悔しくないんですか? 誰よりも早く聖槌軍の脅威を訴えてきたのに。笑われたり馬鹿にされたりしながらも戦う準備を進めてきたのに、そのタツヤさんを無視するなんて!」

 カフラは悔しげに顔を俯かせた。竜也が「カフラ」と優しく呼びかけ、顔を上げたカフラに笑いかけた。

「他の誰かが俺より上手く戦ってくれるなら、それに越したことはないと思っている」

「でも」

 竜也は黙って南を指差す。カフラの視線が南へと向いた。

「あそこには何がある? ナハル川の向こうだ」

「え、南岸にはタツヤさんの倉庫が……あ」

「そういうことだよ」

 得心するカフラと、頷く竜也。

「カフラとミルヤムさんが買い集めてくれた食糧は兵糧にもなるんだ。俺達を無視して聖槌軍と戦争なんかできっこない。違うか?」

「確かにそうです」

 とカフラは頷く。

「タツヤさんが協力しなければアミール・ダールの軍勢だろうと十日で干乾しになるだけです。アミール・ダールの存在に充分対抗できます」

「別に対抗する必要はないと思うんだけどね。スキラのみんなを無視して無茶をやろうっていうんじゃない限り」

 と竜也は肩をすくめた。

「協力できるならそれが一番だ」

「そうですね。でもそれには向こうが礼節を持って挨拶に来るのが最低条件です」

 カフラはそう話をまとめた。カフラの出した条件が満たされるのは数日後のことである。







 その日、竜也は船に乗って地中海を東進していた。竜也に同行するのはカフラとマグド。護衛にはサフィール・バルゼル他牙犬族の剣士が幾人かと、マグド配下の元奴隷が同数。そしてラズワルドとベラ=ラフマが目立たないところで控えている。

「クロイ・タツヤとその一党勢揃い、というところか」

 とガイル=ラベクは笑っていた。

「そう言うガイル=ラベクさんはタツヤさんに与してはくれないんですね」

 とカフラは冷たい目をガイル=ラベクに向ける。

「ガフサ鉱山の一件では無理難題を引き受けて解決したのに」

「まあ、うちの船団でも色々あるんだ」

 ガイル=ラベクは気まずそうに言い訳した。

「俺としちゃ、オエアに与するよりはお前達に与する方が面白いと思っている。だからこそ俺がお前達の出迎えをしているんだろうが」

 それはそうですが、とカフラは口の中で小さく呟く。竜也はカフラをたしなめた。

「聖槌軍と戦うのに派閥争いなんかしている場合じゃないだろ。ネゲヴが一つとなって戦う、今日はそのための話し合いなんだから」

 カフラはまだ不満そうだったがそれ以上何も言わなかった。一方マグドとガイル=ラベクは竜也のことを興味深げに眺めている。
 ガイル=ラベク率いる髑髏船団はオエアにもスキラにも与せず、中立の立場を取っていた。その立場を生かしてガイル=ラベクはアミール・ダールと竜也との会談を仲介。そして竜也はアミール・ダールに会うために船に乗って東へと向かっている。

「そろそろだな」

 海岸線を眺めていたガイル=ラベクが停船を命令。船は海岸から数百メートル沖合で碇を降ろした。場所は、元の世界であればチュニジアとリビアの国境近くである。
 その場で待つこと数時間。日差しがかなり傾いてきた頃、水平線の向こうから船が姿を現した。髑髏の旗を掲げたその船が次第に接近、ついには竜也達の船に接舷する。
 二つの船の間には移動のための板が掛けられた。竜也達は出迎えのために甲板に並び、隣の船からアミール・ダールが渡っているのを待った。だが、

「え?」

「……どういうことだ?」

 護衛を引き連れて竜也達の船に渡ってきたのは一人の少女だけ、後に続く者はいない。
 服はアラブっぽい軽装で、セム系の白い肌。身長はサフィールより低く、体格はスレンダー。濃い焦茶色の長い髪を一本お下げにして編み込んでいる。年齢は竜也より一、二歳年下だろう。勝ち気そうな、凛々しい美少女だった。

「あの、あなたは?」

 カフラの問いに少女は傲然と答える。

「エジオン=ゲベル王国王弟アミール・ダールが第七子、名前はミカ。今日は父アミール・ダールの名代としてここに来た」

 ミカの口上に竜也達はまず沈黙した。最初に反応したのはカフラである。

「……アミール・ダールは七人の子を伴ってオエアに来ていると聞きます。その中でよりにもよって一番下の、それも女子を名代に選んだのですか」

 カフラは口調に不愉快さをにじませている。竜也を軽んじている姿勢にはマグドも静かに怒っていたし、仲介の面子を潰されたガイル=ラベクもまた同様だ。

「せめて嫡男を送ってくるならまだともかく、女子供を――あいた」

 突然竜也がカフラへと軽く拳骨を落とし、

「女だからって名代が務まらない、なんて考えはおかしいし、カフラが言うことじゃないだろ」

 カフラとミカが同じように目を丸くした。

「カフラだってミルヤムさんの名代としてあちこち飛び回っているじゃないか。年齢にしたって見たところカフラと何歳も変わらない、つまりは俺ともそんなに違わないってことだ」

 とカフラに諭した上で竜也はミカへと向き直った。

「ネゲヴを聖槌軍から守る――立場は違ってもその志には違いはない。そのためにスキラとオエアが、俺達と将軍アミール・ダールが協力しなきゃいけない。今日の会談はその第一歩にしたいと思っている」

 と手を差し出す竜也。ミカは若干あたふたしつつも、

「え、あ、はい。その通りです」

 とその手を握った。
 握手をしつつ、ミカは内心で舌を巻いている。

(わたしを持ち上げることで自分の面子、ガイル=ラベクの面子、そしてわたしの面子、それを全部保つなんて……優れた政治感覚の持ち主のようですね)

 一方カフラはミカの内心をほぼ正確に見抜いていた。

(「こやつ、できる」みたいなことを考えてるんでしょーねー。でもタツヤさんは計算じゃなく素でやってるだけなんですよねー)

 カフラは内心で肩をすくめていた。
 ……竜也達は甲板中央に移動、用意をしておいた席に着く。

「提督ガイル=ラベクには仲介の労を執っていただいたことを感謝します。そして父がこの場に来ることができなくなったことをお詫びします」

 ミカはまずガイル=ラベクに頭を下げた。

「ですが、ご理解いただきたいのです。今の父はギーラに雇われた傭兵に過ぎず、ギーラの意向を無視して自由に動くことができません。一番監視の緩かったわたしが抜け出すので精一杯だったのです」

「……いくつか確認したいことがあるんだけど、まずギーラというのはどういう人物なのか? こっちにはギーラの名前しか伝わってこないんだ。それと、ギーラやアミール・ダールはネゲヴをどうやって守ろうとしているのか? これも知らなきゃいけない」

 竜也の問いにミカは少し考え、

「わたしも詳しいことを知っているわけではありません。ギーラについて判っているのは、オエア出身のバール人であること、ただそれだけです」

「うちの商会で調べてもほとんど何も判りませんでした。多分、真っ当なバール人じゃないんでしょう」

 カフラの言う「真っ当なバール人」とは商売、特に交易に従事する者のことを指している。それ以外の、農家や職人や傭兵は「真っ当でないバール人」となる。ましてや日雇いでその日暮らしをしているような者は決してバール人とは認められない。

「父親かその前の代で商会が潰れ、それ以降は日雇いか何かで暮らしてきたんじゃないでしょうか。急に表に出てきたのは、商会があった頃のつながりが辛うじて残っていたんだと思います」

 ミカの話によると、ギーラの年齢は二〇代半ば。彼は聖槌軍の脅威が噂されるようになった頃オエアの使者としてまずケムトに向かったと言う。

「そこでまず、何故無名のギーラが使者に選ばれたのかが疑問になるんだけど……」

「その時点ではそれほど重視された仕事じゃなかったんじゃないでしょうね」

 竜也の疑問にカフラがそんな回答を示した。ミカの説明が続く。

「ギーラはケムト王国の宰相プタハヘテプの知遇を得、聖槌軍問題に対処するケムト王国の役職を得ています。彼はその肩書きを名乗ってエジオン=ゲベルにやってきたのです」

 エジオン=ゲベルでは国王ムンタキムと王弟アミール・ダールの対立が深刻になっていた。ミカは「エジオン=ゲベルでは子供でも知っている話ですから」と前置きして説明する。

「伯父上は決して無能でも暗愚でもないのですが、声望は父の方に集まっていました。父が華々しい戦果を挙げ続けたのに対し、伯父上は戦場にほとんど出なかったからです。軍でも宮廷でも父に王位を望む声が密かに広がっていました。このままの状態だったなら、伯父上が父を粛清するか、父が反乱を起こすか、どちらかになっていたかもしれません」

 そこにやってきたのがギーラである。ギーラはアミール・ダールを「聖槌軍と戦うネゲヴの軍の総司令官に」と求めたのだ。

「渡りに船だったわけか、国王ムンタキムにとっては」

「はい。はっきり言えば、体のいい追放です」

 こうしてアミール・ダールはオエアにやってくることとなった。「ケムト王国の役職」「アミール・ダールとのつながり」、ギーラはこの二点を持って他者より優位に立ち、オエアの議論を主導していると言う。

「……つまり、東ネゲヴの代表としてケムト王国の役職を得て、その役職でアミール・ダールを雇い、アミール・ダールの存在を持って東ネゲヴの代表になっている?」

「詐欺師の手口ですね」

 カフラは呆れるが、竜也はむしろ感心した。

「父が他の誰かと独自につながりを持ってしまうと自分の優位が崩れてしまう。このためギーラは父を籠の鳥にしているのです」

 ミカは口調に不快さをにじませた。竜也は少し話を変えようと、

「それで、ギーラはどうやって聖槌軍と戦うつもりなんだ?」

「あの男はナハル川南岸を要塞とし、ナハル川を防衛線として聖槌軍をそこで防ぐことを考えています」

 竜也達はあっけにとられてしまった。ミカが何を言っているのか理解できない。理性が理解を拒絶している。

「ちょっ……ちょっと待ってくれ」

 竜也は愛用の地図を用意、それをテーブルの上に広げた。ミカはかなりの近視のようで、顔をくっつけるようにして地図を見つめている。
 ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴ全域が描かれた地図である。ナハル川はネゲヴを東西に分かつように流れる川だ。水源は大樹海アーシラトの南の彼方、もしかしたらチャド湖までつながっているかもしれない。元の世界で言うならリビアとアルジェリアの国境を沿うように川が流れ、地中海へと注いでいる。河口近くにはスキラ湖があり、これは元の世界ならジェリド湖・ガルサ湖・メルリール湖を一つにつなげたものである。ナハル川の水は一旦スキラ湖に流れ込み、また川となって海へと流れていく。その、海まで流れる川の北岸にあるのがスキラの町である。

「こんなところに防衛線を……それじゃ、ナハル川より西の町はどうするつもりなんだ?」

 竜也の問いにミカは目を伏せるだけだ。

「……いや、しかし理には適っている」

 地図をとっくりと眺めていたマグドがそう呟き、ガイル=ラベクが「確かに」と同意した。

「どういうことです」

 と竜也が詰問、マグドはなだめるように説明した。

「ここだ」

 とマグドはスキラ湖から海までをつなぐナハル川を指差す。

「この間の距離はたったの一〇〇スタディア(約一八キロメール)。アミール・ダールはここだけ守っていればいい。聖槌軍はそれ以上東には行けん」

「それに、ナハル川の川幅は一番狭い場所でも一〇スタディア(約一・八キロメール)以上。水深だって外洋船がそのままスキラ湖に入れるくらいだ。守るにこれ以上の場所はない」

 とガイル=ラベクが補足した。

「……でもそんな、それじゃスキラも含めて西ネゲヴを全部捨てることに! 他の方法はないんですか?」

「……父もそれで苦しんでいます」

 ミカは絞り出すようにそう告げる。

「他の方法はないのか、と。敵を食い止めるのにより適した場所はないのか、と。ですが、見つかっていません」

「集められるだけの兵を集めて野戦を挑むのは?」

「馬鹿なことを言わないでください」

 とミカは首を振った。

「敵が指揮系統を一本化しているのに対し、こちらはどう頑張っても烏合の衆にしかなりません。敵が長年の戦乱で戦い慣れているのに対し、こちらの主力は素人の兵。例えアミール・ダールが指揮を執ろうと、野戦では鎧袖一触にされるのが落ちです」

 マグドが無言で頷き、ミカの見解を肯定した。

「ですが、ナハル川に陣取って敵を川に叩き落とすだけなら烏合の衆でも素人でも充分戦える、ギーラはそう考えています。確かにそれは間違ってはいません」

 ガイル=ラベクが無言で頷き、ミカの意見に同意した。

「……でも、それじゃスキラはどうなる? 西ネゲヴの町や人はどうなるんだ?」

 竜也が再度それを問う。甲板の上を沈黙が満たした。口を開いたのはカフラである。

「……多分、お金持ちは資産を持って東ネゲヴに移住するでしょう。お金のない人は西に残って、勝てないまでも戦いを挑んで……」

「聖槌軍をある程度苦しめ、消耗させる。ギーラはそれを期待しているのだと思います」

 ミカがカフラにそう続ける。竜也は怒りで歯を軋ませるが、何度か深呼吸をして怒りを鎮め、気持ちを落ち着かせた。

「もっとマシな方法はないのか、もっと適切な防衛線はないのか。アミール・ダールはそれを探している――そう言ったよな」

 竜也の問いにミカは「はい」と頷く。

「俺達もそれを探す、西ネゲヴの犠牲を少しでも減らす方法を。今のギーラとは到底協力できない。でも、アミール・ダールとは協力ができると思う」

 竜也は立ち上がり、ミカに向かって再度手を差し出す。ミカもまた立ち上がり、その手を固く握った。

「はい。今の父は自由には動けません。ですが、いずれはクロイ・タツヤ、あなたと共に戦う日が来るでしょう。わたしもその日のために戦います」

 ……そして会談が終わり、時刻はすでに夜である。竜也達を乗せた船はスキラへの帰路に着いていた。ミカを乗せてオエアから来た船もオエアへと戻っていく。が、

「……それで、どうして君がここに?」

 肝心のミカが竜也達の船に同乗していた。竜也の問いに、ミカは「何を訊いているのかこの馬鹿は」と言いたげな顔をする。

「オエアに戻っても再びギーラの籠の鳥となるだけ。それならあなたの元に留まって自由に動けた方が父上のためにもなります」

 ミカは偉そうに胸を張った。そんなミカをカフラやラズワルドは白けたような目で眺めている。

「まあ、いいけど」

 と竜也が受け入れ、エジオン=ゲベルの王女ミカが竜也の一党に加わることとなる。







[19836] 第一五話「スキラ会議」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/24 21:05



「黄金の帝国」・戦雲篇
第一五話「スキラ会議」






 竜也がアミール・ダールの末娘・ミカを連れてスキラに戻ってきたのはアルカサムの月(第八月)の下旬である。

「本当にこんなところに住んでいるのですね、あなたは」

 竜也一党の拠点「マラルの珈琲店」に案内され、ミカは呆れたような目を竜也へと向けた。

「いや、ここで特に問題はないし」

「大ありです。警備はどうするのですか? わたしはこれでもエジオン=ゲベルの王女ですよ。末席ですが王位継承権だって持っているのですよ」

 カフラがミカに同調する。

「確かにそうです。ミカさんだけでなくタツヤさんの警備上の問題もあります。不特定多数が自由に出入りをする飲食店をいつまでも使い続けるのは」

 ふむ、と竜也はしばし考え込んだ。

「護衛を増やすとしても、今のままじゃマラルさんの迷惑になるだけか……」

 竜也は「よし」と決断。「珈琲店」の店内へと入っていき、

「マラルさん、いくらならこの店を譲ってくれますか?」

 竜也の後に続いたカフラとミカは崩れ落ちそうになっていた。
 こうして「マラルの珈琲店」は閉店し、名実共に竜也一党の拠点として機能することとなる。だがマラルの生活に大きな変化はない。これまで不特定の客に珈琲や軽食を出していたのを、出す相手が竜也達や竜也の客、牙犬族の護衛に限定されただけである。

「ところでわたしはどこに住めば? ここの屋根裏部屋ですか?」

「君が望むのならそれで……」

 竜也の言葉は途中で途切れてしまった。ミカは笑みを浮かべているが、目は笑っていない。ミカは笑顔のまま竜也を威圧した。

「カフラ、頼む」

「判りました、こちらで手配します」

 ミカの住む場所について竜也はカフラに丸投げし、

「サフィール、牙犬族の女剣士を何人か揃えてくれないか? 彼女の護衛をお願いしたいんだ」

 さらには護衛も手配する。自分の護衛に女性を手配する竜也の配慮にミカは一応の満足を見せた。ミカが席を外した機会を狙い、竜也はカフラ達に確認する。

「あの子、王女様なんだろう? どういう態度で接したらいいんだ?」

「わたしやサフィールさんに対するのと同じで構わないんじゃないですか?」

 カフラの答えを聞いても竜也の困惑は解消されず、より深まるかのようだった。

「構わないのか? それで」

「エジオン=ゲベルならともかく、ここはネゲヴです。故国では王女だろうと、ここでは傭兵指揮官の使者でしかありません」

「タツヤさんは最低でも将軍アミール・ダールとは対等です。ミカさんはアミール・ダールの部下という立場なんですから、タツヤさんより格下なのは間違いないんです」

 ベラ=ラフマとカフラは竜也のことを過大評価する傾向がある(と竜也は思っている)ので、竜也は二人の説明を額面通りには受け入れられなかった。が、二人の言葉を否定する材料も持っておらず、結局は二人の助言そのままに振る舞うこととなる。
 ミカを受け入れた竜也は陣容を整え、ギーラに対抗するための行動を開始した。

「なるべく西の方の町、その周辺の出身者、地理に詳しい者、その辺りで戦った経験のある傭兵。そんな人達を集めてくれ。どこで戦ったらいいか聞き取りをしてまずいくつか候補を出して、実地で調査をする」

 カフラ達が人を集め、マグド達が聞き取り調査をし、ミカ達が調査結果をまとめる。全員が精力的に働いたのだが、充分な成果は出せなかった。

「……なかなかいい場所は見つからないか」

「ええ。ソウラ川、サイダ川、イコシウム、北の谷……ナハル川に負けないくらいの難所はいくつもあります。ですが、敵がそれを避けて通ることも簡単な場所ばかりです。ナハル川ほど都合のいい場所は……」

 そうか、と竜也はため息をつく。

「ギーラという男、決して馬鹿じゃないんだな」

「ええ」

 とミカも同意しつつため息をついた。
 一方竜也達がそうやって動くに伴い、ギーラの防衛構想がスキラや近隣の町で広く知られるようになる。当然ながらオエアに対する反発と反感が広がった。

「あいつら、俺達を犠牲にして自分達だけ助かろうっていうのか」

「冗談じゃないぞ。あんな連中の言いなりになんかなれるか」

 オエアに対する敵意がスキラへの期待を高めていく。ギーラに対する反発が竜也の声望を高めていく。今やオエアとスキラがネゲヴを二分し、ギーラと竜也が両都市を代表する人間として目されるようになっていた。
 月は変わってキスリムの月(第九月)の初旬。スキラで「聖槌軍対策会議」が開催されたのはそんな状況下である。一方オエアでもほぼ同時期にオエア主催で「聖槌軍対策会議」が開催されている。この後、スキラでの会議は「スキラ会議」、オエアでの会議は「オエア会議」の通称で呼ばれるようになる。
 会場はスキラ中心市街、商会連盟の別館。その館の通称をソロモン館と言う。元はソロモン商会という大豪商の邸宅であり、かつてのゲラ同盟が事務局を置いたこともある。四〇〇年以上の歴史と伝統を誇り、城と言ってもいいくらいの規模と豪奢さを持つ建物だ。館周辺や前庭には恩寵の部族や傭兵の護衛等がたむろしている。

「おい、見ろよ」

「へえ、あれが……」

 竜也は彼等の視線を受けながら館の中へと、その奥へと進んでいく。館の最奥、バレーボールのコートくらいの面積がある一際豪奢な部屋が会議の会場だった。会場にはすでに大勢の参加者が集まっている。
 ナーフィア商会当主ミルヤム・ナーフィア、ジャリール商会当主、ワーリス商会当主等、各地の有力なバール人商会。
 牙犬族族長アラッド・ジューベイ、金獅子族族長インフィガル・アリー、赤虎族族長セアラー・ナメル等、恩寵の部族の族長達。
 スキラを始めとして、カルト=ハダシュト、ハドゥルメトゥム、スファチェ、レプティス=マグナ等の近隣自治都市の長老会議代表。
 他にはガイル=ラベクを筆頭とする著名な傭兵団首領、それにマグドが加わっている。
 このそうそうたる参加者の中で、竜也の席は会議室の中心、議長のすぐ隣に用意されていた。竜也は内心の気後れを押し殺しながらその席に座る。議長を務めるのはラティーフという老人で、スキラ長老会議の一員だ。

「温厚で人当たりが良く人望もあり、調整型の政治家としては非常に優れた方です」

 とはカフラの評価である。

「……我々ネゲヴの民は聖槌軍という恐るべき敵に脅かされています……」

 会議はラティーフの挨拶から始まった。その挨拶は割合手短に終わり、

「それではまず彼からエレブの最新情勢について説明してもらいましょう」

 議長の紹介を受け、竜也が立ち上がる。「クロイ・タツヤです」と簡単に挨拶をし、速やかに報告へと入った。原稿はベラ=ラフマがまとめてくれたものである。

「……フランクが二五万、ディウティスクが二五万、イベルスが二五万、レモリアが一五万、ブリトンが一〇万、総勢百万。それが教皇が各国に割り当てた兵数です。全軍の集結地点はイベルスのマラカ、集結日はアダルの月の一日。集結日まではあと三ヶ月、ディウティスク等の遠方では移動が開始されている頃です」

 報告を聞いた参加者がざわめく。そのうちの一人が竜也に問うた。

「いくら何でも百万はあり得ないだろう」

「確かに考え難いことです。ですが、エレブ人は十万やそこらでは収まらないだけの準備を進めている。例え百万の三分の一でも三〇万を越える大軍勢です。我々にどれだけの兵が用意できますか?」

 参加者が再びざわめく。恩寵の部族が義勇軍の結成について宣言し、各町の代表が徴兵の準備について報告する。その他軍費負担、戦場の選定、防衛線の選定等、議題は多岐にわたり活発な議論が展開された。だが、

「つ、疲れた……」

 会議は夜更けになってようやく終了し、竜也は「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。竜也は身を投げ出すように椅子に座った。

「何にも決まらなかった……」

 意見の隔たり、立場の違いがあまりに大きく、散々議論をして結局何一つ決定されなかったのだ。

「まだ初日です。やむを得ないことかと」

 と慰めるように言うのはベラ=ラフマだ。「それはそうだけど」と竜也は顔を上げた。

「――ところで、オエアでも『聖槌軍対策会議』が開かれているんですよね」

「ええ。スキラに対抗してのことでしょう。さすがに海洋交易・軍事同盟の復活を掲げはしていませんが、『聖槌軍対策』の裏側で実質的な復活を目指して活動するものと見られます」

 ベラ=ラフマは「オエア会議の参加者一覧です」と書面を差し出す。竜也は受け取って目を通した。

「……かなり重複してる?」

「はい。スキラ会議の参加者の多くが名代をオエアにも送っています。それはオエア会議の参加者にしても同じです。今日の会議、東ネゲヴの各町からも名代だけは来ていたかと思いますが」

「保険てことか。用心深いことだな」

 竜也は天井を仰ぎ、次いで視線をベラ=ラフマへと向ける。

「向こうでいろんなことが先に決まって先手を打たれるようなことは……」

 竜也の懸念に対しベラ=ラフマは「それはないでしょう」と首を振った。

「意見の隔たり、立場の違いが大きいのは向こうも同じこと。ギーラの立場の強さや声の大きさにしても、他者を圧倒するほどではありません」

 それならいいけど、と竜也は呟いた。
 そして翌日も会議は開かれ、さらにその翌日も続いた。二日目の会議は深夜まで続き、三日目の会議は夕方で議論が打ち切られる。竜也は疲れ切った身体を引きずるようにして「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。

「何にも決まらなかった……」

 竜也は五体投地をするかのごとくに椅子と机に身を投げ出した。

「三日間あれだけ話し合ったのに、本当に、何一つ決まらなかった……」

 その徒労感は尋常ではなかった。竜也は個室の机に同化する勢いで突っ伏している。

「たかだか三日で全てが決められると思う方がおかしいでしょう」

 と辛辣に言うのはミカである。

「会議というのは得てしてそんなものです。焦っちゃ駄目ですよ」

 と慰めるのはカフラである。竜也はわずかに気力を取り戻して身を起こす。

「確かにそうかもしれないけど、もう三日も使ってるんだぞ。なのに……この有様じゃ敵がヘラクレス地峡を突破してもまだ何も決められないぞ」

 竜也は本気でそれを心配していた。

「意志決定のあり方自体を何とかする必要があるんじゃないかな」

「どういう意味ですか?」

 竜也は会議の間中ずっと考えていた案を披露する。

「俺の元いた場所には――俺の国じゃないし相当昔の話だけど――独裁官って役職があったんだ。一国の非常事態には元老院が独裁官を選出して半年か一年の一定期間、政治・軍事の指揮の全てをその人に委ねる。意見や助言はもちろん構わないけど、その独裁官が最善だと判断して決断したことには全員が無条件で従うんだ」

 ああ、とカフラとミカは理解を示した。

「バール人の時代にありましたね、そういう制度が。町同士が戦争をするときはそれぞれの町でよく選出されていました。でも同盟全体を指導するような独裁官を選出することも、そんな制度もありませんでしたが」

「ですが、確かによい考えかと。未曾有の事態なのですからそれくらいやらなければきっと後手に回ってしまうでしょう」

 二人の賛同に竜也は意を強くする。

「よし! 今度の会議でそれを提案するとして、そのために根回しをするとして、問題は誰を独裁官として選ぶかだな」

 竜也は意見を求めようとカフラとミカの方を向き、

「……どうかしたか?」

 何故か白けたような顔をしている二人の様子に首を傾げた。

「……この人のこれは演技ですか?」

「いえ、タツヤさんは素でこういう人なんです」

 二人の会話は竜也にとっては意味不明で、竜也は首を傾げるしかなかった。
 ……三日間空転するばかりの会議には参加者全員が疲れ切っており、数日の休会期間を設けることに誰も異議を唱えなかった。竜也はこの休会期間を根回しに利用しようとする。竜也は顔見知りの会議の参加者に会って回り、独裁官設置に賛意を求めた。

「ああ、確かにあの会議にはうんざりだ。俺は大賛成だぞ。それで、お前さんがその独裁官をやるんだな?」

 と言うのはマクドである。

「お前には色々借りがあるからな。独裁官選出のときはお前に一票入れてやるよ」

 とガイル=ラベク。

「おお、牙犬族の同胞が独裁官となるのか! これはめでたい!」

 と笑うのはアラッド・ジューベイだ。

「……まあ、他に適当な奴もおるまい。お前が独裁官になるのに賛成してやってもいいぞ」

 と金獅子族族長インフィガル・アリー。

「お前がなるんだろう? 他に誰がいる?」

 と当たり前のように言うのは赤虎族族長セアラー・ナメルである。

「当然賛成しますし、あなたに一票投じますよ」

 とミルヤム・ナーフィア。

「ひょひょひょ、お前さんを支持するに決まっとるじゃろ。今度は何をやってくれるのかの?」

 と楽しげに笑ったのはワーリスだ。
 一通り根回しを終え、「マラルの珈琲店」に戻ってきた竜也は、

「……どうしてこんなことに」

 と頭を抱えていた。そんな竜也をカフラとミカが半目で見下ろしている。

「どうしてもこうしてもないでしょうに。皆があなたを支持しているのに何の不満があるのですか」

「いやでも、どうして俺なんだよ。他にもっと適当な人が」

 その竜也の問いに、

「聖槌軍の侵略を最初にネゲヴ中に広く訴えたのは誰ですか? 『ネゲヴの夜明け』を刊行して聖槌軍の脅威に備えるよう唱え続けたのは誰ですか?」

「ガフサ鉱山の暴動を鎮圧したのは誰ですか? 数千の奴隷軍団を配下に収めているのは誰ですか?」

「ナハル川南岸を始めとしてネゲヴ中に数百万人分の食糧を確保しているのは誰ですか?」

「スキラ会議の呼びかけ人となったのは誰ですか?」

 カフラとミカの連撃に、竜也は鯉のように口をぱくぱくとさせた。「いや……でも」とようやく精神的に体勢を立て直す。

「俺、まだ二十歳にもなってないんだぞ? それにマゴルでこっちにはつながりも後ろ盾も、何もないし」

「確かにまだまだ若造ですね」

 と偉そうに言うのは竜也よりも年下のミカである。

「ですが、それはそれほど大きな問題にはならないでしょう。問題はあなたがこの一年間何を成してきたかです」

「それに、マゴルっていう身の上は決して欠点だけじゃありませんよ。『つながりや後ろ盾がない』ことはむしろ利点です」

 カフラの言葉に竜也が「どういうことだ?」と首をひねる。回答を呈示したのはミカである。

「例えばあなたがバール人であったならこれほど支持は広がらなかったでしょう。あなたがアシュー人であっても同じです。ネゲヴがアシュー人に支配・統治されることにわだかまりを抱く人は決して少なくありません。恩寵の部族であっても同じです。同族には支持されてもそうでない人達の支持を受けるのは困難です」

「それに対してマゴルというのは一種のおとぎ話の住人のような、現実離れした存在。どの勢力の色も付いていない、無色透明の存在です。マゴルというだけで支持する理由にはなりませんが、拒否する理由にもなりません。そしてタツヤさんは後者の利点だけを享受できるんです」

 ミカとカフラの説明が脳に浸透する。竜也は顔を青ざめさせた。

「……え、ちょっと待て。アミール・ダールやマグドさんや船長、バール人商人の誰か、どこかの町の長老会議の誰か、恩寵の部族の誰か。誰も独裁官になれないのか……?」

 ミカとカフラは竜也の様子を怪訝に思いながらも、

「立候補する身の程知らずはいくらでも出てくることでしょう。ですが、クロイ・タツヤ、あなたほど支持は集められない」

「いいじゃないですか、タツヤさんがなっちゃえば。そしてガフサ鉱山のときのようにインチキみたいなやり方でネゲヴも救っちゃってください」

 カフラは殊更に明るく軽い口調で竜也をけしかける。だが竜也は顔色を悪くするだけだ。吐き気を堪えるかのように手で口を覆っている。

「……どうやってだよ」

 竜也は絞り出すように問う。カフラとミカは顔を見合わせた。

「百万の敵を相手に、その何分の一かの寄せ集めの烏合の衆を率いて、どうやって勝てって……」

 カフラとミカは気まずそうに顔を伏せる。二人は竜也の問いに答えられなかった。







 ……竜也は漆黒の甲冑を身にまとい、戦場に立っていた。竜也の背後では竜を描いた巨大な軍旗が翻っている。砂塵の荒野の彼方には百万の聖槌軍が雲霞のように蠢いていた。味方にはマグド率いる元戦争奴隷の軍団、牙犬族を始めとする恩寵の部族の戦士達、傭兵の一団が勢揃いだ。
 竜也が剣を鞘から抜いた。黄金に輝く刀身を振り上げ、振り下ろす。それを合図としてネゲヴの軍勢が敵軍へと一斉に突撃。対する聖槌軍は横に大きく広がり、ネゲヴ軍を包囲しようとしていた。
 百万の敵軍に対し、自軍はせいぜいその五分の一……いや、四分の一。普通に戦っては勝ち目はない。竜也は傍らに控えるガリーブへと視線を送る。ガリーブは頼もしげに頷いた。

「な、何だあれは」

 聖槌軍の兵士が動揺を示す。彼等の頭上には鯨のように巨大な何かが風に乗り、ゆっくりと空を泳いでいたのだ。その飛行船は聖槌軍の中心へと爆弾を――

「あーっ! 駄目だ!」

 竜也は髪の毛を掻きむしり、大の字になって屋根に寝転ぶ。その夜、竜也は久々に屋根の上に登っていた。竜也の頭上では満天の銀河が幾億の宝石のように輝いている。

「今から準備して作ったところで、どの程度のものがいくつ作れる? ツェッペリンくらいの飛行船を十隻も用意できるならともかく、モンゴルフィエくらいの気球がいくつかあったって、それが何になるっていうんだ」

 役に立たないことはないだろう。だが百万の敵と戦う決戦兵器になり得るとは到底考えられなかった。

(俺の中に眠る「黒き竜の血」が目覚めさえすれば……独裁官としてネゲヴの全軍を率いて、聖槌軍との決戦を)

 竜也はそんな妄想を弄ぼうとする。だが以前のようにはその妄想に耽溺できなくなっている自分に気が付いていた。カフラやベラ=ラフマからの信頼、マグドの忠誠、ミルヤムやワーリスとのつながり、それらは全て竜也自身の知恵と努力により勝ち取ってきたものなのだ。それに比べれば生まれたときに与えられた(という設定の)「黒き竜の血」になど魅力を感じなくなってむしろ当然。精神的な成長を示すこととして、むしろ健全というものである。
 だが、知恵と努力で勝ち取ってきたその実績と信頼が、今竜也を苛んでいる。カフラやマグド達の期待と信望が竜也にとってはあまりに重苦しい。

「くそっ、俺にどうしろって言うんだ。俺はただの高校生だったんぞ」

 それでも竜也は懸命に脳内を検索し、役立ちそうな知識を総ざらえする。

「毒ガス……? 海水を電気分解すれば塩素を取り出せる。水素は飛行船に使って……」

 第一次世界大戦つながりで思いついたその案を竜也はしばし検討し、結局廃案とした。

「でもガスはともかく毒って考えは悪くないかも。水や食糧に仕込んで、食糧を聖槌軍に売るとかして――」

 竜也はいきなり身を起こした。竜也の脳がフル回転する。

(――百万の大軍勢なんだぞ? 連中、食糧はどうやって補給するつもりなんだ?)

(――そんなの決まってる。現地調達をやるしかない)

(――じゃあ調達できなかったらどうなる? 調達させなければどうなる?)

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が流れる。顔からは血の気が引く一方だ。
 竜也は彫像のように身じろぎ一つせず、その作戦を検討し続ける。竜也はその夜、そのまま屋根の上で夜を明かした。







 翌日、スキラ会議が再開。これまでの議題に「独裁官職の設置」が追加され、さらに活発な議論が展開された。が、やはり何も決まらない状態であることには変わりない。寝不足の竜也は居眠りをして口を開かず、多くの参加者がうんざりしているようだった。
 会議は夕方には打ち切られ、また数日の休会期間が設けられることとなった。ソロモン館を出た竜也に「クロイ殿」と一人の男が駆け寄ってくる。ミカの護衛の一人である。

「ミカが?」

「はい、姫様がお呼びになっています。港に来ていただけませんでしょうか」

 竜也は「判った」と頷き、その護衛と一緒に港へと向かった。
 そしてスキラ港、竜也はそこでミカと合流する。

「何があったんだ?」

「いえ、その……ともかくこちらへ」

 竜也はミカの案内で停泊しているとある船の前へと行く。そこでは一人の男が十数人もの兵士に取り囲まれていた。
 男は上半身裸で船の積み荷に腰掛けている。手にしているのは柄まで鋼鉄製の槍である。男の年齢は二〇代半ば、身長は一九〇センチメートルを越えているだろう。プロレスラーのように発達した筋肉を誇示しており、その身体にはいくつもの傷跡があった。

「おうミカ! 元気なようだな!」

 男が朗らかにそう声をかける。

「ノガ兄さんも相変わらずのようで……」

 ミカは頭痛を堪えるかのように指で眉間を押さえた。

「兄さん?」

「はい、三番目の兄です。父上と一緒にギーラの元で籠の鳥なっていたはずなのですが」

 竜也の疑問にミカがそう答え、その兄――ノガが、

「ああ、護衛と称する連中があまりに煩わしかったからな。ぶっ飛ばして逃げてきた」

 と明るく笑って説明した。

「それは、問題にならないのですか?」

「さあ? ともかく、傭兵が二、三人死んだみたいでオエアの兵士に追われてな。この船に飛び乗ったんだが船賃もなかったんで乗っ取った。で、妹を頼ってここまで来たわけだ」

 ミカの頭痛がさらに深まり、竜也もミカと同じような表情になった。

「ノガ兄さんは一番血の気が多いから遠からずこんなことになるだろうとは思っていましたけど」

「……まあ、ギーラの勢力を削いだと考えることにしようか。この船への保証はやっておく」

 竜也の言葉にミカは、

「すみません、助かります」

 と恐縮し、ノガは、

「おう、世話になるぞ!」

 大威張りで胸を張る。ミカの飛び蹴りがノガの顔面に突き刺さった。
 さらにはその数日後。

「すみません、タツヤ。一緒に来てもらえませんか」

 ミカの要請を受け、竜也は「マラルの珈琲店」を出た。ミカには護衛やノガも同行している。渡し船を使ってナハル川を渡り、南岸へ。そして倉庫街の外れへとやってくる竜也達。そこには数騎の騎兵の姿があった。

「何だ、兄貴も逃げてきたのか」

「当然だろう」

 そう答えるのは騎兵の中心にいる二〇代半ばの青年だ。身長は竜也より少し高いくらいでノガと比較すれば普通の体格である。鋭い目つきとやや暗い表情が特徴の、精悍そうな青年だった。
 二回目なので竜也もすぐに事情を察し、

「ミカの兄弟なら歓迎しますよ。ようこそスキラへ」

「アミール・ダールの第二子・シャブタイだ。世話になる」

 シャブタイは馬を引いて歩き出した。その馬が鞍から紐を垂らして何かを地面に引きずっている。ミカがそれを手にとってよく見、

「ひっ」

 悲鳴を上げて投げ捨てながら竜也に抱きついた。あまりにボロボロだったのですぐには判らなかったが、馬が引きずっていたのは人間の足首だったのだ。

「どうしたんだ? その足」

 お気楽に問うノガと、

「ああ、オエアを出たときには全身があったんだがな」

 当たり前に答えるシャブタイ。竜也とミカは顔を見合わせた。

「……ミカの兄弟って全員こんなのか?」

「……いえ、その、姉上はともかく兄上達はそんなことは……多分」

 ミカは気まずそうに目を逸らす。

「アミール・ダールが兄の国王から危険視されたのって、この兄弟が原因だったんじゃ……?」

 竜也はそんな疑問を抱かずにはいられなかった。







 キスリムの月も下旬に入る頃。スキラでは会議がくり返されているが相変わらず何一つ決まらない状態が続いている。見切りを付けた欠席者の席も目立つようになっていた。

「せっかく人を集めたのにこの有様じゃ……」

 会議を終え、「マラルの珈琲店」に戻ってきた竜也は一人懊悩していた。そこにベラ=ラフマが姿を現す。

「これを見てください」

 とベラ=ラフマが報告書を差し出した。何気なく受け取った竜也はそれに目を通し、

「――オエア会議が解消を議決?」

「はい。オエアでの聖槌軍対策会議で、この会議を解散してスキラ会議に合流することが提案され、それが可決されたとのことです」

 竜也は思わずベラ=ラフマの顔を凝視する。

「どういうことです?」

「ギーラの影響力が弱まっています。アミール・ダールの子息に逃げられたことが堪えているようです」

 竜也は首をひねった。

「息子があんな無茶をやったんじゃ、アミール・ダールの立場の方が弱くなるんじゃ?」

「そうとは限りません。アミール・ダールが本気になればギーラには制御不能――二人の子息の逃亡はその示威行動になったのではないでしょうか」

 ふむ、と竜也は考える。

「ギーラは猫に首輪を付けて飼い慣らしているつもりだったけど、その実猫じゃなく獅子だった、ってところか。で、ギーラじゃ獅子を飼い慣らせないことが知られて、獅子を怖がっていた人達がギーラから離れている、と」

 竜也のまとめにベラ=ラフマが「その通りです」と頷いた。
 数日後、オエア会議からの使者がスキラに到着し、スキラ会議に参加。オエア会議の解消が報告され、スキラ会議への合流が要請される。スキラ会議は満場一致で要請承諾を可決した。スキラ会議で意味のあることが決定されたのはこれが初めてである。
 そしてキスリムの月の下旬。オエア会議が合流して開催される最初のスキラ会議である。オエアからの来訪者が続々とソロモン館に入場する。竜也はソロモン館入口近くに陣取り、参加者の面々を確認していた。手の平サイズの望遠鏡を持ったミカが隣にいて、参加者の解説をする。

「あ、あれが父上です。父上!」

 とミカが一人の男を呼ぶ。竜也もまたその男へと向けて歩を進めた。竜也とその男が数メートルの距離を置いて向かい合う。
 年齢は、見た目は四〇代半ばくらい。息子達がかなりの年齢なので実際にはもう少し上だろう。背は高く、均整の取れた身体付き。アラビア風の略式軍装に、頭部にはフードを被りターバンを巻いている。口髭を生やした伊達男だが、その目は鷹のように鋭かった。

「俺がスキラのクロイ・タツヤです。ミカにはいつも世話になっています」

 アミール・ダールが刃のように鋭い視線を竜也に突き刺す。竜也は一歩後退りそうになったが何とか堪えた。

「……我が兄エジオン=ゲベル王ムンタキムの命により、ネゲヴの助太刀に参上した。非才非力の身ながら微力を尽くすことを約束しよう」

 一呼吸置いてアミール・ダールがそう述べ、竜也が「助かります」と答える。アミール・ダールは軽く一礼し、ソロモン館の中へと入っていく。その後ろ姿を見送った竜也は大きなため息をついた。

「……何か凄い顔で睨まれたけど、嫌われているのかな? 俺」

「そんなことはないはずですが。ギーラよりはタツヤの方をよほど評価しているでしょうし」

 とミカは首をひねっていた。
 それからも何人かミカの解説を聞いていた竜也だが、一人の男が自分を見ていることに気が付いた。

「ミカ、あれが誰か知っているか?」

「ああ、あれがギーラです」

 年齢は二〇代の後半で、体格は竜也と同じくらい。髪や肌の色は典型的なバール人のそれ。そこそこに整った容貌をしているが、どことなく軽薄そうな印象がある。水商売でもやっていそうな、繁華街ならどこにでもいそうな男である。だがその目つき、その眼光だけは常人とは違っていた。身体の中に余計な精力が満ち溢れていて、それが目の光になって現れているかのようだった。
 ギーラが竜也に目を留め、敵意に満ちた眼差しを向けてくる。竜也は対抗するように目に意志と力を込めてギーラを見つめた。しばしの間両者は視線で対峙する。先に引いたのはギーラである。ギーラは嗤いを見せつけ、館の中へと入っていく。竜也はその背中を見つめた。

「……何だ? あの嗤いは」

 余裕と優越感に満ちた、勝者の嗤い。ギーラは確かにそれを浮かべていた。
 ……時刻は会議が始まる定刻、場所はソロモン館内の大広間。参加者は倍近くに増え、議場は人に充ち満ちていた。

「それでは――」

「議長!」

 議長のラティーフが開会の挨拶をしようとしたところにギーラが発言をかぶせてくる。ギーラはそのまま発言を続けた。

「まずはスキラの諸君に、我々オエアに集まっていた者を受け入れてくれたことを感謝したい! そして諸君に是非お目にかけたい方がいる!」

 ギーラが入口へと向かって手を伸ばし、全員がその方向へと注視。一同の視線を集める中、扉が開いて議場に何者かが入ってくる。入ってきたのは杖をついた、かなり高齢の、仙人みたいな老人だった。ギーラは身を翻し、颯爽とその老人の隣に並んだ。

「紹介しよう! この方こそケムト王国宰相プタハヘテプ様より特使に任じられた、ホルエムヘブ様だ!」

「――!」

 やられた、と竜也は唇を噛み締める。竜也はギーラの嗤いの理由を完全に理解した。

「あーまー、宰相閣下はエレブ人とも平和に仲良くやれんかと考えておってのー。儂はそのため聖槌軍……じゃったか? その連中と話し合うよう言われておるんじゃ」

 ホルエムヘブは食後の牛みたいな、おそろしくのんびりした口調で重要なことを一同へと告げる。

「自治都市の者達が自分で身を守ろうとするのは感心なことじゃて、副特使としてこのギーラを派遣するから万事よく話し合って決めるように、とのことじゃった」

「そういうことだ、諸君!」

 ギーラは全員の視線を一身に集めながら議場の中央へと進む――舞台俳優のような歩き方で。

「さあ、ネゲヴを誰がどうやって守るのか、それを決めようじゃないか!」

 まるで歴史という物語の主役のように、ギーラは高らかにそう宣言した。








[19836] 第一六話「メン=ネフェルの王女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/05/31 21:03


「黄金の帝国」・戦雲篇
第一六話「メン=ネフェルの王女」





 キスリムの月の下旬。スキラのソロモン館、その大広間。今そこでは聖槌軍対策会議、通称スキラ会議が開催されている。オエア会議が解消され、スキラ会議に合流しての初会合である。
 ギーラは副特使の立場を最大限利用、議論の主導権を握ろうとした。聖槌軍と戦うためにネゲヴ連合軍を結成すること、その全軍の司令官にアミール・ダールを選出すること――ギーラはまずそれを提案。西ネゲヴ側は「副司令官をマグドとすること」を条件に賛成、満場一致でその案は可決された。また、それと同時にガイル=ラベクを海軍の総司令官とすることも提案され、可決されている。
 次にギーラが提案したのは「独裁官職の設置」である。一同の視線の半分がギーラに集まり、もう半分が竜也へと向けられた。

「……それを設置するのはいいとして、その独裁官には誰を選ぶつもりなんだ?」

 支持者の視線に背中を押されるようにして竜也が問い、

「私はケムト宰相プタハヘテプ閣下に副特使として任じられ、聖槌軍対策の全権を委ねられている! 私が独裁官職を兼務するのが筋というものだろう」

 ギーラが当たり前のように堂々とそう答える。

「この押しの強さは到底真似できないな」

 竜也は呆れるよりも先に感心してしまった。

「ではその独裁官殿はどうやってネゲヴを守るつもりなんだ?」

 誰かの問いに、ギーラがナハル川を防衛線とする作戦案を提案。その途端議場が騒然となった。

「西にどうしろと言うのだ!」

「俺達を犠牲にして自分達だけ助かるつもりか!」

「ネゲヴ全体が征服されるよりはまだマシだろう」

「反対するなら代案を出せ!」

 激しい罵り合いがくり返され、ときに掴み合いや取っ組み合いがくり広げられる。議論は紛糾し、全く前と進まなくなってしまった。

「副特使ギーラの案を採用して西ネゲヴを全て切り捨てた場合、西は全て聖槌軍の支配下になる。エレブからは入植者が次々と送り込まれ、元からの住民は殺されるか奴隷にさせられるかのどちらかだ。

 そして東ネゲヴはそんな聖杖教の教団国家と川を挟んで対峙し続けることになる。ナハル川がいくら堅牢だろうと、数十万の軍勢相手に一体どれだけ間防ぎ切れる? 一年か二年の時間があれば突破されるんじゃないのか? 仮に突破されないとして、聖槌軍との対峙がいつまで続くことになる? 五年や一〇年の話じゃない、百年か二百年、あるいはそれ以上も奴等は西に居座り続けるかもしれないんだぞ? あなた達はそんな未来を望むのか?」

「ならばどうすればいいと言うのだ? マゴルのクロイ・タツヤ」

 竜也は主にギーラと舌鋒を交わしている。

「我々は負けない方法を選ぶんじゃなくて、勝つ方法を選ばなきゃいけないんだ」

「だからそんな方法があるのなら言ってみろ!」

 ギーラの追求に竜也は沈黙し、ギーラは嘲笑を浮かべた。

「私は宰相プタハヘテプ閣下より聖槌軍対策を一任されている! その私が、これが最善だと判断したのだ!」

 ギーラはそれを前面に押し出して自案を推し通そうとする。だが、

「ケムトからの援軍はないのか? どうなんだ、副特使殿?」

 そのもっともな指摘に今度はギーラが沈黙を余儀なくされた。竜也がホルエムヘブに確認する。

「ケムトは聖槌軍と戦うために出兵しないのですか?」

「儂ゃ宰相からは『何とか話し合いで解決を』と命じられとる。それで何ともならんかった場合に備えるために、将軍アミール・ダールとそこのギーラを派遣しておるんじゃろ」

 その回答に失望が広がった。竜也が取りなすように提案する。

「……ともかく、ケムトに要請して一人でも多くの兵を出してもらうべきだ。その交渉を副特使ギーラにお願いしたい」

「判っている」

 ギーラは平静を装って返答した。

「そこのクロイは自前で数千の兵士を擁しているぞ! お前もケムトから一万くらいは連れてこい!」

 竜也を引き合いにした野次が飛び、嘲笑がさざめく。ギーラは敵意に燃える目で竜也をにらみ、竜也はうんざりしたため息をついた。
 結局、その日の会議は議論が堂々巡りをしたまま閉会となった。

「総司令官が決まっただけ一歩前進か」

 竜也はそう自分を慰めるしかない。
 またもや数日の休会期間が設けられ、その間オエア側は派閥工作に動いている。それはスキラ側も同様である。スキラ各所で密談が行われ、説得工作が展開され、ときに賄賂が飛び交う。

「アラエ=フィレノールムの代表を説得しました。条件次第でこちら側に付いてもいいと言っています」

 カフラが精力的に動き回り、ベラ=ラフマがそれを補佐する。この二人を中心としたスキラ側の派閥工作はオエア側に対して優勢な戦いを展開していた。
 が、竜也はその動きから距離を置いている。

「ギーラの案よりもマシな作戦案があるなら支持なんていくらでも集められるんだ。それがないのにいくら支持者を集めても仕方ない」

 竜也はマグドやミカ、シャブタイやノガに作戦案を検討させ続けた。だが未だに代案、良案は見つかっていない。

「やはり、考えれば考えるほどこの案が必然だとしか思えなくなる」

「父上や兄貴達が散々考えたのに代案が出てきてないんだ。俺が考えたって判るわけがない」

 シャブタイやノガが討議をし、ときに愚痴をこぼすのを竜也は黙って聞いていた。

「……」

 実は竜也には代案がないわけではない。一人で何度も何度も検討を重ね、犠牲を最小限に減らすにはこの方法しかないと思っている。これが唯一最善の作戦案だと確信している。だが、それを披露することはできなかった。
 ラズワルドとベラ=ラフマの二人だけが、竜也がそんな腹案を抱いていることを察している。だが二人とも竜也に対して何も言わなかった。
 スキラとオエアが対立する一方でケムトもまた独自に動いている。

「特使ホルエムヘブが自分の部下をエレブへと送り出しました。聖槌軍との交渉を行うにあたり、準備を整えるのが目的とのことです」

 ベラ=ラフマの報告に竜也は眉をひそめる。

「交渉と言っても……圧倒的に優位な敵を相手に何をどう交渉するつもりなんだ?」

 竜也が疑問を独り言のように呟き、ベラ=ラフマが律儀にそれに答えた。

「ナハル川を境界線に、西ネゲヴをエレブに譲る代わりに東ネゲヴはケムトの勢力圏として認めさせる――そのための交渉だそうです」

「ちょっと待て」

 竜也は愕然とした顔をベラ=ラフマに向けた。

「宰相プタハヘテプは最初からそのつもりで……? ギーラが西ネゲヴを盾にしようとしているのと同じように、東ネゲヴをケムトの盾にするつもりなのか」

 おそらくはそうなのでしょう、とベラ=ラフマ。竜也は頭を抱えた。

「なんてこった……ケムトが進んでネゲヴを分断しようとするなんて。もしこの話が広まったら戦争どころじゃなくなるぞ」

 と懊悩する竜也は、ベラ=ラフマが何か言いたげな顔をしていることに気が付いた。

「何か?」

「ホルエムヘブの部下には口の軽い者がいるようです。この話はすでにあちこちで語られています。遠からずスキラ中に広まるでしょう」

 ベラ=ラフマの報告通り、ケムトの秘密交渉の内容は数日でスキラ会議の参加者の誰もが知る公然の秘密と化していた。竜也の苦悩はさらに深まる。
 そんな中、キスリムの月(第九月)の月末。

「タツヤ、久しぶり」

 その日、竜也を訪ねて「マラルの珈琲店」にやってきたのはヤスミンだった。二人は店先で立ち話をする。

「久しぶりです。景気はどうですか?」

「やっぱり戦争が近いせいか、段々悪くなってるわね。そろそろ新作劇の脚本がほしいところなんだけど」

 竜也が「今はちょっと……」と苦笑し、ヤスミンも、

「ま、判ってるわよ」

 と肩をすくめた。

「今日は珍しいお客さんを連れてきたの」

 とヤスミンが悪戯っぽく笑い、後ろを振り向いて手招き。それを見て隣の建物の陰に隠れていたその人物が姿を現した。

「――ハーキムさん!」

 竜也がその鹿角族の青年――ハーキムへと駆け寄る。ハーキムもまた前へと出、両者は両手で握手をした。

「久しぶりです、無事でよかった」

「タツヤの活躍はルサディルでも耳にしていましたよ」

 二人はひとしきり再会を喜び合った。ヤスミンが立ち去り、竜也はハーキムを案内して珈琲店内のいつもの個室に移動する。カフラとベラ=ラフマがそれに同席した。

「ハーキムさんはどうしてスキラに?」

「もちろん逃げてきたんです。タツヤがスキラで出世したようでしたから厄介になろうと思いまして」

 それは構いませんけど、と竜也は質問を続ける。

「今ルサディルはどうなっているんですか?」

「町を挙げてエレブに、聖槌軍に協力しています」

 竜也とカフラは唖然とする。ハーキムの言っていることが一瞬言語として理解できず、次いでその意味を把握できなかった。

「町の住民が総出で町の外を整地し、軍営地を用意しています。宿舎用の小屋を建てたり、倉庫と兵糧を用意したり、娼館を設置したりも」

 ハーキムの言葉に、カフラは思わず「そんな……」と呟いていた。竜也が問う。

「どうしてそんな、聖槌軍の最初の目標はルサディルでしょう?」

「他に方法がありますか?」

 ハーキムはほろ苦い笑みを見せた。

「聖槌軍に全面協力し、売れるだけの媚を売り、ルサディルへの攻撃を回避する。それが長老会議の決定です」

「『ネゲヴの夜明け』は? 届きませんでしたか?」

「届きましたし、私も読みました。あの本を使って長老方を説得しようとしたのですが……『こんなものただの世迷い言だ』とアニード氏にこき下ろされてしまいました」

 あのおっさんが?と竜也は首を傾げた。

「アニード氏は以前からフランクと取引をしていて、フランク王国軍にも伝手があったそうです。

『聖槌軍とフランク軍に協力するならルサディルへの攻撃はしない』

 アニード氏がフランクの将軍からそう言質を取ってエレブとの宥和策を強硬に主張し、それを押し通してしまったんです。今、ルサディルはアニード氏とフランクの将軍タンクレードの二人に統治されているような状態です」

「将軍タンクレード――ヴェルマンドワ伯ユーグの腹心じゃないか」

 竜也はベラ=ラフマのまとめた聖槌軍指揮官の一覧を思い出す。タンクレードはヴェルマンドワ伯の直属の部下の一人であり、長年ヴェルマンドワ伯の元で軍歴を重ねてきた。軍指揮の面ではぱっとしないが謀略や交渉等の面で活躍し、ヴェルマンドワ伯に重宝されている。ヴェルマンドワ伯の懐刀と言うべき男――だそうである。

「ルサディルには聖杖教の教会が建てられ、派遣された神父が常駐し、町の住民が次々と洗礼を受けて聖杖教徒となっています。太陽神殿は破壊されて神官は追放されました。私達のような恩寵の民への迫害も始まっています」

「それでルサディルを捨てて」

 竜也の相槌にハーキムが「ええ」と頷いた。

「逃げる場所がある人間は既に逃げ出し始めています。それでもまだ大半の住民が町に留まったままですが。私のようにか細くとも何らかの当てがある人間はともかく、そうでなければ逃げようが……恩寵の民にしても一部の戦士は戦うために東の町に向かいましたが、多くは印を外して市井に紛れ込み、迫害をやり過ごそうとしています」

「そんなの……」

 竜也は唇を噛み締めた。

「今はそれで難を逃れたとして、先々にどうなるのか判っているのか?」

「そこまで考えられる状況ではないのでしょう。それに、恩寵の民を除いたルサディル市民の安全が真に保証されたわけでもありません」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也が「どういうことです」と問う。

「ルサディルを戦わずして、犠牲を出さずしてエレブ側に取り込もうとしているのはヴェルマンドワ伯です。ヴェルマンドワ伯なら町の住民が密かに太陽神殿を崇拝することも、恩寵の民が隠れ住むことも黙認するでしょう。エレブ側の主導で大規模な迫害を実施したところで誰の益にもなりません。軍事的・経済的利点を考えるならそれが当然の判断です。……が、それに枢機卿アンリ・ボケが同意するかどうかは判りません」

「太陽神殿や恩寵の民を迫害するためにルサディルを攻撃すると?」

「それと、ヴェルマンドワ伯の功績を無為にするために。あのアンリ・ボケならそれくらいのことをしても不思議はありません」

 竜也も、他の誰もベラ=ラフマの言葉を否定できない。室内は重苦しい沈黙に満たされた。

「……面倒なことになるかもしれません」

 沈黙を破ったのはベラ=ラフマである。「何がですか」と竜也が問う。

「ルサディルの動きが知られればそれに追随しようとする町が出てくるでしょう。今は西ネゲヴの各町はスキラ派としてまとまっていますが、その結束が危うくなるかもしれません」

 ベラ=ラフマの危惧は次のスキラ会議で表面化する。月はティベツの月(第一〇月)となり、その月初。休会期間が終わって再開されたスキラ会議は冒頭から紛糾した。

「ルサディルがすでにエレブ人に臣従していることは知っているだろうか? 我々もエレブ人に降伏して町の安全を図ることを考えている」

 そう表明したのはラクグーンの代表である。ラクグーンはルサディルの東隣の町であり、聖槌軍にとってはルサディルの次の攻撃目標だ。

「裏切るつもりか!」

「仲間に弓を向けるか!」

「この臆病者が、卑怯者が!」

 非難と罵倒が渦を巻く。議場は騒然となって意味のある声が何も聞こえなくなった。

「静粛に! 静粛に!」

 議長のラティーフがくり返し、長い時間をかけてようやく議場内が静まる。ラティーフがラクグーン代表に質問した。

「一体どういうつもりでそのような発言を?」

「どうもこうもないだろう、西ネゲヴを先に切り捨てようとしたのはケムトの方だ。我々は自分達で身の安全を図るべく努力するしかない」

 ラクグーン代表は肩をすくめる。誰かが「誇りはないのか!」と野次を飛ばすが、

「誇りのために五万の市民を死なせるのか!」

 と一喝され、誰もが沈黙するしかなかった。

「冗談じゃないぞ、ラクグーンの次は我々だ。メルサ=メダクに聖槌軍の攻勢を支えろと言うのか?」

「降伏して町を、市民を守れるのならそうするのが我々の義務ではないのか」

 ラクグーンに近い町から将棋倒しのように降伏論が広がっている。その一方、

「敵と一緒になって恩寵の民を辱めるか」

「よかろう、まず裏切り者どもから血祭りにしてくれる!」

 決して降伏が許されない恩寵の部族は徹底抗戦を唱えている。さらには、

「西の連中を仲間にしようとしたのが間違いではなかったか?」

「自分達の安全は自分達だけで守るべきか」

 東ネゲヴの各町は西ネゲヴを切り捨てる意向を強めていた。

「やるならやるがいい、我々が聖槌軍の先鋒となってお前達を攻めてやる!」

「ナハル川を攻め落とせると思うのならやってみろ!」

 そんな諍いが議場のあちこちでくり広げられており、一部では乱闘に発展している。ギーラはふて腐れたような顔で沈黙を守り、竜也は天を仰いだ。

「……もう駄目だ。ネゲヴを守るために色々やってきたけど、全部無駄だった」

 竜也ですら絶望し、全てを投げ出しそうになっている。他の者はすでにスキラ会議に見切りを付けてしまっていた。

「もうここで話し合っても無意味だ」

「その通りだ。町に戻って準備をしよう」

 ラクグーン等のヘラクレス地峡に近い町が席を立って去っていこうとする。竜也も他の誰もそれを止めようとしない。スキラ会議の分裂と崩壊はすでに必至――かに思われた。

「どちらに行かれるのですか?」

 議場の出入口で女性の声がする。女性とラクグーン等の代表が何かを話している。竜也はその方向へと視線を向けるが見えるのは各町代表の背中だけだ。

「――立ち去る前にわたしに話をさせてはもらえませんか?」

 その女性に願われ、各町代表は渋々引き返して自分の席に戻っていく。そして各町代表を先触れとするかのように、その女性が議場の中心へと進んでいった。竜也はあっけにとられてその女性を見つめている。
 その女性には同じ服装の四人の女性が付き従っている。引きずるように裾が長く、手が隠れるくらいに袖の長いその白い服は太陽神殿の巫女服だ。金鎖の髪飾りには大きな金の円盤が、ちょうど眉間の位置に来るように下がっている。そして中心にいるその女性も同じ巫女服を身にしていた。ただ周囲の四人の巫女服は綿製なのに対し、その女性は絹の巫女服である。
 年の頃は竜也と同じくらいか少し上。竜也より少し低いくらいの身長で、女性としては背が高い。肌はよく日焼けした日本人と同じくらいの小麦色で、黒く長い髪が艶やかで美しい。グラマラスな肢体を白い絹の巫女服で包んだ、圧倒的な美女だった。

「ファ、ファイルーズ様? どうしてこんなところに」

 ギーラが動揺しながら問う。ファイルーズと呼ばれた女性は「お久しぶりですわね」と簡単に挨拶をした。議場の中心に進み出たファイルーズは優雅に一礼をする。

「皆様ご機嫌よう、わたしはケムト王国第一王女ファイルーズと申します」

「ケムトの第一王女!?」

 竜也は驚きの声を上げていた。ラティーフを始めとするその場のほぼ全員が跳ねるように起立をする。竜也も慌てて席から立った。ファイルーズから「楽にしてください」と命が下り、竜也達は着席した。

「それで、ファイルーズ様が何でスキラにおられるんじゃろうなぁ。エレブの問題は儂等に任されとるはずじゃが」

 ホルエムヘブの問いにファイルーズは微笑みながら答える。

「あなた方がエレブ人と何を交渉しようとわたしは関知しません。わたしはわたしの成すべき事を成しにここに来たのです」

「それは?」

「聖槌軍と戦うことです」

 議場が一瞬で静まり返った。ある者は訝しげに、ある者は期待を込めて。全員の様々な視線を一身に集めながらも、ファイルーズは悠然と微笑んでいる。

「……聖槌軍への対応は私が宰相プタハヘテプから任させています。私も犠牲を減らすべく努力しているところなのです。ですからどうか安んじて」

 ギーラが女を口説くときのような笑みを見せつつファイルーズを説得しようとするが、

「ええ、宰相には戦うつもりがないことはよく判っておりますわ。ですからわたしが戦いに来たのです」

 ファイルーズは両手を胸の前で握り込み、祈るように目を瞑った。

「わたしはセルケトの末裔にして太陽神の巫女。異国の恐るべき狂信者がネゲヴの大地を穢そうというのに、ネゲヴの神々を貶めようというのに、黙って見ていることなどどうしてできるでしょうか? ましてやケムトが戦わずして敵に屈するなど、どうして認められるでしょうか?」

 恩寵の部族等の徹底抗戦派はファイルーズの言葉に意を強くしている。が、西ネゲヴと東ネゲヴの各町代表は同じような当惑の表情を見せた。

「しかしファイルーズ様。聖槌軍は数十万とも噂され、その兵力は圧倒的です。そんな敵を相手にどうやって戦えば」

「それは殿方にお任せしますわ」

 ファイルーズは笑顔で言い切った。

「わたしはわたしにできることをするまでです。わたしはたとえ一人でも、剣を取って聖槌軍と戦いますわ」

 ファイルーズが堂々と宣言する。竜也は顔が、胸の内が熱くなるのを感じていた。それは羞恥なのかもしれないし、高揚なのかもしれない。あるいは感動なのかもしれなかった。

(……ああ、そうだ、その通りだ。彼女の言う通りだ。誰が相手であろうと、決して譲ってはならないことがある。どんなに勝ち目が乏しくても、生命を懸けて戦わなければならないときがある)

 絶望に潰され、項垂れるだけだった竜也は今は顔を上げ、視線を前へと向け、先を見据えている。

(そうだ、たとえ俺一人でも戦うんだ。剣を振るえなくても戦いようはある。ましてや俺は決して一人じゃない。マグドさんがいる、奴隷軍団がいる、牙犬族の面々がいる、恩寵の戦士達がいる――何だ、いくらでも戦えるじゃないか)

 竜也は議場を見渡した。マグドや恩寵の部族の族長達は竜也と同じように絶望から抜け出し、戦う意志を固めている。が、それ以外の面々には失望が広がっていた。

(確かに彼女は具体的な方策もケムトの兵力も持ってないけど……女性にここまで言わせて恥ずかしくないのか?)

 竜也は舌打ちを一つし、次いで大きく深呼吸。

「――ここにはエジオン=ゲベルの名将アミール・ダールがいる!」

 雄叫びを上げた竜也に全員の視線が集まった。竜也が口上を続ける。

「奴隷軍団を率いるマグドがいる! 髑髏船団のガイル=ラベクがいる! 牙犬族が、金獅子族が、赤虎族が、三大陸無敵の恩寵の戦士達が揃っている! 泣く子も黙る傭兵団が集っている! 決してファイルーズ様一人に戦わせはしない!」

 恩寵の部族の族長達が真っ先に反応、声を揃えた。

「そうだ!」

「その通りだ!」

「クロイ・タツヤの言う通りだ!」

 続いて傭兵団の代表が声を上げ、さらには西ネゲヴ・東ネゲヴの代表が抗戦を唱える。ファイルーズの宣言に胸を熱くさせたのは竜也一人ではなかったのだ。議場の空気は一瞬で沸騰し徹底抗戦一色となった。

「しかし、具体的にどうやって戦えば」

 その場の空気に取り残されたギーラが流れを変えようとするが、

「そんなもの後から考えればいい!」

 竜也はそれを勢いで押し流した。

「これだけの面子が揃っているんだ。何も良案が出てこないなんてこと、あり得ない!」

「そうだ!」

「その通りだ!」

 と武闘派の面々が竜也に同調する。結局その日は一日そんな調子で「聖槌軍に対して徹底抗戦すること」を確認して終わってしまった。具体的な作戦案は何も検討されていない。

「まあ、分裂や崩壊が回避できただけでも上出来か。ファイルーズさまさまだな」

 竜也はそんな感想を抱きつつソロモン館を後にした。竜也は今後の打ち合わせのためにマグドを伴い「マラルの珈琲店」へと移動する。「珈琲店」ではいつものようにカフラやミカやベラ=ラフマ、サフィールやラズワルドが竜也を待っていた。

「お帰りなさい。今日はどうでしたか?」

「今日は報告することが多いな」

 竜也達はいつもの個室に移動。それぞれのお茶や珈琲を用意し、珈琲を飲んで一息ついて、今日の報告をしようとしたところに、

「タツヤ、すぐ来て」

 マラルがやってきて竜也を呼ぶ。マラルは返事を待たず竜也を引っ張っていった。

「どうしたんです? 一体何が」

「いいから早く」

 マラルに引っ張られて個室から店内へとやってきた竜也は、

「ふむ。なかなか美味いな」

「ああ、俺も気に入っている」

「いい香りですわ」

 店内で珈琲を嗜んでいるアミール・ダール、ガイル=ラベク、そしてファイルーズの姿に絶句した。

「……どうしてここに」

 何とかそれを問う竜也にファイルーズは、

「急に美味しい珈琲が飲みたくなりまして、船長と将軍にスキラ案内をお願いしました」

 涼しい顔でそう答える。竜也は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。
 ……それから少しの間を置いて、「マラルの珈琲店」。店の前では牙犬族の剣士と奴隷軍団の兵士、それに髑髏船団の傭兵が歩哨に立っている。店内ではアミール・ダール、ガイル=ラベクが美味しそうに珈琲を飲んでおり、ファイルーズは、

「本当にこんなところに住んでいるのですね」

 と興味深げに店内を見回していた。マグドやカフラ達も個室から移動してきて、ファイルーズ達と向かい合っている。マラルは平静を装ってカウンターで珈琲を入れているが、その手が微妙に震えていた。

「……しかし」

 こうやって改めてファイルーズとごく間近に相対してみると、その存在感には圧倒されんばかりである(特に胸)。グラマーな女性が好みの竜也にとってはど真ん中への直球剛速球ストライクだ。

「全てがぎりぎりの線なのですよ……! これ以上色気が強かったら下品になる。これ以上脂が多かったら下卑たプロポーションになる」

「タツヤ?」

 感動のあまりどこかのグルメ漫画じみたことを呟く竜也に、ミカが声をかける。それで竜也は「ああ、ごめん」とようやく現世に戻ってきた。心なしかミカとサフィールとラズワルドの視線が冷たいような気がしなくもない。

「それで、どうしてこんなところに」

 ごまかすように竜也が再度それを問い、ファイルーズが答える。

「わたしはネゲヴを救うためならどこにでも行きますし、誰とでも会いますわ」

「それにしても、まさかファイルーズ様ご自身がスキラまで」

 とミカが改めて驚きを示し、ファイルーズがそれに答え、

「宰相プタハヘテプが聖槌軍と手を結ぼうとしているのはご存じでしょう? わたしだけでなく多くの者がそれに反対したのですが、宰相は反対を押し切ってその方針を決定してしまいました。わたしはその方針が正しいとはどうしても思えなかったものですので、何とかしたいと思い、思わずメン=ネフェルを飛び出してきてしまったのです」

 ファイルーズは方針を覆すべく運動したのだが、宰相に睨まれ謹慎処分を受けてしまった。王宮の奥で軟禁状態になったのだが、置き手紙を残して王宮を脱出してきたと言う。

「今頃は王位継承権を剥奪されているかもしれません」

 とファイルーズは深刻さが欠片も伺えない調子で説明した。

「……えーっと、要するに」

 と竜也は戸惑いながらファイルーズの説明をまとめようとする。

「家出娘?」

「まあ、まさしくその通りですわ」

 竜也の端的すぎるまとめに、ファイルーズはおかしそうに笑った。ミカ達は「笑っている場合じゃないだろう」と言いたげな目をファイルーズと竜也に向けている。

「宰相の方針をおかしいと思う者はケムト内にも決して少なくありません。誰よりケムト王ご自身が内心では反対です。特使ホルエムヘブの部下の中にもいましたし、それに特使ご自身も聖槌軍に媚びへつらうことを望んでいるわけではありませんわ」

 特使ホルエムヘブはケムトの有力貴族の出身で、若い頃には辣腕として知られ、大臣職も歴任したことがあるという。ただし十年前に引退し、少し前まで故郷の小さな荘園で悠々自適の隠居生活を送っていた人物だ。

「宰相としてはとっておきの切り札を切った、ってところなのかな。アシューの国との交渉ならそれで間違いはないんだろうけど……」

「確かに、エレブ人との交渉には少し的外れな人選のように思えますね」

 タツヤが首を傾げ、ミカがそれに同意した。ホルエムヘブは部下に交渉実務を任す一方自分はスキラに留まっており、特に何をするでもなく半隠居状態だ。年齢的・体力的に考えてそうなってしまうこともやむを得ない、それが竜也達の見解だった。

「ですが、内心はどうあれ特使が宰相に逆らうのは難しいのでは? それに聖槌軍とまともに戦っても勝ち目がほとんどない以上、宰相の方針が必ずしも間違っているとも言えません」

「確かに、普通に戦っても勝つのは難しいとわたしも思いますわ」

 ファイルーズの思わせぶりな物言いにミカが色めき立った。

「何かあるのですか? 戦う方策が」

「いえ、わたしには」

 ファイルーズは首を横に振り、視線を竜也へと固定する。一同の視線が竜也へと集中し、かなりの時間沈黙がその場を支配した。先に口を開いたのはファイルーズである。

「……クロイ・タツヤ。あなたには何か考えがあるのではありませんか? ギーラさんの案とは別の、ネゲヴを救うための方策が」

 ミカとカフラの視線が竜也に突き刺さるが、竜也は無表情・無反応だ。

「どうしてそんなことを?」

「何となくそう感じたんです、今日のあなたの態度から」

 ファイルーズはそう言って微笑む。少しの間微笑むファイルーズと無表情の竜也が無言のまま対峙。やがて竜也が根負けしたようにため息をついた。

「……ないわけじゃない。『結果的に犠牲を最小限にする』、そのための腹案なら持っている」

「何故それを言わないのです。出し惜しみをしている場合ですか」

 と非難するのはミカである。竜也は目を逸らした。

「どう考えても実行できるとは思えなかったし、実行したくもなかったから。でも、言わないわけにはいかないか」

 当然です、と憮然とするミカ。竜也は躊躇いながらも人差し指を立て、

「――一年だ。一年でこの戦争を終わらせる」

 全員にそう宣言した。







 太陽はすでに西に沈みかけ、時刻は逢魔が時。「珈琲店」内は薄暗がりである。夕闇の中で血のように赤く黒く染まった竜也を店内の一同が見つめている。竜也は口元をきつく結び、一同と相対していた。

「――百万の聖槌軍を皆殺しにして一日でも早くこの戦いを終わらせる。それが『結果的に犠牲を最小限にする』方法だ。焦土作戦をもって奴等を皆殺しにする」

「それはどんな作戦なんですか?」

 とミカが問う。

「エレブ本国からの食糧の補給がない、というのがこの作戦の要諦だ。聖槌軍は食糧をネゲヴで現地調達するしかないけど、それを徹底的に妨害する。奴等を飢えに追い込むんだ」

「一体どうやって」

「聖槌軍の進軍上の街道から、町や村から食糧を全て撤去する。避難する人達に持てるだけの食糧を持たせ、船を使ってスキラより東に運べるだけの食糧を運んでいく。持っていけない食糧は全部焼き捨てるか海に捨てる。収穫前の畑も全部焼き払う」

 それは……とだれが呟き、そのまま沈黙した。竜也の説明が続く。

「できるなら聖槌軍が宿泊に使いそうな建物も全部焼き払って破壊したいけど、そこまでは言わない。敵をスキラまで引きずり込んで、ナハル川を使ってそれ以上の進軍を阻止。本国に引き返すことも阻止、他の町への移動も阻止する。聖槌軍の全員が飢え死にするまで敵をスキラで立ち往生させるんだ。この場合百万という敵数が聖槌軍にとっての最大の弱点となる。我々はそこを徹底的に攻めるんだ」

「ちょっと待てください、それじゃ西ネゲヴの民はどうなるのですか? どうするつもりなんですか?」

「一人でも多く、生命を助ける。この一年を引き延びさせる。それだけを考える。食糧と一緒に人間も街道上からいなくなる。西ネゲブの人口が三〇〇万として、おおざっぱに言って半分くらいはアドラル山脈(元の世界のアトラス山脈に相当)や大樹海アーシラトとかの南に逃げて、残り半分がナハル川の東に逃げたらいいんじゃないかな」

 何とも言い難い沈黙がその場を満たす。最初に口を開いたのはミカだった。

「……いくら何でも無茶苦茶です。そんなことできるわけがない」

「わたしにもそうとしか思えません……けど」

 とカフラ。

「タツヤさんだって散々考えた上での提案だと思います。その考えを聞かせてほしいんです。ルサディルからスキラまでは陸路なら一万スタディアはありますよ? 一五〇万の民にそれだけの距離を歩けと?」

「カフラは勘違いしているよ」

 竜也は慌てず騒がず反論した。

「西ネゲヴの人口三〇〇万という数字は、スキラ・スファチェ・ハドゥルメトゥム・カルト=ハダシュト等のナハル川に近い大都市も全部含めての話なんだ。西ネゲヴの町は西に行くほど小さくなる、人口も西に行くほど少なくなっている。それに、元々街道から外れた場所に住んでいて逃げる必要がない人達も少なくはないだろう」

 カフラとミカは盲点を突かれたような表情をした。

「だからナハル川の近くに住む人達が東に逃げて、西の人達はアドラル山脈か大樹海アーシラトに逃げる。イギルギリあたりから全市民が東に逃げてもらえば」

「ですけど、持って移動できる食糧なんてたかが知れています。南や東に逃げた人達は一体どうやって生活をすれば?」

「もちろん東の人達が全力で支援をするんだ。『東に逃げれば何とかなる』――その保証があるのなら避難を促すことができる」

 なるほど、得心したのはミカである。

「勝つために西の人間にそれだけの苦難を背負わせるのなら、東の人間にも相応の負担をしてもらうわけですね」

 その通りだ、と竜也が頷く。

「西の人間にも東の人間にも滅茶苦茶な苦難と負担を背負わせることになる。でも、それも一年だけだ。一年だけ故郷を捨てれば、一年だけ税金を我慢すれば……一年だけなら、耐えられないことはないと思う」

 だがカフラ達は苦い表情を見せた。

「ですけど、たとえ一年だけの話でも東の人達がそれだけの負担をしようとするでしょうか?」

 無理だろうな、と竜也は肩をすくめた。

「それ以前に、たとえ一年だけの話でも西の人間がそんな避難をしようとするとは思えません。それくらいなら聖槌軍に降伏することを選ぶのではないですか」

 そうなるだろうな、と竜也はさらに肩をすくめた。その上で、

「今のままなら、な」

 と付け加えた。

「どういう意味でしょうか?」

 沈黙を守っていたファイルーズが初めて質問をする。だが竜也はそれに答えなかった。

「近いうちにまた風向きが変わると思う」

 と言うだけだ。
 ファイルーズ達とのそれで会談はお開きとなり、ファイルーズは物足りなさそうな表情で帰っていった。ファイルーズはスキラ市内の太陽神殿を宿舎とするとのことである。
 アミール・ダールもギーラの元に戻っていくがその前にベラ=ラフマが、

「今日ここで語ったことはそのままギーラに報告してもらって構いません」

 と告げる。アミール・ダールはわずかに目を見開き、無言で会釈して立ち去っていった。
 そして次のスキラ会議が開催され、

「――一年だ! 一年で聖槌軍を全滅させる!」

 ギーラは開口一番堂々と宣言。そして焦土作戦を自案として説明した。竜也は呆然ととしたままそれを聞いている。

「馬鹿なことを言うな!」

「我々に死ねと言うのか!」

「聖槌軍に降伏した方がまだマシだ!」

 案の定ギーラは西の各町代表から袋叩きになっていた。さすがのギーラも怯んでいる。

「確かにその案なら戦争を一年で終わらせることができる。結果的に犠牲や負担を最小限にする方法だと思う」

 竜也は助け船を出し、

「それで、オエアがそれを提案するということは、オエアは西の避難民を全力で受け入れると理解していいだろうか?」

 その上でギーラの弱点を突いた。ギーラは沈黙するしかない。結局ギーラの提案は一蹴されてその日の会議は終わることとなった。会議の後、竜也はベラ=ラフマに報告する。

「まさかギーラが本当に提案するなんて」

「はい、思った以上に考えなしな男のようです」

 竜也はギーラという男をそれなりに高く買っている。

「徒手空拳から弁舌だけで東ネゲヴを動かし、ケムトを動かし、エジオン=ゲベルを動かし、今や事実上の東ネゲヴ代表だ。現代知識という下駄を抜きにしたなら、単なる能力だけを比較したなら俺なんかギーラの足元にも及ばない」

 というのが竜也によるギーラの評価であり、自己評価だった。だがそれと同時に、

「能力以前のところで、人間として何か大事なものが根本的に抜け落ちているんじゃないか」

 そう思わずにはいられなかった。

「しかし、これで焦土作戦案に対する各町の反応を知ることができました」

 竜也はため息をついた。

「想像以上に厳しい。検討の余地もなかった」

「はい。ですが、いずれ風向きは変わります。変わらざるを得ないでしょう」

 ベラ=ラフマは竜也に報告書を手渡す。それはエレブ情勢速報の最新号だった。





[19836] 第一七話「エレブの少女」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/07 21:03


「黄金の帝国」・戦雲篇
第一七話「エレブの少女」





 ――時間は少し遡り、キスリムの月(第九月)の下旬。場所はレモリア王国の港町、ゲナ。元の世界で言うならジェノバに相当する町である。
 ゲナの町から西へと向かう街道沿いのその場所で、兵士達が一夜を明かしていた。兵士は皆外套を着込み、寒さに身を震わせている。元の世界なら一月に相当する季節であり、エレブは冬の真っ直中だった。兵士の数は見える範囲だけで数千人。それぞれ身を寄せ合い、体温を分かち合っている。
 その中で、一人の兵士が仲間から外れた場所に座り込んでいた。他の兵士に比べて非常に小柄な体格で、まるで子供のようである。銀色の髪の毛は短く切られており、フードを深々と被って頭部と顔を、翠の瞳を隠していた。

「ディア様、食事です」

 一人の壮年の男がその小柄な兵士に近付き、黒パンを手渡す。ディアと呼ばれた兵士は無言のまま黒パンを受け取り、栗鼠のように少しずつそれを食べた。

「ディア様、今日は冷えます。こちらに来ませんか」

「ここでいい」

 ディアは短く答えるだけだ。精一杯低い声を出しているが、その声を聞けばディアが女であることはすぐに判る。年齢は十代の前半。顔をわざと泥で汚しているが、その幼くも凛々しく美しい容貌は隠し切れてはいなかった。
 配給の黒パンを少しずつ味わい、よく噛んで食べるが、それでも黒パンはすぐになくなる。今日の夕食はそれで終わりだった。

(……ああ、一度でいいからパンと肉を腹一杯食いたい)

 ディアは空腹に痛みすら覚える腹を抱え、身体を丸めた。
 ――ディア達が生まれ故郷の村から離れてすでに一月近くが経過している。ディア達は聖槌軍の一員としてマラカへ向けての行軍の最中だった。ディア達にとっては決して望んでのことではなく、村を支配する領主に命令されてやむを得ずのことだったが。
 ディア達の行軍は苦難苦闘の連続であり、それは日を追うごとに大きくなる一方だった。最大の問題は食糧の補給が滞ることである。

「てめえ、それは俺のパンだろうが!」

「知るか! 名前でも書いてあるのかよ!」

 あるときはディアが村から連れてきた男達が一切れのパンを巡って殴り合いを演じていた。ディアは、

「やめろ!」

 と両者の間に割って入る。一応殴り合いは止まったものの、両者は憎々しげに睨み合っていた。ディアはため息をついて、

「ほら」

 と一方の男に自分のパンを差し出した。

「ディ、ディア様それは」

「これを食べろ。誇り高き一族の戦士が一切れのパンで争いなど……頼むからやめてくれ」

 二人は気まずそうに目を逸らす。一方の男が食いかけのパンをもう一方に握らせ、その場から逃げていく。両者の争いは一応の解決を見、ディアは元の場所へと戻った。そのディアに村人の一人――ヴォルフガングが声をかける。

「しかし、配給がこの調子では揉め事が起こるのも当然です」

「判っている。だが、どうすれば」

 と悩むディアにヴォルフガングが提案した。

「この先の町にもバール人の商館はあるでしょう。そこを襲撃してはどうでしょう」

「しかしそれは」

 とためらうディア。ヴォルフガングは説得を重ねた。

「忍び込んで貯め込んだ食糧を奪ってくるだけです。バール人と言えど無意味に傷付けるような真似はしません。私が指揮を執ります」

 悩むディアだが、それほど長い時間ではなかった。

「判った、頼む」

 ディアの言葉にヴォルフガングが力強く頷く。ヴォルフガングは部下を三人連れ、隊列から離れていった。
 ヴォルフガングと三人の部下は街道を外れ、山中の獣道を全力で走っている。人目をはばかり、聖槌軍の行軍を避け、ディア達より一足も二足も先に次の町に到着する。ヴォルフガング達はバール人の商館を探し、それはすぐに見つかった。

「……これは」

 その商館はすでに襲撃を受け、略奪された後だったのだ。金目のものも食い物も全てが奪われ、家族のうち女性は強姦されて殺されていた。生き残った商館の男は妻の遺骸を抱いて身も世もなく嘆き叫んでいる。

「……どうします」

「……他の場所を当たろう」

 ヴォルフガングは食糧を求めて町中を走り回り、彷徨い歩いた。そうやってやっとの思いで、たった一ヶ所だけ食糧が潤沢に集まっている場所を発見した。

「……しかしここは」

 男達は躊躇いを見せる。そこは聖槌軍の兵糧倉庫だったのだ。一方のヴォルフガングの決意は固かった。

「他に食い物なんかないだろう。やるぞ」

 ヴォルフガング達は夜影に紛れて倉庫に接近。歩哨が離れたことを確認し、部下に周囲を警戒させる。ヴォルフガングは倉庫の壁に拳で触れた。
 ヴォルフガングは深く深呼吸をくり返し、全身の力を拳へと込める。

「――フン!」

 裂帛の気合いと共に拳がゼロ距離の壁に打ち込まれ、壁は攻城用の破壊槌を食らったかのように崩れ、大穴が空いた。さらに蹴りで穴を広げ、人が余裕で通り抜けられるようにする。

「急げ! 持てるだけ持って逃げるぞ!」

 倉庫に侵入したヴォルフガング達は麦の袋や干し肉を両手に抱え、紐で結んで背中に担いだ。音を聞きつけて歩哨がやってくるのを見計らい、脱出する。幸い追いかけてくる兵はおらず無事に逃げ切ることができた。
 何日か後、ディア達がその町にやってきたので合流する。ヴォルフガング達から食糧を受け取ったディアの兵は密かに歓声を上げた。

「よくやってくれた、ヴォルフガング」

「ありがとうございます」

「それで、あの者達にも少し分けてやってくれ」

 とディアが視線で指し示す先には、幼い子供を抱えた母の姿があった。

「あの者達は?」

 ヴォルフガングは少し非難がましく訊ね、ディアは淡々と答えた。

「お前達が抜けている間に領主様の点呼があってな、それをごまかすために頭数が必要だった」

 頭数さえ揃っていれば中身は問われないからな、とディアが説明をまとめる。ヴォルフガングはため息をついてディアの命令に従った。
 その夜、街道沿いで野営をしているディア達の眼前をある一団が通り抜けていく。十数人の裸の男達が兵士に引っ張られて歩いていた。その裸の男達は牛のような鼻輪をしており、それを引っ張られているのだ。そしてその目から黒い涙を流している――いや、血だ。

「な、何だあれは」

「うぐ……」

 男達は全員両目をえぐられていた。その虚ろな眼窩から滂沱の涙のように血を流している。男達の姿は地獄の獄卒に率いられる亡者そのものだった。

「あれは一体」

 と訊ねるヴォルフガング。ディアが固い声で答えた。

「食糧倉庫を襲撃して食糧を奪っていった犯人達だ。普段なら火炙りにするところだろうが、諸侯様にもそんな余裕はないらしい」

 自分達に便乗して食糧を奪おうとして捕まったのだろう、とヴォルフガングは見当を付ける。一歩間違えれば自分達が、村の仲間やディアまでも巻き込んでああなっていたのだ。ヴォルフガングの肌が粟立った。
 ――教皇インノケンティウスが各国に発した動員令は絶対の勅命と化しており、五王国はそれを遵守すべくあらゆる犠牲を払っていた。
 各王室は諸侯に動員兵数を割り当て義務付け、その諸侯もまた配下の部下・小諸侯へと動員兵数を割り当て、罰則を持ってそれだけの兵数を動員することを強制する。さらにその部下達はまた部下へと連鎖していき、末端では五人一組、または十人一組とした班が組織された。班には定員が決められ、欠員は班員全員の連帯責任で埋め合わせる義務がある。行軍中の脱落による欠員すらも認められないのだ。欠員が出た場合はどんなに軽くても鞭打ち、悪くすると処刑の処罰が待っていた。最悪の場合は故郷の村が丸ごと異端認定されることも考えられた。
 このため各班は欠員を埋め合わせるためにどんなことでもやった。奴隷を買うくらいは穏当な方で、人攫いすら当たり前のように行われる。一家の稼ぎ手を攫われ、途方に暮れた女子供が欠員に加えられることも珍しくない。ディア達の班に加わった女性と子供もそのような素性である。

「……もう駄目か。置いていきましょう」

 その子供は過酷な環境に耐えられず生命を落とし、子供の遺骸を抱いた女性にも先に進む力は残っていなかった。女性はかろうじて生命を保っていたものの、その精神はすでに冥府への列に加わっている。瞳はすでに死者のそれだった。
 女性の瞳をのぞき込んでいたディアは多少の未練を残しながらもそれを振り切り、女性を置き去りにして先に進んでいく。木によりかかって座っていた女性の身体がやがて横に倒れ、二度と起き上がることはなかった。

「早く欠員を埋めないと」

「はい、探してきます」

 ディアの言葉にヴォルフガングが部下を連れて隊列を離れる。彼等が戻ってきたのは夕方になってからである。ヴォルフガング達は老人と老婆と幼い子供を連れてきており、ディアは何も言わずに彼等に食糧を分け与えた。
 欠員は大量に発生しているがそれを埋め合わせることはそれほど難しくはなかった。難民が大量に発生しているからである。聖槌軍の兵士達は不足する食糧を略奪によって補っている。略奪され、生命以外の全てを奪われた人々は難民となって聖槌軍の末端に加わるしか生き延びる方法を持っていなかった。

「ああ、教皇様。一体どうしてこんなことに」

「神よ、どうかお救いください」

 老人と老婆は聖杖のペンダントを握りしめて嘆いている。ディアはその様子を白けたように眺めていた。

(聖戦に熱狂していたのはお前達じゃないか。ちょっと考えればこうなることは判っただろうに)

 とは言えディアもここまで悲惨な有様を事前に想像できたわけではなかった。

「もう少し進めばアルルだ。そこまで行けばフランク王国から補給を受けられる」

 ディア達の領主はそう言って配下の兵を鼓舞した。ディアも、他の兵士達にもすでに聖戦のことなど頭にはない。「先に進めば食糧がある」、ただそれだけの思いが彼等の足を進めている。
 そうやって歯を食いしばって行軍を続けて、暦はティベツの月(第一〇月)の上旬。何とかアルルに到着したディアは、

「……ははは。そうか、そりゃそうだ。ちょっと考えればこうなることは判ることだった」

 眼前の光景に虚ろな笑いを上げる。
 そこに広がるのは、見渡す限りの兵、兵、兵。地平線の果てまで、大地を埋め尽くさんばかりの兵の群れだった。フランクだけではない。ブリトンから、ディウティスクから、レモリアから進軍してきた兵がアルルで合流しているのだ。
 ディア達の苦闘はまだまだ続く。聖槌軍の苦難の行軍はまだ始まったばかりだった。







 ティベツの月も後半に入る頃、スキラ。

「一体エレブで何が起こっているんだ」

 最近のスキラではその言葉が挨拶代わりに交わされるようになっている。フランクを始めとするエレブの五王国は自国を破綻させながらも百万の兵を動員し、自国の社会を崩壊させながらもその兵に進軍を続けさせていた。

「信じられない。奴等は本気で百万を動員している」

 エレブのバール人からは悲鳴そのものの、あるいは悲嘆に暮れた報告が続々と送られてくる。地獄と化したエレブの有様に、想像を絶する事態に誰もが言葉をなくしていた。

「一体エレブで何が起こっているのですか?」

 竜也は他者に会うたびそう問われた。竜也とて事態の全容を把握しているわけではないが、ネゲヴにおいて一番広く深く事態を把握している人間の一人だった。

「大体のところは判っているでしょう? 聖槌軍が食糧を根こそぎにしながら進軍しているところです」

 場所は「マラルの珈琲店」、ファイルーズは毎日のようにそこを訪れ、竜也やミカ達と会談を持っていた。竜也がテーブルを挟んでファイルーズと向かい合っている。マラルの入れた珈琲はすでに温くなっていた。
 ファイルーズはため息をつきながら首を振った。

「……一体どうしてこんなことに。タツヤ様にはお判りになりますか? 何故このようなことが可能となったのか」

「多分、いろんな理由が積み重なって様々な条件が整い、初めて起こり得ることなのだと思います。簡単に説明できることではありません。一つ言えるのは」

 竜也は自分の手を、爪をファイルーズへと向けた。

「前に本で読んだことですが――人間が素手で人間を殺そうと思っても簡単にはできることじゃない。ちょっと想像してみてください。自分と同じだけの体格と体力を持つ人間と向かい合って、その人をどうやったら素手で殺せるかを」

 そう言いつつ竜也自身も想像する。竜也には格闘技の心得がない。確実に相手を殺したいのなら、狙うべきは首だ。どうにかして相手の首を絞めようとするが、相手だって必死に抵抗する。竜也も無傷ではいられないだろう。下手をすれば――いや、下手をしなくても返り討ちになる可能性が高かった。
 多分似たような想像をファイルーズもしたのだろう。ファイルーズは首を振った。

「……逆に相手に殺されてしまいましたわ」

 努力はしたのですけれど、と残念そうに言うファイルーズ。竜也は笑わずにはいられなかった。

「素手ではウサギ一匹狩るのも難しいそうです。弓や棍棒といった道具を使うことで狩りをするのも楽になる。人を殺すのも簡単になる」

 サフィールが「猪くらいなら素手で狩れますが」と言っているのは無視である。

「手軽に人を殺せる分、人を殺すことの意味も重みも軽くなっていくんでしょう。剣を使えば人を殺すのはさらに簡単になります。火縄銃を使えば指一本で事足りる。そして人を使う立場になればもっと簡単に、大量に人を殺せます。アミール・ダールやヴェルマンドワ伯といった将軍は腕の一振りで何千何万の人を殺せるんです」

「確かにその通りですわ。だからこそ、人の上に立つ者は下にいる者の生命の重みを理解しなければならないのです」

 ええ、と竜也が頷いた。

「多分、教皇インノケンティウスは自分の下にいる人々の生命の重みを知らないんでしょう。『百万を動員せよ』――インノケンティウスにとっては一言発し、それで終わりです。インノケンティウスにとって百万はただの数字なんでしょう。でも、下の人間にとってはそうじゃない。百万は一つ一つの生命なんだ。今この瞬間に死んでいる生命にだって人生があったんだ。家族や友人が、愛する人達がいたんだ。それを……」

 しゃべっているうちに腹の底から憤りが沸き上がってくる。竜也は深呼吸をしてそれを鎮めた。

「失礼しました」

「いえ、お気になさらず」

 とファイルーズは華やかに笑う。竜也はわずかに赤面して顔を逸らした。

「『百万を動員せよ』って命じたところで普通なら『不可能です』とか『寝言は寝て言え』って言われて終わりです。だけど、不運なことに教皇庁は普通の組織じゃなかった。教皇インノケンティウスは普通の指導者じゃなく、枢機卿アンリ・ボケも普通の部下じゃなかった。正気の沙汰じゃない命令を本当に本気で実行してしまう、膨大な犠牲を生み出しながらもそれを無視して実現してしまう。いろんな理由でその条件が整ってしまっていた……そういうことだと思います」

 地獄と化したエレブの様子がスキラに伝わり、スキラ会議での論調にも変化が生じている。竜也やベラ=ラフマの予想通り風向きは変わっていた。

「女子供だけでも先に町を脱出させる。東の町に受け入れを要請したい」

「町の外に難民の居留地を設置する、その準備をするよう指示を出した」

「食糧の移送も必要だ。動員できる船の数は」

 西ネゲヴの降伏論はすっかり下火になっており、正面から戦うこともすでに検討から外されている。残ったのは一蹴されたはずの焦土作戦案だけだ。西ネゲヴの民が南と東に逃げることが真剣に検討され、部分的にはすでに実行に移されている。アミール・ダールやマグド達は焦土作戦を前提とした作戦を立案検討していた。

「避難する市民を守るための殿軍部隊が必要だ。聖槌軍の先鋒の前に立ちはだかり、避難民が逃げるまで時間を稼ぐ。避難民が全員逃げたら聖槌軍に食糧を渡さないよう全て焼き払う」

「遊撃部隊を作って聖槌軍の後背に送り込む。目的はまず、聖槌軍の進軍を少しでも遅らせるための嫌がらせの攻撃。焦土作戦の一環の、聖槌軍の食糧や補給を標的とした攻撃。聖槌軍とエレブ本国との連絡の遮断。エレブ本国からもし補給があった場合それも阻止する」

 各部隊の指揮官や配属する戦士の人選も進められていた。遊撃部隊には赤虎族の指揮官が、殿軍部隊には金獅子族の指揮官が配属されることがすでに決まっている。
 また、物資の補給、避難民の移動、避難先の振り分け等、事態の進展につれて発生する事務作業もまた膨大となった。ラティーフ達はスキラ会議の下の事務局を拡充し、山積する事務作業に当たっている。官僚として集められたのは主に各町の商会連盟に属するバール人、他には各町の長老会議に属する役人達だ。

「今まで議論が堂々巡りするだけで何も進んでいなかったけど、物事がようやく進み出したような気がする」

 と竜也は少しだけ安心したような様子である。ベラ=ラフマもそれに同意した。

「その堂々巡りの議論も決して無意味ではなかったのでしょう」

 正面から戦っても敗北は必至。降伏しても破滅は免れないのなら、逃げるしかない――それがスキラ会議の総意(コンセンサス)となろうとしていた。散々議論をくり返し、反論は全て潰され、結局残ったのがその道しかなかった、と言うこともできる。

「ナハル川を要塞と成し、敵をここで食い止める」

「独裁官を選出して政治軍事の全権限を委任する」

 その二点もすでに総意(コンセンサス)となっており、積極的に反対する者はほとんどいない。だが問題は「誰を独裁官をするか」である。いや、それすらすでに問題ではないのだ。ギーラは自分が独裁官となることをくり返し提案し、その度に却下されている。残った候補は一人しかいない。

「クロイ・タツヤ、あなたにお願いがあります」

 その日、「マラルの珈琲店」を訪れたのはミルヤム・ナーフィアだった。竜也の横にはカフラやミカが同席している。

「はい。何でしょうか」

「あなたにとっても決して損な話ではありませんよ」

 とミルヤムは微笑み、説明する。

「あなたからゴリアテ号をお借りしていることは覚えているでしょう? その事業の内容も」

「はい、もちろん。西ネゲヴの人達から美術品や貴金属を預かって回る事業ですね」

「あなたにその事業の責任者になっていただきたいのです」

 竜也は言葉を失った。

「ナーフィア商会だけでなく、ジャリール商会・ワーリス商会、その他の商会も、あなたに責任者になってもらうことを望んでいます。もちろん、いくつかの点を除いて名目だけの責任者ですが」

「……説明してもらえませんか?」

 竜也の言葉にミルヤムは「ええ、もちろん」と頷いた。ミルヤムは視線をミカへと移し、

「ミカさん、あなたならご存じでしょう? わたし達のこの事業がどんな評判を受けているかを」

「はい。言葉を飾らず言ってしまえば『墓穴から副葬品を盗掘するがごとき、金の亡者の所行だ』と」

 竜也はぽかんとして、

「え、どうしてそんな話に。聖槌軍に貴重品を奪われないための事業だろう? 保管料だって特別高額でもなかったし」

「聖槌軍が侵入して戦乱が広がれば大量の死者が出ます。その場合、預けた金品はどうなると思いますか?」

 あ、と竜也はようやく理解した。

「それはもちろん預かった商会のものに」

「はい。わたし達はそれを見込んでこの事業を始めました」

 ミルヤムは悪びれもせずに説明する。

「……ですが、事態はわたし達の予想を絶していました。聖槌軍の規模は百万に達するかもしれず、戦乱は空前のものと、死者は未曾有のものとなるでしょう。預けられる金品はすでに予測を大幅に越えています。得られる利益も莫大なものとなりそうです」

 ミルヤムはそこでため息をついた。

「……バール人でない人達からの反発も」

 ああ、と竜也達は納得の声を上げた。

「それでタツヤを名目上の責任者にして非難を避けようと」

「はい。預かった金品の保管管理は各商会が責任を持ちます。生き延びた人達への返却も。問題となるのは持ち主が死んでしまった金品です。クロイ・タツヤ、あなたならそれをどうしますか?」

「困窮している西ネゲヴの人達の支援に使います」

 竜也の即答にミルヤムは「そういうことです」と満足げな笑みを見せた。だが竜也は困惑しつつ、

「ですけど、別に俺である必要はないんじゃ? その金をもっとうまく遣ってくれる人が他に」

「その場合はあなたからその人に手渡せば済むことです。あなたの実務能力が大したものではないことは承知していますから。わたし達が利用したいのはあなたの世評です」

 竜也が「世評?」と首を傾げ、カフラが呆れながら説明する。

「巨万の富を築きながらそれを全て聖槌軍との戦いに費やし、自分は未だカフェの屋根裏に住んでいる――タツヤさんが清廉で無欲だって評判はネゲヴ中に広まっていると思いますよ?」

 竜也はそれをただの誇張だと思い半分くらい聞き流した。

「……持ち主不明の預かり品について、処分を俺に一任する。そのための名目上の責任者なわけですね?」

「はい。その通りです」

 竜也は少し考え、決断を下した。

「判りました、引き受けます」

「ありがとうございます」

 竜也とミルヤムは握手を交わし、契約は成立する。竜也が金品預かり事業の責任者となったという話題はその日のうちにスキラ会議の参加者の間に広まった。それを耳にしたギーラが、

「どうして俺を責任者にしないんだ!」

 と吠えて悔しがった、という噂も流れた。それを耳にしたカフラが嘲笑する。

「そんなの当然でしょう。素性もよく判らない半端者のバール人を、真っ当なバール人であるわたし達が信用するとでも思っているんですか?」

 世間一般ではギーラが東ネゲヴのバール人を代表しているように思っているが、バール人として内側から見ればそれが事実ではないことはすぐに判る。ギーラはどうしていいか判らない東ネゲヴの人達を強引に引っ張っているだけで、彼等と苦楽や生死を共にしているわけでは決してないのだから。

「同じバール人を責任者にしたところで世間の非難は躱せないでしょうに。そんなことも判らないのですか」

 と呆れるのはミカである。ギーラ、あるいは別のバール人を責任者にしても世間には「バール人同士で利益を分け合っているに違いない」と思われるだけだ。ギーラに特別強欲だという評判があったわけではないが、竜也のように「清廉で無欲だ」という評判も持っていなかった。
 竜也は先物取引で得た資金に次ぐ新たな資金源を得た形となった。バール人の有力商会の支持を得ている事実も改めて示し、また一歩独裁官の地位に近付いた、と言えるだろう。だが、

「どうしてタツヤは独裁官になろうとしないのでしょう」

 ミカはため息混じりの愚痴をこぼしていた。場所は「マラルの珈琲店」。竜也はスキラ会議に参加中で、店内ではファイルーズ・ミカ・カフラ・サフィールがお茶を楽しんでいるところである。カウンターではラズワルドとマラルがいつもの仏頂面で皿を磨いていた。

「今のままではあまりに不便だから早く独裁官を選んでほしいと、父上も言っています。タツヤを説得するよう父上に言われているのですが」

「確かに、タツヤさんさえその気になれば話は簡単です。ギーラさんなんて問題にもなりません」

 とカフラは自分のことのように胸を張った。

「聖槌軍と戦う方法も事実上一つに絞られているし、それに向けて父上も将軍マグドも西ネゲヴの各町も動いている。もう問題は何もないはずなのに」

「……その、戦う方法が問題なのではないでしょうか」

 とファイルーズが口を挟む。ミカが「どういうことでしょう」と問うた。

「今はまだ準備段階ですが、実際に避難が始まれば大混乱となるのは目に見えています。膨大な犠牲も避け得ないでしょう。独裁官はそうなると判っていても勝利のために避難の命令を下さなければなりません。タツヤ様はそれをためらっているのだと思います」

「軟弱な」

 と批判するミカだが、そのミカにカフラが、

「ギーラさんなら混乱にも犠牲にも怯まずに避難命令を出すでしょうけど、ギーラさんの方がタツヤさんより独裁官に相応しいと思いますか?」

 ミカは反論できずに沈黙した。

「何百万人という人の生命に関わることなんです。タツヤさんがためらうのは当然のことだと思います」

「ギーラさんにとっては西ネゲヴの三百万人という人達はただの数字なのでしょう。ですがタツヤ様にとってはそうではないのです」

 ですが、とミカが反論する。

「勝利のために一部の犠牲を乗り越えるのは将の務め、国の未来のために民に一時の犠牲を強いるのは王の務めではないのですか?」

「タツヤさんは庶民ですよ」

 とカフラが苦笑した。

「ミカさんの言うことは間違いではありません。ですが、兵をただの駒と思う将、民をただの数字と見なす王には誰もついていきはしません。真の王者とは兵や民一人一人の生命を思い、その上で必要な犠牲をためらわない者です」

 ファイルーズの言葉にミカが頷く。カフラは、

「そんな人いるんですか?」

 と首を傾げた。

「いないわけではありませんが、王家の生まれでも一部の者だけでしょう」

「タツヤ様がそんな『真の王者』となれるのかどうかは判りません。ですが、そうなっていただかなければネゲヴの勝利はおぼつかないでしょう」

 もちろん竜也にも自分の立場は判っている。自分の役目を、なすべきことを理解している。自分の決断にネゲヴの存亡が懸かっていることも。

「くそっ、どうして俺なんだ……」

 西ネゲヴ三百万の生命が、東ネゲヴ五百万の生活が、竜也の双肩に懸かっている。竜也はその重圧に押し潰されそうになっていた。
 そして月はついにシャバツの月(第一一月)となる。聖槌軍がマラカに集結するまであと一月足らずである。

「西ネゲヴに派遣する遊撃部隊・殿軍部隊の編成が完了した。遊撃部隊は赤虎族のダーラクを、殿軍部隊は金獅子族のサドマを指揮官とする。西ネゲヴへの移送は提督ガイル=ラベクに依頼している」

 スキラ会議でアミール・ダールがそう報告。ガイル=ラベクが補足した。

「船はうちの船団から出す。出発は今月一〇日、来月初めにはルサディルに到着の予定だ。我々はそのままマラカの聖槌軍の動向を偵察する。連絡用に高速船を用意しているので、可能な限り逐次状況を報告するつもりだ」

 両者の報告は全員に承認され、二部隊および偵察船団の派遣が決定された。そこに、

「一ついいだろうか」

 と竜也が発言する。

「俺も、この会議を代表して偵察船団に参加したい。本当の聖槌軍をこの目で確かめたいんだ。それと、可能ならルサディルの人達に東に逃げるよう伝えたい」

 複雑な波紋が議場に広がった。竜也の支持者は渋い顔や苦い顔を突き合わせる。ギーラはまず歓喜を、次いで嘲笑を顔に浮かべ、そしてそれをしかつめらしい表情で隠そうとした。

「非常に殊勝なことだ! もちろん我々はそれを認めよう!」

 と何故か上から目線のギーラ。竜也はそれを無視し、ファイルーズと向き合った。真剣な竜也と微笑むファイルーズが見つめ合う。互いの瞳には互いしか映っていなかった。

「迷惑かけてすまない。でも、行きたいんだ」

「お気になさらず。こちらのことはお任せください」

 ファイルーズは優しく笑った。

「行ってらっしゃい。どうかご無事で、お気を付けて」

「ありがとう」

 安堵した竜也は久々に屈託のない笑みを見せた。
 ファイルーズの承認を受け、竜也の偵察船団参加が確定となった。竜也の支持者もファイルーズには逆らえない。

「どうして認めちゃうんですか? タツヤさんがいなくなったらわたし達がどれだけ困るかお判りでしょう?」

 逆らえはしないが愚痴は言えるのだった。カフラの愚痴にミカもまた同意を示す。ファイルーズは「あらあら」と困ったように笑った。

「あの男、逃げたのではないのでしょうね」

「そういうわけではないと思いますわ」

 ミカの憶測をファイルーズは即座に否定する。

「逃げるのに敵の直中の方を選ぶ者はいませんわ。むしろ、タツヤ様は逃げられないところに自分を追い込みに行ったのではないかと思います」

 とファイルーズは顔を曇らせる。そのやりとりをラズワルドは黙って聞いていた。







 そしてシャバツの月一〇日。スキラ湾には五隻の船と、数百人の偵察船団参加メンバーが勢揃いしている。その中には竜也の護衛としてバルゼル率いる牙犬族の剣士が幾人か含まれていた。また、

「……あの、何であの子達がここに」

 バルゼルの横にサフィールが、さらにその後ろにラズワルドが並んでいるのを見出し、竜也は頭を抱えた。訊ねられたガイル=ラベクは、

「お前がちゃんと手綱を取らないからだろうが!」

 と八つ当たり気味に竜也をどつく。

「ナーフィア商会だけでなくワーリス商会、アミール・ダールやマグドからも要請があったんだ。とても断れん」

 一体どうやってそれだけの手を回したんだ、と竜也は唖然とするしかない。ラズワルドの懇願を受けて八方手を尽くしたのはベラ=ラフマなのだが、そんなことまでは竜也には判らなかった。

「あの子はアニード商会と懇意とのことだから、ルサディルでやってもらうことももしかしたらあるかもしれん。皆にはそう説明している」

 ガイル=ラベクは苦虫を噛み潰したような表情でそう言う。竜也は「判りました」と受け入れる他なかった。
 五隻の帆船が帆に風を受け、スキラの港を出港する。竜也達を乗せた偵察船団は西へと向けて出発した。







[19836] 第一八話「ルサディルの惨劇」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/14 21:02



「黄金の帝国」・戦雲篇
第一八話「ルサディルの惨劇」






 紺碧の海を五隻の船が征く。純白の帆が風にはためき、舳先に切り裂かれた水が潮騒となる。風と水のざわめきがまるで勇壮な行進曲のようだ。
 聖槌軍対策軍総司令官アミール・ダールの要請を受け、ガイル=ラベクは麾下の船団の中から最も速力のある五隻の船を選び出した。その五隻に髑髏船団の船員とは別に二百人が分乗しており、その全員が恩寵の戦士である。半数は赤虎族が中心となっている遊撃部隊、もう半数は金獅子族が中心となっている殿軍部隊。両部隊とも危険極まりない任務に従事するため配属されている戦士も精鋭揃いだ。その両部隊を率いるのが、

「おい、タツヤ。あの二人を頼む」

 ガイル・ラベクが指し示す先には、甲板の真ん中で対峙する金獅子族と赤虎族の戦士の姿があった。

「私の妻を侮辱するとは、生命が惜しくないと見えるな」

「誤解するな。俺が侮辱したとしたら、それはお前の嫁のことじゃない。お前の女の趣味だ」

 両部隊の指揮官がにらみ合う光景に、ガイル=ラベクは頭痛を禁じ得ないようだ。

「お前の提案通りにあの二人を隣り合わせにはしたが、こうなるのは目に見えていただろう」

「衝突するなら早い方がいいと思いますよ。派閥を作って船団真っ二つにして対立するよりもマシでしょうし」

「ともかく、あの二人を何とかするのもお前の仕事だ」

「判っています」

 本来男所帯だった偵察船団にラズワルドが強引に乗り込んできた結果(しかもサフィールを巻き込んで)竜也とガイル=ラベクは「紅二点」の二人の扱いに苦慮することとなった。
 竜也はラズワルドとサフィールのために個室を用意したが、それも船長室をわざわざ譲らせたものである。このため竜也はガイル=ラベクに全く頭が上がらなくなっており、それをいいことにガイル=ラベクはあらゆる面倒事を竜也に押しつけていた。竜也はその処理に追われ船団中を走り回る羽目になる。

「成人を迎える直前の瑞々しさこそ美の至高……! それが理解できんとは、さすがに腐肉漁りと名高いだけのことはある」

 と語る金獅子族の戦士の名はサドマと言う。生真面目な印象の、エリートという言葉がぴったり当てはまる伊達男である。

「熟れ切った大人の色気の良さも判らんとはな。悪趣味なのはお前の方だこの変態」

 赤虎族の戦士はダーラクと言う。悪ガキがそのまま大人になったような印象の、愛嬌のある色男だ。両者とも将来を嘱望された、三〇代の精悍な戦士である。女の趣味のことでいがみ合う姿からはそんなことは想像もできないが。
 互いの拳が互いに延ばされるその瞬間、竜也が二人の間に割って入った。サドマの拳が竜也の頬に、ダーラクの拳が竜也の腹にめり込んだ。
 ……しばらく時間をおいて、ようやく竜也が復活を果たす。サドマとダーラクは相変わらずにらみ合っており、野次馬が面白そうにそれを取り巻いていた。

「……それで、何が原因なんですか?」

「ダーラク殿の悪趣味が過ぎたものですので」

「何、こいつがあまりにも変態だったんでな」

 竜也は先にダーラクから話を聞いた。

「こいつ、この間三人目の嫁を娶ったそうなんだが、嫁の歳がまだ一三歳なんだ。しかも、これまでの二人も一三歳になった時に娶っていると言うじゃないか。俺がこいつを変態呼ばわりして、何が悪い?」

 竜也は内心サドマのその所行にドン引きしている。だが、その恥ずかしいはずの所行を暴露されたサドマは堂々としているし、周囲の野次馬にも竜也が思うほど強い拒絶反応がない。
 サドマが反撃を開始する。

「ダーラク殿は一三歳の時に最初の妻を娶ったそうですが、その妻の年齢は当時のダーラク殿の倍近くあったそうです。二人目、三人目の妻もやはり三〇手前の女性を娶っているとか。だから私はこう言ったのです。『腐肉漁りの悪趣味野郎』と」

「小児性愛変質者には言われたくねーな」

「……」

「……」

 火花を散らして睨み合う二人の姿に、竜也はいろんな意味で頭痛を覚えていた。
 一三歳の少女を妻に娶る行為は、この世界ではそれほど非難に値することではないようだった。思えば近代以前の日本でも、そのくらいの歳での結婚は珍しくない。妻を三人も娶ることも、充分な経済力と社会的地位があれば問題とならないようだった。

「ともかく、このままでは二人とも納得できないでしょうから、ここは公平な勝負事で雌雄を決しましょう。いいですね?」

 竜也はガス抜きに二人を直接対決させることにした。

「それはいいが、勝負は何を?」

「剣か? 拳か?」

「いえ、相撲です」

 スモー?と二人と野次馬が疑問を浮かべる。竜也は長いロープを甲板において、簡単な土俵を作った。

「ルールは簡単、相手をこの円の外側に押し出したら勝ち。相手の足の裏以外を床につけたなら勝ち。それだけです。それと武器と恩寵の使用は禁止。あとは何をやっても構いません。いいですね?」

「まあいいでしょう」

「ふん、面白い」

 土俵の中に両者が足を踏み込む。直径三メートル足らずの円の中で、サドマとダーラクがにらみ合った。

「はっけよい、のこった!」

 竜也の奇妙なかけ声を合図にダーラクが動いた。その場で飛び上がり、流星のような連続蹴りを放つ。サドマは両腕でそれをガード。土俵際まで押されるサドマだが、ダーラクの着地と同時に突撃し右ストレートを撃つ。ダーラクは身体を屈めてそれを避ける。そのままサドマの懐に飛び込むダーラク、ダーラクに覆い被さるサドマ。そのまま両者が同時に倒れ、周囲から歓声が上がった。

「両者、引き分け!」

 審判の竜也がそう判定を下す。それに対し、

「ちょっと待て、こいつの方が先に」

 と両者から物言いが入った。竜也は慌てず騒がず、

「じゃあもう一勝負」

 と提案する。二人は再び土俵の中央に入った。
 サドマとダーラクの勝負はくり返されるが、三勝三敗一引き分けで結局勝敗は決しなかった。疲れた二人に代わって他の面々が土俵で相撲に興じている。甲板の上は時ならぬ相撲大会で大いに盛り上がった。なお、その相撲大会を制したのはバカルという鉄牛族の戦士だった。
 その日以降、サドマとダーラクは竜也を審判とし、竜也の提案する様々な勝負で対決をくり返すこととなる。

「それじゃ今日は、飲み比べです」

 カルト=ハダシュトの港では酒場に入ってどちらがより飲めるかを競い合った。竜也が真っ先にぶっ倒れてしまったため、勝負は結局付かないまま終わってしまった。

「それじゃ今日は、カードゲームで」

 この世界にはトランプによく似たカードゲームが存在していて、おそらく冒険者レミュエルが持ち込んだものと考えられた。この日のゲームを制したのはいつの間にか乱入していたラズワルドで、竜也達三人は身ぐるみ剥がれて丸裸にされた。

「ええと、それじゃ今日は」

 やがて勝負の題材が尽きた竜也は、適当な勝負の方法をでっち上げるようになる。

「……『ぐっと来る部分デスマッチ』」

 不思議そうな表情のサドマとダーラク、および観客に竜也がルールを説明する。

「足を止めて、一発ずつ殴り合います。相手の拳を避けてはいけません。相手を倒したなら勝ち」

 久しぶりのガチンコ勝負に二人も周囲も大いに盛り上がる。だがルールには続きがあった。

「ただし! 殴るときには女体の中で自分が一番ぐっと来る部位の名前を叫ぶ! その言霊を拳に乗せ、言霊の重さで相手を打倒する! それがこの勝負です」

 戸惑う二人を向かい合わせ、竜也は強引に勝負を開始させた。

「しりー!」

「おっぱーい!」

「しりー!」

「おっぱーい!」

「ちいさいしりー!!」

「でかいおっぱーい!!」

「ひらたいおっぱーい!!」

「ふといしりー!!」

 サドマとダーラクは阿呆丸出しの台詞を叫びながら、互いの拳をぶつけ合った。

「太腿と太腿の隙間ー!!」

「太腿のたるみー!!」

「×××ー!!」

「×××ー!!」

 到底表記できない部位が言霊として応酬され、伯仲した熱戦が続く。観客の熱気を巻き込み、勝負は大盛況となった。
 この日以降、偵察船団では「ぐっと来る部分デスマッチ」が大流行する。イコシウムの港に停泊中にも一隻でデスマッチが行われ、卑猥な言葉が大声で叫ばれる。周囲の船からの苦情に、竜也とガイル=ラベクが頭を下げて回ることとなった。
 ――言うまでもないことかもしれないが、もちろん竜也やサドマ達はこんな阿呆みたいなことばかりして航海中ずっと遊び呆けていたわけではない。

「……キリスト教、じゃなくて聖杖教の最も大きな特徴の一つは、それが元々奴隷の宗教だったってことです」

 偵察任務の一助になれば、との思いから竜也はサドマやダーラク達に聖杖教について知る限りのことを――元の世界の知識を大いに加味し――しゃべっていた。相手を変えてそんな話をくり返しているうちに、いつの間にか竜也は船団の全員に対して講義を開くようになっていた。

「聖杖教の聖典の中では契約者モーゼが奴隷を率いてケムトを脱出し、彼等がアシューの地で最初の聖杖教の信者となった、ということになっています。これは事実ではありませんが、ケムトとは別の場所でこれに類することが実際にあったものと考えられています」

 正確には元の世界のエジプトやパレスチナの地で、となるのだがそこまでは説明しない。

「聖杖教の前身となったその宗教、その一神教は逃亡奴隷が崇めたものだ、ということです。ここにこの宗教の大きな特徴が現れます。奴隷にとっての絶対者とは主人であり、神とは人間にとっての主人となる――主人と奴隷との関係が、神と人間の関係に置き換えられる。その一神教において、神にとって人間は奴隷なんです」

 講義を聴いていたサドマやダーラク達は判ったような判らないような顔をする。

「……何でわざわざそんな神様を崇めるんだ? もっと親身になってくれる普通の神様を崇めればいいのに」

「それしか知らないからです」

 竜也はまず簡潔に結論を述べた。

「奴隷にとっては主人とのつながりが全てです。他のあり方、他のつながり方、他の関係の持ち方を知らないんです。他のつながり全てを捨てさせられ、鎖につながれたのが奴隷なんですから。そして問題は、彼等が上との関係だけでなく下との関係においてもこれをそのまま適用することです」

「下との関係?」

「はい。神は人間に対して地上の万物全てを支配することを認めています。人間は神の奴隷ですが、それと同じように人間以外の全ては人間の奴隷なんです。そして彼等の神が空想の産物である以上、結局人間が全てを支配する主人となる――ここで言う人間とは一神教の信徒であるということです。この宗教がエレブの地に伝えられ、聖杖教となりました」

 正確にはその一神教――ユダヤ教と聖杖教の間にはキリスト教という経由地があるのだがそこは省略である。

「預言者フランシスはエレブの地の奴隷や貧民を最初の布教対象としました。彼の宗教はその出自から下層民に対する親和性が高いんです。預言者フランシスが刑死して教団は一旦壊滅しましたがバルテルミが教団を復活させ、ここに聖杖教が成立しました。聖杖教はエレブにおいてもまず奴隷や貧民の宗教として広がります。つまり一神教の本質は今なお受け継がれているということです。自分達以外を奴隷と見なす、その本質が」

 竜也は殊更に大きな声を出したわけではない。だがその声は聴衆の耳に、その心に響いていた。

「聖杖教徒はよく隣人愛を口にしますが、彼等にとって隣人とはあくまで同じ聖杖教徒のこと。他の宗教、多神教の信者は決して隣人にはなり得ない。我々は彼等にとっては奴隷とすべき対象でしかないんです。……その事実をどうか忘れないでください」

 竜也の真摯な瞳がサドマやダーラク達を捉えて離さない。彼等は一様に頷くしかなかった。







 シャバツの月の月末、ガイル=ラベク率いる偵察船団はラクグーンに到着した。ラクグーンはルサディルと同じくらいの大きさの港町である。竜也達は船を下り、町へと向かった。メンバーはガイル=ラベク、サドマ、ダーラクといった船団幹部とその護衛。それに竜也とその護衛のバルゼル、サフィール、牙犬族の剣士達である。

「……ひどく乞食が多いですね」

 通りを見渡していてたサフィールが感想を漏らす。通りには一メートル置きくらいに汚れた格好の乞食と見られる者達が座り込んでいた。スキラの貧民窟でもここまで乞食は多くないだろう。

「乞食ではありません。難民です」

 と答えるのはラクグーンの商会連盟の人間である。

「ルサディルから逃げてきた難民が町に入り込んでいるんです。居留地を作って支援もしているのですが、到底追いつきません」

 竜也その光景に心を痛めながら町を進んだ。竜也達が町の中心地、商会連盟本館に到着する。その場所では商会連盟幹部だけでなく、ラクグーン長老会議のメンバー、ルサディルから逃げてきた恩寵の戦士達が集まっていた。

「スキラでの対策会議の結論は伝わっているだろう。我々は聖槌軍と正面から戦いはしない。町の住民は東か南に逃げてもらう」

「避難はすでに始まっている。だがまだ逃げるのをためらっている者が多い」

「恩寵の戦士は何人いる? そいつ等を遊撃部隊か殿軍部隊に組み込みたい」

 打ち合わせは余裕のない状況下のため無駄なく進んでいき、偵察船団は三つに分かれることとなった。
 まずラクグーンに残って遊撃部隊と殿軍部隊を編成するメンバー。それはサドマとダーラクが率いる。次にエレブのマラカに接近して聖槌軍の様子を偵察する部隊。これを率いるのはガイル=ラベクだ。最後が、

「それで俺達がルサディルに潜入して状況を伺う。可能なら町の住民を東に逃がす」

 竜也は自分の部隊のメンバーを見渡した。竜也が率いるのはサフィール、バルゼル、ツァイドといった牙犬族の剣士達、それとおまけのラズワルド。ルサディル出身の恩寵の戦士が二人加わっているが、それでも竜也達の部隊が一番の少人数で総勢九名である。

「今のルサディルは敵地と大して変わらない、かなり危険な任務だ。付き合わせてすまないが」

「お気になさらず。タツヤ殿はわたし達の後ろで大人しくしていてください」

 サフィールの言葉にバルゼル等剣士達が揃って頷いた。

「タツヤ殿はもう以前のような軽い身分ではないのですから」

 バルゼルだけでなくラズワルドも一緒になって頷いている。

「……まあ、判っている」

 竜也は曖昧に笑ってごまかした。
 翌日、アダルの月(第一二月)の一日にはガイル=ラベク率いるマラカ偵察船団がラクグーンを出港、竜也達もそれに乗船する。翌々日の深夜、船団はルサディル近くの海岸に到着した。船は夜闇に紛れて接岸、竜也達が船を下りて上陸する。

「俺達はマラカまで往復してここに戻ってくる。マラカまで二日、偵察に一日、戻ってくるのに二日。この場所に戻るのは九日になるか。十日の夜明けまでは待ってやるが、それまでに戻ってこなかったら見捨ててスキラに帰るぞ」

「判りました」

 偵察船団が岸を離れて沖合へと消えていくのを見送り、竜也達は町へと向かって歩き出した。竜也達がルサディルの町に潜入したのは四日の未明である。

「あれ、あいつはどこに行ったんだ?」

「さっき船を下りたのか? いや、まさか」

 船団の一隻でそんな会話がされていたことを竜也が知る由もない。







 町に入った竜也達は目立たないよう三、四人ごとに分かれて別々の道を進んだ。竜也は例によってラズワルド・サフィールと一緒である。当然ながらラズワルド達やバルゼル達は印を外している。竜也はすっかり変わってしまった町の様子に胸を痛めていた。露店や商店は全く開いておらず、道端で遊ぶ子供の姿もない。殺気立った男が気忙しく行き交い、不安そうな女が目を伏せていた。
 竜也達の目的地は町中のとある民家であり、そこにはすでにバルゼル等が集まっていた。その家はラクグーンの商会連盟に用意してもらった拠点である。

「それで、これからどうするのですか?」

「紹介状を書いてもらっている。この町の長老の一人に接触して話をする」

 ツァイドがこの町出身の戦士を連れて町へと出、竜也達は拠点で待機である。ツァイドは昼過ぎには戻ってきて、そのまま日が暮れる。その拠点に迎えが来たのは夜になってからである。竜也はバルゼルとツァイドだけを連れて拠点を出発した。
 半時間ほど歩き、竜也達はその家に到着する。家の中で待っていたのはルサディル長老会議の一員・サイードで、竜也も何となくその顔に見覚えがあった。

「孫だけでもお前さん達の船でスキラに連れていってくれんか」

 サイードは開口一番そう懇願する。竜也は声を上げそうになるのをぎりぎりで我慢した。見れば、バルゼルも竜也と似たような表情だしツァイドからもいつもの微笑みが消えている。

「……戦うことでもなく逃げることでもなく、恭順を選んだのはあなた達ではないのですか?」

 竜也の指摘にサイードは気まずそうに目を伏せた。

「……敵は百万だ、勝てるわけがない」

「逃げると言っても、どこに逃げればいい。逃げた後どうすればいい」

「『協力していれば危害は加えない』、アニードの連れてきたエレブの将軍はそう言っている」

 呟くように言い訳を連発させるサイード。竜也の内側では不快感や白けた思いが募る一方だ。竜也はまずサイードから最新の情報を引き出すことに専念した。

「そのエレブの将軍・タンクレードですが、ルサディルには彼の部下はどのくらいいるんですか」

「エレブから連れてきている者は二〇人もおらん。だがこの町の全員があの男の部下みたいなものだ。この町の若い衆を集めた兵を三、四百は持っている」

「タンクレードが町の住民に危害を加えることは?」

「今のところは何も。食糧や金品はかなり徴発されたが」

「聖槌軍の先鋒がこの町に入るのは?」

「今月の十日過ぎになると聞いている」

 竜也が質問し、サイードが答える。そんな一方的な会話がかなりの時間続いた。訊きたいことを全て聞き出した竜也はようやく話を変える。

「町の住民を町の外に逃がすことはできませんか?」

「しかしそれは……そんなことをしたらあの将軍がどう思うか」

 と難色を示した。

「もちろんタンクレードに断った上で、です」

 竜也の提案にサイードは刮目した。

「タンクレードだってこの町で不測の事態が起きることを怖れているはずです。住民と聖槌軍の兵士との衝突を可能な限り避けようとしているはずです。町の住民が少ない方がそういう揉め事を少なくできる。聖槌軍が到着するその日だけ、一時的に町の住民が町の外に避難する。その許可を取るんですよ」

 サイードはうなり声を上げて考え込んだ。

「……確かに……だが、あの将軍がそれを許すかどうか」

「評判通りの人なら許す可能性は充分にあります。だってその方が彼等にとって利益がありますから」

 ベラ=ラフマが集めた情報と分析に基づき、竜也はタンクレードという男をそう評価している。彼の判断基準が私怨でも狂信でもなく、あくまで利害であるために竜也やベラ=ラフマにとって非常に判りやすいのだ。

「狂信とは無縁の、非常に冷静で合理的な人間だ」

 竜也達はタンクレードのことをある意味高く評価していた。
 サイードはかなりの時間迷っていたが、竜也の提案を実行する方向で動いてくれるようだった。空が白み始める頃竜也達はサイードの家を後にし、拠点へと戻っていった。
 翌五日・六日は特に動きはなく、七日。サイードの要請を受けて竜也がサイードの家へと向かう。
 そして竜也は戻ってこなかった。







「先日の提案の件で早急に、秘密裏に話し合いたいとのこと。同行していただけませんか」

 七日の日中、竜也達の拠点にサイードの使者が訪れてそう告げる。竜也は護衛にツァイドを連れてサイードの家へと向かった。サイードの家に到着し、その門をくぐる竜也とツァイド。

「……?」

 竜也は首を傾げた。家の中に人の気配を感じない。ドアをノックしても返事がない。

「留守か?」

 竜也はツァイドの方へと顔を向け、言葉を詰まらせた。ツァイドはこれまで見たこともない厳しい顔をしている。

「……やられたかもしれませんな」

 ツァイドがゆっくり、慎重に門の外へと進んでいき、竜也がそれに続いた。門から一歩踏み出し、竜也は息を呑む。サイードの家は数十人の兵士に包囲されていたからだ。しかも兵士はまだまだ増えていく。

「……どういうことです」

 竜也はそう問わずにはいられない。だが兵士達は何も答えなかった。じりじりと包囲を狭めていくだけだ。

「私が奴等を引きつけます。家の中から裏口の方へ」

 ツァイドの言葉に竜也が頷く。ツァイドが雄叫びを上げながら兵士の直中へと突っ込んでいき、それと同時に竜也はサイードの家へと逃げ込んだ。一拍遅れて兵士達も動いている。兵士の一団が怒濤のような勢いで家の中へとなだれ込んだ。
 竜也は庭先を突っ切って裏手へ、塀を乗り越えて裏路地に降り立つ。だがそこにも兵士の一団が待ち構えており、竜也はあっと言う間に捕縛された。荒縄が何重にも巻かれ、身動きも困難だ。槍のように長い棍棒で何発か殴られ、あちこちが痛む。だが生命に別状はなかった。

「落ち着け、すぐに殺されはしない。いずれツァイドさんやバルゼルさんが助けに来てくれる」

 竜也は自分にそう言い聞かせ、とにかく冷静になるよう努めた。竜也はそのまま兵士の一団に引っ立てられ、町の中心へと向かうこととなった。







 一方かろうじて追っ手から逃れたツァイドは一直線に拠点に向かって走っていた。

「あの場で殺されはしないようだが、いつ処刑されるか判らん。一刻も早く助けに行かねば」

 ツァイドはまずバルゼル達と合流することを優先した。だが、

「くそっ、やはりこうなっているか」

 竜也達の拠点の前にはすでに大勢の兵士が集まっていた。遠くから様子をうかがい、状況の把握に努める。見たところ捕縛された者はいない。兵士に怪我人はいるが死者はいないようである。兵士が数人ごとに分散し、走り回っている。ツァイドは胸をなで下ろした。

「……どうやら無事に逃げられたようだな。だが」

 バルゼル達と合流することは非常に望み薄となった。つまりは竜也を助け出すことも至難ということだ。

「おっと」

 すぐ側を兵士が走り抜けていく。ツァイドは物陰に身を隠した。
 ともかく、今は自分が捕まらないことが優先だ。ツァイドは物陰から物陰へ、風のように走っていった。







 竜也が連行された先はアニード邸だった。竜也はかつての自分の勤め先を複雑な思いで見上げる。
 竜也はアニード邸の庭先に放り出されるように連れてこられる。そこに姿を現したのはアニードだった。そしてその横に白人の男が立っている。おそらくその男こそタンクレードだろう。年齢は四十過ぎ。背が高く、洒落た口ひげを生やして伊達を気取っている男だが、美形と呼ぶには足りないものが色々と多かった。

「アニードよ、何事だ」

「何、小賢しい泥棒を捕まえただけだ」

 アニードは警棒のように短い棍棒で竜也を打つ。竜也は悲鳴を上げた。

「アニードさん、一体何を」

「やかましい!」

 アニードの棍棒が連続して竜也を打ち据える。頭部の皮膚が裂け、血が流れる。竜也は地面に倒れ伏した。

「この者は?」

「ええと、確かクロイ・タツヤと言ったかな」

 アニードの答えにタンクレードは首を傾げる。

「それはスキラで巨万の富を築いて聖槌軍に抗しようとしている者の名前ではないのか?」

「そんなに上等な奴ではない。こいつはただの詐欺師で泥棒だ」

 アニードの説明にタンクレードは、

「ただの同名か。ネゲヴの人名は判りにくいからな」

 と納得していた。

「アニードさん、一体どうして……」

 一方の竜也は納得などできる状況にはない。アニードは嘲笑に鼻を鳴らした。

「貴様がナーフィア商会と一緒になって適当な嘘をついて儂からあの悪魔を奪っていったこと、忘れたとは言わさんぞ。あの後儂がどれだけ苦労したと思っている……!」

 アニードは再度棍棒を振り下ろす。だが竜也にとっては棍棒よりもアニードの言葉の方が身に応えていた。

「こいつを牢屋に放り込んでおけ!」

 ようやく気の晴れたアニードは竜也を兵士へと引き渡した。竜也は兵士引きずられてアニード邸を退出していく。それを見送るアニードの横に、不意に現れた一人の男が並んだ。

「処刑はいつするのですか?」

 男の言葉にアニードは動揺を見せる。

「いや、さすがにそこまでする理由は……それに殺してしまってはナーフィア商会と交渉をすることもできん」

 アニードの認識不足に男は内心で呆れていた。竜也がスキラで最重要人物になっているという話はアニードも耳にしているが、その話と実物の竜也を結びつけて認識することができないのだろう。アニードにとって竜也はあくまで元奴隷の自分の使用人に過ぎない。ナーフィア商会がラズワルドを不当に奪っていったことに対する賠償交渉、そのための材料でしかないのだ。

「牙犬族の護衛は捕縛できましたか?」

「いや、まだだ。だが恩寵の戦士と戦える兵などおらん。無理に捕まえようとする必要はあるまい」

 アニードの煮え切らない姿勢に男は軽侮の思いを強くしながらもそれを隠した。

「ですが、牙犬族が牢屋を襲撃して奪還しようとするかもしれません」

「牢屋にも兵はおる。そうそう無茶はできまい」

「兵を増やして、牢屋の警備に念を入れてください」

 男はそう言い残してアニード邸を立ち去る。竜也が連行された方向を眺め、男が独り言ちた。

「……まあ、処刑はされなかったがひとまず目的は達成だ。これでよしとすべきか」

 その男が偵察船団の一員だったことを知る者はこの町にはいなかった。
 一方アニードはタンクレードと打ち合わせの最中だ。タンクレードはすでに竜也のことなど頭にはない。アニードもまた、竜也のことだけを考えるには抱えている問題が大きすぎた。

「それで、トルケマダは今どこに」

「どうやら私の部隊より一日分先行しているらしい。私の部隊にも先を急ぐよう命令はしているが」

 そうか、と呟くように返答するアニード。

「一体何のつもりで……」

 アニードは重苦しい不安に胸が潰れそうになっていた。トルケマダはエレブ中で最も悪名が高いとされる人物だ。一応はアンリ・ボケの部下だがあまりに悪評と黒い噂が絶えないためにアンリ・ボケも距離を置いているほどだ。聖堂騎士団から独立した独自の騎士隊を有しており、形式上はアンリ・ボケの協力者という位置付けである。一際強欲で残虐で、異端討伐では女子供を好んでその標的としている。特に若く美しい女性に目がなく、散々強姦した上に意味もなく拷問して苦しめた上で殺している――という噂が絶えず聞こえている。

「私の隊よりトルケマダ隊が先にこの町に入ったなら何が起こるか判らない。トルケマダ隊には私の隊の後ろに回るよう命令している」

 タンクレードの説明を聞きながらアニードはサイードの提案について一人検討していた。

(やはり住民を一時的に町の外に逃すべきか……いや、それを発案したのはあの小僧だというではないか。私があんな小僧の言いなりになど……!)

 アニードの内心の天秤は大きく揺れており、どちらに傾いてもおかしくはなかった。天秤の一方に乗っているのは現実に基づく不安であり、もう一方はタンクレードに対する信頼、「トルケマダ隊だってタンクレードの顔を潰すような無茶をするはずがない」という理性的判断、そして何より不安から目を逸らしたいという自己防衛の心理である。そして竜也に対する反感が天秤のもう一方への重りとなったのだ。アニードは町の住民を避難させず、何の警告も発しなかった。

「将軍タンクレードに従っている限りこの町は安全だ」

 再度そう布告し、避難を思い止まらせもしたのである。
 ……また一方竜也は町役場に隣接する牢屋へと放り込まれ、そのまま牢屋で一晩を過ごした。その牢屋に収容されているのは竜也一人のようだった。牢屋は壁も床も石造りだ。床にむしろを一枚引いて、それが寝床である。散々打ち据えられて痛む身体を横たえ、眠って体力を回復させることしかやれることがない。

「あのときはあのやり方が最善だと思ったんだ。……今になってあれに足を取られるなんて」

 確かにアニードを騙したあのやり方は詐欺まがい、あるいは詐欺そのものだった。だが竜也はあのやり方を倫理的な悪だったとは思っていなかった。むしろ「頭の悪い奴には思いつかない、冴えたやり方だ」とひそかに誇りさえした。だが、今になってその「冴えたやり方」が思いがけない障害となっている。竜也の自由を奪い、その身を、その生命を危険にさらしている。いや、竜也だけではない。ツァイドやサフィールやバルゼル、そして誰よりラズワルドに危機が及んでいる可能性が高いのだ。

「なのに、何もできない。助けに来てくれるのを待つしかない」

 竜也は唇を、無力感を噛み締めた。

「『黒き竜の血』が目覚めさえすれば……」

 竜也の心の奥底から、久々にそれが湧き上がってきた。だが竜也は首を振って、その妄想を心の底深くへと沈めていく。

「今はそんな場合じゃない。何とか逃げて皆と合流しないと。このとき、この場所からできることを見つけなきゃいけない」

 竜也はむしろの上に横になったまま、頭脳を回転させ続けた。







「ほれ、これもお食べ」

 ラズワルドは老婆の差し出した菓子を口にする。果物を干しただけの代物だが、素朴な甘さが口の中に広がった。
 ん、と満足げに頷くラズワルドを老婆は相好を崩して眺めている。その様子をリモンは呆れたように見つめていた。
 そこはリモンとばあや――以前ラズワルドの世話をしていた老婆の暮らす家である。逃げているうちにサフィール達とはぐれたラズワルドはその家に逃げ込んたのだ。

「それで、どうだったの?」

「確かにあそこにいた」

 そう、とリモンが胸をなで下ろす。ラズワルドは竜也の行方を捜すのにリモンに協力を依頼。リモンがアニード邸で情報を集め、竜也が放り込まれていると思しき牢屋をピックアップ。ラズワルドがその恩寵で竜也の所在を確認したのである。

「あとは助けるだけ」

 サフィールかバルゼルと合流できればそれも難しくはないだろう。牙犬族の恩寵の前では牢屋の戸板など障子ほどの意味もない。だが問題はどうやって彼等と合流するかだ。ラズワルドには良案など思いつかなかった。今は運に任せてあちこち動くしかない、と考えている。

「タツヤを助け出したらどうするの?」

「スキラに帰る」

 リモンの問いにラズワルドは当たり前のように答えた。

「……あの、わたし達も連れていってくれない? おばあちゃんを置いて逃げるのは無理だったからこの町に残っていたけど、タツヤと一緒なら」

 ラズワルドとしては断固拒否したいところだが、リモンはともかくばあやは嫌いではないし、窮状を救ってくれた恩人でもある。無碍にはできなかった。かと言って安易に承諾できることでもない。

「……タツヤに頼んでみる」

 ラズワルドとしては最大級の誠意を持った回答である。リモンも一応それを理解し、

「お願いね」

 と重ねて頭を下げた。
 そして翌日、アダルの月の九日。

「……」

 ラズワルドは家の外に出て空を見上げている。遠方からは遠雷のような唸りがかすかに聞こえていた。

「嫌な空だねぇ。何だろうねぇ」

 ばあやはラズワルドの横に並んで空を見上げる。しばらくそうやっていたラズワルドだが、突然走り出した。

「どこ行くんだい!?」

 ばあやの呼びかけも耳に届かない。ラズワルドの頭には竜也のことしか入っていなかった。







 竜也は牢屋で一夜を過ごし、一日を過ごした。そしてアダルの月の九日。
 その日は朝から空気が違っていた。生温かい空気が帯電しているかのように竜也の神経を逆撫でする。

「誰か! 誰かいないのか?」

 牢屋の外に呼びかけても誰も返事を返さない。竜也は体当たりと蹴りで牢屋の扉を破ろうとした。が、思ったよりも頑丈で扉を破ることができない。
 そうこうしているうちに、窓の外から今まで聞いたことのない音が聞こえてきた。遠すぎて判らないが、この雷鳴が唸るかのような音は人の声なのか。かすかに聞こえるあれは悲鳴ではないのか。町の外れに立ち上るあの煙は何なのか。

「くそっ! 何が起こってる?!」

 竜也は扉への体当たりと蹴りをくり返した。窓の方からの脱出にも挑戦してみたが石と石の隙間は狭く、片腕と片方の肩を外に出すので精一杯だ。扉を破ることに集中するしかない。

「くそっ! こんなところで」

 体当たりをくり返したたため竜也の両肩はひどく痛むようになった。あるいは骨にひびでも入っているかもしれない。その甲斐あって、扉は大分建て付けが悪くなってきている。だが、まだ破れない。朝から何時間もかけているのに、昼を回って大分経っているのに、まだこんなところに閉じ込められたままである。
 はっきり悲鳴と判る声が近くからも聞かれるようになってきた。悲鳴は女性の声が多いがそれだけではない。老若男女問わず、悲鳴が、断末魔の叫びが、泣き声が聞こえてくる。獣のような雄叫びも聞こえてくる。段々その声が近付いてくる。

「くそっ! くそっ!」

 恐怖と焦燥のあまり、竜也は頭がおかしくなりそうになった。そのとき、

「タツヤ!」

 扉の外から、竜也を呼ぶ少女の声。

「ラズワルドか?! こんなところに!」

 こんな危険な場所にどうして、バルゼルさんやサフィール達は無事なのか、いくつもの思考が竜也の脳裏を横切った。だがそれも一瞬だ。

「ラズワルド! 鍵はないか?」

「探してくる!」

 ラズワルドの気配が遠ざかる。竜也はラズワルドを待つことしかできない。その焦る様は、焼かれた鉄板の上で立っているかのようだ。
 短くない時間を経て、ようやくラズワルドが戻ってきた。

「見つけてきた!」

 鍵の束の中から竜也の牢屋の扉の鍵を見つけるのにまた時間がかかり、ようやく鍵を開けたと思ったら立て付けの悪くなった扉をこじ開けるのにまた時間を取られてしまった。竜也はラズワルドの手を引いて外へと飛び出した。
 百メートルも走らないうちに敵に見つかってしまった。

「女だ!」「こっちに女がいる!」

 粗末な革製の鎧を身につけた、白人の男達。鎧や髪は埃で汚れて白くなっていて、血に濡れた剣や槍を手にしていた。その眼だけが狂喜でぎらぎらと輝いている。
 竜也はラズワルドの手を引いて走り出した。それを何人もの聖槌軍の兵士が追いかける。裏路地の、道が入り組み迷路みたいになっている区画に逃げ込む。適当な民家に入り込んで何とか敵兵を撒くことができた。
 竜也達は、今度は敵兵に見つからないことを最優先にして、姿を隠して慎重に歩を進めた。

「この道の方が人が少なそう」

 とラズワルドが先導する。ラズワルドは読心の恩寵を対人レーダーのように使うことで敵兵を回避し続けたのだ。

「とにかく今は町の外を目指すしかない。ソウラ川に出て、川を泳いで渡って東岸まで行ければ敵もいないだろう」

 夜になるのを待った方がいいだろうか、とも考えたが、夜まで隠れていられる安全な場所が見当たらない。敵兵の姿は一分一秒ごとに増え続けていて、先へと進むのがますます難しくなっている。

「待って、向こうから来る」

 ラズワルドの警告に従い元来た道を引き返すが、そちらからも敵兵が姿を現した。竜也は周囲を見回し、少しの間だけでも身を隠せる場所を探す。そして天佑のようにそれを見つけた。竜也の視線の先にあるのは、共同便所の肥溜めだった。
 竜也の手を握ったままのラズワルドもその案を理解する。躊躇と嫌悪がラズワルドの心を詰め尽くすが、次の瞬間にはそれを全て投げ捨てた。ラズワルドは率先して便座を潜り、肥溜めへと身体を沈めた。それに竜也が続く。
 あまりの悪臭に嘔吐しそうになるが、辛うじてそれを我慢した。肥溜めの中は思ったよりも狭く、竜也とラズワルドの二人で満員である。竜也は外からラズワルドを隠すようにしてその身体を抱いた。ラズワルドもその手を竜也の胴に回す。
 悪臭は目が潰れるかと思うほど強烈だった。鼻はもちろん口でも呼吸が困難だが、しないわけにはいかない。唇をほんのわずかだけ開けて、か細く短い呼吸をくり返した。奴隷時代のことを思い出し、精神を現状から切り離し身体を機械とし、ただ生き残ることだけに専念する。ラズワルドは半分以上気絶しているようだったが、その方がいいだろうと考えた。
 竜也達はそのまま肥溜めの中で夜を待った。地獄のような汚濁の中で、永劫とも思える苦悶の中で、ただ互いの温もりだけが価値あるものの全てだった。







 日が沈み、外は夜の闇に包まれた。
 周囲に敵兵がいないことを確認し、竜也とラズワルドは肥溜めから抜け出した。身体を洗うこともできないまま、再び町の外へと向かう。
 町の各所から火の手が上がっているようだった。敵兵の姿があちこちに見られるが、夜の闇が竜也達の姿を隠してくれた。竜也達は敵兵に見つかることなく町の外を目指して歩いていく。
 路地には数メートルごとに市民の死体が転がっていて、地面には血の絨毯が敷かれていた。剣で斬られ、槍で突かれた男の死体。女の死体は一人残らず下半身裸である。腰の曲がった老婆から五歳の子供まで、女という女は一人の例外もなく強姦された上に殺されていた。腹を割かれた妊婦の遺体もあった。
 心を凍らせた竜也とラズワルドはその惨状に目を奪われることなく、前へと進み続ける。視界の端に捉えた二人の死体。全身を無残に斬られた老婆と、裸にされた若い女性の死体が寄り添うように倒れている。竜也にはそれがばあやとリモンのように思えたが、戻って確認したりはしなかった。今はただ先へ先へと進み続ける。ソウラ川のほとりは目前に迫っていた。
 だが竜也達の行く先を阻むように、その道に一人の男が佇んでいた。背の高い、黒い騎士服の男――タンクレードである。
 タンクレードは剣を腰に差しているが、同行者はいないようだった。ソウラ川は目前だ、この男を殴り殺してでも先に進む。竜也はそう決意し、路傍の石を拾い上げてタンクレードに接近した。タンクレードの方も竜也達の姿に気付いたようである。誰か呼ぶかと思っていたが、タンクレードは何もしない。惚けたように立ち尽くしているだけだ。
 訝しく思いながらも竜也はタンクレードに接近する。だが彼は何もしないままだ。タンクレードは悄然としており、わずか二日ほどの間に十歳も老け込んだかのようだった。

「――行くがいい」

 タンクレードは竜也達にそう言い、背を向ける。竜也はその横を通り過ぎ、そのまま走り抜けていった。
 竜也達は川岸からゆっくりとソウラ川の水に浸かり、岸から離れた。流れに身を任せるようにして川の中央へと泳いでいく。ラズワルドは竜也の首に捕まり、竜也は少女を背負うような格好だ。ソウラ川には、二人が見かけた範囲だけでも何百という死体が流れていた。生きて泳いでいる人間もいたが、その数は圧倒的に少ない。
 川に流され、川ではなくソウラ湾に出た頃、竜也達はようやく東岸に辿り着いた。竜也とラズワルドは最後の力を振り絞って岸に這い上がる。陸地に上がったところで力尽き、そのまま寝転んだ。しばらくの間体力の回復に努める。
 泳いでいる間に汚物の大半は流れ落ちたようだが、悪臭は身体に染み込んでいるかのようだった。ちゃんと身体と服を洗おうと思い、竜也は起き上がる。竜也の視界に向こう岸のルサディルの町が入った。
 ルサディルの町の各地が炎上しているようだった。町は不気味な赤色に染まり、何本もの煙が立ち上っている。竜也が周囲を見回すと、町から何とか逃れてきた人々が虚ろな瞳を町へと向けていた。
 これまで堪えてきたものが込み上げてくる。竜也はその場でひざまづいた。力任せに地面の砂を握り締める。竜也の瞳からこぼれた涙が、その砂を濡らした。食いしばる歯が砕ける寸前の軋みを上げた。

「……な、何で」

 憤怒が、激情が竜也の身体を震わせる。

 ――何故ここまで残虐なことができる? 一体何の恨みがあって? 一体どういう権利があって?

 もちろん竜也も知識としては判っている。ルサディルで暴虐の限りを尽くしたのは、エレブの普通の市民・農民なのだ。領主からの重税に苦しみ、聖杖教のプロパガンダに踊らされているだけの、無知蒙昧なただの庶民。領主から苛政を受け、教会から抑圧を受け、その苦しみの転嫁先を探してネゲヴまでやってきて、ルサディルがその最初の捌け口となってしまった。ただそれだけなのだ。
 竜也は力強く立ち上がり、炎上するルサディルの町を見つめた。黒い両眼に宿った確固たる決意が、艶やかに星明かりを照り返す。その瞳はまるで鋼鉄そのものだった。

 ――だが判っているのか? 欲望で他人を殺すのなら、自分も他人の欲望のために殺されても文句が言えないのだということを。

 ――ああ、判っていやしないだろう。判っているのならこんな真似ができるわけがない。だから俺が判らせてやる。

 ――『神の命令に従っただけ』? 『それを神が望んでいる』? 巫山戯るな。そんな淫祠邪教、俺が神と認めない。そう、俺は「黒き竜」。キリストに仇なす悪魔の獣だ。

 ――やっと判った、俺がここにいる理由。俺がこの世界のこの時代にやってきたのは決して偶然なんかじゃない。奴等と戦うためだ。聖杖教と戦い、聖槌軍を滅ぼし、犯され殺されたリモンやばあややルサディルの人々の仇を討ち、ネゲヴをネゲヴの民の手に取り戻す。そのために俺は今ここにいる。

 ――それができるのは俺だけ。俺には「黒き竜の血」が流れている。俺は「黒き竜」なのだから。

 ルサディルの町を見つめる竜也は、ラズワルドがいつの間にか起き出して自分を見つめていることに全く気付いていなかった。少女の内面が今大きく変貌しようとしていることも。
 無意識のうちに竜也の内心を覗いたラズワルドの心に、竜也の激情が流れ込んでくる。少女にはそれに抵抗できるほどの力はなかったし、そもそも抵抗するつもりもなかった。竜也の憤怒に共感し、竜也の覚悟に感化され、竜也の意志を共有する。言わば、少女は自分で自分を洗脳したような状態だった。少年が自分を人間ではなく「黒き竜」だと信じるなら、少女にとってもそれが真実なのだ。







 今ここに黒き竜の少年と、その白き巫女が目覚める。二人がこの世界に何をもたらすのか、知る者はまだ誰もいなかった。







[19836] 幕間1 ~とある枢機卿の回想・前
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/21 21:05




 教会が燃えていた。
 敵の襲撃は突然だった。誰もが寝静まった深夜、敵兵は夜闇に紛れてその教会へと接近。彼等は警告も降伏勧告も何一つすることなくその教会へ、教会に併設された孤児院へと突入したのだ。
 教会や孤児院の従僕、孤児院の孤児達、全て合わせれば五〇人を越えていただろう。だが逃げ延びることができたのは二人だけだ。その二人は丘の上から炎上する教会を、孤児院を見つめている。
 一人は教会の責任者の神父だ。その神父は力尽きたようにひざまづき、倒れ込みそうになって掌を地面に付けていても、顔だけは上へと向かせている。視線だけは、教会を焼き尽くす炎から決して離そうとしなかった。

「神父様……」

 神父の隣には小汚い格好の孤児の一人が立っている。神父のことを心配していても彼には何をどうする力もありはしない。今の彼にできるのはその神父に寄り添うことだけだ。





 教会が燃えていた。その神父が心血を注いで築いてきた彼の楽園が、焼き尽くされ、灰になろうとしている。彼の理想に賛同し、協力してくれた同志達が天に召されようとしていた。
 孤児院が燃えていた。その孤児が物心ついてから生まれ育った場所が消え去ろうとしている。一緒に育った仲間達が無惨な死体になろうとしていた。
 燃え広がる炎を、焼け落ちる教会の尖塔を、二人は見つめ続けている。その光景は二人の心に刻み付けられた。炎の輝きは二人の瞳に焼き付けられた。たとえ年老い、死の瞬間を迎えたとしても、この光景を忘れることはないだろう。
 ――この夜、全てを焼き尽くす炎は生き残った少年の過去をも滅却した。そして炎の中から一人の神の使徒が新生したのである。







「黄金の帝国・幕間1 ~とある枢機卿の回想・前」







 かつて呼ばれていた名前はもう思い出すことができない。それは濃霧の中よりも曖昧な遠い記憶の彼方である。一番古い記憶は、その教会の孤児院に拾われた日のことだ。町で浮浪児をしていた彼はそのとき行き倒れて死ぬ寸前だった。町の誰かが彼を拾い、その教会へと世話を押し付けたのだろう。

「やあ、初めまして。僕がここの責任者のピエールだ。君も今日から僕達の家族だ」

 目覚めた彼を出迎えたのはそう告げる神父ピエールの笑顔だった。ただの柔和な笑顔がそのときの彼にはまるで太陽のように光り輝いて見えた。

「まるで神様みたいな人だ」

 その時点の彼の貧困な語彙ではこの程度の喩えすら思い浮かべることはできなかったが、まさしく彼はそんな風に思っていた。後日、教会で神の存在を教えられた後になってもその思いはほとんど訂正されていない。

「神父様は神様のお手伝いをしているんだね?」

 彼の問いにピエールは笑って「そうだよ」と頷く。彼もまた得心して頷いた。

「つまり神父様は神様に一番近い人→神様の次に偉い→ほとんど神様」

 彼の中ではそんなものすごい三段論法が成立していた。彼にとっての信仰の対象は神父ピエールである。神に祈りを捧げるとき、彼が思い浮かべるのは天上のどこかにいる見たこともない神様ではなく、会ったこともない教皇庁の教皇でもなく、神父ピエールの笑顔なのだ。そして彼のこの信仰は今に至るまで揺るぎなく貫かれている。
 実際、この時点のピエールはまだ二〇代の若造でしかない。だがすでに高潔な聖職者として名声を得、一部では聖人とすら呼ばれていた。

「他の教会の神父なんてひどいもんだぞ? 貧乏人からむしり取った金で女を買うくらい当たり前にやっている」

 教会と孤児院には何人もの大人がいたが、彼等は皆ピエールに信服し、神父の理想に賛同した同志達である。

「僕達は聖杖教の真の理想を追求する。神父ピエールの元でならそれができると思うんだ」

 孤児院の運営もまた理想追求の一環なのである。
 孤児院での生活は貧しく苦しいものだったが、浮浪児をしていた頃を思えば天地の差があった。どんなに慎ましくとも一日二回欠かさず食事でき、雨風をしのげる建物の中に自分の寝床がある。差別や理不尽な暴力も非常に少ない。貧しい食生活の中でも彼はすくすくと、急速に成長した。推定で六歳になるくらいの頃にはすでに一〇歳児と変わらないくらいの体格を有するようになっていた。

「そこのうすらでかいの、お前を僕の従者にしてやる」

 彼がその貴族の子供と出会ったのはそんな頃である。

「僕はアンリ・ボケ。騎士の息子で、僕もいずれは騎士になる。お前も僕を守って戦うんだぞ」

 アンリ・ボケと名乗るその子供は貴族には到底見えないみすぼらしい格好で彼の前に立っていた。体格も貧弱で、顔には一面ひどいあばたがある。貴族らしい風格も子供らしい愛嬌も持たない一方、貴族らしい驕慢さと子供らしい憎々しさだけは充分に備えていた。
 その日以降、彼はアンリ・ボケというその子供の従者として生活することになる。とは言っても孤児院の外での騎士修業に付き合うわけでもない。今まで通り孤児院の中での雑用に追われる生活の中に、アンリ・ボケの世話係という仕事が一つ加わっただけである。体格は立派に育っても内面はまだまだ幼い彼は逃げるための上手い口実も手段も思いつかず、アンリ・ボケに従順する他なかった。

「あの子も早くここでの生活に馴染んでくれればいいのですが……困ったものです」

 ピエールが彼の前に立ち、やや苦い顔を見せている。ピエールはアンリ・ボケが不在の一時を見計らい、彼の前に現れたのだ。

「あの子が他の皆と仲良くできるよう、君も気を配ってくれませんか」

 それは……と彼は沈黙する。彼の表情を読み、ピエールは苦笑した。

「――確かに君がどんなに努力をしてもあの子自身に変わる気がなければどうしようもないことですね」

 アンリ・ボケと他の子供達の対立はすでに修復不能の水準に達していた。アンリ・ボケは「自分は貴族だ」という自負の元、傲慢な姿勢を崩そうとしなかった。一方の子供達は、

「何が貴族だ。病死した貧乏騎士の四男だか五男だかで、母親の再婚の邪魔だからここに放り込まれたんじゃないか」

 とアンリ・ボケに対する侮蔑を隠そうとしなかった。

「貴族だなんだ言ったところで、こんな平民用の孤児院に入れられる時点でたかが知れるだろ」

 子供達がアンリ・ボケに聞こえるようにそう言って嗤っているのを彼も聞いたことがある。そんな陰口を聞くたびに、鬱憤晴らしのためにアンリ・ボケは適当な口実を付けて彼を折檻するのだ。孤児院には数十人の子供がいて問題児も多いのだが、アンリ・ボケは入院早々に彼等を追い越して問題児の筆頭と見なされるようになっていた。子供だけでなく教会の大人達すら「平民」と見下し、誰にも従おうとしないからである。が、ピエールに対してだけは一応従う姿勢を見せた。

「当然だろう。あの男は爵位を持つ貴族の家の出だからな」

 彼の疑問にアンリ・ボケはそう答える。初めて知った事実に彼は驚き、機会を見つめてピエールに確認した。

「確かに実家はそうですよ? ですが相続権も弟のものですし、実家は私とはもう関わりのない家です」

 ピエールの実家は爵位も領地もある裕福な貴族で、ピエールはそこの長男とした生まれた。幼い頃に母親を亡くし、父親と折り合いが悪くなったピエールはどうしようもないドラ息子として育ったと言う。

「町の愚連隊を率い、悪さは一通りやりました。今思い返すと恥ずかしいばかりです」

 そのピエールからすればアンリ・ボケの振る舞いなど子供らしく微笑ましいわがままに過ぎないようだった。彼からしてみればたまったものではないのだが。

「そのうち父は後妻を娶り、彼女が生んだ子供に爵位を継がせることを決めます。私は厄介払いに修道院に放り込まれたんです」

 当初はさらに荒れたピエールだが、やがて聖杖教の説く隣人愛に目覚め、聖職者として生きていくことを決意するようになる。

「運が良かったのですね。私は素晴らしい師とめぐり会えましたから。あの方と会っていなければ私は修道院を飛び出して傭兵となり、今頃どこかの戦場で生命を落としていたことでしょう」

 あの子にとっての私が私のとってのあの方となってくれればいいのですが――ピエールはそう語り、アンリ・ボケを導くべく尽力した。何度も面談を重ね、説教をするのだが、アンリ・ボケはかたくなになる一方である。

「神父はこのあたりじゃ聖人と呼ばれているそうだが、僕に言わせればただのペテン師だ」

 アンリ・ボケは彼の前ではピエールに対する敵意も露わにしていた。彼は内心でそれに反発するが表面上は大人しく頷いておく。

「この地上から戦争を根絶する」

 そう公言するピエールは、まずは教会のある領地の領主であるロレーヌ伯から説得を開始していた。

「戦いは何も生みません。生まれるのは悲しみと憎悪だけです。それは神の御心に沿う道ではないのです」

「まずは隣国のライニンヘン伯と友誼を結ぶところから始めましょう。信頼関係が深まれば早々戦争にはならないでしょう」

「少しずつ軍備を減らしましょう。ロレーヌ伯が平和を願っていることを行動で示すのです」

 ピエールに感化されたロレーヌ伯は騎士の数を、兵の数を減らしていく。浮いた予算は租税の軽減へと当てられ、ロレーヌ伯は領民から名君と呼ばれ、慕われるようになる。それとともに神父ピエールの名声も一層高まった。だが、

「ロレーヌ伯が年老いて気弱になったところによほど上手くつけ込んだんだろう。『汝の隣人を愛せよ』『右の頬を打たれたなら左の頬を差し出せ』……そんなのはただの空論だ。領主が実行していいことじゃない」

 アンリ・ボケはそう言ってその領主を嘲笑した。

「でも、税が軽くなったと皆が喜んでいますよ」

「その分敵に対する備えが疎かになっているんだ。ロレーヌ伯はいずれその報いを受けるだろうさ」

 このときアンリ・ボケは自分以外の全ての人間を軽蔑し、憎悪し、嘲笑していたのだろう。
 彼がアンリ・ボケの従者になったことはマイナス面しかなかったわけではない。彼がアンリ・ボケから学んだことも確かにあったのだ。
 ……それから一年もしないうちにアンリ・ボケの予言は的中することとなる。ロレーヌ伯領は隣国のライニンヘン伯から侵攻されたのだ。弱体化していたロレーヌ伯の軍は簡単に撃破され、領地はどんどん浸食されていく。ピエールも含めた教会の大人達が不安げに右往左往する中、アンリ・ボケだけが嗤いを浮かべている。すでにロレーヌ伯の滅亡は誰の目にも避けられないものと見られていた。ロレーヌ伯から多大な援助を受けているこの教会と孤児院もまたこの先の運営が行き詰まることになる――ピエールも教会の大人達も、皆そのことを心配していた。
 ライニンヘン伯の軍が近くまで来ているとの噂が聞こえていたが、教会も孤児院もいつもと変わらない日常を送っていた。その日の深夜、寝床から抜け出して厠へと向かった彼は、たまたまピエールと出会う。

「やあ、良い夜ですね」

 ピエールはいつものように柔和な笑みを浮かべた。二人で厠へと向かい、用を足したその帰り。

「……?」

 何気なく敷地に外へと視線を送ったピエールが眉をひそめた。

「神父様?」

 彼もまたピエールの視線の先を見つめようとする。そのとき、敷地の外が一斉に燃え上がったように見えた。何十本という松明が同時に火を灯されたのだ。その松明の明かりに照らされ、武器を手にした兵士の姿が闇の中に浮かんでいる。一本の松明の周囲に何人もの兵がいる。

「一体何が……」

 呆然とするだけのピエールに対し、彼は迅速に最善の判断を下した。ピエールの手を引いて走り出したのだ。兵が教会敷地へと突入してきたのはその直後である。

「待ってください! あの軍を止めないと」

 そう言って足を止めようとするピエールの手を、彼は大人顔負けの力で引きずっていく。

「逃げるのなら他の皆も一緒に」

 そう言っている間にも兵は教会と孤児院に押し入っていく。数々の悲鳴が二人の耳にも届いた。さすがにピエールもこれ以上は立ち止まろうとしなかった。
 教会の敷地を脱し、森を駆け抜け、丘を駆け上がる。教会を眼下に見渡せる丘の上までやってきて、ようやく二人は足を止めた。二人は後ろを振り返る。

「教会が……」

 教会が、孤児院が燃えていた。神父ピエールの同志達が、彼の仲間の孤児達が、炎に包まれていた。何もかもが焼き尽くされようとしていた。二人は無言のまま立ち尽くし、その光景を心へと刻み付け。炎の輝きを瞳へと焼き付ける。
教会と孤児院が焼け落ち、全てが灰に還るまで、二人はその丘に立ち尽くしていた。







 ロレーヌ伯領の全域に戦渦が広がり、街道には難民が溢れていた。彼とピエールはその難民の一員となって街道を歩いている。
 彼の横で老婆が力尽きたようにひざまづくが、手を差し延ばすものは誰もいない。そこにピエールが手を差し出した。

「大丈夫ですか? さあ、立ちましょう」

 その老婆がピエールの手を取ろうとし、そこで気が付いた。

「あ、あなたは神父ピエール……」

 しばし呆然としていた老婆だが、形相が一変した。

「お前が! お前が余計なことをしたばかりに! 領主様は戦争に負けちまって、わたし達はこの有様だよ!」

 ピエールの正体が周囲の難民に知れ渡り、難民がざわめいた。

「わたしの家を帰しておくれ! 死んだ息子を帰しておくれ! さあ!」

 そして老婆の雄叫びが周囲へと響き、その思いが周囲へと伝わっていく。

「……そうだ、そうだ! お前が余計なことをしたばっかりに!」

「領主様が負けたのはお前のせいだ!」

「どうやって責任を取るつもりだ!」

 最初は言葉だけでピエールを糾弾していた難民達だが、手が出るまではそれほど時間はかからなかった。彼がピエールをかばって難民の前に立ちはだかるが、所詮は子供でしかない。彼にできるのはピエールの手を引いて逃げ出すことだけだ。彼とピエールは難民から石をぶつけられ、血を流しながらも何とか難民の目前から姿を隠した。
 それ以降、二人はあらゆる人間を避けて旅を続けなければならなかった。主要な街道は通らず、選ぶのは人気の少ない裏道や山道。農村で宿を求めることも避け、連日野宿である。乞食と変わらぬ姿となり、畑から食べ物を盗んだり残飯を恵んでもらったりして飢えをしのぎ、旅を続ける。
 普通に移動すれば半月かからず到着する目的地にようやく到着できたのは実に一ヶ月後だった。ピエールが彼を連れてやってきたのは聖杖教の総本山、教皇庁のあるテ=デウムである。
 ピエールは親しい友人の家を訪れた。教皇庁の一職員であるその友人はピエールの姿に驚きつつもその生存を喜び、彼を自宅へと招き入れた。

「ところでピエール、その子供は?」

「彼は孤児院で世話をしていた子だ。名前はアンリ・ボケ」

 友人の問いにピエールはそう答える。彼は驚いてピエールの顔を見つめるが、その表情からはどんな感情も考えも読み取ることができなかった。
 水浴びをくり返して一ヶ月分の垢をこすり落とし、真新しい服をもらい、人間らしいまともな食事を食べさせてもらい、ようやく人心地を付く。その夜、ピエールと彼は客室の一つを提供してもらった。
 ピエールと二人だけになり、彼はようやく疑問をぶつける機会を持った。だが、

「――アンリ、私はずっと考えていたんです。あの夜からずっと」

 ピエールの真剣な眼差しが彼の心を貫く。射止められたように彼は身動きできなくなっていた。

「私が間違っていたのだろうか、と。私が間違った理想を掲げ、ロレーヌ伯や皆を惑わせたのだろうかと。その結果があの夜だったのだろうかと。私はずっと考えていたんです。考えに考え、考え抜いて、ようやく結論に至りました」

 ピエールは一呼吸置き、不意にいつものような――一ヶ月前と同じような笑みを見せた。

「やり方に間違いがあったとしても、掲げた理想に間違いなどなかった。この地上から戦争を根絶したい――その思いが間違っているはずがないのです」

「はい、その通りです神父様」

 彼は脊椎反射の速さでそう答える。

「私はこの地上から戦争を根絶したい。あの夜のような悲劇を二度とくり返したくない。誰にもくり返してほしくない。あの夜を経て私は自分の理想にさらなる確信を得ることができました」

 ピエールはそう言って彼へと手を差し出す。

「アンリ・ボケ。私はあなたの力を必要としている。私の理想を実現するため、あなたの力を貸してほしいのです」

 答えるべき言葉を持たないまま、彼はピエールの手を取る。彼の瞳の輝きを見ればその答えは明確だった。言葉にする必要もない。
 この夜、神父ピエールは自らの理想に向けて再出発をした。その傍らには幼い騎士アンリ・ボケが立っている。この夜、名もなき浮浪児の一人が死んだ。その代わりに新たに生まれたのは、アンリ・ボケという名の神の騎士だった。







 神父ピエールがテ=デウムに逃げ戻ってきた一件は教皇庁の一部にニュースとして知れ渡った。ピエールは清貧を旨とし、聖職者の腐敗を強く批判し、聖人として名声を得た人物だ。そのピエールが自らの理想に足下をすくわれ、挫折した事実は、批判される種類の聖職者にとっては何よりも愉快なニュースだったことだろう。

「あの男がロレーヌ伯領から身体一つで逃げ出したそうだぞ」

「ああ、今はここテ=デウムに戻ってきている。一体どの面を下げて、というところだな」

「あの男のせいでロレーヌ伯爵家は滅亡したんだ。あの男の話に耳を傾ける者はもうどこにもいないだろうさ」

 多くの者が神父ピエールはこれでもう終わりだと思っていた。実際ピエールの活動を支援してきた聖職者も諸侯も、そのほとんどが彼の元から去っている。ピエールはわずかに残ったほんの一握りの支援者からの援助で糊口をしのぎつつ、教皇庁の図書館にこもっていた。友人の家に居候をして連日図書館に通い、聖典やその注釈書、歴代教皇の言行録を片端から読みあさる毎日である。
 一方のアンリ・ボケは教皇庁付属の神学校に入学した。

「……主に従う人は……揺らぐ? 彼は記憶された。彼は悪評を立てられた……? その心は固く信頼している。……えーと、彼は敵を支配する」

 四苦八苦しつつも聖典を読み上げようとするアンリ・ボケを、周囲の生徒達が笑っている。孤児院でも文字は習っていたがまだ一部の単語の読みを習った段階でしかなく、神学校の授業について行ける水準には到底届いていなかったのだ。アンリ・ボケは速やかに落ちこぼれた。
 そんな調子で数ヶ月が過ぎたある夜。

「神父様、今日導師ベネディクトから退学を勧告されました」

 自宅に戻ったアンリ・ボケはピエールにそう報告する。

(一生懸命勉強して立派な聖職者になって、神父様の手伝いをするつもりだったのに)

 アンリ・ボケの気高い目標は最初の一歩目で挫折してしまったのだ。恥ずかしさと自己嫌悪と劣等感で気持ちは地の底まで沈んでいた。

「導師は聖堂騎士団への転籍を斡旋してくれるそうです」

 聖堂騎士団は教皇庁に属する(この時点では)唯一の武装組織である。教皇庁とテ=デウムの治安維持や警備を一手に担っている。が、教皇庁の組織上では外部団体でしかなく、聖杖教の教義からすれば一種の鬼子だった。教皇庁の主流派から見れば手頃な左遷先であり、聖堂騎士団は落ちこぼれや不祥事を起こした聖職者、政争に敗れた反主流派等の吹きだまりとなっていた。
 アンリ・ボケの報告を受けたピエールは「ふむ」と少し考え、

「それもいいかもしれませんね」

 と軽く頷く。ピエールに見捨てられたように感じ、アンリ・ボケの落ち込みようはさらに深まった。その様子を見て取って、ピエールは笑いながら手を振る。

「アンリ、誤解しないでください。あなたが聖堂騎士団に属することは私達の今後にとって必要なことなのです」

 うつむかせていた顔を上へと向かせるアンリ・ボケ。ピエールは笑顔を引っ込め、真剣な表情を見せた。

「ちょうど私の考えもまとまったところです。あなたに今後の方針を示しましょう」

 ピエールの言葉にアンリ・ボケもまたこれ以上ないくらい真面目な顔をする。そのアンリ・ボケに、ピエールは机の上に地図を広げて示した。地図は地中海を中心とし、エレブ・アシュー、そしてネゲヴの三大陸を描いたものである。

「聖典の一節を覚えていますか? ケムトを脱出した契約者モーゼは荒野を放浪する中、神より約束の地を与えられました。その地とは『大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て』。大河ユフテスとはこです」

 とピエールは元の世界ではユーフラテス川と呼ばれている川を指し示す。

「では『日の入る方の大海』とはどこか? それはここなのです」

 とピエールが指し示したのは、元の世界では大西洋と呼ばれている海、この世界では「西の大洋」と呼ばれている海だった。

「……えーと」

 とアンリ・ボケが戸惑いをその瞳に浮かべる。ピエールは苦笑を示した。

「確かに従来の解釈では『日の入る方の大海』は地中海を意味するとされてきました。ですが、三〇〇年前の教皇ウルバヌスがこのような解釈を勅書で発しているのです。『神が我等聖杖教徒に与えた約束の地とはネゲヴのことなのだ』と」

 教皇ウルバヌスは無法時代の教皇だ。この時代、エレブ側とネゲヴ側のバール人都市が海洋交易の利権を巡って戦争を続けていた。この勅書はエレブ側の都市がネゲヴ側の都市を攻めるお墨付きを与えるために発せられたものに過ぎない。聖杖教徒をバール人の戦争に協力させるために発せられたものに過ぎないのだ。本気で主張されたものでもなく、同じ主張がくり返されることもなく、とっくに忘れられたものである。

「ですが、正式に撤回されたものでもありません。そうである以上、ネゲヴが聖杖教の土地であることは三〇〇年前から変わることのない教皇庁の正式な立場であると言えるのです」

 ピエールの説明を受けてもアンリ・ボケの戸惑いは深まるばかりである。そんなアンリ・ボケに構わずピエールは説明を続ける。

「神から与えられた私達の大地が今、異教徒や悪魔の民に奪われ、穢されています。さらには契約者モーゼの聖地ケムトもまた異教徒の支配下にあります。聖杖教徒であるならばこの事態を許せるはずがないのです」

 そしてピエールはアンリ・ボケに対して決定的な一言を放った。

「エレブ全ての軍勢を聖杖の旗の下に率い、ネゲヴを征服します。貧しき民にはネゲヴの農地を、騎士や諸侯にはネゲヴの領地を分け与えるのです」

 アンリ・ボケは呆然とした。短くない時間を経て、ようやく再起動を果たす。

「……そんなことをして、なおさら戦争がひどくなりはしませんか?」

「まず間違いなくひどくなるでしょうね。ですので、そう主張するだけで実際には征服などやりはません」

 と軽く笑うピエール。アンリ・ボケは安堵のため息をついた。

「……充分な時間さえあれば一人一人を説得していき全ての人間を教化し、戦争のない世界を実現するのも不可能ではないでしょう。ですが、それが成されるまで一体何百年の時間を必要とすることか。私は今まさに起こっている悲劇を、今この瞬間に流れる血を、涙を止めたいのです。そのためなら手段の是非を問うてはいられない。問うべきではない……私はあの夜、それを理解しました」

 ピエールは拳を握りしめ、虚空を見つめた。そんなピエールをアンリ・ボケが見つめている。

「私は私の生きている間に戦争の起こらない、戦争の起こりにくい状況だけでも作っておきたい。そのために必要なのは、王権の強化です」

「王権?」

 アンリ・ボケの疑問にピエールが頷く。

「はい。国王と言えば一国の中で一番偉い人のように思えますが、実際のところはそうでもありません。国王は諸侯の中で特に有力な一人に過ぎず、国王は有力諸侯の協力がなければ戦争一つ満足にできません。例えば国王が『国内で戦争をするな』と命令としたとしても、諸侯の誰もそれを守りはしないでしょう。その命令を破ったところで、その領主を処罰するだけの力が国王にはないからです」

「つまり、王様に充分な力があればライニンヘン伯のような奴を抑えることができる……?」

 アンリ・ボケの理解にピエールの顔が輝いた。

「はい! まさしくその通りです。そのために、国王に充分な力を付けるためには国王に戦力を集中させる必要がある。そのためのネゲヴ征服、そのための聖地奪還です。『ネゲヴ征服のために軍を再編する』と称し、諸侯から軍権を奪っていく。逆らう諸侯は異端として討伐していけばいいのです」

 アンリ・ボケは呆然としたように「はあ」と頷いた。ピエールは優しい瞳で遠くを見つめる。

「私の主張が賛同者を集めて教会の主流になるまで十年か二十年、各国の国王にも協力を得て軍権を一本化するまで二十年か三十年……ネゲヴ征服の体制が整う頃には私は天に召されていることでしょう。そうなったら適当な口実を付けて遠征を中止すればいい。それでエレブの平和は実現できます」

 未だ十歳にもならない子供のアンリ・ボケにはそんな先のことは想像すらできない。今のアンリ・ボケに判るのはごく目先のことだけである。

「僕は聖堂騎士団に属して立派な騎士になればいいのですね?」

「その通りです。私には戦争を理解し、武力を有する協力者が必要です。それがあなたであるのならこれ以上の適任者はありません」

 ピエールの言葉にアンリ・ボケは「判りました」と頷く。アンリ・ボケは次の日には進学校を退学して聖堂騎士団に転籍する。こうしてアンリ・ボケは小さな騎士としての第一歩を踏み出したのである。







 それから数年はピエールもアンリ・ボケも足場を固めて力を蓄えることに専念した。ピエールは教皇庁で、エレブ諸国でネゲヴ征服を精力的に説いて回っている。教皇庁でネゲヴ征服構想を呈示した当初は嘲笑を浴びるだけだったが、数年を経て徐々に賛同者を増やしていた。特にフランク王国の王室周辺にはピエールの主張に興味を示している者が多い。ピエールの主張が王権の強化に利用できると気付いているのだろう。
 一方のアンリ・ボケは聖堂騎士団で騎士として頭角を現していた。アンリ・ボケはようやく一二歳になったばかりだが体格はすでに大人のそれであり、年齢を一七歳と偽っている。体格だけでなく体力と腕力にも恵まれ、アンリ・ボケの剣の一撃に耐えられる騎士は聖堂騎士団の中にはいないくらいだった。――もっとも、聖堂騎士団の騎士と言えば見かけ倒しの役立たずばかりと世間でも評判なのだが。
 聖堂騎士団の役目は教皇庁とテ=デウムの警備であり、一般の諸侯の騎士のように戦場に出る機会はほとんどない。アンリ・ボケにはそれが歯がゆくてたまらなかった。

「戦う機会が必要だ。私自身の出世のためにも、聖堂騎士団を精強にするためにも。戦場に出たことのない騎士など張り子にも劣る」

 ピエールに相談しつつ出動する理由を探していたアンリ・ボケだが、ようやくその機会が巡ってきた。アンリ・ボケはあるときテ=デウムを訪れた巡礼者の一団と出会ったのだ。

「お前達、その姿はどうしたのだ」

 アンリ・ボケは驚いて問う。その一団の多くの者が血に汚れ、傷を負っていたからだ。

「はい、道中に山賊に襲われ……村を出てここまで何とかたどり着いたのは半分だけでした」

「何と痛ましい……」

 アンリ・ボケの身体が打ち震えた。
 それから半月ばかりを経て。その巡礼者の一団がディウティスクの村に帰る日がやってきた。テ=デウムの城門の前で一団を待っていたのは、アンリ・ボケ率いる十名の騎士だった。アンリ・ボケは剣の代わりに鉄槌を携えているし、騎士の一団が掲げる旗には交差する二本の鉄槌が描かれている。

「騎士様、これは一体……」

「我々があなた達を故郷まで送ろう」

 巡礼者達は戸惑うしかない。

「で、ですが、私どもには到底騎士様の護衛をお雇いできるような蓄えは……」

「案ずるでない。今回の出動費用は神父ピエールが受けている寄進の中から出されている。お前達はただ神父ピエールに感謝を捧げればいいのだ」

 巡礼者達は這いつくばって礼を言うばかりである。

「おお、有り難いことです……」

「これで生きて故郷に帰れる……」

 ……こうして巡礼者の護衛という格好の口実を得たアンリ・ボケはくり返し自分の騎士隊を出動させた。ときには山賊や傭兵団と戦い、小さくない被害も負った。だが負けたことは一度もないし、アンリ・ボケ自身も必ず生き残っていた。

「何、騎士の補充などいくらでもできる。私に付いてこれない軟弱な騎士など不要だ」

 聖堂騎士団の騎士には貴族や大商人のどら息子等も多く属していたが、アンリ・ボケは自分の部隊からはそんな劣悪な騎士を排除。代わりに貧乏騎士の四男五男や出自の定かではない平民を登用した。貪欲に手柄を欲するそれらの騎士を過酷な実戦に投入し、さらに鍛え上げる。二年ほどで、アンリ・ボケは小さいながらも最精鋭の騎士隊を創り出すことに成功していた。鉄槌の旗を掲げるその部隊は鉄槌騎士隊の通称で知られるようになり、やがてアンリ・ボケ達もその名を自称するようになった。
 今日も今日とてアンリ・ボケは鉄槌騎士隊を率いて巡礼団を護衛中である。護衛対象の中には巡礼団だけでなく一般の旅人や商人の一団も混じっている。

「騎士様、いつもありがとうこざいます。これは神父ピエールへのほんの心ばかりの感謝の気持ちでございます」

 商人の差し出す袋をアンリ・ボケは恭しく受け取った。

「うむ。お前達の志は必ず神父ピエールまで届けよう」

 アンリ・ボケの活動が継続的になり広範囲になるにつれ、資金面でも継続的な収入を得るようになっていた。さらには、



「城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主――」



 夜の野営地に朗々とした声が響き渡っている。聖典を読み上げているのはアンリ・ボケであり、巡礼者だけでなく旅人や商人、騎士までがその声に聞き入っていた。巡礼者の中には有り難さがあまって涙ぐんでいる者もいる。
 元々は誰かに聞かせるつもりだったわけでもなく、出来の悪い生徒だったアンリ・ボケが何とか暗記をしようと聖典を読誦していただけであり、長年の習慣を未だに続けているだけである。だが、周囲にはそんなことは判らない。

「騎士隊を率いる立派な聖職者が下々にも祝福を授けてくださっている」

 そう受け止められているのである。アンリ・ボケの人並み外れた巨体と、そこから発せられる大音声がその評判に拍車をかけていた。
 そして一旦戦闘となれば、アンリ・ボケは誰よりも先に前に出て誰よりも勇猛に戦った。

「ぬぅおおおっっーー!」

 傭兵崩れの山賊の一団へと、アンリ・ボケは真っ先に突撃する。他の騎士が遅れないよう後に続いた。
 必死の形相で走ってくるアンリ・ボケの有様は、その鈍重そうな見かけからまるで牛が二本足で立って走っているような、間抜けな印象を与えただろう。実際山賊の中には笑っている者もいる。だが十も数えないうちにその嘲笑は凍り付くのだ。

「神の裁きを受けよーっっ!」

 アンリ・ボケの振り回す巨大な鉄槌が山賊の一人の頭部に命中。その山賊は首から上を西瓜のように粉々に砕かれ、血と脳漿を撒き散らした。
 慌てて剣を振りかざす山賊だが、アンリ・ボケの鉄槌がその剣へと振り下ろされる。鉄槌は剣をへし折りつつ山賊の胸部に当たり、その山賊は胸を大きく凹ませて大地に倒れた。血と涙と小便と、あらゆる液体を垂れ流しつつ、見るも無惨な姿になってもまだ生きている。
 アンリ・ボケの得物は巨大な鉄槌だ。常人なら両手で持つのが精一杯のその鉄槌を、アンリ・ボケは二本の手にそれぞれ一本ずつ持ち、縦横に振り回している。鉄槌が振り回される度に血の花が咲き、死体が製造された。山賊は我先に逃げ出していくが、それを騎士隊の面々が追撃した。
 アンリ・ボケの名は山賊にとっては死神に等しいものとなり、その裏返しとして旅人や行商人にとっては神の使いとなっている。アンリ・ボケの鉄槌の欠片が旅のお守りとして珍重され、アンリ・ボケの髪の一房は病魔を打ち払う魔除けとなった。

「旅人の守護者」

 いつしかアンリ・ボケはそう呼ばれるようになっていた。アンリ・ボケは自分自身の力で聖人に準ずる存在という世評を得るようになったのである。







 アンリ・ボケが巡礼者の護衛任務から久々にテ=デウムに、ピエールの元に戻ってくると、そこには見慣れない人物の姿があった。

「女人禁制の教皇庁に何故女性がいるのだ?」

 最初はそう訝ってしまった。年齢は見たところ十代の前半。身長は低く華奢で、顔立ちはまるで女の子のようだ。それもすこぶる付きの美少女である。髪は金鎖のように輝き、肌は大理石のように白く、まるで絵画に描かれる天使のような姿をした少年であった。

「紹介しますよ。この子が今度私の秘書をしてくれることになったんです。名前はニコラ・レミ」

「ニコラ・レミだ。君とは同い年だと聞いている。よろしく頼むよ」

 ピエールの紹介を受けてニコラ・レミは如才なく笑みを示し、アンリ・ボケに手を差し出す。アンリ・ボケは硬い表情のままその手を力任せに握りしめた。ニコラ・レミは何とかその痛みに耐えて微笑み続けている。
 「アンリ・ボケ(の公式年齢)と同い年」ということは今年一九歳ということになる。とてもそんな風には見えない、幼い容貌をしていた。「アンリ・ボケ(の実年齢の一四歳)と同い年」と勘違いしそうになったくらいである。
 その日以降、ピエールとニコラ・レミが仲睦まじく仕事をしている姿をアンリ・ボケが物陰から見つめる――という状況がしばしば見受けられた。

「あの子は人見知りをしているだけですから、気を悪くしないでください」

「ええ、もちろん。同い年の同僚なんですから仲良くできればと思っています」

 と笑い合うピエールとニコラ・レミ。アンリ・ボケは柱の陰からその様子を見つめている。握りしめた石柱の角が砕けそうになっていた。
 ニコラ・レミはアンリ・ボケに話しかけるなどして、仲良くすべく努力はしているのだ。それを一方的に無視しているのはアンリ・ボケの方だった。しばらくはそんな状態が続いていたのだが、ある日。

「ニコラ・レミ」

 場所はピエールが預かる教会の一角。一人回廊を歩くニコラ・レミの名を何者かが呼ぶ。振り返るとそこに立っているのはアンリ・ボケで――彼は鉄槌を振りかぶっている。

「な――」

 振り下ろされる鉄槌を間五髪くらいで避けるニコラ・レミ。鉄槌は石の壁を砕き、飛び散った破片がニコラ・レミの頬をかすめ、わずかに血が流れた。

「な、な、何を一体」

 うろたえるニコラ・レミに対し、アンリ・ボケは悠然と微笑んでいる。それは獲物を目の前にした肉食獣の笑みだった。

「身に覚えがないとでも?」

 アンリ・ボケの問いにニコラ・レミは壊れた人形のように首を縦に振り続ける。アンリ・ボケは再度鉄槌を振りかぶり、ニコラ・レミは腕で頭をかばいながら叫んだ。

「ぼくが枢機卿ピエルレオニと関わりがあることを言っているのか?!」

「何だ、判っているではないか」

 枢機卿ピエルレオニはピエールの政敵、その筆頭と言うべき人物である。教皇庁の主流派を束ね、次期教皇の最有力候補と目されている。が、女好きで金に目がなく、腐敗聖職者の代表格として悪名も高かった。

「そのことなら司教ピエールはご存じだ! 最初に僕から説明した!」

 アンリ・ボケはわずかに眉をひそめた。だがその鉄槌は振り上げられたままで、いつでもニコラ・レミの頭へと振り下ろせる姿勢のまま微動だにしていない。

「確かに僕は枢機卿ピエルレオニの甥の一人だ。だが母親の身分が低く、甥として公認されていない」

 この場合「甥」とは「息子」を意味する教皇庁内の隠語である。

「司教ピエールの内側に入り込み、情報を探り、工作をして失脚させる。そのために伯父上は僕をここへと送り込んだ。それは一番最初に司教ピエールに説明している」

 アンリ・ボケはようやく鉄槌を地面へと下ろす。ニコラ・レミは大きく安堵のため息をついた。

「貴様は自分の伯父を裏切るのか?」

「一度しか会ったことがなく、僕にこんな汚れ仕事をやらせて捨て駒にしようとする。そんな奴にどうして忠誠を誓わなきゃいけない? 僕が僕のことを考えて行動して、何が悪い?」

 ニコラ・レミは怒りの炎を瞳に燃やし、まるでピエルレオニと対峙するかのようにアンリ・ボケを睨んだ。一方のアンリ・ボケは氷のように冷たくニコラ・レミを見据えている。

「――そのくらいにしてあげてください」

 不意に声が発せられ、二人がその方へと目を向ける。そこには静かに佇むピエールの姿があった。ピエールはため息をつき、

「アンリ。心配してくれたことは判りますが、乱暴な真似は感心しませんね」

 アンリ・ボケは恥じ入り、身を縮める。その豹変ぶりにニコラ・レミは目を丸くした。

「私を枢機卿に、そして教皇にするために力を尽くす――彼はそう約束してくれています。彼は私達の同志です」

「何が目的だ? 伯父に対する当てつけか?」

 アンリ・ボケの問いにニコラ・レミは不遜な笑みを見せた。

「司教ピエールが教皇になれば僕は枢機卿だ。――王宮に入っていたなら僕は将軍にだって宰相にだってなれたんだ! せめて枢機卿くらいにならなきゃ割に合わない」

 成人前の子供のような外見で大言壮語をする姿は普通なら滑稽に見えただろう。だがニコラ・レミはあくまで真剣である。それは自己の能力に対する絶対的な確信、圧倒的な過信だった。

「そ、そうか」

 アンリ・ボケは狂気じみたその姿に威圧されてしまい、引き下がる。こうしてニコラ・レミはアンリ・ボケの信用を得、ピエールの腹心として行動するようになった。だがあくまで「信用」であって「信頼」ではない。

「確かにあいつは神父様を裏切りはしないでしょう。でも」

 ピエールが司教に出世しようと、アンリ・ボケにとって彼はいつまでも最初に出会ったときのままの「神父様」だった。

「はい、彼は私の理想を共有しているわけではありません。彼にとっては理想も手段の一つに過ぎないのです」

 ニコラ・レミにとっての目的は立身出世、自己の能力を世に示し、歴史に残すこと。ピエルレオニのように財貨や贅沢を目的としているわけではないが、聖杖教の理想が手段に過ぎない点では同類の存在だった。

「ですが、彼は口先だけではありません。その高言に見合うだけの能力も持っているのです。彼の力は私にとって不可欠となっています」

 アンリ・ボケは「そうですか」と肩を落とす。そんなアンリ・ボケにピエールが笑いかけた。

「もちろんあなたの力も私にとっては欠かせないものですよ、アンリ。それに何より、私達は理想を共有している。違いますか?」

「いえ、その通りです神父様」

 アンリ・ボケは掌を返したように明るさを取り戻した。

「私が教皇になったならあなただって枢機卿ですよ。私には理想を等しくする後継者が必要なのですから」

「……そのお言葉だけで充分です」

 聖堂騎士団に所属するアンリ・ボケが教皇に選ばれることはどう考えてもあり得ないだろう。枢機卿になることだって現状では夢のような話なのだから。だがアンリ・ボケにとってはそれも些細な話である。

「肝心なのは神父様の理想を実現すること、それに貢献することだ。私の地位や立場や役職など、それこそそのための手段に過ぎない」

 現実にはピエールの力になるにはより高い役職が、より強い権限が必要だ。だからアンリ・ボケも人並みに猟官運動に勤しむのである。

「鼻薬を効かせておきました。次の叙勲では昇進できるでしょう」

 ニコラ・レミが来てからは以前に比べて昇進が非常にスムーズになっている。確かにニコラ・レミはその能力をピエールのために存分に使っており、ピエールの勢力拡大に大いに貢献しているようだった。
 だがだからと言って、彼の存在が気に食わないことには変わりはしない。アンリ・ボケが泥と血にまみれて各地で転戦している間、ニコラ・レミはピエールと共に仕事をし、ピエールの寵愛を一身に受けているのだから。

「……あの、彼は一体」

「焼きもちを焼いているだけです。気にしないでください」

 ピエールはそう言って笑うが、ニコラ・レミには到底笑えない。冷や汗が流れるばかりである。ニコラ・レミの目の端には、物陰に隠れて自分達を見つめながらハンカチを噛み締めるアンリ・ボケの姿が写っていた。







[19836] 幕間2 ~とある枢機卿の回想・後
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/06/28 21:03


「黄金の帝国・幕間2 ~とある枢機卿の回想・後」





 アンリ・ボケはようやく実年齢が二〇歳を越えたところである。だがその事実を知る者はピエール以外には一人もいないし、それを事実だと信じる者もピエールただ一人だろう。公式年齢の「二五歳」を教えられて驚かない者はいないし、一般の多くの者は三〇代だと思っている。
 見上げるような巨体と老成した容貌。それに加えてくぐり抜けてきた戦場と修羅場の数々、それによって培われた経験と自信、さらに「旅人の守護者」という名声。それらが自然と相対する者を圧倒させ、アンリ・ボケの年齢計測を大幅に上方修正させているのだ。
 旅人とともに移動し続けるのがアンリ・ボケの日常である。多くはフランク王国国内。まれにディウティスクやレモリア、イベルスへも足を伸ばすことがある。そして野営のたびに旅人が、近隣からやってきた民衆がアンリ・ボケを取り囲むのだ。
 長い順番を待ち、乳児を抱いた若い母親がアンリ・ボケの前へと進み出る。

「今年生まれた子なのですが、どうにも病気がちで……どうか騎士様のご加護を」

 アンリ・ボケは「うむ、よかろう」と鷹揚に頷き、愛用の鉄槌を両手に持った。T字に組まれた鋼鉄の柱に絡みつく蛇の姿――鉄槌と言うよりはどう見ても聖杖教の象徴たる聖杖だ。柱木部分の長さは一メートル以上。振り回しやすいよう柄が付けられており、全体の長さは一・三メートルを越えていた。儀式用に作られた鉄槌だが、実戦でも使わないわけではない。
 アンリ・ボケがその親子から一歩離れ、手に聖杖を構え、振りかぶった。そして、

「悪しき病魔よ、退くがいい!」

 その赤ん坊の頭へと聖杖が振り下ろされた。聖杖が赤ん坊の頭部を砕くかと思われたが、その寸前で聖杖が止まる。聖杖は赤ん坊の手前数センチの空気を叩き、下げられていった。

「ひとまず病魔は打ち祓った。お前達親子に神のご加護があらんことを」

 と厳かに告げるアンリ・ボケ。若い母親は「ありがとうございます!」と最大限の感謝を捧げ、後ろへと下がっていく。次にアンリ・ボケの前に進み出てきたのはくたびれた中年男だ。その中年男はアンリ・ボケに懺悔をする。

「……あっしはどうにも酒を飲むのが止められなくて……それで仕事も続かず、女房にも逃げられちまいました。あっしの中に悪魔がいるのならそれを是非騎士様に祓っていただきたく」

「思い違いをするでない。悪魔は確かに常に我々を誘惑しているが、それに乗るか否かは自分自身の意志が決めることなのだ」

 アンリ・ボケはその中年男を冷たく見据える。中年男は身震いをした。

「いくら私が悪魔を祓おうとしても、お前自身に悪魔に打ち勝つ意志がないならば、我が鉄槌はお前ごと悪魔を打ち砕くこととなるだろう。覚悟はいいか?」

 アンリ・ボケは殊更に大きく鉄槌を振りかぶった。中年男は怖じけつつ慌てつつ、

「い、いえ、あの、お邪魔しました」

 と逃げ出していく。アンリ・ボケは「ふん」と鼻を鳴らして鉄槌を下ろした。
 アンリ・ボケの鉄槌に「邪悪を打ち祓う聖なる力がある」と言われるようになったのはいつの頃からだろうか。旅人の中から出た病気の子供に対し、気休めで「病魔を打ち祓う」と称して鉄槌で殴る素振りをしたのが最初だったのだ。それが病人が出るたびの恒例となり、やがては通過する村落でも病魔を打ち祓うよう求められるようになった。さらには拡大解釈され、「邪悪な性向・性格をも打ち祓える」と見なされるようになり、アンリ・ボケに懺悔をする者がやってくるに至っている。
 もちろんアンリ・ボケの鉄槌があらゆる病人を救ってきたわけでは決してない。大半の病人は鉄槌の効果も空しく息を引き取っていった。鉄槌に頭を砕かれて絶命した病人もごくわずかだがいないわけではない。だが、病魔を克服した病人も二、三割だが存在した。どこかの異世界人がこの事実を知ったなら、

「それは単なるプラシーボ効果だ」

 とか、

「二重盲検査をしなければ本当に効果があるのかどうか確認できない」

 とか言うだろうが、そんなことを言い出す人間はこの時代にはいない。

「騎士アンリ・ボケの鉄槌には病魔を始めとする邪悪なるものを打ち祓う聖なる力がある」

 それを事実とするだけの実績を、アンリ・ボケの鉄槌は文字通りに叩き出しているのだ。
 この日、アンリ・ボケの前に集まった民衆は五〇人を越えていただろう。アンリ・ボケはほぼその人数分の回数、鉄槌を振り下ろした。巨大な鋼鉄の固まりを何十回も振り回せば、いくらアンリ・ボケであろうと疲労し、消耗する。最後の方になると手元が狂わないよう細心の注意を払う必要があるくらいだ。
 そしてようやく最後の一人がアンリ・ボケの前に進み出た。アンリ・ボケが怪訝そうに眉を動かす。その男の年齢はおそらく四〇代の手前。身にしているのは粗末な皮鎧だが、その態度は太々しい。身長は高くないが胸板が厚く腕も太く、戦士として高い実力を持っているように見受けられた。

「見たところ傭兵のようだが」

「ええ。傭兵のジャックと言えばこの辺じゃそれなりに知られた名前ですぜ」

 「ほう」と感心してみせるアンリ・ボケ。

「その有名な傭兵が私にどんな用件が? 見たところ病魔に憑かれている様子はなさそうだ」

「ええ、その通りです。騎士様にはあたしの悪しき性根を打ち据えていただきたいと思いましてね」

 「ふむ」とアンリ・ボケは頷き、

「聞かせてもらおう」

 と続きを促した。ジャックは頷いて説明を開始する。

「あたしは二〇年以上傭兵一筋でやってきました。領主様のため、村のために戦ったともありましたが、悪いことも散々やってきました。盗み、殺し、強姦、やっていない悪事の方がないくらいです。

 どこかの戦場で戦って死ぬんだろうと思ってましたが、何の因果かこの歳まで生き残ってしまった。そうなると神様が怖くなったんです。散々殺してきたんだから殺されるのは覚悟しているし別に構わないんだが、地獄に堕とされるのはちと勘弁してほしい。そこで、騎士様のお手を煩わせに来たわけです」

「どういうことだ」

 確認するようなアンリ・ボケの問いにジャックは笑いながら答えた。

「騎士様の鉄槌であたしの悪しき魂を祓っていただければ、地獄に堕ちずにすむんじゃないかと思いまして。どうかその鉄槌で思いっきりやってまってください」

 ジャックは全てを受け入れるように両手を広げた。アンリ・ボケは考え込むように沈黙する。周囲もまた沈黙し、息を呑んで事態を見守る中、アンリ・ボケは短くない時間沈黙し続けた。

「――良かろう。お前に我が鉄槌を下す」

 やがてアンリ・ボケが結論を出し、鉄槌を構えた。ジャックは「はい」と目を瞑る。アンリ・ボケは鉄槌を大きく振りかぶり、

「ふんっっ!」

 全力で振り下ろした。ジャックが反射的に肩をすくめる。鉄槌が空気を裂き、ジャックの頭部に命中――

「……あの、騎士様?」

 ジャックの額が切れ、一筋の血を流した。だがそれだけだ。ジャックの頭部は未だ原形を留めている。アンリ・ボケは鉄槌を地面に下ろした。

「――お前の罪がこの程度で償われると思っているのか?」

 アンリ・ボケがジャックを冷たく見据える。鉄槌を振り下ろされても平然としていたジャックが思わず身震いをした。

「神のご慈悲を覚えておくがいい。お前には罪を償う機会が与えられたのだ。お前のような奴にも神のために、弱き者のためにできることがある。これからはそれを成し、お前はお前の罪を償え」

「ははーーっ!」

 ジャックは地面に這いつくばり、平伏した。

「ならば、この私を騎士様の旅にお供させてください! 騎士様の手助けをすることで民の手助けとし、それをもって私の罪の償いとしたいのです!」

「好きにするがいい」

 そう言い残し、アンリ・ボケは背を向けて立ち去っていく。その背中に向けて、ジャックはずっと平伏し続けていた。
 こうしてアンリ・ボケの配下に傭兵のジャックが加わることとなる。そのしばらく後、ジャックはテ=デウムで一人の男と会談を持っていた。

「……いや、あの鉄槌を振り下ろされたときはだまされたかとお恨みしてしまいしましたよ」

「とてもそうは思えないでしょうが、騎士アンリ・ボケはあれでなかなか演技が上手いんですよ」

 ジャックと話をしているのは、すでに二〇代半ばだが未だ十代の少年のように若々しい、というよりは幼い容貌の男――ニコラ・レミその人だった。

「まあ、そうでもなければあの若さであれだけの名声を得られはしないでしょうな」

「今回の出来事が広まれば騎士アンリ・ボケの名声はますます高まることでしょう」

 今回のジャックの懺悔と回心はちょっとしたお芝居だったのだが、その脚本を書いたのがニコラ・レミなのである。

「いくら実績があろうと名声を高めようと、アンリ・ボケが聖堂騎士団を掌握するのはかなりの困難だ。できなくはないだろうが、最低でも十年がかりの仕事となる。そんな時間と手間をかけるよりは、自由になる戦力を外部に持った方がずっといい」

 アンリ・ボケの実績と名声は聖堂騎士団の中では随一だが、それだけに反発する人間も少なくない。最下級貴族という出自、年齢、ピエールという後ろ盾の政治力――アンリ・ボケが聖堂騎士団全てを掌握するにはまだまだ足りないものが多い。そう判断したニコラ・レミが芝居の脚本を書いたのだ。
 ジャックは木槌を旗印とした傭兵団を結成、その任務は鉄槌騎士隊の補助である。戦時には歩兵・弓兵として騎士隊の騎士とともに戦い、平時には補給・情報収集その他諸々の仕事を請け負う。木槌傭兵団にはジャックの元々の部下の他、路頭に迷っている傭兵などが所属。その陣容を急速に拡大させた。数年を経て、アンリ・ボケは中規模の諸侯にも負けないくらいの戦力を保有するようになったのである。







 一方のピエールである。ピエールと彼のネゲヴ征服構想はフランク王国・ディウティスク王国の王室に強い支持を受けている。ピエールはフランク王室と懇意となり、その支援を受けて教皇庁内でもその勢力を拡大させ、枢機卿にまで出世していた。

「ネゲヴ征服を実現し、ネゲヴを我々の手に取り戻すことこそ神の意志である」

「邪神を崇拝するネゲヴの蒙昧な民に聖杖の教えを広めるのだ」

 多神教を滅ぼしたい、聖杖の教えを広めたい、より広く豊かな教区の責任者となりたい――ネゲヴ征服に賛同する聖職者の中では独善・野心・物欲が渾然一体となっている。

「ネゲヴ征服のために、諸侯は国王に軍権を返上すべきである。諸侯は国王の部下なのだと、身の程をわきまえるべきなのだ」

 フランク国王アンリはネゲヴ征服構想を王権強化に利用しようとし、その態度を隠しもしていない。ピエール自身が国王アンリに何度も面会し、自身の思いを説明しているのだからそれも当然だが。

「豊かなネゲヴの農地をエレブの農民に分け与えるのだ。領地を持たない騎士も領地を持てるようになる」

 貧しい騎士や農民もネゲヴ征服の実現に期待を寄せるようになっていた。
 ネゲヴ征服構想はエレブの広い層に熱い支持を受けるようになっている。一方これに反対しているのは、まず王権の強化で割を食う諸侯。そして、

「もしあの男が教皇となったら、我々はどうなるのだ。少なくとも冷や飯を食う羽目になるのは間違いない」

「寄進を集めるのがどんどん難しくなっている。それもこれも清廉を気取るあの男のせいだ」

「冗談じゃない、俺が枢機卿になるまでどれだけ金を使ったと思っているのだ。教皇になって元を取らねばならぬのに」

 他称は「腐敗した聖職者の集まり」であり、自称は「教皇庁主流派」。それが枢機卿ピエールにとっての最大の政敵だった。問題は彼等の自称が概ね事実であることだ。ピエールの支持者は教皇庁の外に多く、中に少ない。

「あの男だけは教皇にするな」

 それが枢機卿ピエルレオニを筆頭とする主流派の合い言葉だった。主流派は諸侯と同盟を結び、手段を尽くしてネゲヴ征服構想に反対をしている。

「悩ましいですね」

 ピエールは憂鬱そうにため息をついた。

「……の司教が食中りで死んだと」

「……の領主が異端として聖堂騎士団の討伐を受けたと」

「……の異教徒の村をアンリ・ボケが焼き払ったと」

 そんな話がピエールの耳にも聞こえてくる。それを聞いたニコラ・レミはその美しい容貌で悪魔のように妖しく嗤っていた。アンリ・ボケは戦場から戻ってくるたびに血臭を漂わせ、その鉄槌は血と肉片で黒く汚れていた。
 ピエールは確かにそれを見ている。その事実を耳にしている。

「お帰りなさい、アンリ。今回も無事に戻ってきてくれて嬉しいです」

 だがピエールはアンリ・ボケのその姿から目を逸らし、その報告から耳を塞いだ。自分の政敵が時に失脚し、時に何の理由もなく引退し、時に血を吐き死んでいっても、そしてそのたびにニコラ・レミが妖しく嗤っていても、

「いつもありがとうございます、ニコラ。決して無理はしないでくださいね」

 ピエールはその嗤いを見なかったことにし、その事実を聞かなかったことにした。
 腐敗しきった教皇庁の中で出世し、地位を得るのに、どんな形であれ手を汚さずにすむはずがない。賄賂を送り、陰謀を仕掛けて政敵を失脚させ、時に脅迫、時に謀殺を駆使する。手を汚すのはニコラ・レミ、そしてアンリ・ボケの役目であり、ピエールはその成果を存分に享受していた。
 彼等二人がいなければ、二人が手を汚すことがなければ自分が枢機卿になることもなく、今の地位や勢力を維持することもできない。自分の理想を実現することもできない。それはピエールにも判っている。だからピエールも二人の行為を黙認するしかない。それが自分の理想からどんなにかけ離れた行為であっても、自分の理想を貶める行為であっても、見なかった振りをするしかないのだ。

「こんなところで立ち止まってはいられない。私が踏みにじってきたもののためにも私はエレブに平和をもたらさなければならないのです」

 良心の呵責を、理想と現実の板挟みを「見なかった振り」で何とかごまかし、やり過ごし。ピエールはこれまで通りに表でエレブの平和を、教皇庁の浄化を説いて回る一方、その裏でニコラ・レミが政敵の陰謀を防いだり陰謀を仕掛けたりしている。ピエールとその反対派の間で勢力が拮抗し、事態が停滞する中、

「――教皇が死んだ?」

 それを契機に事態は堰を切られた激流のように急変する。

「だが聖下はまだ五〇を越えたばかりではなかったか」

「はい、たちの悪い風邪にやられたそうです。謀殺の可能性は低いかと」

 ニコラ・レミは政敵の動きを見張るために教皇庁内に諜報網を張り巡らせている。その網に引っかかったこの重大情報は最優先でアンリ・ボケへと届けられていた。
 ニコラ・レミの部下の報告にアンリ・ボケは「そうか」と考え込む。そして内心で舌打ちを連発させた。

「早い、早すぎる。あと十年……いや、あと五年も時間があるなら確実に神父様が教皇になれるのに。まだ準備が整わないうちにこんなことになるとは、とんだ計算違いだ」

 教皇位は選挙によって選出されるが、投票権があるのは枢機卿を始めとする教皇庁の幹部達だ。現時点ではピエールが教皇になれるだけの票を獲得できる見込みがほとんどない。

「……ともかく、こうしてはいられない。私はテ=デウムに戻る」

 アンリ・ボケは旅人の護衛をジャックの傭兵団に任せ、鉄槌騎士隊を率いてテ=デウムへと急行した。
 三日間、昼夜を問わずに馬を走らせた。アンリ・ボケ一人のために五頭の馬が用意され、馬が疲れたなら乗り換えることをくり返していたのだが、それでも五頭とも乗り潰してしまった。

「テ=デウムまではあと一日の旅程だ、走ってでも行く」

 そう思っているところに教皇庁からの迎えがやってきた。アンリ・ボケの同僚の、聖堂騎士団の騎士である。

「騎士アンリ・ボケ、同行をお願いしたい」

 騎士とその配下の兵がアンリ・ボケを包囲した。アンリ・ボケは詰まらなさそうにそれを見渡す。実力や実績や名声を比較すればアンリ・ボケにとっては木っ端に等しい相手だが、それでもその騎士はアンリ・ボケの同輩であって部下ではない。

「……それは誰の命令だ?」

「枢機卿ピエルレオニよりのご指示です」

 ピエルレオニは次期教皇の座に最も近くなっている人物だ。アンリ・ボケは「ふん」と鼻を鳴らした。

「言われずとも行くわ。私の分の馬はどこだ」

 アンリ・ボケはその騎士を部下のように引き連れ、教皇庁への道を急いだ。
 テ・デウムの中心地、教皇庁の中心地、教皇の権威と権力の象徴――それが聖バルテルミ大聖堂だ。アンリ・ボケがその場所にやってきたのはその日の夕刻である。
 大聖堂に入ろうとするアンリ・ボケを衛兵が咎めた。

「お待ちください。聖堂内は何人であろうと武器の携行を」

「判っている」

 とアンリ・ボケは携えている二本の鉄槌を衛兵に押し付けた。衛兵は鉄槌の重さに尻餅をつきそうになっている。

「お待ちください、その背中の武器も――」

「これは聖具だ、我が信仰の証だ!」

 アンリ・ボケは巨大な聖杖型の鉄槌を背負ったまま聖堂の中へと突き進んでいった。
 大股で、早足で、突撃するように歩いていくアンリ・ボケ。それを監視しようと付き沿う衛兵はほとんど駆け足になっている。聖堂の中を真っ直ぐに突き進み、立ち塞がる扉を突き破るように押し開ける。扉の内側の大広間では枢機卿を始めとする教皇庁の幹部が集まっていた。扉が打ち破られたかのような轟音に、彼等が一斉に振り返る。

「――ふん」

 そこに集まっている教皇庁幹部は三〇人余、その大半がピエールの反対派だった。好意的中立を保っているのが何人かいるくらいで、純粋な味方は一人もいないと言っていい。枢機卿であるにもかかわらずピエールはこの場にいない。

「……それで、枢機卿ピエールではなくこの私をこの場に呼んだ理由をお聞かせいただけますかな」

「枢機卿ピエールはレモリアに赴いていた。戻ってくるのは早くとも明日になるだろう。その前に君に聞きたいことがあるのだよ」

 そう口火を切ったのは枢機卿ピエルレオニ。贅肉で膨れあがった顔と身体をしており、常に笑っているような顔立ちになっている。だがアンリ・ボケは知っている。その福々しい容貌に反し、この男は蛇のように狡猾なのだ。

「聞きたいこととは?」

「君達は枢機卿ピエールを次期教皇にするために各所に対して様々な運動を行っていた。それは間違いないか?」

「教皇の人選など、私ごときが口を差し挟んでいい事柄ではありません。ただ、私の知る限り枢機卿ピエールよりも気高く崇高な魂を持つ方はおられない。多くの方にそれを知っていただきたいと思っておりますし、これまでも折に触れてそれを伝えておりました」

 大広間にアンリ・ボケとピエルレオニの声だけが響いていた。他の者は皆息を呑んでその尋問を見守っている。

「その、伝えた中にはフランクの王室の方もおられるのでしょうな」

「はい。お伝えしたこともあったでしょう」

 アンリ・ボケは戦場で敵と相対しているような緊張を覚えていた。

(この男は私から神父様の落ち度を見つけ出し、それを持って教皇になることを断念させようとしているのだろう)

 そうはさせるか、とアンリ・ボケは気合いを入れ直した。ピエルレオニによる尋問が続く。

「フランク国王と枢機卿ピエールは懇意にしていると聞く。フランク国王は彼を教皇にするために支援を惜しまない、と言っているそうだ」

「枢機卿ピエールを直接知っておられるのなら、そうお思いになるのも当然かと」

「……だが、そのために銀貨を送るとなると話は違ってこよう?」

 思わずアンリ・ボケが眉をひそめた。それを嘲笑するように、ピエルレオニが司祭の一人に視線で合図を送る。その司祭は立ち上がり、一同へと告げた。

「……私はフランク国王の使いから依頼をされました。次の教皇には枢機卿ピエールを支持するようにと。その代価として銀貨三〇枚を受け取りました。これがその銀貨です」

 その司祭は布袋を逆さにしてテーブルの上に銀貨をぶちまけた。

「見よ! このような収賄を行う者が教皇になる資格を持ち得るのか!」

「貴様がそれを言うのか……!」

 アンリ・ボケは歯ぎしりをする。収賄と言えばピエルレオニ達腐敗聖職者の専売特許みたいなものだ。ピエルレオニがこれまで受け取った賄賂の額は銀貨三〇枚の何百倍になるのか判らないくらいである。

「下賤の者の分際で、口を慎むがいい! 貴様のような血の汚れた者を重用すること一つとってもあの男の里が知れるというものだ!」

 ピエルレオニは嗜虐に口を歪めた。アンリ・ボケは必死に怒りを堪えている。

「そもそもあのような口先だけの男を枢機卿にまで登用したことが間違いだったのだ。賄賂は罪悪、とあの男は常々言っていた。ならば自分の言葉の責任を取って枢機卿の地位を返上させるべきだろう」

 アンリ・ボケは一同に訴えるために前に進み出た。だが憤怒を堪えて食いしばる歯が言葉を詰まらせた。渦巻く激怒が冷静な計算の邪魔をした。ピエールの潔白を弁護しようとしてもそれが言葉にならない。その間にも足は前へと進んでいる。そのアンリ・ボケに対し、

「衛兵!」

 ピエルレオニの命令を受け、駆け寄ってきた衛兵が儀仗で背後からアンリ・ボケを殴打。ひざまずくアンリ・ボケに衛兵はさらに儀仗を打ち据えた。

「弁護のしようがなかったからと、力に訴えようとするなど。これだから下賤の者は……!」

 ピエルレオニは計画通りの展開となったことに、愉悦の笑みを浮かべている。元々こんな言いがかりでピエールを排除できるとは考えていないのだ。ピエルレオニの真の狙いはアンリ・ボケだ。尋問で挑発を重ね、わずかでも暴力を振るう気配を見せたなら――そう解釈できる振る舞いをしたなら衛兵に拘束させる。

「牢屋にぶち込んでおけ。あとは拷問をしてでもあの男の罪状を自白させればいい」

 ピエルレオニは衛兵に命じた。何度も儀仗に打ち据えられ、血まみれとなったアンリ・ボケを衛兵が拘束した。
 アンリ・ボケのその姿をピエルレオニの仲間達が嘲笑を浮かべて眺めている。

「しかし、枢機卿ピエルレオニにしては実にお粗末な田舎芝居だったな」

「やむを得んだろう。我々には時間がなかったのだ」

 教皇の死があまりに突然だったのはピエルレオニ達にとっても同じことだった。ピエール達と同じように、ピエルレオニ達にとっても政敵を確実に排除するための準備ができていなかったのだ。

「確かにあまりに稚拙でお粗末な言いがかりだが、今は巧遅よりも拙速だ。我々は急がねばならなかったのだ。この男が決起する前に」

「この男が配下の兵を率いて教皇庁に突入したなら、我々には対抗する手段がない。神をも恐れぬ所行だが、この騎士とは名ばかりの蛮人ならそれくらいのことはやりかねんからな」

 ピエルレオニがまずアンリ・ボケの身柄を拘束したのも、アンリ・ボケが言いがかりを付ける相手として与しやすかったからという理由もあるが、それだけではない。何よりもアンリ・ボケを、その配下の兵を怖れたからである。アンリ・ボケがピエールに絶対の忠誠を誓っていること、ピエールのためならどんな汚れ仕事も厭わないことは周知の事実だ。アンリ・ボケを自由にしたままなら武力を持って教皇の座を奪いかねない――それはピエルレオニ一派全員の共通認識だった。
 アンリ・ボケは衛兵に拘束され、ピエルレオニの陰謀は九分九厘完成を見ていた。だが、

「がああーーっっ!!」

 雄叫びを上げながらアンリ・ボケが跳ねるように立ち上がる。拘束していたはずの衛兵がその勢いだけで吹っ飛ばされた。ピエルレオニ達は唖然とするしかない。

「……おいたわしいことです、枢機卿ピエルレオニ。貴方ほどの方が悪魔に魅入られるとは」

 血まみれになりながらも、笑みを浮かべてアンリ・ボケが歩み寄ってくる。ピエルレオニは足をすくませ、縫い止められたようにその場に立ち尽くした。

「そうでもなければこのような茶番で誰かを陥れようとするはずもない。ですが、ご安心めされよ」

 アンリ・ボケは背に負っている巨大な聖杖を持ち上げた。黒い鋼鉄の固まりが不気味な光を放っている。

「我が鉄槌は悪しきもののみを粉砕する。我が鉄槌にて貴方に取り憑いた悪魔のみ打ち祓って見せましょう。枢機卿ピエルレオニ」

 ピエルレオニは何か言おうとして、舌をもつれさせることしかできなかった。アンリ・ボケは渾身の力を込めて、

「悪霊よ、退くがいい!」

 聖杖を横薙ぎに振り回す。聖杖はピエルレオニの顔面を粉砕、血しぶきは大広間全体へと飛び散った。アンリ・ボケはそのままの勢いで聖杖を振り、ピエルレオニの隣の二人をも殴り飛ばした。粉砕までは行かなかったが、一人は頭部が割れて脳漿が見えており、一人は目に見えて頭部が凹んでいる。両者とも致命傷を負ったのは間違いなかった。
 血の惨劇にその場の全員が凍り付く中、アンリ・ボケだけが自由に動いていた。アンリ・ボケは若干後ろへと移動して大広間の入口前に立った。聖杖を床に、垂直に立てて身体を支え、門番のように入口前に立ち塞がる。

「――このままここでお待ちいただこう。真に教皇に相応しい方が到着されるのを」

 アンリ・ボケは殺気を込めて一同を睥睨する。一同は席に着き、ただ身を縮ませることしかできなかった。

 ――さて、どうするべきか。

 このときのアンリ・ボケには明確な展望があったわけではない。ピエルレオニを撲殺したのも冷徹な計算の上ではなく、九割以上衝動に基づいてである。だが、確固たる方針なら持っていた。

「こうなった以上、このまま力で押し切るまでだ。邪魔する者は粉砕する」

 アンリ・ボケは聖杖を握る手に力を込めた。教皇庁の幹部を監禁したまま、アンリ・ボケはひたすら待つ。死体も飛び散った血も全く片付けられないままで、死臭と血臭が漂う中、待つこと一時間余り。
 そのとき、いきなり大広間の扉が開かれる。救いの手がやってきたのか、と一同が期待を込めて視線を送る。だが大広間に入ってきたのは鉄槌の紋章を掲げた騎士の群れだった。一同に絶望が広がり、呻き声が上がる。一方のアンリ・ボケは自分が勝利を掴んだことに心底安堵していた。

「ニコラ・レミはよくやってくれた。あの男が決断しなければ私は身の破滅を迎えたところだった」

 大広間で異常事態が起こっていることを察したニコラ・レミが鉄槌騎士隊と木槌傭兵団の動かせる全兵力を大聖堂へと投入したのである。教皇庁の主要幹部は今アンリ・ボケが監禁している。大聖堂の制圧は教皇庁の制圧とほぼ同義だった。乏しい情報の中で大聖堂を制圧するという決断はニコラ・レミとって一か八かの大博打だった。だがニコラ・レミはその賭に勝ったのだ。
 大広間の中の状況は、本質的にほとんど変更がなかった。ただ彼等幹部を監禁する者がアンリ・ボケ一人から鉄槌騎士隊の面々へと変更したくらいである。大広間の四方の壁に沿うように、ずらりと鉄槌の騎士達が並んでいる。騎士達は全員完全武装だ、もはや逆らうことなど望むべくもない。
 ……彼等はそのまま待たされた。一夜の間ひたすら待たされ、全員身も心も疲労困憊している。枢機卿達が考えているのは「ともかく無事に解放してほしい」、ただそれだけである。
 そして夜が明け、空が白み始める頃、ようやく彼等が待っている者が到着した。扉が開かれ、その男が入ってくる。アンリ・ボケが恭しくその男にかしづいている。アンリ・ボケに先導されながら、その男は一同の上座へと着席した。
 死体はすでに片付けられているが、飛び散った血しぶきはどうしようもない。その男は室内の惨状に、漂う血の臭いに顔をしかめていた。だがそれも長い時間ではなかったし、暗い屋内だったためにその表情をはっきり見て取った者は誰もいない。男はテーブルの上に両肘をつき、口元を隠すように手を組んだ。

「――皆様もお疲れのようです。速やかに次の教皇を決定いたしましょう」

 その男、枢機卿ピエール――いや、次期教皇ピエールは穏やかな笑顔を見せつつ、一同へと告げた。







 邸宅が燃えていた。
 彼等の襲撃は突然だった。誰もが寝静まる夜半、彼等は夜闇に紛れてその邸宅へと接近。彼等は警告も降伏勧告も何一つすることなく、その邸宅へと突入したのだ。
 邸宅の従僕、枢機卿ピエルレオニの家族、ピエルレオニの愛人、全て合わせれば人数は何人になっただろうか。だが逃げ延びることができたのは一人もいない。全員が鉄槌騎士隊の騎士に剣で斬られ、槍で突かれ、建物内に閉じ込められた。そして炎で焼かれている。
 アンリ・ボケ達鉄槌騎士団が教皇庁を武力制圧したのが前日、ピエールの教皇就任が事実上決定したのが今日の早朝である。そしてその日のうちにテ=デウム郊外のピエルレオニの拠点たる邸宅を急襲したのだ。
 枢機卿ピエルレオニの邸宅、それが今燃えていた。天高々と炎を上げ、何もかもを灰にしようとしている。アンリ・ボケは馬上からその光景を見つめていた。

(……美しい)

 アンリ・ボケは炎の輝きに、その美しさに賛嘆の思いを抱いている。

(これほど美しい炎を見るのはあのとき以来か。……そう、あのときの炎も本当に美しかった。)

 アンリ・ボケの脳裏に映し出されているのはロレーヌの教会が焼き尽くされる光景だった。

(あの炎が私の忌まわしい過去を、出自を焼き尽くした。あの炎の中から私は貴族として生まれ出た。神父様の剣として歩み始めたのだ)

 神父ピエールにとっては忌まわしい地獄の業火だった炎は、アンリ・ボケにとっては神による祝福の光に等しかった。神父ピエールの「二度とあの光景をくり返さない」という誓いを。その思いを、その願いを、アンリ・ボケが真の意味で共有したことはただの一度もなかったのである。

(炎が上がるたびに邪魔者は焼き尽くされ、私は前へと進むことができる)

 ピエールが教皇となることはもう確実だ。アンリ・ボケもまた階梯を上げ、より多く、より強大な戦力を有することができるだろう。

(私はどこまでも前へと進んでいく。私は何度でもこんな光景を生み出し続けるだろう。美しい炎で、くり返し全てを焼き払うだろう)

 アンリ・ボケは己が未来をそう思い描いた。それは予想ではなく、予言でもない。それは誓いであり、確固たる意志。石版に刻まれたように確定している、未来の行動表だった。








[19836] 幕間3 ~とある王弟の回想・前
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/05 21:39




 パーティを抜け出し、二人でバルコニーに出て夜風を浴びた。涼しい風がほてった身体に心地良い。
 バルコニーの手すりは幼いユーグの身長よりも高い。ユーグは一〇歳年上の兄に抱えられてようやく手すりの上に身を乗り出すことができた。石造りの手すりの上に腹を乗せ、上半身を宙に浮かせる。
 眼下に広がっているのは城下町だ。町の人々の灯す明かりが蛍火のように揺らめいている。

「見ろ、これが僕達の町、僕達の国だ」

 そう誇らしげに町の明かりを指し示すのは兄のフィリップだ。幼いユーグは町の明かりを、フィリップの顔を交互に見つめる。

「この国はもっと豊かになれるし、もっと強くなれる。僕がそうするんだ」

「じゃあ、僕は兄上を手伝います」

 打てば響くようにユーグがそう言う。そうか、とフィリップは笑った。二人はそのまま城下町を眺める。二人の頭上には、遙か彼方には満天の星々が輝いていた。
 ――ユーグはこの夜のことを決して忘れたことはない。この夜から誓いを現実にするための戦いが始まったのだ。その戦いはユーグの足跡そのもの、ユーグの人生そのものだった。
 教会での洗礼も、騎士の叙任も、決してこの夜の誓いには勝りはしない。それは聖なる誓約だった。






「黄金の帝国・幕間3 ~とある王弟の回想・前」






 海暦二九九四年。その年、フランク国王アンリが死去。その跡を継いで長男のフィリップがフランク国王に即位した。それと同時にユーグもまた騎士の叙任を受ける。ユーグが一四歳の時である。
 そして今、ユーグは一軍の指揮官として反乱軍を迎撃しようとしているところだった。
 前代の王アンリは教皇インノケンティウスと同盟を結んで王権強化のためにありとあらゆる手段を尽くし、アンリの時代に諸侯は特権を次から次へと奪われ続けていた。アンリが死去して国王がフィリップに替わり、諸侯は息を吹き返そうとする。

「新王フィリップには我々が王室の藩屏としてどれだけ貢献してきたかを思い出していただかねば」

 とフィリップからかつての特権を取り戻し、逆に王権に制限をかけることを考えていた。少なくともこれ以上の特権剥奪を進められるつもりは毛頭なかった。だがフィリップは、

「偉大なる前王の業績を受け継ぐ。王権強化こそが国王の責務であり自分の義務だ」

 と意志を明確にしたのだ。これが結果的に最後通告となった。有力諸侯は反フィリップの連合を結成、フィリップを玉座から引きずり下ろすことを掲げて挙兵したのである。反乱軍の方が数が多く、フィリップは不利な戦いを強いられていた。配下の将軍は全て出陣しており、フィリップ自身も兵を率いて反乱軍討伐に向かっている。
 そして叙任したばかりのユーグもまた総司令官として軍を率い、反乱軍討伐に出陣したのである。与えられた兵数は三千。もちろん総司令官とは言っても名目だけで、実質的な総司令官は別にいる。
 ユーグはフィリップの指令通りに三千の将兵を率いてトロワ城塞へと陣取った。一方のユーグに相対する反乱軍はナンシー伯を中心とし、その兵数一万五千。トロワに向かって北上を続けている。敵軍の兵数が予想より遙かに多いことにユーグの将兵は動揺していた。

「幸いこのトロワ城塞は堅強である。五倍の敵であろうとそう簡単に落とせるものではない」

 ユーグ軍の実質的な総司令官・アルトワ伯は籠城戦になることを一同に告げた。アルトワ伯の年齢は六〇近くで、引退間近の老将である。規則の権化と言われるような堅苦しい性格で多くの貴族に敬遠されていた。

「我等の任務は敵軍の注意を引きつけることである。敵軍が城塞攻略をするなら城塞に拠って敵軍に消耗を強い、敵軍がトロワ城塞を素通りしたなら出撃してその後背を脅かす」

 アルトワ伯の言葉に集められた諸侯が頷く。兵数の差を考えれば他の戦法など考えられない。面白味はないが堅実であり確実であり、諸侯から異論は出なかった。

「――待ってくれ。僕は今から出撃すべきだと考えている」

 異論を出したのは諸侯ではない、王弟のユーグである。一同の驚きの視線がユーグへと集まった。

「……しかし王弟殿下、五倍の敵に戦いを挑んでは勝ち目などありません。現実は吟遊詩人の物語とは違います故」

 アルトワ伯は反論に侮蔑をにじませる。だがユーグはそれを気にする様子を見せなかった。

「正面から戦ったならそうだろうな。だが、これを見てくれ」

 とユーグは卓上に地図を広げて一同を集めた。ユーグの指が街道の一部を示す。

「この場所は街道が湖と森に挟まれていて大軍であろうと展開はできない。この場所で敵の出鼻を叩いておきたい」

「確かに、あそこなら待ち伏せには絶好の場所です」

 この近辺の土地勘がある諸侯が賛意を示す。他にも血気にはやる若手がユーグに賛成した。一方、

「そんな博打で国王陛下より預かった軍を危険にさらすべきではない」

「王弟殿下の身に何かあったらどう責任を取るつもりだ」

 とアルトワ伯を始めとする慎重派が反対する。だが結局、

「籠城するとしても、敵と一戦して意気を上げてからにするべきだ。五倍の敵と戦うのだ、そうでもしなければ士気が続くまい」

 その主張が支持され、その日のうちにユーグ軍の全軍が城塞から出撃することとなった。
 そして三日後、トロワ郊外の森でユーグ軍は反乱軍と最初の戦闘をする。そこでは街道が森と湖に挟まれるようにして、蛇行して続いている。ユーグ軍はまず森の出口に石材を積み上げて壁を作り、出口を塞いだ。出口までやってきたナンシー伯の軍は壁に行き当たり、進軍が止まる。だが即座に全軍が停止することなどできはしない。壁を撤去している間にも後続がどんどんやってくる。出口に近くなるほど兵が密集し、まともに身動きすらできないくらいの人混みとなった。

「突撃ぃー!」

 森に隠れていたユーグ軍がそこに襲いかかってきたのだ。まともな戦闘になどなるはずもなく、反乱軍は一方的に蹴散らされた。それは戦闘と言うより虐殺だった。狭い場所で剣を振るおうとし、味方を斬る者。逃げようとして転倒し、味方に踏みつぶされて圧死する者。湖へと逃げて溺死する者。反乱軍一万五千のうち実に五千が死傷し戦闘不能となったとされている。その一方ユーグ軍は損害らしい損害を受けていない。ユーグ軍の士気は天を突くほどに上がっていた。
 意気軒昂となった自軍にユーグが告げる。

「トロワ城塞には戻らない。このまま敵の後背を脅かし続けるのだ」

 もちろんアルトワ伯を始めとする慎重派は反対するが、ユーグに賛意を示す若手がそれを説得する。

「そもそも籠城とは援軍があることを前提として戦法だ。だが今の兄上に援軍を出すだけの余裕があるとは思えない。敵が素通りしたものと考えればいい、城塞へのこだわりは捨てるべきだ」

 結局ユーグのその主張が通り、ユーグ軍は野に放たれることとなったのだ。
 ナンシー伯の率いる反乱軍は一万の兵で北上を続ける。一方ユーグ軍はその後方に回り、その後背を脅かし続けた。徹底的に逃げ回ってまともな会戦は一度もやらず、夜襲や奇襲、補給部隊への攻撃をくり返す。反乱軍は継続的な被害を強いられ、補給を寸断されて飢え、士気は地の底へと潜っていく。脱走する兵、適当な理由を付けて反乱軍から離脱する諸侯、密かにユーグと和睦しようとする諸侯が後を絶たず、日に日に兵数を落としていった。
 結局、ナンシー伯が反乱軍本隊に合流するときには率いる兵は千に満たなくなっていた。いや、本隊に合流と言うよりは本隊へと逃げ込んだと言っていい。本体は総勢数万を超えており、さすがに十倍を越える敵が相手ではユーグ軍も手出ししようがなかった。
 だが、この時点まででユーグ軍が敵味方に与えた影響は決して小さなものではない。たったの三千で五倍の敵を打ち破り、壊滅させる。多くの諸侯に反乱軍に見切りを付けさせ、国王軍へと味方させる。最終的に国王軍が勝利したのはユーグ軍のこの働きがあってのこそである。

「ユーグ軍だけで我々国王軍が勝ったわけではない。だがユーグ軍がなければ我々が勝てていたかどうか判らない」

 フィリップはこのようにユーグの働きを評したと言われている。
 フィリップは自分に敵対的な有力諸侯を撃破、政治的な敵対者を一掃した。フィリップは盤石の王位を確立した――多くの者にはそのように見えただろう。だがフィリップの玉座を脅かす者はまだ残っていたのである。







 一方のユーグは火消しに躍起となっていた。

「いや、僕はただ思いつきを述べただけでそれを形にしてくれたのは部下達です。彼等がいなければ私は何もできなかったでしょう」

「僕など、戦歴を重ねた将軍達から見ればただの賢しらな小僧でしかないですよ」

 戦勝祝いと称してやってきた貴族・諸侯に対し、ユーグはそんな言い訳をくり返した。ユーグの言い訳は事実の一面である。だが、

「いえ、それが当然です。王者たる者が指針を示し、臣下がそれを形と成す。それこそまさしく王国の有り様というものでしょう。殿下は王者のなんたるかを身体で理解しておられる、まさに生まれながらの王というものです」

 彼等の追従にユーグは言葉をなくすしかなかった。
 そう、フィリップを排除して玉座を狙える者がいるとするなら、それはユーグしかあり得ない。ユーグがこの戦役で示した軍才・王器、それはフィリップに敵対的な諸侯にとっての希望の星となるものだった。さらに、ユーグはまだ一四歳の未熟な若造に過ぎない。臣下が意のままに操ることも簡単である。

「くそっ、僕が兄上にとっての邪魔者になるなんて。一体どうすれば……」

 ユーグは頭を抱え込んだ。
 戦後処理が一通り片付いた頃、ユーグはフィリップから呼び出される。ユーグは重い気を引きずるようにして兄の元へと向かった。ユーグが赴いた先はフィリップの私室である。

「よく来たな、まあ座れ」

 フィリップは軽装に着替え、手酌で葡萄酒を飲んでいた。ユーグはテーブルを挟んでフィリップの向かいに着席する。
 ユーグより一〇歳年上のフィリップはこのとき二四歳。容貌はそれなりに整っていて美青年と言ってもいい。が、細い目や痩せた頬、血色の悪さがそれを覆い隠している。多くの者がフィリップの外見から「酷薄な王だ」という印象を抱いているが、それは決して印象だけの話でもなかった。
 まだまだ若輩と言われるような年代だが、早くから父王アンリを補佐して政治の世界に関わり、様々な難題に対処してきたのだ。即位から間もなくとも未熟なところは全く感じられず、すでに何十年も玉座に就いているかのようだった。

「ヴェルマンドワ伯が今回の戦争で戦没している」

 フィリップは前置きもなしにいきなり本題へと入った。

「お前には伯の一人娘をめとってヴェルマンドワ伯を継いでもらう」

「……それはまた、急な話ですね」

 ユーグは何とかそれだけを返答した。フィリップはユーグの戸惑いを意に介さない。

「ヴェルマンドワ伯は有力な味方だった。あの家が敵に回ることは認められない」

「僕はもちろん兄上と敵対するつもりなんて毛頭ありません。ですが、僕の周りには面倒な連中が群がってきています。あの連中とヴェルマンドワ伯爵家が結び付き、僕を利用しようとするのではありませんか? 兄上の邪魔をするために」

 ユーグは不快そうに懸念を問う。フィリップは特別な反応を示さずに話を続けた。

「お前はしばらく韜晦していろ」

「韜晦?」

「馬鹿殿をやっていろ、ということだ。ヴェルマンドワ伯の娘アデライードは見目麗しいと聞く。女色に溺れ、政務を放擲していればいい」

 「ああ、なるほど」と得心するユーグ。が、その顔に不安の色が浮かんだ。

「……僕に上手くできるでしょうか」

 その問いにフィリップが笑う。

「お前みたいに真面目な奴ほど色事にはまったら抜け出せなくなると言う。ほどほどにしておけよ」

 こうしてユーグはアデライードと結婚、ヴェルマンドワ伯爵家を継ぐこととなった。ユーグは部下を引き連れヴェルマンドワ伯領へと移動。初めて自分の妻となる少女と対面したのは結婚式の前日だった。

「わたしは殿下の伴侶なのですからどうかわたしを頼ってくださいね。この領内のことでしたらわたしも力になれますから」

 と胸を張るアデライード。アデライードはユーグより二歳年上の一六歳。非常に華奢な体付きだが背は高く、比較的小柄なユーグとあまり変わらないくらいに見えた。目鼻立ちがはっきりしており、大人びた容貌の美女である。

「あなたも僕のことを頼ってください。僕はあなたの夫なのですから」

 とユーグはアデライードに手を差し延ばす。彼女は頬を染めてその手を取った。ユーグは自分が恵まれた相手と結婚できることを神に、そして兄に感謝した。
 結婚式当日。ヴェルマンドワ伯領には国内外から賓客がやってきている。ユーグと面会した国内諸侯の一部は、結婚祝いの言上と同時に玉座を狙うことをそれとなく吹き込んでいた。ユーグは愛想笑いでそれをいなし続ける。
 教皇庁からは教皇インノケンティウスがやってきている。遊説の途中で立ち寄ったという教皇は自らが司式者となり、ユーグ達二人に秘跡を与え、二人の門出を祝福した。
 そして披露宴を兼ねた晩餐会である。ユーグはホストとなって賓客をもてなす。ユーグ達にとって最大の賓客とはもちろん教皇インノケンティウスである。
 インノケンティウスはこの頃すでに六〇近いが、同年代と比較すればまだまだ若々しい印象を与えている。穏やかな笑みをたたえながら、いつものようにエレブの平和を、ネゲヴへの遠征を説いていた。教皇の周囲に集まるユーグを始めとする何人かがそれに耳を傾けている。

「……ネゲヴのさらに南にはアーシラトという森が地の果てまで広がっていると言います。エレブと民とネゲヴの民が力を合わせてその森を切り拓き、地の果てまでを麦畑としましょう。エレブの農民、ネゲヴの農民が等しく豊かな大地の恵みを享受できる。私が望んでいるのはそんな世界なのです」

「――ですが、それは現実的ではありませんね」

 ユーグの放った一言に、一瞬大広間全体が静まりかえった。少し間を置き、人々が殊更に大声で談笑して場を取り繕おうとする。一方ユーグと教皇の周囲の何人かはそれすらできず凍り付いたままである。教皇は、

「……確かに、容易に実現できることではないと私も思います」

 不快な様子を欠片も見せず、穏やかな微笑みを浮かべ続けていた。

「ですが、困難だからと言って何もしなければエレブの民には救いはありません。困難であるならそれを実現する方法を考えるべきではないでしょうか」

「はい、確かに。問題を明らかにしてそれにどう対処するかを考えていくべきかと思います」

「殿下にはネゲヴ征服にあたっての問題とその対処方法の存念があるように見えますが、それを聞かせていただけますか?」

 もはや誰も談笑を取り繕おうとはしていない。会場の全員がユーグと教皇の会話に耳を傾けていた。

「――まずネゲヴの民には聖杖教徒はほとんどいません。自分達とは違う神をいただく我々を彼等は決して歓迎したりはしないでしょう。聖杖の教えを広めるとしても、布教がそんなに簡単に進むはずもありません。結局我々はネゲヴの民と国家と戦うことになる。ネゲヴには悪魔の技を使う戦士も多いと聞きます。この戦いは容易なものとはならず、我々は大きな損害を受けることになるでしょう」

 ユーグの指摘に教皇は「ふむ」と顔を曇らせた。

「私はエレブの民や兵を死地に追いやりたいとは思いませんし、異教徒であろうとネゲヴの民を無為に死なせることも望みません。どうすればいいと考えますか?」

「……方法があるとするなら、ネゲヴを戦わずに屈服させることだと思います。そのためには『戦っても無駄だ』と思わせるだけの大軍を動員しなければなりません」

 教皇は少し考え、

「十万くらいでしょうか?」

 と問うた。ユーグは首を振る。

「その程度の兵数ならネゲヴとて用意できます。……そうですね、百万も動員すれば戦わずしてケムトまで制することもできるでしょう」

 あちこちから笑い声が起こる。多くの者がユーグの言葉を冗談だと受け止め、教皇もまた笑みを見せた。

「いや、さすがに『戦争の天才』と名高いだけのことはあります。殿下の意見は心に留めておきましょう」

 教皇のその言葉を区切りとしてユーグと教皇の歓談は終わり、その後は特に事件の起きることもなく晩餐会は終了した。

「『戦争の天才』などとおだてられて、調子に乗ったか小僧!」

 事件が起こったのは晩餐会の後である。賓客が全員帰ってすぐ、フィリップがユーグに叱責を浴びせたのだ。

「貴様のような小僧が聖下にあのような意見をするなど、不遜も甚だしい。しばらく謹慎していろ!」

 ユーグはヴェルマンドワ伯城の私室に閉じ込められる形となった。だが、その私室を早速訪れる者がいる。

「……あれでよかったのですか? 兄上」

「まあ上出来だろう」

 フィリップはユーグと二人だけで密談をしているのだ。

「お前が教皇と不仲ということになれば、お前を担ごうとする者も減らせるだろう。ネゲヴ征服についても釘の一つは刺しておく必要はある」

 満足げなフィリップに対し、ユーグは抱えていた疑問をぶつけた。

「……教皇のあの言葉は本当にただの建前だけなのですか? 教皇は本当にネゲヴを征服するつもりがないのですか?」

「確かに、お前が不安を抱くのも無理はないな」

 とフィリップは苦笑を見せる。

「安心しろ、その点は父上も私も何度となく確認している。教皇が考えているのはネゲヴ征服を口実とした軍権の統一、それによる王権の強化だと。王権を強化し、エレブで戦争が起きないようにするのが目的だと」

「……果たして、そんなに上手くいくのだろうか」

 ユーグの独り言はフィリップの耳には届かなかった。

(王権が強化され、諸侯の力が弱まれば確かに国内での戦乱は収まるだろう。だが王国間の戦争はどうなる? 諸侯間の戦争とは桁違いの大規模で悲惨な戦争になるのではないか? それに、本当に教皇インノケンティウスはネゲヴ征服をやらないのか? ……やらないで済ませることができるのか?)

 ……ユーグの形ばかりの謹慎は半年で解けたが、ユーグは政務にも軍務にも関わろうとしなかった。謹慎中に読みふけっていた古典書物にすっかりはまってしまったのだ。

「兄上にも馬鹿殿をやっていろと言われている。これは兄上に対する政治的援護なのだ」

 格好の口実を手にしたユーグはヴェルマンドワ家の財力に任せて古典書物を買いあさった。古典書物はバール人時代に記された書物の総称だが、ユーグはその中でも娯楽物を好んで読んだ。戦記から英雄譚、恋愛物・悲劇・喜劇まで、バール人の時代には自由な発想で無数の書物が記された。だが無法時代には本を出版するだけの余裕がなくなり、それ以降のエレブでは聖杖教の禁欲主義により娯楽物の書物が焚書の憂き目にあっている。現在では規制が緩んで焚書などは滅多に起こらないが、それでも教会が良い顔をすることはあり得ない。
 だが、ユーグは公然と教皇を批判したこともある人間だ。今更地元の教会ににらまれる程度、痛くも痒くもありはしない。さらに、そんなユーグの評判を聞きつけて旅芸人や劇団、芸術家・著述家がヴェルマンドワ伯領へと集まってきた。ユーグは優れた芸術家に対する支援を惜しまず、ヴェルマンドワ伯領にはルネサンスが華やかに花咲くこととなる。







 そうやって教会ににらまれ、政治的には愚物・役立たずと見なされながら十年。この頃のユーグは「芸術殿下」と呼ばれていた。揶揄であり蔑称であるが、ユーグ自身はその呼ばれ方を結構気に入っている。芸術に耽溺する今の生活をユーグは心から愉しんでおり、そもそも韜晦が目的だったことなどすっかり忘れ去っていた。
 アデライードとの間には何人もの子供を設けている。全員女子だが長女にはすでに婚約者がおり、その婿養子にヴェルマンドワ伯を継がせることも決定済みである。公私ともに何の憂いもない日々を送っている――傍から見ればそう思えたかもしれない。だが、

「万物は流転する、そう唱えたのは古代の哲学者だったか。日は沈む、夏は過ぎる、若き者は老いる、人は変わる……時の流れほど無情なものは、ない」

 秋を迎えた庭園を眺め、ユーグはため息をついている。今のユーグは諸行無常を理屈ではなく心で理解していた。もう少し時間があったならユーグは悟りを開いて仏教を立ち上げていたかもしれない。

「こんなところにいたのですか、我が夫よ」

 背後から声をかけられ、ユーグは陰鬱なため息をついた。次いで表情を作って、

「ああ、何かあったのかい? 我が妻よ」

「何かあったのか、ではありません。政務を投げ出してこんなところで何をしているのですか。そんなことで下の者に示しが付くと思っているのですか。大体あなたは……」

 アデライードによる一方的な非難をユーグは反論せずに聞いていた。芸術に耽溺し政務を放擲しているユーグに代わり、ヴェルマンドワ伯領を実質的に統治しているのはアデライードである。このためユーグはアデライードに全く頭が上がらず、アデライードがひたすらこぼす愚痴も黙って受け入れている。アデライードが愚痴っぽく口うるさくユーグの一挙手一投足に文句を言うような性格になってしまっても、そんな妻でも愛するのが自分の義務だと心得ている。だが、

「彼女がこんな性格になってしまったのは僕のせいかもしれないが、こんな外見になってしまったのはそうじゃないだろう」

 今ユーグの目の前にいるのは、ユーグの倍くらいの横幅を持つ女性だった。
 ……結婚当初は痩せすぎの体格をしていて「少しは肉を付けた方がいい」と誰もが口を揃えたのだが、今はそんなことを言う人間はいない。妊娠・出産を経て肉付きがよくなり、最初のうちはユーグも「抱き心地がよくなった」と喜んでいたのだが、妊娠・出産を経るたびに肉を付ける一方で減らすことがなかったのだ。さらには妊娠・出産とは無関係に肉を付けるようになり、今日に至っている。
 結婚当初から見て体重は倍に、見た目の横幅は三倍くらいになった。ただ、顔にどれだけ肉が付いても目鼻立ちのはっきりした顔立ちに大きな変化はなく、その容貌の美しさは一〇年を経ても変わりはしなかった――顔の輪郭を無視すれば、の話だが。
 また、アデライードは非常に嫉妬深い性格で、ユーグが愛娼を持つことも許していない。それでもユーグはこれまで何度か旅芸人をつまみ食いしたのだが、必ず浮気がばれてそのたびに手ひどい制裁を受けていた。
 一人寝室で、結婚前にもらったアデライードの小さな肖像画を眺め、

「あの頃は可愛かったのに」

 そうつくづくと慨嘆するのがユーグの日常であった。
 ユーグがフィリップに呼び出されたのはそんな頃である。アデライードと離れる口実を得たユーグは意気揚々と王都ルテティアに向かった。

「もういいだろう。そろそろ仕事を手伝ってもらおう」

 王宮で久々に対面したフィリップは喜びを垣間見せつつ告げる。

「これまでお前の名誉を回復させてやれなかったが、ようやく状況が整った。『芸術殿下』の汚名を返上し『戦争の天才』の異名を取り戻すときだ」

 ユーグの本心としては「余計なお世話」と言いたいところだったが、もちろんそんなことを言えはしない。それに、この十年無駄飯を食うばかりで兄のために何もしてこなかったという負い目もある。ユーグはひざまずき、改めて兄王に忠誠を誓った。

「……この無能非才の身で兄上のお役に立てることがあるのであれば、これに勝る喜びはありません。王国と王朝の繁栄のために微力を尽くす所存です」

 うむ、とフィリップはうなずいた。

「早速だが、私の名代で軍を率いてほしい。ディウティスクでは先年国王が崩御したが、現在王位継承を巡って二人の王子が争っている。教皇庁がその紛争を仲裁することになっているが、お前の役目はその支援をすることだ」

 紹介しよう、とフィリップはある男を玉座の間へと招き入れた。
 ユーグは全身の毛が逆立つ思いがした。男は見上げるような巨体であり、前後左右が等しく分厚い。まるで積み木で作った人形のように四角い身体と顔をしており、糸のように細い目とむやみやたらと大きな口は柔和な笑みを湛えていた。だがユーグは知っている、この男の手がどれほどの無辜の民の血で汚れているかを。

「お会いするのは初めてでしたな。アンリ・ボケという神の僕でございます」

 アンリ・ボケは恭しく礼をした。ユーグもまた礼儀作法に則って挨拶をする。

「ヴェルマンドワ伯、王弟ユーグである。猊下の高名は私も聞き及んでいる」

「私も殿下の高名を良く耳にしております。陛下と殿下の力添えがあるのなら、この仲裁もなし得ないことはないでしょう」

 こうしてユーグは十年ぶりに軍を率いて出陣することとなった。僚軍にはアンリ・ボケの率いる鉄槌騎士団がいて、その配下には銅槌騎士団・木槌傭兵団がいる。
 鉄槌騎士団に属しているのはアンリ・ボケ自身が厳選した騎士で、少数ながら精鋭である。鋼鉄の規律と信仰心を誇り、エレブ最強の騎士団の一つと言われている。鉄槌騎士団の騎士は全員聖職者という扱いになっているが、銅槌騎士団は世俗の騎士の一団だ。聖職者にはなれなくとも聖杖教に貢献したいと考える騎士が結成したのが銅槌騎士団だ……ということになっている。歩兵中心の木槌傭兵団と同じく、戦場で鉄槌騎士団とともに戦うのがその役目だった。
 アンリ・ボケの配下に五千、ユーグの率いる軍が二万。合計二万五千の軍勢がディウティスク王国へと侵入した。だが、それは少し遅かったのだ。
 ディウティスクの二人の王子の戦いはすでに仲裁できる段階を通り越しており、アンリ・ボケとユーグは両方の王子を敵に回しての戦いを余儀なくされた。ディウティスクの戦乱は一年以上続き、ユーグとアンリ・ボケはディウティスク中を転戦した。
 戦いの連続で勘を取り戻したユーグはその軍才を発揮し、最終的には二人の王子の両方を撃破することで戦いを終結させる。ディウティスクの玉座にはアンリ・ボケの推薦した幼い王族の一人が就くこととなった。







 ……ヴェルマンドワ伯となってから最初の十年は惰眠をむさぼるだけのユーグだったが、次の十年は戦場を駆け巡る歳月となった。ユーグはフィリップの名代として、教皇インノケンティウスの勅命を受けた騎士として、エレブ中を戦場から戦場へと渡り歩いた。本領に戻るのは一年のうち一月にも満たない期間だけだが、ユーグに不満があろうはずもない。

「いやあ、仕方ないなあ、兄上のご命令だからなあ」

 今日もユーグは自軍を率いてイベルスの戦場へと向かうところである。補給を担当するのは各地のバール人商会、また各地の王室に従順な諸侯である。

「殿下、今日はこちらの者を」

「うむ、ご苦労」

 そしてユーグに女性を差し入れて接待するのもまた彼等の役目だった。禁欲を強いられてきた反動は大きく、ユーグは各地で貪欲に女をあさった。

「船乗りには港ごとに女がいる。ヴェルマンドワ伯には戦場ごとに女がいる」

 そう揶揄されるくらいである。だが、これだけ派手なことをしていれば当然噂はアデライードの耳にも届く。

「我が夫よ、今回の出征からはこの者達を側仕えとして置いていただきます」

 とアデライードが五人の男をユーグへと示した。そこにいるのは何代も前からヴェルマンドワ伯に仕える重臣、その子弟ばかりである。婿養子のユーグではなく、ヴェルマンドワ家そのものに絶対の忠誠を誓っている男達。ユーグから見ればアデライードの犬であり、監視役である。
 こうしてユーグは戦場でも自由を失ってしまった。女遊びをしようにも監視役の面々がそれを妨害し、決してユーグに女を近づけさせない。ユーグは一人寝室で、

「……あの頃は可愛かったのに」

 アデライードの肖像画を眺めて泣き寝入りし、夜を過ごすこととなった。
 さらにはその話がアデライードの耳にも入り、

「……そうですか。我が夫が」

「はい。ヴェルマンドワ伯はアデライード様の肖像画を眺めて夜の無聊を慰めております」

 そうですか、とアデライードは乙女のように頬を染めている。確かにその報告には嘘はないが、いくつかの重要な点が意図的に省略されていた。しばしの間幸福に浸っていたアデライードだが、

「わたしの絵姿が我が夫の心の慰めになるのならこれほどの喜びはありません。誰か、絵師をお呼びなさい」

 そしてユーグが戻ってきた際、アデライードはユーグの前にあるものを用意した。

「これは?」

 ユーグの前にあるのは高さ二メートル、幅一メートルほどの箱である。全体が黒檀で作られており、金細工の飾りで彩られている。正面が観音開きの扉になっていて、形としては衣装箪笥に近かった。もっと言うなら一番印象が近いのは仏壇だ。
 アデライードは無言のままその箱の扉を開く。そこにはもう一人のアデライードがいて、

「っ……!」

 ユーグは心臓が止まるかと思った。箱に入っているのはアデライードの肖像画だ。大きさは完全な等身大、実物と見間違うくらいに精密で正確な描写である。少しは美化すればいいものを、肥え太ったアデライードのそのままの姿を写真さながらに描き写してていた。

「次の出征にはあの者達にこれを持って行かせます」

 アデライードの言葉にユーグは目の前が真っ暗になる。

「どうぞこれで夜の無聊を慰めてくださいますよう」

 そう微笑むアデライードに、ユーグは引きつった笑みを返すので精一杯だった。
 次回の出征から、ユーグの本陣に荷車に乗った黒檀の箱が同行する光景が見られるようになる。いつまでも少年のように若々しかったユーグが年相応の落ち着きを見せてきたのもこの頃からである。
 それからしばらく後の、ある戦いでのこと。
 その夜、ユーグの軍は戦場に近い山城で一夜を過ごしていた。ユーグには客間が割り当てられ、そこには例によって黒檀の箱も運び込まれている。ユーグは箱から目を逸らしながらやけ酒を飲んでいるところだった。そこに、

「殿下、枢機卿アンリ・ボケが殿下にお目にかかりたいと」

 今回は異端と目された諸侯討伐のためアンリ・ボケが教皇庁の騎士団を率いて友軍として同行していた。ユーグはアンリ・ボケを自室に招き入れる。

「夜分に恐れ入ります。王弟殿下」

 客間に入ってきたアンリ・ボケは黒檀の箱に目を留める。というか、部屋の真ん中に鎮座しているのだから何をどうしようと目に入るだろう。

「これが噂の……王弟殿下は愛妻家なのですな」

 と笑うアンリ・ボケ。ユーグにはそれが嘲笑としか思えなかった。

「ご夫人の肖像を拝見させていただいてもよろしいですかな?」

 アンリ・ボケのその頼みに頷いたのも自棄になっていたからであり、深い考えがあったわけではない。アンリ・ボケもまた単に話のきっかけにしようと思っただけである。箱の扉を開いてアンリ・ボケはその肖像画を目の当たりにし、

「……」

 アンリ・ボケはかなりの長時間言葉を失った。

「枢機卿?」

「――え、ああ、失礼しました」

 我に返ったアンリ・ボケが扉を閉じる。

「いや、大変見事な肖像でした。奥方もまた美しい、聖母とはあのような方を言うのでしょうな」

「ありがとうございます」

 熱を込めたアンリ・ボケの追従にユーグは適当に頷く。アンリ・ボケはどうでもいいようなことを少し話をし、立ち去っていく。ユーグは「何をしに来たんだろう」と首をひねっていた。
 それまでもアンリ・ボケと轡を並べて戦う機会はあったのだが、それが目に見えて増えたのはそれ以降である。時にアンリ・ボケの窮地を助け、時にアンリ・ボケの突撃により敗色を覆した。客観的には、ユーグにとってアンリ・ボケはもはや戦友と言っていい。
 だが、それでもユーグはアンリ・ボケに気を許すことはなかった。アンリ・ボケが自分を見つめる目に、ユーグは不穏な何かを感じていたからである。
 あるとき、ふとした雑談の中でユーグはその思いを腹心の一人に漏らした。

「枢機卿が僕を見る目に何かの思いを感じることがある。それが何なのか判らないが、何か不穏なものだ」

 そう感じたことはないか?というユーグの問いに、その腹心・タンクレードはこともなげに答えた。

「ああ、それはおそらく『嫉妬』でしょう」

 ユーグはほんの少しの間、唖然とした。

「……嫉妬? あの枢機卿がこの僕に? まさかそんなことはないだろう」

 アンリ・ボケとの付き合いもう短い期間ではない。ユーグはアンリ・ボケのことをよく知っている。異教徒や異端、敵に対しては容赦の欠片もなく、悪魔の民(恩寵の民)の赤ん坊を自らの手で篝火の中へと放り込んでいるところも目撃している。その一方正統の聖杖教徒に対しては慈悲深く、飢えた貧民や貧農に軍の糧食を分け与えているところも何度も直接その目で見ているのだ。

「独りよがりではた迷惑な御仁だが、聖杖教の聖職者としてあれ以上の方と言えばそれこそ教皇くらいのものだ」

 それがユーグによるアンリ・ボケの評価だった。

「それもまた枢機卿の一面でしょうが、別の、隠している一面があるのは間違いありません。殿下はそれを感じ取ったのだと思います」

 タンクレードの言葉にユーグは腕を組んで考え込んだ。

「なるほど。では、その隠している面というのはどのようなものだろうか」

 これはあくまで兵卒どもの無責任な噂話ですが、とタンクレードは前置きし、

「枢機卿は殿下の奥方に横恋慕をしている、と」

 ユーグはかなりの長い時間二の句が継げなかった。

「……いや、まさかそんなことは」

 反射的にそう言いつつも、ユーグにも全くの心当たりがないではなかった。アンリ・ボケが度々ユーグの元を訪れるのもアデライードの肖像画が見たいからではないのか? アンリ・ボケがヴェルマンドワ伯本領を訪れた際もアデライードのことを気にしていたのではなかったか? 会えたときに嬉しそうにしていたのも、あれは演技ではなく本心ではないのか?
 「確かに体格的にはお似合いの二人だが」とか「欲しいのならリボンをかけてくれてやるが」とか、様々な思いがユーグの心をよぎった。

「……しかし、いくらアデライードに横恋慕しようと枢機卿にはどうしようもないだろう。例え僕が戦死しても、枢機卿が僕の後釜に座れるわけがない」

 ユーグの感想にタンクレードは苦笑するしかない。ユーグは王族としてはかなり型破りであり下々とも気安く接しているが、それでも貴人は貴人である。他者の感情の機微に疎いところがあった。

「それは枢機卿も嫌と言うほど理解していることでしょう。ですが、恋心に限らず人の感情というのは不合理なものなのです。それが無意味だと理屈でどれだけ判っていても身も心も焦がされる、それが恋心であり、嫉妬という感情なのです。およそ男の妬心ほどたちの悪いものはありません。どうか殿下もご用心を」

 覚えておこう、と頷くユーグ。元々タンクレードを腹心としていたユーグだが、その会話以降さらにタンクレードを重用することとなる。








[19836] 幕間4 ~とある王弟の回想・後
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/12 21:03




「黄金の帝国・幕間4 ~とある王弟の回想・後」







 時に、海暦三〇一五年。
 国王に対する敵対勢力をほぼ一掃し、フランク王国では平和が享受されていた。ブリトン・ディウティスク・レモリア・イベルスの諸外国でもまた同様に強力な王権が確立しており、エレブは数百年ぶりの平和と繁栄を謳歌している。

「あの教皇は本当に神の使いなのかもしれんな。まさか私が生きている間にこんな平和な時代がやってくるとは」

 とフィリップは賛嘆する。エレブ全土に平和をもたらした教皇インノケンティウスの権威は天を突かんばかりとなっていた。
 一方この十年戦い続けてきたユーグはフィリップのように楽観してはいられない。

「……不満を強引に抑え込んでいるだけです。それがいつ爆発してもおかしくはありません」

 教皇インノケンティウスは教会よりも民衆に、諸侯よりも兵士に直接訴えることを好んだ。民衆に教会という中間を飛ばして直接教皇につながるという意識を持たせ、教会の既得権益を奪い取ろうというのである。フィリップ達五王国の国王もそれを真似、諸侯を排除して直接民衆や兵につながろうとした。もちろん、諸侯や教会という中間の存在を完全に撤廃したわけでは決してないし、そもそもできるはずもない。だが長い戦いにより諸侯・教会という中間の存在はかつてないほどに力を弱めていた。
 中間搾取を廃することにより教皇・国王というトップと民衆は大きな益を得、教会や諸侯は貧する。反発する教会や諸侯を民衆の支持を得て撃滅していき、王権と教皇権を強化していく。
 そうやって敵対勢力を掃討し続け、ようやく五王国は王権強化を確立したのである。だが既得権益を徹底的に奪われた諸侯には膨大な不満がたまっている。言わば、フィリップ達の玉座は可燃ガスが目いっぱい入ってはち切れそうになっている風船の上に乗っているようなものなのだ。

「諸侯はネゲヴ征服の発動を求めています。僕の元にも毎日のように嘆願書
が届いています。

『一日でも早くネゲヴ征服を』『騎士達は馬具を揃え剣を磨き、その日を待ちわびているのです』と」

「ディウティスクなどは国王自身が誰よりもネゲヴ征服の積極派だということだ。なんと愚かな……!」

 フィリップは吐き捨てるように言う。ユーグもまた無言のまま頷いて同意した。

「私はネゲヴ征服などという愚行で兵や民の生命を損なおうとは思わない。ユーグ、お前の役目は教皇とともに時間を稼いでネゲヴ征服の発動をなし崩しのままに有耶無耶にしてしまうことだ」

 判りました、と頷くユーグ。ユーグは教皇庁のあるテ=デウムへと向けて出立した。
 教皇インノケンティウスは五王国の国王に対して軍権の全権を担う使節をテ=デウムに派遣するよう求めたのである。目的は説明されなかった。だが教皇が各国の使節を集めて発表すること、あるいは話し合うことがネゲヴ征服発動に関する問題なのは自明のことだった。
 ユーグがテ=デウムに到着する頃には他の諸王国からの大使もすでに到着していた。ディウティスクからは国王自身がやってきている。ディウティスク国王フリードリッヒは二〇歳になったばかりの、血気盛んな若者である。

「お久しぶりです、ヴェルマンドワ伯。いよいよ聖戦の発動かと思うと血がたぎりますね!」

 フリードリッヒは自分の即位に尽力してくれたユーグのことを兄のように慕っている。ユーグは苦笑しつつもフリードリッヒを宥めた。

「いえ、まだどうなるか判りませんよ。いきなり軍を率いて進軍するのではなく、まず使者を出す必要があると思いますし。いずれにしても、聖下のお言葉を待ちましょう」

 ユーグの日和見な姿勢にフリードリッヒは不満そうである。フリードリッヒは王国の実権を宰相に握られており、傀儡として十年を過ごしてきた。フリードリッヒはネゲヴ征服の発動を宰相から実権を奪い返す機会としようしているようだった。
 そして今、ユーグ達各国大使五人がサン=バルテルミ大聖堂の礼拝堂へと集められている。五名が片膝を付いて頭を伏せる中、五人の前に静かに教皇インノケンティウスが姿を現した。教皇の隣には枢機卿アンリ・ボケが影のように佇んでいる。そのアンリ・ボケが教皇の前に出、五人の眼前に立った。

「――今、エレブにはかつてない平和がもたらされています。それも、ヴェルマンドワ伯ユーグ・ディウティスク国王フリードリッヒを始めとする神の使徒たる騎士達の、長きに渡る戦いの結実というものです。ですが! 我等は決してこれに満足してはいけない。神の愛を、栄光を、この地上全てにあまねく注ぐ。それこそが教皇庁の責務、あなた方神の騎士の新たなる義務!」

 ユーグは鞭打たれたように小さく身を震わせた。嫌な汗がうつむいたままの額を流れる。

「――今、ネゲヴの大地は異教徒と悪魔の民に支配されている。聖典にある通り、ネゲヴの大地は我等聖杖教徒に与えられたもののはず! 彼の地を取り戻さなければならない! 汚らわしい異教徒を一掃し、蒙昧な民に真の信仰を理解させ、おぞましい悪魔の民を浄化する! それこそが我等聖杖教徒の聖なる義務!」

 沈黙を守っていた教皇インノケンティウスが立ち上がり、アンリ・ボケと入れ替わって前へと進み出る。そして五人に向けて厳かに告げた。

「――教皇の名において聖戦を命ず。聖杖の旗の下に、ネゲヴの全土を制するのです」

 五人の口から声にならない感嘆が漏れた。フリードリッヒは感動のあまり滂沱のごとく涙を流している。その場の全員が新たな歴史を刻むことに血を熱くする一方、ユーグの心はどこまでも冷え切っていた。教皇が言葉を続けた。

「私はエレブの兵や民を無為に損なうことを望みません。異教徒であろうとネゲヴの民にも戦ってほしくはない。ですので、戦わずともネゲヴ全土を制することができるだけの兵を動員します。――百万です」

 五人の使節が彫像のように凍り付く中、教皇の宣言が続く。

「フランクが二五万、ディウティスクが二五万、イベルスが二五万、レモリアが一五万、ブリトンが一〇万。各国はそれだけの兵を動員してください。集結はアダルの月一日、場所はイベルスのマラカ。そこに百万の兵を集結させるのです。そして全軍の指揮はフランク国王王弟・ヴェルマンドワ伯に執っていただきます」

 ユーグは全身の血が氷になったかのように思えた。指の一本すら意のままに動かせない。血の代わりに流れる氷片が血管を裂き、心臓に突き刺さる。早鐘を打つ心臓が胸を刺す痛みをさらに強めた。教皇とアンリ・ボケが退出し、各国代表が興奮して、あるいは不安そうに話し合いを始めても、ユーグは俯いたまま身動き一つできないままだった。
 ……一体あの後どう行動したのだろうか。気が付いたらユーグは迎賓館の一室にいて、寝台に腰掛けていた。この場に他の誰もいないことを理解し、ユーグは頭を抱え、絞り出すようなうめき声を上げた。

「……一体、何故こんなことに」

 そのまましばらく唸っていたユーグだが、

「そうだ、こうしてはいられない」

 ユーグは勢いよく立ち上がりアンリ・ボケの元に向かった。幸いアンリ・ボケとは間を置かずに面会することができた。

「一体これはどういうことですか!」

 ユーグの剣幕を「はて、何のことでしょう?」ととぼけた顔で受け流すアンリ・ボケ。ユーグは拳を握りしめた。

「聖戦のことだ。聖戦は王権強化のためのただの手段だったはず、実際に聖戦をするつもりはないと教皇は言っていた。あれは嘘だったのか!」

 アンリ・ボケは困惑の表情を作って見せた。

「聖下が嘘をおっしゃるはずもありますまい。どうやら何か行き違いがあったようですなぁ。王権強化は聖戦を実現するための準備段階、それは判っていただいているものと思っておりましたが」

 歯を軋ませるユーグだがゆっくり深呼吸をし、冷静さを取り戻そうとする。

「……今、エレブの民全てが平和を謳歌している。僕達が十年間戦い続けてようやく掴んだこの平和を、この繁栄を、何もかもを無為にするおつもりか? 聖下に奉られた『平和の使徒』の名声を、地に投げ捨てるおつもりか?」

「確かに、このまま平和が続くのであればそれに越したことはありません」

 アンリ・ボケはわざとらしく頷いた。

「ネゲヴのことなど無視してしまい、エレブだけで平和と繁栄を享受する……確かにそれは素晴らしいことでしょう」

「だったら――」

 だがユーグの説得はアンリ・ボケの「それができるのであれば」の一言によって遮断された。

「殿下、よくよく思い返していただきたい。私とあなたがどれだけの血を流してきたのかを。どれだけの民の屠り、どれだけの貴族を破滅させ、どれだけの聖職者を処刑してきたことか。その全ては『聖戦』のためではなかったのですか? 今更それをなかったことにできると、本気でお思いなのですか?」

 アンリ・ボケの正しさを認め、ユーグは沈黙する。

「そして巷の声に、民衆の思いに耳を傾けていただきたい。彼等は皆等しく聖戦を望んでいる。彼等の願いをなかったことにできると、本気でお思いなのですか?」

(……確かに、この期に及んでなかったことにできるはずがない)

 ユーグはそれを認める他なかった。不満を今にも暴発させそうな諸侯、ネゲヴに教区を持つことで失地を取り返そうとする教会、散々信仰心を煽られて狂信者の群れと化した民衆、ネゲヴに自分の農地を持つことを夢見ている零細農民、自分の領地を持つことを夢見ている貧乏騎士、ネゲヴを略奪することしか考えていない傭兵崩れ。もし教皇インノケンティウスが前言を翻してネゲヴ征服を中止にしたなら彼等の不満は教皇庁へと向かうことになるだろう。インノケンティウスを教皇の座から引きずり下ろし、ネゲヴ征服を実行する別の誰かを教皇の座につけようとするに違いない。

(それは僕や兄上にしても同じことだ)

 フィリップやユーグ、フリードリッヒや他の諸王国の国王にしても、ネゲヴ征服の実現を口実として軍権を国王へと集中させ、王権を強化してきたのだ。もしネゲヴ征服に反対したなら王権強化の正当性を自分でひっくり返すこととなる。部下も諸侯も民衆も離反する、教皇庁からも異端と見なされる。臣下の誰かが適当な王族を担いで反乱を起こし、フィリップとユーグは処刑されるだろう。そして結局その新たな国王がネゲヴ征服を実行するのだ。
 ユーグはその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。

「……だが、しかし」

 ユーグはそれでも顔を上げ、アンリ・ボケを見つめた。

「いくら何でも百万は無茶苦茶だ。そんなことできるわけがない」

「勝つためには百万を動員すべきだ、そう説いたのはあなたでしょう」

「あんなもの、子供の頃の戯言だ!」

 ユーグが思わず激高する。だがアンリ・ボケは微笑んでいるだけだ。

「いえいえとんでもない。殿下のご高見には感服しているところです。確かに確実に勝利し、ネゲヴ全土を制するにはそのくらいの兵は必要でしょう」

 アンリ・ボケは笑っている。いつもと変わりない笑顔をユーグに向けている。目尻が下がり、口の端が上に向き、それは確かに笑顔のはずである。

(この男は……一体)

 ユーグにはその笑顔が何か別のものに見えたのだ――途轍もなくおぞましい何かに。ユーグの全身が悪寒に大きく震えた。

「マラカ集結まであと一一ヶ月しかありません。明日からは忙しくなりますよ、王弟殿下」

 アンリ・ボケはそう言い残して去っていきその部屋にはユーグだけが残された。ユーグはいつまでもその部屋で一人、震える身体を抱いているだけだった。







 ついに聖戦が正式にエレブ全土へと発令された。聖戦を、ネゲヴ遠征軍への集結を説いた教皇勅書が印刷機で印刷され、エレブ中へと配付される。勅書は回覧され、民衆の前で読み上げられた。
 長らく待ち望んでいた勅命がついに下ったのだ。エレブ全土に熱狂の渦が巻き起こった。ある諸侯は隣の諸侯に領地経営の全てを委託し、配下の騎士全員を引き連れマラカへと旅立った。ある村落では村人全員が剣や槍の代わりに鍬や鋤を手にし、マラカへと向かって移動を開始した。
 その熱狂の中でも、フィリップとユーグは苦い顔を隠せていない。

「……ともかく、兵を集めねばならない。それはお前に任せる。私はマラカ集結を支援する準備をしなければならない」

 はい、とユーグは頷く。フィリップとユーグはそれぞれの仕事に取りかかった。

「百万とはまた気宇壮大だな」

「エレブが空っぽになってしまうぞ」

 最初は各国の王室や諸侯も笑っていたが、その笑いが凍り付くのにそれほど時間はかからなかった。

「教皇聖下は各国に兵を割り当てられた。それを守っていない、守ろうとしていないのはどういうことですかな?」

 枢機卿アンリ・ボケが、その部下が各国王室を訪れて動員計画の進捗状況を確認。動員が割り当てに届きそうにないのなら計画の変更を要求する。

「この計画ではあまりに余裕がありません。もう二割動員を増やしましょう」

「監視員を派遣します。割り当ての遵守は信仰の証、陛下が不信心者と見られないことを祈るばかりです」

 アンリ・ボケと教皇庁は百万の動員を本気で実現するべく動いている。威圧・脅迫・断罪を駆使し、アンリ・ボケは各国に動員割り当ての遵守を迫った。

「教皇は正気か」

 フィリップは愕然とし、ユーグはただ天を仰いだ。

「教皇はともかく、枢機卿はどう考えても正気じゃありません。ですが、それは最初からだったんです」

 ユーグは諦念のため息をつくばかりである。

「他の各国も割り当てを守ろうと必死になっています。我々だけ守らないわけにはいきません」

 ユーグはフィリップに割り当て遵守のための強権を求める。フィリップは毒杯を仰ぐような顔でその要求を呑んだ。
 ユーグはまず国王直属の軍の九割を動員。当然それでは足りないので国内全ての諸侯へと動員兵数を割り当てる。幸い諸侯は次々と参集してくるが、それでも二五万には届かなかった。

「仕事をなくした傭兵がいるはずだ。それを集めろ」

「村を捨ててマラカに向かおうとしてる民衆がいるそうだな。それも軍に組み込め」

「バール人どもから奴隷を買ってこい。それを兵とする」

 そこまでやってもまだ二五万には届かない。ユーグは最後の手段を選ぶしかなかった。

「……獄舎を開放しろ。牢につながれている囚人を全員連れて行く」

 囚人に勝手に逃げられると問題なので、囚人には一人ずつ番号を振られ、その番号の入れ墨をされる。その時間がなければ焼きごてをして番号を刻印した。
 ユーグは部下や諸侯に動員兵数を割り当て義務付け、その部下や諸侯もまた配下の部下・小諸侯へと動員兵数を割り当て、罰則を持ってそれだけの兵数を動員することを強制する。さらにその部下達はまた部下へと連鎖していき、末端では五人一組、または十人一組とした班が組織された。班には定員が決められ、欠員は班自身・班員全員の連帯責任で埋め合わせる義務を負っている。欠員が出た場合は最悪出身村落に残した家族までが連帯責任を問われ、処刑されるかもしれないのだ。
 各班は欠員を埋めるための手段を選ばなかった。兵の供出を割り当てられた家から成人男子の兵が出せなければ、男の老人を、それができなければ男の子供を、それができなければ女であろうと兵として引き連れていった。

「もうたくさんだ!」

 自分で自国を破壊するに等しい行為にユーグは我慢できなくなり、ついに教皇庁に押しかけた。

「異端に問われたって構うものか。もう教皇に直談判するしかない」

 ユーグは教皇に面会を申し込む。が、ユーグの前にはアンリ・ボケが立ちはだかった。

「聖下はご気分が優れない模様。代わりに私がお話をお伺いしましょう」

「ネゲヴ出征を、聖槌軍を中止するべきだ。今すぐに」

 アンリ・ボケは眉を跳ね上げた。

「……さて、神の忠実な騎士たる王弟殿下のお言葉も思えませんな」

「あなたこそ、この国のこの有様が目に入らないのか! ネゲヴでの戦いがどうであろうと、このままではこの国が滅んでしまう!」

 成人男子は全員出征し、残ったわずかな男手も通過する聖槌軍の軍勢が欠員を埋めるためにさらっていく。根こそぎ奪われ、破滅に瀕した村では村民が聖槌軍の末尾へと加わっている。残るのは無人となった村と荒れ果てた畑だけ――そんな光景が今フランク王国全土で広がっていた。

「あなたは知らないのか、この実態を!」

「いえ、そんなことはありません。無手であろうと、女子供であろうと聖地回復に立ち上がる、信仰心篤き民草の健気さには涙が流れる思いです」

 アンリ・ボケの白々しい言葉にユーグは歯ぎしりをする。我知らずのうちに手が腰の剣に伸びていた。が、幸か不幸か剣は衛兵に預けたままだ。ユーグは何とか冷静になろうとした。

「……今、巷には教皇庁と王室に対する怨嗟の声が満ちあふれている。あなたはこのままでいいのか? 敬愛する聖下が民衆の憎悪の的になっているのだぞ」

「いいえ、殿下。民衆の憎悪を一身に受けているのは私です。民草の聖下に対する信心は未だ失われてはおりません」

 ユーグは思わずアンリ・ボケを見返した。

「……あなたは、それでいいのか?」

「何か問題でも?」

 むしろアンリ・ボケの方が不思議そうだ。

「聖下のために血を流し、泥にまみれ、敵と味方に憎まれる。それが私の役目です。それで聖下の理想が実現するのなら、どうしてその役を厭う理由があるでしょう?」

「その、聖下の理想とは何なのだ。これほどまでに民衆に犠牲を強い、血と涙を流させる、それは聖下の理想に反することではないのか」

 それはユーグの心底からの疑問だった。何故教皇は今のこのフランクの、エレブの惨状に何も言わないのか。何故教皇はこの悲劇を見過ごし、何もしようとしないのか――それはユーグだけではなく、エレブの大多数の人間が等しく抱いている深刻な疑念だった。

「理想の実現に犠牲はつきものです」

 その問いに対し、アンリ・ボケは胸を張って誇らしげに答えた。

「聖下は心優しいお方です。犠牲には胸を痛めておいででしょうが、いつものように『見なかった振り』をしてくださいますよ」

 ……結局、ユーグは教皇インノケンティウスと面会できないまま教皇庁を後にした。

「『見なかった振り』……そうか、『見なかった振り』か」

 アンリ・ボケの答えはユーグの意志を打ちのめしていた。教皇に面会しても意味がない、ユーグはそう悟る他なかったのだ。

「教皇はこのフランクの惨状を『見なかった振り』ですませることができるのか。異端でも異教徒でもなく、教皇の民草である聖杖教徒の血と涙を『見なかった振り』でやり過ごすことができるのか」

 ふと、ユーグの脳裏をある疑問が過ぎる。それは、本当に何も見ていないことと何が違うのか?
 教皇が就任してから三〇年、アンリ・ボケやニコラ・レミはさらにその前から今の教皇のために大量の血を流してきた。四〇年以上ずっと、流された血に「見なかった振り」をしてきたのなら――あるいは本当に何も見えなくなってしまうのではないのか?
 それはただの想像である。だがユーグにはそれが正解だとしか思えなかった。







 フランクを始めとする各国は百万を越える人間を動員し、南へと送り込み続けた。集められた雲霞のごとき大軍勢は、ただ通過するだけで街道沿いの町や村を破壊していった。
 聖槌軍に参加した諸侯の全員が自力での補給など考えていない。持てるだけの貨幣・貴金属を用意し、道中それで食糧を購入することを考えていた。が、実に百万の軍勢が移動し、食糧を、物資を求め続けるのだ。食糧の値段は高騰し持ってきた財貨はすぐに尽きる。そうなると彼等にできるのは二つしかない。街道沿いの町や村を略奪するか、道中の諸侯や教会に支援を求めるか、だ。

「ともかく食糧を集めろ、街道へと送り込め。聖槌軍を飢えさせるな」

 もちろん弱体化した諸侯には支援する力など残っていない。そうなると道中の食糧支援の最終的な責任はフランク等の各王国王家が受け持つこととなる。フィリップはそれを見越し、国庫を空にする勢いで食糧を買い求めた。それでも足りないのでバール人商人から借金をし、それを踏み倒し、それでも足りないので教会に金品を供出させ、それでも足りないので各村から食糧を吐き出させる。多くの村落が来月の食糧も、来年の種籾すら奪い取られ、破産していき、絶望した農民が聖槌軍の末尾に加わる。そして彼等は奪われる側から奪い取る側に回るのだ。
 そうやって、略奪と絶望を何度も再生産し、聖槌軍は雪だるま式に膨れ上がっていく。軍勢が通過した後はまるで蝗の通った後のように何も残らず、ただ荒野が広がるだけだった。
 フィリップは自国のあまりの惨状に言葉も出ない。

「七〇年前の大飢饉の時もこんな有様だったのだろうか」

 国庫は空となり、農村は荒れ果て、作付けも行われず、街からは灯が消えている。王宮からも人気がなくなり、わずかに出仕している臣下も虚ろな顔をぶら下げているだけだ。

「陛下、枢機卿アンリ・ボケの率いる鉄槌騎士団がフランク領を抜け、イベルス側へと入りました。聖槌軍の軍勢はこれで全て我が国を通過したことになります」

 臣下の報告にフィリップは「そうか」と答えた。もう食糧を手当てする必要もない。落後した兵や農民を処分する必要も、替わりの兵を補給するために人狩りをされることもないのだ。

「……行け、行け! どこへでも行ってしまえ! 地の果てまで行ってしまえ! そしてもう二度と帰ってくるな!」

 一人になったとき、フィリップは臓腑にため込んでいた暗い思いを吐き捨てた。何はともあれ、これでフランク王国にとっての聖槌軍は終わったのだ。出立した軍勢の先行きなど知ったことではない、弟さえ無事に戻ってくるならそれでいいと、フィリップは決め込んでいた。これからは国内の復興という大仕事が待っているのだから。







 イベルス王国の下級騎士にゴンザレスという名の男がいる。武芸は人並み以下で事務仕事も人並み程度、生真面目で几帳面なのが取り柄という、イベルスに五万といるであろう男である。だがこの凡人はこの時期にある任務を完遂し、それによって歴史に不滅の名を残している。
 マラカの町の南の門番だった彼は三ヶ月間城門に陣取り、通過する全ての軍勢から兵数を聞き取りそれを記録として残したのだ。
 フランク・ディウティスク・イベルス・レモリア・ブリトンの五王国を中心とし、ポルタスカラ・エイリン・マリヌス・モノエキ・ベルガエ・ホラント・デーンマルク・シュヴィツ・オストマルク・マジャール・スヴェリ・イスラント・ポリエ・ルーシ・ポロツク・ノルレベク・スオミ・ヘラス・ブルガール・ロマニ・シキペリセ、合計二六ヶ国。参加総兵数一〇二万五五五九人。それがゴンザレスの書き残した聖槌軍の全容である。もちろんその正確さについては相当割り引いて考えなければならない。だが万単位で見るならばその数に間違いはないものと考えられている。
 総勢百万の大軍勢、それがユーグの指揮する軍の威容である。この軍勢の行く先にどんな運命が待っているのか、それを知る者はまだどこにもいなかった。








[19836] 幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/26 21:25

 ときは海暦三〇一五年の年末、場所はスキラ市内。海にほど近いその丘には下層に近い庶民が寄り集まって住んでいた。一間か二間しかないような小さな家が密集して丘を埋め尽くしている様は、まるで巨大な蟻塚のようである。道は細く曲がりくねっていて、迷路そのものだ。大抵は舗装されていない砂利道だが部分的に石畳の階段が作られている。
 その丘の中腹にある一軒家を一人の男が訪れていた。

「邪魔をする」

「……どちらさん?」

 男を出迎えた家主の女は警戒を示した。男の身長は高く痩身。肌は白い、というよりは蒼白だ。中途半端に長い髪は不自然なくらいに黒く艶やかで、長い前髪に半分隠れた目は鈍い赤。表情は暗く、感情があるのかどうかを疑ってしまう。憲兵や徴税官といった規律に服する職務が何よりも似合いそうな、嫌な印象の男であった。

「俺の古い馴染みだ。入れてやってくれ」

 部屋の奥から別の男の声がする。その女は無言のままその来客を家の中に招き入れた。

「怪我の具合はどうだ?」

「何、もうほとんど直っているさ」

 部屋の奥で退屈そうにしていたのは、愛想のいい笑い顔を絶やさない陽気な男である。年齢は四〇前後で、やや長身でやや細身。特徴らしい特徴のない、外見の上では印象の残らない男だった。
 これを、と来客は家主の女に手土産を渡す。女はそれを持って台所に向かった。

「酒か?」

「怪我人に酒はまずいだろう。バラタ産の茶だ」

 気の利かん奴だな、と男はつまらなさそうに肩をすくめる。来客はその憎まれ口に何の反応も示さなかった。男の視線に促され、来客は椅子に腰掛けた。
 少しの間、無言のまま時間が流れる。家主の女が茶を入れてやってきた。二人の男に茶を差し出し、女はまた台所へと下がっていった。

「……今の女とは長いのか?」

「一〇年は経っていないな。何のかんの言っても一番気楽に付き合える奴だ」

 また無言のまま、二人は茶を味わった。窓の外から子供の声や物売りの声が聞こえている。二人はその声を観賞するかのように沈黙していた。時折思い出したように言葉が交わされるが、数えられるほどの回数だ。
 そうやって小一時間を過ごし、その来客は立ち去っていった。それと入れ替わりに家主の女が部屋へと戻ってくる。

「随分変わった人だったわね。何なのあの人」

「古い馴染みさ」

 男はそれだけを言い、過去を懐かしむかのような笑みを見せた。





「黄金の帝国・幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想」





 もう二〇年以上も昔のこととなる。その頃のツァイドは二十歳にもなっていない若造だった。
 そのとき、牙犬族は海賊退治の仕事を請け負ってキュレネの町を訪れたところだった。ツァイドはその一員に加わっている。キュレネは地中海を挟んで対岸にヘラス(元の世界のギリシア)があり、交易の盛んな町である。
 ツァイドは一人で港に近い賭場を訪れていた。半地下の大広間は二〇〇人を超える客で充満している。何十というテーブルが並び、あるテーブルではサイコロ博打が、あるテーブルではカードゲームが催されていた。各々のテーブルには十人に満たない人間が集まり、皆が賭け事に熱中している。ツァイドはサイコロ博打の席に加わった。酒を片手に小銭を賭けて、勝っては大喜びをし、負けては大いに悔しがる。胴親の警戒心を解いたところで、

「ところで近頃何とかっていう海賊が出ているそうだけど」

「ああ、メファゲル海賊団のことか。あの連中のせいでこの頃は景気が悪くなって仕方ない」

 そこに横の客が口を挟んできた。

「長老会議が牙犬族の傭兵を雇ったそうだぜ。これであの連中もおしまいだろう」

「ああ、そりゃ心強いな!」

 ツァイドはことさらに喜んで見せた。

「でも相手の海賊団だって手強いんじゃないのか?」

「ああ、人数は百人以上って話だ。この辺りじゃ一番大きな海賊団だ」

 ツァイドはそうやって情報を引き出し、負けが込んだところで適当にサイコロ博打を切り上げた。ツァイドは賭場内をぶらぶらと歩いて回り、どこで情報を集めようかと検分している。そのツァイドの目に写ったのはある人集りだ。ツァイドはその人集りに加わった。見ると、胴親と客がカードゲームで一騎打ちをしているところである。
 胴親はこの賭場では最も名前の売れた男だ。見栄えのする容姿と華麗なカードさばきからこの賭場の花形で通っている。その胴親が、常の余裕を失ってだらだらと脂汗を流している。相対しているのは背の高い若者だ。年齢はツァイドと変わらないくらい。深々とフードを被っているが、その隙間から灰色の髪が覗いていた。
 胴親と若者が同時にカードを広げ、その場の一同がどよめいた。ツァイドが手札を確認し、若者の勝ちであることを理解する。積み上げられた金貨がごっそりと若者の方へと移動した。胴親は蒼白となっているが何とか笑顔を作り、肩をすくめて見せた。

「やれやれ、かないませんね。有り金が全部なくなってしまいました、残念ですがこれでおひらきとしましょう」

「判った」

 ツァイドは胴親と、金貨を鞄にしまっている若者とを等分に見比べた。胴親は端正な顔を暗く歪め、嘲笑を浮かべている。ツァイドは胴親のその様子に不審を抱いたが若者の方はそれに気付いていないかのようだ。ふと、若者がツァイドに視線を止める。若者の赤い眼差しがツァイドを見つめた。

「――」

 若者はフードの付いた外套を翻して立ち去っていく。ツァイドは少し距離を置いて若者に続き、その後を尾行した。
 賭場を出、一スタディアも歩かないうちに若者は何人もの男に取り囲まれていた。

「ふん、勝ち逃げなんか許すと思っていたのか?」

 その中心にいるのは有り金を全て奪われた胴親である。胴親が引き連れているのは賭場の用心棒で、その数五人。

「俺の面子をあれだけ潰して無傷で帰れると思っていたのか?」

 胴親は若者を嘲笑し、用心棒が追従するように「馬鹿な奴だぜ」と笑う。だが若者は軽くため息をつくだけだ。

「お前達こそ、私が一人であの賭場に来ていたと思っていたのか?」

 用心棒が慌てて背後を振り返るとちょうどそこにはツァイドの姿が。この状況ではツァイドがどう言い訳しようと無関係とは思われないだろうし、ツァイドもまた無関係を装うつもりもなかった。ツァイドは自分から用心棒の一団の中に飛び込んでいく。

「このガキ――!」

 警棒を振り上げる用心棒の腹に、目にも止まらぬ速さで拳の一撃を食らわせる。背後から迫る用心棒の顎を足で蹴り上げ、もう一人の顔面に足の裏を叩き込んで鼻をへし折った。

「こ、こいつ、恩寵持ち……!」

 ツァイドは恩寵も剣の腕も、牙犬族の中では弱い方の部類に入る。だがそれも「恩寵持ちの中では」の話である。恩寵がなくても恩寵の一族の生まれであれば、大抵は優れた身体能力を持っている。そして恩寵持ちとそうでない者の間には決して越えられない壁がある。元々優れた身体能力を身体強化の恩寵で強化しているのだ。無手のため烈撃の恩寵を使えずとも、恩寵を持たない人間に負けるはずがなかった。
 残った用心棒は完全に怯えており、もはや勝負にはならない。胴親もそれは理解できたのだろう。

「くそっ! 覚えていろ!」

 陳腐な捨て台詞を残して胴親が逃げていき、用心棒もそれに続く。その場にはツァイドと若者が残された。

「助かった。礼を言う」

 若者が淡々と告げる。ツァイドは「別に構わんが」と受け流し、気になっていた点を確認する。

「もしかしてあんたは白兎族か?」

 若者がその問いに頷き、ツァイドは軽く驚いた。「幻の部族」と言われる白兎族をこの目で見るのは初めてである。

「私は白兎族のベラ=ラフマだ」

 若者はそう名乗る。それがツァイドとベラ=ラフマとの出会いだった。







「あなたがいてくれなければこの金貨はもちろん私の生命があったかどうかも判らない。これくらいは当然だろう」

 ベラ=ラフマは賭場で儲けた何百ドラクマもの金貨の半分をツァイドに譲ろうとした。が、ツァイドはそれを固辞。

「金の代わりにちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。あんたの恩寵を使って」

 ツァイドがその仕事の内容を説明し、ベラ=ラフマが了解。次の日からツァイドはベラ=ラフマを連れてキュレネの町を歩き回った。

「獲物はメファゲル海賊団だ。規模が大きくてなかなか厄介な敵なんでな、色々と調べて回っているところだ」

「牙犬族の剣士と言えば、雇い主の命令があればその通りに敵陣に突っ込むものとばかり思っていたが」

「考えなしの馬鹿ばかりと言いたいんだろう? 確かにそんな連中ばっかりだ」

 とツァイドは明るく笑った。

「だが、俺は他の連中に比べて剣も恩寵もいまいちなんでな。弱者は弱者なりに色々と工夫しているわけだ」

「お前を弱者と呼んだら白兎族の立場がないが」

 とベラ=ラフマも薄く笑う。大抵の恩寵の部族は身体強化の恩寵を持っているが、白兎族だけはそれを持っていなかった。白兎族の者は総じて体力にも体格にも恵まれず、一般の人々と比べてもひ弱なくらいである。

「私も大して強い恩寵を持っているわけではない。工夫が必要だという話はよく判る」

「それこそ俺の立場のない話だな」

 ベラ=ラフマの恩寵は情報収集に画期的な威力を発揮した。「昨日までの苦労は何だったのか」とツァイドが愚痴を言いたくなるくらいである。

「この男の話は半分は法螺でもう半分は町の噂話だ。もう切り上げよう」

「どうやら何かを隠しているようだ。それが何なのかまでは判らないが」

「概ねは事実を語っていたが、この点とこの点は嘘をついていた。では何故嘘が必要だったのか? そこから別の事実が判るのではないだろうか」

 大して強くないと称する恩寵でも嘘をついているかどうかは簡単に判別できるのだ。さらにはベラ=ラフマは集まった情報を分析することにも長けていた。その分析結果から次の情報収集の方針が決まっていく。これまでが暗闇の迷宮を手探りで進んでいたようなものなら、今は夜目が利いてマッピングの得意な者が仲間に加わったようなものである。ツァイドは最短距離で迷宮を走破し、敵情報の核心へとたどり着いた。

「メファゲル海賊団の幹部会が開かれます。敵の幹部を一網打尽にする絶好の機会です」

 ツァイドは幹部会の急襲をアラッドに提案した。アラッドは「何故そんなことが判ったのか」と不審がるが、ラサースの口添えもあってツァイドの提案が受け入れることとなる。
 そしてその夜、キュレネ市内の高級娼館を牙犬族の一団が急襲した。メファゲル海賊団も選りすぐりの護衛を連れていたが、牙犬族も恩寵を持った腕の立つ剣士ばかりを揃えている(ツァイドとラサースは例外だが)。十人程度の牙犬族が数倍の敵を圧倒した。
 特に目覚ましい活躍をしたのがバルゼルだ。バルゼルはこの日が初陣で人を斬るのも初めてだったのだが、斬られた海賊達はそんなことを想像もできなかっただろう。ツァイドが剣を一振りする間にバルゼルは三回くらい振っている。ツァイドが恩寵を出し惜しみしているのに対し、バルゼルにはそんな精神的余裕はなく常に全力全開だ。結果として、バルゼルの通った後には人間の部品が散乱することとなった。バルゼル一人で敵の半数を斬り伏せているが、その中には何人もの恩寵持ちも混じっている。

「無我夢中で剣を振るっていたらいつの間にか戦いが終わっていた」

 本人は後日そう語っている。

「恩寵を無駄に使いすぎだ。少しはツァイドを見習え」

 アラッドにもそう叱責され、バルゼル本人としてはなかったことにしたい部類の初陣となったようである。が、周囲はそうは受け止めなかった。

「一人で敵の半分を斬ったのか。初陣でこれなら先々どこまで延びるか判らんな」

「いやはや、末恐ろしいと言うべきか」

「次代の牙犬族も安泰だ」

 今回の勲一等はバルゼル、と衆目は一致したのだが、バルゼルはそれを固辞した。

「ツァイド殿の働きの方がよほど大きいではないか。ツァイド殿がいなければ我々は敵を探してまだキュレネの町をうろうろしているところなんだぞ」

 だがバルゼルの主張に賛同したのはラサースくらいのものだった。

「あの男が何人斬ったと言うんだ」

 それがツァイドに対する同族の評価である。それを聞いたバルゼルが怒って褒美の受け取りをボイコットし、それを取りなすためにアラッドがツァイドの功績をバルゼルに次ぐものと認める。それでようやくバルゼルも納得することとなった。
 一方当事者のはずのツァイドはこの経緯を他人事として眺めているだけである。

「バルゼルがどう言おうと、俺達の働きを認めているのはバルゼルとラサースの二人だけ。もう仕方がない、牙犬族とはそういう一族なのだ」

 ツァイドはベラ=ラフマと二人でささやかに祝杯を挙げていた。

「ならば、一族を離れるか? お前の腕ならどこに行っても重宝されるだろう」

 ツァイドはその提案にわずかに目を見開く。

「そういうお前はどうなんだ。お前の恩寵はどこの誰にとっても垂涎の的だろうが」

 ベラ=ラフマは酒をあおり「それもいいかもしれん」と呟く。だがベラ=ラフマが本当に一族を離れるとは、ツァイドには思えなかった。それが実現不可能な願望にすぎないことを二人は最初から判っているかのようだった。







 ツァイドがベラ=ラフマと再会したのはそれから数年後のことである。

「一族の様子が落ち着いたのでな。見聞を広めるために旅をする。護衛として雇いたい」

 ベラ=ラフマの申し出をツァイドは即座に引き受ける。ツァイドは限りなく出奔に近い形で里を出、旅路につくこととなった。

「結婚の話が進んでいたと聞くが……構わんのか?」

「気にするな。結婚してしまってはもうこんな旅はもうできなくなるだろうが」

 この後ツァイドの結婚話は破談となり、ツァイドは独身のまま四〇となってしまう。ベラ=ラフマもこの先独身のままである。

「そういうお前には結婚の話は来ていないのか。族長の一族なんだろう」

「弟も妹もいる。私のように恩寵の弱い者が血を残しても仕方ない」

 ツァイドは美男子というわけではないが愛嬌があって人当たりがよく、女にもよくもてた。訪れた町では必ず女を作ってその女の家に転がり込んでいる。一方のベラ=ラフマには女の影は全く見られない。ごくまれに一人で娼館に赴くくらいだった。
 ベラ=ラフマが髪を黒く染めるようになったのもこの旅の中、二人がケムトの港町ジェフウトに立ち寄ったときのことである。

「白兎族と判ったら警戒されてしまう。これなら白兎族と判りはしないだろう」

 と言うベラ=ラフマの向かう先は賭場である。その賭場を潰しかけるまで大儲けをしたベラ=ラフマはツァイドを引き連れて高級娼館へと向かった。その娼館を貸し切りにし、十数人もの女を侍らせて三日三晩にわたって酒池肉林の宴を謳歌する。タラント単位で儲けた金はその三日間で全て散財してしまい、手元に残っているのは数ドラクマだけだ。

「あー、腰が抜けるまでやりまくったぜ。当分女は見たくない」

 ツァイドは黄色くなった太陽を見上げる。その横に立つベラ=ラフマは常と変わらぬ涼しげな様子だ。

「うむ。なかなか得難い体験だった」

 その高級娼館はジェフウト随一と評判で、実際素晴らしい女が揃っていた。その十数人の美姫が王様もかくやと言うほどにかしづき、痴態の限りを尽くし、快楽の限りを極めてくるのだ。どれほど自らを律する心が強くとも、普通ならそんなものはどろどろに溶かされてしまうだろう。

「ベラ=ラフマさえいればいくらでも金が手に入る。もう一度――いや、何度だって、一生だってあの贅沢を味わえる。味わい続けることができる」

 ツァイドにもそういう思いは存在する。ベラ=ラフマを説得しようという衝動が確かにある。が、ベラ=ラフマには何らの変化も見られなかった。ベラ=ラフマにとってはこの贅沢や散財は一種の実験のようで、二回も三回もやる必要はないと判断しているようだった。
 ツァイドは「もう一度やろう」という言葉を辛うじて飲み込んだ。贅沢三昧を味わいたいという欲求よりもこの得難い友人に侮蔑されることの耐え難さの方がずっと大きかったのだ。ツァイドは代わりに問いを口にする。

「……何か判ったのか?」

「この恩寵の使い道だ。今回は、少なくとも金や贅沢のために使うべきではないと知ることができた」

 ベラ=ラフマの言葉にツァイドは首を傾げる。

「恩寵は一族のために使うものだろう? その恩寵を使って一族のために金を稼いだりはしないのか?」

「その場合、目的はあくまで一族に貢献することだ。金を稼ぐのは手段に過ぎず、恩寵を使わずに稼げるのならその方がいいのだ。お前も知っているだろう、白兎族がどう見られているかを」

 ツァイドは沈黙する。心を読む恩寵を持つ不気味な部族、忌まわしく呪われた部族――それが白兎族に対する一般的な見解である。

「一族のことを考えるならこんな恩寵は使わない方がいい。ない方がいいくらいなのだ。だが守神様は恩寵を授けてくださる。この恩寵が何のためにあるのか、私はそれが知りたい」

 この旅はそれを探す旅なのだろう、とツァイドはようやく得心する。ベラ=ラフマに影響されたツァイドもまた恩寵の使い方を考えるようになった。とは言っても、烈撃の恩寵には人を斬ることしかできない。問題は誰のために、何のために斬るのか、だ。
 ツァイドとベラ=ラフマの二人はナガル川を遡上し、ケムト王国の王都メン=ネフェルを訪れる。メン=ネフェルは元の世界ではメンフィスに相当する。四千年を超えるセルケト王朝が綿々と続く歴史と伝統の都、太陽神殿にとっての聖地である。

「ケムト王は太陽神殿の祭祀を担当していて政治の実権は全て手放している。ケムト王に仕えても剣を振るう機会はないだろう」

 次に二人が訪れたのはハカー=アンク、元の世界ではカイロに相当する町である。宰相府を始めとするケムトの行政組織は全てこの町に揃っている。ケムトの政治と経済の中心地となっているのがこの町だ。

「宰相プタハヘテプはなかなかの名宰相だと聞いている。宰相に仕えるのは?」

「この国は平和が続いている。私達が腕を振るう機会はないのではないか?」

 ベラ=ラフマの言葉にツァイドも「そうか」と頷く。二人はケムトを出、さらに東へと向かった。
 ……この頃のベラ=ラフマとツァイドは二十代前半。主観的には自分達の恩寵とそれを駆使する才覚に相応の自負を抱いている。が、客観的には何の実績もない、無名の若造に過ぎない。ケムト王やケムトの宰相が三顧の礼で迎えに来るような立場では決してないのだ。自分達から必死に売り込みに行って、運良く仕えることが許されたとしても相当の下っ端から始めなければならないだろう。
 もちろん二人もその程度のことは理解している。だが、それと同時に夢を見てしまうのだ。もし自分達に相応しい主君に仕えることができるなら、その主君のために恩寵を最大限に使うことが許されるのなら――と。

「俺とお前が組めば一国だって傾けられるさ。違うか?」

 ツァイドの壮語にベラ=ラフマは薄く笑う。だが否定はしなかった。
 ツァイド達はアシューのうち地中海東岸を一巡りし、その後エラト湾まで足を伸ばした。エラト湾一帯を領有するのはエジオン=ゲベル王国で、その王弟アミール・ダールは猛将としてその名を近隣に轟かせていた。

「アシューでは戦いが続いている。新しい王国が建てられたり古い王国が潰れたりは日常茶飯事だ。俺達が成り上がる機会もあるんじゃないのか」

「だが、弱小な王国や惰弱な王に仕えても意味がないだろう。アミール・ダールくらいならば私達が仕えればアシューを制覇することも」

 二人はエジオン=ゲベル王都のベレニケに長期間滞在し、アミール・ダールについて調べた。アミール・ダールに仕える意味があるかどうか、仕えるための糸口はあるか――これまで通過した町でもその国の王や実力者について同じことを調べていた。だがここまで本気で調査するのは初めてである。

「……駄目だ、この男には野心がない」

 ベラ=ラフマは残念そうに首を振った。

「アミール・ダールは将軍という立場に満足していて王位には興味を持っていない。早かれ遅かれ、この男は国王に粛清されるだろう」

 そうか、とツァイドも頷く。もっとも、もしアミール・ダールが野心に満ちた男であったとしても、もし仕官の糸口があったとしても、二人が本当に仕えていたかどうかはまた別問題だが。

「さて、次はどうする? 北の方に行ってみるか? それともいっそ、ミディアン半島からバラタの方に」

 その提案にベラ=ラフマは首を振った。

「……里を出てもう二年だ。そろそろ戻るべきだろう」

 それもそうだな、とツァイドは淡々と頷く。二人はネゲヴへの帰路に着くこととなった。
 ――ネゲヴには「青春」という年代区分も概念もないが、その三年足らずの旅こそが二人にとっての青春だったのだろう。隠れ里に戻ったベラ=ラフマはすっかり落ち着き、族長補佐としての役目を淡々と果たしている。
 一方のツァイドは結婚話が流れたこともあり、大人になり損なったような気分を味わっていた。一族の中にツァイドの席はなく、はみ出し者扱いだ。見識の広さや情報収集能力・交渉能力等は重宝がられているがそれだけであり、一種の便利屋として一族の末端に加わることが認められている格好だ。そんなツァイドと積極的に関わろうとする者はほとんどいなかった。

「さて、今日も旅のことを聞かせてもらうぞ」

 例外はラサースとバルゼルの二人くらいである。バルゼルは今日も酒瓶を片手にツァイドの元を訪れていた。

「しかしいいのか? 俺なんかと付き合っていたらお前まで白い目に」

「お主の価値も判らん連中に何を言われようと構いはせんだろう」

 ツァイドは酒を飲みながら旅の出来事をおもしろおかしく語って聞かせた。バルゼルは羨望をにじませてそれを聞いている。

「やはり俺も付いていけばよかった」

「勘弁してくれ。お前を連れ出していたら追っ手がかかっている。それを振り切ったとしてももう一族に顔向けできなくなるだろう」

 ツァイドの言うことはバルゼルも判っているが、それでもそう思わずにはいられないようだった。

「それだけの長旅なら、やはり強敵にも出会ったのだろうな」

「俺達はわざわざ強敵を斬りに行ったりはせんよ。そりゃもちろん死ぬかと思うような目には何度もあったが」

 ツァイドは「やはりお主はそれが目的か」と笑う。ふと、バルゼルは真剣な表情をツァイドに向けた。

「なあ、ツァイドよ。俺達の恩寵は、剣祖の技は、何のためにあると思う?」

 思いがけない問いにツァイドは言葉を失った。バルゼルは答えを期待していない様子で、自分で続ける。

「恩寵も剣祖の技も一族のため――そんなことは百も承知だ。だが、血反吐を吐くほどに鍛錬をし、岩をも断つほどの恩寵を授けられ……肝心の斬る相手は場末の海賊や山賊ばかりではないか。俺がこれまで積み重ねたものはこの程度の相手のためなのか?」

 ツァイドはバルゼルの横顔を穴が空くほどに見つめている。ツァイドはバルゼルのことを一族の剣士の典型例であり理想像だと思っていた。斬ることが全て、そのために鍛えることが全て、そのことに何ら疑問を抱かない――だがそう見えたバルゼルは疑問も憂悶も抱いていたのだ。

「……生まれるのが三百年ほど遅かったかもな」

 もし戦乱の無法時代に生まれていたなら――旅の中でベラ=ラフマとそんな与太話で盛り上がったことを思い出す。戦乱の最中なら自分達が活躍する機会も無数にあるだろう。海賊王と並ぶところまではいかずとも、歴史に名を残すくらいのことはできたかもしれない。
 他者が聞けば「平和ボケの痴人の妄想だ」と笑うだろう。もちろんそれはツァイドにも判っている。二十代を過ぎ、三十代になり、自分の分際というものを否が応でも理解するようになる。バルゼルという当代最強、歴代でも最強かもしれない剣士がごく身近にいるのだからそれも当然だが。

「俺にできるのは闇討ちくらいか。どんな時代に生まれようと歴史に名を残すなど夢のまた夢だな」

 バルゼルなら、戦乱の時代に生まれさえすればきっとその名を轟かせただろう。伝説の剣士としてその名を歴史書に刻み込んだかもしれない。ベラ=ラフマにしても、機会さえあれば陰謀家としての名を歴史に残す、それだけの力を持っているのだ。その二人に比べれば自分はただの凡人に過ぎない。

「ベラ=ラフマの部下として名前が残れば幸運な方か」

 ツァイドは一人そんな自嘲を漏らしていた。
 ツァイドとベラ=ラフマの付き合いは続いている。数年に一回、ベラ=ラフマが遠出をする際に護衛をするのはツァイドの役目だった。ツァイドが三十代半ばの頃、数年ぶりにベラ=ラフマの護衛となり共に旅をした。珍しく二人旅でなく、旅連れがいる。

「何だ、この子は?」

 ベラ=ラフマは一人の幼子を連れていた。年齢は四、五歳。身体に合わない大きな外套を引きずるように身にまとい、フードの下には人形のように可愛らしい容貌を隠している。ただ、子供らしい感情を表すこともほとんどなく、その意味でもまるで人形のようだった。

「この子をルサディルまで連れていくのが今回の目的だ」

 事情については道々教えてもらう。要するに、並外れた恩寵をあまりに自儘に使うために一族の中に居場所がなくなり、バール人商会に引き取ってもらうことになった、とのこと。

「子供が増長しているだけだろう? ぶん殴って矯正すればいいだけの話じゃないのか?」

 ツァイドの言葉にベラ=ラフマは嘆息し、首を振った。

「もうそんな段階を通り過ぎている。このままこの者を里に置いておいても誰もが不幸になるだけなのだ」

 その説明に必ずしも納得したわけではないが部外者としてそれ以上口を挟むことも自重する。ツァイドとベラ=ラフマとその連れのラズワルドの三人は船でルサディルへと向かった。
 道中、ツァイドはベラ=ラフマの嘆息を嫌と言うほど理解することになる。

「その人が財布をすろうとしている」

 人が充満した狭い船倉で、ラズワルドは隣り合った船客を突然指差し、そんなことを言い出した。

「こ、このガキ! 何を言い出しやがる! 何か証拠でもあるってのか!」

 内心大慌てのツァイドだがラズワルドはそんなことには構わない。

「そっちの人から盗んだ財布が懐に入っている」

 とラズワルドはさらに別の人間を指差す。慌てて懐を押さえるスリだが、ツァイドはその手をねじり上げた。その手から財布がこぼれ落ちる。結局そのスリは船員に突き出されることとなった。

「運がよかった。本当に財布をすっていたなら指が切り落とされていた」

 ラズワルドの言葉にまた周囲が「ぎょっ」と息を飲んだ。確かにツァイドにはそれができるし、実際にやったこともある。懐に忍ばせた短刀に恩寵を流し込んでいれば、不届き者が手を入れてきたなら自動的に指がこぼれ落ちるのだ。
 この騒動の後、ツァイド達の周囲には人間がいなくなっていた。船倉は狭く船客でいっぱいでありながら、ツァイド達三人の周りだけ人間がいないのだ。だが心理的にはツァイドは肩身が狭くて仕方ない。船が港に到着すると同時にツァイド達は逃げるように船を後にし、西に向かう別の船を探す羽目になっていた。

「確かにとんでもない恩寵だな」

 ツァイドもため息ができるばかりだ。場所は場末の宿屋の一室。ラズワルドは二つあるうちのベッドの一つを占領し、猫のように丸くなって眠っている。その寝顔だけ見ればまるで天使そのものだ。目が覚めたなら悪魔としか言いようがなくなるのだが。

「お前のところの守神様は何を考えてこの子にこれほどの恩寵を授けたんだろうな」

 ツァイドの言葉は愚痴の一種である。だがそれに対するベラ=ラフマの答えはツァイドの予想を絶していた。

「守神などいない」

「――何?」

 ベラ=ラフマの言葉が聞こえなかったわけではない。理解できなかったわけでもない。だがそれでもツァイドは問い返していた。問い返さずにはいられなかった。

「一族を守護する神などいない、と言っている。恩寵を授けてくれる神などいない、と言っている」

「何……を言っているのだ。守神様がいなければどうして恩寵などがあると言うんだ」

 ツァイドはベラ=ラフマが酒に悪酔いしたのかと思ってしまった。だがベラ=ラフマは素面であり正気である。あくまで真剣にそれを主張している。

「恩寵とは血に宿る力だ。それ以上でもそれ以下でもない。私がどれほどに一族に貢献しようとこの恩寵は強くならない。逆にどれだけ一族に徒なそうとこの恩寵はなくなりはしないだろう。違うか?」

 ツァイドは沈黙するしかない。牙犬族の歴史の中にも、恩寵を使って一族の名を貶めた者は少なからず存在する。だが彼等の恩寵はその生命の最後まで失われることはなかったのだ。

「それではお前は太陽神や他の神々も存在しないと言うのか」

「――お前もエレブの聖杖教のことは知っているだろう」

 逆に問い返されたツァイドは頷く。

「あの者達の神が実在していると思うのか?」

 ツァイドは無言のまま首を横に振った。以前聖杖教のことが話題になったとき、ツァイド達はこう言って笑ったものだった。――あんな馬鹿馬鹿しい神様を信じる連中の気が知れない、エレブ人はどうかしている――と。

「エレブ人の神が存在しないと断じるならネゲヴの神々が存在するとどうして考えられるのだ。そのどちらもがただの言い伝えに過ぎないと、それを虚飾で覆い隠したものに過ぎないと考える方がよほど理屈に合っているではないか」

 ツァイドは何も言い返せなかった。ベラ=ラフマの主張には確かに筋が通っている。合理的で論理的である。だが、

「お前、それを他の奴には」

「口にしたのは今回が初めてだ」

「ならば黙っていろ。俺も忘れる」

 ツァイドは固い口調でそう告げる。ベラ=ラフマもまた沈黙した。これ以降、この話題が二人の口に上ることは決してなかった。一ヶ月の船旅を経て、ラズワルドはルサディルのアニード商会に引き渡され、ツァイドの護衛任務は終了する。ツァイドがベラ=ラフマと再会するのは数年後のことである。







 三〇一五年アブの月(第五月)、場所はキルタ(元の世界のコンスタンティーヌ)を南に下がった山奥。ツァイドは白兎族の隠れ里の近くでベラ=ラフマと再会していた。

「面白いことになっているぞ」

 ツァイドは会って早々興奮気味にベラ=ラフマに告げる。「まずはこれを読んでくれ」とツァイドはある冊子を突きつけた。冊子に記されているのは「ネゲヴの夜明け」という題名だ。
 ベラ=ラフマはまず「ネゲヴの夜明け」に目を通した。次にツァイドの差し出す書簡を読み、頭痛を堪えるような顔になる。その書簡はラズワルドの記した紹介状だった。

「あの者も相変わらずのようだな……」

「いや、以前よりは大分マシになっていると思うぞ。タツヤ殿の影響は大きい」

「クロイ・タツヤか。どういう人間なのだ?」

 ツァイドは待ってましたとばかりに竜也に関するあらゆることをベラ=ラフマに伝えた。マゴルであること、小説や劇の脚本を書いていること、商会連盟でエレブ人の脅威を調査する仕事をしていること、その調査の一環でエレブまで潜入したこと、自分がそれに護衛として同行したこと、等。
 なお、エレブ潜入に同行していたラズワルドはツァイドの顔も名前も完全に忘れていたが、前に会ったときの年齢を考えればやむを得ないことだろう。

「エレブ人が脅威だなんだと言ったところでたかが知れていると思っていたのだが……まさかエレブがあんなことになっているとは想像もできなかった。戦争になるぞ。戦乱になるぞ。無法時代にもなかったような空前の大戦争だ」

 まるで歌うようにそう訴えるツァイドにベラ=ラフマは、

「……随分浮かれているようだな。戦争になるのがそんなに嬉しいか?」

 ツァイドは悪びれもせずに「ああ」と頷いた。

「お前も覚えているだろう、ケムトやアシューを旅したときのことを。仕えるべき主君を探していたあの旅を。俺はタツヤ殿こそがその主君ではないかと思っている」

「だが、その者は庶民に過ぎないのだろう?」

「今はそうだな。だが、エレブ人とは絶対に戦うことになる。タツヤ殿にはあの先見がある、エレブ人と戦うときには重要な地位を占めることになるだろう。逆に言えば、タツヤ殿がそれだけの地位を占められるよう俺達が力になるべきなのだ」

 ツァイドの傾倒ぶりにベラ=ラフマは内心の驚きを隠した。その一方クロイ・タツヤという人物に興味を抱かずにはいられない。

「情報を制する者は世界を制する」

 紹介状に記されていた一節である。情報を使い、エレブ人の大軍勢と戦う――その想像がベラ=ラフマの血を熱くする。柄にもない感覚にベラ=ラフマはわずかに苦笑した。

「よかろう。クロイ・タツヤに会いに行こう」

 ベラ=ラフマの決断にツァイドは「当然だ」とばかりに頷いた。
 こうしてベラ=ラフマはクロイ・タツヤと出会い、彼にとっての股肱の忠臣となるのである。そしてツァイドもまた竜也のためにその剣を振るうこととなる。







 ――その年のアダルの月(第十二月)、ツァイドは竜也の護衛としてルサディルに潜入していた。ルサディルを訪れたのは、ラズワルドを送りにやってきたときが最初でこれで二回目だ。
 が、今ツァイドは護衛対象の竜也とはぐれ、町中に潜伏しているところだった。バルゼルやサフィール達ともはぐれ、完全に一人である。竜也はルサディルの町の兵士に捕まり連行されていった。すぐにでも助け出したいところだが、今は自分が捕まらないようにするので精一杯だ。

「どうやらまだ処刑されないようだな」

 ツァイドはアニード邸を遠くから伺い、胸をなで下ろした。ちょうど竜也がアニード邸から別の場所へと連行されていくところである。もし竜也が即座に処刑されるなら死を覚悟して突撃するところだが、そこまで切迫しているわけでもないようだ。
 竜也が町役場に隣接する牢屋に放り込まれるのを確認したツァイドは、次に自分の身の安全を図るべく動いた。適当に引っかけた娼婦と昵懇になり、その女の家の転がり込む。

「さて、一応の拠点はできたことだし、あとはタツヤ殿を奪還するだけだが」

 奪還自体はそれほど難しい話ではない。牢屋に突撃して敵兵をぶった斬り、戸板を斬り開ければいいだけなのだから。だが問題はその後だ。

「俺一人なら潜伏することも逃げ回ることも容易い。だがタツヤ殿を連れては……タツヤ殿には三日だけ我慢してもらおう。船団が戻ってくるのが九日、タツヤ殿を解放するのはその日だ」

 その時点では決しておかしな判断をしたわけではない。だがツァイドは自分の判断を心底悔やむことになる。
 ツァイドは数時間置きに竜也の様子を確認する一方、バルゼル達の姿を探して回った。

「一体どこに潜伏しているんだ。ハンジャルの伝手の誰かのところか、それとも町の外にでも逃げたのか」

 ハンジャルはこの町出身の牙犬族剣士である。後で聞いた話ではバルゼル達の潜伏先はハンジャルの知り合いの元だったそうだ。ラズワルドがバルゼル達とはぐれているとはツァイドは予想だにしていない。
 何の成果も得られないまま三日間が過ぎ、そしてアダルの月の九日。
 その日もツァイドはバルゼル達の姿を探して町を歩き回っていた。特に当てや手がかりもない捜索なのでただ町をぶらぶら歩いているだけである。カムフラージュに娼婦の女を同行させているので、端から見れば単なる散歩にしか見えなかっただろう。

「……何だ? 何かあったのか?」

「行ってみましょうか」

 町外れの方角から何かの騒ぎの声が聞こえてくる。ツァイドはその方向へと足を伸ばした。少し歩くとその方向から誰かが必死に走ってくるのが見える。大勢の人間がその方向から逃げてきている。ツァイドは逃げてきた男を強引に捕まえ、訊ねた。

「どうした? 何があった?」

「エレブ兵だ! エレブ兵が攻めてきた!」

 どういうことだ?とツァイドは首をかしげた。

「聖槌軍の到着は明日だろう? 到着するのは将軍タンクレードの兵じゃないのか? それがどうして攻撃を」

「そんなこと知るか! エレブ兵が手当たり次第町の人間を殺しているのは間違いないんだ!」

 男はツァイドの腕を振り払って逃げていく。ツァイドは少し考えていたが、エレブ兵がいると見られる方向へと向かって走り出した。娼婦の女が何故かツァイドについてくる。ツァイドは「逃げていろ」と命じたが女はそれを無視した。五スタディアも走った頃、ツァイドはそこにエレブ兵の姿を見出した。
 エレブ兵が男を殺している。エレブ兵が女を強姦している。エレブ兵が商店を襲って金品を略奪している。エレブ兵は洪水のような勢いで増えており、町の四方へと入っていく。エレブ兵のいる場所からは悲鳴が、罵声が、断末魔が響いている。それが急速に広がっている。

「一体何が……」

 想像を絶する事態にツァイドは呆然とするしかない。そのツァイドにもエレブ兵が接近していた。何人ものエレブ兵が剣を振りかざしてツァイドに襲いかかる。呆然としながらもツァイドは条件反射だけで彼等の首を斬り裂いていた。喉を、頸動脈を断ち切られ、血を吹き出しながらエレブ兵が崩れ落ちる。

「いやぁーっ!」

 娼婦の女がエレブ兵に襲われる。女は太腿を剣で斬られた上で地面に押し倒され、エレブ兵にのしかかられていた。ツァイドはそのエレブ兵の心臓を背後から一突きし、足で蹴ってエレブ兵の身体を女の上からどかした。女は苦痛と恐怖に涙をあふれさせている。

「たすけて……たすけて」

 必死に腕を伸ばす女にツァイドは優しく笑いかけた。

「判っている」

 女が安堵したように頬を緩めたその瞬間――女の首は胴体から離れていた。首を断ち切られても女はまだ笑っている。女にはツァイドの剣が一閃したことを察知できなかっただろう。自分が死んだこともまだ理解していないかのようだった。

「すまんな。俺にできるのは楽に死なせてやることくらいだったんだ」

 ツァイドが全力を費やせば、負傷した女を抱えて逃げることもあるいは不可能ではないかもしれなかった。だがツァイドには成すべきことがある。重荷を抱えているわけにはいかないのだ。ツァイドは自分の成すべきことを成すため、振り返りもせず走り出した。
 ルサディルの町はすでにエレブ兵であふれかえっていた。その地区では住民の大半がすでに逃げているようで、エレブ兵の姿しか見あたらない。たまに逃げ遅れた人間が襲われているのが見られるくらいである。ツァイドはエレブ兵に見つからないことを最優先として町を進んだ。物陰に隠れ、植え込みに逃げ込み、屋根に上り、慎重に歩を進める。それでもエレブ兵に見つかることがあり、そんなときは、

「運が悪かったな」

 とため息をついた。その間にエレブ兵は首の頸動脈を切られて死んでいる。そうやって、何人かのエレブ兵を始末しつつ一〇スタディア弱を進み、ツァイドはようやく町役場にやってきた。ツァイドは脇目もふらずに牢屋へと向かう。

「タツヤ殿!」

 だが竜也の入っていた牢獄はすでに空っぽになっていた。ツァイドは焦り、逆上するが、必死になって「冷静になれ、冷静に」と自分に言い聞かせた。

「タツヤ殿の姿がない、もうここからは逃げ出しているということだ。鍵を使って開けられているということは、バルゼル達が助け出したわけではない、ということか」

 ツァイドは牢屋を出、東へと向かった。牢屋を逃げ出した竜也がどこへ向かうか、町を出て髑髏船団の船と合流しようとするに決まっている。運が良ければ逃げる途中の竜也を見つけることもあるだろう。
 ツァイドは今度は速度優先で町を突き進んだ。ツァイドの前にエレブ兵が立ちはだかるが、ツァイドは無造作に剣を振り回して彼等を切り裂いていく。

「こうやって俺が目立っていればその分タツヤ殿が目立たなくなる。タツヤ殿が助かる可能性が高くなる。それにタツヤ殿が俺を見つけてくれるかもしれない」

 ツァイドの得意技はあくまで隠密行動だ。剣士としては二流でしかないツァイドにとってそれは死をも覚悟しての陽動だった。だが、それでもツァイドは笑っていた。

「邪魔だ!」

 不用意に前に出てきたエレブ兵の横を駆け抜け、置き土産にその脇腹を切り裂く。エレブ兵は粗末な革の鎧を身にしていたが、烈撃の恩寵の前ではそんなものは絹の服と変わらない。そのエレブ兵の腹からは腸がはみ出て、エレブ兵は子供のように泣きわめいた。
 その気になればツァイドはエレブ兵を大根のように横に真っ二つにできるが、体力と同じで恩寵には限りがある。ツァイドは恩寵の消耗を極力抑えるため最小限の斬撃で効率よく敵の無力化を図った。ツァイドが狙うのは敵兵の手首、喉、目である。手首や喉を斬られたエレブ兵が血を撒き散らし、目を斬られたエレブ兵が悲鳴を上げて転げ回り、その周囲のエレブ兵が動揺する。一人のエレブ兵を斬るたびに五人のエレブ兵が追跡の足を止め、五人のエレブ兵がツァイドの前から退いた。
 だがどれだけエレブ兵を斬り、怯ませても、後から後から新たなエレブ兵が湧いてくる。エレブ兵の数には際限がないように思われた。

「くそ、さすがに疲れたな」

 恩寵と体力を消耗したツァイドは民家の屋根へと上って敵をやり過ごした。屋根から屋根へと伝って二、三スタディア進んだところで、

「――」

 ツァイドは部屋に伏せて身を隠し、様子をうかがった。ツァイドの視線の先にはバルゼルがいる。サフィールがいる。ハンジャル、ピギヨン、サキン、ハッドが、ルサディルに潜入した牙犬族の剣士がそろっていた。だが竜也とラズワルドの姿が見当たらない。

「二人を町の外に逃がして剣士だけが残っているのか」

 最初はそう考えたツァイドだが、すぐにそれが間違いだと気がついた。もし竜也達が合流しているなら最低でもサフィールはその護衛についているはずだ。
 だがサフィールは六人の先頭に立って剣を振るっている。六人のうち誰よりも怒りに満ち、冷静さを失っているように見えた。

「シッ!」

 サフィールの剣閃はツァイドの目ですら追うのが困難だ。エレブ兵の目には到底見えはしなかっただろう。見えない剣撃が烈風のようにエレブ兵を、その目を、その喉を、その手首を切り裂いていく。両目を裂かれたエレブ兵は悲鳴を上げて地面を転げ回っている。喉を裂かれたエレブ兵はあえぐようにくり返し口を開き、ゆっくりと倒れた。手首を裂かれたエレブ兵は剣を取り落とし、左手で右手首を押さえている。だがあふれる血は止まろうとしなかった。
 サフィールは威圧するようにゆっくりと前に進み、エレブ兵はそれに押されて後ろに下がった。意を決した五人のエレブ兵がサフィールを包囲し、同時に斬りかかる。中心にいたサフィールが切り刻まれ――いや、そこにいたのはサフィールではない。サフィールを包囲していたはずのエレブ兵の一人である。同士討ちに動揺するエレブ兵がようやくサフィールの姿を見出す。だが次の瞬間にはサフィールの身体が陽炎のように揺らめき、気がつけば身体のどこかを斬られているのだ。
 サフィールから少し離れた場所ではバルゼルが同じようにゆっくりと歩いている。エレブ兵の目には無防備なまま歩いているようにしか見えなかっただろう。数人がかりなら殺せるように見えただろう。だが、そう思って行動したエレブ兵は一人残らず大地に伏していた。バルゼルの無造作にふるっているようにしか思えない剣が、エレブ兵の目を、喉を、手首を、腹を切り裂いていく。
 サフィールはその恩寵を、そのほぼ全てを「速さ」に費やしていた。烈撃に使っている恩寵は申し訳程度、必要最小限だ。誰よりも恵まれた恩寵のほとんどを身体強化に使用し、剣閃の速度を、動きの速さを常人の数倍まで引き上げている。このためエレブ兵の目にはバルゼルよりもサフィールの方が化け物じみて見えただろう。
 だがツァイドの目から見ればバルゼルの方がよほどの化け物だった。バルゼルに立ち向かった勇敢な、だが愚かなエレブ兵は「順番に一人ずつ」「自分から急所をさらして」「進んで斬られに向かっている」――ツァイドの目から見てもそんな風にしか見えないのだ。

「剣祖から三〇〇年、これほどの剣の使い手がいただろうか」

 バルゼルのことを誰よりも高く評価しているつもりだったツァイドだが、その認識は改めなければならなかった。ツァイドはバルゼルの真の実力など判ってはいなかったのだから。
 できればこのまま剣舞のような二人の戦いぶりを見ていたかったのだが、そういうわけにもいかなかった。エレブ兵の弓兵部隊と火縄銃部隊がバルゼル達の方へと急行している。それがツァイドのいる場所から見えていた。

「おっと、いかんな」

 ツァイドは屋根を伝って移動した。
 一方駆けつけた弓兵部隊と火縄銃部隊は弓と銃口をそろえ、バルゼル達に狙いを定めている。指揮官の騎士が手を振り上げ、一斉攻撃の命令を下さんとするまさにその瞬間、

「よう、邪魔をするぞ」

 不意に彼等の眼前にツァイドが現れた。騎士の手が固まった次の瞬間にはツァイドは敵兵の真っ直中へと飛び込んでいた。両手に長剣を持ったツァイドが舞うように剣を振り回す。嵐のような剣閃がエレブ兵を襲い、血の雨が降った。

「撃て! 撃て!」

 騎士が必死に命じ、兵がそれに応じるがそのときにはすでにツァイドはその場にはいない。また別の場所で血煙が上がり、血飛沫が舞っているのだ。パニックに陥ったエレブ兵がでたらめに火縄銃を撃ち、矢を放つ。そのほとんどが同じエレブ兵を穿ち、あるいはその生命を奪っていた。ツァイドが斬った兵よりも同士討ちで負傷した兵の方がずっと多いくらいである。だがツァイドもまた無傷とはいかなかった。太腿には矢が刺さり、腕には銃弾がめり込んでいる。

「ツァイド殿!」

 だがその頃にはサフィールやバルゼルが接近していて、残っていた敵を掃討するのだ。運良く生き残ったエレブ兵は銃や弓を放り捨てて逃げていった。

「タツヤ殿は一緒じゃないのですか?」

 サフィールの問いにツァイドは首を横に振った。

「囚われていた牢屋に行ったのだが、そこからはすでに逃げ出していた」

 サフィールは絶望に膝を屈しそうになる。が、何とか踏みとどまった。

「待て、どこへ行く」

 ツァイドの横を通り抜けて町中へと、敵の方へと向かおうとするサフィールと、そのサフィールの腕をつかむツァイド。サフィールは煩わしげにツァイドの腕を振り払った。

「タツヤ殿を……タツヤ殿を見つけなければ」

「落ち着け。多分タツヤ殿はどこかに隠れている。夜になるのを待っている。闇雲に探し回ったところで見つかりはしない」

 サフィールは牙をむいてツァイドをにらみつけた。

「そんなこと、どうして判るのです」

「俺がタツヤ殿ならそうするからだ。これ以上戦うのは難しいだろう、一旦町の外に逃げるべきだ」

 ツァイドは剣士達を見回した。ハンジャル達四人は手傷を負っている。サフィールとバルゼルは無傷だが疲労の様子が色濃かった。ハンジャル達はツァイドと同意見のようで、バルゼルの考えは読めない。サフィールは、

「どうぞご随意に。わたしは一人でもタツヤ殿を探します」

 背を向けるサフィールの腕をツァイドは再度掴む。それを振り払おうとするサフィールだが、今度は振り払われはしなかった。

「落ち着け! タツヤ殿を信じろ!」

「何を信じろというのですか! あの方はわたし達がいなければ……!」

「タツヤ殿がここで死ぬならそれまでの人だったということだ」

 サフィールはエレブ兵が即座に逃げ出すほどの殺気をあふれさせ、今にも剣を抜きそうになった。そのサフィールにツァイドが「だが」と続ける。

「もしタツヤ殿が、我等一族が忠義を尽くすに値する方なら――こんなところで死にはせん。俺はそう信じている」

 ツァイドの力強い言葉にサフィールは毒気を抜かれたような顔をした。ツァイドがバルゼルに視線を向け、バルゼルが頷く。

「――一旦町の外に逃げる」

 バルゼルがそう決断を下し、一同が頷く。サフィールは少し遅れてだが、無言のまま頷いた。
 ……バルゼル達にとっては敵に正面から立ち向かうよりも逃げる方がより困難な戦いとなった。恩寵はほとんど使い果たし、体力もろくに残っていない。あるときは逃げ遅れた者を見捨て、あるときは味方を逃すために一人が犠牲になった。かろうじて生き残った一人も、

「エレブ兵を一人でも多く地獄に送ってやる」

 とソウラ川を渡ることを是とせず、その場にとどまった。ソウラ川を渡って落ち延びたのはツァイド・バルゼル・サフィールの三人だけである。ツァイド達が生き延びた竜也とラズワルドと再会するのは翌一〇日のことだった。
 ――この日、ルサディル攻撃に参加したエレブ兵の総数は二万と三万とも言われているが、そのうち七人の牙犬族剣士が斬った数はどんなに多くても五百人ほど。しかも七人のうち四人が犠牲になっている。このためバルゼルやツァイドはこの戦闘を、

「敵に一矢報いた」

 くらいにしか考えていなかった。実際、聖槌軍全体から見ればこの戦闘による物理的被害は無視していい範囲のものである。だがその心理的被害と影響はツァイド達の想像を超えて広がった。







 ……時刻は夕刻、ツァイドはスキラの町並みを丘の上から、丘の上にある家の窓から眺めていた。丘の上からはスキラの町が一望できた。夕日の赤に染まった町は美しかった。だが見ようによっては血の海に沈んでいるかのようであり、あるいは炎の海に包まれているかのようでもある。
 今はまだ平和と平穏が続くスキラの町だが、ここがルサディルのように惨劇の舞台となる日はそう遠くはなかった。長くても三ヶ月もあれば聖槌軍がこの町に到着するのだ。

「戦争だ、戦乱だ、百万の敵と戦う空前の大戦争だ」

 ツァイドは血が沸き立つのを、胸の高鳴りを静かに抑えていた。敵の先鋒と遭遇し、手傷を負わされてもツァイドの戦意は失われはしなかった。が、それと同時にルサディルの惨劇を目の当たりにしてもツァイドにとってそれは他人事に過ぎなかった。ツァイドにとってこの戦争は自分の才覚を世に示す舞台に過ぎないのだから。

「ベラ=ラフマよ、我が友よ。俺を使え、俺に命じるがいい。エレブ人だろうとネゲヴ人だろうと、お前の命じるままに俺が斬る。お前の陰謀に俺が形を与えてやる。お前が画家なら俺は絵筆だ。俺はそれでいい」

 画家の名前が歴史に残っても絵筆の名前が残ることはないだろう。それはツァイドも理解している。その上でツァイドは絵筆であることを是としたのだ。

「お前はどんな絵を歴史に残すのだ? その絵を最初に俺に見せてくれ、我が友よ」

 ベラ=ラフマはこの戦乱をキャンバスとし、陰謀という素晴らしい絵を描いてくれることだろう。自分という絵筆を縦横に使ってくれることだろう。ツァイドはそれを確信していた。










《お知らせ》



 投稿が追いついてストックが乏しくなってきたため、しばらくの間更新を休止します。

 週一ペースでは間隔が空き過ぎだったとか、改訂版というのがそもそも評価されないものだったとか、幕間を連投しすぎたとか、色々と判断ミスもありまして、読者からの評価が乏しくなる一方です。モチベーションを維持するのも難しくなっています。

 ですが、一旦始めた以上は最後まで改訂したいと思います。そこで、最後まで改訂が終わってから一気に投稿することにしました。年内の更新再開を目標に努力しますので、それまでお待ちください。




[19836] 第一九話「ソロモンの盟約」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/07/19 21:03



「黄金の帝国」・会盟篇
第一九話「ソロモンの盟約」





 聖槌軍によるルサディルの殺戮から一夜が過ぎ、アダルの月(第一二月)の一〇日。東の空が赤くなり、太陽が間もなく昇ろうとする頃。
 場所はルサディル郊外、街道からやや外れた海岸である。漁村もなく民家もなく港もないその場所は普段なら人影は全く見られない。が、今その場所には人が溢れていた。
 獣道を歩く何百という人間、その全員がサディルからの避難民である。ほとんどの者が着の身着のまま、手荷物を持っている者は少ない。怪我を負っている者、力尽きて行き倒れる者も少なくなかった。小さな峠を乗り越えると彼等の眼前に海と海岸が広がる。虚ろな表情でその光景を眺める彼等の目にある船影が写った。

「船?」「船だ!」

 髑髏の旗を掲げた三隻の船が海岸に接岸しているのが見える。ガイル=ラベクの髑髏船団、マラカ偵察に向かい戻ってきた船団である。避難民は最後の力を振り絞って足を速める。避難民が吸い寄せられるように船団に向かっていた。
 停泊した船の前では、岩場に降り立ったガイル・ラベクが誰かを待つように仁王立ちになっている。その彼に亡者の群れのような避難民に群がっていた。

「どうしてもっと早く来てくれないんだ!」

「乗せていってくれ!」

「お願いです、この子だけでも」

 見当違いの八つ当たりをする者もいるが、大半は何とか船に乗るべく懇願をし、あるいは同情を誘おうとしている。避難民の振る舞いにガイル=ラベクは閉口しているようだった。
 ガイル=ラベクの背後にはバルゼルが佇んでいる。元は白かったバルゼルの服は今は全身が返り血で汚れ、赤と黒の斑模様となっていた。汚れていない場所を探すのが難しいくらいだ。

「夜明けだな」

「まだ昇り切っていない」

 ガイル=ラベクの呟きにバルゼルが答える。が、そんな問答の間にも日は見る間に昇っている。太陽が地平線から離れたのはそれから間もなくのことだった。

「出港準備だ」

 ガイル=ラベクが部下へと静かに指示を出す。

「そんなに慌てなくてもいいだろう」

 バルゼルは腰の刀に手をかけつつそう言う。周囲にいる髑髏船団の船員に緊張が走った。ガイル=ラベクはため息をつく。

「俺だってあいつを待ちたい気持ちは同じだが」

「ならば、待つべきだ」

 バルゼルはルサディルの方角を見据えた。山中の獣道に程近い場所に大きな岩があり、その上には獣道を見張るサフィールの姿があった。

「タツヤ殿抜きでどうやって聖槌軍と戦うつもりだ」

「だが……生きていると思うのか? あの殺戮の直中に放り出されたあいつが」

 バルゼルはその問いに答えなかった。こみ上げてくる焦燥と後悔と慚愧を押し潰すように必死に蓋をし、ただひたすらにルサディルの方角を見据えている。
 一方、サフィールは船からやや離れて内陸に少し入った場所に陣取っている。サフィールは大きな岩の上に立ち、そこから獣道を見張っていた。
 太陽は徐々に高くなり、強い日差しがサフィールの肌と黒い髪を焼いている。だがサフィールは流れる汗をぬぐいもせず、彫像のように微動だにせず、瞬きする時間すら惜しんで獣道を見つめ続けていた。
 未明から立ち続けて数時間、時刻はすでに朝と強弁するのも苦しい頃になっている。きつく結ばれたサフィールの口元が、不意にほどけた。元々大きい瞳をますます大きく見開き、前のめりになって獣道へと視線を注ぐ。姿勢が崩れて岩場から落ちそうになる寸前、

「――ラズワルド殿! それに、タツヤ殿!」

 そのまま岩から飛び降りたサフィールは転がるようにして二人の元へと走っていく。何呼吸か遅れてバルゼルがその後に続いた。
 一方竜也は力尽きたラズワルドを背負って歩き続けている。髑髏船団の船影はとっくの昔に視界に入っていた。本来ならすでにこの場所を離れている時間だ。待ってくれていたことを安堵する一方、今にも離岸するのではないかと焦りを抱かずにはいられなかった。

「あと二スタディア(約三六〇メートル)くらいだから、あと千歩も歩けば到着する。あと九九九、あと九九八……」

 だが竜也にできるのは念仏を唱えるように一歩一歩を数えて大地を踏みしめることだけだ。あと九〇三歩になったところで、

「――タツヤ殿!」

 名前を呼ばれた竜也が顔を上げると、竜也達に向かって走ってくるサフィールの姿が目に入った。

「サフィール!」

 竜也もまたサフィールへと足を速めた。だがその速度は早歩きよりもまだ遅い。竜也が一〇メートルも進まないうちにサフィールが眼前へとやってきていた。

「ご無事でしたか!」

 サフィールは感激のあまりそのまま竜也の胸へと飛び込もうとし――その寸前で足を止めた。

「……タツヤ殿、一体何が」

 サフィールは顔をしかめて鼻をつまんでいる。竜也は「まだ臭いかな」と自分の身体の臭いを嗅いだ。服と身体を海水で散々洗った竜也とラズワルドだが、身体に染み込んだかのような悪臭は簡単には落ちてくれないようだった。

「そう言うサフィールもひどい格好だけど、怪我は」

「ご心配なく、これは全て返り血です」

 エレブ兵の返り血で染まったサフィールの服は元の色を思い出すことも困難な有様だ。そこにバルゼルもやってくる。バルゼルの全身はサフィール以上に返り血で真っ黒に汚れていた。竜也は思わず訊いてしまう。

「一体何人斬ったらそんなことに」

「いちいち数えていられなかった。二百かそこらは斬っただろう」

 とバルゼル。「わたしが斬ったのは多分百くらいです」とサフィール。竜也は引きつったような笑みを返してその場をごまかした。
 眠ったままのラズワルドをサフィールに委ね、竜也はバルゼルに肩を貸してもらい、船への帰路を急いだ。

「他の皆さんは無事ですか?」

「ハンジャル、ピギヨン、サキン、ハッドは死んだ。ツァイドは手傷を負ったが無事だ」

 竜也の足から力が抜け、崩れるようにその場でひざまずいた。死んだ四人のうち二人はスキラから連れてきた牙犬族、もう二人はルサディル出身の恩寵の戦士である。

「ハンジャル殿とピギヨン殿も何十というエレブ兵を斬ったのですが、恩寵を使い果たしたところを敵に囲まれ、討たれました。サキン殿は恩寵を使い果たしたわたし達を逃がすためにおとりとなって敵に突っ込んで、そのままです。ハッド殿は逃げることを是とせずにルサディルに残りましたが……」

 サフィールが説明するが、その表情は仲間の死を悼む思いと竜也への気遣いが半々となっていた。実際、竜也は自責の念に駆られている。自分がアニードに捕まらなければ彼等だってもっと早くに逃げ出せていた、彼等が死ぬこともなかった――竜也はそう考えている。

(俺のせいだ)

 その思いが言葉となって口からこぼれそうになるのを竜也は寸前で堰き止めた。顔を上げた竜也は自力で立ち上がり、バルゼルの肩を借りずに前へと歩いていく。バルゼルとサフィールがその後に続いた。
 船の前へとやってきたバルゼルとサフィールは避難民をかき分け押しのけて前へと進んでいく。ラズワルドを背負った竜也がそれに続いた。人混みの海を泳ぐようにして、ようやく竜也はガイル=ラベクの前へとたどり着いた。

「よく無事だったな」

 ガイル=ラベクは大きな安堵のため息をついた。一方のバルゼルも似たような表情だ。ガイル=ラベクは斬られずに済んだことを、バルゼルは斬らずに済んだことを心底安堵していた。

「はい、何とか」

「早く船に乗れ。すぐに出港するぞ」

 群がる避難民の排除はバルゼルとサフィールに任せ、ガイル=ラベクと竜也は船へと乗り込んだ。

「出港してどこに向かうんですか?」

「ん? ともかくお前を一日でも早くスキラに帰す。俺達はこっちに残って聖槌軍と戦う。当初の予定通りだ」

 竜也が通路に足を止め、ガイル=ラベクもまた立ち止まった。

「それなら、スキラに戻る船に一〇人か二〇人は乗せることができますよね」

「ああ。サドマとダーラクの部隊の者が降りるからな。避難民を乗せるつもりか?」

 ガイル=ラベクが非難がましく問い、竜也が「ええ」と頷いた。

「ルサディルで何があったかの生き証人になってもらいたいんです。あちこちの大きな町に一人ずつ残して、スキラに何人か連れていって、聖槌軍がルサディルで何をしたかしゃべってもらおうと思います」

 ガイル=ラベクは少し考えて「まあ、いいだろう」と頷いた。

「連れていっていいのは二〇人だ。半時間以内にあの中から選べ」

「判りました、すぐに」

 竜也はラズワルドを背負ったまま元来た道を引き返す。サフィールとバルゼルがその後に続いた。
 より悲惨な体験をした者、より多くの殺戮を目撃した者、より教養のある者、より体力を残している者。ラズワルドの恩寵を使ってそんな人間を二〇人選び、竜也は船に乗り込む。髑髏船団がその場所から離れて沖へと遠ざかっていくのを、残された千を越える避難民が嘆き、恨みながら見送っていた。







 竜也を乗せた高速船は最速で地中海を駆け抜ける。途中、補給のためにいくつかの町に立ち寄ったときはルサディルの避難民をその町の長老会議に託して残していった。彼等はルサディルで何があったかを問われるままに語り続けるだろう。最初は疑われるかもしれないが、彼等は第一報に過ぎないのだ。今後、西からの避難民が続々と東の町へと移動していく。生き証人も次々とやってきて、ルサディルの惨劇のニュースは西ネゲヴを席巻することになるだろう。

「聖槌軍に全面協力し、住民の多くが聖杖教に改宗したルサディルですらあんなことになったんだ。聖槌軍に降伏しようなんてもう誰も言い出さないだろう」

 残された方策は、抗戦するか逃げるかの二つ。百万の軍勢と戦って勝てるはずがない以上、逃げるしかない――選択の余地も何もない。ネゲヴが採るべき戦法は焦土作戦しか残っていない。

「俺が独裁官になる。独裁官として焦土作戦を推し進めて、西ネゲヴを地獄の荒野と化す。百万を飢え死にさせて、この戦争を一年で終わらせる」

 竜也の進む道は茨の道となるだろう。百万の敵だけではなく何十万という味方を、西ネゲヴの無辜の民を死に追いやることになるだろう。だがそれでも、竜也は前に進むと決めたのだ。

「俺には『黒き竜の血』が流れている。聖槌軍と対等に戦えるのは『黒き竜』の俺だけ、ネゲヴを救えるのは俺だけなんだ」

 ――その脳内設定だけを心の支えとして。
 竜也達がスキラに到着したのはアダルの月・二四日。通常急いで二〇日程度の航路を最速で走り続け、半月足らずで帰着してしまった。夜に入港しようとして場所を見間違え、ナハル川の南岸に接岸。さらに焦っていたため船が座礁し、船の底には大穴が空いてしまった。その船はもう二度と使い物にはならないだろう。
 渡し船を使ってスキラの町に入ったきたのは二四日の未明。竜也やラズワルド、サフィール達が「マラルの珈琲店」に到着したのはようやく夜が明けた頃だった。群青色に染まる空の彼方で太陽が昇り、地平線と雲が茜色に輝いている。早朝の涼しい空気が肌に心地良く、町にはまだ人影がほとんど見あたらない。
 そんな時間帯にもかかわらず、珈琲店の前には大勢の人間が集まっていた。牙犬族を始めとする恩寵の戦士達が、奴隷軍団の兵士達が、ベラ=ラフマが、ハーキムが、竜也が帰ってくるのを待っていたのだ。そして誰より、

「お帰りなさい、タツヤ様」

「無事でよかったです、タツヤさん」

「ずっとあなたを待っていたのですよ、タツヤ」

 ファイルーズが、カフラが、ミカが店の前で竜也を出迎える。

「――ああ、ただいま」

 竜也は久々に自分が笑ったような気がした。







「――ルサディルで何があったかは今話した通りだ」

 場所は「マラルの珈琲店」内のいつもの個室。集まっているのは竜也・ラズワルド・サフィール、そしてスキラ居残り組の主要メンバー、ファイルーズ・カフラ・ミカ・ベラ=ラフマである。竜也はスキラ居残り組とまず情報交換から始めていた。

「……聖槌軍はそこまでするのですか」

「そんな軍勢が百万も……」

「しかし、にわかには信じられません」

 竜也の報告を受けたファイルーズ達は慄然とした顔を見合わせている。

「俺の証言だけじゃ足りなくとも証人なら何人も連れてきている。彼等にはスキラ会議でも証言してもらうつもりだ」

「いえ、タツヤのことを疑っているわけではありません」

 ミカはちょっと慌てつつ、

「……ですが、どうしても信じられないのです。そんな虐殺にどんな意味があるのですか? それを成すことで聖槌軍に、エレブに何の得があるのですか?」

「ルサディルで殺戮を繰り広げたのは枢機卿アンリ・ボケの部下でトルケマダという男の兵だと聞いています。あの男なら異教徒を異教徒であるという理由だけで殺戮しても何の不思議もありません。何も起きなかったとしたならそちらの方が異常なくらいです」

 そう解説するのはベラ=ラフマだ。

「それに、自国の中ですら神の名の下に略奪や人攫いを散々やってきた連中なんだ。元々乏しかった自制心が、他国に来て完全に外れてしまったと考えればそんなに不思議はないんじゃないか?」

 と竜也が補足し、ミカも一応の納得の様子を見せた。

「それで、こっちの動きはどうなんだ?」

 竜也の問いに一同の視線がベラ=ラフマに集まる。一同を代表してベラ=ラフマが説明を始めた。

「偵察船団がスキラを出港した直後、ギーラが自分を臨時独裁官とするよう提案。それが採決されています」

「臨時独裁官?」

「はい。あくまで偵察船団が戻ってくるまでの期間限定の、仮の独裁官です」

 カフラが顔を曇らせて、

「タツヤさんが、他の候補がいないのに強硬に反対しても仕方ないと、賛成に回る人が多かったんです。ファイルーズ様も期間限定の遵守を条件に賛成するしかありませんでした」

「臨時独裁官ギーラはまずネゲヴ軍を再編します。将軍アミール・ダールはナハル川方面を担当、将軍マグドはトズル方面を担当とし、将軍マグドをトズルへと移動させました」

「トズルというと……ここか」

 竜也はテーブルの上に広げたスキラ近辺の地図を確認した。トズルは、元の世界で言うならジェリド湖とガルサ湖に挟まれた場所に位置している。この世界ではジェリド湖とガルサ湖は一つにつながりスキラ湖という名前で呼ばれており、トズルはその北側の地名である。トズルとその対岸は橋のように、岬のように大地が突出しており、一番狭いところでは一スタディアも離れていなかった。

「ナハル川を迂回して東進するならトズルを通るしかありません。その防衛は不可欠ですし、ガフサ鉱山にも近いその場所に将軍マグドを配置することも不自然ではありません」

 ふむ、と頷いて竜也は続きを促す。

「現在、将軍アミール・ダールはナハル川南岸の要塞化を進め、防衛線を構築しようとしています。将軍マグドはトズルで砦を築城しています。一方臨時独裁官ギーラはナハル川南岸の整備をしようとしています」

「まあ、必要だろうな」

 と頷く竜也。ミカ達もまたそれに同意する。

「二〇万とも三〇万とも言われるスキラの市民、それにスファチェ、ハドゥルメトゥム、カルト=ハダシュトといった大都市の住民、それより西からの避難民。全部合わせれば百万を優に超えるでしょう。それだけの数が遅くとも三、四ヶ月のうちに大挙してナハル川南岸に押し寄せてくるのです。避難民を受け入れるためにナハル川南岸を整備することは必要不可欠です。ですが……」

「こちらをご覧ください」

 とベラ=ラフマが大きな紙を広げる。そこに描かれているのはスキラ近隣の地図だった。ただし現実のものではない。ナハル川南岸には現時点では影も形もない巨大な都市が記されている。碁盤の目のように大通りが整備され、運河があり、ローマ式の水道橋があり、政庁があり、太陽神殿があり、四階建て五階建ての石造りの建物が整然と並んでいる。壮大かつ絢爛な都市建設の計画書と完成予想図であった。

「これは?」

「ギーラが公表したナハル川南岸の整備計画です。ギーラはこの都市を『ギーラ=マグナ(大ギーラ)』と名付けています」

 竜也がその事実を咀嚼し、理解するに数十秒ほどの時間が必要だった。

「……まあ、何十万という避難民がやってきてナハル川の要塞化工事に従事したならこの辺りは放っておいても都市になるだろう。今のうちに戦後を見越してちゃんとした都市計画を立案しておくのは決して無意味なことじゃない」

「タツヤ様の言うことにも一理ありますわ。ですが、どう考えてもギーラさんは優先順位を間違えているとしか思えないのです」

 ファイルーズの言葉を竜也も否定しない。竜也もそこまではギーラを庇いはしなかった。

「ギーラも今すぐにこの都市を建設しようとはしていません。ギーラはまず独裁官の仮設政庁を建築しようとしています。この場所です」

 ベラ=ラフマが指差したのはナハル川河口、海に面した小高い丘である。その丘は葡萄が多く自生していることから葡萄(ゲフェン)の丘と呼ばれていた。

「また、ギーラは政庁に隣接して王女ファイルーズの行宮を建設するつもりでいます。警備上の問題から王女ミカにもそこに入るよう指示がありました」

「ついでにわたしもそこに入るよう命令されました」

 カフラが皮肉げな笑みを浮かべてそう言う。竜也は十数秒ほど開いた口がふさがらなかった。

「……何を考えているんだ? あの男」

「理解できる理由が全くないわけではありません。周囲が臨時独裁官ギーラに対して非常に非協力的なのです。将軍マグドは自分が納得できる範囲でしか、必要最低限の協力しかしておりませんし、それは将軍アミール・ダールも同様です。王女ファイルーズと太陽神殿、ナーフィア商会を始めとする各バール人商会、西ネゲヴ各地の商会連盟、各町の長老会議もまた同じです。ギーラの主要な支持層のはずの東ネゲヴの各町・各商会連盟すらが全面協力には程遠い状態です」

「多分、ギーラに深入りして梯子を外されるのを怖れているんでしょう」

 ベラ=ラフマの説明にカフラが補足した。

「笛吹けど踊らず、ってことか?」

「まさしくその通りです。焦ったギーラが強権を振り回し、白けた周囲がますます非協力的となり、ギーラがますます焦り、と悪循環に陥っています。それを打開するためにわたし達の身柄を欲したのでしょう」

 ミカの解説にベラ=ラフマが続ける。

「王女ファイルーズを自分の手元に置くことはその支持を得ていることの証明となります。王女ミカは将軍アミール・ダールの、カフラマーンはナーフィア商会の支持の証明となるでしょう。それだけの支持があれば周囲も非協力的な態度を改める他ありません。周囲の支持を得られれば実績も上げられる。そうなれば臨時独裁官から正式な独裁官に就任することも難しくはない――それを意図してのことと見られます」

「もちろんわたし達はその指示を拒否しましたわ」

 とファイルーズ。

「ギーラは私兵を集めているようですから、強攻策に出るのではないかと考えて将軍マグドの部下や恩寵の戦士を集めて守ってもらっているところです」

 ミカの言葉に竜也は思わず苛立たしげに舌打ちした。

「そんなことをしている場合じゃないだろう」

 ファイルーズは面目なげにしているがミカは「誰のせいだと思っているのですか」と反撃する。竜也は一瞬言葉を詰まらせるが、

「判っている」

 と頷いた。

「――ギーラを排除して俺が独裁官になる。皆の力を貸してほしい」

 その場を一瞬静寂が満たし、次いで静かな高揚が徐々に水位を上げていった。

「もちろんですわ。わたしと太陽神殿がタツヤ様の力となります」

 とファイルーズ。

「やっとですか。ですが、あなたなら少なくともギーラよりはマシな独裁官となれるでしょう」

 とミカ。

「タツヤさんならできます。タツヤさんのやり方でネゲヴを救っちゃってください」

 とカフラ。

「言うまでもありません。牙犬族はタツヤ殿の剣となって敵を斬り払います」

 とサフィール。
 ラズワルドとベラ=ラフマは無言で頷くだけだ。だがその瞳を見ればその意志を問う必要などなかった。
 全員の賛同を受け、意を強くした竜也は即座に行動を開始した。

「まずはスキラ会議でルサディルの惨劇について報告して、その場で支持を集めて独裁官に就任する。次のスキラ会議は?」

「来月の一五日です」

 ミカの答えに竜也は数拍言葉を途切れさせた。

「……何でそんな先に」

「臨時独裁官の意向です」

 とミカは肩をすくめる。

「臨時でも独裁官がいるのだからスキラ会議を頻繁に開く必要はない、と主張しそれを通してしまいました」

 竜也は「そんなに待てるか」と舌打ちをしつつ、

「ギーラに構わなくていい、スキラ会議の面子を集めてくれ。ルサディルの惨劇について報告する」

 竜也の指示を受けてミカが、カフラが、その部下が動き出す。竜也はその現実を当然のものとして受け止めていた――そのように見えた。

「……タツヤさん、何だか変わりましたね」

 ベラ=ラフマの報告を受け、指示を出す竜也の背中を見つめながら、カフラが独りごちる。以前であれば指示や命令をするにしてもどこか遠慮やためらいが感じられたのだが、すっかりそれがなくなっているのだ。

「ようやく人の上に立つ自覚が出てきたのでしょう」

 とミカは頷き、

「タツヤ様、無理をされていなければよろしいのですが」

 とファイルーズは眉を寄せている。それに対して、

「タツヤは自分の血に目覚めた」

 そんなことを言い出したのはラズワルドである。

「自分の血?」

「そう。クロイ・タツヤという名前は『黒き竜(シャホル・ドラコス)』という意味。タツヤは黒竜の恩寵の民」

 ミカ達は「まさか」と思うがラズワルドは真剣な表情で、嘘や冗談を言っているようには到底見えなかった。竜也の脳内設定をラズワルドが勝手に本気で信じ込んでしまっただけ、それをネゲヴ風に独自解釈しているだけ、とファイルーズ達に判るはずもない。

「……その、黒竜の恩寵というのはどんなものなんですか?」

「よく判らないけどとにかくすごい」

 ラズワルドが大真面目にそう答える。カフラとミカとファイルーズは全身から脱力して崩れ落ちそうになった。







 スキラ会議参加者のほぼ全員が招集され、竜也主催の「ルサディルの惨劇・報告会」が開催されたのは二六日のことである。その日、竜也達は揃ってソロモン館に出かけていた。一方「マラルの珈琲店」にはラズワルドとベラ=ラフマの二人が残されている。ラズワルドは竜也に付いていきたかったのだがベラ=ラフマに引き留められたのだ。

「何の用?」

 不機嫌な感情を露骨に声に出してラズワルドが問う。

「ギーラは独裁官タツヤの暗殺を計画し、その工作員を偵察船団に潜り込ませていた。心当たりは?」

 ラズワルドは驚きに息を呑んだ。「心当たりがあるようだな」とベラ=ラフマが頷く。

「この情報を掴んだのは偵察船団の出港後で、工作員の名前や具体的な工作内容までは未だ掴めていない」

 お前がいてくれれば話は早かったのだが、とベラ=ラフマは内心で呟いた。一方のラズワルドは殺意に真紅の瞳を燃えるように輝かせている。

「許さない、殺す」

 ラズワルドの人生の中でこれほど強い憤怒を覚えたのも、これほど明確な殺意を抱いたのも初めてだった。自分が決死の覚悟で助けに行かなければ竜也は間違いなく死んでいたのだ。自分もまた間一髪で死ぬところの連続だったが、竜也を喪うところだったことを思えば些細な話である。

「落ち着け。ギーラの暗殺は認められない」

 ベラ=ラフマに止められ、ラズワルドは「どうして」と強く反発した。

「独裁官タツヤの立場を悪くするだけだからだ。暗殺をするような指導者を兵も民も支持しない。独裁官タツヤもまたそのような手段を許可しないだろう」

 政治的な立場云々の話はラズワルドにはいまいち理解できなかったが、竜也が暗殺を許可しないという話ならよく判った。ラズワルドのよく知る竜也ならそうするに決まっている。

「ギーラを殺したい。いい?」

「駄目に決まってるだろ」

 脳内の竜也にあっさりと却下され、ラズワルドは軽く落ち込んだ。

「もちろん必要とあれば独裁官タツヤの許可を得ないまま、内密のまま暗殺をすることも考えられる。だがそれは独裁官の政治的立場に悪影響を及ぼさない限りにおいて、あるいは独裁官が意図した殺害と疑われない限りにおいて、だ。今のギーラはこの条件に合致しない」

「じゃあどうするの」

 すねたように問うラズワルドにベラ=ラフマが力強く告げた。

「独裁官タツヤを守る。独裁官の目となり耳となり、素早く危機を察知し、先回りしてそれを排除する。今できるのはそれだけだ」

 ラズワルドが「判った」と頷く。ラズワルドの瞳に意志の光が輝いた。今の自分にできることを呈示され、行動する意欲を強く発露している。

「部下が欲しい。白兎族の女を集めてほしい」

「いいだろう。手配をしよう」

 ラズワルドの依頼にベラ=ラフマが頷く。ラズワルドはいかにして竜也を守るべきか、その思考を巡らせている。暖かな微睡みの中で眠るだけだった「白い悪魔」が真の意味で目覚める刻は、そう遠くはなかった。
 一方のソロモン館。そこにはスキラ会議メンバーのほとんどが集まっていた。アミール・ダールは長男のマアディームを名代として寄越し、トズル方面からはマグドがやってきている。ギーラの支持層であるはずの東ネゲヴ各町代表もほぼ顔を揃えていた。

「東ネゲヴの各町からも代表が来ているな」

 参加者名簿に目を通した竜也が述べ、ミカが解説した。

「はい。大部分は名代でしょうけどこの場に集まっています。ギーラがあまりに頼りないのでタツヤとのつながりを保っておこうというのでしょう」

 竜也は特に何も言わず、「ふん」と小さく鼻を鳴らした。

「……本日集まってもらったのは他でもありません。西ネゲヴに偵察に向かった船団が帰着しました。西ネゲヴで何が起こっているのか、クロイ・タツヤからの報告を皆に聞いていただきたい」

 いつものようにラティーフの挨拶から報告会が始まった。ラティーフと交代して竜也が議場の中心に進み出た。

「クロイ・タツヤです。俺はアダルの月の四日にルサディルの町に潜入しました。聖槌軍の先鋒がルサディルに到着したのは九日です」

 竜也は自分が見たことだけを、経験したことだけを淡々と語っていった。議場はしわぶき一つ起こることなく静まり返っている。その中で聞こえるのは竜也の声だけだ。竜也がルサディルの光景を一つ語るたびに議場の温度が一度下がるかのようだ。

「……俺が経験したことは以上になります」

 竜也の語りが終わる頃には議場の空気は完全に氷点下となっていた。

「……しかし、まさかそんな」

「到底信じられない」

 ようやく発せられた声はそんな内容ばかりである。竜也は視線を議場の入口に送る。入口で待機していたサフィールが十人ほどの人間を引き連れて議場に入ってきた。訝しげな思いが広がっていく。

「彼等は俺がルサディルから連れてきた避難民です。全員、あの日、あのときにルサディルにいた人達です」

 その十人が議場のあちこちに分散して移動するのを確認し、竜也は告げた。

「俺の証言だけでは不足でしょうから、その人達からも話を聞いてください。あの日、あのときにルサディルで何が起こったのかを」

 当初は戸惑ったように顔を見合わせていた参加者達だが、やがて各々が近くの場所にいる避難民の元に集まってきた。最初は遠慮がちに、次第に熱心に避難民に質問をする。避難民は涙を堪えながらも、あるいは泣き崩れながらもその質問に答えていった。

「妻は何人ものエレブ兵に犯されていた。妻を犯すために何十人ものエレブ兵が集まっていた。俺はそれを助けることもできず、それどころか妻をおとりにして逃げ出してきたんだ……!」

「父と母がわたしを逃がすためにエレブ兵に立ち向かいました。父も母も、身体中を槍で刺されて、それでもわたしに逃げろって……」

「俺のご主人は光り物が好きだったからエレブ兵のいい獲物になっていた。エレブ兵の一人がご主人の腕を剣で斬り取って、腕ごと指輪を奪っていって、別のエレブ兵は耳飾りを耳ごと奪っていった。奪われるものがなくなったご主人はエレブ兵の腹いせに剣で串刺しになっていた」

「夫とはぐれたわたしは子供を抱えて、隠れるところを探して、どぶ川の中に隠れたんです。でもあの子はまだ五ヶ月で、あの子が泣き出して、エレブ兵が近くまで来ていて、何とか泣き止ませようとしてわたしは……自分が助かりたい一心であの子を水の中に沈めて……この手で……!」

 各場所での聞き取りは一時間ほどで終了する。憔悴した避難民が退場していき、議場の中は泥沼の底のような重苦しい静寂に満たされた。

「――ついに奴等はやってきたんだ。俺達を皆殺しにするために。俺達を奴隷にするために」

 ただ竜也の声だけが議場に響いている。

「奴等がネゲヴを地獄にしようというのなら――俺達もまたそうしてやるだけだ。奴等全員を飢餓地獄に落とし込んでやる。百万の聖槌軍を皆殺しにする。一年でこの戦争を終わらせる」

 竜也の静かな宣言が全員の耳朶を打った。その決意が胸に響き、その覚悟が心臓に轟いた。

「一年だ!」

 竜也は人差し指を立てた手を高々と頭上に掲げた。

「一年だけあなた達の生命を俺に預けてくれ! あなた達の力を、あなた達の財産を、あなた達の権限を俺に貸してほしい! そうすれば俺が一年で聖槌軍を皆殺しにする。一年でこの戦争を終わらせる!」

「それはあなたが独裁官に就任するということですか? クロイ・タツヤ」

 ラティーフの問いに竜也は力強く頷く。

「やっとその気になったか、待ちかねたぞ!」

「もちろん我々は支持するぞ!」

 真っ先に反応したのは恩寵の部族の族長達だ。西ネゲヴの各町が、各バール人商会が、竜也の支持を表明する。

「今更言うまでもないだろう。俺達奴隷軍団はタツヤのために戦い、死んでやる」

 マグドが静かに、だが明確に宣言。

「アミール・ダールの真の忠誠は正式な独裁官に捧げられます」

 マアディームはアミール・ダールの名代としてそう明言した。
 議場の半分以上が竜也の独裁官就任を熱く支持する一方、もう半分――東ネゲヴ各町の代表が集まっている箇所は静かなままである。だが、

「……反対しないのか?」

「敵は半月も前にネゲヴに侵入しているんだぞ。いつまでも内輪で揉めている場合じゃないだろう」

「あの男はあまりに期待はずれだった。所詮は口先が上手いだけの男だ」

 誰かの言葉に周囲が揃って頷く。東ネゲヴの各町でも誰も積極的に反対しようとしていない。

「臨時独裁官ギーラはどうするのだ?」

「説得して降りてもらう」

 誰かの問いに竜也が即答。「それができるのなら特に文句はない」と東ネゲヴ各町も竜也の支持を表明した。
 そんな中、ファイルーズが椅子から立ち上がり、竜也の前へと進み出た。一同の注目を集める中、竜也とファイルーズが議場の中央で向かい合う。

「タツヤ様、ネゲヴを救ってくださいますか?」

「約束する。聖槌軍を倒し、ネゲヴを救うと」

 竜也は静かにそう宣言した。ファイルーズは竜也の手を取る。

「ネゲヴを、ケムトを、わたし達の未来をあなたに託します。あなたに太陽神の御加護を」

「ありがとう」

 竜也はそう応え、全員に向き直る。竜也は静かに、もう一度人差し指を立てた手を高々と掲げた。

「独裁官クロイ!」

 誰が竜也をそう呼び、その呼びかけが議場全体に広がる。

「独裁官クロイ!」「独裁官クロイ!」

 熱狂的な呼びかけがソロモン館全体を揺るがすかのようだ。その歓呼の声はいつ果てるともなく続くこととなった。







 スキラ会議の支持を受けて竜也が独裁官として就任――その知らせに対し、ギーラは表面上は動揺を示さなかった。

「何を言っている? 正式なスキラ会議の開催は来月の一五日だ。非公式の会合でスキラ会議の参加者が何人集まって何を決めようと、それに何の意味がある?」

「ガイル=ラベクが戻ってきていないのに偵察船団が戻ってきたとは言えんだろう。つまりは私が独裁官から退く理由もないということだ。ガイル=ラベクが偵察の報告を寄越したのは聞いている――クロイ・タツヤ? ふん、知らんな。そんな小物の名前は」

 ギーラは公然とそのようにうそぶいた。それを聞いた竜也やその支持者は当然呆れ果てたが、それは竜也達だけではない。

「東ネゲヴの各町がますますギーラから距離を置いています。ギーラに完全に見切りを付けてしまった者も少なくないようです」

 ベラ=ラフマの報告に竜也は「まあ、そうなるだろうな」と頷いた。

「さて、どうする? タツヤ。ここまで来たら少々強引な手段をとっても問題はないだろう」

 と今にも自らギーラの元に向かいそうなのはマグドである。ベラ=ラフマが無言のまま頷き、他の面々もマグドに反対していない。
 だが竜也は「いや」と首を振った。

「ギーラはできるだけ説得で退かせたい。それで誰に説得させるかだけど――」

 竜也がある人物の名前を挙げ、その場の全員が戸惑いの表情を浮かべた。特にミカは驚きに目を丸くしている。







 スキラ市街地の一角、とある商会の別邸。そこが臨時独裁官ギーラの官邸となっている場所だった。その別邸はオエアのある商会の所有物件で、ギーラが一時的に借り受けているものである。
 その官邸を警護しているのは数十人の傭兵だ。ギーラはアミール・ダールに警護を依頼したのだが人手不足を理由に断られている。仕方なしに自分で傭兵団を雇ったのだが、予算の関係もあって雇えたのは無名の、二流の傭兵団でしかなかった。
 ギーラは執務室内を苛立たしげに歩き回っている。執務室は大して広くなく、ギーラは檻の中のハツカネズミのように短い範囲をぐるぐると回っていた。執務机は部屋の広さにそぐわないくらいの大きさであり、その上にはギーラ=マグナの完成予想図が広げられている。

「……くそっ」

 気に食わない。気に食わない。何もかもが気に食わなかった。東ネゲヴの各町は自分を利用しようとはしても自分に協力しようとはしていない。アミール・ダールは反旗を翻す隙をうかがっているかのようだし、ファイルーズは自分になびこうともしなかった。

「くそっ、あの小僧。あいつさえちゃんと死んでいれば……!」

 そして誰よりギーラが気に食わない人間がスキラに戻ってきている。ギーラのものだった地位を、名声を、権力を奪おうと画策している。

「今からでも遅くはない、あいつさえ死ねば問題は全て解決するんだ。何とか殺す方法は」

 ギーラは思考を巡らせるが上手い方法はなかなか見つからなかった。その人間に付いている護衛があまりに厄介なのだ。無双の威力を持つ恩寵の剣士達と、アシューで歴戦を重ねた戦士達。彼等が竜也に信服と忠誠を捧げている。それはギーラがどれだけ望んでも手に入れられないものだった。

「独裁官ギーラ、クロイ・タツヤの使者が」

 ギーラの執務室に突然飛び込んできたのは護衛の一人だ。ギーラは侮蔑と余裕の表情を作って見せた。

「ふん、私は忙しい。事前に約束もしていない人間と会えるほど暇ではない」

 だがその護衛はギーラの芝居など見ていなかった。護衛は剣を手にし、ギーラを庇うように扉に向かって立った。執務室の扉が蹴破られ、入ってきたのは、

「よう、ギーラ。久しいな」

「お、お前は」

 鋼鉄の槍を手にし、そびえるように立っている巨漢の男はノガであった。ノガはギーラを無視するように執務室の真ん中を歩いていき、執務机に腰掛ける。遅れて集まってきた何人もの護衛がノガを包囲するが、ノガは泰然とした態度を崩さなかった。

「お、お前は一体……」

「ああ、俺はタツヤから頼まれたんだ。お前を説得して臨時独裁官を辞めてもらうようにな」

 ギーラは「お前が?」と戸惑いを浮かべる。

「俺もこんな仕事は初めてなんでどうすればいいのかよく判らんのだが」

 ノガはそう肩をすくめた。ギーラはそれでようやく多少なりとも余裕を取り戻す。

「ノガ殿は礼節を覚えるところから始めるべきだと思うが、それは置いておこう。それで? 一体どんな理屈で私を説得しようというのだ?」

 ノガの返答は鋼鉄の槍の一旋だった。槍の先端がギーラの頬をかすめ、わずかに血が流れる。ギーラは全身を凍り付かせた。

「使者に俺を選んだってことは俺のやり方でやっていいってことだろう? あいにく俺はこのやり方しか知らんのでな」

「き、貴様……」

 護衛の傭兵達が剣を構える。何本の白刃がノガを取り囲んだが、ノガはそれが目に入っていないかのようだ。

「いくら貴様でもこの人数に勝てると思うのか」

 ノガは「まあ何とかできるだろう」と思いつつもそうは答えず、無言で窓の外を指差した。雨戸が開いたままの窓の向こうにはこの別邸の前庭が見えていて、

「独裁官クロイ!」「独裁官クロイ!」

 そこに集まった戦士達が竜也の名を呼んでいる。集まっているのは牙犬族を始めとする恩寵の戦士達、奴隷軍団の兵士達、それにアミール・ダールやノガの部下達だ。その数ざっと百数十人。

「どっちが勝つかやり合ってもいいんだが、それよりは大人しく独裁官を辞めてくれた方がいいんじゃないか? 結果は同じなんだし」

 だがギーラは引き下がる姿勢を示さなかった。血が出そうな程に歯を食いしばり、火が出そうな眼差しをノガへと向けている。ギーラの心はなおも折れてはいないのだ。
 ノガは矛先を変え、傭兵達へと視線を向けた。

「ところであんた達を雇っているのは何者だ?」

「臨時独裁官ギーラだ」

 傭兵のリーダーと見られる男がわずかに戸惑いを見せながらも答える。

「その臨時独裁官殿は先日のスキラ会議によって解任されている。あんた達を雇っている人間はもういないんじゃないか? 独裁官を辞めたその男に報酬を払えるとは思えんのだがな」

 傭兵達は互いの顔を見合わせた。報酬が支払われないということはギーラが契約を反故にするということであり、傭兵達がギーラのために戦う義理もなくなることを意味する。勝ち目のない戦いに直面する中で逃げ道を用意されたのだ。その選択肢に心を引かれるのは当然だった。

「世迷い言だ! 私は独裁官を辞めてなどいない!」

 ギーラは「だから報酬の心配などするな」と言いたかったのだろうが、傭兵達はそうは受け止めなかった。ギーラが報酬の支払いを明言しなかった――できなかった、そう理解したのだ。もしギーラが「独裁官でなくても報酬は払う」と言っていれば傭兵達は契約に縛られ、ギーラを見捨てることができなかっただろう。だがギーラはそうは言わなかった。結果としてギーラは自分から傭兵契約を反故にしたのだ。
 傭兵達は一様に剣を鞘に収め、ギーラに背を向けて執務室から去っていく。傭兵が一人もいなくなり、その場にはノガとギーラだけが残された。

「護衛の傭兵に見捨てられたってことは、この男を臨時独裁官だと認める人間は一人もいなくなったってことだ。ま、これで仕事は果たしたと考えていいかな」

 そう判断したノガもまたその執務室から去っていく。執務室に最後に残ったのは屈辱に打ち震えるギーラだけである。
 「ギーラを臨時独裁官と認める人間は一人もいない」――ノガの判断には若干の間違いがあった。世界中の誰が認めなくてもただ一人、ギーラ自身だけは自分の正義と正統性を確信し、決して疑いもしていないのだから。

「……あの小僧、あの小僧、今に見ていろ! 殺してやる! 貴様が俺から奪ったもの全てを必ず奪い返してやる!」

 ギーラの自己確信は狂気の域に達していた。ギーラは狂気と復讐に燃える眼を虚空に向ける。ギーラはそこに竜也の顔を、自分の宿敵の顔を思い浮かべていた。







 アダルの月・三〇日。スキラのソロモン館にはギーラを除くスキラ会議のメンバー全員が集まっていた。

「それじゃまず、傭兵契約を結ぼう」

 正式に独裁官に就任するにあたり、竜也は事前に用意した契約書を提示した。その内容の要点をまとめると以下のようになる。



「一、独裁官クロイ・タツヤは一年以内に聖槌軍全軍をネゲヴから放逐するか、戦闘不能に追い込む」

「二、その代わり、全てのネゲヴの自治都市・恩寵の部族・商会連盟・太陽神殿は独裁官クロイ・タツヤに全権を委任し、戦争遂行に全面協力する」

「三、全自治都市はこの戦乱で発生した避難民を、都市の大きさに応じて受け入れる」

「四、全自治都市の全市民・全商会連盟は戦費として十分の一税を負担する。または、全自治都市の全市民のうち、十人に一人が兵役を負担する」

「五、この契約は一年更新とする。一年後に契約の改廃を検討する」

「六、その他、必要に応じて契約条項の見直し・追加を随時行う。条項の見直し・追加については契約者の過半の同意を必要とする」



 竜也は会議の参加者全員に契約書への署名を求め、内心はどうあれ会議の参加者は全員それに応じて署名した。この契約はソロモン館の名にちなんで「ソロモン盟約」と呼ばれるようになる。





[19836] 第二〇話「クロイの船」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/05 20:59



黄金の帝国・会盟篇
第二〇話「クロイの船」






 年も新しくなり、海暦三〇一六年ニサヌの月(第一月)・一日。通常ならスキラは新年の祭で大賑わいなところだが、空前の大戦争を目前としたスキラにそんな余裕があるはずもなかった。
 ナハル川南岸では各種工事が進められている。岸辺では要塞化工事。平地では森を切り払い、田畑を潰して町の建設。そしてゲフェンの丘では仮設政庁が建設されようとしていた。

「力を入れろー! せーの!」

 一隻の船が陸地を移動している。千人以上の人足が集まってその船を引っ張っているのだ。船は傾かないよう台に乗せられ、台の下には何十本もの丸太が敷かれている。人足は力の限り綱を引き、船を丘の上へと引きずり上げようとしていた。

「ルサディルの祭を思い出すな」

 竜也はその様子を眺めて感慨にふけっている。ルサディルの春祭りに参加してから二年足らず。二年後にはスキラで独裁官となり、百万の敵を相手に戦争をすることになるとは、その当時には妄想すらできなかった。

「順調に進んでいますわね」

 竜也の隣にはファイルーズがいて同じく作業を見守っている。竜也は「ああ」と頷いた。

「広くはないけど、調度品を整えればそれなりに快適に暮らせるだろう」

「ご心配なく。ケムトからは船で来たのですから船室暮らしには慣れていますわ」

 それもそうかと竜也は納得する。現在陸上を移動中の船は竜也がルサディルから乗ってきた船である。船底に穴が空いて使い物にならなくなったその船を、竜也はファイルーズ達の行宮にしようとしているのだ。

「他にも廃船にする船や古い船を買い取って、ここに並べて独裁官の仮設政庁にする」

 竜也のその指示に従ってスキラ中から、スキラ近隣の町々から廃船寸前の古い船が集められていた。
 ファイルーズの行宮となる船は翌日には設置作業を完了した。ゲフェンの丘はナハル川と海の双方に面しており、その頂上に安置されたその船は遠く海からでもその姿を認めることができる。その船はスキラを目指す船乗りにとってちょうどいい目印となった。

「おい、あんなところに船があるぞ」

「ありゃ何だ?」

「知らないのか? あれが独裁官クロイの船だ」

 そんな会話が無数の船の上でくり返され、

「よし、クロイの船(サフィナ=クロイ)が見えてきたぞ」

 その船が「サフィナ=クロイ」の名で呼ばれるようになるのにそれほど時間はかからなかった。
 船の設置作業は終わったがファイルーズ達は未だスキラ市内に留まったままである。竜也もまたスキラ市内で独裁官としての執務に従事していた。さすがに「マラルの珈琲店」からは退出し、今はソロモン館に拠点を移している。
 ギーラはスキラ会議の事務局を自分直属の配下とし、自分の官僚として実務に当たらせていたが、竜也はそれをそのまま迎え入れた。独裁官の幕下で実務に携わる官僚達、独裁官の意志を実務面で実現する組織――竜也はその組織を「独裁官総司令部」と名付けている。今、竜也の執務室には総司令部に属する官僚達が顔を揃えていた。

「ギーラの作った都市計画書があったな。あれを元にナハル川南岸を整備しよう。もちろん一足飛びにあんな都市を作るわけじゃないけど、戦後はああいう町にできるように道路の区画はそのまま使って」

「よろしいのですか?」

 と訊ねるのはラティーフだ。調整型の政治家として優秀なラティーフは総司令部全体のまとめ役を引き受けていた。

「よくできている計画だと思ったけど、何か問題でも?」

 不思議そうに問い返す竜也にラティーフは「いえ、何も」と返答した。問題になるとするなら竜也の誇りやギーラに対する反感くらいのものなのだが、竜也にはそういう感覚がすっぽり抜け落ちているかのようだった。

「それでどうやって町を作るかだけど、当面は掘っ立て小屋でも何でもいいから避難民を受けている建物がとにかく必要になると思うんだ。問題はそれをどうするかだけど……」

 途方に暮れたかのようになる竜也の前に、一人の男が進み出た。年齢は三〇代に入ったばかり。セム系と思しき白人である。少し垂れ目なところが愛嬌の、なかなかの色男だ。その男はバリアという名前のアシュー人であり、ギーラの命令でギーラ=マグナ建設計画を立案した張本人だった。

「独裁官のご指示通り、ネゲヴ全土の商会連盟に協力を要請して中古船・廃船をスキラに集めるよう手配をしています。これらの船は主にゲフェンの丘に配置して政庁の建物代わりに使う予定です。次に、同じく商会連盟に協力を要請してネゲヴ中の木材を確保しようとしています。木材がなければ小屋すら建てることもできませんから」

「木材ならちょっと南に行けばいくらでも生えているように思えるけど……」

「切り出したばかりの木材は大量の水分を含んでいます。しっかり乾燥させなければ割れたり変形したりしてしまうのです」

 そう言えばそうだった、と竜也は赤面した。竜也はごまかすように、

「それでも、調達できる木材には限りがあるんじゃ?」

「もちろんその通りです。そこで、スキラの建物を解体して南岸に移設します。これが主要な建物の供給方法になるでしょう。当面はスキラだけですが先々はスファチェやハドゥルメトゥムの建物の移設も必要になるかと思います」

 その案に竜也は難しい顔をする。

「……建物をそっくりそのまま移設なんて、時間的にも費用的にも不可能だろう? そうなると、要するに人が住んでいる建物を解体して使える建材を取り出して使えない部分は捨てる、ってことになるんじゃ?」

 竜也の懸念にバリアは「まさしくその通りです」と頷いた。竜也はますます難しい顔をする。

「そうなると、どんなに楽観的に計算しても二軒の家を解体して建てられるのは一軒の家。スキラより西からも避難民がやってくるわけだから、そこに何家族も暮らすことになるわけか」

 竜也の予想にラティーフが「おそらくそうなるでしょうな」と頷いた。竜也は暗澹たる表情となってしまう。

「スキラ市民に、それをどうやって納得させる……?」

 ラティーフ達は竜也と似たような表情を見合わせた。少し間が空いて、バリアが提案する。

「やるべきことはいくらでもあります。できることから手をつけて、難しいことは後回しにしましょう。まずは道路と区画整備からです」

「そうだな。それと同時にナーフィア商会等の大商会に自力で移動してもらって」

「利に敏いバール人が移動するのを見れば市民も『避難しなければ』と思うようになるだろう。そうなれば市民の納得も少しは得やすくなるはずだ」

 バリアやラティーフ達の結論を竜也は「判った、それでいこう」と受け入れた。

「ああ、一つ付け加えておくけど、聖槌軍がこの町に到着したなら船を造ってナハル川を渡ろうとするだろう。それを阻止するためにもこの町に木材や木立を残したままにはしておけない」

「判りました、それも手配しておきます」

 ラティーフの返答に竜也は一応の満足を見せた。竜也は続けて、

「それで、次に必要となるのは?」

「金です。金が足りません」

 そう言い出したのはアアドルという初老のバール人である。アアドルはスキラ商会連盟の金融部門に長年勤めてきた金融と財政のプロであり、その経験を買われて総司令部に招かれていた。

「南岸を要塞化するにしても、中古船や木材を集めるにしても、スキラの建物を移設するにしても、とにかく金が必要です」

「各町の商会連盟や東ネゲヴの各町に資金供出を要請していると思うんだが」

 と竜也は首を傾げ、アアドルは首を横に振った。

「順調に供出されるとは限りませんし、供出されたとしてもそれがスキラに到着するのに一、二ヶ月。場合によってはもっとかかるでしょう。下手をするとその頃にはすでに聖槌軍がスキラに到着しているかもしれません」

 それじゃ意味がないだろう、と竜也は憮然としつつ、

「なら、どうすれば?」

「てっとり早いのは借金です。独裁官名義で公債を発行し、各商会、商会連盟、各町に買わせます。先々には供出金と相殺ということになるかと思いますが」

「判った、それでいこう」

 竜也は即答するが、アアドルがそれに反応するのに若干の間が空いた。

「独裁官名義の公債、と言えば聞こえはいいですが、要するにクロイ・タツヤ個人名義の借金ですよ? 先々には精算するといっても」

「構わない。それでやってくれ」

 だが竜也の姿勢には何らの変化もなかった。アアドルは深々と頷き一歩退いた。







「タツヤ様、夕食の用意ができましたわ」

 ソロモン館の執務室で書類仕事を続ける竜也の元にファイルーズがやってくた。竜也はファイルーズの案内で食堂へと向かう。食堂のテーブルに並んでいたのは香辛料を利かせた鳩の丸焼きやビール等、豪華絢爛な料理の数々。それらはファイルーズが自分の女官に用意させたものである。

「さあ、たくさん召し上がってください」

「あ、ありがとう」

 竜也は頬を引きつらせながらも笑顔を見せた。竜也は、

「一人じゃ食べ切れそうにないからみんなで一緒に食べよう」

 とファイルーズだけでなくミカやカフラ、サフィールやラズワルドを呼んで食事を共にさせる。さらに、

「今は戦時なんだからあまり無駄遣いするのは……食事なんて飢え死にしなければそれでいいから」

 やんわりとながら釘を刺すのも忘れなかった。

「……まだ半月も経ってないけど、今のところ大きな問題はないみたいだな」

 竜也は冷や水を舐めるように飲みつつ一同に確認する。

「評判いいですよ、タツヤさん。『ギーラさんのときには全く進まなかった物事が急に進むようになった』って、皆さん口を揃えています」

 と我が事のように喜んでいるのはカフラだ。カフラは美味しいビールを飲んで上機嫌のようだった。

「比較の対象が悪すぎるだけですが、それを抜きにしてもよくやっている方だと言えるでしょう」

 とミカは辛口ながらも竜也を評価した。口にしているのも香辛料で辛口となった野菜スープだ。

「仕事をしているのは総司令部のみんなだし、俺は報告を聞いて書類に署名しているだけなんだけど」

「些末なことは部下任せにすればいいのです。タツヤ様のお仕事は決断をすることと、責任を取ること。その二つだけですわ」

 ファイルーズは柔らかく微笑みながらなかなか過酷な要求を突きつけてくる。竜也は引きつったような笑いを浮かべていた。ファイルーズが食べているのは果物だ。サフィールは野性に帰ったかのように鳩肉を貪っているし、ラズワルドは砂糖と蜂蜜をふんだんに使ったパンケーキに夢中である。
 カフラが言うように、ギーラが臨時独裁官だったときには滞っていた様々な事業、業務がここに来て一気に進むようになっている。ギーラが得られなかったアミール・ダールやマグド、バール人商会や商会連盟、各町の全面協力が得られるようになった要因はもちろん大きい。ギーラの代は官僚達も次から次へと湧いてくる無数の問題に振り回されるばかりでまともに対処できなかったが、竜也の代にはその失敗や試行錯誤の経験を生かして問題に取り組めるようになった、という要因もある。だが最大の理由は独裁官名義で公債を発行できるようになったことだった。

「ギーラさんの名前じゃ誰も公債を引き受けようとはしませんでしたからね。それにそもそも、いくら必要だって言われてもギーラさんは他人のために自分名義の借金をしようとはしませんでしたし」

「ですが、むしろそれが普通です。わたしだって同じことを要求されたらためらいます」

 先物取引で得られた利益と、西ネゲヴでの金品預かり事業。それが「竜也に返済能力がある」と判断される背景である。竜也自身もその二点があることを理解した上での公債発行の決断なのだが、

「例えそれがあるとしても、何万タラントになるかも判らない借金を個人で引き受けられるタツヤはどこか突き抜けていると思います」

 ミカはそう思わずにはいられなかった。
 夕食はなごやかに終わるが結局用意された食事の大半はサフィールやファイルーズ達が食べ、竜也が口にしたのはごくわずかだった。

「お口に合いませんでしたか?」

「いや、そんなことない。美味しかったよ」

 ファイルーズの問いに竜也は取り繕ってそう答える。だがファイルーズは表情を曇らせたままだった。
 それからしばらくの時間を置いて。女官に夕食の後片付けをさせたファイルーズがもう一度執務室に行こうとする。その途中で食事を運ぶラズワルドの姿を見出した。盆の上に乗っているのはパンと珈琲、干し肉や果物で、ファイルーズの目から見ればウサギのエサみたいに貧相な代物である。その食事を持って、ラズワルドは執務室へと向かっている。ファイルーズは気付かれないよう注意してラズワルドの後を付けた。
 ラズワルドが執務室へと入り、ファイルーズは扉の隙間からこっそりと室内の様子を伺う。見ると、ラズワルドの用意した食事を竜也が美味しそうに食べているところだった。

「助かったよ、ラズワルド」

「ん、構わない」

 食事は五分もかからずあっと言う間に終了する。竜也はようやく充足し切った顔をした。

「タツヤは味付けの濃い料理が嫌いなのに。あの女もタツヤの好みを理解すべき」

 そう言いながら、ラズワルドはファイルーズに見せつけるように嘲笑を浮かべる。

「こっちじゃあの味付けが一般的なんだろ。俺がこっちの味付けに慣れるのが筋ってもんだ」

 竜也のフォローの言葉もファイルーズの耳に届いているが、あまり頭には入らなかった。ファイルーズは身を翻して執務室から離れていく。

「……勝った」

 と小さくガッツポーズを取るラズワルド。

「? 何がだ?」

「ん、何でもない」

 遠ざかるファイルーズの気配を、ラズワルドは勝利の余韻と共に味わっていた。
 一方のファイルーズだが、彼女は自分付きの女官が寝泊まりしている部屋へといきなり乗り込んだ。

「おほほほ、皆様ご機嫌よう」

 突然現れて妙に威圧感のある微笑みを見せる自分達の主人に、女官達は心身を硬直させる。

「ハディージャさん」

「は、はい」

 ファイルーズが今夜の夕食を用意した女官に視線を向け、その女官が大急ぎで起立する。

「明日はスキラ市内を回って、今スキラで評判の料理人の料理を見てきてください。わたしはカフラさん達からタツヤ様の食事の好みについて伺います」

「わ、判りました」

(戦いはまだまだ始まったばかりですよ、ラズワルドさん)

 静かに闘志を燃やすファイルーズを、女官達は呆然としながら見つめていた。







 竜也にとっての仕事の大半は官僚達が提出する書類に目を通してサインをすることだが、もちろんそれだけではない。聖槌軍と戦うため、避難民を救うため、竜也自身が必要と判断するあらゆる手段を尽くしている。
 その日、竜也はガリーブをソロモン館に呼び出していた。

「ゴリアテ号と同クラスの輸送艦を建造してほしい」

「おお、判った!」

 と胸を叩くガリーブ。

「問題点は洗い出した! 設計図も修正したぞ! これだ!」

 竜也はガリーブの差し出す設計図を受け取り、ざっと目を通した。

「じゃあこれで建造してくれ。とりあえず一〇隻」

「お、おお……?」

 ガリーブが戸惑いを見せ、同席しているアアドル達が唖然とした。竜也は構わず続ける。

「納期は一年だ。とりあえず一年で一〇隻」

「いやちょっと待ってくれ」

 さすがにガリーブが口を挟んできた。

「ゴリアテ号を建造するのに二年以上かかったんだぞ? その期間を二〇倍に短縮しろというのは」

「別に一隻ずつ造る必要はない。ナハル川南岸に造船所を造って、五隻くらいを同時に造ればいい。ネゲヴ中の船大工を集めて、手伝いの人間は難民から募って、一隻に千人もいればいいか? それで半年に一隻、一年で二隻掛ける五で一〇隻だ」

 ガリーブは「いや、それでも……」と口ごもるが、竜也は説明を畳み掛けた。

「あくまで軍艦、輸送艦だ。装飾は一切不要だし内装も必要最低限でいい。それと、部品を可能な限り共通化する。あと、俺が元いた場所じゃブロック工法という建造方法が採られていた。船体を部分ごとに分けて同時に建造を開始し、最後に合体させて完成させるんだ。そのままの適用は無理でも考え方は使えるだろう?」

 竜也は設計図を指差しながら部品の共通化とブロック工法について説明した。ガリーブは竜也の説明に目を輝かせる。

「なるほど、確かにそれならかなり短縮できる! それでも半年は難しいかもしれんが、ともかくやってみよう!」

「すぐにでも準備に取りかかってくれ。俺は造船所の建設を手配させる」

「判った!」

 また別の日、竜也の前に並んでいるのは海賊そのものといった凶悪な面相の男達、あるいは歴戦の戦士といった太々しい面構えの男達だ。その日ソロモン館に集められたのはネゲヴ海軍の提督達。髑髏船団のスキラ居残り組、および東西ネゲヴの主立った海上傭兵団、その首領達だった。

「聖槌軍と戦うにはあなた達の力が必要不可欠だ。よろしく頼む」

「いえいえ、こちらこそ」

 そう言ってにこにこ笑うのはハーディという五〇代の男だった。不在のガイル=ラベクに代わって髑髏船団の首領役を務めている人物だが、一見では(十見しようと)海賊や傭兵には到底見えない。第一印象は「温厚な商人」以外の何物でもなかった。

「うちの首領が戻ってくるまでは私が皆さんのまとめ役をやらせてもらっています」

「総司令部が雇った海上傭兵団全体の指揮をハーディさんが担っている、ということか?」

 竜也の確認に「はい」と頷く。周囲の傭兵達も特に不満はないようだった。

「船の能力や団の大きさに応じて役目を振り分けています。まず足の速い船を集めて、東西ネゲヴ・エレブとの連絡網の整備をしています。次に輸送能力の高い船を集めて、避難民の移動や、アドラル山脈方面に逃げた避難民への食糧の輸送を担当します。最後に戦闘能力の高い船を集めて、海上封鎖します」

「聖槌軍にはエレブからの補給を許すな」

 竜也の命令に傭兵達が頷いた。ハーディもまたその笑い顔に何らの変化も示さず「はい、もちろん」と頷く。だがその目は強い戦意を放っていた。
 また別の日、ニサヌの月も中旬のソロモン館。その日竜也はベラ=ラフマとファイルーズを伴い、ある人物と会談を持っていた。テーブルを挟んで竜也の目の前にいるのは三〇過ぎの実直そうな男である。身にしているのはケムト風の装束だ。

「ご苦労さまでした、イムホテプさん」

「いえ、とんでもない」

 ファイルーズのねぎらいにイムホテプは恐縮する。イムホテプはホルエムヘブの代理としてエレブに赴き、今日スキラに戻ってきたところだった。

「西ネゲヴはエレブの勢力圏として認める代わりに東ネゲヴをケムトの勢力圏として認めさせる、そういう協定を聖槌軍と結ぶ――あなたは特使ホルエムヘブからそれを命じられてエレブに行って、戻ってきた」

 竜也の確認にイムホテプは頷く。

「エレブの狂信者どもに媚びを売るのは屈辱の極みですし、私もこんな任務を決して好んで引き受けたわけではありません。ですが、奴等はあまりに強大です。それでケムトの安全が確保できるのなら、宰相プタハヘテプがネゲヴの半分を譲り渡そうとするのもやむを得ないことかと」

「宰相の立場としてはそうするしかない、というのはわたしにも判りますわ。あなたがつらい立場にあることも」

 イムホテプの言い訳にファイルーズが理解を示し、イムホテプは嬉しそうな様子を見せた。その上で竜也が厳しい口調で告げる。

「ケムトが西ネゲヴを見捨てることは自由だが、それなら西ネゲヴが聖槌軍に徹底抗戦することもまた自由だ。それは判るな?」

 イムホテプは硬い表情で「ええ、もちろん」と頷いた。

「西ネゲヴを先に切り捨てた我々に『大人しくエレブ人の奴隷になっていろ』等と言う権利があるはずもありません」

「それもありますが、西ネゲヴが大人しく聖槌軍に隷従するよりは徹底抗戦した方がケムトにとっては都合がいいでしょう。聖槌軍が消耗すればそれだけケムトが有利となりますから」

 ベラ=ラフマの指摘にイムホテプは回答に詰まってしまう。その指摘はまさに正鵠を射ていたが、おおっぴらにそれを肯定できるほどイムホテプは恥知らずにはなれなかった。
 竜也は「要するに、だ」と不敵に笑う。

「俺達が聖槌軍と戦うことはケムトにとっては有利になっても不利にはならない。あなたが王女ファイルーズや俺達に全面協力しても、宰相プタハヘテプや特使ホルエムヘブにとっては予定の範囲内のことなわけだ」

 イムホテプは胸をなで下ろしながら「はい、その通りです」と頷いた。

「前置きが長くなったが、聞かせてほしい。聖槌軍との交渉はどうなったんだ?」

「今回は結果らしい結果は出ませんでした」

 イムホテプはまず結論を述べた。

「ネゲヴを東西に分割して勢力範囲を決めることを申し出たのですが、エレブ人は『我々単独でネゲヴ全土を占領できる』と強硬な主張を繰り返すばかりで……まあ半分くらいは交渉術の一環でしょうが」

「今回はとりあえず交渉の窓口を作った、というところですか」

 ベラ=ラフマの言葉にイムホテプが頷く。

「聖槌軍の誰と交渉を?」

「フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯という男です。時間はかかりましたが何とか最上位の人間を交渉の場に引きずり出すことができました」

「エレブ人は、ヴェルマンドワ伯はネゲヴ情勢についてどの程度知識があるんだ?」

「ネゲヴの町は形式上ケムト王に臣従しているが、実質はそれぞれが独立した自治都市――それなりに正しい知識を持っているようです。ネゲヴの諸都市が合議で独裁官を選出して聖槌軍と戦おうとしていることも知られています」

 竜也は少し考え、また別の質問をする。

「ヴェルマンドワ伯から何か要求は?」

「ケムト海軍による食糧補給を真っ先に要求してきました。それと、モーゼの杖を」

 モーゼの杖?と不思議そうな顔のファイルーズにイムホテプが説明する。

「はい。メン=ネフェルにある聖モーゼ教会、ここには聖杖教徒の聖遺物・モーゼの杖が残っているそうです。同教会から杖を『取り戻す』のは、歴代教皇の永年の悲願なのだとか」

「その話なら聞いたことがある。でもアンリ・ボケだけじゃなくてヴェルマンドワ伯もそれを要求するのか」

 竜也の疑問に答えたのはベラ=ラフマだ。

「ヴェルマンドワ伯は聖戦に対して懐疑的だと聞いています。聖戦の大義の一つであるモーゼの杖を手に入れられたなら、この戦争を適当なところで切り上げることもできる――ヴェルマンドワ伯はそのように考えているのではないでしょうか」

「なるほど。ヴェルマンドワ伯にとっては信仰の対象ではなく、あくまで政争の具に過ぎないわけか」

 竜也の理解をベラ=ラフマは「その通りです」と肯定した。そして、

「同じことは我々にも言えます。食糧補給の要求など飲めるはずもありませんが、杖一本くらいなら要求に応えることも検討すべきかと」

「ですが、その杖はその教会にとっては信仰の依り代なのでしょう? 果たして譲渡していただけるものでしょうか?」

 ファイルーズはそう言って眉を寄せた。

「どこかの王様のところに行って、王冠を寄越せと言うようなものです。普通に考えれば無理でしょう。王命として強引に奪い取ることもできなくはないでしょうが」

「そこまでして要求に応える必要はあるのでしょうか?」

 イムホテプとファイルーズの検討を聞き、竜也が決断を下した。

「……聖槌軍に対する交渉材料は手にしておく必要がある。今すぐは役に立たなくてもいつか役に立つ場面がやってくる」

 竜也の判断をベラ=ラフマとイムホテプは了解した。一方ファイルーズは、

「杖を無理矢理奪い取るのですか? あまり乱暴なことは……」

 その懸念に対し竜也が答える。

「判っている、杖は別に本物でなくていい。聖モーゼ教会にも協力させて、本物そっくりの杖を用意すればいい」

「偽物でだますのですか?」

 ファイルーズが驚きに目を見開き、竜也は悪辣そうな笑みを見せた。

「三千年前の伝説上の人物が使っていた杖が、四百年前に突然見つかったんだろう? だったら今年になってもう一本や二本見つかったって別段不思議なことはない。どんな杖であれ聖モーゼ教会が『これは本物だ』って保証してくれるなら俺達がそれを否定する理由はないんじゃないか?」

 ファイルーズは少し間を置いて「確かにその通りですわ」とにっこり笑った。

「ですが、エレブ人には余計な疑念を抱かれないようにする必要はあります」

 それはもちろんだ、と竜也は頷く。

「聖モーゼ教会には『杖を無理矢理取り上げられた』って言わせろ。『渡したのは偽物で、本物はずっと隠していた』と言っていいのはこの戦争が終わってからだ」

 竜也の指示にイムホテプは頷いた。イムホテプは部下の一人に命令を下し、数日のうちにケムトへと送り出した。







 イムホテプは部下のうち一部をケムトへと送り返し、一部をエレブへと送り出している。そうでありながらイムホテプの部下は増える一方だった。

「本日まででこれだけの者が集まりました。このうちファイルーズ様付きの女官となる者はこちらの名簿となります」

「はい。ありがとうございます」

 宰相プタハヘテプの方針に反発してケムトを飛び出してきた官僚や軍人、ファイルーズを慕ってスキラまで追いかけてきた女官や巫女、西ネゲヴから避難してきた太陽神殿の神官。そんな面々がイムホテプの元に集まっているのだ。

「王女ファイルーズがエレブの蛮族と戦おうというのにケムトに留まっているなど、末代までの恥です! どうか我々も戦列にお加えください!」

「あなた達の助力をありがたく思う。ネゲヴを守るために一緒に戦ってくれ」

 竜也はもちろんそれを喜んで迎え入れた。有能な官僚は総司令部に配属され、優秀な指揮官はアミール・ダールの下に預けられる。ケムト人の一団は総司令部の機能向上とネゲヴ軍の戦力増強に大きく寄与していた。
 ニサヌの月も下旬となる頃にはナハル川南岸の整備も大分進んできたので、またスキラ市民の避難を促すという理由もあり、竜也は総司令部をソロモン館からゲフェンの丘の上に移動させた。ゲフェンの丘には何隻もの船が並んでおり、そこに官僚が書類を、人足が荷物を運び込んでいる。

「これが王女ファイルーズの行宮……」

「まあ住み心地は悪くなさそうですね」

 竜也達は丘の上に並ぶ船の中で一番海に近い場所にある船の前に集まっている。その船ではファイルーズの女官、現地雇いの侍女が大勢集まって掃除や荷物の運び込みを進めていた。船内の飾り付けもケムト風であり、まるでケムトの王宮がそのまま引っ越してきたかのようだった。

「警備の都合もあるからミカにもここに入ってもらう」

 竜也の言葉ミカは頷きファイルーズは「はい、歓迎しますわ」と笑顔を見せた。

「ついでにわたしもここに入っちゃいます」

 と言い出したのはカフラである。竜也はわずかに戸惑いながらも「そうか」と頷き、ファイルーズも、

「ええ、もちろん構いませんわ」

 少なくとも表面上はにこやかにカフラを受け入れた。

「船の外側はともかく内側の警備は女の人がいいだろう? 牙犬族の女剣士を呼べるだけ呼んでもらっている。警備隊長はサフィールだ」

 竜也の言葉を受けてサフィールが一応頷くが、

「それで、タツヤ殿はどこに住むおつもりですか?」

「俺とラズワルドの部屋はそっちに」

 と竜也は総司令部の入っている船を指差し、サフィールは不満そうな表情をした。

「わたしはタツヤ殿の護衛です。そんなに離れていては護衛になりません」

「いや、俺の護衛ならバルゼルさん達もいるし、サフィールには王女を守ってもらわないと」

「わたしでなくても王女の護衛はできます。わたしはタツヤ殿を守りたいのです」

 竜也は困惑しながらもサフィールを説得しようとし、

「さ……」

 サフィールの瞳に涙がたまっているのを見て言葉を詰まらせた。

「……タツヤ殿はわたしがルサディルでどれだけ後悔したか判りますか? ツァイド殿だけでなくわたしもタツヤ殿についていけば、タツヤ殿をあれほど危険な目に遭わせずに済んだのです。あのときわたしは誓ったのです、もう何があってもタツヤ殿のお側を離れはしないと」

 サフィールの真摯な眼差しを向けられ、竜也は沈黙する。どう言ってサフィールを翻意させるかかなりの時間検討するが、結局その言葉は見つからなかった。

(……まあいいか、これまで通りにラズワルドの護衛も兼ねるってことにすれば)

 そう言おうとする竜也を先制するようにファイルーズが提案する。

「それでしたらタツヤ様もこの船に住めばよろしいのですわ」

 竜也が唖然とし、ミカが「え、それは」と焦る一方、

「ああ、それはいい考えですね!」

「そうですね。わたしもそっちの方が都合がいいです」

 カフラは様々な思惑の元に、サフィールは特に考えはなくその提案を肯定した。ラズワルドは何も言わないがその機嫌が斜めどころでなく一気に傾げている。

「ちょっと待て。俺はこの船を男子禁制にするつもりで、それじゃ意味が」

「大丈夫です、タツヤ様以外の殿方はこの船には入れませんから」

 何がどう大丈夫なんだ!と言いたいのを竜也はぐっと堪えた。竜也は深呼吸をして冷静になろうとする。

「……いや、俺がその船に住んだなら下世話な人間に何を言われるか判らないだろう? 王女ファイルーズやミカやカフラにだって迷惑がかかるし」

「わたし達がタツヤさんのお手つきになっているって噂を心配しているんですか?」

 カフラの言葉に竜也はやや気まずそうに頷くが、

「でも、もう遅いですよ? 随分前からそういう風に見られていますから、わたし達」

 衝撃のあまり竜也は顎が外れたような顔をした。その顔をファイルーズやミカへと向けるが、二人ともカフラの言葉を否定しない。

「……まあ、今の時点でそうなっていると思っているのはよほどの下郎だけでしょう。ですが、いずれはそうなるとほとんどの者が思っているのは確かです」

 ミカは気まずさと恥ずかしさを半々にした表情でそう言う。ファイルーズは普段と寸分変わらぬ華やかな笑顔である。

「わたし達もその見方を助長はしても否定はしませんでしたから」

 どうして、と問いたげな竜也にファイルーズはにこやかに説明した。

「それがタツヤ様に必要だからです。わたし達と強いつながりを持っているという事実が」

 竜也が事態を理解するにはその一言で充分だった。

「……ギーラが王女達の身柄を求めたのと同じことか。マゴルで根なし草の俺が独裁官として認められるにはそれが必要ってことか」

 ファイルーズにはケムトの権威、ミカにはアミール・ダールの武力、カフラにはナーフィア商会の財力。彼女達とのつながりがあるからこそ、それを背景にしているからこそ竜也は独裁官でいられるのだ。だが、それと引き替えなのがファイルーズ達三人の評判だった。例えそういう事実がなかろうと、竜也のためにファイルーズ達三人がこの先女として傷物扱いされるのは間違いなかった。

「……俺はどうしたら」

 そこまで理解した竜也は気を沈ませた。全身に何トンもの重りがのしかかっているかのようだ。身体が地面に沈んでいかないのが不思議なくらいだった。

「タツヤ様がお気になさることではありませんわ」

「そうですよ」

 ファイルーズは竜也を気遣うよう笑みを見せ、カフラもそれに倣った。だが満面の笑みで「でも」と付け加える。

「責任は取ってくださいね?」

 竜也は会心の一撃を食らったかのように崩れ落ち、失意体前屈の姿勢となった。サフィールはうろたえているがファイルーズ達は気にも留めていない。ファイルーズとカフラが両側から竜也を抱き起こした。

「それじゃ向かいましょうかタツヤさん。わたし達の愛の巣へ!」

 突っ込みを入れる気力もない竜也をファイルーズとカフラが引きずるように連行し、それに呆れ顔のミカと未だうろたえているようなサフィールが続く。不機嫌さが極まったラズワルドが最後に付いていった。
 ……ニサヌの月が終わる頃、ナハル川南岸に移動した総司令部が機能を開始する。その頃には「サフィナ=クロイ」の呼び方がナハル川南岸に生まれつつある新たな町の名前として定着しようとしていた。






[19836] 第二一話「キャベツと乙女と・前」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/08 21:01




「黄金の帝国」・会盟篇
第二一話「キャベツと乙女と・前」






 月はニサヌからジブの月(第二月)に入り、その初旬。
 サフィナ=クロイの名前が定着しつつあるナハル川南岸には避難民の姿が急増していた。スキラの他、スファチェやハドゥルメトゥムといった近隣の町からの避難民がようやく集まってきているのだ。避難民が増えれば人足も増えるし、食うために兵士になる人間も増える。ナハル川の要塞化工事は進展速度を急速に上げていたし、ゴリアテ級輸送艦のための造船所建設工事も同様である。
 ただし、軋轢や問題はそれ以上の速度で急増していた。

「避難民同士の乱闘です! 首謀者を確保しました!」

 元々は竜也の護衛役だった牙犬族だが、竜也が即時動かせる戦力として重宝した結果、今ではサフィナ=クロイの治安警備を一手に担うようになっている。ジューベイやラサース達はサフィナ=クロイの町中を走り回り、大活躍をしていた。今もまた乱闘を起こしていた避難民を何人か逮捕して総司令部まで連れてきたところである。
 その彼等の前にラズワルドが進み出る。逮捕された避難民だけでなく牙犬族の剣士達も怯えた様子を見せた。
 ラズワルドはほんの数秒彼等を見つめ、竜也の元に戻っていって手をつなぐ。ラズワルドから事情を知らせてもらった竜也は頭痛を堪えているような表情をした。

「……原因はスファチェ側の責任がより大きいが、乱闘はハドゥルメトゥム側の方が多大な危害を与えている。よって双方の責任を同等とし、乱闘の参加者全員を簡易牢に暫定投獄。首謀者は鉱山送りとする」

 竜也が即決で判決を下し、牙犬族が避難民を引っ立てていこうとする。

「くそっ!」「この、悪魔が!」

 抵抗する避難民がラズワルドに怨嗟の視線を向け、罵声を浴びせる。だがラズワルドは薄笑いを浮かべながら、

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 胸を張ってそううそぶくラズワルドに避難民等が絶句する。その隙を突いて牙犬族が避難民を強引に引っ立て、連行していった。
 大抵の町では犯罪者を裁くのは長老会議の役目だが、この町には長老会議が存在せず、現状ではかなり小さな裁判でも竜也が主催するしか方法がない。ラズワルドの恩寵は公正な裁判に、延いてはこの町の治安維持に必要不可欠となっている。だが竜也はラズワルドの恩寵を事情聴取に使うだけで、判決そのものをラズワルドに委ねたりはしなかった。どれだけ面倒であろうと、竜也が自分の考えで判決を下している。
 今回の乱闘の直接的原因は食料の不足である。腹を減らしたハドゥルメトゥムの子供がスファチェの避難民から食料を盗もうとし、スファチェの避難民がその子供に暴行を加え、誤って殺してしまったのだ。それに怒ったハドゥルメトゥム側がスファチェの避難民を襲撃、死者一人、重傷者二人を出している。
 今回のようなどこかに悪者がいるわけではない、だが深刻な被害が出ている裁判を主催し、元々悪人ではなかった者に処罰を下し、場合によっては鉱山送りとしなければならない。このような裁判が連日のように続いており、竜也の精神に多大な負担をかけていた。
 最近は裁判関係でラズワルドの仕事も増えてきたので、竜也の身の回りの世話はファイルーズ付きの女官が担当するようになっている。

「タツヤ様、ちゃんと食べて精を付けてください」

「うん、判ってる」

 創意工夫を凝らした、それでいて素材の持ち味を生かした料理の数々が竜也の目の前に並んでいる。少し前なら喜んで全て食べられただろうが、それらの料理は今は全く竜也の喉を通らなかった。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 パンと果物をお茶で胃袋へと流し込み、竜也の食事は終了した。ファイルーズが心配そうに竜也を見つめるが、竜也はそれに気付かないふりをするしかない。
 食事を終えた竜也が総司令部に使っている船へと戻ってくる。総司令部の事務室はその船で一番大きい部屋に入っていた。多数の机が並び、事務処理の官僚がせわしなく走り回っている。竜也の執務室はその奥の別室、元々は船長室だった部屋だ。総司令部にはかなりの下っ端事務員でも出入り可能だが、執務室には高官や竜也の側近しか立ち入ることが許されていなかった。
 総司令部で竜也を待ち構えていたのは、事務方統括のジルジスである。ジルジスはレプティス=マグナの長老会議から出向してきた人物だ。長老と言っても年齢は四〇代でまだ若い。ジルジスは総司令部の事務仕事担当者を取りまとめる役を担っており、非常に有能である。ジルジスがいなければ総司令部はとっくの昔に破綻していた。だが、

「スファチェとカルトハダの避難民が境界線争いを」

「境界線は最初に決めたものを守らせろ」

「オエアに避難した避難民とオエア市民との諍いの調停の要請が」

「俺達がオエアに行くような時間はない。双方の代表と証人となる人間を総司令部に来させろ」

「スキラ避難民の代表者が面会を求めています」

「抗議や要望はまず文書で提出させるんだ」

「水不足が深刻になっています」

「上水道を整備する計画はどうなっている? 早く提出させろ」

「各地の避難所で多数の病人が」

「それについてはファイルーズに視察に行ってもらっている」

 山積する問題を竜也が必死に処理していくが、問題はそれ以上の速度で積み上がっていく。ジルジス達の力を持ってしても竜也の負担は極めて重く、竜也の精神的肉体的限界までの余裕はもうそれほど残っていなかった。
 バリアの提出する書類に承認のサインをし、計画の実行をバリアに委ねる。竜也の脳内では上水道等のいくつかの問題は解決済みということになった。

「独裁官タツヤ、金獅子族の族長が面会を求めていますが」

「……あー、会わないわけにはいかないな」

 処理するよりも早く未処理の仕事が積み上がっていき、今は一分が惜しい。約束のない面会に時間を割きたくはないのだが、相手は金獅子族。恩寵の部族の中でも最も有力な部族であり、多くの戦士を西ネゲヴに派遣しており、竜也にとっても重要な政治的味方である。「今は忙しい」で片付けられる相手ではなかった。
 竜也は応接室で金獅子族の族長と面談を持った。金獅子族の長老はインフィガル・アリーという名の、六〇過ぎの年齢の男である。彼の持つ荘厳な気配は確かに諸部族の長に相応しいものだった。

「いや、忙しいところすまんな」

「いえ、お気になさらないでください。今日はどうしたんですか?」

 竜也は笑顔を作りながら手早く話を進めようととする。

「今、この町では牙犬族が町の警備をしているな」

「はい」

「王女ファイルーズの元では牙犬族の女剣士が警護をしているな」

「はい」

「独裁官を警護しているのも牙犬族だな」

「はい」

 それが何か?ととぼけた顔を作りながらも、竜也はアリーの言わんとすることを理解していた。竜也は内心で頭を抱える。

「何、牙犬族だけではいざというとき不安が残るのでな。我が一族からもお主の周りに戦士を出したいと思っておるのだ」

「はい、ありがとうございます」

 竜也はそう答えておいて、

「ですけど、金獅子族には聖槌軍との戦いの中核になってもらわないといけません。金獅子族の戦士を要人警護に使うなんて、剣で野菜を切ろうとするようなものではないですか?」

 何とかその提案を断るべく知恵を巡らせた。竜也のおだてにアリーは「うむ、確かにその通りだ」と満更でもない表情だが、

「だが、牙犬族の扱いが今のままでいいわけではないぞ。金獅子族や赤虎族が血を流して戦っておるのに、敵と戦いもせん牙犬族が独裁官の下で偉そうにしておっては、我々が面白いわけがなかろうが」

 と釘を刺すことも忘れない。

「もちろんそれは判ります」

 竜也は言い訳を駆使してアリーの不満をなだめた。結局、牙犬族の剣士にも順番に前線に加わってもらうこと、ファイルーズの警護として他部族の女戦士を受け入れること等を約束してひとまずの納得を得、アリーに帰ってもらった。かなりの時間と体力を費やし、竜也はぐったりとする。
 少しだけ休もうと思っていたらその間もないうちにファイルーズが視察から戻ってきた。竜也は起き上がってファイルーズを出迎える。

「すまない。それで、どうだった?」

 はい、とファイルーズが返答し、同行している部下に回答を促す。ケムトからやってきた官僚の一人であるイネニというその男が竜也に報告した。

「衛生状態が最悪です。避難所ではどこに行っても汚水の臭いが漂っています。上水と下水の区別すら曖昧です。あれではどんな健康な人間でも病気になってしまうでしょう」

「上水道の整備は計画させている。問題は下水の方か」

 竜也は腕を組んで考え込んだ。

「……こっちじゃ糞尿は川か海に捨ててるんだよな。回収して肥料にすることを考えればもう少しは――サフィール!」

「は、はい?」

 いきなり名前を呼ばれたサフィールは戸惑いながらも返答する。

「牙犬族の村ではどうだった? やっぱり糞尿は捨てるだけなのか? それとも」

「いえ、わたし達の村では溜め込んだ糞尿を発酵させて肥料にしています。剣祖に教わったやり方です」

「それだ!」

 と竜也は指を鳴らした。

「ジューベイさんを呼んでくれ。そのやり方をこの町でも取り入れる」

 数刻後。執務室にやってきたジューベイに、竜也は事情を説明した。

「……そんなわけで、町の糞尿を全部回収して肥料にする。牙犬族の村から人を呼んで、やり方を指導してほしい。糞尿の回収も牙犬族の方で人を集めてやってもらえると助かる」

 竜也の依頼にジューベイは「しかしそれは……」と難色を示す。竜也はちょっと首を傾げながら、

「何か問題でも?」

 と問うた。ジューベイは意を決して「そのような汚穢な仕事、引き受けかねる」と竜也にきっぱり告げた。

「そのような仕事を引き受ければ牙犬族の名を落とすこととなる。それくらいならば牙犬族だけで聖槌軍に突撃しろと命じられる方がまだマシだ」

 竜也は頭を抱えたくなった。「職業に貴賎なし」が建前の二一世紀の日本ですら、貴賤はなくともステイタスの高低は厳然としてあったのだ。中世相当のこの世界ならジューベイの反応の方が当然であり、非難には値しない。
 竜也はどうすべきか考え込んだが、それほど長い時間は必要としなかった。竜也はいくつかの問題をまとめて解決すべく、ジューベイに提案する。

「……ジューベイさん。今牙犬族にはこの町の治安警備をやってもらっているけど、それを正式に牙犬族の担当としたい。この町の治安には、ジューベイさん、あなたが責任を持つということだ」

 ジューベイは無言のまま竜也に続きを促した。竜也が話を続ける。

「糞尿回収の仕事は、牙犬族が逮捕した犯罪者にやらせようと思う。牙犬族にはその監督をやってもらいたい、ということだ。犯罪者の仕事を直接監視・監督するのは雇った人間にやらせればいいけど、最終的な責任は牙犬族が持ってもらうことになる。つまりこの仕事は治安警備の一環なんだ」

 ジューベイが「ぐ」と何か言葉に詰まった。先ほどよりは態度が軟化していることを感じ取り、竜也が攻勢を続ける。

「糞尿は発酵させればいい肥料になるし、それを農民に売ればいい現金収入になる。金になると判ればこちらから頼まなくても向こうから『やられてくれ』って言ってくる商人も出てくる。事業が軌道に乗るまでの間だけの話だ」

 ジューベイは渋い顔をして沈黙したままだ。竜也は一枚目の切り札を切った。

「ジューベイさん。治安警備担当の中で特に優れた剣士には、総司令部の直衛に就いてもらうことを考えている」

「直衛?」

「そうだ。聖槌軍との戦いについては将軍アミール=ダールの管轄だ。全ての部族、全ての兵が将軍の指揮下に入る。でも、この直衛はその指揮系統から切り離す。総司令部の、独裁官の直接指揮下に入ってもらうんだ」

 おお、とジューベイが感嘆する。竜也が説明を続けた。

「任務は総司令部の、独裁官の護衛。もしナハル川の防衛線が突破された場合には、治安警備担当を率いて最後の盾になってもらう。また、独裁官が戦場に出陣する場合は供回りを務めてもらいたい」

 要するに、独裁官クロイ・タツヤの親衛隊である。判っているのかいないのか、ジューベイは「ふむふむ」と頷いている。
 日本文化を介したつながりや親近感があり、一番最初から行動を共にしてきた経緯があり、ルサディルでは戦死者を出した実績もある。竜也の牙犬族に対する信頼は深く、いまさら牙犬族を外して他の部族や兵士を親衛隊にしようとは考えていなかった。だが、アリーが言うように現状に対する他部族からの不満は決して無視できない。だからあくまでこれまでの警護の延長、事実上の親衛隊扱いとし、正式に親衛隊とはしていなかった。だが、それも糞尿処理の汚穢仕事とワンセットであるのなら他部族の反発も深刻なものにはならないだろう。
 竜也はその点もジューベイに説明したが、ジューベイはまだ「しかし……」と渋っている。竜也は最後の切り札を切った。

「独裁官警護隊には制服を用意しようと思う。こんな感じだ。隊章はこんな感じ」

 竜也は書類の裏に即興で制服と隊章の絵を描いた。制服は袖や裾にだんだら模様を入れた陣羽織、新撰組の隊服をそのままパクったものである。隊章は、刀を口に咥えた精悍な犬の絵だ。ジューベイは瞳を輝かせてその絵に見入っている。

「どうだろうか?」

「判った、お受けいたす。我等牙犬族はお主に、クロイ・タツヤに忠誠を捧げよう。たとえ腕を斬られようとも口に刀を咥えて戦おう。この隊章のように」

 意気揚々と総司令部を去っていくジューベイを見送り、竜也はため息をついた。

「下水処理はこれで問題解決……ということにしておこう。そう言えば」

 と竜也は周囲を見回す。

「ここの上水道整備も考えないと」

 総司令部があるゲフェンの丘は官庁街の様相を呈しつつある。だがここで仕事をする人間が増えれば、それだけ上下水道の整備が必要となった。下水については海側に捨てるだけなので人数が増えようとそれほど大きな問題にはならない。問題は上水道だ。

「幸い丘のふもとに泉が湧いているからきれいな水は確保できるけど、丘の上までそれを汲み上げるのが面倒なんだよな」

「確かに面倒ですが、他に方法があるのですか?」

 官僚の一人が竜也の考えを確認するように問う。現在は下働きの人間が、泉の水を溜めた桶を担いで丘を登っている。つまりは完全な人力による水道である。

「幸か不幸か、人手には事欠きませんから」

「だからと言って、いつまでもこのままってわけにもいかないだろう」

 余力があれば地下水道を掘ってサイフォンの原理でここまで水を引っ張ってくるんだが、等と呟く竜也をその若い官僚は不思議そうに見つめている。

「ポンプが使えれば話は早いだろうけど、でも動力が――」

 何かを思いついた竜也はそのまま考え込む。少しの時間を経て、竜也は部下に指示を出した。

「近いうちにゴリアテ級の建造現場に視察に行くからそのつもりで」





 スケジュールを調整して視察の時間を作れたのは二日後である。その日、竜也はサフィナ=クロイの町外れに建設中の造船所の視察にやってきていた。
 ゴリアテ級輸送艦五隻を同時建造するにあたり、まずはそれだけの能力を持つ造船所の建設から取りかからなければならなかった。海辺が目の前の、砂浜と草原の中間のような場所に巨大な穴を掘っていく。大きさは、長さ百数十メートル・幅五〇メートル、深さはまだ数メートル程度。穴の土壁は砂が多く崩れやすいのでセメントで固められる。

「なるほど、この穴の中で建造するのか」
 竜也を案内するガリーブが「その通りだ!」と答えた。

「船の建造と同時に海側からも穴を掘って運河を造り、水門を作って運河と工廠とを隔てる予定だ! 船が完成したなら向こう側の川から水を引いて船を浮かべ、その状態で水門を開けば船は水ごと海に出る!」

「水の大半は船と一緒に出て行って、残った水は水門を閉めて掻き出すんだな」

 建設現場では何千人もの労働者がひたすら巨大な穴を掘っていた。人がまるで蟻の群れのようである。別の一角ではネゲヴ中から集められた木材が山と積み上げられており、一部では部品の削り出しが始まっている。当然ながら船はまだ影も形もできていなかった。
 工事現場の一角に安置された、大きな瓶が竜也の目に留まった。

「あれは?」

「ああ、土瀝青だ。船の防水材に使用する」

 竜也は何気なく瓶の中を覗き込み、そこに溜め込まれているのがアスファルトであることを理解。途端に竜也の目つきが鋭くなった。

「……ガリーブさん、この土瀝青はどこで手に入れたんですか」

 竜也の様子に怪訝な表情をしながらもガリーブが答える。

「地面を掘ったら水じゃなくて油が出てきた井戸が南の漁村にあってな。そこから仕入れさせている」

「そうか、油井……!」

 北アフリカはアラビア半島に次ぐ産油地帯である。今までそのことに思い当たらなかった方が迂闊だった、と竜也は自分を罵った。竜也は即座に同行している官僚の一人に指示を飛ばす。

「そこ以外に、他の場所に油井がないか確認しろ。東ネゲヴ中の町に調べさせるんだ。最低数ヶ所は確保したい、必ずどこかにあるはずだ」

「油などどうするおつもりですか?」

 その問いに竜也は当たり前のように答える。

「そんなの決まっている。敵にぶっかけて燃やすんだ」

 建設現場事務所へと戻った竜也は用件を切り出した。

「総司令部に建ててほしい建物があるんだが、あなたの弟子を貸してくれないか?」

 その言葉にガリーブが「ザキィ、任せる」と命令する。ザキィは笑みを見せながら竜也の前へと進み出た。

「はい。どのような建物でしょうか?」

「簡単に図を書いてみた」

 と竜也は事前に用意した絵図を広げる。そこに描かれていたのは巨大な風車である。

「風車ですか?」

「そうだ。風を受けて風車が回るとこちらのロープに連動して、水の入った桶を引っ張ってくる。桶がここで回転して、この水槽に水を入れて、空の桶がまたふもとの泉に向かうようにしてほしい」

 ふむ、とザキィが腕を組んで考え込んだ。

「構造自体は単純ですので建設は難しくないでしょう。問題は風車と泉との距離ですね。井戸の上に建設するのなら楽なんですが」

「可能かどうかの確認も含めて、その辺は任せる。とにかく水汲みの手間を省ければいいんだ」

 判りました、とザキィが頷く。数日後には造船所からザキィがやってきて、ゲフェンの丘の総司令部周辺を確認して回った。

「ふもとの泉から丘の上までが遠すぎます。あのような構造物は現実的ではないですね」

 ザキィは視察の結果をそう結論づけた。竜也は「そうか」と落胆する。そこにザキィが「ですが」と提案した。

「井戸を掘ってはどうでしょうか?」

 竜也は首を傾げる。

「湧き水があるんだから井戸も掘れるだろうが、丘の高さは見れば判るだろう? それこそ現実的じゃないんじゃないのか?」

「ええ、普通ならそうですが、見たところこの丘は石灰岩が多いようです。地下が空洞になっているかもしれない。もしそうなら大して深く掘らなくても地下水にたどり着けるかもしれません」

「それなら任せる。人手はこちらで用意しよう」

 竜也は速やかに決断を下した。
 後日、掘削場所を決めるために、L字型の二本の棒を持ったザキィが大真面目な顔で丘の上をうろうろしている姿が見られ、竜也は笑いそうになるのを我慢した。ザキィが決めた掘削場所には既に木造小屋が建っていたのだが、竜也の要請で小屋は別の場所に移動させられる。小屋を使っていた官僚達も移動に対しほとんど文句を言わず、井戸掘りは速やかに進められた。
 またある日の総司令部、竜也が官僚の一人に確認する。

「そう言えば、織物職人と会うのは今日だったな」

「ええ。もう集まっています」

 そうか、と竜也は答え、織物職人等との面会に向かった。

「あなた達に作ってもらいたいのは、まずこういう外套だ」

 織物職人等が集められた部屋で、十数人の職人に向かって竜也は前置きも何もなしに用件を告げた。竜也は一同にそれが描かれた絵を示す。

「こっちが青でこっちが白。ここに紐があって前で結ぶ」

 以前ジューベイに伝えたように、竜也は独裁官警護隊の隊服を揃える手配しようとしていた。また警護隊やその他の旗も用意しようとする。

「服と同じ青と白の染料を使ってこういう旗を作ってほしい」

 竜也は牙犬族の隊章となる、剣を咥えた犬の絵図を示す。竜也はさらに別の絵図を職人達に示した。

「次、これは奴隷軍団の軍旗だ」

 その図案を見た職人達は、戸惑ったような微妙な反応をする。その旗に描かれているのは紅蓮の炎と螺旋を描いたドリルであり、元の世界の日本人が見たなら「どこのグレン団だ」と突っ込みを入れること間違いなしの代物だった。

「……これは一体?」

「鉱山で使っている道具をモチーフに選んだんだ」

 職人の一人の問いに竜也は胸を張って答える。その職人は「他に道具やモチーフはあっただろうに」と言いたげな顔をするが、竜也はそれを無視した。
 竜也も最初は他の採掘道具を、例えばツルハシをモチーフにした図案を考えたりもしたのだ。だがどこかの旧共産国の国旗のようになってしまったので「イメージが悪い」と却下したのである。

「次、こっちは海軍用の旗だ」

 その絵を見せられた職人が、今度は感嘆の声を上げる。髑髏船団が今使っている稚拙な髑髏の絵とはわけが違う、迫力のある髑髏がリアルに緻密に描かれていた。

「最後に、これは俺個人の旗となる。この旗は五パッスス(約七メートル)四方の大きさで作ってくれ」

 その絵を見せられた職人からは、今度は声一つ漏れることがなかった。七つの首がとぐろを巻いた、巨大な黒い竜の姿。それは竜也が魂をぶつけて描いた渾身の一作。自分を「黒き竜」だと信じる竜也が、自分の魂を絵の形に、竜の姿に託したものだった。





[19836] 第二二話「キャベツと乙女と・後」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/10 21:05




「黄金の帝国」・会盟篇
第二二話「キャベツと乙女と・後」





 独裁官公邸となっている船は女の園である。
 竜也としてはファイルーズの行宮に自分が居候しているものと考えているのだが、そう思っているのはサフィナ=クロイでも竜也一人だけ。竜也以外の全ての人間が「独裁官公邸にファイルーズやミカ達が住んでいる」と考えている。口の悪い人間には「独裁官クロイの後宮(ハーレム)」と噂されており、竜也にもその陰口を否定することはできなかった。もっとも竜也と同衾することがあるのはラズワルドくらいのもので、それも単にたまに一緒に眠っているだけで他に何もないことは言うまでもない。
 主人の竜也がただ一人の男で、それを取り巻く女性がファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール。ファイルーズは自分付きの女官のほとんどを船に置いて、船の炊事掃除洗濯の一切を自分の女官の管轄としていた。つまり、竜也の衣食住の全てを取り仕切っているのはファイルーズ一派ということだ。ミカも、アミール=ダールと共にやってきた自分付きの女官を船に置いている。だがその人数はほんの二、三人で、自分の身の回りの世話以外のことはやらせていない。カフラもまた自分用のメイドを二、三人用意し、船に置いていた。船を内側から警護する牙犬族の女剣士達は形式上はサフィールの部下である。その剣士達に自分の世話をさせようなどと、サフィールは一度たりとて考えたこともないが。
 つまり、ラズワルドだけがただ一人で、身一つで船にいるという状態だったのだが、それが急変する。ジブの月の中旬のその日、竜也を除く船に居住する人間のほとんどが船の前に集まっていた。

「……ラズワルドさん、その方々は一体?」

 船の前で、ファイルーズとラズワルドが対峙する。音源が何なのか皆目判らないが「ゴゴゴゴゴ……」という謎の音がして、ファイルーズの背後に太陽神ラーが、ラズワルドの背後に巨大な白い兎がそれぞれ屹立しているように見えたが、それらは全て気のせいである。
 ファイルーズの背後に控えていたのは実際にはファイルーズ付きの女官十数人である。一方ラズワルドの背後に控えている十数人の女性達は見慣れぬ衣装を身にしていた。白い、ゆったりしたワンピースは指先から爪先までを完全に包んでいる。白いフードですっぽりと頭部と顔の上半分を覆っているが、目を覆う部分は白いベールになっているようでちゃんと外が見えているようだ。そしてフードの頭頂部には二つの穴が空き、そこから兎の耳が飛び出していた。
 皆似たような(細身で起伏に乏しい)体格で、全員同じ服を着て、全員顔を隠している。まるで同じ人間が十数人並んでいるかのような、一種異様な雰囲気を醸し出していた。

「何でそんな変な格好なのですか?」

 服装についてはあまり他人のことは言えないサフィールが遠慮の欠片もなくひどい質問をし、

「日の光が嫌いだから」

 ラズワルドもまたひどい答え方をした。ファイルーズの女官達が顔色を変える。

「アルビノみたいに瞳や皮膚の色素が少ない白兎族は、強い日差しが苦手なのが部族の特徴だから」

 とちゃんと説明すればよかったのだろうが、ラズワルドのこの言い方では太陽神を守護神とするファイルーズ達に喧嘩を売っているとしか思えなかった。

「白兎族から出した、タツヤのための女官。今日からここに住まわせる」

 ラズワルドは一同に白兎族の女性達のことをそう説明した。

「ここには既にわたしの女官達がいてくれています。その者達にしていただく仕事は特にないのではありませんか?」

 ファイルーズは微笑みながら、やんわりと、だがはっきりと白兎族の受け入れを拒絶する。だがラズワルドも負けてはいなかった。

「下働きに呼んだわけじゃない。それはそっちでやってくれればいい」

 ファイルーズの女官達が怒りを見せるが、ラズワルドはそれを無視して続けた。

「ギーラみたいな連中からタツヤを守る。それが白兎族の仕事」

「既に警護隊があるのではないですか? サフィールさん?」

 ファイルーズに話を振られ、サフィールは言いづらそうに答える。

「あの、『白兎族の女性を船に住まわせる』という決定はバルゼル殿から聞いていました。ただ、こんな大人数だとは……」

 ファイルーズはラズワルドの方に顔を向けると、華やかだが仮面のような微笑みを見せた。

「警護隊長の決定でしたら是非もないことです。ただ、もう少し人数を減らしていただけませんか? この船もそれほどの大きさはないのですよ?」

 だがラズワルドは傲然と「そっちが減らせばいい」とうそぶく。そして人差し指をファイルーズの背後の女官に向け、

「それと、それと、それ」

 と三人の女官を指差した。

「その三人にはケムトの宰相の息がかかっていて、宰相から渡された毒を隠し持っている。その三人は今すぐここから追い出して」

 ファイルーズの女官達は無言のまま恐慌状態に陥った。ファイルーズの笑顔が凍り付き、仮面が剥がれそうになる。だが何とか笑顔を取り繕った。野次馬気分で事態を見守っていたカフラやミカ達も心身を凍り付かせたが、白兎族の女達にも動揺の仕草が見られたため多少は気が休まった。

「あ、悪魔……!」

 指名された女官の一人が絞り出すように怨嗟の声を上げる。だがラズワルドは、

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 と冷笑を浮かべるだけだ。

「あと、そこの女官はタツヤを誘惑して寝取るつもりでいる。追い出した方が先々面倒がないと思う」

 ラズワルドは追加で一人の女官を指名する。指名された女官は怒りと恐怖で過呼吸を起こしそうになっていた。

「……まだ減らす?」

 ラズワルドが小首を傾げて問い、ファイルーズは首を横に振った。仮面のような微笑みは浮かべたままだが、仮面の隙間からわずかに敗北感が垣間見えた。

「……その力でタツヤ様をお守りくださいね?」

 ファイルーズの言葉にラズワルドは「ん」と頷く。ファイルーズとその女官が道を開け、白兎族の女性を連れたラズワルドが船へと進んでいく。その姿を、慄然とした顔のミカやカフラ達が見送った。

「……白兎族の人達も平静ではないようですが」

「……みたいですね。タツヤさんに聞いたことがあります。あの子のあの恩寵は白兎族の中でも特別だと」

「それはそうでしょう。今日来た白兎族の人達が皆あの子みたいなのだったら」

 ミカは自分で口にして、その想像に身震いする。

「あんな子はあの子一人でも充分すぎます」

「あの子がタツヤさんの敵でなくてよかった、としか言いようがありませんね」

 ミカやカフラ達はそんな所感を述べ、深々と頷き合った。





 白兎族の女達がサフィナ=クロイにやってきたのと同時に白兎族の男達もまたこの町に到着しており、竜也は総司令部で彼等と会見を持つこととなった。なお、白兎族の男達は揃って白人のように白い肌と赤みがかった瞳を有している。アルビノっぽいのはラズワルド一人ではなく白兎族全体の特徴で、ラズワルドはその特徴が特に強く表れているようだった。
 白兎族の男達が集められたのは裁判所の一室だ。竜也はこれまでの裁判の調書や判決文の束を白兎族へと示した。

「白兎族には司法関係の仕事を委ねたいと考えている。治安警備隊が逮捕した犯罪者からあなた達が事情聴取をし、事実を見極める。ラズワルドのおかげでサフィナ=クロイの法廷は冤罪知らずだ。あなた達にもそれを期待したい」

 白兎族の男達は無言で頷いた。

「裁判所の仕事は、今は犯罪者相手が中心だけど平和になれば商売上の諍いの調停とか多岐に渡ることになるからそのつもりで。

 ――ネゲヴの大抵の町では裁判は長老会議の管轄だ。法律も量刑も慣習法に則っている。でもこの町にはまだ長老会議がないから、他の町の慣習法を参考に俺が量刑を独断で決めている。……窃盗とかの小さな犯罪は難民の出身地ごとに作った自治会に任せられるようになったけど、殺人等の大きな犯罪や自治会をまたぐ事件は俺の管轄だ。あなた達白兎族には事情聴取だけでなく、裁判官に対して求刑することもお願いしたい。

『慣習法に基づけばこの程度が適当である』

『これまでの判例に従えばこの程度が適当である』

『慣習法と判例ではこの程度だが、犯罪に至った事情を考慮すると一定の減刑が妥当である』

 ……とかそういう判断をして、俺に助言してほしいということだ」

 要するに、主として検事の役割を求めているということだ。白兎族は戸惑ったような顔を見合わせた。竜也は構わず続ける。

「勿論判決を出すのは裁判官、この町では俺の役割だが、そのための助言だけであっても決して簡単な仕事じゃない。慣習法に関する知識、これまでの判例に関する知識を蓄積し、深めていかなきゃいけない。でも、誰かがそれをやる必要がある。法と正義を司るこの仕事に最も相応しいのは白兎族だと思っている」

 竜也の真摯な瞳が白兎族の男達を射貫く。白兎族は痺れたように小さく身を震わせた。

「わ、判りました独裁官クロイ。身命を賭してやりましょう」

 生真面目を絵に描いたような白兎族の青年がそう申し出る。

「呪われた、忌まわしき部族と呼ばれた我が白兎族。その名を法と正義の使者となし、ネゲヴの民の心に刻み付けてやりましょう」

「白兎族の名誉と繁栄のために……!」

「一族の命運を懸けて!」

 白兎族の男達は静かに、熱く燃え上がった。竜也は満足げに頷き、付け加えた。

「当分はこの町だけだけど、将来的にはあなた達を司法官としてネゲヴ全土に派遣することを考えている。それぞれの町の長老会議の主催する裁判に加わり、冤罪をなくし、適切な求刑を助言するんだ。だから先々にはネゲヴ各地の町の慣習法を、各地の判例を把握しなきゃいけない。そういう積み重ねを経て、白兎族には司法の専門家になってほしい」

 白兎族の男達は力強く頷いた。

「それじゃ、総司令部の司法担当官をベラ=ラフマさん、あなたに――」

 だがベラ=ラフマは首を横に振った。

「恐れ入りますが独裁官タツヤ、その役職はそこのハカムに任せたい」

 生真面目そうな青年が驚きながら「私が?!」と自分を指差した。

「ハカムは私などよりずっと恩寵が強く、勉強家で知識が深く、何より正義感が強く真面目な性格です。私などよりよほど司法担当官に相応しい」

 竜也は少しの時間何かを考えていたが結局「そうか」と頷いた。

「それじゃハカムさん。今日からでもお願いする」

「わ、判りました。死力を尽くします」

 ハカムは全身を硬直させながらもそう返答した。こうして白兎族はその恩寵を司法に活用し、ときに恨まれ、ときに感謝され、大体の場合において敬遠されるようになる。だがそれまでのように単に忌まれ、怖れられるよりは境遇的にはかなり改善したと言える。後々にはネゲヴ社会の安定に欠かせない存在となっていくのだがそれはかなり先の話である。
 一方、白兎族の女達は女官として公邸に居着いているが、彼女達が普段何をしているのかは部外者にはよく判らなかった。炊事掃除等の下働きは現地雇いの侍女にさせ、ラズワルドを囲んでのんびり過ごしているようにしか見えない。ファイルーズは各地の太陽神殿と連絡を取り合い指示を出す等し、その女官も精力的に動き回っているのとは対照的である。
 だが実際には白兎族の女官達もケムトの女官に負けないくらいに動いているのだ。ただ、船の外に出るときには服を換え、ウサ耳を外して髪も染めているので白兎族の女だとは誰にも判らないだけである。彼女達は総司令部の内外に潜入し、情報収集に従事している。船からろくに出もせず惰眠を貪っているようにしか見えないラズワルドだが、女官達が集めてきた情報をまとめて整理するのは少女の役目だった。

「……もういい、わたしが確認する」

 ただ、彼女達が懸命に集めた情報よりもラズワルドが軽く読み取ってきた情報の方がよほど正確であることが少なくないのだが。
 こうしたラズワルドの諜報活動の成果はまとめて竜也に報告された。

「総司令部のうちギーラと協力関係にあるのがこの人達。あとこっちは聖槌軍に情報を流している人達。ついでに、総司令部のお金を横領しているのがこの人達」

 ラズワルドが差し出す各種リストを竜也は頬を引きつらせながら受け取った。ラズワルドは普段とあまり変わらない仏頂面だが、竜也の目には「ほめて、ほめて」と満面の笑みでせがんでくるラズワルドが見えている。

「ありがとう、助かった。この連中をどうするかはベラ=ラフマさんと相談して決めるから」

 ラズワルドはここでようやく自分の失敗を理解する。竜也に喜んでほしくて、竜也に働きを認めてほしくて直接竜也に手渡したブラックリストだが、ラズワルドはそれを竜也にではなくベラ=ラフマに渡すべきだったのだ。

「名前が挙がっている人間が全員いなくなったら総司令部が動かなくなる。よほど悪質な連中以外は手出ししないでくれ」

 リストには実に総司令部に属する人間の三割の名が連ねられている。竜也は何度も念押しした上でそのリストをベラ=ラフマに渡した。ベラ=ラフマも総司令部の現状については理解があり、竜也の要請を承諾する。

「総司令部と名乗ったところで元々が各町の寄せ集めでしかない。自分の利益になりそうな副業があればそれに手を出すのも自然なことだ。独裁官に対する忠誠心を求めたところで無理があるのだ。粛清や下手な締め付けは独裁官に対する反発を招き、総司令部の機能を低下させるだけなのだ」

 ベラ=ラフマがラズワルドに説明する。ラズワルドも現状は理解したがそれでも不満な思いは抑えられなかった。

「でも、それじゃタツヤは守れない」

「判っている。特に悪質な人間は見せしめに処分していいと許可は得ている」

 ……後日、総司令部の官僚二人が横領の罪により逮捕され、全財産を没収の上奴隷として鉱山送りとなった。さらには別の官僚二人が何物かに撲殺されるという事件も起きている。竜也がそれ等の事件について述べた言葉は誰も聞いておらず、何一つ残っていない。一つ明らかなのは、ただでさえ細かった竜也の食がさらに細くなってしまったことだった。

「……ともかく、バール人があまり好き勝手をしないよう監視役がいる」

 竜也はミカを総司令部へと呼び出し、ある辞令の発令を告げた。

「兵站担当……わたしがですか?」

「そうだ。武器・弾薬・食糧の確保、各戦線への補給、それをミカに任せたい。それ等は今までジルジスさんの管轄だったけど、それをミカの担当として分離独立させるってことだ」

「ですが、わたしには他の仕事も」

 とミカが渋い顔をする。

「今の仕事よりこっちの仕事の方が重要なんだ。バール人の商人がいなきゃ兵站は維持できないけど、バール人だけに任せていたらろくでもないことになりかねない」

「確かにそうです。あの連中はタツヤや父上の足元を見て兵糧や矢玉に通常の何倍もの値段をふっかけてくるでしょう」

 と深々と頷くミカ。タツヤも大いに同意して見せた。

「その通りだ。市民の負担を減らすためにもバール人の暴利を抑えなきゃいけないが、俺じゃ適正な数量も価格も判らない」

「父上の部下には経理に明るい者もおります。その者に実務を委ねて、わたしの仕事は彼等の管理監督ということですね」

 ミカの確認に竜也は「そうだ」と頷いた。

「判りました。微力を尽くしましょう」

 ミカは胸を張って偉そうにそう答える。竜也は「そうか、助かる」と安堵のため息をついた。





 ラズワルドの諜報活動が今のところ総司令部内とその周辺に限定されているのに対し、ベラ=ラフマはネゲヴからエレブにまたがる諜報活動を展開している。とは言っても活動の大半はオープンソース(噂話や公式発表のように誰でも知ることができる情報)の収集とその分析である。だがこれだけの規模で情報収集を展開し、またそれに注力している国は三大陸には他に存在しない。

「情報を制するものは世界を制する」

 それが竜也とベラ=ラフマの合い言葉だった。

「西ネゲヴの戦士がイコシウムに集まっています。イコシウムは西ネゲヴ有数の城塞都市として有名です。籠城して聖槌軍に戦いを挑むつもりのようです」

 イコシウムは元の世界のアルジェに該当する町である。ニサヌの月の上旬には竜也はその報告をベラ=ラフマから受けている。

「……使者を送る手配を。籠城をやめてこっちに合流するよう伝えてくれ。それが無理なら町の女子供だけでもスキラに逃すよう船の手配を」

 竜也の指示を受けて使者が送られ、イコシウムの将軍ムタハウィルと面談する。だがムタハウィルやイコシウムに集まった戦士達を翻意させることはできなかった。

「元より、生き残ることは考えていない。スキラの口出しも支援も不要」

 ムタハウィルは非戦闘員を避難させる手配だけを受け入れ、それ以外の竜也の要請の一切を拒絶した。

「独裁官クロイの戦略は理解できる。確かに百万と戦うには焦土作戦しか方法はないだろう。だが、スキラにいる独裁官には判るのだろうか? 父祖の地が荒れ野となっていく我々の思いを。故郷の町を捨てさせられた我々の気持ちを。飢えた子供を抱える難民の気持ちを」

 ムタハウィル直筆のその手紙を握りしめ、竜也は打ち震えた。

「俺が好きでこんな作戦を採っているとでも思っているのか……!」

 時間をおいて何とか冷静になった竜也は非戦闘員を避難させる手配を進めさせた。そしてジブの月の下旬。サフィナ=クロイ近海で海上臨検を実施していたハーディから竜也の元にある報告が送られる。それを受けた竜也は急遽スキラ港へと向かった。
 港にはハーディ達により抑留された一隻の船が着港している。竜也はその船を見上げた。

「今回捕縛したのはカーセル商会のカーセル。このスキラを拠点とする、大手の奴隷商人です」

 船からは、まず縄で縛られた十人程の男達が兵士に連行されて出てくる。次いで、最後の力を振り絞っているような足取りで、何十人もの女性が。女性達は全員泥や垢に汚れ、襤褸布しか身にまとっていない。最後に船から出てきたのは、兵士が運ぶ女性の数体の死体だった。

「……イコシウムの避難民か」

「はい。避難民を奴隷として売るつもりだったようです」

 竜也は憤りに歯を軋ませた。

「船員は全員奴隷として鉱山送りだ、商会当主と幹部も同様に。商会の全財産は没収する」

 竜也はその指示を出した上で救出した女性達に歩み寄った。

「あなた達の身の安全は総司令部が保証する。まずは療養所で治療と休養をしてくれ」

 そう告げられた女性達だが、虚ろな目を竜也に向けるだけだ。やがてその中の一人が竜也に問うた。

「……どうしてこの町は、独裁官はわたし達を見捨てたんですか」

 返答に窮する竜也に別の女性が問う。

「……これだけの船があるなら、これだけの戦士がいるならイコシウムに送ってくれれば、わたしの夫だって……」

「……こんな目に遭うくらいなら元の村に残っていた方がずっとよかった」

 竜也は何も言えない。何も答えられない。竜也はまるで逃げるように――いや、まさしく逃げたのだ。女性達に背を向けて総司令部への帰路に着く竜也。だがいくら逃げようと竜也の脳裏から避難民達の姿は離れようとしなかった。





 そしてジブの月も月末となる頃。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、茹でキャベツのサラダ、それだけだ。竜也はついにパンにも手を付けられなくなっていた。ファイルーズが心配そうな瞳を竜也へと向ける。

「タツヤ様、少しだけ、今日だけでも総司令部のお仕事をお休みしてはいかがですか? 大事な身体なのですからご自愛いただかないと」

「そうもいかないだろう。今日は商会連盟と打ち合わせがある」

 食事を終えた竜也は身体をふらつかせながらも総司令部へと向かう。それを見送っていたファイルーズだが、意を決して竜也の元に駆け寄りその腕を取った。

「? 何を」

「おつらいのなら、わたしの方に体重を預けてください。少しは歩きやすくありませんか?」

 とファイルーズは優しく微笑む。思わず目が潤んでしまった竜也だが、そっぽを向いてごまかした。

「ああ、ありがとう」

 あさってを向いた竜也が礼を言い、ファイルーズが「いえ、お気になさらず」と受け流す。竜也とファイルーズは腕を組んで総司令部へと歩いていった。
 その翌日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、コンソメみたいな味付けのキャベツの煮物。それだけである。

「わたしもそれだけでいい」

 とラズワルドは竜也と同じ料理を同じ分量だけ食べた。二人の食事はあっと言う間に終わってしまう。

「いくら何でもそれだけじゃ足りないだろう。もう少し食べたらどうだ」

「タツヤが食べるならわたしも食べる」

 竜也がいくら勧めてもラズワルドは食べることを頑なに拒否。仕方ないので竜也は無理にでもキャベツ以外の食事を口にするしかなかった。
 さらにその翌日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、キャベツとキャベツとキャベツの野菜炒め。それだけである。

「タツヤさん、少しは精の付くものも食べないと身体が持ちませんよ」

 心配そうにカフラがそう言うが、竜也は憂鬱そうな目をカフラへと向けるだけだ。

「……判ってはいるんだけど」

 竜也はそれだけを言い、ふらふらとおぼつかない足取りで総司令部へと歩いていく。それを見送っていたカフラだが、意を決して総司令部から背を向けて町へと向かって歩いていった。
 そして夕方、カフラがある人物を連れて竜也の元を訪れる。

「タツヤさん! スキラで高名な調薬師を連れてきました!」

 竜也はその老人の調薬師の診察を受け、胃痛に良く効く薬を調合してもらう。その夜から、その苦い飲み薬を無理矢理飲み干すのが竜也の日課となった。
 またさらにその翌日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、ボウルいっぱいのキャベツの千切り。それだけである。

「何でこんなキャベツ尽くしなのですか、ここの食事は」

 と偉そうに竜也を見下ろしているのはミカである。竜也は死相が出ていそうな顔をミカへと向ける。

「キャベツは胃痛改善に効果があるんだ」

 と言いながら、もそもそと牛みたいに千切りを口にする竜也。一方ミカは竜也の説明に「なるほど」と納得する。

「そういうことでしたらわたしもいただきましょう」

 とミカは竜也と同じ食卓に着き、キャベツの千切りを猛然と食べ出した。

「ミカ?」

「戦争をしているのですから、指揮官の胃に穴が空きそうになるのは当たり前です。前線で戦う兵とは別の、これがわたし達の戦いなのです」

 ミカは親の敵みたいな勢いでキャベツを食べ続ける。竜也はミカの言葉に感銘を受けた様子だった。

「……確かにその通りだ。胃痛くらいで泣き言を言っていられない」

 竜也はミカに負けない勢いでキャベツの千切りを食べ出した。
 またまたさらにその翌日。

「……ええっと」

 今日の竜也の朝食として皿の上に乗って出てきたのは、キャベツ丸ごと一玉、それだけだった。料理?を持ってきた女官が恐縮する。

「も、申し訳ありません、料理の担当者がついにへそを曲げてしまって……」

「ああ、気にしなくていい。別にこれで構わない」

 竜也はキャベツの葉を千切り、塩を振ってそのまま食べた。キャベツの葉を数枚食べて、それで竜也の朝食は終わりである。

「……タツヤ殿、その、少しは休まないと身体が持ちません」

 サフィールがそう諫言するが、竜也は首を横に振った。

「今日は避難民の長老方との打ち合わせがある。休んでいる暇はない」

 食事?を終えた竜也は総司令部に向かおうとする。が、その前にトイレに向かい、胃の中のものを全て吐き出した。船を出、迎えに来たバルゼルのところに行こうとする竜也の前に、サフィールが立ち塞がる。

「サフィール?」

 サフィールの悲痛な色の瞳が竜也を見据える。

「どうか今日はお休みいただきたい。タツヤ殿のお身体はタツヤ殿だけのものではないのです」

「仕事があるんだ、どいてくれ」

 竜也は立ちはだかるサフィールの横を通り抜けて進んでいく。が、足をもつれさせて倒れそうになった。咄嗟にサフィールが身体を支える。

「タツヤ殿、このまま船に戻りましょう」

 首を振った竜也がサフィールを押し退けて前に進もうとする。が、サフィールは腕にかかった竜也の身体を決して離さない。

「駄目です! タツヤ殿に万一のことがあったら、わたし達は、ネゲヴはどうなると思っているのですか!」

 竜也がじたばた暴れるのでサフィールは拘束する腕にますます力を込めた。その腕が竜也の喉にかかり、柔道の裸締めみたいな状態になっていることにサフィールは気付いていない。

「おいサフィール、タツヤ殿が」

 バルゼルに指摘されてサフィールは初めて気が付いた。竜也が意識を失っている。白目を剥いた竜也に、

「ああっタツヤ殿! だからあれだけ言っていたのに!」

 とサフィール。締め落としたのはお前だ、とバルゼルは内心で突っ込む。

「バルゼル殿、タツヤ殿を! わたしは医者を呼んできます!」

 サフィールは総司令部に向かって走っていく。サフィールが走り去るのを確認し、バルゼルは竜也に活を入れた。

「……え、あれ?」

 と竜也はすぐに意識を取り戻す。不思議そうに周囲を見回し、

「……何があった? 何で俺は倒れている?」

 気絶した前後の記憶が飛んでしまっているようだ、と見当を付けたバルゼルは、

「過労のため意識を失い倒れたのです」

 と断言した。

「そうなのか?」

 竜也の問いに、バルゼルは無言で頷く。その有無を言わせぬ雰囲気から竜也はそれ以上の質問をしなかったが、いまいち納得がいかない様子で首をひねっている。
 そうこうしているうちにサフィールが医者を連れて戻ってきた。竜也は自室のベッドに放り込まれ、結局その日一日はベッドの中で休眠を取ることとなる。

「もっと部下を信頼して仕事を任せるようにしてください」

「心配した」

「倒れたら意味がないじゃないですか」

「自己管理がなっていません。休むのも仕事のうちです」

「ともかく今日はお仕事禁止です」

 五人の乙女がベッドの脇に立ち、看護しながら口々に竜也を責める。実際に倒れた以上何も言い訳できない竜也は、ひたすら恐縮して彼女達に謝り続けた。

「……倒れた理由は何か違うような気がするんだが」

 と腑に落ちないものが胸に残っていたけれども。






[19836] 第二三話「地獄はここに」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/12 21:05




「黄金の帝国」・会盟篇
第二三話「地獄はここに」





 ときは三〇一五年アダルの月(第一二月)の月末、場所はルサディル。この町が聖槌軍に占領されてからまだ二〇日も経っていない頃。
 元々の町の住民はほとんど逃げるかあるいは殺されるかし、現在残っているのは数千。一割に満たない人数だ。逃げ遅れて聖槌軍に捕まったルサディルの住民は奴隷として様々な雑用に従事していた。

「ほらほら、逃げてみろよ!」

「狐狩りだぜ!」

 聖槌軍の兵士が逃げる奴隷に矢を浴びせている。エレブ兵は単なる娯楽でルサディルの住民に暴行を加え、なぶり殺しにした。奴隷の数は減る一方だった。
 港に近い商館街にはわずかに生き残った女性達が一人残らず集められている。彼女達は建物の中に押し込められ、一日中エレブ兵に強姦され続けていた。ほとんど寝る間もなく、一日に何百人というエレブ兵が次々と彼女達を犯していく。彼女達を犯そうとするエレブ兵が建物の外まで長い行列を作っている。精も根も尽き果て、涙も涸れた彼女達はもう死体とほとんど変わらない。

「くそっ、もう死んでるじゃねぇか。……これで我慢するか」

 そのまま死体となった彼女達はそれでも犯され、その上でうち捨てられた。生き残った女性の数も急速に減っている。このペースならルサディルの住民が一人残らず死に絶えるまで一月も必要ないだろう。
 奴隷の何人かが女性の死体を町の外に運び、埋葬する。町の中の墓地はすでに満杯、町の外の荒野を臨時墓地としそこに死体を埋葬していた。浅く掘った穴に遺体を安置し土をかぶせ、目印に石を置いただけの簡易墓地だ。何百と並ぶ目印の石は彼等奴隷を陰鬱とさせた。

「俺達も遠からずここに入るんだろうな」

「そのときにわざわざ埋葬してくれる人が残っているのかね」

 気が沈む一方の会話を交わしながら彼等は穴を掘っていく。穴を掘り終え、女性を安置しようとしたときに気が付いた。女性が何かを握りしめている。奴隷の一人が女性の手を広げ、それを手に取った。女性が手にしていたのはT字に蛇が絡みついた聖杖教の印、聖杖の首飾りだった。アニードやタンクレードに勧められるままに、身の安全を図るために彼女は聖杖教の洗礼を受けたのだろう。聖杖を握りしめた奴隷がうち震えた。

「くそっ!!」

 奴隷は聖杖を地面に叩き付ける。それでも気が済まず、聖杖を何度も何度も踏みにじった。

「くそっ、くそっ……! あのバール人が! エレブ人の言いなりになって嘘をついて……『聖槌軍に協力すればルサディルは攻撃しない』? バール人を信じた俺達が馬鹿だったんだ! あいつさえいなければこんなことには!」

 その奴隷は天を仰いで怨嗟の雄叫びを上げている。他の奴隷は無言だが全くの同感であることはその表情を見れば明らかだった。そしてこれは彼等だけの見方ではない。生き残った、逃げ延びたルサディル市民のほとんどが同じ恨みを抱いているのだ。
 一方そのアニードである。アニードはルサディルの惨劇に際しては自分の商船に隠れて難を逃れた。陸上の商館や豪邸は聖槌軍に略奪され、あるいは焼き討ちされ、アニードの財産はもうこの商船しか残っていない。
そしてアニードが今いる場所はマラカである。イベルス王国の港町であり、聖槌軍の集結地となっている町だ。町には聖槌軍に参加したエレブ兵が満ちあふれている。続々とネゲヴに向かって進発しているはずなのに、その数は減っているようには見えなかった。
 アニードは商船の船長室で椅子に腰掛け、何かを待っているようである。竜也がその容貌をきっと驚くだろう。急激に白髪が増え、頬が痩せこけている。たった一月でアニードは十歳も老け込んだかのようだった。
 ノックも何もなしに誰かが船長室に入ってきた。その誰かはそのまま部屋の中を進み、アニードの前の椅子に腰を落とす。その誰かは肺の息を全て吐き出すほどに大きなため息をついた。

「……それで、どうだったのだ」

 アニードが目を向けるまでもない。そこにいるのがタンクレードであることは確認する必要もなかった。

「事情は判った、予想通りだ」

「ならば処罰も」

「ああ、現状では不可能だ」

 アニードは返事の代わりに歯ぎしりをした。すでに予想していたことだが、こうやって事実として確定すると改めて憤りと恨みが募ってくる。
 トルケマダ隊によるルサディルの惨劇を目の当たりにした後、タンクレードはマラカに帰還。王弟ヴェルマンドワ伯ユーグを通じてアンリ・ボケへの抗議をしようとした。ルサディルを聖槌軍の拠点として活用しようとしたのはユーグの発案した計画である。タンクレードだけでなくユーグもまた多くの労力と資金をこの計画に投じてきたのだ。その一切を台無しにされたユーグが怒りに燃えるのも当然だった。だが――

「口を慎んでいただきましょうか。王弟殿下」

 詰め寄るユーグに対し、アンリ・ボケはそう言い放った。ユーグは言葉を途切れさせる。

「今のお話は聞かなかったことにします。私も殿下を異端として告発したくはないのですよ。殿下もどうかこの話は忘れてくださいますよう」

「ルサディルを懐柔し拠点とする、それが聖槌軍の勝利にどれだけ重要なのかが判らないのか! それを全て無為に帰しておいて、私を異端とすると?!」

 アンリ・ボケは殊更にため息をつき、なだめるように告げた。

「殿下、我々にとっての勝利とは何ですか? ネゲヴ全土を征服することですか? ネゲヴから金銀財宝を奪い取ることですか? ネゲヴから麦や金貨を税として徴収することですか? ――違うでしょう、我々にとっての勝利はそれではない。ネゲヴの邪教を全滅させ、ネゲヴの悪魔の民を全滅させ、ネゲヴの異端を全滅させる。それが我々にとっての勝利のはず」

 ユーグはアンリ・ボケに、その狂気に圧倒される。弁舌でこの狂気を覆すことなど不可能だと目の前が暗くなった。だが、それでも必死に抗弁する。

「ルサディルの町には改宗した聖杖教の信徒もいたのだぞ。だがトルケマダ隊は彼等も殺戮してしまった……この先ネゲヴの誰が洗礼を受けるというのだ!」

「邪教の信徒が身の安全のためだけに聖杖教の信徒と偽る、それはただの邪教の信徒よりはるかに罪深い存在ではありませんか?」

 ユーグはがっくりと肩を落とす。絶望がユーグの声から力を奪った。

「そんなことを言っていたらネゲヴの民の誰一人として改宗させることができないではないか……あなたはネゲヴ人を皆殺しにするつもりなのか?」

「ええ、その通りですよ?」

 アンリ・ボケはごく当たり前のようにそう答える。ユーグはこれ以上アンリ・ボケと言葉を交わす気力を持てなかった。会話をすることはできる、だが言葉が通じない――アンリ・ボケはユーグにとってはもはやそういう存在だった。言葉の違う異国の人間の方がまだ心を通わせることができるだろう。
 ……タンクレードの報告を聞き、アニードは暗然とした顔をタンクレードへと向ける。

「……話には聞いていたが」

 アニードはそれ以上言葉が続かない。アンリ・ボケを的確に表するどんな言葉もアニードは持っていなかった。代わりに別のことを口にする。

「……それで、どうするのだ」

「前々から考えていたことだが、今回の件で確信した。――あの男は敵だ」

 タンクレードは殺意に眼を光らせた。戦場で、宮廷で戦い続け、勝利し続けた謀略の将軍が獲物に狙いを定めている。

「今は仮に味方でも、あの男は必ず我が主に、王弟殿下に仇なす敵となる。あの男を放っておけば聖槌軍が、祖国の軍が壊滅する。だから殺す」

 タンクレードの放つ殺気に触れ、アニードは恐怖を覚える。だが期待が、強い望みがそれを上回った。

「トルケマダはどうするのだ」

「もちろん始末する。順番としてはまずトルケマダを標的とし、あれを足がかりに枢機卿を攻める糸口を探す、というところだ」

「ならば、私はお前に協力する」

 アニードが立ち上がり、そのアニードをタンクレードが見上げている。

「私の町を、私の商会を、私とお前の努力の全てを壊したトルケマダを許しはしない。私はトルケマダに復讐をしたい」

 いいだろう、とタンクレードもまた立ち上がった。

「謀略を仕掛けるとしても舞台となるのはネゲヴだ。お前の人脈や土地勘は私にとっても必要だ」

 タンクレードが手を差しのばし、アニードがそれを固く握る。全てを失い、汚名だけを得た者の復讐がここから始まろうとしていた。





 年は三〇一六年となり、ニサヌの月(第一月)。アンリ・ボケの鉄槌騎士団に次いで最後尾のユーグの軍がルサディルに到着した。トルケマダ隊がルサディルで殺戮をくり広げてからすでに一ヶ月近くが経っている。逆に言えば(街道が充分に整備されていないという理由があるにしても)ある一地点を聖槌軍の全軍が通過するのに一ヶ月を要するのだ。総兵数百万とはそういう数字だった。
 ルサディルの元の住民は逃げるか殺されるかし、町には人影がほとんど見られない。ユーグ達も空き家を宿泊に使うくらいで早々にルサディルを抜けて東へ向かおうとしていた。
 ユーグのフランク軍がゴーストタウンとなったルサディルの大通りを進軍する。大通りの脇には負傷したエレブ兵が立っていた。両目を切られた兵は幽鬼のように佇み、足を斬られた兵が、手首から先を喪った兵がすがるような目をユーグへと向けている。

「あの者達は?」

 ユーグの問いに答えるのは近衛の騎士である。

「トルケマダ隊の兵です。この町を落としたときに悪魔の民に手傷を負わされた者達です」

 ユーグは「ああ、あの噂の」と納得する。

「たった七人の悪魔の民の戦士が千の兵を屠り、万の兵を退けた」

「奴等の剣は触れるだけで兵を真っ二つにした。盾を手にしようと、鉄の鎧を身にしていようと、奴等は盾や鎧ごと兵を斬った」

「斬られた兵の血で地面が真っ赤だった。血の雨どころではなく、血の嵐だった」

 そんな噂がユーグの耳にも届いている。ユーグはその噂を信じていなかったのだが、

「ただの与太話ではなかったのか?」

「万はさすがに誇張が過ぎますが、たった七人で千に届く兵を斬った、というのは嘘ではないようです」

 たとえ千でもにわかには信じがたい話ではある。が、トルケマダ隊の兵の哀れな姿を見ると簡単に嘘と断じることもできなかった。

「そんな化け物どもが待ち構えている大陸にこれから進軍するのか……」

 この聖戦がどれだけ前途多難かを証拠つきで示されたようなものである。ユーグは暗澹たるため息をついた。そしてその思いは聖槌軍全軍が共有している。トルケマダ隊の負傷者の姿はこの町を通過する全ての将兵が目にしているのだから。
 ユーグの次、全軍の最後尾としてルサディルに到着したアンリ・ボケもこれらの負傷者の姿を見ている。トルケマダ隊の負傷兵はアンリ・ボケにすがり慈悲を求めた。

「我々は悪魔を相手に勇敢に戦い、このように負傷しました。どうか我々がエレブに帰るための助力を」

 同情を買おうとする負傷兵だが、彼等に対しアンリ・ボケは不快そうな顔で冷酷に告げた。

「聖下のご命令を果たさないうちにエレブに逃げ帰ろうとするのは敵前逃亡であり、利敵行為であり、異端も同然。通常の兵ならまだしも貴様達は教皇聖下の兵を名乗ったのだろう。聖戦にその身を、その生命を捧げることを誓ったのだろう。ならば矢尽き刀折れ、傷を負おうと這ってでも前進すべきなのだ。そうやって模範になってこそ味方の士気も上がろうというのに、貴様達がやったのは全く逆のことではないか」

 アンリ・ボケは彼等の帰還を許さず前進を命じた。負傷したトルケマダ隊の兵が泣きながら歩いていくが、元々辛うじて生き延びた負傷兵ばかりである。傷を悪化させた彼等が全滅するのに半月の時間も必要なかった。
 アンリ・ボケのこの行為は単なる残虐趣味ではなく、下がる一方の全軍の士気を少しでも上げることを目的としたものだった。だがそれはすでに遅く、ほとんど意味を持たなかった。「ルサディルの血嵐」の噂は聖槌軍全軍に根深く広がっていたのだから。
 そしてこの噂は西ネゲヴで戦うネゲヴ兵にとって大きな助力となった。赤虎族のダーラク率いる遊撃部隊がくり返し聖槌軍に奇襲を仕掛けるが、

「敵だ! ネゲヴ兵だ!」

「悪魔の民だ! 血の嵐だ、逃げろ!」

 悪魔の民を怖れるエレブ兵は簡単に総崩れとなった。ダーラク達は逃げ惑うエレブ兵を追い散らすだけ。敵に一方的に損害を与え、味方の損害はゼロに等しい。が、ダーラクは嬉しくも面白くもなかった。

「逃げるな! 敵は牙犬族ではない! 別の悪魔の部族だ、怖れる必要はない!」

 指揮官の一人が兵を叱咤し、体勢を立て直そうとしている。それがダーラクの耳にも届いていた。

「俺達が犬どもよりも与しやすいかどうか、その身体で確かめてみな!」

 ダーラクは敵指揮官の部隊まで騎馬で突撃、雷撃を放ってその指揮官を打ち倒した。指揮官を失い、敵兵が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ダーラクは馬上からそれを眺め、鼻を鳴らした。

「……こんな雑魚ばかり何人殺そうと赤虎族の名を高めることはできん。もっと名のある騎士を狙わんとな」

 冷静に考えて、ダーラクが赤虎族の戦士六人を率いてルサディルの惨劇に直面したとして、バルゼル達と同じだけの戦果を上げられるかどうかは疑問だった。赤虎族の雷撃の恩寵は見た目は派手だが殺傷力の面では烈撃の恩寵に劣っている。

「だが、だからと言って犬どもが俺達より強いとは思えん。赤虎族の方が強い――それをエレブ兵にも判らせてやる」

 一方、金獅子族のサドマはグヌグで聖槌軍と戦っていた。聖槌軍先鋒のトルケマダ隊がグヌグを通過。殿軍部隊を率いるサドマはグヌグ市民が東に逃げる時間を稼ぐためにトルケマダ隊と対峙していた。

「久々の獲物だ! 逃すな!」

 欲望に目を血走らせたトルケマダ隊が突撃、その眼前にサドマと金獅子族の戦士達が立ち塞がった。嘲笑を浮かべたまま突撃するエレブ兵だが、彼等は見えない壁にぶつかったかのようにはね飛ばされ、地面を転がった。

「何だ? 一体何が」

 その兵は事態を理解できないまま、前へと進んだサドマの手により斬殺される。その様子に一瞬怯むトルケマダ隊だが、欲望が恐怖を上回った。トルケマダ隊は重ねて突撃を敢行する。

「外撃で敵の体勢を崩し、斬り込むぞ」

 サドマの指示に金獅子族の戦士達が頷く。突撃してきたエレブ兵はまたもや見えない壁にぶつかって地面を転がった。そこに金獅子族の戦士達が突撃し、エレブ兵を屠っていく。

「くそっ!」

 剣を振りかぶってサドマを斬らんとするエレブの騎士。サドマはその騎士の前に左掌を突き出した。何も持っていない、空の手である。だが、

「くわっ!」

 突然目に痛みが発し、その騎士は反射的に手で顔を、目を覆った。目つぶしでも食らったのか、と思い、それがその騎士の最期の思考となった。その騎士が剣で胴をなぎ払われ、地面に倒れ伏す。
 サドマ達金獅子族に授けられているのは外撃と呼ばれる、衝撃波を放つ恩寵である。エレブ兵が見えない壁と錯覚したのはサドマ達がタイミングを揃えて放った衝撃波にはね飛ばされたからだ。エレブの騎士が目潰しと勘違いしたのは目をめがけて放った衝撃波だった。

「悪魔だ! 魔物だ!」

「血の嵐だ!」

 サドマ達の攻撃を受け、恐怖が欲望を上回ったエレブ兵が逃げていく。トルケマダ隊は総崩れとなり、充分な時間が稼げそうだった。が、サドマはその表情に複雑そうな思いをにじませている。

「……敵に脅威と思わせるのは簡単ではないな。どうすれば犬どもよりも強い恐怖を敵に与えられるのか」

 「ルサディルの血嵐」の噂はエレブ兵の戦意を大いに削ぎ、サドマ達の戦果に大きく寄与していた。だがサドマはそれを素直に喜ぶことができない。それは言わば牙犬族の助力があって得られたものであり、金獅子族が単独で獲得したものではないのだから。

「牙犬族は確かに強い、だが金獅子族の方がもっと強い――それを示さなければならない。敵にも、味方にも」

 ダーラクとサドマ、赤虎族と金獅子族は競争するように聖槌軍に戦いを挑み、戦果を上げていく。だが彼等にとって競争相手は互いではない。この戦場にはいない、スキラにいる牙犬族だった。





 ネゲヴに侵入した聖槌軍は東へと進軍を続けている。
 細い街道をエレブ兵が連なり、歩いている。エレブ兵の列は地平線の向こうから始まり、地平線の彼方まで続いていた。隊列などという整然としたものはもうどこにも存在しない。浜の真砂が西から東へと流れているようなものだ。

「食い物……食い物……」

 エレブ兵の頭にあるのはその一言だけである。

「東に行けば、次の町に行けば食い物がある」

 ただそれだけの思いが彼等の足を前へと動かしている。その思いが途切れた者は地面に倒れ伏し、二度と起き上がりはしなかった。
 聖槌軍の行軍は困難を極めた。雨が降れば道は泥濘の川となり、晴れれば強い日差しが容赦なく水分と体力を奪っていく。そして何より食糧がない。総数百万という数字を維持することはネゲヴに侵入した瞬間に不可能になっていた。脱落者が続出しているが誰もそれを気にしていない。そんなことを気にする余裕は誰も持っていなかった。誰もが自分と、自分の食い扶持のことしか頭にない。
 脱落したエレブ兵の死体がそこら中に転がっている。エレブ兵の死体をついばみにカラスが舞い降り、そのカラスを捕まえて食おうとエレブ兵が群がっている。カラスに逃げられたエレブ兵が恨めしげに空を見上げた。
 ディアの虚ろな碧い瞳がその様子を写している。ディアに続く四〇人の戦士はエレブ兵の集団の中では例外的に隊列を保っていた。だがその内面は他のエレブ兵と何ら変わらない。

「食い物……とにかく食い物が」

 川に行き当たってはドジョウでもメダカでも捕まえて食い、村に行き当たっては村中を掘り返す勢いで残された食糧を探した。わずかに残った食糧を奪い合い、殺し合いになることも珍しくはない。
 だがそれでもディア達はまだ余力がある方だった。のろのろと歩く他のエレブ兵を追い抜き追い越し、ディア達四〇人は先へと進んでいく。ディアの村を支配する領主の隊列からはとっくに外れてしまっているが、ディア達はそんなことを気にしなかったし領主の側も気にしていないだろう。脱落も逃亡も何一つ珍しくはないのだから。
 森を抜けて街道が開けた場所に出たところで、敵の襲撃があった。突如現れたネゲヴの騎兵がエレブ兵の列に突っ込み、散々かき回している。エレブ兵は逃げ惑うだけである。

「くそっ、こちらにも騎兵があれば……」

 エレブの騎士が悔しがるが、聖槌軍に騎兵はもう一騎も残っていなかった。騎馬の飼料が底をつき、馬が足を止め、処分されて人間の胃袋に収まる。全ての馬が食い尽くされるまで一月かかっていない。
 ネゲヴの騎兵が一方的にエレブ側を蹂躙している。その間にディア達は移動、ネゲヴの騎兵が逃げると思われる方向に四〇人の戦士を分散配置した。そして騎兵の一団が逃走、それはちょうどディアが網を張った場所である。三人の戦士を率いたディアが地面に伏した。地面を揺らして騎馬の一団がディアの目の前を通り過ぎていく。騎馬の一団の最後尾、一騎だけ他より遅れている騎馬がいる。他の騎馬が全て通り過ぎ、その最後の一騎が目の前にやってきたとき、ディアが跳躍した。

「てぇぃっ!」

 高々と舞い上がったディアの跳び蹴りがその馬の頭部に直撃。頭蓋骨を砕かれた馬はそれでも十数メートル疾走しつつ、血と脳漿を撒き散らしながら滑り込むように地面に倒れた。騎乗していたネゲヴ兵は振り落とされている。

「くそっ、何が……」

 ネゲヴ兵は頭を振りながらも何とか起き上がった。その兵が体勢を整える前に、ディアの部下が背後から剣でその兵を一突きする。腹部から剣を生やしながらもその兵は最後の反撃をしようとした。だがそのあがきも届かず、ディアの戦士二人が左右両側からその兵にとどめを刺す。絶命したネゲヴ兵を放り捨て、ディアの戦士達はディアの元に駆け寄った。ディアは倒れた馬を引きずって移動しようとしているところである。ディアと三人の戦士が馬を引きずって物陰へと移動した。

「よし」

 大きな岩の陰に隠れたディアは岩の上から周囲を見回し、エレブ兵もネゲヴ兵の姿もないことを確認する。そして大きく息を吸い込み、



 ウゥゥルルォォーーーンン



 まるで狼のような遠吠えを上げた。その遠吠えは一〇スタディア先までも届くかと思われた。遠吠えがどこかで反響し、こだまとなっていまだ聞こえている。
 やがて、遠吠えを聞きつけた戦士達がディアの元に集まってきた。彼等は馬を目の当たりにし、揃って歓声を上げた。

「火を燃やせ。燻製にすれば何日かは食べられる」

 ヴォルフガングの指示に従い戦士達がそれぞれ動いた。薪を集め、火をともし、その間に馬を解体する。心臓や肝臓などの内臓を先に焼いてこの場で食し、肉は燻製にして保存食とした。骨髄はもちろん血の一滴までも無駄にせず、全てを飲み干し、平らげる。

「……はあー」

 久々に充分な栄養を補充し、ディアは恍惚の表情を浮かべていた。飲み干した馬の血が栄養となって身体の隅々まで行き渡るのを実感できる。食らい尽くした馬の心臓が胃で分解され、血肉となっていくのを体感できた。
 栄養を補充したディアとその戦士達が東への移動を再開する。食糧が手元に残っている間は街道に戻らず、他のエレブ兵の目ができるだけ少ない場所を選んで進んだ。もっともそんな道はないに等しい。食糧を求めるエレブ兵はそこら中に広がっている。エレブ兵はまるで蝗のように広がり、全てを食い尽くしながら進んでいた。彼等がディア達のように幸運や武運に恵まれる機会はほとんどなく、エレブ兵は次々と倒れていく。西ネゲヴの街道はエレブ兵の屍によって舗装されようとしていた――比喩ではない。路上から移動されることもない死体は後続の兵士に何度も何度も何度も踏みにじられ、原形を留めることもできない。その血肉は泥濘とかき混ぜられ、地面と一体となっていくのだ。

「エレブにいる間は、あれでもまだマシだったんだな」

 ディアはエレブでの行軍を「まるで地獄のようだ」と思っていたがその認識はネゲヴに来て改められた。ネゲヴの現状と比較すればエレブの惨状すら極楽みたいなものだ。

「ここはまさに地獄そのものだ」

 靴の裏で人骨が砕ける感触を覚えながら、ディアはそれでも前に進んだ。歩くほどに地獄の底へと近付いていく――それを嫌と言うほど理解しながら。





 街道沿いの町や村にネゲヴ人が残っておらず、食糧も残されていないことを疑問に思う兵はいなかった。

「百万の兵を目の前にすれば逃げるのが当然だ」

「先行した部隊が食糧を食い尽くしたんだろう」

 自然にそう思っている。だが軍を指揮する者達にはそんな思考停止は許されていない。

「最後の食糧を食い尽くし、我が兵はもう三日も何も食べていません」

「我々が村に入ったときにはネゲヴ人は一人もおらず、食糧も残されておりませんでした」

「食糧がなければこれ以上はもう一歩も前に進ません」

「どうか殿下のご慈悲を、補給を」

 ユーグの元には先行する部隊からの報告が、悲鳴が殺到していた。ユーグが敵の作戦を、竜也の意図を見抜くのに大して時間は必要なかった。

「確かに、百万の軍勢と戦うにはこうするしかないだろうな。僕だってそうする」

 ユーグはただ嘆息するしかなかった。そしてユーグの推理の正しさをタンクレードが明確にする。

「ネゲヴ人はスキラに集まり、独裁官を選出して聖槌軍に抗戦しようとしています。その独裁官クロイ・タツヤという人物がこの焦土作戦を実行しているのです」

「その話は、バール人どもが?」

 ユーグの確認にタンクレードが頷く。

「複数のバール人から全く同じ情報を得られました。エレブを経由しても同じ情報を得られています」

 そうか、と頷くユーグ。

「……このバール人どもから我々は食糧を買っているのだな」

 その確認をタンクレードが肯定し、ユーグが疑問を呈した。

「そいつ等はバール人であってもネゲヴ人なのだろう? 我が軍が彼等の商会を破壊し、略奪しているんじゃないのか?」

「確かにその通りですが、彼等の財産の大半はすでにスキラに移動しています。その上で我々と取引をして儲けようとしているのです」

 タンクレードの解説にユーグは不快そうに鼻を鳴らした。なお、バール人が提供する食糧の代わりに聖槌軍が支払うのは略奪で得た財貨やネゲヴ人の奴隷(逃げ遅れて捕まったネゲヴ人全般)である。

「金のためなら親でも売る――まさしく評判通りの連中なのだな」

「はい、到底信用はできません。ですが、利用することはできるでしょう」

 タンクレードの言葉にユーグは頷く。実際、バール人がいなければユーグ達はこれ以上進軍できなかったのだ。現地調達するはずだった食糧がほとんど手に入らず、全軍が飢餓に瀕している。多少なりとも食糧に余裕があるのはユーグ達のようにバール人と取引をしている部隊だけである。

「しかし、バール人から食糧の補給を受けるにしても限度があります。全軍の食糧をまかなうことなど到底不可能です。敵の焦土作戦にどのように対処するおつもりですか?」

 ユーグはしばし考え込み、

「……最初から百万の軍勢なんて無茶でしかなかったんだ。いくら百万を揃えたところで大半が足手まといの無駄飯食らいにしかなっていないじゃないか。無駄飯を食らうだけの余計な軍勢はこれ以上必要ない、帰国させるべきなんだ。兵数を四〇万、いや、二〇万まで絞り込めれば……」

「確かにそれが最善かと私も思います」

 タンクレードは一応そう答え、その上で問うた。

「ですが、あの枢機卿がそれを認めるでしょうか」

「認めるはずがないな」

 ユーグは即答して肩をすくめる。

「だが、全軍の指揮官として提案しないわけにはいかないだろう」

 ユーグは後続のアンリ・ボケに面会を申し込む。その夜、野営地の天幕にてユーグはアンリ・ボケと会談を持つ段取りとなった。

「『百万を進軍させよ』――それが教皇聖下のお言葉であり、ひいては神のご命令です。殿下はそれに異を唱えようと?」

 ユーグの提案に対するアンリ・ボケの回答は予想と寸分変わらなかった。ユーグは徒労となることを理解しながら、それでも義務を果たさんとする。

「だが、その百万の軍勢はまともに敵と戦いもしないのに減る一方ではないか。この調子ではケムトに到着するまで果たして何人の兵卒が残っていることか」

「この程度の苦難は最初から予想していたことです」

 自軍の膨大な被害に直面しようと、アンリ・ボケは泰然と頷くだけだ。

「我々は地上に神の国を建設しようとしているのです。その道程が容易いものであるはずがありません。この行軍の先にこそ魂の安らぎが、永遠の楽園があるのですよ。それを思えばこれしきの苦難が、この程度の犠牲が何だというのですか」

 ユーグの提案をアンリ・ボケはまともに取り合わず却下し、その日の会談は終了した。この会談の内容についてユーグはタンクレードに報告しただけだし、アンリ・ボケは誰にも話していない。が、この会談の内容が数日で聖槌軍内で広く噂されるようになった。

「……枢機卿様より王弟殿下の方が正しいんじゃないのか?」

「この調子じゃ俺達だっていつ餓え死にするか……」

「エレブにいたときに聞いていたのと話が全然違うじゃないか。金目のものはないし、女どころかネゲヴ人がいないし、飯すらまともに食えないなんて!」

「帰れるものなら帰りたいよなぁ……」

 そして噂が兵士の郷愁を刺激する。その思いは騎士階級の下級貴族、領主クラスの上級貴族も共有した。

「死なないうちに帰りたい」

「これ以上被害を大きくする前に帰りたい」

 そんな声が全軍から聞こえてくる。ユーグの元にも直接それを言いに来る者が現れた。

「飼い葉もなく、馬は処分され、これ以上の進軍は困難です。どうか我々の帰国をお認めください」

 そう言ってひざまずくのはアデライードの部下達だ。アデライードは自分の肖像画をこの出征にも同行させたのだ。

「帰れ帰れ」

 と内心では二つ返事で許可したいユーグだが、アンリ・ボケへの手前もある。言葉を曖昧に濁すだけで明確な許可は出さなかった。彼等は勝手にユーグの軍を抜け出して街道を逆行し、エレブへと戻ろうとする。が、その彼等をアンリ・ボケが捕まえた。

「どこへ行こうというのですか? 聖下があなた達に求めるのは前進のみです」

「我々はフランク王国ヴェルマンドワ伯夫人アデライード様の……」

 彼等はいつものようにアデライードの名前を振り回してアンリ・ボケの制止を振り切ろうとする。だが、

「私はアンリ・ボケ、神の僕です」

 アンリ・ボケにそんなものが通用するはずがない。彼等はきびすを返して前進することを余儀なくされた。

「……ですが、この美しい肖像画がこれ以上ネゲヴの風雨で傷んでしまうのは忍びないことです。この肖像画は船で本国に送り返しましょう」

 とアンリ・ボケは妙なところで好意を示し、肖像画の入った黒檀の箱だけはバール人商会の船でエレブに送り返される段取りとなった。アデライードの部下達はこの後身軽な状態で行軍を続けることになるが、彼等がアンリ・ボケにそれを感謝したかどうかは判らない。
 アンリ・ボケはエレブへの帰還願いを一蹴し続けるが、それでも帰還願いは続出する。ついには一国の指揮官が帰還へと動いた。聖槌軍内のイベルス王国軍を率いる将軍サンチョがアンリ・ボケと会談を持ったのはニサヌの月(第一月)の中旬である。

「イベルス王国の軍勢は帰国させてもらう」

 サンチョは不格好に肥え太った中年男だった。サンチョは頬を振るわせてアンリ・ボケにそれを一方的に通告した。

「聖戦の騎士となること、閣下はそれを聖下に誓ったのではありませんか?」

「聖戦もくそもあるか! 食糧がなく我が軍は全軍が餓死しようとしているのだ。私は国王陛下より預かった我が国の兵と民を守らなければならないのだ」

 サンチョは鬱憤を晴らすように吐き捨てた。一方のアンリ・ボケは表面上はいつもの柔和な微笑み顔を維持している。

「……私は全ネゲヴ総教区枢機卿としてあなたを異端として告発することもできるのですが?」

「やりたければやるがいい」

 アンリ・ボケの脅迫に対してサンチョは嘲笑で応えた。

「イベルスの二五万が貴様に剣を向けるだけだ。貴様の味方がどれだけいる? どれだけの兵が貴様に味方すると思うのだ?」

 アンリ・ボケは沈黙する。自分が無数の人間の恨みを買っていることについて、アンリ・ボケは決して無自覚ではなかった。アンリ・ボケの沈黙にサンチョは勝利を確信する。

「さらばだ。私は急いで帰国し、貴様が好き勝手に荒らした祖国を立て直さなければならん」

 サンチョはそう言い捨て、天幕を出ようとし――サンチョの人生はそこで終わった。水平に振り回された鉄槌がサンチョの延髄にめり込む。サンチョの首は鋭角を作ってねじ曲がり、サンチョは倒れ伏した。
 次の日、アンリ・ボケの元から将軍サンチョの死去が公表された。死因は食中毒。もちろんそれを信じる者は一人としていない。反乱を起こす前にアンリ・ボケ直属の鉄槌騎士団がイベルス軍へと乗り込み、主立った指揮官を処刑する。これにより帰国の願い出は一切なくなり、全軍を慄然とした沈黙が満たした。

「まさかここまでやるとは。あの男を甘く見ていたか」

 とほぞをかむのはタンクレードだ。ユーグとアンリ・ボケの会談内容を噂として広めたのはタンクレードであり、その後の展開はタンクレードの予想の範囲内だった。ついにはサンチョがイベルス全軍を帰国させると聞き、予想以上の展開に内心でほくそ笑んでいた。だがこの全軍分裂の危機をアンリ・ボケは回避して見せたのだ――強引極まりないやり方ではあったものの。

「だが、まだだ。アンリ・ボケのあのやり方で反感や敵意を買わないわけがない。今は味方を増やす雌伏の時だ」

 タンクレードはイベルスの各軍を中心に部下を派遣。各軍の諸侯や指揮官とコネクションを作り、ユーグのシンパを作ることに尽力した。
 一方のアンリ・ボケである。部隊単位・軍単位の正式な帰国願い出は一切出されなくなったが、帰国を願う兵や貴族がいなくなったわけではない。所属部隊を脱走して西へと逃げようとする兵は少なからず存在した。だがそんな兵は全軍の最後尾に位置する鉄槌騎士団により捕縛され、処刑される。バール人の船で帰国しようとする貴族もいたが、

「勝利を得ずして帰国しようとする者は敵前逃亡と見なし、本人だけでなく一族郎党を異端として告発する」

 アンリ・ボケのこの布告にその数を大幅に減じた。
 また、アンリ・ボケは恐怖だけで全軍を統率し、聖戦を遂行しようと考えているわけではない、ようである。

「スキラという町に逃げ出したネゲヴ人が集まっているらしいぞ。ネゲヴの皇帝が俺達と戦うために人を集めているそうだ」

「スキラには皇帝がネゲヴ中から集めた一億アンフォラの麦があるらしい」

「西ネゲヴの金銀財宝や金貨は皇帝がスキラに集めて隠し持っている。その額は百万タラントになるって話だ」

 兵士の間で流れているその噂を報告され、タンクレードはかなりの時間考え込んだ。

「単なる噂にしてはやけに正確だ。バール人どもに集めさせた情報とほとんど変わらない」

 大きな差異は一点だけ、スキラにいるのが独裁官ではなく皇帝になっていることだ。タンクレードはこの点から、この噂にアンリ・ボケが関与していると判断した。この噂を流したのがアンリ・ボケであると確信していた。

「皇帝と言えば昔から聖杖教の宿敵とされる存在だが、聖典に名前が出てくるだけで実際の歴史上には存在しない役職だ。アンリ・ボケは独裁官を皇帝と呼ぶことで信徒の敵愾心を煽ろうとしているのだろう」

 それに、一億アンフォラの麦や百万タラントの金銀財宝も極めて魅力的だ。スキラまでたどり着けばそれが手に入る、そう思えば下がる一方だった士気も向上するだろう。実際、兵卒の士気が上がっている。全軍が脇目もふらずに東へ、東へと突き進んでいる。この状況下ではタンクレードもアンリ・ボケに謀略を仕掛けるような余裕も材料もなく、自軍の指揮に専念するしかなかった。

「農民どもに食糧を回すな。戦い慣れた兵士だけを食わせればいい」

 タンクレードは入植のために聖槌軍に参加していた農民達を見捨てた。自軍の兵士には農民達から食糧を奪い取ることも許可した。これはタンクレードだけでなくユーグやアンリ・ボケもやっていることだった。聖槌軍全体の方針として実行されていることなのだ。

「百万全軍を食わせることなど不可能だ。ならば戦力を維持するために、自分の兵士を、戦い慣れて練度の高い兵士を優先して食わせるべきだ」

 ユーグが全軍にそう布告したわけではない。だがユーグの振る舞いは全軍の将軍が見習う。進軍を続けるため、戦力を維持するため、ユーグの方針以外に取るべき方策などどこにもありはしなかった。
 悲惨なのは見捨てられた農民の方である。ある農民の一団は味方から攻撃されて食糧を奪われ、ある農民の一団は味方の手によりバール人に奴隷として売られた。そして大半の農民は荒野にうち捨てられた。食うものがなくなり、草の根を噛み、木の皮をかじって飢えをしのぎ、それでも飢えて死んでいく。

「これより下はもうないと思っていたのに……地獄というのはいくらでも底があるんだな」

 地獄を見続けたディアだがそれでもそう慨嘆してしまう。ディアとその戦士達はユーグ達により見捨てられた部類に入る。どこかの貴族の軍勢がディア達から食糧を奪おうとし、ディア達はそれを返り討ちにして逆に食糧を奪い取った。これにより何とか進軍を続けていたディア達だが、ディアの周りでは農民が続々と倒れていった。西ネゲヴは死体の荒野と化している。ディアは哀れな犠牲者に目もくれず、ひたすらに前進を続けた。

「わたしは死ねない、こんな馬鹿げた戦争のために死ぬわけにはいかないんだ。わたしの生命は一族のためのものなんだから」

 精強を誇るディアの一族からもすでに二人の犠牲者を出している。一人は怪我で歩けなくなったため置き去りにした者、もう一人はエレブ貴族との戦いでの戦死者だ。

「二人とも勇敢な戦士だった。食い物さえ充分にあったなら二人とも死なずにすんだんだ。二人が死んだのはわたしの責任だ」

 意味がないと思いつつもディアは悔やまずにはいられない。手持ちの食糧が底をついたディアは「早く食糧を探さないと」と焦っていた。月はジブの月(第二月)の中旬、ディア達がイコシウムに到着する。

「なんだ、あの町?」

 イコシウムの城壁を見上げてディアは首を傾げた。これまでいくつもの町を通過してきたが、どこの町も空っぽで人はおらず、食糧もほとんど残されていなかった。だがイコシウムには人が残っている。城壁の上に兵が並び、矢を番え、大砲の砲門を揃え、戦う準備をして聖槌軍を待ち構えている。

「ネゲヴの戦士は全員スキラって町に、皇帝の元に移動しているんじゃないのか?」

「私もそう聞いていましたが……逃げることをよしとしなかった戦士もいたのでしょう。そんな戦士がこの町に集まっているのではないでしょうか」

 ヴォルフガングの解説にディアも「なるほど」と頷く。ヴォルフガングが力を込めて続けた。

「これは絶好の機会です。あれだけの戦士が残っているのなら食糧もかなりの量があるはずです」

 ディアの瞳が戦意に輝いた。

「確かにそうだ、こんな機会がこの先何度もあるとは思えない。何としてもあの町で食糧を手に入れるぞ」

 城壁を見上げる将兵がディア達と同じ結論に至り、同じ戦意を共有するのにそれほど時間は必要なかった。イコシウム攻略戦はその日の内に開始された。





 イコシウムは西ネゲヴでも有数の城塞都市である。城壁の高さは七パッスス(約一〇メートル)を超え、その厚さは三パッスス(約四・四メートル)を超えている。籠城するのは西ネゲヴ各地より集結した戦士や市民、その数二万。女子供はすでに東へと逃がしており、この二万は全員戦う覚悟を持ってこの町に残った者達ばかりである。このため援軍のないことが最初から明確な籠城戦でありながら、その士気は非常に高かった。
 一方の聖槌軍である。彼等は軍と呼ぶのをややためらうくらいに貧相な装備しか有していなかった。飛び道具は弓矢くらいで大砲どころか火縄銃も一丁もなく、騎兵もない。あるのは剣や槍ばかりである。大砲や火縄銃はある程度の数を揃えて最初の内は必死の思いで運んでいたのだが、すぐに運べなくなってしまった。ネゲヴの悪路で荷車は破損し、餌がなくなり牛馬が飢える。さらには人も飢えて牛馬は人に食われてしまう。とどめに数日置きに必ず降る雨が火薬を湿気らせ、大砲や銃を無用の邪魔者と化してしまうのだ。それらはルサディルから次の町に続く街道脇にうち捨てられ、朽ち錆びるままとなっている。
 当然ながら攻城戦用の投石機や攻城塔等も用意されていない。近隣に生えている大きな木を切り倒して即席の破城槌にするのがせいぜいである。

「見ろよ、剣と槍だけでこの町を落とすつもりかよ」

 城壁上のイコシウムの戦士達はエレブ兵の装備を見てそう笑っていた。だがその笑いはすぐに引きつることになる。

「突っ込めー!!」

 エレブ兵が何本もの破城槌を抱えて城門へと突っ込んでくる。城壁の上からは矢を雨のように降らせ、さらには熱湯を浴びせ、石を投げ落とした。エレブ兵は虫けらのようにばたばたと死んでいく。だが彼等は自軍の損害が目に入っていないとしか思えなかった。全く士気を揺るがすことなく、城壁を破ることだけに集中している。
 どれだけエレブ兵を殺してもエレブ兵は続々とやってきた。聖槌軍の攻撃は五箇所の城門、それに城壁の高さがやや低い数箇所に集中して行われた。エレブ兵が昼夜を問わず、交代して間断なく攻撃をし続ける一方、イコシウムは限られた人員が交代なしでそれに対応しなければならない。
 攻撃が始まってから一〇〇時間、全く途切れることなく攻撃が続けられ、五日目の未明。イコシウム側はついに限界を迎えようとしていた。負傷者は続出し、戦える者も一人残らず疲労困憊している。矢玉は尽き果て、建物を崩してその瓦礫を投石しているありさまだ。

「そろそろいけそうだな」

 ディア達は攻撃に参加せず、城壁内に侵入するポイントを探し、侵入する機会をひたすらうかがっていた。そして五日目の払暁、歩哨の兵士がいないタイミングを突いてディア達が城壁を乗り越え、城内へと侵入する。五日前なら決してこれほど簡単には侵入できなかっただろう。まともに歩哨もできないくらいに人員が払底しているのだ。

「食糧庫だ! 食糧庫を探せ!」

 ディアとその戦士達がイコシウムの町を烈風のように突き進む。運悪くその前に立ち塞がったネゲヴ兵は即座に斬殺された。

「エレブ兵が! エレブ兵が城内に!」

 その悲鳴は、辛うじて残っていたネゲヴ兵の士気を折る最後の一撃となった。

「城門が破られたんだ! 敵が入ってくる!」

「もう駄目だ! 勝てない!」

「逃げよう! 俺達は充分戦ったじゃないか!」

 ネゲヴ兵はそう言い訳し、持ち場を放り捨てて逃げていく。彼等は一様に港を目指していた。ぎりぎりで保っていた均衡はあっさりと崩され、エレブ兵が津波のような勢いでイコシウムの守備を突き破り、城門を破壊し、城内へと突入する。彼等もまたディア達と同じように食糧庫を探した。
 一方食糧庫では、十人ほどの兵士がまんべんなく油を撒いていた。そして一人の将軍が今まさに火を点けんとし、

「……よかった、間に合った」

 一人の少女が息を切らしながら、彼等の背後に現れた。火種を持った将軍が一瞬の戸惑いを見せ――次の瞬間には少女の剣が将軍を袈裟斬りにしていた。
 周囲の兵士が一拍置いて、慌てて剣を抜こうとする。だが突撃してきたディアの戦士達が瞬く間に兵士を屠っていく。わずか三人の戦士が十人の戦士を倒すのに一分もかかっていない。

「お前達……お前達……恩寵の戦士、がなぜ……」

 まだ息が残っていた将軍が喘ぎながらディアに問い、ディアは答え代わりに剣を一突きさせた。完全に絶命した将軍に構わずディアは周囲を警戒する。

「……誰にも聞かれていないな。よし、食糧を運び出せ」

 ディアは遠吠えで仲間を呼び、全員で持てるだけの食糧を持って逃走する。他のエレブ兵がその食糧庫を発見して殺到してきたのはその直後のことである。





 ――ジブの月二〇日、イコシウム陥落。この知らせは最速でサフィナ=クロイへと届けられる。西ネゲヴ有数の城塞都市として名高いイコシウムがたった五日で陥落した事実は竜也達に大きな衝撃を与えた。この戦いで生き残ったのは船を使って逃走した一部の兵だけで、それ以外は逃走もできず降伏も認められず、聖槌軍の手によって皆殺しとなった。戦意溢れる二万の兵の大半が失われた事実も含め、ネゲヴ側が受けた打撃は決して小さくはない。
 一方聖槌軍は、何よりもまず大量の食糧を確保できたことが大きな利益となった。それに大規模な会戦に初めて勝利したこともあり全軍の士気が大いに上がっている。イコシウムの籠城戦はネゲヴ側に損害を与え、聖槌軍側に大いに利する結果にしかならなかった。
 イコシウムの籠城戦を指揮したのはムタハウィルというバール人だ。将軍ムタハウィルはイコシウム陥落に際し、兵糧を焼こうとして失敗。聖槌軍に処刑される前に、

「兵糧を焼く前に船を焼くべきだった」

 そう言い残したと伝えられている。






[19836] 第二四話「サフィナ=クロイの暴動・前」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/15 21:03




「黄金の帝国」・会盟篇
第二四話「サフィナ=クロイの暴動・前」





 海暦三〇一六年ニサヌの月(第一月)。竜也はサフィナ=クロイに拠点を移した主要なバール人商会を集めた。総司令部の会議室にはナーフィア商会のミルヤムを筆頭に十数人の商会当主が集まっている。

「総司令部独裁官令第一二号、西ネゲヴの避難民を奴隷として売買することを禁止する――今日来られた皆さんは第一二号を遵守しているものと思っている」

 竜也の言葉に、集まった商会当主達はやや気まずそうな顔をした。集まった商会はともかくとして、聖槌軍と取引をしているバール人商会は決して少なくない。聖槌軍に食糧を提供し、代価として奴隷を――聖槌軍に捕まった西ネゲヴの民を受け取る。エレブの商会だけではなく東ネゲヴにもそんな商会が数多く存在しているのだ。

「だが、第一二号を無視している商会も少なくはない。西ネゲヴの民の不幸につけ込みその生き血をすするような真似をし、その上焦土作戦の完遂を危うくする。彼等の行為を決して許すことはできない。敵と取引をしている商会に対する取り締まりを強化する、今日集まってもらったのはそれに協力してもらうためだ」

「独裁官クロイの方針に異存はありません。バール人の不始末は同じバール人の手でつけます」

 ミルヤムが即座に宣言し、その場の全員がそれに賛同した。竜也は頷く。

「皆さんには第一二号に違反している商会の告発をしてほしい。その商会は潰すが、それも手伝ってもらう。告発した商会は自分が担当するものと思ってくれ。商会当主・幹部は奴隷として鉱山送り。商会財産は奴隷の買い戻しに使うけど、買い戻しの交渉や取引もお願いする。その代わり余った財産は担当した各商会の自由だ」

 金の臭いを嗅がされ、当主達の目の色が変わった。それを狙ってのこととは言え、竜也は内心でうんざりする。
 この後、いくつものバール人商会が血祭りに上げられた。商会は潰され、商会当主と幹部が奴隷となって鉱山送り。多くのネゲヴ人の溜飲は下がったが、バール人の評判がそれで改善されたかどうかは判らない。
 その一方、奴隷売買に荷担した全てのバール人商会が潰されたわけではない。

「独裁官閣下にはご機嫌麗しく。私はシャッル商会の当主シャッルと申す者です」

 その日、竜也と会談を持ったのはシャッルと名乗るバール人だった。年齢は三〇代の手前。線の細い、派手な優男で、酷薄そうな笑みをその口に常に浮かべている。会談にはシャッルを連れてきたベラ=ラフマが同席していた。

「独裁官閣下に買い取っていただきたいものがございます。こちらです」

 シャッルは何かの書面を竜也へと差し出した。竜也がそれを受け取って目を通す。驚きを隠せない竜也の視線がベラ=ラフマへと送られ、シャッルへと戻された。

「アビシャグ、三三歳、女、ティパサ出身。アロン、八歳、男、ティパサ出身。サライ、一二歳、女、グヌグ出身。ヒラム、一九歳、男、グヌグ出身……これは?」

「はい。私が聖槌軍から奴隷として買い取った者達です」

 シャッルは悪びれもせず堂々と答えた。竜也は考えを巡らせながら問う。

「……つまりあなたは自分が独裁官令第一二号に違反したことを認めるのか?」

「いえ、とんでもない」

 とシャッルは首を横に振った。

「独裁官閣下、よくお考えいただきたい。私が自分の利益だけを求めるのならケムトなりアシューなりに行ってこの者達を売りさばいています。また、私がこの者達を買わなければ他の商会が買い取っていただけ、その商会がこの者達を売りさばいただけです」

「つまり、これは西ネゲヴの民を助ける行為だと」

 はい、とシャッルは満腔の自信の元に頷いた。竜也は思わず唸ってしまう。

「一回くらいなら自腹を切ることもやぶさかではありませんが、私どもも商人です。採算の合わないことをくり返すわけにはいきません。その点を考慮の上、閣下にはこの者達を買い取っていただけたら……」

「総司令部は人身売買をしない」

 竜也は厳しい口調で断言し、その上で「だが」と付け加えた。

「西ネゲヴ避難民の救出については感謝する。航海実費については支援し、救出した人数に応じた報奨金を支払うことを約束する」

「ありがとうございます」

 シャッルは深々と頭を下げた。
 ……シャッルとの面会を終え、竜也は執務室でベラ=ラフマと向かい合っている。

「あの男、シャッルは聖槌軍と取引をしたときは避難民を助けるつもりはさらさらなかったんじゃないか? でも奴隷売買の取り締まりが強化され、このままだと告発されて商会を潰されるからこんな手を打ってきた」

 竜也の推測にベラ=ラフマが「その通りです」と首肯した。

「多分、シャッルの真似をする商会が今後続出するだろう。別にそれはいい、全ての奴隷商人を今すぐ全部潰してやりたいわけじゃない。西ネゲヴの避難民を助けることが先決だ。でも、問題はこの先だ」

「この先とは?」

 竜也は腕を組み、難しい顔をする。

「確かに、今現在聖槌軍に捕まっている人達を助けるには聖槌軍と取引をするしかない。でも、聖槌軍が西ネゲヴの人達を捕まえるのはそれが売り物になるからだろう? 聖槌軍との取引を認めることは聖槌軍の人間狩りを促す結果になるんじゃないか?」

「確かにそれは考えられます。ですが同時に、売り物にならないネゲヴ人は即座に殺されるだけ、とも考えることができます」

 竜也が「じゃあどうすれば?」と途方に暮れたように問い、ベラ=ラフマが「どうする必要もないかと」と淡々と答えた。

「バール人の各商会に大々的に救出を命じたりせず、各商会が自主的に西ネゲヴの避難民を救出してきたなら報奨金を支払う。それでよいのでは」

「……確かに、そうするしかないかな」

 竜也はやや納得していない様子だったが一応そう頷いた。

「シャッルはトルケマダを始めとする聖槌軍の高官と面識を持っています。敵の情報を収集するにも彼等の協力は不可欠です」

「だがだからと言って敵への食糧補給を許すわけにはいかない」

 強い口調で反発する竜也に対し、ベラ=ラフマは「少しくらいなら構わないのでは」という立場だった。

「シャッル等が補給する食糧は百万が必要とする量に対してごくわずかです。大勢に影響はありません。情報収集のためなら多少の利益供与はやむを得ないかと」

 それでも渋る竜也だが、情報収集の重要性は竜也だって百も承知だ。結局竜也も折れ、聖槌軍への食糧提供を黙認することとなった。

「でも、売っていいのは製粉した小麦粉とか葡萄酒とか、高級食材や嗜好品だけだ。指揮官が兵の飢えを理解できなくなれば士気も規律も低下するだろう。反乱を煽ることもできるかもしれない」

 竜也はそう付け加えることを忘れない。ベラ=ラフマはその命令を了解した。
 取り締まりの強化により一旦は下火になった奴隷売買だが、ジブの月(第二月)に入るとまた盛んになってくる。ただし、取引される奴隷はネゲヴ人ではなくエレブ人だった。

「食糧を買うために一番手早く売れるものを売っている」

 とはベラ=ラフマの解説である。東ネゲヴの奴隷市場にはエレブ人が溢れ、奴隷の市場価格は暴落した。
 竜也は再度総司令部にバール人商会当主を集めた。今回集めたのはワーリス商会の他、東ネゲヴの主要な鉱山所有者ばかりだった。

「久しぶりじゃの、独裁官タツヤよ」

「お元気そうで何よりです」

 ワーリスと簡単な挨拶を交わす。十人ほどの商会当主を前にし、竜也は本題に入った。

「今、東ネゲヴに大量のエレブ人奴隷が流入しています。皆さんの鉱山でも購入しているかと思いますが」

 バール人達は互いの顔を見合わせた。どう答えれば一番無難か、竜也の顔色をうかがっているようである。そんな中、

「ひょほほほ、うちの商会では大勢買っておるよ。他のところも同じじゃろうて」

 真正直に答えたのはワーリスだ。ワーリスに促されるように他の当主達も、

「……総司令部から増産の依頼もありましたからな。人手は必要です」

「奴隷になったとはいえ敵兵だった者を町中に置いておくのはまずいだろう。鉱山で使うしかあるまい」

 等と言い訳がましくその事実を認めた。竜也は手を振って説明する。

「誤解しないでほしいんですが俺はそれを責めるつもりは全くありません。形はどうあれエレブ人を引き受けてもらえるのは本当に助かります。聖槌軍がこの町に接近し、戦争が本格化すればエレブ人の捕虜を大量に獲得することになるでしょう。おそらく、どんなに少なくとも何万という数の捕虜を」

「なるほど。それを我々の鉱山で使え、ということか」

 当主の一人の言葉に竜也は「はい」と頷いた。

「できるだけたくさん受け入れてほしいと思います。ただ問題は、捕虜の待遇です」

「なるほど確かに。エレブ兵の捕虜にガフサ鉱山式の厚遇を与えるのは問題かもしれん」

 当主の一人がそんなことを言い、周囲が頷いて同意する。だが竜也は、

「いえ、エレブ兵の捕虜もガフサ鉱山に準じて遇してほしいんです」

 一同はそれぞれの方法で驚きを表現した。

「エレブ人どもをそこまで厚遇するのか? そんな必要がどこにある?」

「別に何もかもネゲヴの市民と同じ扱いってことじゃないですよ。でも、皆さんも判っているでしょう? あのやり方が一番効率がいいんです。それに、エレブ人を酷使して絶望させて、反乱を起こされるのは総司令部としては非常に面倒ですし、迷惑です。『ここで真面目に働いて金を貯めれば、戦争が終わればエレブに帰れる』、そう希望を持たせれば反乱なんか起こさないでしょう?」

 苦笑混じりの竜也の説明に一同が納得する。その中、ワーリスが疑問を呈した。

「……独裁官は百万の聖槌軍を皆殺しにすると言っておったんではなかったかの?」

「俺の目的はあくまでネゲヴの勝利、エレブ人を殺すのはその手段であって目的じゃありません。エレブ人であっても殺さないでいいのならそれに越したことはないですよ。……ただ、確実に勝利するには百万のほとんどを殺さなきゃいけない、それだけです」

 竜也の瞳が剣呑な光を帯びる。ワーリス達はかすかに身震いするが、それを竜也に悟らせることはなかった。
 不意に竜也の瞳から殺気が消え、代わりに悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「エレブ人に対する給金はネゲヴ人の十分の一とかにしたらどうでしょう。その上で支払いをこれにすれば逃亡も防げると思います」

 そう言って竜也がテーブルに何かを差し出し、一同がそれをのぞき込む。それは中央に奇妙な肖像画が描かれた、ただの紙切れだ。一同が不思議そうな顔を竜也へと向けた。

「これは一体?」

「紙幣、紙のお金です。その鉱山でしか通用しない、独自通貨で払うんです。食事も、酒も、娼婦も、その金を払えば買えるようにします。でも鉱山の外ではただの紙切れです。稼いだ金を握りしめて脱走したところで玉子一つ買えないってことです」

 ワーリス達が各自でその案を検討し、

「ふむ、面白い。よい考えかもしれんの」

「確かに。問題はなさそうです」

 等と頷く。彼等はそのアイディアを採用してくれそうだった。ワーリスがその紙幣を手に取る。

「これ一枚が一ドラクマということかの」

「いえ、通貨単位はペリカです。一〇ペリカで一ドラクマ」

 竜也は大真面目な顔でそう告げた。一同は不思議そうな顔をする。

「まあ、通貨の名前など何でもいいだろうが……」

「いえ、ペリカです。こういう時の単位はペリカと決まっています」

 竜也があくまで真剣に言い続けるので、一同は怪訝に思いながらもそれを受け入れる。竜也が作った手描きの一ペリカ紙幣、その中央には兵藤和尊の肖像画が描かれていた。





 ジブの月の月末、イコシウム陥落の知らせがサフィナ=クロイに到着した。

「一ヶ月くらいは籠城して聖槌軍を苦しめてくれることを期待していたのですが……たった五日で陥落するなんて。しかも兵糧の焼き捨てに失敗して敵に兵糧を提供する結果となるとは。一体彼等は何のために戦ったのですか」

 ミカは呆れたように言う。イコシウムの籠城戦に対するこの酷評は総司令部の多くの者が共有しているものだった。

「イコシウムの将軍ムタハウィルはバール人だ。やはりバール人は信用ならない、敵に利することばかりやっている」

 そんな声が竜也の耳にも届いている。

「将軍ムタハウィルはバール人の悪評を少しでも払拭するため聖槌軍に立ち向かったのでしょう。結果として悪評を重ねただけとなってしまいましたが」

 ベラ=ラフマがそう分析し、竜也もそれに同意した。だが、

「籠城戦を戦った者達が近々この町に移動してくる。敗北したとは言え彼等は百万の敵と勇敢に戦った戦士達である。戦っていない者が戦った者を侮辱することは許されない。彼等の勇戦を貶めてはならない」

 竜也は公式にそう布告し、イコシウムの戦士達の名誉を保つことに努めた。イコシウムの籠城戦に対する竜也の評価のうち、公になっているのはこの布告だけである。二万近くの兵を喪い、敵に大量の食糧を提供したことに内心穏やかであったはずがないが。
 そして月はシマヌの月(第三月)に入り、その初旬。随分久々になる人物が総司令部を、竜也の元を訪れた。

「船長! サドマさん! ダーラクさん!」

 ガイル=ラベク、サドマ、ダーラクが西ネゲヴからようやく戻ってきたのだ。竜也は思わず彼等と抱き合う。

「よくご無事で……! 戻ってくれて嬉しいです」

「お前こそ、お前の評判は西ネゲヴにも広まっているぞ」

「大した奴だぜ!」

 竜也達はしばしの間互いの無事を喜び合い、健闘を讃え合った。

「――西は今どうなってるんですか」

 竜也がそう問うと、ガイル=ラベク達は目を伏せて沈黙した。少しの間、その場を静寂が支配する。

「……人間が無数に死んでいったよ。力尽きた避難民が、聖槌軍と戦う戦士が。それに、聖槌軍の兵士も」

 ガイル=ラベクのその言葉に竜也は、

「……そうですか」

 万感の思いを込めてそう応えた。ガイル=ラベクが懐から書状を取り出す。

「戦死者の一覧だ。後で目を通してくれ」

「判りました」

 竜也はその書状を謹んで受け取り、軽く目を通す。偵察船団メンバーの者、サフィナ=クロイから援軍に送った者、知った名前をいくつか見出す。竜也は内心で黙祷を捧げた。
 竜也は気持ちを切り替えてガイル=ラベクに問う。

「聖槌軍は今どこまで来ていますか?」

「そうだな。先鋒はイギルギリはまず越えただろう。今頃はキルタまで来ているかもしれん」

 キルタは元の世界で言えばアルジェリア・コンスタンティーヌ付近となる。

「もうそんなところまで……!」

 竜也は戦慄するが、理性を総動員して内心の動揺を沈めた。竜也はガイル=ラベク達を自分の執務室に案内し、西ネゲヴの現状について詳細な報告を受けることとした。

「最初のうちは失敗や問題ばかりで、本当に途方に暮れていた。『もっと違うやり方があったんじゃないか』と、そればかり考えていたな。だが東に移動するにつれて有能な人間があちこちから合流してきたし、皆も作業や指導に慣れてきた。より短い時間で、より多くの民を東や南に避難できるようになった」

「それでも問題がなくなったわけじゃない。南に避難した民と、元から南に住んでいる民の対立や衝突は深刻だ。南の住民が避難民を排斥したり、逆に避難民が侵略者となって南の住民を支配しようとしたりしている。この衝突が原因の死傷者も数え切れないくらい発生しているそうだ」

 竜也は無表情を装って内心の懊悩を抑圧した。南の住民と避難民の衝突は目に見えていたことだが、当初の想像よりもかなり被害が大きいようである。だがその被害も「想定の範囲内だ」と割り切る他ない。

「食糧の焼き捨ても同じような状態だ。最初のうちは不手際で多くの食糧が街道上に残ってしまったが、次第に残してしまう食糧が少なくなっていった。今ではほとんど残さないくらいになっているだろう」

「聖槌軍にはかなりの打撃になっているようだ。お前の戦略は間違っていない。ただ計算違いだったのは、聖槌軍の連中は食糧不足を軍全体で均等に受け止めていない、ということだ。奴等は入植目的の農民や徴兵された農民兵から食糧を取り上げ、騎士階級や戦い慣れた兵に回している」

「……それは、聖槌軍の中の戦力としては弱い・当てにならない部分に飢餓や被害を押しつけ、戦力として当てにできる部分の体力を温存している、ということですか?」

 竜也の確認にダーラクが「その通りだ」と頷く。

「物凄い数の農民や農民兵が進軍から脱落している。飢えて進軍について行けなくなった連中が街道に無数に行き倒れていたよ。東ネゲヴやアシューからやってきた奴隷商人に捕まった連中も多かったが、飢え死にするよりはそちらの方がまだマシかもしれん」

「進軍から外れて、食糧を求めて南に行こうとする連中も少なくなかった。全体から見ればごく一部だが何しろその全体が百万だからな。規模の大きい連中は俺達遊撃部隊で仕留めて回ったが、規模の小さい連中は避難民等の自警団に任せるしかなかった」

 あの分ならスキラに着くまでにはどんなに少なくとも二〇万は脱落しているだろう、とダーラクは報告をまとめた。その報告を受けた竜也は内心で様々な再計算と戦略の再検討を行っている。

「タツヤ?」

「あ、ああすみません」

 竜也はガイル=ラベク達に笑顔を見せた。

「皆さんにはまた色々と仕事をお願いしますが、何日かはゆっくり休んでください。今夜は総司令部で晩餐会をやりますので、楽しみにしてください」

 その夜、ガイル=ラベク等戦地から戻ってきた者の慰労のために総司令部でちょっとした晩餐会が催された。それなりに豪華な晩餐を用意するのはファイルーズ付きの女官達である(もっとも竜也はほとんど食べなかったが)。参加者は竜也は言うまでもなく、戦地帰りのガイル=ラベク・サドマ・ダーラク。ファイルーズ・ミカ・カフラ・サフィール・ハーキム等の、竜也の側近メンバー。アラッド・ジューベイ等の有力者に、アアドル・ジルジス・バリア等の大臣クラスの事務官。最後にアミール・ダールを筆頭とする軍の指揮官である。なおラズワルドは参加を辞退した。
 晩餐会の目的は単なる慰労だけではない。竜也の側近・総司令部高官全体が戦地の現状を直接聞いて情報を共有し、臨戦意識や緊張感を高めて職務に励行してもらうことを狙いとしている。だから本当はマグド等もっと大勢の参加者を集めたかったところなのだが、集められるのはサフィナ=クロイにいる者に限られていた。
 ガイル=ラベクやダーラク達は戦地の現状を正直に陰鬱に語って苦労自慢をするような人間ではない。戦場がどれほど悲惨であろうと、苦労話を馬鹿話に変えて笑い飛ばすのが彼等の流儀である。だがそんな馬鹿話でも西ネゲヴの過酷な現状は隠しようもなく伝わってくる。竜也の目的は概ね達成されたと言っていいだろう。

「――バール人どもには手を焼かされたな。潰しても潰しても次々と湧いて出てきて、本当にきりがなかった」

 ガイル=ラベクの忌々しげな言葉に、カフラが言い訳がましく解説する。

「……気持ちは判りますけどね。東ネゲヴで一タラントで出仕入れた小麦を聖槌軍に売れば軽く一〇タラントになるんですから」

「まあ、西ネゲヴの広大な海岸線を俺達だけで完全にカバーするなんて始めから不可能だからな。上手いことやって最後まで逃れた商会も多いだろう。捕まえた商船も多くて俺達もそれなりに潤ったが」

 ガイル=ラベクに捕まった商船は、まず船長や幹部は海に放り捨てて排除。船と船員はそのままガイル=ラベク麾下に収められ、避難民輸送や海上封鎖等の任務に当てられた。ガイル=ラベク達海上傭兵団にとっては任務に勤しめば勤しむ分だけ配下の船が増えるのだ。一方、聖槌軍との取引で手に入れた金品・美術品を積んでいた場合、それらはサフィナ=クロイに送られて竜也の宝物庫に納められた。

「タツヤだって随分儲けただろう?」

「借金を返せるほどじゃありませんけどね」

 ガイル=ラベクの揶揄に竜也は苦笑した。

「ああ、そうだ。ちょっと珍しいものを手に入れたんだ」

 ガイル=ラベクは手を振って指示を出し、部下の何人かの兵が会場に何かの箱を運んできた。

「提督、これは何でしょうか?」

「拿捕したエレブの商船に積んであった、エレブの美術品だ。その商船はエレブ本国と聖槌軍との連絡船だったらしい」

「そんな船が美術品を?」

「ああ、何故か積んでいた」

 ファイルーズ達の問いにガイル=ラベクが答えているのを耳にしつつ、竜也は首を傾げていた。

「……仏壇?」

 その箱は高さ二メートル、幅一メートルほど。全体が黒檀で作られており、金細工の飾りで彩られている。正面が観音開きの扉になっていて、竜也の目には仏壇にしか見えなかった。
 ガイル=ラベクが合図をし、部下の兵が黒檀の箱の扉を開く。

「……!」

「ほう、これは……!」

 ある者は息を呑み、ある者は感嘆した。竜也は一瞬その箱に人間が入っていたのかと勘違いした。それくらい精密に、実物と見間違うくらいに写実的に描写された人物画だったのだ。
  一メートルほどの幅いっぱいを使って描かれているのは一人の女性である。高度な技法と優れた画才を惜しみなく無駄に使い、関取みたいな体格のその女性を実にリアルに描いている。顔の横幅も通常の倍くらいになっているが、眉や目鼻は常人と同じ範囲で中央に集まり収まっていた。輪郭を無視すれば、目鼻立ちの整ったかなりの美女である。
 そこに描かれているのがヴェルマンドワ伯ユーグの妻アデライードであることを知る者はこの場には一人もいなかった。

「確かにこれはエレブで人気の人物画の手法です。でもこれだけの絵が描ける画家はエレブでも何人もいないでしょう。モデルが着ているのも素晴らしいドレスですし、かなり名のある貴族令嬢に違いありません」

 美術に造詣の深いカフラが解説し、ミカは、

「わたしには芸術のことは判りませんが、それでもこの絵が見事なことは判ります――モデルはともかくとして」

「確かに素晴らしい絵だな――モデルはともかくとして」

 ミカや竜也の感想はその場の全員が共有するものだった。
 カフラやバリア達はその絵を肴に、美術談義を楽しんでいる。その一方ガイル=ラベクやサドマ達がやや退屈そうに見えた竜也は話が途切れたのを見計らい、

「――それにしても、敵がもうイギルギリを越えたなんて」

 やや強引に話題を変え、それにガイル=ラベク達が乗ってきた。

「タツヤの立てた作戦がある意味上手くいきすぎたんだ。街道沿いの住民は徹底的に避難させたから戦闘がほとんど起こっていない。食糧もろくに残っていないから、連中は食糧を求めて先を急ぐしかないんだ」

 ガイル=ラベクの説明をサドマが補足した。

「それと、聖槌軍内で流れている噂がある」

「噂?」

「ああ。捕虜から聞いた話だが、『スキラの東にはネゲヴの皇帝の黄金の宮殿がある』。聖槌軍の兵士の間ではそんな話で持ちきりだそうだ」

「俺が捕虜から聞いたのは、『スキラには皇帝がネゲヴ中から集めた一億アンフォラの麦と百万タラントの金銀財宝がある』って話だな」

 と付け加えるのはガイル=ラベクだ。

「結構正確な噂ですね」

 とカフラが評する。数字に多少の誇張はあるが、竜也が東ネゲヴ各地に数千万アンフォラの麦を確保していること、西ネゲヴ中から金品・美術品を預かっており、その総額が数十万タラントになること、それ等の全部ではないが何割かがサフィナ=クロイ南部の食糧庫・宝物庫で保管されていることは事実であった。

「連中その噂を信じ切っていて、誰よりも先にスキラに行って少しでも余計に略奪することだけで頭がいっぱいなようだ」

「脇目もふらずに東に、この町に向かっている。おかげで南に外れる敵は全体から見ればごくわずかだ」

 そうですか、と竜也は引きつった笑みを見せた。南に逃れた避難民の被害が少なくなるのは結構だが、百万の敵を真正面から受け止める未来図を考えるとただ喜んでばかりはいられない。

「これも作戦のうちか? 皇帝タツヤ」

「俺達が見込んだだけのことはあるな、皇帝タツヤ」

 とサドマ達が竜也をからかう。竜也は「皇帝は止めてくださいよ」と苦笑するしかなかった。だが、そこにハーキムが口を挟む。

「ですがタツヤ。聖槌軍をネゲヴの奥地まで引きずり込むのがタツヤの作戦なのでしょう? なら、皇帝を名乗ってその地位に就くのも作戦の一環としては有効なのではないですか?」

「そうですね。この際堂々と皇帝を名乗ってはどうですか?」

 とミカまでが言うので竜也は「いや、それは……」と焦りを見せた。それに構わずジューベイ等が、

「おお、タツヤ殿が皇帝になるのか! いやそれは重畳!」

「本当です! タツヤ殿、おめでとうございます!」

 サフィールは無邪気にそう喜んでから、

「ところで皇帝って何ですか?」

 その問いにジューベイを除く全員が「だああーーっっ」と吉本新喜劇のようなコケを見せた。サフィールはそのリアクションが理解できないようで、「え? え?」と周囲を見回している。
 バリアは苦笑を見せながら、

「サフィール、皇帝というのは……」

 とサフィールの問いに答えようとしたが、そこで言葉を詰まらせた。

「ミカ、説明を頼む」

 バリアからいきなり説明役を押しつけられたミカは「いぇえ?」と驚く。しばしの逡巡の後、

「ハーキムさん、お願いします」

 とバトンタッチした。ハーキムは苦笑しながら全員に説明する。

「皇帝というのは、聖杖教の聖典に登場するネゲヴの支配者の名称です。『もしケムト王が圧倒的な武力を有していてネゲヴ全土を支配したなら』――歴史上そんな事例はないんですが、聖杖教の聖典の中では何故かそんなことが起こったことになっているんです。その、圧倒的な武力を持ってネゲヴ全土を支配した絶対的存在、それが皇帝と呼ばれています」

 竜也を除く一同が「ほー」と感心する。晩餐会の参加者はネゲヴでも上流階級、または知識階級(インテリゲンチャ)に属する人達ばかりだが、それでも「皇帝」の何たるかを理解しているのはハーキムだけだった。エレブ人はともかく、ネゲヴ人にとってそれは他宗教独自の専門用語でしかないのだ。

「こっちじゃ起こらなかったけど、俺が元いたところじゃそれが起こっていたんだ。皇帝っていうのは預言者フランシスが向こうからこっちに持ち込んだ言葉なんだ」

 と竜也が説明を補足した。
 ――皇帝(インペラトル)とは「命令」「支配」を意味する単語に由来し、その意味は「命令者」、つまり軍の司令官を表す言葉だった。ローマに誕生した民主共和制国家は支配領域を拡大するにつれ、民主制が現実の政治と不適合になっていく。混迷の危機を迎えたローマは独裁官を選出してその危機を克服した。だが本来半年で交代するはずの独裁官はやがて建前だけを残して事実上の終身独裁官となり、その地位が世襲となっていく。その、世襲となった終身独裁官に対する称号の一つが「軍司令官(インペラトル)」なのである。

「――それなら、タツヤさんが皇帝を名乗っても何も問題ないんじゃないですか?」

 竜也の説明を聞き終えたカフラはそんなことを言い出した。「ええ?」と驚く竜也にカフラが説明した。

「予定通り一年でこの戦争が終わっても、タツヤさんが独裁官の地位を手放すことは認められないと思いますよ? タツヤさんがスキラを初めとする商会連盟にどれだけの借金を抱えているか、忘れたわけじゃないでしょう?」

 竜也が「うぐ」と呻くのに構わずカフラが続ける。

「一介の庶民に戻ったら借金の返済なんかできるわけがありません。タツヤさんの地位を引き継ぐ人間がちゃんと借金を返してくれる保証があるのか判ったものじゃないですし、それならタツヤさんが戦争後も独裁官の地位にあって、きっちり借金を返していくべきだと思います」

 竜也が頭を抱えながら呻く。アアドルがそれに追い打ちをかけた。

「借金の金額を考えれば返済は一生物の仕事です、終身独裁官となる他ありません。独裁官の地位を世襲として、何代かかけて返していくことも視野に入れるべきかもしれません」

 さらにガイル=ラベクがとどめを刺す。

「それに、一年で戦争を終わらせたとしてもネゲヴはもう昔のままじゃやっていけんだろう。教皇が懲りずにもう一度聖槌軍を発動する可能性がわずかでもある以上、ネゲヴの軍は維持しなければならんし、誰かがその指揮を保持しなければならんのだ。タツヤ、お前以外の誰にそれができる?」

 竜也はテーブルに突っ伏していたが、やがてのろのろと身を起こした。

「……その、そんな先の話はこの戦争にちゃんと勝ててからにしましょう。皇帝の称号もその時に考えます」

 と竜也は話を先延ばしにする。カフラ達は不服そうだがそれ以上の追求はしなかった。
 「皇帝(インペラトル)」が「軍司令官」という意味しかないのなら、現状の竜也はまさにその地位にある、「皇帝」を名乗って何が悪いのか――カフラ達は皆そう考えている。だが、彼女達は知るはずもない。数ある称号の一つでしかなかった「軍司令官(インペラトル)」が唯一絶対と化していった歴史を。
 五〇〇年にわたりローマに君臨し、東ローマではそこからさらに一〇〇〇年。西ローマが滅んでもその皇帝位はフランク帝国に、神聖ローマ帝国に、オーストリア帝国・ドイツ帝国に引き継がれ、東ローマの皇帝位はロシア帝国に引き継がれた。アウグストゥスに始まり実に第一次世界大戦終結まで、皇帝の地位は二〇〇〇年にわたってヨーロッパの、世界の至尊の座であり続けたのだ。その歴史の重みを知っている竜也が、いくら勧められたからと言ってそう簡単に皇帝の地位に就くはずがない。

「……予定通り一年でこの戦争を終わらせることができたなら、そのときなら皇帝を名乗ってもそんなに問題ないだろうけど」

 竜也はそう考えており、現状で皇帝を名乗るつもりは毛頭なかった。だがその考えはある事件を契機に変更を余儀なくされる。






[19836] 第二五話「サフィナ=クロイの暴動・後」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/17 21:02



「黄金の帝国」・会盟篇
第二五話「サフィナ=クロイの暴動・後」





 ときはシマヌの月(第三月)の上旬、晩餐会から数日後のその日。総司令部で東ネゲヴ諸都市の長老から陳情を受けていた竜也達の元に、兵士が駆け込んできた。

「市民と兵が……!」

 その兵士の注進を受け、竜也が総司令部を飛び出す。その後を護衛と官僚達が追いかけた。
 総司令部はゲフェンの丘と呼ばれる、海に面した小高い丘の上に建っている。その丘のふもとに、大勢の市民と兵士が集まっていた。人数はざっと見て千人以上。市民と兵士は口々に不満と要求を叫んでいる。

「食料の配給をもっと増やせ!」

「もう一月以上休んでない! 少しは休ませろ!」

「お前達だけいい家に住みやがって! 俺達はずっとあばらや暮らしだ!」

「敵なんか来ないじゃないか! 適当なことを言いやがって!」

「独裁官を交代させろ!」

 要するにデモ隊か、と竜也はその市民と兵士の集団を理解した。サフィナ=クロイの劣悪な環境を思えば市民から不満が吹き出すのも当然だった。

「兵士を集めて鎮圧させなければ」

 官僚の一人がそんなことを言うが、竜也はそれを止めた。

「不測の事態に備えて兵を呼ぶのは仕方ないが、強権的に鎮圧するのは望ましくない。市民の代表を二、三人選ばせろ。話は総司令部でその代表から聞くと。兵士の方は上官を呼んで、その上官に事態を収拾させろ」

 竜也の指示を受けて官僚の何人が兵士を連れてデモ隊との交渉に向かう。官僚がデモ隊に代表を前に出すよう命じるが、市民はそれに反発して前進しようとする。それを兵士が押し止めようとし、揉み合いとなった。総司令部側・兵側の応援が到着してデモ隊側を押し返し、一方デモ隊側にも応援や野次馬が集まってきて押し戻す。人数は増える一方であり、デモ隊の行動も激しくなる一方だった。

「食い物をよこせ!」

「無能な独裁官は出ていけ!」

 デモ隊が投石し、兵士側に負傷者が出る。兵士側が剣を抜き、デモ隊に怪我人が続出した。暴力のエスカレートに歯止めはなく、すでにその群衆はデモ隊ではなく単なる暴徒と化していた。
 竜也は丘の上から暴徒と化した群衆を見つめている。胃痛に顔色を悪化させながら竜也は命令を下した。

「……すぐに将軍アミール・ダールに連絡を。今動けるだけの兵を集めてこの丘へ」

 もはや穏便な解決など望むべくもない。これ以上の双方の被害を減らすには力尽くで暴徒を抑え付けるしかない。それが竜也の判断だった。
 竜也が命令を下すのとほぼ同時にアミール・ダールの軍がゲフェンの丘に到着した。暴徒の動きを聞き及び、竜也からの命令を待たずに行動を開始していたのだろう。

「排除せよ!」

 アミール・ダールが剣を振り下ろし、配下の兵が暴徒へと突撃する。アミール・ダールの兵は三百人にも満たない少人数だが、それが二千にも届こうかという暴徒を圧倒していた。たちまち暴徒は総崩れとなり、散り散りになって逃げていく。いや、一部の暴徒は隊列を保ったままだ。その一団に他の暴徒が合流している。ある方向へと一直線に向かっている。

「何だ、あの連中?」

 竜也は不審に思い、その一団が向かう先に視線を送る。そして、元々悪かった竜也の顔色が蒼白となった。音を立てて血の気が引く一方心臓が早鐘を打っている。

「……食糧庫と宝物庫! 奴等、略奪するつもりなのか!」

 恐怖が物理的な痛みとなって胸を刺した。死神に心臓を鷲掴みにされたかのようだ。
 サフィナ=クロイ南部の食糧庫と宝物庫は竜也の権力の源泉であり、ネゲヴ軍の兵糧であり資金源でもある。もしここが略奪されたなら戦争遂行の目算が一から狂ってしまう。勝てるかどうかですらなく、戦うこと自体が危うくなるかもしれないのだ。

「我々が先回りをして暴徒を止める」

 バルゼルが短く告げ、身を翻した。竜也はその背中に、

「――何人斬ってもいい、何としても守ってくれ」

 絞り出すような声で、だが確かにそれを命じる。バルゼルは返答せずに走り出した。その後にサフィールが、警護隊の剣士達が続いて走っていく。

「将軍アミール・ダールに連絡を。暴徒が食糧庫を襲おうとしている、守れと」

 竜也は伝令をアミール・ダールの元へと走らせた。アミール・ダールも即座に暴徒の後を追う。だが追いつくことはできても先回りは到底不可能だった。
 数刻の後。サフィナ=クロイ南部の倉庫街、そこに続く路上。その場所でバルゼルやサフィール達、十人に満たない牙犬族剣士がへたり込んでいた。身体強化の恩寵を全開にして必死に走り、何とか先回りに成功したバルゼル達は、今は呼吸を整えることに専念している。暴徒の一団はすぐそこまで迫っていた。彼等が宝物庫を目指して走っているのが見えている。彼等が立てる地響きが足の裏から伝わってきている。欲望に目の色を変えているのが見えている。

「来るぞ、用意しろ」

 バルゼルが静かに命じ、息を整えた剣士達が移動を開始した。暴徒が回り込んで宝物庫を目指しても対応できるように他の道路にも剣士を配置し、大通りにはバルゼルとサフィール、それにもう一人だけが残っている。サフィール達の眼前には、千を超える暴徒が怒濤のような勢いで迫っていた。

「バルゼル殿、どうするおつもりですか。たった三人で」

 サフィールは思わず不安そうな声を出してしまう。

「ルサディルを思い出せ。あれより条件ははるかにいい」

「しかし、あれは本来守るべき味方――」

「敵だ」

 バルゼルは静かに、だが明確に断言する。

「タツヤ殿は奴等が止まるまで何人でも斬れと命じた。それを忘れるな」

 サフィールは返答をしなかった。だが顔を青ざめさせながらも、剣を持つ手にはすでに迷いはない。その目はしっかりと「敵」を見据えている。
 暴徒とバルゼル達の間はもはや指呼の間である。先頭を走る暴徒は欲望に顔を歪めている。その目に映っているのは宝物庫内の金品だけ、その頭にあるのはどれだけ多く金品を略奪できるかだけだ。サフィールは自分の心が冷えるのを感じていた。確かに眼前の暴徒とルサディルのエレブ兵との間には、何らの違いも見出させなかった。
 暴徒の先頭を走っているのは若く体格のいい三人の男だ。あるいは恩寵持ちなのかもしれず、後続の暴徒を数十メートル以上引き離して走り続けている。三人の男がサフィールの横を走り抜けた。だがそこにはバルゼルが佇んでいる。

「キェェーーッッ!」

 示現流のような猿叫を上げ、バルゼルが上段から真っ直ぐに剣を振り下ろす。男の一人が脳天から股間までを真っ二つにされた。一人の男の二つの死体はまるで人体標本のような断面をさらし、地面に転がる。
 バルゼルは振り下ろした剣をそのまま斜めに振り上げ、次の男の胴体をなぎ払った。斬られた男はそのままの姿勢でしばし佇むが、やがてその上半身がゆっくりと斜めにずれて地面に落ち、次いでその下半身も倒れた。
 最後の一人は急停止をするが遅く、男はすでにバルゼルの間合いの中に入っていた。後退しようとする男へとバルゼルが上段から剣を振り下ろす。最初の一人のように真っ二つにはならなかったが、額から股間までを一直線に斬られたことには変わりない。

「ひゃやややっっーーー!」

 奇妙な悲鳴を上げた男が後ろ歩きで後退し、後続の暴徒にぶつかって背中から倒れ込んだ。暴徒達はその場に急停止するしかない。

「それ以上前に進めばお前達もこうなる」

 バルゼルは静かに通告した。

「こ、この人殺し――」

 暴徒の一人がバルゼルを罵ろうとするが、バルゼルに見据えられて即座に沈黙した。

「けっ! たかが犬っころ相手に何をびびってやがる! この俺様が――」

 おそらくは恩寵持ちであろう、どこかの馬鹿が暴徒をかき分けてバルゼルの前に進み出てくる。バルゼルは無言のままその馬鹿の間合いに飛び込み、剣を横腹に突き刺し、横に薙いだ。馬鹿の横腹からは大腸が大きくこぼれ出していて、馬鹿は泣きながら、手を血まみれにしながらそれを腹に収めようとしている。
 凄惨な斬撃を目の当たりにした暴徒の先頭は完全に足を止めてしまっていた。だがその後続はまだ止まっていない。後ろから押された者が倒れ、さらに倒れた者に足を取られて後続が倒れる。それでもその後続はまだ足を止めず、さらに後ろから来る者に押されてしまう。暴徒は方向転換も身動きもままならない、すし詰めの渋滞状態となってしまった。足を止め、勢いを失った暴徒はすでに暴徒たり得ない。

「制圧せよ!」

 そこにアミール・ダールの軍勢が到着、暴徒を――その場の群衆を蹴散らしていく。群衆の半分は散り散りになって逃げ出し、もう半分はアミール・ダールの手によって捕縛される。食糧庫も宝物庫も襲撃されることなく、暴動は無事に鎮圧された。
 だが、竜也にとってのこの事件の本番は後始末の方だった。

「食糧庫の警備の強化が必要だ。とりあえず独裁官警護隊に警備してもらって、兵を厳選して独自の警備隊を作って」

「将軍アミール・ダールに市内の見回りをしてもらう」

「白兎族を集めて暴動参加者の取り調べを進めてくれ」

「暴動に参加した兵はどのくらいいる?」

 アミール・ダールはサフィナ=クロイの随所に兵を配置する一方自分は騎馬隊を引き連れて市内を巡回。市民の動揺を抑えることに努めた。その一方ではベラ=ラフマとラズワルドの率いる白兎族が暴動参加者の取り調べを進めている。

「捕縛された暴動参加者は五一一人。取り調べの終わった者から鉱山での強制労働に従事させます」

「煽動した人間は厳しく処罰する必要はあるけど、ただ単に騒ぎに加わった野次馬まで厳罰を下す必要はないと思う」

 との竜也の意向に従い、五一一人のうちのほとんどが二、三ヶ月の強制労働の刑である。が、一部の扇動者はその限りではなかった。
 暴動から三日目。今竜也がいるのは、ゲフェンの丘の上の裁判所に使われている船だった。小さな裁判は船内の一室で行われるが、大法廷は船の甲板上だ。中央が大きく開けられ、その周囲を椅子が囲んでいる。片隅には書記官用の机が備え付けられており、正面には検事兼裁判官の竜也の座席があった。
 中央の床には縄で縛られた一〇人の男が座り込んでいた。ラズワルドを始めとする白兎族の尽力により判明した、暴動の扇動者である。彼等は歪んだ笑顔を作って必死に竜也に媚びを売ろうとしていた。

「俺達はギーラに命令されただけなんだ!」

「そうだ、悪いのはギーラだ!」

 男達は口々にギーラの名を上げて責任転嫁を計った。だが竜也はラズワルドと手をつないで彼等一〇人の心を読んでいる。

「確かにお前達は何者かに集められて暴動を扇動した。だがお前達を集めたのはギーラじゃない」

 彼等を集めて金を与え、煽動をさせたのはゲゼルという人物だが、それが本名かどうかも判らない。彼等は「ゲゼルの背後にはギーラがいるのだろう」と感じ取り、あるいは推測しているが、ギーラを直接見たわけでもなく、今のところはただの憶測でしかない。ベラ=ラフマもまたギーラの陰謀を疑っているが、その証拠は何も見つかっていなかった。

「それに誰かに依頼されたとしても、それを受けると決めたのも、それを実行したのもお前達だ。お前達のやったことがやらなかったことになるわけじゃない、お前の罪も罰も変わりはしない」

 竜也が冷徹に通告し、彼等の媚びた顔が凍り付いた。

「……畜生! 俺達が何をしたって言うんだよ、結局何もなかったんだからいいじゃねぇか!」

「てめぇはネゲヴ一の金持ちなんだろ! 俺達がちょっとばかりおこぼれに預かろうとして何が悪いんだよ!」

「てめえだってバール人をだまして金を集めたじゃねえか! 俺達だけ罰するなんておかしいだろ!」

 男達が口々に子供の言い訳にもならないことを叫んでいる。竜也は疲れ切ったため息をついた。これ以上裁判を続ける気力が湧かなかった竜也は早々に判決を下した。

「――一〇人全員を死刑とする、これで閉廷だ」

 ……扇動者一〇人の処刑はその日の夕方には実行された。処刑台が用意されたのはサフィナ=クロイの中央広場だ。立てられた一〇本の丸太にそれぞれ扇動者がくくり付けられ、その周囲に薪が積まれていた。扇動者は泣きわめき、あるいは恐怖のあまり糞尿を垂れ流しており、集まった大勢の野次馬がそれを見て嘲笑っていた。
 竜也は広場の外の物陰からその有様を、広場全体の様子を眺めている。その顔に浮かんでいるのは強烈な嫌悪感だった。

「……他に方法はなかったのか」

 無意識のうちに竜也が独りごちる。元の世界にいたとき竜也は「どちらかと言えば死刑に反対」という意見であり、この世界に来ても原則としてその意見に変わりはなかった。独裁官として数多くの裁判を主催してきた竜也だが、死刑判決を下したのは今回が初めてである。

「生かしておいても役に立てようがありません。せいぜい見せしめとして活用しなければ」

 ベラ・ラフマはかすかな戸惑いを隠してそう述べる。

「あの者達が扇動者であることには間違いがない、それは何度も確認済みです」

 竜也は返答しない。その点は竜也自身もまたラズワルドの恩寵を使って確認しており、疑う余地はどこにもない。そもそも、もしわずかでも疑いがあったなら始めから死刑の判決など出していなかった。

「見せしめなんて野蛮だ、文明国のやることじゃない」

「あるいはそうなのかもしれません」

 竜也の愚痴めいた言葉にベラ=ラフマは一応そう頷いておき、

「ですが、必要なことです。食糧庫と宝物庫を何としても守り抜く、そのためには模倣犯が出てくる可能性を潰さなければならず、そのためには恐怖を持って全市民に理解させなければならないのです。『略奪しようとするならこうなる』と」

 竜也にもその必要性は理屈では判っている。判っているからこその死刑判決であり、この公開処刑である。だが竜也の感情は未だ納得していない。
 広場では処刑が始まろうとしていた。

「やれ!」「殺せ!」

 集まった野次馬が口々に叫ぶ中、積まれた薪に兵士が火を灯す。野次馬が揃って大きな歓声を上げた。小さな種火は燃え広がって大きくなり、赤い炎が扇動者を焼いていく。泣きわめき、焼き崩れていく扇動者を見物しながら、野次馬達は笑っていた。竜也がその光景に血を凍らせる一方、野次馬はそれを単なる見せ物として眺め、笑っている。

「うぐ……」

 竜也は胃液を吐きそうになるが何とか堪えた。広場から背を向けた竜也はそのままその場から逃げるように立ち去っていく。ベラ=ラフマが、バルゼル達がそれに続いた。
 悪夢のような光景を振り払うように竜也は早足で歩いていく。だが広場の光景は竜也の脳裏から離れようとしなかった。





 サフィナ=クロイで暴動があったその翌日の朝、独裁官公邸の船。食堂では女官達が途方に暮れたような顔を見合わせている。そこにファイルーズが姿を現した。

「皆様、おはようございます」

 いつものようににっこり笑って挨拶をし、その上で周囲を見回し空気を把握する。食堂にいるのは女官の他はミカ、カフラ、サフィール。竜也とラズワルドの姿はなかった。

「タツヤ様はどうされたのですか?」

 ファイルーズの問いに気まずそうに沈黙するミカ達。ファイルーズが視線で自分の女官に問い、女官の一人が答えた。

「タツヤ様が寝室に閉じこもったまま出てこないのです。寝室の外から何度も呼びかけたのですが……」

「ラズワルドさんは?」

 ファイルーズが白兎族の女官に視線を向ける。その女官はどもったようになりながら、

「あの、その、お嬢様は昨晩は一緒ではなく、お嬢様も寝室に入れず……」

 そうですか、と頷くファイルーズ。ファイルーズは再度周囲を見回し、

「ミカさん、カフラさん」

 名を呼ばれた二人が戸惑いを見ながらも「はい」と返答する。

「総司令部に連絡していただけませんか? タツヤ様は体調が優れない、今日いっぱいは静養する、と」

 ミカとカフラはそれぞれ、

「やむを得ませんね」

「それがいいですね」

 と答え、総司令部へと向かった。「他の皆様はいつものお仕事を」というファイルーズの命令に従い女官達も動き出す。公邸はそれでようやくいつもの姿を取り戻した。薄皮一枚剝げばその下には目に見えない不安がわだかまっていたが。
 ……竜也が寝室に籠城して全く顔を見せてないまま時間が過ぎていく。ラズワルドが一時間おきに軽食を作って寝室へと持っていくがそのたびに追い返されており、泣きそうな顔で戻ってくる。手の付けられていない軽食はそのたびに作り直されていた。時刻は昼を過ぎ、すでに夕方である。
 食堂にはファイルーズ、ミカ、カフラ、サフィールが集まり、不安げな顔を見合わせている。ラズワルドは他の四人とは顔を合わせたくないようで、厨房の方に居座っていた。

「……そろそろいいでしょうか」

 日が完全に沈んだのを確認し、カフラが立ち上がった。「何がですか?」とミカが問うがカフラは「いえ、こっちの話です」とごまかした。カフラに続いてファイルーズも立ち上がる。

「どちらへ?」

 サフィールの問いに、

「お風呂、先に使いますね」

 カフラがそう答え、ファイルーズは微笑み顔で何も答えず食堂から出ていく。食堂には「こんなときに」と言いたげな様子のミカ達が残された。
 公邸の船には船倉を改修して風呂場が設置されているが、それは日本風の湯船のある風呂ではなくサウナ式の蒸し風呂である。四畳半くらいの広さのその風呂に、裸体にタオルを巻いただけのカフラとファイルーズが入っている。設置された木の椅子に座っている。二人の間に会話はなく、沈黙が続いていた。
 突然扉が開いて何者かが飛び込んできた。闖入者はラズワルドである。よほど慌てていたのかラズワルドは素っ裸のままで、その蒸し風呂に入ってから手にしていたタオルを身体に巻いて椅子に座った。

「……タツヤは渡さない」

「ラズワルドさんじゃ無理ですよ」

 カフラは言葉の端にかすかな苦笑をにじませた。ラズワルドは親の敵を見るかのような視線を二人へと向けるが、二人はそれを受け流すだけだ。
 二人が三人に増えても沈黙は続いている。砂時計の砂が全て流れ落ちた頃、ファイルーズとカフラが同時に立ち上がった。ラズワルドは二人を見上げる形となる。
 二人とも汗のしたたる素肌にタオルを巻いただけの扇情的な姿である。ファイルーズの胸はこぼれんばかりにふくらみ、ウエストは優雅にくびれ、腰はまろやかな曲線を描いている。カフラも比較的背が高く、胸も大きい方だがファイルーズほどではない。が、女としての魅力は決してファイルーズに負けてはいなかった。ファイルーズが「女が理想とする女そのもの」であるとするなら、カフラは「男が理想とする女そのもの」であった。ファイルーズは漂う色香の点ではカフラに勝り、カフラはコケティッシュな魅力ではファイルーズに勝っていた。
 二人を見上げていたラズワルドは我知らずのうちに自分の身体を見下ろしていた。そこにあるのは年齢に比してあまりに幼く、女として未成熟な身体である。自分の発育が悪いことはラズワルドだって自覚していたが、今までそれを気にしたことはなかった。

「それが何?」

 というのがラズワルドの姿勢だったのだ――今この瞬間までは。
ラズワルドはこれまでの経験にない、深刻な劣等感を抱いている。成熟した女としてのその姿は、香り立つようなその色気は、今のラズワルドがどうあがいても手に入れられないものだった。

「タツヤ様のことはわたしにお任せください」

 ファイルーズがそう言い残し、二人は蒸し風呂を後にする。二人がどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのかラズワルドは嫌というほど理解している。だがラズワルドは二人を追うことができなかった。唇を噛みしめ、涙を堪えることしかできなかった。
 ファイルーズは蒸し風呂の隣室に移動。そこで裸のまま寝台にうつぶせとなった二人は全身に香油を塗らせている。マッサージをするようにファイルーズに香油を塗っているのはファイルーズの女官だし、カフラの方は自分のメイドに香油を塗らせていた。
 ファイルーズ達は無言のままで、女官やメイドも無駄口は叩かない。その部屋は沈黙で満たされていた。だがふと、

「ファイルーズ様には立場がおありでしょう? わたしに任せてもらえませんか」

 カフラが独り言のように言う。

「さきほどカフラさんは、ラズワルドさんでは無理だと言っていたでしょう?」

 ファイルーズの言葉にカフラは何も応えない。ファイルーズは構わず続けた。

「わたしも同じことを言いますわ。カフラさんでは無理だと」

 カフラは思わず身を起こした。反論しようとするカフラに先制して、

「ラズワルドさんでは無理だとカフラさんが判断したのは何故ですか? ラズワルドさんの身体が幼いから、それもあるでしょうけどそれだけではないでしょう?」

「あの子の場合、身体以上に心が幼いままです。特にタツヤさんの前じゃ本当に小さな子供みたいに見えます。あの子は幼い子供が親を頼るようにタツヤさんを頼っている。それじゃ駄目なんです」

 カフラの言葉にファイルーズは「確かにその通りですわ」と同意した。その上で、

「わたしにはカフラさんもあまり変わらないように見えますわ」

 カフラは強い敵意を込めてファイルーズをにらんだ。

「確かにわたしはタツヤさんを頼っていますけど、タツヤさんだってわたしを頼りにしてくれています」

「カフラさんがタツヤ様をお仕事の面で支えているのは知っています。ですが、タツヤ様の心を支えていると言えますか?」

 カフラのファイルーズを睨む目にますます力がこもる。だがその口から反論は出てこなかった。

「カフラさんはタツヤ様に心を預けている。その点はラズワルドさんと何も変わらないのではないですか?」

 カフラは口惜しげに唇を噛み締めた。

「わたし達はタツヤ様の心に負担をかける一方でした。今、タツヤ様の心は折れそうになっている」

 独裁官に就任して約七〇日、確かに竜也はこの七〇日間精神的にも肉体的にも過酷な状態に置かれていた。処理しても処理しても終わらない総司令部の仕事の山、百万の敵軍が接近しているという重圧、サフィナ=クロイの治安維持と裁判、西ネゲヴ市民の膨大な犠牲、そして市民や兵士の不平不満と暴動。

「タツヤ様は今日までネゲヴの民を守るために私財を投じ、骨身を削り、生命を懸けて戦ってきましたわ。ですが、その守るべき民の醜態を目の当たりにし、疑問を抱いたのではないでしょうか」

 こんな奴等のために戦ってきたのか、これほどの苦労をしてきたのか――と。

「多分そうなんでしょう」

 タツヤさんは理想主義で潔癖症なところがありますから、とカフラは同意した。

「今、タツヤ様に必要なのは心を軽くする存在。心の支えになれる存在です」

 そのために女としての自分の身体を使う――それがファイルーズとカフラの至った結論だった。

「タツヤ様は紳士的に振る舞っていますが、女性に対して興味があることは判っています」

 自分達と対面したときは竜也の視線が胸によく集まっていることを、ファイルーズとカフラは百も二百も承知している。スタイルがよく肌の露出の多いケムトの女官と、起伏の少ない身体をほぼ完全に隠している白兎族の女官とを比較すると、竜也の視線が前者を追っていることが圧倒的に多いことも把握している。

「紳士的なのはタツヤさんの長所ですけど、ちょっと意気地がないんじゃないかなと思うこともありましたから。こんな場所に閉じ込められれば我慢できなくなるんじゃないかなと期待していたんですけど……」

「タツヤ様が追いつめられる理由の一つになってしまいましたわ」

 とカフラ達は反省した。女ばかりの公邸に男一人で暮らす――他人には羨望され嫉妬される立場だろうが、当事者たる竜也はこう思わずにはいられなかった。

「頼むから誰か代わってくれ」

 と。
 魅力的で自分に好意を持っている女性がごく身近にいることも何の慰めにもならない。むしろその事実すらが竜也を追い詰める材料になってしまっている。竜也の自制心は何人の予想に反し、要塞なみに強固だった。

「タツヤさんは理解する必要があるんです、我慢しなくていいこともあると」

 カフラの言葉にファイルーズが頷く。

「そして、あなたに心を許す人がいることを、あなたの心を守りたいと想う人がいることを――わたしはタツヤ様に教えたいのです」

 二人の会話はそこで途切れる。沈黙の中女官とメイドがファイルーズとカフラに香油を塗っていき、やがてそれが終わる。服を着、身支度を終えた二人が向かい合った。
 カフラは小さくため息と笑みを同時に漏らす。

「……今日のところはファイルーズ様に譲りますけど、独占するのはなしですよ」

「心に留めておきますわ」

 ファイルーズはそう言って華やかに笑う。ファイルーズはタツヤの寝室へと向かっていった。





「えーっと……?」

 窓から入る朝の日差しが寝室を照らしている。竜也は今まで自分が眠っていて、今目が覚めたことを理解した。これほど深く充足した熟睡をとったのは独裁官に就任して以降は初めてだったので、一瞬何があったのか判らなかったのだ。今までは徹夜も珍しくなく、眠っても頻繁に目が覚める浅い眠りばかりが続いていた。

「タツヤ様、お目覚めですか?」

 耳元で聞こえるファイルーズの声。竜也が首だけ回してそちらを見ると、そこには裸で寄り添うファイルーズの姿があった。昨晩何があったかが竜也の脳裏をフラッシュバックする。
 ――強引に寝室に入ってくるファイルーズ、口論がファイルーズへの八つ当たりとなり、挙げ句にファイルーズをベッドに押し倒して服を剝いで……

「うわああぁぁ……」

 竜也は思わず頭を抱えた。

「死ぬかと思うほど痛かったですわ。まだ中に何か入っているような感じがします」

 ファイルーズがにこやかに追い打ちをかけ、竜也のライフはほぼゼロとなった。今目の前に白装束と日本刀が用意されているなら、竜也は迷わず切腹するだろう。

「……ええっと、その」

 何か言おうとして何もまとまらない竜也の唇に、ファイルーズは人差し指を押し当てた。

「お気になさらないでください。元より、わたしはタツヤ様に全てを捧げていたのですから」

 一見フォローのようだが、それは竜也にとって最後のとどめとなった。竜也はベッドに突っ伏してしまう。のろのろと身を起こしたのは、かなりの時間が経ってからである。

「あの……俺はどうすればいい……?」

 竜也は無条件降伏してファイルーズに生殺与奪を委ねる。ファイルーズは優しく微笑みながら判決を下した。

「ネゲヴを救っていただけるのでしたら、わたしはそれ以上何も望みません」

 竜也の口から乾いた笑いが漏れる。彼女は処女一つ・身体一つを代償に、百万の敵と戦いこれを滅ぼすことを竜也に求めているのだ。清々しいくらいに過酷で巨大な賠償請求だった。

(別に、やるべきことは今までと何も変わらない。自分が正しいと信じることを、最善を尽くしてやるだけだ)

 それでファイルーズの全てを手にできるのだから、むしろ竜也にとって有利な取引だ。そう思えるほどに竜也の精神は復活を果たしていた。
 仰向けになった竜也は目の前に手を伸ばし、

「――判った、ファイルーズ。勝利を、平和な未来を、ネゲヴの全てを手に入れよう」

「……はい、タツヤ様」

 そう告げて拳を握り締める。竜也の精神が完全に復調したことを理解し、ファイルーズは安堵の微笑みを見せた。この日、竜也の精神は単なる復調ではなく更なる進化を遂げていたのだが、ファイルーズがそれを理解するのは少し先のことである。







[19836] 第二六話「皇帝クロイ」
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/19 22:01



「黄金の帝国」・会盟篇
第二六話「皇帝クロイ」





 三〇一六年シマヌの月・一〇日付。総司令部独裁官令・第一〇九号
「独裁官に対する称号として『皇帝(インペラトル)』を使用する」





 その発令を受けたアアドル達やハーキム達、総司令部の官僚達は、判ったような判らないような顔を見合わせた。一同を代表してハーキムが竜也に確認する。

「タツヤ、これは独裁官の官職名を『皇帝』に改めるということですか?」

 竜也はさり気なさを装いつつ答えた。

「いや、違う。独裁官はソロモン盟約にも記された公式の官職名だ。これを改めるのならソロモン盟約の改訂が必要になる。だから独裁官という官職はこれはこれで置いておいて、『皇帝』という呼びかけを併用するということだ。普段は『皇帝』の方だけ使ってくれ」

 竜也の説明にハーキムや官僚達が頷く。

「判りました。皇帝タツヤ」

「皇帝タツヤ、本日の予定ですが」

「皇帝タツヤ、こちらの書類ですが」

 官僚達やハーキム等秘書官が当たり前のようにそう呼びかけてくるのを、竜也は頬を引きつらせながらも受け入れる。このような何とも締まらない形で、竜也は皇帝への事実上の登極を果たした。

「それについてはバリアに任せる」

「判った、進めていいから後で報告してくれ」

「報告書をまとめて持ってきてくれればいい」

 一方、竜也の仕事ぶりを見守っていたハーキムも安堵のため息を漏らしている。

「何があったのか判りませんが、随分と余裕が生まれたようです」

 昨日までの竜也であればかなり細かいところまで自分の目で確認しなければ気が済まなかったのだが、今日は仕事の多くを部下に委ねている。まるで人が変わったようだった。
 だが、竜也が仕事を部下に任せるということは、側近・調整役のハーキムの仕事がその分増えるということだ。ハーキムは積み上がった仕事の山にしばし呆然とし、次いで先ほどとは違う種類のため息をつき、最後に気合いを入れ直して仕事を再開した。
 翌日、竜也は総司令部にサドマやダーラク、ガイル=ラベクを呼び出した。

「何だ、結局皇帝を名乗ることにしたのか」

 ガイル=ラベク達のからかうような言葉に竜也は「色々ありまして」と曖昧に答えた。竜也は今日の用件を切り出した。

「早速ですが、仕事をお願いしたいと思います。船長は、今ハーディさんにやってもらっている海上傭兵団の取りまとめ役を」

 ガイル=ラベクは「おう、任せろ」と頷く。

「サドマさんとダーラクさんには、東ネゲヴの各都市を回り、長老方や町の人達に戦いの現状を訴えてください」

 訝しげな顔のサドマやダーラクに竜也が説明した。

「先日の暴動で思い知ったことがあります。少なくない数のサフィナ=クロイ市民が戦いの現状を、ネゲヴの置かれている状況を理解していないことです」

 竜也の言葉に二人は全面的に同意した。

「確かに。もし理解しているならあんな暴動が起きるはずがない」

「全くだ。西ネゲヴの戦地に比べればこの町は天国みたいなものだっていうのに」

 竜也も頷きつつ説明を続ける。

「戦地に近く交流もあるサフィナ=クロイですらこの有様なんだから、東ネゲヴの町や市民が現状をどのくらい理解しているのか、想像できるでしょう? 彼等にとってはサドマさん達の戦いは全くの他人事なんです。お二人には東ネゲヴの町を順に回って、西ネゲヴで何が起こっているのか、戦いの現状がどうなっているのかを訴えてもらおうと思います」

 サドマはその指示に理解を示したが、ダーラクは不満そうな表情を隠さない。

「何で俺がそんなことを……そんな仕事はバール人どもにでもやらせておけばいいだろう」

「もちろんネゲヴの夜明けとかの出版物も使います。ですけど実際に戦地で戦った人間の生の言葉に勝るものはありません。ましてや、赤虎族の有名な戦士でつい先日まで百万の敵と実際に矛を交わしていたダーラクさんの言葉ならなおさらです。どこの誰であろうと無視できるわけがありません」

 ダーラクは不服そうだったがそれ以上文句は言わなかった。サドマとダーラクは用意された船でその日のうちにネゲヴの東へと向かっていった。





 その日の夜、竜也からの呼び出しを受けてヤスミンが総司令部を訪れた。

「ヤスミンさん、久しぶりです」

「久しぶり。これ、頼まれたやつ」

 竜也は「ありがとうございます」とその荷物を受け取った。

「そんな物何に使うの?」

「芝居の衣装の使い道なんて、一つしかないでしょう?」

 ヤスミンの質問に、竜也ははぐらかすような物言いでごまかした。

「景気はどうですか?」

「この町に移ってからは劇なんか上演できる状態じゃないわよ。日雇いの仕事だけならいくらでもあるから餓え死にだけはしないだろうけど」

「一座の面々を集めて上演することはできるんですよね」

 竜也の問いにヤスミンは戸惑いを見せた。

「劇ならできるけど……劇場はないし、今のこの町じゃお客さんだって集まらないわよ」

「広場で上演してください。入場料は取れませんけど総司令部から支援金を出します。もちろんおひねりを上納しろなんて言いません」

「願ってもない話だけど、一体何のために?」

 困惑を深めるヤスミンに構わず竜也はある冊子を差し出す。

「これ、新しい劇の脚本です。『七人の海賊』の合間に上演をすること、それが支援の条件です」

 ヤスミンはそのごく薄い脚本に目を通した。劇と言うより寸劇と呼ぶべき長さであり、内容だった。

「タツヤ、これ……」

 ヤスミンは思わず竜也をまじまじと見つめる。竜也は明後日の方向を見ながらヤスミンの視線を受け流すべく努めた。
 竜也は別途呼び出していた服飾職人に衣装の仕立て直しを指示する。様々な用事を片付けてようやく仕事が終わる頃には時刻は深夜近くになっていた。
 仕事を終えた竜也が船の自室へと向かう。そこに待ち構えていたようにファイルーズが姿を現した。

「あれ、どうしたんだ?」

「お休み前に少しお話しできれば、と思いまして。構いませんか?」

「ああ、もちろん」

 竜也はファイルーズを自室へと招き入れた。だが、

「タツヤ?」

 ベッドに潜り込んでいたラズワルドが目をこすりながら身を起こす。ラズワルドはファイルーズの姿に気が付くと険しい顔で彼女を睨みつけた。一方のファイルーズは笑顔を絶やしていない。ラズワルドは竜也へと視線を向け、

「――」

 ラズワルドは驚きに目を見開き、次いでその大きな瞳から涙をこぼしそうになった。ラズワルドは脱兎のごとくにベッドを飛び出し、竜也達の間をすり抜けて走りっていく。

「ラズワルド!」

 竜也がその名を呼んで腕を伸ばすがラズワルドを捕まえることはできなかった。竜也は走り去るラズワルドの背中を見送った。

「タツヤ様?」

 しばし呆然としていた竜也だがファイルーズに名前を呼ばれて気持ちを取り戻した。

「ラズワルドさんはどうしたのですか?」

 ファイルーズの問いに竜也は気まずそうな顔をする。竜也はファイルーズの姿に期待をしたのだ、「またファイルーズを抱けるのではないか」と。そしてラズワルドの姿を見て一瞬思ってしまったのだ――「邪魔だ」と。

「とにかく、ラズワルドを探さないと」

 ごまかすように通路にでようとする竜也をファイルーズが「お待ちください」と呼び止めた。

「ラズワルドさんを見つけて、どうするおつもりですか? 何を言うおつもりですか?」

 竜也は答えに窮した。そんな竜也にファイルーズが苦笑混じりのため息をつく。

「それではラズワルドさんを見つけても同じことのくり返しになるのではないですか?」

 竜也は「いや」と首を振った。

「言うことが判った。ラズワルドは俺の家族だ。それを言わなきゃ、判らせなきゃいけない」

 竜也はそう言い残し、ラズワルドを追って歩き出した。

「……さて、どこに行ったのかな」

 手提げランプを片手に竜也は船の中を歩いている。歩哨中の牙犬族の女剣士にラズワルドの行方を問い、

「ラズワルドさんなら甲板の方に」

 と言うので甲板へと向かう。甲板に上がった竜也は空を見上げた。満月が頂点で輝き、幾億の星が瞬いている。小さな手提げランプを梯子側の台に置いて、竜也は月明かりを頼りにラズワルドを探そうとした。

「タツヤさん」

 背後からの声に竜也が振り返ると、カフラがちょうど梯子から甲板に上がってきたところだった。

「どうした?」

 と簡潔に答えつつも竜也は左右を見回してラズワルドの姿を探している。その竜也に、

「タツヤさんはファイルーズ様と結婚するつもりですか?」

 その唐突な問いに竜也は思わずカフラを凝視する。いつになく真剣なカフラの表情に竜也もまた表情を引き締め、

「ああ、俺はファイルーズと結婚する」

 誠心誠意をこめてそう答えた。竜也が今後も皇帝を続けていくにはファイルーズの公私両面の支援が不可欠である。彼女との結婚は政治的にも心情的にももはや逃れ得ない、既定の未来図だった。

「それじゃラズワルドさんはどうするおつもりですか?」

「ラズワルドは俺の家族だ。誰と結婚しようとそれは何も変わらない」

 竜也は即答する。ラズワルドのように心が読めるわけではないが、竜也が真摯に答えていることはカフラも疑いはしなかった。

「でも、それじゃラズワルドさんは納得しないと思いますよ?」

 カフラの言葉に竜也は反発するように「どうして」と問う。

「タツヤさんとラズワルドさんをつなぐものが気持ちだけで、形が何もないからです。その一方ファイルーズ様とは婚姻という確固とした形で結びつきます。ラズワルドさんからすればタツヤさんを取られたとしか思えないでしょう」

「じゃあどうすれば?」

「ラズワルドさんが家族だという、その結びつきを形にすればいいんです。タツヤさんはその形をラズワルドさんに示してあげられますか?」

 カフラの言葉に竜也は首をひねって考え込んだ。

「……養子縁組の戸籍を入れる……杯を交わせば義兄弟」

「お二人が納得できればどんな形式でも構わないと思いますけど、逆に言えばどんな形式でもお二人が納得できなきゃ意味がないですよ?」

 竜也は沈黙を余儀なくされる。思いついたどんな形式もラズワルドを納得させる自信はなかったし、竜也自身も納得できるとは言えなかった。

「これならラズワルドさんも納得するだろうって形があるんですけど、聞きたいですか?」

 悩む竜也にカフラが悪戯っぽい笑みを見せる。竜也はややためらいつつも「ああ」と頷いた。得意満面になりそうになるのを何とか隠しつつカフラは答えを呈示する。

「ラズワルドさんとも結婚すればいいんです。第二夫人として迎えるんですよ」

「何を言っているんだお前は」

 竜也は思わず突っ込んでしまう。竜也の反応にカフラは首を傾げた。

「わたし何かおかしなことを言いましたか?」

「いやおかしいだろう。ファイルーズと結婚してその上さらにラズワルドと結婚するなんて」

 カフラはさらに首を傾げつつ、

「以前いた場所は一夫一妻が普通でしたっけ」

「ああ」

「でも、聖杖教みたいに厳格に一夫多妻を禁じる宗教の信徒だったわけじゃないんでしょう? その上ここはネゲヴなんですし、タツヤさんがお二人と結婚したところで何の問題もないと思いますけど」

 カフラの言葉に竜也は思わずうなってしまった。

「……こっちじゃ一夫多妻は普通のことだったな」

「ええ。ちょっとでも余裕があるならどんな男性でもすぐに第二夫人、第三夫人を迎えますよ。男性の方が動かなくても女性の方が『もう一人妻がほしい』って言うことも多いですし」

「……そういうもんなの?」

 小さくない衝撃を受ける竜也に対し、カフラは当たり前のように頷いた。

「ええ。夫人の多さは男性の甲斐性の証ですし、夫人が多い方が家事や育児で協力できますから」

 そういうもんなのか……と驚嘆する竜也。竜也はこの世界にやってきて間もなく三年になるが、今回受けたカルチャーショックは最大級のものだった。
 カフラは竜也のすぐ側までやってきて、さらに触れんばかりに顔を近づけて「どうですか、この案は」と一押しする。竜也は「いや、でも……」と後退った。

「これ以外にラズワルドさんを納得させる方法があるんですか? 今のままじゃあの子は絶対に納得なんかしませんよ。刃傷沙汰になるとか、あの恩寵を使って陰謀を企むとか、何かろくでもないことになりかねません」

 竜也にもカフラの言葉は否定できない。ラズワルドが敵に対して容赦ないことは竜也が一番よく知る話だった。
 答えに窮する竜也を見、カフラは若干の距離を取って苦笑を見せた。

「ラズワルドさんが成人するまでまだ二年くらいがあります。『今すぐ決めなくてもいいだろう』って言って時間を稼ぎますか?」

 二一世紀の日本の倫理観を捨てられない竜也には重婚を容易には受け入れられない。だがそれに拘らなければ選択肢が広がるのだ。

「……そうだな、そうさせてもらおう」

 それは問題の先送りでありまさしく時間稼ぎに過ぎない。だが今のラズワルドに必要なのはその時間だと竜也は判断している。そして誰より竜也自身がその時間を必要としていた。
 問題解決への光明が見つかり、竜也は安堵の微笑みを見せる。その竜也にカフラが身をすり寄せた。

「ところでタツヤさん、第三夫人の座は空いてませんか?」

「ぃいえぇ?!」

 と目を白黒させる竜也に構わず、カフラはさらに自分の胸を竜也へと押し付ける。柔らかくも生々しい感触が竜也の胸を高鳴らせた。竜也は思わず生唾を飲み込む。

「くっつきすぎ」

 突然背後からラズワルドが現れ、竜也とカフラの間に強引に身を割り込ませた。

「一体いつから、どこから話を聞いて」

 と竜也が問うがラズワルドは、

「いつからも何もタツヤが来る前からここに隠れてて、二人の話を最初から聞いていた」

 とは答えなかった。ラズワルドはタツヤにしがみつきながら敵意に満ちた目をカフラへと向ける。

「第一夫人は我慢するとしても第三夫人なんか認めない」

 一方のカフラは余裕を持ってそれを受け流した。

「ラズワルドさんが第二夫人になれるよう力を貸してあげたじゃないですか。その上第三夫人でいいって言っているのに」

「わたしのためじゃなく、全部自分のため」

「ええ、もちろんそうですよ?」

 悪びれもせず胸を張るカフラ。ラズワルドとカフラの諍いを竜也は唖然と眺めている。そこに、

「タツヤ様」

 かけられた声に背後を振り返れば、そこにはファイルーズが佇んでいた。

「ラズワルドさんとカフラさんを夫人として迎えるおつもりですか?」

「いやそんなつもりはないこともないけどでもラズワルドが成人するまであと二年でカフラとはすぐに結婚できるとしてもさすがにそこまで節操がないのは」

 混乱しつつ言い訳する竜也をファイルーズが「落ち着いてください」と軽く叱る。竜也は口をつぐみ、そのまま気持ちの整理に努めた。
 少しの時間を置いて竜也が、

「……ええっと、カフラのことはともかくラズワルドのことだけど」

「わたし、第一夫人の座は譲りませんわよ?」

 ファイルーズは断固たる口調でそう宣言した。一方の竜也は戸惑う。

「それじゃ、第二夫人や第三夫人にする分には構わないのか?」

「王者の義務は血統を確実に後世へと残すこと、そのためなら何人か側室を持つのもやむを得ないことと心得ています」

 そういうもんなのか、と竜也は感嘆する。いつの間にか二人の諍いは中断しており、ラズワルドは面白くなさそうな様子で、カフラは期待を込めた目を竜也へと向けていた。

「ですがもちろん」

 ファイルーズは微笑みを絶やさないままに、妙に威圧感だけ増して宣告する。

「節度は守ってくださいね?」

「それはもちろんです」

 竜也は直立不動でそう返答するしかなかった。
 ……船内へと続く入口にはミカとサフィールが身を隠していて、それぞれ複雑そうな表情で竜也とファイルーズ達の様子を見つめていた。だが竜也がそれを知る由もない。





 数日後、シマヌの月も中旬のその日。サフィナ=クロイの中央広場の一角。
 その日ヤスミン一座による「七人の海賊」の上演が開始されており、大勢の観客が立ち見で観劇をしている。フードを被って顔を隠した竜也とラズワルドが、広場の片隅からその様子を見守っていた。舞台上では、エレブの海賊を撃退して平和になったヌビアの村からグルゴレット達が去っていくところだった。グルゴレット達を見送る村人達、そして終劇。
 その時いきなり太鼓が鳴らされ、劇が終わったと思っていた観客の度肝を抜いた。

『これは劇ではない!』

 唖然とする観客が見守る中、舞台上ではある劇が展開されていた。

『いやー!』『助けてー!』

 エレブの兵士がどこかの市民を襲っている。それに被さるナレーション。

『エレブを発した百万の聖槌軍はルサディルを襲撃。何の罪もないルサディル市民が多数殺され、街角は死体で埋め尽くされた……』

 舞台上ではルサディル市民の生き残りが『ああ、どうしてこんなことに!』と嘆いている。

『百万の大軍を阻む物は何もない。このままではネゲヴ全土が聖槌軍に蹂躙されてしまう――だが!』

 舞台上に一人の少年が姿を現した。少年は人差し指を立てた手を高々と掲げる。

『一年だ。一年で奴等を、百万の聖槌軍を倒す!』

『一年!? 馬鹿な、そんなことができるはずもない!』

 ナレーターが少年の言葉をそう否定する。だが少年が言葉を変えることはなかった。

『できる! 一年で奴等を倒すことはできる! この俺が約束する!』

『お前は一体何者だというのか?』

『俺は皇帝クロイ! 聖槌軍と戦うために太陽神より使わされた、黒き竜の化身!』

『そうだ!』

『皇帝クロイの言う通りだ!』

 舞台上の少年の周囲に、戦士が集まってくる。

『何だ、このただものではない戦士達は?! あなた達は何者なのか?!』

『俺はガイル=ラベク! 青鯱族の戦士にして髑髏船団首領なり!』

『おお、あなたがあの海の覇王ガイル=ラベク!』

『俺達髑髏船団は皇帝クロイに雇われた。俺達は皇帝クロイと共に戦う!』

『我が名はサドマ! 金獅子族随一の戦士なり!』

『俺はダーラク! 赤虎族のダーラクとは俺のことだ!』

『俺達は皇帝クロイと共に戦う!』

『おお、金獅子族と赤虎族が力を合わせている!』

 さらにマグド・アミール・ダールが名乗りを上げ、皇帝クロイへの協力を宣言した。

『聖槌軍は既にキルタまで来ている。ここまでやってくるのももうすぐだ』

 皇帝クロイ役の少年が観客へと向き直る。

『聖槌軍と戦うためにネゲヴが一つにならなければならない! 戦える者は槍を手に! 金があるのなら公債を! 皇帝クロイと総司令部は皆の協力を待っている!』

 役者が一礼し、その寸劇が終了。それと同時に一座の者がチラシを観客に配り出した。チラシに書かれているのは、志願兵受付のお知らせと戦時公債販売のお知らせである。チラシは順調に受け取られているようだった。
 寸劇を見守っていた竜也がラズワルドに訊ねる。

「……どうだ?」

「面白かった」

 竜也はずっこけそうになった。

「いや、そうじゃなくて。観客の反応を知りたいんだが」

 少しの間を置き、ラズワルドが答えた。

「……反発はほとんどない。戸惑いが多い、共感が少し」

 その調査結果に竜也は「まあ、そんなものか」と呟いた。

「思ったよりも悪くないようだし、他の町でも上演させるか」

 竜也とラズワルドは総司令部への帰路に着いた。





 さらにその数日後、サフィナ=クロイの大通り

「おい、あれ……」

「すげえな、どこの軍だ?」

 民衆の視線を集めているのは、数十騎の騎馬隊である。騎馬隊の中心となっているのはバルゼル率いる独裁官警護隊だ。バルゼル達はだんだら模様の黒い陣羽織を揃いで着ており、特異な空気と迫力を醸し出している。そしてバルゼル達の中心に、黒い衣装で身を固めた一人の騎士の姿があった。
 その騎士が着ているのは、黒を基調とした衣装に金銀の飾りを付けた物である。さらには黒いマントを羽織り、角の付いた黒い兜を被っている。それは中世ヨーロッパ風の騎士装束にアラビア風味を加味したような、この世界としても幻想的な衣装だった。民衆のうちの何人かはその衣装にどこか見覚えがあったに違いない。多少仕立て直されているが、それはヤスミン達の「カリシロ城の花嫁」の中で敵役のカリシロ国宰相が着ていた、芝居用の衣装だった。
 その騎馬の一団はナハル川の防衛線へと向かう。川岸では数百名の兵士が訓練を中断し、整列して騎馬の一団を出迎えた。整列し、沈黙を保つ兵士の前へと、黒い騎士が騎乗したまま進み出る。黒い騎士は人差し指を立てた手を高々と掲げ、

「――一年だ!」

 兵士全員に力強く宣言した。

「百万の聖槌軍を一年で壊滅させる! 勝つための算段は充分に立てている、諸君は上官の命令を良く聞いて勇を奮ってほしい! 諸君の奮戦に期待している!」

 感嘆が音もなく、波のように広がった。

「おおっっ! 勝つぞ!」

 誰かが感極まったようにそう叫び、「そうだ!」「勝つぞ!」「皆殺しにしてやる!」等の声があちこちから上がる。さらに「皇帝クロイ(インペラトル=クロイ)!」「黒き竜(シャホル=ドラコス)!」の呼びかけが。やがて呼びかけは「皇帝クロイ」に統一された。

「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」

 兵士達の連呼に、黒い騎士――竜也が手を掲げて応える。兵士達もまた人差し指を立てた手を掲げ、突き上げる。「皇帝クロイ」の連呼は思いがけず長い時間続くこととなった。

 閲兵を終えた竜也達が総司令部のあるゲフェンの丘に戻ってきた。竜也は真っ直ぐに船へと向かい、兜を被ったまま自室へと駆け込んでいく。自室に入って扉を閉ざした竜也は、

「暑い!」

 と兜を脱ぎ捨てた。「暑い、暑い」と言いながら破り捨てるような勢いで黒装束を脱いでいく。服を全部脱ぎ、下着だけの姿になってようやく人心地ついた。

「タツヤ様」

 ノックと共に、扉の外からファイルーズが呼びかける。「ああ、入ってくれ」と竜也が応えると、水差しを持ったファイルーズが入ってきた。

「タツヤ様、これを」

 竜也はファイルーズからよく冷えた水を受け取り、それを一気に飲み干す。竜也は生き返ったような気分になった。

「ああ、助かった。ありがとう」

「お気になさらず」

 竜也はベッドに腰かけて休息した。ファイルーズはその向かいに立っている。

「水を持っていかなかったのは失敗だったな。衣装ももう少し考えないと」

 一人でそんな反省会を開いている竜也に、ファイルーズが訊ねる。

「今日の閲兵式はいかがでしたか?」

「最初としては上出来だろう。これを小まめにくり返せば兵士には皇帝の権威を浸透させられると思う」

 竜也は閲兵式に際して何人ものサクラを用意し、兵士の間に仕込んでいたのだ。兵士のほとんどは「皇帝って何?」と思いながら「皇帝クロイ」を連呼していたに違いない。

「太陽神殿の方でも宣伝を頼む。『皇帝クロイ』と、志願兵受付と、戦時公債販売と」

「心得ております。手はずは整っておりますわ」

 竜也はベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めた。

「ああ、恥ずかしい……皇帝って因業な商売だよな、こんな恥ずかしいことに耐えなきゃいけないなんて」

 そんな愚痴を漏らす竜也を、ファイルーズが優しく見守っている。
 竜也は二一世紀の日本という民主主義社会で生まれ育ち、ごく健全な精神を培ってきた。どこかの共産主義国家の将軍様のような恥ずかしげもない自己宣伝や自己神格化など、竜也の神経には本来耐え難いことである。
 だが、民衆や兵士の不満を放置しておけば戦争遂行すら危うくなることを、竜也は今回の暴動から学んでいた。ならば羞恥心は少しの間脇に置いておいて、自己宣伝で民衆と兵士の支持を得る他ない。

「仕方がありません。民衆というのは愚かで度し難いものなのですから。簡単な言葉、単純なお芝居でなければ彼等は理解できません。民衆は動かせないのです」

 ファイルーズの辛辣な言葉に内心で反発を抱きながらも、竜也はそれを否定できなかった。長年教育を受け続け、高度に情報化された二一世紀の日本ですら、民衆がどれだけ賢い存在であるかには疑問符が付く。教育も情報化も絶望的な水準のこの世界の民衆がどの程度なのかは、推して知るべしである。

「お芝居……お芝居か」

 思えば竜也が最初に身を立てたのはヤスミン一座の芝居の脚本を書くようになったからだ。自分の書いた劇に端役で出演したこともある。

「……そうだな、やってることはあまり変わらない。そう考えれば少しは気が楽か」

 この世界、三大陸を舞台とし、歴史という脚本を執筆し、その劇に出演する。演じる役は黒き竜の化身、ネゲヴの皇帝だ。

「恥じ入る必要はありませんわ。タツヤ様が黒竜の化身たる御身であることは紛れもない事実なのですから――わたしが太陽神の末裔であるのと同じように」

 ファイルーズが優しく微笑みながらささやくようにそう言う。竜也は目を見開いてファイルーズを見つめた。
 竜也から見ればそれは単に「そういう設定」に過ぎない。ケムト王家が太陽神の血を引いている――それはセルケト王朝が自らの権威付けに作り出した幻想である。だがセルケト王朝は四千年もの間「それが事実である」と主張し、そのように振る舞い続けてきた。この結果ネゲヴの民衆にとってセルケト王朝が太陽神の末裔であることは、議論の余地もない確固たる事実となっている。
 「黒き竜」はただの子供の頃の思いつきの、脳内設定に過ぎない。だが竜也はこれから一生涯を懸けて「自分は黒き竜の化身だ」と主張し、そのように振る舞い続けるのだ。竜也だけではなく、竜也の子供も、その孫も、千年万年とそれを続けていく。ネゲヴの民にとってそれが議論の必要もない、確固たる事実となるまで。

「……ああ。その通りだ。俺は『黒き竜』だ」

 竜也は万感の思いを込めてそう頷いた。






[19836] 第二七話「眼鏡と乙女と」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/22 21:04




「黄金の帝国」・会盟篇
第二七話「眼鏡と乙女と」






「く、くいもの……」

 ディアは今にも倒れそうになりながらも辛うじて行軍を続けていた。その辺に落ちていた木の棒を杖にし、その杖にすがるようにして歩き続けている。ディアの後ろには、一族の戦士三六人の姿があった。皆一様にやせ衰え、幽鬼のような姿になりながらも、それでも何とか行軍を続けていた。

「食い物さえあればあの二人も死ぬことはなかったのに……」

 イコシウムで手に入れた食糧はとっくに食い尽くされていた。イコシウム以降で二人の戦士を失っている。村を出てからなら四〇人のうち四人、一割の損失である。だがそれでも、ディア達の損失の割合は特別に少ない方だった――聖槌軍全体から見れば。
 街道のそこら中にエレブ兵の死体が転がっている。西ネゲヴ中にエレブ人の死体をばらまくのが聖槌軍の目的だったのか、と思いたくなる様相を呈していた。
 シマヌの月(第三月)の下旬のその日、ディア達はカルト=ハダシュトに到着した。カルト=ハダシュトの住民は一人残らず逃げ出し、町は完全な無人である。ディアの戦士達が町中に散って食糧を探し求めるが、見つかりはしなかった。同時に入場した何万というエレブ兵が食糧を探し回っているのだから。
 エレブ兵は町中の民家や商家に入り込み、床板を剝がして地面を掘り返し、天井裏に登って天板を踏み抜いていた。ごくまれに食糧を発見するエレブ兵士がいたが、即座に他の兵士達がそれを横取りしようとし、殺し合いになっていた。
 食糧を探し求めて入り込んだ民家で、ディアは置き去りになっていた付け耳を見つけた。犬の耳のように見える獣耳の付いたカチューシャである。ディアは我知らずのうちにそれを手に取っていた。ディアはそのまま長い時間考え込む。

「……この大陸ならわたし達の一族も受け入れてもらえたのだろうか」

 ディアはその呟きと同じことを以前にヴォルフガングに対して言ったことがある。

「受け入れてくれたかもしれません」

 それに対してヴォルフガングはこう答えていた。

「――この戦争が起きてさえいなければ」

 エレブ人は侵略戦争を起こし、西ネゲヴを死の荒野とした張本人であり、ディア達もまたその一員である。ディア達はネゲヴの戦士と戦い、その手で何人かを殺している。

「来たくてここに来たわけじゃない。殺したくて殺したわけじゃない」

 そんな聞き苦しい言い訳が通用するはずもない――ディアもそれは骨身にしみて理解していた。
 ディアはその犬耳を投げ捨て、食糧を探して別の家へと向かった。一日中町をさまよい歩き、それでも食糧は見つからない。海岸では魚を捕ろうとするエレブ兵が芋を洗うがごとき有様となっている。

「……この対岸はすぐエレブだ! 俺はもうエレブに、故郷に帰るんだ!」

 と大声で叫んで沖へと向かって泳ぎ出すエレブ兵も一人や二人ではなかった。カルト=ハダシュトからトリナクリア島までは船で一昼夜の距離であり、泳いで渡れる距離ではない。そんなことも判らなくなっている彼等はおそらくもう発狂していたのだろう。

「く、くいもの……」

 時刻はすでに夕方である。一日中歩き回って何の収穫もなく、残り少ない体力を消耗しただけの結果となってしまった。ディアは今にも力尽きそうになっている。
 そのとき、ディアの前を黒い獣が横切った。小柄なディアと同じくらいの重量がありそうな、大型の野犬である。その野犬はディアを獲物と狙い定めたようだが、それはディアも同じことだった。

「――くいもの!」

 ディアからすればその野犬は、犬の形をした肉でしかなかった。ディアは爪と牙をむき出しにし、少しずつその野犬との距離を詰めていく。その野犬にも野生の勘は残っていたようだ。勝てる相手ではないことを悟ったように、その野犬は速やかに逃げ出した。ディアが一呼吸遅れて飛びかかったが、もう遅い。その場に残されたのは、その野犬がくわえていた何かの骨だけである。
 ディアは滑り込むようにしてその骨を掴み、口にくわえようとした。骨髄でも残っていれば充分に腹の足しになる、今日一日を生き延びることができる――

「……く、か」

 ディアはそれをくわえようとした姿勢のまま硬直していた。ディアは気付いてしまったのだ、それが人骨であることに。

(気が付かなかった。わたしは気が付かなかった)

 ディアは必死に自分を騙そうとした。だができなかった。

(わたしだけじゃない、みんなやっていることだ)

 ディアは懸命に何者かにそう言い訳した。エレブ兵の間で密かに食人行為が蔓延しているのは事実であった。エレブ本国から支援を受けられる上級貴族や聖職者、バール人と取引のある貴族や騎士階級はさすがにそこまで追い詰められてはいなかった。だが逆に言えば、それより下の兵士や傭兵、農民兵はとっくの昔にそこまで追い詰められていたのである。食人行為をせずにカルト=ハダシュトまでたどり着けた兵は、ディア達を除けばほとんど存在しなかっただろう。

(そうでもしなければ生き延びることができなかったんだ、仕方のないことなんだ)

 ディアはそう思い込もうとし――

「くそっ!」

 叫んだディアがその骨を投げ捨てる。ディアは先ほどの野犬の後を追い、杖をついて歩き出した。

「わたしは死なん、生き延びてやる。生き延びてやるんだ!」

 ――カルト=ハダシュトからスキラまでは二〇日ほどの旅程である。ディア達の苦難に満ちた旅路が終わるのももう間もなくのことだった。





 時間は少し遡って、ジブの月(第二月)の下旬の頃のこと。総司令部のベラ=ラフマの元を、井戸を掘っていたザキィが訪れた。

「独裁官はどちらへ?」

「所用で席を外している。何かあったのか?」

「はい、この地下に空洞が見つかったのでその報告を」

 それを聞いたベラ=ラフマが沈黙する。それは単なる沈黙ではなく、ザキィの息を詰まらせるような重い沈黙だった。

「……確認をする」

 ベラ=ラフマが短く告げ、ザキィを伴い井戸の掘削現場へと向かう。それにバルゼルが同行した。井戸は十数人の人足により交代で掘り進められ、一〇メートル程度の深さに達している。ザキィ達三人は縄梯子を使って井戸の底に降り立つ。そこには奈落まで続いているかのような黒い穴が空いていた。
 ベラ=ラフマは穴の中に首を突っ込んでのぞき込んだ。真っ暗闇で何も見えない。

「少し潜ってみましたが、かなり深い穴です。底の方から水の流れる音がかすかに聞こえました。岩を削って垂直に穴を開けられれば井戸を作れます。独裁官の言われるように風車を設置すれば、井戸が深くても水を汲み出す手間はかかりません」

 その報告を聞いたベラ=ラフマは少しの間無言で考え込み、そして二人に告げる。

「……この洞窟は他の者達には洞窟ではなくただの岩の裂け目、ただの井戸だということにする。この洞窟にどの程度の大きさがあるのか、どこまで伸びているのかを、警護隊で内密に確認してほしい」

 バルゼルはベラ=ラフマの求めていることを素早く理解した。

「なるほど、秘密の抜け穴にするおつもりか」

「その通りだ。海側に抜ける穴を掘って、出口には船も用意する」

 ベラ=ラフマはザキィの方へと向き直った。

「あなたには井戸掘りとは別に、抜け穴を掘り抜けるための工事もお願いする。海側に出口を作るが、海水が入ってこないよう注意してほしい。抜け穴工事はあくまで内密に。人手はこちらで用意する」

「あの、独裁官タツヤにも内密にするのですか」

 そうだ、と頷くベラ=ラフマ。ベラ=ラフマの命令にザキィは頷く他なかった。
 そして一月ほどの時間をかけて、ザキィはゲフェンの丘に井戸を掘削した。水を汲み上げる風車も同時並行で建設し、完成させている。
 総司令部の小間使い等が集まり注目する中(野次馬には竜也達も混ざっていたのだが)巨大な風車が風を受けて回り出す。それに連動したロープが動き出し、やがて水がなみなみと汲まれた桶が地の底から上がってきた。桶は水槽に水を移し、また地の底へと戻っていく。

「おお、水が!」

「やったー!」

 建設に関わった人足、小間使い等が手を取り合って喜んでいる。ザキィも問題なく稼働していることを確認でき、ほっとしているようだった。

「おおっ、ちゃんと動いとるようだな! よくやったザキィ!」

 そう言ってザキィの肩を叩いているのはガリーブである。ザキィは苦笑しながらガリーブの慰労を受けていた。

「よくやってくれた。感謝する」

 竜也もザキィにそう声をかける。ザキィは「いえ、とんでもない」と答えを返した。

「まあ、あれがなければもっと早く完成できたんですけど」

 ザキィの呟きにガリーブと竜也が「何の話だ?」と訊ねるがザキィは「こちらの話です」とごまかした。
 井戸の掘削と風車建設を目眩ましにして秘密の抜け穴掘削工事は進められ、三者は同時に工事を完了していた。抜け穴掘削に動員されたのは多数のエレブ人捕虜である。彼等は抜け穴完成と同時にバルゼルの手により全員殺害され、死体は海に捨てられた。これで抜け穴の存在を知るのはベラ=ラフマ・バルゼル・ザキィの三人だけ。竜也やラズワルドすらその事実を知らないままだった。
 その日の夕方、竜也の公邸となっている船。
 公邸に戻ってきた竜也は、ファイルーズやカフラ、女官達が何か騒いでいるのを耳にした。竜也は女性達が集まっている、食堂として使われている一番大きな部屋の中をのぞき込む。

「? 誰か来ているのか?」

「あ、タツヤ様」

 見ると、行商人が荷物を広げて商売をしているようだった。売り物は衣服やアクセサリーの類である。「ふーん」と竜也は売られている衣服を見渡す。女官達が竜也のために場所を空けた。

「男物の服はないのか?」

「はい、ありますよ。こちらなどいかがですか?」

 と中年女性の行商人が何着かの服を取り出す。竜也はその中の真っ黒の服だけを手に取り、サイズが合うことを確認した。

「これと同じ服をもう四、五着ほしいんだが」

「はい、すぐに用意してお届けいたします」

 竜也の買い物は二分もかからずに終了し、カフラやファイルーズは物足りなさそうにしている。

「タツヤさん、そんな地味な服よりもこっちの方がよくないですか?」

「いえ、こちらのケムト風の方が」

 と派手な服を進めるが、竜也は「ほら、黒が俺の色だから」と二人を宥めた。
 竜也は今度はアクセサリーの方を眺める。そして、ミカが真剣な様子で眼鏡を選んでいることに気付いた。竜也はそれを横からのぞき込む。

「これがこっちの眼鏡か……」

 二つのレンズを目の位置に並べるフレームはあるが、耳にかけるためのつるはまだ発明されていないようだった。眼鏡は紐を使って固定するのが主流のようである。フレームもやたらと大きくド派手に作ってあり、「仮面舞踏会にでも行くのか」と思うような物ばかりだった。眼鏡と言うよりレンズ付き仮面と呼ぶべき代物だ。実用性よりも金持ちの装飾品としての側面が大きいようである。この行商人の品揃えが装飾品限定なのか、それとも眼鏡全体がまだ金持ちしか買えない商品なのかまでは判らないが。

「いいのはあったか?」

 竜也の問いに、ミカはため息をついて首を振る。

「わたしの趣味ではないものばかりです。度数として一番合っているのがこれなんですが」

 とミカが取り出したのは極彩色に塗装された蝶仮面である。竜也は思わず吹き出し、ミカは不満そうな顔をした。

「こんなものを付けて仕事をしたら部下の笑いものになります。今回は諦めるしかないようです」

「そうか。それじゃそれは俺が買おう」

 ミカは思わず竜也を見つめた。

「何をお考えですか、タツヤ」

「心配しなくていい、これを付けさせようなんて考えてないから」

 と竜也は笑ってはぐらかした。

「金物細工職人に仕事を頼みたいんだが、いい職人を紹介してくれないか?」

 竜也は女商人と何やらこそこそと相談をしている。ミカは納得していないようだったが、それ以上は追求しなかった。
 ……その最近のミカには悩みがある。

「タツヤはどこに?」

「今はファイルーズ様と一緒のようです」

 苦笑混じりのサフィールの言葉にミカも理解する。夕食を終えてミカ達は食堂で休憩中の一時だが、竜也とファイルーズはさっさと寝室にこもってしまったらしい。ミカはため息をつきたくなった――覚えたては特に楽しいらしいが、それにしても快楽に耽溺しすぎではないのか、と。
 もし竜也がそれを聞いたなら心外に思うだろう。ファイルーズとそういうことをするのは夜だけだし、昼間は皇帝としての仕事に集中している、決しておなざりになどしていない、と。だが、仕事を切り上げて総司令部から公邸の船に戻ってくる時間が早くなったのは竜也にも否定できない事実であった。
 ミカも竜也とファイルーズが男女の関係になったこと自体を非難するつもりはない。ただ、あの日から船の中の空気がミカにとって居心地の悪いものになっている。
 その翌日も、

「ファイルーズ様はしばらく都合が悪いんですよね。代わりにわたしが」

「邪魔。竜也と寝るのはわたし」

 カフラが竜也の右腕をとって胸に抱きしめ、その反対側ではラズワルドが竜也の左腕にぶら下がっている。カフラとラズワルドは竜也を挟んで火花を散らし、竜也は途方に暮れたような顔をした。
 食堂の中央で見事な三角関係を描いている三人を、ミカとサフィールは少し離れた席から眺めている。ミカはふと竜也達からサフィールの方へと視線を移し、サフィールの顔にどこか羨ましそうな思いが浮かんでいることに気がついた。ミカは指をくわえているサフィールの姿を幻視した。
 さらにその翌日も、

「? どうしたんですか?」

 ミカとカフラ達が食堂にやってくると、竜也達が使っている中央のテーブルをラズワルドが一人で占拠し、ファイルーズが食堂の片隅に待避しているところだった。状況を確認しようとしたミカがある刺激臭に気がつく。

「こ、この臭いは……!」

「そう、アナトの毒薬ですわ」

 やや顔色を悪くしたファイルーズの言葉にミカは脱兎のごとく身を翻した。食堂の扉を盾にするようにして身を隠しつつ、最大限の警戒心を持って食堂をのぞき込んでいる。その姿にカフラとサフィールが唖然とした。

「――どういうつもりですか、ラズワルドさん。そんなものをこの場所に持ち込むなんて」

「わたしが飲んでるだけ」

 刺々しいミカの詰問にもラズワルドは涼しい顔を保ったまま――とは言えなかった。その「毒薬」をわずかずつ口に含み、そのたびにめいっぱい顔をしかめている。詰問を重ねようとするミカをカフラが制した。

「ファイルーズ様、ミカさん。確かにあれはアナトの薬湯みたいですけど、アナトの薬湯は恩寵の民の女戦士がよく飲んでいるんですよ」

「あ、アナトの毒薬の効用は」

「一定量を一定期間飲み続けると、子供を身籠もらなくなります。飲むのを止めればまた子供を授かる身体に戻ります。恩寵の女戦士にはそれが必要なんですよ」

 一般的に、恩寵の民は男よりも女の方が強い恩寵を授かる傾向にある。だからある程度以上の水準となれば恩寵を持つ女戦士は男の戦士と同等以上に戦うことができる。だが女に授けられた恩寵は子供を妊娠・出産するとそのほとんどが失われてしまうのだ。
 ちなみにこの世界の性道徳や貞操観念は庶民に関して言えばかなり緩やかで、二一世紀の日本と大差ない。処女でなくても結婚にはほとんど差し支えはないし、離婚や再婚も何一つ珍しい話ではない。ただし、社会階層が上になるほどより厳しい貞操観念が求められるようになる。ファイルーズやミカのような王族の子女ともなれば、婚前交渉が決して認められないことは言うまでもない。
 カフラの説明にミカは一応納得した顔を見せた。一方のサフィールは、

「アナトの薬湯は一族の者もよく飲んでいますが、何か問題でも?」

 とまだ不思議そうな顔である。そのサフィールにミカが説明した。

「わたし達のような王家の息女にとって最大の役目は良家に嫁いで子供を産むことです。アナトの毒薬はそれを妨害する絶好の武器であり、宮廷の陰謀劇には何らかの形で必ずこの毒薬が登場します。わたしは自分の身を守るためにこの毒薬の臭いや味を覚えさせられたんです――忌まわしい、陰惨な陰謀劇の数々の記憶とともに」

 ファイルーズが大きく頷いてその説明に同意し、サフィールが「ほー」と感心して納得した。ファイルーズがいつになく厳しい表情でラズワルドを非難した。

「事情は判りましたが、そんなものをわざわざこの場所で飲むなんて嫌がらせとしか思えませんわ」

「隠れて飲んで誤解される方がずっと問題」

 ラズワルドは端的に釈明する。ファイルーズはまだ納得できないようだったが、カフラが「アナトの薬湯はファイルーズ様の女官が保管・管理することにしたらどうか」と仲裁。ラズワルドがあっさりそれを呑み、この騒動はそれで一応の収まりを見せた。

「……そもそも、ラズワルドさんがそんなものを飲む必要があるのですか?」

「近いうちに必要になる」

「十年くらい先のことでは?」

 ファイルーズが腹立ちを紛らわすようにラズワルドをからかい、ラズワルドが真正直に反撃する。サフィールはそれを眺めながら何やら真剣に考え込んでいる。それに気がついたミカが、

「どうしたんですか?」

「……剣を振るうのと子供を産むのと、どちらがタツヤ殿の力になれるのでしょうか」

 何でその二択になっている、とミカは突っ込みたくて仕方なかった。

(カフラさんとラズワルドさんはあの通りだし、サフィールさんもこの有様……)

 サフィールが竜也に対して抱いているのはおそらく男女の愛情ではないだろう。だがもし竜也がサフィールの身体を求めたなら、サフィールは決してそれを拒絶しないに違いない。竜也に対するサフィールの忠誠心は上限値を突破しているのだから。

(もしこのままカフラさん、ラズワルドさん、サフィールさんがタツヤと関係を持ってしまったら……わたしはどうすれば)

 ミカが女として傷物扱いされることを覚悟で竜也の元にいるのはアミール・ダールの軍事力を背景にして竜也の立場を強化するためである。だが逆に言えば、アミール・ダールはミカを通して総司令部内の自分の立場や権益を守っているとも言えるのだ。他の四人が竜也との関係を深める中で自分だけが竜也と距離を置いたままであることは、ミカの立場上許されることではない。

「とは言え竜也とそういう関係になるのも……」

 ミカは竜也のことを、これまでの行動やその能力を非常に高く評価している。何年か先に竜也の夫人の一人になる未来図も、

「まあ、やむを得ないでしょうね」

 くらいで受け入れてしまっている。もしアミール・ダールとエジオン=ゲベル国王との対立がなく、アミール・ダールもミカ達も故国に留まったままだったなら、ミカには縁談話が台車に山積みとなってやってきたことだろう。そしてミカは今頃顔も知らないようなどこかの貴族の息子に嫁いでいたことだろう。

「それを思えばタツヤの夫人になる方が何十倍もマシです。ですが……」

 今すぐに竜也と男女の関係になれるかと問われればやはりためらってしまうのだ。
 そんな中、ミカの部下がある報告書を提出する。

「……これは使えますね」

 ミカはそれを手に独りごちた。

「タツヤの寵愛をカフラさん達と競い合うのはわたしの性には合いません。ここは一つ、タツヤにわたしの能力を示すことでカフラさん達に対抗することとしましょう」

 ミカはその報告書を元にある行動を開始した。





 その日、総司令部の執務室でいつものように全自動署名マシーンとなっていた竜也の元に、突然カフラが飛び込んできた。

「タツヤさん! これはタツヤさんの指示なんですか?!」

「何の話だ?」

 首を傾げる竜也に対し、カフラがある書面を手渡す。竜也はそれに目を通した。

「……ハムダン商会を摘発?」

「はい。ハムダン商会はザウグ島・ザウガ島の砦建設を請け負っていた商会です。ミカさんはハムダン商会が建設費用を水増し請求しているとしてハムダン商会の当主を拘束したんです」

 ザウグ島・ザウガ島はナハル川に浮かぶ二つの小島である。大きさは両方とも縦横数十メートル程度。渡し船が川を行き来する際に休憩に使っているくらいで、人は住んでいない。聖槌軍がこの二つの島を奪取して渡河の拠点とすることが考えられたため、アミール・ダールが両島での砦建設を進めていた。ハムダン商会はその砦建設の資材調達や工夫・職人手配を請け負っていた商会である。

「まずはミカの話を聞こう」

 と竜也はミカを呼び出す。数刻を経て総司令部にはミカが登庁した。何故かラズワルドとファイルーズもやってきて、元から竜也と一緒にいたサフィールも合わせて執務室には「皇帝の後宮」のフルメンバーが顔を揃えることとなった。

「ミカさん、これはどういうことですか」

「どういうも何も、わたしはわたしの職務を果たしただけです」

 カフラが開口一番ミカを追求し、ミカはそれを真っ向から迎え撃つ。竜也以下他の面々は口を挟まず、二人の舌戦に耳を傾けていた。

「証拠は揃っています。ハムダン商会の過大請求の事実は明白です」

「今、東ネゲヴで木材がどれだけ暴騰しているかご存じないんですか? それを過大請求と言われてしまっては」

「もちろんそれも考慮に入れています。それでもなおハムダン商会の請求額は馬鹿げているとしか言いようのない数字です」

「木材価格が反転する見通しはありません。木材の輸送にだってお金はかかります。輸送中の事故だってあり得ます。それを全部考慮に入れなければ」

「では木材価額が下落したなら、海難事故がなければその請求額は取り下げられるとでも?」

 ミカの報告書が事実であればハムダン商会の水増し請求は確かに摘発の対象となる。だが、もし竜也がミカの行動を事前に把握していたならミカを止めていただろう。

「多かれ少なかれどこの商会でもやっていることだ。他と比べて特別悪質だというわけでもないし、あまり目くじらを立てても仕方ない」

 もちろん竜也にもバール人達に対する苛立ちがあるが、それ以上にバール人の貢献を一身に受けている立場でもある。それに何よりバール人の協力がなければ総司令部は即座に立ち行かなくなってしまうだろう。が、竜也のその姿勢がバール人でない者達からは「甘い」と見られ、不満を持たれているという一面の事実があった。
 ミカの行動は非バール人の不満の発露であり、非バール人を代表してバール人の利権に切り込もうとしていた。一方のカフラはバール人の権益を擁護する立場にある。ミカとカフラの口論はいつの間にか、ハムダン商会の不正という各論からバール人商会と総司令部の関係という総論へと論点が移っていた。

「ネゲヴの未曾有の危機なのに、この期に及んで自分の儲けを考えている方がおかしい!」

「利益が出なければ商会だって存続できません!」

「その程度がなんだと? 今この瞬間だって恩寵の戦士達が聖槌軍と戦って生命を落としている。父上や兄上だって生命を懸けて戦うんだ!」

「バール人だって場合によっては大損することを覚悟の上で総司令部に協力してます!」

 カフラの言葉をミカは鼻で嗤う。カフラの目から悔し涙が今にもこぼれ落ちそうになっていた。

「――二人とも、そのくらいにしておけ」

 竜也がようやく仲裁に入り、二人は互いにそっぽを向いた。竜也の立場としては「どちらの言い分もよく判る」としか言いようがないし、どちらか一方の味方をするわけにもいかない。
 他の面々の様子をうかがうと、ラズワルドとサフィールはミカに同調しているようである。ラズワルドは以前バール人の不正を告発しようとして握りつぶされた経験があるためだし、サフィールはやはり聖槌軍と戦う立場としてミカに共感しているのだろう。ファイルーズ自身の意見はおそらく竜也と同じだが、バランスを考えてこの場ではカフラの味方をするようだった。

「……ともかく。ハムダン商会の件についてはミカに一任する」

 竜也の決定にミカは顔を輝かせ、カフラは悔しそうに顔を背けた。

「それではわたしはハムダン商会の取り調べをします。ラズワルドさん、協力してもらえますか」

 ミカに要請にラズワルドは「ん」と頷き、二人が執務室を後にする。竜也はそれを見送りながら「これ以上面倒なことにならなきゃいいけど」とため息をついた……それが叶わぬ願いであることは百も承知していたが。その翌日に開催された裁判で、竜也はハムダン商会当主の鉱山送りを判決として下した。

「面倒なことになる」

 それは嫌と言うほど理解していたが、正式に告発があった以上は法に則って処罰を下すしかないのが竜也の立場だ。ハムダン商会は潰され、その全財産が総司令部に没収された。
 ネゲヴ軍に対するあらゆる補給がぴたりと止まってしまったのはその翌日のことである。





「これはどういうことですか!」

 ミカはバール人各商会の担当者を総司令部に呼び出して詰問する。だが、

「いえ、申し訳ありません。嵐のせいで船が到着しないために木材が届きませんで。いやー、嵐のせいでは私どもではどうしようもありませんな」

 彼等はへらへらと笑いを浮かべてのらりくらりとミカの追及をかわしていく。経験不足のミカが海千山千のバール人達に敵うはずもなく、結局事態は何一つ改善しなかった。

「木材が届かず工事が滞っているのですが」

「工夫は一体どこに行ったのかと隊長から抗議が」

「今日の分の食糧はいつになったら届くのですか」

「今日の分の日当は」

 ミカの元には各部署からの抗議や要請が殺到し、ミカとその部下はその処理にも忙殺された。だがミカが処理する速度よりも問題が積み上がる速度の方がよほど早い。そもそも完全に止まっている補給が再開しないことには問題は何一つ改善しないのだ。

「あら、大変そうですねー」

 ミカの執務室にカフラが顔を出し、そう言って笑顔を見せる。ミカは唇を噛み締めた。

「わたしの口添えが必要ですか?」

「いえ、無用です」

 ミカの即答にカフラは肩をすくめ、立ち去っていく。残されたミカは歯ぎしりをした。
 カフラはその足で竜也の執務室へと向かった。執務室では竜也が腕を組んで難しい顔をしているところである。竜也はカフラへと目を向け、

「ミカをあまりいじめないように」

「ちょっと意趣返しをしただけですよ」

 カフラは悪戯っぽく笑うだけだ。

「タツヤさんこそ、ミカさんに力を貸してあげないんですか?」

「ミカから頼まれればすぐにそうするけど」

 このストライキの目的はミカに対する抗議と竜也に対するデモンストレーションである。

「バール人の権益を一方的に脅かすなら、こちらにも考えがある」

 ミルヤム達はそれを竜也に理解させようとしているのだ。だがその一方竜也の面子を潰すつもりはさらさらなかった。竜也が一言命じれば即座に補給を再開する、ミルヤム達はその体勢を最初から整えていた。竜也もそれを知っている。自分の一言があれば問題は全て解決することは判っている。

「……ただ、それをやるとミカの、ひいてはアミール・ダールの面子を潰すことになるんだけど」

 解答のない問題を前にし、竜也はため息しか出てこなかった。事態が改善しないまま時刻が夕方になる頃、秘書官の一人が顔を出してくる。

「皇帝、将軍アミール・ダールが総司令部に来られています」

「将軍が?」

「はい。王女ミカの元に向かいました」

 そうか、と頷いた竜也はミカの執務室へと向かった。

「ミカ、入るぞ」

 ノックをする間も惜しんでその執務室に入る竜也。その部屋にいたのはミカとアミール・ダール。それにアミール・ダールの息子の一人、五男のコハブ=ハマーだった。ミカは目に涙をいっぱい貯めて俯いている。

「皇帝、ちょうどいいところに。兵站担当からミカを外すこと、ご了承願いたい。後任にはこの者を出します」

 アミール・ダールはコハブ=ハマーを指し示した。竜也は一呼吸置いてその申請を検討する。そこにミカが抗議の声を上げた。

「しかし父上、わたしはあくまで法に則って不正を処断しただけです! 責めるべきはバール人ども――」

「痴れ者が!」

 アミール・ダールの鞭打つような叱責にミカは数瞬呼吸を止めた。

「不正の処断なんぞ余技に過ぎん。お前の職務はあくまで滞りなく補給を行うことだ。今のこの状態が戦時に起こっていたなら我々の敗北は必至なのだぞ。そんなことも判らぬお前にこれ以上兵站を任せておけるか!」

 ミカは再び俯き、瞳から大粒の涙をこぼした。

「――判った。それじゃ兵站はコハブ=ハマーに任せる」

「ありがとうございます」

 アミール・ダールとコハブ=ハマーは深々と頭を下げた。一瞬顔を上げたミカだが、その顔には絶望が貼り付いている。失意のミカは項垂れたまま執務室から出ていった。一拍おいて竜也がその後を追う。その執務室にはアミール・ダールとその息子だけが残された。
 総司令部の船の中をミカは小走りに移動する。人目を避けて歩いていくうちに甲板に上がったミカはその片隅にたどり着いた。夕闇の中、ミカは歩き疲れたように帆柱の一つにすがり付く。

「……うっく……」

 堪えきれずに涙を流すミカに、竜也が背後から「ミカ」と声をかけた。

「ミカはよくやってくれたよ。バール人の不正告発は誰かがやらなきゃならなかったんだ」

 ミカは返答しなかったが竜也は構わず言葉を続ける。

「バール人達がいないと総司令部が動かないし、まともに戦争一つできない。だからと言ってバール人の不正をそのままにしておいていいわけがない。――ごめん、俺にもっと力があればミカをかばうこともできたのに」

「タツヤは悪くは……!」

 振り返ったミカがそのままの勢いで竜也の胸に飛び込んでしまう。竜也はミカの肩を優しく抱いた。

「ミカはよくやってくれた。ミカは間違ってない。それは俺が保証する、俺が判っている」

 何度もそう繰り返した。ミカは竜也の胸の中で涙を流した。
 やがて夕陽は沈み、月明かりが二人を照らし出す。大地に写っているのは一つの影だ。ミカは長い時間、竜也の胸の中で泣き続けていた。





 さて、この事件の後日談である。

「……結局ミカさんが兵站担当から外されただけでバール人側は矛を収めたわけですが、それでよかったのですか?」

「よくはないです」

 ファイルーズの問いにカフラはやや憮然として見せた。
 ミカが兵站担当を外された理由は「補給を滞らせたため」であり、ハムダン商会を処断したことは何ら責任を問われてはいない。ハムダン商会は潰されて当主は鉱山送り、その一方ミカは叱責されて役職を解かれただけ。バール人側には「釣り合いが全く取れていない」というわだかまりが残っている。

「でも、これ以上のことを要求したならバール人に対する反発は凄まじいものになったでしょう。落としどころとしては悪くない……と思うしかありません」

 アミール・ダールに一歩譲らせたことを慰めとするしかない――それがバール人の立場であった。
 一方のアミール・ダールだが、

「あんなに強く叱ったのは初めてだ。ミカに嫌われてしまったのではないか? どうする、何とかフォローできないものか」

 懊悩するアミール・ダールはミカ付きのメイドを呼び出してミカの様子を問い詰めた。

「そう言えば様子がいつもと違っていました」

「少し元気がなかったようです」

 問われたメイド達がそう答えるとアミール・ダールは「何とかしなければ」と慌てた。が、おろおろとうろたえるばかりでどう行動すべきか方針が立たない。その翌日、

「ミカはどうしているのだ?」

「もうすっかり元気になっていますよ。皇帝の慰めが効果的だったようです」

 コハブ=ハマーがそう報告するとアミール・ダールは不機嫌そうに「むう」と唸った。

「父上、ミカももう子供ではないのですよ。いつでも嫁げる年齢なんですから」

「そんなことは判っている」

 と答えるアミール・ダールだが、コハブ=ハマーの目から見て本当に判っているのかどうかは疑問だった。

「いずれは誰かに嫁がせるとしてもあのような貧弱な男になど……最低限、シャブタイくらいには軍の指揮ができてノガぐらいには個人戦闘ができる男でなければ」

「そんな男がいるとするなら若い頃の父上くらいです」

 とはコハブ=ハマーは言わなかった。

「確かに皇帝タツヤは軍の指揮も個人戦闘もろくにできません。ですが、兄上達にも、他の誰にもできないことをなそうとしているのではありませんか? ミカが嫁ぐ相手としてはこれ以上はないのでは?」

 コハブ=ハマーの指摘にアミール・ダールは沈黙する。息子の言う程度のことはアミール・ダールとて百も承知だが、それでも愚痴を言わずにはいられないようだった。
 アミール・ダールはミカを解任することでバール人達に一歩譲ったように見せて、その実後任には息子の一人を選んでおり、何ら損をしていない。もしこの一件でミカと竜也との間に心理的距離ができたならそれが損と言えるだろうが、事実はむしろ逆であった。
 ある日のある夜の、竜也の公邸。夕食を取るために公邸に戻った竜也は廊下でミカとばったりと出会った。

「あ、ミカ」

 ミカは逃げるように身を翻す。竜也はその背中に声をかけた。

「ミカ、渡したい物があるから待ってくれないか」

「渡したい物?」

 ミカが足を止めて振り返る。

「ちょっと待ってろ、取ってくるから」

「わ、判りました。それでは食堂で」

 ミカが速やかに食堂へと向かう。ここ数日ミカと顔を合わせなかったのは、ミカの方が避けていたかららしい。そんなミカの振る舞いを竜也は「泣き顔なんか見られたから恥ずかしがっているんだろう」と深く気にしなかった。
 一方一人になったミカは、

「……ええい、落ち着きなさい馬鹿心臓!」

 と早鐘を打つ胸を押さえ込む。熱を持った両頬を掌で押さえ、少しでも放熱すべく努力した。
 少しの時間を置いて、何とか平静を取り戻したミカが食堂を訪れる。ミカはうっかり失念していたが、食堂には竜也の他ファイルーズ・ラズワルド・カフラ・サフィールがいて夕食後のおしゃべりに興じていた。ミカは自分の失敗に内心かなり動揺したがそれを外見に表すことなく、竜也の前へと進み出る。

「それでタツヤ、渡したい物とは?」

「ああ、これだ」

 と竜也が差し出したのは、ビロード張りの小綺麗なケースである。ファイルーズ達が猛禽のような眼で一挙手一投足を見つめていることに気付き、ミカは内心で冷や汗をだらだらと流している。が、外見上は怪訝な顔をしただけでそれを受け取り、蓋を開けた。

「……レンズですか?」

 ミカの目にはそこにあるのは「奇妙な黒い針金細工付き丸レンズ」にしか見えなかった。

「違う、眼鏡だ。俺が元いたところじゃこういう眼鏡が主流なんだ」

「眼鏡、これが?」

「こうやって使うんだ。……ラズワルド、鏡を」

 ラズワルドが手鏡を用意する間に、竜也が眼鏡を手に取りミカの顔にかける。ミカは思わず目をつむって全身を硬直させた。

「もういいぞ、目を開けてくれ」

 ゆっくり目を開けたミカはラズワルドから手渡された手鏡をのぞき込んだ。

「これは……」

 鉄製の黒い針金が二つの丸いレンズを包み、耳の後ろまで延びたつるが眼鏡の位置を保持している。鼻に当たるフレーム部分も痛みが小さくなるよう工夫がなされていた。

「この間紹介してもらった金物細工の職人に作ってもらったんだ。フレームの鉄もレンズもかなり重い素材だから、軽くなるよう可能な限り薄く細くしてもらっている。つるは本当は折り畳めるようにするものなんだが、そこまで手が回らなかった」

「へぇー、ふぅーん、これは……」

 とカフラが興味深げに四方八方からミカの眼鏡を見て回っている。ミカほどではないが、カフラもどちらかと言えば目が悪い方だった。

「さすがタツヤさん、すごく実用的です。この形式の眼鏡はきっと流行ると思います」

 カフラの賞賛に竜也は内心で「そりゃそうだろう」と思うしかない。数百年分の進歩を先取りした眼鏡なのだから、今この世界にある眼鏡をいずれ駆逐してしまうのは間違いなかった。

「どうだ、ミカ?」

「はい、気に入りました」

 とミカは竜也の方を向いて「ありがとうござ……」と礼を言おうとして、

「――!」

 刹那に放たれた右拳のストレートが竜也の顔面に突き刺さる。ひっくり返った竜也に構わず、ミカは脱兎のごとく逃げていった。

「……な、何で……?」

 いきなり殴られた理由が判らず、竜也は助けを求めるようにラズワルドに視線を向ける。だがラズワルドは、

「……」

 呆れたような冷たい視線を竜也へと向けるだけだ。そしてそれはファイルーズやカフラも同様である。

「……ええっと」

 竜也は何が悪かったのかわけが判らないまま、失意のうちに逃げるように仕事に戻るしかなかった。
 一方、公邸の一角。誰もいない場所まで逃げてきたミカは、

「……ええい、落ち着きなさいと言うのにこの馬鹿心臓!」

 激しく動悸する自分の胸を何度も叩いていた。極度の近視のミカは今まで竜也の顔をはっきりと見たことがなかったのだが、眼鏡を手に入れて初めて鮮明な竜也の顔を目の当たりにしたのである。

「……まさかあれほどまでの美男子だったとは。眼鏡がなかったから今まで気が付きませんでした」

 ミカは悔しげに呻く。お前がかけたのは恋という名の色眼鏡だ、と突っ込む人間はどこにもいない。

「あんな美男子ならわたしが会うたびに動揺するのも仕方ありません。わたしとて一応は年頃の乙女なのですから」

 ミカは自分の致命的な間違いに気付くことなく、泥沼のような理論武装を深めていくばかりだった。






[19836] 第二八話「黒竜の旗」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/24 21:04




「黄金の帝国」・会盟篇
第二八話「黒竜の旗」





 ときはシマヌの月(第三月)の月末。
 東ネゲヴの町を回っていたサドマやダーラクがサフィナ=クロイに戻ってきた。竜也は二人を出迎える。

「まさかこんなに早く戻ってくるなんて」

 と驚く竜也に、

「敵が来る前に戻らないと戦えないだろうが」

 とダーラク。

「口で言っても判らない愚物ばかりだったからな。いっそ自分の目で現状を見てもらおうと強引にこっちに連れてきた」

 とサドマ。サドマ達二人の背後には何十人もの東ネゲヴ諸都市の長老や有力者が途方に暮れたような顔で棒のように立っている。

「後の説得は任せた」

 と二人は声を揃える。竜也は肩をすくめてそれを引き受けた。

「敵の先陣は既にハドゥルメトゥムを通過しています。敵の姿をこの目で確かめるために今日にでも船を出すつもりにしているんですが、それに同行してもらいましょう」

 偵察団には竜也やアミール・ダールとその配下の部隊長の他、トズルからマグド達も呼んで参加してもらう予定になっている。竜也は東ネゲヴ諸都市の長老も含めて偵察団を再編成。五隻の軍船による偵察団はサフィナ=クロイを出港、一路北へと進路を取った。
 そして月がダムジの月(第四月)に入る頃。
 五隻の偵察団は、ハドゥルメトゥムとスファチェの間の海岸に沿って洋上を移動している。海岸から数百メートル沖合を進む船。海岸沿いの街道に蠢く兵士の姿を、船の上からでも確認することが出来た。

「あれが先鋒か。とうとうこんなところまで来たのか」

 竜也は望遠鏡を握り締める。手の中で望遠鏡が軋みを上げた。

「敵数はどれくらいだ?」

「ここからでは何とも言えんな。見える範囲だけならせいぜい数千か」

 竜也達の船はさらに北上する。どこまで北上しても、街道上は敵兵の姿で埋まっていた。竜也達は適当なところで偵察を切り上げ、進路を南へと戻した。

「……今日見た敵は、大軍が移動しているように思えただろうがせいぜい数万だ。本当に、あれの二〇倍三〇倍の敵がやってくるって言うのか?」

 マグドの問いに、

「ああ。やってくるぞ」

 と答えるのはガイル=ラベクである。

「西ネゲヴは聖槌軍の兵士に埋め尽くされていた。奴等は飛蝗の群れみたいに何もかもを食い尽くしながら東へと移動していた」

 マグドやアミール・ダール、竜也もそれ以上何も言えないまま、陸地を見つめ続ける。軍船はスファチェの港を目指し、風を切り裂き洋上を進んでいた。
 その翌々日、他の船は一足先にサフィナ=クロイへと戻させ、竜也達を乗せた船は一隻でスファチェの北に接岸。竜也はアミール・ダールやマグド、護衛の兵士を連れて、馬で街道を移動する。やがて竜也達の馬は街道を外れ、草原の中に入っていった。

「地図で見るともうすぐのはずなんだが」

 そう言っていた竜也は慌てて馬を急停止させた。わずかに小高くなった緩やかな丘を乗り越えると、その直後に不意に草原が途切れていたのだ。そこにあるのは東西へと延びる、巨大な大地の裂け目だった。

「これが北の谷……」

 と竜也は感嘆する。それはアミール・ダールやマグドにしても同様だ。その渓谷の長さは約五スタディア、幅と深さは半スタディアはあるだろう。

「確かにこの谷は『罠に使ってください』と言わんばかりだ。戦場に最適のこの草原の真ん中にいきなり広がっている」

 とマグドはにやりと笑う。一方アミール・ダールは難しい顔で周囲の地形を確認した。

「だが、これだけの渓谷は隠そうと思っても隠せるものではない」

「でも、街道にも近い。何か使えないか考えたくなりますね」

 竜也は地図と周囲の地形を比較し、無言のまま検討する。アミール・ダールとマグドは馬で渓谷の周囲を回りながら、この谷を使って戦う方法を色々と討議しているようだった。

「……駄目だ。いい作戦が思い浮かばない」

「敵が同数や倍くらいなら戦いようや使いようはあると思うんだが」

 アミール・ダール達は残念そうにそう言う。竜也は淡々と彼等に告げた。

「先々何かに使えるかも知れません。こういう谷がここにあることは頭の片隅に覚えておきましょう」

 竜也は視察をそう結論づけ、船へと戻る。竜也達を乗せた船はサフィナ=クロイへの帰路に着いた。





 ダムジの月の上旬。サフィナ=クロイの総司令部には、ソロモン盟約に加盟している東ネゲヴ諸都市の長老・西ネゲヴ避難民代表・バール人商会連盟代表等が。アミール・ダールやマグド、ガイル=ラベク等の軍首脳部が、一堂に会していた。サドマ達が強引に連れてきた東ネゲヴ諸都市の長老や有力者もオブザーバーとしてその会合に加わっている。

「――百万の聖槌軍がこの町を目指して東進していることはよく理解してもらえたと思う。これと戦い勝利する、ネゲヴに平和を取り戻す。そのためには、ネゲヴの力を一つに結集することが必要だ。一人でも多くの人の、一つでも多くの町の、全面協力が不可欠なんだ」

 竜也はその場の全員に自分への協力を、皇帝への忠誠を、ソロモン盟約への遵守を改めて要請する。内心では竜也に反発する者、負担から逃れようとする者も少なくはない。だが聖槌軍はもう目と鼻の先まで接近しているのだ。この期に及んで竜也に敵対する者は一人もいなかった。

「ついでだから、ソロモン盟約の手直しと改訂をやっておこう」

 と竜也はさりげなく盟約条文の追加修正を行った。

「独裁官クロイ・タツヤに対し『皇帝』の称号を使用する」

「この軍をヌビア軍を称する」

 この二点が最大の追加点である。独裁官の官職名はまだ廃されていないが、皇帝の称号はこれで公式のものとなったのだ。また、これまで「南(ネゲヴ)」という普通名詞で呼ばれていた地域名を「ヌビア」と改称、ネゲヴ軍はヌビア軍と改められた。他の大きな追加点には、元老院の設置が挙げられる。

「ソロモン盟約条項の追加・修正を審議し、採否を決定する機関として元老院を設置する。盟約の現加盟者が元老院を構成する」

 元老院は元の世界であれば議会や国会に相当する機関である。一足飛びにはそうはならないが、将来的にはそうなるだろうことを企図して竜也は元老院を設置した。竜也による国家建設・政府建設は少しずつ進んでいく。

「この際だから、今まで曖昧だった各人の役職や権限、組織関係も明確にしておく」

 竜也は総司令部の主要人事辞令を発令した。





独裁官(皇帝)  クロイ・タツヤ(マゴル)
第一皇妃     ファイルーズ(メン=ネフェル出身)



 改訂後のソロモン盟約でも、竜也の役職は正式には独裁官である。

「聖杖教の聖典の中では『皇帝』がヌビアの支配者になっているから、『皇帝』を名乗ることが聖槌軍をサフィナ=クロイに引きつける作戦上有効だから、そう名乗っているに過ぎないんだ。これは作戦の一環なんだ」

 何者に対するものかは不明だが、竜也は内心でそんな言い訳をし続けていた。
 竜也とファイルーズの関係はこれまでも別に隠されていたわけではなく、知る者は当たり前に知っている公然の事実だった。が、今回の発表をもって初めて二人の結婚が公式に明らかにされたのだ。
 皇妃は現状一人、第二以下は未定である。

「わたしが第二皇妃。第一はもう仕方ないから認めるけど、これは絶対譲らない」

「はい、構いませんよー。でも第三の座はもらいますからねー」

 ラズワルドとカフラが食堂の中央で言い合っているのを、ファイルーズは「あらあら」と微笑ましそうに眺めている。
 元の世界であれば、キリスト教下のヨーロッパは言うまでもなく中国でも正式な皇妃(皇后)は一人だけである。それ以外の寵妃は側室であったり、皇后より一段下の扱いとなる。だがヌビアでは「第二以下も正式・公式の皇妃」という扱いになる(という予定である)。

「帝位継承権は年齢にかかわらずわたしが産んだ子供を最優先としますね?」

 にこやかながらも断固としてそう主張するファイルーズ。ラズワルドとカフラはその要求をすんなりと受け入れた。

「帝位継承の問題があるから皇妃に序列をつけなきゃいけない、それは判りますし、認めます」

 カフラの言葉にラズワルドは無言で頷いて同意する。

「正直言うと、わたしは皇妃の座なんてあってもなくてもいいんです。タツヤさんが他の子に負けないくらいにわたしのことを可愛がってくれるなら」

 とカフラは花が咲くような笑顔を見せた。ファイルーズは「あらあら」と微笑むがその目は笑っていないし、ラズワルドは目に見えて不機嫌な様子でカフラを睨んでいる。カフラは輝くばかりの笑顔を盾とし、その視線を跳ね返した。
 ファイルーズ達が笑顔のままで(一人は違うが)不穏な対峙をしている様子を、ミカとサフィールはどこか羨ましげに眺めている。なおその場には竜也も同席していて一連のやりとり全てを耳にしているのだが、竜也はそれらを一切聞かなかったことにした。
 続いては帝国府総司令部の文官の人事である。



財務総監     アアドル(バール人)
財務総監補佐   カゴール(バール人)
内務総監     ジルジス(レプティス=マグナ出身)
内務総監補佐   ラフマン(ハドゥルメトゥム出身)
帝都建設総監   バリア(アシュー?)
帝都建設総監補佐 サーメト(ウティカ出身)
東ヌビア総監   ユースフ(カルト=ハダシュト出身)
司法総監     ハカム(白兎族)
司法総監補佐   シャヒード(白兎族)



 総司令部は今回を機に正式名称を「帝国府」総司令部と改称された。非常時軍事政権としての印象を弱め、より正式な・恒常的な政府組織としての印象を強めることを目的としている。が、一般には略称「総司令部」で通っている。
 財務総監は総司令部の財政全般を担当する。帝都建設総監はサフィナ=クロイの都市整備を担当。東ヌビア総監は東ヌビア自治都市の監督・各都市との交渉・都市間の問題調停等その他全般を担当する。司法総監はサフィナ=クロイの司法担当。内務総監はその他の事務仕事全ての担当である。

「何故アアドルさん達を大臣としないんですか?」

「今から大臣にしていたら先々出世させる余地がなくなるじゃないか」

 カフラの疑問に竜也はそう答えた。



書記官 ハーキム(鹿角族)
書記官 ミカ(エジオン=ゲベル出身)
書記官 カフラマーン(バール人)
書記官 サフィール(牙犬族)
書記官 コハブ=ハマー(エジオン=ゲベル出身)
書記官 イネニ(メン=ネフェル出身)



 書記官とは、秘書官・側近にちょっと気取った名前を付けただけで、実質は今までと何も変わらない。その筆頭が上記の六人である。
 兵站担当官を兼務するコハブ=ハマーはアミール・ダールの五男である。竜也より少し年上の、神経質そうな線の細い青年だ。ミカはコハブ=ハマーを補佐して兵站にも関わるし、竜也に軍事全般の助言をする。イネニはケムトからやってきた官僚の一人で、都市整備や民政に一家言を持っている。
 続いて外交面を担当する文官である。



エレブ方面渉外担当官 ムハンマド・ルワータ(バール系)
ケムト方面渉外担当官 ウニ(メン=ネフェル出身)
聖槌軍渉外担当官   イムホテプ(メン=ネフェル出身)



 この三方面のどこに対しても竜也はまともな外交関係を持っていないので、彼等の仕事は主には情報収集、次いで謀略や工作となる。
 他には、



技術顧問   ガリーブ(アラエ=フィレノールム出身)
技術顧問補佐 ザキィ(スキラ出身)
造船総監   カーエド(バール人)



 このようなメンバーが文官として挙げられている。
 続いては武官である。まず竜也直轄の独裁官警護隊は名称を「近衛隊」と改称した。名実共に竜也の親衛隊としての地位を確立。軍の中でも特別の位置を占めることとなる。



近衛隊隊長  バルゼル(牙犬族)
近衛隊副隊長 ボリース(牙犬族)
近衛隊    ベラ=ラフマ(白兎族)
近衛隊    ラキーブ(白兎族)



 サフィールは書記官と近衛隊を兼務。近衛隊のほとんどは牙犬族の剣士だが、一部別の部族の人間も含まれている。

「何であなたが近衛隊に?」

「皇帝の側に仕えるにはこの役職が最も適切ですので」

 竜也の問いにしれっと答えるベラ=ラフマ。元々ベラ=ラフマは誰にも深く気にされることなく影のように竜也の側に侍っていたが、その立場を公認のものとしたのである。
 他には、



帝都治安警備隊隊長  アラッド・ジューベイ(牙犬族)
帝都治安警備隊副隊長 ラサース(牙犬族)



 近衛隊・治安警備隊は武官だが陸軍とは別管轄だ。普段はそれぞれ独立した地位を持つが、非常時には治安警備隊は近衛隊の指揮下に入ることになっている。
 続いては陸軍の人事。



陸軍総司令官・ナハル川方面軍総司令官 アミール・ダール(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍副司令官   サブル(キルタ出身)
ナハル川方面軍副司令官   バースイット(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍総司令官補佐 ツェデク(エジオン=ゲベル出身)



 アミール・ダールは陸軍全体の責任者とナハル川方面の責任者を兼務する。副司令官の一方のサブルは建軍当初からの参加者の一人である。有名な傭兵団を運営する、歴戦の戦士だ。もう一方のバースイットは、アミール・ダールと共にエジオン=ゲベルからやってきたメンバーである。長年アミール・ダールの右腕として、女房役として、アシューの戦場を共に駆け回ってきた。ツェデクはアミール・ダールの四男で、総司令官の秘書役である。
 ナハル川方面軍は一軍団の定員を九千として一二の軍団に分けられている。



ナハル川方面軍第一軍団軍団長  セアラー・ナメル(赤虎族)
ナハル川方面軍第二軍団軍団長  アゴール(鉄牛族)
ナハル川方面軍第三軍団軍団長  イフテラーム(土犀族)
ナハル川方面軍第四軍団軍団長  ガダブ(大鷲族)
ナハル川方面軍第五軍団軍団長  トゥウィガ(麒麟族)
ナハル川方面軍第六軍団軍団長  マアディーム(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍第七軍団軍団長  ノガ(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍第八軍団軍団長  ハルクフ(イムティ=バホ出身)
ナハル川方面軍第九軍団軍団長  ディカオン(プラタイア出身)
ナハル川方面軍第十軍団軍団長  タフジール(スファチェ出身)
ナハル川方面軍第十一軍団軍団長 イステカーマ(イコシウム出身)
ナハル川方面軍第十二軍団軍団長 タハッディ(レス=アンダルーセス出身)


ナハル川方面軍第一工作部隊隊長  ソルヘファー(シジュリ出身)
ナハル川方面軍第二工作部隊隊長  テムサーフ(サブラタ出身)
ナハル川方面軍第三工作部隊隊長  ヤラハ(エジオン=ゲベル出身)

ザウグ島防御指揮官   ジャッバール(サルダエ出身)
ザウガ島防御指揮官   ムァッキール(エウヘウペリデス出身)

ナハル川方面軍水軍司令官   ケルシュ(青鯱族)



 もっとも定員を満たしている部隊はまだ一つもなく、どこも兵数は七千から八千程度である。
 第一軍団から第五軍団までの軍団長は恩寵の部族からの選出。そこに属する兵士も恩寵の民が中核となっている。ナハル川方面軍で最も戦闘力のある軍団だ。
 第六軍団のマアディーム・第七軍団のノガは、アミール・ダールの長男と三男。第八軍団のハルクフはケムトから戦列に加わった将軍で、第九軍団から第十二軍団の軍団長はネゲヴ各地の有名な傭兵団団長達である。ナハル川に浮かぶ二つの小島、ザウグ島とザウガ島にも各千人の兵を配置し、傭兵団から指揮官を任命している。
 第一から第三までの工作隊は補助兵で、原則は戦闘の矢面に立たない。兵站・輸送・要塞修復等に従事してもらうことなる。第三工作部隊隊長のヤラハはアミール・ダールの長女である。
 また、アミール・ダールは渡河途中の敵を攻撃するためにナハル川方面にも水軍を設置することを竜也に要請。それを受けた竜也はガイル=ラベクに艦隊の一部を分けてもらえるよう依頼する。こうして、ケルシュという髑髏船団幹部の一人がその艦隊と共にアミール・ダールの旗下に配属されることとなった。
 続いてトズル方面の部隊。



陸軍副司令官・トズル方面軍軍団長 マグド(アシュケロン出身)
トズル方面軍副軍団長       シャガァ(アシュケロン出身)
トズル方面軍軍団長補佐      ライル(テダン出身)



 マグドは陸軍副司令官とトズル方面軍軍団長を兼務する。マグド配下の兵は八千。中核となっているのは解放された戦争奴隷で、「奴隷軍団」の異名を誇っている。シャガァは長年にわたってマグドと共にアシューの戦場で戦ってきたマグドの右腕だ。軍団長補佐のライルはマグドの秘書官扱いである。
 防衛についてはこれらの軍が担うことになっている。攻撃を受け持つことになるのは以下の部隊である。



第一騎兵隊隊長 サドマ(金獅子族)
第二騎兵隊隊長 ダーラク(赤虎族)
第三騎兵隊隊長 ビガスース(人馬族)
第四騎兵隊隊長 カントール(人馬族)
第五騎兵隊隊長 シャブタイ(エジオン=ゲベル出身)



 騎兵隊は一隊五千の騎兵のみという編成だ。交代でナハル川の西に送り込まれ、聖槌軍に対する焦土作戦や攪乱、嫌がらせの攻撃等に従事することになる。この時点でも西ヌビアで活動中の遊撃部隊もいずれは再編成してこれらの騎兵隊に組み込まれる予定である。第一から第四までの騎兵隊は恩寵の民の戦士が中核となっている。第五騎兵隊隊長のシャブタイはアミール・ダールの次男だ。
 最後に海軍の人事である。



海軍総司令官  ガイル=ラベク(青鯱族)
海軍副司令官  ハーディ(バール系)
第一艦隊司令官 フィシィー(胡狼族)
第二艦隊司令官 ムゼー(テル=エル=レタベ出身)
第三艦隊司令官 モタガトレス(巨鯨族)
第四艦隊司令官 ナシート(オエア出身)
第五艦隊司令官 ザイナブ(アポロニア出身)
第六艦隊司令官 イーマーン(リクスス出身)

輸送艦隊司令官 ジャマル(グヌグ出身)
伝令艦隊司令官 ノーラス(キュレネ出身)



 海軍は集められた海上傭兵団を中心に六つの艦隊に編成された。一つの艦隊につき所属する軍船は十数隻。総司令官のガイル=ラベク、副司令官のハーディは髑髏船団の所属。他の司令官もヌビア各地の有名な海上傭兵団の団長ばかりだ。百万の軍勢を養うには到底足りないが、聖槌軍に対するエレブ本国からの補給が皆無というわけではない。彼等の役目はその補給の遮断、連絡の妨害等である。
 また、輸送船と伝令用の高速船のみで二つの艦隊が編成され、それぞれの任務に当たっている。海軍には東西ヌビアの全ての海上傭兵団が参加しており、その艦数・戦力を誇っていた。
 これら陸海軍の主要人事の一覧を見せられ、感嘆しなかった者は一人もいなかったと言われている。

「よくもまあ、たった三ヶ月でこれだけの面子を……」

 そこに名前が挙がっているのは子供でも知っているような有名な戦士・傭兵・軍人ばかりである。それはヌビアのオールスターキャストであり、ヌビアの戦力の総結集だった。





 ダムジの月の九日。
 竜也は集められるだけの陸軍各軍団軍団長・騎兵隊各隊隊長・海軍各艦隊司令官をナハル川南岸に集めた。兵士も揃えられるだけ揃え、上官を先頭に整然と整列させる。整列し、沈黙して待つ将兵の前に、やがてある騎兵の一団が姿を現した。
 黒い陣羽織で身を固めた、バルゼル率いる近衛隊。先頭の騎兵は剣を咥えた犬の旗を高々と掲げている。竜也に下賜されたその精悍な旗をバルゼル達は大いに喜び、誇らしげに翻した。
 近衛隊に警護されながら、騎乗したアミール・ダールとマグド、ガイル=ラベクが将兵の前を通り過ぎる。アミール・ダールが掲げているのは中央に大きめの丸印・その周囲に少し小さい七つの丸印が配置されるというデザイン。「七人の海賊」の劇中でヌビア村の旗印として使われた「ヌビア村の七輪旗」である。
 ノガやその兄はエジオン=ゲベル王家にちなんだ旗を用意していてそれを掲げようとしたのだが、アミール・ダールが許可しなかった。軍内でエジオン=ゲベル出身者が突出し、派閥を作っているように見られることを怖れたためである。

「それではどんな旗を掲げれば?」

「お前達が考えておけ」

 アミール・ダールは無理難題を五人の息子達に押し付けた。散々考えて良案が出ず、途方に暮れた息子達はミカ経由で竜也に知恵を借り、竜也が「それなら」と提案したのがヌビア村の七輪旗だったのだ。代案も時間も積極的に反対する理由もなかったこともあり、息子達はその案を受け入れた。
 マグド配下の奴隷軍団騎兵隊が掲げているのは、紅蓮の炎と螺旋を描いたドリルが描かれた旗である。その旗を見た兵士の微妙そうな反応に、マグドはため息がもれそうになるのを我慢していた。
 ガイル=ラベクに続く騎兵が掲げているのは、竜也に下賜された髑髏の旗だ。緻密でリアルな、恐ろしげな髑髏の図柄に、それを見せられた将兵からは感嘆の声しか聞こえない。
 最後に現れたのは、黒い馬に騎乗する皇帝の黒い正装の竜也である。竜也が身にしているのは新たに作成させた正装だが、芝居用の衣装、カリシロ国宰相の衣装を元にデザインされていることには変わりない。ただ絹や本物の金銀が惜しみなく使われており、両者を比べればその差は一目瞭然だった。また通気性も動きやすさも大幅に向上している。
 また、新しい衣装では黒い兜をやめており、その代わりに角を模した髪飾りを身にしていた。角は純金製。山羊の角を細く長くしたような形で、後頭部から左右に生えて側頭部の両側で緩やかにカーブを描き、二本の先端が眉間の付近で下を向いている。モデルとなっているのはとある昔の漫画に登場した銀河帝国皇女の角である。
 「黒竜の化身」を公称する竜也は、この閲兵式の後はこの角を普段から身に付けたままでいるようになる。
 竜也の精悍そうな騎乗姿を将兵が好意的に受け止め、そして竜也に続く馬車に将兵の畏怖の声がさざ波のように広がった。
 二頭の馬に引かれた一台の馬車。その荷台にあるのは一〇m程の長さの鉄柱だ。大きな石の台座に固定されているが、念のために力自慢の兵士が二人がかりで支えている。そして、その鉄柱にはある旗が掲げられていた。
旗の大きさは五パッスス四方。七つの首がとぐろを巻いた巨大な黒い竜が、風を受けて身をうねらせている。大勢の職人が丹精込めて縫い上げたタペストリーは、まるで生きているかのような精密な竜の姿を布上に完璧に写し出していた。この世界では誰も見たことがない異形の、だが神秘的な、巨大な獣の姿。誰に説明されるでもなく、兵士達はそれが皇帝の真の姿なのだと理解した。

「黒き竜(シャホル・ドラコス)!!」

「皇帝クロイ(インペラトル・クロイ)!!」

 誰かが上げた雄叫びは一瞬で全軍に伝播する。

「黒き竜!」

「皇帝クロイ!」

 その呼びかけが竜巻のように巻き起こり、怒濤のように大地を揺らした。数万の兵士が喉を枯らさんばかりに「皇帝クロイ」を連呼する。

「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」

 兵士達の連呼に、竜也が人差し指を立てた手を掲げて応える。兵士達もまた人差し指を立てた手を掲げ、突き上げ、歓呼の声を上げた。数万の兵の声は最早物理的に声ではなく、巨大な一頭の獣の咆吼だった。
 ――黒き竜がついに目覚め、天地に轟く咆吼を上げたのだ。ヌビアの大地を守るために。傲慢なる一神教の神を喰い殺すために。





 竜也が催した二回目の閲兵式は概ね竜也の望んだ効果をもたらし、成功裏に閉幕した。だがもちろん、ヌビアの全ての人間が、サフィナ=クロイの全ての人間が竜也に心酔したわけでは決してない。

「――ふん。何が皇帝だ、あんな小僧」

 将兵の挙げる歓呼の声が港にも届いている。それを耳にしたギーラは忌々しそうに呟いた。ギーラの乗る船は今まさに港から船出するところである。
 あの歓呼は、ヌビア軍の将兵の忠誠は私に向けられるべきものなのに――ギーラはそう信じて疑わない。

「あの場に立っていたのは私だったはずなのだ。私が皇帝と呼ばれていて、この町だって今頃はギーラ=マグナ、あるいはサフィナ=ギーラと呼ばれていて、王女ファイルーズも王女ミカもナーフィア商会のカフラマーンも私の妻となっていて……」

 それを単なる妄想とも絵空事とも言い切れはしなかった。ギーラにはそれだけの才覚があり、機会もまた有していたのだから。ただ、ギーラは「その機会を自ら投げ捨てた」という厳然たる事実を未だ理解していない。

「何、旦那はこれからでさ」

 ギーラに背後から声をかけるのは小柄な傭兵だ。年齢は五〇代。年齢と同じくらい長い期間戦いを重ねてきたに違いないが、古兵(ふるつわもの)と言うよりはくたびれた老兵といった雰囲気の男だった。

「あんな小僧に戦争の指揮ができるわけがない、いずれは必ず失敗する。そのときこそ旦那の出番ですぜ」

「その通りだ。キヤーナ」

 キヤーナという老兵の追従をギーラは真剣に受け止める。

「他の連中は腰抜けの玉なしどもばかりだ、あんな女みたいな小僧に言いように動かされてやがる。だが旦那は違う、あの小僧に対抗できるのは旦那しかいない。あの小僧を忌々しく思っている大勢の者がそう思っているんですぜ?」

「お前に金を払っているのはその連中ということか」

 ギーラの確認にキヤーナは卑屈な笑いを見せるだけだ。だが否定はしなかった。

「ケムトの支援がありさえすれば、旦那は必ずあの小僧を追い落とせますぜ」

「そうだ、私は宰相プタハヘテプから今一度支援を受ける。そうして本来私のものだった全てのものを奪い返す……!」

 皇帝という、ヌビア全土の支配者の地位。三大陸に名を轟かす将軍や勇猛果敢な恩寵の戦士等の配下。ファイルーズを始めとする若く美しく血筋に優れた妻達。百万の聖槌軍と戦い、これに勝利するという歴史的使命、それに伴う名声。その全ては今は掠め取られているが、正統な所有者はこの自分なのだ――とギーラは心底から確信している。

「全てのものを正統な所有者の元に、そうでなければ正義が実現しない。正義なくして聖槌軍との戦いに勝利はあり得ない」

 聖槌軍に「正しく」勝てるのは自分だけなのだと、ギーラは決意と同じくらいに固く拳を握りしめた。

「旦那が皇帝になったならあたしを将軍にしてくれますか?」

「ああ、約束しよう。お前はアミール・ダールの上官の大将軍だ」

 キヤーナの要求にギーラは気前よく応える。

「へへっ、期待してますぜ」

 ギーラは視線を遠ざかっていくサフィナ=クロイの大地に固定したまま、キヤーナに背を向けたままだ。そのためそのときキヤーナが浮かべていた嗤いを、ギーラは目にすることがなかった。





 そして、ダムジの月の一〇日。

「――来たか」

 ナハル川に設置された櫓に登った竜也は、対岸を見つめる。
 ルサディルの惨劇から四ヶ月、ソロモン盟約締結から三ヶ月余り。この日、聖槌軍先鋒のトルケマダ隊がとうとうスキラに到着した。トルケマダ隊はナハル川北岸に立ち、南の大地を見つめている。
 聖槌軍と竜也の軍団が川を挟んで対峙する。両者の激突が、血で血を洗う死闘が始まるのはもう間もなくだった。





*あとがき



 ちょうど折り返し地点までやってきました。「会盟篇」はこの二八話で終了、次話から「死闘篇」に突入です。

 「死闘篇」は全一一話、週三回更新のペースで進んで11月19日で全部投稿となります。



[19836] 第二九話「皇帝の御座船」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/27 00:44




「黄金の帝国」・死闘篇
第二九話「皇帝の御座船」





 海暦三〇一六年ダムジの月(第四月)・一一日。
 ルサディルの惨劇から四ヶ月、ソロモン盟約締結から三ヶ月余り。聖槌軍先鋒のトルケマダ隊がスキラに到着したのが前日のことである。聖槌軍とヌビア軍がナハル川を挟んで対峙している。両者の激突が、血で血を洗う死闘が始まるのはもう間もなく――と思っていたらまだ始まらなかった。

「……攻めてこないな」

「そりゃ向こうにも準備とかあるだろう」

 総司令部で、野戦本部で、櫓の上で、船の上で。ナハル川南岸のあちこちで、似たような会話が数万回はくり返されただろう。
 竜也は情報を把握するために野戦本部に詰めている。そこに、北岸に偵察に送り出していたサドマ達が戻ってきた。

「連中、今日はスキラの町で略奪に忙しいようだ。とは言っても金目のものなど残っていないから町中に散って家探しにいそしんでいるらしい」

 サドマの報告に竜也が「なるほど」と納得する。

「連中が攻めてくるまでもう何日か必要かもしれないな」

 竜也の言葉にアミール・ダールが無言で頷いた。
 ……そしてそれから八日ほど後。
 聖槌軍と竜也の軍団が川を挟んで対峙している。両者の激突は、血で血を洗う死闘は、実は未だ始まっていなかった。

「……攻めてこないな」

「……いい加減待つのにも疲れたな」

 総司令部で、野戦本部で、櫓の上で、船の上で。ナハル川南岸のあちこちで、似たような会話がおそらく数十万回はくり返されたことだろう。
 普段はゲフェンの丘の総司令部で書類仕事をしている竜也だが、一日一回は野戦本部にやってきてアミール・ダール達から状況を報告してもらうのが最近の日課となっていた。竜也はアミール・ダール達とともに、北岸から戻ってきたダーラクから報告を聞く。

「聖槌軍が続々とスキラに集まっている。渡河のための船を造ろうとしているが木材が手に入らなくて苦労しているようだった。西の方に木材を集めに来ていた部隊を俺達で蹴散らしてやったが、追加の敵が次々とやってきたので逃げてきた」

「その辺はこちらの作戦通りか」

 竜也の言葉にダーラクが頷く。聖槌軍が到着する前に、スキラ市内の木造家屋はほとんどが解体されてサフィナ=クロイに移設され、スキラ周辺の木立は全て切り払われ、材木はバール人商会に引き渡されている。だが、スキラから少しばかり西に足を伸ばせば木が生えている場所はいくらでもあった。

「敵は今は渡河の準備に専念しているということか」

 アミール・ダールの言葉にダーラクが「ああ」と頷き、

「それでどうするのだ? 木材を採取しているときを狙って森に火を放つとか、攻撃のやりようはあると思うが」

「いや、それはまだだ」

 とアミール・ダールが首を横に振る。

「その攻撃はもっと大部隊を相手にしたときに使うべきだ。当面は現状を維持、敵に対しては嫌がらせ以上の攻撃は必要ない」

 ダーラクは面白くなさそうに肩をすくめるが、抗命するつもりもなさそうだった。
 ダーラクが退室した後、アミール・ダールが竜也に提案する。

「皇帝タツヤ、敵の様子を見に行きませんか」

 竜也はそれを受け入れ、二人は野戦本部を出て歩いていく。川沿いでは歩哨の他、数千の兵が群れ、北岸を望んでいる。道中竜也は歩きながらその兵の様子を注意深く伺った。
 竜也達は櫓の一つにやってきてその上に登る。見張りの兵には下りてもらい、櫓の上には竜也とアミール・ダールの二人だけとなった。

「――望遠鏡を使ってもスキラの様子は判らないな。敵の姿も見えない」

 ナハル川の川幅は一番狭いところでも一〇スタディア以上(約二キロメートル)ある。櫓の上からでも北岸の川岸はただ灰色に見えるだけだった。

「ですが、噂は嫌でも耳に入ります」

 竜也の呟きにアミール・ダールがそう応えた。

「スキラに入った聖槌軍の総数は十数万に達し、すでに我が軍を越えているだろうという話です。このまま敵兵が二〇万、三〇万と一方的に増え続けるのを待つことしかできないのか――将兵に焦りと不安が広がっています」

 竜也はアミール・ダールの言葉を吟味する。

「……こちらから攻撃を仕掛けるべきだ、ということか?」

 が、アミール・ダールは首を横に振った。

「こちらからではありません。敵に戦端を開かせたいのです。それも、一日でも早く」

「それは、難しい」

 思わず竜也は唸った。アミール・ダールも首肯する。

「確かにその通りです。今の時点では時間が味方しているのは聖槌軍の方です。待てば待つほど兵が集結し、敵は一方的に有利になる。こちらは敵が日一日と増強されるのを歯噛みして見守ることしかできない。焦りと待ち疲れで兵の士気は劣化していきます。今の時点で戦端を開く理由など、奴等にはない」

 アミール・ダールは嘆息して首を振った。

「このまま我が軍が待つことしかできず、最悪もし敵が全軍を持って、総力を挙げて渡河作戦を決行したなら……我が軍の将兵は敵の姿を見ただけで総崩れになるかもしれません」

 竜也はその光景を脳裏に思い描き、思わず身震いした。竜也はとりあえず思いつきを述べてみる。

「騎兵隊を使って敵を挑発するのは?」

「考えてみましたが、あまり上手くありません。正直言って、これは軍略というより謀略の範疇ではないかと思うのです。私はそちらは不得手なもので」

「なるほど、確かに」

 と竜也は納得した。

「――判った、こちらでも策を検討する。将軍の方も引き続き頼む」

 竜也の命令にアミール・ダールが頷いた。
 総司令部に戻ってきた竜也は執務室で一人になって、腕を組んでひたすら「うーん」と唸っている。そこにベラ=ラフマが入室してきた。

「皇帝タツヤ、奴隷商人のシャッルが来ています」

 竜也が「あの男が?」と首を傾げ、ベラ=ラフマが「はい」と頷いた。

「私が呼びました。シャッルは西ヌビアでトルケマダ隊と取引をしたことがあり、トルケマダとも面識があります」

 竜也は驚きと喜びを同時に表した。

「おお、そうか! すぐに行く!」

 竜也は執務室を飛び出し、大急ぎで応接室に向かう。数十秒後、応接室では竜也・ベラ=ラフマとシャッルが向かい合って座っていた。

「あなたは西ヌビアでトルケマダと取引をしていたと聞いた。あなたが今からスキラに行ってトルケマダと会うことは可能か?」

「はい、難しくはありません」

 シャッルは断言した。

「私が有する高級娼婦ばかりの娼館船。シジュリにいた頃はトルケマダはそこの上得意客でした。スキラに入港できるなら、トルケマダだけでなく聖槌軍の将軍全員を得意客にして見せましょう」

 シャッルは自信と余裕を持ってそう言い切る。竜也の目にもその言葉は嘘はないように思われた。

「あなたの目には、トルケマダという男はどのように見えた?」

「一見その辺のどこにでもいそうな、冴えない中年男ですが、実際の中身もただの愚物です。知恵も思慮もまるで足りておりません。同僚や競争相手を陥れるときだけ恐ろしく悪知恵が働くような男です」

 トルケマダについて知る限りのことを、竜也はシャッルにしゃべらせた。少ししゃべり疲れた様子のシャッルに竜也が指示を出す。

「……今日は助かった、礼を言う。まずあなたにはスキラへの入港とトルケマダへの接触を。トルケマダに対して謀略を仕掛ける。あなたにはそれに全面協力してもらうからそのつもりで」

「判りました」

 シャッルは躊躇なく頷き、意気揚々と総司令部を後にした。
 一方竜也とベラ=ラフマは執務室へと移動し、二人で謀略の具体的中身を検討する。

「百万タラントの金貨や一億アンフォラの麦の噂はトルケマダだって知っているだろうな」

「知らないはずがありませんし、評判通りのトルケマダの性格ならそれに目が眩まないわけがありません」

「でも、攻撃してこない」

 と竜也は肩をすくめた。

「確かに即座に戦いを仕掛けてきても不思議はありませんが、それをためらうだけの充分な理由もあります」

「ナハル川の川幅と南岸の要塞、それにヌビア軍か」

 竜也の言葉にベラ=ラフマが頷く。

「今必要なのはトルケマダにそれを乗り越えさせるだけの理由です」

 会話はそこで途切れ、竜也は「理由……」と一人呟いた。

「……百万タラントの金貨や一億アンフォラの麦は理由にはならないのか。噂じゃ弱いのか? この町には金銀財宝が唸っていることを具体的に見せて、ヌビア軍なんて敵じゃないと思わせて、今すぐ攻める必要を作って……」

 少しの時間をおいて、竜也の脳内で謀略の骨子が固まった。竜也はベラ=ラフマにそれを提示、何点かの修正が加えられる。

「――作戦としてはそんなものだろう。実行の手配は任せる。できるだけ早く実行できるよう進めてくれ」

「判りました」

 竜也の指示にベラ=ラフマが深々と頷いた。





 それから数日後の夜、スキラ港。
 その日、シャッルが娼館船でスキラに入港したので、トルケマダは別軍団の軍団長を引き連れてシャッルの船を訪れた。
 スキラにはトルケマダ隊の後続として各国の軍団が続々と到着しているが、それらの各軍団の軍団長は公式にはトルケマダより格上の者達ばかりである。が、異端討伐によりエレブ中に悪名をはせ、アンリ・ボケの右腕を自認し(アンリ・ボケの方は認めていないが)、聖槌軍の先鋒を任されたトルケマダには、彼等を圧倒するだけの権勢が存在していた。もっとも、トルケマダにはヴェルマンドワ伯ユーグのような王者の威風も枢機卿アンリ・ボケのような聖者の風格も、欠片も備わってはいない。

「あれは一種の狂人だ、下手に目を付けられたら何をされるか判らない」

「あの男に逆らったら枢機卿が出てきかねない。とにかく機嫌を損ねるな」

 彼が有しているのは腫れ物扱いの悪名と虎の威だけだが、それでも現時点のスキラにはトルケマダに逆らえる者は一人もいない。だが、それも今しばらくだけの話だった。

「間もなくディウティスク王がこの町に到着する。王弟や枢機卿猊下もいずれは到着するだろう。そうなればもう私の出る幕はどこにもない。今のうちに結果を出しておかなければ……」

 聖槌軍の先鋒として戦い続けてきたトルケマダだが、ヌビア軍に対しては一方的にやられたばかりでろくに戦果を挙げられなかった。金品の略奪でも大した成果は得られず(しかもその大半が食糧を買うためにバール人商会に支払われ、すでに消えている)失意のうちにスキラに到着してしまったのだ。

「できれば今すぐにでも川を渡って敵を攻撃したい。目に見える戦果を得たい、略奪をしたい、異教徒を殺したい。だが……」

 トルケマダにもそれがどれだけ無謀かは理解できる。今のトルケマダにできるのは渡河の準備を進めておくことと、先々を考えて自分の派閥を作っておくこと、それくらいだった。シャッルの娼館船に赴くのに主立った軍団長を誘ったのはその派閥作りのためである。
 誘われた軍団長は五人。モネリー、ポワシー、アールスト、ル・ピュイゼ、ジョフレという名のメンバーである。モネリー達としては、可能であればトルケマダとは距離を置きたかっただろう。だがそれが叶わない今、彼等にできるのは無邪気に大喜びをして見せ、精一杯の追従をすることくらいである。
 トルケマダの年齢は四〇代前後。低い身長と太った身体。髪の薄い、貧相な中年男だ。顔は丸く眼も細いが、容貌に福々しいところが欠片もない。陰険を絵に描いたような面立ちである。

「お待ちしておりました、トルケマダ様」

「シャッルか。今日も世話になるぞ」

 シャッルは最大限へりくだり、トルケマダはひっくり返らんばかりにそり返る。トルケマダとモネリー達五人の同行者を乗せた娼館船はゆっくりとスキラ港を離れ、沖へと進んでいった。船遊び程度に沖に出、湾を半周して翌朝にはスキラ港に戻ってくる予定になっている。
 トルケマダと共に来た軍団長達は、まず船に備え付けの葡萄酒や肉・果物を貪った。美しく着飾った娼婦達がトルケマダ達に寄り添い、酌をする。トルケマダ達は鼻の下を伸ばしたが、それでも空腹を満たすことが先決だった。
 たった六人で船の食料を食い尽くす勢いで貪り、酒樽を全て空にして、ようやくトルケマダ達は充足する。食欲が満たされれば次は性欲を満たす番である。が、

「……むぅ、いかんな」

 トルケマダはすっかり睡魔に取り憑かれていた。他の五人はとっくに夢の中に入っている。トルケマダは何とか睡魔に抗しようとした。

「夜はまだ長いです。少しだけ仮眠を取ってはいかがですか? 一刻ほどで起こします」

 娼婦の言葉に「そうか」と頷いたトルケマダはそのまま速やかに眠りに落ちていった。ぐっすりと寝入り、ちょっとやそっとのことでは目を覚ましそうにないだろう。
 眠り薬がよく効いていることを確認したシャッルと娼婦達はその表情を一変させた。愛想笑いの仮面をかなぐり捨て、その下からは獲物を前にした狩人のような、真剣な表情を現している。
 娼婦達が無言のまま視線でシャッルに問い、シャッルもまた無言のまま首を縦に振って返答する。娼婦とシャッル達は立てる物音も最小限に、事前に決められた役割に沿ってそれぞれに行動を開始した。





 次にトルケマダが目を覚ましたとき、そこはシャッルの娼館船の甲板の上だった。

(どこだ、ここは? どうして私はこんなところに)

 声を出そうとして気が付いた。口に猿ぐつわが噛まさせている。慌ててのけぞろうとして気が付いた。手足と胴体を荒縄で縛られ、身動き一つままならない。左右を見回せばモネリー達五人がトルケマダと全く同じ状態に陥っている。トルケマダより先に目を覚ました彼等が呻き、身をよじっている。そしてトルケマダのすぐ横にはシャッルが佇んでいた。

(シャッル! これはどういうことだ!)

 トルケマダが詰問するがそれは声にならなかった。が、シャッルにはトルケマダの言いたいことが理解できたようである。

「いえ、別段難しい話ではありません。今宵、ネゲヴの皇帝はこの湾で船遊びをしているとのこと。皆さんには私が皇帝に接見する際の手土産になってもらおうと思いまして」

 トルケマダは絶句する。モネリー達がわめこうとし、あるいは身体を海老のように跳ねさせた。だがシャッルは冷笑を浮かべてそれを見下ろすだけである。見ると、ネゲヴの軍船がシャッルの娼館船に接近している。それほど間を置かず、両者は接舷した。
 ……それからしばらくの後、トルケマダと五人の軍団長は皇帝の御座船の中にいた。トルケマダ達は乗り込んできたネゲヴ兵により荷物のように担がれ、連絡船に乗せられ、この御座船へと運搬されてきたのである。
 よく見ればその御座船がケムト式の軍船であることが判ったかもしれない。が、夜なので船影くらいしか判らなかったし、トルケマダ達にはそんな区別が付く知識はなかったし、そもそもそんなことを気にしていられる状況ではなかった。
 御座船に乗船したシャッルは玉座の間へと通された。玉座の間の中央で平伏するシャッルの横ではトルケマダ達が縛られたまま土下座の姿勢を取らされている。何とか逃げられないかと左右を見回してみても、玉座の間には槍と剣を持ったネゲヴ兵がずらりと並び、刺すような視線をトルケマダ達へと向けている。この場での逃亡は無謀と判断するしかなかった。トルケマダにできるのはひたすら身を縮めてとにかく生き延びられることを聖杖教の神に祈ることだけだ。
 トルケマダ達の正面には御簾がかかっておりその奥は見えない。御簾の右にはターバンを巻き、整った口髭をたくわえた偉丈夫が。左には右腕のない山賊みたいな男が、それぞれ屹立していた。おそらく口髭の男が将軍アミール・ダール、片腕の男が将軍マグドであるのだろう。そして、

「皇帝陛下のおなりー!」

 近衛兵の声と共に、正面にかかっていた御簾が巻き上げられる。トルケマダ達はわずかに顔を上げて皇帝の姿を目の当たりにする。そして、衝撃により頭の中を真っ白にした。
 ベッドのように巨大な、豪奢な玉座に皇帝が座り、皇帝に女達が侍っている。ベリーダンスの踊り子みたいな衣装の、肌も露わな、扇情的な、肉感的な女達。ベールにより顔は半ば隠されているが、どの女も美人であることは疑いない。皇帝の背中に、腕に、膝の上に、何人ものそれらの女がその身をすり寄せていた。
 皇帝自身は、未だ若い少年のような男だ。黒い絹の服を着、後頭部から細長い角を生やしている。だがその目は情欲に濁り、見るからに愚鈍だった。「本当に動けるのか」と疑うほどの量の、金銀宝石のありとあらゆる飾りを身につけている。十本の指に数十個の指輪を付けているため指が全く動かせないようだった。そのため侍る女達が手ずから皇帝に果物を食べさせ、葡萄酒を飲ませている。

「お前が、ええと、何とかという商人だな。先日はいいものを贈ってくれたな。受け取ってやったのだから感謝しろ」

 皇帝の面倒臭げな言葉に、

「はい。このシャッル感謝感激の窮みです」

 とシャッルは大真面目に答えた。

「それで? 今日は何を持ってきたのだ?」

「はい、この者達です」

 シャッルは誇らしげにトルケマダ達を指し示す。だが皇帝は怪訝と失望を半々に浮かべるだけである。

「何だ? その小汚いエレブ兵どもは」

「は、はい。この者こそ枢機卿アンリ・ボケの右腕、聖槌軍の先鋒を務めたトルケマダです。私はヌビア軍の戦いに寄与すべく、この者を罠にはめて捕縛したのです」

「なんだ、女ではないのか」

 皇帝は露骨に失望を示した。一方、片腕の将軍は哄笑する。

「ぎゃはははは! こいつは傑作だ! 皇帝、ちょうどいい。景気づけにこいつ等をここで血祭りにしちまいましょう!」

 また一方、口髭の将軍の反応は対照的だった。

「適当なことを申すな! 貴様ごときがどうして聖槌軍のあのトルケマダを捕縛できるというのだ!」

「いえ、それは……」

「大方、その辺で捕まえたエレブの騎士をトルケマダだと偽っているのだろう。――貴様が我が軍に売った麦袋、その下半分におがくずが詰まっていたことを私がもう忘れたとでも思ったのか?」

 シャッルは脂汗を流しながらも愛想笑いを浮かべ、媚びを売った。

「いえ、あれは単なる手違いでして、ですがこの者達がエレブの将軍であることに間違いは」

「貴様の言うことなど信用できるか!」

 アミール・ダールの一喝にシャッルは「は、はい」と平伏するしかない。トルケマダ達は「助かるのか……?」と密かな期待に胸を膨らませた。

「へっ、だがエレブ兵であることには違いないんだろう? なら殺そうぜ」

「下賤の者の血で陛下の御前を穢すな!」

 マグドがトルケマダを殺そうとし、アミール・ダールがそれを止める。二人の一言一言にトルケマダ達は一喜一憂した。

「それだからてめえは臆病者だって言うんだ! 南岸に貼り付いている兵士の大半は血も知らねえ素人ばっかりだ。度胸づけの一つもしないでまともに戦えるかよ!」

「金に飢えただけの傭兵達が何の役に立つか! 戦いが不利になれば真っ先に逃げ出すに決まっている!」

「素人の兵隊なんぞ、戦う前から逃げ出しているじゃねーか! 南岸の要塞なんぞ、見た目が立派なだけのただの張りぼてだ!」

「戦い慣れた傭兵は一万にも満たん。その数でどうやって百万の聖槌軍に抗するつもりだ! 素人の兵でも案山子(かかし)の代わりくらいにはなる。張りぼてと案山子で敵を怯ませて時間を稼ぎ、飢えにより行動不能なるのを待つ――我々の勝利はこれしかない!」

 アミール・ダールの言葉にマグドが沈黙する。そこに皇帝が口を挟んだ。

「二人とも、もうやめよ。その話は何度もくり返したことだ。軍の指揮は将軍アミール・ダールに全て任すが……将軍、やはり恩寵の戦士達はこちらに回してもらうぞ」

「お、お待ちください陛下! 戦い慣れた恩寵の戦士達は南岸の防衛の要です。それを引き抜かれては」

 アミール・ダールはうろたえるが、皇帝はそれを無視する。

「食糧庫と宝物庫をより南に移設する、そのための護衛が必要だ」

「南岸の防衛線を守ることに全力を注ぐべきです。今から破られたときのことを考えるべきでは」

「あと半月もあれば東の町からの義勇兵が到着する。それで埋め合わせはできるだろう」

 アミール・ダールはなおも「しかし」と抗弁するが、皇帝は「もう決めたことだ」と押し切った。
 その時点になってようやく皇帝はシャッルやトルケマダ達の存在を思い出した。

「なんだ、まだいたのか。もう下がれ。将軍はその雑兵どもを処分しておけ」

 了解しました、とアミール・ダールが頭を下げる。御簾が下げられ、皇帝との接見はそれで終了した。

「提督モタガトレス!」

「はい、なんざんしょ」

 アミール・ダールの声に応えたのは、相撲取りみたいな体格の巨漢だった。二メートルを超える巨体を特製の鎧で覆っている。髭を無造作に長く伸ばし、背中の半ばまで伸ばされた縮れた後ろ髪は鯨の背鰭みたいな形に油で固められていた。

「そのエレブ人どもをその辺の海に放り込んでおけ」

 アミール・ダールはそう言いつけて立ち去っていく。言いつけられたモタガトレスは、トルケマダ達を見下ろして嫌らしい笑みを浮かべた。
 ……その後、モタガトレスは兵士に命じてトルケマダ達六人を自分の船に運ばせた。そして今、トルケマダ達はモタガトレスとテーブルを挟んで向かい合っている。
 トルケマダ達を束縛していた縄は切られ、手も足も完全な自由である。テーブルの上には酒の入ったカップが置かれているが、トルケマダ達はそれに手を付けていない。一方のモタガトレスは手酌でビールを浴びるような勢いで飲んでいた。

「どうした、呑まんのか」

「……いや、今はいい」

 一同を代表してトルケマダが答えた。少しの沈黙を挟み、トルケマダが意を決して質問する。

「……何のつもりだ。どういうことだ」

「お前さんがあのトルケマダだというのは事実なのだろう?」

 トルケマダがそれを認めるのにはかなりの時間が必要だった。

「――その通りだ」

「スキラに戻ったならお前達はどのくらいの兵を動かせる? 三万か? 五万か?」

「それを聞いてどうするつもりだ」

 用心深いトルケマダの問いにモタガトレスは淡々と答えた。

「皇帝の軍は、ヌビア軍は聖槌軍には勝てはせん。負けが決まっている雇い主にいつまでもしがみついてはいられんからな。もらうものをもらって逃げることにする」

 モタガトレスがその表情を悪辣な笑みへと急変させる。

「この町の南には皇帝の宝物庫がある。金貨銀貨、金銀の延べ棒、宝石、金細工の貴重品、美術品……捨て値でさばいても数十万タラントにはなるだろう。そこを略奪したくはないか?」

「我が軍に協力すると?」

 その問いにモタガトレスは笑みを浮かべて頷いた。トルケマダの目の色が完全に変わっている。欲望の炎がトルケマダの目を光らせていた。それはモネリー達他の五人にしても同じである。

「お前達の総攻撃に合わせて俺の部下が町の各所に火を放つ。それでアミール・ダールも立ち往生だ」

「明日にでも……はさすがに無理か。だが三日あれば三万は動かせる」

「皇帝は近いうちに宝物を南に移動させる。のんびりとはしていられないぞ」

「我々だけですぐに動くべきだ。こんなうまい話に他の連中を加える必要はない」

「しかし、三万では厳しくないか?」

「宝物庫の確保は我々の任務だが、総攻撃には他の軍団も参加させるべきだろう」

「確かにその通りだ」

 トルケマダ達は作戦について熱意をこめて語り合っている。その胸中で渦を巻くのは煽りに煽られた欲望の炎だ。モタガトレスはトルケマダ達のその姿を嗤いを浮かべて見つめていた。





 時刻は若干さかのぼって、皇帝の御座船の、玉座の間。

「……提督モタガトレスの連絡船が離れます……離れました。遠ざかっていきます」

 窓から外を確認していた兵がそう報告し、

「皇帝、もういいでしょう」

 アミール・ダールがお芝居の終わりを告げる。途端に、玉座の間に弛緩した空気が流れた。竜也もまた先ほどまでとは違う弛緩の仕方をしている。兵達は凝った肩をほぐしながら、我慢していたおしゃべりを楽しんでいた。アミール・ダールとマグド(を演じていた役者)が竜也の側へとやってくる。

「二人とも、なかなかの名演技でしたよ」

 竜也の賞賛にアミール・ダールはいつもの調子で頷き、もう一方のジェルフという名のその男は「ま、こっちは本職ですからねぇ」と哄笑した。
 ジェルフは元々はガフサ鉱山で奴隷をしていたマグドの配下であり、右腕をなくしたのは鉱山での怪我によるものだった。竜也の屋台で串焼きを焼いていたのだが、ヤスミンの目にとまって一座にスカウトされたのだ。宣伝工作の寸劇でマグド役を演じていたのがこのジェルフであり、今回のお芝居のため竜也はヤスミンから彼を借り受けたのである。
 竜也は身動きしようとして、拘束するように身体中にぶら下がっているアクセサリーに閉口した。なお、それらの貴金属はサフィナ=クロイ南部の宝物庫に保管されている物の一部である。

「あ゛ー、動けねー。とりあえずこれ全部外してくれ」

 未だ竜也に侍っている女達に依頼。その侍女達はきゃいきゃいと嬌声を上げながら竜也の身体からアクセサリーを外していった。その際に自分達の身体をわざと押し付けてくるので、竜也は困惑するしかない。そこに、

「――皆さん」

 と威圧感のある微笑みを見せるファイルーズが姿を現し、侍女達は大慌てで竜也から離れていった。侍女達に代わりファイルーズと、一緒に姿を現したカフラやミカやサフィールが竜也の身体からアクセサリーを外していく。

「まーまー。これも作戦の一環だったんだから」

 と竜也はファイルーズを宥めた。そして侍女達に向かい、

「今日は嫌な役をやらせてすまなかった。それと協力してくれて助かった、感謝している」

 と頭を下げる。侍女達は恐縮の様子を見せた。

「お気になさらず、タツヤ様。どんな形であれタツヤ様に尽くすのがあの者達の役目なのですから」

 とファイルーズ。竜也に侍っていた女達はファイルーズの女官から選抜されたメンバーだったのだ。ケムトの女官は総じて肉感的なプロポーションをしているが、その中でも特にグラマーな者達が選ばれていた。
 未明の時間、サフィナ=クロイの港に皇帝の御座船が入港する。少し遅れてモタガトレスの軍船が入港した。竜也は引き続き玉座の間にいて、その場所でモタガトレスの報告を受けた。

「皇帝にも見てほしかったですぜ! この儂の名演技を!」

 モタガトレスはそう言って哄笑する。

「なんの、本職の儂にはかなわんでしょう!」

「いや、この儂だってヤスミン一座でもやっていける!」

 ジェルフとモタガトレスが妙な対抗意識を燃やしているのを竜也は苦笑しつつ「それはもとかく」と流した。竜也はモタガトレスと共に戻ってきたベラ=ラフマ、そしてラズワルドへと視線を向ける。

「それで、どうだった?」

「作戦は成功です。トルケマダはこちらの意図に全く気付いておりません」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也は深々と安堵のため息をついた。だが、

「――『三日後。三日後には何としても川を渡る』。そうくり返していた」
 ラズワルドの言葉に、玉座の間が緊張感で満たされる。

「――そうか。三日後か」

 そう呟く竜也の目は、今ではない時間とここではない場所を見据えていた。






[19836] 第三〇話「トルケマダとの戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/10/29 21:03




「黄金の帝国」・死闘篇
第三〇話「トルケマダとの戦い」





 ダムジの月(第四月)・二六日。トルケマダ率いる聖槌軍先鋒はついに渡河作戦を決行。ここにようやく聖槌軍対ヌビア軍の激突が開始された。トルケマダ主導によるこの渡河作戦とその迎撃戦は、後日「ダムジの月の戦い」と呼ばれるようになる。
 ナハル川北岸に集められた兵を見渡し、トルケマダは自分の部下に問うた。

「兵数はどのくらいだ?」

「は、おそらく五万は越えましょう。閣下の元で戦うことを望む者が多数加わっております故」

 そうか、と頷くトルケマダだが、五万という数字を額面通りには受け止めなかった。トルケマダ自身の部隊と、彼に協力する五人の軍団長、モネリー、ポワシー、アールスト、ル・ピュイゼ、ジョフレが率いる各軍団、それで兵数は約三万。戦果や食糧を求めて飛び入りで加わっている兵士はおそらく一万くらい、合計兵数は四万程度とトルケマダは推定していた。
 一方、集められたエレブ兵達はナハル川を眼前にして途方に暮れたような顔を見合わせている。対岸ははるか彼方、かすんでいてろくに見えない距離である。エレブ兵は全員服を脱ぎ、半裸だった。剣や槍は背に負い、紐で身体にくくりつけられていた。そして彼等の足下には万に届く数の丸太が転がっている。

「俺、泳いだことなんかないぞ」

「俺だって」

 兵士の大半は泳いだ経験を持っていない。生まれ育った場所が海辺や水辺の人間であれば泳ぎの経験はあるが、

「……こんな川、どうやって渡れっていうんだ?」

 それでも一〇スタディアの距離を前にしては全員が尻込みをした。各所に散ったトルケマダの部下が大声で兵士達に命令を伝えて回った。

「それぞれ丸太を持て! そのまま水に浸かって対岸まで泳げ!」

 あまりと言えばあんまりな命令に兵士達は行動を起こせなかった。数人がかりで丸太を持ち上げはしても、水を前にして立ちすくむだけである。苛立ったトルケマダの部下が兵士達へと宣告する。

「これは聖戦である! 勇敢に戦えばお前達だけでなく故郷の家族も救われるだろう! だが逃げる者にはその家族にも災いがあると知れ!」

 トルケマダの部下達はくり返しそう言って兵士達を脅迫した。これまで散々地獄を見てきた兵士達は「救い」に対してはシニカルな思いを抱かずにはいられなかった。だが「災い」に対しては疑いを持っていない。

「ここで逃げたら家族が異端審問にかけられるかもしれない」

 トルケマダという名の「災い」が兵士達に決死の覚悟を抱かせたのだ。兵士達が次々へと川に飛び込んでいく。

「対岸に着いて陸地に上がったら集結しろ!」

 ナハル川南岸に橋頭堡を築くこと、それが当面の目的だった。トルケマダは四万の兵士を川に突き落とすようにして出撃させ、自分は一番最後に出発した。トルケマダと五人の軍団長は二隻のいかだに分乗して川を渡っている。
 川を三分の一ほど渡ったところでそれに気が付いた。

「敵地から煙が……」

「よし、これで勝ったぞ」

 対岸の各所から煙が立ち上っている。今日は風も弱いため煙は真っ直ぐに天へと向かっていた。何本もの煙がまるで天を支える柱のようである。
 その煙の立ち上る元の一つ、サフィナ=クロイの中央広場。そこでは積み上げられた木材がキャンプファイヤーのように巨大な炎を生み出していて、その前ではモタガトレスが腕を組んでその炎と煙を見上げている。

「頭、全部に点火が終わりました」

 部下の報告にモタガトレスは「よし」と頷いた。

「しばらくこの火勢を維持しろ。絶対に周囲に飛び火させるな」

 モタガトレスの命令を受けた部下が四方に散っていき、その命令を伝達する。中央広場においても何人もの兵士が周囲に飛び火しないよう注意を払っており、モタガトレスはその様子に満足そうに頷いていた。
 一方のトルケマダはモタガトレスの策略を知りもせず、約束通りに内応したものと思い込んでいる。

「あの煙は我等が手の者が放ったものだ! 敵は混乱している、この機会を逃すな!」

 トルケマダは近隣を泳ぐ兵士の士気を鼓舞した。あいにくトルケマダの声が届く範囲は限られていたが、何本もの煙を見たエレブ兵は事情は判らずとも「これは絶好の機会だ」と同じように判断していた。士気を上げた兵士達が必死にバタ足をし、川を渡っていく。そしてエレブ兵はようやくナハル川南岸に到着した。だが、

「……こんなの、どうやって登れば」

 彼等は覆い被さるようにそびえる石壁を見上げて呆然とした。四パッスス(約六メートル)もの高さまで石材を積み上げ、隙間と表面はコンクリートで固められている。壁は緩やかな曲線を描いて内側に凹んでおり、表面はまるで磨いた鏡のように白く滑らかだ。そんな白い壁が何スタディアにも渡って連なっているのだ。
 そして二スタディア置きくらいに川の中に出丸が設置されている。壁と同じように石材を積み上げてコンクリートで固めたその出丸は、竜也の目から見ればまるで石灯籠のような形をしていた。川岸の壁そのものと比較すればまだ登りやすそうだが、出丸の上では火縄銃や弓矢で武装した兵士が鈴なりになっている。出丸に取りつくのはどう考えても自殺行為だった。

「南岸の全部をこんな壁で覆っているわけじゃないだろう」

「もっと登りやすそうな場所を探そう」

 そう言ってあるエレブ兵が壁に沿って移動しようとする。だが彼の探索と人生は数瞬後には終わりを告げた。壁を飛び越えて降ってきた大きな石が彼の頭部に命中、頭を砕かれたそのエレブ兵はそのまま水に沈んでいった。
 南岸にたどり着いたエレブ兵の多くが彼と同じ運命を辿った。矢で射殺された者、火縄銃で射殺された者、投石機の石で潰された者、熱した油で焼かれた者――待ち構えてたヌビア兵の手により、エレブ兵は次々と死体に姿を変えていく。
 軍の結成から四ヶ月、聖槌軍到着から半月。ヌビアの将兵はこの瞬間を待ちに待ち、この瞬間のために耐えに耐えてきたのだ。彼等は皆、自制や手加減というものをどこかに放り捨てていた。

「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」

「殺れ!」「殺れ!」「殺れ!」

 一人のエレブ兵に向かって十数人の弓兵が矢を放ち、一人のエレブ兵に向かって投石機が使用され、一人のエレブ兵に向かって大砲が放たれる。エレブ兵の全身に矢が刺さり、エレブ兵が石に潰され、エレブ兵が砲弾により砕け散った。

「どうなってるんだ! 話が違うじゃないか!」

「じょ、冗談じゃない! こんなのやってられるか!」

 第一波の攻撃に耐えて辛うじて生き残ったエレブ兵は一旦南岸から離れようとする。だがトルケマダが兵士を叱責した。

「逃げるな! 逃げた者は地獄に堕ちるぞ!」

 兵士を脅迫しながらもトルケマダは思考を巡らせている。

(この守りの堅さはどうしたことだ? モタガトレスは何をしている、もしや我々を裏切ったのか?)

「……どうやら我々ははめられたらしい。あのネゲヴ人は最初から我々を騙すつもりだったのだ」

 ポワシーの呟きにモネリーが「そうなのだろうな」と同意した。トルケマダもその推測が正しいと認める他ないのだが、追い詰められたからこそトルケマダはさらに戦意を燃やした。

「姑息な罠など食い破ればいいまでだ! あそこだ、あの出丸に攻撃を集中しろ!」

 トルケマダが指し示したのは一番河口に近い出丸である。その指示に従い、兵士がその出丸を目指して流れていく。その出丸には、まるで蟻が砂糖に群がるようにエレブ兵が殺到した。一時的にはエレブ兵の数に圧倒されて危うくなった出丸だが、ヌビア兵の応援が他所から駆けつけて形勢はすぐに逆転した。
 エレブ兵が出丸や壁をよじ登ろうとし、ヌビア兵がそれを叩き落としていく。槍で刺され、矢を射られ、エレブ兵は実に効率よく殺されていった。

「くそっ、こちらも鎧を着ていれば……」

 川を渡るため、溺れないため鎧を脱いで身軽になったエレブ兵だが、彼等はヌビア兵から見ればいい的だった。防御手段のない彼等は次々と射られ、負傷し、前線から下がっていく。

「敵兵がこの場所に集まっていて上流の方が手薄になっている。上流に一万も兵を回せれば我々の勝ちだ!」

「……だが、どうやってだ? 川の流れに逆らって泳ぐのか?」

 敵の動きに対応し、敵の弱点を突くように自軍を運用する――そんなごく当たり前のことすらが今のトルケマダ達にとっては贅沢な話となっていた。伝令兵を飛ばすことも、自軍の陣形変更も、何一つままならない。

「……とにかくやるぞ! トルケマダ隊は私に続け!」

 トルケマダは自分のいかだを兵士に押させ、川を遡行しようとした。が、ろくに前に進まない。トルケマダの兵が前線から離脱して川を遡行しようとするが、トルケマダと同じようにその場に留まるのが精一杯のようだった。

「か、閣下! 敵の船が!」

 何隻もの軍船が川面を切り裂くように猛スピードで突き進んでいる。軍船の全長は十数メートル、三〇人の男達が一五対の櫂を漕ぐ手漕ぎ船だ。その軍船に乗っているのはナハル川方面軍水軍司令官のケルシュである。年齢は三〇の少し手前で実はかなりの美形なのだが、モヒカンの髪型と鋭く凶悪な目つきが全てを台無しにしていた。見た目も性格も海賊の典型みたいな男である。

「このまま突っ込んで敵を蹴散らすぞ!」

 川の流れにも乗り、ケルシュの軍船は飛ぶような速度で真っ直ぐ突進している――トルケマダ達のいかだへと。

「避けろ! 攻撃しろ!」

 トルケマダが混乱するままに命令を下し、いかだの兵士達は右往左往した。それでも何とかケルシュの軍船に向かって矢を放つが、軍船は矢を跳ね返すだけだ。そして、その軍船がいかだに激突した。
 軍船の体当たりによりいかだは砕け、分解し、トルケマダ達は水面へと投げ出される。何人かは船に轢かれて頸骨や背骨を折られてそのまま川の底へと沈み、何人かは櫂で殴られ血を流した。トルケマダ自身は無傷だが彼はその幸運を判っていない。

「ひっ、ひっ……」

 いかだの残骸にしがみついたトルケマダは南岸に背を向け、北岸へと向かって一心に泳いでいく。いかだに同乗していたモネリーがトルケマダの後を追い、同じく同乗していたポワシーの姿は見えなかった。

「閣下!」「お待ちください閣下!」

 トルケマダの部下がトルケマダに続いて戦場から逃げ出し、さらに彼等に兵士が続いた。

「くそっ! あいつ、上流を攻撃するんじゃなかったのか?!」

 残されたアールスト達は悪態をつくが、彼等も早急に決断しなければならなかった。全軍の二割が戦線を離脱し、逃げ出しているのだ。残された兵の動揺は避けられず、勝ち目はますます小さくなっている。このまま攻撃を続けるか、それともトルケマダを追って離脱するか。

「閣下! 敵が……!」

 が、彼等の考える時間はもう残ってはいなかった。ケルシュの軍船が彼等のいかだに狙いを定め、突進してきている。応戦する間もなく彼等のいかだもまた体当たりにより砕け散った。

「エレブ兵を生かしておくな!」

 ケルシュは軍船の兵に矢を射させる。散々に矢を射って川面を血で染め、ようやく気が済んだケルシュは次の獲物を求めて軍船を移動させた。そのいかだに乗っていた三人の軍団長のうち、ル・ピュイゼは激突の衝撃により気を失ってそのまま溺れ死んだ。ジョフレは矢を受け、最早助かる見込みはない。残ったアールストは、

「くそっ……! 撤退、撤退だ!」

 トルケマダと同じように南岸に背を向け、逃げ出した。アールストに続いて全軍が逃げ出すまでそれほどの時間は必要としなかった。アールストがそれを見ていたなら、

「逃げるときだけ機敏に動けるのだな」

 と皮肉の一つも言いたくなっただろう。だがその撤退は決して容易でも順調でもありはしなかった。
 何万というエレブ兵が泳いで北岸に、友軍の元に戻ろうとする。その彼等をケルシュの艦隊が襲い、散々に矢で射殺した。たとえそれから逃れても多くの者は北岸にたどり着く前に海まで流されてしまい、ガイル=ラベク率いるヌビア海軍の餌食となった。運良くそれから逃れても商品の仕入れにやってきた奴隷商人に捕まってしまい、さらにそれから逃れた者は陸地にたどり着く前に溺れ死んだ。
 南岸の防衛線では、初戦闘と初勝利に将兵共に大いに湧き上がっている。が、竜也とアミール・ダールは苦り切っていた。

「持ち場を離れて兵が動くとは。百人隊長は何をしていたのだ」

「将軍、物資は無限にあるわけじゃない。こんな調子で戦われたらあっと言う間に底をついてしまう」

「判っています。何とか自制させましょう」

 アミール・ダールは各軍団の軍団長を集め、叱責と説教を加えている。竜也は総司令部に戻り、コハブ=ハマーやジルジス達とともに軍需物資調達の計画を練り直した。





 ナハル川北岸に逃げ戻ってきたトルケマダは兵を集めて軍を再編した。それと同時に部下に命じ、損害状況について聞き取りをさせてまとめさせる。二日後、再編の完了と同時に聞き取り調査がまとまり、部下がトルケマダへと報告した。

「……三分の一……三分の一が帰ってこなかったと言うのか」

「はい、あくまで概算ですが」

 トルケマダは崩れ落ちるように椅子に座り込む。場所はスキラ市街の商家と見られる建物の一つ、トルケマダはそこを自軍団の本営としていた。トルケマダと共にその報告を聞いたモネリーは、

「私の部下も戻ってきたのは七割に満たん。おそらく間違っていないだろう」

 アールストは苦り切った顔で頷いてモネリーに同意した。

「戻ってきた者のうちかなりが負傷していて、次々と死んでいる。再戦に耐えられる者はおそらく半分になってしまうだろう」

「四万を動員して二万……何故こんなことに」

 トルケマダは嘆かずにはいられなかった――その理由を判っていながら。

「……陸地の戦闘であればあり得ない話だが、川に浸かって水を浴びながらの戦いだからな」

「鎧を身にすることはおろか、盾すらが泳ぐ邪魔になる。ちょっとしたことで負傷するし、負傷者が一〇スタディアもの距離を泳いで戻ることも困難だ。たとえ戻ってこられても普通なら軽傷で済む傷が簡単に破傷風になってしまう」

「仮に戦闘がないとしても、単に泳いで戻ってくるだけとしても相当数が海まで流されて戻ってこられない。一〇スタディアというのはそういう距離だ」

 アールストとモネリーは損害状況について分析を述べ合い、深々とため息をついた。

「……モタガトレス! あの異教徒が我々を裏切りさえしなければ! 全てはあの男のせいだ!」

 唐突にトルケマダがそう言い出して「そうであろう?!」と二人に同意を迫った。が、アールスト達は無言のまま白けた目をトルケマダへと返すだけだ。騙される方が間抜けなだけ――二人の目がそう語っている。トルケマダもそれ以上は責任転嫁を主張できず、気まずそうに二人から目を逸らした。

(くそっ、何とかしなければ……)

 トルケマダは敗北の責任から逃れるために知恵を絞った。

(……二万は少なくない損害だが結果としてそれ以上の戦果があれば問題はない。味方を増やすにも賄賂を贈るにも金目のものが必要だ、そのためには何としても南岸を略奪しなければならない。だが四万では足りなかった、ならばもっと多数の動員が必要だ。それに、我々以上の損害を別の誰が受けさえすれば周囲の目をごまかせる)

 トルケマダの思考はある一つの方向に固定された。どのような筋道を通っても結論は常に「より多数の兵を動員して再戦すること」である。様々な選択を検討しても結局はその結論の正当化に使われた。

(あの町を攻め落とし、略奪し、この私があの皇帝の代わりに……)

 トルケマダの脳裏に浮かぶのは竜也の姿――金銀宝玉に埋もれ、肌も露わな美女を何人も侍らせたその姿である。トルケマダの脳内ではその顔が自分の顔へと置換されていた。意識の上からは振り払っても意識の死角に常にその妄執が隠れている。その妄執こそが今のトルケマダにとっての最大の原動力となっていた。

(問題はどうやって兵を動員するかだが……)

 それこそが最大の問題だが、悩む時間はそれほど必要なかった。部下が現れ、トルケマダ達にある報告を届けたのだ。

「閣下、ディウティスク国王フリードリッヒ陛下が到着しました」

 その報告にトルケマダは一呼吸置いて、

「――うむ、そうか」

 と嫌らしい笑みを見せた。

「よし、挨拶に行くぞ」

 トルケマダは身を翻してその建物を出ていく。モネリーとアールストが慌ててそれに続いた。
 ……数刻後、ナハル川の川辺。フリードリッヒは護衛を引き連れて川辺に立ち、対岸を望んでいる。トルケマダは近侍の者の許可を得てフリードリッヒに接近した。

「陛下にはご機嫌うるわしく。私は枢機卿アンリ・ボケ猊下より聖槌軍の先鋒の命を賜ったトルケマダと申す者」

「そうか。何の用だ?」

 フリードリッヒは疎ましげな態度だがトルケマダにはそれを気にした様子はない。

「はい。私はこの川を守る敵と戦い、撃退される結果となりました。私の失敗を陛下の教訓にしていただければと思い、ご報告に」

「ならば聞かせてもらおう」

 トルケマダは自分が採った戦法について説明し、それがどのように撃退されたかを解説した。なおモタガトレスに騙されたことについては一言の言及もない。

「……南岸の要塞は堅牢です。努々油断なきよう」

 フリードリッヒはトルケマダの忠告を鼻で嗤った。

「ディウティスク国軍と貴様の部隊とを一緒にするな。異端の女子供ばかりを狙って殺してきた連中とはわけが違うんだ」

「……頼もしいことです。確かに陛下とその軍の力があれば、ネゲヴの皇帝とその軍など鎧袖一触で打ち倒せましょう」

 フリードリッヒは「その通り」とばかりに頷く。トルケマダは内心の嘲笑を隠しながら続けた。

「――それで、いつ攻めますか?」

「……何?」

 フリードリッヒの困惑に構わず、トルケマダは攻勢に転じる。

「ディウティスク国軍の力を持ってすればネゲヴ軍など鎧袖一触なのでしょう? ならば攻めない理由はないのでは? まさかとは思いますが、自分ができもせずやるつもりもないのに、ネゲヴ軍と勇敢に戦って死んだ我が将兵を侮辱したわけではありますまい。ネゲヴの皇帝と戦って天に召された神の使徒を侮辱した等と、枢機卿アンリ・ボケ猊下がもし耳にお入れになったらどのようにお思いになることか。あるいは異端として告発されることも……いえ、陛下にとっては関係のないお話でしょうが」

 フリードリッヒは悔しげに呻くだけで意味のあることを何も言えない。トルケマダの攻勢は続いた。

「ナハル川南岸には一億アンフォラの麦が貯蔵されているという噂です。実際にはその十分の一だとしても実に一千万アンフォラ。もし獲得できたなら、飢えに苦しむ我が軍にとっては天の恵み、干天の慈雨となりましょう。我が軍の勝利を決定づけたとして、その功績はヴェルマンドワ伯を抜いて第一となるに違いありません」

 トルケマダは話術を駆使し、飴と鞭を使い分けてフリードリッヒを誘導する。経験不足のフリードリッヒでは、トルケマダによって刺激された野心や功名心を抑えることができなかった。危険や無謀な点について自覚はあったが、若さがそれを軽んじたのである。

「……判った、準備が整い次第攻撃を実行しよう」

 気が付けばフリードリッヒはそれを確約していた。フリードリッヒの側近が歯を軋ませる一方、トルケマダは満足げに頷いている。

「それでは私は陛下を援護するために、陛下の攻勢と同時にトズルを攻撃します。敵に対する囮となりましょう」

 トルケマダは恩着せがましくそう告げる。トルケマダが意図しているのは逆であり、フリードリッヒを囮としてトズルを抜くことだった。フリードリッヒもそれは理解していながら何もできない。

「そうか、頼りにしているぞ」

「お任せください」

 トルケマダは慇懃に深々と頭を下げた。
 ……トルケマダが去った後、フリードリッヒは側近や軍団長に取り囲まれた。

「陛下、どうかご再考を。何の策もなしに攻勢に出るなど無謀です」

「せめてヴェルマンドワ伯の到着を待つべきです」

 彼等は口々にフリードリッヒの決断に異議を唱え、翻意を促した。が、フリードリッヒはかえってそれに反発した。トルケマダに誘導されて攻勢に出ると言わされたのは確かに屈辱である。が、部下に言い負かされてそれを覆すのは屈辱を重ねることでしかなかったのだ。

「我が軍に食糧がどれだけ残っている? ヴェルマンドワ伯の到着までそれが持つのか?」

 フリードリッヒの指摘に部下達が沈黙する。喉から手が出るほど食糧がほしいのは誰にとっても同じだった。

「敵の半分は素人で残りの半分は金目当ての傭兵、つまりは烏合の衆だ。我がディウティスク国軍の敵ではない! 準備を進めておけ」

 フリードリッヒの決断に部下達は頭を垂れるしかない。フリードリッヒが立ち去った後、部下達は不安げな顔を見合わせた。

「……どうする?」

「どうもこうもないだろう。陛下が命を下した以上は戦う他ない」

「確かに、陛下の言われる通り食糧不足は深刻だ。このままでは戦う前に我が軍が潰えかねない」

「ネゲヴの皇帝の首を取れればこの戦争はそれで終わりだ」

 確かに不安は大きい。だが戦わないという選択肢がもうない以上、彼等にできるのは危機感と野心を膨らませて不安を乗り越えることだけだった。





 月は変わってアブの月(第五月)。ディウティスク軍を中心とする聖槌軍が渡河作戦の準備を進めており、その一方でトルケマダはトズル方面へ移動を開始した。

「三万程度の聖槌軍がスキラを出立、西へ移動中」

 野戦本部のアミール・ダールの元にその報告を持ってきたのは、北岸に送り出していた騎兵隊の伝令である。

「この部隊は西側の森に到着しても木には目もくれず、西に向かって進み続けているそうだ」

「トズルか」

 誰かの言葉に一同が頷いて同意した。

「おそらくは。敵は次の渡河作戦の準備を進めている。それと呼応してトズルを攻略するつもりなんだろう」

「ともかくトズルへ連絡を。あとはマグド殿に任せておけばいい」

 一方、総司令部でその報告を聞いた竜也は、

「トズル方面の状況も確認したい。次の戦闘は将軍マグドの元で観戦させてもらう」

 と指示を出した。
 アブの月の初旬、竜也は連絡船を使ってトズルへとやってきた。竜也に同行するのはサフィールやバルゼル等、近衛隊の面々だ。竜也を出迎えるのはマグドと奴隷軍団の幹部達である。その中のライルという年齢不詳の女性の姿が竜也の目を惹いた。奴隷軍団がトズル砦に配置された頃から、ライルは秘書官兼愛人としてマグドの側に侍るようになったという。

「ようこそトズル砦へ! 歓迎しますぜ、皇帝」

 マグドに先導され、竜也達はトズル砦へと続く山道を登っていく。道幅は数メートル、周囲よりも道の方がU字型に一、二メートルほど低くなっている。

「まるで水の涸れた川みたいな道だな」

「多分、昔は本当に川だったんだ。地震か何かで地形が変わって上流が塞がれ、水が涸れたんだろう」

「その地形をもう一回変えたわけか」

 竜也の言葉にマグドは無言のままニヤリと笑った。
 その山道には複数の関門が建設されていた。石材を積み上げて作った山城にも等しい関門が五つ。馬防柵や土嚢、茨の木を積んだだけの簡易的な関門が一〇。竜也は順番にそれを通り抜ける。

「山道を外れて回り込まれることはないのか?」

「山の中の獣道には罠を仕掛けてある。完全には防げないだろうが、後は見回りで対処するしかないな」

 竜也の質問にマグドはそう答えた。

「何、この藪の中では大軍の展開は不可能だ。それより全兵力を関門にぶつけてくる敵の方が厄介なんだが、そいつ等にはあれを使う」

 竜也達は山を登り切り、山頂へとやってくる。西を見れば広大なスキラ湖の西側が眼下一面に広がり、東を見れば今登ってきた山道が山を貫くように延びているのがよく見えた。そして山腹に、山を回り込むように運河が掘られているのが見える。

「あれがそうか?」

「そうだ。スキラ湖に流れ込む川の流れを変え、堰を築いてある」

 竜也は山頂から堰の姿を見る。堰の内側には小型ダムくらいの水が溜め込まれており、竜也は「大したものだ」と感想を漏らした。

「あれだけの水が溜まるのに何日かかった?」

「半月は必要だ」

 竜也は難しい顔で考え込む。

「……それはちょっと厳しくないか?」

「何、やりようはあるさ。戦争ってのはいつでもどんな戦いでも厳しいもんだ」

 砦周辺の視察を終えて竜也達は砦内の野戦本部に案内され、早速作戦会議が開始された。

「聖槌軍三万がこちらに接近している。あと数日で到着するだろう」

「別に変わった作戦があるわけじゃない。この要塞を使って敵を撃退する、やるべきことはそれだけだ」

「敵には第五騎兵隊を貼り付かせている。タイミングを合わせて敵の後背を突かせようと思っているんだが」

「そいつは有難い。タイミングについてはお任せいただけますかい?」

「もちろんだ」

 作戦会議の内容は基本的な戦略と各自の任務の確認くらいのもので、割合早々に終了した。そして会議終了後。

「武器を用意した。将軍マグドに使ってもらおうと思う」

 竜也がそんなことを言い出した。マグドは「ほう」と小さく驚き、奴隷軍団の幹部達は「名誉なことだ」と喜びを見せている。
 竜也が視線で命令を下し、近衛隊の一人が箱を運んできた。箱の大きさは長さ一メートルにも満たず、マグド達は不思議そうな顔をしている。テーブルの上にその箱が置かれ、竜也がそれを開封した。

「これは……」

「義手ですか?」

 その箱に入っていたのは鋼鉄製の右腕、肘から先の義手だったのだ。竜也がその義手を手に取って得意げな顔をする。

「見ての通り鋼鉄製だ、剣だって打ち払える。さらに」

 義手の手首が折れ、そこにできた穴から白く輝く鋼のドリルが飛び出してきた。飛び出した勢いでドリルがぐるぐる回っている。

「さらにさらに」

 と竜也が義手を壁へと向ける。義手の手首の穴から今度はダーツが射出された。ダーツには羽が付いておらず、形としては鉄の串、鉄の杭だ。ダーツは丸太を組んだ壁に突き刺さった。その威力に幹部達が「おー」と感嘆する。

「どうだ? 使えそうだろう?」

 と竜也は得意満面、サフィールは「格好いい」と目をキラキラさせている。が、肝心のマグドの顔は引きつっていた。

「……あ、ありがとうございやす。早速使わせていただきやす」

 引きつった顔のままマグドは何とか礼を言い、その義手を受け取る羽目となった。





 そして二日後。

「来たか」

 トズルの山頂に築かれた砦から竜也は山腹を見下ろしている。そこにいるのは細い山道を埋め尽くしている聖槌軍だった。聖槌軍は最初の関門攻略に取りかかっている。

「進め! 進め! 神は天上からお前達の戦いを見守っている!」

「あの砦には食糧が山ほど貯め込まれている! 砦を落としたなら好きなだけ食わせてやるぞ!」

 トズル攻略軍を指揮するのはトルケマダ、それをモネリーとアールストが補佐した。総勢三万のうち二万は渡河作戦にも参加した元からの兵。一万はフリードリッヒに貸してもらったり、ユーグを待って待機していた他国の部隊を集めたりしたものだった。トルケマダは異端審問をちらつかせるなどして、強引な手段でこの一万を集めていた。

「ネゲヴに来てからは部下に仕事を与えられず、彼等も暇を持て余しているのですよ。そろそろ彼等に本来の仕事をさせなければ、せっかく磨き上げた技術も腕も錆び付かせてしまいます。それはあまりにもったいないでしょう?」

 トルケマダはエレブで猛威を振るった部下の処刑執行人を聖槌軍にも同行させていた。彼等の得意技は焚刑において、処刑囚の意識を失わせず弱火でじっくり焼き続け、最大限の長時間最大限の苦痛を与えることだった。

「進め! 進め! 戦え! 戦え!」

(私には後がないのだ、何としてもここで勝たねば!)

 フリードリッヒを動かすにしても兵を集めるにしても、かなりの無理をしていることをトルケマダは自覚している。返済できる当てのない巨額の借金をして博打に臨んでいるようなものである。負ければ何もかもを失うことだけは確実だった。

「勝てばいいのだ! 勝てば! 勝てば全ては我等のものだ!」

 追い詰められたトルケマダは生まれて初めてと言っていいくらいに生命を懸けて、全てを賭けてこの戦いに挑んでいた。その意気込みが伝わっているのだろう、兵の士気もいつになく高くなっている。聖槌軍の兵士は死をも怖れず突き進んだ。
 関門の上からはマグド配下の奴隷軍団が銃や矢で聖槌軍を攻撃。聖槌軍は盾で防御し、銃や矢で奴隷軍団に対抗した。エレブ兵はばたばたと倒れていくが、味方の死体を踏み越えてエレブ兵は前へ前へと進んでいる。竜也は敵兵の気迫に呑まれそうになっていた。

「……連中、思ったよりずっと強い」

「正直、見積もりが甘かったかもしれんですな」

 足が地に着いている限り、エレブ兵は決して弱兵ではなかった。ナハル川での敗北の鬱憤を晴らすかのように突進し、第一の関門へと取り付いている。組体操のようにエレブ兵の肩にエレブ兵が乗り、味方を足場にして関門を乗り越えんとする。ヌビア兵は矢を放ち、槍を振り回してエレブ兵を突き落とした。そのヌビア兵にエレブ兵が剣を突き刺し、両者が諸共に落ちていく。ヌビア兵も必死に防戦するが、被害は次第に大きくなる一方だった。

「やむを得ん、あの関門は捨てるぞ」

 副団長のシャガァの指示により関門から兵が撤退。関門には火がかけられた。用意されていた薪や油が使われ、火はあっと言う間に関門を包んでしまう。関門は巨大な炎となり、壁となって聖槌軍の進軍を阻んだ。関門が燃えている間に奴隷軍団は体勢を立て直している。
 マグドは目を瞑り、長い時間考え込んでいたが、やがて刮目し命令を下した。

「あれを使うぞ。関門から兵を引け、関門を開け放て」

 竜也は驚き、問い返した。

「こんなに早く?」

「この調子で全ての関門が突破されるまで我慢していたら、味方の損害があまりに大きくなる。ここはあれで一気に蹴散らし、トズルが絶対に突破できないのだと奴等に骨の髄まで叩き込むべきだ」

 そしてしばしの後、ようやく第一の関門が焼け落ちたのでトルケマダは進軍を再開した。だが、

「……どういうことだ?」

「敵がいないぞ」

 山道の関門からヌビア兵が撤退、関門の扉は開け放たれたままとなっている。不審に思いながらも無人の第二の関門を通過。第三の関門に到着するが、そこもまた完全に無人、門扉も開け放たれた状態となっていた。

「何かの罠ではないのか?」

「確実に罠だな」

 モネリーとアールストが頷き合っており、トルケマダもそれには同意した。だが、

「そんなことは判っている。だが『敵の罠が怖いから』と、このまま逃げ帰るのか? 何も手にしないままで終わるのか?」

 トルケマダの言葉にモネリー達は沈黙する。このまま撤収するという選択は最初からあり得ない、ならば前に進むしかないのだ。

「斥候を送り出せ! 決して油断するな!」

 トルケマダは偵察を厳重に実施した上で全軍に前進を命じた。エレブ兵は姿を見せないヌビア兵や人気のない関門に戸惑っているが、それでも先へと進み続けた。
 そして、トルケマダが最後の関門を通過する。トズル砦はもう目前である。

「よし、再集結だ」

 トルケマダは全軍の再集結を命じた。それが完了すれば即座に砦への総攻撃が始まるだろう。だが、

「な、なんだこの音は」

 これまで聞いたことのない、謎の轟音と地響き。遠方から聞こえてきたそれが段々近付いてくる。どんどんその轟音が大きくなっている。そしてついにその正体が明らかとなった。

「み、水が!」

 膨大な水が奔流となって聖槌軍へと突き進んでいる。土砂や丸太を大量に含んだ、水量数万トン、時速数十キロメートルの水流だ。それが真っ直ぐに聖槌軍へと向かってきている。

「に、逃げろ!」

 反射的に命じるトルケマダだが、狭い山道に三万の兵がひしめいておりどこにも逃げようがない。奔流は立ち往生する聖槌軍に真正面から襲いかかり、三万の軍団が一瞬にして崩壊した。全員が水に流され、ある者は水に溺れ、ある者は丸太にぶつかって骨を砕かれ、ある者は流れ転がる岩石に潰され、ある者は土砂に埋もれた。
 水は十数分で流れ去り、それと一緒に聖槌軍の大半も流された。水が引いた後の山道に残っているのは、丸太や土砂、エレブ兵の死体、それに辛うじて生き残った敗残のエレブ兵だけだ。

「突撃! 敵を逃すな!」

 さらに奴隷軍団の全軍が出陣、何とか生き残っているエレブ兵を次々と血祭りに上げていく。聖槌軍は指揮系統も戦意も維持できるはずがなく、武器を放り捨てて我先に逃げ出していく。奴隷軍団は潰走する聖槌軍に容赦の欠片もない追撃を加え、一人でも多くを殺すことに専念した。

「ひっ、ひっ……」

 トルケマダも水に流されて山道をふもとまで流され落ちてきた一人である。奇跡的に大きな負傷はない。

「モネリーは……アールストは……ともかく味方の再集結を」

 トルケマダは逃げ惑うエレブ兵を自分の周囲に集めようとした。山のふもとで何とか二、三千の兵を集めたトルケマダだが、

「ネゲヴ軍だ! ネゲヴの騎兵だ!」

 再集結したトルケマダの軍に横撃を加えたのはカントールの率いる第四騎兵隊だ。自軍の敗北を悟ったトルケマダが真っ先に逃げていく。その有様でエレブ兵が抗戦するはずもなく、エレブ兵は散り散りとなって逃げ出した。トルケマダが率いる軍団は完全に壊滅状態となり、後は落ち武者狩りの段階となっていた。

「見たか!」

「何度でも来やがれ、間抜けども!」

 三倍の敵を相手にしての完全勝利に、奴隷軍団は大いに沸き上がっている。将兵と一緒に浮かれそうになるマグドだが、何とかそれを我慢した。

「戦いはまだまだ始まったばかりだ! 兵を集めろ、すぐに堰を再建する!」






[19836] 第三一話「ディアとの契約」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/02 00:00



「黄金の帝国」・死闘篇
第三一話「ディアとの契約」





 日が暮れても奴隷軍団の将兵は忙しく走り回っている。兵の半分は聖槌軍の生き残りを警戒して歩哨に立っており、もう半分は堰の再建のために流れ落ちた木材を回収していた。
 竜也はマグドと共に騎馬で山道を進み、将兵の仕事ぶりを見て回っている。エレブ兵の死体がそこら中に転がっており、死体を集めて埋葬するのも兵の仕事だった。

「……? ツァイドさん、今の聞こえました?」

「ああ、聞こえた。もしかして今のは狼か?」

 竜也は近衛に同行しているツァイドに訊ね、ツァイドは首をひねっている。竜也達が耳にしたのは狼か何かの、犬科の動物の遠吠えである。だがネゲヴに狼は生息していなかった。
 偵察に行くべきか、とツァイドが考えている中、

「……生きて」「女が……」

 今度は一部の兵が何か騒いでいるのが耳に届いた。竜也達はその騒ぎの方向へと馬首を向ける。竜也達が到着するとそこでは、数名の兵士が小柄なエレブ兵を地面に押さえつけているところだった。

「どうした? 何事だ」

 マグドの問いに、兵士達は愛想笑いを浮かべて答える。

「へえ、エレブ兵の生き残りを見つけたんですが、こいつ女だったんで。どうせ殺すなら皆でいただいちまおうかと」

 女が、と竜也は驚く。そのエレブ兵が何とか起き上がろうとするのを、兵の一人が思い切り頭を踏みつけた。

「やめろ!」

 竜也が鋭く怒鳴り、兵士達は身体を硬直させた。一方竜也も、思わず止めたはいいもののこの先どうすべきか何も考えておらず、内心で右往左往していた。そんな竜也の窮状を察したのか、マグドが助け船を出した。

「あー、お前等。戦利品はまず皇帝に献上されるのが筋ってもんだ。お前等は今度俺が娼館に連れていってやる」

「本当ですかい頭?!」「期待してますぜ」

 兵士達は口々にそんなことを言い、そのエレブ兵を竜也に差し出す。竜也は気絶したその兵をサフィールに受け取らせた。
 竜也とサフィール等近衛隊は山頂の砦へと戻ってきた。皇帝と近衛専用の宿舎まで戻り、エレブ兵の世話をサフィールに任せ、部屋の外で待つことしばし。やがてサフィールが部屋から出てくる。

「すまない、どうだった?」

 竜也の問いにサフィールが答える。

「はい。見たところ怪我はほとんどありません。多分水を飲んで気絶していただけでしょう。まだ意識は戻っていませんが、そのうち目が覚めると思います」

 そうか、と竜也は安堵する。

「……あんな子供があんな身体になるまで従軍しているのですね、聖槌軍には」

 サフィールの慨嘆に竜也は何も言えず、しばしの沈黙がその場を満たした。不意に空気を換えるようにサフィールが竜也に問う。

「ところでタツヤ殿、あの者をどうするおつもりですか?」

「いや、どうしよう」

 と途方に暮れたような顔をする竜也。サフィールは呆れてため息をついた。

「マグド殿の言うように慰み者にされるのも結構かと思いますが」

「やらないって、そんなこと」

 と竜也は手を振る。

「なら、奴隷として売りますか? 結構きれいな顔をしていたので高く売れると思いますが」

「それじゃ、助けた意味が……」

 とぶつぶつ言う竜也に、サフィールが肩をすくめる。

「ともかく、助けたのはタツヤ殿です。処分もタツヤ殿が責任を持って決めてください」

 サフィールは冷たくそう言い残し、その場から立ち去る。残された竜也はちょっと憮然としていたが、気を取り直してその部屋に入った。
 部屋のベッドではエレブ兵が寝かされていた。竜也は未だ意識が戻っていない様子の、そのエレブ兵の顔を覗き込む。

「まだ子供じゃないか」

 年齢は、ラズワルドよりは上だがサフィール達よりは下。元の世界で言えば中学生くらいか。骨と皮までに手足は細くなり、頬もこけているがそれでも確かにきれいな顔立ちである。栄養状態がまともならとびきりの美少女となるだろう。中途半端に伸びた髪は泥に汚れているが、汚れを拭うとその下からは見事な銀髪が姿を現した。
 突然、少女――ディアの瞳が開かれる。エメラルドのような美しい碧眼に、竜也は心を奪われたように見入ってしまった。その瞳に怒りの炎が点ったかと思うと、次の瞬間には竜也の喉は鷲掴みされていた。

「……!」

 声を出すことはもちろん、呼吸もまともにできない。ディアは竜也の喉を握り締めたままベッドから起き上がった。ディアが片手で竜也を持ち上げ、竜也の身体が半ば宙に浮く。ディアは空いた手で竜也の腰から剣を抜いた。

「抵抗すれば殺す。外に出る、案内しろ」

 窒息寸前の竜也に抵抗できるはずもない。竜也は言われるままにディアを部屋の外に連れ出した。ディアはそのまま人気のない場所へと竜也に案内させるつもりだったのだろうが、その目論見は早々に崩れ去った。

「た、タツヤ殿!」「タツヤ殿が!」

 部屋を出た途端、竜也達は近衛隊の剣士に発見された。近衛隊は剣を抜くが、ディアは竜也の身体を盾にしてその攻撃を阻む。両者は対峙したまま移動し、屋外へと出た。ディアを囲む兵士が急増する。
 竜也の首を掴んだままのディアを牙犬族の剣士が包囲、さらにその外側を奴隷軍団の兵士が取り囲む。十重二十重に完全包囲され、ディアは舌打ちを禁じ得なかった。ディアにとって幸いだったのは、兵士が無理押しで攻撃してこなかったことである。ディアは試しに要求を出した。

「こいつを殺すぞ、道を空けろ」

 兵士の視線がマグドへと集まり、マグドは忌々しげな顔をしながらも左手を振る。包囲の一角の兵が移動し、ディアの前に道が開かれた。自分で要求しておきながら、ディアは驚きに目を見張った。

「こいつ、何者だ……?」

 ディアが自分の手の中の竜也を見つめる。隙とも言えないその瞬間、

「――!」

 殺気を感じたディアが上空を振り仰ぐ。月の光を切り裂いて、白刃が流星のように落ちてくる。ディアは竜也を突き飛ばし、その反動を利用して転がるように全力で回避する。ディアと竜也の中間に、大地を叩き割って着地したのはサフィールだった。

「ちっ! 逃したか!」

 屋根の上から全力で跳躍し、上方という死角からディアを斬り捨てる――サフィールの作戦は九割方成功した。竜也は近衛隊に保護され、ディアは人質を失っている。これであのエレブ兵は終わりだ、と誰もが思った。が、

「てえぇぃっ!」

 ディアは未だ諦めていなかった。ディアはサフィールに剣を叩き付け、サフィールはそれを剣で受けた。ディアの攻撃の威力に、サフィールは後ろに飛んでそれを緩和する。ディアはそれにつけ込むように追撃を仕掛けてきた。
 肩に担いだ状態から剣をプロペラのように振り回すディアと、それを流水のように受け流すサフィール。ディアは疾く、力強いが剣術をまるで知らないように見え、それとは対照的にサフィールは彼女に負けないくらいに疾く力強く、その上で精巧な剣術を有していた。両者の力量の差は歴然と思えたし、事実サフィールはディアの剣をはじき飛ばしている。

「もらった!」

 無手のディアにサフィールの剣が襲いかかる。だがディアは一片の動揺すら示さず、振りかぶったサフィールの懐へと飛び込み、右拳をサフィールの腹部へと突き刺した。

「ぐっ……!」

 はじき飛ばされるようにサフィールが後方に下がる。その口からは血がこぼれていた。

(この打撃は一体……)

 その威力にサフィールは驚きを禁じ得ない。サフィールが体勢を立て直す間もなくディアは攻撃を続行した。

「あの子、まるで動きが違っている」

 まるで剣が重荷だったかのようにディアの速度が、鋭さが上がっている。サフィールが剣術の修行に明け暮れていたように、彼女もまた無手の格闘術の鍛錬を続けていた、竜也にはそうとしか思えなかった。
 二人の剣舞のような戦いにその場の全員が魅せられた。近衛隊もサフィールに助太刀することを忘れているし、他の兵士も同様である。一方竜也は二人の戦いを見守りながらある可能性について検討し、その答えに確信を得ていた。
 ディアはフットワークの良さを生かし、小刻みな打撃をサフィールへと加え続ける。だがサフィールも牙犬族の剣士だ。何発食らおうとその程度の打撃は致命傷にはなり得ない。ディアが眉間をめがけて拳を放つが、煩わしげな顔のサフィールは自分から飛び込んでその拳を額で受けた。額が裂けて血を流すサフィールだがそれには構わず剣を一閃。ディアは飛ぶように大きく後退し、かろうじてその斬撃を避けた。
 両者の距離が開き、闘いに一呼吸が置かれる。サフィールとディアの目には互いの手足しか映っていなかった。呼吸を整え、この敵を屠ることだけに精神を集中し、敵の隙をうかがう。両者が戦意を急速に高めていく、そのとき、

「サフィール、待て!」

 両者の間に竜也が割って入った。気勢を削がれたサフィールは刺々しい声で竜也に告げる。

「また人質になるおつもりですか? タツヤ殿、お下がりを」

 だが竜也はそれを無視し、サフィールと並んで少女へと向き直った。

「――君は、エレブの恩寵の民だろう? 多分銀狼族だ」

 竜也の指摘に、少女はこぼれ落ちそうなくらいに目を見開いた。牙犬族の剣士や奴隷軍団の兵士に包囲されても震えなかったその身体が震えている。

「こ、殺せ……! わたしを殺せ!」

 目に涙を溜めながら少女はそんなことを言い出した。サフィールは戸惑いながらも、

「無益な殺生はしない」

 と剣を鞘に収める。少女は絶望を顔に浮かべると、足下の剣を拾い上げて自分の喉へと向けた。

「やめろ!」

 竜也は怒鳴るが少女の腕は止まらない。その剣が少女の喉を切り裂く瞬間、

「――!」

 目の前に雷が落ちたかのような轟音。少女は思わず尻餅をついていた。ふと手にしている剣を見ると、

「え」

 刀身が斬り落とされ、柄しか手元に残っていない。少女は放心する他ない。その数メートル横では、

「ふっ、またつまらぬものを斬ってしまった」

 とわずかに照れを見せつつそう言っているバルゼルが、剣を鞘に収めていた。

「さすがバルゼルさん」

 竜也は安堵のため息をついた。ディアが自刃する寸前、バルゼルが飛び込んでその剣を烈撃の恩寵で断ち斬ったのだ。

「タツヤ殿、どうしますか」

「その子から話を聞きたい。近衛で拘束を、あまり乱暴にはしないように」

 竜也の指示にバルゼル達が動き出す。止まっていた周囲の兵士達の時間も動き出しつつあった。





 それからしばらくして、トズル砦の一角。地べたに座らされているディアと、それを取り囲む近衛の剣士達。ディアの前には竜也が立ち、その両脇にはバルゼルとサフィールが剣を抜いて控えている。マグドとライルは少し後方からその様子を見物していた。

「名前を教えてくれないか?」

 竜也は問うが、ディアはふて腐れたように口をつぐんでいた。その竜也にサフィールが問う。

「タツヤ殿、どうしてこの子が恩寵の戦士だと判ったのですか?」

「恩寵を使っているサフィールと互角以上に戦える子に、恩寵がないわけないじゃないか」

 エレブにいたとされる部族で竜也が名前を知っているのは銀狼族と灰熊族。少女の銀髪から「銀狼族だ」と当たりを付けたのだが、正解だったのは偶然みたいなものである。
 サフィールはなるほど、と得心する。

「あの打撃も彼等の恩寵だったわけですか。どういう恩寵なのでしょう」

「確か、内撃という名前だったか」

 と口を挟んだのはツァイドである。

「恩寵を拳や掌、蹴りに込めて撃っているそうだ」

 ツァイドの説明の通り、銀狼族が有する内撃の恩寵は、不可視の力を拳打や蹴打に込めて攻撃対象に叩き込む技だった。手足が相手から離れていると恩寵の力を伝えられず、その点では使い勝手はよくはない。が、恩寵を使っていることが傍目には非常に判りにくい点は銀狼族の立場からすれば大きな利点である。それに、殺傷力や破壊力の面では烈撃の恩寵にも対抗できるだけのものがあった。

「エレブの恩寵の民は聖杖教に根絶やしにされたと聞いていたが」

 というマグドの言葉に竜也が頷く。

「俺もそう聞いていた。多分、恩寵があることを隠して教会の目をごまかして、何とか生き延びたんだろう」

 ディアの身体が小さく震える。竜也の言葉は間違っていないようだった。

「恩寵を持っていることが教会にばれたら火炙りになる。だから殺せと――いや、違うか。自分一人の問題なら逃げればいいだけのことだ。ということは、仲間がいる?」

 ディアの顔からは完全に血の気が引いていた。どうやら彼女は嘘が苦手なようだ、と竜也は判断した。

「銀狼族の仲間……多分同じ村に住んでいて一緒に徴兵されたんだろう。自分が銀狼族とばれたら仲間も危うい。ああ、もしかしたら故郷の村に残っている仲間にも教会の手が」

「殺せ! 殺せ! 今すぐわたしを殺せ!」

 ディアは泣き喚き、その場に伏した。サフィール達の非難がましい目が竜也に集まり、竜也は少し慌てた。

「ああ、ごめんごめん。俺達は君にも、君の仲間にも危険が及ぶようなことは絶対にやらない。約束する」

 泣き伏していたディアが顔を上げる。竜也は笑いかけた。

「第一、俺達は教皇インノケンティウスから魔物呼ばわりされているヌビアの皇帝とその軍団だぜ? 俺達は聖杖教をぶっ倒すために戦っているんだ」

 ディアがきょとんとした表情を竜也に向ける。

「……皇帝? 誰が?」

「俺が」

 竜也が大真面目にそう答えると、ディアが竜也を睨み付けた。

「嘘をつくな。お前みたいなつまらない奴が皇帝なわけないだろう」

 竜也は「そうは言っても」と苦笑する。

「ほら、ちゃんと角だって生えている。大人になったから生えてきたんだ」

 竜也は自分の冗談に可笑しそうに笑うが、ディアは白けたような顔をした。

「お前の下手な冗談に付き合っている暇はない。わたしを殺せ、でなければ解放しろ」

「解放してもいいけど、条件がある」

 竜也はそこで言葉を区切り、沈黙する。焦れたディアが「何だ」と続きを促し、竜也は条件を提示した。

「銀狼族の責任者と話がしたい。今聖槌軍内にいる銀狼族の全員を傭兵として雇いたいんだ」

 ディアが「傭兵……」と呟き、殺気を込めた瞳を竜也へと向ける。

「お前、何をやらせるつもりだ」

「とりあえず情報収集。聖槌軍の現状、残っている食糧の量、食糧庫の場所、次の攻撃はいつか、兵が何を考えているか、ヴェルマンドワ伯の評判は、アンリ・ボケの評判は――判ったことは何でもいいから知らせてほしい。次に、情報工作。こっちが指示した内容の噂を聖槌軍内に広げるんだ。あとできれば、破壊工作。例えば食糧庫への放火とか、こちらの工作要員の道案内とかだ。破壊工作は非常に危険が伴う任務だから無理強いはできないけど、危険に見合うだけの報酬は約束する」

「ちょっ、ちょっと待て」

 竜也が次々と仕事を提示するのをディアが止めさせる。ディアはしばしの間その仕事の内容を吟味し、

「……お前、本気か。本気でわたし達に味方を裏切れと」

「味方? 君にとっての味方って誰のことだ?」

 不思議そうな竜也の問いにディアが言葉を詰まらせた。

「恩寵を持っていることがばれたら村ごと焼き払いに来るような聖杖教の教会が君や君の一族の味方か? 今の君にとって味方と言えるのは同じ銀狼族の仲間だけだろう。俺達ヌビア軍には見ての通り」

 と竜也は牙犬族の剣士達を指し示す。

「数多くの恩寵の戦士が、恩寵の部族が加わっている。少なくとも俺達は君にとっての敵じゃない」

 竜也の真摯な瞳がディアを見つめる。ディアの瞳は先ほどまでと比べれば敵意が大分薄れていた。

「いきなり味方だ、仲間だ、って言ったところで簡単には信じられないだろう。だからまず商売相手から始めよう。対等な立場で、取引をしよう」

 ディアは気難しげに考え込んでいる。竜也はディアに笑いかけた。

「そう言えば腹が減ったな。食事を用意するから一緒に食べよう。食べたら君をここから解放する。仲間のところに戻って俺の言葉を責任者に伝えてほしい」

「――いいだろう」

 ディアは短く答えを返す。竜也にとっては現状ではそれで充分な回答だった。





 竜也はディアの向かいにあぐらをかいて座り込んだ。

「名前はまだ教えてくれないのか?」

「ディアだ。そう呼べ」

 ディアはそう答える。

「ディア……うん、いい名前だ」

 と微笑む竜也。ディアは無愛想にそっぽを向き、サフィールは何故か面白くなさそうな顔をしていた。
 そこに兵が食事を持ってやってきた。戦争中の最前線の中なので、皇帝に出すものであっても決して豪華な食事ではない。用意されたのは乾パンみたいな固いパン、干し肉、果物、小麦粉を溶いた塩味のスープ、葡萄酒等だ。
 竜也はまずコップに入ったスープを自分で飲んで見せ、そのコップをディアへと渡した。ディアは最初は恐る恐るスープを口にし、すぐに一気に飲み干してしまう。パンや干し肉も最初は竜也が毒味して見せていたが、やがてそれが煩わしくなったディアは出されたものを即座に片っ端から飲み込んでいった。

「くっ……おいしい」

 と涙ぐむディア。

「いや、まだまだあるから」

 涙を拭いながらディアは出されたものを食べ続ける。小食な竜也の十倍くらい食べて、ようやくディアは満腹になったようだった。

「ははは、食い過ぎても気持ち悪くなるんだな。生まれて初めて知ったぞ」

 食べ過ぎて動けなくなったディアはその場に寝転がり、大の字になった。今死んでも何一つ悔いはないくらいの笑みを浮かべている。竜也とサフィールは困ったような顔を見合わせた。その竜也に寝転がったままのディアが問う。

「お前、こんなおいしいものを毎日食べているのか」

「今日の食事は戦地で用意されたものだから特別上等でもおいしいわけでもないぞ」

 竜也の言葉に、ディアは起き上がって真剣に考え込む。そして、

「お前、本当に皇帝だったんだな」

 そんな納得の仕方をされても、と竜也は思わずにはいられない。だがディアはより一層真剣になり、

「お前が皇帝なら、ネゲヴに銀狼族のための村を、銀狼族の全員が移住できる村を用意することはできるか?」

「用地を用意するのはそんなに難しくない。開拓は自分達でやってくれるか? でも、どうやってエレブからヌビアまで村人を移動させるかは問題だぞ。ヌビアの中なら何とでもなるが、エレブまではまだ手が届かない」

 ディアは「確かに」と呟き、次いで頭を振った。

「今そこまで考えても仕方ない、まずは皇帝」

 ディアが立ち上がったので竜也も立ち上がる。ディアは傲然と胸を張った。

「わたしはお前の取引の申し出を受ける。銀狼族はネゲヴの皇帝に傭兵として雇われてやる」

 が、竜也は苦笑未満の中途半端な表情をする。

「いや、君がそんなことを決めても……責任者に伝えて皆で考えてくれないと」

 ディアが竜也のすねに蹴りを入れ、竜也は痛みに飛び上がった。

「わたしが銀狼族の族長、ディアナ・ディアマントだ」

 ディアは不満げに頬を膨らませる。が、竜也は戸惑うばかりである。

「族長? 君が?」

「犬耳や尻尾が生えていたら信じてくれるのか?」

 そういうわけじゃ、と呟く竜也。ディアが嘘を言っているようには見えないが、容易に信じられることでもない。その竜也に「そう言えば」とディアが提案した。

「一族の者がわたしを探してこの近くに来ているはずだ。その者達を呼ぶことにしよう」

 ……それからしばらく後。ディアの提案を受け、竜也は近衛隊を連れてトズル砦を出て山の中腹に移動した。

「わたしの村はディウティスクの山奥にある。割合近くに五個くらいの村があって、全部合わせれば村民は千人になる。その全員が銀狼族だ」

 道中竜也はディアの事情を色々と聞かせてもらっていた。ディアの生まれ故郷はレモリアとの国境に近いディウティスクの南端に位置する。元の世界で言うならオーストリアの南端になるようだ。

「わたし達の村は周囲から魔物の村ではないかと疑われていて、以前から領主に目を付けられていた。領主がどんな無理難題を出しても絶対に逆らわずに従順し、攻められる口実を与えないことで何とか生き延びてきたのだ。このネゲヴ遠征では領主から、村人一〇〇人につき四人の兵を出すよう命令があって、わたし達は必死に四〇人を揃えて出征させたのだ。……本当はわたしの父が出征するはずだったのだが病気で死んでしまったのでな、代わりにわたしが男の振りをして出征した」

 男の振りをするために短く切った髪は、今は中途半端に長くなっている。だがディアというこの少女にはそのワイルドな髪型がよく似合っているように思われた。

「わたしはこんな体格だから簡単に水に流されてしまったが、他の皆は大人の男だ。あの程度の水流で溺れ死ぬはずがない。きっと皆無事でいてくれる、そのはずだ」

 不意に、ディアが立ち止まって一同を制止する。ディアは目を瞑って両耳に手を当て、耳を澄ませた。

「――来ている」

 ディアは大きく息を吸い込み、



 ウゥゥルルォォーーーンン



 と遠吠えを上げた。それは狼の遠吠えそのものとしか思えない。すぐ近くでいきなり耳をつんざく遠吠えをされ、竜也は度肝を抜かれた。近くの梢の葉がびりびりと震えている。こんな小柄な少女がどうやったらこれほどの声量を出せるのか、竜也は不思議に思うしかない。
 遠吠えをして、待つことしばし。かなりの遠方から別の狼の遠吠えがかすかに聞こえてきた。ディアがもう一度遠吠えをする。少し待つと、数方向から狼の遠吠えが聞こえている。声が聞き取れるようになっており、接近していることが判る。
 少し時間を置いて、ディアが三度目の遠吠えをする。遠吠えはそれ以上必要なかった。山道の向こうから、藪の中から、エレブ人――銀狼族が三々五々現れてくる。
 姿を現し、竜也達の前に立っている銀狼族は一〇人くらい。全員粗末ながらも槍や剣を手にしている。さらに周囲の藪の中にもまだ何人かが潜んでいるようだった。一方それに対する竜也側は、近衛隊の牙犬族がバルゼル・サフィール他六名と、奴隷軍団の兵が同数。戦力的に不利は否めず、近衛隊は神経を尖らせた。

「ディア様、よくご無事で」

 ディアが先頭の年長の、四〇代くらいの銀狼族と会話を交わす。

「心配かけてすまなかった、ヴォルフガング。他の皆は無事か?」

「はい。全員の無事を確認しています」

 ディアは安堵のため息をついた。ディアにヴォルフガングが質問する。

「ディア様、その者達は一体」

「ああ、ちょっとばかり世話になった。ネゲヴの皇帝だそうだ」

 銀狼族はわずかにざわめき、戸惑いの表情を見せた。竜也が皇帝だとはとても信じられないようである。その彼等の前に竜也が進み出る。

「ヌビアの皇帝、クロイ・タツヤだ。今回俺は族長のディアにある取引を申し出、ディアはそれを受けると言った。だがこの取引は聖槌軍に加わる銀狼族全員の生命に関わる問題だ。もう一度全員でよく話し合って、受けるかどうかを改めて答えてほしい」

 竜也は銀狼族全員を傭兵として雇いたい旨、情報収集・情報工作・破壊工作の各任務の内容を詳しく説明した。情報収集・情報工作はこの戦争が終わるまでの期間契約とし、報酬は通常の傭兵契約の数分の一の金額を提示。破壊工作については任務一回につき別途報酬を払うことを約束した。
 竜也の説明が終わり、銀狼族の男達はヴォルフガングを中心に額を寄せ合い、話し合っている。傭兵契約についてはそれほど否定的ではないが、聖槌軍を完全に敵に回すことに対して躊躇している様子だった。
 その優柔不断さにディアが苛立ちを見せる。

「……お前達。族長のこのわたしが受けると決めて返答したことなのだぞ」

「しかしディア様。このような重大事、簡単に決めていいことではありません」

 が、ディアはヴォルフガングの言葉を鼻で笑い、

「お前達、これを見てもまだそんなことが言えるか?」

 と兵士に持たせていた荷物を広げた。銀狼族に、

「おお……」

 と感嘆が広がる。そこにあるのは乾パン・干し肉・葡萄酒等の食料だった。

「毒など入っていないことはわたしが確認済みだ。お前達も食べるがいい」

 逡巡していた時間はごくわずかだった。差し出された食料に銀狼族が飛びつく。藪の中からも銀狼族の戦士が出てきて食料の奪い合いに参加し、食料はあっと言う間に食い尽くされてしまった。満腹には程遠い様子の男達に、ディアが勝利を確信しつつ告げる。

「傭兵契約を結ぶなら我等に充分な食料を提供することを、皇帝は約束してくれている」

「契約の申し出を受けましょう」

 ヴォルフガングは刹那の間も入れずに即答した。





 竜也はディアを連れてトズル砦へと戻り、ディアにはヴォルフガング以下三名の銀狼族が同行した。そして夜が明けて翌朝、竜也は船を使ってサフィナ=クロイへと戻ることにする。

「俺達ヌビア軍と聖槌軍内の銀狼族との連絡役として、あなた達のうちの誰かに俺達の町に来てもらいたいんだが」

 竜也はディア達にそう提案した。

「あの遠吠えがあれば互いに連絡を取り合うのも難しくはなさそうだし」

「ああ、確かに」

 とディアは誇らしげに頷く。銀狼族の遠吠えは、聖杖教徒の弾圧の中で生き延びてきた彼等が長年磨き上げてきた技能だった。遠吠えの種類で「危険」とか「安全」とか「集まれ」とか簡単な意思疎通ができ、条件がよければ一〇スタディア遠方からでも聞き取ることが可能である。

「ナハル川かスキラ湖の岸辺の人気のない場所を合流地点に決めて、遠吠えで互いの安全を確認した上で接触するとかすれば……それで、誰が来てくれるんだ?」

 ディアとヴォルフガングが顔を見合わせる。ディアが何か言おうとるするが、ヴォルフガングが先制した。

「ディア様、お願いできますか」

「だが」

 と反射的に抵抗するディアにヴォルフガングが続ける。

「ディア様は村全体でネゲヴに移住できないかお考えなのでしょう? ならば、移住できるかどうか、できるとして、それが銀狼族の命数を長らえさせることになるのか否か――その目で直接ネゲヴの現状を見、ご判断いただきたい。ディア様以外の誰がそれを判断できるというのです」

 ディアは「ぐ」と詰まり、ヴォルフガングの言葉を噛み締めるように考え込む。やがてディアは顔を上げた。

「……判った。銀狼族の未来がそこにあるのかどうか、この目で確かめてこよう」

 ディアの言葉に、ヴォルフガング達は「お願いします」と頷いた。
 竜也やサフィール、ディアを乗せた連絡船がトズルを出、サフィナ=クロイへと向かう。舳先に立つディアはまだ見ぬ町を、銀狼族の未来をその目に見据えていた。







[19836] 第三二話「女の闘い」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/02 21:10




「黄金の帝国」・死闘篇
第三二話「女の闘い」





 サフィナ=クロイのゲフェンの丘の上には町の名前の元となった船が設置されている。皇帝の公邸、竜也の私的空間という扱いのその船は、女の園だった。
 主人の竜也がただ一人の男で、それを取り巻く女性がファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール。ファイルーズには自分付きの女官十数人を船に置いていて、ラズワルドもまた白兎族の女官十数人を船に常駐させている。ミカにも自分付きの女官はいるがその数はほんの二、三人。カフラ付きのメイドも同数。船を内側から警護する牙犬族の女剣士達は形式上はサフィールの部下で、その数は五、六人だった。
 さらに四〇人ほどのメイドが炊事掃除洗濯等の下働きに勤めている。スキラ近隣から集められた彼女達は全員が若く見栄えがよく身元が確かで、さらに竜也に対して害意を抱いていないことはラズワルドのお墨付きである。
 八〇人以上の人間が、しかも女ばかりが集まれば派閥ができるのは必然だった。最大派閥はファイルーズとその女官を主軸とする一派であり、それに対抗するのがラズワルドとその女官を主軸とする一派だ。当初両者の勢力は拮抗していた。が、ソロモン盟約改訂や人事辞令発令、それに伴う竜也とファイルーズの結婚発表。これにより船の中の勢力図も大きく変貌する。

「ファイルーズ様は既に第一皇妃。その一方あの小娘は予定にもなっていない第二皇妃でしかないのですよ? どちらが上か考えるまでもないでしょう?」

 ファイルーズの女官はメイド達をそう口説き落とし、自分達の派閥に組み込んでいく。メイドを取られた白兎族は人手不足に悩み、自分達が下働きをする羽目になっていた。炊事だろうと掃除だろうと、それをすること自体は恥でも何でもない。だがその姿をファイルーズの女官に見られ、嘲笑されるのはこの上ない屈辱だった。

「お嬢様、何とかしてください」

 白兎族の女官達はラズワルドに泣き付く。ラズワルドとしてもファイルーズ派に大きい顔をされるのは不愉快だったので、何とかすることを考えた。

「敵に回ったメイドの落ち度を見つけて、一人一人追い出していけばいい」

 ラズワルドの恩寵を使えば造作もないことだが、

「いくら何でもそれは……」

「ただでさえわたし達はメイドから怖がられているのに、ますますメイドが逃げていきます」

 と白兎族の女官が懸命に説得、

「……判った、別の方法を考えておく」

 何とかラズワルドを思い留まらせることができた。ラズワルドはその足でベラ=ラフマの元を訪れた。

「何か方法を考えて」

 いきなり要求されたベラ=ラフマだが、白兎族の地位に関わる問題なので真剣に対策を検討する。

「……敵に回ったメイドの落ち度を探り出して、一人一人追い出していけば」

「それはダメ出しされている」

 第一案を却下されたベラ=ラフマはさらに検討するが、

「……正直、いい対策が思い浮かばない」

「そう」

 ベラ=ラフマの答えにラズワルドは失望した。だが、

「ここはもっと適切な人間の知恵を借りることとしよう」

「適切な人間?」

「皇帝タツヤだ」

 ベラ=ラフマはこともなげにそう答えた。
 それから数刻後、竜也の元を訪れたラズワルドとベラ=ラフマが仕事の話と世間話のついでに、

「白兎族がメイド達に怖れられているために人手が集まらず、困っています」

 と状況を説明し、相談する。ファイルーズ派が人手を奪っていることや、彼女達が目障りで仕方がない等とは、思っていても口にはしない。

「……メイドであっても公邸で働くのはかなりのステイタスになることだし、給料だっていいんだから人手に事欠くことはないはずなんだが……ステイタスってのを前面に押し出すべきかも。『白兎族に選ばれているのは絶対に皇帝を裏切る心配のない、精鋭だ』と。あとはそれを判りやすく示すために制服を揃えれば」

「なるほど、近衛隊と同じことですか」

 竜也の発想にベラ=ラフマは感心する。思考回路が謀略や粛清に特化したベラ=ラフマ達には出てこない対策案である。

「メイドの制服はどんなの? ――うん、判った」

 竜也の思考を読み取ったラズワルドが勝手に納得する。竜也が止める間もなく二人は執務室から退室し、数日後には元の世界のメイド服姿のメイドが船に登場した。
 黒のオーバーニーソックス、黒のエプロンドレスと白のエプロン、黒のリボンに白のカチューシャ。メイド達は可愛らしいメイド服に恥ずかしそうにしているが、誇らしげでもあった。

「みんななかなか可愛いな。華やかでいい感じだ」

 と喜ぶ竜也と、満足げなラズワルド。一方のファイルーズ派は内心穏やかではない。

「あの小娘の一派が勢力を盛り返していますわ」

「せっかく追い詰めていたのに……わたし達も何か考えないと」

「確かにあの服は可愛らしいし、ちょっと着てみたいけど」

 女官達の緊急会議を黙って聞いていたファイルーズだが、

「だからと言って、ラズワルドさん達の真似をするのは面白くありませんわ」

 と口を挟む。女官達もそれには同意し、結局その日の会議では結論は出なかった。トルケマダに対する謀略が仕掛けられるのはその直後である。

「女官達を、ですか?」

「ああ。彼女達に明日の作戦を手伝ってほしい。絶対に信用のできる女官を五、六人選んでほしいんだ」

 竜也のその要請に、ファイルーズは少し首を傾げて問うた。

「ラズワルドさんの方には頼まないのですか?」

 竜也は気まずそうに目を逸らしながら、作戦に使うベリーダンスの踊り子みたいな衣装を取り出した。

「……その、こーゆー服を着てもらうんだが、白兎族は……ああだから」

 白兎族の女性は脂肪の付きにくい体質のようで、スレンダーな体型の者ばかりだった。竜也の説明にファイルーズは完全に納得する。

「判りましたわ。特に信用がおけて、スタイルのよい者を選べばいいのですね?」

 こうしてファイルーズに負けないくらいにグラマーな六人が選ばれ、お芝居で竜也に侍ることとなる。お芝居の終了後、

「皇帝は豊満な女性が好みです! ファイルーズ様、わたし達はこの路線で行きましょう!」

 熱帯のケムト育ちであるため、女官達は肌の露出に大して抵抗を持っていない。ファイルーズも女官達の主張を入れ、その日以降ファイルーズの女官達は全員で踊り子みたいな露出の多い衣装を身にすることとなった。

「なかなか華やかでしょう? タツヤ様」

「あー、確かに」

 ファイルーズにそう訊かれ、竜也は頷くしかない。実際には目のやり場に困っていたのだが。
 一方のラズワルド一派は、

「お嬢様、あの者達に負けたくありません!」

 と等しく悔しさを噛み締めている。ラズワルドとその女官達はいつになく心を一つにしていた。

「……あの路線で勝負しても勝てない。わたし達はわたし達の路線で戦うしかない」

「はい、その通りです」

 ラズワルド一派は、白兎族の女官も全員メイド服を着ることにした。スカートの丈は膝上十数センチメートル、この世界では画期的なミニスカートである。ますます目のやり場に困るようになった竜也はそっぽを向いて壁の染みでも数えているしかない。
 ラズワルド一派とファイルーズ一派の対立はあさっての方向に流れたまま勢力を拮抗させる。膠着した事態を流動化させたのは、別勢力の介入だった。





 ミカが総司令部で兵站担当官補佐として仕事をしている最中、突然ラズワルドが訪ねてきた。

「話がある」

 と言うので応接室に移動し、ミカはラズワルドと二人きりで対面する。考えてみれば、ラズワルドとの付き合いも短くはないが二人きりで話したことなど数えるほどしかない。ミカは居心地が悪そうに座り直しながらも、

「それでラズワルドさん、話とは?」

 と口火を切った。

「……わたしとミカで同盟を組む。それであの女を圧倒できる」

「同盟? ファイルーズ様に対抗するために、ですか?」

 戸惑いながらのミカの確認にラズワルドが頷いた。ミカはますます戸惑うしかない。

「わたしは別にファイルーズ様と対立しているわけではありませんし、対抗するつもりも……」

「第三皇妃になるのならあの女と対立することになる」

 「皇妃」の単語にミカは大いにうろたえた。

「こ、皇妃などと、わたしはそんなこと……」

 赤面し、にやけ顔になり、頭を振って妄想を打ち消すミカの醜態を、ラズワルドは白けたような目で見つめている。

「別にわたしは認めたわけじゃない。それにタツヤだって皇妃を増やすつもりは全然ない」

 ラズワルドの言葉に頭が冷えたミカは、表情を取り繕ってラズワルドへと向き直る。

「ならば何故そんな話を?」

「ミカの立場を考えれば、ミカとタツヤの気持ちは関係なしに、いずれ皇妃に収まるしかない……って言ってた」

 誰がだ、と突っ込みを入れたいミカだったがそれは置いておいて、ラズワルドの説明はミカにも充分理解できる話である。ミカはアミール・ダールの愛娘であり、アミール・ダールはヌビア陸軍の総司令官である。竜也はアミール・ダールの懐柔のために、アミール・ダールは自分の立場の確保のために。双方が婚姻という結びつきを求めるようになるのは政治的には必然だった。

「……確かに言われる通りです。わたしが皇妃となることはアミール・ダール一門にとって大きな利益となりますし、皇帝にとっても損な話ではありません」

 ミカは自分の気持ちを切り離して現状を冷静に分析する。

「もしわたしが皇妃となったら……ああ、なるほど。確かにファイルーズ様とは対立することになるかも」

 ケムトの王女のファイルーズに対し、ミカはエジオン=ゲベルの王族であり、太陽神殿の巫女であるファイルーズに対し、ミカは陸軍総司令官の娘である。血統の点・政治の点でファイルーズに対抗し得るのはミカしかいない。問題は「対抗するつもりがあるのか」ではない、「対抗し得る力があるのか」なのだ。そのつもりがなくとも力があれば警戒される、それが本当の対抗・対立へとつながっていくことは政治の世界では珍しくも何ともないことだった。

「そこは上手く対立を煽る……って言っていたから、思う存分あの女と殺し合ってくれればいい」

 とラズワルドは得々と説明した。

「共倒れになって一緒に潰れてくれると一番嬉しい」

「阿呆ですかあなたは」

 あまりに正直すぎるラズワルドにミカが思わず突っ込むが、ラズワルドは罵倒された理由が判らずきょとんとしている。

(――いや、よく考えてみれば、読心の恩寵に目を眩まされてきたけど、実はこの子結構阿呆……?)

 普通の子供なら人間関係が広がっていく中で「相手が何を考えているのか」を必死に考え、推察することを余儀なくされる。だがラズワルドはそんな機会を持ったことが一度もない。解答を見ながら試験を受け続けてきたようなものである。他の面はともかく、少なくとも人間関係という面においてはラズワルドの未熟さは阿呆扱いされても仕方のないレベルだった。

「……なんか失礼なこと考えてる」

「まあ、それはともかく」

 ミカはラズワルドに関する考察は打ち切り、別の方向へと思考を向けた。

「状況は理解しました。ですが、わたしは今の時点で自分からファイルーズ様と敵対するつもりは」

「でも、ミカはタツヤが好き」

「だだだだ誰が誰を」

 そこに突然、

「――話聞かせてもらったわ!」

 第三者が応接室に飛び込んでくる。ラズワルドとミカは驚きに目を丸くした。

「あ、姉上?」

 それはミカの姉のヤラハである。ヤラハは二〇代半ば、腰まで届く黒髪を持つ、長身でスレンダーな美女だった。

「ふっ、この姉を甘く見ないことねミカ! エジオン=ゲベルの鉄壁娘と謳われたあなたが恋などと! こんな面白い話をわたしが聞き逃すはずがないでしょう!」

 ただし性格はかなり色々とアレである。ミカは思わず頭を抱えた。

「あ、姉上。わたしは別にタツヤのことなど……」

 と言いながらも、ミカは赤面するのを抑えられない。それを見たヤラハはテンションを上げる一方だった。

「くーっ、何この可愛い妹?! 大丈夫、今のあなたなら皇帝でも教皇でも堕とせるわ!」

 ヤラハはラズワルドとミカの手を取り、強引に結び合った。

「わたし達が力を合わせればケムトの王女も目じゃないわ! ミカの恋を成就させるわよ!」

 呆然としたラズワルドと疲れ切ったミカを置き去りに、ヤラハは高らかに宣言する。その日からヤラハ主導による竜也攻略作戦が発動された。
 まずはその日の夕食時。

「ミカ、その格好は……」

「あ、あまり見ないでください」

 メイド服姿のミカに竜也は呆然とし、ミカは恥ずかしそうに身じろぎする。スカートの丈は限界まで短くされており、落ち着かないことこの上なかった。

「くっ、まさかミカさんまで参戦するなんて……」

 と悔しそうにしているカフラ。ファイルーズはいつもの仮面のような微笑みで平静を装っていた。

「この間あげた眼鏡はかけないのか?」

「タツヤはわたしを殺す気ですか?!」

 何気ない竜也の質問にミカは涙目になって抗議する。今の状態で眼鏡をかけて竜也の顔をまともに見たなら心臓麻痺を起こしてしまう、そんな確信がミカにはあった。もっとも、そんな乙女心が判らない竜也は目を白黒させるばかりである。

「よしよし、掴みは上々」

 ミカと竜也の様子を扉の陰から見守っていたヤラハが満足げに頷く。ヤラハはミカ付きの女官にもメイド服を着ることを強要、ラズワルド・ミカ連合はファイルーズ一派に対し優位を確保した、かに見えた。だが翌日。

「カフラ、その格好は……」

「いやーん、あまり見ないでくださーい」

 踊り子みたいな格好をしたカフラがわざとらしく腕で身体を隠そうとする。だが全然隠れておらず、むしろ腕で胸を強調しているだけである。カフラは媚びるような、艶っぽい視線を竜也へと向けた。

「ご、ごめん」

 竜也の方が赤面しながらそっぽを向く。カフラは内心で密かにガッツポーズを取った。
 一方、その様子を歯噛みしながら見つめているのはラズワルド達だけではない。

「……ファイルーズ様、本当にこれでよかったのでしょうか。強敵に塩を送っただけのような……」

 女官の言葉にファイルーズも半分くらい同意する。

「あるいはそうかもしれませんけど、今カフラさんを敵に回すのは得策ではないでしょう」

 カフラは自分付きのメイドにも踊り子の衣装を着せて、ファイルーズ側に付くことを鮮明にする。こうしてファイルーズ・カフラ連合とラズワルド・ミカ連合がそれぞれ成立し、両者は再び勢力を拮抗させた。





「……何かよく判らない競り合いをしていますね」

 ファイルーズ・カフラ連合とラズワルド・ミカ連合が熾烈な女の戦いを演じている一方、サフィール達牙犬族は完全に蚊帳の外だった。サフィール達が船にいるのは警護のためであること、牙犬族が独自の部族衣装にこだわりを持っていること、戦闘に不向きなメイド服や踊り子の衣装を着るつもりが毛頭ないこと、等がその理由である。

「ああ、俺もここにいる方が気分が落ち着く」

 ファイルーズ達やラズワルド達といると獲物を狙う猛禽の眼にさらされているようで気分が休まらない竜也は、船にいるときはサフィール達の詰所にお邪魔してお茶を飲んでいることが多くなった。
 聖槌軍の別働隊がトズル方面に移動していることを聞き、竜也はトズル方面の視察に向かうことを決定する。最近の船の中の空気に気疲れし、少し距離を置きたかったことがその理由の一つになっていることは間違いない。
 一方ファイルーズやラズワルドはそんなことにも気付かずに(気付いていても重視せずに)暴走を続けている。

「勝負よ! ここは一つ、皇帝がわたし達のどちらを選ぶか勝負をしましょう!」

 ヤラハはファイルーズへと果たし状を叩きつけた。

「皇帝は戦いに出かけて、帰ってきたときは疲れているはず! 皇帝を歓待し、ゆっくり疲れを取ってもらう、わたし達がそれぞれ別にその準備をする。皇帝がわたし達のどちらを選ぶかで勝負するのよ!」

 ファイルーズもその果たし状をいつもの笑顔で受け取った。

「タツヤ様が疲れてお帰りのときに、疲れを取っていただくようわたし達が最善を尽くすのは当然のことですわ。わたし達はわたし達でその準備をいたしますね?」

「望むところよ!」

 こうして両者は別々に竜也歓待のための準備を進めることになる。
 ラズワルド達は自分達の優位を確信していた。

「タツヤの食べ物の好みも、してほしいことも、判らないことは何もない。この勝負は勝って当たり前」

「そういうことよ。ミカ、この勝負に勝ってわたし達が一気に主導権を握るわ!」

「は、はあ……」

 一方のファイルーズ達も自分達の不利は理解している。

「気配りという点ではあの子達にはかないませんよね。どうするおつもりですか? ファイルーズ様」

「確かに多くの点で不利ですが、一つだけわたしが有利な点があります。そこを的確に突いていくしか勝機はありません」

「有利な点とは?」

「戦いにより昂ぶった殿方の気を静める一番の薬、それが何かはご存じでしょう?」

「……ああ、なるほど」

 艶っぽいファイルーズの瞳にカフラは密かに嫉妬した。

「タツヤさんて、娼館に行ったりとかは全然しない人ですもんね。確かにその点を突けば……」

「とにかくタツヤ様の身柄を確保できさえすれば、わたしがタツヤ様を心ゆくまで休ませてさしあげます」

 こうしてアブの月(第五月)の初旬、ついに船は決戦の刻を迎える。





 その日、ディアを連れてトズル方面から戻ってきた竜也は、まずナハル川の野戦本部に赴いてアミール・ダールから報告を受けた。

「一昨日聖槌軍の二度目の渡河作戦が決行されましたが、撃退に成功しました」

 「アブの月の戦い」と後に称されるこの戦いの、アミール・ダールの報告をまとめると以下のようになる。
 まず聖槌軍の行動は最初の渡河作戦と特に変わらない。丸太を使い、一人でも多くに川を渡らせることしか考えていない、無理押しの作戦である。動員兵数は前回より大幅に増え、推定七万を越える大軍勢だ。
 一方のヌビアの軍も、基本的には前回とやるべきことは変わらない。ただ今回、アミール・ダールは一番槍の敵兵を矢や火縄銃で殺すことを全軍に禁止。一番槍の敵兵は剣か槍で殺すよう厳命した。
 こうして戦闘が開始される。ケルシュの水軍では到底殺し切れない数の敵兵が川を渡り、ナハル川南岸へと取り付く。さらに前回のように矢や弾丸が雨霰と降ってくることもない。聖槌軍のうち最初に南岸に到着した者達はこの隙に城壁を乗り越えようとし、ヌビア兵に槍で刺されて絶命した。
 アミール・ダールが弓兵と鉄砲兵に攻撃命令を下す。敵兵は既に押し寄せてきており、狙いを付ける必要もない。撃てば当たる状態だった。矢が射られ、火縄銃が撃たれ、熱した油が撒かれる。敵兵は実に効率よく殺されていった。ごく一部の敵兵が南岸の城壁を乗り越えるが、即座に刺し殺され、斬り殺されてそれで終わりである。
 ヌビア兵が殺し、エレブ兵が殺される一方的な展開は結局最後まで変わることがなかった。敵軍が全員逃げるか死ぬかし、戦闘は終結する。聖槌軍は万単位の死傷者を出した一方、ヌビア軍の戦死者は百人にも届いていない。

「完全勝利だな」

 アミール・ダールの報告を聞き終え、竜也はそう感嘆する。アミール・ダールも、

「はい。なかなかよい予行演習ができました」

 と満足そうだった。「予行演習?」と竜也が首を傾げる。

「敵の規模を考えれば今回の戦闘とて前哨戦に過ぎないでしょう。ですが我が軍は敵の本隊と戦う前に手頃な規模の敵と戦うことができた。将兵も殺し合いに慣れましたし、我が軍の不備も洗い出せました。我々は万全の体勢で敵の本隊を迎え撃つことができます」

「そ、そうか。頼りにしている」

 野戦本部を後にした竜也は総司令部へと戻ってくる。サフィールに連れられたディアがそれに同行、竜也はディアをベラ=ラフマに紹介した。

「彼女は銀狼族族長のディアナ・ディアマントだ。彼女と聖槌軍内の銀狼族が我々に協力してくれることになった」

「さすがは皇帝です。まさかこのような協力者を得てくるとは」

 ベラ=ラフマは表情をあまり変えないまま大いに驚き、喜んでいる。

「まずは情報収集、次いで情報工作をやってもらうつもりだ。ディアはあなたに預けるから二人で協力して情報収集・情報工作の仕事を進めてくれ」

 竜也の指示にベラ=ラフマが頷く。が、ディアはかすかに不安そうな顔をした。それを見て取ったベラ=ラフマが助け船を出す。

「仕事についてはそれで構いませんが、普段の生活の後見をするのは別の者がよろしいかと」

 指摘を受けた竜也は「それもそうか」と思い直し、

「じゃあサフィール、牙犬族の皆で面倒を見てやってくれ」

「タツヤ殿がそう言われるのであれば」

 サフィールは内心の不満を口調ごと抑制しそう返答する。ディアは素知らぬ顔でそっぽを向いているが、その顔から不安の色がなくなっていることをベラ=ラフマだけが察していた。
 竜也はたまっていた書類を片付けに執務室へと向かい、サフィールは一足先に船へと戻った。そこで彼女が見たものは――

「……確か皆さんはタツヤ殿の疲れを癒そうと準備をしていたはず。何でこんなことになっているのですか?」

 サフィールの問いに、ファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラが気まずそうに目を逸らした。
 ……きっかけが何だったのか、どちらが先に手を出したのか、それはもう誰にも判らない。だが、

「きゃあっ?! 料理が!」

「ああ、ごめんなさい。ここの廊下は狭いから」

 あるいはわざとではなかったのかもしれない、ほんのちょっとした相手の準備の邪魔が次第にちょっとしたいたずらに、

「ああっ! 衣装に染みが!」

「あーらごめんあそばせ、わざじゃなくってよ?」

 やがてちょっとした嫌がらせに発展。

「ああっ、砂糖と塩が入れ替わってる!」

「ああっ、かまどの火が消されてる!」

「ああっ、料理が食べられてる!」

 数時間後にはそれは物理的妨害へとエスカレートしていた。

「ああっ、靴の中に針が!」

「ああっ、服にソースが!」

「ああっ、ベッドが水浸しに!」

 そして物理的妨害が乱闘に至るまではあっと言う間だった。

「ほほほほ! このアミール・ダールの娘ヤラハに戦いを挑むとは、舐められたものね!」

「お黙りなさい! メン=ネフェルの後宮で四千年間培われた嫌がらせの数々、思い知らせてくれますわ!」

 両派閥の女官やメイドが船の中を縦横に走り回り、ときに取っ組み合いを演じ、ときにモップと箒で切り結び、ときに集団で一人を包囲して裸にむいて、ときにソースの入った瓶が爆撃される。ヤラハは先頭に立って走り回り、騒ぎを拡大させ続けた。
 安全地帯にさっさと避難したミカは、

「ああぁぁ、姉上が首を突っ込んできたときからこんなことになるような気はしていたんですぅぅ……」

 と頭を抱えている。

「……はあ、お茶が美味しいですわねぇ」

 とお茶をすするファイルーズと、

「税率を二割とするなら公債の返済が終了するのが……」

 総司令部から持ち込んだ書類に目を通しているカフラ。やり方は違うがこの惨状から目を背けていることには変わりない。ラズワルドは、

「わたしのせいじゃない」

 と他人事を決め込んでいた。
 そしてサフィールは四人を前に深々とため息をついている。四人が逃げ込んできた安全地帯とは船の中の牙犬族の詰所だったのだ。

「タツヤ殿は間もなく帰ってくるのですよ? どうするつもりなのですか?」

 サフィールの問いに四人は揃って汗を流しながら目を逸らした。サフィールは再度ため息をつく。

「……タツヤ殿にはわたしからお願いして、今夜は別の場所で泊まっていただくことにします。皆さんは今夜中にこの有様を何とかしておいてください。それでよろしいですね?」

「お願いします」

 四人は声を揃えてサフィールに向かって頭を下げた。
 サフィールが船を出て竜也のところへ向かおうとすると、ちょうど竜也が船へと向かって歩いてくるところだった。間一髪だった、とサフィールは胸をなで下ろす。

「あれ、どうした?」

 どういう言い訳をするか何も考えていなかったサフィールは、とにかく竜也の前に立ち塞がった。竜也はサフィールを避けて前に進もうとするが、サフィールは無言のまま通せんぼする。

「サフィール?」

「……その、タツヤ殿。何も訊かず、今夜は別の場所に泊まっていただきたい」

 少しの間真顔でサフィールを見つめる竜也だが、

「――サフィールがそう言うなら」

 とその要請を承諾した。

「それで、どこに泊まったらいい?」

 竜也の問いに「えーと、えーと」と悩み出すサフィール。竜也はちょっと笑いながら提案した。

「それなら牙犬族の皆のところに泊めてもらおうか。そこならこの町で一番安全だし、ラサースさんやジューベイさんにも積もる話は色々あるだろう?」

「ああ、さすがタツヤ殿です。それがいいでしょう」

 こうして竜也はサフィール達の案内で牙犬族の宿舎へと向かい、その夜をそこで過ごすこととなった。





「おお、タツヤ殿。よく来られた!」

 総司令部のあるゲフェンの丘に程近い町中の、治安警備隊の庁舎。牙犬族の宿舎はそれに隣接して建てられていた。竜也はサフィールの案内でそこを訪れる。

「すまない、今夜はちょっと世話になる」

「何を言われる。タツヤ殿は我等にとって一族も同然、遠慮は無用ですぞ!」

 竜也はジューベイやラサースから治安警備隊の現状について報告を受け、竜也の方もトズル方面の戦闘について説明があり、その後はディアの扱い等の二、三の打ち合わせをした。
 夜になって、竜也歓迎の宴会が催される。とは言っても戦時中である。料理がいつもよりちょっとだけ上等で、酒がいつもより多めに出されているだけのことなのだが、集まった牙犬族の面々は大いに盛り上がっていた。

「……くっ、美味しい」

 だが、誰よりもこの宴会を堪能していたのがディアなのは間違いない。特別上等と言うほどではない料理であろうと、ディアは感涙にむせびながらむさぼり食っている。

「ほら、料理はまだまだあるから」

 当初はディアのことを胡散臭げに見ていた牙犬族だが、元々情に厚い彼等である。ディアの前には次々と料理が運ばれ、ディアはひたすらそれを食い続けた。

「がははは。タツヤ殿、楽しんでおられますかな?」

 完全にでき上がったジューベイが酒瓶を持って竜也の隣にやってくる。酒が好きではない竜也は正直辟易していたが「ええ、もちろん」と調子を合わせた。が、ジューベイは竜也の内心を察したようで、「もっと歓待しなければ」と余計な義務感にかられてしまった。

「料理も酒も皇帝を満足させるには程遠いでしょうが、しかし急には用意できんし……ここは一つ他のことで補うしかあるまい」

 ジューベイは二人の剣士を指名し、

「おい、お前等! あれをやれ!」

 と命令する。二人は勇んで一同の中央に立ち、周囲の牙犬族は「よっ、待ってました!」等とはやし立ててさらに盛り上がる。どうやらこの二人が宴会芸を披露してくれるようだ、と竜也はのんきに構えていた。
 二人の剣士は真剣を抜いて、

「きええぃぃ!」

 裂帛の気合いを込めていきなり斬り合いを始めた。恩寵を最大限使っているらしく、剣戟は竜也の目では到底追うことができない。まるで時代劇のチャンバラを四倍速くらいの高速再生で見ているかのようだ。だがTVの時代劇とは違い、今竜也の目の前で、本当の斬り合いが、殺し合いが行われている。殺気に当てられた竜也は木偶のように身体を凍り付かせ、剣戟をただ見つめるだけである。
 不意に二人が斬り合いを中止、一同に向かって頭を下げる。一同は二人へと惜しみない拍手を送った。
 斬り合いが終わったことに竜也が心底安堵し脱力する。その竜也にジューベイが、

「がははは、どうでしたか? 二人の剣舞は」

「えっ、剣舞だったの?!」

 竜也は思わず大声で問い返した。ジューベイはそれを特に気にする様子もなく「見事なものでしょう!」と自慢げである。ディアは、

「大したものだ」

 と感心し、竜也も「え、ええ。お見事でしたよ」と話を合わせるしかなかった。自分の席に戻った二人の剣士は数ヶ所に浅いながらも傷を負っていて、血を流しながら酒を飲み続けている。それを見て顔を青くした竜也は「失礼」と席を外してその部屋から退出した。
 中庭に出て涼しい夜風で頭を冷やし、元の大広間に戻ろうとしてちょっと間違えてしまったらしい。

「あれ、こっちは物置か」

 元来た廊下を引き返そうとして、竜也はサフィールと向かい合わせになった。

「こんなところでどうしたのですか?」

「道を間違えたんだ。すぐ戻るよ」

 竜也を追ってきたサフィールは、竜也がまだ戻りたくない様子だと察し、

「そうだ、タツヤ殿に見ていただきたい物があるんです」

 と竜也を客間に案内した。竜也が客間で待つことしばし、サフィールが手に巻物を持ってやってきた。

「それは?」

「剣祖が亡くなる直前に言い残した言葉を記したものです。誰にも意味が判らないままだったんですが、タツヤ殿ならあるいは判るかもしれません」

 巻物を手渡された竜也はそれを広げた。そこに記されていたのはこの世界の文字であるが、確かに意味が判らない。竜也は首を傾げてそれを読み上げた。

「カーミーカ? クーシ? ……!」

 この世界の言葉で、バール語で読んで意味が判るわけがない。それは日本語の音をバール語で記した文章だったのだ。そうと判れば読むのは容易い。竜也はその短い文章をすぐに読み終えた。

「……『かみかくし このちにながれ いくとしつき ほとけよみちびけ わがふるさとのち』」

「お国の言葉ですか? どういう意味でしょう?」

 サフィールの無邪気な問いに竜也は答えられない。そこに記されていたのは、シノンが言い残したのは望郷の想いを込めた辞世の句。故郷から突然このヌビアの地に流されて何十年かを過ごし、死を目前にしてそれでも故郷に帰れず、日本を忘れられず、死後に魂だけでも日本に帰ることを神仏に願った、そんな詩だった。

「た、タツヤ殿、一体何が」

 竜也の瞳から大粒の涙がいくつも流れ、そんな竜也にサフィールは大いにうろたえた。

「……シノンは故郷に帰れなかったんだ。そして俺も」

 単にシノンに同情したわけではない。もう帰れない、もう二度と日本に帰れず、父母にも会うことは叶わない――その事実を眼前に突きつけられ、ずっと蓋をしていた望郷の思いがこみ上げている。ずっとずっと押し殺していた分反動は強く、溢れる涙は止まろうとしなかった。竜也はサフィールに背を向けて涙を拭った。
 サフィールはとりあえず竜也に寄り添い、

「……その」

 どうしていいか判らなかったサフィールは、思わず竜也を抱き締めていた。自分の意志でそう行動しておきながらサフィールの心は混乱し、惑乱する一方だ。

「わ、わたしがタツヤ殿の故郷となります!」

 惑乱のままにサフィールは力強く宣言、竜也は小さく笑った。竜也はサフィールの胸の中で流れる涙を拭う。竜也の腕がサフィールの身体に回される。サフィールの胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。
 そして――





 翌朝の客間。一つ布団の中でほぼ同時に目が覚めた竜也とサフィールは昨晩何があったかを思い出し、

「うわああぁぁ……」

「うわああぁぁ……」

 と二人して思わず頭を抱え込んだ。

「ファイルーズ様に申し訳が!」

 と裸のまま切腹しようとするサフィールと、

「ちょっと待て!」

 と裸のままそれを止めようとする竜也。互いの裸に赤面した二人はとりあえず服を着ることにした。
 服を着て人心地つき、多少冷静になった二人は布団の上で向かい合って正座する。

「タツヤ殿、申し訳ありません!」

 と平伏するサフィール。竜也は「サフィールが謝ることじゃない」と何とか顔を上げさせた。

「昨晩のことは犬にでも噛まれたと思ってどうか忘れていただきたい。わたしは牙犬族の里に帰ってこの町にはもう来ないことにしますから」

 サフィールはすぐにでも旅に出そうな勢いだったが、

「そんなことはさせない」

 と竜也はサフィールの手首を掴んだ。サフィールが思わず赤面する。

「『昨晩』こうなったのは、その、雰囲気とか、ものの流れというか、そんなようなもんだったかもしれないけど、『サフィールと』こうなったのは決して偶然でも勢いのせいでもない。他の誰でもない『サフィールだから』こうなったんだ」

 竜也の真摯な瞳がサフィールを見つめる。サフィールが潤んだ瞳で見つめ返した。

「責任は取る、サフィールを皇妃として迎える」

 決然とした竜也のその宣言に、

「おおーーっっ!! これはめでたい!!」

 とジューベイ等牙犬族の一団が客間に流れ込んできた。竜也とサフィールは心臓が止まったような顔をした。

「牙犬族から皇妃が出るとは! よくやったサフィール!」

「おめでとうサフィール!」

 とジューベイ等がサフィールを褒め称えた。サフィールは顔を赤くしたり青くしたりしている。

「タツヤ殿、こんな阿呆ですがこれでも可愛い我が娘です。サフィールをどうかよろしくお願いします」

 とラサースは男泣きに泣いていた。竜也は硬直したまま、それでも何とか首を縦に振った。
 牙犬族の面々は竜也とサフィールを囲んで万歳三唱しそうな勢いである。そしてその輪から外れ、一同から離れた場所でディアがその様子を注意深く観察している。
 ……数刻後、竜也は牙犬族の宿舎を出て公邸へと戻ることにした。ともすれば逃げ出そうとするサフィールの手首を竜也は掴み続けている。サフィールを引きずるように連れ、竜也は公邸へと歩いていった。
 一方の公邸。昨日は女達の戦場となって荒れ果ててしまったが、メイドと女官の他ファイルーズ達四人も加わり、徹夜で掃除して何とか元の姿を取り戻していた。ファイルーズ達四人は食堂で一息入れているところである。

「……戦場から戻ってきたタツヤ様にゆっくりお休みいただくこともかないませんでした。本末転倒もいいところです」

 とファイルーズはしおらしい様子を見せる。ラズワルドも、

「調子に乗りすぎた。反省」

 とファイルーズと歩調を合わせた。

「ともかく、タツヤ様の疲れを癒すことがまず第一です。女官達やメイド達を無意味に競い合わせることはやめにして、一致協力してタツヤ様を歓待することに専念いたしましょう」

「それでいい」

 とラズワルドが同意し、

「最初からそうすべきでしたね」

 とカフラが苦笑し、

「当たり前のことです」

 とミカが何故か偉そうにした。その足下ではヤラハが縄で縛られたまま泣き寝入りしている。
 そこに女官の一人がやってきて、

「ファイルーズ様、皇帝がお戻りになりました。ですが……」

 ファイルーズ達は竜也を出迎えるために食堂を飛び出していく。その場には何か言いたげな女官が残された。
 そして船の前に集まるファイルーズ達。丘のふもとには竜也達の姿が見える。丘の上へと続く坂を登り、竜也とサフィールが歩いてやってきている――仲良く手をつないで。

「……」

 実際には竜也がサフィールの手首を掴んでいるのだが、ファイルーズ達にとってはどちらでもあまり変わらない。嫌な予感を覚えるファイルーズ達四人の前に、ようやく竜也とサフィールが到着。赤面したサフィールは竜也の背後に身を隠そうとしていた。
 まずラズワルドがそれを理解。ファイルーズとカフラも何が起こったのかを大体察し、ミカもまた竜也達二人のまとう空気が昨日とは一変していることを感じ取った。

「まー、その。ファイルーズ、それにみんなも」

 竜也は恥ずかしさを抑え、意を決して一同に告げる。

「サフィールを皇妃として迎えるからそのつもりで」

 ファイルーズ達四人は砂の人形のようになって、その場に崩れ落ちた。

(結局サフィールさんの一人勝ち……)

 「漁夫の利」という言葉の生きた見本を残し、こうして女の闘いはひとまずの幕を閉じたのである。






[19836] 第三三話「水面下の戦い・前」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/05 21:03




「黄金の帝国」・死闘篇
第三三話「水面下の戦い・前」





 アブの月(第五月)の初旬、その日の朝。竜也の「サフィールを皇妃として迎える」という爆弾宣言炸裂の直後。竜也達は船の食堂に場所を移している。食堂の中は一種異様な緊張感に包まれていた。
 竜也は床の上に正座をしていて、それに向かい合ってファイルーズとラズワルドが腕を腰に当てて立っている。二人が竜也を見下ろす形で、竜也は身を縮めることしきりだった。

「……確かに何人か側室を持つことは認めましたが、まさかこんなに早くなんて。わたしに何か不満でも?」

「いえ、とんでもない。ファイルーズさんは素晴らしい女性です」

 ファイルーズの口調も声音も、普段と何も変わらない。だがいつもは天上の歌声のようなそれが、今は地獄の底から響く罵声のようだった。

「いえ、タツヤ様のお気持ちはよく判りますわ。サフィールさんは本当に凛々しく美しい方で、年齢もまだ十代。肌なんてまるで絹のよう。それにひきかえこのわたしはタツヤ様より年上ですし……」

「ファイルーズだって、スタイルのよさなら誰にも負けないだろ?」

 ファイルーズがわざとらしくひがんでみせ、竜也が必死に言い訳をし、ファイルーズを褒め称える。ちょっと面白くないラズワルドは皮肉を口にした。

「もうおばさん。重力には勝てない」

 ファイルーズが一瞬般若の形相を垣間見せ、即座に取りつくろっていつもの笑顔の仮面を被り直す。

「おほほほ。垂れるものがない方が羨ましいですわ、本当に」

「……わたしはこれからだから」

 震え声でそう言いつつも、白兎族の体質的にグラマーにはならないことはラズワルドも嫌と言うほど理解していた。

「……えっと、スレンダーにも需要はあるから」

 竜也は何とかラズワルドのフォローをしようとするが、

「サフィールさんはスリムですものね」

「いえ、あの……」

 ファイルーズとの板挟みとなり、往生した。
 竜也がファイルーズとラズワルドに吊し上げになっている一方、食堂の一角では同じようにサフィールが床に正座し、腕を組んで立つミカとカフラに挟まれている。

「まさかサフィールさんに抜け駆けされるなんて。油断でした」

「サフィールさんがファイルーズ様に次いで第二皇妃ですか。すごいですね」

 ミカもカフラも笑顔だがその目は笑っていない。サフィールは消え入りそうになるくらいに身を縮めた。

「……あの、わたしは末席で、第五皇妃で構いませんから」

 それでも「皇妃にはならない」と言わないところを見ると、サフィールも覚悟を決めたようだった。カフラは小さくため息をつく。

「それじゃわたしが第三皇妃、ミカさんが第四で」

「待ってください。格式から言うならわたしが第三皇妃になるべきでは?」

 カフラが無表情となってミカを見返し、ミカも無言のままカフラと対峙する。両者の間に空気が凝固したような緊張感が張り詰めた。

「……へえ、本格的に参戦するつもりなんですね」

「アミール・ダール一門のことを考えれば、いつまでも子供のようには振る舞ってはいられません。わたしがタツヤに嫁ぐことは一門にとって利益となりますから」

 ミカは赤面しつつそっぽを向いて、何者かにそう言い訳する。そんなミカをカフラとサフィールは白けたような目で見つめた。
 さらに食堂の出入り口では、ケムトの女官、白兎族の女官、牙犬族の女剣士、メイド等が何人も集まって興味津々で聞き耳を立てている。竜也達当人にとっては修羅場だが他人が見ればじゃれ合いやいちゃつき合いにしか見えないこの状況は、正午近くまで続くこととなった。





 竜也のサフィナ=クロイ帰着に遅れること二日、ようやくトルケマダがスキラに戻ってきた。
 トルケマダとともにスキラまで戻ってきたのは一万ほどの兵だ。残りの二万のうち最低でも一万はトズルで戦死するか捕虜になるかし、それ以外の兵はトルケマダとは別行動を取っているものと考えられた。トルケマダは町を目前にして部隊を停止させる。そして斥候を町へと派遣した。昼前に送り出した斥候が町の噂を集めて戻ってきたのは夕方である。

「フリードリッヒが、死んだ……?」

 斥候の報告を聞き、トルケマダは呆然としてしまう。斥候はそれに構わず機械的に自分の役目を、報告を続けた。

「先のナハル川での戦いの際、ディウティスク国王フリードリッヒ陛下はいかだに乗って指揮を執っておられました。そのいかだが敵の軍船に攻撃されたのです。いかだは軍船の体当たりを受けて沈没し、陛下は未だ北岸に戻ってきておられません。陛下は鎧を身にしていたのでおそらくはそのまま川に溺れたのでは、と……」

「何と愚かな……!」

 トルケマダは舌打ちをする。間抜けな死に方をしたフリードリッヒを嘲笑したい気持ちは強かったが、自分の立場が想像をはるかに超えてまずくなっているという自覚がそれを抑えさせた。

「フリードリッヒの部下は、ディウティスクの軍団長はどうしている? おそらくフリードリッヒが死んだのは私のせいだと逆恨みしているであろう?」

「はい、『トルケマダを殺す』と息巻いているそうです」

 トルケマダは舌打ちを連発した。

「どうする、どうする」

 と右往左往するが良案は何も思い浮かばない。だがトルケマダには考える時間も迷う時間も残されてはいなかった。

「閣下! スキラからどこかの軍勢が」

 見張りの呼ぶ声にトルケマダは本陣を飛び出した。丘に上がってスキラの方角を見ると、そこには数千の兵が砂塵を上げて進軍しているのが見える。トルケマダのいる方へ、脇目もふらずに真っ直ぐに進んでいるのが見えている。
 トルケマダが斥候を放ったように、ディウティスク側もトルケマダの所在を掴むために斥候を放っていたのだろう。そして今、トルケマダのいる場所へと一直線に突き進んでいる。彼等が何を目的としているのか、問うまでもなかった。

「閣下、指揮を、指示を」

 だがトルケマダは命令を求める部下を無視し、自分一人で逃げ出した。部下の何割かがトルケマダの後を追い、何割かがトルケマダに見切りを付けて独自に逃げ出す。兵士がそれぞれの指揮官の後を追い、トルケマダの軍勢は陶器よりも簡単に粉々になり、散り散りとなった。目前まで迫っていたディウティスク軍は散開したトルケマダ隊を追い回し、多数の兵と一部の指揮官を捕虜とした。が、トルケマダはついに捕縛することができなかった。





 ディウティスク国軍は渡河作戦により大損害を受けただけでなく主君まで喪う結果となってしまい、この事態をもたらしたトルケマダを激しく憎悪した。

「あの男を生かしておくな。必ず見つけ出せ」

「トルケマダの部下は全員拘束しろ」

 トルケマダ捜索のために兵が四方に派遣され、トルケマダの部下の捕縛のためにスキラの門前に兵が常駐した。一旦は逃げ出したトルケマダ隊の指揮官達だが他に行く場所もなく、多くがスキラへと舞い戻ろうとしていた。

「聖槌軍の将兵は何十万といるんだ。スキラにさえ潜り込めばいくらでもごまかしようはある」

 彼等はそんな楽観を抱いてスキラに戻ってきて、その全員がスキラの門前で検問に引っかかって捕縛された。彼等はディウティスク側の恨みの深さをあまりに軽く見ていたのだ。が、その執念を持ってしてもトルケマダだけは未だ見つかっていない。
 そのトルケマダはディウティスク軍の追跡を振り切り、スキラの北へと逃れていた。今いる場所はスキラとスファチェを結ぶ街道上の、小さな漁村である。その漁村の小さな港では、バール人の商船と聖槌軍が取引をし、積み荷の受け渡しをしているところだった。トルケマダは物陰に隠れてその様子をうかがっている。船は普通のバール人の商船よりも二回りも三回りも小型である。

「はい、毎度ありがとうございます」

 バール人商人が金貨の詰まった袋を受け取り、商船からエレブ兵が麦袋を降ろしていく。全ての荷下ろしが終わってその船が出港しようとする直前、トルケマダがその船へと突進した。

「待て! その船よ待て!」

 トルケマダはそう叫びながら、そのままその船へと飛び込んだ。船員は目を丸くする。

「あの、騎士様、一体何事で?」

「エレブに行け、エレブに着いたなら金はいくらでも出してやる」

 トルケマダの前に揉み手で出てきた商人に対し、トルケマダは傲然と胸を張ってそう告げる。商人は当惑を笑顔で隠した。

「騎士様、そうは言いましてもこの船では地中海を渡れません。見ての通り小さな船ですので」

 商人の口調にはトルケマダの無知に対する嘲りが隠しようもなくにじんでいた。

「うるさい! そんなことは判っている!」

 トルケマダにできるのは大声で威嚇し、ごまかすことだけだ。だが部下を持たず、聖杖教の権威を持たず、裸一貫に等しいトルケマダの威嚇は、バール人の零細商人にすら通用しなかった。

「お前達は南にあるあの町に戻るのだろう? ならば私をそこでエレブに行く船へと乗せればいいのだ」

「エレブ行きの船賃は値が張りますよ? 前金はお持ちですか? それに私どももそれなりの案内料をいただきませんと」

「エレブに戻ったなら金くらいいくらでも出せる」

 トルケマダの言葉を商人だけでなく船員もが嘲笑う。トルケマダの手が腰の剣にかかった。

「貴様等……! この私を誰だと思っているんだ!」

「はて、どこの騎士様でしょう?」

 揶揄するように問う商人に、トルケマダは名を名乗ろうとし、

「……」

 結局その名を呑み込んだ。代わりにトルケマダは剣を抜き、精一杯の脅迫をする。

「バール人の分際で無礼であろう! これが見えないのか!」

 だが商人の反応はまるで剣が見えていないかのようだった。商人はため息をつき、視線で部下へと合図する。トルケマダの背後から接近していた船員が投げ縄を放った。縄の輪はトルケマダの首へとかかり、引き絞られる。トルケマダの身体は後背に引っ張られて甲板にひっくり返った。トルケマダは窒息しながら、それでも剣を振り回そうとするが、一足早く船員の一人が手の剣を奪っていた。飛び出した何人もの船員が倒れたトルケマダをよってたかって足蹴にし、トルケマダは身体を丸めることしかできない。

「もういいだろう、殺すな」

 散々に痛めつけられたトルケマダは抵抗できないまま縄で縛られた。

「船長、この馬鹿をどうするおつもりですかい?」

「総司令部に差し出せば小遣い銭くらいにはなるだろう」

「この馬鹿がですか?」

 商人は得々と「ああ」と頷いた。

「中身はともかく身なりも得物も上物だ。この馬鹿さ加減も、それなりの貴族の出身だと考えれば納得もできる」

 商人の言葉を聞いても船員達は「この馬鹿がねぇ」と首をひねっている。だがそれ以上は何も言わず、商人の指示に従った。
 こうしてトルケマダの身柄はヌビア側に、総司令部へと引き渡されることとなった。





 場所はサフィナ=クロイのゲフェンの丘、時刻はまだ早朝の時間帯。公邸の食堂で竜也が早めの朝食を取っていると、

「ふぁーっ」

 と大あくびをしながらディアが食堂へとやってきた。

「あれ、ディア?」

「おお、皇帝か。おはよう」

 とディアは挨拶をしながら竜也の前の席に着く。メイド達が非難がましい眼でディアを見るがディアは欠片もそれを気にせずに、

「わたしの分のご飯はないのか?」

 竜也は少し苦笑しながら「用意してやってくれ」とメイド達に命じ、メイド達は不承不承それに従った(なお、ファイルーズ・ラズワルドが以前の馬鹿騒ぎを反省した結果、メイドや女官の服装は露出の少ないものへと戻っている)。

「こんな朝早くからどうしてここに?」

「昨晩は遅くまでナハル川の北岸にいたのだぞ、わたしは。さっきこっちに帰ってきたところだ」

 ディアは非難するような目を竜也へと向けた。ディアは部下のヴォルフガング達から報告を受けるだけでなく、自らスキラに潜入して自分の目での状況の確認もしていた。

「そうか、お疲れ様。それで、どうだった?」

「この間の戦いでディウティスク国王フリードリッヒが死んでいた」

 パンを持つ竜也の手が空中で止まった。

「――それは確かか?」

「まず間違いない。ディウティスクの騎士様はみんな『トルケマダを血祭りに上げろ』と息巻いている」

「何でトルケマダを?」

 ディアは出されたパンやハムをむさぼりながら、世間話のように竜也に報告した。

「国王は単独でこの町を攻めるつもりはなく、総司令官のフランクの王弟が到着するのを待つつもりだったらしい。でもトルケマダが『敵を攻めないと異端審問にかける』と脅迫して無理矢理戦わせたんだ。そのせいで国王が戦死してしまったから、みんなトルケマダを恨んでいる」

 竜也は「ほう」と感心したように言い、そのまま考え込み、黙り込んだ。ディアは少し不安になったように問う。

「こんな話、役に立つのか?」

「すごく役に立つ」

 竜也は力強く即答した。

「ディウティスク国王が戦死したなんて今初めて聞いた。ディアがいなければその話を聞くのがもっと遅れていただろう」

「そうか、こんな噂話でよければいくらでも集めてやる」

 ディアは少し嬉しげに胸を張った。

「お前への報告は私が直接してやろう」

「ああ、そうしてくれると助かるな」

 ディアの何気ない言葉に竜也が頷く。ディアが「計画通り」とばかりにほくそ笑むが、その顔を竜也は見ていなかった。

「――な、何故あなたがここにいるのです!」

 声のした方へ竜也とディアが視線を向けると、そこには人差し指を突き出したサフィールの姿があった。ディアは偉そうに胸を張る。

「わたしと一族は敵地潜入の依頼を皇帝から直接請け負っているのだぞ? 報告だって皇帝に直接するように言われている」

「そうなのですか?」

 サフィールの詰問じみた確認に竜也は「あ、ああ」とためらいがちに頷いた。

「ですが、わたし達警備の者はその話を聞いていません。一体どうやってこの船に入ったのですか」

「町側に比べて海側の警備は緩かったな」

 ディアは他人事のような物言いでそれだけを言う。竜也は唖然とし、サフィールはその上で剣に手をかけた。

「まさかエレブ人の侵入を許すとは……不覚です」

「確かに普通の人間ではあんな場所からの侵入は不可能だろうが、恩寵持ちならその限りではない。恩寵持ちが敵に回るはずがない、そんな油断があったのだろうな」

 殺気立つサフィールと、得意げな表情を何とか抑えて平静を装っているディア。竜也は「サフィール、ディア」と二人を制した。

「侵入を許したのは不覚だったけど、次から注意すればいい。大事になる前に警備の穴の指摘を受けた、そう思おう」

 竜也の言葉にサフィールは不承不承「はい」と頷いた。竜也は次いでディアへと視線を向け、

「見つからなかったからよかったようなものの、もし見つかっていたら斬り捨てられても文句は言えなかったんだぞ?」

「判っている、もうやらない」

 とディアは手を振った。

「次からはちゃんと正面から入るさ。皇帝の許可が取れたのだからな」

 と不敵に笑うディア。サフィールは八つ当たり気味に竜也をにらみ、竜也は気まずそうに視線を逸らした。





 朝食を終えた竜也はディアを連れて総司令部へと登庁した。竜也はそこでベラ=ラフマからあるニュースを知らされる。

「本当か? それは」

「はい、聖槌軍先鋒指揮官のトルケマダを捕縛しました。トルケマダ自身であることはラズワルドにも確認させています」

 さらにラズワルドはトルケマダの持つ一切合切の情報を全て読み取り、ベラ=ラフマに報告していた。情報源という意味ではトルケマダはすでに出涸らしである。

「いかがしますか? トルケマダと言えばルサディルの惨劇の指揮官であり、ヌビア人にとっては教皇インノケンティウスや枢機卿アンリ・ボケに次ぐ仇敵です。見せしめになぶり殺しにすれば将兵の士気も上がるかと」

「いや、まだ利用価値があるかもしれない。ディアが聖槌軍内の情報を掴んできた」

 竜也はディアをこの場に呼んで今朝と同じ報告をさせる。ディアが自分を無視して竜也に直接報告を上げたことに、ベラ=ラフマは内心では不快感を抱いた。が、それを欠片も垣間見せなかった。

「……なるほど確かに、トルケマダの身柄は聖槌軍に何らかの影響を与えられるでしょう」

「ああ。ただ問題は、どんな影響を与えられるか。それにどうやって影響を与えるか、なんだけど」

 竜也は肩をすくめた。

「……足りませんね」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也が「ああ」と頷く。トルケマダという駒を生かすにはまだ情報が足りなかった。他の駒が足りなかった。が、それは向こうから飛び込んでくる。サフィナ=クロイの港にアニード商会の商船が入港したのはその日の午後のことである。
 連絡を受けた竜也とベラ=ラフマはラズワルドを連れて港に急行した。港に正面から入ってきた商会の商船は抑留され、アニードは海軍の軍船で拘束中という。竜也達は停泊しているその軍船へと乗り込んだ。
 船倉奥の囚人房、トルケマダはそこに入れられていた。ベラ=ラフマは囚人房の扉の前に立ち、中のアニードに声をかけた。

「久しいな。アニードよ」

「お前か……何年ぶりになるか」

 竜也はアニードへの尋問をベラ=ラフマに委ね、自分とラズワルドはアニードの死角に陣取って聞き耳を立てていた。アニードと対面したとして竜也は何を言うべきか判らなかったし、アニードにどんな態度を取られても竜也は困惑するだけだっただろう。
 ベラ=ラフマはアニードに、自分が総司令部で情報収集の任務に就いていることを簡単に説明した。

「お前は今タンクレードの御用商人を名乗っているそうだな」

 その問いにアニードは「ああ」と頷く。

「タンクレードは聖槌軍の中でも有力な将軍の一人であり、聖槌軍は我々ヌビア軍と戦争中だ。それを理解してのその名乗りであろうな」

 アニードは「もちろんだ」と確かに頷いた。

「将軍タンクレードはヴェルマンドワ伯ユーグの懐刀として有名であり、王弟派の中でも五指に入る将軍だ。お前達が枢機卿派と戦う上で将軍タンクレードと誼を通じておく、その意味は理解できるだろう?」

「……我々から見ればどちらも聖槌軍であることには変わりがないのだが。そもそも王弟派と枢機卿派とやらはどう違うのだ?」

「聖槌軍は決して一枚板ではない、その中に無数の派閥があるのだ。その中でも最も有力なのが王弟派と枢機卿派の二つだ。どこの派閥であろうと結局はその二つのいずれかに属している」

 王弟派はフランク王国王弟にして聖槌軍総司令官のヴェルマンドワ伯ユーグを頂点とする派閥。枢機卿派は聖槌軍付き枢機卿にして全ネゲヴ教区統括者のアンリ・ボケを頂点とする派閥である。両者は聖槌軍の主導権を巡って水面下での戦いをくり広げていた。

「アンリ・ボケがケムトまで征服してネゲヴの全ての異教徒を殺し尽くすつもりなのに対し、ヴェルマンドワ伯は早々にこの戦争を終わらせたいと考えている。お前達が、ネゲヴが戦うべき相手は枢機卿派なのだ。王弟派と、将軍タンクレードと手を結ぶことは決して不可能でも無意味でもない」

 アニードは熱を込めた声で訴えた。ベラ=ラフマの恩寵ではアニードが本気で言っているとしか感じ取れなかったし、それはラズワルドも同様である。

「仮にヌビア軍が王弟派に協力して枢機卿派を排除したとして、ヴェルマンドワ伯や将軍タンクレードはこの戦争をどういう形で終わらせるつもりなのだ?」

 その問いにアニードはしばしの間沈黙した。

「……それは私では判らない。だが、アンリ・ボケの主導する戦争でこれ以上戦火が拡大するよりはずっと、ネゲヴ人の犠牲の少ない終わり方になるはずだ」

 そうか、と竜也は得心する。アニードがタンクレードに協力する最大の理由はそれなのだ。タンクレードが枢機卿派を排除できれば戦争の早期終結につながり、ヌビア側の犠牲者もその分減らすことができる。それこそがアニードにできる唯一の償いであり、ヌビアに貢献する唯一の方法なのだろう。
 ベラ=ラフマは無言のまま少し考え、竜也に視線を送った。その視線を受けた竜也は首を縦に振る。ベラ=ラフマは「少し待て」と言い残して一旦その場から立ち去った。数分も待たないうちに水兵がやってきてアニードは囚人房から解放される。応接間に案内されたアニードはそこで改めてベラ=ラフマと対面した。

「王弟派と協力するかどうかはともかく、交渉の窓口を閉ざすべきではないと考えている」

「私にその窓口になれ、と言うのだな。いいだろう、望むところだ」

 ベラ=ラフマの言葉にアニードは力強く頷いた。

「早速だが手土産がある。我々は聖槌軍先鋒のトルケマダを拘束している」

「あの男を……?」

 アニードはその意味が理解できないかのようにしばし呆然とした。

「ディウティスクの恨みを買ってスキラにいられなくなったトルケマダはバール人の商船でエレブに逃げ戻ろうとしたのだ。その身柄を我々が確保した」

「あの男、どこまで恥知らずなのだ……!」

 アニードは憤りに歯を軋ませる。ベラ=ラフマはそれに構わず話を進めた。

「トルケマダは枢機卿アンリ・ボケの右腕として知られている。その身柄は枢機卿派に打撃を与える武器になるのではないか?」

「その通りだ。将軍タンクレードなら最も有効に、的確に使ってくれることだろう」

 身を乗り出すアニードに対し、ベラ=ラフマは冷静に頷く。こうしてトルケマダの身柄はアニードに譲渡されることとなった。
 トルケマダを連れたアニードは意気揚々と西へ、タンクレードの元へと帰っていく。竜也とベラ=ラフマは遠ざかるアニードの商船を港から見送っていた。

「……現時点では王弟派は枢機卿派に対して劣勢にあります。この一手が功を奏すれば、両派は互角に近くなるかもしれません」

「上手く噛み合ってくれるといいんだがな」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也はそう言って頷く。

「我々から見ればどちらも聖槌軍であることには変わりない」

 それは竜也とベラ=ラフマの掛け値なしの本音だった。枢機卿派はもちろん王弟派であろうと、竜也達は宥和策など考えてはいない。竜也達が考えているのは両派の対立を煽り、同士討ちをさせ、聖槌軍全体の戦力を少しでも低下させること、それだけである。

「タンクレードがどのようにトルケマダを使うのか、可能な限り即時把握しなければなりません」

「ああ。銀狼族の役割は重要だ」

 ベラ=ラフマは何か言いたげな顔をするが、結局は何も言わなかった。






[19836] 第三四話「水面下の戦い・後」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/07 21:02




「黄金の帝国」・死闘篇
第三四話「水面下の戦い・後」





「トルケマダの行方、タンクレードやディウティスクの動き、アンリ・ボケの動き。そういったことに重点を置いて情報を集めてくれ」

 竜也直々の指示にディアは張り切って情報収集に当たった。そしてアブの月も中旬に入った頃。
 公邸へと戻り食堂にやってきた竜也は、

「おお、遅かったな。早くご飯にしよう」

 ファイルーズ達と並んで席に着いているディアの姿を見出した。ラズワルド達はディアのことを邪魔者・異物と見なし、メイドや女官もそれに習ってディアの前には茶や料理を用意していない。が、ディアはその仕打ちを平然と受け流していた。
 竜也がディアにも食事を出すよう指示し、メイドが食事を持ってくる。こうして若干の気まずい空気を含みながら、その日の夕食が開始された。

「スキラは今どうなっている?」

「将軍タンクレードがスキラに到着した。あと、トルケマダの行方が判った。アンリ・ボケの元に逃げ込んだらしい」

 竜也は驚きに目を見開いた。

「本当か? それは」

「やけに具体的な噂だったぞ。どこかの誰かが意図的に流したんじゃないかと思う」

「ディウティスク軍はどう動いている?」

「ヴェルマンドワ伯が到着したなら協力を仰いで、力尽くでもトルケマダを引きずり出すべきだ――そんな話になっている」

 そうか、と呟いた竜也はそのまま沈思黙考した。

「やるな、タンクレード」

 竜也はまず感心する。タンクレードはトルケマダの身柄を確保しておきながらそれをわざと逃がし、アンリ・ボケの元へと逃げ込ませたのだ。アンリ・ボケを攻撃するための足がかりとするために。

「フランクとディウティスクが手を組めばアンリ・ボケに対して互角以上になれる。両派の対立が武力衝突まで発展する可能性は充分にある」

 竜也は期待に胸を膨らませた。
 ……そして夕食後。食い過ぎで動けなくなるまで食事を堪能したディアはテーブルに突っ伏して食休み中である。竜也達はまったりと食後のお茶を楽しんでいるところだったが、

「ところで皇帝」

「ん、なんだ」

「その五人がお前の女なのか?」

 ディアの投げ込んだ爆弾が無音のまま炸裂した。何とも言い難い緊張感がその場を満たす。

「……あー、正式な皇妃は今のところファイルーズだけだけど、サフィールにもそのうち皇妃になってもらう」

 竜也のその説明に、

「わたしもそのうち皇妃にしてもらいます。第四です」

 とカフラが付け加える。さらには、

「わたしが第二皇妃」

 と偉そうなラズワルドが、

「わたしは第三皇妃です……」

 と恥ずかしげなミカが続いた。竜也のあずかり知らないところで、序列についてはそのように決着したらしい。
 ふーん、と何やら感心するディアに対し、竜也は頭を抱えている。

「ラズワルドとカフラはともかく、ミカまで……どうしてこうなった」

「わたしに何か不満でも?」

 ミカは気恥ずかしさを怒った素振りで隠した。

「わたしが皇妃となることでタツヤは父上と確固たるつながりを持てます。それはタツヤにとっても父上にとっても大きな利益です。ならば、タツヤが私を皇妃として迎えるのは当然というものでしょう」

「その理屈は判らなくもない。けど、そんな理由で好きでもない相手と結婚するのは間違っている」

 竜也の静かな、だが確固たる宣言にミカはしばし言葉を失った。

「……タツヤ、あなたはもう一庶民ではないのですよ? あなたは皇帝、あなたはヌビアの国主なのでしょう。個人の好悪の感情で振る舞っていいわけがありません」

「俺はそうしているつもりだ」

 と竜也は反発した。

「娘が誰だろうと皇妃が誰だろうと、仕事ができて信頼できる人間には要職を任せるし、そうでない人間にはそれなりの仕事しか任せない。俺はアミール・ダールの能力と人格を信頼して将軍を任せている。ミカがいようといまいとそれは全く関係ない話だ」

「それとこれとは話が違います!」

 ミカは立ち上がって竜也に食ってかかった。

「タツヤは婚姻というつながりの重要性を全く理解していない! アミール・ダールの懐柔なしにどうやって軍を統制するつもりなのです!」

「そんなつながりはナンセンスだ!」

 ミカの指弾に竜也も反撃し、二人は強くにらみ合った。

「とにかく! 俺は俺のことを好きでもない子を無理に嫁がせるような真似は絶対にしない!」

 竜也は口論を打ち切るつもりで断言する。ミカが何をどう反論しようと無視するつもりだったのだが、

「そ、それなら……」

「え?」

 ミカの様子が豹変していた。怒りで元から赤かった顔がさらに赤く、トマトのようになり、目は酔っぱらいみたいにぐるぐると回っている。

「それなら、わたしが、わたしが……」

 ミカがちゃんと言葉を続けるのを竜也は辛抱強く待った。だが、

「――何でもありません! タツヤは馬鹿です!」

 ミカはそう言い捨てて食堂から逃げていく。残された竜也は「何なんだ」と憮然とした。そして、

「あれ、どうした?」

 ファイルーズ達がずっこけたようにテーブルに突っ伏しているのを見て首を傾げた。

「……いえ、何でもありませんわ」

 そう言って起き上がるファイルーズだが、その目はどこか冷たかった。

「何なんだよ」

「いえ、何でもないですよー。ただ、ミカさんの言うとおりだなーって思っただけです」

 と笑顔ながらもどこか目の冷たいカフラ。それはラズワルドやサフィール、ディアにしても同様である。

「……」

 竜也は彼女達に何か言い訳したい衝動に駆られたが、何をどう言い訳すべきかも判らない。竜也にできるのは逃げるように食堂を後にすることだけだった。
 残された面々は、

「ミカさんも意気地がありませんけど、タツヤさんも鈍いですよね。あんな鈍い人だったかな」

 とカフラは首を傾げ、ファイルーズはそんなカフラに苦笑した。ミカの竜也に対する想いは非常に露骨であり誰の目にも明らかなのだが、もし竜也が以前よりも自分に対する好意に鈍感になっているとするなら、その原因は間違いなくカフラとラズワルドの二人だった。

「カフラさんとラズワルドさんの、あんな臆面もないアプローチを延々受け続けていたなら、ミカさんの想いに気付けなくなってしまっても仕方ないかもしれませんね」

 そして、ただの一言で場を好きなだけ引っかき回したディアだが、

「……」

 一連のやりとりを、竜也の振る舞いを注意深く観察し続けていた。今、その瞳にはある決意が輝いている。





 その日以降、ディアは今まで以上に公邸の船に入り浸るようになった。

「ついにヴェルマンドワ伯がスキラに到着した。アンリ・ボケの到着は五日遅れくらいになるようだ」

 ちゃんと情報を持ってくることも多いのだが、それとは無関係に船の食堂に居座って何か食べていることが大半である。ファイルーズ達と並んで夕食を取る姿も当たり前のようになった。

「タツヤ様、あの者をどうするおつもりですか? けじめは付けませんと」

 ファイルーズに尻を叩かれ、竜也もようやく重い腰を上げることとした。恒例のようにディアも含めたいつものメンバーで夕食を取って、その後、

「ディア、話がある。ディアの生活全般については牙犬族に一任しているし、情報収集についてはベラ=ラフマさんに報告してもらえばいい。だから――」

 ディアは竜也の言葉を遮るように「判っている」と頷いた。

「ここに来るより先にちゃんとあの白兎族に報告している。その点については心配するな」

「そ、そうか。それでディアの住むところだけど――」

 が、ディアは竜也の言葉を無視して荷物から何かを取り出し、一同にそれを示して見せた。

「ふふん、これが何か判るか?」

「……首輪?」

 それは鉄製の首輪だった。犬等の動物をつなぐためのものではない。人間用の、奴隷用の首輪である。首輪には十数センチメートルの半端な長さの鉄製の鎖がぶら下がっていた。
 金属同士が連結する音がやけに大きく響いた。ディアが自分の首にその首輪を填め、誇らしげに胸を張る。

「これでわたしは皇帝の奴隷、お前の所有物だ。お前のものなのだから当然わたしもここに住む」

「いやちょっと待て」

 ファイルーズ達の視線が痛みを覚えるくらいに肌へと突き刺さってくる。焦った竜也が、

「俺はディアを奴隷扱いするつもりは」

「まあ待て。これはわたしと一族の安全を確保するために必要なことなのだ」

 意表を突かれた竜也が言葉を途切れさせる。ディアが説明を続けた。

「わたしがこの町に住み、お前達ヌビアの人間と普通に関わっている姿を万が一エレブの人間に見られたなら、わたしは彼等にどう見られる? わたしの一族の者はどうなると思う?」

「……ディアは裏切り者と見なされ、銀狼族の皆は処断されるかもしれないな」

「そういうことだ。だが」

 とディアは首輪と鎖を提示する。

「これがあれば、わたしはここで捕虜となり奴隷となっていると思われるだろう。『敵に捕まってネゲヴの皇帝の慰み者となっている哀れな娘』としか見られないのだ。これなら一族の者に危害が及ぶ心配はいらない」

 竜也はディアの説明の正しさを理解するが、それを受け入れるかどうかは別の話である。竜也は苦り切った顔をした。

「だからってディアを奴隷扱いするなんて悪趣味な真似……何か他に方法が」

「あの白兎族に相談して『これが最善だ』と考え出してもらった案なのだぞ? 他の方法なんかないだろう」

「あの男、余計な真似を……」

 ラズワルドの呟きが竜也の耳にも届いたが本音は竜也もあまり変わらない。竜也は何とかディアを説得しようとした。

「例え形だけでもディアを奴隷扱いするなんて俺は嫌だし、ディアだって嫌だろう?」

「わたしは構わんぞ?」

 ディアが即座にそう答え、竜也は言葉に詰まった。

「それでほんの少しでも一族の者の危険を減らせるのなら、奴隷扱いされることくらい何だと言うのだ? いっそ本当に慰み者にしてくれてもいっこうに構わんのだが」

「そんなことはやらない」

 竜也は若干不快そうにし、ディアはちょっと悔しそうな顔をする。

「確かにまだ背は低いしやせっぱちだが、それは食い物が悪かったからだ。背はこれから伸びるし胸だってあの女くらいには育つと思うぞ?」

 とディアは視線でファイルーズを指し示した。竜也は頭痛を堪えるかのような顔をする。

「だからそんなことはやらないって」

「むしろ望むところなのだが」

「だから……」

「もちろん間違いなく処女だぞ」

「その……」

「ああ、村の女達から男の喜ばせ方についてもちゃんと学んでいる。初めてだが責任を持って満足させてやる」

「……」

「それでは早速今夜からでも」

 竜也が「何の話だ?!」と大声を出し、ディアは驚きに目を丸くした。

「無論夜伽の話だが」

「だから俺はディアにそんなことをやらせるつもりはない!」

 竜也は一旦深呼吸をし、頭を冷やした。冷静になった竜也は別方向からのアプローチを試みる。

「あー、ディア。もしこの戦争がなかったとしたら、ヌビアでもエレブでも平和な時代が続いて、ディアが徴兵されることがなかったとしたら。ディアはどんな男と結婚していた?」

 その問いにディアは少しの間沈黙し、遠い目をした。

「……そうだな。きっとわたしは領主のところに奉公に入っていただろう。奉公とは名ばかりの、領主の慰み者となるためにあちこちの村から集められた娘達と一緒に。わたしは媚態を尽くし、他の村娘を蹴落とし、あらゆる手段を使って領主の歓心を得ようとしただろう――村の皆を守るために」

 過酷なディアの境遇に竜也は言葉をなくしてしまった。ディアは竜也へと笑いかける。

「生娘を食い散らすのが趣味のあの糞領主と比べれば、お前の振る舞いには大いに好感が持てる。持っている権力は比べものにもならん。戦争が始まってお前とこうして知り合えたのは、わたしにとってはまさしく僥倖だったのだ。後はわたし自身の努力でお前の情けを得て、一族の安全を図るだけだ」

 ディアの覚悟に圧倒されそうになる竜也だが、それでも一つ断らずにはいられないことがあった。

「……それは要するに、俺をディアの、寵妃の骨抜きにして銀狼族のために皇帝の権力を私物化させようってことだろう? 俺がそんなことをやるような、いい加減な人間に見えるのか? もし銀狼族がヌビアに不利益をもたらすなら、俺はディアがいようがいまいが銀狼族を滅ぼすぞ?」

「だが、お前は絶対にそれをためらう」

 ディアの指摘に竜也は沈黙する。ディアは不敵な笑みを見せながら続けた。

「『銀狼族がヌビアに不利益をもたらした、滅ぼさなければならない』――誰かがそんな言い出したとしても、わたしがいれば、わたしを通じて銀狼族のことを多少なりとも知っていれば、お前は絶対にそれを避けようとする。

『何かの間違いかもしれない』『本当かどうか確認が必要だ』『滅ぼす以外の方法が何かあるはずだ』……お前は最悪の事態を避けるためにあらゆる手段を取るだろう」

 ディアの指摘はまさに正鵠を射ており、竜也は反論を思い浮かばない。ディアは今度は柔らかに微笑んだ。

「せめて、ヌビアの恩寵の部族と同じくらいには銀狼族のことを気にかけて、親しみを持ってほしい――わたしがお前に望んでいるのはその程度のことなのだ。寵愛を得て国政を壟断するつもりなど毛頭ないから安心しろ」

「ディアとはこうして知り合いになったんだし、銀狼族の皆はよく働いてくれている。その程度は言われるまでもないことだ」

 竜也は何とか反撃の糸口を掴み、ディアに告げる。

「だからディアに夜伽をさせたりはしないし、皇妃だってこれ以上増やすつもりはない」

「今の時点では、だろう?」

 ディアは胸を張って堂々と竜也へと宣言した。

「覚えておけ。狼は狙った獲物は逃さないのだ」

 ……このような経緯を経て、ディアはなし崩し的に公邸に居候し続けることなる。

「今のわたしは皇帝の奴隷だ、物置の片隅で構わんぞ」

 と言っていたディアだがそんな扱いは竜也が認めず、小さいながらも船の一室がディアへと割り当てられた。





 アブの月も下旬となる頃、スキラについにアンリ・ボケが到着した。これで聖槌軍のほぼ全軍がスキラに入城したことになる。

「我が軍の将兵は今どのくらいの数なのだ?」

「は、はい」

 アンリ・ボケの問いにヨアキムという書記官がしゃちほこばって答えた。

「先鋒のトルケマダ隊から始まり、殿軍のこの隊まで、全部で二十箇所で兵数の聞き取り調査をしております。先鋒と殿軍では脱落者の数も大分違うのですが、それでも平均すれば全体の脱落者の割合を算出できるものと考えまして。あとは明らかに異常値を示した隊については計算から除外しまして」

「結論を述べよ」

 アンリ・ボケはあくまで静かに命じるが、ヨアキムはまるで雷に打たれたかのように硬直した。

「ぜぜ、全体の三分の一が脱落して三分の二がこの町に到着したものと……あくまで概算ですが」

 アンリ・ボケは「うむ」とだけ頷いてヨアキムを下がらせた。

「全体の三分の一……確かにそのくらいになるだろう」

 その推定はアンリ・ボケの実感と大きくは変わらない。アンリ・ボケの側近は首をすくめていた。損害のあまりの大きさにアンリ・ボケが怒りを見せるものと思ったからだ。しかし、

「脱落がその程度ですんだことは望外の喜びだ。我が軍の将兵は過酷な征旅によく耐えてくれた」

 アンリ・ボケの言葉に側近はひとまずの安堵を抱いた。だがそれと同時に気まずい思いも抱えている。アンリ・ボケには報告されていなかったが、末端では食人行為が蔓延していること、それを抜きにしては百万の三分の二も生き残れはしなかったことを彼等はよく知っていたからだ。
 似たような会話はユーグとタンクレードとの間でも交わされた。

「三分の二か……何でそんなに生き残っているんだ」

 ユーグの口調には明らかに不満げな響きがあった。一瞬意表を突かれたタンクレードだが、すぐにユーグの思いを理解する。

「確かに、まだ多いですね。食糧はもう残っていないのに」

「ああ。せめて四〇万くらいなら全体の指揮もしやすいんだが」

 先にスキラに到着していたユーグはアンリ・ボケ到着の報告を聞き、アンリ・ボケの元へと向かった。ユーグに同行するのはタンクレードの他、何人ものディウティスクの将軍、それに屈強な近衛の騎士団である。

「場合によってはその場で殺し合いになるかもしれない。あるいは聖槌軍同士での戦いに発展することも」

 それを覚悟したユーグの表情は硬かった。だがたとえ同士討ちになろうとも、アンリ・ボケに対して一歩も引き下がるつもりはない。

「今日こそお前達の最期だ。トルケマダ、そしてアンリ・ボケ」

 一方のタンクレードは聖槌軍を二つに割って戦うことをむしろ願っていた。
 アンリ・ボケの元へ先触れで送っていた騎士が戻ってきて報告をする。タンクレードは戸惑いの表情を浮かべた。

「殿下、枢機卿は中央の広場に向かったそうです」

 報告を受けたユーグも不審そうな顔をする。

「兵士を集めて演説でも打つつもりか? ともかく、我々もそこへ行こう」

 時刻はすでに夕方に近い。ユーグ達が中央広場に到着すると、そこには大勢の兵士が集まっていた。

「道を開けよ! ここにおられるはフランク王国王弟殿下である!」

 近衛の騎士の大音声に兵士が一斉に左右に分かれ、道を作る。兵士の注目を一身に集めながら、ユーグはその道をゆっくりと進んでいった。

「これはこれは王弟殿下、ご機嫌麗しく」

「久しいような気がするな、枢機卿猊下」

 そしてユーグはアンリ・ボケと対峙する。軽く挨拶をしただけなのに冷や汗がにじんできていた。ユーグはその舌鋒をアンリ・ボケへと向けた。

「猊下の元にトルケマダがいるはずだ。あの男を我々に引き渡してもらおう」

「確かにおりますが……少々のお待ちを。間もなく準備が整います」

 アンリ・ボケはユーグに背を向け、広場の中央を見つめた。ユーグがその視線を追うと、

「処刑台か?」

 そこに用意されているのは火刑台だ。二十人分ほどの杭が立ち、薪が山と積まれている。これからそこで行われるのが焚刑であることは問うまでもなかった。

「誰の処刑をするつもりだ?」

 ユーグの問いにアンリ・ボケは答えない。いや、答えるまでもなかったのだ。死刑囚はもうこの場に到着したのだから。

「猊下、お慈悲を、どうかお慈悲を。わたしは猊下のためにずっと力を尽くして」

 処刑執行人に引きずられて現れたのはトルケマダその人だ。トルケマダはひたすら泣き言を、命乞いをくり返している。

「……どういうことだ」

「いえ、この者は殿下の命令を無視して抜け駆けをし、さらには抜け駆けに味方を巻き込んでフリードリッヒ陛下までも戦死させてしまったとのこと。挙げ句にエレブへの逃亡を図って捕らえられたのです。私も長らくこの者と行動を共にしてきました。私の手でこの者を処分するのが慈悲であり、筋というものでしょう」

 アンリ・ボケの説明にタンクレードは唇を噛み締めている。

「これほど簡単にトルケマダを切り捨てるとは。さすがだ、アンリ・ボケ」

 トルケマダを自ら処分することでディウティスクに対する落とし前を付け、ユーグがアンリ・ボケを排除するための大義を奪ってしまったのだ。絶好の機会は失われてしまったが、今の時点ではタンクレードにはどうすることもできない。

「お前達は私の部下だろう! 命令だ、私を助けろ!」

 トルケマダの言葉を無視し、執行人はトルケマダを杭へと縛り付けていく。執行人の一人がトルケマダの耳元でささやくように告げた。

「閣下の処刑が終わったなら次は我々全員が処刑されることが決まっております」

「ならば――」

「できるだけ長引かせますので、閣下も耐えてください」

 それだけを言い残して執行人は離れていく。トルケマダの顔が絶望に塗り潰された。

「助けて助けて助けて」

 トルケマダにできるのは無様に泣きわめくことだけだが、それは何物も動かしはしなかった。ユーグやタンクレードは侮蔑を浮かべるだけだし、見物の兵士達は嘲笑するだけだ。
 執行人が薪の山に火を点す。トルケマダは一際大きく悲鳴を上げ、明るく輝く炎に兵士達は歓声を上げた。
 トルケマダの焼かれる炎を、その熱をアンリ・ボケは頬に受けている。アンリ・ボケの立場としてはこの処刑に対して様々な感情があるのは間違いないはずだ。あるいは侮蔑、あるいは怒り、あるいは安堵なのかもしれない。だが、その顔に浮かんでいるのはいつもの柔和な微笑みだけだ。その顔を凝視し続けるタンクレードだが、その表情からどんな思考も感情も読み取ることができなかった。

「神の兵士達よ、聞くがいい!」

 アンリ・ボケは見物の兵士達に向き直って告げる。兵士達は慌てて姿勢を正した。ユーグやタンクレードも無意識のうちに背筋を伸ばしている。

「エレブに逃げ帰ろうとした愚か者はこの通り地獄へと堕ちた! 我々の後ろに道はない、我々の前にこそ道はあるのだ! 後退は地獄への道、前進は神の国へと道と知れ!」

 アンリ・ボケの言葉に兵士達は粛然とし、ユーグとタンクレードは慄然とした。

「我が軍は前進を再開する! あの川の向こう岸に巣くう異教徒の群れを浄化の炎で焼き払う! 異教徒の巨魁、ネゲヴの皇帝の首級を獲るのだ! 兵士達よ、神の国は今やお前達の目の前にある!」

 戦意を煽られ、高揚させた兵士達が一斉に鬨の声を上げた。アンリ・ボケはその声に満足そうに頷いている。その高揚を共有していないのはユーグとタンクレードの二人だけかもしれなかった。ユーグ達二人は真冬よりも寒々しい思いを抱きながらアンリ・ボケの顔を見つめ続けている。焚刑の炎を背負い、血よりも赤い光に染まったアンリ・ボケの姿は、誰がどう見ても天の使いではなく地獄の使者と呼ぶのが相応しかった。





[19836] 第三五話「エルルの月の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/09 21:05




「黄金の帝国」・死闘篇
第三五話「エルルの月の戦い」





「トルケマダは処刑が始まってから丸一日息があったそうだ。翌日の昼過ぎにわたしが見に行ったときもまだ生きていた。死んだときには下半身が完全に炭化していたらしい」

 場所はゲフェンの丘の総司令部、竜也の執務室。竜也はディアからスキラ偵察の報告を受けているところである。

「トルケマダが死んだ後、トルケマダ隊の主立った幹部が全員火あぶりになった。トルケマダ隊は解体されて、残った兵士はディウティスクの軍に組み込まれることになるらしい」

「多分、全員ひどい目に遭うんだろうな」

 竜也の確認にディアは皮肉げな笑みを浮かべる。

「当然そうなるだろうな。奴隷と変わらない扱いでこき使われるか、最前線で盾の代わりにさせられるか」

 エレブで散々恩寵の民を殺戮してきたトルケマダ隊がこのような末路を迎えたのだ。ディアの村が直接トルケマダ隊の魔手にさらされたことはないらしいが、それでも暗い悦びを抱かずにはいられないようだった。
 そうか、と竜也は天を仰ぐ。

「……やっぱり簡単には同士討ちにならないか。そうそう思い通りにはいかないよな」

「だが、王弟派と枢機卿派の対立がなくなったわけじゃないぞ。衝突の火種はそこら中に転がっている」

 気負ったように言うディアに対し、竜也は冷静さを取り戻したようだった。

「もちろん内訌工作も続けるけど、次は聖槌軍の全力を挙げた、本格的な戦いになる。敵の総攻撃がいつ始まるか、どういう戦法を採るのか、その点の情報収集に力を入れてくれ」

 そして月も変わってエルルの月(第六月)の初旬。聖槌軍のほぼ全軍を動員した、アンリ・ボケ指揮によるナハル川渡河作戦が決行される。本当の死闘はこれからだった。





 この日のアンリ・ボケ指揮による渡河作戦とその迎撃戦は、後日「エルルの月の戦い」と呼ばれるようになる。なお、この戦いの前後から聖槌軍側でも「ネゲヴ」に代わって「ヌビア」という名前が使われるようになっている。

「南岸の連中は自分達の国をヌビアと呼んでいて、これは古いケムト語で『黄金の国』という意味だそうだ!」

「その黄金の国が今お前達の目の前にある! 一億アンフォラの麦が、百万タラントの金銀財宝がそこにはあるのだ!」

 百人隊長の檄に、エレブ兵は高揚のままに雄叫びを上げた。兵士達はその勢いで丸太を抱えてナハル川へと飛び込んでいく。何万というエレブ兵が一斉に対岸を目指して泳ぎだしていた。
 アンリ・ボケが採った戦法はトルケマダのそれとほとんど変化がない。スキラ近隣から丸太を集め、いかだや船にせずに兵士には丸太に捕まって泳いで渡河をさせる。泳ぐ邪魔になるので、ほとんどの兵士は革製の鎧すら身にせずに半裸である。盾すら手にしていない兵が大半だ。ごく一部に鎖帷子を着込んで泳いでいる騎士がいたが、そのうちの半分は渡河最中に溺れ、残り半分はナハル川南岸にたどり着いたところで力尽きていた。

「なんて数だ……!」

 水軍司令官のケルシュは眼前の光景に戦慄する。ナハル川の水面はエレブ兵で埋め尽くされんばかりだった。前回と同じようにエレブ兵に接近し、矢をかけて射殺していく。的はそこら中にあり、狙わなくても当たるくらいだ。だが、敵の数が全く減らない。いや、おそらく減ってはいるのだろうが、それを全く実感できなかった。
 敵の群れに接近しすぎため、敵兵が船に乗り込もうと集まってくる。乗員は得物を弓から剣や斧に持ち替えた。

「くそっ!」

 櫂で殴られた兵が頭部から出血して川に流されていく。櫂をすり抜けて敵兵が船に取り付くが、振り下ろされた斧が敵の手首を断つ。敵兵は船の手すりに手首を残したまま下流へと流れていった。

「ここを突っきるぞ!」

 ケルシュは敵兵の群れを強行突破し、その後は敵の密度の薄い場所を選んで船を進めた。前回とはまるで逆である。不用意に敵兵の群れに突っ込んだ僚船は、群がった敵兵を排除しきれずついには船を乗っ取られてしまっていた。

「ちっ……」

 ケルシュは思わず舌打ちする。

「頭、矢の数が……」

 部下の報告にケルシュはさらに舌打ちした。矢の減り方が予想を超えて早すぎる。

「速度を上げろ、海まで出るぞ!」

 ケルシュは櫂を全力で漕がせ、敵兵の群れを掻き分け突き抜けて突き進む。部下の船がそれに続くが、海に出たときにはケルシュの艦隊はその一割が失われていた。
 ヌビア軍の野戦本部はナハル川から若干離れた高台の上に設置されている。そこにいるのは総司令官のアミール・ダールは言うまでもなく、副司令官のバースイットやツェデクを筆頭とする補佐官や書記官だ。各軍団長は前線で督戦をしており、伝令兵や斥候がひっきりなしに出入りをしている。野戦本部の眼下にはナハル川が広がっており、その川面は今エレブ兵一色に染まっていた。

「一体どれだけいるんだ……」

 書記官達は恐怖を隠しきれない。もしそれが許されるなら彼等はすぐにでもその場から逃げ出すかもしれなかった。
 本部の一角では何人もの書記官が算盤そっくりの計算器具を使い、敵の総数を計算しようと努力している。算出方法は竜也の元いた世界のそれと基本的には変わらず、一定区画の狭い範囲で頭数を数え、その数を全体の面積の比率で等倍するやり方だ。もちろん写真機もないこの世界では精密な計算など望むべくもないが、それでも目安や参考くらいにはなった。
 書記官の一人が計算結果の書かれたメモを片手に竜也とアミール・ダールの前に立ち、動揺に声を震わせて報告する。

「敵の総数ですが……少なめに見積もっても二〇万を越えます。おそらくは二五万に届くものと」

「ご苦労だった」

 アミール・ダールは鷹揚に頷いた。「おそらくそんなものだろう」と竜也も頷く。

「アンリ・ボケのことだから六〇万以上の全軍で渡河を決行するかも、と思っていたんだが」

「可能であればそうしていたでしょう。ですができなかった」

 竜也の独り言のような問いにアミール・ダールが答えた。

「充分な時間と余裕があるなら全員分の丸太を採取してから総攻撃に移ったでしょう。ですがもう食糧がほとんど残っておらず、時間がなかった。サドマやダーラク達騎兵隊の妨害があり、その損害も無視できなかった。時間や手間と兵数とを天秤にかけ、前者を重視したのだと思います」

「二〇万も動員できるなら、普通ならそれで充分だと考えます。相当の大国でも一戦で滅ぼせる兵数なのですから」

 ツェデクの解説にアミール・ダールはやや顔をしかめた。説明は何も間違っていないが、ありのままの真実は抜き身の真剣のように味方を怯えさせるだけだ。その場の空気を入れ換えるべく何か言おうとするアミール・ダールだが、その前に竜也が悠然とした態度で言ってみせた。

「なに、コミケ一日分だと思えば大した数じゃないさ」

 その通りですな、とアミール・ダールが追従するように笑う。さらにバースイットも大笑いし、その場から恐怖の感情は一掃されたようだった。「……コミケって何?」と、その場の誰もが疑問に思いはしたものの。
 同時刻、野戦本部から少し離れた最前線。

「ケルシュ達は敵に大した痛手を与えられなかったようだな。まあこの状態なら仕方ないか」

 今、ノガの目の前にはエレブ兵が川面を埋め尽くす光景が広がっている。敵兵のほとんどが無傷でナハル川南岸へとたどり着いたように見えた。二五万のうち一万が川底に沈んでいようと、見た目の光景に変化はないに違いない。南岸は押し寄せるエレブ兵であふれかえっていた。

「ぐ、軍団長、この数は……」

 ノガの配下の兵士が怯えた様子を見せた。兵士だけでなく百人隊長も、敵のあまりの数に、恐るべき光景に萎縮している。ノガは檄を飛ばした。

「味方だって充分な数がいるんだ、怯える必要はない」

 迎え撃つヌビア軍は総勢一〇万、ほぼ全軍が動員されている。ヌビア兵は鎧を着込み、盾を持った完全武装である。槍を手にする者、剣を持つ者、弓や火縄銃を用意する兵、投石機や大砲、そして原油の充ち満ちた鉄の鍋。迎撃のための万全の体制が取られていた。
 恩寵の部族はそれぞれの部族旗を掲げている。自治都市の出身者ごとの部隊も、それぞれの町にちなんだ旗を掲げていた。様々なデザインの、色とりどりの旗が風を受けて勇壮に翻っている。ノガのナハル川方面軍第七軍団はヌビアの七輪旗を掲げていた。七輪旗を掲げている部隊は他にも多く、ざっと見て翻る旗の三分の一はそれである。
 ノガの第七軍団はその兵士のほとんどが徴兵された市民や農民である。ほぼ全員が実戦は前回の戦いが初めてで、その前回もただ立っていただけでろくに何もしていなかった者が半分以上だった。

「エジオン=ゲベルの兵がほんの千でも、いや、五百でもここにいてくれれば」

 ノガはそう思わずにはいられない。だがすぐに「ない物ねだりをしても仕方ない」と首を振った。ノガは用意しておいた縄を自分の腰に結びつけ、そして川岸の石壁の上に登って仁王立ちとなった。

「いいかお前等! エレブの雑兵くらいものの数ではない! それを今から見せてやる!」

 配下の兵へと高らかに宣言したノガは、そのまま川へと、敵の直中へと飛び降りた。

「軍団長!」「軍団長!」

 百人隊長や兵士が慌てて石壁から身を乗り出した。見ると、川の浅瀬に降り立ったノガが敵兵に囲まれている。焦り慌てるだけのヌビア兵の中で、エジオン=ゲベル出身のノガの部下は慌てず騒がす矢を速射し、ノガに近付くエレブ兵を射殺した。

「ううおおぉぉーーっっ!!」

 ノガが愛用の鋼鉄の槍を振り回し、その一旋で何人ものエレブ兵が喉を斬られ、目を斬られ、あるいは頭部を殴られた。血を流し、悲鳴を上げるエレブ兵がノガの周囲に転がっている。その外側を、剣を手にしたエレブ兵が包囲した。

「エジオン=ゲベルの名将アミール・ダールの第三子、ノガとは俺のことだ! 死にたい奴からかかってこい!」

 ノガの名乗りを受け、複数のエレブ兵が同時にノガへと襲いかかった。だが一合も持たずにノガに斬り捨てられてしまう。散発的に勇敢な、だが無謀なエレブ兵がノガへと突進。ノガがそれを斬り捨てることがくり返された。

「異教徒にも名のある騎士がいるようだな! 我こそモンフェラート伯の騎士、レイモンなり!」

 雑兵をかきわけてレイモンと名乗る騎士が登場する。鎖帷子を身にし、手にした剣はなかなかの業物である。敵の名乗りに対し、ノガは不敵に挑発した。

「いちいち覚えていられるか! 地獄で獄卒に名乗るがいい!」

「言ったな!」

 槍を構えたレイモンが突進、ノガがそれを迎え撃った。エレブ兵がレイモンを援護しようとするが、矢を射掛けられて接近できない。その間に両者の戦いは決着していた。槍の穂先が四合重なり、槍の柄が四合ぶつかる。九合目でノガの槍がレイモンの心臓を貫いた。

「く……無念」

 胸を抱えたレイモンがうつ伏せに倒れる。レイモンの顔が完全に水に浸かるが、レイモンはもう二度と動かなかった。ノガは額の汗をぬぐう。

「あんたなかなか強かったぜ」

 もしレイモンが腹を減らしていなかったら、もしレイモンが渡河で疲れ切っていなかったなら、もし五分で戦うことができたなら――一瞬脳裏を過ぎったその感傷をノガは即座に振り捨てた。ノガは槍を構え直し、接近しようとしていたエレブ兵を視線だけで威嚇する。エレブ兵は凍り付いたように足を止めた。

「お前達何をしているか! 取り囲んで全員同時にかかればいい!」

 エレブの騎士が追加でやってきて指示を飛ばす。その騎士の頭部に矢が突き刺さり、その騎士は絶命した。だが彼の命令は生きている。エレブ兵はノガを包囲せんと動いた。

「そろそろ潮時か」

 ノガは腕を振って合図を送る。それを受けて石壁の上で、十数人のヌビア兵が綱を引っ張った。綱はノガの腰へとつながっている。急激に引っ張られたノガは石壁にぶつかりそうになるが、体勢を変えて壁を蹴った。ノガはそのまま壁を垂直に駆け上がるようにして登り、石壁を乗り越えて地面に転がる。地面に大の字になったノガは気力と体力を使い果たしたように呼吸をくり返した。

「軍団長! 大丈夫ですか!」

「大将、怪我は!」

 ノガは何とか身を起こし、野太い笑みを見せる。

「エレブの雑兵ごときにこの俺がやられるか!」

 ノガを囲む隊長や兵士からは安堵の笑みがこぼれた。立ち上がったノガが一同へと告げる。

「見ての通りだ、数が多いだけのエレブ兵など恐るるに足らん!」

「そうだ! 大将に続くぞ!」「奴等を近づけるな!」

 ノガの奮戦に戦意を極限まで高めた兵士が壁の上に立ちはだかる。壁を登らんとするエレブ兵を矢で、槍で、次々と殺していった。その背後ではノガの巨体が屹立し、第七軍団将兵の戦いを力強く見守っている。それを知っているから兵士達は勇敢に、ときに無謀なまでに戦えるのだ。
 兵士に代わって前線に立ち、自らの手でエレブ兵を撃破することで味方の戦意を高揚させるのはノガだけの行動ではない。ヌビア軍の将官は多かれ少なかれそうしていた――そうすることを余儀なくされていた。ヌビア兵の大半は実戦を知らない素人の兵士なのだから。
 第一軍団では軍団長にして赤虎族族長のセアラー・ナメルが一族の精鋭を率いて敵の直中に突撃。恩寵が尽きるまで雷撃を放ち続け、エレブ兵を打ち倒し続けた。
 第二軍団の軍団長アゴールは鉄牛族の中でも最強の座を争う戦士である。アゴールの得物は長さ二メートルを超え、太さは人の腕ほどもある鋼鉄の棍棒だ。六角形のその棍棒を、アゴールは剛力の恩寵を使って縦横に振り回す。棍棒はかすっただけでエレブ兵の頭部を粉砕、アゴールの通った後には頭部を砕かれたエレブ兵の死体が転がり、死体の道が作られた。
 第九軍団の軍団長ディカオンは名の通った傭兵団の団長をしており、その実績から軍団長に選ばれた。一見では陰気な、目立つところのない男なのだが実際の人柄も非常に陰気で愚痴っぽく、傭兵団でも部下に人気が全くなかった男である。

「全く、何だって俺がこんな面倒を……」

 ディカオンはぶつくさと文句を言いながら矢を放った。一言の愚痴を言う間に三本の矢を放ち、三本ともがエレブ兵の頭部に突き刺さっている。矢の受け渡しを担当する兵がその神業に唖然とした。

「何をしている」

「は、はい」

 兵から三本の矢をまとめて受け取ったディカオンは、

「だいたい俺は団長になりたくなったんだ、それを……」

 目にも止まらぬ早業で矢を速射、やはり矢は三本ともエレブ兵を貫いていた。

「次だ」

 今度もディカオンは矢を三本受け取り、

「もうちょっとで団も潰れるところだったのに、今度は国軍の軍団長なんて……」

 ディカオンの放った矢がやはりエレブ兵を射貫いたことはもう言うまでもない。矢の受け渡しをしている兵は、

「……確かに凄いけど、愚痴らずに矢は放てないのだろうか」

 と思わずにはいられなかった。
 ディカオンは弓の名手として名高く「ケシェットの再来」とまで呼ばれていた。性格的にも能力的にも全く不向きなのに傭兵団で団長で選ばれたのも、ディカオンがネゲヴ全土でも有名な傭兵だったからだ。不向きながら嫌々団長を務めていたディカオンだが、その傭兵団は経営難で潰れそうになる。

「これで肩の凝る団長からはお役目御免か」

 とほっとしていたのに、何の因果か今度はヌビア国軍の軍団長になってしまったのだ。ディカオンとしては、

「愚痴も言わずに矢が放てるか」

 と言いたいところだった。
 この戦いでディカオンは一〇張の弓を使い潰し、二千の矢を放って一九一九人のエレブ兵を屠った、と記録されている。これはただ一人の戦士が殺した敵兵数の最高記録を大幅に――文字通り桁違いに――更新するものとなった。

「大!粉!砕! 大!爆!砕!」

 第十軍団軍団長のタフジールも傭兵団団長としてある意味名の通った男だ。……石壁の上で両手に火縄銃を持って踊り狂っているのがそれだった。

「はーっはっはっは! さあエレブ人どもよ、もっと近付いてこい! そして血と臓物を撒き散らすがよいぞ!」

 タフジールの命令を受けて部下が一〇門の大砲を次々と発射する。砲弾はエレブ兵の真ん中に着弾し、何人ものエレブ兵を粉微塵に砕いた。さらには四〇丁を超える火縄銃が一斉に火を噴き、エレブ兵がばたばたと倒れていく。

「遠慮をするな、撃て! 撃ちまくれ! 火薬代は皇帝持ちだ、こんな機会は二度とない!」

 タフジールが右手の火縄銃を振り下ろすと大砲が発射され、左手のそれを振り下ろすと火縄銃が一斉射撃された。そしてそのたびにエレブ兵が虫けらのように死んでいき、タフジールが、

「大!全!滅! 大!殲!滅!」

 と喜びに舞い踊る。時折思い出したように自分の銃でも銃撃をしたりする。タフジールの傭兵団出身でない、第十軍団のヌビア兵は呆然とそれを見守るだけである。
 タフジールは一介の傭兵だった頃から火力を偏重し火力至上主義を信奉し、その傾向は年を経るにつれて強くなりこそすれ弱くなりはしなかった。元いた傭兵団から独立して自分の傭兵団を作ったときも砲兵と銃兵しか揃えなかったくらいである。あまりに偏っていたため仕事がろくに受けられず、火薬が馬鹿高いこともあってあっと言う間に経営難に陥り解散まで秒読み段階となっていたが、そこに聖槌軍のヌビア侵攻が勃発。そして各軍団の軍団長を決める際にその特徴が竜也の目に止まり、竜也の一声で軍団長に選出されたのである。

「皇帝にこのタフジール様のやり方で勝利を捧げるのだ! この火花、この砲声こそ我が忠誠の証なり!」

 言っていることはもっともらしいが要約すると「好きなだけ火薬を使わせてくれる皇帝素敵! 抱いて!」となる。タフジールはこの日一日思う存分に砲撃を続け、後日送られてきた請求書に竜也は目を回す羽目となった。
 ……早朝から始まった戦いは昼を過ぎ、夕方近くなっても途切れることなく続いている。ノガは食事を取る暇もなく督戦に走り回り、自ら弓を取って敵を殺し続けていた。
 矢を弓に番えるノガに、副官が耳打ちする。

「軍団長、矢の数が……」

「ちっ、もうそんなに減っているのか……あの愚弟、いい加減な計画を」

 ノガは自分の弟に八つ当たりをした。コハブ=ハマーが立てた補給計画はアミール・ダールにも事前に報告されていたし、ノガも目を通していた。そこで誰も文句を言わなかったのだから、彼の計画に不備があったわけではない。矢の消費が万人の予想を超えて早かっただけである。

「仕方がない、弓兵の半分を槍に切り替えさせろ。敵を引きつけて殺すぞ」

 矢による攻撃が弱まり、敵兵は一層南岸へと押し寄せてきた。殺到と言ってもいい。石壁のすぐ下は敵兵が集まりすぎて身動きもままならないくらいである。亡者の群れのようなエレブ兵は、味方を足場にし、踏みつけ、乗り越え、石壁を登ろうとする。本人の意志とは全く無関係に、ただ適当な場所にいたという理由だけで足場にさせられたエレブ兵は、味方に踏みつけられ、踏み躙られ、圧死し窒息死した。文字通りに味方の屍を乗り越え、エレブ兵がようやく南岸へと降り立つ。

「はい、ご苦労さん!」

 そして即座にノガにより斬り殺された。ノガは率先して前に立ち、石壁を越えてくる敵兵を次々と殺していく。ノガの勇姿に味方も発奮し、剣を振るい槍を手にし、エレブ兵を死体へと変えていく。突き落とされるエレブ兵の死体が石壁を登っているエレブ兵を巻き込んで転がり落ちた。
 それでもエレブ兵は石壁を登ろうと次々と押し寄せてくる。まるで味方の損害が目に入っていないかのようだ。

「きりがない」

 さすがにノガもうんざりし「あとどのくらい敵兵が続いているのだろうか」とエレブ兵の後方へと視線を送る。そこでノガはあることに気が付いた。

「――貴様達、何をやっている! 枢機卿のお言葉を忘れたのか!」

 後方に小船が浮かんでいる。船の上では鎧を身にした騎士が立ち、剣を振り回している。どうやら周囲の兵士を叱責し、督戦しているようだった。その騎士に押されるようにしてエレブ兵が南岸へと向かっている。

「おい、あれを持ってこい」

 ノガは愛用の強弓を用意させ、それに矢を番えた。放たれた矢は一スタディアの宙を切り裂き、督戦するその騎士の喉に突き刺さる。その騎士が川面へと倒れ、水に沈んでいった。

「うわぁ!」

 船の周囲のエレブ兵は悲鳴を上げて逃げていく。南岸に離れている場所から波が広がるように徐々に、順番にエレブ兵が逃げていき、やがてのその波が南岸に到達した。エレブ兵が算を乱し、蜘蛛の子を散らすように必死に逃げていく。ノガが担当する部署だけ敵兵の姿がなくなり、奇妙な空白が生まれた。
 あるいはそれが契機となったのかもしれない。戦線の全域で敵の攻撃が弱まった。早朝から丸一日戦い続け、ネゲヴ側の防御はいっこうに崩せず、自軍ばかりが一方的に殺されていく。エレブ兵も限界を迎えていたのだろう。攻撃はどんどん弱まり散発的になり、日が沈む頃には完全に終息。エレブ兵の大半は北岸を目指して逃げていったが、逃げ出す気力も残っていない一部の兵が南岸に留まり、ネゲヴ軍の捕虜となった。





 戦闘中には全く出番のない竜也だが、戦闘終結後にはやるべき仕事が貨車でやってくる。

「うわっ、これ全部捕虜なのか」

 今回の戦闘で獲得された捕虜の数は一万五千に達していた。既に武装解除をしているが、それでも暴発防止のために数万の兵が見張りに立っている。激闘の後も休むことができないまま見張りに動員され、兵はうんざりした顔を見せていた。

「皇帝、この連中はどうしたら」

 と軍団長や官僚も途方に暮れた様子である。竜也は急いで指示を出した。

「捕虜を一箇所に固めておくな、まず二〇か三〇のグループに分けろ。その上で一グループずつ港に向かわせろ。港で捕虜の振り分けをする」

 竜也の指示を受けて各部隊が動き出す。竜也は振り分けの準備のために港へと先行した。
 ……それからしばらく後。エレブ兵の捕虜が一グループずつ港へと向かって歩いている。港では槍を持った兵が道を作るように等間隔に並び、同じように無数の篝火が等間隔に立ち並んでいる。そのような兵と篝火により作られた幅五メートル程の道が何本か用意され、エレブ兵捕虜がその中をぞろぞろと歩いていた。
 その道の外側からは、

「皇帝は慈悲を持って貴様等を捕虜とする! 大人しくしていれば危害は加えない!」

「貴様等には鉱山や山林開拓の労働をさせる! 反抗や反乱を起こさないなら、充分な食料と休養を約束する!」

 と兵が大声で呼びかけ続けている。他にも、

「ヌビアの民間人を殺した者はいないか?! 女を強姦した者は?!」

「裕福な貴族はいないか?! 指揮官は?!」

 と呼びかける兵もあった。
 道の出口にはラズワルドの姿がある。ラズワルドだけでなくその下の女官、総司令部で司法関係の仕事をしている者等、恩寵を持つ白兎族が総動員されていた。
 道から出てきたエレブ兵捕虜がラズワルドの目の前を通り過ぎていく。一〇人か二〇人に一人くらいの割合でラズワルドが、

「これ」

 と指示を出す。それに従い兵が動き、指定された捕虜を別の場所へと移動させる。他の場所でも同じ作業が延々と行われていた。
 捕虜選別の作業に立ち会いながら、竜也は各部署からの報告を受けている。

「銀狼族との接触を試みたのですが、北岸にはまだエレブ兵が溢れているようでした。今夜の接触は断念したところです」

 と報告するのはベラ=ラフマである。

「敵の被害状況は知りたいが、銀狼族を危険にさらすべきじゃない。接触は明日以降で構わない」

 頷いて立ち去るベラ=ラフマと交代にミカが現れる。

「概算ですが今日の矢の消費量と、今後の補給計画です」

 ミカから渡された書類に目を通し、タツヤが呻いた。

「……あと一回こんな戦闘があったら矢玉が底をつくじゃないか」

「はい。何とか供給量を増やさないと、このままでは行き詰まります」

 竜也は書類をにらんでしばらく呻いていたが、やがて方針を決定してミカへと告げる。

「……ジルジスさんとも相談してもう一度補給計画の練り直しを。ナーフィアさんや各商会には俺からも要請をする」

 「判りました」とミカが立ち去り、今度は別の官僚が竜也の前に立った。

「皇帝タツヤ、概算ですが今回の戦闘の被害状況です」

 竜也は手渡された書類に目を通して確認する。

「……戦死者は二千から三千か」

 竜也は目を瞑ってしばしの黙祷を捧げた。戦闘の規模と、敵に与えた損害の大きさを考えればごく軽微と言うべき戦死者数だ。だが少数であろうと、竜也の命令で戦った者達の死を竜也が悼むのは当然のことだった。

「……戦死者名はちゃんと一覧にして残しておくように。遺族には何らかの形で必ず報いる」

 ……竜也は立ったまま報告を受け続け、書類をさばき続けた。空が白み始める頃にようやく仕事が一段落つき、捕虜の選別もほぼ同時に終わっていた。

「それで、どの連中がそうなんだ?」

「はい。あの一団は裕福な貴族、あの一団は百人隊長の騎士達です。残りが西ヌビアの民間人を殺害した者・女を強姦した者、それと反乱や脱走を考えている者達です」

 裕福な貴族・百人隊長クラスの騎士は合わせて数十人である。

「この連中はとりあえず牢屋へ。貴族連中は本国から身代金を取るのに使う。交渉にはバール人商人を当たらせろ、得られた身代金は折半だ。百人隊長の連中には後で尋問をする」

 残りの不穏分子に分類されるエレブ兵は千人以上に上っていた。

「この連中はシャッル達奴隷商人に買い取らせろ。一人一〇ドラクマで構わない」

 竜也が捕虜の処遇を決定し、兵がそれに従い動き出す。それを終え、竜也は徹夜で捕虜を選別し続けた白兎族へと向き直った。

「皆も今日はご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」

 白兎族の一同は疲れ切っていたが竜也の言葉に恐縮する。力尽きたラズワルドは竜也しがみついて立ったまま眠っていた。竜也は眠るラズワルドを抱え、騎馬で総司令部へと戻っていった。





 問題は山積しているとは言えヌビア側は一方的な勝利でこの戦いを終え、その表情も明るかった。それとは対照的なのが一方的な敗北を喫した聖槌軍側である。

「……どうするんだよ。この川が渡れないんじゃ」

「俺達、ここで飢えて死ぬのか……?」

 死闘を経て、かろうじて北岸に戻ってきたエレブ兵は虚ろな表情でナハル川の川面を見つめている。先日の激闘も、川が呑み込んだ幾万の死体も敗北も、何もかもが嘘だったかのように川面は静かであり、戦いの前から何の変化も見られない。まるで海より広い底なし沼を死体で埋め立てようとしているかのようだ。無意味な暴挙に動員させられていることを、その徒労感を彼等は感じずにはいられなかった。
 スキラの建物の大半は解体されて南岸に移設されたが、解体されずに残っている建物も少なくはない。聖槌軍の将兵は分散してそれらの建物を宿舎としていた。残っている建物の中で一番豪奢な建物を宿舎としたのがアンリ・ボケで、一番堅牢な建物を宿舎としたのがユーグである。
 ユーグが宿舎としたのは海に近い、海軍の要塞と見られる施設だ。ユーグはそこでタンクレードからこの戦いについての報告を受けていた。

「……損害は四万から五万になるか」

「はい。戻ってきてから死んだ者も含めれば全体の四分の一が帰ってこなかったことになります。戦死・捕虜・逃亡、いずれかに該当しているものと思われますが」

 少しの時間を置き、二人は同時に重いため息をついた。

「多分、六割から八割が戦死、残りが捕虜だろう。あの戦況ならそれくらいは死ぬ」

 ユーグの言葉にタンクレードが同意する。

「戦いに加わったのも損害を受けたのも、その多くが枢機卿派です。だからと言ってこの結果を手放しで喜んでいるわけではありませんが」

 ユーグは「ああ」と頷く。

「枢機卿派にはフランクの将兵も大勢加わっている。最近感覚が麻痺しているが、五万という戦死者は一国を傾けるに足るものだ。こんな敗北や損害をくり返すわけにはいかない」

 ユーグはフランクの王弟なのだからフランクの諸侯貴族全てが王弟派に属しているか、といえば決してそんなことはない。むしろユーグはフランク諸侯の特権を武威を持って奪った張本人であり、その恨みから枢機卿派に属するフランク諸侯も少なくはなかった。また一方、ユーグに対する恨みは深くともそれ以上に敵対的な諸侯が枢機卿派に属したため王弟派に属した者もいるし、同じ家で兄は枢機卿派、弟は王弟派に属している貴族もいる。ブリトンは歴史的にフランクとの敵対関係が長い国であり、その関係で枢機卿派に属している諸侯が多いが、やはり同じく諸侯間の関係で王弟派に属する者もいる。そして聖職者の間でも派閥があったり勢力争いがあったり協力関係にある諸侯との付き合いがあったりして、決して枢機卿派一枚岩というわけでなく、王弟派に属する者も多かった。

「殿下、そろそろお時間です」

 そこに秘書官が現れて告げる。そうか、と答えたユーグは準備を整え外出する。同行するのは近衛の護衛、そしてタンクレードを始めとする何人もの将軍達だった。
 ユーグが向かったのはナハル川にほど近い、太陽神殿の跡地である。そこにはアブの月の戦い、エルルの月の戦いで聖槌軍の本陣が設置された場所だった。それにユーグの宿舎とアンリ・ボケの宿舎のちょうど中間に位置していることもあり、両者が会談を持つときはこの場所を使うことが恒例となっていた。
 ユーグ達が本陣に到着するとすでにアンリ・ボケの姿がそこにあった。ユーグだけでなくアンリ・ボケもまた鉄槌騎士隊の護衛、枢機卿派の聖職者や将軍を引き連れている。イベルスの将軍サンチョがアンリ・ボケに撲殺されて以降、以前のようにユーグとアンリ・ボケが一対一で対面することは絶えてなくなっていた。

「……先の戦いでは実に多くの将兵がその生命を散らしました。ですが、我々はその死を悼んでばかりはいられません。彼等の献身を無為にしないためにも我々は勝利を掴まなければならない。この苦難が過酷であればその分だけ神の栄光は輝きを増すのです」

 会談はアンリ・ボケの長口上から始まった。内容のない独演会が長々と続き、ユーグは神妙な顔でそれを拝聴しているように装いつつ、右から左へと聞き流している。アンリ・ボケが言っていることは、美辞麗句や大げさな形容詞、虚飾をはぎ取ってしまえば要するに、

「敵は卑怯にも南岸に立てこもっている」

「この状態では誰が指揮を執っても結果は同じだ」

「これを乗り越えて敵に勝つにはより一層の信仰心が必要だ」

「今回負けたのも将兵の信仰心が足りなかったからだ」

 ということだった。ユーグとしては相手にするのも阿呆らしく、反論する気にもなれない。

「……とは言え、私もいたずらに将兵の犠牲を増やすことを望んでいるわけではありません。どうやら王弟殿下には違うご存念がおありのようだが、いかがでしょう? 次の戦いでは王弟殿下に指揮を執っていただくのは」

「僕に?」

 自分を指差すユーグにアンリ・ボケは深々と頷いた。

「ええ。戦争の天才と謳われた殿下の手腕、是非見せていただきたいのです」

 ユーグは一呼吸置き、頷いた。

「――判った。僕が指揮を執ろう」

 会談はそれで終了し、ユーグとアンリ・ボケはそれぞれの帰路に着いた。その道中、歩きながらタンクレードがユーグに、

「枢機卿は色々と言っておりましたが、これは!」

「ああ。要するに『次はお前達王弟派が戦え』ということだ」

 ユーグは肩をすくめ、タンクレードは思わず唸った。

「しかし、このまま戦いを挑んでも先の戦いの、枢機卿の二の舞となるだけです」

「そうだな。何か考えなければならない」

 タンクレードはユーグを諫めようとした。

「負けが目に見えている戦いで無為に兵を損なうより、アンリ・ボケを殺すことを優先すべきだ」

 タンクレードはそう言おうとし、それを喉の奥へと呑み込んだ。ユーグの目は負け犬のそれではない。勝つのは自分だという自信が光となってそこに湛えられている。歩きながら作戦の立案に没頭するユーグの横顔を、タンクレードは深い満足と心からの忠誠を持って見つめ続けていた。






[19836] 第三六話「ザウガ島の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/12 21:03




「黄金の帝国」・死闘篇
第三六話「ザウガ島の戦い」





 エエルの月(第六月)の初旬、ガイル=ラベクから竜也の元にある報告書が届けられた。

「ケムトが艦隊を編成して西へと送り出したらしい」

 その報告書を読み終えた竜也はそれをベラ=ラフマに手渡す。ベラ=ラフマもまたそれに目を通した。

「……三〇隻の艦隊ですか」

「ああ。それにしても、ケムトの目的が判らない。俺達の援軍のつもりなのか、それとも聖槌軍側に付くのか」

 二人の間にわずかばかりの沈黙が流れた。

「ケムトにはイムホテプの部下が送り込まれていますが、しばらく連絡が来ておりません」

「そう言えば『モーゼの杖』を取りに行かせたんだったな」

 メン=ネフェルの聖モーゼ教会が所蔵する聖遺物「モーゼの杖」。聖杖教の伝説上の創始者モーゼが使っていたとされる杖であり、聖槌軍にとっては聖戦の目的の一つにもなっている。竜也達はヴェルマンドワ伯ユーグに対する交渉材料の一つとしてこの杖を手に入れようとしていた。

「……ともかく、ケムト艦隊に対する監視と情報収集を。もし彼等が敵に回るようなら提督に撃破してもらわなきゃいけない」

 三〇隻のケムト艦隊に対し、ガイル=ラベク麾下のヌビア海軍艦隊は百隻以上を擁している。敵に回っても充分勝てる上に、ケムト艦隊がサフィナ=クロイに到着するまであと一月近くを必要とすることもあって、竜也は彼等の動きにほとんど注意していなかった。
 同時期には西ヌビアの動きも報告されている。シジェリの長老がバール人商人に同行しサフィナ=クロイを訪れ、竜也はその長老と面会した。

「難民達が?」

「はい。アドラル山脈や大樹海アーシラトへと逃げていた我が町の民はシジェリへと戻り、復興を始めています」

 バール人商人に確認すると、シジェリだけでなく他の町でも同様に復興が始まっているそうである。

「たくましいのは結構だが……」

 と竜也は当惑する。

「まだ戦争の真っ最中だし、聖槌軍は六〇万も残っているんだぞ?」

 とは言うものの、その六〇万のほとんどはスキラに集中しており西ヌビアは空である。進軍途中で脱落して盗賊となったエレブ兵が万単位で西ヌビアに留まっているが、各自治都市の自警団や以前ダーラク達が結成した遊撃部隊が掃討を進めていた。

「皇帝が約束したお言葉『百万の聖槌軍を皆殺しにする』、我等はそれを信じております。それに、もし敵が引き返してきたとしても今度は戦います。もう二度と逃げません」

 そう息巻く長老の言葉に竜也は「そうか」と頬を引きつらせる。それに気付かないまま長老が話を続けた。

「聖槌軍の略奪により我が町には何も残っていません。このままでは多くの民が飢え死にすることになります」

「判った。総司令部から、この町からの何らかの支援を約束する」

 竜也の約束を得、その長老は安堵の様子を見せた。
 その長老との会見を終え、竜也はジルジス等官僚に指示を出す。

「西ヌビア各町への支援計画を立案しろ。穀物が足りないことはないはずだ」

 サフィナ=クロイ南の郊外に並ぶ倉庫を始めとし、東ヌビア各地には竜也が集めさせた数千万アンフォラの穀物が貯蔵されている。このような事態が来ることを誰よりもいち早く見越し、遠くはケムトやアシューから買い集められた穀物である。

「問題はそれよりも」

 と執務室に戻った竜也はベラ=ラフマと向かい合う。

「西ヌビアの街道や町に人間が戻っていては、西ヌビアを通して聖槌軍をエレブに帰すわけにはいかなくなった」

「最初から一人として帰すつもりはないのでは?」

 とベラ=ラフマが確認する。

「確かにそのつもりだが、事態がどう動くか判らない。ヴェルマンドワ伯と講和して連中が大人しく本当にエレブまで帰ってくれるなら、それだって選択肢の一つだったんだ」

 だがそれはもはや過去形だ。今もしそんな講和をすれば、帰国途上の聖槌軍に西ヌビアの民がもう一度蹂躙されることになる。

「――いや、カルト=ハダシュトから船を使ってトリナクリア島に送り返す手もなくはないかも。でもそれだけの船が」

 なおトリナクリア島は元の世界のシチリア島に相当する。ぶつぶつと一人検討する竜也にベラ=ラフマが、

「講和については向こうから申し出てきたときに考えればいいのでは? 今は予定を完遂して一人も生かして帰さないことに専念すべきでしょう。さいわい、敵は予定通り順調に数を減らしています」

 その言葉に竜也は「まあ、確かに」と頷いた。が、その見通しは大甘だったことを思い知らされる。





 エルルの月も中旬となる頃。聖槌軍による渡河作戦が間もなく始まろうとしている――銀狼族を始めとするベラ=ラフマの情報網は数日前からそれを伝えていた。

「今度の作戦ではアンリ・ボケは引っ込んでヴェルマンドワ伯が全軍の指揮を執るらしい」

 情報を仕入れてきたディアはそんなことを言っており、竜也はアミール・ダールにもマクドにも充分警戒するよう命じていた。
 そしてその攻撃当日。

「……攻めてこないな」

「……どうなっているんだろう」

 敵の渡河作戦が開始されたことは水軍の伝令が知らせてきたが、南岸には敵は一人としてやってこなかった。櫓の上で、石壁の上で、敵を待ち受ける南岸の兵士は姿を見せようとしない敵に苛立ちを示している。

「おい、あれ。ザウグ島じゃないのか?」

 何百人もの兵士が同時にそれに気が付いた。ナハル川に浮かぶ二つの小島のうち、北岸に近い方のザウグ島。そこから煙が立ち上っている。
 それと同時刻、水軍の伝令が「敵が攻撃をザウグ島に集中させている」と知らせてきた。そして半日後にはザウグ島が陥落した事実が知らされた。南岸に集まった十万の将兵は敵に一矢として放つことなく、ザウグ島が陥落するのをただ見守っただけ――それがその日の戦いの全てだった。
 その日の夕刻、野戦本部。ザウグ島の要塞には千人の兵が詰めていたが、そこから脱出し生きて南岸にたどり着いたのは一〇人に満たなかった。そのうちの一人が報告のために野戦本部にやってきている。竜也とアミール・ダール、そして各軍団の軍団長を前に、その兵は傷ついた身体を平伏させていた。鎧は未だ川の水に湿り、頭や腕に血の滲んだ包帯を巻いている。

「楽にしてくれ。何があったかを話してほしい」

 アミール・ダールの言葉を受け、その兵はザウグ島の戦いについて語り出した。

「……これまでの戦いでは、敵のほとんどはザウグ島を素通りしていました。我々は島の近くを通る敵に矢を放って一方的に殺すだけで、ザウグ島にわざわざ上陸しようとする敵はいなかったのです。ですが今回、敵はザウグ島に押し寄せてきました。矢を使って殺しても殺しても殺してもきりがなく敵がやってきて、ついには矢玉が底を付いて敵の上陸を許してしまいます。

 ザウグ島の陥落が免れないと判断した指揮官のジャッバール殿が油を使って島中に火を放ち、兵は各自で脱出させたのです。ですが島全体が何重にも敵に包囲されていました。味方がどんどん敵に殺されていって……私がどうやってあの囲みを突破したのか正直よく覚えておりません」

 アミール・ダールが「ご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」といたわり、その兵は衛生兵に抱えられるようにして野戦本部を退出する。それを見送っていた軍団長達は、やがて沈鬱な顔を見合わせた。

「……あるいはこういう手で来るかも、とは思っていたが」

「実際にやられると、痛いな」

「ザウグ島にもっと兵を配置すべきだったのか……」

「いや、あの小さい島にこれ以上の兵は置けはしない」

「それに千を二千に増やしたところで、幾万の敵には対抗できんだろう」

「ならば、残ったザウガ島はどうするのだ。敵が同じ手を使えばあの島だって陥落は免れん」

「ザウグ島はジャッバール殿ですら守り切れなかったのだ。ムァッキール殿でザウガ島を守れるとはとても思えん」

 ジャッバールは小さいながらも傭兵団を団長として経営してきた実績を持ち、勇猛果敢で知られた人物だった。その一方ムァッキールは、一応元傭兵らしいが実は前歴がよく判らない人物だった。

「何でもいいから閣下と呼ばれる身分に」

 と本人が熱心に運動し、西ヌビアと東ヌビアの都市間のせめぎ合いやら派閥工作やらアミール・ダールに対する牽制やらと様々な要因が加わり、気が付いたら指揮官の座が彼の元に転がり込んでいたのである。この人事が公布されたとき、彼を知らない誰もが「ムァッキールって誰?」と、彼を知る誰もが「なんであの男を?」と首をひねったと言われている。

「いっそ、ザウガ島から兵を撤退させれば」

 沈黙を守っていたアミール・ダールへと一同の視線が集中する。一同が期待で静まり返る中、アミール・ダールが重々しく口を開いた。

「……ザウガ島からは撤退しない。あの島を守り抜くのだ」

「将軍、理由を訊いてもいいか?」

 竜也に質問され、アミール・ダールが説明する。

「我々にとっての勝利は敵が飢えで身動きできなくなることです。既に敵の全軍・六〇万の兵がスキラに集中しており、そしてスキラにはどこからも食糧が入ってきません。これからは時間が我々の味方なのです。敵に無為に一日を使わせ、一日分の食糧を費やさせること、それは大げさに言えば一万の敵兵を屠ることに匹敵する戦果です。時間を稼ぐことこそが我々の戦いなのです」

 軍団長達がアミール・ダールの言葉を腑へと落とし込んでいく。勇ましく戦いを仕掛け、華々しい戦果を上げること望む者は軍団長の中にも少なくない。だが彼我戦力差は彼等も嫌と言うほど理解している。積極的に支持する熱意は見られなかったが、アミール・ダールが示した基本方針に反対する者は一人もいなかった。

「……ですが、あのムァッキール殿にザウガ島を守り抜くことができるでしょうか?」

 とアミール・ダールの長男のツェデクが疑問を呈し、何人かがそれに同調した。なお、この時点でムァッキールは「胃痛と歯痛と腰痛を併発した」と言い出し、千の兵を置き去りにして一人サフィナ=クロイに戻ってきている。

「あの男のことはもういい、更迭する」

 アミール・ダールの煩わしげな断言にその場の全員が無言のまま同意した。だが問題はまだ残っている。

「……それでは、後任は誰を?」

「玉砕覚悟で要塞を死守するなど、ムァッキールでなくても困難だ」

「並の指揮官では兵が逃げ出すのを止められまい」

「しかし、それなら誰が……」

 誰かの言葉に、一同は気まずそうに目を伏せる。この場の誰もが自分の武勇、あるいは知略に相応の自負を抱いている。だがそれでもこの過酷な任務を引き受けたいと思う人間は当然ながら一人もいない――ように思われた。

「父上! ムァッキールの後任に俺をザウガ島の指揮官に!」

 叫ぶようにそう言いながらアミール・ダールの前に進み出たのはノガである。一同が驚きに目を見張る中、

「判った、ノガ。頼む」

 アミール・ダールが即答する。ノガは血走った目をアミール・ダールへと向け、無言で力強く頷いた。
 その光景を見守る竜也は何か言おうとして、結局何も言えなかった。アミール・ダールが自分の息子を軍団長に任命していたのはこのような事態を見越してのことなのだから。ツェデク達の軍団長としての能力を信任しているのは間違いないが、決してそれだけではない。他人には任せられない重要な任務のために、あるいは他人に押し付けるには忍びない過酷な任務のために。気心の知れた身内にしか任せられない仕事というのは確かにあるものなのだ。

「――軍団長としてこの場にいるのは俺と兄貴だけ。長男の兄貴ではなく三男の俺が指名されるのは間違いないし、だったら父上から指名される前に自分から手を挙げるのが男ってもんだろ」

 ノガは自分に自分でそう言い聞かせた。その上でそれ以上は考えないようにする。考えるべきはエレブ兵とどうやって戦うか、ただそれだけだ。
 ノガはザウガ島に連れていく兵を新規に集めることにした。ノガがその日のうちにミカやマアディーム達に依頼する。

「各軍団や補助兵からできるだけ年かさの兵を。それと、兵に志願していながら結局採用されなかった五十歳以上の人間を集めてくれ」

 ヌビア軍は「十五歳以上・五十歳以下の男」という条件で兵が集められている。ノガは「若い奴を死なせるのは惜しいから」とできるだけ年かさの兵を集めようとしたのだが、

「お主がノガ殿だな。望み通り死に損ないばかり集めてやったぞ」

 数日後、ノガは自分の前に集まった数百人に当惑する。ノガは「五十前後の年代の兵」を想定していたのだが、そこいたのは若くても六十手前、上は八十に届こうかという老兵ばかりだった。
 それら老兵を集めたのは金獅子族族長のインフィガル・アリーである。

「確かに明日にもお迎えが来そうな老兵ばかりだが、全員が恩寵を持つ戦士だ。心配せんでもその辺の小僧よりはよほど戦える。軍に志願したのに年齢を理由に採用されなかった連中を、こんなこともあるだろうと集めておいたのだ。心置きなく使い潰してくれればいい」

 とインフィガルは胸を張る。兵を集めるのにこれ以上時間を使うこともできず、ノガはその老兵軍団を率いるしかなかった。
 そして翌日、ノガ率いる老兵軍団がザウガ島へと赴くために南岸に集まっている。竜也、アミール・ダール、ミカを始めとするノガの兄弟、ノガの部下、サドマ等各部族の者等、大勢が見送りに来ていた。

「兄上……」

 とミカが涙し、竜也は思わずその肩を抱いていた。

「皇帝タツヤ、妹を頼む」

 とノガに言われ、条件反射で頷く。
 一方インフィガル・アリーは見送りに来ていたサドマに闊達に笑いながら告げる。

「族長の地位は貴様に任せる。今日からお前がサドマ=アリーで、儂はただのインフィガルだ」

「……判りました。金獅子族とヌビアのことはお任せを」

 とサドマは唇を噛み締めた。
 数刻後、水軍の船に分乗した老兵軍団がザウガ島へと出発した。ノガとインフィガルは一番最後の船に乗船する。最後のその船が岸辺から離れ、少しばかり川の中へと進んだところで、

「ああ、ところでノガ殿」

「何か」

 声をかけられて振り向こうとしたノガの尻を、インフィガルが蹴飛ばす。ノガはそのまま船から転がり落ちた。
 何とか水面に顔を出したノガを置いて、船が先へと進んでいく。ノガは立ち泳ぎをしながら大声を出した。

「インフィガル殿! 何を――」

「悪く思うな、ノガ殿! ここから先は三十にもならん小僧の出る幕ではないのだ!」

「ザウガ島は五十以下は立ち入り禁止だ!」

 インフィガル達の笑い声を尾に引いて船は先へと進んでいく。その場には「くそっ!」と悔しがるノガが残された。見えなくなるまで水の中から船を見送り、ノガは気まずい思いを抱えながら岸辺へと戻る。幸いミカ達兄弟や第七軍団の部下達は、のこのこ戻ってきたノガを喜んで迎えてくれた。





 一方同時期。ナハル川北岸のスキラでは久々の勝利に将兵が明るい顔を見せていた。

「さすがは王弟殿下だ。こんなに簡単に敵から島を奪い取るなんて」

「この調子なら南岸にだって手が届くだろう。そうしたらやっとまともに飯が食える」

「やっぱり坊主が軍の指揮にくちばしを突っ込むとろくなことにならない、ってことだな」

 そんな声がタンクレードの耳にも届いている。当然ながらアンリ・ボケの耳にだって入っているだろうが、アンリ・ボケは今のところ特に反応を示さなかった。

「もう一つの島も確保してしまえば渡河もそれだけ容易となる。だが、正直言って正面からこの川を越えるのは無理なんじゃないかと思う」

 ユーグは二人きりのときにタンクレードにそう打ち明けていた。

「それでは、あの島を確保したのはアンリ・ボケに政治的に対抗するためだと」

「その理由の方が大きいな」

 とユーグは朗らかに笑った。

「大損害を出して敗退した枢機卿に対し、僕は小さくとも確実な勝利を得ている。次でも僕が勝てば、枢機卿が僕の行動を掣肘するのは難しくなるはずだ」

「それではもう一つの島を落としますか?」

 ユーグは「ああ」と頷いた。

「落とした二つの島は枢機卿に任せてしまって、僕はトズルを抜くことに全力を使いたい。トズル側からでないとナハル川を渡るのはまず無理だ」

 トズルの重要性はアンリ・ボケも理解しており、枢機卿派に属する一軍を派遣している。だがユーグが自分でトズルを攻略したいと意向を示しても、

「殿下には聖槌軍の総司令官として全軍に目を配っていただく必要があります。細かな区々の戦闘は配下の将軍にお任せください」

 等と、適当な理由で却下されていた。

「奴は殿下が勝利を決定づけることを怖れ、それを避けようとしているのだ。殿下が自由に動けるのならこんな戦争はすぐに終わるものを……」

 タンクレードは忌々しさのあまり舌打ちした。アンリ・ボケを謀殺する方法をいくつか夢想するが、それをすぐに放擲する。今考えるべきはザウガ島の攻略だった。





 エルルの月が後半に入った頃、聖槌軍によるザウガ島攻略が開始された。
 先日の戦闘で大きな被害を受けたケルシュの艦隊だが、アミール・ダールの判断により優先的に人員・艦船の補充を受けている。ケルシュの艦隊の半分は最大戦速で渡河途中の聖槌軍に突っ込み、至近距離から矢で敵兵を殺していく。敵が目の前にいても進路を変えずに突き進み、舳先で敵を轢き殺した。
 艦隊のもう半分はザウグ島への攻撃を担当している。自分の船の前方に一回り小型の船を配置、二隻の船を長めの丸太で連結する。前方の船は無人にして、油の入った瓶・火薬・藁・薪を満載にした。
 前後に連結された二隻一組の奇妙な船、そのような船が何組もザウグ島へと向かっている。それ等の船はそのままザウグ島に突入し、前方の船が島に上陸。それと同時に船に満載された燃料が燃え上がり、後方の船は丸太を切り離して即座に後退。後には炎に包まれるザウグ島が残された。
 ザウグ島を中継地点・休憩地点としようとする聖槌軍の出鼻をくじき、ヌビア軍は矢による攻撃を続けている。今回は海軍の軍船の何隻かが川を遡上し戦闘に加わっていた。

「もっと島に近づけろ! 心配するな、あんな裸同然の連中にこの船は堕とせん!」

 第一艦隊司令官のフィシィーが部下に命ずる。海軍の軍船はケルシュの艦隊のように小回りは利かないが、防御の面でははるかに勝っていた。フィシィーの船が川に浮かぶ聖槌軍の兵を蹴散らしながら、下流側からザウグ島へと接近。炎に追われて島の端に逃げてきている敵兵めがけ、矢で攻撃を開始した。密集している敵に矢は次々と突き刺さり、敵はばたばたと倒れていく。だがエレブ兵は燃え残った木材を組み、防壁を作って矢を防いでいた。

「あいつ等、なんて真似を……!」

 フィシィーはその光景に慄然とした。数少ない木材を単に組んだだけでは防壁にも何にもならない。エレブ兵は味方の死体を木材に立てかけ、縄で結び付けて防壁にし出したのだ。中にはまだ生きているのに、矢が刺さっているからと肉の壁にされている兵の姿もあった。
 泣きわめく味方を盾にして矢を防ぎ、突入船の燃料が燃え尽きて火が消し止められる。聖槌軍はザウガ島への攻撃に本腰を入れた。

「――来たか」

 インフィガルはザウガ島の砦から川面を見下ろしている。島の周囲は敵兵により埋め尽くされようとしていた。それを迎え撃つのは、元からいた守備兵と補充の老兵軍団、合わせて千名である。

「なかなか大したもんじゃのう!」

「孫に土産を頼まれとるんじゃが、何がいいかのう」

「ここにはエレブ兵の首くらいしかあるまい」

「あんなもん、誰も喜ばんじゃろう!」

 老兵達は軽口を叩きながら弩を使って敵を二、三人まとめて射貫き、矢を使って敵兵を屠った。だが敵兵の数は圧倒的だ、到底全員は殺せない。エレブ兵は木製の壁に取り付き、這い上ろうとしていた。

「臭い、臭いのうお前さん等。これで身体を洗わんかい!」

 老兵が煮えたぎった熱湯を敵兵に浴びせ、敵兵は悲鳴を上げながら転がり落ちた。
 さらには、

「まだまだ若い者には負けんぞい!」

 インフィガル等金獅子族が外撃の恩寵を、赤虎族が雷撃の恩寵を使って接近したエレブ兵を打ち倒す。エレブ兵がこれまでとは違う種類の恐怖の表情を見せた。

「あ、悪魔め! 貴様等のような魔物は生かしてはおけん!」

「神に逆らう魔物め、呪われるがいい!」

 その罵声を浴びた赤虎族の老兵が前に進み、一際巨大な雷撃を放つ。その一撃でエレブ兵の数人が焦げて死んだ。その老兵が静かにエレブ兵に告げる。

「――これは我等が守神様、赤虎の神の恩寵じゃ。お前さん等の信じる聖杖教の神はどんな恩寵を授けてくださる? 一つ儂にそれを見せてくれんか?」

 エレブ兵は息を呑み、歯を軋ませた。そして、

「殺せ!」

 と攻撃を再開する。力を使い果たしたその老兵は、

「なんじゃい、何の恩寵もなしかい?」

 とさっさと後退する。

「恩寵の一つも授けられんとは、大したことはないのう! 聖杖教の神も!」

「きっと阿呆を騙すのが聖杖教の司祭が持つ恩寵なんじゃよ!」

「おお、なるほど! そうに違いない!」

 老兵の嘲笑を浴び、激怒したエレブ兵が見境なく壁を登ろうとする。そして矢で射られて川に転がり落ちた。
 ……朝から始まった戦いは夕方近くになってもまだ続いている。
 エレブ兵は味方の死体を盾にして砦の側まで接近、そこで死体を捨てて一気に壁を登って乗り越える。その途中で槍で突き殺される者が大半だったが、一部はそのまま砦内部への突入に成功していた。

「ご苦労なことじゃったな!」

 そして牙犬族の老剣士が敵兵を斬り伏せる。倒した敵兵と、殺された味方の老兵。敵味方の死体で狭い砦の中は足の踏み場もないような状態となっていた。
 また一人のエレブ壁が砦を乗り越えて砦内部に侵入、疲れが溜まっていたのか、血で滑ったのか、足をもつれさせた老剣士が敵兵の槍を腹に受けて絶命する。その敵兵は背後から別の老兵に斬られて血に沈んだ。

「そろそろこの宴会も終わりかのう?」

「まー、いい加減飲み飽いた頃じゃな!」

 と老兵等が軽口を叩き合う。砦内部に侵入する敵兵が増えており、既に味方の半分は戦死しているようだった。

「まだ矢が沢山残っておるわ! これがなくならん内には宴会は終わらんぞ!」

 とインフィガルが一同を叱責する。一同は最後の力を使って発奮した。

「よし! ならばとっとと使い切ってしまおうかい!」

「そうじゃの! そうすべきじゃ!」

 老兵達は矢を弓に番え、次々と撃ち放つ。残った力を振り絞った総攻撃である。一方聖槌軍側も日没間近なので最後の総攻撃をかけようとしていたのだが、その出鼻をしたたかに叩かれてしまった。

「これだけ戦い続けて、まだあれだけの力が……!」

 聖槌軍側にも既に限界が来ていたのだ。急速に士気の下がったエレブ兵は戦闘を忌避し、攻撃は弱まってしまう。

「? どうしたんじゃい?」

 インフィガル達が戸惑っているうちに攻撃は次第に散発的になり、ついには日が暮れて停止した。エレブ兵がザウグ島へと、北岸へと泳いで引き上げていく。

「……勝ったのかの?」

「……どうやらそうみたいじゃな」

 勝ち鬨を上げる力も残っておらず、全員がその場にへたり込む。砦の内部は敵味方の死体で溢れ返っており、味方の半分以上が死者の列に加わっていた。






[19836] 第三七話「トズルの戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/14 21:03




「黄金の帝国」・死闘篇
第三七話「トズルの戦い」





 暦は少しだけ遡り、エルルの月の中旬。ナハル川の防衛線で聖槌軍の総攻撃によりザウグ島が陥落した頃のこと。それより一日だけ遅れ、トズルもまた聖槌軍の攻撃に曝されようとしていた。

「――来たか」

 マグドはトズル砦から山の裾野を見下ろす。蟻の群れのように大地を埋め尽くし、蠢いているのは数万の聖槌軍である。エレブ兵は最初の関門を打ち破るべく突撃し、奴隷軍団は矢や火縄銃で懸命に防戦している。
 櫓の上から矢を放ち、銃撃をくり返すヌビア兵。加熱され、火を点けられた原油を柄杓を使ってぶっかけ、エレブ兵を怯ませる。エレブ兵は前回の戦いの時と比較すれば士気が低いように思われた。大して防御力が高いわけでもない第一の関門に手こずっている。
 だが聖槌軍は士気の低さを圧倒的な数で補った。予定よりは時間を稼げたものの、ヌビア側は関門を維持できなくなってしまう。

「第一の関門から兵を撤収させろ。第二の関門で迎撃する」

 マグドの命令に従い第一の関門から兵が退去。エレブ兵が門扉を打ち破っている間に第二の関門まで撤収し、体勢を立て直した。聖槌軍は第一の関門を突破すると、休む間もなく第二の関門攻略に取りかかる。
 石材と木材で築かれた山城にも等しい関門が五つ。馬防柵や土嚢、茨の木を積んだだけの簡易的な関門が一〇。聖槌軍はそれを一つ一つ正面から攻略する他なく、損傷と消耗を強いられた。日が暮れても関門は半分程度しか突破できず、聖槌軍は一旦山の裾野に下がって夜営せざるを得なかった。
 一方トズル砦。砦内の一角には捕虜のエレブ兵が集められている。捕虜は戦闘中に獲得した者・撤収中の聖槌軍を襲撃して拉致してきた者等であり、その中でも地位の高そうな者が選ばれ、マグド達の前に引きずり出されていた。
 縄で縛られ、地べたに座らされているのはかなり地位の高い、指揮官の幕僚と見られる人物だ。その騎士は縛られ、鎧や顔は血や泥で汚れながらも、怯む様子を見せることなく毅然とマグド達と向かい合っていた。

「……今回トズル攻略に動員されている兵はどのくらいだ? 俺の見たところ四万はいそうだが」

 マグドの問いに、その騎士は嘲笑に口を歪めるだけでその口を開くことはない。マグドは自分の背後をわずかに振り返った。そこに立っているのは、夜でありながら顔の半分を隠すくらいにフードを深々と被った、怪しい男である。そして、そのフードの頭頂部に空いた二つの穴からはウサギの耳が突き出ていた。

「将軍、質問は『はい』か『いいえ』で答えられるものでないと」

 ハキーカというその白兎族の言葉にマグドは「思ったより不便なものなのだな」と感じながら、尋問の仕方を変える。

「兵の数は四万を越えるか?」

 その騎士は嘲笑を浮かべたままだったが、その中にわずかに怪訝な思いが覗いていた。ハキーカがマグドに何か囁き、マグドが再度問う。

「もしかしてお前も正確には知らないだけなのか。多分四万は越えているだろう? まさか五万には届くまい」

 マグドがハキーカに視線を送るとその男が頷く。騎士の表情は嘲笑よりも怪訝な思いが強くなった。

「次の質問だ」

 マグドは地面に木の枝で簡単な絵を描いた。

「これが聖槌軍の陣地だ。おそらくここが本陣で、兵は千くらいに分散してこんな感じで夜営をしている」

 マグドがその騎士の瞳を覗き込む。騎士の表情からは嘲笑が消えていた。理解しがたいものを見るかのようにマグドに視線を返している。

「食糧はどの辺で保管している? 俺だったらこの辺に補給部隊を配置するが……」

 マグドの持つ木の枝が陣地の絵の上でゆらゆら動き、ある一点で止まった。その騎士はかすかに冷や汗を流しながらも無表情を決め込む。だがそれは無駄な努力である。

「そうか、この辺か。それじゃ食糧は何日分だ? 少なくとも一〇日分はほしいところだが、そんなにはないだろう」

 マグドは根気よく質問をくり返し、時間はかかったがその騎士が有する情報を全て引き出すことに成功した。尋問が終わった頃にはその騎士は恐怖のあまり半分くらい錯乱状態に陥っていた。知る限り全ての聖杖教の聖句を唱え続けるその騎士を、兵が牢屋へと引きずっていく。哀れな騎士の姿を見送りながら、マグドがハキーカに向き直った。

「お前さんのおかげで色々と手間が省けた。礼を言おう」

「それには及びません。私は皇帝クロイの命令を果たしただけです」

 そう言いながらもハキーカはどこか誇らしげである。竜也は捕虜尋問のために白兎族をトズル砦にも派遣するようベラ=ラフマに指示。ベラ=ラフマが選んだのは、恩寵の強さでは一族の中でも上位に位置するその男だった。

「カントールに伝令だ。聖槌軍の陣地への夜襲を要請する」

 マグドは伝令を呼び、得られた全ての情報を持たせて出発させる。伝令は連絡船を使って聖槌軍を迂回し第三騎兵隊と接触した。そして明け方。夜明けと同時にマグド率いる奴隷軍団とカントールの指揮する第三騎兵隊が同時に聖槌軍の陣地を襲撃。マグド達が敵の注意を集めている間にカントール等騎兵が陣地内深くに侵入。敵の荷駄を破壊・放火し、風のように速やかに撤収した。
 そして翌日、聖槌軍の攻撃が再開される。

「今日中にここを落とす!」

 聖槌軍は保有兵力を総動員して関門攻略を進めていく。元々乏しかった食糧が夜襲により七割方失われてしまい、聖槌軍は追い詰められていた。撤収か、それとも今日明日中にトズルを攻略するか。彼等にはその二択しか残されていない。

「あの砦には食糧が唸るほど貯蔵されている! 砦を攻略できたなら思う存分食わせてやる!」

 聖槌軍指揮官のボエモンはこの状況自体を背水の陣とし、兵に力の全てを絞り出させようとする。兵もそれに応え、死力を尽くして戦っていた。だが関門の攻略は順調には進まない。

「敵はまるで時間を稼ごうとしているかのようだ」

 とボエモンは苛立った。そしてそれは正解である。

「無理に敵を殺さなくていい! 身を守ることを優先させろ、とにかく夜まで時間を稼げ!」

 マグドは部下のそのように命令していた。奴隷軍団の兵はそれに従い、亀のように関門に首を引っ込める。そして散発的に激しい攻撃を行い、敵の気勢をかわして時間を稼ぐことに徹し続けた。
 それでも関門は一つ、また一つと落とされていく。日が完全に沈んだ頃には、砦本体の他に残っているのは最後の関門一つだけとなった。聖槌軍はこのまま最後の関門攻略に取りかかろうとする。だが、

「門が……」

「もしかして……」

 最後の関門は門扉が開け放たれたままになっていた。前回のトズル攻略に参加した兵はこの場には一人もいないが、それでも前回どのようにして負けたかを知らない者は皆無である。水流の幻影を脳裏に描き、兵は足をすくませた。

「貴様等何をしている! あれが最後の関門なんだぞ!」

 ボエモンが兵を叱責し、ようやく兵が足を前に運び出す。が、それ以上前進は続かなかった。

「水が――!」

「水だ! 水が来た!」

 山道の上から水が流れ落ちてきたのだ。水流の量はごくわずかで、兵の足下をわずかに濡らし、山道を泥の道にしてそれで終わりである。だがエレブ兵にはそれで終わりだとは到底考えられない。

「堰だ! 奴等が堰を切ろうとしている!」

「完全に切れる前に逃げるんだ!」

「早く! 早く逃げないと!」

 最前列で発生した流言と恐慌は音速で全軍に伝播する。四万の軍団が流言で崩壊し、算を乱して逃げ出した。四万の兵が坂道を転がるように逃げていき、そのうち千を越える兵が転倒して味方に踏み潰され、原形を留めない無残な死体となった。怪我を負った者はその数倍に達する。

「逃げるな! 水など来ていない! 戦え!」

 最前列から逆に最後尾となった山道の上ではボエモンが懸命に兵を押し留めようとしているが、聞く耳を持つ者は少ない。ヌビア兵の追撃部隊が現れ、攻撃を加え出すと、その場に留まろうとしていた兵も結局逃げ出してしまった。

「……魔物どもめ!」

 ボエモンは最期にそんな言葉を残し、奴隷軍団の追撃部隊の波に呑まれ、果てていった。指揮する者がいなくなり、兵は逃げ出す一方である。山道を転がり落ちるように裾野まで逃げてきた聖槌軍に、カントールの第三騎兵隊が横撃を加える。聖槌軍は軍団としての統制も、武器も使命も誇りも何もかもを放り捨て、スキラへと逃げ出していった。
 一方トズル砦では再びの戦勝に大いに沸き上がっている。しかも今回は切り札を使わなかったのだ。

「思ったよりも上手くいったな」

「ええ。見事に騙されてくれました」

 マグド達は切り札の堰とは別に小さな貯め池を作っており、今回決壊させたのはその貯め池の方だったのだ。貯水量は小学校のプール程だが、敵を勘違いさせるくらいのことは可能だった。

「……さて。ここまでは勝つことができたが、次はどうなるかな」

 マグドは浮かれ騒ぐ奴隷軍団の将兵を見つめながら、冷徹に次の戦いに思いを巡らせていた。





 一方、スキラ。ユーグはザウガ島攻略に失敗し、枢機卿派のボエモンもトズルで敗死したことが速やかに知らされる。聖槌軍本陣でのユーグとアンリ・ボケの会談は重苦しい雰囲気の中で始まった。
 ユーグは眠っているかのように目を瞑り、口を閉ざしている。一方のアンリ・ボケも目を瞑っているかのように目が細くなっているが、これは元からである。アンリ・ボケもまた沈黙したままだ。王弟派の将軍の中にはタンクレードも加わっているが、タンクレード自身は口を挟まず、両派の将軍が諍い合うのを見つめていた。

「あのような小さな島一つ落とせないとは、『戦争の天才』の名も地に落ちたものですな」

「あんな小さな砦一つ落とせんとは、お前達は手加減でもしていたのか?」

「貴殿等が我々の代わりにそれができるというのであればやってみていただきたいものですな」

「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」

 言い合いが望む方向に誘導されたのを見計らってユーグが口を開いた。

「双方口を慎め。お前達もだ」

 枢機卿派の将軍や聖職者は悔しげに口をつぐみ、ユーグの部下の将軍達は神妙な顔を作って見せた。ユーグはアンリ・ボケへと向き直り、

「……だが、この者達の言うことにも一理ある。次は僕がトズルに、猊下がナハル川に当たるのはどうだろうか」

 それがいい、とばかりに王弟派の者が頷き、枢機卿派にも異存はないようだった。だがアンリ・ボケだけは同意しようとしていない。

「……トズルへはどの程度の兵数をもって当たるおつもりですか?」

「そうだな、五万もあればいけるだろう。それ以上動員してもあの地形では遊兵になるだけだ」

「ならば、スキラに残す殿下の兵の指揮権をお預かりしたい」

 王弟派の将軍達が息を呑んだ。全員の口から「冗談ではない!」という叫びが出かかっている。ユーグもまた同様のようであり、二呼吸、三呼吸置いて何とかそれを告げた。

「判りました。指揮権を預けましょう」

 タンクレードは一瞬耳を疑い、ユーグの顔を凝視した。

「おお、そうですか!」

 とアンリ・ボケが大げさに喜ぶ一方、王弟派の将軍達は色めき立っている。そこにユーグが「ただし」と付け加えた。

「その場合は枢機卿猊下ご自身が我が将兵の先頭に立ってヌビア軍と戦っていただきたい。それがかなうなら我が将兵は必ずや敵軍を打ち破り、ヌビアの皇帝の首を獲ってみせることでしょう」

 今度は枢機卿派の者達が「何と無礼な!」と血相を変えている。一方の王弟派は「それが当然だ」とばかりに頷いていた。タンクレードは内心で皮肉げな笑みを浮かべている。

「殿下の兵を無謀な渡河作戦に使いたいのなら、アンリ・ボケ、お前が自ら身体を張ってみせることだ。確固とした信仰心さえあれば川を渡れるのだろう? 口先だけでそれができないのなら、自分の兵だけを馬鹿の一つ覚えで消耗させるがいい」

 アンリ・ボケはかなり長い時間沈黙を保っていたが、ようやく口を開く。

「……判りました。殿下のお言葉、心に刻んでおきましょう」

 いつもの仮面のような微笑みで返答し、それがこの会談の終わりを告げる言葉となった。
 ……王弟派の宿舎に戻ったユーグは自室にタンクレードを呼び出す。

「アンリ・ボケの言質は取った。あとは奴が余計なことをしないうちにトズルを抜いてこの戦争に勝つだけだ。あれはどうなっている?」

「荷はすでに入港しております」

 タンクレードの返答にユーグは「そうか」と満足げに頷いた。

「あのバール人はよくやってくれた。準備が整い次第すぐに出発する」

 降りしきる雨の中、ユーグの軍勢がトズルへと向けて進発したのは三日後のことである。スキラに残ったタンクレードが城門の上からその軍勢を見送っていた。





 エルルの月が下旬に入る頃、雨が降り出した。雨はほとんどやむことなく延々と降り続け、もう八日目。堰の内側には水が限界まで貯まっており、今にも決壊しそうである。堰から溢れ出した水の他、山道にはあちこちから水が流れ込んできて既に川のようになっていた。

「関門の再建が全く進んでおりません。このまま敵を迎えるようなことがあれば……」

 副官のシャガァが申し訳なさそうに報告する。

「この雨では仕方あるまい。敵も雨がやむまでは動けんだろう」

 マグドは一部の偵察兵を除き、奴隷軍団の全ての兵をトズル砦へと撤収させていた。第三騎兵隊が敵軍の接近を伝令で知らせてきたのがその日である。

「雨のせいで思うように動けんし、連絡船も使えんが、敵が来ている以上そんなことも言っていられん。敵はおそらく五万程度、雨にも構わずトズルを目指して進んでいる。雨と、おそらく食糧不足のせいでかなりの兵が脱落している」

「いつものようには互いに連絡が取れんだろうから、騎兵隊は独自の判断で行動してくれ」

 マグドはそう言って伝令を送り返した。

「……厳しい戦いになるかもしれんな」

 そんな予感を覚えたマグドはいつになく険しい顔で、砦の上から山の裾野を、まだ見ぬ敵を見つめていた。
 そしてエルルの月の二九日。その日の夕方に聖槌軍がトズルに到着し、そのまま攻略を開始した。

「正気か、奴等……! こんな暗闇の中で」

 雨が一際強く降り出し、山道は川と全く変わらない。幾万の兵に踏みにじられた山道は泥濘となり、エレブ兵の足を拘束した。それでもエレブ兵は亡者のような姿となって関門へと突撃する。関門の多くは再建途上であり、雨のために原油を使った火攻めもできず、暗闇のために弓を使っても効果が薄い。関門は長くは維持できず、次々と落とされていった。

「頭、そろそろあれを使うべきでは……」

 シャガァがそう進言し、周囲の部隊長達も期待に満ちた視線をマグドへと向ける。マグドは冷たい雨に打たれながらじっと山道を見下ろしていたが、

「……敵の数が少ないように思えるんだが、気のせいか?」

 マグドの問いに、シャガァ達は戸惑ったような表情をした。

「この雨と夜闇の中では、敵兵の数など図りようが……」

「進軍途中で脱落したのでは?」

 部下達が返した常識的な答えに、マグドはさらに問いを続けた。

「他には何か考えられないのか?」

 少し時間を置いてシャガァが、

「……敵が兵の一部を後方に隠している?」

 その回答に部隊長達が顔を見合わせた。

「何のためにそんなことを」

「それは、時間差を付けて攻撃をするために」

「そうか、堰を決壊させても兵を温存していれば攻撃をすぐに再開できる!」

「そしてこちらは切り札は残っていない」

「……だが、いくら何でもそこまでやるか? 自軍の大半を囮にするということだぞ」

 部隊長の多くは「敵が戦力を分けている」という疑いに否定的だった。だが、

「……あるいは考えすぎかもしれんが、警戒するに越したことはない。あの連中なら勝つためにどんな無茶をやろうと不思議はないからな」

 マグドの言葉に一同が黙り込んだ。一同を代表してシャガァが問う。

「……それで、頭。どうなさるおつもりで」

 マグドは全員を見回し、決然と命じた。

「堰を切って敵の主力を壊滅させる。徹底的に追撃を加えて敵兵を少しでも減らすが、追撃は山道の間だけだ。平野部に下りてしまったら伏兵から横撃を受けるかもしれん。追撃が終わったら速やかに砦まで帰投しろ、すぐに再攻撃に備えるんだ」

 そしてマグドの命令に従い堰が切られ、貯まりに貯まった水が奔流となって山道へと流れ込む。聖槌軍は暗闇の中数万トンの水に呑まれ、流された。水は汚物を洗い流すかのように聖槌軍を押し流していく。十数分後、水が流れ去った後に残っているのは、無数のエレブ兵の死体と辛うじて生き残った敗残のエレブ兵だけである。

「追撃! 聖槌軍を生かしておくな!」

 敵の追撃はシャガァに任せ、マグドは獲得した捕虜を砦へと集めて尋問を開始した。騎士階級の者は口が堅かったが、一般の兵は拍子抜けするくらいに簡単に知る限りのことをしゃべった。

「ヴェルマンドワ伯が……! 今回のトズル攻略の指揮はヴェルマンドワ伯が執っているというのか?」

「へ、へい。その通りでございます」

 マグドの問いに、その農民兵は卑屈な笑みを浮かべる。マグドは背後のハキーカに視線を送り、ハキーカは無言で頷いた。マグドは今回のトズル攻略軍の内情を詳しく訊ね、確認する。
 「エルルの月の戦い」で指揮を執ったアンリ・ボケは渡河に失敗し、兵の数を大幅に減らしただけで終わった。その一方、交代で指揮を執ったヴェルマンドワ伯はザウグ島の確保に成功している。アンリ・ボケはヴェルマンドワ伯がこれ以上の戦功を挙げるのを怖れ、トズルを攻略するよう仕向けたのだ――そんな見方を多くの兵が共有していた。
 その後、マグドはそれ等の情報を元に騎士階級の百人隊長を尋問する。

「……確かにそんな噂は流れていた。枢機卿がトズル攻略を王弟殿下に命じたが、殿下が本当にトズルを落としてしまったら枢機卿の面子が潰れる。だから嫌がらせで食糧の補給を絞ったのだ、と」

 マグドが聖槌軍の内情に詳しいことを見せつけると、その部隊長は割合簡単に口を開いた。

「元々スキラにも食糧は残り少ないが、この遠征軍はさらに少ない食糧しか持たされていない。一般の兵だけでなく我々のような指揮官も腹を減らしているような状態だ」

「食糧がなくなってしまえばスキラに撤退するしかない、その前に何としてもトズルを落とす必要があった。だからこそこんな無茶な作戦を実行したのか……自軍の半分を囮にするとは」

 マグドの言葉にその部隊長は悄然と肩を落とした。

「『この長雨のせいで堰は自然に決壊してしまっている。今が好機だ』――殿下はそう言っていて、我々はそれを信じて戦いに臨んだ。敵の切り札を使わせたのだ、確かにこれでトズルは落とせるかもしれないが……殿下は我々を一体何だと思っているのか。あの枢機卿ならともかく殿下までがこのような作戦を選ぶとは」

 信頼していたヴェルマンドワ伯に囮にされ、「尊い犠牲」扱いされたことにより、彼等の士気も抵抗心も挫けてしまったようである。兵がその捕虜を牢屋へと連れて行く。捕虜のエレブ兵も指揮官も、誰も抵抗の気配を見せなかった。
 マグドは残っている百人隊長を集めて命令を下す。

「今夜切り札を使って撃退したのは敵軍の半分、およそ二万だ。残り二万五千が明日にも攻めてくる。各自準備と警戒を怠るな」

 一方のユーグは山麓で兵の再編成をしているところである。

「残った食糧を全員に分け与えろ。明日にはトズルを落とすぞ」

 アンリ・ボケの嫌がらせで兵糧の補給が絞られている――というのは事実ではなく、実はユーグが流したデマだった。元々食糧が乏しいのは事実だが、ユーグは行軍の速度を最大限に上げるために最低限の兵量しか用意しなかったのだ。

「明日中にトズルを落として敵の兵糧を腹一杯に食うか、それともここで飢えて死ぬか! 好きな方を選べ!」

 百人隊長が兵に呼びかけつつ兵糧の配給を進めている。兵糧を絞るのには自軍の将兵を精神的な背水の陣に追い込み、全力で戦わせるという意味もあった。
 ユーグは近衛の護衛を引き連れて陣地内を見回っている。その隅の方で、兵の一団が整列もせずにただ集まっているだけの様子がユーグの目に入った。一様に疲れ切ったように地面に座り込み、項垂れた背が雨に打たれ続けている。

「あの者達は?」

「さきほどの攻撃に参加した者達です」

 そうか、とユーグは気まずい思いを何とか隠す。トズルを落とすために自軍の一部を囮に使い、犠牲を強いるのはやむを得ないと、ユーグは割り切っている。が、それでもユーグの作戦の「尊い犠牲」となった兵を目の当たりにすれば、動揺を抑えることはできなかった。

「あの者達にも再編成を命じますか? 無傷の者や疲れの少ない者を集めれば五千くらいにはなるかと思いますが」

 その補佐官の声が聞こえたわけでもないだろうが、敗残兵の多くがユーグへと視線を向ける。恨みや辛みがこもっているわけでもない、ただ死人のように虚ろな目を向けられ、ユーグは大いにたじろいだ。

「――いや、必要ない。彼等はここで休ませてやれ」

 了解しました、と補佐官が頷いた。ユーグは逃げるように敗残兵の前から去っていく。その背中を兵達の目が映し出していたが、彼等の心は何も感じてはいなかった。





 そしてエルルの月・三〇日。ユーグの手によるトズル攻略が開始される。
 奴隷軍団は総勢八千。動ける者は全員が戦いに参加している。一方のヴェルマンドワ伯の軍勢は二万五千。前夜戦った二万のうちの生き残りはふもとで待機である。
 聖槌軍側が決死の総攻撃を仕掛け、奴隷軍団は必死に防戦する。時折激しく降る雨が大地を泥沼のようにし、エレブ兵は全身を泥まみれにしていた。飛び交う矢が、銃弾が敵味方を撃ち抜いていく。あっと言う間に何百というエレブ兵の死体が地面を転がった。死んではいないが冷たい雨に体力を奪われ、空腹のために動けなくなる者も少なくない。一方の奴隷軍団は意気顕揚で、一日や二日はこのまま戦い続けられそうなくらいである。

「何とか守れそうだ」

 マグドが内心でそう安堵するが、それは轟音とともに粉々に砕かれた。

「まさか、大砲……!」

「こんな山の上まで運んできたのか……!」

 ヌビアの将兵が冷たい汗を流す一方、エレブの将兵は高揚した。

「見たか、これが僕の切り札だ!」

 アニード商会が東ヌビアで入手し、ガイル=ラベク達の海上封鎖を突破してスキラ港に届け、さらにスキラからこのトズルまで、そして兵に担がせ山道を登らせた、虎の子の大砲二門。これこそが堰の封殺に次ぐ、トズル攻略のための切り札だったのだ。ユーグは自軍の勝利を確信し、歓喜の笑みを輝かせている。
 大砲が轟火を放ち、砲弾が弧を描いて飛んで砦の門扉に突き刺さる。鉄板を貼った門扉は砕かれはしなかったものの大きく歪んだ。閂は半ばへし折れ、人一人が通れるくらいの隙間が開いている。マグドは焦燥を胴間声でごまかした。

「これ以上撃たせるな! あれを破壊しろ!」

 ヌビア兵の銃撃が、矢が大砲へと集中する。鉄の固まりの大砲にそれらが当たってもどういうことはないが、その周囲の兵はばたばたと倒れた。兵が盾を用意し、銃弾と矢を跳ね返す。その間に大砲に次弾が装填された。

「こちらからも砲撃だ!」

 砦の上部に設置された大砲が火を噴くが、砲弾は全く離れた場所の敵兵をミンチにしただけで終わってしまう。

「くそっ!」

 それを見ていた鉄牛族の戦士が砦から飛び降りた。手には大砲の丸い砲弾を抱えている。

「近付けるな! 殺せ!」

 エレブ兵が火縄銃を撃ち、矢を放つ。銃で撃たれ、矢が刺さってもその戦士は突撃を止めない。そのまま砲撃寸前の大砲の真正面まで走り込み、手にしていた砲弾を砲口へと突っ込む。火薬に引火したのはその刹那の後である。砲口を塞がれ、行き場をなくした圧力が砲身を引き裂く。周囲のエレブ兵砲手のほとんどが死ぬか怪我を負った。鉄牛族の戦士は上半身を砕かれた状態で絶命している。

「くそっ! だがもう一門残っている!」

 聖槌軍はもう一門の砲撃準備を進める。それを見た何人もの戦士が砦を飛び出して大砲へと突撃する。だがエレブ兵の槍衾に、矢と銃弾の雨に行く手を阻まれた。戦士が次々と斃れていく。
 その間にエレブ側は砲撃、発射された砲弾は再び門扉に叩き付けられ、突き破った。門扉は大きく歪み、二人くらいなら並んで通れるくらいになっている。ヌビア兵が慌てて丸太を積み上げて防護を固めようとした。一方エレブ側は再砲撃の準備を進めている。何人もの恩寵の戦士がそれを止めるべく突進するが、一人また一人と倒れ伏した。
 唯一生き残ったのは、敵兵の盾を拾い上げた金獅子族の戦士である。だが味方が全滅し、敵の攻撃が金獅子族一人に集中する。大砲を目前にし、その戦士もまた倒れた。

「ようやく死んだか、この魔物め!」

 全身に矢が刺さり、弾丸が突き抜けている。流れる血が泥と混じって黒色となった。だがその戦士の生命はまだ絶えていなかった。わずかに顔を上げ、砲撃寸前の大砲を見つめる。

「くらえ……!」

 残った生命の全てをその一撃に込める。放たれた外撃の恩寵が、不可視の衝撃波が砲身を上から打ち据え、砲口が地面に突っ込む。火薬に点火したのはそれと同時である。砲弾の代わりに大砲本体がわずかに宙に浮き、砲身は二つに裂けてもはや使い物にはならなくなった。

「くそっ、認められるかこんなこと!」

 不可解で理不尽な力に切り札を潰され、ユーグは内心で神を罵った。だがそれも一瞬だ。

「正門に兵を集中させろ! 正門を突破するんだ!」

 一方砦のマグドには、大砲を潰した安堵や勇敢な戦士を喪った感傷に浸る余裕などない。エレブ兵が門扉の隙間から砦内に侵入する。さらには隙間を拡大させ、門扉を開け放とうとしていた。

「入り込んだ奴等を生かしておくな! 門の前の敵兵を排除しろ!」

 マグド自身が槍を手にし、侵入しようとする敵を刺殺する。入り込んだ敵兵の数はまだ少なく、次々と血祭りに上げられていく。だがこの先どうなるか判らない。
 エレブ兵が剣でマグドへと斬りかかるが、マグドは鋼鉄の義手でそれを打ち払った。さらには飛び出し式のドリルで敵兵の喉をえぐる。マグドの活躍にヌビア兵の士気が高揚し、マグドは義手を下賜されてから初めて竜也に感謝した。
 砦上部に設置された大砲が着弾点を門前へと集中させる。エレブ兵は効率よく次々と身体を砕かれていった。敵兵が怯んでいる間に門扉の内側に馬防柵を集め、さらには火縄銃部隊が集められた。
 門扉の隙間にエレブ兵が殺到する。ヌビア兵は容赦なく銃弾を浴びせた。銃弾を受けてエレブ兵が倒れ伏し、その屍を乗り越えてエレブ兵が突撃、そのエレブ兵にヌビア兵がまた銃撃を加える。そんなことが数え切れないくらいにくり返された。
 ……朝から始まった戦いは日が暮れても続いた。真夜中を過ぎてもまだ続き、明け方近くになっても続いている。ユーグは二万五千の兵を五班に分け、休息と攻撃を交互にくり返した。一方のマグド達は八千の兵が一人残らずほとんど休む間もなく戦い続け、死者負傷者が続出した。特に正門は激戦区となり、死傷者の九割はここから発生した。正門の穴をヌビア兵が身を挺して塞いでいるかのような状況で、八千の兵は六千に減り、やがて五千を下回った。
 戦闘が開始されてほぼ二四時間が経過し、タシュリツの月(第七月)・一日の明け方。

「殿下、これ以上は……」

 部下の進言にユーグは悔しげに呻く。

「くそっ! あと少し、あと少しなんだ!」

 あと一時間も総攻撃を続ければトズルを落とせる、ユーグの目にはそれが見えていた。だがエレブ兵の気力も体力もとっくに限界を越えていたのだ。ユーグの周囲には座り込んでいる兵しかいない。いくら交代で休めると言っても、雨の中・泥濘となり泥の川となった山道の上で、である。その上彼等は満足な量の食事を摂ることもできない。疲労の蓄積度合いではヌビア側に勝るとも劣らなかった。

「一旦ふもとに戻って再編成をしましょう。ふもとにも兵は残しているのです。疲れの少ない兵を選抜し、その兵でトズルを抜けばいいではないですか」

 部下の必死の進言にユーグは長い時間考え込んでいたが、

「……判った、撤収だ」

 ユーグの決断に部下達は一様に安堵のため息をついた。
 そして、ようやく聖槌軍が撤収していく。何とか敵を撃退したマグド達だが、安堵する時間はありはしない。間を置かずに再襲来することは疑う余地がないのだから。

「……ひどいものだな」

 奴隷軍団の損害の大きさにマグドは言葉を失うしかなかった。死傷者は過半を大きく上回り、無傷の兵はわずか三千余り。追撃する余裕などあるはずがない。

「サフィナ=クロイに人を送って皇帝に援軍の要請をせねば」

 間に合うかどうか判らないが、とマグドは内心で続けた。

「わたしが行きます、既に連絡船を用意しています」

 そう言って手を挙げたのはライルである。マグド達は驚きに目を見開いた。

「連絡船を使うのか。湖面は荒れているぞ」

「それは危険だ」

 一同は懸念を示すが、ライルは首を振った。

「今は一刻を争います。手段を選んでいる時間はありません」

「……判った、ライル。頼んだぞ」

 マグドの言葉にライルは力強く頷く。そしてトズル砦を飛び出し、一路サフィナ=クロイへと向かった。その頃にはもう夜は明け、輝く朝日が高々と昇っている。一〇日も続いていた雨がようやく止み、太陽が久しぶりに姿を見せたのだ。

「天佑だな。神は我々の勝利を約束している」

 太陽を見上げたユーグは独り言ち、柄にもなく信心深げな言葉を吐いた。ふもとに戻ったユーグは残していた兵と合流、軍の再編成を進めた。何とか一万の兵を選抜し、昼前には再攻撃の準備が全て整える。トズルへと、勝利へと向けて出発しようとしたそのとき、

「殿下! お待ちください殿下!」

 ユーグを呼びながら本陣へと飛び込んできたのは一人の兵士だった。近衛の護衛がその兵士を拘束する。

「無礼であろう! 何者だお前は!」

「私は……伝令……この足を買われて……閣下から殿下に」

 エレブの地ならば伝令には騎乗した、それなりの身分の騎士を使うが、このヌビアの地では騎馬が全て失われている。伝令には歩行の兵を使うしかない状況だった。
 その伝令兵が差し出す剣と密書を近衛が確認する。剣がタンクレードのものであること、密書にタンクレードの署名が記されていることを確認し、密書がユーグの手へと渡る。ユーグはそれを開封し、目を通した。

「……そんな馬鹿な……!」

 驚愕が、憤怒が、戦慄がユーグの身体を震わせる。周囲の部下達が顔を見合わせた。
 一方のトズル砦、時刻は少しだけ遡り、

「……もう少し降り続いてくれればいいものを」

 ユーグのと同じように空を見上げるマグドだがその表情は対照的だった。恨めしげに空を見上げるマグドだが、やがて気持ちを切り替える。

「俺達だけではもうここは守れん。だが、皇帝の援軍さえ到着すればここは守れる。俺達の役目は援軍の到着まで時間を稼ぐことだ――たとえ奴隷軍団が全滅しようと」

 マグドは旗下の兵を総動員し、聖槌軍の再襲撃に備えた。負傷者であろうと立って歩ける者は全員槍を持って立っている。このため戦闘前から倒れる者が続出した。

「……これは、持たないかも」

 ほとんどの者が砦の陥落と、奴隷軍団の玉砕を覚悟した。太陽が高く昇り、聖槌軍がやってくるのを心を静めて待ち構える。やがて太陽は沖天まで昇り、昼となった。

「……来ないな」

「……どうしたんだろう」

 マグド達の元に、敵軍がスキラへと撤収していることが知らされるのはこの直後である。

「助かったのか……?」

 多くの兵が気が抜けて倒れそうになる。気力が尽きてその場に座り込む者も多かった。マグドもまた座り込みたかったが兵の前でそんな無様はさらせず、気力を振り絞って立ち続けた。

「まだ油断するな、敵の撤退を確認するんだ!」

 やがて聖槌軍が一兵残さず撤退したことが確認され、マグドはようやく警戒を解いた。だがマグドは生き延びたことの喜びよりも不審の思いの方が強い。

「何故奴等は撤退したんだ、もう少しで勝てたのに」

 その理由をマグドが知るのは何日か後のことである。






[19836] 第三八話「長雨の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/16 21:02




「黄金の帝国」・死闘篇
第三八話「長雨の戦い」





 時間は少し前後して、エルルの月(第六月)の中旬。ナハル川方面のザウガ島ではインフィガル率いる老兵軍団が聖槌軍と激しい戦いを繰り広げ、それから一夜明けたばかりである。
 執務室の竜也の元にはザウガ島攻防戦の詳しい報告書が届けられた。ザウガ島の守備兵約千人のうち戦死者は六〇〇名を数えていた。

「……半分以上死んだか」

 竜也は目を瞑り、内心で黙祷を捧げる。それが終わるのを見計らっていたかのようにアミール・ダールが報告を続けた。

「兵と矢玉を充分に補充すればあの島を守るのは不可能ではないことが判明しました。完全に陥落するまでは何度でも兵を補充し、敵をあの島に釘付けにしたいと思います」

「しかし、戦闘のたびにこんな数の戦死者を出していては」

 と竜也は渋い顔をするが、アミール・ダールは冷徹に反論する。

「敵に与えた損害と我が軍の規模を考えれば、毎回守備兵が全滅しても許容範囲内です。戦争をしているのですから戦死者が出るのは避け得ないと考えてください」

「それは判っている」

 竜也は憮然とした表情を見せた。

「でも孤立無援の場所に味方を放り出して、助けることもできないなんて……敵に獲られるのがまずいのなら、最初からあの場所に島がなければよかった――」

 ぶつぶつと独り言を言っていた竜也がそのままの姿勢で止まってしまう。少し待ってみても静止したままなのでアミール・ダールが「皇帝タツヤ?」と声をかけた。

「――ああ、すまない。今そんなことを言っても仕方ないか」

 思考の渦から戻ってきた竜也が一人で何か納得し、

「ザウガ島防衛については、引き続き将軍の方針でやってくれ。守備兵はできるだけ志願者を集めるように」

 と書類に許可のサインを記した。
 ……同日、ノガは朝一番からザウガ島の補充兵編成のために走り回っている。

「今度こそ俺があの島を守る!」

 ザウガ島を守り抜いたインフィガル達の奮戦ぶりに、それを見守ることしかできなかった自分の不甲斐なさに、ノガは血をたぎらせている。まだアミール・ダールの指示がないうちから「補充兵を率いるのは自分だ」と疑いもせずに信じ込み、それを集めるために各部署を奔走していた。

「兄上、各軍団の軍団長に補充兵志願の呼びかけをお願いしました」

 そして弟のマアディームがそれに協力する。

「既に数百人の志願が受け付けられているそうです」

 インフィガル達の勇姿に熱くなっているのはノガだけではないようだった。父や祖父がザウガ島の戦いに参加していた者、年齢を理由に兵として採用されなかった者、英雄志望のお調子者等、多数がザウガ島守備兵の募集に手を挙げている。

「あまり時間はかけられない。定員に達したら募集はそこで打ち切ろう」

「はい」

 志願者はその日のうちに七〇〇人を越え、募集は打ち切られた。翌日には志願者が集められて部隊として編成され、その次の日にはザウガ島へと送り出される段取りとなる。
 小雨が降りしきる中のその日の午後。ノガ率いる補充兵部隊が今まさにザウガ島へと赴くところだった。ザウガ島を望むナハル川南岸には、竜也やミカ達、ノガの部下の第七軍団の者達、補充兵の家族等、大勢が見送りに集まっていた。

「ところでマアディームは? あいつにも礼を言っておきたかったんだが」

「戻ってから言えばいいではないですか」

 とミカは笑い、ノガも「確かにそうだ」と笑い返す。今回の見送りは前ほど悲壮感に満ちてはいない。ノガも補充兵も「勝って戻ってくる」と信じていた。
 補充兵を乗せた連絡船が岸を離れ、ザウガ島へと出発する。ノガを乗せた船は最後に出発した。その船が少しばかり川の中へと進んだところで、

「ところで兄上」

 こんな場所で聞くはずのない声が背後から聞こえる。振り返ろうとしたところで尻を蹴飛ばされ、ノガは川へと転がり落ちた。何とか水面に顔を出したノガは、船の上にマアディームの顔を見出す。

「マアディーム! お前――!」

「悪く思わないでください、兄上! 兄上には父上を、第七軍団や陸地の軍をお願いします!」

 マアディームの言葉と立ち泳ぎするノガをその場に残し、船はザウガ島へと進んでいく。ノガは「くそっ! まただ!」と散々悔しがった。雨の中に消えていく船を水の中から見送り、ノガは前回以上に気まずい思いを抱えながら岸辺へと戻る。竜也やミカ、第七軍団の部下達はまたもやのこのこと戻ってきたノガを喜んで迎えてくれた――その目はどこか生温かかったような気はしたが。





 ときはエルルの月の月末、場所はサブラタ。
 ユーグに二門の大砲を届けたアニードはサブラタにとんぼ返りをしていた。アニードはユーグの御用商人として兵糧・武器弾薬の入手、情報収集、派閥工作等、様々な活動に従事していた。今また知り合いの知り合いみたいなバール人商人の元に押しかけ、説得をしているところだった。

「皇帝クロイが、ヌビア軍が必ず勝つとは限らんだろう? 王弟殿下と誼を通じておくことも保険として必要なのではないか?」

 懸命に自らの理を説くアニードだが、

「薄汚い裏切り者め! お前のために時間を割いた私が愚かだった!」

 ハザルという名のその商人は足蹴にするようにしてアニードを追い出した。アニードはわずかばかり恨めしげにハザル商会の建物を見上げ、それに背を向けて歩き出した。訪問すべき商会はいくらでもあるのだから。
 降り続く雨がアニードの外套を濡らしている。雨のために気配が紛れているが、それでもアニードは自分を追うその人影を感じ取っていた。アニードの行くところにはどこであろうと必ず出没する、監視役である。

「ご苦労なことだな」

 アニードは皮肉げに口を歪めた。
 王弟派に協力的なバール人商会を増やそうと、アニードは精力的に活動している。ベラ=ラフマはそのアニードを厳重な監視下に置いていた。ただし妨害まではしていない。

「多分、お前を餌にして裏切り者を釣り出そうというのだろう」

 と解説するのはタンクレードだ。アニードはそれを理解し、それでもなお愚直に王弟派への協力を説いて回っている。

「お前がルサディルで何をしたか知られていないとでも思っているのか! お前の話など誰が聞くものか!」

 そして全員に嘲笑され、罵倒され、石もて追われるように叩き出されるのだ。その哀れな姿は監視役の者が同情したくなるほどだった。
 結局その日一日何の成果も得られずにアニードは一旦自分の船へと戻った。アニードが再び外出したのは夜半になってからである。アニードの訪問先は港に程近い高級娼館だった。監視役はアニードが娼館の中へと消えていくところまでは見送ったが、館内まで尾行していない。

「お待ちしておりました、アニード様。今日はどの娘を?」

「いつもの薔薇の姫を頼む」

「申し訳ありません。そのものはあいにく……」

「そうか、ならば百合の姫を」

「はい。それではこちらへ」

 アニードは店員に案内されて館内を進んでいく。アニードが向かった先はその館の地下室だ。地下の一室の前で店員が立ち去り、残されたアニードがその部屋に入っていく。
 物置とほとんど変わらない、殺風景な地下の一室。その壁の一角にカーテンがかかっており、それに隠れてまた扉が存在していた。アニードがその扉をくぐるとそこには長い地下通路が。アニードはそこを歩いていく。
 一スタディア近く歩き、三つばかり扉を通り抜け、アニードはようやくある部屋へと到着した。娼館から区画を隔てて建っている、とあるバール人商会の商館、その地下室である。

「待たせたな」

「いや、構いはしない」

 その部屋で待っていたのはハザルを始めとした、何人ものこの町のバール人商人だった――監視の人間はもちろん、ベラ=ラフマですらバール人に対する認識の甘さがあったことは否めないだろう。アニードとその協力者のバール人達はベラ=ラフマの諜報網を何度となく出し抜いているのだから。
 ベラ=ラフマにもっと時間があったならバール人と互角に戦うこともできるようになるだろう。だが今彼にあるのは発足間もない、老獪なバール人から見ればよちよち歩きの幼児のような諜報機関だけ。しかもその主力は聖槌軍側へと向けられているのだ。後背に対する監視が薄くなるのはどうしようもないことだった。
 アニードがハザルへと顔を向け、

「今日は重要な話があると聞いたが……」

「ああ、来てもらったのはある方を紹するためだ」

 ハザルが隣室へと視線を送る。アニードや一同の視線が集まる中、カーテンをくぐり、隣室からある人物が入ってくる。そこに姿を現したのは、一人のケムトの軍人。そして一人の年若いバール人だった。





 エルルの月の下旬。数日前から降り出した雨が降り続いている。

「海が時化ているため協力関係にある商人達をスキラへと送り出せず、聖槌軍の動向を把握できません」

 執務室にやってきたベラ=ラフマが申し訳なさそうに竜也へと告げる。

「それは仕方ないだろう。荒れ海を突っ切ってバール人がスキラにやってきたなら聖槌軍だって怪しく思う」

 と竜也は笑った。

「敵だって雨がやまなきゃ動けないさ。雨がやんでから送り出せばいい」

 竜也の言葉にベラ=ラフマは頷いた。
 それから三日経っても雨は未だ降り続いていた。

「川が増水していて船を出すのは危険だと言われてな。今夜の接触も見合わせたところだ」

 ディアが総司令部の竜也にそう報告した。

「一昨日の話じゃ、今は連中は渡河準備の最中って言っていたか」

「ああ、西の森で木材を伐採しているらしい。この雨の中ご苦労なことだ」

 この頃にはユーグの軍勢がトズルへと接近しているのだが、雨のためにその知らせは竜也の元には届いていない。

「渡河作戦をやるとしても雨がやんでからだろう。それまではディアも休んでいてくれ」

 少しの間二人が沈黙し、雨音が二人を包んだ。

「……しかしよく降るな」

「ああ、こんなに降り続くのは珍しいそうだ。おかげで一息も二息もつけて、こっちは大いに助かってる」

 ディアは物憂げな表情を窓へと向けた。

「聖槌軍の方は一息つくどころではないだろうな。食糧は残り少ないし、雨を凌ぐ建物は全員分はないだろうし、疫病だって流行っているかもしれない。……一族の皆は大丈夫だろうか」

「銀狼族は体力に恵まれているし、食糧だって充分な量を渡している。きっと大丈夫だよ」

 竜也がそう気休めを言い、ディアは「そうだな」と微笑みを見せた。
 それからさらに三日経っても雨は未だ降り続けていた。日付はエルルの月の三〇日。トズルではマグド達がユーグと死闘をくり広げているが、その事実を知る者はサフィナ=クロイにはいない。

「しかしよく降る」

 野戦本部を訪れた竜也はそう感嘆した。

「我々にとっては恵みの雨です」

 とアミール・ダールは宥めるように言った。

「降り出して一〇日ほど。敵の食糧があと一ヶ月分しか残っていなかったとするなら、そのうちの三分の一を全くの無為に費やさせたことになります。我々は日一日ごとに勝利に近付いているのです」

「確かにそうかもしれないけど、いくら何でもそろそろ降りやんでもらわないとな」

 と竜也は窓の戸板を少し開け、空を見上げる。空は分厚い雲に覆われ、太陽の姿はどこにも見えない。降り続く大粒の雨はいつ果てるとも知れなかった。
 そしてその日の深夜。
 竜也は自室のベッドで眠りに就いていた。その横ではファイルーズが眠っている。そこに、

「皇帝タツヤ! ファイルーズ様!」

 女官が戸を激しく叩いている。竜也はそれで目が覚めた。ファイルーズも眠りから抜け出そうとしているが、未だまどろんでいる。

「どうした?」

「て、敵襲だそうです! 敵が、聖槌軍がこの町に!」

 竜也は首を傾げながら大急ぎで服を着、部屋を出る。女官に先導され、駆け足で船の外へと向かう竜也。雨が降りしきる中、船の前では一人の兵士がひざまずいていた。

「何があった?」

「敵が、エレブ兵が突然襲いかかってきたのです! 私はこのことを皇帝に知らせるようにと上官に命令されて」

 竜也は少しの間考え、

「……とにかく、状況を把握する必要がある。様子を見に行こう」

 と決断した。竜也はバルゼル等近衛隊を連れて丘を下りて町へと向かう。川沿いの防衛線へ、野戦本部へ行こうとしたのだが、

「タツヤ殿、下がってください!」

 襲いかかってくるエレブ兵に行く手を阻まれた。半裸に槍や剣を持っただけのエレブ兵が町中を走っている。警備隊の剣士や兵士と戦っている。竜也達に向かって突進してくるエレブ兵はバルゼル達により斬り伏せられた。

「何でこんなところにエレブ兵が……一体どうやって防衛線を越えたっていうんだ」

 呆然とする竜也をバルゼルが叱責する。

「タツヤ殿、今はそんなことより身を守ることをお考えを!」

 バルゼル達は攻撃してくるエレブ兵を次々と屠っている。だが圧倒的な敵の数に次第に押されてくる。だが、そのとき敵の背後に治安警備隊の剣士達が現れた。バルゼル達と治安警備隊に挟み撃ちにされ、そのエレブ兵の一団は壊乱し逃げていく。

「バルゼル! タツヤ殿! 無事か?!」

 治安警備隊を率いていたジューベイが竜也達と合流した。竜也は「助かりました、ジューベイさん」と挨拶代わりに礼を言い、

「何が起こっているのか判りませんか? 敵はどこから来たんですか?」

「兵士達が言うには、数万の敵がトズルを突破したとのことだが」

 ジューベイの言葉に近衛隊が動揺を見せる。竜也も身体をぐらつかせたが、それは一瞬だ。

「いや、それは間違いだ」

 力強く断言する竜也に一同の注目が集まった。竜也は一同の視線を意識し、頼もしげな振る舞いを演技する。

「あのマグドさんが守っているんだ。トズルがそんなに簡単に落とされるわけがないし、仮に落ちたとしてもその連絡が敵の到着よりも遅いわけがない」

「確かにその通りだ」

 とバルゼルが同意し、一同に安堵の空気が流れた。

「しかし、数万かどうかはともかくかなりの数の敵がこの町に入り込んでいる」

「一旦丘まで後退して、そこで兵を集めて敵を掃討するしかない」

 竜也は野戦本部に向かうことを断念、バルゼルの提案に従い総司令部に戻ることにした。
 数刻の後、竜也はゲフェンの丘へと戻ってきた。丘のふもとには避難してきた市民や指示を求める兵士が大勢集まっている。総司令部にはファイルーズやラズワルド達、官僚達が集まっており、彼等の不安そうな目が竜也を出迎えた。
 一同を見回した竜也が決断を下す。

「ミカ、兵の指揮を頼む」

「わ、判りました。では丘のふもとに防衛線を」

 竜也はミカの言葉に首を振った。

「いや、違う。皆には南の食糧庫に避難してもらう。ミカには集まってきた兵を指揮して、皆の護衛と食糧庫の防衛を頼む」

「食糧庫を、ですか?」

 戸惑うミカや一同にタツヤが説明する。

「もしあそこが敵に略奪されたり火を放たれるようなことがあれば、その時点でこの戦争はもう負けだ。何としても食糧庫を守れ」

 得心したミカが強く頷く。タツヤは矢継ぎ早に指示を出した。

「敵には大した装備はない、避難してきた市民にも防衛を協力してもらうんだ。兵数が揃っているように見えれば敵も手出ししてこないかもしれない。ラズワルドやファイルーズ、他の皆もそこに逃げてくれ。官僚の皆は持てるだけの書類を持っていけ。持っていけない書類はとりあえず井戸に投げ込んでおけ」

「待ってください。タツヤはどうするつもりです」

「ここに残って敵を引きつける」

 ミカ達は一瞬言葉を詰まらせ、次いで激しく反応した。

「わたしも残る」

「待ってください! わたしが残ります」

「タツヤ様にもしものことがあったら、この国はどうなるとお思いなのですか?」

「タツヤさんがそんな危ないことをしなくてもいいんじゃないですか?」

 だが竜也はその決意を変えようとはしなかった。

「敵を引きつける、そのために、こんなときのために俺は皇帝を名乗ったんだ。今さらそれを他の誰かに任せようとは思わない」

 ミカ達は何か言おうとして何も言えず、そのまま言葉を詰まらせた。その彼女達を、周囲の一同を竜也が叱責する。

「一刻を争うんだ、くずくずするな! すぐに動け!」

 竜也の言葉に鞭打たれ、跳ねるように一同が行動を開始した。

「皆さんは先に南へ! わたしも後から向かいます!」

「持って行く書類は何を」

「借金の証文はどこに」

「戦死者名簿は絶対に忘れるな!」

 一同が動き出すのを確認し、竜也はバルゼル達へと向き直った。

「牙犬族の皆には最後まで付き合ってもらう。……すまない」

「気遣いは無用です。我等が近衛となったのはまさにこのようなときのためです」

 バルゼルの言葉に、竜也も覚悟を決めて頷いた。

「篝火を焚け、クロイの旗を掲げろ! 皇帝がここにいることを聖槌軍に教えてやれ!」

 竜也の命令に従い、巨大な黒竜の旗が船のマストに結びつけられ、風を受けて翻る。船の周囲にはある限りの篝火が集められ、火が点けられた。
 竜也と別れて逃げることを嫌がっていたラズワルドだが、ベラ=ラフマに何か説明を受けてようやく逃げることに同意した。そのベラ=ラフマは丘の上に残っている。竜也はそれを意外に思うが、そんな些末事を深く追求している暇はなかった。

「一本の刀では五人と斬れません!」

 と「七人の海賊」の真似をして沢山の剣を地面に刺しているのはサフィールだ(なお、烈撃の恩寵を使えば百人でも二百人でも斬れることは実証済みだった)。竜也は彼女に逃げてほしいと思っていたのだが、

「わたしは牙犬族の剣士であり近衛隊の一員です! タツヤ殿を置いてわたしが逃げられるわけがありません!」

 竜也の心情以外にサフィールの残留を認めない理由がなく、結局サフィールは残ることとなった。

「まあ、今まで食わせてもらった分くらいは働こう」

 とディアも残留組に加わっている。竜也はディアに避難するよう命じるが、

「わたしはお前の所有物だからな。相手がエレブ兵だろうと戦ってやるさ」

 と竜也の意向をきっぱりと無視する。竜也はため息をついてそれを黙認するしかなかった。
 篝火に照らされる黒竜の旗に引かれるように、エレブ兵が、ヌビア兵が、治安警備隊の剣士がゲフェンの丘へと集まってくる。バルゼル達は政庁の船から机や棚を引っ張り出して粗末なバリケードを作った。味方の兵士はバリケードの内側に引き入れ、敵は近衛の剣士達が斬り伏せる。だが次第に敵の数が一方的に増えていく。近衛の剣士はバリケードの内側に撤退し、剣を槍や矢に持ち替えて戦った。

「時間を稼げ! そのうち将軍が敵の後背を襲ってくれる! 敵を前後から挟み撃ちにするんだ!」

 竜也がそう督戦し激励する。ほとんど最前線に立つ竜也の、皇帝の姿に一同は発奮した。牙犬族が、近衛隊が、治安警備隊が、兵士達が死力を尽くして戦い続ける。サフィールの剣が烈風のように敵を斬り伏せ、ディアの拳が旋風のように敵を撃ち倒す。バルゼルの轟剣は一振りで敵兵数人をまとめてなぎ払った。だが丘の上の総司令部は防衛を全く考えていない造りで、敵はそこら中から湧いて出てきた。何より敵の数は圧倒的だった。そして援軍は未だ来ない。

「……そろそろ限界か」

 即席のバリケードがもういくらも持たないと判断したバルゼルが決断を下す。

「サフィール、ディアナ、皇帝を連れて脱出を。ベラ=ラフマ殿、皇帝を頼む」

 ベラ=ラフマとディアは「判った」と頷き、竜也とサフィールは戸惑いを見せた。

「待ってくれ、俺は戦っている皆を捨てて逃げるようなことはしない」

「皇帝、この戦争は今日ここで終わるわけではありません。ですが皇帝が玉砕してしまえばヌビアは今日ここで終わってしまいます」

 とベラ=ラフマが竜也に説得する。その言葉に迷いを見せつつも「だが……」と渋る竜也。そこにジューベイが、

「ここは我等が時間を稼ぐ。バルゼル、お主等近衛も皇帝と一緒に脱出しろ」

 と口を挟んできた。「だが」と反発するバルゼルを、

「近衛が皇帝を守らずしてどうする」

 とジューベイが一喝した。言葉を詰まらせるバルゼルにジューベイが言葉を重ねる。

「ここでお主まで倒れたなら誰が剣祖の技を次代に伝えるのだ。バルゼルよ、何があろうと皇帝を守れ。忠義を尽くせ」

 ジューベイが言葉を句切り、バルゼルを見つめる。百万言よりも雄弁なその眼差しが、無言のうちにバルゼルにジューベイの志を伝えていた。バルゼルは短くない時間迷っていたが、やがて「判った」と頷いた。断腸の思いで決断したのだろう、バルゼルは無意識のうちに殺気立った、血走った目を竜也へと向ける。竜也もまた意地やわがままを捨て、脱出に同意するしかなかった。
 竜也と近衛隊、ベラ=ラフマやディアが井戸のある風車へと向かう。それを見送ったジューベイは周囲を見回し、敵味方全員に届く胴間声を出した。

「――我こそは皇帝クロイ第一の忠臣、牙犬族のアラッド・ジューベイなり! 者共、我に続け! この剣の煌めきこそ我等が忠義の証なり!」

 牙犬族が一斉に抜刀し、雄叫びを上げてエレブ兵へと突撃。怯むエレブ兵の直中に飛び込み、白刃が竜巻のように閃く。竜巻が通り抜けると、その場には身体の一部を失って倒れ伏す、泣き喚くエレブ兵が残された。
 ジューベイは牙を剥く獰猛な笑みを見せ、

「今宵の我が剣はひと味違うぞ!」

 更なる突撃を敢行した。





 風車小屋に入り、縄梯子を使って井戸を下り、井戸の途中の側面に開けられていた秘密の抜け穴を通り、竜也達は虎口を脱出する。

「いつの間にこんな抜け穴を」

 と竜也は驚くがベラ=ラフマは説明を後回しにした。
 洞窟を抜けて海岸に、外に出た竜也達は手漕ぎの船を使って町に戻ろうとした。雨はまだ降り続いており、風も強く、しかも夜である。小さな船での夜の海の移動は無謀だったが、海が凪ぐのを待っている時間などない。海上の移動は可能な限り最短距離とし、丘から少し離れた岩場に強引に接岸し上陸、その先は徒歩での移動である。
 小一時間かけて何とかゲフェンの丘のふもと、丘を望む場所へと戻ってくる。そこには万に届く数の兵が集まっていた。「もう少し早くこれだけの兵が集められれば」と竜也は思わずにはいられない。

「おお、皇帝クロイが!」

「皇帝クロイがここに!」

 と喜びを見せる兵達をかき分け進み、本陣に乗り込む竜也達。

「皇帝、よくご無事で」

 とアミール・ダール達司令官が安堵の表情を見せた。戦力が揃っていることを確認した竜也は、丘の上を見上げる。

「船が……」

 サフィナ=クロイという町の名前の元になった船、それが炎上している。総司令部の船も、風車も、各官庁の船も、全てが炎上していた。巨大な旗に描かれた黒竜が生きているかのごとく身をうねらせている。だがその旗もまた炎に包まれていた。

「族長……」

 サフィールが悔し涙を流し、バルゼルも血が出るほどに唇を噛み締める。竜也も顔を青ざめさせていたが、アミール・ダールに命令する。

「……まだ、助けられる者がいるかもしれない。将軍、すぐに攻撃を。聖槌軍を生かしておくな」

 アミール・ダールは「判りました」と頷いた。
 アミール・ダール率いるヌビア軍は聖槌軍を完全包囲した上で攻撃を敢行。敵の半数を殺戮し、半数を降伏させる。夜が明ける頃にはこの夜の戦いは終息した――敵味方に多大な犠牲を残して。






[19836] 第三九話「第三の敵」
Name: 行◆7de1d296 ID:aef4ce8b
Date: 2013/11/19 21:03




「黄金の帝国」・死闘篇
第三九話「第三の敵」





 月は変わってタシュリツの月(第七月)の一日。戦いから一夜明けはしたものの、竜也は休む間もなく後始末に追われている。

「損害を把握しなければ。兵を原隊に復帰させて点呼を」

「捕虜の見張りが足りません、部隊の派遣を」

「白兎族に来てもらわないと捕虜の振り分けが」

「焼け落ちた櫓の再建を」

「敵兵の死体の埋葬が必要です」

「敵兵の生き残りがまだ町にいるとの報告が」

 総司令部も野戦本部も大混乱に陥っている。被害の全容はまだほとんど明らかになっていないが、司令官にも官僚にも死者が出ているようで人手が全く足りていなかった。

「ともかく、優先順位を決めて一つ一つ対処していくしかない。捕虜の処理が最優先、次に敵兵の生き残りの掃討を。港で捕虜の振り分けをやるからできるだけ兵を集めてくれ。白兎族も全員集めろ」

 竜也もまたベラ=ラフマを伴って港へと移動。大勢の官僚が指示を求めて竜也に付いてくる。竜也は捕虜振り分けの作業(の準備)に立ち会いながら官僚から報告を受け、指示を出し続けた。そこにラズワルドやファイルーズ達も合流してくる。

「タツヤ様、ご無事でしたか」

 と安堵の様子を見せるファイルーズ達。だが竜也には無事を喜び合い、感慨を抱いている暇などない。

「ラズワルドは白兎族を指揮して捕虜振り分けを進めてくれ。ファイルーズは太陽神殿の神官を使って住民の慰撫を。疫病が流行らないうちに死体の埋葬をしなきゃいけないんだが、兵が足りないんだ。町の住民を集めてその作業をやってもらいたい、説得を頼む」

 ラズワルドとファイルーズが「判った」「判りました」と頷いて行動を開始する。ミカとカフラにも即座に書記官としての職務に戻ってもらった。
 一方武装解除されたエレブ兵は列を作って港への移動途中で、彼等を連行するのはアミール・ダールだ。その道中、列の後方で騒ぎが起こった。

「何だ?」

 とアミール・ダールは行進を中止させ、列の後方へと馬主を向ける。しばらくすると報告の伝令が到着した。

「何が起こった?」

「捕虜の一部が突然暴れ出し、逃げ出しました。ノガ殿が追っています」

 逃げ出したエレブ兵は百人余り、全員が北に向かって一目散に駆けている。それを騎乗したノガが追い、ノガの後を武装したヌビア兵が追った。瞬く間にエレブ兵の最後尾に追いついたノガは馬上で剣を振ってエレブ兵を斬り、ノガの騎馬がエレブ兵を踏み潰す。追われるエレブ兵は互いに視線を合わせ、頷き合い――逆襲に転じた。十人近いエレブ兵が一斉にノガの馬に飛びかかる。四本の足に二人ずつがしがみつくように体当たりした。

「何っ?!」

 馬は足を取られて転倒し、投げ出されたノガは路上を転がった。もちろんエレブ兵は誰一人として無傷ではいられない。全員が骨を砕かれ、あるいは腹や腰を踏みつぶされた。
 仲間の挺身に感化されたのか、逃げ出したはずの多くのエレブ兵がきびすを返してノガの方へと突進してきている。彼等は素手のままノガに飛びかかり、ノガの剣で斬り捨てられた。

「何だ、どういうことだ? こいつ等何を考えている?」

 何人もの無手のエレブ兵を斬り伏せながらも、ノガは戸惑いを隠しきれなかった。やがてはノガの配下の兵が追いついてエレブ兵を処理していく。路面は流れる血に赤く染まった。立ちふさがったエレブ兵は一人残らず殺され、ノガは追撃を再開する。が、

「……間に合わなかったか」

 ノガは河口に近いナハル川の岸辺に立ち、川を泳いでいるエレブ兵を見つめている。逃げ出したエレブ兵は全部で百人ほど。そのうちの三分の二がノガの前に立ちふさがって殺され、残りの三分の一が川に飛び込むのに成功していた。川面には三十ほどのエレブ兵の頭部が浮かんでいるが、見る間にその数が減じている。次々と水に沈み、そのまま浮かび上がってきていない。

「いかがしますか?」

「――捕虜より溺死を選びたいのなら好きにさせてやればいい。見張りの兵は残しておけ」

 ノガはナハル川に背を向けながら、

「……あの中にどうしても捕虜になりたくない奴がいて、そいつが足止めをするよう部下に命じた。そう考えるのが一番自然だが、いくら命令でもあんな真似ができるのか?」

 百パーセント死ぬことが自明でありながらも、無手のまま騎兵や完全武装した兵に立ち向かい、時間を稼ぐためだけに死んでいく。ヌビア軍の中で兵にそれだけの要求ができるのは、兵がそれに応えるのは、アミール・ダールとマグドの二人くらいのものではないだろうか。

「一体エレブのどんな将軍がここにいたっていうんだ?」

 考えても仕方のないことでありながらノガは疑問を抱かずにはいられなかった。
 一部の捕虜の逃亡は全体に波及しないうちに速やかに処理され、アミール・ダールとエレブ兵捕虜は港へと到着した。エレブ兵は二列縦隊、その両外側から完全武装したヌビア兵の列が挟んでいる。エレブ兵の数は一万弱。多くの者が負傷し、力尽きる寸前といった様子だった。
 強い風に分厚い雲が流れ去り、眩しい日差しが一〇日ぶりに地面を照らした。竜也は顔をしかめながら太陽を見上げた。

「……あと一日早く晴れていたら、こんな奇襲を受けなかったものを」

 そのとき、異様などよめきが港に広がる。見ると、大勢のエレブ兵が力尽きたようにひざまずき、声を上げて泣いていた。警備の兵も戸惑ったように顔を見合わせている。

「な、なんだ?」

 竜也はラズワルドとベラ=ラフマの元へと向かった。二人は竜也の姿を見ただけでその用件を把握する。

「……『神様に見捨てられた』って泣いている」

 ラズワルドの説明は端的すぎたため竜也は返ってわけが判らなくなった。その竜也にベラ=ラフマが補足する。

「皇帝は、彼等が昨晩どのようにして奇襲を成功させたとお考えですか」

「……敵がトズルを突破したって噂が流れていたが、いくら何でもそれは間違いだと思う。そうなるとどうにかしてナハル川を越えたってことになるけど」

 竜也はそのまま腕を組んで考え込む。ベラ=ラフマは少しだけ間を置き、早々にその答えを提示した。

「彼等は真正面からナハル川を越えたのです――何一つ新しい手段を使わずに」

 竜也は一瞬だけ思考を停止させ、

「……それは、いつものように、兵が丸太に掴まって泳いで渡った、ってことか?」

 その確認にベラ=ラフマが頷いた。

「夜に? あの雨の中を? 増水したナハル川を、あの急流の中を?」

「その通りです」

 ベラ=ラフマは断言するが、あまりのことに竜也は容易には信じられなかった。

「……まさかそんな。どう考えても九割方溺れ死ぬだろう。これだけの兵が上陸しているのなら、その一〇倍の兵が昨日溺れ死んだことになる」

「実際そうなっていると見られます。だからこそ彼等は嘆いているのです。『何故もう一日早く降りやまなかったのか』と」

「まさか……そこまでやるのか、聖槌軍は」

 自軍の被害を意に介さない聖槌軍のあり方に、竜也は戦慄する。一方捕虜のエレブ兵も、自軍のあり方と「神に見放された」という思いから、反抗の意欲を喪失したようである。反乱や逃亡を企図する不穏分子は一万弱の捕虜の中から十数人しか見出されず、その十数人はシャッル等奴隷商人に無償で譲渡された。
 なお、この日の夕方ライルがサフィナ=クロイに到着。トズル陥落の危機が知らされ、竜也達を更なる混乱と絶望の坩堝に叩き込む。が、幸いにしてさほど間を置かずにヴェルマンドワ伯のトズル攻略部隊が撤収したという連絡がもたらされた。





 翌日になってもヌビア側の混乱は未だ続いている。
 ラズワルドやファイルーズ達はケムトの大型船に移動して一夜を明かした。イムホテプがケムトから乗ってきた船の中の一つで、トルケマダに対する謀略にも使われた船である。ファイルーズ達はその船を臨時の竜也の公邸とすることにした。だが竜也はその公邸に戻る間もなく徹夜で仕事を続け、サフィナ=クロイを奔走している。

「皇帝、海岸に……」

 朝方、竜也は兵士から注進を受けて海岸へと馬を走らせた。登ったばかりの太陽が海を輝かせている。そして磯辺には何か白いものが無数に漂着していた。

「……あれが全部死体か」

 海岸に漂着していたのはエレブ兵の死体である。渡河に失敗して溺死し、海まで流されたエレブ兵の死体。それが潮流に乗り風に押され、海岸に押し寄せている。ざっと見積もって、見える範囲だけで数万体。エレブ兵の死体は海岸を埋め尽くさんばかりだった。

「……到底全部は埋葬できない。海に押し戻して流してしまうしかない」

 顔を青くした竜也がそう指示を出す。命令を受けた軍団長の一人はうんざりした顔を見せたが、無言でその命令を受け入れた。
 竜也はその足で野戦本部へと向かった。血を大量に喪ったかのように身体が底冷えし、眩暈を覚えている。野戦本部に到着した竜也は血色の悪くなった顔をアミール・ダールへと向けた。

「軍の状態はどうだ?」

「体勢の立て直しの真っ最中です。今しばらくお待ちを」

「今敵の攻撃があったら、どうなる?」

 アミール・ダールがその問いに答えるのに、少し間が開いた。

「……我々は大きな損害を受けましたが、敵が受けた損害も我々以上のはずです。彼等とて体勢の立て直しが必要です。攻撃は当分先になるのでは?」

 竜也は沈鬱な顔で首を振った。

「そうなるかもしれないが、そうならないかもしれない。だがこんな奇襲があった以上奴等にはこちらの常識は一切通用しないと考えた方がいい。自軍の疲労や損傷を無視できるならいつ攻撃があっても不思議はないし、早ければ早いほど効果的だ」

 竜也の指摘を受け、アミール・ダールは真剣な表情で考え込んだ。

「……確かに皇帝の言われる通りです。奇襲を受けることなど二度とあってはなりません」

「頼む。頼りにしている」

 野戦本部を後にした竜也は町中の仮設総司令部へと向かった。ナーフィア商会が自分達の本部として建てていた建物を譲ってもらい、そこに設置されたものである。戻ってきた竜也を待ち構えていたように官僚達が殺到してきた。

「焼失した契約書に代わる再契約書に署名を」

「弾薬の補給計画の修正案です」

「戦闘で家を失った市民の避難場所について指示を」

「各自治会の代表が皇帝に面会したいと」

 竜也はその日も書類仕事に追われほぼ徹夜した。





 さらにその翌日、長雨の戦いから三日目。ようやく軍の損傷の全容がほぼ明らかとなり、そのあまりの大きさに誰もが言葉を失っていた。ナハル川方面はアミール・ダール、トズル方面からはライル。その二人が竜也に直接報告するために仮設総司令部の執務室にやってきている。
 アミール・ダールはまず軍団長クラスの戦死者一覧を竜也に提出した。

「帝都治安警備隊長アラッド・ジューベイ、戦死。ナハル川方面軍・第一軍団軍団長セアラー・ナメル、第六軍団軍団長マアディーム、第一一軍団軍団長タハッディ、戦死。ザウガ島要塞指揮官インフィガル、ツェデク、戦死」

 戦死者一人の名を読み上げるたびに血が一リットル失われるかのようだ。眩暈を起こした竜也はこのまま気絶したいと思ったが、何とか踏みとどまった。だがアミール・ダールの報告はそれで終わりはしなかった。

「治安警備隊の半数が死傷しました。ザウガ島要塞は陥落、生存者はなしです。トズル方面では死傷者五千」

 一つの報告をするたびに、自分で自分にナイフを突き刺しているかのような激痛と消耗を感じている。だがアミール・ダールは超人的な自制心を持って無表情を装い、機械的に報告を続けた。

「……ナハル川方面では戦死者・行方不明者だけで二万。負傷者は三万です」

 それでも全軍の半数が行動不能という結論には、アミール・ダールすらも声を震わせずにはいられなかった。竜也は腰が抜けたかのように執務机に着席し、そのまま頭を抱えてうめき続ける。しばらくして、ようやく目の前にアミール・ダールが立っていることを思い出した。

「その、将軍。お悔やみする」

 アミール・ダールは長男のマアディームと四男のツェデクを喪っていた。アミール・ダールは首を振る。

「敵の奇襲を見抜けずにこれほどの損害を出したのは私の責任です。処罰はいかようにも」

「油断していたのは俺も同じだ、将軍だけに責めを負わすことはできない。それに、今は過去を悔やむよりもこの先どうするかを考えなきゃいけない」

 竜也の言葉にアミール・ダールは「確かに」と頷いた。

「ナハル川方面軍の戦力はほぼ半減しています。トズル方面も同様の状態です。今、以前と同規模の敵の攻撃があれば、両方面とも到底防ぎ得ないでしょう」

 胃痛を堪えているかのような竜也がのろのろと口を動かす。

「……この町と東ヌビアの各町で兵を徴募して補充する。それまで今の兵数で維持できないか?」

「徴募した兵に訓練を施し、使えるようにするまでは時間が、どんなに短くとも一ヶ月は必要です。それまで敵が待ってくれるかどうか」

「トズルでは今すぐ兵を必要としています」

 とライルが口を挟んできた。

「おそらくヴェルマンドワ伯は手持ちの食糧を食い尽くしてそれ以上の戦闘が不可能となったために撤退したのでしょう。ですが、三倍の敵を相手に切り札なしで戦った損害は甚大です。堰を再建するための兵も足りません。今のままでは敵はトズルをほぼ素通りできてしまいます」

 ライルはいつになく必死な様子を示していた。だがアミール・ダールは氷の壁のように冷たい態度を取るだけだ。

「兵が足りないのはこちらも同じだ。一兵たりとも他に裂く余裕などない」

「将軍はトズルが陥落しても構わないと言うのですか?」

「トズルを守ってもナハル川方面が落ちていては意味がない」

 一兵たりとも他所に回したくないのはアミール・ダールのかけ値なしの本音である。だがアミール・ダールほどの男にトズル防衛の重要性が判らないはずがない。彼が頑なな姿勢を示しているのは、

「……工作隊から二五〇〇、他から二五〇〇。何とか工面してトズルに送ってくれ」

 竜也のこの裁定を見越してのことだった。竜也が苦渋の思いで出した指示にライルは喜び、アミール・ダールは渋い顔を作って見せる。

「皇帝、それだけの兵を送ってナハル川方面は」

「市民に最大限協力を仰ぐからそれで何とかしよう。トズルじゃそれもできないんだ、補充を送るしかない」

 アミール・ダールはそれ上抗議することもなく、竜也の命令を受け入れた。これでライルやトズル方面の将兵は、アミール・ダールではなく竜也に感謝や支持を向けるようになるだろう。アミール・ダールのこのような振る舞いはエジオン=ゲベルの宮廷で生き延びるうちに身に付けた処世術だった。
 アミール・ダールとライルが退出し、竜也は一人となる。その途端、竜也は胸を抱えて床に這いつくばった。

「胃が、胃が……」

 しばらく忘れていた胃の痛みを久々に覚える。何とか起き上がった竜也は用意していた薬湯をがぶ飲みした。あまりの苦さに涙がこぼれる。
 竜也は少しだけ休んでから官僚を集め、指示を出した。

「兵が足りない、すぐに徴募を。この町だけじゃなく近隣の町や村でも集めろ。工作隊の補助兵は全部正規兵に回すから、市民から協力者を募って工作隊を充員してくれ」

 指示を出し、仕事が一区切りついたところにベラ=ラフマとディアがやってくる。

「銀狼族とは連絡が取れたのか? 聞かせてくれ」

 竜也はまずディアから報告を受けることとした。硬い表情のディアが竜也に語る。

「……今回の作戦はアンリ・ボケの主導だそうだ。一族の者も他の一般の兵士達も、作戦の直前まで何も聞かされていなかった。あの日の夕方に雨の中兵が集められ、夜中近くになってから渡河を命じられたのだ。あまりに滅茶苦茶な命令だったので抵抗する部隊もあったらしいが、枢機卿派の軍団が督戦隊となって抵抗する部隊に攻撃を加えようとしたそうだ。渡河を強制されたのは全員王弟派の兵で、その数は二〇万……一人として北岸には戻ってこなかった」

 執務室は鉛のように重く冷たい沈黙に満たされる。ディアの歯が軋む音だけが聞こえた。

「……一族のうち一〇人が王弟派の軍に加わっていた。まだ誰も帰ってきていない」

 ディアの瞳に涙が溜まる。竜也は何か言おうとして、何一つ言葉が出てこなかった。

「……その、ご苦労だった。船で休んでくれ」

 ありきたりな慰労の言葉を掛け、ディアを退出させる。執務室には竜也とベラ=ラフマの二人が残された。竜也は重苦しいため息をつく。

「バール人や他から何か情報は?」

「追加報告することは特に何も。情報が錯綜しており、まだ確定的な情報が掴めません。アンリ・ボケが死んだという情報もあります」

 あの男がそんな簡単に死ぬはずがないだろう、と竜也が憮然として呟き、ベラ=ラフマもそれには同意した。

「聖槌軍は王弟派と枢機卿派に完全に分裂しています。いつ両者の衝突が起こっても不思議はありません」

「情報収集とともに両派閥の対立を煽る工作を。王弟派と枢機卿派を相打ちさせて弱体化させ、時間を稼ぐ。それ以外に俺達が生き延びる道はない」

 ベラ=ラフマに指示を出し、執務室から退出させる。竜也は刺すように痛む胃を抑えながら書類仕事を再開した。
 竜也は自軍の多大な損害に打ちのめされながらも、必死に立て直しをしようとしている。そしてそれは聖槌軍側も、ユーグも同じことだった。





 ユーグは近衛だけを伴い先行してスキラを目指し、タシュリツの月の二日にはスキラに帰着した。スキラの聖槌軍は今、完全に分裂し、王弟派は海岸側に、枢機卿派は山側に依拠していた。そしてその境界線では武器を手にした両派の兵士がにらみ合いを続けている。ユーグが王弟派の拠点に姿を見せると、兵士が爆発的な歓呼を挙げた。百人隊長や軍団長は涙すら流している。
 スキラ港の要塞、会議室に使っているその一室に入ったユーグは、その場に集まった将軍の中にタンクレードの姿を認めた。

「報告してくれ。何があった?」

 それを受けてタンクレードが「はい」と一歩前に進み出、ユーグに報告する。

「エルルの月の三〇日の夜、枢機卿アンリ・ボケが渡河作戦を決行しました。動員されたのは全て我々、つまり王弟派に属する将兵のみです。二〇万以上が渡河を強制され……一人も戻ってきておりません」

 室内の空気が真冬の海水になったかのように、冷たく息苦しい。声を発する者は――それができる者は一人もいなかった。

「……なぜだ……どうして」

 長い時間を経て、ようやくユーグが呟くように問う。それだけでタンクレードはユーグの問いを理解した。

「枢機卿は殿下と約束しました。『枢機卿自身が先頭に立たない限りは王弟派の指揮権を委ねない』と」

 その通りだ、とばかりにユーグは強く頷く。タンクレードが続けた。

「そして、枢機卿は約束を守ったのです」

 ユーグがタンクレードへと顔を向ける。ユーグにはタンクレードの言うことが理解できない。推測はできるが、理性と常識がそれを否定した。タンクレードは剣を使って床に線を引いて説明する。

「これがナハル川です。集められた王弟派の軍はこの位置に配置されました。枢機卿派はここです」

 王弟派は川に面した場所に位置し、枢機卿派はその後方。王弟派は枢機卿派と川に挟まれている形である。

「枢機卿はここにおりました」

 タンクレードの剣先がある一点を突き刺す。そこは王弟派と川の間に位置し、王弟派の将兵の誰よりも川に近い場所だった。

「枢機卿はその場所で聖戦を称える説教をし、自ら率先して川に飛び込み、南岸へと向かったのです。枢機卿の鼓舞につられ、先頭の部隊が次々と川へ飛び込みました。殿下の約定があり、また後方からは枢機卿派に押されたこともあり、二〇万の将兵全員が川に飛び込まざるを得なかったのです」

 本来なら王弟派の二〇万に続いて枢機卿派の二〇万も渡河を決行するはずであり、それはアンリ・ボケも約束していた。

「……ですが、枢機卿派の中で渡河を決行した者は一人もおりませんでした。あの連中は我々を川に突き落とすような真似をしておきながら、自分達は身の安全を図って……!」

 タンクレードが歯ぎしりをし、彼の憤怒を全員が共有した。ユーグは深呼吸をして冷静になるよう努めつつ、問う。

「兵力差はどのくらいになった?」

「枢機卿派は三〇万のまま。我々王弟派は、一〇万に満たないかと」

 そうか、とユーグは頷く。つまり枢機卿派はアンリ・ボケ一人を生け贄に捧げて敵対派閥の二〇万を削り、彼我の差を一対一から一対三まで広げたのだ。
 タンクレードがユーグへの報告を終えたところで伝令の騎士がやってきて、ある報告を伝える。タンクレードはそれをそのまま自らの主君に伝えた。

「枢機卿ベルナールが殿下との会談を求めています」

 あの男が、とユーグが呟く。ベルナールは聖槌軍に参加した聖職者の中ではアンリ・ボケに次ぐ地位の持ち主であり、枢機卿派の最高幹部の一人である。アンリ・ボケ亡き今枢機卿派を指導するのは彼をおいて他にはいない。だがユーグにとってはアンリ・ボケの腰巾着でしかなかった。

「判った、応じよう」

 ユーグの判断をタンクレードも頷いて是とした。
 ……ユーグとベルナール、王弟派と枢機卿派の会談が持たれたのはその日の夕方である。場所は例によって太陽神殿跡地の聖槌軍本陣だ。

「会談に参加するのは両派から幹部が三人まで、護衛が一〇人まで。それ以外の両派の兵士は五スタディア後方で待機」

 ユーグの出した条件をベルナールは無条件で呑んだ。自軍内の幹部同士の会談に必要な条件には到底見えないのだが、誰もそれを不自然とは思っていない。

「王弟殿下にはご足労をおかけします。会談に応じていただいたこと、このベルナール、感謝の極み」

 卑屈な笑みを浮かべて揉み手で追従をするのはベルナールだ。ベルナールは司教を一人、ディウティスクの将軍を一人同行している。一方のユーグはディウティスクとイベルスの将軍を同行させており、ユーグ達は無言のまま冷たい目でベルナールを見下ろしていた。

「……いえ、あの、殿下がお怒りなのは当然でしょうが、どうかお聞きいただきたい。あの雨の中、あの急流の中に飛び込んで一〇スタディアも泳いで向こう岸までたどり着いて戦うなど……そのような愚かな作戦は拒絶するのが当たり前ではないですか? 我々は当然の権利を行使して自らを守っただけのこと」

 その言い訳にはユーグも「もっともだ」と頷いたことだろう――ベルナール達枢機卿派が王弟派の将兵を川に追い落としてさえいなければ。
 冷たい目のまま無言を貫くユーグに、ベルナールは冷や汗を流しながら続けた。

「一切の責任を負うべきアンリ・ボケは自分の愚かさに相応しい死に様を遂げました。もうあの男はいないのです! 我々が対立すべき理由はもはやどこにもない、違いませんか?」

 ベルナールは高らかにアンリ・ボケの死を謳い上げる。ベルナールにとってもアンリ・ボケは重しでしかなかったようで、今は雪解けの春のように晴れやかな顔をしていた。

「殿下が奪われていた全軍の指揮権は殿下に元に返されます。当然ながら、軍の指揮においては我々も殿下の命令に服しましょう。ただ、教会の中のことはこの私にお任せいただければ……殿下は俗、私は聖、私達が協力するのは全軍にとって利益となりましょう。私はあの男のように愚かしい真似も、殿下の権限を掣肘するようなこともいたしません」

 ベルナールが求めているのは、アンリ・ボケの後継者としての地位の保証だった。その見返りにベルナールは教会側を率いてユーグに全面協力する。決して悪い条件の取引ではない、両者にとって利益のあることだ――それはユーグも理解できた。だが、

「言いたいことはそれだけか?」

 ユーグの第一声は氷よりも冷たいその一言だった。思わぬ回答にベルナール達は顔を青ざめさせた。

「な……まさか、戦いをお望みなのですか。我々に勝てるとでも」

「彼我の差は三倍にもなるのだぞ!」

 色めき立つベルナール達に対し、ユーグは冷笑を返すだけだ。

「お前達こそ、この僕を舐めているのか? あの男のいないお前達が僕にかなうとでも思っているのか。僕とまともに戦いたいのならせめて五〇万は集めてからにするがいい」

 ベルナール達はあるいは血の気を失い、あるいは怒りに血を顔に集めている。ユーグの回答は半分は虚勢も含めた威嚇だが、半分以上は本音でもあった。

「三〇万を一度に、まともに相手をするのは確かに厳しい。だが枢機卿派だって一枚岩じゃない。あの男がいない今、三〇万いようと烏合の衆だ。タンクレードが引っかき回せばすぐに四分五裂する。その上で各個撃破していけば勝つのは決して難しくない」

 三倍の敵を前にして一歩も譲らない、ユーグは自分の軍才に、タンクレードの謀略の手腕にそれだけの信任を置いていたのだ。

「戻って戦いの準備をしておけ」

 ユーグは席を蹴って立ち上がり、ベルナールに背を向ける。ベルナールが何かわめいているが心も意識も動かされはしなかった。ユーグはベルナール達を許すつもりは欠片もない。枢機卿派と戦ってこれに勝ち、主要な幹部を処刑して枢機卿派を解体する。ユーグの頭にはそれだけの戦略が既に立てられていた。

「――お待ちいただけますか、殿下」

 その声にユーグの頭は真っ白になった。ベルナールとの戦いなど即座にゴミ箱に放り込み、足の腱が切れそうな勢いで振り返る。手は腰の剣にかかっていた。

「……まさか」

 信じられないことが起こっていた。自分の目を疑うことが目の前にあった。これが白昼夢なら飛びっきりの悪夢である。

「ご機嫌麗しく……とはいきませんな、王弟殿下」

「ああ、お互いにな――枢機卿猊下」

 アンリ・ボケが二本の足を持って、今、ここに堂々と立っている。その巨体をそびえ立たせている。どう否定しようともそれが間違いのない事実であった。
 アンリ・ボケは黒い法衣に身を包み、愛用の鋼鉄の聖杖を手にしている。仮面のような柔和な笑みはいつもと全く変わりなく、大きな負傷もしていないように思われた。ベルナール達は完全に腰を抜かし、床に座り込んで「あわ、あわ」と痴呆のようくり返すばかりだ。

「まさか、生きていたとは」

 ディウティスクの将軍の呟きは普通ならこの上ない無礼に当たるものだが、アンリ・ボケは特に気を悪くした様子を見せなかった。

「この生命は教皇聖下の理想に捧げられたもの、この身体は神の栄光の礎となるもの。それが実現しないうちにこの私が死ぬわけがない。神がそれを許すはずもない――それだけのことです」

 アンリ・ボケは恭しくユーグへと頭を下げた。

「殿下の兵を無為に損なう結果となったこと、このアンリ・ボケ、痛切の極みです。殿下のお怒りも全くもっとも。ですが、聖槌軍を二つに割って戦うことだけは避けていただけませんか?」

「ならばその者達をどうすると?」

 ユーグはベルナール達を顎で指し示した。アンリ・ボケがその先へと顔を向け、糸のように細い目がベルナール達に固定される。柔和な微笑み、に見える表情は仮面のように変化がないままだ。だがその内側ではマグマよりも熱い憤怒が渦を巻いている。それはユーグにも感じ取れた。

「……あの日、命令通りに全軍が渡河を決行していれば我が軍は間違いなく勝っていた。我が軍はヌビアの皇帝の首級を挙げ、敵の食糧庫を占拠し、今頃には飢える兵に充分な食糧を行き渡らせていたことでしょう。ですがこの者達が保身のために戦いから逃げ出し、我が軍の勝利を捨て去った」

 アンリ・ボケの歯ぎしりがまるで雷鳴のようにユーグ達の心臓を締め上げた。ベルナールは恐怖のあまり小便を漏らしているが、ユーグはそれを笑う気にはなれなかった。

「敵に与した背教者の末路は一つだけです。この者達の処分はどうか私にお任せを」

 ユーグは少しだけ考える素振りをし、「いいだろう」と頷いた。拒絶する余地など最初からありはしなかったのだが。
 その後、枢機卿派の拠点に戻ったアンリ・ボケは枯れ葉を握りつぶす容易さで枢機卿派を再掌握。長雨の戦いで敵前逃亡した主要幹部十数名の身柄を拘束した。それら幹部の焚刑が執行されたのは翌日のことである。
 ユーグはその処刑に立ち会った。場所はスキラの中央広場。大勢の兵が見物する中、枢機卿派の幹部が杭に縛り付けられ、その足下には薪が山と積まれている。無様に命乞いをする者、泣きわめく者、完全に諦めてただうつむいている者、ひたすらに聖句をそらんじる者、その振る舞いは様々だ。
 やがて、その足下の薪に火が灯された。炎が燃え上がり、泣きわめく声と悲鳴が耳に障る。見物の兵士達の歓声も聞こえるが、それはまばらだった。そしてアンリ・ボケはその光景に何やら満足げに頷いている。一方のユーグは沈鬱な表情のままだった。
 自軍の将兵二〇万を死なせた者達が当然の報いを受けたのだ。少しは気が晴れるかと思っていたが、ユーグの心は吹雪の冬の夜よりもなお暗かった。雪雲よりも重苦しいものが頭上にのしかかっている、ユーグはそれを実感していた。一旦それが消えてなくなったものとばかり思っていたから、なおさらその息苦しさを意識するのだろう。

「神の兵士達よ、聞くがいい!」

 アンリ・ボケの声に兵士達は刹那に姿勢を正す。全ての兵士がそのまま微動だにせず、心臓まで止めるほどの神妙さでアンリ・ボケの説教に耳を傾けた。近衛の精鋭に匹敵するほどのその規律の高さに、ユーグがあっけに取られたくらいである。

「いや、規律が高いわけじゃない。それだけあの男が怖ろしいんだ」

 ユーグにも兵士達の気持ちはよく判る。その恐怖をユーグもまた共有しているのだから。

「異教徒に与した背教者どもは神罰を受けた! これで我々の勝利を妨げるものは何もない!」

 アンリ・ボケは地響きするほどの大声で、一同に告げる。

「先日の戦いでは異教徒どもも大打撃を受けている! 町は焼け、物見台は倒れ、石の壁は崩れ、通りには敵兵の死体が溢れていた! 南岸の要塞などもはや腐った戸板だ、一蹴りで破れよう!」

 アンリ・ボケは愛用の聖杖を垂直に掲げ、高らかに宣言した。

「準備が整い次第、我が軍は今度こそあの川を渡る! その日こそ我等が勝利の日だ!」

 ――思いがけない沈黙がその場を満たした。しわぶき一つしない、小鳥のさえずりが聞こえるほどの静寂。アンリ・ボケの宣戦に兵士達は無言を持って答えたのだ。
 五を数えるほどの間沈黙が続き、アンリ・ボケの表情が変わった。目に見えて苛立ちを深めている。

「か、神の栄光を!」

 誰かが慌ててそう叫び、全ての兵士がそれに続いた。

「神の栄光を!」「神の栄光を!」

 まるで許しを請うように、言い訳をするように、あるいは自棄になったかのように、全ての兵士がその聖句を連呼している。苛立ちや不満は残っているようだがアンリ・ボケはそれを呑み込み、それ以上は表に出さなかった。
 焚刑はまだ続いていたがユーグは立ち会いを適当なところで切り上げた。護衛を伴いユーグはスキラの町を歩いていく。その脳裏には様々な思いが過ぎっているが、元をたどれば考えるべきことは一つだけだった。

「あの男を何とかしないと。このままでは残った四〇万も無謀な渡河作戦に動員されて溺れ死ぬ」

 ユーグはアンリ・ボケ排除の戦略や謀略に知恵を絞った。が、何も方法が思いつかない。 二〇万を動員した渡河作戦の先頭に立ち、たった一人で生還した――こんな人間をどうすれば殺せるというのか。本当に人間なのかどうかを疑うくらいだ。

「枢機卿アンリ・ボケ――まさかこれほどの化け物だったとは」

 ユーグは慨嘆するしかない。アンリ・ボケのことを誰よりもよく知り、誰よりも(ある意味で)高く評価していたつもりだったが、その実ろくに判っていなかったのだ。
 アンリ・ボケだけが戻ってくることができた理由を合理的に説明できないこともない。人並み外れた壮健な肉体を有していたこと。全軍が飢える中でも枢機卿の地位に相応しい食生活を続けていて気力体力を充実させていたこと。不条理までの悪運に恵まれたこと、等だ。

「本当に神の加護があったのかもしれないな――神は神でも死神の方だろうが」

 ユーグは皮肉に口を歪めた。ただ問題は、聖槌軍の中でもユーグと同じ感想を持つ人間はごく限られている、ということだ。枢機卿派に限らず、王弟派に属していようとほとんどの兵士は、

「神様が枢機卿様を守っておられる」

 と素朴に信じてしまっている。神の加護でも持ち出さなければ到底説明がつかないことが起こってしまったのだから、そう信じるのも無理はないだろう。エルルの月の戦い、そして今回と全軍の将兵を死なせる一方でありながらアンリ・ボケの権威は損なわれてはしない。むしろ高まっているくらいだった。

「私が命じたところで兵士達はあの男に剣を向けはしないだろう。最初から戦いにならない」

 ユーグは三倍の戦力差をそれほど怖れてはいなかった。アンリ・ボケも含まれるが、枢機卿派には将才のある者がろくにいない。多少なりとも目端の利いた人間は今日まとめて処刑され、残っているのは木っ端みたいな連中ばかりだ。三倍の兵がいようと互角に戦えるだけの目算があった。
 怖ろしいのは枢機卿アンリ・ボケただ一人――あの男一人の存在が何十万という兵数に匹敵する。

「ただ、枢機卿派にも厭戦気分が広がっているのは唯一の好材料かもしれない。それを理由にして渡河作戦を思い止まらせることはできないだろうか」

 先ほどのアンリ・ボケの説教に対する兵達のあの反応、あの無言は、どんな言葉よりも雄弁に彼等の思いを語っていた。あの沈黙こそ兵達の悲鳴であり、抗議の声なのだ。
 百万でエレブを出立してからスキラに到着するまで三分の一が脱落し、二十数万の兵がナハル川に沈み、挙げ句に全軍が飢餓に瀕している。それでもなお渡河作戦をくり返そうというのだ。どれだけ信心深かろうと嫌気が差さない方がどうかしている。

「揺るぎなき信仰心があればいかなる苦難も乗り越えられる」

 今回の戦いはその信念が正しいことの確たる証拠となった――あの男にとっては。そしてその信念を一般の兵士に押し付けて、自殺行為に等しい戦いを強いることだろう。次の渡河作戦ではあるいは今回以上に兵が死ぬかもしれない。兵達もそれを感じ取っているのだ。

「あの男に剣を向けないまでも、あの男の命令から逃げ出すくらいはあり得るだろう。そこを攻め口にできるんじゃないか?」

 ああでもない、こうでもないと、思案を続けているうちにユーグは王弟派の拠点、海辺の要塞へと到着した。戻ってきたユーグをアニードを伴ったタンクレードが出迎える。

「人払いをお願いします」

 いつもは言わないことまで言うタンクレードにユーグは目を見開いた。アニードは見るからに高揚しているし、タンクレードの目が異様な輝きを湛えている。興奮を無理に抑え込んでいるかのようだった。
 ユーグは寝室に使っている部屋にタンクレードとアニードの二人を迎え入れた。近衛を動員し、ユーグの自室の階全てから人を遠ざける。

「――さて、説明してもらおうか。何があった?」

「はい、これをご覧ください」

 タンクレードは懐から書状を取り出し、ユーグへと差し出した。受け取ったユーグが書状を開き、目を通していく。

「これは……!」

 読み進めるほどにユーグの頬が熱を持った。血が沸き立つのを実感している。それが心地良いと感じている。

「使えるぞ、これであの男に対抗できる、あの男を排除できる……!」

 歓喜を抑えきれないユーグの言葉にタンクレードとアニードが頷く。薄暗いその部屋の中で、三人は同じ高揚を共有した。





 ヌビア側は体制の立て直しに必死の状態が続いていた。竜也を始めとする総司令部の面々はサフィナ=クロイ中を走り回り、様々な問題の処理に当たっている。軍は臨戦態勢で警戒中だが、その監視体制はずさんで穴だらけもいいところだった。

「死体の処理に人手が足りません。軍の方から回してもらうわけには」

「こっちが人手をほしいくらいだ! 物見台だけでも優先的に再建を」

「食糧の配給はどうなっている! あの戦いから全く届いてないんだぞ!」

「皇帝の許可もなしに食糧庫は開けん! 順番と手続きを守れ!」

「そんなことを言っている場合か!」

 竜也も総司令部の面々も倒れる寸前になるまで働き、タシュリツの月の六日頃にはサフィナ=クロイも多少の落ち着きを見せるようになる。が、最大の問題は依然として横たわったままだった。

「この町の市民から兵を徴募し、何とか二万は集めました。ですが、何の訓練も受けていない素人の寄せ集めです。戦力としては数えない方がいいでしょう」

 野戦本部で竜也はアミール・ダールから報告を受けている。いっそ冷酷なその内容に、竜也はため息しか出てこなかった。

「つまり、戦力は半減したままか」

 竜也の言葉にアミール・ダールが頷く。

「今敵の襲来があったら――」

「死力を尽くします。ですが、勝てるとは思わないでください」

 竜也はため息をくり返した。この六日間で一生分のため息はついただろうと思われた。もっとも、その一生もこの調子では予定よりずっと短くなりそうだが。

「我が軍の損害は甚大ですが、それは敵も同じこと。ここは謀略で敵の動きを封じて時間を稼ぐべきではないでしょうか」

「それしかないのは判っている」

 アミール・ダールの進言に竜也も同意した。

「それはこちらで考える。将軍は引き続き体勢の立て直しを急いでくれ」

 野戦本部から仮設総司令部に戻ってきた竜也はベラ=ラフマを呼び出した。聖槌軍に仕掛ける謀略の相談をするつもりだったのだが、

「皇帝、港にケムトの使者が入港しております」

「ケムトの?」

 先制された報告に竜也は思わず問い返す。

「はい。ケムト艦隊三〇隻はすでにガベス港に入港しており、そこから使者が派遣されてきたのです」

 なお、ガベスはサフィナ=クロイの南に位置する小さな港町で、船を使えば一日も必要としない距離にあった。「いつの間にこんな近くまで」と言いたげな顔の竜也に対し、ベラ=ラフマが、

「提督ガイル=ラベクからの報告は届いているものと思いますが」

「……あー、そうだった」

 竜也がその報告を思い出すのに多少の時間が必要だった。

「ケムト艦隊からサフィナ=クロイへの入港許可を求められて提督がそれを却下して、交渉があってガベスに入港してもらうことになったんだったな」

「はい。また、もしもの場合に備えて提督ガイル=ラベクが海軍の軍船をサフィナ=クロイに集結させています」

 よし、と竜也は頷く。もしケムト艦隊が枢機卿派・王弟派に続く第三の敵となったとしても早期に対処し、潰すことができるだろう……味方になってくれるならそれに越したことはないのだが。

「そのケムト艦隊の使者が面会を求めているわけか」

「はい。会談に当たっての条件がこれです」

 竜也はベラ=ラフマの差し出した書類に目を通す。そこには「両国の代表は三人まで」「護衛は一〇人まで」「両国の兵は二スタディアの距離を置く」等の条件が記されていた。

「……判った、この条件を呑もう」

 竜也はその書類をベラ=ラフマに返した。

「どうやら味方になりに来てくれたわけじゃなさそうだな」

 そんな思いを抱きながら。
 ……竜也達とケムト艦隊の会談が開催されたのはその日の夕方である。場所はサフィナ=クロイの港の一角。六日前にはエレブ兵の捕虜の振り分けが行われた場所だ。広大なその草原の中央に陣幕が張られ、テーブルと六脚の椅子が用意された。
 竜也は先にそこに入ってケムト側の代表を待っている。竜也に同行しているのはファイルーズとイムホテプだ。ベラ=ラフマは牙犬族の部族衣装に身を包み、素知らぬ顔でその場に加わっていた。
 さほど待たずしてケムト艦隊の代表が到着する。まず一人は艦隊提督のセンムト。まだ三〇代だがその地位に相応しい貫禄を身につけた男だった。もう一人はセンムトの副官。そして最後の一人は、

「お前は……」

 竜也は数瞬唖然としてしまった。その男――ギーラは竜也の反応を無視して中央の椅子に、竜也の向かいに座る。

「何故お前がここに」

「私は宰相プタハヘテプから信任を受けた特使ギーラだ。宰相から聖槌軍に対処するよう命じられている」

 ギーラは太々しい顔でそう答えた。

「そう言うお前は何者だ?」

「俺はヌビアの皇帝クロイだ」

 竜也の返答をギーラは鼻で笑った。

「ふん、何が皇帝だ。要するにバール人どもに雇われた傭兵隊長だろう?」

 さすがに竜也もやや不快となったが、今は不審の思いが勝っていた。この男が何をしに、何のためにこの場にいるのか、竜也には読めなかったのだ。

「――それで? ケムトの特使様が一介の傭兵隊長に何のようだ? こっちも暇じゃないんだが」

「貴様ごときの指揮で聖槌軍に勝てるはずがない――宰相は全てをお見通しだ。だからこそ宰相は私をここに派遣した」

 竜也の売った喧嘩をギーラは真っ向から買って見せた。竜也とギーラの視線が空中で剣のごとく斬り結び、火花が散る。

「お前だったら聖槌軍に勝てるとでも?」

「ここまで不利な立場に追い詰められて、勝ちも何もないだろうが! 私は聖槌軍総司令官ヴェルマンドワ伯ユーグと交渉し、すでに一時的な休戦協定を結んでいる。ほんの七日間の協定だが」

 まさか、と竜也は我知らずのうちに呟いた。だがギーラの涼しい顔のままで、そこには嘘の気配が存在していない。

「私の役目は七日の間にこれを永続的な和平協定とすること、貴様の役目はそれに奉仕することだ」

「和平の条件は何だ? まさか……」

「まず一つはナハル川より西の西ネゲヴ全体を聖槌軍の勢力圏として認めること」

 ギーラの言葉に竜也は「やっぱり」という思いを禁じ得ない。血よりも苦々しい思いが、ギーラへの百の悪態が竜也の口内を満たした。竜也はそれを吐き出すことをかろうじて堪える。そんな竜也に構わずギーラが続けた。

「そしてもう一つは、私の所有する『モーゼの杖』をヴェルマンドワ伯に譲渡することだ」

 思わず呆然とする竜也に対し、ギーラは勝利を確信した顔を誇示していた。









*あとがき


 「逆襲篇」に続く!!




 ……ということで、本作も全六章のうち第四章まで進みました。残りの二章も現在鋭意執筆中。何とか二ヶ月くらいで更新再開できたらいいなぁと思っておりますが、どうなることやら。
 ですが必ず完結させますので、どうか気長にお待ちください。



[19836] 第四〇話「敵の味方は敵」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/21 13:39



「黄金の帝国」・逆襲篇
第四〇話「敵の味方は敵」





 イムホテプが部下のツネリをケムトへと送り出したのはニサヌの月(第一月)の中旬のことである。

「そして今日がタシュリツの月(第七月)の六日か。ちょっとのんびり構えすぎていたな」

 竜也はそう独りごちる。サフィナ=クロイからケムトまでは海路で一月の旅程だ。往復で二月以上使い、さらに杖の偽物を作るのに仮に一月使ったとしても、本来ならとっくに戻っていなければならなかったのだ。

「ファイルーズ様からご命令をいただいておきながらこのような不始末となったこと、まことにお詫びの言葉もございません」

 場所はサフィナ=クロイの中心地にある臨時総司令部、その竜也の執務室。竜也達の前で平伏し、ひたすら恐縮しているのはツネリである。竜也は辛抱強く彼をなだめた。

「謝罪は後で気が済むまでやってくれ。でも今は、ケムトで何があったのか、事実だけを話してほしい」

「は、はい」

 ツネリは迷子の子狐のように怯えながらも、竜也の命令に従って報告を始めた。
 ……ときは海暦三〇一六年タシュリツの月の六日、長雨の戦いから六日が経っている。聖槌軍がスキラに到着し、戦端が開いてからは約三ヶ月。ソロモン盟約が締結され、竜也がヌビアの指導者となってからは約半年。教皇インノケンティウスが聖戦を発動してからは約一年半。竜也がこの世界にやってきてからは三年と二ヶ月が経過していた。
 長雨の戦いにより聖槌軍は二〇万の犠牲を出したが、その一方ヌビア軍もまた全軍の半数が死傷している。

「今、敵の攻撃があったら確実に負ける」

 竜也やアミール・ダールが敵の影に怯える中、三〇隻の軍船を引き連れてケムトから舞い戻ってきたのがギーラである。ギーラはケムト艦隊の戦力と「モーゼの杖」を材料とし、ヴェルマンドワ伯ユーグと七日間の休戦協定を結んだのだ。今のヌビアにとってそれは、天国から垂らされた蜘蛛の糸に等しかった――ギーラがヌビアを二つに割って西側をユーグに譲り渡すつもりでさえいなければ、の話だが。
 もし可能なら竜也は千の理を説いてギーラにそれを撤回させようとしただろう。だがギーラは言いたいことだけを言って一方的に竜也との会談を打ち切ってしまった。臨時総司令部に戻ってきた竜也達はギーラの策動に対処しようとしているところである。

「私がケムトに、メン=ネフェルに到着したのはジブの月の下旬です。私は聖モーゼ教会の教主、大司教ムァミーンに状況を説明して協力を求め、彼はそれを快諾しました」

 聖杖教と言えば自ら以外の信仰を一切認めず、多神教を邪教呼ばわりし、異教徒を殺戮することを功徳とする、その残虐性や傲慢性を最大の特徴としているわけだが、聖モーゼ教会に限ってはその例外に当たる。聖モーゼ教会が建っているのは太陽神殿信仰の聖地にして中心地、メン=ネフェルだ。この地で彼等聖杖教徒がその傲慢さのままに存分に振る舞ったなら、その日のうちに彼等はメン=ネフェルから追放され、聖モーゼ教会は更地になっているだろう。

「私達は太陽神殿の信仰を貶めるつもりも妨げるつもりも、その信徒に危害を加えるつもりも毛頭ありません。ですからどうか私達の信仰を黙認してください」

 歴代の聖モーゼ教会の司教達はそうやって太陽神殿の前に平伏し、そのお目こぼしに預かってどうにか存続してきたのだ。だがその姿勢はテ=デウムの教皇庁から厳しい指弾を受けた。

「預言者フランシスを始めとし、かつての多くの信徒が棄教か殉教かの選択を迫られたが、それでも彼等は信仰を曲げずに殉教を選んだ。聖モーゼ教会は異教徒の脅迫に屈して信仰を歪めている、それは許されることではない」

 それまでの聖杖教の教義の範囲ではこの非難に対抗することは困難だったが、彼等は反論として聖典のある一節を持ち出した。

「預言者フランシスの説いた、よきサマリア人の段を思い出してほしい。神の愛は無制限であり、それが奉ずる神や信仰の垣根に囚われるはずもない。異教徒にも神の愛を知らしめるのが我等の使命であり、そのためには異教徒とも手を携える必要があるのだ」

 こうした理論武装と自己正当化により、聖モーゼ教会はそれまでの「正統な」聖杖教の教義から外れ、分派として成立することとなった。教皇庁と聖モーゼ教会は互いに破門し合って絶縁。以来両者の間に交流はなく、それぞれ独自の歴史を歩んできた。聖モーゼ教会は「少しおかしな神様を信じる人達」としてメン=ネフェルの社会でも一定受け入れられていたのである。

「……ですが、聖槌軍のヌビア侵攻によりその空気は変わりました。ルサディルの惨劇を始めとする聖槌軍の暴虐はケムトでも知られています。聖杖教徒は野蛮で残虐な狂信者、という見方が広まり、聖モーゼ教会の立場も危うくなったのです」

 ツネリの説明に竜也は「そうなるだろうな」と相槌を打った。

「司教ムァミーンは教皇インノケンティウスを口を極めて罵り、エレブの聖杖教徒と同一視されるのを必死に払拭しようとしていました。その中で私がケムトに到着し、モーゼの杖を引き渡すよう彼等に要求したわけです」

 教皇インノケンティウスや枢機卿アンリ・ボケがモーゼの杖を欲していることはケムトでも知る人ぞ知る話だった。

「杖一本渡せば聖槌軍が帰ってくれるのならそうするべきだ」

 という声が司教ムァミーンの耳にも届いていた。だがムァミーン達にとってそれは信仰の支柱であり信者の拠り所であり、決して簡単に譲れるものではない――が、偽物で構わないというのなら話は別である。

「ファイルーズ様のご配慮に司教ムァミーンは涙を流して喜んでおりました」

 とツネリ。偽物を渡すことで本物を失う危険を大幅に減らせるのなら、悪化するばかりのメン=ネフェルでの立場を少しでも改善できるのなら、ムァミーンにそれを断る理由などどこにもありはしないだろう。

「元々聖モーゼ教会にはモーゼの杖の複製が何本か用意されておりました。本物の杖は教会の地下で厳重に保管されているそうで、司教ムァミーンも目にしたことは二回しかないとか。普段の礼拝や信徒の参拝には杖の複製を使い、それを見せているのです」

 そして特別の礼拝や特別の儀式に際してはそれ用の、特製の複製があるわけで。さらにムァミーンが手ずから加工を施し、本物と寸分変わらない複製が完成。ムァミーンがしぶしぶ嫌々を装いつつ引き渡し、ツネリが無理矢理強引を演じつつ受け取ったのがそれである。

「……あのバール人が現れたのは私がサフィナ=クロイに向けて出港しようとしていた、まさにそのときです」

 ツネリの口調が一変した。その声音に口惜しさと忌々しさがにじんでいる。

「私がモーゼの杖を手に入れたことをどこかで耳にし、杖の引き渡しを求めてきたのです。もちろん私は拒絶したのですが、あのバール人は宰相プタハヘテプの特命を有していました。杖は取り上げられ、私はずっと船室に軟禁されることとなったのです」

 杖を手にしたギーラはセンムトに艦隊の編成をさせたりエジオン=ゲベルに赴いたりと精力的に活動。万全の準備を整え、ケムトを出立したのはエルルの月(第六月)の月初である。

「……あのバール人が私を解放したのはつい先ほど、ファイルーズ様との会談が終わった直後です。私はその足で総司令部に戻りました」

 竜也は顎に手を当てて少しの間考え込んだ。

「……ギーラは杖が偽物だってことは知っているのか?」

 ツネリは即座に「いえ」と首を横に振った。

「あのバール人は杖が本物だと疑っておりませんでした。メン=ネフェルでもあれが偽物だと知っているのは司教ムァミーンただ一人です」

「ケムト艦隊提督のセンムトとギーラは上手くいっているのか?」

 ベラ=ラフマの問いに対する答えも「いえ」という否定だった。

「ギーラは宰相プタハヘテプの特命と特使という立場を振りかざして提督センムトを顎で使っており、提督センムトはギーラを嫌っております。ですが、提督センムトは職務に忠実な方です。『特使に協力せよ』という宰相の命令には逆らえず、やむを得ずギーラの言いなりになっているのです」

 ベラ=ラフマは「ふむ」と何かを考え込んだ。

「ギーラさんがどうしてエジオン=ゲベルに赴いたのか、ご存じですか?」

「いえ、申し訳ありませんが……エジオン=ゲベル王に何らかの助力を求め、それが得られた、ということくらいしか判りません」

 その他、不明な点を何点か確認して竜也はツネリの報告を聞き終える。ツネリを退出させ、竜也の執務室にはファイルーズ、イムホテプ、そしてベラ=ラフマだけが残された。

「しばらく名前を聞かないと思っていたら、まさかこんなことになるなんて。甘く見すぎていたな」

 竜也がいつになく苦々しい顔で舌打ちをする。ベラ=ラフマもまたまれに見る恐縮ぶりだった。

「面目次第もありません。私も油断しておりました」

「終わったことはもういい。でも、ギーラがこの町にいる限りあなたの監視の目からは逃れられない、それは期待していいか?」

 竜也の確認にベラ=ラフマは十全の自信を持って「お任せください」と頷いた。

「ギーラは自分への支持を、ヴェルマンドワ伯との和平協定への支持を集めようとするだろうな」

「おそらく元老院の議員――スキラ会議の参加者への働きかけをし、自らの派閥に取り込もうとするでしょう」

 竜也とベラ=ラフマはそう確認し合う。そこにイムホテプがためらいがちに口を挟んだ。

「東ヌビアの議員を始めとしてギーラの支持に回る者も多いでしょう。我々の置かれた状況を考えるなら、最悪の敗北を避けるためなら、西ヌビアの割譲もやむを得ないことと……」

「それは違う」

 吐き捨てるような竜也の剣幕にイムホテプは口を閉ざす。竜也は一呼吸置いて気持ちを落ち着かせようとした。

「西ヌビアを割譲して和平を結んだところで、そんなの長く持っても数年だ。いずれそのうち、奴等は万全の準備を整えてナハル川を渡ろうとする。和平を結んでも問題は先送りになるだけで何も解決しないんだ」

 竜也の信念には一片の揺るぎもなく、ファイルーズもまたそれを是とした。今検討するべきはギーラの策動にどう対抗するか、和平を求める声にどう対処するか、だ。だが良案が簡単に出るはずもなく、「各自の宿題」という形でその夜の検討は終わってしまう。その間にギーラは一手も二手も先手を打っていた。
 翌日の朝、仮の公邸になっている船から臨時総司令部に登庁した竜也はその光景に唖然とする。

「軍は先の戦いの痛手から回復していない。ここは和平を結んで時間を稼ぐべきだ」

「痛手を受けたのは敵だって同じことだ! 和平など馬鹿げている!」

「西を取り戻さなくてもいいというのか!」

「東まで聖槌軍に占領されてしまったら元も子もないだろうが!」

 総司令部に大勢の元老院議員が集まり、ギーラの和平案をめぐって言い争いをしていたのだ。

「皇帝! 皇帝クロイはどうするつもりなのですか?」

 議員の一人が竜也に気が付き、竜也に詰め寄る。それにその場の議員の大半が続き、竜也は彼等に包囲された。

「まさか敵に西を割譲するなどと」

「今の状態で敵と戦うなど、暴挙です!」

 彼等は口々にそれぞれの主張を叫んでいる。近衛の牙犬族剣士が議員を押し戻している間に竜也はこの場で言うべきことをまとめようとした。近衛に抑えられてとりあえず口をつぐんだ議員達。竜也は彼等との間に一メートルほどの距離を置き、一同に向けて宣言した。

「――その議論ならソロモン盟約の締結前に散々くり返したはずだ。焦土作戦を完遂して敵を全滅させる、ヌビア軍のその方針に何ら変わりはない」

 竜也は簡潔にそれだけを述べ、執務室へと姿を消す。その場に残されたのは意を強くした議員の半分、そして失望した議員の半分である。
 逃げ込むように自分の執務室に入った竜也だが、そこも安息の地とはならなかった。元老院議員の中でも特に有力な者達がひっきりなしに竜也を訪ねてやってくるからだ。

「やはりここはより広い視野を持って、長期的展望に立って、ヴェルマンドワ伯との和平を結ぶことを考えるべきではないのか?」

 と言ってくるのは東ヌビアの商会連盟の代表だ。その一方、

「ヌビアの全土をあの狂信者どもから取り返す、西ヌビアの全ての民がその願いを、その望みをお主に託しているのだ。それを忘れたわけではあるまい?」

 と言ってくるのは恩寵の民の長老だ。竜也は前者に対しては自説を主張し、説得しようとし、後者に対しては大いに同意し、また暴発しないようなだめた。
 ……一日の半分をそうやって有力者との会談に費やし、時刻はとっくに正午を過ぎている。

「つ、つかれた……」

 有力者の一人をなだめて退出させ、執務室に残った竜也は机に突っ伏した。

「皇帝、次はレプティス=マグナの長老が面会を求めています」

「判った、でも少しだけ休ませてくれ」

 竜也は自分で胃痛に効く薬湯を煎じ、それをがぶ飲みする。そこに、

「――申し上げます!」

 ノックもなしに近衛の一人が執務室へと飛び込んできた。

「港からの急報です、敵が渡河作戦の準備を進めていると――」

 竜也の手から薬湯の急須が滑り、陶器のそれは床に落ちて粉々に砕けた。







 一方同時刻、ナハル川北岸のスキラ。ナハル川を望むその場所では何万ものエレブ兵が集まり、何百という列を作って整然と並んでいた。だが、

「本当に渡河をするわけじゃない! 敵に勘違いさせるのが目的だ!」

「しばらくそこで立っていればそれでいい!」

 百人隊長が兵士にそう言い回っている。兵士達は列を作り並びながらも気を緩ませ、隣の兵士とおしゃべりを楽しんでいた。

「ようやくこの戦争も終わりか、長かったな」

「この大陸の半分も征服して、聖杖だって奪い返せたんだ。戦果としては文句なしだろう。俺達は充分に戦ったさ」

「さすがは王弟殿下だ。どこかの坊主が余計な口を挟まなきゃ俺達はもっと早く勝ててたんじゃないのか?」

「『肉屋にパンを焼かせるな』って言うだろう? やっぱりパンを焼くのはパン屋でないとな」

「一時はどうなるかと思ったけど、これでやっと生きて帰れるんだ」

 語りあい、笑いあう兵士達の姿にユーグもまた笑顔を見せていた。その背後にはタンクレードが佇んでいる。そこに近衛の騎士の一人が接近してきた。

「殿下、枢機卿猊下の使者が来ています。早急に会談を持ちたいと」

「会うつもりはない、帰らせろ」

 近衛の騎士は一礼し、戻っていく。それを見送ってからタンクレードが、

「これはあの男の焦りの表れと見ていいでしょう」

 その解説にユーグは「そうだな」と頷いた。

「首尾はどうだ?」

「取引のことは噂として全軍に広まっております。

『ヌビアと取引をして七日間の休戦協定を結んだ』

『西ヌビアとモーゼの杖の譲渡を条件に恒久的な和平協定を結ぶ』

 と。我が軍だけでなく枢機卿派の将兵においても肯定的な反応が大半です」

 その報告に「よし」と頷くユーグ。

「だが、もう一手ほしいな」

 その言葉を予想していたようにタンクレードが告げる。

「はい、引き続きこのような噂を流しております。

『和平協定が成立したなら全軍のうち半数は帰国させる』

『残った半数で西ヌビアを統治し、食糧を充分に蓄えた上で進軍を再開する』――」

 その報告にユーグは「それはいいな」と破顔した。

「うまいぞ、あの男に対する反論としても充分使える。実際にそうしてもいい」

「はい。これなら帰国を求める者もさらなる進軍を求める者も、双方とも納得することでしょう。それでもなお和平に反対するのは、おそらくあの男ただ一人です」

 ユーグは「構いはしない」と不敵な笑みを見せた。

「僕に剣を向けるというのなら望むところだ、返り討ちにしてやるさ」

 ユーグはギーラとの取引について公式発表を一切せずに沈黙を守っている。その代わりに取引の詳細を噂という形で全軍に広めていた。

「聖戦の完遂こそが神の望み、教皇聖下のご意志。ヌビアと取引をして敵と和平を結ぶのは敵に与することに他ならない。教義に対する裏切りであり、異端以外の何物でもない」

 もしアンリ・ボケがそう言ってユーグを告発したとしても、ユーグは、

「ヌビアとの取引など事実無根だ。枢機卿は不確かな噂だけを元に異端告発を行った」

 と堂々と反論し、公然と剣を持って反撃することができるのだ。

「むしろここであの男が暴発してくれるのなら大いに助かるのですが」

「確かにそうだが、さすがにあの男もそこまで愚かではないだろう。全ては杖を手に入れてからだ、そうすればもうあの男だって怖くはない」

 神と直接契約を結び、聖杖教を成立させた伝説上の創始者、契約者モーゼ。そのモーゼ本人が使っていたとされる契約者の聖杖――モーゼの杖。

「そんなもの、本物なわけがないだろう」

 ユーグはそう言いたくて仕方なかった。ユーグやタンクレードから見ればそれは四〇〇年前にでっち上げられた偽物に過ぎない。だが、本物かどうかはこの際問題ではない。アンリ・ボケや将兵のほとんどがそれを本物だと、契約者の聖杖だと信じて疑っていない。それをユーグが手にしたなら、ユーグは契約者モーゼの威光を背負うことになるのだ。

「杖さえあれば権威の面であの男と対等になれる。枢機卿派の聖職者を引き抜いてこちら側に取り込んでいけば、数の上でも優位に立てる。あの男を処断し、処刑することも決して不可能じゃない。そこまでいかなくても適当な理由を付けて帰国させるくらいは難しくないだろう」

 ユーグの言葉にタンクレードが「はい」と頷く。

「まず杖を手に入れることが最優先、そのためには特使ギーラに対する援護が必要です」

「ああ。連中が、ヌビアの皇帝が和平に同意するまで毎日でもこうしてやる」

 和平を結ばないのなら戦争だ――ユーグは竜也に対してそれを示威しているのだ。
 ユーグは不敵な笑みを浮かべてナハル川の向こう岸を見つめた。ユーグはその視線の先に存在する南岸の要塞を、サフィナ=クロイの町並みを、皇帝の黄金の宮殿を、その玉座に座る皇帝クロイの姿を脳裏に思い描いた。

「さあ、早く決断するがいい。僕とお前は手を取り合える、そうだろう?」

 ユーグは竜也に対して共感や友情すら抱いていた。この和平が竜也やヌビア市民にとっても最善だと、疑いもしていない。だが、それはユーグの頭の中のある、想像上の「ヌビアの皇帝」に対するものでしかなかった。ユーグは竜也やヌビア市民の真の姿を、進んで知ろうとはしなかったのである。







 一方のサフィナ=クロイ。聖槌軍の行動がただの示威だと、この時点で見抜いた者は一人もいなかった。

「アンリ・ボケ、あの狂信者が来るのか……!」

 和平が進められているこの時点で渡河作戦を強行しようとする者などアンリ・ボケしかいない――それが竜也の判断だった。

「ど、どうする。敵がやってくるだと」

「どうもこうもあるか! 戦って撃退するだけだ!」

「だが、勝てるのか? ここはまず市民を南に逃すべきでは」

 臨時総司令部に集まっている元老院議員も不測の事態に慌てふためき、右顧左眄するばかりだ。そこに竜也が現れ、

「落ち着け!」

 とまず一喝した。その場の全員が口を閉ざす中、竜也は一同を見渡し、

「逃げたい奴は逃げればいい。だが、市民から委託された義務を果たそうという者は俺に続け。敵の上陸を阻止するぞ」

 竜也の宣言に恩寵の部族を始めとする抗戦派は高揚し、「おお!」と鬨の声を上げた。一方の和平派は戸惑うばかりである。

「しかし皇帝、戦うと言っても私は剣も弓も持ったことも」

「儂はこんな年寄りで到底戦いの役には……」

「強制はしない。だが」

 竜也は真っ直ぐに彼等を見つめる。

「敵兵だって元はエレブの農民ばかりだ、素人だって戦えないことはない。剣がなければ棍棒を持てばいい。石を投げればいい。湯や油を沸かして敵にぶっかけてやればいい。今のあなた達にもできることはあるはずだ」

 竜也の真摯の瞳が彼等を見据える。彼等のうち半分は竜也を見つめ返し、もう半分は気まずそうに目を逸らした。
 竜也はそれ以上は何も言わず、黒い外套を翻して外へと向かって歩いていく。その場の元老院議員の約七割が竜也の後に続き、川岸の最前線へと向かった。
 ……数刻後、ナハル川方面軍の野戦本部。竜也はその場所でアミール・ダールと額を寄せ合っている。彼等の眼下にはナハル川の地図が広げられていた。

「敵の動きは?」

「情報が錯綜しております。ケルシュに偵察させ、敵兵がこの地点に集まって渡河の準備を進めていることが判っております。数は四万から五万」

 アミール・ダールが指揮棒で指し示すのはナハル川北岸のうち海に近い場所だ。竜也は怪訝な思いを顔に浮かべた。

(王弟派の勢力範囲内じゃないか。それじゃ渡河をしようとしているのはヴェルマンドワ伯? そんな馬鹿な……)

 竜也は無言のまま推理を進め、「ユーグの行動はギーラに対する政治的な援護射撃」という可能性に思い当たった。だが確実にそうだとは到底断言できない。

「……ともかく、将軍はこのまま迎撃の準備を。俺は周りの様子を見てくる」

 竜也は野戦本部を出、近衛の護衛を引き連れて歩き出した。兵士や百人隊長が慌ただしく走り回る現場をゆっくりと歩き、状況を見て回っていく。

「もう駄目だ、逃げるべきじゃ」

「何言ってるんだ、母ちゃんがこの町にいるんだぞ!」

「武器は、何か武器はないのか! 何でもいい、大鷲族のギベアハ様が来てやってるんだぞ!」

「こんなに矢玉があるんじゃないか。これはこっちでもらうぞ」

「待ってください! これは第九軍団への補給で」

 兵士の一部がこっそり逃げようとする一方で手弁当の義勇兵がやってきている。だが彼等の配属場所が決まらず、せっかく来たのに手持ち無沙汰の様子だった。大半の場所で補給が滞る一方で補給物資が積み上げられている場所がある。勝手に物資を持っていこうとする百人隊長と補給担当の官僚が言い争っている。状況はどうしようもない混沌であり、混乱は時間を経るにつれて収まるよりもむしろ拡大していた。

「敵の攻撃がない今はまだいい。でも、もし攻撃があったならどうなる? この有様でまともに戦えるのか?」

 竜也は暗澹たる思いを抱いて陣地内を一周し、小一時間ほどで野戦本部へと戻ってきた。竜也はその一角に陣取り、椅子に腰掛け、無言のまま軍団長や百人隊長が延々と右往左往する様を見つめ続けている。

「……敵が今日渡河作戦を決行するとは考えなくてもいいでしょう」

 アミール・ダールがそう結論を出した頃には日は完全に沈んでいた。竜也は「そうか」と答えるだけだが、その頃には竜也の心の半分以上が絶望に浸食されていた。






[19836] 第四一話「敵の敵は味方・前」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/18 21:03


「黄金の帝国」・逆襲篇
第四一話「敵の敵は味方・前」






 ユーグによる示威行動は翌日も、その翌日もくり広げられた。アミール・ダールは来もしない敵に烏合の衆を率いて備えることを強いられ、自軍の惨状を、否応もない現実を突きつけられる。竜也だけでなくアミール・ダールもまた戦いの先行きに対して悲観を覚える他なかった。
 竜也達が軍の立て直しや町の復興に時間と労力を費やしている一方、ギーラは派閥工作だけに全精力を投入することができた。ギーラは元老院の有力議員の元を訪問し続け、ユーグとの和平を、自分への支持を説いて回っている。またそれとは別に、

「王弟殿下はあの狂信者とはわけが違う。バール人であろうと分け隔てなく、気さくに接してくださるのだ」

 アニードも和平協定への支持を訴えて回っている。アニードの訪問先は東ヌビアのバール人商会だが、彼等の反応は以前とは一変していた。

「ヴェルマンドワ伯に手土産を用意してある。もちろんお主の分もあるぞ」

「聖槌軍に食糧を売る準備をしている。今は皇帝の目があるから表だっては動けんが、和平が成立したなら堂々と商売できるだろう」

 商会のほとんどがアニードを通じてユーグとのつながりを得ようとしているのだ。アニードもまた仲介の労を厭わなかった。

「あの皇帝もよくやってくれたのだがな、ここらが限界だったか」

「まあ、百万の敵を相手にヌビアの半分を保てただけでも上出来ではないでしょうか」

 ナーフィア商会すらがアニードの元に代理人を送っているのだ。ナーフィア商会と言えば竜也の元に当主の愛娘を送り出し、竜也をどの商会よりも強力に支援してきた、バール人の中では最強硬派とされる商会だ。その商会が和平を見越した行動を取っている意味は決して小さくはなかった。
 実家のその動きをカフラは知らないままだったが、竜也はベラ=ラフマを通じて把握している。

「どうしますか? アニードの動きも含め、何らかの対処が必要ではないかと」

 ベラ=ラフマの促しに対し、竜也は苦り切った顔で首を横に振った。

「……バール人に手は付けられない。放っておくしかない」

 竜也の念頭にあるのは、以前ミカがハムダン商会を告発したときのバール人の行動だった。ミカが不正を摘発してハムダン商会を潰した際、バール人が抗議のためにヌビア軍に対する補給を一斉にストップ。軍は大混乱に陥り、ミカは兵站担当から外される結果となった。

「軍の立て直しや町の復興にも、バール人の全面協力がなければどうしようもない。今彼等にそっぽを向かれたら俺達は完全に終わりだ」

 竜也の判断にベラ=ラフマは異議を唱えなかった。だがそうなると二人にできることはろくに残らなくなってしまう。竜也はアニードだけでもどうにかできないかと一人検討をするが、

「……アニードさんがもっと普通の、金に目がないだけのバール人だったらよかったのに」

 竜也の口から出てきたのはそんな益体もない愚痴だけだった。
 アニードが普通の、金儲けだけが目的のバール人なら、ルサディルを守ろうとしてタンクレードと協力することもなかっただろう。ルサディルの惨劇自体は避けようもないが、事前にルサディルから逃げ出す人は増えたかもしれない。
 アニードがルサディルの惨劇の償いをしようなどと考えなければ、タンクレードの御用商人となることもなかっただろう。そうなればユーグの意を受けて和平工作をすることもなかったに違いない。

「このまま戦争が続けば枢機卿が東ヌビアも侵略し、何もかもを破壊し尽くし、誰もかもを殺し尽くしてしまう。王弟殿下に西ヌビアを割譲してでも和平を結ぶこと、それこそが東ヌビアの安全を守る唯一の方法なのだ」

 今、アニードの中ではヌビアへの償いとユーグへの忠誠が矛盾なく一つとなっている。アニードはある意味幸せだと言えるだろう。もし両者が矛盾するなら、アニードがどちらを選ぶとしても苦しまずにはいられなかっただろうから。
 ギーラが蠢動し、竜也が後手に回ったまま二日が過ぎて、タシュリツの月(第七月)の九日。北岸でユーグの示威行動が続く中、臨時総司令部には元老院議員のほとんどが集まり元老院が開会された。議員に働きかけて開会を要求したのはギーラであり、その議題が「ヴェルマンドワ伯ユーグから呈示された和平協定」についてであることは言うまでもなかった。

「しかし、露骨なことだな」

 竜也は皮肉に口を歪めた。ユーグとギーラが歩調を合わせて行動していることは誰の目にも明らかだ。和平派の議員であろうと敵に与するギーラに対して好意を持つことは困難だった。

「なるようになれ、だ。和平を選んで自滅したいのならそうすればいい」

 ギーラの蠢動に対応できず、対策も立てられなかった竜也は半ば投げやりになりながら元老院に臨んでいた。ナハル川の防衛線がろくに機能していないことを竜也は誰よりも理解している。ナハル川の防衛線なくしてヌビア軍の勝利もまたあり得ない。

「俺がヌビア軍を勝たせる」

 虚勢でもそう言えない今、和平という屈服が選ばれることもまた運命――それは達観と言うより諦念である。長雨の戦いの大損害、バール人の離反、先行きに対する悲観、それらが竜也の戦意を削りに削ってきた。あと一撃でへし折れる寸前、竜也はそこまで追い詰められていたのだ。
 アミール・ダールやマグドは前線で敵の動きを警戒中。その代理としてミカとライルが出席。また、ファイルーズやカフラも竜也に同行していた。一方のギーラはセンムトを伴っている。

「ご機嫌よう、センムトさん」

 ファイルーズの挨拶を受け、センムトは一瞬動揺する。が、即座に無表情を取りつくろった。ファイルーズに一礼してギーラの後を追うセンムト。センムトはギーラへの同行を職務と割り切っているようだ、とファイルーズは感じた。
 そして開会の時間となり、議長のラティーフが開会を宣言しようとし、

「この恥知らずが! 敵に媚びを売る裏切り者はこの国から出ていけ!」

 その間もなく恩寵の部族を代表している議員の一人がいきなりギーラを指弾する。大荒れが必至なこの元老院の、それが開会の号砲となった。

「自殺がしたいのなら一人でやれ! 敵はまだ四〇万も残っていて、こちら戦力が半減しているのだぞ!」

「ここで和平を結んだところで聖槌軍は体力を回復させたなら必ずまた攻めてくる。今戦うべきだ!」

「それで連中に負けて、東も連中に占領されるのか? 冗談じゃない!」

「自分の町だけ守れればそれでいいというのか!」

 和戦両派の議員が自説を主張し、相手に反論し、相手を罵り、反撃し、掴み合いになる。そんな光景が議場の各所で展開された。竜也は充分な時間を取って双方の議員に言いたいだけ言わせた上で、シンパの恩寵の部族の議員を使って乱闘を鎮圧。議場に仮初めの平静さを取り戻させた。

「――ところで聖槌軍との和平協定を提案したのは特使ギーラだったと思うが、特使ギーラの主張はまだ聞いていなかったな」

 竜也はギーラに水を向けた。和平派議員の有象無象は竜也の眼中にはなく、竜也はギーラ一人を論戦の相手と思い定めている。竜也の挑戦を受け、不敵に笑うギーラは舞台俳優のような足取りで一同の前に進み出た。

「諸君! 諸君は聖槌軍百万の軍勢という空前の敵とよく戦った! 諸君の勇気も献身も、私は誰より理解している!」

 上から目線のギーラの演説に竜也は白けた思いを抱かずにはいられない。「お前はつい先日まで、この戦いの間中ずっとケムトにいたんじゃないのか」と竜也は内心で突っ込んだ。

「にもかかわらずヌビア軍は敗北寸前だ! 何故か?! 理由はただ一つ、クロイ・タツヤの戦争指揮がまずかったからだ! この者の油断が長雨の戦いの大損害をもたらした、全ての責はこの者にある! 私はここに、クロイ・タツヤの皇帝解任を提案する!」

 ギーラの動議に議場がざわめいた。意表を突かれた議員達がその動議の是非について話し合っている。竜也の脳内は怒りと殺意に埋め尽くされたが、それもわずか一時だ。ゆっくり深呼吸をし、竜也は怒りを静めて心のコントロールを取り戻した。

「それで? 俺を解任して次の皇帝にはお前がなるのか?」

「それは私が決めることではない。だが、議員の諸君が私を支持してくれるのならば、私はこの身命をヌビアに捧げることを約束しよう」

 竜也の問いにギーラが芝居がかった振る舞いでそう答える。「なりたいのなら勝手になればいい」という言葉が竜也の喉元まで出かかっていたが、それでもその前に確認するべきことがあった。

「もし俺が皇帝から解任されたなら、皇妃のファイルーズはどうなるんだ?」

「それについてはケムト王からの内勅をいただいている」

 ギーラの回答にファイルーズが「父上が、ですか?」と目を見開き、ギーラが満腔の自信を持って大きく頷いた。

「陛下が宰相プタハヘテプに示されたものです」

 ギーラは懐から一枚の書状を取り出し、それを読み上げた。

「――『クロイ・タツヤなるマゴルと王女ファイルーズが婚儀を結んだとの風聞、断じて許し難し。されど、王女自ら風聞を生む責なしと言えず。かくなるは王女速やかに故国に帰還すべし。王女の身柄、特使ギーラ預かりとす』」

 それは……という誰かの呟きが竜也の耳に届いた。あるいはそれは竜也の口からこぼれ出たのかもしれない。あまりのことに竜也の憤怒のメーターは一周してゼロ位置に戻っていた。ギーラに対して怒るよりもむしろ感心してしまう。

「……それは要するに、わたしとタツヤ様との結婚をなかったことにする、ということでしょうか?」

 ファイルーズが小首を傾げて問い、ギーラが頷きつつ「少し違います」と言い、

「『なかったことにする』ではありません。『実際に何もなかった』のです。それこそがケムト王のご意志」

 と力を込めて説明する。さらには、

「エジオン=ゲベル王からも同じ内容の勅書をいただいております」

 ギーラは書状を一枚追加した。それを見てミカが顔色を変える。

「王女ファイルーズ、王女ミカは速やかにケムト艦隊に移動をお願いします。お二人の身の安全は私とこちらのセンムトが生命を懸けてお守りいたします」

 ギーラの言葉にセンムトが小さく頷く。その鋼のような瞳を見れば、センムトが武人として、軍人として信用できることは明白だった。たとえ血迷ったギーラがファイルーズやミカを手籠めにしようと試みてもセンムトが決してそれを許さないに違いない。
 最大の切り札を切ったギーラは勝ち誇った顔を抑え、神妙な表情を作るのに自制心の全てを投入していた。

「……まだだ、あと少し。それまでは我慢だ」

 歓喜に顔を歪め、高らかに哄笑をあげたいのをギーラはかろうじて堪えている。

「あと少しであの小僧は何もかもを失う。王女ファイルーズと王女ミカの威光を失えば、もう誰もあの小僧を皇帝とは認めない。そして私が本当の皇帝となる。二人の王女を私が娶り、東ヌビアを私が支配するのだ……! 私が栄光を掴む姿を目にしながら、あの小僧はどこかでのたれ死ぬがいい」

 ギーラの脳裏には己の未来図が黄金と極彩色で描かれていた。東ヌビアの支配者・皇帝として君臨し、軍の精鋭と万民に崇められている、自分のその姿が。目も眩むほどに巨大な宮殿を建設し、二人の王女だけでなく何百というヌビア中の美姫が集められたハーレムで酒池肉林の毎日を送っている、自分のその姿が。ついでに竜也が乞食となって裏路地で残飯をあさり、そのまま一人寂しくのたれ死ぬところも想像していた。

「――お断りしますわ」

 だが、その確固たる未来図は一瞬で単なる妄想へと転落した。ギーラはその事実を受け入れられず、思わず問い返す。

「お、王女、今なんと」

 ファイルーズは華やかな笑みを日の光のように振りまきながら、疑う余地を一片も残さずに断言した。

「お望みなら何度でも言いますわ。――わたしはタツヤ様と添い遂げることを太陽神に誓った身、わたしはタツヤ様の妻です。タツヤ様から離れるくらいなら死を選びます」

「そ、そんな……」

 ギーラは予想外の事態にうろたえるばかりである。そこに初めてセンムトが口を開いた。

「しかし、王女ファイルーズ。先日の戦いでヌビア軍は大打撃を受けました。この状況で戦い続けるのは無謀というものでは?」

 ファイルーズは「それは違います」と静かに首を横に振った。

「確かにわたし達は苦しい状況に追い込まれています。ですが、聖槌軍はわたし達以上に苦しいはずなんです。考えてみてください、ヌビア軍のどこで人食いが横行したりしていますか? 今はわたし達と聖槌軍の我慢比べのとき。あなた達は今なお暖衣飽食していながら聖槌軍より先に音を上げるのですか?」

 ファイルーズの問いに和平派の議員が気まずそうに目を逸らす。ファイルーズは新事実を呈示したわけでも、特別目新しいレトリックを駆使したわけでもない。同じようなことは抗戦派の議員が既にくり返し主張している。にもかかわらず、ファイルーズの言葉に和平派議員の全員が口を閉ざした。太陽神殿の巫女長たるファイルーズが「ヌビアを守れ」と命じているのだ、それに抗弁するのは誰にとっても至難だった。

「しかし、王女ファイルーズ」

 反論するのはこの戦争を他人事としているセンムトである。

「もし聖槌軍が攻めてきたならヌビア軍の敗北は免れません。にもかかわらず皇帝クロイは戦い続けようとしています。このままでは東ヌビアは侵略され、征服され、聖槌軍の魔手はケムトまで届くようになるでしょう」

「いえ、そうはなりません」

 にこやかに断言するファイルーズにセンムトは戸惑った。それはセンムトだけではない。ギーラや竜也も含めた議場の全員がその当惑を共有している。

「聖槌軍と戦って勝つ方法があるというのですか? 一体どうやって」

「タツヤ様が何とかしてくれますわ」

 ファイルーズのその宣言に、今度は全員が沈黙した。それに構わずファイルーズが、祈るように心臓の前で両手を結びながら、静かに、だがよく通る涼やかな声で続ける。

「わたしが良人と見込んだ殿方を見損なわないでください。この程度の苦難、我が半身と思い定めた方なら必ず乗り越えてみせます」

 そこにあるのは竜也に対するわずかの疑いもない、完璧なる信頼。竜也は自分の胸の内が火傷しそうなほどに熱くなるのを感じた。こぼれそうになる涙を堪えるために上を見上げる。
 皇帝の地位なんかほしければくれてやる。和平を結んだことでこの国が滅んだとしても、俺の知ったことじゃない――それは竜也の掛け値なしの本音である。でも、ファイルーズを奪われることだけは許せない。ファイルーズを喪うことだけは認められない――それは竜也の心からの欲望であり要求だった。欲求の薄い竜也が生まれて初めて抱いた、魂からの衝動だった。
 だが、ファイルーズを奪われないためにはヌビアのこの窮状を何とかしなければならない。破滅の縁に立たされたヌビアを救わなければならない。聖槌軍を撃破し、この戦争に勝つための新たな筋道を見つけなければならないのだ。

(そんなの、一番最初にファイルーズと約束していたことだ。やるべきことは最初から何も変わってない。この程度のことができないでいて何が皇帝だ、黒竜の化身だ……!)

 竜也の思考回路が光の速さで高速回転した。この数日間、ヌビアを救うために散々考えていたようで、その実思考が堂々巡りのただの空回りだったことを実感する。枢機卿アンリ・ボケ、ヴェルマンドワ伯ユーグ、特使ギーラ、ケムト艦隊、聖槌軍、モーゼの杖。竜也を包囲する様々な要素があるいは結合し、あるいは分離する。その反応が無数にくり返され――

(あれ……? ちょっと待て)

 竜也の中である図式が完成を見た。竜也の頬が高揚に熱くなる。

(馬鹿げているとしか言いようがないけど、でもそれができるなら……)

 竜也はその図式に穴がないかを様々な角度から検討した。検討すればするほど、それが必然だ、それ以外に解はないと思えてくる。検討に没頭した竜也は周囲の状況も忘れてしまい、誰の声も耳に届かなくなった。

「お、王女ミカ! 王女ミカはどうなのだ!」

 ファイルーズを竜也から引き離す謀略が不発に終わり、さらにはファイルーズの託宣により議場の風向きが変わってきている。それを肌で感じたギーラはミカだけでも竜也から引き離そうとした。

(風向きくらい何度でも変えられる! アミール・ダールさえ味方に付ければ――)

「お断りです。わたしは父上とタツヤと共に、この地で敵と戦います」

「馬鹿な!」

 ミカにまで拒絶されたギーラは一瞬自制が利かなくなり半分くらい激発してしまった。

「エジオン=ゲベル王からもらったのは内勅ではなく正式な勅書なのだぞ! それを」

「ということはケムト王の内勅はやはり宰相のでっち上げですか」

 槍で胸を穿つがごとき鋭さでミカが指摘し、ギーラは思わず言葉に詰まる。ミカの指摘は根拠のない、ただの揚げ足取りに等しいものなのだが、ギーラの態度はそれが事実だと自分で認めたようなものだった。

「いずれにしても」

 ミカはギーラを見下ろすような目を向けて、

「故国からわたし達を追放したのはエジオン=ゲベル王です。その命令に従う理由などどこにあるのですか」

 馬鹿ですかあなたは、とは言わなかったが、それが省略されただけなのは誰もが理解できたことだった。ギーラの口から歯の軋みが、獣のような唸りがかすかに漏れている。

「――ところでギーラさん、一つ確認したいんですが」

 突然カフラが発言し、余裕をなくしているギーラは「何だ!」と怒鳴るように返答した。

「もしタツヤさんが皇帝じゃなくなってギーラさんが次の皇帝になったなら、ギーラさんはタツヤさんの借金を引き継いでくれるんですか?」

「はあ? 馬鹿を言うな、何故私がそんなものを」

 想定外のカフラの質問にギーラは本音そのままに回答。それを聞いたカフラは「ありがとうございます」と一礼した。だが、

「……何が言いたい」

 カフラがにやにやと嫌らしい嗤いを浮かべているのを見、ギーラは苛立ちを抑えつつ問う。

「いえ、何でもありませんよー。あとでお仲間の皆さんに確認してみたらどうですか?」

 カフラは嘲笑混じりにそう言うだけだ。ギーラは大きく舌打ちした。

「――王女ファイルーズがどのようにお思いになろうと、肝心のクロイ・タツヤに戦う方策がなければ意味がない!」

 ギーラは一呼吸置いて冷静さを取り戻し、その舌鋒を竜也へと向けた。

(こうなったら論戦であの者を論破して、皇帝解任を採決させるしかない)
ギーラは未だ勝利を諦めておらず、それを勝利への筋道とした。が、

「……おい、聞いているのか、おい!」

「え? 何か言ったか?」

 自分の考えに没頭していた竜也はギーラの問いかけが全く聞こえていなかった。屈辱にまみれたギーラは眩暈がするほどの怒りを覚えているが、竜也はそれすらも気が付いていない。

「今のヌビア軍の有様で、貴様はどうやって聖槌軍に勝つつもりなのかと訊いている!」

「それは言えない」

 竜也の即答にギーラは数呼吸分沈黙し、

「ふざけているのか……!」

 歯をこすり合わせて出しているかのようなその声音に、竜也は「なんでこいつはこんなに怒っているんだ?」と首を傾げた。

「これは秘中の秘だ、今は公表できない。だが」

 竜也は立ち上がって議場の一同を見渡した。議場の全員の視線を竜也は一身に集めている。期待、希望、疑念、警戒、様々な眼差しをその身に受けながら、竜也は欠片も怯んでいない。まるで涼風を受けているかのような爽やかさでそこに堂々と立っていた。
 ファイルーズ達は竜也がまとう空気が一変したことを感じている。つい先ほどまで竜也は傷付き、疲れ、諦念し、それが積み重なった濁った気配をまとっていた。だが、今それが完全に消えている。まるで生まれ変わったかのように、この場で進化を遂げたかのように、竜也はわずか数刻で一回りも二回りも成長していた。

「休戦協定はあと四日、一三日までだ。その間に結果を出す! あと四日間、何も言わずに俺に力を貸してほしい!」

 ギーラも含め、誰も竜也に反論できない。その場の全員が竜也の威風に圧倒されていた。竜也は今日、このとき、この場で、初めて本当の意味で「皇帝」となったのだ。

(くそっ、何故だ、こんな小僧に……)

 ギーラは歯噛みをするが、まるで呼吸が止まったかのように声が出ない。竜也に威圧されている、竜也に位負けしている、その事実をギーラは認めることができなかった。

「……結果を出せなかったらヴェルマンドワ伯と和平協定を結ぶ、それに異存はないのだな?」

「ああ。好きにしたらいい」

 何とか発したギーラの確認に竜也が頷く。ギーラの他に異議や疑義を挟む者はおらず、その後早々に元老院は閉会。竜也は危機の一つを乗り切り、四日間の猶予を手にしたのである。







 元老院を期に風向きは完全に変わっていた。

「くそっ、どうしてこんなことに……」

 和平派の議員の大半がギーラから距離を置いている。それはいい、四日間の猶予で竜也が結果を出せなければ彼等はまたギーラを頼るようになるだろう。だが、それまではひっきりなしにギーラの元を訪れていたバール人商会がぱったりと来なくなっている。それはギーラにとって予想外の事態だった。

「どういうことだ?」

「部下に調べさせやしょう」

 とギーラの意を受けるのはキヤーナだ。ギーラがサフィナ=クロイを離れてケムトに赴く際に護衛となったのがキヤーナ傭兵団で、キヤーナはギーラにとってはほとんど唯一の腹心だった。ギーラがケムト艦隊という戦力を手に入れてからは、キヤーナ傭兵団は情報収集や謀略等、表には出せない様々な仕事を担うようになっている。
 バール人の態度が変わった理由は実にあっさりと判明した。

「我々が皇帝クロイにどれだけの金を貸していると思っているのだ。それを反故にしようという人間に何故力を貸さねばならん?」

 ある商人が語ったその理由を聞いたとき、ギーラは真っ先にカフラを罵った。

「あの女、これを狙って……!」

 カフラのあの嘲笑、あれはギーラから望む回答を引き出したが故のものだったのだ。竜也への支持不支持にかかわらず、今このヌビアでバール人商会として営業していて総司令部の公債を買っていない(買わされていない)商会は存在しない。総司令部の公債と言えば聞こえがいいが、その実態はクロイ・タツヤ個人名義の借金だ。つまりは借金を返してほしければ竜也を皇帝として支えなければならない――借金もある限度を超えると借り手と貸し手の力関係が逆転する、その典型例である。
 もしギーラが「竜也の借金を引き継ぐ」と宣言していればバール人達は安心してギーラを支持したことだろう。国主としての責任感や真っ当な政治感覚があれば普通はそうするものである。それがなくとも、少なくともバール人としての常識がありさえすれば、ギーラが正解を選ぶのは難しくはなかったはずなのだ。

「まー、ギーラさんなら期待に応えてくれるんじゃないかと思っていましたけど」

 とカフラは一人ほくそ笑む。ギーラの反応を読み切ってカフラは賭を打ち、その賭に勝ったのだ。ギーラは自分の失敗を悔やむが今さらどうしようもなかった。

「……まだだ、まだ私は負けたわけじゃない。あの小僧の秘策などどうせただのはったりだ。あの小僧は結果など出せず、結局ヌビアはヴェルマンドワ伯と和平を結ぶしかなくなるのだ」

 ギーラはそう信じて疑っていない。現時点ではそれは単なる予想であり、やや辛く言うとギーラの願望に過ぎないのだが、ギーラの中ではそれは事実と区別が付かなくなりつつあった。

「だが、ただ待っているだけなのも芸がない。何か手を打つべきだろう」

 とギーラは竜也に仕掛ける謀略を考えるが、新たな手が出てこない。ケムト、エジオン=ゲベル両国王の勅書というギーラ最大の切り札をあっさりと無効にされてしまったのだ、新たな手立てが何もないのも当然である。結局思いついたのは「竜也を暗殺する」という、実に陳腐な陰謀だけだった。
 軍船の船長室を訪れたギーラは偉そうにセンムトに命令する。

「艦隊の兵士から精鋭を選抜して、クロイ・タツヤを暗殺するための決死隊を編成しろ」

「断る」

 センムトは刹那の速度で返答。ギーラはしばらく二の句が継げなかった。

「……貴様、私の命令に従えないのか」

 ギーラは怒りの目でセンムトを射貫こうとするが、センムトもまた氷壁のような冷徹さでその視線を跳ね返す。ギーラは内心で焦燥の汗を流した。

「わ、私は特使だ! 宰相プタハヘテプから特命を受け、この艦隊の指揮を委ねられているのだぞ!」

 センムトは犬に吠えられたかのような煩わしげな顔で、かすかに舌打ちをしつつギーラから視線を逸らす。勝った、と思ったギーラだが、

「それで? 決死隊をどうするつもりだ。まさか総司令部に突撃させるつもりではないだろうな」

 まだそこまで考えていなかったのか、センムトの確認にギーラは答えられない。センムトは呆れたような小さなため息をついた。

「陛下から預かった兵を無駄に死なせる真似はできん。兵を死なせるつもりなら、確実に皇帝クロイを殺せる状況を作ってからにするがいい」

 それ以上はギーラが何を言っても無駄だった。とりつく島もないとはまさにこのことだ。ギーラは忌々しげな舌打ちを残して船長室から退出する。ギーラが立ち去ったことを確認し、センムトは腹の空気を全て吐き出すほどの大きなため息をついた。
 ……なお、この船長室での会話をギーラはもちろんセンムトもまた誰にも口外していない。にもかかわらず、二人のやりとりはその日のうちにケムト艦隊中に広まった。

「何で俺達があんなバール人のために戦わなきゃならないんだ?」

「あのバール人、身の程知らずにも王女に言い寄ってふられたって話だ。皇帝を殺そうとするのも王女のことをまだ諦めていないからだって」

「冗談じゃないぞ、あんなバール人のために戦って死ぬなんて」

 ケムト艦隊の将兵の士気は海の底へと潜る勢いで落ちていく。ギーラがファイルーズを竜也から引き離そうとしたことにはそれなりの政治的理由があるのだが、ケムト艦隊の兵士はそれを知らず「ギーラは王女に横恋慕している」と勝手に理解しており、この見方が支配的となっていた。あるいは、末端の兵士達の方が物事の本質を見抜いていたのかもしれない。ギーラがこの噂を知れば怒り狂っただろうが、幸いギーラがそれを知ることはなかった。

「あの小僧をどこかにおびき出し、そこを襲撃できれば……おびき出すにはあの連中が使えるだろう。あの連中はサブラタに待機しているから船を送って連絡を取って……」

 自室にこもったギーラは竜也暗殺の計画立案に夢中となった。ギーラは決して無能ではなく、時間さえあれば充分勝算のある暗殺計画を立案できただろう。だがそれを計画し準備し、実行するには四日という猶予は短すぎた。結果としてギーラは貴重な時間を全くの無為に過ごすことになるのである。







 一方の竜也には無駄にする時間など一秒たりともありはしない。元老院が閉会し、臨時総司令部に戻ってきた竜也はその足で執務室へと向かい、そのまま閉じこもってしまう。その部屋に同席するのはベラ=ラフマ、そしてディアの二人だった。

「アンリ・ボケと手を結ぶ」

 前置きも何もなしに発せられた竜也の言葉に、ベラ=ラフマもディアもしばらく何も言えなかった。かなりの時間を置いて、

「……わたしの耳がおかしくなったのでなければ、皇帝は聖槌軍の枢機卿アンリ・ボケと手を結ぶ、と言ったように聞こえたのだが」

 ディアの確認に竜也は当たり前のように「その通りだ」と頷く。ディアは哀れむような視線を竜也へと向けた。

「どうやらおかしくなったのは皇帝の頭だったようだ」

「いえ、確かに現状を打破するにはそれが唯一の方策でしょう」

 ベラ=ラフマまでそんなことを言い出し、ディアは狂人の国に迷い込んだかのような不安を覚えた。そんなディアを放置して竜也達は検討を進めている。

「おおざっぱに言って、今ナハル川を挟んで対峙している勢力は四つある。聖槌軍の王弟派、枢機卿派、ギーラとケムト艦隊、そして俺達ヌビア軍だ。この四つの中でヴェルマンドワ伯とギーラが手を結んだのなら、残った俺達とアンリ・ボケが手を結ぶことも特別不思議なことじゃない」

「はい、今このときだけは利害が一致しています。しかし問題は、そもそもそんなことが可能なのかどうかです」

 ディアとしては「どう考えても不可能だ、絵空事だろう」と言いたくて仕方なかった。だが竜也は誰に何を言われようとそれを実現するつもりでいる。

「アンリ・ボケ宛の親書を用意する。それを渡して会談を持って、取引をする。……どれもこれも無理無謀の連続だ。でもまずは、アンリ・ボケに親書を渡せないことには話が始まらない」

 ディアは激烈に嫌な予感を覚えるが、それはすぐに現実のものとなった。

「銀狼族のみんなにアンリ・ボケの周囲を探ってもらいたい。投げ文でも矢文でも構わない、アンリ・ボケに確実に親書を届ける方法を見つけてほしいんだ」

 とびっきりの難題にディアは抵抗しようとするが、早々にそれを諦めるしかなかった。アンリ・ボケと手を結ぶこと、それがヌビアを救う唯一の筋道であり、他の方法などどこにもない――少なくても竜也とベラ=ラフマはそう確信しているのだから。

「私の方でも、聖槌軍と取引のあるバール人商会を通じて親書を送れないか当たります」

 ベラ=ラフマはそう言っていたがそれがどれだけ困難かはディアでも判る。時間さえ充分ならベラ=ラフマの方がより確実に親書を届けられるだろうが、猶予はあと四日しかないのだ。ディアはその日の夕方にはスキラに潜入、一族の戦士達と合流した。







 スキラ市内の中心地には石造りの建物が並んでいる。開戦前に大半の建物が解体されて南岸へと移設されたが、残っている建物も少なくはない。その中で一際巨大な建物が目を引いた。城と言ってもいいくらいの規模があり、巨大すぎて移設が不可能だったため未だほぼ原形をここに留めている。
 それはスキラ商会連盟の別館であり、その通称をソロモン館と言った。かつてのゲラ同盟が事務局を置いたこともあり、先年はスキラ会議が開催され、ソロモン盟約が締結された会場でもある。そして現在ではアンリ・ボケが拠点を置いている。何らかの形で歴史の舞台となることを約束されたような館であった。
 ときはタシュリツの月の一〇日の昼過ぎ。何人かのエレブ兵がそのソロモン館の周囲をうろうろと歩いている。ある者は館の後方を、ある者は門前を。ある者は門から出てきた商人の後を付け、ある者は歩哨の衛兵に見とがめられて慌てて逃げ出していた。
 逃げ出したエレブ兵は追跡者がいないことを確認し、それでも大きく遠回りをし、ソロモン館の近くへと戻ってくる。数スタディア先のソロモン館の威容を眺望できる、とある廃屋。そこが彼等のアジトだった。

「駄目だった、警戒が厳重すぎる」

 そのエレブ兵――銀狼族の戦士の一人がディアへと報告する。

「そうか。ご苦労だった」

 ディアはその戦士をねぎらい、途方に暮れたような視線を隣の男へと送る。そこにいるのは牙犬族の剣士ツァイドだ。ツァイドはいつもの飄然とした態度のままに、地面に広げられた地図を見つめ、また窓の外のソロモン館へと視線を向けていた。

「……どうするのだ、今日ももう半日を過ぎてしまった」

「愚痴っていても始まらん。今できることをやるしかあるまい」

 それはそうだが……というディアの呟きをツァイドは無視する。とは言え、銀狼族の偵察はツァイドにとって無意味ではなかった。ツァイドの脳内には侵入経路に関する情報が蓄積されている。

(今日中に打開策が見つからなければ、俺がソロモン館に侵入する。アンリ・ボケの枕元まで入ってやる)

 ツァイドの力ならあるいはそれが可能かもしれないが、生還は到底望めないだろう。それでもツァイドは笑っていた。

(面白いじゃないか、皇帝とあのアンリ・ボケの手を結ばせるとは。この生命を懸ける価値はある)

 ベラ=ラフマの謀略を完成するための捨て駒となる、ツァイドはその覚悟をとっくに決めていた。一方のディアには誰かを捨て駒にするという発想はなく、それ故に焦りを深めている。そんな中、

「ディア様、ヴォルフガングさんが戻りましたが……」

 見張りをしていた戦士が戸惑ったようにディアに報告する。

「どうした?」

「同行者がいます」

 ディアが廃屋の壁の隙間から外をうかがう。確かにディア達の方へと向かいヴォルフガングが歩いており、その隣には一人の男が並んでいた。身長と体格はヴォルフガングより一回り以上、体重はディアの倍を優に超えるだろう。髭に埋もれたような顔といい巨体といい、まるで熊のような大男だった。
 ヴォルフガングが連れている以上敵ではないだろうが、それでもツァイドやディア達は念のために剣を手にする。やがてヴォルフガングが到着、廃屋の前に大男を残し、一人その中へと入った。

「ただいま戻りました」

「ご苦労。それで、あの大男は?」

「私の古い馴染みです。ディア様に紹介したいのですが」

 よかろう、とディアが頷き、大男が廃屋へと招き入れられた。廃屋の中心に大男があぐらをかいて座り、その前にディアが立っている。ディアの横にはヴォルフガングが、そして大男を包囲するように銀狼族の戦士達が佇み、ツァイドは念のために身を隠した。

「お前さんがあのアドルフの娘か。言われてみれば目元が似ている気がするな」

 相好を崩す大男にディアはやや調子を外されたようだった。

「父上を知っているのか?」

「アドルフとも古い馴染みだ。俺は灰熊族の族長ミハイル、お前さん等と同じ『悪魔の民』だ」

 ディアは驚きに瞠目する。エレブ人で自分達以外の恩寵の民と出会うのはこれが初めてだった。

「あなた達もこの出征に……何人の灰熊族が加わっているのだ?」

「村を出たときは三〇人いたが、今は俺も含めて一二人だ」

 しばらく、沈痛な無言が続いた。痛みに耐えるような口調でディアが言う。

「わたし達は四〇人で出征し、今は二六人だ」

「そうか、だが俺達に比べれば大分マシだろう。俺の一族はうすらでかい大食らいばかりだし、それに何より南の連中から支援があったわけでもない」

 銀狼族のまとう空気が変質する。ディアの手が腰の剣にかかるのを見、ミハイルは慌てて手を振った。

「勘違いするな、それを責めるつもりも教会にばらすつもりも毛頭ない。むしろ逆だ、俺達にもかませろ」

「あなた達を?」

 ディアが眉をひそめ、ミハイルは「ああ」と大きく頷いた。

「お前さん達は南の連中から何らかの仕事を請け負い、食い物をもらっているんだろう? 俺の一族にも仕事と食い物を回してほしい、それを頼みにきたんだ」

 ミハイルはヴォルフガングや銀狼族が軍内で奇妙な動きをしていることに気付き、しばらく観察しているうちにヌビアとのつながりを発見したと言う。

「それは構わんが……だが、いいのか? 教会を敵に回すということなんだぞ」

 ディアの懸念をミハイルは鼻で嗤った。

「神様に祈ってりゃ飯が食えるのか? 腹を減らして泣きながら死んでいく一族の若いのを見なくてすむようになるってのか? ええ?」

 ミハイルの剣幕にディアはひるみ、ディアを庇うようにヴォルフガングがその前に立つ。それを見てミハイルの頭も冷えたようだった。

「すまんな」

「いや、別にいい」

 少しの間、やや気まずい沈黙がその場を満たす。そこに、ツァイドがいきなり姿を現した。

「俺は牙犬族のツァイドだ。ヌビアの皇帝の命令を受けてここに来ている」

「ほう。じゃあお前さんの仕事を手伝えば飯が食えるってことだな」

 ミハイルがツァイドの言葉に食いついた。半分は場の雰囲気を変えるためだが、半分以上は素のままだ。ツァイドは「好きなだけ食わせてやる」と大きく頷いた。

「俺達は皇帝の親書をアンリ・ボケに届けようとしている。伝手があれば一番なんだがそんなものはないから、何とかあそこに忍び込めないかと探っているんだが」

 ツァイドの言葉にミハイルは真剣な顔で考え込んだ。全員が沈黙する中、ミハイルの沈思黙考が続いている。最初に焦れたのはディアである。

「……何か心当たりでもあるのか」

「伝手と言えるほどのもんじゃないが」

 そう断った上でミハイルはツァイド達に説明した。

「うちの領主様が教皇庁のある役人に挨拶に行って、それに護衛で同行したことがある。その役人は枢機卿の書記官の一人で、父親から息子に代替わりしたんだが、その息子の方がこの遠征に加わっている。まだ若いから仕事は雑用ばかりで信任も得られていないだろうが、枢機卿に会うことだけならそいつにとっては難しい話じゃないはずだ」

 ディアとツァイドの目が剣のように鋭く光る。

「そいつはまだ生きているんだな」

 ディアの確認にミハイルが「もちろんだ」と頷き、ディアがツァイドへと顔を向けた。二人が真剣な眼差しを向かい合わせにする。

「アンリ・ボケ本人に接触するよりはずっと簡単だろうな」

「もう時間もない、その男に賭けるぞ」

 ヴォルフガングや他の銀狼族、それにミハイルも無言のまま頷く。銀狼族とツァイド、ミハイルは一縷の望みを掴むため、それぞれの行動を開始した。







 タシュリツの月の一一日、時刻はすでに逢魔が時となっている。
 スキラの町が赤い闇に包まれる中、一人の若い男が歩いていた。ソロモン館を出、宿舎へと向かって歩いているのはヨアキムという名の若い書記官である。聖職者の中でも高官はアンリ・ボケとともにソロモン館を宿舎としているのだが、ヨアキムの宿舎はソロモン館の外だった。ヨアキムの身分や職分ならソロモン館を宿舎としてもぎりぎりおかしくはないのだが、本人は格落ちの宿舎を使うことをむしろ喜んでいた。

「ただでさえ近くにいるだけで息が詰まるのに、ここ何日かは特に不機嫌だからな」

 君子危うきに近寄らず、と独りごちながらヨアキムは歩いていく。ヨアキムが細い路地に差しかかったとき――不意にその姿が消えた。もし誰かがそれを目撃していたとしても、ヨアキムが神隠しにあったようにしか見えなかっただろう。だがその瞬間を目撃した者はどこにもいない。
 一方突然路地裏に引きずり込まれたヨアキムは何者かに拘束され、そのまま路地裏の奥へ奥へと連行されていたところである。ヨアキムを掴んでいるのは、それなりに背の高いヨアキムよりさらに大きく、横幅は倍くらいありそうな大男だ。大男はヨアキムを軽々と担ぎ、悠々と歩いている。成人男子のヨアキムがまるで幼児のような扱いだった。
 路地裏の一番奥、袋小路の壁際でヨアキムはようやく地面に下ろされた。大男の他、二人の男がその場にいる。三人とも覆面をしているが、練度の高い戦士であることはその雰囲気が雄弁に物語っている。元々文官で戦闘の経験は全くないヨアキムだ、戦ってこの場を脱することなど最初から考えもしなかった。

「わ、私は書記官の中でも末端だ。それに部署も違うから食糧を回すような権限は持ってない」

 男達はヨアキムの言葉に何の反応も示さない。三人のうち一人が前に進み出、二人が若干後方に下がった。ヨアキムの前に出た男が覆面を取って素顔をさらし、ヨアキムが目を見張る。夕闇の中で人相は判然としないが、その男がエレブ人ではないことだけは確かだった。

「俺達は川の向こうから来た、ヌビアの皇帝の使いだ。枢機卿アンリ・ボケに用がある」

 ヨアキムは何も言わない、何も言うことができない。男は少し間を置き、続けた。

「ここに皇帝の親書がある、これを枢機卿アンリ・ボケに渡せ。貴様が開封するのは構わんが、他の者には見せるな。枢機卿一人に確実に渡せ」

 そう言ってヌビア人の男はヨアキムの腕にその親書を押し付けるようにして渡す。男は二歩、三歩と後ろに退った。三人の男が横に並んでいる。

「もし渡さなければ……」

 ヌビア人の男はそこで言葉を途切れさせた。突然、

「――フンッ!」

 覆面の男が路地の煉瓦の壁を素手で、全力で殴りつける。普通なら拳から手首までの骨全てが粉々に砕けているはずだが、粉々になったのは煉瓦の方だった。さらには壁に大穴が空いている。壁の中の柱も殴り砕いたのか、壁が崩れてきた。両手を広げたほどの幅の壁が崩れ、三人の男へと倒れかかってくる。壁を殴った男はその場から待避。残った二人のうち大男は、降り注ぐ煉瓦を頭や肩で受けていた。常人なら頭蓋骨が割れるであろう煉瓦の雨を、大男は普通の雨のように受け止め、笑みすら浮かべている。
 残ったもう一人、ヌビア人の男の方には大きな石の柱が倒れかかってきている。男は剣を抜き、人の胴ほどもある石の柱を剣で斬り――そのまま上下二つに斬り分けた。石の柱が地面に叩き付けられ、地響きが起きる。
 理解を絶した、悪夢のような光景にヨアキムは呆然とするだけだ。剣を使った男が、

「――判ったな?」

 と念押しをし、ヨアキムは壊れた玩具のように首を前後させた。
 三人の男が悠然と立ち去っていく。ヨアキムの思考回路は衝撃のあまり焼き切れており、その目はガラス玉のように三人の背中をただ写すだけだった。







 その夜、ソロモン館。アンリ・ボケがいるのは自分の執務室だ。余人を交えず、一人で考えているのはヴェルマンドワ伯ユーグのことだった。

「あの背教者を許してはおけん。だが異端として告発するだけの名目もない。だがこのままではこの聖戦が貶められてしまう。だが……」

 どれだけ考えてもユーグに対処する上手い方法は見つからず、思考は堂々巡りをし、苛立ちばかりが募っていく。そこに、

「猊下猊下猊下ー!」

 ノックもせずに突然何者かが執務室に飛び込んできた。アンリ・ボケは巨体に見合わぬ素早い動作で愛用の鋼鉄製の聖杖をつかみ、その何者かへと突きつける。その男は急停止して床に身を投げ出し、「へへー!」とひたすら平伏した。そこでようやくその男が自分の書記官の一人であることに気付く。

「一体何事か」

 不機嫌さを隠しきれない口調でアンリ・ボケが問い、書記官のヨアキムは自分の身に起こったことをありのままに、包み隠さず報告した。

「……なるほど、それがヌビアの皇帝の親書ということか」

「は、はい」

 今、執務室の机の上にはその親書が安置されている。上質の皮で装丁された台紙、その中に親書が封じされているのだろう。ふむ、とアンリ・ボケはこれが本物かどうかを検討した。まず最初に疑ったのは、

「ヴェルマンドワ伯の罠ではないのか?」

 ということだ。親書自体はバール人商会の協力があればでっち上げるのは難しくはない。だがヨアキムの体験を考えるとこれが本物の親書である可能性は充分に高いものと考えられた。

「それを開封せよ」

 その命令を受けたヨアキムは思わず問い返した。

「あの……私がでしょうか」

 アンリ・ボケは視線を向けただけだが、それで充分以上の回答となった。ヨアキムは半泣きになりながらそれを開封し、中に入っている羊皮紙を取り出す。幸いにして毒刃や毒針などのトラップは仕込まれていなかった。

「文面を見ずにそれを卓上に広げよ」

 その命令のままに、ヨアキムは最大限顔を背けて書面を広げ、卓上に安置する。

「そのまま立ち去れ。このことは一切口外無用だ」

「は、はい」

 ヨアキムはきびすを返し、執務室から逃げ出していく。自分の宿舎に戻ったヨアキムはベッドに飛び込んで覚えている限りの聖句をそらんじつつ眠りに就くのだが、そんなことはアンリ・ボケにとってはどうでもいいことだった。
 アンリ・ボケの人相が一変していた。普段は糸のようなその目が大きく見開かれている。まぶたが限界まで開口し、常人の倍くらいの大きさの眼球がこぼれ落ちそうになっている。今、アンリ・ボケの目にはその親書しか映っていない。アンリ・ボケの頭にはその親書の文面しか入っていなかった。





『ヌビアの皇帝クロイ・タツヤが聖槌軍の枢機卿アンリ・ボケに取引を申し出る。

 フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯ユーグの首級をよこせ。ひきかえにモーゼの杖をくれてやる――』





[19836] 第四二話「敵の敵は味方・後」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/21 18:22
「黄金の帝国」・逆襲篇
第四二話「敵の敵は味方・後」







 タシュリツの月(第七月)の一二日、時刻は早朝。場所はスキラ湖の北岸。そこには今、二隻の船の姿があった。石ころだらけの見渡しのいい岸辺が一スタディアの幅で続いており、そこから二スタディアほど沖合に外洋船が一隻。広々としたその岸辺に接し、小さな船が一隻浮かんでいる。十人も乗れば満員のその船に、今は八人の人間が乗っていた。

「夜明けか」

 竜也は地平線から離れる太陽を見つめた。

「合図は?」

「まだない」

 短い会話を交わしたのは赤虎族のダーラクと金獅子族のサドマだ。その横には牙犬族のサフィールが佇み、

「……ルサディルを思い出しますね」

 と呟く。牙犬族のバルゼルが無言のまま同意するようにかすかに頷いた。

「……しかし、本当に来るのか?」

 と問うのはアミール・ダールの第三子ノガであり、

「望みはある、としか今は言えません」

 そう答えるのは白兎族のベラ=ラフマだった。最後の一人、白兎族のラズワルドは外套に身を包み、竜也の膝の上で丸くなって眠っている。
 アンリ・ボケとの会談にあたり、竜也は互いの身の安全を図るための条件を親書に記載しておいた。

「ヌビア側は皇帝クロイが、聖槌軍側は枢機卿アンリ・ボケが必ず出席する。同行者は二人まで、護衛は五人まで。それ以外の両軍の兵士は会談場所から二スタディア離れる」

 そして竜也の同行者がベラ=ラフマとラズワルドであり、護衛がバルゼル・サフィール・サドマ・ダーラク、そしてノガだった。近衛隊隊長のバルゼルが護衛となるのはもはや太陽が東から昇るくらいに当たり前のことだが、いずれは皇妃になってもらうサフィールを護衛とすることに竜也は難色を示した。が、

「……」

 頬を膨らませて竜也を凝視する無言のサフィールに押し切られてしまったのだ。当初は護衛を全員近衛で揃えるつもりだったのだが、そこに口を挟んできた者がいる。

「これほど重要な任務を牙犬族だけが任されることには納得がいかん」

「俺達が犬どもより弱いっていうのか?」

 皇帝は牙犬族だけを優遇している、という風聞が流布することは竜也もバルゼルも望んでおらず、他部族や他所からも護衛を受け入れることとなった。サドマとダーラクはそれぞれの部族を代表する戦士であり、西ヌビアを蹂躙する聖槌軍と戦い続けてきた実績があり、竜也とも親しく付き合ったことがある。竜也も二人のことを喜んで受け入れた。

「ヌビア軍最強の戦士は誰か?」

 という問いに答えるのは難しい。だが「最強の五人は誰か?」という問いならば、そこにバルゼル・サドマ・ダーラクの三人の名が挙がるのは確実だった。
 一方、ノガが護衛として選ばれたのは政治的理由が多分に含まれる。だがノガも恩寵を持たない人間の中では最強の一人に数えられる戦士だ。バルゼル達のような恩寵の戦士の中でも超一流にはかなわずとも、一段下の一流程度の戦士となら充分互角に戦える。バルゼル達もその点は認め、ノガが護衛に加わることに異議を唱えはしなかった。

「――タツヤ殿、エレブ兵が」

 張りつめたサフィールの声に、竜也はラズワルドを抱えたままその場で立ち上がった。その拍子で目が覚めたラズワルドは寝ぼけ眼をこすり、さらには顔を竜也の胸へとこすりつけている。一人だけ緊張感の欠片もないラズワルドを放置し、他の七人は最大限の警戒心を持って接近するエレブ兵の姿を見つめた。
 サフィールが発見したのは斥候の兵士のようで、すぐに姿を消した。しばらく時間を置いて今度は隊列を組んだエレブ兵の一団が接近してくる。その数は約百人。旗を掲げているが、その文様まではまだ判別できない。

「交差した二本の鉄槌……見覚えがあります、アンリ・ボケの鉄槌騎士隊に間違いありません」

 八人の中で一番視力のあるサフィールが報告。続いてダーラクが「間違いないようだ」と同意した。

「アンリ・ボケはいるか?」

「待ってください……もしかしてあれがそうでしょうか。この距離では顔までは」

 サフィールは鉄槌騎士隊の中に一際体格のいい男を見出し、その男へと全視力を集中する。鉄槌騎士隊は竜也達から計ったように二スタディアの距離を置いて停止。そこから八人が離れ、竜也達へと接近した。
 もうサフィールに確認してもらうまでもなく判別できる。八人の中にアンリ・ボケがいる、竜也達へと向かって静かに、着実に歩んでいる。

「……まずは第一関門突破か」

「はい。ですがすぐに第二関門です」

 安堵のため息をつく竜也にベラ=ラフマがたしなめるように言い、竜也が「判っている」と気を引き締めた。その間にもアンリ・ボケは接近、やがて一〇パッスス(約一五メートル)程の距離を置いて停止した。
 両者はそのまま対峙、しばらくの間沈黙がその場を支配する。竜也はアンリ・ボケとその取り巻きを観察した。
 一団の中央で屹立しているのはアンリ・ボケだ。身長一九〇センチメートルを超える巨体を黒い法衣に包み、仮面のような柔和な笑みを湛えている。その両側に立っているのは騎士甲冑に身を包んだ男と、聖職者の法衣をまとった男。その二人が同行者という位置付けなのだろうが、その目つきからして鉄槌騎士隊の手練れの騎士にそれっぽい格好をさせているだけとしか思えなかった。
 つまりはアンリ・ボケは「護衛は五人まで」という約定を破っているわけだが、それを責めるつもりは竜也にはない。卑怯というなら恩寵の戦士と恩寵を持たない兵士の戦力差の方がよっぽど卑怯臭い、というのが竜也の正直な所感だった。
 後ろに回した竜也の手をラズワルドかがしっかりと握る。竜也と同じようにアンリ・ボケもまた竜也達の姿を観察し、分析しているところである。

(……黒い服に金の角の若い男、これがヌビアの皇帝クロイか。まだ子供ではないのか? 隣の黒髪の男が本当の交渉相手ということか。悪魔の民の戦士が三人……今戦うのは得策ではない)

 アンリ・ボケもまた人生の大半を戦場で過ごしてきた男である。バルゼル達三人の名を知らずとも、彼等が歴戦の戦士であることが判らないはずがない。が、サフィールとラズワルドの存在には困惑を抱かずにはいられないようだった。

(悪魔の民の戦士は女でも油断できないが……もう一人の方は本当の子供ではないか。一体何のつもりだ?)

 アンリ・ボケの柔和な笑みは鉄仮面のように全く変化がないが、その思考も感情も、ラズワルドの恩寵の前では全てが筒抜けだ。竜也は内心の苦笑を懸命に隠した。

(卑怯なんてもんじゃない、反則がすぎるだろうこれは)

(わたし達を敵に回したあの人が愚かなだけ)

 確かに、と竜也はラズワルドに同意し、気持ちを切り替えた。

「――聖槌軍の枢機卿、アンリ・ボケだな」

「いかにも。ヌビアの皇帝、クロイとお見受けする」

 アンリ・ボケの確認に「その通りだ」と答える竜也。それが武器なき戦場の口火だった。

「あんたが自らここに来ているということは、俺の申し出た取引に応じる、ということか」

「そうとは限らん」

 アンリ・ボケはそう言いつつも、内心では取引を成立させるべく懸命に考えを巡らせていた。竜也は内心でガッツポーズを取る。

(よし、取引に応じるつもりがある!)

(はい。第二関門突破です)

「それじゃ何をしに来たって言うんだ。俺もあんたも忙しい身分だ、体裁を取りつくろうだけの余計なやりとりは抜きでいいだろう?」

 竜也の言葉にアンリ・ボケは答えを返さない。だがその内心では様々な思考が渦を巻いていた。

「あんたにはヴェルマンドワ伯ユーグの首級は不要だろうが、俺達には必要だ。俺達にはモーゼの杖は不要だが、あんたは必要だろう? お互いの要るものと要らないものを交換する、最も基本的な取引だ」

「……貴様の狙いはあの男の首級ではあるまい。私とあの男とを噛み合わせ、共倒れにすること、それこそが真の狙いであるはずだ。違うとでも言うのか?」

「あんたが下手を打てばそうなるだろう。上手くやればいいだけの話だ」

 竜也とアンリ・ボケが無言で視線をぶつけ合う。だが竜也はアンリ・ボケの推測を否定しなかったし、アンリ・ボケは内心で竜也の主張を肯定していた。

「そもそも、杖は貴様のものではあるまい」

「今は手元にないが、すぐに用意できる」

 アンリ・ボケの確認に竜也が即答。アンリ・ボケもそれ以上は疑わなかった。
 アンリ・ボケはそのまま数十秒間、沈黙し思考を巡らせている。やがてアンリ・ボケがその口を開いた。

「やはりこの取引は受けられんな」

 苦虫を噛み潰したような竜也が「何故だ」と問い、アンリ・ボケが「信用できんからだ」と端的に答える。ラズワルドの恩寵を通じてアンリ・ボケの思考は全て読んでいる。竜也にとってそれは質問ではなく確認だった。

「先に杖を持ってこい。杖を手にしたなら、その上であの男の首級を取りに行く」

「首級が先だ。あくまで首級と杖を交換だ」

 二人は互いの主張をぶつけ合う。だがそこに妥協点はなかった。アンリ・ボケは先に杖を手に入れたとしてもユーグを殺すつもりはなかった……少なくとも即座には。

(王弟派から切り離してしまえばあの男とて恐るるに足らん。南岸を占拠した上で焚刑にでもすればいい)

 それを把握している竜也が杖を先に渡せるはずがない。一方、竜也としてはユーグとアンリ・ボケが噛み合ってくれるなら杖くらいいくらでも渡すつもりでいるのだが、それはアンリ・ボケには伝わらない。

(杖を手にするためなら王弟派との全面衝突もやむを得ん……が、そうなったとしても私に杖を渡すかどうかはこの小僧の腹一つではないか。そんなものをどうして信用できる)

 竜也を信用できない、信用する理由のないアンリ・ボケが杖より先にユーグの首級を獲ろうとするわけがない。つまり、取引を成立させるにはアンリ・ボケの信用を得るか、何らかの妥協をするしかない――それこそが第三の関門、最終関門。ここを突破すべく竜也はずっと考え続けてきたのだ。だが未だ良案は見つかっていない。
 しかし、杖を欲し、取引を望んでいる点ではアンリ・ボケもまた竜也に負けてはいなかった。彼は彼で取引を成立させるべく知恵を絞っていたのだ。

「杖を必ず引き渡すという保証が必要だ。人質をよこせ。確か皇妃はケムトの王女だったな、その者をよこしてもらおう」

 アンリ・ボケの言い放った言葉に空気が凝固した。最低限このくらいは当然だ、とアンリ・ボケは得々と頷く一方、竜也達が怒りを噛み殺している。特に竜也の怒りは深刻だったが、「冷静になれ」と必死に自分に言い聞かせた。

(確かにアンリ・ボケの立場ならそのくらいの保証は必要だろう。立場が逆なら俺だってそうする)

 そして竜也がその要求を決して呑めないこともまた確かだった。竜也にもしものことがあってもファイルーズさえいれば、ファイルーズを拠り所としてヌビアは結束し続けることができる。ヌビアにとっては竜也よりもファイルーズの方が重要性が高い――と少なくとも竜也は思っている。ベラ=ラフマあたりにはまた別の判断があるだろうが。

(……そうか、俺が人質になればいいんだ。仮にも皇帝なんだ、こいつだって文句はないだろう)

 そのとんでもない思いつきを得た竜也は晴れやかとなった顔を上げる。重苦しく暗い濃霧が突然晴れ上がり、視界が開けたような気分だった。取引を成立させ、ヌビアを救うための正解にようやくたどり着いた――と竜也は思っている。アンリ・ボケへと向き直った竜也がそれを提案しようとし、

「――わたしが人質になる」

 ラズワルドが先制して宣言した。手を挙げ、身体一つ分竜也の前に進み出るラズワルド。一瞬唖然とする竜也だが、

「ば……馬鹿! そんなの認められるか!」

「馬鹿はタツヤ。わたしが言わなかったら自分が人質になるつもりだった」

 ラズワルドが非難の目を竜也へと向けた。反論しようとする竜也だが、剣よりも鋭い怒りの目が、無言の諫言が四方八方から竜也の全身に突き刺さる。竜也は我知らずのうちに身を縮めて言葉を呑み込んだ。

「待ってください。ラズワルド殿よりもわたしの方が」

 一拍置いてサフィールもまた人質へと立候補するがラズワルドは「だめ」と首を振った。

「第二皇妃のわたしなら第一皇妃の代わりが務まるけど、第五皇妃じゃ向こうも納得しない。それに何より、わたしの方が安全」

 ベラ=ラフマが背後から、

「この者の言う通りかと。人質しては最適の人選です」

 と援護する。竜也は激情を堪えるために歯を食いしばった。竜也の理性はすでに計算結果を出力している。皇妃(候補)の六人のうち、ファイルーズ・ミカ・カフラは失った場合の政治的なマイナスが大きすぎて到底人質に出せない。エレブ人のディアはアンリ・ボケの側が人質としての価値を認めないだろう。残ったのはラズワルドとサフィールだが、どちらを失ったとしても竜也の政治的立場には全く影響がない。後はどちらがより身の安全を図れるかだが、今の場合なら烈撃よりも読心の恩寵の方がより有用に違いない。戦いに行くわけではなく、人質としてエレブ人の直中にたった一人で放り込まれるのだから。
 残った問題はアンリ・ボケが納得するかどうかだが、

「――よかろう、その小娘を人質として認めよう」

 竜也の振る舞いを目の当たりにし、その執着を演技ではなく本物だと判断。アンリ・ボケはラズワルドの提案を受諾した。後は竜也がそれを承認するだけである。

「……判った」

 鉛よりも重くなった頭部を何とか前後に振る竜也。ラズワルドも「ん」と頷き、船を下りた。ラズワルドはそのまま軽やかな足取りでアンリ・ボケの方へと歩いていく。数秒後にはラズワルドはアンリ・ボケの目の前までやってきていた。
 アンリ・ボケは「うむ」と頷き――背負っていた愛用の聖杖を、黒々と光る鋼鉄の鉄槌を高々と振り上げた。鉄槌を頭上にかざされもてラズワルドは人形のように無表情なままだ。だが竜也の方はそうもいかなかった。

「ラズワルド!」

 竜也は船から飛び降りようとした。だがそれよりも早くアンリ・ボケが鉄槌を振り下ろす。その瞬間、誰もがラズワルドの頭部が砕け散る光景を幻視した。

「……終わった?」

 最後まで平然としていたのはラズワルド一人だったかもしれない。アンリ・ボケの鉄槌はラズワルドの頭部から紙一重の空間で制止していた。安堵のあまり竜也はその場にひざまずきそうになる。が、何とか踏み止まった。
 アンリ・ボケは竜也とラズワルドの様子を見比べ、「うむ」と満足げに頷いた。

(人質としての価値は充分なようだ。この歳でこの腹の据わり具合、皇妃というのも嘘ではあるまい)

 確かにラズワルドは同年代の少女の中では飛び抜けた鋼鉄の無神経を誇っているが、今の場合は腹の座り具合の問題ではなく、アンリ・ボケに殺意がないことを誰よりも知っていたからに過ぎない。過ぎないのだが、そんなことをアンリ・ボケが知るはずもなかった。

「ついてこい」

 とアンリ・ボケが背を向け、ラズワルドが「ん」と頷いた。その背に、

「アンリ・ボケ!」

 ゆっくりと竜也に向き直るアンリ・ボケに、

「その子にかすり傷一つ付けるな。――折れた杖や粉々になった杖はほしくないだろう?」

 竜也は牙と敵意をむき出しにした、壮絶な笑みを見せつけた。アンリ・ボケは舌打ちをし、今一度背を向けて立ち去っていく。アンリ・ボケの、ラズワルドの姿が林の中に消えるまで、竜也はそれを見送っていた。

「タツヤ殿……」

 サフィールには気遣わしげに声をかけることしかできない。

「アンリ・ボケに人質を害する意志はありません。ご心配なきよう」

 とフォローをするのはベラ=ラフマだ。竜也は煩わしげに「判っている」と答えた。

「急いでサフィナ=クロイに戻るぞ。杖を手に入れて、一刻も早くラズワルドを取り返す!」

 竜也達は沖合に待機していた外洋船に乗船、一路サフィナ=クロイへの帰路に着く。逸る竜也の思いを受けるように風を受け、その船はスキラ湖を進んでいった。







「アンリ・ボケとの取引も難問だけど、どうやって杖を奪い返すかも問題だ」

 時間は若干前後してタシュリツの月の一一日。アンリ・ボケとの会談に臨む前日の晩、竜也はベラ=ラフマに問うていた。

「何か方法は?」

「おう、俺達に任せろ」

 ベラ=ラフマよりも先に竜也の前に進み出たのはガイル=ラベクである。

「ケムト艦隊の監視には軍船五〇隻を動員している。お前の命令さえあれば今すぐにでもガベスに攻め込んでやる」

 とガイル=ラベクは胸を張る。海上封鎖の任務をずっと続けてきた海軍だが、陸軍のようには大規模な会戦を経験せず、華々しい戦果も獲得していない。無意味に戦うつもりはないが、また同時に戦う機会を逃すつもりもないようだった。
 が、血気盛んなガイル=ラベクに対し、竜也は戦火の拡大を望んではいなかった。

「今ケムトまで敵に回すのは得策じゃない。戦闘以外の方法は?」

 落胆するガイル=ラベクに代わってベラ=ラフマが竜也の前に進み出た。

「ギーラの元にはこちらの手の者を潜り込ませています。命令があれば杖だけでなくギーラの首級も獲らせることができます」

 ギーラの信頼を得るために諜報活動もさせず、ただギーラのために働かせている、ベラ=ラフマにとっての切り札だ。ベラ=ラフマはこの切り札の効果に満腔の自信を持っていた。
 竜也は「うーん」と悩み、

「できればそれは最後の手段にしたい」

 とその案を保留とした。「他に何か方法は?」という竜也の問いに対し、

「難しいことではありませんわ」

 満面の笑みを湛えつつ真打ちとして登場したのはファイルーズだった。ファイルーズはイムホテプにその案を説明させる。それを聞き、

「お見事です」

 とベラ=ラフマは端的に賞賛し、

「あの男も哀れだな」

 とガイル=ラベクは同情した。
 竜也が「説得は?」と確認し、ファイルーズが「すでに協力を取り付けておりますわ」と答える。勝利を確認した竜也が獰猛な笑みを見せた。

「愛してるぞファイルーズ」

 竜也の言葉にファイルーズは「あらあら」と言いつつも珍しく照れた様子を見せる。だが竜也はそんなファイルーズを見ていない。ギーラから杖を奪い取る段取りを組み立てることに夢中だった。
 そしてタシュリツの月の一二日。早朝にアンリ・ボケと取引をし、ラズワルドを人質に取られてすぐ。サフィナ=クロイに戻った竜也は船を用意し、ガベスへと向かった。竜也がガベスに到着したのは昼過ぎである。
 一方のギーラは自分の船室でその知らせを聞いていた。

「あの小僧が?」

「はい。皇帝クロイが特使ギーラ、提督センムトとの会談を求めています」

 ギーラは少し考える素振りをし、

「いいだろう。接舷を認めよう」

 と大仰に頷いた。
 ……ヌビア海軍の軍船がケムト艦隊の旗艦に接舷する。ギーラは竜也を迎える準備を万端に整えていた。ギーラの周囲には何十人もの、完全武装のケムト兵が槍を揃えて並んでいる。

「愚かな小僧だ。適当な口実を付けて今この場で串刺しにしてやろう」

 と皮算用にほくそ笑むギーラ。その隣にはセンムトが白けきった顔で佇んでいた。
 やがて、板を渡ってヌビアの軍船から何人もの人間がケムトの軍船に乗り込んできた。まずは青鯱族の水兵、続いて赤虎族のダーラク、金獅子族のサドマ、そして牙犬族のバルゼルを始めとする近衛の剣士達。ギーラの皮算用は早くも綻び出していた。

「……あれはもしかして『ルサディルの血の嵐』か?」

「たった七人で千のエレブ兵を斬ったっていう……」

 ケムト兵の囁きがギーラの耳にも届いている。それにギーラはサドマやダーラクのことも知っていた。人数だけならケムト側がずっと多く、彼我の差は三倍にもなるだろう。だがバルゼル・サドマ・ダーラクの三人が本気になればこの三人だけでケムト側を圧倒できる、その程度の人数差でしかないのだ。
 近衛に続いて竜也がケムト船に乗り込んでくる。そして、竜也はファイルーズを伴っていた。

「皆様、ご機嫌よう」

 ファイルーズの言葉にセンムトが、ケムト兵が背筋を伸ばして直立不動となる。ギーラは自分の皮算用が完全に破綻したことを理解した。竜也に剣を向けるのはファイルーズに向けることとほぼ同義だ、センムトやケムト兵がそんな命令に従うはずもない。

「ふん、何のようだ。小僧」

 ふて腐れたように問うギーラに対し、

「こっちの作戦にモーゼの杖が必要になった。引き渡してもらいたい」

 竜也は端的に要求を突きつける。ギーラは思わず訝しげな顔をした。

「何を言っている? そう言われて『はい、そうですか』と渡すとでも思っているのか?」

 竜也は「いや、まさか」と首を横に振った。その上で、

「だが、これは必要なことだ。だから渡してもらう」

 そう断言する。その断固たる口調、その殺気立った目つきが、竜也が本気であることを物語っていた。ギーラは舌打ちをする。

「渡せんな。ヴェルマンドワ伯と和平を結び、東ヌビアの、ひいてはケムトの安全を確保するために杖は必要不可欠だ」

 竜也にでなくケムト兵に聞かせるように、ギーラは宣言した。ケムト兵が息を呑み、槍を握り直している。センムトは麾下の軍船に密かに合図を送っていた。

「今、ここで聖槌軍を壊滅させる。そのために杖が必要なんだ」

「信じられると思うか? そんな与太話を」

 竜也の訴えをギーラは嘲笑する。竜也が一歩後方に下がり、ケムト側に「戦闘か?」と緊張が走った。が、竜也に変わって前へと進み出たはファイルーズだ。

「提督センムト、タツヤ様に杖を託してはいただけませんか?」

 センムトが何を言うよりも早く、ギーラがファイルーズとセンムトとの間に割り込んだ。

「提督センムトに対する命令権は特使たる私にある! 私は特使として、宰相プタハヘテプから聖槌軍問題に関する全権を委任されている! 要求があるなら私に言ってもらおう!」

 ギーラが高圧的に発言し――その顔が不審に埋め尽くされた。
 ファイルーズが可笑しそうな笑みを見せている。竜也が悪辣な笑みを、サドマやダーラク達が嘲笑を浮かべている。

「『提督センムトに対する命令権は特使にある』、『宰相プタハヘテプが特使に聖槌軍問題に関する全権を委任した』。それに間違いはないな? ――副特使ギーラ」

 竜也の確認にギーラは一瞬耳を疑い、そしてその顔を蒼白とした。竜也やファイルーズが後背を振り返る。ヌビアの軍船から水兵の担ぐ輿に乗って、一人の老人がケムトの軍船へと乗り込んできた。

「……ま、まさか」

 声を震わせるギーラと驚いた顔のセンムト。理解が及ばず怪訝な様子のケムト兵に向かって竜也が、

「この方は正特使ホルエムヘブだ」

 とその老人の正体を明らかにした。
 ギーラは今、目眩によく似た感覚を味わっている。盤石だと信じて疑わなかった岩の足場が砂のように崩れていく。水平に立つこと、ただそれだけが非常に困難だったが、それでもギーラはひざまずかなかった。
 ホルエムヘブを乗せた輿はギーラやセンムトに相対するように安置された。しばらく見ないうちにホルエムヘブは一気に老化が進んだように思われた。ホルエムヘブは八〇歳を超える老人であり、体力的な問題があって特使としての仕事は全てギーラに任せてサフィナ=クロイの郊外で隠居状態となっていた。その老人をファイルーズが説得し、文字通り担ぎ出してきたのである。

「あー、久しいのう、ギーラよ。今まで何かとご苦労じゃったな。後のことは儂と、皇帝クロイに全部任せてゆっくりするがいいぞよ」

 まるで給仕から料理の皿を取り上げるくらいの気軽さで、ホルエムヘブはギーラの持つ全ての権限を奪わんとする。ギーラは歯を軋ませた。

「貴様……」

 殺意に満ちた視線で竜也を刺す。対する竜也は不敵な笑みでそれを跳ね返した。ギーラは必死の眼差しをホルエムヘブへと向ける。

「お待ちください、私は宰相プタハヘテプから新たな命令とケムト艦隊の指揮権を預かってきたのです。それを無条件でお渡しするわけには」

「儂は特使でなくなったのかの? 提督センムトよ」

 ホルエムヘブの問いにセンムトは「いえ」と首を横に振った。

「正特使はあくまでホルエムヘブ様、ギーラはその補佐に過ぎません」

 センムトの説明にギーラは折れる寸前まで歯ぎしりをする。「先のこの老人を殺しておけば」という益体もない後悔が脳裏を過ぎるが、今さらの話だった。それに、ギーラが「ケムトの特使」を名乗って好き勝手ができたのもホルエムヘブの存在があってのことなのだ。ギーラは元々素性もよく判らない半端者のバール人でしかなく、そんな人間にケムトが自国の命運を託するような真似をするはずもない。

「ギーラはホルエムヘブの管理監督の下に行動している」

 その建前があったからこそケムトの貴族や官僚はギーラの行動を黙認していたのだ。センムトはギーラに従っていたのだ。だが今、そのはしごが外されようとしている。ギーラは窮地から脱するべく知恵を絞り、その舌を縦横に振るった。

「西ヌビアを聖槌軍の、東ヌビアをケムトの勢力圏とし、持ってケムトの安全を図る。これこそ宰相プハタヘテプの戦略だったはず! それを無視されるおつもりか?!」

「聖槌軍に勝って、西ヌビアを渡さずにすむのならそれに越したことはないじゃろうが。現場の判断じゃよ」

「し、しかし宰相は……」

 悪あがきをするギーラに対し、ホルエムヘブは深々とため息をついて頭を振った。

「若いのに頭が固いのお。ケムトを離れられん宰相に代わり、現場で最善の判断をするために特使が全権を有しておるんじゃ。宰相の言いなりでいいんじゃったら伝書鳩にでも特使をさせればいいじゃろうに」

 ケムト兵の失笑がギーラの耳にも聞こえている。恥辱と憤怒と絶望でギーラの目の前は真っ暗となった。血走った目が視界を赤く染めた。理非の判らない、耄碌した老人に対する百万の罵倒がギーラの口内を埋め尽くした。

「一体どう説得してホルエムヘブを味方に付けたんだ。半日でも、いや、一時間でも時間があれば私の正しさを理解させてやるのに。いや、敵に回らないよう前もって気を配っていれば……」

 遅すぎる後悔がギーラの胸中に広がっている。だがギーラは何故自分がホルエムヘブに見捨てられたのか、未だ真に理解してはいない。
 ホルエムヘブが隠居状態になったとき、スキラ郊外に邸宅を用意したのはギーラではなくファイルーズだった。身の回りの世話をする侍女を派遣したのもファイルーズ。サフィナ=クロイへの引越先を用意したのも、引越の手配をしたのもファイルーズ。もちろん各種手配を実行したのはファイルーズの部下だが、命令を下したのは間違いなくファイルーズである。
 さらにはファイルーズ自身が何度も隠居先を訪れてホルエムヘブに近況を報告し、様々な問題の相談を持ちかけている。ホルエムヘブにとってはファイルーズは生まれたときから知っている孫のようなものだ。そんなファイルーズが可愛くないわけがなく、頼られて嬉しくないわけがない。挙げ句に、ファイルーズの指示を受けたケムト出身の官僚や武官が頻繁にホルエムヘブの元を訪れ、総司令部の状況や聖槌軍との戦況について包み隠さず報告をしているのだ。ホルエムヘブの見方、考え方、立場がファイルーズ寄り、ヌビア軍寄りになるのは理の当然だった。
 その一方、ホルエムヘブが隠居状態になってからギーラが報告や相談をしたことは一度もない。ギーラがホルエムヘブの元を訪れたことも、手紙を送ったことすら一度もない。自分の名前を使って好き勝手をしているギーラに対し、ホルエムヘブが好意を抱くことは困難だった。多少程度の気配りや報告でそれを覆せるものではない。
 年老いたとは言ってもホルエムヘブは有能な政治家であり有力なケムト貴族だ。彼を味方に、自分の与党にするべく画策したファイルーズと、自分の才覚を過信するあまり味方に留める努力を怠ったギーラ。勝敗を決したのはその点だったのだ。

「さて、提督センムトよ。杖を持ってきてくれるかの」

「はい、ただちに」

 ホルエムヘブもセンムトも、もう誰もギーラのことを見ていない。センムト自身が船倉から運んできた、杖の入った宝箱をセンムトがホルエムヘブに渡している。ホルエムヘブはすぐにそれを竜也へと手渡し、竜也達は意気揚々とヌビアの軍船へと引き上げていく。その光景を、ギーラは赤くなった眼でただ見つめるだけだった。

「……ころす……ころす……ころす」

 水平線へと消えるヌビアの軍船を、ギーラは一人甲板から見続けている。惚けたように呟くギーラを、ケムトの水兵は嘲笑するか、狂人を見る目を向けるだけだ。

「……ころす……必ず殺す……今に見ていろ」

 狂気に陥ったかと思われたギーラだが、その一歩寸前で踏み止まっている。ギーラは竜也に負けたこの現実をちゃんと認識し、受け止めているのだから――あくまでも現時点では、この局面では、という但し書き付きだが。

「必ず殺す。貴様が私から奪ったもの全てを奪い返した上で、考えられる限り最も悲惨で惨めな死に様を与えてやる……!」

 ギーラは他の一切をなげうって思索を巡らせている。冷徹な計算を重ねている。全ては竜也に勝つために、竜也から何もかもを奪い取るために――それは確かに理性的な思考と行動かもしれない。だがギーラという人間は、その意志もその行動も今や全てをその妄執に乗っ取られている。その有様は、結局は「狂気に陥った」としか言いようがないものだった。







 竜也がラズワルドのことを心配し、焦燥を深めている頃。そのラズワルドは、と言えば、

「おなかすいた」

 サフィナ=クロイにいるときとほとんど変わらない、マイペースを貫いていた。応対しているヨアキムとしては「人質の自覚があるのか」と感じずにはいられない。
 ラズワルドをスキラに連れ帰ったアンリ・ボケはヨアキムをラズワルドの監視役兼世話役に任命した。だが世話役と言ったところで大した仕事があるわけではない。ソロモン館の最奥の人目につかない部屋にラズワルドを軟禁し、他者との接触を禁止しているだけである。ただ、アンリ・ボケからは人質の身の安全を図るよう厳命されている。

「おなかすいた、おなかすいた。ごはんを食べさせてくれなかった、ってタツヤに言いつける。きっとタツヤが怒って杖をへし折って二つにする」

 もしヨアキムのせいでそんなことになったなら、ヨアキムの首と胴が泣き別れになることは間違いなかった。ヨアキムは食料を手に入れるために同僚や知り合いの元を奔走する羽目となる。だが、

「他人に分けられるほどの余裕があるはずないだろう」

「俺だってもうずっとろくなものを食っていないんだ」

「いくら出せる? タラント金貨以外は受け取らんぞ」

 ソロモン館内を走破して結局一切れのパンも手に入れることができなかった。ヨアキムは失意と徒労のみを抱えてラズワルドの元へと向かっている。

「私が個人的に隠し持っている食料を分け与えるしかないのか」

 一体何日分失うことになるのだろう、あと何日食いつなげるのだろう、と考えたくないことを考えているうちにラズワルドを閉じ込めている部屋に到着。ドアをノックしてヨアキムはその部屋の中へと入った。
 食料を手に入れられなかったことを告げようとし、ヨアキムはそのまま硬直する。

「……まずい」

「贅沢を言うな」

 ラズワルドとアンリ・ボケが同じ食卓に着き、向かい合って黒パンをかじっていた。二人ともヨアキムが部屋に入ってきたことには気が付いているようだが、そろって何ら注意を払っていない。
 一切れの黒パンと干し肉をひたすら延々と咀嚼して水で喉の奥へと流し込み、それでその日の食事は終了した。ラズワルドがここまで粗末な食事を経験するのはあるいは初めてかもしれなかった。

「……タツヤはいつも言っている、『腹が減っては戦ができない』って。こんな状態で戦争ができるの?」

 賢しらなラズワルドの疑問にヨアキムが思わず、

「誰のせいだと――」

 と口走る。ラズワルドはヨアキムの方を向いて嘲笑を見せつけた。

「タツヤの作戦勝ち。早く降伏した方がいい」

 ヨアキムは悔しげに「悪魔の民が……」と呻くことしかできない。それに対し、

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 と得意げにうそぶくラズワルド。ヨアキムは毒気を抜かれたように沈黙した。
 ふと、アンリ・ボケが立ち上がって食卓から離れ、出入り口へと向かって歩き出した。

「勝手に持ち場を離れるな」

 アンリ・ボケの静かな叱責にヨアキムは身を縮めた。そのままその部屋を退出しようとするアンリ・ボケに対し、

「――ヴェルマンドワ伯に注意して。そろそろだと思うから」

 ラズワルドはそれ以上言葉を重ねない。アンリ・ボケは何も問わないままその部屋が立ち去っていった。







 一二日夜遅く、アニードの送り出した使者がタンクレードの元を訪れる。使者が持っていた書状を手に、タンクレードはユーグの自室へとやってきていた。

「……こ、これは事実なのか」

 ユーグは書状を手に、手と声を震わせてタンクレードに問う。タンクレードは冷静を装っているがその顔は血色を失い、紙のように白かった。

「おそらくは事実なのでしょう」

「し、しかし、ただの噂や何かの間違いだということも」

 未だその事実を受け止められないユーグに対し、タンクレードは残酷なまでに現実を突きつけた。

「『ヌビアの皇帝とアンリ・ボケが手を結んだ。アンリ・ボケが殿下の首級を獲る代わりに皇帝がモーゼの杖を引き渡す』――これが事実とするなら、殿下はどうしますか?」

 現実を受け止められない感情に代わり、ユーグの軍才が冷静な計算を進めている。ユーグは他人事のようにその答えを呟いた。

「あの男が杖を手にしたならもうだれにも手が付けられない。そうなる前に何としてでも殺すしかない」

「それこそが皇帝の狙いなのでしょう。ですので、皇帝には嘘をつく理由がありません」

 ユーグがその言葉を、その事実を呑み込み、腑に落とし込んでいく。ユーグにとってそれは焼け石を呑み込むがごとくに至難だった。それでも何とか腑に落とし、その途端内臓が沸騰した。

「――おのれ! おのれ皇帝クロイ!」

 ユーグは炎を吐くかのように怨嗟の声を上げる。

「僕達は、エレブとヌビアは平和共存できると思っていたのに……! そんなに戦争を続けたいのか! これほどの血を流してまだ足りないのか!」

 ユーグにしてみれば差し出した手を打ち払われたに留まらず、背後から刺されたようなものである。どれだけ罵っても飽き足りなかっただろう。だが、もし仮に竜也がユーグの罵声を聞いたならどう反応しただろうか?

「俺も平和共存したいと思うぞ――聖槌軍を一人残らずヌビアから駆逐した上で、な」

 と嘲笑を浮かべるかもしれない。あるいは、

「戦争をやめたいのなら聖槌軍が降伏すればいいだけだ」

 と憮然とするかもしれない。もしくは、

「お前達は今どこにいる? 何をしにここまで来た? ここに来るまで誰をどれだけ殺してきた?」

 と怒りを殺して問うかもしれない。
 いずれにしても、ユーグが手を差し延べたのはユーグの頭の中の竜也であって、現実の竜也ではなかったのだ。

「殿下、どうかご命令を」

「命令?」

 タンクレードに問われ、ユーグは血走った目をタンクレードへと向けた。

「今すぐにアンリ・ボケ討伐の兵を挙げるのです。生き残るにはそれしかありません」

 ユーグは一瞬虚を突かれたような顔をし、次いで「しかし」と目を伏せた。逡巡するユーグに対し、

「敵と和平を結ぼうとした殿下をあの男が許すわけがありません。このままでは殿下は遅かれ早かれ焚刑に処されます」

「しかし、ここでの挙兵はヌビア側の思う壺だ」

「だからこそです! あの男の首級を取ることだけに全戦力を集中させ、一秒でも早く終わらせるのです。聖槌軍の内戦を、エレブ人の同士討ちを避けるにはそれしかありません」

 迷っていた時間は決して短くはなかったが、それでもユーグは決断を下した。もとより、ユーグは焚刑にされることも敗残者となることも望んではいなかったのだから。

「――兵を集めろ。明け方にはアンリ・ボケを急襲する」

 命令を受けたタンクレードがその部屋を飛び出していく。残されたユーグは虚空を凝視していた。ユーグがそこに見出しているのは、まだ見ぬヌビアの皇帝、竜也の顔である。

「今に見ていろ、アンリ・ボケの後は貴様だ……!」

 ユーグの頭の中ではアンリ・ボケに対する戦術と同時にヌビア軍に対する戦略が組み立てられていた。アンリ・ボケと並んで斬首される竜也の姿が思い描かれていた。
 ――タシュリツの月・一三日未明、ユーグが自ら率いる二千の兵がソロモン館を急襲する。それが聖槌軍同士の内戦の始まりとなった。エレブ人同士が殺し合う、血で血を洗う戦いの始まりだった。







 ラズワルドに注意されるまでもなく、ユーグ挙兵の可能性をアンリ・ボケは充分に考慮しており、警戒も防御も怠ってはいなかった。ソロモン館の周囲には数千の兵が常時待機しており、アンリ・ボケの身辺を警護していた。
 が、アンリ・ボケに油断はなくともその下の指揮官や兵は完全に気を緩めていた。杖を巡ってユーグとアンリ・ボケが暗闘している事情など彼等が知るはずもなく、彼等にとってこの時点でのユーグの挙兵は完全に想定外だったのだ。

「館を囲んで火を放て! 出てくる者は全員殺せ!」

 待機していた枢機卿派の兵を蹴散らし、ユーグの兵がソロモン館を包囲する。ユーグの兵が火矢を放ち、やがて館のあちこちから火の手が上がった。館から逃げてきた聖職者が助けを求めてユーグの兵へと接近し、問答無用で斬り捨てられる。そんなことが何十箇所でくり返され、兵士達の足下には無数の死体が転がった。
 が、ユーグの包囲網は決して完璧ではなかった。

「殿下、後背から敵が」

「防御は任せる、五百連れていけ」

 アンリ・ボケを救うべく枢機卿派の兵が突撃をかけてくる。その敵に対処するために兵を裂き、その結果包囲網が薄くなる。包囲網の隙間を突いて逃げていく敵を、ユーグは歯噛みをして見送ることしかできない。

「くそっ、せめて一万も兵がいれば……」

 アンリ・ボケを殺すことを一般の兵に理解し納得させるのは至難だったため、ユーグは挙兵にあたり裏切らないことを確信できる二千の兵しか動員できないでいた。それでも挙兵を一日遅らせれば一万くらい揃えるのは難しくはなかったのだ。ユーグは遅巧よりも拙速を選んだわけだが、その選択に対する後悔がうっすらと陰を差している。

(いや、これで間違いないはずだ! 悠長に構えていてあの男を殺せるはずがない)

 ユーグは頭を強く振って弱気な思いをふるい落とした。
 アンリ・ボケの危機を知って枢機卿派の軍団が救援のためにやってくる。その兵数は万を軽く越えていた。窮地に陥るユーグだがその直後にタンクレードが援軍を率いてやってきた。ソロモン館の周囲で、その狭い範囲で万を越える軍団同士が激突。その一方でソロモン館に放たれた炎は館全体を覆おうとしている。状況は混迷の一途をたどるばかりとなった。







 同時刻、アンリ・ボケは焼け落ちるソロモン館を丘の上から見つめている。

「あの背教者が……」

 謎の敵が接近している、その第一報を受けたアンリ・ボケは「ヴェルマンドワ伯が挙兵した」と判断。守備兵に徹底抗戦を命令した上で自分はわずかな供回りだけ連れてソロモン館を脱出したのである。ユーグはそうとは知らずにアンリ・ボケが脱出した後のソロモン館を包囲していただけだったのだ。

「……あの、猊下。これからどうすれば」

 ためらいがちにアンリ・ボケに問うのはヨアキムであり、彼の横にはラズワルドがいる。ヨアキムやラズワルドの他にアンリ・ボケに同行しているのは鉄槌騎士隊の護衛だけで、その数は全部で二十人にも満たない。
 問われたアンリ・ボケも迷っている。ユーグを討ちに行くだけなら何も難しくはない、味方と合流すればいいだけのことなのだから。だが今のアンリ・ボケにとってその優先順位は低かった。

(杖だ、ともかく杖を手に入れなければ。だが一体どうすれば)

「タツヤが待っている。あの場所に行けばいい」

 アンリ・ボケがラズワルドへと視線を向ける。ラズワルドは人形のように無表情のままアンリ・ボケを見つめ返した。二人に挟まれたヨアキムが何やらうろたえているが二人ともヨアキムには路傍の石ほどの関心も払っていない。

「先日取引をしたあの場所のことか。そこで皇帝が待っていると」

 アンリ・ボケの確認にラズワルドが「ん」と頷く。

「何故そんなことが判る」

「タツヤの考えていることなら何でも判る」

 ラズワルドは態度だけは誇らしげに胸を張った。

「タツヤはわたしのことが何より大事だからあの日すぐに杖を手に入れに行って、杖を手にしたならその事実をヴェルマンドワ伯に伝えてヴェルマンドワ伯が暴発するように仕向けて、あなたがどう動こうと内戦が避けられないようにする……って言ってた」

 ラズワルドの解説にアンリ・ボケは「ふん」と口を歪める。

「ヴェルマンドワ伯は皇帝の思惑にまんまとはまったわけか、愚かな男だ」

 ラズワルドは無言で頷いて同意する。一方ヨアキムはアンリ・ボケの怒りがラズワルドに向けられなかったことに安堵していた。

「つまりは、ヴェルマンドワ伯が暴発したということは皇帝が杖を手に入れたことの何よりの証ということか」

 ラズワルドは「ん」と肯定する。アンリ・ボケは外套を翻して南へと向き直った。

「ならば行くぞ、スキラ湖に」

 アンリ・ボケはそのまま南へと歩いていく。ラズワルドが、ヨアキムが、鉄槌騎士隊の騎士がその後に続いた。







 タシュリツの月・一四日未明、スキラ湖の北岸。そこには今、二日前と同じように二隻の船の姿がある。岸辺に小さな船が一隻、二スタディアほど沖合に外洋船が一隻。岸辺の小さな船には七人の人間が乗っており、乗っているメンバーも全く同じ。足りないのは一人だけだった。

「タツヤ殿、少しはお休みになったらどうですか? わたしが見張っていますから」

「ありがとう、でも大丈夫だから」

 サフィールの気遣いを無視するように竜也は北を見つめ続けている。その方角にはスキラの町があり、今そこは枢機卿派と王弟派の内戦の真っ直中だった。
 竜也は彫像のように動かずに、瞬きの時間すら惜しんで北を見つめ、注視し続けている。竜也だけに見張りをさせて自分が休んでいるわけにもいかず、サフィールもまた北を見続けるしかなかった。
 東の山間の中から太陽が顔を出す頃、接近するエレブ兵の一団がサフィールの視界に入った。やがてその一団が岸辺へとやってくる。その人数は二十人足らず。アンリ・ボケの巨体はすぐに判別できたが、肝心のラズワルドの姿が見当たらないためサフィールは気を揉んだ。

「……あ、あんなところに」

 やっと見つけた、ラズワルドは文官らしき男に背負われて眠っていたのだ。今ようやく目を覚まし、文官の背中で大きく伸びをしている。文官の男は今にもぶっ倒れそうなくらいに疲れているようだった。

「ラズワルド!」

 今にも飛び出しそうになる竜也だがバルゼルがそれを押し留める。一方のラズワルドも竜也達に気が付いたようで、大きく手を振っていた。ヨアキムの背から降りるつもりはないようで、背負われたまま進んでいる。
 竜也は真っ直ぐにラズワルドを見つめた。他の何物も映っていないその瞳をラズワルドが見つめ返す。ふと、ラズワルドが小さく頷いた。竜也はますます目に力を込め、ラズワルドが小さく二回頷く。アンリ・ボケは気付いていなかったが、ヨアキムは竜也の視線にもラズワルドの動きにも気が付いていた。が、それに深い意味があるとは思ってない。
 やがて、竜也達から二一〇パッスス(約三〇メートル)程の距離を置いてアンリ・ボケの一団が停止。そこからアンリ・ボケ、ヨアキム、ラズワルドの三人だけが前に進み出てきた。竜也もそれに合わせ、竜也とサフィールの二人だけで小船を下りて歩き出す。サフィールには杖の入った宝箱を持たせている――何故かその箱は二つあった。
 一〇を数えるほどの時間を経て、竜也とアンリ・ボケは約一〇メートルの距離を置いて向かい合った。

「杖が本物かどうかを確認する。箱から出して杖を見せよ」

 竜也は視線でサフィールに指示、サフィールが黄金で飾られた宝箱の一方を開けてビロードの包みを取り出した。それを外して出てきた杖をサフィールが頭上に掲げて見せる。そこにあるのは古ぼけた、一本の杖だ。
 長さは一三〇センチメートルはあるだろう。材質は青銅製で、全体が翡翠のような青色となっている。彫り込まれた複雑な文様は古いケムト様式のようだった。柄頭にはからみ合う二匹の蛇が浮き彫りにされているが、非常に素朴というか、端的に言うと稚拙な出来映えである。歴史は感じさせるがただそれだけの、古びた杖。手にするサフィールにはその杖に何らの神秘性も感じ取ることができない。かつてのスキラの骨董屋ならもっと気の利いた杖を置いていることだろう。

「――それは本物なのか?」

 サフィールは耳を疑った。自分の心の声が音になったのかと一瞬思ったがそうではない。それは確かに他者の口から発せられた声である。問題は、その問いを発したのがアンリ・ボケだということだ。

「どういう意味だ」

「言葉通りだ。貴様が持ってきたその杖は本物なのか?」

 そんなの――思わず口走りそうになったサフィールは寸前で歯を食いしばった。

「これは確かに特使ギーラがケムトから持ってきた杖だ。特使ギーラはケムトの宰相プハタヘテプの部下からこの杖を譲り受けた。宰相の部下は聖モーゼ教会を脅迫してこの杖を手に入れた」

「特使ギーラが貴様に渡したのは確かに本物か? ケムトの宰相の部下が特使ギーラに渡したのは本物か? 聖モーゼ教会が宰相の部下に渡したのは本物か?」

 そんなの、どうやっても証明は不可能じゃないか――アンリ・ボケは言いがかりを付けて取引を反故にしようとしている、サフィールにはそうとしか思えなかった。

「最悪の場合はサフィールが敵の中に飛び込んでラズワルドを救出してほしい」

 事前に受けていた指示を思い返し、サフィールはその心構えと身体の準備をした。恩寵を全身に巡らせ、特に脚に込め、常人には不可能な瞬発力を生み出さんとする。竜也の一言があればサフィールは疾風よりも早く駆け抜け、アンリ・ボケを叩き伏せ、ラズワルドを奪還するだろう。
 竜也の言葉を、その命令を一言も聞き漏らすまいと、サフィールは竜也の横顔を見つめる。歯ぎしりをしていた竜也が一呼吸置いて、

「――そんなの、偽物に決まってる」

 誰もが自分の耳を疑った。サフィールは思わず竜也の横顔を凝視するが、そこに動揺も自棄の気配も欠片も感じられない。そこに浮かんでいるのは不敵な笑みだけだ。

「……今何と言った」

「あんたが疑うように、この杖はただの偽物だと言った。『聖モーゼ教会が持っている杖は本物か?』――あんたは何故問わなかった? 『そんなの偽物に決まってる』――答えが判りきっていたからだろう?」

 竜也の嘲笑をアンリ・ボケは無言の怒気で迎え撃った。アンリ・ボケの放つ殺気にサフィールが密かに冷や汗を流す中、竜也は鈍感と言うべき不敵さで挑発を重ねた。

「その意味ではこの杖は確かに偽物だ。でも、そんなの最初から判っていた話だろう? 杖の奪還はケムトまで征服するためのただの名目。略奪や殺戮を正当化するための、ただの口実だ。杖が本物かどうかなんて別にどうでもいいんじゃないのか?」

「……我等を愚弄するか」

 竜也の冒涜はアンリ・ボケにとって決して許されるものではなかった。ここがエレブなら皇帝だろうと国王だろうと竜也は即座に処刑されている。それができないもどかしさがアンリ・ボケの憤怒を募らせた。

「ああ、判った判った」

 竜也はそう言って手を振るが挑発の姿勢は保ったままだ。

「要するに、こんな錆びだらけの骨董品を『聖杖だ』って見せたらエレブまで連れてきた馬鹿連中だって自分達がだまされたことに気付いてしまう、ってことだろう? そう言い出すんじゃないかと思って、もう一本用意している」

 竜也は視線でサフィールに指示を出す。サフィールはちょっと慌てながらも、青銅の杖を竜也に手渡し、もう一つの宝箱から別の杖を取り出した。
 ビロードの包みを外した途端、サフィールの口から感嘆が漏れそうになってしまう。その杖は全体が黄金製。柄頭は六面柱となっており、六つの面にそれぞれダイアモンド、ルビー、サファイア、真珠、琥珀、翡翠の大きな宝玉が埋め込まれている。随所に施されているのは銀線細工だ。それは贅と豪奢を尽くした、黄金の杖だった。
 その杖を見せられ、ヨアキムが目を真ん丸にした。経理に明るいヨアキムでもその杖がどのくらいの価値を持つのか見当が付かない。柄頭の宝玉の一つ一つにタラント単位の値がつくだろう。エレブでこれだけの杖を作って持つことができるのはほんの一握りのバール人の大商会くらいに違いなかった。

「こっちなら文句はないだろう?」

 得意げな竜也に対し、アンリ・ボケは激発寸前まで怒気を貯め込んでいた。

「……ふざけるのもそこまでにするがいい」

「ふざけているのはどっちだ」

 竜也の態度が、その声が豹変する。身にまとう空気がアンリ・ボケに負けないくらいに冷たく、熱いものとなった。

「つまらない言いがかりで取引を反故にしたいのか。こっちは約束通りにモーゼの杖を持ってきている。この杖が気に食わないのならこっちの黄金の杖を選ぶがいい。その場合はこの杖はヴェルマンドワ伯に渡すことにする」

 アンリ・ボケが沈黙する。竜也もまた口を閉ざし、両者は無言のまま数十秒間対峙した。静寂がその場を支配する中、竜也とアンリ・ボケは見えない剣を斬り結び、鍔迫り合いを演じている。

「さあ、どちらを選ぶんだ?」

「その青銅の杖を持ってこちらに来るがいい」

 選択を突きつけられたアンリ・ボケが選んだのは青銅の杖の方だった。竜也は安堵のあまり膝が崩れそうになるのを寸前で堪える。竜也は前へと歩き出した。それと同時にラズワルドを背負ったヨアキムも前に歩き出している。
 ――杖が本物かどうかをアンリ・ボケが疑った場合どうすべきか。竜也とベラ=ラフマの二人が徹夜で対策を考え、そのために用意したのが黄金の杖だった。

「聖モーゼ教会が宰相の部下に渡したのは本物か?」

 アンリ・ボケがそこに疑義を挟んだのに対し、竜也は、

「聖モーゼ教会が持っている杖は本物か?」

 と挑発し、焦点をずらすことに成功した。聖モーゼ教会が宰相の部下に渡したのは偽物なのに、アンリ・ボケはもうその点を問題にしていない。
 竜也はアンリ・ボケを挑発し、誘導し、「青銅の杖と黄金の杖、どちらを選ぶのか」と選択を突きつけた。アンリ・ボケが選んだのは青銅の杖の方だったが、アンリ・ボケは気が付かなかっただろう。二者択一で正解を選べるのは選択肢の中に間違いなく正解が入っている場合だけだ、ということを。
 竜也にとっては寿命が数年縮むような駆け引きだった。ラズワルドがアンリ・ボケの心を読み、懸命に目配せで合図を送りはしたものの、それで判るのはごく限られたことだけなのだから。
 ラズワルドは恩寵の使いすぎで消耗しながらも最後まで油断せずにアンリ・ボケの心を読み続けている。アンリ・ボケにとってもこの取引そのものを反故にすることはできなかったため敢えて竜也の挑発や誘導に乗せられたという面もある。アンリ・ボケは理非や利害を無意識で計算し、竜也に対する反発で疑念に蓋をし、この杖を本物であると「決めた」のだ。
 竜也とヨアキムが向かい合い、ラズワルドがその背中から降りた。竜也が杖をヨアキムに渡した瞬間、ラズワルドがその胸の中へと飛び込む。竜也は少女の小さな身体を強く抱きしめた。

「無事でよかった……!」

 圧倒的な安堵感、ラズワルドを危険にさらしたことの罪悪感――暖かな想いが奔流のようにラズワルドの中へと流れ込んでくる。腕の中のこの温もりが何よりも貴重で、この小さな少女が誰よりも愛おしい――ただ真っ直ぐなラズワルドに対する愛情。竜也のそんな想いをぶつけられてラズワルドが耐えられるわけがない。全身が溶けるような快感に、目眩がするほどの充足に、ラズワルドは翻弄されていた。

(……このまま死ぬかも、別にそれでもいいか)

 ラズワルドはそんなことすら考え、

「――取引は成立した、もう貴様に用はない」

 アンリ・ボケの言葉に竜也のスイッチが即座に切り替わった。アンリ・ボケはすでにヨアキムから杖を受け取っている。ラズワルドの家族としてのタツヤは奥へと引っ込み、皇帝クロイ・タツヤが表へと出てきたのだ。逢瀬を台無しにされたラズワルドが「死ねばいいのに」とばかりにアンリ・ボケを睨むが、アンリ・ボケはそれに気付いていない。

「次に貴様に会うのは処刑台だ。覚悟して待つがいい」

 アンリ・ボケは捨て台詞を残して立ち去ろうとする。竜也はその背中へと、

「あんたの健闘を祈っているよ――ヴェルマンドワ伯よりもあんたの方が与しやすいからな。ヴェルマンドワ伯ならともかく、あんたにはナハル川は越えられない」

 アンリ・ボケは何も応えず立ち去っていく。竜也はその背中を見つめ続けていた――王弟派と枢機卿派の戦いをどうやって長引かせるか、どうやって共倒れをさせるか、それを考えながら。





[19836] 第四三話「聖槌軍対聖槌軍」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/25 21:02
「黄金の帝国」・逆襲篇
第四三話「聖槌軍対聖槌軍」







 スキラでヴェルマンドワ伯ユーグと枢機卿アンリ・ボケが挙兵し、お互いを殺すために戦っている――そのニュースはサフィナ=クロイを席巻した。また同時に竜也がアンリ・ボケと取引をした事実も知れ渡り、聖槌軍の内戦勃発は竜也の功績として称揚された。

「共倒れをするまで殺し合いを続けさせればいい。そうなれば戦わずして俺達の勝ちだ」

「まあ、そこまで上手くはいかんだろうが、どちらが勝つにしても聖槌軍の弱体化は避けられんだろう。願ってもないことだ」

 敗北の危機から救われ、町には安堵の空気が満ちている。

「さあ、枢機卿アンリ・ボケと王弟ヴェルマンドワ伯、勝つのはどっちだ?! 穴狙いなら王弟だ!」

 町では賭け屋が店を出して賭け金を募っている。多くの人が金を出し、どちらが勝つかを彼等なりに真剣に予想し、議論をしており、アミール・ダールなどは民衆のその姿に呆れた様子だった。

「王弟と枢機卿、勝つのはどっちだと思う?」

 一方の竜也もまたどちらが勝つかを予想しているが、その内容も向き合う姿勢も庶民とは次元が違っていた。

「枢機卿アンリ・ボケが大幅に優勢です。おそらくヴェルマンドワ伯はこれを覆せないまま終わるでしょう」

 と答えるのはベラ=ラフマだ。竜也は詳細な解説を求めた。

「まず、長雨の戦いにより王弟派はその兵数を減らしました。王弟派一〇万に対して枢機卿派は三〇万。しかもアンリ・ボケはモーゼの杖を手に入れています。もはやその権威は教皇インノケンティウスにすら匹敵するものとなったでしょう」

(鬼に金棒……いや、狂人に刃物、かな)

 竜也は内心でそう呟き、皮肉げに嗤った。

「枢機卿派は黙っていても味方が増えていきます。一方の王弟派は一〇万の味方を維持することすら困難となるでしょう」

 ふむ、と竜也は頷く。ベラ=ラフマの予測を否定する材料はどこにもないものと思われた。

「でも、それではヌビア側には都合が悪いな。最終的にはアンリ・ボケが勝つとしても、ヴェルマンドワ伯にはできるだけ粘ってもらわないと」

 竜也の言葉にベラ=ラフマが「その通りです」と同意する。

「王弟派に対する支援が必要かと」

「判った、許可する。出し惜しみせずに支援してやってくれ」

 ベラ=ラフマは深々と頭を下げ、了解の意を示した。







 一方のスキラ。ソロモン館での戦闘は王弟派が枢機卿派を圧倒したものの、「アンリ・ボケを殺す」という当初の目的は空振りに終わっていた。ユーグは小さくはない失望を抱えて撤退。本格的な戦いを前にして自軍の再編成を行っていたところに「アンリ・ボケが杖を手に入れた」という知らせがもたらされる。

「そうか」

 ユーグは淡々とした態度でその事実を受け入れる。アンリ・ボケの生存も杖を手に入れた事実も既に予想されたことであり、そこに驚きはなかった。が、悪化する一方の状況には重いため息をつかずにはいられない。
 そんなユーグの元にある報告が届き、ユーグは港へと急行した。

「これは……」

 スキラ港に到着したユーグの目にまず入ったのは、二〇を超えるバール人の大型商船だ。さらにはその商船からは次々と荷物が搬出されている。港の一角にうずたかく積み上げられる穀物の山に、兵士達は歓声を上げていた。
 ユーグは搬出作業を監督していたアニードを見つけ、自分の元へと呼び寄せた。

「何があった?」

 ユーグの問いにアニードは一瞬忌々しげな顔をし、すぐに冷静さを取り戻す。

「ヌビアの皇帝が南岸のバール人商会に殿下との取引を公認したのです」

「しかし、お前も知っているだろう。僕の手元にそれほどの金があるわけじゃない」

 ユーグの懸念にアニードは「大丈夫です」と首を振った。

「支払いは後日で構わないとのことです。もし殿下が踏み倒した場合は皇帝が肩代わりをしてくれると」

「……はっ」

 ユーグは嗤わずにはいられない。つまりはユーグがあまりに劣勢なのを心配し、皇帝が支援をしてくれているのだ。竜也が送った支援物資は食糧だけに留まらず、矢玉・火縄銃・大砲・弾薬等の軍事物資も含まれていた。何百丁もの火縄銃、何十門もの大砲にユーグは目を丸くする。さらには、

「……」

 さすがのユーグも唖然とする他ない。タンクレードが何百頭もの騎馬を率いて王弟派の陣地に戻ってきたのだ。

「その騎馬は一体?」

 ユーグの代わりにアニードが問い、

「ヌビア軍の騎兵隊が譲ってくれた。皇帝の寸志とのことだ」

 タンクレードはやや憮然とした顔でそう言う。ユーグはまるで自棄になったかのように高らかに笑った。

「……そうかそうか。そこまで僕が負けることが心配なのか」

 ひとしきり笑ったユーグは平静を取り戻し、一同に告げた。

「せっかくの皇帝の厚意だ、遠慮せず受け取っておこう」

 僕を軽んじたこと、必ず後悔させてやる――内心でそう誓いながら。
 思いがけず装備と補給を充実させたユーグは引き続き自軍の再編成に勤めた。一方のアンリ・ボケもまた自軍の、枢機卿派の引き締めを行っている。

「王弟ユーグは敵の皇帝と取引をしようとした挙げ句にこの私を殺そうと挙兵した! これが裏切りでなくて何なのか?! 王弟ユーグはエレブと、聖杖教と、聖槌軍と、諸君に対する最悪の裏切り者だ!」

 アンリ・ボケは集めた将兵を前に声を張り上げた。その巨体から発せられる怒声が将兵の耳朶を鞭打ち、彼等は揃って身を縮める。散々ユーグを罵ったアンリ・ボケは一転、悲しげな表情と声を作って見せた。

「彼のような名高い騎士が何故ここまで墜ちてしまったのか、私には判らない。エレブでは私も彼と轡を並べ、共に異端と戦ってきた。彼を助け、彼に助けられた。神の騎士としての彼を私は敬愛してきたのだ。……ここには彼の下で戦ってきた者も多いだろう。彼の名を惜しむのであればためらってはならない。我々の手で彼に引導を渡すのだ」

 アンリ・ボケの言葉に、フランクの諸侯がそれぞれの表情で目を伏せた。望んでユーグを討とうという者はそう多くはない。だがアンリ・ボケの言葉に異議を唱える者が一人もいないこともまた事実であった。
 アンリ・ボケの演説は書面に書き起こされて檄文となり、何十枚も書き写され、枢機卿派内で回覧され、あるいは読み上げられる。また、少なくない数のその檄文が王弟派へと流れ込み、密かに読み回された。自派閥の動揺を前に、ユーグは対応に追われることとなる。

「アンリ・ボケはどうやって杖を手に入れたというのか、ヌビアの皇帝と取引をしたのは自分ではないのか? 殿下の挙兵は決して突然のことではなく、もっと早くにするべきことだったのだ。そうすれば長雨の戦いで二〇万もの兵を無為に失うことはなかった! 殿下の挙兵はアンリ・ボケにこれ以上兵を殺させないための、やむにやまれぬものだったのだ」

 ユーグは配下の司教にアンリ・ボケ弾劾の檄文を書かせた。その檄文は自派の将兵の前で読み上げられ、また枢機卿派にも送り付けられた。アンリ・ボケもまたこの弾劾文を目にし、部下に反論させた。

「聖杖が枢機卿の手にもたらされた神の思し召しというもの。聖杖さえあればナハル川を二つに割って南までの道を造ることも容易いであろう。最悪の裏切り者を処断した上で我々は南の町へと進軍する! ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ヌビアとケムトの全てを支配する! 一億アンフォラの麦が、百万タラントの金銀財宝が今、我々の目の前にある。我々の到着を待っているのだ!」

 アンリ・ボケ自身は決してやらなかったものの、その部下はこのような欲望丸出しの論法を使うことに臆面もためらいも持ちはしなかった。そしてアンリ・ボケもそれを止めなかった。枢機卿派の戦意は高揚する。王弟派もこれに対抗しようとした。

「我々はヌビアの半分を獲得した、戦果としてはもう充分だ。広大な西ヌビアの全てが我々のものなのだ! 入植する農夫は全員奴隷と自分の農地を持てる、騎士は自分の領地を持てる! 川に飛び込んで溺死する、そんな愚かな戦いを諸君はこれ以上望むのか?」

 が、ユーグ側のこの主張に対し、末端の兵士達の反応は芳しくなかった。

「……結局なんで枢機卿様と戦わなきゃならないんだ?」

「もっと戦うか、それともここで戦うのをやめるか、つきつめればそういうことじゃないのか?」

 アンリ・ボケと戦うには大義名分や説得力が不足しており、兵士達の間に支持が広がらなかったのだ。そうなると実利に訴えるしかないのだが、

「領地や農地をもらうにしても、あの西ヌビアじゃな……あの土地で何人餓え死にしたことか」

 西ヌビアは決して貧しい土地ではない。大地は豊穣で水と天候に恵まれていて、富農の割合はエレブの大抵の土地よりもはるかに多い。が、聖槌軍の兵士が知っている西ヌビアは焦土作戦により食糧が全く存在しない、飢餓の大地だった。街道が人骨で埋め尽くされた、人食いが横行する、地上の地獄だった。そんな場所の農地を与えると言われたところで素直に喜べるはずもない。
 もちろんユーグに賛同する将兵も少なくはない。だが、

「もう生きてエレブに帰れるなら何でもいいけど、そのために枢機卿様と戦って死んだら意味がないじゃないか」

 戦いを厭い、エレブへの帰国を第一に考える者達は、必然的にユーグのために生命を懸けて戦う意志が弱くなる。その一方、アンリ・ボケ側に立つ者達は未だ戦意を維持していた。

「こんなところで休戦してどうなるっていうんだ。同郷の奴等が死ぬところを何度見てきたと思っている。俺は奴等の分まで金銀財宝を略奪して村に持って帰らなきゃいけないんだ」

 結論として、宣伝合戦ではユーグはアンリ・ボケに対して防戦一方となった。その影響は兵力差に如実に表れている。
 今、ユーグは整列する将兵を睥睨している。不利な状況でもユーグに忠誠を誓い、背教者と罵られようと、裏切り者とそしられようと、アンリ・ボケと戦い、これを殺す覚悟を決めた者達――その数三万。

「思ったよりも大勢残ってくれた。これだけの数があれば戦いようはある」

 ユーグの安堵したような言葉にタンクレードが頷く。

「王弟派の残りの七万も決して殿下に弓引くことはありません。好意的中立というところです」

 その言葉にユーグは「そうか」と頷いた。
 一方のアンリ・ボケもまた集められるだけの兵を集めて閲兵式に臨んでいた。集まったのは雲霞のごとき大軍勢だ。アンリ・ボケの手の一振りに、兵士達が熱狂的な歓声を上げている。

「三〇万の将兵、ただの一人も欠けることなく猊下の元に参集いたしました」

 レモリアの将軍の追従にアンリ・ボケは満足げに頷いている。が、その側に侍っているヨアキムは複雑な思いを隠せなかった。ヨアキムはその発言が大嘘だと誰よりも判っている。

「集まったのは多分半分くらいだろう? 残りの半分は猊下の目が行き届かないのをいいことに、損耗を惜しんでどこかに隠れているんだろう」

 つまりは枢機卿派は三〇万を公称しながら実動は一五万でしかないのだ。それでもユーグとアンリ・ボケの兵力差は実に五倍にもなる。両者のその差を正確に把握している人間はこの世のどこにもいなかったが、ユーグの方が圧倒的に少ないことは誰もが認める事実だった。

「戦いは数だけで決まるわけじゃない。それを教えてやる、アンリ・ボケ」

 ユーグは自らの将兵を前にそううそぶく。「戦争の天才」と謳われたユーグの真価が今、発揮されようとしていた。







 タシュリツの月(第七月)・一七日。王弟派と枢機卿派の戦闘が再開されたのがその日である。
 枢機卿派の軍勢がスキラの中心地を通って南へと向かって進軍している。彼等の目的地は王弟派の根拠地である海辺の要塞、ベン・ヤイル要塞だった。

「敵が出てきたなら兵力差に任せて潰せ。出てこないならそのまま敵の要塞を占拠せよ」

 アンリ・ボケが与えた命令はその二つだけだ。配下の将軍達も「これだけの兵力差があれば戦いになるまい」と気楽に考え、特に作戦もなく無造作に兵を進軍させている。

「閣下、敵が前に」

 部下の注進を受けるまでもなく見えている。王弟派の部隊が通りを進んだ先にたむろしていた。粗末なバリケードを作って枢機卿派を待ち構えているようだ。将軍エティエンヌは彼等を嘲笑した。

「あんなもので我等を阻むつもりか――前進せよ! 背教者を蹴散らせ!」

 エティエンヌの命令を受けた兵が前進する。それを見ただけで王弟派の兵は恐慌を起こし、算を乱して逃げ出した。エティエンヌの兵がそれを追う。

「逃がすな、追え!」

 優位を確信し、嗜虐心を高めた将軍とその部下が王弟派の部隊を追いかけた。王弟派が角を曲がって逃げていき、それをエティエンヌ達が追う。エティエンヌもまた角を曲がって走っていくが、

「これは、何事だ!」

 曲がった先は袋小路となっており、王弟派の兵の姿はどこにもない。エティエンヌ達だけがそこに押し込められいる状態だった。エティエンヌは引き返すために後ろを振り返り、

「――な」

 と絶句する。そこに整列していたのは王弟派の部隊、その兵二百あまり。糸を張ったように足先を揃えた彼等は、その全員が銃を手にしていた。

「撃てー!」

 火縄銃が一斉射され、百を超える弾丸が宙を裂き、エティエンヌの兵を撃ち倒していく。枢機卿派は恐慌状態に陥った。ひたすら身を伏せる者、何とか逃げ道を探す者、味方を盾にしようとする者。反撃するべく突撃をかける者も少なくなかったが、即座に放たれた第二射がその全員を射殺した。
 その先はもう、戦闘ではなく殺戮だった。枢機卿派の兵を王弟派の銃撃隊が次々と射殺していく。枢機卿派の兵がどれだけ命乞いをしようと、無様に泣きわめこうと、王弟派は何の反応も示さない。まるで機械のように黙々と、弾丸と火薬を込め、射撃し、また弾丸と火薬を込める。それが何回もくり返された。
 千を超える枢機卿派の兵が五百を下回った頃、ようやく王弟派が撤退する。残された枢機卿派に反撃や進軍が考えられるはずもない。我先に北へと向かって逃げていくだけだ。エティエンヌは死体となっていたがそれを知る者も気にする者も誰一人いなかった。
 ――それは決してエティエンヌ達だけの災難ではない。スキラの各所で同じような、一方的な戦闘がくり広げられていた。
 枢機卿派のある部隊は隘路で挟み撃ちとなり、壊滅的な打撃を受けた。ある部隊もまた隘路に誘導され、上から一方的に攻撃されてなすすべもなく逃げ出した。

「な、なぜ騎兵が――」

 枢機卿派のある将軍は騎兵部隊の奇襲を受けて討ち取られた。ある将軍もまた騎兵の強襲を受け、鎧袖一触で蹴散らされた。
 騎兵を率いるのはユーグ自身だ。ユーグは配下の騎兵をスキラの随所に送り込み、敵味方の情報をリアルタイムで把握する。このため刻一刻と移り変わる状況に応じて最適の命令を下すことができた。

「敵が東側から回り込もうとしている。応戦を」

「そこには大砲を配置しています。彼等に任せましょう」

 そしてタンクレードがそれを補佐する。タンクレードが広げているのは巨大なスキラ市街地の地図である。今日この日があることを見越し、スキラに到着したその日から少しずつ作らせてきたものだ。
 タンクレードの命令を受けて大砲が火を吹き、枢機卿派の軍勢の直中に着弾する。破裂した大砲の破片が何十人もの兵をなぎ倒し、運悪く砲弾が直撃した指揮官は微塵となって砕け、跡形も残らなかった。
 ……日が暮れて戦闘が終結し、両派が自分の陣地へと戻っていく。王弟派の損耗はごく軽微なのに対し、枢機卿派は手ひどい痛手をこうむっていた。だがその程度のことで戦いを厭うアンリ・ボケではなく、むしろ戦意と敵意をさらに募らせている。

「王弟派はあれだけの銃器をどこから手に入れたのだ。あの騎馬はどこからやってきたというのだ。――言うまでもないだろう、ヌビアの皇帝だ! あれだけの武器をヌビアの皇帝以外の誰が用意できる! 王弟の背後にヌビアの皇帝がいることはもはや明白。王弟は自分が最悪の裏切り者であることを自ら明らかにしたのだ!」

 アンリ・ボケはその翌日以降も王弟派への攻撃を続けた。そしてそのたびに手痛い反撃を受け、小さくない損害をこうむって撃退されている。枢機卿派の陣地には負傷者が溢れていた。負傷した兵士が行き倒れ、死体となり、それを別の兵士が一箇所に集めて積み上げていく。死体の山がうずたかく築かれた。

「……あの枢機卿様は数任せの戦いしか知らないのか……!」

 負傷した騎士が呪詛を吐いているが、それを咎める者はいなかった――彼の回りは全員死体となっていたのだから。半日後には彼もまたその死体の仲間入りとなっていた。
 もちろんアンリ・ボケも無意味に自軍の損害を増やして喜んでいるわけでは決してない。

「一体指揮官は何をしているのか!」

 アンリ・ボケが鞭打つような罵声を上げ、将軍達が身をすくめた。

「相手はたかだか数万、その程度の敵に何を手間取っておるか! 無能は背教者と同じ、臆病者は異端と同じだ! 勝手に逃げる者には我が鉄槌の裁きがあると知れ!」

 アンリ・ボケの檄――という名目の脅迫は小一時間ほど続いた。散々に脅され、ようやく解放されたときには将軍の誰もが精も根も尽き果てていた。

「……どうする」

「どうするもこうするも、戦う他あるまい」

「だが、ろくな武器もなしに、あの銃弾の雨にどうやって対抗しろと……」

「誰か、何か作戦はないのか」

 一人がそう問うが誰もが途方に暮れたような顔を浮かべるだけだ。枢機卿派の主立った将軍は長雨の戦いの後にアンリ・ボケ自身が焚刑に処している。残っているのは軍団長クラスの有象無象ばかり。アンリ・ボケの方針を具体的に実行する、実務を担えるまともな将軍が一人もいないのだ。さらには議論を主導できるような、格のある将軍や力のある指揮官もおらず、どんぐりの背比べというべき同格ばかり。このため議論をしても時間を無為に使うばかりで意味のあることを何一つ決められないでいた。

「……ともかく、以前決めた受け持ちの場所で、各々が奮闘するしかないだろう」

 このときも新しい方針も対抗策も、何もないまま同じことをくり返すと決まっただけ。将軍達は暗澹たる思いを共有した。
 一方、王弟派の方が枢機卿派に比べて順風満帆だったかと言えば、決してそうではない。

「どうだ、動いたか?」

「いえ、全く。あの場所に留まったままです」

「そうか、警戒を怠るな」

 ユーグはひっそりとため息をついた。最初のうちは簡単な罠にも引っかかり自滅していった枢機卿派だが、数日を経て急速に学んでいる。せっかく用意した罠も十中八九が空振りしていた。もっともそれだけ警戒しているため敵の足は完全に止まっている。戦線は膠着状態に陥っていた。
 戦況は持久戦となっているわけだが、それはユーグの望んでいる形ではない。自陣内を見回っている最中、ユーグはタンクレードに確認した。

「また減っているようだが?」

「はい。百人ばかり逃げたようです」

 その回答にユーグは口をつぐんで歩いていく。うかつに口を開けば愚痴があふれ出るだろう。ユーグの後背で、ユーグの代わりにタンクレードが愚痴を口にしていた。

「……まったく、今肝心なのはアンリ・ボケを殺すことだというのに。そのためならヌビアの皇帝だろうと利用できるものは利用するべきだ、その道理が何故判らん」

 ユーグが皇帝の支援を受け入れているのは選択の余地がないからであって、ユーグはタンクレードほど恬然とその「道理」を認めることができないでいる。ユーグですらそうなのだから、他の将兵が「ヌビアの皇帝の支援」に対してわだかまりを抱くのも避けようがなかった。

「この戦いに意味はあるのか?」

「これ以上戦うのはヌビアに利するだけではないのか?」

 そんな疑いが王弟派の腹中でよどみとなっている。それが将兵の脱走を生み出しているのだ。

「これ以上脱走が続けば我が軍は戦わずして瓦解する。何か方法はないのか?」

「はい。アンリ・ボケの殺害、これこそが殿下にとっての勝利のはず。この目的に集中します」

 思わず足を止めたユーグがタンクレードの方を振り返る。タンクレードの真っ直ぐな視線がユーグを迎えた。

「暗殺部隊を送り込むのか?」

 その確認にタンクレードは無言で頷く。しばらく考えていたユーグだが、タンクレードに背を向けて歩き出した。

「――成功を期待している」

 タンクレードはユーグの背に向かい、深々と頭を下げた。
 戦線の膠着と自軍の不利に危機感を深めているのはユーグだけではなく、アンリ・ボケもまた同じだった。そしてアンリ・ボケが選ぶ手段もまた同じだったのである。







 タシュリツの月・二四日のその日。スキラの市街地では王弟派と枢機卿派が戦いをくり返している。一日中戦い、戦況は一進一退で変化がないまま犠牲ばかりが増えていく。その日もそうやって過ぎていき、やがて夕方。両軍が自分達の陣地へと引き上げ始めている。
 枢機卿派の本陣、その最奥には大きな天幕が立てられていた。かつてはそこに地図が広げられ、何人もの将軍が作戦を練る場所だったのだが、今そこを利用しているのはアンリ・ボケ一人だけだ。

「……空の鳥を見よ。播かず、刈らず、蔵に収めず。然るに汝らの天の父はこれを養い給う。汝らはこれよりもはるかに優れる者ならずや。信仰薄き者たちよ。さらば、何を食らい、何を飲み、何を着んとて思い煩うな。これ皆異教徒の切に求むる所なり……」

 戦況に苛立ちを深める一方のアンリ・ボケは聖典に目を通して心を静めようとしているところだった。そのとき不意に風が動き、気配を感じたアンリ・ボケが後ろを振り返る。そこには鉄槌騎士隊の鎧を身にした騎士が二人、無手で佇んでいた。

「一体何事か」

 アンリ・ボケが問うてもその二人は何も答えない。その二人の顔にも見覚えがない。二人の騎士はにじり寄るように距離を詰めていく。

「猊下! 猊下! ご無事ですか、どうかご返事を!」

 そのときになってようやく侵入者に気付いたようで、護衛が天幕の外で騒ぎ出している。アンリ・ボケは舌打ちをした。二人の侵入者は目配せをし、一気にアンリ・ボケへと突撃した。それと同時にアンリ・ボケも後方へと飛んでいる。
 二人の暗殺者は手には何も持っていないように見えて、その手の中で何かが光っていた。掌に隠れるような小さな短刀、隠し武器だ。それが毒刃であることはまず間違いない。アンリ・ボケが愛用の聖杖型鉄槌を手に掴んだ。暗殺者はもう鉄槌の間合いの中だが、鉄槌を振り上げ、振り下ろすよりも暗殺者の方が一歩早い。
 アンリ・ボケが鉄槌を盾のように掲げ、暗殺者の毒刃を防ぐ。だが暗殺者はもう一人いるのだ。二人の暗殺者は自分達の勝利を確信した。アンリ・ボケの腹部めがけて毒刃を突き刺そうとし――拳を顔面に叩き付けられた。
 アンリ・ボケが当て推量でくり出した左拳がカウンターとなって暗殺者の顔面を痛打、暗殺者はたまらず尻餅をついている。間髪入れず、アンリ・ボケは鉄槌越しにもう一人の暗殺者を突き飛ばし、その体勢を崩した。暗殺者が体勢を整える間を与えずアンリ・ボケが追撃、鉄槌が暗殺者の頭部へと振り下ろされる。暗殺者の頭部は微塵に砕け、血飛沫が天幕の内側を赤く染めた。
 残った暗殺者はすでに立ち上がり、再度突撃を仕掛けてきている。だがアンリ・ボケにはもう隙も焦りもなかった。一対一で向かい合い、戦うならばアンリ・ボケは誰と戦っても負けない自信があった。ましてやアンリ・ボケは愛用の鉄槌を持っているのに対し、暗殺者の得物は玩具のような小さな隠し武器だけだ。アンリ・ボケは自らの勝利を疑っていなかったし、事実もその通りとなった。
 護衛の騎士が天幕に入ってきたのはアンリ・ボケが手ずから暗殺者を打ち倒した後だった。血で染まった天幕の内側と転がる二つの死体に護衛が動揺を見せる。

「猊下、お怪我は」

「ない。この死体を片付けよ」

 アンリ・ボケが天幕の外に出ると、そこにも鉄槌騎士隊の鎧を着た死体が転がっていた。

「暗殺者の一味です。護衛を殺してそれに成り代わり、歩哨に立っておりました」

 そうか、とアンリ・ボケが頷く。七日前にユーグが奇襲を仕掛けてきたとき、何人もの鉄槌騎士隊の騎士が戦死し、あるいは行方不明となっている。王弟派はその鎧を利用したのだろう。

「猊下、ご無事ですか」

「猊下、お怪我は」

 暗殺騒ぎを聞きつけた配下の将軍達があちこちからアンリ・ボケの元へと集まってくる。アンリ・ボケは彼等の前に立ち、自らの無事を誇示して見せた。

「背教者は卑劣にも暗殺者を送り込んできたが私は無事だ。そもそも、神に守られたこの私が暗殺者ごときの刃にかかるはずもない!」

 アンリ・ボケが聖杖を振り上げて見得を切る。周囲からは感嘆の声が上がった。

「諸君、これは背教者が追い詰められていることの何よりの証拠だ。背教者は自らの卑劣さに相応しい報いを受けるだろう!」

 アンリ・ボケは力強く断言し、その予言に将軍達は追従の頷きを見せた。ユーグが自陣内で襲撃を受け、重傷を負ったという知らせが届いたのはその直後である。
 ――時間は少しだけ遡り、同日の午後。ユーグは前線に近い場所で監督と督戦をしているところだった。
 大通りはバリケードによって塞がれ、そこに王弟派の兵士が陣取っている。大通りの向こうから枢機卿派の兵士が押し寄せてくるのを王弟派の兵士が迎撃していた。バリケードの隙間から火縄銃を撃ち、矢を放つ。枢機卿派の兵士がばたばたと倒れ、総崩れになって逃げていく。

「殿下、一四番の通りから敵兵が」

「判った」

 だが一箇所で敵兵の侵入を防いでも別の場所から入り込もうとしてくる。ユーグは少ない人数で敵を迎撃するためスキラ中を走り回らなければならなかった。
 近衛の騎士を引き連れてユーグが次の迎撃地点へと騎馬で移動している。前方には味方の兵とバリケードがあり、その向こうには枢機卿派の兵がいる。後方からは自軍の別の部隊が接近しているところだ。ユーグが後ろを振り返ろうとし、

「な――」

 腹部を鉄槌で殴られたかのような、強い衝撃。ユーグの身体は馬上から落下し、地面に叩き付けられた。

「殿下!」

「殿下!」

 近衛の騎士が慌てて駆け寄りユーグを抱き起こす。上半身を起こし、ユーグはようやく自分の背中に矢が突き刺さっていることを理解した。刺さっているのは後背、右腹の裏側。鉄の鎧を貫いて鏃が腹の中央まで届いている。一体誰が放ったのか、その疑問を口にするまでもなかった。

「背教者に死を!」

「裏切り者を生かしておくな!」

 雄叫びを上げながら王弟派の一部隊がユーグへと突撃してきている。兵士は全部で百人ほど、先頭の兵士が手にしているのはクロスボウだ。

「カステルノー……! あの裏切り者!」

 ユーグを後背から撃ったのはカステルノーという諸侯の部隊であり、カステルノーはこの戦争中ずっと王弟派としてユーグの下で戦ってきた男である。その男がユーグを討つべく、その首級を獲るべく、突撃してきているのだ。

「……追い払え」

 ユーグは近衛に指示を出した上で再び馬に乗った。騎乗したユーグが、背中に矢を刺したまま自軍の陣地へとやってくる。兵士達の不安げな視線を一身に受けたユーグは頼もしげな笑みを作って見せ、剣を抜いて高々と掲げた。

「迎撃せよ!」

 一拍置いて、兵士達が雄々しい歓声を上げる。士気を極限まで高めた王弟派の兵士は枢機卿派の兵士を殲滅した。それは戦闘と言うよりは一方的な虐殺と呼ぶべき代物だった。カステルノーの部隊も近衛の部隊に一蹴され、散り散りになって逃げている。
 ……日が暮れて戦いも鎮まり、王弟派も枢機卿派も自らの陣地へと戻っている。王弟派のベン・ヤイル要塞の一室ではタンクレードを始めとする幹部が沈鬱な顔を付き合わせていた。
 その日の戦闘は何とか乗り切ったものの、失ったものは決して取り返しがつかなかった。ユーグは腹部に矢を受け、血を流しながらも負傷を押して全軍の指揮を執り続けた。

「僕がここで倒れたら王弟派は総崩れだ。今倒れるわけにはいかない」

 最初の一時間は総司令官としての責任感で立ち続けた。責任感が血と共に流れ去り、耐え難くなると、

「僕はフランク王アンリの息子、フランク王フィリップの弟だ。この程度の怪我で倒れていては父上と兄上が侮られる」

 次の一時間は王弟としての矜持を支えに立ち続けた。その支えも急速に削れ、鉛よりも重くなった身体を支え難くなってしまう。最後の一時間は立ち続けるのに生命を燃やし、注ぎ込んだ。戦闘が終わったときユーグの中にはもう何も残っていなかったのだ。
 そして今、ユーグは自室のベッドで横になっている。近衛の騎士の中で医術の心得のある者が治療をし、その処置が終わって寝室から出てきたところである。その騎士をタンクレード達が取り囲んだ。

「殿下の具合は、どうなのだ?!」

 その騎士は無言で首を振るだけだ。誰かの歯ぎしりの音がタンクレードの耳に届いたが、あるいはそれを発したのはタンクレード自身だったかもしれない。

「出血の恐れがあるため矢を抜くのは無理でした。傷口の止血をしてありったけの薬を飲ませただけです。王都の宮廷医ならばもっとマシな治療もできるのでしょうが、この場では……それに、たとえ宮廷医であってもあの傷では」

 二一世紀の日本の基準ならユーグの負傷は重傷ではあっても重篤ではない。早急に大手の病院で治療を受けさえすれば生命に関わりはしない、その程度の傷である。だが逆に言えば、治療が遅れれば、小さな病院なら、生命に関わる傷だということだ。付け加えれば、現代の日本の病院ならどんなに小さなところでも消毒薬や抗生物質くらいはあるだろう。それでも危険なくらいなのに、ユーグの部下達はその程度のものすら有してはいないのだ。彼等が持っているのは効用も定かではない薬草だけだった。
 ユーグはもう既に死神に魅入られている――それがタンクレード達の共通認識だった。

「……どうするのだ。殿下抜きで枢機卿と戦うなど」

「これ以上戦っても無意味だ。枢機卿の寛恕を願うべきではないのか」

 ルッジェーロやロベールといった何人かの将軍がこそこそと話し合っているのを耳にし、タンクレードは剣を抜いて彼等に突きつけた。

「目障りだ、去りたければ去れ」

 ルッジェーロ達は気まずそうな顔をつきあわせ、やがてタンクレードに卑屈な笑みを見せる。

「我々の分の食糧をもらいたい。あれだけあってももう仕方ないだろう?」

 タンクレードだけではない、何人もの将軍が剣を抜いた。恭順派の幹部達は慌ててその部屋から逃げていく。

「食糧庫の防御を固めよ。あの卑怯者どもには麦の一粒も分け与えるな」

 将軍の一人、コンラートの指示に百人隊長が頷き、その部屋を飛び出していく。コンラートは残った幹部達の顔を見回した。恭順派として出ていった数は三分の一を越えている。コンラートは牙をむき出しにした笑みを見せた。

「これだけ残っていれば上等だ。坊主共に我等の意地を見せてやる」

 タンクレードが「籠城か?」と問い、コンラートが「ああ」と頷く。

「できるだけこの城に敵を引きつけ、最後にはこの城に火をかける。一人でも多くの枢機卿派を道連れにしてやるのだ」

 コンラートの示した方針に残った幹部の半数が力強く頷く。だがタンクレードを始めとするもう半数は同意しなかった。

「殿下はまだご存命だ。私は殿下を連れてここを脱し、ヌビアに亡命する」

 コンラート達が驚きを共有する。コンラートは思わず「正気か」と問うた。

「ここでは助からずともヌビアであればあるいは治療できるかもしれん。殿下が生き延びられることがまず第一、それ以外はその先で考えればいい」

 コンラート達の顔に理解の色が広がる。単なるヌビアへの亡命であれば受け入れがたいことだが「ユーグの治療のため」という大義名分があれば亡命も許容できなくはなかった。

「しかし、ヌビアが殿下を受け入れるのか?」

「受け入れないわけがない。我々にこれだけの武器を支援した連中だぞ? 殿下の身柄を最大限利用しようとするに決まっている」

 誰かの問いにタンクレードが即答する。そうなったならユーグは今以上に「背教者」「裏切り者」の汚名を被ることになるのだろう。もしユーグに意思表示ができたなら自らの名を惜しんでコンラート達と共に玉砕することを選んだに違いない。だがこの時点、ユーグの意識は混濁し、口にするのはうわごとばかりだった。
 「背教者」の汚名も今さらの話だ、生き延びさえすれば汚名を返上する機会もある。まずは何より生き延びること――それがタンクレードの確固たる意志であった。

「ならばここは二手に分かれよう。我々はここで籠城して敵を引きつける。その隙にお前達は殿下を連れてスキラを脱出せよ」

 コンラートの言葉にタンクレードが力強く頷く。タンクレード達はそれぞれの行動を開始した。







 タシュリツの月・二五日、その未明。
 前日の夜、王弟派の陣地から逃げ出してきた将兵が枢機卿派に投降。彼等の口からユーグが重傷を負ったことが知らされる。

「敵陣を包囲せよ。明日には総攻撃を仕掛け、この戦いを終わらせる」

 アンリ・ボケのその命令に従い、約二万の兵がベン・ヤイル要塞を包囲する。彼等は夜襲に備えて寝ずの番をしているところである。

「ようやくこの戦いも終わるのか」

「ああ、何にしろ終わってくれるのは何よりだ」

 兵士達の間には安堵と弛緩した空気が流れていた。聖槌軍の内戦が終わったところでヌビアとの戦いが再開されるだけなのだが、彼等はその事実から意図的に目を背けている。それができるのも長い時間ではないだろうが、心の平穏のためにはそれが必要だった。
 そして未明、兵士達の緊張感が一段と緩む時刻。居眠りをしていた歩哨の兵士は何かの物音で目が覚めた。

「なんだ、この音は?」

 地鳴りのような、獣の唸り声のような低い音。それが響いている。その兵は敵陣の方へと目をこらし、

「な――」

 騎馬の一団が突進してきている。見る間に目前へと迫っている。馬の息吹が頬に当たるかのようだ。

「敵だ! 敵が!」

 その兵は敵襲を知らせるべく声を上げた。だがその前に彼は逃げるべきだったのだ。彼が最期に見たのは馬蹄の底だった。彼はそのまま突進する騎兵によって文字通りに蹂躙された。
 何人もの兵が馬蹄に踏み潰されて生命を落とし、その数十倍の兵が逃げていく。騎兵が通り過ぎた後に続くのは火縄銃を備えた部隊だ。彼等が銃を乱射し、さらにその後ろには弓兵の部隊が続いている。

「敵襲だ! 逃げろ!」

「道をふさぐな、そこをどけ!」

 タンクレード隊の突撃に対し、枢機卿派の多くの兵は立ち塞がることではなく道を空けることを選んだ。枢機卿派の勝利はもう決まっているのだ、ならばここで生命を懸けて戦うことに何の意味がある? ――それが彼等の本音だった。その一方タンクレード達はここを突破できなければ生命がない。武装の差だけでなく士気の差も圧倒的だった。タンクレード隊がごくわずかの脱落だけで無事に脱出に成功したのは幸運でも偶然でもなく、必然である。
 アンリ・ボケは起き抜けに王弟派の一部が脱出したという報告を伝えられる。早朝から気分を害することとなったがやがて気を取り直し、ベン・ヤイル要塞への総攻撃を開始させた。

「突撃せよー!」

 先陣を切っているのはルッジェーロ等、つい昨日まで王弟派に属していた者達だ。アンリ・ボケは「名誉回復の機会を与える」と称して一番危険な先陣をルッジェーロ達に委ねていた。ルッジェーロ達が喜んでその命令を受けたのはアンリ・ボケの歓心を買うためだけではない。

「食糧庫だ! 食糧を確保せよ!」

 何よりもまず食糧庫を確保すること、ルッジェーロ達はそれしか考えていなかった。ルッジェーロの兵は銃や弓で要塞を攻撃するが、武装の面ではコンラートの方がずっと優勢だ。弾丸や矢を雨のように浴びせられ、兵が虫けらのようにばたばたと死んでいく。
 それでも枢機卿派の兵は怯むことなく押し寄せてきた。

「あの要塞には食糧が山ほど貯め込まれている! 腹一杯飯を食えるぞ!」

 どこからか食糧のことが漏れ、枢機卿派のあらゆる部隊が食糧確保のために動いている。死地へと突進しているのだ。やがて耐えきれずベン・ヤイル要塞の防御が突破される。枢機卿派の兵士が要塞の中へと流れ込んでくる。彼等が真っ先にめざしたのは食糧庫だ。兵を引き連れたルッジェーロが食糧庫に到着、その扉を開け放った。

「よお、遅かったな。待っていたぞ」

 食糧庫の中にあるのは天井まで積み上げられた膨大な麦袋。床に転がっているのは何本もの樽で、そこから流れた油が床を満たしている。そして、松明を持ったコンラートが嘲笑を浮かべて佇んでいた。

「き、貴様、何をする気だ」

「見て判らんか? 死なば諸共、地獄の底まで付き合ってもらうぞ」

 やめろ、と制止する間もなくコンラートが松明を投げ捨てる。炎は瞬く間に食糧庫全体に広がり、ルッジェーロもまた火炎に包み込まれた。
 食糧庫から上がった火の手は速やかに要塞全体へと延びていく。もともと要所要所に可燃材を積み上げ、食糧庫の炎上と同時に着火するよう手配がされていたのだ。要塞全体が炎に包み込まれるまでそれほどの時間は必要としなかった。コンラートの部下が最期まで踏み止まって敵を引きつけ、逃げ遅れた枢機卿派の兵士が炎に巻かれてゆく。
 アンリ・ボケは炎上するベン・ヤイル要塞を間近に眺めている。天をも焦がすほどの巨大なその炎の中には万を越える枢機卿派の兵が取り残されていた。彼等を助ける手段はもうどこにも存在しない。
 血よりも赤い炎がアンリ・ボケの頬を照らしている。アンリ・ボケが顔に浮かべているのはいつもの仮面のような柔和な笑みだ。その奥にどんな感情が渦巻いているのか、誰も知ることができなかった。



 同時刻、サフィナ=クロイの港。そこにアニードの商船が入港してすでに十数時間が経過している。
 ユーグはベッドごと運ばれてアニードの船に乗り込んでスキラを離れ、夜明け前にはサフィナ=クロイに到着していた。アニードはベラ=ラフマに連絡を取ってユーグの治療を懇願。ベラ=ラフマは独断で医師の手配をしてアニードの船へと送り届けた。数刻遅れで報告を受けた竜也もベラ=ラフマの判断を追認している。

「この町で一番の名医を派遣してくれ。薬も必要なものは全て用意させる」

 竜也はユーグを助けるためにその権限を最大限行使し、何人もの名医と呼ばれる医師をアニードの船へと送り込んだ。竜也自身もその日の午後にはアニードの船に赴いている。
 船室の一つでユーグが治療を受ける中、竜也は甲板で結果を待っている。護衛として同行しているのはサフィールやバルゼル達だ。

「タツヤ殿、あれを」

 とサフィールがスキラの方角を指差す。そこには立ち上る煙があった。やがて煙は天を支える柱のように太く大きくなっていく。

「王弟派の拠点が、ベン・ヤイル要塞が炎上している」

 ガイル=ラベクの部下がその報告を届けに来てくれた。そうか、と竜也が頷いていると、梯子を登って誰かが甲板に上がってきた。出てきたのはベラ=ラフマが手配した医師の一人である。
 その医師はまず無言で首を横に振った。

「手は尽くしたのですが……申し訳ありません」

「いや、あなた方のせいじゃない。ご苦労だった」

 タシュリツの月・二五日。フランク王国王弟、聖槌軍総司令官、ヴェルマンドワ伯ユーグがその呼吸を止める。それはベン・ヤイル要塞陥落とほぼ同一の時刻だった。






[19836] 第四四話「モーゼの堰」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/25 21:02



「黄金の帝国」・逆襲篇
第四四話「モーゼの堰」







 サフィナ=クロイの郊外のある空き地。そこには木製の杭が地面に刺さっていた。その高さは一メートルほど、その本数は……数え切れないほどだが、見える範囲だけで千より少ないことはないだろう。
 前後左右に一メートルほどの間隔を開け、杭が地面に刺さっている。それが延々と並んでいるのだ。時刻は夕陽が水平線に没する寸前。赤く染まったその空き地はまるで異界のような空気を漂わせていたが、それもある意味当然だろう。そこはサフィナ=クロイ最大の墓地なのだから。
 聖槌軍との戦争が始まってから優に万を越える戦死者を出している。そのうち簡素でも墓碑を建てて葬られているのはほんのごく一部に過ぎず、戦死者のほとんどは共同墓地にまとめて葬られていた。その共同墓地もこの空き地の一角に建てられているが、それは置いておこう。
 今、その墓碑の一つに何人かの男が参拝をしていた。他の墓碑が木製の杭なのに対し、その墓碑だけは石でできていた。大きさは膝の高さほどで、形は真四角。ただしその墓碑には何の銘も刻まれてはいない。

「ヌビアの皇帝よ。殿下を弔ってくれたこと、感謝する」

「さて、何のことかな。ここに眠っているのは名も知れないエレブの騎士のはずだが」

 竜也の物言いにタンクレードは小さく笑いを漏らした。竜也は明後日の方向を向きながら、独り言のように言う。

「ヴェルマンドワ伯ユーグはベン・ヤイル要塞で玉砕したと聞いている。ヴェルマンドワ伯は我々にとっては憎むべき敵ではあったが、知勇に優れた将軍でもあった。その死には哀悼の意を表したい」

 ユーグが亡命した事実をなかったことにするのはユーグの名誉を守るための、竜也なりの配慮だった。タンクレードの涙腺は激情により決壊する寸前となった。尽くすべき主君を喪った悲しみと憤りが改めて募ってくる。それに加え、敵である竜也がユーグを評価してくれたことには複雑な、だが一際の嬉しさがあるし、それに対するアンリ・ボケの態度には憎悪がいや増すばかりだった。
 一方、竜也が示した哀悼の意は本心とポーズが半々である。ユーグが生きている限りは決して枕を高くして眠れはしないが、死んでしまったならその存在を惜しむ余裕も出てくるようになる。竜也は敵ではない者にはどうやっても残虐にはなれない性格だし、死者は決して敵になりはしないのだから。
 墓碑の前にひざまずいていたタンクレードが立ち上がり、竜也に向き直った。

「――ところで皇帝よ。アンリ・ボケを殺すために皇帝は我々を支援してくれていたが、それはまだ有効と考えていいのか?」

「ああ。あの男を殺すためなら支援を惜しまない」

 竜也の回答にタンクレードは「よかろう」と頷く。

「遠慮なく受け取っておく。あの男を殺すために私はこの生命を懸けよう」

 ユーグなき今、タンクレードにとっては聖槌軍の勝利など完全に他人事だった。自分が目的を達するためなら聖槌軍が敗北しようと破滅しようと、どうでもいい――タンクレードはそこまで覚悟を決めていた。タンクレードは竜也という悪魔と取引をし、その魂を竜也に捧げたのである。







 ……時間は少しだけ巻き戻り、タシュリツの月(第七月)の中旬。スキラでは聖槌軍の内戦が勃発し、サフィナ=クロイでは多少なりとも余裕が生まれている頃のこと。……あくまで「多少」の話だった。

「王弟派の人数が全然少ないらしいな。この分なら内戦もさっさと終わっちまうんじゃないのか」

「くそっ、王弟派に賭けたのに……」

「そんなこと言ってる場合か! 枢機卿派が勝つってことは内戦が終わったらまたすぐ戦争が再開するってことだろうが」

 つい先日までの、戦って負けるか、ヌビアの半分を割譲するかの二者択一を迫られていたときよりは状況は大幅に改善している。が、依然として厳しい状況にあることには変わりなかった。戦闘に直面する兵士達は誰よりもその厳しさを実感しており、休憩中の彼等が将軍や元老院議員のように情勢について語り合っている。

「いくら頭数を揃えたって、経験のない奴がまともに戦えるのか? 俺達だってちゃんと戦えるようになるのに結構かかったんだぞ」

「勝てるかどうか、かなりぎりぎりって感じじゃないのか?」

「優位に立つのに何かもう一手くらいほしいところだよなぁ……」

 一人の呟きに全員が頷いて同意する。彼等はそろって腕を組み「うーん」と考え込んだ。そこに、

「皇帝が視察に来られた! 全員整列!」

 隊長の声に休憩を中断、兵士達は隊長の下に集まり直立不動で整列した。
 それほどの時間を経ずして皇帝の一行が彼等の前を通り過ぎていく。先頭を歩いているのが黒い甲冑を身にした若き皇帝、その横を同行するのは将軍アミール・ダールだ。皇帝のやや後方に黒い陣羽織の牙犬族の剣士達が続いている。さらにその後方には完全武装の兵士の一団が連なっていた。
 先頭の皇帝と将軍アミール・ダールは熱心に何かを話しているがその内容までは聞こえない。だが真剣な表情の中にも時折笑みを浮かべており、皇帝も将軍も戦いの先行きを決して悲観してはいない――それだけは間違いなかった。
 皇帝の一行が兵士達の前を横切り、一行の背中が遠ざかっていく。兵士達はその姿を長い時間見送っていた。

「……何かもう一手、きっと考えてあるんだろう」

 誰かの言葉に全員が同意する。

「あの皇帝のことだからな。きっと考えているに決まってるさ」

「そうだな」

 休憩時間はそこで終わりとなり、兵士達はそれぞれの持ち場に戻っていく。彼等の胸の内に巣くっていた不安はいつの間にかなくなっていた。







 「何かもう一手」が必要だと竜也が考えていないわけがなく、その中身についても既に発案済みだった。その実行のため竜也は総司令部にガリーブとマグドを呼び出している。伝令を送ったのは同時だが、サフィナ=クロイにいるガリーブは呼び出されてすぐに臨時総司令部に登庁。トズルにいるマグドが伝令と一緒に臨時総司令部にやってきたのは夕方になってからである。

「完全に封鎖すると水圧もそれだけ強くなるだろう? ある程度は排水して水圧を弱めることを考えるべきじゃ」

「その排水箇所から崩れるぞ? 恒常的な設備ならともかく、あくまで仮設なのだろう?」

「この辺に排水用の水路を掘るのは?」

 マグドが総司令部の執務室に入室すると、そこでは竜也とガリーブが何やら熱心に話し合っているところだった。執務室には他にアミール・ダールやガイル=ラベク、それにベラ=ラフマの姿があったが議論には加わっていない。

「遅くなった」

「いや、構わない。これを見てくれ」

 挨拶もそこそこに、竜也は卓上を指し示す。そこに広げられているのはトズル周辺の地図、それに何かの設計図だ。「ふむ」とマグドはそれをとっくりと眺め、そして困惑の視線を竜也へと向けた。

「堰……ですか?」

「ああ、トズルに堰を築く」

 竜也が大きく頷くがマグドの困惑は深まるばかりである。
 スキラ湖は元の世界でならチュニジアのジェリド湖やガルサ湖に該当する。その二つの湖が一つにつながっている場所が、その北側がトズルと呼ばれている。トズルとその対岸は岬のように大地が突出していて、一番狭いところでは一スタディア、約一八〇メートルの距離しかなかった。

「ここに堰を築いて水を塞き止める」

 と竜也はその一スタディアの隙間を指し示す。

「工期は一〇日だ。将軍マグドにはその指揮を執ってもらう」

 マグドは助けを求めるようにアミール・ダールやガイル=ラベクに視線を向けるが、同情するような視線を返されるだけだった。

「しかし、たったそれだけの工期でそんな大工事を」

「目的は聖槌軍を水攻めにすることだから、渡河作戦が始まったら決壊させる。要するに何日か持てばそれでいい、あくまで仮設の堰だ」

 マグドは難色を示すが竜也の姿勢は変わらない。豊臣秀吉は高松城の水攻めのためにわずか一二日で全長四キロメートルもの巨大な堤防を築いたとされている。それを思えば、マグドほどの将軍がたったの一スタディアの堰を建設できないわけがない――それが竜也の確固たる意志だった。

「サフィナ=クロイの市民から協力を得ている。二万の工夫を動員する」

 マグドが思わず「二万?」と問い返し、竜也が頷いた。

「ナハル川方面軍の新兵達だが、実戦経験もなければろくに訓練も受けていない。一〇日間中途半端な訓練を受けさせて無策のまま防衛戦に臨ませるよりは、切り札の建設に使った方がいいだろう?」

 マグドは不明な点をいくつか確認する。最大の問題はそもそもこんな堰が建設可能なのかどうかだが、その点についてはガリーブが、

「計算上ではこれだけの厚みがあれば水圧に耐えられる!」

 と設計図を示してお墨付きを与えてくれた。マグドとしてはそれを信じる他ない。他にも問題は無数にあったがどれも致命的というほどではなかった。つまりは竜也の命令を拒否するだけの理由も存在しないということだ。

「……まあ、やるからには全力を尽くしやしょう」

「すまない。よろしく頼む」

 工事の困難さを思ってマグドが気を重くする一方、竜也は重荷をマグドへとバトンタッチして安堵したような様子である。そこにアミール・ダールが、

「ところで皇帝、この新しい堰は何と呼べば? トズルの堰では今トズル砦にある堰と区別が付きません」

 問われた竜也は「ふむ」と首をひねった。マグドは深く考えずに提案する。

「クロイの堰でいいんじゃないのか?」

 「そうですな」等とアミール・ダール達が賛意を示す一方、竜也一人が否定的だった。

「いや、それだったらマグドの堰かガリーブの堰の方がいい」

 戦いも既に終盤であり、知名度も実績もそれなりに積み上げてきた。これまではヌビア軍を結束させるためにある程度の自己宣伝や自己神格化を推進してきた竜也だが、決して望んでやってきたことではない。「ヌビア軍の結束のため」という公益が羞恥心や良識という私心を上回っていたわけだが、その必要性が薄れれば私心を優先させるようになる。
 が、竜也のそんな心理はマグド達には理解の外である。マグド達は戸惑ったように顔を見合わせている。一方ガリーブは、

「いやあ、照れますなぁ。はっはっは!」

 竜也から譲られた栄誉をてらいもなく受け取るつもりでいた。が、マグドの殺気立った視線を受けて慌てて笑いを引っ込める。マグドからすればその命名は竜也の業績を自分やガリーブが横取りするに等しいもので、受け入れられるものではなかった。
 そんな一同の様子を無言で観察していたベラ=ラフマだが、

「それならモーゼの堰と呼ぶのはどうでしょう」

 その提案に竜也は破顔した。

「ああ、それはいいな。それでいこう」

 竜也達の念頭にあったのはアンリ・ボケの檄文、その一節だ。

「聖杖さえあればナハル川を二つに割って南までの道を造ることも容易い――」

 聖杖に成り代わり、ナハル川に南までの道を造ること。それこそがこの堰の建設の目的なのだから。







 タシュリツの月・一六日。モーゼの堰の建設が開始された。
 二万の工夫がサフィナ=クロイから南へと移動する一方、一二隻の外洋船がナハル川を遡上してスキラ湖に入っていく。工夫がトズル対岸に到着する頃、外洋船はすでに所定の場所に配置されていた。

「なんだありゃ?」

「橋か?」

 工夫がそれを見てざわめく。彼等のいる場所と対岸のトズルを結ぶように六隻の船が縦に並び、船同士は何本ものロープで連結されて、さらには船と船の間には板が渡された。この場所からトズルまで歩いて渡れるよう、浮き橋が設置されたような状態だ。

「作業にかかるぞ! 持ち場に移動しろ!」

 各現場を監督する百人隊長の号令に従い工夫が移動する。一部の工夫は橋となった六隻の船上で行列を作り、大半の工夫は周辺に散った。それらの工夫が土砂を集めて土嚢に収め、バケツリレーの要領で土砂を移動させていく。土砂の行き先は橋となった船の上だ。船上の工夫は受け取った土砂を船倉へと捨て、それが何十箇所で、何百回もくり返された。見る間に船倉に土砂が貯め込まれ、船の喫水がどんどん下がっていく。

「そろそろ限界か。――船から退去しろ!」

 マグドの号令に従い工夫が船の上から移動。わずかに残った工夫が六隻の船倉に穴を開ける。船倉に水が流れ込み、瞬く間に船が水へと沈んでいった。

「ああ、もったいない……」

「沈めるんなら俺に一隻譲ってくれよ……」

 その様子を船の上から見守る水兵達が嘆いている。ガイル=ラベクは平静を装っているが内心は彼等と大差なかった。この作戦に使われる船は自沈が約束されている。

「廃船にする予定の古い船を集めてくれ」

 と竜也に言われはしたものの、不要な船は以前にゲフェンの丘に集められたため早々見当たりはしない。工事を急ぐ必要があったこともあり、集められたのはまだまだ現役で使える船ばかりだった。船を惜しむ気持ちは人一倍であるが、

「完全に沈んだようだな。行くぞ」

 それでも自分の役割を忘れはしない。ガイル=ラベクの命令に従い、第二弾の六隻の船が移動を開始した。
 同じことがくり返された。六隻の船が浮き橋のように連結され、それらの船に工夫が土砂を流し込み、自沈させる。さらには翌日も同じことを実施し、そこには合計で二一隻の船が沈むこととなった。船の上に船が積み重なり、一番上は沈んだとは言っても水面下に潜っただけ。その上を歩いてトズルへと渡れる状態になっている。

「ここからが本番だ! 土砂を運べ!」

 沈んだ船の上に工夫が列を作り、やはりバケツリレーの要領で土砂を運んでいく。土砂は次々と足下へと捨てられた。さらにはいくつもの大きな岩が船で運ばれ、湖底に沈められ、ロープが結ばれて蜘蛛の巣のように張り巡らされる。隙間を埋めるために土砂が、粘土が、瓦礫が、木材が沈められる。工事は常に決壊の危険と隣り合わせであり、その対応は昼夜を問わなかった。夜であっても篝火を焚き、不眠不休で工事は進められる。その甲斐もあってタシュリツの月の月末には堰は一応の完成を見た。また、水圧を下げるための排水路は堰と同時に掘削が進められ、堰と同時に完成している。だが、

「ロープが切れかかっている! 代わりのやつは!」

「枝を払わなくていい! そのまま持ってきてここに突き刺せ!」

 決壊を防ぐための補修や補強に始終追われる状態であり、むしろ工事中より忙しくなったくらいだった。二万の工夫だけでは人手が足りず、トズル砦から兵士の大半を呼び寄せて応対させることで最悪の事態だけは何とか避けているような状況だ。

「将軍、今もし敵がトズルに攻めてきたら」

「敵の動きは見張っている。留守の砦を攻められる、なんて間抜けなことにだけはならんさ」

 マグドは部下の懸念を笑い飛ばした。もっとも内心はそこまで楽観していたわけではないが。

「敵がトズルに攻めてこないことを祈る他ありませんな」

 副官のシャガァの言葉にマグドが頷く。

「それと、さっさと渡河作戦を決行してくれることもな。いくら補修をしてもきりがない。あと何日も持たんぞ」

 マグドの祈りがどこかの神に聞き届けられたのはアルカサムの月(第八月)に入ってからである。







 ナハル川の水位が急速に下がっていることに聖槌軍の将兵が気付かないはずもなかった。水位が数日前の半分以下になったナハル川を前にし、兵士達がざわめいている。

「何があったんだろう」

「決まっているだろ、枢機卿様が聖杖を手にしたからこうなったんだ!」

「上流で土砂崩れがあったって聞いたぞ」

 兵士達はどこかの誰かが意図的に流した噂を頭から信じ込んでいる。一方の将軍や軍団長達の様子も兵卒とあまり変わりがなかった。

「上流で土砂崩れがあったとのことですが、これこそまさに天佑神助。神が猊下の勝利を望んでいる、何よりの証でしょう」

 将軍達の追従にアンリ・ボケはやや煩わしげに「うむ」と頷く。それを口にした将軍自身は自分の言葉を信じているわけではなく、アンリ・ボケの反応を、

「世辞を言われるのを疎んだのだろう」

 と思っている。だが事実はそうではなかった。

(そんな当たり前のことをいちいち述べずともよい)

 それがアンリ・ボケの本心だったのだ。神が自分の勝利を望んでいることも、そのために天佑があることも理の当然。聖杖を手にしているのだからそれがない方がおかしい――アンリ・ボケは心底からそう思っている。

「しかし、敵が兵を南に動かしているという噂も聞きます。おそらくは川を塞いだ土砂を取り除き、水流を元に戻そうというのでしょう」

「ならば、急がねばなるまい。この好機を逃しては天佑も手からすり抜けてしまう」

 将軍達が意志を一つにし、アンリ・ボケを見つめる。元よりアンリ・ボケに異存があるはずもなかった。

「全軍に通達せよ。明日には渡河作戦を決行する」

 ――もしこの場にユーグかタンクレードがいたならこう疑問を呈していただろう。

「誰か見てきたのか? 土砂崩れがあったのかどうかを」

 アンリ・ボケの部下の中にも同じことを思った者は確かにいた。

「まずは土砂崩れが事実かどうかを確認するべきなんじゃないのか?」

 そう考えた者は決して少なくはなかった。だがそれを提案するのはアンリ・ボケに対する天佑に疑義を挟むことに等しく、罠の存在を疑いながらも誰もそれを口にできなかった。聖槌軍が最後まで無為無策のまま、馬鹿の一つ覚えの渡河作戦を決行することになったのは、聖槌軍という組織の必然だった。アンリ・ボケという指導者をいただき、反対派閥を全て排除し粛清した、その当然の帰結だったのだ。
 そしてアルカサムの月・一日、聖槌軍の渡河作戦が決行される。







 アンリ・ボケは聖槌軍の残り全軍を動員、実際に渡河をする兵は三〇万に達していたと言われている。聖槌軍の全兵力を投じた総攻撃だ。

「これが最後の好機だ、今日勝てなければもう飢えて死ぬしかない」

 兵卒はともかく指揮官の多くはアンリ・ボケに対する天佑や聖杖の神助など信じてはいない。それでも今日が最大最後の好機であることは彼等の共通認識となっていた。

「今日勝てばもう我々に敵はない! もう我々の進軍を阻むものは何もない! 今日勝てばヘラクレス地峡からケムトまで、ヌビアの全てを征服したも同然だ! これが最後の決戦と心得よ!」

 軍団長の檄に配下の兵は勇を奮い立たせ、怯むことなくナハル川へと飛び込んでいく。ナハル川の水面はエレブ兵に埋め尽くされんばかりだった。
 一方、南岸でそれを迎撃するのは七輪旗を掲げたヌビア軍八万。そのうち三万は新兵で今回が初めての実戦だ。が、南岸に結集しているのは兵だけではなかった。

「……これらの者は皇帝が集めたのですか」

「俺は何も言ってない」

 アミール・ダールが眼下の光景を視線で指し示し、竜也は首を振って否定する。前線には兵だけではなく、女・子供・年寄り等も含めたサフィナ=クロイの市民十数万が集まっていたのだ。彼等は棍棒や手製の槍、石ころ等の粗末な武器を持ち、戦う意志を全身にみなぎらせている。

「市民にも判っているのでしょう、これが最後の戦いだと。これにさえ勝てばわたし達の勝ちだと」

 野戦本部を訪れているファイルーズがそう口を挟む。ファイルーズの言う通り、今日が決戦だという意識は竜也やアミール・ダールといった総司令部首脳陣、各軍団長や百人隊長といったヌビア軍幹部だけのものではなかった。前線で戦う兵だけでもなく、サフィナ=クロイ全市民がそれを共有していたのだ。
 女子供までが棍棒や石ころ、包丁までも手にして戦う覚悟を決めているのだ、彼等を背にした兵士達が高揚しないはずがない。雲霞のごとき大軍勢を目前にしながらも前線から逃げようとする新兵はただの一人もいなかった。
 竜也はやや申し訳なさそうにしながらアミール・ダールに依頼する。

「市民からは極力犠牲を出さないように頼む。補助的なところで活用してくれ」

 アミール・ダールは「判りました」と返答し、部下を引き連れて野戦本部を後にして前線へと赴いた。竜也達は野戦本部の前から川岸の様子を見つめる。川岸では、ようやく南岸までたどり着いたエレブ兵がヌビア兵と今まさに干戈を交えようとしているところだった。
 一方、ほぼ同時刻のモーゼの堰。聖槌軍が渡河を開始したという知らせは、狼煙、手旗信号、早馬等、あらゆる手段を使って最高速でマグドへともたらされた。連絡を受けたマグドは部下へと命令を下した。

「よし! 堰を切れ!」

 命令を受けた奴隷軍団の兵士達が鬨の声を上げながら散っていき、堰を壊しにかかった。張り巡らされたロープは次々と切断され、丸太や杭が引き抜かれ、さらには大砲の砲弾が撃ち込まれる。元々いつ崩れても不思議はなかった堰である。膨大な水圧に耐えきれずついに決壊した。必死の思いで築いた堰が一瞬で瓦礫となって一気に水に流される。何人かの兵士が逃げ遅れて奔流に呑まれてしまったがそれを助けることもできない。奔流はスキラ湖の下半分にまず広がっていく。水流がスキラ湖の下流に及ぶまではかなり時間がかかりそうだった。







 ナハル川の南岸では秒単位で死体が量産される死闘がくり広げられていた。
 エレブ兵の肩にエレブ兵が登り、南岸の石壁を乗り越えようとする。それにヌビア兵が矢を放つ。さらに市民が点火した原油を浴びせ、石を投げて突き崩した。追加の兵が後から後からやってくるが石壁を乗り越えることができない。まともに身動きもできないくらいに石壁の前に集まり、ヌビア兵のいい的となっていた。石に潰され、矢に刺されたエレブ兵の死体を、エレブ兵が集めている。死体を壁の前に積み上げている。味方の死体を運んでいたエレブ兵に矢が刺さり、自分もまた死体の一つに加わった。
 死体の山を足場にして石壁を乗り越えようとする聖槌軍。何箇所かでそんな足場が作られ、何人かのエレブ兵がようやく石壁を乗り越えて南岸の大地を踏みしめる。

「はい、お疲れ様!」

 その途端、火縄銃の集中砲火を浴びて倒れ伏した。それらのエレブ兵はそのまま南岸の大地の一部となった。さらにヌビア軍は死体で作った足場に大砲の照準を合わせ、生きたエレブ兵と死んだエレブ兵をまとめて吹き飛ばす。聖槌軍は足場の積み直しを余儀なくされるが、その材料に事欠くことはなかった。
 早朝から始まった戦いは血に飽きることもなく続いている。太陽が中天に昇る頃、南岸はエレブ兵に埋め尽くされていた。普段より大幅に広がった川の岸辺はエレブ兵の帯となり、地面も川面も見えないくらいになっている。壁を乗り越えんとするエレブ兵とそれを突き落とすヌビア兵。エレブ側の損害は数えることをとっくに諦めるくらいだったが、ヌビア側の損害も無視できないくらいに広がりつつあった。市民が矢面に立っている場面も少なくはない。
 敵に加熱した油を浴びせようとしていた子供が、誤って自分がその油を浴びてしまう。火だるまとなった子供が悲鳴を上げて岸へと転がり落ちていくが誰も助けることができない。母親が悲嘆に暮れているが、それも敵味方の怒号に呑み込まれていった。
 女子供を含む市民が懸命に投石をし、エレブ兵に多大な痛手を与えている。だがエレブ兵は血まみれになりながらも突き進んだ。血を流し、味方の死体を踏みしめながらも壁を乗り越えようとしている。ヌビア兵がそれを槍で刺して突き落とすが敵は後から後から沸いて出た。

「くそっ、きりがない」

「投げる石がもうないぞ、どうする」

 投石の弾幕がなくなり、エレブ兵は攻撃を強めた。一人が槍で刺されながらも敵を離さず、その敵を味方が二人がかかりで殺す。壁を登りきったエレブ兵が敵を排除し、後続が次々と壁を登っていく。奔流となって溢れてくるエレブ兵の姿に市民だけでなくヌビア兵までが怯んでいる。いける、勝てる、このまま押し切って――何人ものエレブ兵がそう思い、そのまま絶命した。

「あの穴を塞ぐぞ!」

 ダーラクの率いる騎馬隊がエレブ兵の一団へと突撃。騎兵の突進にエレブ側は恐慌を起こし、逃げ惑うことしかできない。そんなエレブ兵をダーラクは馬蹄で踏みにじり、さらには雷撃の恩寵で打ち倒した。雷撃の恩寵の一斉射が壁を乗り越えようとしていたエレブ兵を焼き、死体となったエレブ兵が血の焦げた臭いを撒き散らしながら落ちていく。

「おお、赤虎族のダーラクだ!」

「雷光のダーラク!」

 市民の呼び声にダーラクは手を振って応える。ダーラクはその手をそのまま振り下ろし、それを合図に赤虎族の戦士達が並んで壁の上に立ち、敵へと向かって雷撃を掃射した。

「このダーラク様がここにいるんだ! 敵はこれ以上先に進めん!」

 ダーラクの鼓舞に市民が歓声を上げた。ダーラクはそれに雄々しい笑顔で応えていたが、不意に真顔になって視線を東へと向ける。その先には野戦本部があり、竜也やアミール・ダールがそこにいるはずだった。
 ダーラクだけではない。多くの指揮官の、兵士の、市民の視線が竜也へと向けられている。戦況は厳しくなる一方だった。いつ、どの箇所で敵が壁を突破してもおかしくはない。敵の攻勢に耐えきれなくなっても不思議はない。北岸から呼び戻した騎兵隊が応急処置に走り回っているがそれも焼け石に水だった。

「――前線に出る」

 竜也は立ち上がり、外套を翻して野戦本部を出た。竜也にはバルゼル、サフィールを始めとする近衛達が、一騎当千の牙犬族の剣士達が付き従う。さらにその後方には旗持ちの鉄牛族が続いた。巨漢の鉄牛族が掲げているのは五パッスス四方の巨大な旗だ。そこに描かれているのは七つの首がとぐろを巻いた黒い竜。それこそ皇帝クロイの旗、黒竜の旗である。
 高々と掲げられた黒竜の旗を目の当たりにし、ヌビア兵は士気を高揚させた。疲れ切り、石のように重くなった腕を振り上げ、声を振り絞る。

「黒き竜(シャホル・ドラコス)!」

「皇帝クロイ!」

 皇帝クロイの連呼が南岸に轟き、大地を揺らした。その勢いにエレブ兵が動揺するが、それも長い時間ではない。

「あれこそ敵の皇帝だ! あの首級を獲ればこの戦争は勝ちだ!」

 百人隊長に煽られたエレブ兵が黒竜の旗をめざして突き進んだ。敵の目の前に立てられた旗をめざし、その旗の下で仁王立ちになる竜也をめざし、エレブ兵が殺到してくる。何千人ものエレブ兵が一塊となり、方向転換も身動きもままならない。

「狙う必要もないな」

「粉砕せよ!」

 そのエレブ兵の一団に矢の一斉射を浴びせるのは第九軍団のディカオンであり、大砲の砲弾を撃ち込むのは第十軍団のタフジールだ。弓と火器の十字砲火を受け、エレブ兵は急激に人数を減らしていく。

「ひるむな! 進め!」

 壁までたどり着いたときには人数は半減していたが、それでも半分は残っているということだ。エレブ兵は味方の身体を盾にし、味方の死体を踏み台にして壁を登っていく。壁を乗り越えることができたのは壁に到着した人数のうちの十人に一人にも満たない。

「それでも後続はいくらでもやってくるんだ! このまま皇帝の首級を――」

 戦意に燃えるそのエレブ兵の首が胴体から離れる。何故、どうして自分が死んだのかも判らないまま、自分が死んだことにも気付かないまま、そのエレブ兵は戦死者数のカウントを一つ増やし、ただの数字となった。
 壁を乗り越えたエレブ兵を待っていたのはバルゼルやサフィール、牙犬族の剣士達の白刃である。突進するエレブ兵が無造作に斬られ、人間の部品を撒き散らす。それが何度かくり返され、それでようやくエレブ兵も彼等の正体を思い知るのだ。

「血の嵐だ……! ルサディルで千の兵を斬ったっていう……」

「あ、あいつらが……」

 たじろぐエレブ兵を前にしてバルゼルが、サフィールが、剣士達が立ち塞がる。バルゼル達は無言のままだがその目が百万言よりも雄弁に物語っていた――寄らば斬る、と。
 ヌビアの皇帝の姿はすぐそこにあった。手を伸ばせば届きそうだ。だがその前に血の嵐が立ちふさがっている。剣士達の人数は二〇人にも満たない。彼等は隊列も組まず、剣を構えもせず、血に濡れた剣を手に提げ、ただ佇んでいるだけのように見えた。彼等の手にする白刃は指数本ほどの幅しかなかった。だがその白刃がどんな壁より、ナハル川南岸の石壁よりも高く厚く、エレブ兵の行く手を阻んでいる。
 緊張に耐えられなくなったエレブ兵が散発的に飛び出し、無造作にバルゼル達に斬り捨てられる。それが何度かくり返された。剣士達の足下にエレブ兵の死体が転がるばかりであり、剣士達は傷一つつかず、息一つ切らしていない。エレブ側の百人隊長は歯噛みをした。

「くそっ、後続は……! もっと大勢で一斉に飛びかかれば」

 百人隊長が後方を振り返り――馬鹿みたいに口を開けまま石像のように棒立ちとなった。味方が水に溺れている!
 南岸までたどり着いたエレブ兵が今、水に溺れていた。水に流されていた。普段より広がっていたはずの岸辺、それが今は川の底となっている。それどころか普段は岸辺になっている場所まで水が押し寄せ、エレブ兵は腰まで水に浸かっていた。しかも水位はまだまだ上昇しているのだ。
 川岸から離れた場所のエレブ兵は抵抗もできないまま水に流された。川岸に近い場所のエレブ兵は何とか踏み止まっているがそれだけで、進むことも戻ることもできない。そして水位が増えれば彼等とて水に流された。川岸のごく間近な場所なら岸に捕まるか、その味方に捕まるかすれば流されることだけは避けられた。だがそのエレブ兵に対してヌビア兵は一片の容赦も持たなかった。矢が、火縄銃の銃弾が、熱湯が、油が浴びせられる。避けることもできないエレブ兵は傷つき、死体となり、やはり水に流されていくのだ。

「――やっと来たか。ともかくこれで勝ち目は見えたな」

 竜也は肺の息を全て吐き出すくらいの大きなため息をつき、天を振り仰いだ。太陽は中天からやや傾き、日差しが一番強い時間帯となっている。
 トズル砦では鉄砲水となった奔流が一気に敵を押し流したが、モーゼの堰の水はそのような鉄砲水にはならなかった。が、結果としては似たようなものである。ナハル川の水位は通常の半分以下の状態から一時間以上かけて水かさを増し、さらに増水していった。このためエレブ兵にとっては「気が付いたら増水していた」という状態であり、彼等の油断を突く形となったのだ。
 通常より増水し、速度を増したナハル川の水が無慈悲にエレブ兵を押し流していき、南岸にかじり付いて何とか水流に耐えているエレブ兵にはヌビア軍が容赦のない攻撃を浴びせ続けた。反撃も退却も防御もままならないエレブ兵にできるのはただ神に祈ることくらいだ。そして神に見放されたエレブ兵が死体となり、水に流された。
 水位や水流が通常状態に戻る頃には日差しもかなり傾いていた。運良く生き残ったエレブ兵は南岸を離れ、北岸をめざして泳いでいく。スキラに戻る気力もないエレブ兵はヌビア軍に降伏し、捕虜となった。

「――終わったか」

 夕陽の中、北岸へと撤収する聖槌軍を見つめながら竜也が深々とため息を吐いた。竜也の側にはファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール・ディアの六人が寄り添うように並び、竜也と同じ光景を見つめている。安堵・哀れみ・喜び・怒り等々、一様ではない複雑な、それぞれの感慨を胸に抱いてそれぞれの表情を浮かべている。
 ヌビア側の大方の予想通り、この日の戦いが聖槌軍の最後の総攻撃となった。この日の戦いは後日、一般的には「アルカサムの月の戦い」と名付けられた。だがもう一つの呼び名「モーゼの堰の戦い」もまた広く知られている。




[19836] 第四五話「寝間着で宴会」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/27 21:02



「黄金の帝国」・逆襲篇
第四五話「寝間着で宴会」







 今回のアルカサムの月の戦い(モーゼの堰の戦い)でヌビア側が獲得した捕虜は二万に達していた。竜也は例によって白兎族を使って捕虜を分別、一部の協力者と一部の不穏分子を除いて残りの全員を鉱山や開拓地送りにした。
 ベラ=ラフマは銀狼族や灰熊族を動かすが、聖槌軍の損傷具合は今一つ判然としない。「長雨の戦い」に次ぐぐらいの戦死者が出ていることは間違いないが、正確な数は不明である。ヌビア側は「残っている敵兵は一五万以上二〇万以下」と推定している。一つ言えるのは、今回の戦いもまた聖槌軍の将兵を大幅に減らしただけに終わった、ということだ。
 アルカサムの月(第八月)の初旬、戦いから二日後。その日、総司令部の竜也の元をナーフィア商会のミルヤムが訪れる。ミルヤムにはジャリールやワーリスといった、東ヌビアの有力商人が同行していた。

「お久しぶりです、皇帝タツヤ。まずは戦勝、おめでとうございます」

 ミルヤムの言祝ぎを「ありがとうございます」と受ける竜也。

「これでこの戦争は勝ったも同然だろう。兵数は対等に近いし、敵兵は腹を減らした半病人ばかりだ」

「ヌビア軍からの総攻撃はいつやるんじゃ?」

 気の早いワーリス達の言葉に竜也は愛想笑いを浮かべ、次いで表情を引き締めて見せた。

「敵にはまだ二〇万近い兵が残っている、油断は禁物です。我々は『長雨の戦い』の二の舞を演じるわけにはいきません」

 竜也の言葉にミルヤム達は「確かにそうですが……」と気まずそうな様子を示した。竜也は不思議そうな顔をする。

「何か問題でも?」

 竜也に促され、ミルヤムが意を決して告げる。

「皇帝タツヤ、この戦争を一日でも早く終わらせてはいただけませんか?」

「もろちん早く終わるに越したことはないですが、あと二ヶ月も敵を封じ込めれば全滅しますよ? それなら兵も損なわずにすみますし」

 竜也の言葉にジャリール達は「何を悠長なことを」と舌打ちした。

「皇帝、あなたが我々にどれだけの借金を抱えているか忘れたわけではあるまい。戦いが一日長引けば借金はその分増えるのだぞ?」

「正直に言うと儂等も苦しいんじゃ。通常の商売がなかなかできん中で借金の証文ばかりが増えても腹は脹れん。これ以上公債を引き受けろと言われても、もう引き受けられんのじゃぞ?」

「戦争を終わらせ、皇帝タツヤを中心とした国を樹立し、市民から税を集められる体制を確立する――一日でも早くそれを実現しなければ、あなたの軍は借金により潰れてしまうことにもなりかねません」

 愚痴とも脅迫ともつかない説明を終え、ミルヤム達が去っていく。残された竜也は執務室で頭を抱えた。

「ようやく百万の聖槌軍に勝てそうな見通しが立ったところなのに、今度は百万タラントの借金が……」

 なお、実際の借金の総額はその半分くらいである。側に立つベラ=ラフマが解説する。

「これまでは勝敗が定まっていなかったので彼等も皇帝の邪魔になるような行為は差し控えていたのでしょう。ですが、今は我々の勝ちが見えています。遠慮をする必要はなくなった、ということではないでしょうか」

 竜也は頭痛を堪えているかのような顔をしながら、

「……とりあえず、聖槌軍の内部分裂を促すような工作を」

「既に用意は進めています」

 タンクレードか、という竜也の確認にベラ=ラフマが頷く。現在一万の兵とともにスキラの北に潜伏中のタンクレードはアニードを通じてベラ=ラフマと連絡を取りつつ、聖槌軍への分裂工作を進めているという。
 竜也はその工作の内容の説明を受け、それに実行の許可を出した。また竜也はアミール・ダールを総司令部に呼び出し、事情を説明。

「スキラに総攻撃を仕掛けて一気にこの戦争を終わらせる作戦を立案してほしい」

 無理難題だ、と思ったに違いないがアミール・ダールはそんな素振りは欠片も見せず、粛々と竜也の命令を受け入れた。







 アルカサムの月の戦いを乗り越えて、近いうちに自軍の勝利でこの戦争が終わるとヌビア側の誰もが思うようになっている。総司令部の官僚は戦争後を見越した行動を早々と開始していた。

「皇帝、こちらの計画書に認可を」

 と帝都建設総監のバリアが持ってきたのは、ゲフェンの丘に行政機関の庁舎を再建するための計画書である。以前総司令部が設置されていたゲフェンの丘は「長雨の戦い」により焼け野原となったままだが、そこに新政府の行政機関をまとめて設置することをバリア達は企画していた。

「……ガリーブさんの設計か」

 計画書に目を通した竜也が呟く。庁舎は総石造りの四階建て。行政機関が全て収まるだけの広大な床面積を確保している。「クロイの船(サフィナ=クロイ)」の名に相応しく、船をモチーフとした斬新なデザインとなっていた。

「――いいだろう。ただし、半分だけだ」

 竜也は計画書の書類のうち前半を受け取り、残り半分をゴミ箱に捨てた。計画書の後半に記されていたのは皇帝の宮殿の建設計画だったのだ。バリアが顔をしかめる。

「しかし皇帝、国主とあろう者があまりに慎ましく暮らすのは決して望ましいことではありません」

「その理屈は判らなくもないが、今は金がないんだから仕方がない。俺が住むところは、また中古の船でも引きずり上げてくれればそれでいい」

 バリアは納得したようには見えなかったが、竜也の意志が固いことを悟って無言のまま引き下がった。バリアと交代で何人もの官僚がそれぞれの計画書を持ってやってくる。

「皇帝、即位式典の計画書です」

「新政府の組織と人事の叩き台の確認を」

「各町の人口調査計画に認可を。それと新政府の税制案と徴税計画です」

「公債の借り換え計画とその返済計画に署名をお願いします」

 さらにはアミール・ダールとその息子三人がやってきて、

「聖槌軍の再来に備えてヘラクレス地峡に要塞を建設すべきです。その計画案がこちらに」

 と計画書を提出した。さすがに竜也が苦笑する。

「将軍、いくら何でもそれは気が早すぎないか。聖槌軍はまだスキラに二〇万近くも残っているんだぞ」

「確かにその通りですが、こちらの計画も早く実行するに越したことはありません」

 アミール・ダールはあくまで生真面目に答えを返した。

「聖槌軍の蹂躙により西ヌビアの国土も人心も荒廃しています。要塞により防衛を固め、軍を派遣し人心を安定させることで、国土の復興も早まるのです」

「確かにその通りだが、スキラの聖槌軍が片付かないことには軍をこの町から動かせない。要塞建設については、予算と人員は確保しておく」

 竜也の回答にアミール・ダールは一定の満足を見せ、野戦本部へと戻っていく。一人になった竜也は執務室の壁に貼られた大きな地中海世界の地図と向かい合った。

「西の方はそれでいいとしても……問題は東だな」

 竜也の視線は地図の上のケムトへと注がれていた。







 ゲフェンの丘に総司令部と竜也の公邸があった頃なら、一旦公邸に戻ってファイルーズ達と夕食を食べてまた総司令部に戻って仕事を続ける、という真似は何一つ珍しいことではなかった。仕事が忙しければ毎晩のようにそうしていた竜也だが、今ではそれは不可能だ。公邸代わりの船は港に係留され、臨時総司令部は町中にある。両者の距離は近くはない。
 最近忙しい場合は総司令部内で夕食を摂るのが常であり、調理を担当するのはカフラであることが多い。総司令部内にもメイドや小間使いは何人もいるが、竜也が食べるものはカフラが手ずから料理していた。

「ご馳走様。今日もおいしかった」

「いえ、とんでもない」

 料理が割と得意なカフラからすれば、竜也は非常に腕の振るい甲斐のない相手だった。よほどのゲテモノでもない限りは出された物は何も言わずに食べるが、本当に好んで食べる物はごく限られている。一ヶ月くらい毎晩同じ料理が続いても文句一つ言わないのは間違いないし、もしかしたらそのこと自体に気が付かないかもしれない。そもそも食に対する関心や欲望が非常に薄いこと、奴隷をやっていた経験で「食事ができるだけで幸せ」という意識があること、この世界の食事が基本的に口に合わないこと、等がその理由だった。
 厨房の隣の小さな部屋で食事を摂り、食後のお茶の一時をカフラとともにまったりと過ごす竜也。ファイルーズやラズワルドが夕食時に総司令部までやってくることは多くはないし、いつもはミカも同席することが多いが、今日はたまたま不在で二人だけである。だがその穏やかな一時はある闖入者によって破られた。

「こんなところにいましたか。カフラ」

 突然その部屋に現れたのはミルヤム・ナーフィアだ。竜也は目を丸くした。

「ミルヤムさん。こんなところにどうしたんですか?」

「ここは元々わたし共の邸宅。今でも法的にはナーフィア商会の所有物件であることには変わりないのですよ?」

 ミルヤムの皮肉げな言葉に竜也は気まずそうな顔をする。ミルヤムは竜也に構わず、

「カフラ、戻りますよ。わがままもいい加減にしなさい」

「嫌です、わたしには総司令部の仕事があります!」

「あなたの代わりの官僚なら、追加で何人でも商会から出します。ですが、カンゼィールさんの花嫁はあなたしかいないのですよ」

 二人は言い合いをそこで途切れさせ、数瞬竜也へと視線を送る。そして諍いを再開した。

「わたしは戻りません、カンゼィールさんのお嫁さんなんてごめんです!」

「あの方の何が不満だと言うのですか。あの方は一国を買えると言われるほどの金貨を貯め込んでいるのですよ?」

「だからって四〇歳も年上のお婿さんなんてあんまりです! そんなにお金が好きならお母様が嫁げばいいじゃないですか!」

 二人はそこでまた言い合いを中断。再度竜也へと視線を送り、

「……ええっと、次の台詞は」

 ミルヤムがどこからともなく取り出した台本を確認した上で口論を再開した。

「――わたしは死んでも嫌ですよ? あんな情欲で腹を膨らませた豚じじいに嫁ぐなど」

「わたしだって死んでも嫌です!」

 そこまで言い合い、不意に「ひどい台詞ですねぇ」「でも本当のことですよ?」と素に戻って言葉を交わすミルヤムとカフラ。竜也は頭痛を堪えるかのような顔を二人へと向けた。

「……あの、二人とも。一体それは何のお芝居ですか」

 竜也の問いにミルヤムは「ヤスミンさんに脚本を書いていただきました」と素で答え、カフラは、

「タツヤさん、私を連れて逃げてください!」

 と竜也の腕にしがみつき、潤んだ瞳を竜也へと向けた。竜也は疲れたようなため息をつく。

「……話ならちゃんと聞くから、頼むから普通に話してくれ」

 それから少しの時間を置いて、仕切り直しをし。三人が小さな食卓を囲んで座った。

「……要するに、ミルヤムさんが商売上の理由でカフラの結婚相手を決めて、カフラがそれを嫌がっている、ってことですか?」

「手短にまとめればそうなりますが、結婚を決めた理由は単なる商売上のものではありません」

 ミルヤムはそう断って竜也に経緯を説明した。

「先日わたし達が皇帝に戦争の早期終結を督促したこと、お覚えでしょう?」

 ミルヤムの確認に竜也は「もちろん」と頷く。

「これが裏目に出てしまいました。わたし達の商会に対する信用不安が発生しそうになっています。商会に預けている現金を引き出そうとする動きが広まっているのです。特にナーフィア商会は他のどの商会よりも強力に皇帝と総司令部を全面支援してきた経緯があります。どこよりも先に財務上の限界が来ているのです。我が商会が所有する五万タラントの公債のうちある程度を現金化しなければ戦争の終結を待たずに我が商会が破綻するかもしれません」

 頭痛が深まったような顔をする竜也にミルヤムが続ける。

「カンゼィールさんが公債の買い取りを申し出てくれています。その交換条件がカフラを妻に迎えることなのです」

「……事情は判りました。それで、俺に何をお望みですか?」

 もしカフラがカンゼィールに嫁ぐしか方法がないのなら、カフラやミルヤムが竜也の前で三文芝居を演じる必要などないのだ。竜也の確認にミルヤムはアルカリックな笑みを見せた。

「皇帝にはカフラを皇妃としていただきたいのです」

 一方竜也は表情をなくす。ミルヤムはそれを気にしないまま説明を続けた。

「今必要なのは、ナーフィア商会が決して潰れないという世評です。正式な発表は後日でも構いません。『カフラが皇妃として内定している』、それを否定しないでいただきたいのです」

「……例え本当にカフラが皇妃となろうと、公金を使って特定の一商会を支援したりはしない。それが皇妃の実家ならなおさらだ」

「それでも構いません。ですが『皇帝がナーフィア商会に力を貸す』、世間がそう誤解するのは自由というものでしょう?」

 竜也が一呼吸置いてミルヤムに確認する。

「ナーフィア商会に支援が必要ならアアドルさん達と相談して方法を考える。それじゃだめなのか?」

「二つの理由で受け入れられません。まず、ナーフィア商会が財務的に行き詰まっていると公に認めることになります。我が商会に対する取り付け騒ぎが起こり、数ヶ月先の危機が明日明後日の危機に変わってしまうことでしょう。

 二点目は、皇帝には思い違いがあるようですが、仰々しく皇帝を名乗ろうと今のあなたは公的にはただの傭兵指揮官でしかありません。総司令部に財務上の保証を与えているのはわたし達大商会であって、その逆ではないのです。そのあなたや総司令部が我々に財務上の保証を与えるなど……他者の背に乗っている者が下の者を持ち上げようとするようなものではありませんか。

 今の皇帝の保証には意味がありません。ですが、近い将来あなたは一国の国主となり、カフラが皇妃となる。その未来図こそが『ナーフィア商会が潰れない』という保証を世間に与えるものなのです」

 ミルヤムの説明が終わり、沈黙が一同を包んだ。その小さな部屋に緊張感が張り詰める。

「――それで皇帝、ご返答は」

「断る」

 竜也が冷たく即答し、その答えが信じられないミルヤムは中途半端な笑みを見せた。

「……ナーフィア商会が皇帝と総司令部を支えるのにどれだけ力を尽くしてきたか、お忘れになったわけではないですよね?」

「もちろんそれは判っているし、感謝もしている。支援が必要ならできる限りのことはする。でも、それとこれとは別問題だ。俺はそんな理由で誰かを皇妃にしたりはしない」

 ミルヤムの表情が氷点下のそれへと変貌していく。カフラが思わず身震いした。

「……ナーフィア商会が潰れても構わないと皇帝が言われるのであれば仕方ありません。我が商会も存続のために必要な行動を取りましょう――五万タラントの公債全てを売却します」

「脅迫する気ですか」

「いえいえ、そんなつもりは」

 竜也とミルヤムが殺気をぶつけ合い、二人の間で空気が歪んだ。もしナーフィア商会が五万タラントもの公債全てを売却すれば――市場に放出すればどうなるか。公債価格は大暴落し、公債は不良債権化するだろう。公債を買った市民が破産し、公債を引き受けた商会が破綻し、東ヌビア一体が経済的に破滅する。政治的に見れば、それはナーフィア商会が総司令部を見放したという意思表示に他ならない。他のバール人商人も総司令部への支援を停止するだろう。また、総司令部で働く官僚の大半はバール人商人の出身だ。彼等もまた総司令部から逃げ出し、総司令部の業務は完全にストップしてしまう。
 総司令部にとってバール人の存在は、背骨であり神経であると言える。背骨と神経を失った人間が生きていけないのと同様に、バール人に見捨てられた総司令部は戦争に負ける前に内部から崩れ去るのだ。

(ここまで強行策に出ているのはミルヤムさんだけのはずだ。殺すか? 殺して代わりの当主にカフラを据えて、総司令部から操るようにすれば……いや、いきなり殺さなくても、薬でも飲ませて総司令部に監禁しておけば。カフラが代理の当主にならなくても、ラズワルドやベラ=ラフマさんの力を借りればその誰かを操るくらいは難しくないだろう)

 既に八〇万の敵を始末してきた竜也が、八〇万と一人目の「敵」をどう処分するか思考を巡らせている。それを感じ取ったのか、カフラが慌てて立ち上がった。

「タツヤさん、ごめんなさい! わがままを言ったわたしが悪かったんです!」

 カフラが目に涙を溜めながら「わたしがカンゼィールさんに嫁ぎます」と二人に告げる。ミルヤムは、

「そうですね。それなら八方丸く収まります」

 と表情を和らげた。が、竜也は狼狽する。

「待ってくれ。そんな本人の意志を無視して結婚を進めるなんて」

 だがミルヤムは冷たい視線を竜也へと向けるだけだ。

「わたしがカフラに好き勝手を許してきたのも、道楽みたいな商売に巨額の資金を出してきたのも、このような場面で役に立ってもらうためです。これは家庭内、我が商会内の問題です。皇帝であろうと口を挟まないでいただきたい」

 ミルヤムはそう言い捨てて立ち上がり、

「さあ、戻りますよ」

 とカフラの手を引く。そのままミルヤムに引かれて部屋を出て行こうとするカフラの手を、

「――」

 竜也は思わず掴んでいた。

「皇帝、これ以上の口出しは」

 ミルヤムの抗議を竜也が制止する。

「……少しだけ、カフラと二人だけで話をさせてくれ」

 一呼吸置き、ミルヤムがカフラから手を離してその部屋から退出する。その部屋には竜也とカフラの二人だけが残された。
 カフラは祈るように指を組み、期待に輝く瞳を竜也へと向けている。一方の竜也は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「……一つ確認するけど。その四〇も年上の何とかって奴よりも俺の方がカフラにとってマシな選択肢なんだな?」

 カフラはそれに答えず、澄んだ微笑みを見せる。竜也は思わず顔を赤らめ、それを悟られないよう努力した。

「……わたしは幼い頃から庶民の人には想像もできないような贅沢や散財を許されてきました。でもその代償として商会の道具としてどこかの家に嫁ぐことはわたしの運命だったんです。一時はそれに反発して自分で商売を興そうとしたりもしましたけど、わたしに商売の才能はありませんでした。

 わたしはお芝居や小説の中の恋物語が大好きなんです。自分には縁遠いものだと思っていましたから。もし良縁に恵まれれば、結婚してからでも恋はできないこともない……そんなかすかな期待は捨てられませんでしたけど」

 カフラが竜也に向き直る。カフラの瞳が竜也を真っ直ぐに見つめた。

「タツヤさん、覚えていますか? わたしがお母様に奴隷として売られそうになって、タツヤさんが助けてくれたときのことを」

「もちろん。あの頃から俺はカフラには助けられてばかりだった」

 カフラが一歩前へと踏み出す。二人の距離はほぼゼロとなり竜也とカフラの身体がかすかに触れ合った。

「わたしはあのときから恋をしています――タツヤさん、あなたに」

 胸を射られたように竜也の身体が揺らぎ、竜也は思わず顔を逸らした。そんな竜也をカフラが熱く見つめ続けている。
 ……部屋の外で待っていたミルヤムが呼ばれ、再び竜也と対面したのはそれからしばらく後である。

「戦争が終わったら総司令部を全面的に改組する。正式な発表はそのときとしたい」

 竜也がミルヤムとカフラにそう告げ、二人はそれを是とする。それは竜也の敗北宣言に他ならなかった。







「カフラを皇妃にすることにした」

 深夜近く、公邸の船に戻った竜也がファイルーズ、ラズワルド、サフィール、ミカ、それにディアにそう告げる。

「はあ。おめでとうございます」

 サフィールにとっては「何を今さら」と言わんばかりの宣言だ。簡単にお祝いを述べ、さっさと一人で寝てしまった。
 一方ファイルーズとラズワルドの二人はどこからともなく「ゴゴゴゴゴ……」と謎の音を発し、全身から紅蓮のオーラを放っている。その迫力に押されてミカとディアは沈黙を選択するしかなく、竜也は焦りながら懸命に言い訳をした。

「ファイルーズとラズワルドが俺にとってかけがえがないことには何も変わりはないんだぞ。皇妃にする以上はカフラもサフィールも大事なことは同じなんだけど同じじゃないと言うか、俺の中での位置づけに微妙な違いはあっても大事なことには変わりはなくて」

 その言い訳に耳を傾けつつ、憤怒を無理に抑え付けため仮面のような表情になってしまっている――風を装いつつ、ファイルーズとラズワルドはそれぞれの思惑を巡らせていた。

(血迷ったタツヤがどこかの馬の骨を皇妃にするというのならともかく……)

(カフラさんが皇妃になるのは想定済みのこと。政治的にも利益になりこそすれ不利益にはなりませんわ)

 竜也を取り巻く六人の女性、ファイルーズ、ラズワルド、サフィール、ミカ、カフラ、ディア。この六人がいずれそのうち全員皇妃となるのはファイルーズにとってもラズワルドにとっても予想の範囲内であり、すでに心理的に許容してしまっている。この六人にはそれぞれの分野で竜也を支え、共に戦ってきたという仲間意識・戦友意識が働いている。それぞれが持つ事情もよく理解しているし、それなりの信頼関係も築かれている。この仲間内から皇妃を増やす分には、二人ともそれほど問題にするつもりはないのだ。

「ええっと、ファイルーズは俺の嫁、ラズワルドは俺の義妹って感じかな。そのたとえでいくとサフィールは幼なじみでカフラは部活の仲間、ミカは委員長でディアは留学生」

 ギャルゲー脳な思考を垂れ流す竜也をよそに、ファイルーズとラズワルドは視線で互いを牽制し合っている。

(この女がタツヤをいじめるなら「側室を持つことも王者の義務」って言っていたのはあなた、ってタツヤを助けてあげて、恩を売る)

(ラズワルドさんがタツヤ様を責めたなら、そもそもあなたが「第二夫人でも構わない」と皇妃を増やそうとしたのでは?と助け船を出しましょう)

 竜也が皇妃を増やすことをこの二人が正面から否定するのは説得力が欠けており、二人は沈黙を選ぶ他なかった。その沈黙を「二人がそれだけ深く怒っているから」と勘違いした竜也は言い訳をさらに加速させる。

「皇妃が増えたからって二人をないがしろにするつもりはない、それは誓ってもいい。正式に皇妃にするのはまだ先だし、皇妃になったからって特別何が変わるわけじゃないだろう? 変わるのは夜の順番くらいで……それはそのー、頑張って回数を増やすから」

 竜也に対し心理的に優位に立つためには簡単に許すべきではない。だがあまり竜也を責めると相手に出し抜かれ、竜也の気持ちが自分から離れてしまう――二人はジレンマに陥った。

「わたしはタツヤ様に無理をすることを望んでいるわけではありませんわ。確かにカフラさんは魅力的な方ですが……」

「あの女だって特別若くはない。いずれは重力に負ける」

 結局、二人は多少の嫌味を言ったくらいで早々に竜也を許してしまった。最大の山場を何とか乗り越え、安堵した竜也はそのまま倒れるように眠ってしまう。ファイルーズとラズワルドが両側から竜也を挟み、三人は床を一つにしてその夜を過ごした。
 その翌日。カフラが皇妃として内定したことは口々に伝えられ、総司令部中に、バール人商人の間に広がっていく。それを耳にした多くの者が、

「今まではそうじゃなかったのか?」

 と、その点に驚いていた。つまり、ほとんどの人間にとっては「何を今さら」な話でしかなく、驚いたり動揺したりすることではない。が、「何を今さら」では済ませられない人間もごくわずかだが存在する。

「一体どうやって皇妃として認められたのですか?」

 その日の夕方、総司令部から公邸の船へと戻ってきたカフラをミカとディアが連れ立って捕まえた。カフラは自分の部屋に戻る間もなく人気のない船の片隅に強引に引っ張られていってしまう。

「あなたがどのようにしてあの強情なタツヤから皇妃として受け入れられたのか、それを教えてほしいのです」

「お前の実家が皇帝を脅した、という噂は聞いている。だが脅しを使うようなお前ではないだろうし、簡単に脅しに屈するような皇帝でもないだろう」

 ミカはいつになく必死な様子を見せ、ディアもまたミカと意志を一つにしていた。カフラは二人をなだめるように、

「聞きたいというのなら、喜んでお話しします。ですけどどうせなら――」

 そして数時間後、その夜。ファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール・ディアの六人が船の一室に集まっていた。集まった部屋はファイルーズの使っている一番大きな寝室で、そこに二人分の簡易ベッドと布団が追加で運び込まれている(さすがに六つのベッドは入らなかった)。六人とも寝間着に着替え、ファイルーズとミカ、ラズワルドとサフィール、カフラとディアが各々の布団に潜り込んだ。さらにその寝室には葡萄酒・果実酒・菓子・つまみ等がずらりと用意されている。

「……それでカフラさん、これは一体」

「タツヤさんの国の言葉を借りれば『寝間着で宴会』と言うそうです。こうやって寝間着で飲んだり食べたりしながら、女の子同士でしかできない話を夜通しするものだとか」

「はあ」

 判ったような判らないような顔のミカに対し、ファイルーズは実に乗り気で嬉しそうである。

「メン=ネフェルの王宮でも共同部屋の女官達が似たようなことをしておりましたわ。非常に楽しそうだったのですが、わたしがそれをする機会はないだろうと思っておりました」

「わたしも話を聞いたときからいずれやってみようと思っていたんです」

 まだ酒を飲んでもいないのにカフラのテンションは既に絶好調だった。

「さて! 生まれも身分も部族も違う六人がこうやって集まったのも何かの縁! どこかの朴念仁を酒の肴にして、大いに楽しみたいと思います!」

 カフラの口上に一同が拍手を送り、こうして六人による「寝間着で宴会」が始まりを告げた。
 真っ先に一同の質問が集中したのは、当然と言うかカフラである。

「……そこでタツヤさんがわたしの腕をぐっと掴んで! お母様に『二人だけで話をさせてほしい』ってお願いをしたんです」

 カフラは皇妃の座をゲットした経緯を隠すどころかノリノリの小芝居付で一同に語り聞かせている。

「……そしてわたしがこう言ったんです。

『――わたしはあのときから恋をしています』」

 カフラの決め台詞に一同が「きゃーっ!」と嬌声を上げた。

「……うーむ、あの皇帝を堕としただけのことはある。そんな台詞をよく恥ずかしげもなく堂々と」

 とディアが唸りつつも感心し、

「わたしにはとても真似できません」

 と赤面したミカが同意した。カフラは「わたしの真似はしない方がいいと思いますよ?」と苦笑する。

「お二人にはお二人のよいところがあるのですから、下手にカフラ殿を真似ずともいいのではありませんか?」

「サフィールさんの言う通りですね。ただそれぞれの魅力で攻めるとしても、タツヤさんの攻めどころはちゃんと知っておくべきだと思います」

 その言葉に「そうです! それを是非教えていただきたい!」と食いつくミカ。ディアもまた身を乗り出していることは言うまでもない。だが、

「わたしの話を聞いていて気が付きませんでしたか?」

 とカフラが答えをじらす。ミカとディアは「うーん」と腕を組んで考え込んだ。そこに、

「……タツヤは政略結婚とかが大嫌い」

 とラズワルドが横から口を挟む。「簡単に答えを言っちゃ面白くないですよ」とカフラが頬を膨らませた。

「なるほど、政略で押し付けられそうになったカフラさんを拒絶していましたね」

「意に沿わない政略結婚をさせられそうになったお前を助けたな」

 と得心するミカとディア。カフラが解答を解説した。

「皇帝になろうと、根本的にタツヤさんの感覚は庶民のままなんです。庶民のままだから奥さんは三人でも多すぎだと思っているし、美姫を集めて後宮を作るなんて思いつきもしない。結婚は好き合った相手とするものだと心底信じていて、本人の意志を無視した政略結婚なんて自分がするつもりは欠片もない。そして、自分に対して誰かをそうさせる――嫌がる女性を周囲が無理矢理皇帝へと輿入れさせるのも嫌悪の対象でしかないんです」

「それらはタツヤ様のかけがえのない美点だと思います。問題もなくはないですが、それはわたし達がフォローをすればいいことです」

 ファイルーズの言葉に「確かにそうです」と頷くカフラ達。一方ミカとディアは困惑の表情を見せた。

「……それでは、わたしはタツヤが嫌悪する方法で皇妃になろうとしていた、ということですか」

「わたしが皇妃の座を望むのは誰に強制されたことでもない、わたし自身の意志によるものだぞ」

「でもその意志は銀狼族族長としてのものでしょう?」

 カフラの確認にディアが頷いた。

「タツヤさんが嫌がるのはその点なんです。タツヤさんが妻として求めるとするならそれはどこかの部族の族長ではなく、ディアという名の一人の女の子なんですから」

 ディアはカフラの言葉を咀嚼し、理解しようと頭をひねり、長い時間を掛けて結局理解が及ばなかったようである。ディアは開き直ったように胸を張った。

「爪先から髪の一本に至るまで、わたしの全ては一族のためにあるものだ。族長の立場を抜きにしたディアナなどという者は存在しない」

 ディアの出した答えにカフラは苦笑するしかない。

「……まあ、ディアさんの事情はタツヤさんもよく判っています。何のかんの言っても身内には甘いですから、決して悪いようにはしないでしょう。あまり焦らず気長に待ってはどうでしょう? ミカさんの方は、割と簡単に皇妃になれると思うんですけどね」

「それはどういう……」

 と戸惑うミカにカフラが、

「皇帝だとか皇妃だとか、余計なことは考えずに素のタツヤさん、男としてのタツヤさんを、ありのままのミカさんが、女としてのミカさんがどう思っているか。それを素直にさらけ出せばいいんですよ。――男としてのタツヤさんをどういう風に思いますか?」

「……そうですね。客観的に言って、まず外見はかなりのものだと言えるでしょう。あれほどの美男子はそうそういるものではありません」

 赤面して呟くようにそう述べるミカを、一同は生温かい目で眺めている。「ミカ以外から」客観的に見て、竜也の容貌はそれなりに整ってはいるが地味であり、人目をそばだてるほどのものではない。

「……顔立ちが整っているのは認めるが、ああいう女みたいなのはわたしの好みではないな。わたしはもっと強そうな男が好みだ」

 とディアが横から口を挟む。

「例えばどのような?」

「そうだな。バルゼル殿くらいが望ましい」

 サフィールが飲んでいたお茶を吹き出した。

「た、確かにバルゼル殿は二人といないくらいの剣士ではありますが……」

「うむ。あれくらい頼もしい男が一族の味方になってくれるのならわたしも心強い」

 と頷くディア。結局ディアの発想は「一族のため」へと収斂していくのだった。

「まあ外見の評価はそんなところとして。次にタツヤさんの中身ですけど」

「あれほどの男がこの世界のどこにいる?」

「これほどのことを成した者がこれまでの歴史にいましたか?」

 ディアとミカがそう口を揃え、一同が同意する。

「徒手空拳から始めて頭の回転と口先だけで百万の敵を皆殺しにし、三大陸最大の大国を築いてその国主になろうとしているのだ。これほど頼り甲斐のある男が他のどこにいる?」

 ディアがそう竜也を褒め讃えるが、

「……そんなところを評価してもタツヤは喜ばない」

 とラズワルドが口を挟む。カフラもそれに同意した。

「タツヤさんの望みは皇帝の地位や権力を抜きにして、男としての自分を認めてもらい、求めてもらうことなんです」

「……あの男は皇帝の地位を親から受け継いだわけじゃない。あの男自身が何もないところから、一から築き上げたものだろう? 何故それを抜きにする必要がある?」

 心底不思議そうなディアの問いに、

「……よく判らないけどタツヤはそう思っている」

 とラズワルドが答え、カフラも苦笑混じりに、

「……わたしもタツヤさんのその辺のこだわりを完全に理解しているわけじゃないです。でもとにかく、タツヤさんがそう思っていることは知っておくべきだと思います」

 腑に落ちたようには到底見えなかったが、ミカもディアもカフラの助言をともかくも聞き入れた。二人はそれぞれのやり方で一人の男について思いを巡らせていた。

「……ところでファイルーズ様、サフィールさん」

 会話を主導していたカフラがにやにやした笑みを浮かべながら話を変える。

「タツヤさんて、あっちの方はどうなんですか?」

「あっちとは?」

「それはもちろん、夜の営みのことです」

 サフィールが飲んでいたお茶にむせて咳き込み、ファイルーズは「あらあら」と笑ってごまかそうとした。

「そうだな、それはわたしも是非聞いておきたい」

 とディアが身を乗り出し、

「わたしも皇妃になるんですから今のうちに教えていただかないと」

 とカフラが追求する。ファイルーズは、

「タツヤ様は、優しくしてくださいますわよ?」

 と艶っぽい笑みを浮かべた。

「そこはもっと具体的に。――するって本当ですか?」

「むしろタツヤ様は――の方が好みみたいです」

「わたしは村の者に――と聞いたのだが」

 ファイルーズとカフラとディアが猥談に花を咲かせる。ミカは想像でのぼせ上がって鼻血を吹き出しそうになり、ラズワルドは無関心を装いつつもしっかりと耳を傾けていた。サフィールは困ったような顔で赤面し、

「わたしが月の障りのときはいつもサフィールさんが呼ばれていますわね」

「いやいやいやあのその」

「やっぱり相手によってやり方が違うんでしょうか?」

 時折話を振られて往生していた。乙女達の猥談は深夜遅くまで続けられることになる。
 翌朝。朝食時に竜也はファイルーズ達六人と食卓を囲むが、

「……」「……」「……」

「……何かあったか? ミカ」

「い、いえ?! な何もありません」

 六人の乙女達が自分を見る目にどこか意味深で生温かいものを感じる竜也だが、その原因は知る由もないことだった。






[19836] 第四六話「アナヴァー事件」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/03/29 21:02


「黄金の帝国」・逆襲篇
第四六話「アナヴァー事件」






 ときはアルカサムの月(第八月)の上旬、アルカサムの月の戦い(モーゼの堰の戦い)が終わった直後のこと。ミカはある人物の訪問を受けていた。

「お久しぶりです、王女ミカ。まずはこのたびの戦勝、おめでとうございます」

 ありがとうございます、と返答しながらもミカは疑わしげな眼をその人物へと向ける。そこにいるのはエジオン=ゲベルの貴族の一人で、名をアナヴァーといった。頭部はきれいに禿げ上がっているがそれとは対照的な豊かな白髭が顔の下半分を覆っている。アミール・ダールとそう変わらない年齢のはずなのだがアミール・ダールが若作りなこともあって、ミカの目に映る彼は高齢の老人のように見えていた。

「一体わたしにどのような用件が? 父にはお会いになったのですか?」

 アナヴァーは一時期アミール・ダールに仕えた経験もあり、ミカも可愛がってもらった記憶がある。が、父親を差し置いて真っ先に自分に会いに来るような関係ではないはずだった。

「私はエジオン=ゲベル王の特使としてここに来ております。この陛下の親書を皇帝クロイにお渡し願いたい」

 そう言って差し出された親書を、ミカは少しの間無言のまま見つめた。

「……伯父上はギーラを支援して勅書まで託したのではないのですか? どういう風の吹き回しですか」

「政争に敗れた半端者のバール人など、もう用済みでしょう」

 アナヴァーはばっさりと言い捨てた。

「それに対して皇帝クロイは聖槌軍との戦いに完勝しようとしています。今エジオン=ゲベルが手を結ぶべきは勝利者たる皇帝クロイ、それだけのことです」

 サフィナ=クロイからエジオン=ゲベルまではどんなに急いでも一月は必要であり、エジオン=ゲベル王ムンタキムが「モーゼの堰の戦い」の結果を知っているとは考えられず、それに基づいてアナヴァーに命令を出すことはあり得ない。つまりはギーラに勅書を――竜也失脚のための切り札を――託すのと同時に、保険としてアナヴァーを友好使節として送り出したのだろう。アナヴァーはどこか近くの町に滞在して戦いの様子をうかがい、竜也が勝ったのを確認した上でこの町にやってきたのに違いない。ムンタキムの無節操さやアナヴァーの振る舞いに呆れるミカだがそれ以上の追求はせず、ミカはその親書を預かった。

「……ともかく、皇帝に渡しはします。それ以上のことは約束できません」

 アナヴァーとの会見を終えたミカはその足で臨時総司令部へと向かい、竜也と面会。事情を説明した。

「それで、これがその親書ってことか」

 親書の封書はミカがその場で開封して中身だけ竜也へと手渡す。受け取った竜也はすぐに目を通した。最初は気のない様子だった竜也が、今は食い入るように親書を読んでいる。竜也が読み終えたのを見計らいミカが声をかけた。

「それで、何が書いてあったのですか?」

「え、あー、その、また今度説明する」

 ミカの質問に竜也は口を濁した。

「特使アナヴァーがタツヤとの会談を望んでいます。タツヤにエジオン=ゲベルの船まで赴いてほしいのです」

「行くのは構わないけど、特使の方がこっちに来るのが筋じゃないのか?」

「その……言葉を飾らずに言ってしまうと『白兎族がどこに隠れているか判らない場所には行きたくない』と」

 ミカが気まずげにそう伝えると竜也は「あー……」と納得の感嘆を漏らしてしまう。

「まあ聖槌軍のような敵ならともかく、これから友好を結ぼうとする相手なんだからある程度の配慮は必要だろうな」

 と竜也はアナヴァーの言い分を了解した。

「このアナヴァーって人は信用できるのか?」

 竜也の確認にミカは「それはもちろん」と胸を張った。国王ムンタキム派と王弟アミール・ダール派が対立していたエジオン=ゲベル王宮においてアナヴァーはムンタキム派の所属だった。だがそれと同時にアミール・ダールの立場を守るべく尽力してくれており、アミール・ダールもアナヴァーに感謝し信頼していたのだ。

「王位は長兄が継ぐのが当然だが、王弟にして将軍たる方がその地位と実績に相応しい処遇を受けることもまた当然」

 それがアナヴァーの信念であり、それはアミール・ダールの基本姿勢と全く同一のものだった。
 そうか、と頷く竜也はその後アナヴァーと会談を持つべく準備を進める。ミカを挟んでの使者の往来が何度かあり、会談が実現する運びとなったのは数日後のことである。







 竜也を乗せた軍船がスキラ湾を進んでいく。軍船はスキラ湾の沖合で別の軍船を発見、その船に接近する。竜也の船より一回り小さなその船はエジオン=ゲベルの軍船であり、それにはアナヴァーが乗っているはずだった。
 やがて二つの軍船が接舷。船と船の間には板が渡され、板はロープで固定された。まずはバルゼル、サフィールといった近衛が板を渡ってヌビアの軍船からエジオン=ゲベルの軍船へと乗り移る。それに続いて竜也が、さらにはミカが隣船へと移動した。

「お待ちしておりました、皇帝クロイ。どうぞこちらへ」

 竜也とミカはアナヴァーに案内されて甲板の中央へと進んでいく。そこに用意された椅子に着席し、テーブルを挟んでアナヴァーと向かい合った。
 まずは面倒な挨拶を儀礼的に消化するのに一刻弱。それが終わってようやく竜也達は会談の本題へと入っていく。

「まずはエジオン=ゲベル王の真意を確認したい。『ヌビアとエジオン=ゲベルが手を結び、東西からケムトを挟撃する』――これは本気で言っているのか?」

「もちろん本気で検討するべき選択肢の一つです」

 竜也の問いにアナヴァーが即答。一方何も聞かされていなかったミカは驚きの表情を竜也へと向けたが、竜也はミカを無視して話を進めていく。

「ケムトは三大陸でも有数の豊饒の地です。ケムト征服がヌビアにとって、皇帝にとってどれだけの利益となるかは計りしれません。そしてエジオン=ゲベルはその恩恵の一部を被る――両国にとってこの事業は大いに有意義なものとなることでしょう」

「だが、大義名分がない」

 と竜也は肩をすくめた。

「利を求めるだけで他国を侵略するのは聖槌軍と同じだ。我々は彼等とは違う」

「ケムトの宰相プタハヘテプは聖槌軍のヴェルマンドワ伯ユーグと手を結び、西ヌビアを割譲しようとしました。それは大義名分にはならないと?」

「確かにそれは我々から見れば利敵行為だったが、そんなのはあくまで結果論だ。元老院議員の半数が賛同していたことを戦争の理由とするわけにはいかない」

 ケムトとの戦争に否定的な竜也にミカは心から安堵している。だが安心するのはまだ早いようだった。

「副特使ギーラが皇帝を暗殺しようとしている――これは戦争の理由とはなりませんか?」

 ミカは思わず息を呑むが、竜也は眉一つ動かさなかった。無表情のまま冷たい瞳をアナヴァーへと向けている。

「それは理由になるだろうな、充分な証拠さえあれば」

「証拠ならあります」

 竜也とアナヴァー、両者の間で緊張感が急速に水位を上げていく。ミカは息苦しさを覚えていた。

「今日、サフィナ=クロイではギーラが自分の支援者を集め、クロイ・タツヤ暗殺の謀議をしているはず」

「随分詳しいようだな」

 会談の当事者でありながらミカにはどうして両者がここまで殺気立っているのか皆目判らない。それはサフィールやバルゼルも同様だったが、二人の場合は考えるよりも先に剣士としての本能が反応していた。二人とも腰の剣に手がかかり、いつでも抜刀できる体勢になっている。
 突然の轟音がミカの脳を揺さぶる。ミカは思わずテーブルにしがみついた。

「な、何が――」

 次いで立ち上がったミカが音のした後背を振り返り、そのまま言葉を失う。エジオン=ゲベルの軍船に備え付けられた大砲の砲口から煙が漂っており、一方ヌビアの軍船には側面に大きな穴が空いて水が船内に流れ込んでいる。その瞬間は見ずともどちらが何をしたのかは一目瞭然だった。

「アナヴァー殿! これは一体――」

 そのとき船が大きく揺れ、倒れそうになったミカを竜也がささえた。エジオン=ゲベルの軍船がヌビアの軍船を切り離し、遠ざかっていく。どんどんと離れていっている。突然砲弾を撃ち込まれて混乱状態のヌビア側はそれでもアナヴァーを追おうとするが、方向転換一つもままならないようだった。
 事態の急変にミカは思考も身体も棒立ちとなってしまう。そのミカの身体を竜也が引っ張る。ミカは竜也の胸の中に飛び込み、竜也に庇われる格好となった。その竜也達の前にバルゼルが、サフィールが、近衛の剣士が立ちふさがっている。そして甲板に上がってきたエジオン=ゲベルの水兵が竜也達を完全に包囲した。
 ざっと見て水兵は三十人以上いるだろう、その全員が剣や槍、弓や火縄銃で武装している。一方の近衛はバルゼル、サフィール、他三名。戦力差は六対一を越えていた。

「アナヴァー殿、一体何故……」

「王命です。どうかお覚悟を」

 ミカが声と身体を震わせる一方、竜也は平静を保ったままである。たとえそれが見かけだけだったとしても大したものだと、アナヴァーは内心で舌を巻いていた。

「エジオン=ゲベルはギーラと手を切ったように見せて、手を結んだままだったんだ。でもまさかギーラを囮にしてエジオン=ゲベルが手を汚すなんて……」

「手を汚したのはエジオン=ゲベルではありません。将軍アミール・ダールが皇帝位を狙いクロイ・タツヤ謀殺した――ギーラはそう主張し、将軍を告発するはずです」

 ミカが歯を食いしばった。この会談を主導したのは自分であり、立ち会ったのも自分だ。アミール・ダールは末娘一人を犠牲にして皇帝を謀殺した――自分の行動が、自分の存在がギーラの告発を裏付ける結果となってしまうのだ。

「そこまで自分の弟を貶めたいのか。そのためだけに俺を殺そうとするのか」

 竜也が舌打ちしつつそう問うがアナヴァーは首を横に振った。

「誤解なきよう。陛下が皇帝クロイを亡き者とするのはあくまでエジオン=ゲベルを守るため。聖追軍との戦いに勝利したなら皇帝クロイはケムトを併呑し、いずれはエジオン=ゲベルに食指を伸ばすことでしょう。自分と王女ミカとの子供をエジオン=ゲベルの王位に就けようとするでしょう」

「ギーラがそう説いて、ムンタキムはそれを真に受けたわけか」

 竜也のその確認をアナヴァーは否定しない。自分がこの事態のそもそもの原因となっていることにミカはさらなる打撃を受けていた。ミカの瞳からひとしずくの涙が流れる。

「何故、何故です! 父上の信頼も厚かったあなたがどうしてこんな……」

「大方、家族の誰かを人質にでも取られたんだろう」

 竜也の指摘にアナヴァーは一瞬だけ顔色を変える。どうやらそれが正解のようだとミカも理解した。

「何と下劣な……! それがエジオン=ゲベル王のやることか!」

「口を慎みください。我等は王命を果たすのみ」

 アナヴァーの背後で水兵がマストに張られた帆に火を放つ。帆は一瞬で燃え上がり、アナヴァー達を赤々と照らした。さすがに竜也やバルゼルも顔色を変えている。

「我等全員が黄泉路までお供する。もって瞑していただきたい」

 できるか!と竜也が思わず悪態をつく。そんな会話をしている間にも火の手は広がっていた。甲板に燃え移った炎が急速に大きくなっている。炎に押されて水兵が移動し、竜也達との間合いはどんどんと狭まっていた。一部の水兵は海へと飛び込んでいる。だがほとんどの兵はその場に留まり竜也達を包囲し続けていた。崩れない包囲にサフィールがわずかに苛立ちを見せている。

「特使アナヴァーがよほど部下から心服を得ているのか、それとも部下もまた家族を人質に取られているのか」

「おそらく両方なのだろう」

 とバルゼルがサフィールの疑問に答えた。炎の熱を受け、バルゼルの額を汗が流れている。その背後ではミカが竜也の胸に顔を埋めていた。

「……タツヤ、わたしが彼等を引きつけますからその間にタツヤは海へ」

「どうするつもりなんだ?」

 ミカはうつむいたまま続けた。

「わたしが彼等の前に出て説得します。説得できはしないでしょうが、時間くらいは稼げます」

「却下。逃げるなら一緒だ」

「ですが!」

 ミカは涙に溢れた瞳を竜也へと向ける。

「この窮地はわたしに責任があります、わたしにその償いをさせてほしい」

 だが竜也は「だめだ」と首を横に振った。

「生命を投げ捨てたってそれで責任を取ったことにはならない。責任を取るなら生き延びて、できることを考えろ」

 竜也はそう言って笑いかけるが、ミカは再びうつむき、力なく呟いた。

「……ですが、この状態では」

「いや、諦めるのは早いようだぞ」

 と言うのはバルゼルだ。その意味をミカが問い質そうとしたとき、船体に強い衝撃が加わり大きく揺さぶられる。水兵のほとんどがひっくり返り、竜也やバルゼルは手すりに捕まってかろうじて転倒を免れた。ミカは竜也に、サフィールはバルゼルに捕まって何とか姿勢を保っている。

「今のうちだ、行くぞ!」

 バルゼルの合図に従い、竜也やサフィールが次々と海へと飛び込んでいく。ミカもまた竜也に抱きかかえられたまま海に飛び込むこととなった。いきなり水の中に放り込まれてパニックを起こすミカだがそれも長い時間ではない。

(焦るな、ここでわたしが溺れればタツヤまで溺れさせてしまう!)

 ミカは呼吸を止め、身体を丸めて水に沈むに任せた。そのミカの身体を何者かが抱きかかえる。そのまま海面へと浮上していく。海面の上に顔を出したミカは海水を吐き出し、大きく息をついた。

「大丈夫か、ミカ? 泳げるか?」

「は、はい。何とか」

 ミカは泳いだ経験が少なくあまり得意ではないが、泳げないわけではない。ミカは竜也の後に続いて海を泳いでいく。その先にはヌビア海軍の軍船が三隻あり、うち一隻はエジオン=ゲベルの軍船に衝角から突っ込んでいた。
 竜也とミカはヌビアの軍船の一つにたどり着き、海から引き上げられた。サフィールやバルゼル、近衛の剣士も一人も欠けることなくその軍船に助けられている。

「皇帝、よくご無事で」

 と安堵の大息をついているのは髑髏船団のハーディだ。竜也は「ああ、助かった」と礼を言っている。

「彼等は大事な生き証人だ。一人でも多く生きたまま確保してくれ」

 竜也の指示にハーディは力強く頷く。一方のミカは複雑そうな面持ちだった。
 ……その後、ハーディはエジオン=ゲベルの水兵や船員、二〇人余を生きた捕虜として確保。その中にはアナヴァーも含まれている。この日のエジオン=ゲベルによる竜也暗殺事件は無事に未遂のまま終わった。だがミカにとって、事件はまだ始まったばかりだったのだ。







 竜也暗殺未遂のニュースは風よりも早く総司令部とヌビア軍に広まった。竜也がサフィナ=クロイの港に帰着するのとほぼ同時にアミール・ダールが港まで駆けつけている。

「今回の事件の責任は全て私にあります。全ての責任は私が負います故、ミカにはどうか皇帝のご寛恕を」

 アミール・ダールは地面にこすりつけんばかりに頭を下げた。その父の姿にミカは狼狽えるばかりである。

「まあ、お前も皇帝も無事で何よりだ」

 とアミール・ダールと一緒に来ていたノガがミカを慰めているが、ミカの気は晴れなかった。

「将軍やミカに責任がある話じゃないだろう。俺はどこかの誰かが犯した罪をその弟やその姪に償わせたりはしない」

 竜也はまずはアミール・ダールの頭を上げさせた。次いで、やはり港までやってきているベラ=ラフマへと顔を向ける。

「ギーラがこの暗殺事件に関わっているとの証言をアナヴァーから得ている。ただちにギーラとその支持者の捕縛を」

「おう、判った」

 とベラ=ラフマに代わってノガが答えた。ノガは愛用の槍の柄で地面を突き、

「第七軍団からも兵を出す。今度こそあのバール人に引導を渡してやる!」

 と吠えている。竜也とベラ=ラフマは困ったような顔を見合わせた。

「……第七軍団の協力は助かりますが、ギーラを含めて誰一人殺さずに捕縛するのが条件です。それができないのなら協力は不要です」

「おう、判った。半殺しなら構わんのだな?」

 と張り切るノガに対し、ベラ=ラフマは早くも疲れたような様子である。

「証言が得られるのなら」

 と妥協を示し、ノガを連れて臨時総司令部へと戻っていく。竜也とアミール・ダールがそれを見送った。ミカもまたその兄の背中を見つめていたが、その瞳は何も映していないかのようだった。
 その日の夜遅く、竜也はベラ=ラフマからその後の顛末について報告を受けていた。

「第七軍団の協力もあり、ギーラの支持者については全員無事に逮捕することができました。何人かが負傷していますが死者はいません」

「それでギーラは?」

「自分の支持者を囮にして単身で逃亡しました。現在追跡中です」

 そうか、と竜也は頷き、

「それは予定通りにいったか」

 と安堵のため息を漏らした。見ればベラ=ラフマもまた同じような表情をしている。

「ギーラはプタハヘテプの元に逃げ込むでしょう。ケムト征服の大義名分とするには充分です」

「ああ、まずは聖槌軍との戦いにけりを着ける。その後は東だ」

 竜也は執務室の壁に貼られた地中海を囲む三大陸の地図に目を向ける。竜也の視線はケムトの大地に固定されていた。
 翌日、竜也を訪ねてノガが臨時総司令部へとやってくる。

「すまん、肝心のギーラは捕まえられなかった」

「いや、それは気にしなくていい」

 挨拶代わりにノガが頭を下げ、竜也がそれを上げさせる。ノガは早々に本題に入った。

「俺はエジオン=ゲベルに帰ることにした。軍団長は今日で辞めさせてもらう」

 竜也は驚きに小さく息を呑む。

「それは、ギーラを追うためか?」

 ノガは意表を突かれたように目を見開いた。

「――ああ、道中見かけたならついでに始末しておいてやる。だが、あんな小物はどうでもいい。俺の獲物は伯父貴だ」

「エジオン=ゲベル王を?」

 竜也の確認にノガは「ああ」と力強く頷いた。

「伯父貴は決して無能でも暗愚でもないはずなのだが、どこかで道を誤ってしまったようだ。まさか他国の国主の暗殺という暴挙に及ぶとは……しかも、臣下の家族を人質にして濡れ仕事を強要するとは! それが栄えあるエジオン=ゲベル王のやることか!」

 ノガが腹の底からの罵声を上げ、竜也は耳を塞ぎたくなった。

「このまま伯父貴を玉座に座らせていてはエジオン=ゲベルの名誉は地に落ちてしまう。そうなる前に玉座から排除する」

「それは、ムンタキムに代わってあなたがエジオン=ゲベル王になるという意味か?」

 竜也の確認にノガはしっかりと頷いた。

「退屈そうで堅苦しそうであまり気は進まんのだが、他に適任の者がいないのなら仕方がない。俺が王様になってやる」

 と偉そうに分厚い胸板を張るノガを竜也はしばしの間無言で見つめる。

「聖槌軍との戦いはどんなに長くてもあと二月もあれば終わるだろう。それが終わるまではあなたに第七軍団を見てほしい」

「いや、急がねばならんのだ。一日でも早くエジオン=ゲベルに戻れればアナヴァーやその部下の家族を助けることができるかもしれん。ああ、エジオン=ゲベルにはアナヴァーとその部下を連れていくが構わんな?」

「いやちょっと待て」

 ヌビアから見ればアナヴァーは皇帝暗殺未遂犯であり、何の処罰もなく釈放しては法の意義を疑われてしまう。もし釈放するなら「対エジオン=ゲベル戦に協力するのと引き替えにする」等の、それなりの理由が必要だった。

「エジオン=ゲベルに対する軍事行動も考えているが、実行するとしても聖槌軍との戦争が終わってからだ。それまで待て」

 その後もしばらく押し問答がくり返されたが元々ノガは理屈よりも直感で行動する質であり、決して弁が立つ方ではない。口で竜也にかなうはずもなく、ノガでは竜也の意志を変えることができなかった。ノガは不満を呑み込んで臨時総司令部を後にする。ノガがアナヴァーの部下を引き連れてサフィナ=クロイを出奔したのはその日の午後のことである。

「……それで、一体何があったんだ?」

 その日の夜、臨時総司令部では竜也、アミール・ダール、ベラ=ラフマといったヌビア軍首脳が頭痛を堪えたような顔を揃えていた。

「アナヴァーとその部下は海軍の牢獄に囚われていましたが、軍団長ノガがそこに直接赴いて『皇帝の命令により囚人を移送する』として牢屋から引き出したのです。その後ノガは囚人二〇人を連れて船で東へと逃亡。アナヴァーは自ら総司令部に出頭しました」

「出頭?」

 アミール・ダールの確認にベラ=ラフマが「はい」と頷く。

「皇帝暗殺の責任も処罰も全て自分が負う、部下の助命を願いたい、と」

「そうするしかないだろうな」

 と竜也は苦り切った顔で独り言のように言った。

「軍団長ノガは皇帝の特命を受け、ムンタキム排除工作のためにエジオン=ゲベルに向かった。アナヴァーの部下はその工作に協力することを条件に釈放した――一応つじつまは合うだろう」

 申し訳ありません、とアミール・ダールは身を縮める一方だった。もしアナヴァーが自ら出頭せずノガに同行したなら「アミール・ダールは皇帝暗殺未遂犯を同国人だからという理由で牢屋から逃した」と見なされ、窮地に陥ることは必定だったろう。竜也としてもノガやアナヴァーを決して見逃せず、捕縛して厳罰に処す他なくなっていたはずだ。

「まあそれはそれとして、ノガの元にあなたの部下を送ってくれ。資金や情報の面で色々と協力することもあるだろうから」

 竜也の指示にベラ=ラフマは「判りました」と首肯する。竜也としてはエジオン=ゲベルになど関心は持っていなかったのだが、向こうから余計なちょっかいを出してきた以上話は別である。竜也にとってもムンタキムは排除すべき敵となっていた。

「あとはアナヴァーを刑に処して、これでこの件は終わったことにしよう」

 だが竜也の言葉にアミール・ダールは「いえ」と首を振った。

「あと一つ問題が残っております。ミカのことです」

 何がだ?と首を傾げる竜也にアミール・ダールが説明する。

「事の発端はミカが自分の立場を利用して皇帝とアナヴァーとの会談を設定したことです。ミカを皇帝の側仕えのままにしていては示しがつきません」

「それじゃどうすると?」

「ミカを皇帝の元から辞させ、部下の誰かにでも嫁がせます」

 やむを得ないとは言えノガの行動を許容したことは「皇帝はアミール・ダール一門に甘い」「皇帝はアミール・ダールに近すぎる」という批判を生むだろう。ミカがこのまま皇妃になってしまってはその批判をより強めることとなる。だがミカを皇妃候補から外せば、それを明確に示せば、その批判もかなり和らげられるはずだ。それに「皇帝クロイがエジオン=ゲベルの王位を狙っている」という誤解に対する反論にもなる――この期に及んではほとんど意味はないものの。

「……」

 竜也は沈黙したままで「否」も「応」も口にしていない。だがその沈黙を承諾と受け止めたアミール・ダールは「ではこれで」と竜也の前から立ち去った。ベラ=ラフマもまた去っていき、一人残された竜也は長い時間思いに沈んでいた。
 そして翌日、竜也の公邸となっている船ではミカが荷物をまとめている。竜也は何か言いたそうにして結局何も言葉にできず、ただ物陰からその様子をうかがうだけだ。やがて、荷物をまとめ終わったミカが竜也の前へとやってきた。誰かが気を利かせたようで今その部屋には竜也とミカの二人しかいない。
 ミカは竜也に対して深々と頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました。今までありがとうございます」

 それだけを言い、ミカはその場を立ち去ろうとする。竜也の横を通り過ぎようとするミカだが、

「な――」

 竜也がその前に立ちふさがり、ミカは竜也の胸の中に飛び込む形となった。ミカは慌てて竜也から離れようとするが、その肩を竜也が掴む。竜也は大して力を入れていない。ミカでも簡単に振り払えるくらいのものだ。だが竜也のその手はどんな太い鉄鎖よりも強くミカを縛り付けていた。

「は、離してください。わたしはここから離れないと」

「嫌だ。ミカは俺の皇妃になるんじゃなかったのか?」

 耳元で竜也がささやくように言う。ミカにとってそれは悪魔のささやきであり、誘惑だった。その甘美さに、何もかもを投げ出して全てを委ねたくなってしまう。ミカはぎりぎりでその誘惑に耐えていた。

「今わたしが皇妃になることはタツヤにとっても父上にとっても政治的な不利益です。それでは意味がありません」

「誰が親だとか誰の娘だとか、皇帝だとか皇妃だとか、有益だとか不利益だとかはこの際どうでもいい。ミカが俺と一緒になりたいと思っているのか、それを訊いているんだ」

 竜也にとってミカは既に身内のカテゴリー内だ。だから「これ以上皇妃を増やすつもりはない」と何度言おうと、内心には「いずれ皇妃にしなきゃ仕方ないかな」という思いがあったし、「いずれは皇妃になるんだろう」と無意識に思っていた。竜也にとってミカは婚約者みたいなものであり、それが他の男に嫁ぐとなったなら面白いはずがない。
 とは言え、多少の独占欲はあっても竜也は基本的には欲望が薄く、嫌がる女の子を無理矢理自分のものにするなど逆立ちしてもできはしない。「親の命令で顔も知らない男の元に嫁ぐのがミカにとって本当に幸せなのか」という大義名分が竜也の行動を後押ししているのであって、もしミカがほんのわずかでも冷めた態度を見せたなら竜也は適当なところで話を切り上げただろう。そして「皇妃になりたいか」等とは二度と問わなかったに違いない。

 だが、ミカの態度はその真逆をいっていた。竜也に真摯な瞳を向けられ、ミカは眩しいものを見たかのように顔を逸らす。赤面したミカが聞き取りにくい小声で、

「……では逆に問いますが、タツヤはわたしを妻として迎えたいと思うのですか? アミール・ダールの娘でないわたし、政略結婚の相手として意味のないわたしに、妻に迎えるだけの価値があるのでしょうか?」

「俺は誰かを妻にするのは家族となるためだ。余計な肩書きなんか家族になるには邪魔なだけだろ」

 竜也は屈託なく微笑む。ミカは恥ずかしげに身体を縮めた。

「アミール・ダールの娘でないわたしなど……わたしにはファイルーズ様ほどの包容力も人望もありませんし、カフラさんほど女性としての魅力もありません。武術の腕では恩寵を使われなくてもサフィールさんやディアさんの足元にも及びませんし、ラズワルドさんみたいに誰にも負けない特技があるわけでもありません。強いて言うなら事務処理仕事は得意ですが、わたし程度に仕事のできる者なら総司令部にはいくらでもいます。そんなわたしがタツヤの妻になど……」

 ミカの全身が百万言よりも雄弁に「好き好きラブラブ超愛してるー!」と物語っている。竜也はそれにあてられ、のぼせ上がった。

「皇妃が三人から四人や五人や六人になっても大して変わらない、何も問題はないではないか」

 ディアの顔をした悪魔が竜也の耳元でそうささやいた。

「俺はミカって子の悪いところもいいところもいっぱい知っている。生真面目で融通が利かなくて頑固で、結構泣き虫で恥ずかしがり屋で……誰よりも一生懸命で。俺が家族にしたいと思うのはそんな女の子だ」

「わたしもタツヤという方のことを誰よりもよく見ていました。不真面目で融通無碍でそのくせ頑固で、こうと決めたなら梃子でも動かない。どんな困難にも怯まず、誰もが不可能だと思ったことを実現していく……わたしが好きになったのは、そんな世界にただ一人だけの男性です」

 ミカが再び竜也の胸へと身を寄せ、竜也は無意識にミカを優しく抱きしめた。

「第三でなくても、末席でも構いません。どうかわたしも皇妃に。他の方がタツヤに見てもらい、触れてもらえるのに、わたしだけそうしてもらえないのはあんまりです」

 竜也の自制心はあえなく陥落し、落城した。ミカが「皇帝」ではなく「男」としての竜也を本気で求めるなら、竜也が堕ちないわけがない。

 竜也がミカの思いに応えようとし――唐突に石像のように硬直した。

「……タツヤ?」

 不審に思ったミカが竜也の視線の先を目で追い、ミカもまた塩の柱と化す。

「ああ、見つかっちゃいましたね」

「そんなに身を乗り出すからだ」

 物陰からファイルーズ・ラズワルド・カフラ・サフィール・ディアが首を伸ばし、いろんな意味で熱い視線を二人へと送っていたからだ。

「あらあら、仲がよろしくて結構なことデスわぁ」

 おほほほ、と笑いながらも笑ってない目を向けているファイルーズ。

「……ミカはずるい。わたしもタツヤに告白される」

 と子供じみた対抗心を燃やすラズワルド。

「……それでも、ミカ殿はわたしよりもまだマシだと思います」

 と自分の時のことを思い出して頬を赤らめるサフィール。

「ミカさん素敵です! こんな恋物語をこの目にできるなんて! この場面は劇にして歴史に残しますね!」

 と巨大なお世話なことを決意しているカフラ。

「うーむ。やはりこういう恥ずかしい台詞を堂々と口にして皇帝を堕とすものなのか」

 と唸りつつもしきりに感心するディア。
 ファイルーズ達五人は竜也とミカを、祝福半分・嫉妬半分で散々玩具にする。二人は反撃することも叶わず、一方的にされるがままとなっていた。
 ……このような経緯を経て、ミカもまた皇妃として内定する。あるいは様々な雑音に悩まされるのかもしれないが、それは竜也にとっては大きな問題ではなかった。

「さて、次はわたしだな!」

 と張り切るディア。果たしていつまでディアの攻勢に耐えられるのか、それは竜也にもあまり自信が持てなかった。





[19836] 第四七話「瓦解」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/04/03 21:01

「黄金の帝国」・逆襲篇
第四六話「瓦解」







「スキラはなかなか愉快なことになっていたぞ」

 ディアの報告はそんな言葉から始まった。ときはアルカサムの月(第八月)の上旬、場所は臨時総司令部の執務室。北岸の偵察から戻ってきたディアが竜也に報告をしているところである。

「モーゼの堰の噂はかなり広まっている。みんなアンリ・ボケの間抜けさ加減に呆れていたな。アンリ・ボケはもう一度渡河作戦をやろうと準備をさせているが、全く進んでいない。兵士達はやる気を失っているようだった」

 「モーゼの堰の戦い」の直後から銀狼族や灰熊族が、

「ナハル川の水量が減っていたのはヌビアの皇帝が堰を築いていたからだ。アンリ・ボケや将軍達はその罠に引っかかったのだ」

 という噂をスキラで流しており、噂は竜也の期待通りの効果を上げているようだった。ふむ、と竜也は頷いて報告の続きを促した。

「何とかという貴族様が焚刑に処されていた。将軍タンクレードと連絡を取り合い、聖槌軍を裏切ろうとしていた、というのが処刑の理由だそうだ。でも、本当はアンリ・ボケの作戦指揮を非難して渡河の準備をするのを拒絶したから処刑されたんだ、って噂を聞いている」

「見せしめってことか」

 竜也の確認にディアが頷く。

「それじゃ、それで渡河の準備が進んだりは?」

「いや、それはない。末端の兵士達は怠けてばかりだし、監督する騎士様の方も形だけだ。あれじゃ一年あっても渡河なんかできない」

 ディアの断言に竜也はひとまずの安心を得た。が、すぐに難しい顔をして考え込む。

「この有様になってもまだ戦う意志を失っていないのか、アンリ・ボケは」

「ああ、全く度し難いことだ」

 ディアは呆れた様子で肩をすくめる。一方の竜也はディアの報告を吟味した。

(……モーゼの杖を手にしながら無残な大敗北を喫したことで、アンリ・ボケのカリスマも地に落ちているはずだ。今ならあの男を殺すのも難しくはないだろう)

 竜也の瞳の奥に剣呑な光が灯った。

「……そろそろあの男にも退場してもらおうか」

 竜也の呟きにディアが反応する。殺意の灯火がディアにも引火し、静かに、だが確実に燃え上がった。ディアが牙をむき出しにした笑みを見せる。

「ようやくか、待ちかねたぞ」

 そのとき突然執務室の扉が開いた。ノックもなしに執務室へと飛び込んできたのはベラ=ラフマである。

「皇帝、緊急の連絡です。スキラの聖槌軍内でアンリ・ボケに対する反乱が起こっています」

 竜也とディアは思わずベラ=ラフマを凝視した。
 ……時刻は少し遡って、その日の朝。アンリ・ボケはユーグの襲撃によって焼け落ちたソロモン館を引き払い、拠点を太陽神殿跡地に移動させている。その場所には朝早くから将軍や軍団長が集められていた。

「……前回は裏切り者が我々を誘導したために敵の卑劣な計略にはめられ、大きな損害を出してしまった。だが、今こそ信仰心の試練のとき! この苦難を乗り越えてこそ信仰心はいや増し、神の栄光は光り輝くのだ。神の鉄槌たる我が将兵よ、この程度の苦難に怯んではならない!」

 アンリ・ボケは将軍達を前にして演説を打っている。将軍や軍団長は石像のように微動だにせず、アンリ・ボケの有難い説教を拝聴している――ように見えなくもなかった。

「裏切り者はその愚行に相応しい報いを受けた。これで我等の進軍を妨げるものはもう何もない。我等は今度こそあの川を渡る! 異教徒どもの穢れた町を浄化の炎で焼き尽くすのだ!」

 将軍達は揃って仮面を被ったかのような無表情だが、アンリ・ボケはその奥に隠された感情を鋭敏に感じ取っている。彼等の反応が以前とは一変していると、アンリ・ボケも実感する他なかった。

「将軍ジョスランと将軍ギヨームは丸太を集めよ。将軍プリムスと将軍ベルトランはそれぞれ二万の兵を率い、トズルを攻略するのだ」

 うんざりしたような、誰かのため息が聞こえてくる。アンリ・ボケが一同を睥睨するが、将軍達のまとう弛緩した空気に変わりはなかった。アンリ・ボケは内心の苛立ちを必死に隠した。

「……あのー、トズルに行くまでの兵糧は」

「神は自ら助くる者のみを助く。まずは自らになせる全ての努力を果たし、その上で神に祈るがいい」

 質問をした将軍プリムスは何も言わずに引き下がるが、それはアンリ・ボケの回答に納得したから、では決してない。プリムスの白けたような顔を見ればそれは誰の目にも明らかだった。アンリ・ボケはプリムスを糾問し、糾弾したい誘惑に駆られたがかろうじてそれを我慢した。自分の返答に無理があることに、アンリ・ボケ自身も無自覚ではなかったからである。
 会議……ではなく一方的な通達を終えて、将軍達はアンリ・ボケの前から立ち去っていく。一人その場に残ったアンリ・ボケは、苛立ちが暴発するのを抑制するため自制心の全てを費やさなければならなかった。

「……誰も彼もが怠惰で無能な不信心者ばかりではないか。将軍や指揮官があのざまでは戦いに負けるのも当然だ」

 敵が卑劣で味方が無能か裏切り者だったから――アンリ・ボケにとっての苦戦や敗北の理由は要約すれば、身も蓋もない言い方をすればその二つだった。自分の作戦指揮がまずかったから、という理由はアンリ・ボケの脳内には存在しない。いや、ないわけではないが、それは意識の上から排除され、抑圧されている。アンリ・ボケは自分の落ち度を隠蔽し、自分が潔白であることを証明するためにも他者の責任を追及していくしかないのだ。
 一方、将軍達にとってはアンリ・ボケのそういう身勝手さはあまりにあからさまだった。アンリ・ボケの前から退出した将軍達はそれぞれの思いをため息に込めて吐き出している。

「……どうするのだ。トズルに行けと言われても兵糧もなしでは」

「こちらだって、これまで何万本の丸太を伐採したと思っている。スキラの近隣には丸太なんかもう一本もないんだぞ」

 アンリ・ボケの命令は将軍達にとってはすでに「物理的に不可能」な域のことだった。かと言って命令に従わなければ最悪は焚刑の身だ。進退窮まるとはこのことだった。

「……」

 プリムスは、ギヨームは、ジョスランは、ベルトランは、その他の将軍達は一様に一つの思いを抱いている。誰かがそれを言い出すのを待っている。

「……」

 だが全員の期待に反し、その場の誰一人としてそれを言い出さなかった。自分の意見を明らかにせず、常に多数派に属し、大勢に逆らわず流されることでここまで生き延びてきたのが彼等なのだから。
 結局誰もそれを言い出さないまま、将軍達はそれぞれの陣地へと戻っていった。彼等はそれぞれアンリ・ボケの命令を形だけでも全うしているように見せかけるべく悪戦苦闘するのだろう。
 一方のアンリ・ボケは鉄槌騎士隊の騎士の一人、ヘルモルトに命令する。

「将軍サンザヴワールの姿が見えなかったな。ここに連れてこい」

 何気なく下したこの命令がアンリ・ボケの命運を決することになるのである。







 将軍サンザヴワールの陣地内にある、元は商家と見られる石造りの建物。そこでサンザヴワールは一人の騎士と面会していた。

「……私の立場は判っていよう。私は故国では守旧派として王弟殿下に剣を向けたこともある。聖槌軍ではずっと枢機卿派に属しているし、先日は将軍タンクレードとも戦っているはずだ」

「それは些末なことでは? 将軍の置かれた状況の厳しさを思うなら」

 その騎士の言葉にサンザヴワールは重苦しいため息をついた。

「確かにそうだ。アンリ・ボケはあんな単純な罠に引っかかって一〇万以上の味方を失ったのに、渡河作戦をくり返そうとしている。これまでは運良く生き延びることができたがこの先どうなるか判りはしない」

「閣下が生き延びるためには方法は一つしかないのでは?」

 騎士の言葉に対し、サンザヴワールは首を横に振った。

「その通りかもしれんが……それをやるのが私である必要はない。邪魔はせんからを他を当たってくれ」

 サンザヴワールはその騎士を追い返すが、その騎士と入れ違いになるようにアンリ・ボケの命を受けたヘルモルトがサンザヴワールの元を訪れた。鉄槌騎士隊の騎士の姿にサンザヴワールは狼狽した。

「な、何故あの連中が」

「枢機卿猊下が今日の朝に将軍全員を招集していた、ということなのですが……」

 部下の言葉にサンザヴワールは「聞いていないぞ!」と悲鳴を上げた。なお、召集令が届かなかったのはサンザヴワールの秘書役の騎士が先日の戦いで戦死していて、その混乱が未だ続いているためだった。

「と、とにかく釈明しなければ」

 サンザヴワールは汗をぬぐいながらヘルモルトの前に進み出た。サンザヴワールが何か言う前にヘルモルトが何気なく質問する。

「先ほどこちらを立ち去っていったあの騎士殿はどちらの方でしょう? どこかで見かけたように思うのですが」

 本当に見覚えがあったのかもしれないし、あるいは単に世間話のとっかかりとしてそれを問うたのかもしれない。だが問われたサンザヴワールにしてみれば心臓に剣を突き立てられたに等しかった。

「貴様がタンクレードと連絡を取り合っているのは判っている」

 サンザヴワールにとってはそう告げられたも同然だったのだ。目眩を起こしたサンザヴワールはその場に座り込んでしまう。

「どうされたのですか。どなたか、将軍の具合が」

 ヘルモルトの呼びかけに、サンザヴワールの部下がその場に集まってきた。部下達が剣を帯びているのを目にし、サンザヴワールは一つの決断を迫られた。

「……ろせ、……ころせ」

「将軍?」

 うわごとのような呟きはやがて明確な命令となり、全員の耳朶を打った。サンザヴワールは槍のような鋭さでヘルモルトを指差した。

「殺せ! その男を殺せ! 生かして帰すな!」

 ヘルモルトは反射的に腰の剣に手をかけながらも「将軍、何を」と問う。その答えに代えるように、背後からの剣がヘルモルトを背中から腹部まで串刺しにした。さらに何人もの騎士が剣を抜いてヘルモルトに襲いかかる。ヘルモルトは全身を切り裂かれて絶命した。
 無残なヘルモルトの死体を前に、サンザヴワールは惚けたように佇むだけだ。そのサンザヴワールの肩を部下の一人がしっかり掴み、強く揺すぶった。

「将軍、お気を確かに! どうかご命令を!」

「命令?」

 思わず問い返すサンザヴワールに部下が諄々と説いていく。

「鉄槌騎士隊の騎士を殺しておいてただですむとお思いですか? 閣下や我々は焚刑となり、兵はこの場では殺されずとも次の戦いで真っ先に渡河を強要されることでしょう。もはや是非もありません、こうなれば剣によって生き延びる道を切り開くまで」

 その言葉が脳裏に浸透する。サンザヴワールももう選択肢が一つしか残っていないことを理解するしかなかった。

「……そうだ、今こそ正道に帰るとき。アンリ・ボケは王弟殿下の仇敵だ、フランクの貴族として奴を生かしておくことはできん!」

 王弟派と枢機卿派の内訌に際してはサンザヴワール達は枢機卿派として戦ってきた。それなのにいきなり「王弟殿下の敵討ち」を掲げたのだ。部下達は白けた顔をするか、わけが判らないといった顔をしただろう――「モーゼの堰の戦い」の前ならば。

「アンリ・ボケを殺せ!」

「あの男を許すな!」

 今、この場に異議を唱える者は一人もいない。「王弟殿下の敵討ち」などただの題目に過ぎないことは誰もが百も承知だ。

「自分達が生き延びるためにはアンリ・ボケを殺すしかない」

 サンザヴワールとその部下は意志を、目的を共有し、心を一つにしていたのである。サンザヴワールは配下の三千の兵を率いてアンリ・ボケの陣地を目指し、進軍を開始した。

「フランクの民よ、今こそ目覚めるときだ! 王弟殿下を殺したアンリ・ボケを生かしておくな!」

 今、アンリ・ボケと戦うことに疑問を抱く者はサンザヴワールの兵の中に一人もいない。その顔に貼り付いているのは半分は復讐心、もう半分は追い詰められた者の必死さだった。アンリ・ボケの無謀な作戦指揮により多くの同胞が無意味な死を強いられた。かろうじて生き残った自分達にしても次の作戦で生き残れるとは到底思えない。死なないためには反乱を起こすしかない、というのが兵士達の共通認識だった。
 サンザヴワールにとってもこの反乱は、焚刑の運命から免れて生き延びるための唯一の手段だった。自分が生きるか、アンリ・ボケが生きるか、二つに一つであって両者が並び立つことはあり得ない。サンザヴワール軍は将軍から末端の兵卒まで、全体が「自分が生き延びるためにはアンリ・ボケを殺すしかない」という一つの悲壮感を共有していたのだ。
 サンザヴワール軍は士気の高さと意志の強さをそのままにアンリ・ボケの陣地へと突撃した。
 一方、アンリ・ボケ側は事態の急変に戸惑うばかりだった。

「一体何故あの男が反乱など」

 アンリ・ボケにはその理由が判らない。アンリ・ボケにとってサンザヴワールは「裏切る危険の少ない、有力な駒」だったはずなのだ。

「くそっ、裏切り者がこんなに根深いところまで巣くっていたとは」

 前回の戦いで敗北を喫したのも道理だ――アンリ・ボケは改めて腑に落ちた心地を得ている。もっとも、そんな理由で前回の敗北を納得できるのはアンリ・ボケ一人しかいないに違いないが。

「迎撃せよ! 裏切り者を生かしておくな!」

 サンザヴワールの兵数が三千なのに対し、アンリ・ボケの陣地には万を越える兵がいる。戦いは味方がサンザヴワールを蹴散らして一方的に終わるだろう、とアンリ・ボケは判断したし周囲の者も同様だった。だが事実は全くの逆に推移する。

「何故だ、何故我が軍が押されている! 味方はどこに行ったのだ!」

 味方だったはずの軍勢のほとんどが兵を引き、残っているのは千に満たないアンリ・ボケの直営だけ。その千に満たない兵で必死にサンザヴワールの攻勢を支えているのが現状だった。その果敢な兵士達も秒単位で数を減らしている。いずれ攻勢を支えられなくなるのは明白だった。

「ギヨームは、プリムスは、ベルトランは! 奴等はどこで何をしているのだ! すぐに呼び戻せ!」

 逃げていった味方の将軍を呼び戻すべくアンリ・ボケは鉄槌騎士隊の騎士を派遣する。それらの騎士が目的の場所にたどり着き、目当ての将軍に会うことはそれほど難しくはなかった。だが、

「猊下に本当に神のご加護がおありなら、我等が力を貸さずとも逆賊に敗れることなどありはしないでしょう」

 プリムスに面会した騎士はそう告げられ追い返された。ギヨームの元を訪れた騎士は剣を持って追い払われた。ベルトランの元に向かった騎士は問答無用で斬り捨てられ、戻ってこなかった。ほうほうの体で帰ってきた騎士達の報告を聞き、

「……」

 アンリ・ボケの口内で歯が軋みを上げている。怒りのあまり目眩がしたがその巨体が揺らぐことはなかった。大量の血流が頭部に集中し脳の血管が切れる寸前となったが、ぎりぎりでそれは回避された。拳を握りしめるあまり爪が掌に食い込み、そこから血を流していたからである。

「猊下、ここはもう持ちません。どうか脱出を」

 この圧倒的に不利な状況下にあって逃げもせず必死に防戦を続けていた鉄槌騎士隊だが、それでも限界はやってくる。すでに鉄槌騎士隊はその兵数を大幅に減じ、事実上の壊滅状態だった。サンザヴワール軍の損害も小さくはないがその攻勢に途切れはない。逃げ出した味方の一部がサンザヴワールに軍に合流し、その数は戦いの前より増えているかもしれなかった。

「時間を稼げ」

 アンリ・ボケはそれだけを命じ、一人その場から逃げ出していく。残された鉄槌騎士隊は一言の不平も口にせず、サンザヴワール軍との戦いを続行した。アンリ・ボケが脱出したことにより他の味方は武器を投げ出し降伏するが、鉄槌騎士隊だけは降伏を拒絶。最後の一兵となるまで戦い続け、一人残らず戦死した。首実検のために鉄槌騎士隊の騎士の死体を見せようとする部下をサンザヴワールは殴り倒した。

「そんな奴等は捨て置いておけ! アンリ・ボケだ、アンリ・ボケを探し出せ!」

 サンザヴワールは懸命にアンリ・ボケの姿を探すが見つかることはなかった。アンリ・ボケの脱出が彼に知らされるのは戦いが終わった後のことである。







 竜也とベラ=ラフマは海軍の軍船に乗船。ガイル=ラベクの指揮するその船はスキラにぎりぎりまで接近する。竜也はその船を情報収集の本部とした。
 連絡船を使ってエレブ人の協力者がスキラへと送り込まれ、そのついでに川沿いにいたエレブ兵を捕虜にして白兎族が尋問した。銀狼族や灰熊族がスキラに潜入し、騎兵隊もスキラに接近して様子を伺った。彼等全員の尽力により竜也とベラ=ラフマはほぼリアルタイムで状況の推移を把握できた。

「アンリ・ボケは脱出したようだな」

「往生際の悪い、どこに逃げたんだ」

「予測は難しくはないでしょう」

 竜也とディアとベラ=ラフマは卓上に広げられたスキラの地図から目を離さない。ベラ=ラフマがスキラの北を指でなぞった。

「スキラ全体がアンリ・ボケにとっては敵に回っています。一旦スキラを脱出するしか道がありません」

「……騎兵隊を使えば先回りできるかな」

 竜也は少し考え込んだがそれも長い時間ではなかった。竜也がディアへと向き直る。

「船と騎兵隊を使ってディア達を先回りさせる。アンリ・ボケを確実に殺してほしい」

 溢れんばかりの思いが胸の内を満たすが何も言葉にならなかった。ディアはただ無言のまま頷く。

「注文は一つだけだ。アンリ・ボケを殺したのがヌビア側だとは悟られないようにすること。あくまでエレブ人同士の内紛で、エレブ人の部下に殺された、そういう形を装ってくれ」
 そうでないと戦争がまだ続くことになりかねないからな、と竜也は説明をまとめた。ディアは「判った」と簡潔に頷く。ディアは身を翻して船長室を後にする。ディアはヴォルフガングを始めとする銀狼族の戦士を引き連れ、スキラの北へと向かった。







 時刻はすでに日が沈む直前となっている。アンリ・ボケは荒野をさすらっていた。同行するのはわずか三人ばかりの供回りのみだ。そのうちの一人はモーゼの杖の入った黄金の宝箱を担いでいる。

「伏せよ」

 アンリ・ボケの命令に従い供回りが身を隠す。少し時間をおいて、彼等の行く手を騎馬の一団が通り過ぎていった。

「ヌビアの騎兵がこんなところにもいるとは」

 アンリ・ボケは忌々しげに舌打ちする。アンリ・ボケは元来た道を引き返し、別の道を探した。騎兵隊の見せつけるような動きが自分をある方向へと誘導させるためのものだとは思いつきもしない。
 その騎兵隊が誰を捜索しているのかはアンリ・ボケにとっては問うまでもなかったし、何故捜索しているのかも自明のことだった。

「聖槌軍内の裏切り者はヌビアの皇帝と手を結んでいたのだ。だからこそ皇帝は私を捕まえるべく騎兵を走らせている。そうでなければヌビアの動きがこんなにも素早いわけがない」

 サンザヴワールのような聖槌軍の反乱者とヌビア軍が別個に、別々の思惑で動いているとはアンリ・ボケは考えない。アンリ・ボケにとって味方でない者は敵であり、敵は「異教徒」も「背教者」も「裏切り者」も、全てが一つにつながり一つの意志で動いている――それがアンリ・ボケにとっての世界だった。
 もちろん、アンリ・ボケとて最初からここまで単純な世界観を持っていたわけではない。本質的には変わっていないとしても、少なくともエレブにいたときのアンリ・ボケなら、

「裏切り者とヌビアはそれぞれ別の思惑で動いているのではないか」

 と推測するくらいはできただろう。だが、アンリ・ボケはあまりに敗北を重ねすぎた。敗北の理由から目を逸らすために視野が狭まり、自分の責任を否認するために世界観が歪んでいく。そんな状態で戦いに勝てるはずもなく、それがますます世界観を歪めていく結果となっていく。
 今のアンリ・ボケは自己正当化と失敗が連鎖した、その究極の姿だった。聖槌軍の全将兵に背かれ、裏切られてもなお、アンリ・ボケは自分の非を認めてはいない。

「もはや将軍どもは誰も彼も裏切り者ばかりだ。こうなれば私自身が兵を率いるしかあるまい」

 そして今なお戦うことは諦めてはいなかった。その心は折れてはいなかった。

「この程度の苦難がどれほどのものか。三大陸を浄化の炎で焼き尽くし、地上から異教徒を根絶し、聖杖の教えで世界の全てを覆い尽くす。神父様の思い描いた理想の世界を実現するのだ。その行く道が容易いものであるはずがない」

 百万の兵を引き連れてエレブを旅立ち、今連れている部下は三人だけ。それでもアンリ・ボケの戦い続ける意志に揺るぎはなかった。

「うわっ!」「なにも――」

 その三人の部下が一瞬にして全滅した。太陽はほぼ地平線に没し、残光が血のように赤く空を照らしているだけだ。その闇の中に三人の男が立ち、三人の部下が血を流して大地に倒れ伏している。アンリ・ボケは背負っていた聖杖型の鉄槌を手に取った。

「……裏切り者の手下か」

 マフラーのような長い布を巻いて顔の下半分を隠しているが、夕闇の中でも三人の男がエレブ人であることは見て取れた。三人の男達がアンリ・ボケを包囲するように立ち位置を変える。その後方から、夕闇の中から一人の人間が姿を現し、アンリ・ボケは戸惑いを見せた。現れたのが小柄な、エレブ人の少女だったからだ。その少女もまた長い布で顔の下半分を隠している。
 三人の男達は剣を手にはしているが構えは取っていない。警戒はしていても戦意は見せていなかった。それに対してその少女は無手にもかかわらず殺意を、戦う意志をみなぎらせている。
 アンリ・ボケを目の前にし、ディアは無言のままだった。アンリ・ボケと相対するのも、その目にするのも生まれて初めてのことである。鉄槌騎士隊を率い、「悪魔の民」を殺し続けた男。「悪魔の民」の排斥を訴え続け、銀狼族に塗炭の苦しみを味わわせた、その元凶――。
 その男を眼前にし、ディアの心はあくまで静かだった。恨み言を言い出せば三日三晩だって語り続ける自信があるが、言いたいことが何も思い浮かばない。逆上のあまり剣で切り刻みたくなるかと思ったが、そんな衝動は感じていない。
 今、ディアは自分一人の力でこの場にいるのではない。竜也を始めとするヌビア人の助力、これまで斃れていった数多の戦士達、無数の同胞達。彼等の思いの果て、願いの末に自分が今ここにいる。そうであるならば、自分の意志は不要だ。今の自分はただの一振りの剣。自分が背負った幾千の願い、幾万の思い、それをあの男に伝えるための、ただの剣なのだから。
 戦いを前にし、ディアの血は自然と熱くなったがその心は明鏡止水のごとくに静まり返っていた。アンリ・ボケとて戦火の直中で生きてきた男だ、ディアの覚悟を肌に感じないはずがない。アンリ・ボケもまた口を閉ざし、愛用の聖杖型鉄槌を握り直し、ゆっくりと振り上げた。見た目にはただの小娘のディアに対し、油断も侮りも欠片もありはしていない。
 何が合図となったかは誰にも判らない。自然体で佇んでいたディアが風のような素早さで突進する。それに対し、アンリ・ボケの脳ではなく身体が反応した。四〇年以上も戦い続けてきた男の身体は脳よりも数段早く、今なすべき最善を判断し行動した。
 高々と掲げられていた鉄槌が渾身の力を持って振り下ろされる。鉄槌は真っ直ぐにディアの頭部を目指していた。狙いは完璧であり、それが外れることはあり得ない。仮に首をひねって頭部を外したところで、肩や身体のどこかを直撃する。ディアの細い身体など一撃で粉砕してあまりある、それだけの力を込めた一撃――そのはずだった。

「何っ……!」

 鋼鉄を叩いたかのような轟音と手応え。アンリ・ボケは大きく体勢を崩した。アンリ・ボケの鉄槌を迎え撃ったのはディアの拳だ。ディアは鉄槌の一撃を左拳で殴り返したのだ。普通なら肘から先の骨が全て砕け、手首は千切れ飛んでいるかもしれない。だが実際には拳の皮が裂けて血が流れ、ディアが顔をしかめているが、ただそれだけだった。恩寵を込めた左腕はその鉄槌に耐え、ディアの左拳はその一撃に打ち勝ったのだ。ディアは大地を踏みしめてしっかりと立ち、殴った方のアンリ・ボケが体勢を崩している。
 ディアの脚が大地を蹴った。体勢を崩したアンリ・ボケの懐へと飛び込み、

「――フッ!!」

 渾身の力を、ディアの有する全ての恩寵を、ディアが背負った無数の思いと願いを、流された涙を、その全てを託した右拳を、アンリ・ボケの鳩尾へと叩き込んだ。

「ふぅぐぅぬぅるぅほぉごぉがぁぁぁ……!!!」

 およそ人が発したとは思えない呻き声がその口から漏れ、次いでバケツ一杯分もの血を吐き出す。アンリ・ボケは腹を抱えたまま膝を屈し、血で汚れた地面に顔を埋めた。戦場で敵を殺し続けて四十年余、アンリ・ボケの巨体が戦いで膝を屈したのはあるいはこれが最初かもしれず、そして間違いないのはこれが最後だということだった。その身体がくり返し痙攣を起こしており、ディアと三人の銀狼族はその無様な姿を氷よりも冷たい目で見下ろしている。
 銀狼族が有する恩寵は「内撃」と呼ばれる、不可視の力を目標の内部へと直接叩き込む技である。ディアはその瞬間出せる限りの全ての恩寵を拳へと込め、アンリ・ボケの腹部へと、その内部へと叩き込んだのだ。攻城槌の直撃を食らったとしてもこんなことにはならない。大砲の砲弾の直撃を受けたならあるいはこうなるかもしれなかった。背骨は砕け、脊椎の神経束は断たれ、肝臓は潰れ、腎臓は裂け、脾臓は割れ、大腸は破れ、血管は千切れ、腹の中は血の海となっている。心臓と肺には大きな損傷がないことも何の慰めにもなりはしない。二一世紀の日本にある最先端の医療技術を持ってしても今のアンリ・ボケを救うことは不可能に違いなかった。
 アンリ・ボケの部下が持っていた剣を拾い上げて、ディアはアンリ・ボケへと歩み寄った。アンリ・ボケはディアに対して何の反応も示さない。普段は糸のような目をこぼれんばかりに見開き、顔は雨に濡れたように汗まみれだ。生命があるのは確かだが意識があるかどうかは判然としなかった。

「セィッ!」

 ディアが全体重をかけてその剣をアンリ・ボケの背中へと突き立てる。剣先は腹を突き破って地面に深々と刺さり、驚くほど大量の血が流れた。腹の中が空っぽになりそうな勢いで、この出血量だけで即死しても不思議はない。それでもアンリ・ボケは未だ生命を保っている。ただ、その死が時間の問題なだけなこともまた確実だった。司法解剖をすればアンリ・ボケの死因の異常さはすぐに理解できるだろうが、この世界のこの時代のこの場所で、そんなことを誰がするというのか? アンリ・ボケは背後から剣を刺されて死んだ。部下に裏切られ、殺された――誰もがそう思い、やがてそれが事実となるだろう。

「行くぞ」

 ディアは外套を翻してその場から立ち去る。それに銀狼族の戦士が続いた。ディア達は一度も後ろを振り返らない。その場には、荒野の真ん中には倒れ伏すアンリ・ボケだけが残されている。彼の生命が尽きるのももう間もなくのことだった。
 アンリ・ボケはこれまであらゆる苦難を、難局を、危機を、結局は己一個人の戦闘力を頼りに切り抜け、生き延びてきた。その戦闘力を凌駕されたとき、アンリ・ボケは命運は尽きたのである。







 アンリ・ボケを捜索していたタンクレードの騎兵がその死体を発見したのは翌朝のことだった。腹部に突き刺さっていた剣が鉄槌騎士隊のものだったことからアンリ・ボケは部下に殺されたものと推測された。タンクレードはアンリ・ボケの死体とモーゼの杖を回収する。
 タンクレードは騎兵と一万の兵を率いてスキラに入城。その際にはアンリ・ボケの死体も携えている。タンクレードは同日、サンザヴワール等聖槌軍の幹部と会談。その結果、聖槌軍全軍の指揮権はタンクレードが掌握することで合意が得られた。タンクレードはアニードを通じて竜也へと休戦を申し込む。竜也がそれを承諾し、両軍の間に休戦が成立したのはアルカサムの月(第八月)・一一日のことである。






[19836] 第四八話「死の谷」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/04/03 21:01



「黄金の帝国」・逆襲篇
第四八話「死の谷」







 アルカサムの月(第八月)・一一日、聖槌軍とヌビア軍の間に休戦が成立。その知らせは音速よりも早くサフィナ=クロイの町中に広がった。

「休戦っていうのは何なんだ? 勝ったわけじゃないのか?」

「要するに『エレブに帰るから戦いは終わりにしましょう』って連中が言ってきたってことだ。つまりは俺達の勝ちだろう?」

「ともかくも戦争が終わったんだ。これで生きて家に帰れる」

 兵士や市民は町のあちこちでそんな風に語り合い、実質的な戦争勝利に大いに喜び、また事実上の戦争終結に大いに安堵していた。
 だが、兵はともかく将の方は「戦争が終わった」と考えている者は一人もいない。総司令部に集まった各軍団の軍団長は口々に竜也へと訴えた。

「エレブ人が、聖杖教徒が異教徒との約束を守るとは思えません。休戦など無意味です」

「敵軍は我が軍に倍するとは言え、腹を減らした半病人の群れでしかありません。一戦して撃破すべきです」

「そもそも、二〇万の半病人どもがもう一度一万スタディアもの距離を歩いてエレブに戻るなど、不可能です。いっそここで殺してやるのが慈悲というもの」

「二〇万もの軍に一万スタディア、三、四ヶ月の行軍をさせるにはそれだけの食糧が必要ですが、それは誰が用意するのですか? 皇帝が用意して奴等に与えるのは、泥棒に追い銭みたいなものではありませんか。かと言って、何の支援もなければ二〇万が飢えた夜盗の群れと化してしまいます。それでは休戦の意味がありません」

 竜也は彼等の主張に耳を傾け、一通り意見を言わせた上で一同に告げる。

「この休戦は戦争終結を意味しない。聖槌軍が一人残らずヌビアの地からいなくなるまでが戦争だ。決戦が必要になるかもしれないから準備はすべきだが、それよりもまずこれまでと変わりなく防御を怠らないでほしい。『長雨の戦い』をくり返してはならない」

 竜也の曖昧な物言いに一同は不満を見せるがそれ以上は主張せず、それぞれの持ち場へと戻っていく。軍団長一同を送り出した竜也は執務室の椅子に身を沈め、疲れたようなため息を深々とついた。

「……二〇万の敵兵をエレブに送り返すのに必要な船は? 何往復必要だ? 期間は?」

 竜也は執務机の半分に三大陸の地図を広げ、もう半分に不要な書類を裏返して置いた。引き出しから取り出した算盤で計算をし、その結果を書類の裏に書き込む。静まり返った執務室で算盤の駒をはじく音だけが聞こえていたが、

「があーっ!」

 突然竜也が頭を抱えて雄叫びを上げた。
 総司令部の官僚の誰かに命じればもっと正確に計算してくれるだろうが、竜也の計算でも概算くらいは把握できる――最も楽観的に計算して最短で四ヶ月の期間が必要だった。

「歩いてエレブまで帰すのとあまり変わらないじゃないか。それだけの期間、二〇万もの敵兵に警戒し続けるなんて……。兵糧を提供する必要もあるだろうし、船賃だって安くはない。一体どれだけの予算が必要になるんだ」

 下手をすると戦争中よりも多額の予算が必要になりかねない。さらに、これらの計算は聖槌軍がヌビア軍に全面服従することが前提となっている。聖槌軍が抵抗すれば目算の全てが狂ってしまうのだ。

「腹が減っているうちはこちらの言いなりになるけど、食うものを食って体力を回復させたなら、それでもこちらの命令に従うのか? 何かのきっかけで反乱を起こすんじゃないのか?」

 きっかけの種はいくらでも存在するだろう。ヌビア軍将兵の聖槌軍に対する恨みは根深く、監視にも限度がある。ヌビア側の無法な行為が聖槌軍を反乱に追い込むことも充分以上にあり得る話だった。

「二〇万の敵と一〇万の味方が野戦……ナハル川も南岸の要塞も使えない状態で、二倍の敵と野戦……それでもヌビア側が有利だろうけど、負ける可能性は決して低くはない」

 これ以上の経済的負担は耐え難く、戦争継続は至難。かと言って休戦しても経済的負担はむしろ増えるかもしれず、常に衝突の危機と隣り合わせ。衝突が拡大すれば休戦は空文化し、もし野戦で敗北すればこれまで勝ってきた意味が全くなくなってしまう――つまりは八方ふさがりだった。竜也の前に並ぶ選択肢のどれもが破滅に続く道であるかのようだ。この窮地から逃れる道がどこにもないように思える――ただ一つを除いては。
 竜也の視線が地図上のある一点に固定される。スキラの北に位置する町スファチェ、そのさらに北の草原の中に存在する、ある渓谷。それは「北の谷」と呼ばれる谷だった。

「皇帝、失礼します」

 ノックの音とともに執務室に入ってきたのはベラ=ラフマだった。竜也は物憂げな目をベラ=ラフマへと向ける。ベラ=ラフマはいつもの鉄面皮を欠片も動かさず竜也に報告した。

「聖槌軍をエレブへと送り返す準備を開始しました。兵糧はアニード等バール人商会を通じて提供します。スファチェ郊外の漁村にエレブ行きの船を用意します。聖槌軍の兵士にはそこまで歩かせます」

 竜也が瞠目した。思わず椅子から立ち上がっていた竜也に、

「スキラから船を発していては往復に余計な日数を取られます。少しでも自力でエレブに近付いておいてもらうべきかと」

 ベラ=ラフマが白々しい説明をする。無言のまま大きく見開いた眼を向ける竜也に対し、ベラ=ラフマはため息まじりに願い出た。

「……この件は私に一任いただきたい。戦いは終わりました。後始末は私に委ね、皇帝は戦後のことに、これからのことに力を注ぐべきです」

「そうはいかない」

 竜也は即座に首を横に振る。

「聖槌軍が一人残らずいなくなるまで戦争が終わったとは言えない。戦争の指揮も、その結果も責任も俺が負うべきものなんだ。あなたに任せて楽をするわけにはいかない」

 ベラ=ラフマは少し逡巡していたようだが、やがて小さなため息をついた。それで気持ちを切り替えたようで、

「こちらの報告書をご覧ください、船と兵糧の手配についてまとめております。また、詳細の打ち合わせのため明日の夜にタンクレードと会談を持つ予定です」

 普段と変わらない態度で竜也に接する。竜也はベラ=ラフマと二人だけで謀議を続けた。







 次の日の夜、タンクレードを乗せたアニードの商船がスキラ湾でヌビア海軍の軍船と合流。タンクレードがわずかな護衛を伴い軍船へと乗り移った。それと入れ替わりにヌビアの軍船からアニードの商船へと一人の男が乗り込んでくる。

「話がある」

 自分を出迎えるアニードにベラ=ラフマが端的に告げた。アニードはわずかに驚くがそれだけで、ベラ=ラフマを船長室へと招き入れた。

「これを見てほしい」

 ベラ=ラフマは持参した地図を勝手に卓上に広げ、何の前置きもなしに話を始める。アニードが地図を覗き込み、ベラ=ラフマは指で地図上の街道をなぞった。

「ハドゥルメトゥムの手前に船を用意し、そこからトリナクリア島までエレブ兵を輸送する。一往復で五千の兵を輸送することができる」

「五千……聖槌軍にはまだ一八万もの兵が残っている。となると……」

 何往復必要になるかアニードが計算しようとするが、

「二往復か、せいぜい三往復だ」

 切って捨てるようなベラ=ラフマの言葉に、アニードは戸惑いを浮かべる。ベラ=ラフマはそれに構わず、地図上のある一点を指し示す。ハドゥルメトゥムから下がりスファチェの少し北、街道のはずれの場所――北の谷。
 さらに困惑するアニードにベラ=ラフマが説明する。アニードは蒼白となり、身体を震わせた。
 同時刻、軍船の甲板ではタンクレードが皇帝の登場を待っているところだった。甲板の上にテーブルが一つと椅子が二脚、タンクレードは椅子の一つに座っている。タンクレードが今読んでいるのは竜也が用意した休戦協定の文面、その叩き台だ。そこに並ぶヌビア側の要求を読み進むにつれ、タンクレードの表情が険しくなっていく。
 竜也は物陰からラズワルドとともにその様子を見つめていた。ラズワルドがその心を読み、手をつなぐ竜也もそれを共有する。

(――百万でエレブを出立した聖槌軍が、現時点で残っているのはたったの一八万。数だけならまだヌビア軍を圧倒しているが、問題は中身だ)

(――腹を減らして動くこともままならない一般の兵。二派に別れて殺し合い、遺恨を残している騎士達。隙あらば私の寝首をかこうとする枢機卿派の将軍達。こんな軍を率いてどうやって勝てと言うのだ?)

(――第一、殿下がもう亡くなっているのにこんな征旅を続けることに何の意味がある。今考えるべきはエレブに生きて帰ること、ただそれだけだ。……だが、想像以上に厳しい。こんな協定を守れるのか?)

(――『ハドゥルメトゥムまでの行軍中、麦一粒でも略奪を行った場合はヌビアに対する敵対行為と見なし、戦争を再開する』……兵糧を全く残していない我々が、略奪もしないでどうやって行軍をしろと……)

(――『商人との取引は自由とするが、代金を踏み倒した場合は略奪に準する行為と見なす』……要するに金を出して食糧を買えということか。だがもう金なんてろくに残っていないぞ)

(――『略奪品の返還』『売却した奴隷の買い戻し』……こんなことは不可能だ。『武器の放棄』……枢機卿派の兵を統制する上ではその方が都合がいい、協定を口実に確実に捨てさせよう。だが我々王弟派の武器所有は認めさせなければ)

(――邪魔だ、枢機卿派が邪魔だ。一八万もいても無駄飯を食らうだけで何の役にも立たないではないか……! 戦力として本当に信用できるのは私が率いる王弟派の一万だけ。それで残り一七万を統率できるのか?)

(――大体、この一七万は殿下に弓引き殿下を殺した奴等とその同類ではないか。何故私が自分の身を削ってまでそんな奴等の面倒を見なければならない?)

(――いっそこの一七万を置いていこうか。王弟派の一万だけの方がよほどエレブに帰りやすい。……だが、そんなことは皇帝が決して認めないだろう)

 竜也はかなりの長時間タンクレードを一人に留め置いた。タンクレードは心を読まれているとは夢想だにせず、延々と様々なことに思いを巡らせている。ラズワルドがそれを読み取り、竜也は必要とする情報をほぼ全て入手した。

(――しかし、遅いな皇帝は。いつまで待たせる気だ)

 タンクレードが待たされることに焦れ始め、ラズワルドが恩寵を使いすぎて疲れが見えた頃。

「そろそろ行くか」

 竜也はラズワルドをその場に残し、物陰から出てタンクレードの元に向かう。タンクレードと向かい合って椅子に座った竜也が彼と対峙した。

「皇帝陛下にはご機嫌麗しく」

 タンクレードが儀礼的に口上を述べようとするが、竜也はそれを遮った。

「面倒な挨拶は抜きとする。ヌビアの要求はその書面の通りだ。それを守るならエレブへの帰還を認めるだけでなく支援もしてやる」

 竜也は居丈高に要求を突きつけ、

「皇帝陛下の寛恕には感謝の言葉もありません。……ですが、いくつか再考を願いたいところが」

 タンクレードは条件を緩和しようと孤軍奮闘する。竜也はタンクレードがどの辺りを着地点にしようとしているかを完全に把握していたし、その着地点についても大きくは異存なかった。だがそんなことはおくびにも出さず、交渉相手としての役割を果たしている。
 それなりの時間をかけた交渉の結果、「略奪品の返還」「奴隷の買い戻し」については協定から削除されたし、王弟派の武装も認めらることとなった。だが、重大な相違点をまだ残している。

「戦争中我々はバール人商会から食糧を購入しておりましたが、バール人は我々の足元を見て高値をふっかけてきたのです。もう我々の手元には一レプタの銅貨も残ってはおりません」

「それで同情が買えるとでも思っているのか? ヌビアの民を殺戮し、ヌビア軍と戦い続けたお前達をどうしてヌビア側が支援しなければならない?」

 移動に必要な兵糧の支援をタンクレードが要求し、竜也がそれを拒絶する。タンクレードはときに泣き落としを使い、ときに脅迫を弄して竜也に翻意を迫ったが竜也は断固として意を曲げなかった。
 一方、アニードの商船の船長室でも二人の男が対峙をしていた。

「馬鹿な! 何故そのようなことを……」

「他に方法がないからだ」

 震える声のアニードの糾問をベラ=ラフマは氷壁のごとき冷酷さではね返した。

「お前も船乗りなら判るだろう。一八万もの兵を船に移動させるのに、何隻の船が必要だ? 費用は? 期間は?」

 アニードは自分の船で聖槌軍の兵士を運ぶことを想像し、沈黙した。アニードの船は全長二五パッスス(約四〇メートル)、商船としては中程度の大きさだ。その船に他に何も積まず、立錐の余地もないほどに兵を詰め込んだとするなら……それでも二百人が限度だろう。十隻あって二千人、百隻あってようやく二万人だ。ハドゥルメトゥムからトリナクリア島まで百隻の船が九往復、一往復に一〇日とするなら実に三ヶ月という期間を必要とすることになる。

「その間必要な兵糧は? その間に聖槌軍が反乱を起こさないという保証は?」

 アニードは沈黙を余儀なくされる。さらにベラ=ラフマは言葉を重ね、その必要性を理を持って説いた。

「……確かにそれが必要なのは判る。他に方法がないことも」

 アニードはそれを認めた上で「だが」と続けた。

「それが終わってしまえば閣下はもう用済みだ。たった一万の王弟派などお前達にとっては鎧袖一触だろう。お前達が閣下に牙を剥かない保証がどこにある?」

「私が保証しよう。タンクレードとその麾下一万は無事にエレブに帰すことを約束する」

 ベラ=ラフマが即答するが、アニードの疑念の目に何ら変わりはなかった。「そんな口約束が何の保証になるのか」とアニードは言葉にする必要も感じていないし、ベラ=ラフマの方も単なる口約束に意味がないことは百も承知である。
 ベラ=ラフマが船長室の入口の方を振り返る。ノックもせずにドアを開けて入ってきたのは一人の少女だった。

「お、お前が何故……」

 その少女――ラズワルドの姿にアニードは動揺する。

「私が呼んでおいた。ラズワルドの恩寵はお前もよく知っているだろう」

 二人へと近寄ったラズワルドが手を伸ばし、その手をベラ=ラフマが取った。さらにラズワルドとベラ=ラフマが空いている手をそれぞれアニードへと伸ばす。差し出された二本の手にアニードはうろたえた。

「私の言葉に嘘がないことを確認しろ」

 ベラ=ラフマに促されてもアニードは長い時間ためらったままだった。腕を差し出したままのラズワルドが疲れてうんざりしたような表情を見せている。ベラ=ラフマの方は差し出した手を動かさず、その表情も微動だにしていなかった。

「タンクレードのためだ。今、タンクレードのために何ができるかを考えろ」

 ベラ=ラフマのその言葉にアニードは息を呑んだ。アニードはためらいを噛み殺し、勢いに任せて二人の手を鷲掴みにする。痛みにラズワルドが顔をしかめた。
 今、ラズワルドの手を通じて三人の心がつながっている。ラズワルドの持つアニードへの軽蔑や嫌悪もアニードは自分の内にあるかのように感じられた。ラズワルドにとってはアニードの手は「汚いもの」扱いだった。見ず知らずの中年男の下着を掴まされているようなもので、すぐに手放したくて仕方ない。一方アニードが持つラズワルドへの恐怖や拒絶もラズワルドには筒抜けだっただろう。ラズワルドを何年も手元に置いていたアニードだが、このような形で少女の力を理解させられるのは初めてだ。自分の心を覗かれていることへの恐怖と嫌悪は尋常ではなく、アニードはこの小さな少女に対して殺意すら覚えていた。
 また一方、アニードはベラ=ラフマの心中をも実感し、理解している。

「タンクレード側がヌビア軍やヌビア市民に対して危害を加えない限り、ヌビア軍がタンクレードと王弟派を攻撃しないことを約束する。タンクレードと王弟派が一兵も欠かさずにトリナクリア島まで帰れるよう、ヌビア側ができる限りの協力をすることを約束する」

 確かにベラ=ラフマの言葉に嘘はなかった。ベラ=ラフマは皇帝の信頼を得、皇帝を動かすこともできること、皇帝もまたタンクレードをエレブに帰すことに同意していることをアニードは察知し、把握する。それはアニードにとって大収穫だった。
 アニードは振り払うようにラズワルドとベラ=ラフマの手を離した。

「もうよかろう」

 そう言うアニードは我知らずのうちに腕を組んでいる。ラズワルドはアニードの振る舞いを鼻で嗤った上で、無言のまま船長室を後にした。残されたアニードは忌々しげに舌打ちをする。

「――タンクレードの安全は保証する、それは判っただろう」

 ベラ=ラフマが何事もなかったかのように話を再開する。アニードもそれに乗って「ああ」と頷いた。

「だがそれも枢機卿派が大人しくている限りにおいてだ。枢機卿派がヌビアに対して反乱を起こすなら我々もタンクレードの安全は保証できない。そうであるならば、タンクレードが何を成すべきか、お前がどうするべきは自明というものだろう」

 アニードは沈黙する。だがそれは自分にとって否定的なものでないことをベラ=ラフマは理解していた。
 ラズワルドの恩寵の前に嘘はつけないし、ベラ=ラフマは嘘をついてはいない――それは何一つ間違っていない。だがアニードが知ることはなかっただろう。ラズワルドの恩寵を持ってしてもベラ=ラフマの精神防壁は突破できないということを。嘘はつけなくても隠し事はできるのだ、ということを。
 ベラ=ラフマの方は望むべき成果を上げていた一方、竜也の方の交渉は長引いている。タンクレードの粘りは長時間に及び、時刻は真夜中を通り過ぎて空が明るみを帯びる時分になっていた。

「――お前が言うべきは『承諾します』か『従います』、そのいずれかだ! 文句はないな、あっても聞かん!」

 いい加減竜也も疲れ切っていたので交渉はそこで打ち切りとし、休戦協定が成立したことにしてタンクレードとの会見を終わらせた。タンクレードは半分以上腕づくで軍船から追い出されてアニードの商船へと移動する。逃げるように遠ざかる竜也の船を、タンクレードは恨めしげに見送った。

「一体どうすれば……」

 途方に暮れたように呟くタンクレードだが自分の後背にアニードが佇んでいることに今気が付いた。アニードは死者のように血色を悪くしている。戦争が始まってから憔悴する一方のアニードだが、この一晩でさらにやつれたかのように思えた。

「アニードよ、何かあったのか? 兵糧についてヌビア側と裏口から交渉できないか相談したいのだが」

「――い、いえ、何も。それについては心配ないでしょう」

 アニードはそう言い残して自室へと戻っていく。タンクレードはその態度に不審を抱きながらも、やはり休息を取るために船長室へと向かうこととした。







 スキラに戻ったタンクレードは聖槌軍の武装解除に着手した。

「ヌビア軍との協定に基づきお前達の武装を解除する! 武器さえ捨てればエレブに帰れるんだ、命令に従え!」

「お前達は俺達が守ってやる! だから安心して武器を捨てろ!」

「もちろんただで、とは言わん! 武器と引き替えに食糧を配給する! 食糧がほしければそこに並べ!」

 武装解除はバール人商人の全面協力を得て行われた。タンクレードの部下の王弟派騎士がエレブ兵から武器を受け取り、その武器をバール人商人へと渡す。それと引き替えにバール人商人が食糧を騎士に手渡し、騎士がそれを兵に手渡した。回収された武器は商船の船倉へと運び込まれ、商船はその重みで沈みそうになるくらいだった。バール人側は大儲けの機会に顔が揺るみっぱなしである。
 武装解除はタンクレードの想像よりずっと簡単に終わった。もちろん武器を隠し持っている者は少なくないが、それは騎士の一部だけ。一般の兵はほぼ完全に無手となっている。食糧を求める騎士連中が一般の兵を脅して武器を吐き出させ、それで食糧を入手したからだ。抵抗した多くの兵士が殺され、逆襲されて殺された騎士もまた少なくはなかった。だがそれはタンクレードが、

「そういうこともあるだろう」

 の一言で片付けてしまった程度の数である。王弟派ならともかく、枢機卿派で何百人の死者が出ようとタンクレードにとっては些細な話だった。
 アルカサムの月の中旬、タンクレードは一八万の聖槌軍を率いてスキラを出立。北へと向かって移動を開始した。

「待ってくれ!」「置いていかないでくれ!」

 負傷によりまともに動けない数千のエレブ兵がタンクレード達を追おうとするが、すぐに力尽きていた。泣き喚くそれらの兵を振り捨てて、タンクレード達は北へと向かっていく。スキラに取り残されたその数千の負傷兵は捕虜扱いとなり、後日鉱山や山林開拓に従事するエレブ人同胞の元に送られた。
 聖槌軍の北上に伴い、食糧を売って儲けようとするバール人の商船が聖槌軍に付き添うように洋上を移動。聖槌軍の後方からは、付かず離れずの距離を置いてサドマやダーラク達が率いる四つの騎兵隊が追跡する。
 竜也もまた軍船に同乗してバール人の商船と共に地中海を北上した。近衛のサフィールやバルゼル達の他、ベラ=ラフマやラズワルドが竜也に同行している。ディアは銀狼族とともに行軍中の聖槌軍に潜り込んでいた。
 数日後、そのディアが竜也の船へと戻ってくる。疲れ切ったディアのために竜也は食事を用意させた。

「お疲れさま。それで、どうだった?」

「工作自体は簡単だったぞ。工作の必要もないくらいだった」

 ディアは食事を貪りながら竜也へと報告した。

「飢えた兵士を集めて煽動し、タンクレード直属の補給部隊を襲わせて食糧を奪わせる。飢えていない兵が見当たらないくらいだったし、タンクレードへの反発も強かったからな。だが、やはりタンクレード側の守りは堅かったし、襲う側は武器をろくに持っていなかった。襲撃した側が蹴散らされ、首謀者とされた兵が何十人も処刑されていた」

 竜也の「銀狼族や灰熊族は巻き込まれていないんだな」との確認にディアは「もちろんだ」と頷いた。

「しかしこれでタンクレードは警戒しただろう。補給部隊の襲撃は難しくなってしまった」

「いや、この襲撃は単なる仕込みだ。これ以上は必要ない」

 ディアが「そうなのか?」と問うが竜也はそれに答えない。

「銀狼族と灰熊族はできるだけ早く聖槌軍から離れてくれ」

 竜也はそれだけを言って、胃痛を堪えているような青い顔をしながら一心に何かを考え込んでいる。ディアは何も言わず、竜也の横顔を見つめ続けていた。







 アルカサムの月が下旬に入る頃、聖槌軍はスファチェの手前まで到着した。その夜、タンクレードは接岸したアニードの商船に乗り込んでいた。
 船長室でタンクレードは煽るように葡萄酒を呑んでいる。その足下には空になった酒瓶が一本転がり、もうすぐ二本目が追加されようとしていた。
 タンクレードの右側にはテーブルがあり、その上に地図が広げられている。タンクレードの視線は自然とその地図に吸い寄せられていた。正確にはその地図上のある一地点に、だ。やがてそれを自覚したタンクレードが慌てて目を背け、いつの間にかまた地図へと目が向かう。それが何度もくり返されていた。

「……本当に、皇帝は私の安全を保証してくれるんだな」

 三本目の酒瓶が半分以上空いた頃、タンクレードが独りごちるように問う。

「は、はい。それは必ず。閣下と王弟派は無事にエレブに帰れます」

 ベラ=ラフマからの提案についてアニードは何度かタンクレードに具申をしてきたが、最初は言下に却下されていたのだ。が、ここに来てタンクレードの姿勢が変わってきている。

「そもそも枢機卿派は王弟殿下の敵であり、閣下の敵ではないですか。そんな奴等のためにどうして閣下が生命を危うくせねばならないのです」

 アニードの説得にタンクレードは「まったくだ」と相槌を打つ。

「しかも枢機卿派は閣下の労苦も知らず、身勝手にも閣下の兵に剣を向けました。今回は一部の兵だけでしたが、閣下に対する敵意は枢機卿派全体に潜在しています」

「その通りだ。枢機卿派全体が蜂起する前に、手遅れになる前に……」

 タンクレードが酒の入ったカップを握り締め、カップが軋んだ。タンクレードが一気に酒を呑み干す。

「私はまず王弟派の一万に対して責任を持たなければならない。枢機卿派の一七万のことはアンリ・ボケなり神様なりが責任を持てばいいんだ」

 その通りです、と追従するアニード。

「これはヌビアの皇帝が卑怯にも夜襲を仕掛けてきた結果起きる、不幸な出来事。閣下が責任を問われることではありません。第一、エレブで安穏と暮らしている連中に何が判るというのですか」

「まさしくそうだ!」

 タンクレードがカップをテーブルに叩き付ける。カップは砕け、流れた葡萄酒が地図を赤く濡らした。

「飢えと疫病に苦しみ、死体で埋まった街道を踏みしめて一万スタディアの征旅を越えたんだ。皇帝の軍勢をあと少しのところまで追い詰め、それをアンリ・ボケに台無しにされたんだ。殿下の、私の戦いがどれほどのものだったのか、エレブの人間に判るはずがない!」

「その通りです、閣下を責められる者はどこにもおりません」

 アニードは打てば響くように頷くが、それは決して追従ではなくアニードの本心だった。アニードはこの戦争中ずっとタンクレードと苦楽を分かち合ってきたのだから。
 タンクレードは卓上の地図へと目を向ける。酒精に濁った、血走った目だが、先ほどまでのような無意識の視線ではない。確固たる意志を持ってその視線を地図上のある一地点、「北の谷」へと突き刺している。葡萄酒が地図上のヌビアの大地を血のような赤に染めている。「北の谷」もまた血の赤に塗れていた。







 アルカサムの月・二三日。タンクレードはスファチェを通過したところで行軍を停止する。タンクレードは全軍に対し「兵糧の提供について皇帝と交渉するためしばらくここに留まる」と説明した。翌日には後続が合流し、聖槌軍の全軍一八万が集結している。
 二四日、その夜。聖槌軍はスファチェの北、街道から少し離れた場所で野営をしていた。スキラ以降枢機卿派には食糧が支給されておらず、この時点でほぼ全員が手持ちの食糧を食い尽くしている。

「……本当にエレブに帰れるのかな」

「……腹が減ったな」

 飢えを抱えた兵はやがて不満で腹を膨らませ、

「……もう一度王弟派の補給部隊を襲おうぜ」

 自然とそんな声が湧いてきた。

「だがこの間は失敗して何十人も処刑されただろう」

「俺達は助かったじゃないか。大勢でやれば判りやしないさ」

 威勢のいい兵士の一人が立ち上がって、

「王弟派の連中は自分達だけヌビアの皇帝から食糧をもらって腹を膨らませて、俺達のことはほったらかしにしているんだ。あいつから食糧を奪って何が悪い!」

 と煽動し、周囲の兵も「やろう、やろう」と同意した。

「よし、そうと決まればまずは王弟派と補給部隊の位置の確認だ」

 何人かの兵が陣地内へと散っていき、小一時間くらい後に戻ってくる。

「北側にはいなかったぞ。王弟派も補給部隊も見かけなかった」

「俺も見つけられなかった」

 兵が口々にそう報告し、一同が「どういうことだ?」首を傾げた。その時、陣地の南側から声が響く。

「敵だ! 敵襲だ!」

「ヌビアの魔物どもだ! 血の嵐だ!」

「皇帝の軍が攻めてきた!」

 一七万の軍勢が一瞬で浮き足立った。敵に抗しようにもほとんどの兵は剣も槍も持っていないのだ。どちらに向かって逃げるか、ただそれだけを考えている。

「北だ! 北に向かって逃げろ!」

 最初に誰がそれを叫んだのかは判らない。だが、

「北だ!」

「北に向かえ!」

 という声は口々に伝播し全軍に広まり、数瞬後には全軍が北に向かって潰走していた。一七万という膨大な数の兵が一斉に北に向かって走っている。その光景は地上から見ればまるで津波か土石流のような勢いだった。転んで倒れても誰も助けてくれず、踏み潰されて死んでいくだけだ。立ち止まることすら許されず、勢いに流されるままに北に向かって走っていくしかない。
 その光景をはるか天空から見るならば、聖槌軍の軍勢は一匹の単細胞生物のように見えたかもしれなかった。ゆっくりと触手を伸ばすように北へと移動していくその生物は、大地の裂け目に身を隠すように潜り込んでいく。
 地上を走っている兵からすれば突然足下の大地が消えたように感じられただろう。何が起こったか判らないままその兵は宙を舞い、半スタディア(約九〇メートル)下の谷底へと叩き付けられる。さらにその上から人間が雨霰のように降り注いだ。
 「北の谷」はわずかに小高くなった丘を乗り越えた先にいきなりその口を開いている。昼間でもごく間近まで接近しないとその存在に気付かないのに、今は夜である。

「待て、谷が――」

 谷があることに気付いた兵が足を止めようとしても、後方から押し寄せる幾万の兵を押し止めることなどできるはずもない。その兵が落下し、背中を押した兵もまたそれに続く。それが幾万回もくり返されている。暴走する兵は自殺するような勢いで次々と谷底へと飛び込んでいった。谷底には兵が折り重なり、降り積もった。流れる血は川のようであり、溜まった血は湖のようである。
 数刻後、北の谷は一七万の軍勢を完全に呑み込んだ。兵士の悲鳴も狂騒も一緒に呑み込まれ、地上は月面のように静寂となっている。最後尾に位置していたために谷に飛び込まなかった兵がわずかに生き残っているが、彼等は目の前で何が起こったか理解できずに呆然としたままだ。さらにその後方にはタンクレードの王弟派一万が。彼等は運良く生き残った兵を置き去りにして街道方向へと移動していく。残された兵はそれを追うこともせず、その場に座り込んでいる。まるで時間が止まったかのように、彼等はいつまでも身も心も凍り付かせていた。
 ――この日以降、「北の谷」と呼ばれていたこの場所は「死の谷」と呼ばれるようになる。







 その翌日、竜也を乗せた軍船がスファチェの港に入港。そこにサドマがやってきて竜也へと報告した。

「北の谷で聖槌軍の九割以上が死んだ。……確認したがひどいものだった」

 サドマは首を振りながら慨嘆する。なおサドマはこの陰謀には一切関与しておらず、聖槌軍暴走のきっかけとなったヌビア軍の騎兵隊の夜襲については、

「私の隊が奴等に接近しすぎたことが勘違いを生んだのだろうか」

 と密かに気に病んでいる。確かにそれは理由の一つになっただろうが、勘違いさせることを目的として接近を命じたのは竜也である。サドマとは別に、傭兵を集めて騎兵で聖槌軍を襲撃したのはツァイドであり、それを命じたのはベラ=ラフマだ。わずか十余りの騎兵の襲撃をことさらに大げさに言い立て、全軍の暴走を引き起こしたのはタンクレードだった。この確信犯の面々の中で、利用されただけのサドマの負うべき責任はごくわずかなものでしかないだろう。
 その責任の多くを負うべき竜也はそれに見合うだけの懊悩を抱えていた。谷底に折り重なる一七万の死体――そんな光景が脳裏を横切り、竜也は首を振ってそれを打ち消した。

「生き残ったのは?」

「谷に飛び込まなかった兵が二千ほど。私の騎兵隊で捕虜にしているが、反抗する気もないようだった。後方に送る手配はしている。聖槌軍は残り一万ほどで、ダーラク達が追い続けている」

 サドマは何かを待つように沈黙する。だが竜也が何も言わないのでサドマの方から口を開いた。

「残っているのはたったの一万だ、騎兵隊だけで充分全滅させられる」

「いえ、彼等には生きてエレブに戻ってもらう必要があるんです」

 竜也の言葉にサドマは驚きを見せた。

「あんな奴等を生かしておくのか?」

「彼等の始末は教皇庁に任せます。タンクレードがどうやってエレブまで戻ったのか、エレブに戻るまでに何をしたのか、その事実を大いに喧伝するつもりです」

 竜也の説明にサドマは納得しがたい様子だったが、それ以上抗議もしなかった。サドマは騎兵隊を率いてタンクレードの追跡を再開する。彼等がヌビアの地を離れる最後の瞬間まで監視し続けるのがサドマ達の任務である。
 一方竜也はいくつかの後始末について指示を出すと、その日のうちにサフィナ=クロイへの帰路に就いた。軍船は夜も海を進み、サフィナ=クロイへと向かっている。
 その夜、竜也は甲板に出て涼しい夜風に当たっていた。空を見上げても星は一つも見えない。世界はまるで竜也の心のように暗雲に覆われていた。

「皇帝」

 背後からディアの声がする。竜也は振り返りも返事もしないがディアは特に気にした様子も見せない。ディアは竜也の隣りに並び、黒々と広がる夜の海を見つめた。

「……勝ったのに嬉しそうじゃないな。一七万もの大軍勢を一晩で殺す大戦果じゃないか」

「こんなの、戦いじゃなくてただの虐殺だ」

 ディアの言葉に竜也は吐き捨てるようにそう言った。

「確かに謀略で敵を陥れて自滅させたわけだが……そんなの、今更だろう? お前が殺し続けた八〇万のうち会戦で死んだ人間が何人いる? 大半が謀略やら作戦やらで敵を自滅に追い込んでのものではないか。今になって罪悪感とやらを感じているのか?」

「……それが悪いのかよ」

 竜也は拗ねるように反論するが、ディアはきっぱりと断言する。

「そうだ、悪い――一人で抱え込むのは、な」

 その言葉に竜也は目を見開く。ディアが海を見つめながら話を続けた。

「わたしはエレブを裏切ってお前に手を貸した。百万皆殺しや今回の一七万殺しにも荷担した責任があるが……全ては一族のためだ、自分の選択に一片の後悔もない。聖杖教なりどこかの神がわたしの罪を問い、わたしを地獄に堕とすなら、わたしは胸を張って、誇りを持って地獄に堕ちよう」

 とディアは大威張りに宣言し、竜也に向き直って言葉通りに胸を張った。竜也がディアを見つめ、ディアが柔らかく微笑む。

「お前が地獄に堕ちるならその時はわたしも一緒だ。一人で苦しむな、お前の苦しみをわたしにも寄越せ」

 ディアは背伸びをしながら竜也の身体を抱きしめる。竜也もまたディアを抱きしめ、ディアの肩に顔を埋めた。ディアは幼子にそうするように竜也の背中を軽く叩く。

「一国の長となり、一国を率いることの過酷さはわたしにも判る。愚痴ならいくらでも聞いてやるし、わたしにできることならどんなことでも力を貸してやる。お前にはわたしがいるし、皆もいる。それを忘れるな」

 竜也は歯を食いしばり、嗚咽を噛み殺す。ディアはそんな竜也を優しく抱き続けた。







 暦を少し先に進めて、アルカサムの月・二八日。
 百万の威容を誇っていた聖槌軍だったが、この時点で残っているのはタンクレードが率いる王弟派の一万余り。聖槌軍とは名ばかりの残党でしかない。
 その聖槌軍残党がとある小さな漁村に案内されていた。場所はスファチェとハドゥルメトゥムのちょうど中間である。トリナクリア島行きの船がそこに用意されていると、アニードを経由して連絡してきたのだ。

「こんなところに船があるのか?」

 不審と不安を抱きながら小さな漁港にやってくるタンクレード達。竜也が用意した船はすでにそこに、その漁港の沖合に停泊しており、タンクレード達の到着を待っていた。

「こ、これは……」

 タンクレード達はそのまま絶句する。小さな漁港に不似合いの巨大船、それが六隻もそこにあったからだ。
 船の大きさは全長八〇パッスス・全幅三〇パッスス(全長約一二〇メートル・全幅約四五メートル)。まるで城が海に浮いているかのようだ。六隻もそれが連なっているとまさしく長城としか言いようがない。アニードの商船も横に並んでいるが、それがまるで小船のようだ。竜也が建造させていたゴリアテ級のゼロ号艦から五号艦である。

「ああ……」

 という嘆きの声がタンクレードの口から漏れ出る。それは音となって流された、タンクレードの涙だった。タンクレードは我知らずのうちにその場に膝を屈していた。

「戦うべきではなかったのだ。こんなものを建造できる連中と、戦うべきではなかったのだ」

 それはタンクレードだけではない、生き残った全ての将兵が等しくその思いを抱いていた。彼等が真に敗北を認めたのはその瞬間だったのかもしれない。
 その漁村からトリナクリア島までは海路片道六日、往復で一二日。六隻の船に五千の兵が分乗するので二往復。キスリムの月(第九月)・一六日には二往復目のゴリアテ級がトリナクリア島に到着して全てのエレブ兵を下船させる。これで聖槌軍の組織的戦力全てがヌビアの地から排除されたことになる。聖槌軍との戦争はこうして終結した。
 ――エレブ側の動員兵数、一〇二万五五五九人。そのうち戦争終結のこの時点で、捕虜となってヌビアに留まった者、約六万。奴隷商人に掴まる等して売られた者、約三万。身代金と引き替えにエレブに戻った者は百人以下。ヌビア軍に協力した上でエレブに送り届けられた者も百人以下(銀狼族や灰熊族を含む)。トリナクリア島に上陸したタンクレードの部隊、一万余。残りの実に九〇万が溺死・墜落死・戦死・餓死・病死・事故死・処刑・自殺等々、理由はどうあれ死んでいる。エレブを発った百万のうち生き残ったのは約一〇万、そのうち生きてエレブに戻った者は一万余に過ぎなかった。
 海暦三〇一五年アダルの月(第一二月)・九日の「ルサディルの惨劇」に始まり、三〇一六年アルカサムの月(第八月)・二四日の「死の谷の大虐殺」で事実上集結したこの戦争は、「聖槌軍戦争」の名で呼ばれている。



[19836] 第四九話「勅令第一号」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/04/05 21:02


「黄金の帝国」・逆襲篇
第四九話「勅令第一号」







 アルカサムの月(第八月)の月末、「死の谷」での聖槌軍一七万殺しを終えた竜也がサフィナ=クロイに帰ってくる。総司令部に戻った途端、竜也は官僚・各自治都市代表・バール人商人・軍の司令官や提督に取り囲まれた。

「皇帝、こちらが新規公債の発行計画です」

「皇帝、こちらの宮城建設計画に認可を」

 官僚の一団はサインが必要な書類を持って待ち構えており、

「皇帝、我が都市の再建のために支援を」

「戦争も終わったことだし、ソロモン盟約の再検討が必要だろう」

 各自治都市は、支援を必要とする西ヌビアとこれ以上の負担を回避しようとする東ヌビアが対立する。

「我が商会が供出した船舶についてその代価の支払いはどうなっているのか」

「この公債を現金化してもらえんかな」

 バール人商人はこれまで支援した分の利益を貪ろうと虎視眈々とし、

「我が傭兵団の戦果に対する報酬は」

「破損した船の修理費用が必要なんだが」

 軍もまた献身と犠牲に見合う報酬を求めていた。
 竜也は、

「西ヌビアへの支援その他は担当官に申し出てくれれば必ずやるから」

「近いうちにソロモン盟約の改訂と総司令部の改組をやるからその時にまとめて対応する」

 と官僚以外を追い返し、まずは書類仕事を片付けることに専念する。その書類でも、官僚が自分の出身自治都市や出身商会に有利な決済をこっそりと紛れ込ませたりしており、竜也は決済にも神経を使う羽目になる。仕事が何とか一区切り付く頃には深夜となっていた。

「ようやく戦争が終わったのに仕事がちっとも楽にならない……」

 竜也が執務机に突っ伏して休んでいるところに、

「タツヤさん、ちょっといいですか?」

 とカフラがノックをする。「入ってくれ」と返答すると、カフラと一緒に財務総監のアアドルも入室してきた。

「すみません、こんな遅くに」

「いや、構わない。どうした?」

 首を傾げる竜也にアアドルがある書類を差し出した。竜也はそれを受け取って目を通す。

「部下に検討させた公債の返済計画です。今日までに発行している戦時公債は額面で六〇万タラント。それに対し、東西ヌビアからの租税額は推定で年間一八万タラント。戦争で西ヌビアが荒廃していることを考えれば租税額はさらに減ります」

「西は支援が必要なくらいだからな。四、五年は徴税どころじゃないだろう」

 竜也は憂鬱そうにそう呟く。アアドルが説明を続けた。

「戦争中だから、と東もこれまでは重い負担に耐えてきましたが今後はそうも行かないでしょう。この計画で東の諸都市を説得できるかどうか、そして公債を保有するバール人商人が納得するかどうかが問題です」

 アアドルの言葉にカフラが強く頷く。頭痛を堪えるような表情を俯かせていた竜也だが、やがて顔を上げた。

「……要するに、東ヌビアの税負担を減らして借金の返済期間が短くなればいいんだろう?」

「まさしくその通りですが、そんな魔法みたいな方法が」

「考えがある。近いうちに知らせる」

 竜也はそれだけを伝え、追い出すようにカフラとアアドルを退室させた。執務室に一人残った竜也は壁に貼られた大きな地図を見つめる。竜也の視線はケムト一帯に固定されていた。







「ケムトを征服しようと思う」

 竜也のその宣言に、ファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール・ディアの六人はそれぞれのやり方で驚きを表現した。
 月は変わってキスリムの月(第九月)の初旬。その日、竜也は総司令部には出勤せずに公邸に留まった。「話がある」とファイルーズ達六人を船の食堂に集め、女官の立ち入りを禁止する。そして六人に対する第一声がこのケムト征服宣言だったのだ。
 少しの時間をかけてその言葉を呑み込み、まずはファイルーズが柔らかに異議を唱える。

「……タツヤ様が、ギーラに与した宰相プタハヘテプにお怒りなのもよく判ります。ですが、その罪は宰相一人に償わせるべきではないでしょうか? 戦争となれば多くの庶民が苦しみます」

 次いでカフラが、

「ようやく戦争が終わったのにこれ以上戦争をしなくても……借金が増えるだけじゃないんですか?」

 さらにミカも、

「ケムトは遠く、我々が遠征しケムトが迎撃する立場です。補給や作戦がまずければヌビア軍が聖槌軍のように異境で全滅することにもなりかねません」

 と疑念を呈した。

 ファイルーズ達の異議や疑問に「確かにその通りだ」と竜也は一々頷く。だが、

「でも、その上で遠征してケムトを征服しようと思う」

 とくり返し宣言。さらには、

「ケムトだけじゃない、エジオン=ゲベルにも遠征する」

 と付け加えた。ミカが一瞬顔色を変える。
 竜也の意志の固さを感じ取り、一同が沈黙する。その中で口を開いたのはディアである。

「……まあ、皇帝には何か考えがあるようだ。納得できるまでそれを聞かせてもらえばいいだろう。まず、百万相手の大戦争がようやく終わったところなのに今度は自分から戦争をやろうという、その理由を教えてくれ」

 ディアの問いに竜也は「うん」と頷いた。

「最大の理由は借金を返すためだ」

 と竜也が断言、一同は絶句した。

「今ソロモン盟約に参加している町からの税収だけじゃ六〇万タラントの借金を返すのはあまりに苦しいんだ。西ヌビアからは四、五年はまともな税収を見込めないし、むしろ支援が必要なくらいだ。東ヌビアの諸都市だけにこれ以上の負担を背負わせるのは酷だから、ケムトの諸都市にもソロモン盟約に参加してもらいたいと思っている」

「戦争中ならまだともかく、戦争が終わってから、しかも他人の借金を返すためだけにソロモン盟約に参加など」

 呆れ果てたようなミカの言葉を「するはずがないな」と竜也が引き継いだ。「でも」と竜也が続ける。

「東ヌビアが金と兵を集めて聖槌軍を撃退しなければケムトだって征服されていたのは間違いない。つまりケムトだってこの戦争の当事者、本当は兵や金の相応の負担を持つべきだったんだ。今さら兵を出しても仕方ないから、せめて金くらいは出してもらおうと思う」

「確かに東ヌビアからすればタツヤ様の主張は正当なものでしょう。ですが、その主張にケムト側が納得するはずがありません。ソロモン盟約に参加し、タツヤ様を盟主と、皇帝として仰ぐのならば、ケムト王国はどうなるのですか? セルケト王家は?」

 ファイルーズがいつになく鋭い声で問い、

「今のケムト王国は解体する。全ての都市をソロモン盟約に組み込む」

 と竜也が即答。ファイルーズは刺すような鋭い視線を竜也へと向け、竜也は氷のような無表情でそれを受け止める。緊迫した空気に一同が息の詰まる思いをした。

「……それでは、ケムト王の地位は、セルケト王朝の存続は?」

 ファイルーズが再度問うと竜也は肩をすくめ、

「必要なら別に皇帝の地位を譲ってもいい」

 と笑みを浮かべる。ファイルーズは肩すかしを食らったような、不満そうな表情を垣間見せた。竜也が優しく諭すように説明する。

「……本当はそれが望ましいんだ。セルケト王朝の直系が皇帝となって、東西ヌビア・ケムト全体の統合の象徴となる。実際の政務や軍務はその下で俺達が受け持って、皇帝は手も口も出さない。善政や戦勝は皇帝の聖徳、失政や敗戦は担当大臣の失敗」

「……ですが、それは要するに皇帝を大臣の傀儡とすることなのではありませんか? 宰相プタハヘテプのしていることとどう違うのですか?」

 ミカがそう口を挟み、竜也が解説した。

「傀儡とは少し違う、皇帝と部下の大臣は受け持つ範囲が違うと考えてほしい。皇帝の担当範囲は天上のこと、大臣は皇帝からの信任を受けて地上の問題を受け持つ。皇帝が親政をして失政したなら王朝の交代につながるけど、大臣の失敗は大臣の更迭だけで片が付く。皇帝は権威は持つけど権力は持たない、それが王朝を永遠に等しいくらいに存続させる秘訣なんだ。現にセルケト王朝はそうやって四千年も続いてきただろう?

 ただ、今皇帝位を譲ると面倒なことになりかねないから当分は俺が受け持つしかない。太陽神殿の神官の頂点として天上を受け持つのがセルケト王朝。そのセルケト王朝から信任を受けて地上の統治を委ねられたのが皇帝クロイ、そういう形にするつもりだ」

 ファイルーズが竜也のその説明を咀嚼し、理解する。ファイルーズの持つ空気から鋭いところがなくなり、いつものような穏やかな空気をまとうようになった。

「……ですが、タツヤ様には失政はなくともそれ以降の皇帝がどうなるかは判りません。クロイ朝の皇帝が地上を受け持ち親政を続けるのなら、いずれは失政や敗戦で王朝存続の危機を迎えるのではありませんか?」

「クロイ朝が断絶したならセルケト朝から皇帝を迎えればいい」

 ファイルーズの疑問に竜也が軽い口調でそう答え、ファイルーズやミカが息を呑んだ。

「前にも説明したけど、元々独裁官は『非常時に、一時的に独裁権力を委ねられた人』でしかないし、皇帝の地位は軍事力を背景にそれを常態化させたものでしかない。だから戦争が終わったら、本当なら独裁官も皇帝ももう必要ないし、総司令部だって解散したって構わないはずなんだ」

「でも、それじゃ借金を返してもらえません」

 カフラが即座に異議を唱え、竜也は苦笑する。

「うん、確かに借金を返すためには新国家の設立が不可欠だ。でも、その国主が皇帝である必要は――俺である必要は、本当はないと思う」

「タツヤ以外の誰にそれが務まるのです」

 とミカが呆れたように言い、

「あるいは務まるのかも知れんが、誰が納得すると言うのだ?」

 とディアが続けた。

「『クロイでなくてもいいのなら、この自分が』――実力や武力のある者ほどそう言い出すことでしょう。ヌビアの地は皇帝の地位を巡っての戦乱が起こりかねません。それを防ぐにはタツヤ様が、そしてその子が皇帝の地位を引き継いでいくしかありません」

 ファイルーズがそうまとめ、竜也は虚ろっぽい笑いを浮かべるしかなかった。

「……まあ、そんな理由でクロイ朝を開くことになったわけだけど。為政者の地位っていうのは血統じゃなく、本当は能力・実力を競わせた上で選ばれることが望ましい。でも政治が未熟な段階では『実力を競わせる』ことが『軍事力の衝突』を意味する。だからクロイ朝が何代かかけてヌビアの政治を成熟させて、『軍事力の衝突』じゃない方法で政務の担当者を選べるようになったなら――その時はもうクロイ朝の存続にこだわる必要はない。セルケト朝に皇帝の地位を譲ればいいだろう」

 そう言って澄んだ笑みを見せる竜也を、ファイルーズやミカは眩しいものを見るかのような瞳で見つめている。ファイルーズ達を骨の髄まで呪縛している「王朝の存続」――王朝を樹立する立場になっても竜也はそれに全く囚われていないのだ。
 ファイルーズ達が決して持ち得ないその自由さ・軽やかさ。それこそがファイルーズ達が竜也に魅了される理由なのかもしれなかった。







「ケムトを征服しようと思う」

 翌日、竜也は今度は軍首脳を臨時総司令部に集めた。すなわち、陸軍総司令官アミール・ダール、陸軍副司令官マグド、海軍総司令官ガイル=ラベク、そして諜報謀略担当ベラ=ラフマの四人である。
 竜也のケムト征服宣言に対し、四人は内心はともかく外見上はほとんど驚きを示さなかった。ベラ=ラフマが確認する。

「ケムト征服に対して第一皇妃は何と?」

「説明して納得してもらった。ヌビアとケムトは一つの国になる、その中でセルケト王家は独自の地位と権威が保証される」

 その説明にベラ=ラフマは「判りました」と引き下がった。他の三人も特に疑念を差し挟まない。ケムトのプタハヘテプは戦争中には聖槌軍と手を組もうとし、その終結間近には竜也の暗殺未遂にも関わったのだ。開戦の理由とするには充分すぎるほどであり、何も行動を起こさない方がむしろ問題だ、というのが四人の共通見解である。
 四人に異議がないのを確認し、竜也が説明を続けた。

「――基本的なところから話をしよう。新国家ヌビアの基本方針だ」

 竜也は卓上に地中海を中心とした三大陸の地図を広げ、四人がそれを覗き込んだ。

「ケムトを征服したならこの南側全体が新国家ヌビアの領土となる。ヌビアの今後の基本方針は三段階に分けられる。

 第一段階、防御を固めて国土の安全を確保する。
 第二段階、その上で可能な限り軍を縮小し、軍備負担を低減させる。
 第三段階、浮いた金で税を下げ、商工業を盛んにして市民の生活を豊かにする。

 武力が必要となるのはまずこの第一段階だ。西側の国境、ヘラクレス地峡に要塞を建設してエレブからの侵略をここで防ぐ。この任務は将軍アミール・ダールに」

 竜也の指名にアミール・ダールが「はい」と頷く。竜也が続けた。

「次にエレブからの侵略経路となり得るのは、トリナクリア島とその対岸のカルト=ハダシュトだ。ここは海軍によって防御する。この任務は提督ガイル=ラベクに」

「おう、任せろ」

 竜也の指名にガイル=ラベクは胸を叩いてそう応えた。

「最後に東側だ。まず今は敵対しているケムトを征服し、ヌビアに組み入れる。その上でスアン海峡を渡り、敵対しているエジオン=ゲベル王ムンタキムを排除してノガの即位に協力し、友好関係を結ぶ。

 もしエレブがアシュー経由で聖槌軍の再侵攻を試みたり、またはアシューの大きな国家がヌビアを侵略しようとするなら、ヌビア軍はスアン海峡を渡り、エジオン=ゲベルと協力してアシューで敵と戦いこれを撃退する」

 はっきりとは言わなかったが、竜也はエジオン=ゲベルをヌビアにとっての防波堤にすることを企図していた。その企図を、アミール・ダールも含めた四人が是とする。

「このケムト・エジオン=ゲベル遠征は将軍マクド、あなたにお願いする」

 その指名にマグドは獰猛な笑みを答えとした。
 ――当初、竜也はアミール・ダールとマグドの担当を逆にするつもりだったのだ。

「アミール・ダールも祖国に近い方が嬉しいだろうし、次のエジオン=ゲベル王とも意思の疎通がやりやすいだろう?」

 だがその考えを聞かされたミカは、

「あまりに浅慮です」

 とこき下ろした。

「父がケムト方面の司令官になったとして、その司令官が次期エジオン=ゲベル王とあまりに近すぎるのが問題です。父と兄上の誰かが協力するならスアン海峡をまたいだ一大王国も建国できるではありませんか」

「でも、アミール・ダールはそんなことやらないだろう?」

「やりはしませんが、『そうするかもしれない』『そうなりかねない』と言い出す人間は必ず現れます。そのような誹謗中傷でも聞かされ続ければあるいは父に対する信頼が揺らぐかもしれません。そんなことになるくらいなら、最初から疑念を招くような人事は控えるべきです」

 ミカのその忠告を竜也も理解し、結局各人の担当はこのように決定された。

「それで皇帝、ケムト遠征にどれくらいの兵を動員するつもりなのだ?」

「十万」

 竜也のその答えにマグド達が唖然とする。

「……陸軍のほぼ全軍ではありませんか。それだけの兵を動員したなら東西ヌビアが空っぽになってしまいます」

「ケムトまでは陸路で一万二千スタディアだ。そんな大軍にそれだけの大遠征をさせるなど……下手を打てば今度は我々が聖槌軍の二の舞となってしまう」

 至宝と言うべき軍の首脳に難色を示され、竜也は「うーん」と唸るしかない。

「……できるだけ血は流したくない。ケムトの諸都市には『戦っても無駄だ』『降伏もやむを得ない』と思わせたいんだ。そのためにははったりの効く数字でないと」

「威圧のための頭数ですか。それならば聖槌軍と戦った精鋭でなくとも、現地調達の新兵でも傭兵でも、いっそ案山子でも構わないのですね?」

 ベラ=ラフマの確認に竜也は「ああ、構わない」と頷く。だがマグドは渋い顔をした。

「いくら何でも案山子を率いて戦えるか。ある程度はこっちから持っていくぞ」

「それはもちろんだ」

 と竜也が答える。

「兵の輸送にはゴリアテ級等の海軍の輸送船も使うつもりだ。それも計算に入れて、どの程度の兵を動員できるのか、どれだけの兵を現地調達するのか、検討を頼む」

 竜也の命令にアミール・ダール達四人は力強く頷いた。







「皇帝がケムト征伐を宣した」

 その噂は軍から始まってサフィナ=クロイの町中に広がり、市民の話題はそれで持ちきりとなった。

「ようやく戦争が終わったところなのに、また戦争をしなくても……」

 という声ももちろん聞かれたが、どちらかと言えば少数派である。

「あの連中は戦争中は指一本動かさなかったのに、俺達が勝ちそうになったら皇帝を殺そうとしたんだ。あんな連中征伐するのが当然だ」

 兵を中心にそのような声が多数を占めていた。ケムトを征服し、ケムトに聖槌軍戦争の戦費を負担させ、借金を返して東ヌビアの負担を減らして西ヌビアへの支援を増やす。それにバール人も東ヌビアも西ヌビアも異存があるはずもない。
 マグド達がケムト遠征の準備を進める一方、竜也達は新国家ヌビアの建国準備を進めている。キスリムの月の中旬、サフィナ=クロイの元老院には各自治都市代表・恩寵の部族の代表・各地の商会連盟代表が参集。新国家設立についての議論が連日くり広げられた。

「しかしこのソロモン盟約は一年契約という話だっただろう? もう聖槌軍は壊滅したのに何故盟約の更新が、新国家が必要なのだ?」

 と新国家設立に消極的な者も決して少ない数ではない。だが、

「もし聖槌軍が再来したならどうするのだ? その時になってまた慌てて軍を結成するのか?」

「西ヌビアの民がどれほどの苦難を被ったと思っているのだ。もう二度と敵の侵略を許してはならん」

 という主張に効果的に反論するのは困難だった。
 そもそも、新国家設立に消極的なのは聖槌軍戦争にそれほど貢献しなかった者(町)・比較的負担が軽かった者(町)である。彼等は今後の負担増を怖れて反対しているのだ。一方新国家設立に積極的なのは、戦争により大きく貢献した者(町)・多大な負担を背負った者(町)である。彼等は竜也に対して貢献や負担に見合った見返りを求め、新国家設立を推し進めている。そして、

「我が部族は動ける者は全員兵となって戦ったぞ。貴様の町は何人の若者を兵に出したのだ?」

「私はこの戦争で息子を亡くしたのだぞ! お前の家族の誰が死んだ!」

 と言われてしまえば反対派は沈黙する他ない。この戦争により大きく貢献した者・より大きい犠牲を払った者の声がより大きくなるのは理の当然である。何日間かの議論の後、不満や反対を押し切って新国家設立は決定事項となった。

「ケムトにも戦費を負担させる、そのためのケムト遠征だ。そのためには軍が必要だし、軍を維持するには新国家が必要だ」

 新規の負担を少しでも減らすため、不満や反対の矛先を逸らすためにもケムト遠征が声高に提唱される。この遠征に反対する者はほとんどいなかった。
 キスリムの月の下旬。竜也は新国家ヌビアの人事辞令案を元老院に提出、それが承認される。それと同時に軍の再編成案も提出され、即日承認された。基本的には戦争中のそれと変わらない。陸軍総司令官はアミール・ダール、副司令官はマグド。海軍総司令官はガイル=ラベクである。
ただ、アミール・ダールは西ヌビア方面軍司令官を兼務する。ガイル=ラベクは東ヌビア方面軍司令官を兼務。そしてマグドはケムト遠征軍司令官である。先々にはケムト方面軍司令官になることが予定されていた。
 アミール・ダールは旗下の西ヌビア方面軍に再編成された陸軍三隊・歩兵二万三千、及びシャブタイの第五騎兵隊四千を組み入れた。この軍の任務は西ヌビアの平定、未だ残るエレブ人の盗賊討伐、そしてヘラクレス地峡での要塞建設である。このため歩兵二万三千のうち半数は工作隊出身者により占められている。
 マグド旗下のケムト遠征軍は、まず歩兵が奴隷軍団を中心に再編成された一隊、それに第七軍団を中心に再編成された一隊。次に騎兵隊が三隊で、サドマの第一騎兵隊・ダーラクの第二騎兵隊・ビガスースの第三騎兵隊。総兵数は歩兵一万五千・騎兵一万五千の合計三万に登っていた。

「……少ない」

 この編成案が提出された際、竜也はそう不満を漏らした。ベラ=ラフマも、

「ケムトの最大動員兵数は五万とされています。それに対するに三万では、ケムトの諸都市を戦わずして屈服させることなど不可能です」

 と同調する。だがマグドとしては「無茶を言うな」と言う他ない。

「兵の多くを家族の元に返した上で、アミール・ダールが西に二万七千、俺が東に三万。中央に残っているのは二万足らずだ。他から裂いて東に回せる兵など一人もいない」

 マグドの言うことは全く持って正しく、竜也もベラ=ラフマも反論できはしない。

「その半分くらいならともかく、七万もの兵を現地で集めるのはまず不可能です」

ベラ=ラフマがそう付け足し、竜也は腕を組んで「うーん」と唸った。

「……他に兵、他に兵、アシューやケムトで傭兵を集めるとしても他には――あ」

 それに気が付いた竜也が顔を上げる。

「あった、あそこから兵を募ればいい。二万くらいは集められるんじゃないか?」

「どこからだ?」

「エレブ人の捕虜からだ」

 ……そのとんでもない思いつきにマグドは強い難色を示し、散々抵抗するが、結局竜也に押し切られてしまった。竜也はベラ=ラフマにエレブ人部隊の編成を命令。ベラ=ラフマは銀狼族や灰熊族、エレブ人の協力者を使ってエレブ人捕虜から兵を徴募した。エレブ人に提示されたのは次のような条件である。

「ケムト遠征に従事する一年間の傭兵契約。通常の報酬とは別に、契約終了後はエレブまで送り届けることを約束する。ヌビアに留まることを希望するなら市民権を付与し、ヌビアの民と同等に扱う」

 竜也は戦争中から捕虜虐待を厳禁し、森林開拓や鉱山労働に従事させるにしても(この時代としては)あまり過酷な労働はさせず、充分な食事と休養を提供し続けていた。このため「契約条件が反故にされるのでは」という疑念をもたれたりはしていない。
 六万の捕虜のうち、エレブ帰還を望む者を中心に実に半数が徴募に応じた。ベラ=ラフマが白兎族を総動員して応募者を選抜、二万程度のエレブ人部隊が編成される予定となっている。
 一方アミール・ダールは編成が終わった部隊から順次西ヌビアへと送り出している。シャブタイの騎兵隊は戦争終結前から西ヌビア入りし、遊撃部隊を旗下に組み入れて盗賊討伐を進めていた。また、シャブタイの任務は盗賊退治だけではない。
 キスリムの月の下旬。シャブタイの調査を分析した官僚からの報告書が竜也の元に届けられた。シャブタイとその部下は巡察した西ヌビアの各町や山間部の村々で被害状況の聞き取り調査をしており、アミール・ダールがそれに基づいて西ヌビア全体の被害状況を算出させたのである。

「……百万」

 計算によって推定された、それが西ヌビア全体の死者の総数だった。西ヌビアの人口は戦前には三百万と言われていたので、死者数は実にその三分の一に達している。調査した範囲は東に偏っており、計算もかなりおおざっぱなもので、百万という数字はあくまで概算でしかない。

「ですが、それほど大きく外れていないのではないかと思います」

 戦争終結前から西ヌビアの状況を把握するべく動いていたアミール・ダールがそう保証する。竜也は「そうか」と応えたまま、長い時間沈黙していた。立ち上がった竜也は執務室の窓に向かい合い、窓の外を見つめる。

「……ここまで民間人に犠牲を出さなくてもいい、別の戦いようがあったんじゃないか?」

 竜也の自問にアミール・ダールが、

「あったのは間違いありません」

 とその背中に答える。そして「ですが」と続けた。

「その戦法を選んでいたならこれほど早くこの戦争が終わることはあり得ませんでした。果たして勝てたかどうかも保証の限りではありません。焦土作戦を実行したからこそ、一年に満たない短期間で我が軍は聖槌軍に勝利したのです。長い目で見ればそれが犠牲や負担の最も少ない方法だったのだと私は確信しています」

 アミール・ダールは静かに、だが確固たる口調で断言する。

「ありがとう」

 アミール・ダールに背を向けた竜也はそれだけを言う。穏やかな沈黙が執務室の二人を包んでいた。
 その翌日、アミール・ダールが今度はシャブタイとコハブ=ハマーの二人の息子をともなって総司令部の竜也の元へとやってきた。さらに同行する部下には大量の書類を抱えさせている。

「将軍、それは……?」

 書類の山に怖じ気づいたようになりながら竜也が問い、

「西ヌビアの各町・商会・個人により提訴された訴状、及び事情聴取をまとめた書類です」

 アミール・ダールが淡々と答える。竜也は執務机に積まれた書類のいくつかにざっと目を通した。

「……ウティカの略奪行為に対する訴訟、逆にウティカからの殺人の訴訟、キルタの商会連盟から損害賠償請求、こっちは個人から個人への訴訟か」

 戦争中、聖槌軍の進軍経路上にあった西ヌビア沿岸部の町の住民が大挙して山間部へと避難したが、そこで数多の軋轢や対立、衝突があったのは言うまでもない。避難民が侵略者となって避難先の山間部の村を支配したり、逆に山間部の村が避難民を奴隷扱いしたり、それ等の暴挙への反発が衝突を呼び、殺し合いに発展する。そんな事例が無数に発生しているのだ。他にも、避難民に財産を略奪されて破産したバール人商人、バール人商人に騙されて家族を奴隷として売られた者、避難先から元の町に戻ってきたら自分の家や畑が他人に占拠されていた者――様々な苦難や損害を負った者がその解決を、不正の是正を竜也に求めている。

「訴訟には村が町を、町が町を訴えたものも多数含まれています。これらの訴訟に判決を下すことが出来るのは皇帝とその代理だけです。これらの問題が解決されなければいくら兵を送り込もうと西ヌビアを平定したことにはなりません」

 アミール・ダールの言葉に竜也は唸りながらも「確かに」と答えた。竜也はしばらく唸りながら書類を睨んでいたがやがて決然と顔を上げる。

「……ともかく、まずは訴訟の分類だ。原告が町や村の訴訟は俺や将軍が見なきゃいけない。それ以外の、個人や商会が原告の訴訟は方針だけ決めてできるだけ各町に任せていこう」

 竜也は司法担当の白兎族も呼び、まずは訴訟の振り分けから開始する。竜也とアミール・ダールの前には町や村が原告となった訴状が山と積み上げられ、二人がそれに目を通していく。

「まず、金や食糧が奪われただけなら話は早い、奪った側に返させる。金を払って済む話ならそうさせろ」

 竜也が判決を下すに当たっての基準を示し、アミール・ダールがそれに頷く。

「次に死人が出た場合だが……その殺人がやむを得なかったかどうかが問題だ。俺が元いたところには『カルネアデスの板』って考え方があった」

 乗っていた船が難破し、板切れ一枚に掴まって漂流しているところに、別の誰かがその板切れに掴まろうと接近してきた。だがその板切れには二人分も浮力はなく、二人も掴まったら二人とも沈んで死んでしまう。その別の誰かを排除するなら自分一人だけでも助かるのだ。

「――そんな場合、その別の誰かを殺しても罪には問われない。これを『緊急避難』と呼んでいる。

 つまり、ある町が侵略者となってある村を占領したとしても、そのために何人も死んでいたとしても、そうしなければその町の者が死んでいたならその町を罪に問うべきじゃない。占領された村には慰謝料を払うことで我慢してもらおう。ただ、本当に他に方法がなかったのか、必要以上に暴力が振るわれなかったのかはしっかり確認する必要がある」

 そう言って竜也はある訴状の文面をアミール・ダールへと示した。

「……この町の長老みたいに、占領した村の娘を集めて強姦したとか、村の若者を奴隷として売り飛ばしたとかは論外だ。訴状の内容が事実かどうか確かめて、事実なら厳罰を持って対処してくれ」

 いくつかの訴状の内容に基づいて竜也が裁判の方針と基準を示し、アミール・ダールはそれを脳裏に刻み込む。白兎族もまたそれを書面に書き起こしていた。
 ……キスリムの月の下旬。アミール・ダール率いる西ヌビア方面軍二万余がサフィナ=クロイを出立する。その軍には白兎族の司法担当官が多数同行していた。竜也の代理で西ヌビアの各裁判の裁判官となるのがアミール・ダールの役目であり、それを補佐するのが白兎族の任務だった。







 そして月は変わって、ティベツの月(第一〇月)・一日。
 その日、サフィナ=クロイの臨時総司令部には、元老院議員としての各自治都市代表、恩寵の部族の代表、各地の商会連盟代表が招集されていた。マグドを始めとする陸軍の各軍団長、ガイル=ラベクを始めとする海軍の各艦隊司令官も顔を揃えている。その他サフィナ=クロイの避難民代表や有力者も招かれ、そしてファイルーズやラズワルド達六人もその場にやってきていた。
 その人数はざっと見て数百人、総司令部の建屋内には到底収まらない人数であるために人々は中庭に集まっている。その一同の前に竜也が姿を現した。皇帝としての黒い正装をまとった竜也は壇上に立ち、沈黙する一同に向かって演説を始めた。

「……昨月の二八日。聖槌軍残党をトリナクリア島に送り出す任務に就いていたゴリアテ級がその任務を終え、ハドゥルメトゥムに帰還した。聖槌軍戦争が我々の勝利で終結したことを、ヌビアの全市民に宣言する。――だが!」

 竜也はそこで声を高めて一同を見回す。

「だからと言って以前のような平和な時代が戻ってくるわけではない。西ヌビアの国土は荒廃し、エレブの盗賊が跳梁している。エレブ情勢は不安定だし、聖槌軍が再度発動されないとは誰にも断言できはしない。どこからも誰も攻めてこず、何もしなくても平和が維持される時代は既に過去のものなのだ。

 ――平和とは戦わないことではない。戦って勝ち取るものが平和なのだ。誰よりも勇敢な兵を集め、どの国よりも強力な軍を揃え、愚か者がヌビアの地を狙うならばこれを撃ち破り、滅ぼし尽くす。私はそんな平和をヌビアの民に約束しよう。

 本日、ソロモン盟約が改訂・更新され、その契約期間は無期限となった。皇帝が軍を率いて民を守り、民が皇帝と帝国を支える。皇帝がヌビアの民の守護者となり、勝利を、平和を、栄光をもたらすことを約束する――これは聖なる契約であり、その精神は永遠である!」

 一同は呼吸すら止めるくらいに、何かを我慢するように沈黙し続けている。竜也はその一同を前に、

「――私はここに、クロイ朝ヌビア帝国の建国を宣言する」

 静かな、だがよく通る声がその宣言を一同の耳に届けた。その瞬間、

「皇帝クロイ!!」

「黒き竜!!」

 堰を切ったように一同の歓呼が爆発した。一同が「皇帝クロイ」を叫びながら、天を破るほどの勢いで人差し指を立てた拳を突き上げる。竜也もまた人差し指を立てた拳を掲げ、一同の呼びかけに応えた。

「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」

 一同もまた「皇帝クロイ」の呼びかけでそれに応える。喉を枯らさんばかりのその連呼はいつ終わるともなく続いていた。







 ――新たな時代の幕開けとなった建国宣言の直後、竜也は勅令第一号を発令する。それはケムト及びエジオン=ゲベル征伐を公式に宣言するものだった。










*あとがき


 征服篇に続く!!




 ……ということで、征服篇は現在鋭意改訂中です。死闘篇と逆襲篇の間ほど空かないだろうと……空かないんじゃないかなと思いますが、努力はしますが予定は未定です。

 ですが、必ず完結させることは決定ですので、どうか気長にお待ちください。



[19836] 第五〇話「宴の後」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/01 20:58



「黄金の帝国」・征服篇
第五〇話「宴の後」









 もう三〇年以上も昔のことになる。その日、テ=デウムは暖かな春の日差しに包まれていた。春の花が咲き誇り、日の光がサン=バルテルミ大聖堂のステンドグラスに反射して宝石のように輝いている。まるで世界の全てが彼等を祝福してくれているかのようだった。
 大聖堂内の礼拝堂では、ちょうどピエールが新教皇インノケンティウスとして壇上に登場したところである。インノケンティウスが身にまとっているのは華麗な紫の法衣だ。絹布に縫い込まれた金糸と銀糸がステンドグラスから差し込む光にきらきらと瞬いている。手にしている聖杖は黄金製で、頭にかぶる宝冠は白銀製。宝冠にはいくつもの巨大な宝石が埋め込まれていた。その豪奢さ、その絢爛さに観衆からはため息しか出てこない。だが、インノケンティウス自身は憮然としているようだった。

「この宝石一つでどれだけの飢えた子供にパンを与えられるか、判りますか」

 と、当初インノケンティウスはこの無意味に贅沢な法衣を着ることを拒否して、普段と同じ簡素な法衣で即位式典に臨もうとしたのである。だが伝統や前例を何よりも、聖典よりも重んずる儀典長の強硬な反対に抗しきれず、結局はこの法衣をまとうこととなったのだ。
 元々インノケンティウスは聖職者の腐敗追求により名声を高めてきた人物だ。かつての自分が非難した虚飾や奢侈で自分を装うのはインノケンティウスにとっては耐え難いことに違いない。

「くだらない」

 インノケンティウスのその葛藤をニコラ・レミは鼻で嗤う。聖杖教の教皇とは全ての聖杖教徒の頂点に立つ存在だ。フランク・ディウティスク等の諸王国の国王を超越し、エレブの全てを事実上支配する、神聖不可侵の絶対的存在。そうであるならばその地位に相応しい姿を装うのは当然というものではないか。

「かつて私が着ていた法衣は何度も繕い直したもので、接ぎ当てだらけでした。宝石なんか一つも付いていませんでしたが、それでも人々は私の言葉に耳を傾け、私に力を貸してくれました。教皇になっても同じことを望むのは間違いなのでしょうか?」

 ああ、間違いだ。どうしようもなく愚かな間違いだ、とニコラ・レミは嘲笑する。エレブ全土に一体何千万の信徒がいるのか、判っているのか? この先全ての時間を費やしたとして、対面し、声をかけ、直接導くことができる民草が一体何人になるか、判っているのか?
 何千万という信徒を支配し、導くには教皇庁を頂点とする教会組織がなければどうしようもない。五王国を始めとする王宮や諸侯の協力が不可欠だ。そして彼等を動かすにはそれだけの権威が必要だし、その権威は先人が少しずつ築いてきたもの――すなわち伝統や前例の積み重ねなのだ。
 この男は確かに高邁な理想を持っているのだろう――だがそれだけだ。この男は確かに優れた弁舌を持っているのだろう。人々を感化し、教化するのが上手いのだろう――だがそれだけだ。それで身の回りの数十人を支配できたとしても、見ず知らずの何千万を支配することなどできはしない。教皇庁とその配下の教会を最大限活用し、新教皇の事績を、聖徳を宣伝する。諸国王、諸侯の協力の度合いに応じ、その行動をあるいは称揚し、あるいは破門をちらつかせて脅迫し、五王国や有力諸侯を意のままに操る――それだけの力があるのだとエレブ中に見せつける。そうやって、新教皇インノケンティウスが神の代理人でありエレブの支配者であることをエレブ全土に示すのだ。

「そしてその支配権を僕に譲るがいい」

 インノケンティウスは五〇の手前、ニコラ・レミは三一歳。二〇年も経てばインノケンティウスは七〇歳となりニコラ・レミは五〇歳となる。教皇の地位を引き継ぐにはちょうどいい頃合いだ。

「二〇年は協力してやるさ。お前の権威を高め、エレブの支配者として盤石の地位を作ってやる。その全てはいずれ僕が譲り受けるのだから」

 今、新教皇インノケンティウスの前にはニコラ・レミがひざまずつき、その横では枢機卿アンリ・ボケが同じように床に伏している。この十年間、ニコラ・レミとアンリ・ボケは二本の脚となってインノケンティウスを支え、二本の腕となってインノケンティウスの障害を切り払ってきた。客観的にはニコラ・レミとアンリ・ボケは無二の同志であるように見えただろう。だがニコラ・レミにとってアンリ・ボケはどれだけ遠い異国の人間よりも理解の外にあった。今、誰よりも近くにいようとその心は大陸の果てよりも遠い場所にあった。

「……まあいい。この男にも利用価値はあるさ」

 正直言って、ニコラ・レミはこの男が苦手だった。ニコラ・レミの得意技は謀略や陰謀や毒殺だったりするが、それがこの男に通用するように感じられない。どういう罠に嵌めようとこの男はそれを力尽くで打ち破り、自分の頭を鉄槌で叩き潰す――そんな未来図しか思い浮かばないのだ。ニコラ・レミは自分の父親たるピエルレオニの二の舞を演じるつもりは毛頭なかった。

「これまで通り、あと二〇年はお互いに協力し合おうじゃないか。二〇年経ったなら、教皇と一緒に引退するがいいさ」

 アンリ・ボケは教皇庁の中では傍流たる聖堂騎士団の出身で、その経歴はあまりに血で汚れている。アンリ・ボケが教皇の座を争う相手になるとはまず考えなくていいだろう。

「あと二〇年……二〇年後には僕こそが教皇だ」

 ニコラ・レミはインノケンティウスの教皇就任を心から祝福した。彼から教皇の座を自分が受け継ぐものと、疑いもせずに。
 ……その後、ニコラ・レミは概ね自分の想定通りの人生を歩んできた。陰謀を仕掛けてインノケンティウスの政敵を滅ぼし、謀略により諸侯や諸王国を縦横に操り、教皇の権威を雲の彼方まで高めていく。ニコラ・レミはアンリ・ボケと並んで「教皇の盾と剣」と呼ばれるようになり、早々にインノケンティウスの後継者としての地位を盤石とした。次期教皇というトロフィーを争う相手がいないわけではないが、ニコラ・レミと比較すれば誰もがどうしても実績や政治力の面で見劣りしてしまう。そしてその競争相手にアンリ・ボケの名が出てきたことは一度もない。

「次期教皇はニコラ・レミで決まり」

 とは衆目の一致するところであった――もう二〇年以上も前から。
 ニコラ・レミにとっての唯一最大の誤算は、インノケンティウスが思ったよりもずっと壮健で八〇歳近くになっても未だ教皇の座に留まったままであるということだ。このためニコラ・レミももう六〇歳を越してしまっている。

「くそっ、いい歳をして一体いつまであの椅子にしがみついているんだ。さっさと後進に道を譲るのが人の道というものだろう」

 そう言うニコラ・レミ自身も本来なら引退を考えるべき年齢だ。節々は痛みを訴え、筋肉は減っていく。体重は軽くなっているのに身体を動かすのは億劫になる一方だ。食は細くなり、髪の毛はどんどん抜けていく。しわは増えて深くなり、みっともない染みは広がるばかりである。最近は鏡を見ても自嘲しか浮かばない。

「……ふっ。誰なんだ、このじじいは」

 四〇年前には「教皇庁の天使」とまで謳われたその美貌は、今では想像するのも難しい。ただ女性的な容貌は相変わらずなので、顔だけ見るなら老婆にしか見えなかった。その外見と、数々の政敵を屠ってきたその陰惨な実績から、現在では「教皇庁の魔女」と呼ばれている。
 自分の残り時間が減る一方であることにニコラ・レミは無自覚ではいられない。

「私がこれまで手を汚してきたのはお前のためなんかじゃないんだ。早く死ね、そしてその地位を私に譲れ」

 就寝に際し、ニコラ・レミは神に祈りを捧げるのと同じその口で呪詛を吐いた。だがそれも空しくインノケンティウスはますます壮健であり、外見だけならニコラ・レミとあまり変わらないくらいに見える。アンリ・ボケに至ってはこの三〇年全く歳を取っていないかのようだ。自分だけが年老い、残り時間を減らしているような感覚に焦燥と苛立ちを深める中、

「――聖戦を発動?」

 ニコラ・レミが望んだ転機がようやく訪れるのである。







 来年の新年祭の勅書で聖戦の発動を宣言する――ニコラ・レミがインノケンティウスからそれを聞かされたのは海暦三〇一四年も終わりに近付いた頃だった。

「五王国を始めとするエレブの全ての国から軍勢を集め、百万の兵を率い、ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴ全土を征服する! 聖杖の教えでネゲヴを覆い尽くし、教皇聖下のご聖徳を未開の地たるネゲヴに隅々まで行き渡らせよう!」

 アンリ・ボケは拳を振り上げ気勢を上げた。意気込みを一方的に聞かされるだけのニコラ・レミは白けた思いを抱かずにはいられない。

「豪気なことですね」

 アンリ・ボケが「百万の兵を率いる」と公言してもニコラ・レミはその数字を額面通りには受け止めなかった。

「実際に率いるのは二〇万か三〇万くらいか。それでも空前の壮挙には違いないし、ネゲヴ全土を征服するには充分だろう」

 大多数のエレブ人と同様にニコラ・レミもまたそのように考えていた。同僚として、「教皇の盾と剣」として四〇年もの付き合いがありながら、ニコラ・レミはアンリ・ボケのことをほとんど全く理解していなかったのだ。ニコラ・レミはそのことを嫌と言うほど思い知らされる。
 アンリ・ボケは本気で百万の兵を集めるべく五王国を始めとする各王国に動員を命令し、各王国は配下の諸侯に動員を命令する。諸侯は百万を現実の数字とするべく、自分の領地を空にする勢いで騎士を、兵を、兵糧を集める羽目となった。その結果エレブの社会と経済は急速に崩壊していく。

「聖戦に反対するつもりは毛頭ありませんが、物には限度というものがあります」

「教皇聖下のご下命を果たすべく私は死力を振り絞っています。領地からは騎士が、農村からは働き盛りの男衆が一人もいなくなりました」

「家財全てを売り払いましたがそれでも戦費は到底まかなえません。領民は種籾までを吐き出し、来年の作付けができるかどうかも判らない状態です」

 ニコラ・レミの元には嘆願書が続々と届けられている。送ってきているのは交流のある諸侯や王族であり、その内容は彼等の悲鳴そのものだった。

「どうかあの狂人を止めてくれ」

 彼等は揃ってそれをニコラ・レミに願っているのだ。手紙ではなく直接ニコラ・レミの元を訪ねてくる者も少なくなく、邸宅の前では彼等が列を作っている。ニコラ・レミは彼等への応対に追われることとなった。

「機会さえ作ってくれるなら私が手を汚す」

 思い詰めた挙げ句にアンリ・ボケ暗殺を持ちかけてくる者も一人や二人ではなかった。ニコラ・レミは彼等をなだめながらも決断を迫られていた。
 三〇一五年の初冬、ニコラ・レミは会談を持つためにアンリ・ボケの元を訪れる。

「今、エレブの民草全てが聖戦の動員負担に苦しんでいる。動員数をもっと減らして民衆の負担を軽減するべきではないのか?」

「理想の実現に犠牲は付き物、民草の苦しみもやむを得ない範囲と理解しています」

 ニコラ・レミの要求をアンリ・ボケはいつもの茫洋たる笑みで拒絶した。ニコラ・レミがどれだけ民衆の苦難を説いても返答は全て同じだ。言い方こそ違え、要約すれば、

「この程度の苦難は確固たる信仰心があれば乗り越えられる」

 とくり返しているだけである。

「そもそも、我々はこの聖戦を実現するために聖下の手足となって四〇年も戦い続けてきたのではないですか? 聖戦に反対するなら今の地位を返上してからにすべきでしょう」

 アンリ・ボケとの会談はそれで打ち切られ、ニコラ・レミは何の成果も得られず帰路に着くしかなかった。インノケンティウスからニコラ・レミに対して「ブルティガラ教区司教」の地位が提示されたのはその直後である。

「最近君が沈みがちとなり疲れているようで私も心配していたのですが、アンリから提案があったのです。『ブルティガラは冬でも気候が穏やかで過ごしやすい場所です。そこでゆっくり休んでもらってはどうでしょう』と」

 なおブルティガラは元の世界のボルドーに相当する。つまりは聖都テ=デウムから離れた場所への左遷勧告であり、要するに高齢のニコラ・レミに対する隠居勧告だった。
 ニコラ・レミは一言の反問も反論もせず、その内示を受け入れる。そして早々にテ=デウムを退去してブルティガラへと移動した。ニコラ・レミの左遷は、彼に希望を抱いていた多くの諸侯や聖職者を絶望させた。特にフランク国王フィリップは、

「これでフランクを救う手立てはなくなった」

 と嘆いたと言われている。
 一方、島流しとなったニコラ・レミはブルティガラの教会荘園で悠々自適の日々を過ごしていた。昼は庭の薔薇の世話をし、雨が降れば書物を読み、夜は名産のワインに舌鼓を打つ毎日だ。酒の肴の代わりにエレブ各地から送られてくる手紙に目を通しているが、そこに記されているのは塗炭の苦しみを味わっている民衆の姿だった。

「どうか、どうか助けてください。教皇様を諫めてください」

 インクの代わりに民衆の血と涙で綴られたかのようなその手紙を読みながらニコラ・レミは、

「今はこれでいい」

 とただ薄笑いを浮かべるだけである。
 本気のニコラ・レミが反対したならアンリ・ボケもインノケンティウスもそれを無視することはできなかっただろう。本気のニコラ・レミが聖槌軍の規模を縮小させるべくその政治力を最大限発揮したなら、アンリ・ボケとてそれに対抗できたかどうか判らない。本気のニコラ・レミならエレブの民衆を、諸侯を、各王国を、この地獄の窮状から救うこともできたのだ。

「聖槌軍は必ず失敗し、敗北する。今は左遷されようと、一年もすれば聖槌軍に反対した経歴は私の政治的資産となるだろう」

 テ=デウムから離れていても教皇庁内に築いた人脈や派閥は健在だ。ニコラ・レミの与党はインノケンティウスや教皇庁内の動きを逐一ニコラ・レミに知らせてくれる。アンリ・ボケの横暴を、それを制止しないインノケンティウスの怠惰を陰で非難して回っている。その結果として、

「早く教皇に引退してもらい、枢機卿ニコラ・レミが新教皇に就任するべきだ」

 というニコラ・レミ待望論が教皇庁内に広がっていく。全てはニコラ・レミの計算通りだった。

「今だけは好きなように振る舞うがいいさ。その全てが私の利益となるのだから」

 アンリ・ボケ率いる百万の軍勢はエレブを荒らすだけ荒らしてネゲヴへと去っていった。後に残ったのは焦土となったエレブの地である。

「最近教皇が体調を崩し、伏せることが増えている」

 ブルティガラでその報告を聞き、ニコラ・レミは嘲笑を浮かべた。

「もう『見なかった振り』は通用しないぞ。自分の理想の結果を受け止めるがいい」

 教皇の両腕と呼ばれた一方のアンリ・ボケはネゲヴへと旅立ち、もう一方のニコラ・レミはブルティガラへと去っていった。今やインノケンティウスの目をふさぐ者は教皇庁内には存在しない。以前はアンリ・ボケやニコラ・レミが塞き止めていた各地からの報告書がインノケンティウスの前に直接積み上げられている。民衆の悲嘆の声が、怨嗟の声がインノケンティウスに直接届けられているのだ。
 ニコラ・レミは聖槌軍の戦況もまた聞き及んでいる。フランクを始めとする五王国はバール人商会に聖槌軍への補給を委託しており、戦地に赴いたバール人商人が見聞きした戦況は五王国の王宮へと報告されている。その報告書の写しを手に入れるくらいはニコラ・レミにとっては造作もないことだった。

「思ったよりずっと苦戦しているな。あの男は想像以上に無能だった」

 聖槌軍は敵の焦土作戦により急速にその数を減らしていた。百万の威容を誇っていた大軍勢はネゲヴの街道に無数の死体をばらまき、街道を死体で舗装した。すでに二〇万を越える兵が餓死し、末端では人食いが横行しているという。あまりの惨状に各国の国王は卒倒していることだろう。
 もちろんインノケンティウスの耳にもネゲヴの現状は、聖槌軍の戦況は届いている。自分で知ろうとせずとも、見なかった振り、聞かなかった振りをしようとしても無意味である。教皇庁の中心部にいる以上、それらの報告を聞かないですませることなど不可能なのだから。それでも聞かないでいようとするなら病気となって床に伏せ、誰かを代理で立てるしかない。

「最近では起きている時間より伏せている時間の方がずっと長くなっております。教皇ももう長くはないでしょう」

 ニコラ・レミは訪れた部下の報告に「そうだな」と相槌を打った。ニコラ・レミ自身も高齢だから判るのだ。筋肉は使わなければ衰える。インノケンティウスのような高齢の者が横になるばかりの状態で筋肉が衰えないわけがなく、そうなれば起き上がって動くのがますます億劫となり困難となる。その筋力低下の悪循環の末に寝たきりがあり、その果てに永遠の眠りがあるのだろう。インノケンティウスの現状はその悪循環にはまり、すでに抜け出せないところまで来ているように思われた。
 やがて聖槌軍はスキラに到着し、そこでヌビアの皇帝の軍勢と川を挟んで対峙する。たったの一〇スタディアの距離を越えられないまま足止めをされ続け、軍勢は損耗の一途をたどり……インノケンティウスもまた伏せる時間がさらに長くなる。まるで聖槌軍の衰退とインノケンティウスの体力が同調しているかのようだ。
 そして三〇一六年キスリムの月(第九月)。聖槌軍が全滅し、残存するわずか一万がトリナクリア島に撤収したとの知らせがニコラ・レミの元へと届けられる。ニコラ・レミはその日のうちにブルティガラを出立、テ=デウムの教皇庁へと向かった。







 昨年末に百万の大軍勢でエレブを出発した聖槌軍も一年を経ずしてその数を一万余りまで減らしている。
 タンクレードの元に残った一万のうち、出征前からタンクレードの部下、あるいはユーグの部下だった兵は三分の一にも満たない。三分の二以上がヴェルマンドワ以外のフランク各地、あるいはディウティスク、あるいはイベルスの兵だった者達だ。聖槌軍の中では兵士や騎士が所属する軍を勝手に離れ、好きに選ぶのはありふれたことだったのだ。元々属していた軍が壊滅し、あるいは離散し、伝手をたどって知り合いの元に身を寄せたり、勝ち馬に乗ろうとしたり、より食糧の多い部隊を探したり……特に末期には激しい内訌があり、部隊単位、軍単位の所属替えも横行していた。この結果、フランクの将軍であるタンクレードの下にはディウティスクの部隊長がいてその下にイベルスの騎士がいてその下にレモリアの兵士がいる、といった混沌とした状況となっている。
 タンクレードはその多国籍の兵一万を五千ずつの二陣に分け、六隻のゴリアテ級に分乗させてトリナクリア島へと送り出した。第一陣の五千を率いるのはタンクレードの部下で名をサルロンという。第二陣を率いるのはタンクレード自身だ。
 キスリムの月(第九月)の上旬にサルロンの率いる第一陣五千がトリナクリア島に到着した。ゴリアテ級は五千の兵を放り出すようにしてトリナクリア島に上陸させ、さっさとヌビアへと帰っていく。トリナクリア島の海岸には途方に暮れた顔の五千の兵が残された。

「軍団長、これからどうしたら」

「軍団長、食糧は」

 問われたサルロンこそどうしたらいいかをタンクレードに訊きたかったが、タンクレードがやってくるのにはどんなに早くても一〇日はかかる。それまではサルロンが方針を定め、行動を決めなければならないのだ。
 サルロンはタンクレードより一〇歳下で、それなりに有力な貴族の三男坊だ。貴公子然とした容姿と勇猛果敢な戦いぶりで知られており、部下にも慕われている。一軍を率いるにはやや経験が不足しておりタンクレードもその点は不安があったものの、家柄や実績の点で彼以上の適任者はおらず、一軍を任せることとなったのだ。

「……ともかく、地元の領主のところ行って話をしなければ」

 上陸地点に一番近いのはシラコという町であり、これは元の世界ならシラクサに相当する。だがサルロンが動くよりも領主の方が使者を送ってくる方が早かった。馬に乗ってサルロンの前にやってきたのは初老の騎士である。

「私はシラコ伯マンフレーディが騎士、ダンベルトである! お前達は何者か!」

「私がこの軍団を預かっています。フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯配下、将軍タンクレードの騎士、サルロンです」

 サルロンはトリナクリア島にやってきた経緯を説明、食糧と住居の支援を要請した。

「五千もの兵への支援など私に判断できることではない。まずは我が主人に報告してからだ」

 とダンベルトは帰っていく。ダンベルトがやってきたのは日中だったが日が暮れる時間になっても誰も何の回答もやってこない。腹を減らし、しびれを切らしたサルロンは兵を引き連れて町の方へと移動した。
 武器を手にした五千の兵が前進する。サルロン達が上陸した海岸から領主マンフレーディの館までは五〇スタディアほど離れていたが、一万スタディアの征旅を生き延び、西地中海を一周したサルロン達にとっては目と鼻の先でしかなかった。
 一方、五千もの武装した兵に押しかけられたマンフレーディは慌ててダンベルトを派遣した。

「お前達聖槌軍の生き残りの扱いについては我が主人だけで判断できることではない。レモリア王宮と教皇庁に連絡を取って指示を仰ぐからしばらく待て」

「返答が来るまでどれ何日かかる? それまでどうしろと? しばらく待つのは構わんが、それなら食べるものと眠るところを用意しろ」

 サルロン達にとっては当然の要求だがマンフレーディやダンベルトは頭を抱える他ない。

「事前に連絡の一つもあれば我々だって……」

「連絡もなしに押しかけてくる客は追い返すべきだろう」

 部下の誰かがそんな愚痴をこぼしておりマンフレーディも内心でそれに同意するが、それで問題が解決するわけでもなかった。

「……東の海岸に砦があったな、あれを奴等に提供しよう」

 マンフレーディの発案に部下の半分が賛意を示し、半分が怪訝な顔をした。

「しかし、あの砦は百年以上前に放棄されています」

「判っている。だが他に五千もの兵を収容できる場所があるのか?」

 疑問を呈した者にも代案があるわけではない。結局それが決定事項となり、ダンベルトはその回答と館内からかき集めた食料を持ってサルロンの前に戻ってきた。マンフレーディがそれなりの努力と誠意を示してくれたことにサルロンは一応満足する。サルロンはその食料を全員に分け与えた上で、ダンベルトの案内で海岸の砦へと移動した。
 ……事態の悪化は急斜面を転がり落ちるような勢いであり、破局の到来は誰の予想よりもずっと早かった。だがそれ自体は誰もが予想したことだったのだ。
 まず、サルロン達に提供された砦は百年以上も放棄されており、荒れ放題の場所だった。壁や天井には穴が空き、今にも崩れ落ちそうである。床には草が生えており、屋内と屋外の区別がないくらいだ。砦自体も大した大きさではなく、五千もの兵を押し込んだら足の踏み場もなくなってしまう。この時点でサルロン達は大いに不満を持っていた。

「今日の分の食料はどうなっている?」

「昨日支給しただろう、あれで終わりだ!」

 一方マンフレーディの側にも言いたいことは山のようにあった。そもそもマンフレーディにはサルロン達を養う理由も義理もありはしない。それでもマンフレーディは身銭を切って支援をしているのだ。だがマンフレーディの身代で五千もの兵を維持するのは最初から無理があり、限界は早々にやってくる。

「シラコ領ではもうあなた達を支援することができない。レモリア本土まで移動し、レモリア王宮に支援を仰いでもらいたい」

「そうすることに異存はないが」

 ダンベルトの要請にサルロンは一応そう言い、腕を組んで考え込んだ。
 サルロンの元にはエレブ中の様々な国の兵が集まっている。レモリアの兵もある程度の数がいるが、トリナクリア島の出身者は一人もいなかった。つまりはトリナクリア島に永住すべき理由は何もないという意味であり、移動して少しでも故郷に近づけるのならそれに越したことはない。だが、

「本土に移動するための船は? 旅の間の食糧は? それは支援してもらえるのだろうな」

 そんな余裕があるのなら最初からこんな話は切り出していない、とダンベルトは言いたかっただろう。サルロンもそれは判っていた。結局、事態が手詰まりとなり打開策が何もないことを確認しただけでその会合は終わってしまう。その間にも状況は悪化の一途をたどっている。サルロン配下の兵士達はシラコの町中へと移動し、傍若無人の限りを尽くしていた。

「待ってください、お代は」

「領主様に払ってもらえ!」

 兵士達は店中の食べ物を食い散らかし、その代金は必ず踏み倒された。

「なかなかいい家だ。この家を使わせてもらおう」

 騎士達は目星を付けた家を奪い取るため、兵士を使って元の住人を叩き出した。何百というシラコ市民が家と財産を奪われ、路頭に迷うこととなった。兵士達による強姦や輪姦も当たり前のようにくり返された。
 五千という数に怯えていたマンフレーディもさすがに我慢の限界がやってくる。マンフレーディはありったけの手勢を集め(それでも百人ほどだが)鎧を身にまとい、自らサルロンの前に姿を現した。

「貴様達は私の町を、市民を何と心得ているのか! 今すぐこの町から出ていくがいい!」

 マンフレーディに剣を向けられ、サルロンも鼻白んだ様子だった。サルロンが五千の兵を動かせると言っても今は町中に分散していて、周りには十数人の味方しかいない。サルロンはできるだけ穏便にこの場をやり過ごすことを考えた。

「私も頭を痛めているところです。私からもよく言って聞かせますからどうか――」

 だがマンフレーディは「信用できるか!」と言下に否定。サルロンとマンフレーディの押し問答がしばらくくり返された。

「大体、貴様達はヌビアで味方を殺してその肉を食ってきたのだろう!」

 頭に血が上ったマンフレーディはついに禁句を口にしてしまう。サルロンが絶句したのを目の当たりにし、調子に乗ったマンフレーディは今まで我慢していた禁句を連発した。

「敵の皇帝と手を結んで、味方を崖から突き落として自分達だけ逃げ帰ってきたのだろうが! この卑怯者どもが、何故最後まで敵と戦わなかったのだ!」

 サルロンが無言のまま剣を抜き、部下の全員がそれに倣った。サルロン達が全身からみなぎらせる殺気にマンフレーディ側が狼狽する。

「何が判る……? 何が判るというのだ? この場所に、エレブにいて。この豊かで平和なエレブにいて、あの大陸での戦いの何が判るのか、と訊いている」

 サルロン達が一歩ずつ前進し、マンフレーディ側はそれに押されるように一歩ずつ後退した。押される一方のマンフレーディだが、貴族としての矜持が最後の一歩で踏み止まらせた。

「逃げるな! 立ち向かえ! 我々の町をこの卑劣な背教者どもから守るのだ!」

「貴様もあのアンリ・ボケと同類か!」

 マンフレーディが最後の一押しをし、サルロンも衝突回避の努力を投げ捨てる。剣を振り上げたサルロン達とマンフレーディ達が激突した。
 サルロンの下には十数人の兵、一方のマンフレーディの側には約百人。十数人くらいすぐに片付けられる、とマンフレーディは考えていたが、その目算は当たらなかった。率いる兵の質が段違いだったからだ。
 シラコ領からも多数の若者を聖槌軍に参加させており、その全員が帰ってこなかった。ここに集められた兵は四十五十の老兵や、金で徴兵義務を回避した者や、病弱なために徴兵されなかった者達だ。つまりは聖槌軍に参加しなかった、できなかったが故にこの場にいる者ばかりである。それに対してサルロン達は聖槌軍に加わり、最も過酷な実戦をくぐり抜けて今ここにいる。数では劣ろうと実戦経験や士気の面では比べものにならないということだ。
 確かにこの場の十数人ではマンフレーディの百人の兵に勝てはしない。だが防御に徹し、時間を稼ぐくらいなら彼等だけで充分だ。時間さえあれば味方はいくらでも増えるのだから。

「りょ、領主様! 敵が!」

「あっちからも!」

 町中に散っていた兵士が騒ぎを聞きつけて集まってくる。サルロン達はその数をすぐに倍にし、十倍にし、二十倍にした。そうなればもうマンフレーディに勝てる道理がありはしない。百人の兵は散り散りとなり、マンフレーディはわずかな供回りだけを引き連れて逃げ出した。サルロンの部下はそれをどこまでも追いかけている。
 サルロンは無人となったマンフレーディの館へと入り、何棟かあるうちの一つを住処とした。五千の兵士達は町中に散って狂乱の宴を開いている。家という家に兵士が押し入り金品を略奪し、女を強姦する。抵抗する者は容赦なく殺された。

「あの連中、以前はあれでも自重していたんだな」

 とは何とか生き延びたシラコ市民の嘆息である。シラコの町はマンフレーディが逃げ出し、サルロンが仮の支配者となって君臨した。「真の支配者」たるタンクレードがシラコに入城したのはその数日後のことである。







 キスリムの月の中旬、タンクレードは五千の兵を率いてトリナクリア島に上陸する。タンクレードは出迎えに来ていたサルロンとすぐに合流。事情の説明を受け、そして頭を抱えた。

「気持ちは判るが……堪えることはできなかったのか?」

 タンクレードから恨めしげな目を向けられ、サルロンは心外そうな顔をした。

「それは無意味です。奴は我々を裏切り者と、背教者と呼んだのです。マンフレーディだけでなく、エレブに残っている人間の多くが同じ見方をしているに違いありません。つまり我々には誰からもどこからも助けの手が差し延べられることはないのでしょう」

 今のタンクレードにはサルロンの言葉を否定する材料がない。タンクレードは状況を確認させるべくアニードをエレブへと送り出した。
 タンクレードにとってサルロンの暴発とシラコ占領は不本意なものであったが、やってしまったものは今さら取り返しがつかない。今のタンクレードにできるのは、シラコを自分の勢力圏として確立することくらいである。
 占領は長期間になる可能性があるため、シラコ市民のこれ以上の憎悪を買うのは得策ではない。タンクレードは配下の騎士を使って兵士を取り締まり、市民への暴行を抑制した。略奪品の一部は返品し、特に悪質な兵士は見せしめとして処刑する。その一方、略奪に参加できなかった第二陣兵士の不満が高まっているため、近隣都市への攻撃を検討しなければならなかった。
 エレブに送り出したアニードがシラコに戻ってきたのはキスリムの月の月末である。

「枢機卿ニコラ・レミが閣下に対する異端討伐を呼びかけています」

 アニードはまずその結論を報告。タンクレードが言葉を失っていることに気付かないまま報告を続けた。

「騎士サルロンの言うことは事実でした。閣下がどのように戦ったかはエレブでも広まっていますが、それは悪意によってねじ曲げられているのです」

 ユーグがギーラと和平を結んで西ヌビアを手にしれようとしたことは「敵との妥協」と非難された。ユーグとアンリ・ボケとの内訌は「王弟は敵の皇帝と手を結んで枢機卿を裏切った」と解釈された。タンクレードが竜也と結んだ和平協定は「敵への降伏」と見なされた。そして死の谷の大虐殺は「自分だけ生き延びるためにタンクレードが邪魔な味方を皆殺しにした」と決めつけられたのだ。

「――噂はかなりの正確さで、現地で実際に目にした者でなければ知らない話が多く含まれています。おそらく、ヌビア側がバール人を使って意図的に流しているのでしょう」

 アニードは悔しげに呻いている。

「……申し訳ありません。私が奴等の口車に乗ってあのような提案をしなければ」

「それ以上言うな。皇帝は嘘をついたわけではないし、皇帝の意図を見抜けなかったのは私も同じだ」

 ある程度の戦力を残したままのタンクレードをエレブに送り返す一方、タンクレードを「裏切り者」「背教者」と言い立ててエレブ中の憎悪をタンクレードに集中させる。エレブ人の敵意をヌビアではなくタンクレードに向けさせる――タンクレードは今にやってようやく竜也の狙いを理解していた。

「大したものではないか、皇帝クロイよ」

 タンクレードが漏らしたため息は自嘲と竜也に対する賛嘆が半々となっていた。だがそこに竜也に対する非難はない。タンクレードもまたユーグの謀将として数多くの政敵を陥れ、抹殺してきたのだから。

「騙される方が間抜け、罠にはまる方が無能」

 敵の怨嗟を耳にしながらそううそぶいてきたのはタンクレード自身だ。謀略に生き、知謀に誇りを抱いてきた者として自分の言葉を嘘にすることはできないし、するつもりもなかった。

「それに、悪意を持って噂をねじ曲げているのは皇帝よりもむしろエレブ人の方だ。彼等にとって私は『裏切り者』であり『背教者』である必要があるのだ」

 百万が出征し、たった一万しか帰ってこなかった、想像を絶する無残で悲惨な敗北――その責任は誰に帰するべきだろうか? 真に責任を負うべき者は、今は自分が信じる天国にいるのだろう。彼と責任を共有すべき者は存命で教皇庁の最奥にいるが、彼がその責任を追及される可能性は絶無である。そうなれば生き乗った中で最も高位の者に全ての責任を負わすしかない。その者を非難し、弾劾し、断罪し、敗北の全ての理由となる人身御供となってもらう。たとえ気休めでしかなくとも、わずかでも心の平衡を取り戻すには他に方法がない――タンクレードを犠牲の羊として捧げることでエレブ全体が意志を一つとしているのだ。

「……それでは閣下はどうするおつもりで?」

 タンクレードの解説を聞いたアニードが問う。

「それが事実なら閣下の居場所はもうエレブにはどこにもないではありませんか」

「ないことはない。ここだ」

 とタンクレードは叩くように床を踏みつけた。

「一万の兵があればトリナクリア島全土を手にすることも充分可能だ。エレブ本土とも海で隔てられていて守りに易い。シラコを占領した事実は消せはしない以上、エレブ本土との対立はどの道避けられなかったのだ。ならばここに我々の王国を築くまでだ」

 はあ、と呆然としたようなアニードにタンクレードが命じる。

「サフィナ=クロイに行って皇帝から支援を要請してこい。ヌビアの海軍に討伐軍の軍船を攻撃させて、上陸する敵を少しでも削らせるんだ」

「……無条件で、ですか?」

 そうだ、とタンクレードは大きく頷く。

「あの皇帝なら支援しないはずがない。我々がここで暴れることは皇帝にとっての何よりの利益なのだからな」

 タンクレードは竜也の思惑を誰よりも正確に把握していた。タンクレードは竜也の描いた絵図を見抜き、それを最大限利用しようとした――だが、それがタンクレードの限界だった。タンクレードは竜也から与えられた状況を最大限生かそうとはした。だが、「皇帝の思惑を根底から覆してやる」等とは思いつきもしなかった。それは能力ではなく性格や適正の問題だが、それこそがタンクレードをして「ユーグの部下」で終わらせた最大の理由だったのだ。







 聖戦は終わった。エレブ社会と経済を崩壊させながらヌビアに出征させた百万の将兵はヌビアの大地に露と消え、わずか一万がトリナクリア島に逃げ帰ってきただけ。フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯ユーグ、ディウティスク国王フリードリッヒ、枢機卿アンリ・ボケ、綺羅星のようなエレブの英雄達は誰一人として帰ってこなかった。

「異教徒を皆殺しにしろ」

「自分の領地を持てる」

「ネゲヴに自分の畑を持てる」

 宗教的情熱と欲望に目が眩み、熱狂に煽られるだけでなく煽る側にも回っていた。聖戦に疑問を呈する者を吊し上げにし、嫌がらせや私刑まがいの制裁を加えた。出征が始まると想像を絶する負担に「こんなはずでは」という思いが頭をもたげてきた。だがそれに蓋をし、笑顔で夫を、息子を、兄弟を聖戦に送り出したのだ。戦いに勝ちさえすれば全てが報われる、今流している血も涙も全てが価値のあるものとなる――それを信じて。
 宴は終わった。狂信という酔いから覚め、見回せばそこにあるのは焦土となったエレブの大地。種籾すら残らず空となった穀物庫、空となった財布。帰ってこない夫や息子や兄弟。そしてエレブの領土は寸土たりとも増えておらず、手にしたものは敗北という汚名だけ。
 一体何のための戦いだったのか、一体誰のために流された血と涙だったのか――エレブの誰もが喪われたものの大きさに呆然としている。他に何もできないでいる。
 教皇庁でも人々がただ馬鹿のように呆然としているのは同じだった。だが一般の社会とは少し違う点がある。衝撃のあまり言葉もない――それを装って誰もが沈黙を選んでいる、ということだ。
 教皇庁こそ聖戦を推進してきた張本人であり、この事態に対する最大の責任を有している。中でも最大の責任者は教皇インノケンティウスだが、インノケンティウスを諫めなかったという意味では教皇庁の全員が彼の共犯者だった。下手に口を開けば責任を追及される羽目になってしまう……誰もがそれを理解し、怖れているからこそ沈黙を選んでいる。選ばざるを得ないのだ。
 ニコラ・レミが帰還したのはそんな状況下である。ニコラ・レミは枯れ葉を握り潰すほどの容易さで教皇庁全体の主導権を掌握した。

「背教者タンクレードを生かしておくな! 裏切り者を討伐するのだ!」

 ニコラ・レミはまず最初にタンクレードに敗北の全責任を押し付け、タンクレードに対する異端討伐を呼びかけた。ニコラ・レミは使者を派遣してレモリアやフランクの王宮や諸侯に出兵を要請する。その一方、

「教皇はどうしている?」

「昏倒しております」

 タンクレード軍一万を残して聖槌軍が全滅した、という報告を受けた教皇インノケンティウスはその場で卒倒。ベッドに運び込まれたがその意識は混濁し、うわごとをくり返しているだけだという。

「聖下はしきりに枢機卿アンリ・ボケの名を口にしています。それに、猊下のお名前も」

「もうただの死に損ないだ。放っておけばいい」

 インノケンティウスが全ての政治力も一切の行動力も失った、と判断したニコラ・レミはそれきり彼に対する関心をなくした。

「あの男ももう長くはあるまい。こっちの準備が整ったなら神の御許に送ってやろう」

 ニコラ・レミは教皇に就任するための準備を進めた。ニコラ・レミの計算通り、聖戦の規模縮小を訴えて左遷された経歴は彼にとって最大のアドバンテージとなっている。ニコラ・レミが教皇になることに何一つ問題はないように思われたが、彼はそこで満足しなかった。

「私に足りないものが一つだけある。私はそれを手に入れ、その上で教皇となる」

 インノケンティウスと比較してニコラ・レミが圧倒的に劣っているもの――それは武力だ。インノケンティウスはアンリ・ボケという恐るべき暴力装置を有していた。教皇に逆らったならあの男が何をするか判らない――その恐怖こそがインノケンティウスの権力の源泉だったのだ。ニコラ・レミとて自分の陰謀にアンリ・ボケの存在をどれだけ有効活用してきたか判らない。アンリ・ボケがいなければニコラ・レミが打てる手は半分以下となっていただろう。
 ニコラ・レミはインノケンティウスを超える教皇となるために武力を欲した。タンクレードに対する異端討伐はそれを手に入れることこそが真の目的なのである。

「一万のタンクレード軍を殲滅するには三万も集めればいいだろう」

 ニコラ・レミがタンクレード軍討伐を宣言したのはティベツの月(第一〇月)の初頭。一月ほどでテ=デウム周辺のフランク諸侯から二万の兵を集め、レモリアで集めた一万の兵と合流。合計三万でトリナクリア島に渡ってタンクレード軍を殲滅。年内にはテ=デウムに凱旋して来年年初に教皇に就任する――ニコラ・レミはそのように目算を立てていた。
 そしてシャバツの月(第一一月)の中旬に入ろうとする頃。テ=デウムにはニコラ・レミの呼びかけに応じた諸侯の軍勢がようやく集まっていた。
 ただ、その兵数は千にも届いていない。

「……これはどうしたことだ」

 集まった、あまりにも頼りない数の兵を前にしてニコラ・レミはそう言ったきり絶句した。ニコラ・レミが何とか自分を取り戻したのはかなりの時間が経ってからである。

「お前はアルトワ伯の家中の者か、この数は一体どうしたことか」

 ニコラ・レミの目算ではアルトワ伯は数千の兵を送ってくれるはずだったのに、実際には二百足らずでしかなかった。その二百の兵を率いる騎士は無言のまま十数枚の書状をニコラ・レミの手の上に積み上げていく。その無礼な振る舞いに腹立ちは募ったものの、ニコラ・レミはまずそれらの書状に目を通した。




「……わたしの夫と息子四人が教皇聖下の命に応じネゲヴの魔物討伐に向かいましたが、未だ戻ってきていません。わたしの元に残っているのは七歳の末の息子だけですが、この子に背教者を討伐させよと命じられるのでしょうか?」

「……私の五人の息子が聖槌軍として出征したが、一人して戻ってこなかった。それでも枢機卿は『神と教会への貢献が足りない』と言われるのだろうか?」

「……我が領から出征させた騎士と兵千人はどうなかったのか? それに明確な返答をいただきたい。背教者の討伐に協力するのはその後だ」

「……我が領では夜盗が跳梁し、農民が一揆をくり返している。我が領は聖槌軍に千の兵を送ったのだから、今度は我が領に教会の騎士団を派兵してほしい」




 書状を読むほどにニコラ・レミの手が震えた。それは怒りなのかもしれないし、自分の目算が崩れつつあることへの拒絶反応なのかもしれない。自分の肺腑をかき回しているこの感情がなんなのか、ニコラ・レミには理解できなかった。
 書状に落とされていたニコラ・レミの目がアルトワ伯の騎士へと向けられる。その騎士は肩をすくめ、

「これだけの兵を集めただけでもありがたいと思うべきだ。これ以上を要求するなら我々も領地に帰るまでだ」

 とニコラ・レミに背を向ける。ニコラ・レミはその騎士にかけるべき言葉を持たなかった。
 ニコラ・レミは自分でも気が付かないうちに尻餅をついていた。まるで、難攻不落の城塞だと信じ切って寄りかかった石の城壁が、芝居で使われる書き割りとなって後ろへと倒れたかのようだ。

(一体何だ……何が起こっている。まるで芝居が終わったかのように……)

 芝居の中で主人の役を演じていた男が、芝居が終わった後でも家来役の男にまるで主人のように話しかけたなら、家来役の男はどう反応するだろうか? この騎士の振る舞いがまさにそれなのではないのか――ニコラ・レミの直感は真実に限りなく肉薄していた。だがその直感を言語化し、論理化することはついになかった。
 ニコラ・レミは理解しようとしなかった。彼がその存在を疑わなかった「聖杖教と教皇庁の権威」は太陽や月のように実在するわけではなく、ただエレブ人社会全体の「約束事」として存在していたに過ぎないということを。だがれそを理論的には得心せずとも、感覚的には、肌身には実感せずにはいられない。
 聖槌軍の強行によりインノケンティウスとアンリ・ボケは自分達の政治基盤を掘り崩している――ニコラ・レミはそう判断したからこそ諫言も妨害もせず、流される大量の血も涙も嘲笑とともに見過ごしてきた。だがアンリ・ボケ達が掘り崩したのは聖杖教の権威そのものだったのだ。
 もしそうと判っていたならニコラ・レミはどんな手段を使ってでもあの二人を制止しただろう。ニコラ・レミはインノケンティウスとアンリ・ボケを制止できる事実上の唯一の人間だったのだから。だが今になってようやくそのことに思い至ったところで後の祭もいいところだ。
 教皇庁と聖杖教の権威はインノケンティウスとアンリ・ボケによって無為に消費され、蕩尽され、蚕食され、もはや書き割りみたいな形骸しか残っていなかった。そしてニコラ・レミによる異端討伐呼びかけはその書き割りをも蹴倒す最後の一撃となったのだ。
 ニコラ・レミは地べたに座り込み、両掌も地面についている。少し前までは世界の全てをこの手に握っていたかのように思えたが、今はただの砂すら手の中にありはしない。
 ニコラ・レミの脳内の冷静な部分がすでに計算結果を算出していた。アンリ・ボケが百万の兵を集めたのに対し、自分が集めたのは千以下。この異端討伐は自分の政治力のなさ加減を満天下に暴露しただけだった。このまま異端討伐を強行しても、討伐を中止しても、政治的な大打撃は避けられない。目前にしていた教皇の座も限りなく遠のいてしまっている。
 ニコラ・レミは自分の視界が暗くなっていくのを感じた。自分の視界がどんどん狭くなっていく。単にまぶたが閉じていくだけではない。それは目の前で閉ざされていく、自分の未来への扉だった。





[19836] 第五一話「ケムト遠征」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/02 21:01




「黄金の帝国」・征服篇
第五一話「ケムト遠征」







 海暦三〇一六年ティベツの月(第一〇月)・一日、竜也はクロイ朝ヌビア帝国の建国を宣言。それと同時に新制帝国政府の人事辞令が発令された。
 まず竜也の公式の役職だった独裁官は廃され、皇帝の名称に一本化される。総司令部は解消され、全ての官僚・役職が帝国府へと横滑りした。帝国の統治は皇帝親政、それを輔弼するのが帝国府である。メンバーは総司令部のときとほとんど変わらない。
 さらにそれと同時に、竜也がある事実を公表した。




第一皇妃     ファイルーズ(メン=ネフェル出身)
第二皇妃(予定) ラズワルド(白兎族)
第三皇妃     ミカ(エジオン=ゲベル出身)
第四皇妃     カフラマーン(バール人)
第五皇妃     サフィール(牙犬族)




 ミカ、カフラ、サフィールの三人は今回を機に正式な皇妃となった。まだ一三歳のラズワルドは成人になっていないので「予定」が付いている(この世界では一五歳で成人と見なされる)。正直に言うと竜也は「ついでだからディアも一緒に皇妃にしておくべきか」と迷ったのだが、

「エレブの村にいる一族の者にどんな危難が及ぶか判らない。今回は我慢しておこう」

 とディアの方から辞退したのである。安堵する竜也だがディアは、

「別に皇妃になるのを諦めたわけではないぞ? いずれ必ず嫁にもらってもらうからな」

 と付け加えるのを忘れない。問題は先送りにされただけだった。
 なお、皇位継承権は「母親の皇妃の順位の高さが最優先、年齢はその次」で決められることがソロモン盟約に明記された。

「これで皇位継承を巡る政争や内乱は起こらないだろう」

 と竜也は思っていたのだが、

「そのためにはまず御子を授からなければ話が始まりませんでしょう?」

 ともっともなことを言うファイルーズが寝室のベッドの中で竜也を待っていた。しなやかな肢体を包んでいるのは短い丈の絹のナイトウェアだ。薄い絹は艶やかな曲線を浮き立たせており、全裸よりも扇情的である。竜也は思わず唾を飲み込んだ。

「御子は最低二人はいませんと。一人にクロイ朝を継がせ、もう一人にはセルケト朝を継がせます。そうすれば、たとえクロイ朝が断絶してセルケト朝から皇帝を迎えることになったとしても、タツヤ様の血が永遠に受け継がれますわ」

 ファイルーズはそんなことを言いながら竜也へと迫ってくる。あまりに色気のない話だが「竜也と自分の子供にセルケト朝を継がせる」というのはファイルーズにとって最大級の愛情表現なのである。竜也もその気持ちに応え、子供を授かるべく色々と力を尽くしたのだった。
 そんなわけで、最近はファイルーズばかりと夜を過ごしていた竜也だが、その日から数日は月の障りのためファイルーズがやってこなかった。

「……」

「……あの」

 その夜、代わりにベッドで待っていたのはラズワルドである。ラズワルドが拗ねたように、

「……あの女ばかり、ずるい」

 と頬を膨らませて竜也を睨み、竜也は怯む。

「ああ、うん、ごめん。今夜は一緒にいよう」

 と竜也はラズワルドを宥め、布団に潜り込んでその身体を抱きしめた。ラズワルドもまた拗ねるのをやめ、竜也の胸に頬を押し付ける。すでに一三歳のラズワルドだが実年齢より二、三歳幼く見える発育の悪さは以前と変わりなく、竜也にとっての印象も初めて会った頃そのままだ。その夜も特に艶っぽいことになることもなく、二人は親子のように仲良く一夜を過ごしたのだった。
 その翌日の夜。

「たたたタツヤ、ままま待っていました」

 竜也は言葉を失い寝室の入り口で立ち尽くす。その夜、ベッドの中で竜也を待っていたのはミカだったからだ。部屋の中は真っ暗だが廊下から入る灯りがわずかにミカの姿を照らしている。

「ななな何をしているのです! 早く戸を閉めてこちらへ!」

「ああ、ごめん」

 タツヤは慌てて戸を閉める。その途端寝室は真っ暗闇となった。タツヤは手探りでベッドへ向かい、布団の中へと身を潜り込ませる。

「――!」

 ミカが声にならない悲鳴を上げ、タツヤもまた驚きに息を呑んだ。ミカが一糸もまとわぬ姿なことが判ったからだ。

「……くくくクロイ朝の存続にはファイルーズ様が御子を授かることが最善ですが、御子は天からの授かり物ですのでこればかりはどうなるか判りません。ファイルーズ様がご懐妊されなかった場合を考え、わたし達もまた御子を授かっておくべきなのです」

 ミカは自分に言い聞かせるように早口にそんなことを言う。竜也は苦笑しながら服を脱ぎ捨て、自分の裸身にミカを抱き寄せる。ミカは彫像のように全身を硬直させた。

「裸になってしまえば皇帝も皇妃もないだろう? ここにいるのはただのタツヤとただのミカだ」

 竜也はそう言ってミカの理論武装を解除してしまい、身体だけでなくミカの心までも裸にした。ミカは「あう……」と呻いて、消え入りそうになりながら、

「……や、優しくしてください」

 と囁き声で懇願する。竜也は我を忘れそうになるのを必死に制御し、

「もちろん」

 と甘い声で答えた。
 ……元の世界で蓄積した知識と、ファイルーズとサフィールで培った実践経験。竜也はその二つを最大限活用し、ミカを悦ばせるべくあらゆる手を尽くした。ただ、ミカの性感は発達していなかったので努力に見合った効果があったわけではない。そして、

「――痛いと言っていますタツヤ!」

 挿入の痛みに耐えかねたミカが思わず裏拳を振るい、その拳が竜也の顔面に叩き込まれる。竜也はぶっ飛ばされて鼻血を出した。
 結局その夜は最後まで至ることなく、一緒に眠っただけで終わってしまった。翌日、シーツに付いた竜也の鼻血をメイドに見られ、

「随分多かったんですね、大丈夫ですか?」

 と気遣われ、往生したミカの姿があったという。
 さらにその翌日の夜。

「タツヤさん、待っていました」

 その夜、寝室のベッドの中で竜也を待っていたのはカフラである。カフラが身にしているのは以前皆で着ていた踊り子の衣装だった。竜也はカフラの肢体に目を奪われ、

「ああ、うん」

 と生返事をしながらベッドの脇に腰掛ける。カフラは身を固くした。

「……あはは、照れくさいですね」

 カフラは緊張と恥ずかしさを笑ってごまかそうとする。そのため竜也の緊張は逆に和らいだ。

「ええっと、優しくするから」

「はい。よろしくお願いします」

 カフラは深々と頭を下げた。
 ……カフラは何一つ抵抗せずに竜也の行為を、愛撫を全て受け入れた。だがカフラはつぶらな瞳を大きく開いて竜也の行為を見つめ続け、

「うわ……」

 時折そんな呟きを漏らしている。愛欲に身を任せているようでいてその瞳から好奇心という光が消え去ることはなく、竜也はやりにくくて仕方なかった。
 そして翌朝、カフラは船の一室にファイルーズ達五人を集め、

「――そこでタツヤさんがこーしながらわたしの背中を軽く撫でて!」

 昨晩のことの報告会を開いていた。カフラは小芝居付で竜也との一夜を語り聞かせ、濃淡の差はあっても五人とも興味津々でそれに耳を傾けたという。
 さらにさらにその翌日の夜。

「タツヤ殿、お待ちしておりました」

 その夜、寝室のベッドで待っていたのはサフィールである。サフィールはベッドの上で正座しており、身にしているのは浴衣とガウンの中間のみたいなナイトウェアである。

「ああ、うん」

 ファイルーズに比べれば圧倒的に回数は少ないがサフィールとは何度も肌を合わせおり、今さら緊張するような間柄でもない。竜也が服を脱ごうとするとサフィールが立ち上がり、竜也の脱いだ服を受け取って畳んでいく。竜也はサフィールに急かされるようにして服を脱ぎ、裸となる。サフィールもまたためらいもなく服を脱いで生まれたままの姿となり、そして小学校の運動会の開幕を告げるみたいに明るい笑顔で爽やかに、

「それでは、子造りをいたしましょう!」

 と宣言した。

「父上にも『早く孫を』と言われていますし、一族の者にもタツヤ殿の世継ぎを望まれています! 牙犬族の女は安産・子沢山で定評があるのです、お任せください!」

 とサフィールは裸の胸を張る。が、竜也が頭を抱えてるのを見て不思議そうに首を傾げた。

「どうされたのですか?」

「……いや、何でもない」

 恥じらいや色気の欠片もないサフィールに竜也はその気を取り戻すのに大いに苦労する。だが何とかサフィールに恥をかかさずに一夜を過ごすことができたのだった。
 さらにさらにさらにその翌日の夜。

「……誰もいないか」

 順番からして今夜はディアが待っているのではないかと怖れた竜也だが、寝室のベッドには誰もいなかった。その夜、竜也は久々の独り寝で心身をゆっくりと休めた。
 そして翌朝。竜也が熟睡から目を覚ますと、

「ようやく目が覚めたようだな、皇帝」

 腕の中には半裸のディアの姿があった。

「え? え?」

 と混乱する竜也にディアが、

「昨夜はなかなか激しかったな」

 とにやにやしながら追い打ちをかける。竜也は顔を青ざめさせた。

「――まあ、ただの冗談だが」

 ディアの言葉に竜也は突っ伏し、枕に顔を埋める。竜也が気を取り直し、顔を上げて恨めしげな目をディアに向けたのはかなり時間が経ってからである。

「……ディア」

 ディアは「すまんすまん」と言いながら竜也の背中に手を回し、その胸に顔を埋める。竜也はちょっと焦った。

「な、何を」

「ここは心地良いな。もう少しこうさせろ」

 ディアが年相応の無邪気な笑みを見せ、竜也が一瞬真剣な表情となる。ディアのその緊張を解いた、屈託のない笑みは竜也が初めて見るものである。今竜也の腕の中にいるのは銀狼族の族長ではなく、ただの年頃の少女だったのだ。
 ――その日以降、ディアもまた竜也と夜を過ごすローテーションに組み込まれることとなる。成人していても皇妃ではないディアは竜也にとってはラズワルドと同じ扱いで、単に一緒のベッドで眠るだけで他には何もない。が、事実がどうあれ未婚の少女にそんな真似をさせている以上、第三者からすれば夜伽をさせているのと何も変わりはなかった。竜也もそのことは自覚しており、

「ディアのことは皇妃に準ずる扱いとするように」

 と公邸の女官やメイドに正式に命じている。つまりそれは「ディアをいずれは皇妃にする」と宣言したも同然だった。それを知ったディアが、

「――計画通り」

 と悪辣な笑みを見せたかどうか、それは定かではない。







 ティベツの月の中旬のその日、竜也はある連絡を受けてサフィナ=クロイの港へとやってきていた。ベラ=ラフマがそれに同行する。
 港には海軍の高速船の他、見覚えのある商船が停泊していた。そして桟橋には久しぶりに会う二人の人物が佇んでいる。

「ルワータさん。それにアニードさん」

 竜也は早足で二人に接近、まずはムハンマド・ルワータと固く握手を交わした。

「お久しぶりです」

「皇帝も元気そうで何よりだ」

 次いで竜也はアニードに顔を向けた。

「アニードさんも……」

 そこまで言って、竜也は我知らずに言葉を途切れさせた。

「ふん、小僧も正式に一国の国主か」

 過酷な経験のためか、アニードはかなりやつれて人相が変わっていて、まるで別人のようである。だがその太々しい態度は以前のままだった。
 竜也達四人は海に面した海軍施設に移動、そこの応接室で会談を持つこととなった。

「エレブ情勢はどうなっていますか?」

 竜也は開口一番にそれを訊ねた。ルワータが人が悪そうな笑みを見せる。

「一言で言えば大混乱だ。教皇インノケンティウスも倒れた」

 竜也が「倒れた」とオウム返しにし、ルワータが頷く。

「ガイル=ラベク達の海上封鎖もあってヌビアでの戦況はエレブには充分伝わらなかったのだが、それでも焦土作戦で聖槌軍が膨大な死者を出していることは聞こえてきた。その頃から教皇はよく伏せるようになったそうだ。

 聖槌軍がスキラで立ち往生して戦況が好転しないままなので、エレブでも私的な場所でなら聖戦に対する疑念が口にされるようになった。そして『タンクレードの一万を残して聖槌軍が全滅した』という知らせがエレブにも届いた。タンクレードが皇帝と和平を結んだことも、エレブに戻るために足手まといの味方一七万を皆殺しにした話もエレブ中に広まった。それでついに教皇が倒れたのだ」

 その話を、タンクレード軍の所行をエレブ中のバール人に広めて回っているのはルワータ自身なのだが、そんな素振りはのぞかせもしない。そのルワータにベラ=ラフマが確認する。

「教皇が死んだわけではないのだな」

「まだ死んではいないが、教皇ももう八〇歳近い。おそらく二度と起き上がりはできないだろうし、すでに死んだも同然だろう」

 今度は竜也が、

「それじゃ、次の教皇は?」

「枢機卿ニコラ・レミが名乗りを挙げている。他にも手を挙げている者は何人かいるそうだが、ニコラ・レミが今のところ最有力候補だ」

 その言葉に竜也は腕を組み、気難しげに考え込んだ。

「ニコラ・レミが聖槌軍を再発動する可能性は?」

 竜也の懸念にルワータが苦笑しつつ手を横に振った。

「いくら何でもそれはあり得ない。百万が出征して一万しか戻ってこなかったのだぞ? その一万も英雄として凱旋したわけでは決してない」

「今エレブで問題となっているのはその一万の扱いなのだ」

 といきなりアニードが口を挟んできた。

「教皇庁からすれば、将軍タンクレードは聖杖教を裏切ってヌビアの皇帝と手を結び、味方を殺戮して逃げ帰ってきた背教者だ。ニコラ・レミは将軍を異端認定し、討伐のための出兵を呼びかけている」

「なるほど、その功績を持って次期教皇就任を確実にしようということか」

 ベラ=ラフマの言葉にアニードが「その通りだ」と頷いた。
シラコを根拠地としたタンクレード軍は支配領域の拡大を進めた。攻略対象となったのはタプソス、アクライといった近隣都市だ。元々聖槌軍に徴兵されて戦える人間がろくに残っていない町であり、タンクレード軍は無人の荒野を進むがごとくに二つの町を制圧した。自分達に逆らう市民は一人も逃さず殺して回り、金品という金品は略奪され、女という女は強姦された。そもそもタンクレード軍の、聖槌軍の一般兵にとっては「聖戦」など単なる題目。それにかこつけた略奪や強姦こそが本当の目当てだったのに、ヌビアでは焦土作戦のためにろくにできなかった。その機会をトリナクリア島でようやく掴んだのだ、タンクレード軍の兵士達が自制するはずもない。

「……」

 話を聞いていた竜也は不快感を無表情で押し隠している。アニードもそれを感じ取っているようだが気付かないふりをして話を続けた。

「ニコラ・レミがレモリアやフランクの領主に呼びかけ、兵を集めている。一方我々には兵を増やすあてがない。今の一万だけでニコラ・レミの討伐軍を迎え撃たなければならないのだ」

 自軍の将兵の暴走にタンクレードは頭を痛めているが、それを強く制止できない弱みがあった。タンクレードの元に集まっているのは聖槌軍の生き残りであり、いくつもの国を出身地とする雑多な寄せ集めだ。ヴェルマンドワ伯ユーグのように地位や名誉で部下に報いることも、アンリ・ボケのように自身の正義を妄信させることも、タンクレードにはできない。できる立場でも状況でもない。タンクレードにできるのは利益で部下を釣ること、それだけなのだから。
 市民を殺戮し女を強姦するタンクレード軍は竜也としては到底味方するに値しない相手なのだが、

「――判った、帝国として支援を約束する」

 皇帝としての判断はまた別物である。

「トリナクリア島に討伐軍を送るにはそれだけの輸送船が必要だ。海軍を使ってその輸送船を攻撃させる。全部は無理でもある程度は沈めて、上陸する敵兵を減らす」

「閣下に代わり、皇帝に感謝する」

 アニードはあからさまに安堵の様子を示した。上機嫌となったアニードが、

「皇帝には我が商会が帝国の各商会と取引をする許可を願いたい。銃や大砲を売ってほしいのだ。我が商会からは小麦や奴隷を売却する」

 その奴隷がトリナクリア島の無辜の島民をおとしめたものであることは何も言わずとも明白だった。嫌悪感を募らせた竜也は一瞬ためらうが、

「――構わない」

 と返答した。
 ……タツヤの許可を得たアニードは、早速顔見知りの商会の元に商談をしに向かう。その応接室には竜也、ベラ=ラフマ、ルワータの三人が残された。

「……ベラ=ラフマさんには近々ケムトに行ってもらう予定にしている。だからトリナクリア島のことはルワータさん、あなたに担当をお願いしたい」

 竜也の言葉にルワータが頷く。

「ケムトとエジオン=ゲベルが片付くまで長くとも一年。その一年間はタンクレード軍の反乱が続くように頼む。エレブを、教皇庁をトリナクリア島に釘付けにするんだ」

 ムハンマド・ルワータが「判りました」と返答する。竜也はそれに頷きながら、氷のように冷たい目を想像上のトリナクリア島へと向けていた。







 それから数日後、その日も竜也はサフィナ=クロイの港へとやってきていた。今回竜也に同行しているのはラズワルドである。ベラ=ラフマもまたその場にいるが、

「それでは皇帝、出発します」

「ああ、身体に気を付けてくれ」

 これから出港する船に乗り込むところだった。ベラ=ラフマがケムト遠征軍の受け入れ準備のために一足先に東へと向かうこととなり、竜也達はその見送りに来ていたのだ。

「ほら、ラズワルドも」

 と竜也に促されて少女は「ん」と返答をするが、それきり黙ってベラ=ラフマを見つめるだけだ。ベラ=ラフマもまた無言のままで、竜也は困ったような笑いが宙に浮いた。それでも両者の間にはそれなりの感情や気遣いの交流が存在するようだった。
 ベラ=ラフマ達を乗せた船が桟橋を離れて出港する。それを見送っていた竜也達だがやがて背を向け、その場を離れた。
 次いで竜也が向かった先は港に停泊していたガイル=ラベクの旗艦である。軍船の、あまり広くない船長室。部屋の片隅では椅子に座ったラズワルドが少し退屈そうに足をぶらぶらと振り、竜也はガイル=ラベクと机を挟んで向き合っている。机の上には地中海を中心とした三大陸の地図が広げられていた。

「討伐軍がレモリアからトリナクリア島に移動するには当然ながら船を使う。その船を攻撃して可能な限り沈め、トリナクリア島への上陸を阻止する」

 ガイル=ラベクは「ふむ」と手で支えるように顎を触った。

「……エレブ側の海域に入って戦闘をするなら近くに拠点がほしい。カルト=ハダシュトでは遠い」

「それじゃ、ここか?」

「そうだな。今の帝国ならその島の占領くらいは容易いことだ」

 二人は互いの言葉に頷き合う。竜也達が指差す地図上の島、それは元の世界ではマルタ島と呼ばれる島であり、この世界ではメリタ島という名前だった。
 ティベツの月も下旬に入る頃。その日、竜也が訪れたのはナハル川沿いの野戦本部である。戦争が終わってからはしばらく閑散としていたその場所だが、今は人や兵が溢れ、活気に満ちていた。ケムト遠征軍がその場所を集合地点としているのだ。遠征に参加するのはマグドの奴隷軍団、それにタフジールの率いる第十軍団だ。
 竜也は足の向くままといった様子で陣地内を歩いて回り、兵の様子を注意深く観察している。竜也の隣にはラズワルドがいるが、少女の力を借りなくても兵が微妙に殺気立っているのは判ることだった。
 奴隷軍団と第十軍団の陣地を抜け、エレブ人部隊の陣地に入ろうとする竜也だがバルゼル達近衛に止められて断念した。それから竜也は野戦本部の天幕へと向かう。

「一万五千……まあまあだな」

 マグドから受け取ったケムト遠征軍・その中のエレブ人部隊の編成表に目を通し、竜也はそんな風に呟いた。エレブ人部隊は二隊に分けられ、一隊は貧乏貴族出身のベルナルドが、もう一隊は傭兵出身のガルシアが率いることになっている。一方のマグドはしかめ面だ。

「まあな。ヌビア人の部隊はその倍近くになる。最悪エレブ人部隊の全員が反乱を起こしても致命傷を負わずに潰せるだろう」

 マグドの懸念に、

「そんな心配はいらない」

 と胸を張るのはラズワルドである。

「わたしが一人一人をちゃんと確認した」

 ラズワルドの言葉を白兎族のラキーブが補足する。

「白兎族が総出になって不穏分子を排除しています。現時点では反乱の心配など杞憂です」

 さらにディアがラキーブの補足をした。

「エレブ人部隊には銀狼族や灰熊族、それに戦争中からヌビア軍に協力している者達が入り込んでいる。反乱の兆候があればすぐに判るようになっているが、今のところはそんなもの微塵も感じない。……もっとも、行軍中に補給がされないとか、あまりに危険な、あまりに屈辱的な命令が下るとかがあったならどうなるかは、わたしも保証はできないがな」

「そういうことだ、将軍マグド」

 と竜也が話をまとめた。

「エレブ人部隊を差別することなく、奴隷軍団や第十軍団と同等に扱ってほしい。将軍マグドは解放奴隷を集めた軍団であのヴェルマンドワ伯と互角に戦い、トズルを守り抜いたんだ。これは将軍にしかできないことだ」

 竜也の言葉にマグドは肩をすくめるしかない。

「まあ、そこまで言われちゃやるしかないが……それにしてもエレブ人とヌビア人の間で溝がありすぎる。何とか溝を埋めなければ遠征どころではない」

「確かに。そこで考えたんだが――」

 と竜也があるアイディアを披露。マグド達が若干の修正を加え、それは早速実行に移されることとなった。
 数日後、竜也は再び野戦本部前を訪れた。そこには遠征軍に動員された兵士のうち四千余が竜也を待っていた。第十軍団から千、奴隷軍団から千、二つのエレブ人部隊から各千である。が、兵士達は全員上半身裸であり、手には何の得物も持っていない。

「いいか、野郎ども!」

 とマグドの副官のシャガァが配下の奴隷軍団に檄を飛ばしている。

「今日はただの演習だし、死人が出ないよう得物もなしだ。……だが、皇帝がご覧になっているんだ。頭の顔に泥を塗るんじゃねぇぞ!」

「応!」

 奴隷軍団の兵士達は一斉に拳を突き上げ、その檄に応えていた。
 まずは、各隊の剣士による模範試合である。エレブ人部隊の中から騎士出身で剣の腕に覚えのある者が出場、奴隷軍団や第十軍団の腕利きの剣士と木刀で試合をする。

「サボナ男爵家臣が騎士・ルイ、参る!」

「その名も高き奴隷軍団のガマルとは俺のことだ! 来い!」

 奴隷軍団が、エレブ人が、自分の仲間の戦いを観戦し、喉を枯らして声援を送っている。勝者には竜也が自ら賞金を渡した。なお、賞金を独占されるとまずいので恩寵の戦士は出場禁止となっており、審判役を務めている。試合形式の剣技にはエレブ人の方が一日の長があるようで、一〇試合してエレブ人側が大きく勝ち越していた。
 剣の試合で皆が充分熱くなったところで、次は集団での模擬戦だ。

「……しかし、皇帝の元いた国じゃ随分変なことが行われていたんだな」

「まあ確かに。でもなかなか楽しくないですか?」

 三人の兵士に担がれたマグドが上半身裸で腕を組み、その頭部には鉢巻きが風になびいている。マグドの周囲には同じく四人一組の一団、二百騎余の騎馬軍団が。竜也が元いた世界、日本の学校の運動会でおなじみの、騎馬戦の騎馬である。
 ルールもまた日本のそれと同じ。騎馬の上に乗る騎士役が鉢巻きを取られるか、騎馬から落ちたなら死亡判定。敵よりも多くの騎士が生き残ったなら勝ちだが、大将が死亡判定を受けたならその陣営はそこで負けとなる。
 マグドは少数の部隊で自分を守る一方、自軍の大半をシャガァに預けて一気に敵を蹴散らし、敵将の首を挙げる(敵将を死亡判定させる)という作戦を立てていた。が、敵将ガルシアも同じような作戦を立てていたようである。両軍の大半が真正面から衝突、わずかばかりの間に両軍の三百騎あまりが戦場から脱落した。

「うわ……」

 一方竜也は実戦と見間違わんばかりの光景に血の気が引いている。演習に参加しているのは一人の例外もなくほんの三ヶ月前まで実際に殺し合いをしていた者達なのだ。いくら演習と言われようと、先日までの敵を目の前にして頭に血が昇らないわけがない。
 マグドは自ら率いる本陣を動かし、戦場を大きく迂回し敵本陣へと投入。敵大将との一騎打ちに持ち込んでその鉢巻きを奪い取る。騎馬戦の演習は奴隷軍団の勝利で第一戦を終えた。
 その後、タフジール率いる第十軍団とベルナルド率いるエレブ人部隊が騎馬戦で激突。この戦いはどちらが先に敵将を落としたか判別が付かず、勝敗なしとなった。
 演習後、

「お前さんのおかげで何とか体面を守れたよ」

「いえいえそんな。将軍が私より強かっただけのことで」

 マグドとガルシアの間ではそんな言葉が交わされており、竜也は竜也で、

「タフジールさんもベルナルドさんも上手く演じてくれたようだな」

 と胸をなで下ろしている。本気の勝負でもしマグドが負けたならマグドの資質に疑義が差し挟まれ、遠征に支障を来しかねない。かと言って、聖槌軍戦争の敗者たるエレブ兵がここでも負けるようならエレブ人部隊の士気は上がらないし、ヌビア側のエレブ人部隊に対する軽侮は募るばかりとなってしまう。
 つまり、最初からシナリオは決まっていたのだ。まずは剣術の模範試合でエレブ人に花を持たせ、次の騎馬戦の第一戦ではマグドが勝ち、第二戦は引き分けにして遺恨なしとする。これでヌビア側も「エレブ人は侮れない」と感じただろうし、エレブ人も「指揮さえまともなら俺達だって負けやしない」と思えたことだろう。
 演習後、竜也が全員の健闘を讃え、褒美として大量の酒が運び込まれる。酒盛りがその場で始まり、大いに盛り上がった。ヌビア人とエレブ人が互いに酒を酌み交わし、競争するように酒樽を空にしていく。酒が入れば当然ながら喧嘩を始める者も出るが、

「うなじー!!」

「ふくらはぎー!!」

 喧嘩は全部「ぐっと来る部分デスマッチ」で勝負を着けることを強要し、深刻な対立も笑い話に変えてしまう。酒盛りと「ぐっと来る部位デスマッチ」は一晩中続けられた。
 そして月は変わって、シャバツの月(第一一月)の月初。マグド率いるケムト遠征軍三万七千がサフィナ=クロイを出立した。なお第十軍団の出立はまた後日である。
 先の演習でヌビア人とエレブ人の溝が全て埋まったわけではない。だが両者は互いの力量を認め合い、多少なりとも交流も生まれている。

「あのマグドさんが率いているんだ。行軍中に溝はもっと埋まっている。ケムトに着く頃にはエレブ人部隊も戦力として計算できるようになっているだろう」

 遠征軍を見送る竜也はそう確信していた。







 シャバツの月の初旬、帝国府で仕事をする竜也の元をガイル=ラベクが訪れる。ガイル=ラベクはメリタ島占領の作戦案を竜也へと提出した。作戦は海軍の二個艦隊をメリタ島の港に突入させ、歩兵一千を上陸させるというものだが、

「少ない」

 竜也はそう不満を漏らした。ガイル=ラベクは苦笑する。

「あんな小さな島にこれ以上の兵を投入しても……借金が増えるだけだぞ?」

 だが竜也は大真面目だ。

「提督は借金のことなんか気にしなくていい、動員できるだけの海軍艦隊を動員してくれ。来月にはゴリアテ級の六号艦から一〇号艦も進水するから、それも使おう」

 ガイル=ラベクとしては「大げさなことだ」と思わずにはいられない。だが竜也の命令に逆らうこともしなかった。
 ガイル=ラベクがメリタ島占領の作戦準備を進める一方、竜也は皇帝としての仕事に追われている。

「西ヌビアについては今後五年の課税を免除。東ヌビアの課税率は最大で収入の二五パーセントに収める。人頭税の目安が収入の一〇パーセント、土地税が一五パーセント程度。各町の関税は全廃し、船舶に対して課税する」

「ケムトに対する課税率は?」

「一年目は四〇パーセント。それ以降は段階的に下げて、最終的には三〇パーセント内に抑える」

 課税は権力者の権利であり義務だが、最も難しい政治問題でもある。竜也はアアドル達閣僚や官僚と連日協議し、市民が受け入れやすい――我慢しやすい税制の策定に腐心した。

「とにかく、税制は簡素で公平が一番だ。それに『取りやすいところから取る』ではなく『あるところから取る』でなくちゃいけない。ああ、それから聖槌軍戦争への貢献も考えないと」

 竜也は聖槌軍戦争での戦死者を出した家庭への免税を指示。また、公債を使っての納税に対する優遇措置も決定した。

「公債を使って納税する場合、額面一タラントの公債が一・〇五タラントの税額に相当するようにする。来年以降、二年目は一・〇六タラント、三年目は一・〇七タラントだ」

 そして月は変わってアダルの月(第一二月)の月初。ゴリアテ級六号艦から一〇号艦が進水。それと同時にメリタ島占領作戦が発動される。
 ガイル=ラベク旗下の帝国海軍艦隊五〇隻がメリタ島を包囲。さらには一一隻のゴリアテ級が港に突入、そこから八千の兵が下船し上陸した。上陸した兵は港に陣地を築き、その上でメリタ島の領主との交渉を開始した。いや、それは交渉などではない。

「今日よりこの島はヌビア帝国の領土となった! ヌビアの皇帝は慈悲を持ってお前達を支配し、統治する。それを望まぬ者は、今剣を取って戦うか、この島から出ていくか、いずれかを選べ!」

 圧倒的な武力を背景に、一方的に宣言し、通告したのである。
 その通告を受けたのはメリタ島領主・男爵ヴァレットだ。ヴァレットは賢明な男であったらしく無益な抵抗は一切しなかった。皇帝の臣下となることを聖杖教の神に誓約し、自分の部下のうち帝国に反抗しそうな者はヌビア海軍の船によりレモリア本土まで送り届けさせた。
 こうして一滴の血も流れることなく、メリタ島はヌビア帝国領土となった。竜也はそれを大いに喜び、メリタ島民の来年一年の納税免除を決定した。
 アダルの月の中旬、レモリアから戻ってきたムハンマド・ルワータが竜也の元を訪れる。

「メリタ島占領は上手くいったそうですね。おめでとうございます」

「ああ、戦闘が全く発生しなかったのは幸いだった」

 と竜也は上機嫌である。

「これでニコラ・レミがタンクレード軍の討伐軍を出征させても対応できるだろう。討伐軍はどうなっている?」

 竜也の問いにルワータは苦笑を見せ、竜也は不思議そうな顔をした。

「皇帝はニコラ・レミがどれだけの兵を集めたとお思いですか?」

 竜也は首をひねりながらも、

「そうだな。俺だったら最低でも二万、できれば三万は用意して出征させるけど」

「ニコラ・レミの元に集まった兵は一千足らずだったそうです」

 その数字に、竜也はしばらく開いた口がふさがらなかった。

「……ニコラ・レミにはそこまで力がなかったのか?」

「仮にも枢機卿です。聖槌軍戦争の前ならば五万でも六万でも集めるのは容易かったでしょうが、あの戦争がエレブの全てを変えてしまったのです」

 タンクレード討伐の檄に背を向けたのはアルトワ伯やその傘下の領主だけではない。アルトワ伯はそれでも申し訳程度には兵を送ってきたが、それすら送らず拒絶するだけの諸侯の方がずっと多かった。
 実際、聖槌軍に参加したためニコラ・レミに協力したくてもできない諸侯がほとんどであり、彼等は「無い袖は振れない、異端認定をするならすればいい」と半ば自棄でニコラ・レミの要請を拒絶したのだ。だが拒絶したのが自分だけではなくほぼ全ての諸侯であることが判ってきたため、諸侯の側も勢いづいている。

「『教会の坊主に指揮を委ねたなら送り出した兵が帰ってきたときには百分の一になってしまう』――レモリアの諸侯はそう言ってニコラ・レミの要請を拒絶したと聞いています」

 竜也はニコラ・レミの境遇に嗤いを浮かべるしかない。ニコラ・レミは次期教皇に足るだけの権威・政治力を自分が持っていることをアピールしようとしたのだが、結果は全くその逆となってしまったのだ。

「ニコラ・レミは次期教皇の座を自分で遠ざけてしまった、ということか」

「まさしくその通りです。ですが他に有力な候補がいるわけではありません。教皇庁は次期教皇の座を巡って分裂するかもしれません。これまで教会の権威が抑え込んでいた紛争の火種はエレブ中に存在します。おそらく、この先エレブはかつてのような戦乱の地に逆戻りするのでしょう」

 ルワータの言葉に竜也は「そうか」としばらく天井を見上げていた。

「……この分ならタンクレード軍はしばらく安泰だ。一年と言わず、二年でも三年でも反乱が続くかもしれない。一年や二年の短期間でエレブが聖槌軍を再結成してヌビアに再侵攻する危険性は、ゼロだと考えていい」

 独り言のような竜也のまとめにルワータが「はい」と頷く。

「今のうちだ。ケムトとエジオン=ゲベルを片付けて東側の安全を確保する」







 そして月は変わり、年も新しくなり、海暦三〇一七年ニサヌの月(第一月)。
 その月初、サフィナ=クロイの港にはゴリアテ級のゼロ号艦から一〇号艦までが勢揃いしている。ゴリアテ級を護衛するのはムゼー率いる海軍第二艦隊、ザイナブ旗下の第五艦隊だ。そしてタフジール麾下の第十軍団の兵八千がゴリアテ級に搭乗していた。
 竜也とバルゼル達近衛もまたゴリアテ級に乗り込むところである。だが、

「わたしも一緒に行く」

「駄目と言ったら駄目」

「行くと言ったら行く」

 ラズワルドが竜也の服の裾を掴んで離さない。竜也は途方に暮れてしまった。

「家族と別れたくないのは兵も同じだよ。それを率いる皇帝が自分だけ家族を連れて戦地に赴くわけにはいかない」

 竜也はラズワルドを何とか説得しようとし、

「戦いが終わって向こうの情勢が落ち着いたら呼ぶから、それまで待っていてくれ」

「ラズワルドさん、タツヤ様をあまり困らせてはいけませんよ」

 ファイルーズもまた協力する。ファイルーズに手を引かれたラズワルドが驚いたようにファイルーズを見つめ、

「……判った」

 とようやく引き下がった。竜也はそれに安堵する。

「それじゃ皆、元気で。できるだけ早く呼べるようにする」

 竜也はファイルーズ達六人に手を振り、ゴリアテ級に乗り込んでいく。

「どうかご無事で」

「……」

「気をつけてください」

「怪我しないでくださいね」

「ご武運を!」

「油断せぬようにな」

 ファイルーズの声を背に受け、竜也達を乗せたゴリアテ級はケムトへと向けて出港する。ケムトまでは海路二ヶ月の旅程を予定していた。






[19836] 第五二話「ギーラの帝国・前」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/03 21:02



「黄金の帝国」・征服篇
第五二話「ギーラの帝国・前」







 海暦三〇一七年のニサヌの月(第一月)、ジブの月(第二月)と丸二ヶ月を洋上で、船の上で過ごし、シマヌの月(第三月)の月初。竜也とヌビア帝国海軍ケムト遠征艦隊はようやくロカシスに到着した。ロカシスは元の世界ならエジプトのエル=アラメインに相当する。ソロモン盟約に加盟する都市の中では最も東に位置する町である。
 サフィナ=クロイからロカシスまでは、普通の商船が少し急いで一ヶ月程度の旅程だ。ゴリアテ級がその巨体のために速度が遅いことと、竜也が東ヌビアのあちこちの町で視察したり、長老会議に参加するなどしていたため、二ヶ月もかかってしまったのだ。だがそれは竜也にとっては計算通りである。

「マグドさん達はもう到着しているんだな」

「はい、五日前に。町の外に陣地を作っています」

 港まで竜也達を出迎えた騎兵隊の騎士がそう返答、竜也は呟くように「そうか」と答えた。陸路を進んだマグド達の部隊は竜也達よりも二ヶ月早くサフィナ=クロイを出立している。

「たった五日差か。マグドさんもムゼーさんも大したものだ」

 竜也はそう感嘆した。陸路を征く部隊と海路を征く艦隊が同時にロカシスに到着するよう計算したのは竜也だが、それを実行し達成したのはマグドとムゼーである。二人の指揮ぶりを竜也が称揚するのは当然だった。

「それじゃマグドさん達と合流しよう」

 竜也とタフジールは騎兵隊の騎馬を借り、ロカシス郊外のマグドの陣地へと向かった。竜也には近衛が、タフジールには第十軍団の幹部が同行する。港から町の真ん中の大通りを騎馬で進みながら、竜也は町の様子を注意深く観察した。
 通りは人でごった返し、市場には食料品を始めとする商品が溢れている。町は活気に満ちているが、どこか張りつめた空気が漂っていた。武装した男達が小走りで通り抜け、穀物を満載した荷車が大急ぎで前を横切っている。

「……何か、覚えがあるな。この空気」

「戦争前のサフィナ=クロイのようですな」

 竜也の独り言にタフジールがそう応え、竜也はそれに納得した。ロカシスからケムトまでは目と鼻の先だ。聖槌軍戦争中は戦線から最も遠かったこの町が、今度は戦線に最も近い町になるのである。

「黒き竜(シャホル=ドラコス)!」

「皇帝クロイ(インペラトル=クロイ)!」

 竜也の姿を認めた市民があちこちでそんな呼び声を上げている。竜也は戸惑いながらも手を振ってその呼びかけに応え、それを受けて市民達が一際大きな歓声を上げた。

「何でこんな遠くの町の人間が?」

 と竜也は首をひねり、そんな竜也の様子にタフジールが苦笑した。

「皇帝が成し遂げたことを考えればアシューの果てまでその名が轟いても別に不思議はないでしょう。いくら遠くてもここは帝国領内なのですからこのくらいは当然かと」

 そんなものか、と呟く竜也だがその説明に完全に納得しているわけではないようだった。
 数刻後、ロカシス郊外。竜也達はマグド達の陣地に到着する。その途端待ちかねたように竜也を出迎える、

「お待ちしておりましたわ、タツヤ様」

「タツヤ、遅い」

 ファイルーズやラズワルド、ミカ・カフラ・サフィール・ディアの六人の姿に竜也は騎馬から転がり落ちそうになっていた。

「な、な、なんで……」

 何とか体勢を立て直して問い詰めようとするが、それ以上言葉が続かない。ファイルーズは笑ってごまかそうとし、ラズワルドは他人事のようにそっぽを向く。ミカ達の後ろにはガイル=ラベクやベラ=ラフマが立っており、気まずそうな顔を竜也へと向けていた。
 ……それから少しの後。本陣の天幕へと移動した竜也はファイルーズ達から言い訳を聞くことにした。

「……それで『呼ぶまで待っていてくれ』と言っておいたのに、どうして皆がこんなところに」

 不機嫌さをにじませて竜也がそう詰問するが、ファイルーズは臆することなく、

「我が良人たるタツヤ様と、わたしの父祖の国が戦争をしようというのですよ? ただ待っているだけなど、できるはずもありません」

 と堂々と胸を張る。

「流れる血が一滴でも少なくなるよう、一日でも早くこの戦争が終わるよう、わたしにできることを成しに来たのです」

 言うだけ言って、ファイルーズはにこやかに微笑みつつ沈黙する。不機嫌そうな竜也と微笑むファイルーズが無言で対峙し続けたが、それほど長い時間ではない。先に引き下がったのは竜也である。

「……それじゃ、他の皆は」

 竜也はラズワルド達へと矛先を変えた。詰問されたラズワルドは、

「この女だけに抜け駆けはさせない」

 と偉そうに胸を張り、ミカやカフラ達四人が同意するように頷く。ファイルーズは笑ってごまかそうとするが少しだけ冷や汗を流していた。

「……提督」

 竜也は八つ当たりじみた恨めしげな目をガイル=ラベクへと向けるが、

「お前がちゃんと手綱を取らないからだろうが!」

 と逆に噛み付かれた。以前なら拳骨の一つも落ちているところである。

「この六人が全員一致で本気で要求してくるものを、どこの誰が拒絶できる? それに『この戦争で流れる血を減らしたい』という思いも『ケムトの王女なら必ず皇帝の力になる』という主張ももっともだ。断るだけの理由がない」

 竜也は内心で「確かに」と同意しつつも、

「でも、あなたまでこっちに来るなんて……提督にはサフィナ=クロイと東ヌビアのことを任せていたのに」

「サフィナ=クロイがどこかの誰かの手に落ちたとしてもまた取り返せばいいが、皇妃達六人に万一のことがあったならどうあっても取り返しがつかん。部下任せにできることではない」

 ガイル=ラベクの言葉に竜也を除いた全員が頷く。「国家の要職にある者としてその優先順位の付け方はどうなのか」と思わずにはいられなかったが、そう感じているのは竜也だけのようだった。

「一年や二年はどこからも侵略されることはないだろうが、それでも向こうに二個艦隊を残している。指揮を執るのはハーディだ」

「戦い以外のことはバリアさんにお任せしています。あの方達でしたら何も心配することはないでしょう?」

 竜也は渋々といった様子で「まあ、確かに」と同意した。竜也はしばらく唸っていたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「……来てしまったものは仕方ないけど、皆にも色々と手伝ってもらうからそのつもりで」

 竜也の言葉にファイルーズ達は顔をほころばせながら、

「判っておりますわ」

「ん」

「微力を尽くします」

「任せてください!」

「が、頑張ります」

「まあ、いいだろう」

 等とそれぞれ頷いていた。
 竜也はマグド達から簡単な報告を受けた後、陣地内を見て回ることとした。陣地内は整然と区画され、無数の天幕が林立していた。ある場所ではエレブ兵とヌビア兵が協力して第十軍団を受け入れるための区画整備に従事し、別の場所では兵の一団が槍を振り回して訓練に勤しんでいる。騎兵が数騎ずつひっきりなしに陣地に出入りしているのは、近くを偵察しているのだろうと考えられた。
 その活気と程良い緊張感に満ちた様子に竜也は満足を見せるが、

「……兵の数がかなり多いような気がするんだが」

 と首を傾げた。それにマグドが答える。

「気のせいではありませんぜ。この近隣で雇った傭兵が五千、ここと近くの町で集めた新兵が一万加わることになっています」

 なお、徴募された新兵の半分はまだこの町に向かっている途上にあるとのこと。

「よくそれだけ集められたな」

 と竜也は感心するが、マグドは肩をすくめた。

「新兵の半分以上はケムト側の町から集まってきた者達です。あのお姫様にはそれだけの威光があったってことでしょう」

「そ、そうか」

 と竜也は若干引きつった愛想笑いを見せた。
 その夜、竜也は自分用の天幕にベラ=ラフマを呼んだ。それに呼びもしないのにラズワルドが着いてくるが、二人ともそれを黙認する。

「……ケムト側の町からかなりの新兵が入っているそうだな。雇った傭兵もケムトやアシューから来ている者が多いんだろう?」

 竜也の確認にベラ=ラフマが無言で頷く。

「あのギーラのやり口からして、この中にはギーラの息がかかっている者が大勢入り込んでいると思うんだが?」

「確かにその通りです」

 とベラ=ラフマはその懸念を肯定した。そう言いながらもベラ=ラフマの様子は平静そのものであり、竜也はそれに安堵する。

「対策はもう立てているわけか」

「はい。全員にギーラを裏切らせています」

 ベラ=ラフマがそう言い、ラズワルドが誇らしげに、

「数が多くてちょっと大変だった」

 と補足する。

「そうか、ありがとう」

 と竜也は感謝と愛情を込めてラズワルドの頭を撫で、少女は「ん」と目を細めた。
 ちなみに、ギーラの命を受けた傭兵や新兵の中でも特に性質が悪い者や、口先では「ギーラを裏切る」ことに同意しながらも竜也の生命を狙うことを諦めなかった者は、密かに処分されて地中海の底に沈んでいる。

「そんな些末事を皇帝が知る必要はない」

 というベラ=ラフマの判断により、その事実は最後まで竜也に告げられることはなかった。







 ロカシス到着の数日後、竜也は町中の視察にやってきていた。案内するのはカフラで、護衛としてバルゼル達の他、サフィールやディアが加わっている。そしてガイル=ラベクも同行していた。竜也達は人目を引かないよう庶民と変わらない服に着替えており、それはバルゼル達も同様だ。……もっとも、その努力にどれほどの意味があったのかは心許ないが。

「ほら、タツヤさん。あそこでやっています」

 カフラが指差した先は町の中央広場であり、そこに設置された舞台では何かの劇が始まろうとしていた。

「あれはヤスミン一座か」

 とガイル=ラベク。舞台上で演技をしているのはヤスミン率いるヤスミン一座で、ガイル=ラベクは「七人の海賊」を上演するのだろうと思っていたのだが、すぐにそうではないことを理解した。
 最初の場面はソロモン館である。聖槌軍襲来の急報に接し、集まった人々は右往左往するだけ。その中で、一人の男が気勢を上げている。

『ナハル川を要塞化して聖槌軍をここで防ぐんだ! 敵のこれ以上の進軍を許すな!』

『馬鹿な、それでは西ヌビアの民はどうなるんだ!』

『兵として戦うなら東への移住を認めてやってもいい』

 その男の名前こそギーラだった。ギーラがこのまま会議の主導権を握るかに見えた、その時。

『一年だ! 一年で百万の聖槌軍を皆殺しにする!』

 一人の少年が人差し指を高々と掲げ、人々の前に登場した。

『一年だと? 馬鹿な、そんなことができるわけがない!』

 とギーラは少年を嘲笑する。だが少年は怯まない。

『できる! 一年で奴等を皆殺しにできる! この俺が約束する!』

『貴様は一体何者だというんだ?』

『俺は皇帝クロイ! 聖槌軍と戦うために太陽神より使わされた、黒き竜の化身!』

 観劇中の市民が「おー」と感嘆する一方、竜也は一人舞台から背を向けている。自分で脚本を書いておきながら「あれは俺じゃない、あれは俺じゃない」とくり返している竜也の内心の葛藤を他所に劇は続いており、舞台にはファイルーズを演じるヤスミンが登場したところだった。

『皇帝クロイこそわたしが神託で見た、黒き竜の化身! 皇帝クロイと共に侵略者と戦うのです!』

 こうして皇帝クロイの元にガイル=ラベク、アミール・ダール、ノガ、マグド、サドマ、ダーラク、バルゼルといった英雄が結集、聖槌軍との死闘が開始される。
 劇はトズル砦の攻防戦を最大の山場に持ってきていた。ヴェルマンドワ伯旗下の聖槌軍がトズル砦を攻撃し、マグド率いる奴隷軍団がそれを防戦する。トズル砦の上には一人の男が仁王立ちになっている。断ち切られた右肘から先には義手の代わりにドリルを取り付けており、ドリルが太陽の光を反射し黄金のような輝きを放っていた。

『ヌビアに悪名轟く奴隷軍団! 男の魂背中に背負う不撓不屈の鬼将軍、螺旋のマグドたぁ俺のことだ!』

 マグド役のジュルフが大見得を切り、観客からは拍手と歓声が沸いている。竜也は観客の反応にどこか得意げな様子だが、ガイル=ラベクは唖然としたまま開いた口がふさがらない状態だ。その間にも舞台では劇が進行、奴隷軍団と聖槌軍の戦いが始まっていた。
 三倍の敵にも一歩も引かずに勇猛果敢に戦う奴隷軍団だが、戦況は不利になる一方である。ついには砦は突破され、マグドはヴェルマンドワ伯の親衛隊に包囲されてしまった。マグド絶体絶命の危機!

『将軍を殺らせはしないぜ!』

『貴様の相手は俺達だ!』

 だがそこに颯爽と現れるサドマとダーラクの騎兵隊。サドマ達が敵兵を蹴散らし、マグドはヴェルマンドワ伯との一騎打ちに持ち込んだ。ヴェルマンドワ伯の剣とマグドのドリルが鍔迫り合いを演じ、火花を散らしている。

『貴様が戦っているのは百万の大軍だぞ! ここで我々に勝ったところで後続はいくらでもやってくる!』

『けっ、それがどうした! 貴様に百万二百万の兵がいようと、俺にはもっともっと心強い仲間がいる! 髑髏船団のガイル=ラベク、将軍アミール・ダール、猛将ノガ、衝撃のサドマ、雷光のダーラク、血の嵐バルゼル! そして何より皇帝クロイが! 何度でも言ってやる!』

 マグドの口上に合わせ舞台上の奴隷軍団が、そして観客までもが、

『俺達を誰だと思ってやがる!!!』

 その決め台詞を叫んでいた。それに怯むように押されるヴェルマンドワ伯。ついにはヴェルマンドワ伯は、

『くそっ、撤退だ!』

 と身を翻した。聖槌軍がトズル砦から撤退し、奴隷軍団は勝利の喜びを分かち合っている。

『この螺旋のマグドが率いる奴隷軍団に敗北はない! 何度攻めてこようと何度でも撃ち破ってやる!』

 マグド達が勝ち鬨の声を上げて、その劇は終わりを告げた。観客が劇の感想をおしゃべりしながら離れていく。

「反応はなかなか悪くないようだな」

「はい、観衆も増える一方です」

 竜也やカフラ達が観客の様子に満足する一方、どこか呆然としたようなガイル=ラベクが一同から取り残されていた。

「……タツヤ、これは一体」

「ケムトに対する宣伝工作の一環ですよ。戦争中のマグドさん達の勇姿をケムトに対して最大限喧伝する。劇を見たケムトの市民や兵が遠征軍に対して少しでも親近感を持ってくれるなら、少しでも敵意をなくしてくれるなら、やる意味はある」

 なお竜也発案のこの宣伝工作はベラ=ラフマが準備をし、今はカフラが引き継いでいる。

「……なるほど」

 と一応は納得するガイル=ラベク。そう言えば聖槌軍戦争前にもヤスミン一座が「七人の海賊」を上演していたな、とガイル=ラベクは思い当たっていた。

「だが、帝国領のこの町で上演してもケムトに対する宣伝としては意味がないんじゃないのか?」

 全くないわけじゃないですよ、と答えるのはカフラだ。

「ケムトの人達もこの町にはよく訪れていますから。それと、この劇の小説版を出版してケムトで売っています。売れ行きは好調みたいです」

 カフラの説明をガイル=ラベクは了解し、次に別のことを確認する。

「将軍マグドがこの劇を見に来たことは?」

「最初に一回だけ見に来てくれたんですけど、それっきりです。他の皆さんは『面白い』って何度も見に来てくれているんですけど」

 とカフラは残念そうだった。
 その夜、ガイル=ラベクは視察中に買い求めた酒をマグドに差し入れる。同情に満ちたガイル=ラベクの視線にマグドはその配慮を察し、その夜マグドはその酒を痛飲したという。
 さらにその数日後、ケムトへと送り出していた偵察がロカシスに帰還する。その情報をベラ=ラフマがまとめ、竜也へと報告した。

「皇帝暗殺未遂への帝国からの糾弾に対し宰相プタハヘテプは『事実無根の言いがかりであり、ただの侵略の口実である』と主張。ケムト王国の全都市に対し帝国への徹底抗戦を命じています」

 そうか、と竜也がため息を一つつく。気を取り直した竜也が確認した。

「それで、ケムト軍を指揮するのは? プタハヘテプ自身が全軍を指揮するのか?」

 ベラ=ラフマは「いえ」と首を振り、

「対ヌビア軍総司令官にギーラが任命されています」

「は?」

 竜也はしばらく唖然としていた。

「……何でギーラを。ケムト軍はそこまで人材が払底しているのか?」

「いえ、そうではないようです」

 ベラ=ラフマはかすかに困惑の感情を垣間見せる。

「プタハヘテプももう七〇歳近くです、最近特に耄碌がひどくなっていると聞き及んでいます。判断力が落ちているのでしょう。それとギーラの取り入り方が余程上手かったのだと思われます。ギーラはプタハヘテプからケムト全軍に対する全権を委ねられました。ソロモン盟約のような、一年期間の全権委任の傭兵契約を結んだのです」

 竜也は思わず「なんだそりゃ」と呟いた。それに構わずベラ=ラフマが続ける。

「ギーラはケムトやアシューから傭兵をかき集め、ケムト王国軍と併せて迎撃部隊を用意しています。ギーラは自らを『大ギーラ帝国皇帝・大ギーラ』と称し、迎撃部隊のことは『大ギーラ帝国軍』と呼んでいるそうです」

 竜也はたっぷり一分くらい開いた口がふさがらなかったが、やがてベラ=ラフマに確認する。

「……それは、プタハヘテプ流の何かの皮肉だろうか?」

「いえ、単にギーラが暴走しているだけと思われます」

 竜也は「そうか」と条件反射的に応え、しばらく何かを考え込んでいた。
「……正直、真面目に戦うのが馬鹿らしくなるが、もしこんなのに負けたら大恥どころじゃない。最高司令官がそんな有様じゃ離間工作はやりたい放題みたいなものだ。打てる限りの手を打ってくれ」

「お任せください」

 竜也の指示にベラ=ラフマは頼もしげにそう頷いた。
 そしてシマヌの月の中旬、ロカシス郊外のヌビア帝国軍陣地。
 陣地内では幾万の兵が整然と並び、その先頭では各隊の旗が勇壮に翻っている。兵達の前にはマグドやタフジール達が並んで立ち、その両脇にはヌビア帝国旗の巨大な七輪旗が、クロイ朝の紋章たる巨大な黒竜旗が掲げられていた。今、竜也の前にはケムト遠征軍の全軍が集結している。
 マグド率いる奴隷軍団七千、タフジール率いる第十軍団八千。
 サドマの第一騎兵隊五千、ダーラクの第二騎兵隊五千、ビガスースの第三騎兵隊五千。
 ベルナルド率いるエレブ人第一隊八千、ガルシア率いるエレブ人第二隊七千。
 傭兵部隊五千、ロカシス近隣で集められた新兵集団二万。なお、このうちケムト側から集められた新兵集団一万強を率いるのはイムホテプだ。
 そしてロカシス近隣で集められた工作部隊一万。合計八万に達する大軍団である。

「……予定より少ないけど、仕方ないか」

 竜也の呟きをマグドが聞きとがめた。

「これ以上戦えもせん連中を集めても仕方ないだろう。傭兵連中は信用がならんし、新兵は訓練が全く足りないから戦いには到底使えん。工作部隊に至っては……」

 竜也の要求する頭数を揃えるためにベラ=ラフマが考え、設立したのが「工作部隊」という名目のその部隊だった。

「ケムト遠征軍に属し、土木工事他の工作作業に従事。戦闘行為には一切加わる必要なし」

 ベラ=ラフマはそんな条件でロカシス近隣でひたすら人間を集め、とにかく工作部隊に配属したのである。この結果、工作部隊には五十六十の年寄りや女、十五に満たない子供までもが属している。

「歩いてケムトまで行ける」

 ただそれだけの人間の集まりでしかないのだ。

「自分で歩いてくれるだけ案山子よりは大分マシだと思うけど」

「案山子だったら攻撃されても守る必要はないが、こいつ等はそうもいかんだろう。案山子の方がマシかもしれん」

「でも、八万もの兵数がこちらに揃っているように見えるなら大抵の都市は降伏してくれるだろう。その分流れる血を減らせるはずだ」

 竜也の言葉にマグドは肩をすくめた。

「まあ、そうなることを太陽神に祈りましょうか」

 ファイルーズやラズワルド達、それにベラ=ラフマが見送る中、帝国軍八万がロカシスを出発。ケムトへの進軍を開始する。第一の攻撃目標はケムト王国の都市・ジェフウト。ロカシスからジェフウトまでは一〇日ほどの行程を予定していた。







 シマヌの月が下旬に入る頃。ケムト王国領内に侵入したヌビア帝国軍は海岸沿いの街道を東へと進軍し続けている。その後方から大ギーラ帝国軍――ケムト軍の騎兵隊が接近していた。兵数は騎兵二千、指揮を執るのはシェションクという三〇を過ぎたばかりの男である。
 シェションクは付かず離れずの距離を置いてヌビア帝国軍を追跡している。ヌビア軍が油断した時を狙って後背から奇襲を仕掛けるつもりなのだが、

「くそっ、警戒は厳重だな」

 望遠鏡を手にするシェションクが舌打ちする。シェションクは自ら偵察兵を率いてヌビア軍の殿軍の様子を窺っていたのだが、殿軍に配置されているのが騎兵隊なのだ。殿軍の騎兵隊は偵察をくり返し四方に発しており、シェションクはその目を避けるので精一杯だった。奇襲を仕掛けるどころではない。
 殿軍の騎兵隊が掲げる旗がシェションク達の目にも届いてる。獅子をモチーフとしたその図案が金獅子族の旗であることは彼等も聞き及んでいた。

「金獅子族のサドマ……西ヌビアの避難民の殿軍となって聖槌軍と戦ったって奴じゃないか」

「百万の聖槌軍の追撃にも耐えて避難民を守り続けた男だろう? 俺達二千なんて木っ端みたいなものだよな」

 部下達が怖じ気づいた様子でそんな言葉を交わしているのを耳にし、シェションクは苛立ちを深めた。

「怯えるな、皇帝の軍だろうとただの人間に過ぎん! 我々が奴等の後背を襲い攪乱すれば、ジェフウトやその先の町はそれだけ安全になるのだ!」

 シェションクはそう叱責し、部下の士気を盛り上げようとするが、成功したとは言い難い。

「……ただの人間が、たった十万で百万を皆殺しにできるのか?」

「……ギーラとかいうバール人や耄碌した宰相のために、何で俺達が危険を冒さなきゃならない?」

 あちこちでそんな言葉が囁かれている。シェションクはため息をつきたくなった。

「敵襲! 敵の騎兵隊が!」

 見張りの兵が悲鳴に近い声でそう叫ぶ。二千の騎兵が一瞬で浮き足立った。

「くそっ! 奇襲を仕掛けるつもりが逆に仕掛けられるとは!」

 シェションクは悪態をつくと、

「攻撃準備、矢を番えろ! 敵に向かって突進する!」

 決然と命を下す。逃げ出そうとしていた部下も元の配置に戻って戦う決意を固めている。部下の準備が整ったことを確認し、

「突撃!」

 シェションクは自ら先頭に立って猛然と騎馬を突進させた。それを二千の部下が追ってくる。
 シェションクの眼前には五千の敵騎兵が迫っていた。掲げられている旗は人馬族のそれ、ビガスースの第三騎兵隊だ。五千に当たるに二千では一撃で粉砕させられるだけであり、シェションクもそれは判っている。

「右側だ!」

 シェションク達は矢を放って怯ませた隙に、敵の右側をすり抜けていく。第三騎兵隊が回頭して追いかけてくるが、後は必死に逃げるだけだ。何騎か脱落してしまったが、シェションクはほとんど損害を受けることなく追撃を振り切ることができた。
 ……敵の騎兵隊と戦って負けなかったことにシェションクの部下は士気を取り戻した様子だ。実際には奇襲を受けそうになったので一矢報いて逃げてきただけだが、それは言わない約束である。だがシェションクは意気消沈するばかりだった。

「……敵の守りはあまりに堅い。これでは奇襲や攪乱など望むべくもない」

 任務達成の見通しに悲観的になりながらも部下の前ではそんな様子を見せず、シェションクは自分の部隊をある漁村へと向かわせた。日が暮れる頃、シェションク達はその漁村に到着する。この夜、シェションク達はこの村の外で野営をすることにしていた。
 シェションク達が村に接近すると村民は慌てて家に閉じこもった。村長と長老の何人かが村の外に出てきてシェションクを出迎える。

「これはこれはシェションク様……」

「久しいな、すまないが今夜も世話になる。食糧を用意しろ」

 シェションクの命令に長老達は顔を見合わせた。恐る恐る村長が申し出る。

「しかし、先日村の食糧を持って行かれたばかりで、この村にはもう食糧が……」

「ないことはあるまい。支払いはちゃんとやると言っているのだ、早く出せ!」

 シェションクは借用書を差し出し、部下には剣を突き出させて居丈高に村長に命じた。村長は「へ、へー!」と平伏し、慌てて村へと戻っていく。それを見送りながら、

「……まるで盗賊のやり口ではないか。こんな借用書など紙切れと変わらないというのに」

 シェションクは自分の振る舞いに内心で大いに恥じ入っていた。

「ヌビア軍の後背に回り、隙あらば奇襲して敵を攪乱し、進軍を妨害する」

 ギーラからそう命令されたシェションクだが、その行動に必要な補給については何一つ約束がされなかった。「自分でどうにかしろ」と言われただけである。シェションクは最初は自腹を切って食糧を買い求めていたのだがすぐに手持ちの資金が底を付き、それ以降はギーラ名義の借用書を乱発してその場を凌いでいる。

「……一体これは誰のための戦いなのか」

 シェションクはそう疑念を抱かずにはいられなかった。そうこうしているうちに村長がかき集めてきた食糧を部下が受け取り、今夜の分の食糧を配給している。やがてあちこちで薪が燃やされ、夕食が始まった。
 石を並べて作ったかまどの火を囲み粗末な食事を摂る中、シェションクは村長から情報を仕入れている。

「ヌビア帝国軍はこの村の近くを通ったのではないのか?」

「は、はい。一昨日通り過ぎていきました。軍船がこの村に入港し、大量の食糧を受け渡しておりました」

 村長の説明にシェションクは「ふん」と唇を歪めた。他にも質問するが大した情報は得られず、シェションクは村長を村へと戻す。シェションクは大欠伸をした。疲れが溜まっているのか、今にも目蓋が落ちそうだ。

「いかんな、私はもう寝る。後は頼む」

 シェションクは副官にそう命じ、さっさと自分の天幕に潜り込んでいく。寝袋に入るのを待ちきれなかったようにシェションクは深い眠りへと囚われていった。
 ……一体どのくらいの時間眠っていたのか。

「敵がー! 敵の騎兵隊が!」

 シェションクは兵の悲鳴で目を覚ました。酒を飲んだ後のように頭が回らないが、それでも右手は剣を探している。だが、

「くそっ、剣は、剣はどこだ?」

 剣がどうしても見つからず、やむを得ずシェションクは無手のまま天幕を飛び出した。

「剣は?! 弓は?!」

「馬はどこに行った?!」

 迎撃の準備など全くなされていない。二千の兵が喚きながら右往左往しているだけである。

「武器はどうした! 見張りは何をしていた!」

 シェションクは八つ当たり気味に怒鳴るが、

「それが武器がどこにも、馬も一匹も姿が見えず」

「見張りも眠っていたようで」

 戻ってくるのはそんな答えばかりである。シェションクはそれを理解せざるを得なかった。

「……そうか、眠り薬か。あの食糧の中に入っていたのだな」

 あの村長が、漁村全体がヌビア軍に協力してシェションク達に一服盛ったのだ。シェションク達が間抜けにも眠りこけている間に村人が武器と馬をこっそり盗み取っていったに違いない。
 その間にも敵の騎兵がゆっくりと接近し、シェションク達を完全包囲する。武器もなく馬もいない二千の兵が、完全武装の五千の騎兵にぐるりと取り囲まれているのだ。部下の中にはひざまずいて命乞いをする者も現れていた。
 やがて、敵の隊長と思しき騎兵がシェションク達の前に進み出る。その隊長が大音声で宣告した。

「ギーラやプタハヘテプのために戦ってここで死ぬか! それともファイルーズ様の慈悲にすがって生き延びるか! 好きな方を選べ!」

 部下の視線がシェションクへと集中する。シェションクはわずかにためらったが、それほど長い時間ではない。

「……判った、降伏する」

 シェションクはそれだけを言い、力尽きたようにその場に座り込む。部下が全員それを真似するようにその場に座り込んだ。その姿に、敵の隊長は満足そうに頷いていた。






[19836] 第五三話「ギーラの帝国・後」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/04 21:02



「黄金の帝国」・征服篇
第五三話「ギーラの帝国・後」







 シマヌの月(第三月)の下旬。ヌビア帝国ケムト遠征軍はケムト王国領内の都市、ジェフウトに到着した。ジェフウトは元の世界で言うならエジプトのダマンフールに相当する町である。町の横にはナガル川(元の世界のナイル川に相当)の支流が流れている。
 ガイル=ラベク率いるヌビア帝国艦隊はロカシスからその支流の河口の港町まで移動。何百隻という現地の川船を調達し、補給物資を満載してナガル川を遡上した。竜也達と同じ日にはジェフウトに到着し、陸軍と合流している。
 翌日。ジェフウトが開城、ヌビア帝国軍の軍門に降った。

「なんとまあ。やけにあっさりと」

「一合も剣を交えないうちにか」

 マグドとタフジールは呆れた様子である。竜也もまた内心では同様だったがそんな素振りは見せずに「計算通り」といった顔を作っている。
 竜也は町の外でジェフウトを統治する貴族と会談を持ち、いくつかの協定を結んだ。

「ヌビア軍はジェフウトに入城しない」

「ジェフウトはヌビア軍の進軍に協力する。ジェフウトでの新兵徴募・工作隊員徴募に協力する」

「ジェフウトはギーラ・プタハヘテプに今後一切の助力をしない」

 等である。なお、実際にジェフウトとの交渉に当たっていたのはイムホテプであり、それを手助けしたのはシェションクだ。

「奸臣プタハヘテプを排し、ケムトを国王陛下とファイルーズ様の手に取り戻す!」

 イムホテプがそんな論法でシェションクを説得、竜也もまたシェションクが乱発した借用書を各村から買い取るなどしてそれに協力し、ファイルーズ派へと鞍替えさせたのだ。そのシェションクが早速顔見知りのジェフウトの貴族を説得し、無血開城に合意を得ることに成功したわけである。

「市民や兵士の血が流れることなくジェフウトに協力してもらえるようになりました。これもシェションクさんの働きのおかげです」

 とファイルーズに讃えられ、シェションクは恐縮することしきりだった。
「これからもよろしくお願いしますね?」

 とにっこり微笑まれ、シェションクは感無量の様子である。その有様を横から眺める竜也は、ファイルーズの人心掌握術に舌を巻いていた。
 その夜、竜也は合流したベラ=ラフマを自分の天幕に招き入れた。ベラ=ラフマは竜也達の到着より数日前からジェフウト近隣に潜伏し、情報収集に当たっている。

「それじゃ聞かせてくれ。ギーラは、ケムト王国軍はどう動いている?」

 ベラ=ラフマは「はい」と頷き、卓上に広げられた地図のある地点を指差した。

「ギーラはこの町、テル=エル=レタベに自らの拠点を置いています」

 テル=エル=レタベはスアン海峡に面する港町だ。ケムトの中では最も東に位置し、アシューに近く交易が盛んで、経済的豊かさではケムト随一の町と名高い。だが、

「……何でそんな遠くに」

 西から侵入してきた竜也達から見ればナガル川を挟んでちょうど反対側にいるようなものである。当惑する竜也にベラ=ラフマが淡々と推測を述べる。

「二つの理由が噂されています。テル=エル=レタベの豊富な資金力に目を付けてこの町を支配下に置いたのだ、というのがまず一点」

 実際ギーラはその豊富な資金力を最大限活用して万に届く傭兵軍団を有するに至っている。一方のテル=エル=レタベ市民は臨時に課された巨額の税負担に苦しみ、怨嗟の声を上げていた。

「次に、この町ならいざというときにアシューに逃げやすい、というものです」

 二人の間に何とも言い難い空気が流れるが、やがて竜也が気を取り直した。

「ギーラはこの町から指示を出しているのか?」

「はい、各町の軍勢にナウクラティスへの結集を命じています。それにギーラも手持ちの傭兵部隊の半分を送っています。今ナウクラティスには大ギーラ帝国軍三万が集まっているとのことです」

 ナウクラティスはナガル川の三角州の西端、ナガル川の河口から四〇〇スタディア(約七二キロメートル)遡上した場所に位置している。河川輸送の中継地点として栄えている町だ。
 三万、と竜也はくり返した。

「思ったより集まっているな」

「はい。ギーラは各町を治める貴族や長老の子弟をテル=エル=レタベに集めています。『大ギーラ帝国の官僚教育のため』と称していますが、実際には人質以外の何物でもありません」

 竜也は表情に嫌悪感をにじませた。ベラ=ラフマが続ける。

「人質のうち、見目麗しい若い女性は自分の後宮に放り込んでいる、という噂も聞いております」

 竜也は思わず舌打ちした。

「のんびりしている場合じゃないな。……ギーラがどういう戦略を立てているか判るか? 三万程度を八万にぶつけても勝てないことくらいは判っているだろう?」

「まず騎兵隊で後方を攪乱、ヌビア帝国軍の進軍を妨害します。次にナウクラティスの三万が防御に徹し、ヌビア軍を足止めします。その上でヌビア軍内に入り込ませた傭兵に反乱を起こさせる。場合によっては皇帝クロイを暗殺させます。ヌビア軍が混乱に陥ったところで三万を攻勢に転じさせ、一気にヌビア軍を壊滅させる――このような戦略を立てているとのことです」

 結構ちゃんと考えているんだな、と竜也は感心した。

「それじゃ、それの裏をかくとするなら……」

 竜也は顎に手を当ててしばしの間作戦立案に没頭、やがてある案をベラ=ラフマに提示した。

「なるほど、問題はないかと思います」

「不安があるとするならこれがギーラ側に知られることだけど」

「それはシェションクと私の手の者で遮断できるでしょう」

 とベラ=ラフマが断言、竜也はそれを信頼した。
 その後、竜也はマグドやタフジール達を集め、作戦案を披露。いくつかの修正が加えられ、作戦が決定された。
 そしてシマヌの月の月末。ヌビア帝国軍がジェフウトを出発する。ロカシスから連れてきた工作部隊一万のうちの女子供・年寄りはこの町に留めておき、順次西へと帰還させることになっている。その代わりにジェフウトとその近隣から新たに兵を徴募し、工作部隊に配属した。遠征軍の総勢八万に変わりはない。
 騎乗した竜也が後続のマグドやタフジール達に、

「それじゃ行くぞ、ナウクラティスに! 足止めを食らいに!」

 そう呼びかけ、マグド達は笑いながら「応!」と答える。竜也率いるヌビア帝国軍八万はナウクラティスに向かって進軍を開始した。







 ケムト遠征軍はナガル川の支流に沿って街道を南下し、ナウクラティスを目指している。ダムジの月(第四月)の月初、東からやってきたエジオン=ゲベル軍一万が遠征軍に合流した。

「これでやっと一〇万を号することができる」

 と竜也は安堵の様子である。エジオン=ゲベル軍の一万が加わっても総兵数は九万をわずかに越えただけなのだが「四捨五入すれば一〇万だ」と竜也は強弁することに決めていた。

「久しぶりだな! 皇帝タツヤ、手助けに来てやったぞ」

「感謝する、国王ノガ」

 出奔の経緯を忘れたかのように何の屈託もなく(少なくとも外見には)ノガは竜也に声をかける。竜也もまたわだかまりを抑え込み、笑顔でノガを歓迎した。

「こいつは俺の懐刀のガアヴァーだ」

 とノガが紹介したのは、線の細い、神経質そうな青年だった。緊張に全身を硬直させているこの青年がアナヴァーの息子である事実は、事前に報告を受けている。

「この戦いは皇妃ファイルーズが宰相プタハヘテプから祖国を取り戻すためのものだ。それにエジオン=ゲベルが協力してくれたことを俺は決して忘れない」

 暗殺未遂事件のことをおくびにも出さない竜也にガアヴァーは恐縮する以外に何もできなかった。

 ……エジオン=ゲベルに戻ったノガは国王ムンタキムが人質にしていたアナヴァーやその部下の家族を解放、その中から志願者を募って自分の部下にした。そんな経緯でノガの麾下に加わったガアヴァーだが、知謀に優れ、エジオン=ゲベルの社交界でも顔が広く、参謀役・交渉役としてはこれ以上ない人材となった。いまやノガにとってはなくてはならない頭脳役、右腕役となっている。今回のヌビア軍への援軍もガアヴァーが強硬に主張し、実行にこぎ着けたものなのだ。

「いくらまだ戦闘が起こっていないとは言え、俺達はもうムンタキムに対して挙兵しているんだぞ。それなのにこの国を放っておいて、ここを空っぽにしてまでケムトに戦いに行くのか?」

 と難色を示すノガに対し、ガアヴァーは「はい」と強く頷いた。

「皇帝クロイは少しでも多くの兵を集めようとしています。ここで国王ノガが全軍で応援に駆けつければ皇帝クロイに対する大きな貸しとなります。ケムトでの戦いが終わればそれは何倍にもなって国王に返ってくることは疑いありません。それに、皇帝クロイに対して他意がないことを是非とも示しておく必要もあります」

 ノガはその言葉に反論できない。勢いでやったこととは言え、皇帝暗殺未遂犯を引き連れてヌビアを出奔したことは、竜也に対する害意があるものと受け止められても仕方がない。今またノガは暗殺未遂の主犯の息子を自分の右腕としているのだ。竜也にその気があるならこれを理由にエジオン=ゲベルに攻め込んでもいいくらいだった。
 こうしてノガは再び竜也と共に戦うこととなる。ヌビア軍と合流したその夜、ノガは自分の天幕にガアヴァーを呼び出していた。

「何とか最大の山場は越えたな。あとはギーラと宰相を始末すればいいだけだ」

 とノガはもう戦いが終わったような気分でいる。一方のガアヴァーは浮かない様子だった。

「ヌビア軍に対して貸しを作ったはずなのに、借りができる一方のように思えます」

 ガアヴァーの存在に対して竜也が何も言及しなかったことがガアヴァーにとっては返って居心地を悪くしている。
 一方竜也の天幕では、ベラ=ラフマが竜也に対してその点を確認中だった。

「あの者は皇帝を暗殺しようとしたアナヴァーの息子なのですが」

「俺はどこかの誰かが犯した罪をその息子に償わせようとは思わない。その息子が人質の立場だったというのならなおさらだ」

 もちろん竜也も聖人君子というわけでは決してない。ただ暗殺未遂事件の被害が結果として大したものではなかったために、わだかまりを理性で抑え込めているだけである。ヌビア側でもエジオン=ゲベル側でも、暗殺未遂事件に関してこれ以上は誰も何も言及することはなかった。
 なお、聖槌軍戦争中は第七軍団に所属し、ノガの指揮の下に戦ってきた百人隊長・千人隊長クラスの人間が何十人もこの遠征に同行し、ノガの合流を機にエジオン=ゲベル軍に移籍している。ノガは彼等の参集を大いに喜んだが、ガアヴァーは「皇帝にまた借りを作った」と身を縮めるばかりだった。
 そして数日後。ヌビア帝国とエジオン=ゲベルの連合軍がナウクラティス近郊に到着した。
 ナウクラティスもまたナガル川の支流に沿って建設された都市である。人口は一五万から二〇万人。分厚い城壁により全市が囲まれており、難攻不落という点ではケムト随一と言われていた。

「これは……」

 城壁を見上げた竜也はそう言ったきり言葉をなくしている。マグドとノガもまたそびえ立つ城壁を険しい目で見上げていた。

「これだけの城塞都市だと落とすのは至難だぞ。普通なら短くとも一、二年がかりの戦いとなる」

「新兵や素人を含めた九万じゃ到底足りん。戦い慣れた兵だけで一〇万はいないと」

 そんなに時間や人手をかけられるか、と竜也は内心で毒づく。

「……思ったよりもずっと強固な町だけど予定に変更はない。手元の兵だけで落とす」

 竜也は静かに、だが確固たる姿勢を二人へと示す。それを受けてマグドとノガも気を取り直した。

「そうだな。俺達がやるべきことに変わりはない」

「ああ、まずは手筈通りに」

 マグドとノガの命令を受けて各部隊が陣地を築き、所定の配置に動き出す。そして翌日からナウクラティス攻略戦が開始された。







 マグドが率いるヌビア帝国軍主力が集結しているのはナウクラティス城壁の正門と言うべき場所である。鉄板と木板を組み合わせた三枚の門扉が城壁の内外を隔絶する。門扉の高さは一〇メートルに達し、城壁と櫓の高さは一五メートルを越えていた。城壁や櫓の上には弓や火縄銃を持ったケムト兵がずらりと並び、さらに数十門もの大砲が設置されている。ヌビア軍の進軍を手ぐすね引いて待ち構えているようだった。
 一方のヌビア軍は、正門から三スタディア近くの距離を置いた場所に陣を敷いている。盾を構え、矢や剣で武装した数万の兵が、

「卑怯だぞ! そこから下りてこい!」

「出てこい! 野戦で勝負しろ!」

 と怒鳴っている。集結した数万の兵はケムト兵に対して総勢で罵声を浴びせ、太鼓みたいに剣と盾を打ち合わせているが、ただそれだけだ。突撃する気配は全く見られない。城壁のケムト兵はその騒音に閉口している様子だが、同時に口先だけのヌビア軍に苦笑しているようでもあった。
 ヌビア軍の中心にいた竜也とマグドは騒音の直撃を受け、大急ぎで後退。ヌビア軍陣地からかなり距離を置いてようやく会話が可能となった。

「……まずは予定通りってところか」

 竜也の確認にマグドが「はい」と頷く。

「それじゃ、ここは任せる。俺も予定通りに事を進めてくる」

 ヌビア軍主力部隊をマグドに委ね、竜也は都市沿いに流れるナガル川へと向かった。川面には補給物資を満載したガイル=ラベク達の川船が途切れることなく行き来しており、ファイルーズ達も船でこの町まで移動してきていた。竜也はそこでファイルーズ達と合流。竜也・ファイルーズ・イムホテプ、それに護衛の近衛を乗せた船がナガル川の川面へと乗り出していく。やがて船は川の中央の小さな中州に到着した。

「待たせてしまったかな」

「いえ、とんでもない。王女殿下と皇帝陛下にはご機嫌麗しく」

 そこで竜也達を出迎えたのはケムト貴族風の何人かの男である。竜也は彼等の用意した天幕の中へと入り、席に着き、そして会談が開始された。

「我々は決してヌビアの皇帝陛下に望んで敵対しているわけではありません。我々はメン=ネフェルの国王陛下の臣下ではあっても、プタハヘテプの家来ではありません」

 そう口火を切ったのはアーキルという四〇代の男であり、彼はナウクラティスを統治する貴族である。ナウクラティスに集結したケムト王国諸都市の指導者の中で、アーキルを代表とする最も有力な数名。今竜也と会談を持っているのはそういう者達だった。

「それなら、何故今あなた達はギーラの言いなりとなってヌビア軍と戦っている?」

「あのような男など……!」

 アーキル達は侮蔑と嘲笑に顔を歪めた。

「皇帝陛下がお望みとあれば、我々はいつでもあの男の首をお渡しいたしましょう。あの男の懐には私の娘と称する者を入り込ませています」

「そんなことをして、露見しないのか?」

 と竜也は疑問を抱くが、アーキルは侮蔑を募らせるだけである。

「普通ならこのような姑息な策が通用するはずもありませんが、あの男は底なしの阿呆ですので。あの男の部下に鼻薬を効かせさえすれば、娼館から借り受けた娘が『ナウクラティス貴族の息女』で通ってしまうのですから!」

 ふむ、と竜也は腕を組む。

「ならば、我が軍と戈を揃えてギーラとプタハヘテプを討つことに異存はないのだな」

「それについては異存はありませんが……いくつかの条件が。皇帝陛下は聖槌軍戦争の戦費をケムト王国の諸都市にも負担させるつもりだ、と伺いましたが」

「その通りだ」

 兵力三万を号する大ギーラ帝国軍だが、その内実は寒々しい限りだった。ギーラの暴走、プハタヘテプの耄碌、ファイルーズの威光、イムホテプの説得、ベラ=ラフマの策謀。それらの要因が奏功し、大ギーラ帝国軍の中でヌビア帝国軍と積極的に戦いたいと考えている者などただの一人もいない。だが、

「それについては撤回をお願いしたい、というのが我々の総意です」

 税負担を求められるとなると話は別だった。

「それはできない。ヌビアとケムトを一つの国とするのが帝国の目的であり、そうなったなら各都市に税負担を求めるのは皇帝の義務だ」

「我々はあくまでケムトの国王陛下の臣下であり、ヌビアの皇帝の臣下になるつもりはありません。宰相プタハヘテプを排除するのも国王陛下に対する忠誠のためのもの」

「それを否定するつもりはない。だがソロモン盟約はヌビア全土を守るためのもの、延いてはケムトの各都市を守るためのものだ。ソロモン盟約への加盟とケムトの国王への忠誠は両立できる」

 一方の竜也は愚直に各都市のソロモン盟約への加盟を求め続けた。両者の主張は平行線を辿るだけで決して交わることはない。会談は何回かの休憩を挟んで朝から夕方まで続いたが、その内容は互いに要求を言いっ放しにしているだけで議論と呼べるものではなかった。やがて日が暮れ、その日の会談はようやく終了となった。
 連絡用の川船に乗り込み、アーキル達他人の目がなくなった途端、

「ああー! 疲れたー!」

 竜也は船底に横になって突っ伏した。ファイルーズはそんな竜也を微笑ましく見つめている。

「思ったよりも強気でしたね。『戦っても負けはしない』、そう思っているのが目に見えるようでした」

 イムホテプの言葉に竜也も頷く。

「まあ、これだけの城塞都市に拠っていればそれも当然かも知れないが……」

 竜也はそこで言葉を途切れさせ、

(それが思い違いだって教えてやるさ)

 内心でそう続けていた。
 船が岸辺に到着し、竜也はマグドの元に向かう。日が沈んで世界は暗闇に包まれたが、本陣のマグド達主力部隊は、

「出てこいー! 出てきて戦えー!」

 未だひたすら声を出し、剣と盾を打ち合わせて騒ぎ続けていた。威勢だけはいいが兵は皆「うんざり」を通り越し、無表情になって機械的に罵声を出し続けている。その様子に竜也はちょっと腰が引けたようになりながらもマグドの元にやってきた。

「将軍、様子は」

「おう、特に問題はない。見ろ」

 とマグドは城塞正門を指し示した。暗闇の中に山のような正門がそびえ立っているのが判る。

「……結構近付いているかな」

 朝の時点では本隊と正門との距離は三スタディア近くあったのだが、今はそれは二スタディア(約三六〇メートル)に縮まっていた。マグド達は丸一日かけて、ケムト側に悟られないよう少しずつ少しずつ前進して距離を縮めたのだ。

「日も暮れたし、ここからが本当の勝負だ」

「皆疲れているだろうけど、よろしく頼む」

 竜也はそう挨拶し、自分の天幕へと戻っていった。後方の天幕の中で横になっても、正門前で騒ぐヌビア兵の声が聞こえてくる。精神的に疲れ切っていた竜也はすぐに眠りに就いたが、ヌビア兵の騒ぐ声は一晩中聞こえ続けていた。
 その翌朝、日が昇ろうとする頃。ナウクラティス城壁の正門前に陣取って騒ぎ続けていたヌビア軍がようやく静かになった。

「まったく、ご苦労なことだぜ」

「やれやれ、これでやっと眠れる」

「でももうすぐ朝だぞ」

 城壁の上で歩哨に立つケムト兵達はそんな風に笑い合っている。やがて朝日が昇り、その笑顔が硬直した。

「な、なんだあれは」

 正門から二スタディアほどの距離をおいて正門を包囲するように地面が掘られ、溝ができている。掘られた土は溝に沿い、正門側に向かって積み上げられていた。長さ数十メートル、幅二メートルほど。深さは正門側からは判らないが、積み上げられた土も含めれば人が立って隠れるくらいはできそうだ。

「いつの間にあんなものを、何故気が付かなかった!」

 正門の警備隊長が部下を叱責するが、それはただの八つ当たりだった。彼にも判っていたのだ、その塹壕が掘られたのは夜の間、ヌビア兵が騒ぎ続けてケムト兵の注意を逸らしていた間なのだと。
 夜が明け、ヌビア軍が活動を開始した。ヌビア軍は今日は無言である。数万の兵がモグラのようにひたすら地面を掘り進み、塹壕を延長することに集中している。呆然とそれを見つめていたケムト側だが、

「た、隊長。攻撃は?」

「……待て、上に確認する」

 警備隊長がアーキルへと朝から何度も問い合わせの伝令を送り出し、ようやく彼等の元に命令が返ってきたのは昼を過ぎてからである。

「こちらからの指示があるか、敵の攻撃があるまで攻撃を許可しない」

 警備隊長は唇を噛み締める。警備のケムト兵達はヌビア軍の蠢動を不安そうに見つめることしかできなかった。
 一方同時刻、ナガル川の中州。アーキル達ケムト側代表者の面々もまた不安を隠して竜也と対峙していた。

「皇帝陛下、ヌビア軍のこの動きは一体」

「交渉で決着できなければ剣を振るうしかないだろう? そのための準備だ」

 アーキルの問いに、竜也は当然のように答える。

「皇帝陛下は我が都市の堅牢さを、我が軍の勇猛さを軽視しているのではありませんか?」

「一〇万程度の兵でこの町が落とせるのかどうか、試してみてはいかがですか?」

 アーキル達も強気な姿勢は崩せない。その日の会談も前日と何も変わらず、竜也がソロモン盟約の加盟を求め続け、アーキル達はそれを拒絶し続けた。前日と違うのは、竜也は時折威圧するような目をアーキル達に向けることであり、アーキル達が不安を圧し殺していたことである。やがて日が暮れてその日の交渉は終了となった。その頃には正門前では百メートルを越える塹壕が何本も掘られている。
 中州からの帰路、船の上で不安げなファイルーズが、

「タツヤ様、市民が犠牲になるようなことは……」

「もちろんできるだけ減らすようこっちも努力している。でも、ゼロになるかどうかはアーキル達次第だろう?」

 ファイルーズが何か言いたげに竜也を見つめ続ける。だが竜也はそれを完全に無視、ファイルーズの希望には応えなかった。







 その一方、テル=エル=レタベ。
 テル=エル=レタベはアシューとの交易で栄えている町であり、ヌビア帝国と大ギーラ帝国――ケムト王国が戦争中であろうとその繁栄には何ら翳りはない。前線のナウクラティスとは八〇〇スタディア以上(約一五〇キロメートル)離れており、この町に閉じ籠もっている限りは戦争など遠い世界の話のようにすら思われた。
 ギーラはテル=エル=レタベ有数の豪商から邸宅の一つを譲り受け(譲渡を強要して)その豪邸を自分の根拠地としていた。広大な豪邸のあちこちに警備の傭兵が歩哨に立っているが、真面目に仕事をしているようには見えない。人目の多い場所でも駄弁に興じており、人目の少ない場所では居眠りをしたりサイコロ賭博に熱中したり、といった有様だ。
 警備の傭兵も立ち入りが許されない、豪邸の最奥。その寝室では昼間からギーラが酒宴に耽溺していた。巨大なベッドに寝転がるギーラに、何人もの半裸の女達が口移しで酒を呑ませている。

「わたしが皇妃になるのでしたら、やはりそれなりの装飾が必要だと思いませんか? わたし、金の冠にこんな大きな金剛石を付けてほしいですわ」

「わたし、銀の首飾りにこれくらいの蒼玉を!」

 女達はギーラに媚びを売りながら法外なおねだりをし、

「ふん、任せろ。それくらいどうということはない」

 ギーラは何も考えないままそれを承諾。女達は喜びの嬌声を上げ、それぞれギーラへの愛撫を始めた。ギーラの口元は弛緩し、その目は情欲に濁っている。
 ……ギーラは各都市から集められた人質のうち、若くて美しい女性を片っ端から自分の後宮に放り込んだ。だがその女達のほとんどが、各町が娼館から借り受けた若い娼婦であることに今でも気付いていない。その娼婦達が手練手管と媚態の限りを駆使し、ギーラはすっかり骨抜きとなってしまっている。政務の大半を放り出し、一日のほとんどを彼女達とベッドの上で過ごしていた。
 そのとき、そこにメイドの一人がやってきて少し怯えながら、

「皇帝陛下、大将軍キヤーナが大至急お会いしたいと申しております」

 元々はギーラの護衛として雇われたキヤーナだが、今ではギーラにとっての唯一の腹心と言うべき存在だ。ギーラはそのキヤーナに対し、功績に相応しい地位に任じることで報いていた――もっともその地位に内実はなく、やっている仕事は傭兵のまとめ役やケムト王国軍との連絡役などだったが。

「キヤーナが?」

 ギーラは煩わしげに舌打ちするが、それでもベッドから起き上がった。女達の一人が不安げに呟く。

「ナウクラティスで何かあったのかしら……」

 その言葉が癇に障ったギーラだが、女達の前ではそれを出さずに頼もしげに振る舞った。

「あのクロイの軍など、今頃はナウクラティスの城壁の前で立ち往生だ。何もあるはずがないだろう」

 そう言い残してギーラは服を着、寝室を出て執務室へと向かった。ギーラが立ち去ったのを確認すると女達もまた身を翻し、服を掴んでどこへともなく走り去っていく。
 一方ギーラは廊下でキヤーナに掴まっていた。

「旦那、ヌビア軍の騎兵隊がすぐそこまで迫っていやす」

 開口一番そう告げられ、ギーラはしばらく唖然とした。

「……何を馬鹿な。ナウクラティスからこの町までは八〇〇スタディアもあるんだぞ」

「ええ、八〇〇スタディア。騎兵なら二日で走り抜けられる距離ですぜ」

 キヤーナの反論にギーラは沈黙するしかない。少しの間を置いて、

「……ナウクラティスの我が軍は何をしていた! それにケムトの地理に暗いはずのヌビア軍がこんな短期間で」

 ヒステリックに声を荒げるギーラだが、キヤーナはそれを手振りで封じる。

「今はそんなことを言ってる場合じゃないですぜ。どうやったのかはともかく、ヌビア軍が間近まで来てやがるんです」

 ギーラはしばらく判断に迷っていたが、やがて「くそっ!」と罵声を上げた。そして執務室へと入っていく。キヤーナがその後ろに続いた。
 ギーラが執務室に到着するが、その部屋には既に各傭兵隊の隊長が十数人集まっていた。ギーラが彼等に指示を出す。

「城壁の門扉を閉ざして敵をこの町に入れないようにしろ!」

「もう遅いです、市民が城門を占拠して門扉を開け放っています。既に敵の騎兵隊がこの町に侵入しているんです」

 ギーラは執務机に掌を振り下ろし、

「そんな叛徒共は生かしておくな! 殺せ!」

 と獣のように牙を剥く。だが傭兵隊長達は白けた目を向けるだけだ。過大な税負担で市民の恨みを買い、この結果を招いたのはギーラ自身なのだから。
 その間にも偵察兵が入れ替わりやってきて隊長達へと報告する。

「敵の騎兵は四つの隊に別れて進んでいます! 金獅子族・赤虎族・人馬族の旗が確認できました!」

「シェションク隊がヌビア軍と共に進軍しています!」

 激しい怒りを抱きつつもギーラは理解するしかなかった。

「あの裏切り者……!」

 シェションク隊がヌビア軍に協力し、騎兵隊を先導しているのなら道案内には何の不安もないだろう。ギーラが各地に放った偵察隊が沈黙したままだったのも、シェションク隊に懐柔されたか潰されたかのどちらかに違いない。
 ギーラは町の地図を指差して、

「バリケードを築いてこの三箇所の通りを塞ぐんだ、敵の進軍を阻止しろ!」

 ギーラの指揮に傭兵隊が従おうとするが、その動きは鈍い。テル=エル=レタベにいるギーラ配下の傭兵は五千に届くが、敵はその数倍だ。練度も士気も地を這うような水準でしかないし、第一時間があまりにもなさ過ぎた。

「敵が屋敷のすぐそこまで!」

 と伝令兵が急ききって報告する。一同の視線がギーラに集中した。ギーラは逡巡するが、それは長い時間ではない。

「各町の人質を集めろ! 人質を使って敵の突入をためらわせろ、時間稼ぎだ!」

 ギーラはそれだけを命じて執務室を飛び出した。後宮へと向かって走るギーラ、その後をキヤーナが追う。既にこの場では勝ち目がないことはギーラも理解している。逃げるのにお気に入りの女達を連れて行くつもりだったのだが、

「……どういうことだ」

 後宮は既にもぬけの殻となっていた。人の気配が全くない後宮にギーラだけが立ち尽くしている。そこにようやくキヤーナが追いついた。

「どうやらヌビア軍の接近に感づいていたようですな。ここを脱出してヌビア軍に保護を求めるつもりなのかもしれません」

 ギーラは「くそっ!」と手近な椅子を蹴飛ばす。買えば庶民の年収が飛ぶくらいの豪華な椅子がバラバラになった。

「旦那、傭兵を指揮して時間を稼ぎやすから、その間に船で脱出を」

「判った、後を頼む」

 ギーラはそれだけを言い残し、脱兎のごとくに逃げ出していく。キヤーナは嘲笑を浮かべながらその背中を見送った。
 その後、キヤーナは傭兵隊長や使用人を集めて指示を出して回った。

「我々はヌビア軍に降伏する! 人質に危害を加えるような真似をするな!
 落ち着いて、こちらの指示に従って行動しろ」
 傭兵隊の半分はどさくさに紛れて逃げ出したが、残り半分はキヤーナの指示に従い降伏準備をする。そうこうしているうちにヌビア軍の騎兵隊のうちサドマの隊が到着した。キヤーナは屋敷の門前で彼等を出迎える。

「お待ちしておりました、キヤーナ傭兵団団長・キヤーナでございやす。我々はヌビアの皇帝陛下に降伏します。どうか屋敷の者への狼藉のなきようお願いいたしやす」

 その出迎えを受けたサドマは「お前が」と驚いた顔を見せた。

「ギーラの側近のキヤーナだな。お前のことは『絶対に殺すな』と命じられている。大人しくしていれば決して危害は加えない」

 キヤーナはそれを「へい、判りました」と受け入れる。キヤーナ達傭兵各隊は降伏し、人質は騎兵隊が保護、ギーラはアシューへと逃亡。それがテル=エル=レタベの戦いの結末だった。大ギーラ帝国は事実上この日この町で潰えた。だがナウクラティスにはまだ三万の大ギーラ帝国軍が残っている。







 ダムジの月も中旬に入ろうとする頃。ギーラがアシューに逃亡した事実は竜也の元にも、ナウクラティスにも伝わっている。

「アーキル達は頭を抱えているだろうな」

 と竜也は他人事のように笑うが、実際その通りだった。

「一体これは誰のための戦いなんだ?」

「一体何のためのファイルーズ様と戦うことになったのですか?」

 兵や市民にそう問われ、アーキル達も答えに窮するしかない。アーキルを始めとする各都市代表は鳩首を揃え、この茶番をどう収拾させるか協議を重ねている。また、ギーラに雇われていた傭兵達と契約の結び直しをしようとするが傭兵側はアーキル達の足元を見て報酬を吊り上げようとし、交渉は紛糾した。一部の傭兵はナウクラティスから退出してヌビア帝国側に付こうとしている。
 竜也は騎兵隊が確保した各都市の人質を無条件で解放することを宣言。各都市側は謝意を伝える使者を竜也の元へと送った。ベラ=ラフマがそのうちの何人かに密かに接触、書状をもった使者がナウクラティス城壁内外を何往復かした。
 数日後、その日の朝一番。アーキルの元にある報告が届けられた。

「アンジェティが……?」

 首都ハカー=アンクに近隣する、有力な都市の一つであるアンジェティ。その代表がヌビア軍と休戦・中立協定を結んで大ギーラ帝国軍を離脱すると宣言したのだ。
 アーキル達は歯噛みをする。アンジェティの代表は個人的にアーキルと折り合いが悪く、大ギーラ帝国軍の指導部からは排除されていた。そこをつけ込まれたのだろう。
 なお、その協定ではアンジェティの扱いは現時点では保留で、「ナウクラティスや他の都市と今後結ぶ協定での扱いに準ずるものとする」となっている。要するに、ナウクラティスが死力を尽くして戦ってソロモン盟約への加盟を拒否できたならアンジェティもそうなるし、ソロモン盟約に加盟するならアンジェティも加盟するこということだ。

「つまり、戦っても戦わなくても結果は変わらないということか?」

「それじゃ戦っても兵や戦費を損なうだけ、損をするだけじゃないか」

「我が都市もこの協定を結べないのか?」

 ナウクラティスに集まった各都市代表の何人もが密かにヌビア帝国軍に使者を送る中、アーキル達はナガル川の中州で竜也との会談を再開していた。

「皇帝陛下は我々にどの程度の税負担を求めるおつもりですか?」

 アーキル達は帝国による併呑を、ソロモン盟約への加盟は最早避け得ないと判断した。残る問題はどの程度その条件を緩和させられるか、だ。

「あなた達はギーラから求められた戦費負担には応えたではないか。それはギーラに協力してヌビア帝国と戦う意志があったということだ」

「ギーラの要求に応えただけで我が都市の財政は危機に陥っているのです。そのような高率の税負担では」

 会談は長時間に及び、いくつかの点で合意が得られたが、いくつのかの点では平行線を辿ったままだった。合意を得られたのは「ケムト王国の諸都市がソロモン盟約に加盟する」ことであり、平行線のままなのはその際の税負担率である。日が暮れたのでその日の交渉は終了となり、竜也は自陣へと戻っていく。竜也は冷たい無表情で夕闇に浮かぶナウクラティスの城壁を見つめていた。
 それから数日後、ダムジの月の中旬。
 その日、アーキル達は早朝からナガル川の中州で竜也を待っていた。が、いつまで待ってもやってこない。使者を出しても曖昧な答えしか返ってこず、苛立ちが頂点に達した頃、ようやく中州に連絡船がやってくる。だがそこから降り立ったのは竜也やファイルーズではなく、白兎族の男だった。

「白兎族……!」

「皇帝は我等を敵にする気か!」

 アーキル達の敵意に満ちた視線を一身に浴びるベラ=ラフマだが、それを涼風のように受け流した。

「私は交渉に来たのではない。皇帝の布告を持ってきたただの使い走りだ」

 とベラ=ラフマが何かの書状を差し出す。アーキルはそれを部下に受け取らせ、持ってこさせる。書状を広げるアーキルとそれを横から覗き込む各都市代表。読み進むにつれ、彼等の顔が蒼白となった。

『……ナウクラティス、イムティ=バホ、ニイト=ミフト、ケント=イヤブ……これらの都市は皇帝を僭称するギーラに与し、大ギーラ帝国軍に加わることにより自らの立場を鮮明にした。すなわち、ヌビア帝国の敵である。皇帝と皇妃は慈悲を持ってこれらの都市にくり返し降伏を勧告したが、彼等はこれを拒絶。よって皇帝はここに、ナウクラティスを拠点とする大ギーラ帝国軍の殲滅を決定した。

 本日正午から攻撃を開始し、ナウクラティス全市を破壊する。市内に残っている者は兵士・民間人問わず、老人から赤子にいたるまで一人残らず皆殺しとする。皇帝を敵とする意志がないのであれば直ちにナウクラティス市内から退避せよ。残っている者は死を免れないものと知れ』

 アーキルの身体が恐怖と憤怒に震えている。アーキルは舌をもつれさせながら、

「こ、皇帝と話を……! ファイルーズ様はこのことを知っているのか!」

 烈火のような詰問を受けてもベラ=ラフマ静かに佇んでいるだけだ。その態度はまるで氷壁のようである。

「話すことは何もない。皇帝に伝えられるのはお前達の『降伏する』という言葉だけだ」

 アーキル達は揃って歯を軋ませた。そのうち代表の一人が気が付く。

「……ヌビア軍に一〇万の兵がいようとこちらにも三万の兵がいる。それにナウクラティスの城壁がある。あれは一〇万程度の兵で打ち破れるものではない」

 「そうだ、そうだ」とベラ=ラフマを除く一同が頷いた。その時、遠雷のような轟音が響く。時刻は正午ちょうどである。アーキル達は不安げな目をナウクラティスへと向けていた。
 同時刻、ナウクラティス城壁の正門。

「大!粉!砕! 大!爆!砕!」

 塹壕の盛り土の上では、両手に火縄銃を持ったタフジールが踊り狂っている。その下手な踊りに合わせるかのように、塹壕の中からの砲撃が連射された。砲弾は次々と正門を直撃している。

「くそっ! なんて数だ!」

 ヌビア軍の総攻撃に曝されている正門では整備隊長期が毒づいていた。正門を包囲するように掘られた塹壕から何十という大砲により砲撃をくり返されている。

「一体いつの間にあれだけの数を!」

 そう言いながらも、彼にもある程度は推測できた。この数日の対陣中にもヌビア側の塹壕は延長され、今はナガル川の岸辺にまでつながっている。輸送船を使って川から運び込み、塹壕の中を通っていけば城門側に見られることは決してないだろう――だが今そんなことに気付いても何にもならない。

「こちらからも砲撃だ!」

 ケムト側が砲撃による反撃を開始する。標的は警備隊を挑発するように踊っている阿呆である。ケムト側の砲弾が舞い踊るタフジールのすぐ横に突き刺さり、土を吹き飛ばした。だが、それだけだ。タフジールは全身土まみれで唾と土を吐き捨てているが、怪我一つ負っていない。

「皇帝の叡智を敵に回した自分達の愚かさを恨むがいい! 大!全!滅! 大!殲!滅!」

 タフジールは踊りながらも砲撃の指揮を続ける。その指揮に従い、第十軍団の砲兵は大砲を移動させて砲撃を続けた。
 ――位置関係ではケムト側が有利だが、土を盛った塹壕はその有利を覆して余りあった。砲弾が塹壕に当たったところで突き刺さって終わりであり、さらにヌビア軍は何回かの砲撃のごとに大砲を移動させてケムト側の砲撃を避けていた。一方のケムト側の砲台は固定式であり、敵の攻撃を避けようがない。砲弾が大砲を直撃することはほとんどない。だがヌビア軍の砲弾は石の壁を砕き、その破片でケムト兵に負傷させているのだ。
 ヌビア軍はまず城門側の大砲に対して砲弾を集中させた。大砲の射程距離を考えれば、二スタディアという距離は至近としか言いようがない。喉元に突き付けたナイフを互いに振り回すようなものである。砲弾が雨のような密度で飛び交う激しい砲撃戦は、思いの外短い時間で終わってしまった。ヌビア側の被害も決して小さくはないが塹壕の中のことのため傍目にはそれは判らない。一方ケムト側の被害が甚大なことは誰の目にも明らかだった。
 破壊された大砲はほとんどない。が、ある砲台は台座が崩れて傾き、ある砲台は倒れた石壁の下敷きとなり、ある砲台は火薬に引火して爆散していた。そして砲手が全員死傷している。
 城門側の大砲が全て沈黙しても第十軍団は砲撃を続けている。その援護射撃を受けながら、塹壕から出てきた奴隷軍団が、彼等が牽引する荷車が城門へと突撃する。藁・火薬・原油の入った瓶、荷車に満載されているのはそんな可燃物だ。それら十数台の荷車が城門に体当たりし、広範囲に炎が燃え広がった。消しようもなく火災が延焼し、城門が炎に包まれる中、第十軍団は砲撃を門扉に集中させている。鉄板を張った門扉は一枚ずつ、順番に撃ち抜かれ、撃ち砕かれていった。
 数刻後、可燃物が燃え尽きて炎が収まってくる。城門は煤焦げた無残な姿をさらしていた。砲台は全て沈黙、櫓は焼け落ち、城壁は穴だらけとなり、門扉もまた跡形もなく崩れ落ちてしまっていた。正門は城壁としての機能を失い、今や堤防に穿たれた一穴となっている。
 砲撃戦が終了し、塹壕からヌビア兵が這い出てくる。数万のヌビア兵が弓を構え、槍を手にし、正門前に結集して突撃の合図を待っている。一方のケムト軍もまた正門前に集まっていたが、その数は一万に満たなかった。ヌビアの皇帝が発した最後通告がビラになって町中に撒かれており、恐慌を起こした市民が町から脱出しようとして町中が大混乱に陥っているのだ。混乱に巻き込まれて正門に移動できない部隊も多いようだが、それ以上に混乱に乗じて雲隠れする部隊が多かった。何とか正門前に結集した部隊は彼我の兵力差に絶望しながらも「死んでも市民を守る」と悲壮な覚悟を決めている。まだ年若い兵が震える手で槍を強く握り締めた。
 正門を挟み、ヌビア軍とケムト軍が対峙する。両者の激突は……始まらなかった。両軍とも何かを待つように静かに立ち尽くしている。しわぶき一つしないような奇妙な静寂が思いがけず長い時間続き、不意にそれが破られた。

「降伏だ! アーキル様が降伏を決めた! 戦いを止めよ!」

 騎乗した若い貴族がそう叫んで両軍の間に割って飛び込んできたのだ。

「皇帝クロイの軍よ! 我等は降伏すると決めたのだ! 武器を収めよ、ここは退け!」

 ヌビア軍の中からマグドが前に進み出、静かに告げた。

「――ならば、我等に戦う理由はない。退かせてもらおう」

 マグドは自軍を見渡し、鋼鉄の右拳を突き上げる。それを受けてヌビア軍数万が一斉に勝ち鬨を上げた。一方のケムト軍一万は力尽きたようにその場に座り込む。
 一方ナガル川の中州、同時刻。そこにケムト側の連絡船がある知らせを持ってやってきていた。

「軍が……軍が降伏したと言うのか」

「は、はい。戦っても勝ち目はない、市民を守るため、と」

 アーキル達もまた気が抜けたようになってその場に座り込んだ。しばらくそのまま呆然としていたが、やがて投げ遣りとなった目をベラ=ラフマへと向けた。

「……聞いての通りだ、軍が降伏した以上はもう戦えない。我々は皇帝に降伏する」

「了解した。あなた達のことは決して粗略には扱わない。市民や兵にこれ以上の危害を加えないことを約束する」

 ベラ=ラフマが即座に確約、こうしてナウクラティスはわずか一〇日の攻防戦で陥落した。
 ……後日、アーキル達の降伏と軍の降伏がほぼ同時だったことが判明。どちらが先に降伏したのか、責任の押し付け合いと諍いが展開される。だが真相が判明することはなかった。
 アーキル達への最後通告と同時にナウクラティス市内で最後通告を印刷したビラをばら撒き、市民と兵の恐怖を煽りに煽ったのはベラ=ラフマの部下である。戦闘が開始され、混乱するケムト軍の幹部の中で「降伏すべきだ」と強く主張したのはイムホテプの影響下にあった者達だし、「軍が降伏した」「アーキル達が降伏を決めた」とデマを飛ばしたのはベラ=ラフマから指示を受けた者達だ。そのデマを事実と思い込んだ者達がそれぞれ行動を起こし、結果として軍とアーキル達がほぼ同時に降伏することとなったのだ。
 その日の夕方、ヌビア軍の陣地。廃墟同然となったナウクラティス城壁の正門がそこからでも見えている。マグド達はそれを眺めながら、

「これほどの城塞都市がたった一〇日で」

 半ば感嘆し、半ば呆れずにはいられなかった。一方竜也は肩をすくめる。
 ナウクラティスが堅牢な城塞都市とは言っても何百年も前に建設された城壁でしかない。火砲がこれだけ発達していれば城壁の意味は大幅に減じている。それに、火力をこれだけ大規模に、集中的に運用した例は三大陸全体を見渡してもほとんどない。火砲が発達し、戦乱が続いていたエレブでも辛うじて二、三例思いつくくらいで、天下太平が長いケムトでは絶無だ。ナウクラティスが経験や前例のないことに対応できなかったとしても無理はない――ナウクラティス陥落の理由としてまずそれが挙げられる。だがもっと大きな、もっと根本的な理由があった。

「ナウクラティスに本気で戦うつもりがあったなら一〇日ですむわけがない。降伏に当たっての条件が折り合わず、説得するのに時間がかかっただけだ」

「……あれが『説得』か?」

 と引きつったような笑いを浮かべながら、ノガは砲撃で穴だらけの正門城壁を指し示し、

「あれも『説得』だ」

 と竜也は大真面目に頷いた。
ナウクラティスが陥落し、同市に結集していたケムト王国軍三万はファイルーズに対して忠誠を宣誓。これにより大ギーラ帝国軍は完全に消滅した。元々砂上の楼閣のように危ういものだったが、その潰え方はまさに蜃気楼のようである。
 この世界で二番目に登場した帝国・「大ギーラ帝国」。それはわずか二ヶ月ばかりで命数を使い果たし、愚かしい記憶を除いては何一つ残さずにこの世界から永遠に退場した。まるで出来の悪い劇の上演が終わり、幕が引かれたかのように――






[19836] 第五四話「カデシの戦い」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/05 21:01



「黄金の帝国」・征服篇
第五四話「カデシの戦い」







 ダムジの月(第四月)が下旬に入ろうとする頃。竜也達はメン=ネフェルに向けての進軍を開始。竜也と共に進軍するのは、マグド率いる奴隷軍団七千・エレブ人部隊一万五千・傭兵部隊五千・新兵集団二万、それにナウクラティスに集まっていた旧大ギーラ帝国軍のうち二万数千。合計五万の軍勢である。
 タフジールの第十軍団はナウクラティスに駐留。ロカシスやジェフウトで集められた工作部隊もナウクラティスに残し、順次西へと帰還させる予定である。サドマ達の騎兵隊はテル=エル=レタベに残したまま。ノガ率いるエジオン=ゲベル軍は竜也達と別れ、テル=エル=レタベに向かって進軍を開始していた。
 ダムジの月の下旬、ヌビア帝国軍がハカー=アンクに到着。ハカー=アンクは元の世界ではカイロに相当し、宰相府を始めとするケムトの行政組織が一通り揃っている。ケムト王国の事実上の首都と言うべき町である。王宮のあるメン=ネフェルまではあと一日もかからない距離だった。
 その町の城外で陣地を築いて野営の準備をする竜也達の元に、ハカー=アンクからの使者が訪れた。いや、使者はハカー=アンクからだけではない。

「メン=ネフェルの? ケムト王の使者だということか?」

 竜也の前に立つ若い貴族は胸を張り堂々と名乗った。

「はい。私はケムト王国の国王メンマアトラーの使者として、ヌビアの皇帝の前に来ております」

 ふむ、と竜也はちょっと勿体ぶった態度をして見せた。

「……しかし、あなた達と我々は未だ戦争中だと思うのだが。宰相プタハヘテプは我々に対する討伐を呼びかけているだろう?」

 竜也の問いに対し使者は何も答えず、何かの荷物を取り出した。豪華な錦布に包まれた、数十センチメートル四方の箱である。錦布の包みを解くと出てきたのはただの木箱だった。その使者が床に置いた木箱を開く。竜也達は息を呑んだ。

「お納めください。前の宰相プタハヘテプの首級でございます」

 竜也達の眼前には蝋付けとなった老人の生首があった。竜也は視線をイムホテプへと送る。イムホテプはわずかに顔色を悪くしながらも、

「間違いありません、確かに宰相です」

 と頷いた。

「……ケムト王の答え、確かに受け取った。我が軍は矛を収めよう」

 竜也がそう宣言し、使者はかすかに安堵の様子を見せた。

「これからヌビアとケムトは一つの国となる。私はケムト王と手を携え、新たな国を造っていきたいと思っている」

 この日、ケムト側の事実上の降伏により戦いは終結。ケムト王国は解体されヌビア帝国に併合されることとなった。

「……これほどの大遠征なのに、戦闘らしい戦闘がろくになかったじゃないか。ナウクラティス城壁での『説得』にしたって、双方合わせても死者は二百人にも届いていない」

 とマグドは気の抜けた様子である。

「ファイルーズは一人で数万の兵に匹敵するくらいの威光を見せつけたし、イムホテプやベラ=ラフマの働きはかけがえのないものだ。でも、それもこれも将軍がサフィナ=クロイから四万近い軍を連れてきてくれたからだ。

『ヴェルマンドワ伯と互角に戦った螺旋のマグドが率いる』

『百万の聖槌軍を皆殺しにしたヌビア帝国軍』

 ――ファイルーズ達の働きにしてもそれだけの武力を背景にしてのことなんだ」

 竜也はそうマグドの功績を称揚し、マグドは照れくさそうな笑みを見せた。が、続く竜也の、

「まあ一番の功労者が誰かと言えば、ギーラになるんだけど」

 その言葉に肩すかしを受けたようになっていた。だが「確かに」と同意する他ない。各都市から人質を取ってそれを自分の後宮に放り込んだり、皇帝を名乗ったりと、ギーラが暴走して傍若無人の限りを尽くしたからこそ、

「ギーラの家来よりは皇帝クロイの臣下の方がまだマシだ」

 と各都市が思ってくれたのだから。
 翌日、竜也はファイルーズと共にメン=ネフェルを来訪。ケムト王国国王メンマアトラーと会談を持つ。竜也はそこでプタハヘテプの末路について知ることとなった。
 ――メンマアトラーを傀儡として権勢を振るったプタハヘテプだが、近年は老化により判断力がかなり落ちていたようである。聖槌軍と手を結ぼうとしたことも結果としては判断ミスだったし、ギーラの竜也暗殺計画に協力してヌビア帝国を敵に回したのは重大な間違いだった。以前のプタハヘテプならそこで軌道を修正し、ギーラを竜也に差し出して「全てはギーラ一人で考えて実行したことで、ケムトは全くの無関係です」等と強弁しただろう。だが耄碌した彼はギーラの口先と虚像に惑わされ、ギーラを司令官としてヌビア帝国と戦争することを選んでしまった。
 それでギーラが勝っていればよかったのだろうが、結果は全くの逆で大ギーラ帝国軍は消滅、ギーラ自身はアシューに逃亡。プハタヘテプも逃亡を考えたのだが、メンマアトラーが、

「自裁せよ」

 と命じたのである。以前なら国王の命令など鼻で笑って無視するくらいだったし、周囲もそんなプハタヘテプに追従していたのだが、その時点ではもうプタハヘテプは一人だった。追従していた者達は彼に背を向けるか嘲笑を浴びせるだけだ。プハタヘテプは自室で毒をあおり、死を迎えたという。
 会談を終えた竜也はその日のうちにハカー=アンクに戻ってきて、翌日以降はその町を拠点としてケムト併合を定着させるための政策を立案・実行していく。数日後にはハカー=アンクの竜也の元にシェションクの騎兵隊が戻ってきた。シェションクはギーラが確保していた各都市の人質を引き連れて移動してきた。
 また、シェションクがテル=エル=レタベから連れてきたのは人質だけではない。竜也の前に引き出されているのは、年老いた貧相な傭兵だった。

「……お前がキヤーナか。ギーラの右腕の」

 竜也の確認にキヤーナは「へへっ、左様でございやす」と平伏して返答する。キヤーナに代わってベラ=ラフマが説明した。

「この者は早くから私に協力することを約束しております。ギーラの側近として働いておりましたが、ギーラ側の情報を我々に流してきたのも、我が軍の情報をギーラから遮断したのも、各都市が人質の身代わりを送ってきたことを黙認したのも、人質の安全を確保したのも、全てこの者の働きです」

 竜也は「そうか」と瞠目、キヤーナの働きを賞して充分な報酬を与えることを約束する。キヤーナは土下座するくらいにさらに平伏した。
 ――なお、キヤーナがどのくらい早くからベラ=ラフマと協力していたかと言うと、実はほぼ最初からである。東ヌビア内の竜也に敵対的な勢力がキヤーナ傭兵団を雇ってギーラに助力しようとしていたのをベラ=ラフマが察し、雇われる前のキヤーナに接触して協力を約束させていたのだ。ギーラがケムトに逃げるよう仕向けたのはベラ=ラフマだし、ケムトでプタハヘテプと面会できるだけのコネを用意したのはイムホテプだ。
 ベラ=ラフマの期待に応えるようにギーラはプタハヘテプをそそのかしてヌビアに対する戦争の道を選ばせ、結果としてプタハヘテプは排除されケムトはヌビアに併合されることとなった。ただ、暗殺計画にエジオン=ゲベルまで巻き込んで竜也の生命を危機にさらしたのは全くの計算外で、ベラ=ラフマにとっては痛恨事である。だが、それにしたって結果としてはムンタキム排除の遠征につながり、東側国境の安全をより高めることに結実しているのだ。
 竜也は人質を各都市へと送り返すのに使者を同行させ、各都市代表をハカー=アンクに招集した。ケムト王国に属する全ての都市とソロモン盟約を締結し、それによって正式にケムトをヌビアに併合するのだ。

「まず、ケムト王国軍は解体だ。各都市の武装は原則禁止、盗賊退治ができる自警団があればそれでいい。今のケムト遠征軍をケムト面軍に再編成する。今いる兵はできるだけサフィナ=クロイに戻して、各都市の兵力を集めて方面軍に組み込むんだ」

 流れる血が最小限となるよう最大限努力し、それが正しく報われた竜也だが、逆に言えばケムト王国の諸都市はそれだけ戦力を残しているということだ。ケムト王国の解体はまず軍の解体から始まったが、当然ながらそこには反発も生じる。小規模な兵の反抗が頻発し、混乱に乗じて盗賊が出没した。

「盗賊共は生かしておくな! ヌビアの皇帝に逆らうとどうなるかを思い知らせてやれ!」

 兵の反抗を鎮め、盗賊を討伐して回るのはマグドである。マグドはシェションク隊を中心に旧ケムト軍から騎兵隊を再編成。シェションクと共にケムト中を縦横に走り回った。竜也もまたそれらの反抗が大規模な反乱に至らないよう細心の注意を払っている。ミカとカフラがそれぞれの分野で竜也を補佐した。
 月がダムジからアブ(第五月)に入り、その中旬には竜也の招集を受けたケムト各地の都市代表が順次ハカー=アンクに集まってくる。

「ケムトという国が喪われたのではありません。セルケト朝の血を継ぐ者が次期皇帝としてヌビアに君臨し、太陽神の威光がヌビア全土を照らすのです」

 ファイルーズは各都市代表を説得し、竜也にとって最大の協力者となった。そのファイルーズを補佐するのはイムホテプだ。イムホテプは宰相代理として軍務以外の政務全般を取り仕切っている。

「……クムヌの代表は個人的な借金で首が回らない、金品で懐柔できる。スウェネトの代表はセルケト王族との婚姻を望んでいる、これについてはイムホテプと相談……」

 そしてベラ=ラフマが監視の目を張り巡らせ、ファイルーズの説得にも渋る相手を裏技を使って陥落させようとし、

「……あれは反乱を起こすつもり。準備もほとんど終わっていて、後は実行するだけ」

「反乱に協力する都市は?」

「皆が協力すると思い込んでいるけど、本当かどうか判らない」

 それでもどうしようもない相手はラズワルドがそれを見抜いていく。

「それでは頼む」

「おう、任せろ」

 そしてベラ=ラフマの指示に従い、ツァイドとその部下が処分の手を下した。その日の深夜、何者かに撲殺されたウアセト代表の死体がハカー=アンクの路地裏に転がった。
 それを耳にした竜也は、

「物騒だな。俺達だけじゃなくて各都市代表の警備にも注意してくれ」

 軍とバルゼル達近衛にそう命令。バルゼルはその命令にしっかりと頷いた。
 竜也・マグド・ファイルーズ・イムホテプ・ベラ=ラフマ等々。ヌビア帝国側全員の尽力により、旧ケムト王国に属していた全ての都市がソロモン盟約を締結。エルルの月(第六月)となる頃、正式にケムトはヌビア帝国領となった。単にその領土を拡大させただけではない。三大陸の中で最も巨大な穀倉地帯を、最も交易が盛んで経済的に豊かな地域を、竜也は手に入れたのだ。







 エルルの月の上旬。エジオン=ゲベル王国の使者がハカー=アンクに到着、竜也はその使者と面会する。竜也達はその使者からノガのエジオン=ゲベルでの戦いぶりを聞かせてもらうこととなった。
 ……一月以上前、ダムジの月の下旬。ノガ率いるエジオン=ゲベル軍がテル=エル=レタベに到着。その町にはガイル=ラベクがすでに到着しており、ノガはゴリアテ級を使って対岸へと海を渡る。
 スアン海峡を挟み、テル=エル=レタベの対岸にあるのはスアン王国の王都・スアンである。ノガやベラ=ラフマが早くから使者を送り、スアン王国の協力は取り付け済みだ。アブの月の上旬、スアンの郊外に上陸したノガは一万の兵を率いて東への進軍を開始した。スアン王国の領土を横断し、エジオン=ゲベル王国を目指して進んでいく。
 一方エジオン=ゲベルのムンタキムもノガの接近には気付いている。ムンタキムは将軍アッワルに兵二万を与えてノガ討伐へと送り出した。数日後、ノガの一万とアッワルの二万がシン半島(元の世界のシナイ半島に相当)の東、国境の町・カデシ郊外で激突する。

「――来たか」

 ノガは接近するアッワル軍二万を見下ろしている。普通に考えれば一万の軍で倍二万の軍に勝てるわけがない。ノガはこの不利を覆すため、百メートル程の小山の上に自陣を置いていた。塹壕を掘り、杭を打ち、馬防柵を立て、ちょっとした要塞を築いている。
 一方のアッワルは敵陣のその様子を見て歯噛みをした。

「それでもアミール・ダールの息子か! 出てきて戦え、臆病者!」

 アッワルは要塞に閉じ籠もるノガ軍に思いつく限りの悪口雑言を浴びせ、挑発しようとする。が、ノガは決してその挑発に乗らなかった。

「あんなのは気にするな。勝てばいいんだ」

 ノガは悠然とした態度で挑発を聞き流す。兵達もまたノガの命令をよく聞き、要塞の強化と防御に専念していた。兵士はともかくノガとその直属は聖槌軍との死闘に耐えてきた者達だ。待つこと、我慢することには慣れている。

「……くそっ、こうなったら」

 前にしびれを切らしたのはアッワルである。アッワルは全軍に突撃を命令、ここに戦いの火蓋が切って落とされた。
 アッワル軍の兵が雄叫びを上げながら突撃、それを塹壕に籠もったノガ軍の兵が迎撃する。ノガ軍の兵が矢を放ち、アッワル軍の兵が倒れ伏す。怯んだアッワル軍は少し方向を転換し別の場所へと突撃した。そこは馬防柵が立てられている場所である。アッワル軍の兵が馬防柵に体当たりして柵を倒そうとするが、ノガ軍の兵が槍を突き出して敵兵を殺していく。柵の前には兵の死体が転がった。

「……」

 ノガは険しい表情でその血戦を見つめている。両軍の激突で味方が死に、敵が死ぬ。だがこの場合の敵とは故国の兵であり、ノガが王となったあかつきには自分の兵となる者達なのだ。
 ……戦いが始まって半日が経過。防御に徹していたためノガ軍の戦死者はそれほど多くない。一方のアッワル軍も、ノガのためらいにより損害は少なかった。だがそのためにノガ軍は危険な状態に陥った。

「将軍、柵が……!」

 ノガ軍陣地正面の馬防柵がついに破られたのだ。柵を倒し、踏みつけ、アッワル軍の兵が陣地の中へとなだれ込んでくる。ノガは決然と目を見開き、鋼鉄の槍を手にして敵の眼前と進んだ。

「敵将が……」

「アミール・ダールの息子・ノガが……」

 ノガを目の当たりにした敵兵が動揺する。それを敵の部隊長が叱責した。

「何をしている、そこにいるのは敵の首魁だぞ! そいつを殺せば褒美は望むままだ!」

 欲望を煽られ、敵兵の何人かが猛然と突撃してくる。だがノガが槍を旋回させ、敵兵を斬り払う。アッワル軍の兵四人が死体となって地面を転がった。その光景に怖じ気づくアッワル軍。ノガが槍の柄で地面を突き、アッワル軍の兵は飛び上がりそうになっていた。

「――我が名はアミール・ダールの息子・ノガ。我こそはエジオン=ゲベルの王位を継ぐ者なり! 兵よ、自分達の王に刃を向けるか!」

 ノガが兵を睥睨、アッワル軍は後ずさった。ノガの気迫に呑まれ、百人以上のアッワル軍の兵が先に進めずその場に金縛りになっている。その場の空気が限界まで張り詰め、息をするのも困難となった。

「――敵が! 敵の援軍が!」

 戦場にその知らせが響き渡ったのはその瞬間である。

「ヌビア軍の騎兵隊が近付いている! 後ろに回り込まれる!」

「退路が断たれる!」

 ノガ軍の兵は喜びに沸き、アッワル軍の兵は悲鳴を上げた。接近しているのはヌビア帝国軍の騎兵一万五千。数の優位を覆された上に、前後から挟撃されては最早勝利など望むべくもない。アッワルは肩を落としながらも決断した。

「……撤退する」

 アッワル軍はノガ軍に背を向け、東へと去っていく。ノガはそれを追おうとはしなかった。







 カデシの戦いに勝利したノガは進軍を開始。ヌビアの騎兵隊はスアンへと撤収し、ノガ軍は一万だけでエジオン=ゲベル領内へと侵入した。王都ベレニケを目指してゆっくりと南下する。
 アブの月の中旬、ノガ軍はエラト湾に面したベレニケに到着した。行軍中にノガに味方する貴族・豪族が合流し、ノガ軍は一万五千まで膨れ上がっている。

「お前の働きは大したものだ。戦いが終わったらこの功績には必ず報いよう」

 ノガが感嘆するようにガアヴァーを称揚し、ガアヴァーは「いえ、とんでもない」と恐縮した。ガアヴァーはベレニケやその周辺でノガに味方するよう貴族・豪族を説得して回っていた。

「二万を擁していたアッワルを、ノガ様が半数の一万の兵で撃ち破ったからこそ皆が参集しているのです。あの勝利こそノガ様が将軍アミール・ダールを継ぐ者であることの証、それが貴族達の心を動かしたのです」

 ガアヴァーの賞賛にノガは居心地の悪そうな顔をした。カデシの戦いでヌビア帝国軍の騎兵隊がノガに味方した事実は、別に隠されていたわけではない。ただ簡単に触れられるくらいで、積極的には語られなかっただけである。だが噂は事実を置き去りにし、「ノガが倍する敵を野戦で撃ち破った」という伝説が既に一人歩きをしている。

「……まあ、今は噂だろうと虚像だろうと利用するだけだ。それで兵や市民の犠牲を減らせるのなら」

 ノガは厳しい顔でベレニケの城壁を見上げた。ナウクラティスほどではないにしても、ベレニケもまた堅牢な城塞都市だ。真正面から戦ったところで容易には落ちそうにない。そこにガアヴァーが進言した。

「陛下は逃げ帰ってきたアッワルを将軍職から解任し、投獄したそうです。このため人心は陛下の元から離れる一方とのこと。ここは砲弾ではなく交渉により門扉を開かせるべきかと」

「その辺はお前に任せる。上手くやってくれ」

 軍の采配にしか興味のないノガは交渉や謀略をガアヴァーに丸投げし、ガアヴァーは奮い立ってそれを引き受けた。ガアヴァーは書状の執筆に専念する。

「よく考えてほしい。ムンタキムは味方にすべきでない者を味方とし、敵に回すべきでな者を敵としたのだ。そのような者を王位に就けたままで、エジオン=ゲベルに未来はあるのか?」

「ノガ様は百万の聖槌軍と勇敢に戦い、ヌビア全土にその名を響かせている。『猛将ノガ』と言えば子供でもその名を知る程の英雄なのだ」

「戦いが長引けばこの国が疲弊するだけだ。我が軍に勝ったところで、その後背にはヌビア帝国が控えている。たとえノガ様を暗殺しようと、帝国はシャブタイ様を、コハブ=ハマー様を王位に就けようとするだろう。百万の聖槌軍を皆殺しにしたヌビア帝国軍に、エジオン=ゲベルのような小国が勝てるのか?」

 ガアヴァーはそんな内容の書状を何人もの使者に持たせ、ベレニケ城内に潜り込ませる。書状を持った使者が密かに城壁内外を行き来する日が続いた。その間ノガは自分に味方するためにやってきた貴族や豪族を歓待することに追われている。
 アブの月の下旬、連日の宴会や各貴族の陳情にノガが飽き飽きし、

「いっそこのまま突撃してやろうか」

 と本気で検討していた頃――その日、ベレニケが開城した。
 ノガ達の前に、城塞正門の門扉が開かれる。騎乗したノガが全軍の先頭に立って正門を通り抜け、ベレニケに入城。それをベレニケの兵と市民が出迎えた。

「我が王ノガ!」

「新王ノガ!」

 ノガの姿に市民や兵はそんな歓声を上げていた。内心は狐につままれたように感じながらもそんな素振りは欠片も見せず、中央の通りを進んでいくノガ。やがてノガ達は王宮へと到着した。王宮の前でノガを出迎える者達の中に、ノガはある人物の姿を見出す。

「宰相カイユーム……あなたまで」

 その六〇過ぎの老人こそムンタキムの下で辣腕を振るってきたエジオン=ゲベル宰相・カイユームだった。カイユームは恭しくノガへと頭を下げる。

「お待ちしておりました、国王陛下。まずはこちらへ」

 騎馬から下りたノガはカイユームとガアヴァーの案内で王宮を進んでいく。ノガが案内されたのは、王宮の敷地内に設置されている小さな神殿である。そこには一人の男の遺体が寝台に寝かされ、安置されていた。

「……伯父貴」

 ノガがその男――前のエジオン=ゲベル王ムンタキムと対面する。豪奢を極めた錦の衣装をまとい、金銀珠玉の装身具と花々で全身が埋もれそうになっている。だがその死に顔は決して安らかではなかった。
 ノガは長い間ムンタキムの遺体の前で立ち尽くしていた。やがて、その背中にカイユームが声を掛ける。

「運命の巡り合わせによりノガ様と敵対することととなりましたが、前のエジオン=ゲベル王であったお方です。どうかその死を貶めることは……」

「判っている、死体に鞭打つような真似はしない。それよりも、下手人は――」

 底冷えするノガの口調にカイユームはかすかに身を震わせながらも「はい、ここに」と兵に何かの箱を持ってこさせた。兵はその木箱を床に置き、箱を取り払う。その下からある若い男の首級が現れた。

「……久しぶりじゃないか、ギーラよ」

 ノガの確認にカイユームが頷く。首から上だけになりながら、ギーラは憤怒と怨嗟に顔を歪め、牙を剥き出しにしていた。まるで今にも罵声を上げそうである。

「この首級は蝋付けにして腐らないようにしろ。皇帝タツヤへの使者に持たせる手土産にする。それでヌビア帝国とエジオン=ゲベルの諍いは手打ちだ」

 ノガの指示にカイユームが頷く。その後ノガは玉座の間へと移動、そこでカイユームとガアヴァーから事情説明を受けることとなった。
 ……ケムトを船で脱出したギーラはムンタキムの元へと逃げ込んだ。ヌビア帝国軍が間もなくエジオン=ゲベルまで攻め込んでくるのだから、自分がその迎撃の指揮を執る――ギーラは本気でそう思っていたらしい。エジオン=ゲベル軍を指揮してヌビア帝国軍を撃破し、ケムトまで攻め入って大ギーラ帝国軍を再興する……ギーラはそのつもりだったのだろう。だがムンタキムもカイユームもこの期に及んではギーラを相手にしなかった。ムンタキムは即座にギーラを殺そうとしたのだが、

「殺すのはいつでもできる、ヌビアに対する何らかの交渉の材料になるかもしれない」

 とカイユームが止めたのである。ギーラはそのまま王宮内の牢獄へと放り込まれた。
 その後、カデシでの敗戦があり、ノガ軍にベレニケを包囲され、ギーラのことなど全員忘れていたのだが、昨晩になってムンタキムが思い出したのだ。

「あの男をヌビア帝国軍に引き渡そう。そうすればヌビア軍は皇帝の元に獲物を持っていくためにスアンからケムトへと引き返すだろう。ノガが帝国の後ろ盾を失えば、今はノガに与する者も背を向けるようになるに違いない」

 そして、ムンタキム達の前に引きずり出されるギーラ。怯えるギーラは必死にムンタキムに媚びを売る。ムンタキムは侮蔑に唇を歪めた。

「ふん、口先だけの役に立たない男だったが、ここで少しは役に立ってもらわねばな」

 だがそのとき、ギーラが短剣を振り回して警備の兵を振り払ったのだ。手首を切られた兵が思わず後ずさり、その隙にギーラがムンタキムに飛びかかった。兵が取り抑える間もなくムンタキムがギーラに掴まる。

「動くな!」

 ムンタキムの喉元に短剣を突きつけたギーラが一喝、警備の兵が硬直した。

「き、貴様!」

 ムンタキムが憤怒にうめくが、ギーラは嘲笑しながらその顎にわずかに剣先を突き刺した。剣先が血のしずくに濡れる。

「俺はこんなところで終わる男じゃないんだ、もう少し俺の役に立ってもらおうか」

 ムンタキムは屈辱に歯を軋ませ、その身体を震わせた。ギーラはそれに構わず、

「馬とタラント金貨千枚を用意してもらおうか。国王の生命に比べれば安いものだろう?」

 優位に立ったギーラがカイユーム達にそう要求。歓喜に満ちたギーラの笑みはまるで狂人のそれだった。が、その表情が訝しげなものに変わる。ムンタキムの震えが収まらず、強くなる一方だったからだ。

「おっ、おっ……」

 ムンタキムは何か言おうとしたのかも知れないがそれは言葉にならなかった。ムンタキムの口から漏れたのは血で汚れた黒いよだれである。ムンタキムの身体はそのまま力を失い、まるで糸を切られた操り人形のようになった。

「お、おい――」

 ギーラは戸惑いながらもムンタキムの身体を揺さぶる。だがムンタキムは沈黙するだけだ。

「――死んでる」

 一同にそう告げるのは、倒れた同僚を抱きかかえていた護衛の兵士である。その倒れた兵はギーラにより手首を切られた者だった。それにより一同は何が起こったのかをようやく理解した。

「そうか、毒刃か!」

「何と卑怯な!」

 剣を抜いた護衛の兵がギーラを包囲する。怯えたギーラはムンタキムを盾にしようとするが、それはもう盾の、人質の役目を果たしていなかった。どう見てもムンタキムは既に事切れていたからだ。
 ムンタキムの身体を避けながら、兵士が剣をギーラの身体へと突き刺していく。太腿を、腹を、背中を、延髄を。振り下ろされた剣はムンタキムの身体を傷付けることなくギーラの身体を切り刻んでいた。全身から血を流したギーラが崩れ落ちる。

「が……」

 わずかに残った最後の力を使い、ギーラが首を持ち上げる。ギーラが見たものは、自分を見つめるカイユームの冷たい眼だった。

「……」

 ギーラがそこに何を見出したのかは判らない。ギーラの顔が苦痛とも憤怒とも付かないものに歪み、そのまま硬直する。末期の激情を自分の顔に刻み込み、ギーラはようやくその生命を終わらせた。

「……ギーラの毒刃にかかり陛下は崩御。王太子殿下がノガ様との戦いを望まれず、ノガ様に王位の禅譲を申し出たのです」

「……」

 黙ってカイユームの説明を聞いていたノガだが、糾問したいことが山のようにあった。

「誰が投獄されていたギーラに毒刃を渡したのだ?」

「誰がギーラを利用するようムンタキムを促したのだ?」

「誰がムンタキムにギーラを謁見させるよう設定したのだ?」

「誰が王太子に禅譲を強いたのだ?」

 ノガはカイユームとガアヴァーを当分に見比べる。二人の無表情な顔がまるで人間以外の何か不気味なもののように思え、ノガは密かに怖気をふるった。だがそんな素振りは表には出さない。舌先まで出ていた詰問は無理矢理腑の底へと呑み込んだ。

「――そうか」

 ムンタキムの死について、ノガが述べたのはただそれだけである。そして一生涯一言も増えも付け加わりもしなかった。
 翌日以降、ノガは新エジオン=ゲベル王として新体制の構築に追われることとなる。ベレニケ開城前からノガに味方した貴族・豪族は一定優遇する必要があり、その一方ムンタキムの元で政務に当たっていた大臣を即座に解任するのは混乱の元でしかない。為政者は難しい舵取りを求められるのだが、ノガはその点をカイユームとガアヴァーに全て任せていた。

「前の国王崩御には私にも責任があります。事態が落ち着いたなら私は引退し、宰相職を次の者に任せたいと思います」

 カイユームがノガにそう申し出、ノガもそれを了承した。ただし次期宰相と目されているのはカイユームの派閥の者であり、カイユームの息子はすでにノガの側近へと送り込まれている。カイユームが引退するからと言って、その影響力がなくなるわけではなかった。

「まあ、カイユームの顔を見ずにすむのならそれでいいさ」

 ノガが抱くわだかまりをカイユームも感じ取っているからこその引退宣言なのだろう。カイユームに巻き込まれるように、他の大臣も何人か引退を申し出てきている。ノガは空いた地位に自分に味方した貴族を入れることにした。
 竜也の元へと送った使者には、前の王太子を始めとするムンタキムの子供達の全員を同行させている。「皇帝クロイへの忠誠の証」のための人質という名目だが、実際には厄介事を竜也に押し付けただけである。

「この国に置いたままでは先の王太子を擁立してノガ様の玉座を狙う者が現れかねません。ですが理由もなく殺してしまっては民心が離れてしまいます。皇帝クロイに預かっていただくのがよろしいかと」

「そうだな。一〇年か二〇年して俺の玉座が不動となったら帰国を認めるから、それまでは帝国で大人しくしていてくれればいい」

 ケムトにやってきた彼等ムンタキムの子供達は、竜也の指示により旧ケムト貴族に準ずる年金の支給を受け、移動や居住以外には特に不自由のない生活を送ることとなる。
 政治には関心のないノガだがその分軍の統率には全精力を注いでいる。釈放したアッワルは大将軍に任じて全軍の指揮を委ね、その下には第七軍団からの幹部の面々を付けた。ノガの下で聖槌軍戦争を戦い抜いた第七軍団の面々は、

「自分達こそ猛将ノガの藩屏だ」

 と自負している。第七軍団の幹部達が元からのエジオン=ゲベル軍を見下し、エジオン=ゲベル軍が第七軍団の幹部達を「田舎者が」と侮蔑する。両者の対立と反目にノガは頭を痛めた。だがその対立は時間をかけて解消していくしかないことだ。エジオン=ゲベルの若き新たなる王はまだ即位したばかりなのだから。







「……そうか、ギーラが死んだか」

 エジオン=ゲベルからの使者の報告を聞き終えた竜也が嘆息を漏らした。その竜也に使者が首桶を持って進み出る。

「はい。ギーラの首級がこちらに」

 竜也は一応それを受け取らせ、確認する。だが死んだギーラには全く関心がないようで、すぐに片付けさせた。
 ギーラの死と、ノガの即位とエジオン=ゲベルとの和平。竜也はエジオン=ゲベル征伐の目的も無事完遂した。こうしてヌビア帝国軍のケムト・エジオン=ゲベル遠征は終結する。この遠征とそこで起こった一連の戦いは「ギーラの乱」と名付けられている。






[19836] 第五五話「テルジエステの戦い」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/06 21:02



「黄金の帝国」・征服篇
第五五話「テルジエステの戦い」







 エルルの月(第六月)の中旬。サフィナ=クロイのハーディが一月近く前に高速船を使って送り出した連絡員が、ようやくこの日ハカー=アンクに到着した。

「……そうか。教皇が死んだか」

 教皇インノケンティウスの死。これまで何度かその噂を耳にし、そのたびに後日訂正されていたのだが、今回は訂正される心配はないらしい。竜也はしばらくの間無言で天井を仰ぎ、言葉にならない感慨を抱いていた。やがて気分を切り替えてその連絡員に問う。

「次の教皇は? エレブ情勢はどうなっている?」

「次期教皇は未だ定まっていません。これをきっかけにした戦乱がエレブ中で巻き起こっています。どういう理由で誰と誰が戦っているのか、まとめるのも馬鹿らしくなるくらいです」

 教皇インノケンティウスの存在はエレブの諸侯・諸王国にとって重石となっていたが、病床にあっては重石としての役目は果たし得ず、死ぬ前から死んだも同然のように思われていた。次期教皇の最有力候補だったニコラ・レミが自滅し、誰が次期教皇になるのか見通しが立たなくなり、五王国や有力諸侯が自分に近い聖職者を後押し。教皇候補が乱立し、対立する。その対立が各地でくすぶっていた紛争の火種と結び付いたのだ。火種は急速に大きく燃え広がり、次々と各地に飛び火し、今では戦争の猛火がエレブ中に広がっているという。
 竜也はムハンマド・ルワータの報告書に目を落としながら「ふーむ」と唸った。

「この戦乱がヌビアに波及することは心配しなくていいんだな?」

「それはもちろん」

 その連絡員は力強く頷いた。
 連絡員と入れ替わりで竜也の執務室にやってきたのはディアである。

「教皇インノケンティウスが死んだそうだな」

「ああ。これでエレブの恩寵の民も少しは状況がマシになるんじゃないのか?」

 竜也の言葉にディアは顔をしかめて首を横に振った。

「いや、そうでもない。村に帰った者からの手紙が届いたんだが、『ヌビアに移住先を用意してほしい』と記してあった」

 竜也は少しの間無言となり、大きく見開いた目をディアへと向けた。

「銀狼族が危険にさらされているのか?」

「具体的なことは書いていないが……戦乱が広がればあの村だって安全じゃなくなる。余裕のある今のうちに逃げた方がいいのは間違いない」

 そうか、と竜也は頷き、非常に軽い物言いで続けた。

「移住先は手配させる。銀狼族は全部で千人だったな、ゴリアテ級が二隻もあれば全員乗船できるだろう。銀狼族に海沿いまで出てきもらえれば、あとは船で拾い上げるだけだ」

「……まあ、そんな簡単な話ではないだろうが」

 とディアは苦笑する。

「判った、村の者に連絡を取って脱出の準備をさせる」

 ディアは晴れ晴れとした表情で頷いた。

 ――どうやって皇帝に移住先を用意してもらうか? どう言って皇帝に脱出に協力してもらうか? 断られたらどうするか、ファイルーズやカフラに協力を仰ぐべきか、でもどうやって……等とディアは脳が焼けるくらいに悩んでいたのだ。だがそれが馬鹿らしくなるくらいにあっさりと竜也が全ての願いをきいてくれたわけで、ディアは脱力する他ない。竜也に言わせれば「銀狼族に協力を仰いだときに最初に提示された条件を履行しているだけ」なのだが。
 その後、竜也はベラ=ラフマを呼び出した。

「エレブ情勢が不安定になっている。ヌビアに飛び火する可能性はほとんどないとは言え、銀狼族のこともある。状況はこちらでも把握していくべきだ」

 ベラ=ラフマが我が意を得たりとばかりに頷いた。

「サフィナ=クロイは遠く、エレブはさら遠く、情報を得るには時間がかかります。サフィナ=クロイを経由しない独自の情報網を作るべきです。まずはバール人商人やヘラス人商人に協力してもらうべきかと」

「確かに、まずはそこからだな。でもそうなるとこの町の位置がやっぱり不便だ。海沿いの町に拠点を移そうと思う」

 その後竜也はガイル=ラベクを呼び出し、拠点移動の件を相談した。

「ヌビア帝国は海洋交易国家となるんだから、ケムトの拠点は港町でないといけない。東ヌビアとケムト、ケムトとアシューを結ぶたけじゃない。北はエレブ・ヘラス・アナトリコン、南はミディアン半島・紅海からその先のバラタ洋まで、ヌビアの商人が往来して商売をする。そのための拠点なんだ」

 竜也のその意志を受け、「それなら」とガイル=ラベクが推薦したのがダフネという名の町である。ダフネは元の世界で言うならエジプト・ポートサイド付近となる。スアン海峡入口のケムト側に位置する港町で、地中海とスアン海峡の双方に面していた。
 竜也はその日のうちから拠点移動の準備を開始した。とは言っても、移動するのは竜也やファイルーズ達、それに一部の文官くらいだ。マグドを始めとする武官、イムホテプを始めとする大多数の文官はハカー=アンクに残していく。

「軍の再編成が終わって旧ケムトとヌビアとの一体化が進んだら、将軍マグドもダフネに移動してもらう。ダフネがケムト方面軍の本陣となる」

「しかし、未だ帝国になじんでいない旧ケムトの各都市に睨みを利かせるにはこの町でないと」

 竜也の命令にマグドはそう難色を示したが、

「もちろん今すぐでなくてもいい、何年か先で構わない。もし東ヌビアや西ヌビアで何かあった場合に船を使ってケムトの将兵を移動させるし、逆にここで何かあった場合も同じように西や東から兵を送り込む。そのためにも拠点をダフネに置く必要があるんだ」

 竜也の説明にマグドも理解を示し、納得する。

「なるほど、そのためのゴリアテ級か」

「そうだ。もっとも、たった一一隻じゃ話にならないんでもっと数を揃えてからのことになるけど。最低でも五〇隻、できれば一〇〇隻は揃えたい」

 それを冗談だと思ったマグドはその時は「豪気なことだな」と笑っていた。が、十数年後にゴリアテ級が本当に五〇隻揃っているのを見て頬を引きつらせることになる。
 文治面で竜也の代理となるイムホテプに様々な指示を残し、仕事の引き継ぎをし、竜也はファイルーズ達を引き連れてハカー=アンクを後にする。ハカー=アンクを出発したのがエルルの月の月末。そしてタシュリツの月(第七月)の上旬にはダフネへと到着した。







 ダフネに移動した竜也は書類仕事に勤しんでいる。旧ケムト王国が使っていた行政府庁舎の一部を間借りしてケムト総督府を設置。各都市からの税金を集め、使い道を策定し、陸海軍を再編成し、法制を整備し、アシューやエレブとの交易を促進し、情報網を構築する。目が回るくらいの仕事量に追い立てられるままに一月近くが経過し、月は変わってアルカサムの月(第八月)の月初。

「……はあ、お茶が旨い」

 その頃にはようやく総督府の組織が整い、有能な人材も登用できて、竜也の負担が減って余裕を持てるようになっていた。書類仕事の合間にファイルーズに入れてもらったお茶を二人で味わい、まったりゆったりと休憩時間を過ごしている。

「こっちでの仕事は一通り片付いたし、そろそろサフィナ=クロイに戻らないとな」

「そうですわね。皆がタツヤ様の帰りを待っておりますわ」

 ファイルーズは口ではそう言いながらも名残惜しそうだった。

「戻ったら正式な建国式典と即位式典ですわね。『ヌビアの全自治都市代表を集める』とバリアさんが張り切っているそうですわ」

「建国式典ならもうやったんだからまたやらなくてもいいのに……」

 と竜也が言い訳のように呟き、そんな竜也にファイルーズが呆れたような目を向ける。竜也の言うところの建国式典とは、帝国府の中庭で元老院議員を集めて演説して建国を宣言したあれのことだが、あれを「正式な建国式典」だと思っていたのは竜也一人だけのようだった。
 そんな執務室に、

「皇帝! 緊急の連絡だ!」

 とディアが飛び込んできたのはそのときである。竜也は、

「……まあ、そろそろ何かありそうな気はしていたんだ」

 と悟り近い境地に達していた。軽く頭を振って余計な思考を追い払い、真面目な表情でディアに向き直る。

「何があった?」

「エレブから戻ってきた連絡員が知らせてくれたのだ。銀狼族の村が反乱を起こしているらしい! すぐにエレブに戻らないと」

 竜也はわずかに眉をひそめ、ディアから詳しい事情を聞くこととした。
 ――ダフネに移動後、ベラ=ラフマはエレブの情報を収集するための機関を設置。銀狼族脱出の準備を竜也から命じられていることもあり、真っ先に構築されたのが銀狼族の村との連絡体制だった。そして、連絡員からの第一報が「銀狼族の決起」だったのだ。

「あの村が恩寵の部族の村であることが発覚し、周辺の領主が討伐の準備を進めているそうなのだ。このままでは村の者が皆殺しになってしまう!」

 焦燥に駆られたディアはいてもたってもいられない様子である。放っておいたら地中海を泳いで渡ってでも一人でエレブまで戻りそうな勢いだ。
 竜也は考えを巡らせていたがそれはそれほど長い時間ではない。

「ディアは銀狼族と灰熊族の全員を集めてくれ。それとエレブ人部隊の協力者も。俺は提督達を呼ぶ」

「判った!」

 竜也の指示を受けたディアが執務室を飛び出していく。竜也もまたベラ=ラフマとガイル=ラベクを招集するために人を送った。ベラ=ラフマは総督府内にいたためにすぐに執務室にやってきて、詳しい情報を得るべく港に部下を送り出す。ベラ=ラフマの部下が港と総督府を行き来し、情報が集まり、それに基づいて竜也とベラ=ラフマが検討し、対策の大枠が固まった頃。

「皇帝、とりあえずこの二人を連れてきた。他の者も順次ここに集まる手筈だ」

 ディアがヴォルフガングとミハイルの二人を連れて戻ってきた。竜也は頷く。

「まずは情報の裏取りをしたいところだけど、時間が惜しい。報告に間違いがないことを前提に対策をしておく」

 竜也は地中海世界の地図を広げ、エレブのある地点を指で指し示した。元の世界で言うならオーストリア南端、イタリアとの国境間近の山腹である。銀狼族の村はそこにあった。

「経緯はよく判らないがかなり大きな反乱のようだ。銀狼族がヌビアの海軍と合流するために海を目指していて、それを阻止するために周辺領主が合同で討伐軍を送り出そうとしている――というのがエルルの月の月末、半月前の話だ」

 青ざめたディアが唇を噛み締め、ヴォルフガングが拳を握り締めた。ベラ=ラフマが冷酷なまでの平静さで解説する。

「いくら銀狼族が精強でも大半は戦えない女子供や年寄りです。それに領主の側には恩寵の民に対し、聖槌軍戦争で兵を皆殺しにされた恨みもあるでしょう。戦いが長引けば銀狼族の壊滅は免れないかと」

「時間との勝負ってことか。だがエレブは遠いしゴリアテ級は足が遅い。この辺まではどう急いでも一月はかかる」

 と竜也は元の世界ではヴェネツィア湾に相当する場所を指差した。

「高速船を使えば半月で行き着けます、先遣隊を送りましょう。反乱した銀狼族に合流し、士気を鼓舞。ゴリアテ級に速やかに乗船できるよう準備を整える役目です」

「わたしが行く!」

「私が行きましょう」

「俺が行ってやる」

 ディアとヴォルフガングとミハイルが三人同時にそう告げる。そしてヴォルフガングが、

「ディア様はお残りください。私では皇帝を動かせませんが、ディア様ならそれができます」

「ディアには残ってもらわないと困る。ディアがいないと軍を動かす名目が立たない」

 竜也にもそう説得され、ディアは渋々残留を承諾した。一族のことで頭がいっぱいだった彼女は気付かなかったが、

「最悪、もし間に合わず銀狼族が滅ぼされた場合、ディアだけでも生き残っていてほしい」

 ヴォルフガングと竜也はそんな共通の思いからディアを残留させたのだ。

「先遣隊には私も加わりましょう」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也は「判った、頼む」と頷く。圧倒的に不利な状況の反乱軍に加わり、少しでも時間を稼ぐには謀略・噂・流言飛語を最大限利用するしかない。その過酷な要求に応えられるのはベラ=ラフマしかいなかった。
 ヴォルフガングが銀狼族の一〇名、ミハイルが灰熊族の一〇名、ベラ=ラフマが白兎族の若干名とエレブ人協力者一〇名を率いて高速船に乗船。その日の夜にはエレブに向けて出港した。ヴォルフガング達を乗せた高速船が黒々とした波間に遠のき、消えていくのを、ディアは祈るような瞳で見つめ続けていた。







 竜也が大急ぎで仕事を部下に引き継ぐ一方、ガイル=ラベクがゴリアテ級の出港準備を超特急で進めている。サドマやダーラクは率いる兵を選抜し、ラズワルドはエレブ人部隊の中から協力してもらえる人間を厳選した。
 そしてアルカサムの月の上旬。一応の準備を終えた竜也達が五隻のゴリアテ級に分乗、エレブに向けて出港した。乗船しているのは、まずサドマとダーラクが率いるヌビア兵一千。彼等は主に騎兵隊から選抜されており、全員が恩寵を持つ戦士である。そしてエレブ人部隊から選抜された兵が一千、指揮を執るのはガルシアだ。彼等には「恩寵の民のためにエレブ人と戦うこともあり得る」という条件が最初に提示され、それを全員が承諾している。裏切りの心配は不要なことはラズワルドのお墨付きだった。
 提督ザイナブの艦隊のうち七隻の軍船がゴリアテ級の護衛として随伴。全艦の指揮を執るのはガイル=ラベクである。旗艦のゴリアテ級ゼロ号艦にはガイル=ラベク・竜也・ディアの他、バルゼル等近衛とサフィール、そしてラズワルドが同乗していた。

「遠征軍の中の恩寵の民が勢揃い、恩寵の戦士の最精鋭が総結集、と言ったところですね。これだけの仲間が揃っているのです、怖れるものなど何もありません」

 サフィールがディアを励まそうとし、

「そうだな」

 とディアが形だけの返答をする。そしてすぐに視線を舳先の向こう、水平線の遙か彼方の故郷へと向けた。潮風がディアの輝く銀髪を揺らし、愁いに満ちたその顔を撫でていく。
 その後方では竜也とガイル=ラベクが打ち合わせ中である。

「急いで出港したから食糧の手配が全然終わっていない。高速船を使って食糧の受け渡しをするつもりだが、それで足りるかどうか」

「各地のバール人商会に協力を仰いでいる。エレブ側のバール人やヘラス人、他の商人にも協力を依頼中だ」

「協力するか?」

「『金さえ積めば親でも売るのがバール人』だろう? それに、『ヌビアの皇帝の艦隊が接近している』と噂を流してくれるだけでも意味がある」

 アルカサムの月も下旬となる頃、竜也達のゴリアテ級艦隊はヘラス近海に到着。ヘラスは元の世界ではギリシアに相当する。ヘラスもまたエレブの一国であり聖杖教の勢力圏内だが、テ=デウムから遠いこともあってその影響力はかなり低い。聖槌軍に参加した諸侯もフランク等の五王国と比べれは非常に少なかった。
 竜也達はバール人商人だけでなくヘラス人商人からも食糧を購入。さらに、遠征中の食糧補給を委任する契約をいくつかの大商人と結び、補給線の維持に務めた。また、それら大商人の情報網から銀狼族の反乱について情報を得ようとする。竜也達の艦隊がアズル海(元の世界のアドリア海に相当)に侵入する頃には、食糧と一緒に様々な情報が届けられるようになっていた。

「銀狼族の反乱軍はすでにここ、テルジエステを攻め落として占拠しているらしい。非戦闘員も含めてその数は二千」

 竜也は地図上のアズル海北端を指差した。テルジエステは元の世界ではイタリア・トリエステに相当する。暦はすでにアルカサムの月の月末、竜也達はもうアズル海の奥深くまで入り込んでいる。

「二千? 銀狼族の一族は年寄りから赤ん坊まで全員を含めても千人しか……」

「灰熊族みたいな銀狼族以外の恩寵の部族や、多神教の隠れ信者が大勢合流しているらしい」

 竜也の説明にディアが納得を示す。一方の竜也は、

「ゴリアテ級を余計に動員しておいてよかった」

 と胸をなで下ろしている。すぐに動かせるだけのゴリアテ級を全隻引き連れてきたのはエレブ側に対する示威のためだが、もし千人を収容できる必要艦数しか動かしていなかったなら反乱軍の半分は残していくことになっていたのだ。

「敵はテルジエステ周辺の諸侯二万だ。まともに戦っても勝てないが、俺達の目的は戦闘じゃない。銀狼族を始めとする反乱軍の二千、彼等の回収だ。戦闘はできるだけ避けて、速やかにテルジエステに入港して二千を乗船させて逃げていく。一人でも多くを収容して無事にヌビアまで連れ帰ることが俺達の勝利だ」

 竜也の確認にガイル=ラベクを始めとする全員が頷く。目的地まではあと少し、テルジエステは目前に迫っていた。
 そして数日後、月がアルカサムからキスリム(第九月)に変わった頃。その日の午後、竜也はテルジエステの町をその眼で捉えていた。町のあちこちからは煙が立ち上っている。望遠鏡を使っていたガイル=ラベクが険しい眼で町を見据えた。

「どうやら今この瞬間も戦っているようだ。急がせよう」

 ザイナブ艦隊の偵察船が先に入港し、安全を確認。偵察船の誘導に従ってゴリアテ級が入港しようとする。港には女子供ばかりが何百人も集まっており、竜也達に向かって懸命に手を振っていた。ディアもまた流れる涙を拭いもせずに力の限り手を振っている。
 水深が充分でないためにゴリアテ級は接岸できず、竜也達は連絡船を使ってテルジエステに上陸することになった。竜也達を乗せた連絡船が岸に近付く。我慢できなくなったディアが船から飛び降り、泳いで接岸。何人もの手に陸上に引っ張り上げられ、そのまま皆と抱き合った。
 竜也達の連絡船が接岸するのはそれから少しだけ後である。竜也達と共にサドマやダーラク、二人が率いるヌビア兵も上陸する。連絡船の数が足りず、兵の大半は泳いで港に上陸していた。

「ここの責任者は?」

 竜也の問いに犬耳を付けた女達が口々に、

「北の城門が破られて、そこの指揮を」

「戦える者は皆が戦っています」

 竜也は視線でサドマ達に命令を下し、サドマ達もまた無言で頷いた。

「北の城門に向かうぞ! 銀狼族を援護する!」

「エレブ兵を蹴散らしてやれ!」

 サドマ達が率いる千の兵が城門方向へと駆け出した。それを見送り、竜也が一同に告げる。

「戦士達が時間を稼いでいる間に乗船を! まずは子供を抱える母親から、落ち着いて、急いで!」

 銀狼族の女と子供達が連絡船や港にあった船に分乗し、ゴリアテ級を目指して漕ぎ出していく。避難民に対して連絡船の数が足りず、避難民の大半はまだ港に留まったままである。全員が乗船するのに七、八往復は必要そうだ、と竜也は目算した。

「ディア様、よくご無事で……」

「お前達にも苦労をかけた、すまなかった」

 ディアは銀狼族の年配の婦人と抱き合うように互いの無事を喜び合っている。その婦人や周囲の女性達、それに子供達もまた犬耳を付けて尻尾を生やしていた。

「ディア様もこれを」

 と女性の一人が何かの袋を持ってくる。婦人がその袋から取り出したのは犬耳と尻尾である。ディアの銀髪によく似通った、輝くような銀の毛並みの耳と尻尾だ。

「再びこれを身に付けられる日が来ようとは……」

 とディアは感無量の様子である。恭しく差し出されたそれをディアは厳かな面持ちで受け取り、戴冠するかのように自ら頭部に装着する。犬耳を付けたディアが凛々しい眼差しを同胞へと向け、一同が感涙にむせんだ。
 その光景を暖かく見守っていた竜也だが、「皇帝」と声をかけられる。振り返るとそこに立っていたのはベラ=ラフマだった。服は汗と泥で汚れ、弓を手に携えている。思いがけないその姿に竜也は少しの間絶句した。

「時間を稼ぐために打てるだけの手を打ったのですが……」

 とベラ=ラフマは自嘲を浮かべる。竜也は頭を振って、

「あなたは充分に時間を稼いだ。俺達の到着がちょっと遅れたかもしれないが、決して間に合わなかったわけじゃない。違うか?」

「確かにその通りです」

 竜也の言葉にベラ=ラフマが頷く。竜也も頷き返し、

「ラズワルドが選んだエレブ人部隊一千をあのゴリアテ級に乗せている。敵の後背を突かせたい」

「私が同行して案内します」

 竜也が連絡船を一隻用意、ベラ=ラフマはそれに乗ってゴリアテ級へと向かった。
 その様子を見つめていた銀狼族の者達が、

「ディア様、あの方は一体?」

「ああ、あれがヌビアの皇帝クロイだ」

 銀狼族は「おおー」と一様に驚きの声を上げたが、その中には喜びの感情が多分に含まれていた。

「あれが皇帝、ディア様の良人となった方ですか!」

 竜也が否定する間もなく「その通りだ」と即答するディア。銀狼族の者達は竜也を取り囲み、

「一族を助けていただき感謝の言葉もありません」

「ディア様をどうかよろしくお願いします」

 竜也にすがり、土下座せんばかりに頭を下げている。

「あの、俺がディアを皇妃にしたってその話はどこから」

 竜也の問いに彼女達は「白兎族の方が言われたことですが」と当たり前に答えた。ベラ=ラフマはこのように語って反乱軍の者達を鼓舞し続けた、とのこと。曰く、

「ヌビアの皇帝は銀狼族の娘を皇妃とした。一族の危機を知ったその娘が皇帝に懇願し、皇帝が軍を動かした」

「皇帝が百の軍船を引き連れてエレブに向かっている。乗っているのは『血の嵐』を始めとする、十万で百万の聖槌軍を皆殺しにした一騎当千の戦士達だ」

「銀狼族を傷付けて皇妃を悲しませたなら皇帝は怒り狂い、再び百万のエレブ人を皆殺しにするのは間違いない」

 ベラ=ラフマの台詞を彼女達が口々に再現し、竜也は頭を抱えそうになった。
 ――後で聞いたことだが、ベラ=ラフマのこの宣伝工作は味方に対するものはあくまでもののついで。敵に対して、テルジエステの外においてこれらの流言飛語を全力で広めまくったのだが……どうやら思いも寄らないほどの効果があったらしい。

「『ヌビアの皇帝』に対するエレブ人の恐怖はどうやら私の想像を大きく越えていたようです」

 とベラ=ラフマ。銀狼族に対する諸侯の追撃は消極的だったし、銀狼族でない他の恩寵の部族や多神教の隠れ信者も銀狼族を装うことで難を逃れた例が多数あるそうである。テルジエステの占領も比較的簡単だったそうだし、長い期間諸侯軍は無理にテルジエステを攻め落とそうとはしなかった。が、「今日にもやってくる、今にもやってくる」と言われていたヌビアの皇帝がいつまでたってもやってこないので次第に恐怖心が薄れ、ついには攻城戦が始まってしまったのだ。竜也達の到着がもう二日も遅れていてれば反乱軍二千の全滅は免れなかったに違いない。
 連絡船が何往復かし、反乱軍の避難と乗船が進んでいる。あと一往復で非戦闘員は全員乗船できるところだがその頃には日は沈み、空は夕闇に包まれていた。

「そこの君達も早く!」

 何故か皆から離れた場所にいる数名。黒い布をフードのように被って頭や顔を完全に隠しているが、どうやら若い女性のようだった。竜也が彼女達を呼び寄せようとするが、彼女達は連絡船への乗船をためらっているように見受けられた。竜也の言葉に引かれてディアがその女達に視線を向け――少しの間言葉を失っていた。

「お前達……戻ってきてくれたのか」

 嗚咽を飲み込んでいるかようなディアが歩み寄る。彼女達が逃げるべきか迷っている間にすぐ側まで踏み込み、その者達を全員まとめて抱き寄せた。

「ディア様……」

 その女達――声を聞く限りではディアと変わらないくらいの年齢のように思える――その少女達とディアは互いに抱き合い、涙を流した。ひとしきり泣いたディアは、

「さあ、一緒にヌビアに行こう。今度はわたしがお前達の力になる番だ」

 ディアは少女達を促し、連絡船へと乗船させる。名残惜しげにディアを見つめる少女達に、

「わたしも後から行く」

 と声をかけていた。竜也はそのディアの横に並んで立っている。やがてその連絡船がゴリアテ級に接舷、乗員の移動が開始された。

「……何年か前にひどい凶作になったことがあってな。村の若い娘を娼館へと売ったのだ」

 竜也は驚きの目をディアへと向けた。ディアの瞳には未だ涙がたまっている。

「その金で何とかその冬は乗り切ることができた。売られた者は皆わたしと同じ歳だった、もし族長の娘でなかったらわたしも売られていただろう」

「そうか」

 竜也はそれだけしか言えない。ディアが一族に身命を捧げている理由を、その一端を竜也は理解できたような気がした。
 非戦闘員の乗船がようやく終わり、次に戦士が負傷者から順次連絡船へと乗船を開始している。竜也はディアと共に北の城門へと向かった。その場所では激しい戦闘が続いている。竜也はサドマを見つけ、

「他の皆も乗船の準備を」

「駄目だ、今退いたら敵が追撃してくる。この場を支え続けるしかない」

「でもそれじゃ」

 だがそのとき、不意に敵の攻撃が弱まった。

「? 敵が退いていくぞ」

「ガルシア達が上手くやったようだな」

 ――ガルシア達エレブ人部隊用のゴリアテ級はテルジエステの西へと移動。町の外の海岸で下船したガルシア隊が諸侯軍の後方へと回り込んだ。標的は諸侯軍の補給部隊である。
 ガルシア達は夜になるのを待って、暗闇の中を補給部隊目指して突撃する。食糧を荷駄ごと奪い取り、持っていけない食糧は荷駄を破壊し穀物を地面にぶちまけ、火炎瓶を使って焼き払う。城門を攻撃していた諸侯軍が慌てて引き返してくる前に風のように撤収。食糧を担いでゴリアテ級へと乗り込み、意気揚々と凱旋していった。
 一方北の城門では、

「今のうちに撤収するぞ!」

 後背を襲われた諸侯軍が混乱しているうちにサドマ達は城門から撤収。ゴリアテ級やザイナブの艦隊に乗り込んでいく。未明になる頃には反乱軍・ヌビア軍の全員の乗船を確認。ゴリアテ級艦隊とザイナブ艦隊はテルジエステの港から離岸した。時刻はすでに太陽が昇ろうとする時間帯だ。
 そのわずかに昇った朝日に照らされる、エレブ諸侯の軍船一〇隻の姿があった。エレブ側の軍船がヌビア海軍の前に立ち塞がっている。

「ふっ、俺達とやり合うつもりか」

 ガイル=ラベクは太々しく笑い、全艦に突撃を命じた。
 ザイナブの艦隊が最大戦速で突撃、エレブ艦隊がそれを迎え撃つ。双方の船が搭載する大砲が火を噴き、運の悪い船に命中した。だがそれはごく一部だ。大半の船は当たりもしない砲弾をものともせずに突進し、そして船と船が激突した。ザイナブの艦隊とエレブの軍船が接舷し、エレブの軍船へとヌビア兵がなだれ込んでいく。
 軍船の数だけならエレブ側が有利である。だがザイナブ艦隊に分乗して乗り込んでいたのは何百という兵で、しかもその全員が恩寵の戦士なのだ。ダーラクの雷撃が敵兵を打ち払い、サドマの外撃が敵船のマストをへし折った。元々恩寵の戦士と一般の兵ではキルレシオが一〇対一にもなると言われているのに、兵数ですらエレブ側は圧倒されているのだ。エレブ兵は完全に戦意を失い、船を捨てて海へと飛び込んでいった。
 エレブ側の軍船が次々とヌビア兵に占拠され、または降伏する。敵の乗り込みを受けなかったエレブ側の軍船は味方を見捨て、艦隊を離脱して逃げ出していく。こうしてエレブ艦隊は四分五裂、日が中天に届く頃にはエレブ艦隊の壊滅により戦いが終わっていた。







 キスリムの月の月末。竜也達を乗せたゴリアテ級艦隊・ザイナブ艦隊はその日に東ヌビアの港町・キュレネに到着した。

「タツヤ様!」

「タツヤ!」

「タツヤさん!」

 上陸したタツヤを出迎えるのは、ファイルーズ・ミカ・カフラの三人だ。竜也は三人と抱き合い、互いの無事を喜び合った。竜也から少し遅れ、ラズワルド・サフィール、そしてディアの三人も姿を現す。

「ディアさん、その姿は……」

 ディアの獣耳・尻尾にミカが目を留め、それに対しディアは誇らしげに胸を張った。

「もう誰をはばかる必要もない。銀狼族はようやく一族の誇りを取り戻したのだ」

 ファイルーズ達は自分のことのように喜び、「おめでとうございます」と言祝ぐ。その中で竜也が、

「……それならもうその首輪も必要ないだろう。外したらどうだ?」

 ディアは一瞬だけ考えたが、すぐに首を振った。

「いや、そんなことはない。わたしがお前のものだという事実には変わりないからな」

 「な……」と言葉を詰まらせる竜也にディアが不敵な笑みで告げる。

「私を皇妃にしてくれるのだろう? エレブで散々そう宣伝してくれたじゃないか」

「いや、あれは謀略……」

 と言い訳しようとして、竜也の声は小さくなっていった。ファイルーズに威圧的な笑顔を向けられたからだ。ファイルーズだけでなく、ラズワルドやミカ、カフラにサフィールまでもが竜也を睨んでいる。竜也は進退窮まり、

「――ごめん、ディアで最後にするから!」

 土下座せんばかりの勢いでファイルーズ達を拝み倒した。ディアがそのうち皇妃の仲間入りをすることはファイルーズ達の想定の範囲内だったので、

「ディアナさんを最後の皇妃とする約束、太陽神に誓って守ってくださいね?」

「それはもちろんです」

 竜也は直立不動でそう返答した。その竜也の右腕をディアが取り、胸の中へと抱き寄せる。そして勝ち誇ったような顔を示し、

「以前言っただろう? 狼は狙った獲物は逃さないと」

 竜也はちょっと困ったような、照れくさそうな顔をした。それに対抗心を燃やしたカフラが、

「一ヶ月も離ればなれで寂しかったです」

 と甘えた声を出しながら竜也の左腕を取って自分の胸に押し付ける。さらに頬を膨らませたラズワルドが竜也の背に乗り、竜也の首にしがみついた。そんな竜也達の姿に「あらあら」とファイルーズは微笑ましげな顔をし、ミカは呆れ顔。そしてサフィールはどこに抱きつくべきか迷っているような様子である。
 ――竜也はファイルーズ達と共にキュレネに移動していたゴリアテ級の残り六隻を含めて、人員と艦隊を再編成。一一隻のゴリアテ級を引き連れてサフィナ=クロイへの帰路に着く。竜也達がサフィナ=クロイに到着する頃にはティベツの月(第一〇月)が終わろうとしていてた。




[19836] 第五六話「家族の肖像」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/07 21:01



「黄金の帝国」・征服篇
第五六話「家族の肖像」







 月は変わって、シャバツの月(第一一月)の月初。
 一〇ヶ月ぶりにサフィナ=クロイに戻ってきた竜也が帝国府の新しい行政庁舎にやってくる。竜也が不在の間にバリア達はゲフェンの丘の上に行政庁舎の再建を開始。竜也がその場所を訪れるのは「長雨の戦い」から一年数ヶ月ぶりのことだった。
 丘の上に建設中の行政庁舎を見上げ、竜也は「おー」と感嘆を上げる。巨大な石造りの建物が木材の足場で囲われ、千を越える人足が働いている。庁舎の周囲にも木々が植えられ、石畳の道路が整備されていた。その場所から戦争中の往時の面影を見出すのも、戦いの爪痕を探し出すのも困難だった。
 庁舎は建設中であるためゲフェンの丘の上に移動した行政機関はまだごく一部で、官僚のほとんどは町中の仮設帝国府に残ったままだった。真っ先に元老院の議場が使用可能となっており、それに伴い元老院関係の官僚や事務員が移動してきている。
 バリアに案内されて竜也は元老院議場へと足を踏み入れた。贅沢や派手なことの嫌いな竜也の性格に合わせ、余計な装飾のない、どちらかと言えば簡素な造りである。だが決して質素でも貧相でもない。四方にはヘラス風の大理石の飾り柱が並び、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
 議場内には十数人の元老院議員が集まって世間話をしているようだ。その彼等が竜也の姿を認め、

「これは皇帝陛下!」

 と一斉に駆け寄ってくる。それらの議員に包囲された竜也は戸惑いを隠しながら状況を把握しようとする。議員の顔には大体見覚えがあった。

(……オエアの長老、サブラタの長老、レプティス=マグナの商会連盟代表……東ヌビアの比較的近い町から来ている議員達か)

「皇帝陛下にはケムト征服の戦勝、誠におめでとうございます!」

「これも皇帝陛下の御聖徳というもの!」

 サブラタの長老は竜也の手を握って振り回すように強く振った。他の者達も口々に竜也の偉業を褒め讃える。

「ありがとうございます」

 空々しいくらいの大仰な賞賛に竜也は困惑を隠すので精一杯だ。だが媚びを売っているのは確かだとしても、心にもないへつらいをしているわけでもなさそうだった。
 サブラタの長老が竜也に顔を近付け、

「ところで皇帝陛下。私の孫娘が今度一四歳になりまして、皇帝陛下の元で行儀見習いをさせていただければ……」

 そこにオエアの長老がサブラタの長老を押し退け、

「私の娘は今度二〇歳になりますが大変気立てのよい娘でして」

 さらにはバール人商人がそこに割り込んで、

「私の娘は先日一七歳になりましたが三大陸一の美人とレプティス=マグナでも評判です!」

 呆けたようになっている竜也を余所に、議員達はヒートアップする一方である。

「いくら顔がよくてもあんな枝切れみたいな身体では皇妃に相応しくあるまい。うちの娘は胸の大きさでは誰にも負けんぞ!」

「お前のところの娘は単に太いだけだ。皇妃となるにはやはり見栄えがよくなければ」

「何だとこの野郎!」

 議員達が掴み合いの喧嘩寸前になっている隙を突いて、竜也はこっそりと議場から脱出した。だが逃げた先にも別の元老院議員がいて、

「皇帝陛下、是非我が娘を皇妃に」

「皇帝陛下、是非我が孫娘にお情けを」

 と竜也に追いすがってくる。全速力で走って逃げて、竜也はそれを振り切った。執務室に逃げ込んで何とか一息付く竜也。が、

「遅かったな、待っていたぞ」

「お前に紹介したい奴がいるんだ」

 執務室ではサドマとダーラクが待っていて、二人はそれぞれ年頃の娘を連れ立っていた。竜也は思わず床に座り込んでしまう。

「私の義妹のシャラールだ。歳は一六」

 身長は比較的高めでスレンダーな体格、勝ち気そうな美少女だ。褐色の肌に明るい金髪のストレートのロングヘアが特徴的で、金髪の下からは同色の獣耳が生えている。サドマの紹介を受け、シャラールは竜也に対しにっこりと微笑みを見せた。

「俺の長女のサイカだ。この間一六歳になった」

 身長は低めだがプロポーションは抜群。生意気盛りだが愛嬌もある美少女、といった雰囲気だ。肌の色は薄めで、焦茶色の天然パーマのショートヘア。髪の中からは虎縞の猫っぽい耳が飛び出している。ダーラクの紹介を受け、サイカは引きつったような愛想笑いを何とか浮かべた。

「……先に言っておきますけど、俺は皇妃をこれ以上増やすつもりはありませんから」

 と予防線を張る竜也だが、

「ヌビアは三大陸最大の大国で、タツヤ、お前はその国の国主なんだぞ。皇妃がたった六人では話にならん。六〇人でも少ないくらいだ」

 サドマの言葉にダーラクも強く頷き、

「とりあえずあと一人や二人は男の甲斐性で受け取ってしまえ。見ろ、自慢の娘だ! 顔でも戦闘力でも、牙犬族の娘や銀狼族の娘にも決して負けはせん。胸の大きさは圧倒している!」

 と赤虎族の親子は偉そうに胸を張った。一方金獅子族兄妹は悔しげな顔をするが、

「皇妃に必要なのはまず才覚、ついで美貌だろう。シャラールはその点では将軍の娘やバール人の娘にも勝るとも劣らない。――薄い胸にも独特の趣や味わいがあるとは思わんか?」

 自分の言葉に納得するように頷くサドマとシャラール。一方竜也は頭痛を堪えるように眉間を抑えている。

「お気持ちは嬉し……くないもことないですが、見ず知らずの子を娶るつもりはないし、皇妃をこれ以上増やすつもりはありません」

 と竜也は断言するが、その程度で引き下がる二人ではない。

「それなら親しくなってくれればいい。サイカも公邸に行かそう」

「シャラールも帝国府で働かせる。それに、不公平ではないか」

 竜也は「不公平?」と首を傾げる。

「牙犬族や銀狼族からは皇妃を受け取っているのに何故金獅子族からは受け取れない? 金獅子族の働きは犬共に劣るとでも言うのか」

 サドマの指摘にダーラクも「同感だ」とばかりに頷いていた。竜也は当惑しつつも誤解を解こうとする。

「牙犬族も銀狼族も確かに戦争中はよく働いてくれましたが、それとサフィールやディアのことは無関係です。金獅子族や赤虎族、サドマさんやダーラクさんの戦功についても相応の地位に就いてもらうことで報いるつもりです」

 が、サドマ達は竜也の説明を全く聞いていないかのようだった。

「それはもちろんだが、そのついでにシャラールをもらってほしいと言っているのだ」

「大体、六人というのが少なすぎるんだ。娶ったところで誰も損をするわけじゃあるまい、ここは一つ皇帝として度量の広いところを見せるべきだろう」

 竜也は途方に暮れてしまう。そこに突然、扉が開いて十数人もの人間が応接室になだれ込んできた。その全員が恩寵の部族から選出された元老院議員である。

「そういうことでしたら皇帝! 我が鉄牛族からも皇妃を!」

「我が人馬族は騎兵隊として欠かすべからざる功績を挙げたものと自負しております!」

「我が土犀族から皇妃を」

「いえ、我が胡狼族の方が」

 彼等は口々に自部族の功績を挙げ、その上で竜也へと皇妃を差し出そうとした。戦功を訴えるあまりに他部族と言い合いになり、掴み合いになり、ついには乱闘が始まってしまう。その混乱に紛れ、竜也はこっそりと応接室を抜け出した。
 だが逃げ出した先にも大勢が、元老員議員が、各地のバール人商会が、各地の自治都市代表が竜也の姿を探し求めている。竜也は身を隠し、追っ手をやり過ごしてこっそり移動し、どうにか人気のない場所に逃げ込んだ。

「一体何だってこんなことに……」

 と頭を抱えてうめく竜也と、それを見下ろしているバリア。竜也が逃げ込んだのは建築中の領域で、建築資材の仮置き場となっている部屋だった。

「まず一つ理解すべきなのは」

 とバリアが竜也へと諄々と解説する。

「皇帝の地位と権力が圧倒的に強大であり、それに伴う皇妃の地位は極めて魅力的であるということです。今から皇帝クロイに成り代わるのはまず不可能ですが、自分の手の者を皇妃に送り込むのはそれに比べてはるかに容易です。上手くすればその娘が産んだ子供が次期皇帝になるかもしれません」

 豊かなケムトを征服し、東西の国境を安定させ、帝国の平和も皇帝の地位も最早盤石である。その領土は他国を大きく引き離して世界最大(地中海周辺の三大陸の中では・彼等が知る国家の中では)。それを支配するのは他者の掣肘を受けない絶対的な権力者・皇帝だ。その権力のおこぼれに与りたい、と思う者が皇妃を差し出そうとするのも当然だった。

「次に、聖槌軍戦争もケムト遠征も終わってしまい、平和が長く続きそうだという点です。今度の論功行賞で定まった各都市・各部族の地位はこの先何十年も、場合によっては何百年も変わることなく、そのままであり続けるかもしれません。少しでも自分の地位を上げるには皇妃の影響力も利用しなければならない、ということだと思います」

 例えば、関ヶ原の戦いで定まった各大名の地位は徳川幕府が続く二六〇年間、各大名を縛り続けていた。バリアが言っているのはそういうことだろうと竜也は勝手に理解した。

「……しかし、一体どうしたら」

「まずは各部族や各自治都市が納得するような論功行賞を行うことでしょうか。皇妃の件はそれとは切り離すべきかと思います」

 バリアの助言に竜也は愁眉を開いた。

「確かにそうだな。どうやったって全員は納得しないだろうけど、それに近付けることはできるはずだ」

「論功行賞については陛下が不在の間に準備を整えており、後は陛下の裁可を受けるだけです。皇妃の件は、私共では何ともできませんので陛下が何とかしてください」

 竜也が半分不満げな、半分すがるような目を向けてくるが、バリアはそれに一切構わずに、

「皇妃の件が落ち着くまで仮設帝国府の方には来ないでください。元老院の方々に押しかけられると仕事になりませんので」

 とさらに竜也を突き放す。言うだけ言ってバリアが立ち去っていき、竜也はがっくりと肩を落とした。
 竜也はその日は人目に付かないようそのままその物置に隠れて過ごし、日が暮れてから夜闇に紛れるように帝国府を後にしたという……。







 元老院議員達の皇妃献上運動は静まるどころか加熱する一方である。
 一月後の新年に予定されている建国・即位式典に出席するために自治都市の各代表・恩寵の部族の各代表・商会連盟の各代表がヌビア全土からこの町へと集まってきている。元老院議員だけでなく彼等もまた竜也の元に皇妃を送り込むべく動いていた。
 帝国府の通路は、それらの代表に連れられた皇妃候補が群れを成している。一目でも竜也の目に留まろうと美しく着飾っており、帝国府の通路はまるで舞踏会でも催されているのような華やかさだった。このため帝国府庁舎の建設工事はほぼ中断してしまっている。
 一方議場では元老院議員が熱い討議をくり広げていた。

「……いくら皇帝であっても今皇妃を差し出そうとしている全員から皇妃を受け取れはしないだろう。皇妃の人数を制限するのは当然ではないのか?」

 竜也の意向を受けた議員がそう唱えているが、

「牙犬族や銀狼族だけが皇妃を出しているのに他の部族からの皇妃は受け取れない、というのは不公平だ。全ての部族から受け取らないというのならその二人もまた皇妃の座を返上すべきだ」

 恩寵の部族の議員がそう主張し、

「それならナーフィア商会の娘も皇妃を返上すべきだろう」

 バール人商人の議員もまたそんな意見を述べている。

「しかしそれでは世継ぎを得るのに不安がある」

「確かに、ある程度は皇妃を持つ必要があるのは間違いない。アシューの王様なら小国でも三〇人や四〇人の側室がいると言うではないか」

「しかし、今のように誰も彼もが皇妃を献上しようとできるのは問題だ。皇妃を献上する資格というものを設ける必要があるだろう」

「それなら、元老院議員一人につき一人の皇妃を献上できるというのは」

 その案に議員の大半が「おお、それはよい考えだ!」と同意を示す。その案が元老院の総意として決定されようとしていた。
 執務室に閉じこもっている竜也はそんなことになっているとはつゆ知らず、

「……これは一体?」

「自治都市等が提出した皇妃候補の釣書です」

 皇妃候補の身上書及び推薦文、そして見合い写真の代わりに肖像画が添付された釣書。それが執務机に山積みになっていた。竜也はうんざりした顔でその釣書に目を通していく。流れ作業的に釣書が次々と消化されていく中で、竜也がある肖像画に目を留めた。

「……オエアか。近いな」

 竜也はその肖像画を手に、官僚を呼び止めてある指示を出した。
 その翌日、公邸の船では皇妃の六人が食堂に集まっている。

「タツヤさんが山積みになった釣書の中から一人だけ選んで、この町に呼び寄せたそうです」

 深刻な顔でそう報告するのはカフラであり、ファイルーズ達五人がそれに耳を傾けている。皇妃献上騒ぎが起こってからミカやカフラ達は帝国府への登庁を見合わせることを余儀なくされていた。が、ナーフィア商会の情報網を持ってすれば登庁せずとも竜也の動向を知るくらいは容易いことだった。

「まさかあのタツヤ様がそのようなことをするはずがありませんわ」

 と笑いながら否定するファイルーズだが、

「わたしもそう思いますけど……でも、オエアのアーテファさんという方だけ呼ぶように命令が下ったのには間違いないんです。ちゃんと裏も取っています」

 カフラの言葉に一同は顔を見合わせた。平均すれば半信半疑といったところだが、

「わたし達の誰かを皇妃から外し、その方を皇妃にするつもりなのでしょうか……」

 サフィールなどは疑いの方にやや傾いていた。連日の他部族からの突き上げに弱気になっていようである。

「――始末するか」

 と剣呑に眼を光らせるのはディアだ。六人の中で一番立場の弱い彼女は、自分の立場を守るために手段を選ぶつもりはなかった。ミカが「慌てないでください、事情を確認してからでも」とディアを宥めている。それでディアも気持ちを落ち着けたようだった。

「よく考えてみれば、お前が確認すればいいだけの話だった。そうだろう? 白兎族」

 ディアの言葉に、一同の視線がラズワルドへと集まる。だが少女は、

「くだらない」

 そう言い捨てて立ち上がった。そのまま一同に背を向け、食堂を後にしようとする。

「ラズワルドさん、どちらへ?」

「うるさい連中を追い払ってくる」

 それだけを言い残し、ラズワルドは食堂を立ち去っていく。残された一同が顔を見合わせた。

「――ラズワルドさんはタツヤ様が浮気するとは考えてもいないようですわね」

「あの態度はそういうことだと思います」

 ファイルーズとカフラが頷き合い、他の三人も安堵の様子を見せた。
 港に停泊する公邸の船、その前には大勢の皇妃候補が押しかけている。公邸に潜り込んで居座ってしまい、そのまま皇妃として認められる――彼女達の全員がそんな目論見を抱いていた。彼女達はこの場でも美しく華やかに着飾っている。

「あらあら、随分獣臭いにおいがすると思ったら……」

「こちらからは貧乏臭いにおいがいたしましすわぁ」

 だがその雰囲気は華やぎとは程遠かった。

「金に目が眩んだ親に売られたのかしら?」

「いくら光り物で身を飾っても性根の浅ましさまでは隠せていませんよ?」

 皇妃候補は互いに鋭い視線で威圧し合い、たまに口を開いてもそこから出るのは嫌味や皮肉である。禍々しい瘴気が満ち、空気が濁っているようにすら感じられた。
 突然、声にならない悲鳴が上がる。船の搭乗口側から戦慄がさざ波のように広がっていく。訝しげに思う皇妃候補だが、その彼女達の前に人混みを割ってある少女が姿を登場する。彼女達もまた悲鳴を上げそうになるが何とか踏み止まった。

「白兎族……!」

「悪魔……!」

 悪魔と呼ばれたラズワルドはそう呼んだ者へと冷笑を向け、いつものように告げた。

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 ラズワルドは周囲をぐるりと見回し、周囲の皇妃候補は少女へと敵意と恐怖に満ちた視線を突き刺した。だがラズワルドはそれに何の痛痒も感じていない。そよ風でも受けているかのように涼しげな表情だ。

「……この船に入れていいかを確認をする」

 端的に説明したラズワルドは近くにいたバール人と思しき派手な女性を見つめる。その女性は小さく身を震わせた。

「……男との関係を清算してから出直すべき。国元に二人、この町に二人」

 絶叫を無理矢理呑み込んだため「ひぎぃぃ」とまるで蛙を踏み潰したかのような悲鳴となった。恥辱のあまり倒れそうになったその女性は、身体をふらつかせながら退いていく。
 ラズワルドは次に近くにいた女性に目を留め、

「……実家でお金を使い込んだのを皇帝のお金で穴埋めするよう命じられている」

「嘘よ!」

 女性はくり返し叫んで否定するが、周囲がそれに同調することはない。やがて居たたまれなくなったその女性は身を翻して逃げ出していった。
 ラズワルドが次の獲物を探して周囲を見回し、一斉に数メートル人垣が退いた。人垣の後ろにいる者がラズワルドに目を付けられないうちにこっそりと逃げ出していき、人垣が次第に薄くなっていく。逃げる者は増える一方で、最後には全員が我先に逃げ出した。その場に残ったのはラズワルド一人――いや、もう一人残っていた。ラズワルドがわずかに眉をひそめる。

「皇帝のことで相談がある」

 少女にそう告げるのはベラ=ラフマだ。ベラ=ラフマはラズワルドに案内され、船へと搭乗した。
 以前ゲフェンの丘の上に設置されていた公邸は船底に穴が空いて船としてはもう使えないものだった。今竜也が公邸代わりとして使っているのは旧ケムトの大型軍船で、船としての機能が維持され、港に停泊している。だが、船としての機能を維持するにはそれだけの船員が必要だ。つまり、以前の公邸であれば竜也以外は男子禁制として部外者を完全にシャットアウトできたのだが、今の船ではそれが不可能である。もちろん厳しく制限されてはいるが、竜也以外の男もかなりの数が出入りしていた。
 応接室で二人だけでしばらく話をした後、ラズワルドは食堂に五人の皇妃を集めた。

「それで、お話とは?」

 ラズワルドはファイルーズ達五人を見回しながら、

「タツヤは皇妃をわたし達六人だけに留めることを望んでいる。元老院の者達にそれを認めさせるために人手がいる……って言ってた」

「人手?」

「第一皇妃と、第三皇妃のところ」

 少女の言葉にファイルーズとミカがわずかに刮目。ファイルーズ達はラズワルドの言葉一層耳を傾けている。







 それから数日後のその日。

「おはようございます! 皇帝陛下!」

 竜也は唖然とする他ない。その日の朝帝国府に登庁した竜也を出迎えたのは、ベリーダンスの踊り子みたいな露出過多の格好をした皇妃候補だったからだ。赤虎族のサイカを筆頭に皇妃候補の中でも特に有力で、その上グラマーな女性数名が肌も露わな姿で竜也に接近してくる。竜也はそれから目を離せなかった。

「それでは行きましょう!」

 竜也に胸を押し付けるようにその右腕を取るサイカ。別の皇妃候補が竜也の左腕に胸を押し付けており、竜也は鼻の下が伸びないよう取り繕うので精一杯だ。竜也に気付かれないようサイカが後ろを振り返り、シャラール達に対して勝ち誇った笑みを見せる。シャラール達は歯軋りしながらそれを見送った。
 サイカ達が執務室で竜也の世話を甲斐甲斐しく焼く一方、シャラールは帝国府の一角の人気のない場所に他の皇妃候補を集めて対策を協議している。なお、集まったのはシャラールに対して比較的友好的な面々で、シャラールも含めて平坦な胸の持ち主ばかりだった。

「くっ、赤虎族があんな手を使うなんて……わたし達も何か考えないと」

「確かに今のままでは陛下に目を留めてももらえません」

「でも、わたし達があの格好をしても……」

 と自分で言って落ち込むシャラール達。

「何か違う路線で勝負しないと」

 と彼女達は悩み込むが、簡単にいいアイディアは出てこない。そこに、

「ふっ、わたしの助けを必要としているようね!」

 その場の誰の者でもない声がした。一同が声の発した方へと視線を向ける。そこには壁に背を預け、腕を組んで佇む一人の女性の姿があった。年の頃は二〇代半ば。背は高く髪は長い、スレンダーな美女である。

「あなたは一体?」

「ふっ、我が名はヤラハ! エジオン=ゲベルの恋の女神と謳われたのはこのわたし、皇帝と第三皇妃の仲を取り持って結び付けたのはこのわたしよ!」

 ヤラハは颯爽と名乗り上げ、堂々と一同の真ん中へと乗り込んでいく。シャラール達はどう反応したらいいか判らないまま、結果してヤラハを迎え入れる形となった。

「わたしの妹のミカが皇帝を落とした戦法を教えてあげるわ。胸の大きさが全てではないことをあのサイカ達に教え込んでやるのよ!」

 あっけにとられたシャラール達はそのままヤラハに主導権を握られてしまう。ヤラハの主張する戦法が採用され、それが実行に移されたのは数日後のことだった。

「お、おはようございます皇帝陛下」

 竜也はまたもや唖然とし、硬直するばかりだ。その日竜也を出迎えたのは、超ミニスカートのメイド服をまとったシャラール達だったからである。スカート丈は限界まで短くされており、小麦色の太腿が全開となっている。
 呆けたような竜也の腕をシャラール達が手に取って帝国府の通路を進んでいく。今度はサイカ達は歯噛みをしてそれを見送る番だった。
 ――その日以降、皇妃候補は竜也へのアピールのためにメイドか踊り子か、そのいずれかの服をまとう選択を迫られた。その結果、帝国府に集った皇妃候補は二派に別れることとなる。シャラールを中心とするメイド服派と、サイカを中心とする踊り子派に。両者はそれぞれのやり方で竜也にアピールすることに血道を上げ、竜也は頭を抱え込んだ。
 そんな折りにアミール・ダールからの報告書が届き、

「西ヌビアの視察に行く」

 と竜也は決定する。帝国府の現状に辟易して逃げ出したかったこともその理由の一つ、と言うか大半だったことは間違いない。一方シャラールやサイカ達はそんなことにも気付かずに(気付いていても無視をして)暴走を続けている。

「サイカさん、ここは一つ皇帝陛下がわたし達のどちらを選ぶか勝負をしませんか?」

 シャラールはサイカに対して果たし状を叩き付けた。

「陛下は西ヌビアに視察に行って、戻ってこられたときは疲れているはずです。陛下を歓待し、ゆっくり疲れを取ってもらう、わたし達がそれぞれ別にその準備をする。陛下がわたし達のどちらを選ぶかで勝負するの。いかがですか?」

 サイカもまた不敵な笑顔でその果たし状を受け取った。

「いいだろう、望むところだ。どちらがより皇妃に相応しいか思い知らせてやる」

「それはこちらの台詞です」

 こうして両派はそれぞれに皇帝歓待の準備を進めることとなった。

「ですがヤラハさん。陛下を歓待すると言ってもどのようにすれば」

 と戸惑うシャラール達に、ヤラハは頼もしげな笑みを見せる。

「別に難しく考える必要はないわ、いつものようにすればいいだけよ。それより重要なのは……」

「重要なのは?」

「サイカ達の足をどうやって引っ張るか、よ! サイカ達の失敗はあなた達の得点、あなた達は敵の邪魔をして得点を稼ぐべきなのよ!」

 シャラール達は思わず「おー」と感嘆した。ヤラハが示した判りやすい戦略をシャラール達は完全に承認、サイカ達の邪魔に注力することが決定される。

「さすがヤラハさんです!」

「ふっ、アミール・ダールの娘を甘く見ないことね! 誰に喧嘩を売ったかあの者達に思い知らせてやりましょう!」

 ヤラハとシャラール達は心を一つにし、一斉に気勢を上げた。
 一方のサイカ陣営でもまた似たような方針が採択されようとしていた。

「敵の妨害から自陣を守る一方、小さな嫌がらせをくり返して敵に疲労を強いるのです」

 サイカ陣営でそんな戦術方針を提示するのはファイルーズの女官の一人、ハディージャだった。サイカは強く頷く。

「なるほど、陛下を歓待すると言ってもやるべきことは戦いなんだな」

「まさしくその通り、後宮とは女の戦場なのです。そしてその戦場の経験ではメン=ネフェルのわたし達に敵う者などいるはずがありません」

 ハディージャが頼もしげに胸を張り、サイカ達は彼女へと尊敬の目を向けている。

「あなたが味方になってくれてよかったよ。これでこの勝負も負けはしない」

「ほほほ、メン=ネフェルの後宮で四千年間培われた嫌がらせの数々、思い知らせてくれますわ!」

 こうして様々な者の思惑が渦を巻く中、シャラール達メイド派とサイカ達踊り子派は余念なく戦いの準備を進めている。竜也が西ヌビアの視察から戻ってくるシャバツの月の月末、その日が決戦の刻だった。







 シャバツの月が下旬に入る頃、竜也は高速船を使ってカルト=ハダシュトを訪れた。視察には近衛の護衛の他、サフィールとディアが同行している。
カルト=ハダシュトはトリナクリア島の対岸に位置し、ヘラクレス地峡を除けばエレブに最も近い場所である。竜也はその町でアミール・ダールと合流、彼の案内で町中の視察に回った。
 かつて聖槌軍の略奪を受け、破壊された町だが、かなり復興が進んでいる。町には活気が満ち、商売も盛んで問題は特にないように思われた。が、竜也はあることに気付く。

「……エレブ人の姿が多いな」

 人足となって働く男、娼館で客引きをする女、エレブ人の姿がそこら中に見受けられる。竜也の疑問にアミール・ダールが答えた。

「エレブでは戦乱のために奴隷に身を落とす者が増えています。一方西ヌビアでは復興のために人手がどれだけあっても足りない状態です。多少でも蓄えがある者は皆エレブから奴隷を購入して働かせているのです」

 町中の視察を終えた竜也達は港の軍の施設に戻る。竜也は執務室でアミール・ダールからより詳しい報告を聞いた。

「人手不足を奴隷で補うのも悪くはないでしょうが、問題は奴隷のほぼ全員がエレブから買われた者だということです。西ヌビアの民のエレブへの恨みは骨髄に徹しています」

 奴隷を購入したからと言って、その奴隷に何をしてもいいかと言えば決してそんなことはない。奴隷への過度の虐待を抑制する文化や規律が社会の中には存在しているのだ。が、聖槌軍戦争を経て西ヌビアの社会や共同体が一旦解体されたため、奴隷虐待に対する抑制も非常に弱まっている。戦争以来エレブ人奴隷の市場価格が底値を打ったままであることもそれに拍車をかけていた。
 普通の市民が共同で奴隷を買い、憂さ晴らしで私刑を加えて残虐に殺してしまう例が多発している。労働力として買われた奴隷も虐待され、酷使されるのが当たり前となっている。逆襲してヌビア人の主人を殺す例も少なくはない。一番多いのは逃亡奴隷が野盗となって出没する例だそうである。

「なるほど、エレブ人野盗の掃討がいつまでたっても終わらないのはそのためか」

 竜也の言葉にアミール・ダールが頷いた。竜也は考え込むが簡単には結論は出ない。数日後には視察を終え、サフィナ=クロイへの帰路に着いた。アミール・ダールが建国・即位式典に出席するために竜也に同行している。

「勅令で奴隷売買の禁止と奴隷解放を宣言しようと思うんだが」

 竜也はアミール・ダールやディアに相談するが、二人とも難色を示した。

「奴隷売買で利益を得ているのはバール人商人です。彼等の商売を禁止してしまうのは陛下であっても難しいでしょう」

「わたしの一族は帝国のために生命を懸けて戦ったのだぞ? その銀狼族と、ただ単に買われてきただけの者達が同列として扱われるのか?」

 完全な奴隷解放を実施し、エレブ人奴隷と帝国市民の差別をなくしてしなうことを当初は考えていた竜也だが、反対を受けて軌道修正を余儀なくされた。

「――被保護民とか、そんな名称になるかな。責任ある帝国市民の保護管轄下にある民で、納税や兵役の義務を負わない。その代わり移動居住その他の諸権利を大幅に制限する。保護者となった帝国市民は、被保護民の生命生活を保全する義務を負う。もし被保護民が逃亡して盗賊となったら保護者が責を負う、と」

 人身売買は二一世紀ですら完全には根絶されていないのだ。中世相当のこの世界で一足飛びにそれが実現できるとは竜也も考えてはいない。だが事実上の人身売買や事実上の奴隷をある程度は黙認するとしても、公然としたそれは完全に禁止する。奴隷という名称を廃止し、奴隷に対する虐待や殺害を禁止する――とりあえずはそこまで実現できればよしとすることとした。
 サフィナ=クロイに戻った竜也がその案を官僚達や元老院で諮り、反対を押し切って奴隷解放の勅令を発するが、それは一年以上も先のことである。シャバツの月の月末、サフィナ=クロイに戻った竜也は重い気を引きずるようにして帝国府にやってきた。

「……これは一体」

 そして呆然となってその惨状を眺めている。新築の帝国府庁舎の内装が見る影もないような有様となっていた。足の踏み場もないくらいに小麦粉がまき散らされ、水で濡れ、ソースや料理がぶち撒けられている。壁には刀傷が刻まれ、床の石畳は割られ、高価な硝子窓は微塵に砕かれていた。カーテンは裂かれ、扉は蹴破られ、机や椅子が積み上げられてバリケードとなっており、またはそれが崩され、挙げ句にはあちこちに小火と見られる焦げ跡すら付いていた。
 竜也の目の前をメイド服と踊り子装束の皇妃候補が走り抜けていく。両者は手に持ってる箒やモップで斬り結び合っていた。

「一体何をしている!」

 竜也が怒鳴り、ようやく彼女達は竜也の存在気が付いたようだった。

「こ、皇帝陛下……」

 何とかその場を取り繕おうとするが、メイド服や踊り子装束は乱闘でボロボロとなっているし、何より周囲の惨状は隠しようがない。無駄な努力だった。

「馬鹿騒ぎをすぐに止めろ! 全員を集めろ!」

 竜也の鋭い叱責を受け、皇妃候補が慌てて四方に散っていく。数刻後の元老院議場、その場には竜也や皇妃候補の他、それら皇妃候補の後ろ盾となっている元老院議員が集まっていた。皇妃候補は皆ボロ布同然となったメイド服・踊り子装束と肌を外套で隠し、悄然と俯いている。さらにその場にはファイルーズやラズワルド達四人も駆けつけていた。元から竜也に同行していたサフィールとディアも加え、皇妃とその候補、その関係者が全員顔を揃えたことになる。

「それで、一体何の理由でこんな馬鹿騒ぎを?」

 竜也の怒りに満ちた視線を受けて、シャラールやサイカは何とか言い訳しようとした。二人の言い分にはほとんど違いはない。要するに「皇帝歓待の準備をしていたら相手が邪魔をしてきた、それを防御して排除していたら乱闘になってしまった」ということだ。
 竜也は頭痛のする額を抑えつつ、

「……まあ、どちらが先に手を出したか、どちらにより重い責任があるかは大した問題じゃないだろう。どうしてもその辺を追求したいのならラズワルドに力を貸してもらうことにするが、どうする?」

「いえ、その必要はありません」

「これはわたし達全員の責任です」

 シャラールもサイカも焦ったように首を横に振ってそう言った。

「ともかく。今回は女性同士が乱闘しただけで、皆の怪我も物の被害も大したものじゃない。そこだけを取り上げるならただの笑い話ですむことだ。――でも、問題はそこじゃない。笑い話ですませていいことじゃ、決してない。皇妃になる前から派閥を作って対立し、挙げ句に乱闘を起こす。それ自体が問題なんだ」

 竜也が刃のような視線で皇妃候補と元老院議員を一撫でし、一同は首をすくめた。

「彼女達が皇妃になったらどうなる? 自分の子供をそれぞれ次期皇帝に擁立し、軍を率いて戦争をする――それがあり得ないって断言できるのか? 皇妃になる前からこんな問題を起こしているのに」

 シャラールやサイカ達は、

「ですが、乱闘になってしまったのは外部の者が煽ったからで」

「今の皇妃が戦争を起こさないと言えるのですか?」

 と何とか反論を試みる。なお、「乱闘を煽った外部の者」のうちハディージャは適当なところでこっそりと逃げ出しており、ヤラハは最後まで先頭に立って走り回り騒ぎを拡大させ続けた。竜也到着後はミカの手の者により捕まえられ、縄で縛られて納戸の中に放り込まれている。

「皇妃に外部の者が接触して反乱等の陰謀を仕掛けるのは当然あり得ることだ。皇妃になる以上はそれを見抜いて自制できる者でないといけない。ファイルーズ達は少なくとも派閥を作って乱闘を起こたりはしていない、皆仲良くやってるぞ」

 その言葉を受けてファイルーズやラズワルド達が「うんうん」と頷いている。だが四人がこっそり冷や汗を流していることにサフィールだけが気付いており、サフィールは呆れたような目を四人へと向けた。

「クロイ朝の存続と、帝国の内乱を未然に防ぐためだ。今回皇妃となるために集まった皆はただの一人も皇妃として認めない。皇妃は今のファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール・ディアの六人に限定し、今後一切増やさない。これを勅令として発する」

 竜也のその意志を変えられる者はどこにもいない。元老院議員・皇妃候補も肩を落とすしかなかった。こうして皇妃を六人に限定することが勅令として正式に発令された。後日にはソロモン盟約にも明記されることとなる。







 ところでその日の夜中。

「……誰か気付いて」

 ヤラハは納戸の中で、縄で縛られたまま泣き寝入りしていた。ヤラハのことを思い出したミカが迎えに来るのは翌朝のことである。







 その日の夜。皇妃騒動を何とか終息させ、竜也は公邸の船でゆっくりとお茶を飲んでいるところである。その周囲には六人の皇妃が集っていた。

「収まってくれてよかった。災い転じて、ってところかな」

 と竜也がしみじみと感慨を述べ、

「ええ、全くその通りですわ」

「ん」

 とファイルーズやラズワルドが同意する。

「確かに、金獅子族や赤虎族の娘の迂闊さには感謝してもし切れない。もし今さら皇妃から外されるとなったら一族に顔向けできなかったところだ」

 ディアの言葉サフィールも頷く。ファイルーズはいつもの仮面のような笑みで本心を隠し、ラズワルドは普段通り無関心を装った。カフラはあらぬ方向に視線を向け、ミカがごまかすように、

「ともかく、これで皇妃はこの六人だけになったのですから一安心です」

 と話をまとめる。そこに一人の女官がやってきた。

「陛下、オエアからやってきたアーテファという女性が見えています」

 竜也は「もう来たのか」と嬉しげに椅子から立ち上がり、出迎えに向かった。残されたのは、何とも言い難い顔の五人である。ファイルーズ達五人が慌てて竜也の後を追い、呆れた様子のラズワルドが最後に続いた。
 竜也は自らアーテファという女性を応接室に案内しようとし、竜也を追ったファイルーズ達と通路で鉢合わせとなった。

「あれ、どうした?」

 アーテファを目の当たりにしたファイルーズ達は竜也の問いに答えることも忘れていた。その女性は年の頃は五〇代。昔は美人であっただろう、ふくよかなおばさんだったからだ。辛うじてカフラが、

「あの、タツヤさん。その人を紹介してくれませんか?」

「ああ、オエアで肖像画を描いているアーテファさんだ。しばらくこの船に逗留してもらうからそのつもりで」

 竜也の答えにカフラ達は眼を白黒させた。その様子をアーテファは微笑みながら眺めている。
 ……竜也が釣書に添付されていた無数の肖像画に目を通していたのは、絵をたしなむ者としてこの世界の絵画の水準に興味があったからなのだ。残念なことに絵画の水準は総じて低く、かなり上手い絵を描く者もいたがその絵柄はいまいち竜也の好みではなかった。そんな中で竜也の琴線に触れた絵を描いていたのはアーテファ一人だけだった。
 アーテファは船に逗留しながら皇妃達の素描をくり返し描き、竜也もまた久々にペンを手にしてラズワルド達の絵を描いた。二一世紀の日本の漫画を元にした竜也の絵柄にアーテファは強いインスピレーションを受け、アーテファの絵柄も大きく変貌する。
 アーテファが竜也と六人の皇妃の肖像画を描き上げたのは一年後のことである。縦一メートル半・横三メートルの巨大なキャンバスに等身大の肖像が、まるで生きているかのようにリアルに、精密に描かれていた。中央に竜也、その右隣りにファイルーズ・ミカ・サフィール、左隣りにラズワルド・カフラ・ディアが並んでいる。
 「黒竜帝と六人の皇妃」を描いた絵画は歴史上無数に存在するが、その全てがアーテファの描いたこの絵を元絵にしたものである。皇妃達と一年以上も同居した上で肖像画を描いたのはアーテファ以外には一人としていない。
 アーテファの描いたこの肖像画は、黒竜帝と六人の皇妃の姿を最も正確に後世に伝えるものとして、歴史学上重要な意味を持つようになった。また、美術史上でも不朽の傑作としてその名を残している。






[19836] 第五七話(最終話)「黄金の時代」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/05/08 21:02



「黄金の帝国」・征服篇
第五七話「黄金の時代」







 アダルの月(第一二月)と海暦三〇一七年が終わろうとする頃。翌月ニサヌの月(第一月)一日の建国・即位式典を目前に迎え、サフィナ=クロイには帝国内外から要人・招待客が続々と集まっている。竜也はその歓待や会談、今後の打ち合わせに追われており、ファイルーズ・ミカ・カフラがそれを補助した。そういう社交的な仕事向きではないラズワルド・サフィール・ディアは手持ち無沙汰の様子である。
 竜也の正式な即位と同時に帝国府の人事辞令が発令されることになっており、主要人事についてはすでに公表されていた。まずアミール・ダールがヘラクレス地峡に建設中の要塞について状況報告。次いで西ヌビア方面軍の人事案を竜也に提出し、竜也がそれを承認する。




西ヌビア総督・
西ヌビア方面軍総司令官  アミール・ダール(エジオン=ゲベル出身)
西ヌビア方面軍総司令官補佐  コハブ=ハマー(エジオン=ゲベル出身)
西ヌビア方面軍第一軍団軍団長 イステカーマ(イコシウム出身)
西ヌビア方面軍第二軍団軍団長 ソルヘファー(シジュリ出身)
西ヌビア方面軍第三軍団軍団長 テムサーフ(サブラタ出身)
西ヌビア方面軍騎兵隊隊長   シャブタイ(エジオン=ゲベル出身)


西ヌビア第一艦隊司令官  ナシート(オエア出身)
西ヌビア第二艦隊司令官  イーマーン(リクスス出身)




 西ヌビア方面軍にはアミール・ダールの下に陸軍三個軍団、歩兵二万三千・騎兵一隊四千、及び海軍二個艦隊を配置。エレブと戦争をする場合は最前線となる場所である。

「できれば十万くらい配置したいところだけど、今の帝国じゃそれは無理だ。ヘラクレス要塞を一日でも早く完成させて、防御に徹することができるように頼む」

 竜也の指示にアミール・ダールが頷く。

「戦火を避けてエレブの難民が流れ込んできています。その者達を要塞建設に従事させていますので、当初の見通しよりもかなり早く完成する予定です」

 竜也は「そうか」と頷き、次いで難しい顔をした。

「ルサディルやヘラクレス地峡周辺は聖槌軍戦争の戦禍が一番ひどかった場所だ。ヌビア人とエレブ人の対立も一層深刻だろうけど、融和に努めてほしい。エレブ人を無意味に虐待することがないように」

「はい。エレブ人の難民は全員私の被保護民とします」

 頼む、と竜也が頷き、表情と話題を変えた。

「ところで、ヘラクレス地峡には川が流れていたな。その川がエレブと帝国の国境となっている」

 アミール・ダールはわずかな戸惑いを隠しながら「はい」と首肯する。

「その川を掘削して運河を造ろうと思う。西の大洋と地中海を結び、大型船も行き来できるような」

 アミール・ダールは小さくない衝撃を受け、「それは……」と呟いていた。

「……途轍もない大工事となります。帝国が傾くほどの莫大な予算が必要となるでしょう」

「確かにその通りだ」

 と竜也は苦笑した。

「別に今すぐ工事を始めるなんて言わない。多分百年後、二百年後の話になるだろう。でもできる準備は今のうちにやっておいた方がいいと思うんだ。つまり、その川を帝国領、帝国の管轄下とする。エレブ・イベルス王国側に踏み込んで川の西岸のある程度の範囲を帝国領土として確保してほしい」

「なるほど、それをやるなら確かに早いうちにやるべきでしょう。聖槌軍戦争の報復という名分が立つうちに。エレブが混乱しているうちに」

 そういうことだ、と竜也が応えた。
 この後、竜也の意志を受けたアミール・ダールが軍事行動を起こし、イベルス王国領土を侵略。ヘラクレス地峡の川と西岸地帯を帝国領土として獲得した。その川に運河が建設され、西の大洋と地中海が海運で結ばれるのは二百年後のことである。
 次いでケムトからはマグドがやってきた。マグドがケムト方面の現状について報告し、方面軍の人事案を提出。竜也がそれを承認する。




ケムト総督・
ケムト方面軍総司令官  マグド(アシュー出身)
ケムト副総督        イムホテプ(メン=ネフェル出身)
ケムト方面軍副司令官    セティ(スウェネト出身)
ケムト方面軍司令官補佐   ライル(アシュー出身)
ケムト方面軍第一軍団軍団長 シャガァ(アシュー出身)
ケムト方面軍第二軍団軍団長 チェチ(ナウクラティス出身)
ケムト方面軍騎兵隊隊長   シェションク(イムティ=バホ出身)


ケムト第一艦隊司令官  センムト(アンジェティ出身)
ケムト第二艦隊司令官  ムゼー(ダフネ出身)
ケムト第三艦隊司令官  ザイナブ(ロカシス出身)




 ケムト方面軍にはマグドの下に陸軍二個軍団、歩兵二万・騎兵一隊四千、及び海軍三個艦隊を配置した。司令官には旧ケムト王国軍の人間を積極的に登用し、旧ケムトと帝国の融和を計っている。また、イムホテプが副総督となって軍事面以外の分野を引き受け、マグドを強力にサポートした。

「――ところで、ケムトの南にどんな国があるか知っているか? 大樹海アーシラトよりも南に何があるか知っているか?」

 竜也の突然の話題転換にマグドは戸惑いを見せた。

「いや、知りませんな」

「帝国の南側は多分こうなっている」

 と竜也は事前に用意した地図を提示した。竜也が自分で手描きした、元の世界のアフリカ大陸の絵だ。

「ここからここまでがヌビアの大陸全てだ」

 元の世界のアフリカ大陸に相当するその大陸に「ヌビア大陸」という名前が付けられたのはまさにこの瞬間である。

「帝国の領土は地中海沿岸のごく一部。ここから南側には誰が住んでいてどんな国があるのか、ほとんど判っていない。ダフネに拠点を置いて艦隊を派遣し、南側を探検させようと思う。国があれば交易をして、人がいなければ入植をする。将来的にはこの大陸全てを帝国領土としたい――エレブ人に奪われないうちに」

「……豪気なことですな」

 マグドはそう応えるので精一杯だ。スケールが大きすぎていまいち理解しがたいらしい。竜也は笑いながら肩をすくめた。

「まあ、先々エレブ人の植民が始まるとしてもまだ百年くらいは余裕があるだろう。とりあえずは艦隊を派遣して交易路を開拓するところから、かな。始めるなら早い方がいい」

 竜也のエレブ人に対する警戒心をマグドは怪訝に思いながらも、

「この方は俺達の見えていないものが見えているんだろう」

 と納得することとした。
 ヌビア大陸の南の探検を命じられたマグドだが、

「皇帝陛下、その探検任務を是非この私に」

 とムハンマド・ルワータが名乗りを上げてきた。元々ルワータは旅行家・冒険家として名を上げた男であり、マグドも彼の名乗りを歓迎した。竜也はルワータをマグドの部下に配置し、また南部探検用にケルシュに艦隊を編成させる。ムハンマド・ルワータとケルシュの率いる艦隊が南部探検に出発するのは二年後、ヌビア大陸を一周してサフィナ=クロイに戻ってくるのはさらにその二年後。ヌビア大陸全土が帝国領土となるのはさらに二百年後のことである。
 なお、マグドが東からやってくるに当たってはメン=ネフェルの特使を筆頭に、アーキル等の旧ケムト王国の自治都市代表、エジオン=ゲベル王国・スアン王国等アシューの国々の特使が同行してきている。エジオン=ゲベルから特使としてやってきたのはガアヴァーだった。

「皇帝陛下との友誼を考えるならば国王ノガが参列すべきところなのですが……」

「まあ残念だが仕方ない。ノガさんは即位してまだ間もない、何ヶ月も国を空けるのはさすがに無理だろう」

 竜也の言葉にガアヴァーも恐縮する。

「国王ノガも式典に参列できないことを最後まで残念がっていました」

 竜也は「そうか」と頷いて、

「ところで俺は帝国とエジオン=ゲベルの間でより一層交易が盛んになることを望んでいる。ついては両国の間で関税協定を結んで商人達に便宜を図りたい。帝国とエジオン=ゲベル間の取引については関税をかけないようにしたいのだ」

 帝国にとってエジオン=ゲベルは交易上のアシューの拠点であり、安全保障上の防波堤だ。竜也としては、エジオン=ゲベルには平和を維持して帝国との交易に注力してくれることを望んでいたのだが、ノガはその意向には従わなかった。自国の後背を帝国に守らせた上で東へと領土を拡大する侵略戦争をし続けたのだ。エジオン=ゲベルは建国以来最大の領土を獲得するが、竜也とノガの関係は冷え込んだものとなってしまった。それでも帝国とエジオン=ゲベルは百年にわたって安全保障上の協力関係を結び続ける。

「エジオン=ゲベルとかのアシューの国々と折衝する担当官が必要だよな。ルワータさんがエレブ担当から外れるとなると別の人を担当につけないといけないわけだし。ひとまとめにして外務大臣職を作るか」

 竜也はその外務大臣にベラ=ラフマを充てようとしたのだが、

「私は一介の近衛隊士に過ぎません。これまでも、これからも」

 ベラ=ラフマは頑なにそれを固辞した。

「戦争中のあなたの働きを考えれば帝国宰相の地位だって望んでもおかしくはないんだ。せめてこれくらいの顕職に就いてもらって、これまでの功績に報いたい」

「陛下の今のお言葉で私は充分に報われております」

 竜也がどれだけ説得してもベラ=ラフマは首を縦に振らず、結局竜也もその案を諦めるしかなかった。

「『あの戦争中、俺達二人が一番過酷な戦いを経験した』……なんて言うつもりは毛頭ない。でも、俺がどんな戦いをくぐり抜けたか、その戦いがどれだけのものだったか。それを真に理解できるのは多分あなた一人だ。そういう意味で、あなたはただ一人だけの俺の『戦友』なんだ」

「ありがとうございます」

 竜也の言葉にベラ=ラフマはいつもの無表情を装い、深々と頭を下げていた。
 ベラ=ラフマは生涯を一近衛隊士で過ごし、顕職には一切就かなかった。このため存命中も無名のままであり、死後その名は一旦歴史に埋もれてしまう。「謀臣ベラ=ラフマ」の名が掘り出され、脚光を浴びるのは、二百年を経て竜也の回想録が発表されてからのことである。
 次に、ガイル=ラベクが東ヌビア方面軍の人事案を提出、竜也がそれを承認する。




東ヌビア総督・
東ヌビア軍総司令官 ガイル=ラベク(青鯱族)
海軍副司令官       ハーディ(バール系)


東ヌビア第一艦隊司令官 フィシィー(胡狼族)
東ヌビア第二艦隊司令官 モタガトレス(巨鯨族)
東ヌビア第三艦隊司令官 ジャマル(グヌグ出身)
東ヌビア第四艦隊司令官 ノーラス(キュレネ出身)


東ヌビア方面軍陸軍司令官   サブル(キルタ出身)
東ヌビア方面軍第一軍団軍団長 ディカオン(プラタイア出身)
東ヌビア方面軍第二軍団軍団長 タフジール(スファチェ)


第一騎兵隊隊長 サドマ(金獅子族)
第二騎兵隊隊長 ダーラク(赤虎族)
第三騎兵隊隊長 ビガスース(人馬族)
第四騎兵隊隊長 カントール(人馬族)




 東ヌビアの防衛は海軍優先となっている。第一・第二艦隊は通常の軍船の艦隊。第三艦隊は全艦ゴリアテ級で構成された輸送艦隊だ。第四艦隊は高速船のみで編成された伝令艦隊である。
 陸軍には司令官サブルの下に二個軍団・歩兵一万五千、騎兵四隊二万を配置している。特にサドマとダーラクの騎兵隊は三大陸で戦った歴戦の勇士が揃っており、「最強」の名をほしいままにしていた。

「エレブ側は思ったよりもはるかに混乱が続いている。南だけじゃない、北にも領土を広げるいい機会じゃないのか?」

 ガイル=ラベクが試すように竜也にそう問う。無言のままの竜也に彼が続けた。

「とりあえずタンクレード軍を叩き潰してトリナクリア島を占領してしまったらどうだ? タンクレード軍の暴虐に島民は苦しんでいる。帝国軍は解放者として歓迎されるだろう」

 だが竜也は苦笑しながら首を横に振った。

「エレブ側から見れば、帝国にトリナクリア島を占領されるのは喉元にナイフを突き付けられるようなものだ。『いつ攻め込まれるのか』と不安と恐怖が募り、トリナクリア島解放のための聖槌軍が再発動しかねない。

 ヌビアの皇帝は侵略者には容赦しないが、必要もないのに自分から攻め込むことはしない。対エレブの拠点としてはメリタ島を確保しておけば充分だ」

 ガイル=ラベクはにやりと笑い、その指示を受け入れた。帝国海軍艦隊は航路の安全確保を第一任務として運営されていく。
 そのトリナクリア島からはアニードがタンクレードの名代として建国式典に出席するためにやってきている。

「皇帝陛下にはご機嫌麗しく……つきましては我が軍に陛下の支援の程を」

 竜也と会見を持ったアニードは卑屈なまでに這いつくばり、タンクレード軍への支援を引き出そうと精一杯の媚びを売った。帝国としては既にタンクレード軍を支援する必要はほとんどないのだが、

「大した支援は約束できないが、できるだけのことはしよう」

 アニードの姿に哀れを催し、思わずそんな約束をしてしまっていた。

「まあ、タンクレード軍がトリナクリア島を占領している限りはあの島は緩衝地帯として機能し続けるんだ。決して損な取引じゃない」

 竜也はそんな理論武装をした上でタンクレード軍への銃器弾薬の支援を続けさせた。
 帝国の支援もあり、タンクレード軍の反乱は実にその後も七年にわたって続くこととなる。内部分裂によりタンクレード軍が壊滅した際、アニードはタンクレードを乗せて船でトリナクリア島を脱出。その後の消息は一切歴史には残っていない。船が難破し海の底に沈んだのだ、という説が最も有力だが、アシューに逃れて名前を変えて生き延びた、という説も根強く唱えられ続けている(なお「契約者の聖杖」ことモーゼの杖――その偽物もまたタンクレードと運命を共にして所在不明となったが、「タンクレードが所持していたモーゼの杖」と称するものが後年になってエレブ各地に、各時代に出没している)。
 教皇インノケンティウスによる聖槌軍はエレブとヌビアに住む全ての人間の運命を変えてしまったが、その中でもアニードは最も数奇な運命を辿った者と言われている。
 数奇と言えば、銀狼族も負けてはいない。テルジエステの戦いを経てヌビアに集団移住した銀狼族は、サフィナ=クロイの南の山林をもらってそこに村を開拓している。聖槌軍戦争中の貢献が高く評価されてのことで、銀狼族と一緒にヌビアに移住してきた多神教徒や他の恩寵の部族は銀狼族の被保護民という扱いである。灰熊族も銀狼族と同等の扱いを受けているが、村落を形成できるのほどの人数がいなかった。
 聖槌軍戦争で捕虜となったエレブ人は五万程度。そのうち一万五千がケムト遠征に従軍してエレブに帰国する機会を掴んだのだが、実際に帰国したのはそのうちの一割にも満たなかった。九割以上が帝国の市民権を得、帝国で暮らしていくことを選択している。理由はエレブで戦乱が渦巻いており、帰国してもろくなことにはならないと考えられたため、エレブよりもヌビアの方が経済面・生活面ではよりマシな生活が送れるためである。一旦エレブに帰国しながら家族を連れてヌビアに戻ってきた例も少数ながら存在するくらいだ。
 つまり現在の帝国には少数派ではあってもエレブ人が普通の市民(またはその被保護民)として暮らしている。だが普通のヌビア市民と比較すれば一段も二段も低い扱いである。その中での銀狼族の立場は、かなり微妙だった。エレブ人から見れば銀狼族は裏切り者だし、ヌビア人から見てもそういう軽侮の感情は決して小さくはない。
 銀狼族の貢献を誰よりも高く評価している竜也がそれを何とかするべく考えて、




近衛隊隊長  バルゼル(牙犬族)
近衛隊副隊長 ヴォルフガング(銀狼族)
近衛隊    ベラ=ラフマ(白兎族)




 その結果上記のような人事が決定された。これまで近衛隊は牙犬族ばかりだったが、そこに同数の銀狼族戦士が隊士として追加されたのだ。

「『長雨の戦い』から近衛隊士の数がかなり減っていてバルゼルさん達の負担がずっと重いままだったけど、ようやくそれを解消できるな」

 と竜也は自分の発案に満足げである。ヴォルフガング達銀狼族はこの評価に感激するが、牙犬族の面々は複雑そうだった。牙犬族と銀狼族は互いに対抗心を燃やしながら、竜也に対して競うように忠誠を尽くすこととなる。
 なお、ヌビア市民となった、あるいは被保護民のエレブ人の扱いは竜也にとっては頭痛の種だったが、ある人物がその一部を肩代わりしてくれることとなった。

「――皇帝陛下には、エレブ人の聖杖教徒が礼拝を行うのを許可いただきたい」

 年齢はおそらく五〇代。戦士のように立派な体格で、肌は黒人のそれ。半分白髪の髪は短く縮れている。身にしているのは聖杖教の修道服だが、色合いやデザインはかなり変わった独特のものだ。

「しかし大司教ムァミーン」

 この男こそメン=ネフェルに所在する聖モーゼ教会の大司教ムァミーンである。

「ヌビア人に対する敵意を煽り、恩寵の部族を魔物と呼び、侵略を正当化して戦争を引き起こしたのは聖杖教ではないのか?」

「聖杖教は本来愛と慈しみの教え、それを欲望で歪めたのはテ=デウムの狂信者達です。それらと一般のエレブ人とは分けて考えていただきたい。戦争に加わったエレブ人の兵士達に罪があるとしても、彼等はその報いを充分に受けているのではないでしょうか」

 ふむ、と竜也は考える振りをした。

「……しかし、今は多くのエレブ人が聖杖教に愛想を尽かしている。礼拝を認めることで彼等が信仰を取り戻したら、再びヌビアの市民と帝国に対して敵意を持つようになるのではないのか?」

「そうならないようにするためです」

 とムァミーンは声に一層の力を込めた。

「聖杖教に禁教は無意味です。禁教しても地下に潜り、陛下の目の届かない場所で広がり、はびこり続けるだけです。私がヌビアにいるエレブ人達に正しい教えを説き、テ=デウムの歪んだ教えから彼等を解き放ちます。異教徒や恩寵の民とも手を取り合い、助け合うことこそ神の教えにかなう道であること彼等に伝えます」

 ムァミーンは布教の利点を竜也へと熱心に訴える。竜也はこの場では返答しなかったが、後日ムァミーンに礼拝や布教の許可を出した。もちろん山ほどの制約や厳重な監視付きではあるが、ムァミーンに文句があるはずもない。
 ムァミーンは教皇インノケンティウスや枢機卿アンリ・ボケほどには純粋ではない。エレブ人に対する布教も、

「勢力拡大の絶好の機会」

「教会の経営もこれで少しは楽になる」

「テ=デウムに目にものを見せてやる」

 等、様々な俗っぽい思惑が絡んでのことだ。だが、そうであるが故にかえって竜也はムァミーンを信用したのだ。ムァミーンの懇願は竜也にとって渡りに船以外の何物でもなく、返答を渋ったのは単なるポーズである。
 その後、ムァミーンは帝国府の強力な後押しの元にエレブ人への布教を開始。先々にはヌビアのエレブ人のほとんどを信者として獲得し、聖杖教の分派としてテ=デウムに対抗する存在となっていく。聖モーゼ教会の挑戦を受けてテ=デウムも教義を見つめ直し、紆余曲折と内部分裂と血みどろの内訌の末に多神教に対する寛容さを身につけるようになる……のだが、それは何百年も先のことである。
 続いては文官の人事。




帝国図書館長   ハーキム(鹿角族)
帝国技術院院長  ガリーブ(アラエ=フィレノールム出身)
帝国技術院副院長 ザキィ(スキラ出身)




 元の世界では読書少年で歴史物が好物だった竜也は、自分が歴史書に記述される立場となって「後世」というものを強く意識するようになった。

「図書館はまず本を集め、それを後世に残し、伝えるのが役目だ。この世界で出版された本は地域・内容を問わず、一冊残らず集めてほしい」

 活字中毒・書物マニアのハーキムがその指示に強く頷く。

「次に、研究施設を併設して歴史なり言語なりの研究活動を支援する、それも帝国図書館の役目とする。将来的には大学も設置したい。……それと、聖槌軍戦争についての記録を残していきたい。それを担当する部署を設置しておいてくれ」

「具体的にはどのような記録を?」

 ハーキムのその問いに竜也は、

「あらゆる記録を、だ」

 と答えた。

「将軍アミール・ダールが、将軍マグドが、衝撃のサドマが、雷光のダーラクがどう戦ったか。そんな記録だけじゃない。名もなき一兵卒にとってあの戦争がどうだったか。一市民にとって。バール人商人にとって。西ヌビアの難民にとって。または聖槌軍の兵士やエレブの農民にとって、あの戦争がなんだったのか。可能な限り多くの人に、様々な立場の人に聞き取りをして、その記録を残していってほしい。それが、後世に対する今の時代の者の責任だと思うから」

 竜也のその命を受けたハーキム達はその後数十年にわたって数千という人間にインタビューを実施。その膨大な記録はほぼ欠けることなく次世代へと伝えられていく。

「黒竜帝の他の偉業・業績を全部合わせたとしても、この聖槌軍戦争の記録編纂という業績一つに匹敵することはない」

 後世の歴史家の中にはここまで評価する者もいるくらいである。
 人文分野の研究活動を担うのが帝国図書館なら、理工分野のそれを担うのが帝国技術院だ。

「技術院にはまずコークス炉を実用化してほしい。次に蒸気機関、その次に内燃機関、その次が電動機かな」

 竜也が提示した基本的なアイディアに基づき、ガリーブ達がその実用化を研究。コークス炉等のいくつかの技術が商業レベルで実用化され、帝国に大きな利益をもたらした。が、蒸気機関を始めとする大半の研究成果は(一定の再現はされても)実用に供されることなく、やがて時間の流れに埋もれてしまう。それらの技術が再評価され、日の目を見るのは何百年も先のことである。
 続いては帝国府の閣僚人事。帝国府文官の頂点に立ち、政治の実務を取り仕切るのは以下のメンバーだ。




財務大臣  アアドル(バール人)
内務大臣  ユースフ(カルト=ハダシュト出身)
総務大臣  ジルジス(レプティス=マグナ出身)
外務大臣  ラフマン(ハドゥルメトゥム出身)
郵政大臣  バリア(アシュー?)
商務大臣  カゴール(バール人)
司法大臣  ハカム(白兎族)
軍務大臣  アゴール(鉄牛族)
警察大臣  ラサース(牙犬族)




 財務大臣は財務全般を担当。内務大臣は主には自治都市間の調整役。外務大臣はエレブ・アシューの国々との外交関係を担当する。商務大臣は各地の商会連盟と共に商業活動を支援・調整。司法大臣は裁判関係の担当だ。軍務大臣の主な役目は軍需物資の補給等の、軍の行動の支援・調整。帝都治安警備隊は警察隊へと再編され、牙犬族の他銀狼族の戦士が投入される予定である。総務大臣は他の者が担当していない仕事の全てを受け持つこととなる。そして、

「それで、この郵政大臣の仕事というのは……」

「うん、郵便局をやってもらう」

 竜也がそう答え、バリアは落胆を隠せなかった。

「郵便局の仕事とは、手紙の配達ですか」

「まずはそれだけど、他にも色々とある。軍事作戦がない時にゴリアテ級を遊ばせておくのももったいないから、あれを使って海運事業をやってほしい。ヘラクレス地峡からダフネまでの定期航路を作って旅客を乗せたり、各地の商会の委託を受けて荷物を輸送したりする。

 次に郵便貯金をやる。市民から貯金を集めてそれを有望な民間の事業に投資する。郵便為替もやって、各地の商会の便宜を図る。あと保険事業も株式も。それと内容証明とか契約書証明とか」

「ちょっ、ちょっとお待ちください」

 バリアが竜也の説明を止め、列挙された仕事の内容を脳内で整理する。そして難しい顔となり、

「……それだけの業務全てを郵便局が受け持つのですか?」

「その通りだが?」

 バリアの確認に竜也は元の世界の日本の常識を持って当然のごとくに答えた。

「将来的には『民業圧迫だ』って言われて分割民営化が必要になるだろうけど、多分それは何百年も先のことだ。今は帝国府がそういう商業活動の基盤となる事業を強力に後押ししなきゃいけない」

 竜也が何を言っているのかいまいち判らないバリアだったが、広範囲にわたる重要事業を任されたことは理解している。

「それらの事業を何もないところから立ち上げる、それができるのは帝国府の中でも自分くらいのものだ」

 バリアのその自負は、バリア自身にとっては正当な自己評価である。そしてその評価は竜也と共有のものなのだ。

「かなり大変な仕事になるだろうけど、頼む」

「お任せください」

 バリアは満腔の自信と確固たる忠誠を込めてそう答えた。
 そして最後に、竜也と皇妃についての発表である。




皇帝   クロイ・タツヤ(マゴル)
第一皇妃 ファイルーズ(メン=ネフェル出身)
第二皇妃 ラズワルド(白兎族)
第三皇妃 ミカ(エジオン=ゲベル出身)
第四皇妃 カフラ(バール人)
第五皇妃 サフィール(牙犬族)
第六皇妃 ディアナ・ディアマント(銀狼族)




 ディアが皇妃に加わり、今年一五歳となるラズワルドも今回を機に「予定」が取れて正式に皇妃となった。竜也はこの六人以外を皇妃にすることは決してなく、生涯にわたって他に寵姫を持つこともなかった。
 ファイルーズは竜也との間に一男一女を成し、長男にはヌビア帝国の皇帝位を、長女にはメン=ネフェルの王位を継承させることとなる。私生活・政治の両面でファイルーズの助力は竜也にとって不可欠なものであり、それは生涯変わることはなかった。
 ファイルーズは国母として、太陽神殿の巫女長として、帝国市民の圧倒的な崇拝を一身に受け続けた。単に尊崇されるだけではなく、六人の皇妃の中で同時代の帝国市民に最も親しまれ、最も人気が高かったのもファイルーズなのだ。
 一方、六人の中で一番人気がなかったのがラズワルドである。
ベラ=ラフマが心血を注いで帝国の内外に築いた諜報組織は、帝国の安全を脅かす陰謀を未然に防ぐために時として粛清の刃を振るってきた。その組織はベラ=ラフマが引退後はラズワルドに引き継がれたのだが、人々はその前から、ベラ=ラフマが実行した粛清についても「第二皇妃が密かに誅殺した」と受け止めてしまうのだ。ベラ=ラフマが公的には近衛隊の平隊士に過ぎず、生涯無名のままだったのに対し、ラズワルドが第二皇妃として表舞台に立っており、また「白い悪魔」として悪名を轟かせていたためである。
 後世に至っては、聖槌軍戦争中の「死の谷」の一七万殺戮を頂点とする数々の陰謀の全てをラズワルドが一人で発案・指揮したように思い込むくらいになってしまっている。戦争中当時のラズワルドはまだ一三歳かそこらだ。普通に考えればまずあり得ない、馬鹿馬鹿しい話である。だがあいにくラズワルドは普通の子供ではない。

「白い悪魔」

 少女を知る誰もがその名前で少女を呼び、忌み怖れた。後世の人間はこの呼び名に込められた意味を彼女の成人後の姿から理解してしまうのだ――諜報組織を引き継いで数々の粛清を実行したその姿から。
 ラズワルドのその汚名が晴らされるのは二百年後、ベラ=ラフマの名が歴史から掘り出されるようになってからである。ベラ=ラフマから功績を奪う一方、ラズワルドに汚名を着せる結果となったことは竜也にとって生涯の痛恨事となった。が、当事者の二人は欠片も気にしていなかった。ラズワルドにとって意味があるのは竜也からの評価であり、他人の評価など一顧だに値しないのだから。
 ファイルーズが表から竜也を支えたとするなら、ラズワルドは裏から竜也を守っていたと言えるだろう。ラズワルドは恩寵を失うことを怖れ、生涯子供を産まなかった。
 一方ミカ・カフラ・サフィール・ディアはそれぞれ竜也と大勢の子を成し、自分の家を継がせた。サフィールやディアは竜也との子を部族の族長に就けている。だがこの四人の直系に皇帝位が継承されることはただの一度もなかった。
 竜也が樹立したクロイ朝は順調に発展し、二百年後・一〇代目皇帝テンニーンの時代に最盛期を迎える。帝国がヌビア大陸全土を制覇するのも、ヘラクレス地峡に運河を開通させるのもこの時期である。が、それに伴う過大な負担に帝国市民は苦しみ、テンニーンの死後にそれが爆発。帝位継承問題も絡んで帝国は分裂の危機を迎えることとなる。
 激しい内乱でテンニーンの息子達が軒並み全滅してしまったため、元老院は次期皇帝をセルケト王家から迎え入れることで帝位継承問題を解決、どうにか内戦を終結させる。クロイ朝は一〇代で断絶するが帝位はセルケト朝に引き継がれ、ここにクロイ=セルケト朝が成立。皇帝親政が基本だったクロイ朝とは違い、クロイ=セルケト朝の皇帝は政治の一線から身を退いて帝国統合の象徴としての役割に徹した。その後も何度も帝国は危機を迎えるが、皇帝の地位が脅かされるような事態はほとんど発生しなくなる。
 ファイルーズの願い通り、竜也の血はセルケトの血と一つになり未来永劫受け継がれていくのである。







 そして月は変わり、年も新しくなって海暦三〇一八年ニサヌの月(第一月)・一日。
 四年半前、一人の少年が文字通り裸一貫でこの世界に漂着し、奴隷に身を落とされた。奴隷船から逃亡し、一人の少女と出会って市民の身分を獲得し、様々な人間に助けられ、百万の敵と戦い――そして今日、世界最大の帝国を築いてその皇帝に登極しようとしている。
 帝都サフィナ=クロイの一角、太陽神殿の大広場には数千の人間が集まっていた。最前列には元老院議員、帝国全土から集まった自治都市代表、各地の商会連盟代表、恩寵の部族の族長達、旧ケムトの貴族達。
 国外からは、エジオン=ゲベル王国やスアン王国等、アシューの国々の特使。メリタ島から男爵ヴァレット、トリナクリア島からアニード。エレブからも、ヘラス等の商会連盟代表がやってきている。
 招待客と共に並ぶのは帝国府の要人達である。アミール・ダール、マグド、ガイル=ラベクを始めとする将軍・提督達、アアドルやバリアを始めとする閣僚・帝国府官僚達が並んでいる。その中央にはラズワルド、ミカ、カフラ、サフィール、ディアの皇妃五人の姿があった。
 それら招待客・要人・皇妃を護衛するのは、まずバルゼル達の近衛隊だ。黒い陣羽織をまとった牙犬族と銀狼族の隊士が各所に配置されている。それをサドマとダーラクの騎兵隊が補助した。近衛隊・騎兵隊を始めとして各方面軍の最精鋭数千が護衛として式典に加わることが許されている。広場に入れなかった数万の市民や兵士が会場の外に集まり、皇帝の姿を一目見ようと首を伸ばしていた。
 バルゼル達は竜也に下賜された牙犬族の旗を誇らしげに掲げている。サドマは金獅子族の旗を、ダーラクは赤虎族の旗を。他の恩寵の部族や各自治都市も同様に自分達の旗を掲げている。軍が高々と掲げているのはヌビア帝国の七輪旗だ。そして一同の正面には土を盛って造られた祭壇があり、壇上にはクロイ朝の旗が掲げられていた。その旗に描かれているのは七つの首がとぐろを巻いた、巨大な黒い竜の姿である。それらの旗が風を受け、勇壮に翻っていた。
 咳一つ聞かれない静寂の中、竜也が壇上の姿を現した。身を包んでいるのは黒を基調に金銀の飾りが各所に配された、皇帝としての正装である。黒い外套を靡かせて竜也が壇上を進み、中央で足を止める。そこにまず、ナウクラティスのアーキルが竜也の前へと進み出た。

「ケムト・東ヌビア・西ヌビア、四八の全ての自治都市の代表が署名を終えております」

 アーキルが竜也へと差し出したのは何十頁もの書状である。そこに記されているのはソロモン盟約の全条文と、盟約に参加するヌビア全土の自治都市の署名。竜也が差し出された最後の頁に署名をする。

「皇帝が市民と都市を守り、市民と都市が皇帝を支持する――契約はここに成立した」

 竜也の言葉にアーキルが退出し、続いてアミール・ダール、マグド、ガイル=ラベクが進み出た。

「我等が忠誠を皇帝陛下へ」

 アミール・ダール達が竜也の前で片膝を付いて頭を下げる。竜也は腰から剣を抜いて、

「あなた達の誰か一人でも欠けていたなら聖槌軍には決して勝てなかった。これからもよろしく頼む」

 その平で彼等の肩を軽く叩いていく。
 それを終えてアミール・ダール達三人が退席。最後に竜也の前に現れたのはファイルーズであり、手にしているのは王冠代わりの首飾りだ。黄金の鎖が環となり、掌ほどの大きさの円盤が下がっている。円盤もまた黄金製で、そこには七つの宝石が埋め込まれていた。円を描いて配置されている六つの輝きはターコイズ・瑠璃・雲母・琥珀・サファイア・ダイヤモンド、そしてその中央に位置する黒い光は黒曜石だ。黄金の輝きは太陽の光を、環の形は太陽の姿を象徴しており、円盤の宝石は一つにはヌビアの七輪旗を模していた。

「タツヤ様に太陽神の御加護を」

「これまでありがとう。これからもファイルーズの助けが必要だ」

 ファイルーズは小さく笑いながら「もちろんですわ」と答えた。そして、竜也がわずかに頭を下げ、ファイルーズが背伸びをして竜也に金環をかける。竜也が参列者へと向き直り、胸部の金環が太陽の光を受けて眩しく燦めく。参列者からは声にならない感嘆が漏れた。
 竜也が人差し指を立てた手を高々と掲げ、

「黒き竜(シャホル=ドラコス)!!」

「皇帝クロイ(インペラトル・クロイ)!!」

 それを受けて数千の兵が爆発的な歓呼を上げる。竜也が手を振ってその声に応え、兵達が一層喜びの声を上げた。会場には感動のあまり泣き崩れる兵も現れている。
 竜也の隣にはファイルーズが寄り添うように立っており、穏やかな微笑みを見せた。壇上の竜也とファイルーズの姿を目の当たりにし、ラズワルドは少し不満そうである。ミカは感慨深げであり、その瞳には涙が溜まっている。カフラは純粋に喜んでおり、華やかな笑顔を湛えていた。サフィールは滂沱のごとく涙を流し、拭おうともしていない。そしてディアは感心したような、ちょっと皮肉げな笑みを浮かべていた。

「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」

 「皇帝クロイ」の連呼は広場の外の市民や兵士にも広がり、数万の人間が一心となってその名を呼んでいる。一つに束ねられた数万の声は地の果てへも、天上の向こうへも届くかと思われた。いや、実際届いているのだ。「皇帝クロイ」、その名は大陸を超え、時代を超えて語り継がれる、永遠不滅の名となったのだから。







 ――二百年にわたって栄華と繁栄を極めるクロイ朝ヌビア帝国。黄金の時代が今まさに始まろうとしていた。









〈あとがき〉

 「黄金の帝国」はこれにて完結です。長らくのお付き合いありがとうございます。
 最後に、発表の場をご提供いただいた舞様に感謝いたします。



[19836] 番外篇「とある白兎族女官の回想」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19
Date: 2014/10/04 21:04

 ……まあまあ、遠方からはるばるようこそ。今日は天気が悪いですねぇ。さ、入ってください。今お茶を用意します。……いえいえ、遠慮なさらずに。
 ……ああ、それはよかったです。こんな年齢になりますと自分が飲むだけのお茶を入れるのも億劫になります。今日のお茶はここしばらくでは会心の出来でした。
 ……今日は天気が悪いですねぇ。でも、昔を思い出してしんみりするにはちょうどいいかも知れませんね。それで、どのようなお話をお聞きになりたいのでしょうか?
 ……まあまあ、お嬢様と皇帝陛下のことを。……わたしにとってのお嬢様とは言うまでもなく第二皇妃、ラズワルド様のことですよ。わたしより四歳下なだけのお婆ちゃんのはずなのに、あの方はいつまで経ってもお美しいです。あの方はわたしにとってはいつまでも「お嬢様」なのです。
 ……確かに、お嬢様の本当のことを知る者はとても少なくなりました。お嬢様自身は全く気にしていないとは言え、あの方がこの先もずっと誤解され、怖れられたままなのはわたしも心が痛みます。
 いいでしょう。私が知る限りのあの方のことをお話しいたしましょう。






「黄金の帝国」・番外篇
「とある白兎族女官の回想」






 白兎族の隠れ里はキルタ(元の世界のコンスタンティーヌ)の南の山奥にあります。小さな村で、村人全てが白兎族なので全員が顔見知りで家族のようなものです。わたしもそこの生まれですが、親の仕事の事情で里の外で暮らしており、里には年に数回戻るでした。このため村にいた頃のお嬢様とはほとんど会ったことがありません。ですが、お嬢様が村でどんな扱いを受けていたかは覚えがあります。
 お嬢様は三歳までは母親と二人暮らしでしたが、亡くなってしまった後は一人となりました。村の誰も引き取ろうとせず、お嬢様は母親が亡くなった後もその家に一人だけで暮らしていたのです。
族長のホズン様が哀れに思い自分の家に住まわせようとしたのですが、家族の者が反対してできなかったそうです。ホズン様が毎日のようにお嬢様の家に泊まり込んで面倒を見ておりました。
 六歳の頃、お嬢様はバール人商会に売られましたが、お嬢様がいなくなったときの村の様子にも覚えがあります。皆、息苦しさがなくなりすっきりした顔をしていました。「目障りな者がいなくなり、清々した」という感じではありません。「目の前から猛獣が連れ去られ、ようやく人心地ついた」。皆、そんな顔をしておりました。
 その後もお嬢様のことを気にかけていたのはホズン様一人くらいで、村の者は一人残らずお嬢様のことなど忘れてしまった、まるで最初からいなかったかのように振る舞っておりました。……ですが、子供心にもその様子は非常に不自然に思えたものです。

「そう言えば、あの子は今どうしているのだろうか」

 わたしがそれを口にすると、村の者はわたしにいろんな顔を、いろんな表情を見せました。わたしの問いを聞き流す者。白けたような顔をする者。気まずげな顔をする者。「何故そんなことを言うのか」と怒る者……。
 多分、村の者には後ろめたさがあったのだろうと思います。まるでのたれ死にを望むかのように幼いお嬢様を放置し続け、挙げ句にバール人に売り飛ばした。お嬢様にひどいことをしてきたという罪悪感の他に、お嬢様に復讐されるのではないかという恐怖もあったのではないでしょうか。普通に考えればお嬢様にそんな力があるはずもないのですが、そんな理屈を超えて「何があるか判らない」という恐怖を与える――お嬢様にはごく幼いうちからそれだけの存在感があったのだと思います。







 わたしが成長したお嬢様と再会したのは海暦三〇一六年の初めの頃です。
 その前年には聖槌軍がヘラクレス地峡を突破してヌビアに侵攻しています。戦争の影響は隠れ里にも及んでおりました。族長の補佐をしていたベラ=ラフマ様は早くから皇帝の命を受け、村の若者をエレブに送り込んで情報収集に当たらせておりました。白兎族は金獅子族や赤虎族とは全く違う形でしたが戦いの最前線に立っていたのです。
 そんな中、わたしや村の若い娘がベラ=ラフマ様の元に集められました。人数は十五人です。

「村の中で、恩寵が強く、若く美しく賢い娘に集まってもらった」

 ベラ=ラフマ様はそんなことを言いました。あの無愛想なベラ=ラフマ様でも、そんな風に言っていただれけば結構嬉しかったです。

「お前達には独裁官クロイの元で女官をしてもらう。お前達の恩寵を最大限使い、独裁官を守るのがその役目だ」

 最初は戸惑いましたが、次いで嬉しさがこみ上げました。その当時わたし達は、

「独裁官というのは王様みたいに偉い人だ」

 と大ざっぱに理解していました。戦火が迫って窮乏する村を出、都会での王様の元で華やかな女官生活! それを喜ばない村娘がいるでしょうか? ですが、

「なお、お前達は全員ラズワルドの部下となりその命令を受けることとなる」

 その言葉にわたし以外の全員が天国から地の底に突き落とされたような顔をしていました。

「自分達はお嬢様に恨まれている。どんな仕返しをされるか」

 と皆怖れていたのです。ですが、女官生活の魅力には抗えませんでした。この命令を拒否する者は一人もおらず、わたし達は揃ってお嬢様の元に向かったのです。







 ……お嬢様と初めてお会いした時のことは今でもはっきりと思い出せます。本当は再会なのですが、売られる前はほとんど顔を合わせることがなかったのでこのときが初顔合わせのようなものです。わたし達はサフィナ=クロイのゲフェンの丘でお嬢様のお目にかかりました。

「こんなに美しく、可愛らしい娘がこの世にいるのか」

 と驚いたものです。わたし達はお嬢様の前に整列していましたが、棒立ちになったわたしの他は、皆お嬢様の目に留まらないようこそこそしていたようです。お嬢様はそんなわたし達をつまらなそうに一瞥しました。
 ――お嬢様がどういう感情を持っているか、非常に判りやすかったです。敵意や悪意、恨みといった感情は感じられませんでした。「役に立つか立たないか」、ただそれだけをわたし達に求めているようでした。他の娘達もそれを読み取り、落ち着くようになったのです。

「顔見せをするから堂々としていて。うろたえたりしないように」

 わたし達はお嬢様に引き連れられ、ファイルーズ様やその女官達との対面に向かいました。
 ケムトという本物の王様の元で女官をしていたあの方達からすれば、わたし達白兎族なんか田舎くさい村娘でしかない……わたしはそんな風に思ってかなり気後れしていたのですが、そんなわたしの手をお嬢様の手が握りました。
 その途端、遠くにいる、ようやく姿が見えてきたところのケムトの女官達の心がわたしの中に流れ込んできたのです。あの方達はわたし達のことを「不気味な恩寵を持つ、薄気味悪い連中」と思っていましたが、田舎娘という軽侮は感じられませんでした。

(立っているだけでいい、弱みを見せずに堂々としていて。他の皆にも伝えて)

 そしてお嬢様の声が心の中に流れ込んでくるのです。――そのときのわたしの衝撃を、一体どうすれば伝えられるのでしょう? わたしは一族の中でもかなり強い恩寵を持っておりました。わたしより強い恩寵を持つ者は、お嬢様やホズン様を含めても一〇人に届きません。そのわたしでも、あれほど離れた場所の他者の心をあれほどはっきりと感じ取るなんて不可能です。しかもお嬢様は相手の心を「感じ取っていた」んじゃない、「読み取っていた」んです。
 わたしや一族の他の者がしているのは、相手の感情、快不快、喜怒哀楽を色や温度のように感じ取ることです。「何を考えているか」までは読み取れず、それは感情の動きから推測するしかないのです。それでも修行を積めば高い精度で相手の思考を推測できるようになりますが……お嬢様は修行をするまでもなく、相手の思考をまるで耳で聞くかのように読み取っていくのです。
 挙げ句に手をつなぐだけで心を伝えるなんて……そんな恩寵がこの世にあること自体をあのとき初めて知りました。お嬢様の恩寵はわたし達のそれとは全く別の、他の何かだとしか考えられません。言葉は悪いですが確かに「悪魔」「化け物」としか言いようがありませんでした。
 そしてわたし達はファイルーズ様とその女官達と対面しました。お嬢様がその恩寵を使ってファイルーズ様の女官の落ち度を暴き出し、わたし達は皇帝陛下が――そのときは独裁官でしたが――当時公邸に使っていた船に居座ることが認められるのです。
 翌日、わたし達は皇帝陛下とお会いします。皇帝陛下はお嬢様を本当に可愛がっておいでで、お嬢様も陛下の前では普通の子供のようでした。皇帝陛下の裁定で白兎族の女官は減らされそうになりますが、結局公邸には交代で泊まり込むことにして、わたし達の中から村に戻される者がないようにしたのです。
 ……わたしがお嬢様に対して変な遠慮を持っていなかったこと、恩寵の強さと物怖じしない性格が買われ、一番年下のわたしが女官の責任者みたいな立場に任命されました。わたしは張り切ってお嬢様のために仕えます。ファイルーズ様の女官とやり合ったときにはヤラハ様と共に先頭を切って敵陣に斬り込んだものです。わたし達にとって「アブの月の戦い」と言えば、二回目のナハル川渡河作戦の迎撃戦のことではなく、あの夜の船での馬鹿騒ぎのことです。







 ……お嬢様は早くからベラ=ラフマ様のお仕事を手伝っておりました。ベラ=ラフマ様が主に聖槌軍への諜報を担っていたのに対し、お嬢様は総司令部内に監視の目を張り巡らせておりました。ですが戦争の末期にはお嬢様は勝利に欠かせない役割を果たすことになります。アンリ=ボケの心を読み取り、タンクレードの心を読み取り、聖槌軍の内情を余さず暴き出す。そんなことが可能なのはお嬢様一人だけでしょう。
 わたしもお嬢様の右腕となり、そのお仕事に加わるようになります。とは言っても最初のうちはただの雑用係でしたが、そのうちにお仕事も増えていくのです。お嬢様の成長と共にお仕事の内容もより複雑に、高度になっていきます。単に圧倒的な恩寵を使って心を読み取れば済む話ではなく、部下をどう動かすか、誰に何を探らせるか、矛盾する複数の情報からどう真実を見出すか、そんなことを覚える必要が出てきます。
 お嬢様とわたしは四苦八苦しながら必死にそれらを覚え、先々には引退したベラ=ラフマ様から仕事と組織の全てを受け継ぐのです。
 ……話が少し飛びましたね。お仕事のお話ではなく普段のことをお話ししまょうか。
 皇帝陛下にはお嬢様の他に五人の皇妃の方々がおられましたが、お嬢様はその皆様と仲良くしておられました。お嬢様が他の皇妃の方々を邪魔に思い、密かに抹殺しようとするような企てはあり得ません。下衆の勘繰りというものです。
 ……確かにお嬢様には情の薄いところがあり、ファイルーズ様や他の皇妃の方々に何かあったとしても大して悲しんだりはしなかったでしょう。ですが、皇帝陛下を悲しませることだけは絶対にするわけがありません。皇帝陛下は皇妃の方々に甘いように見えて――実際かなり甘かったのですが――決して譲らない一線を持っておられました。お嬢様が他の皇妃を傷付ける、ましてや害する等という行為を、皇帝陛下が許すわけがありません。陛下のそんなところを誰よりも理解していたのはお嬢様なのです。そのお嬢様が他の皇妃を害そうとするなど、どうしてあり得ましょうか?
 ……確かに皇妃の中でお嬢様だけが陛下の御子を得ませんでした。ですがそれは恩寵を失うことを怖れたお嬢様がそう選択されたのです。お嬢様は子供を介して皇帝陛下とつながりを保つことより、恩寵で直接心をつながることを優先させたのです。
 わたしも何度かお嬢様に訊ねたことがあります、「陛下の御子は作らないのか?」と。

「――タツヤはわたしに子供がいようといまいと気にしない」

 それがお嬢様の答えでした。……皇帝陛下も変わったお方だ、としか言いようがありません。

「帝位を受け継ぐ者が誰にもできなかったとしても、市民に迷惑がかからなければそれでいい」

 そう言っているのを私も聞いたことがあります。あの方は「クロイ朝が一代で断絶しても別に構わない」と本気で言っていたのです。お嬢様もそんな皇帝陛下にかなり感化されていて、ご自分の異常なまでに恵まれた恩寵を次へと受け継がせることを最初から考えてもいなかったようです。
 逆に言えば、皇帝陛下がもし跡継ぎを最重視する方でしたらお嬢様は何人でも子供を産もうとしたでしょう。また、ファイルーズ様の御子を密かに排除しようとすらしていたかもしれません。もしそうなっていたら、クロイ朝の後宮はどれだけ陰惨なことになっていたでしょう……。お嬢様とファイルーズ様が軍を率いて争い、悲惨な内乱が起こっていたかもしれません。
 そう言えば、こんなことがありました。あれは戦争が終わって十年くらい経った頃でしょうか。思えばあの頃が一番充実していたように思います。
 皇帝陛下は皇妃の方々に一人ずつ男子を産ませており、その御子達が皆八歳くらい。いたずら盛りで公邸はいつも賑やかでした。ファイルーズ様が女の御子を産み、その子が二歳くらいでしたか。皇帝陛下はその御子、ルール様を特に可愛がっておいででした。男親にとって娘というのは特に可愛いようです。
 皇帝陛下の膝の上がルール様の指定席でしたが、お嬢様はそんなルール様をいつもきつい目で睨んでおりました。身近な大人にあれだけ敵意を剥き出しにされたら普通の子供なら怖がるはずですが……さすが「あの」皇帝陛下と「あの」ファイルーズ様の娘と言うべきでしょうか。ルール様はお嬢様の敵意をいつも鼻で笑っていなしておりました。
 ルール様が何かで皇帝陛下のお膝から離れ、少しして戻ってきた時にはその場所にはお嬢様が座っておりました。お嬢様はいつもルール様にされているように、優越の笑みを見せながら陛下に抱きつくのです。ルール様は笑い顔のままお嬢様と対峙し、そのまま両者は長い時間睨み合っておりました。皇帝陛下は、

「ルールの後ろに太陽神ラーが、ラズワルドの後ろにでっかい白い兎が立っていたように見えた」

 などと語っておられましたが……。わたしとしては、二十歳をとうに過ぎたお嬢様が二歳の幼子と本気で張り合う姿は見ていてかなり恥ずかしかったです。
 お嬢様にとっては二歳の幼子であろうと陛下の寵愛を奪い合う競争相手。そしてそれは、たとえ自分の子供であろうと変わりはなかったことでしょう。それがお嬢様が御子を作らなかったもう一つの理由だと思います。







 あの頃のお嬢様は二〇代の半ばでしたが、見た目はまだ十代にしか見えませんでした。あの頃のお嬢様の美しさときたらそれはもう……! この世の者とは思えないくらいです。宮廷画家のアーテファさんがお嬢様の肖像画を描こうとして、

「自分の才能のなさ加減に絶望した」

 とそのまま引退してしまったという噂はご承知でしょう? あれは本当のことです。ですのであの当時のお嬢様の肖像画はどこにも残っておらず、そもそも描かれてもいないのです。アーテファさんがもう少し頑張って描いてくれればよかったのですが……。
 帝国府の若手官僚達も、たまに見かけるお嬢様の姿にいつもため息をついておりました。もっとも、同じくらい怖れられていましたので遠くから眺めるのが精一杯だったようですが。他にお嬢様の周囲におられた身近な男と言えば、皇子の皆様です。長男のリュータロー様が九歳、五男のアキラ様が七歳くらいですか。皇子の皆様もお嬢様に憧れておりました。五人ともおそらく初恋の相手はお嬢様だったはずです。憧れと同じくらい怖がられていたのは官僚達と同じですが。
 それからもう何年か経って、ルール様が六歳くらいになられた頃でしょうか。クロイ朝はリュータロー様が継ぎ、ルール様には旧ケムト貴族の中から最適の者を婿にあてがった上でセルケト朝を継がせることは、お二人が生まれる前から決められていたことでした。ですが皇帝陛下は愚痴を言うようになったのです。

「ルールを嫁にやるなんて、しかも片道一ヶ月もかかるような遠くに……」

 しまいには「ルールは嫁にやらん、ずっとこの町にいればいい」と半ば冗談で言うようになったのです。それを聞いたお嬢様は、

「あの小娘にセルケト朝を継がせる必要があるのは、タツヤにも理屈では充分判っている。ただ感情が納得していないだけ。だから竜也が納得してあの小娘をメン=ネフェルに送り出せるようにすればいい」

 ルール様がセルケト朝を継ぐためにメン=ネフェルに行けばお嬢様が皇帝陛下を独占できるわけで、そのための方法を考えたのです。

「それで、どうやって納得していただくのですか?」

「代わりをあてがえばいい」

 そう言ってお嬢様は、六歳のルール様と同じ格好をして皇帝陛下の元に向かわれ……しばらくして落ち込んだ様子で戻ってきました。

「……本気でドン引きされた」

 それはそうでしょう、と言わざるを得ません。

「髪が短いからツインテールにはちょっと無理があった」

 いえ、そういう問題じゃないと思います。
 しばらく一人で反省会を開いていたお嬢様はやがて、

「……この方向は間違っていたかもしれない」

 もっと早くそれに気付いてください。……まあ、それを理解してくれたのは幸いでしたが。
 その後、お嬢様はケムトに張り巡らせた諜報網を使って、ルール様の婿候補となる方々の情報収集に専念します。そしてその中から皇帝陛下が一番納得しそうな候補をサフィナ=クロイに呼び寄せ、陛下の下に置いて仕事をさせました。それによって皇帝陛下もその方・アイ様をルール様の婿に迎えることに納得するようになったのです。
 アイ様とルール様が非常に仲の良い夫婦となったのはご承知でしょう? それはお嬢様が目障りなルール様を排除しようとしたことの結果なのです。ルール様が陛下の元から離れても幸福になれる、それを実現することがルール様を排除する最善の方法だったのですから。
 それから一、二年経った頃でしたか。皇帝陛下が皇子の皆様を連れて西ヌビアに視察に向かわれたことがありました。皇妃の皆様や八歳の頃のルール様、わたし達女官はサフィナ=クロイで留守番です。半月後には皇帝陛下が戻ってこられると連絡を受けたわたし達はお出迎えの準備を始めたのですが、ルール様が突然言われたのです。

「とびっきりのご馳走を作って、お部屋をお飾りして、お父様をお迎えする」

 と。ルール様はファイルーズ様の女官に料理を習って手ずから皇帝陛下をお迎えする準備を始めようとしていました。
 ……これにお嬢様が余計な対抗心を燃やしまして。

「わたしも料理を作ってタツヤを歓待する」

 と言われたのです。戦争中は皇帝陛下のために料理を作られることもたまにあったようですが、自分で料理をされるのは多分十数年ぶりだったことでしょう。お嬢様は勘を取り戻すために料理の練習に専念していました。
 ……まあ、わたしも余計なことをしたと言えなくもないのですが。いつかのようにファイルーズ様のところの女官がお嬢様の邪魔をしないよう女官の人数を増やして警備を強化することにしたのです。銀狼族からは何人もの女戦士に来ていただきました。ですが、ファイルーズ様のところのハディージャさんも同じようなことを考えていたようでして。公邸は武装した女戦士でいっぱいになりました。彼女達は二派に別れて睨み合います。
 公邸がそんな不穏な状態になっていることはすぐに軍に知られました。西ヌビア方面軍がミカ様の助力のために、中央ヌビア艦隊がカフラマーン様の助力のために集まってきます。いつの間にかサフィナ=クロイで帝国軍が二派に分裂して対峙している状態となってしまったのです。
 この有様を知ったお嬢様は顔色を悪くし、

「まずい、タツヤに怒られる」

 と事態の収拾に動きました。お嬢様は白兎族の女官の一人と、その家族を拘束したのです。

「こんなこともあろうかと思って泳がせておいた」

 その女官自身には落ち度はなかったのですが、その家族の弱みを握っている旧ケムト貴族がおり、いざという時には脅迫により皇妃の誰かを毒殺するつもりでいたようです。お嬢様はその毒殺計画が実行直前だったかのように装いました。実際毒はすでに用意されていたのですから決してでっち上げではありません。
 白兎族・旧ケムト、それぞれに落ち度があったことにしてファイルーズ様とは痛み分けとしました。「陰謀は解決した」と内外に示し、女戦士達も軍も元の配置に戻します。このようにして陛下が戻ってくる前に何とか事態を収拾させたのです。
 ただ、お嬢様やわたし達が事態の収拾に手一杯だったため皇帝陛下の歓待は何も用意できませんでした。ルール様が陛下に手料理を食べていただき、褒めていただくところを、お嬢様は歯噛みしながら見つめるしかなかったのです。……その後お嬢様は旧ケムト貴族に対して追求と粛清を実行。それが苛烈を極めていたのはかなりの部分八つ当たりが含まれていたかもしれません。






 ……ベラ=ラフマ様から引き継いだ諜報組織を維持し、発展させることにお嬢様とわたしは心を砕きました。ルール様のメン=ネフェル輿入れの際にはわたし達の手の者を大勢メン=ネフェルの王宮送り込んだのですが……いつの間にか、ケムトに張り巡られた組織を統轄するのはルール様の役目となっていたのです。気が付いたらそうなっていた、としか言いようがありません。実際ルール様の人使いの上手さはわたし達には真似できません。恩寵に頼りがちなわたし達より、ルール様の方がこの分野ではずっと才能があったようです。
 本当に、もしルール様が男で帝位を継がれていたらどんなことになっていたか、想像するのも恐ろしいくらいです。
 お嬢様はファイルーズ様やルール様をお嫌いだったのは周知の事実ですが、だからと言ってあの方々の力量を認めなかったわけではありません。むしろ誰よりも高く評価していたと言えるでしょう。ファイルーズ様から見たお嬢様も似たようなものだったかと思います。常人には理解しがたい、あるいは友情に近い思いがお嬢様とファイルーズ様達の間にはあったのかも知れません。
 その関係は今でも続いています。そしていつまでも続くことでしょう。こうしていると容易に思い浮かべられます。いつもの無愛想なお嬢様と、いつもの微笑み顔のファイルーズ様が向かい合ってお茶を飲んでいる姿が――。





[19836] 人名・地名・用語一覧
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b
Date: 2014/05/01 20:58
●人名一覧




☆主人公とヒロイン

・クロイ・タツヤ  黒井竜也。本編主人公。一七歳(物語開始時点)。
・ラズワルド    白兎族。竜也より七歳年下。
・ファイルーズ   メン=ネフェル出身。ケムトの第一王女。竜也より一歳年上。
・ミカ       エジオン=ゲベル出身。エジオン=ゲベル王族。アミール・ダールの末娘。竜也より二歳年下。
・カフラマーン   スキラ市民・バール人。通称カフラ。ナーフィア商会令嬢(ミルヤムの末娘)。竜也と同い年。
・サフィール    牙犬族。竜也より一歳年下。
・ディアナ・ディアマント 銀狼族族長。通称ディア。竜也より四歳年下。




☆恩寵の部族

・ガイル=ラベク    青鯱族。海上傭兵団「髑髏船団」首領。
・ハーキム       ルサディル市民・鹿角族。
・ヤスミン       ルサディル市民・雪豹族。「ヤスミン一座」座長にして看板女優。
・アラッド・ジューベイ 牙犬族族長。
・ラサース       牙犬族。サフィールの父親。
・バルゼル       牙犬族の剣士。竜也の護衛。当代最強の剣士。
・ツァイド       牙犬族の剣士。竜也の護衛。
・ベラ=ラフマ     白兎族。ラズワルドの伯父。
・ホズン        白兎族族長。
・インフィガル・アリー 金獅子族族長。
・セアラー・ナメル   赤虎族族長。
・サドマ        金獅子族の戦士。殿軍部隊の指揮官。
・ダーラク       赤虎族の戦士。遊撃部隊の指揮官。
・ヴォルフガング    銀狼族。ディアの補佐役。
・アドルフ       先代の銀狼族族長。ディアの父親。
・ミハイル       灰熊族族長。
・サイカ        赤虎族の皇妃候補。ダーラクの長女。
・シャラール      金獅子族の皇妃候補。サドマの義妹。



☆バール人

・アニード         ルサディル市民。アニード商会を経営するタムリット有数の豪商。
・ムハンマド・ルワータ   バール系。著名な冒険家。
・ミルヤム・ナーフィア   スキラ市民。エレブ有数の豪商ナーフィア商会当主。カフラの母親。
・ジャリール        スキラ市民。ジャリール商会当主。
・イフラース        スキラ市民。ジャリールの息子。
・ハマーカ         バール人商会。ガリーブのスポンサー。
・ハーゲス         レプティス=マグナのバール人商会。先物取引を主導。
・インケファード      カフラの父親。
・ワーリス         スファチェ市民。ワーリス商会当主。ガフサ鉱山の所有者。
・ギーラ          バール系。オエア市民。竜也の政敵。
・ラティーフ        スキラ市民。スキラ長老会議の一員。聖槌軍対策会議の議長。
・ムタハウィル       イコシウム市民。イコシウム籠城戦で指揮官となる。




☆アシュー人

・マグド       アシュケロン出身の元軍人・解放奴隷。
・アミール・ダール  エジオン=ゲベル国王の弟。高名な将軍。
・ムンタキム     エジオン=ゲベル王国国王。
・マアディーム    アミール・ダールの長男。
・シャブタイ     アミール・ダールの次男。
・ノガ        アミール・ダールの三男。
・ツェデク      アミール・ダールの四男。
・コハブ=ハマー   アミール・ダールの五男。
・ヤラハ       アミール・ダールの長女。
・アナヴァー     エジオン=ゲベル貴族。エジオン=ゲベル王の特使。
・ガアヴァー     アナヴァーの息子。ノガの参謀役。
・アッワル      エジオン=ゲベル王国将軍。
・カイユーム     エジオン=ゲベル王国宰相。




☆ケムト人

・プタハヘテプ  ケムト王国宰相。聖槌軍に対する宥和策を主導。
・ホルエムヘブ  ケムトの特使。聖槌軍との交渉の全権を有する。
・イムホテプ   ホルエムヘブの部下。聖槌軍との交渉の実務を担う。
・ハディージャ  ファイルーズの女官。
・センムト    ケムト艦隊司令官。
・ムァミーン   聖モーゼ教会大司教。
・シェションク  ケムト王国軍人、騎兵隊隊長。
・アーキル    ケムト王国貴族、ナウクラティスを統治する。
・メンマアトラー ケムト王国国王。ファイルーズの父親。




☆エレブ人

・インノケンティウス 聖杖教教皇。ネゲヴに対する聖戦を発動する。
・ピエール      教皇インノケンティウスの本名。
・アンリ・ボケ    聖杖教枢機卿。聖槌軍を主導する。
・ユーグ       フランク王国王弟、ヴェルマンドワ伯。聖槌軍総司令官。
・アンリ       フランク王国の前国王。ユーグの父。
・フィリップ     フランク王国の国王。ユーグの兄。
・タンクレード    フランク王国将軍、ユーグの部下。ユーグにとっての懐刀。
・トルケマダ     異端審問官。一応はアンリ・ボケの部下。
・ニコラ・レミ    聖杖教枢機卿。アンリ・ボケとともにインノケンティウスの偉業に貢献する。
・ピエルレオニ    聖杖教枢機卿。ピエールの政敵。
・アデライード    ヴェルマンドワ伯令嬢。ユーグの妻。
・フリードリッヒ   ディウティスク王国国王。
・ゴンザレス     イベルス王国騎士。
・サンチョ      イベルス王国将軍。
・ヨアキム      アンリ・ボケ付の書記官。
・サルロン      タンクレード軍幹部。
・マンフレーディ   トリナクリア島シラコ伯。
・ベルナルド     ケムト遠征軍エレブ人部隊隊長。貧乏貴族出身。
・ガルシア      ケムト遠征軍エレブ人部隊隊長。傭兵出身。
・ヴァレット     メリタ島領主・男爵。




☆歴史上の人名

・レミュエル  四百年前にアシューに漂着したマゴル。火薬・銃器・活版印刷等をこの世界に伝え、「西の大陸」を発見する。「冒険者レミュエル」と呼ばれる。
・グルゴレット 三百年前に海賊・義賊・傭兵・商人として活躍し、数々の伝説を残す。「海賊王グルゴレット」と呼ばれる。
・ケシェット  グルゴレットの好敵手として有名な弓の名手。
・シノン    三百年前にネゲヴに漂着したマゴル。牙犬族に「イットーリュー」と呼ばれる剣術を伝授する。「剣祖シノン」と呼ばれる。
・セルケト   四千年前に即位した初代ケムト王。セルケト王朝開祖。




☆歴史上の人名(聖杖教関係)

・フランシス  七百年前にエレブに漂着したマゴル。エレブにキリスト教を布教するが刑死。「預言者フランシス」と呼ばれる。
・バルテルミ  フランシスの弟子の一人。フランシス刑死後、教団再建の中心となる。聖杖教の実質的な創始者。
・モーゼ    聖杖教の伝説上の創始者。「契約者モーゼ」と呼ばれる。
・ヨシュア   聖杖教の預言者の一人。イエス・キリストに相当。




☆その他の人名

・リヴネー ルサディル市民。アニード邸の使用人。ラズワルドからは「ばあや」と呼ばれる。
・リモン  ルサディル市民。アニード邸のメイド。
・ギボール ヤスミン一座の座員。
・ログズ  スキラ市民。新聞社「スキラの夜明け」を主催する。
・マラル  スキラ市民。「マラルの珈琲店」経営者。竜也達の大家。
・ガリーブ アラエ=フィレノールム出身。建築家・船の設計者として有名。「沈没王」の異名を持つ。
・ザキィ  スキラ出身。ガリーブの弟子。
・サイード ルサディル市民。長老会議の一員。
・キヤーナ キヤーナ傭兵団団長。ギーラの腹心。
・ジェルフ ヤスミン一座の一員。マグドを演じた役者。




☆総司令部官僚

・バリア   アシュー出身? 都市整備を担当。
・アアドル  バール人。財務関係を担当。
・ジルジス  レプティス=マグナ市民。事務関係を担当。
・ディカオン ナハル川方面軍第九軍団軍団長。
・タフジール ナハル川方面軍第十軍団軍団長。






●地名一覧





☆ネゲヴの地名



(国名・地域名)

・ネゲヴ   元の世界の北アフリカ全域に相当(「ネゲヴ」は「南」を意味する普通名詞)。
・西ネゲヴ  ネゲヴのうちナハル川より西の一帯。
・東ネゲヴ  ネゲヴのうちナハル川より東の一帯。通常ケムトは東ネゲヴに含めない。
・ケムト   元の世界のエジプト一帯。
・ヌビア   ネゲヴを指す雅語。「黄金」を意味する古ケムト語に由来。




(自然地名等)

・アーシラト    ネゲヴの沿岸部以外を覆い尽くす大樹海。
・ヘラクレス地峡  元の世界のジブラルタル海峡に相当する場所。
・スアン海峡    元の世界のスエズ地峡に相当する場所。
・アドラル山脈   元の世界のアトラス山脈に相当。
・ソウラ川     西ネゲヴの大河の一つ。河口にはルサディルの町が存在する。
・サイダ川     西ネゲヴの大河の一つ。河口にはレス=アンダールセスの町が存在する。
・ナハル川     ネゲヴの中央を流れる大河。河口にはスキラの町が存在する。ネゲヴで2番目の大河と言われている。
・ザウグ島・ザウガ島 ナハル川に浮かぶ二つの小島。北岸に近いのがザウグ島、南岸に近いのがザウガ島。
・チベスチ川    東ネゲヴの大河の一つ。元の世界で言うならリビアを縦断して流れている。
・ナガル川     元の世界のナイル川に相当。ネゲヴ最大の大河と言われている。
・スキラ湖     元の世界のチュニジアのジェリド湖・ガルサ湖・メルリール湖を一つにつなげた湖。ネゲヴ最大級の淡水湖。
・北の谷      スファチェの北にある渓谷。
・トズル      スキラの西、スキラ湖の北側湖岸。対岸まで渡るのが容易な場所で、防衛上の重要地点。
・ゲフェンの丘   総司令部が設置された、ナハル川南岸の丘。「ゲフェン」は葡萄を意味。




(西ネゲヴの都市名 西→東の順に記載)

・リクスス     ヘラクレス地峡の向こう側の町
・ルサディル    ヘラクレス地峡に程近い場所に位置する町。
・ラクグーン    
・メルサ=メダク  
・レス=アンダールセス
・グヌグ      
・ティパサ     
・イコシウム    元の世界のアルジェに相当。
・サルダエ
・イギルギリ    
・シジュリ     
・キルタ      元の世界のアルジェリア・コンスタンティーヌに相当。
・ウティカ     
・カルト=ハダシュト 元の世界のチュニス付近。
・ハドゥルメトゥム 元の世界のスースに相当。
・スファチェ    元の世界のスファックスに相当。
・スキラ      ネゲヴの中央に位置する、ネゲヴで最も大きな町の一つ。




(東ネゲヴの都市名 西→東の順に記載)

・サフィナ=クロイ  ナハル川南岸に新たに建設された都市。「クロイの船」の意味。
・ガベス       
・サブラタ      
・オエア       元の世界のトリポリに相当。
・レプティス=マグナ 
・アラエ=フィレノールム 
・エウヘウペリデス  
・キュレネ      
・アポロニア     
・プラタイア     
・ロカシス      元の世界のエル=アラメインに相当。



(ケムトの都市名 西→東・北→南の順に記載)

・ジェフウト     
・イムティ=バホ   
・ナウクラティス   
・ニイト=ミフト   
・ケント=イヤブ   
・ダフネ       元の世界のポートサイド付近。地中海とスアン海峡の双方に面する。
・テル=エル=レタベ スアン海峡に面する都市。
・アンジェティ    
・ハカー=アンク   元の世界のカイロに相当。ケムト王国の実質的な首都。
・メン=ネフェル   元の世界のメンフィス付近に位置。ケムト王国の王都。
・クムヌ       
・ウアセト      
・スウェネト     




☆アシューの地名


・アシュー       元の世界のアジア(アナトリア半島・シリア=パレスチナ・シナイ半島から東)全域に相当。
・エラト湾       元の世界のアカバ湾に相当。
・エジオン=ゲベル王国 エラト湾一体を領土とする王国。アシューの中では比較的有力な国家。
・ベレニケ       エジオン=ゲベル王都。
・カナン        元の世界のシリア=パレスチナ一帯に相当する地名。
・メルカルト      バール人の伝説上の発祥地。今日では所在不明となっている。
・ウガリット      バール人海洋交易・軍事同盟の中心地だった港町。
・グブラ        バール人海洋交易・軍事同盟の中心地だった港町。
・シドン        バール人海洋交易・軍事同盟の中心地だった港町。
・ツィロ        バール人海洋交易・軍事同盟の中心地だった港町。
・アシュケロン     カナンの王国の一つ。
・アナトリコン     元の世界のアナトリア半島に相当。
・ミディアン半島    元の世界のアラビア半島に相当。
・テダン        ミディアン半島内の町。
・バラタ        元の世界のインドに相当。
・シン半島       元の世界のシナイ半島に相当。
・カデシ        シン半島東部の地名。




☆エレブの地名


・エレブ     元の世界のヨーロッパ全域に相当。
・ヘラス     元の世界のギリシアに相当。
・レモリア    元の世界のイタリアに相当。
・ディウティスク 元の世界のドイツ・オーストリアに相当。
・フランク    元の世界のフランスに相当。
・ブリトン    元の世界のイギリスに相当。
・イベルス    元の世界のスペイン・ポルトガルに相当。
・マラカ     ヘラクレス地峡の東に位置するエレブの港町。
・ゲラ      バール人海洋交易・軍事同盟の中心地だった港町。
・テ=デウム   教皇庁のある、十字教の聖地・根拠地。元の世界のフランス・リヨン付近。
・ルテティア   フランク王国王都。元の世界のパリに相当。
・トリナクリア島 元の世界のシチリア島に相当。
・セリヌス    トリナクリア島の港町。
・マッサリア   元の世界のマルセイユに相当。
・ゲナ      元の世界のジェノバに相当。
・ブルティガラ  元の世界のフランス・ボルドーに相当。
・シラコ     トリナクリア島の町の一つ。元の世界のシラクサに相当。
・タプソス    トリナクリア島の町の一つ。
・アクライ    トリナクリア島の町の一つ。
・メリタ島    元の世界のマルタ島に相当。
・アズル海    元の世界のアドリア海に相当。
・テルジエステ  元の世界のトリエステに相当。





●用語一覧





☆この世界の単位


距離の単位

・1スタディア=約180m(単数・複数の区別がないのはこの世界独自の言語変化に因る)
・1パッスス=約1.48m


通貨の単位

・336レプタ=1ドラクマ
・1ドラクマ=労働者一人が一日働いて得られる賃金
・6,000ドラクマ=1タラント
・1タラント=小型商船一隻の相場




☆この世界の暦


・春分が1年の始まり

ニサヌの月  -第一月
ジブの月   -第二月
シマヌの月  -第三月
ダムジの月  -第四月
アブの月   -第五月
エルルの月  -第六月
タシュリツの月-第七月
アルカサムの月-第八月
キスリムの月 -第九月
ティベツの月 -第一〇月
シャバツの月 -第一一月
アダルの月  -第一二月




☆この世界の歴史


・海暦 バール人の伝説上の発祥地メルカルト建国の年を海暦一年とする

マイナス1000年頃 メン=ネフェルで伝説上の初代ケムト王・セルケトが即位
0001年     メルカルト建国
1500年代    ウガリッド同盟の成立・「バール人の時代」の開幕
1500~1700年代 ウガリット同盟時代
1800~2000年代 グブラ同盟時代
2100~2200年代 シドン同盟時代
2300年代    預言者フランシスの漂着・聖杖教の成立
2300~2400年代 ツィロ同盟時代
2400年代    聖杖教がエレブに広まり始める
2400~2500年代 カルト=ハダシュト同盟時代(バール人海洋貿易帝国の絶頂期)
2500~2700年代 ゲラ同盟時代(バール人海洋貿易帝国の衰退期)
2600年代    冒険者レミュエルによる「西の大陸」到達
2700年代    ゲラ同盟分裂・バール人海洋貿易帝国の滅亡
2700~2800年代 無法時代(海洋交易の利権を巡る戦乱の時代)
2800~3000年代 無名時代(海洋交易の衰退とそれに伴う平和の時代)
3015年     現代・聖槌軍のネゲヴ侵攻開始




☆その他の用語



○バール人 

・この世界の地中海全域で活動する交易民族。元の世界ではフェニキア人に相当すると見られる。
・かつては千年の長きにわたって地中海の覇者として君臨していたが、現在は衰退している。
・かつての覇権の名残で、バール人の言語・単位等がこの世界の標準(グローバル・スタンダード)となっている。



○マゴル

・「異邦人」を意味する言葉。ゲラ同盟時代の有名な冒険者レミュエルが自らをそう名乗った。この世界にはない様々な知識をもたらす者、と思われている。
・歴史書上名前が残っているマゴルとして冒険者レミュエルの他、預言者フランシス・剣祖シノンが挙げられる。



○恩寵(プラス)

・金獅子・赤虎・牙犬といった各々のトーテムを持った部族が「恩寵の部族」と呼ばれている。
・各部族の祖先であり守り神でもある部族神(守神様)から授けられる特別な・異能の力が「恩寵」である。金獅子族の外撃、赤虎族の雷撃、牙犬族の烈撃の恩寵等がよく知られている。
・ただし、恩寵の部族に属していても恩寵を持っている者は少数派であり、持っていても大した力でない者がほとんどである。
・最も代表的・一般的な恩寵が身体強化の恩寵で、白兎族を除くほとんどの部族がこの恩寵を有している。身体強化の恩寵がなくとも、恩寵の部族の者は普通の人間に比べて肉体的に頑強で、戦士としての素質に恵まれた者が多い。
・恩寵の部族に属していることの証に、獣耳や尻尾など、各々の部族神に因んだ扮装をしている。なお、扮装の有無と恩寵の発動には関係がない。
・元の世界風に「血縁者一族に遺伝された超能力」と説明することも可能。



○聖杖教

・エレブ全域で信仰されている一神教。
・七百年前にエレブに漂着したマゴルの預言者フランシスがエレブにキリスト教を布教。だがフランシスが創設した教団は地元領主の弾圧により壊滅し、フランシスも刑死。その二十年後にフランシスの弟子バルテルミが中心となり教団を再建した。
・だが元の世界から持ち込んだ聖書は全て焼き払われ、二十年前の記憶を頼りにフランシスの教えを再編したため元のキリスト教から変質。現在の聖杖教が成立した。
・聖杖教の中ではイエス・キリストが非常に小さな扱いとなり、その代わりにモーゼが最も偉大な人物として扱われている。



○太陽神殿

・ネゲヴ全域で信仰されている多神教、またはその宗教団体名。ケムト王が神官長を兼ねている。
・一五〇〇年前、バール人の勢力拡大に危機感を覚えた当時のケムト王がバール人に対抗するためケムト神話を再編成してネゲヴに広く布教したのが始まり。
・バール人や恩寵の部族の神々、その他の全ての神々は全てケムト神話の神々が起源となっていることを主張している。
・一五〇〇年にわたってこの教義を主張し、布教し続けた結果、バール人や恩寵の部族を含む全てのネゲヴの民がこの教義を受け入れ、太陽神殿を崇拝するようになっている。



○ケムト王国

・元の世界のエジプト一帯を領有する王国。また、ネゲヴの全ての自治都市は形式上はケムト王の臣下なので、形式上はネゲヴ全土の支配者でもある。
・四千年前に初代ケムト王セルケトが即位。そのセルケトの血が今日まで途切れることなく受け継がれ続けている(という建前になっている)。ケムト王家のことをセルケト王朝・セルケト王家という呼び方もする。
・ケムト王はケムト神話の主神・太陽神ラーの末裔とされており、太陽神殿の神官長を兼ねている。
・ケムト王は太陽神殿の神官長として精神面でネゲヴ全土に君臨する一方、政治の実務には一切関わらないのが慣例となっている。ケムト王に代わって宰相が政治の実務の全権を担っている。



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