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[19099] 神なんて死んでしまえ(現実→TSでエルフ、ファンタジー世界に 無能力転生 テンプレ)
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2015/09/03 06:46
人生に絶望して、再び立ち上がった青年に待ち受けていたのは、“神”による違う世界への強制的な転生という運命だった。しかも条件は悪く、幼いエルフの女の子になってしまった。
エルフ迫害を推奨する『王国』と、厳しい現実。“少女”は、困難に打ち勝ち、なんとしても元の世界に帰ろうと誓いを立て、歩き出す。

第三章に入りました。
予定では三章で完結します。


オリジナル板に移行しました。

小説家になろう の方にも投稿し始めました。
内容に変化はきっとたぶんぜったいないかと。

XXX板の方にも投稿してありますが基本的に本編とは関係ないです。たぶん。
作者本人による二次創作と考えて緩くいきましょー


感想、誤字脱字の指摘、なんでもお待ちしてます!


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2015/9/3
再起動しました。なんとか完成にまでもっていきます。
書き始めたのが2011年とかうっそだろお前



[19099] 一話 転生、そして
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/19 02:22
 その青年は、生きたかったはずなのだ。
 よくある話だ。いじめられて、人生に絶望した挙句の自殺。迷惑をかけないように、それでいていじめをしてきた連中の心に一生とれないような傷を残す自殺をしようと思った。
 
 電車自殺。否。
 その瞬間をいじめしてきた連中に見せることは難しく、むしろ関係無い人に迷惑がかかる。

 リストカット。否。
 中々死ねない。しかも痛い。恐怖感は与えど、よほど深く切らねば出血ショックで死亡にはならぬ。

 薬物自殺。否。
 最近の薬は余ほど飲まねば死ねないし、そもそもそんなことはできない。
 薬局で大量に購入したり、コンビニで大量に購入したら怪しまれることは確実である。

 青年は悩んだ末、生きることを選んだ。
 死んだら生き還らない。命は代用不能で、取り返しのつかない美しく気高いもの。
 それをやすやすと捨てるなど、生命に対する冒涜であり、また自分で自分が許せなくなる。親が泣くことは分かった。命は一つだけと思った。だから、生きようと思った。
 人間、なんとか生きていけるものだ。特に日本では仮に家も職も家族も無くして社会から切り離されても、生きて行く道はいくらでもある。
 だというのに、死んだ。
 道端を歩いていたら突如トラックが突っ込んできた。
 あ、と思った次の瞬間彼は見事に轢かれていた。何せトラックほどの重量物にぶつかられたのである。体が跳ねて地面を転がる。顔やら腕やらが研磨された。コンマ数秒とかからずトラックのバンパーが衝突、ひしゃげながら肉体を後ろへ流す。後ろにあるのはトラックの下面部とタイヤである。鋼鉄のそれにもみくちゃにされながらタイヤにしっちゃかめっちゃか揉まれコンクリートの凹凸に体を甚振られた。トラックが急停止したことで肉体の損傷はより広がる。タイヤに引っかかったままトラックの制動で生じる左右前後の運動に内臓が壊れる。やっと静止したとき、肉体はほぼ死を迎えていた。
 腕は妙な方向に捻じれ骨が飛び出している。顔は皮膚が削られて筋肉と骨が露出。胴体ももはや、生きていける状態にない。肉体から血液が流れ水たまりを作っていく。
 無論、意識があるはずない。時速数十kmで鉄の塊が突っ込んだときに気を失っていた。
 高校生になって二年目の真冬のことだった。
 よくある不幸な事故として新聞の片隅を飾っただけで世間からは忘れ去られた。




 どこだここは、と思った。
 彼が目を覚ますと、そこは一面の白であった。
 記憶を手繰る。思い出した。自分はトラックに轢かれた挙句郵便ポストに突っ込み背骨をボキリと折って死んだのだったと。
 だが、妙ではないか。死んだのならそこでお終いではないのだろうか。仮に非科学があるにしても、裁かれるのではないのか。
 何故自分は真っ白な空間に全裸で浮遊しているのか。
 青年は自分が全裸であることに気がつくと、とりあえず前かがみになり股間を隠した。みっともない格好ではあったが、服も無くまた隠すものすらないのではこうするしかない。
 十分、否、二十分?
 どれだけの時間が経過したのかはさっぱり分からないが、突如目の前に男が現れた。
 男? それは変だ。何しろその“男”は輪郭が極めて曖昧で、ノイズがかかったようにおぼつかない。
 霧を人の形にしたと言うべきか、白いクレヨンで人を描いているようにも見えた。

 「やぁ」
 「………」

 その存在が理解出来なかった。
 その“男”はニヤリと笑うと(そう見えた)と、親しげな様子で握手を求めてきた。無視した。
 と言うより、白の空間に白の男が浮いているのに、一体全体、どうして輪郭や性別を判断できたのかがさっぱり分からない。淵があるわけでもないというのに。
 “男”は残念そうに頭を振ると、歩み寄ってきた。地面があるような歩調であるのに、青年が足を動かしても地面など無かった。
 “男”が口を開いた。果たして、物理的な口なのかは青年に分かる訳もなかった。

 「君にはこれから別の世界に転生して貰いたい」
 「…………はい? はい? あの、テンセイ……? というかあんた誰なんですか?」

 死んだと思ったら妙な“男”に別の世界にテンセイしろと言われた。天性、点睛、という単語が頭をよぎる。
 笑えない。最高に笑えない。これから人生頑張ろうとした時に、どうしてこんなことになったのか。
 もう、死ぬほど笑えない。死んでるか。
 “男”はひらりと手を振るとまた口を開いた。
 
 「君はね、死んだんだよ」
 「はぁ、そうなんですか。じゃあ天国に行きたいんですが。それか家族を見守る守護霊的なのにお願いできますか。あんた、神様的な存在なんでしょう?」

 あくまで現実的に考える。死んだのならば死んだなりの身の振り方がある。

 「エラく現実的だなぁ、君は。神様って言ったら確かに神だがね」
 「ところで、誰が僕を殺したんですか?」
 「私だよ」
 「あ?」
 「私だよ」

 青年は一瞬あっけにとられたが、すぐに表情を怒りに染めた。
 すぐにでも殴りかかりたかったが、白の空間においては推進力を得るための地面も壁もないので腕を振り回すしかできなかった。
 怒りの理由は山ほどあった。生きたかったのに死んだ。家族も友人からも切り離されて、しかも謝罪の言葉すらなくむしろ楽しげに言ってみせた“男”を殴りたかった。
 しかしこうも考えた。これが神なら、運命で殺したのではないかと。
 神が世界の運命を決めるなら、なるほど、『殺す』のも神様の仕事かもしれない。ならば怒っても無意味ではないか。
 そう考えてなんとか怒りを抑える青年。
 だが、続いて“男”が言ったセリフで青年は完全にキレた。

 「……つまり?」
 「暇だったからなぁ………人生に絶望してたし、いいじゃないか。おまけに美幼女でエルフで転生させてやるからさ。な、悪い話じゃないだろ?」
 「はぁ!? 死ね! 今すぐ死ね! 暇だったから!? ふざけんなよクソったれ! おまえが死ねよ! 出鼻くじきやがって、ぶっ殺すぞ!」
 「ぁー聞こえないなぁ。いいだろ? 人生をやり直させてやるんだから感謝しろよ」
 「殺してやる……!」
 「ハイ転生―」

 青年は股間を隠すことも忘れ、目の前の傲慢な“男”を睨み、傷一つでも良いからつけてやらんともがいたが、一寸たりとも前進しなかった。
 “男”は青年の怒号に耳を塞ぐと、最後に『精々楽しませてくれよ』と高らかに笑いつつ指を鳴らした。
 畜生め、いつか殺してやる。
 アンナモノ神様だとは認めない。
 青年は自分の知る限りの罵り言葉を吐き出しつつも、勝手な理由で殺されたことを心に深く刻みこんだ。そして世界を認識できなくなるその瞬間まで、自分を産んでくれた両親と、今まで支えてくれた全ての人に心からの謝罪をした。

 殺されてごめんなさい。




 ―――――世界が、暗転した。



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微修正1/19



[19099] 二話 火災とナイフと
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:39
 Ⅱ、


 目が覚めた。痛かった。頭が死ぬほど痛かった。
 全てが焼け落ちようとしている西洋風の集落の片隅で“青年”は目を覚ました。 頭が痛い。思考が定まらない。唾液が出ない。
 視界に映る全てが赤と朱色で埋め尽くされて、

 「…………どこ、……だ……?」

 思い出せば、自分がカミサマとやらにテンセイさせられたということが鮮明に蘇ってくる。
 となると、ここはテンセイ先なんだろうか。
 青年はもっと考えておきたかったが、そうもいられないと気がついた。
 理由は極めて単純明快。自分が居るのが室内であり、なおかつ燃えているからだ。理由は知らない。原因も知らない。が、燃える室内にいつまでも居れば死ぬのは道理である。
 青年はすぐに逃げようと腰を上げて、その異常に気がつくことになった。
 身体が違うのだ。男性のそれは既に無く、不思議と違和感の無い、小学生かもっと小さいくらいの女の子の身体が自分のモノになっている。

 「からだ……からだが………どうなってるんだ」

 自己と言うアイデンティティが崩壊する。
 男性の身体で十数年生きてきたはずが、ふと気がつけば幼女。吐き気がする。キグルミが自分の身体に同化したような感覚。気持ち悪い。
 熱気満ちる室内なのに、吐き気が止まらない。涙が止まらない。
 性別も人生も何から何までを否定されて、しかも妙な世界に転生。自分そのものが完全否定された、その事実が吐き気を催させた。
 頭の中がぐるぐると廻る。

 「うぅ……っ」

 “少女”は、目の前でカーテンが黒の灰と消えるのを目にしつつも、胃の中身を床に吐きださなければならなかった。吐しゃ物が床にぼとぼと落ちた。
 口の中が酸性の液で満たされて、鼻につんとくる臭いが涙を滲ませる。
 これがゲームならいいのに、と思う。これが他人事ならどれだけ楽だったか。だがこれが現実。全て現実なのだ。
 
 「逃げよう。死ぬ」

 わざと口に出すと、“エルフ族の少女”は、火炎が壁から天井に広がっていくのを見て、手じかなナイフを握りしめた。
 脱出経路を確保しなくてはならぬ。ドアは燃えた。ならば、窓を破るしかない。
 カーテンは瞬く間に焼け落ち、床に転がった。
 好機、窓に手を伸ばすと、一気に開け放ち外に飛び出して地面に無様に倒れ込んだ。膝をすりむいた。
 次の瞬間天井の梁が力尽きたようにぼきりと折れて、部屋に火の粉と濃密な焔を滝のように流し、窓が爆撃を受けたようにけし飛ぶ。硝子の破片が少女に降り注ぐ。

「ッ……!」

 手の中のナイフを宝物のように握りしめ、少女はその家屋から逃げ出した。
 暗闇の中、その家屋は完全に火に包まれ、またその家屋が所属していた村は火炎に沈んで地図から完全に消えた。黒煙が闇夜に昇り、星空を覆い隠していた。






 どれだけ走った事か。
 事情も右も左も分からぬ“少女”は、エルフ特有の長い耳を揺らしながら、集落からほど近い場所をとぼとぼと歩いていた。
 深夜なのだろうか、空は暗く、蝙蝠が空を元気よく泳いでいるのが見えた。星空が近い。現代日本ではありえない。全く違う世界なのだろうか。
 道が舗装されているなんてことも無い訳で、岩でごつごつした場所を歩かねばならなかった。
 行くあてなんてない。あのカミサマとやらの話が本当なら、“少女”は完全に孤独であった。
 エルフがいるということはファンタジー世界。家の造りから推測するに中世。
 ということは法律は曖昧で、あての無い女の子を引き取ってくれる施設なんぞある訳も無い。勉学は得意で無い“少女”でも、歴史の教科書ではそんなことが書いてあったことくらいは思い出せる。

 「どうしよう……」

 熱射病にかかったのか、足元がおぼつかない。
 ナイフ一本を握りしめ、草の生い茂った場所をただ歩く。
 水が欲しい。水さえあればいい。でも、水道もコンビニも無く、井戸も無い。
 熱に浮かされた頭は水を求め続け、染み出すことを止めた唾液を飲み込むことを続ける。疲労が強く、思考に無駄な情報が錯綜して意味が分からない。
 自分が死んだことは理解できても、悲しみや怒りよりも先に水を求める原始的欲求の方が勝った。
 なんで村が焼き払われていたのか、自分のこの身体の親や友人はどこにいったのか、それすら分からぬまま、歩く。

 「………? ………声がする」

 舌と口蓋が張り付くほどに口が渇いている。
 耳に拾ったのは男たちの声。村の様子を見に来た近隣の村人かもしれない。ならば助けてくれるかもしれない。
 少女はふらふらと歩いて行くと、その男達の声のする場所を探した。ベト付く草木が服や皮膚を汚し、地面の凹凸は体力を奪い去っていく。

 「……!」

 だが少女の予想は完全に違っていた。
 大木の陰に身を潜めるようにして声の元に顔を向けて見れば、そこには馬に乗った男たちが、『血に濡れた』剣から丹念に血を落としているところだったのだ。
 出来る限り身を小さくして、草むらから耳を澄ます。虫の声が少女の雑音を打ち消してくれた。

 「あっけなかったなぁ、エルフなんてあんなもんか」
 「そうでもないぜ? 女はヤバかったな。いい声で鳴いてくれたよ」
 「おい、持ち帰るとか考えるな。皆殺しにしろとの命令なんだ」
 「殺したよ。死ぬ時もいい声で鳴いてくれた」
 「そうかい。でもさァ、俺にはどうも生き残りが居る気がするんだが……」
 「気のせいだろ?」
 「だといいんだがね」

 少女は草むらで震撼した。
 つまり中身の青年は震えあがった。フィクションの世界でしか滅多にお目にかかれない殺戮の現場に自分は居たと言うことになるのだ、恐怖を覚えない方がどうかしている。
 しかも皆殺しときたのだから、もう震えが止まらない。
 少女は震えの止まらない手で自分の耳を触り―――ヒッと息を漏らした。ファンタジーに出てくるような耳があった。そしてそれは自分がエルフであると確信させるに足りる証拠であった。
 指先から熱が漏れていき、筋肉が震え始めた。歯が鳴る。心臓が痛いほど脈打っている。

 「……に、……にげないと……殺される……ッ」

 火災。皆殺し。血濡れの剣。男たちの会話。
 何かが弾けた。

 「ッ! おい、止まれ!」

 居てもたっても居られない。
 少女は男二人に位置がばれるような動きで草むらから飛び出すと、あても無い逃走を開始した。だが水分が足りず、しかも疲れた幼女の足ではたかがしれている。
 馬に命じ少女の前を取ったその二人は、馬の前足を脅す様に掲げた。
 
 「あっ」

 目の前に馬の巨体が広がり、さらに偶然にも足を地に取られ倒れ込む。ナイフは足元に転がった。
 少女は慌てて立ち上がろうとして失敗して、また立ち上がろうとして男に腕を掴まれ、しかも腹部に蹴りを入れられた。胃液と唾液を吹いた。

 「ぐっ………」
 「おい、お前生き残りか?」

 男の一人が少女の美しいブロンド髪の毛を掴むと、無理矢理顔を上げさせた。
 腹部に突き刺さった蹴りの余波は凄まじく、意識が朦朧とするほどで、髪の毛を掴まれて頭皮が悲鳴を上げたことに抵抗することすらできなかった。
 男は少女を検分するような汚らわしい目で観察した。

 「精々いい声で鳴け。そうすれば許してやるかもしれん」
 「はは、そんなチビをヤんのかよ? 裂けちまうぜ?」
 「エルフってのは頑丈だから大丈夫だろ」

 “少女”は悟った。
 こいつらは散々犯してから殺すつもりなんだと。男から女になって、犯されて死ぬ。その未来予想図がまじまじと浮かびあがった。

 「止めろッ、止めろぉ!!」
 「やかしいぞガキ」

 今度は手刀が首に落とされて、危うく意識が消えかけた。
 悲鳴を上げる間もなく、あっという間に上半身の汚れた服が切り裂かれ、成長前のおだやかな胸部が露わになった。男二人は下品な口笛を吹いた。

 「いいねぇ……若いと食いがいがある」

 少女は腕をもがき、脚をばたつかせ、今にも噛みつかんと言う顔をしたが男にはつまようじほどの影響力を持たない。鍛えられた筋肉が全てを吸収し、森と言う障壁が凶行を覆い隠しているのだ。
 なんとか打開せねば犯された挙句死ぬことは必至。
 ナイフさえあれば首筋を斬ってやれるのに―――!
 目を地に這わして探す。あった。数十センチのところに土で薄汚れた小型ナイフが光っていた。
 少女は咄嗟に手を伸ばすと、自分を抱く男の首筋にそれを突きたてた。
 ずぶり、嫌な感触が手に伝わる。

 「……ぐっ!? ……な、ガキ、が……なまいき……」
 「ジャック!」

 血が吹き出る。生温かい鮮血がナイフの先から噴水のように吹き出るや、少女と男二人をこれでもかと濡らす。
 少女はナイフから伝わる感触に震え、男の憎しみに満ちた瞳と対峙してしまった。血走った瞳。汚れた欲望渦巻く虹彩。それらが脳裏に刻まれ、閃光と化す。
 血が少女のブロンドの髪を染め、男はあっという間に絶命した。少女を拘束していた手が離れ、男が地面にへたり込む。

 「おいしっかりしろ!!」

 少女が男を刺し殺すと言う瞬間を目撃したもう一人の男は、首から血を流し続ける男に駆けよると、必死で首を押さえて血を止めようとした。
 だが、止まらない。

 「―――にげなくちゃ………早く動けッ、もっと早くッ」

 少女が、血濡れのナイフ片手に全力で地を蹴り逃げ出す。
 逃げだせた要因の一つに恐怖が挙げられる。殺されると言う現実が迫り、さらに相手を殺害した事実までが重くのしかかり、逆に、竦んだ脚の動くことを認めたのである。
 相棒が死ぬ行く様を無力な男が一人、星空の下座っている。血が地面へと流れ、とうとう首から流れる血すら勢いを衰え。最後には残った男の叫びが響いた。







 どれだけ逃げたのだろう。

 「―――……ハッ、はっ、はっ……」

 赤に染まったナイフ片手に、上半身裸、しかも脱水症状まで併発。腹部と首に貰った一撃は青痣になり、噴出した血が全身をぬらりと濡らしている。

「 ―――はっ、ハッ……あ゛ッ……ぐっ!?」

 少女が石に躓きすっ転んだ。
 悲鳴を上げつつ地面を転がると、目の前の木に顔から衝突、小川に転げ落ちた。ざぱん。水音が響く。

 「なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ………なんで俺がこんな目に……」

 幸い小川は浅く、溺れることはなかった。
 顔面を小川につけて水を思う存分飲み込むと、小川の真ん中に腰掛けて呟く。血が落ちて行き、小川を赤茶に染めて、辺りに鉄の臭いを振りまいた。
 天に昇った満月は憎々しいほど大きく、星空は清浄であった。

 「……ヒッ」

 そこで自分の姿をじっくり検分した少女は、右手に汚れたナイフがあることに気が付き、悲鳴をあげて草むらに投げ捨てた。

 「……ぅ」

 そしてまた嘔吐する。
 自分が男の首にナイフを突きたてた時の感触と、血の噴出したことから恐らく死んだのであろうという不確かな予想が胃袋を引っ掻き回した。
 冷たい小川に胃の中身をすっかり吐きだしても止まらず、胃液を吐き続ける。涙が大量に溢れ、鼻水まで垂れて顔を汚す。こうしている間にも身体から血が流れて行くが、人を殺めた手は汚れたまま。
 少女、つまり青年は人を殺したことなんてない。
 ましてやナイフを使ったことも無く、殺す殺されるはテレビの中の出来事と信じていた。でも違った。自分は人を刺し、相手は死んだ。
 男の黒い瞳がナイフを投げた方向から覗いている気がして、逃げようとしたが、小川の砂に足を取られて転倒してしまう。派手に水しぶきが上がった。
 震える両手を顔の前に持ってきた少女は、必死に川の流れに手を突っ込み、血を落としていく。

 「落ちない……クソっ落ちない……」

 手の皮を剥いてしまいたい。
 少女は気が違ったように川の中で手を洗い続ける。指紋の間。爪と指の隙間。全てを洗い流しても、まだ洗い続ける。
 手首を洗い、肩を洗い、上半身を洗い、下半身も構わず洗う。全身から血が落ちても臭いが消えない。だからまだ洗った。
 数十分ほど経って少女は体を洗うのをやめると、小川の淵にへたり込んだ。
 緊張の糸が切れたらしく、しかし震えている。小川の水は冷たくて、そして風が容赦なく吹き付けてくる。体温が下がる。
 服を全て脱いでしまい、手頃な木の陰に隠れ、全身を抱きしめて震える。タオルなんて無いし、毛布なんてない。今の少女には服とナイフと自分の身体しかないのだ。
 少女は震えていたが、やがて疲れて眠ってしまった。
 もしも獣でも来ようものなら食わるなんて知ってたし、追手が来るかもしれないなんて分かっていた。でも眠かったのだ。
 何の皮肉か、天から流れ星が零れると一条の線を描いた。
 少女が最後に認識した感覚は、吐き過ぎて焼けた喉の存在であった。
 青年なのか少女なのか曖昧なその人物を尻目に、夜はこうして更けていった。












~~~~~~あとがき
はいはい嘔吐嘔吐



[19099] 三話 方針を決めよ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:40

 Ⅲ、


 「―――――う」

 目が覚めたのは、空腹と疲労と寒さからだった。
 目を冷ませば誰かが救ってくれる。奇跡が起きてくれる。そんな甘い考えがどこかにあったのかもしれない。
 しかし、現実は非情である。
 “青年”―――便宜上“少女”と呼称しよう―――が身体を震わせながら目を開けると、一面の緑があった。雑草だらけ。蟻のようで蟻じゃない虫が草の葉の上で触角を揺らしている。

 「チクショウ……寒い」

 今なんの季節なのかは知らないが、空気は寒かった。身体は一晩経ったことで乾いていたにしても、寒かった。
 とりあえず身を起こし、体中にへばりついていた良く分からない虫を指で落とすと関節がこきりと鳴った。
 寒い理由はいくつかあるが、大きいものは全裸であるということ。全身を洗う為に服を脱いでそこらに放置してしまった為だ。その服はどこにあるのだろう。
 小川の周囲を探索して数十秒、分厚い草の上に乗っかった布の服が見つかった。

 「あった」

 手で取ってみると、湿気を吸って草の臭いまで染みついていて、お世辞にも言い心地とは言えなかったが、着ないと寒くて耐えられないので着た。
 例の男が上半身の服を破いたのは直って無くて、胸が丸見えだったが、針一本無いのにどう直せというのか。身体こそ少女でも心は男のままの彼には余り関係なかったが。

 「………クソ」

 男の死に際が突如フラッシュバックした。
 少女はまたしても地に膝をつくと胃液を少量吐いた。不幸中の幸いか、胃の中身が空だったのでそれしか出てこなかったが、喉が胃酸でひりひりと焼けた。
 連続した吐いたせいなのか、『吐けばいいじゃん』などと考えるようにもなってきた。人の適応力は凄まじいと言うべきか、それを『処理』と考える辺り吹っ切れたのかもしれない。
 小川で口を濯ぎ、比較的平らな岩に腰掛けて今後の事を考える。
どこかで鳥が鳴いている。空は青く、風で生まれる草原の吐息は何から何まで清浄 だった。

 「俺……もう帰れないのか? あいつに頼めば帰れるか?」

 脳裏に浮かぶのは白い靄のような“神”の腹立たしいニヤケ顔。
 なるほど確かに、命まで奪い少女の身体を与えた上に記憶を保持したまま異世界に転生させたほどなのだから、頼み込めば帰れるかもしれない。
 では、どう頼めば良いのか。人間なら会話なり通話なり手紙なりで意思の疎通は可能だが、“神”となるとさっぱり分からない。呪文を唱えつつ土下座すればよいのか。
 ……ものは試しだ。
 これで家族の元に帰れて、日常を取り戻せるのならなんでもやろう。土下座でも盆踊りでもなんでもやっていい。頼むからお願いします、と祈る。
 少女はその場に両足揃えて座ると、深々と土下座した。

 「お願いします帰らせて下さい!」

 返事は無かった。あったのは空腹に耐えかねて胃袋がぐぅと鳴る音だけだった。




 結局、口に出来たのは木の実と水だけだった。
 あの後、血濡れのナイフを半泣きで回収した少女は、付近を探索して食べられそうな木の実を手に入れて、食事をした。
 毒があったらどうしようと考えるよりも先に食べてしまったその毒々しい赤の木の実は、すっぱかったが確かに美味しかった。
 ナイフだけでは心許ないので身長ほどの木の枝を担いだ少女は、今後の方針を考えるべく、また小川の元に居た。
 男を殺害した記憶は心に深い傷をつけたらしく、時折涙を浮かばせ、両顔を覆う始末。無柄のナイフを見れば記憶は鮮明な映像として再生されるので、なるべく見ない。
 しかし心のどこかでは『正当防衛だ』と思う自分が居たことも事実である。
 太陽は既に真上。

 「……人里に行って、働く」

 方針を口に出してみた。岩の椅子は少女の身体に堪えたが、他に座る場所が無いので仕方が無い。
 人里に行けばボロボロの少女に同情して働かせてくれる可能性はある。現代日本と違い戸籍など無いだろうし、仮にあってもそこまで厳密ではない。
 それに、労働基準法なんてある訳も無いという確信もあった。
 同時に性的な事に従事させられるのではという恐怖もあった。水面に映した顔はゾッとするほど美しく、“神”が言っていたのが間違ってなかったことが分かった。
 青い瞳、左右対称に限りなく近くまた鼻や口の位置や造形が整った顔。白い肌。金色の髪。鈴を鳴らしたような声。どれも美しく、自分の身体とは思えなかった。
 だがそれが慰めになる訳も無い。
 元の世界で普通の男として社会に出て暮らせればそれで満足だったのに、突然妙な世界に流されたのだ、“神”への憎しみは身を焦がすほどの怨恨にまで膨らんでいた。
 少女は岩の上で胡坐をかくと、口を開く。

 「旅をする」

 旅に出て、元の世界に帰れるまで探求を続ける。
 それもいいだろが、果たしてこの少女の身体が長き旅路に耐えられるかと言ったら否である。
 第一資金はどう稼ぐのか。労働に耐えられない身体なのにどうすればいい。盗賊をやるにしても、一般人である“少女”は経験も才能も無かった。
 他にも不安要素はある。もしも魔術の類のあるファンタジー世界であったなら、魔物でも出てきて殺されてしまう憐れな末路があるかもしれない。ナイフで応戦できるものか。
 そうだ、と閃いた。
 この身が美少女なら、外見でひっかければいいのではないだろうか。
 鼻の下を伸ばしてきた男からカネをせびればいいのではないだろうか。そうすれば、旅の資金は楽に稼げるかもしれないではないか。
 待て、と少女は考える。
 “神”とやらは他にも何か言っていた気がする。

 エルフ―――。

 エルフ。耳が長く、弓を得意とする高貴なる山の民。
 そんな淡い知識しかないが、一つひっかかった。もしもエルフなら、魔術が使えるのではないかと。
 冷静になって考えてみれば、耳が長いからエルフとは限らないのだが、例の男達が『生き残りか』と言っていたし、“神”もエルフと言っていたから、そうなのだろう。
 人差し指を出すと、集中する。

 「……呪文って……なんだ? 〝灯れ〟。違うか、〝燃えろ〟……違う」

 火をつける呪文は初歩の初歩とどこかの小説に書いてあったのを思い出し、使える限りの言葉で指先に火を生み出そうとするが、何も起きない。
 ひょっとすると使えないのかもしれないと思った少女は、諦めた。
 何はともあれ人里に下りて情報を集めなければどうにもならない。
 しかし―――。

 「道ってどっちだ……」

 舗装された道路どころか半分森に食い込んだこの場所で道を見つけるのは不可能なのではないかと思った。
 科学技術が発展した未来なら人の居る場所はすぐさまコンクリートで舗装されたが、ここは科学技術の発展乏しき世界。というより、未来だって山中に大きい道を作ることは稀。
 少女は途方に暮れて空を見上げると、木の棒を使って草を叩き倒しつつ前進し始めた。
 草を薙ぎ倒している最中で少女は声を上げて泣いた。なぜなら、家族と過ごした日々や、なんでもない日常の一幕を思い出したから。
 そしてその涙の中には、追手が来るのではないかと言う恐怖も含まれていた。





 完全真白空間にて、一つ、否、到底形容しがたい何者かが佇んでいた。
 それは“青年”が神と呼んだ存在であった。
 “神”はその“青年”の姿を見て笑っていた。
 “神”にとって“青年”は駒であり、道化でしかなかった。死のうが生きようが関係なく、道楽の一つでしかなかった。
 そう、“神”は清々しいほど傲慢だった。
 力を持ち過ぎたものは暇を持て余す。寿命も無く、またやることすら無いその“神”にはこうして人間を弄くり倒して遊ぶことこそ至上の娯楽なのだ。
 人ほど弱く、また強く、そして不安定な存在は無い。それを弄るのは無限の楽しさを持っている。
 “神”は視点を切り替えると、今度は別の人物を見遣った。
 次は何をしようか。
 車に轢かせるのは飽きた。
 誰かの身代わりとなって死に、別の世界に送れば、両方で楽しめる。そこに強力な力を与えれば大暴れしてくれるだろう。
 病でも良い。末期の癌でも面白いドラマが拝める。
 いっその事痴情のもつれで刺されて死んだ方が面白いかもしれない。
 それか、人生を逆戻しにして観察するのも楽しそうだ。

 そう考えている“神”の顔は醜い愉悦に歪んでいた。
 視点を切り替えると、その中で“青年”が土下座をしているのが見えた。

 「いいね、実に良い」

 “神”はそう呟くと口元を緩やかに曲げ、指を鳴らした。










~~~~~~~~あとがき

装備:ナイフ 布の服 木の棒
資金:無し
魔術:無し


はいはい貧乏貧乏はいはい貧乏貧乏



[19099] 四話 情報収集
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:41
Ⅳ、



 山を降りるのに迷い迷って数日。
 “少女”は全身あちらこちら擦り剥いて、良く分からない虫の大群に襲われたりしながら、やっとのことで町に出ることに成功していた。
 と言っても簡単ではなく、自転車どころか馬すらいない為徒歩で道を歩いて、やっとのことで辿り着いたのだ。
 道中で拾った布を頭に被り、泥だらけになりながら歩くその姿は物乞いと大差ない格好だったが、お金も援助者も頼れる人が居ないのでどうしようもなかった。食べ物は途中で拾った葉っぱを袋に仕立てた中に木の実を入れて食べていたのでなんとかなった。
 無論、歩き続けの身体には到底足りるものでは無く、お腹が少々緩くなっていたが。
 排泄に関係することには大して驚きもしなかった。そもそも野外でするのだし、見ることもしない。羞恥心が麻痺しているのかもしれなかった。

 「………カレーライス食べたいな」

 町に入る前に、守衛の居る門の前にあった馬小屋の傍らに座って休憩中、少女は呟いた。
 カレーライスの辛いような甘いような味が舌に広がった気がして生唾を呑む。
 今さら驚くことなどないが、道を歩く人たちの扮装は皆中世の頃そのもので、街並みもレンガや石造りだった。甲冑を馬にぶら提げた人が通って、少女をいぶかしむように見てきたが、すぐに歩いて行った。
 危ない。
 どうやらこの世界には亜人や獣人が居るらしいが、どうも嫌われているらしく街中でバレるのは自殺と同意義なのだ。特に、先天的に“魔術”を身につけているというエルフは。
 魔術は一種の才能であり、使える人間は使えるが使えない人間はとことん使えず、また血筋や受け継げるものではないらしい。
 魔術とやらがどのようなものかは不明だが、推測するに凄まじい威力を持つのだろう。
 つまり先天的に全員が魔術を使えるエルフは圧倒的な力を持つとされ、人間社会に盾突く邪魔ものでしかなかった。結果、敵対し、迫害される。
 ここまでの情報は道中の旅人や、出店で耳に挟んだ会話から推測したものだ。
 他にも宗教や生活様式、またエルフの集落の位置なども正確に把握しておきたかったが、その為にはまず、町に入るしかない。
 しかし、町への入り口である門の前には騎士姿の男二人が立っており、中に入る人を厳格そうな目で観察している。もしもエルフであることがバレたら殺されかねない。
 だがやらねばならぬ。常識を手に入れるにはまずは一歩を踏み出さなくてはならないのだ。そうでもしなければ、元の世界に帰る方法、元の体に戻る方法の一つも分かるまい。
 観察して居る限りでは孤児や物乞いの連中が門の中に入っても咎められていない様子なので、出来る限り怪しい動きをせずに歩きだす。
 
 「………」

 布を童話赤ずきんのようにしっかり巻き付け耳を隠し、門に近づく。もちろんヘマがあってはいけないのでしっかりと手で確認してから。
 丁度騎士姿の一人が大欠伸をし、もう一人がそれに気を取られた。“少女”は好機とばかりに足を進めると、門を潜り、町へと入り込むことに成功した。
 大通り……なのだろうか、門から入ってすぐの道はある程度広く、商店が並ぶ活気ある場所だった。店では良く分からない品を売っていたり、肉を串に刺して焼いているのも売っていた。
 匂いを嗅いでいると虚しくなるので早足に立ち去る。
 それなりに履き心地の良かった靴が泥だらけになっているのが見えた。きっと、他の人から見たら少女は酷く薄汚れた鼠のように見えているに間違いなかった。
 水浴びの一つでもすれば話は変わっただろうが、街中でそんなことをすれば目立つこと間違いなく、最悪の場合は耳が露出し迫害の対象であるエルフとして捕縛されかねない。
 エルフである以上、一般の人間社会ではまともな暮らしが出来ない。
 何がエルフにしてやるだ、何が転生だ、誰にも聞こえないほどの声量で呪いの言葉を呟くが、変化なんて無い。
 少女は町を巡るべく、人目を気にしながら歩み始めた。





 少女は己の迂闊さを呪った。
 例の、エルフの集落を焼き打ちした連中と全く同じ格好の男達が町に来たのである。なんでも生き残りを探しているらしい。
 当然である。少女は集落を襲撃した一人をナイフで刺殺しているのだ、その時に命からがら逃げ出したのをばっちり目撃されている。
 町から出る門は二つあるが、そのいずれも男達が見張りに付き、片っ端から顔を見せるようにしている。耳だけで判断できるのだから出身など聞かなくてもよいのだ。
 困った。
 少女は男達を避けて町の中の教会と思しき場所の前にある木の元で途方に暮れていた。
 木の実は食べつくし、空腹で背中とお腹の皮がくっ付いてしまいそう。判断力は鈍っていくのを感じ、また生命力そのものが消滅していくのがひしひしと感じられた。
 エルフの生理作用は人間と大差ないらしく、お腹が空くと頭がぼーっとしてしまう。町で食べ物をくすねようと思ったが、捕まった時のリスクを考えて実行に移せなかった。
 盗人には鞭打ち刑と考える。ただの人間なら鞭打ちで済むだろう。だがエルフは違う。殺される可能性が高い。
 町を出るべきなのかもしれない。このまま滞在し続けても誰かが助けてくれるわけでもなく、また、助けを求め耳を見られたら一巻の終わりである。
 持ち物は布の服とナイフだけ。木の棒は邪魔なので捨ててきた。これを駆使し逃げる方法を探ってみるが、どうにも、思いつかなかった。
 かくなる上は、夜陰に紛れ町を囲う塀を乗り越えて行くしかあるまい。そうと決まれば安全そうな場所に退避せねばならない。教会のような建物から離れよう。
 教会に頼るというのも考えたが、その教会がエルフを弾圧する思想を持っていた時のことを考えて出来なかった。単に人が居なかったから座っていただけだ。
 少女は立ちあがると、その場を後にした。





 「………ふぅ、多少マシになったかな」

 夜。
 空に蒼い月、曇り一つ無き美しい星空、清浄な大気。
 町が寝静まった頃に少女は動いた。男達も眠りについたのか、今は居なかった。
 だが、門は閉じられて守衛がおり、かがり火が焚かれ、近寄れそうにない。仕方が無く塀を登ろうとしたが高過ぎて不可能。
 やむを得ず民家から空き箱を拝借して重ね足場にしようとしたところ、明らかに捨てたと分かる一枚のボロ布があったので、今着ている服の上からローブのように羽織ってみた。
 寒さを完全に遮断できたわけではないが、それでもあるかないかで大違いだった。高度な技術で作られた高性能繊維製の服なんてなくても、布切れで十分というのが驚きだった。
 重ねた箱を足場に見立て、走る。

 「よっと!」

 壁に取りつくと足をばたつかせて一気によじ登り、なんとか塀の上に。
 そして物音を立てないように慎重に慎重に進み、塀の向こう側が見える位置につき、下を覗きこむ。予想以上に高い。飛び降りたら痛そうだ。

 「ふっ…………ぐっ」

 少女は飛び降りた。地面に着地すると同時に前転を決めようとして引っかかり、ばたんとその場に崩れ落ちて痛さを堪える。
 数十秒後、涙を浮かべて復帰した少女は、腰のナイフの感触を確かめると、町から続く道をひたすらに辿り始めた。

 こうして歩くことで、元の世界と元の体を取り戻せると深く信じて。






 


~~~~~~~~~~~~あとがき

登場人物の数が少ないが気にしない。
名前が一向に出る気配もないが気にしない。
エルフってだけで行動の制限具合がトンでもなかったという。



[19099] 五話 焚火の中の串肉
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:4baf5012
Date: 2010/06/06 18:41
 Ⅴ、



 “少女”は頭を抱えた。
 とある町で聞いた話によると、某山脈にエルフの里があり、高度に構築された罠と防衛網により人間の侵入を拒んでいる場所があるらしい……それは、いい。
 もう一つは、その場所が現在いる地点から歩いて数週間はかかると知ったため。
道中、整備もなにもあったものではない道を歩き続けようやく見つけた宿屋の裏で一休みしていたところ、エルフに関する話をしていたので聞き取れたのだ。人間の時と比べて聴覚が優れていたのか、それとも話している人間の声が大きかったのかは定かではないが。
 エルフは迫害される社会的弱者であるが、場所によっては人間の全面攻勢を受けても耐えられるほどに力があるらしい。肝心の魔術とやらを見たことがないから何とも言えないが。

 「腹減った……」

 宿屋の裏、ごみ箱の裏に座り休憩中の少女。
 時刻は昼間で、宿屋からはやたらと美味しそうな匂いが漂ってきて、胃袋が大暴れしているのが分かる。
 あいも変わらず食べる物といったら木の実。食べられそうな野草を道中でほうばったこともあった。釣りにも挑戦したが、餌も針も無いのに食い付くわけがなかった。
 誰かに食べ物やお金をねだったり、美少女であることを利用しようとおもったが、自分は男であり元の世界の人間であるという一種の固定観念がそれをさせなかった。
 何をいらない自己を抱いているのか、とは思っても、長年染み付いた自己は取れてくれない。
 歩き続け、ろくにご飯も食べず、安心して眠れない環境下に置かれた“少女”の肉体と精神はもはや限界だった。
 健全な環境ありてまともな考えが浮かぶわけで、環境が最悪だと考えまで最悪になる。
 なまじ現代の楽を当たり前のものとして享受してきた“少女”には、数週間もかかるかもしれない道のりは一生かかるのではないかとすら思えてくる。
 仮に数週間の道のりが酒の席の誇張で、一週間の道のりだとしても、山の中にある集落を見つけられるとは到底思えない。遭難して死ぬのではなかろうか。
 少女はゴミ箱の異臭漂うその場所で体育座りのまま、うつらうつら櫓をこぎ始めた。
 身にまとった布の隙間から薄ら寒い風が入り込むも、もう気にするような事でもない。
 どこかで読んだファンタジー小説ではエルフ族は少なくとも一千年は生きていられるそうだし、もしもこの世界のエルフもその位生きるなら、のんびりとしても怒られない。
 言い訳じみた事を考え、少女は意識と睡眠の合間で煩悶した。やもすれば眠ってしまいそうなのに、眠れない。霧の中に居る気分。
 脳裏に乱暴で破天荒な映像が支離滅裂に駆け抜けて、疲れと肌寒さからくる頭痛が麻薬のように甘美な眠りを誘う。
 それは時に乗用車だったり、幼き時のごっこ遊びだったり、家族と口喧嘩して家を飛び出した時だったりした。中には映画のワンシーンも混在していた。
 意識が落ちて行く。
 もう、寝てしまう。

 おやすみなさい。

 少女は夢か現実か、どこともしれない場所で呟くと、こてんと倒れ眠りについた。





 目が覚めた。

 「………うぅ」

 うめき声と共に目を開けると、体がほんやわ暖かい。
 暖かい? 妙な話だ。屋外でしかも屋根も無い場所で、暖かいなんてありえない。毛布をかけてくれた人が居たとして、それは体が温かいだけではないか?
 目の焦点が定まってくれば、今度はパチパチと何かが細かく弾けるような音が聞こえてくる。
 これも、変だ。該当する音といったら焚火だが、火種も火打石も魔術で火を生じることも出来ないのに、どうして。
 早く起きろと体に命じると、ただちに腰からナイフを引き抜き、錯乱状態で周囲を見回す。
 一面の草原。ぽつぽつと木々が点在しており、目を凝らせば、自分が寝込んでいた宿屋が蟻のように小さく彼方にあった。
 誰かが運んだのか? その答えはすぐさま提示された。

 「起きたか」

 煌々と火の粉を撒く焚火の向こう側に、男が居た。歳は四十、無精髭に鍛え抜かれた体躯、頬の下に走る傷跡が厳格で強い印象に加える。
 男の腰に長剣がぶら下がり、また体を覆っているのが革の鎧であることを認めた少女は、ナイフを取り落とし、その場で腰が抜けてしまった。
 殺される殺される殺される。
 あの長剣が抜かれるや、自分の貧弱な体は骸になり果てることが容易に想像できた。たかがナイフでは革の鎧を貫けず、逆に貫かれ死ぬことが分かった。
 だがしかし、その男は黙したまま、焚火で焼かれていた串肉を持ち、少女に渡すと、静かに言葉を紡いだ。

 「喰え。腹が減ってはまともに考えられない」
 「………」

 少女はそれを受け取ったが、顔を強張らせ動けない。
 当然である。心はかつての平和な世界の男性的思考。そして本能的恐怖、疲弊した体と、エルフは迫害されて殺されると言うこの世界の常識がそうさせた。
 毒でも入ってるのではないか、と考えていた少女に、男は口の端をにやりと上げた。

 「毒を入れるよりも剣で斬った方が早いと思わないか。幸い今のご時世、エルフなら殺しても特に文句など言われないのだからな」
 「…………なっ……」

 何故エルフと分かったと驚愕する少女に、男は自らの耳を示した。

 「体を検分すれば分かることだ。安心しろ、俺はエルフを嫌悪しない。むしろ、好いている」
 「………本当ですか?」
 「そうでもなければ食料を分けてやるものか。行き倒れの女の子を見殺しにするほど腐ってはいないつもりだ」

 呆然とする少女を尻目に、男は焚火に焼かれていた串肉を取り、一口。

 「美味しいぞ?」
 「い、頂きます!」
 「喉につかえて死ぬなよ」

 ぐぅ、と腹が鳴り、自分が空腹であることを再認識し、慌てて手の中の肉にかぶりつく。じわり染み出る肉汁が咥内に広がり、頬が縮こまり痛い。酸っぱい木の実やら野草やらと比べ、その肉は余りに美味しかった。
 知らず涙が出る。その肉が香辛料や調味料を使っていないことなどこの際関係無い。少女は無我夢中でそれを貪った。
 たかが肉、されど肉。少女がそれを食べるのを男は見遣りつつ、こちらも食べる。
 暫しの間、二人の間に会話は無かった。
 串に張り付いた肉の一片までお腹に収めた少女は、焚火から一歩退き、日本で言うところの土下座をして、男に感謝の意を示した。

 「ありがとうございます……エルフなのに、助けてくれるなんて、感謝してもしきれません」
 「そんなにお腹が空いていたのか。まぁ、兎に角耳を隠すと良い。俺は良くとも、他の連中に見られたら言い訳のしようが無い」

 そこでやっと、自分の特徴的過ぎる耳が出ていることに気がつく。いつの間にか布のほっかむりが無く、背中に垂れていることを認識した。
 慌てて布をかぶり直すと、改めで土下座体勢。少女にとって男は救いの神そのものだった。
 男は串を一舐めすると、焚火に放り込んだ。
 暗き空に火の粉が舞い、星間に消えて行く。

 「君はエルフ狩りから逃げてきたのか?」
 「エルフ狩り………?」
 「知らないのか? 最近エルフを敵視する連中が人間に協力的なエルフを狩りまくっている。酷い話だろう、人間に協力的だから、狩りやすいとな」
 「そうです………里が焼き討ちにあって」
 「やはりか、畜生め」

 男は淡々と語るようで、エルフが虐げられている現実に悔しがっているようであった。
 “少女”は、『異世界から転生しました』ということを伝えるのではなく、『エルフの里から逃げてきた少女』という役割を選択した。どの道信じてくれるわけがないのだから。

 「何故……襲撃を?」
 「エルフを危険視した王国の連中が手を組んで排除しようとしてるんだろう……エルフは神話上でも、現実的にもそれだけの力がある………まさか知らないのか?」

 男が怪訝な顔をしたので、少女は出来る限り表情に出さぬように、首を振った。
エルフがエルフの伝説を知らないのは余りに不可思議なのだし、またエルフの現在の状況に無知なことを知られては後々拙い。情報を引きださなければならない。
 土下座のまま、背筋を伸ばし口を開く。
 焚火の熱が体を温めていき、手足が熱くなってきた。

 「いえ、だから、どうしてって」
 「危険視するのもそうだが、……利権、カネ………いつだってそうだ」
 「………そうですか」
 「ところで、この後はどうする。エルフの里まで行くか?」

 少女は男から焚火へと目を移すと、物思いに耽った。
 揺らめく火を絶やさないようにと男が焚火に薪を投じ、それが火を活性化させてぱちリと音を鳴らさせた。
 面を上げ、選択を。
 自分があの世界に帰還する方法は、自分を匿い、なおかつ力あるものに縋る以外に 選択肢は無い。
 元の世界で死んでしまった事実があれど、戻れさえすればよいという考えがあった。また、“神”を倒せばいいのでは、という考えもあった。

 「行きます」
 「そうか………道は教える。俺は行くべき場所がある」

 男が手元の何かを探り、焚火に当たらないよう注意して、少女に見える位置にそれを置いた。毛布のようなものだった。

 「今日は寝ろ。出発は明日にした方がいい」
 「はい………」

 少女は素直に頷くと、その毛布を取り、焚火の熱が程良く当たる位置に転がり、目を瞑って適当にかぶった。お腹が満たされたこともあって、瞬く間に瞼の中で睡魔が渦巻き、意識が飛んだ。
 男は喉を鳴らす様に笑うと、少女に毛布をかけ直し、寒くないように繕ってやった。
 そしてその姿をじっと見つめ、溜息を漏らす。

 「……娘が生きてたらこの位だったな」

 その夜、“少女”は元の世界の父親の夢を見た。
 焚火に反射して、地面に転がったナイフが柔らかく光っていた。










~~~~~~~~~~~~あとがき
やっとまともな人が出ました。
展開遅い。



[19099] 六話 蜘蛛来たりて
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:42

 Ⅵ、



 自分を救ってくれた男と別れた“少女”は、エルフの集落への簡易地図と干し肉を貰い、ひたすらに草原を突き進んでいた。
 ずっと歩き通しでも疲れるので、大木の陰で休憩中。
 目印の無い草原だったら迷って死ぬ可能性もあったが、地図に小高い丘を越えた先の村を中継し――うんぬん、と描いてあるので、今のところ迷ってはいなかった。
 安心して口にすることが出来る食料を貰った影響なのか、積極的に木の実や食べられる野草を布に包むようになった。体が小さいことが幸いして食料はさほど必要ではなかったが、一向に火を起こすことができない。
 魔術に関して男に聞いてみたところ、才能あるものがイメージをしっかりと組み、呪文を口にしつつ身ぶりや行動をすると発動するらしいのだが、一向に発動しない。
 人差し指を立てて集中。
 太陽は天に座し地上を明るく照らし、肌寒さを感じさせない日光を燦々と。
 日本で言う春と冬の境目を思わせる天候と、一面の緑。空気が現代日本と比べモノにならないくらいおいしい。木陰特有の薫りが鼻腔を擽る。
 少女は頭の中で蝋燭の火が灯るのを映像化しながら、人差し指の先端にそれを移動させるよう、呟いた。

 「〝灯れ〟………」

 灯らない。
 今度は指先を凝視し、全神経を研ぎ澄ましイメージを強め、更には体のどこかにあるであろう魔術を発動させる力が染み出すイメージまでして、更に指を丸描くように振り、呟く。
 呪文は男に教わったが、発音が独特で時々しくじる。なんであの男が知っていたかは、知らない。

 「〝灯れ〟……〝灯れ〟! 灯れよ、灯れよ………〝灯れ〟ッ………灯らないかぁ」

 一向に指先に火は現れず、少女は木陰でほうと溜息をつくばかり。
 火を使えれば夜も行動できるし、ものを焼いて調理したり、武器にすることだってできる。
 元の世界では100円でライターを購入しあっという間に火を起こせたが、そんな便利なものは無い。
 少女はもう一つ教わった呪文の言葉を思い出すと、試してみることにした。
 人差し指を立てると、爪よ割れよとばかりに集中し、言葉を紡ぐ。

 「〝光よ〟………これもだめか。エルフってのに、なんでだめなんだ。MPでもいるのか?」

 エルフとは先天的に魔術が使えるはずだが、少女にその兆候は欠片も現れない。もっと練習が必要なのか、方法が間違っているのか、年齢が足りていないのか。
 いずれの推理も的外れな気がしないでもないが、聞くべき相手も読むべき書物もないのでどうしようもなかろう。
 いつまでも休んでいるわけにもいかないので木陰から立ちあがると、石や草があり道など無い草原を歩き始める。
 目標は遠くに霞む丘。まずはあれを越えて行く。あの先に第一目的地とする人間の村がある。
 この世界には必ずしも道があるとは限らない。
 そもそも外に出る必要が無いので道がない村はいくらでもあり、これから訪れる村もまた、そのような場所に位置している。
 せめて自転車でもあれば早く行けるのにと思うが、馬車が現役バリバリの世界で自転車など乗り回そうものなら不審者扱いされるのは明らかであるし、整備すらできない。
 この世界に落とされてようやく気がつく己の弱小さ。
 鉛筆一本、時計一個、否、それどころか腰に差さっている一振りのナイフでさえ、自力で作ることが出来ないのだ。
 個人が所有する“文明”の儚さと希薄さに涙が出てくる。
 人は社会に守られ、また社会の規範に身を置き縛られた自由を選択することで文明を享受出来るのであって、社会から離れまた迫害される身では、極端な話、布一枚だって入手困難なのである。
 それはこの世界でも通用する。
 事実、“少女”は原始人のように木の実を主食とせざるを得なく、アシは文字通り足のみで、交通手段を利用することすらできない。
 それどころか、エルフだから殺しても構わない的な考え方がある時点で社会どころか生存そのものが危険に晒されている。
 せめて人に“転生”していれば楽だったのに、と無い物ねだりをしたくなる。

 「………お腹空いたなぁ」

 男に振る舞われた肉の味が忘れられず、染み出る生唾を飲み込みつつ、酸性味が極めて強い木の実を布からいくつか取りだして食す。
 灰汁抜きなんてしてないので、苦みと渋みが先に広がり、次に決して美味しいとは言えない酸味と甘みが広がって、思わず顔を歪ませた。かつて食べたさくらんぼとどうしても比較してしまい、余計に美味しくない。
 でも食べなければ疲労はとれず。また、水を入れておく容器も無いので、水分不足になり草原の片隅でひっそり死を迎えるなんてことがありうるので食わねばならぬ。
 更に難しいことに、『食べられる木の実と食べられそうにない木の実』の判別も行わなくてはならない。
 もしも毒でもあったら中毒症状で泡を吹きながら死ぬか、腹痛を起こし下痢で死ぬか。その結末はおとぎ話より悲惨である。
 よって“少女”は木の実を観察して、それを鳥が食べているか、妙なニオイがしないか、等を見極めた上で、一口食べて安全を確かめる。
 また野草を食べるときはそれよりも厄介である。
 もしも毒があれば言うまでも無く死ぬ可能性がある。小動物が野草を食べているのを見つけるのは難しく、道中お腹が痛くなったこと度々であった。
 だが少女は、キノコ類だけは口にしなかった。元の世界での常識で、キノコの判別は達人でも間違うことがあると知っていたし、何より毒のイメージが強過ぎた。
 ではそれで足りるかというと、足りない。
 木の実だって都合よくあるわけも無く、所々になっているのを見つける程度。野草はそこらにあるが、判別するまで時間がかかりすぎる。
 この際、動物じゃなくてもいいから魚の肉でもいい。口にしたい。だが、無い。
 男に貰った干し肉を口にしようと何度も迷ったが、止めた。あくまで非常食だ。
 歩き続けて筋肉痛は酷いし、数日は水浴びもしてない。
 端正な顔は疲労に染まり、白き肌は薄汚れている。元々着ていた服は汚れが酷い。美しかった髪の毛はあっちこっちに飛び跳ねて、木の枝が所々から突き出している。

 「甘いもの……チョコレート……」

 ぶつぶつ独り言を吐きつつ、足元の石を手に取り適当に放り投げる。
 こうして常時お腹を空かしたまま歩き続けていると、日本は飽食の時代だと言っていたのが痛感される。いつでも食べ物があることがいかに幸せだったのか良く分かった。

 「ぁー……お母さん、聞こえてる? 肉じゃが食いたいわ」

 少女は空を仰ぐと、自宅の食卓を思い浮かべつつそう口にして、仕方が無さそうに苦みの強い野草を口に入れ、飲み込んだ。
 もちろん、空に話しかけたところで返事なんて無く。
 この世界で何度か見かけた飛龍が空を呑気に飛んでいるのをみて、乗せてくれればと祈った。何も起こらなかった。





 予期していたことが起こった。
 この世界がファンタジー世界であるなら、もはやお約束な展開が待っていたのだ。
 と言っても勇者に拾われるだとか、突然奇跡の力に目覚めたとか、そんな類ではない。偶然宝箱を見つけたとか、そんなものでもない。

 「……逃がしてくれないか、クソッタレ」

 小柄なエルフの少女で対峙するは、己の身長と同じほどの大きさがあろうかという、蜘蛛。前面にある黒々とした目がこちらを睨みつけており、いつ襲いかかって来ても不思議ではない。
 草原を歩いているときに遭遇し、こっそり逃げようと思ったところ、こっちに向かってきたのだ。
 明らかに敵意を感じるので、木の棒を牽制に構え、ナイフをいつでも引き抜けるよう準備して、両脚に力を滾らせておく。
 その蜘蛛からじりじり遠ざかれば、寄って来て前足を威嚇するように振ってくる。
 どうやら、逃がしてくれないらしい。
 この蜘蛛が人を襲うかは分からなかったが、少なくともこうして対峙している時点でこちらを害するつもりがあってのことであろう。
 “少女”は耳を隠すための布をはぎ取り地面に叩きつけると、棒を剣のように構えた。
 瞳は巨大な虫に初めて遭遇した為に恐怖が浮かんでいたが、それでも、覚悟は決まっていた。
 かっと目を見開き息を吸うと、叫んだ。

 「行くぞ虫野郎。元の世界の学者に見せる標本第一号にしてやる!」

 蜘蛛が足を蠢かし、少女に飛びかかった。










~~~~~~~~~~~~~~あとがき
名前も出てこない少女が書いてて可哀想になってきた。
蜘蛛はAMIDAではない。



[19099] 七話 仕留めたはいいものの
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:42
Ⅶ、



 剣道どころか武術の嗜み皆無の“少女”にとって、たかが大きい蜘蛛ですら山のように巨大な外敵であった。

 「らあッ!」

 いきなり飛びかかってきた蜘蛛をステップを踏むことで回避、木の棒を思い切り振りかぶり、頭らしき場所に叩き下ろした。
 が、狙いが外れ胴体に下ろしてしまい、その硬質な殻を叩くにとどまった。たかが木の棒では斬ることも、満足な打撃力を得ることも難しい。

 「っく」

 蜘蛛が口を開けた。肉食性なのか小さい歯が幾つも並んでおり、どろりと体液が糸を曳いているのが見えてしまった。
 生理的嫌悪感から一歩跳び下がるや、バットを握るように持ち直し、フルスイング。蜘蛛の目を狙った俊敏な一撃が迫らんと。
 が、敵もやられるだけではない。腐っても野生生物。少女が必死なように、蜘蛛もまた必死だった。
 体を棒に打たれながら跳びのき、前足を下げてお尻を持ち上げる。硬い外殻は棒からの衝撃をきっちり守ってくれていたので、大した傷にはならなかったようだ。
 蜘蛛の臀部が持ち上がるや、一条の白い何かが射出。

 「ちょ、糸!?」

 少女がとっさに腕で庇うと、ぐちゃりと付着して瞬く間に接着。もし庇ってなかったら顔面にはりつき呼吸が出来ずそのまま餌になっていた。背筋が凍る。
 蜘蛛が更に糸を吐く。一本二本と少女に向かって放たれ、避けることも出来ず手足に絡みつき、その粘性によって動きを制限されていく。切ろうにも糸の弾力がそれを許さない。
 糸を掴み取り引っ張ろうとしたが、蜘蛛の重量的に意味が無い。

 「ぐ………こ、こんなこともあろうかと……ナイフを……取れない!」

 切れないのでナイフを抜こうとしたが、これでもかと浴びせられる糸が腕に絡みつき、足にへばり付き、とうとう棒立ちが精一杯にまで追い詰められる。手の棒すら糸でべっとり。
 足のみを動かしてちょこちょこと後退する少女に、蜘蛛はしめたとばかりに距離を詰めて、いつ跳びつこうかと算段を立てている。
 少女はふと、『あっ、これは終わったな』と一種の諦めにも似た思いを抱いた。
 防具も仲間も居ないのに相手の目の前で動けぬ状態では、逃げることも反撃も不可能であろう。それが意味するのは即ち敗北である。
 蜘蛛の目が爛々と輝いた。

 「来るなよ! 食っても美味しくないぞ! ああっ、だから来るな!」

 トドメとばかりに糸を吐きかけて、少女はとうとうぐるぐる巻きに近い様相に。
 祈るようというか、必死で蜘蛛を説得したり罵ったりしてこっちに来るなとしてみるが、蜘蛛に人間の言語が通用するわけも無く、いくつも生えた足をカタカタと鳴らしながら寄ってくる。
 こうなったら手段は一つだけ。

 「〝灯れ〟! 頼むから〝灯れ〟!」

 ――魔術で糸を燃やし脱出する。
 指の動きもなくただ呪文を唱え、魔術が発動してくれることをひたすら祈る。
 神でも悪魔でもいい、糸に巻かれて死ぬなんてことを止めさせてくれ。俺は家に帰りたいんだ。
 少女は呪文を気が狂ったように連呼して、出来る限り蜘蛛から離れようとする。
 蜘蛛はもう相手が抵抗することが出来ないと判断したらしく、全脚を屈めると、跳んだ。

 「〝灯れ〟!」

 少女はこれで最後と感じ、全身全霊、喉も枯れよと声を振り絞り唱えた。
 セカイが変動した。
 世の理を捻じ曲げる術、即ち魔術が少女の命令に従い発生するや、たちまちのうちに蜘蛛の糸を焼き尽くした。物理的肉体と霊魂の結合力として作用する力がエルフの血により引き出されたのだった。
 灯れとは名前だけの強力な火炎が身を包んだのも一瞬、身軽になった少女は己に驚愕する間もなく蜘蛛の体当たりをかわすと、ナイフを持つ。
 体にかかった負荷により鼻から鮮血が垂れた。
 何をすればいいのかは正直分からないのに、何をすべきなのかが分かる。
 突如圧し掛かった疲労により目は眩み、涙が流れ、呼吸は全力疾走時並みに荒く。

 呪文はどうしよう。

    そうだ、好きな言葉を紡げばいい。

 ナイフを下手に握りなおすと、体勢を直しこちらに再度跳びかからんとする蜘蛛を睨みつける。
 自分の心臓の音が痛いほど大きい。指の先まで熱い。吐き気と倦怠感が筋肉を占領していく。
 イメージは主に自分が体験してきた事柄や、ゲーム、映画、その辺からかき集めなんとかでっち上げる。いいのだ、それで。今はそれでいい。
 蜘蛛が跳び、

 「〝剣よ燃えよ〟!」

 ナイフを火炎が覆い尽くし、刹那、赤き長剣と化した。
 真正面からくる蜘蛛は回避できずにその剣に跳びかかり串刺し。肉が焼ける嫌な臭いが鼻を刺す。火炎の剣により蜘蛛は絶命し、その場に崩れ静かになった。
 
 「鼻血が止ま………ら」

 だがそれまでだった。
 強い魔術を行使すれば精神肉体全てに負担が強いられ、それは“少女”の肉体にも適応された。
 火炎の灯火消失した後には蜘蛛の死骸と熱きナイフが残される。ナイフが熱過ぎて取り落とし、自らもふらふらと数歩後退して、鼻から垂れる血を手で押さえる。
 どうやら魔術の行使に成功したらしいとは分かったが、過労死寸前なほどに全身は苦痛の声をあげ、視界では点滅する黒と白が入り混じり乱舞する有様。
 魔術を使うたびにここまで疲れてたら意味が無いなぁ、と少女は思いつつ意識を手放した。







 少女が意識を取り戻したのは、日没後の暗闇の中であった。
 顔は涙や鼻血で酷いことになっていたが、鏡が無いので適当に拭うのみ。体裁を気にしている暇が無いのだ、彼女には。
 ナイフを拾って腰に戻し、蜘蛛の死骸につかつか歩み寄る。

 「どんなもんだよバカヤロウ! 痛ッ!?」

 少女は、頭部に火炎の剣を受けて絶命している蜘蛛を憂さ晴らしに足で蹴飛ばした。殻が硬くて痛かった。足を押さえその場で悶絶する。
 辺りは暗く、草原が黒の海のよう。朧に見えるは星空。風が冷たくなり始め、身を震わす。
 今日はここで野宿するしかないようだ。
 少女は蜘蛛の死骸を嫌悪の表情を浮かべて引きずっていくと、木の陰に座った。
 そして辺りから木の棒を集めてくると小山を築き上げ、指先を出して集中する。焚火にしようとしたのだ。

 「〝灯れ〟! ……? 〝灯れ〟! ………〝灯れ〟………またか」

 いくら呪文を言おうとも指を振ろうとも火は灯ってくれない。
 蜘蛛を倒した時に魔力でも使い果たしたのかと推測するが、定かではない。どちらにしても今はこの危険な場所で眠るしかないようであった。
 少女は蜘蛛の残骸を軽く足で蹴飛ばすと、その場に寝転がろうとして止め、自分の頭を覆っていた布を取りに行きそれをかぶると、また戻って来てやっとこさ座った。
 布を頭にきっちり巻きつけ、木に寄りかかる。
 もし、同じような蜘蛛なり狼が出てきたらどうすればいいのか。

 「…………その時は死ぬか、魔術使えるようになるか、どっちか………眠い」

 その時は死ぬだけさと楽観的にも悲観的にもとれる言い訳を心の内の自分にして、目を瞑る。程無くして眠りが訪れ、すぅすぅ小さい寝息が上がり始めた。
 風が地面を駆け抜け、少女の髪の毛を揺らした。










~~~~~~~~~~~あとがき
やっと戦闘シーン。
魔術がダサいのは仕様です。
蜘蛛って食べられるんでしたっけね。



[19099] 八話 水面の彼女
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:43
 Ⅷ、




 最近分かった事がある。
 指を立てると、しっかりとイメージを組みたてながら目を瞑って、心の中で強く強く願う。自分には今火が必要なのだと。自分は火を欲しているのだと。

 「〝灯れ〟」

 ぼっ。
 ほんの一瞬だけだが指先に紅い火が生まれ、すぐに消え去った。
 百回に数回程度の成功を手繰り寄せても、一秒と持たず消えてしまうことに胸が虚しくなった。
 “少女”は溜息をつき岩から腰を上げると、丘というより山から木を根こそぎとってしまったようなその場所を登り始めた。
 どうやら魔術とは、イメージや願いの強さによって発現するらしい。現に灯れ以外に燃えろや火炎よ生じよと唱えたり、また元の世界の英語を使って唱えてみたところ、発動した時があった。
 それどころか完全に適当な言葉を言いつつやっても発動する時があった。
 少女は、魔術は言葉や行動よりもイメージや願いといった精神的な部分に大きく頼っているらしいと理解した。指を振らず木の枝を使ってみても火がついたことから、それは明らかだった。
 干し肉をくれた男は呪文が必要云々言っていたが、嘘だったのだろうか。
 問題はその持続時間だ。集中してイメージを組みたて、願いを込めて唱えても今のように一瞬しか保てないのだ。蜘蛛を倒せたのは文字通り必死だったからなのだろう。
 だがこれらは全て推測にすぎない。元の世界なら図書館なりインターネットなりで情報を得られたが、この世界ではそれはおとぎ話のようなものである。
 練習が必要だが、魔術が使えるかもしれないということは少女の希望の一つになっていた。実際に魔物(蜘蛛)を倒したこともそれを後押しする。
 蜘蛛の糸で使い物にならなくなった木の棒の代わりに、草原で朽ちて骨だけに成っていた動物から程良い骨を拝借して棍棒兼杖代わり。もちろん人が来たら捨てるつもりだ。
 服はボロボロ。体は泥だらけ。顔には鼻血の跡。はたから見たら原始人そのものである。
 そこに耳を隠すために布を被り、ひょこひょこ歩く少女はエルフどころか別の種族に見えなくもない。
 結局、丘を越えるのに恐ろしく時間を消費してしまい、頂上に登った頃にはお昼になっていた。
 残り少ない木の実を取りだすと噛み砕いて舌の下に押しやり糖分を摂取させてから飲み込み、食べられる野草を口にしては飲み込む。美味しくないので食べると言う作業に過ぎない。
 丘を越えた先に村があるといっていたが、果たしてどこにあるのか。
 少女は懐から地図を取りだすと、杖代わりの骨を弄びながら目を通した。眼をごしごし擦って鼻の頭を掻く。

 「……距離が分からないな。でも――」

 目を上げると、丘から見える位置にある湖らしき場所を見遣る。
 日光を反射して煌めくそこはまさにオアシス。蒼い水が目に嬉しい。久しく水を飲んでいなかったことを思い出した少女は、酸性な木の実の味が染みついた唾液を飲み込んだ。
 そこでやっと、自らの格好が酷く汚れていることに気がつく。
 今の今まで食べ物を探したり、道を歩くことだけしか考えていなかったので、身の回りのことについて頓着する余裕がなかった。正確に言えば清潔について考える余裕がなかった。
 髪の毛に触り、首元の汗に触り、蜘蛛の糸の粘着がついた腕に触る。
 久しぶりに水浴びをしても罰は当たらない。それにこの時代である、屋外で水浴びなどしょっちゅうあることだろうから、いいだろう。
 それに小学生程度の女の子の裸体を見て喜ぶ奴など居やしない。
 少女は地図を丁寧に折りたたむと、足元に注意しながら丘を下って行った。






 目視可能な距離だとしても、実際歩いてみると恐ろしく時間がかかるものだ。
 なんだかんだ湖に辿り着く為に道なき道を進み、草むらの海を割り進み、森の中でさんざん迷いながら辿り着く頃には太陽がやや傾いていた。
 正確な時間は分からない。時刻を知る手段がほぼ無く、また自然環境のごく限られたものでしか時間を知る手段のない少女には、空が全てであった。
 空が明るければ朝昼、暗くなれば夕夜。危険なので暗くなったら安全な場所を探し、決して行動しない。現代ではありえなくとも、昔はみんなこうだった。
 火を起こせば行動できるかもしれないが、暗い中光り輝く松明を持って行動すれば目立つこと間違いなしである。

 「綺麗だな………どれどれ」

 湖の畔に辿り着いた少女は、骨の杖を木に立てかけ、湖を覗きこんだ。
 まだ幼いが疲れた顔の少女が湖の表面に映っている。この世界に来て初めて自らの現在を直視し、思わずその水面に手を伸ばした。歪んだ。
 湖の水質は、地下に広がる蒼穹といった面持ちで透き通り、指を入れて見たところ震えあがるほど冷たかった。両手をつけて一口飲むと清水が体に染み込むよう。 ついでに顔を洗って、服で拭う。
 ぽたりと水滴が落ち、丸い波紋を湖面に刻む。

 「本当にこんな姿になってたんだな、俺は………誰だよコイツ」

 怪訝な顔をすると、水面の中の顔も怪訝な顔をする。
 やっと自分が少女になってしまったことを自覚して力が抜けて、湖畔に座り込むと、石を拾い上げて投げて遊び始めた。
 手のスナップを利かせ回転を加えながら投げれば、石が水面で飛び跳ねてぽちゃんと没する。
 そういえば、テレビやらゲームやらパソコンやら、そういった類の娯楽どころか本すら読んでいないことを思い出す。何にしても娯楽はカネがいるので、自然を使って遊ぶほかないのだが、懐かしくなる。
 旅の同行者か便利な使い魔でも居れば楽なのだろうが、いずれにしても少女が手に入れるには障害が多過ぎる。
 旅の同行者に至っては裏切られる可能性だって捨てきれないのだ。
 頼れる相手も喋る相手も居なくて、寂しさは募るばかり。必然的に独り言が増える。それは時に木を擬人化して語りかけるものだったり、漫画やゲームのセリフを引用してきたものだったりする。
 さて、と少女は呟くと頭の被り物をとらずに服を脱ぎ始めた。万が一人間に見られたら後に面倒になるからである。
 “少女”は、服を脱ぎつつ、今自分は男なのか女なのか、そこがはっきりしないことについて考えていた。
 思考は男のままのつもりだったが、日々を過ごす内に女なのか男なのか曖昧になってきたのだ。
 下着も含めすっかりと服を脱ぎ捨てると、頭の被り物だけはそのままに、足先から水の中に入る。
 汚れた体はしかして美しく、エルフ特有の均整の取れた幼き体が外気に晒されて震える。

 「冷たッ! ぁー、これは冷たい」

 湖は徐々に深くなっていくが、手前の浅瀬は膝が浸かる程度の深さ。
 全身に染みついた汚れが水に溶けて行き、擦り傷や打撲が冷たい水でちりりと痛みだす。それでも久しぶりの水浴びは心と体を喜ばせた。
 服も洗ってしまおうかと思ったが、残念ながら着替えが無いので断念せざるを得ない。屋外で全裸、しかも水にぬれた状態は辛すぎる。
 魔術で火を起こせばいいかもしれないが、何度試しても発動しなかったりするのでそれに頼るのは危険と言わざるを得ない。それに服なんて洗っても汚れるし、また単純に面倒だった。
 冷水に身を沈めて全身を擦って汚れを落とし、髪を洗い顔を洗い、清水を喉を鳴らして飲む。
 己の貧相な体が水越しに透けて見えており、華奢な作りの両脚の付け根には男であるならあるべきものは無い。改めて自分が女の体になったと理解する。
 もしも元の世界に戻れなかったら、女として生きるしかないのだろうか。
 元が男だけに男の心情や行動形式を心得ている“青年”は、もし女として生きるのなら、どうにも素直な恋愛は出来そうにないと考えた。
 というよりエルフの段階で人間と結婚できるとは思えない。するとしたら同族か。
 久しぶりに落ちついているがため、様々なことに思考を張り巡らすことが出来た。湖の冷水が頭をほどよく冷やし、体の熱を削ぎ落していくものの、決して不快なんかではない。

 「――――、―――、――、――――♪」

 鼻唄を紡ぎつつ、背泳ぎで湖を進む。
 木々の木漏れ日が少女の肌の色を際立たせ、点々と落ちる影が紋様を作る。
 耳に水が入ったので湖の底に両脚をかけて立ちあがると、頭の布の中に手を入れて耳を引っ張って水を抜く。長い分だけ引っ張りやすかった。
 時に元の世界の流行歌を自分で変化させたのを鼻唄にして、湖を駆け回る。どうやら水というのは人間をはしゃがせる作用があるらしかった。
 でもあんまり長く入っているわけにもいかないので、湖から上がろうとして、なんとなく草むらの方に目をやった。
 ―――目と目が合った。

 「あっ、待て!」

 何者かが草むらから飛び出すや、全速力で逃げていく。
 その人物が自分と大差ない年齢の『人間』だと分かり、少女はその後ろ姿を全裸で追跡せざるを得なかった。頭を覆う布の隙間から耳を見てしまった可能性があったのだ。
 もしも通報でもされたらなぶり殺されるのは必至。羞恥心は無く、むしろ焦燥感が大きかった。
 ナイフを引っ掴み、全裸で森の中を駆ける。
 傍から見たらただの変態だった。









~~~~~~~~~~~あとがき
幼女だから恥ずかしくないもん 元男だから恥ずかしくないもん



[19099] 九話 赤山を目指せ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:43
 Ⅸ、



 結論から先に言おう、目撃者の捕縛は案外簡単だった。
 自分と大差ない(外見のみ)目撃者に対し追尾中に石を拾い、全力で投擲したところ、偶然にも頭部に命中してその場に転がった。そこを、蔓でぐるぐる巻きにして湖の方に引っ張って行った。
 どうやら少女は歩き続けたり体を使い続けていたお陰で、幼い時期特有のぷにっと体型から引き締まった体になっていたらしい。
 同年代の少年を木の幹に寄りかからせて、いそいそと体の水分を取ると服を着る。念には念を入れて頭に布を被り、ナイフをすぐに取り出せるようにして、少年の頭をぺちぺち叩く。
 石をもろに受けてしまって後頭部にタンコブが出来ていたが、この際仕方ないとする他ないであろう。

 「……うーん」
 「起きろ」
 「うぅううう………」
 「起きないと酷いぞ」
 「………」
 「起きないと本当に酷いぞ。拷問するんだからな」
 「………ぅう」
 「悪かったから起きてくれ。起きろよ」

 目を堅く閉じたままうめき声を上げるだけの少年に、罵ってみたり顔を突いてみたり、かと思ったら優しく語りかけたり肩を揺すってみたり。
 石を頭部に受けた打撃は相当酷かったのか、少年は眉に皺を寄せたままで意識を取り戻さない。
 患部を冷やせばいいのだろうかと考えて余っていた布を取りだし、湖の清水をつけて後頭部に宛がう。冷却用の氷でもあればもっと効果的だが、生憎冷蔵庫は無い。
 かと言って蔓の縄を解くと逃げられる可能性があるので、スマキ状態で頭を治療するという奇妙な光景が出来上がる。
 数分に渡り少年を起こそうと試行錯誤をしていた少女だが、ぷつりと何かが切れた。
 手のひらを振りあげると、哀れかな、少年の頬を強く叩いたのである。

 「起きろってんだよ!」
 「ぐっ……!? ………う、ここは……………って、あんたエルフ!?」

 頬を張られてようやく目を覚ました少年の視界に映り込んできたのは、苛立った様子の少女の姿。真正面から見ても、やっぱり耳が長く、エルフそのものだった。
 少女は少年が大声を上げるや、脅す様に指を突き出した。

 「俺は………じゃない私は魔術が使える。で、君は拘束されてる。私が望むのはこの近くにある村への道案内。他言無用、危害を加えない、その条件さえ飲めば私も危害を加えない」
 「………」
 「私は行くべき場所に行き、君はいつも通りの暮らしを送れる。正直エルフ討伐がどうのーなんて興味無いんでしょ? 黙ってれば二人が幸せ。そういうこと」
 「………道案内をして、村に危害を加えないって保障は?」
 「エルフをどんな目で見てるのかは知らないけど、私自身は正直エルフなんてどうでもいい。目的地につければいい。それに、今私が君の全ての選択肢を握ってることをお忘れなく」

 戦々恐々と言った面持ちの少年の目に指を出すと、いかにも魔術でいたぶるぞという素振りを見せつける。ナイフでもいいが、象徴である魔術を使うと脅した方がより効果的と判断した。
 攻撃性の火どころか、ライター以下の火力を一瞬作れる程度なのは知っている。だが、相手は知らない。
 “青年”の目的はエルフの里へ到達し元の世界に帰還する手掛かりを得た後、帰る一点のみ。
 エルフの迫害が許せないだの、宗教がどうの、文明がどうの、それらは目的を達成する為に必要なら干渉する程度の対象でしかない。
 体裁など構うものか。汚くても構わない。なんとしてでも、帰る。
 “青年”を突き動かすのは怨恨を遥かに通り過ごした、猛烈なまでの望郷心。
 どことも知れない暗闇の向こうに浮かぶ帰還という文字を目がけて、不安定な足場をただ歩く。もしも歩くのを止めたら、そこで折れてしまう。もしも飛ぶのを止めたら、そこで失速してしまう。
 現代で培ったゴミのような知識も、エルフは魔術が使えるという優位性も、全て注ぎ込もう。
 人は目的なしには生きていけない。
 だから“青年”は、目的を作り上げることで歩く為の原動力とした、それだけだ。
 “少女”の顔が大真面目で、しかも鬼気迫る様子。更には指を突き付けられ脅迫されている状況。
 つまるところ、少年に選択の余地は一欠片も残されていなかった。選択を放棄し逃亡するのにも、全身を拘束されていてはどうにもならぬ。

 「……分かった。とにかくこれを解いてくれないと、俺は動けない」
 「よし。それでいい。もしも裏切ったら、背中から刺すか焼き焦がしてやるからな」

 もっとも。
 少女は少年を戒めていた蔓をナイフで切断しながら自嘲した。
 使える魔術は着火ライターのような火力しかないのだが、と。





 少年に村を案内され、その先に進んだ少女は、大まか予想通りに村の住民の追尾を受けていた。
 どうやらエルフは捕まえると金になるらしく、馬を駆り出して村人総出で追いかけてきたのだ。
 雑魚の部類に入ると思われる蜘蛛一匹倒すのに気を失うくらいの実力しかない少女には、馬に乗り、剣を持った村人達は悪魔のようにしか映らなかった。
 幸い日は暮れかけており、草むらに身を隠せばなんとか凌ぐ事が出来た。
 エルフの肌は白く目立つので、地面の砂にツバを混ぜた泥を顔に塗り、更に蔓で頭に木の葉っぱを括りつけ、村人が通り過ぎるまで草むらで伏せたまま息を殺す。
 この知識はどっかで読んだ本にあった事柄で、軍人がよくやるフェイスペイントと、迷彩効果を高めるために体に木々を括りつけるのをそのまま真似しただけであったのだが、目の前を通り過ぎても気がつかなかったことから効果はあった。
 松明の揺らめく火に反射して剣が光っている。
 馬の足がすぐそこに来て止まり、村人の一人がきょろきょろと周囲を見ているのがまじかに観察できた。
 息をするのも恐怖。眼を開けるのも恐怖。身じろぎするのも恐怖。
 迂闊に動けば見つかる恐れがあり、村人の何人かは弓矢を携行していたのでよほど遠くに逃げなくてはならない。森の中に逃げ込むのもいいが、人海戦術であっというまにオダブツであろう。
 つまり、諦めてくれるまで隠れ続けなくてはならないのだ。
 一本の草の上でもぞもぞ動く毛虫を村人の松明の光で見遣る異常な近さ。
 夜になる前に安全なねぐらと、食べられるものの確保をしたいのにそれもできず。
 空は見る見るうちに光を失い、星空が視認できるようになってきた。村はずれから始まる草木生い茂る小さい山の端での命がけのかくれんぼ。
 カラスのような鳥が群れをなして木から飛び立つと、たちまち空の彼方に消えて行く。
 それから数十分ほど時間が経過して、村人達は談笑しながら村に戻って行った。彼らが話していた内容から察するにエルフ懸賞金がかけられているのと同時に、手篭めにしてしまおうという欲望も垣間見えた。
 野蛮な、とは思わない。この世界ではそれが当然であるなら、仕方が無いと考える。
 そもそも生きてきた世界も違うのに、自らの尺度でモノを測ること自体が間違っているのだから。
 森に静寂が回帰し、少女は草むらから顔を出すと目元を手で擦り泥を落とすと、今日はどこに寝ようかと思索しながら杖代わりの骨を握り、立ちあがった。
 村を越えて行った先に様々な民族種族が集まるという場所がある。そこを目指し、川の上流を目指しエルフの里に至る。目標は遠いが、やるしかない。
 食糧である木の実を全て食べてしまった少女は、仕方が無しに食べることと探すことを諦め、安全を求めて森から出て、夜陰に紛れて次の目的地の目印である、赤い土で固められたような山を目指して歩いて行った。
 行く手を祝福するように月が明るかった。









~~~~~~~~~~~~~~~~~~あとがき
次回、エルフの里がある山に辿り着きます。
ここまで来るのに三万文字はかかりました。

それにしても、現代の知識が役に立たないこと……
たった一人、しかも財力も技能もない現代人がこの世界に落ちてきたらこうなるのも仕方ないのですかね。地位のある人間に転生すればよかったかも。
サバイバル知識は当時の人のほうが高いし。



[19099] 十話 蜘蛛調理及び罠の危険性について
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:44
 Ⅹ、


 木の上から獲物を睨む影一つ。
 大きく振り上げて、飛び降りる。

「うおおおおおおりゃあああ!!」

 先端に石を括りつけた木の棍棒をそれに叩き下ろす。それは突如強襲されて致命傷を負い、透明やら緑やらの体液を撒き散らしながら沈黙した。
 “少女”は棍棒を再度振りあげると、それを滅多打ちにする。一回に留まらず二回三回と振りおろし、トドメとばかりにそれを蹴りあげて転がした。

 「よっしゃあああー!」

 少女は自分の意思で仕留めた初の獲物を前に、両手を叩き合わせぴょんぴょん踊り狂いながら雄たけびを上げた。
 打撃を食らい続け内臓を壊されたその獲物、蜘蛛は足を痙攣させたまま腹を上にして動かない。既に息絶えているのだ。
 少女が居る場所は森。川を辿った先にある、人の寄りつかない深き古の原生林であり、このどこかにエルフの里があるそうなのだが、入り込んで数日ほど経ったが一向に見つからない。
 湖で村を追われてから一週間ほどかけて赤い山に付き、更に数日かけて川を見つけ、それを辿って森に入った。
 そこに至るまでに野犬と死闘したり、風邪をひいたり、空腹に耐えかねて物を盗んだら矢を射られたり、ここまで生き残ってこれたことが奇跡というほかない状況を乗り越えてきた。
 それも一重にエルフだからではなく、彼が彼だったからというほかない。元の世界に帰りたい。安住の地を求めたい。その気持ち以外は彼もしくは彼女をここまでさせなかったであろう。
 特別な能力も才能も機転の良さの無い。あるのは諦めたくないと言う意地。
 でもなければ地を這い、泥まみれの木の実を口にして、湿気の多い森や砂埃立つ草原で野宿したりはしまい。
 そんなこともあり、人間、開き直ってくるものである。
 汚いことは全然平気。泥水も飲めます。雨水はシャワーです。狩りもします。野宿が普通です。
 現代人としてのプライドもこの際捨ててしまおうと腹を括り、森の中に適した格好で探索をする。
 頭に木の枝を括りつけて服を草の汁で塗りたくり、移動するときに足跡を残さないように靴を大きい葉で覆う。ナイフは木の棒の先に固定して槍とする。弓の代わりに石を投げつける。木の棍棒の威力を増す為に石をくっつける。
 やってることは完全に昔の人である。ただ、昔の人ですら共同作業をしていたのを、少女はあくまで単独であるだけ。
 獲物である蜘蛛に蔓を撒き付けると地面を擦りながら引っ張っていき、自分の荷物置き兼ねぐらである木の洞の前で止める。
 蜘蛛を狩って食べたことは無いが、この近辺に木の実が無い以上狩らざるを得ない。
 それに、干し肉を道中食いつくしてしまったので、動物性(?)の食べ物を食べたくて仕方がなかった。
 以前苦戦した経験のある蜘蛛も、真上から強襲すれば大して強くなかった。どうやら地面を這い動植物を捕食したり、糸で地面に罠を作って獲物を捕える生態らしく、上からの攻撃に対処できないようなのだ。
 この世界では蜘蛛がRPGで言うところのスライム的扱いを受けているようでその辺にごろごろいて、道中何度も遭遇したため、なんとなくだが生態と行動形式が分かってきた。
 魔術で攻撃するよりブン殴った方が強かったぜ! ……なんて悲しいがこれも事実。
 撲殺した蜘蛛をどう調理しようかと検分し、ナイフでは殻を貫けず、それ以前に捌くのが困難そうなので、もっとも原始的な調理法を選ぶ。
 蜘蛛を食べるなんて不気味じゃないかと思うかもしれないが、“少女”の立場と、この世界において珍しくもない生き物と考えれば、十分食するに値する。
 日本ではゲテモノ扱いだが、海外では蜘蛛を御馳走とする地域だってあるのだ、決して馬鹿には出来まい。
 木の洞の前の草はある程度刈られており、一部には石を均等に並べた場所を作っておいた。そこに蜘蛛をでんと置くと、枯れ枝や葉を集め、調理の準備をする。
 少女の特訓の成果が実を結び、十秒程なら火を灯すことが出来るようになっていた。
 指を出して枯れ葉の中に突っ込み、集中する。
 森のざわめきと遠くに鳴る川の吐息をBGMに、火花が瞬時に収縮し不死鳥が如く火炎となる様に念ずる。
 そして、自らが引き金と心で思う言葉を紡ぐ。唱える方がイメージを固定しやすいのだ。

 「―――〝灯れ〟」

 指先で『ボッ』と音がするや、頼りない赤き炎が灯る。
 イメージと念の力が消えてしまわないうちに指をぐいぐい押しつけて火をつけると、息を吹きかけて火を大きくしていく。これが非常に難しい。捻るだけで火が灯るコンロとは違う。
 枯れ葉から小枝に。小枝から木に。木から全体に。空気の流れを考慮して、木々を足す。
 十分後、火は蜘蛛を覆い尽くすほど大きくなり、その身を焼いていた。
 もくもく煙が上がる中、鼻歌交じりに蜘蛛を焼く。枝を差し込み蜘蛛の位置を直して、全体が焼けるように。

 「ふふふふふっふふっふふーん♪」

 地面に座り込んで、焚火の熱気に顔を照らされるのも気にせず調理をする。
 火を見つめていると、昼間でも心が落ち着く。
 なんでもそれは人という種族の遺伝子に刻まれた記憶というが、エルフの体でも落ちつくのだから、その実、火という武器であり調理道具が手の内にあるという事実に落ちつくのだろう。
 蜘蛛が焼けていけば、殻がめくれ上がり、香ばしい匂いがしてくる。食したことは無いが、匂いだけは凄く美味しそうに感じられる。
 思えば調理らしき調理をしたのはこの世界にきて初めてでは無かろうか。
 煙にケホケホむせても目を離さず調理する。というのも火の処理を間違うと森が焼け落ちかねないということもあるが、何より食べ物が目の前にあるということが嬉しくて仕方が無いのだ。
 じっくり蜘蛛を焼き上げた少女は、蜘蛛を引きずり出し火に砂をかけて消火して、早速殻をはぎ取り始める。
 蜘蛛の調理は初めてなのでいつ火から上げていいのか分からないが、殻の表面がこんがり焼けたのを見計らった。

 「熱ィ! 熱い!」

 蜘蛛の姿焼は当然熱くて、少女は殻を割ろうとして苦戦した。
 やむを得ず殻の間にナイフを差し込むと、無理矢理こじ開ける。片っ端からはがしていてはキリが無いので腹部の部分だけを開けて、中身を見遣る。

 「………魚……というか、カニカマ………うーん」

 中身は白いというより肌色に近くて、思ったより綺麗だったのだが、なんとなく人間の脳味噌を思わせる感じで食欲が削がれた。
 が、匂いだけは美味しそうだし、ここまで調理したのに食べないなんてもったいないので、端を千切って口に入れて咀嚼した。
 少女は首を傾げた。

 「……びみょーとかがっかり過ぎる……」

 美味しい訳でもなく、マズイわけでもなく、淡白な味と、魚の切り身のような触感。
 手を突っ込み内臓を取り出し喰らい、その中の良く分からない肉も食べてみる。味はあまりせず、醤油でもかけたらさぞかし美味であろうという風だった。
 塩でも調達すればよかったと今さら後悔するが、これはこれで。

 「……でも……案外これはこれで。あーっ、醤油とバター欲しい」

 少女は手づかみで蜘蛛の中身をあっという間に食べていくと、生焼けの部分を残し満腹になるまで食べきった。
 もしも毒でもあったらどうするのという不安要素はあったが、焼けば食べられると信じて食べた。大型の生き物は毒を持っていないという知識もあったのだが、正直なところ、調べるのが面倒だった。
 食べ終わって口を拭うと、すぐさま蜘蛛の足を蹴り折り、小さくしてから草むらに隠蔽する。地面を掘ってもいいが、別にこれでも問題にはならない。
 少女は自分の荷物をまとめた後、川の方に向かって歩いて行った。
 さほど大きくもない川につくと、顔を洗い、新たに泥を塗り直す。萎れてきたカモフラージュ用の木やら葉っぱやらを交換して、口を濯ぐ。背中の槍を背負いなおし、木の棍棒片手に歩きだす。
 なんの根拠もなかったが、川を伝って上流に歩いていけばエルフの里があるような気がしてならなかった。

 「待ってろよコンチクショウめ」

 “少女”は決意を露わにしたセリフを吐くと、道なき道を行く。
 そして、まんまと罠にかかった。
 川べりに置いてある何やら縄のようなものを何気なく引っ張ると、突如地面の中に埋もれていた縄が持ち上がり、少女の胴体を拘束して地上数mにまで持ち上げたのだった。
 一瞬理解が出来ず沈黙するも、すぐさま足をばたつかせ縄を切らんと暴れる。ナイフで切ろうとするが、縄が肌に食い込み手が出せない。

 「ああそうかい、エルフの罠ってか! よっしゃあ早く獲物取りにこいよ!」

 見事なまでに罠にかかった少女だが、エルフがこの罠にかかった獲物を回収しにくると思えばこれくらいなんてこともないと考え、大声を出して自分の位置を知らせようとした。
 が、そこでふと気が付き声を止めた。
 地上数mで木から宙づりなのは案外辛かった。
 
 「………あれ? ひょっとしてこれ侵入者用の罠? アホを引っ掛けましたって? …………」

 確か現在目指しているエルフの里は人間を嫌って山の中を切り拓いたそうで、罠にしても動物ではなく人間用のもあって不思議ではないではなかろうか。
 しかし、それにしては罠発動で即死亡でもなく、麻酔効果のあるものでもなく、また魔術による拘束すら起こらないのは何故なのだろう。
 ――まるで、作りかけのよう。
 少女は暴れるのを止めると、今度は体をくねらせるようにして脱出を図った。

 「おやおや」
 「!?」

 その時だった。
 少女が罠から抜け出そうとしていた時、どこからともなく声が聞こえ、思わず硬直した。
 声の主を探し首を振るが、草むらにも、川の中にも、それらしい影は見られない。それどころか、川の方や森のほうから霧が押し寄せ、視界そのものが乳白色に染められていく。

 「罠はまだ出来上がってないのに、せっかちな獲物だ。人間よ、悪く思うな」

 宙づりのまま耳に意識を集中し、その声が足元から聞こえてくるのをようやく感じた。
 冷たく、しかし美しきその声は、あたかも一種の音楽のように鳴り響き、ホワイトアウトした視界を作り上げた主であることを声高に主張しているようであった。
 ――エルフだ。心臓が跳ね上がる。
 “少女”は直感し、足元から弓を引き絞るような音がしたのを聞くと、体を大きく振り、声を張り上げた。

 「ま、待ってくれ! 俺はエルフなんだ!」
 「………何?」










~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あとがき
やっとエルフに遭遇しました。
やっぱり話にはタイトルってつけた方がいいのでしょうかね。
しつこいようだがAMIDAではない。


何もしてないのに主人公がギャグっぽいのは何故。



[19099] 十一話 エルフの里
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2010/06/06 18:44
 XI、




 “少女”は同族であるはずのエルフに危うく狩られそうになる前に自らの身分を明かし、自分のいた里が襲撃されてここまで歩いて来たことを告げると、里まで連れて行って貰った。
 不思議なことに、そのエルフが歩くと森が自然と道を開けているようで、なんらかの力が働いていると予想したが結局分からなかった。
 里はびっくりするほど時間をかけずに到着して、少女はその立派さに目を見張ることとなった。
 もちろん、元の世界の建築物と比較したら雲泥の差があったが比べることが間違っている。高き塔が森の中央にあり、その周囲に木で造られた家々が並んでいる様はさながらファンタジーだった。ファンタジーだが。
 中には死んだ巨木の中身を家にしたり、木々の間に蔓を巻き付けて橋としたり、地下に穴を掘ってそこを家としたり、なるほど、自然と共生するエルフにはうってつけの里と思った。
 耳が長く肌が白く、手足はすらりと長い男の門番に気をとられた少女に、弓を背負った付き添いのエルフが首を傾げた。
 ちなみに頭に括りつけていた木やらなんやらのカモフラージュはみっともないから外してきたが、肌の汚れや服の汚れが酷く、なんとなく羞恥を覚えた。
 RPGでよくお目にかかるエルフの格好そのままの村人が歩き回っており、はしゃいで遊ぶ子供たちも当然耳の長いエルフ。
 ここにきて初めて、“少女”は迫害されることも無く町を歩くことができた。
 空を見上げると、大木から伸びた蔓の橋を悠々と歩くエルフがおり、まるで蔓が電線のようにも感じられた。
 空気は森の中故にひんやりと冷たくて清らか。川べりということもあってか喧騒に混じって微かな水音が聞こえてくる。
 随分昔に行ったキャンプ場に雰囲気が一番近いと感じたものの、娯楽的なものでなく実用的なものとあれば、全く比べ物にならない。

 「自己紹介していなかったが、私の名前はアネットという。同族を罠にかけたことを詫びたい」

 髪の毛を後ろで結ったエルフの女性はそう口にすると、少女に頭を下げた。
 この金髪というより白髪に近い髪をポニーテールにした女性こそ、“少女”を罠にかけて霧中に陥れ、矢を射かけんとした相手である。同族と分かるや頭を下げまくり、責任をとると言ったのだ。
 誠実というか、どこか武士や騎士の匂いを感じさせる彼女、アネットは更に深く頭を下げた。
 少女は、里に入ろうとするところで頭を下げられては目立つし恥ずかしいので、両手を振った。

 「俺は気にしてないです。むしろ、罠に引っ掛けてくれてありがとうって感じなんですよ。あのまま彷徨ってたら里どころか魔物の胃袋でぬくぬく昼寝ですから」
 「………そうか、優しいのだな。………そうだった、なにはともかく長の許に行かねば。ついて来てくれ。衣服や食べ物に住処といったことは、まず長に了解を得ねばならないのだ、特に外から来た者には」
 「分かりました。もう長いことこんな格好だし、お腹もすいてないし、怪我もないし、ちょっと位大丈夫です」

 アネットは門番と目配せをすると、里の中に少女を連れて入って行った。
 里、つまりは町の中に入って分かるのだが、家にしてもなんにしても、長年育ててきたであろう木々で天を覆い、また隠しきれない場所に関しては現代風に言うと緑化している。
 火を扱っているのか煙突こそあるが、それも蔓が巻き付いていたり、また緑色に塗装されている。
 かと思えば道の雑草は引き抜かれ一か所に纏められており、せっせせっせと運んでいるところを見る限り、肥料か何かにするのであろうか。
 エルフ=弓使い という勝手なイメージを抱いていた少女だが、道を歩くエルフが剣を持っていたり、槍を持っていたり、はたまた杖を持っていたり、一概にそうとも得ないと知った。
 里の中央に座す石造りの塔の周囲には鳥が飛び交っており、緑に溶け込むような街並みとは打って変わって異質な様相を呈している。
 元の世界の絵画に似たような構図があったが、どうにも思いだせなかった。
 さて、長老とやらはどんなエルフなのだろう。
 少女は物珍しさに周囲にきょろきょろ視線を配りつつ、アネットの後を追いかけた。






 長老は想像していた髭の爺さん(失礼)ではなく、初老のカッコ良いオジサマであった。
 塔の一番上……ではなく少し下にある長老の部屋に通された少女は、背後で直立不動をとる守衛の厳つい視線にうすら寒さすら覚えつつ、アネットの横にいた。
 部屋は古風で(当たり前だが)、広く、そして窓があった。壁には杖がかけられており、何事かの文字が記された布が優勝旗の如く堂々と掲げられていた。
 布のいくつかは物語を記しているようだったが、文字も読めない少女にそれを解読することは不可能であった。
 棚には本が並べられており、そのいずれも厚く難しそうだった。
 窓際の木製の机に座った長老が、その厳格そうで思慮ある瞳で少女を見遣った。耳の先いついた銀のアクセサリーが不気味に光った気がした。
 何か途方もない力に晒されたようで、拳を握る。
 忘れかけていたがエルフとは先天的に魔術を扱える種族であり、戦闘能力だけでも計り知れないそうではないか。
 もしも排除対象と認定されたら守衛とアネットと長老全員で殺しに来る可能性も皆無ではないのだ。その場合に少女が生き残れる確率は、腕時計をトイレに落としたら勝手に飛び出してくるほどしかない。

 外からやってきたエルフが、もしも人間の狗だったら?
 もしも少女どころか、人間の使い魔だったら?

 エルフと人間が本格的に殺し合う時代なのだ、少女が殺されても不思議ではない。
 アネットから報告を受けた長老は、少女に怜悧な視線を落したまま黙っている。ひょっとして魔術の類でも使っているのかもしれなかった。
 こうなっては元の世界に帰る方法など尋ねられる訳もない。とりあえず今は己の居場所を作ることに専念するほかに選択肢が無くなった。
 長老はふぅと息を吐くと、視線を外し窓を見た。小鳥が数羽空に飛び去った。

 「ふむ……確かに我々と同じようだ。疑って申し訳なかった。我々とて聖者の集まりではないのだからね」
 「いえ、いいです。俺……えっと、私は覚悟は決めてましたから」

 柔和な笑みを浮かべてみせた少女であるが、内心は全然違った。
 覚悟なんて出来てやしない。もしも剣の一本でも目の前に出されたら、きっと震えて口も聞けなかったであろう。
 こうして虚勢を張り、対話により自らを証明して利を引き出し売り込まない限り生き残れなくて、元の世界に帰るどころか生きることすらままならない身分なのだが、覚悟となるとまた違う次元だ。
 死の覚悟をするつもりはこれっぽっちもなく、生きることを放棄することは現段階で考えられなかった。
 少女の笑みを見遣った長老は、椅子に座ると本を開いた。麻色のローブが微風を孕み揺れた。

 「確か、君の住んでいる場所が襲撃されたそうだが………答えたくなければいい、教えてくれないだろうか」
 「えーっと…………………妙な連中が来て、夜に襲撃、最後に火を放って……」
 「ふむ………分かった」

 長老は本に何事かを羽ペンで書き込むと、拍子抜けするほどあっさり質問を打ち切った。
 これは少女の心情を考慮してのことだったが、当の本人は知る由もない。
 少女の方をちらりと見るどころか直立不動で両足まで揃えていたアネットに長老は目をやると、おもむろに口を開いた。
 アネットという女性は、少女の想像上のエルフと明らかに異なり、やもすれば軍人にも見えなくもなかったが、少々力が入り過ぎているようにも見えた。

 「アネット」
 「はっ」
 「お前にこの子の世話を任せる。衣食住、全てだ。お前があの迷いの森でこの子を見つけたということは、きっと縁の紐で繋がれているのだろうから」
 「は、お任せ下さい長老」

 アネットはこれ以上無い位に足を揃えると背筋を伸ばす。少女もつられて姿勢を正す。すると長老は口元に微笑を浮かべ、また問う。

 「そうだ、最後で申し訳ないが、君の名を聞いておきたい」
 「…………えっと」

 少女は名前を聞かれ、一瞬迷った。はて、一体自分の名前はなんだったかな、と。
 もはや怨念染みた帰還願望のみに縋ってここまで来た少女は、自分を証明するものも場面も無く、また名前を呼ばれたことすらこの世界では無かったことを思い出した。
 男としての己があるならまだマシだっただろうが、男でも無く人間でも無くの状況で、己を維持し続けるのは困難だった。生きることに執着し、帰りたいと念じ続けても、己が己であると確信できる材料が無い以上、そうなるのは当然だったのだ。
 数秒間の沈黙の後、少女は自らの名前を言おうとしたが、そのままだと不審がられること明白だったので少々発音を変えることにした。
 胸元に手を置き、言わん。

 「セージです。私の名前はセージと言います」

 実はセイジという本名であるというのは、“青年”しか知らない。
 こうして、エルフの里に一人の“少女”が加わった。










~~~~~~~あとがき

やっと名前が出ましたセージ君ちゃん。
描写がねっとりし過ぎかもしれない。



[19099] 十二話 遺書、もしくはただの手紙
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/14 02:24
 XII、


 数日後、アネットのツリーハウスにて。

 「では、魔術、魔法、魔導、妖術、奇術、その全ての違いを述べてほしい。焦らなくもいいぞ? まだ最初だから」
 「えー……魔術が通常の法則でも再現できる術、魔法はその上位術、魔導が魔の心得も才能もないものでも扱えるようにしたもの、妖術は意図せずして発動するもの、奇術は……手品ですよね? ただの」
 「正解。覚えがいいな。もっともこれらはあくまで分類で、全て魔術で問題ない」
 「覚えただけですよ。俺はまだ火すらまともに起こせないんですから」
 「知識を馬鹿にするものは後で知識に泣く。覚えて悪い知識は滅多にない」

 人間の適応力は凄まじいと言うが、エルフになってもその能力はそのままだった。
 あの後一通り身支度を(着替えや身繕い)をしてもらったセージ(本当はセイジ)は、がつがつとご飯を食べて寝て、医者の診断を受けた後、アネットの自宅に泊っていた。
 自身でも不思議だったが、アネットが自宅で服を脱ぎ始めてもぴくりとも動揺しなかった……訳では無く多少どきりとしたが、それだけだった。
 己と体の性別差が同化し始めたかと思ったが、どうやらそうではなく、男でも女でもない不思議な夕闇に立っているようなのだ。もし“少女”にお前は男かと聞けば首を振り、女かと尋ねても首を振るだろう。
 彼女はエルフの民族衣装を纏い、アネットの自宅の机で文章の勉強をし、その後はこの世界について学んでいた。
 それこそ教師のように丁寧に教えてくれるので、おおよそ数時間ほどでこの世界の情勢について掴むことが出来た。
 てっきりエルフは外界について興味が無く敵意しか抱いていないと思いきや、そうではなかった。むしろ積極的に親交を深めたがっているが情勢が許さないため排他的にならざるを得ないとか。
 エルフの里は数学や文学に建築学、生物学や神話の編纂など、元の世界のローマが如く分化が発展していた。製鉄や、更には初歩的ながら医術まであり、魔法薬で抗生物質そっくりの効果を持ったものまで製造しているのだから驚きだった。
 魔に依存するのではなく、驕らず常に高みを目指す。媚は売らず、決して誇りは捨てない。来るもの拒まず行くもの追わず。
 少女にはなんとなくだが外よりも技術が進歩している理由がわかった。
 魔術に関しても少女は学んだ。
 どうやら魔術とは世界を改変する技術であり、その力は物理的肉体と霊的肉体とを結びつける引力を利用しているらしい。つまり使い過ぎれば魂が離れてしまうらしいのだ。
 世界に語りかけられるのは一摘みの人間らしいが、ことエルフは全員が全員少なからず先天的に世界の改変を行えて、それが迫害の理由にもなっているとか。
 魔術の発動を助ける触媒やら式やらもあるらしいが、一日でそこまで学べるほど時間は無い。この世界について書かれた本を読んでもらった後、自宅リビングでのんびりとする二人。
 セージとしては早急に自分が元の世界に帰還する術を得たいが、果たして信じてもらえるかと言ったら首を捻らずを得ない。
 長老に話すのが一番だろうとは思うが、エルフの里があまりに美しかったのでしばらくのんびりしていても良いかなとすら思えてくる。
 木の上の家から望む景色は森にぽつりと浮かぶ街並み、そして大いなる自然。
 窓に張り付いて景色を凝視しているセージを余所に、アネットはポニーテールを結び直すと机の横から弓矢を取り背中に担ぐと立ちあがった。
 
 「私は鍛錬に行く。セージはどうする、ついてくるか?」
 「そうですね……おれはこの町をもう少し見て回って、それから長老の許に行きたいんですが、許可とかはいるんですか?」
 「いや、特に必要はない。名前を名乗って要件を伝えれば通して下さるはずだ」
 「分かりました」

 アネットは弓の調子を確かめるとセージに頷き、プラチナブロンドのポニーテールを翻し家から出て行った。
 家で一人になって気がついたことがあり、それは風や地面の干渉で家そのものが揺れていると言うことだ。ぎしぎしと軋む音が家に響いていて、コンクリートやレンガの家とは違った良さがあった。
 ツリーハウスというより木に同化するように建てられたアネットの家は塔からほど近い場所にあり、反対側の窓から塔の足元が見えている。
 あの塔を造るにあたっては相当数の岩が必要なはずだが、周囲を見ても低い山しかない。どこかに採石場でもあるのだろうか。
 セージは机の上でぼーっと時間を潰した後、やがて家を出て行った。






 アネットの言っていた通り、長老の間には大して時間をかけずに通された。
 相変わらず暑苦しい筋肉の守衛が扉の前におり、こっちを見てくるのだから気が気ではなかったが、前とは違って里に迎えられたのだから大丈夫という安心感はあった。
 部屋に入る前にノックをすべきか迷ったが、そんな習慣があるかも分からないのにやったら不思議がられると思ってそのまま入った。

 「失礼します。セージです」
 「おお、来たか」

 部屋の様子は爪の先程も変化しておらず、長老も何やら本に羽ペンで書き込みをしているだけだった。
 緊張を誤魔化す様に唾を飲みつつ長老の机の前に歩み寄り、アネットがしていたように両足をぴたりと揃え背筋を伸ばす。だが、あくまで少女の体なので余り様にはならなかった。
 長老は苦笑すると羽ペンをペン置き場に置くと首を回し、それから机の上に両手を置いた。

 「そんなに畏まらなくてもいい。アネットのような堅物になってはすぐに疲れてしまうぞ」
 「えっと………こういった場では礼儀を正すべきですから」
 「……ふむ、年の割にしっかりした子だ。養子に欲しいくらいだよ」
 「養子!?」
 「そうだ、君さえ良ければ……」
 「………そのー……それはですね……ちょっと、ええっと……でもなくって……」
 「さてと……冗談はその辺にして、君がここに来た理由を尋ねたい」

 さらりとトンデモ無い事を言ってのける長老に直立不動で緊張しかけたが、冗談と聞いて汗が滲んだ。緊張する理由がさっぱり分からなかったが、例えば自分の勤める会社の社長に直接声をかけられたらこうなるのだろうか。
 一方長老は反応を楽しんでいるが如く唇を持ち上げると、柔和な動きで羽ペンを取った。
 セージは数秒逡巡したが、口を開いた。

 「実は……俺はこの世界の住民では無いんです」
 「……………ふむ。続けてくれ」

 長老の目が光った。最初里に来たときのような目つきでセージを見遣り、真意を測ろうとしているようだった。
 鋭き眼光に射抜かれた“少女”は、また唾を飲むと思い切って経緯を説明することにした。
 内容は、現代の世界(本人の目線からしての現代)で死に、“神様”に転生させられた挙句この体にされ、ふと気が付いたら燃え盛る村に居てここまで必死で逃げてきた、と。
 少女の話を黙って聞いていた長老は、小さく唸りながら腕を組むと目を瞑って頭を前に倒し気味にして何やら考え始めた。
 ある意味当然の反応だった。
 突然「私は別世界から落ちてきたのだ」などとのたまえば、「お前は何を言ってるんだ」と嘲笑されてもなんら不思議ではない。
 どれほど時間が経過しただろうか、目を開けた長老は突如立ち上がると歩き始めた。
 少女の横を通過する途中で壁に手を向けて杖を一本呼び寄せ、扉の前で止まると振り返り手を振る。

 「ついてきなさい」
 「はい」

 何が何だか分からないがついていかねばならぬような気がしてついて行く。呪文も無しに杖を吸い寄せたのはちょっとだけ驚いた。
 長老が外に出るや守衛が武器を掲げ一礼し、少女もなんとなくだが頭を下げておいた。
 塔の廊下には途中で松明置き場があり、守衛やローブを着た人達がいた。会話の内容が哲学的な内容だったこともあれば、魔術的な話、外の情勢についての話もあった。彼ら彼女らはここで働いているのだろうか。
 長老の部屋から二階ほど下りたところ。そこに石造りを鉄で補強した頑丈そうな倉庫らしき部屋が並んでいた。
 そこの階の廊下を長老は進んでいき、また少女も付き従った。
 文字の書かれた扉の三つ目で長老は止まると、杖を一振りして何事かを呟いた。イメージ触媒が必要なのか、それとも鍵的な意味合いなのかは分からなかった。
 錠前がかちりと音を鳴らし、止め具がせり出して扉が勝手に開いた。

 「入りなさい」

 入り口で入っていいのだろうかと躊躇していたところ、長老が手招きをしたので思い切って入ってみた。埃臭いその部屋には木箱や本棚が並んでおり、他と比べてひんやりとしていた。
 長老は以外にも機敏な動きで本棚の間に滑り込み一冊の本を持つと、縄の戒めを解いて少女の横にあった小さい机の上に置いた。
 少女はそれを腰を屈めて観察したが、ほかの本と大きい違いを見つけることは出来なかった。茶色の表紙は煤けており、皺が多かった。
 長老はそれを目を細めて見遣り、表紙を爪でなぞった。

 「これは?」
 「遺言書……と言うべきか。以前この里に突如“落ちてきた人間”が最期に書き遺したものだ」
 「な………お、落ちてきた人間!?」

 少女は素っ頓狂な声を上げると、許可も得ずに本のページを開いた。










~~~~~~~~~~~~~~あとがき

やっと放浪生活に終止符が。
ここでもありがちな展開を書いた。





じきに作品を消去するかも



[19099] 十三話 出発の条件
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/14 23:49
XIII、


『この手紙を読めるものが居たとしたら、きっと君は日本人なのだろう。
 私はこの世界に突如として落とされた。
 何故かは分からない。ふと気が付いたらこのエルフの里に私は居た。
 周囲に尋ねてみると空から落ちてきたそうだが、さっぱり記憶にない。
 エルフの人達は私の看病をしてくれた。
 私はエルフに偏見があった。が、そんなことはない。彼ら彼女らは我々と何一つ変わり無い。
 私は彼ら彼女らと過ごすうち、ここに骨を埋めることに決めた。』

少女は一枚目の紙から二枚目を捲ると、穴が空くほど見つめる。
決して達筆とはいえず、また保存状況も良好とは言い難かったが、それは確かに日本語だった。

 『元々私は人生に絶望しており、命を捨ててもいいとすら考えていた。
  だが、ここに来て考えが変わった。私はここの為に生きることを決めた。
  薄情者なのは十分に承知している。元の世界を簡単に捨ててしまうのはどうかと。
  しかし調べれば調べる程に元の世界への帰還は困難であると分かった。
  私はエルフの女性を愛し、子を授かった。
  私は確かに最期まで幸せだった。』

 ページを捲る。呼吸すら忘れ、久しぶりの日本語に喜びを覚える暇も無く。
 長老はその様子をじっと観察するだけで。

 『これを読んでいる君に幾つか教えるべきことがある。
  元の世界への帰還はいくつか方法があるが、どれも難しい。
  一つ目は世界のどこかにあると言う秘宝で元の世界への帰還路を切り拓くこと。
  だがその秘宝を扱えるのはごく一部の存在であり、これを読んでいる君がそれに該当していると考えるのは都合が良過ぎる。
  二つ目はどこかの国が所有する高度な魔法技術だ。これは異世界に行くための箱舟を作り出すというらしいが詳細は分からない』

 ぺらり。埃臭さが鼻をつく。眉間が熱くなるのを感じた。冷静さを見失ったときの焦燥に似ていた。
 
 『最後になるが君は帰るかこの世界に住まうかの二択を選択するだろう。
  既に死んだ私には君がどちらを選ぶかはわからない。
  だが、もしこの世界に生きるというのなら、頼みを聞いてほしい。
  エルフを、私が愛した彼らを守ってあげてくれないだろうか。
  剣を取れ、人を殺せと強要はしない。
  逃げるだけでもいいし隠れるのもいい。とにかく彼ら彼女らの平穏を守ってあげてほしい。
  見ず知らずの変な耳をした違う世界の住民を温かく受け入れてくれたエルフ族にできる最後の恩返しとして君に頼みたい。
  もちろん拒否するのもいい。それが君の人生なのだから。
  私は筆を置こうと思う。
  人間というのはたかが100年で死に至るのが残念だ。
  あの世という世界に旅立とうと思う。
  ファンタジーがあるならあの世もきっとあるだろう。
  さようなら』

 本はそれっきり白紙のみが連なっていた。
 少女は本の表紙を凝視したまま固まった。
 帰る手段が見つかったが、片方は望み薄。もう片方に至っては“どこかの国”“詳細は分からない”という頼りがいのある言葉が付け加えられている始末である。
 長老に内容を伝え、どこかの国とはどこと尋ねてみた。
 長老は落ちてきた人間は少女と同郷の者である可能性が極めて高い事実に驚いた様子であった。

 「言い難いことになるが……該当する国が一つあった」
 「……あるんですか!?」

 興奮に走る少女を長老がなだめ、もう一度同じことを口にした。

 「該当する国が一つ“あった”」
 「…………ま、まさか」
 「その通り。今から20年程前に宗教の名の元に侵略を受けて滅亡してしまった。彼らは勇敢に戦ったが……」
 「でも! まだ術を使える人間は生き残ってるかもしれません!」
 「ありえない。少数民族程の人口しかなかった彼らはことごとく拉致され貴重な技術はかの国が接収してしまった。風の便りによれば魔法陣は寸断され線の残骸と成り果て、神殿は石材として扱われたそうだ」
 「そんな」

 少女の表情が罅割れる。
 絶望的ではないか。唯一の帰還の手立てが絶たれ、ひび割れが広がり、決壊しそうになる。帰れる場所が無くなったことへの悲しさが涙腺を緩める。
 しかし、少女の頭に隕石が襲来したが如く、ひらめきが生まれた。
 らしくなく長老の手を引っ掴むとぎゅっと握る。

 「技術を接収と長老は仰いました。事の起こりが数十年も前なら解析が進んでいる可能性が高い………」
 「止めておくのが賢明というものだ。かの国は強く、大きく、そして傲慢だ」
 「俺にそれ以外に道はありません。村長、国の場所を教えてください。潜入します」
 「……許可できない」
 「お願いします!」

 渋面を作る長老に対し、少女は頭を下げて懇願した。
 文化上、頭を下げる行為が頼み込む行為とイコールで結ばれないエルフと言えど、必死にすがりつくように頭を下げて涙声になれば、意図することは分かる。
 情けないと少女は自覚していた。みっともないと。だが、唯一の光を失うわけにはいかないのだ。第二の人生に引き擦り込んだあの神に復讐するにはこの手段しかない。
 長老からしたら、少女の行動は度し難いものであったかもしれない。
 まだ成長の途上の体では、道中行き倒れになる可能性が高い。
 セージの心中は複雑である。帰りたい。でも帰ろうとすれば死ぬかもしれない。帰らなければ一生を虚しさとやり場のない憤りを抱えて生きていくことになる。

 「どうせなら、セージ君。君が大きくなるまで待ってみてはどうかね。その頃になればかの国の技術解析も進むことだろうし、なにより君の経験と体格が旅路に適したものになっているだろう」
 「駄目なんです! ずっと、こんないい人ばっかりの場所に住んでいたら、離れたくなくなるから! 今すぐにでも発たないと、進めなくなってしまうから!」

 そういうことなのである。
 エルフの里はみんな優しいし、和やかだし、穏やかな空気が流れる幻想的な場所であるからに、住めばずっと居ついてしまうことが目に見えたからである。
 悪い意味ではない。いい意味である。いい意味で、離れられなくなるのだ。
 長老は渋面を崩さない。

 「私個人としては、君はここに居た方がいいと思っている。君は傷ついた。外の世界に行けば傷は増える一方だ。下手すれば殺されるか奴隷の扱いだ」
 「どうしても許可がいただけないのなら、無理にでも脱出します」
 「森の防御機能はなにも外部からの侵入者だけに働くものではない。特に君のように堂々と公言してしまった相手にはな…………いいだろう、許そう」

 いよいよやけくそな口調になり始めたセージを、長老はため息をつくと、肩を叩いて諌め、そして頷いた。
 長老は手をぽんぽん打って見せた。

 「条件が一つある。アネットに試合で勝つことだ。彼女に勝利できるのなら、最低限の自衛ができるとみなし、里の外への道を開こう。勝てないのなら、少し待ちなさい。大きくなるまで」



 セージは、かの国というのが初めて殺害した兵士の母国であると後に知った。




~~~~~~~~~~



続きます。続けます。続けていきます。続ける予定です。



[19099] 十四話 勝てなくて
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/16 22:06
XIV、 


 受け止められるまでもなく、斬り込みはことごとく躱された。
 拳は受け流され、蹴りはくぐられた。タックルすれば足を引っかけられて転んだ。
 焦燥感が募り、大振りな攻撃を実行した。

 「やあああっ!!」
 「甘い!」

 剣の形に削られた木剣を振りかぶるや、踏み込みを加えた前進に突きを乗せて攻撃する。
 足運びは荒削り以前の幼稚なもので、突きながら叫ぶのではなく、突く前に叫ぶ有様となれば、木剣で受け流されてしまう。
 剣の切っ先が地面にめり込み、余剰分の力が握りしめた手を伝導して骨が軋む。
 アッと息を呑む間もなく、アネットの足が己の踵に回り、むんずと顔面を掴まれ地に投げられた。鍛えられない部位とされる脳が揺れ、意識が円環を描いた。
 遅れてアネットの美しく光を反射する髪の毛が後頭部について、肩からこぼれた。
 試合という名前の格闘が始まってから主観時間にして2時間。セージは、武器ありで挑もうが素手で挑もうが赤子の手を捻るように易々と阻止され続けていた。
 ただでさえ子供の体。武術の心得なし。喧嘩の経験薄し。という悪条件が重なった上の戦いである。歴戦の戦士たるアネットにすれば相手にもならないのは目に見えていた。
 長老は、勝てっこない状況を作ることで、セージを外に出さんとしたのだ。
 子供に旅路を許可して死なれるようなことは、いかなる理由があれど彼にとって許容できることではなかったのだ。
 地面に倒れ朦朧とした様子のセージを、アネットは手も貸さず一定の距離を取るべくじりじりと後退する。
 足運びは、音を立てず、氷の上を滑るかのようであった。

 「どうした? 私に一撃を入れなければ里の外には出れんぞ」
 「……………」
 「ムキになるのが構わないが……今日は休め。明日からだ。長老は試合に関して私に全てを任すと言われた。今日の試合はやめ、明日の試合にかけよう」
 「……明日倒します」
 「出血は無いな? あったらすぐに治療する」
 「ないです」
 「自分で帰れるか? 私が背負ってもいい」
 「少しその辺で訓練してきます」
 「そうかわかった。私が教えてもよかったが、手の内を知られるというのは賢くないか」

 アネットが優しい声で接してくれたのが、嬉しくも悲しくも心に作用した。彼女はくるりと優雅に踵を返すと歩き去った。
 修行場というのだろうか、訓練場とでも称すべき広間の真ん中で、セージが大の字で倒れて天井を仰いでいる。
 長老に与えられた条件を満たすべくさっそく試合をやってみれば、このザマである。
 セージがアネットと遭遇した時のことを思い出してほしい。
 アネットは罠を作って侵入者を排除しようとしていたわけである。一定の戦闘能力が無ければ勤まらないのは言うまでも無く、ズブの素人が戦いを挑んで勝てるはずもなかった。
 セージの知らぬことであるがアネットはそれなりの実力者だったのだ。
 肉体戦で及ばないのなら、勝率があるとすれば、魔術を使う他に無い。
 致命的な問題点として魔術を使用すると(攻撃力を持つ程度の)鼻血を噴いて卒倒することが挙げられる。
 遠距離から弓でも射掛けてみるかと考えるが、アネットに対し通用するイメージが湧いてこない。そもそも、弓に触った経験すらないというのに。

 「あんときの魔術さえ発動すれば……つってもアネットさんに当たるわけが無いんだよなぁ………アネットさんってたぶん幻術とかの類を使うんだろうしリアル残像だしか想像できねー」

 大の字から、上半身を起こす。
 別の場所では弓矢の発射音が聞こえてきて、また別の場所からは魔術と思われる氷の割れる音が聞こえてくる。
 向こうは魔術専用の訓練場なのだろうか。
 とりあえず、木剣を拾い上げ、腰帯に差して立ち上がり、歩き出す。
 他の施設と違い頑丈な岩のブロックで組まれた訓練場に足を踏み入れると、空間から無数の氷の刃を出現させて鉄の柱目掛けて射出する女の子が居た。
 
 「うおっ」

 雷電が如く空間を走り抜けたそれは、鉄の柱に衝突するや轟音を立てて砕け散り、四散した。そしてきらめく粉となり瞬いた。

 「違うわね……もっと激しくないと………」

 その女の子はしかめっ面を作れば、親指と中指を合わせ、何事かを呟いた。
 パチンッ、指を鳴らした。
 世界が意思の力で変動。次の瞬間、女の子の背後にずらり大量の氷のナイフが出現し、雨あられと鉄の柱目掛けて殺到した。
 鉄の柱が氷の柱と化した。
 否、氷粉塵の濃度が高すぎてそう誤認したのだ。
 女の子はしかし納得しない表情を崩さず、氷の剣を取り出してみたり、槍にしてみたり、驚くほど自由自在に魔術を行使してみせた。
 火を一瞬つけるのが精一杯のセージにはそれはまるでおとぎ話だ。
 ふと、女の子がセージの方を見遣った。きのこでも生えそうな悪い目つきで。

 「何見てんのよ」
 「いえ、すごいなって思いまして」
 「これしか取り柄が無いから仕方ないじゃない。でも火力だけじゃ家は建てられないし、森は癒せないのよ。不便よ、ホント」

 女の子は魔術の使用により疲労しているのか、重いため息を吐くと、セージの顔をじっと見つめた。
 
 「見ない顔ね」
 「外から来ました」
 「外? 森を抜けてきたの?」
 「ええ」

 セージは事情を一通り説明し(神様に転生させられましたのくだりは信じて貰えなそうなので適当にごまかした)、自分が今アネットに勝利しなくてはいけないことを告げた。
 すると女の子は当然のごとく首を振ったのだった。

 「私は魔術の射ち合いなら勝てる自信があるわ。でもね、何でもありの取っ組み合いとなるとアネットさんには勝てない。実戦となれば圧倒されるわね」
 「あのぅ」
 「なによ」
 「魔術を使おうとすると鼻血出てぶっ倒れちゃうんですけど」
 「私だって最初はそんなもんだったわ。くらっときて湖に飛び込んじゃったの」
 「じ、実は……」

 「できれば今日中に勝ちたくて……」
 
 女の子はポカーンと口を開いた。
 何言ってんだコイツとでも言わんばかりに口をヘの字に曲げ、腕を組む。

 「ムリよ。無理無理絶対にムリ。ひのきの棒で鉄の剣に立ち向かうようなもんよ、不可能だわ。そんなに早く勝ちたいなら一点特化の攻撃魔術でも使えるようになって、不意打ちでもすることね」
 「魔術を教えてくれる場所はありますか?」
 「学校があるわ。私が話をつけてあげるからついてきて」

 と、女の子はテキパキとした早足で訓練場を出ていこうとする。案外親切な性格なのかもしれないと、セージは後に付き従った。
 中央道を過ぎ、エルフの里で最も高い塔の根本にそれはあった。
 現代日本なら戦前あたりまでごく普通に見られた木造りの二階建ての建物。美しく整えられた庭にはいくつか石造がポーズを決めて立ちつくし、エルフの民族衣装に加え耳覆いのついた帽子をかぶった子供たちが遊んでいる。
 セージは直観的にここが目的地なのだと悟った。
 庭を通り、道中子供たちに遊ぼう遊ぼうとせがまれながらも、正門から中に入る。
 造りはしっかりとしており、内装も現代日本のものと比較しても見劣りしないと感じた。校内は、木と草の甘い香りが強く漂っていた。
 廊下を歩いていけば、とある部屋に辿り着く。

 「待ってて」

女の子がドアを開いて中に入っていった。
 セージは、日本の場合だと横引き式なのにと感慨に耽っていた。
 数分後、女の子よりも先にドアを開いて姿を見せたのは、思慮深そうな黒髪の男性だった。外見年齢は30歳前後。鋭い目つきと狼のような細見が印象に残った。

 「君がそうですか。話は長老から仰せつかっています。望むまま教えましょう、何をお望みで?」
 「アネットさんってご存知ですか? 彼女に勝ちます」


 かくして、魔術の修行が開始されたのだった。




[19099] 十五話 成功したはいいものを
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/17 23:22
XV、

 
 空き教室にて。
 まずセージが教わったのは使える魔術の強化だった。
 セージが使える魔術といえば火を灯すことと、剣に火炎を纏わせること(気絶する)ことくらいである。
 女の子が紹介してくれた先生曰く、セージにとっての魔術のイメージの中でもっとも安定していて具象化しやすいのが『火』であるという。
 魔術について詳しい話を聞いたときのことが思い出される。
 あの中年男性に魔術についての話を聞いた時に、傍らで誇らしげに燃える焚火が強く刷り込まれたのかもしれない。

 「いいですか、魔力とは肉体と魂の結合力を流用したものです。簡単に申しますと、死ぬような気持ちで魔術は行使するものです。死ぬかもしれない、魂が砕けるかもしれないと、意識の片隅に置いてください」
 「………〝灯れ〟」

 椅子に背筋を伸ばし座った少女の人差し指に灯る、真っ直ぐな火。
 意識する。肉体と魂の結合を担う細い銀の糸の幾本かを摘まみ取り、己の意思で紡ぐ。銀糸を成形して、漏斗に流し込み火炎に変える。指先に視点を固定。火を維持する。
 平素なら一瞬で消えてしまう着火石が、数時間の練習だけでガスライターに昇華した。
 イメージしたのが文字通りにガスライターだったためか、火は青く、先端にちらちらと赤い火のかけらが見られた。
 女の子は机に肘をつき、眠たげに火を見ていた。

 「竜の鼻息みたいね」
 「………あっ」

 集中が切れ、火がボッと断末魔の煙を残して消え去った。

 「消え方もそっくり。んっ……嫌な顔しないでよね、皮肉のつもりなんかじゃないんだからね」

 女の子は目つきの悪さに似合わずそう付け加えた。
 一分の点灯に成功したとはいえ、すぐに消えてしまう。指先の火を攻撃魔術に転用するのは困難で、ゼロ距離で押しつけて相手を燃やす以外の戦術が取れない。アネットがそれを許すかと言えば答えは否である。
 セージは二人の見ている前でもう一度火を灯し、二分頑張った。
 蝋燭か、ガスライターか、バーナー並みの火力を出そうとしても、心の焦りが火力を不安定にして、ガスライター止まりだった。
 これでは蜘蛛に食われそうになった時のような攻撃力のある火を灯すには遠過ぎる。いっそのこと魔術を諦めて爆弾でも製造した方が早かろう。だが、爆弾を製造できるだけの技術も知識も経験も人脈も、少女には無いのである。
 購入しようにも無一文であり、売るものすらない。
 先生は手をぽむと合わせた。

 「では、次は訓練場に行きましょうか。下準備はこれくらいで十分です」
 「今のでですか?」
 「ええ、その通りです。詳しい事情は知りませんができる限りの短時間でアネットさんに勝つためには基礎を固めていては時間がかかりすぎます。こけおどしだとしても実戦で耐える……いえ、実戦で威嚇にはなるくらいの魔術を構築せねば」
 「ところでアネットさんが使うのは幻術ですか? 予想ですけど」
 「正解です。彼女は幻術で惑わせ――罠に誘導して捕らえたり、弓の一撃を食らわす戦術を得意にしているのです」
 「じゃあ……」
 「得意なだけで肉弾戦が不得意なわけじゃあないですから早とちりは危険です」
 「………」

 先生は黒い髪を指で弄りつつぴしゃりと言った。
 ちなみに先生の名前はアルフと言い、女の子の名前はヴィヴィという。
 アルフを先頭に、セージとヴィヴィは訓練場に足を運んだ。太陽が沈みかけた頃のことだ。
 アルフ――先生の指導の元、セージが魔術をヴィヴィに浴びせかけるという危険な方法がとられることになった。

 「大丈夫ですよ、どんな魔術が飛び出しても。ヴィヴィの実力であれば対処は可能ですし、私もついています」

 さすがの私も訓練場が倒壊するような魔術は不可能ですが、とアルフは口にしてから、二人の中間地点、やや外側に立った。
 ヴィヴィが両手をだらりと下げ、両足に力を行き渡らせ、臨戦態勢に入った。
 一方セージは、集中できる立ち方は無いかと逡巡した挙句、ヴィヴィの真似をするのだった。

 「始め!」

 アルフが手を打ち鳴らし、特訓が開始した。
 まず火を飛ばしてみようと思った。イメージしたのは映画などでよくある火炎放射の場面。手を広げ、腕を水平に伸ばし、ヴィヴィを狙う。
 ヴィヴィがただでさえ悪い目を細め、歯の間から吐息を吐いた。エルフ特有の尖った耳が脈打ち、上を向く。
 セージは目を固く閉じ、火炎が手に絡み付くさまを念じ、瞳を開くと同時に唱えた。

 「〝火炎よ〟」

 次の瞬間、右手が燃えた。
 思考が追い付かない。

 「!? えっまっやっ嘘だろ!? うそうそうそあちちちちちち!!」
 「〝  〟」

 右腕に侵略を開始した火炎を、体を丸め包み込むことで消火せんと行動するより数瞬早く、アルフの呪文が作動し、重力の理に真っ向から逆らう水流が発生した。
 右腕の火は魔術で生み出された水に飲み込まれ息絶えた。
 水は、右腕を基点に包帯でも巻くかのようにぐるぐる回転し、火傷を癒していく。北限の海水を汲んできたような水は、熱を奪い、冷をもたらした。
 やがて水が空気中に溶けた。セージは腕を、手をつぶさに確認し、一切の傷も残されていないのに驚愕した。赤くすらなっていないのである。
 腕が燃えた証拠として、あたりに焦げ臭さが残留していた。

 「今、君の魔術は制御を外れて暴走しました。焦るのは結構。ですが焦りすぎてことを急げば今のように己を灰にします」
 「んもう……何をそんなに急いでるのか知らないけど焼死体にだけはならないでほしいわ」
 「ごめんなさい。次は、やります」

 セージは頭を下げようとして、頭を下げても意味が通じないと思い直し、言葉で伝えた。
 次こそはやるぞと頬を張ったら、同じ右手を突き出す。
 体から魂を引きはがすことを意識して、脳髄の半ばから液を抽出するかのように、唱える。
 呪文の言葉に具体性を混ぜて。

 「〝ファイアーブレス〟」

 瞬間、手の平に光球が誕生した。一秒後、瀕死の馬の吐息よりひどく緩い火炎の風が、三十cm弱流れたのだった。

 「もう一度! もう一度やります!」
 「私はいつでもいいわよ」

 いつ攻撃が来るかわからないヴィヴィは、集中の糸を張ったまま、一歩も動かない。
 手を突き出し、今度は何か棒のようなものを握るように、指を曲げて、腰を落とす。

 「〝フレイムソード〟」

 火炎が指という指を覆いつくし、爆発の気配を見せたが、意思の力で抑え、イメージという指向性を与えて、こねくり回し、一つの結晶となす。
 ヴィヴィが嬉しそうな顔をして、同じくそれを魔術で作り上げた。

 「できるじゃない!」

 剣である。
 火炎の剣と氷の剣が、それぞれの手に握られた。
 氷の剣が堅実なサーベルの形をとったのに対し、火炎の剣は靄を赤く染めて剣の体裁を繕った見た目にも脆いもの。
 セージは剣が壊れる前に、剣を下段に構えヴィヴィに突っ込んでいった。
 馬鹿正直に剣を上段に振り上げ、振り下ろさん。

 「熱いのと冷たいのじゃ相性が悪いけど!」
 「受け止めた!?」

 ヴィヴィの冷気を纏った氷サーベルが、火炎の剣と体の間に割り込む。拮抗する力と力。氷は熱に弱いはずだが、溶けることなく、美しい造形を保っていた。
 ヴィヴィは口元をニヤリと歪めれば、剣を引き寄せ、一気に向こう側に弾いた。セージがよろめき数歩後退したが、すかさず地を蹴り剣を振った。鍔迫り合い。精神が削られるのを感じた。
 しかもセージが全力で押しているのにも関わらず、ヴィヴィは余裕を崩さず同等の力で押し返してくる。

 「けどね、私の氷は頑丈なの!」
 「くっ……」

 ヴィヴィがウィンクをするや、空間で氷の結晶が生じ、砕けた。それは粉雪となり視界を覆い、怯んだすきに剣を押し返され、転んでしまった。
 セージが起き上がった時、剣をだらりとさげたヴィヴィが目に映った。
 剣を振るうには距離がありすぎた。

 「〝雪神様の戯れ〟!!」

 ――その背後には無数の雪玉が浮遊していた。
 
 「言っておくけど痛いわよ!」

 剣が燃え尽きた。
 身を守る方法はただ一つ、腕で顔を守ること。
 次の瞬間、セージは雪なのに雨あられと機関砲が如く襲い来る雪玉に蛸殴りにされた。
 痛かった。





[19099] 十六話 ひらめき
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/18 01:49
XVI、



 「やりすぎですよこれは」
 「ごめんなさーい」
 「反省してますか?」
 「反省してまーす」
 「まったく……」

 全身に雪玉を食らったセージは、魔術行使の負荷も相成って気を失い救護室に担ぎこまれた。
 本人が語ったように鼻からは大量の血が流れていた。
 地に倒れたのち、駆け寄ったアルフとヴィヴィが覗き込んでみると血塗れだったので、さすがに顔色を失ったが、出血源が鼻と判明すれば、安堵した。
 なぜアルフは途中で割り込まなかったかと言えば、たとえば氷の刃物が射出されるなどという本格的な殺傷魔術なら横から止めようと考えていたからである。雪玉は殺傷能力を持たないのは当然のことであり、止めるのを躊躇したのだ。
 アルフとヴィヴィに見守られる格好ですやすや寝息を立てるセージ。白いベッドの上で寝転んでいると、とても元が男性だとは思えぬ人形のような可愛さを醸し出す。そんなこと、本人にとって路傍の石よりどうでもいい事象であろうが。
 どれだけ時間が経っただろうか。夕日は地平線の彼方に顔を隠して、空が群青と漆黒の化粧をし始める時間帯になった。
 セージの身じろぎが多くなり、シーツの皺が増える。

 「………」

 無から有が浮かび上がる。スイッチが切り替わるよう、暗闇に一筋の光が差し込む。瞼が薄らに眼球を露出させたがすぐに閉じてしまう。それを繰り返すこと数度、ウーッと息を吐き、覚醒した。
 目を開くと知らない天井があった。
 目だけを動かしてみれば、真顔で腕を組み椅子に座っているアルフと、うつらうつら涎を流しながら椅子で寝ているヴィヴィ、そしてつい今しがた入室したらしきアネットの姿があった。
 そういえば、と“彼”は思い出した。
 車にはねられ足の骨を折った時も、今のように家族がベッドを取り囲んでいたな、と。

 「目を覚ましましたか」
 「私にはわからないよ、セージ。焦らなくてもいいだろうに」

 アネットがアルフとヴィヴィに一礼し、椅子に座った。
 セージは、アネットの顔をまともに見ることができず、布団で顔を隠した。
 そして、ワガママを言ってみる。

 「……今夜はここに泊まります。泊まりたいです」
 「わかったが、ちゃんと帰ってくるんだぞ……ご飯の時間までには。アルフ氏、あとはよろしくお願いします」
 「私というより学校医ですね。わざわざ学校に忍び込む輩もいませんでしょうし、すぐに話は通せましょう」

 話しぶりや態度からアネットとアルフが顔見知りであるらしいと推測した。
アネットとアルフは、ヴィヴィを起こしにかかる。残して行くことはできない。彼女の両親が心配するだろうから。
 ところがヴィヴィは涎の量を増やすばかりなのである。
 アネットはため息を吐くと、ヴィヴィの背中に手を回し、両足を持ち上げたのだった。俗に言うお姫様抱っこ。姫は姫でも眠り姫。すらっと細いアネットの容姿と相成って、姫と騎士であった。

 「さほど遠くはないですから私が連れて帰ります」
 「助かります。セージ君、本当にここに泊まると?」

 アルフが念を押してきたので、布団から顔を出して頷く。
 アネットはまるで赤ん坊をあやす様にヴィヴィをゆっくり揺らした。彼女は口を半開きにして気持ちよさそうに寝ている。熟睡しているらしく目を覚ます兆候すらあらわさない。

 「はい」
 「そうだな……いちいちご飯を食べに帰るのも面倒だろう。私が届けるよ」
 「……あ、ありがとうございます」
 「本来なら同じ机を囲むべきなのだが……頑張れ。私とて無敵の戦士ではない。隙を見せるつもりはないが、見出すことはできる。君は賢いからできると信じている」

 倒すべきアネットに助言を貰ってしまい、宿敵に握手を求められたような不思議な気分に襲われた。
やがて三人もいなくなって、救護室は静かになった。
 少しして、救護室の主たる学校医が訪れて話の確認を求めてきたので、礼儀正しく応じるとにっこり笑ってくれた。心中は気後れに溢れていた。
 医者もいなくなれば、完全に無人となる。
 学校から生徒も消えて、教師も居なくなった。
 この世界においても夕方になれば鴉が鳴き始め、群青色は徐々に色褪せて暗黒の空が姿を現す。化学物質に汚染されていない清浄な大気の彼方には満点の星空。
 セージはストレッチをすると、救護室を後にして訓練場に向かった。
 昼間には見えなかったのだが、訓練場の天井は光り輝く塗料か石が使われているらしく、月明かりが無くともはっきりとものを見ることができた。
 セージは唯一まともに使えた火炎の剣を安定して行使するのに一時間をつぎ込み、対アネット用の剣術を生み出そうと四苦八苦の末『時間が無い』と諦めた。
 付け焼刃の剣術が通用するような相手ではないと、何度も何度も投げられて理解したのだから。
あぐらを掻き、額の汗を手の甲で拭う。
 実力が無いのならこけおどしでもハッタリでもカマでもホトケでも親でも使うしかない。
 腕を組み、背中を丸め、訓練場の地面を見つめ、脳に命令を下す。何かいい案は無いかと。
 熟考の末、頭に落雷があった。

 「それだ!」

 その案はこの異世界にはおそらく発明されていないであろう代物だった。
 準備すべき品がいくつかある。さっそく明日から取り掛からなくてはと腕をぶんぶん振り回して気合を入れる。光が見えてきた。そう、光が見えてきたのだ。
 セージは案を支える魔術行使の訓練を続行しようと勢いよく起立し、髪の毛を掻きむしった。金糸が香った。せっかくの髪がぐしゃぐしゃである。

 「腹へったぁ……」

 そこでセージは、やっと胃袋の嘶きを認めた。
 学校に戻り、救護室の扉を開けてみれば、食欲を擽る香りがした。心臓が高鳴った。ばたばた慌ただしく先ほどまで寝ていたベッドに行ってみる。包みが一つ鎮座していた。
 さすがにベッドの上で食事はまずかろうと、床にあぐらをかいて座り、包みをほどいて中身を確認した。パン。干し肉。香草。果物。涎が舌を濡らす。手を合わせ、いただきます。エルフの前では決してやらない習慣が出た。
 パンは冷えていたが外の皮が固く中は柔らかい。香ばしさが鼻を通る。美味しい。
 干し肉、香草をおかずにパンをもぐもぐ咀嚼する。
 干し肉は唾液で濡らしてから何度も何度も噛むことで柔らかくして、パンと香草に絡めて飲み込む。
 最後に残った果物を歯で潰し、甘い汁を楽しんだら、包み布をポケットに突っ込んで訓練再開である。
 でもその前に。

 「ごちそうさまでした」

 明日からは忙しくなる。
 とっとと水浴びをしようと、駆け足で学校中を探索して、教師用のと思しき水浴び場を拝借する。タオルは無いので、包み布を使う。拭いては絞り拭いては絞りを繰り返し、体の水気を取る。髪の毛は水を拭くだけ拭いて放置する。
 そしてセージは、眠りに身を委ねる前にベッドを部屋の隅に押しやり、布団をかぶり、寝た。



[19099] 十七話 秘策
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/19 00:13
XVII、


 翌日。
 学校で目を覚ましてみれば、生徒達が悪戯をせんと扉や窓から侵入を試みるのを学校医が食い止めるという混沌とした状況下にあるのに気が付いた。
 ちゃんとベッドを部屋の隅に配置することで気が付きにくくしておいたというのに、子供にはお見通しだったのである。ヴィヴィが子供たちを追い払ってくれなかったら面倒なことになっていただろう。
 聞いたところ、今日は現代社会で言うところの休日に当たるらしく、授業は無いそうである。
 私も手伝ってあげると、ヴィヴィが大真面目に言って離れないので、セージは用意すべきものと事柄を告げた。
 二人は、最初に塗料を手に入れるべく相談し、結局自作することにした。作り方はいたって簡単、燃料用の炭を磨り潰すのである。
 ヴィヴィは、炭を岩で磨り潰す作業をしながら、怪訝な表情を隠さない。
 セージはその炭を、汲んで来た水に湿らせ指に付けると、ヴィヴィに見せた。

 「これって何に使うわけ? 畑に撒くのかしら?」
 「いいや、塗る」

 ヴィヴィが首の角度を深めた。

 「精霊に勝利を約束する戦化粧にするのなら白とか赤を使いなさいよ」
 「違う違う。瞼に塗る」
 「瞼だけに?」
 「その通り」
 「お日様が眩しいとき目の下に塗ることはあるけど、瞼に塗っても……」
 「いいからいいから」

 ヴィヴィは質問をしようと口をパクパクしたものの、せっせせっせと瞼に塗りつけ出したセージを前に何も言えなくなってしまった。
 セージは瞼に塗りつけた塗料を糊代わりに炭の粉を付けていく。やがて、瞼と眉は真っ黒になってしまったのだった。太陽を見上げて、効果を確認すれば、満足げに頷いた。
 何をしているのだろうと覗き込んだヴィヴィが吹き出す。

 「なによそれっ! 面白ーい! 私もやるから!」
 「遊びじゃないです」
 「遊んで何が悪いのかしら!」
 「悪かないですけど……」

 ヴィヴィが水の入ったバケツを横からさらって、炭化粧を作った。
 頬、額、鼻と塗りたくり、器用にも瞼にもう一つの目を描いた。目を閉じていても開いているように見えるアレである。

 「どうよ!」
 「いったいどういうことですか!」
 「第三第四の目! 我ながらよく描けたと思うわ」
 「見えてないでしょうに」
 「そうね。欠点は出来上がりを自分で見ることができない点ね」

 そんなわけで、二人は汲んで来た水で顔を洗うと、次に準備すべき物を探した。
 一つはコルクのような材質の木と、蝋燭の蝋か油である。後者は比較的簡単に入手できたのだが、前者は思うように見つからない。コルクでなくても程よい柔らかみがあれば木に拘らないとしても、見つからない。
 元の世界では容易く入手できたゴムなどの品も、この世界では手に入らない以前に発明されていない。
 仕方がなく普通の木で代用することにした。
 セージはその木をせっせせっせとナイフで削っていき、凸の字に近い形状に成形した。一つ目は力加減を誤りおしゃかにしたが、二つ目はうまくいった。それを油で柔らかくして布きれをきつく巻いた。完成である。
 それを見ていたヴィヴィは、ますます首を捻るのだった。

 「なんなのそれ? ごみ?」
 「ゴミじゃなくて勝利をもぎ取るための防具です」
 「どこを守れるというの」
 「それは……明日の秘密です」

 セージは不敵な笑みを見せつけてやった。
 その日はヴィヴィと別れ、訓練場で一日を潰した。体術、剣術の練習よりも、魔術の練習が八割であったことは言うまでもない。
 後日、セージはアネットを呼び出した。
アネットが来るまでの間に、準備を整えてしまう。
 炭を水で溶いた塗料を瞼に塗りたくり、ついでに目の下にも塗す。前髪を目に垂らす。木の細工物に油を足して、耳に詰める。上から蝋燭の蝋で蓋をする。外の音が遮断された。
 精神を研ぎ澄ますために、訓練場の方を向き、あぐらをかいて精神統一をする。
 傍らに木の剣は無い。
 数十分ほど経過した頃だろうか、精神の淀みの一切が沈殿した頃、アネットがポニーテールを揺らしながら颯爽と登場した。
 アネットは手を振りつつ近寄ってくれば、目のまわりを真っ黒にしたセージの異様さを目にし、ぎょっとした。人差し指を己の目にやった。

 「私を倒せるようになっ……………セージ……聞かない方がいいと思うが目をどうした」
 「……………」

 音が聞こえないため、唇の動きで読むしかないが、わからない。
 しかし指で目を指したので、目のことについて質問しているのだろうと予想をつけた。
 セージは手を突き出し会話を制すれば、お尻を叩きながら立ち上がり、ゆっくり喋った。自分の声が骨伝導して、くぐもって聞こえた。

 「気合を入れるために化粧してみました。早く始めましょう、アネットさん」
 「構わんよ、いつでも」

 二人は距離をとったところに立ち、相対した。
 セージは呟いた。

 「〝フレイムソード〟」

 瞬時、火炎が旋風となりて手から生える。
 火炎は瞬く間に硬質な形に縮小し、凝縮されれば、細く鋭い剣へと姿を変えた。片刃、尖った切っ先、緩やかな反り返り、角ばった鍔……日本刀のそれである。
 刀剣類の中で最もイメージしやすかったのは、青少年なら誰もがあこがれを感じる日本刀だった。それだけの話である。
 ぼんやりとした剣しか形作れなかった少し前と比較すれば驚くべき進歩である。
 アネットは、ほぅと感嘆の声を漏らせば、右足を半歩引いた構えを取った。

 「………」
 「………」

 どこかで鳥が鳴いた。

 「であああッ!」

 先手を取ったのはセージだった。
 剣を構え、制御化にある全速力で距離をゼロに近づけていく。心臓が早鐘を打ち、火炎の剣もとい日本刀が火の粉に成り果ててしまう未来図が頭をよぎった。
 次の瞬間、アネットの唇が震え、言葉を紡いだかと思えば、刹那に誕生した蜃気楼が光線となりて襲い掛かった。

 「ぐっ!?」

 火炎の日本刀は、蜃気楼の揺らめきに晒され訓練場の天井まではじけ飛び、突き刺さった。砕けて消えた。アネットが指を突出し、セージの方に向けている。指から何かを飛ばしたことは理解した。
 日本刀を呼び出せる心理的余裕を失えば、突っ込むだけである。
 拳を固め、顔面に突く。

 「まだまだ甘い!」

 躱され、足を引っかけられて転倒する。受け身に成功。
 起き上がろうとして、殺気を感じた。敵意とも、攻撃の意思ともとれる感覚に、総毛立つ。尖った耳がぴくんと痙攣す。
 咄嗟に転がった瞬間、一条の光線が今しがた居た地面に突き刺さり、半透明の網に変化して踊り狂った。捕縛用の魔術か。命中すれば身動きはとれまい。
 アネットの指が、セージを狙う。
 距離、3m。
 セージは突進を慣行し――手の平をアネットに向け目を瞑った。
 コンマ数秒後、アネットの視界と聴覚に暴風が吹いた。

 「――――」

 経験と本能に従い、腕を払う。柔らかいものがぶつかる。絡まってくる。力で引き離そうとして、しくじる。転ぶ。白亜の視界と、キーンという高音の中でもがく、アネット。
 回復魔術を行使して目耳を癒そうとした次の瞬間、馬乗りになられたのを肌で感じた。
 あ、と声を上げる前に、頬を張られていた。
 ――スタングレネード。
 元の世界では特殊部隊などで使用されるシーンがニュースで放映されるなど、広く知られた武器であった。
 セージが練習していた魔術とはこれのことだった。
 純粋な体術や魔術で勝てないのなら、相手の不意をついて視覚と聴覚を奪い、攻撃するという目つぶし作戦。砂を投げることも考えたが、アネットに通用するとは思えず、こちらにした。
 光と音が自らにも害を及ぼすことが想定されたので、瞼に黒い塗料を塗り、木の耳栓を用意した。
 練習の結果、光と音の作用方向をある程度絞ることができるとわかったが、保険は必要だったと痛感する。さらに練習を重ねれば効果範囲を相手の身に限定できるかもしれない。
 動きを止めたアネットに駆け寄り、押し倒し、頬を張る。グーパンチは、セージにはできなかった。
 アネットの体は予想より遥かに柔らかかった。
 
 「……ふふふ………ふふ……目つぶし……音………うかつだった……私の負けか」
 「アネットさん、卑怯な戦法でごめんなさい」
 「謝ることはない。君の姿を見て、考えなしに突っ込むことしかできないと油断した私が弱かったんだ。実戦なら……」

 アネットは虚ろな目を彷徨わせたまま、笑う。首に親指を当てて横に動かしてみせる。刃なら死んでいたと。
 強力な閃光と音を食らったというのに、既に回復し始めているあたりはさすがであるが、堪えたらしい。ポニーテールが押し潰れて曲がっていた。

 「長老に報告しておく。私は負け、君は勝った。できればここに居てほしかったが……君を止められる人物は誰もいない」
 「私……俺にはやることがあるんです。この里はいいところでしたが、すぐに発ちます」
 「わかった。少ししたら行く」
 「先に長老のところに行ってます」

 セージは訓練場を離れると、一目散に塔に向かった。



~~~~


まさかの目つぶし。
ちなみに生徒が休日なのに学校にいるのは里が狭いからです。



[19099] 十八話 ミスリルの剣
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/21 01:44
XVIII、

 アネットに勝利した、もとい勝利してしまったのを知らされた長老は暫し沈黙し、自分の目論見が頓挫したことを自覚した。
 里の外の情勢は厳しく、かつてのようにエルフが優秀な技術者としてもてはやされることはなく、犬畜生か何かのように扱われるのだから、なんとしても外に出したくなかったのだ。
 だからこそ信頼のおける上に腕の立つアネットと試合をやらせて阻止せんとしたが、まさかの敗北という結果に終わった。
 約束は約束である。
 彼女を里の外に出さなくてはならぬ。
 長老は机の上で目尻を揉み解しながら、打つべき手を模索していた。
 王国の技術を盗みに侵入を試みるなど狂気の沙汰であり、熟睡中の竜の鼻先を蹴っ飛ばして起きるか起きないかを試すような自殺行為である。であるにも関わらず、行くというのだ。
 何が少女を突き動かすのかは定かではないが、止めなくてはならなかった。
 強引に縛り付けることも不可能ではなく、むしろやった方がいいのだろうが、言葉による解決が一番望ましいと長老は考えていた。
 言葉で解決を望まず剣と剣を合わせることしか考えない連中もいるのだが。
 長老は頭を上げると、音も無く入室した陰気な表情の男を視認した。手招きをして近くに呼び寄せる。男は長老の耳に口を寄せて何事かを呟くと、また音もなく退室した。

 「森を破ろうとするつもりか……術をまた強めなくては……」

 報告だった。
 何者かが集団でエルフの森を破らんとしているという。近頃頻繁に聞かれる報告であるため、動揺はしなかった。
 国土拡大を続ける“王国”は、人種問題や軍備拡張に伴う財政負担のツケからくる民衆の不満をエルフという少数派を迫害すること隠蔽せんと企んでいる。
 かつての時代にはエルフは神に近き者として崇められていた。規模も大きかったので一つの国として認められるほどにあったのだ。ところが、時代の移り変わりと共にエルフは排するべきものにされてしまった。
 幾度の戦争はエルフの国を崩壊させ、里の幾つかを焼き滅ぼした。
 長老の座に収まる彼も、里を守る戦いに出かけた戦士の一人であった。多くの人を殺した。また仲間も殺された。戦いは壊すことしか生まなかった。
 エルフは強く、長い寿命を持つ生き物であるが、致命的にかけている点がある。
エルフに無くて、人にあるもの。それは物量である。エルフが長い寿命を持った代わりに、人間は数を増やすことで種の保存を狙った。エルフがどんなに優れていても数で押しつぶされるのは目に見えていた。
 王国が領土を拡大するたびに、エルフの害悪について宣伝し、民衆は納得する。
 そんな世の中に、どうしてか弱き少女を送り出せるというのか。いや、無い。
 ふと、長老は一つの案を思いついた。優れたとは言い難い案だ。言うならば、間に合わせ的に同じ種類の木を大量植林するような。だが、山を丸ごと禿げさせるよりマシだった。

 「失礼します」
 「はいりたまえ」

 扉の向こうに気配がした。
 通す様に声をかければ、顔を上気させたセージが入室した。勝てたことが嬉しいのか、勝てて里を出ていけるのが嬉しいのか、いずれの判断はつかないが、悲しくなった。
 たかが子供が外の世界で生きていけるとでも思っているのだろうか。

 「長老! アネットさんに勝ちました!」
 「そうか…………いつここを経つつもりかね」
 「今日準備で、明日には発ちます」
 「わかった。旅に必要な品は用意させよう。森の守りが君を通す様にしておこう。ところで一つ、頼まれごとをしてくれないだろうか」
 「ハイ、なんでも」

 長老がさりげなく付け加えた一言に、セージはうんうんと大きく頷いた。

 「エルフの里に物と言付けを届けてくれ」
 「はい……それはどのくらいかかりますか」
 「一つの里に行くまでに三十日前後か。もう一つの里に行くまでにも同じだけかかる」
 「そんな!」

 不満を口にするセージに、長老は人差し指を立てて見せた。厳しい眼光。目頭に皺が深く刻まれた。

 「でははっきり言おうか。死ぬぞ。外の世界ではエルフを狩るためだけに雇われたゴロツキ共がうろついている。庶民の間でもエルフは捕縛対象だ。君も何度も殺されかけたのではないかな?」
 「………」
 「運よく生き残れたとしても、君がこれより行こうとする場所は宗教を理由に国土拡大を行う大国だ。戦争をやっているのだ、国の中枢に潜れば兵士たちが出迎えてくれるだろう」
 「……………」
 「アネットから勝利をもぎとった力は認めるが……私は君に死なれたくないのだよ。可能ならここにいて貰いたいが約束を破ることはできない……」
 「………………」
 「エルフは………性的な奴隷として売買されているという話もある。君のような少女のなりをした子は買い手に欠かないだろう………」
 「……………………」
 「………せめて里と里をたどる道をとることで、君の実力と経験を養いたい。里をたどれば王国は近づく。順路の中に組み込む形だ」

 長老の言葉が紡がれるたびに、セージの顔から喜びが引いていく。潮のように。
 目標の無人島があるとして、準備も無しに丸太船で漕ぎ出したらどうなるだろうか。遭難か、転覆か、水と食料不足で飢え死ぬか、想像は難しくない。
 これより向かう王国は、言うならば荒れ狂う大海原である。丸太船で渡航できるほど甘っちょろい場所ではないのである。
 なまじ里までうまい具合に辿り着けてしまったことが、セージを盲目にした。
 長老は優しく諭した。

 「君が行く二つ目の里に我が古き友がいる……巨老人と呼ばれる男だ。研鑽を積め。千里の道を一歩で踏破しようと試みる馬鹿はやめなさい。千里の道は一歩ずつ歩まなければ」
 「わかり………ました」
 「そうだ、届けて欲しいものについてだ」

 しゅんと顔を伏せたセージの前で、手を上げた。壁にかかっていた留め具が見えない力で抜け、鞘に入った剣を解放した。それは緩やかに向きを変えると、長老の手に収まった。
 無詠唱であった。
 長老が剣を手の中で確かめている間に、留め具がゆっくり元の位置に収まった。さながらポルターガイスト。
 だが、セージが俯いていたこともあり、顔を上げたときには長老の魔術行使は終わっていた。
 剣をざっと目で確認し、机の上に置く。なめし革の鞘。簡素な作りの鍔。ロングソードというには短すぎる、それ。
 長老はそれを抜くように目で合図をした。
 セージは、言われたまま剣を持つと、抜こうとした。抜けなかった。力が足りないのかと、体を丸めるようにして抜こうとしたが、一ミリも動かない。
 ふと、剣の鞘に小さなふくらみがあるのを指で触って気が付いた。直観的にふくらみを押し、柄を引っ張った。引っかかりが外れ、剣身が露出した。
 それは見事な芸術品だった。
 一点の曇りも無い銀色の表面。剛の剣というより、懐に飛び込み一撃をお見舞いするのに使用されるような、華奢なつくり。雪山から湧く冷水を剣の形に押し込めたような、冷酷な美しさがあった。
 ほう、とため息が出た。
 剣がセージに反応したのか、淡き光の波を表面に生んだ。

 「ミスリル合金製だ。折れず曲がらずよく斬れる。巨老人はこれを望んでいる。二か月前に発注を受け、つい先日出来上がった品だ。違う者に届けさせる予定だったが、君にやってもらいたい」
 「あの、向こうの里でこの剣は作れないんでしょうか。なぜここで作ったんですか?」

 こちらの里で作る必要があるのかを問いかけると、長老は苦々しい顔をした。机の上の地図を示し、三角形の印を人差し指で二回叩く。

 「ミスリルを産出する鉱山を占拠されたらしくてね……こちらの鉱山は無事だ。とにかく、この剣を届けて欲しい。道中使っても構わない」

 むしろ、道中の危険を退ける意味合いで持たせたかったのであるが、内容に嘘偽りはない。
 セージは剣を鞘に戻すと、捧げ持つように両手で握った。体積に対し軽い。

 「わかりました………その、えー……」

 思わず言葉に詰まり、口の中で言葉をもごもごさせる。言われて気が付いたのだ、いかに外が危険なのかを。そもそも危険な目に遭ってきたのに危険と思えなかった方がおかしいのだ。
 悲惨な未来予想図が頭をよぎった。
 己の腐乱死体。腹には斬りつけられた痕。髪の毛はバサバサ。鴉たちが食べられる部位にくちばしを突っ込み容赦なくちぎっていく。
 瞬きを一つした。
 手の中のミスリル剣が頼もしくも危なげに存在していた。




[19099] 十九話 里を目指せ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/21 23:59
XIX、


 エルフと人間を明白に分ける要素とはなにか?
 肌――ではない。白い肌を持つ人間などいくらでもいる。
 目の色――ではない。基本的にエルフも人間と同じ色の瞳である。
 先天的魔術適性――ではない。先天的に適性がある人間もいる。
 答えは単純明快である。耳、である。エルフの耳は尖っており、人間の耳よりもよく動くという特徴がある。エルフか人間かを選別するのに、耳を確かめるのが最も早い手段である。
 逆に考えれば、耳さえ人間のそれに整形できたのなら、エルフか人間かを区別することは困難になるのだ。
 セージは長老に『耳をどうにかできないか』と尋ねてみたが、断られた。自分で斬り落とすことも考えたが、止めた。エルフが耳を削ぐなど種族への侮辱もいいところであろうと。里にたどり着いたはいいものの耳が無くては怪しまれる。
 その日はアネットの家に帰ることにした。
 準備をするのと、心の支度をするために。
 家に帰ってもアネットはいなかった。一抹の寂しさを抱いてベッドで寝た。頭がごちゃごちゃしてまともに考えられなかったからだ。意識が飛ぶ。夢は見なかった。
 少しして、アネットが帰宅した。光と音による無効化魔術をモロに食らったというのに、自力で立ち上がって、しかもきっちり里の仕事を片付けてきたのである。
 長老のところで旅の装備一式を貰い受け、帰宅してみればセージがすやすやと寝ている。
 暢気なものだなと寝顔を覗き込む。
 時間も無いので、旅具のサイズが合うかを上から宛がって確かめてみる。もっとも小さい装備を選んでおいたが、大きすぎるかもしれないと。
 サイズは合っていた。
 ふと、セージは甘い花の香りに目を開けた。美しい造形の顔が目に映った。

 「………ぁ、アネットさん」
 「起きたか。寝ておけ、明日出発なのだろう……その前にご飯か。できたら起こすからな」
 「すいません」

 アネットの好意に甘えて、ふたたび眠りにつく。優しい声が嬉しくも悲しげに聞こえた。
 セージはアネットに起こされてご飯を食べると、また眠りについた。熟睡した。
 翌日。

 「似合わないわね……」
 「見た目はどうでもいいんですから」

 里の入口にセージとヴィヴィとアネットが居た。
 長老は仕事で忙しく来られないとのことである。他の出迎えも特にない。騒ぎを大きくすべきではないという判断があったのだ。情報は可能な限り隠すべきだと。
 セージの格好は、ヴィヴィの感性からして似合ってない。アネットの目にもそう映っただろう。
 関節部を覆う皮板。右肩から左腰を防御する薄皮は、弓を射る際に胸が引っかからないようにとの配慮が見て取れる。腰のベルトは杖や剣をぶら下げられるようになっており、ミスリル剣と小型ナイフがあった。背中には布製バックパック。
 服は、隠者が着込むようなフードが顔に暗調を落とし、エルフの耳を視線から遠ざけているのもそうであるが、黒と茶と緑を多用した目立ちにくいものである。
 まるで戦闘服ではないか。

 「でも、この服なら子供っぽく見えないし被ってれば耳も見えないわ」
 「そうだな……重くは無いか?」
 「思ったより軽いです」
 「弓はいいのか? 弓は狩りでも使えるぞ。器械弓でもいい」

 剣だけでは不安だろうと、アネットが腰を指さした。村長が用意してくれた服は弓を使う人間のことを考え胸当てがついており、持っていかないのかと聞かれるのが当然だった。
 しかし、弓を一度も訓練したことがない人間にとって、お荷物にしかならない。
 セージは里の入口を守る屈強なエルフをちらりと見遣り、二人の顔に交互に視線を配った。

 「荷物は軽いほうがいいですし、俺には扱いきれるものじゃないですから」
 「もっと練習していけばよかったわね! ……私は皮肉で言ってるんだから」
 「しつこいようだが、本当に行ってしまうのか……?」
 
 アネットとヴィヴィはそう言い、セージの顔を見つめてくる。
 気まずかった。だが、引くこともできなかった。若気の至りとでも言おうか、
 
 「行きます。でも安心してください。里を辿っていくので、危険は少ないと思いますから」

 セージは、二人に握手を求めた。
 アネットと握手をする。皮の硬いところのある、大人の手。ゆっくり上下に振る。

 「死ぬなよ」
 「死にません」

 次に、ヴィヴィと握手をする。
 柔らかく小さい手。子供の感触がした。肌を通して伝わる体温が心地よい。ゆっくり振るのかと思いきや、ヴィヴィはぎゅっと握ってブンブン振った。痛かった。
 ヴィヴィが目尻に力を入れて睨んで来たので、睨み返しておく。

 「死んだら許さない……呪うわよ」
 「私……俺は死にません」
 「一ついいかしら」
 「なんでしょう」
 「……なんでもないわ。気を付けなさい」
 「何を聞こうとしたんですか?」
 「ああんもうっなんでも無いったら!」

 聞き返すと、ヴィヴィは赤面して腕を組んでそっぽを向いてしまった。
 続きは帰ってきた時に聞こう。半年先か、一年先かになるかも分からなかったが。
 セージは入口を守る守衛に一礼すると、里の外に向かって歩き出した。少しして振り返ってみると、魔術を教えてくれたアルフがアネットとヴィヴィの横に立っているのが見えた。
 手を振ると、三人一緒に振り返してきた。

 里の周囲を守る森を抜けるのは意外にも簡単だった。元来た道を戻るように、川を下っていけばいいのだから。
 森に巧妙に隠された落とし穴と仕込み矢に引っかかりそうになった点を除いて。前者の罠は穴の底に杭が仕込まれた殺意溢れる罠で、後者は矢じりに黒い謎の液が塗られたものだった。
 あらかじめ罠の情報を耳にしていなければ、死んでいた。
 森を向けた後は、山沿いに里を目指す。向かう最初の里は峡谷の隙間にひっそりあるという。頼りになるのは長老から預かった地図だけである。
 地図と言っても現代のそれとは程遠い。大雑把に都市や山岳や川などが記されているだけである。長老が書いたと思われる、小目標となるたとえば『尖った岩』『朽ちた墓場』があるとはいえ、不安は残る。
 現代社会のように便利な交通手段も無ければ、案内標識も無いし、ナビゲーション・システムなどもってのほかである。
 馬が使えれば時間を短縮できたかもしれないが、馬の扱いを知らなかった。
 無い無い尽くしで里を出てきてしまったということである。
 森を抜ける際に採取した木の実を口に放り込む。小鳥がついばんでいたところを横から掻っ攫ったのだ。鳥が口にできるのなら、人間が口にしても問題ないだろうと考えたのだ。
 木の実はアクが強く果肉が消しゴムの滓のように残るものだったが美味しく頂けた。
 干し肉等の保存食はあるが、可能な限り節約するか外から食べ物をとってこなくてはならない。
 いずれ、動物を殺さなくてはいけないだろう。皮を剥ぎ、内臓を取り出して、肉を採るのだ。木の実や雑草に頼っていては効率が悪いからである。
 森でいくつかキノコを見つけてバックパックに放り込んでおいたが、口にすることはできなかった。万が一毒を持っていたら死の危険がある。魚か鳥に食わせて確かめなくてはいけない。
 セージは森を抜けると、最初の渓谷の里に向かって歩み始めた。




[19099] 外伝 森淵の攻防
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/23 22:26
 鋼鉄製の盾を構えた屈強な兵士たちが、森と平地の淵で戦っていた。
 矢と矢の応酬。魔術飛び交う戦場。人が死に、エルフも死ぬ。刺しては刺され、悲鳴は血の香りに揉み消されていった。

 「盾を構えろ!」

 戦場の指揮を執るのは、やつれた顔をした一人の男である。のちにエルフの里で長老と呼ばれるようになる男の若き姿であった。
 男は手に持ったミスリル剣を強く握り、天から雨あられと降り注ぐ矢を盾で受け止めた。複数人がの盾がまるで一個の塊が如く、矢の雨を受け流す。盾越しに伝わる感触は死の気配。
 人間側とエルフ側の物量の差は圧倒的であり、人間が5に対しエルフは1という有様であった。人数にして1000人弱対200人。
 だが、人間側の兵力は一向に森を進めず、平地に押しとどめられていた。
 なぜか。
 答えは単純明快――エルフという種族の単体戦闘力がずば抜けて高いからである。経験を積んだエルフは個人で軍を薙ぎ払い、地形まで変えると言われることから想像がつくであろう。
 そして指揮をとる男もまた、幾度の戦場を越えてきた歴戦の戦士であった。
 第二波の矢が降り注ぐより早く、エルフ側の弓兵が応射する。外の世界では実用化のめどが立っていない器械式の弩による狙撃が、人間側の兵力を的確に削り取る。
 森という自然の防壁が矢を防いでいるため、人間側の射撃は当たらない。
 弓兵達は緑色の服を着込み、体中に木の枝を付け、緑と茶色の戦化粧をしており、まるで自然そのもののように戦っていた。森に生きる住民の知恵は伊達ではない。
 隊の先頭で、男が剣を天に振り上げた。ミスリルが魔力に感応して淡い色彩を醸し出した刹那、男の口から紡がれる言葉で変貌する世界に同調した。
 人間側の矢の一斉射が、あろうことか空中で静止する。時が止まったように。
 どよめく人間側の兵士たちに対し、矢は向きを一回転すると、順々に流星群となりて襲い掛かった。弓兵の半分がこれで死んだ。
 エルフに槍を突き出した兵士は、突如発生した火炎に全身を焼かれ死んだ。
 エルフに剣を振った兵士は、剣と接触するや感電死した。
 魔術を放った兵士は、それ以上の威力を有する魔術によって殺された。
 隊を指揮する男は仲間に号令を出すと、次々散っていき、前衛の兵士たちを切り刻んでいく。
 思い出したように、人間の弓兵達が距離を離し、弓を射かけてくる。統制がとれず各自で射掛けてくるだけで、効果は薄い。
 装備もバラバラで、訓練を受けてもいないことが容易に理解できた。お雇いのを差し向けてきたのだろう。
 ミスリルの剣で矢を叩き落とし、身を捻るように次の矢を躱せば、槍で突っ込んでくる兵士の一撃を跳躍でいなし、頭を蹴り折って槍を奪い取る。

 「おおおおおおっ!!」

 槍を片手で投擲して一人を仕留め、すかさず地に降り立てば魔術の放射で生じた『圧』で三人ほどを吹き飛ばす。

 「こんにゃろぉぉお死ねぇぇぇ!!」
 「気合は十分だが!」

 奇声を上げて突っ込んできた人間の槍を、剣で体の右側に逸らせば槍を引っ張り、顔面に拳をお見舞いする。顔面を剣で串刺しに。脳漿が飛沫になった。
 次の人間が、剣で斬りかかってきた。馬鹿正直な上段から下段に抜ける振り下ろしを受け流し、肩で体当たり。よろめいたところを、横を疾風が如く通り抜けざまに顔面をスライス。
 戦いに精一杯で背後に気が付いていない人間の背中を突き刺し、肩を掴んで方向転換させた。次の瞬間、まだ若い人間の槍の一撃が、『盾』の腹に突き刺さった。
 驚愕の表情を浮かべる人間に手を向け、呟く。
 見えない力が人間の全身の骨を粉砕した。崩れ落ちる人間。生きてはいない。
 男の横から、槍が投げ込まれた。それは男の肩を貫き首に刺さる運命であった。
 だが、火炎の薙ぎ払いが槍を蒸発させたことで運命は狂った。

 「隊長、突出しすぎです」
 「私が前に出なければ皆が死ぬ!」

 長髪のエルフが飛び込むや、魔術を詠唱し、火炎放射で数人を炭にした。鉄製の鎧も、こんがりと焼かれては意味をなさない。
 エルフ側の弓兵に混じった魔術専門の兵達が、声を合わせて火炎弾を発射した。森の影から飛来したそれは、空中で分裂し、ヒューッという口笛のような音を伴って戦場を焼いた。
 火力の隙間を埋めるように、弩から次々狙撃が開始される。
 戦闘の主役を担う槍兵よりも、馬に乗った指揮官が狙われた。正確無比な射撃が指揮官の頭部や胸を穿ち、たちまち前線の指揮は崩壊する。
 さらに、魔術の再詠唱を終了した各魔術兵達が、光の光線を発射して、人間の兵だけを狙い打っていく。
 ただ狙い撃つだけではなく、撃っては動き撃っては動きを繰り返すことで場所を悟られないようにするのであるからたまらない。
 人間側は森に火を放とうとするが、目的が適うことは無い。魔の森が焼け落ちることなどありえないし、もし火がついてもエルフが消火作業に移るのだから。
 矢を盾で防ぐ。
 散漫な矢の射撃が戦場に降り注ぐが、あろうことか同じ人間をも貫くのだ。指揮官らしき中年の男が指示を出しているが従うそぶりもみせず、逃亡する者もいた。
 士気は完全に失われ、前衛の近接装備の人間達の中にも逃げ始める連中がいた。
 男はここぞとばかりに雄叫びを上げると、大きく振りかぶって腰の小剣を投げつけ、一人を始末した。威圧的に地面を踏みしめ剣を回収すれば、腰に戻す。
 エルフ特有の端正な顔立ちはしかし血に塗れた鬼そのものであった。
 兜の位置を手で直せば、声を張り上げた。

 「盾を構えろ! 前進するぞ!」

 盾を腰だめに構え、集合を号令した途端、仲間らが一斉に集まって一つの装甲と化した。
 散漫な矢のは装甲に一目散に飛んでいくが、弾かれるだけ。人間側が魔術の砲撃を放っても装甲は一枚たりとも剥がれない。それどころか放たれる魔術で殺される。
 盾そのものにも魔術的な強化が成されていることもあり、生半可な攻撃ではびくともしない鉄壁そのものであった。
 約10人が真正面から突っ込んできた。槍を突き出す。盾で受け止める。

 「やれ!」

 盾が隙間を空けた刹那、火炎と電流と氷の槍が10人諸共粉砕した。人肉の破片が盾を汚す。盾の塊がじわじわと前進し、点々と飛来する矢を受け止めた。
 さっと盾の塊が崩れ、男を先頭に鏃となった。

 「進めーッ!」
 「全軍前へ!」

 男と長髪の号令で、全ての部隊が喊声を上げて突撃を開始した。
 それを見た人間側の兵士たちは慄き撤退を開始した。


 戦が終わった。
 戦場に転がっているのは死体とそして死体である。
 首を切られた死体。胸から剣の生えた死体。矢が刺さった死体。焼死体。凍りついた死体の破片。血の海に沈んだ人間とエルフの死体。刺し違えたのか、エルフと人間が抱き合ってこと切れた死体もあった。
 辺り一帯には生臭さと焦げ臭さが入り混じった不快な煙が散漫していた。
 まず前衛を突出させることであえて弓兵に弓を射掛けさせ足を止めさせる。魔術で近接兵を含む広範囲を薙ぐ。森の遠距離攻撃部隊の支援をもとに前衛が戦線を押し上げる。
 やったことはそれだけだ。魔術を行使できる人間を複数集めて運用すること。精鋭による戦場掻き回しを実行すること。
 男は顔の血を拭うと、腹に矢を受けて倒れている仲間の元に駆け寄り、ただちに回復魔術を行使した。不可視の力場が矢を粉々に粉砕して宙に放りだす。傷口が締まる。血液の流出が食い止められた。
 イメージを内部へと張り巡らす。幸い、矢は内臓に致命的な損傷を与えていないことがわかった。止血、止血、止血、傷口という傷口を結合する。
 男に癒しの力の適性は無かったが、毛細血管の一本に至るまでを動かす力はあった。
 まだ若いエルフの女性兵士は苦痛の表情を浮かべた。

 「ぐ、あ゛………隊長……痛いです……」
 「馬鹿もの……痛くない傷があるものか……終わったぞ。できるなら自分で歩けるか」
 「厳しいです」
 「だろうな、今のは冗談だ。私が運ぼうお嬢様」
 「らしくないことを……」

 男は女性兵士を抱えて立ち、森に向かって歩き出した。
 長髪のエルフが、肩に包帯を巻いたエルフの歩行補助をしつつ、横に並んだ。

 「3人食われました」
 「3人」

 長髪の彼は前を見たまま答える。打てば鳴るように。
 男は顔をゆがめた。3人もの戦士が召されてしまった。エルフの里の総人口から考えれば重大な損失だった。

 「怪我人は」
 「18人」
 「多いな」
 「確かに。実戦を経験させようと新兵を前に出したのが悪かったのではないかと」
 「大規模戦闘に放り込むよりマシだ」
 「連中、お雇いのをさんざん殺され頭にきて復讐挑んでは来ませんでしょうか?」

 もっともな疑問。
 男は薬草汁でも飲み干した直後の顔になる。

 「植民地化した国から雇った連中だと思うが」
 「ああ、むしろやられた方が好都合と」
 「こちらには都合が悪いことこの上ない。戦うよりも内側に引きこもった方が被害は減らせるはずだが、どう思う」
 「いい案ですね。ただし森が破られた時にその案は灰燼に帰すでしょう」
 「巨老人の里のように要塞化すべきではないかと思っている」

 それだけの労働力をどこから捻出するかというのが問題だがと男は続けると、森から出てきた魔術兵に女性兵士を引き渡し、次の怪我人の看病に向かった。
 次の怪我人は比較的軽傷であったので簡単に治療をすると森に送った。
 エルフの兵士たちはこぞって敵兵の装備を剥がし、肩に担いでいる。だが皆嬉しそうな顔もせず暗調をかぶっているようだ。
 男も地面に刺さった剣を抜く。
 これも貴重な資源なのだ。いくら鉱山を森の奥地に有するとは言っても限度がある。使えるものはなんでも使う必要があった。
 男が神妙な顔つきで剣の造形を確認していると、長髪が寄ってきた。彼は副隊長であり男の戦友であり親友である。

 「死者の剣を持ち帰るなど許されざることだな」
 「今更それを言いますか? 精霊も許しましょう」

 長髪のエルフも槍を数本肩に担ぐ。腰には剣が何本もぶら下がっている。

 「帰るぞ。日が暮れてしまう」
 「そうですね」

 男は隊を率いて里に帰還した。
 日が黄昏を帯びた中の帰還だった。




[19099] 二十話 乾いた旅路
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/23 21:16
XX、


 夜。
 太陽はとうの昔に地平線の布団に潜り、月が堂々と星空の中央に居座っている。
 障害物の無い草原の真っただ中を、黙々と歩き続ける人影一つ。セージである。
 彼もしくは彼女がなぜ夜中に草原を歩き続けているのかと言えば、人目を避ける為である。
 地図には記されていなかったが、この草原は遊牧民が頻繁に行きかう地帯だったのだ。他にも軽鎧を身に纏った連中まで目撃しており、接触する可能性があった。
 遠目にはエルフと気が付かれまいが、リスクは避けたい。万が一顔を合わせてしまった時は目も当てられない。
 これからの旅路はあえて森を抜けたりして人目を避け続ける必要があるだろう。
 もっとも夜歩くのは見つかる恐れがある場所に限るのだが。
 渓谷の里まで一か月かかると長老が言った通り、地図に記された小目標の一つ一つですらなかなかたどり着けない。そもそも、自分が歩く方向が間違ってないとも言い切れないのだ。
 コンパスがあれば話は変わっただろうがと愚痴を吐いても仕方がない。
 さっそく倦怠感に包まれ始めた足に鞭を打ちつつ、月明かりを頼りに草原を歩く。
 夜の楽しみは何と言っても星空である。というよりテレビもゲームも無いので娯楽らしき娯楽はこれくらいである。現代日本のように排気スモッグで汚れていない健やかな空は、雲や靄といった気象条件を別にすれば透き通った素顔を拝ませてくれる。
 北斗七星も、オリオンも、十字星も、星の配置すら違う空は、キャンパスだった。
 星と星をつないで新しい星座を作る。元の世界の星座をこちらの空で再現する。羊飼いたちがやった遊びは果てが無い。

 「オリオンが太ってやがる」

 オリオンを再現してみたが、ベルトが一つ多い。食べ過ぎたのか弛んだのかはさておき。
 星明りと月明かりでは手元が見えず、魔術を行使して光を指先に灯せば、地図を広げて進行方向の正誤を確認する。草原の向こう側に一本の巨大な木があると記されている。
 つい、と視線を地平線の向こうにやっても、木らしき物体は無く。
 もしかすると違う方向に進んでいるのかもしれないし、堂々巡りをしているかもしれない。
 木を見つけるまでは草原を永延とうろつく羽目になるかもしれない。最悪、出会った人間に道を聞くことも考慮しなくてはいけない。
 喉の渇きを覚え、水筒を取り出そうとしてやめた。水は節約すべきなのだ。いざとなれば草を食み水分を補給する覚悟があったが、可能ならば水は保持しておきたい。草原のど真ん中に水源があると考えるのは都合がよすぎる。
 明かりをつけっぱなしにすれば精神力が奪われるし、なにより目立ってしまう。人目を避ける為に夜を選んだのに逆に目立っては意味が無かった。
 星座を描くのを止めて歩くことに専念する。
 歩き続けていると脚の筋肉が熱を持ち出し、体まで熱くなってくる。
 呼吸のリズムを一定に保つ。吸って吐いてを繰り返す。歩調を乱さず、慌てず、歩く。力を込めてはいけない。緩めてもいけない。

 「馬、盗んでみるか」

 口に出して首を振る。どの道、馬の扱い方も知らないどころか乗ったことすらないのに、どうして馬を操れるというのだろうか。精々リアカー替わりである。
 リアカー。
 馬車があるくらいなのだからリアカーも作れるのではないか。
 作れないことは無いだろう、誰が作ってくれるのかという問題に目を瞑れば。金が必要になるのは言うまでも無く、エルフということを隠し通すことが必要である。エルフの里で作ってもらうのが最も安全性が高い。
 自転車でもいい。徒歩で移動していると分かる車輪という発明の偉大さ。
 手ごろな岩を見つけた。ジャガイモとカボチャに息子がいるならそれだ。小休憩するべく腰かけて、ミスリル剣の柄を弄る。やっと手に入れたまともな武器。
 長老から頼まれたことは『巨老人』の里に剣と言付けを届けることである。剣はいいとしても言付けは内容が曖昧過ぎて理解できないものだったが、己に関係ないことである。
 峡谷の里までが30日。峡谷の里から巨老人の里まで30日。徒歩で往復したとして4か月かかる。長い道のりだと改めて思う。
 4か月の道のりは、巨老人の里からヴィヴィ達が居た里に戻ることを前提とした計画である。そのまま王国に侵入したとすれば2か月と少しとなる。
 
 「……よし」

 セージは頭をボリボリ掻くと膝をパンと叩いて立ち上がり、歩き始めた。鼻をぐしぐし手の甲で擦る。鼻水は無かった。
 日が昇り始めたところで布に包まって地面をベッド代わりに寝た。
 用心の為、耳を地面にくっつけて寝たが、鼠一匹たりとも寄ってこなかった。焚火は起こさない。ここにいますよと宣伝するつもりは毛頭ない。
 翌日、目を覚ますと太陽が天頂でふんぞり返っていた。採集しておいた木の実を口に放り込み、唇を湿らす程度に水を飲むと、ストレッチをして出発した。
 地図に記された日付が過ぎても木は発見できなかった。とうとう木の実も底をつき、非常食として取っておいた干し肉を食べることになってしまった。焦燥感の中、昼間だろうが夜だろうが手がかりを求めて彷徨った。
 木に辿り着くはずの日が過ぎて三日目。いよいよ干し肉の残量も怪しくなり、水の残量に至っては水筒に四分の一入っているだけという危機に陥った。
 四日目。自力で探すことを諦め、遊牧民に道を尋ねることにした。
 探し出すのに半日を要したが、遊牧民は快く道を教えてくれた上に水と食料を分けてくれた。フードを取ったら大騒ぎになるので手で押さえておいた。
 自力で行けないのなら誰かに頼ればいいという発想が出てこなかった辺り、意地になっているのかもしれない。
 水と食料を入手したセージは、木に向かって他の物に目もくれず歩き続け、やっとの思いで見つけることに成功した。

 「木……これか」

 地平線にぽつんと浮かんだそれを正面に捉えて呟く。日も暮れようという時間帯になって、目標らしきものを発見することができたのだった。
 遊牧民を除けば人らしき人に遭遇しておらず、怪我もせずにたどり着けたのは幸運であった。
 水筒を傾け、蓋を閉じて背中のバックパック(形状が似ている)に仕舞い込む。
 草原を吹き抜ける風が埃っぽくて目に染みる。太陽も目に染みる。何日も水浴びをしていないせいか肌は塩気を帯びていた。長老から借り受けた服も汚れていた。
 草原を歩き続けて気が付いたことがある。水っ気が無くなってきたのである。湿気もなく、地面の湿り気も無い。
 セージは顔を擦ると、足を進めた。
 木に近づいてみると、枯れていた。葉っぱは既に無く、表皮も年老いた老人のように掠れて、生気のない茶色を湛えていた。
 水が無ければ生きられない。草も、木も、エルフも例外なく死ぬ。
 立ち枯れた木の表皮に手を触れる。
 例えようのない虚無感が立ち尽くしていた。
 地図を取り出して、さらさらと羽ペンを走らせる。周囲の目標物。地形。木の絵の下に枯れていると備考を加えた。さらに、己がやってきた道に線を書き加え、次の目標に点線を引き、四角形が丸く並んで描かれた地点でペンを止めた。
 次の目標は岩が円形に並べられた古代の墓地である。所要時間は三日間。ストーンヘンジという代物だろうか。道中は草原の緑色から茶色と黄銅色一色で表現された土地が広がっていることから乾いた場所なのだと想像をつけた。
 セージは木に別れを告げた。名残惜しそうに表皮を撫でて叩く。乾いた音がした。

 「じゃあな」

 水筒の水をかけたい欲求に駆られたセージであったがどうにも止めた。
 あれは死んでいるのだ。





~~~~~~~~~~

作品を書くのは手間じゃない。ローマ数字が手間なのだ。



[19099] 二十一話 お水をください
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/24 00:47
XXI、



 独り旅 何を言っても 独り言。

 「くそ……なんか悪いもんでも食ったかな? 草はお腹にいい食物繊維入りなのに。うん。おいしい。草の中でもおいしい方」

 お腹の調子が悪かった。それも、荒地のド真ん中で。
 食料調達のめどが立たないのに乾いた砂と岩くらいしか無い地帯に突入してしまい、慌てて引き返すと雑草を引き抜いて一応の食料とした。草原に暮らす鼠も剣で串刺しにして干し肉にしておいた。水を調達したかったが、見つからなかった。
 おかしなものである。口にしているのは草が大部分で食物繊維たっぷりの自然食品であるはずなのに、腹部がストライキを起こしているのではと現実逃避したくなる程に緩い。
 さんざん雑草を口にしてきた経験上から、獣が好んで食べる草をもりもりと食べる。
 食べながら、歩く。
 雑草もとい食糧を口に放りながら歩く少女。草は食べられるもの、薬草(と信じているが効果は不明)、擦ると虫よけになる強い香りの草など、分類されている。
 草の他は欠片しか無い干し肉と、鼠と、木の実と、まだ動物で実験していない謎のキノコ。
 草だけは大量にあるので当分は困らないであろう。
 問題は味である。草は、本来食べるものではない。特に雑草に分類されるものは。
 アクが強く、渋く、苦く、硬く、鉄臭い。野菜っぽい味がするのを選別して採取したとはいえ、草である。まごうことなき草である。
 少女の口を覗き込む機会が経った今巡ってきたと仮定して、中を見れば感想は次のようなものになる。
 緑一色と。
 ひょっとするとこれがいけなかったのかとバックパックから取り出したるは、木の実。赤く、酸っぱく、消しゴムのような滓が口に残る食べ物。鳥が食べられても人間には食べられなかったのかもしれないが、どう証明すればいいのだろう。
 お腹が緩いのが続けば水分も栄養も流れるばかりである。
 整腸剤でも転がってないだろうか。
 鼠の肉を口にする。血の味だった。咀嚼して飲み込む。咽頭が波打った。

 「喉乾いた………暑かったら死んでたわ」

 ブロンドの髪の毛をぐしゃぐしゃに掻きつつ蒼穹を仰ぎ、睨み付ける。
 “素晴らしい”御日柄。雨は望めそうにない。飲み水は得られないし、水浴びもできない。
 地図によると墓場の付近まで行くと古井戸があると記されているが、枯れた木の例もあり信用ならないのだった。別の手段で水を入手することも考えなくてはならなかった。
 布と砂利を使ったろ過装置でも試作してみようかしらんと考えつつ、乾いたくちびるをきゅっと引締め、歩く。
 ―――突如、頭に落雷があった。
 地面を蹴っ飛ばし大喜び。涙まで浮かべて手を叩いてくるくる回る。気が違ったわけではない。

 「そうだろ! バッカじゃねーの俺! 魔術使って水を出せばいいじゃんか!」

 その発想はビッグバン。
 魔術はイメージである。己の魂と肉体が結合しあう力を流用した力で世界に働きかける神秘である。イメージできるのなら大抵のことはできてしまう。
 ならば、水をイメージして作ればいいのではないだろうかと考え付いたのである。
 さっそく地面に座り込むと水筒を腿の内側に挟み、両手を広げて、集中する。生命の源。透明の流体。重なれば青くなる。山に注げば川となる。乾けば空気に溶けて雨を作る。
 雨よ、水筒に出ろ。

 「〝水よ満ちろ〟」

 瞬間、水筒が微かな振動を孕んだ。水筒の底が冷たさを生むや、振動は激しくなり、蓋がはじけ飛んだ。辛うじて蓋を掴み取った。

 「うおっ!?」

 水筒から溢れる水が顔面を直撃して鼻と口から侵入した。
 驚きより喜びが勝り、イメージは噴水のような勢いへと昇華されていく。水筒が反動で腿を圧迫したが構わずに水を口に流し込む。ごくんごくんと喉を鳴らして飲む。
 顔の埃と汚れが水流によってはじけ飛ぶ。
 飲んで飲んで飲みまくる。

 「…………んぐんぐんぐぐぐ? んぐんくっ………ぶはっ」

 思う存分飲んで、魔術の行使を切る。蓋を閉めるべく手を伸ばす。水は蓋を押しのけんばかりの圧力を作ったが、強引に押し込むと、あっさり無圧状態に移行した。
 そこで気が付いた。
 水なのに味気ないと。

 「おいこれ……あーくそ」

 セージの全身をびしょぬれにした水が数秒とかからず蒸発していく。外だけではない。中もである。咥内を、喉を湿らせたはずの水が、見えざる手に奪いとられていく。
 喉がくっつく。咥内がかさかさになった。鼻の中が乾く。顔も体も服の一切が乾燥に向かった。
 ものの一分と経たずに水は消え去った。
 茫然とするセージは一抹の期待を込めて水筒の中身を覗き込んだ。量に変化なし。溢れんばかりの水は白昼夢のように消えて無くなっていた。
 魔術とはイメージである。イメージは本人に依存する。イメージが続かなくなれば魔術は世界の修正力に飲まれて消える。理屈は単純だ。
 恒常的な効果を発揮させるには物質に頼るか、世界を塗り潰すような高位の術を使う他ないと知らなくても、水が無くなったという事実を目の当たりにすれば気が付くだろう。
 興奮しすぎて水を出し過ぎた反動か、軽い頭痛がした。魔術を行使しすぎて体と魂が感動のフィナーレを迎えるのは避けなければならない。
 セージは立ち上がる気力が失せ、その場で座り込んで休憩に入ってしまった。
 少なくとも体を洗ったり、熱さをとったりなどはできるという収穫があったのだから決して無駄ではなかったと、ポジティブに変換する。
 そこで第二発目のビッグバンが脳天に轟いた。。
 顔がぱっと明るく輝く。

 「そうだ! なら間接的にやってやれば!」

 水筒の布を剥がして金属を露出すると、寝転がって上に掲げ持つ。子供を「高い高い」しているような恰好である。
 イメージするのは冷たさ。目を瞑り青い空を遮断する。北極。南極。冷蔵庫。冬。雪。思い出す。組み立てる。映像と映像を組み立てて強く念じる。
 思考の端に混じる灼熱の火炎がイメージを乱す。燃える家。焚火。太陽。イメージが消えてしまう。精神力を振り絞り、命の危機を回避したいと強く己に暗示した。
 息を吸う。吐く。吸う。吐く。目尻に力を込め、開く。

 「〝冷やせ〟」

 呟いた言霊はしかし目に見える形の変化をもたらしていないかのようである。
 ところがセージはニヤリと口元をゆがめると、水筒の金属部分を口に近づけ、寝転んだまま舌を伸ばし、ゆらゆらとしなやかに揺らせば、水筒を舐めた。
 確かに水があった。水筒には水が付着していた。
 夏場、コップに冷たい水を注ぐと『汗』をかく。これは空気が冷やされて飽和量から弾かれた水分が結露という形で水になる現象である。セージはこれを利用したのである。
 魔術で水を直接作ることができないのなら、間接的に水を空気中から取り出す。
 水筒の底をセージは舐めた。舐めて舐めて舐めた。舌で寄り集めた水滴を唇で吸い取った。重力に従い伝うのを顔で受けた。大真面目に水筒を舐めまくる姿はシュールを体現していた。
 だが、徐々に腕が疲労を訴え始め、舌も重くなってくる。

 「へふっ……う、うん……ぇう………っんっん………げほっ、畜生、疲れるぞこいつ」

 魔術行使を切り上げて顔の水滴を指で救って舐める。ため息を吐くと、水筒をお腹の上に乗せた。
 問題が判明したのだ。
 量が少なすぎるのと自分で舐めなくてはいけない点である。しかも一度舐めると唾液が付着し、その部位に水滴がつかなくなるので拭き取らなくてはいけないのである。
 舐める労力と水を得る効果が釣り合わない。
 有効な方法を考える必要があった。
 金属の板と垂れた水滴を回収する容器を手に入れることができたのならば最高なのだが。

 「買う金が無いんだよな」

 生憎、売れるような品は無いのだと苦笑する。ミスリル剣は売ることができないし、他の装備も借りただけなので売ることはできない。
 働こうにもエルフを雇ってくれる職場があるわけもなく、子供の体力では肉体労働も長く続かない。下手すれば奴隷という新しい職業を笑顔で斡旋してくれるであろう。
 商品価値を有するのは一つだけしか持っていない。

 「体でも売るか!」

 それは体である。美しき容姿を持つと一応の自覚があるからこそ出た台詞であった。
 誰も聞いてくれない冗談を飛ばし、立ち上がる。お尻の埃を払った。水筒をしまう。胸当てを引き締める。ベルトを引き締める。屈伸。腰をまわす。前髪をかきあげた。
 出発だ。
 地図を広げ、歩き出す。
 古代の円形岩墓場まではもう少しだ。
 しばらくして、墓場に辿り着くことができた。




[19099] 二十二話 岩の墓場
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/24 23:01
XXII、


 岩の墓場が前方に見えてきた。
 地面に草が生い茂っており、木々があたりを囲うように生えていた。まばらな絨毯だと感想を抱く。乾いた土地の真ん中に草木が生えているということは水源があるに違いない。砂漠にオアシスがあるようにここにも水があるに違いと考える。
 墓場と言っても岩が起立して並んでいるだけだが、規模が予想の斜め上だった。見渡すばかりに岩、岩、岩、石碑、岩、岩。岩がまるで行進する兵隊が如き威圧感を放っていた。
 円形に並んではいるがやや不揃い。巨大な円の枠を配置して、はみ出さないように、しかし適当に並べたらこのようになるだろうか。
 岩の列に足を踏み入れて、観察する。
 岩には何らかの文字が刻まれていた。記憶の中で最も近似するのが楔形文字だった。ノミをハンマーでたたいて刻んだ文字。死者への弔いの言葉が記されているのだろう。
 “少女”はフードの淵を指で弄りつつ、あたりを見回した。

 「井戸ってどこ?」

 墓場観光はどうでもいい。水の確保が先決である。
 魔術で作るのは効率が悪すぎる。
 念には念を入れて岩の影に隠れて誰も居ないことを確かめつつ歩いていく。隠れては顔の半分だけで覗く。さっと移動して岩に取り付き、また顔の半分だけ出して確かめる。
 人っ子一人居なかった。
 気恥ずかしくなった。わざとらしく鼻を鳴らせば、とんととんと岩陰から進み出た。

 「……誰もいないか」

 岩の群れを抜けて、円形の中央に向かう。何か目ぼしいものがあるとすればそこしかないと考えたのだ。彼もしくは彼女の予想は的中し、何らかの構造物があった。
 岩を塔の形に仕立てたとでも表現すべきそれは、先端に向かうにつれて中央に収束する丸みを帯びた岩だった。大木程の太さがあった。セージの腕では周囲を包むのに複数人は必要となるであろう。
 裏にまわってみると構造物の半ばからぱっくりと空間が口を広げていた。木の洞のように。
 構造物の洞から中に入ると中央に穴があった。近づいてみるとそれは井戸であった。天井から吊るされる形で水汲み装置が設けられていた。鎖を手に取る。埃と錆でかさつく。
 天井に目を凝らすと、滑車を使うのではなく、穴に通しただけの単純な作りであると分かった。まるで長時間放置してもいいように滑車を使うまいとしたようだ。
 鎖を手になじませ、容器に水を汲むように動かす。勢いつけて引っ張る。天井の穴で擦れてガララと音が鳴る。振動で手がしびれる。

 「よいしょっ、よっと……ふんっ……うっ、よし、せぇの!」

 鎖は重く、一息にはすべてを引き上げることが叶わない。何度かに分けて引っ張る。
 何やら綱引きを思い出し、懐かしくなった。悲しいことに相手は井戸であるが。
 井戸の底からバケツか桶が昇ってくる気配を感じ、最後の一引きとばかりに鎖を腕に引っかけ、構造物の外に駆けた。

 「うっし!」

 手ごたえあり。あとはゆっくり手繰り寄せながら近づくだけだ。
 振り返ったセージはとんでもない物を見てしまった。息を呑み、目を見開き、両手をわたわた振りながら全力で駆け寄らん。
 
 「わー!? 馬鹿野郎! 待て待て待てー!!」

 セージが目撃したのは、薄い石で作られた汲み容器が目一杯まで持ち上がっている光景。それと、容器の根本の部品が脆くなっていたらしく、振動に耐えられずへし折れ、水諸共自由落下に身を委ねた瞬間であった。
 ぱっと寄って、井戸の淵にしがみ付き奈落の底を見遣る。
 直後、容器が落着した音がした。
 水音だった。
 水があることは喜ばしい。久しぶりに水を補給できるし水浴びも叶うだろう。休憩することもできる。一時的な拠点として構えることも案の一つに加えることができる。
 だが。

 「どうすんだよこれ……」

 セージは井戸の底を覗き込むと途方に暮れたため息を漏らした。魔術を行使して光を灯せば、底を照らして見る。目測で何メートルかは正確に分からなかったが、落ちたら死ねる高度があった。
 光を反射する水面が恨めしかった。
 そう、問題はいかにして水を汲み上げるかという一点である。
 鎖の先端に布を巻き付け下ろし、水を染みこませて汲むことを思いついた。容器を探してくるより苦労は少ないように思える。
 ……鎖を引き上げる手間を除いて。
 手持ちの布の中で最大のものでも手拭きタオルしかない。手間は計り知れない。水筒一杯になるまでと、己の飲む分を確保するには何往復すればいいのかも見当がつかなかった。
 ここまで思考の糸を張り巡らせていたセージは、普通に水筒を括り付ける案を採用した。
だが、危惧していたことが的中した。水筒の浮力で水が中に入らないのである。考えた末、手ごろな石を括り付けてようやく水を汲むことができた。
 やれ、成功だ。
 ほくほく顔で水筒から水を飲み、また汲んでは飲む。腕が疲れを訴えたが無視した。目一杯飲んだので顔も洗って鼻と口も洗う。水筒に水をたっぷり注いで蓋を閉める。
 そこで、鼓膜を打つものがあった。

 「もし……」

 静かな声。霧と靄と雲を集めて楽器に仕立てたようだ。小人が口笛を吹いているのを枕元で聞かされる感覚に陥った。
 心臓が早鐘を打つ。

 「もし……旅のかた……」
 「………ハ、ハイなんでしょうか」

 セージは水筒を握りしめて硬直した。フードを被っていたのが幸いであったが、振り返りたくなかった。フードを覗き込まれるとエルフであることがバレるかもしれない。
 今しがた水で潤ったはずの喉が急速に砂漠に似通っていく。腰のミスリル剣を指で突く。魔術の発動を頭の中で準備する。
 妙なことに、背後の人物からは息遣いを感じられなかった。気配すら。暗殺者や腕の立つ傭兵などは相手に存在を悟らせないというが、まさか。

 「旅の方は……いかなる用事でここに参られたのでしょうか……」
 「水を汲みに」

 セージは水筒を肩越しに見せつけ、揺らした。落ちる水滴。

 「そうですか、ここの水は死者の為の水なのですが……」
 「ごめんなさい! 長旅で水が入用だったもので」
 「フフ………いえ、私の所有地ではありませんし……あなたのような子供の喉を潤せるのなら井戸も本望でしょう」
 「ところであなたはなぜここに?」

 振り返らずに尋ねてみる。岩の構造物から墓場の外までの最短距離を計算する。最悪、突如背後から斬りかかってくることも考えておく。
 背後の人物――声という要素だけで判断するのなら女性――は、ゆっくり噛み締めるように答えた。
 そよ風が背後の方から吹いた。爽やかな花の香りが鼻腔を刺激した。香水だろうか。

 「―――……ひとを待っているのです」
 「それは誰ですか」
 「愛する人です」
 「えー、どのくらい待っているんですか?」
 「さぁ……わたくしには解りませんわ。もうそこにあの人がいるのかもしれません」
 「………」
 「………」

 会話が継続せず押し黙った。
 一分経った。二分経った。三分経った。背後に居るのか居ないのかもわからない。思い切って振り返ろうと、拳を握る。
 さっと振り返ってみれば、誰も居なかった。アッ、と声を漏らす。岩の井戸がある構造物の周囲をぐるっと一周してみたが、やはり居ない。狐につままれた気分。首を傾げる。

 「疲れすぎて夢でも見てたとか……うーん……。わからない。いいや、なんでも」

 考えれば考えるほど泥沼に嵌りそうで、セージは考えるのを止めた。
 身支度を整えて地図を開くと道程に文字を記入していく。里と里の間を行き帰りするのには情報が必要だからだ。
 地図を仕舞い、お決まりのストレッチで体を解すと、次の目標に向けて歩き出す。岩と岩の間をすり抜けて、ゆったりと足を進める。
 その途中で、はたと足を止めた。違和感ともいえるし、異変とも、自然現象とも言えるものを見つけたのだ。
 一つの岩のすぐ横の地面に赤い色がある。生き生きとした赤く小さく可憐な花が横たわっていた。手折られたのち、この場所に誰かが置いたのか。しゃがむ。手にとって鼻に押し付ける。爽やかな香りがした。
 お供え物だろうか。花を丁寧な手つきで元の位置にそっと戻す。
 セージは、さっきの人物が見ているかもしれないからさっさと行こうと伸びをして歩きを再開した。






[19099] 【見なくても問題ない簡易設定集】
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/16 01:08
「“少女” (セージ)」
リアル系の世界から神様に転生というか憑依でファンタジー世界に飛ばされた。
男性だったのが少女になってしまった。
本名のセイジを伸ばしてセージと名乗る。

「長老」
セージが最初にたどり着いたエルフの里の長。ナイスなダンディー。
里を守るために戦ってきた戦士である。
戦闘向きな不可視の魔術を行使する。

「アネット」
綺麗なブロンド髪をポニーテールにしたエルフ。
幻術系や光系(レーザーとかビーム的な)を得意とする。

「ヴィヴィ」
ちょっとませたエルフの女の子。ややツン。内面は優しく世話好きでいたずらも好きな女の子。
英文を日本訳したようなしゃべり方で書いてます。

「アルフ」
黒髪痩躯な鋭い目つきのエルフの先生。
ちょっと皮肉な言い方を好むらしいが基本的にいいエルフ。

「“神”」
糞野郎。


『第一の里』
正式名称ではない。セージが最初に訪れた里である。
森の奥に存在し、樹木に紛れるように家々が立っている。高い石造りの塔がある。

『渓谷の里』
渓谷の隠し岩の奥に存在する地底の里。
ドワーフの掘った跡をそのまま利用しており、地底湖がある。広い。

『巨老人の里』
巨老人と呼ばれた戦士の治める里。


『王国』
領土拡大を狙う強国。小国を次々ねじ伏せては植民地化し、民衆の不満を逸らすためにエルフを害のあるものとしてでっちあげた。
具体的な国名は出てきていない。



[19099] 二十三話 蜘蛛再び
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/25 23:12
XXIII、



 里を発ってから三週間という時間が流れた。
 目標地点から目標地点を線で結びつつ、じりじりと里に近づいていく。
 人間の町や行路を通過しないよう細心の注意を払って、必要とあらば夜を歩いた。モンスターの襲撃を受ける可能性があれば木の上に宿泊した。盗賊に殺されたかけたこともあった。
 動物も狩った。鹿のような生き物を殺して肉を剥いだ。内臓を取り出した辺りで吐き気がしたが、肉だけを剥いで並べたところで平常心を取り戻した。肉はその場で焼いて食べ、余った分は熱で水分を飛ばした後、干し肉にした。
 狩りの成功率は五回に一回と言ったところである。魔術を発動せんとするとなぜか逃げられてしまうのだ。野生の動植物は魔術を感知する能力があるのかもしれない。
 深刻な食糧不足に陥った時は進むのを止めて一日中狩りをすることもあった。
 峡谷の里が近くなってきた今日この頃。荒地を越えた先にあったのは森林で、緩やかに山になりつつあることがわかった。
 山を越えた先に峡谷がある。
 ミスリル剣で葉っぱや蔓を薙ぐ。長老の説明通りにミスリル剣はよく切れた。動物を解体するのにも使えたし、地面を掘るのにも使うことができた。刃毀れ一つせず、研ぎ石の出番が一度も無かったことからも強固な性質がうかがえる。
 セージは、ミスリル剣を袈裟懸けに振るうと、顔にかかった蜘蛛の巣をむんずと退けた。家を壊された蜘蛛が慌てふためいて逃げ出すのを、素手で捕獲する。毒々しい原色。フムと鼻を鳴らすと、背後に放り投げる。無害なら食べるつもりだったらしい。
 蛙でも居ないのかと地面を見遣った。いない。残念無念。蛙は焼いて食べると鶏肉のような味がして美味であるというのに。
 地図を広げてみる。山から青い線が引かれている。渓谷は川の傍にある。他に、魔術で隠蔽されているので近くまで寄る必要があるとも書かれている。
 まず川を見つける必要があった。
 前進を止めて、地図を背中のバックパックに収める。手近な木を見上げる。太く、長く、枝の広がりが少ない木だ。手をつくと、猿のようにするすると登っていく。
 枝の分岐に手を引っかけ、上半身を持ち上げる。次の枝に足と手をかけて交互に登っていけば、他の木より一つ上に視線がある高度に達する。
 右手と右足左足を枝に引っかけてまま左手でフードの位置を直すと、額に当てて日光を遮る素振り。
 どこまでも広がり続ける樹木の海。緑と茶色の色合いが織り成す雲海。空から舞い降りた鳥が緑の下に消えていく。
 視線を緑の雲の遥か彼方へと向けてみれば、雲が奥に向かって坂になっている。
 とりあえず山の方に向かい、峡谷を見つけ出そう。
 セージは木から降りていくと、最後は飛び降り、両足で着地するや足を曲げて衝撃を吸収した。
立ち上がる。ふと、物音を聞いた。幹に身を隠す。エナメル質が擦れ合うとでも表現すればいいのか、生理的嫌悪感を催す音色を聞いたのだ。
 それはすぐ近くにいた。巨大な虫。蜘蛛である。全高は子供並み。虫というよりクリーチャーという単語を当てはめた方がしっくりくる巨大な敵。
 セージくらいの子供であれば恐怖を感じて慄くだろうが、“彼”は違った。

 「新鮮な肉がいるぞ。あいつをやれば三日は食いつなげる。甲羅とかで道具もつくれそうだ」

 目をぎらつかせ幼い顔に笑みまで浮かべる。腹が減っては戦はできぬというのは嘘である。空腹感を癒すために戦う方が力が出るではないか。
 旅をしてきて慣れたというのもあるだろう。それ以上に、敵が一匹だけで、なおかつこちらに気が付いていないという優位な状況にあるのも気分を高揚させる。
 高鳴る心臓をなだめつつ攻撃にもっとも適した位置を取ろうと思案する。
 可能ならば背後上方。真正面から挑むなど愚の骨頂。一撃で脳がある頭部に致命傷を負わせて短期決戦を挑むべし。
 音を立てぬように忍び足になると、蜘蛛の背後を突く為に大きく迂回する。
 蜘蛛は気がついていないのかしきりに地面を足で穿り返してはミミズを口に運んでいた。

 「よし、いい子だ」

 事が上手く進み舌舐めずりするハッカーのような台詞を呟きつつ抜剣。草むらに入って音を立てぬように身を運び、木の陰に陣取る。木に登ると逃げられる可能性もあるので、単純に馬乗りになることを目標とした。
 魔術を使うとやはり何らかの手段で気が付かれてしまうので、ミスリル剣の鋭さに頼る。
 セージは一匹の蜘蛛に気を取られ、逆に己をつけ狙う蜘蛛に気が付かなかった。
 少女の背後に蜘蛛がこっそり忍び寄っていたのだ。

 「1、2………3!!」

 掛け声を合図に影から飛び出すとミスリル剣を逆手に持ち、蜘蛛の上にのしかかる。有無を言わせず剣を頭に突き立てる。ミスリルの切っ先が外殻を豆腐のように貫く。引き抜けば、また突き刺す。何度も何度も執拗に刺しまくる。体液が顔にかかる。
 阿修羅も全力で首を振る形相の少女が、剣を刺して刺す。

 「死ね! 死ね! 死ね!! 早く死ね!! いいから死ね!!」

 凶暴な言葉を吐く。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。
 蜘蛛は断末魔の悲鳴を上げると、動かなくなった。
 次の瞬間、草むらの一塊がなぎ倒され、猛然と蜘蛛が突っ込んできた。しかも一匹だけではない。三匹も。足で地面を耕しながら突き進む様は怪物そのもの。
 
 「ッ!? 〝ファイヤーボール〟!」

 反射的に手をかざし火炎球を発射。三匹は散開して避ける。イメージの練りが不足していたため、球体が崩れ虚空で砕け散った。
 一匹目が体当たりを仕掛けてきた。跳躍。巨体が宙に浮かぶ。なんて理不尽な脚力。蜘蛛の死骸から転げることで危なげに回避し、起き上がった。
 二匹目と三匹目が目をぎょろつかせながら、前足を振るう。先端に爪。一撃をミスリル剣で受けるが、横からの二撃が右腕を傷つけた。苦痛。

 「あ゛ッぐっ……」

 ミスリル剣を取り落としそうになるも、奥歯を噛み締めて耐える。剣を失えば、最後の近接武器はナイフだけ。射程の短さと強度の無さで敗北を喫するのは目に見えていた。
 蜘蛛の死骸の上に飛び乗り、身構えた。
 三匹の蜘蛛は、一気に飛びかかるのを止め、蜘蛛の死骸を中心に包囲網を作った。
 セージはゆっくりと周回し始めた蜘蛛三匹に対し、ミスリル剣を向けては次の相手に向けて威嚇する。
 右腕から零れる血液が服を汚し、蜘蛛の死骸の上に点を描く。指を動かす。健は健在。筋肉も右腕の運用に支障なし。皮膚が一直線に切れ、肉が傷ついただけだ。
 震えだす右腕を左手で抑え込む。

 「こいつら手馴れてないか? ……っくそ、いてぇ」

 蜘蛛の動作は、まるで人間と戦ったことがあるかのようだった。
 ひょっとすると、蜘蛛を狩る人間が居るように人間を狩る蜘蛛も居るのかもしれない。
 蜘蛛三匹に対してミスリル剣の近接格闘戦は不利であることは百も承知している。一匹を殺しても残りの二匹が体を刺すだろうから。魔術しか手が無い。虫など歯牙にもかけない火力を叩きつけるのだ。
 咄嗟に火炎弾を発射した、してしまったことに嫌な汗が増える。
 己が進む土地は火に弱い。森とは燃えるものである。エルフの里を囲む魔の森なら兎に角、ただの森で火を起こせば大惨事が待ち受けている。焼きエルフが転がることは避けたい。
 イメージの中で二番目に強いのは氷である。ヴィヴィの見事な魔術行使が頭に焼きついたのだろう。
 三匹を氷漬けにしてしまえば脅威は取り除かれようが、今のセージが行使できる技ではない。
 蜘蛛達は複雑な構造をした口を蠢かせ、セージの周囲を回り続けている。狼のようだと無意味な感想を抱く。
 隙が見つからない。一匹でも足を止めたのなら魔術を叩き込めるのだが、蜘蛛達は足を止めようとしない。それどころか、背後に回った蜘蛛が足を擦り合わせて威嚇してくるのだ。
 一匹を魔術で潰せても、二匹目三匹目が首筋を掻き切るであろう。
 逃げ場を探す。無い。水平方向のすべては蜘蛛の順回路である。横切ることを許すほど蜘蛛は優しくない。
 下方。蜘蛛の死骸で塞がっている。地面をのんびりと掘って逃げようとしたなら、その穴が墓穴となるであろう。
 上方。飛べば逃走は容易。だがここは重力の底。無重力ならいざ知らず、自分ひとり分の体重を空に浮かばせるだけの力を、セージは持っていなかった。
 強行突破か、命を懸けて立ち向かうか、逃げるか。
 選択肢はそう多くない。
 セージは右腕の血を指に取ると、両頬に付け、口に突っ込んだ。鉄の味と塩気がした。



[19099] 二十四話 野生は甘くない
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/27 21:02
XXIV、


 セージが選択したのは、敵に命を懸けて立ち向かうことであった。
 強行突破も逃亡も難しいのならば、選択肢を選ぶ以前の問題で、決められたようなものである。
 使えるものを確認する。装備、ミスリル剣、ナイフ。魔術。
 攻撃の手段を模索する。ナイフは最終手段とすれば剣か魔術。スタングレネード(魔術名である)は己が術の跳ね返りを受けるので却下。火炎も却下。氷系。選択の余地あり。
 蜘蛛達は今にも跳びかかってきそうだが、一向にこない。魔術を行使できることは予想外だったのかもしれない。好都合であった。
 不慣れな氷の魔術でいかにすれば蜘蛛を攻略できるかを考える。
 一度も成功したことが無い魔術に頼ることは正しいのか? 
 不確定要素という、猫が生きているか死んでいるかも曖昧な事象に頼ることは正しいのか?
 否。
 セージは否定する。慣れた手段こそ最上である。この場を切り抜ける最高の手は、三匹に同時攻撃を行うこと。範囲を限定した、それでいて威力の高い一撃を見舞うこと。一体だけに集中して二匹にやられてしまうのならば、そうするほかにない。
 使えるものがもう一つあるじゃないかと、それを見遣る。炸裂したらさぞ愉快そうな、それ。
 行使する魔術は火炎。イメージするは“爆発”。対象は―――蜘蛛の死骸。
 ミスリル剣の切っ先を下にしたまま、逆手に持ち替えた。ミスリル剣が魔力に揺らめき波紋を伴う。

 「〝爆殺剣〟!」

 セージは気合いの掛け声を兼ねた呪文を吐きだすや、剣を両手で保持、天の神にささげるが如く、振り上げた。
 そして、背筋の反りを含めた全力を持って蜘蛛の死骸に突き刺した。
 魂と体をつなぐ力を掬い取り、意識の力を持って純粋無垢な力に仕立て上げる。剣を中心に死骸の内部で下と横に指向性を持った大爆発が起こるように念じた。小規模な爆発が世界に生まれる。
 内圧が高まり、肉が弾け、結果的に死骸は爆弾と化した。

 「ぐっ――!」

 甲羅の破片が狙い通りに爆散する。前髪の一部が持っていかれる。足場が肉の塊となり、投げ出されるセージ。内臓を靴で踏みつけた。
 ばらばらと森に降り注ぐ肉の雨。
 破片は四方八方に飛び、例外なく蜘蛛三匹にも襲い掛かった。一匹は目を潰され、二匹は己の甲羅に加わった衝撃と光で恐慌状態に陥った。機会到来。剣を持ち替える。
 爆発で鼓膜がおかしくなったのか、キーンという耳鳴りと、酷い吐き気に苛まれるも、戦闘意欲を削ぐ理由にならず。
 無音の世界で、目を潰されて暴れる一匹に切っ先を向ければ、足の一本を切り落とし、目元に斬撃を追加、正確に脳天を貫き、殺す。

 「ぉぉおおおおお!!」

 二匹目。一歩、二歩、跳躍。馬乗り。脳天を穿ち、力任せに角度を変えて抉り、手首で回転して穴を広げた。脚力と腰の力を併用して剣を引き抜き地面に転がる。体液が顔にかかった。
 三匹目。恐慌状態から回復したらしく、爪を振り上げてくる。ミスリル剣を横にして受ける。重い一撃でよろめき、たたらを踏む。蜘蛛の体当たり。腹に食らった。
 セージは無様に地面に転がった。
 人より大きな蜘蛛の体当たりは軽自動車に衝突したのではと錯覚するほど重く、前後不覚になりかけた。苦痛が腹を覆い潰して意識を閉ざそうと騒ぐ。口から垂れる涎も拭う暇無く、血の流れる右腕で剣を構えた。
 蜘蛛が尻を持ち上げ、糸を射出。粘着質がミスリル剣に絡まった。腕力で引きちぎろうとしたが、粘りが強すぎて意味を成さぬ。角度を変え、手前に引いて糸をピンと張れば、強引に断ち切った。ミスリル万歳。
 足と上半身の振りを利用して立ち上がらん。

 「あ……、つぅ……」

 腕と腹の痛みが燃え、顔を歪める。鳩尾が痛む。内臓が鈍痛に包まれて冷や汗が増えた。
 蜘蛛が糸を顔面に射出。大きくステップを踏み、右に回避と同時に地を駆ける。剣を右手に握り、低い姿勢から蜘蛛の顔面目掛けて跳んだ。足の根本に刃が埋まった。
 ――――キキキキキキキッ!?
 耳もつんざく絶叫を蜘蛛が発し、セージの肩に爪を突き立てた。思考が乱れる。魔術を構築できない。
 悲鳴を上げることすら困難になった。痛くて痛くて涙が出るだけなのだから。
 右肩の刺し傷と切り傷から血が溢れ、服を染め、地面に鉄を供給する。奥歯よ割れよと食いしばり、剣を抜けば、距離を取る。刹那、蜘蛛が飛び掛かる。横っ飛びに回避。
 右手から左手に持ち替えれば、背中を丸く、前傾姿勢で次の攻撃に備える。
 細かい戦術を考える余裕はない。殺されるかもしれないという一種の興奮がアドレナリンを過剰分泌させて、頭を犯していたから。

 「……っ゛ふ……あああ、あ! ……この……ぁ、くあ……殺されろ、屑ぅ!」

 セージは唾を吐き、声を張り上げた。
 酔っ払いが瓶を振り回すような緩慢な横薙ぎを、蜘蛛の目に繰り出す。跳び下がる相手。糸を飛ばしてくる。髪にかかる。頭から引き倒されるより前に、行動を起こす。

 「こんなモンくれてやる!」

 髪の毛を根元から掴むと、ミスリル剣でねじ切る。頭の右側の髪がごっそり地に落ちた。
 髪の毛を糸に絡ませて粘着力を制限すれば、手に巻き、蜘蛛の動きを制限するために腰を落とす。蜘蛛が糸を切り離すや、すかさず糸を鞭のように使って足に絡ませた。
 蜘蛛が突進。
 危なげな横っ飛びで回避。糸をさらに足に絡ませたが機動性を奪うには足りないように見えた。蜘蛛の外殻は糸がくっつかない材質なのだった。
 舌打ち。糸を捨てた。
 蜘蛛が馬鹿正直に正面から突っ込んでくるのがスローモーションに見えた。足を曲げ、腰を落とし、跳び箱の要領で真上を飛び越えた。地面で前転。
 すかさず踵を返せば、蜘蛛の後方から上に乗る。

 「暴れンなッ!!」

 暴れ牛かくや全身を使って振り落とさんとする蜘蛛の頭をミスリル剣で貫く。悲鳴が上がる。剣を斜めにしてやり、外殻を剥がす。中身を素手でかき混ぜてやろうかと考えた。
 だが、ロデオのように揺らされてしまっては力が入らない。

 「くっ!?」

 とどめとばかりに剣を押し込もうとしたが、振り落とされてしまった。
 セージは転んだ勢いを利用して一回転すれば、豹のように地に這いつくばる形で身構えた。
 蜘蛛が大暴れしている。頭に剣が墓標のように突き刺さっており、体液がグロテスクさを増大させている。複数ある目にも粘液が掛かっていて、赤いのも混じっていた。
 剣を取り返そうにも近づけそうにない。
 地に手を付く。震えていた。怪我をした右腕も左腕も。

 「なら、押しこめばいいんだろ!」

 イメージするのは巨大なハンマー。持つところは棒で、叩くところは岩石のような、少女の体に似合わない不相応な代物。重量で相手をプレスする打撃武器。
 半分足を引く。魔力を捻出しなくては。傷ついた体と、疲弊した精神が、ますます痛みつけられるのを感じ、目の前に白い光が点滅し始めた。まるで貧血のようだった。平衡感覚をつかさどる器官が酒を呑んでいるようでもある。
 セージの手に冷気が収束していく。初めは緩く、途中は急速に、最後はゆっくりと集まれば、イメージによって形という概念に押し込められるのだ。
 両手を天に掲げた。

 「〝アイスハンマー〟!」

 冷気が具現化した。柄は凸凹激しく直線からはかけ離れている上に、頭部は北限の土地に転がっている氷塊を拾ってきたかのような不恰好。おまけに術の暴走で腕が凍結し始めている。
 血の欠片がパラパラ落ちた。
 セージは、真上のハンマーを重力という手助けの元、力いっぱい蜘蛛に振り下ろした。強度は無かったが、剣を叩くことに成功した。
 ハンマーが砕け味気ないシャーベットになった。
 剣が柄まで押し込まれ、脳を完全に破壊した。蜘蛛の足が脱力して折れ曲がり、腹を地に付けてこと切れた。敵は全て死んだ。

 「―――――ハーッ……ハーッ……、っぐ……いた、い」

 セージがその場に倒れ込んだ。
 世界がぐるぐる回転している。地面に付けた足が踊りそうになる。呼吸が不協和音を刻んでいる。バックパックを下ろすと震える手を突っ込み包帯類を取り出す。
 傷口を診る。腕の切り傷は大したこと無いようであった。
 肩の傷は深く、手持ちの装備では治療しきれないと結論付けたが、治療魔術を使えない現在はどうしようもなかった。後でやるしかない。
 凍傷は無かった。せいぜいが皮膚が冷たい程度だった。
 服が邪魔だった。胸当てなどを乱暴に取り去り上半身裸になると、傷口に水筒の水をかけ、薬草を手でこね、荒いペースト状にしてからしっかり擦りこむ。酷く痛んだ。無意識に足の指が内側に曲がるほどには。
 頭を振って耐える。涙が汚れた頬を濡らした。

 「消毒液、もこれくらい、……あー、いたいいたいいた! 痛い! 糞、蜘蛛のクセに」

 包帯を噛み、傷口を縛り上げていく。
 すっかり結んでしまえば、悪魔的な欲望が訪れてくる。眠気がやってきた。疲労が少女を睡眠へと誘っているのだ。
 蜘蛛の死体が転がっているところで寝てしまったら何が寄ってくるかもわからない。
 蜘蛛の頭から体液と肉に塗れた剣を引き抜くと腰に戻し、上半身の服を纏って、その場で最も高い木に登る。そして、蔓で己を雁字搦めに縛り付けた。絶対安全ではないが、ほかに場所がない。
 もはや限界だった。
 セージの意識は暗闇に落ちていった。
 逃げるという選択肢を無理にでもとれば良かったなというのが最後の思考だった。




[19099] 二十五話 病
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/28 21:01
XXV、



 ラジオのノイズを優しく加工したような断続的な音が耳を叩いている。
 風音にしては等間隔で、川の音にしてはリズミカルで、砂がさらさらと零れる音にしては冷たくて。
 瞼に落ちた滴が頬に伝い、顎の線を濡らして落ちた。また一滴落ちる。鼻先に落ちた水が形のいい唇に流れ、咥内の唾液と混じった。
 ハッ、と肺が痙攣したかのような吐息が漏れる。
 鎖骨に垂れた雨水が覚醒を促した。

 「………っ」

 薄らと目が開いた。虹彩がきゅっと締まり光を調節。黒目が震えたかと思えば、ようやく止まる。瞼が徐々に持ち上がっていった。
 瞼が完全に開き切った刹那、雨水が睫毛で跳ねて眼球を濡らした。びっくりして瞬きをし、もう一度開く。二回目の瞬き。視界は完全に回復した。

 「ン………」

 己を縛り上げている蔓に緩みが無いかを自由な両手で確認し、首を木の下に向ければ、雨に打たれるがままの蜘蛛の死骸が三つと残骸が一つあった。
 自分がどのくらい寝てしまったのか、確かめる術はない。太陽で時間を計ろうにも生憎の雨天では。雨天。天を仰げば、葉の隙間からどんよりとした空間が見えた。
 なんということだろうか。幸いなことに葉が傘替わりになってくれているのでびしょ濡れではないが、焚火も消えやすくなるし、なにより濡れることで体力が損なわれるため、旅の速度は遅くせざるをえない。
 蔓を手で取り除くと、木の枝に腰かける。
 そっと、服の前を開けると、手を差し込む。右腕と右肩に包帯。腕の血は止まったが、肩の血が止まっていない。木の上で包帯を巻きなおす。右腕を動かすたびに痛みが走った。
 なんとかして血を止めなくては、命にかかわるし、森の獣が臭いにつられて襲い掛かってこないとも限らない。
 治療魔術を試す必要がある。
 怪我の特効薬も、傷口を縫うこともできぬのだから。
 手を右肩に当てて目を瞑った。

 「〝治せ〟」

 何も起こらない。
 寝起きの頭では膨らむイメージもあったものではない。暫し木の上でボーッと時を過ごす。
 それよりも、と思い直す。蜘蛛を解体して食べられる部位を選別しなくてはならない。冷蔵庫も保冷剤も無いのだから放置していれば腐っていく。
 右腕を使わないように木を降りて行き、蜘蛛の解体に移る。
 まず蜘蛛を木の陰に押しやり、手ごろな木の枝と石を使い、蜘蛛をてこの原理でひっくり返してから腹の部分を割いて肉を取り出す。内臓は腐りやすく使い道がないので地面に埋めた。外殻は加工材料として役に立つので、平らな部分や尖った部分を採る。
 作業に要した時間は三匹分なので長くかかってしまった。
 RPGなら倒した瞬間にお金とアイテムが落ちるが現実的にはそうはいかない。
 セージは剣を雨で洗いながら死闘の跡を去った。
 手を見つめ、肩を見遣る。

 「まずい。感染症って薬草で防げるもんなのか?」

 歩きながら、包帯を解いて水洗いして薬草を擦りこみ、また包帯を強く結ぶ。傷口にカサブタが張り始めたとはいえ、範囲が広すぎた。腕の傷にしろ肩の傷にしろ、動かすと血が出るのだ。
 薬も無い現状では不安が残る。強い酒を入手できれば消毒ができるのだが。
 少女の体になって以来、いわゆる細菌などと戦い続けてきた。質の悪い食べものを口にして、泥水だって飲んで、怪我はしょっちゅうであった。抵抗力は現代人以上にあるはずなのである。
 だが、抵抗力の有無に関係なく死に至らしめる病原菌など星の数ほどあるのだ。早急に傷を癒すか、里に辿り着き治療を受けるかしなくてはならない。
 何より痛い。腕に開いた傷口は熱い金属棒を押し当てられたように感じられ、肩の刺し傷は神経を殴打されるが如くである。
 右腕を動かさないように剣を使うのは不可能なので、慣れない左腕を使わざるを得ない。
 利き腕をやられたことは今後の行動にも支障が出るであろうことは予想するに難しくない。狩りにしろ作業にしろ、効率は低下する。
 もし戦闘があったらと考えるとセージの背筋は寒くなるのだ。
 次こそは死ぬだろうと。
 セージは雨降りの森の上空を見遣り、呟いた。

 「長老――やっぱりあなたの言ってたことは正解でした。俺のようなガキが生きていける場所じゃなかったです」

 後悔先に立たずである。

 森を抜けるのに約二週間という時間が必要だった。一か月で辿り着ける予定は楽々一週間超過だった。
 何しろコンパスも無いので一日中うろつくなんてことはザラだった。印をつけたはいいが大型の獣がつけたマーキングと見間違えて死にかけたのは秘密である。
 蔓を用いて己が直進しているかを確認することもあった。
 蛇に噛まれたこともあった。幸いなことに毒のない蛇だったので(もしあったら死んでいたかもしれない)、ナイフで縦におろして干物にした。食べてみると魚のような味がした。羅生門の一説を思い出した。
 怪我から細菌が侵入したのか、微熱が始まった。いつ高熱になるかと肝を冷やす。右腕の傷は自己流の魔術で塞がったものの、不自然な熱を持っているのが気がかりだった。ワクチンを打った直後のようだった。
 山を越えて、いよいよ森を抜ける。川を辿って行くのだ。
 道中で捕獲した蛇の、潰れた頭を持ってグルングルン振り回しながら、岩を登っていく。
 右腕の代わりの左腕で岩をよじ登れば、砂利道を駆け上がる。
 そして岩の山を越えると、途方もない光景が広がっていた。山、山、山。山と川が渓谷を造っている。ただし規模が予想外だった。そびえ立つ山が左右にあり、奥に広がって展開している。その中央を流れる川が渓谷を造っているのだ。自然の要塞のようだった。
 記憶にある地理の知識は役に立たないのかもしれない。ここはファンタジー世界。どんな地形があっても不思議ではないのだ。
 地図を開く。隠蔽されているので近くに行かなくては分からないとのこと。
 近くとはどのくらいから定かではないが、渓谷を降りて行けば人工物の一つでもあるに違いないと思った。
 バックパックから水筒を取りだし、唇を濡らすと、渓谷の中に足を踏み入れた。

 渓谷を探索して一日目。
 危惧していたことが起こってしまった。微熱が高熱に変わったのだ。熱、頭痛、吐き気、倦怠感、ふらつきの五連星がセージを攻め立てた。口にしたものを片っ端から吐いてしまうので、その日は睡眠に費やした。
 二日目になっても体調は回復せず。
 渓谷だけあって水が豊富なのが幸いだった。体を綺麗に保ち、水分を多くとることを意識した。
 セージは、増水を考慮して高い位置でバックパックを枕に寝ていた。襲撃を警戒して蔓の網に草を編み込んだネットを被っている為、遠目に存在を確認することは不可能である。
 川で冷やした布きれを裏返し、額に乗せ直す。傍らの水筒に口を付ける。食べ物は木の実が精一杯。狩りなどできる体調ではない以上、栄養分のあるものは入手できなかった。蜘蛛の肉はとうの昔に食い尽くした。
 酸っぱいだけで甘さを感じない木の実を口に放り込む。おいしくない。
 唐突に襲い来る眠気が木の実を取り落とさせた。
 顔は汗にまみれ、眉に皺が寄っている。目は開いては閉じるを繰り返す。吐息の間隔は早く、熱い。地に投げ出した肢体は倦怠感に支配されている有様。頭痛も酷く、吐き気がした。
 目を閉じる。そして開く。
 太陽の位置がずれていた。すわ何事か。熱の詰め込まれた頭を使い、理解しようとする。己は寝てしまったのだと結論を導き出すのに最低でも三回は無駄なことを考えた。
 赤らんだ顔にかかった前髪を払い、目を擦る。
 鉛のような倦怠感が離れてくれない。汗が体を濡らしている。不快だ。顔をしかめる。ひきつる頬。

 「………」

 言葉を発する余裕などなくて、虚ろな目で周囲を見遣る。焦点が安定しない。視界がぼやける。目に力を込めて無理矢理正常な映像に戻す。森、川、岩、以上。
 網の穴から小鳥が木の枝にとまっているのが見えた。手の平サイズ。焼けば美味しそうだ。
 だが、捕まえられる気がしなかった。せめて体調が万全ならと唇を噛む。傍らの水筒の蓋を開け、粘つく咥内に爽やかな清水を投入する。おいしい。乾いた体が喜ぶ。
 カモフラージュ用の覆いを退け、上半身を起こそうとした。
 眩暈がした。立ちくらみか、熱によるものか、両方ともか。ゆっくりゆっくり、身を起こす。首をまわしてみる。小気味良い音。
 息を大きく吸い込む。

 「救急車呼ぶか」

 セージは場違いなジョークで自分を励ました。笑いの代わりに咳が出た。
 そして重い体に鞭打ち、食糧と水の確保に立ち上がった。




[19099] 二十六話 渓谷の里へ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/06/29 14:24
XXVI、



 「情けないな、転ぶなんてさ」

 セージは案の定こけた。
 先ほどまで寝ていた場所からそう離れていない場所。川の中を覗き込める岩場に行こうとして、躓き転倒したのだ。幸い、受け身に成功したので頭部を強打といった致命的なことにならずに済んだ。
 肉を食べようと思い立ち、魚を取ろうとしたらこんなことになったのだ。
 気を取り直して木の棒の先にミスリル剣を括り付け、銛を作成すると、改めて水面を覗き込んだ。
 セージはため息を吐くと、すっかり短くなってしまった右側の髪の毛を手で梳いた。毛が数本抜けた。

 「……選り取り見取りってワケないか」

 水流でぐしゃぐしゃの川には予想していたよりも魚が居なかった。
 いても小魚としか言いようがないちんけなものばかり。銛を使うよりも網を使った方がいいように思えた。カモフラージュ用のネットの使用を考慮したが、網目が大きすぎて役に立たないと瞬時に理解した。
 蜘蛛の外殻で細い銛を作っても仕留めるのは至難の業。
 釣りをしようにも虫がない。餌もない。探す気力も体力も無い。無い無い尽くしの現状では、木の実や雑草などを採取する他に生きる術がない。誰かが助けてくれるなんて思わない。誰もいないのだから。
 そもそも釣り具をするに相応しい針も作ってないし、細い糸も無い。糸は髪の毛で代用すればなんとかなりそうであるが。
 セージは一度抜いた剣を鞘に納め、おぼつかない足取りで岩場を歩き出した。

 「お、ラッキー」

 岩場にヘビイチゴのような木の実を見つけた。食べられるかどうかの確認もせず口に入れる。プチプチとした触感が美味しかったが、渋みしかない。外れだったがとにかく毟って食べる。
 今は味など気にしていられない。
 次に食べられる草を拾ってくると水でさっと洗って、魔術で熾した火で炙って食べる。ネギのような味がした。食感は髪の毛を噛んでいるようで最悪だった。
 魔術の火は、彼の精神を反映したかのように弱弱しく、蝋燭より小さかった。
 鍋が欲しいなとセージは思い、それを頭にかぶっている姿を想像した。防具としても良い線いってるのではと考えてしまうあたり、疲れている。フードの中に手を突っ込んで耳を掻いてみれば、そこも熱い。
 何より。
 セージは右腕をまくると、腫物になりつつある患部の包帯の位置を直した。
 傷口は治療魔術の甲斐もあり、ピンクのケロイド状の皮膚で覆われている。腕の傷、肩の傷、その両方を覆う包帯に血が滲むことはもう無い。
 白い絹肌が醜く歪んでいるというのに本人が意に介さないのは、根っこの部分が男性だからだろうか。髪の毛を躊躇なく引きちぎったのも、男性だったからであろうか。
 否、彼自身が慣れてしまったというのと、女性を必要とする場面が極端に少なかったことが大部分であろう。
 魂は体に引きずられるという話がある。
 しかし、女性は女性でも成長しきる前段階の幼い体。それが彼が彼であることを保ったのかもしれない。このまま成長していった場合はどうなるか、天もご存じ無いが。
 セージは袖を元の位置にやると、大きくせき込み、地面に蹲った。
 最悪の体調だった。咳をすれば喉が弾けそうになるし、頭が痛くて涙が滲む。体の熱さは尋常ではなく、平衡感覚が狂っているのか大地が常に揺れているようった。
 おまけに眼球の奥が刺されたように痛む。六時間くらいテレビ鑑賞した時並みにピントが合わせ難い。
 もはやただの風邪ではないと馬鹿でも感づく。
 これは病気だ。原因はきっと怪我に違いなかった。傷口から病原菌が侵入して体の中で戦争をおっぱじめたのだ。抵抗力が『お客さんが来たぜ』と迎え撃っている最中なのだ。
 病気を治すには、とにかく栄養を摂り、睡眠をして、体を温めるのが一番である。可能ならば薬を飲むことだ。
 しかし、栄養分のあるものを入手できない上に、薬まで手に入らないとなると、辛さは拷問並み。治療魔術も使えない。体力も精神力も限界領域に片足を踏み込んでいるのに、使いなれぬ魔術をどうして使えようか。

 「ゴホッ、ガッ……ゴホッ! つー、ぐぐ………ペッ!」

 咳が出た。口の粘り気を舌で掻き出し吐き捨てる。顔を擦り、よろめきながら立ち上がる。眩暈。たたらを踏む。
 なんでもいいから口にしなくては死ぬ。
 セージが、一歩目を踏み出そうとしたその時だ。視界の端にぬっと影が現れたのだ。亀のような鈍さで目を向けると、死の雰囲気を纏った黒毛の獣がそこにいた。
 全長2m超。体重は、どう少なく見積もってもセージの質量の5倍は以上あろうかという巨体。ふさふさと生えた黒毛はしかし、胸元だけ白い。顔はがっしりとした作り。腕と足には強靭な爪があった。
どこからどう見ても熊だった。

 「ハハハハ……」

 シリアスな笑いが零れ出た。
 涙も出てきた。脚が震えだした。ミスリルの剣を抜こうとした。右腕の痛さがそれを許さなかった。左手で抜こうとしたが、焦ってうまくいかない。
 熊が咆哮して二本足で立ち上がった。“少女”と比較して苗木と大樹程度には存在感が違った。口から唾液が飛んできて頬にかかった。
 腰の制御が恐怖に掌握されかけた。

 「ヒッ……」

 ―――死ぬ。
 未来が視えた。剣、魔術、いずれも熊に通用するわけがない。諦めに似た安堵が体を包んでいく。拒絶。神に祈ることだけはしない。絶望もしない。諦めない。
 セージがとるべき手段は一つだけだった。可能性がもっとも高いものを選ぶほかに無い。
 熊を睨みつけながらじりじりと後退していくと、岩の上に立つ。敵は一定間隔を保ったまま進んでくる。目をそらすことは絶対にしない。もし背中を見せれば食い殺される。
 岩の縁を足で確かめる。丁度良かった。
 熊は、セージを逃げ場のない場所に追い込もうとして、岩に足をかけた。

 「鮭でも食ってろ!」

 捨て台詞。
 セージは熊に中指を立て、全力で背後に跳躍し、川に飛び込んだ。清涼感が体を癒したのも一瞬だけ。

 「あぐっ!?」

 川の底に右足が接触、衝撃で関節が軋んだ。反動で川の潮流へと流れる。もみくちゃにされながら下流に運ばれていく。
 天地もわからなくなる。口、鼻から水が容赦なく侵入を果たすと、気道を占拠した。溺れ死ぬ。手足をばたつかせて安定化を狙う。服が水を吸い込み纏わりつく。呼吸が苦しい。
 途中、岩に擦って体が擦れた。
 熊はどうなった?
 俺はどうなっているのだ?
 川幅が狭いところに侵入した小さき体は、ごみのように弄ばれ、何回転もしながら浮き沈みさせられ、下流に流されていく。顔が水面に浮いたのも一瞬。数秒後には沈む。また浮くと、背中が出る。
 肺に水が入ったかもしれない。
 意識が黒で塗り潰されていく。永遠に目覚めない悪質な眠りが手招きしている。川を越えた向こうに乾いた平地。水中だというのに大地が見えるなどとおかしいと思うだけの余裕すらない。
 体を支配していた高熱が冷水で沈められたことだけは理解した。
 遥か遠くで音が聞こえた。ダーンッと爆音が響き、甲高い悲鳴が聞こえた。獣が鼻っ面を叩かれたような。空気を切り裂く音。理解不能。怒号。
 次に鼓膜を叩いたのは、誰かが飛び込む音だった。引き寄せられ、地面に上げられた。頬を叩かれる。目を開こうとしてしくじる。瞼が言うことをきかない。水を吐く。唇に柔らかいものが触れた。
 心臓の脈拍だけが頭に響いている。
 意識が遠のく。

 目を薄く開いた。何者かの顔。
 誰かの腕に抱かれているようだった。男性か、女性か、それすらわからないが、安心感があった。
 セージが完全に意識を手放す前に目撃したのは、巨大な岩が横にずれて、奥に隠した空洞を外気に晒したところだった。




[19099] 二十七話 地底
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/01 12:28
XXVII、



 無と有のスイッチが切り替わった。
 顔の前に物体があるようだ。目を使わずとも、環境音の微かな変動から察知できた。体の倦怠感や痛みは感じられなかった。不思議である。病気で死ぬか、川で水死体になるの寸前だったはずだ。
 動きが鈍い脳細胞に現状の把握をせよと命じる。
 両目を開けると、手の平があった。迎撃しようとした。怪我をしているはずの右手で掴み、捩じろうとせん。

 「おっとっと」

 やたらとかっこいい声がどこからか響いてくるや、手がもう一本伸びてきて、動きを封じられた。顔を動かす。若い男が傍らの椅子に腰かけてそこにいた。耳を見遣る。尖った特徴あるものがちゃんとついていた。
 その人物の意図は不明であるがセージの顔に手を置こうとしていたらしい。
 エルフはエルフでも怪しいやつだと視線を強くした。
 第一印象、優男。
 目鼻通った造形の顔。目は空色。白い肌。髪は銀色で、肩まで優美に垂れている。かっこいいというより、美しいと感じた。ゆったりとした民族衣装は、彼によく似合っていた。
 彼は手をぱっと放して顔の前で振ってみせた。

 「僕は敵じゃないですよ」
 「……すまなかった。俺の顔に手を置こうとしてなかった?」
 「まさか、そんなことするわけないじゃないですか」
 「なら、今俺が掴んだのは幽霊か何かなんだ」
 「さぁ……知りませんね。悪い夢でも見てたんでしょう」

 なぜはぐらかすのかはわからないが、話がこじれそうなので、とりあえず自分の格好を検めた。
 彼が着ているのと同じような民族衣装。上から下まで里を出発した時の名残は見受けられない。何気なく手を突っ込むと、中の服も変えられていた。下着にも例外はないのだろう。
 髪の毛に手をやってみれば、サラサラとした手触りが返ってきた。梳いてみても一本たりとも引っかからない。
 セージが困惑した顔をしたのを見た彼が、手鏡を渡してくれた。己の姿を映してみる。
 戦闘時に斬り落としてしまった右側と、放置するがままに伸ばし続けた左側の髪の毛は、それぞれの長さを活かして整髪されていた。
 顔も見てみる。傷が無い。汚れが無い。

 「―――? まてよ」

 服の上をはだけさせて右肩を露出させ、穴が開くほど見つめた。刺し傷も、切り傷も、魔術で修復した際にできたケロイド状の皮膚も、それどころか痕跡すら消滅していた。
 手鏡を布団の上に放り、顎に指を置いて暫し逡巡した後、あたりを見回してみた。
 岩の壁。松明があるべき場所にはランタンよろしく光る岩があった。ベッド、机、椅子、そして棚の下に己の服と思しき塊があった。ミスリルの剣も同じく発見した。
 思考の海に飛び込む準備を始めたセージに対し、彼が言葉を投げかけた。
 ただし手で顔を隠し、目をきっちり覆った状態で。

 「川で熊に襲われていたところを僕が助けました。あのままほっといたら、熊の養分になりかねないですからね」
 「そうなのか……ありがとう。さすがに死ぬかと思ったよ。どのくらい寝てた?」
 「丸一日は。本当に死にかけていたので僕たちで治療をしました。あ、体に関することは僕じゃなくて女性が担当しましたからね」

 彼は、チラッチラッと手の隙間からセージを窺うばかりで、目を合わせようともしない。若干顔も赤い。

 「ところで何で顔隠してるんだ?」
 「服を……服を着て欲しいなぁと」
 「服……? あー、そういうことか」

 セージは、彼の視線の先を追いかけてみた。服がはだけて肩と胸元が露わになっている。
 本人からすれば見られて恥ずかしい要素が何一つ無い。例え胸だろうが、お尻だろうがである。生き延びるためには裸に羞恥を感じるような神経質ではいられなかった。なにより、社会の中で女性の振る舞いの経験をほとんど積んでこなかったのだ。理解できないのも無理はない。
 だが、顔を合わせてくれないのでは進む話も進むまい。服をちゃんと着た。明後日の方角に興味深い物を見つけたらしい彼の肩を叩く。
 振り返った彼の目つきは、何とも形容しがたい感情を孕んでいた。

 「ロリコンさん、服着たぜ」
 「ろりこん? 誰ですか、それ」
 「なんでもないよ命の恩人さん。命の恩人さんじゃ長いから名前を教えてくれると助かる。ところで、丁寧な喋り方にした方がいいかな……今更だけど恩人に対する態度じゃないし」

 気分を害したなら謝ると言うと、彼は首を振った。

 「僕の名前はルエと申します。お堅いのは嫌いなので構いませんよ」
 「俺の名前はセージ。よろしく」
 「ルエって女の名前じゃないのかと思いませんでした?」
 「……いや、俺はこっちのせか……こっちの里の名前は詳しくないから」
 「とにかく、よろしく」

 二人は握手した。
 その後、セージはルエに里の案内を頼んだ。
 里の構造を大雑把に説明すると穴であり、元々ドワーフの住処だったということである。彼らは人を避けて更なる奥地に向かっていった。その後からやってきたエルフが名残を利用したらしい。
 里は川が氾濫してもいいように完全に密閉できるように作られ、地底では食糧や医薬品などになる植物の栽培が行われており、例え埋められようが、食料供給が途絶えようが生きていけるようになっているという。
 セージは、里と言うよりシェルターのようだと感慨を抱いた。
 案内の最中で、光キノコと苔があちこちにあるのに気が付き、これは持ち運びできるかと聞いてみたが、日光に弱いと言われた。なら岩はどうかと聞くと大丈夫らしいとわかった。
 しばらくしてルエが足を止めた。セージは、彼のすぐ後ろで立ち止まった。肩越しに前方を見れば、正面に巨大な空間を認めた。

 「そしてここが主縦坑です。一番下で長老がお待ちです」
 「うわぁ! ……深い」

 ルエが腕で示した先には巨大な円柱状の空洞があった。
 セージらが居る場所が空洞の頂上の位置だったのだ。手すりにしっかり掴まって下を覗き込んでみると、木と岩の歩道が螺旋を描いて地下に向かっているのが臨めた。気が遠くなりそうな高さ。高所恐怖症の者には地獄への入口であろう。
 セージは、巨大な空間を掘り抜いたドワーフの技術と労力に感嘆した。
 円柱状の地下空間の壁には穴があり、扉が存在した。他の場所への通路らしい。荷物を担いだエルフやら、子供のエルフやらが出たり入ったりしている。
 さらに目を凝らすと、光る苔とキノコが壁に生えている。松明を使わないのは空気を汚さないためなのだろうか。
 壁面や通路には金属の管が複数伸びていた。また、螺旋通路の所々に大型の滑車が設けられていた。
 ルエがよく通る美声で解説してくれた。

 「あの管は音を運ぶものです。我々の里は入り組んでいますし、穴の上の者と下の者が意思疎通するのに不便ですから、これを使います」
 「滑車は?」
 「物を運ぶものです。我々を大勢運ぶ装置も取り付けられる予定です」
 「エレベーターか……」
 「誰ですかそれ? エレベウスという先人ならいらっしゃいましたが」

 セージは、居るんだそんな名前の人と思った。
 ともあれ、この里に見学しに来たわけではないわけである。さっそく目的を切り出した。手すりを背後にするのは怖かったので、横にして立つ。

 「いいや、こっちの話。俺はこの里の長老に届けるものがあってね、死にかけてたのはそれが理由」
 「……届けるものがあるのに一人だけで、しかも馬も竜も乗らず徒歩で……ですか?」

 流石に説明が簡単すぎた。神様に殺されて異世界に来ましたと言う説明は口が裂けても言えまい。したところで頭のおかしいエルフと思われるかもしれない。誰もが長老のように理解ある人柄ではないのだ。適当な誤魔化し文句を考える。
 ルエが不審そうに眼を細めた。
 いくらなんでも子供が外の里から徒歩でやってくるのは不自然過ぎるからだ。
 己の目的と今までのことを掻い摘んで要約した内容を語らんと。

 「本当は修行の為かな。目的を果たすためには修行が必要と長老に言われてる。届け物をする修行というかなんというか」
 「そうでしたか。ところでご両親は?」
 「いや、両親は居ない」

 セージは、この世界にはな、と心の中で付け足した。
 ルエがばつの悪い顔をした。両親が亡くなったという意味で捉えたのだろう。

 「迂闊な質問をしてしまいました」
 「いいんだよ、俺は気にしない。長老のところに行くにはどうすればいい?」
 「僕が案内します。もとより、長老に連れてくるように仰せつかっていました。それに長老の建物に入るには僕の顔が必要ですからね」

 その前に。

 「部屋に渡すものを忘れてきた。戻りの道を案内してくれ」




[19099] 二十八話 試練を受けよ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/04 01:28
XXVIII、



 「フムン……事情は把握した。巨老人の里にか……」

 その若き指導者は手紙を折りたたむと、防水加工された封筒に戻し、引出しに仕舞い、腕を組んだ。
 ここは里の最深部、長老の間。里全体の意思を統括、指示を出す中枢部。
 最初に訪れた里の長老と比べれば若造とも言える若き相貌。腰まで伸ばした銀髪。優美な仕草。銀細工を首から下げ、風変わりな眼鏡が彼の印象に知的を一筋加えている。
 名をルークと言った。
 セージが隣で畏まったルエの顔と、長老の顔を見比べた。顔のつくりがよく似ている。血がつながっているとしか思えないのだ。
 すると長老は中性的な顔に妖しい笑みを浮かべて見せた。女性のように。男性であるはずなのに、異性に見えた。

 「よく似てるだろう。何しろ私らは兄弟だからね。なぁ、弟」
 「なんですか、兄上。このような公共の場においてはいけません」
 「私だからいいのさ……と言うと老人達にクドクド怒られるわけだが……。まぁいい。手紙によると君はとある目的の為に王国に侵入したいが、いかんせん実力不足なので、里をいくつかまわることで経験を積む……と。間違いないね」
 「はい」
 「目的が何かは知らないが、尋ねないことにするよ。天から授かった使命かもしれないからね」

 殺されかけたり熱で死にかけたり食われかけたりと経験した今となっては、王国に入ることが躊躇われ、修業を積み重ねたいところだったが、とにかく頷いておいた。
 予想通り、ルークは顔を渋くした。

 「王国に侵入ともなれば死の危険が伴うぞ。いや、侵入しなくても、巨老人の里に向かうだけで死ぬ可能性もある」
 「それだけ厳しい道のりという……」
 「わけではないな。確かに厳しいが、道のりだけではない」

 ルークが口をヘの字に曲げ、ぴしゃりと言い放つと、机の上から丸まった地図を取り出すと広げた。一点を指し示し、次に赤く色が塗られた広い領域を叩く。
 手招きされた。ルエと共に歩み寄る。
 ルークは地図の赤い部分に人差し指を置くと、するする滑らせていき、示した。

 「ここが巨老人の里だ。風の噂……ウム、風の噂によると、かの里に大規模侵攻があったそうだ」
 「なんですって!」
 「安心したまえ。彼らの戦力は一万の兵も退ける。いざとなったら……君に伝えられないが、敵を全滅させる準備がある。だが君はそうはいかんだろう。人間の軍勢が攻勢を仕掛けている最中を進むわけにはいくまい」
 「本当に大丈夫なんですか? 油断していて全滅とか……」
 「我々は油断を恐れる種族だ。心配症だからね。第二の策、第三の策と安全策を講じている。他の里からの応援もかけつける。そう、君が救援に駆けつける必要はない」

 ルークは、セージが尋ねることを予想した上で先んじて答えた。十割の的中とはいかないが、大まか正解だった。
 元より救援に駆けつけるつもりはなかった。しかし、巨老人の里に向かう術が断たれてしまうのではないかということが不安を煽った。長老に言われたことを未完で終わらせるわけにはいかない。

 「長老、戦いはいつ終結するものだと思われますか」
 「一か月以内には終わるだろう。所詮、はした金で雇われた寄せ集め………ウム、戦いが終わったら行っても良しだ。それまではここで働いてもらう」

 ルークは机を手の甲でノックし、人差し指をゆらりと振ったのだった。

 「手紙にも試練を与えよとあるのでな、まずは農作業だ」

 さすがのセージも、最初の試練が農作業とは思いもしなかった。
 ルエに案内されて足を運んだ先は、里全体の食料を作る畑のような場所だった。日光が無くても育つ植物やキノコを栽培しているそうである。
 キノコの運搬、ゴミの片付け、苗床の設置、ゼンマイ状の植物の採取など、場を取り仕切るエルフの指示の元せっせせっせと働いた。食事は彼らと共にした。
 太陽と言う時間計測装置が無い為に、夜になっても働き続けようとして、お嬢ちゃんは働き者だなと感心された。お嬢ちゃんではないと反論すると、ませた子だと笑われた。
 頑張り過ぎて眠気が限界に来たところで、丁度良くルエが迎えに来た。
 ゆったりとした民族衣装ではなく、魔法使いが着るようなあずき色のローブを着込んだ彼は、妙に嬉しそうに手招きをした。
 駆け寄る元気が無くて、のろのろと近寄る。歩き出す彼の横に並ぶ。

 「セージさんの部屋を用意しましたから、今日はゆっくり休んでください」
 「明日は何をすればいい?」
 「そうですね―――……僕と一緒に外の隠蔽魔術の強化に行きましょう」
 「そんな複雑な魔術使えないぞ。火炎の剣作ったりとか、手っ取り早くブチかますだけしかできない。ン……治療魔術も使えるけどさ、いちおうってだけだ」
 「僕がやりますよ。セージさんは、僕の付添いをしてくれるだけでいいです」

 彼の隣についていくと、里について最初に目を覚ました部屋からほど近い場所に案内された。
 中を覗いてみると、こじんまりとしていながらちゃんと家具が並んでいて、装備品一式が机の上に置かれていた。とりあえず入るとベッドの上に横になる。
 泥のような眠気が頭を覆い尽くして、考えられなくなる。疲れも同調した。魂が睡眠の方角に牽引されていくようだった。
 目を擦る。

 「悪いけど眠くて………起きられなかったら起こしてくれ」
 「はい、おやすみなさい」

 ルエと目が合うこと十秒間。
 彼は、ベッドに横になったセージを見つめていたが、すっと身を引くとドアを音も無く閉めて立ち去った。
 セージは靴をだらしなくベッドの下に転がすと、前髪をぐしゃぐしゃにして布団に潜りこみ、あっという間に眠ってしまった。

 翌日。
 誰かが体を触った感覚が走った。起きない。揺さぶられている。起きない。声がかけられた。セージ、と。意識が浮かび上がった。
 目を覚ましてみると、己を見下ろす様に立っているルエが居た。ゆったりとした民族衣装ではなく、セージが旅道中で着ていた服と様式の似た服装で、背中に弓矢を背負っていた。
 彼の手が肩に置かれているところから、起こされたのだと分かった。
 室内で寝たのは久しぶりだったので、安心しきって眠りすぎたのだろうか。
 目を乱暴に擦れば、布団を跳ね除けベッドに腰掛ける体勢に移る。彼が手を引いた。大きな欠伸をしつつ髪の毛を手櫛で整える。
 セージがあいさつをすれば、彼も返してきた。

 「おはよう」
 「おはようございます。朝食を持ってきました」
 「あんがと。ちょっと支度もしたいから、待っててほしい」
 「構いませんよ。今日はこれくらいしか用事が無いので」

 キノコを焼いたのと野菜の盛り合わせ。魚。果物のジュース。どれも美味。舌なめずり。あっという間に平らげる。
 次は服を変えなくてはいけなかった。
 セージは恥ずかしがることも無く衣服を剥ぎ取ると、最初に訪れた里の長老に借り受けた旅服を着けていく。

 「わぁ!?」

 あまりに手際が良く、隠そうともしないセージに、ルエは顔を朱にして恥ずかしがり、180度体を後ろにした。
 面白いやつだなと思った。
 もちろん意図的に隠さなかったのだが。

 「こんなもん見ても面白くもなんともないだろうに。ねぇ?」
 「僕に聞かないでください!」
 「弄られ系か」
 「なんですかそれ!」

 セージは、背中だけ見える彼を少し弄ってみた。頑として背後に目をやろうとしない辺りは紳士的と言うべきなのか、それとも純情だというべきなのか。
 セージは彼をロリコン呼ばわりしたが、本当にそうだろうか?
 例えば日本でも現代の感覚で言えば子供のような女性がお産を経験する時代があったわけである。大人と子供の年齢差ではなく、子供と子供ほどにしか歳が離れていなければ恋愛の対象になっても不思議ではない。
 セージという人物は決して『鈍く』ない。行動の端から窺える感情がなにかも察した。しかし、今のところ根本的には男性を保っているが為に、まるで男友達が女性に恋しているのを傍観するような心持だった。
 理解はしているのに感覚的に馴染まない矛盾したことになっているのだ。
 最後にミスリルの剣を腰に差したセージは、彼の肩を叩き、横をすり抜けて部屋の外に出た。
 ゆらりと振り返ると、彼が部屋から出てきたところだった。

 「案内してくれよ。でも守りの戦力として計算に入れない方がいいぜ? 正規の訓練を積んだわけじゃないんだから。無手勝流もいいところなんだし」
 「それでも生き残ってきたんですから、実力はあると考えます。行きましょうか」
 「そうだな」

 セージはルエに案内されて外に出ると、里の守りを固める作業についていった。




[19099] 二十九話 地底生活と事情を持つ彼ら
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/04 01:11
XXIX、



 それからのセージの暮らしは、おおまか楽しいものだった。
 農作業はもちろんのこと、掃除、本の整理、螺旋通路の維持作業、里の光る岩の回収と配置、守りの強化、料理の手伝い、戦闘訓練など、ありとあらゆることをした。
 試練と言うより雑用に近いことばかりであったが、衣食住が保証された“少女”の苦になるはずもない。
 友達もできた。エルフだろうが人間だろうが、世界が違おうが、子供の遊びに大差はないと分かると、面白い気分になった。かけっこ、かくれんぼ、ごっこ遊びなど、童心に帰って遊んだ。
 何せ体は子供である。振る舞いも子供にして、心も子供に戻せば楽しいことこの上ない。
 セージの一日は、仕事をして、遊んで、日の最後に迎えに来るルエに部屋に連れて行って貰い眠るという規則正しい生活であった。
 最初に訪れた里で暮らした時と同じくして楽しかった。
 そしてわかってしまうのだ、暮らせば暮らすほどにこの世界に対する執着心が芽生え始めていると。もし神の背中に刃を突き立てる機会が巡ってきたとして、その時には元の世界に戻りたくないと思っているかもしれない。
 いっそ、第二の人生を与えられたのだと割り切って、新たな命を全うすることもいいだろう。
 だが、心に誓った一文が元の世界への帰還を促してくるのだ。諦められなかった。何のために地に這いつくばってここまでやってきたのか分からなくなるではないか。
 諦められない原因の一つが元の世界に帰還する手段が残されているということであろう。もしもそれすら不可能であったなら、どうなるかは誰にもわからない。
 
 セージは地底湖の美しさに見惚れていた。
 ドワーフが作ったという空洞の最下層部に位置する場所に、現実のものとは思えない幻想的な光景が広がっていた。
 その空間は広く、深く、そして神秘を孕んでいた。
 空気は冷たく、塵の一かけらも感じない。
 天然ものの光キノコや苔が淡い光を供給し、広大な水面を青く色づかせていた。水は透き通り、あたかも存在しないかのように振る舞うほど、純粋であった。
 何千年、何万年、何十万年という永き時をかけて溶けだした岩が、まるでつららのように天蓋からぶら下がっている。
 水面と陸地の境界線には『危険』『足元注意』『泳げぬ者は近寄るべからず』という物々しい看板が立っており、かなり大きい光る岩の照明具が辺りを照らしていた。
 地底湖の奥に向かう桟橋があり、小舟が係留されていた。
 “少女”は、その桟橋の端っこに仰向けで寝転がっているのだった。腕枕にてリラックスしきっている。そっと呟く。
 
 「すげぇなぁ……」

 セージの視線の先に広がっている光景は、暗黒と光の織り成す造形美だった。
 黄色い光のキノコや苔とは違った、涼しい青い光を放つ小石があちこちに埋没している。それらは乱交し、暗闇と混じり合うことで星のように煌めくのだった。光の淡い部位はまるで銀河の星々だった。
 桟橋の下を覗き込めば、趣の異なる美しさがあった。
 天蓋の光が侵入した結果、水が青き色合いを醸し出している。眼下には、切り立った岩山を丸ごと持ってきたような空間があった。とても、水があるとは思えぬまでに透き通り、底の底までを見せてくれる。底は、深すぎて霞みがかっていた。
 身を乗り出し、セイレーンに魅入られた船乗りのように見つめ続ける。
 垂れ下がった石の先端から水が落ちた。水面に付くや、重力と表面張力に従って一度凹みを作り、再び水の粒を大気中に投げ、やがて落ちる。波紋が円形となり伝播すれば、地底湖に動きが生まれた。
 水面と言う境界が揺れ動き、光の幕がため息をついた。
 そっと手を伸ばす。触れる。冷たく、心地よい。体のくだらない熱が吸い込まれていく。かき回す。乱れる水面と、乱れる光。一口飲む。おいしい。
 この地底湖を知ったのはつい先日のことだ。
 エルフの一人に生活用水は川の水を取り込んでいるかと尋ねてみると、湖のを使っていると言われた。場所を尋ねると教えてくれたのでやってきたという寸法である。
 ふと、セージは足音を聞いた。
 上半身を起こすと、桟橋に座った。

 「ここにいましたか。そろそろ寝る時間ですよ」
 「ルエ。精霊が居ないんだけど」
 
 ルエがあずき色のローブを着込んで登場した。
彼は桟橋の真ん中をするすると歩んできた。セージと同じく湖に目をやり、そして隣に座った。

「精霊は居るらしいというだけです。期待していては、出るものもでませんよ」
「どんな感じなの? 羽とか生えてたりすんのか」
「光の球という話も、蝶という話もあります。一概にこれと断言できる形をしていないそうです」
「フーン……」

 ルエはそこまで語ると、視線をゆっくりとずらしてセージに向けた。幼いながらも厳しい体験を積んできた横顔は、彼の主観では風景よりも美しかった。
 ――まただった。
 ルエの目つきが完全に恋する男のそれになっているのである。気が付かない振りをするしかない。男であるためには、男と付き合うことなどできやしないのだ。
 第一である。“少女”の現代的な考え方からすれば、彼はロリコンである。無論、この異世界の考え方や文化を理解しているので、ロリコンではないと分かっている。しかし、ロリコンでないのかと思ってしまう。コミカルな意味で思ったのではない。まじめな意味で思ったのだ。
 客観的な視点で考察する。
 彼は、ボロボロの美少女を助けた。今にも死にそうなところを、間一髪で救った。記憶が正しければ人工呼吸もされた。これは吊り橋効果の亜種ではないのか。
 考えれば考えるほど迷宮を堂々巡りしてしまうので、考えるのを止めた。
 セージは立ち上がると、伸びをした。薄い胸がぐっと反る。

 「よーし、寝よう!」
 「そうですね、早く寝なくては明日に差支えます」

 二人は連れ立って部屋に戻った。
 その最中に、セージは頼みごとをした。
 翌日から二人は一緒に狩りに出かけることになった。

 一方その頃。
 頭を悩ませる男がいた。

 「フム……」

 長老の間で、ルークは熟考していた。顎に手を置き、腰まで伸びた髪の毛を口元で弄りつつ、本棚の前をうろつく。
 考え事の内容は多数あったが、中でも大きい割合を占めていたのが弟のことだった。
 弟――ルエはとにかく奥手で、女性を前にすると尻込みして交際を申し込むことができない。
 ところが、外からやってきた子だけは別だった。まるで友人のように――否、友人以上に親しく接しているのだ。
 もちろんルークとて、セージが婚姻には早すぎることは理解している。
 だが、やがて時が経てば成長するわけである。大人になれば結婚もできる。子供も産める。
 かつてのように里同士が自由に交流できた時代ならまだしも、現在のようにエルフ狩りが奨励される殺伐とした世の中では、里の中に引きこもる他に無い。
 里同士でエルフの行き交いが無いわけではない。ある程度はある。しかし、最盛期と比較すれば少なすぎる。人間の攻勢が強まれば里は完全閉鎖されるだろう。
 ルークが危惧していたのは、血が近しいもの同士が子供を授かることであった。閉鎖的にならざるを得ない現実では、血統の問題は解決しがたいことである。
 エルフの古き知恵で、血の近しい者同士の間には病弱な子しか生まれないとある。
 十年二十年ならまだしも、数百年と迫害が続けばどうなるかは分からないではないか。
 セージの来訪は気弱な弟に妻をという問題と、血の問題を解決(完全にではないが)する有効な手段だったのだ。
 セージは『王国』に向かいたいと言っていた。巨老人の里の戦が終われば直ちに出発してしまう。強制的に繋ぎ止めるのは、ルークの信条に触れる。
 情報を何年もの間に渡って制御することでセージを外に出させない案も考えたが、却下した。情報は漏れるもの。いずれ知られるのが目に見えていた。
 要するに、ルークの力ではセージを里に永住させることはできないのだった。

 「何があの若者を駆り立てるのやら……」

 ルークは前髪を指で払うと、ため息をついた。




[19099] 三十話 戦闘とコーヒー
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/05 20:36
XXX、



 一斉射出した火の球は、ことごとく風の翼によって叩き落とされた。
 背中から生えた力が、卵を抱く母鳥の翼のように外敵を寄せ付けない。
 セージは、その魔術の硬さに舌を巻いた。
 翼の持ち主は、信じられないまでの集中力を持って翼を操作すれば、重力を無視した空中浮遊をやってのけた。実戦であれば高空から魔術爆撃を仕掛けられるであろう。

 「僕は攻撃的なことは得意じゃないんです。代わりに守ることは誰にも負けません」
 「かっこつけちゃって! 〝火炎放射〟!」

 天井付近まで上昇したルエに対し、セージは問答無用とばかりに火炎の奔流を投げつけた。

 「〝守れ〟」

 ルエが詠唱した。
 可視化した風の翼がはためき、横薙ぎの暴風が彼の体を覆い隠した。火炎は勢いを削がれ宙で消えていく運命だったはずが、吸い込まれた。そしてあろうことか竜巻に形態を変えた風を着色しだした。
 己の放った火炎が、ルエの体を中心に発生した竜巻を火炎竜巻に昇華させてしまったのだ。
 力の制御を探ってみれば、ルエのものだった。
 流石に火炎旋風で防御をすればのっぴきならぬ被害が出る。火炎は萎んでいき、普通の風に変化した。
 ルエは、ふっとため息を吐いた。
 セージが、むっとした面持ちになった。

 「力押しでは勝てません」
 「なら、推し通る!」

 問答の内容は噛み合わない。噛み合わせるつもりがない。
 セージが距離を詰めんと地を駆けた。遠距離攻撃を何度試して防がれるなら、接近戦に移行するしか手が無い。
 手を翳し、呪文を紡ぐ。

 「〝火炎剣〟!」

 瞬時、火炎の渦が手から出現するや、長大な一本の剣となりて握られた。それは剣というには巨大かつ無骨で、巨人が振るう棍棒のようだった。イメージが追い付かないのが原因で密度が低い。
 対空攻撃、かつ近接となれば、剣を巨大にして斬りかかるしかない。
 天井スレスレに伸長したそれを目一杯振りかぶり、跳躍を込めて叩き込まん。

 「なんと!」

 ルエが驚愕の声を上げて一撃を受け止めた。焦りの色が浮かんだものの、翼の守りは健在。それどころか、剣の表面を削り取っているのだ。
 剣の構成が解けつつあるのを感じ、一度身を引けば、突く。線の攻撃が通用しないのならば、点の攻撃で貫けばいいと発想を変えた。
 ――だが、それすらも風の防護を破壊するに足りなかった。
 切っ先は風の翼に阻まれ、一寸も前進せず。いくら押しても通らない。まるで鉄板にフォークを突き刺そうとしているようだと錯覚するほどに、硬い。
 火炎の剣が大根おろしにされているのだ。
 触れる先から風の威力に粉砕されて、勢いを失っていくのだ。
 次の攻撃を考えるより早く、ルエの言葉が迸った。世界が変動。翼が羽ばたいた。途端に訓練場を総なめにする突風が吹き荒れた。
 台風を濃縮した風があるとすれば、これだ。

 「わ、わ、わぁぁぁぁぁ!?」

 セージの悲鳴が上がる。
 目も開けていられない。魔術の維持も無理だった。消える火炎剣。抵抗する間も与えられず、足が地面から離れ、空中で独楽にされた。
 世界が廻る。三半規管がもう許してと泣き叫んでいる。悲鳴の音源がぐるんぐるん移動して円を描いた。メリーゴーランドはあっけない終わりを迎える。すなわち、停止という形をもって。
 風が止んだ。重力という理に抗えなくなった小さき体は地面に転がった。
 ぴくりとも動かない。
 ルエ、やり過ぎたかと顔色を変えた。歩み寄ってみた。セージが震えている。拳で地を叩き始めた。何事かと、恐る恐る尋ねん。

 「大丈夫ですか……?」
 「なんてことを……うぇぇぇぇ吐く…………」
 「ご、ごめんなさい! つい……」

 セージが地面でうつ伏せのまま、ぜーぜーと呻いていた。過度に回されたことで胃の内容物が逆流するところだったのだ。
 セージは、暫しの間、ルエに背中を擦られていた。
 彼と彼女がやっていたのは模擬戦闘であり、本気で殺し合っていたわけではない。だが、少々やり過ぎた。
 やっと立てるようになったころには、戦闘の熱も冷めきっていた。
 体の機能を確かめるように立ち上がる。

 「ふぅー………俺ってルエに勝ったことねーな……」
 「年齢差を考慮すれば当たり前ですよ」
 「修羅場は潜り抜けてきたんだけどな……奇襲とか不意打ち待ち伏せならともかく、真正面からじゃこんなもんなのか」

 セージは、今まで経験してきた戦いを思い出して呟いた。
 蜘蛛の時は、真正面から戦って死にかけた。ヴィヴィと正面から戦った時、ボコボコにされた。アネットと正面から戦った時、投げられまくった。
 勝利した戦いはいずれも奇襲や目つぶしなど、背中に蹴りを入れるような手段をとったことが勝因だった。
 身も蓋も無い言い方をすれば、セージは正面から戦うと負けてしまうのだ。
 たかが女の子の力などその程度なものだ。
 呟きに対し、ルエが首を振ってくれた。

 「まだ若いですから、成長の余地はありますよ」
 「ルエ、年寄みたいなこと言っちゃって」

 ルエは、この里で時間を重ねましょうと言う歯の浮くような台詞を嚥下した。
 その日、二人は訓練を重ねた。
 翌日は良いお日柄だった。

 「……コーヒー……」

 セージは水車の回転をぼんやりと見つめながら、ぽつりと言葉を漏らした。
 ここは渓谷の里の畑。小麦やそのほか太陽を必要とする植物は、地上で育てているのだ。物理と魔術を組み合わせ隠蔽されているため、簡単に発見できないようになっている。
 水車の回転は一定で、見つめていると眠気を催してしまうようだったが、考え事するにうってつけなオブジェクトでもあった。
 コーヒー。小難しいことを抜きにすれば、コーヒー豆の煎り汁である。豆さえ手に入れば作るのは簡単である。手に入れば。
 ある日、突然コーヒーが飲みたくなったので里中を駆け回った。
 異世界においてコーヒーなるものが発明されたことはないらしく、里の住民らに説明しても首を傾げるばかりだった。豆と言う豆を片っ端から加工しても渋いだけの汁が出るだけだった。
 試行錯誤の末、いくつかの豆を組み合わせることでコーヒーもどきを作ることに成功したが、似ているのは色合いだけという代物だった。
 諦めよう諦めようとしても、一度飲みたいと思うと、諦められなくなるのだ。
 セージは深く息を吸いこみ、仰向けになった。蒼天。小鳥。羽虫。水車が臼を打つ音。かぱぽこかぱぽこ。傍らの草を千切って草笛を作る。ピュー。捨てる。

 「ん?」

 セージは次の草をむしろうと手を伸ばした。失敗したので、顔を傾けた。黄色い花。タンポポに似た可憐な花が健気に咲いていた。
 タンポポのようなだけで、別の花かもしれないが、関係ない。

 「…………………それだ!!」

 ぱっと顔に花が咲いた。
 セージは夢中になって、タンポポを集めた。花弁ではない。根を集めるのだ。
 一応、里の人に『これは毒があるか』を聞いてまわって安全性を確認すれば、根を乾燥させる作業が始まった。里の外で天日干しにした。干した根を前にしてニヤニヤしてしまったのは秘密である。
 乾燥したら、部屋に持ち帰って加工し、布を使って汁をとる。
 みるみる内に黒い液体が出来上がった。

 「妙なにおいですね」
 「んー?」

 セージの部屋の机の上にて、二人が作業をしている。
 今日はやることがあるから訓練は無しとルエに伝えたところ、興味があると言われたので、一緒に作ったのだ。
 セージは黒々とした液がなみなみ注がれたカップをとり、一口飲んだ。芳醇な香りが鼻を通り抜けた。ほっと息を吐いた。現代文明の味がした。砂糖とミルクがあればパーフェクトだった。
 全部飲んでしまってもよかったが、物欲しそうな顔をしたルエに半分あげることにした。カップを渡す。
 彼は一口飲み、二口目で眉に皺を寄せ、三口目で唇を離した。カップの中身はほとんど減っていない。ずいとカップを返された。

 「……これは、なんのお薬なんですか」
 「薬じゃないよ。えー……俺の生まれたところの……嗜好品? ってやつ」
 「……嗜好品……ですって……」
 「うん。砂糖と牛のお乳を入れて飲むと味が優しくなるんだ」
 「……」

 ルエが絶句しているのを肴にコーヒーを啜る。
 明日は蜂蜜と牛のお乳を探さなきゃと考えたのだった。

 そして、セージが渓谷の里にやって来てから数えて約一か月後。巨老人の里の戦いが終結したと報告があった。









~~~~~~~~~~~

エタりたくなってきた



[19099] 三十一話 さらば渓谷の里
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/06 12:22
XXXI、



 巨老人の里の戦いが終わった!
 その知らせはたちまちのうちに口から口へのネットワークを伝播して里中に伝わった。
 エルフの里では、人間の街にスパイを放っており、それにより情報を得ることができている。数で劣るのであれば相手の行動をいち早く察知しなくては生き残れない。長老の言う風の噂と言うのはあくまでぼかした表現である。
 情報は、セージの耳にも届いた。
 セージはすぐさま長老の元に急いだ。
 長老の間に入ろうとしたが、入れて貰えなかった。ルエを連れてこなくてはいけないとわかり、里中を駆けずりまわった。気持ちが逸って転んだ。慌てて立ち上がると目的の人物が手を差し伸べてきていた。行幸。
 彼は不思議そうな顔をしていた。

 「いかがなさいましたか」

 ルエの手を握って立ち上がり、そのままぐいぐいと長老の間に引っ張っていく。
 
 「ルエ! ルエ! 巨老人の里の戦いが終わったってさ!」
 「引っ張らないでくださいよ!」
 「長老のところに里を出る許可を貰いに行くんだ!」

 ルエの顔は、セージの顔に反して暗かった。


 長老の間。
 ルークは仕事でクタクタだった。戦争の情勢はもちろん、かの里の被害、経過、周囲の反応、自分の里はどうするかの通達、それにかかる労力の算出、防衛、一般業務を一晩で処理するのだ。
 基本的に、里の運用で重要でないことは部下が処理してくれるが、事が戦争絡みとなると彼がやらねばならない。
 以上の情報を纏め、里の知識人らの集う会議で議論を重ねるのだ。
 ルークは有能であるが、専門家ではない。食糧、医療、技術など、各分野の識者に判断してもらわなければ決定できないこともある。
 やっと仕事が終わって、水で喉を潤しつつ古文書に目を通していたところ、来訪者があった。予想はできていた。係りの者に通す様に言う。

 「長老!」

 扉が係りのものに開けられて、イの一番に現れたのは、予想に反せずセージだった。すぐ後ろには不満そうなルエも一緒だった。二人に話すべき事柄があったので、同時に伝えることができそうだった。
 ルークは古文書にしおりを挟むと、横に退けた。長い指を組み合わせ、口元を隠す。

 「フム……やはり君か。来ると思っていたよ。巨老人の里の戦が終わった」
 「では!」
 「君の使命を遮るものはなにもないということだ。私の与えた仕事もちゃんとこなしてくれたしね」
 「はい! 俺は巨老人の里に行きます」
 「本当に行くのか?」
 
 ルークは、嬉しそうな様子のセージに対し、重苦しい声で確認を取らんとした。最終確認ではない。考え直してくれないか期待したのだ。
 だが、セージの答えは決まっていた。

 「行きます。より王国に近い里なら手がかりを得られるかもしれないですし」
 「………無茶はするなよ」
 「安心してください。王国にいきなり侵入するようなまねは、しません」

 セージが真面目な顔を作り、神妙に頷いた。現実の辛さを辛さではなく運の良さと都合のいい解釈をしていたころと違って、下手すれば死ぬとちゃんと認識しているのだから。
 それでも旅に出るのは、王国の技術を盗むにはより近い位置に行った方がいいし、実力を養えるからである。
 本当のところは、この世界への執着と、元の世界への執着がせめぎ合うことで生まれる焦燥感がそうさせているのだろうが。
 いずれにせよ、最初の里の長老の依頼を完遂しなくてはならない以上、いつまでも渓谷の里に滞在するわけにはいかない。ミスリルの剣と手紙を己の足で運ばなくてはいけないのだ。
 ルークの目がここではないどこかを見た。二つ名の由来になった巨体を持つ戦士の姿を思い出しているのだろうか。

 「巨老人は戦いに優れた男だ。私の知る限り、もっとも強い。彼に鍛えて貰うといい」
 「わかりました。感謝します」

 セージが頭を下げた。
 セージは知る由もなかったが、ルークは一つの思惑を抱いていた。巨老人という者の性質と思想についてだ。それが今もあるのであれば、セージは王国に行こうに行けなくなるだろうと。“徹底的に”鍛えて貰えるだろうと。
 誰かがどこかで無謀を止めなければ、絶望に変り果てるのが目に見えていたから。
 壁によじ登って転落死する前に、誰かが後ろから止めてあげなくてはならない。最初セージが訪れた里の長老にはできなかった。ルークにもできなかった。だが、巨老人ならばできる。
 ルークには確信があった。そして、それが起こるべき場所は、より戦場に近い場所であるべきだと考えていた。
 彼女が最初訪れた里の長老が巨老人の里を指定したのも、それが理由ではないか。

 「兄上!」

 その時だった。
 ルエがガラになく大声を張り上げると、一歩前に進み出たのだ。決意に満ち溢れた様が見て取れた。きゅっとむすばった唇が、今にも破裂しそうだった。
 
 「なんだ、弟。公の場では長老と呼ぶようにと言ったのはお前さんじゃないか」
 「僕もセージについていきます!」

 ルエは驚きを隠せないセージを一瞥すると、己の決断をぶちまけた。
 危険なところに旅立つのを笑って許せるほど冷血でもなければ、阿呆でもないのだ。特に好意を抱いていればなおさらだった。
 だが、ルークはまるで相手にならんと首を振った。

 「駄目だ」
 「どうして!」
 「まぁ……落ち着け、血のつながった同胞よ。お前の立場を弁えろ。私は彼女の出発を認めたが、お前の出発を認めた覚えはない」
 「ですか!」

 なおも食い下がるルエを、ルークは長老として断じなくてはならなかった。
 若さゆえの勢いで飛び出されては困るのだ。幸いなことにセージと違って他の里の長老の手紙による指示も無いことだし、止めることができる。
 手をひらりとさせ、首を横に大きく振った。

 「お前の言わんとしていることはわかる。タテマエも、ホンネも、私は理解しているつもりだ。ここは引け。お前には彼女の旅立ちを見送ることを命じる」
 「………わかり、ました」

 ルエは苦悩に顔を歪めながらも、頷いた。
 セージは長老の間を出る前に握手をした。ルークが意味深なことを言ったが、その時は意味がわからなかった。その時は。
 ただ、男ながら女性に言う台詞じゃないと思った。

 「―――さらばだ幼き者。再び会う時は美人になれよ」

 準備はそう時間のかかるものではなかった。元からの装備を身に着けて、保存食や便利な道具などをしまった。食事をして、水浴びをして、里の出入り口である岩の前まで行く。
 ルエの呪文により、岩は自動ドアのように横に滑った。
 外の世界が一気に広がった。青い空。川の音。木々の海。守衛の人があいさつをしてきたので、あいさつで返した。
 セージは振り返った。ルエが立っていた。今にも涙が零れそうな目つきがあった。彼は憂い、悲しみ、不安、それらの感情を処理できず、爆発寸前だった。
 できるのならば共についていきたかった。
 しかし、長老たる兄の言葉は絶対的な力を有しており、逆らうことは許されなかった。
 たった一人のわがままで里の規律を破ることは、できない。

 「気を付けて……」

 だからルエは体の震えを止められずに、抑揚のない言葉を投げかけることで精一杯だった。
 セージは、彼の両手を握った。
 温かく、自分の手より大きくて骨っぽい。

 「俺は死なない。死ぬもんか。それにちょっとお使い行ってくるだけだし、大丈夫さ」
 「……死んだら許しませんよ」
 「必ず戻ってくる」
 「いつまでも……待ってます」

 似たようなことを去り際に言われたな。セージは思った。
 未練が残る前に手をぎゅっと握れば、身を翻して里の外に出た。新鮮な空気。太陽の光が目に痛い。装備を確かめる。全て良し。いざ行かん。

 「じゃーな!」

 セージは振り返らず、歩き出した。
 背後で岩が閉まる振動を感じても振り返らなかった。
 地図を広げる。巨老人の里までは約一か月の道のり。里に到着したら、王国の情勢を探らなくてはいけない。唯一見つけた手がかりに近寄るためには、進まなくてはいけない。
 “少女”は、やがて森に紛れて消えた。









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次回分は遅くなるかと…
忙しくなるので



[19099] 三十二話 襲撃
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/08 15:12
XXXII、


 結局、予定は狂った。一週間の行程は迷ったことにより二週間に伸びた。急いでいないとはいえ、安全な里に辿り着くまでの無駄な時間は少なくしたい。
 森を抜けた後は地平線の彼方まで続く草原を歩く。天から落ちたかのような地面に直立した岩があちこちにあり、方向を見定めるのに利用できた。
 食料は野鳥や兎を狩ることで賄えた。野生の犬を殺して食べたこともあった。“少女”は動物を殺すのに何の抵抗も感じなくなっていたのだ。
 雑草の調理には里で貰った携帯調理道具――鉄鍋――が役にたった。熱を通すだけでも草は柔らかく食べやすくなるものなのだ。自己防衛上の観点から頭に被ることも検討したが、フードと干渉するのでやめておいた。
 朝、昼と歩いて、夕方になれば寝処を探し、夜は寝る。
 里近くまでは比較的平和で、何事も無く旅が進行した。人間に見つかることもなく、怪我も無かった。
 問題は里に近づくにつれて人間の数がうなぎ昇りになり始めたということだった。

 「………」

 人影を見つけたセージは、無生物になりきることを選んだ。草むらで息を殺し、発見される可能性を軽減するべく匍匐体勢にて前方をじっと観察していた。鼻先に蠅がとまって暢気に足を擦り合わせようが動じない。
 眼帯をした男、腕を包帯で巻いた男、疲れ切った顔で頭を抱える男の三人が草原のど真ん中で焚火をしていた。
 いずれも武装しており、一般人以上に鍛えられた体であった。兵士だろうか。それにしてはたった三人で行動するのは不自然ではなかろうか。
 一つ、当て嵌まる事柄があった。
 彼らは巨老人の里の戦いに投入されたお雇いの兵士ではないだろうか?
 彼らは戦いが終わったので戦線から離れたのではと推測した。負傷しているのも、疲労しているのも、戦いと旅からもたらされたことだと考えればしっくりとくる。
 お雇い兵士の給料事情は分からないが、条件が『勝利』だったとすると、一文も貰えなかったであろう。巨老人の里は人間側の攻勢を跳ね返したのだから。
 だがセージは、『ざまぁみやがれ』という愉快な気持ちにはなれなかった。人間は人間でも彼らお雇い兵士は半ば強制的に戦いの場に放り込まれたと聞いたからである。植民地とした国から兵力を格安で吸い上げ、敵にぶつけて双方を消耗させる。植民地は反乱する余力を失い、敵は戦力を摩耗していく。だから戦いは勝つ必要などないのである。戦えば戦うほど得をするのは王国なのだから。
 元の世界の列強がやったように、『戦いに参加すれば独立を認めてやってもいい』と唆せば、剣をとり、王国の犬になるものもいるであろう。植民地が王国の兵力と換算されるだけというのに。
 セージは、眼帯の男が泣きはじめたのを目にし、なんて嫌な時代に転生してくれたものだと満月が居座る空を睨みつけた。包帯を巻いた男が瓶を無言で差し出した。眼帯は、一気に飲み干すと、顔を覆った。
 彼らは悲しみと疲労で身動きもろくに出来ないように思われ、注意も散漫なようだった。死角と暗闇を利用すれば通り抜けることができそうであった。
 彼らが居るということは他の兵士も居る可能性があった。モタモタしているわけにはいかない。早く離れなくてはならなかったのだ。
 止むを得ない。大回りして避けるしかない。幸い、辺りは起伏ある草原であり、身を低くして行けばよかった。
 セージは月が雲で隠れるのを待ち、闇が濃くなったのを見計らってその場を後にした。

 里に近づけば近づくほど、人間を発見することが多くなってきた。
 こちらから見えるということは、向こう側からも見えるということである。フードで耳が隠されているが、強盗の類は人間だろうがエルフだろうが関係ないであろう。リスクを避けるには人目に付かないのが一番なのだ。
 大きく迂回するルートを選択し、湿原地帯を通ることにした。
 それが失敗だったとは、この段階で予測できなかったのだが。

 最初の違和感はにおいだ。
 泥や草の香りに混じるはずの無い異臭が立ち込めている。生臭い。鼻をすんすんさせて情報を拾う。脳が俄かに熱くなった。答えに繋がる糸を掴んだのだ。

 「……血?」

 それは血のにおいだった。
 湿原地帯の真っただ中で血のにおいが漂っているのだ。動物がいるのかもしれない。新鮮ならばおこぼれに預かれる。肉食動物の存在も危惧すべきであろうが、ひとまず情報を集めなくては話にならない。
 葦を掻き分け、湿原の最中にぽつりとあった乾いた足場に辿り着けば、木に登ってみた。
 上から探す。コストパフォーマンスに優れた手段。
 木の枝を右手で保持し、体重を外側にやれば全周を眺めた。群れ成す葦やら草やらの大地に血のにおいの根源を見つけることはできなかった。視線を遮る物があり過ぎたのだ。
 ――燃やしてしまえ。
 セージの頭に悪魔の囁きが舞い降りるも、回し蹴りで撃退せん。木から降りようと、左手で枝を掴む。枝が鳴き声を上げた。折れる。体勢が揺らいだ。咄嗟に足を幹に絡ませた。
 刹那、葦の草原に殺意が生まれた。
 パッ、と葦が散った。鉄製のそれが空間を一直線に飛び、セージの頭部から数cmのところの幹に突き刺さった。
 脊髄反射的に木から飛び降りた。
 コンマ数秒後、新たな矢が体を掠めた。服に切れ目が走った。地に叩きつけられ、受け身もとれず、痛さを味わった。咥内が切れた。血を唾液に混じって吐けば、木の後ろに身を滑り込ません。
 
 「襲撃……!」

 セージの顔が引き攣る。
 矢による狙撃。もし枝が折れそうにならなかったら、木に磔にされていた。ミスリルの剣を抜き放ち木の陰から出し、艶やかな表面に風景を映し、様子を窺った。葉っぱしか視認できず。
 木の陰から身を出せば死ぬ。
 相手にはこちらが見えているのに、こちらから相手は見えていない。
 矢を迎撃する手段を、セージはいまだ有していない。剣で打ち払う技量も、魔術で守る技術も、無いのだ。
 かくなる上は逃走である。
 勝てぬのなら、逃げる。意地を張るつもりも、殺し合うつもりも無い。恥も捨てよう。命には代えられぬ。
 幸いなことに、湿原には嫌になるほどの草が生い茂っている。木の周囲も同じくして草だらけ。狙撃を一射でも躱せたのならば、相手の視界から消え去ることができた。
 時間の猶予はない。
 のんびりしていたら、相手が狙撃位置を変えてしまう。
 躊躇は一瞬だった。セージは、相手がいたと思われる位置を基準に、木を間に挟む形で射線を遮るように駆け、素早く草の中に転がった。
 草を握りしめる。緑の汁が付着した。
 
 「どうした? 好都合だけど、不気味だ……」

 なぜか狙撃が無かった。首を傾げる。
 セージは考えることを後回しにした。三十六計逃げるにしかず。後ろを振り返ったのも一瞬、草の根を踏まぬよう痕跡を残さないよう気を配りながら、走った。己の立てる音が、襲撃者の追跡に聞こえて首筋が寒くなった。
 立ち止まる。音は無い。勘違いのようだった。
 再び駆けだそうとして、あろうことか足をとられて転んでしまった。なんてありきたりな。自分に腹が立つ。フードの上から髪の毛を掻きむしりながら、姿勢を起こし、それを確かめた。

 「なんだ……これ……」

 セージは絶句した。ミスリルの剣を握る手が白くなった。
 それは真新しい人の死体だった。
 三人の兵士らしき男が血を流して事切れている。異常なのは、あるべき剣や装備品が根こそぎ消えているということ。確信した。敵は物取りだと。
 死体を詳しく検分する暇はない。
 だが、他に気が付いた点があった。兵士の鎧に見覚えがあったのだ。皮を鉄で補強したそれは、焚火を囲んでいた兵士らの鎧と様式がよく似ていた。顔は似ても似つかぬ別人だったが。
 
 「!?」

 草がざわめいた。何者かが接近してきている。疾風のように速い。音源は既に背後にあった。総毛立った。ミスリルの剣を、体のひねりに合わせて振り回さん。
 葦の数本が半ばから断ち切られ舞った。ミスリル剣の動作に一拍遅れて、草の中から小柄な影が飛び出した。それは甲高い声を上げながら剣を突き出してきたのだった。
 体の回避が間に合わず、頭だけで躱す羽目になった。
 心臓が縮こまる。

 「死ねぇぇ!」
 「くぅっ!」

 切っ先が頬を掠めた。血粒が背後に飛ぶ。勢い余った相手と抱き合うような格好になった。
 剣は己の背後。躊躇したら、首を貫かれる。鼻先触れ合う至近距離。頭突きをかます。よろめく相手の腹に前蹴り――ヤクザキックをお見舞いしてやった。堅い感触。服の内にプレートか。
 セージと敵対者の距離が離れた。
 一斉に剣と剣が振り被られ、半ばで衝突、火花を散らす。歯ぎしり。半歩後退。
 二人はほぼ同時に叫んだ。

 「エルフ!?」
 「子供!?」

 相手の姿をまじかで確かめた。ボーイッシュな顔立ちの女の子だった。容姿こそ幼かったが、装備品は弓に剣に血濡れのナイフと、物騒極まりなかった。
 いつの間にかフードがずれ落ちていた。耳が表になり、エルフであることを相手に知られてしまった。隠すことは無意味だった。ミスリル剣を両手で握り、切っ先を相手の顔面に向けた。

 ――この子は生かしておけない。



[19099] 三十三話 殺し合い
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/13 00:11
XXXIII、



 “少女”の日常は現代社会から比べれば波乱に満ちたことばかりであった。草を口にし、獣の肉を食らい、熱病に浮かされ、夜中に平原を駆けずり回る。だが、いずれもサバイバルという意味での波乱であり、バトルという意味の波乱はさほど無かったと言える。
 そう、無かったのだ。
 人と命のやり取りをするような波乱は、ほとんど。
 己に暴行を加えんとした男を殺害したことを除けば、己の意思で殺そうと思ったことは一度だってなかった。避け、退け、ひたすらに逃げてきた。
 だが、今は違った。
 己の意思で殺そうと思った。目的を達成する障害物として殺そうと思った。
 相手が殺しに来たから殺し返すのではなく、邪魔だから殺そうと思ったのだ。エルフが里を離れてほっつき歩いているという情報を漏らされては、今後に支障が出る。隠蔽するに相応しい方法として選んだのが殺害だっただけのことだ。
 というのもタテマエなのかもしれない。
 本当に冷酷な判断にて殺害を選択したのであれば、手足の震えと汗の量が増えたりしないのだから。
 言うまでもないが覚悟などできているはずもない。

 「この!」

 単純な突きを繰り出す。顔面狙いの素直な一撃を、相手は後退することで躱した。
 剣を引かれる前に、女の子はこれまた顔面狙いの横薙ぎを実行した。
 上半身を反らす。首筋を掠める。脳裏に過る血しぶきに漏らしそうになる。踏みとどまり、すかさずミスリル剣をがむしゃらに振らん。
 剣による迎撃がミスリルの体を抱き留め、鍔迫り合いが発生した。力と力が鬩ぎ合う。ミスリルの強度も、こうなっては意味を成さない。しかも腕力が拮抗しているとあれば、状況はどん詰まる。
 噛み付ける距離に顔と顔があった。
 どちらも相手を殺そうと鬼のような形相をしているので、見るに見耐えないが。

 「エルフ……! お前を捕えて売れば、私はこんなことしないで済むんだ!」

 女の子は眼前のエルフを捕まえる宣言をしておきながら、隙あらば殺害せんと剣を押す。本来なら殺すつもりはなかったが、戦闘に突入してしまい殺す以外の選択肢を失ったのだろうか。
 エルフは一般に殺すべきとされているが、一方で“価値”が高い。先天的魔術特性もそうであるが、寿命が長く、それ自体が魔術の素材として利用できる他、肉体の若さが長きに渡って続くこともある。特に女エルフは性的な用途にはうってつけなのである。
 それを捕まえ奴隷化して金持ちに叩き売れば一財産築くことは容易い。
 エルフと人間が戦争を始めて以降、希少価値はより高まったのだからなおさらだ。
 だが、はいそうですか、と阿呆のように捕まるわけにはいかない。殺されたくないし、売られたくも無い。ならばやることをやるだけだった。
 剣を押し返す。腰を踏ん張り、叫ぶ。

 「なんでそんなこと!」
 「金だよ! 治療費を稼ぐのにはお前みたいなのぼせた馬鹿をとっ捕まえのが一番だろ! 大人しく捕まれば、強盗も止めてやる!」
 「だが断る!」
 「ならば死ね!」

 両者は同時に離れ、同時に剣を引き、同時に対抗する角度から斬撃を浴びせかけた。
 金属音が空高く響かん。剣と剣が衝突した反動で腕が軋む。剣と剣が跳ね返った。見れば、女の子の剣に鋭い凹みが刻まれていた。ミスリルの強度が齎したものだった。
 第二撃。女の子が豹のように素早くバックステップを踏むと、腰の血濡れたナイフを投擲した。
 不意をついた攻撃は、ミスリル剣の防壁で防ぐことができたが、怯んでしまう。落ちるナイフ。
 その隙をついて女の子が左腕を掲げた。武器は何も持っていない。魔術を行使するそぶりもない。不自然極まりない仕草。
 一種のひらめきが脳内を韋駄天が如き速度で駆け抜けた。
 横っ飛びに地面を転がった。
 次の瞬間、左袖から何かが飛びだし草むらに消えた。仕込み武器。射程、威力の不足を補うために毒を塗られていた可能性が高い。もし命中していたら行動不能に陥ったかもしれない。
 女の子は舌打ちをし、駆け寄る――と見せかけて右袖の仕込み矢を腕を振り回すように射掛けた。

 「う、おっ」

 セージは斬りかかろうとして踏み込んだ足に間抜けな舞踏をさせなくてはならなかった。足元に矢が突き刺さる。つんのめりそうになるのを、足位置の調整で防止した。
 だが、この動きは決定的な隙を生んでしまった。疾風が如き踏み込みで至近距離に到達した女の子の下方からの薙ぎがミスリル剣に激しくぶつかって、いずこに吹っ飛ばした。有力な武器は草むらに消えてしまった。ナイフを抜く時間すらない。
 第二撃、顔面狙いの袈裟斬り。後ろに倒れることで危なげに回避。第三撃、のしかかって馬乗りの体勢から顔面に向けての突き刺し。

 「〝盾よ〟」
 「ちぃ!」

 呪文詠唱。あまりに弱いイメージはしかし、命の危機に反応して一枚の薄っぺらい防御を構築して世界に放った。それは丁度、顔面を守るために広げた腕に付随する形で展開した。剣がそれに垂直にかち当たった。停止。
 切っ先が、蜃気楼を固めたような力場に押しとどめられ一寸たりとも前進しない。
 女の子が全体重をかけても力場を破ることができない。まるで接着されたように引くことすらできない。鋼鉄に突き刺さってしまったように。
 セージは、眼前の剣が己の脳味噌を串刺しにせんと押し込まれるのを、他人事のように見ていた。生きているのが夢のようだった。死ねば夢が覚めるのだろうか。目を閉じてみる。暗闇が視界を塗り潰した。
 イメージをずらす。盾が徐々に斜めに傾けられるように。剣を誘導するために。直線的な力は横からの力に弱い。
 力場が波打ち、変形する。丁度セージの頭の右を下に、斜めになるように。必然的に剣の切っ先は滑り出す。狙いは極めて単純明快。
 次の瞬間、セージは深く閉ざされた瞼を開いた。

 「な   ッ」

 剣が対象を殺すことなく横に滑走するや、地面に深く突き刺さった。引き抜こうにも体と体が密着している為に力が入らない。なにより、まじかで睨み付けてくるエルフの瞳があったから。
 セージは術が途切れるより数瞬早く女の子の首を両手で捕まえた。
 術が風を伴い消えたと同時に、首を腕力の及ぶ限りに締め上げ、体勢を入れ替えて馬乗りになった。女の子の首は柔らかく、楽にへし折れそうだった。爪も立てた。血が垂れる。

 「ぎ、ぐ………ぇ……ッ……ふの……せに……」
 「し、ね」

 女の子もセージの首に手をかけて締め上げだした。
 首と首の締め合い合戦。お互いがお互いに優位をとろうと葦の中でもみ合い泥まみれになっていく。
 魔術の使用――火炎――却下。草しかないような場所で使えば己も危うい。

 「この……」
 「………っ」

 セージの意識は遠くなりつつあった。
 闘争本能に任せて首を絞め、隙があれば頭突きをお見舞いし、生きる為に息を吸おうと横隔膜に鞭を打った。
 まず耳が駄目になった。自分の声が骨伝導で聞こえるのと、呼吸、心拍意外に外部の情報を受け付けなくなった。次に思考が駄目になった。シャットダウン寸前まで処理が落ち込む。
 セージは状況の打破を計るべく、一瞬だけ締め付けを緩めた。

 「はっ……あー……」
 「食らえッ!」

 女の子の顔が弛緩し、息を吸ったのもつかの間。空いた右手を拳にして顔面を殴打してやった。鼻血が飛んだ。構わず二発目を叩き込む。三発目を入れる前に、腕を掴まれた。左手を自由にして殴りかかったが、受け止められた。
 双方の顔は赤くなっているが、羞恥でそうなったのではない。酸欠と殺意である。
 腕と腕が拘束し合い、二進も三進も行かぬ拮抗状態が再び生まれた。
 セージは馬乗りと言うアドバンテージを活かすべく重力を加算した力比べに挑んだ。隙あらば首を絞めるかへし折るか。目を潰してやろうとも画策していた。

 「てめ……っ」
 「しぶとい!」

 お互いが徐々に疲労で鈍くなりつつあると言っても、上をとったセージの方が有利ではあった。
 女の子の顔が歪む。腕の痙攣が始まっている。筋肉が悲鳴をあげていた。いずれもたなくなるのが目に見えていた。
 女の子は一瞬腕の力を緩めると、セージの顔の真ん中に額を叩きつけた。鈍い衝撃。鼻の骨を折るつもりの攻撃はしかし血を流させるにとどまった。反撃も同じく頭突き。額で受け止める。頭蓋が鳴った。
 セージが再び頭を持ち上げたのを合図に、上半身を起こし、跳ね除ける。
 セージは立ち上がろうとして、相手の足が攻勢に移行したのを見た。

 「この野郎!」
 「あっ!?」

 慌てて立ち上がったセージの顔面目掛けて右からの蹴り込みが炸裂した。辛うじて腕で受け止めた。打ちつけられた肉が酷く痛んだ。
 次、正面突きが放たれん。
 セージはそれを腕の横捌きでいなし、カウンターの拳を横っ面に叩きつけた。女の子がよろめいた。ボクシングのように右左の連続攻撃を仕掛ける。

 「軽いんだよガキんちょ!」

 だがその攻撃は女の子にあっさり見抜かれ躱され、逆に腹に腰の捻りを加えた正面蹴りを貰うことになった。吐き気。胃の中身が逆流しそうになる。
 体をくの字に折ったところを、女の子が両手を重ねて作った金槌で打ち据えた。
 セージはどっと地面に倒れ込んだ。
 まるでナメクジのように地面を這いつくばるセージを、ボーイッシュな女の子は鼻血を手の甲で拭いつつ、背中を蹴りつけた。そして踏みつける。
 ――とった。
 セージは体重が背中にかかるのを合図に体を回転した。女の子は足をとられよろめく。すかさず身を半分起こし、腰のナイフで斬りかからん。その頃には距離を離されていた。

 「うらあっ!」
 「っつ゛……ッ!?」

 腕に一文字の切り傷を刻む。
 続いて、腰だめに構えて突進した。

「……ふん」

 女の子はいとも簡単に突進を受け止め、手首を拘束して見せた。だが、それが狙いだったとはついに気が付かなかった。
 ナイフの切っ先が腹に向いていることが重要なのだ。
 セージは魔力を絞り上げてイメージを練り上げて呪文を紡いだ。使ってはならぬ場所で使った。

 「〝火炎剣〟!」

 ナイフが火炎の塊と化すや、瞬間的に伸長して女の子のプレートを焼き焦がし腹を貫通せしめた。長さなど剣どころか脇差にも劣るものだし、威力は恐ろしく低い。だが、それは貫いたのだ。
 火炎に内臓を焦がされてしまっては、命は尽きるしかない。

 「――――――おかあさん」

 女の子は悲痛な表情を浮かべ、掠れた声で最期の言葉を述べた。力が抜けていく。後ろにばったりと倒れ込む。
 セージはナイフを腰に戻すと、その場に尻もちをついた。
 女の子が声を上げずに泣きつつ、己の腹をなんとか治療しようとしている。だが無情にも腹から発生した火炎が身を包み、瞬く間に全身を覆った。絶叫。人の燃える臭いが漂う。
 一体の火人形と化したそれは地面を転がり火を消そうとするが、あろうことか周囲の草に引火させてしまった。湿地と言えど燃えるのだ。
 
 「ヤバイヤバイヤバイヤバイ………! ミスリル! ……ミスリル!」

 セージの顔色が青信号になる。いい意味ではない。悪い意味である。
 水にインクを落としたが如く侵略を開始した火を止める術は既に無く、痛む体を引き摺ってミスリル剣を探すほかに無かった。
 ミスリルの強度を考えれば、湿地が燃えた後でゆっくり探しても問題は無かったろうが、本人にそのような余裕は無かった。
 奇跡的に剣を見つけたセージは、口の中の血を飲み込み、振り返ることなく全力で駆けてその場を去ったのだった。



[19099] 三十四話 巨老人の里、朧に
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/14 01:14
XXXIV、



 女の子を殺めても吐き気は生まれなかった。
 ただし後悔があった。女の子の言葉を思い返すと、母親の為に匪賊にまで身を堕として戦ってきたのだろうと想像がついたから。甘い考えかもしれないというのは本人すら理解していた。
 もしも――もしも――という、甘ったれた考えが頭を過った。
 もしも―――……説得できたら。もしも―――……逃亡していたら。もしも―――……。
 だが、全ては過去である。“少女”は女の子の腹を貫通せしめ、燃やした。天地がひっくり返っても死亡は確実である。殺したのだ。命を奪ったのだ。
 一人の命だけ奪ったわけではない。女の子の母親をも殺したかもしれないのだ。たった一本のナイフが二人も殺したのだ。
 同時に、何も感じない自分も存在していた。
 障害を排除しただけ、悪いことはなかったと。積み重ねてきた現実は倫理観すら摩耗させた。
 人殺しの余韻は、血の味がした。
 鼻血と口内出血のダブルコンボ。舌は鉄っぽい風味と酸味まみれ。
 体があちこち痛んだ。腹は鉛の重しを乗せられているようだったし、背中はひりひりしていた。鼻も痛い。気道も胃液で焦げ付くようだった。幸いなことに骨が折れたといった怪我は無いようであった。
 だが、斬って斬り込み殴り殴られ首を絞めて絞められ蹴りを入れあう死闘を演じたすぐ後に、火炎から逃げるべく疾走してきたツケがまわってきた。焼死を避けるにはこうする他になかった。火の手は人や獣を呼ぶのだ。安全確保のためにはできるだけ遠くに身を移動するのが賢い手段である。
 まず足の力が抜け、次に眩暈がした。
 良くない兆候である。休息を入れなければまともに旅ができない。湿地を抜けた先の林で、いい場所を探す。
 セージは、お世辞にも綺麗とは言えない池を見つけると、そのほとりに腰かけた。水源らしきものが見当たらないことから、雨水が溜まったのだと推測した。水草と濁りのせいで水深を目視できない。
 飲み水には適さないし、体の汚れをとるには濁りすぎている。無理すればできないこともないが、水筒が十分に水を蓄えている今は必要ない。
 ただ座っているのも癪なので、耳を地に付ける体勢で横にならん。こうすることで外敵の接近を察知しやすくなるのである。
 体を横にすると眠気が背中を叩いてきた。
 戦いの痛みと旅疲れが泥のように頭に覆いかぶさった。甘い誘惑。小鳥の鳴き声がゆりかご。瞳が震える。くすんと鼻を鳴らし、本格的な眠りに入ろうとした。
 その時、耳に感あり。太鼓を指で叩くような、軽快な歩調。ハッハッと息遣いを聞いた。
 慌てて腰のミスリル剣を引きぬくと、姿勢を低くしたまま木の陰に入る。

 「………犬?」

 草むらからやってきたのは、薄汚れた野良犬だった。茶色の毛並、垂れた耳、痩せた足は骨のように思えた。
 その犬は周囲を見回すと、しっぽを振りつつ頭を下げて水たまりに寄っていくと、ちゃぷちゃぷと水を飲み始めた。さすがは野生動物。人間が腹を下すような水でもお構いなしである。
 ふと、その野良犬が鼻先をセージの居る木の元に向けた。例え目で見えなくとも、セージの放つ臭いで感づいたのであろう。
 セージは警戒を緩めることなく、反撃に移れる姿勢を崩さぬまま木から歩み出た。
 野良犬はセージを見ると、ぺたりと座った。へっへっと舌を出した呼吸をし、ゆっくりと尻尾を左右した。そしてごろりと倒れると、お腹を見せて敵対心が無いことを表した。
 殺そうかと逡巡した。
 だが、肉の貯蔵は十分だし、お腹もすいていないし、何より敵対してこないのだから殺す理由も無かった。
 歩み寄ると、ミスリル剣を腰に差して、犬のお腹を撫でた。毛並が酷くて指に引っかかったが、獣の体温が心地よかった。ちらりと犬の下腹部を見遣る。雌だった。
 セージは犬の頭を撫でた。

 「お前はどこから来たんだ?」

 犬は答えなかった。
 ただ、口角を持ち上げて呼吸するだけだった。浅黒い色の唇に触ってみる。ぶよぶよして新感覚。頬をびろーん。抱きしめてみると、獣が強く香った。
 人間慣れしているようだ。どこかの飼い犬だったのかもしれない。
 犬にとって人間もエルフも同じようなものに映っているのだろうかと思った。

 「なあ、俺と寝ようぜ」

 犬は大人しく従った。
 一人と一匹は夕方になるまで草むらで睡眠をとったのだった。
 それから暫くセージは犬と行動を共にした。共に狩りをして、共に水を飲み、共に道なき道を歩いた。犬は良く懐いた。芸を仕込むこともできた。賢いやつだなと褒めると誇らしげに舌を出すのだった。
 いつまでも一緒にいけそうな気がしていたある日、犬は別の道に行こうとした。
 どうしても別れなくてはいけないと悟った。犬にだって行きたい場所位あるのだ。もしかすると飼い主を捜しているのかもしれない。
 犬はとてもきれいな瞳で遠くを見ていた。

 「死ぬなよな」

 そう言ってセージは犬に干し肉をやると、頭を撫でて別れた。
 一生の内に再会することは無いだろう。例えエルフが長い寿命を持っていても。まさに一期一会。交通機関も通信も発展していない世界では、犬など探しても見つかるものではない。
 せっかく旅の相棒を得たのにと、セージは心の隙間を擦った。寂しかった。
 巨老人の里までの道のりは大したことなかったのだが、人の数が多すぎた。昼でも夜でも鎧を着た輩やら、目つきの怪しい男やら、明らかに麻薬と思しき葉っぱを売る輩やら、それだけではなく頻繁にいざこざが発生するので進めなかった。
 人に会っては望ましくない結末を迎えかねないとはいえ、進行を夜に限定してしまうと里に辿り着くまでにどれだけ掛かるか分からない。
 セージは仕方がなくなって、身なりを偽装して乞食に成りすました。足を引き摺る演技もした。この際四の五の言ってられまい。
 鎧を着たご一行が去った後で、ようやく里の近くとも言える場所へと足を踏み入れることに成功したのだった。
 当初の予定から約一か月以上の超過であった。到着まで、さらに遅延した。

 「これは……」

 セージは成程と大きく首を振って唸った。
 巨老人の里のすぐ正面。広大な湖の畔にある草むらに身を潜めたセージは、彼方に揺れる明かりをじっと見つめていた。
 巨老人の里が要塞化されているという話は正確であり、ただし想像していた構造からはかけ離れていたのだった。
 里に向きがあるとすれば、後ろの守りを剣のように尖った岩山が守り、正面を湖が守るというものであった。ただ山があるわけではなく、見張り台があった。ただ湖があるだけではなく、乳白色の霧が帳をかけていた。
 地図にはこう書かれている。
 ―――この霧は守る者には無いもので、攻める者にはあるものである。
 要するにこちら側からは視界が遮られるが、向こう側からは健やかな視界が約束されているということだろうか。
 すると人間がどんぶらこどんぶらこと実質目隠し状態で小舟を漕いで行くのだろうか。なんと哀れな。ろくに反撃もできぬまま死ぬであろう。
 ならば大型の艦船を作ろうとしても、内陸の土地では材料の運搬で馬鹿にならぬコストがかかる訳である。よしんば造船できたとしても、水深が浅かったら前に進めないという間抜けな事態が発生する。
 セージが地図を熟読していると、上空で嘶きが響いた。
 すわ何事かと頭上を見遣ると、翼竜が周回していた。目を凝らす。何者かが跨っている。追尾すれば、大きく羽ばたいて霧の向こうに突っ込んで消えた。エルフの里の防衛戦力だろうか。
 地図によるとミスリルの剣を掲げて進めとあった。

 「………誤射されないだろうな」

 セージはミスリルの剣を一瞥し、ため息をついた。遠目にはエルフと人間の区別がつかないのは当然であり、ミスリルの剣が合図として働かなかった場合、殺されてしまうかもしれない。
 だがその前に。

 「船、どこにあるんだ?」




[19099] 三十五話 湖をこえて
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/16 00:10
XXXV、



 船と一口に言ってもイカダでは渡航には耐えないのではとセージは考えた。
 何しろエルフの里を守る湖である。どんな生物が棲んでいるかも分からないし、いかなる罠が仕掛けられているのかも不明なのだ。頑丈な船が入用であった。
 船の残骸らしきものは湖に浮いているので回収は比較的容易であったのだが、かなりの数が『二枚おろし』だった。他にも『粉末状』の木が漂っており、手が出せなかった。
 ――なにをどうしたらこのような有様になるのだろう?
 ふと浮かんだ疑問を嚥下し、船を手繰り寄せる手段を模索する。
 ようやく発見した船は岸から離れた位置に漂っていた。
 縄か何かを入手するか、湖に入水して引っ張ってくるかくらいしか手段がない。いかにして接合するかという点も解決できない。釘も無い以前に工作道具が無いのだ。魔術で凍結させることも検討したが、半ばで溶け出す泥舟では困るので却下した。
 いっそのこと湖を迂回して山から登ろうかと考えたが、どうにも止めた。
 地図に『通るべからず』と赤い文字で警告があったから。
 “少女”は悩んだ末、湖の周囲を捜索してみることにした。無事な船が陸に上げられているかもしれないからだ。
 意外にも小船は簡単に見つけることができた。ただしオールが見当たらなかったので、やむを得ず自作した。木の枝に板切れを括り付けた簡易の品であるが渡航するには十分であろうものが完成した。
 そして数日間ほど湖で待機して、人の少なくなったころを見計らい、岸を離れた。

 「なんかいるよな……ネッシーだといいんだけど」

 軽口を飛ばしつつ、湖に潜む何者かが寄ってこないようにミスリルの剣を上に掲げるセージ。それは水面下を驚くべき速度で周回している。全長は30m以上。視覚だけで得た情報が正しければ、数多くの触手を持っている。
 ミスリルの剣を掲げると生き物は怯み近寄ろうとしなくなる。
 だが、近寄らなくても、その生き物が水中を移動するだけで不規則な水流が発生するのである。小船は安定性を欠いていつ転覆してもおかしくはないほどに動揺した。
 まるで遊ばれているようではないか。オールを必死の形相で握りしめて船の安定を取り戻す。剣とオールの二刀流は著しく腕力を消耗させた。先の見えぬ霧の向こうが焦りを生む。
 白亜の風景と、一点の変化も見られない水面の中を進むことは、冬山で遭難する前段階に等しい。
 人間にしろエルフにしろ、視覚を用いて進行する際には基準点を必要とする。例えば地面。例えば障害物。例えば方位磁針。霧に包まれた中、目印も存在しないのに一直線に漕いでいくことなど、訓練を積まぬ限り実現しないのである。
 逆に、目印さえあれば良い。
 セージの接近に反応したか、白い霧の彼方に光が灯った。
 それは亡霊のようであった。さしずめジャックオーランタン。地獄にも天国にも行けなくなった口が達者な男が徘徊しているように思えて仕方がなかった。光の元には、途轍もない神秘があるようにも思えた。
 光に近づいて行くと、生き物は居なくなってしまった。食べられないと理解したのだろうか。それとも機会をうかがっているのだろうか。
 せっせせっせオールを漕いで、光を目指す。
 距離感を掴む材料の欠如からか、光が近づけば近づくほどに、蜃気楼が如く遠くに行ってしまうように感じられた。
 霧は向こう側からは無いものということを念頭に、フードを取っておく。こうすることで耳を見せつけ、エルフであることを分からせるのである。
 一時間? 二時間? 霧で顔が濡れるころ、光に変化があった。
 光の数が2に増えた。そして3に増えるや、10に増えたのだ。
 オールを握り締め、身構える。ミスリルの剣を掲げることも忘れて、正眼に突き出す。緊張に顔が強張った。人間と勘違いされ攻撃を受けるかもしれないと、足が震える。
 やることをやらねば。死ぬのはまっぴらごめんだ。
 セージは両手を大きく振った。付け根から飛んで行ってしまいそうになる強さで。

 「俺はエルフだー!!」

 セージの声が聞こえてか聞こえずか、光は一段と数を増していく。10あったのは既に15に達していた。それらは震えながら距離を詰めてきている。
 そして、霧が突如として晴れた。幕を引くように。
 船だった。光の数だけ船が湖に浮いており、いずれも特徴的な長くとがった耳を持った種族が乗っていた。光はランタンだった。彼ら彼女らの船が、まるで氷の上を滑っているように、静謐を伴ってセージの船に寄ってきた。
 彼らは一様にローブを着込んでおり、弓矢や杖などで武装していた。男女問わず年齢問わず、多彩な顔ぶれ。
 セージは顔の引きつりを止められないまま、ミスリルの剣を差し出した。雰囲気と威圧感に押されていたのだ。
 彼らの中の一人がオールも漕がずセージの正面に船を移動させるや、剣を検分し始めた。金色の髪の女性だった。切れ長の瞳、淡い顎の輪郭、あたかも体から燐光が湧き出しているよう。指先の一本に至るまで白く、白磁の陶器で作られているようだった。
 ――ユニコーン。
 脳裏に浮かんだのは、女神様でもなく、誇り高き聖馬の姿。
 女性はにこりと微笑みを見せると、剣をセージに返し、優雅な動作で手を差し出した。不覚にも頬に朱が差す。男として照れたのか、女として照れたのかは定かではない。

 「……お待ちしておりました。長旅でお疲れでしょう……ようこそ我らが里へ」

 セージは彼ら彼女らに連れられて里の中に足を踏み入れることになった。
 どうやら事前に通達がなされていたようで、さっそく医者に取り囲まれ、土の香りのする薬――栄養剤を飲まされた。彼らは傷と言う傷を魔術で治してくれた。そして部屋に通されて一晩ぐっすり寝た。
 翌日、巨老人に会わなくてはいけないと伝えると、忙しいので少し待てと言われてしまった。鉱山を奪還するための戦闘準備で山積みらしい。
 暇を持て余したセージは、何か手伝えることは無いかと訊ねてみた。タダメシを食らってふんぞり返るほど腐ってはいない。
 すると散らばった装備品の回収作業を手伝えと言われたので、さっそく湖と里を隔てる付近へと足を運んだ。
 湖と里の境界線はつまるところ壁であり、多数の防衛設備が仰々しく並んでいる。大型のバリスタもあれば、射手が身を隠す障害物もあった。用途不明の宝石が備え付けられた見張り台もあった。要塞という表現が相応しい。
 振り返ってみれば、霧が無かった。澄んだ大気の遥か向こうに己がやってきた陸地が見えた。
 聞けば、不定期に訪れる小規模の威力偵察を排除した直後らしい。
 戦闘後だというのに死体は無く、血液のみがあった。それは船の破片やねじまがった鎧などを濡らし、湖に注いでいるのであった。酷いにおいであったが、死体が無いので嫌悪感は無かった。
 剣、鎧、矢、その他革製品などを手押し車に入れては運ぶ。重労働だった。満載すると転倒の危険性があったので、半分まで積むことにした。
 共に作業に当たる男性に死体はどこかと聞くとおもむろに湖を指してくれた。
 次の瞬間、湖に巨大な気泡が浮かぶと、鎧が『吐き出され』地面に落下した。湖を渡る際にちょっかいをかけてきた何者かの仕業であろう。
 鎧を検分してみれば、強引にこじ開けられ中身を粉々にして吸い込まれたようになっていた。まるで貝殻をこじ開けて身を食べるように。丁寧にも武器などは千切られていた。
 あれは何かと尋ねると、さもありなん『巨老人のペット』と答えてくれた。
 巨老人とは途方もない男だということは理解できた。
 巨老人に面会できたのはそれから三日後のことであった。




[19099] 三十六話 巨老人
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/19 01:34
XXXVI、


 巨老人の間は厳重な守りが固められていた。里の最深部に位置するだけではなく、物理的魔術的防御を塗りたくった場所にあり、警備の者だけで数えるのがアホらしくなるほどであった。
 地形の守りは後ろ山岳前湖。ハードの守りは岩造りの砦。ソフトの守りは歴戦のエルフ。まさに鉄壁である。小船でえっちらおっちら攻めたところで攻略できまい。
 久々に歩く岩造りの床はコンクリートのようだった。
 気が付いたことがある。扉が異様に大きく、目測にして3mはあろうかというものだったのだ。ドアノブも大きかった。それどころか巨老人の間に来る際に通過した階段の幅も広かった。
 言うならば、人間のサイズの一つ上を基準に設計してあるような。
 案内役の女性に頭を下げると、ドアノブを捻る。その手は汗で濡れていた。緊張している。
 “少女”は恐る恐る言葉を発した。気難しい人かもしれないと考えてのことだった。
 
 「失礼します……」

 汗を服に擦り付けて、再び握り、開かん。そして滑り込むと扉をきっちり閉める。
 相手は訪問者を待ち望んでいたようで、部屋の半ばに佇んでいた。否、塔のように聳えていた。
 その男は巨大であった。足や腕や胸の筋肉の盛り上がりは岩を並べたよう。豊かに蓄えられた髭は書道に使う筆のようで立派だった。“少女”と比べて数倍はあろうかという身長から発せられる威圧感は、熊に殺されかけた時の殺気をも凌駕していた。
 だから硬直せざるをえなかった。物理的に占有する空間が広域に及ぶがゆえに生じるプレッシャーがセージの全身を縫い付けたのだ。
 元の世界でも病気で身長が高くなりすぎる人はいたが、巨老人はいずれの記憶にも当てはまらなかった。それが当然のようにあったのだ。病気でも、伸び過ぎでもなく、自然に巨大であると。
 巨老人はにこりと口角を持ち上げると、のっしのっしと大幅で歩いてきて、手の平を頭に乗せてきた。木の板を加工したような立派な手はセージの頭を包むに最適な面積であった。
 頭ががくがくと揺れた。どうやら巨老人は撫でているようだった。腕力の強さ故か、手の広さ故か、頭をぐりぐりやられているようであった。
 巨老人の深い低音が鳴った。

 「緊張するな。儂がデカいのでびくついたのだろう? 素直でよろしい! 初めて孫を腕に抱いた時も大泣きされたわ」
 「いえ、そんなことは」
 「ヌハハハハ! よいよい。儂は怖い方が得をするのだ」
 「あっ、あの、手紙を長老より預かっています。お確かめ下さい」

 頭を上げたくなったセージであるが、頭を撫で続けられているのでできなかった。俯き加減に会話を進める。

 「ふむ、わかっておるわ。ミスリルの剣もな。だが急ぐでないわ。ゆるりとな」

 セージの緊張を解そうとしたのか巨老人の口調はあくまで柔らかかった。
 セージは、手がどいたので面を上げた。巨老人はセージの鼻先を指で突くと、巨躯に似合わぬ機敏さで部屋の中央にある机へと誘った。ついていく。歩調はゆっくりなのだが、一歩が大きすぎて早足にならなければ同じ速度をだせなかった。
 机も巨老人の体躯に合わせて巨大であり、面積だけであればベッドのようだった。椅子などはシャムネコどころかタイガーが座れそうであった。背もたれはまるで板を括り付けたかのような長さであった。
 部屋を見回してみれば、巨老人のものと思しき三日月の形状をした剣やら、鉄の塊と称すべき金槌もあり、かと思えば竜の頭蓋骨をまるごと持ってきたとしか思えぬ物体まで飾られている。
 あれはなにか。あれはなにに使うのか。訊ねたいことは山ほどあったが、まずは手紙を渡さなくてはならなかった。
 手紙を渡さなくては話が進まない。

 「ここに手紙が」
 「拝見しよう」

 セージは荷物の中から草臥れた手紙を取り出し、両手で差し出した。巨老人が受け取った。
 巨老人は女性の髪のように長い白髭を指で弄りながら内容に目を通し、そしてセージの方を見た。柔和な笑みと同居するは、最強と名のしれた戦士の瞳。鋭い眼光。

 「―――……剣を」
 「ここにあります。お受け取りください」

 セージは巨老人の言葉に腰の剣を外すと両手で捧げ持つようにして渡す。
 巨老人はその剣をとった。彼の手に持たれた剣は、相対的にナイフのように小さく見えた。抜剣。女神の柔肌が如き剣が露わにならん。魔力に反応したのか表面が揺らいだ。
 巨老人は剣の作りをとくと調べ、満足げに唸った。胸がぐっと膨れ上がる。

 「やりおるわ……あやつの腕は大陸一番だわい………頂戴しよう。しかし、これでは……セージ……ちゃんの武器が無くなってしまうが」
 「ちゃんはくすぐったいので呼び捨てで構いません。武器は……何でも、余っているので」

 内心ムッとしたセージであるが、さすがに目上相手に突っかかるほど精神的に幼くはない。巨老人はやはり他の人と同じように、ませた子だと笑った。
 笑顔から一変、難しい色を浮かべた巨老人は、手紙を器用に広げ直して指の腹で突いた。
 セージはごくりと唾をのみ込んだ。

 「新しい武器は追って準備しよう……さて、セージ……お前さんに試練を与えようと思うのだが。手紙によるとくだらんことをやりたいそうなのでな。許可を出すには受けて貰う。いいな」
 「はい。やり遂げます」
 「その言葉に嘘偽りはないな?」
 「はい!」
 「儂は確かにお前の言葉を聞いたぞ。二言は無かろうな」
 「………ありません」
 「そうか」

 巨老人が念を押すので、竜を狩れだとかの無理難題を押し付けられるのでは思った。
 セージは知らぬ間に増長した己への一種の過信を自覚できないでいた。今まで来れたのだから何でもできると。それに加え度重なる戦いは死や恐怖への認識を麻痺させ、己の力すら見失い、無謀なる猪になっていたのだ。
 それを巨老人は見抜いていた。新兵が初戦で戦果を挙げると過信していずれ自滅するのだと。現実を体に叩き込む必要があるのだと。手紙には遠回しな表現で『彼女を止めてくれ』とあった。
 セージは強く頷き、承諾した。
 巨老人はよく通る言葉を発した。

 「何年かこの里で過ごせ」
 「え、それは、それは……」
 「はいと言えないか? 遅い。儂の指示に従ってもらう」
 「…………」

 それは明白な宣告であった。
 セージは主観時間にして二時間は説教を食らった。人間の恐ろしさ。戦の辛さ。現実。甘えの精神。己の力の無さ。一人の行動が他人を苦しめることになることについて。
 エルフの放ったスパイの報告書も読まさせられたし、聞くに堪えないむごい話の載った本も読まさせられた。
 里の情勢。死人の数。人間側の戦力。エルフの女の末路。
 まるで父親が娘を正しい道に引き戻すように、ひたすら説教をされた。
 だが、嫌な気分はしなかった。真摯に自分のことを考えてくれたのだなと思えたからだ。
 実感が湧かなかったのも事実である。乾燥した経験が恐怖を麻痺させてしまったのだ。度重なる感情の発露は鈍感を作るのである。まして体感してもいない文面上言葉上のことはリアルの代用品になりえない。
 巨老人もそこは承知しており、一つのことを持ちかけた。
 それは鉱山を奪い返す戦いに同行させることであった。戦いという死を見せることでセージの現実を取り戻そうと目論んだのである。
 鉱山は山岳を伝っていった先にあり、道が不便なことから多量の戦力を送り込めない。それは人間側も同じであるが、引き籠り戦術に持ち込まざるをえないエルフ側と違って、より柔軟に兵力を展開できるのだ。
 鉱山を封じればエルフ側の資源を制限することができる。
 エルフ側としては鉱山はまさに生命線であり、なんとしても攻略しなくてはいけなかった。
 だが偵察によると鉱山入口は既に多数の兵士によって封鎖されており攻略するには犠牲が必須らしい。
 巨老人にどうするのかと訊ねると、答えてくれた。
 ―――地下からだ。




[19099] 三十七話 重荷
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/20 01:51
XXXVII、



 エルフと人間では捕虜の取り方が偏っているという話を耳にした。
 エルフ側が人間の捕虜をとる状況と言うのはつまり、屑値で引き抜かれた植民地の人間を捕虜にするということが大半で、王国に対して取引の材料になりえない。捕虜と引き換えに交渉する相手はほぼ植民地となる。
 植民地は奴隷同然の搾取を強いられる国であるからに、取引を交わす体力すらない。そもそも重量人物ならとにかく、たかが一般の男など金銭や条件と引き換えにする価値もなかろう。
 逆に相手側、すなわち人間側は積極的にエルフを捕虜にしたがる。多方面に利用できるだけではなく、エルフの総人口が少ないすなわち『価値』が高く取り返したがることが多いからである。
 エルフ側は捕虜をとりたくない。捕虜をとって、万が一スパイでも紛れ込んでいたらということもあるし、ただ飯を食わせる余裕もないのだ。
 肉体労働――奴隷にしてしまうのは、エルフの倫理観に反することである。悪しき文化を肯定しては、エルフの精神は穢れてしまう。
 だから戦闘におけるエルフ側の行為は単純なものとなる。
 撤退させるか、名誉の戦死を与えるかである。あえて逃がすことすらあるのだという。
 セージは己が参加する作戦の概要を説明された時、あまりの残酷さに耳を疑った。なぜやるのかと問うと、偽りの情報を流す為と言われた。
 歴戦の勇士揃いの攻撃隊の中で一人だけ子供が居る。片側だけ短い髪型に幼いながらに立派に鎧を着こなした――セージである。得物は鉄剣と不釣り合いな大きさの盾。
 彼らは里の地下から続く坑道の中を進んでいた。
そう、かねてから掘り進められていた地下道が完成したのである。これにより危険を冒してまで地上を 行軍することはない。空も使わないでよい。
 作戦は、まず地下から鉱山内部へと侵入することが必要だった。

 「……本当にやるんですか?」
 「お嬢ちゃん、叩けるときに叩くのが戦争だぜ」
 「でも」
 「デモもカカシもありゃしないんだ。そうさね? ひょいとばかし顔覗かせといて、向こうで蓋閉じておしめぇよ。むせぇ男と鎬削るのとくらべりゃあ面白くもねーがねぇ……ヤらずに落とすのが最良ってことよぉ」

 セージは、中年の戦士―――心の中のあだ名は髭オヤジ―――の後ろにぴったりくっつきながら、答えのわかっている質問をする。
 髭オヤジは松明を落とさぬようにしつつ、足元の岩をよっこらしょと乗り越えた。セージが躓きかけると、後ろのエルフが大丈夫かと助けてくれた。
 作戦に同行すると言っても本格的な訓練を積んでいないセージでは危険なので、付添い役がつけられた。それが前の髭オヤジと後ろの女性である。
 坑道は整備が行き届いているとはいいがたく、天井からは作業に使われた棒切れが飛びだし、地面には腰かけるのには丁度良い大きさの岩が無造作に転がっている有様であった。
 鎧、剣、体がすっぽり隠れる盾という大仰な装備を身に纏ったままでは、歩きにくいにもほどがある。関節の可動範囲も制限される。
 おまけに照明が松明だけとくれば、揺らめく影が目測を誤らせることになる。
 土を押しのけて穿たれた坑道は、あたかも竜の腸のようで、己が消化されているのではという疑念が湧いてくる。ありえないと頭で理解していても、一行の発する鎧だとか声だとかのみが幾重にも反響する最中では、ベッドの下の幽霊と同じ種類の存在を疑ってしまう。
 暫く、坑道のくねりを行ったところで、前から順々に伝言がまわってきた。
 髭オヤジは前から聞いたことをセージと付添いの女性に伝えた。

 「止まれってよ。先頭の奴がけしかけるから遅れるんじゃねーぞ?」
 「わかりました」

 セージは頭を振った。戦闘に備えて盾と剣を意識した。重装備と付添いそして列の最後尾というところから、戦闘に参加せず見学せよということであろうが、心構えが必要だった。
 これより戦が始まる。緊張が高まった。
 セージは髭オヤジが駆けだすのについていった。

 ―――戦はあっけなく幕を閉じた。
 それも、セージが戦うまでもなく、途中で引き返す指示を受けたくらいにはあっけなく。
 理由は作戦にある。まず先方隊が坑道の奥から侵入して入口を占拠している人間らを誘う。次にワイバーン部隊が上空から降り立ち、入口を落盤に見せかけて完全に封鎖する。最後に先方隊が後退して坑道を塞ぐ。作戦は終了。あとは中の人間が果てるのを待つ。これだけだ。列の最後に位置していたセージは要らないも同然だった。
 閉じ込めた戦力を滅ぼし、同時に鉱山が埋まったと錯覚させるのだ。
 手を出さずにして殲滅する―――……出入り口を封じられた人間の末路など子供にも分かるであろう。
 もともと鉱山は石を採取する場であり、食物を生産することなどできない。都合の良い貯蓄など配置されているわけもない。
 セージが仰せつかった任務は戦闘についていくだけではなかった。
 それは、坑道の封鎖扉の監視である。

 「………やめてくれ……」

 頭と膝を抱えて、耳を服で塞ぐ。鼓膜を突き破れるならそうしよう。耳栓があるなら使おう。場を離れていいのならばそうしよう。だが、指示を受けた相手はほかならぬ巨老人で、扉の前で待つ以外の選択肢がなかった。
 金属の扉一つ隔てた鉱山の中から、地獄に落とされた罪人かくやうめき声や罵り合う声が聞こえてくる。それは男たちのもので、すすり泣きも混じっていた。
 初日は男たちが扉に殺到して破らんとしてきた。セージは破壊を恐れて報告したのだが、なんとミスリル合金製であり、人力では傷一つ歪みひとつ作れぬと言われた。係のものが去り際にワザとらしく見張りは必要だと付け加えてきた。
 四日目からがより地獄に近かった。中の人間、外のエルフにとって。男たちは扉が破れないことを理解すると、懇願し、脅迫し、戦い、絶望して暴れ出した。
 中にはセージの見張る扉のすぐ手前までやってきて、やれ開けてくれだの、俺はエルフが好きなんだなの、妻と娘がいるだの、救助を求めてくる者がいた。
 言葉を交わしてしまっては情が移る。耳を塞ぎ、一言もしゃべらぬようにした。だが、完全に遮断できるはずもない。彼らの懇願が精神を痛みつけた。
 一週間経つ頃、中で兵士達の感情が爆発した。剣と剣がぶつかり合う音。怒号。血しぶきの音。扉が叩かれた。セージは歯を食いしばって体を縮めた。
 脳裏に映像が浮かぶ。
鬼の形相をした男たちが食料を奪い合い、剣を交え、殴り、蹴り、反吐を垂らして……。
 そんな兵士たちも、二週間経つ頃になると静かになった。
 三週間、四週間、五週間、六週間……。
 セージは毎日ねぐらと坑道扉を行き来した。誰かと会話する気力も無く、声をかけられても虚ろな応答しか返せなかった。時の流れは卑怯なまでに遅かった。
 六週間目、セージは鉱山内部の『清掃』作業に同行した。
 扉を開けると肉の削げ落ちた死体が出迎えてくれた。セージはそれを運んだ。他にも無残な死体が鉱山中に散らばっていた。腐敗の始まっているものも多く、強烈な臭気に嘔吐しかけた。
 わずかな食糧を奪いあったらしく、武器を持ったまま息絶えている死体がかなりの数に及んだ。
 中には人間の大腿部を片手に持った死体まであった。意図的に切り落としたとしか状況からは読み取れなかった。嫌な想像が頭を過った。作業の手は止めなかった。他の作業員が表情一つ変えずに仕事をこなしていたから。
 すべての死体を運び出す頃には一日が終わっていた。酷く精神を痛めたセージは食事も口にせず床についた。
 夢を見た。
 己が扉を開けてしまい、餓死寸前の人間達に犯された上に食い殺される悲惨な夢を。
 己の股を割く一物は腐り、胸に伸びる手はいずれも骸骨。首筋を斬られた。血を啜られた。腕を、足を、臓物を、彼らが食い荒らす。目玉を穿って口に運ぶ、男。眼光まさにケダモノ。
 冷静になってみれば、夢は夢であるが、見抜けなかった。何しろ感覚は全てリアルそのものであり、臭いも触感も現物と大差なかったのだから。
 ベッドから飛び起きる。汗が酷い。頭痛もした。最悪の目覚め。途端に走る恐怖に身を縮めて布団をかぶって、暗闇に逃げた。
 その日は一日を恐怖に肩を抱かれて過ごした。食事と排泄以外は室内で時を潰した。
 翌日はようやく外出する気分となり、扉を開けた。すると巨老人の指示を受けたという者が立っており、仕事をやれと言われた。セージは安堵した。ただの本の整理だったからだ。
 普通の仕事しかしていないのに、その日の夢も最悪だった。
 最初に殺した男と、二番目に殺した女の子が、火炎に満ちた草原でいつまでも追いかけてくる。逃げようにも足が言うことを聞かず歩くことしかできない。捕まっても危害を加えてこないが、ぶつぶつとセージの顔を覗いて何事かを念仏のように呟き続けるのだ。
 セージは目を覚ますと声を立てず泣いた。
 セージは、ここに至って殺害への罪悪感が蘇り、精神的な重荷に押しつぶされそうになっていたのだ。
 いつしかセージは人との接触を嫌い、仕事や勉強(するように言われた)が終わるとさっさと己の部屋に戻って本を読むことに没頭するようになった。睡眠前には、医者から夢を見なくてもよい睡眠薬を貰ってきて常用した。
 そんなある日、巨老人からの呼び出しがあった。




[19099] 三十八話 方針と訪問
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/22 13:00
XXXVIII、



 「さて、儂について言いたいことがあるのではないかと思うのだが、どうだ」
 「………それはっ~~~~」
 「例の作戦についてか、それとも王国に忍び込みたいという希望か?」
 「どっちもです」
 「なるほど。で、どうする。若さに任せて殴るも良いぞ。儂も昔はやったものだ」
 「………」

 巨老人の間。身の丈に整えられたローブを着込んだ巨老人の前に、疲労した面持ちのセージが立ち竦んでいる。
 いよいよもって目標と活力を喪失した今のセージには、不満を口にすることができても反論に展開させることができなかった。まして殴打などもってのほか。力不足なのは事実であるし、敵を餓死させる作戦は効果的だったわけで、残る余地は感情論しかないのだが、怒りも憎しみも憤りも矛先を失っていた。
 いっそ王国が倒れてくれればいいのにとすら思ってしまう。ある日突然王国内部で反乱が起こって政情不安定になれば望みが叶いそうである。起こりそうにないのが致命的な点である。
 セージは押し黙り、そして沈黙し、口を閉ざした。この場において一言たりとも言葉を発せなくなった。何を言おうと無駄ではないのかと思ったのだ。
 氷漬け状態となったセージに対し、巨老人は髭を弄りだした。

 「セージ、お前の目的が王国の魔術を盗むことというのは分かっているし、それ自体が下らんと言ったのではない。お前が無謀な自殺行為をやろうとしたから下らんと言った」
 「では、実力を付ければよいのですか?」
 「そうだな。一人前の戦士になればよかろう。儂とて何か使命を有する者を束縛するほど頭の固い老人じゃなかろうて」

 もしくは―――。
 巨老人はローブをはためかせつつ背中を見せれば、腕を組み、言わん。

 「王国を倒す……さすればお前の道は拓かれるのではないか?」

 それは明白な反抗宣言であった。
 セージは思いもよらなかったであろうが、巨老人の言う通りに王国を倒してしまえばエルフへの弾劾は止まるであろうし、魔術の回収も容易となる。
 絶句したセージの顔を巨老人はにやりと見遣り、退室を命じた。

 その日、セージは武器の運搬作業に駆り出されクタクタになって自室に戻ってきた。
 いつものように死人のような表情は無く、部屋で本を読んで過ごすつもりも無くなっていた。
 光が見えてきたのだ。より現実的で、エルフに恩も返せる一石二鳥の道が。
 王国を打倒すればよいのである。巨老人程の男が口にしたのだから、虚でもなければ言い訳でもあるまい。
 強大な力を持つ王国とて無敵の最強集団ではない。領土拡大を狙う王国にいい気持ちのしない諸国が立ち向かっており、それをいまだにねじ伏せられないところからもわかることであろう。
 ふとセージは、焦って王国に突っ込もうとしたことを馬鹿だったと省みる自分を発見した。
 ベッドの上であぐらをかき腕を組んで目を瞑る。今までのこと、これからすべきこと、総合して思考する。冷静かつ論理的に考えという繊維を糸にしていく。
 結論が出た。
 簡単なことだ。よく食べ、よく飲み、よく学び、よく鍛え、よく働き、よく遊ぶ。成長が必要なのである。早く帰らなくてはという強迫観念に囚われて物事が見えなくなっていたのだ。目的達成のためには段取りを踏むことが肝要である。何年かかるか不明だったが、確実に歩むほかに無い。
―――……妄執にも似た〝神〟への復讐心と、心の傷は消えなかったが。 
 
 翌日、セージの部屋にとある人物が訪問してきた。
 扉を開けて腰を抜かしそうになった。里にやってきて一番最初に言葉を交わした美しい女性がにっこり微笑みながら立っていたのだから。
 最初の感情は驚愕。

 「!?」

 脳細胞がスパークした。
 脊髄反射的に扉を閉めて、失礼ではないかと思い直し、再度開く。赤面。じっとり汗が浮く。何を喋っていいか分からず口をパクパクさせる。
女性は口を手で隠し、おかしなものを見たようにニコニコ笑っていた。瞳がきゅっと持ち上がって弓を作っている。

 「あらあら」
 「あ、あの時の方ですよねっ!?」
 「ええ。私はクララと言います。初めましてではないけれど、握手しましょう?」

 セージが食いついた。差し出された手を握る。顔が赤く、息も早く、第三者視点では恋する乙女のように見えたに違いあるまい。
 相手は笑みを絶やさず、手を握り返してくれた。
 セージは度々舌を噛みそうになりながらも、唇を動かした。

 「クララさん? わた……俺はセージです! 汚い部屋ですが入ってください」
 「お邪魔します」

 セージの後に続いてクララが入室する。
 セージはクララの座る場所を工面せんとああでもないこうでもないと部屋中を駆けずり回った。散らかった本もさりげなく仕舞う。全てクララに丸見えだったのはご愛嬌。
 ようやく準備が整い、椅子を引いてクララをご案内。
 クララは楽しげに腰かけた。

 「いいのよ、気を使わなくても」
 「俺が気にします」
 「あらあら。とにかく座りましょう」
 「ええ…………」

 セージはクララに促されて座った。これではどちらが部屋の主なのか分からない。
 セージとしては色々と訊ねたいこともあったが、その前に観察してみた。淀みの一粒子も見られない絹のような肌。柔和な瞳は蒼海色。金糸は艶やかに鏡面が如き滑らかさをもって肩より垂れ、毛先が内側に向いている。鎖骨の下にある双丘、腰、足、いずれもため息ものの造形美を備えていた。疾しい気持ちは湧かない。彫刻や絵画を鑑賞した時の心境だった。
 ユニコーンが化身に変化したとするならば、彼女がそうだった。
 穴が開くほど見つめてしまう。美しく、可愛く、安堵できる。異世界に落とされて以来の不思議な感情だった。クララは視線を真っ向から受けた。しかも羞恥するどころか顔を寄せた。
 生粋の日本人なら顔が近いと口に出す距離と距離。西洋文化だからであろうか。

 「本日はお話があって来ました」
 「なんでしょう」

 クララは一拍置くと、

 「本日より貴方は私の受け持つ組の一員です。外からやってきたと言うけれど、組制度は分かります?」
 「はい。学校みたいな制度ですよね?」
 「正解です。手続きで時間がかかってしまって……ごめんなさい」
 「構いませんよ。楽しみにしてます」

 セージは心の中で納得していた。クララの醸し出す雰囲気や会話の運び方は教師のそれだったからだ。中学校の頃の世話焼き女性教師を思い出した。
 ただし、教師と言えば教師なのであるが、いかんせんしっくりこない。クララを前にして感受する情報は教師という枠でくくれそうにないのである。腐れ縁の親友と幼馴染を『友人』の枠でくくれないように。
 
 「それにしても、船であった時と印象違いますね」
 「あのときは私が緊張してました。どんな人が来るんだろうって。まさかセージちゃんみたいなかわいい子が来るなんて思ってなかったんですけどね」

 クララが恥ずかしそうに頬を手で覆う。外見は立派な大人の女性である。が、仕草は年頃の娘だった。
 一転してクララは真面目になった。

 「さて、セージちゃん。話を戻しますね。組についてのお話なんですが」
 「はい」

 その後、組に関することについて一通り説明を受けた。学校と大差ない仕組みであったが、元の世界とは違って魔術やら戦闘訓練やら狩りやらを教える時間が設けられていた。
 他にも、組の指導者――すなわち教師役の人の指示で里の仕事をこなすのであるという。
 この世界において子供は労働力である。日本でも一昔前では子供も大人と働くのが当たり前であった。
 話を聞いていて、セージは一抹の不安を抱いた。エルフの社会に溶け込んでいくのはいいが、王国の魔術で元の世界に帰還するという目的を果たせなくなりそうに思えたのだ。
 里で暮らすというのは、一つの使命を胸に里から里を放浪していた少女という、ステイタスの喪失に繋がらないだろうか。里で日々を過ごすうちに、王国に近づく機会を掌から取りこぼすことになるのではなかろうか。
 王国が倒れた時の事を想定してみよう。
 すっかり里に慣れた、なんの変哲もない“少女”が王国の技術で元の世界に帰りたいと意味不明な事をのたまっても、周囲は相手にしてくれはしまい。何年も経過したら、元の世界に帰るという主張も色褪せてしまう。
 ふと、一つの閃きがあった。
 里で実力を付けていけば、王国に近づけるかもしれない。例えば攻撃隊に参加するなど。
 話が終わった。クララは、すっかり考え込んでしまったセージの手を握った。

 「セージちゃん。あまり思いつめては駄目よ」
 「俺は大丈夫です」
 「本当に? ……鉱山のこと、聞いたわ」
 「大丈夫です」
 「お医者様にお薬貰ってることも、聞いてるの」

 セージは口元を無理矢理引き上げた。疲れた笑みだった。外見にそぐわぬその表情は、姨捨山に放置されて絶望に暮れる老婆のようでもあった。

 「……お見通しですか?」
 「ええ……個人的な問題に首を突っ込むのは良くないことだけれども……」

 クララが言葉を切り、セージの手を両手で包み込んだ。
記憶が染み出す。遠い昔とは言えない、少し昔のことだ。帰宅してすぐにご飯を食べようとしたら、手を洗うように言われた事。なかなか寝付けないと訴えると、手を握ってくれたこと。

 「これから私たちは“家族”になるの。辛いことはなんでも話して欲しいの」

 やっとセージは悟った。
 この人からは、母親を感じるのだと。



[19099] 三十九話 信じることは
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/07/27 01:54
XXXIX、


 クララと目を合わせる。海を覗き込んでいるような澄んだ色の青が、セージの瞳をとらえて離さない。手も、離さない。
 手を握るだけではなくて胸に抱いてほしい欲求が生まれた。頭も撫でて欲しくなった。理性でぐっと堪える。母性を感じても、まだ会って日数の浅い人なのだから。
 甘えたい。その衝動が胸を締め付ける。
 セージとてまだまだ子供。元の体の時が大人になり切れない年齢で、現在の体は母親に甘えていても不自然ではない幼い体。精神が体に引きずられたとしたなおさらである。
 戸惑い、堪え、それらを総合して苦悩の顔をするセージの手を、クララが握り、そして撫でる。
 セージは緊張で足が貧乏ゆすりし始めたのをぐっと筋肉で制動し、唇を舌で濡らすと、そっと視線を己とクララの手のつながりに落とした。
 ―――……さぁ、懺悔の時間だ。
 
 セージは何から何まで全てを打ち明けた。
 包み隠さず、この世界に落とされたときから、巨老人の里に至るまでの一切を。
 荒唐無稽奇妙奇天烈な話が続いてもクララの反応は極めて真面目だった。笑うことも、指摘も、一切せずに話に耳を傾けてくれた。
 人を殺した話の時に限ってクララに動揺が走った。それでも頷くだけで、話をきちんと聞いてくれたのだった。
 口を動かしていると、心の淀みが栓を抜いたように消えるようだった。
 一通りの事情を嘘偽りなく話したセージは、疲労の溜まった肺の空気を入れ替え、視線を上げた。青い瞳と瞳が正面から向き合った。

 「……という訳です。だから私じゃなくて俺です。信じてくれとは言いません。ですが、俺は正気です。頭がおかしくなって嘘の話をでっち上げたと言われたら、証明する手段なんてありはしないですが」
 
 セージは自嘲を込めた笑みを口元で燻らせ、続く言葉を飲み込む以前に考えなかった。
 クララはセージの手を擦ったまま、黙り込んでしまった。視線もピントが遠くに合っていて、セージを見ていない。正気と疑っているのか、それとも考えのつかないことをしようとしているのか、“少女”には判断がつかない。
 居心地の悪い沈黙が一分を支配した。
 やがて、クララが顔を上げた。そして口を開いた。

 「信じるわ」
 「えっ……」

 セージはクララの手を握り返し、掠れた吐息をあげた。
 ありえないことを聞いた。耳を疑う。正常。次に頭を疑う。残念ながら自己診断はあてにならない。
 だから質問を投げかけるのだ。隠しきれない期待を込めて。

 「どうして……?」
 「セージ君は嘘をついているように見えないわ。もし嘘をついていたとしても、私は信じる」

 クララが言葉を切った。掌を離し、慈しむように手の甲を撫でると、人差し指を曲げてセージの目元に伸ばした。理由はごく単純明快。クララは目の前で泣く者を放置しておける心の持ち主ではなかったのだ。
 セージは呼吸の間隔すら乱さず涙を流していた。目を真っ赤にしているのにも関わらず表情が平坦というアンバランスさ。本人すら気が付いていない。
 クララはその水気を指で拭き取ってあげた。
 セージの肩が震えた。目元を指で触られるのは想定外なのと、己が涙を流していると自覚したから。

 「理由は……そう………私は信じたいひとを信じるから……じゃ不足?」

 クララはそう言うと、ハンカチを取り出してセージの顔を拭いた。
 
 「泣いちゃだめ。男の子でしょう?」
 「……むぐ」

 セージは顔を大人しく拭かれることにした。
 ハンカチが退いても目の赤さは残ったが、涙でぐしゃぐしゃな顔は消え去っていた。後から後から溢れる分を除いて。
 セージは無言でハンカチを求めた。クララが寄越してくれる。顔を隠す。涙を拭いているだけだ。泣き顔を見られたくない訳ではない。言い訳が心の中でだけ響く。
 クララがセージの肩に手を置いた。

 「人を……殺めてしまったことは、言い方は悪くなるけど今後の為になるわ。証拠も、目撃者も居ない。ほぼ自己防衛。忘れてはいけないけれど……この乱世、あなたのやったことを責める人はいないわ」
 
 クララの言うことは現実的であった。乱世を生きる女性の倫理観では、以上のような結論が導き出されるのだ。戦って武勲を上げることが推奨される世の中で育てはそうもなる。
快楽の為に人の命を奪う殺人鬼に成り果てたら、擁護のしようがないが。
 黙ってハンカチで目を擦る、セージ。涙は止まっていた。

 「帰る算段はあるの?」
 「……はい。王国が接収した魔術が世界を渡る術だったそうです。それを使って帰ります。俺は、その為に王国を倒したいと思っています」
 「……強いのね」
 「弱いです。死んでもおかしくなかった」

 目に宿るは強固な意思。妄執の位に昇華したそれは、いかなる者に諭されようが曲がらない鉄板になっていた。
 巨老人の説教も、最終目的を諦めさせるに至らなかった。
 経緯――心が現在に至るまでの――を知らぬクララには、セージが強い意志で行動する強き者に映った。彼女は頬に手を当て、ほぅ、と息を吐いた。視線がぶれる。考え事をし始めた合図。

 「そう……時間がかかってしまうわね……」
 「いくらかかっても構いません。やると決めたらやります」
 
 セージはハンカチで涙を根こそぎ拭き取り、小さくたたんで胸元に抱いた。洗わずして返却するつもりはなかった。そのことを伝えると律儀ねと言われた。
 その後のセージはクララとひたすら話した。辛かったこと、楽しかったこと、世間話、など。
 他人との接触に飢えていたのだろう、“少女”は貪欲だった。些細なことでも楽しげに反応した。相手が好きなこともあってか表情も生き生きとしていた。
 話すべきこと、話したいことの全てを吐きだしたころ、クララと別れることになった。
 最後にセージは頼みごとをしてみることにした。口に出すのが躊躇われ、羞恥に顔を染める。何度も舌を噛みながら、手を広げて、目を瞑り、言わん。

 「クララさん、……っ、ぎゅ、ぎゅっとしてください!」
 「あらあら。いいわよ」

 クララはドアノブから手を離すと優美に振り返った。小首を傾げて、セージに温かい視線を送らん。緩やかに歩み寄り、セージの肩に手を置くと、そっと引き寄せる。そして腕の中に包み込んだ。
 セージは腕を背中で交差し、抱きついた。温かい。柔らかい。花の香りがした。
 頭を撫でられる。不意に、胸の中で眠りたい衝動に襲われる。なんとか堪え、別れの挨拶代わりに顔を押し付ける。女性の体の柔らかさに驚いた。いずれ自分もこうなるのかと考える。
 それから、ゆるりと二人の体は離れた。
 セージが手を振れば、クララも手を振り返す。

 「いつでも相談してね」
 「はい!」
 「元気ね。それじゃあ、また明日」
 
 そうして、クララは去った。
 手や胸に残る余韻が温かくて暫し佇む以外の事をしなかったセージは、突如として頭を掻き毟り、ベッドにドロップキックで飛び込むや枕を蛸殴りにし始めた。腰と腕のひねりを込めた強力な拳が突き刺さる。

 「くそっくそっ! 馬鹿! 馬鹿! 恥ずかしい! 恥ずかしい! ぎゅっとしてくださいじゃねーよ! 何がぎゅっとだよ! あー!!!! あー!!!!」

 悶える。枕を顔に当ててベッドを転げまわる。今になって羞恥心が噴火したのだ。何をやったか。ぎゅっとして。抱擁を催促したのだ。あろうことかクララに。

 「きぃぃぃぃ!」

 絶叫しつつ布団相手にプロレスを仕掛ける。関節があると想定して絞めに入らん。次に拳を叩きつけて転がる。勢い余って床に転落してしまった。しかも頭から。
ゴッ。鈍い音。

 「ぉぉぉぉぉ………」

 頭を抱えて悶絶する。
 半分程蹲っていただろうか。やっと引き潮を迎えた痛みの尻を蹴飛ばし、立ち上がると、おもむろに布団と枕を整える。体を動かしたせいなのか額に汗が浮いていた。
 そしてセージはベッドに腰掛けると腕を組んだ。眉に皺が寄る。指が落ち着きなく往復して皮膚を叩く。
 どうにもしばらくの間は剣を使った訓練ができそうに無い。夢を見ないで睡眠できる薬は常用するしかないであろう。さもなくば悪夢が待っている。となれば、やることは限られてくる。

 「まず、勉強しないと」

 セージは前向きな発想ができるまでに気力が回復していた。それほどまでに、クララの影響は大きかったのだろう。
 もし、クララと出会わなかったら、一日中部屋に籠りっきりの生活を続けていただろう。
 体を動かせないのなら頭を使えばいい。図書館から借りてきた本の中の一冊を手に取る。題名は『魔術の心得』だった。




[19099] 四十話 兄と妹が似た者同士とは限らない
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/11 23:42
XL、


 勉強は組の皆と共にやった。基礎教養はもちろん、魔術、数学、天文学、文法、論証など必要とされるものを毎日きっちり学んだ。
 数学や天文学に関しては驚くべきことに現代と大差ない水準であった。記号や計算法こそ違えど内容は現代の数学そのものだったし、天文学では地動説がしっかり認識され、星の大きさの計測まで行われていた。
 水準が高すぎるせいなのか勉学は難しかった。段を登る形式で学んでいくとはいえ、元の世界とは違った内容ばかりで苦戦する。本当に年齢にそぐう難しさかと疑った。
 セージは頭がさほど良くなかったので、クララと居残り授業を何度もすることになった。

 里は技術水準でも外の人間世界とは違い、原始的な爆弾の研究まで行われていた。案外、一番最初に銃を製造するのはエルフかもしれない。
 セージは己の知識を役に立てないか考えたのだが、思想や発想以外はゴミ同然だと気が付いた。
 現代人は科学や技術に優れているという印象があるであろう。本当だろうか?
 例えば我々が目の前に機械式腕時計をポンと出され、テンプを直せと言われたらできるだろうか。例えば乗用車のエンジンが故障したので直せと言われたら、修理できるだろうか。
 答えはノンである。腕時計、乗用車共、いずれのどちらにしても、修理するにはきちんと知識と経験を身に付けなくては、複雑怪奇なる機構に白旗を振ることになる。
 よって、セージの知識が役に立つことと言えば、技術やノウハウや物的面の必要のない、思想や発想ということになる。
 問題となるのはたかが子供の意見に誰が耳を傾けるのかと言うことである。こればかりは解決することはできないであろう。
 と言うことで、その知識の披露の場になったのは、クララとの勉強会であった。
 元の世界のことについて――――特に人口の話をすると、驚かれた。当然である。島国に一億人が犇めいて日々を過ごすなど、この異世界においてはありえないことだからである。
 だが、いくら話せど虚しさが振り払えない。
 元の世界の事を話せば話すほど離れている気がしてならないのである。肉体的、精神的、そのいずれもが。儂は昔戦場にいたのじゃと語るおじいさんの同類になってしまいそうな予感すらする。

 「ふっー!」

 嬉しい。手を叩く。羽ペンを走らせる。蛇ののたくったような文字がインクの造形として現れる。
 問題の解答をじっくり見て、ロジックの破綻が無いかを確認すれば、誇らしげに羊皮紙を一回転させて目の前に座っているクララに差し出す。
 クララは羊皮紙を受け取ると、白い指を各所に行ったり来たりさせ、合否の判断を下す。すなわち柔らかな笑みと頷きと言う形で。

 「正解。よく頑張ったわね」
 「っしゃあ!」

 思わずガッツポーズを決めるセージを、クララは不思議そうな目で見遣る。

 「何かのおまじない?」
 「これは、元の世界で喜びを表現するジェスチャーですね」
 「不思議なポーズをするのね。格闘技みたい」
 「その発想は無かったです」
 「そう?」
 「ええ」

 このように、元の世界では当たり前のように通じたことが通じないことが多々あり、その度に教えてあげるのである。咄嗟に口を出る固有名詞などもクララを含めて理解できない人が多いのが普通である。
 説明も面倒なので元の世界の単語は口に出すまいとしているのだが、無意識に出てしまうときや、ガッツポーズなどの仕草はどうしようもない。

 「そうそう、忘れるところだったわ。セージ君に会いたいって言ってる人がいてね」
 「へぇ……俺にですか?」

 雑談の中に出てきた話題に、セージは興味を示した。会いたい人は数多くあれど、逆に会いたいと求めてきた人はほぼ居なかったからである。
 クララはウーンと喉を鳴らして前髪を梳いた。彼女の顔に躊躇が浮かぶ。それやがて苦笑いに変わった。

 「しつこくしつこく聞いてくるものだから……兄さん……」
 「クララさんってお兄さんがいたんですね」
 「そうなのよ。兄さんったら外から来たって単語に弱くって、連れてこないと絶食してやるぞって聞かないのよ」
 「絶食ですか?」
 「ええ、半日絶食するって」

 半日食べないのを絶食とは言わないですよ。おかしいですよクララさん。喉まで出かかった突っ込み文句を咀嚼して胃袋に流し込む。美味しくない。

 「……半日ですか」
 「半日よ」
 「半日ですか」
 「半日……よ」

 なぜか顔を見合わせる二人。
 クララですら苦笑いを浮かべる兄とはどんな人物なのだろうと不安になってくる。
 詳細を訊ねるのはばかれるので、止めておいた。が、好奇心が早くしろとうるさいので居場所を聞き出した。怪しげなもの、危険なものほど、男の子の心を擽るものである。体は女であるが。

 翌日、セージは里の中にひっそりとある牢獄のような場所に足を運んだ。
 牢獄のような、であり牢獄ではない。理解はしているのだが、他の部屋が木製の扉であるのに対し、この部屋に限り鉄製であったのだ。
 おまけに扉の左右には悪趣味を極めた造形の鎧が仁王立ちしており、あたかも地獄の門番のようにこちらを睨みつけてくるのである。扉の上には水晶の球が据え付けられており、意図の不透明さが不気味を助長した。
 とりあえず、エルフが居ることに間違いはない。なぜならクララの兄だからである。間違ってもエルフのような何か別の生命体を兄として認識していることはあるまい。ないと祈りたい。
 何はともあれ外に人が居ると知らせなくては中に入ることはできない。
 戸に備え付けられたノッカーを使おうとして触る。金属的な粘り。背筋が逆立つ。嫌悪を堪え、数回叩く。

 「………留守?」

 反応なし。再挑戦。強めにノック、コンコンコン。

 「あのーすいませーん! ……セージっていう者ですけどー! ………あのー!」

 セージは手でメガホンを作ると、室内に届くように声を張り上げた。
 “少女”は気が付かなかったであろう、鎧と水晶に微かな変化があったことを。部屋の主はとうの昔にセージの姿を認めていたことを。
 出会えないのなら時間の無駄である。直そうと扉に背中を向けた。
 次の瞬間、鎧の兜がくるりとまわってセージの背中を捉えた。そして水晶が鈍く発光し、円形の何ものかを投影した。

 「……? …………っうええええ!?」

 物音に気が付いた。無感動な顔で振り返ってみれば、鎧の顔がこちらを見つめているのと、水晶に人の目玉と思しきものがくっきり映っているところが視界に入った。
 それだけならよかろう。悪いことに、鎧が二体揃ってセージに手招きしたのだ。
 流石のセージも、鎧が動く、水晶に目が映る、といった事象を予想できず腰を抜かした。叫ぶ。地を這いずる。立ち上がろうとしてしくじる。

 『おや、あまり驚くなよ。お楽しみはここからだ。ようこそ俺の部屋へ』

 水晶から悪戯っぽい掠れ声が漏れ、眼球が数回瞬いたかと思えば、鎧らが手招きを止め、扉へ誘うかのように背筋を伸ばして直立し、微動だにしなくなった。
 腰を上げる。お尻の埃を払い、水晶の向こう側でこちらを窺っているであろう男を睨む。すると目玉が瞬いて消えた。水晶から光が抜けた。
 一歩前に進み出ると、あろうことか扉が下にするすると滑り降りた。唖然とした。扉自体が押して開く形式の格好であったのに、下降したのだから。防衛上の為であろうか。
 これは世に言う自動ドアではないか。
 ともあれ、セージは中に入った。
 入室に合わせて扉が閉まった。いかなるカラクリが内臓されているのか見当もつかない。一拍置いて、暗闇の向こう側から光る石をランタンにつめた照明器具が左右に揺れながら接近してきたのだった。
 目が暗闇に慣れていないせいで、ランタンしか見えない。瞬き。ぼんやりと輪郭が浮かび上がった。

 「やぁ、君が愉快な経歴を持つという女の子かい。初めまして」

 その男は一目に不健康と分かる容姿をしていた。ブロンドの髪を短く切り揃え、優しい目つきと顔立ちはなかなかのいい男であるが、青白い肌と頬のこけが台無しにしていた。体躯も骸骨を思わせる細さであり、服の上からでも骨が透けて見えてしまいそうである。
 暗闇の中に浮かび上がった姿は、三途の川の岸辺で船を待つ死人を思わせた。
 男は視線の先に気が付いたらしく、袖を捲って腕の細さを見せつけた。平均的な女性よりも細い。

 「生まれ付きなのだよ。病弱な星の元に生まれた運命さ。自己紹介が遅れたな、俺の名前はロウという。しがない穀潰しだ」

 男は言葉を紡ぐと、覚束無い歩調でくるりと踵を返し、カンテラを揺らしながら幽鬼のように部屋の向こう側に進んでいった。すると部屋の各所に配置された光の岩がぽっ、ぽっ、と明かりを吐き出し始めた。
 部屋には興味深いものが並んでいたが、興味を発散する前にあいさつをしなくてはいけなかった。

 「俺はセージと言います」
 「セージ……いい名だな。本名ではないにしろ」
 「そこまで聞いていたのですか?」
 「無論。妹に全て吐くように言ったのさ。さてと、どこにやったかな」

 どうやら、クララはセージがこの世界にやってくるまでの経緯について話してしまったようである。口ぶりからして強引に聞き出したか。もしこの場で『お前頭おかしいんじゃないか』と馬鹿にされたら、クララとの関係が微妙になったかもしれないが、相手に理解がありそうなのでそうはならなかった。
 ロウは、セージと会話はするものの顔を合わせず、部屋の隅に鎮座する大きな机を占拠する羊皮紙の束をひっくり返す作業に没頭した。
 山の中から文字の欠片ものっていない羊皮紙を取り出す。繊維のくしゃげた羽ペンを同じく取り出し、インク瓶の蓋を開けてペン先を乱暴に突っ込み、足だけを使って椅子を引き寄せ座れば、下敷き代わりの薄い鉄板を床から拾って膝に乗せた。
 その目つきたるや青白い肌とは対照的で、どこにあったのかというほど血が集中し、血管の走行が浮き彫りになって狂気すら発散していた。知識に飢えた獣がここにいた。

 「座りたまえ、是非お聞かせ願おう、異世界の風景を……!」
 「は、はい」
 「早くッ! 椅子はそこにある!」
 「わかりましたぁ!」

 セージは完全に気圧されてしまった。
 部屋にあった奇天烈な加工の施された椅子に腰かけると、故郷の母親も泣いているぞと諭される容疑者のような面持ちで知識を吐き出していくのだった。







~~~~~~~~
指摘された点を直してみるも微妙……



[19099] 四十一話 後ろは見えません
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/01 03:17
XLI、


 羊皮紙は一枚だけでは不足であった。
ロウは、目にも止まらぬ早業で机の上から羊皮紙の切れ端を引っ張り出してはペンで殴り書いた。
 今まで里の外にすら出たことのなかったロウにとって、異世界からやって来て里の外を放浪してきたという人物の話は、黄金やミスリルに等しい価値を有していた。
 ロウにとって話の真贋はもはや屑鉄のように価値の無いことであった。嘘でもよかったのである。セージがこの世界生まれこの世界育ち魂含むでもよかったのだ。
 セージはありとあらゆる話を出尽くし、うんざりした顔を隠さずでいた。
 少なくとも数時間は話し続けたのだから止むをえまい。
 一方でロウはぶつぶつ怪しげな言葉を口で籠らせながら、ペン先を狂喜乱舞させては羊皮紙に文章やら記号やらを書き殴っている。
 促されるまま、知識と言う知識を吐き出す。科学、社会構造、歴史……そこからロウが指示するままに話を展開させていく。さらには漢字や英語などの文字も書かされ、こちらの世界の言葉に対応もさせた。
 ロウが、集中力と眠気が限界にやってきて櫓を漕ぎ始めたセージの肩を小突く。
 相手が子供だろうと容赦しないたちらしい。

 「起きるんだ……まだ夜は長いぞ」
 「ぅぅ……勘弁してください、もうホントに……」

 セージは帰宅を希望した。
 しかしこの男、ノリノリになり過ぎて状況が見えなくなっているらしい。顔も割れよと笑えば、肩をばんばん叩いてくる。ものすっごく痛い。

 「安心するんだ。今日は俺の部屋に泊まるといい」
 「そんなぁ~」

 ロウは新たな羊皮紙を取り上げると、セージに地球の大陸図を描かせるのであった。
 結局セージが解放されたのは、心配になって様子を見に来たクララによってであった。
 クララに頭を引っぱたかれるロウというとんでもない光景を目にしたのはここでは割愛する。

 翌日。
 謝罪をするので一度来てほしいと伝えられたので、今度は強行突破で帰宅も辞さない構えでロウの部屋に行ってみると、仰々しい鎧は恭しく頭を垂れて立膝体勢となっており、既に扉は開かれていた。
 中に入るまでも無かった。部屋の前でロウが待ち受けていたのだから。
 ロウは相変わらず不健康そうだった。

 「昨日は申し訳無かった……知りたがり病を発症してしまったのだ。お礼にとは言ってはなんだが、とあるツテで入手した蜂蜜をやろう」

 そういってロウは申し訳ないと軽く頭を下げ、ポケットから小瓶を取り出すと、セージ手渡した。砂糖が本格的に製造されていないこの世界では蜂蜜は砂糖と同意義である。採取が難しいことから貴重品である。
 セージは頬を膨らませつつも、小瓶をさっと手に取って大事そうにポケットに仕舞い込むと、腕を組んだ。貰えるものを貰えるだけ貰ってやるつもりであった。

「まだ足りません」
 「ム、そうか。すまないが品切れだ。そうだな……俺の作ったアーティファクトの中で好きなものを持って行ってくれ」
 「アーティファクト?」
 「アーティファクトだ。俺の作ったガラクタどものことだよ。好きなのを選んでくれ」

 そう言うとロウは部屋の中に入っていった。セージが追いかける。自動で扉が閉まる。
 部屋の中には確かにあらゆる代物が複数乱雑に転がっていた。さんざん悩んだ挙句、魔よけの効果があるという指輪を貰った。他の物は爆発しそうな気配がしたのである。
 ロウは、さっそく指輪をはめるセージを見て、頼みごとをした。

 「これも何かの縁だ。一つ、頼みごとを引き受けて欲しい。謝礼はする」
 「なんでしょうか」

 セージは何気なく指輪に触れ、視線をロウにやった。
 ロウはそれこそ夕飯の献立を伝えるが如く自然さで頼みごとを言う。

 「湖の化け物の体液を採取してほしいのだ」
 「………はい?」

 これがRPGで言うクエストか。
 セージはあっけにとられ、素っ頓狂な裏声を上げた。耳が狂ったのだろうか。怪訝なを通り越して嫌悪を浮かべる。眉に皺を寄せ、記憶を手繰り寄せる。
 水面下より忍び寄る何者か。鎧を何かでこじ開けて中身だけ食するアレ。多数の触手を持つ巨老人のペット。
 無意識に指輪を握っては離しをしつつ、質問をする。

 「食べられちゃいませんか、あれ凶暴そうですし」
 「皆そう思い込んでるだけだ。あれは賢い生物だぞ。言葉も理解するし、格上と認めた相手の言葉に従う知能がある。そうじゃなきゃ巨老人が飼うなんてことはせんで退治している」
 「で、食べられちゃわないんですか?」
 「安心するといい。俺も何度か接触したが食われてないぞ。両腕も両足もある。そうだここに来るときに船に乗っただろう。突かれなかったか」
 「それはもう、船がひっくり返るかと」
 「遊んでいるんだよ、あれでも。体躯がデカすぎて遊びの規模が大きすぎるだけさ」

 話を総合すると、怪物に接触しても食われることはない。安心して体液を採取してこい。だそうである。
 だが、肝心なことを聞いていなかった。重ねて質問せんと。

 「体液ってどこのですか?」
 「触手のでも口の中のでも構わんよ。たまに体の寄生虫取りの為に岸辺で寝てる時もあるから、その時を狙うのも良い。呼べば出てくることもあるぞ」

 そしてセージは、もう一つだけ質問してみることにした。

 「その体液って何に使うんですかね」

 するとロウの顔色が変わった。あからさまに動揺しているのが目に見える。頬は引き攣り、視線は彷徨い、細き指先を組む。

 「実験さ……そういうことにしておいてほしい」
 「やることはやりますから、どんな実験か教えてくださいよ」
 「……大人には大人の都合と言うものがある……なぁわかってくれよ」
 「……ふーん。俺に隠し事しなくちゃいけない実験なんですか。いいですけどね、別に」

 頑として内容を語ろうとしないので、諦めた。時間はもっと有効に使うべきだ。どうしても言いたくないなら、どんな手を使っても言わないであろうから。
 できれば内密に頼むぞと念を押され、金属製の容器を手渡されたセージは、さっそく湖に降りた。監視員は日が暮れる前に帰ってくるようにと言ってきた。
 湖は穏やかで、風で水面が波打つ以外の動体が存在しなかった。
 セージはただ作業するのも癪だったので、手ごろな平たい石を水面に投げて遊ぶことにした。手首のスナップを効かせて投げる。岩が回転しつつ兎のように跳ねる。そしてしぶきをあげて沈む。
 しばらく石を投げることに没頭していたが、飽きてしまった。
 怪物の痕跡を辿ろうと岸辺を歩いていく。回収しきれなかったのだろうか、鉄の破片や槍のような棒が地面に突き刺さっていた。
 怪物の名称が分からず、暫定的な名前にて呼んでみる。

 「出てこーいかいぶつー!」

 行ったり来たりを繰り返し、怪物の姿を目視せんと試行錯誤すること一時間。結局、影も形も認めることは叶わず、歩きつかれたセージは岸辺にあった大きい岩に腰かけて休息をとった。

 「おーいでてこーい! ……うーん、言葉が分かるって言ったって、聞こえてなくちゃ意味ないんじゃねーかなぁ……」

 手のメガホンを用いて呼びかけてみるも、反応はない。
 セージは腿を土台にした両頬杖をつくと、眠たそうな視線を湖の遥か彼方へと向けた。爽やかな風が顔面を洗う。鼻腔を通る新鮮な空気が睡魔を呼び込む。瞼が垂れていく。杖が壊れ、前かがみになって睡眠へと落ちていく。
 その時である。
 水面に二本の突起が出現すると、音も無く、波紋すら立てず、岸辺に向かって滑り出したのである。
 風の音に紛れて微かな水音はかき消される。
 突起二本はグロテスクな光沢を放っており、人間の舌を棒状に成形すれば出来上がるであろう質感であった。先端には四つの切れ目の走った花弁状の構造があった。
 それは、獲物を狙う蛇のように“少女”の足元に忍び寄り、探りを入れる。
 先端がパックリ割れたかと思えば、粘液を引きながら四つに別れた――ではなく、内部に収まっていた球体を外気に晒した。
 白と黒のそれは、人間でいうところの眼球と同じ構造を持っていた。
 二つの眼球が、セージの顔の直前まで迫り、ぎょろぎょろと観察する。顔を覗き込み、背中にまわって至近距離から見つめて、足と足の間に入って真下から視線を送る。

 「ン、んー?」

 セージの喉が鳴る。瞼が震えるやきゅっと窄まった刹那、瞳が開いた。当然、怪物の眼球は見つかってしまうはずであった。

 「ぅあー寝てたのか……いいか、明日でも。期限決めてないしな」

 ところがセージは金属の容器を手の中で弄ぶ以外に反応を示さなかったのである。
 なぜか。それは、怪物の眼球が引っ込み、触手が地面にぺったり張り付き、しかも表面の色を変えることで完全に同化していたからである。
 セージがくるりと背中を見せるや、眼球と触手は背中に触れるか触れないかの距離に近づき、歩みに合わせてするするとつつがなく伸びる。
 眼球付き触手と同じような形態の触手が数本水面から姿を表すや、セージの背中を追う。
 動作の一つ一つに人間のような例えば足音などと言った要素を含まない為、気が付くことができない。気配を読むような高等技術を習得していないのも、発見の遅れに繋がった。
 セージが背後に忍び寄る存在に気が付いたのは、触手が腹部に巻き付いた時だった。





[19099] 四十二話 触手!
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/02 01:50
XLII、

 腹と腰そして太ももにぬるつく何かが絡み付いた刹那、世界が下方に流れた。
 否、己の体が上空に持ち上げられた結果、相対的に地面が下に落ちていったように見えたのである。
 それが何かと熟考する暇も与えられず、水面から触手が湧き出してきて、次々と体に絡まっていき、アッと言う間に湖中へと連れて行かれたのであった。
 
 「うわぁぁぁぁぁぁぁごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!?」

 セージの悲鳴がドップラー効果を伴って岸辺から遠ざかる。
 人生初の触手に拉致されるという体験の前には喉も枯れよと絶叫せざるを得ない。叫び過ぎてせき込んだが、再び叫ぶ。
 だが悲しいかな、湖の中程まで連れて行かれては、悲鳴は両岸のいずれにも届くことがない。

 「ひぃぃぃ食うなぁぁ! あ、離せっ、くそ、こ、これは死ぬ死ぬ死ぬ!」

 じたばた暴れて触手を振りほどかんとしたが、触手の数が増えれば増えるほど、力と言う力を吸収され、逆に押さえ込まれていく。
 食われはしないとロウが言っていたが、実際に触手で拘束されてしまっては冷静さは電離圏辺りまで吹っ飛ぶ。食われるどころか別の想像まで湧き上がる。触手に絡まれた少女から連想することである。
 
 「くそ、やるならやれよ!」

 開き直ったセージは腕を組もうとして組めないことに気が付き、口をヘの字にして暴れるのを止めた。触手を食いちぎろうとしてどうにも止めた。ヌルつく粘液が異臭を放っていたから。
 水面から10mはあろうかという地点に縫い付けられ、まさに絶体絶命かと思われた。
 ところが、怪物はセージが暴れるのを止めると、触手を緩め、眼球のついた触手で見ることに専念するのであった。巨人に虫眼鏡で観察される気分を味わう。
 セージは、眼球に向かって語りかけることにした。

 「お前のヌルヌルを貰うぞ。お前、人間の言葉分かるんだろ?」

 言葉に反応したか定かではないが、眼球の中央がセージの口元に向いた。その隙に触手を纏めて引っ掴み、手にへばり付いた透明な液を金属容器に納めていく。怪物は抵抗しなかった。
 容器の蓋を閉じて金具で固定すれば腰に装着する。怪物の粘液を手に入れた。
 怪物はじっと見つめて、時折セージの体を触手で弄るだけで、陸地に戻してくれない。
 触手による締め付けこそ緩くなったものの、何本も絡まったまま時間が経過していけば、服は粘液塗れになっていく。感触はボディーソープのとろみを強くしたような。片栗粉の水溶液のようでもある。
 体液を持ち帰るためには、自分が帰らなくてはならない。ところが怪物が離してくれない。
 幸いなことに食ってやろうだとか、危害を加えてやろうだとか、そういったことを企んでいるとは思えず、言葉を理解するというロウの言葉を信じて、必死に語りかける。

 「陸地に連れてってくれよ、怪物君。そんなに俺が面白いのか? 中身は違うけど正真正銘のエルフだぜ」

 エルフ特有の耳を引っ張って見せつけると、怪物の眼球が耳を追った。動きの一つ一つに知性を感じるものの、意思の疎通には程遠い。
 触手を解いて泳いで帰ろうかと画策していたところ、怪物に変化があった。
 突如として水面の一部が不自然にチラついた。次の瞬間、湖と思っていた部位が黒と茶に変わった。驚くよりも早く、それは本来の姿を見せつけたのであった。
 それは、小規模なビルと同程度の空間を占有している、もしくは船と同規模の体躯を誇る生命体であった。
 イルカと同じく水の抵抗の少ないであろう細長い体とヒレを持ちながら、無数の触手があちこちから冒涜的に乱立していた。最も触手の密度の高い頭部と思しき部位は、もはや触手がより集まって構成されたと表現できるほどで、繁殖期の蛇の群れのよう。
 あるべき口などの器官は一切目視できない。全てが触手で覆い尽くされているため、頭部の構造把握は不可能であった。触手が各器官の役割を担っているのだろうか。
 怪物は体の色を水と同化させては元の色を示し、己のカモフラージュ能力を誇示する。
 擬態をあえて解いたということは、どういうことなのだろうか。
 固まるセージをよそに、怪物は触手の中でも細いものを一斉に頭に向けて伸ばしてきた。そして肩やら腰やらを執拗なまでに突いてくる。一本が咽頭に巻きつく。呼吸の阻害はそれなかった。
 何事か。あんなことやこんなことされるのか。
 触手達はあろうことか腕や腹や腿をずるずると擦り始める。眼球がひっきりなしに活動してまじかで観察を続ける。人間に対して強い興味があるのかもしれないが、やられる側のセージはくすぐったいやら粘液でぐしゃぐしゃやらでたまったものではない。
 セージは触手を腕力の許す限りの力で叩いた。

 「触んなボケ!」
 『グルゥ!?』

 水面下からうめき声が響いた。体を締め付けていた触手が緩む。
 本来なら慎重になるべきであるが、粘液の効果か否か風邪っぽい症状を自覚したので、とっとと帰るべくやってみたのである。下手すれば食われたかもしれない。
 ところが怪物はセージに怯んでしまったらしく、大人しく陸に帰してくれた。
 セージが説教をかまそうと意気込んでいると、とうの怪物はセージを陸に戻すや全速力で泳いで消えてしまった。臆病な奴めとセージは鼻を鳴らした。
 ともあれ、目的は達成したのであるが、体中が粘液だらけになってしまった。
 服もテカテカ、液が下着にまで浸透しており、早急に着替える必要があった。袖を摘まんでみる。ねちょりと糸引いて肌との間に橋を架ける。靴も見事にずぶ濡れ。歩くたびにじわりと液が染み出す。
 悪いことに奇妙な臭いがするものだから、セージの鼻は限界寸前であった。
 セージは首筋の粘液を手で削ぎつつ、一歩を踏み出した。里を守る壁を睨む。高く、大きく、頑丈そうだった。

 「ロウめ……熱が出るなんて聞いてないぞ………なんだこれ」

 セージは二歩目を踏み出し、手の平を額にやってみた。熱い。風邪で寝込んだ時のように。ところが平衡感覚は普通であるし、咳も出ず、倦怠感も無い。体だけが熱くなっているのである。
 粘液が原因であると断定し、湖に服を着たまま入水する。全身粘液塗れなのだから、今更ただの水に濡れようが構わなかった。
 しかし、落とせるところの粘液を落としても体の熱さは止まるどころか強くなっていく。異常な事態だった。
 一大事と熱い体を引き摺ってロウのところに戻ると、金属容器を返した。
 そして詰問した。ロウの襟首掴んでがっくんがっくん容赦躊躇戸惑いの微塵も無く。

 「体が不調なんですが、どういうことです!」
 「いや、まぁ、その……なんだ、あれの体液の効果だよ。ふむ、そういうことで、今日は忙しいからだな、離れてくれると助かるよ、うむ」

 ロウはしどろもどろ。目線を合わせようともせず、額に浮かべた汗をぬぐおうともせず、理由をつけてはセージを追い払いたがった。報酬はまた後日渡すとだけ言って。
 そうは問屋が卸さない。卸させない。
 最低でも解毒してもらわなくては。

 「だーかーらー! 効果って、なに!」

 ロウの首をがっしり掴んで揺する。ロウの方が身長が高いが、頭にきた少女の腕力は病弱な男を凌駕していた。
 年上だろうが関係ない。誤魔化すのならば言いたくなるまで続けるのみである。
 ロウはセージのしつこさに折れた。肩を落とし、セージの手を払いのけつつ、じりじりと部屋の隅に後退する。

 「……だよ」
 「はい!?」

 もごもごと何事かを呟くロウを、セージは部屋の隅に追い詰めて、飛び掛かろうと両手を前に、腰を落とす。
 逃げ場はない。もしあるとすれば壁や床をすり抜けられるだとか、時間を自在に制御できるだとかである。
 ロウは俯き、大声を張り上げた。

 「催淫効果だよ!」
 「はぁ……さいいん……催淫? は……はぁ!?」

 放たれた言葉に一瞬沈黙したセージは、意味するところを正確に捉え、戦慄した。



[19099] 四十三話 悶々
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/03 03:27
XLIII、


 「そんな……解毒薬くらいあるんでしょう!」

 セージは震えあがった。
 怪物の粘液には催淫効果があると伝えられたからである。言うまでもないが頭からつま先までびしょ濡れになるまで浴びてしまった。既に症状は出始めており、風邪をひいたかのような熱に苛まれている。
 一線を越えるのは避けたい。男とあるためには、女性の要素を排さなくてはならない。
 だから催淫効果に乗せられて自らを慰めるなど、地球が割れてもあってはならないのだ。
 ならないのだ。
 ところが現実は非情である。お使いを依頼したロウは何のその、首を振るのみ。

 「いや……何しろ無害だから作ってない。性的興奮が高まる効果しかないのでな」
 「まさか……実験って! くっ……薬を作るために俺を利用したんですね」
 「薬を作るのに必要だったからな」
 「ひどい!」

 悔しがるセージを、ロウは心外だとでも言わんばかりの顔で対抗する。
 そう、ロウは怪物の粘液を材料にした催淫剤を作って取引していたのである。だからこそセージに実験の内容を喋ることをためらったのだ。
 どこの世界に声高々と『性的な用途で使うお薬作ります』と発言できる者がいるのだろうか。狭いエルフの里ならばなおさら世間体を気にして公言できない。
 ロウは右手をセージの方に突き出すや、己の胸元にやった。ジェスチャー。

 「酷い? 俺は報酬を約束し、君はそれを了承した。正当な契約だ。医者のところにいけば治してもらえるかもしれんし、体がどうとなるわけでもあるまい」
 「普通の女の子ならね! でも俺は男なんで!」
 「なるほど、体と魂の性差に苦しんでいるのか。医者相手なら気恥ずかしがることもないと思うが」
 「お・れ・が恥ずかしいんだよ!」

 などと問答をしている間にも症状は悪化しつつあった。
 顔は紅潮し、体の感覚は敏感になっていき、呼吸も荒くなっていく。医者に駆け込むのは己が許せない。誰かに助けを請うのも。ロウが何とかしてくれると思い込んだのが間違いであった。
 もはや一刻の猶予も無い。
 聞くことを聞いて、すべきことをしなくてはならない。
 がっと掴みかかるようなことはせず、いつでも部屋を退室できるように戸の方に後退した。
 
 「魔術で治療は可能?」
 「治療を行った例を聞いたことがない。無理じゃないか」
 「そうですか。効果はどれくら……持続します、かね」
 「一日だ。丸一日続く。不都合だから薬は薄めるのだが」

 ロウが悪魔を背後に連れた笑みを浮かべた。

 「俺が慰めてやろうか?」
 「断固お断りします!」
 「そりゃよかった。冗談だ。かくいう俺は童貞なもんでね」
 「童貞さん、あばよ!」

 お話に花を咲かせている時間はない。手も振らずに部屋を飛び出せば、全力で己の部屋に帰る。脇目も振らず、道行く人に何かあったのかと訊ねられても答えず、両手両足総動員して風になる。
 己の部屋に飛び込むと、扉を閉めて、服を脱ぎ捨てる。湖で行水しただけでは落としきれなかった粘液が、脇や足の付け根にべっとりくっ付いている。
 成長途上の肢体は、催淫効果により薄ら朱を帯びていた。顔は言うまでも無く、作りの細い鎖骨の下に広がる平原も艶めかしい体温を発している。凸の少ない腰回りは小刻みに震え、年の割には筋肉の乗った足は内側に寄っていた。
 手際よく布きれを準備。水で濡らして拭き取ろうとせん。
 眉に皺が寄る。
 
 「ふ、っ……ぁっ」

 セージは、己から漏れた声の艶めかしさに腰を抜かしそうになった。
 皮膚に布地が触れただけで、ビリビリと電流に似た感覚が脳髄を走り抜ける。水を付けても清涼感は訪れず、かえって熱さが増した。
 脇を拭く。手が他人のように感じられた。あたかも擽られたかのように、腕が跳ねる。
 股を拭く。布を手に巻き付け、爆弾解除に挑むつもりで粘液を取る。腰、足の付け根、そして体の中央と表現されることもある場所。
 接触即前のめり体勢で地面に伏せる。腰の力が抜けて、顔面から地面に突撃しかけたのを、両肘で食い止めたのだ。
 セージは地面におでこをくっつけ、四つん這い体勢にてその場所を丁寧に拭き取った。布を片付け、服を洗濯籠に放り込み、清潔な服を着ていく。体調が十全なら簡単な作業も、催淫効果が暴れ狂う現状では、重労働であった。
 やっと服を纏った頃には、ベッドに入るのにさえ一苦労になるまで怪物の粘液の効果が高まっていた。
 セージはベッドに転がると布団を被って団子になった。暗闇の中で、熱い呼吸をする。

 「っ……っく、ぅ……ぐぐ………しないんだ……しないんだぞ、俺……耐えろ………」

 うわ言が口をついて出る。
 人差し指中指を口の中に突っ込み舌で舐る。口から離す。粘度の高い透明な液がとろりと布団に垂れた。
 犬のように舌を出して、呼吸する。布団の中の酸素は次々消費されて二酸化炭素が充満し始める。苦しい。布団から顔を出す。第三者からは風邪をひいて寝込んでいるように見えただろう。
布団の中では紛争が勃発していた。
 全身を撫でまわしたい欲望と、やらせはせんとする理性がせめぎ合う。悪魔と天使のように、耳元で囁いてくる。目を瞑って振り払う。ところが一層纏わりついてくる。
 セージは布団を口に含んで噛み締め、背中を丸め、股の間に腕を挟んで足で締め上げた。そうでもしなくては腕を擦りつけてしまうから。

 「ハァ……ハァ………誰か俺を縛ってくれぇ……どうにかなっちまうって……ッ」

 天井を仰ぎ囁く。
 体の自由を物理的に封じてさえくれれば、理性が壊れても問題ない。腕も足も使えなくなれば自己を慰めるようなことはできないのだから。だが、『俺を縛れ』と頼んで、了承してくれる優しい人は居ない。変態扱いされたくない。醜態をさらしたくない。プライドを守るためには自分で対処しなくてはいけなかった。
 ロウの言葉を信じれば効力持続時間は丸一日。現在は昼過ぎ。夕飯は抜きに決めた。クララが部屋に入ってこないように戸に風邪だから寝ると板をかけておいた。
 性的欲求に苦しみながらも、夕方までなんとか耐えた。
 汗の他の理由で服が濡れてしまい、対処に困った。どことは描写するまい。布で拭くしかなかった。
 セージはうつ伏せになって枕に顔を押し付けていた。涎で染みができていた。足の指がひっきりなしに伸縮を繰り返し、布団の布地に皺を作っていた。
 こんな状態にも関わらず、他の欲求は通常営業をしている。三大欲求の一つ、食欲。後生大事に抱えた蜂蜜の瓶を手に取り、蓋を開ける。甘い香りがすきっ腹に染み込んだ。
 ブロンドの髪を掻き揚げ、潤んだ瞳をパチクリ。

 「いただき、ます……」

 息絶え絶えに日本式の食前の挨拶。匙を取るのももどかしく、指を突っ込んで舌で舐める。足りない。逆さにして掌に落とせば犬のように食らう。

 「あむ、んぐ、おいしぃ」

 舐めずにいられない。指を舐めなくては、枕を舐めてしまう。
 ぴちゃぴちゃと掌を舐め、指を舐め、新たに蜂蜜を指に付けては舐める。舐めるのでは不足と感じ、瓶を傾けて中身を一気に口に運ぶ。とろみのある液が口内の唾液と乱交する。
 セージは瓶を舐めた。口を淵にぴったり密着して舌を伸ばして、全てを食らおうとした。やがて全てを胃に収めると、手に付着した粘着を舌で絡み取り、唇の上下を清める。
 血のように赤い舌は、手から手首に唾液を付ける作業に移った。
 淫魔が乗り移ったかのように目のピントがずれる。理性という堤防が緩やかな崩壊を開始した。
 舌は、手首、腕、そして―――。

 「――――ッ!!」

 我に返ったセージは全力でベッドに頭を叩きつける。痛みはない。それでも何度も何度も餅つきのように往復すれば脳が揺れて吐き気がしてくる。眩暈がした。
 ところが平坦な胸に両手を置くと言う行動をやってしまった。
 腹筋が伸縮。肋骨が浮く。咽頭が微動した。

 「んっ」

 胸を揉み解したい。撫でたい。抓りたい。女体の柔らかさを自分で味わいたい。
 頭の中はピンク一色。
 そしてセージは、とうとう服を脱いで――――……片手を腿の内側に這わせ―――。

 「いかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんまずいまずいあぶないあぶないあぶないおれはどうなるおれはふぁっくふぁっくゆー!!」

 念仏が如く抑揚の無い文章群を肺の空気の限界まで連呼。己の手を叱りつけ、布団にくるまると、転がって簀巻きになる。足だけが突き出している。エビフライのようである。
 時の流れは無情にも同じ間隔を刻む。
 眠気がやってくる気配も無く、それどころか催淫効果の影響らしく、目が覚めきっているのだ。
 眠ってしまいさえすれば勝ちとしても、眠れなければ意味がない。
 ふとセージは閃いた。眠れないのなら、眠くなればいいのだ。
 ベッドからのたのたと這い出すと内股気味の足を使って歩いていき、戸棚を捜索する。ほどなくして目的のものは手に入った。睡眠薬。悪夢に対する処方箋。夢を見ないで眠りにつける優れもの。
 セージは薬を適量飲み、ベッドに戻った。
 暫くすると睡魔が舞い降りてきた。救世主だった。瞼が落ちていった。何も見えず、何も聞こえず、体が浮遊感に包まれた。瞼越しの光も無くなった。



 翌日。
 怪物の粘液の効果は相変わらず粘り強く持続していた。熱っぽさと体の敏感さは変わらず体を包んでいたのであった。
こっそり朝食を食べに行こうとしたところ、クララが来訪した。朝食を運んできてくれたのだ。

 「風邪大丈夫?」
 「え、ええ、ダイジョウブッスヨ」

 布団に潜り込んで顔の下半分を隠したセージは、今にバレるのではないかと肝を冷やしていた。
 クララはあれこれと話をしてくれて、世話も焼いてくれた。怪物の粘液のせいなんですとは口が裂けても言えなかった。
 困ったのが、体を拭いてあげると言い出したことである。
 自分で拭くだけで過敏な反応をしてしまったのに、他人に拭かれでもしたら、正気でいられる自信が無かった。
 クララが帰り際にさりげなく額に手を置いてきた。喉が鳴ってしまう。笛のように。

 「ひっ」
 「熱いわね。でも、一日寝れば治るわ」

 セージは涙目になった。クララの手と接触した途端、額であるにも関わらず脇腹を愛撫されるに等しい衝撃が走り抜けたのである。
 クララはセージの瞳に涙が浮かんだのを見遣り、頬を撫でてくれた。

 「ちゃんと寝てないと駄目よ? 組のみんなには私が説明しておくから、ゆっくり休んでね」
 「はぃぃ」

 そしてクララは泣く子も笑う素敵な笑みをくれると、去って行った。
 額と頬に順番に手をやった。温もりが残っている。セージはこみ上げる快感を堪えるため、ベッドで一人簀巻きになるのであった。
 効力が切れたのは粘液を浴びてから丸一日が経過した頃だった。



[19099] 四十四話 報酬と
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/05 02:59
XLIV、


 セージは激怒した。
 必ず、かの邪智暴虐の男から相応の報酬を受け取らなければと決意した。
 数日後、セージは木の棒を携えてロウの部屋に突撃した。さすがのロウとて訪問者が殺意を滲ませているとなれば怖気付かざるをえない。
 血走った目で木の棒を剣のように突き出すセージに、ロウは両手で『まぁまぁ落ち着いて』のジェスチャーをしつつ、机の引き出しを探し、それを取り出した。

 「報酬!」

 “少女”の剣幕は鬼も凌駕する圧力に満ちていた。

 「まて、落ち着け。話せば分かる!」
 「問答無用!」

 セージは、ロウの頭部に一撃くれてやらんと棒を振りかぶった。目は爛々と、暴力の光に満ちていた。
 ロウがさっとその羊皮紙の巻物を取り出し、盾を構えるが如く突き出した。セージの手が静止した。
 ロウはセージの瞳に冷静さが戻ったのを見遣ると、にやりと口角を上げ、不健康な白い指で羊皮紙の巻物の腹を叩いた。内心、生きた心地がしなかった。

 「これはなんだと思う? 王国の地図だよ」

 その情報はセージにとってなくてはならない重要なものだった。
 王国の情報は一部の者にしか閲覧できない。現代と違い、この世界では情報は大金を投じなくては入手できない代物である。特に地形や都市の配置などは軍事利用可能な情報であり、そんじょそこらの者が楽に知ることは不可能である。
 ところが、ロウは王国の地図を持っている。真贋を確かめる術はないが、偽物を掴ませるような男ではあるまい。
 セージは棒を床に放りだすと、無言で羊皮紙を受け取って、その場で中身に目を通した。
 王国―――北は雪国、南は南国まで支配権を伸ばす超大国。王国以外の国が点線で記されているが、王国の領域が上から塗り潰す格好になっていた。
 地図は王国や他の国に接する部分、街の場所、地形などについては詳しく書かれているのであるが、エルフの里や情勢については触れられていなかった。
 食い入るように地図を見つめるセージの後ろにまわったロウが、指で示しながら解説をし始める。

 「これが王国の元の領土、そしてこの線が今の領土だ。首都はここ。里の位置は機密中の機密でな、通常の書類に記すことはなんであれ許されないのだが、この里に限っては正確な場所を知られているので意味がない。ちなみにこの点だ」
 「よく手に入りましたね」

 怪物の粘液の効果を知らされずに採取作業に当たったことに対する怒りはどこへやら、セージは地図を宝物のように抱え、質問していた。
 地図とは機密である。ロウは顔を曇らせると、言葉を濁した。

 「独自の経路……かな。とにかく、この地図は君のような子供が持っていてよいものではない。クララにも見せてはいけない。目的遂行のためには隠すんだ」
 「わかってますよ。ところで、まだ報酬には足りないと思うんですよね」

 セージはいいつつ地図をくるくると丸め、付属の紐で筒状に固定した。
 自分の部屋には帰らない。報酬は不足であるとして、ロウと目を合わせて交渉を続ける。

 「粘液一杯分と地図は同等どころか釣り合わないくらいだと思わないか」
 「いいえ? 粘液に催淫効果があると説明があれば別でしたけど」

 セージは交渉の材料として、ロウの説明の不手際をついた。やろうと思えばセージが聞いてこなかったからと巻き返される恐れがあったが、押し切ろうとする。
 ロウは苦々しい顔をして部屋のガラクタの元に足を向けた。

 「君は外見に似合わず“素敵”な性格をしているな。欲がある」
 「どうも、童貞さん」
 「童貞はいいぞ、体力を頭脳に使える」
 「童貞はどうでもいいんでなんかください」
 「少しは遠慮しろよ。いいだろう。目的のものは手に入ったことだし。あげて痛いものもあるまいし、好きなものをもってけ」

 ロウは鼻を鳴らし、ガラクタを顎で指した。実用的な品はほとんどないに等しい。思いつきと勢いで作って、飽きたので放置して部屋の肥やしと化している品もある。いっそ持って行ってくれた方が整理の手間が省けると考えていた。
 セージはガラクタを隅から隅まで見て回った。杖にナイフを仕込んだ品。ひん曲がったビーカー。盾に剣と槍と斧と弓を組み合わせた謎の武器。靴の底に車輪を付けたもの。など。
 確かに報酬として持ち帰るには価値の無い物品が多かった。
 唯一、利用価値がありそうなものがあった。片手で握れる大きさの二連式クロスボウ。まともに訓練していないが、近距離で取り扱うには十分であろう。拳銃感覚で射ればよい。
 セージは付属の矢も一緒に抱え、ロウに訊ねた。

 「これください」
 「いいぞ。どうせ俺は使わんし誰も欲しがらん」

 するとあっさりとロウは頷いた。
 セージはクロスボウを携え、何気なく部屋を見回した。
 羊皮紙だらけの机の横の作業台に興味深い物体が鎮座していた。それは、肩に担がなくては運べないであろう、辛うじてクロスボウの形をした巨大な物体であった。
 弩に取り付けられた箱の構造には見覚えがあった。射出物を詰めておく箱、弾倉ではなかろうか。地図とクロスボウを手の中で弄びつつ、近くで観察する。
 ロウもセージの後ろについて歩いてきた。息子にトランペットを買ってやる父親のような雰囲気を纏って。

 「連射式の弩?」
 「冴えているな。セージ、こいつは連射できる画期的な弩だよ」

 ロウが弩の肩当てを叩いた。
 連射式と言っても引き金を落とせば次々発射されるのではなく、自動で矢込めがされ、自力で引くのである。それでも全工程を自力でするのと比べれば劇的に早く射撃ができる。
 もし、その弩が小さく、軽く、扱いが容易ならば、実戦に投入する機会もあったであろう。

 「大きいですね、とっても」

 それは弩というにはあまりに巨大過ぎた。大きく、重く、長く、多くの空間を占有していた。まるで巨人の大腿骨だった。
 ロウが腕を組んで解説してくれた。

 「威力不足を補うために張りを強く、矢を長くしてみた。熊も殺す威力がある。が……」
 「重くなったと」
 「そんなところだ。器械式の装填器具を使わんととても矢を込められん。いっそ二人くらいで運用することを想定して巨大化してみたらこの有様だ」

 弩にはてこの原理を利用した装置がついている。弦を強く張った代償は、人の腕力では矢を込められなくなってしまった点であった。だが器械を使えば威力は上がるが、連射は効かなくなってしまう。
 連弩であるはずなのに、連射が効かないのである。
 つまり、机の上で静かに横たわっているその兵器は、欠陥品なのであった。

 「ゴミですね」
 「身も蓋も無いことを言ってくれる。一週間かけた粗大ゴミとは認めたくないというのに」

 セージが弩の評価を下し、ロウが項垂れたその時だった。
 ――――カンッカンッカンッカンッ!!
 里中に鐘の音が鳴り響いた。
 二人は顔を見合わせ、同時に叫んだ。

 「敵襲!」
 「敵襲!」

 人間による攻撃が開始されたのであった。



 「―――見えるか?」
 「いいえ。連中、煙幕で我々の視界を遮る戦法に出たようで。焚き始めは隠せなかったわけですが」
 「情報源からの報告はまだか」
 「来てません。我々の網に掛からず……つまり奇襲です」
 「やってくれる」

 歳、50前後の男と、30前後の男が羊皮紙を広げて話をしていた。
 里と湖の境界を守る砦の内部、司令室とも言うべき部屋でのことである。
 そそり立つ砦のあちこちには複数の見張り穴が穿たれ、外から攻撃が入り込まないように格子と網と硝子の三重の防護がされている。その内部には部屋があり、外の様子を窺いながらの指揮を可能としていた。
 砦の各所には湖からやってくる敵を排除するためのバリスタには、既に各員が配置についていた。
 30前後の男――副指令官に命じられている――が見張り穴から外を覗いた。
 湖を越えた先に、不自然な靄がかかっている。魔術の仕業ではない。人間が煙を焚いて視界を遮ったのだ。
 お陰で砦からは人間側の戦力を探ることができない。
 人間とて馬鹿ではない。何度挑んでも攻略できないのであれば、戦術を変えてくるのだ。
 秘密裏に準備が進められていたのか、対策がされたのか、里の外に放ったスパイでさえ攻撃を察知できなかった。
 50前後の男――司令官は、ワイバーンによる空中偵察を命じた。
 偵察の結果、多数の船が湖を渡っていることが判明した。例え煙幕があろうと、上空から見下ろせば見やすいものである。魔術も併用すれば障害は無いも同然となる。
 ワイバーン隊による投石攻撃が開始された。
 湖の白い靄の向こう側から、ワイバーンの雄叫びと、人間達の悲鳴や鬨が響いてくる。
 矢と魔術の迎撃を受ける中、煙幕の中に向かって岩を投じるのだから、命中は期待できない。士気を削ぐのが狙いである。空から攻撃があると知れば、いつ死ぬか分からないというプレッシャーをかけることができる。
 ワイバーン隊は岩を投げ終えてしまい、一斉に帰投した。
 お次に、湖の怪物が音も無く触手を伸ばしては、人間の乗る小舟を次々と転覆させていく。
 人間側のストレスは計り知れない。霧と煙幕の帳に視界を遮られるなかで攻撃を受けるのが、いかに恐怖をもたらすか。
 戦闘の経過報告を受けた司令官は、コップの水をぐびりと飲み干し、苛立ったように羊皮紙を撫でた。

 「……煙幕が自らを滅ぼすか。しかし何かがおかしい。我らが里を攻め落とすには兵力が少なすぎる。削りや威圧が目的にしてもだ」
 「ワイバーン隊の報告を多めに見積もっても、前回の攻撃の半分にも満たないですね」

 副指令が同調する。
 そう、里の防御が堅いことは王国側、植民地側のいずれも知っているはずである。にも拘らずこの度の戦闘に投入された戦力は少ない。
 定期的にやってくる戦力でさえ、この度の戦闘で確認された数を上回る。
 司令官はワイバーン隊に周囲の警戒任務を与えた。
 やがて新しい報告が入った。伝令係が息も絶え絶えにかけこんでくると、さっと畏まり、叫んだ。

 「ワイバーン隊より報告! 空よりワイバーンがやってきます!」
 「応援か?」

 司令官は伝令の方を見遣ると、首を傾げた。他の里のワイバーンが応援にかけつける予定は無かったからである。そもそも事実上の奇襲に応援が間に合うわけもない。
 伝令係は首を振った。

 「人間が乗っています! 我が方のワイバーン隊と交戦に入りました!」
 「なにぃ!?」

 ついにワイバーンの飼育に成功したか。
 司令官は目を剥いた。









~~~~~~~~~~~~~
走れメロスとベルセルクのパロを無意識に入れてしまいました。
ロウの前ではセージが容赦なくなる不思議。



[19099] 四十五話 強襲
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/06 01:26
XLV、


 ワイバーン。翼竜。前足と翼が一体となった飛行に適した竜で、飛行速度や持続距離だけならば龍をも凌駕する。
 戦闘能力は極めて高く、凶暴で、たった一匹のワイバーンにより村一つが地図から消えたという話はそう珍しいことではないという。
 古くから家畜として一部の少数民族――エルフなどに飼育されてきた。
 人間も飼育を試みてきたのだが、成功例は無かった。捕獲の難しさ、繁殖の難しさ、飼育の難しさ、調教の難しさと、難しい揃いであったからである。
 人間の技術ではワイバーンを飼育できない。
 その常識は今日で終焉を迎えた。
 ワイバーン隊を率いる青年は手の合図で味方に高度を上げるように指示し、自分の半身にも同じ指示を出した。
 人間側はワイバーンの操りに不慣れなせいなのか、戦闘経験が薄いせいなのか、回避に移らずに後を追いかけて高度を上げ始めた。

 「いくぞ。空中戦を教育してやる」

 ワイバーン隊の隊長たる青年は自身の半身へ語りかけ、急降下を実行させた。
 ワイバーンの身のこなしと柔軟な翼が空中で一回転を実現させる。重力の底に体が落ちていく。地に向かって優雅にロールをすれば、のろのろと上昇している最中の人間の乗ったワイバーンの頭をものの一撃で蹴り潰した。
 上昇性能が一緒であるならば、先に高い場所にいる方が、より早く行動に移した方が高みに昇れる。ワイバーンの機動性をもってすれば上昇途中で一回転して格闘戦に持ち込むなど造作も無い。だが人間はそれを知らない。
 他のワイバーン隊員も急降下攻撃で一撃を食らわし、各々で戦闘に入っていた。
 経験、攻撃手段共に劣る人間のワイバーン隊は、近接戦では圧倒され、射撃においても圧倒されていた。遠距離攻撃が弓しか使えないらしい人間と、火炎やら雷撃やらを投げつけられるエルフとでは、射程距離が段違いであった。
 すれ違いざまにワイバーンの翼を雷で粉砕すれば、螺旋を描くように落ちると見せかけて誘導し、空中で停止、勢い余って前方に飛び出した人間搭乗のワイバーンの背中を取る。

 「やれっ!」

 相棒に命じる。ワイバーンが吠え、背中から襲い掛かる。人間を足で鷲掴みにして固定具から引き千切れば、地面に投げつける。搭乗者の居なくなったワイバーンはあさっての方向に逃げ出した。
 ワイバーン隊は対ワイバーン戦闘に慣れていた。なぜなら味方内の訓練として空中戦を行ってきたからである。
 残り数騎が不利を悟ったのか、逃げ出した。
 青年は追撃を命じた。
 人間側のワイバーン隊の勢力は風前のともしびであった。




 「ワイバーン隊より報告。敵軍団、約一万! 植民地人を主力とする大部隊が接近しています!」
 「馬鹿な! それだけの部隊をどこに隠しておけたと言うのだ」
 「事実です! 後方、山岳から少数の部隊の接近も報告されています。正確な数は不明!」
 「王国め、本気を出したか? いや、王国の本隊ではあるまい……巨老人に報告せよ! 里中に通達。戦えるものは武器を持てと! 女子供を避難させよ! 急げ、時間がない」

 敵勢、一万。
 報告を受けた司令室は嵐が訪れたかくや撹拌されていた。
 一万の兵というと大したことのないように思えるかもしれないが、その人数が船に乗って押し寄せてくると考えれば途方もない戦力である。打って出るだけの余裕の無いエルフの里には危険極まりない。
 行動察知の防止、ワイバーンによる奇襲。人間側の行動は今まで考えられなかった戦略性を含んでいた。
 岸に船を運び込まれるまで接近に気が付けなかったということは、湖の周囲の見張りが倒されてしまったということだ。植民地人だけで編成されたお雇い軍だけではなく、本職の兵士が混じっている可能性があった。
 幸いなことに、里は湖の防衛線の強化をつい先日終えたばかりであった。船侵入防止用の杭、バリスタの増設、罠の設置など。
 司令官は、砦の上部の投石器から放たれる岩が放物線を描いて飛んでいくのを見つめた。
 まず、射程に優れる投石器による攻撃を行う。ただ岩を放り投げるだけでは命中を期待できないので、面に対して岩礫をばら撒く。小舟の上と言う逃げ場のない足場の上で、霧の向こうから飛来する物体が襲い掛かる。
 だがいかに面で制圧できようと、投石器の再装填速度は決して早くない。一万という軍勢は水に垂らしたインクのように広がって、接近してくる。
 次に、貫通力に優れたバリスタによる射撃が船を襲う。
 鉄板をも容易に貫通する鋭利かつ巨大な鏃が、観測手の指示のもとで照準され、撃ち放たれる。
 ぎっしり人が乗り込んだ一隻の真っただ中に鏃が飛び込む。男の胸を鎧ごと撃ち抜いたそれは、背後の男の腹部すら紙屑のように貫通し、船底に穴を穿った。沈没が始まる。
 しかし、いくら投石器とバリスタがあっても、一万という数を削り切るには足りない。
 あと少しでクロスボウなどの武器の射程に入るというときに、司令官が新たな指示を出した。投石器にそれらが装填され、威力を絞って投擲される。緩い放物線を描き、水面に落ちて中身を飛び散らす。
 兵の何人かは気が付くだろう、それが壺であると。だが、直接被害をこうむった船が皆無だった故、構わず進行する。
 人間軍の指揮官の一人が異臭に気が付く。水面が臭っている。戦闘中にも関わらず、隙を見せ、考え込んだ。類似するものは油だった。なぜ油が。なおも投石器で壺が投擲されては水面に散っていく。
 とあるバリスタを指揮する男はじっと腕を組んで待っていた。
 そして、小舟の密集した場所に狙いをつけさせた。
 号令を待つ。

 「放て!」

 号令が聞こえた。射撃員に見える位置で手を振り下ろす。
 バリスタに装填されていた火炎矢が放たれるや、油と接触し、たちまち火の手が水面を舐めるように侵略して船を包み込む。黒煙があちこちで上がった。
 それでもなお進軍は止まらない。さながらリビングデッドが攻撃に怯むことのないように、船は進む。漕ぎ手を失えば兵士が漕ぐ。船を失えば……沈むだけだが。
 怪物は船を次々沈めては中身を穿り出して食っている。食欲は底知らず。怯える兵士、怒る兵士、どれも無差別で触手で拉致しては水面に引きずり込む。矢や槍が水中に繰り出されるも、次の瞬間には水泳をする羽目になる始末。
 そして、とうとう矢の射程に人間軍が到達した。近すぎて魔術の霧による視覚阻害は期待できない。
 船上で一斉に弓兵が射撃準備を整え、射掛けてくる。強固な砦の壁には傷一つつけられはしないが、人員に命中すれば被害が及ぶ。エルフ側も応射する。人間側は木の板や盾を防御に使うも、高みから降り注ぐ矢には対抗できず、また一人、また一人で斃れていく。

 「ようし射撃中止! 各員矢を番え、待機! 魔術を準備せよ」

 司令官の大声が響く。伝令が走る。砦中の弓兵達が、バリスタが、矢を番えたまま攻撃を中止した。
これ幸いとさらに船を進める人間軍。
 時折エルフ側に矢が飛来するも、射撃を中止して身を守ることに専念している彼らには当たることはありえない。
 突如として先頭の船が止まる。勢い余って後続の船が衝突し、隊列が乱れ、うろめきたった。水面下に打たれた杭と杭の間に張られた鎖に引っかかったのだ。動きが止まる。

 「放てェー!」

 砦の各配置にて号令の声が高らかになされ、雨あられと矢と魔術の嵐が船の群れへと叩きつけられた。

 「バリスタに伝えよ! 梯子を運搬する船があるはずだ、それを狙撃せよと!」
 「はっ」

 戦況の報告を受けた司令官は、新たなる指示を伝令に言付けた。
 砦に侵入するには三つの道がある。
 一つ目が砦と湖の岸辺をつなぐ扉である。こちらは敵の侵入を予測して頑丈なミスリル製であり、例え破城槌だろうとへこませることすらできない強度を誇っている。
 二つ目は、迎撃用のバリスタや弓兵などが配置される場所から侵入する道。数で押されれば侵入されること必至なため、接近を許さないように戦うことが肝要である。
 三つ目の道は砦の上部を乗り越える道であるが、登り切られる前に矢や魔術などで叩き落とすことが十分可能である。
 二つ目の道を塞ぐには、梯子を運ぶ船を沈めてしまうのが最も手っ取り早い。
 司令官が覗き穴から外を窺おうと席を立った時、扉が乱暴に叩かれ、頼もしい姿が現れた。

 「儂の里に押し掛けるとは懲りん奴らだ」
 「巨老人!」

 そう、完全武装の巨老人が入室したのだ。



[19099] 四十六話 戦闘は続く
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/08 21:07
XLVI、



 巨大な幻想の収束は世界の終焉を予期させた。
 大地よりやや遠い地点で蒼天色の雷が渦巻き、水面に居る哀れな獲物達を威嚇した。逃れる術は無い。矢は全て進路を挫かれ、魔術の放火は膨大な電流の波に打ち消された。近接格闘を仕掛けようとすれば一瞬で炭化した。

 「〝雷光〟!」

 刹那、雷撃が暴虐となりて解き放たれ、湖面を舐めた。光の放射線が四方八方に伸びた。
 湖のあちこちに浮かぶ船は、光線が掠っただけで破壊された。
 鎧を着た兵士たちは鍋に詰め込まれた鼠宜しく身を焦がし、反撃の機会を得ることなく水面に沈んでいった。

 「ォォオオオオオオオオオオオオオ!」

 その大男が斧を振るえば、電撃が一筋の光線となり迸り、船諸共蒸発させる。体に纏った光が四方に放たれれば、鎧など紙屑同然に貫き、身ごと消える。接近すれば魔術で焦がされるか、怪力によって胴体ごと膾切り。
 人間側の軍勢は、たった一人のエルフの攻撃によって、数十単位で薙ぎ払われていた。
 その大男は大地を蹴るや、電流の余波をばら撒きながら砦の上空へと疾風が如き移動を果たし、背中の剛弓を構える。人知を超えた怪力が発揮され、電撃の込められた鉄杭とも称すべき鏃が放たれる。湖面に『着弾』。船数隻が木の葉のように吹き飛んだ。
 大男――巨老人と呼ばれた男は、正確無比に頭部を狙って飛翔してきた矢を拳で鷲掴みにし、元来た方に射返した。良い腕前を持っていたはずの射手は、回避もままならず頭と胴体の別れを実感し、二度と動かなくなった。
 巨老人が着地する。死ぬ思いで岸辺に上陸を果たした兵士達の真っただ中に。手には鉄斧。
 兵士達が槍を突き出す前に、颶風が吹き荒れた。鉄斧一閃。五人の兵士の首が玩具のように飛び、血肉が粉末となりて飛散した。
 巨老人が湖面を睨みつける。ひゅうひゅうと矢が飛んでくるも、どれも当たらない。否、進路を読み切っているのだ。事実、命中弾は斧で払っているのだから。
 砦で戦う味方達は不安そうな顔一つしない。里の最高司令官たる男は、最高の戦士でもあるのだから。
 巨老人は熊も卒倒する威圧感を放ちつつ立ち上がれば、背中から弓と矢を抜き、おもむろに呪文を口にしつつ、空に射た。

 「〝射殺せ〟」

 その一射は天頂を刺し穿たんばかりに上昇するや、意思を持った誘導弾と化して湖面ぎりぎりに降り立ち、巡航した。
 口をあんぐり開けて矢を目で追う兵士の真上を通過し、超低空を高速で飛び、突如として切っ先を持ち上げるや、梯子を運ぶ船へと飛び込み、粉砕した。
 魔術の誘導に立ち尽くしたかと思われた巨老人は、腹部直撃を狙った矢をあろうことか掴み、眼前で粉々にして見せた。
 そして当然のことのように雷撃を放つと、岸辺でうろたえる兵士達を調理した。
 斧を担ぎ、地に足で刻印を付ける。

 「通りたければ、儂を殺してみるがいい!」

 髭の先端から火花が散った。

 「巨老人……ここにあり!」





 一方セージは、後方で戦っていた。
 大人の戦場が前線なら、子供の戦場は後方である。
 例えば兵士の世話や武器の運搬、飯の準備、治療、その他雑用など、戦うためには必須な労働。人員を戦闘員に割かざるを得ない里では、不足する労働力を補うために子供も動員される。もっとも子供が労働するのが当たり前な時代であるから、疑問を挟むものはいない。
 現在のセージの仕事は、負傷兵の世話をすることだった。
 いくらエルフが皆そろって魔術に先天的適性があるといっても、全員が全員治療魔術を自在に行使できるわけではない。むしろ少ない。魔術を行使し続けると、魂と体がおさらばするような事態を招く。少人数の治療者に対して数十人数百人と治療させたら、末路は死より残酷である。
 いかに魔術が有効だろうと、全てを頼り切ることはできないのだ。
 最初から全てを魔術で治療するより、ある程度手を加えてからの方が術者の負荷も少なくなる。矢傷ならば、矢を抜いて傷口を清潔な包帯で巻いてから、魔術で治療するなど。
 セージが任されたのは、応急手当てを受け、本格的な治療もしくは魔術による治癒を待つ兵士が集められる場所であった。
 梯子で登ってきた人間に肩を刺されたという男性の血塗れの包帯を取り、薬を溶かした液ををかける。

 「ぐぅ……」
 「だ、大丈夫ですか?」

 兵士の服をした男は苦痛の声を上げ、しかし歯茎を食いしばって耐えた。セージが思わず手を止めてしまうと、男が首を振り、続きを促した。

 「続けてくれ……お嬢ちゃん。死ぬ……っ、傷なんかじゃねぇ……早く巻き直して、他の奴の看病してやってくれ」
 「わかりました!」

 男が無事な方の手を負傷した仲間達に向けた。男は気丈にも、笑みを見せる。
 セージは怖気付くことなく包帯をきっちり縛り上げると、ぺこりと頭を下げて他の人の看病へと走った。運び込まれるのは応急手当てを受けただけの兵士で、皆一様に矢傷であったり、剣傷であったり、骨折であったり、火傷や凍傷などを負っており、悲鳴がひっきりなしに飛び交っていた。
 室内は血の臭いや怒号が充満し、担架で運びこまれる者と、治療室へ運び出される者の流れで、静寂が訪れることが無い。
 隣の治療室は言うまでもないが、後方の最前線と称すべき状態だった。
 セージは同じ組の女の子と協力して、血塗れの包帯を交換する作業と、薬液の運搬や塗布を行った。年長の子供は担架の運搬などの力仕事を手伝った。
 本格的な治療は重傷者を優先して行われるので、命に別状の無い人達は苦痛に長時間耐えることになる。
 セージは悲鳴や苦悶を目の当たりにした。血を見て、触った。手が汚れた。何人もが力尽きて死に、運び出された。
 自己防衛という言い訳で誤魔化した『死』と、故郷の独立の為にと唆されて剣をとった人間達の『死』、そして里と家族を守るために戦ったエルフの『死』は、等しかった。
 斬られれば、射られれば、焼かれれば、打たれれば、死ぬ。
 死ぬ。
 死んでいく。

 「……畜生!」

 セージは、右腕を丸ごと火傷した上に腹部を刺された男の横に跪くと、両手を広げて治療魔術を施そうとした。男は外傷のショックで昏睡状態に陥っていた。

 「〝治せ〟!」

 だが、魔術は起こらなかった。心の乱れもそうだが、訓練不足でうまい具合に力が働いてくれない。傷口を塞ぐ以外の成功例を持たないセージの実力では、火傷は治せない。

 「もう、私たちに治せるわけないでしょ! 早く包帯巻かなきゃ!」
 「うん……」

 同じ組の女の子が、てきぱきと包帯を取り換える。今のセージには怪我人の状態を悪化させないように薬液を塗り込み、包帯を取り換える他に無かった。


 そして、地獄のような一日が過ぎた。
 ――――夜。
 銀色の月が昇った快晴の空には色とりどりの星々が輝いていた。
 昼間の戦いはどこへやら、砦は静まり返っていた。人間側の軍勢は日が落ちると撤収してしまったのだ。夜戦は不利と悟ったか、それとも兵士に休息を取らせるためか、エルフ側には判断が下せない。いつ船で襲い掛かってくるか分からないのだ。
 しかも、灯りを消した船で忍び込もうとする輩がおり、兵士による巡回が交代で行われていた。無論、発見次第殺害である。
 湖の対岸には人間の野営地が構築され、焚火が無数に灯っている。
 星々の輝きに対し、焚火は酷く哀しげだった。
 本来なら戦うべきではない、憎しみすら抱いていない国の人たちと戦わされている。エルフの里は摩耗し、植民地は男手を取られて活力を失っていく。得をするのは王国のみだった。
 セージの想像する戦争は華々しいものであった。過去形である。RPGのように英雄が剣を振るい、悪を倒す。それがイメージだった。だが、現実は違った。人が死に、悲しみが増えていく。
 わかっていたつもりなのだ。現実は優しくしてくれないし、容赦なく刃を突き立てる存在であると。
 セージは無力だった。できると思っていた治療魔術はまるで役に立てず、重傷患者を華麗に救うこともできず、前線で戦果をあげることもできなかった。
 勉強も訓練も経験も、戦場では無意味だった。
 王国を倒し帰還の糸口を探るという大層な目標はいきなり躓いた。
 その人物は、見張りの兵士と一言二言言葉を躱すと、足音を立てずに部屋を横切った。

 「眠れない?」
 「……クララさん」
 
  セージが部屋の隅で眠れずにいると、聞きなれた声が聞こえた。顔を上げる。白服に帽子を被った女性がいた。記憶に合致する人物がおらず、困惑するのも一瞬。クララだった。
 白亜の衣服には血痕が付着しており、クララが治療を担当していたのだと容易に理解できた。
 だが、好いているクララを前にしてもセージの反応は希薄で、クララが横に座っても身じろがなかった。
 クララが体育座りで俯いたままのセージの肩に手を置いた。
 重量がかかる。温かく、こそばゆい。花の香りと、血の香りがした。

 「治療は終わったわ。もう………助からない人は除いて、全員が小康状態にあるわ」
 「戦争なんですね……」
 「ええ………悲しいけど…………」

 セージは深く重く息を吸いこんだ。新鮮な酸素が肺胞に届き、血中に溶け込む。吐く。内側から外側に気流が生じた。
 戦は終わっていない。
 ひと眠りしたら、戦いが再開するだろう。

 「…………」

 願わくば、里が陥落しませんように。
 セージの目がしょぼしょぼと開いては閉じるを繰り返す。
 そんなセージの頭を、クララが優しく撫でた。やや時を挟み。喉が震え、風が草の葉を撫でるような、弱く甘くせつない唄が零れた。床に寝かせられている負傷兵の何人かが気が付いたが、不満を漏らすことはなかった。

 「――――♪」

 美しい唄の中で、セージは眠りについた。



[19099] 四十七話 連合
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/13 16:25
XLVII、


 戦は続いた。
 人間の一万という圧倒的な物量は波状攻撃を可能とし、朝方から夕方まで毎日のように繰り返し押し寄せては引いていった。
 エルフ側の防備は強力であったのにも関わらず多数の死傷者を出した。だが医療体制の完備や巨老人の活躍により、戦にしては戦死者の数は少なかった。
 これでも前回の攻撃よりかは兵力が少なく、練度も低いのである。
 セージは絶望の中で働いた。戦場に立った多くの人が傷つき、家族の名前を呼んで死んでいった。
 敵兵がなだれ込んできたこともあった。武装した男たちが一斉に迎え撃った。敵のある者は脳漿をまき散らして崩れ落ち、ある者は腕を粉砕されて前のめりに倒れ、無残な死体になった。セージは悲惨な現実を目の当たりにし、茫然自失に陥ったが、同じ組の女の子に頬を叩かれて我に返った。
 その戦も、ある日突然収まった。
 たった一日の間、夜中いっぱいを使って、人間の軍勢は撤収してしまったのである。
 理由を知る術は無かったが、伝令係からの言葉により、軍勢を退けることに成功したのだとわかると、喜びが溢れた。
 その夜は宴だった。生き残ったことに対する感謝と、戦った者達への労い、そして死者への鎮魂を込めて。
 だがセージの喜びはあっという間に萎れてしまった。宴も楽しくなかった。戦で目の当たりにした残酷な絵が頭にへばり付いて離れなかったのだ。
 セージは一人、果物酒の入ったコップを両手で包んで夜を仰いでいた。飲酒は何歳からでもよいというのがこの世界の常識であったが、子供は少しだけということで一杯だけ渡されたのだ。
 めでたい日の甘酒や、父親に舐めさせてもらったビールの泡しか飲酒の経験の無いセージには、甘酸っぱい香りを漂わせる果物酒は飲むのが躊躇われた。
 大盛り上がりの大広間。その片隅で、窓の外にぽっかり浮かんでいる月を見つめる。銀色の円形は元の世界と大差ない。

 「知ってたか? 引き上げたんじゃなくて、別のところに派遣されたのだと」
 「ロウさん」

 憂うセージの横に音も無く歩み寄ったその不健康風貌は、大容量のゴブレットに並々と注がれた酒を一気に半分にすると、口を拭った。先ほどまでずっと仲間と酒をカッ食らっていたのに顔色一つ変えない辺り、ウワバミなのかもしれない。
 ロウはセージに座るように促し、自分も座った。
 身長差や体格の違いから、まるで兄と妹のように見えただろう。

 「飲まないならよこせ」
 「いやです」

 ロウがセージのコップを覗き込み、中身が減っていないことに気が付くと、要求した。
 セージは首を振って拒絶すると、飲まれる前に中身を一気に喉に流し込んだ。咽頭がかっと熱くなり、痺れが走った。爽やかな甘酸っぱさが鼻腔を擽る。頬が熱くなってきた。
 空のコップを振って見せ、どうだとばかりに鼻を鳴らす。ロウは肩をすくませると、ゴブレットの残量をゼロにした。

 「さっきの話、どういうことです」
 「酒の一気飲みは良くないぞ。どれだけ飲めるのかを確かめてからすべきだ。クララなんて一杯でぐでんぐでんだ」

 ロウがさらっとクララが聞いたら嫌がりそうなことを披露してくれた。質問に答えてないので、もう一度同じことを復唱する。
 部屋の中央で始まった男たちの歌が響いてくる。戦の勝利を精霊に感謝する内容。初めはもの哀しく、後半につれて盛り上がり、最後は女たちのコーラスが入って締めくくるのだ。

 「反王国派の国が一斉に行動を起こしたそうだ。連合を名乗って宣戦布告してね、ここを攻めていた連中はとんぼ返りして反王国派の軍討伐に向かったということさ」

 ロウはあたかも暗唱するように情勢の変化について語った。地図の件にしても、里の中枢となんらかの繋がりがあることを匂わせた。
 そもそも、情報が早すぎる。外部に独自のつながりがあるのかもしれない。
 何故情報を教えてくれるのだろうという疑問は、出てこなかった。あまりにも自然に教えてくれるので、当然のことと受け止めてしまったのだ。
 セージは体が火照ってきたのを実感した。酒は弱いようであった。判断力がいつ欠如するか不安になった。飲酒経験の無いので酔いの度合いがわからない。
 ロウは、ゴブレットにわずかに残った酒を舌で舐めとると、顎に手をやった。白い肌に薄ら髭が生えていた。戦闘中は魔術で治療を行っていたので身だしなみを整える時間が無かったのだ。

 「ロウさん。俺たちは……俺たちの里がどんな出方をするのか知ってますか?」
 「まるで俺が知ってるみたいな言いぶりだな」

 沈黙。宴の賑わいが空白を埋めた。

 「知ってるんでしょう?」
 「……んム…………」
 「あ、ちなみに独り言なんで気にしないでください」
 「そうか、独り言なら仕方ないな。里の上層部は連合に対して手助けを検討しているようだ。エルフの戦力だけではいずれ押しつぶされる。連合も同じく長続きしないだろう。そこで、両者が手を組もうということだ」

 打倒できる保証はないがね、とロウは続けると、ゴブレットの紋様に視線を固定した。

 「俺も技術指導員として派遣される予定らしい」
 「ただの穀潰しじゃなかったんですね」

 あんまりと言えばあんまりな物言いであったが、本人が自称したのだから躊躇わず使う。
 するとロウはニヤリとニヒルな笑みを浮かべて見せた。

 「ああ。何を隠そう里を守る二つの魔術は俺がかけたからな」
 「へ?」
 「湖の霧と、山岳の死の呪いのことだ」
 「嘘……」
 「嘘を言ってどうする。こう見えて俺は大の付く魔術師なのだ」

 湖の霧―――向こう岸からは霧がかかって視界が遮られ、こちら側からは良好な視界が確保される防衛魔術。セージはどのような効力があるのか知らぬが、山岳を守る『死の呪い』とやら。二つの守りは湖と山という地形を砦に仕立てる強力なものである。詳細を知らないセージでさえ、この二つの魔術的防御が里の防衛上、重要な事柄であることは理解できる。
 もし、ロウがその二つの魔術を構築した張本人であるとするならば、秀才むしろ天才的な男なのではなかろうか。
 そうだとすれば部屋に引き籠ってガラクタを弄るだけの日々を過ごす理由もわかる。必ずなんらかの労働をしなくてはいけないのに、しない理由である。魔術の権威であるから、働かなくても許されるのだ。頭脳の価値が労働に匹敵するのだろう。
 思い返せば、部屋の自動ドア(?)だったり、監視カメラの役割を果たしていた水晶だったり、勝手に動く鎧だったり、魔術の産物と思しきものを当然のように扱っていた。よく考えてみれば高度な技術が無くてはできない無駄遣いである。
 セージの中でロウの評価が一段階上位に繰り上がった。
 ふと、メラメラと欲望がこみ上げた。ロウの従者でも弟子でも身分を偽れば王国に近づけるのではなかろうかと。実力を鍛え体が大きくなるまで日々を過ごすという計画をほっぽり出したくなった。

 「いつ行くんですか?」
 「決まってない。近いうちには出るはずだ」

 ところがロウはセージの浅はかな考えを見透かしたように目を向けると、無表情のまま言葉を発した。

 「セージ、君が派遣する人員に紛れ込むことはありえないぞ」
 「……やだなぁ、そんなことするわけ……」
 「仮に選ばれても俺が全力で首を横に振ろう」
 「………ふん。いいですよ。実力で這い上がってみせますから。任務中に死なないように精霊にお祈りしときますね」
 「ありがとう! とだけ。俺は死なんよ」

 ロウが新たに酒を汲みに行こうと腰を上げた。
 セージはコップを持ち上げて見送った。

 「はぁ……」

 ため息を吐き、膝を丸める。情勢は変わりつつあるのに己の力では変えられない悔しさ。下手すれば里に籠っている間に王国が倒れるかもしれない。
 目的は王国の打倒であるが、第三者の手によって降されるのは我慢ならなかった。
 どうして“神”が中途半端な年齢に転生させたのか。どうして中途半端な能力にしたのか。何もかも恨めしい。
 今できることを考える。結論は一つ。

 「修業かぁ……」

 セージはこっそり宴を抜け出して部屋に帰ろうと立ち上がった。ところが組の女の子に見事に捕まってしまった。考えるのが馬鹿らしくなったので、その夜はみんなと楽しんだ。
 翌日、セージは酒に弱いことが判明した。二日酔いで頭が痛かったのだ。







~~~~~~~~~~~
実はロウがすごい人物でした回。



[19099] 【第二章】 四十八話 新たな旅立ち
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/17 03:10
XLVIII、


 戦争から、半年の時間が過ぎた。
 あっという間だったと言えばそれまでだが、セージ、里、世界、それらの要素は少しづつ変わり始めていた。王国に反旗を翻した国の結集した『連合』はエルフと正式な条約を結び、諸国に対して圧政を覆すべく立ち上がることを要求した。王国はこの連合を秩序を乱す暴力集団と認定し、後でも先でも協力関係にある国は容赦なく叩き潰すと意気込んだ。世界は帝国主義と反帝国主義に割れた。
 エルフの里では技術提供などの面での支援が行われることが決定され、巨老人の里からはロウなどの優秀な魔術師が旅立っていった。余裕のある里からは出稼ぎの意味合いを含めた傭兵が派遣されるらしい。
 世相ではエルフは迫害されるものであるが、それはあくまで王国などの宗教国家がお題目として唱えたことであり、王国にいい気持ちを抱いていない国は関係ない。もとより神に近き者として神聖視されるくらいだったのだから。
 セージもなんとか派遣員に入れないかとしたが、当然のごとく撥ねられた。
 半年の間、王国と連合は不気味なまでに静寂を保った。
 王国は国内の経済状況の悪化に伴う情勢不安に陥っていた。一方の連合は王国の軍備に対抗できるだけの兵力を整えられずにいたのだ。よって拮抗状態が続いた。
 その間、里では軍備の増強が進められた。水際で食い止めるために鬼のようにバリスタが増設され、登れないように『返し』もつけられた。ごく少数であったワイバーンは増えて、攻撃隊が本格的に組織された。人間がワイバーンの飼育に成功した事例が出てしまったのだから当然のことと言えた。
 セージは毎日を普通の子供として過ごす一方で、里の兵士に混じって戦闘訓練を受け、魔術の修行に没頭した。小さな子供が必死に剣を振るい、魔術を唱える姿は、滑稽であったかもしれない。
 そんなある日、里と里の人的交流ということで、渓谷の里から一団がやってきた。逆にこちらの里からはワイバーンに乗った一団が旅立った。
 歓迎式が開かれた。と言っても定型文を読み上げて一礼する程度だったが。
 一応、組総出で参加となったので、列を作って出迎えた。
 無意識にルエの姿を探したのは秘密である。

 それから幾年か年月が経過した。
 永遠に続くと思われたにらみ合いは、王国内部で発生した反乱を好機とみた連合の先制攻撃から崩れ去った。植民地軍(王国が屑値で雇った)は他の植民地軍と戦うので精一杯だった。多くの国を支配するためには戦力を分散しなくてはいけないこともあってか、王国を守る兵力は比較的手薄だった。
 電撃的に軍を進めた連合であったが、それもやがて止まってしまった。
 数多くの軍をねじ伏せては隷属させてきた百戦錬磨の王国本隊が王都への道を阻んだのである。植民地軍を退けることができても、本隊は一筋縄ではいかなかった。総兵力だけで計算すれば本隊は連合国軍に劣っていたが、練度、武器、地形、それらの要素では圧倒していた。
 連合国軍と本隊がぶつかり合えば、共倒れは必至だった。双方が消滅したのを見計らって北の国家達が漁夫の利を狙うことも考えられた。
 そこで王国と連合は条約を結び、一時休戦した。不可侵条約といくつかの条約を交わして。結局、植民地化された国の解放はならなかった。連合は自国の安全を確認すると、安堵したように軍を下げた。
 世界は歪な平和を抱えて時の経過をただ享受するのであった。

 エルフ側の出方はおおまか一つだった。
 エルフへの迫害を止めさせるために王国を倒すもしくは王政を倒すこと。
 とある派閥は連合に働きかけて武力行使を誘発しようとし、またとある派閥は王国内部に工作員を送り込んで民衆を煽った。王国の情勢が不安定なことに付け込んだ工作活動は一定の効果を発揮した。植民地の不満が高まり、反乱が頻発するようになったのだ。それでも王国はそれを抑え付け続けた。元の国土が広いこともあり兵力にはことかかなかった。民衆の不満を抑える為に兵に取る人員を削減していただけだったのだ。
 不可侵条約の期限切れと共に第二次戦争が幕を開けた。
 連合と王国の軍勢は大河を挟んでにらみ合った。
 連合側は研究により技術レベルを王国と同程度まで引き上げており、エルフの加勢も合わせれば、王国軍を凌ぐ実力を有するまでになっていた。
 一方の王国は国内情勢の悪化から士気が低下していたが、植民地軍や追加徴兵分を合わせれば連合をも超える戦力を有していた。
 だが、数年の間に台頭してきた北の国家の圧力もあり、戦争は硬直状態に陥っていた。もし王国と連合が戦えば北の国家がやってくるだろうし、王国と北の国家、連合と北の国家が戦っても、やはり同じことが起きる可能性があった。三勢力の戦闘力はほぼ同等であり、釣り合っていたのだ。
 こうして、三勢力はにらみ合ったまま兵力だけを悪戯に増やし続ける時代に突入した。

 所謂冷戦の時代に入った現在では、エルフの里への干渉は緩くなっていた。エルフ迫害はそのままだが、里への『定期便』は鳴りを潜めていた。
 それもそのはず。連合の支配領の中に里の大半を隠すことに成功したのだから。
 エルフ側は技術を提供し、連合は里を守る。理にかなった協力体制が安全を作ったのだ。もちろん、大陸の各地に存在する里全てというわけにはいかないが。





 小鳥の鳴き声。
 朝。体内時計が無音で時を知らせてくれた。
 出発の日だ。
 瞳を開いた。慣れ親しんだ天井が迎えてくれた。夜中の間に沸いた粘つく唾液を飲み込み、顔を乱暴にごしごし擦る。白い布団を跳ね除けてベッドに腰掛けた。
 一片の曇りも無いすらりと伸びた足先は、ぎりぎりのところで床に接していない。綺麗に整えられた爪先は薄らと血の気を帯びており、若さに張り詰めた二の足を飾っていた。
 身を包むは男用と区別の無いであろう白シャツと白い下着。布地から覗く腿は瑞々しく、贅肉の類を削ぎ落した健康的な肉の付き方をしていた。
 きゅっと引き締まった腰から上は、いまだ成長の余地を残した、布の上からでもしゃぶりつきたくなる魅力があり、曲線美を体現した丘を作っていた。
 その女の子は、肩をグルグルまわすとベッドに寝転がり、布団に顔を押し付けた。夜の余韻が睡眠を呼ぶ。このままでは二度寝になってしまうと布団を退ける。そして、ベッド下の靴を引っかければ、伸びをしつつ立ち上がった。
 ブロンドの髪はショートカットに切り揃えられていた。その子の昔を知る人ならば、なぜ切ったのかと訊ねるであろう。理由はある。一つだけ。
 髪の毛を割って伸びる細く尖った耳は幼き頃よりも長くしっかりとしていた。
 理知的な瞳、通った鼻筋、ふっくらとした唇など、全体的に均整がとれており、髪型と服装をそれなりのものにすればどこかの名家のお嬢様に見えたであろう相貌であった。
 “女の子”は毎日欠かさずやっている軽い運動をすべく、ベッドに座り直すと、両足を広げた。足を広げ、体を正面に倒す。健が伸びる。気持ちよくもあり痛くもある。

 「ふぅ……」

 深呼吸をしながら体を起こせば、足の角度を大きくして、左右に上半身を倒す。下着の隙間から内側が覗くも、気にしない。
 一通りのストレッチをした後は、筋トレを行う。本格的に鍛えるのではなく、体の慣らし運転のようなものである。
 ベッドの上で軽く腹筋をする。一回一回を確かめるように。
 次は、ベッドから降りて床で腕立て伏せをする。数百回はせず、十数回で止める。
 すると、扉がノックされた。

 「セージ君~?」
 「はい、クララさん! ちょっと待ってください、準備しますんで!」

 “女の子”は扉の外からの声に答えれば、棚から服を取り出し、着込んでいく。ズボン、シャツ、どれも男物。軽く動きやすく作られた鎧を装備、ロングソードを腰に差し、小型二連クロスボウを専用のホルスターに突っ込み留め金で固定する。滑り止め付きの長手袋を嵌め、魔除け効果のある指輪を付ける。
 机の上に纏めておいた私物を背中のバッグに詰め、最後に靴をタンタタタンと打ち鳴らせば、扉を開けた。
 変わらず美しいクララが、体の前で手を重ねて待っていた。

 「行って。時間に遅れてしまうわ」
 「ええ」

 この日、“女の子”ことセージは、里の外へ出ることとなっていた。
 ロウが派遣された国への追加支援として送られる一団の一人に抜擢されたのだ。
 毎日のように訓練を積み重ねてきた努力があってこそのことである。変な目で見られながらも剣を振り魔術を学んできたかいがあった。
 クララには仕事があった。送別会には出席できなかった。そこで部屋の前でお別れをすることにした。
 クララの手を握る。握り返してくる。しっとりとした肌質だった。
 セージは、別れの言葉を言おうとして言えなかった。なぜならクララがまるで母親のように、生活の心配をしてくるからである。面倒くさいとは思わなかった。ありがたくて心が温かくなった。

 「ちゃんとご飯食べるのよ?」
 「わかってますよ。もりもり食べますからっ」
 「うん、よろしい。兄さんによろしく伝えてね」
 「はーい」

 クララはセージの手を握りながら、暫し逡巡し、やがて面を上げて胸の中に誘った。

 「……おいで」
 「あぅ、クララさん」
 「………」
 「………」
 「………」
 「そ、そのぉ……そろそろ行かないといけないんで……」

 セージはクララの胸の中に包まれた。クララは安堵の塊のようだった。優しい匂いがした。照れくさくなって離れると、表情を引き締めて、直立不動をとった。

 「行ってきます!」




[19099] 四十九話 ワイバーン旅
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/19 03:15
XLIX、



 旅の手段は徒歩ではなかった。当然である。仮にも技術支援団ともあろう者たちに危険な徒歩で行ってこいと言う訳も無い。エルフの里が連合の支配領の中にあるとはいっても、大陸全土がそうではないのである。歩き続ければ、いずれ王国の領域に辿り着く。もしくは物取りやら奴隷商人やらが低丁重にお出迎えしてくれるであろう。寄ってたかって攻撃を受ければエルフと言えど全滅は免れぬ。
 では馬かと言えば、違う。何か。答えは、ワイバーンである。
 人間側がワイバーンの飼育に成功しているため、絶対的な安全が保障されているわけではないが、少なくとも地上からの攻撃は届かない。高度と言う防壁を破るのは通常困難を極める。
 ワイバーンは巨大なドラゴンと比べれば戦闘能力に欠けるが、飛行能力に関しては優れている。その気になれば操縦者を含めて三人を乗せたうえで二人を足にぶら下げて戦闘機動だったこなすのである。もちろん、足にぶら下げるのは基本的に敵であるが。
 一団は、ワイバーン隊に送ってもらうべく、里の最上部にやってきていた。
 セージは一団が皆平然としている中で、顔を強張らせていた。他の人が子供のころなどにワイバーンに乗せてもらった経験があるのに対し、剣ばかり振っていたので、初体験だったのだ。
 トラック程の空間を優に占有するそれは、独立した腕を持たない飛ぶための生物だった。色合いは深い黒緑。翼の先端、尻尾の先端共に棘が生えていた。全身が硬質な鱗で覆われており、弱点になりうるであろう頭部は皮の鎧で守られている。操縦者の趣味なのだろうか、長い首に青い宝石のついたネックレスがあった。
 ワイバーンが、擬音に起こせば『クェェェェェェッ』と鳴き声を上げた。腹に響く大音量。耳が痛い。
 操縦者が、つまりワイバーンのマスターが、長首を乙女の肌を扱うように撫でた。鱗の無い口元の柔肉をむにむにしたり、白い角をノックしてみたり、ワイバーンは男の胸倉に鼻を寄せてみたり、すんすんと匂いを嗅いでみたりと、親密さが窺えた。否、親密さを越えている気がした。愛に片足突っ込んでいると感じたのだ。
 男は頬の肉を蕩けさせ、気持ちの悪い声をワイバーンにかけていた。

 「よぅし今日も美人だなお前はー? んー? 可愛いぞ! 可愛いんだよ!」
 『クェェェ……』
 「よしよし! よしよし!!」
 『クゥゥ……』

 この人は何をやっているのだろう。
 セージは、一緒に乗ることになった人の横に立って、マスターの奇行もとい愛情表現にあんぐり口を開けていた。この上なく幸せそうなので、『早く乗せてくれ』とは言えなかった。
 他のワイバーンらが飛びたとうというときになって、ようやく乗せて貰えた。鐙に足をかけ、マスターの手に掴まって一息に登る。指示通りに革製の固定器具を装着した。

 「君は初めてかい?」
 「そうです。飛んだことなくて……」

 後ろに乗った男が、声をかけてきた。もし落ちそうになった時、後ろから支えてくれるというので、セージは操縦者と男に挟まれる位置に乗っていた。
 酷く緊張していた。知らぬ生き物に身を任せて空を飛ぶことに胃が痛んだ。己が落下し地面に叩き付けられる想像が頭から離れなくなっていた。
 男が、セージの肩にぽんと手を置いた。

 「緊張しなくても大丈夫さ。うちの里のワイバーン乗りは優秀だから――特に彼はね」
 「え?」

 男が肩に置いた手の人差し指を立てると、マスターの短く刈り込まれた頭を指した。
 彼はルンルン気分で地図に目を通しつつ、暢気に歌などくちぐさみ、頭を左右に振っている。ワイバーンは岩の地面に頭を擦り付けていて、どちらにも緊張感が無い。

 「………」

 セージは本当に大丈夫かと、ますます怖くなるばかりだった。
 一団が全員ワイバーンに乗り込んだ。マスター達は一堂に会し、地図を片手に最終確認を始めた。ワイバーンの体力や体調はもちろん、敵の襲撃、時間帯、風の流れ、もしはぐれた時はどこに向かうべきかなど、手短に話す。
 ようやく戻ってきたマスターの顔は、先ほどとは打って変わって凛々しく変貌していた。ワイバーンの鱗に足を引っかけ鐙にまたがり、てきぱきと身支度を整えれば、空を仰ぐ。晴天、雲一つ無し。
 ぱむと手を打ち鳴らしたかと思えば、手綱を握った。

 「うし、行くぜ。お二人方よ。本日はお日柄もよろしく絶好の旅日和でございます。当旅の案内を務めさせて頂く者です。我ら旅路に幸あらんことを精霊に祈りましょう」

 すらすらと口から流れる台詞は丁寧かつハキハキとしていた。
 口笛。里の上部の端から順々にワイバーンが翼を広げると、強靭な足を用いて跳躍し、湖に向かって飛び降りた。
 セージの乗ったワイバーンも同じく翼を広げた。

 「掴まってくれぃ!」

 マスターの言葉に反射的に固定器具を握った。次の瞬間、体が鐙に押し付けられるや、セージは羽になった。放物線よりなお鋭い角度にて上昇し、下降に移行。翼が展開して風を孕む。足元に水面が見えた。
 湖面を滑空して速度を得たワイバーンが次に起こしたのは、高度に変換することだった。筋肉が俄かに盛り上がる。猛禽が如き脚部が水平に近づく。揚力が生じた。固定器具がギシギシ鳴る。巨躯はセージの甲高い悲鳴を伴い、空高く舞い上がっていった。
 翼が上下に揺れて、大地はみるみるうちに遠ざかる。身を強張らせている間にも高度は上がっていった。木々が皿に盛られたパセリのように小さく見えた。
 動かそうに動けない下半身はそのまま、上半身をまわして情報を得る。久しく味わっていなかった高速移動。心臓が高鳴る。

 「は、はは……すっげぇ! 飛んでる!」

 セージは固定器具に爪を立てているのにも気が付かず、快活な笑い声をあげた。眼下には木の海。上は青い雲。前はマスターの後頭部とワイバーンの首。後ろを向くと、相乗りの男が興味深そうに周囲を見回していた。
 ワイバーンの隊列は縦に一定の間隔をとって飛行しているようだった。理由をマスターに訊ねてみると、固まっていては全滅する恐れがあるからだそうだ。
 空を飛んでいる。ワイバーンという生物の背に乗って。その事実は、気分を高揚させた。
 物足りなさを感じたセージは、マスターにお願い事をした。風に負けないように声を張り上げて。

 「スイマセンけど、もっと速くならないですか? 風を感じたいんです!」
 「速くだって? フフン、俺と相棒に速度? 悪いが体力を無駄に使うわけにいかんのでね。また今度、暇な時に華麗な空中舞踏を披露してやんよ」

 マスターはあっさり首を横に振った。要人を運ぶ任務中に危険は冒せない。彼は変わった性格とは言っても、職業意識は持っていたのだ。
 
 ワイバーンの旅路は快適だった。何せ、操縦はマスターに任せておけば、寝ても進むのだ。止むを得ない用事を除けば鐙にお尻をつけているだけで事足りる。朝の清々しい太陽を拝みつつの食事も、また乙なものだった。セージはこの世界に来て初めて楽しい旅というものを経験した。
 困ったのは寒さである。何せ風に当たり続ける構造なので、それなりに着込んでいても夜は堪えた。準備のいいことにコートが備え付けられていたので、鎧の上から羽織った。
 道中、雨を避ける為に雲を迂回したことを例外にすれば、旅の計画は順調に遂行されたのだった。

 数日かけて大陸を行くと、街が見えた。目的の国に到着したのだ。
 ワイバーンは一団を降ろすと、一騎を残して帰路についた。記録を取りたいという国側の意向を反映して一騎が残ったのだ。

 一団は大いに迎えられた。歓迎会が開かれ、酒と美味しい食べ物が振る舞われたのだった。旅の疲れを癒すにはうってつけだった。興奮気味だったセージが無理して酒を何杯も呑んでぐでんぐでんに酔っ払い部屋に運ばれたのはまた別のお話。
 数日後、セージはとある人物らと再会した。
 それも、二人も。




[19099] 五十話 胸サイズと帰還と再会と
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/21 12:59
L、


 “女の子”の役割は決まっている。要人の護衛である。
 実力が認められたとはいえ、所詮は若造。経験を積まなくては実戦では到底役に立たない。里の防衛戦では後方にのみ参加していたので、実際には戦わなかった。そこで比較的安全な任務に就かせ、物事を経験させようと言うことである。エルフ陣営が来るべく戦争に備えているのは明白であった。

 セージは部屋に置かれていた一枚鏡と睨めっこしていた。極力男でありたいので、化粧などしないし、服装容姿にも気を使わないのに関わらずである。目にゴミが入っただとか、戦化粧でもない。合わせ鏡で悪魔を召喚する儀式でもない。何をしているかと言えば、部屋の唯一の出入り口を施錠しての確認作業である。
 上半身裸で確認する対象は、胸だった。
 幼い頃は男と同じ体つきだったので考える余地が発生しなかったが、大きくなるにつれて変わってきてしまったのだ。背丈は伸び、体に丸みがついてきて、局所の細部も変わってきた。必然的、いわゆる自然の流れとして胸も成長してきたのだ。
 お腹の中央に薄らと凹んだ線のやや上寄り。臍の凹からなぞった先。僅かに浮いたあばらの造形を覆う柔らかな表皮、その上に、腋から始まる、慎ましながら自己主張する膨らみがあり、桜色の円が頂上を彩っていた。
 何年もの間親しんできた体の、変化の象徴。体を洗うときだって無視を決め込んできたが、大きくなってきてしまっては、目を向けなくてはいけない。
 鏡の中で複雑な顔を浮かべる己の、鎖骨の下を見遣る。男性の体だった頃にはありえない丘がある。
ため息を吐いた。

 「布巻くか。サラシってやつ。……ったく、……胸なんて贅肉いらねーっての」

 喉から発せられるは、乱暴な口調に反して濁りの無い声。
 ぶつぶつと本心からの独り言を呟きつつ、手ごろなタオルを持ち出し、胸に宛がってみた。胸を圧迫すれば成長を阻害できると踏んだのだ。

 「よ、っと」

 ひとまず胸に合わせてタオルを押し、屈んで後ろで縛る。だがタオルのようなふわふわした布では圧迫が上手にいかない。悪戦苦闘の末、包帯を持ち出してグルグル巻きにしてみた。胸苦しい。やや緩めてみる。調整、そして調整。胸がぺたんこ……に見える。継続すれば効果が望めるに違いない。
 もし大きくなってきたら、きつく巻いてやろうと決めた。
 いつまでも上半身裸ではいられなので包帯を解くと、普段着を着込む。要人警護もあるので腰にはロングソードをぶら下げたまま。戦いは機動性を重視しているので、鎧はむしろ無くて良い。
 部屋を出ると鍵をかけて、重厚な岩造りの廊下を歩いていく。技術支援団として派遣された一団は、首都より少し離れたところにある湖の畔に造られた古城に居た。既に取り壊しが決まっていた城を研究施設に再利用したそうである。老朽化が進み防衛施設として利用が難しいが、研究施設としては十分である。首都が近いという地理上の利点もあった。
 セージは、しばらく前に魔術師として派遣されたロウの居る部屋に行こうと、守衛の男性に道を聞いた。警護の仕事は道中や移動の時は一行だが、城に居る間はロウにつくことになっていたのだ。
 城は小規模なものだが、案内表示などある訳も無く、迷いに迷った。防衛上の都合で、内部は入り組んだ構造をしていたのが道を失わせる要因だった。最後には自力で行くことを諦めてメイドに案内してもらった。
 ロウの部屋の前に立ち、ノッカーで扉を叩いた。

 「どうぞ」

 酷く疲れた声がした。セージは恐る恐る扉を開き、内部に首を突っ込んで、やっと体を滑り込ませた。
 部屋は意外にも狭く、予想に反さず散らかり放題だった。木の机は羊皮紙の束が山になっており、里から持ち運んだらしき鎧が二体ほど窓際に立っていた。用途不明の薬品を湛えたガラス製の実験器具。壁は謎の図式をこれでもかと記した広い羊皮紙だらけ。いくつかの国旗は申し訳程度に天井から吊るされていた。部屋備え付けの暖炉は、鞄やら本の山やらで物置状態。部屋を満たす大気は、何やら甘ったるい匂いと埃臭さであり、お世辞にも爽やかなという形容動詞を付けることは、天地がひっくり返っても不可能だった。
 総評―――汚部屋。
 部屋の隅にある机の前で目頭を揉んでいる不健康風貌は、セージが入室すると大あくびを噛み締めつつ、本にしおりを挟み、羊皮紙山の頂上にでんと乗せた。振り返る。不健康、疲労、そして優しさの融合した、老人のような表情が浮かんでいた。
 数年ぶりの再会だった。
 ロウの容姿はまるで変わっていなかった。エルフは体の絶頂期までは人間と同じように成長するが、あとはゆっくり、非常にゆっくりと老化するため、ロウもクララも外見に老いが無かったのだ。

 「ロウさん、お久しぶりですね。本当に汚い部屋です。掃除してください」
 「数年越しの再会なんだから、部屋には目を瞑ろうとは思わないのか」
 「まったく、これっぽっちも」
 「仕方ないだろう………都合のいい便利屋扱いで、あれもやれこれもやれ、これをこれこれしてくれると助かるなぁ……それとこれもお願いね、と“頼みごと”してくれるものでは、片付ける暇もありゃしない」
 「お仕事ですからね、耐えてください」
 「仕事はする。給料も出ているし、里の為にもなる。だがな、朝起きて夜寝るまで仕事漬けは堪える」
 「体を鍛えると思えばいいでしょう」
 「体力は要らん。時間が欲しい」

 二人は、ふっと笑うと、どちらがともなく歩み寄り、がっちり両手を握り合った。かつて身長は見下ろす見上げる位には違っていたが、今はさほどでもない。
 セージは白い歯を見せて笑った。ロウの手は冷たかった。

 「大きくなったな……ガキっぽさが抜けた」
 「大人になったと言ってほしいですね」

 ロウは嬉しそうな顔を隠さず手を大きく振れば、部屋の隅で埃を被っていた椅子を配置した。セージは埃を払い、座る。
 一変して二人は真面目な雰囲気を纏った。ロウが一冊の小さな本を机から取り出すと、表紙を捲った。題名も筆者も、あるべき情報が記されていない。重要なことを書き留めておくメモ帳らしい。

 「それで? 帰還するという目標は諦めてはいないか?」
 「はい。教えてください。あるのか、無いのか」
 「端的に言えばある……らしい」
 「らしい?」

 セージの質問に要領得ない答えが返ってきた。この世界に落とされてから今に至るまでの行動指針の根底を支える重要な問いである。椅子で前のめりになって、両肘を腿に付け、声を落とし、再度聞き直す。
 するとロウは細い指を使ってメモの中程に目を通した。セージが覗き込むと、蛇がのたくったような汚い字がびっしり書き込まれていた。

 「大昔に遡るそうだ。ある日、突如として虚空に門が開いて人が現れたそうだ」
 「エルフですか?」
 「いや、対となる手足を持ち、ヒト程度の大きさの生物とだけ……エルフか人間か獣人かどうかも分からん。兎に角、彼らはこの世界に永住したそうだ。その時の門を作った道具こそが違う世界に行く鍵であり―――……現存し、なおかつ研究機関に保存されていたという確かな情報がある」
 「じゃあ、その道具を見つければ―――……」
 「まだ話は終わってない。保存されていたというのは二十年程前の事で、王国が技術を接収した現在では“本物”が無数にあるそうだ」

 ロウは、要するにパチモンが沢山ってことだ、と言った。
 そしてメモをぱむと閉じると、更に続けるのであった。指を折る。

 「俺の調べじゃ本物を名乗るのが十以上はあったね。話そのものがガセと見られたのか、研究対象にすらなってない。王国各地の博物館やら貴族やらが収蔵してるとよ。よかったな、パクり易い場所にあって」
 「……皮肉ありがとう。その道具の効力が神話だけということはないですか?」

 神話に登場したものが現代にあるというのは、得てして名前だけの代物であることが多い。帰還の手段に入れるには、確かに使えなくてはいけない。
 ロウが再びメモを開くと、最後の方のページまで捲って、指を置いた。

 「その国は、ある日突然出現して、何の資源も無いのに魔術だけで生計を立てられるだけの技術を有していたと公式の記録にある。目撃例も数多くある。本物と見ていいだろう」
 「よかった………もしおとぎ話だけだったら絶望してましたよ」
 「どういたしまして。俺の労働も報われるというものだ」
 「……報酬が必要ですか?」
 「いらん。……あー、そうだな、うまい酒を手に入れてきてくれ。あの女が酒は体に悪いからと茶と水しか飲ませてくれんのでね」

 あの女って誰だろうと質問しようとした矢先、部屋の扉がノックされた。ロウが入室を促すと、おずおずといった調子で扉が開いた。

 「お呼びされたので参上致しました。ルエです」

 登場したのは美青年だった。整った目元と、力のある口元。かっこいいよりも美しいが優先される顔立ち。輝く銀髪は、ゆったりと後頭部で結われている。体付きは大きくなっており、肩幅はがっちり広かった。枯葉色のローブを着込み、腰には魔術増幅作用を有するであろう術文の掘られた短剣がぶら下がっていた。
 少年とも言える年齢だった彼は、青年に、もとい立派な男性になっていたのである。
 二人は見つめ合い、そして沈黙した。
 最初に動いたのはセージだった。椅子をひっくり返し起立すれば駆け寄って行く。猪のように。

 「久しぶりぃぃ!!」
 「ぐえっ!?」

 セージが感情と腕力に任せてルエに抱きつきのつもり、される側には体当たりをした。









~~~~~~~~~~~~

本物があれば贋作が出回る…



[19099] 五十一話 ダークエルフ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/26 15:44
LI、



 指輪とは特別な意味合いを持つ装飾品である。ネックレスやブレスレットなどとは違う、契約の意味を持つ。それは例えば世界を左右する強大な力を秘めた指輪であったり―――。
 ―――結婚の象徴であったりした。
 “女の子”は指輪をしていた。事もあろうに左の薬指に。装飾の少ないそれは魔除け効果を有する実用品であり、結婚の意味合いを含まないのであるが、第三者視点からは結婚指輪にしか見えない。
 幸いなことに色合いがダークトーンで目立たないが、よく観察する相手には気が付かれる。
 セージと再会したルエは、指輪の存在に気が付き、顔を青くしていた。
 再会は喜ばしいことだ。男勝りな彼女は美しく成長していて、体当たりを食らわなければ半日は見つめ続けていただろうとルエは確信があった。だが、指輪は喜ばしく無かった。万が一結婚指輪で、セージがにっこり笑いながら『結婚しました』とでも言ってきたら、絶望のあまり自殺を考えるだろう。
 ルエがこの城に居るのは、セージと同じ理由であるが、違う理由でもある。実力を養う為に派遣されたのと、ロウに魔術の教えを乞うためである。ロウは大が付く魔術師なのだから。

 「任務完了だっ」
 「ですね」
 
 厨房に赴いた二人は、メイドに言って美味しい酒をくれないかと頼んでみた。するとどれも出せないが、ロウ様のだけはたくさんあると言われた。ロウが所望であると伝えると、貰うことができた。話を聞いてみると、国側のロウに指示を出す係の役人が酒を呑ませるなと命令しているからだそうである。ロウが言っていた『あの女』とはこの役人のことだろうか。
 葡萄酒入りの瓶を片手に戻ってみれば、何やら部屋が騒がしい。
 二人は扉を叩く前に、そっと耳を密着してみた。
 ロウの倦怠感溢れた声と、情熱的な色気を湛えた女の声が木越しに鼓膜を叩いた。

 「―――……君の言う仕事をしているのだからほっといてくれないか。それに、じきにセージとルエが戻ってくるぞ。役人の立場としてはまずいのではと俺は思うがね」
 「あん、厳しい顔も素敵ですわぁ」
 「寄るな触るな抱きつくな!」
 「お仕事お疲れでしょう……? 少しベッドに横になられてはいかが? 添い寝いたしますわ」
 「……本気なのか? 冗談なのか? 籠絡せよと命令でも下ったか」
 「お仕事は命令ですわ。親密になりたいのは自分の意思ですの」
 「気に入らんな」
 「では、まじめにお仕事しましょう……夜までねっとりこっとりたっぷり」
 「………そうだな、抱きつくな」
 「私の地方では友好の印に抱きつくのが普通ですので~」
 「どこに触ろうとしている!」
 「お・き・ら・い?」
 「余りごちゃごちゃ抜かすと、その口縫い合わせるぞ」
 「お縛り? やぶさかではありませんわ」

 二人は顔を見合わせた。
 まるで痴話喧嘩ではないか。

 「………取り込んでいるようですね」
 「そうだな、俺らの入る隙間もない」
 「湖は初めてですか? 案内しますよ」
 「頼む」

 ということで、二人は葡萄酒入りの瓶を小脇に抱えたまま、湖に向かったのだった。
 湖は美しかった。乱れの無い水面から覗く底は、清らかなる青い色を湛えていた。非番の兵士が釣竿を垂れていたり、子供たちが舟遊びをしている、のどかな風景。二人は城から伸びる桟橋を歩いていった。
 よく水面下を観察してみれば、ぼろぼろになった鎧や剣が放置されていた。かつて城が戦略拠点として運用されていた時代の名残であろうか。
 セージは腰のロングソードを外し、置くと、桟橋に腰かけた。隣にルエが腰かける。

 「それじゃ、会わなかった期間のことを話そうか」
 「はい」

 話している最中でも、ルエの集中力は指輪に注がれていた。だが聞けずにいた。怖かったのだ。
 セージは、ルエが手ばかり見つめてくるのに気が付き、変な奴だと首を傾げた。魔除け効果のある実用品なのだから、欲しいのかもしれないと考え、薬指から取り、掌に乗せる。

 「何、欲しいの?」
 「そうではなくて……」
 「煮え切らん男は嫌いだぜ。どうしてもというのならあげてもいいけど」
 「そうではなくて………そ、それは結婚指輪ではないのかと……」
 「へ?」

 口ごもりつつ訊ねるルエの顔は、明日にも隕石が落ちることを計算で知ってしまった学者のように蒼白で、今にも嘔吐してもおかしくなかった。
 セージはあっけにとられ、暫しぽかんと口を開けっぱなしにしていたが、やがて我を取り戻すと、かつてのことを思い出したのであった。すなわち、ルエが自分に好意を抱いているであろうことを。そして内心驚いた。指輪についての態度から察するに、いまだに好意を抱き続けているのであろうと。
 セージは無意識に手をぱんと打ち、大きく頷いた。合点したのだ。
 指輪を摘まみ、人差し指に引っかけてみせる。

 「こいつはただの魔除け。俺は結婚してないし予定もないよ」
 「……よかった……」

 ほっと胸を撫で下ろすルエに、こういう時は何が何でも動揺をおもてに出さないように振る舞うのではないかとセージはおかしな気分になった。

 「………素直な奴だなぁ……」

 ルエがぎくりと肩を揺らした。セージが吹き出した。





 二人がルエの部屋に戻ってみると、エルフを含めた物々しい警備体制が引かれており、すわ侵入者かとびくつくこととなったが、話を聞いてみるとどうもそうではないことがわかった。とあるものが運び込まれたので、やむを得ず厳戒態勢を取ったというのである。
 それが運び込まれた先はルエの部屋ではなく、魔術師が魔法陣を組む為に使うという部屋らしい。
 二人は大急ぎでその部屋に行ってみた。屈強な兵士が四人も部屋の前に立っており、刺繍で装飾された上品な服を着た女性が苛立ちを隠せず行ったり来たりしていた。

 「警備の者です!」
 「ロウに師を仰ぐ者です!」

 その女性は警備の者を一瞥すると、二人の顔を見て、耳にじっくり視線を注いだ。警備の者に手を軽く振る。

 「ロウ様がお呼びだったわ、早くお入りなさい」

 扉が、女性の指示で開かれる。次の瞬間、うめき声とも泣き声とも取れぬ絶叫が漏れてきた。二人が戸惑っていると、女性が背中を小突き中に押し込んだ。
 部屋は頑丈な石造りを金属で補強した造りとなっており、装飾がまるで見られない。何も知らない人間に感想を聞けば、牢獄のようだと答えるだろう。人一人が大の字で寝られる直径の円が部屋の隅からいくつも描かれており、甘い香りやきな臭い香りに加えて埃臭さが漂っている。
 その部屋の中央で、眉間に皺を寄せたロウが屈み込んでぶつぶつと言葉を発していた。
 二人が歩み寄ろうと一歩を踏み出した刹那、暴力的な魔力の奔流が部屋の中央から立ち上った。二人は蹈鞴を踏んだ。部屋唯一の不動は、ロウだった。彼は魔力を露として感じさせない佇まいだった。彼は一歩も引かず屈んだ姿勢を取り続けていた。彼の体は、彼の魔術で守られていたのだ。
 『それ』に猿ぐつわを噛ませながら、ロウは二人に手招きをした。

 「ちょうどいい所に来たな。見てみるといい。本来ならば他の者に補助を頼むのだが………よりによって皆が出払っている時にこいつがやってきた。まぁ、俺ならば抑え込めるし、君らでも問題あるまいよ」
 「何事です?」

 焦ったルエが腰の魔術短剣の柄に手を置きながら駆け寄ると、ロウが手で制した。そしておもむろに『それ』を顎でしゃくった。

 「まぁ、落ち着くのだな、せっかちな弟子よ。こいつを見てくれ、どう思う?」
 「…………!?」

 ルエは絶句した。彼の想像するものが無かったからである。
 それはエルフだった。ただし、褐色肌の至る所に刻印をされた痛ましい姿の。薄汚れた布を服の代わりに着込んでおり、起伏ある体付きだった。女性のようだ。狂ったように暴れているが、魔術により拘束されており、動けないらしかった。
 セージが後から追い付き、同じく覗き込むと、絶句する。
 セージには見覚えがあった。肌の黒いエルフのことを。RPGなどにはよくダークエルフなる種族が登場するからである。この世界にもいるのかと驚きを隠せないでいたが、『居るのだなぁ』という感想を抱いたに過ぎなかった。
 拘束されている―――……ダークエルフは、猿ぐつわから唾液がはみ出すほど何事かを叫び、手足を縛る光を筋力で引き千切らんと暴れている。時折、魔術が風を巻き起こすが、ロウの手から放たれる淡い光によって相殺されていた。瞳に宿るは狂気。黒い髪を振り乱し、脱出せんとする。
 セージは、魔術の余波が及ばない領域を見定めつつ、ロウに問いかけた。

 「ダークエルフですか?」
 「なんだ、それは。ダークエルフなる種族が存在したことは、無い。エルフは、皆一様に白い肌と尖った耳を持つ種族であるとな。それに見てみろ、この刻印は古き魔術……強化を示すものだ」

 一度言葉を切り、ロウが断言した。

 「この子は何者かに改造されたのだろう」








~~~~~

ロウとルエが紛らわしい……語感がなんとなく似てるんで何度もしくじってます



[19099] 五十二話 解析
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/08/30 02:31
LII、


 ロウは二人を追い出した後、数日かけて解析をした。他の術者が別の場所に行ってしまっており、弟子であるルエも、護衛のセージも、魔術解析の補佐にはなりえないので、一人でやったのだ。国から派遣されたとある女も魔術は使えなかった。
 その女の子の力は、少なく見積もっても訓練を積んだエルフ戦士に匹敵するもので、油断すれば重傷を負わされるであろうことはわかっていた。
 ロウは、黒い肌の女の子の拘束魔術を継続すると並行して魔術的な解析を行っていた。更に、時折噴出する色の無い魔力の塊を防壁で受け流す。並行して魔術を行使することは極めて高度な技術であるにもかかわらず、平然としていた。大魔術師の名は、伊達ではないのだ。
 岩造りの部屋に、悪魔染みた絶叫が響き渡る。

 「っす………ッ~~~~! ン゛グゥゥゥッ!!」
 「……ふむ、洗脳も魔術頼りか………記憶も弄ったか?」
 「がぅぅぅぐぅぅぅああ!」
 「……なるほど」

 猿ぐつわをした女の子は、狂気を隠そうともせず、拘束を引き千切らんと暴れていた。全身に掘られた刻印が光り輝き、魔力を強引に吸い上げている。刻印は古代に用いられていたものであるとロウは見抜いていた。
 その黒い肌の女の子は、ロウを親の仇であるが如く睨み、もし拘束が外れれば首筋に飛び掛からんとしている。
 ロウは用心を強めたまま、猿ぐつわを外してみた。女の子はゲホゲホせき込むと、魔術を口にした。予想通りの行動。打てば鳴る反射速度をロウが発揮した。

 「“風よ”」
 「“凪げ”。無駄だ。お前如きの力で俺を揺るがせるなど、不可能だ」

 刹那、ロウが魔術を唱えて魔術を四散させた。術を消去する術の行使。相手の術を一瞬で解析できる頭脳があってこそである。女の子の力は強力だったが、ロウが上回っていた。
 ロウが女の子の服を捲りあげて胸元に手を宛がった。丁度心臓がある場所だ。手から妖しい輝きが発せられるや、女の子の体を包む。魔術封じ―――魔力の吸い上げを途中で阻害した。
 魔術が使えないとみるや、女の子は目尻を吊り上げた。可愛らしい顔立ちをしているが、怒り、憎しみ、殺意に溢れているので、城などに好んで置かれる翼の生えた化け物像と大差ない印象となる。
 がらがらと掠れた声が怒鳴りつけてくる。

 「死ね!」
 「会話をしないか? お前さんが洗脳されてエルフ憎しってのはわかる。だがな、そんなお前さんにもこんなものが付いてるわけだ」

 ロウは無表情を維持したまま懐から手鏡を取り出すと、女の子の顔が映る位置に持ってきた。女の子は見た、己の耳が尖っていることを。
 女の子の顔に目に見えて動揺が走った。視線が右往左往し、呼吸が乱れる。

 「あ、ぅぅぅぅぅぅぅぅ……!? 私は……」
 「エルフ、だな」
 「………」
 「エルフだよエルフ。他に何に見えるんだ」

 まごうことなき真実を述べる。いくら改造されて肌が黒くなろうとも、エルフなのだ。いくら刻印が捺されようと、エルフなのである。
 その真実、事実は女の子にとって受け入れ難きことであるようで、涙を流して否定し始めた。

 「馬鹿な! ありえない………ありえないありえないありえないありえない、絶対! 私の親は……」
 「人間からエルフが生まれた記録は古代に遡っても無いな。逆もしかりだ。よく思い出してみるんだな……思い出せないと命令に従って強引な手段を取ることになる。あと、一日中俺と生活を共にして貰うからな」

 解析を進めて、洗脳を解き、刻印を解呪(ディスペル)するには時間が入用だった。女の子とて食べて眠らなくては死んでしまう。世話を任せられる人間は少ないので、仕方がなく共に生活しなくてはいけなかった。魔術封じの術だって永遠に続くわけが無いのだから。拘束装備が下等で、封じ込めておけないのが最大の原因であるが。
 女の子は理解してか理解せずか、要領得ない馬事雑言をまき散らす。理性が戻るときと、狂気の波があるらしい。

 「……私は………っ、死ね! エルフ!! 死に晒せ、殺してやる! 外せぇ!!」
 「やれやれ」

 ロウは首を振ると、女の子に眠りの魔術をかけたのだった。
 また仕事が増える。



 一週間後、セージとルエの二人は、ロウの部屋に呼ばれた。
 二人は入室早々、例の女の子についての事でロウを質問攻めにしたが、まずは座れと言われたので腰かけた。
 ロウはいつにもましてげっそりした面持ちにて足を組むと、目頭を揉みほぐし、メモ帳を開いた。動作の一つ一つが緩慢で、死人を思わせた。

 「結論から言うと、あの子は王国に掴まったエルフの子だった。古い術……しかもデタラメな上に強引な、魂と肉体を引き剥がしかけたところで止める術―――強化の亜種と言うべきか……それと洗脳魔術を使って、エルフを殺せと擦りこまれていた」
 「酷い術ですね……」
 「そうでもないさ。俺らにとって酷く思えるだけで、あの子を改造した連中には当たり前のことなんだろうよ」

 ルエが深刻な顔をし、頷いた。人を強化する術の中でも最低の部類に入るではないかと。
 魂と肉体を繋ぐ引力を流用したものが魔力ならば、わざと魂と肉体を離してやれば、魔力は多く生み出される。生への渇望がそうさせるのだ。先天的に魔術に適性のあるエルフならばより強い術が行使できるようになるだろう。だが、魂とは精神であり、肉体から離れれば自我すら危うくなるのは言うまでもない。
 セージは居心地が悪くなって、あることを聞けないでいた。椅子の上でもじもじする。女の子はエルフとはいえ王国が差し向けてきた刺客に変わりない。いつ、どこで、いかなる手段で捕まったのかは存ぜぬとも、『エルフを殺せと擦りこまれていた』のならば、どんな処分が待っていても不思議ではないのだから。
 ロウはセージの考えを呼んだか、苦い表情を浮かべて、メモ帳の腹を中指で撫でた。
 部屋の外で、メイドが窓を開けたらしき音がした。

 「あの子は、国側とエルフ側で処分について揉めてな……国側は再洗脳して王国にブチ込めと。エルフ側は治療せよと。保留だそうだから、俺が治そうとしてる最中さ」
 「今、会えませんか?」
 「会う?」

 セージが面会を希望するも、首を横に振られた。

 「止めとけ。口を開けば死ねだのくたばれだのしか言わん。それにな……自傷行為をやり始めたわけだ……悪化してる……治療には……時間がかかりそうだ」

 ロウはそこまで喋ると机に突っ伏した。羊皮紙に構わず顔を押し付けている。何事かと二人が腰を上げると、ややあってロウが上半身を起こし、顔をごしごしこすり始めた。奇行。しばらくしてロウが言った。否、言ったよりも、呻いた。
 そこでようやく二人は、ロウの目元が酷く黒ずんでいることを意識したのである。ただでさえ不健康であるのに、目の下のクマのお陰で不死者が如くである。

 「すまない……三日ほど寝てないんだ…………部屋のすぐ外にありもしない呉服屋が見えたし……………」
 「ロウさん、死にそうですね」
 「寝てないからな………通常業務に加えてあの女の子の悪態と格闘するのさ………なぁセージ俺はよくやってると思うだろ?」
 「怖いんですけど」
 「城の幽霊の噂に加われそうな気がしてきた……………そうだ……忘れるところだった」

 ロウが二枚の紙を取り出すと、二人に渡した。

 「お使いを頼まれてくれ」

 二人は部屋を出ると、お使いの内容を確認した。
 セージはモンスター退治だったのに対し、ルエのはお使いというより雑用だった。国の古文書館に赴いて整理をしろという内容が記されていた。どちらが楽かはさておいて、冒険心の強いセージには整理作業は苦痛に思えてならなかった。
 二人は城の前で別れた。

 「気を付けてくださいね」
 「ルエも、本に埋もれて圧死しないようにな」















~~~~~~~~~~~~~

なんだか、チラ裏っていう感じじゃなくなってきた気がします。じきに20万文字になりますし。



[19099] 五十三話 モンスターと言うけれど
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/01 02:54
LIII、



 お使いの内容は、街外れの洞窟に潜むモンスターを退治してこいと言う、要するにお使いクエストだった。そんな用事、現地の人か街の兵士にでも頼めばいいだろうに、セージがやる理由は一つしかない。戦って経験を積ませようと言うことだろう。
 ロウが渡してきた紙切れにはモンスター退治という内容と、位置情報が記されているだけで、詳細が見当たらない。蜘蛛か、スライムか、はたまた幽霊か。セージは情報を求めて街中をほっつき歩き、人に訊ねてまわった。すると、どうやら巨大な猪が巣食っており、時折抜け出しては畑を荒らしていくそうである。街の兵士達は関わり合いになりたくないらしく知らぬ存ぜぬを突き通した。
 街の畑という小規模農園での被害などたかが知れてるし、お役人もわざわざ税金を投じて討伐はしたがらない。そうした結果、猪は現在に至るまでぬくぬくと生活を送っている。そういうことだろう。
 深夜。月が雲で隠れる天候。
 街外れにやってきた“女の子”は、装備品の調子を確認していた。もちろん城には仕事があると言ってあり、街の警邏にも通達しているので、問題が起こることはない。強盗や自警団に絡まれる恐れは否めないが。

 「――――……ふぅ………」

 ロングソードを月明かりに晒す。鏡の役割すら果たせる、金属的光沢の美しい剣身。ミスリル製が最高だが、入手は困難だった。無骨な鞘。刃毀れ無し。腰に差す。
 使い込んだナイフよし。腰に差す。
 二連式小型クロスボウ。弦の張りよし。矢よし。腰の固定具に引っかける。
 軽装鎧よし。ブーツの紐を結び直し、きゅっと引く。
 指輪よし。
 セージは頭を振る反動で腰を上げると、頭に黒い布きれを巻きつけた。モンスターを退治するに当たっては、穴倉に接近するまで、察知されてはいけないのだ。
 人差し指の根元まで口に突っ込み唾液に浸し、天を指さす。蒸発して熱が奪われていく。風上を探しているのである。ほどなくして、風はセージに味方しているのを知った。洞窟のぽっかり空いた入口に対し、逆の方から吹いているのである。接近するに好都合だった。
 セージは抜き足差し足忍び足で洞窟までの距離を埋めれば、腰のロングソードに手をかけ、入口の横に屈んだ体勢で張り付いた。
 選択肢はいくつかある。中に堂々と入っていくか、誘い出すか、大火力で焼き払うかである。最初の選択肢は危険だが、夜と言うこともあり寝ていることが考えられ、討伐はしやすいであろう。第二の選択肢は、相手に対応の隙を与えてしまうが、穴から出た背後を突けるという利点がある。第三の選択肢は、洞窟に火炎を流し込むことで焼き肉にしてやる案であるが、セージの実力では実行に移せないし、万が一にでも内部に人間が居たら、殺人者になってしまう。
 セージが採用したのは、第二の選択肢だった。
 獣が嫌がる金属音、すなわちロングソードを抜き差しすることで誘う。わざとその場で足踏みをして、目標が出てくるのを待つ。

 「……きたっ」

 気配がした。ロングソードを抜いたまま、洞窟の入り口の横――つまり内部から出てくるものにとっての死角となりうる位置――に身を隠した。
 魔術の発動に備えて、鼻から息を吸いこみ、肺を新鮮な空気で満たす。獣は所詮獣。一度火を放てば、消火はできまい。人のように水を浴びるだの、誰かに布で叩いてもらうだの、考えも付かないだろう。
 セージの思惑通りに巨大な猪が鼻を鳴らしながら洞窟から姿を見せた。
 ロングソードを使うまでも無く、手を掲げて唱える。

 「“火よ”」
 『!?』

 まるでブルドーザーのように大きな毛並が、突如として炎上した。姿かたちの詳細はオレンジ色に沈んだ。阿鼻叫喚。猪はその場に転げると、大暴れして火を消そうとした。
 容赦無用。
 セージは猪が暴れるときに振り回される牙の範囲を正確に見定め、ロングソードを槍のように使った。刺して、刺して、魔術を放ち、刺しまくる。決して深々と突き刺そうとはせず、先端で殴りつけるように、刺す。
 猪の毛は、何かしっとりとして重厚で、火が消えかけてしまうも、その度にセージは魔術で着火した。火力が足りない時は火炎球をぶつけた。

 『―――――!!』
 「まじかよ!」

 が、猪もさるもの。全身を焼かれ、刺されながらも蹄を大地に突き立て、野生の絶叫を轟かせた。二つの相貌が憤怒に燃える。火炎と暗闇のコントラストが、地面に影を生やす。
 セージは殺気に鳥肌が立つのを感じ、小型二連クロスボウを腰だめに連射した。鋼鉄の鏃が猪の足に突き刺さった。再装填は間に合わない。腰に戻し、次の行動の為に目を凝らす。
 猪は死ななかった。
 身を焼かれ、刺されても、死なない。矢を射られても、死なない。
 猪は、あたかも騎乗した兵のランスチャージが如き圧力で迫り、セージをひき肉に変えて焼き殺さんと突貫した。

 「ちっ」

 舌打ち。セージは横っ飛びに回避し、砂を握りしめながら機敏に起き上がってロングソードを肩に担いだ。
 暗闇に浮かび上がる焔の塊は憎悪をもっとも原始的な表現手段の一つ、攻撃によって示す。独楽のように素早く振り返れば、地を蹄で蹴り、突進する。単純な物理攻撃であるがゆえに、少女一人など容易く殺害できる威力を有している。
 車は急に止まれない。勢い付いた猪も急には止まれないし、方向転換もできない。ロングソードを握ったまま猪を正面に斜め右方に前転して躱せば、片膝をついて身構える。危険を冒してまで斬り込む必要はない。魔術で燃やしていけば、いつか死ぬのだ。
 猪の動きが変わった。
 勢いつけての体当たりから、牙を用いた近接殴りへと。命が残り僅かなら、回避のしやすい攻撃ではいけないと判断したか。

 「らあっ!」

 牙をロングソードに突き込み牽制、返す刃で片目を斬り飛ばす。バックステップ。
 猪が怯む。目に見えて動きが鈍ってきた。
 手をロングソードに翳す。

 「“火炎剣”!」

 魂と肉体の結合力を吸い上げ、別の物に変換する。
 瞬間、幼き頃とは比べ物にならない熱量が剣を軸に竜巻となりて発生するや、刃が白熱し、光となった。それは完全に制御されていた。剣身こそ太陽のように輝いているが、柄などは元の形態を保っているのだから。
 莫大な熱量に猪は気圧されたも一瞬のこと、真正面から体当たりした。それが彼もしくは彼女の終焉だった。

 「お終いだ!」

 セージが剣を両手で構え、振り下ろす。熱が爆発した。前に指向性を与えられた魔力が、破滅となりて猪の前半分を跡形も無く蒸発、後ろ半分を肉骨片に変えた。衝撃波が同心円状に広がり、地を舐める。頭に巻いた布が飛ぶ。砂埃が立つ。夜の漆黒が翳った。
 セージがよろめき、過熱したロングソードを地面に突いてぐったり蹲った。
 背後から沈めるはずが、真正面から戦ってしまった。しかも全力を出した。魔力消費は大きく、おまけに高熱に晒されたロングソードは触れれば火傷する温度に過熱していた。ミスリル剣なら十分耐えるのだが、ただの鉄では、下手に扱えば曲がってしまう。魔術だけで剣を構築すると威力に欠ける。そこが困り所である。
 セージは肩で息をしつつ、白熱したロングソードを斜に構えて洞窟に潜っていった。
 暫くすると、後味の悪い物を見てしまった。
 何匹もの小さい猪の子供が一丸となってセージを睨みつけてくるという光景だ。
 巨大な猪は母親で、餌を求めて人里にやってきたのではないだろうか。母親なくては生きては行けまい。街の人に報告すれば喜んで狩ってくれるだろう。

 「………はぁ」

 セージはため息を吐くと、その場を後にした。
 お使いは達成したが、しっくりとこなかったのは言うまでもない。




[19099] 五十四話 三国開戦
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/03 02:11
LIV、



 歴史書、特に近代のものでは支配者や独裁者は悪で民衆は正義という役割を担わされている。支配者、独裁者が富を吸い上げ、民衆がそれに反旗を翻して権利を勝ち取る。正しい流れである。より良い待遇と立場を求めるという一点において。
 ではもし、支配者、独裁者たちが富を得て、なおかつ民衆にも十分な富を配分することができたら、民衆は立ち上がるだろうか。否、ありえない。
 『王国』が現代まで独裁体制を保ってこられたのは、植民地という富の供給源があったからである。資源、労働力を奪い、税金を納めさせ、国内の商品を半ば強制的に売りつける。兵力を奪い、更に植民地を増やす。富は国を潤し、戦争の勝利と、国の発展に民衆は狂喜する。血筋から血筋に受け継がれる独裁体制を引き摺り下ろそうと考える輩もでなかった。王国は積極的に公共設備を整え、雇用対策を実施し、福祉にまで力を入れていたのだから。多少の不満はエルフの迫害でガス抜きもしていた。
 その安定が崩れたのは『連合』の仕業である。一国だけで敵わないなら、いくつかの国と力を合わせて匹敵させる。極めて合理的な考えである。もくろみは成功し、王国の拡がりは止まった。勇気づけられた植民地も抵抗を示す様になった。経済は不安定になり、国内が荒れ始めた。すると民衆の不満は抑えきれなくなる。民衆は考える。誰が悪いのだ、と。答えは導き出されるだろう、王国を統べる者が道を間違えたのだと。
 王国は焦っていた。国民が一斉に反乱を起こせばもはや体制は完全に崩壊する。植民地もいつ反体制の旗を掲げるかわからない。追い詰められた人間は狂気に走る。例えばエルフの改造であったり、例えば古代魔術の研究であったり。
 崩壊は、国家の最高機密から始まった。

 『王国』の大規模研究機関を収める灰色の城の一つの塔が火柱に変化した。
 人の絶叫を掻き消して、羽音が高らかと空気を叩く。己を縛りつけていた檻を、あるはずの無い高温のブレスで焼切った数十匹のワイバーン達は、目を爛々と輝かせながら上空に飛翔するや、混乱して右往左往する兵士らに急降下攻撃を仕掛けて殺害、食欲を満たし始めた。研究中だったはずのエルフ達も、もはや獣のように人に襲い掛かり、あるものは異常な怪力を発して頭を引っこ抜いて血を啜り、あるものは魔術の噴射で岩壁をなぎ倒し、暴力を振るった。
 ワイバーン、エルフ、そのいずれもがなんらかの手段で逃げ出したと考えた兵士たちは、各々の武器を携えて、城を防衛拠点に攻撃を始めようとした。だが、城の中で研究していたはずの者達さえ狂い、殺しを始めたため、城は外と内で狂乱の渦に叩き込まれ、防衛もままならぬ。国の最高機密を有する城であり、設備人員共に最高のを揃えていたとはいえ、ワイバーンが火を噴き、エルフが人を食い殺し、普通の兵士ですらモンスターに成り果てる状況は予想しておらず、あっけなく陥落。
 エルフと兵士は王国の戦力によって制圧されたも、ワイバーンが空から逃亡。あろうことか連合の領域に侵入して空中戦に発展。にらみ合い状態は完全に崩れて戦闘となった。
 連合側からすれば、ある日突然王国から仕掛けてきたようにしかみえない。
 いくら『あれは予期せぬ事態である』と主張したところで、そうは問屋が卸さない。核兵器を誤射しておいて言い訳が通らぬと同じである。それが例え発射装置の故障であれ、ヒューマンエラーであれ。
 戦争再開。
 王国と連合がお互いに潰し合うということが知れ渡っても北の国家達は沈黙を守ったが、そうはいかなかった。漁夫の利を狙わせない方法はただ一つ。宣戦布告してしまうことである。王国と連合は北の有力国家に対しほぼ同時に宣戦布告。考えていたことは同じだったのだ。理由など、我が国の安全保障上の~とか、領土を~とか、過去の~とか、貴国の脅迫には~とか、我らが神が~など、どうにもなる。
 かくして、血を血で洗う激戦が繰り広げられることになった。

 そんな情勢の変化から、セージはロウの元で警護をしていられなくなった。というより、行かせてくれとせがんだのだ。少しでも戦力は必要だろうと一日中うるさく頼み込んでみると、ロウが折れた。当然というか予想通りというか、ルエがセージについていくと主張して、一時、渓谷の里に許可を取るまでに至ったが、承諾された。ルークの計らいもあった。
 それでもやはり実力不足は否めないとのことで、散発的な戦闘しか行われていない北の戦線へと派遣されることが決まった。少なくとも北の国家はエルフを犬畜生扱いしないことも関係しているだろう。
 北の戦線。浅く、幅の広い河を挟んで睨み合う戦場にて。
 不思議なことに各国が宣戦布告し合った状況であるというのに、北の国家達は連合に対して積極的な攻撃を仕掛けていなかった。逆に、連合も仕掛けなかった。だから、セージの辿り着いた基地は、絶対とは言い切れなくとも安全な戦場ではあったのだ。
 ワイバーンから降り立ったセージは、その村の、のどかさに目を見張らなかった。見張るべき点が見当たらないのだ。麦畑、野菜畑、水車小屋牛小屋馬小屋と家屋、そして藁を入れておく小屋。要するに典型的田園風景が広がっていた。元の世界で学生をやっていたころの“青年”ならば、欧米風の整った風景に写真の一枚でも残していたかもしれないが、すっかりこの世界に慣れた“女の子”には、退屈な光景だったのだ。
 唯一面白い点と言えば、田園風景の真っただ中に基地が佇んでいることであろうか。
 この地方は要するに辺境であり、戦略的戦術的に利点の無い場所である。例え占領しても食糧は奪えないし、インフラも整っていないので物資の搬入にも不向きで拠点を作りにくい。だが、一応別国と接しているので基地がいる。そこで、小規模な基地を建てているのである。
 ワイバーンが飛び立つ。セージとルエは手を振って見送った。

 「やぁー遥々遠路いらっしゃいましたなー」

 やけに間延びした声に振り返ってみると、司令官らしき高級な軍服(ただしヨレヨレ)を着込んだ初老の男が後ろで手を組み現れた。妙に形の悪い煙草を口の端に加え、緊張感が無い。二人を前に、煙草を地面に落として踏み潰す。
 セージとルエは、いわゆるオブザーバーであるとはいっても相手は軍人であるとして、直立不動を取った。

 「基地の指令の方ですか?」
 「そうお固くなりなさるな。こんな僻地にまで軍としてのお堅い規律は要らんよ、エルフのお嬢ちゃん。親戚みたいに仲良くやろう」
 「どうも、セージといいます」
 「おうよろしく。そっちのあんちゃんは」
 「ルエといいます」

 二人とは対照的に、司令官はにこにこと人のいい笑みを浮かべて、砕けた態度だった。手を差し出してきたので順番に握る。軍人と言うよりも警備員のようだとセージは思った。傍らに付き添う補佐官も、咎めることなく笑顔で握手を求めてきた。
 その後、二人は基地の人達のあいさつにまわって、仕事の確認をとった。敵国がやってくるのを事前に察知して本国に知らせ、時間を稼ぎ、本隊の到着を待つことが本業だそうで、突破された地点の近辺の基地が敵を横から挟み込むようにもなっているそうである。考えてみれば全国土に潤沢な戦力を待機させることなど不可能であるから、至極当然の仕組みであった。
 なんだ、暇なのかとセージは思ったが、司令官によるとそうでもないらしい。北の騎兵達が接近しては離れてを繰り返していたり、不審な集団が廃村を占拠していたり、戦争という混乱を狙った盗賊団が目撃されていたり、見えない爆弾を抱えているそうなのである。
 司令官は帽子を脱いで、毛の薄くなった頭頂部をぽんぽん叩きつつ苦々しい顔をした。
 ここは司令官室。地図やら書類やらばかりの部屋。

 「国が後方の部隊を増やしているとはいえ……ここの守りは手薄と言わざるをえないのが現状でね。人手が元々無いのに、やれあれもやれ、やれそれもやっておけとうるさくて、基地の運営や偵察で精いっぱい。廃村の調査も、盗賊団の追跡もできやしないってこった」

 司令官は帽子を被り直すと、二人を見つめた。

 「そこで君達が即戦力として働くということだ」




[19099] 五十五話 廃村へ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/04 15:39
LV、


 「あのオッサン、エルフを絶対無敵の超戦士だとか勘違いしてんじゃねーの?」

 “女の子”は司令官をオッサン呼ばわりしてみせると、水と食料を左右に積んだ馬の上で、地平線を睨んでいた。エルフだって死ぬのだ。それは自分が何度も死にかけたから知っていた。
 セージが与えられた任務は単純であり、基地から馬で二日行ったところにある廃村を占拠する集団の調査を行えというものである。馬に余裕がないとのことで仕方がなく二人乗りをしている。セージは馬を操れなくて、あろうことかルエも不得意だった。消去法で仕方がなくルエに操らせている。
 二人乗りをするということは、操縦者の後ろに搭乗者が跨るということである。
 ルエは気が気でない。好意を抱いている女性が、あろうことかすぐ後ろで腰のあたりに抱きついてきているのだ。今にも手元が狂って馬を暴走させかねない。前から風が来るのでいい匂いが漂ってくることはないが、何やら背中が温く、柔らかい。言葉を発すれば背筋に息が吐きかかる。
 否、これでいいのだ。ルエはしょうもない考えをする。
 もし、逆だったら? 即ち、セージが前でルエが後ろの席順である。必然的にセージの腰に背後から掴まる格好となる。『間違い』があった時、誤魔化しようが無くなる。これでいいのだ。
 廃村までは馬で丸二日かかるということで、一日目は緩んだ雰囲気であった。近くなれば警戒をしなくてはいけないが、遠いのならば良い。万が一、廃村を占拠する輩に捕捉されたとしても、旅の者を装えばいい。
 ルエは馬をひたすら廃村の方角へと直進させながら、答えを返した。

 「エルフの一般的なイメージ像は単騎で軍を薙ぎ払う姿ですから、司令が僕らに期待を寄せても不思議はありませんよ」
 「軍どころか小隊に囲まれたら死ねる自信があるんだけど……まぁいいか。それで方針は?」
 「調査とはいっても指令からは王国軍なら排除し、そうでない不穏分子なら追い払えと言われてます。ですが、僕達二人で大人数を相手取るなんて馬鹿げてます」
 「夜中に接近、見つかったら即逃亡……」
 「調査ですからね。無駄な戦闘は避けるべきです」

 馬がぶるると鼻を鳴らす。四つの脚が順序良く地を蹴る。ルエの操作が未熟故に速度がちらつき、たまに方向がずれるも、おおまか潤滑に進んでいた。
 かぱぽこかぱぽこ。
 鐙というクッションがあるとは言っても、馬が進む際に生じる上下の振動は死なずに、臀部と股を痛みつける。多少の訓練を積んだルエはとにかく、馬に乗る機会すら持たなかったセージは堪えた。
 半日の移動をしたところで、セージはルエの肩を打った。
 我慢ならなかったのだ。

 「なんですか?」
 「尻痛い」
 「え?」
 「尻痛いんだけど、休もうぜ」
 「し、尻?」
 「うん、尻痛い。いいじゃんかよ、ゆっくりしても罰は当たらないだろ」

 馬が止まった。セージはこれ幸いと馬を降りると手ごろな草原を足で慣らして腰を下ろした。困惑するルエを見遣り、すぐ隣の草の座席を示す。廃村の調査という任務には厳密な制限時間が決められていないのだから、ゆっくりしていてもいいだろうと考えたのだ。
 幸いなことに食糧はあるし、馬と言うアシもある。二人だから交替で睡眠をとることもできる。
 ルエは馬から降りると、おずおずとセージの隣に腰かけた。
 時刻は昼間と夕方の境目。太陽は徐々に勢力を失って、暗闇と月が台頭し始める時間帯である。羊の綿毛を千切って水に流したような空の元、二人の影は寄り添うように座った。
 セージは腰を捻りながら、地面から生えていた草を引っこ抜いた。数年前、里に辿り着くまでと、里から里へ徒歩で旅していた頃は頻繁にお世話になったものだ。葉の先端を見遣り、ぱくりと口にする。セージの奇行にルエが目を見開いた。

 「懐かしいわ。昔は食べ物無いときは葉っぱとか食べてたんだ」
 「葉を……!?」

 次にセージは白い花をつけた雑草を手に取って、千切った。茎を弄ぶ。花弁が一枚落ちた。

 「そうそう。お陰でどれが美味しいのか、不味いのはどれか、薬草はどれか、判別できるようになったけど。キノコも食おうとしたっけ」
 「……食べたんですか?」
 「いや、さすがの俺もキノコには手が出なかった。蜘蛛は食ったけどね。それなりにおいしいけど、淡泊で塩気が足りないのが難点」

 旅路の苦労をさらりと話す“女の子”、キノコと蜘蛛では、蜘蛛の方がゲテモノ食いであるとは考えもしない。
 この異世界において大型の蜘蛛は食べるものではなく、排除するものである。害獣である。もとい害虫である。愛玩用に飼育されることもない。見つけ次第矢を射掛けよと教えられるくらいである。
 一般に、蜘蛛は味が悪く、調理に手間がかかるので食用に適さないとされている。にも拘らずおいしいなどと言うのだから、味覚音痴ではないかとルエはよからぬ疑いをかける。
 事実であるが、間違いでもある。蜘蛛は仕留めやすいから狩っていたにすぎず、美味しく感じたのは不味いものばかり口にしていたので味覚が麻痺したからに過ぎない。
 セージは蜘蛛の調理法について語ろうとして、止めた。面白い話題ではないからだ。

 「俺の話はこの辺にしておいて、ルエの話を聞かせてくれよ」

 ルエは、後ろでまとめた髪を調整しつつ、頷いた。まともに隣に目をやれないのか、視線は常に自分の膝かつま先に向けられていた。

 「僕ですか。いいですよ。あなたと別れた後、僕は兄上に教えを乞いました。この短剣も兄のものなんです。戦争が始まって、僕は大魔術師たるロウ氏の許へ行き、弟子になりました。実質、小間使いのような立場でしたが、非常に有用でしたよ」
 「で、偶然再会したと…………ん? ちょっと待って。思い出し中」

 セージは何やら難しい顔をして腕を組んだ。指を往復しては腕に打ち付けている。こめかみに指をやれば、抉り込む動作。気分を害したのだろうかとルエは内心狼狽する。
 きっかり十秒後、セージが面を上げると、人差し指の腹を艶のある唇に宛がった。

 「最初あった時、溺れてたじゃん?」
 「死にかけてましたね」

 思い出されるは、病気を患って意識が朦朧としている最中に熊に襲われ川に飛び込んだこと。飛び込まなければ熊の餌。飛び込めば溺死という究極の二択を迫られたのだ。セージは飛び込むことを選択した。生死の境を彷徨った。救助されたのは、奇跡としか言いようがない。
 しかし、今話したいことはそこではない。細部のことだった。
 セージは唇に重ねた人差し指をエビ反りにしてルエの肩付近に移動した。

 「人工呼吸……じゃ通じないか。息、吹き込んだのお前だろ」

 ルエの反応は、蜂の巣に爆竹を投げつけたが如くであった。顔面を白黒青赤明滅させ、口を鯉のようにパクパク開閉する。肩の辺りで手を広げる。露骨に目を逸らす。時間をかけていけば、冷や汗を見られるようになるであろう。
 意識を失っていたから憶えていないと高を括っていたのに、現実には憶えていて、よりによってこのタイミングで話題に登った。
 壊れた蓄音機さながらに口ごもる。

 「ま、まさか、ありえないでしょう、僕にそのような医療技術が……あはは」
 「慌てるなよ、感謝してるんだぜ。命の借りがあるってことさ」
 「………」
 「なんだよ。借りは返すものだから、困ったら頼ってくれってことだよ」

 ルエの予想に反し、セージは違うところを話したのであった。
 だが話は終わらず、セージがニヤリと笑った。

 「初めて奪われたっぽいし、帳消しだけどな!」
 「っ!? な、何を!」
 「人命救助だから数えないことにするって!」
 「やっぱり数え……なんでもないです」
 「……ったく、素直すぎるぜ。隠そうともしないというより、隠せない性質なのな、ルエって」

 ふと、セージはルエを弄りながら思った。
 俺って男とキスしたんじゃないかと。




[19099] 五十六話 目立ってはいけない
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/05 01:36
LVI、

 廃村と言っても、放棄されて数百年経過していたということは無く、数年前、十年前までは活気ある街だったろうことが容易に想像できる、煉瓦と木と藁の複合住宅群であった。外敵の侵入を防ぐための塀が村を覆っており、粗末ながら見張り台が四隅に設けられていた。
 だが、村の周囲は草でボーボー。馬車の残骸やらが散乱し、身を隠す場所が無数に存在したため接近は容易かった。見張り塔に各一人しか配置されていないのも好都合だった。村の正面入り口はそれなりの人数で固められていたので、外壁からの偵察を試みた。もし見つかって攻撃を受けた場合にはルエが援護してくれる手はずだった。壁は酷く壊れており、足掛かりもまた無数にあった。
 夜陰に紛れて外壁に取り付いたセージは、顔の上半分を覗かせて内部の様子を窺って見た。
 村はしんと静まりかえっており、井戸らしき設備のある中央広場に数十人程が集合して火を焚いていた。村の建物に人気は無い。中央と、見張り塔と、正面入り口以外に人が居ないように思われた。
 人の様子を探るには距離が遠く、遮蔽物が多過ぎた。虎穴に入らずんば虎児を得ず。ルエに借りたローブのフードを降ろして顔を隠せば、外壁を一っ跳びで乗り越え、侵入を果たす。篝火が外壁に据え付けられていれば発見された恐れがあったが、そもそも無かった。
 暗闇を完全に味方に付け、とある家にお邪魔する。

 「お邪魔しまーす……」

 扉をそっと開けて身を滑り込ませれば、慎重な手つきで閉じる。ドアノブを乱暴に離すような真似はしない。
 部屋の中は荒れ放題ではなく、食器がそのまま机の上に置かれていたり、腐敗の進んだスープ鍋があったり、家具の戸が開きっぱなしだったり、生活臭が漂っていた。玄関の方に足を運ぶと、子供サイズの靴が片方だけ放置されていた。何気なく床を靴で歩くと、埃の積載に足跡が残った。
 セージは、かつて観賞したテレビの心霊番組を思い出した。たしか、廃墟が舞台だったはずだ。お決まりのパターンで、車がエンストを起こす。そして最後は失神で幕引きとなるのだ。
 それは兎に角、このような感想を抱いた。
 ――――まるである日突然人だけが消えたようじゃないか、と。
 何か不気味なものを感じ取ったセージは、左手の魔除けの指輪を擦り、窓際から外部を窺った。
 焚火を囲む者達は皆一様に粗末な服を着込み、どこかの戦場で拾ってきたとしか思えない切っ先の欠けた剣や、棒の先にナイフを括り付けた即席の槍、木の板を針金で固定した貧相な盾を装備していた。男たちは逞しい体の者ばかりなのに対し、女子供老人たちは今にも倒れそうなほど疲労感溢れる出で立ちであった。そして、皆一様に首に絞殺痕のような痣があった。
 それは、とある身分の者達に特有の特徴であった。

 「奴隷か」

 セージはそう呟くと腰のロングソードの鞘に触れた。窓の下の陰に身を潜め、腕を組む。
 村を占拠しているだけで腰を据えて生活しようとしないのといい、服装といい、装備といい、何より首筋の痛々しい痕跡といい、奴隷の集団であると断定した。スパイではなかろう。スパイなら、もう少し賢く村を使うはずだ。
 どこからか逃げ出してきた彼らは、たまたま廃村を見つけて住んだのではないだろうか。
 王国や北の国家なら排除も検討に入れなくてはいけないのだが、奴隷では出方を考えなくてはいけなかった。
 接触は危険性が高い。エルフのような高値が付けられる種族がのこのこと出て行けば、捕まえてやろうと意気込むだろう。ドンパチに発展しかねない。だが、フードを深く被ってロングソードをぶら下げた怪しい格好で出て行くこともまた危険である。奴隷からすれば、追手が村に入り込んだのかと考えるだろうから。
 取るべき選択肢は一つだけ。
 誰にも気が付かれないように村から去ることである。
 調査は終了、それでいいではないか。
 セージは家の裏から出ると、己が失敗を犯していたことに気が付いた。壁の外側はぼろぼろで足をかける場所があったからよかったものの、内側はつるつると健全さを保っていて、とても登れそうに無かったのだ。生憎壁を登る装備は準備していないし、魔術で空を飛ぶ妙技は会得していない。外敵を迎え撃つための登り台か、見張り塔か、奴隷たちの意表をついて正面出入り口から外に逃げるか。
 セージが選択したのは、見張り塔をよじ登っていくルートだった。
 まさか内部から外に出ようとするものが居るとは思わないし、よりによって見張り塔を登ってくるなど考え付くまいと。
 塔とは言っても丸太を組んで作った代物で、梯子を登らなくてはいけない。目立つこと請け合いであるが、頂上に行く必要性は認められない。壁の高度を越えたあたりで外側に伝っていけばいいのだから。
 映画だと見張り員を『あばよ』と言いつつ突き落とし、下からの銃撃をひらりひらり華麗に躱しつつ爆発炎上する村を去るのであるが、派手なことは何もなかった。
 まず、梯子の一段目に足をかけて、登り始める。

 「………つう~……」

 塔は雨風で腐食が進んでいて、丸太と丸太の接合部がギシギシと音を立てた。梯子はつい最近つけられたもののようだが、作りが荒く、やはり音を立てた。歯の隙間から息を吐く。極度の緊張で手汗が滲む。
 見張り員が梯子を覗き込んだら最後、発見は免れない。天に祈るような気持ちで登って、壁を越えた辺りで丸太に足をかけて伝っていく。元々人間が歩くことを想定していない足場は不安定で、やもすれば落下しそうであり、肝を冷やした。時に斜めに突き出た丸太を手掛かりにした。
 丸太から壁の上部に乗り移り、手早く外に飛び降りる。
 着地の衝撃を足のばねと前転で殺し、腰を低くして駆け出す。
 フードを顔から降ろす。尖った耳がぴょんと元の位置と形に戻った。
 合流地点までは少し歩かなくてはいけない。見張り塔から見え難いように草むらや大地の窪みを利用して、野犬のように歩む。暗闇という最大の味方の存在があってか一度も発見されずに脱出に成功した。
 大きな三角形型の岩に辿り着いたセージは、ローブを脱ぎつつ、村から見て裏側にまわった。口を布で縛った馬が地面に座り込んでうつらうつらしており、その横にルエが待っていた。
 セージの姿を認めたルエはほっとした顔で立ち上がった。

 「無事でしたか! よかった……」
 「はいこれ返す」

 ローブを脱ぎ去るとルエの腕に返してやって、岩の後ろに胡坐をかいた。ルエは、何やらローブを複雑そうな顔で見つめていたが、座るように促されると、着込んで腰を下ろした。
 馬が目を覚まして目ヤニの付着した瞳を向けたが、すぐに眠ってしまった。
 セージは右肘を右腿にやり右頬の杖とした。

 「奴隷が二~三十人いた。首輪はしてなかったし、たぶんどっからか逃げてきたんだと思う」
 「奴隷が……どこの奴隷かはわかりましたか?」

 セージは首を横に振った。更に接近して調べれば会話から出身や経緯、どんな顔立ちなのか、どのような言語なのか、いかなる方言だったのかなどを知ることができただろうが、安全を優先させたので分からなかったのだ。
 頬を撫で、半腰となり岩から村の方を窺う。何もいない。
 腰を落とすと再びの胡坐。

 「いや。でも、なんとなく同じ場所から逃げてきたんじゃないかと思う。奴隷の集団脱走で調べれば分かるかもしれない」
 「数十人単位となると、限られますし特定は容易かもしれません。北や王国以外の国なら……」
 「俺らは仕事をこなした。あとどうするかはお偉いさんの判断ってことで」
 「そうですね。悲しいですが、彼らがどうなるかは僕達の関与すべきことではない」
 「仮に基地に連れて帰っても養うお金も食糧もなければ仕事場もないしな」

 一応、書類に纏めることになっているので、要点を紙切れに書き込んでおく。光源は月の光で事足りた。焚火は熾さない。不安定な地域なので、感づかれたくなかった。
 紙を懐にしまったセージは馬の横に吊るされている物入れから携行食と水筒の容器を取り出した。にこにこと笑みを浮かべ、まずは水を一口。

 「飯食おう!」

 空腹に勝る敵なし。
 食べたら夜道を戻るのだ。








~~~~~~~~~
サブクエスト回でしたとさ



[19099] 五十七話 逃避行
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/08 12:26
LVII、


 この世に安全なところなど無いのだなと実感したのは、基地が炎上しているのを目にしたからだった。遠距離からでも分かる盛大な燃えっぷりで、夜空を赤く化粧していた。
 翌日。すっかり炭になってしまった基地の前にて。
 安全なことを確かめた二人は基地を調べた。死体も、怪我で動けない者もおらず、馬の一頭も残っていなかった。矢も使われていなかった。どうやら、基地を放棄した後から敵がやって来て燃やし尽くしたようだった。食糧は、近隣の村の備蓄も合わせて全て消えていた。味方が持って行ったのか、敵が持って行ったのかを判断することはできなかった。なぜなら、村人も消えていたからである。
 腰を屈め、地面を観察する。

 「蹄の痕の数が尋常じゃない。基地と村の馬の数を合計しても、こうはいかない。あと、やってきた方角が、俺が正しければ北の方からだ」

 “女の子”が北の方角に人差し指を向けると、ルエが頷いた。

 「彼らが攻めてきたと考えるのが自然ですね」

 北の国家が好んで使う戦法は機動戦術である。戦略的及び戦術的な機動の要は馬である。北から大量の蹄がやってきているから、北の国家が攻めてきたと考えるのが自然だった。
 だがセージは首を捻ると、顎に手をやった。
 どうしても違和感がぬぐえなかったのだ。

 「それにしちゃおかしいぞ……ここは攻める価値のない辺境だったはずだ。次の町までどれだけかかるかも分からない。それに、基地を焼いたのも変だ」
 「誰かに使われる恐れを減らすためでは?」
 「誰かって、連中が使えばいい。とりあえず燃やすなんてことより、ここを拠点に使えばよかったはず。なんか変だ。証拠は無いけど……」
 「一応、頭には置いておきましょう」

 北の国家は馬鹿ではない。攻めるというのはつまり国家を陥落させるということであり、わざわざ占領する価値の無い街が遠い場所から侵入するより、より近い国境から侵入すればいい。北の国内ならば気が付かれないように移動できるし、対処もし難かろう。
 距離が遠ければ兵糧の確保にも手間取る。特に人家の期待できない辺境では、略奪以前の問題であるからに、運搬の必要性が出てくる。
 と言っても、全ては推測と憶測によるもので、確固たる証拠がある訳ではない。
 戦力を呼び寄せるための陽動かもしれないのだ。だとすれば侵攻すると見せかけるだけなので、なんら不自然なことは無い。『狼煙』の代わりに基地を焼いたとすれば不思議どころか合理的である。
 補給など関係なく、食糧となる羊でも連れて行軍していたのかもしれない。
 セージは立ち上がると、これからの事を考えた。基地が無いというのは、身を守ってくれるものが無くなってしまったことと同意義である。もはやここは危険地帯に他ならない。エルフが連合に肩入れしているのは知れ渡っているので、一度エルフとわかるや攻撃を仕掛けてくるだろう。

 「で、どうしようっか」

 セージは手ごろな基地の残骸を蹴っ飛ばしつつ、ルエに今後の方針について訊ねてみた。返事など解り切ったことだ。基地の残骸を組み直して野営しましょうなどと言うはずがない。
 ルエは馬の腹を撫でつつ返事をした。

 「連合の方に逃げるべきですね。一番いいのは近場の基地へ向かうことですが……」
 「そうだな、基地の場所がわかってれば基地が安全だ。敵に襲われてなければな」
 「あと……場所が」
 「分からない」

 二人は基地の残骸を一瞥した。壁は崩れ、屋根は落ち、家具や扉は砕け、瓦礫と化した家屋。柱は辛うじて直立を保っているが、見る影も無くボロボロ。基地の位置を記した地図は、間違いなく炭になっているだろう。探すだけ無駄というものだ。焼失を免れているとすれば基地の味方の手元にあるだろう。
 これからの旅は、敵を避けながら安全圏を目指すと言う危険なものである。
 だが、セージの不安は少なかった。ルエという相棒と馬の存在があったからである。少なくとも草を食み、森林を掻き分けて進み、ビクビクして旅をすることは無さそうに思えたのだ。
 ともあれ進まなくては旅は始まらない。
 セージは馬の傍に寄ると、鐙に手をかけた。燻る基地の臭いに馬が鼻を鳴らした。

 「行こう、日が暮れちまう」
 「はい!」

 ルエが元気よく返事をすると、最初に馬に乗って手綱を取った。後から乗るセージに手を差し出したが、一人で乗れると言わんばかりに拒まれてしゅんとなった。
 後ろに乗ったセージは彼の肩を叩いて発進を促した。

 





 旅で困ったことと言ったら食料の確保である。水は魔術の応用で作りだせたが、食糧はそうはいかなかった。廃村調査用の食糧は全て食べつくしていたため、自力で調達を余儀なくされた。
 広大な大地には木も疎らで、食用の動植物を見つけるのは困難だった。
 乾燥した風が砂を巻き上げて水分をあっという間に持って行った。水浴びする水源も無く、雨も滅多に降らない。精神力を削る魔術を何度行使しても水は不足気味だった。
 安全の確保であるが、北の国家達の軍隊の痕跡が風で消されてしまっており、どの方角が危険かすら見当が付かなかった。目立たないようにすることと身分を隠す以外に策は無かった。
食糧の確保、水の確保、安全の確保、それらが重くのしかかり疲労が蓄積して、旅は酷くかさついたものであった。
 やっと見つけたのは野犬の群れだった。飢えた二人は獣のように襲い掛かり全滅させた。血の処理問題はロングソードを高温にして焼切る手段をとった。その日はたまにはいいだろうと盛大に焚火を起こしてバーベキューをやった。

 「………」
 「………」

 人間は――エルフだが――極度に腹を空かせると一言も喋れなくなるらしい。
 セージとルエが焚火の前で岩を椅子代わりに腰かけている。二人揃って焚火を見つめており、視線の先には串肉がこれでもかと並んでいる。野犬は痩せていて肉はあまり多く採れなかったが、数が集まれば話は別である。
 肉が美味しくないだとか、調味料が無いだとか、関係ない。空腹を満たせればそれでよかった。ギラギラ血走った女の子と青年が焚火の前で微動だにしない光景はさぞ異様であろう。
 肉がジュウジュウと油泡を立てている。赤と朱色に晒されて黒っぽい煙を吐き、食欲を誘う匂いを上げている。焦げ目が目立ち始める。野犬が危険な病に感染しているとも限らないので中まで熱が通るまで待つ。
 セージのお腹が鳴る。空腹だった。お腹と背中がくっついてしまいそうとも、お腹が空きすぎて腹が痛いとも言える限界状態。唾液が口内を占領中。
 どちらがともなく手を伸ばすと、布を巻きつけて串を取り、肉を食らう。
 熱々の金属串に接触しないよう気を配りつつ、肉を歯でほうばる。筋が多いので歯で擦り切り、適量を食む。硬く、小さく、そして臭う肉はしかしすきっ腹にはご馳走だった。

 「あちち」

 セージは無我夢中で肉を食らっていた。
 熱さを唾液で相殺してやり、はふはふと声を鳴らしつつ肉を噛む。じわり広がる苦いような渋いような味わいが嬉しい。思い切って頭を使って串から肉を食いちぎり、一気に食べれば串を布の上に置き、次の串を取る。ルエは既に二本目に突入しており、中性的な外見をしていてもやはり男性なのだと意識させる食いっぷりを発揮していた。
 セージも負けじと二本目を食らい、三本目を取る。ルエは四本目だった。
 焚火が体の前面を熱くしていようが構わない。串を取っては食らい、飲み込む作業に没頭する。いつしか肉の数は減少して、最後の一本になってしまった。あると言えばあるのだが、残りは保存用であるからこの場で食べてしまうことは、愚かである。
 セージとルエは同時に手を伸ばし、そして同時に串を掴んだ。
 上品で、どこぞのお嬢様を思わせる顔立ちを打ち消す凶暴な光を宿した瞳が男を睨む。中性的で優美な顔に二つ存在する優しげな瞳が、食欲に燃えて、女の子の瞳を睨む。

 「………」
 「………」

 セージが引けば、ルエが引かれる。ルエが引けば、セージが引かれる。引いて引かれて引かれて引いて。串肉が二人の間を行ったり来たり。この間、一言も喋らない。焚火の中で薪が小さく爆ぜた。火の粉が昇り、夜空の星々に混じる。
 どうぞと遠慮する余裕は二人に無かった。だが、腕力で争うつもりも無かった。
 すっ、とセージが空いている方の手を握って出すと、ルエも同じく出してきた。

 「さいしょはグー!」
 
 セージの掛け声と共に二つのグーが上下するや、各々の描く勝利に向かって形を結び、繰り出された。
 
 「じゃんけんぽん!」
 「じゃんけんぽん!」

 セージ、グー。ルエ、チョキ。セージの勝利であった。
 実は、旅の道中でじゃんけんについて教えたのである。『こんな遊びしらない』と言われたので『俺が考えた』と言っておいた。セージのは兎に角、ルエの掛け声はイントネーションが呪文を唱えるそれであり、元の世界でやったら笑いの種にされてもおかしくはないが、ご愛嬌である。
 勝者には肉が与えられる。
 セージは肉を一口ほうばると、にっこり笑った。

 「………」
 「あまり見つめるなよ」

 セージは食事を隣から見つめる彼の視線に耐えきれず、そっぽを向いた。しかし、やはり視線を感じる。振り返ればひもじそうな表情でこちらを見つめてくる男一匹。育ち盛りの彼にとって敗北は絶望のどん底に等しかった。
 セージはため息を吐くと、肉を半分ほぼ食らい、串をルエの手に握らせた。

 「半分やるよ」
 「いいんですか? いいんですか! ありがとうございますっ!」
 
 幼子のように驚喜する様を見て、可愛いやつだなと思ったのは秘密である。
 食事を終えた二人は交替で睡眠をとった。









~~~~~~~~~
そろそろあのキャラと再会させたい今日この頃



[19099] 五十八話 旅道中にて
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/11 16:47
LVIII、



 温かさを求めてそれを抱きしめる。硬い構成の周囲を柔らかい物で覆ったようなもの。なんぞや、と鈍い頭は回転を始めた。それの前で組んだ手を使い、前面を触る。硬いが、木や金属のような組成ではなく、有機的な弾力が感じられた。次に嗅覚を使う。鼻づらを押し当てて、すんすん鳴らす。埃、使い込まれた布、汗、体臭。
 ああ、と唐突に理解する。
 これは人の背中だ。瞳を開けると、一面布。顔を離せば、誰かの背中とわかった。
 耳を澄ます。断続的な馬の小走りが聞こえてくる。
 鈍い感覚が体の上下振動を探知した。
 記憶が巻き戻る。ビデオテープのように。
 そこでようやく“女の子”は、己が馬に乗って誰かの背中にしがみ付いていると正確な認識を得たのである。誰かと言ったら、ルエ以外にありえない。証拠として、後ろで縛った銀髪が揺れているのを視認した。
 片手で顔を擦り、目元を綺麗にする。大あくび。視界が涙で俄かに揺れるとぼやけた。素早く瞬いて水分を飛ばす。首、そして上半身の順番でルエから離れる。首を振ってみれば朝日が眩しいことに気が付く。
 瞳を上げてみれば、明るい朱色の球体が地平線から顔を覗かせてあいさつしてくるところが映った。水に飢えた荒涼の大地を清らかなる光が温め始める。足から冷気が昇ってくる感覚を覚え、暖を取ろうとルエに背中に顔を押し付ける。温かかった。

 「おはようございます」
 「………おはよう」

 ルエが振り返らずにあいさつしてきたので、顔を背中に押し付けたままあいさつを返した。彼の声は酷く憔悴したものであった。
 彼は、危険を回避するべく一晩中馬を操っていたせいで、睡眠をとっていなかった。馬とて動物であるから、時々休ませなくてはいけない。更に敵襲を警戒して気を張り続けていたのだ、疲労の度合いはピークに達していた。
 セージに一晩抱きつかれるという役得を加算しても、精神と体力の疲労は消えない。
 朝日が昇って来て、丁度よくセージが目を覚ました。もう馬を止めても良かろう。
 ルエが手綱を操り馬足を遅くしていき、止めた。馬はぶるると唇を鳴らすと、地面の枯草をむしゃむしゃ食べ始めた。草食動物は草さえあれば幸せである。
 セージはルエの肩を馬上で揉み始めた。男性の筋肉は硬くて解しにくいことこの上なかった。

 「ありがとさん。後は俺が見張るから寝てくれよな」
 「……」

 こくりと彼は頷き、腰を押さえながら馬から降りると、手ごろな枯葉をベッドに繕って体を横にした。セージは馬から降りると、ぐるりと周囲を見渡して、何ものも居ないことを確かめると彼の横に腰を降ろした。
 程なくして、スースー気持ちのいい寝息が聞こえてきた。覗き込んでみると幼子のように可愛らしい寝顔があった。
 乗馬技術さえあれば後部にルエを乗せて移動し続けられるのだが、生憎技術が無いため、交替で進むことができない。だから彼の安眠を護衛するのが仕事である。
 干し肉をもぐもぐと食べつつロングソードを研ぎ石で擦る。
 ルエが寝てしまうとやることが警戒か食事か装備の整備しかなくなってしまう。暇を持て余したセージはナイフを研いで、クロスボウの弦を金具で締め直した。

 「ふーむ」

 クロスボウを神妙な目で朝日に翳してみる。飛距離、威力共に心許ないが、さっと構えて発射できて、どこにでも持って行ける遠距離攻撃手段としては十分である。二連式なので一発目を外しても二発目があるという安心感がある。
 ロウに貰ってからずっと使い続けてきたそれは、黒い塗装と照準器やグリップの滑り止めなど、どことなく拳銃を思わせる改造がされている。実はおそらくこの世界には無い先進的な武器――すなわち『銃』を作ってクロスボウの上位互換として携行せんとした時期があった。だが、どうにも止めた。実用に耐えない代物が出来上がってしまったのもそうだが、火薬を調達できないという問題を解決できなかったのだ。それならばよっぽどクロスボウの方が実用的である。
 さて、セージは馬の荷物入れから金属片を取り出すと鉄やすりでせっせせっせと削り始めた。三角の先端、後部は細い。完成したものは頑丈な木の棒に差し、固定する。クロスボウ用の矢を作っているのだ。敵を攻撃するだけではなく狩にも使えるから、いくら持っていても損にはならない。
 作業に没頭すること数時間。作れるだけ作ったら暇ができる。周囲の警戒をするべく立ち上がり、目を細めて一周ぐるりと索敵行動。何も無し。
 座り込み、えっちらおっちらストレッチ。継続して毎日やってきただけあって、セージの足は180°近く開く。吸って吸って吐いて吐いてのリズムで呼吸をしながら、体を右に曲げて、左に曲げる。

 「よっと」

 続いて前に倒れる。おでこを大地にキス。その体勢のまま手を背中の上でストレッチ。数秒静止後弛緩する。
 セージは立ち上がると、荷物からブラシを取り出した。馬の体を綺麗にしてやろうと思ったのだ。
 鐙付近が痒かろうと力を込めて擦ってやる。

 「よーしよしよし」

 馬が喜んでか否か長顔を向けて来た。地面から草を引っこ抜いて差し出すと美味しそうにむしゃむしゃした。顔も擦ってやる。蚤らしき小虫が跳ねたので指で潰す。一通り体を擦ってやった後、潮の塊を差し出す。定期的にあげないと体調を崩すのである。人間もエルフも塩分を摂らないと健康を害するのと同じである。馬は塩の塊をぱくりと食べた。
 一通り馬と触れ合った後は、やはり暇になる。
 近場に狩れそうな獲物も居ない。鼠がいればいいのだがと目を凝らすが、乾いた大地には小動物どころか虫の一匹すら認めることができなかった。
 仕方がないので手ごろな草を千切って成形すると、草笛を作った。
 吹こうとして、止めた。ルエが睡眠をとっていることを今更思い出したのだ。体育座りとなり一人じゃんけんで時間を潰す。すべての勝負で勝利し、そして敗北した。

 「ゲームあればいいのにな」

 呟いたセージは、苦笑した。あるはずがない。あったとしたら充電の手段を工面するのにあれこれ苦労するだろうと考えると愉快になった。
 そして、元の世界に置いてきてしまったゲームはどうなったかと考えた。恐らく遺品として今も部屋にあるのではないだろうか。
 虚無感が心に広がる。

 「………」

 何やら一人でいると気分が沈んでくる。
 沈黙して俯くこと数分間。面を上げたセージは起立して近場をウロウロし始めた。石を蹴っ飛ばす遊びもやったが飽きた。投げる遊びも飽きた。いよいよ暇を持て余したセージはロングソードを振るう訓練を開始した。ロングソードより魔術で燃やす方が楽とはいえ、訓練しておくに越したことは無い。

 「っ!」

 息を吐くや否や両手持ちの剣を斜め上から斜め下に振り、腰の構えで静止、すかさず仮想敵の顔面を突く。もし相手が剣を受けてくれたのならば魔術で燃やす機会が生まれる。だが仮想敵は突きを剣で流して方向を変えれば、力一杯振り下ろしてきたのだった。
 咄嗟にバックステップ。仮想敵、セージの剣落としを狙った強烈な叩き下ろしを実行。受け流す技量は無く、止むを得ず後退――した刹那、超至近距離からのクロスボウ二連射―――。
 そこで、クロスボウを抜いてしまった自分を発見し、肩を落とす。

 「……駄目じゃん」

 セージはロングソードを鞘に収めると、ため息を吐いた。
 ロングソードの特訓中にクロスボウを発射するなど、相手が居ないにしろ、柔道の試合に竹刀を持ちだすに等しい蛮行である。一通り剣の扱いは心得ているが、クロスボウをブチ込む戦法が楽で、つい腰から抜いてしまう。
 そこで、ウーンといううめき声が鼓膜を叩いたのだった。

 「おはよう!」

 セージはルエに声をかけると、干し肉を手渡した。









~~~~~~~
やや単調な展開?



[19099] 五十九話 交渉事がウマくいくためには
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/13 01:01
LIX、


 セージの予感は的中したとも言えるし、まるで的外れだったとも言える。
 北の国家の特徴である騎兵達が群れを成して北の方角から押し寄せてきたのだ。おかしなことにセージ達が旅してきた間のタイムラグを計算に入れると、辺境の基地の襲撃から時間をあけて本隊が来たようなもので、対処してくださいと言わんばかりの行動ということになる。基地の襲撃――もしくは進軍が陽動だったにせよ、敵方の戦力が集結するまで待ってから本隊を進めるなどと言うのは奇妙である。騎兵の利点である機動性を活かした戦術をふいにしたも同然である。
 ――実は、基地を襲撃したのは北の国家の軍ではなかったのだが、セージは知る由も無い。

 なんとか小さな町に辿り着いた二人であるが、通貨も交換できる物品も持っていなかったので、野宿をした。一応、連合国の町なので襲われる心配は無く、井戸を使えば無尽蔵に水が手に入るとあって、のんびりすることができた。念には念を入れて耳は隠して生活した。疲れを癒してもっと大きい街へ逃げる予定だった。
 耳は隠したが、外部に耳をやらなかった。
 ある夜、それなりの規模を有する騎兵達がどかどかとやってきた。町の乏しい防衛戦力と睨み合ったが、衝突すれば騎兵の津波で踏みつぶされることは明白であった。彼らの司令官らしき男と、町の代表者が話し合いに入った。町はいずれ北の国家に受け渡されるだろう。蹂躙されるのと、食糧や労働力の幾分かを渡して命を助けてもらうの二択しか提示されないだろうから。
 町はほぼ占領状態にあった。セージとルエが気が付いた時には既に町中に兵士がうろつくまでに事態が悪化していた。
 “女の子”は布をローブ風に仕立てた服を纏い、旅商人を装っていた。ルエも同じく旅商人に成りきっていた。エルフは連合所属の戦力であるから、耳を露出させてはならなかった。
 なんとか機会をうかがって町から抜け出さなくてはいけないというのに、悪いことに兵士達は町を封鎖して住民一人一人を調べ上げようとしていたのである。もちろん、旅人もである。町で略奪を働かない辺り、統制のとれた誇りある軍隊なのかもしれないが、敵兵となれば話は別であろう。
 セージは腕を組んだまま、壁にもたれかかっていた。さっと目くばせをする。
 夕日が地面を闊歩する時間帯と、ローブのフードが相乗効果を出し、彼女の顔は暗黒の中にあった。

 「どうする?」

 囁く。
 町を抜け出そうとすれば、兵士に呼び止められて素性を明らかにせよと言われるだろう。身分証明など必要ない。顔を見せろと命令され、フードを脱げばエルフと発覚、捕虜となるか殺されるかである。
 早く対処に移さなくては、大勢の兵士に囲まれた状態からの脱出をすることになる。大立ち回り(ドンパチ)は避けたい。
 ルエもまた、腕を組み、口を開いた。

 「賄賂はどうです」
 「いいね。通貨、宝石、貴重品、なんか持ってるか?」
 「全く」
 「短剣は賄賂になるかね」
 「厳しいです」

 セージがルエの腰を指さす。ルエは腰の短剣を取り出すと、鞘から抜いた。煌びやか、豪華、と言った表現からは程遠い、術の掘り込まれたそれ。宝石も貴金属の欠片も使われていない質素な短剣は賄賂にならない。ロウの品となれば価値があるかもしれないが、証明したら証明したで怪しまれる。
 二人が自給自足の旅を続けてきたことから分かるであろうが、無一文である。通貨の一枚も所持していない。
 ミスリル剣があればよかったなとセージは悔やむも、どうにかなるでもない。
 唯一価値がありそうなものと言えばそれしかないと二人が一斉に目を向けた先にあったのは、のんびりと地面を蹄で掘り返す馬であった。健康状態も良く、気性も大人しい。毛並も美しい。

 「それとも、俺がちょいとばかり色気でも使ってみるとか」

 馬の鐙をぽんぽんと叩き、おもむろに提案してみる。胸は無いけどと付け加えて。
 セージは美少女である。鏡に映った姿や、男の子の反応などから、己の外見が美しいと理解しているのだ。長旅と戦のストレスで性的欲求の高まった兵士を釣るのは容易いであろう。
 だが、ルエが頑なに拒絶した。首を振り、短剣を腰に差す。

 「いけません。僕が許しません」

 セージが喉をくつくつ鳴らしつつ壁際に戻ると、演技臭く腕を組んで肘でルエの体を突っついた。

 「……ふーん、色気を使って呼び寄せたところで服を奪おうかって言おうと思ったのに。いやらしい想像でもしてた?」
 「………」

 ルエ沈黙す。
 してやったり。深読みを誘ってみたところまんまと引っかかってくれた。詳細は口にせず曖昧にぼかすことで相手の想像を擽ってみたのだ。狙いは的中した。
 セージはフードの位置を直し、耳に触れて外から見えない位置にあるのを確かめると、頭を振る反動で壁から離れ、馬の手綱を握った。

 「ウダウダしてらんないぞ。行くぞムッツリ」
 「ムッツリ!?」
 「……大声出すなバカ。とっとと賄賂渡して町から逃げないと、後悔しても仕切れなくなる」
 「す、すいません」

 セージが歩き出すと、ルエが後ろに続く。そこでふとセージは面を上げると夜空を睨んだ。懸念材料があった。そしてそれは、身の破滅を呼び寄せる可能性を孕んでいる。

 「賄賂が通用しなかったらどうしようか」
 「命に代えても守ります」

 淀みなく答える男に、心中にさざ波が立つ。相手が抱く好意から生まれる意欲であることを理解していても、真正面からキザな台詞を吐かれると、精神も、心の臓も乱れる。
 だいぶ体に心が引っ張られてきたか。例えようのない寂寞を味わう。
 唇を硬く結び、歩き出す。向かう先は町の外。道を見張る兵士の居るところだ。下調べの結果、一人しか兵士が居ない通路を見つけてある。

 「止めろよ、自分だけ逃げりゃあいい。むしろ里の長老の弟であるお前の方が、俺に守られるべき」
 「里は兄が居れば安泰です。僕はしたいことをします」
 「俺に価値は無い」
 「あります」
 「……フン、恥ずかしげも無くよくぞまぁ」

 道を曲がる。馬は従順に引かれてついてくる。ボロ屋の横を直進。右折、小道から町の外へ出ると、小道にあるこれまた小さな門の前で槍を右に携えた軽鎧の兵士が道を通せんぼしていた。目を凝らしてみると、門の外に馬に乗った兵士がおり、ぼーっと空を眺めている。数分前には居なかったはずだが、今更引けない。
 接近してくる怪しい風貌の二人組を目にとめた兵士は、槍を構え、冷たい声を浴びせかけた。

 「止まれ! お前達、何者だ!」

 セージはへこへこと頭を下げつつ、平素の男っぽい乱暴な喋り方を封印して年相応な可愛らしい声色を使う。兵士に一歩一歩距離を詰めた。兵士が退く。一歩詰める。距離は変わらず。

 「お忙しいところゴメンナサイ……私達、旅の商人の者なんですが、お兄さんと取引したいんですよぉ」

 猫なで声を使ってみる。
 セージは背筋に鳥肌が立つのを感じた。自分の声なのにである。

 「………そっちのお前はなんだ?」

 兵士が仏頂面でルエを顎でしゃくる。門の外にいる兵士がこちらを睨んでいるのが、兵士の肩越しから窺えた。
 セージはまたも頭をさげると、口元に柔らかい笑みを浮かべてルエの肩付近をゆっくり叩いた。

 「お兄ちゃんです。私たちのことはいいとして、お取引しませんか?」
 「………言ってみろ」

 セージは、兵士の眼球の奥底で興味の光が蠢くのを見逃さなかった。
 ここぞとばかりに擦り寄っていくと、兵士の手を握った。硬くてごつごつした手。兵士は振りほどこうとしたが、胸元に引き寄せると大人しくなった。上目遣いに兵士の顔を覗き込む。存外若かった。
 門の外で監視を続ける兵士が、馬で近寄ってきた。曲者かと警戒しているらしい。

 「実はお兄ちゃんが商売で失敗しちゃいまして、すっからかんなんですよぉ。知り合いの旅商人がすぐそこまで来てるっていうので、家まで送ってもらおうかと」
 「それで?」
 「だから、お兄さんにこの子をお譲りします。どうです? それなりのお値段にはなるいい馬でしょう? ちゃんと蹄鉄打ってあります。そうそう、何を隠そう元は軍馬です。もちろん鐙とブラシなんかも差し上げます」
 「……ふーむ……」

 兵士が馬の検分に入った。言葉通りに蹄鉄は打ってあるし、健康状態も良い。筋肉の付き方、毛並、顔、若さ。田舎で農業に用いられる馬とは違うと判断する。
 相手に考える隙を与えると怪しまれる。今しがたの説明にだって致命的な大穴が空いているのだ。疑問を投げかけられるのは時間の問題だった。
 先手を打つ。
 セージはセールストークをつらつらと流し終えるや、馬の手綱を握らせてウィンク一つ。外に出たいから馬を賄賂に黙ってくれということである。兵士は黙って手綱を見つめると、おもむろに空を仰いでこう言った。
 ちなみに空は闇が大部分を覆い隠しているだけではなく、紙を丸めたようなグシャグシャ雲が四割を占めていてお世辞にも『晴れ』とは言い難い様相である。

 「ああ今日は晴れてるなぁ」
 「おい、そいつらは何者だ」

 馬に乗った兵士が門のすぐ手前までやってきて、セージとルエを順番に指差した。町の外に人を出すべからずと命じられているのだ。
 すると、賄賂を渡した兵士は馬に乗った兵士に頷くと、馬を槍で示し、次に町の外を示した。馬に乗った兵士は小刻みに数回頷くと、さっさと行けと言わんばかりに手をひらひらさせた。

 かくして二人は町からの脱出に成功したのだが、馬と言うアシを失ったのであった。










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数日間忙しいですあしからず



[19099] 六十話 円卓
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/17 13:39

 「さて、今日集まって頂いたのは他でもありません」

 よく通る美声が部屋に投げかけられた。それは議論の始まりを合図していた。
 岩造りの部屋に集りたるは、各エルフの里の長老の地位に座る者達である。セージが最初に訪れた里の長老、渓谷の里の長老、巨老人、全身甲冑と長大な剣を背負った長老、漆黒のドレスに身を包んだ長老、胸と腰布という薄手の長老、白獣の毛皮服を着込んだ長老など有力な外の長老が勢ぞろいしていた。他の小規模な里は危険は冒せないとのことで参加していないが、代わりの特使が参加していた。
 円卓は空席が目立つ。かつては席が全て埋まったが、現在では里が合併したりして減ってしまったのだ。潰されてしまった里もある。
 『大陸』――特にこれといって統一された名称は無いが――というのは、この世界の大地の大半を成す広大な大地のことである。セージの世界におけるオーストラリア大陸によく似通った陸の形をしている。中規模の大陸や、その他島々と比べれば、まさに世界の全てと称しても過言ではない超大陸である。
 いくつかの陸地が星の熱還流によってくっついて出来上がった関係上、大陸の中央は巨大な造山帯によって隔たれている。
 エルフの里は『大陸』のあちこちにまるで吹き出物のように分布しており、多くは東側に集中している。理由は簡単である。西側の里の多くは王国に潰されたのだ。
 位置関係は大陸の西側が王国、東側が連合国、そして北に件の国家達である。がしかし、東側にも王国の領土は存在するし、西側に連合加盟国が存在し、北には頑なに中立を守り続ける国があり、南は未開の民族たちが数多くいるなど、それぞれの勢力が一色であるとは限らないのである。
 情勢は難しく、今後どう動くかによってエルフの里の行く末が決まってくる。
 そこで数年ぶりに長老達による会議が開かれたのだ。
 重厚な岩造りの部屋のど真ん中には円卓が置かれ、長老たちが腰かけている。部屋の内外には警備の兵士が詰め、物々しい雰囲気が漂っていた。各長老の前には書類が置かれ、とある青年のところには地図立てがあった。
 その青年は懐から棒を取り出すと、長老達に対して意見を求めて、今後どうするべきかを決めるべく地図を指し示した。銀髪を腰まで伸ばし、風変わりな眼鏡をかけた彼は、あたかも女性のような容姿をしていた。ルークである。今回の会議の司会は彼なのだ。

 「今後、我々がどう動くかと言うことについてです」
 「決まっている」

 まず静かに意見を出したのは全身鎧に大剣という物々しい装備の長老であった。その人物の里は伝統的に強い者が長老になるという策をとっており、その人物もまた強き者であった。名をヴィーシカといい、鉄の里を治めている。彼、もしくは彼女は机を拳で叩いた。鎧の中を目にしたものは一人もいないとの噂で、事実長老達でさえ未知である。ドラゴンと死闘を演じた際にブレスを吸い込んでしまい喉が潰れたと語られており、声は酷くザラついた音程の不安定なものである。
 ヴィーシカが声高に主張した。
 ヴィーシカの考え、希望、思想は一つに収束するのが常である。一部では戦いしか頭にないのかと蔑まされてている。

 「殲滅だ。王国軍を一人残らず血祭りにあげるのだ」
 「本気で仰ってるの?」

 小馬鹿にしたような言葉が紡がれる。一同が顔を向けた先にいたのは壮年の喪服の女。彼女の名前はエステルといい、「暗黒谷の里」を統べている。陰気な印象のある里で知られているが、戦を好まず、言葉による解決を好むことで知られている。里の中でも諜報戦に長けており、スパイの数が軍隊並みという逸話を持つ。
 エステルは書類をぺらぺらと捲ると、ベールの奥であからさまな鼻笑いをやってのけた。

 「王国にかまけて北の蛮人共は無かったことにするつもりかしら?」
 「北も潰す。残らずな」

 ヴィーシカは微動だにせず受け答えをした。呼吸で鎧が上下することも無く、まるで銅像が喋っているようだった。
 エステルが話にならないとばかりに首を振った。

 「それはよいことね。戦力をどう調達するのか興味があるわ」
 「北と調停を結ぶ。我々は既に行動に移している」
 「舐めないで欲しいわ……私の里も既にやっているの。連合国もそう考えているでしょうね。東と北から挟み打てば大陸から蹴落とすことも難しくない。結べればの話よ。王国が北と交渉している情報を知らないとは言わせない」
 
 エルフ側のスパイの報告では、王国もまた北と手を組んで連合を追い詰めようとしているということが判明していた。いわば北の戦力をなんとか引きこもうと躍起になっているのである。
 エステルは首を振ると、やや大げさに肩をすくめた。

 「まるでおかしな話よね……宣戦布告した国ともう一度仲良くしましょうだなんて。万が一、北が裏切るようなことがあれば、裏切られた方は破滅する。私、博打は打たない主義なの」
 「フン、怖気ついたか」
 「いいえ? 内部紛争に権力争い……自浄作用の落ちた王国を崩す手段を模索しているだけだわ」

 『ブルテイル王国』―――古くは極西で発生した民族を先祖に持つ君主制の大国である。かつては小国に過ぎなかったが、群雄割拠時代を生き残って、勢力を落とした国家を吸収して膨れ上がり、植民地政策で莫大な財を成した。エルフ迫害を推奨することから、エルフ側では王国憎しとの声は大きい。
 連合国の結成と反撃で勢力を落とし、王国内部で亀裂が走っている。エステルはそこに付け込んで内部分裂を誘発せんとしているらしいが、歯に物が引っかかったような喋り用だった。
 ヴィーシカが鼻を鳴らした。

 「その様子だと王国と北の両方共に話が纏まらなかったようだな」
 「……」

 険悪な雰囲気漂う二人に割って入るように、巨老人が挙手をした。他の長老達より頭二つ以上抜き出ている彼が手を上げると、天井が相対的に低くなる。
 ルークが発言を許可する意味合いで指差すと、巨老人は大きく頷き髭を弄りつつ喋りはじめた。

 「儂の考えは、やはり我らが本格的に戦うべきであるということだ」
 「大勢を変えようと言う時に、戦場で斧振るって一人一人チマチマ潰しましょうという提案なら却下だわ」

 ぴしゃりと言い放つエステルを内輪のような大きな手で制し、ルークの傍らにある地図を見遣る。

 「我らエルフ族の勇士を植民地の人間に見せつけるのだ。彼らが立ち上がれば戦力の不足も補えようぞ」
 
 王国が抱える植民地は大小国以下の部族を含めると相当な人口を有する。もしも労働者や奴隷が反旗を翻して王国に戦いを挑んだら状況は一変するだろう。だが、この提案には穴があった。
 エステルが口を開こうとする前に白い毛皮を着た長老が手を挙げ、ルークに発言の許可を求めた。押し黙るエステル。彼――ボルトが厳かに口を開く。
 ボルトは北の国家達でさえ手出しができない雪の深山の里を統べる長老であり、白毛皮の服は己が魔術も武器も使わず格闘術だけで仕留めた熊のものをなめして作ったという伝説を持つ。

 「巨老人よ、お主の考えは素晴らしいがいかにして植民地の子犬共を立ち上がらせるつもりなのか」
 「植民地に赴き、剣を天に掲げよう」
 「耳は削ぐか」
 「否、だ」
 「是非も無し」
 
 それきりボルトは腕を組んで口をへの字に結んだ。
 ボルトは寡黙な人物である。必要なこと以外は喋ろうとしない。だが一同には会話の内容を察することができた。
 耳を削がない――すなわち人間達がよく知る姿のエルフを派遣して植民地に王国に武力を振るうように導こうと言うのだ。王国に対する植民地の不満は高まっており、成功する見込みはある。だが、危険性はある。ルークが眼鏡の縁を人差し指と中指で持ち上げつつ発言する。

 「植民地へ王国が全力で戦力を傾けてきた場合、反抗戦力は飲み込まれてしまうでしょう。そうなれば事前に察知して避けない限り、捕まってしまいます」

 ただでさえ不満が溜まっているであろう王国の軍隊のど真ん中でエルフが放り出されたら、結末はボロ雑巾より悲惨である。徹底的に甚振られた末に比喩表現ではなく本当に地面に埋められるだろう。そうでなければ例のダークエルフのように改造を受けて傀儡化するのがオチである。
 エステルが頷くと椅子に深く腰掛け直した。

 「そうね、もしエルフが捕まるような事態が起これば、彼らの溜まりに溜まった鬱憤を晴らすオモチャにされてしまうわ。連合国と共同で作戦を遂行しなくては戦力を悪戯に浪費するだけ」
 「少しよろしいか」
 「どうぞ、ジェリコ氏」

 発言の許可を求めたのは、セージが最初に訪れた里の長老だった。彼は背筋をぴんと伸ばし起立すれば、身振り手振りを用いて疑問を投げかけた。

 「反乱に期待するのは結構だが、そのような不安定な要素を策と言っていいものなのか疑問だ。反乱が起こらず、逆に王国に売られたらと不安が残る。それよりも北の連中に期待した方がいい」
 「あら、話を蒸し返すつもり?」
 「違います。私は別方面からの交渉を考えているのです」
 
 ジェリコは咳払いを一つ零すと、手元の地図を手の裏で軽く叩いた。そこには北の広大な大地が広がっており、四つの部族名が記されていた。
 実は、北の国家達というのは総称に過ぎない。四つの巨大な部族と、数えきれない少数の民族がそれぞれに国を自称しているので、『北の国家達』として扱っているのである。とある部族曰く『あの部族は我々が支配しているので、あの部族と合わせて一つの国である』。一方、彼らが言う『あの部族』によれば『奴らは我らの奉仕部族である』と、まるで一貫性がない。
 かといって弱小集団の寄り集めと侮るなかれ。一度戦闘が起きると各部族間が血のつながりや契約で集結して軍隊と化すのだ。規模も部族という枠を超えており、王国や連合国とタメを張れる。
ジェリコは地図を再度叩いた。

 「ムー族とカルディア族が対立しているのはご存じの通り。戦争中ということで手を組んでいるが、その昔の確執を忘れてしまったわけではない。ムー族と手を組み、部族を退けることは不可能ではないと考えているわけであります。幸いにもムー族は連合諸国と商売をやってきた積み重ねがあります」

 ムー族。東西間を行き来する長距離貿易で財を成した一族で、カルディア族とは古くからの商売敵として度々戦闘を行ってきた経緯を有する。また連合諸国とは商売で提携する仲である。
 だが、そう事が上手くいくはずがないとルークが指摘すれば、数人が同調した。巨老人、ヴィーシカ、名も無き辺境の長老の順である。

 「ジェリコ氏、よろしいですか。ムー族と連合の武力的衝突で双方に犠牲者が出ています。ムー族は連合諸国と強い結び付きがあるといっても、血が流れた以上戦いを続けるでしょう」
 「あやつらの事だ……連合に自らの力を見せつけたがるに違いない」
 「連合に大打撃を与えれば連中の商売もはかどるようになろうよ」
 「手札が必要ですな」

 ムー族に限らず北の遊牧民は誇りを命より大切にする者が多い。誇りと部族の為なら命を喜んで捨てるので戦場では恐るべきキリングマシーンと化すがこの話はまた別で記そう。
 一度戦場で剣を交えた相手は、殺して首を刈り取らなくてはいけない。今更休戦して手を結びましょうと持ちかけても、使者が二枚に下ろされる笑い話が生まれるだけである。
 エステルが顎に手をやり、ジェリコを見遣った。

 「……なるほどね。特権を取らせるということかしら」
 「その通りだ。喪服の姫君は聡明であるようで。特権……とくれば目の色を変えるでしょう。商売敵であるカルディア族を圧倒できるでしょうから」
 「……ひょっとして皮肉かしら……まぁ、褒められてもうれしくないわ。連合にかけあってみなければならないわね………特権を一部族に認めさせること……はぁ~……どうして私が思いつけなかったのか、落ち込むわね……」
 「連合を動かすネタをお持ちで?」
 「舐めないで。あるわよ。使うまいと仕舞い込んでたとっておきのが」

 連合を動かすには対価が必要だった。どんな特権であれ巨額の富が動く貿易に関係する事柄なのだから、それに匹敵する事象が入用である。エステルはそれを持っているらしかったが、明らかに渋っていた。

 「不足しているのならば私も力を貸しましょう」
 「不要よ」
 「あー、ちょいとばかしいいかねー」
 「マーレ氏どうぞ」

 円卓に一本の手が掲げられた。
 ルークが発言を許可すると、その人物は頭をポリポリと掻きつつ起立した。
 彼女の名前はマーレ。温暖な地域特有の薄着に身を包んだ身体の凹凸激しい美女である。ルークと同年代という若さながら南方の里と人間の部族を統べる有能さで知られ、大規模な艦隊を運用していることでも知られる。
 マーレは豊満な肉体を見せつけるが如く右手で左腕を握った。無意識のうちにやったらしかった。

 「話をー蒸し返すわけなんだけど、植民地に立ち上がらせることは私らの里に任せて欲しいんだわ。地図を……やー、ルークさんルークさんお隣失礼しますよう」
 「どうぞ」

 マーレがルークの横にやってくると、地図を指さして説明を始める。鈴の鳴るような声が部屋に響く。
 楕円の爪を地図に宛がい、水色の線を追う。

 「ただ反旗を翻せと言ってもお断りするのが人間ってもの。そこで私達が船で川を遡って物資と人員を補充してやって元気をつける。ワイバーンは可愛いけど……じゃなくて運べる荷物が少ないから、船でやった方がいいでしょ。エルフだけ送るよりマシだと思わない?」

 植民地は労働力の大部分を担う男手は戦争にとられ、資源は片っ端から王国にとられ、領土は無いも同然の苦しい境遇に立たされている。下は農民から上は政治家まで困窮していていて戦争どころではない。不満が溜まっているとは言っても剣もない矢もない食糧の備蓄も無いという状況では、行動に移す以前の問題である。
 そこでマーレはご自慢の船団を利用して物資や人員を輸送しようというのだ。
 大陸を流れる大河は一級船であっても楽々通過することができる。大規模輸送にはうってつけだった。
 新たな疑問を投げかけたのは、エステルであった。

 「作戦は素晴らしいわ。輸送の手間と物資人員は誰が負担するのかと言うことを訊ねたいのだけれど」
 「心配は無用ー。エルフの志願者は集っちゃうけど、必要物資と経費なんかは私が全て負担する」
 「怪しいわ、みんなに頭を下げるのかと思っていたのだけれど」
 「せっかくの機会よ? マーレ印の船がエルフを乗せて国を救った! 信頼と安心を擦り込めるじゃない」
 「たくましいわね……商売上手だわ」
 「ありがとう! ということで、みなさん、志願者の件をお願いねっ」

 皮肉ともとれるエステルの言葉にもマーレはにこやかに応じ、着席した。
 戦争を左右する議題は消化した。
 次は各地の情勢について話し合うべきだった。皆が不足しているものを挙げていき、里同士で融通可能なものを議論した。例えば金属資源。魔術用品。人手。金。余っている物同士の交換の約束など。紙面で議論すると時間だけ食われるのでせっかく集まった今を利用せんとして細かな意見交換も行った。最後には世間話――孫が生まれたからどうの、近頃体調がどうのという話もした。
 エルフ勢の方針は、北のムー族を懐柔すること。植民地の反乱を誘発し、同時期に連合国軍を進軍して王国軍を蹴散らすことと決まった。正面切って戦闘に参加することは議題に上がることは無かった。エルフの数が少ないのだから仕方がない。
 円卓会議が終わった後のこと。

 「時間頂けないか」
 「あらん、なにかしらヴィーシカ」

 会議室の外で二人の人物が話し込んでいた。甲冑姿のヴィーシカと、軽服姿のマーレである。ヴィーシカがマーレを呼び止めたのである。
 マーレにはヴィーシカが真剣な顔つきになっているのが兜の奥から漏れ出す雰囲気が文字となり浮かび上がるが如く理解できた。

 「植民地へ行く志願者についてなのだが………」










~~~~~~~~
難しい……
やっぱ個人を焦点に当てた話が一番です……



[19099] 六十一話 賞金稼ぎ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/18 13:16
LXI、



 戦時中とは危険がつきものである。
 治安維持の空白を狙った盗賊や、脱走兵、傭兵かぶれ、スカベンジャーなどが国内外問わず徘徊しているのだ。賞金稼ぎもまた、空気のように地上をうろついている。
 セージ達が遭遇したのは賞金稼ぎは賞金稼ぎでも、エルフを狩る者達だった。

 不幸な出会いはとある町に近づいた時に起こった。
 町から何やら一団が出てくる。旅商人を装っていればばれないだろうと高を括った二人に引き寄せられるが如く馬に乗った武装集団がやってきた。彼らは何やら紙切れと二人を見比べているようであった。
 ルエが傍らの“女の子”に耳打ちした。

 「エルフ側の迎え……とは思えませんね」
 「連合の救出部隊にも見えないな……盗賊か?」

 警戒を強める二人は、迂闊に動けなかった。
 下手に荒事を起こせば相手が攻撃の正当性を得てしまうからだ。
 逃げ出そうにも相手は馬でこちらは徒歩。逃げ切れないのは目に見えていた。
 馬に乗った彼らが前を塞いだので二人は左右を抜けんとしたが、また馬で塞がれる。大回りしようとしてところ馬で通せんぼ。後退せんと振り返れば、斧を構えた大男が二人馬から降りてこちらを睨みつけていた。総勢十人はいようかと言う集団に囲まれていい気分はしない。フードが耳を覆っているのをさりげなく調べれば、丁寧な口調で訊ねる。旅商人を装うべく鞄を揺らして見せる。

 「先を急いでいるのですが……」

 するといかにもと言った威圧的な風貌をした軽薄そうな男が馬上で顎をしゃくる下品な動作をした。煤けた緑の鎧が印象的だった。

 「お二人さんに時間は取らせねーぜ? まぁ、そのウザッたいフードを脱いでくれれば去るさ」
 「フードなんてどうでもいいじゃないですか」
 「どうでもいいかどうかは俺らが決める。早くしろガキ」

 言うなり男は腰の剣を抜き、切っ先をセージの顔元に近寄せてきた。フードを剣で退かそうと言う魂胆らしかった。手で払えば怪我をする。一歩引き、顔をそむけて対処する。フードは生命線である。北の騎兵達がうろつく場所においては耳を隠す重要な衣服なのである。態度から賞金稼ぎの類であると分かったので、フードは取らない。
 なぜ居場所がばれたのだろうかという疑問は、今考えるべきではなかった。二人は行動を迫られていた。
 セージはドンパチは御免だとニコニコ笑ってみせると、フードに手をかけて降ろした。ただし耳は巧妙に手元で陰に入れることで遮蔽した。ルエもセージに倣いフードを降ろす。

 「何も無いでしょ?」
 「申し訳ございません。妹は少々反抗期なもので」

 『設定上』二人は兄と妹であるため、ルエがセージを妹扱いして頭を小突いた。セージは文句を言わず受けた。
 フードを降ろしたことで顔が面に出たが、相手は頷かなかった。

 「オイ……ふざけてんじゃねーぞ、五数える間にフード取らないと服ひっぺ剥がしてやる。下まで降ろしやがれ」

 彼は目を吊り上げ苛立ちを露わにした。二人は悟る。顔を出して追及を引っ込めなかったということは、目的は顔に非ずということであると。耳を見せろとはっきり言わずとも、理解した。彼らは危険だった。ルエは経験がないようだったが、セージはこの手の乱暴者はどうすべきか身に染みて理解していた。
 一団の殺気が蔓延し始めたのを感じた。肌が焼かれるようにチリチリとする。首筋に鳥肌が立つ。それとなく手を降ろすと、セージはクロスボウを。ルエは短剣に触る。
 セージ、ルエ共にとうの昔に覚悟は決めていた。
 いつの日かエルフを捕まえてやろうと意気込む輩と相まみえるであろうと。
 セージは相手がいちを数える前にルエの横っ腹を突き合図。に、と唇が動く瞬間にはルエはセージの意図を読み取り身構えていた。長年の、とまではいかなくとも同じ釜の飯もとい獣の肉を食らってきたのだ、場の空気と行動一つで情報伝達は可能だった。

 「みぃーっつ……よーっつ」

 取り囲む男達が一斉に武器を抜き出した。多くは剣や槍ではなく、捕縛器具付きの棒や、痺れ薬の類が仕込まれているであろう吹き矢であった。一斉に寄ってたかって蛸殴りにされれば二人は一たまりも無く地に伏せるだろう。
 男は柄を握り直し、更に切っ先をセージの顔に接近させつつ、5を数えた。

 「いつーつ」
 「やれ!」

 号令があるや、ルエと男たちが一斉に動いた。ルエは自己防衛。男たちは捕縛の為であった。

 「“旋風”!」
 「……なんっ!? “守りの壁”!!」

 ルエが抜剣、短く詠唱した。反射的に軽薄そうな男が魔術で守りを展開した。
 短剣が神々しく光り輝いた。術紋がイメージ補強媒体と魔力の効率的運用を補助する。完全な制御化にある風は術者とセージを台風の目に、害をなす存在にのみ牙を剥いた。
 馬が転ぶ。積み荷が中身をブチ撒けた。軽装の者は木の葉のように空へ舞い上がり、重装備の者はおもちゃ同然に地面で弄ばれ砂と口付けた。だが中には地面に剣を突き立てて耐える者、馬にしがみ付いて空へ舞うことを防いだもの、魔術による防壁で風を受け流した者がいた。その数、五人。

 「やはり、てめぇらエルフか!」

 男が威勢よく指差した。風でフードが剥がれ落ち、特徴的な尖り耳が露わになっていたのだ。
 セージはにやりと白い歯を見せつけてやった。

 「ご名答!」

 一団を纏める頭らしき軽薄そうな男は、薄い唇を噛み締めてセージに斬りかかった。彼は咄嗟に魔術を唱えて風を防いでいた。人間にも魔術を使えるものは居るのだ。
 真正面から力のせめぎ合いをやるのは、馬鹿である。体力に乏しい女の子の選ぶ戦法として最低のものである。戦いは常にのらりくらりとしてなくてはいけない。
 剣をロングソードで迎撃した瞬間、すかさずバックステップを踏んで腰位置からクロスボウを二連射せん。
 だが、矢は男の鎧に命中し、ぴたりと止まってしまった。ただの皮の鎧ならば貫通を許すはずにも関わらずである。
 男はロングソードによる刺突を実行した。

 「無駄だァァ!」
 「堅い!? ええい!」

 点の攻撃を面で打ち払う。火花が散った。男の突きを只管叩いて落とす。
 男の攻勢は剣をまるで槍のように扱う嫌らしいもので、しかし顔面や腹部を決して狙おうとせず、足や腕などを集中して突くと言う、捕縛を諦めていないことを示していた。
 男が腰を引いたその瞬間、空気の塊があたかも鉄砲水のように放たれ、数人を巻き込みつつ蹂躙した。セージが眼球を横に向け、また戻す。背中から風の翼を生やして防御体勢を整えたルエによる魔術砲撃だった。一度風の衣を纏った彼には真っ当な攻撃は通用しない。矢を放てば進路がねじ曲がり、魔術は四散し、斬りかかれば吹き飛ばされるのだ。ルエに手出しができなくなれば、必然的にセージに攻撃が集中するが、想定の範囲内であった。
 明白な殺意をもって斧を振り被る大男に、めんどくさそうに手を翳す。

 「“火炎放射”」

 元の世界の火炎放射器そっくりな火の迸りが人差し指から生じ、大男を抱擁する。同じ型の斧を握りしめたもう一人の大男にもかけてやる。あっという間に火達磨が二つ完成した。地面を転がって鎮火を試みる二人に構わず、飛来する複数の吹き矢を大気の噴射で緊急回避した。イメージはルエの風の翼そのものである。
 セージは跳躍し、大気の噴射を用いて放物線を描くことを拒絶した。まるで氷上を滑るが如く低空を高速で飛び、やっとこさ立ち上がった一人の男の横っ腹を斬りつけた。

 「ぐおっ……」
 「あばよ!」

 一撃離脱。
 ロングソードを握り直し、大気噴射で方向転換。地に轍を刻みつつ走る、走る、走り、跳ぶ。向かう先は軽薄そうな男。鎧が頑丈なのは承知していた。斜め上から斬撃をもたらす経路を取り突っ込む。男は辛うじて横っ飛びに避けた。だがこれは布石だった。足一本を設置して軸とすればくるり一回転、魔術を投げつけん。

 「“火炎弾”!」
 「なん、糞ォ!」

 セージの拳からバスケットボール大の火の玉が発生、男の胴体に吸い込まれた。小爆発。男が仰け反り転倒した。心臓に近い場所に魔術を叩き込んだのだから戦闘はできまいと次の標的を探そうとしたセージに、攻撃を仕掛けてくる者が居た。先ほどの男だった。全身火達磨になるでもなく、あろうことか鎧に焦げ一つ無かった。
 驚きを隠せず、不意を突かれた格好となった。
 男が剣を振り被る。

 「しゃあああああ!」
 「あっ!?」

 体重を乗せた正面振り下ろしを捌き切れず剣が手からすっぽ抜けてしまった。剣は離れた位置に突き刺さった。サブウェポン兼日常用品であるナイフを抜き、相対せん。

 「貰った!」
 「甘い!」

 横から伸びる槍を寸でのところで踊るようにステップを踏んで避け、顔面をナイフで斬り付ける。敵が崩れ落ちた。蹴っ飛ばす。
 軽薄そうな男は鬼のような顔で剣を操り、無防備なセージの胴体へ刺突した。
 セージは魔力の消費を考慮しない膨大な噴射を実行して飛び上がると、軽業師よろしく男の上空を通り背後に跳躍、着地、前転して柄を握る。剣を回収。腰を落した姿勢で構える。
 男がロングソードを弄びつつゆっくりと接近してくる。
 セージは見た、鎧が健在なことを。

 「………随分と頑丈な」
 「エルフってのは、耳に栄養取られて脳味噌が無いのか? ドラゴン皮に火を投げつけるアホはお前が初めてだ」

 男はあきれた顔でセージを馬鹿にした。そう、彼の着込んだ鎧は貴重なドラゴン皮製だったのだ。高温ブレスにさえ耐えると言う耐熱性と、鉄の矢を文字通り皮一枚で受け止める強靭な素材で作られた一品は、セージの魔術や小型クロスボウを遮断する防御力を誇る。生半可な打ち込みでは鎧を貫けない。戦術変更を迫られた。
 男が右指をパチンと鳴らすや、ルエの砲撃から逃れた一人がセージの背後から強襲をかけた。完全に不意を打たれた。ルエの作り上げた風の刃が無作法な強襲者を膾切りにしなければセージは死んでいただろう。鮮血がセージの背中を汚した。敵は倒れ、肉の塊となりて沈黙した。
 気が付けば男は仲間を全て失っていた。
 セージ一人、ルエ一人を相手取ったら話は違っていたかもしれない。だが、二人だった。それだけだ。

 「………ああ糞、運がねぇな……」

 男が天を仰いだ。血と火の臭い充満した戦場の上空に、ワイバーンが舞っていたのだ。数にして十騎がまるでハゲタカのように上空を旋回している。戦場に向かうワイバーンではないことは一目瞭然だった。戦いの場に留まってあたかもこちらを監視しているかのように思われたからだ。
 ひよっこエルフ位ならねじ伏せる自信はあった。事実、今まで何人も捕まえては売りさばいてきたのだから。だが相手が悪かった。頭に殻を乗せたヒヨコと思い込んでいたが、若き猛禽だっただけのことだ。
 敵を一掃したルエが地面に降り立ち、セージがロングソードを正眼に構えてじりじりと距離を詰めていく。
 二人が冷たく言い放つ。

 「降伏しろ!」
 「武器を捨て降伏しなさい!」

 男はロングソードを捨てようともせず、目を細めた。
 軍属でもないのに降伏したところで殺されるのがオチだからである。所謂賞金稼ぎはしくじれば死ぬと相場が決まっている。
 ふてくされた男は懐から金属製の酒入り容器を取り出し、ぐびりと一口。アルコールが口内を俄かに満たし血流に溶けていく。

 「するわけねーだろ……」

 それが彼の最期の言葉となった。
 空から一条の何かが飛来するや胸を串刺しにして後ろに吹き飛ばし、地に縫い付けた。ドラゴン皮をも一息に貫通したそれは、金属と同等の強度を有しているであろう美しい氷の槍であった。男が吐血し、肢体が痙攣した。やがて男は静かになった。地上には馬や男たちの死体と氷と死体の歪なオブジェがあるだけであった。
 セージは剣を収めると、上空を仰いだ。青き空を舞っていたワイバーンの群れは一騎が螺旋を描いて降下に移ると、次々と残りが後を追いかける格好で地上に向かってきた。高度が一定になると翼が大きくはためいてほぼ垂直に着陸した。
 ワイバーンに乗っていたのは、エルフだった。
 大きな宝石の付いた杖を傍らに携えた一人のエルフがワイバーンから飛び降りると、にっこり笑った。

 「見つけるのに手間取ってしまったわ。久しぶりね」
 「ヴィヴィ!?」












~~~~~~~
再登場!!!!!!!!!!1111



[19099] 六十二話 船旅
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2011/09/23 17:11
LXII、



 “女の子”と一行は船に乗っていた。戦闘装束は脱いで高価な衣服に身を包んで。
 セージは見慣れぬ風景をぼーっと眼球に映していた。警備、帆に風を送ることなど、仕事があることにはあったが、当番ではなかった。要するに暇だった。船にあった本はあらかた読んでしまったし、訓練しようにも船内は狭すぎた。せめて陸地ならば話も変わっただろうに。
 ヴィヴィと再会した後、ワイバーンで一路大河へとやってきたセージとルエは、エルフと連合国が共同で遂行する作戦に参加したのだ。エルフ側の方針が変更となり支援から攻勢へ変化が起こったらしいが、詳細を知ることはできなかった。

 作戦はこうだ。貿易船を装い侵入して植民地からの特産品を詰め込むと見せかけて兵や兵糧を水揚げするのだ。ブルテイン王国内部の役人を買収して口止めも忘れず行っていた。戦争状態にないなら外交問題になるだろうが、戦争中なら極論なんでもありである。国際条約なる優しい約束ごとも無い。要は勝てばいいのだ。後は歴史が判断してくれる。
 植民地に侵入した後は、現地住民を誘導して反乱を起こさせ、連合国軍と共に進軍を開始する。
 しかし、大規模な艦隊がわいのわいのと大河を遡り始めれば、ブルテイン王国に気が付かれてしまう。装甲化された砲船を使うのも論外である。そこで抜擢されたのは高速性能の高い商船だった。
 と言っても所詮は民間の船と変わりない。それに河川では機動性を活かすこともできない。もし大軍が押し寄せてきた場合、相手がただの手漕ぎボートでも陥落するだろう。求められるのは感づかれないことである。緊急時にはワイバーンが駆けつける手はずになっているが、あくまで最後の手段なのは言うまでもない。
 セージは金属製の水筒に口を付けると、気まぐれに従い足を動かした。南洋特有の浅黒い肌をした屈強な船員にあいさつ。焦げ臭い廊下を通って、階段を登る。
 ノブを握り、開けようとして力不足を認識し、肩で押す様にして開ける。外気が扉の隙間から流入して抵抗力となったのだった。
 船の最上階は、見張り場でもあり休憩所でもあった。遠眼鏡とクロスボウを装備した船乗りが四隅に立っており、中央には廃材の机と椅子があり、トランプ(絵柄と枚数が違うが)遊びに興じる船員がたむろしていた。
 キョロキョロと視線を彷徨わせてみたところ、その人物がいた。
 エルフは外に出る際には耳を隠すよう言いつけられているのでフード付きローブを着込んでいて顔は見えなかったが、後ろ姿だけで判別できた。なぜなら背中に宝石の付いた大杖を背負っていたからである。
 船員らの好奇の視線を無視し、歩み寄らん。

 「ヴィヴィ」
 「セージ? どうしたの、眠そうな顔しちゃって」
 「眠くは無いけど……暇で」

 ヴィヴィが振り返った。身長はヴィヴィの方が高いので視線が水平にならない。
 ませた雰囲気のあった彼女も成長を遂げて、すっかり大人びていた。
 とりあえず二人は船内に戻るとヴィヴィの部屋に向かった。すぐに上陸するとあって部屋は小奇麗に整理整頓されていて、個人の性格を窺い知れるようなものの置き方がされていない、いわばデフォルトの状態だった。
 二人はローブを脱ぐと椅子でくつろいだ。

 「………」
 「? 何かしら」
 「や、なんでもない」

 セージはじっとヴィヴィの姿に魅入っていた。ヴィヴィが首を傾げ訊ねてきたので曖昧に誤魔化す。
 出会ったときは肩までしかなかった髪は腰まで伸び、末端が緩やかに波打っていた。濃いブロンドの流れが光を反射してシルクのように表情を変える様は、一つの芸術品だった。また、両左右から髪をとって編み上げてあった。
 瞳は深いグリーン。狩人さながらの力を内包していながら、水流に研磨された宝石が如く魅力を放っていた。魅惑の魔術(チャーム)を使っているわけではない。造形の美しさが成す自然の魔術とでも言おうか。
 瞳はもちろん、通った鼻筋、眉、ふっくらとしていて血の気色の唇、どれもが淡い輪郭の顔に寸分の狂いも無く乗っており、遺伝子の成す奇跡を感じさせた。
 セージがつい見てしまう部分はある意味で兵器だった。
 品のいい衣服を押し上げる、たわわに成長した果実が二つ。丘などという生易しい単語では表現できないそれらは大陸の東西を隔てる山脈が如く隆起していた。上からなだらかに線を描いて降り、頂上から急に麓に辿り着く。腕の位置が変われば柔軟に形を変える。肺に空気が入れば微かに上下した。
 ヴィヴィは足を組んでいた。肉付きのいい、しかし贅肉の無い美脚が交差している。彼女らしく動きやすい簡素な靴を履いていたが、活発な印象を強調していた。

 セージはヴィヴィを見つめる一方、内心では混乱状態にあった。精神が男性ならば女性を好きになってもおかしくはないが、体は女性である。ただでさえ精神が男性とも女性とも言えぬ灰色に佇んでいたところに、強烈な恋愛感情を抱いてしまい、アイデンティティーが揺らいでいた。クララの場合は憧れと母性だったのに対し、ヴィヴィに抱いたのはloveだったのだ。
 気の迷いと一蹴するのは容易いが、果たしてこの感情は偽りか真実か判別が付かなかった。
 再会の喜びと誤認していると心を納得させた。

 「本当に久しぶりよね。基地が燃えてるの見て、もう会えないのかなと思ったのだけれど、無事でよかったわ」
 「回収されたらいきなり別の作戦への参加って厳しいって」
 「同感。私も別のところで戦ってたらある日ワイバーンに乗ってエルフを呼び集めに行けって命令が来たの。情報の場所に居なかったら自力で探せって、もうくたくたよ」
 「でもかっこよかった」
 「褒めても何も出ないわ。お茶もお菓子も切らしちゃってて、お水しかないの。残念ね」

 二人は打ち解けて話していた。昔は丁寧な喋り方をしていたセージも砕けた風に会話をする。
 どうやらヴィヴィは別のところで任務についていたところ、ワイバーンでエルフの回収を行えと命じられた後、植民地侵入作戦に参加しろと追加で命令を受けたらしい。命令に次ぐ命令。移動に移動を重ねた彼女は疲労を湛えていた。セージも同じく疲労していたが、船で寛ぐうちに和らいでいた。

 「そうそう、魔術は使えるようになった?」
 「鼻血は吹かないよ。熱風吹かせるけど」
 「今度機会があったら模擬戦でもやりましょうよ。私の成長っぷりを見せてあげるわ」
 「うげ……昔ボロ負けしたのに勝てるかなぁ」
 「剣を使うの?」
 「うん、射撃はへたっぴだし、槍は性分に合わないし、かっこいいし」
 「かっこいいからって剣……セージらしいわね」
 「ヴィヴィの杖って魔術専用? 殴れそうだけど」
 「一応殴れるわ。でも魔術用ので殴ってたらいくら替えがあっても足りなくなっちゃうじゃないの。うん………今度補強してもらおうっと」
 「殴る気マンマン?」
 「唱えて殴れる魔術師ほど頼もしいものはないでしょ」

 成長したのは魔術だけじゃないよなと、本人が聞いたら憤慨しそうなことを考える。
 あからさまに胸を見れば怪しまれる。かといってチラチラと時折目を向けても怪しまれる。理性でもって頭ごと制する。
 いずれにせよ船内で模擬戦は不可能なので、陸に上がってからになりそうだった。
 セージは視線を逸らし丸い窓から外を覗いた。風景は相変わらずだった。

 「戦争はどうなるんだろう……」
 「さぁね。殺して殺されて平和が作れるなんて虫のいい話だけど、やらなきゃやられるわ。頬張られたらあごの骨をカチ割るのが原則でしょ」

 ぽつりと呟いたセージに、ヴィヴィが肩の辺りで両手を広げた。




[19099] 六十三話 鎧の人物
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/03 01:33
LXIII、


 植民地と一口に言っても想像されるような奴隷国家というわけではない。
 ブルテイン王国のやり方は国家を丸ごと併合してしまうのではなく、武力的制圧、もしくは経済的に掌握した後で政府上層部や王族貴族たちを脅迫して傀儡化するというものである。名目上、相手国側が『自発的に』従っているとなっているが、他国は白い目で見ている。
 であるからして王族貴族領主は植民地の人間なのだが、ただ富を差し出すだけの日々を送っている。
 そこで、戦後の優位性を約束するような密約を持ちかけたらどうなるだろうか?
 答えは言うまでもない。言うまでもないが、一端の兵士として運用されるセージたちにとって世界情勢はマクロの領域であってミクロの視点においては話題にはなっても考慮すべき事象になりえなかった。
 船旅は順調だった。
 貿易船は裕福な商人らの“支援”のもと、道中で堂々と街や橋を通過しながら、内陸へと向かいつつあった。
 セージはヴィヴィ達女性陣にいわゆる女性的な衣服を着せられそうになったので逃げまわった。上陸して早々に戦闘をおっぱじめるわけにはいかないので、ある程度はフリをしなくてはならない。つまり、商人になりきらなくてはならない。にも拘らず年頃の娘が貧相な服装のままでは疑われる。ある程度はいい服を着なくてはならない。
 頭脳では着る必要性を認知しているセージであったが、本能的に嫌がった。まだ成長の途上であるがために男の子にも見えなくもないとはいえ、いずれは体が女性のそのものになる。そう、いずれは女性の服を着なくては不自然に見える時がやってくるのだ。
 世の中には成人しても男だか女だかわからない人物も存在するが、セージは現在進行形で女性寄りだった。ならば未来でも女性寄りの容姿に成長するであろう。
 たとえば胸が出てしまったら? 明らかに胸があるのに男の格好をしていては、変人も変人、異端と取られても不思議ではない。宗教的文化的な違いを許容するエルフ族とはいっても、男の子は男の格好、女の子は女の格好という縛りは明白に存在する。処罰は受けないまでも変な奴という目で見られる時がやってくるであろう。
 しかしセージは、戦いに身を投じた戦士であれば格好に縛りがないことを知っていた。
 力のなさを痛感したという理由もあるであろうが、無意識では戦士ならば女性を感じさせることなく生きていけるなどと考えているのかもしれない。もっとも本人はそのようなことを熟考しないし、考察もしないが。
 セージが彼女らのピンク色空間から抜け出してすぐに、それと遭遇した。
 なぜ今まで気が付かなかったのかと思うくらいに存在感のあるもので、しかし周辺の人はまるで気にした様子がなかった。
 船の最後部に、巨大な鎧が佇んでいるのだ。
 その鎧の人物は、肩背中から布きれを垂らし、腰などには旅の装備をして、いかにも商人の護衛を装っているものの、鉄の塊としか言いようがない剣を背中につけ、腕を組んで過ぎ行く景色を見つめ続けるさまは、城を守る衛兵のようであった。
 フルプレート装備に、斬ることのみを目的としているであろう鉄塊剣を背中にぶら下げ、まるで微動だにせずのその人物は、少なくとも素人ではないであろうことが容易に感じ取れた。
 しかもただの鎧ではなかった。分厚く、黒光りしており、各部には補強のためであろう金属板がベタベタと打ちつけられていた。肩、頭、膝には突起物があり、体当たりや蹴りの際に刺突効果を付与するのだろう。
 剣も、尋常なものではなかった。肩幅に迫らんばかりの剣の幅に、成人男性と比べても頭一つ高い身長と同じか少し超えるかという刃渡り。ギラギラと日を反射する刃はびっしりと魔術文に覆い尽くされ、異様な雰囲気を纏っている。
 そして装備の主も普通とは程遠かった。仁王立ちする人物の背中から香る、戦士のオーラが目に見えんばかりであった。
 不自然だったのは、雰囲気こそベテランだというのに、装備一式が新品であろう光沢を放っていたことである。つい最近こしらえましたと言わんばかりなのだ。

 「不思議だ」

 声がした。ガサガサと掠れた低音。酷く聞きづらく、くぐもっていた。
 鎧の人物の声と認識したのは、次の言葉が紡がれたときになってからだった。

 「切れた糸を繋ぎなおした……。一度切れた糸を完全に繋ぎなおした? 馬鹿な」
 「あの、何の話ですか」

 独り言とも語りかけとも取れる言葉が発せられた。謎めいていた。
 セージは訝しげに眉に皺を寄せながら、そっと鎧の隣に並んで過ぎていく風景を見つめた。
 再び鎧が唸り声に酷似した言葉を発した。
 あたかも鎧に意思が宿りしゃべっているかのようだった。無論、兜の奥に陽光を反射して煌めく双眸があり、確かな呼吸のもとに甲冑が膨らんでは萎んでいるからには、中に人がいるのであろうが。

 「なんでもない。それよりも我と話しているのはよくない」
 「なぜです?」
 「よくないからだ」
 「はぁ、よくわかんないですけど」

 何やら誤魔化そうとする鎧の人物に、これ以上の追及は無意味とみたか、セージは押し黙った。
 その時、やっとセージを追ってきたルエが艦尾に姿を見せ、鎧姿を一瞥した。彼は驚かなかった。すたすたと寄れば、セージに声をかけた。

 「ここにいたんですか、探しました」
 「おーっす。女の子たちがさー、ドレスやらひらひらした服やら着ろ着ろうるさくってさー。逃げてきちゃった」
 「そ、そうですか。それは残念ですね」
 「残念も何もよかったくらいだよまったく」

 セージは振り返ると柵に体重をかけるような姿勢をとり、上着の裾をひらりと捲った。男女兼用の――やや男性よりの活動的な衣服からこじんまりとしたお臍が――みえずに中着が覗いた。ルエの視線が一瞬固まるのをセージは目にしながら、内心『楽しいなこれ』などと不適切な考えを起こしていた。
 ルエはいかにも惜しそうに視線を逸らせば、鎧の仁王像に目を戻した。
 驚きはなく、ただ情報を得んとする目つきだった。彼の瞳は鎧から剣に移る。
 ルエが声をかけた。

 「こんにちは」
 「………また会ったな、悩み多き青年よ」
 「以前も言いましたが兜を外して頂けませんか」
 「だが断る。これは我の顔である。我の頭である。それに船に乗るときに身分証明は済ましてある。不審人物ではないのだからいいではないか」

 鎧は饒舌に反論を並べると、カチャカチャと音を立てながら艦尾から俊敏に歩き去った。何やらその様子は、知られたくないことがあるから場を立ち去ったと言わんばかりであった。
 セージは唇に手を当てて考察をしてみたが、すぐに諦めた。
 ルエがセージの横に並び、なにやら手で囲いを作って顔を寄せてきた。内密な話があるのだろうと察し、耳を貸してやる。エルフ式の内緒話の定番、耳を引っ張って方向を変えるやり方で。

 「僕の見立てが正しければ、彼――もしくは彼女は長老の一人です」
 「冗談だろ……」

 ナンセンスだとセージが首を横に振った。里を指揮すべき長老が前に出っ張ってくるなどありえない。よほど戦いの実力があるか、里の指揮をほかの者に任せられる環境下に無い限りは。
 ルエは一瞬言いよどむと、人差し指で宙を撫ぜるようにして鎧が去った方向を指した。

 「いいえ。長老の一人が該当します。その方は血筋で里の長に据えられ、実際には妹が里を仕切っていると言われます。そしてその方は怪力を誇り、戦場では巨大な剣を背負って縦横無尽に駆け巡るそうです」
 「それって」
 「はい。あの大きさの剣を背負いながらさらに鎧を着こんで平然としていられる人を、僕は一人しか知りません。鉄の里の長、ヴィーシカでないかと」
 「はーんなるほどねー。でもわざわざ危険な任務に出っ張ってくるもん?」
 「ヴィーシカが危険を好むのは周知の事実ですから」
 「なるほど。任務の成功率は100に近づいたようなもんかな」
 「だといいんですけど」

 二人が深刻な顔をしている一方、鎧の人物はまた違う場所で船から見える陸を睨みながら腕を組んでいた。
 よし、バレてないなどと能天気なことを考えているとはさすがのセージとルエにも予想できなかった。




[19099] 六十四話 賊という名前の遊撃
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/13 03:16
LXIV、


 極秘裏に兵力を上陸させる計画は頓挫することもなく、逆に怖いくらいにとんとん拍子に進んだ。
 内陸の都市に横付けする形で船団は停泊して、街を取り仕切る権力者の庇護のもと、着々と戦闘準備を整えていく。陸の主力戦力と同期して行動を起こさなくては効力が半減するので情報伝達も忘れず。
 現代社会ではあまり考えられないことであるが、この時代において村町街は独立した一つのコミュニティであり、小さな国である。
 国家という頭でっかちの権力者が軍隊をちらつかせて国への所属を求めているからやむを得ず国家に属するのであって、税金を絞られ、わけのわからぬ戦争に人を取られ、そこで国の誇りがどうのとのたまわれても嫌になるのが道理である。
 ましてや街を取り仕切るのが商売人であるならば、話は早い。いつの時代においても商売人が欲しがる『特権』を約束してやれば首がもげるまで縦に振る。
 という経緯を持って、その街は連合側の拠点へと一夜にして姿を変えていた。
 と言っても、単に意識が変わっただけで、人口も、街の構成も、何もかも変化がないのであるが。
 エルフ問題も、かたが付いた。ケチな懸賞金よりも特権による莫大な利益の方が得だからであろう。もとより『王国』が勝手にエルフが有害などと訳のわからぬことを並べたのが始まりであり、明らかに有害でもなんでもないのは周知の事実だったからだ。
 注意すべき点は情報の漏えいだ。街が丸ごと寝返ったことが知られたら最後、大軍が押し寄せてくる。
 だがしかし人の行き来を規制してはいずれ事実が露呈してしまう。動きをせき止めればいかに鈍い旅人でも気が付くだろう。
 よって行動は流水が如く行われることとなった。
 上陸地点の街をそれとなく強化する班、商人を装い旅をして各都市に向かい説得する班と、遊撃任務に就く班に分かれるのだ。
 もししくじれば内側と外側からかき乱すという戦略が塵に還る。二度目は許されない。だからこそ慎重に慎重を期しているのだ。
 無論セージは後者の遊撃任務班に志願した。断じて商人の娘かなにかとして女の子の格好をしなくてはならないと知ったからではない。
 遊撃隊はルエ、ヴィヴィ、そして身分がさっそくバレている謎の鎧人物と、その他十数名からなる班である。遊撃隊は他にも十隊ほど組織された。
 一行は、あたかも盗賊のように『ブルテイル王国』の戦力を削ぎ落とすように注意を受けた。本戦力として行動をしては、上陸がばれてしまうからだ。頃合いを見計らい合流して、陸上の本隊と共同で作戦を行うのだ。

 出発当日。
 服の上から布のマントを纏いフードをきっちり被った一行が街外れの小高い丘の上にいた。皆揃って馬に跨り、大河のうねりの途中に錨をおろして停泊している船団を見ていた。
 馬にはそれぞれ荷物がぶら下がっており、旅商人の擬装用に品物が詰め込まれている。
 ルエの馬に跨ったセージは、船団と街並みを眺め、のんびりとあいさつをした。

 「さらば同胞よ、旅立つ馬はって奴か」

 脳裏によぎるのは巨大な戦艦だったが、この世界で戦艦と言えば木造だ。間違っても波動を放つようなものは存在しない。
 セージら一行の姿はやがて丘の上から消えた。



 闇夜に紛れて距離を詰めた。もう少し近づければ、剣で斬りかかれよう距離にまで。
 セージ、ルエ、そして数人の兵士たちは、王国の兵士詰所の裏庭に忍び込んでいた。
 前方、約10mの地点に、軽武装をした警備がいた。彼は襲撃など予想もしていなかったのだろう、のんびりとした様子で地面を爪先で穿り返していた。飽きたのか夜空の星を仰ぐ。

 「………」

 鼻から乾いた大気を吸い、口を広げて甘く吐く。
 セージはナイフを抜いた。すり足忍び足。口笛を吹きつつ夜空を見上げている兵士の背後に近寄る。刹那、凶器をスッと宛がった。振り返ろうとした兵士の口を塞ぎ、喉を横一文字にかき切る。
 ナイフの刃が皮をねじ切り、肉を裂き、神経と血管を途切れさせ、気管を断つ。
 魚の腹を切ったような手ごたえ。
 どっと血が溢れ、噴水のように真上に噴き出た。あらかじめ用意しておいた布で抑え、血が周囲を汚さぬように縛る。今まさに死んでいく真っ最中の警備兵の瞳がセージを睨んでいたが、やがて焦点が遠くに飛んだ。
 迅速に死体を地に横たえれば、手を振り、兵士らに馬屋と武器庫に忍び込むように合図する。
 べとつく血を手の甲で払い、死体を引きずっていき、『賊』を演出するために工作を開始する。これまたあらかじめ用意しておいた手斧を肩に振り落とし、腹にも斬りこむ。物言わない顔面も殴っておく。服装を乱し、懐の金銭を奪う。
 あまり手際がいいと『賊』にしては、と良からぬ噂を招きかけない。乱闘の末に殺されたと演出しておくのだ。
 いかにも張り倒された感を醸し出すために服を砂で汚し、庭の小規模な畑に転がしておく。
 その間に仲間の兵士たちは馬屋に忍び込み馬の口を縛って連れ出し、兵器庫から物資を奪い燃やすという算段である。
 セージは見つかってはいかんと、庭の物置小屋の裏に身を潜めた。すぐそばには寄り添うようにルエの姿があった。
 セージは血なまぐささに顔をしかめつつ、囁いた。

 「ちょろいもんだ、まったく」
 「攻め込まれるなんて思いもよらないですからね」

 二人は押し黙った。仕事の最中に雑談するなど賢いとは言えないからだ。
 セージは自らが殺めた男に視線を落としていた。かつては一人殺すのにも随分と後悔の念に駆られたものだが、現在では当たり前のように殺せた。
 殺しに覚悟などいらなかったのだと今さらになって追憶してみる。慣れと摩耗と必要性、それだけで人は命を奪えるのだ。
 無残な死体は黙して語らず、ただ肥料になるばかり。
 空は満点の夜空。青い月。澄んだ空気。外はこんなに綺麗なのに、服に付着するは鮮血。

 「悪く思うなよ………っと、そろそろか」

 仲間たちが馬を引き連れて庭の外に出た。セージはルエの肩を小突くと、魔術の準備に取り掛かった。
 イメージするのは火だ。ルエも火をイメージした。必要なのは大火力よりもお手軽な『火種』。適性が無くとも、魔術さえ使えるなら誰にでも扱える初歩の初歩。
 手元に生じた赤い灯をその辺に放り、点火。腰の剣を抜剣すれば、クロスボウを詰所の窓に二連続ぶち込み、鬨の声を上げた。
 ―――ウォオオオオオオオオッ!
 仲間たちが一斉に声を上げて、火矢や岩を詰所の建物に投げつける。敵襲を悟った兵士数人が戸口を開けた次の瞬間、四方八方、暗闇から矢が殺到し、蜂の巣にした。
 すっぽりと黒布に身を包んだ仲間たちは、接近戦を仕掛けるようなまねはせず、矢を射掛けけ、建物を全焼させんとした。二人も加勢した。魔術の作動を悟られてはいけない。あくまで火矢を用いたと演じて。
 窓の中、柱、その他。
 時に松明に火を移し、投げ込む。建物の中から矢の応射があったが、当たるわけがなかった。めくら撃ちにやられるような素人は、いないのだ。
 セージが三人ほど射殺したあたりから、兵士が逃亡し始めた。暗闇の四方から矢が飛んでくるだけで厳しいのに、建物に火が回り始めては抵抗するだけ馬鹿馬鹿しいと考えたのだろうか。一人が逃げ出せば、堤が洪水で崩れるように、次々に暗闇に飛び出して消えていく。
 セージは手でメガホンを作り、吼えた。
 わざと喉に力を込めて、声帯を轟かせた。

 「よし野郎共、引き上げだ!!」

 ――オォォォ!!
 仲間達が同調して大声を張り上げる。
 威勢のいい掛け声をあげてみれば、胸が高鳴った。セージはすぐに装備を整えると燃え盛る建物を背に脱兎が如く駆けだし、離脱した。引き際が肝心だ。グダグダと留まっていては騒ぎを聞きつけたほかの兵士や街の防衛隊が駆けつけてくる。
 仲間たちは手際よく奪い取った馬に乗ると、わざと身を晒すようにして疾駆する。
 ルエが馬に乗ると、手を差し伸べてきた。握って背後に飛び乗る。彼の腰に手をまわしながら、背後を振り返る。小さき地獄とでも称すべき火災現場が確かに地上にあった。陽炎に晒された地上に影が揺らいでいた。
 
 「手筈通りに散ってくれ!」

 セージはルエの肩を小突いて指示を与えながら、仲間たちの馬列に声を張り上げた。
 仲間達――と言ってもごく数人が――は馬に命じてバラバラの方向に舵をとった。
 馬は車のようなものだ。文字通り強力な馬力で脚部をまわして地を蹄で蹴り付けて推進するからには、痕跡が残ってしまう。大勢で近間隔を巡航しては追尾してくださいと言わんばかりの線を残すだろう。
 このたびの襲撃は成功と言えるだろう。
 馬を操りながら、ルエがぽつりと感想を述べた。彼からしたら率直に言葉を発したに過ぎなかったのだろうが、セージにとっては恣意的に投げかけられたとしか思えないセリフを。

 「まるで男性みたいでしたよ」
 「………」

 夕凪のように押し黙り、ああそうだなと適当な返事を返す。景色を眺める気分でもなく、ルエの服の皺を睨む。
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、それとも笑えばいいのか。
 とりあえずセージは二連クロスボウに矢を込め直しながら、夕飯のリクエストを求められたので『なんでもいい』と答える子供のように言葉を口にしてみた。

 「男だからな」
 「なら、僕は女ですね」

 冗談じみた口上に乗せた言葉は、正しく冗談として受け取られたようだった。
 セージはルエが前を見ていなくてはならないことを利用して、彼の後ろ纏めの髪の毛を弄った。体の細さと中性的な容姿、後ろ纏めいわゆるポニーテールの組み合わせは、女性ものの服を仕立ててやれば、女性と錯覚する気配を孕んでいた。
 諺ではない意味で後ろ髪を引かれたルエは、手綱を握ったまま、背中を前にやることで抵抗した。

 「ンん? 女装したいの? 色男。髪なんて結んじゃってさー、そっちのケあるんじゃないの」
 「ありませんよ!」
 「機会があったらやってみようぜ。俺の服を……お前でかくなったから入らないか、残念」

 セージはそれとなくルエの肩幅や腰回りや腹の太さをペトペト触って測って、言った。
 二人は雑談を交わしながら馬に乗って一路味方のもとへと走り去った。




[19099] 六十五話 バレてないですよ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/13 03:15
LXV、



 合流地点は街外れの古い教会だった。かつてこの地に存在した神を祀ったという場所は、見るも無残に燃えがらになっていた。詳しい過去を知る術はなかったが、酷く焼け焦げていることから、火事があったか、放火されたのだと理解できた。
 セージとルエが戻って少しして、分かれた仲間も教会にやってきた。物資調達班もやってきた。
 
 ここは教会堂のメインフロア。
 神を祀り、祈りを捧げる場所。その空間は奇しくもキリスト式の教会に酷似していた。

 「……なぜ我が参加してはならぬのだ……」

 鎧の人物――ヴィーシカは教会の朽ちた椅子に腰かけ、唸り声をあげていた。意気消沈していた。黄昏ていた。
襲撃に参加する旨を告げてみたところ、ほぼ全員から反対意見を食らい、物資調達を行う羽目になったからだ。
 ヴィーシカは己の足元に視線を落とし、次に背中の剣を引き抜くと、置いた。もはや鉄板に取っ手がくっついているとしか表現できないサイズのそれを片手で易々と抜いて床に置けるヴィーシカの腕力はいかほどか。

 「むぅ………戦いに来たのに戦ってはならぬと言われてしまうとはな。なにが原因なのだ」

 そう、その者は戦うために危険の大きそうな最前線をわざわざ選んで『お忍び』でやってきたというのに、これまでやったことと言えば船上警備と食料調達だけだった。
 頭を悩ませる鎧の疑問に、答えるものがいた。

 「そりゃ、長老さん。仰々しい装備の賊なんざ怪しすぎるからじゃないの」

 鎧がガシャガシャやかましく背後を振り返れば、ラフな格好のセージがいた。
 セージはとことこ歩いてくると鎧姿のすぐ隣に腰かけ、足を組んだ。ショートカットの可愛らしい女の子と、素材を岩に変えれば神殿に飾れそうな外見をした鎧の人物が同じ椅子に腰かけているさまは、第三者が居たのならば面白おかしく映るだろうか。
 ヴィーシカは剣の柄を手で弄びながら首を振った。

 「我は、長老ではない」
 「嘘付き。話に聞いたけどフルアーマー装備の上にそのデカブツ振り回せるのって一人くらいしかいないとよ」

 見てわかる程度には鎧の肩が震えた。なんてわかりやすい反応だろう。漫画のような反応に危うく唾液が噴き出そうになった。
 長老とは思慮深く賢いものと思っていたセージだが、多少の認識修正が必要と分かった。ヴィーシカという長老はお世辞にも賢くはないし、会話術に長けているでもなかった。
 ヴィーシカは剣を弄っていたが、俯き、もそもそと言葉を漏らした。

 「原因は鎧と剣だったのか………妹の話を聞いていればよかったな」
 「普通の服を持ってないの、長老さん」
 「平素から鎧を着こんで生活しておるからに、普通の服などない」

 どんな日常なのか。セージは鎧を着こんだ人物が『いい朝だ』と言いつつベッドから起き上がり、ご飯を食べ、仕事をして、鎧の上から水浴びをしてベッドに入る想像をしてしまった。変わり者などという領域を突破している。

 「……用意してこなかったと………?」
 「うむ。外見さえ誤魔化せればいいであろうと思ってな………む? いま、我のことを馬鹿だと思ったな?」
 「はい」
 「はいじゃないぞ。はいじゃない。自覚はある。脳味噌も筋肉と馬鹿にされてきたのだから」
 「なら、俺が用意しますよ。成人男性の服ならすぐに」
 「それで構わぬ。それと、もしあるのならば仮面のようなものが欲しい。我の顔は火傷が酷くてな、醜いのだ」
 「あれば用意します。声も火傷で潰してしまったというのは、本当ですか」
 「ウウム、そうだ。首をなます切りにしてやらんとしたら火を噴かれてな……顔に喰らってしまったのだ。吸い込んだのもその時だ」

 セージはここで思った。頭は良くないが、話しやすい人であると。
 そしてなぜ戦場に来たのかも理解した。頭がよくないことを自覚しているからこそ戦場に身を投じてきた長老なのだろう。名声通りの実力があるのであれば非常に心強い。実力と戦力不足に苦しんできた経験を持つだけに、名高い戦士の存在は胸に一滴の希望となりて注ぐようであった。
 ヴィーシカは剣を傍らの椅子に斜めに立てかけると、座ったまま肩を落とし、猫背にてセージの顔を見つめた。

 「時に、いいか。名は……たしか」
 「セージと言います」
 「セージ……いい名前だ。時に聞きたいのだが幽体離脱の術でもしたことがあるのか?」

 脈絡のない質問に怪訝な顔をする。幽体離脱の術なるものを試した記憶は無かった。
 足を組み替えて、前かがみでヒソヒソと聞き返す。
 ヴィーシカが右手と左手を重ねるようなジェスチェアを交えつつ説明をし始めた。この時点ではまだ核心に迫られるとは思ってもいなかった。

 「どういうことです」
 「セージ、君の魂は我の感覚では妙な繋がり方をしているのだ。一度切って繋げたとでも言おうか。他人の魂を持ってきたような。はっきり表現するのならば……」
 「中身が別人だと……そう言いたいので?」

 苦笑に疲労をふんだんに塗して本心を偽装した、口の端がぎゅっと引き攣る表情が〝女の子〟の顔に広がった。鎧姿には、少なくとも表面的な表情はない。
 鎧がギシギシ音を立て、両手をコツンと合わせた。

 「ウム。実に高度な術だが、魂だけ抽出して加工、別の肉体と結合し直せば、そのような繋ぎ目のある魂になるであろうよ」

 ヴィーシカが言葉を切ったところで、視界に移りこんだ人物がいた。教会堂の隅で熱心に話し込む二人に興味をそそられたらしきルエがやってきたのだ。近くに寄れば、話が聞こえるだろう。必然的に。
 セージの心に焦燥感が湧いた。魂の違和感どころか中身が別人だったことまで看破していることを聞かれたら、ルエがショックを受けるのではないだろうかと確信があったからだ。オカルト話は科学社会においては笑い話だが、魔術社会では本気で捉えられる危険性がある。
 セージは脊髄反射的に、上半身の振りで下半身を引きずって椅子の上を滑るとヴィーシカの至近距離に侵入して、肩を引き寄せようとして予想以上の質量に諦め、自分からさらに寄って口止めせんとした。

 「今の話は内密にお願いできますか」
 「なぜだ」
 「……、に知られたくないので」
 「? いいだろう」

 セージはルエを顎でしゃくった。ヴィーシカは一拍置いて承諾した。
 危ないタイミングでルエが二人の隣に腰かけた。

 「服の相談事ですか?」
 「んーそうそう。長老殿が服をご所望」
 「長老ではない。ともあれ服が必要だ。戦装束で戦に望めんのは残念であるが」

 ルエはセージの核心に迫る情報が飛び交っていたことなど露知らず、フムと息を吐いて唇を触った。

 「我々の任務はかく乱であって戦争ではありません。今のところ。目立つ鎧は論外だったのですが……服は用意しましょう」
 「かたじけない」

 ヴィーシカが身を縮めるようにして感謝した。
 三人をよそに、遊撃隊のメンバーが教会の中央に集まり始めていた。まだ若い男を中心に何やら作戦会議を開こうとしているようだ。三人が雰囲気を読んで集まると、会議が始まった。
 隊長――すなわち隊を率いる男の提案により、方針が決定した。
 次の目的地は交易の中継地点として栄える商業都市。情報では、『王国』の商人の輸送路でもあるそうである。ここを叩き、『賊』の力を見せつけて不安を煽ってやるのだという。
 武闘派のヴィーシカが顔を顰め、同類らしきヴィヴィも残念そうだった。
 ――が、都市だけに防衛戦力が駐在しているとわかると、二人とその他戦闘大好きな連中はこぞって喜んだ。

 「え、そういう連中ばっかりなの?」
 「そうですよ?」
 「そうなのか」
 「そうなんです」

 驚愕の表情というより呆れの表情を浮かべたセージがポカンと口を開いて傍らのルエに尋ねてみると、当たり前のことではないかと言わんばかりに返された。
 積極的に敵地に乗り込んで遊撃を行うような連中が戦いの嫌いな連中ばかりな訳があろうか?
 ふと浮かび上がる疑問があった。
 会議の途中、意見はないかと隊長に求められたのを見計らい、挙手する。

 「まさか都市の防衛戦力と真正面からカチ合おうっていうんですか? 無謀にもほどがあります」
 「安心しろ。街に潜入して弱点を探る」
 「我々はエルフですよ、バレます」
 「バレん。なぁ、魔術師」

 隊長が言葉を投げかけた相手はヴィヴィであった。彼女は周囲の視線を真っ向から受けつつも、こほんと咳払いをして、懐から何やら三個の地味な指輪を取り出した。
 隊の中の数人が、オオッと珍しいものを見たような反応を示した。
 飾りも無く、銀製でもミスリル製でもなく、あたかも鉄パイプを輪切りにして加工したようなシンプルを極めた指輪は、セージの目からは何の効力も持たないおもちゃに見えた。
 特徴があるとすれば、太い線と細い線と楔型を組み合わせた複雑怪奇な幾何学的な文字が刻み込まれていることだろうか。
 ヴィヴィはその中から一つを白い指先で摘みあげると、掲げた。たちまち文字列が淡く輝き、楔型文字が指輪を横に等速度で滑り始めた。

 「身隠しの魔術の亜種、外見を偽装する恒常性の指輪よ」
 「へぇ~」

 一同が驚いた。魔術は主に戦闘にしか用いてこなかったセージは『なんかすげぇ』としか思わず、ベクトルの違う驚きの声を上げた。
 何やら周囲の様子がおかしい。あるものは口を覆い、あるものは腕を組み、あるものは隣の人物と議論に興じ始めている。
 いったい、魔よけの指輪とどう違うのだろうか。
 試しに尋ねてみることにした。

 「すごいのか、あれ」
 「はい。魔術の有無に関わらず持つ限り恒常的に外見を偽装するアイテムは姿隠しのマントや変化の術に相当する高度なものです」

 と説明されてもセージはいまいち理解していないようで複雑な顔をしているが、例えば火。一瞬の点火はたやすくとも、長時間大火力ともなれば燃焼の要素を十全に満たさなくては、火は成立しない。更に火に指向性を与えて推力を生み出すなどとなれば、より高度な技術が無くてはならない。
 ヴィヴィの持つ指輪はその高度な技術で作り上げられた一品であった。
 指輪さえしていれば外見を自在に偽装できるのならば、暗殺から諜報まで楽々でこなせるであろう。
 なぜ彼女が持っているかは話題にのぼらなかったが、この一連の作戦のために大金はたいて準備された品であることは、ほとんどの人間が気が付いていた。
 議題は、その指輪を誰が嵌めるかということだった。
 ニヤリ、あからさまな企み笑いを浮かべたものは、ヴィヴィ。強き者。汝の名前は女。
 
 「私と、ヴィーシカ氏と、セージを推薦します」
 「おいまて我はヴィーシカでは」
 
 まさかの暴露に慌てたのはヴィーシカその人だったが、誰一人驚きもしなかった。バレバレだったからだ。むしろ『やっぱり』という微妙な雰囲気すら漂った。
 鎧の人物もといヴィーシカは周囲に発覚してはいないかと恐る恐る視線を配ったが、様子のおかしさにコミカルな動作で停止した。
 提案に異を唱えたのは隊長である。彼は腕を組んで首を振った。
そしてもう一人、ルエも反対意見を唱えようとしたが、タイミングを見失い、上げかけた手を下げた。言うまでもないが自分が付き添うという案をぶちまけようとしたのだ。

 「セージは若すぎる」
 「魔術と戦闘なら私とヴィーシカ氏で十分です。それに彼女はいずれの心得もありますしまるで使えないというわけではありません。若さでいったらあなたも若いじゃありませんか」
 「……む。だがなぁ。みんなはどう思う?」
 
 若さを指摘された隊長は一瞬キョトンとしたが、すぐに真顔に戻り、セージの顔をじっくり観察したのち、多数決を求めた。結果は半分と少しがセージの参加に賛成を示した。あっさり決められて、セージの意思が介在しなかった。
 意見は、ヴィヴィとヴィーシカの組み合わせならばセージがいても問題ないというもの、潜入を体験させて経験を稼がせろというものなどであった。それと、本人は全力で否定したものの、ヴィーシカの元なら最悪の事態は回避できるという意見もあった。
 一団の中でも一際幼いセージを守ろうという雰囲気があったのは否定できないが、いかんせんすらすらと通り過ぎていた。まるで誰かがセージを街に連れて行きたがっているように。
 セージはことが終わって指輪を渡されてから、

 「俺行くのか……」

 と納得したような納得しないような顔で参加を承諾した。
 実は一連の採決はヴィヴィが裏で手回しをしていたのだと、セージが気が付く余地は無かった。

 「ふふふふふ」

 人知れず笑う女、ヴィヴィ。
 船でできなかったあれやこれやをやろうと画策していたのだ―――。
 懐には銀貨。裏切り? いいえ、欲望の証です。











~~~~~~~
次回、わくわくざb
次回! キャッキャウフフのk

次回! なんかあります。キサラギ職員先生の次回話にご期待ください!!



[19099] 六十六話 服
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/10 01:59
LXVI、


 
 年頃の娘が二人、正体不明の布の塊が一人、街並みを歩いていた。
 一人はヴィヴィ。元々着てきたのが余所向きな服だったこともあり、購入せずにそのまま街に潜入することができていた。貴族のお嬢様であると伝えても疑問を抱かれない美しい容姿といかにも魔術師ですと主張する杖の組み合わせから、後ろに続く二名は従者か身内なのだと無言で情報を散布していた。
 もう一人は“女の子”。いつもの服を着込み、装備を外してナイフだけを懐に忍ばせていた。容姿の幼さと、元気溌剌な雰囲気が逆に弱々しさを醸し出す。
 目を引くのは、ヴィーシカ。やたらと大柄なそのものに合う服など無くて、ありあわせの服に顔や手を隠すヴェールや手袋を身に着けており、まるでミイラが出歩いているかのようであった。
 と言っても交易の街において妙な格好の人間はそう珍しく無くて、三人の姿はごくありきたりな貴族と従者か、商人の娘と連れか何かのように見えていた。
 街は活気に満ち溢れ、黒肌の者、白い肌の者、赤っぽい肌のものなど、多民族が入り混じっていた。

 「ここ」

 口元にうっすら笑みを浮かべたヴィヴィが指差したのは、看板だった。そこにはいくつかの言語で『服屋』を意味する文字が刻み込まれていた。
 ここに至りセージは悟った。ヴィヴィが船でやたらと可愛い服を着せようとあれこれやってきたことと合わせて考えてみれば、答えを導き出すのはそう難しいものではなかった。
 セージが服屋の前で唖然となった。

 「ここって……」
 「女性ものの服屋、であるな……」

 もう一名、唖然として固まる。ヴィーシカである。約二名は固まったまま動かなくなってしまった。その二人の手に柔らかな手が巻き付き、がっちり捕まえる。
 振りほどこうと思えば振りほどけたはずだが、二人して動くことができなかった。
 ヴィヴィが、嬉々として二人を服屋の扉の奥に引きずり込まんとした。
 道を行く人たちの奇異の視線が容赦なく突き刺さる。

 「じゃ、入りましょう!」
 「ちょ、ちょっと待つのだ。我はこのような店には入れぬ!」

 凍結状態からより早く回復したのはヴィーシカであった。ヴィーシカはヴィヴィの手をぐっと引き止め、頑として動こうとしない。まるで足が地面と同化してしまったように。
 ヴィーシカはあからさまにヴェールの奥でモゴモゴと言い訳を並べ立てた。ただでさえ聞き取るのが困難な掠れた潰れ声だというのに、ヴェールの奥でくぐもることで唸り声以下のノイズに近い音に変化していた。

 「我がこのような店に入るなど許されることではないのだ……服を買うということは寸法を測らなくてはならぬわけであるし………ああどうして……とにかく我は外で待つ……」
「いいから!」

 グイッ。
 全身甲冑を着込んだうえで大剣を担げる筋力を発揮するはずのヴィーシカを、ヴィヴィの細腕が難なく引き寄せ、店内という空間に引き込む。ブラックホールのように。
 セージは、ヴィヴィの瞳が肉食獣が如く爛々と輝いているのを目にして、抗うのをやめた。刹那、セージの小柄な肉体は店内へと吸引された。

 「はい、腕あげてー」
 「はい」
 「もう少し上げてー」
 「はい、これで」

 セージは服の寸法を測られていた。首回り、肩幅、腕の長さ太さ、胴回り、足の長さ太さetc……。担当のお婆さんは手慣れたもので、瞬く間に全身の寸法をメモに書き留め、解放された。
 一方、ヴィーシカは激しく抵抗していた。セージを担当したお婆さんとよく似た顔の女性が寸法を測ろうと服をまくらんとするのに対し、あれこれ言い訳を放ちつつ逃げまわっていたのだ。
 女性は困った顔を浮かべていた。

 「待つのだ! 服を上げるということは――!」
 「そのようなことを言われましても、上からでは正確に測れません」

 しびれを切らしたのはヴィヴィであった。ヴィーシカの耳元に密着し、囁いた。悪魔的な内容を。

 「もう素直になったらどうです? 女性でしょう?」
 「……………」

 長い沈黙があった。
 セージは寸法を測られた上にお嬢ちゃんかわいいねぇすぐにいい服仕立ててあげるからねぇそういえば昨日お隣さんが――とお婆さんのマシンガントークにくぎ付けにされていたので、二人の会話を耳にすることが無かった。
 ヴィーシカはヴェールの中で苦々しげに息を吐くと、ますます密着して言葉を紡いだ。

 「隠し通せんか……いつ気が付いた」
 「とっくのとうに。お店に入る前どころか船で見かけたときに女性だなって気が付いてましたよ。女性ものの服屋に連れ込んだ時点で察してくださいな」
 「むぅ、我が演技を見破るとは、やるな……」
 「演技もなにもバレバレじゃないですか。色々と」
 「そ、そうなのか!?」
 「はい」

 驚くヴィーシカと、呆れるヴィヴィ。そう、長老たる“彼女”は、実は女性だったのだ!
 ……なんのこともあらん、魔術で鎧の中身を見通しただけなのだが。強力な加護を受けた魔術品ならとにかく、物理防御に拘り過ぎた鉄の塊など、ヴィヴィにとって障害にはなりえなかった。
 ヴィーシカが本来身に着ける鎧は魔術的な加護を幾重にも重ね合わせた特注品なのだが、この旅の任務のために彼女の動きに耐えるだけの品を急造したので加護が弱かった。
 という裏事情を知るはずもないが、とにかく中身を透かしたのだ。透かしてしまえば、内側に女性が佇んでいることなど、文字通り一目瞭然である。防衛があれば透かすことなどできなかったであろうが、まさか身内に透かされるとは思ってはいなかったのか、難なく覗くことができた。
 ヴィヴィはにこにこと笑い、ヴィーシカの高い位置にある肩を抱いた。
 まるで生娘を口説き落とす貴族のボンボンのような甘い口調で囁く。二人だけにしか言葉が聞こえない程度の声量で。

 「逆に考えましょう。ヴィーシカ氏の姿は誰も知らないのなら、思い切って女性な服を着れば誰一人見抜けません」
 「なるほど……」
 「ということでお店の人お願いします」

 説得を受けたヴィーシカは、素直に寸法を測られだした。唯一、顔を見られることを嫌がった点を覗いて。
 状況は大まかヴィヴィの望み通りに展開していた。

 「ばっ……ばかじゃないの……? 馬鹿じゃねーの! おかしーから、こんな服ぅ!」

 セージが叫ぶ。顔色はリンゴが風邪をこじらせたようだった。
 服を作るにあたっては、とりあえず既存の服を着てもらってからという話になった。セージは『任務が優先だろ、いい加減にしろ』と抵抗してみたが、あれこれと話をこねくり回された挙句、説得されてしまっていた。女の話術に男性は勝てないのだろうか。
 最初に着たもとい着せられたのは、目立つことを目的とした踊り子の衣装だった。
 合金製ながら細やかな造形をしたサークレットに、顔の前面の開いた赤いヴェール。小ぶりな胸と、腰回り覆い隠すは鴇色の布。ヴェールと同じ色の紐がくびれをキュッと締め付けてアクセントになっている。手首、両足首はシンプルな輪飾り。大理石にナイフで切れ込みを入れたように目立たないお臍が丸見えだった。
 『素材』がいいだけに、セクシーさを前面に押し出した衣装を着たその姿は、宮廷に仕える専属の踊り子のような美しさを醸し出していた。
 涼しい衣装だった。特に足とお腹と胸が涼しかった。というより恥ずかしかった。
 生まれてこの方スカートに属する女性的な衣装を避け続けていた“女の子”にとって、その衣装は業火のような羞恥心を呼び起こすに足りる布地の少なさだった。ポーズをとるような真似ができずに、地面を睨み付けて拳をプルプルと震わす。
 店員のお世辞も耳に入らないくらいには恥ずかしかった。

 「さいっ………こうっ……!」

 それこそ涎を垂れ流さんばかりに恍惚とした表情を浮かべていたヴィヴィが、ぐっと手で合図をした。船でできなかったことを思う存分やれるので楽しくて仕方がないといった様子である。
 キャラが変わってるじゃねーかとセージは心の中で毒づいた。
 セージは、それとなく腰布で足の付け根周りを隠しながら、ヴィヴィの方を赤い顔で睨み付け、店員に言った。

 「もっと動きやすい服は無いんですか!」
 「ありますよ。少しお待ちくださいね」

 すかさずヴィヴィが店員にくっついて店の奥に消える。
 天井からぶら下がった布切れや服が風に揺れた。

 「私が選びますっ!」
 「はーい、どうぞ、これなんてどうですー?」

 残されたセージは、ほかの人の視線を浴びるのが嫌で、壁際に寄った。脱ぎ捨てるわけにもいかず、かと言ってすることもなく、時間が過ぎるのを待った。
 少しして、大柄というより単純に縦に長い人物が脱衣室の幕を手で除けながら現れた。その人物は明らかに慣れない様子で服の裾を引っ張ってみたり、位置を直したりしていた。
 服が変わっていたせいで認識が遅れた。
 その人物は長老だった。

 「このような服が、な……羽のように軽いことは確かだが……」
 「誰……? ヴィーシカさん?」

 ヴィーシカは誰か耳をそばだてて居ないか気配を配り、人差し指を左右に振った。

 「本名を口にするのをよせ。我は腐っても長老である。それにしても随分防御力に欠ける服を着ているな」

 ヴィーシカの服は、着物を思わせる平面構成の上服と、動きやすさを重視したスカートだった。特筆すべき点は頭に巻かれた布と首筋を隠すヴェール程度で、シンプルさを極めていた。
 ただ、デカかった。それに目を見張った。薄い色の布に覆われた胸元から隆起するのは丘という単語では説明できない規模を誇る山脈だった。元の世界における巨乳のグラビアアイドルさえ超越したサイズであった。男性のように張った肩幅の下に、巨人の握りこぶしが張り付いているが如しだったのだ。
 一体全体、今の今まで胸が無かったはずなのに、どう仕舞い込んでいたのか疑問が尽きなかった。包帯でグルグル巻きにしていたのか?
 胸を無視しても、鍛え上げられた肉体は素晴らしく、シンプルな服と合っていた。意図せず生まれるくびれの角度、筋肉の乗った腕部の流線、スカートの布地を僅かに押しのけるすらりと伸びた足と、セージの目からしてもハイレベルに纏まっていた。
 残念なのは顔が露出せずのままだったことくらいだが、本人が火傷で酷い有様であると語っているのだから、見せてくれるわけもなかった。
 ヴィーシカはしばらくスカートを弄っていたが、やがて不満げに溜息をついた。潰れた喉からはグルグルと言った奇妙な音しか漏れなかったが、それなりに付き合ってきたセージには、それが溜息と分かった。

 「性に合わん。ひらひら揺れるなど面倒の極み。我の知る戦士の中にはスカートで視界妨害をやらかす奴もいたが、我にはできん。おーい店員よ変えてくれ」

 丁度その時、ヴィヴィと店員が出てきた。服を大量に抱えて。
 ヴィヴィの視線がぬらりとヴィーシカの上半身下半身を見遣った。

 「……変えてしまうんですか………」
 「ウム。邪魔くさい」
 「でしたら仕方ありませんね」
 「そうだな」

 なぜかあっさりと了承を受け、ヴィーシカは奥に消えた。
 セージは嵐のように服を着替えた、着替えさせられた。さすがにはぎ取られはしなかったのだが、半ば服が消し飛ぶような速度で着替えた。

 「可愛い!」
 「ヴィヴィぃ、暫く会ってない間に妙な趣味を持ちやがったなぁ……」

 一人やんややんやを受けて、頬がリンゴ色から煮込んだトマトに変色す。
 涙目のセージは、幾何学的な刺繍のある薄青色のワンピースを、穴があったら埋まりたい気分で着ていた。男のように振る舞うセージが萎れて、なおかつ女性的な服を着ていると、女性のそれにしか見えない可愛さを放っていた。
 ヴィヴィは狂喜乱舞せん勢いでセージの手を握った。セージは拗ねて視線を逸らすと、鼻を鳴らす。

 「べっつにいーじゃないのお。女の子は可愛い恰好するものよ。神が許さなくても私が許すわ」
 「“神”かーあんちくしょうが発端だったなー」

 恥ずかしさを紛らわすために現実逃避に入る。事の発端は“神”なる糞野郎だったなと。もし“神”がこの場を観察していたら、愉悦に浸っていることだろう。
 『○○が無いのが悔しいところだがな』などと注文さえつけるだろうか。
 セージの言う神とヴィヴィの捉える神はもちろん別物である。よって次のような会話に流れる。

 「何、霊視体験でもした?」
 「なんでもない。とにかくこんなヒラヒラした服はヤだな」

 男物で一生突き通したいよ。心の中でだけ発言しておく。

 「そうね、動きにくいもの」
 「敵に仕掛け……じゃなくて強盗に襲われたとき、逃げられないからさ」

 着せ替え人形ではいられないと、セージはきっぱりと服の是非を自身で下した。否と。
 セージの戦闘スタイルは機動戦である。魔術とクロスボウで牽制をしながら機会をうかがい、懐に飛び込んで致命傷を食らわすなどが中軸なのだ。ワンピースなどもってのほかである。
 すると予想に反してヴィヴィは深く頷き、同調した。決して着せ替えを楽しんでいるわけではない。任務上必要な服を調達するためにあれこれ試しているからだ。
 ……本当である。多分。

 「だからって!」

 次に着せられたのはやたらと布地が少ないドレスだった。
 足は丸見え、腿もスカートが短すぎてほぼ見え、お腹も丸見え、背中もザックリ開いてほぼ見え。元の世界ならコスプレで済ませられたが、この世界ではいかがわしい職の服である。全力でブン殴ってやろうかとしたが何とか堪え、次の服を着る。
 セージはうんざりした。

 「……なにこれぇ」

 黒塗りの服。足、腰、お腹、胸、腕に至るまでをぴっちり密着する艶消しブラックのそれ。ご丁寧にもマスクまでついていた。いわゆる盗賊ルックである。
 が、言うならば『風呂敷に手ぬぐい』を身に着けた泥棒並みにステレオタイプな盗賊服であり、なぜ服屋にあるのか首を捻らざるを得なかった。
 次の服。

 「……なぜだ……」

 全体像は、ドレス。ワンピース調の衣服を豪華に飾り立てた一品。
 ただし真っ白。
 白無垢。結婚服。要するにウェディングドレスであった。この世界においても婚約は白い服と決まっている。セージらのいる文化圏ではの話に限るが。
 セージは、羞恥が麻痺するどころか頂点に達しかけていたところでウェディングドレスを着てしまい、ブーケの代わりに自分が人ごみに投げ込まれたいと投げやりな考えを起こした。ポーンと人ごみに投げ込まれればどんなに愉快だろうか。
 店員に指示して一番動きやすい構造のスカート(本人はズボンがいいと指示したが断られてしまった)を用意させて履いたヴィーシカが、うっとりとセージを眺めるヴィヴィの横に並び、腕を組んだ。そこに店員も加わった。
 いっそ殺してくれとセージは苦悶した。腕をすっぽり覆う白手袋を投げつけて決闘を申し込んでやりたくなった。
 顔を両手のヴェールで隠し、指の間から視線の主を窺う。
 ヴィヴィはうっとり、ヴィーシカは感心、店員は複雑そうな顔をしていた。

 「よくありましたね」
 「貴族のお流れ……おっと、仕入れてきたもんなんで質だけは本物です」

 カチンと来た。頭のどこかで血管が自壊するのを感じ取った。
 セージは白無垢の手袋を脱ぐと、ダンッと床を踏みしめた。猫が威嚇するように背を丸め、大きい青目を更に見開いて。

 「いい加減にしろっ!」

 結局、ごく普通の女性服に落ち着いた。




[19099] 六十七話 潜入せよ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/30 21:20
LXVII、



 街の防衛を探る手段として、兵士の詰所を遠くから観察するのが一番であるという結論に落ち着いた。潜入をやらかしてみたり、破壊工作をしてみたりは、リスクが高すぎた。長老の戦闘能力であれば悉く殲滅できるであろうが、本国に敵が侵入しているという事実が露呈しては、戦略が瓦解してしまう。
 三人組の偵察の結果、交易の街だけあって盗賊団が大勢押しかけてきても逆にやりかえせるばかりか、全滅に至らしめるだけの戦力が存在していた。
多くは騎兵と弓兵。機動力のある馬で追い払うか、追撃。街の外で矢で釘付けにする。そういうことであろう。
 次に調べるべきは、王国の品がどのルートを通っているのか、どの日ならば確実に街にいるかである。適当に焼き払っておいて、実は何の関係も無い国の交易品でしたでは、悪戯に時間を浪費するだけだった。ひとたび襲撃が発生すれば、交易路が変更される恐れもあった。
 可能ならば王国の品を。可能ならば一度に大量。しかも、襲撃した時にたまたま王国の品があったという偶然を装えるように。
 これが案外難しいもので、『これはどこの国の品なのか』を直接訊ねるわけにもいかず、こっそりと調べざるを得なかった。
 セージはどこにでもいそうな女の子の服装に、帽子を斜に被ったスタイルにて、荷物とその運搬キャラバンがたむろする飲み屋と飯屋の付近をうろついていた。
 大柄で筋肉質なヴィーシカは目立ちすぎるし、魔術師然とした格好のヴィヴィも目立つ。そこで、相手の油断を誘う意味合いを持たせ、セージが調査を担当したのだ。
 子供特有の徘徊を装いつつ、キャラバンの合間を縫っては耳を澄ます。
 聞こえてくるは、下品な会話、愉快な会話、商売の話、身内の話、仕事の話。

 「でよー、あのねーちゃんケツでけーんだわー」

 というお下品な話もあれば、

 「俺も年だな。腰がたたん。目もかすみやがる」

 己の肉体を気にする会話もあり、

 「どこぞの種族じゃ言うらしいぜ。娘っ子ほど男らしいもんはねェってな」

 雑学を披露するものもいれば、

 「雇い主の羽振りが悪くて困ってるんだが、ブン殴る以外の解決法はないかねぇ」

 金の心配を話すものもおり、

 「うちのかみさんがね」

とホクホク顔で妻の自慢話をやりはじめるものもいる。セージは心の中で「どこの刑事だ」と突っ込みを入れていた。
 飲み屋と飯屋そして装備屋の間の空間にひしめくキャラバンの中を、とにかく歩いて探る。

 「効率わる……」

 セージは一日中ほっつき歩いてそういう決断を下すと、凝り固まった腰を手で押して揉み解しながら、二人のもとに戻った。
 翌日、キャラバンの列を片っ端から虱潰しに探すのはあまりに効率が悪いとして、キャラバンがいつ通過したのか、何を運んできたのか、どれくらいの規模かを知る人物を探すことにした。
 人物はあっという間に見つかったのだが、肝心の情報は部外秘であることが判明した。
 三人は街外れの資材置き場に集まると、顔を突き合わせて相談した。

 「金で釣るのは?」

 セージはそう提案したが、すぐさま二名の反対意見を受けた。

 「交易台帳を管理するほどの人が、小金につられるかしら。第一、私、大金持ってないわ」
 「我もそう思う。リスクをしょい込むのは勘弁願いたい。街を消し炭にしていいのなら……」

 ヴィーシカがくぐもった声でそう言いかけた。街を丸ごと焼き滅ぼしていいのなら、台帳など紙屑より価値のない品物であろうということである。
 すぐさまヴィヴィが首を横に振る。

 「長老、駄目に決まってます」
 「分かっている。慎重に事を運ぶべきだ」

 セージは腕を組むと、寄りかかった資材をコツンと手で叩いて見せた。

 「なら、俺が忍び込んできますよ」






 夜。
 セージは装備を整えていた。あからさまな盗賊スタイルは怪しまれるが、真っ白な服では見破られやすいのでダークトーンでそろえた一式を身にまとったのだ。
 さりげなく通路を歩いていく。木の家を通り過ぎて、土を乾かして作るレンガの家を通り過ぎて、道の途中に放置されていた誰の所有物とも知れぬ馬車の陰に隠れ、巡回の警備兵と思しき人物をやり過ごす。

 「………」

 スィー。歯の隙間から吐息を漏らす。
 腰を振り立てるように音を立てずに起立すれば踵に接地してから爪先に重心を移動する忍び足を素早く繰り返し、目的の建物に近づく。
 暫くして、それが見えてきた。レンガ造りの頑丈そうな二階建て。周囲に建物は無く、意図的に空間が空けられている。周囲は数名の人間で固められ、二階テラスにも数人を視認できた。
 煌々と松明がたかれ、闇夜の街にぽつんと浮かんだ光の小島が如き。

 「ここか」

 独り言はここまでだった。
 セージは顔を軽くはたくと、事前の下見の記憶を手掛かりに、目的の二階建てに最も近い地点にある物置に近き馬小屋に照準を絞り、迂回した。二階建てを背に街の中に潜り込み、細い裏道を通って巧妙に姿を隠匿しつつ、距離をできるだけ詰める。
 セージには幻術は発揮できず、暗殺者が会得するという姿を消す技能も無い。見つからないこと。目視されないことが何より肝要だった。
 距離にして20m地点に辿り着いたセージは、建物の陰に身を潜め、天蓋で微笑む銀球が漆黒に姿を消す瞬間を待った。
 およそ数分後、ふっと周囲一帯が暗闇に包まれた。

 「〝強化〟せよ………っ」

 瞬時に、練り上げてきたイメージを出力する。魂と肉体の引き合う力を強引にこそぎ取って全身の筋肉のパワーアップを図った。
 それは程なく成功し、肉体が異常な過熱を起こした。
 筋繊維が膨張する。
 熱さに唇を噛む。

 「ッ……」

 駆けだした。疾風が如き俊足で。
 建物を警備する兵士が目を逸らした僅かな隙に馬小屋に駆け込むや、一息に二階建てに取り付く。外周の警備が建物に目を向ける前に、強化された腕力を持って二階の手すりを登って、伏せの体勢で床に張り付きながら陰に身をやった。
 この間、僅か十秒足らず。稚拙な忍び込みはしかし成功した。
 一階の警備兵に見つからぬように二階の床に伏せたまま、二階の扉を守る兵が目を逸らす隙を窺う。こちらを見られたときのためにそれとなく兵士が使うと思われる机と椅子を引き寄せて、影を濃くしておいた。
 ――兵士が、ふっと目を逸らして、一階の兵士と雑談し始めた。タバコまで吸い出した。
 機会は今しかなかった。再び肉体を強化すると、可能な限り音を殺し、扉に忍び込むと内部を鍵穴から窺った。誰もいない様子。歯が鳴りそうになるのを堪え、ドアノブを捻る。スッと身を浸透させる。
 侵入に成功した。

 「………」

 セージは息を殺した状態を維持しつつ、事前の調査に基づき目的の部屋に向かった。外部の警備の大仰さと比較して、内部は人っ子一人おらず、勤務している者らの寝室からはいびきが聞こえてくるくらいだった。
 拍子抜けしたが、仕事はこなす。
 目的の部屋に辿り着いたセージは、万が一の危機に備え懐のナイフを袖に忍ばせ、扉に耳を張り付けた。無音。静寂。心音だけがやけに大きく聴覚を刺激した。
 どこかで犬が遠吠えした。ビクッと顔を強張らせ、廊下に目を配る。何もおらず、何もいなかった。
 一応、扉に手を翳して魔術的な防御がないかを検索してみた。何も無かった。組成が木と鉄の扉でしかなかった。
 鍵もかかっていなかったので内部に身を滑り込ませると、不用心にも机の上に堂々と置かれていた。
早速、台帳の内容をこれまた音を立てぬように拝見していく。王国の物品がいつごろ到着するのか、どの日なら確実にあるのか、どのルートを通ってきたのか、どれだけの量があるのか……。ほどなくして情報を発見した。指を止めて、懐から板を取り出し、机の上から羽ペンを拝借してメモする。

 「っし」

 メモに要した時間は数分間とかからなかった。吐息を漏らし、高鳴る心臓をなだめる。板を懐にきっちり収め、台帳と羽ペンの位置を記憶通りに戻しておく。指紋は考えなくていい。この世界では有用な証拠として認知されてもいなければ、指紋を取る技術すらない。
 部屋から出る前に、扉に耳を付ける。警戒を怠らない。無音を確認すれば、扉を薄く開いて目による確認。無人。安全。扉からするりと出でて、元来た道を戻る。
 二階の外、いわゆるテラスに出る扉に張り付く。警備兵がいるはずである。

 「………!?」

 扉の向こう側から足音がした。息を飲み、仰け反る。泡食って隠れようとしたが、扉の近くでは隠れようがない。身を隠すものもない。天井に張り付く技術はなかった。
 ――次の瞬間、扉が開かれ―――。
 南無三。ナイフを握りしめた。

 「交代交代っとぉ」

 幸運なことに、開いた扉と壁の間に挟まれる形となり、警備に気が付かれなかった。警備は鼻歌を歌いながら寝室の方に向かっていった。扉が閉まってしまう前に、外に出る。
 再び床に張り付くと、下階を窺う。警備はちゃんといた。が、見ているうちに内部へと姿を消していった。どうやら交代の時間らしかったが、交代の時期をずらしていないらしい。不用心にもほどがあるが襲撃があるなど考えもしないのだろう。
 しめた。
 セージは手すりの隙間から下をそれとなく窺えば、ひょいと飛び越して着地、前転で衝撃を殺し、中腰姿勢を維持して馬小屋に駆け込んだ。

 「――はぁっ、はぁっ」

 慎ましやかながら女性を主張する胸が上下し始めた。緊張と、魔術の反動による心拍数の急上昇がもたらした生理現象であった。
 いつの間にか息が切れていたが、整える時間は無かった。
 セージは再び周囲に警戒の糸を走査させ、ただちにその場を離脱した。




[19099] 六十八話 襲撃者を襲撃する者
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/30 21:22
LXVIII、


 襲撃決行のときががやってきた。
 一行の準備は完了しており、キャラバンの集まる場所、王国の荷物が大量に運び込まれる日、物資の内容、兵の詰所の場所と配置などを十全に把握していた。度重なる議論の末に、夜中に荷物ごと燃やし尽くして離脱するのがよいという結論を得た。
 それから数日後、街外れで少人数のキャラバンが忽然と姿を消したという噂が立ったが、一行の襲撃と無関係とは言えまい。
 多くの人間は――エルフも含めて――自分が災厄に巻き込まれるなど考えもしない。明日が明日へ繋がっていくと頭から信じ切って油断している。訓練されたつわものであれば警戒を怠るまいが、交易都市を守る素人集団には想定の範囲外である。
 魔術で少し精神を誤魔化せば、怪しげなキャラバンもごく普通のキャラバンに様変わりする。
 その夜。セージらは襲撃の直前になって任務を遂行していた。すなわち、街を守る門の守りと留め具を破壊するためである。

 「他愛もない」

 ヴィーシカの言葉がゆるりと漏れる。
 彼女の眼下にはひれ伏す格好で気を失っている門番が計三人。いずれも男。彼女はその豊満な肉体を誇示して気を惹き、近づくと、男らが鼻の下を伸ばしたところでその強靭な肉体から繰り出される突きを鳩尾に向かい連射して瞬時に意識を刈り取ったのだ。男たちは何が起こったかも理解できずに夢に落ちたであろう。
 セージはヴィーシカとルエが周囲を見張ってくれている間に、門の留め具を外していた。門の構造は以外にも単純で、門の左右を丸太で動かないようにしているだけであったので、その丸太をえっちらおっちら外して転がすだけでよかった。
 門の隙間の向こうには、キャラバンに扮したエルフの味方が既に構えていた。件の隊長であった。
 隙間越しに言葉を交わす。

 「準備完了です。すぐに行けます」
 「お前、丸太外しやがったな」
 「いけませんでしたか?」

 隊長は隙間から視線をやり、地面に丸太が転がっているのを咎めた。

 「あからさまに怪しい証拠を残してどうする。目撃されたらおしまいだぞ。丸太の裏を削るなり焦がすなりしてブチ破れるように細工して戻せ」
 「慎重ですね」
 「頭の悪い賊を装うには仕方がない。力技で破ったと誤解させろ」
 「やっておきます。我々がキャラバンの荷物のとこで派手に火柱あげますんで、それを合図に突入して荒らしまわってください」
 「よし、やれ」

 セージと隊長は頷き合うと、さっと身を引いた。セージはルエとヴィーシカにも手伝ってもらい丸太に細工をすると門に戻し、見張り達を藁の中に隠すと素早く行動した。
 暗闇から暗闇を駆けてキャラバンの集まる一帯に戻れば、戦闘準備を整える。王国への積荷が集積された場所が狙いだ。


 異変を最初に察知したのは、犬だった。人間よりも生物学的にも魔術的にも察知に優れた彼らが街に生じた異変に耳と鼻をひくつかせるのに、そう時間がかかるまでもなく。
 ズンッ……。
 キャラバンがたむろする一帯から小爆発が上がった。震動が地を揺らし、建物を軋ませた。地震か。寝ぼけた住民やキャラバンのメンバーが目を開くもすぐに寝てしまった。

 「“フレイムボール”ッ!!」

 次の瞬間、街を貫く火柱が地上から生えるや、その熱が瞬く間に膨張し、水面に滴を垂らした僅かあとのように、地上の大気を根こそぎ巻き上げながら収束し、建物の真上に巨大な火球となりて存在を誇示したのだった。
 中二病こじらせたようなネーミングセンスと言うなかれ。

 「ルエ!」
 「はい! “風よ、爆ぜろ”!」

 次に、火球にルエが短剣を掲げ、スープをかき回すかのように一回転させた。イメージするは即ち『爆発』。火球が俄かに竜巻の気配をちらつかせた刹那――爆発、幾多もの小さき火の球に分裂して四方に飛び散った。衝撃波が街並みを揺らし、寝ぼけた住民たちを起こす。泡食った鳥たちが一斉に夜空に逃げ始めた。
 街中で爆発が起こったことで、詰所にいた兵士たちはもちろん、街に住まう者たちも何事かと一斉に行動を開始する。あるものは龍でも攻めてきたかとベッドから落ち、あるものは剣を掴もうとして転倒し、あるものは屋上に上がって街の一角で火災が発生しているのを見た。
 敵襲か? 事故か? 盗みか? 天変地異か? それとも埒外の事象か? 
物事の判断がつかず、しばし騒然とする街に対し、答えを与えてくれる音が存在した。
 ワーッ、という鬨の声である。
 いつの間にかに開かれていた門からどっと流れ込む、フードを深く被った怪しげな一団。
 一団はあたかもあらかじめ知っていたかのように兵士の詰所に次々押しかけては一方的な攻撃を行い、残りは街の中枢へと馬で猛烈な進撃を駆け、火を放ち、屋台をひっくり返しながら目標のものまで目指す。その浸透速度たるや電光石火。街の防衛戦力が整う以前の状況を正確に把握する段階で既に目的の半分を達成していた。
 セージは魔術行使で荒くなった息を整えるなど面倒なことはせず、手当たり次第の積荷に火を放ち、味方の方に駆けた。ルエ、ヴィーシカが続いた。

 「成功しましたね!」
 「大まかな。逃げきれなくては十全とは言えまい」
 「そうですよ。まず逃げなくては!」

 セージが言えば、ヴィーシカとルエが答えた。
 成功したなどと嬉しそうな口調をしつつも、内心では火を放ったことで街が被る人的被害について考えていた。ためらいは無い。後悔があった。
 セージは通路を塞いでいた荷車の上に手をかけ下半身を横にどけて飛び越し、中腰で着地してすかさず走りを復帰した。次にヴィーシカは荷車の上に手を付き空中で前転を決めて着地。ルエは飛び越せないと悟ったか、魔術の風で推進力を付けて強引に飛び越した。
 騒ぎに気が付いた人々が通路に溢れてはいたが、セージらが襲撃者であるとは思いもよらないのであろう、右往左往するばかりで妨害といえば邪魔の一点のみだった。
 男を避け、女を避け、老人を避け、狭い通路を走る。人々の悲鳴や怒号と、火が燃え広がるという圧迫感を背に、狭く混雑した上に散らかった街をただ走った。
 大きな通路に出た。屋台やお店の並ぶ直線道路だ。そこに予定通り三騎の仲間が待ち受けていた。周辺の住民はここに至って三人も仲間だと気が付いたのか、金切り声をあげて逃げていく――。
 セージは剣を腰に差すと、仲間の手をしっかり握って馬に飛び乗った。ルエも多少もたつきながらも乗った。最後の一人、ヴィーシカだけは馬に乗らなかった。
 遥か遠方、ありもしない塔を睨み付けている。すなわち、街の上空をじっと見つめているのである。それは襲撃という現在進行形のもとにおいて、酷く悠長に思われた。

 「早く乗ってください!」
 「まて、しばし待つのだ」

 セージの乗る馬の手綱を操る仲間がそう言葉をかけた刹那、ヴィーシカが目にもとまらぬ早業で一回転した。
 ふわりと裾がめくれ上がった。
 チッ。ヴィーシカが舌打ちをした。

 「こんな辺境にも腕利きは潜んでいるか」

 すわ何事か。
 セージは見た、ヴィーシカの手には確かに矢が握られていたのだ。目視すら許されない高速の矢が空間を貫きやってきたのをセージらに命中しないように空中で、しかも素手で掴み取ったのだ。ペキリと音を立てて矢が掌の中で粉末になった。
 更に、ヴィーシカは両腕を鳥のように広げた。刹那、その両手には矢があった。超高速二連射を受け止めたのだ。
 狙撃を受けている。
 一行が感づいたのはこの段階になってからだった。すかさず三騎手が鞭を振るい、馬をせかす。いななき。両前足ががくんと持ち上がるや、馬が駆けだした。

 「長老!」
 「長老!」
 「案ずるな、後で追いつく!」

 去り行くセージとルエを背に、長老はひらりと手を振るついでに矢を砕いて見せた。





[19099] 六十九話 街を脱して
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/01/30 21:23
LXIX、


 ヴィーシカを特徴付けるものとは何か。
 彼女は多くの長老のように強大な魔術を有しているわけではない。初歩的な魔術ならば使えるのであるが、専門家からは程遠い。桁外れの強さだけで長老になった、それだけなのだ。ゆえに批判も大きく、彼女自身がそれを自覚している。
 逆に言えば、得意分野ならば負ける要素が無い。
 彼女の最大にして武器にして最大の防御―――怪力である。比喩でも、誇張でもなんでもない。全身甲冑を着込んだうえで龍狩り用の巨剣を担いで岩という岩を飛び移りながら戦っていたこともあったくらいである。
 ヴィーシカは鋭い放物線を描き飛来する矢を文字通り腕力だけで掴み取っては捨てる作業をしながらも、街の陰に駆け込んだ。あろうことか、矢は空中で一度ぐっと天に向かうや、狙い澄ましたようにヴィーシカの頭上目掛けて再加速して鏃を突き立てんと襲い掛かってきた。

 「面妖な……この精度只者ではない。我が里に欲しいくらいであるが……」

 ヴィーシカはおもむろに足元の石を拾うと、投擲した。空中で矢と石がぶつかり、砕け散る。
 ふぅ。溜息を吐くと、物陰に身を隠す。
 街に放った火が徐々に広がりをみせているようで、鼻を刺す焦げ臭い煙が空を覆いつつある。
 狙撃手は、目視できないはずの地点に正確に放ってきたのであるから、なんらかの観測手段、なんらかの誘導手段を所有していると考えるのが自然である。事実、矢が誘導するのを目視した。観測手段もあると考えるのが道理である。
 しかし、この攻撃には致命的な弱点があった。矢の宿命とも言える点である。

 「火力が足りん。不意を打てなかった段階でお前の負けだ」

 誰に言うでもなくそう呟いたヴィーシカは、多少狙いの甘くなった矢の狙撃を掴むまでも無く不規則なステップで躱すと、上空に目を凝らした。この騒ぎだというのに逃げ出そうともせず、秩序ある周回を続けるカラスを発見した。
 考えを思いついたヴィーシカが物陰から姿を晒すと、カラスが首をその方向に向けた。不自然過ぎる動きだった。
 脳裏に浮かんだことがある。鳥の意識操作、もしくは使い魔による索敵。
 ――これこそが、まさに、観測手段ではないのか?

 「仕掛けはそれか!」

 トリックを看破した。
 刹那、ランダムな蛇行をしながら矢が街の上空に到達、今まで以上の速度をもって一直線に突っ込んできた。いちいち躱すのも面倒だが、剣や盾を持ち合わせておらず、かといって生半可な板切れでは貫通されてしまう。そこでとったのが迎撃である。手ごろな屋台にあった瓶を投げつける。衝突。進路を逸らされた矢は地面に半ばまで埋まった。
 まずカラスを撃ち落とさなくてはならなかったが、遥か上空を旋回するカラスに命中させられるかは運任せであり、街を逃げ出す間射ち込まれ続けるのは面白くなかった。どうやら狙撃手はヴィーシカに執着しているようであるし仲間が離脱するまでは撃たれ続けるのも正解と言える。
 ヴィーシカは続く矢の落下を駆け足で躱すと、扉を蹴り破って家屋の中に潜った。内部は既に無人でここならばカラスの視界から逃れられるはずであった。思惑通り、矢は途端に精度を失い、家屋の壁に刺さるだけだった。矢の追尾にも限界があることも利用した。まさか地面すれすれを滑空しつつ窓をブチ破ってはこないであろうと。

 「………さて………」

 家屋であぐらでもかいていれば矢は来ない。少し待ってから騒ぎに乗じて離脱後、合流すれば目的は達成できる。狙撃手が仲間を狙わない限り。
 ふとヴィーシカは家屋の隅にそれが転がっているのを目にとめた。使い道も無く、しまう場所も無く、かと言って売れるかどうかも微妙なので放置しておいたであろうそれを。
 そしてヴィーシカはそれのそばにしゃがみ込むと、ヴェールの奥でにんまりと笑った。




 狙撃手にとって、その奇襲は予想外の出来事であった。物資調達のために寄った街で大爆発が起こるなど、誰が予想しようか?
 傭兵家業をやっていた男は曖昧模糊な概念ではあるが『直感』に反応して目を覚ましてみると、街の一角で火災が発生したのを目撃した。すぐに敵襲と理解したが、勢力は不明であった。
 街の護衛も、殺害任務も受け持ってはいなかったが、眠りを邪魔されて頭に血が上り、自慢の剛弓と使い魔を準備して狙撃体勢に移った。索敵してみれば、体型が自分好みの女性が馬に乗ろうとしているではないか。様子から、襲撃者と判断した。これも直感であるが、男は自分の感覚を信頼していた。
 躱せるもんなら躱してみなの軽い気分で弓を射た。
 あばよヴェールの美女、と。
 が、あろうことか人外染みた身のこなしと腕力で矢を空中で掴みとられた。呆気にとられたものの、偶然だと思い直し全力を込めて狙撃を行うも悉く躱されるか迎撃を受けるか掴み取られた。
 こいつ、只者じゃない。
 傭兵の男は女性を強者の分類に入れた。
 そして、狙撃を一時取りやめ、移動せんと窓から身を乗り出した直後だった。
 なにか小さい棒のようなものが上空を回転している。目のピントを調整して見れば、それは棒状で、人の身長を遥かに越えるものであるどころか重量も人を越えるものであることが分かった。
 それは、丸太だった。
 丸太が空中をぐるんぐるん冗談のように激しい回転をしながら鋭い放物線を描いて一直線に我が方に向かってきていたのだ。
 男は最初それが丸太であると解析したとき、見間違えではないかと考え、さらに目を凝らした。がしかしどこからどう見ても丸太であり、象の突進よりなお凶悪な威力を秘めているであろうことを理解してしまった。

 「ン? ン? ン、おおおおお馬鹿野郎!」

 男は口に咥えていたタバコをぽろりと落とすと、罵声を吐き窓から飛び降りた。
 次の瞬間、すれ違いのタイミングで、男が宿泊していた部屋に丸太が轟音と共に突き刺さり、寝室を粉々にしてしまった。
 哀れ地面に落下した男は頭を擦っていたが、ふと顔を上げ、二階の部屋にこれでもかと男らしく屹立する丸太を見遣り、いよいよ目を丸くした。回避が遅れたら部屋の染みになるところであった。
 男は、背筋に鳥肌が立つのを自覚した。
 美女の類、もしくはカモと思いきや、その実バケモノを相手にしていたのである。多くの戦場を渡り歩いてきた男でも、丸太をおそらくは素手で投擲できる女を相手にしたことはなかった。

 「ヒャー、こいつぁタダモンじゃないね。面白くなってきた」

 男は服の埃を叩いて払うと、顎の無精ひげを指で擦りつつ丸太がやってきた方を見つめた。
 ふと、男に気まぐれな思いつきが浮かんだ。
 まずは目立たないように丸太を引っこ抜いてから荷物を纏めて、襲撃者を追おうと考えた。





 ヴィーシカは丸太を投擲した余韻に僅かな時間浸っていた。
 が、おちおちと留まってもいられないと、すぐに姿勢を正すと街の混乱に紛れるべく駆けだした。
 丸太を投げた奴がいる――という噂はなぜか広まることがなかったが、離脱を最優先に考えた彼ら彼女らが知る由もなかった。噂どころか丸太自体が消滅していたことも。
 ヴィーシカは全速力で建物の屋上から屋上に飛び移って高速で移動し、やっと馬の列に追いついた。ヴィーシカが合流したときには既に攻撃は完了しており、全員が揃っていた。
 平原にぽつんと生えた木の陰にて、月光を背に馬に跨った一同が並んでいる。遠景に、燃え盛る街と、朱色に侵された漆黒の空。かすかに香るきな臭さに馬が鼻を鳴らした。
 ヴィーシカは馬の後ろに堂々と跨りながら、隊長の方に言葉をかけた。対する隊長は機敏な手綱捌きで馬を寄せる。

 「隊長よ、我とあなたで隊を二分して予定地点で落ち合おう!」
 「任せました、長老殿」
 「長老ではないと言っておろうにっ……まぁいい。ウム、では行動を開始しようではないか、諸君」
 「それではご無事で」

 一団は、街の襲撃前と同じように別れると、目的地に向けて馬の列を進めていった。
 セージは話を聞いていたが、重要な部分を聞いた後は街を見つめていた。まるで暗闇の海にぽつんと孤立した光の島だった。赤、オレンジ、黒、群青、茶色、白、数えきれない色の群れが成すマーブル模様が街を覆いつくし、人が次々と逃げ出していく様子が遠くからでもはっきりと見えていた。立ち昇る煙は僅かな風に流されて、地を這ってから天にのびている。
 並走する馬の後ろに腰かけたルエは、街よりもセージを見ていた。月明かりと街の火に浮かび上がった憂い顔を。




[19099] 七十話 ルールは守りましょう
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/03/26 03:22
LXX、




 姿勢を低くして足腰に力を溜める。息は等間隔を維持して攻撃のタイミングを悟らせないように。足運びは慎重に。相手に対して右方向に移動し、相手の左側を取らんとするように、位置を変えていく。
 対する相手はだらりと両手を下げたまま、こちら側に合わせて体の向きを変える。一切の構えの無い自然体はしかし紙の挟む隙間も見いだせぬ鉄壁の威圧感を放っていた。
 〝女の子〟は、駆け出した。

 「覚悟ぉ!」
 「やれるものなら、やってみるがいい」

 真正面からの突進、に見せかけた廻し蹴りを放つ。
 ヴィーシカはそれを半歩後退するだけで紙一重で躱した。ヴェールが風になびく。
 続く第二撃は足を引く反動で体を前傾させて、飛び掛かる。地に痕跡刻まんばかりの俊足で懐に潜り込めばお得意のボクシング式の殴打の嵐を見舞う。が、すべて片手で捌かれる。しかも、捌かれるどころか易々と右に左にいなされてしまっていた。
 しびれを切らしたセージが大ぶりの肘打ちを繰り出した刹那、ヴィーシカが強く地を踏み一歩前進しつつセージの頭を軽く打ち、その足首を絡めて仰向けに倒した。変則的な投げ技。怪力によるゴリ押し戦法しかこないと勝手に思い込んでいたセージは不意をうたれた形となった。
 一瞬で攻勢が強制停止した。青空を背景にヴェールで覆われた顔がこちらを見下ろしている。
 セージは大の字でしばし目を回していたが、両足を天に向け、地に叩き付ける反動を利用して機敏に立ち上がるや、すかさず駆け出した。

 「もう一丁!」
 「元気がいいやつは好きだ。何度でも相手してやろう」

 余裕綽々のヴィーシカに隙はまるでなく。姿勢を崩さず、ヴェールの奥からセージの手足や重心の移動をつぶさに観察している。
 セージが大きく踏み込んで腰を落とし腹部目掛けた鋭い前蹴りを繰り出す。が、手であっさり横に受け流され、逆にがら空きとなった足を軽く払われて尻もちをついてしまった。

 「そおれっ!」

 ヴィーシカがあからさまに『躱せ』のニュアンスを込めた、緩い蹴り込みを実行。丁度サッカーボールを蹴るような甘めの攻撃。

 「むあ!?」

 尻もち体勢では満足に動けず、止むをえず情けないが地面をゴロリと転がって危ういところで躱せば、なんとか持ち直す。しかし時間をかけ過ぎた。またもやヴィーシカに接近を許し、襟首をガッツリと保持されたと思った刹那、二回三回と視界が円舞し、地に叩き付けられた。
 腕力だけではない、技術の伴った投げ技がさく裂したのだ。
 セージはヴィーシカから2~3mは離れた地点に倒れ伏した。
 頭が揺さぶられ、脳が軋む。淡い痛みと吐き気。打ち付けた背中がジンジンと痛んだ。どっと肺から空気を絞り出した。吸い直せば、ゆっくりと体を起こし身構える。
 何度やられても諦めずに戦意をぶつけてくるセージの姿に、ヴィーシカは口の端を上げて犬歯を覗かせた。もっとも、ヴェール越しなので誰一人として素顔を目撃しなかった。
 セージが拳を固め、ボクシングスタイルで戦闘意欲を示す。

 「もう一度!」

 という組手の場面が繰り広げられていたのは一行が小高い丘の頂上でキャンプを張っている地点であった。周辺を見回せるので外敵の接近を容易に察知できるという点と、木々が生えているので身を隠せるという二つの利点があったからこそ一時的な拠点に選んだのである。
 流石に水源や獣の気配はないので、休憩と今後の予定を立てる短期間だけの拠点である。
 ヴィーシカとセージが組み合ってから早くも一時間が経過していた。最初、ヴィーシカが『やらないか』と持ちかけた軽い気分の組手だったはずが、徐々に内容がエスカレートして蹴る殴る投げ飛ばすのなんでもあり格闘技戦になっていた。
 一方、二人に触発された仲間達も戦闘訓練に興じていた。度合いは様々であり、剣と剣を打ち合わせる本格的なものもあれば、格闘、弓、訓練もどきの緩い戦いなどがあった。さすがに魔術を打ち合うようなことはできない。属性が火にしろ風にしろ、目立つからである。
 ヴィーシカに流れるような拳のラッシュを叩き込むも、いずれも、屈む、仰け反る、弾かれる、と躱される。これではだめだ。同じ攻撃方法では読まれてしまう。セージは咄嗟に後退すると見せかけてヴィーシカの足元を、己の足で薙いだ。

 「まだまだ!」

 その足は、ヴィーシカに掠らずに直撃した。ただし一旦足を上に退避させた後で踏みつけるという形で。足の速度が温すぎたのと、力が籠っていなかったのが原因であった。

 「ぐっ」
 「小手先の技が通用するなどと――考えないことだ!」

 水平に伸ばした足をヴィーシカが蹴った。片足が急に移動したため、もう片方の足で地面に半ば腰かける体勢でしゃがみ込んでいたセージは思わずよろめいた。顔をあげるまでもなく、その無防備な顔面にヴィーシカの膝が音も無く剛速球で叩き込まれる。
 はずが、髪の毛一本という地点でピタリと静止した。
 思わず仰け反って目を瞑ってしまったセージが瞼を上げてみれば、まつ毛が触れ合える地点で止まった膝があった。
 実戦であれば、相手が戦場で敵対したヴィーシカであれば、その強力を持って首をへし折られていたであろう。完敗だった。格闘にしろ、なんにしろ百戦錬磨を誇るヴィーシカ相手には敵わないのだ。
汗を額に浮かべて大の字になったセージの視界に、ヴェールをかぶった女性の姿が入り込む。息を切らし汗さえ浮かべているセージとは対照的に、ヴィーシカは汗をかいた様子も息を切らす素振りさえない。全身甲冑を着込み鉄板のような剣を担いで岩山をぴょんぴょん飛び回って竜と格闘していたという彼女とは、基礎からして造りが違うらしい。
 倒れ伏した小柄に、長身が手を差し伸べる。
 小柄が快活な笑みを浮かべてその手をがっしり握ると、あれよあれよの間に引っ張り起こされる。しかも片手だけで。
 ばたん、と乱暴な音が聞こえた。
 方角を耳で探して振り返ってみれば、大の字――ただしうつ伏せ――で倒れ込んだルエに足を組んで腰かけたヴィヴィという複雑な絵を観賞することできた。ルエとヴィヴィの二人も組手をやっていたはずなのであるが、なぜかこの不可思議な状態である。普通に格闘したのならば、手加減できずに鼻血が出ただとか、ころんだだとか、むしろそれしかありえない。うつ伏せ大の字に足を組んで座っているということは相手が倒れた後に腰かけたということに他ならない。
 ヴィヴィが膝に手を置いて休憩を始めた。セージがじっと見ているとヴィヴィと目が合った。ペロリと舌を覗かせたヴィヴィは起き上がると、服を直した。

 「なぜ倒れているのだ」
 「ちょっとした魔術の実験です」
 「“ちょっとした”? 嘘をつくな、気絶しているではないか」

 ヴィーシカが歩み寄り、ルエをひっくり返す。妙に幸せそうな表情でぐっすり眠っていた。むにゃむにゃと何事かを呟く。十人中十人が幸せそうだと答えそうな口調で。ただし内容は言葉が崩れ聞き取れない。
 ヴィヴィはバツの悪い顔をした。

 「手始めに魅了の魔術をかけてみたんだけど抵抗されてしまったの。だからつい手加減間違えてしまって」
 「阿呆め、格闘の訓練に不意打ちで魔術を使うとは」
 「うっかりしてましたわ」

 呪文はセージらの元に聞こえてこなかった。とすれば目を合わせた相手にかける暗示を使ったのであろう。格闘訓練の最中にいきなり魔術をかけられたルエはさぞ驚いたであろう。
 すやすやとお休み中のルエの処分に困った二人は、それとなく顔を見合わせあった。
 そこで、セージが間に入った。汗を拭いつつ、静かに歩み寄る。

 「俺が見ておきます」
 「ム、そうか。わかった」
 「………なんだかごめんなさいね。やり過ぎてしまったみたい。あとはよろしくお願い」

 あっさり承諾するヴィーシカと、流石に魔術は拙かったかと顔を曇らせるヴィヴィの二人は、訓練を引き上げてテントの方に戻っていった。長老たる彼女が訓練を終えたことで周囲の仲間たちも引き上げていった。
 大の字で横たわっているのも哀れなので、仰向けに転がす。男性の体は意外と重く筋力を使ってしまった。

 「………」

 ふと、ルエの体に予想外に筋肉がついていることに気が付いた。ペタペタとあっちこっちを弄ってみる。肩。出っ張っていて骨がごつい。腹。男性特有の硬い筋肉。足。脂肪に覆われた女性のとは対照的に、筋肉と筋の乗った頑丈なもの。顔。中性的でありながら、しっかりと男性を感じる目鼻の配置。なるほど、かつて男性であった“女の子”からしてもいい男だった。
 思わずため息が出た。この世界にさえこなければ、あの〝神〟さえいなければ、元の男性でいられたというのに。

 「いいなぁ……」

 あっちこっちを弄るもとい触り倒す。腕も触ってみた。服の袖を捲ってお腹も見てみた。
 本人は無自覚であるが、やっていることは半ば変態的な行為である。
 更に顔を近づけてにおいまでかぎ始める、少女。変態を通り越しそうな勢いであったが、気が付かない。訓練が終わりほかの仲間たちが撤収してしまっており、周辺に見咎める人物がいないことが拍車をかけた。
 ズボンの中はどうなっているのだ?
 ここに至ってセージはようやく己の行為を自覚し、手を引っ込めた。僅かに頬に紅が差した。
 しばらくして、ルエがうめき声をあげて目を開いた。傍らには体育座りのセージがいる。彼はキョロキョロと周辺に目を滑らして、何が何だかわからない、といった疑問を顔に描き出した。

 「おはよー。気絶したんだってさ」
 「まさか……修業が足りないということですね」
 「ちなみに魔術ね」
 「格闘中に気が遠くなったのはそれが理由でしたか」
 「とにかくみんなのとこに行こうぜ」

 というわけで、二人もテントに戻った。



[19099] 七十一話 穴があったら
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/03/31 01:30
LXXI、


 大まかにおいて、ことは順調に進んでいたと言える。
 まず王国への侵入。発見されることも無く成功した。痕跡の隠ぺいもほぼ完ぺきといえよう。
 作戦遂行にも穴は無かった。賊を装い、襲撃を行う。時に敵の拠点を。時に敵の交易路を。




 セージら一行が次に目指したのはより前線に近い王国の主要道路が交差する地点であった。いよいよ連合軍と連動した作戦が始まる。最前線をかき乱すのは危険が大きいため、兵員が終結する地点で騒ぎを起こして攪乱することとなった。他の隊も同程度の脅威に対して行動を起こすであろう。
 戦争のために国中に張り巡らされた道の恩恵で発達した街、それがねらい目であった。
 問題と言えば先の作戦でもあげられた、投入可能な人員の少なさである。質で言えばヴィーシカという名だたる戦士が居るとはいえ、しょせんは少人数。物量押しされたら無傷では済まされない。必要なのはいかに効率的に混乱をもたらせるかということ。年密な偵察の上で作戦を練らなくては、破滅が待っている。
 そこで一旦、一時的な拠点を街の郊外に置き、偵察班と待機班に分かれることとなった。
 メンバーは長老、ルエ、そして数人。そして待機がセージとヴィヴィとその他である。
 待機班のやることと言えば主に待機であり、偵察班のように困難な事象は無い。あるとすれば敵の襲撃に備えること。偵察班が任務をしくじった際の救出を行うこと。であり、エルフ側の勢力と勘付かれないように気を揉む偵察班と比較すれば、容易と言える。
 待機班が待機するのは、街外れで朽ち果てつつあるかつての牧場である。放棄された施設を活用する理由の一つに、身を衆人の前に晒さないということと、ゴロツキと誤認させるためがあげられる。治安の悪い街外れの、よりによって放棄された牧場にたむろする集団となれば、まさかエルフの部隊だとは考えもつくまい。
 輪郭の淡い月が空にぽっかりと浮かぶ静かな夜。酷い濃霧が隆起の少ない大地をねっとりと舐める、視界の効かない天候下。月の銀色が、大気中に満ちる靄に乱反射して、ますます視界は閉ざされていた。
 かつての牧場は、見るも無残に藪だらけの牧草地と、年月と植物の侵食で半壊した建物しか無く、視界の悪さも手伝って天然の迷路と化していた。視界が効かないのならば、皆で集まっていればよい。廃墟――もとは牛小屋――のすぐそばに固まった隊の一同は、悪視界を利用して接近してくる者がいないかを警戒していた。牧場の周囲には糸と鈴を利用した原始的な罠を仕掛けて、更に牛小屋の天井に人員を配置していた。
 セージも一応の警戒を行っていたが、他の仲間と同じく気が抜けていた。濃霧の中、荒れ果てた廃牧場にノコノコとやってくる人間が居るとは思えなかったからである。
 牧場で使えないものが無いかを探索しようと、掌に乗せた欠片ほどの火を頼りに、うろつく。視界はあまりに悪く、馬三頭四頭も空間に挟めば真っ白という有様であり、多少の灯りをつけていても遠方からは目視できまいという考えがあった。
 牛小屋に入ったセージは、農具が無いかを探した。壁、収納部屋をあちこち探る。壁には無かった。収納部屋らしき扉に近寄ってみれば、ドアノブを捻る。腐った扉は耐え切れんと言わんばかりに砕け、セージに伸し掛かるように倒れ込んできた。咄嗟にそれを足で食い止め、後退した。
 中身を覗き込み、溜息を吐く。

 「しけてんなぁ」

 農具があった。鋤、スコップ、鍬、その他。どれも予想に反さず農具であり、利用できる物資に分類するには、弱い。長物武器として運用することもできたであろうが、セージは好んで剣を手にしてきたわけで、扱いきれるとは言い難かった。閉める扉が無いので放置して次に赴く。
 外に出て、仲間の一人に挨拶をすれば、何気なく井戸に近寄る。
 滑車のついた、オーソドックスなタイプ。手に宿した火を井戸の空洞に近寄せて中を覗きこむ。果てしない奈落へと通じているのではと錯覚させるほどに深く、底が見えない。果たして水があるのかさえ不明であった。火を消すと、ロープを掴んで、いまだに井戸の底にあると思われる桶を引っ張り上げようとした。滑車がからからと滑らかに駆動する。真新しいロープにより伝導した力が滑車を動かし桶を手元へと引き上げた。

 「枯れてんのか? 変な井戸だ」

 が、手元にやってきた桶に水は一滴たりとも付着していなかった。首を傾げると桶を投げ入れ、手を離す。滑車がからからと耳障りのいい音を鳴らす。底についた桶が、乾いた金属音を奏でた。
 ―――はて?
 傾げた首を戻したセージは、ロープから手を離すと、何気なく掌に火を灯すと再び底を覗き込んだ。果てない底は、やはり見えない。掌の火を増大させて光を底にやっても、見える気配すら無い。まるで墨汁のような暗闇が立ちふさがっていた。
 井戸の底に水が無いのはよくあることだが、金属のような音を立てるだろうか。疑問が頭をいっぱいにした。
 井戸について考察を深める。廃墟のような牧場において、井戸は一見して『普通』に思える。囲いは植物の蔓に覆われているし、桶もお世辞にも新しいとは言えない。がしかしロープや滑車などの部位は新しくまるで誰かが定期整備しているよう。おまけに整備している割には水が無く、底からは謎の金属音がするなど、不審な点が多すぎた。
 ――どうせ暇なのだ、調べてみるのもいいか。
 セージはロープと滑車を丹念に調べ上げ、それが十分人ひとり分の重量に耐えきれるかを検分すると、ロープが動かないように井戸の滑車を支える横棒にしっかりと結び、腰に巻き付け、保険とする。そして手袋を嵌めると井戸の中にするすると進入した。
 井戸の両壁に腕を付き、ブロックの凹凸に足をかけて、順々に降下していく。こういった軽業染みた真似は一応最低限の訓練を受けていた。
 底についた。ロープを腰から緩めて落とし、手のひらを広げる。

 「〝灯れ〟」

 肉体と魂を繋ぐ力が零れ、流動して、渦を巻きながら掌に集中すると想像という型に当て嵌められて温度を上昇させ灯火と化す。火を灯すという単純な魔術でさえ使えなかったころとは月とすっぽんの手慣れさである。
 底は、まさに底であった。地下水脈など無く、水の溜まりさえもない。それどころか井戸としてあるまじき構造であった。底一面に黄銅色をした金属を敷き詰められていた。かがんで目を凝らす。かつて水が使ったらしき汚れが浮いていた。視線を横に滑らせてみれば、井戸の岩組みにも微かに水が流れた痕跡があった。がしかし、肝心の水脈に繋がる地面が無く、言うならば岩の筒の底を金属で止めたような、少なくとも井戸ではない何かであることが判明した。
 セージはしゃがみ込むと、じっくりと金属の地面を見つめた。もう何年も使い込んだナイフを抜くと、擦り付ける。金属とナイフ。軍配が上がったのは金属の床であった。傷一つ、曇りひとつつけることが叶わない。

 「ん………なんか書いてある」

 よく観察してみれば、解読しにくい文字列が金属の表面に彫られていた。金属を加工した後からノミのようなもので刻み付けたような、細く、不揃いな文字が、丁度隅の方にあった。砂が上を覆っており、見難いことこの上ない。セージは頬に空気を溜めると、空圧で砂を払った。
 ひょろひょろしたそれは、どこかで耳にしたことがある文字の並びであった。声に出して読んでみた。

 「何々? 地にも天に劣らぬ輝きあり………? 聖書じゃあるまいし」

 たしか神や人間と戦争やるよりも金銀財宝集めてるほうがよほどいいと言ってのけた悪魔がいたな、と記憶を手繰る。
 次の瞬間、視界が移った。
 金属板がまるで初めからそうであったかのように一回転すると上に乗っていたセージを奈落の底へと叩き落としたのである。

 「ああああっ!?」

 可愛い悲鳴――など無くて、喉が千切れんばかりの絶叫。眼下に広がるは暗黒。落下死が脳裏をよぎる。魔術で風を操作して逆噴射をかければ減速できたかもしれないが、生憎専門外であった。
 空中で身を捩り、目を瞑る。腕で頭を守り衝撃に備えた。
 刹那、セージの身は暗き水の中に投げ込まれていた。水柱が上がった。着水の衝撃に内臓が歪む。衝撃により一瞬思考が切断された。みるみるうちに沈み行く肉体が、ばたついた。必死の形相で水中で姿勢を正すと、腕と足を振り回して頭を上に向けて、ドルフィンキックで水面に上がった。

 「ぷはっ! はぁ、げほ、げほっ………うぇっ、ちくしょう……」

 気道に侵入を企んだ水に咽る。苦しい咳をした。
 ブロンドの前髪が濡れて顔に張り付いている。
 セージは、唾液を吐き出すと、両手両足を規則的に開いては閉じる立ち泳ぎに移行して、周辺に視線を走らせた。暗い。狭い。見えぬ、わからぬ。
 動物という生き物は見えないものに恐怖を感じる性質がある。例外なく、セージも目隠し状態で踏ん張りの効かない水面に投げ出されたことで恐怖を感じていた。キョロキョロと暗黒の中で首を振って、声を張り上げる。わんわんと反響して耳にうるさい。

 「なんだこれ……罠? それにしちゃ槍が足りないぞ~……誰かいませんかー? いねーか」

 灯りの存在しない地下においては、光源が無い限りは暗黒の世界が当たり前である。水に満たされているということもあり、目を瞑って風呂に身を投じたように感じられた。
 手を伸ばしてみれば、何かが触れた。硬い感触がした。それも、土などではありえない硬質さと、平たさ。何者かに加工されたのであろう硬い壁があった。全周を探ってみた。右も左も後ろも壁。唯一正面だけが空いていた。上を見上げてみれば、暗黒。金属の地面もとい蓋の密閉は完全だった。光の筋一つ目視できない。

 「〝灯れ〟」

 再び掌に光を宿すや、全身に衝撃が走った。視界が発光し肉体が燃え上がる。歯がカチカチと鳴る。腕、足、腹、背が震えた。
 それが電流であると気が付いたときは時すでに遅し。周囲の水から伝導した電気の奔流に意識がシャットダウンし、水面に浮かぶこととなった。

 「………あいつではない……となれば、侵入者か……」

 何者かの声をセージは聞いた気がした。




[19099] 七十二話 久しぶりのあいつら
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/03/31 01:31
LXXII、



 呻く。意識が境界線を潜り抜けて覚醒の領域へとたどり着いた。
 淡い色の瞼がぴくっと震えるや、薄らに持ち上がった。

 「うぐ……。ん? ここは……」

 目が覚めると、知らない天井があった。正確には知らない壁だった。なぜならセージは仰向けではなく、ベッドに寝ているのでもなく、壁に磔にされていたのである。体が垂直になっているということは顔は壁を見つめることになるのが道理である。
 体を動かそうとして、まるで鉛でも括り付けられているような倦怠感が全身を包んでいるのに気が付いた。そして、己の体が物理的に身動きできないのだと思い知らされた。肢体ががっちりとした革製の拘束具で縫いとめられており、金属製の鎖が体に巻き付いていたのだから。おまけに革は革でも、質感からドラゴン革と推測できた。得意の火の魔術を全力で集中させても焦げ目を作ることすらできないであろう。

 「……く、この」

 大の字に両手足を広げて拘束されている状態は、好ましいとは言えない。
 腕の筋肉に力を込め、足を捩り、拘束が緩まないかを試みた。無論、革がギシギシと鳴り、鎖が擦れただけであった。ヴィーシカならあるいはであるが、セージには無理である。
 ふと、己の指を見つめた。
 指輪が無い。魔除けの指輪と、外見擬装用の指輪が、指から失われていた。腰に目をやる。剣とナイフも無かった。
 顔から血の気が引く。エルフであることが漏れれば連合側の作戦が露呈することになる。指輪が無いのが自然現象とは考えにくい。当然のことながら外したのであろう、誰かが。外した人物は間違いなく耳を見たはずである。そして、磔という体勢。脳裏に阿鼻叫喚の地獄がちらついた。
 人の気配を感じ取った。耳に力が入った。細い耳朶が傾ぐ。
 部屋のドアを開いたのは、小柄な髭面の男性であった。
 きっと拷問するに違いない。覚悟を決めることなどできず引き攣った顔をしたセージは、ますます逃れるために身をじたばたさせた。ドラゴン革がきゅっと鳴っただけであった。

 「暴れるな、害するつもりはない」
 「嘘つけ。ならこれを取れ」

 出現した男性は無表情でセージを見つめ、発言した。敵意やザラザラとした欲望の類は感じ取れず、あくまで事務的な対応であったが、信頼できる相手ではなかった。背が低いのと、髭を生やしているのも不審な点と認識した。
 その男はつかつかと歩きで寄ってくると、正面で止まった。低身長、猫背、髭、濃い目の体毛、たくましい筋肉。セージの記憶のページが自動で捲られた。外見的な特徴に合致する種族が存在した。それはドワーフである。
 恐らくドワーフであろう男は、岩づくりの部屋においてあった椅子を引き寄せてくると、セージの前において腰かけた。

 「言うまでも無かろうが我らドワーフは密かに生きてきた。そこへお前がやってきた。秘密の入口からな。あれは本来、我らの協力者のみが通ることを許される道だ」
 「………長い話は好きじゃない。俺を、どうするつもりなんだ」

 ドワーフ族はその昔、現在のエルフ族と同じような理不尽な迫害を受けて各地から姿を消してしまったとされる。山奥や、渓谷に秘密の里を築いているという噂があったが、まさか人里からほど近い牧場の井戸の底に住み着いているなど考えもしない。恐らくそれがねらい目なのであろうが。灯台下暗し、である。
 が、セージにはドワーフの境遇や隠れ家の位置などどうでもよいことであった。重要なのは、無事で返してくれるかの一点のみだった。
 顔が引きつるのをなんとか堪えて、恐る恐る、しかし勇敢さを滲ませて声をあげた。
 すると相手は懐から鏡を取り出すと、鏡面を節くれだった手で叩いた。

 「首のところを見ろ」
 「首輪……っていつの間に」

 鏡には、肢体を拘束され、武器も装備も無く、年齢の割に筋肉の乗った少女が映りこんでおり、その首には白磁色の首輪らしき物体が巻き付いていた。
 相手の説明は続いた。

 「それは命令に逆らうものを戒めるアーティファクトだ。我が里の者を害するか、里から逃げ出すかで“起爆”する。首が飛ぶことになる」
 「冗談……ですよ……ね?」

 不穏な言葉が口から出た。文字通りに解釈しても、しなくても、致命的なものである。
 セージは思わず表情が崩れ去りそうなのをぐっと腹の筋肉で堪えると、語尾が消え去りそうな質問を投げかけた。

 「冗談は時と場所を選ばなくてはならない。これは冗談などではない」
 「ああ、つまり奴隷になれと」
 「そうではない」
 「何をすれば解放してくれると?」

 殺すならば、とうに殺している。奴隷にするならばなれと迫るだろう。手籠めにするならば、やはりもうしている。しないということは別に目的があるという意味である。
 セージは暴れるのを止めると、相手を真正面から見つめて問うた。
 相手は椅子から立ち上がると懐を弄って鍵の束を取り出した。

 「里のために三つの労働をすれば解放しよう。ここの位置を決してしゃべらないと誓ってな」
 「いい条件だとは思うけども、いまは急いでいるからあとで戻ってきて労働というのは」
 「解き放った小鳥が戻ってくるものか。これでも条件は随分と緩めたのだ。長老はお前を殺して埋めてしまえと仰せになられたが、周囲が反対したのだ」
 「あ、やっぱり働きます。働かせてください」

 ドワーフの里で時間を食えば、地上の戦争からは置いてきぼりにされる。牧場で突如行方不明なったというのが現実であり、労働をこなして地上に戻っても、味方がどこにいったのかさえつかめなくなっているであろう。
 が、それも命ありきの話である。逆らえば痛い目に合いそうな予感が、直感を通さずとも言葉で伝わってきたので、首をぶんぶん上下に振る。
 セージはいつ磔を解除してくれるのかと、相手の手元にある鍵束を熱っぽい視線で見つめた。相手は無表情のままで拘束具の錠前に鍵を突っ込んでは取り外しの作業を始めた。主要な固定具を外され、ようやく肢体の自由が取り戻された。鎖を退けて、床に降り立つ。
 手首、足首、腰回りを握ったり擦ったりして拘束時の緊張を解す。腰を捻りつつ片足を上げてストレッチ。腰回りの服が締まり、線が浮く。
 セージの主観にして中年に分類できる年齢の相手は、鍵をしまうと部屋の扉を開き、ついてくるように背中で促した。木製の扉がギシギシと咳払いをした。
 扉を潜ると、岩と木と金属で補強を受けたトンネルが待ち受けていた。あちこちには光り輝く鉱石が埋め込まれており、ぼんやりと淡い光を放っていた。甘いような、それでいて鼻腔を刺激する土の香りが満ち溢れた中を、二人は歩いていく。
 トンネル内部は鉱山のようないつ崩れるのだろうという不安を抱きかねない軟な構造をしておらず、がっちりとした木の柱と金属および岩による堅固な筒状であった。地面に値する下部は岩を寸断して作り上げたと思しきブロックで神経質なまでにきっちりと舗装されており、下手すれば地上の無舗装の道よりも歩き易い。
 セージは、ドワーフは優れた技術を持っていたという文献を目にしたことがあり、生きた実物を目にして興奮していたものの、いつまでも果てなく続くトンネルを黙々と歩くことに焦燥感にも似た心の小波を感じていた。何せ、かつて生活したこともある渓谷の里の地下とは違い、この里において彼女は|よそ者(アウトサイダー)なのである。
 縦穴に備えられた螺旋階段を下って行って、相手の背中が止まった。足を止めると、相手が懐から鍵束を取り出して、扉の開錠を行っているところだった。
 通されたのは部屋であった。やたらと箱が多く、絹状に集合した蜘蛛の巣があっちこっちを占領していなければ、快適と言えるそれなりの広さの。机、タンス、ベッド、と一通りの家具は揃っていた。が、少なく見積もっても半年以上は放置されていたような、過ごすだけで不健康になれるという画期的な部屋であった。
 次に案内されたのが彼らの居住区がある先にある食堂であった。老若男女のドワーフの視線を浴びつつ食堂の位置やルールを教え込まれた。
 最後に通されたのが、家畜の飼育小屋であった。ただし家畜とは豚や牛のことではなかった。
 それは蜘蛛だった。
 馬と同等のサイズを誇る蜘蛛が部屋中を闊歩しているという光景に、一瞬言葉を失う。蜘蛛がいることに驚いたのではない。蜘蛛が家畜化されて部屋中にわんさかいるという光景に驚いたのだ。
 隣に佇む男はこう言った。

 「こいつらの世話をしばらくの間やってもらう。それが一つ目の労働だ」

 そしてセージは、かつての懐かしい食糧兼外敵の世話をすることになった。



[19099] 七十三話 正しい蜘蛛の取り扱い方
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/04/01 21:08
LXXIII、



 この世界の蜘蛛は少しどころかだいぶ違うと“女の子”が感じたのは、この世界にやってきてすぐのことだ。確かに元の世界と同じ蜘蛛もいた。両掌に収まるような、小さい種類である。
 犬、馬、それ以上の大きさを誇る大蜘蛛は、いなかった。
 始めは獲物や外敵にしか見ていなかったが、戦い、殺し、食べて、様々な文献を読んでいくうちに、人一人なら容易く捻ることができる馬力と、生半可な剣ならば弾く強靭な外殻、仲間とコミュニケーションを取り共同できる知能など、およそ蜘蛛とは似ても似つかぬ生物であることを理解した。
 それは良いのだが、実際に世話をするとなると、ことはそううまく運ばなかった。
 蜘蛛は雑食なので残飯やらキノコやらをごっちゃにした混ぜ飯を運んできて適当にブチ撒ければよいのだが、まさに犬が如く食欲をもって集まってくるために危険が伴った。運んでくるや否や金属製の柵を破壊せんばかりの突進で集まってきて、足を打ち鳴らし、盛んに跳ねるのである。柵が壊れないことが疑問であったが、話を聞いてみるとミスリル合金製だそうである。ドワーフの技術力侮りがたしと感動した。
 バケツ一杯に詰め込んだ混ぜ餌を抱えて、柵に歩み寄る。
 五匹の蜘蛛が複数並んだ眼球を興奮で蠢かせながら、多すぎる足をシャカシャカと動かして猛烈な速度で駆け寄ってくる。蜘蛛は重く、硬い。人をひき殺せる破壊力を有している。檻がなければ死を覚悟する必要があったであろう。
 頑丈過ぎる柵に、五匹が一斉に衝突した。檻が軋み、不快な音を立てるも、まるで歪むことが無い。セージはミスリル剣を使っていたことがあるのでわかるが、ミスリルは恐ろしく硬い。それこそ剣にすると、岩に叩き付けても毀れひとつ無く、逆に岩を両断する強度を有している。
 檻に近づき過ぎると脚にやられるので、バケツを振りかぶって、中身をブチ撒ける。
 蜘蛛の真上に落ちたそれが地面に落ちる。蜘蛛が血眼で餌を貪り始める。恐ろしいのは、雑食ということはエルフだろうがドワーフだろうが構わず食べることができるということである。餌になるのが自分にならないように、注意しなくてはならなかった。
 が、である。
 セージはもう一杯のバケツをブチ撒けると、蜘蛛が餌を貪る様子を体育座りで観察し始めた。

 「かわい………わけねーよなぁ……殺されかけたわけだしさぁ」

 ぼそりと呟くと、蜘蛛を睨む。蜘蛛三匹に寄ってたかってボコボコにされたことは記憶にしっかりと刻み込まれていた。訓練を積んだ今ならば火炎放射で炭にしてやる自信があったが、どうあがいても愛玩の対象として認識できないのであった。

 「おう、さぼってんじゃないぞ、|長耳(エルフ)」
 「………」

 横合いから作業服を着込んだドワーフの中でも更に低い部類に入るであろう毛むくじゃらのオッサンが叱咤してきた。彼は餌を満載した籠を抱えてくると、セージの横に置いた。普段ならば一人で世話するのだという。
 セージは黙々と籠から餌をバケツに詰め込んでは、檻の中に放り込んだ。仏頂面は崩れることがない。
 オッサンは何かにつけて長耳だの色白だのと呼んでくる。仕事するにあたって名前を教えてあるはずなのにも拘らず、一行に呼び名が変わらない。ドワーフに『チビ』と呼べば怒るのと同じように、エルフの身としては耳や肌の色を取り上げて呼ばれるのは嫌いだった。が、感情を露わに声を荒げれば面倒が増えそうなので、ぐっと我慢して仕事を続けた。
 餌やりの次は、労働用に調教を受けた蜘蛛の掃除である。
 話によれば、蜘蛛は主に地底にトンネルを掘ったり資源を採取する際の運搬係になるそうであり、全身にびっちりと砂が付着してしまうそうである。
 外殻に目印となる番号を振り分けられた蜘蛛が三匹居る。やけに大人しく、静かに佇んでいる。顎をかちかちとすり合わせて、ただ目前に居た。
 かつての敵が触れる距離にいることに不安を抱いたセージは、陽気なドワーフの男性に質問してみた。人差し指で蜘蛛を指して、やや仰け反りながら。

 「これ襲ってきませんか」
 「ほとんど無いから安心しな。たまにしか襲わないさね! ヌッハッハッ!」
 「………」

 笑えない。
 取りあえず一匹目に近寄るとブラシで乾いた土を払って、こびり付いた分はよく使い込まれたピックで削ぎ落とす。作業がやりにくいので寄りかかってみても蜘蛛は襲い掛かってこない。一通り綺麗にしたあとは濡れた布で泥を拭う。
 一匹目、終了。作業工程が終わったのを確かめた陽気なドワーフが手綱(鞍もあった)を引いてどこかに連れていった。
 三匹終了するのには恐ろしく時間が必要であったが、ただ黙々とこなした。
 ――案外、簡単な作業ではないか。比較的早く解放されるのではと胸に期待を抱いたのが原因では無かろうが、まるで牧羊犬のように蜘蛛の群れを別の部屋から連れてきた。それも十匹に十匹という規模で。

 作業が終わって部屋に戻ったセージは腕と腰の酷い痛みに苦しんでいた。

 次の仕事は、翌日であったが、腕と足腰の筋肉痛を抱えた状態でのスタートという難行を強いられた。トンネル掘りで出る土や岩を満載した蜘蛛を指定の位置に連れていっては戻ってくるという単純な作業なのであるが、朝から始まり夜まで連続するという重労働であった。おまけに三日間続けての作業ともなれば、最終日を迎えたセージの顔はもはや悟りを開いた仏のような穏やかなるものとなった。それなりに鍛えていると自負していたものの、限界を越えた労働は、その自信を打ち砕いた。
 しかもただ歩くだけではない。蜘蛛を鉄の棒と縄で誘導して只管歩き(乗るスペースが無い)、帰りもやはり歩き(操縦技術がない)である。言うことを聞かない蜘蛛に悪戦苦闘したり、遅いと罵られたりと、散々な目にあった。
 二つの労働を乗り越えて、三つ目の労働が始まった。
 またも蜘蛛だった。蜘蛛の死骸から外殻をはぎ取るという、牛の解体作業にも近いものであり、汚れ仕事なのは間違いなかった。
 慣れた手つきで鋼鉄の刃を使い蜘蛛の足を叩き落とすと、体液が付着するのも気にせずに死肉に刃を突き立て、手前と奥を行ったり来たりさせることで殻を剥いでいく。内臓の鼻が曲がりそうな匂いにさえ顔色一つ変えずに解体作業を進める女の子というのは狂気さえ孕んだ光景であり、里に来る際に初めに話した男でさえ多少気後れしていた。
 しかも作業はどの外殻を使うからこのように剥げとだけ指示しただけで、まさか本当にできるとは考えていなかったらしく、周囲のドワーフ達は呆気にとられていた。
 初めに出会った男は、黙々と作業を進めるセージをじっと見つめ、髭の生えた口元を微かに開いていた。
 視線を上げ、問いかける。作業も既に半ばである。とっとと終わらせて里から出ていきたかった。

 「なにか?」
 「いや、なぜ解体できるのだ。できるとは思っていなかったのだが」

 うっかり内情を滑らせてしまった男はしまったとでも言う様に口を押さえたが、既に遅かった。殻を剥いで横に投げやったセージは口を尖らせると、ふん、と鼻を鳴らした。

 「それって無理難題を押し付けたってことですよね」

 なるほどと納得するセージ。
 二つの作業は子供でも出来たであろうものであったが、最後の作業だけは子供ができるようなことではなかった。無理なことを押し付けて帰らせないようにもしくはこき使ってやろうという意図があったのだろう。
 だがそうは問屋が卸さない。セージはもともとその昔、蜘蛛を相手に格闘して食料としてきた経緯があった。世話だろうが解体だろうがどんと来いだったのである。
 解体作業は意外と楽であった。作業後にいつまでも臭いが残ってしまうのが難点であったが水浴びを繰り返すことで落とすことに成功した。
 三つの作業を終えたときには、一週間という時間が経過していた。
 男から自分の装備を受け取り、若干の食料と水の携行を渡されたセージは、手早く身に着けた。男はついてくるように言い、トンネルの中を進んでいった。一時間弱ほどして井戸とは違う出入り口に辿り着いた。廃牧場にはもう一つの入口が隠されており、セージはそのもう一つのほうから出ることとなっていた。見上げてみれば、民家を四段積み重ねた深さの縦穴が空いており、梯子で出られるようになっていた。
 セージは男の方に顔を向けると、梯子に足を乗せて第一段を登った。梯子を構成する縦棒と横棒を結合する縄が乾いた摩擦を鳴らした。

 「それでは。えーっとお元気で」
 「社交辞令はいらない。縁があったらまた会おう。無ければ、二度と会うこともあるまい。いいか、ここのことは他言無用だ」

 しつこいくらいに隠匿について誓わせようとする男に、ひらりと手を振って応じた。その首に、例の首輪は無かった。ドワーフは約束通りに三つの労働を済まし次第、首輪をとってくれたのである。元々侵入したのは自分であるという自覚があるので、例え親しき友人にもしゃべるまいと心で誓っていた。
セージは梯子を登り始めた。ややあって見下ろすと男の姿は消えていた。板に泥を塗って作ったらしき隠蔽用の壁が通路を塞いでいた。黙々と手足を使って地上へ向かう。右手、左手、順々に、交互に梯子にかけては体を上に上に。
 地上が近づくと、ハッチがあった。金属製の頑丈なものだ。閂を横にずらして開くようにすると、取っ手を掴んで薄らと開けてみた。空気の奔流が隙間からなだれ込んだ。
 セージは目を細め、外の光の強さに耐え忍ぶと、そっと顔を覗かせた。

 「………」

 周辺に人の気配がしないか、耳を澄ます。聴覚に反応したエルフ特有の耳がぴくぴくと震える。セージは瞳をぱちくりさせると、匂いも嗅いでみた。新鮮な大気が肺を満たし心地よい気分になった。ハッチを体が外に出られる面積分開いて身を滑らせると、窮屈な『窯の中』から四つん這いで這い出す。

 「よっし、外だ! ………」

 やっと自由になれた嬉しさに腕を引いてガッツポーズを決めたセージは、一転して沈黙してしまった。窯に中腰姿勢で半身を突っ込むとハッチを閉めて藁屑を詰め込む。
 そして、その場に足を投げ出して座り込むと、頭を抱えた。

 「どうすんだよ俺……みんな行っちゃったよ」

 目下の問題は、ここが王国の真っただ中であり、仲間は恐らく作戦を遂行するためにどこかに行ってしまったということであろうか。片付けるべき問題の多さと危険性の高さにセージは眩暈を覚えた。
まずはともあれ立ち上がる。膝とお尻を叩いて起立すれば、指輪と剣とナイフを指に触れた。装備が安心感をもたらした。心のざわつきが落ち着いていき波紋程度の揺らぎへと終息をする。
 セージは足元にあった藁を拾うと指に巻き付けて遊びつつ、歩き始めた。

 「誰か置手紙でも残してればいいんだけど」

 そう呟くとまずは井戸に向かおうと歩調を早めた。



[19099] 七十四話 出発の矢先
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/04/07 02:39
LXXIV、




 セージは牧場中を歩き回って置手紙の類がないかを調べていた。井戸にはなかった。牧場の牛小屋の入口付近にはない。納屋にもない。物置小屋にもない。
 熟考と捜索の末、馬小屋で見つけた。小石で組んだ円陣の中央に埋められていたのである。念入りに砂と藁で偽装されたそれは一見しただけでは看破できない見分けのつかなさを持っていた。スコップで掘り出すと油紙に包まれた手紙が入っていた。目を通してみるとヴィーシカからの指示書があった。
 もし再開できたら行方不明になった経緯を説明せよから始まり、自分の好きなように選べとあった。一つが王国の領土を進み味方の拠点に到達して合流するか、上陸地点の街に戻るかである。前者は作戦に復帰できる可能性があるが危険も大きく、後者は作戦に参加できないかわりに安全である。
 セージは手紙を置くと、牧場の納屋で胡坐を書いて二連式クロスボウの整備を始めた。と言っても実はドワーフの里で没収された際に誰かが整備をしてくれたようなので万全なのであるが。なんだかんだで『よそ者』だから警戒されただけで、内面はいい人が多いのだろう。
 掌で弄びつつ、照準を天井に向け、ゆっくりとおろす。鏃の先にはのんきにはい回る鼠。距離は数mと無い。人の居ない場所に住まう生き物のせいか警戒心が見られない。引き金を落とす。カシュ、と軽い音と反動が掌から生じた。鏃が空間を貫き埃臭い鼠を貫くと勢い余って腹部を抜けて壁に突き刺さった。

 「うっし、決まり!」

 セージは立ち上がってお尻にくっ付いたゴミを払うと、とことこと歩いて行って、壁の矢を引っこ抜くついでに鼠の死骸を拾った。
 納屋から出ると、空き箱をいくつか運んできて階段状に並べて登る。セージは納屋の上に陣取ると地平線の先に霞む街を見据えた。王国の主要道路が交差する地点にある街は、何事も起こっていないようで平静さを保っている。それはように見えるだけで、セージが観察していると大量の棺桶が運び出されていたあたり、既に仲間たちの作戦は遂行されていたのだと思われた。陽動と、前線の押し上げがとうとう始まったのだろう。肝心の第一歩を踏み出したつもりが井戸に落下したとは笑えなかった。

 「やっぱ行くしかないよなっ! みんなが待ってる」

 顔を両掌で叩いて気合いを入れると、腰のベルトに二連式クロスボウを差す。
 セージは、やはり後退は性に合わず、とにかく前に進むことを決めた。指輪というエルフ族の特徴を隠蔽する道具があるからこその態度である。もし無かったら敵がゴロゴロとうろついている中をこっそり息を殺して通過するという苦行を強いられることはわかりきったことであり、躊躇したかもしれない。が、やはり危険なことに変わりはない。無自覚な無鉄砲はいまだ健在である。
 さっそく移動しようとして、その場で考え込む。袖を捲り腕を組むと胡坐をかいた。
 鞄を背中から前にまわすと紐を緩め中身を地面に並べだした。
 携帯食料。水筒。なんにでも使える布。武器整備用具。地図。主にこの程度である。これに武器を加えればそれなりの重装備と言えるが、服装はいわゆる一般的なものであり、鎧は着込んでいないことを計算に含めれば、比較的軽装備である。何せ旅人や行商人を装う必要があったのだから当然である。
 荷物を点検する。
 干し肉数枚だけ。旅の道中で狩りをすれば補給は可能だが、効率が悪い。味方に追いつくためには狩りや採取で時間を取られることは避けたかった。
 金を見る。たった数枚の通貨のみ。心もとない。もっとも現地調達が当たり前な旅を続けてきたセージには大した問題ではない。だが必要な装備を揃えるのには不足していた。
 武器。ロングソード、ナイフ、二連式クロスボウ。これに魔術を加えれば十分である。
 そこでセージは荷物の中にそれが無いことに気が付いた。木をくり抜いて成形した容器の蓋をあけて中を見ても一つまみたりとも無かったのである。

 「塩がない……」

 塩。そう、塩である。
 元の世界でも同じようだったようにエルフだろうが人間だろうが塩は必要である。なにより塩は、味気ない食事を大いにグレードアップさせる魔法の粉なのである。獣の肉や魚はとことんまずく、臭い。ところが塩をかけるとおいしくいただける。それどころか保存食を作るのにも使える。
 塩を作るには海水か岩塩を探さなくてはいけないが、生憎付近には無かった。となれば購入するしかない。
 セージは荷物を仕舞い込むと立ち上がった。
 まずは塩を調達しよう。向かう先には味方の陽動で被害を受けた街があった。


 ―――――



 旅の初日はおっかなびっくりであった。
 ブルテイル王国軍と連国軍の最前線がある平原までは馬ならば近く、徒歩なら遠い。木が遠くなる距離を進むということはエルフであることがバレて作戦が露呈してしまう危険に遭遇する機会が増大するという意味であり、一人で旅をしている間に情報が漏れる恐れがあったため、街で塩を買うだけでも恐怖に苛まれながらであった。
 だが指輪の効力は健在であり、街中で耳を弄ろうがなんだろうが不審がられることもなく、無事に塩を入手することができた。
 まず越えるべきは平原を遮るように横たわる丘陵地帯である。その地形故に王国の街道は大きく迂回する進路を取っている。迂回するか直進するか、どっちを選択してもいいであろう。ただし街でこんなような情報を耳にしてしまった。
 丘陵地帯にはモンスターが徘徊しており、街道には盗賊団が目撃されていると。
 モンスターか盗賊団か。王国の人間に告げ口しないだけモンスターの方がましだ。
 セージはそう判断すると、歩き始めた。ちなみに馬は購入しようと値段を尋ねて諦めた。盗みも検討したものの、警備の厳重さに諦めた。一通りなんでもできるように訓練を積んできたものの盗みだけは専門外だったのである。

 街の街道から外れて一日目。方位磁針など無いので、地形と星空を頼りに黙々と歩く。
 モンスター対策は、光を発さないことであった。掌に火を宿して歩くような真似はせず、ただ月と星に光源を求めて地面を進んだ。

 「ふぅ」

 星空の下で手ごろな岩を見つけたセージは、一息つこうと腰を下ろして水筒を手に取った。中身をほんの少し傾けて唇を濡らすと仕舞い込み、両掌を土台に顎を置き、上目で夜空を眺めた。空は曇りひとつなく、スモッグによる汚染もない。遮るものは大気という薄っぺらい層しかない。大中小、白もあれば赤も青もある粒粒が、漆黒の天蓋に散らばっている。
 右足を左足の腿の上に乗せると、服を捲って脹脛を露出させて揉み解す。歩き疲れで過熱した筋肉は心なし固く、手に力を込めなくてはならなかった。続いて左である。同じ要領で揉む。年齢の割に発達した足の肉がふにふにと形を変えた。
 両方が終わると、腕と脚をストレッチ。アキレス腱も伸ばして一区切りとする。
ごろりと大地に寝転がって傍らの草を毟るとちまちまと細工を施す。唇につけて吐息を流す。ひゅーひゅーと乾いた音が鳴るだけだった。草笛の作成を諦め、放る。そして腕枕で空を見つめた。
 
 「百点。満点の夜空だけに」

 独り言を呟いてから、再び草を毟る。完成品に息を通す。ひゅーひゅーと情けない音しか出ない。またも草を投げ捨てると、自身が汗ばんでいることを自覚した。只管歩き続けてきたせいで汗が酷かった。気温は肌に心地よい暖かさだけに体の放熱が間に合わなくなっていたらしい。汗腺の数が少ない足や腕は既に乾き始めていたが、腿の内側や脇などは汗が滲んでいた。
 水浴びをしたい。可能ならば石鹸で体を清めたい。できれば毎日でも温泉に浸かりたい。
 だがそれは叶わぬ願いである。
 とりあえず、誰も見ていないことをいいことに上着を脱ぎ捨て肌着も取り去ると、上半身裸となった。そして布で汗を擦って拭う。いつ手に入るかもわからない水を滲みこませることはしない。脇、首、背中、お腹。姿勢を起こして岩に座ると、ズボンの中も拭いておく。いそいそと服を着直すと、再び寝転がった。
 瞳を閉じる。瞼の上を照らす星明かりが血潮を透けて、淡さを虹彩に届けている。
 セージは、しばしうとうとと時を過ごした。
 丘陵にある、風化して凹凸の無くなった岩が複数転がっている地点に、ブロンド髪の女の子が仰向けで寝ている。風が地を舐め、まるで熊の毛並みのように生い茂った草むらを波打たせた。風の力が女の子の髪の毛を乱し、服の裾を捲った。
 女の子――もとい“女の子”の耳が角度にして5度、後頭部の方向に傾いだ。寝返りを打った。眉に皺が寄る。意識が覚醒の岸辺に触れた。

 「…………」

 無言を貫きつつ、寝たふりを継続する。
 何者かの気配を感じ取ったのである。いわゆる第六感が打ち寄せる気配という波に震えていた。それとなくすぐそばに置いた二連式クロスボウに手を伸ばし、引き金に指を置く。
 風に混じってカパポコと一定のリズムで地面を叩く雑音が響いてくる。馬のようだ。方角は音の弱さと風にかき消され特定できないものの、すぐそばに来ていることだけは気配で感じ取ることができた。いつでもクロスボウを射掛けられるように腕に力を張っておく。
 距離にすればあと数mもない。不審な何者かが砂利を踏んだ。
 
 「誰だ!」

 セージは言葉を発するなり地面を転がると、ロングソードを手元に構え、二連式クロスボウを音の方角に突き付けた。
 騎士が居た。鉄の全身甲冑を着込み、ランスと盾を構えた典型的な騎士が。馬も戦場に出るに相応しい甲冑を着込み露出した足には戦化粧が成されていた。それだけならば騎士に過ぎないのだが、問題は馬を操っている人物にあったのである。
 エルフにしろドワーフにしろ人間にしろ、致命傷となりうる部位は決まっている。頭、心臓である。そして目の前の騎士には首が無かった。あるにはあったのだが、首はまるでバスケットボールよろしく腕で横脇に抱えられていたのであった。
 戦慄した。星と月の朧な光に照らされたその恐怖に。
 思わずロングソードを取り落としてしまった。ついでにクロスボウも下ろす。その場に尻もちをつく。
 セージは人差し指を関節の逆向きに反らし、口を開いた。
 
 「首が……!?」
 
 刹那、朧な夜の光に照らされたそれが、嘶いた。馬が前足を上げて振り下ろす。まともに喰らえば骨折は必至。
 恐怖に駆られた体が脊髄反射的に行動を起こした。仰け反り、足を開脚する。丁度その隙間に馬の足が叩き込まれ、地に食い込んだ。
 後転。ロングソードと二連式クロスボウを手に取るや、臨戦態勢を取る。
 首の無い騎士が馬に突進を命じた。心なし平均より背の高い馬が地を駆け、踏み潰さんとしてきた。
ただでさえ夜間で視界が効かないというのに、夢か現実か、存在感が異様に希薄なそれが迫ってくる。やもすれば見失ってしまいそうであった。

 「くうっ……!」

 横っ飛びに転がって回避。騎士は勢い余ってセージの居た地点を通り過ぎていった。
 その隙に剣を改めて構え直すと二連式クロスボウで狙う。首が無い相手なのだ、言うまでも無くヘッドショットを狙っても仕方がない。
 セージは馬の頭を狙った。二連式クロスボウから続けざまに短矢が放たれるや、寸分の狂いも無く額に集中した。それは頭蓋を貫き、脳を貫通した。馬は悲鳴をあげてもんどりうって地面に転がると、騎士を地面に投げ出した。
 絶好の機会が到来した。二連式クロスボウを横に放り、速攻を仕掛けんと準備をする。
 剣を横に、顔の前で翳して言葉を紡いだ。

 「〝火炎剣〟」

 指先から霧状の火が螺旋を描きながら剣身に巻き付き刃を加熱させ、魔術により外側への反発力を形成した。更に足に手を翳し追加で言葉を囁いた。

 「〝強化〟せよ」

 足の筋肉に注ぎ込まれた力が一時的な強化をもたらし、脳の制限を解除した。更に力を腕にも注ぐ。魔術により腕の血管が浮き出る。動悸が始まり、軽い眩暈に苛まれる。これも騎士を倒すための前準備である。油断などみじんも挟まずに全力で倒すつもりだった。
 騎士がようやく起き上がったとき、既にセージは距離を詰めてロングソードを叩き込んでいた。

 「せいやっ!」

 上段から下段に全腕力と勢いを乗せた斬撃。
 騎士が腰のロングソードを抜き、答える。刃と刃がせめぎ合い火花を散らした。漆黒の夜間を裂いて二人の姿に黒と白のコントラストが刻まれる。剣と剣が拮抗して震えた。
 なんて力だ、セージは奥歯を噛んだ。強化した肢体から繰り出した力による打ち込みは、当然のごとく受け止められてしまったからである。

 「ヌウンッ!」

 気合い一言で騎士が剣を腕力に任せて押した。セージの体が浮く。二歩三歩と蹈鞴を踏んだ。そこへ、騎士が正眼に構えた剣を右肩に担ぐようにして貫きの一撃を放った。

 「………っ、はっ!」

 正面方向右に体を傾け、危ういところで躱す。髪の毛数本が宙を舞った。アンデット、亡霊の類とはいえ、武器は本物であるようだった。ロングソードをロングソードで受けると、相手の懐に潜り込んで腹部を蹴って後退した。騎士は呻き声一つ漏らさず、おまけによろめきもせずにその場に居た。
 ひとまず四歩の距離を離し、息を整える。吸って吐いて吸って吐いて。
 セージはぺろりと唇を濡らすと、ロングソードを両手で保持し腰を落とした。
 魔よけの指輪に刻まれた文字が微かに光を宿した。



[19099] 七十五話 火葬
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/04/08 13:18
LXXV、



 右から左へ薙ぎ払い。横薙ぎ。一歩退いての中段突きからの流れるような身のあたり。洗練された攻撃は技量と腕力の伴った見事なものであり、セージをしても受けに徹するので精一杯であった。攻防入り混じる剣の運用は難しいが、受けと防御に専念するのであれば、話は別である。
 問題は守りに専念すればするほど体力がなくなっていくことである。何分、鍛えているとはいえ子供の体では、長時間の戦闘に耐えられるだけのタフネスがない。
 剣を振り回し続ける首なし騎士は、横に頭を抱いたまま、要するに片手でロングソードを操っているにも関わらず疲れがみえなかった。死んでいるからだろうか。それとも、単純な体力差があるからだろうか。
 セージは敵の薙ぎを大きく後ろにステップを踏んで躱すと、舌打ちをした。

 「埒が明かない、なっ!」

 再び繰り出される突きをロングソードで切り払う。まともに受け止めれば逆に弾かれる恐れがあった。受け流すことに専念する。
 騎士の攻撃はとことん教科書通りであり、次がセージでさえ読みやすいものであったが、例え一撃でも貰えば布の服は切り裂かれ、皮膚の奥に鋼鉄の刃が届くことが確実であり、死力を尽くしてでも躱すか受け流すかしなくてはならなかった。騎士も敵が軽装備であることを承知しているらしく、鎧ごと叩き斬るような攻撃よりも、素早さを重視した斬りを連発していた。
 バックステップ。騎士が大きく踏み込み、剣を腹の高さで薙いだ。それを危ういところで腰をかがめて躱すと、左手を突き出す。

 「〝火炎放射〟!」

 指の隙間に揺らめく大気が出現した刹那、それは瞬く間に紅蓮の集束へと姿を変え、迸った。燃え盛る重油を水鉄砲で吹きかけるような粘つく火炎が騎士を包み込む。
 セージお得意の火炎魔術が頑丈な鋼鉄を火にかけられた鍋よろしく過熱させていく。

 「ウォォォォォォォォォォォ………!」

 絶叫。重低音。数十の断末魔の叫びを録音して地下室で一斉に流したとでも表現すべき気味の悪い叫び声が鎧が抱える頭部から発せられた。がたがたと身を震わせ剣で右を左を滅多切りにする。地に擦った剣先が火花を散らし、小石を砕いた。
 セージはじりじりと後退しつつ、左手を向け続ける。みるみるうちに精神力が削り取られていき頭の奥が痛み始めた。それでも更に火炎を強めんとして精神を集中させた。放射量が増大するや掌を焼き焦がさんばかりの熱量を宿し、ドラゴンブレスかくやの勢いを得る。
 呼吸が早まり、心臓が痛いまでの脈を打つ。小柄な肢体が後退する際に足を引っ掛け、膝を付いて座り込む。しかし火炎放射が続く左手は向け続けていた。
 騎士はセージを見失ったか、鎧もしくは存在に深刻な影響が発生したのか、剣を振り回して暴れるだけで理性的な行動を放棄していた。熾烈な高温に晒された鎧の節々が白熱し、暗闇へ対する照明となった。
 火炎放射は止めることが許されなかった。何せ相手は得体の知れない化け物である。悲鳴を上げるということは苦しんでいることにほかならず、ならば殺せる可能性があるのだから。

 「オオオオオオオオオオ!!」
 「死ね、死ねよっ! って、うわ」

 突如として騎士が剣を投げ捨てるや火炎に身を焼かれながらも突進を仕掛けてきた。
 白熱する鎧に抱かれたら鉄板の上の肉と大差ない。火炎放射を続けながらも騎士の横をすり抜けることを目標に足を運び、回避する。
 首無し騎士は目標にぶつかることもできず岩に足を取られ転倒した。姿勢を崩しつつも頭はしっかり小脇に抱えている。

 「ウアアアアア、ウオオオオオ、ァァァァアアアアアア!!」
 「しつこいぞコイツ!」

 再び立ち上がった騎士の姿に、セージが怯んだ。戦慄した。武器も無く、鎧のあちこちをくすぶらせているにも関わらず絶叫を上げて突っ込もうとする姿に本能的な恐怖を感じ取ったのである。鳥肌が立っていた。
 騎士が勢いよく立ち上がるや猛烈な勢いで駆けてくる。猶予は数秒と無い。もし避け損ねれば熱い抱擁をされるであろう。温度的な意味で。

 「くっ……なら!」

 セージが駆け出した。背を向けて。ブロンドのショートカットが体の動揺に追従してたなびく。追う騎士と逃げる女の子。強化された脚力が生産する速度は騎士の速力をやや上回った。前方には岩。狙いは単純なことだった。セージは岩に辿り着くや、その上に陣取って振り返った。騎士が岩に正面衝突し、それでもなお岩の上のセージを捕らえんとよじ登ろうとした。
 足に力を込め、跳躍するや、騎士の鋼鉄製の手を掻い潜って背後に着地し、ロングソードを腰で構え、騎士の背中を貫いた。地点にして丁度人間ならば心臓がある部位に、正確に。騎士の動きが止まった。

 「これで終われぇ!」

 ロングソードの柄を握り直し、引き抜きざまに背中を一閃。陽炎纏った剣が硬質なはずの甲冑をバターのように溶かし斬った。確かに威力は向上しているが鉄を膾切りにできるはずがない。セージは手ごたえの無さに不安に駆られた。
 すると心臓にぽっかり空いた穴と、斬撃の跡がとろけ始め、轟々と火に変わった。鎧という輪郭がぼやけすべてが火と化す。尋常ではない青白い火炎が、セージが放った赤い火炎を飲み込んで膨張し、何もかもを焼き尽くしていく。
 なにせ相手は化け物である。最後まで油断はできぬとロングソードを構え直し、様子を見守る。すると、目の前の風景に光が差した。背後で頭に矢を受けて死亡したはずの馬が同じく炎上し始めたのだ。
馬と騎士。いずれもまるで幻想のように、鎧も骨も皮も存在自体が燃え尽きて、炭になっていった。

 「………っ」

 馬と騎士の燃えがらが天へ緩やかに昇ったと思いきや、下降してセージの元に襲い掛かった。真夜中。星と月しか光源のない暗黒の中でも、黒色をしているはずの燃えがらは、視認できた。黒とも灰色とも付かぬ靄だった。それはあたかも復讐するために速度を増して拡散、再収縮すると、息を呑む“女の子”に覆い被さろうとした。
が、できなかった。
 魔除けの指輪が更に光を増すと、害意を祓った。靄はいつまでたってもセージに近づくことを許されない。時間経過という残酷な掟により、靄は存在を維持できなくなり、消滅した。
 指輪が徐々に光を失っていった。効力は確かに発揮されたのだ。気休め程度の効果だと考えていたのは大きな間違いであり、実際には身を守ってくれた。指輪を擦り、その場にがっくりと膝を付く。強化の効果が消えた。酷使された肉体と精神が休息を求めていた。
 セージはロングソードを引き摺るようにして運搬していくと、荷物の元にやってきて、片づけを始めた。二連式クロスボウを回収して手元に置く。
 酷い疲労が肉体に伸し掛かっていた。怪力の化け物とまともに剣を交えるために腕と脚を強化した反動がやってきたのだ。腕はしくしくと痛んだし、脚は油を長年注していないからくり人形のようにがたがただった。倦怠感、重圧が全身にへばり付き、休息しなければ暴動を起こすぞと脅迫をかけてきていた。
 深夜ということもあり、眠気も酷い。濃縮した牛のミルクの如し。
 犬のような四つん這いで這っていくと適当な地面を見繕い転がった。

 「さすが……ロウの発明品ってか………あ~疲れた……」

 そう一言呟くと首無し騎士と遭遇したときと同じように目を瞑った。
 ところが眠れない。眠気があるにもかかわらず一向に睡眠に落ちる気配がない。心拍は高く、全身の筋肉が熱い。眠気はいつの間にやら薄めたワインのように味気なくなっていた。

 「くそ、眠れない……」

 地面の上で寝返りを打つ。顔を手で覆って星と月の僅かな光を遮ってみた。
 どれだけの時間が経過したか、いつしかセージは寝てしまった。



[19099] 七十六話 もじゃもじゃのアイツ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/19 02:24
LXXVI、



 水筒を傾けて口内を湿らせば、小瓶から塩を一つまみ取って舌に置く。温くなってしまった水と、体温の唾液が、塩を溶かす。味蕾がそれを検知して信号に変換して脳に伝える。これらの複雑なプロセスを踏んでようやく生き物は味を味と認識するのである。
 すなわちしょっぱいだけだと。
 セージは無意識に顔を顰めて頬を内側に寄せた。

 「腹減った……」

 空腹とは耐え難いものだ。特に食料品の備蓄が底を付き、補給の手立てがないとわかりきってしまったときは。
 干し肉は既に胃袋の大海に消え、歩けば歩くほど腹が減るが足を止めては仲間の元に辿り着けないという苦行を強いられていた。草の中でも、食べても大丈夫な種類(ヨモギに似た味がする)を拾っては口にしているはずなのだが、一向に空腹感が収まらない。

 「なんでかなぁ。最近食欲が止まんない。病気? なわけねーか。寄生虫? 虫下しで治るのかなぁ」

 本人は自覚がないかもしれないが、それは育ちざかりであるからだ。
 そうぶつぶつぼやきながら道中で手に入れた薬草をぱくつく。主にお腹の調子を整えるのに使われるものであり、あまり食べすぎると下痢をする種類のものなのであるが、お腹が空きすぎて口の中にもぎゅもぎゅと押し込む手が止まらない。たまに塩も舐める。口の中が緑一色なのはご愛嬌である。
 全て食べ終えてしまったセージは、ぎらぎらと目を血走らせて周囲を見渡した。
 辺りはなだらかな丘を乱雑に並べ重複部分は同化させたような地形であった。単純に上がって下るの丘ではなく、いくつもいくつも重なりあうことで起伏が複雑化しており、木の生え方も規則性が無い。
木を探しても食べられそうな木の実を付けたものは無く、あっても小鳥に食い尽くされた後だったりした。見つけたと言えば草とキノコである。
 セージは腐った倒木の横にびっしりとくっついていた茶色っぽいキノコを鞄から取り出すと、睨んだ。鼻をくっ付けずに手の団扇で匂いを嗅いでみる。やや酸味がかった香りがした。
 この世界においても一流の魔術師がキノコの鑑定を間違えて死ぬなどありふれた話であり、お腹が空いたから適当に採取したキノコを食べてしまえ、というのは浅はか過ぎる。
 頭では理解していたが、お腹が納得してくれなかった。
 今すぐにでもキノコを口に入れてしまいたい欲求に駆られた。セージは頭を振ると、キノコを鞄に押し込んだ。猛毒だったらどうする。エルフは森の民であり毒に耐性があるらしいが万が一耐性が追い付かない猛毒だったら、というリスクがある。
 諦めが惜しくて鞄を熱い目でちらちらと見遣る。理性を総動員して食欲を押し込めると、お腹を服の上から撫ぜつつ、地面にあった小石を前に蹴る。

 「蜘蛛、鹿、兔……いれば………って時に居ない。ふざけんな大自然」

 セージは、丘陵地帯から森林へと足を踏み入れていた。というよりもこの世界、人間などによる開拓がほとんど手つかずの場所が多いため、森の割合がべらぼうに高いのだ。少し歩けば森にぶつかるのも道理。
 森には多くの恵みがあるというのは、嘘である。恵みとは決して手放しで入手できるものではなく、努力しなくてはいけない。
 ため息が止まらない。目的地まで既定の速度で進んでいく一行と、自分の力だけで歩かなくてはならないセージ。どちらが早いかは明白だ。追い付くにはかなりの時間を要するだろう。戦争に参加するつもりが自分でコースから外れたことに自己嫌悪していた。
 ――もういっそ異世界でのんびり暮らしちゃおっか。何やってもうまくいかないし。
 という考えが頭をよぎるも、すぐに考えるのをやめた。
 木の根っこを飛び越して着地。体のばねで次の根っこを飛び越すついでに木の枝をむしりとる。枝で木々を叩いて遊びながら前に進む。前方に見える山並みが目印だ。大雑把でも山を目指せばいいのだから迷うことはない。
 とはいえ、道のりは長い。食べ物を手に入れないと空腹で力が入らないまま歩くことになるだろう。
枝で木々を叩いて鼻歌を垂れ流しながら歩いてきたのを察知したのか、巨体を誇る生き物がセージの背中をじっと見ていた。厚い皮を毛並で覆った筋骨隆々の獣。爪、牙、目立ち、それらに愛嬌と凶暴性を同居させた、森の生き物である。
 セージはまるで気が付いていなかった。仲間と一緒に旅してきたことが逆に警戒心を緩める結果となっていたのである。その生き物はセージと家一軒挟んだ距離にまでにじり寄っている。犬ならば脂と体臭で察知しただろうが、セージはエルフである。
 やっと気が付いたのは、その生き物が草を鳴らした音であった。エルフ特有の長耳がぴくんと身じろぎをした。
 すかさず振り返ると、腰の二連式クロスボウを腰だめに放つ。カシュン、と軽い発射音。矢が生き物の皮膚を―――貫けず表皮で止まる。その生き物は鼻を鳴らし怒りの一撃を放つ。セージ目掛け爪の生えた腕が唸りをあげた。

 「く、おおおおッ!? お、お、おまえ、おまえかよ!」

 辛うじて後ろに転がる。もとい、体勢を崩してこける。
 セージはその生き物にクロスボウが効力を発揮しないのを悟ると、すぐさま草むらに放り投げて、ロングソードを引き抜き、両手で保持した。相手に有利な体勢を直すべくすぐさま起き上ればじりじりと後退しつつ、相手の顔をじっと見つめる。
 その生き物とは、3mもあろうかという熊だった。
 セージにとって熊はトラウマの対象である。熱病にもかかわらず追い回されて食われるか川に飛び込むかの二択を迫られ、結局飛び込んだ。もしルエが助けてくれなかったらドザエモンだった。恐ろしいことに今目の前にいる熊は川で遭遇した個体よりも一回り大きい。
 剣か、死か。セージは熊が二本足で立ち上がって威嚇するのをじっくり観察して、決断した。
 前髪掻きあげ啖呵を切る。ただし声が震えている。

 「上等だよ熊ヤロー。皮剥いで上等なコートにしてやる!」

 熊が前足を地面につけると突進した。身のあたりの威力は推して知るべし。横っ飛びに回避すると、右手にロングソードを、左手を何か果物を握っているような中途半端に広げて、熊に照準。魔力を抽出。イメージという型に当てはめて顕現させる。そして、言霊をもって射出する。言葉の内容はイメージしやすく。

 「〝火炎放射〟!」

 手からほとばしる火炎が熊へと降りかかる。それは毛へ引火すると―――あっという間に鎮火した。普通の熊ならば火に包まれ絶叫しただろうが、この熊は違った。毛の質によるものか引火せず消えてしまった。単純な熊なら逃げ出しただろう。この熊は只者ではなかった。ドラゴンのように火に耐性のある生き物がいるのに、どうして火に耐性のある熊がいないと言い切れるのか。
 火が効いていない。事実を認識できず、セージが固まる。

 「あれ? 火が……」

 僅かな隙を見せたセージへ熊が躍りかかった。肉体が脈動する。肉迫。強靭な爪が一閃。

 「ちぃ! ひぐっ………」

 左手を盾にバックステップ。服が破け血が飛ぶ。熊の爪の威力は肉を裂き内側を深く傷つけた。たまらず顔が歪むも、既に別の魔術を発動させるためイメージを練り上げていた。脚部に纏う靄をイメージ。魔力を集中させて、ぐっと屈む。
 熊が今度は伸し掛かって顔面から食らってしまおうと迫る。
 魔術が先か、熊が先か。

 「〝跳躍〟ッ…………うわぁぁぁあやりすぎたぁぁ! マジかよおおおお!?」

 脚部に風が巻き付くや、体を真上に飛ばした。
 否、飛ばすなどという生易しいものではない。巨人に放り投げられたかのように木々を眼下に置く異常な跳躍を見せた。セージの体の軽さと瞬発力が存分に発揮されたのである。熊は葉の下に隠れてしまった。上空では、熊から逃れることができたという安堵と共に、どう着地するのかという現実にパニック状態に陥っているセージがいた。
 上昇Gが去り、重力が体感できるようになる。肉体が大地へと牽引されだした。
 じたばたと無駄に暴れてやっと足を下にすると、別の魔術を唱えるべくイメージを練る。ズキン、と頭の芯が痛む。火炎を得意とするセージが無理矢理風の魔術を行使したからである。

 「えー、えー! えっと! イメージ! 〝クッション〟!」

 でたらめに単語を吐き出せば、体をふんわりとした風が包み込み、落下速度が低下する。ブロンド髪や服の裾が下方からの風でめくれ上がった。眼下の木々の海が徐々に接近する。そしてなんとか、木の枝に足をつけることができた。
 ほっと溜息を付きつつも、枝に跨る。
 左腕へじっと視線を送る。熊の爪で綺麗に裂かれていた。幸いというべきか、熊の爪が尖っていたおかげで傷口はナイフで切り裂いたように曲線を描いていた。
 腕の痛みと、頭の痛み。
 はぁ、とため息を吐くと荷物から水筒を取り出して傷口にぶっかける。耐えがたい苦痛が走り涙がにじんだ。足をばたばた前後に振って、歯を食いしばる。

 「~~~~~~~~っ!! くそ………痛い痛いいたいっ………うー、はぁ」

 水を止めると痛みが引いた。と言っても水を落としたことで生じた痛みがなくなっただけで、傷の痛みは引いていない。
 水筒を仕舞い込み傷口に薬草を潰して擦り付ける。伊達に勉強してきたわけではない。独自で食える薬草を判別したのとは別に、傷口の消毒に使える薬草を学んできた。だが傷口を縫う技術はない。治療魔術も下手糞だ。応急的に包帯を巻きつけきつく縛る。
 やっと人心地ついた。セージは跨っている木の下を見遣った。大きい影が獲物を探して徘徊しているのが見て取れる。不意を突いて上に逃げたことで見失ったらしい。ほう、とため息を吐く。

 「熊なんて大嫌いだ………」

 やがてセージは、しまったという風におでこを押さえた。

 「クロスボウ、置いてきちまった」

 熊のいる下に取りに行かなくてはならない。
 気が遠くなりそうで空を仰ぐ。青い。











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自作品なのにストーリー忘れかけてます
「ちげぇよ」という箇所があれば、どうぞ



[19099] 七十七話 束の間ティータイム
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/20 12:21
LXXVII、



 端的にいえば山の根元にあった村は不気味だった。
 地図に存在だけが知られている村であり、情報のかけらもない、小さな拠点。村がある。ということが重要で、村を目印にして先に進むための場所であり、村がどのような環境で住民はどのような人々なのかは地図に記されていない。
 セージは治療を求めていた。左腕を切り裂かれており放置するわけにもいかない。食料も底を尽きていたので補給する必要性に迫られたのだ。
 そこで擬装用の指輪がきちんと作用しているのをできる範囲で確かめると、村に足を踏み入れた。
村は森の中にある自給自足のコミュニティーを具象化したような絵に描いた場所であった。猛獣除けの柵。畑。井戸。木と煉瓦の家屋。けれど不気味というのは、環境にあらず。
 住人という住人が俯いており元気がない。村の門を潜ろうとするセージに注意を払うこともない。ただ、いずれの住人もセージが前を通った後でこういうのだ。
 よそ者が(アウトサイダー)。

 「参った。いつつ……これじゃ、治療なんて受けさせてくれる人がいない」

 どうやらこの村は典型的な閉鎖社会であり、エルフだからという理由関係なしによそ者はのけ者扱いして然るべきというのが常識らしい。左腕を擦りながら村をうろついてみる。門番らしい門番もいないのであっさり入れたことと、よそ者進入禁止という札もなかったので入ってみたのだ。言うまでもなく看板もなければ店もない。
 途方に暮れて村の中心にある教会らしき建物の横にしゃがみ込む。
 とりあえず片っ端から戸を叩いてみるか、それとも村長を探し出して取引をするか。選択肢はそう多くない。いつまでも村にとどまっていても時間を食うだけだし、行動に移すべきである。
 セージは布を取り換えて傷口を洗おうかと腰を上げた。
 すると、扉が開いておかしな格好をした女性が現れた。振り返る。

 「もし、旅のお方。どうやら怪我をなさっているようですね。もしよろしければ治療して差し上げましょうか」

 女性の服装は、黒一色であった。普通の服とは違い黒く大きな布を全身に巻きつけているような感じであり、着物のようにも見えなくもない、ゆったりとした装いである。靴はありふれたサンダル。頭に被り物はないが金属の輪のようなものを乗せている。
 相手は、長いブロンドを後頭部で結い上げた柔和な微笑みの若い女性であった。何者かと警戒を露わにしそうになるもこらえる。村人に敵意を剥き出しにしてもよいことがない。
 黒服の女性はにこにこと笑みをたたえた顔のままで、手を使い扉の中に誘う姿勢を見せた。
 
 「さぁ、緊張なさらずに。例え信徒でなくても神はお恵みをくださいます」

 セージは内心で神なんて糞しかいねぇよと毒づきつつも、女性の方へ一歩体を寄せた。何やら甘い香りがする。体臭でも香水でもない。嗅いだことのない類の香りが鼻をくすぐる。

 「セージと言います。治療の代金は持っていないのですが……」

 やや俯き加減に臆病な口調でセージは言った。ルエなどが見れば吹き出すであろう猫かぶり。袖を指でもじもじと弄って見せたりする。無論、演技である。男勝りの女の子という強い印象を残してしまうわけにはいかないからだ。あくまで可愛い女の子を演じる。内面が男とはいえ演技の練習はそれなりにしているので違和感はない。
 すると女性は扉を更に開いて見せた。

 「お代など不要ですよ、旅のお方。さあ、いらっしゃい」
 「ではお言葉に甘えて。お邪魔します」

 セージは女性に誘われ扉を潜った。
 そこは教会であった。元の世界のキリスト式のように中央に道があり両左右に長椅子が設置されていた。正面奥に神を祀ったと思われる像が聳えている。両目のない男性の像。ただし額には第三の目とでも呼ぶべき眼球がある。寂れた森の奥の村にしてはやけに豪華な造り。
 女性は手を合わせながら何かを呟きつつ頭をさげて像の前まで歩いて行った。つられてセージも真似事をしながらついていく。
 ―――それにしても。セージは思った。見たこともない神像だ。この世界にも元の世界と同じように無数の宗教がある。拝めるものはさまざまだ。だがこの神は勉学の中でも見たことがない。辺境の宗教だから知らないのも仕方がない。考えるのが面倒で思考を切り上げる。
 女性は神の像で一度頭を下げると、奥の部屋へと軽快な歩調で進んでいく。セージは後を追いかけた。
 奥の部屋は机と書物とベッドのある簡素な作りをしていた。教会の本堂とは正反対のシンプルさ。女性は部屋の椅子に腰かけると、ベッドを叩いた。

 「ここにどうぞ。自己紹介が遅れました。私の名前はルィナと申します」
 「ルィナさん、ですか。よろしくお願いします。左腕の傷なんですけども……」

 ルィナとは不思議な発音をするものだと思いつつもベッドに腰掛けて左腕をまくる。血に染まった布が巻きつけられた白い腕がある。傷口を晒そうと布を取れば、痛々しい切創が眼前に登場する。
 傷口に触れぬように指を沿わせ、説明を始めた。

 「熊にやられてしまいまして……なんとか命からがら木に登って事なきを得ました」
 「まぁ………なんと綺麗な傷痕。化膿してるわけではないようですね」
 「これでも旅人として薬草を使うくらいの知識はあります。けど、縫うことができないんです」
 「わかりました。少し染みますが我慢してください」

 嘘は言っていない。熊に襲われたのも木に登ったのも薬草を使ったのも。熊に啖呵を切ったことや魔術で大跳躍したことは伏せた。
 ルィナは机の引き出しから薬品を取り出した。瓶入り水薬を手に取り蓋を開ける。それをガーゼにたっぷり染み込ませると傷口を撫でた。

 「あっ…………くぅぅぅ………」

 沁みる。痛い。傷口から走る電流に唇が白くなるまで噛み締め涙を堪える。
 ルィナがガーゼを離した。苦痛が遠のいた。傷は表面上治療されているようには見えないが、感覚として、まるで蒸しタオルでも宛がわれているようにぽかぽかと温かさが生じている。

 「これでよしっ。これから私の治療魔術でセージちゃんの傷を治しますね。動かないでくれるとありがたいです」
 「お願いします」

 ルィナはガーゼと瓶を置くと次に両手で腕を包み込むようにした。ぼそぼそと何かを呟く。両手に淡い光が宿ると傷口を守る任務を仰せつかっていた瘡蓋が消えていき、傷口がぱっくり開いた。
 目を見開いて治療の光景を見守る。魔術はイメージによる部分が大きい。治療の仕方も様々なのだ。
 開いた皮膚がまるで時間を巻き戻すようにして腕に戻って行く。破壊された皮膚が脈打つようにして再生していき腕の表面をぴったり覆い尽くす。しばしの後にセージの腕は痕跡も残さず元通りになった。
 どうやらルィナは優秀な治療魔術の使い手らしい。
 元通りに再生した腕を触ったり曲げたりして感触を確かめる。違和感なし。

 「ありがとうございます! 見事な魔術でした!」
 「感謝には及びません。神の限りなく降り注ぐ慈愛あっての技術です。神よ感謝します」

 さっそく手を合わせて感謝し始めるルィナに、信仰深い人だという印象を抱いた。
 ルィナが席を立った。

 「せっかくですからお茶を飲んでいってくださいな。旅に戻る前に一息つくことも必要でしょう」
 「そうですね、お願いできますか?」
 「よろこんで」

 この時点でセージの警戒心はなくなったに等しいだろう。
 もし害するつもりならば水薬といいつつ毒薬でも傷口に擦り込めば殺せたし、村に入ってうろついても危害を加えてくる様子がないからだ。エルフとばれている様子もない。おまけにルィナは優しい。疑う余地がない。
 ルィナが退室して、暇ができた。自然と机の上に視線がいく。何やら難しい書物が無造作に置かれている。なんだろう。身を乗り出してみた。魔法陣らしき図柄。その時。

 「お待たせしました」
 「はいっ!」

 ルィナが戻ってきたのでストレッチをしていましたという風を装い首を回す。
 ほかほかと湯気立つ茶色っぽいお茶。紅茶系だろうか。お菓子はついてこなかったが久しくお茶を口にしていないのでたまらなく飲みたかった。
 差し出されたカップを手に持ち、ルィナを見遣る。上品に目を閉じてカップを傾ける姿。黒一色の衣装という神秘性も手伝って美しささえ醸し出している。

 「頂きます!」

 セージは口で吹いて温度を僅かに下降されると、一口飲んだ。芳醇な香りが口内を満たす。甘味は無いが程よい酸味と鼻まで昇ってくる上品な香りに喜びを感じた。
 ほう、と胸を上下させてカップから口を離す。半分ほど消えている。

 「おいしいですね、このお茶」
 「私が作ったんですよ。村の人はあまり飲まないから、私専用ね。うふふ。お代わりならもっとあるからどうぞ」

 ルィナはカップを置くと、そういって見せた。急須にはまだお茶があるらしく湯気が立っている。
 セージは、遠慮なく全部飲み干した。一気飲みではなく、ちびりちびりと存分に舌の上で転がすようにして。そして恥ずかしそうにお代わりを求める。カップをルィナの方に差し出して。目がきらきら輝いている。

 「おかわりいただけますか? 本当においしくて」
 「もちろんです」

 次のお茶を貰う。カップの8割を埋める茶色の液体を存分に楽しみながら嚥下すると、じんわりと唾液が湧いてくる。これでお菓子があれば最高だぜ。なんてことを思うのは秘密である。
 三杯目のお茶はさすがにはばかられ、カップを机に置こうとした。

 「………? ……?」

 カップを置こうとする手が鈍る。眩暈がした。首を振って疑問符を振り払うと、コトン、とカップを机の上に納める。ところが眩暈はますます勢いを増していった。ルィナの顔が霞む。それどころか部屋中が霞んでいく。瞼が閉じかけているから風景が霞んでいくことに気が付いたときには手遅れだった。口も聞けない強烈な眠気が肉体を責め立てる。事実を認識することもできず顔を歪め、眠気を殺そうとベッドから起き上がって数歩進んで、床に転んだ。
 ―――盛られた!
 誰に? ルィナである。ルィナは自分はさも当然のようにお茶を飲みつつ、セージが床で静かな抵抗を継続するのを見守っていた。その顔に笑顔は無く能面のような顔だけがあった。
 セージはロングソードを引き抜こうとして暴れた。抜けない。クロスボウに手をやりルィナに照準しようにも狙いが定まらない。魔術は論外だ。手から力が抜け、首が脱力。視界の片側を床が占める。もう片方にはルィナの黒服が映っている。

 「だ、め……………?」

 最後にそう呟いたセージは暗黒の世界へと旅立った。



[19099] 七十八話 信仰は怪しく
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/22 00:27
LXXVIII、



 目が覚めた。森で怯えながら短い睡眠を繰り返すのより、風邪で寝込んだ時より、おそらくは最悪の目覚めの指三本に入るであろう、目覚めだった。
 頭を数時間揺さぶられたのではという頭痛と二日酔いにも似た倦怠感。

 「う………」

 目を開き状況を確認する。地下牢らしき部屋の壁際に両手足縛られている。磔というより動けなくするための戒めらしく足場が設けられていた。拘束を取ろうと筋肉に力を込める。外れない。魔術ならばあるいは。イメージを集中させて火で拘束を――――。

 「あっ………頭が………痛い……」

 頭痛が再発。何も考えられないほどの激痛に顔をしかめ耐える。拘束用の革がきゅうきゅうと乾いた音を鳴らす。無駄だ。魔術で肉体強化しても引きちぎれるとは到底思えない。脱出は不可能に近い。
 痛みが引いた。目を開いて頭を振れば、それに気が付いた。正面にあからさまに怪しい鉄の観音開きの扉があることに。その扉は人間が使うには大げさなサイズであり、馬車でも楽に通り抜けできそうである。壁の横にはドアノブの付いた普通の扉。その奥から冷気が漂ってくる。部屋の暖かい空気は上に逃げている。
 そういえば。セージは悔しさを滲ませた。

 「あのやろー……迂闊だった。とっとと姿を見せやがれ」
 「はい?」

 がちゃり。ドアノブが回転すると扉からルィナが現れた。まるで人形のような無表情。ただし頬は真っ赤だ。黒一色のゆったりした服と不吉な雰囲気を纏いて優雅に入室。後ろ手に鍵をかける。そして熱いため息を漏らすとセージのいる拘束台へと一歩一歩を確かめるがごとく歩み寄る。
 セージは、ただならぬ気配を滲ませるルィナを睨みつけると、唾でも吐いてやろうかと画策した。顔面を気の済むまで殴りたい気分だが叶わぬ夢。
 ルィナは己の酒に酔ったように上気した頬を撫でると、ねっとりした手つきでセージの腰を触った。
 背筋に嫌な汗が染み出る気さえした。嫌悪を隠そうともせず敵意を顔に浮かべて威嚇。

 「うふふ。動けない。魔術も使えない。もはや逃げる術なんてない。あなたも神の慈愛を受けるのです……」
 「何が何だか知らないが気色悪い奴だ。離せよ。睡眠薬なんて卑怯な真似しやがって」

 もはや口調や身振りを偽装する意味も無い。歯をむき出して今にも噛みつかんばかりに顔を寄せて言葉を吐く。

 「卑怯などではありません。これは愛の道なのです。あなたのような美しい子を世俗に放ったままでは正義は濁ったまま。あなたにこそ神の道は相応しい………」
 「…………」

 何言ってんだコイツ。意味が分からない。翻訳機が必要だ。
 セージの暴言など意に介せずという風にルィナは解答すると、まるで無邪気な子供のような屈託のない笑顔を見せた。底知れぬ暗闇の気配が部屋中に満ちた。
 ルィナの口ぶりは精神を患っているようにしか思えない。ろくでもない奴という認識に情報が更新。嫌悪感がグレードアップして敵意に変わる。
 逃げ出す算段がつかない。拘束を破り扉を開かない限り状況は同じである。
 セージはルィナが鍵を服のポケットらしきところに入れるのをしっかり記憶に焼き付けると、次の行動を見守った。どうせ自分にとって有利なことはやってこない。ならばじっくり観察して脱出の手段を探るのだ。
 ルィナはふらふらと怪しい足取りで観音開きの扉の閂を外した。驚くべきことに扉はルィナの手によらぬ別の力で開き始めた。扉の奥に光る禍々しい赤い光の点が左右に小刻みに揺れている。

 「なんだこれ…………」
 「神よ、我が永遠のお方よ………」
 「これが“神様”だあ!? ふざけんな! ただの怪物じゃんか!」

 扉のすぐそばで跪き祈りを捧げるルィナをよそに、セージは絶叫した。恐怖ではない。生理的嫌悪感だ。
 粘着質な音を立てて扉の奥から何か巨大な物体が姿を現した。子供の胴体はあろうかという直径の蛇の頭を巨大な眼球に置き換えた異形。目は人間のものそっくりながら表面には細かな体毛が覆っており粘り気のある粘液が床に滴っている。それは、無数の蛇もとい触手を連れて這い出てくると、眼球らしきものでセージを睨みつけた。恐ろしいことに本体は扉の奥に続いている。どれだけ大きいのか、もしくは長いのか、見当もつかなかった。
 唖然として固まってしまったセージの瞳に、眼球から赤い閃光が迸る。
 刹那、頭の痛みが急変し、あたかも脳みそがはみ出ているのではという領域へ突入した。

 「あああああああああああううううううぅぅぅっ!!」

 セージが気が狂ったように頭を仰け反らせ暴れる。何も考えられない。ただ痛さだけだ。
 光を傍らでじっと見つめても変化の無いリィナは、セージの肩を慈しむように撫でて、囁く。

 「もうじきですよ。もうじき生まれ変わることができるのです……」

 痛さは別の感覚を生み出す。快感だ。脳内麻薬の異常分泌。脳の中心から発生した痛さと快感が混ぜこぜになって思考を侵食する。瞼を閉じているのに眼球内に光源があるかのように光が容赦なく神経を刺激して、耐えがたい苦痛が肉体を痙攣させる。
 セージは言葉にならない絶叫をあげながらも、首に筋を浮かして、必死に耐えていた。
 だが徐々に意識が遠のいていき別の感情が生まれ始めた。同時に、痛みなどの感覚が消失。意識という船がひっくり返るのを感じた。不思議なことに自分の体と心が分離してしまったように状況を俯瞰することができた。
 セージは――セージの心は、肉体が勝手に動くのを止められないでいた。もう一人の人間が肉体を支配しているのを止められないような感じである。肉体という機械の主導権を別の存在に握られてしまったよう。

 (どうなってんだ? 俺どうかしちゃったのか?)

 言葉を発してみるも、内面に反響するばかりで声帯が動いてくれない。
 意思とは裏腹に肉体が勝手に弛緩した笑みを浮かべるとぞっとするほど色気を含んだ甘い声をあげた。

 「ああ、神よ…………」

 そして眼球をうっとりと撫でまわし微笑する。眼球の化け物は相手が己の配下に下ったことに満足したのか光を止めると極めて聞き取りにくい甲高い鳴き声をあげた。ぽたぽたと液が床に滴る。
 内面のセージは思わず仰け反った。

 (嘘だろ。え? どういうこと。操られてる? ちょ、体がおかしいぞ)

 心は健在だが体がおかしい。状況は既にセージの理解の範疇を超えていた。ああでもないこうでもないと独り言を呟いていると、ルィナが歩いてくるのが見えた。ガラス越しに相手を見るような現実味のない映像だけが心に届いてくる。
 ルィナは微笑を浮かべて、拘束具を外しにかかった。あっという間に外してしまうとセージを引き寄せて腕に抱く。温かさと柔らかさが届いて赤面した。ただし心の中のセージである。肉体のセージは当然のように享受するとルィナと手を取り合う。恋人同士のように結んだ手を胸元まで引き上げる。

 「あなたも愛を知ったのですね」

 ルィナが問いかける。
 するとセージの肉体は平素作らぬ柔和な笑みを浮かべて頷いた。

 「はい………神の深い愛を心から感じました………」
 (感じてねーよ気持ち悪い)

 自分で自分に突っ込みを入れるも反応はない。気色の悪い愛やら慈愛やらの抽象的な単語が口から出ていくのを止められず鳥肌が立った。もっとも肌を認識できないが。
 洗脳されたにしては心は無事。けれど肉体が勝手に動く。摩訶不思議な現象を前にセージはお手上げだった。一つ言えるのは神様とやらは化け物だったということである。
 ルィナとセージが、神の前で跪くと祈りを捧げる。聞いたこともない文句を唇が紡ぐ。
 最後に二人は眼球にキスをした。

 (………吐きそう)

 眼球の臭いと感触だけを味わってしまったセージは激しい嘔吐感に襲われるも、肉体は反応してくれなかった。毒づきながら眼球を睨みつける。充血していた。
 二人が祈りの言葉とお辞儀を合図に神を見送る。神もとい化け物はずるずると扉の奥に引っ込んでいった。リィナが閂で扉を封鎖した。セージの視界には扉の奥に大穴が大地の底まで伸びている様子が見て取れた。

 「参りましょう。神のために祈るのです」
 「わかりました、向かいましょう」

 セージの肉体はルィナに導かれるまま本堂へと向かったのだった。
 無論、心は今すぐに本堂に放火したくてうずうずしていたのだが。



[19099] 七十九話 波乱の予感・・・
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/22 00:28
LXXIX、



 (……しにたい)

 セージは最高に死にたかった。無論、本気で死にたいのではない。いっそ殺せという心境である。例えるならば女子高に女装して入学する羽目になった男子生徒の心境である。ハーレムだと歓喜するなかれ。女しかいないに男一人はつまり、淡水魚を海水に放流するに等しい。
 セージの肉体は今、心とは無関係に動いている。悪いことに女性らしい振る舞いをしているのだ。口を開けば女言葉。歩き方や仕草まで女。服も女。精神的には男性を保つ彼にとって苦痛の連続である。
神に仕えるという服とは異なる純白の衣装。頭をすっぽり覆うヴェール。袖まで伸びた布地。黒い神官服が着物ならば、白服はまるで白無垢のようだった。
 セージの肉体は神に対する歌を口にしながら書物に目を通している。神もとい化け物がこの地にやってきた経緯やら赤い光を浴びたものがどうなるやら、これから何が起こるのかやらを詳細に知ることができた。
 穢れ無き白い服を着込むというのは神へ生贄を捧げるため。身も心も捧げることで化け物はより強大になるという。
 赤い光は精神を洗脳する作用があるらしい。人間には効きやすく、人間から遠ざかるほど通用しなくなる。洗脳されると化け物に付き従う信者となるという。
 ――ならば、この体を動かしているのは、誰なのか? という疑問が浮上する。セージの意識は通常通りだ。体が制御できないだけ。洗脳などされていない。
 書物へ目をやってあれこれ考察した結果次のような結論を得た。
 肉体のセージが嬉々として神のイラストに色を塗っているのを不気味と思いつつ呟いてみた。

 (あのバカ野郎が魂弄ったせいで一部しか洗脳できなかったんじゃないか?)

 セージの出自は複雑だ。別世界から異世界へ魂を運ばれた経緯を持つ。以前にも魂の構造が他とは違うとヴィーシカに看破されたことがある。一度抽出して別の肉体に繋ぎ合わせたことで歪な構造になったと。不幸中の幸いというべきなのか。〝神〟の高笑いが聞こえてくるようで壁を殴りたくなったものの、精神の世界では殴る手も蹴る足も存在しない。
 いずれにせよ、このまま行けば生贄にされてしまう。魂がどうのという議論はともかくとしても、現実的な危険を回避しなくてはならない。
 生贄。イラストでは生贄の言葉の意味通りにムシャムシャと頭から食われる信者もいたが、触手で全身を弄られ苗床にされるエロティックなシーンもあった。食事か、繁殖か。改めてこいつは神というより動物寄りという認識を深める。
 もし仮説が正しいなら、こういうこともできるはずだ。セージには確信があった。

 (一部しか洗脳できなかったとしたら、制御を奪い返すこともできるはず)

 そうと決まれば行動である。強く念じる。俺の体を返せと反発する。
 セージの肉体が止まった。作業を中断して目を見開いたまま硬直する。だが十秒もすると動き始めた。頭を振って目頭を揉んで。

 「私、疲れているのね。健康な肉体と精神を保つのもまた神への奉仕♪」
 (…………くっ)

 悔しいが、口を塞いでやることができない。歯ぎしり。
 ルンルン気分で本を閉じ、胸を反らせて伸びをすると、薄く口紅の乗った唇に触れて起立して部屋を出る。神の像に祈りを捧げると本堂を出て村のはずれにある水浴び場に向かっていく。思考が読めた。水浴びして身を清めようというのだ。
 即興の鼻歌と、スキップにて、進んでいく。

 「水浴び水浴び♪」
 (精神が不健康だよ、俺! 不健康極めてるから! 精神も肉体もおかしいんだぞ!)

 ぎゃあぎゃあと喚いてもどこ吹く風。反逆も虚しくセージの肉体は小川の近辺までやってきていた。服に手をかけるとヴェールを外し白い衣服を取り去っていく。すっかり脱いでしまえばセージなら絶対につけないであろう女性ものの下着。それも脱いでしまう。やりたくないが、水浴びをしなくてはならない。正確には、水浴びのシーンを見て感じなければならない。
 水浴び開始。
 桶で水を汲んで肩にかける。透明な液体が肩から胸そしてスマートな腰を濡らし脚から地面へ伝う。
 そして、一言の感想を漏らした。

 「冷たーい」
 (ひぃぃ! なんでこいつケロッとしてるんだ!?)

 肌を突き刺すがごとく冷たい水を被っても平然としている肉体と、伝わってくる感覚に思わず悲鳴を上げる心。性格も異なれば我慢強さも異なる。
桶で汲み、被る。単純作業の繰り返し。肩にかけて、腰にかけて、背中に、頭からかぶる。体が冷水を何度も浴びることで白い肌が赤らんでくる。鳥肌が立つ。ブロンドのショートカットは水分を吸ってしんなりしていた。
 あらかじめ持ってきていたタオルで水気を取る。頭をごしごし擦って髪の毛の水分をタオルで挟み込んで取る。首を拭き、背中を拭いて。胸は優しく。皮膚を傷つけないよう、そっと。下も、上から被せて水気を吸い取る。
 他人に体を弄られるような気分を存分に味わったセージは絶対に体を取り戻すことを心に誓った。
白い下着を履く。するりと足から通して定位置に持ち上げる。くすぐったさに声が出るも、心の中にしか響かない。ブラジャーもどきも、膨らみかけの胸元をすっぽり覆う位置で止めて固定する。手つきが手馴れているのがかえって羞恥心を煽った。
 自分で服を着ているのか、着せられているのか、区別が曖昧だった。

 (確かに下着云々のやり方は教えてもらったけどさぁ………)

 下着やら女性に必要な知識はアネットやクララに教えてもらっているとはいえ、実践してこなかった。下着は『まだ胸大きくないし!』『別に下は男のでいいじゃん』と無視してきただけに、いきなり着せられて頭が爆発しそうだった。
 仕草といい、言葉遣いと言い、今現在体を制御しているセージは実に女らしい。本人より女らしいのは、喜ぶべきか悲しむべきか、セージは困惑していた。
 服を着終わったのを見計らったように誰かが小川にやってくる。女性だ。布の服にバンダナ。スコップを肩に担いでいることから農民らしい。印象的なのは燃えるような真紅の髪を無造作に肩に散らばせていることである。
 赤は、つかつかと歩いてくると、スコップの柄で肩を叩きつつ、セージをねめつけた。
 至近距離で見ると、若さあふれる顔立ちをしていることがわかる。悪戯っぽい目つき。ソバカスのある鼻元。例にもれず他の村人と同じように顔が暗い。

 「ちょいとアンタ。見ない顔だ。この前村に来た人だね、違うかい」
 「はい。そうですよ。どちらさまですか?」
 「アシュレイ。アンタは」
 「私は、セージと申します」
 (お前はセージだけどセージじゃねー……)

 いい加減突っ込みも飽きてきた。
 セージの心をよそに二人は会話を続ける。

 「白い服………はぁん……へぇ……なるほど。神へ身を捧げるってわけ。たんなる旅人さんがご苦労なこった」
 「無論です。私の身は御心のまま………」

 陶酔した表情で白い服を弄り己の胸元に手を置くセージ……の肉体。心は全力で首を振ってなんとか体の制御を奪い返せないか戦っていた。
 アシュレイと名乗った女性―――外見年齢はセージと大差ないようだが――は、相も変わらずスコップで肩を耕しながらセージを無遠慮に観察している。
 スコップを操る手が止まった。顎でしゃくる。

 「で、それは本心なわけ? 見ず知らず、この村と何のかかわりもない旅人がものの一日で神に誓いを立てて生贄になろうとする。随分と都合の良い話じゃない」
 「違います。私は神の道を歩くためにやってきたのです。これは私の運命です」
 (ちげーよ。帰りたい一心だよ)

 セージは、大真面目に神への愛を説く自分へ毒づきながらも、精神を集中させて、洗脳された心を解凍しようとする。魔術と同じだ。イメージで心を糸にして暗闇を泳ぐ。赤い光に惑わされた心という場所を探して進む。
 一方で肉体は心とは裏腹に会話を続行中だった。
 アシュレイはスコップを下して地面をほじくりつつセージから目を離さない。懐疑、疑惑、敵意、不安、あらゆる感情がこもった目つきで。

 「運命。そう、それはよかった。確か儀式は………」
 「予定が早まりまして二日後となりました。儀式には村の皆さんを集めてお祈りを捧げたいとルィナさんが仰っていましたわ」

 そう、生贄の儀式とやら三日後だったのだが予定が早まったのだ。
 アシュレイはスコップを両手で保持すると大きく頷いてみせ、その場を後にせんとして歩き始めた。

 「二日後、教会に行くから。私は仕事があるから」
 「アシュレイさん。お待ちしてます」

 アシュレイが垣間見せた雰囲気に露も気が付かずにセージの肉体は微笑みを湛え手を振り送ったのであった。心のセージはアシュレイの視線に込められた意味をなんとなく察した。おそらく彼女は神もとい化け物の存在を快く思っていない。あわよくば排除する魂胆なのだろう。アシュレイを上手く使えば化け物を始末できるかもしれない。一条の光を掌に掴み取った気がした。
 だがその前に。

 (体を取り戻さないと………化け物の餌はまっぴらごめんだ)

 セージは、鼻歌を唱えながら教会に帰る肉体の中で、奪還に向けた試みを進めるのであった。
 セージが教会の扉の奥に消えた後、アシュレイは井戸で水を汲むついでに考え事をしていた。教会を睨みつけてため息を吐くとバンダナを結びなおす。水桶を井戸の底に落として縄で引き上げる。新鮮な水で口を濯いで地面に吐いた。
 じっくりと思考に沈む。水桶の中の透明を眺めながら。
 ――なんとしても、化け物をやっつけなくては。

 「…………」

 ついこの前村にやってきたセージという女の子は利用できそうだ。
 アシュレイの視線の先にはセージとルィナそして化け物がいるであろう教会があった。



[19099] 八十話 してやったり
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/22 16:37
LXXX、



 結局、体を完全には取り戻せないまま、生贄の儀式当日がやってきてしまった。体が寝ている間や気が抜けた隙を狙い取り戻そうとするものの、よくて十秒間元に戻るのが精いっぱいなのだ。よほど洗脳は強烈らしい。焦りに焦ったセージだが、精神を集中するより方法はなく、物理的に阻止することができないことも手伝い、苛立ちだけが募っていった。
 それでも一矢報いようとルィナの目を盗んで秘密の部屋の鍵を盗んで教会の外に捨ててやった。もっともルィナが合鍵を取り出したので無意味だったが。
 儀式はルィナ曰く、神が悪魔たちに追いやられて落とされた穴でやるそうである。聖域と彼女は表現したがセージには地獄としか思えなかった。
 観音開きの扉の奥に穴があり地下まで梯子が続いている。予想に違わず梯子は半透明の液が付着しており触りたくなかったが、肉体が躊躇なく触れて下っていく。
 ―――虫唾が走る。
 手に張り付く気色悪い感触。だが、白服を着込んだセージは顔色一つ変えない。慎重に穴の奥へとどんどん下っていけば、地下に到達した。魚市場と死体置き場とトイレを融合させたらこうなるであろう 臭いが溜まっていた。鼻が曲がる。
 穴の中心ではルィナが作業の真っ最中であった。木製の祭壇。人ひとり横たわるスペース。両サイドには篝火が焚かれており、果物や花などの供え物が設置されている。

  (ヤバイヤバイヤバイヤバイなんとかしなきゃマズイマズイ殺される食われるなんとかしなきゃヤバイどうするどうする!)

 セージはパニックに陥っていた。寝たら最後、化け物に食われる。精神を集中させて体を止めんとする。成功した。セージの足がその場に釘付けとなる。成功率が上がっている証拠。時間をかければ肉体を奪還するのも夢じゃない。悲しいことに時間は手のひらから零れてしまったのだが。
 ピタリと静止して動かないセージを不審に思ったか、作業中のルィナが面を上げて問うた。

 「どうかしましたか。準備はじきに整いますよ」
 「………あ、なんでもありません。最近、ぼんやりすることが多くて」
 「そうですか。疲れがたまっているのでしょう。これから神の寵愛を受けるというのに由々しい事態ですが、延期しましょうか」
 (しまった、制御が……)

 誤魔化そうとしたセージだったが、制御が離れてしまった。肉体が勝手に首を振って涙ながらに懇願する。
 頼むからやめれと懇願したいのはこっちだ。セージは思った。

 「嫌です! 一日も早く神と共に参りたいのです……!」
 「ああ、セージ………」

 二人は見つめ合い手を結んだ。二人だけの世界の突入している。
 だがセージは、ルィナの肩越しに神の姿をじっと見ていた。
 頭を眼球に置き換えた蛇が全体像と勘違いしていたが、違った。本体は人間の体をしていた。痩せ細った人間の肉体が倒れておりその胸に薄汚れた銀の剣が垂直に刺さっている。頭があるべき個所から太い触手が一本と無数の細い触手が群がるように生えている。

 (なるほど、あの全裸が本体ってわけ。こんなん本に載ってなかったぞ)

 本では眼球の親玉のような気色悪い生物が本体だと描かれていたが、実際には人間の体だった。剣も刺さっていなかった。ゲームなどでは封印の剣だよなと思い出す。ひょっとしてもとは人間だったのではと想像するも、今はどうでもよいこと。
 脱出の手段を探さない限り命はない。

 「それではセージ。儀式を始めましょう。私は村の皆を呼んでまいります。ここに横になりお待ちなさい」
 「はい、わかりました」

 ルィナが肩に手を置き頷く。セージの体は勝手に祭壇に横になった。止められない。手を胸元で組んで天井を仰ぐ姿勢。化け物が身を捩じらせる音が鼓膜に届く。視線を感じる。例の巨大な眼球でじっと見つめてきているようだ。

 (おいおい、いくらなんでも……)

 セージは困惑した。心臓が早鐘を打ち、興奮し始めるのを読み取ったからだ。
 興奮しているのはセージの洗脳されている心である。信じられないことにもう一つの心は興奮していた。性的に。何をされるのだろう。どれだけ可愛がってくれるのだろう。という気持ちもあれば、これから神に触れることができる喜びもある。いずれにしてもセージにとって嫌悪の二文字である。他人が妄想に耽るのは構わない。だが自分がとなれば、自己嫌悪の対象だ。
 ルィナが梯子を登っていく。はずが、上から梯子を滑り降りてきた何者かに潰された。

 「あなたは!?」
 「ちょっと眠ってな!」

 アシュレイだった。彼女はルィナに馬乗りになると固めた拳で顔面を殴り付け止めに鳩尾に肘を叩き込んだ。ルィナが奇妙なうめき声をあげて動かなくなる。
 セージの体が祭壇から飛び起きた。倒れたルィナを見遣り憤慨する。敵だ。神の意に背く敵が入ってきたのだ。ならばどうする。神が見ている前でみっともない真似はできない。
 ただしセージの心はそうは思わず小躍りしたい気分だった。

 (いいぞもっとやれ!)

 アシュレイはスコップではなく長い棒を背負っていた。それをゆっくり構えれば威嚇するかのごとく一回転させる。空気を乱す風切り音が穴に反響した。
 セージは怒髪天と言わんばかりに顔を引き攣らせていた。祭壇から降りるとゆっくりアシュレイに近寄っていく。
 両者の距離はほぼ無い。アシュレイの棒が届くか届かないかという距離である。

 「やっと入れたよ。教会だなんだと言って怪しい奴は絶対に入れないもんだから手間取った。鍵を見つけたのが切っ掛けだけどさ、とりあえずどきなよ。私はアンタの後ろにいる怪物を退治しなきゃいけない」
 「ふふ、アシュレイさん。よくも神聖なる領域を穢しましたね。あなたは贖罪しなくてはいけませんわ」

 セージの肉体に殺意が宿る。こいつやる気か。セージは止めようと精神を集中するも制御が効かない。もし戦いになればアシュレイを殺してしまうかもしれない。縁もゆかりもない人を殺すのは避けたい。
 アシュレイが素っ頓狂な声をあげた。手が怒りでわなわなと震えている。棒を地に突き立て、指さす。セージを。後ろにいる神を。
 一方、神は静観していた。

 「神聖な? 冗談じゃないよ。村の皆を操り人形同然にして! ルィナが魅入られたのが発端と言えばそれまでだけど、元凶があるからいけないんだ!」
 「神の愛を知ったのです。今からあなたにも教えてあげましょう」
 「さぁてどうかしらね! セージだっけ。本心からそう思ってないんじゃない? 私にはわかるのよ」
 (………え、わかるの? ほんとに?)

 口を挟もうにも挟めなかったセージは、アシュレイに話しかけられたように感じ、驚嘆した。アシュレイはセージの心が完全には操られていないことを知っているようなのだ。
 ―――チャンス到来! セージはいつでも肉体の制御を乱せるように意識を集中させた。
 セージの肉体はため息を吐くと両手を肩の高さに広げて見せた。魂と肉体の結合する力が強制的に引きはがされてイメージの元に凝結すれば形態変化する。トリガー、もしくはイメージの基礎を作るともいう言葉が紡がれた。

 「〝神の流星〟」

 両掌から生まれた十ほどの赤い火の玉がセージの周囲を衛星のように周回する。まるで墓場の人魂のように。セージがかつて試して失敗した魔術だった。もしかすると魔術の才能を司る部分が洗脳を受けたのかもしれない。
 火の玉を前にしてもアシュレイは怯えるどころか肉食獣染みた好戦的な表情を浮かべ棒を槍のように握った。片側を斜め下、片側を斜め上へ。肢体に力を張り巡らせた低い構え。深く吸い込み、ゆっくり吐き出す。戦意という感情がオーラとなって見えるようだ。

 (手馴れてる? アシュレイとかって人、何者なんだ……)

 明らかに農民ではない素振りにセージは驚きを隠せずにいた。
 セージとアシュレイの距離はほとんど至近距離と言える。棒が先か、魔術が先か。
 刹那、セージが戦いに適しているとはいいがたい白い服をはためかせバックステップ。片手を掲げた。

 「行きなさい!」

 神の流星の名の通り、火の玉が矢の如き速度にて空間を飛翔すると、赤い残像を引きながら距離をゼロとし―――硬質な棒に打ち払われた。
 アシュレイは棒の先端を足で蹴り、勢いを利用して顔面を狙いに来た玉をくじくと、両手で保持、右左と打撃を繰り出し複数の玉を火の粉に分解してやり、バトンのように高速で回転することで面を構築すれば残りを防いだ。
 火の玉を受けた棒に焦げ目はない。
 アシュレイの意外な反撃にセージが戸惑いを見せた。まさか農民が、という油断があったのだろう。
 瞬間的にアシュレイが風となる。棒を右手に持ち、体勢を低くして肉迫すれば、棒で突く―――。

 「かかりましたね。〝憤怒〟!」

 セージの言霊が発せられるや、衝撃波となった。セージという肉体を中心とした爆発が生じてアシュレイの体を打つ。セージの口角がにやりと歪む。勝った。まさか爆発には耐えられまいという慢心である。

 「くふふふッ! 残念だけど!」

 だが物語はそう上手くいかない。爆発範囲を完全に見切ったうえで踏みとどまったアシュレイが、術後の隙を狙い肉迫に成功した。棒を突くとフェイントを仕掛け相手の防御を誘い、足を払った。セージの体勢が崩れ転倒する。棒が、セージの顔面目掛け、ある程度力を緩めた状態で落ちる。
 棒を、ぼんやりとした塊が受け止めた。

 「く、うう」
 「やるね! けどいつまで耐えられるか、見せてもらおうじゃないか!」

 セージが咄嗟にろくすっぽイメージも練らないままで火炎の剣を構築。棒を受け止めるも、数秒も持たず亀裂が生じる。右腕一本で受け止めるにはあまりも力不足。そこで左腕も使おうとした。筋肉に限界が近いのか引きつけを起こしているがごとく震えている。
 が、セージの表情が凍りつく。左腕が言うことを効かず、あまつさえ己の頭に指を向けているのだから。その手には魔力。
 ――干渉できるのは数秒もない。魔術も一回限りしか使えない。洗脳を解くにはどうすればいい。セージは書物にあった情報を元に仮説を立てていた。赤い光は苦痛を与えることで洗脳する。ならば苦痛を伴った刺激ならば一時的にでも麻痺させられるかもしれないと。
 セージの顔がしてやったりと喜びに変わる。

 「この時を待ってたぜ、俺」

 次の瞬間、セージの手のひらで小規模な爆発が誕生。頭を地面へ叩きつけた。
 暗転。












~~~~
久しぶりに書くと楽しいですねぇファンタジー系



[19099] 八十一話 あの心臓を狙え
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/23 00:24
LXXXI、




 ここは教会の本堂。赤毛の女性とブロンドの女の子がいる。赤毛は何やら武器を弄っており、ブロンド髪はぐったりと床に倒れて動かない。
 ぴくん、と女の子の耳が反応した。人間というものは基本的に耳は動かない。だが女の子はエルフだった。指輪で偽装しているといっても耳が動くというのは反映される。幸い、女性は気が付かず、道具を弄り続けた。粗末な布に包まれた怪しげなものが横に置かれている。
 鉄の風味がした。
 万力で封じられているかのように重い瞼を持ち上げれば、赤い髪の毛が映った。同時に感動した。自分の意思で瞼を操れたのだから。息を吐き、吸い込む。味のない酸素が肺を満たす。頭痛の他に後頭部が痛かった。起き上がるついでに触れてみる。タンコブ。
魔術の爆発で己の頭を殴打した。勢い余って後頭部を地面に強打して意識を失った、というのが経緯である。
 うめき声を漏らしつつ、上半身を起こす。

 「うーん……」
 「起きた? さっそくで悪いけど化け物退治に参加しなさいね。拒否権はない。はいこれ武器」

 道具を弄っていたアシュレイは、セージが目を覚ますや否や手に道具を押し付けた。
 酒瓶の蓋から僅かに飛び出た布きれ。火炎瓶。作りが単純なこの武器、リアルでもファンタジー世界でも大活躍である。武器を渡されたセージは沈黙して、やがて返却した。
 頭を優しく撫でて自分を労わりつつ、秘密の部屋がある方を一瞥する。

 「要らない。俺には魔術があるからな。というか、さっき魔術見たじゃないか」
 「………あっ、ふーん」

 アシュレイが作業の手を止めてセージの顔を凝視する。
 セージは居心地悪さに視線を逸らした。

 「なんだよ。人の顔じろじろ見て」
 「顔の割に男前な喋り方するじゃない。予想外だわ」
 「顔の割………」

 喜ぶべきか悲しむべきか判断に困ったセージは、一抹の驚きを浮かべているアシュレイが正面に来るように胡坐をかいた。
 アシュレイの周囲には火炎瓶やら剣やら弩やらが散らばっている。手元には象牙のような質感をした棒。セージは理解した。これらはすべて化け物を退治するために準備されたのだと。
 セージが主に使うのは二連クロスボウ、ロングソードである。悲しいことにいずれもアシュレイの武器にはなかった。教会のどこかにしまわれているはずだ。
 そういえば、ルィナはどこに消えたのだろう。
 着替えの場所を探そうと立ち上がりつつ質問する。趣味じゃない上に動きを阻害する白い服は捨てるに限る。

 「ルィナは? あと、化け物について教えてくれよ」
 「家にいるよ。運ぶのは手間だったけどね。目を覚まして暴れると困るから物置に閉じ込めてあるよ。化け物……まぁ、ちょっと長くなるんだけどさ」

 アシュレイはルィナは自宅に帰したと説明するとむっつり眉を吊り上げ腕を組んで化け物について語り始めた。
 時折視線を上に向けて思い出しながら。

 「昔、あいつが人間だった頃。この村にやってきて大暴れしたらしくて。勇者様ご一行……なにものかは知らないよ。とにかくそいつらがやってきて死闘の末にあいつを封じた。それで、現代。好奇心旺盛なルィナが穴の中に入った。んで芋づる式に村中が洗脳された」
 「なるほど。細かいことはわかった。とりあえずあいつをぶっ殺せば解決だ。洗脳も解けるんだろ?」
 「話の分かる奴だね。嫌いじゃないよ、ごちゃごちゃ言わない奴って」

 感心した顔で頷くアシュレイをよそにセージは奥の部屋に引っ込むと家探しをした。タンスや箱をひっくり返し荷物を探す。ほどなくして見つかった己の装備を手早く身に着けると本堂へと戻った。
 やはりしっくりくる。いつもの服と、二連クロスボウ、ロングソード。そして長年の付き合いになるナイフ。
 本堂の中央、像の前では、棒を背中に背負い、ナイフや火炎瓶を腰にぶら下げたアシュレイが待っていた。セージは、どうやら棒はありあわせの武器などではないらしいと悟った。火をものともしない頑丈な一繋ぎの骨。ドラゴンの骨だろうか。
 アシュレイを先頭に秘密の部屋へと入る。観音開きは閉ざされておらず穴を晒していた。

 「そうそう、これを渡しておくから」

 アシュレイが布に包まれたそれを慎重に手渡す。そして自らも片手に装備した。
 布を解いてみれば自分の顔。ではなくて、鏡の張られた小盾が姿を現した。手に取って確かめる。ありふれた盾に鏡を張り付けただけの一品。特殊な魔術的強化も、優れた素材も使ってはいないよう。けれど、ピンと来た。
 魔術と剣術体術にかまけて勉強をしてこなかった自覚のあるセージとて理解できる。というより、知っていた。メドゥーサに関する神話である。
 鏡を頭の前に翳すように構えてみせる。

 「こいつで赤い光を跳ね返そうっていうのか」
 「正解。なんだ、ただの単純じゃなかったのかい」
 「怒るぞ」

 そして二人は、地獄の窯へと再び足を踏み入れたのである。
 地下。腐敗臭が蔓延する穴の底。神もとい化け物が封印されている場所。人がやってきたのを感知したか、触手が慌ただしく脈動して、眼球の付いた太い触手が周囲を警戒し始めた。不思議なことに二人の位置を把握できていないようである。祭壇に二つ、壁にも松明がいくつか。真っ暗闇というわけではない。
 アシュレイがセージに耳打ちした。顔を近寄せて耳と唇が触れんばかりの間隔で。

 「こいつ、目が悪いみたいなのよね。だから作戦は………盾!」
 「目の癖に目が悪い……ちっ!」

 次の瞬間、眼球の光彩が縮小するや、二人に向かって赤い光が投射された。一瞬激痛が走り意識が遠のくもすぐに引き潮となった。二人はほぼ同時に盾を構えていた。鏡にぶつかった光が反射して眼球へと戻る。名状し難い絶叫をあげて眼球付きの触手がのたうち回る。
 隙を縫い、アシュレイが腰の火炎瓶の首を指に挟むとスナップを利かせ投擲した。着弾、着火。太いもの、細いもの、無数の触手が暴れ、祭壇が壊される。
 ―――あれ?
 セージは内心で首をひねっていた。化け物という割に弱いぞと。火炎瓶を受けて悲鳴を上げて暴れる様は恐ろしくもあったが、腰を抜かすほどではない。
 拍子抜けしたのはアシュレイも同じようで、火炎瓶を左手に、棒を右に構えながらも、動こうとしなかった。なぜなら攻撃がないからだ。赤い光線の他に攻撃的な器官がないらしい。触手も粘っこいだけで硬さもないようである。

 「先手必勝!」

 面倒が嫌いなセージは、二連クロスボウを牽制に放つと腰に差し、顔を盾で隠したまま右手にロングソードを握って駆け出した。
 よくもやってくれたな。洗脳されて風呂食事睡眠も自分の意思でやれなかった数日間の鬱憤を晴らすのだ。
 アシュレイは攻撃も援護もせず静観していた。

 「〝火炎剣〟……っ!」

 エンチャント。ロングソードに手から生じた火の渦が巻きつく。
 ロングソードを松明のように切っ先を上にして構えながら、横から殴りつけるように絡み付いてくる触手の群れを跳躍でやり過ごし、ネズミ大の太さの群れが胴体を捕縛しようとするのを一息で薙ぎ払う。高温に熱せられた鉄が触手の水分を一瞬で消滅させて肉を燃やす。続く蛇並の太さの触手を柄で殴って逸らし、刃を突き立てる。触手に白熱した剣が埋まる。

 「おらあああ、よくもやってくれたなあ!」

 柄を持ち、相手に接近しながら触手を魚よろしく捌く。本体との距離、至近距離。刃を抜き、本体に馬乗りになる。男性にあって然るべきモノを認めた。男性か。
 だが関係ないとばかりに盾を投げ捨て、ロングソードを両手で握れば、刺す! 刺す! 刺す!
 まさに滅多刺し。猟奇さえ感じる短い間隔で刺しては抜き刺しては抜き。セージのあまりの動きの速さに眼球付きの触手は追尾に間に合わず右往左往していたが、セージの背後を取った。

 「そうはいかない。化け物め」

 だが、その眼球が光を放つことはなかった。白目黒目を棒が串刺しにする。アシュレイが槍のように投擲したのだ。
 攻撃手段を失った化け物はセージを本体から引きはがそうと全身に絡み付いた。一本一本は非力だが複数集まれば強力となる。セージの体は空中に拘束されてしまった。
 臭いも強烈な上にぬるぬるな触手が全身に纏わりついていて不快にならない訳がない。
 セージは触手を素手で千切りながら、別の魔術を準備する。かつて練習してついぞ完成しなかった魔術のイメージを構築すると、唱えた。

 「やめろ! この……! 〝憤怒〟!」

 その魔術は、洗脳されていた自分が行使した術だった。
 セージを中心とした爆発が膨れ上がる。衝撃波の伝達により触手は身を粉にされ内臓色のジュースとなりて床に飛び散った。爆心地のセージに汚れはない。炸裂時の飛沫さえ衝撃が外側へ追いやってしまったのだから。
 地面に降り立ったセージは、触手の空白を縫って再び駆けた。
 見れば、化け物の本体につけたはずの刺し傷が再生し始めているではないか。穿たれた穴が時間を巻き戻すかのように埋まっていく。

 「だったらこうすればいいんだろ!」

 本体を守ろうと立ちふさがる触手を猫のような身のこなしですり抜けて転がり込むと、それを掴んだ。化け物の体液やらで汚れた古い銀の剣。それを抜き、本体のどこかを狙う。
 おそらく、剣は封印するために刺されていた。刺されていた場所は胸の中心。鎖骨寄り。
 ―――じゃあ心臓に刺したらどうなる? 狙いを定める。心臓がある座標へ。

 「覚悟!」

 銀の先端が肉を裂き心臓を貫いた。
 静寂が穴を支配する。心臓に突き刺さった銀の剣が淡い光を放っていた。光は徐々に化け物の肉体へと浸透していくと血管や皮膚を伝わって全身を覆い尽くし触手をも侵食し始めた。化け物が雄たけびをあげる。否、本体の頭があるべき個所から、聞くに堪えない憤怒が大気を穢しているのだ。
 セージは柄を握り、深く押し込んだ。それが止めになったか化け物の肉体が崩れ始めた。サラサラと砂とも灰ともつかぬ物体に還元していく。十秒と掛からず化け物は消滅した。
 場に存在していた重圧が羽のように軽くなる。
 柔らかな光を宿した銀の剣を目の高さまで掲げる。そして、見ることを止めだらりとおろしてアシュレイの方へ向いた。ぼそりと感想を漏らす。

 「あっけなかったな………」
 「私も予想外だったよ。光線さえ防げるなら大したことないなんて」

 とにかく。勝ったのだ。

 その後、アシュレイは身分を明かした。とある傭兵団を逃亡した身分であること。村に住みついたこと。実は化け物にセージを食わせて目撃者をゼロにしてから自分で始末するつもりだったこと。途中で気が変わったこと。
 すべてを謝罪した彼女は装備と食料を調達してくれた。
 最後に、彼女はセージに柄も模様もない銅の硬貨を渡した。

 「もし傭兵に用があるならこの硬貨を見せな。腑抜けた私には必要のないもんさ。あんたの役に立てるか知らないけど」

 見送るときに、こう付け加えて。

 「くれぐれも内密に頼むよ。逃亡先が漏れると殺しにくるから。私は農民なんだからドンパチはお断りよ」
 「約束する。じゃあ。もう会うこともないと思うけど」

 そうしてセージは村を去ったのだった。
 土産に銀の剣を携えて。








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[19099] 八十二話 再会前のトラブル
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/25 20:47
LXXXII、



 村を出て、山を越え、旅を続けたセージは、首なし騎士やら熊やら化け物の苦労がなんだったのかというスムースさで進んでいった。街道を進むこともあった。賊の出現を警戒して夕方夜間の暗闇に紛れて歩くことも。この世界に来てから歩いて歩いて歩きまくってきたセージは常人以上に歩くことに慣れており朝から夜まで歩くこともできるようになっていた。
 そして、ある日の夕方に、合流地点まで到達することができたのである。
 小高い丘の上にキャンプがある。連合軍を意味する印が誇らしげにはためいている。いや、本当にそうなのか? 罠ではないのか。合流地点が戦場になっていたという、事前情報との齟齬にセージは戸惑いを隠せなかった。
 革の鎧もあれば鉄の鎧もある。人、馬、生けるものはない。死体だけだ。
 槍が大地を埋め尽くしている。ある槍は馬の顔面から胴体へ。ある槍は一人の男の胴体をしっちゃかめっちゃかにしていた。
 剣が墓標のように散らばっていた。ある剣は折れて復元せず打ち捨てられている。ある剣は首の半ばまで埋まっている。
 腐臭。戦場跡を満たす不快な臭いに鼻がおかしくなりそうだった。
 セージは比較的綺麗な一体を見分した。傷を負っているせいか腐敗が進行している。肌の色は黄銅色を通り越して青白い茶色の域である。目は落ち窪み口から得体のしれない液体が地面へと伝っている。これでは死亡時期を知ることはできない。病死した死体などなら、ある程度推測できるのだが。
 ともあれ、長居して愉快な気持ちにさせる環境ではなく、不快になるだけだ。
 セージはテントが張ってあるキャンプへと近寄って行った。
 キャンプにはためく連合軍の旗。そして、連合軍のエンブレムが刻まれた武器。ここに至ってようやくセージは安心を確信した。
 護衛の兵士を認め、駆け寄っていく。擬装用の指輪をはずしてポケットへ。魔術による隠ぺいが解除されて耳が露わになった。手を振りつつ駆ける。キャンプに顔見知りがいるに違いない。胸が高鳴った。

 「おーい! エルフだよエルフー! 連絡いってると思うけど、セージってもんなんだけどー!」
 「そこで止まれ!」
 「へっ………。止まったけど、なに、身体検査かなにか? 変なとこ触るなよな」
 「違う。貴様に要件がある」

 キャンプを取り囲むようにして護衛の任務にあたっていた男たちが、セージを見るや槍を向けた。ある兵士は手に魔力をたぎらせ、ある兵士は拘束用らしき縄を持って、セージを包囲する。
 ただならぬ雰囲気にセージは両手をあげて敵意がないことを示した。兵士たちの中でリーダー格らしい屈強な男は何やら紙切れとセージの顔を見比べると、合図した。
 慌てたセージは後ずさろうとするも、後ろにも兵士がおり、逃げ場がなかった。

 「ちょ、待って! 捕まる理由が……!?」

 訳が分からず首を振って弁解しようとするも、顔の前に突き出された槍の迫力に押し黙らずにいられない。兵士たちの顔は皆無表情だ。もし魔術を使う素振りを見せようものなら即座に槍で肉体を刺し貫かれるだろう。イメージ構築に二秒として発音から作動まで三秒と見積もっても一秒目に心臓が槍で潰される。
 抵抗がないとみるや兵士がセージの腕を強引に後ろにやろうとする。
 痛い。

 「いてっ………わかったから、無理にやんな! ……ほら。結べよ」

 抵抗すればかえって怪しまれる。セージは腕を折らんばかりの乱暴さで腕を縛ろうとする兵士に吼えると、自ら腕を後ろで組んで見せた。
 リーダー格の男はセージに詰め寄ると、手配書らしきものを突き出した。セージの人相書きと容疑と指示が連なっている。

 「セージと言ったな。お前にはスパイ及び裏切り容疑がかかっている。拘束後連行することになっている」
 「スパイぃ?」

 声が裏返った。




 キャンプから運ばれたセージは腕を縛られ胴体も簀巻きとされ、目隠しと猿轡を施されたのち、馬車へと放り込まれた。酷い扱いは慣れたものだが不意打ちにもほどがある。
 スパイ、裏切り容疑。エルフは一枚岩のような印象を受けるものの、必ずしもそうではない。長老の円卓会議に参加すればわかるとおり、里には里の、個人には個人の意見があるのだ。それはエルフにしても人間にしても普遍的な事実である。だからエルフの裏切者がいても不思議などない。
 ―――だけどよりによって俺かよ。
 連合国側に属する小さな城の牢屋に服一枚で放り込まれたセージはむくれていた。魔術を阻害する術式が組まれた簡素な牢屋は薄暗く蜘蛛やネズミが徘徊する場所であり、異様に湿気が高いことも重なって、気分は最悪だった。

 「食事だぞエルフ」
 「ありがとさん。いただきまーす」

 のんびりと歩いてきた看守が牢屋備え付けの食事を入れる箱にパンとスープの入った容器を入れ、中に押し込んだ。粗末な食事だが栄養は満点だ。手に取ってぱくつく。焼きたてのパンをちぎって咀嚼するとスープ皿に直に口をつけて流し込む。程よい塩気と野菜のうまみが凝縮されていておいしい。
 看守はやることがないのかセージの食事を観察していた。
 セージは、食事をじろじろと見られて多少気恥ずかしさがあったが、看守の人間性を知っていたので追い払わなかった。
 看守がしゃがみ込むと顎髭を弄りつつ呟く。

 「にしても大変な目にあってるなぁ。スパイ容疑だって」
 「そうそう。どう、おっさん。俺はスパイとか裏切りものに見える?」

 試しに質問をぶつけて見せた。食事の手を止めて、肩のあたりでひらりと手を広げ、体をアピールする仕草。
 看守である男は唸ると首を振る。

 「俺には、手違いで連れてこられたみたいにしか見えないぜ。スパイにしろ裏切者にしろ手違い人違い勘違いが九割と相場は決まってるわけだし、エルフのお嬢ちゃんも、そうなんじゃないか」

 この看守、辺境の城にいるせいかやけにのんびりとしたお人よしであり、話をしてみると、犯罪者が収監されること自体ほとんどないため、暇していたそうである。
 犯罪者ならしめたものだとほくそ笑むだろうが、善良なものは好感を抱くだけだ。
 最後の人参のような野菜を口に放り込んだセージは、皿を箱に入れて外に押しやった。
 看守が去ると、途端に暇になる。容疑がかかっているだけなので、強制労働やら拷問やらはされない。少なくとも、尋問官やらが来るまで、やることがなかった。暴れると立場が悪くなるのは目に見えている。社会から外れた盗賊か何かなら脱出を計画しただろうが、今のセージはエルフという社会の一員なのだ、不用意なことはできない。
 ということで、筋トレをすることにした。セージの本職は前衛である。筋肉がなくては戦うことなどできない。
 まずは硬い床の上で両足を広げて体を倒す。日課のストレッチ。体を横にねじる。左右澄ませば、ようやく筋トレだ。

 「1、2、3、4……」

 腕立て伏せ。ほかに囚人がいないことが分かっているので数を声に出しながら。
 ほんのり汗をかいてきたところで腹筋。牢屋の鉄格子に足をかけ下半身を固定して、始める。首に腱が浮く。歯の隙間から漏れる吐息が微かに高音を伴った。布服の裾から小さなお臍が覗く。
 筋トレに集中しすぎたのか、セージは地下牢へ人が入ってくることを察知できず、接近を許した。

 「セージ! 大丈夫です……………か?」
 「………んー?」

 悲壮感を滲ませ息を切らしたルエが牢屋の前までかけてくると、セージが夢中で筋トレをしているのを見て、固まる。
 ルエは、きっとセージはあらぬ疑いをかけられてさぞ怖がっているだろうと駆けつけたのである。ところが会ってみれば呑気に筋トレしているではないか。拍子抜けしてしまったのだ。
 セージはルエの鳩がまめ鉄砲食らったような顔を見ると吹き出した。運動で呼吸が乱れていたのに吹き出して苦しい。埃っぽい床に転げて顔を覆う。

 「くっくっくっくく………っ。んふふふ、変な顔しやがってよーっ。……ぐへっ、ごほっ!? ほごりが……!」
 「……大丈夫ですか?」
 「大丈夫! だいじょーぶ!」

 埃を盛大に吸い込んで咽る、セージ。ルエが鉄格子にしがみつくようにして顔を近づけた。あきれ顔。
 ひょっとして。セージの脳裏にあることが過る。尋問官とやらはルエなのだろうか。すぐに考えを打ち消す。顔見知りに尋問させる無能はいない。となれば答えは一つしかないではないか。
 セージは床でごろごろと転げてから、やっと体勢を起こすと、格子を挟んでルエと顔を合わせる位置に寄った。

 「ふぅ苦しかった。解放のお知らせでも持ってきてくれたわけ? 岩と鉄格子も見飽きたんだけど」
 「はい。解放ですよ。実は、エルフ族の中に裏切者がいたようで、巻き込まれたようです。怪しいものたちは片っ端から捕縛されました」

 合点した。セージはずいと顔を鉄格子にはめ込むようにすると、声を潜める。

 「裏切者は見つかったのか」
 「はい。近く、罰が執行されるそうです。どのような罰かは秘密とされていますが……」
 「よかった。じゃあ、俺の容疑は晴れたということ」
 「長老たちによる指示があったそうです。彼女はスパイでも裏切りものでもない、と」
 「か、彼女………。うーん。まぁ、いいや。ルエの兄貴も噛んでるんだろうな、今度会ったらお礼を言わなくちゃ」
 「兄も喜ぶと思います」

 長老たち。感謝してもしきれない。最初の里で出会ったジェリコ。渓谷の里のルーク。巨老人。ヴィーシカ。おそらく、彼ら彼女らがセージの潔白のために政治という縄を操ったのだろう。今度会ったらお礼を述べようと心に誓う。
 潔白ならば、埃塗れの牢屋で筋トレする必要もない。セージは手でメガホンを作ると、入口の方にいるであろう看守に声を張り上げた。

 「看守のおっさーん! 鍵!」
 「ほいほい、叫ばなくても聞こえてる」

 待ってましたとばかりに看守が柱の陰からぬっと姿を見せると、頑丈な鍵を外した。警戒しているそぶりはない。ルエが看守と話し始めたのをしり目に悠々と牢屋の扉を背後にする。
 伸びを一つ。成長段階の胸と、すらりと締まった腰回りが僅かに伸長した。
 心なし空気もおいしい。

 「荷物は外で渡すからな」
 「はいよー。おっさん後でな」

 看守はセージに手を振って別れを告げると入口の方へと歩いて行った。
 セージは存分に伸びを楽しむとルエの方へ向き直って両手を広げて見せた。

 「ほらほら。久しぶりの再会だから抱き合おうぜ。ぎゅっと」

 ほとんど冗談に近い誘いである。セージの口元は緩んでいたし、手の開きに真面目さはない。埃と汗で汚れているのだから、汚くて抱き合えないとも考えていた。
 だがそれは、セージの考えである。冗談が通じないことはよくあること。ルエは僅かに瞳を潤ませて、セージを腕の中に抱きとめたのであった。男性特有の硬く凝縮された胸板の厚みがセージの体を包み込む。
 セージは困惑の度が超えて石像と化した。顔面に血液が集中する。
 ルエが、声を震わせて、至近距離にいる人へと言葉をかける。

 「逢いたかったです……とても心配したんですよ。もし、怪我でもしていたら、とか……。もし、死んでいたら、とか……。心配で心配で……胸が張り裂けそうでした」
 「え、おまえ、………。うぅ……ほんっと隠すのが下手というか……」
 「はい?」

 ルエが、セージの髪の毛を優しく撫でた。埃やゴミを手櫛で綺麗にする。
 こそばくて頭を振ると、すぐにやめてしまった。

 「なんでもない。ルエは……」

 言葉を切る。隠すことをやめたのか、と。
 セージは、ルエを前に、再認識した。いずれ答えを求められるだろう。答えを濁すことはできない。
 きつく抱かれて動けない。悪い気分はしなかったが、離れなくては、という心情がこみ上げてくる。
やんわり、それとなく、自然な風を装い、腕で己と相手の距離を作ると、出入り口の方へつま先を向ける。ルエが名残惜しそうに離れた。目線はセージの汚れた頬を追っていた。
 セージが腕のにおいをかいだ。汗のにおい。水浴びしなくては。何はともあれ、牢獄を出よう。出入り口を親指で示し、歩き始める。すぐ後をルエが続いた。

 「行こうぜ。牢獄で食っちゃね生活は二度とごめんだ」
 「そうですね」

 そして二人は横に並んで部屋を後にした。



[19099] 八十三話 終結
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/01/29 01:06
LXXXIII、



 曰く、戦争は大量の犠牲者を出したことで決着したらしい。
 王国、連合国、北の国家たち、三者による血みどろの戦い。合流視点に指定した平原で三者はあいまみえた。陽動作戦で崩れた前線を更に押し進め王国内部へと進行しようとする連合国と阻止せんとする王国軍。漁夫の利を狙う北の国家。まず連合国軍と王国が数万規模で激突。途中、北の騎兵たちも衝突。王国は例のダークエルフを実戦に投入。そればかりか太古に滅んだという化け物を投入して戦線を蹂躙した。かに見えた。ダークエルフを含む化け物は制御を失い無差別に攻撃を開始した。戦いが終わったとき、三者の力は大幅にそがれていた。もともと戦力を失いすぎて求心力を消耗していた王国は土地を治める領主らの離反で瓦解。王もろとも処刑された。もともと放牧民族であった北の国家たちも被害の大きさに手を引いた。戦争は決定的な勝利もなく終わってしまった。
 この世界にやってきて早々危害を加えてきた王国に復讐を果たしたとはいい難かったが、それでも勝ったのだ。一応は。
 こほんという咳。

 「というわけなのだよ」
 「そうですか」

 セージはルエに連れられて連合軍の基地にやってくると久しい人物と再会した。戦争の情勢を井戸に落ちたせいで知らなかったセージのために彼が説明してくれた。彼とは、相も変わらず不健康そうなロウのことである。彼は優秀な魔術師故にあっちこっちの国へ技術支援の名目で引っ張りだこ状態だったらしく今にも死にそうな顔をしていた。
 残念なことにヴィヴィやヴィーシカなどは別の場所に行ってしまっているそうである。特に長老は条約締結に欠かせない取引があるそうで、セージのような一兵卒に付き合っている時間がないらしい。
セージは、表面上普通を装っていたが、王国が倒れたと聞いて小躍りしたい気分だった。元の世界に帰るための手がかりを探しに行くチャンスだ。体が子供のころに行ってはならぬと止められたが、体を鍛え武術を磨いてきた今なら許可が下りるであろうことが予測できた。
 ロウは、セージの瞳に光が宿るのを見逃さなかった。人間やエルフよりもペンと羊皮紙を相手にする時間の方が長かった彼でもセージの変化に気づくというものだ。

 「そおら。例の調査結果だ」
 「まだ覚えていてくれたんですね。ありがとうございます」
 「例には及ばん。どこぞの女の相手をするより容易いことさ」

 羊皮紙の山に手を突っ込むと一冊の本を取り出し、セージに投げてよこす。表題の無い無地の本である。
 セージは、何が書いてあるのだろうとルエがじっと見つめているのを視界の隅で認識した。内容を検めるのは別の機会が入用だ。小脇に抱えると後生大切そうに腕で包む。
 ロウは、ルエきょとんとした顔を観察すると、机に座りなおして小声をぼやいた。

 「………ふーむ、そういうことか。その様子だとルエは何も聞かされていないようだな。既に知ってるかと思ったんだが」
 「師よ。何の話なんでしょう、僕はまったく知らないんですが。調査……?」
 「俺がとやかく言うことじゃない。聞くなら、そこの……女の子にでも聞くといい。俺は仕事があるからそろそろお別れだ」

 少女という単語にイントネーションを乗せて、部屋を出るように指示する。二人が部屋を出たところで入れ違いになるように一人のセクシーな女性が入室していった。二人には見覚えがあった。ロウからあの女扱いを受けていた人だった。
 ロウの部屋を出た二人は基地の中庭へと出る。兵士たちが組み手をしたり矢の練習をする傍らで日向ぼっこ。戦争は終わったが残党狩りと治安維持の仕事が残っている。
 太陽に手をかざして寝ころぶ。燦々と降り注ぐ日の光が肉体を温める。
 “女の子”の傍らで座っている青年に落ち着きはなくそわそわとしていた。視線は時折セージの足、そしてすぐ横に置かれている本へ注がれる。ロウが知ってるのに自分が知らないことが本に書かれているとあれば好奇心が押えきれなくなるのも道理である。

 「だめ。見せてあげない」
 「………なぜですか?」

 ルエが手を躊躇いがちに動かした刹那、セージが釘を刺した。目を閉じ昼寝でもするかのようなリラックスした表情にて語る。
 本には別の世界への移動を可能とする技術の記述や遺跡の場所が記されている。ロウのことだから魂を入れ替える技術についても考察して書いてくれたかもしれない。もしルエが本を読めばおぼろげながらでも察してしまうだろう。
 だから、読ませない。言ってあげないし教えない。
 なぜ教えないのかはセージ自分わかっていない。
 ルエは、ふぅとため息を吐くと手を引込めた。目線を落とし、それからゆっくり、こっそりとセージの体を見つめる。寝ころんで両腕を広げているせいか裾がずれてお臍が覗いている。無意識に細い切れ込みのようなお臍に目線が吸い込まれるも、ぐっとこらえて地面に戻す。
 セージは、ウーンと喉を鳴らした。

 「………ごめんな。誰にだって秘密はあるし、親しい仲でも教えられないことくらいある。ルエにはないの? あるだろ。一つや二つ」
 「ありますよ。もちろん」
 「へぇ、どんなどんな」
 「教えられません」
 「けーち」

 秘密をなんとなく察することができたセージは、物思いに耽った。
 ごしごし目を擦り瞳を開ける。霞んだ視界。瞬きを数度して修正すると再び開きなおす。太陽はどの世界でも同じく眩しい。

 「俺さ、この戦争終わったら旅に出ようと考えてたんだ。探すべきものがあって、こうしちゃいられないと焦ってばかりで。巨老人の里にいたころ、長老におまえは若すぎるから無理だとか言われてさ。あれから随分鍛えたんだ。自分の身を自分で守れるくらいはできる」
 「何を探して……?」
 「そりゃあ………誘導すんな。探すもんは探すもん。だから俺は――」

 その時、会話に割り込んでくるものがいた。連合国の鎧を着込んだ平凡な顔の男である。その手には羊皮紙が握られていた。
 セージは上半身を起こした。

 「セージ、ルエ、ですね。ルーク長老より直接の伝言を承っております」
 「兄上………ルーク長老がですか?」
 「うーん?」

 何事かと二人は相手が手紙を読み上げるのを待った。
 男は羊皮紙と二人の顔を見比べると続ける。

 「里に戻ってくるようにとのことです。じきにワイバーンが到着します」




 空の旅は快適だった。尻の痛さと空の寒さに目を瞑ればだが。
 そして二人は、渓谷の里に帰ってきた。渓谷の里は相変わらずひっそりとしていて人気がなかったが秘密の入口から中に足を踏み入れると懐かしい空気が出迎えてくれた。穴を掘って作り上げたという巨大な迷路。セージの顔を知っているものらが声をかけてきた。ルエがルークの弟と知っている者たちも。
 程なくしてセージとルエはルークと面会した。
 銀細工とエキゾチックな眼鏡を身に着けた銀色の麗人。もとい男性。初対面時に感じた女性のような美しさは健在であり、して言うなら疲労の色が見え隠れしていた。
 彼は二人を交互に見比べて手元の資料へ視線を落とすべく眼鏡のつるを指で弄って見せた。

 「おかえり。愛おしい弟、同胞よ。よく働いてくれた。お前たちの働きは聞いているよ」
 「ありがとうございます、長老」

 畏まって頭を下げるルエへ、ルークは手のひらを蝶のように使って諌めた。

 「お硬いのはここまでだ弟よ。よく生きていてくれた。心配でたまらなかった」
 「兄上………」

 ルークが柔和な微笑みを浮かべると、ルエもつられて表情を和らげた。
 一変してセージには真顔に戻った。

 「セージ。………フムン。君の場合心配はしていなかったぞ。死ぬ様子が思い浮かばん」
 「へぇ。それは光栄ですね」

 光栄の部分で声を大きくして皮肉る。
 だがルークには通用しなかったのか口の端を多少持ち上げるだけでスルーされてしまった。ルークは二人の今までの行動を記した羊皮紙に再度目を通すと目だけを上に向けた。知的な眼球が対象を観察する。

 「戦争も終わった。セージ、君はまだすべきことをしようと考えているのか」
 「もちろんです」

 セージが即答した。両手を握りしめ決意に満ちた顔にて。ルークはかつてセージの目的を詮索しないと発言したが、その後、調べていた。親しい者たちへ文を送り言質を取った。すなわち元の世界に戻るために無謀に挑戦していると。
 ルークは二人に退出を命じた。無事を確認するのが目的だったからだ。戦争の後始末はもはや戦いの場に無い。政治の世界だ。分裂して崩壊した王国の残党をいかにして抑え込むのかである。
 事は思惑通り進んでいるように思えた。エルフを迫害する目障りな国は消えた。戦争で里と里の間で人員の接触がなくなることによる近親での結婚問題も無くなった。その問題抜きにしても弟が幸せになるのはいいことだ。
 ルークは二人が去った扉を見つめつつ、別の羊皮紙を取り出した。ルークの用事が済んだのを見計らい部下が何やら報告書を持ってくるのを仕草で待つように指示する。
 羊皮紙には―――。


 セージは宛がわれた部屋にいた。上下ともに軽装である。上はシャツ一枚なラフっぷり。
 ロウから渡された本をベッドの上で熟読中。暇な両足を交互に揺らしながらページをめくる。
 世界をわたる術を持つという少数民族について。経路不明の魔導技術。箱舟の存在。伝承。魂を取り扱う方法の有無。謎の衰退。ブルテイル王国による接収と技術の散失。
 確実な情報へ読み進める。伝承、伝説、噂などを除外した事実のみの項目だ。箱舟の存在は確かに確認できるという結論から始まり、とある山のふもとにあるという扉の奥にしまわれているとあった。確かに技術は奪われたが、表面しか奪えなかったらしい。肝心の中心となる技術は扉の奥にいくら兵力を注ぎ込んでも帰ってくるものがいなかった。表面上の技術こそがダークエルフや戦場に解き放たれた化け物たちだった。だが王国は滅んだ。技術も散ってしまった。上層部やエルフの長老たちはダークエルフや化け物の技術に関心はあるが箱舟はどうでもよいと考えているため手つかずだとか。
 最後に、もし体を取り戻し元の世界帰るならば、山の奥底に挑むことになるという文章が添えられていた。
 本を閉じたセージは、仰向けにひっくり返った。

 「絶対やってやる。まだ、諦めには早い」

 呟きに応える者はなく。



[19099] 八十四話 そのために必要なこと
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/18 03:18
LXXXIV、




 ロウの調べを元に古文献を読み漁ったセージは半ば呆然とする羽目になった。
 曰く、扉の奥は迷宮となっており侵入者を阻む。
 曰く、異形の化け物が徘徊しており侵入者を殺す
 曰く、罠が万と設置しており勇者を食らう。
 伝承ではそうなっている。箱舟という重大な遺産へ近づけまいとする防壁が存在すると。事実、王国が扉の奥に兵士を送ったが誰一人帰還しなかったという。果たして自分ごときが挑んで無事箱舟まで辿り付けるのか。言うならば伝説のドラゴンに立ち向かうようなものである。
 伝説の勇者なり、天使の力を授かるなり、血統なり、契約なり、迷宮を突破するための能力があればよし。
 ――だが、セージはただのエルフである。火炎魔術と剣術と自己流の体術があるだけだ。もしアネットに挑みかかれば惑わされ手刀で意識を狩られ、ルエと戦えば火炎を風に散らされ、ヴィヴィとやり合えば全身を氷漬け、ロウとやろうものなら術を片っ端から消されるだろう。
 これはゲームではない。ゲームオーバーになったらロードすれば元通り。というわけにはいかない。

 「ふー………。うしっ。やるぞ!」

 意識を集中して剣を――もとい鉄の棒を最上段に掲げて構え、足の筋肉に集中する。
 私は松明。私は火の精霊。念じて念じて念じて。イメージを描き出す。
 そして、おもむろに閉じていた瞳を開放すれば、呟く。

 「〝火炎剣〟!」

 刹那、腕から全身から火炎が渦となりて吹き上がれば棒に巻き付き火柱と化した。歯を食いしばって魔力を捻出する。絞り、汲み上げて、火炎へと変換する。微かに頭が痛むも無視して、魔力を出力した。
 轟、と爆発的な勢いで火の柱が成長した。身長の三倍はあろうかという火の塊へ。
 まだだ。セージはイメージをただの火から噴出するガスへと切り替える。火が流動して赤い噴水となるように。次第に魔力の消費量も跳ね上がっていく。精神が悲鳴を上げている。
 火が、集束を始めた。枝分かれしていた火が勢いを失っていき、根本の鉄棒へと集まる。拡大から集合へ。火の色は赤から朱そして白へと変貌する。
 たっぷり数十秒かけて、それができあがった。
 身長の優に数倍はあろうかという巨大な白熱した火の剣が。
 息を吸い、一歩を踏みしめ、大地から己が弾かれること実感する。己が押すとき、相手もまた押す単純な真理。地を蹴り、眼前の目標に照準を定め、安全装置を解除、最上段から下段まで上半身のバネを利用して、叩き落とす。

 「せぇッ、の……おらぁッ!!」

 着弾。
 敵である――藁と木でできた人形は炎上さえ許されず影も残さず蒸発し、剣の切っ先は勢い余って地面へと接触した。

 「うぐっ!? くそっ!」

 地面という硬い物質に触れて形状を維持できなくなった剣が崩壊した。エネルギーの逃げ場がなく炸裂する。白い火が地を焼き、砂を溶かしながら、白い煙でセージの体を打った。
 よろめき、棒を手放す。棒は熱に耐え切れず持っていた箇所から上が焼けつきねじ曲がっていた。

 「は………うぅ……………やり過ぎたかぁ」

 魔術行使の反動で貧血にも似た眩暈が起こる。たまらず、どう、と大地に肢体を投げやると空を仰いだ。
 ここは渓谷の里。里の近辺にある訓練用の広場から。戦争が終わって里を隠蔽しないでもよくなったことから開放された場所である。
 セージは平衡感覚がなくなったことに気が付くと、起き上がるのを諦めた。何度剣を作ったかも定かではない。今日は休むべきだろうか。苦労など露知らずの鳥が上空を横切る。
 これは、扉を潜り迷宮を抜けるための修行である。火炎と強化しか取り柄のないエルフが伝説に挑むための試練の克服である。
 セージは転がっている棒切れを見た。発生する熱量に耐え切れなかったらしい。こと熱量にかけてセージは他者を寄せ付けないが、それだけでは勝てないのが戦いである。もし敵が100の矢を放ってきたら火の剣ではかき消せずに蜂の巣だ。
 大の字で寝ころんでいると、誰かが歩いてくるのが見えた。
 民族服。洒落たブレスレットとネックレスと地味なサークレット。流れるような銀髪を頭の後ろで結ったおっとりとした美人である。
 彼女はセージのすぐそばまで来るとおもむろにしゃがみ込んだ。

 「こんにちは、セージ君」
 「………どなたですか?」
 「さあ?」
 「さあ、って言われても困ります」

 セージは彼女に見覚えがなかった。怪訝な顔で見返す。目立つ銀髪と整った顔立ち。一度見たら忘れない容姿にも関わらず、記憶に合致する人物がいない。一人だけいたが性別が違う。
 すると相手はふっと笑みを浮かべてみせると、懐から珍妙なデザインの眼鏡をかけて見せた。セージの顔が秒を追うごとに間抜けになっていく。目をかっと見開いて、顔を人差し指で示して。

 「嘘? 長老………!?」
 「静かに。感心しないぞ」
 「冗談だろ……」
 「冗談でも嘘でも幻覚でもない」

 彼女もとい彼は柔和に微笑んでみせると、優雅な動作で膝を払って起立した。外見、仕草、声質、どこをとっても女性そのものである。唯一、胸の膨らみがないことが女性を否定する材料かもしれないが、胸の薄い女性などいくらでもいるのだ、決定打にはならない。
 長老が女装して現れるという事態にひょっとして己ははめられているのではという懐疑にとらわれた。
 長老――ルークは唇に指をあててウィンクしてみせた。

 「私くらいの立場になると遊ぶ時間がなくてね。顔を合わせるたびに仕事仕事とうるさい。たまらないから時々こうして変装して抜け出すんだ。ルエに見抜かれるのが欠点だがね」
 「変装というより女装なんですが」
 「似合ってるだろ? うん? ヒトは性別というふるいで判別している節がある。女装すれば気が付くものなどいなくなるのさ」
 「確かに似合ってますけど」

 やっと立つ気力の戻ってきたセージは、よっこいせとオッサン臭い掛け声つきの起立をすると、じろじろ無遠慮にルークを凝視した。どこから見ても女性である。男装しても女性として見られるセージにはうらやましい限りであった。
 ルークは完全に女性特有の軽やかな歩調にて、森の方へ歩き出した。途中振り返り緩く片手を差し出して。

 「ちょっと来るといい」
 「なんですか。お手軽に強くなれるアイテムでもくれるとかですか?」
 「無理。そんなものあったら私が使ってるところだ。お手軽にとは言わないが、土台を作ってくれるものをやろう」
 「土台?」

 それっきりルークは何も言わず木の合間をすり抜けていく。セージは、取るものも取らず走って後をつけた。
 里の前にある小川を遡っていく。ルークは動きにくそうなスカートなのにすいすいと岩を越えていく。重さがなくなってしまったような軽やかさ。一方セージは躓きながら。
 小川を遡ることしばらくして滝が目前に広がった。ごく平凡で見るところもない水の流れの一形態。
 ルークは滝壺へとすいすい歩いて行った。何をするのかと注視していると、彼は呟きながら手を横に動かした。すると滝は、まるでガラスがあるかのようにルークを割けて横へとねじ曲がって落ちる。
 目を凝らすと、滝壺の奥に通路が見えた。滑り易い岩場。バランスを奪われぬよう慎重に歩を進めて、滝の霧を抜けてついていく。
 そこには岩があった。平凡な岩である。ところがルークが何事かを呟き手を翳すと岩が横にどいた。
 奥には、小さな部屋があった。岩を削って作った正方形のシンプルな空間。窓も無く、装飾もない。ただ部屋の中央に無骨な鉄の箱が置いてあった。長さはヒトの身長よりなお長い。
 ルークがネックレスを外し、鍵穴に差し込んだ。それは装飾品などではなかった。カチリと軽い音色がした。そして彼は蓋を開けて一握りの槍を取り出した。

 「ミスリルの穂先。ドラゴンの骨をふんだんに使用した柄。祈りと加護により強化された名品……」

 ぎらりと輝く不思議な色合いをした金属の穂先。まるで濡れているかのような反射。白く、しかし真っ白ではない、どこか生物的な感触を担った柄。各部は美しく装飾されており精霊や大地を賛美する文句が刻まれていた。

 「これは……………凄い! ミスリルにドラゴンの骨?」

 驚きを隠せないセージに、ルークが妖艶な笑みを湛えて槍を押し付けた。

 「君の得物とは違うのは許せ。こいつを君に貸す。貸すだけ。売るのはだめだ」
 「なんで、こいつを俺に」
 「勘違いしてもらっては困る。君のためではなく弟のためだ。感づいてるだろうが弟は君のことを好いている。好ましいというより、生涯をともにしたいという深い感情かもしれない」
 「………知ってます。あいつ隠すの下手糞ですから」

 複雑な表情で答える。既知の事実。

 「答えてやらないのか。それとも別の事情とかかね」
 「口頭で伝えられてませんから。まだ、ね。そのうち伝えてくるかもしれないですけど」

 ルエが己を好いていることなどとうの昔に知っていた。
 ルークは、箱を閉めると、外へ爪先を方向転換した。

 「君はどうしても外の世界へ行きたいんだろう。私には止められない。おそらくほかの里でもね。もし外で死なれたら一番困るのは他の誰でもない。ルエだ。君が死ねば我が愛しい弟は泣くだろう。だから、せめて武器をやる。障害を排除し、行先へ到達するための」
 「長老。ありがとうございます。心から感謝します」

 セージが両足を揃え腰を折った。最敬礼。腰の角度は90度近い。セージは礼儀を知らぬ人間ではない。
 胸の罪悪感がしくしく痛む。外の世界などいかず里で人生を過ごしていくならば誰にも心配はかけないし負担にもならない。元の世界に帰るという願いはしょせん自己満足やわがままの類。自覚があるからこそ頭を下げたのだ。
 ルークは透明な瞳でセージの背中を見ていたが、ひらりとスカートに風を孕ませて外へ歩き出した。

 「礼には及ばない。……ところで」

 そして、足を止める。
 セージはお辞儀を止めると槍を胸に抱くようにした。
 ルークは演技とは思えぬ自然な手つきで顎に人差し指を触れさせて僅かに首をかしげた。

 「すぐに里を出るわけじゃないだろう。時間のある時だが特訓してやろう。君が巨老人の里などに戻りたいと言わなければ、だが」


 ルークは長老。一定の力があるからこそ認められる地位。
 長老直々に特訓してくれるならば大きな一歩前進だ。
 最強の指三本に入るヴィーシカのような強さは望めないとしても、だ。

 ―――だがまさかその特訓が数年にも及ぶとはセージ自身も思いもしなかった。



[19099] 【三章】八十五話 旅立つあなたへ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/18 03:19
 暴風の渦が襲い来る。吹き飛ばすという生易しいものではない。触れただけで破壊される空気という暴力である。それは地面に対し横回転の渦から縦回転へと切り替わると分裂して牙を剥いた。数は八つ。まさに八岐大蛇。
 ではどう対処する。
 竜巻の中心は無風。そうでなくても力とは根本こそ静かなもの。
 イメージを練り、口に出す。

  「〝強化せよ〟」

 地を蹴る。血流が滾る。筋肉が異常な発熱をみせ超常の力を発揮した。筋肉が盛り上がり血管が浮く。
 竜巻が頭をもたげ左右と上と正面を塞ぎ襲撃するそのわずかな隙間へと体をねじ込むと、竜巻に武器をねじ込みあえて上に吹き飛ばされる。だが上にも竜巻が控えていた。
 空中で武器を構えなおすと、呟きながら―――投擲した。
 飛ばされた勢いを利用した空中前転からの投げつけ。目標は己を狙い来る竜巻のど真ん中。

 「〝憤怒〟!」

 魔術が作動せず槍に纏わりつく。着弾。炸裂。不可視の威力が竜巻の半ばから四散させた。槍があらぬ方向に飛ばされる。
 人物は着地して軽やかに前転を決めて衝撃を和らげると、背後から叩きつけてくる竜巻でさえ追尾できない速度で疾走した。筋肉が異常なまでに膨れ上がっているが意に介さず、姿勢を低く、突っ込んでいく。

 「くっ!」

 相手に焦りの色が見えた。術を突破されるとは思ってもみなかったのだろう。
 人物は靴の裏がバカになる脚力を発揮すると地を蹴り猛禽の如く右手を前に突っ込んだ。相手が仰け反って躱そうとするも遅い。別の術で捕縛するにもすべてが遅すぎた。
 首をむんずと掴むと地面に押し倒し馬乗りになる。相手の背中が地面と擦れ合い砂埃をあげた。
 魔術が停止する。風が止み、舞い上がっていた木の葉たちがふわふわと地面へと帰ってきた。
 人物――――セージは、勝ち誇った顔をしてピースサインを突きつけてやった。

 「へん。俺の勝ちだなっ!」
 「負けました。本気で戦ったつもりだったんですが。速すぎて追い付かなかった」
 「ちょっとは格闘もやろうぜ。こう、接近された時に余裕ができる」
 「僕は魔術主力なので……。あと、そのですね。どいていただけると」
 「勝者の特権だよ。征服してやった証拠。んー、ほんと筋肉はついてる癖に、戦いの筋肉じゃないのな。なにこれカッコつけかなにか? カッコつけ筋肉?」
 「くすぐったいです! ちょ、待って!」

 セージは相手の腰のあたりに両足を広げるようにして座ったまま話していた。戦いで高揚しているのか、その座り方の影響に心を割いていない。腰のあたりに座ればどうなるか。わからないはずがないのだが、アドレナリンのせいで考えが及ばない。
 それどころか馬乗り姿勢で相手の筋肉の具合を見始めるものだからたまらない。相手はセージの足を大胆にも掴むと横に退けて立ち上がった。これ以上は理性が飛びそうだったからだ。
 二人して服がボロボロになっているが模擬専用の服なので気にも留めない。
 相手が立ち上がったのを見たセージは、服の埃を払うなどという面倒なことはせず、足を振った反動で立ち上がった。
 そして、面倒なことに気が付いた。愛用の槍がないではないか。

 「なぁルエ。俺の槍知らない?」
 「あっちの方飛んでった気がしますよ」

 指さす方には確かに槍が刺さっていた。さすがミスリル。歪み損傷傷一つなし。地面に対し斜めに刺さっていた。鼻歌を紡ぎつつ歩み寄れば右腕で引き抜き、くるくる弄んでみせると、おもむろに止めた。振り返る。
 そして二人は、里へと帰った。



 ルークのもとでの修行の数年間は充実していたと言えよう。戦争という暗い影も無くなって自由に外を出歩けるようになったから人の交流も再開されたのだ。
 セージとしては別の里にいるアネットやクララやロウもそうだしヴィーシカなどにも会えなくなるのは悲しくもあった。会えなくなる人が多すぎた。だが手紙のやり取りができるようになったのでさほど苦でもなかった。戦争で死ぬかもという重圧もなくなったので気が楽だった。
 さてルークのもとでの特訓であるが、なぜルークがそんなことを言い出したのかを、なんとなく悟っていた。特訓を餌に里にいさせることでルエと一緒にいさせようということであろう。
 仮にセージが鈍い人間だとしても、近場の部屋に住むように言われ、ことあるごとに二人セットで仕事をさせられ、戦闘訓練なども一緒にするように仕向けられたら、『何かおかしいぞ』と思ったであろう。
 里の中に入った二人はほど無くして別れた。手を振って去るセージと、名残惜しそうに見守るルエ。

 「じゃ、また後でな」
 「はい。また後で」

 自室に戻ってきたセージは槍を壁のラックに納めると、戦闘用の粗末な布服をベッドに投げやった。
 上半身は発達しており背筋が張っている。胸から肋骨の終わりにかけて異常なまでの量の包帯がぐるぐる巻きにしていた。一枚鏡の前に立つと解いていく。
 顔は真剣そのものだ。

 「胸なんざいらないんだよなぁ……」

 そう呟き包帯をはらりと解除すれば、平均よりも大きいであろう双丘が露出した。
 それは、腕の付け根と鎖骨から曖昧に発生し桜色の点を頂点に凛と張りつめた流線型を描いて腹筋の上に接する塊だった。あれから数年。包帯を巻いてみたり、アスリートの胸が小さいのは運動しているからなのだ論を信じてマラソンしてみたりしたが、このありさまである。
 腹筋は光陰の緩急つけた薄い凹凸を描いている。腕も、足も、緊張感を湛えている。脚部の線は幼いころよりも遥かに長くなっていた。柔らかみのある女の体というよりも戦いのための肉体である。それでも隠しきれない女性としての膨らみや脂肪はあり、引き締まった肉体はむしろ女性的魅力を引き立てているのだが。
 エルフ族を特徴づける耳も幼年期のような丸っぽさを脱ぎ捨てて、細く尖っていた。
 ただ一点。柔和な雰囲気を持ちながら鋭利さも兼ね備える眼光だけは変わっていない。
 体を拭こうとしてズボンを脱いで放る。凹凸のある腹部から下はなだらかに下って足の付け根へと繋がっている。年齢故、大切な個所を守るべくして茂った体毛もある。
 セージはセミロングのブロンド髪を乱暴に掻き毟ると、部屋の隅の壺から水を掬いタオルに染み込ませて全身を拭く。水浴び場まで面倒なので応急的なものだ。
 一通り清めると普段着を着込んで――それから部屋の隅に目をやった。皮と鉄の複合鎧。旅の装備。長年の愛用となる二連装クロスボウ。魔を封ずる力を宿した銀の剣。視線を壁へ。ルークから貸してもらった槍。
 セージは修行の末、ルエと戦い同等かそれ以上の力量を身に着けた。身を守るための技術を巨老人の里で学んだのとは異なる純粋な戦闘の技術である。さすがにルークの魔術にはかなわなかったが。
 装備から目を離すとベッドに寝転がって天井を仰ぐ。

 「頃合いだな………うん」

 セージは、明日にでも旅立とうと考えていた。馬の手配は済ましてある。路銀も里の仕事以外の肉体労働で溜めた。万が一のことがあった時の為に遺書まで記した。
 これは我儘だ。子供のような稚拙な夢なのだ。元の世界に帰る。そんな、夢物語を実現するため―――もしくは諦めるためのくだらない挑戦だ。
 だから誰にも付き合ってもらうつもりはないし頼るつもりもない。死んでもいいとさえ考えていた。〝あいつ〟に復讐して物事が解決するでもない。もしかすると悪化するかもしれない。けれど構わなかった。
 セージは、しばし時間を読書に使った。
 夕飯を食いに行くため部屋を出る。毎度のごとく、部屋の前で待機していたルエと鉢合わせした。

 「おっす。行こうぜ。もう腹ペコだわ」
 「もちろんです」

 ルエの無邪気な笑顔が胸に刺さる。
 夕食の席に着いた二人はパンとシチューをぱくつき始めた。

 「そうだ。今日は飲もう。あんま飲めないけど一杯くらいはいける」
 「なんなんです。突然に」
 「いいからいいから。たまにはいいだろ?」

 ふとセージは係りの者を呼びつけるとワインを注文した。すぐに運ばれてくるグラスをルエに渡すと、自分からグラスを掲げて乾杯の音頭を取る。

 「乾杯」
 「乾杯」

 渋みのある液体を一気に半分ほど飲んでしまう。かっと喉が熱くなった。グラスを置くとシチューをがつがつスプーンで掬ってパンを千切って食らう。
 ルエも同じくワインを飲むと食事を再開した。
 喋ることもないので黙々と食っていると、ルエがセージの顔を見つめながら、周囲に聞こえぬ程度の小声を呟いた。

 「発つ気でしょう。僕にはわかります。いきなり酒飲もうなんて言い出して、不自然すぎる」
 「なんのことやら俺にはさっぱりわからんね。大体、どこに発つんだよ。宝物でも探しに行くのか?」

 すかさず反論すると皮肉を口にしてワインを一気飲み。グラスが空になった。目的を看破されるはずがないという思い込みをしていたセージは心臓が痛いほど高まるのを感じた。ルエの静かな瞳が焦燥感をあらわにするセージの赤い頬をじっと見つめている。

 「ここ数年。ロウ師があなたに手渡した本について調べてきました。とある少数民族だけが持つという魔導技術をね。この里に留まろうとした理由も、それなんじゃないですか」
 「……………この里綺麗だからな。永住したくなった」
 「永住したいのに外へ行くんですか? ちなみに巨老人らにも話は聞いてあります」
 「………ッ。ごちそうさま!」
 「セージ!」

 セージは手が震えだすのを止められずに虚勢を張った。ダメだ。眼前の食事を水のように吸い込むと金を置いて席を立つ。はじめ、歩き。徐々に全力疾走へ。
 自室に戻ると風のように扉を閉めてベッドの陰に座り込む。
 数年間という時間。ルエはセージを知りたくて必死に調べてきたのだろう。なぜ焦っているのか、なぜ強くなりたいのだろうか、とか。行き着いたのはセージがこの世界にやってきて願ってきたたった一つの目的だった。
 迂闊だった。ルエに気が付かれるはずがないと思い込んでいた。
 明日と言わず今すぐ発とう。ルークへの許可は随分と前にとってある。

 「装備を着なくちゃ………っておまえ!! 勝手に入りやがった!」

 扉が開き、息を切らしたルエが姿を見せた。勝手な入室に怒ったセージは咄嗟にベッドから枕を投擲すると、跳び箱の要領でベッドを飛び越し着地、ものの数歩でルエに肉薄して拳を振り上げた。

 「このぉッ! くそ………魔術か」

 だが、拳が空中で静止した。風の戒め。ルエお得意の風魔術が腕を縛り付けて離さない。あと数cmというところで動かない。
 無詠唱魔術。
 ギリリと奥歯を食いしばると恫喝する。

 「離せ!」
 「離しました」

 すぐさま解除された。ルエの顔に表情は無くて佇まいもどこかおかしい。無人の平原に一本だけ新品の墓石が立っているような得体のしれぬ恐ろしさ。
 いつもの優しいルエではないようで、セージは後ずさりをした。腕を組んで頬を膨らませる。腕を組むというのは心理学では相手を拒絶する意味があるという。

 「勝手に人の部屋入ってきて何のつもりだよ。それでどうする。俺はもう行く。お前には関係ない」
 「関係ない……本当に関係ないと?」
 「関係ない。昔からの付き合いがあるだけの関係だから………な」

 言葉を選んで吐き出す。懺悔のように。
 ルエが寄る。セージが下がる。歩幅は徐々に大きく。下がり続けてベッドへ。横に逃げようとしても逃げられず塞がれてしまった。ついにベッドに倒れ込むと、ルエが覆いかぶさるようになった。
 不貞腐れて顔を背け、自分と相手との間に腕を割り込ませていつでもどかせる体勢を取る。

 「関係ありますよ。関係ないなんて絶対言わせない。死の危険に自ら進んでいくあなたを一人になんてさせない。許さない!」

 ルエが丁寧な口調を脱して激昂した。
 セージは狼に吼えられたかのように委縮してしまった。ルエの喉の奥まで見えた。眼前で発せられる言霊の強さに押され、肩を震わす。

 「たとえ逃げても追いかける。誰かに襲われていたら身を挺して守る。嫌だと言っても、勝手についていく。絶対に!」
 「…………まるで愛の告白みたいだな。酒臭いぞカッコ付け筋肉やろー」

 セージは顔に血が昇ってくるのを感じつつ、すんすんと鼻を鳴らした。酒の香り。ワインを飲んだせいだ。もっともお互いに一杯しか飲んでいないが。
 どう出るのか。なんとなく予測がついた。振り払うべきか。拒絶するのか。
 考える暇も無く、ルエの顔がさらに近くに寄ってくる。中性的な顔立ちが赤くなっているのがじっくり観察できた。相手の瞳に己の苦悩の顔が映りこんでいるのも。
 もはや距離は無いに等しく、セージの投げ出した両足の隙間に相手の膝があり、ルエの前髪がセージの額に触れてしまいそうであった。

 「これは僕からの愛の告白と受け取ってください。もう隠すのはやめました」
 「っ…………馬鹿野郎。じゃあナニ。愛してますってかふざけんな馬鹿。俺を好きになってどうするよ……」

 意外ではなかった。前々から。それどこか会ってすぐに好意に気が付いていたから驚きはなくて、とうとう来てしまったかという怯えである。
 この世界で女性をやってきて何年も経過している。執念深く男性を維持しようと心がけていても、女性の環境と振る舞いをしているうちに、アイデンティティが狂い、曖昧になっている。告白が嬉しくもあり悲しくもあり今すぐ顔面を張り倒したくもあった。
 戸惑い、赤面して俯いていると、耳元の髪の毛を指で梳かれた。燃えるような相手の瞳。情熱的な視線。
 ――――やめろ。
 ――――もっとしてくれ。
 頭の中で二人の自分が鬩ぎ合っている。悪魔と天使ではない。同じ人間がだ。

 「馬鹿……馬鹿でも構いません。何と言われようと、愛しています」

 そして、顔が一気に接近した。

 「………! んっ………」

 ぴたりと唇が塞がれる。人工呼吸のそれとは違う本気で求める愛情の行為。
 唇を割って舌が入り込むと舌と絡み合い唾液をかき回す。身をよじろうとするも、上半身が伸し掛かってきており、動けない。そればかりか腰からゾクゾクと奇妙な感覚が走り声をあげそうになった。
 男と男でキスしているのか? 男と女か? セージにはわからなかった。
 口の中を弄られるという未知の感覚に瞳を閉じながらも、保険で相手との間にねじ込んでおいた腕で押しやろうとする。が、離れない。ルエはセージの肩を抱くようにしていたからだ。

 「ぅ、………んく、っ………はっ……」

 頭の中は魔女の鍋だった。本能と理性と知性と記憶と男性と女性などの部門が殺し合いを演じている。
 相手の舌を無視しようにも、強引に絡ませてくる。応じるしかない。たどたどしい舌遣いで迎え入れる。舌から脳へ直接刺激が送られるようで眩暈がした。

 「ぷは……っ」

 たっぷり30秒は口をつけていたか。ルエの方から口を離した。
 まともに呼吸もできず酸欠になりかけていたセージはぜぇぜぇと荒い呼吸をしつつ涙の滲んだ目でルエを睨みつけた。相手の胸と鎖骨付近に手を置くと、向こう側に押す。
 だが、相手の体はびくともしない。それどころかますます身を寄せてくる。

 「はぁっ………ふぅっ……る、ルエッ………! 自分が何をしたのかわかってんのかっ? 無理矢理やりやがった」
 「もちろん理解してます。キスしました。………最高です」

 ルエが心の底から嬉しそうに笑う。
 セージは口をぐいと手の甲で拭うと素っ頓狂な声をあげた。

 「お前変態!? 変態だろ、この鬼畜優男ッ!」
 「男はみんな変態ですよ。セージが可愛くてつい」

 吹っ切れた男とはこうも強いものか。照れた笑みを湛える男を前に、感心した。
 決断を先延ばしにしたり場に流されたりしがちなセージにはルエの強さが眩しくもあり恥ずかしくもあった。
 渾身の力を込めて相手を退けると、ベッドを飛び越して反対側で相手に背中を向けて座る。口やら目やらを手で繕いつつ。乱れたセミロングも整えつつ。

 「もし危なくなったら見捨てるからな! おれ、知らないぞ! 死ぬぞ! 死んじゃうぞ!」

 キーキー声で背後の相手に脅しをかける。
ベッドがギシ、と鳴った。相手の呼吸や身じろぎが接近してきた。ふわりと両腕で背後から体を抱かれる。積極的過ぎる。蛇に睨まれる鼠よろしく動けない。
 耳元に口が急接近した。

 「火の中だろうが水の中だろうがついていきますよ。そうだ、一つ伝言が」
 「くすぐったい! お前わざとやってんだろ! 殺すぞ!」

 エルフの耳を弄るというのは一般的に胸を触るのと同意義である。わざわざ耳元で息がかかるように喋るのがどのような意味かは言うまでもない。
 セージは背中で相手の胸を突き離し振り返ると、唇をヘの字に結んで応対した。
 ルエが、何もしませんよと言わんばかりに両手を肩のあたりでホールドアップしながら、言葉を続けた。

 「ロウ師匠から、もしセージが旅立つならば連絡をくれと伝えられています。連絡を取り返答を待ちませんか」
 「嘘ついてんじゃないだろうな」
 「つきませんよ。誰の得になるというんです」
 「………わかったよ。連絡して返事が来るまで待つ。了解了解」

 セージはベッドから両足を振った反動で降りると、ドアを指差した。

 「ルエ、今日は帰れ。十秒以内に帰れ。さもないとおっかない目にあわせるぞ。早くいかないと一生お粥を食べて生活するようにしてやるからな! ギッタンギッタンだ!」
 「ふふ……了解しました。また明日」

 脅しをかけるや、ルエはあっさりとベッドから立ち去り、扉の向こうに消えてしまった。華麗な引き際。
 一人残されたセージは脱力してベッドに座り込むと背中を丸めた。

 「……わけわかんねーよ」

 考えるのが嫌だった。
 水差しから水を一杯コップに移して飲み干すと布団に潜り込んで体を丸め目を閉じた。
 水浴びに外に出たくない。今は布団の中に居たかった。
 いつの間にかセージは眠りについた。







~~~~~

この時間ならサーバーへの負荷も大丈夫として投稿しました
いまさらですが話冒頭のローマ数字廃止します。
理由は国際情勢です(大嘘)



[19099] 八十六話 新しい仲間 というわけでもない
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/17 11:14
 ロウに手紙を送り返ってきたのを読んだところ、一緒に行かせたい奴がいるとのことだった。
 ちなみに仲の良かったヴィヴィに誘いの手紙は送らなかった。もし手紙を送れば間違いなくついてくる。セージを愛してるからついていくと公言して憚らないルエはともかく、ヴィヴィを巻き込むのは筋違いではないかと考えたのだ。
 およそ数日間。顔を合わせる度、仕事で力を合わせる度、気まずい雰囲気を体験したセージは、ワイバーンがやってくるのを今か今かと心待ちにしていた。渓谷の里の大木に偽装された見張り塔のさらに上によじ登ってである。
 ルエが危ないからやめろと言ってくるのに耳を貸さず、仏像のように胡坐をかいて待つ。
 目を細める。視力が悪いわけではないが、細めた方が気持ち見え易くなるのだ。
 一粒の点。羽ばたいている。ワイバーンだ。
 セージは係りの者に合図をすると、軽快な足裁きで梯子を下っていき、着地した。脚力のバネで衝撃を相殺する。

 「…………」
 「セージ、ワイバーンは来ましたか?」

 セージはそっぽを向いてはぐらかした。誰が素直に答えてやるものか。
 プンスカという擬音でも纏っているかのような雰囲気にて首を横に振る。

 「来てない」
 「なるほど来たんですね。さすがワイバーン。徒歩よりも馬よりも遥かに早い」

 一瞬で看破されたが。
 見ていると、見張り塔の真上をワイバーンが通過して、急旋回すると、塔を中心に円を描くように舞い始めた。基本的にワイバーンに助走は必要ない。僅かな面積さえあれば離着陸できる。着陸するのだろうと身構えていると目を見張る光景が演出されたのだった。
 ワイバーンから人が飛び降りたのだ。事故のようにも見えた。

 「な!?」
 「馬鹿かよ!」

 驚愕して人がミンチになる光景をイメージした二人の前で、その人物は空中でローブを翼のようにはためかせ―――否、本当に翼のようにバッサバッサと上下に動かしつつ速度を殺すと、ローブを広げ円を描くように滑空して降り立った。
 ふわり、とローブが風にあおられた木の葉のように棚引く。

 「ひさ……しぶり…………です……」

 氷を小川に転がすような静かで聞く耳心地よい言霊。
 ただのエルフだったら変わった奴だの一言で一蹴したろうが、その人物には当てはまらなかった。
二人して警戒態勢へ移行。セージは武器がないので右手を前左手を腰に添える構え。ルエは魔術詠唱の準備。

 「ダークエルフ………なぜここにいやがる」

 そう、降りてきたのはダークエルフだったのだ。ダークエルフ。本来存在しない種族。エルフを捕まえ強制的に改造することで戦いへの適性を持たせた種族というのもおこがましい戦争の痕跡である。初めて運用したのは例の王国だった。
 ダークエルフはローブのフードをふわりと降ろすと、血色の瞳をぱちくりとさせた。黒々とした量の多い髪の毛がローブ越しに背中まで垂れているのが見えた。

 「手紙………読んでない?」
 「読んだけどダークエルフとは書いてない」

 ロウの手紙には旅の応援に人材を派遣するとだけあった。ダークエルフとは書いていなかった。
 ダークエルフは僅かに固まるも、すぐに妖しい笑みを口の端に湛えて、胸に手を置いて見せた。

 「ロウさまのうっかり。くふふふふふ……………私、あなたと会ったこと、ある、よ。覚えてない?」
 「会ったことが…………あるわけ………あ、あぁぁぁ!? 思い出した!」

 セージは手をポンと打つと思わず相手の顔を指差していた。すぐに降ろす。ずっと顔に指を向け続けるのは悪い印象を与えるからだ。

 「あの時の!」
 「あの時とはなんですか? さっぱり覚えてなくて……」
 「え、なにお前覚えてないの。ホラ、ダークエルフをさぁロウが捕まえてたじゃん。あの子じゃないの、大暴れしてた」

 セージがルエにそのように教えると、ダークエルフは笑みをますます深めて軽く拍手した。パチパチパチ。静かなクラッピング。

 「……せいかい」

 相手は拍手を止めると、コホンと咳をした。
 かつてダークエルフが連合に捕縛された際に治療に当たったのがロウであった。ロウの計らいで二人はダークエルフと一度会っている。印象に深く残ったつもりでも以後目にしなかったのですっかり忘れていたのだ。
 ダークエルフは昔のような凶暴さは微塵もなく大人しかった。名残と言えば肌が褐色であること。そして刻印。喋り方がたどたどしいこととである。外見こそ違うが内面は大人しい。察するに完全に治療することができなかったのだろう。
 黒く、夜を仕立てたような長く細いロングヘア。血のように赤く彫刻刀で切れ目を入れたように鋭い目立ち。目が大きく小柄なので幼く見えるが、じっと観察すると、実際のところセージと大差ない年齢なのが窺える。杖にしては奇妙な形のそれを背負い、黒いローブを着込んだ姿は、魔術師というより魔女を思わせた。
 ルエも教えられてピンと来るものがあったのか顔をハッとさせた。
 ダークエルフは背中に背負った杖の位置をもそもそと直すと、フードの乱れを正し、胸に手を置いて軽く腰を折った。

 「名前……なまえ? ……メロー……なまえ、メロー………。ロウさまの言いつけで……来た」

 かなりたどたどしい言い方。まるでカンニングペーパーでも読み上げるような慎重さ。
 二人はともに軽く自己紹介した。

 「これはご丁寧にどうも。僕はルエと申します」
 「俺はセージね。一つ聞きたいんだけど記憶とか大丈夫なわけ? こういっちゃなんだけど冒険に出るわけで、名前も思い出せないようなのは連れていけない」

 セージがそのものずばり切り込んだ。以前会ったときは記憶が書き換えられていた云々と聞かされていたからだ。記憶も怪しい仲間を連れていくのはいかがなものかと思ったのだろう、眉に多少皺が寄っている。
 メローは首を傾げると、一言一言選んで発言した。

 「記憶、無い。私の家族、無い、みたい。覚えてない。けど、役に立て………るよ。暴れない、役に立つために、がんばる……」
 「………大丈夫なのかなぁ」
 「師が送り出してきた人材です、大丈夫でしょう。ね、メローちゃん」
 「ちゃんはヤ。メローじゃないとヤ」

 セージはルエを牽制してから喉でウウムと唸り声を響かせるとメローをじっと見つめた。結局、数年掛かりで治療しても記憶は戻らずおそらく人格も別のものになってしまったのだろう。調べた結果特定には繋がったが家族は全滅しており行く当てがなくなったのでロウが引き取った、ということだろうか。
 少なくとも著名な魔術師であるロウのお墨付きである。ロウを信じる意味で連れていくことを決心した。馬を待たせている地点まで案内しようと踵を返す。

 「まぁいいや。よろしくメロー。俺の我儘に付き合ってもらって悪いな。馬を待たせてるから早くいかなくちゃ」

 馬を待たせている地点へとやってきたセージは早速問題に直面した。一頭しか用意していなかったのだ。一頭に三人乗りはさすがに積載過多である。主にスペースが足りない。
 泣く泣く貴重な路銀を支払いもう一頭手に入れる羽目になった。馬を連れてきた商人の顔がにんまりしたのが何ともむかつく。無論、足元を見られた。
 セージはその昔馬を操ることができなかったが練習して乗りこなすとまではいかなくても、基本動作はこなせるようになっていた。
 と、いうことでセージは一頭。ルエとメローで二人乗りである。

 「馬、はじめて。ワイバーン乗ったことある」

 メローは、恐る恐るといった風にルエの背中にしがみ付いていた。
 ルエは手綱の持ち位置を微調整しながら背後の彼女へと優しく言葉をかける。

 「大丈夫ですよ、怖くなんかありません。どこかの誰かさん曰くお尻が痛くなるだけですから」
 「おい! 調子に乗りすぎだろいい加減にしろ!」
 「しり? いたい? なにそれ」

 ぽかんと赤い唇を広げ首を傾げる黒髪の少女へ、銀髪の青年は人差し指を得意げに掲げると、喋り始めた。

 「ああ、昔々セージという少女がいました。彼女は」
 「ルエ! 止めろって!」

 その昔、乗馬の最中に尻痛い発言した記憶をネタに物語を作ろうとし始める銀髪の笑みに魔術で作り上げた空気の塊を投げつけて咳をさせてやる。
 咽ながらも楽しげに笑うのを尻目に、鼻を鳴らす。

 「まったく。吹っ切れたとかそんなレベルじゃねーぞコイツ。糞っ………俺ともあろうものが弄られ側にまわるなんて。いつか逆襲してやる。晩飯にアレとか混ぜてやろう」

 ぶつぶつぶつ。誰にも聞こえないように口の中で濁して呟く。怪しげな企みは誰の耳にも入らなかった。
 セージはその昔入手した地図に独自に情報を加えて使いやすくした地図を取り出すとじっくりと見つめて仕舞い込んだ。馬の背中を撫でて鐙に足をかける。

 「ハッ!」

 宣言なしに馬の腹を蹴ると掛け声を上げ二人を置いてきぼりに走り出す。

 「セージ!? 待ってくださいよ!」
 「置いてきぼりが嫌ならついてくるんだなーっとお!」
 「は、はや………うま……早い……」

 ドップラー効果を伴ってセージの声が遠ざかっていく。ワンテンポ遅れてルエの馬が駆けだした。やがて二つの陰は一つとなり森の果てへと消えていく。魔導技術が眠るという巨大な山までたどり着くのはいつになることやら。
 蹄の旋律が聞こえなくなった頃、ルークが姿を見せた。相も変わらず女装である。仕事仕事仕事で抜け出せないのが理由なのは言うまでもなく。
 彼はため息を吐くと前髪を掻き上げた。哀愁漂う憂いの色が顔面を彩っている。

 「愛しき弟よ…………死ぬなよ」




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あと十話以上未投稿分あるんですが一気に投稿するのってどうなんでしょう
やけに不安定で怖いです



[19099] 八十七話 やりすぎ狩人
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/17 20:27

 壮絶な笑みで唇を歪ませた彼女は背中の杖のようなものを左手に握ると魔力を通した。機構が魔力によって駆動すると両端が割れて斜め方向に伸長し全体の形状が弓と酷似したものへと変形した。両端の更に先端には宝石が埋め込まれており魔力に反応してぬらぬらと光っている。
 彼女はフードを指で払いのけると、杖―――もとい弓を左手に、右手で空中にある何かを摘まむような仕草をしてみせた。
 刹那、宝石と宝石の間に光のワイヤが構成されるや、指に従ってしなる。
 微かにローブがワイヤに接触したが焦げるでも途切れるでもなく存在し続ける。

 「〝破壊の矢〟」

 言霊。それはイメージの最終確認。
 引き絞られたワイヤと弓そして指を一条に結ぶ神々しいまでの矢が形成され―――放たれた。
 風を追い越し一直線に残像を曳いて飛翔していくと標的へと食らいつく。水風船が割れるような音。着弾地点に小爆発が発生すると標的ばかりか木々までも深く傷つけた。
 森に潜む鳥達がすわ何事かと乱舞する。

 「ひゃー………………夕餉がお釈迦になっちまった………」

 横合いから標的の傍まで肉迫していたセージは槍を取り落しそうになった。暫し沈黙し、脱力したため息を吐いた。続けて、神よ、と祈りたくなった。
 すぐ目の前にはほぼミンチとなって散らばっている鹿の死体がある。白い欠片もある。骨片だ。これでは焼き肉どころの騒ぎではない。ハンバーグがいいところ。本日の夕飯になるはずだった獲物が見事四散してしまい肩を落とす。
 時刻は昼過ぎ。夜用の肉でも調達せんと山狩りしてやっと見つけた鹿を追い詰めた。そして、弓で狙撃するのが得意と口にしたメローに任せてみたのだ。結果は鹿が爆発するという冗談のような光景だったが。
 ハッと我に返ったメローは弓を仕舞い駆け寄ってきた。哀れ鹿よ。
 木の上で待機していたルエも、飛び降りて歩み寄った。

 「うん、メロー。弓が得意というのはわかった。だけどちょっと威力高過ぎないか………調整できないと狩りは厳しいぞ。たぶん、熊も一撃で死ぬと思うけどさぁ」
 「威力抑えた」
 「えっ? えっ? 本当に?」
 「うん。威力、抑えた」
 「恐ろしい………」

 セージは真顔で淡々と解説してくれるメローに若干引きながらも、夕飯をどうするかを考えていた。保存食に手を付けたくない。ならば、狩るか、採取するか、買うしかない。
 一方ルエの目の付け所はゴミ屑と化した鹿や夕飯の心配よりも弓に目を見張っていた。メローが作ったとは思えない。ロウが作成したのだろうか。
 視線に気が付いたのか、メローは背中の杖とも弓とも取れる武器を軽く触って見せた。

 「これ、ロウがくれた」
 「やはりそうですか。セージ、夕飯はどうしましょうか」
 「めんどくさくなってきたし保存食を軽く食べて早めに寝ちゃおう。明日早く出て獲物を探せばいい」
 「ごめんなさい……」

 自分のせいと悟ったメローがしゅんと顔を俯かせた。こと戦闘となると気分が高揚してつい相手を粉砕してしまう性分は変えようがない。ロウの施術で安定したとはいえ戦闘用に改造されてしまった根本はどうしようもなかった。
 セージは首を振ってメローの肩を叩いて見せた。

 「狩りは徐々に覚えていけばいいよ。誰も最初から完璧にやれとは言ってないんだから」

 そして、時間が経過した。
 夕飯。時刻は昼と夕方の境目位であったが既に三人は焚火を組んで保存食をパクついていた。保存の効く塩の効いた干し肉と豆を乾燥させたもの。缶詰やクーラーボックスなどないので基本は塩と乾燥である。燻製も購入リストにあったのだが、高価なので調達を断念した経緯がある。
 味気ない食事を済ませた三人は焚火を前にくつろいでいた。
 もっともメローはすやすやと体を丸めて熟睡中。体を丸めて数分立たない内に寝息が聞こえてきたのだから、相当な疲労だったのだろう。馬に慣れないのに長距離移動したせいもある。
 焚火から少し離れた地点では馬が草を食んでいる。馬の利点は草と水と若干の塩を用意できるならば燃料の心配が要らないことだ。二頭は仲良く月下で食事を続けた。
 エルフ二人は口数少なく焚火の前で座り込んでいた。
 森は深海のように静まり返っている。時折獣の身動ぎと夜鳥の嘶きが耳を打つだけで、風の気配も無く、穏やかである。空に佇む銀の衛星が発する帳が茫洋たる森の海に曖昧な影と光を表現している。
 薪が熱でひび割れて小気味いい乾いた音を立てている。
 セージは棒切れで薪を突きながら新しい枝を突っ込んだ。野宿の際、魔術は本当に便利である。火炎魔術を得意とするセージにとって焚火を熾すことなど造作もなかった。
 焚火を挟んだ向こう側にルエが居り、あぐらをかいて肩肘をついている。哲学者のように深い思考の海に潜っているようである。
 旅の進路も、道中の補給も、進行速度も、潜りに行く遺跡についての話題も尽きている。話すこともないので黙るしかない。だが黙るという行為は今のセージにとって酸欠状態に等しい。喋ろうにも話題がない。
 暗澹なる森では、背後に不安を感じる。それは動物が生まれ持った生存本能が見せる幻だろうか。セージは焚火で体が温かいのに寒気を覚えていた。

 「なぁ」
 「あの」
 「………」
 「………」

 同時に話しかけて、同時に押し黙る。打てば鳴るが如く。
 セージは舌打ちをすると、右手をひらりと差し出した。どうぞ。
 ルエが右手で打ち消す。結構です。

 「あーッ! もう!」

 何かが切れる音がした。セージは頭をもしゃもしゃ掻き毟りながら立ちあがると槍を置いて、使い慣れたナイフだけを腰に差して歩き出した。枯葉の絨毯を踏みしめ、木の陰へと。念のため木の陰の更に奥へ。
 突如奇声を上げたセージを何と思ったか、ルエも立ち上がった。

 「どこへいくんですか!」
 「おしっこだよ! ついてくんなよ!」
 「あ、ご、ごめんなさい」

 すかさず怒鳴り返して木の陰の向こうへと行くと腐葉土を足で掘り返して穴を作って鎧を脱いで屈む。男性の用を足すのは容易いが女性は面倒である。だから女性用の厠は混むのだが。
 事を済ますと水筒の水で手を湿らせて工程を終える。
 鎧最大の弱点は着脱に時間がかかることであろう。おまけに重い。皮を多用した軽量鎧とはいえ、である。
 枝を踏む。折れて音が鳴る。音に反応したかルエが振り返る。
 セージは手早く焚火のそばに座り込んだ。
 掠れて、燃え尽き、白い灰となった薪を枝で突いて砕く。おもむろに視線を上げると二人の視線が焚火の半透明な朱色と大気の揺らめきを挟んで交差する。

 「言うことは言っておく………」
 「どうぞ、お好きに」
 「俺は、よくわかんないのが本音。いきなり愛してるとか、キスとか…………。でも正直、おまえが俺を好きなんだろうなというのは知ってた」
 「………」

 懺悔の時間だ。相手の気持ちを知りながら曖昧に誤魔化してきた罪を吐露する。

 「それはよかった」

 セージがにっこりと笑みを浮かべるルエをきょとんと見つめる。中性的な顔立ちだけに笑うと女性のように見えなくもなく、おかしな気分になる。

 「眼中にすらなかったのなら機会は遠いですが、意識してくれていたなら、いつか答えを聞かせてくれるでしょうから」
 「………わけわかんねー男だなぁ。俺のどこがいいんだか? がさつで乱暴で態度悪くて頭もそんなに良くない口を開けば馬鹿野郎な女………俺だって……いや俺が男でもお断りだっての」

 欠点は承知していた。つらつらと羅列する。男のように行動するから不自然に映るのであって女性になりきればよいなど、わかりきっているのだが、もし女性になりきれば、自分が誰だったか忘れてしまう恐怖が潜在していた。男のように行動することで『変な女』という印象を植え付けて寄せ付けないようにする自己防衛の意味もあったのが……。

 「それがいいんですよ」
 「えぇぇ……」

 セージは、それすら良いと言われて言葉に詰まってしまった。花のような笑顔を前にいっそ頭を抱えたくなる。ならばいっそ女っぽくしてみるかとちらりと心過るも、ルエのことだから女の子っぽいセージも素敵と言いかねないと考えなおした。それに男に戻れなくなる予感が強く感じられる。
 ルエに嫌われるにはとことん冷淡にぶつかればいいのだろうか。だが、冷淡にしても勝手についてくるだろうから、蹴落とす決定打にはならない。暴力でも振るってみるか。ダメだ。ルエ相手に本気で殴るような真似はできない。セージは自制の効く人間故に躊躇いが立ちふさがっていた。
 男とは度し難い生き物と知っていた。何せ元男である。惚れた相手ならば冷淡にされようが罵られようが構わない心理状態というもの理解できる。
 ―――こんなことならば巡り会わなければよかった。
 願いが叶うことはない。そんなこと理解している。過去は変えられない。
 相手に投げかけるべき言葉を逡巡した末、一言を漏らす。

 「意味わかんねー………」

 胡坐に疲れて肢体を伸ばす。体を倒してストレッチ。鎧が邪魔だが夜間の襲撃を警戒して装備は外せない。傍らの槍の手触りを確かめて焚火を見遣る。足を左右順番に伸ばしたら、再び胡坐へと戻す。
 糖蜜のように甘い眠気が頭を懐柔せんとしている。頭を振る。ブロンドがばらけた。
 そして、じっと見つめ続けているルエに目をやり、次にメローを見る。メローは猫のように体を丸めてローブに顔を埋め熟睡している。黒い髪が広がっており焚火の光に微かに反射していた。
 顎をしゃくる。

 「先に寝てろよ。俺が見張る。時間が来たら起こす。万事順調ってね。メローは………疲れてるみたいだから、起こさなくていいんじゃない」
 「ええ、無理に起こすこともないでしょう。もし何かあったら起こしてくださいね……おやすみなさい」

 ルエが身支度を整えて地面に伏した。やがて断続的な呼吸に変わる。
 空を仰いで月を見る。元の世界と大差ない大きさと丸さ。
 曰く、月は青いという。どこかで聞いた歌はそう語っていた。

 「……はぁ」

 セージは二連式クロスボウを手に取って分解する作業に移った。考えるのは苦手だ。手を動かせば、少なくとも考えなくて済む。金具を外してゴミを取り除き照準器を調整しておく。
 一通り終わると、暇と談話するしかなくなった。
 閑散とした森の中に本日何度目になるかも数えるのが億劫な溜息が染みていった。



[19099] 八十八話 割に合わない
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/18 03:20
 魔物。
 それは一般にヒトに害を与える生物と定義され、とくに強大な種別を指すという。
 なぜこうなったのだろうとセージはぼんやり考えながら、目の前でこぞって頭を下げる住民らを見ていた。
 事の始まりはとある町に立ち寄ったことである。エルフ迫害を掲げる王国が滅んだおかげで狩りの対象にならないとはいっても、長い耳は獣人と同じく目立つもの。とある住民がエルフ三人組――つまりセージらを見つけて騒いだことからだ。
 エルフは華麗に魔術を使いこなし装飾された美しい武器で戦場を支配する強力な存在というステレオタイプがある。確かにエルフは生まれ持って魔術を行使できるのだが、戦闘魔術を使えないエルフなど腐るほどいる。また獣人などもパワフルと言えば合っているが、動物的直感の鈍い獣人も腐るほどいる。そんなものである。
 答えは否なのだが、期待は自然と集まるもの。
 住民曰く、化け物が裏山の石碑に出現する。
 曰く、恐ろしい叫び声を上げる。
 曰く、城の騎士に依頼しても頷くだけで調査さえしに来ない。
 エルフがいるという噂を元にして町の主とやらがやってきた。部屋に招かれあれこれもてなされた。金は払うので調べてきて欲しいと。セージは渋っていたが金の話が出るや否や二つ返事で引き受けた。ルエは言葉を濁した。メローは黙っていた。結局引き受けることとなった。
 町の外に出たところで三者は相談し始めた。

 「セージ………」
 「金貰えるなら調べておいたほうがいいかと思ったんだけど。金だぜ、金」
 「かね……貰ってどうするの」

 ルエの呆れ顔をものともせず金を貰えるからと主張する。メローは金と縁のない生活だったのかよくわからないという顔をしていた。
 セージはやれやれと肩のあたりでわざとらしく手を広げて見せると懐を叩いた。

 「これから危険な迷宮に潜るんだぜ? メシにしても、装備にしても、自前で全部準備するのはきつすぎる。金はあっても困らない。なら引き受けた方がいい。俺らも得。住民も得。いい取引じゃねーか」
 「確かにそうですが………では、手早く済ませましょうか」

 住民らの言う石碑がある山へと向かう。ほどなくして到着した――というよりも町を囲う壁のすぐ隣から森が始まり小高い山があるのだから一分と掛からない。
 石碑は山の頂上にあるという。舗装もされていない獣道を歩いていく。
 セージはミスリルの槍の穂先に着ける保護カバーを取ると、切っ先を前に、姿勢を低くして先頭を歩み始めた。右に槍、左手は遊撃として遊ばせてある。森のような環境では時に槍の射程距離が致命的な空白を生むことがあるからだ。だからこそ銀の剣に意識を張っている。
 セージは前衛。ルエが後衛。メローは狙撃という役割分担である。
 森やら林やらを歩きなれたセージと、歩きなれないルエとメローでは進行速度に差が出る。セージがひょいひょい木の根っこを跨いで枝を躱していく一方でルエが悪戦苦闘しメローは後をついていく。
 山といえど勾配はある程度ある。獣道は勾配に顕著な石ころや乾燥した砂地を晒しており足元を崩そうとしてくる。

 「よっ、ほっと」

 軽やかに枝を槍で退けて、蜘蛛の巣を鷲掴みにして壊す。顔に蠅がたかろうとするのを吐息で追い払う。獣道どころか草むらが道という森林を踏破した経験もあるセージにとって、この程度の障害、石ころのようなもの。
 約二名を置いてきぼりにして頂上に着いた。森が開けこじんまりとした空間が姿を現した。ふぅ、と息を吐いて、吸い込む。ヒトの気配に感づいた鳥が悲鳴を上げて慌てふためく。

 「これかぁ。いかにも古臭いな」

 きょろきょろと視線を彷徨わせて石碑なるものがどこにあるのかを探してみれば、石の塔があった。趣深いと表現するか、古ぼけていると表現するかは、各々の自由であろう。セージは後者である。全高はヒトの身長と同じ。根本に花がお供えされている。
 石碑が何を祀っているのか、記念するためのものか、鎮魂か、種類を聞いてこなかったことを思い出し、腕を組んで唸る。花があるということは死者を慰める目的か。何やら文字が刻んである。目を凝らすも掠れて読めない。顔を近づけて、目を開いたり閉じたりして頑張る。

 「疲れました……」
 「疲れた」

 後から二人が追い付いた。ぴんぴんしているセージと対照的に疲労の度合いが強い。
 石碑の文字を読もうと悪戦苦闘している背後に二人がやってきた。振り返って、石碑の文字を指でなぞる仕草をする。

 「さーて謎の奇声の主はいなかったわけだけど、こいつ読める人ー」
 「申し訳ないですが僕には無理のようです……」
 「……わたし………専門外」
 「だと思った。さて、どうする。化け物がいない以上調査は終了ということで」

 二人が首を振った。
 セージは調査を切り上げてはどうかという提案をしてみたが、これも首を振られる。
 住民らとの話では正体を突き止め排除すること。中途半端で投げ出しては信用問題にかかわる。

 「駄目ですよ。最低でも化け物の雄叫びを聞くまで待たなくては」
 「だよな。ウン……。ならメローが上で見張る。ルエは石碑で、俺がその辺うろついてみるってのはどう」
 「時間はどうします」
 「どうせ………急いでない、から…………ゆっくり………で。のぼる、木……」

 こうして、役割が決まった。メローが黙々と木に登り出す。狙撃が得意とだけあって木登りはできるらしい。予想は当たっていた。
 セージはとりあえず二人から分かれると元来た道を調べなおすことにした。獣道とはヒト以外も利用することがある。土に残る足跡を、屈んで調査する。足跡らしいものを見つけるも、それは自分らの靴の形であった。草むらも調べる。草むらは背の低い木と草の集合体。例えば熊のような巨体が草むらを通ると、痕跡が残る。調べる価値はある。
 槍が邪魔なので背中にひっかけておく。槍は近接格闘では最強の武器とも称されるが持ち運びに難があるのが面倒である。
 草むらに不自然な分け目を見つけた。まるで馬か何かでも無理にねじ込んだように葉が乱れ枝が倒れている。

 「ふむふむ……」

 尖った耳が僅かに傾ぐ。音をよく聞こうとしたのだ。
 足元に躍り出てきたバッタを踏みつぶすのも可哀想だと鷲掴みにして他所へ放り投げつつ、腰の剣を抜き、薙ぐ。数度切り付けて道を作り前進。蔓の絡まりを一刀両断。魔を封じる特殊な剣をマチェット扱い。
 草むらの乱れを進んでいく。鎧にがつがつと枝がぶつかる。普通の布服だったら傷だらけになっていただろう。
 顔に執拗に纏わりつく小虫を手で払う。
 やがて、草が強引に引き抜かれ、倒されて作られた地点を発見した。そこには皮膚をぱっくり裂かれた鹿の死体があった。蠅がたかっており辺りには死臭が漂っている。死後数日経過しているのは確実であろう。鼻を貫く不快臭に顔をしかめながらもしゃがみ込んで調べていく。

 「内臓がないのか………。内臓がない、のか」

 セージは同じ内容を二度呟くと、頭を振った。馬鹿なことを言うものではない。
 ちなみに日本語ならダジャレになるがこの世界の言語ではダジャレにならない。
 近場から枝を拾うと鹿の皮膚を突いて蠅をどける。傷口は内側に陥没していた。皮膚を裂いただけではありえない損傷具合。該当する損傷は一つしかない。皮膚の千切れ方を調べ確信に至る。

 「肉を食べたってことね……熊とか狼とかが正体?」

 皮膚のうち、鋭利な切り傷に注目した。数本並んだ曲線状の傷。爪だろうか。爪を持つ大型肉食動物となると狼は除外だ。まさか辺境の土地にワイバーンなどがやってくるはずもないので、熊だろうと推測した。
 セージの顔がうんざりとした調子に変化した。また熊かと。
 この世界の熊は元の世界と同じタフなものだが、中には異常な強さを持つ個体がある。火の魔術をものともしない個体、小屋のように巨大な個体、など。蜘蛛が馬並の大きさなのと同じように、単純に熊と区別できない傾向にある。
 だが不思議なのは、鹿の死体が食いかけで放置されていることだ。
 セージは枝を捨てて後ずさりした。エルフ族を特徴づける耳に命じて音による索敵を開始。
 つまり、折角の獲物を放置するような理由があったことに他ならない。理由が何にせよ、その化け物はここにいる。ここは獲物を運んできて食らうテリトリーの可能性が高い。
 腰を上げて足の位置を直した。異物の感触。足裏へ目をやれば、白骨が。
 刹那、上から降る大気の流れと、何か巨大なものが着地した衝撃があった。もはや脊髄反射的に腰の二連式クロスボウを抜くと振り返り様に照準した。

 「え!?」

 赤く充血した眼球。長く伸びた顔と、亀裂のように発生している口から覗く真っ白な歯。肉体はヒトのように直立二足歩行をする特有の形式。胸の筋肉は隆々としており、爪はナイフのように鋭い。皮膚の露出は無く毛皮に覆われている。
 ――ウェアウルフ。半人半獣の化け物。
 この世界にも確かにいる。獣人の変異種。先天的なものと、後天的なもの、二種類がいるという。
 二連式クロスボウの引き金が留め金を外す。予め装填された矢がクロスボウの上下に供えられたレールに沿って飛翔した。大型のクロスボウに劣るが初速は既に人間の反応速度を超えている。
 ウェアウルフは極めて凶暴な化け物として知られており―――。
 矢は紙一重のところで命中せず草むらを貫通した。外した? 否、躱されたのだ。単純に屈むだけで。

 「嘘……」

 ―――また、驚異的な身体能力を持つことで知られる。
 再装填は間に合わない。二本の弦を持つ二連式クロスボウの装填は二倍の手間がかかるようなもの。背中の槍も遅い。クロスボウを指から落とし、空いている腕で銀の剣を抜くや、斬りかかる。
 はずだった。
 セージの目が大きく見開かれる。ウェアウルフの膝が雷のように炸裂した。足が地面を離れた。

 「か…………ッ」

 驚きと痛覚の燃えるような作動。肺から空気が強制的に吐き出され唾液が唇から舞った。
 腹を起点にくの字に折れ、草むらを構成する背の低い木々ごとなぎ倒しながら吹き飛んだ肉体は、背の高く頑丈な常緑樹の幹にぶつかって止まった。酷く頭を打ち付け脳が揺れてしまった。上から木の実が落ちてきて鼻先を掠めた。
 口を開き、酸素を求めて横隔膜を使おうとするも、反応してくれない。口からひゅうひゅうと奇妙な音が漏れる。

 「ぁー………、……ぅ………」

 腹を防護する鎧が内側に陥没していた。もし無ければ一瞬で意識を刈り取られていたであろう。
 呼吸ができない。脳震盪を起こしたか、立ち上がる気力さえ起らなかった。
 セージは己の抵抗力が完全に崩壊したことを悟りつつも、必死に喘いでいた。視界にノイズが混じっていく。
 最後に見たのはウェアウルフの強固な肉体が徒歩で接近してくる風景だった。



[19099] 八十九話 ウェアウルフ
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/18 03:21
 酷い気分だ。調子に乗って飲み過ぎて翌朝から夕方まで吐き気が止まらなかった時以来の心象である。
 目を開く。満月が迎えてくれた。雲一つない夜の空。星々がウィンク。
 息を吸い、吐く。大気に潜む精霊を身に定着させるが如く。

 「……うぅぅぅ………」

 喉に砂漠を詰め込んだようだった。水一滴ない喉が悲鳴を上げる。粘膜が乾いて粉になりそうで激しい苦痛を感じる。
 頭は痛いし、お腹も痛いし、吐き気がする。二日酔いと生理と打撲を同時に食らったようだった。
 頭を起こしてみると着込んでいた鎧の上半身が無くなっており、白い下着と包帯だけである。白い腹部に青い痣が浮いており緑色の草が擦りつけられている。薬草だ。匂いで瞬時に分かった。傍らには槍と剣と鎧がある。誰かが脱がしたらしい。とりあえず銀の剣を腰に差す。
 回転してくれない頭脳で考える。ここはどこか。辺りを見回すと、そこは小さな湖――井戸に毛が生えた程度だが――の畔であることが理解できた。すぐ向こうには小高い山が聳えている。山の頂上から運ばれたらしい。
 息を吐くと、喉の奥がかぱかぱと嫌な音を立てた。

 「喉………水!」

 喉の渇きを癒すべく四つん這いで湖の水面に寄ると髪の毛が盛大に浸かるのも意に介さず直に水を吸い取る。冷たく清らかな液体が口蓋を満たし喉を潤す。食道から胃へ直撃する冷たさが心地よい。全身の細胞が歓喜の歌を奏でる。
 人心地ついたところで口を拭い、髪の毛の水を払う。
 水面に映る己の顔を見遣る。酷いさまだ。前髪はばらけ、他の箇所は嵐が通ったよう。それとなく前髪のばらつきを直す。いや、直してどうするのだ。女々しいではないか。男子たるもの云々と理屈を並べてから髪の毛を意図的にばらしてみる。かっこがつかないので諦め水面という鏡を捨てた。
 体育座りとなり、天を仰ぐ。

 「あれ? 俺………死んだんじゃ?」

 ふと思い出したことを口にしてみた。ウェアウルフに襲われて意識を失ったところまでは記憶している。するとここは死後の世界なのだろうか。辺りを見回す。大自然。死後の世界にも湖があるかは知らなかった。
 頭を振ると、よろめきながら立ってみる。息を吸う。瞬きをする。どうにも死後の世界のように思えない。
 セージがどうしたものかとぼーっと突っ立っていると、背後から男が現れた。

 「目を覚ましたか」
 「誰だ!」

 足元の槍を爪先で拾うと左手背中右手と一回転させて切っ先を向ける。
 男は上半身裸の銀色の髪をした筋骨隆々の大男であった。下半身を包む粗末なズボンの他にものを持っていない。
 セージはミスリルの槍を掲げたまま男の間合いの外から相対距離を調整した。あくまで警戒心は捨てない。
 すると男は両手を挙げて降参のポーズをとって見せた。更に跪いて敵意がないことを示す。表情は晴れきっていた。あえて表現するならば、断頭台を前にして諦めの境地に至った罪人のように。
 男は僅かに頭を傾げ、言った。

 「先ほどお前を蹴ったウェアウルフと言えばわかるか。先に言っておくが襲うつもりはなかった」
 「………納得できない」
 「だろうな。何せ俺自身も納得していない。誰が好き好んで人間に危害を加えるものか。襲った理由は、制御が効かなくなったからだ」
 「制御が効かない?」
 「そうだ」

 男は淡々と説明した。
 セージは素っ頓狂な声で聞き返した。ウェアウルフというものは制御できるできない以前に獣そのものになる現象である。人間の姿を取っていても獣のような行動をするのが普通。人間のように会話できるなどあり得ない。元の世界だと満月の時だけ狼男になる人間を指したが、この世界では少し違う。病のようなものなのだ。
 男は大きく頷いて見せると、おもむろに唇を持ち上げて犬歯を露出させた。異常に尖っている。獣人でさえあり得ない尖り方。

 「これが証拠と言えば弱いか……。ともかく俺のウェアウルフ化は特殊でな。人間として意思を持ちつつ―――……獣になってしまう。そして、獣として行動する。獣となり狩りをする。そして戻る。こんなことなら意思もない獣になってしまえばよかった」

 いつの世も、普通ではない存在はあるものだ。それが特異体質であれ、なんであれ。
 男がゆっくりと腰を上げると、己の胸を叩いて見せた。やや左寄り。心臓。

 「もう俺は耐えられない。俺は、いつか人を食い殺すだろうことが嫌なんだ。だが自分で死ぬなど、俺にはできない。恐ろしいからだ。そこで何かの縁だ。お前に殺してもらいたい」
 「……随分自分勝手な奴だな。嫌だと言ったら」

 セージは槍を慎重に握りなおしつつ、いつでも攻撃に移れるように重心を調整した。男がどこか和やかな顔を浮かべる一方で険しい顔を崩さない。
 蹴られて気を失い起きてみれば俺を殺してほしいという依頼があった。唐突過ぎる。
 いっそ罠ではないかと疑いたくもあった。
 男はぎらりとした眼光で槍を見つめて、己の心臓の位置を指で示した。

 「無理にでも殺してもらえる努力をする。人を殺した経験はあるか?」
 「ある」

 即答。初めてナイフで人を殺めてから、何人も殺してきた。剣で、魔術で、ありとあらゆる手段で。今更何人殺そうが悩むことはないだろうという確信を持っている。
 男はセージの耳を再度確認すれば、精悍な顔に僅かな笑みを染み出させた。

 「まだ若いエルフのように見えるが戦士なのだな。安心した。さぁ……心臓を貫いてくれ。その槍ならば俺を紙切れのように殺せるだろう」
 「何が何だかわからないのが本音。そんなに死にたいなら、殺してやるけど」

 相手の許可を得ているのだ、躊躇う必要はないのだろう。己を殺しに来る相手なら遠慮なく槍を繰り出せるが、死にたいだけの相手に殺意が湧いてこない。切っ先を静止させたまま、息を吸って吐きの作業が繰り返される。槍にしろ剣にしろ最後に殺意を行使するのは使い手である。武器が殺すのではない、ヒトが殺すのだ。
 男が一歩前進して槍で突き易いようにした。言うならば断頭台に登り首を台にかけたところだ。
 セージは、男の哀愁漂う瞳を前にどうしても槍を先に進めずにいた。殺しても後悔の気持ちはないだろう。見ず知らずの他人なのだから。だが、殺してもいいものか。
 決心をつけるために、何となしに自分の姿格好を確かめる。上半身はシャツと包帯。下半身は鎧。痴女のようだが恥ずかしさは感じられない。
 相手を見遣る。相手はズボンのみを着用。
 やっと決心がついたセージは、槍の柄を握り直し、上半身で槍を使い切っ先を定めた。仮想の攻撃を脳裏に描いてシミュレーションする。成功。心臓を貫くことは容易である。
 セージが息を吸い込み肢体に緊張の糸を張り巡らせた。

 「じゃあ、あばよ。見知らぬ奴。せめて楽に死んでくれ……っておい」

 そして槍は男の心臓を――――貫かず、宙を切った。
 男が直前でバックステップからのバク転更に後転からの低姿勢への姿勢移動を行ったからだ。さらには地を蹴って転がって後退する。まるで軽業師のようだ。
 セージは男が避けたのを怖気づいたと解釈して、再度接近をかけた。槍を戯れにバトンのように操ると、右側に構え、切っ先を中段に置く。犬のように肢体を投地して固まっている男のもとへ。
 男は上目遣いにセージを見ていた。がたがたと肉体が震え始める。
 様子がおかしいことに気が付いたセージは槍をしっかり握りなおすと、恐る恐る問うた。

 「お、おい、どうしたんだよ。殺されるんじゃなかったのか」
 「逃げろ…………俺の中の獣が……! 暴れている! 早く………! はや……く、殺して……くれ!」

 男は言葉を最後に頭を掻き毟ると、身を丸め、絶叫した。人間とは思えない大声。彷徨。数秒と掛からず全身に銀色の毛が成長していく。骨格が劇的に変わる。背骨が大きく張り出して皮膚を伸ばす。手足が構成を変化させ始めた。理性的な声さえ、くぐもった狼のそれへと音程を拡大していく。
 殺すなら今しかない。
 徐々に男が獣へと変貌していく異常事態を前に心が騒めくのを堪え、戦闘姿勢に移行する。腕に力を込めて目を見開いて敵を捕捉。

 「悪く思うなよ……やあッ!」

 セージは腰溜めの槍を肩の高さに調整すれば、上半身を傾けつつ、可能な限りの射程と威力を維持して、突いた。
 またも空を切る切っ先。男が地面を転がって回避。幽鬼の如く立ち上がる。上半身が膨れ上がり筋肉が膨張して肢体を押し広げて骨格から何から何までが変わっていった。男の銀髪は今や全身を覆っており月光を反射する毛皮と成り果てた。
 男――ウェアウルフが月を仰ぎ吼えた。悲しげに、涼しい声で。
 逃げ場はない。静かな湖畔は戦場と化したのだ。
 さっさとやっておけばよかったと歯噛みしてもすべて遅すぎる。
 相手は、まだ安定しないのか体のあちこちを異常に膨張させてみたり、爪で宙を掻いてみたりしている。
 セージは相手の間合いであろう距離を測定、じりじりと後退して己の射程距離を調整した。そして、おもむろに槍を地面に突き刺し、腰から黒い糸を手繰ると指に唾液を塗って染み込ませ、髪の毛を後頭部の高い位置で縛り上げた。槍の頭を蹴って地からずらし中段に置く。

 「くっ! ルエもメローもいないってのに。いいさ、殺してやるよ! かかってこいウェアウルフ! 俺が相手をしてやる!」




[19099] 九十話 切ない一撃
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/18 03:24
 ウェアウルフが吼えるや、両手両足を使って疾駆すれば瞬きの間隔で肉薄し頑丈な腕を振り下ろす。これぞまさにウェアウルフがヒトのカテゴリーではなく魔物扱いを受ける所以。魔術もないのにヒトを玩具のように扱うことのできる異常な筋力である。

 「〝強化せよ〟! 〝流星〟………セット! いっけえ!」

 強化された肉体でバックステップ。火の玉が五つ出現するや、肉体に付随して浮遊する。セージは魔術媒体を持たない。媒体による恩恵を受けられないため、術はすべて己で管理しなくてはならない。イメージ通りに出現した玉へ、ジグザグに機動しつつ接近すると命じた。
 刹那、空間にオレンジ色を曳きながら五つの塊が駆け抜ける。速力はもはや爆風かくや。右から左、螺旋を描くように、上から下へ。逃げる経路すべてを塞ぐように飛び掛かる。
 セージの特性として瞬間的な魔力量の高さがあげられる。魔力の限界量は平均的だが出力は他の魔術師から頭一つ飛び出しているのだ。
 さすがのウェアウルフも躱すことができずまともに食らう。爆発。白煙の帳が生じた。

 「どうせ、やってないんだろが!」

 敵影が火炎の炸裂にまみれて視界から消えた。攻撃命中で余裕ができたと言えよう。だがセージは油断はせずに次の攻撃を叩き込むべくむしろ全力で魔力を絞り出して地を蹴り疾走した。
 火炎剣のバリエーション。自己流のそれに更にアレンジを加えて強力な技へと昇華させたもの。生半可な金属では過熱してしまう高温はしかしミスリルとドラゴンの骨という素材によく馴染む。ミスリルが魔力に反応して色合いを波立たせる。

 「〝火炎槍〟!」

 言葉と同時に槍全体が手から巻き付く火炎に包まれた。
 煙を縫い突撃すれば、ウェアウルフの陰にあえて力を緩め、突き出す。
 ウェアウルフは死んでいなかった。分厚い毛皮と筋肉が衝撃を軽減したのだ。もし人間なら火達磨になるところだが、その存在の強さ故に耐えた。嗅覚が麻痺して、視界も悪い、だが影となり接近してくる敵を認識することはできる。顔面目掛けて突き出されるミスリルの切っ先も。ミスリルの強靭さは常軌を逸している。岩に叩きつければ逆に岩が割れると称される。
 ウェアウルフは、己の顔への直線を、柄を横から掴み取ることで事なきを得た。どんなに鋭い剣も触れなければいい。手が槍が纏う火に焼かれようが知ったことではないという風に牙を剥きだす。
 だが、それは罠だった。

 「かかった!」

 セージの唇がにやりと持ち上がると、槍を握る手に力を込めた。
 次の瞬間、槍の先端が爆発した。至近距離から衝撃を受けたウェアウルフは馬車馬に轢かれたが如く地面を転げながら吹き飛ぶ。焦げた毛が風に舞った。衝撃波が空気を揺らしこじんまりとした湖に波紋を生む。セージのポニーテールがはためいた。
 槍をねじ込み熱で焼き尽くす第一段階。盾などで防御された時、先端を炸裂させて貫徹する第二段階。槍の弱点である面での防御を崩すべく考案した術である。魔力が大量に持っていかれるのを感じたが意に介さず。相手さえ倒せばよいのだ、後のことは考えない。
 どう、と地面に倒れ込むウェアウルフへ、一切油断はしない。油断すると痛い目にあることを知っていた。
 纏わせた火炎をそのままに駆け寄る。筋力に対し重力が釣り合わず半ばスキップするかのように肉迫、立ち上がろうとするその逆三角形の胸に槍先を走らせた。
 ミスリルの強度に頼んだ異常に鋭利な先端が毛皮と筋肉を裂き背中へと進出した。槍に仕込まれたギザギザが肉を裂き、削り、刺創を複雑なものとする。そればかりか熱せられたミスリルが肉を焦がす。血液が沸騰し、傷口から赤っぽい血潮が噴出した。セージの鼻に血痕が付着する。

 「グオオオオオオォォォ……!」

 苦悶の絶叫を挙げて槍を抜こうとするウェアウルフよりも先に、槍自体を軸に対し回転させつつ抜いて傷口を抉ってやれば、距離を取る。
 昔ならば一方的に蹂躙される羊だったろうが、今は違う。大人の体を手に入れて相応の実力も積み重ねてきた。火も吹けず空も飛べない殴るだけのウェアウルフに後れを取る要因などない。油断すれば足元を掬われる。だから全力で潰す。
 懸念材料は強化の魔術が続かないことである。一定時間を越えると肉体が持たず逆に力が抜けてしまう。短期決戦を余儀なくされる。
 ウェアウルフは胸を掻き毟りながら立ち上がると、目から爛々と狂気を輝かせ、牙をむき出して威嚇をした。胸には小さい傷が穿たれており無残にも捲れ上がっている。
 セージは、胸を貫かれても行動できるタフネスに舌を巻いた。前足を低く、後足を高く、槍を前傾して構え、相手の動きに注視する。相手は予想に違わず全力で駆け出した。唾液を散らしつつ駆け寄ってくる。走るという接近方法ほど原始的なものはないが、時にそれは常識をひっくり返すことがある。
 右へステップ、左、右と見せかけて左そして前へ踏み込む。もはや動体視力を置いてきぼりにする超常の接近にてセージに攻め込んだウェアウルフは、爪を使う素振りをちらつかせてから低姿勢からのアッパーを繰り出した。
 躱すための動作が遅れた。咄嗟に筋力の強化を最大限にすれば、柄を両手で持ち即席の盾にして受け止める。

 「あ………ぐ………!」

 奥歯がキリリと鳴った。顔が苦痛に歪む。
 衝撃の瞬間に腕の筋肉が異常に盛り上がり血管の走行を晒した。筋肉が悲鳴を上げる。ドラゴン骨は折れずしなっただけであったが、打撃の衝撃でセージの体が浮いて後方へと飛ばされる。
 転倒を防ぐべく足で踏ん張って勢いを殺す。靴から砂煙が上がった。
 相手はまたも殴りかかってくる。単純な物理攻撃はしかし食らえば内臓を赤いジュースにするであろう威力を秘めている。
 心臓もしくは脳さえ破壊すれば止まる。どんなつわものも、この二点だけは鍛えられない。ミスリルの槍は筋肉や骨の防御を無視して貫くだけの強さがある。だが攻撃して別の箇所に当たれば筋力で奪われる恐れがある。槍の欠点はそこである。長い射程が時に足を引っ張るのだ。
 あえて敵に飛び込むと、右からの殴り付けを手を使い左に躱す。腕の筋肉が気持ち悪いほど震え熱を持った。掠り皮膚が傷つく。
 馬鹿正直に攻撃を受け止めてやる義理はないのだ、受け流してしまえばいい。
 ウェアウルフが己の脚力のせいでセージを通り過ぎた。セージは、その無防備な背中へと槍を構え押し出した。刹那、ウェアウルフの腕が背後へと回って塞ごうとした。できなくはないだろう。ウェアウルフの腕力ならば。

 「お前……」

 だがその腕は途中で止まった。まるで何者かが止めたように。
 槍はあっさりと背中に刺さると臓腑へと達して反対側へと貫通する。巨体にそぐう立派な心臓の機能は槍という異物によって中断させられた。膜が破け血液を送り出すための構造が壊れて奇妙に痙攣するだけの塊と化した。車でいうエンジン、アキレスの腱、ゴーレムの真実を意味する文字列、それを壊されては、生きていけない。
 巨体は前後にふらつき始め、やがてゆっくり前のめりに倒れた。
 あたかも墓標のように槍が背中に刺さっている。
 セージは槍を抜くと、脱力して座り込んだ。死にきれずもがくウェアウルフのすぐ隣は焦げた毛の臭いがした。

 「あつつ。筋肉がいてー……………」

 足が、腕が、腹筋が、ひどく傷む。強化しすぎた反動が体に残っているのである。両足を投げ出すと、大の字で空を仰ぐ。
 まだルエとメローは自分を探しているだろう。突然消えてしまったのだから。
 セージは右手を天に向けると一条の火の玉を打ち上げた。玉は上空に達すると弾けて七色に光る。信号弾の代わりだ。威力もない綺麗なだけの魔術。根源になったのは花火である。これで気がついてくれるだろう。救助は寝て待て。
 セージは痛む肉体を酷使して這っていくとウェアウルフのもとへ行き、槍へ手をかけた。槍は確実に心臓を貫通しており大量の赤い血液が流れ出している。
 ――最後の瞬間、反撃が中途半端に止まった。もしかすると意識があったのかもしれない。必死に抗って死を受け入れたのかもしれない。
 鬼のような形相で死体と化している相手にいくら話そうが無駄なので、槍を抜いて、座り込む。数日間は筋肉痛だろう。戦闘の高揚感も無くて疲労感だけが肉体にしがみ付いている。憎くて殺す、必要だから殺す、というよりも殺してしまったという感触が手にこびりついていた。望んで死にに来たと理解していてもである。
 セージはゆっくりと頭を上げると、森の方からルエとメローがやってくるのを待っていた。




[19099] 九十一話 エルフを狩るものたち
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/19 21:17
 やっと救助されたセージはルエとメローと共に町に戻り報酬を受け取った。セージはウェアウルフが意識を保っていたかもしれないことについて口にすることはなかった。後味の悪さと金銭が手元に残っただけであった。
 森に作られた獣道を豪勢にしたような通路を馬で駆け抜ける。長距離走るためのやや力を抜いた歩幅。体の上下運動も少ない。セージが先頭で、ルエとメローは後ろである。
 セージはむしゃくしゃしていた。ストレスが溜まっていたというより、前から溜まり始めていたという方が正しい。ピークに達したのだ。つまり腹が痛いのだ。内臓を鷲掴みにされているよう。ウェアウルフに蹴られたせいで内臓が破裂したわけではない。もし破裂しているならば平然と肉を貪ることはできなかったであろう。
 この世界にやってきた直後から覚悟してきた内容のストレスではある。だが実際に経験すると痛いわイライラするわ面倒だわで辛抱できない。
 脳裏に死ねばいいのにという罵倒が流しそうめんのように流れて消える。馬の挙動一つも苛立ちを誘う。馬に直進を指示しながら何気なく振り返る。ルエが疑問符を浮かべて見つめてきた。何も言わず前に視線を戻した。
 セージの体質――正確にはセージの体の体質として、胸が苦しくなるのが余計に腹立たしさを増幅する。なぜだ、どうしてだ、殺してやる。物騒なことを叫びたい気持ちを押えて先を急ぐ。
 いくつかの町を通過した。戦争の影響は数年経過した現在もいまだ色濃く出ており、不景気で活気のない町並みばかりがみられた。大勢の男たちを戦場へ向かわせ、税金を課し、破綻した国の末路である。
 資金を得たことで旅は順調であった。順調すぎて恐ろしいくらいに。かつての旅があまりに悲惨だったことと比べてしまうからだろうか。と言っても狩りや採取による食糧調達は積極的にやっていたのだが。メローの矢の威力が高すぎることが判明したのでセージの槍投げがメインである。

 さて、旅は大まかで順調であった。途中までは。
 宿の主人と交渉をするべく三人は玄関にいた。塩がなくなったばかりか、馬の蹄鉄の調子が悪くなってしまいやむを得ず町に入ったのだ。調達のために町をうろついているうちに日が暮れてしまい、宿に泊まることを余儀なくされたということである。
 セージは宿の主人が提示した金額に腕を組んでいた。

 「オヤジ。まけてくれ、頼む」
 「エルフってのは金持ちばかりと聞いたんだが違うんかえ」

 いわゆるエルフの一般的イメージで語る宿の主人は、セージをまっすぐ見据えてそういってのけた。というのはもちろん嘘で旅人だから足元を見ているわけである。
 セージの交渉内容とは一人一部屋における勘定だった。言うまでもなく金がかかる。と言っても別の冒険者と雑魚寝するのはセキュリティの面で不安が残った。
 セージは硬貨の数を増やしたり減らしたり頭を下げたりしたが、頑として首を振ってくれなかった。戦闘ならとにかく交渉事ではセージは負けっぱなしであった。唸り声をあげて沈黙してしまった宿の主人を前にしてがっくり腰を落として、金銭を渡そうとする。

 「ちょっと待ってください。主人、部屋の数を一つ減らすというのはどうでしょう」

 その時、ルエが横から突っ込みを入れた。

 「もちろん相応にまけるがね………あぁ、なるほど、そっちの姉さんとあんたは……?」

 やや意地の悪い顔をする主人へ、ルエはにこにことした営業スマイルで中性的な整った顔立ちの魅力を存分に振り撒きつつ、肯定した。

 「はい。そういうことです」
 「え? え?」
 「?」

 さっぱり事情が呑み込めないと首を傾げるセージとメローをよそに交渉は成立した。硬貨と引き換えに鍵がカウンターへとやってくる。
 主人は部屋のある方向を鍵で交互に指し示しながら説明し始めた。
 三人組。しかも一人は肌の黒いエルフという特異な組み合わせを、宿の利用者たちが奇異の視線で無遠慮に観察しては歩き去っていく。

 「いいよ。ほら鍵だ。使えない部屋もあるから隣同士は無理だ、勘弁しておくれよ。一階と、二階、一室一室だ。この鍵が一階、こっちが二階。言っておくけど大声立てないでおくれ。前に乱闘になってベッドが消し炭になったことがあるから」
 「ありがとうございます。はい、メロー。鍵、無くさないでくださいね。セージ、行きましょう」

 ルエ主導の元、一つの鍵がメローにわたった。もう一つの鍵は彼が持っている。
 ここに至ってやっとセージが事情を飲み込んだらしく、先頭を行くルエと並ぶと横から小突いた。
 ルエの美貌もとい美形にあてられて廊下を歩く女性らが振り返った。長年付き合っているセージは鈍ってしまっているのでわからないだろうが、ルエは中性的な顔立ちをした美青年である。町を歩けば十人中八人の女性が振り返るようなエルフなのだ。
 セージは、メローが手を振って自分の部屋に向かうのを目で送ると、無言で階段を上り始めるルエを小突いた。否、突くというより、背中を叩いた。

 「おい、おいってば! 部屋が一つってどういうことだよ」
 「そのままの意味ですよ。やだなぁお金を節約するためじゃないですか。やましい理由なんかじゃありませんよ、セージったら困ったものですね」
 「へー。聞きたいんですけどどうしてメローとお前が一緒の部屋じゃないんですかねー」
 「精霊のお導きです」
 「精霊を見たことないくせに生意気な」

 気持ちの悪いくらいの丁寧な口調で皮肉を投擲するも盾で防がれる。瞼を下げ、目つきを悪くして睨み付けてみるも、どこ吹く風であった。
 積極的という段階を越えたルエにとって恐れるものなどないのだろう。
 階段を登って突き当りの部屋が二人の部屋であった。ルエが鍵を解除して扉を開け放つと、セージのために閉じないよう押さえた。君主かなにかのように澄ました顔でセージが扉を潜った。まるでお前が扉を押さえるのは責務なのだと言わんばかりの態度で。
 部屋はこじんまりとした木造でありランタンの間接照明が暖色を敷き詰めていた。武器や荷物を置くところ。机。グラスが二つ。ベッドは一つ。ただし二人は優に眠れそうな幅の広い型。

 「いい部屋ですね。値段が安いからもっとボロボロな部屋を想像していたのですが」

 セージは呑気に部屋の感想を述べつつ早速荷物を降ろし始めるルエの背中を眺めつつ心の中で呟いていた。
 ――コイツ狙ったな。

 「それでベッドはどうするんだ?」

 遅れて荷物を下ろす。槍も剣もナイフもである。鎧は脱ぐのに時間がかかるため止めた。木製の椅子を足で引くと腰をおろし足を組む。
 セージと比べて軽装で鎧もないルエは、窓の外をちらりと見遣ってから、セージの正面に椅子を置いて腰かけた。そして真面目な顔で両手を組んで顎の下に配置すると提案した。

 「じゃ、一緒に寝ましょうか」
 「死ね」

 セージの手が頬を横から張り倒した。見事頬に赤い痕跡が印刷される。力の加減なしで放たれルエの頭が傾いだ。
 元の世界にしろ、この世界にしろ、ベッドで一緒に寝ましょうの意味は一つしかない。バースディスーツを着てくれないか、夜明けのコーヒーを飲まないか、などの類語がある。セージもその手の用語は知っていた。反射的にビンタを炸裂させてやったが後悔などない。
 もみじマークを顔に載せたルエは、頬を撫でて労わりながら顔の向きを直すと、ベッドの方へと相貌を移動させた。
 ルエも男性である。エルフもヒトに属するのでヒト特有の欲求があるということだ。
 主導権を奪われしどろもどろするしかない。
 セージはルエの視線を追った後、鼻を大げさに鳴らした。

 「あのさぁ……ストレート過ぎるだろ。俺じゃなかったら嫌われてるぜ」
 「……俺じゃなかったら?」

 ルエが子犬のような目つきで見つめてくるのを、手をひらひらさせて、視線を打ち消す素振りをする。
 ――強く思う。苦手だと。人の中に踏み込んでくるやつは特に。けれど嫌な気がしない。

 「馬鹿! そういう意味じゃない! じゃなくて。……ったく。ベッドは一つ……体は二つ」
 「ええ、確かに」

 いっそ清々しいまでの、つい今しがた気が付いたという言い方をするルエをぎろりと一瞥する。
 ベッドは分割できない。体も然り。
 ベッドを魔術か手品で増やせないのは自明の理。
 部屋を増やしてくれと頼めば別だろうが金がかかる。貴重なカネを浪費するわけにはいかない。
 セージは無言でベッドの横に移動して胡坐を掻き内腿を叩いてみせた。

 「俺が床。ルエはベッド。完璧で問題なしのいい計画だろ」
 「女性を床に寝かせるわけにはいきません」
 「女性………」

 頑として頷かないルエの言葉に神妙な顔を作ってしまう。女性ではないのだ。中身は男性なのだが外見はごまかしようのない女性なのである。
 中身と外見が違うことを判断材料と情報無しに看破できたのはヴィーシカただ一人だった。ルエにそれを求めるのは酷であろう。
 ――いいだろう。セージは覚悟を決めた。
 そう、悩むことはない。修学旅行の雑魚寝を思い出せばいい。簡単ではないか。たった九時間同じ布団の中に転がるだけ。楽勝。里で土を満載した猫車を永延押すことと比べれば何のこともあらん。
 溜息を吐くと、首を振る。
 そしてセージはゆっくりと鎧を外し始めた。


 〝彼女〟は、36.5度の暖房(エルフの体温が人間と同じならばだが)と布団という保温装置が醸し出す暖かさを享受しながら、居心地の悪さを味わっていた。背中には親友というより相棒という呼び方が相応しい男性がいる。
 ルエは床で寝るなんてことをやめて一緒に寝ようと言って聞かずゴリ押したのだった。セージ自身、自覚がないようだが、押しに弱い。イニシアチブをとっている間はよいのだが、取られるとつい頷いてしまう傾向にある。
 セージの格好は普段着。パジャマという洒落た服装は重荷になるので置いてきた。ルエも似たようなものだ。
 着替えの際に隠し通してきた胸の包帯を見られ問い詰められた。里でも野宿でも徹底的に隠してきたというのに、ついうっかり鎧を外してしまったときに見られたのだ。怪我ではなくて胸を安定させるものと弁解しておいた。胸を小さくするための処置とは口が裂けても言えない。
 男性特有の香りがする。女性特有の香りがあるように男性にも特有の香りがある。人によって不快にさせるらしいが、セージには懐かしくさえ感じられた。
 女性特有の香りがする。ルエはそれの放射源が背後であることを認識して身震いしそうになった。思わず抱きつきたくなるが無理強いはできない。今はこれでよかった。
 寝苦しさを共有したまま、二人はいつしか眠りについた。




 夜も深まり宿の一階で酒盛りしていた連中は消え失せた。
 玄関の正面扉に異変が起こる。カチカチと小さな音を鳴り響き鉄と鉄が触れ合う音色がしたかと思えば、鍵を使ってもいないにも関わらず錠が解除されドアノブが回転した。
 音を消すべく布を張った靴。体に密着するようにゆとりを殺した衣服。短刀と荒縄。顔を覆う黒い布。それらを装備した一団。夜な夜な襲撃をかけて金銭を奪い人を殺す一派。
 だがその一団は金銭があろうカウンター奥には目もくれず宿泊台帳にさっと目を通すと、リーダーらしき男の指示のもと、二手に分かれた。
 一階二階の突き当たり部屋に泊まるエルフが目的である。
 それぞれの部屋には鍵がかかっている。何の複雑さもない基礎を元に作られた錠。魔術的備えもないそれを黒服たちが突破するのは時間の問題であった。



[19099] 九十二話 迎撃の鏃
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/19 21:21

 暗がりで、一人の名が囁かれる。それはテンポを変えて何度も。
 螺旋が徐々に上へと近づいていた。
 熱が熱を薪にして燃え盛り縮小と融合を繰り返す。僅かに冷たい物体と高温を宿した物体が触れ合い温度を平均化していく。螺旋を構成する意識が俄かに加速すると、角度を急にしていった。螺旋は徐々に高度を上げ、角度はもはや垂直と化す。その直線は高みへとせり上がっていく。線は稲妻のように角度をつけて何度も折れ曲がり、それでも高みへと昇っていき――限界を飛び越えた。熱はビックバンとなり勢力の枝を伸ばして拡散して、徐々に速度を失っていった。熱量の増大は停止し、融合と接触も沈静化を余儀なくされた。熱はやがて海へと吸い込まれていった。
 熱が消えれば、冷たさがやってくる。その冷たさは高揚を奪い不安を齎すものだ。
 溜息とも、あくびともつかぬ、曖昧で長い吐息が空間に吐き出された。唇は唾液に濡れて艶に彩られ、褐色の肌はほんのりと血潮を湛えている。
 もぞもぞと肢体が動くとぴんと張りつめた緊張を解いた。
 涙を纏った血のように赤い眼球が暗闇を睨む。

 「……っ」

 目の持ち主、メローという小柄な少女は、不審な物音に気が付き、意識を活性化させた。眠っていたわけではないのだ。眠れなかった、がより正確である。
 胸に抱き足の間に挟み込むようにしていた杖を起動させると、毛布を除けて、目に魔力を通した。血のように赤い瞳と、全身に施された刻印が官能的な燐光を放つ。ロウにより無毒化された魂を強制的に引き離し魔力を搾り取る機構――刻印。ただ魔力に反応して輝いているだけであると理解しても、かつての苦痛が蘇ってくる。
 杖が変形して宝石が励起状態となり弦を張る。イメージを矢として弦を引き威力を調整すると照準する―――扉の中央へ。

 「こん……ばんは…………〝矢よ〟」

 そしてメローは扉の鍵を解除しようとした闖入者へ挨拶をくれてやると同時に矢を発射した。絶大な威力を乗せた矢は衝撃波で部屋の内装をぐちゃぐちゃにしつつ空間を飛翔すると、扉を穿ち、鍵穴を開こうと試行していた不届きものの胴体を完膚無きままに破壊せしめ、反対側の扉へと吹っ飛ばした。

 「〝拡散矢〟」

 辛うじて被害を免れた輩が短刀片手に飛び掛かってくるのを、毛布を投げつけることで視界を奪うと、神速で次の矢を紡ぎ、手元から無数に散らばる矢で射殺す。弓兵が接近戦に弱いと誰が決めつけた。

 「わ、とと」

 射撃の反動を抑制できず体が宙に浮いたが、白い服の裾から覗く黒っぽい素足にて着地すると、踏ん張った。

 「奴を殺せ!」
 「俺が行く!」

 二人組が立ちふさがる。何せ部屋が狭いので大人数が入れず動きが制限されるのだ。

 「……んふふふふふっ!」

 笑いが止まらなかった。
 威力を制限することを止めた。魔力を徹底的に絞り出して行使してやろうと。
メローは、接近しようとする黒服共を拡散する矢の連射で悉く片づけると、ロウから譲り受けた杖に軽く口づけを落とし、靴を履いて、屍の山を踏み越える。頬にべっとりと返り血が付着していた。上の服だけ着て下を履いていないが、小柄故に上の服の裾がスカートのような役割を果たしていた。
 何事かと宿に泊まるものらが扉から飛び出してきてメローを見ている。
 半裸の髪の毛を乱した褐色肌のエルフが扉から出てくる。その手には弓。足元には穴開きにされた死体。誰かが盗賊と叫び声を上げると場は一時騒然とした。あるものは武器を取りに走り、あるものは宿から我先にと逃げ出す。
 メローはおもむろに目線を建物の隅に向けると、倦怠感を湛えた瞳に危機感を宿らせ、瞬時に身を翻し矢を構えた。赤い目に強い光が宿った。魔力に反応した大気が艶やかな黒髪をはためかせる。
 魔力を浸透させていき壁を抜く。

 「あ、あっ………やられ……る?」

 敵の姿が“見える”。セージとルエの二人に今まさに襲いかかろうとしている。間に合わないかもしれない。
 弦を指に挟み、引く。指と弦を繋ぐ一条の棒が出現するや、もはや槍のような長さへと伸長する。直径は糸のように細く。

 「〝天の矢〟!」

 メローが指を離すや弦が光の矢を射出し、旋風を作る。
 矢は天井を易々と貫通すると建材を消滅させつつ前進していきあろうことか二人の部屋の床を突き抜けると盗賊の一人の腰から胸にかけてを貫いた。視線の先では、二人が反撃に移る様子が映っている。
 瞳から光が消えていき、全身の刻印が沈静化した。

 「………ふぅ…………大丈夫……? かな……?」

 僅かに首を傾げるとぶつぶつと呟きながら階段を登っていく。状況を飲み込めない宿泊客たちは黒髪の少女の背中を見送ることしかできず唖然としていた。
 メローは階段へと逃げ込んできた盗賊の一人をコンマ数秒で構築した拡散の矢で瞬殺すると、廊下へ達した。二人がいる部屋の前には死体がいくつも転がっている。どうやら撃退したようだ。しょせんは賊の類。奇襲にしくじればチェックメイトも同然。扉からひょいと顔が覗くとセージが姿を現した。続いてルエが。

 「メロー! 助かったぜ。危うく死ぬとこだった!」
 「さっきのはメローですか? まさか壁ごと抜くとは……」

 二人は驚嘆を露わに死体を乗り越えて廊下へ進んだ。合流した三者は顔を見合わせる。
 セージは血濡れた銀の剣を布で清めつつ、死体を顎でしゃくる。

 「さっきこいつらエルフに死をとかどうとか抜かしてた。ひょっとして王国の残党とか、残党を騙る盗賊連中なんじゃねーの」
 「噂は聞いたことがありますが、本当にいるなんて予想外でした」

 エルフを迫害することで国内への不満の矛先を逸らさせようとした王国は既に崩壊してしまったが、残党は確かに存在する。エルフを狩る名目を共有した盗賊もいる。残党を名乗る盗賊もいる。いつの世も盗み暴力を働く輩は一定数いるということだ。
 セージは剣を鞘に納めると、野次馬連中が押し寄せてくるのを無表情で眺めていた。強い云々と感想を垂らすもの、顔を真っ青にするもの、もう一度術をやってみせろと催促する酔っ払い、その他大勢である。

 「………なぁルエー。俺ら建物とか壊したわけだが」
 「そ、そうですね!」

 セージはおもむろに背後の部屋を振り返らず親指で示した。ルエは恐々としつつ肯定した。
 乱闘のせいでベッドはひっくり返り壁は焦げて調度品はボロボロになっており、盗賊たちの焼死体や血だまりが床を汚している。また、メローの矢で天井に大穴とは言わないまでも風穴が穿たれてしまった。誰がやったのかは明らかであるが、原因を作った連中は悉く死んでいる。
 正義の味方が戦い街が壊れてもお咎めなしになるのはお約束だが、実際にはどのように判断されるか見当もつかない。
 セージは、二人の姿を交互に見て声を落とした。

 「俺ら、弁償とかしないでいいのかな……? こいつらが仕掛けてきたんだからいいよな? な?」
 「正当防衛と言いますか、やらなければやられていたわけですが…………」
 「おかね、もってないから、逃げる………得策……」

 逃亡計画を立て始める三人だったが、そうは問屋が卸さない。
 人込みをかき分けて寝間着姿の主人が姿を現すと悪魔のような笑みを浮かべて見せた。野次馬がさっと左右に分かれて道を譲る。モーセの十戒を彷彿とさせた。
 主人は眠っていたところをたたき起こされて不機嫌であった。おまけに宿がボロボロである。二部屋は最低でも使用不可能となってしまった。盗賊は全滅しており金銭を請求できない。主人も鬼ではない。盗賊の仕業とはわかっているのだが、このやりどころのない怒りをどうしてくれようと考えつつ、ニコニコと笑う。
 セージは凍り付いた微笑みを顔に張り付けて人形のように首を回した。

 「主人………まず最初に言っておくけど好きでやったわけじゃなくてさ! こいつらがドンパチおっぱじめたから仕方がなく反撃したんだってば! わかってくれよ! な?」
 「わかっているとも。わかっているけれど、暴れてくれた分はしっかりと返してもらわないとこっちも商売あがったりだわ」
 「………つまり」
 「働いてもらう」

 こうして約三名の短期労働者が増えたのであった。



[19099] 九十三話 労働
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/19 21:26

 蜂のように舞い、蟻のように運ぶ。
 使用人の服をドレス風に戻したとでもいうべき可憐な衣装とも作業着とも分類できそうな衣服を着込んだ、ブロンド髪を後頭部で纏め上げた女の子が飛び回るように働いていた。耳は細く尖っており肌が白い。エルフ族の特徴である。
 衣服は腰の部分できゅっと窄まっており引き締まったウェストの魅力を引き立てている。また胸元は張りのある丘陵の形をうっすら浮き上がらせていた。
 女の子の手にはエールを満載したジョッキが複数あり、腰の位置を上下させない見事な足の使い方にて運んでいくと、酔っ払いがたむろするテーブルで解放する。手際よく並べれば、注文を聞きつつ別のテーブルへ視線をやって注文が来ないかを牽制する。

 「おーい姉ちゃんエール追加してくれたんねーぞ!」
 「エール追加かしこまりましたー!」
 「こっちもまだなんだけど!」
 「はーい! お待ちください!」

 うっかり、喜んでー、と叫びたくなるところだったがぐっとこらえる。

 「飯がまだこないんだが?」
 「はいただいまー!!」

 セージはてんてこまいだった。ウェイトレスという人手の絶対数が足りていないため、必然的に個々の労働量が大きいのだ。
 空のジョッキ、中身入りのジョッキ、皿を厨房と机の間で行ったり来たりさせる。注文も聞きつつである。ちなみに酔っ払いが帰った後は掃除に部屋の準備に皿洗いにと仕事がてんこ盛り。最初の数日間は大変であった。ろくに注文を覚えられず怒られること数え切れぬ。やっと慣れてきても仕事量が変わらないのだから楽になるはずもない。
 いいことなのか悪いことなのか判断しかねるのだが、エルフがウェイトレスをしている噂を聞きつけて飲み客が増加傾向にあり、仕事はますます忙しくなっていく。
 おまけに、イレギュラー要素の乱入もある。
 セージがエールを並々注いだジョッキを机に置いている最中に、突如お尻に手を置いた客がいた。思わず小さな悲鳴を上げて手を払う。振り返ると酒臭い男の下衆な笑みがあった。

 「いい尻してんじゃーん。脱いでくれよー頼むよー」
 「っ! ……お客様困ります。あまり度を越すようだと実力で叩きだしてもよいと言いつけられてますので!」

 セージはあくまで客に対する態度ということでやんわり釘を刺すと、一瞬だけ身に陽炎を纏わせてみせた。無詠唱の火炎魔術の基礎中の基礎である温度を変化させる術。ポニーテールが揺れ、服の布地が波打った。全力で放てば大気を急激に膨張させて全方位を破壊することも叶う。
 宿に盗賊が押しかけてきたのを三人で全滅させた噂を耳にしているのか、男はあっさりと降参の意思表示として両手を挙げて着席した。

 「冗談だよう本気にすんなってお堅いなー。へへへっ」
 「……まったく」

 セージは注文を脳内で反復すると、酔った勢いで抱き着こうとしてくる旅の者をステップで切り抜けると厨房へと駆け込んだ。途中で壁を蹴っておく。
 厨房の奥にいるであろう係りの者に注文を告げると、また蹴る。腕を組んで営業スマイルを捨てた様はいつものセージである。不機嫌を鍋にぶち込んで煮詰めて塗りたくった顔で、床を靴で断続的に叩いている。

 「あぁ糞忌々しい。服もなー………畜生、スカート短くしろぉ? 腰を絞れぇ? これもあれも盗賊が悪いってのに………」

 不平不満をひたすら垂れ流しつつ、スカートの裾を下に引っ張る。スカートは短い。と言っても基準は踝も見えないようなロングスカートであり、脛が覗くだけの露出である。とはいえ男性の服を愛用してきたセージにとって、いきなり女性の服は精神的に厳しい。
 だが、服装は決まっているため脱ぐのは許されない。羞恥心を殺して臨まねばならぬ。

 「………よし。こいつがここ、こっちとこっちとここで……いける」

 山のようなジョッキが運ばれてきた。それを指に挟み腕に抱えると零れない限界の傾きと揺れを目測で計算してフロアーへと進出する。

 「おーい注文なんだけど!」
 「ただいまー!」

 運んでいる最中というのに、客が手を挙げて新たな注文をした。
 セージは首だけ回して返事をすると、手早くジョッキを並べていったのであった。
 本人に伝えれば首がもげるまで左右に振るだろうが、割と順応していた。


 一方その頃、ルエも働いていた。
 エールの樽を台車に載せて運ぶ作業。薪を割る作業。洗濯。ようするに純粋な肉体労働である。それなりに体を鍛えていたことが災いしたのである。ウェイトレスやコックをやったらやったで大変ではあるが。
 脂肪のなく筋肉のある均整のとれた上半身を惜しげもなく晒したエルフが一人宿の裏庭で労働に従事していた。作業を続けるうちに暑くなり脱いでしまったのだ。全身はしっとりと汗に濡れており、中性的な顔立ちと相成って、女性的な魅力さえ醸し出していた。
 ルエは薪を切り株の上に据えると、斧を軽く振りかぶり、刃を食い込ませた。

 「よっと…………ふっ!」

 次に薪ごと斧で持ち上げると、振り下ろした衝撃で割る。傍らには適度に細分化された薪の山。何せ宿である。料理にも暖房にも使う。いくらあっても損がないのだ。
 数時間に及ぶ格闘を終えたルエは、切り株に腰かけて一休みに没頭し始めた。銀髪を後ろで結ぶスタイルは仕事のせいで酷く萎れていた。セージが指摘したとおりに外見をよくするために鍛えていただけに、持久力がなく、疲れに強いとはいい難かった。
 ルエはひとまず今日はこのくらいでいいだろうと薪の山を見遣り頷くと、斧などの道具を満載した棚にひっかけておいたタオルを取り顔の汗を拭いた。
 そして体の汗を何とかしようと水浴び場がある宿の裏まで歩く。水浴び場と言っても水が置いてあり桶があるだけだ。
 まさか冒険の旅に出て薪を割ることになるなんて。ルエは暫しぼーっとしていた。
 やがて水浴び場までやってくるとズボンを脱ぎタオルを腰に巻いて髪を結わく糸を取り、頭から水を浴びる。思わず声が出た。

 「おぉっ!? ……冷たい………あー、冷たい」

 誰もいないのだ、丁寧な口調にする必要もなく。
 冷たく清らかな水が汗を流し体温を落としてくれる。とりあえず頭髪を擦り、腋などの汚れが溜まりやすい個所を重点的に洗えば、腰に巻いたタオルを絞って全身の汚れを取り、薪割り場へ戻って服を装着する。髪の毛の水気は魔術で飛ばしてしまう。風魔術で髪の毛乾燥など旅に出る前は考えもしなかった。
 宿の中に戻って掃除をしようとして裏口から入る。従業員らがばたばたと忙しく駆け回っていた。
 髪の毛を後ろで纏めつつ廊下を歩いていき、客の目に留まらないようにしつつ掃除用具入れがある場所へと向かった。
 ところが明らかに酔った獣人の女性がふらふらと近寄ってくると、ルエの前で止まり、おもむろに顔を上げた。獣人は酒に酔っても顔が赤くならない以前に毛並でわからず外見で判別は難しいが、喋り方と歩き方で容易に判別できる。
 獣人の女性はルエを見上げるや耳をピコピコと動かした。両手を合わせる。尻尾が左右に揺れていた。

 「まぁ! お兄さんお名前は? ひっく。素敵ねぇー可愛い顔。食べちゃいたい。ひっく。ふふ、ねー今夜お暇かしらん?」
 「ルエと申します。酔われているようですね。お水でも持ってきましょうか」
 「はぁいおねがぁい」

 女性は、やけに間延びした言い方と甘えるような喋り方をする。ズバズバと指摘して言いたいことを言う女性が好きなルエにとって苦手なタイプの女性である。
 ルエが水を入れたグラスを持って来たときには、獣人の女性は壁に寄り掛かって寝息を立てていた。
 どうしたものか。グラスを床に置いて傍らに跪き肩を叩いてみる。

 「もしもしお客様。立てますか?」
 「……ねむーい。ね、お兄さん運んでよ私だるいよ眠いもん」

 対処法に困ったルエが目線で助けを求めていると、いつものようにローブを着込んだメローが現れた。彼女も仕事の真っ最中。飲み屋でありがちな喧嘩で生じる怪我人を手当てするという比較的楽な役回り。怪我人が出ない時は基本的に暇である。どうやら外見の幼さ故に年齢を低く見積もられたらしく体力がなくてもいい仕事を宛がわれたらしい。
 メローは獣人が壁に凭れ掛かっているすぐそばを通ると、ルエに向かい手を振って見せた。もし親指を立てて激励することを知っていたら迷わずやっていたであろう。

 「がんばって………」
 「………はい」


 ルエは結局獣人の女性を担いでいくこととなったのは言うまでもない。


 仕事は続いた。盗賊と三人が作ってしまった損害を埋め合わせるためには十分な日数が必要だったのだ。とはいえ三人の噂を聞きつけた客によって売り上げは伸びて主人が想定していたよりもはるかに短い期間で金銭は集まった。
 ある日三人は呼び出され仕事の終了と、今後働くことについての是非を問われた。
 三人そろって丁重にお断りすると、改めて旅支度をするべく町へと繰り出していったのであった。



[19099] 九十四話 銅の傭兵団
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/19 21:28
 塩を調達。蹄鉄も修理した。準備が整った一行は町を発った。
 相談の末、一目を避けて旅をすることとなった。エルフを狩るような連中が跋扈しているというならば可能な限り戦いは避けなくてはならない。戦って得るものがあるならばいいとしても、戦って傷つくだけならば、避けるべきなのだ。
 だがそれも、相手側からやってきた場合は別である。
 馬列の行き先を塞ぐかのように赤茶けた服装をした連中が現れた。木陰に隠れていたらしく視認が遅れた。前方の障害物を避けられないと判断した馬が嘶き大慌てて減速するとその場で砂煙をあげて停止した。
 赤茶けた服装の一団は馬の前と後ろを塞いでしまうと、剣呑な目つきで三人をじろじろと見遣った。
 盗賊だろうか。緊張したセージであったが、どうやら様子がおかしい。脅し文句の一つ、攻撃の一つ飛んでこない。盗賊と勘違いしたかメローが早速杖で近場の男をミンチに変えようと準備し始めるのを制する。
 セージはそれとなく腰の小型二連クロスボウに触れつつ、冷静な口調で訊ねた。

 「メロー、やめろって。それで道塞いじゃって何か用? オッサン方」

 集団のリーダー格らしい燃えるような赤毛の男が正面に出てきた。三十代くらいであろうか。若さと老いが程よく同居する年頃。体は衣服の上からでも見て取れる程に鍛え上げられ、しょい込んだ太く頑丈そうな金属製のメイスが威圧感を醸し出している。首には穴の空いた模様すらない銅の硬貨がネックレスとしてぶら下がっている。
 セージにはわかった。実力者だ。おまけに周囲を取り囲まれている。多勢に無勢。一方的に虐殺される予感がした。
 ふとセージは、記憶の引き出しを探り、デジャヴに近い感覚を味わった。どこかであったことがある気がするのだ。
 赤毛の男は腕を組みむっつりと口をへの字に曲げたまま馬の側面へと歩いてくると、そのまま後ろへ回り、また戻ってきた。そしておもむろに口を開く。

 「旅の者よ。我ら銅の傭兵団が訊ねたいことがあり馬を止めた。我らが離反者の目撃談を探している…………ん? おい、待て。貴様………貴様がなぜそれを持っているのだ」

 いかにもという高圧的な態度で質問せんとする男だったが、中断せざるを得なかった。癖でネックレスを触ったところ、周囲の者らのポケットと、セージのポケットが輝いたのだ。
 男は信じられないという顔でネックレスをセージの方へ近づけた。あってはならない反応であるからだ。
セージはポケットを探ると、財布から一枚の硬貨を取り出した。何の変哲もない銅貨。特徴の一切を排除した模様も飾りもない無柄のそれ。男のネックレスに反応するかのように輝いている。

 「あれ? あれえ?」
 「セージ。その硬貨はいったいなんですか?」
 「知らん。え? なんだっけこれ……」

 背後からルエが質問をぶつけたが、首を捻るしかなかった。この硬貨はなんだ、どこで手に入れたものだと。暫し考えて喉の奥から小さい合点の声を上げる。そうこれは以前とある村で出会った女性から譲り受けたものだ。なるほど、あの赤毛の女性――アシュレイが言っていた傭兵団なる組織は彼らだったのか。数年越しの謎が解けた。
 一方で銅の傭兵団を名乗る一団は、その硬貨の出現に驚きを浮かべていた。
 リーダー格の男は目を丸くして銅貨を凝視していたが、やがてネックレスを首に戻し、声を落とした。

 「その硬貨は我が傭兵団と契約を結んだものだけが所有を許される証。しかし、だ。いまだかつて我らと契約を結んだエルフ族はいない。譲渡するのは契約違反だ。これがどういう意味か分かるか?」

 周囲のざわめきが一斉に静まり返る。水に凍りを垂らすが如く。
 セージは、その沈黙が一種の殺気であると探知した。どうやら硬貨は傭兵団と何らかの契約を結ぶことで入手できるものであるが、エルフ族と契約を結んだ記録がないらしい。確かアシュレイは指輪のせいでセージを人間と勘違いしていたはず。人間に渡すつもりでエルフに渡してしまったのだろうか。そして今、一行は指輪をしていない。
 なんてこった。セージは頭を抱えたくなった。腰にやった手を頭にやって髪の毛を梳くと、指の合図を背後の二人にやって見せ、反撃を示唆する。
 セージが手のひらに置いた硬貨を指で弾いて反対側の手中に移動させた。

 「さー? 俺には何が言いたいのかさっぱりわからない」
 「契約者を殺して奪い取ったか、買い取ったか……いずれにせよ契約違反だ。貴様らはこの場で拘束される。暴れない方が身のためだ」

 男は冷酷な口ぶりで背中のメイスを抜くと、全身に力を滾らせた。傭兵らが馬の前後左右へと散らばって武器を抜く。剣、槍、クロスボウもある。盾を構える者もいる。人間に混じって獣人もいた。
 セージは降参と言わんばかりに両手を挙げると、大げさに息を吐いた。

 「了解了解。こう手を挙げれば武器に手は届かないだろ。好きにすればいい。まぁ魔術は使えるんだけどな。ルエ、やれ」
 「〝風よ〟!」

 会話の中で自然と指示が送られた刹那、三人の乗る馬を起点に竜巻が生じると、傭兵らを優に数m吹き飛ばす。メローが背中の杖を握ると矢を構えた。
 セージは背中の槍を抜いて保護カバーを歯で噛み締め取り去れば、馬の背中を蹴って空中で優雅に一回転して着地した。

 「甘いなぁ! 反撃するということは、やましいことがあるってことだ!」
 「……ぐうっ!?」

 が、次の瞬間、風などものともしなかったのか、赤毛の男の腰のバネを利用した中段蹴りがセージの腹部へと突き刺さった。間に挟まった槍などものともしない脚力が腹筋へと圧をかける。たまらずセージは後ろに倒れ込んだ。
 わっと、まさに砂糖に群がる蟻のように、傭兵らが殺到する。風で転倒させて優位に立ったはずが、あろうことか先読みされていたかのように、僅かな間で立て直されて包囲されていた。
 メローが矢を放つ前に髪の毛を掴まれ馬から引き摺り降ろされると、足で踏まれて地面に縫い付けられる。魔術を唱え馬の真上に跳躍したルエへ獣人が飛び掛かって叩き落とすと首を腕で締め付ける体勢に入った。手馴れている。熟練の戦士ばかりのようだった。
 ルエは意識が徐々に落ちていくのを感じつつも、暴れていた。端整な顔立ちが歪んでいた。

 「セージっ………逃げ……」
 「くそッ……」

 脚を振る反動で立ち上がり魔術を唱えんとしたセージへ、赤毛の男が瞬時に肉薄すると、メイスの柄を叩きつけた。咄嗟に槍でガードする。ドラゴン骨がたわむ。反撃の為に至近距離からクロスボウを放とうとしたが、横合いから男にタックルされて地面に転がってしまった。
 地面から槍を使おうと躍起になるも、今度は青白い電流が赤毛の男から放たれ、肢体をがんじがらめにした。

 「ぁぁぁぁあああああぁぁっ!!」

 赤毛の男がメイスから電流を迸らせながらセージへと歩み寄ってくる。
 人体を損傷するほどではないとはいえ、十分苦痛を感じる威力の電流がセージの体を蹂躙する。筋肉が勝手に動き、思考が滅茶苦茶となり、まともに考えることもできず、叫び声をあげる。痛くもあり苦しくもあり痒くもあった。
 赤毛の男は容赦なくセージの腹部に蹴りを見舞った。一瞬、電流が止んだ。

 「がふっ、ぐぇぇっ……」

 セージが鎧越しにも伝わる衝撃に悶え体を丸める。既にメローは無力化され、ルエは気絶しているため、誰も心配してくれない。
 赤毛の男は鉄仮面を被ったまま、爪先を振りかぶり、腹へと叩きつけた。鈍い音が響く。
 二回、三回、四回。
 セージはとうとう意識を保っていられず意識を手放した。



[19099] 九十五話 首輪付き
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/21 02:23
 目が覚めると、そこは牢獄だった。
 頭がというより腹が痛かった。内臓に由来するというより、皮膚と筋肉が痛んでいるようで、これはこれで不快であった。一番近いのは打撲による外傷である。そこまで考えたところで瞳を開く。瞼が涙の乾燥した感触でざらついている。
 肺胞に酸素を通せば、すぅと鼻から抜き、くぐもった言葉を吐き出す。

 「くそー………腹ばっか蹴りやがって………」
 「…………だ……ぅ……だいじょうぶ?」
 「メロー。お前、随分寒い格好してんなぁ……」

 と、目の前には膝を抱えて座り込みこちらを覗き込んでくるメローの赤い瞳があった。メローはいつものローブではなく黒っぽい肌着のみを着込んでおり、肌寒いのか鳥肌が立っていた。見慣れぬ環境にあるせいか視線は戸惑いを強く背負っており、言葉がどもっている。
 メローが不安さを隠そうともせず己の首を弄っている。首にはごつごつとした大きな首輪がかかっており半透明な石がはめ込まれていた。

 「俺もかよ。畜生……槍とかどこいきやがった。首輪もついてるし、訳わかんねぇ。腹いてぇ……これでも女の体だってのに腹はねーだろ糞赤毛野郎。次会ったら殺してやる。鼻へし折って……」

 胡坐をかいて、文句を並べて行進されてやった。行進曲は吐息である。
 ふと、自分の服装を確かめてみれば、鎧も武器もなく肌着のみであり首には同じような首輪が嵌っていた。誰かが脱がして首輪を装着したのか。意識を失っている間に己に起こった出来事に眩暈を覚えつつも、首輪が外れないかを試してみながら、周囲の環境へ目を配る。
 そこは岩山をくり抜いて部屋に仕立て上げたような広間であり、壁際に格子をはめ込んで個室にしていた。収監するためというより見通しをよくするためのように思われた。何故なら、扉に鍵がかかっていないからだ。手の届かない上の方には松明が掲げられており盛んに燃え盛っていた。よく見てみればセージとメローと同じような格好をした連中がたむろしている。皆、女であり、目に生気がなく疲れ切った顔をしていた。
 ――まるで奴隷労働者のようではないか。
 セージの脳裏に率直な印象がちらついた。粗末な服といい首輪と言い奴隷のようだ。この上なく奴隷という普遍的な概念を具象化したかのような格好ではないか。
 セージは何気なく首輪を弄りつつ、片手に火を出現させようとした。魔力を察知したメローが口を開きかけたが間に合わない。
 刹那、魔力の作動を探知した首輪から行動不能に陥る出力の電流が迸った。皮膚を伝い全身へと蔓延る。

 「ふぐぐぐ! いつつつッ!!」

 体が勝手に動作する。視界が白黒を行ったり来たりして、苦痛の悲鳴を上げた。十秒か、もしくはそれよりも短いだろうか、いつの間にか電流は去っており、静寂だけがあった。
 メローがセージの肩に手を貸すと、起き上がる手伝いをする。

 「わたし………もやった……でんきいたい。魔術だめ」
 「最高だ……二日酔い以来の気分………メロー……先に、言うべきだと……」

 たまらず悶絶して倒れ込んだセージは、ぶつぶつと不満を零し、ついでに誰にあてたとも知れない皮肉を紡ぐと、メローの助けで起き上がり、首輪にそっと触れた。魔術が作動するのを検知するや否や電流が流れる仕掛け。魔術が使えないとなるとセージはただの女の子に過ぎない。抵抗するだけ無駄かもしれないと瞬時に悟る。
 乱れたブロンド髪を適当に繕うと人生初の電流責めの感想をひたすら並べようとした。やめた。体力と時間の無駄だ。愚かさは唾液に紛れて食道に押し込めればいい。
 セージがメローに現状を訊ねようと口を開いた。するとメローは部屋の外を指差した。気配がする。振り返ってみれば、これまたどこかで見たような顔立ちの赤毛の妙齢の美女がいた。
 赤毛の女は黒系の上品な服に身を包んでおり、服の上からでも起伏ある魅惑的な肉体美を余すところなく浮き上がらせていた。匂い立つ気配はどこまでも妖艶であり美しい。
 女の顔立ちと赤毛に引っかかる点を感じたセージが黙っていると、女の方から言葉をかけてきた。

 「新人さんお二人ともようこそ。銅傭兵団の鉱山へ。私の名前はアッシュ。といってもそっちのチビちゃんとはさっき顔を合わせたわけだけども……」
 「俺は、セージ。こっちがメロー。で、俺に何をしろっての。こんな首輪付けさせちゃって。大まかわかるけどさ」
 「物わかりがいい子は嫌いじゃないわよ」

 セージはいっそ開き直った態度でアッシュへと言うと、むっつり口を塞いで腕を組んで見せた。仰々しい首輪といい、環境と言い、該当することが一つしか思い浮かばない。
 アッシュが一枚の硬貨を指に挟んでちらつかせた。柄のない、簡素な一枚を。

 「これをエルフ族であるあなたたちが持っていたのが最大の理由ね。これは我らが一族と契約を交わしたものだけが所有を許され、行使できる証。一体全体、誰から盗んだのかしら」

 セージは迷った。とある村に住まうアシュレイについてばらすべきかと。もし口を割ろうものならアシュレイが殺されてしまうのではないだろうか。時に偽悪的にふるまうことのあるセージであるが、根っこは良識ある人間である。だが永延奴隷労働は勘弁だった。
 溜息を吐くと、首輪を弄りつつ、告白してしまう。

 「アシュレイって……そう、あんたそっくりな女の人から貰った。質問は?」
 「………なんですって」

 アッシュの顔が目に見えて青くなる。
 やはりか。合点した。顔と髪の毛の色がそっくりだったとはいえ確証はなかったが、アシュレイとアッシュ更に腹を蹴ったあの男は同じ一族らしい。そしてアシュレイの傭兵団を抜けてきた云々からするに内輪もめがあったのだろう。
 セージは貰った、とだけ口にして追加の情報を喋るまいと黙っていた。
 話を全く知らないメローはきょとんと目を見開いて二人の顔を交互に窺う。
 彼女は、気味の悪い沈黙の後、首輪をかけた連中が興味半分に聞き耳を立てているのを一瞥し、硬貨を仕舞い込むと咳払いをした。手を叩いて野次馬連中を散らしつつ外へ出ていく。道中で振り返ると小難しい顔で口を開く。

 「人の話を盗み聞きするなんて恥を知りなさい! ……セージとか言ったわね。事情は何であれ働いて償って貰うわ。詳しい話は班長から聞くように」
 「へいへい」

 アッシュがいなくなり、再び二人きりとなった。無罪を主張してみたはいいものの、通らなかった。
 反乱でも起こすか、真面目に働くか。ある意味で無実とはいえ反乱などというリスクを負うつもりなど全くなく、働いてとっととおさらばしようという判断を下す。こういう場合、主人公は格好よく反逆して支配体制を瓦解させるだろう。だが、セージは違う。かつてなら脱走を計画したかもしれないが今は仲間もいるし下手に動くことはできない。
 セージは胡坐を解くと、広間の様子を目の隅で捉えつつ、謝罪した。

 「今更だけどメロー……ごめんな。あんなしょぼいコイン捨てちゃえばよかった。使えるかもと財布に突っ込んでおいたのすっかり忘れてた」
 「いい。あの人………ふふ。慌ててた……。たぶん、すぐ出れる……皆殺しもすてき…………じゃ、じゃないけど」
 「あぁ……ウン。ともかく期間と仕事内容を知らないとな」

 きな臭いことを微笑みと共に口走った黒髪の少女に若干恐れを抱きつつも、労働とやらが何かを思索する。奴隷というより借金を返すための労働所のような扱いであるという条件を入力しておく。
 ふと、見慣れた相棒がいないことに気が付く。ルエはどこへいるのだろうか。
 疑問を抱えていると部屋に誰かが近づいてくるのが見えた。また女だ。ボサボサの黒い髪の毛を後頭部にゆったりと垂らした屈強そうな女性。服装は肌着一枚ではないが、貧相な布地と装身具がセージらと大差ない身分であることを無言のうちに告げる。
 女は他の奴隷達と違い疲労が外見に張り付いているわけではなかったが、どこか気だるげであった。

 「新人だって? 事もあろうにエルフ!」
 「んだよ。班長さん?」
 「そうよ私が班長。女性組を取り仕切る頭。作業は単純明快。岩を砕くだけ。わかったら返事なさい」
 「はいはい了解了解」
 「……了解、しました………」
 「よろしい」

 班長を名乗った女に対し渋々といった様子で二人は承諾した。
 セージは女が次の言葉を告げる前に、手を挙げて発言を求めた。もしこれが真の意味で奴隷の立場なら鞭が飛んできただろう。女は嫌味のこもった溜息を吐いて許可する。

 「ルエっていう銀色の髪をした色男はどこへ……えー、行きましたか」
 「男性組さ。岩を運ぶ仕事をやってもらう。さて説明の続きだけどあんたら三人の犯した罪を償うには……一か月みっちり働くんだね。本当なら半年……一年二年は働き通しなはずなんだけど、まぁ……私には関係ない」

 女はそこまで言うと気に入らないと顔をしかめた。まるで鼻先に蠅がうろつくのを眼力だけで追い払おうとするかのように。
 セージは、ほっと胸を撫で下ろした。やはり奴隷というより傭兵団にたてついた連中に償いをさせるような施設らしい。少なくとも鞭で打たれることはない。働く期間が延長されるだけだ。
 次に女は一通り仕事についての説明と規則について事務的に説明をすると鼻を鳴らして歩き去って行った。
 今日は遅いので仕事はないらしい。仕事は早朝から夜まで。一日三食付き。条件は悪くない。これが土建の肉体労働ならばの話であるが。
 周囲は、エルフの労働者がやってきたということでやたら視線を集中させている。毎日土と岩にまみれて働く日々には刺激が酒のように作用する。事件というものは人の好奇心を誘うものだ。
 ただ、メローは、その無遠慮な視線に孤独な羊のように怯えていた。視線にさらされる環境を経験したことがなかったからである。不安になる要因の一つに魔術が使えないこともある。魔術という殻が無くなり身一つとなったメローは己の無力さに恐怖を覚えていたのだ。
 セージはメローの肩を軽く叩くと、背中を擦ってあげた。

 「安心しろ。取って食われるようなことはないって。まず話してみようぜ。俺がいる限り手出しさせないから」
 「うん」

 メローは不気味な笑みではなく、子猫のような柔和な笑みを頬の筋肉に僅かに乗せてこくりと顎を引いて頷いた。
 姉か兄になった気分に陥るも、すぐに打ち消す。体の細さ顔の幼さ故に年下のように感じられるが、実のところ大差ない年齢なのだ、よくて同級生であろうと。
 こうして二人は、興味津々という雰囲気が物質化するのではと疑いたくなる熱視線を送ってくる少女の方へと近寄って行ったのである。



[19099] 九十六話 名前とは
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/21 02:45
 セージは、己の耳を触ろうと接近する手をむんずと捕まえると、細目で牽制した。相手は白い歯を見せて笑いつつ手を引っ込める。こいつめ。油断ならぬ奴だ。
 やはりというか鉱山では娯楽が枯渇していた。楽器の類もなければ本もなく遊びといえば話すことや歌くらいなものであった。外部からやってきた新人二人は娯楽に飢えた労働者たちの好奇心を集中して受けるだけの魅力があったのだ。とはいえよそ者がいきなり入ってきても警戒される。唯一、その少女だけが気軽に話しかけてきたのであった。
 くりくりとした大きな目。茶色っぽい髪の毛は短く切りそろえている。悪戯っぽい顔立ちはどこか肉食獣を思わせた。肉体はすらりと伸びて筋肉を抱えており、足や腰の線は鍛えられた美しさを湛えている。胸元は悲しいほど薄いが欠点にはならずむしろ肉体の軽快さを強調するようである。
 少女はにこにこと親しみやすい笑みを浮かべつつ、胡坐をかき、身を乗り出してくる。

 「それでそれで? どんな風に迫られたの? ん?」
 「迫られてないから!」
 「だってさっきルエとかいう男の子に押し倒されたとか言ったじゃない。どこまでいったの? ねぇ。キスの先。教えてよ。どこまで? どこまでイッたの?」
 「何もしてないんだよ! な、に、も! しつこいぞ、この!」
 「嘘だぁ~」
 「嘘じゃねーってぇ!」

 圧倒的な言葉の激流にはさすがのセージもたじたじであり、仰け反って顔をひきつらせていた。
 この少女、初っ端からセージにピンポイントで彼氏はいるのか云々の話を吹っかけたのである。セージがうろたえたのをいいことに根ほり穴掘り聞きまくる。メローにも話を振ったがニヤリと怪しげな笑いを浮かべるだけで話そうとせず、結果的にセージにのみ話が矢継早に放たれている。
 セージはマシンガントークを躱そうと顔の前で手を翳すと首を振った。

 「そ、そんなことよりも名前教えてくれよな。あと仕事の手順とかさ」

 話好きは嫌いではないが、まず知るべきことを知りたかった。
 すると少女はぱっと手を合わせると僅かに頭を下げて謝罪した。

 「あっ、いけない。ごめんなさい。毎日暇で暇で死にそうで……仕事は忙しいけど……つい、ね。名前はガブリエル。ほかのみんなはおいおい紹介するから」
 「はぇー。天使かー……かっこいい名前してんなぁ」
 「え?」
 「え? ガブリエルって天使じゃね。違ったっけ」

 咄嗟にガブリエルという名前について感想を述べた。神話が好きで資料本を買いあさっていた時期もあり夢中になって読んでいた頃を思い出した。ガブリエルと言えば天使だ。その筈だと相手に訊ねてみる。
 ガブリエルが怪訝な表情を浮かべた。陽気な少女というより司書のような小難しい雰囲気を醸し出して。一方、メローは首を傾げていた。まるで理解できないというかのように。
 ガブリエルは笑みを消した真顔となり胡坐を解除するとセージの方に前のめりでにじり寄った。粗末なボロ服故に胸元が丸見えとなったが、気にするでもない。こういう時目を背けるべきか、自然な風を装うのか、わからなくなる。
 ガブリエルは片手でメガホンを作ると、おもむろに部屋の隅を指差して見せた。セージの肩に手を置き半ば引き摺るようにしていく。

 「ちょっと隅の方で話そう…………」
 「別にいいけど。ナニ、なんなの」

 拒絶する理由もないので壁際に移動する。二人きりの環境を作りたいという意図はわかる。メローに聞かれたくないことなのだろうか。一抹の不安を抱いた。
 ガブリエルは深いため息を吐くと前髪をかき分けて、壁に寄り掛かった。そして腕を組み咳払いをする。

 「ガブリエルが天使ってなんで知っている?」
 「え、天使じゃん」

 相手の言葉の抑揚が微妙に変化している。疑いと不安を綯い交ぜにした濁りあるものへ。
 ガブリエルは快活な笑みではなく、眉に皺を寄せ、壁の向こう側を窺うかのような目つきで問いかける。

 「ガブリエルが天使ってのはキリスト教での話だろう。この世界にキリスト教はない。ガブリエルなんて名前もな。珍しい名前って反応なら、こんなこと言わないが……天使って知ってるとなると、な」

 お気楽そうな目が色合いを潜め思慮深さを宿しセージを見つめている。口調も女のそれではない。むしろセージと同じような男言葉である。
 心臓がぴくりと跳ね上がった。高所から落下する際に味わう内臓が持ち上がる感触である。

 「…………え、え? つまり! ……つまり」

 口から出てくるのは意味のない言霊ばかりであった。手と手を組んでみたり、暇そうに地面をほじっているメローを見てみたり、無駄に髪先を整えてみたりする。心音が耳で認識できた。脈拍が高まっているのだ。冷静に分析する己を意識した。
 ガブリエルが次に何を言ってくるのかを正確に予知できた。

 「お前俺と同じ世界の出身だろ」
 「………ああ!」

 強く頷いた。同時に心臓が痛いほど働き始める。背中に汗が染み出す。
 この世界にやってきて、自分が唯一の異世界人ではないことを知っていた。手紙という形で記録されていたからだ。まさか生きた姿で対面することになるとは予想だにしていなかったが。
 ガブリエルはおもむろにセージの髪の毛を指で触れた。次に頬に指を沈める。しばらくして離し唇に指を当てて熟考すると、ややあって面をあげた。

 「セージ。ついでに性別とか違ってるんじゃないのか。俺みたいに。こう見えて男だったんだぜ」
 「……その通り。元の世界というと地球か?」
 「この星が地球かどうかにもよるが二十一世紀だったぞ」
 「マジかよ! 握手してくれ!」

 感極まるとはこのことだろうか。セージは相手を視界の一種の歓喜に打ち震えていた。強引に相手の手を取るとぎゅっと握る。同郷の者どころか同じような境遇だったことに感動を覚えた。
 ガブリエルも口元を緩ませて手を握り、軽く振った。二人の様子は親交を深めているだけにしかみえないであろうが、時間と空間を越えた巡り会いの瞬間である。
 セージは半ば興奮状態であり頬を上気させながらしかし緊張を心の内側に秘め訊ねてみた。

 「もし……その良ければ俺と行かないか。元の世界に帰れるかもしれないんだ」
 「あー………いや、別にいい」

 ガブリエルは逡巡をみせたが、すぐに首を横に振った。静観、達観、悟り、の類の吐息を言葉にのせて。

 「……なに?」

 ありえない。聞き間違いではないのか。耳がおかしくなったと思った。元の世界に帰りたくないと堂々と口にできるなど、どういう経緯があるのか、セージには理解できなかった。
 ガブリエルはセージの掌を包み込むようにすると、次に肩を叩いた。頬に朱をのせて物語る。表情は至って真面目であり真摯さが滲んでいた。

 「絶対に元の世界に寸分の狂いも無く戻れる確証があるならまだしも可能性なら勘弁してほしい。これでも、こっちの生活楽しんでるんだ」
 「……捕まってるのにな」
 「まぁな」

 にやりとガブリエルは笑みを浮かべると音程を掠れさせた。手で口に囲いを作り音の出る方角を制御する。セージの背後のメローでさえ一言も聞こえぬようにしているようである。

 「ここだけの話、脱獄計画考えててさ。外に仲間がいる」

 顔だけは笑っているが目はその限りではない。言葉は真面目かつ冷静であり説得力に溢れていた。
 だがセージは脱獄と元の世界に帰ることとの繋がりのわからず質問を重ねる。事情に詳しいならば質問は不必要だが生憎違う。

 「脱獄……ガブリエル。元の世界には帰りたくないのか?」

 するとガブリエルはますます音程を低くして囁き声の声量も絞り、語る。腰に手を置いてみせ、くびれを強調して。

 「いまのところはな。諦めたんだ。それに女も悪くないんだぜ。外に俺のこと好きって男がいてさ、まぁ盗賊なんだけど、出たら子供でも作ろうってな。作る側から宿す側になるのも悪いもんじゃない」
 「でも、男だったろ」
 「昔はな。人間諦めが肝心だぜ。第二の人生貰ったとして生活する。それが俺のスタンスだ。ヘマしちゃったけど脱獄して華麗に楽しんでやるつもり」

 食い下がろうとするセージにガブリエルはウィンクしてみせた。
 そう、彼女は諦めたのである。割り切ったとも表現できよう。ネガティブをポジティブに変換したのである。あっさり元の世界を手放してこの世界に順応することを選択した。かつてエルフの村に落ちてきた地球人のように。
 割り切れず諦められないセージにとって理解しがたい価値観だったが、心のどこかで賛同してしまう自分もいるのだから余計に自己嫌悪が強くなる。
 片目をつぶって見せるお茶目な仕草を前に、思う。
 ――もし帰ることも元の体に戻ることも叶わないとしたらどう生きていけばいい?
 ふとセージは無性にルエに会いたくなった。
 ガブリエルはセージの顔を覗き込むと頷いてみせ、相手の若さに感づいた。ガブリエルの中身はセージとは比べ物にならぬほど年老いていた。新しい人生を得て感謝しているくらいだったのだ。人生の酸いも甘いも知り尽くした先輩と、まだ大人にさえなっていなかった後輩とでは、価値観に相違あって当然なのだ。
 息を吸い吐いて咳払いをすると、先ほどとは打って変わって違う女言葉へと切り替える。カチリとスイッチが別の属性へと境界線を越える。

 「ま、とにかくこの話は極秘事項ということで、お仕事についてなんだけど」
 「………ガブリエル。男性組の連中と面会できたりしないかな」
 「仕事は………ン、いいよ、教えてあげる。あっちのチビさんに伝えておくから」

 何かを察したのかガブリエルは深く追求せずに場所だけを教えた。仕事内容についてのレクチャーはメローにすることとなった。
 セージは難しい顔で腕を組んだまま、他の労働者たちの視線の中をものともせず歩いていくと、男性組と接する設備へと到達した。そこは岩をくり抜いた空間を鉄の柵で区切った場所であり、カップルらしき労働者らが雑談したり柵越しにスキンシップをはかっていた。人間もいれば獣人もいる。
 その中で、いかにも居心地悪そうにカップルらを避けるようにして柵の隅の方で佇む銀髪の男がいた。誤認しようがない。

 「ルエ!」
 「セージ? セージ!」

 セージと全く同じことを考えたかは定かではないが、ルエもまた同じ場所にいたのである。
 二人は、駆け寄るとお互いの様子を観察した。
 ルエも同じように薄着であり、装備品の類は指輪を除いて一つもない。身包み剥がれたのだろう。
 ルエが柵越しに両手を出した。彼は柵を掴むつもりだったのだろうが、セージは何を思ったのか無意識に握り返すと体を寄せた。ルエはドキマギしつつも受け入れる。嫌なはずもなく、しかし予想外だった。
 相手の安否を自らの目で確かめられたことで気が緩んだのと、ガブリエルの出自について知ったことで迷いが生じた二点から会いたくして仕方なくなったことが無意識に手を握らせたのだ。
 柵越しに愛を語らっているようにしか見えないが、周囲のカップルはカップルでエルフ二人など気にも留めずいちゃついているため、咎める者も野次馬もいない、クリーンな環境である。

 「よかった……」
 「セージ……手が……」
 「……? あっ」

 気恥ずかしそうにルエが手について指摘すると、セージは己から握っていることに気が付き、慌てて離すと両手を背中にやった。手に恥ずかしいものがくっついておりどうしても取れなくなったのだと言わんばかりに。
 唇を尖らせ罵倒した。

 「ば、バカ野郎! 触るなお前!」
 「おかしいじゃないですか、セージから握ってきたんですから」
 「うるさい! だーもう調子が狂う! この話は終わり! いいな! 終わり!」
 「了解しました。終わりですね」

 罵っておく。恥ずかしさを隠すための防衛術の基礎中の基礎。誤魔化し。足を踏み鳴らし柵から離れ、口をへの字に曲げて手を大げさに振ってあっち行けの構え。
 だがそれが通用するどころか和やかに顔を緩められてはかえって恥ずかしさが倍増するもの。酷い言われようされてもむしろ嬉しそうなルエには暖簾に腕押し糠に釘であった。
 セージは話を強制終了して別の話題をもとい本題を切り出した。聞かれると困る話故、近くに寄ることを手で要求してから耳打ちする。即ち働くか否かである。ルエの意見はセージと同じであった。打ち合わせをした二人はやがて別れ元の部屋に戻って行った。
 セージは歩きながら自分の掌をじっと見つめていた。皺を見ているのか、それとも別のことか、答えは神だってご存じないであろう。



[19099] 九十七話 嗚呼、肉体労働
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/21 02:45

 岩を砕くのはメローの担当だったがそれを台車に詰めるのはセージの役割だった。鉱石から金属のみを溶かしだすにはまず砕かなければならない。そして運ぶ。作業工程には水車を利用した機関があるとはいえ手作業が大部分である。
 作業は極めて簡単だ。口を塞ぐ大げさなマスクに呼吸を奪われながら石を運び台車に詰める。手袋やブーツも支給されているので楽な方だろう。奴隷の身分はあくまで外見だけで実際には借金返済のために働く労働者なのだ、怪我や病気にかかって死んでもらっては困るということである。同じ理由から鞭が飛んでくることもないが、少しでもサボれば監視員が手に持った紙にあれこれ記載するので、休むことはできない。もし一日のうち一日分のサボりと認められればその場で一日分が無駄働きになるのだ。
 では楽かというと有り得ない。体積に対して釣り合わないと愚痴を零したくなる重量の岩を運んで台車に詰めては男共に運ばせる。それを永延一日中やるのである。
 岩を満載した籠を担いでいくと、台車にぶちまける。
 髪の毛を後ろで結んだセージは他の労働者と同じように死んだような顔で仕事に没頭していた。いっそ上半身裸で作業したいほど肉体が火照っていたが、一応女性なので、許されなかった。とはいえ作業用で渡された臭い布服はとうの昔に汗でびしょびしょとなっており通気性は壊滅しているばかりか不快感を増幅するだけである。
 マスクを脱いで存分に呼吸したい気持ちもあったが、やめた。作業時の粉じんを吸い込めばやがて悪影響が出るからだ。
 岩を砕いている現場へと空っぽの籠を担いで歩いていく。比較的体力のない女性たちが黙々と岩を砕いていた。メローの姿もあった。彼女も同じように岩を砕くために用意された道具を振るっていた。目に見えて疲労しており褐色の肌は白く汚れていた。
 メローとセージの視線が合うも会話も頷きもない。黙々と岩を砕き、岩を運ぶ。
 岩を砕いて運んでいった先には専門家が居り選別作業を行っているそうである。ずぶの素人に求めるのは岩を砕いて運ぶことのみなのだ。ちなみに男は馬のように台車を牽引する作業に宛がわれている。作業開始してルエと一度も顔を合わせていないため不安でもあったが死にはしないだろうと確信があったので考えないことにした。
 岩を運び台車に乗せる。腕と腰に力を込めて重い岩を持ち上げると、台車に放る。やかましい音を上げて岩が滑り落ち砂煙が上がる。
 セージのすっと通った鼻筋から汗が垂れて地面に水滴を描いた。一日目にして既に腕の筋肉は震え疲労で頭が鈍っている。
 台車から離れ再び籠を担いでいく。視線は前を行く作業員の踝。足が棒で、腕が枝で、胴体は幹のようだ。己の体が休息を求めている。与えられないのが辛い。
 マスク越しにくぐもった声を漏らす。これで疲労が薄まるわけではないが。

 「はー、はー…………くそっ」

 罵り言葉のパレードが開催される予定だったが、疲労のあまりしゃべることも面倒くさくて中止に追い込まれていた。時折、糞や畜生の言葉が唇から汗とも唾液ともつかぬ汁と共に伝うだけである。ピンと立った尖り耳もいまは垂れている。
 セージは八つ当たりをするのも諦めて、亡霊の行進かくや生気の失われた労働者たちの列に加わって仕事を続けた。


 一方ルエも苦しかった。
 とにかく仕事は細かいことを考えず台車を運ぶものなのだが、岩を満載した台車はひたすら重く地面に接着されたように動かない。車輪が岩に引っかかるとその場から動かなくなることも多々あった。ひたすら男性組の諸君と汗を流す作業が続く。
 中性的な顔立ちが災いしてちょっかい(色々な意味で)をかけられることもあったが、作業中は一切有り得ない。サボれば労働期間が延長されてしまうからだった。
 歯を食いしばりながら地面を蹴って推進力を得て台車の前にある鉄棒を押して牽引する。
 体を使った運動は主に筋トレだったが故に辛い。周囲の男たちがほぼ筋骨隆々の大男ばかりなだけに中途半端に鍛えた肉体には堪えた。もっと鍛えておけばよかったと後悔するも、後悔は忠告してくるものではなく嘲笑ってくるものなのだ、どうしようもない。
 ひたすら押すだけ。先導役の眠そうな顔に頷いて押す。角を曲がるために足踏みをする。
 普通は、何でこんな苦行を強いられているのかと怒りが湧くだろう。彼は違った。セージのためなら命を投げ出そうとまで思い詰めていてだけにこれは必要経費であると納得していた。もはや聖人君子染みた純情さであった。
 台車を押すという作業は夕方まで続いた。



 硬く湿気たパンを歯で千切って頬張ると唾液と混ぜて咀嚼してペースト状にする。そこへ芋と野菜を塩気で調理したとろみスープを投入してよくかき混ぜると飲み込む。夢中でお世辞にも品質の良いとはいい難いパンを食らい、そして丸ごと口にねじ込む。パンの全長が口の容量を超えているせいで尻尾がはみ出ているが気にせず歯の当たる部位をひたすら噛んで貪ると、スプーンを忙しなく使い塩気を口に含む。汁の底をさらい砂金でも探すように野菜と芋の欠片を口に通す。パンもスープも無くなれば、どこぞの労働者お手製の木の器に並々注がれた水を一息に吸い込んだ。
 唇を拭い、暗い表情を一変明るくした。

 「ぷはぁ! うまかった!」

 誰よりも早く夕食を平らげたセージは、腹にすとんと落ちた食物が見る見るうちに発火して体温を上昇させ疲労を消し飛ばすビジョンを体感した。仕事中の死人のような顔はどこへやら生まれたての赤ん坊のように顔を赤くしていた。
 ゆっくり食べて味わう派のガブリエルと、そもそも小食なメローを尻目に、胡坐をかいた姿勢から上半身を倒してストレッチを開始する。
 ガブリエルはパンを齧りつつセージを見ていたがやがてこんなことを口にした。

 「食うの早いね。そうそう、こんな話があるんだけど」
 「なに?」
 「………」

 メローは口を聞く元気もないのか壊れた人形のように肢体を投げ出しパンの隅の方をハムスターのように食べている。

 ガブリエルは声を落とすと、広間の別の部屋の方をそれとなく指で示した。

 「こんなところで働くなんておかしいから反乱起こそうっていう」
 「は? お、お? メローってば」
 「いい反射神経ね」

 セージはあからさまに不機嫌を顔に出して短く疑問符を吐いた。メローはパンを咥えたまま櫓をこぎ出した。顔面から地面に落ちかけた寸前でセージが器用にも足を滑り込ませると、頭に衝撃がかからぬよう手に持ち替えてゆっくり降ろす。やっててよかったストレッチ。左足は後ろ、右足は前の開脚姿勢。
 ガブリエルは更に声を落とすとパンを千切って噛んで嚥下し、スープをスプーンでちびちび堪能した。

 「噂じゃ傭兵団を裏切った奴がいて、捕まって労働させられてる癖にこれは不当とか言って反乱起こそうとしてるらしいの。私の計画にも支障をきたす面白い奴らよ」
 「はぁ………そう…………どうしてこう面倒事が飛び込んでくるんだ。ちょっと行ってくる」
 「何しに?」
 「決まってんだろ。潰すんだよ」

 またトラブルか。セージは深くため息を吐くと、受け入れるしかない己の身を呪い――そしてふと閃いた。計画している奴にそれとなく近づいて計画を挫けば短期間で外に出してもらえるかもしれない。
 ガブリエルから計画者の名前を聞き出すと、ぶつぶつと不満を零しつつ歩いていく。

 「俺の邪魔はさせねぇ……ったく反乱だぁ? ふざけんなよ……」

 乱れた髪の毛を手の櫛で乱暴に整えつつ労働者の一人の前で立ち止まると、耳打ちして訊ねる。相手は驚きと怯えを覗かせながらも教えてくれた。

 「ありがとよ」

 感謝の言葉を述べて歩みを再開する。
 可能ならば計画者を説き伏せて排除してやりたい。無駄に反乱など起こされて労働期間が延長になったらどうするというのか。反乱が成功すればいい。失敗したらどうするのか。沸々と煮えたぎる怒りを腹に抱え肩を揺らし目標の人物を探しに行く。
 ガブリエルはその後ろ姿を眺めつつ、地面に倒れて死んだように眠るメローに布きれをかけてやると、フームと喉を鳴らして顎を擦った。

 「反乱……うまくいけばいいが、起ころうが起こるまいが失敗しようがこの鉱山は終わりだな」

 男言葉で呟くと食事を再開する。パンを千切り口に放り込むとじっくりと噛む。
 ガブリエルは知っていた。この鉱山の鉱石の質が低下しつつあることを。資金不足に陥りながらも体制を変えようともしない頭でっかちな一族と、いち早く組織に見切りをつけて外へ逃げた一族の女がいることを。その情勢不安に付け込んで脱出しようと考えていたのだがちょうどよくセージがやってきた。彼女もとい彼ならば反乱を鎮めるべく尽力してくれるだろう。それに手伝ったということで信頼を得れば脱獄計画も進めやすくなるというものだ。手伝うだけで直接介入はしない。
 まるで酒でも飲むかのように木の容器を目の高さまで掲げると水を飲む。

 「せいぜい頑張れ、若者。俺はリスクを冒したくないんでね」

 ガブリエルはそう口の中でもごもごと言葉をこもらせるとスープの最後の一掬いをスプーンで取った。
 脱出して自分を待ってくれている盗賊仲間達と合流して人生を楽しんで寿命が来たら死ぬ。それが彼女の目的であり、そのためならば同郷人だろうが利用する。彼女は極めて盗賊らしいものの考え方をしていたのである。



[19099] 九十八話 鉱山事情
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/21 02:46

 セージが嫌いなものとはなんだろうか。二日酔いだとか、辛い食べ物だとか、冷たさだとか、そういった狭い意味ではなく、広い意味である。
 それは今と昔で異なるだろうが、一つだけある。己の邪魔をされることだ。散々長老たちに行く手を阻まれたことが全く関係していない訳ではないだろう。むしろ感謝しているくらいだが、まるで役に立たない妨害に関しては殺意すら湧く。例えば女性の体にして別世界に送り込む輩――例えば反乱を企てる輩。
 反乱を企てているらしいと聞きつけたセージは頭に血が昇っていたが、自制心で押さえつけていた。まず情報を収集し、見計らい、足並みを揃え、最良のタイミングで横合いから蹴りを食らわしてやるつもりだった。
 その女は一週間に一度会合を行い同志を集っているという。ならば参加してやろうではないか。自分勝手な反乱でもしかするとセージ自身の労働期間を大幅に延長してくれるかもしれない計画とやらの説明会に。
 女の特徴に合致する人物を発見したセージは、物陰に佇んでいつでも同志の集いに参加できるように身構えた。
 リーダー格の女が牢屋とも部屋ともいえる場所で仲間を集めていた。その様子を地面に胡坐をかいて耳を澄ます。

 「集まりの淑女の諸君! 我々は、断固として傭兵団のやり方に反対するものである!」
 「そうよ!」
 「もっとやれー!」

 取り巻きがやんややんやと囃し立てるのを、リーダー格の女が片手で制し、いかにも嘘くさい悲しみの表情を浮かべると己の身の上話を始める。身振り手振りの大げさなこと。扇動者にありがちなジェスチャーが鼻につく。
 曰く、罪もないのに放り込まれた。
 曰く、これは正当な反逆である。
 胡散臭いというのが率直な感想であった。セージもある意味で無実の罪であるが、この女からはそれが感じられない。傭兵団に楯突いて捕まったのではないか。後で調べる必要があるだろう。
 セージはなかば呆れていたが、同時に己の行動指針を与えてくれたことに感謝していた。
 会合で語れらた内容とは要するに働きたくない辛いから今まで自分らが犯してきたことを棚に上げて蜂起しようというものであった。
 リーダーが手を掲げれば、オーッと周囲の女たちが同調する。熱っぽい抽象的なセリフで場を支配して思考の方向性を意図的に捻じ曲げる。エルフということで目についたのか、声をかけられるも営業スマイルでお断りして場を離れた。
 すぐに男性組と会話できる施設へと向かう。両手でメガホンを作って、声を張り上げた。

 「ルエー! でてこーい!」

 無遠慮な横やりが入る。酒焼けした男の声。

 「ひゅー姉ちゃんの彼氏かい」
 「うるせーぞ、引っ込んでろ」

 セージが茶化してくる労働者を一睨みで散らす。顔立ちは優しいものの眼光は鋭く、目を細めればたちまち不良かくやという凄みを宿す。労働者は無言で立ち去って行った。
 やや合間を置いて、クタクタに疲れ果てた顔をしたルエが歩いてきた。手を胸元で振って近くに来るように指示を送り、自らも鉄格子に体を近寄せて内緒話ができるようにした。
 距離がほぼ零となる。耳に口を近寄せて外に漏れぬように工作する。

 「なぁ知ってるか。反乱企てるアホがいるの」
 「噂で知ってます。もしかして女性組にもいるんですか? 男性組にも一人いて、それなりに支持を集めているみたいですよ」
 「そう……言っておくけど」
 「大まかわかります。無茶をせず、なおかつ安定した道……潰すことでしょう?」

 分かりきっていると言わんばかりにルエは頷いて見せると、セージの格子に絡んだ白魚のような指を一瞥した。前回のように手を握れないかとあれこれ策を練っているのだ。セージはその視線を目聡く探ると自然を装い手を遠ざけた位置に置いた。牽制の意思を込めて瞳に視線を送ると、逸らされた。まるで仕草が女のようだった。まして中性的な顔立ちも相成って、乙女のよう。
 元男として心情は分かる。男というのは、女に触れたがる生き物だ。それは指であり、肩であり、背中であり、胸であり。愛しているの言葉が本意ならば、指どころか全身に触れたいと願っていることを容易に推測できた。それだけに指を許せば手、手を許せば胸へと徐々にエスカレートする予感がしたので、拒否しておく。
 ともあれ、長年の付き合いだけにいちいち説明しないでも意図をくみ取ってくれるので、会話が楽である。打てば鳴る。ツーカーの仲。

 「うん。もし事が起こったら、何もするなよ。するなら傭兵団に加勢しろ」
 「セージはどうします」
 「俺は………ウーン。魔術使えないからなぁ……そういや、連中首輪はどうするんだろ。電気ビリビリに耐えながら反乱って……電気、根性で何とかなるもんなの」

 セージの脳裏には魔術を使おうとして感電した思い出があった。人生初の感電が異世界でとは、思いもしていなかった。
 ルエが首を振った。

 「無理でしょう、電流が強すぎてまともに身動きできないんですから……。もし電気をいつでも流せるのならば……」

 セージは首輪を弄った。魔術を使うや否や電流が流れる仕組みのそれは、ひょっとすると任意で作動できる代物かもしれない。仮説が正しければ電気を浴びて気絶するだけであり反乱は無意味な体力の浪費である。
 ルエも同じ疑問を抱いていたのか、首輪を弄り、そして鉄格子を越してセージの首へ手を伸ばし――途中で防がれた。

 「お前さ、聞くけど……」

 セージはあまりに自然に伸びてきた手をしかし反応してみせ掴み取っていた。掌を甲の向きへ捻じりついでに回転も加えてやる。痛そうな顔へ舌を出してやった。鋭利な輪郭を有する瞳が、じっとり湿った視線を宿し相手の脳天を穿つ。

 「そんなに触りたいわけ? おれは、触っていいなんて言ってないんだからな」
 「では」

 ルエが柵に体を押し付けるようにして距離を接近させると、囚人のように柵に掴まった。
 セージは、中性的かつ整った顔立ちが僅かに嗜虐を帯びるのを見逃さなかった。吹っ切れたことで秘めていた嗜好が表層に出現したとでもいうのか。

 「触ってもよいでしょうか? できればあちこち触ったり揉んだりしたいのですが」

 あちこちという単語に意味深なニュアンスを置いた発言へ、しかし眉一つ動かさず人差し指を手前に引く仕草で答える。慣れが羞恥心や動揺という要素への鎮静剤と作用した。と言っても完全ではなく、声の節々が奇妙に音をはずしていたが。

 「じゃ、ちょっと目を瞑って顔をこっちにやってくれ」
 「了解しました。これでどうでしょう」

 目を瞑った哀れな標的の額に視線という照準用レーダーを照射。反射波から測定した結果と構造データを元に算出された数値を中指と親指に伝えて薬室へ装填すれば、構え、そして放つ。中指のチャージが親指がずれることで解放されて打撃と化し額を景気よく叩く。デコピンである。

 「いたっ!?」
 「はい触った。指とおでこがぴったんこしたぞ満足かい、色男。はは。俺に自由に触ろうなんざ一億年早いぜ」

 もはや子供の理屈であるが、それがどうしたと言わんばかりの尊大な態度を示す。額を押さえて後ずさる姿を見遣り悪戯っぽい笑顔を浮かべ退散する。最後に振り返ると恨みがましい双眸がじっと見つめてきていたので、手を振ってやった。
 さて、労働に備えなくては。セージはメローのもとに急いだ。







 最悪の気分だと男は酒を飲む。
 赤い髪の毛に狼のような鋭い目をした筋肉質な男が一人暗い部屋にて酒瓶を傾けていた。男は一人ソファに身を横たえている。部屋中央にあるベッドには女が一人。金で呼んだ売春婦である。男は暑苦しくなり抜け出したのだ。

 「糞が」

 男は古い一族の血を受け継ぐものであった。豊富に銅を産出する銅山も受け継いでいた。銅という経済基盤を背景に傭兵団を経営して時に武力で従わせてきた。だが、いまや肝心の銅は産出量を大きく減らし傭兵団もまとまりを欠いていた。男は一族の血を、やり方を変えまいと固執して、それに嫌気がさした妹が逃げた。一族から逃亡者が出たという噂は傭兵団に亀裂を作ってしまった。傭兵団が認められてきたのは銅という背景があったからだ。もし銅を失えば、赤錆のようにそぎ落とされるだろう。
 男は悪態を酒で飲みこむと、赤毛にも負けないほど上気した顔をやっとのことで持ち上げて、商売女の寝るベッドに硬貨を投げ込むと、酒で回らない頭を引き摺って部屋を出た。
 男には姉がいた。アッシュという名である。姉は一族の中でもとびぬけて頭がよく経営に関して才気を発揮した。妹もいた。逃げてしまったが、妹は一族の中でも特に武術に秀でていた。
 姉はこう主張する。銅山はやがて尽きる。早く見切りをつけて傭兵団を拡張すべきと。姉が間違っているとは思えないが、男はどうしても銅山から離れたくなかった。銅山は一族の誇りなのだ、易々と手放していい代物ではない。
 そんな男に愛想尽かせた妹は逃げた。傭兵団の中での不穏な噂に恐れたという話もある。果たして妹が間違っているのか男はわからなかった。
 だからこそ腹が立つ。なぜ俺の代で銅が底をつきそうになっているのか。
 男はいら立っていた。だから、ついこの前捕縛したエルフの娘の腹を蹴るという暴挙に及んだのだ。女を抱こうが蹴ろうが酒を飲もうが不安が薄れることはなく深みへと落ちていく。まるで泥沼のようだ。足掻けば足掻くほど下へ落ちていくのだ。
 男は部屋から出ると、よろめきながらも鉱山全体を見回せる塔を登り始めた。酔っているため足元は覚束ないが、階段を踏み外してしまうほど前後不覚なわけでもない。

 ―――銅の一族のしきたりに固執して財産を食いつぶして、そうかと思えば奴隷商売にも手を染める! おまけに次は暗殺と来たもんだわ。
 ――家を守るためだ!
 ――家を? 違う。違う。違う! 怖いんでしょう?
 ――アシュレイ!
 ――さようなら。今日から私は一族を抜けて一人で生きる。
 ――アシュレイ!

 脳裏に嫌な映像が過った。資金難に陥り奴隷商売やら傭兵団を暗殺者として派遣するやらと迷走を続けていた。銅の傭兵団――銅の一族は誇りを第一にする。姉であるアッシュが勝手に実行に移したのを男は止められず、その話が妹に伝わった。妹は一族に愛想をつかして逃げた。数年経った現在も発見できずにいる。
 一族の逃亡者という噂は傭兵団に罅を入れていた。しかも悪いことに反乱の風説まで流れているくらいだ。
 男は鉱山を見下ろす位置へとやってきた。いわば見張り台。侵入者と逃亡者を監視するための施設である。窓際にある椅子に乱暴に腰かけると、背中を丸め窓の外を睨む。
 不安で不安でたまらない。一族を守らなくてはならない。けれど守れるかわからない。未来地図を描くためのインクさえなく、羽ペンを持っても砂のように手のひらから溶けていくのだ。
 男は外を眺めたまま永延時間を食いつぶした。





[19099] 九十九話 反対に反対する
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/23 00:07
 筋肉も薄くしかし形の良い腰つきを押す。柔らかな表皮が凹み筋肉と脂肪の層へと圧力が伝わり分散される。腰の骨に触れぬように位置を直せば、緩やかに筋肉と肉を解して、無駄肉のない背中に指を押し付ければ、お次は足だ。肌着の上から羽織った布服から覗く太いという割に細い太腿を掴んで全体を揉みほぐし疲れを取っていく。
 セージは今、余った布や藁を敷き詰めて作った簡易のベッドのようなものの上でメローに馬乗りとなってマッサージを施していた。肉体労働などやったことすらないメローにとって日々は筋肉痛と共に酒を飲みかわすようなものであり、疲れて疲れて仕方がなかった。
 元をたどればセージが二人を巻き込んだもの。そこで、謝罪の意味を込めてマッサージしていたのである。
 世間話をするほど世間に詳しくないメローの為にロウについてあれこれ聞きつつ腿を解す。

 「へぇ………ロウにもそんな一面があったんだなぁ」
 「ん……ぁ……そう………ああ見えて……かわいいところ………あるよ……」
 「想像できない」
 「んふふ……」

 腿を揉む。揉みごたえはないが、艶やかな肌の感触が心地よく、思わず楽しんでしまう。やましい気持ちはない。ただ気になるのは揉んだり触ったりするとメローが呼吸を乱すことだ。
 あくまでマッサージなのだ、気にしてはいけない。
 セージは腿を揉み解すと、両足を折ってぎゅっと体重を乗せた。ちなみにマッサージの技術があるのでも知識があるのでもなく、見様見真似である。

 「くぅ……」

 メローが、痛苦の吐息を露わにした。顎のクッションとして敷いていた掌が強張る。
 強くやりすぎたようだった。体重を抜くと、緩やかに足に負荷をかけていく。踝がお尻に触れるか触れないかのギリギリの線で押す力を緩め、引いては押すことで関節を解す。
 ふと、手がお尻に触れていることに気が付く。小ぶりで可愛らしい臀部は粗末な布越しに淡く形を浮き上がらせており、訳も無く狼狽する己がいる。男性視点で女性の体を感じているのか、女性視点で可愛らしさに嫉妬しているのか、女性視点で女性の体に性的興奮を覚えているのか、さっぱりわからない。ただでさえ男性としての意識も曖昧になりかけているだけに頭がどうかしそうなので思惟に耽るのは取りやめる。

 「痛かったら言えよ。言わないとわからないぞ」
 「痛い………でも気持ちいい……」
 「次肩な」

 足の体操はそこそこに、メローを座らせて背後につくと肩を揉んでいく。慣れぬ土木作業で線の細い肩の筋肉は緊張してこっていた。女性特有の逞しさとは無縁な筋肉を掴み、揉む。鍛えていない人にとって強く揉まれるのは苦痛の何ものでもないことを知っているのか、手つきは優しい。
 揉む、緩める、揉む、緩める、のストローク。無表情もしくは狂気的な笑みの両極端な表情を垣間見せるメローの眉が緩み頬にじわりと温かさが浮いていた。極楽浄土を体感しているようだ。

 「あ、あっ」
 「メロー。そのー……」
 「なに」
 「なんでもない」

 セージが指摘せんと恐る恐る手を止めるも、一瞬で普通の声に戻ったメローを前に戦意を喪失して黙々とマッサージに戻った。

 ほっと安堵の溜息を漏らすと蓄積した疲労を振り払うべく首の関節を鳴らす。マッサージするということは、疲れを別の人間に移すということだ。エネルギー保存の法則に通じるところがある。

 「ふぅ」

 気持ちよくなり眠ってしまったメローに布をかけたセージは、体育座りでぼーっと時間を潰していた。一緒に寝てしまおうか。メローの黒い髪の毛を見遣り、ぼんやりと天井を仰ぐ。
 ふと、目線を戻せば、欠伸を堪えつつ歩いてくるガブリエルの姿があった。欠伸をしているのはガブリエルだけではなく、皆が同じである。強い疲労が眠気を催させるのだ。
 エルフということのせいか、よそ者という要素のためか、ほかの労働者たちはセージらに寄り付こうとせず遠巻きにするばかりであった。ガブリエルだけは気楽に話しかけてくる。ようするに三人一組が常であった。今日もガブリエルがやってきたので無駄話に花を咲かせようと灰を握ったところ、遠くから反響してくる音があった。
 オーッ、とも、ウワーッ、ともつかぬ大声である。音源が複数存在するのか耳障りな騒音となりて響き渡る。
 それは怒号であり――反乱の鬨の声であった。
 何事かと目を丸くする労働者たちを放って、足を振り上げた反動で上体を起こす。完全に眠りについたメローをちらりと一瞥すると、ガブリエルの方を見ずに口を開いた。

 「おっぱじめたらしいからちょっと殴りこんでくる。万が一メローが危うくなったら逃がしてやってくれ、頼む」
 「いいよ。面倒はちゃんと見てあげるから行ってきなさい」
 「ありがとう!」

 セージは、地を蹴り、拳に力を滾らせて、反乱の根城へと駆け出した。まさか労働者が反乱に反抗するとは思いもよるまいという思惑を胸に、力を拳に。まさかガブリエルがセージを使い走りにしてやろうと画策しているなどと思わず。
 セージが去った後、ガブリエルは懐からなめし革を取り出すと、指に絡めて遊びだした。

 「必要なかったか……今のところは、だが」

 セージはあくまで事情を知らず混乱している一労働者を装い騒動のもとへと接近していった。監視員らしき人物がぐったりと倒れ込んでいた。それも一人ではない。二人、三人であった。
 手近な一人に駆け寄っていくと、首筋に指二本を置く。脈を感じ取った。気を失っているだけのようだ。
見れば、棒を持った監視員へ襲い掛かる労働者の姿があった。首輪から電流が放たれているが動きに支障をきたす様子がない。皆、魔術を放って、あるいは武器を使い監視員らを圧倒していた。
 おかしい。言うならば油に火種を投げつけて発火しないような違和感。
 じっくり観察して、合点した。

 「……なるほど、絶縁か!」

 首輪と首の隙間に何やら革の切れ端のようなものが押し込まれていた。魔術による電気というものは、電気のようで電気でない振る舞いをすることはあっても基本的に電気なのだ。革やゴムのような絶縁性の高いものを間に挟めば、防げるだろう。
 ただセージは誰が絶縁という発想を与えたのかを深く考えなかった。事態に興奮して考えが回らなかった。

 「貴様らぁ! 自分らが何をやっているのか、わかっているのか!?」

 棒を構え必死に挑みかかる監視員を、労働者たちが寄ってたかって嬲っていた。どんな不測の事態であれ首輪さえあれば制御できると侮ったつけがまわってきたのだ。監視員の武器は棒だけ。対する労働者たちはどこから持ち出したか、ツルハシやらサスマタやら。管理側と労働側の数は後者が上回るのが世の常。おまけに労働者は力が強い。
 殺意に目をぎらつかせた労働者に対し、監視員は血の気が引きつつも交戦の意思を捨ててはいなかった。心中は、誰が得をするのだという理不尽さ一色。無理矢理誘拐してきて強制労働ならまだしも、勝手に罪を犯して収監されておいてからの反乱とはあきれてものが言えない。
 既にいつもの巡回で同行する二人の仲間は気を失って地面に倒れている。労働者の数は五人。五対一の戦力差はもはや筆舌し難い絶望感を醸し出していた。
 監視員はいっそ敵対をやめてしまおうかと思ったが、考え直した。給料分は働かなくては。
 武器を握りなおした監視員へ容赦ない言葉が投げかけられる。

 「不当な労働に死を!」
 「殺せ!」
 「いや殺すな。あとが面倒だぞ! 早くこいつの鍵を奪うんだ!」
 「やっちまえ!」

 皆女性のはずだが、血走った眼といい、口調と言い、悪鬼のようであった。
 その悪鬼は背後からゆっくりと忍び寄ってくる一人の狼に気がつけなかった。狼は野良犬でも見るような濁った眼にてひらりと手を振ると、おもむろにこう言った。

 「よぉ! いい武器だ。貸してくれよ」

 背後から忍び寄ったセージは相手のツルハシの柄に手をかけると背中を蹴って奪い取り、頭の部分で両隣にいた女の首を殴りつけて意識を奪った。二名撃沈。
 咄嗟に立ち上がって殴りかかってきた元ツルハシの保有者の一撃を躱すと、膝を腹に叩き込んで昏倒させた。一名撃沈。残り二人。

 「エルフ!?」
 「このう! 犬ぅ!」

 エルフの乱入に目を剥いた二人組は、揃って棒を振り回した。
 左右から躍りかかる棒を屈んで躱すと、ツルハシを下段から振り回して一人の脛を打つ。たまらず倒れる相手を尻目に、もう一人の棒の叩きおろしを危なげに横に避けると、一気に距離を詰めた。

 「ちょっと眠ってろよ、ばあさん!」

 ツルハシの頭を使わずに腕の加速に乗せた威力を柄に集約して額を打つ。相手はもんどりうって仰向けにひっくり返り静かになった。

 「裏切りもの……! 不当な支配に……屈して……!」

 歯を剥き出し威嚇する女労働者は脛を打たれ動けず地面でのたうち回っていた。ツルハシという重量物が衝突したのだ、まともでは済まない。骨に罅が入ったかもしれない。
 セージは、脛を打たれ苦しんでいる相手のもとへとゆっくりと歩んでいくと、ツルハシの頭をトンと地面に突き、すぐそばにしゃがみ込んだ。表情は皆無である。爽快感も達成感も心の充足も得られぬ不毛な戦いに介入しているのだから当然であるが。
 相手の首輪に挟まっている革を握り、鼻を鳴らして訊ねる。

 「不当な支配? 知るかよ俺を巻き込むな。勝手にやってろ。ところでコイツも貰うけど、いいよな」

 返事も聞かず革を引き抜く。途端に電流を防ぐものがなくなり労働者は感電して意識を失った。びくんびくんと痙攣する労働者の体を後に、革を掌で弄びつつ監視員の方を見遣る。
 監視員は予想だにしない援軍に目を丸くして棒立ちしていた。まさか労働者の中に手助けしようとするものがいるとは思いもよらなかったのだろう。
 セージはツルハシを肩に担ぐと監視員の前に立った。

 「君は……まとも、なのか?」
 「まともって何がまともなのかにもよるけど、反乱には反対派です。よって助太刀しに来ました」





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100話記念で書いた欲しい題材とかあったらどうぞ 参考にさせていただきます



[19099] 百話 鮮血
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/02/24 02:03
 赤毛の男は部下に起こされて報告を聞き怒髪天を衝いた。反乱。悪いことに反乱を抑え込むはずの首輪が無効化されてしまい戦況は逼迫していると。今や労働者たちは群れを成して監視員をなぎ倒し次々と施設を制圧しているという。率いるのはかつて傭兵団の会計係であった男女。金をちょろまかした揚句捕まった屑の中の屑であり、反乱は社会通念上でいうところの逆恨みである。
 男は部下にとっとと制圧に行くように命令すると、己の装備を整えた。メイス。鎧。それだけだ。
 男は――アスクは、殺意に目を滾らせて鉱山へと急行した。

 無力だろうかという問いに対して、セージはこう答える。その通りだと。
 では、無力とは何か? 無力とは本人の相対評価に過ぎない。もし一般人と戦わせてみれば答えは自ずと明らかになる。
 槍の代用として握った棒で顔面を突けば、腕力に任せて数人の足を薙いで転ばせる。超人染みた力は魔術による強化がもたらした恩恵である。
 矢継早に放たれる氷やら電撃やらの魔術玉を棒に纏わせた無色の爆発でかき消すと、余裕綽々の表情で指を手前に動かして挑発する。

 「どうした? 俺はたった一人。やれるもんならやってみろ」
 「裏切者ぉ!」
 「裏切り? だから、知るかよ。御託はいい。俺をやるんだろ? やれよ。やんないの? それともやれないの?」
 「死ねぇ!」

 労働者の一人が悪魔のように表情を歪めて飛び掛かるも、ついと掲げられた棒で胸を突かれ、腰の捻りを込めた中段蹴りを腹に食らい昏睡状態へ落ちた。
 ストレッチで養われた体の柔らかさを強調するが如く足を最上段に移動させると、かかと落としを彷彿とさせる仕草で足を下ろす。いっそ清々しい聖女のような笑みを作れば、罵倒の言葉を吐き捨てる。こうすれば相手の感情が高ぶるだろうと計算して。

 「お前ら弱いよ。俺の知る誰よりも弱い」

 セージは己を囲んで倒そうと画策した挙句壁際に追い込んでも一向に擦り傷一つ与えることの敵わない労働者連中の視線を真っ向から受けながら、手のひらに火球を出現させた。
 セージの殴り込みから暫し。状況は一変した。いくら労働者が鍛えられているとはいえ真面目に戦闘に関わったものは皆無であり、修羅場をくぐってきたセージによって一方的に狩られていた。行動で示し、首輪を解除してもらい魔術を自由に使えるようになったお陰である。セージの目標である反乱鎮圧に手を貸すことで労働期間を短縮してもらおうという試みは実を結びかけているといえる。
 ぐるりと取り囲まれていようが、いかなる攻撃もセージは対処できた。殴る、蹴る、武器で叩く、突く……どれも近接格闘である。近接は十八番なのだ、対処できないほうがおかしい。魔術を飛ばすにしてもルエのような使い手と異なりただエネルギーが飛んでくるだけの弱小となれば楽勝だった。
 もし労働者たちがセージの危険性をいち早く認識して攻勢に出れば話は変わっただろうが、すべては手遅れだった。
 かかる傍から棒で殴られ気を失っていく仲間を前に怖気付いたのか、労働者たちは包囲網を狭めようともせず、連携も取らず、ただ立ちすくんでいる。
 セージは相手が不快に感じるように最大限労力を払い鼻で笑ってみせると、棒を肩に担いだ。良家のお嬢様のような柔和な色合いを湛えながらも、凶暴な光を宿した瞳が剣呑に窄まった。

 「こないのか。いいぜ。そっちの方が手間が省ける。さぁて覚悟しろよ!」

 棒を両手で握り、腕の筋肉を盛り上がらせる。
 近接戦の腕前を否応なしに見せつけられた女労働者らは顔色を変えて武器で殴りかかった。躊躇する者もいたし、逃げようとするものもいた。しょせんは即席の暴動。チームプレイなどない。

 「させちゃダメよ!」
 「かかれ!」
 「みんなでやれば!」

 セージは己に迫る包囲網にも慌てず騒がず武器である棒に意識を行き渡らせて――。

 「〝憤怒〟!」

 魔術を炸裂させた。『憤怒』。囲むように陣を敷く相手にはうってつけの術。
 爆心地であるセージの肉体から放たれた膨張した大気が労働者たちの胴体を叩いて後方へと吹き飛ばす。無様に意識を刈り取られ大地に伏した女どもの表情は穏やかとは程遠い。
 これでよし。棒の切っ先をゆらりと地面に接すると溜息を吐いて鉱山の奥を見遣った。

 「あとはボスだけ。ボスをボコボコにして突き出せば金一封貰えるかも………」

 扇動者である女は鉱山の管理施設に仲間を引き連れて押しかけているという。今しがた相手にしたのは下っ端のようなもの。倒すべき相手はここにいない。
 そうと決まれば話は早い。

 「待ってろよ尻けっ飛ばしてやる!」

 セージは、棒を担いで走り出した。
 鉱山内部の戦況は拮抗状態に移行した。セージの活躍と、もしかするとルエ、ひょっとすると別の反乱に反対する者かの手によってである。監視員と労働者の数はそう大差なくなったのだ。
 混乱するさなかを駆け抜ける。ツルハシで鬼気迫る表情で襲い掛かる労働者と、棒で対応する監視員のちょうど間を風のように通過すれば、ひっくり返った台車を一息で飛び越して、監視員を倒して油断していた労働者の頭を横を通るついでに殴る。

 「悪い悪い! ついやっちまった!」

 楽しげな笑顔とは裏腹に肉食獣のように地を駆けていく。速力は馬をも背後に位置させる程である。人外染みた筋力を発揮できるのも魔術のお陰である。
 進んでいくと施設が見えた。鉱山の管理施設の正面門は無残にも破壊されていた。
 そして、施設と門の中間地点で二人の人物が熾烈な戦いを繰り広げていた。すぐ傍らには大勢の男女の労働者が積み重なっている。監視員らの姿もあった。
 戦いの登場人物は赤い髪の毛の男と、もう一人の男。よく目を凝らせば上半身がすっかり炭化して跡形もない死体が転がっていた。
 赤い髪の男が電流を纏ったメイスを振るえば、ただの棍棒を握った男が応じる。武器と武器が鬩ぎ合いを演じた。
 ――あいつが男子組の反乱のリーダーだろう。直感した。
 棍棒を握った黒髪を振り乱した男が憎しみに顔を歪ませて叫んだ。

 「よくも殺したな! 貴様さえいなければよかったのだ!」

 対する赤毛のアスクも猛然と叫ぶ。

 「元をたどればすべての元凶はお前たちだ! 金を盗んだ。逆恨みを!」

 武器と武器が衝突する。棍棒がたちまち湯気を吹きあちこちを焦がしていく。ただの棍棒と金属製のしかも雷を帯びたメイスとでは格が違いすぎた。
 アスクが魔力を全開にした。メイスに宿る雷が渦を巻くと蛇のように棍棒に絡み付く。咄嗟に棍棒を手放した黒髪の男の目の前で、肝心の棍棒が膨大な電流に晒されて炭と化す。
 武器を失った男へ、アスクがニタニタと嫌らしく口の端を持ち上げて迫った。一歩一歩を確かめるように。

 「お前のせいだ……お前が………俺の鉱山が……俺の……」
 「俺を殺すのかアスク! 殺せばいい。殺せば鉱山はおしまいだ。人を殺す経営者とな! もう殺してるから、終わったと言っておこうか」
 「おしまい? 違うここから始まるんだ……!」
 「……やめろ! やめろ!」

 必死に弁解をしようとする男へ、アスクがメイスを振るった。躱そうとバックステップした男だったが、続けざまにメイスが振るわれて転倒した。
 メイスが当たった腕が奇妙な方向に折れ曲がった。

 「あぁぁぁぁ……!?」

 悲痛な叫びも聞こえぬのか、それとも聞こえているのか、狂気的な笑みを張り付かせたアスクがメイスを振るう。何度も何度も。黒髪の男は抵抗していたがやがて静かになった。
 肉を打つ愉快なBGMだけが空間を楽しませている。

 「糞! 糞が! 鉱山を守るためにこうまでしてきた! 貴様のような屑だって名誉のために殺さずにおいた! 糞が! どこで間違えた!? ええ!?」

 アスクが心中を吐露しながらメイスを振るう作業を続けた。もはや肉塊と化した黒髪の男へと何度も振るっては罵声を喉から弾けさせる。血が飛び、破れた衣服の繊維が舞った。
 猟奇的な光景を前にセージは言葉を失っていた。棒を片手に死体をいたぶり続ける男をじっと見つめるだけで、動けない。血濡れのメイスが投げ捨てられ地面を擦ってやかましく鳴った。ゆらり、とアスクが亡者のように上半身を起こすと、笑顔を放棄した鉄仮面を被ってセージのほうに虚ろな瞳を向ける。

 「反乱者だ……殺す……皆殺しにしてやる………」
 「くっ!」

 アスクの両腕に電流が迸り巻き付いた。
 セージは恐怖に腰が竦む感覚を覚えつつも、棒を構えた。
 次の瞬間、遠距離から飛来した一本の矢が空間を穿ちつつ僅かな放物線を描いてやってくると、アスクの頭蓋に大穴を空けた。脳が破壊され生命維持の一切が終焉を迎えた。アスクは白目を剥いて大地に身を投じると、動きを永遠に静止した。赤毛を真紅が染め上げる。血液が頭蓋骨の穴から垂れて大地を汚す。

 「アスク、許せとは言わない。私を恨んで、私が逝ったらあの世で復讐なさい」

 物陰から、弓矢を構えたアッシュが姿を見せた。
 アッシュは炭と化した女、肉のサンドバックとなりて沈黙している黒髪の男、そしてアスクの傍まで靴を鳴らして歩み寄ると、続いて棒を構えて緊張状態を保っているセージへと目を向け井戸の底から這い上がる冷気のような重いため息を吐いて弓を投げ捨てた。乾いた音を立てて弓と矢束が転がる。

 「セージとか言ったわね。反乱の後始末が終わったら呼び出すから来なさい。お仲間のエルフも呼びなさい。いいわね」





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100話!



[19099] 100話記念その1 「もしもルエがTSしたら」
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/01 21:34

 この世界の住民の夜は早い。人工照明こそあるが電気のように便利でないために、火が暮れたら寝ましょうというのが一般的なため、皆とっとと眠りについてしまうのだ。セージも例外なく眠りについていた。ここは渓谷の里。そう、セージが決心して旅に出る以前の時間軸である。
 トントントン。誰かが戸を叩く音がした。
 寝相の悪いセージは枕をベッドの下に捨て布団を抱くようにして、寝間着というよりもただの肌着一丁というスタイルで睡眠を貪っていた。顔は穏やかであったが髪の毛の乱れ方は嵐のようだった。
 再び戸が叩かれる。最初のノックよりもやや強めであった。
 セージの意識が覚醒の瀬戸際までふらついた。目尻が震え、呼吸が乱れる。赤い唇が蠢くと吐息を漏らした。暗闇で布擦れの音が艶めかしく響いた。
 三度目のノック。回数も勢いも強い。いよいよ無視できずにセージの瞼が開いた。

 「………あふ」

 我慢せず欠伸をすると伸びをする。筋肉につられて胸元が大きくせり上がった。肌着に包まれているだけなため、形が露骨となる。
 時計などという便利な道具はない。感覚で時間を計測して、誰かが夜遅くに尋ねて来たのだと理解した。

 「あ、誰だよ糞遅い時間に………」

 里のセキュリティが破られたなるお話は聞いたためしがないし、もし強盗の類ならばノックなどするものか。
 悪態をつきつつ布団を跳ね上げると眠い目を擦ってスリッパを足に引っかけ戸まで歩いていくと、鍵を外して扉に僅かな隙間を作り外を窺った。

 「どちらさん?」

 そこにいたのは、フードを深く被った人物であった。外の光る鉱石による照明も受け付けぬ目深な布が邪魔をして顔立ちが不明瞭であり、人物の特定につながらない。知った人物は少なくとも深夜に部屋を訪ねてくることがない。

 「セージ……? セージ! あの、できれば入れて頂きたいのですが」

 清流を一枚の布に仕立てたような涼しく美しい声が発せられる。女の声である。気品高い貴族の娘という第一印象を受けた。

 「はあ………確かに俺はセージだけど……」

 セージは困惑して髪の毛を掻き、胡散臭い目つきで訪問者を見遣った。こんな時間にフードを被って訪問してくるなど、のっぴきならぬ問題を抱えてるに違いないからだ。追い出してしまうのが賢明だろうが、なぜか断る気が起きず、僅かに逡巡するだけで招き入れる気分になっていた。
 扉を開き、内部へと誘う。

 「わっ」
 「? なに」

 相手がローブの前を覆った。まるで女性のような仕草であるが、内容は女性というより男性なのが妙におかしくて苦笑いが零れかけた。

 「その、服を着てください」
 「え、女同士じゃん。一応」

 一応、と最後につけて虚しく自身の内側の男性を主張してみた。
 扉を開けたことでセージの格好が露わになる。下は下着だけ、上は肌着だけ、軽装を極めましたと言わんばかりの睡眠専用服。パジャマの類も所有しているのだが薄着で寝るのが好きでこうしている。
 肌着は少し捲ればお臍が露出しそうであり、下着からはしどけない健康的な二の足が丸見えである。だが女性同士ならば恥ずかしがることはない。男性だったら話が変わってくるが。
 変な奴だと感想を抱きつつ、扉の中に入るように促すと、両腕を上に掲げ伸びをし直しつつ部屋のベッドに行き腰かける。
 ローブを目深に被った相手はおずおずといった調子で部屋の中央までやってきた。

 「んでこんな夜遅くに何の用? まさか絵本の読み聞かせでもしてちょーだいとか、君を食べに来たんだとか、ふざけたこと抜かすなよ。俺は今眠くてイライラしてんの」
 「その……信じてもらえるかわからないのですが……」

 セージは欠伸を隠さず、手で押さえることもせず、堂々として見せる。人によっては無礼に映るだろう。意図的にそうしているのだ、当たり前なのだが。
 ところがフードを被った相手は不快になるどころかますます恐縮して身を小さくして窺う姿勢をとった。申し訳なくて仕方がない、許してもらいたい、そういった態度である。
 人物がフードの奥で決心したように息を吐くと、一気に脱いだ。

 「ルエです……」
 「………えっ」

 セージが太陽ならば、〝彼〟は月光のような女性であった。
 ぱらりとフードそしてローブが肩から滑り落ちると容姿を外界へと晒したのである。優美な銀髪はあたかも絹のようであり部屋に灯る鉱石の僅かな光を反射して光輪を抱いていた。その一連の流れは歪みも淀みも無く肩から下へとはらりと垂れて匂い立つ蠱惑を放射していた。
 優しく、そして小動物のような顔立ち。幼さの中に大人の空気を纏った独特な目立ち鼻立ち。どこか頼りたく不安を内包した視線はセージという女性とも男性ともつかぬ生命体に眩暈を催させる威力があった。唇はふっくらと柔らかそうで血の気が赤々としている。顔の輪郭線はシャープでありすらりと首筋と鎖骨までも細い。
 体は衣服に覆い隠され淡くにしか窺うことができないものの、男性用の服を着ているせいで裾が余っており、庇護欲を掻きたてた。
 女性とも男性とも形容しがたいエルフ――ルエは、セージより幾分低くなってしまった位置から視線を飛ばした。

 「夜、暑くて目が覚めたんです」

 そして、ぽつぽつと紡ぎ出した。時折宙を仰いで言葉を選びつつ。

 「吐き気が止まらなくて、暑くて……水を飲んでも吐いてしまって。誰かを呼ぼうにも声が出ない。それでふと違和感を覚えて鏡を見てみると―――」
 「女になってた?」

 言葉の先に助け舟を出すと、こくりと頷いた。元から中性的な顔立ちと丁寧な口調だっただけに下手すればセージより女性らしい。
 ルエは戸惑いを隠せずもじもじと服の袖を弄りつつ、セージを見つめた。

 「信じて頂けますか?」
 「うん、無理。質問に答えてくれよ。問一。ルークの里に来る前、俺は何に襲われたでしょうか」

 にわかに信じがたいというのが正直な気持ちであったため、問いかけによって本人を認証しようと試みた。人差し指を起立。揺らしつつ問いかける。
 ルエがごくりと唾を呑む音がした。暗闇の先に潜む猛獣を探すかのように唇を使う。

 「熊……です」
 「正解。第二問。俺の好きな酒は」
 「ワイン」
 「第三問。ルークのお忍びはどんなんでしょうか」
 「女装ですね」
 「……………ルエか」

 打てば鳴る、立て板に水の解答。二問目までは知っているヒトが多いため確定できないが、三問目は知る者しか答えられぬ。ルークが女装してお忍びしているのを知るのは側近か兄弟の関係にあるルエと、そしてセージくらいなもの。
 セージは重苦しい吐息を漏らすと、手持ちぶたな両手を合わせるという仕事をさせた。おもむろにベッドの横を叩いて示すと手招きをする。

 「ルエ。随分可愛くなっちゃったんだなぁ。誰に何をされたの」

 とセージはすっ呆ける。性別を変える術の被験者のようなものなので、もしかするとという疑惑が頭に渦巻いていた。だが、ルエにだけは知ってほしくないという気持ちが強くあり、初体験を装った。
 ルエは両手を振ると、ローブの上から自分の体を抱きしめるようにした。
 ――――かわいいなぁ! と感じてしまった。なんと可愛い生命体だと。果たして男性視点の女性なのか女性視点の男性なのかは定かではないが、とにかくルエは恐ろしく可愛くなっており、セージはそのように感じた。

 「し、知りませんよ! こんな性別変えるような術あるなんて聞いたこともないです! 目を覚ましたらこうだったんです。セージ。僕はどうすればいいんでしょう……」
 「んー……どうすればいいか、ねぇ……」

 泣きそうな顔で己を頼ってくるルエに対し、セージは腕を組んで考え込んだ。経験があるだけに上手い助言ができると思い込んでいたのだが、実際に前にするとかける言葉がみつからない。
 しかし、いつまでも交流を深めているわけにもいかぬ。時刻は深夜。寝なければ明日に差し支える。
 わんわんと泣き始めそうなルエの肩に手を置くと、崩れ落ちそうになるのを支えてやる。

 「今日は寝ようぜ。明日考えよう。な、一緒に考えてあげるから」




 そして翌日がやってきた。都合よく済ますべき仕事も用事もないので朝一番に起床してルエの部屋に向かう。といってもすぐそばにあるので労力は極微でよい。戸を叩くべく拳を固める。三度のノック。戸の向こう側を窺おうと耳を澄ます。ばたばたと足音が部屋を往復して布の擦れる音やらが混乱していた。
 戸に口を寄せると、小さくノックして問いかける。

 「ルエー? 俺だよー。起きてる?」
 「どうぞ……鍵はかかってないです………」

 返答があった。左右の耳で計測した結果、それは扉のすぐそばで放たれた声であることが判明した。勢いよく元気よく開くのは憚られた。ノブを捻り、開閉音が響かぬように心を配りつつ内部に滑り込むと、後ろ手に閉める。
 そこには、布団がいた。否、布団は出歩かない。足も生えていない。布団を被った何者かが佇んでいるのである。
 布団の陰から潤んだ瞳が覗き込んでいるのを発見した。
 とりあえずセージは、目の前の可愛い生物の布団をはぎ取らんと手をかけた。その手をセージよりも小さく華奢な手が迎え撃つ。小癪なインターセプターが手を封じて布団への侵犯を許さない。

 「布団をさ……着るほど寒くないよな」
 「だって恥ずかしくて……!」
「恥ずかしい恥ずかしい言うなよ布団被ってうろうろするほうが恥ずかしいわ。脱げ!」
 「嫌です! やめて! やめてください! ああっ!?」
 「よっしゃー!」

 必死の抵抗を見せるルエであったが、元の男性の筋力ならともかく、小柄な女の子となっているためにセージの腕力に負けて脱がされてしまう。布団を遠くに放ると昨日のダボダボな服のままの可憐な雪のような少女の姿が現れる。
 銀髪は乱れており、目は涙で汚れて充血している。平素ならばきちんと着込んでいる衣服も今にも肩からずり落ちそうであった。
 セージは自分よりも遥かに小さくか弱くなってしまった男の肩を軽く叩くと机へと誘導して座らせた。

 「とりあえず、昨日何があったの。誰かに苛められたとか?」
 「何もなかったんですけど……着替えとかお風呂とかトイレとかが!」
 「何もできなかったと」
 「………はい」

 ルエが目をぐいと袖で擦ると、机を叩いて説明した。そして己の手が袖に隠れているのをじっと見遣るとまくり上げた。恥じるように。
 なるほどと頷く。セージも苦労したものだ。男の身支度と女の身支度は違うということに。遺伝子が違うのだから生理的な点においても異なる。着替えお風呂トイレは男女の性差を実感させるイベントである。
 だからこそルエの服が同じなのだろう。着替えもできずお風呂もとい水浴びもできず。トイレは不明だが、もしかすると用を足すこともできないで一夜を明かしたのかもしれない。
 聞くべきか、聞かざるべきか、それが問題だ。
 それとなく察してもらうための材料を用意するのも回りくどいので直球ストレート低めを狙う。

 「質問なんだけど、ルエ、そのあれだ、あれあれ」
 「…………」
 「トイレとか…………まだじゃねーのか」
 「………! ………」

 聞くや否やルエの瞳がぱっと見開かれあからさまに視線を逸らした。隠すのならば平静を装い真顔でいるべきだったろうが不器用なルエにとって困難極まる大事業であった。
 男は端的にいえばずらし出してしまうだけだ。一方女は脱いでしゃがんで拭いて云々と工程数が多岐に渡る。女性として暮らしてきたセージならまだしもつい今しがた女性になったルエには辛かろう。
 仕方がない。教授して仕る。手招き。意地悪な笑みを浮かべつつ。

 「おいでー。一緒にやったげる。おいでってば、おいでよ」
 「嫌ですほっといてください!」

 セージはおもむろに机を後にすると手招きした。ルエは動かない。仕方がないので背中にまわって押していく。
 あとは、そのなるようになったとだけ記す。






 「セージ………あのぅ。大変恐縮なのですが言わせてもらいます」
 「おう」
 「ふざけないでくださいっ!」
 「いいじゃんお堅いこと言うなよ色男…………色女?」
 「意味が変わってしまいます!」

 肩を怒らせ服を脱ごうとするルエを宥めつつ友人らから借り受けた服やらタンスの肥やしにしていた服を着せかえしてみる。セージは男物を好んで着る。女物はタンスにブチ込んで無視を決め込んでいたため新品同様の服が大量に余っていた。
 ルエは白亜のフリル付きワンピースを着せられていた。セージが昔貰った一品であり見るなりお蔵入りしたものである。
 肢体が長く、そして体の華奢なルエによく似合っていた。銀色の髪の毛と織りなす色の一体感が青い瞳の色彩を際立たせる。もし麦わら帽子を被り海辺に立ったのならば絵画の主人公になれる破壊力を内包していた。羞恥心で顔が赤信号なのも花を添える。
 腰を絞り調整すると、ルエから数歩離れて見つめてみる。完璧なる美少女だった。
 思わず称賛の拍手を送ると、ルエは唇を噛み眉をしかめてみせた。

 「可愛い。嫉妬し……ないけど、可愛い。お世辞抜きでお前可愛いな。もう女でいいんじゃね?」
 「うう………嫌ですよぉ………男として生きていたいのに……」

 ルエがすぐに泣きそうになるのを、宥めるべく手を握ってやる。あれこれ着せ替えをして遊んでしまったのは迂闊だったかもしれない。

 「ごめんごめん! 正直俺の専門外だしさ、ロウのとこに行こう! ロウだったらなんとかしてくれる。俺が保証する」
 「セージ。聞きたいんですけどぉ……」
 「ん?」

 ルエは泣きやすい性格ではなかった。冷静であり優柔不断な男性だった。だが女性になったせいか衝撃の大きさが影響したか泣きやすく情緒不安定になっていた。
 セージの手を両手で包み胸元に引き寄せて縋り付いて上目遣いを使う。

 「女の子同士って恋愛は通用しますかね……?」

 しがみ付いてくることでより一層華奢さが伝わる。運動と訓練で引き締まった体と平均より高い身長を手に入れたセージと比較するとまるで年の離れた姉妹のようだった。ルエもそれなりに鍛えていたはずだが女体化する際に筋肉と身長をどこかに奪われてしまったのかと奇妙な思いに囚われる。
 言葉の裏の意味をくみ取った

 「するんじゃないの………あーなるほど。いいんじゃないかなぁ。俺はそう思うよ。男女間だけが恋愛じゃないってさ」
 「………ぐすっ。ですよね。うん………よかった………」

 顔を背けて何やらぶつぶつと独り言に没頭し始めたルエを見つつ、さて次はどんな服を着せてやろうかと下衆な顔をするセージがいたとかいないとか。




 という特別篇特有の同人誌っぽいノリだったとさ。
 続きません。



[19099] 100話記念その2 「2章と3章のあれこれ」
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/03 02:47
 ―――その女の子に魂を奪われたのは、きっと一目見たときのことだと記憶している。
 一目見て雷に打たれた思いがした。

 最初、初対面に感じたのは『水死体か?』という失礼極まる第一印象だったのは仕方がない。何せ、うつ伏せで渓流をどんぶらこどんぶらこと下ってきたのだから。渓谷の里には多くのトラップが仕掛けてある。落とし穴、ワイヤで作動する弩、幻覚、その他。水死体が流れてくるのはこれが始めてではないのだ。熊が岩場から様子を窺い食べようとしていたことも、死体ではないかという疑問を更に強めた。
 死体は動かない。死んだものは動くことさえできない。モノになってしまっているから。
 指先が微かに震えるのを水の間に見た。生きている。見過ごせる程腐ってはいなかった。
 咄嗟に魔術を放ち熊を散らすと水に飛び込んで救助する。冷たく凍える体は生きているとは思えないほど衰弱していたが、抱きすくめたところで体が反応したので、生きていることが分かった。
 女の子はべっとり張り付いた髪の毛を振り払うことをせず、咳をして水を胃の内容物と一緒に吐き出すと、ぐったりとして身動きを止めた。
 息をしていなかった。息を吹き込むために唇を奪った。やむを得ない処置だった。思い返せば女性の唇に己の唇をくっつける行為は人生で初めてだった。ファーストキスにカウントされるだろうかと後々まで悩んだ。
 急がないと生死にかかわる様態だった。一刻を争う。女の子の体を擦りながら医務室に駆け込んで診てもらった。怪我、熱病、低体温から来る危険性。水薬と懸命な治療で一命は取り留めた。
 第一発見者として付き添うこととなったので、彼女が眠っているという部屋に行ってみた。
 声を失った。
 金糸を纏った幼くも凛とした雰囲気の寝顔が横たわっていた。見知った美人なら数多くいたし、綺麗な少女も知り合いではいたが、雷に打たれたように脳髄の芯から熱が走るような感覚を覚えるヒトは初めて出会った。吊り橋効果を疑い何度も自問自答するも真贋を特定できない。
 傍の椅子に座って眺めてみる。顔色の悪さが目立ったが美しさを損ねるほどでもない、むしろ強調するようだ。ふと奇妙な考えに囚われた。もしこの原石が時間という職人の手で磨き上げられてカッティングされたらいかなる美麗な宝石に仕上がるというのだろうと。
 まるで今後も共に過ごすことを前提としている己の頬を張り倒したい気分に襲われる。
 何気なく手を伸ばしておでこにかかった髪の毛を梳いてやろうとした。あわよくば触れてみたいと願っていた。下心と馬鹿にするなかれ。健全な男子ゆえの行動なのだ。
 次の瞬間、警戒心を湛えた双眸がカッと開くと宙を睨んだのだった。

 「おっとっと」

 火傷したかのように手を引っ込めると驚嘆の声を漏らす。事実、心臓が裂けそうなくらい脈打っていた。

 「僕は敵じゃないですよ」

 弁解した。まさか顔に触れようとしていたと初対面の相手に悟られるわけにはいかない。

 「……すまなかった。俺の顔に手を置こうとしてなかった?」
 「まさか、そんなことするわけないじゃないですか」
 「なら、今俺が掴んだのは幽霊か何かなんだ」

 ばれている。嘘が得意とはいい難く天才的な話術を有しているわけではないので、誤魔化せないのでお茶を濁すことで話題を逸らす。

 「さぁ……知りませんね。悪い夢でも見てたんでしょう」

 夢みたいなのは自分なのだと心の中で呟いて。



 里を出ていくと言い始めた彼女を止めることはできなかった。
 兄であるルークに頼み込んで同行を許可してもらおうとしたが、通らなかった。
 結局、再会できたのは数年後だった。
 もちろん手紙のやり取りはあったが顔を合わせることができなくて心が張り裂けそうだった。



 再会は大魔術師として著名なロウのもとでだった。
 まさか再会して早々抱き着かれるなんて思ってもいなかったが、ある意味でしたいと願っていたことが図らずも叶ってしまった。
 ただ、左手の薬指に指輪を嵌めていたことが気がかりだった。否、気が気でなかった。もし婚約指輪だとしたら数年間積もらせた思いの行き場が消滅してしまう。背筋が冷たく肌着が汗に濡れる感覚を味わった。
 のちにただの指輪と判明しても安心できなかった。
 何せセージは子供っぽさが抜けて大人っぽい雰囲気に衣替えしており、外見もすらりと伸びた美しい年頃の娘になっていたのだから。唾をつけてやることはできない。尻込みしてしまう性格が足を引っ張った。だからかっこいいところを見せたい、もっと近くに居たい、という気持ちだけで立ち向かおうとした。
 旅を続けるうちにセージが行方不明になった。
 ヴィーシカが言う。長老の立場として。セージという個人は時に見捨てなければならない。足を止めることはならぬと。従うしかなかった。せめてもの綱として印を残すことしかできない自分が憎く恨めしかった。
 スパイ容疑で捕まったと聞いたときは、上層部に掛け合った。セージがどのような性格でスパイになりえない理由があることをひたすら直談判した。役人に直接手紙を送ることもあったし、ルークの弟という立場でさえ利用した。使えるものは何でも使ったのだ。もし駄目ならばセージをさらってしまおうとさえ思い詰めていた。濡れ衣で処分など、理不尽にもほどがある。
 結局、セージは釈放された。無罪と判断されたからだ。
 その後、里でともに生活することとなった。ルークの計らいで仕事や行事には一緒になれるようにしてくれた。人生においてこれほど強く充実を得たことはなかった。
 成長期にあるセージはメキメキと身長を伸ばしていった。ルエも長身だが、隣に並んでも違和感のない身長になるまで伸びた。日々大人になっていく好きな女性の姿は見飽きることがない。
 共に生活していると、セージの性格の細部、癖、好きなものなどについて徐々に理解できるようになっていった。
 例えば――男の前でも構わず脱いでしまうような大らかさ。
 例えば――蜘蛛相手に大立ち回りした無鉄砲さ。
 例えば――酒に強くないのにたくさん飲んでしまう適当さ。
 例えば――寝相が酷くて毎朝髪の毛が爆発してること。
 例えば――笑顔が可愛いこと。
 例えば――誤魔化しがきかない恥ずかしいことに遭遇すると罵って話題を逸らすこと。
 ある日のこと。部屋を訪ねノックして扉を開けた。ノックして返事も聞かず扉を開けるというのはノックの意味がないということに気が付かなかったのは、それだけ日々親しんできたからだった。
 上半身は裸。下半身は下着だけで難しい顔をして女物の衣服を親の敵のようににらみつけるセージという構図に見事に直面してしまった。

 「は?」
 「あ…………」

 セージがぽかんと口を開けて固まった。まさか返事も聞かず入ってくるとは思いもしなかったらしい。鍵をかけていればよかっただろうが、忘れていた。
 男性の肉体とは比べるまでも無く細く華奢な作りであるが、女性のとしては逞しい部類に入る腹筋の上に張り付いた双丘の頂点に君臨するさくら色の淡い突起。網膜に電流が走るが如くの刺激は脳細胞に忘れがたい映像として記録された。刹那、セージの姿が掻き消えた。
 ブロンドの閃光が走る。神がかった出力と反応をもってして無詠唱肉体強化魔術を実行、片足で地を蹴り肉迫すれば、ものの一秒とかからず掌底を叩き込む――わけではなくて、女物のワンピースを顔面に押し付けたのだった。
 発生した風がワンピースを膨らませた。視界が布一色に覆い隠される。
 むんずと頭を掴まれた。アイアンクロー。ワンピースで視界を奪うことと、相手の顔面を締め付けようという二重の枷。筋力強化しているのか、あろうことか片腕一本で持ち上げられる。
 抵抗しても逃れることができない。

 「いたたたたたたた!?」
 「オイ。見たな? 見たんだな?」

 ドスの効いた脅し文句にヒイヒイ答える。

 「痛い! 痛いですよ! 見ました! 見ちゃいましたごめんなさい!」
 「よろしい。素直な奴だ許してやろう。なんて言うと思ったのかよばーか!」

 謝罪が謝罪にならずますますギリギリと持ち上げられる。さながらタロットのハングドマンのようだ。所有する因子は、我慢。だが我慢は身にならないという無常を表すという。
 激しい外因性の頭痛に苛まれながらも言い訳を探す。そして、とりあえずこんなことを口にしてみた。

 「……何年か前は見られても恥ずかしがらなかったじゃないですか」
 「………く、それは…………そうだな……」

 はらりと指が離れ拘束が緩む。ワンピースを取り去ってみると、苦悩と羞恥心を顔面で鬩ぎ合わせているセージがいた。体前方の守りは無く柔肌が広がる絶景が展開していた。
 何がそこまで彼女を苦しめるのはか定かではないが、昔は恥ずかしがらなかったということだろうと見当をつける。小さい頃は恥ずかしくないが、大きくなって恥ずかしいことなど山ほどある。
 真実は異なったのだがルエは知る由もない。
 もし見ようと思えば見えるところにある胸元から視線を強引に逸らすと、ワンピースをセージの手に押し付ける。
 気まずい時間があった。やがてセージに背中を押されて追い出された。

 「出ていけ。お前のせいなんだぞ。あと念のために言っておくけど胸は忘れろ。いいか、忘れろ。夜中に思い出すようなことあったら枕ごと首を串刺しにしてやるからな!」

 そんな言葉を貰った。




 ルークとの訓練は主に組手だったが、ルークの魔術を前にしてセージは手も足も出ずに投げられては気を失っていた。ルークほどの使い手ともなれば領域内の大気を全て操り瞬時に相手を投げ飛ばすこともできる。本気になれば空間内を真空にして窒息死させることも容易い。未熟な戦士一人如き造作もない。
 セージは強くなりたいと願っていたことと、無鉄砲な自分の体を省みない性格が重なり、無謀な攻撃を仕掛けてはやられるのが常だった。それでも回数を重ねるごとに接近の巧妙さが上手くなり魔術の扱いに成長の兆しがみられるようになったのは一重に努力の証であろう。
 今日も今日とて気を失ったセージを起こそうとして肩を揺り動かしていた。

 「セージ起きてください。必要ならば医務室運びますから」
 「………ぅー……」

 返事がない。うつ伏せに倒れ顔をべったりと地面に接した体勢のままでピクリともしない。顔を上げてみればセージと組み合っても髪の毛一つ乱れないルークの姿があった。
 ルークがひらりと手を振ると、その場を去っていく。去り際に一言残して。

 「後の処理は任せたぞ」
 「はい。かしこまりました」

 両足を揃え頭を低くして送る。
 公共の場では兄弟であってはならないので、ルークの口調は長老としてのもの、ルエの口調は部下としてのものである。ルークが去ったのち、セージを起こす工程に取り掛かった。肩を揺すり声をかけて意識が戻るのを待つ。緊急救命と大差ない手法である。
 一向に起きずうめき声を燻らせる彼女の乱れた前髪を整えてやる。髪の毛は細く柔らかい。きちんと梳かせば天使の輪のような光沢が生まれることを知っている。もしドレスで着飾ったらどうなるのだろうという妄想が膨らむ。

 「……セージ、起きてください。聞いてますか? 大丈夫ですか?」

 首を振って妄想の魔の手を追い払うと、すぐに起こす作業に戻る。肩を揺らし、顔を近づけて美味しそうな唇に―――と思考が邪な方向に逸れるのを客観的視点の自分によって戒めつつ、次の対処を考える。起きない。放置はできない。運ぼう。カチカチと頭の中で歯車が出来上がっていく感覚。気がつけば、セージの背中と足に手を潜らせ抱き上げていた。
 背中と脚部の肉の柔らかさに心の臓腑がたまらなくなる。汗のにおいと女性特有のかおりが鼻をくすぐる。今すぐ胸元を、白い首筋を、すらりと長く肉付きのよい足を、貪りたい。駄目だと理性が押しとどめる。理性の強靭さたるや無双の戦士であった。欲望は拘束された。
 ルエという男性は年頃である。愛おしい相手を前に欲望を制御するのがいかに難しいことだろうか。
 いわゆるお姫様抱っこをして歩いていく。道中で仲間のエルフたちにからかわれても毅然として態度を崩さない。二人の関係を知っている者からはからかいよりもむしろ生暖かい視線が送られた。
 セージの部屋に入ると、その体をベッドに横たえる。すやすやと眠る彼女を見下ろして後ろ髪引かれる思いで部屋を後にした。
 暫くしてセージは目を覚ました。誰が運んでくれたのだろうという疑問を解消できないまま。



 そんなある日のことだ。
 セージに食事に誘われてワインを飲んだ時のこと。
 事前の下調べでセージがどうして里を出たがっていたのか、わかっていた。ロウとの文通、ルークからの情報、そして独自の調査によって。別の世界に渡る術を持っていたという少数民族の遺産を求めているらしいこと。今もなおそれを目標に行動しているらしいこと。
 旅路は辛いだろう。少数民族の遺跡は魔界と化しており帰還するものがないという。もし潜るのを止められないのならばセージは死んでしまう。死なせない。絶対に。心に誓っていた。
 だから、募った想いを告げた。高揚に任せて唇を奪った。ファーストキスだった。
 そして旅の同行まで漕ぎ着けた。
 彼女の身に何かがあれば命を差し出す覚悟であった。君のためなら死ねる。
 覚悟が揺るぐことはないだろう。初恋で、今も恋していて、危なっかしい相手を手放すことなんて考えることができないのだから。
 恋は盲目だ。足元どころか一寸先さえ暗闇に変貌させる。自覚はあった。もしかしたら死ぬかもしれないと。構わないという覚悟も決めていた。
 部屋から追い出された。彼女の感触の残滓に触れるかのように指を唇に触れる。その指を順々に折りたたんで拳とすれば胸元に置いて、背後の扉の向こうに通らぬよう抑制した小声を口の中で反響させる。

 「―――……もしよければ、最期までついていかせてください」



[19099] 百一話 発、鉱山
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/05 02:47
 反乱は終結した。首謀者とアスクの死亡そして鎮圧によって。首謀者もしくは扇動者という柱を失った反乱は瞬く間に鎮圧へと向かい半日もしない間に全員が捕らえられあるいは死亡した。明確な意図をもって実行されたならともかく曖昧な方向性がたまたま一致したにすぎぬ反乱など一日も継続しない。
 アスクの遺体は直ちに片づけられた。という話を聞いた。
 セージはメローとルエと一か所に集められてひたすら時間だけを持て余した。反乱の詳細や、今後の処遇、その他情報の一切は教えて貰えないじまい。
 やっと通された。先頭にセージ。二人が後から続いて入室する。
 疲れた表情をしたアッシュが椅子に腰かけており書類に目を通していた。アッシュはざっと三人を見遣ると部下に出ていくように命じた。
 緊張感漂う室内。同じ血をわけた一族を目の前で射殺してみせた女が相手なのだ、緊張しない方がおかしい。今三人の首に拘束具は嵌っていない。制圧は容易いだろうが知的かつ冷酷な作りの瞳からいかほどの力が繰り出されるか測り兼ね、動きが取れない。
 前髪をさらりと指に触れたアッシュが顔を俯かせたまま眼球だけを動かし三人を捉えた。

 「さて……知ってのとおりの結末になったわけだけど、一つ提案があるの」
 「なんだよ」
 「傭兵団に入らないかしら」
 「断る」

 提案の内容も聞かず即座に却下する。傭兵団に入ればしがらみとなる。しがらみ、組織という頸木はやがて足を引っ張る枷となるだろう。関わりあいにならない方が今後のため。事前に考えて相談しておいた事柄である。
 アッシュ側すなわち傭兵団側の方が立場が上だろうが、先の反乱では鎮圧する側に加担したことが知られているため、また内情を知っていることから強く出ても大丈夫ではないか、という議論をしていた。一族の殺し合いがあったことを外部に漏らされたくないだろうことは明らかであり、しかし同時に消される恐れもあった。内情を知るものを外に逃げせばリスクとなるからだ。
 しかし、そのリスク持ちの首輪を外してわざわざ面会に呼ぶということは、ひょっとするかもしれない。
いずれにせよ揉めるのは違いない。揉め事は回避してひっそりやっていきたいと考えていたが、いざとなれば強硬策も辞さない構えだった。
 そんな三人の思惑とは裏腹にアッシュは営業スマイルを浮かべた。何やら細かいことの記されている書類に目をやりながら。

 「セージ……だったかしら? 話を聞いて頂戴。不幸にも我がきょうだいアスクは死亡した。誰が殺したのかは不明のまま、ね」
 「はぁ………つまりあれか、黙っててくれってか」
 「これは餞別よ」

 暗に黙っていろという提言を見出した。揉め事を起こしたくないのだろう。傭兵団が荒事が常とはいえ長が殺し合いを演じただの反乱があっただの話が漏れれば信用が失墜する。エルフ三人を相手取って攻撃すればエルフの里と契約を結べなくなる可能性もある。大人の汚いやり取りというやつである。
 アッシュがおもむろに硬貨をポケットから指に移した。柄のない銅貨である。それを指で弾く。セージが危なげに受け取る。待っていましたと言わんばかりに口の端を持ち上げる。明らかに作り笑いとわかる鉄仮面のような笑みを。

 「あなたは硬貨を受け取った。契約は成立した。そういうこと。他言無用。今日中に荷物をまとめて出ていくこと。以上」




 尻を蹴り飛ばされる形となった三人は鉱山を後にすることとなった。
 別れ際にガブリエルが今後のことについて危なげなことを口にしたが、報告するようなことはしなかった。あとは彼らの問題。旅路を急ぐ一行には関わりあいの無いことだとして。いつか、風の噂で鉱山について耳にするかもしれない。
 旅路が再開された。装備品一式も戻ってきた。だが労働やら戦いやらで疲労した三人は思うように先に進めずにすぐに休息を取ることとなった。

 「はーぁぁぁぁぁぁぁぁぁ生き返るぅぅぅぅ………」

 とある森で見つけた滝壺に佇んで顔を上に向けて水を受けて大仰な声を上げる、一人の人物。ブロンド髪に布一枚纏わぬ生まれたままの姿のセージである。疲れすぎて馬上で居眠り仕掛けるほどだったので、一日を休息に充てることにしたのだ。落馬で死亡という見っともない死に方だけは御免だった。
案の定メローは泥のように眠りこけてしまい水浴びどころではなく、セージ一人だけだった。
 程よい水温の滝はまるでシャワーのように感じられる。
 ちなみにルエには耳にタコを作る勢いで覗くなと釘を刺しておいた。真顔で覗いてもいいですかと訊ねられたときはさすがに拳骨を固めざるを得なかった。助平心を丸出しにしてくる相手の対処法など教えて貰ったことも書物で読んだことも無い。
 手入れをしないはずだった髪の毛を水という機械油で摩擦係数を減らして触る。上から下へ梳くように洗う。手入れをしないはずだったのだが、ふと気が付くとするようになっていた。己の爪を見遣る。やすりで削られている。胸に手を置く。くびれに手を滑らせる。頭の天辺から触れた水はなだらかに下って首うなじ背中胸腰臀部腿脛と経由して水面へ還る。エルフ特有の白亜の肌は清らかな水に温度を奪われ血流が活性化したせいか、ほんのりピンク色を浮き上がらせており、形の良さに花を添えている。
 ふと、背筋に視線を感じた。殺気にも近い感触である。ぞくぞくと背筋から腰にかけてこそばゆさが震撼する。

 「あいつ……覗きに来たのか? アグレッシブ過ぎる………馬鹿かよ。覗くなって言ってるのに」

 知らず赤面する頬を意識から遠ざけておいて、振り返ることなく水面に手を触れ、魔術を使う。無詠唱の火の玉を水中にねじ込む。途端に水が沸騰して水蒸気の帳を一面に展開した。靄の中で手探りで付近の葉っぱを二枚毟って前と後ろの大切な部位を隠す衣服を作る。片側は茎で結び、片側は枝で貫いて固定する。上は手で隠す。視線の方角へとじゃぶじゃぶと足を進めていくと、予想通りにルエが木の陰にいた。
 呆れかえった表情で腰に手を付き、片手で胸ともう片側の胸を隠して応対する。目立ちが剣呑を湛えた。

 「馬鹿野郎。覗くな言ったじゃん忘れたの? 馬鹿なの? いや馬鹿なんだばーか」
 「ばれないようにしたんですが、さすがに気が付きますか」

 不敵な笑みまで浮かべて堂々たる態度で覗き宣言をする変態は木の陰から一歩進んで水辺へと近づいて見せた。顔こそ真っ赤だが言動は冷静そのもの。歩調はゆっくりと。薄着に後ろの髪を下した格好であることから、水浴びしようとしているのがわかる。ただ滝は一つ。浴びる対象は二人。嫌な予感がした。
 相手の視線が思いきり胸元に突き刺さっているのを居心地悪そうに体を斜めにして受け流すと、心臓が高鳴る己と、恥ずかしいはずがない同性なのだからと演説する己を自覚する。
 ドキドキしてどうするというのか。己を戒めつつ、相手から一歩遠くに後退する。

 「お前前も言ってたよな………そんなに見たいの?」
 「はい。もちろんです」
 「変態か! お前変態だろ! 真顔で見たいですじゃないんだよ鼻の下伸ばしやがってさ!」
 「変態で何が悪いんですか!」
 「キレんな馬鹿、寄るな!」

 変態という罵り文句が通用せず、むしろ相手を興奮させている気がしないでもない現状。胸を押さえる片手は使用不可なため、空いた片手を振り回して牽制しつつ後退する。
 じりじりと距離を詰めるルエの顔は赤く吐息が荒い。理由は多岐に渡るが、鉱山という環境では欲求不満が蓄積するに任せていたのが大きい。
 セージは矛盾を抱えている。男性に対して男性として振る舞おうとして振る舞いきれないという致命的な矛盾を。男性ならば男性に裸体を見られても恥ずかしくはない。現に恥ずかしがってしまう以上、男性というよりむしろ女性よりに傾いている。昔ならば男性の前――特にルエ――でも気軽に着替えていたが、近頃そうは問屋が卸さない、ということである。
 後退速度と前進速度。後者が上回った。
 セージが、ずんずんと水面を突き進んでくる銀髪の男の顔目掛けて水を蹴りあげて視界を奪わんとする。
もうもうと立ち込める蒸気をかき分けて足の甲一杯分の容量が眼球を直撃した。水滴が散る。たまらず顔を手で覆いのたうつ。驚愕の声を迸らせた、僅かな隙。

 「うわっ!?」
 「この――――……やろっ!」
 「ぐえっ……!」

 そのわずかな隙を狙いブロンドが疾駆すると相手の鳩尾に掌底を叩き込み手早く首を掴むと足を払い重心を崩すと後ろに押し倒した。浅く水の張った砂利の地面に肉体が沈む。顔の後半部分が水中、目鼻が外気に露出する水深だったため、呼吸に支障はなかった。
 ただし掌底と足払いを受けて目を回してしまいぼんやりと沈黙してしまった。
 セージは不届きものの顔を覗き込むと頬を軽く数度に分けて叩いた。水を掬い目を開けられぬように集中狙い。かけて叩いてかけて叩いて。

 「ほれほれー水飲めー」
 「ちょ、苦しっ……やめてください! やめてくださいってば!」

 ルエがセージの手を取り止めさせた。手を握ったまま上半身を起こす。必然的に距離は至近距離である。
 手で作った胸の防御から零れる柔らかそうな肉に視線が釘付けとなる。こみ上げる欲望が沸騰して理性を破壊という檻を融解させんと奮闘していた。
 視線の露骨さにたちまち皮膚に血が巡り始め、動揺に息を呑んでしまう。セージは自分が赤面している事実を認めたくないので表情だけは真面目にしておくと、相棒とでもよくべき男性の暴走の原因を探ろうとして顔を見つめてみた。中性的で綺麗な顔立ち。酒に酔ったようにこちらを見返してくるスカイブルーの瞳に心臓が痛くなる。視線をあれこれ彷徨わせ原因を特定しようとする。一点で視線移動の速度が低下したのち、急速離脱した。
 セージは意を決して口を開いた。目線は明後日の方角である。まるで消え入りそうな鈴虫の声量で。

 「その………えーっと。ウン。見るだけなら………勘違いすんなよ!? 見るだけなら……見るだけならちょっとだけいいよって言ってるの! わかる! ええコラ! 聞いてんのか!」
 「……見るだけですか……?」
 「残念そうな顔すんな馬鹿! 感謝しろよ!」

 最後のほうは怒鳴り声だったとか。






 “寝たふり”をしていたメローは、ルエの水筒の中身を草むらに捨てていた。
 とある香り高い茸を磨り潰した粉、トカゲの皮、花粉、いくつかの薬品を調合して作る薬を仕込んでおいたのである。ルエが飲むように仕込むのは骨の折れる作業だったがメローへの警戒心の薄さ故に不可能な所業でもなかった。
 水筒に己の水筒の中身を入れて濯ぐと布を突っ込み丹念に掃除しておく。あとは中身を補充するだけ。証拠は消えてなくなった。
 薬剤の効力は麻薬のように強くはないが誘導するにはもってこいである。何を誘導したのか。メローは語らない。
 ロウからそれとなく二人の関係について教えて貰っていたので実験も含めて介入してみたけである。同じことをロウにすると一目で看破され解毒されるかそもそも飲まないのでルエのように飲んでくれるケースは興味深く映った。二人を見ていると心が安らぐ。いい反応を見せてくれるからだ。ロウとあの女のやり取りを横合いから弄る愉悦に似ている。
 二人がどうなったのかを好奇心に任せて調べに行くのもいいだろうが、やめた。寝たふりといっても疲労がたまっているのは事実。体を丸めローブに顔を埋めて寝る姿勢を取る。流れ星が落ちるがごとき速度で意識が消えた。
 すやすやと健やかな寝顔が生まれた。



[19099] 百二話 ぶっかけハプニング
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/08 02:04
 事を説明すると長くなる。抽象的な文句で説明するならば、晒して見られてんてこまいである。水浴び終了後、セージの口数が劇的な減少傾向を見せたのは無関係ではあるまい。
 セージは馬上で揺られながら自問自答していた。一つ許せばずるずると低空飛行するのだから初期段階で弾くつもりだったというのにあろうことか素肌を拝むことを許してしまった。悶々としつつ馬を進める作業を続行する。
 いずれ決着を、決断をしなくてはならない段階に足を突っ込むだろう。答えを先延ばしにするのは現実逃避と知りながら。
 次に行くべき街は商売人が集う交易地点。そこで薬品や装備を整えて遺跡に潜る予定だった。薬品類を里から持ち運ぶことはできない。薬品類は嵩張るし何より運搬中の破損リスクや劣化を考慮すると現地調達が賢明だった。これがRPGならリストに99個格納できるところだが生憎都合の良いハンマースペースはないし青い猫の便利な袋は持ち合わせていない。99個運搬しようものなら馬が追加で必要になること間違いなし。
 街に入った。馬でエルフが乗り込んできたのが珍しいのかじろじろと視線を送られるかと思いきや、獣人もいれば人間もいるという人種のるつぼにおいては目立たないのか、嫌な好奇の視線を浴びることはなかった。
 セージは薬屋の前にある馬置き場前で馬を降りて固定した。ルエが続く。盗まれる恐れはないと断言できない。一人の留守番が欲しいところだった。
 人込みに慣れないのか落着きなく周囲を見回しているメローの肩を軽く叩く。

 「メロー、留守番できるかな。俺とコイツで薬とか買ってくるからさ。あまり騒ぎは起こさないでくれると助かる」
 「……えっ…………騒ぎ……だめ…………? っ…………いいよ」
 「おいいくぞー荷物運べよな」
 「かしこまりました!!」
 「声抑えろ。迷惑だ」
 「……はい」

 メローが酷く残念そうな顔をしたのは見なかったことにして、ルエを顎でしゃくって呼び寄せる。先手必勝とばかりにぴしゃりと釘を打つ。気まずすぎるが物を運ぶ作業に男では欠かせないから仕方がない。ルエもルエで嫌な顔一つせずむしろ喜びをもって付いていった。
 入店するべく扉を開く。からんからんとベルが鳴る。
 ヒトに限らず生き物は予想外の事態には対処が遅れるもの。まさか扉を開けて早々薬品らしき液体が顔面目掛けて襲い掛かってくるなど思いもしない。もし予想できたのならば、その存在は預言者として地位を築けるだろう。

 「お…………!」

 二の句を継ぐ猶予さえ奪われていた。
 咄嗟に腕を交差するようにして庇うも薬品は服を皮膚を濡らし飛び散った。後から入ってきたルエに被害はなかった。
 口に入れるのはまずい。まずいと思っても、驚嘆の声を上げるべく口を半開きにしたが運の尽き。唾液ごと床に吐き捨てるも微量が体内へと吸収されてしまったであろう。
 セージは薬品が思ったより甘く蜂蜜のような風味を帯びていることを気持ち悪く感じた。かつて間違って洗顔料を歯ブラシに塗って口に入れてしまったときも甘かったからである。
 店は汚かった。ロウの羊皮紙と本の山からなる部屋も汚く整理整頓のせの字の欠片もなかったが、その店を表現するならば古物商から品物を奪ってきて部屋に陳列したかのようだった。正面のカウンターらしき長机の上にもビーカーやらなんやらが積み重なっており到底機能的とはいい難い。
 正面からぴょんぴょん飛び跳ねるようにして駆け寄ってくる女性がいた。

 「あっごめんなさーい! 足が滑ってしまったのー!」
 「ぺっ、ぺっ! てめ、ふざけんなよ! 口入ったぞ!」

 女性は店主らしき服装をしていた。分厚い布エプロンに安全手袋。顔はマスク。茶色っぽい髪の毛を両側で編み込んだ髪型に小柄な体躯は子供のようであったが、声は大人の女性特有の喉の奥で深みのある反響をした音であった。
 悪気のない謝罪に毒気を抜かれかけるも、薬品をぶっかけておいて酷いではないかと講義をするべく拳を固め、裾で顔を拭う。
 女性はにこにこと微笑みながら白いタオルを差し出すと背後のルエにちらりと目をやった。そこで視線が移動したことで横に伸びる長い耳を認識したのだろう、はっと驚きに顔を染めた。

 「こんなところまでエルフが来るなんて面白いわ。今日はおくすりでも買いにきたの?」

 先ほどのハプニングがなかったことのように世間話を始める女性。
 顔をタオルで拭いようやく水気を取ったセージは、相手の顔にタオルを投げつけつつ食って掛かった。

 「そうじゃない! 俺の顔にかかった薬品はなんなんだよ」
 「風邪薬よ」
 「風邪薬か、なんだ……」

 騒動に発展させるまでもあるまい。ほっと胸を撫で下ろすと女性の次の言葉を待つ。
 女性――店主は右の髪房を弄りつつ床に落ちた液体を見つめて次の情報を流した。

 「風邪にさせるお薬ね。さる貴族のお偉いさんに高値で売り付けるための試作品だったのよーまったく私としたことが転んで扉にぶちまけちゃったはずがエルフの娘さんにぶっかけちゃってましたなんて笑えないわよーあっはは」
 「あっはは。じゃねーよ!」

 けらけらと笑う女性の襟首を掴んでずいと寄るも、なんのその柳の枝を打つようにしなやかに笑い飛ばされて効力を失う。
 風邪にさせる薬、風邪薬。なるほど薬剤師の端くれならばそれらしいものをでっち上げるのは難しくないだろう。……まさか己が実験台になるなど予想していなかったが。
 セージは襟首を起点に相手の体を揺さぶりつつ尋問した。

 「解毒しろ! あるだろ、こんだけ薬あんなら!」

 ざっと手で示すは店の奥に山となっている薬達。棚に、机に、椅子に、皿の上にこんもりと盛られた瓶に乾物に固形物に。
 女性はがっくんがっくん首を前後に揺られて酔っ払いのような喋り方にて断言してみせた。

 「ないのよ! 解毒関係は丁度使い果たしちゃってなし! 今から作るにしても時間がかかっちゃうわぁう!」
 「やれ! 作れ!」
 「あうあうちょ吐くう! 気持ち悪いぃ!」

 何というのだろう。セージは苦虫を噛み潰したような顔をした。船頭多くして船山に登るでもない、絵に描いた餅でもない、烏合の衆でもない。薬が山をなしているのに解毒薬だけないなど、離陸装置はあるのに着陸装置だけない航空機である。
 構うものか、首をもいでやろう。襟首がきしきしと嫌な音を立てる勢いで振りまくり店主へ怒涛のラッシュを仕掛ける。

 「おお、どうしてこうも……」

 背後で蚊帳の外であったルエは天を仰いで目頭を揉んでいた。また問題が捨てられた子猫のようにすり寄ってきた。悪いことに猫を蹴って退ける力量はない。懐に抱くしかない。

 「うえっぷ! 止めなさいよう朝飯のパンがバターになってしまうから!」

 店主は手を振りほどくとよたよたと床を数歩後退して座り込んだ。首はもげなかったが服は乱れ髪の毛は四方八方に跳ねまくっている。セージの寝起きの髪型に近く外を出歩けば背中を指差されるだろう。
 腕を組むとむっつり眉を結んで相手を見下ろす。
 店主は目を回して立ち上がれないらしく座ったまま店の奥を指差した。

「ちっ! ……それで、解毒薬がないってのは嘘なんだろ?」
「ほんとうよ。解毒に使うお花を丁度きらしちゃってて。普通の薬ならとある苔を磨り潰した粉で作る解毒剤で済むんだけれど、試作品だっただけに効力が強烈でねえカリンの花っていうのじゃないと効かないわ」

 さすがというか腐っても薬屋。薬の知識はあるらしい。材料を用意しておかない無計画さは褒められたものではないが。
 カリンの花と聞いたセージは一瞬沈黙するも、すぐに脳裏に絵を描いて情報を記憶から引き出すことができた。草ばっかり食っていたせいだろうか薬の知識がそれなりについていた。カリンの花の名称も知っていたのだ。
 腕を組んだまま、ため息を吐く。薬をうっかり投げてしまうような変人にはきつい言葉で尋問しても埒が明かない。冷静かつ慎重に言葉を引き出すのだ。

 「カリンの花ってあの………!?」

 そこまで言葉を唇の外へ出して、平衡感覚が瞬時に喪失した。磁力の狂ったコンパスのように足元がくるくるとねじ曲がると膝が折れ上半身から順々に下半身が大地へと接する。
 ――前に、背後から逞しい筋肉を纏った二の腕が背中を支えると落下速度を殺した。髪の毛が慣性の法則に従い急停止した肉体から離れようと振り子のように棚引いた。

 「セージ! 店主さん。これは……!」

 腕の主はルエだった。セージが頭から床に突っ込む前に支えたのである。反応速度たるや落下と同時。電光のようであった。彼の顔は蒼白であり唇がわなわなと震えていた。
 店主は呑気に「おやまあ」と顔に似合わずオバサン臭い台詞を紡ぎつつぐったりとルエの腕の中で伏しているセージの首筋に指を置いて脈を計り、唇に掌を近寄せて吐息の回数を診た。
 そして、おもむろに喉の奥で唸り声を上げると、口をへの字に結んで、ゆっくりとルエの方へ向いた。

 「……道理でねえ。原液飲んだはずなのに耐えるなと思ったら……エルフだからかーうーん。うーん、うーん、困ったわ。あ、お兄さん聞いてくれる?」
 「なんでしょうか」
 「専門用語抜きに説明しちゃうと薬強すぎて死にそうになってるのよね。カリンの花無いと起き上がれないかも」
 「なんですって…………」
 「でも安心して。すぐ取り寄せて薬調合してあげるから。効力を緩和させる薬ならあるから死にはしない。ただ、ちょっと時間かかっちゃうから私のお店に泊まっていきなさいね」

 ルエはさっそくベッドは向こうだからと指示を送り始める店主に従うべくセージの体を抱いて立ち上がると、再び天を仰いだ。鉱山のように面倒な事態にならなければよいが、と、なかば達観にも似た感想を心中に木霊させて。




 一方その頃、忘れられているなどとは露知らずメローは馬置き場前でぼんやりと時間を潰していた。




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こっちに投稿し忘れる体たらく



[19099] 百三話 看病?
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/09 21:39
 天地も不覚な病というものを体験したことがあるだろうか?
 風邪に対する反応として熱はもちろん平衡感覚の異常や筋肉の痛みなどがあげられる。意識が朦朧として肉体の制御がおぼつかなくなることもある。これらはすべて体内に侵入した異物と抵抗力が鬩ぎ合っている証拠である。
 だがセージは違った。風邪のような症状を引き起こさせるという治療薬ならぬ風邪になるお薬を被ってしまい、風邪のようで風邪ではない状態異常に苦しむこととなった。
 具体的な症状は以下の通りである。高熱、咳、吐き気、倦怠感。店主曰く薬は風邪の真似事なので例えば発疹が出たり後遺症が残ることはないそうである。一応、貴族に売り付ける代物。安全性は高い……はずなのだがセージは動物実験が済んでいない云々というセリフを聞きのがしていなかった。もし後遺症でも残ろうものならば頭をかち割ろうと誓った。

 「げほっごほっぐふっ」

 三節分けの咳を指の隙間から漏らす。口を覆うように手のマスクを装着していたが指から漏れて効果はない。風邪菌が含まれているわけではないので構わずやればいいのだがつい押さえてしまうのは性格なのだろうか。咳の度に背中が縮まった。
 辛いの極みだった。食べれば吐き、高熱にうなされて眠るのも苦行、身の回りのことさえままならない。
風邪薬の薬効は完璧であった。ヒューマンエラーで飲むべき対象ではない相手が口にしてしまったことを除けば。
 店主は実験の手間が省けたと笑った。憤りをぐっとこらえて早く薬を準備するように催促するにとどめた。腕力が説得より先に出るほど間抜けではなかった。
 店主が用意した部屋の窓際にあるベッドでぐったりと横たわり天井を仰ぐ。格好は言うまでも無く軽装。革鎧を身に着けたままベッドは非常識かつ非合理と脱いだのだ。
 肉体が溶岩だった。心の臓腑から送られる血流は煮えたぎる鉄。思考は蒸気。ベッドのシーツさえとろ火でじっくり加熱された鉄板だった。

 「ちっ!」

 舌打ちを漏らすどころの騒ぎではなく、盛大に投げつける勢いで鳴らせば、天井の一点を睨んで腕を組む。金糸が広がり枕に化粧を施しており赤らんだ顔や汗に濡れた額など見るものを惹きつける魅力を放っていたが、いかんせん不機嫌を濃縮して塗装したがごとき表情が台無しにしていた。
 不幸中の幸いというべきか、店主が材料を調達して薬を調合してくれる。薬に汚染された肉体を酷使してカリンの花を採取しに出かけなくてもいいのだ。ポジティブに考えてみたが不機嫌は止まらない。
 一方、ルエとメローの二人は、暇ができてしまった間を利用して思い思いの時間を過ごしていた。メローは薬屋の本に熱中しており薬に関する知識を貪っていた。そしてルエはというと、熱中する対象が違った。
 先ほどのことである。セージは空腹に耐えかねて無理にパンを口にしいっそ気持ちいいくらいの短時間で嘔吐に至った。吐き気を予想して金属皿を用意しておいたので床にぶちまけないで済んだが誰が始末するのだということとなった。メローは本を読むのに夢中で返事もしない。店主はカリンの花の調達に出かけた。セージ本人は歩くこともままならない。消去法で一人が選出された。
 ――吐しゃ物をルエに掃除してもらうなんて。
 セージは恥ずかしくて死にそうだった。
 戸を開けて入ってきた銀髪の男を一瞥すると窓に視線を滑らせる。頭に血流がどっとなだれ込み鼓膜がわんわんと嫌なノイズを拾う。

 「洗ってきました。もし吐きそうになったら、またお皿にお願いしますね」

 嫌な顔一つせず皿の洗浄作業を行ってきたルエは、セージの寝るベッド横の椅子に腰かけた。

 「はーまったく…………なんで俺がこんな目に……ルエが薬飲んじゃえばよかったのに」

 酷いことをさらっと口にして顔も合わせない。看病してくれる恩人に対する態度でないことは百も承知。
 しかしルエは嫌などころかむしろ別の心配事があるらしく、己の腿に肘をつけて前のめりで問いかけた。

 「質問ですがもし僕が飲んだら看病してくれましたか」
 「しないよ」

 面倒になったのでノウと答えてみた。喉の痛さがないので喋ることに支障がないのは救いなのだろうか、それとも災難なのだろうか。
 するとルエは悍ましい物体を眺めてしまったように顔を強張らせ素っ頓狂な大声を出した。

 「していただけないんですか!?」
 「大声だすな! もちろんしてあげるにきまってるだろ……っ…………じゃ、じゃないしてあげないよ。誰がするもんか」

 動揺しつつも前言撤回をアンコール。顔を相手に向けぬように窓に魅了されたかのように。はたから見ている者がいれば素直じゃないなと苦笑いしたであろう。
 ルエはどうしても答えを知りたいらしく、質問を相手の赤らんだ耳に飛ばした。

 「え、どっちなんですか」
 「してあげない! 知らない、ちょっと黙ってろ!」

 布団を引き寄せて顔をすっぽり覆うと会話を強制中断する。それっきり口を聞かなくなったセージだったが暫くすると安定した寝息を立てるようになった。
 すっかり寝入ってしまったセージの顔を見つつ、やがてルエも微睡に落ちた。
 寝入ったのを気配で感じたか――否、目に魔力を通して扉を透かすことで内部を調査したうえでやってきたメローが、扉を薄く開けて内部を窺った。血のように赤い瞳が隙間からきょろきょろと左右に振れた。
 中をじっくり観察すると、ふん、と関心ともため息とも取れる言葉を唇から零した。

 「へたれ」

 本人が聞いたら泣きそうな辛辣な物言いをしてみせる。誰も聞いていないからこそできる所業。
 セージとルエのあれこれに首を突っ込まず影から介入活動するのは心ときめかせる体験であり、覗きも面白いことこの上ない。善意でくっつけてやろうとは考えていない。楽しいからやっている。ロウにそれとなく仲を取り持つように囁かれたのも無関係ではないが、複雑な人間関係というものを記憶にある限り初めて目の当たりにしたので、おもちゃを手に入れた子供のような心境となっていたのだ。
 二人の仲が失敗するも成功するもメローにとって最終目標ではない。楽しいことになればいいなというある意味子供特有の無邪気な計画である。
 メローは扉を閉じると、店へと戻った。店には無数の書物がある。薬学に関するものが大半であるが、神話解説や物語などの大衆娯楽もある。知識を詰め込むことが好きな彼女にとって薬屋はうってつけの暇つぶし環境であった。
 部屋の隅の本の山を椅子の代わりにして、読みかけの本を胸に抱えるようにして項目に読みふける。
 時間をひたすら読書に費やす暇は店主が帰ってくるまで続いた。


 それから数日後のことである。やっと薬が完成して解毒することができたのは。
 お詫びということで薬品の数々を無償であるいは格安で提供させた。店主も動物実験飛び越して人体実験の被験者にさせてしまったことに負い目があるのか首を振ることはなかった。ネジが数本飛んだような人間性とはいえ、決して邪悪な魔王ではないのだ。
 即効性の高い水薬の類。粉薬。その他薬草等を調達できた一行は出発した。生気の値段で購入すると馬が数頭変えるであろう硬貨が動くところを、半値の半値以下で入手できたのは行幸であった。
 そして一行は遺跡のある山の根元にある町へと旅立った。
 この世界にやってきて何年もの時間が経過した。最後の土地となるであろう。全ての結果が分かった時にどのような決断を下すのかを考えたくないがためにひたすら無心に突き進むことしか頭に存在しない、そんなセージは青空を仰いで馬を操っていた。軽快な馬足のリズムに鼻歌を乗せて風に髪を揺らし、平原を駆け抜ける。蹄鉄が地面に轍を残し、二頭の馬の進行経路を描き出す。
 今日も今日とて前に進む。挫けても前に進む。進むしかないのだ。
 最終目的地である遺跡に潜るべく一行は急いだ。










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またこっちに投稿するのを忘れた
すいません許してくださいなんでもしますから



[19099] 百四話 干し、星、
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/10 01:03

 女性にとって髪の毛とはエルフでいう耳と同意義らしい。らしいというのは、セージ自身が髪の毛について最近まで頓着してこなかったから理解が浅いからである。髪の毛を切りそろえる、整える、という常識的な範疇を自発的に行うようになったのはつい最近のことだ。少し前まではアネットやクララなどに言われるがまま処置を施していた。よって髪型といえば短いか長いか後ろで結い上げるかしか選択肢がなく、例えば結い上げるだの、髪型だの、髪飾りだのを、試してこなかった。試そうと思えばいつでもできたが、する気が起きなかったのだ。
 という事情と、もともと黒髪が主流な日本社会に生きてきた記憶とがあったせいか、メローの艶やかな黒髪は羨望と郷愁の混ざった複雑な感情を喚起させた。お人形のような、もしくは妖精のような綺麗な顔立ちと相成って、まるで日本人形を思わせた。
 セージのよりなお細く艶とコシを兼ね備えた美髪を櫛で梳いていく。傷をつけぬように、引っかけないように、少しづつ取っては梳くを繰り返していき、髪の毛全体を梳かす。
 メローは心地よさそうに目を閉じてセージの作業を享受していた。マッサージにしろ、他人に体を整えて貰うことは心地の良いことだ。
 ここは平原のど真ん中。果てしなく続く緑色の大地の一角。大きな木が作り出す影に腰かけて小休止中。休めるときに休んでおけというのが旅の鉄則である。馬は木に括り付けられていたが不機嫌な顔をするでもなく無心に草を食んでいた。
 時間帯は既に夕方。薄らな空の光を頼りに髪を梳いているものの、支障はない。
 女性陣が髪の毛を整えている傍ら、整えるものもない男は一人岩に腰かけて時間を潰していた。
 セージは後頭部から下に垂れる髪の毛をすっかり整えると、次に耳付近から垂れる髪に着手した。耳に触れてはならぬ。慎重に髪を手繰り寄せると櫛で整える。上から下に生える方向に逆らわぬように。

 「おかゆいところございませんかー」
 「なに、それ……?」
 「なんでもない。痒いとこあったら掻いてあげるから言ってみ」
 「ない」
 「そっか」

 何となしに床屋さんの真似事をしてみたが、メローに通じるはずも無く首を傾げられる。わからないのも当たり前なので気を取り直して作業再開。
 黒髪を指に並べるようにして掴み取って夕日に晒す。髪質の良さを伝えるが如く夕日を反射してまるで金属のように均一な光沢を見せていた。リンスも無ければ整髪料も無いのに美しさを保っているとのことだから驚きであった。
 セージはそれこそ床屋さんのように全周をまわって髪の毛の梳き残しがないかを丹念に黙示で確かめると、櫛を返却した。我ながら上出来ではないかと満足げに胸を張る。

 「これでよし。完璧だ。それにしても髪の毛綺麗でいいなぁ………」

 黒真珠のような髪を前に、顎に指を沿えて何気なしに羨望を口に出す。髪の毛が汚いわけではないが、メローのように宝石が如き輝きを放つ髪質ではないことを自覚しているが故に、ぼそりと呟きが出たのだ。
 メローはそっと己の髪の毛を撫でながら顔の片側だけをセージに向ける程度に振り返った。

 「髪は女の嗜み………大切にしておいて損はないって、どこかで………聞いた……」
 「そうなのか?」
 「うん」
 「フーン……手入れしてみるかなぁ………」

 セージはおもむろに腕を組んで空を仰ぐと、ふと我に返った。髪の毛を気にするなどまるで――。中指を折り、額を打つ。乾いた音と痛み。
 謎の行動をとるセージを不審そうに見つめるメローの赤い瞳を避けるように手をゆらりと振ると、大地に腰かける。

 「よし終わりっ」
 「ありがとう」

 太陽は夕日となっていた。朝は朝日。夕方は夕日。夜は月に役割を委託する。
 刻一刻と変化していく時の流れに耽る。
黄昏に黄昏て。
あぐらを掻き肘を腿に乗せて顎をささえながら地平線の向こう側へと姿を消そうとしている太陽を見送る。熱せられた大気と冷たい大気の差異によって生じる揺らめきが、あたかも大地という不動を溶岩のように身動ぎさせていた。さわやかな風が大地を舐めつつやってくると大木の葉を数枚浚っていった。
 夕日は憂鬱な気持ちと、追憶をもたらすものだ。心の中に雑多な映像が浮かんでは夕闇に溶けていく。耳には風と大気の重い鳴り響きしか聞こえてこない。
 何気なしに己のブロンド髪を指に絡めると、独り言を呟こうとして、直前で吐息に混ぜることで打ち消した。他愛な内容だったからだ。

 「よっ! と」

 胡坐を解き足を振り上げると、反動と筋力で上体を起こして膝を払う。
 そろそろ出発してもいい頃合いである。草原という目標物が無いフィールドでは星が目印となるから、夜間こそ移動に向いているのだ。
 草に足跡を残しつつ歩んでいくと、親指を馬に向ける仕草をしてルエに声をかける。ルエも黄昏た表情にて木の根元にあった風化して掠れた岩に腰かけて地平線を眺めていた。何を考えているのかはセージにはわからない。以心伝心の仲でもなければ、相手の思考を読む技能も持ち合わせていないからだ。

 「へいへい。出発するぞー。待たせたな、メローの髪の毛量が多くってさ、手間取ったんだよ」
 「……あ、セージ。そうですか、では出発しましょう」
 「そうだな」

 セージは、さっそく岩から腰を上げて馬の方へ歩き出す相棒の背中を見つめ、暫し考え込んだ。忘れている事柄があった。人差し指をピンと立てて腰にぶら下げた袋の感触を指先で感じ取る。
 早歩きで接近すれば、相手の肩をむんずと掴んで振り返らせてやり、腰にぶら下げた袋を示す。

 「と、待った。メシ食お。干し肉か何かでさらっと腹ごしらえしてからな。馬を操縦しながらメシは辛いぜ。手元がぶれて指を食っちまう」
 「火は熾しますか」

 ルエは早速馬の積荷を探って干し肉やらの保存食を取り出そうとしつつ、セージに訊ねた。即ち焚火はいかに、と。
 セージの魔術は火に偏っている。かつてのように掌に火を起こすだけで疲労困憊になるような体たらくからは脱却して、やろうと思えば一面を火の海にすることも容易い熟練度であり、焚火を熾すことなど朝飯前である。夕飯前だが。しかし薪がない以上、無駄に体力を使うだけである。首を横に振っておく。

 「………んー。炙りも魅力的だからなー………けど薪がないから無理」
 「ですよね」
 「おーいメロー! メシにするぞー」

 呼ぶよりも前にメローは木の傍にしゃがみ込んで食べる姿勢を取っていた。小食でハムスターのような食事量の彼女であるがお腹が空くのは人一倍早いらしい。
 そして三人は寄り集まって干し肉もとい保存肉だけの質素な食事を始めた。
 肉を歯で噛み唾液を染み込ませながら柔らかくして咀嚼して飲み込む。決して急いで食べてはならない。解し、噛み切って、細かくかつ柔らかく加工して胃袋に送ってあげるのだ。長く味わい噛むことで脳の満腹中枢を刺激する意図もあった。
 セージは塩気の効いた肉を奥歯で磨り潰しつつ、ふと面を上げた。ルエの視線がまぎれも無く己に降りかかっている。じっと双眸で見返してみると逸らされた。弄り倒したい衝動がこみ上げるも、肉を噛み締める作業にリソースを裂くことに決めた。噛んで緩めて前歯で噛み切って飲む。乾いた肉から染み出す野性味のあるエキスが唾液の分泌を招く。たちまち、口内は唾液の海となった。
 この世界に限らず干し肉もとい保存肉という食べ物は主に三種類の調味料によって保存性を向上させている。日光、煙、塩である。スモーキーな味わいと強い塩気の為に肉の味がほぼ死んでいるので楽しむ余地はあまりない。
 赤黒い肉を掴んで、きりきりと歯を鳴らしつつ噛み切る。

 「干ひ肉へっほんほーに食いにくいからほまるよなー」

 肉にかぶりついたまま喋る。発音が曖昧になったがルエはきちんと認識できたらしく相槌を打った。

 「ですが生肉のまま持ち運びは不可能ですからね。妥当なおいしさです」
 「妥協なおいしさ?」
 「そうともいいます」

 一枚目を食したところで無意識に他のヒトが保存肉をどれだけ食べているかその進度が気になり目線を水平に位置してみれば、メローが肉を咥えたまま真上を仰いでいた。肉が固くて食えないのだろうか。

 「どーした?」
 「星………」
 「えっ?」

 メローの囁き声はそれっきり途絶えてしまった。慌てて視線の先を追尾してみれば、漆黒に染まりかけた群青色の天蓋に無数の線条が誕生しては死んでいく様が繰り広げられていた。流星群。途端に発生した光は空を横切って没する。痕跡も無く、ただ虚空だけを遺書にして。光は徐々に数を増していくと、隙間を埋めてしまわんばかりの線を描き出す。
 いつしか三人は食事の手を止めていた。

 結局、突発的な星空観賞会のせいで出発は大幅に遅れることとなったという。



[19099] 百五話 木
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/13 02:22

 エルフは森の民とも称される。長く敏感な耳は見通しの効かぬ森でも有効な音響センサとなり、たとえ猛毒を口にしても死に至ることはないという毒耐性も持つ。
 では森ならばいかなる不測の事態にも対処できる汎用性を持つかといえば答えは否である。ホームグランドである森ならばまだしも、見知らぬ森では人間族と大差ない。
 つまるところ迷っていた。
 馬が根っこを避けて、次の根っこも避けて、腐葉土に足を突っ込み歩調を緩める。悪路を走破する馬とて根っこと腐葉土と岩などが混在する凹凸激しい道では進行速度が大幅に遅れる。ただの森と侮って入り込んでしまったのが運の尽き。
 前方に木が見えてきた。立ち枯れした灰色のまっすぐな樹木である。表皮には十字の刻み。
 セージは馬上で舌打ちをした。腐葉土の甘い香りを口に含んで、ため息を吐く。

 「同じところをグルグル回ってやがる……」
 「そのようですね。しかし不自然です。グルグル同じところを通っているにしても、印に再びたどり着くまでの時間が短すぎます」

 後ろから馬を操りついてきていたルエはそう口にすると、印をつけてから再発見までの時間の短さを指摘した。印をつけたのはつい十分前。十分で同じところに戻ってくるというのは、動物が無意識に直線ではなく円を描くように移動してしまう特性でも説明できない。
 何らかの魔術による方向感覚の鈍化か、森自体が魔の空間と化しているかが考えられた。
 ロウがいればたちどころに解決してくれただろうが、一行には無理である。セージもルエもメローも魔術は力技であり、罠を見抜いたりするような複雑な技術は持ち合わせていない。
 セージは馬の背中を撫でてあげると、一息に鞍から降りて、根っこに片足を乗せて腕を組んだ。

 「魔の森ってやつかー。どうする? 術を破る術とか、魔術具とか、ないぞ」
 「メローはどう思いますか」
 「専門外」

 二人も馬から降りた。三人は顔を合わせて相談するも、いずれも魔の森を突破する技術がなく、困り顔を浮かばせるだけであった。
 大抵の場合、閉じ込め型の魔術には目的がある。外敵を閉じ込めて殺すことや、捕らえようとする意図、目的地に辿り付かせないようにする罠……。どれに該当するかを調べる術はないが、魔術が勝手に湧いたというケースは稀少であり、誰かが意図的に張ったと考えるのが自然であった。
 森は鬱蒼と茂っており背の高い樹木が天空に蓋をしていた。直線の木と斜めの木と横に倒れた木、蔓、葉っぱ、それらはあたかもカーテンのように視界を遮っており、太陽光さえ減衰させて、黒々とした空間を演出している。森に鳥や獣の嘶きが微かに反響して静けさを強調するようである。
 闇雲に馬を進めても同じ地点に戻ってくるだけだろう。
 セージはうーんと唸り声を喉の奥で曇らせると、ふと空を仰いだ。こんもりと茂った木々の隙間から垣間見る空は青い。ふと樹木の枝に目をやって、幹に触れてみた。強固で健康な木の質が手から伝わってきた。
 喉仏があった位置に人差し指を這わせ、木の根元から頂点までを目で辿る。両手をぱむと合わせると腰の鞘の固定を外し、ルエの手元に放った。

 「ちょっと木に登って様子を見てくるからよろしくなっ」
 「危ないですよ! もし落ちたらどうするんですか」

 ルエが、セージが登る予定だった木の傍によって拒絶反応を全身で表明した。腕を振り、首を振って。
 嫌みのない軽めの舌打ちを投げつけてやって、その胸を遠くに押す。心配される所以などないと。髪の毛を手繰ると右手に集め、左手に紐を用意して調整する。頭を俯いて両手で髪の毛を纏め、紐で結わく。激しい運動をする時のヘアスタイル。ポニーテール。

 「過保護め。こん中で一番運動のできる俺に心配してどうするのって。俺に任せておけよな。ちょっくら上行って様子見てくる。脱出方法は上見てから考えよう」

 そういうと、指を上に向ける。
同意を得ようとは思わない。ルエは心配性な節がある。許可を得るには辞書並みの資料を取り寄せなければならないだろう。
 むん、と腕を組んで上を仰ぐ。すらりとした肢体が屈折し、バネを作り、反発した。枝にぱっと飛びつくと腕力と脚力で枝の上に登る。
 枝を腕で保持、足場で高度を稼ぎ、次の足場へ。高くなれば高くなるほど落下死の可能性が跳ね上がるが、やっていることは下の方でも上でも変わりない。恐れがあるだけだ。
 木の中ほどまで到達。何やら靄のような気体が立ち込めている。無視した。

 「よっと、ほっと、っふう! 次、あれだ!」

 太めの枝に飛びつくとよじ登り股に挟む。もやもやとしたアイボリー色の気体が鼻腔を突いている。吸った息が自動で吐き出された。目がきゅっと窄まった。

 「へっぷしゅ! うー。なんだこれ……? 鼻痒い……」

 くしゃみが出た。反動でポニーテールがはためく。手で押さえることなどせず盛大に空気を噴出させた。鼻を擦り、手で扇いで気体を追い払おうとする。
 気を取り直して木登りを再開する。枝を掴み、足場を探して上に上に。猿のようにスルスルと登れはしないが、一歩一歩頂上へと近づいていった。
 眼下では不安げな表情を浮かべる二人がいたが、アイボリー色の気体と枝で視線が遮られ、見えなくなっていた。
 高所恐怖症の類はなかったはずであるが、木の頂上付近という高度ともなれば、生理的恐怖に背筋が毛羽立ってくる。高度は優に二階建て三階建ての建物をこえている。落ちれば死ぬ高さである。
 セージは、遥か大地と、同じ高度にある木の頂上からなる葉っぱの森のさなかに進出した。森は均一に広がっており地平線のかなたまで全て緑色であった。山の類も無く、目標物となる特徴的な物体が皆無であり、進むべき方角を特定できない。しかし、木の上ならば十二分に星を視認できるであろう。木の枝をしっかり腕に巻きつけながら、上空を仰いでみる。

 「ん………?」

 呼吸を止めて、怪訝に眉を曲げつつ耳を澄ます。低音が大地から大気に伝わってくるのを聴覚で感じ取った。
 何事かと思考するよりも刹那に早く、大地が大きく揺れ始めた。森中の鳥達が恐慌状態に陥り空へと翼を広げる。木々が右に左に軋み不穏な音を上げた。
 落ちる。死ぬ。背筋から電流が如き予感が電光となりて走り抜けた。
 枝に赤子のようにしがみ付くと手で己の腕を握り南京錠とする。揺れは徐々に、しかし確実に幅を増していき、大地が揺れるなどという甘い表現どころか、大地が砕け散ってしまいそうな震動へと変わっていった。

 「落ちる落ちる! なんだよ! 何が起こって――!?」

 その言葉の続きを言うことはできなかった。木の幹が半ばから折れ、空中に投げ出されたのだから。平素ならば出そうとも思わぬ絹が引き裂かれるような悲鳴が森に木霊した。
 だが、地面に叩きつけられてお釈迦になることはなかった。投げ出され暫し空中を漂った後、予想より遥かに短い時間で足場に着地したからだ。
 恐ろしさに身を小さくして屈んだ姿勢だったセージは、怯えながらも、瞼を開放した。

 「どういうことだ………」

 地面があった。ただし、緑色の。木という木が傾いて集合して葉っぱや枝をより集めることで足場を作っており、自由落下に逆らう基盤となっていたのである。木が意思を持っているとでもいうのだろうか。セージにはわからなかった。
 取りあえず恐る恐る足場を拳で叩いて強度を確かめると、薄く張った氷の上を歩くように、慎重に右足を先に左足を後に起立する。地面は存外しっかりしておりセージの全体重を支え切れていた。葉と枝からなる平面に立っているのがおかしくて腰が抜けそうだったが、早いところ下に降りなくてはと急かす己の意見に従うことにした。
 そろり、そろり、差し足、抜き足、ゆっくり、重心を、崩さぬように、歩く。
 最も近い木へと歩いていくと降りられるかを試そうとする。頼りになるかもわからない現象に縋り付くのはリスクが大きすぎる。根っこを張って直立している木に縋る方が百倍マシだった。
 セージは、なんとか木に辿り付けたことで胸を撫で下ろすと、眼下に向かって声を張り上げた。

 「おーい! ルエー! メロー! 生きてるかー!」

 反応はなく耳が痛くなるような静寂だけが淀んでいた。
 不安と謎の現象への不可解さで心臓が妙な挙動をするのを悟る。様子がおかしい。最悪のケースを考えるべきかもしれない。突然の地震と超常現象。何かがおかしい。
 そしてセージは木を降りようとして枝に足をかけ―――落ちた。
 枝が見事にへし折れると大地へと誘ったのだった。溺れる者は藁をも掴む。咄嗟に葉っぱを掴むも落下速度を緩める材料にさえならず千切れる。

 「わあああああああああっ!!」

 セージは見た。大地が津波のように迫ってくるのを。
 速度は馬車馬などと比較にならぬ。大地には岩が並んでいる。まるで鮫の口内のように、かっぽりと口を開けていたのだ。顔を腕で隠し、空中で防御姿勢を取ったが、何もかもが手遅れだった。
 次の瞬間、岩に叩きつけられた。強烈な衝撃。燃えるような痛みがぱっと開花して全身を汚染し尽すと、意識を苛む。腕は奇妙な方角に折れ、破れた皮膚からは血液が流れて大地を真紅に染め上げていく。光の失せた瞳で己の惨状を目の当たりにしたセージは、微睡へと落ちていった。
 しかし、不思議なのは、折れた腕も血液も霞んでいく視界の中で元通りになっていったことと、誰かがこちらを見つめている気配がしたことであった。
 すべてが暗転する。



[19099] 百六話 木々
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/13 02:33
 酷い頭痛がした。天地がさかさまになってしまった世界に迷い込んだように平衡感覚が狂っており胃の内容物が今にもはみ出そうであった。
 瞳を開く。木があった。根っこのように入り組んだ木が天井をアーチ型に成形しており、壁も木だった。ところどころの隙間には葉っぱがねじ込んであり、密封されていた。眼球のみを動かして部屋の様子を探ると、自分が寝転んでいるベッドらしき地点のすぐ隣にこんもりとした塊があった。
 どうやら、転落して意識を失ったらしい。いやそもそも転落したのだろうかという奇妙な感覚にとらわれる。森の木々が勝手に動いて足場を作る、突如大地震が発生する、自分が死ぬ場面を目撃したのに生きている。まるで白昼夢のようだった。

 「夢か……」

 そうなのだ、きっとそうだ。証拠はないが確証があった。一人合点して呟いて上半身を起こそうとする。すんなり起き上がることができた。頭が痛いことを除けば、体に傷がない。
 やはり夢だったのだ。しかし夢だとすれば自分はどこにいるのだろう。誰が運んだのだろう。頭に疑問符を浮かべていると、ベッド横のこんもりとした木の根っこのように思えた塊がもぞもぞと身じろぎをした。
 予想外の出来事に驚きの度合いは大きい。銅像が動くと予想して日常生活を送るものがいないように。

 「おっ……!? 木が動いた!?」
 「起きたかな」

 その塊はのそりと立ち上がると二本足と二本腕そして頭の存在を誇示した。ヒト特有の手足と頭部。しかし皮膚は植物のように緑もしくは薄暗い色合いをしており鱗のようにガサガサとして凹凸が激しい。あちこちから蔓のようなものが飛び出しており小さな花をつけている。顔立ちはヒトそのものであり目も同種であるが口の構造はヒトとは異なり歪であり、例えるならば、植物が無理に集合してヒトという形を作り上げているかのようだった。
 一瞬腰を抜かしかけたセージであったが、脳裏に分厚い学術書の挿絵がちらついた。植物のようで植物でなく、ヒトのようでヒトでない、深き森に生息するという生命体。
 ――ドライアド。
 木の妖精という意味合いを持つ種族であり、ヒトとは交わることのできない形態の違う生命体。生命は生命でも妖精に近いとも言われその生態や文化について知られていることは少ないという。
 そのドライアドが真ん前でこちらを見つめてきているのだから、腰を抜かすを通り越して一種の開き直りの境地に至ってしまった。驚くことはない。しゃんと背筋を張っていればいいと。
 ドライアドはゆっくりゆっくりと体を動かすと、セージが正面に来る位置へと体の向きを修正した。キシキシと木の繊維が擦れる音がしていた。なるほど、血肉のあり共通点も多い獣人やエルフなどとは異なり、そもそも肉体の構造からして違うらしい。
 彼――声が男だったので――は、セージの全身を見ることで確かめると、二本足でのんびりのんびりと横にどいて外へと通じる出入り口を示した。

 「知っての通り、私はドライアドだ。ふうむ体に異常はないようだね。詳しいことは君のお仲間さんたちに聞くといい。私はすべき仕事があるから。それに、私が案内するのでは、一日かかってしまうだろうから」
 「何が何だかわからないけど……ありがとうございます」
 「いいんだ。さぁ、お行き」

 ぺこりと頭を下げると、状況をいまいち飲み込めないのか神妙な顔つきにて部屋を出る。もとい、潜り抜ける。出入り口は狭く身をかがめなくては抜けられなかったからだ。
 部屋を出ると、絶景が広がっていた。木という木が腕を組むかのように枝を伸ばして複雑に絡まっており一つの個体として息づいている。枝と枝は蔓の手すりや葉っぱの足場で補強されて、枯れ木などで骨組みが組まれた小屋のようなものも枝の上に建っていた。鬱蒼とした森はしかし輝く光虫が自在に徘徊しており、黄色味のある不可思議な光と樹木が発する僅かな水気が入り混じり、神秘的な空間演出を施していた。
 見るものをうっとりさせるような美しい光源。清々しい葉っぱの香りを多量に含んだ空気。森の中を徘徊してきた経験もあるセージでさえ言葉を失う美しさであった。近い光景といえば最初に訪れた里であるが、全て木と葉っぱで構成された居住区と比較することなどできない。

 「セージ? セージですか?」
 「おっ、ルエじゃん」

 声をかけられたので振り返ってみれば、枝と蔓を編んで作った吊り橋を四苦八苦しながら渡ってくるルエと、障害物などなく平地を歩いているようなバランス感覚を発揮してすいすいと歩きルエの背中にプレッシャ―を与えるメローがいた。
 森林の背景のエルフ。なかなか絵になっていたが、ルエの表情は逼迫しており、セージの顔を見てようやく頬が緩んだためか、今まさに森が焼き払われようとしている一部始終に遭遇してしまったエルフという風にも見えるだろう。
 ルエは橋を渡りきると、想いをそのまま発露させた。腕を伸ばしセージを抱こうとしたのだ。
 条件反射的に相手の胸を腕で押しやると後退する。色の良い唇がきっと結ばれた。

 「ばかやろー! お前はどうしてこうも!」
 「駄目ですか?」
 「駄目に決まってんだろ! 次やったら殴るぞ。本気だからな。………ふん。そんなことより、何が起こったのか説明しろって」

 相手がまるで虫か何かのように手で払う仕草をしてやれば、腕を組んで両足を肩幅に広げて心象を表現する。木に登って地震が起きて落下死したはず。なぜ生きているのか。誰が救助したのか、などの情報が欲しかった。
 すると意外なことだったが、メローがローブのフードを両手で跳ね上げて素顔を露出させつつ、コルクのようなもので蓋がされた試験管を取り出して中身を振った。黄色とも白ともつかぬ粒子が密封されていた。

 「これ。森に満ちる幻覚作用を持つ花粉にやられた。何を見たのかは知らない…………全て幻覚だったのかも……しれない。幻覚…………どんな幻覚……?」

 ニヤリと笑みを浮かべて試験管を目に高さまで持ち上げて観察する様はマッドサイエンティストにもためを張る不気味さであった。幻覚の内容は思い出して気持ちのいいものではないので割愛するとした。
 うむん、と喉を鳴らし、目を上の方へと傾ける。
 試験管を大切そうに懐にしまい込むメローは見なかったことにした。幻覚作用のある花粉の利用法応用など考えるだけでもぞっとする。

 「つまり…………おいおい、じゃー俺は」
 「森に入ってすぐ支離滅裂なことを言ってぐったりしてた。ルエが運んだ」
 「幻覚かよ。畜生」

 セージは腕を解くと、頭の芯の痛みを和らげるべく目頭を揉み解した。もしかすると森に入ってすぐ吸い込んで意識朦朧となったかもしれない。記憶が当てにならないことが酷く精神的な疲労を強めた。
 ルエは文字通り比喩表現でも何でもなく己の胸を撫で下ろすと、メローの言葉の先を買って出た。周辺一帯を指し示すジェスチャー。

 「気を失ってしまったので野宿できる場所を探していると彼らに囲まれました。助けを求めてみたところ規則を守るならば滞在してもよいと言われ、現在に至るということです」
 「なるほど………っつつ、とんでもねぇ花粉だよ。頭がジンジン痛みやがる」

 セージはぶつぶつと愚痴を零しつつ手すりに寄って下を覗き込んだ。足が竦むような高さ。眼下の葉っぱや木の根っこ等は森の暗がりに隠されて見えず、奈落に続いているような距離感を味わった。
 きしきしきし。木と木が擦れるような音。三人の耳が一斉に反応して音の方角を探した。
 背後からゆっくりと、一歩一歩踏みしめるようにしてドライアドが現れた。セージが目覚めた際にそばにいた彼であった。彼の手には、いわばどんぐりを大型化させたような可愛らしい木の実があった。

 「これを飲みなさい。花粉の件は申し訳なかった。我らが父母はヒトを恐れるものが多いのだ。侵入者を花粉で撃退する仕組みがあるのだよ。私が調合した薬だ。飲めば、作用を打ち消すことができる」
 「そうなんですか。これは……」
 「飲み薬だ。さぁおあがり」

 彼はどんぐり(仮称)の上の部分に備え付けられた筒状のものをごつごつと節だった薄暗い緑色の指で掴むと上に引っ張って開封した。蓋だったらしい。
 メローが興味津々といった様子で赤い瞳を見開いた。
 セージはどんぐり(仮称)を受け取ると、恐れを孕んだ表情で中身のにおいを鼻をすんすん言わせて嗅いだ。土のにおいのような、生臭いような、妙な香りが鼻を擽る。
 無言で飲みなさいと意思を伝えてくる彼の目の前で、ゆっくりと口をつけると、傾けた。

 「頂きます」

 頭を軽く下げて、一気に呷る。土の香りのする涼しい味わいがすーっと口内に満ちるとたちまち喉へと流れ込んで食道を経由して胃袋へとなだれ込む。ミントと、青汁と、野草をごっちゃまぜにしたような味わいであり、まずくはなく、むしろ美味であった。森の要素すべてを抽出して液体にしたとでも称すべきか。
 こくり、こくり、と白い喉が上下して液体を内部に送り込む。
 中身が空になった。口を離すと、下品過ぎない程度に唇に舌を滑らせた。

 「ふー。なんだか効いてきた気がします。ありがとうございます」

 見事な飲みっぷりを披露したセージは、唇で拭いきれない余剰分を手の甲でぐいと拭うとどんぐり(仮称)を彼に返却した。
彼はにこやかに受け取ると、徐にとある方角を指差した。

 「さっそくで悪いのだがある場所に行ってほしい。行かなくてもいい。すぐに旅立ってもいい。話だけ聞いてほしいことがあるんだ」




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まさかのArcadiaの更新忘れ。くそうくそう



[19099] 百七話 森
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/17 00:53
 セージらが通されたのは、森だった。森しかないコミュニティなのに森に通されても、だからどうしたというのだという指摘が入るかもしれないが、その空間は果たして森といえるかもわからなかった。
 樹木と呼べる直立した木でなく、ただ木の表面だけが壁と床と天井を構成しており、迷路状に入り組んだ洞窟となっていた。日光の介在のない暗黒の世界。もし猫でも連れてきても前が見えないであろう。なぜなら、光源の一切が空間に存在しないからだ。
 集落へやってきて初めて出会ったドライアドとは別のドライアドが途中まで案内をしてくれたが、その木の洞窟前で説明がされた。集落を纏め上げる主がいる場所はこの洞窟の奥である。ただ一人だけが足を踏み入れることが許されている。別に取って食うわけではなく仕事の依頼がしたいから恐れることなく進んでほしいと。
 三人は顔を突き合わせ相談したが、結局セージがやることとなった。敵が待ち受けているならともかく、主とやらが会いたがっているだけなのだ、迷うことはない。
 武器も規則で持ち込み禁止なので二人に預けると、光る鉱石を入れたカンテラ片手に洞窟へと挑む。
 通路の角を曲がる際に振り返ると、恐れよりも興味の強く出たルエがこちらを覗き込んできていたので、手を振っておく。

 「じゃ、行くから。住民から話とか聞いておいてくれよな」

 そうして、木の洞窟という不可思議な空間へと漕ぎ出したのである。
 木の洞窟とだけあって、歩きやすさは保障されていた。通常の岩の洞窟であると出っ張った足場や砂場が混在しており気を抜くと転倒からの頭部強打へつながるのであるが、木だけに凹凸も無く、天井に危険な突起物や落石の心配もなかった。
 鉱石のカンテラを前に、空いた手で木の表面を撫でながら前へ前へと歩いていく。
 凹凸なし。表面がつるつる。故に、まるでパイプの中を歩いている気分がした。危険のない状況下において人は好奇心を強く意識するもの。主とやらがどんなドライアドなのか、胸が高鳴る。
 踏み出すごとに足音が反響して耳に長く残る。カンテラの光だけが頼りだった。前を見据え、一歩一歩着実に前に進んでいく。目標物や特徴的な目印のない曲がりくねった木の洞窟ということもあり、自分がどこまで進んだのかの判別が鈍っていくのを実感した。
 ある程度進んだ頃、前方に二手に分かれる道を見出した。
 Y字の分岐点に佇み、左右をじっくり観察する。顎に指を這わせると喉に低音を宿らせた。
 そして、ぱむ、と手を合わせると、爪先を左に向けた。

 「うーん。道が二つ。一つが正解? 二つとも正解? ………うし、左だ。迷ったら左っと」

 どこかで聞いた謎の理屈を元に適当に左を選択すると、分岐を後にした。
 セージは気が付かなかったことだがその分岐はセージがいなくなるや否やうねうねと形を変えて道を一つに絞ってしまっていた。言わば臓器が食物を消化するべく働いたように。
 セージは、相も変わらず同じ形状同じ光沢を放つ道を歩いていた。音が内側で自己完結してしまっているようで、誰の声も無く、風の音も、木が軋む音すらない。果てしのないパイプを歩いている気分。ハムスターの居心地である。

 「暇だなぁ。いつまで歩けばいいんだろ」

 いい加減飽きてきたのでため息を吐いた。胡坐を掻き、カンテラを横に置いて、壁の反りに背中の角度を合わせて姿勢を楽にした。
 緊張にせよ、興奮にせよ、長時間持続する感情ではない。長くなればピークを過ぎ惰性と化すのだ。主とやらが一向に見えず目的地もどこなのかもわからないと来れば飽きがくる。
 セージはいっそ一眠りしてやろうかと考えていたその時であった。
 通路が蠢くや、角度が変わり始めたのだ。即ち斜めに。突起物も掴まるものもないのに斜めになればどうなるか。滑る。

 「と、と、と、ととと!?」

 素っ頓狂な声を挙げて床に壁に肢体を投げ出し接触面を増加させて滑降を防がんとするが、角度が45度へと急激に移り変われば、無駄な抵抗に終わる。カンテラもろとも勢いよく滑り出した。
 途中で暴れてうつ伏せから仰向けに変わると、膝を抱えた体勢で一目散に暗闇の底へと下っていく。滑り台。懐かしさを覚えたのも最初だけ。徐々に速度が上がっていく己の体の行く末を表現した。

 「ひえええっ~~!」

 女の子なのか男の子なのかも定かではない絶叫にて。
 そしてセージは滑り台から投げ出されると、草が敷き詰められたマットのような地点へ顔面から飛び込み、若さゆえの弾力で地面を跳ねて静止した。ぴくりとも動かない。扇のように広がった髪の毛の下にある顔立ちは陰に隠れ誰にも露見していない。指がぴくりと関節を曲げるや、拳が握られ、マットを強く叩いた。

 「くそ!」

 虚空へ罵り文句をパイ投げの容量でぶつければ、髪の毛を掴んで乱暴に後ろにやり上体を起こす。もし木の洞窟を傾けた奴がいるならば燃やしてやろうという決意表明である。
 だが、次の句を告げる前に言葉を失った。果てしない空洞。大地に巨大な穴を穿ち、その地底から巨木が生えている。セージはその空洞の途中に空いた横穴にいたのである。燃えるのは取りやめた。
 魔力を多量に内包した光の粒子が蛍のように舞い飛んでおりカンテラが無意味と化していた。
 葉っぱのマットから足を振った反動で飛び降りて着地する。地底から天空に貫く大木の表面には螺旋状に余りに太く頑丈な蔓が巻き付いており、下にも上にも行けそうであった。蔓の下を見遣ると、足が竦むような高度が目前に迫った。

 「ひゅー………さぁてと。上か下か。上行こう」

 腕を組み、空を仰ぐ。大木の葉から、幹から、有無の境界線を無くしてしまったかのように、雲から雪があらわれるがごとく、光の粒子が降り注いでいる。蔓を足場に、せっせせっせと登坂を開始した。
 息を切らさぬように呼吸のリズムを狭め、一歩一歩確実に高度を稼いでいく。

 「遠いな。エレベーターとかないの」

 文句を呟きつつも大木に張り巡らされた蔓を登り続ける。ひたすら登って、休憩。登って休憩を何度繰り返したことか。
 多くの蔓が木の中に潜り込むような形となっており、看板が立てかけられていた。矢印。中に入るように矢印の頭が向いている。どうせ行くところも無い。セージは素直に看板に従った。
 内部は薄暗くなく、むしろ明るかった。光の粒子が無数に空間に瞬いており眩しいほどであった。黄色とも白ともつかない神々しい輝きを歩いていくと小さな祠があった。拳ほどの塊を祀ったそれは一見岩造りであったが、近くによって調べてみると、灰色の材木で作られているのがわかった。
 誰もいない。主とやらはトイレにでも言っているのだろうかと首を捻ったその時、頭に声が響いてきた。

 『ヒトの子よ………よくぞこられた……』
 「………ん?」

 気のせいだろうか。深みのあるバリトンボイスが頭に響いた。言わば独り言を脳内で再生したような、しかし耳には決して聞こえてこない強い違和感。
 可能性があるとすれば祠しかない。振り返ってみるも、拳サイズの謎の塊しかない。塊が喋ったのだろうか? 恐る恐る近寄ると、屈んで耳を近寄せてみる。
 笑いを含んだ声が再び脳に届いた。

 『そうではない。私はヒトの言葉を借りるならば大木そのものなのだ。今お前は、私の上に立っているのだ』
 「なるほど。で、要件とは」

 セージはあっさり飲み込むと、祠の前にどっかり胡坐を掻いて座り、地面でもあり木である相手の体を撫でた。この場に至って詐欺の片棒を担がされているでもあるまいし、信じることにしたのだ。細かい原理はファンタジー世界だからと考えること自体やめた。
 俄かに大気中の光る粒子が強みを増すと、頭に響いてくる声も音量を上げた。

 『これは依頼と受け取ってかまわない。我が忠実なる同胞達は戦いに適してはおらぬ。木の手入れは得意な彼らも、害獣駆除は不得意なのだ』
 「害獣が何か知らないけど、要するに駆除してくれってことか。んな面倒なことせずドライアド通して言ってくれればいいものを」
 『すまぬな。規則なのだ』

 もし実体があれば頭を下げているであろう物言いに噴出しかけるも、依頼と言うからには見返りがあるのだろうと見当をつけて、顎を手で撫でつつ質問した。

 「それで報酬は」
 『森を迷わず出られるように導こう。森である限りどこへでも行けるように』

 具体的にどのような方法なのかを質問するべきだろうか悩むも、それよりも仕事内容について質問したかった。相手が木であり壁であり地面ならどこに居ても構うまいと考え、興味関心の向いた祠を観察する。拳程の塊が気になるのだ。
 返事に合わせて両手を打っておく。

 「のった。じゃあ害獣駆除しに行くから場所教えてくれ」
 『場所か。お前はきっと縦穴に訪れるときに中ほどからやってきたはず。下方を覗き込んではおらぬか』
 「高くて見えなかったけど………」

 目がくらむほどの高さをつい今しがた体験してきたので即座に頷くことができた。相手がこの話を持ち出すということはつまり、下に害獣とやらがいるのではないか。
 唇を曲げ、腕を組んで再び胡坐を掻いた。

 「嫌な予感がする」
 『そういうことなのだ。我が愛しき大地に通じる根っこに憎き彼奴が取り付き液を吸っておる』

 肝心なことを質問し忘れていた。敵を討伐しに行くのだから、敵の種別くらいは知らなければ対策のしようがないではないか。姿の見えぬというより、巨大すぎて全貌を視界にとらえることのできない大木に対し、質問を続ける。

 「ちなみに害獣とは」
 『硬い殻で身を包み………複数の足と目………糸を吐く……』
 「また蜘蛛かよ!」

 セージは小さく毒づいた。
 どうやら奴らとは深い因果で結ばれているようだった。



[19099] 百八話 我ら多きが故なり
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/18 03:07
害獣駆除に当たっては盗賊の処置などとは違う。盗賊は話し合いや武力を見せつければ解決できることもあるのだが、こと害獣となると武力行使や罠などの実力によってのみ解決される。暴力に匹敵する解決法は暴力に他ならない。
 では今回の害獣駆除はどうか。困難だった。整理してみよう。
 セージは二人を呼び集めると事情を説明したのちに、作戦会議を開いていた。
 難しい表情をしてむっつり口を結び背中を丸め胡坐を掻いているセージと、胡坐は胡坐だがピンと背中を張っているルエと、両膝を抱えるいわゆる体育座りのメロー。
 セージは人差し指を示した。条件を再度挙げるごとに指が増える。

 「条件を纏めるとこんなもん。火を使わない。根っこや幹を傷つけない。虫は全部始末しろ。期間は無制限。報酬は森を安全かつ確実に脱出してくれること。質問は」
 「ないですが、難しいですね……。魔術の使用に制限をかけなくては失敗してしまいます」

 さっそくルエが挙手すると、己の腰に刺さっている短剣を目立たせた。セージの魔術は火炎。ルエは風。メローは不明。いずれにせよ放射することで威力を発揮するオーソドックスなものであるが、火を使わず根っこや幹を無傷でとなると、困難極まる。
 セージは腕を組むと空を仰ぎブツブツと独り言を曇らせ、ゆっくりと顔を戻してメローに問いかけた。彼女は背中の杖を胸に抱くようにしていた。

 「メロー。どう、威力を抑えて、蜘蛛退治は」
 「威力を抑えられない……わたしを……抑えられない………うふふ……」
 「そ、そうか……ウン……」

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべ意味深なことを口にするメローを前に多少引きつつ、彼女の戦いの風景を追憶する。強力な魔術の矢を持って対象を破壊する。鹿を爆殺したことからもその瞬間的な威力は根っこや幹を容易く壊してしまうだろう。
 セージは難しい顔を維持して、指先にほんの一瞬火を灯らせた。使える魔術はほぼ火炎系。火を使わないという案件を満たすためには火力を大幅に削らなくてはならないだろう。
 ルエもまた難しい顔をしていた。彼もセージと同じように腕を組む。

 「無理難題ですね。矢にしろ、魔術にしろ、物を壊さず相手だけ傷つけるものはありません。究極的な話、近接武器だってものを壊します。斧などはその典型的な例といえますね」
 「だよなぁ………」
 「僕の魔術も相手に攻撃するとなると膨大な圧力をかけていくので木くらいは容易く折れると思います。かといって手加減すると蜘蛛の殻には通用しない」
 「うーん。風で突き落す」
 「蜘蛛の詳細は分かりませんが突き落せるんでしょうか。突き落せるイメージがわきません」
 「うむむ……」

 唸り声をあげて二人は黙りこくってしまった。メローは最初から手加減できず戦いに加われない可能性が高いことが分かったのかぼんやりと周囲の風景を眺めている。ここは三人に臨時で宛がわれた部屋。セージが目覚めた小屋の内部である。小屋の窓もとい葉っぱの覆いから外の風景が垣間見ることができた。
 ちゅんちゅんと呑気に鳴く小鳥が沈黙をここぞとばかりに奪い取った。
 ややあって、セージは壁に立てかけておいた己の得物を取った。オリハルコンの穂先に、ドラゴン骨の柄。頑丈な業物。先端がぎらりと陽光を反射してウィンクした。その切っ先に指を滑らせつつ、ルエに問う。

 「こいつなら蜘蛛の殻でもぶち抜けるよな?」
 「抜けることは抜けると思います。ですが数も知れない、地の利も無い場所で、敵を捌けるかは……」
 「難しいか。せめて決め手があればなー」

 セージは納得して肩を落とした。かつて蜘蛛と何度も交戦してきたのだ、厄介さは身に染みている。例え一殺しても二三四と群がってきて糸を吐きかけ動きを阻害して食おうとする生態。仮に殻を貫通できても最低でも即死至らしめなければ戦いは厳しいだろう。
 では肉体強化を活用すればと思うかもしれないが、いかんせんセージの肉体強化は力技の未熟な技術。持続性がない。
 議論が行き詰ったのを見計らったか、メローがゆらりと前髪を横に除けると、小声で提案した。

 「毒」
 「え? なんだって?」

 セージが聞き返すと、メローは赤い瞳に僅かな高揚を浮かばせ、人差し指を立てた。肌が褐色なため視認しにくいが、頬も赤らんでいる。戦いでは人が変わったようになるが日常では受動的で大人しい彼女にとって、この提案には己の脈を早める緊張感があった。
 彼女は僅かに手元を震わせながら、セージの槍を指し示した。

 「蜘蛛に効く毒を作る。武器、塗る。即効性ので殺す。だいぶ………楽になる……はず?」
 「ほー、メロー。毒作れるのか」

 セージは感嘆の息を漏らすと、組んでいた腕を解いた。セージは薬学の知識があるが、薬を調合したり、病気を治療するための長期計画を立てる真似はできない。あくまで非常用である。
 一緒に旅をしていて薄々メローが薬に関して深い知識があるようだと気が付いていたが、毒を調合できるというのは初耳だった。
 ふとルエは、――果たして毒など『何に』使うのだろう? と頭をもたげる疑問に直面した。毒の使い道と言えば対象を害することしかないが………。思考を打ち切る。脳裏に過った無邪気な疑問を振り払った。
 メローは体育座りのまま杖を横に退けると、顎を膝の上に安置して、俯き加減に囁いた。

 「………うん。ふこーちゅーの幸い……ここは、色々な素材が転がってるから……。二三日くれれば、できる」
 「決まりだ」

 ぽむと手を打つと、セージが立ち上がった。やると決めたのならばやるのだ。じっとしているのは性に合わない。論より証拠ではないが、やってみてから考える方がいい結果が出る。というポリシーがあった。
 槍を拾い、肩に担ぐと部屋を出ようと踵を返す。二人の視線を振り返ることで受け止めると、中指と親指を重ね、ぱちんと弾く。

 「そらそらのんびりしてんなよ。ちょっと地下潜って強行偵察してくる。ルエ、メローは材料と毒の調合お願い。あとお前はついてくるな。大丈夫だから」

 セージはぴしゃりと言ってのけると、ついてこようと腰を上げる銀髪の鎖骨付近を押して床に座らせた。やはりこの男。心配性のようである。と本人が聞いたら顔を赤らめて押し黙りそうなことを思う、無鉄砲と無計画の塊である“女の子”。
 ルエは声を詰まらせて声をかけた。まるで喉に綿が詰まっているような重い音程。

 「偵察ですからね。くれぐれも……」
 「まったく…………」

 セージは部屋を出た。出る間際に誰にも聞こえない声量で己の身を案じてくれる男にこっそりと呟いておいた。

 「……ありがと」
 「何か言いました?」

 エルフの聴力をエルフにもかかわらず忘れていたのが仇となり声量の搾り方が足りなかったらしい。セージは大げさに首を振ると鼻を鳴らし、右手を肩の上で振ってノウを表明した。

 「何でもない!」

 こうして毒製作班と偵察班に別れたのである。





 長い蔓の道を下って行ったセージは、地下へと通じる穴を発見した。
 それは大地を深く穿って通じており、厳密にいえば大木を支える木の根っこは全てが土に埋まっているわけではなく、根というネットワークの広大さ故に空洞があるのだ。
 面積はもはや理解不能な領域に足を突っ込んでいる。そこらへんの木の幹並の直径に匹敵する根っこがとぐろを巻きうねりくねり分岐して構築する足場をから覗く眼下は暗黒に閉ざされており、空間に浮遊する光の粒子でさえ頼りなく見えた。眼下、そして水平方向への広がりは目視できる範囲だけでもお城の面積を優に飲み込んでしまうだろう。
 ドライアドたちが手入れの為に足を踏み入れたらしく転落防止用の柵や案内板が設置されており、根っこの水平面が確保できる地点には休憩所らしきものまである。
 見た限り、蜘蛛がいる様子は無かった。
 大木が風で揺れて、その蠢きが根っこに伝わって乾いた軋みを上げている。
 幻想的でありながら墓場のような不気味さを兼ね備える空間へと、ブロンド髪に槍を担ったエルフが挑む。
 広大な空間にたった一人。息を吸う。吐く。空気が微かに乱れ、光の粒子が急激に移動して大気に溶けた。

 「おーい蜘蛛出てこーい……出てくるわけないっか。うん。気楽に行こう」

 セージは冗談染みた口調で呼んでみて、苦笑いを湛えた。槍を片手で振り回すと腰溜めに構え、一歩一歩を確実に進んでいく。もし足を踏み外せば死ぬ。有象無象の区別なく重力は死を運搬するのだ。
 根っこを歩いていき、最も近い休憩所へと足を踏み入れる。ドアを開いて中を覗き込んで見ると、整然とした室内しかなかった。期待した蜘蛛はいない。休憩所でお茶を引っかける余裕はない。ドアを閉めると、先に続く根を辿る。

 「ふんふんふーんふんふー…………はー。静か。あの木のおっさん。嘘ついてたんじゃねーかな」

 セージは鼻歌を紡ぎつつ、根っこを歩いてそんなことを口にした。蜘蛛がいないのでは話と違うではないかと。
 油断した相手ほど狙いやすいものはない。セージの背後に蜘蛛が一匹糸を尻から出してゆっくりと降下してきた。ぬらぬらと光沢を放つ殻と、毒々しい白亜の体毛。複数本生えた脚部。黒真珠を思わせる艶やかな瞳。陸を走ることに特化した蜘蛛ではなく、よく知られる掌に収まる蜘蛛を大型化したような馬並の昆虫が背後へと出現したのであった。
 ――――キチキチキチ……。
 蜘蛛の殻が擦れることで生じる不快音がエルフの耳に怖気を走らせた。脊髄反射的に瞬時に振り返りまともに照準もつけぬまま二連式クロスボウを斉射した。

 「てえっ! そこにいたかぁっ!」

 殻に矢が刺さり体液が飛び散る。蜘蛛は糸を切ると根っこに着地してセージへと飛び掛かろうとする。
 その甲羅に槍の先端を当てて勢いを受け流し空中で身を入れ替えれば、横っ飛びに回避して向き直る。
 セージは上方からの奇襲に備え天蓋を仰いだ。そして絶句した。

 「めっちゃいるじゃんか馬鹿!!」

 根っこの裏、その他いろいろな個所に大小選り取り見取りな蜘蛛たちが潜んでおり、数十匹単位で糸を使い降下してきていたのである。見つからぬわけだ。
 魔術は使えない。クロスボウも再装填の暇がない。

 「〝強化せよ〟……! ちっ! また来るからな。覚えてろ」

 足に手を添え呪文を唱える。イメージを元に魔力を練って肉体に通す。筋肉が強化されて莫大な馬力が宿った。舌打ちをして、己にじりじりと距離を詰めてくる蜘蛛に牽制を含めて槍の先端を振り回せば、後を振り返らず脱兎のごとく疾走した。
 残されたのは捨て台詞だけだった。
 やはり蜘蛛に効果のある猛毒は必要なようだ。



[19099] 百九話 毒
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/19 02:26

 毒の製造で魔女がにやけ顔で鍋をかき回している場面を想像するならば、半分は当たっていると言える。液状に加工する過程で熱を加えることは珍しくないからだ。しかし、毒物をじっくりことこと煮詰めているのに、その蒸気を盛大に吸い込みながら作業では言うまでも無く魔女も死んでしまう。パンを焼くのに窯に入って様子を見るパン職人がいるだろうか? いや、いない。
 なので、毒の製造には自動で中身をかき混ぜる道具や、煮るだけでかき混ぜないでいいような状態にしておくことや、単体では毒性がないが調合すると毒性を持つ液体を作ることで解決される。これはファンタジー世界だからという理屈以前に現実の化学薬品にも同じことが言えるだろう。これらの理由から毒に強いエルフは毒の製造に適しているともいえる。
 ルエは、メローに言われるがまま材料を採取していた。とある茸と苔である。これをひたすら別々の鍋に入れて煮込み続ける。双方ともに毒性は極めて弱いが、混ぜると例え熊だろうが即死至らしめるという強力な毒となる。
 今回使用する予定の茸にしても苔にしても人里近いところでは見られず、深き森の魔力の濃い場所でのみ生育する。だから貴重品であり発見確率はまるで宝くじなのだが、ドライアドたちの森で探すのは阿弥陀クジ程度には確率が高まっていた。
 彷徨い、そして発見すると、片っ端から毟っていく。ドライアド曰く、ドライアドにとって不要であり需要はなく、たかが数人が一か所を全滅させるまで毟っても数か月後には生えているとのことなので、構うものかと乱獲する。
 もっさもっさと苔を毟っていたルエは、籠にぎゅうぎゅうと詰め込む作業に移った。微弱とはいえ毒がある苔である。薄皮の手袋をはめて作業にあたっていた。
 ルエはふと手を止めると、傍らに息づく草を見遣った。雑草だ。とは呼べない。雑草と薬草の区別がつかないとメローに言うや彼女は雑草という草は無いと即答してきた。生物学的命名と分類がされていないだけというのだ。専門分野はどちらかと言えば政治や文化であるルエにとって、全くの畑違いだったため、頷くしかなかった。
 そういえば。思い出す。
 セージと雑談する機会は多々あった。なぜか出身や家族の話は一切してくれなかったが、里から里へ移動していた頃についてはよくしゃべってくれた。曰く、草を食った。曰く、化け物に追いかけられた。曰く、死にかけた。今となってはいい思い出とカラカラ鈴のように笑う彼女に対し笑えなかった記憶があった。

 「………おいしいんだろうか」

 ぼそりと呟くと、屈んだ姿勢のまま草を千切り、じっと見つめる。草は青々としていて美味しそうだ。いざ口に入れようと勇気を振り絞るも決心がつかず、草の先端を口の傍で震わせるだけで時間が潰れる。
 そんなルエの傍に、足音も無くメローがやってきた。彼女は杖とローブを脱着しており、背中には茸のどっさり詰まった大きな籠を背負っていた。籠の重量は細身に辛いのか、ため息を吐きつつ緩慢な動作でしゃがみ込んだ。そして、ルエの持つ草を指差した。

 「その草は便秘の時に飲む。便秘?」
 「ち違いますよ!」
 「ちがう?」
 「違います!」
 「………………ちがうの?」

 メローは何故か残念そうに声のトーンを落として念をしてくるので、暗い表情にて反論しておく。

 「疑わないでください……」

 残念なことにルエが選んでしまったのは下剤になる草だったようだ。
 無表情で指摘してくるメローの指が己の心臓に刺さっているような気がして素っ頓狂な声を挙げて草を放り出す。もし相手がセージなら腹を抱えて笑うだろう。そして背中をバンバン叩いてくるのだ。
 しかし相手はメローだ。彼女は無表情を崩さず、籠を下した。酸っぱく生臭いにおいが籠の茸から漂ってくる。籠にはみっちりと灰色の地味な茸がある。さぞ重かろう。
 メローは赤い瞳をぱちくり瞬きして籠を指差した。

 「そう……………これ、もって」
 「わかりました。では、メローはこちらをお願いしますね」

 ルエは茸を満載した籠を背負い、メローが苔の入った籠を背負う。前者の方が重いことは明白だった。運動をせず筋肉がないメローにとって茸入り籠を運搬するのはかなりの重労働であった。適材適所。持てるものが持つ。
 籠の肩紐を定位置にかけて、一気に姿勢を起こす。メローは軽やかに。ルエは重々しく。
 そして二人は歩き出した。与えられた部屋では火を扱えない。もし火を使うのであれば、草などを取り除き石と砂を敷き詰めた場所を新設してやってくれという指示が来ているので、木々の開けた場所にある作業場へと運ぶ。
 ほどなくして見えてきたのは金属鍋と木で組んだ簡易テントからなる作業場であった。鍋があったのは幸いであった。もし無かったら作業が恐ろしく面倒になっていた。
 早速メローは茸の再選別作業に移り、ルエは苔をひたすらナイフで刻む作業を開始した。
 茸を選別して細かく磨り潰す。苔を切り刻んでペーストに練り上げる。地道な作業だが毒を販売してくれそうな相手もいなければ自然の毒で死ぬような相手でもないので、やむを得ない。
 作業開始からしばらくして、森に声が響いてきた。
 苔を無心に刻む作業をしていたルエは疲労をため息に込めて外気に混ぜると、面を上げて音源を探った。おーい、やーい、そーい。釈然としない遠くからの声が森の木々で乱反射して複雑なものと化しており、方角を探ることができない。茸を擦っていたメローも面を上げるとぽかんと口を開けてきょろきょろ視線を彷徨わせた。
 襲撃だろうか。それとも、別の物事が起こったのか。区別も理解もできず困惑の空気が漂った。

 「………なに……?」
 「さぁ……」

 ひゅおん。風を裂く影一つ。唖然とする二人に急速に接近した。

 「ひゃっほおおおおおおおっ!! 帰ってきたぁあああ! ああしまっあああっ!?」

 次の瞬間、蔦に掴まったセージが二人の上を飛び越していった。雄叫びを上げつつ歓喜に顔を綻ばせ猛速度で木々の間を擦り抜け――途中で手から蔦がすっぽ抜けてあえなく墜落。空中で二回転を決めると腐葉土に突っ込みあろうことかバウンドして草むらに突っ込み静かになった。
 ナイフを投げ出し、手袋を脱ぎ、ルエが走った。メローは胸を押えて呆然と立ち尽くしていた。

 「セージ! 大丈夫ですか!?」

 草むらからボロボロのエルフを救い出し無意識に胸に抱く。腐葉土と草むらというクッションのお陰で傷も無く打撲で苦しむ様子はない。健在な様子を見て安堵の息を漏らす。
 セージは頭を撫でながらぺろりと舌を覗かせると、蔦に掴まって雄叫びを上げながら移動するわけを口にした。盛大に落下したせいだろうか。頭がふらつく。立ち上がるのも億劫なのでルエの胸にいることにした。

 「いつつ………森のターザンごっこをやってたんだ……ただいまー」
 「おかえりなさい。もしかしていちいち木の上に登ってやったとか……」
 「うん。一度やってみたくてさー……あ、なんだよ変な目しやがって。偵察はやってきたよ、安心してくれ。陸の蜘蛛じゃなくて、俺らの知る普通の蜘蛛をでっかくしたようなのがいっぱいいた。やっぱり毒いるわ。魔術抜きで殺すの厳しすぎる」
 「もう……無茶しないでください。心臓が破裂するかと思いました」

 ルエの、仕事をさぼって遊んでいたのではないだろうかという白い目を避けてターザンごっこと偵察について話しておく。偵察が終わった後、部屋に戻って装備を置いて、二人のもとへ行くために手ごろな蔦から蔦に移動するという遊びをやったということである。無論筋力強化は使用した。最後まで持続せず落ちてしまったのだ。
髪の毛に付着した葉っぱを指に挟んで除け、ルエの腕をやんわり解いて片足から順番に大地に直立した。首を廻して関節を鳴らしてみせ、つい今しがたターザンごっこしてきた方角を見遣る。鬱蒼と茂った木のカーテンが邪魔で見通せない。
 セージは作業場で進行する毒製作へと視線をやった。ふむん。顎に指を置き、つかつかと歩み寄ると、鍋の中を覗き込んだ。空っぽ。作業台を見遣れば茸と苔の山。
 振り返り、訊ねた。

 「進行度はどうよ」
 「材料は集まった。作るだけ」
 「よし、ちゃっちゃとやろう。俺もやるよ」

 メローはそう受け答えすると、視線を茸へと戻して淡々と作業を再開した。
 結局毒製作には数日を要してしまったものの、蜘蛛駆除のための手筈は整った。



[19099] 百十話 親玉
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/03/20 00:40
 地下へと潜るにあたっては、メローは待機ということになった。メローは魔術でのみ戦いを可能としており、剣も槍も使えず、弓を引く筋力も無かった。弓は細身のものが扱う印象があるだろうが嘘である。弓は威力に比例して引く力が増大する武器である。高威力の弓は強弓等と呼ばれ、強い弓を引くことすなわち一流の戦士であると見なされることも多い。そうでなくとも鍛えもせず練習もしてこなかったものに扱えるものではないのだ。
 ということで攻略組はルエとセージに決まった。ルエは魔術の制限を何とかしようとして即席の槍を拵えた。セージのミスリルの槍とは比べ物にならない稚拙なものではあるが、その先端に塗布された猛毒さえあれば、傷口をつけただけで相手を死に至らしめることができるだろう。
 毒を製作するにあたっては、解毒剤も作られた。鍵を閉める機能があるのに開ける機能がないのでは片手落ちなのと同じように、もし万が一毒を吸い込む傷口に付着させてしまうなどのハプニングを想定して、解毒剤が用意されたのである。エルフは毒に耐性があり即死はしないだろうから一行動可能なものがもう一人を治療するという手はずである。
 つまり地下の戦いではツーマンセルかつ、お互いの徹底的な連携が肝要となる。それこそ以心伝心とでもいうべき背中を任せる戦い方を。
 セージは後ろで結い上げた髪の毛を左右に揺らしつつ、槍を構えて先頭を歩いていた。背後には慣れぬ手つきで槍を構えるルエがいた。近接格闘に置いてはセージの方が経験値を積んでいるので、先頭を切り開く役目はセージが担うこととなったのである。
 セージは上を仰いだ。前回の偵察では真上から奇襲を仕掛けられたため気おくれしたが、今回はそうはいかないとばかりに。

 「おかしい、いないぞ」
 「静かですね……」

 だが、一匹たりともおらず、閑古鳥が鳴いている始末であった。二人して視線を周辺に配りながら囁き合う。
 蜘蛛がいたらしい間接的な証拠は存在する。脚部がめり込んだ痕跡。樹液を吸ったのだろうか、根っこに穴が空いている個所もあった。何より蜘蛛を象徴づける粘着質な糸がすだれのように垂れ下がっており、うっかり引っかかってしまったらしき小虫がジタバタと暴れていた。
 セージはポニーテールの位置を直し、口をへの字に曲げて唸ると、人差し指を眼下に向けた。

 「確かにいたんだけどなぁ。うんざりするほどいた」
 「隠れているのでしょうか?」
 「だろうよ。無料で樹液をちゅーちゅー吸える場所を放棄して逃げ出すわけがない。いるとすれば向こうだろ常識的に考えて」

 指し示した方角は遥か下方。枝が入り組んで複雑怪奇な通路を構築している空間の奥行である。隠れる場所は無数に存在しており、むしろ隠れられない場所の方が少ないとも表現できるほど障害物が多い。
 セージは上からの攻撃と下からではどちらがましだろうかと考えつつ、一歩一歩を慎重に踏み出して木の根っこの道を下り始めた。視線は常に右、左、上、そして下へとひっきりなしに移動しており、聴力も可能な限り利用することで全周をカバーしようとしていた。
 唯一視線の行き届かない背後を守るルエは、おっかなびっくり槍を構えて後に続いた。
 休憩所へと到達。中に顔を突っ込んでみても誰もいない。
 休憩所を後にして前回の偵察で攻撃を受けた地点へとやってきた。蜘蛛の糸の銀色の線がぬらぬらと光っており、殺気にも似た不気味な感触が漂っていた。肌がぴりぴりと刺激されているようにも感じられより一層槍を握る手に力がこもる。
 セージの耳が僅かに傾いだ。

 「来る!」

 槍を引き、腕に力こめる。刹那、下の根からセージらのいる根へと跳躍して蜘蛛が二匹行先と戻り道を塞いでしまうと、強固な脚部を根っこにめり込ませつつ突進を仕掛けた。
 ルエの反応が遅れた。セージは既に動いていた。
 構えた槍を上半身の捻りで回転させつつ繰り出すと、蜘蛛の脳天へと切っ先をめり込ませ即死させれば、殻に飛び乗りけっ飛ばす反動で抜きぬいた。ルエは辛うじてバックステップすると、慣れぬ手つきで蜘蛛の体へと先端を突き刺した。
 猛毒の威力はすさまじく、ルエを狙っていた蜘蛛でさえ、致命傷になりえない個所に浅く刺さっただけの槍によって瞬時に絶命した。がくがくと肢体を震わせて崩れ落ちる。

 「おせーぞ! そんなに死にたいか!」
 「仕方がないじゃないですか! やったことないんですから!」
 「だから体鍛えるだけじゃなくて……わぁ来る!」

 二人は背中を合わせると、すかさず言葉の応酬を仕掛けたが、下方から蚤のように蜘蛛が跳ねて根っこへと飛び乗ってくると、余裕の一切合切を拭い去り得物による迎撃を再開した。
 セージは無詠唱の肉体強化魔術で並外れた脚力を発揮した。蜘蛛が糸を吐くのを、ルエの肩をむんずと掴んで自身とともに避けさせると、しゃがんだ姿勢から脚力だけで空中に進出して蜘蛛の背中に飛び乗り槍を刺してすかさず前転を決めて次の蜘蛛へと躍りかかった。

 「でやあっ!」

 背中に乗って、刺す。蜘蛛は脚部にしても口にしても背中まで届かないのだ。真正面からやり合うことなど愚の骨頂と知っているからこそ可能な戦法であった。
 一撃で死亡せしめるだけの威力を有する猛毒のお陰もあってか、一度の接触で一匹を始末することができた。
 一方でルエは必死な表情で槍を突き出し、危険を判断すると逃げてを繰り返す、臆病な戦いに徹していた。槍で突く。だけの攻撃方法しか取れない近接戦闘の腕前なのだ、セージのようにアクロバットな動きを瞬時に発揮できる方がおかしい。
 比較的小粒な数匹を瞬時に平らげてしまったセージは、ルエが悪戦苦闘しているのを見るや、声をかけつつ急行した。
 ルエに向かい糸を吐こうとする一匹に対して矛先で狙いをつける。

 「どっけぇ!」
 「うわ!?」

 ルエの背後から強化された脚力で風のようにすり抜けると、蜘蛛の糸を跳躍でいなし、その顔面へとドロップキックを敢行。がつんと足が殻に阻まれ跳ね返されたが全て計算のうち。蜘蛛がここぞとばかりに接近戦に持ち込む勢いをそのまま利用してミスリルの刃を殻の内部へと埋没させた。ずぷり、嫌な手ごたえ。蜘蛛の体液が傷口から吹き出すと根っこを汚した。
 始末した余韻に浸る隙も与えてくれない。二人のいる根っこへと雲霞の如く蜘蛛が出現すると物量で押しつぶさんとする。陸の蜘蛛と異なり大型のがほとんどいなかったのと、猛毒を塗布した槍があることでなんとか捌けていたが、一殺せば二やってくるのではやがて防戦一方となる。
 悪いことに蜘蛛たちは根っこの裏という足場でも歩くことができるらしく、前後左右どこからでも出現するため、殺しても殺しきれず、やがて二人の背中はくっ付いていた。二人だけの円陣防御。

 「多すぎます!」
 「なんかいいアイディアはあるんだろ? そうだと言えってば!」
 「セージこそ!」
 「ねぇよ!」

 無駄口を叩きつつも、セージは突いて払って死骸を蹴る。ルエは突くだけであるが、徐々に慣れてきたか、槍の精度が上がってきていた。
 これ以上下がれない。なにせ、お互いの背中があるのだから。蜘蛛はますます数を増やし根っこの上を占領せんばかりであった。
 ――かくなる上は。
 セージはルエの肩を叩くと――その肩を抱えてともに根っこから飛び降りた。綱無しバンジー。またの名を身投げ。逃げる場所が無ければ飛び降りればいいじゃないというコペルニクス的発想である。

 「ルエぇぇぇっ! 飛べぇぇぇっ!」
 「え………!?」

 だがその発想がなかった者にとっては宴会の最中に総大将自ら切り込んできたに等しい不意打ちである。セージは前から、ルエは背中から落下する羽目となった。足場が消えれば重力に従い止まるまで落ちるのが世界の理。加速度的に落下速度が上がっていき対策を打たねばミンチと化すだろう。

 「〝風よ〟!」

 ルエの言葉が迸るや否や周囲の風が瞬時に流れを変えて二人の体を包み込み減速し始めた。ルエがセージの腰を抱き寄せると密着させることで安定化を図った。距離を離せば離す程制御が難しくなるのだから当然と言えるが、セージからすれば相手に腰を触られたうえ密着する位置に連れてこられたようなもので眉を顰めざるを得なかったが、真上から続々と蜘蛛たちが糸を垂らして追撃してくる風景が見えたものだから、絶叫ものだった。
 反射的に腰の二連式クロスボウを抜くと、後付けの照準器で狙いをつけた。

 「もっと速く落ちろ! 速く落ちてゆっくり! もっとゆっくり! 違う速く! ゆっくり速く!」
 「矛盾してますよ!」
 「あぁ糞。動くなよ! すぐ後ろに蜘蛛いるから!」

 細かな補足説明を加えている暇などない。蜘蛛の一匹が背中に取り付こうと迫ってきているのを見つけるや、胸にしがみ付き射角を確保して、ルエの首筋から矢を二連射して射殺した。ルエの心臓が高鳴ったなど知る由もない。
 すぐ眼下に迫ってくる根っこへと着地すべく二人は身構えた。丁度そこへ、巨大な蜘蛛が居座っているなどと思わずに。
 巨大な蜘蛛の殻の上に見事着地したセージとルエのうち、瞬時に反応を示したのはセージだった。巨大な蜘蛛が反撃に出るより数秒は早く罵り台詞をせり落とすと、毒を擦り込んだ槍を逆手持ちにして、全体重と腕力をかけて突き立てた。生ぬるい蜘蛛の体液が跳ねて顔にかかる。

 「お、お……! でかいぞ! くそっこいつでも食らえ!」
 「親玉でしょうか!」

 敵の上に着地という事態に気を取られていたが、遅れてルエも突き刺した。
巨大蜘蛛は、突然背中に異物の侵入を許して苦痛に怒りの鳴き声を上げつつ暴れるも、徐々に動きを鈍くしていった。例え熊であろうと即死させるという猛毒を体内に注入されてしまい、死への旅路を辿り始めていたのだ。
 それでも蜘蛛の抵抗は激しく、二人は殻から弾かれてしまい、根っこの上に転がった。
 苦悶の声を上げ、複数本生えた足をひっきりなしに痙攣させて大暴れする巨大蜘蛛を前に、他の蜘蛛たちも不思議と動きを止めていた。二人は固唾を飲んで観察を続けていた。するとあろうことか巨大蜘蛛は、もしかしたら逃亡を図ったのかもしれないが、よろよろと根っこから糸も張らずに身を投げた。

 「自殺か?」
 「いえ。毒が効いて平衡感覚を失ったのでは……」

 セージは端的に感想を述べた。まるで自分から死にに行ったように見えたからだ。ルエが首を振り否定すると、恐る恐る他の蜘蛛たちに警戒の視線を配りいつでも攻撃に移れるように全身を強張らせていた。
 二人は根から眼下を覗き込み巨大蜘蛛の行く末を見た。巨大蜘蛛は空中を独楽のように回転しつつ根にぶつかっては跳ねてを繰り返しつつ暗黒の奈落へと消えていった。いくら頑丈かつ生命力にあふれているとはいえ受け身も減速もできぬまま落下しては生存は絶望的であろう。
 巨大蜘蛛の死亡を見届けたのか蜘蛛たちは一斉に文字通り蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。死角となっていた箇所からも蜘蛛が這い出てくると地上に向かって駆けだしていく。数分とかからずに蜘蛛の群れは視界から消えてしまい辺りには静寂が戻った。
 セージは脱力して座り込むと、ポニーテールを解いてため息をついた。

 「ボス撃破。任務完了ってね」



[19099] 百十一話 蝶のようなもの
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/05/06 00:47
 どうやら巨大な蜘蛛はいわばクイーンの役目を果たしていたらしく子供らはクイーンの撃破と同時に一目散に逃亡を図った。ドライアドの話によると根っこに群がっていたものらは消え上せたという。数日間寝泊りをして再調査してみるも一匹も発見することができず、依頼の達成が確認されたのであった。蜘蛛を追い払うこと。これの完遂を持って森を脱する術を授けるというのが依頼であった。
 なお毒は今後も利用できる可能性があったため瓶詰にして持ち運ぶこととなった。貴重な品を用い数日間掛かりで製作したのだ、燃やすなどして破棄するには後ろ髪引かれる要素が強すぎた。難点はセージの扱う火炎系魔術との相性が最悪であることである。毒は熱に弱い性質であった。
 報酬を渡すということで森の主と面会のため通された祠の上にある地点へと通された一行は装備品を確かめていた。ドライアド曰く荷物は揃えて携帯しておくようにとのこと。馬は心配しないでも送り届けると言われた。どのようにして運ぶのかは教えて貰えなかったが裏切られることはないという確信があったため、安心してやってきたのだ。
 しかし一向に迎えとやらが来ないし、主も返事をしてくれない。
 木の枝と枝に渡すように作られた足場の上で三人は座り込んで雑談に耽っていたが、一時間二時間も経つと話題も無くなりメローに至ってはうたたねし始める始末だった。
 待たせるよりも、待つ方がつらいものだ。
 セージはメローが己の肩に寄り掛かり寝息を立てるのを横目で見やると、小さい唸り声をあげた。
 てっきり案内人でもよこして森を安全に脱出させてくれるのだとばかり思い込んでいたので、よりによって森の中で荷物を装備したまま待たされるとは思いもしなかった。
 鳥が鳴いている。空は高く風は優しい。じっと黙っていると眠気が襲ってくるもの。
 ルエがこちらの顔をじっと覗き込んでいる真ん前で、瞼が勝手に下りて睡眠へとずぶずぶはまり込んでいく。起きなくては。寝顔を見せるのは恥ずかしいではないか。しかし睡魔は非常である。どんなに瞼を開けていようとしても、生ぬるい愛撫によって意識が溶かされていくのを先延ばしにする効果しか発揮できない。
 己がとろけるのをどこかで俯瞰しつつも意識が消えていった。時間間隔が曖昧になり隣にいるメローの吐息さえ大きく感じられた。

 『待たせたな。さらばだエルフよ。二度と会うまいが強く生きるのだぞ』
 「はえ?」
 『締まらないことを言うのではない。しゃきっと目を開くのだ』
 「えぇ? ん?」

 心地よい低音が直接頭の中に響いてきた。半ば眠っているに等しい意識レベルにあったセージはがくりと肩を痙攣させるとうめき声を上げつつ、声にならない声を漏らすと瞳を開いた。
 管のようなものが吹き抜けの部屋に無数に侵入してきており、それらは蛍のように輝いていた。何を、と言うよりも早く管が巻き付いてくるとがっちり胴体を固定して上に持ち上げていく。抵抗しようにも寝ぼけた頭ではままならない。

 「え、ちょ……!? 落ちる! 落ち……? 落ちない?」

 暴れて振りほどこうと躍起になったが、高度が木の高さを越えて上昇を始めると、万が一振りほどけてしまった時の危険性に体が震え中断してしまう。見れば、管はなにやら煌めく物体から伸びていた。それは複雑な模様の大きな羽を二枚と、二本の触角を持っていた。
 ――蝶だ。蝶をそのまま巨大化させたような物体が羽をやけにゆったり使いつつ空へと昇っていく真っ最中であり、己はその蝶の腹より生える無数の管に抱かれていたのだ。
 だがセージの知る蝶は管状の触手などないし、なによりワイバーンにも匹敵しようかという巨大な生命体などではない。間違っても鱗粉らしき明るい緑色の粒子を防御障壁のように纏いつつきらめきを持って空を飛翔するトンデモ虫ではない。
 はっとなり見下ろしてみれば、どこにいたのか、ドライアドたちが手を振っているのが見えた。これが報酬ということらしい。
 けれどセージは一つ言いたいことがあった。

 「先に言ってくれよ! ………駄目だ聞こえてない」

 わんわんと怒鳴っておくも、ドライアドたちは遠すぎて声が届かないのか呑気に手を振るだけであった。

 「セージ!」
 「お、なんだいたのか」

 眼下に向けて叫んだセージのすぐそばから声がした。視線を水平にしてみれば同じような蝶に抱えられて飛ぶルエと、マリオネットのように全身を不自然に硬直した姿勢で管に掴まれているメローの姿があった。似たような蝶が三匹並んで飛んでいることになる。
 蝶によって天然の要害である深き森の脱出の手伝いをするということなのだろう。
 ドライアドと言い喋る木といい蝶といい学者連中に伝えたら狂喜乱舞しそうな内容のオンパレードであった。
 蝶の羽を観察してみると、ワイバーンのように強靭な筋力を持って飛んでいるのでも、鳥のように風を捕まえるのでもなく、ただ上下させているだけである。蝶は通常、羽を上下させるたびに猛烈な勢いで体が上下に振れてしまう。だがセージたちは揺れも無く快適である。もしかすると鱗粉で飛翔しているのではないかと仮説を立てるも正解は不詳だった。
 セージは蝶が思ったよりも速く飛んでいるのを、眼下の風景が流れていくことで知った。鳥がついてこようとしているのであるがついてこれず置いて行かれていた。快適な蝶旅。足が空中に浮いていることを除けばだが。
 セージは、メローに話しかけようとして彼女が顔面蒼白かつ意識を失いかけらしいことを見て悟ると、ルエに相手を切り替えた。

 「ほんと腰を抜かしちゃうよな。魔の森にドライアドにでかい木におまけにデカい蝶と来たもんだ。エルフなのに森の未知に遭遇ってのも悪いジョークだわ」

 エルフは森の民とも呼ばれる種族。その森の民が未知の森の民と出会うなど笑い話である。
 ルエが首を縦に振ると、いかにも居心地悪そうに管の位置を手で直して身動きの範囲を広げた。

 「全くです。しかし、不幸中の幸いですよ。これで迷わず森を抜けられる上に旅の期間を短縮できます」
 「蝶の癖に速すぎるよなぁ。なんだこの生き物」
 「さあ? 僕も知りません。ドライアド秘蔵の………軍事品、でしょうか」
 「名前なんだろ」
 「蝶…………巨大蝶? なんてどうですか」
 「命名の才能ないんだな、お前」

 二人はそこまで話し合うと首を傾げあった。元の世界風に分類するならばUMAだろうか。セージは一人心の中で呟いた。
 蝶は鳥も追い越す高速で飛翔しているはずだが、不思議なことに、前に移動する際に発生する相対的な風がなかった。見れば障壁のように蝶を取り巻く鱗粉らしき光の粒子が風を押しのけているようであった。この世界には原理不明の神秘というものが無数に存在することは知っていたが、こうも神秘を見せつけられると神秘というより実体を伴った現象として感じられた。
 蝶に抱かれて飛び続ける。メローはワイバーンならまだしも蝶に抱かれて飛ぶという理解不能な現象に脳の機能をシャットアウトさせたらしく、目を閉じてピクリともしない。ルエとセージの間でも話題が尽きてしまい押し黙るばかり。
 そして半日もせずに森を抜けられたのは言うまでもなかった。
 到着先には既に今まで乗ってきた馬がおり、しかし酷く怯えていた。蝶に抱えられて運ばれたとすれば当然だろう。
 あの蝶は便利だ。もしかするとワイバーンより運搬能力に長けるかもしれない。また乗ってみたい。という感想をぼやいたセージに対し、気を失っていたメローが全力で首を振ったのは余談である。
 兎にも角にも、一行は森を抜けて遺跡へとぐんと近づいたのであった。



[19099] 百十二話 到着
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/05/06 00:52


 「じゃあなぁー!」
 「お元気でー!」

 元気よく手を振る二人。相手は蝶。言葉を理解できるとは思えないが、テンションの上がったセージが大声を張り上げると、ルエも同調したのであった。
 一方メローはぽーっと虚脱状態で半ば機械的に手を振っていた。空中飛行がよほど堪えたのか足元がふらついていた。
 蝶は音も無く高度を上げていくと、あろうことか鱗粉で自身の姿を透明へと変え、徐々に薄くなりながらも空の彼方へと消えていった。
 セージは、森の民の技術はどうなっているのかと手を上げたまま考え込み、眉に皺を寄せた。

 「ステルス迷彩……軍事利用したらトンデモ兵器扱いになるぞコイツ」
 「すて……?」
 「なんでもない」

 怪訝な表情をして振り返るルエに、ひらひらと蝶のように手を振って応じる。
 蝶の旅は快適であった。
 馬と、ほかの細々とした荷物は、蝶が着陸もとい垂直離着陸した地点に見事に送り届けられていた。
 そして三人はやっとの思いで目的の街へとやってきたのである。





 遺跡が晒される脅威は年月は勿論として雨風や地震その他天候があげられるが、一種の致命傷を与える大きな要因として、ヒトによるものがある。盗掘である。遺跡に眠る品は多くが歴史的文化的資料的価値を持ち、到底値段では換算しきれない価値を持っているが、金持ちや好事家の手に渡ってコレクションされる可能性を秘めている。遺跡に侵入され貴重な遺産を奪われたのちに封印。後の学者が立ち入った時には荒らされた後など日常茶飯事である。
 そして、セージが求める遺跡も大まか同じような状況下に立たされているらしいことがわかってしまった。
 遺跡の根元の街にやってきた三人は思わぬ活気に圧倒された。情報によると寂れた村があるだけだったはずが、木造の家が立ち並ぶ立派な街に変貌していたからである。道端では遺跡から盗んできたのか装飾品その他魔導具などが並ぶ骨董市が開催されており、さながら盗人だらけの街であった。
 しかしである。そもそも遺跡に所有権などなかったとしたらどうであろうか。所有者だったらしき王国は既に滅亡している。主権が曖昧な今、勝手に押し入っても咎める者も捕まええようとするものもいないのだ。
 情報がなかった。まずは情報を収集して遺跡に潜る手はずを整えなくてはならないだろう。
 三人はひとまず宿をとった。





 黒く豊かな髪の毛を櫛で整えつつ、微かに鼻を擽る女性特有の体臭を感じていた。水浴びに対抗して上昇した体温が肌をほんのりと赤くさせており、酷く艶めかしく目に映ってくるものの、むしろ感じるのは羨望の類であった。おかしなことだがヴィヴィに対し恋愛感情を抱いたこともあるというのに、今となってはむしろ憧れの眼差しを向けてしまうようになっていたのである。
 セージは、メローと同行するようになってから時折やってあげていた髪の手入れを続けながら、頭の中で今後の行動指針について条項を練っていた。
 湿り気のある髪を急に梳こうとすれば引っ掛かりキューティクルを傷つけるばかりか抜けてしまう。場所によってはタオルを当てて水分を取り、ゆっくり、ゆっくりと整える。
 セージは、街の情報を知るべくして集めた掲示板や人に聞いた話をメモした羊皮紙と睨めっこするルエへと視線を移した。彼は狭い宿の片隅で紙を広げて時折聞こえない声量で何事かを呟きつつ別の紙に羽ペンを滑らせていた。彼はどこまでも真面目だ。嫌とは言わないお人よし。
 全体を整える作業に手を移していく。脳裏に描く遺跡の惨状を思い出しながらも手は止めず、ふと面を上げた。

 「ルエ。で、どうするよ」
 「言うまでもないですが二通りの手段があります」

 ルエはセージの方に顔を上げると、羊皮紙を指で突いた。
 なぜ遺跡にいきなり潜って行かずに相談事をしているのか。気ばかり焦るセージが足踏みをしている理由は何か。
 セージはメローの髪の毛の先を櫛で丹念に慣らし始めた。

 「ギルド……連中を突破するか、加入して入るか……だろ」
 「ええ……」

 二人は顔を見合わせて陰鬱そうな表情を作った。
 そう、遺跡の盗掘にはギルドなる組織がかかわっていたのである。到着して早速調べてみれば、ギルドなる集団が遺跡を統括しており、入るのも物を持っていくにも許可がいるのだ。出入り口はギルドによって厳重に固められており侵入は容易ではなかった。
 ギルド。よくファンタジー世界で登場する組織。その実態はヤクザやマフィアに近く、荒事を含むことを許容されたフランチャイズ契約の元締めとでも言うべきものである。物資、ノウハウなどを提供する代わりに、商売を許可する。逆に商売をさせずに、ロイヤリティを要求することで利潤を生む。
 肝心の遺跡に入るためにはギルドをなんとかしなくてはならなかったということである。
 セージは手を止めて櫛を凝視していたが、やがてふぅとため息を吐くと、メローの肩を軽く叩いて知らせた。

 「おしまい。ちょっと偵察してくるから、ルエと留守番しておいてくれ」
 「わかった」

 振り返り頷く褐色肌に頷きを返すと、起立。机に櫛を置き部屋の隅まで歩いていくと、おもむろに上着を脱ぎ始める。
 ぽかんと口を半開きにして見つめてくるルエに対し、人差し指をピンと張りつめて作り上げた直線にて威圧をかける。

 「脱ぐから見るな。了解?」

 静かに申す。威圧と言ってもあくまで警告。真の意味で威圧しているのではなくて、これから脱ぐから目を背けろという了解を求めているのである。
 ルエは深く頷くと頬を僅かに赤らめて視線を明後日の方角へと向けた。顔だけは別の方角にやりながら、声で質問をしてくる。

 「わかりました! けど、いったいなんで脱ぐんです?」
 「偵察と言ったろ? 持てる武器は全て使った方が情報を引き出しやすいってね」

 わけがわからぬという顔をするルエなどよそに、セージは上着を脱いで肌着も脱いでしまうと、胸をぎゅうぎゅうに締め付ける包帯をはらりと解いた。女性にしては逞しい筋肉の上に乗った豊満な胸が解放され、ゆるやかに重力に従う。服を着直すと、胸元のボタンを緩める。さらに荷物を探って包帯を突っ込むのと交換にシンプルなサークレットを出すと、頭に被る。前髪を整えつつ、両手を打ち鳴らした。

 「いいよ。ちょっと行ってくるから」
 「セージ? 僕も……」

 ルエは、雰囲気の変わったセージに一瞬戸惑いを見せるも、すぐに立ち上がり後をついていこうとする。
セージは首を振るとノブを捻った。腰に下がるナイフの鞘を手で叩いてウィンクを一つ。

 「いらない。心配だってのもいらない。自己防衛くらいはできる。知ってんだろ」

 ドアを潜ると後ろ手でノブを離す。首をまわして関節をコキコキ鳴らした。小奇麗な部屋からロビーへと。客たちは机について食事を摂っていた。視線を真っ向から受け止めながらも涼しげに宿の外へとつながる扉を開いた。
 燦々と降り注ぐ日光。清らかな風。遺跡からひっくり返してきたあれこれを運搬する馬と荷台が前を通過した。歩調を意図的に切り替える。常日頃、大股で歩いてしまう癖がついているので、小股にした。
 太陽を仰ぐと、ほう、とため息を吐いて前髪を指で触って、おもむろに呟いた。

 「やられてばっかりも面白くないだろ。こっちから仕掛けてやる」

 呟きは風に紛れた。
 一歩を踏みしめる。
 セージは知っている。自分がいわゆる美人であることを。それをみせびらかそうだとか、もてようだとか、不純な動機を常日頃は持っていない。だがこういう媚が必要な場ならば発揮してやろうと思っていた。男は胸に弱い。異世界だろうがなんだろうが、それは不変だ。
 遺跡のある山のふもとまでは、街である。通りのあちこちでは盗掘品を広げて商売をやっていた。

 「そこのエルフの姉ちゃん! 買ってかないかい!」
 「結構です」

 市の横を通ると声かけの集中砲火を食らった。一切応じるつもりはない。例え武器だろうと(ちょっと立ち止まった)料理だろうと(腹の虫が鳴いた)本の類だろうと(あからさまに財布を見た)。とにかく、山の麓までやってきたのだ。
 山の麓にぽっかりと口を開けている大穴がある。それは石と土で偽装されていたらしいが、いつしか誰かが退けてしまい、誰にでも侵入容易になったという。
 穴の崩落を恐れて木製の柱と梁が張り巡らされている。入口には柵、武装した男たちが居り、立ち入る人間に証明書の提示を求めていた。

 「なるほど……うーん、やっぱり忍び込めそうにないかー」

 顎に手をやると、道端に置いてあった資材の後ろに身を半分隠すような立ち位置となり、出入り口を観察する。兵士の数は見えているだけでも六人はいる。入口に敷設された小屋の中にもいるだろう。ゴロツキと甘く見て痛い目を見るのは勘弁だった。もし護衛以外にも街の住民らが参戦する恐れもある。そうすると忍び込むしかないが、人数が多すぎた。出入り口以外の口を見つけるしかないのだろうか。
 考え込んでいると、出入り口を封鎖する兵士の一人が持ち場を離れた。小屋からもう一人が出てくると挨拶を交わして後退する。
 兵士は武器を違う兵士に渡すと大あくびをしながら街へと歩いていく。セージの目の前を通過して、向かう先は酒場。
 しめた。いいカモだ。疲れて酒場。まさに、カモがネギを背負ってくるようなもの。
 セージはそのあとをつけてみることにした。
 扉を潜る兵士の後について、酒場の中へと。



[19099] 百十三話 酒場
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/07/09 02:06
 酒場に入ってすぐ失敗したことを思い知った。
 兵士と似たような格好をした男たちが群れていたからである。何か騒動があれば面倒なことになるのは明白であり、まさに狩場ににのこのこと足を踏み入れた鹿の気持ちだった。
 胸元をはだけさせたセクシーなエルフが入場するや男たちの視線が集中する。
 セージは一瞬気圧されそうになったが、表面上のすなわち表情と態度に灰汁を浮き上がらせないように堪え、カウンター席へと向かった。腰にはナイフはあるし、いざとなれば酒場ごと吹き飛ばす心づもりはあった。もっともそんなことをすれば兵士から袋叩きにされギルドの封鎖を突破すること自体難しくなるだろうが。セージは遺跡の中に入りたいだけで戦いたいわけではなかった。
 カウンター席に座ると、片目を眼帯で覆った渋い男が器を磨いていた。鋭い眼光が注がれる。一目で軍隊か野党かカタギではない空気を感じ取ることができた。気のせいでなければカウンターには飲み屋で使うにしては先端の尖りすぎたナイフが置いてあった。
 セージはため息とともに髪の毛を払うと、物憂げな表情となり肘をついた。眼帯の男――マスターに口を開く。

 「おすすめのを一つ。あまり強いのは勘弁したいけれど」

 甘ったるい調子を含んだ声色が喉からすらすらと飛び出した。金糸のスタイルのいいエルフの年頃の女の子にそう言われて気分を害するわけもなく、マスターは無言のまま女性向けの酒を水で割って出した。感謝の頷きをすると、つい今しがた後をつけてきた兵士をグラスに映りこむ反射で確認した。
 彼は一見兵士然とした格好をしてはいるものの、頬の赤らみや顔立ちからそう大差ない年齢のように見えた。子供が兵士――傭兵の類だろうが――をやるなど、珍しいことではない。
 あからさまな視線を真っ向から受けつつ、酒を一口。蒸留酒をベースにしたほのかな甘みのある酒。銘柄はわからなかった。酒豪という肩書きから程遠いことを自覚しているので、あくまで舌に染み込ませるだけにとどめる。
 自分の頬に触れながら灌漑に耽る。エルフはいわゆる白人系の容姿なため、肌が白い。すぐに頬の色が変わるのも利点ではないかと。

 「―――はぁ」

 セージはため息を吐くと、カウンターの向こうに置かれた古い酒瓶にピントを合わせ、考え込んだ。
 勢いよく飛び出してきたのはいいが、どう口説き落とすのかを考えていなかった。後先考えない自分の性分を呪う。酒を飲みつつぼーっとしていた。ちびちびと甘い酒を喉に流し込みつつ、何気なく横を向いてみる。
 白人系。堀の深い顔立ち。青い目。赤らんだ頬。兵士がこちらを見ていた。暫し見つめ合う。

 「あの……」
 「あ、あの………」

 同時に発音。顔を見合わせあう。気まずい空気を打ち払うべく、兵士――青年は緊張した笑みを浮かべると、席を経ちセージの横の席に移動した。距離は極めて近くなった。
 青年は安酒を満たしたグラスで喉を湿らすと、あからさまにセージの顔の横に視線をずらした。獣人を見分けるときは体毛と尻尾を、エルフを見分けるときは白い肌と耳を見るのが常識である。
 ある意味視線にさらされるのには慣れているセージは、ひらりと肩を竦めた。

 「君、エルフ?」
 「ええ、その通りエルフ。あなたは幽霊さん? ってくらい当たり前の質問だと思うけれど」

 糞と心の中で毒づく。男口調で暮らしてきただけに女言葉は使い慣れない。背中の鳥肌が止まらなかったが続行した。
 軽い皮肉とも取れるものいいをされ、怖気た様子を纏った青年であったが、気を取り直して前のめりになった。

 「すまない。実はエルフ見たの初めてだったんだ」
 「あぁ……なるほど。エルフはあまり外にいないものね……感想は?」
 「きれいだ」

 そのものずばりな感想が口から出るや、セージの顔が引き攣った。恐らく女の子慣れしていないために直球ど真ん中を投げたのだろうと予測する。
 嬉しいなと一瞬思ってしまったのも事実だが、ここはなんとかちょろまかして遺跡の中に入るための踏み台になってもらわねばならない。足を組むと、誤魔化し半分に酒を一口飲む。

 「あ、あ……ありがと。じゃなくて! 一つ聞きたいのだけれど、いい?」
 「おう何でも聞いてくれ」

 人の良さそうな笑みを浮かべる青年に、セージは逡巡する素振りをしてから口を開いた。

 「遺跡の中に入りたいのだけれどどうすればいいの?」
 「遺跡の中か、そりゃもちろん俺ら……ギルドに話を通さないと面倒なことになるぞ」
 「具体的にどれだけお金がいるのか聞いてもいい?」

 セージの問いかけにいぶかしむ様子も無く青年は答えてくれた。提示された金額は現在持っている路銀全てを使い果たしてようやくというもの。既に必要な薬品類は揃えたとはいえ金を使い果たすのリスクが高い。
 懐柔するしかないだろう。
 セージは小難しい顔を意図的に取ると人差し指を赤い唇に触れさせ小首を傾げた。

 「フーン………困ったわ。実は遺跡の中にどうしても入らないといけないんだけどお金が無くて。あ、もちろん稼ぐとしたらまっとうなお仕事だけだから勘違いしないように」
 「もちろんだ! えーっと参った。俺見ての通り下っ端だから融通効かないんだ」

 青年は初々しく顔を赤くしたが続いて首を横に振った。格好はいわゆる兵士のもの。ギルドに雇われた用心棒の類。
 ならばとセージは手招きをすると耳を貸すようにジェスチャーを送った。
 疑問符を浮かべた彼の耳に唇を接近させると声量を極力落とした言葉を与えた。

 「なんとか中に入れてくれないかしら」
 「……買収ってやつ? やめてくれ。俺はこれでも契約は守るほうだぜ」

 渋い顔をして耳を元の位置に戻そうとするのを肩を掴んで引き戻す。もし話が通じない、初めからそのつもりがないなら既に席を立っているだろうから。
 ここぞとばかりにまくしたてる。耳元で。青年はこそばゆそうに指を折り曲げたり開いたりをしていた。

 「んーじゃあ例えばたまたま睡眠薬飲んじゃって眠ったみたいな話はよくあると思わない。ふと気が付くと懐にお金が入っていた。十分な金額だ。ギルドのお雇いやめて故郷に帰ろうって」
 「………」

 押し黙る青年。これはいける。なぜ青年がこんな僻地で働いているのかを想像してみた成果である。最前線に行くと死ぬ可能性が高い。用心棒ならば死ぬことはない。死なずにしかし大金を稼がねばならない理由がある。いつ給料がくるかもわからないところで働くより金を貰ってトンズラした方が賢いに決まっている。
 セージはぐっと接近すると、相手の手を突いて返答を催促した。仕事終わりとだけあって男性特有の体臭がした。懐かしささえ覚える。
 青年の戸惑いがちな目が承諾を意味するであろう瞬きをした。言うならば以心伝心。察したのだ。
 どちらがともなく乾杯した。





 「遅かったですね」
 「すまんすまん」

 帰ってみると腕を組んでいらだちを隠せない様子のルエと、ベッドに薄着で横になって寝息を立てているメローがいた。扉を閉めてサークレットを外して机の上に置くと、椅子に深く腰掛ける。
 セージは髪の毛を手で整えつつ、机に上半身を投げ出すようなだらしない格好をした。
 心配を隠せず爪でも噛みだしそうなルエの顔を見て口を開く。

 「心配すんなって。遺跡の中に入るための取引はしてきた。ドンパチやらずになんとかできそうだ。金が要るけど」
 「そうですか、それはよかった」

 ルエは納得して首を縦に振るものの腕は解かずセージの顔を見つめるばかりだった。
 相手の思考を読むことはできないが予想はできる。
ニヤケ顔となったセージは椅子を発つと、緩くストレッチをしつつルエの背後へと回って、首に腕を回して抱き着くようにした。ジタバタとしたコミカルな抵抗を完全に封じ込めるべく相手の目を腕と手で巧妙に固定してやった。

 「お前もしかして妬いてんの? 確かに用心棒の一人に色気つかったよ俺。嫉妬した? なぁ嫉妬した?」
 「痛いです! それにいろいろ当たってていててて!」

 本格的に頭を締め上げられて悲鳴を上げる様が楽しくてますます力が籠る。
 きりきりと頭を締め上げながら相手の直上から声をかける。表情は完全に緩んでおりほんのりと漂う酒の香りが辺りに振り撒かれていた。

 「いつもの威勢はどうしたよ! オラ!」

 一方実は少し前に目を覚ましていたメローはいちゃつく二人を背中にするよう寝ころんでいた。
 うるさい。
 もし無口じゃなかったらそんな不満を漏らしたであろうか。












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久々の更新
まーた文体変わってらーといじけたい



[19099] 百十四話 潜入成功
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/07/11 03:35
 たっぷりとした休みと十分な食事そして準備を終えた。何せ入るための手段が整っているのだから、下準備は万全にすべきだった。武器の整備を終え完全装備を行った三人は深夜にギルドが閉鎖する遺跡の入口へと向かった。
 夜でも警備はあったがかなり手薄なようであり接近を感づかれる恐れはなかった。
 例の酒場の裏でくだんの青年と再会した。

 「じゃあこれ、手数料として」

 兵士の格好をしておりながら荷物を纏めた布鞄を背負っている青年の手に硬貨と貴金属類の詰まった袋を握らせる。青年はセージが完全武装なのと、怪しいローブを着込んだ肌の黒い女の子と、背の高いエルフが同行しているのを好奇の視線で見遣ったが、袋を受け取ると代わりのものを差し出した。
 シンプルな鍵だった。声を潜め、手作りだと思われる羊皮紙の案内書を取り出すと、指で示し説明する。

 「事情ありみたいだ……マァいいや。俺はこの金もって逃げるからお互いに他言無用。俺が抜けたから警備はすごく手薄だ。正面門の横に通用口があるから、この鍵で開けて入ってくれ」
 「ありがとう。君も達者でね」
 「その……多分これで一期一会だ。名前くらい頼めないか」

 特に含むことはないのだろう。青年は硬貨の詰まった袋の中身を検めつつ、セージに言った。

 「セージ」
 「俺はアランだ。じゃ、エルフさんたちも達者で」

 セージは自分の胸に手を当てて答えると、相手の名前が返ってくるのを合図に、手を振って見送った。事情は知らないが夜中の内に逃げるのだろう。金を何に使うかは結局わからなかった。
 その背中が消えるよりも前に、無言でルエとメローに合図をして正面門へと向かった。
 夜。月明かりしかない中、篝火が盛大にたかれており松明もかかってはいたが、赤く揺らめく火炎はむしろ暗闇の輪郭を際立たせるようであり、音も無く物陰から物陰に身を潜めて移動する三人の姿を見ることはかなわない。
 羊皮紙にあったように警備の兵は別の場所を守っているらしく、しかし正面門には人がつめていた。青年の言った通り通用口はがら空きであった。

 「後ろ頼む」
 「わかりました」
 「……ん」

 背後の守りを目くばせと端的な言葉でルエとメローに任せる。二人は各々の武器を構え、静かに待機し始めた。
 屈んで通用口の錠前を持ちシンプルな形状の鍵を差し込んで捻る。カキンと小さい音色がして戒めが解かれた。そっと錠前を手に扉を開くと中に入る。

 「くっ」
 「どうしました?」
 「なんでもない」

 セージが呻いたのに対しルエが小声で質問をした。何か硬いものがぶつかった音もしたため不審に思ったのだ。
 セージは気恥ずかしさと共に背負った槍を手に握って邪魔にならないようにすると、扉を屈んで中に入った。まさか背中の槍が突っかかりましたとは恥ずかしくて言えなかった。
 続いてルエが入った。最後はメローだったが、背中の杖が引っかかって仰け反った。ぺたん、とお尻から地面に座り込む。恨めしげに狭すぎる通用口を赤い瞳で睨む。精神不安定な彼女のこと。頭の中では通用口を破壊したいと考えているに違いなかった。

 「おいおいどんくさいな」
 「………なに」

 尻もちをついたメローへ自分のことを棚に上げて茶化しにかかる。むっと唇を曲げるメロー。それをたしなめるが如くルエがメローを介抱し、奥を指差した。

 「先に進みましょう。万が一感づかれたら面倒ですよ。そういえばセージ。一つ気になることが」
 「んだよ」
 「鍵をかける人間がいないことと、もし遺跡から帰還してきたらどうするのかということです」
 「それは問題ない」

 最後に通用口の扉を内側から閉じる役割を果たしたメローが暗闇の中で囁いた。
 セージはあらかじめ用意しておいた松明を手に取り無詠唱の火花を散らして着火すると、息を吹きかけ安定するのを待った。赤っぽい光源のもとで、赤い瞳が二つ空中に浮いているように見えた。メローの目だった。
 彼女は人差し指を立てると、通用口の方を肩で煽るようにした。

 「ここの警備から察するにアランが抜けたことで彼に責任全てがかかる。侵入されたことが問題になるのはずっとあとのこと。それと、帰還するときの障害もさほど問題ではない。外から来る人へは警戒するけど中から戻ろうとする人へは警戒は薄くなる」
 「なるほど。確かにそうです」
 「うん………そうだな」

 セージはどこか上の空で松明をじっと見つめていた。揺らめくそれは定型を持たぬ熱反応であり、唯一の灯りである。
 帰還するときの障害。きっとこの先に答えがあるのだろう。辿り付き、『船』で元の世界に戻れたとしたらルエとメローを置き去りにしてくるだろうから、帰還の時の障害は考えなくてもいい。けれどおぼろげながら、もといはっきりと答えが自分に何をもたらすのかを予想することができていた。もし答えを得た時、判断しなくてはならないのだ。
 松明の火は答えてくれなかった。
 松明の火を通路の彼方、消失点となる不明の空間へと向けた。暗闇だけがあり一行を死に誘っているようであった。通路は整然としていた。まるで病院の通路を思わせたが、ルエとメローには神殿のような造りであると認識させただろう。岩をくり抜き丹念に削って仕上げた正方形の断面を持つ通り道が暗闇を挟んで彼方へと延長していた。
 セージは松明を剣のように通路の奥へと翳した。
 振り返らずに、このお使い(クエスト)の挨拶を言い、心の内を言葉にして結ぶ。

 「行こう。先に言っておく。おれに付き添ってくれてありがとう。心から感謝してる」

 ルエは呆気にとられた。勝手にどこまでもついていくと啖呵を切っただけに感謝されるとは青天の霹靂であった。
 一方メローはビジネスライクな対応をとった。杖をもてあそびつつ囁くように言葉を流す。

 「ロウに言われたからついてきた」
 「そういうクールなとこ好きだぜ」
 「ありがとう」

 メローは目をぱちくりとして淡々と応対する。言葉の端に棘がある。一文字一文字の発音を意図的に離している。先ほどのことを根に持っているのだろうかとセージが予測する。冷戦沈着で機械的なメローと言えど棒切れか何かではない。茶化されて腹を立てることもあろう。
 セージはメローの肩を優しく叩くと、軽く頭を下げポケットから半透明な物体を取り出し手に握らせウィンクした。

 「さっきは悪かった。飴あげるから機嫌直せよ」
 「なおった」
 「そういうクールなとこ好きだぜ」
 「ありがとう」

 一秒とかからず飴を口に投げ込んで首を上下に振って見せる様にセージは苦笑した。同じイントネーション、同じ言葉でのコミュニケーションを取った。カラコロと口の中で飴が上機嫌に転がる小気味いい音色が鼓膜を擽る。松明を構成する木がぱちりと爆ぜて火の粉を宙に投げやった。
 もし警備の者に感づかれたら戦闘になる。
 セージは足早に、それでいて警戒を怠らないように意識を張り巡らせ通路を歩き始めた。

 具体的に言えばスライムのようなモンスターの気配はなかった。
 遺跡内部はがらんどうであり、画一的な構造が果てしなく続く地獄のような迷路だった。故に方角を見失うことに気付けたため、通路に持参のインクで印をつけ、羊皮紙に歩いてきた道を記していく作業を行った。
 モンスターの気配も無ければ、冒険者の影も形もない。あったと言えば野営した痕跡くらいであった。
 燃え尽きた焚火。食べ物の滓。壁に張られたワイヤを利用したサウンドトラップの痕跡。野営した跡を利用して、そのまま陣取ることにした。

 「これでよし。メロー、反応あったら構わずブチかませ」
 「わかった」

 杖を起動状態にして体育座りをしている小柄な肩を叩くと、自分は床に敷いた布をベッド代わりに横になった。二連式クロスボウとナイフは荷物の上に置いてある。槍はすぐ横に。
 ワイヤを貼り直し小石を詰め込んだ入れ物を元の位置に直して接近を検知する仕組みを再構築した。遺跡は基本的に通路からなる。即ち前か後ろかしかない限定的な空間である。メローの異常な火力をもってすれば掃討するのは容易いだろうと考えたのだ。セージのすぐ傍らにはルエが片膝をついて遠くに視線を配っていた。守りは万全であろう。
 セージはすぐそばでかしこまる男の膝に触れると、頷き、目を閉じた。

 「頼むぜ。おやすみ」
 「任されました」

 滑らかな艶のある声が耳に届いた。
 とても嬉しそうな声色だったのもあるだろうが、男の存在が酷く大きく感じられた。



[19099] 百十五話 骸が歩く
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/07/11 03:38
 敵の巨大な剣が振りかぶられるのを見るや、即座に手前に待機させておいた槍で手首目掛けて突き出し攻撃を挫く。手首があらぬ方角にへし折れたのを合図に、懐に肉薄、頭蓋骨を掴み、跳躍、地面へと叩きつけて粉々にした。
 槍の切っ先が群れとなり襲い掛かる。咄嗟に後ろに転がり緊急回避。
 無尽蔵の物量を誇るスケルトンたちが道を塞いでいた。セージが前衛を、ルエが補助を、メローが後衛を担当して攻撃にあたっていた。
 セージは、先頭を切る役割を担っているらしい巨剣持ちのスケルトン二体が剣を肩に乗せて歩いてくるのを見た。左手を動かす。手の位置、クロスボウのストックの手触りから着弾点を推測し、照準さえつけず腰の高さから引き金を流れるように操り二体の頭蓋骨をクロスボウの連射で破壊した。クロスボウを銃に見立てて、銃口から上がる硝煙を吹く真似。

 「ビンゴ! メロー、やれ!」
 「発射する」

 刹那、セージの掛け声と同時に背後で膨大な魔力の渦が巻き起こった。セージのブロンドが宙に金色の輝きを描いた。僅かコンマ数秒後、光り輝く砲撃が空中を飛翔するとスケルトンのど真ん中に飛び込み数十体を纏めて粉に変えた。
 間隙を縫い矢が無数に放たれるも、それは風の守りによって全てが空中で勢いを削がれる。
 セージは後方から完全に制御された風が自分に纏わりつくのを感じながらも、クロスボウをホルスターに戻して、槍を数回転させスケルトンたちを挑発した。

 「こいよ! こないなら俺がいっちゃうぜ!」

 応酬とばかりに矢が襲い来るも、セージの肉体を守護する風の壁を越えられずにあらぬ方角に逸れていく。
 セージはスケルトンたちが挑発にも無反応に距離を詰めてくるのをため息で応対した。槍を右に、左手を柄に添えてイメージを練る。エンチャント開始。
 何せ槍は効果が薄いのだ。肉体がある相手なら刺さるが、スケルトンでは刺さる肉が無く棍棒と大差ない。ミスリルの穂先も形無しである。
 イメージは火炎。一種のトラウマでもあるその現象は、だからこそイメージし易い。あやふやなイメージを固めて魂と肉体の引力である魔力を込め、顕現させた。

 「〝火炎槍〟」

 ドラゴンの骨を用いた強固な柄から、ミスリルの穂先にまで火炎が行き渡り、神々しいまでの紅蓮を形にした。
 肉体強化。無詠唱で行われたその魔術により全身の筋肉が活性状態となり魔力が発揮能力を底上げされた。肉食獣のように姿勢を落とし、槍を突き出してくる一体を正面に捕捉した。
 槍が頭に命中するより早く、横に躱す。後頭部で纏めたブロンド髪が遅れて追従した。

 「一つ貰い!」

 吶喊。ひゅう、と息を吸い肉体のバネを解放した。脳天目掛けて槍を疾駆させ、頭蓋骨を背骨の接続から引き抜く。切っ先が骨を焼き尽くす間に槍を奪い取るや、短刀を腰溜めに構え突っ込んでくる一体の攻撃を槍で叩いて流し、ミスリルの槍で胴体を薙ぐ。
 バックステップ。肉体が踊るように場から退く。奪った槍を捨てると見せかけ足で蹴飛ばせばスケルトン二体にまとめて命中させた。

 「撃てる!」
 「よし、いまだやれ!」

 背後からメローの高揚した大声が響いた。自己視点通路に対し右に身を滑らせる。一秒とかからず閃光の鏃が空中を飛翔してスケルトンの群れを粉砕する。
 と、背後から物音がした。セージの長い耳がぴくりと傾ぐ。半ば反射的に槍の石突を背中に押した。カツン。手ごたえ。背後では片腕と武器を失いつつも掴みかかろうとするスケルトンの姿が。スケルトンの原理はマリオネットやゴーレムと大差ない。破壊されるか、制御を失うまで動き続ける。バラバラにしても立ち上がることさえある。
 危機感に背筋に鳥肌が立つ。

 「セージ危ない!」
 「こなくそっ!」

 風の守りはあくまでのセージの体とルエ及びメローの守りに限られる。しかも範囲が広く複雑なため矢を弾くことはできるが、スケルトンは難しい。ルエの叫びに応えるかのようにスケルトンが首を締めんとした。
 それを槍で受けるには距離が近すぎた。押し倒される。受け身を取れず肩が地面とぶつかった。

 「へ、へ、骨しかない癖に、おれをやれるかっ!」

 セージは白い歯を覗かせ笑った。
 しかし馬乗りにされても、腕力では魔力によるバックアップのあるセージが優っていた。あっさりと片腕を根本からへし折ると、頭蓋骨に頭突き。怯んだ隙を見計らい、ぎゃくに首を掴み、持ち上げた。骨だけあって軽い。歯をかちかち打ち鳴らし暴れるも、時すでに遅し。

 「死ねぇ! ……そもそも死んでるか! けど死ね!」

 膝でスケルトンの背骨をへし折り、ついでに靴で頭蓋骨を粉砕し、踏みにじる。
 慌てて槍を拾い直すと、捨て身の接近を仕掛ける三体のうち、右一体の腰骨を槍で突き、左一体には火炎の巻き付く柄を叩き込み怯ませ、中央の一体のつま先を穂先で砕き、回し蹴りで薙ぎ払った。ばらばらになった骨が地面を転がった。

 「ちっ! キリがない! ルエ、メロー! 退くぞ!」

 セージは槍でスケルトンを威嚇しながらも、背中の二人に声をかけた。メローの砲撃でいくら壊しても奥から奥から来るのでは無意味である。これはゲームではない。経験値を稼げる狩場ではないのならば、撤退も戦術の内であった。
 ルエが風を通路をふさぐ形で展開すると、セージに手招きをした。

 「正面突破は難しいようですね! 元来た道を戻り、彼らを撒いて別の道を探しましょう! 僕が道を塞ぎますから!」
 「メローも逃げるぞ!」

 変形機構を内蔵した杖を弓にして今まさに矢を引き絞っていたメローは、逃げるの言葉を聞くとむっつり唇を結んで、元来た道を戻ってくる二人を見遣った。目は不機嫌そうに半分閉じられており、赤い眼球の存在感が増していた。その瞳はセージの体に指向されていた。

 「どうして。説明を」
 「どうしてじゃなくて連中に構ってたらキリがないだろ! メローだって、魔力が無限にあるわけじゃない。連中、何百体居るかわからねーぞ」

 セージはメローのところで駆け足を止めると、スケルトンの群れもとい大群へ人差し指を向け説得に映った。そして風の壁の維持で精一杯なルエの背中を見つめ、逃亡の機会を窺った。
 メローは施術により魔力が増大しているとはいえ、無限ではない。砲撃を続ければ相手を殲滅できる可能性があったが気絶されては困るのだ。

 「………了解」

 渋々といった様子で弓をおろす彼女を尻目に、ルエの背中に手のメガホンを作って叫ぶ。彼は押し寄せるスケルトンを食い止めるのに額に汗を浮かべていた。

 「ルエ! メローが一発ブチかましたら逃げるぞ!」
 「できれば早くしてくれると嬉しいです!」
 「ということで頼む」

 メローの肩に手を置き、眼前の敵に巨大な一発をお願いすると、既に弓を構えなおし魔力を弦に滾らせ射撃姿勢に移行していた。メローの全身の刺青が発光し俄かに場が明るくなる。

 「うん!」
 「……あぁすっごく嬉しそうで頼もしい」

 打てば鳴る返事。さすがはバトルジャンキーと心の中で呟いた。
 にっこりにこにこ百点の笑顔のメローと、げっそりとした顔をするセージ。
 引き縛られた矢が成長していく。弓の複雑怪奇な構造とは裏腹に長く太く頼もしいシンプルな作りへ。先端が伸長し、見る見るうちに馬と大差ない長さへと成長する。家一軒を容易く爆破するであろう神がかり的な一撃。
 メローは冷静に、しかし興奮に唇をぺろりと舐めてから発言した。

 「撃てる」
 「横に躱せ!」

 ルエが後ろに手を振るや、風の壁を解除した。その瞬間をメローの鷹のように鋭く研ぎ澄まされた赤い双眸は見逃さなかった。発射の引き金は指でもあるが、言葉でもある。
 狙うは通路の彼方、敵のど真ん中。

 「〝貫通矢〟」

 指が離れた。

 「わぷっ!?」
 「なんて衝撃ですか!」

 衝撃波がメローを中心に拡散し、セージが仰け反る。射線を避けたはずのルエも転んで地面に這いつくばった。
 閃光を固めて作り上げたとしか表現できない矢が弓から射出された。空気を押しのけ、ルエが作り出した風をも切り裂き、先頭を切るスケルトンの一体を容易く粉とすると、骨を、鉄を、物質の有無も構成も関係なしに衝撃を振り撒きつつ、突き進む。スケルトンの群れが面白いくらいに跳ね飛ばされ地面を転がって行った。
 まさに一掃。

 「………んふふ………ふ、ふ……………ふ、ぅぅ」
 「おっと。大丈夫か?」

 矢がスケルトンを群れ単位で駆逐する様を口の端を持ち上げて笑っていたメローだったが、よろめいた。魔力を使いすぎたらしい。
 セージは頭を振ると、わたわたと起き上がってこちらに駆けてくるルエに自分の槍を投げてよこすと、メローのローブに包まれた肢体を後ろから抱き上げた。メローは目をぱちくりさせたが、大人しく抱かれるままになる。セージは猫のようと思った。

 「無理すんな。ずらかるぞ。たかが骨格標本に時間取られるのもつまんないぜ」

 武器を使えないセージの先導役を買って出ようとルエが速度を上げた。
 個体個体の骨という骨がばらけてごっちゃになったスケルトンを背後に、三人は逃げ出した。





 それがどこかを説明するのは困難を極めるだろう。しいて言うならば最深部と表現すべきだろうか。
 青く金の装飾を施された宝石に輝きが宿ると、一人の男の姿が出現した。辺りは動植物に侵食を受け蔓が絨毯のように生えており虫も居れば鼠もいた。かつて美しかった壁も蔓と汚れに塗れていた。天井から漏れる水が辺りを埋めているばかりか、その水は四方へと流れ出していた。
 男ははじめ輪郭さえはっきりせず、徐々に姿がはっきりし始めた。まるでカメラのピントを合わせるように。

「随分と長い年月が経ったのだね。うんうん、自然の力はどこへ行っても恐ろしい。我らの技術の粋を集めたものだって侵食されいつか消えていく。そして、今日もまた、新しい冒険者がやってくる。ごちそうは数多くあれど、手を出すこともできない。生殺しの感情を味わうとは」

 男は宝石の上だけでしか姿を示せない存在だった。幽霊の類に近い。別の言い方をすれば立体映像と表現できた。
 男は腕を組むと足元に纏わりつく鼠を手で追い払う仕草をし、どっかりと胡坐をかいた。

 「あと精々二回が限度かね。三回……もやれば機能は完全に損なわれる。動力全てが失われる前に修理をしたかったが、既に私は十分すぎるほどのカードを失ってしまった。私は使命を果たさねばならない」

 男の独白は続く。
 水に満たされた部屋はよく見れば、何か巨大な空間であることが見て取れるだろうか。植物と水が空間を支配しているため全貌は緑のヴェールに隠され不可視となっていた。
 男は、自身が腰かける宝石のすぐ横にある金色の箱に手を翳した。表面が淡い光を帯びた。



―――――
Arcadiaの仕様上、話一覧が長くなれば長くなるほどスクロールがつらいですがご了承ください



[19099] 百十六話 罠に嵌まる
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/07/30 23:50
 掴みかかる手を槍の柄で弾くと、身のあたりで距離を作り、穂先で首筋を半ばから破壊した。倒れ伏す死体は、首の半分を失いながらも動こうとしていた。
 血とも粘液ともつかぬ悪臭のする跳ね返り液を拭うことも無く、真正面から接近する一体の胴体に腰の捻りを加えた蹴りを叩き込み、上半身の前傾と捻りを込めた理想的な突きを放ち死臭漂う肉を穿った。死にきれないらしく気味の悪い痙攣をするそれに、両膝を素早く穿ち跪かせた。死者が口から涎を吐き、濁った瞳で吼えるも、次の瞬間には槍によって穴が二つ増えていた。
 更に敵。前方二体を槍で突き、側面から噛みつこうとする一体の腕を柄で弾く。腕があらぬ向きに跳ね致命的な隙を晒した腹へ、短く構えた槍をねじ込みけっ飛ばす。槍を腹に貰ったまま死体が地面を転がった。

 「あとで返せよ。ルークに殺される」

 挑発染みた言葉を吐く。銀の剣を抜き、新手の死体に飛び掛かりその首を横薙ぎに裂いた。

 「でええぇっい!」

 一気呵成。返す刃がきらりと嗤う。
 瞬間、踊るように一回転して胸を袈裟懸けに斬り、蹴った。
 痙攣する死体から槍を抜き肩に担ぎ、銀の剣が穢れた血を蒸発するのを顔の前で確かめると鞘に納めた。

 「ふうっ……歩く死者を見たのは始めてだ」

 セージは死者を観察しつつ呟いた。辺りには十体程度の死人が転がっていた。いずれも腐敗が進行している。死んでいるのに歩く。不可思議な現象が起こっていた。もっとも歩く骨の大群に襲撃されたのだ、死体が歩いても不思議ではない。
 首を引き裂かれもなお立ち上がろうとする一体を無情な瞳で見遣り、槍先を地面に擦らせ音頭を取れば、くるりと一回転させたのちに脳天を貫き機能を完全に奪った。
 セージは、メローの砲撃で頭を吹き飛ばされた一体の元に屈むと、ナイフを抜いて首の後ろを弄り始めた。

 「なにをしているんですか? 気味が悪い」

 後ろで後衛の任務を担当していたルエがやってきた。彼は口を押えてセージの解剖作業を見ては視線を逸らす。この世界にやってきた時から戦いに巻き込まれたり、看護をしてみたり、里で多少医術の心得を学んできたセージと、戦いはあまりせず医術も応急処置程度のルエとでは、死体に対する耐性も異なる。
 セージは千切れた首の断面をナイフで弄り脊髄の様子を見ていた。

 「ん。こいつらどんな原理で動いてるのか気にならないか」

 謎の笑みを浮かべルエに声をかける。嗜虐が口の端に乗っていた。

 「………うぅ。吐き気が」
 「無理すんなよ。吐くならおれの見てないとこでな。それとも背中擦ってあげようか? 看病してあげようか? ん?」
 「大丈夫ですから!」

 手を振って退避していく男の背中を見て、死体の頭を切り取って見せびらかしに行きたい衝動がこみ上げるも、ぐっと堪えて検分するだけにとどめた。脊髄、腹を捌いてみても普通の死体と変わりない。ナイフをしまうと、立ち上がった。

 「……ん。くっさ」

 何気なく自分の臭いを嗅いでみた。すんすんと鼻を鳴らし、腕、肩を嗅ぐ。くさい。汗、脂質、おまけに死臭まで漂っており、女性特有の香りは虫の息だった。
 この世界では体を洗うこととは汚れを落とすことであり、匂いに気を配るものはあまりいない。しかしセージは十何年も風呂に浸かる生活をしてきたこともあり、体はしっかり洗いたいのが本音だった。問題は水源である。遺跡の中に潤沢な水があるのかは怪しい。

 「水がありゃあいいのになー……ざぶざぶ浴びたい」

 槍先を布で拭い清め背中に戻すと、腕を組み考え込む。生水を入手する方法はある。鍋を魔術で冷やして凝結した水を集めるやり方だ。初めルエとメローのこのやり方を教えた時は随分と驚かれたものだった。確かに水は手に入る。体を清められる量の確保が不可能なだけだ。
 その時だった。

 「あっ」
 「あ? あ………っおま……」

 怯えた調子の、何か手痛い失敗をしてしまったとでも言わんばかりの間の抜けた声を聞こえた。振り返ってみると、死体の傍で立ち尽くしているメローがいた。彼女はゆっくりと下を見遣り、ローブの裾をたくし上げ、自身が踏んでしまったスイッチを発見した。
 セージとメローが呆然と固まっていると、死体を見ないように上向き加減のルエがやってきた。雰囲気の違和感に恐る恐る質問をぶつける。

 「どうかしましたか」
 「どうかしたらしい。メローが、そのー……踏んじゃったらしい。スイッチ」
 「え? あ、確かに。じゃなくって! 何のスイッチです!?」

 ルエがメローの足元を見ると、納得して頷いたが、すぐに表情を硬化させた。遺跡にあるスイッチ。考えるまでもない。油に松明を投げ込んだらどうなるのかを議論するようなものだ。
 三人は罠がどんなものかをじっと待った。こういう場合、慌てて退避したところで別のスイッチを踏ませることがある。エルフ特有の聴力が三人分揃って場の気配を探り出す。
 三人が一斉に元来た通路の方角を向いた。何か金属的な嘶き。石と石がこすれ合う摩擦音。地面から伝わってくる重苦しい響き。
 通路の彼方から何かがやってくる。初め、静かに。侵略するが如く。足元を伝ってやってきたのは、水だった。靴の下半分程度の深さの水がざぶざぶと流れてきた。冷たく、濁り気のある水だった。
 セージは屈んで水を掬うとにおいを嗅いだ。埃臭いが、水に違いない。

 「水だ」
 「水ですね」
 「水」

 三人が呟いた。水としか言いようがない。
 エルフの脳には――もといヒトというカテゴリーの種族には予測という機能が付いている。故に先入観や思い込みなどに騙されるのだが、スイッチを踏み罠を作動させてしまったことと、水がやってきたことを総合すれば、次にどんな危機があるのかくらいは予測できた。
 ――問題は、通路の片側から水ということは、反対側に逃げるしかないということだった。
 イの一番に踵を返し逃亡を開始したのはメローだった。杖を後生大事に胸に抱えて、ばたばたとお世辞にも美しいとは言えないフォームで疾走する。

 「逃げて! 水が来る!」
 「水が?」

 セージはぼんやりとした受け答えをした。目を凝らしてみれば、轟々と音を立てて通路を埋め尽くす水量が迫ってきていたからだ。
 松明を握るルエの腕を掴むと、自分も走った。

 「水だぁぁぁっ!」
 「どうするんですか水ですよ水!」
 「知るかよちゃっちゃと走れぇ!!」

 ルエとセージは横並びとなって全力疾走した。無情にも水は量を増しつつあり、奥から地響きにも似た低音が響いてきていた。セージの脳裏には津波のメカニズムを解明すべく人工の津波を作り出せる装置の実験映像があった。実験では人が容易く押し流されていた。
 セージとルエと、先頭を行くメローの背後から肉食獣染みた威圧感を孕んだ濁り水が押し寄せる。それは最初足元を濡らす穏やかなもので、既に膝下まで増えつつあり、これ以上増えてしまうと行動に支障をきたすであろう威力を持っていた。
 先頭を行くメローは、慌てるあまりに松明を取り落した。

 「―――……っとお! 落とすなよ。おれの魔術で火を灯し続けるのは勘弁だっ」

 済んでのところでセージが拾い上げた。水量は膝に達しようかというもの。走る速度は大幅に減っており、このままでは水に押し流され溺死してしまうだろう。
 玉のような汗を浮かべて走る三人の前に、なにやら水の音がしてきた。流れる水ではなく、砕ける水の音。
 次の瞬間、松明の光源が後ろに移ったことで視野が狭くなっていたメローが、転んだ。
 否、足場がなくなっていたので、両手をばたばたさせ、エビぞりになって耐える。

 「あ、あ、あ、あ」

 素っ頓狂な声を上げ必死に踏ん張ろうとする。
 なぜなら前方には優に馬二頭分はあろうかという大穴がすっぽり口を開けていたからだ。水は穴に吸い込まれ――奈落へと通じていた。既に水量は腰の高さまで達しており、踏ん張るので精一杯。メローは多少飛行能力もあるし、ルエもそうだったが、大量の水を受けながら飛翔できる能力はない。

 「メローッ! あ、くそダメだ!」

 セージは必死の形相でメローの手を取り、落下を防いだ。メローの肉体は通路と穴の中間地点でなかば宙ぶらりん状態。危険な拮抗状態はしかし今にも崩れてしまいそう。無詠唱の肉体強化を作動させ踏ん張ろうとするも、水量を前に、体が前にずれていく。
 もはや考える間もなかった。
 自分と水の向きの間に割り込んで風の魔術で水を防ごうと躍起になる男の背中を叩き、怒鳴る。

 「ルエ! 拾え!」
 「わかりました!」

 そしてセージはメローを強く引き寄せると穴に躊躇なく跳躍した。安定性を欠いたせいで地面を思うように蹴れず、ずっこけるような無様な飛び込み。まるでそれが引き金であったかのように鉄砲水かくやという水量が通路を埋め尽くし迫った。
 セージの目の前で男も同じく飛び降りたが、重力に逆らいかくんと上昇に転じた。完全に制御された風を背負い、間一髪でセージの手を取った。
 が、メロー、セージ、二人分の装備と水を吸った衣服、滝のような水、さらに自由落下中の加速度からなる重さがルエの二の腕に痛痒を迸らせた。苦悩の表情を浮かべ、重さに歯を食いしばりつつ、己の背後から伸し掛かる水量から逃れるため、穴の対岸へと飛ぶ。
 不格好にて空中に浮遊する三人へ水が魔の手を伸ばす。轟々と咆哮をあげ、下へ下へと引きずりおろさんとした。

 「くぅぅぅぅぅぐぐぅぅぅッぁぁああ!」

 声帯が潰れても構わないという絶叫を上げ、ルエはセージの手を両手でしかと握り、イメージを膨らませて浮力を作ろうと躍起になった。この手を離さないと言わんばかりに握り直し、最後の力を振り絞って対岸に二名を無事に送り届け、自分は崩れ落ちるように仰向けに倒れた。
 セージは水が穴の中に流れていく様子が滝に似ていることをぼんやりと考えつつ、濡れた前髪を払った。真っ暗だった。松明を手放してしまったからだ。荷物入れを探ると、油紙に包んだ松明の予備を出し手元に火花を作って点火した。
 ぐったりと倒れ込んだ男の傍に座ると、親しげにお腹を突いてやった。
 くすぐったげに目尻が下がる。

 「やるときゃやるじゃん」

 ルエも同じく髪の毛を払うと、首だけ上げて笑みを浮かべた。

 「惚れました?」
 「………」
 「……………」
 「………………」
 「あの」
 「おーいメロー」

 瞬間、心臓が跳ね上がったが、顔に反応を伝達せず、無反応無言で迎撃する。
 メローの方へと這っていく。腰に力が入らない。自分の手元に目を落とせば、震えていた。
 彼女は猫のように体を丸めて、穴の方に虚脱感溢れる瞳を見開いていた。しっとりとした髪は水を吸って乱れており、編み込みの毛先は墨汁を吸った筆先を思わせた。

 「…………死ぬかと思った」
 「おれもだ。けど、まだ危険は去ってないみたいだ」
 「?」

 セージは首を捻るメローへ答えを示すべく松明を穴とは反対側の通路へと掲げた。つまり進むべき方角へ。
 ぬらぬらと揺らめく松明の火に照らされ、ぬっと巨体が進み出る。一つ目。剥げた頭。筋骨隆々の体躯。相応の鎧を身に付け、丸太のような太さの腕に粗末かつ無骨な斧を握った人型。
 サイクロプスが獲物を狩るべく待ち受けていた。



[19099] 百十七話 罠だらけの遺跡
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/07/30 23:51
 戦いの基本はいくつかある。量で圧倒すること。質で圧倒すること。包囲すること。補給を断つこと。奇襲すること。有利な地形で戦うこと。安価に供給・整備できる兵と武器を揃えること。昔も今もこの基本から逸脱した戦法は悪手と言われている。
 セージが取ったのも正しい戦法だった、
 すなわち相手が体勢を整える前に攻撃しろと。

 「こいつを頼んだ」
 「え」

 セージは松明をメローに押し付けると、サイクロプスがこちらを見ているのに対しウィンクをプレゼントしてやり、疾駆した。肉体強化。肉食獣でさえ追尾できないであろう目まぐるしい左右へのステップを交えた攪乱。サイクロプスの一つ目があからさまに幻惑するのを尻目に、跳躍した。

 「いくら図体デカくったってえ!」

 空中で張りつめた弦のように槍を構え、突撃した。案の定サイクロプスは腕で身を守る仕草。攻撃姿勢のまま、丸太のように逞しい腕に乗る。
 槍に手を沿わせ、何かを塗るような動作と共に、エンチャント。

 「〝火炎槍〟――――、頭をぶち抜きゃ死ぬってのが常識!」

 火炎を纏った槍を握り、腕から肩に飛び移れば一つ目目掛けて突き出―――すことなく、体を揺すられたことで空中に弾かれた。
 不発に終わった攻撃。着地と同時に転がるような受け身を取り――そして、最上段に振り上げられた斧が一瞬のうちに自分を二枚おろしにする未来予想図を見ていた。
 悠々と槍を右手に、左手でクロスボウを抜く。

 「〝風よ〟」
 「〝矢よ〟」

 ほぼ同時に詠唱。即座に発射。背後からの支援だった。
 斧と腕に風が纏わりつき軌道を逸らす。斧はセージの横拳三つ分の地面に 深々と埋まった。セージは眉一つ動かさなかった。
 斧を再度持ち上げんとするサイクロプスだったが、叶わない。両肩目掛け光り輝く矢が飛翔し皮膚を貫通したからだ。血液の迸りが遺跡の壁を赤く染め上げた。
 セージは、がっくりと膝をついたサイクロプスの巨大な眼球目掛け、穂先の鋭角を照準した。揺らめく焔が、穂先のミスリルに寄り添い螺旋を描く。槍を右に、姿勢を落とし、全身のバネを発揮すべく足を大きく開いた。
 にっこり。セージの口元が吊り上がった。

 「消し―――飛べ!」

 宣言と共に一陣の風となりて距離をゼロとする。脳天目掛け槍を叩き込み血肉骨もろとも貫通させれば、それさえも炭に変え、槍に纏わせた魔力を爆発させた。頭蓋が炸裂、あたり一面に赤とピンクの奇妙な破片が飛散した。槍を抜き、サイクロプスの首を足で押して横倒しにする。
 生じる熱量に大気が僅かに揺らめいていたが、徐々に静寂へと還元されていった。
 セージは布きれで槍を清めるとクロスボウをホルスターに差し、頬の返り血を手の甲で拭った。

 「ふー……始末してやった。図体ばかりデカいだけだ」

 こんちくしょうと口にしてサイクロプスの肩のあたりに片足を乗せる。獲物をしとめて得意げな狩人の様相。一転して神妙な顔持ちになると、足蹴にした得物を覗き込み、二人に首を傾げて問いかけた。

 「こいつ食えるかな?」
 「セージ……人食はまずいですよ」
 「まだ食べたことない」

 ルエは顔色を変えて首を横に振り、メローは無表情で頷いた。
 セージは足の下にある獲物の死体をじっくりと見た。肌の色は灰色や黒に近くごつごつとしている。ヒトのように手足はあるし、頭の構造や内臓も大差ないかもしれない。
 食のタブーはこの世界でもあり、ヒトは食べてはならぬというものがある。サイクロプスはヒトなのか、猿なのか、似ているだけで別の動物なのか、判断できなかった。
 ただ一人、メローだけが興味深そうに見つめていた。物言いからして拒絶反応がない辺り、変人の域を通り越している。
 セージは死体を目で確かめ、上を仰ぐと喉を唸らせた。食っていいのか悪いのか。食料はある。焦ることも無かろう。足を退けると、二人の方に一歩を踏み出した。
 何かを言おうとした。が、すぐに口を手で覆いくしゃみを殺した。

 「へっぷし! うー……くせーし湿ってるし気持ち悪い」

 自分の後ろで結わいた髪を解き頭を振って散らすと、鼻に近づけて匂いを嗅いだ。腐ったような、埃のような、汗っぽくもある。香水のように芳しい香りとはとうていいい難く、渋面を作った。

 「申し訳ないですが無駄遣いできる水は無いです」
 「だろうな」

 同じく全身ずぶ濡れで不愉快そうな顔をしたルエがやってくると、荷物の中にある水筒を軽く叩いて首を振った。飲料水は貴重である。体を清めるのに使っていてはいくらあっても足りないだろう。
 ローブから靴までびっしょりのメローも、不快感を滲ませて佇んでいた。
 もし都合よく井戸でもあれば。セージは手持ち豚にしていた槍を背中に背負い、通路の向こう側をじっと見つめた。同じようないっそ無味乾燥な構造が続いていた。
 革を多用した鎧を着込んでいるだけに水に弱い。鎧の下は水が溜まっており、体温でぬらぬらと湿気に変わりつつあるのがわかった。遺跡の中の空気は静謐として乾いていたので干せば乾くだろうが、長時間何もせず突っ立って乾燥を待つだけの気分優れる状態にない。
 セージはうんざりした顔で一人難しい顔をして歩き始めた。二人がそのあとを追いかける。

 「おれ思ったんだ」
 「なんですか?」

 セージがぽつりとつぶやくや、即座にルエが背後から聞き返した。
 セージは首をこきこき鳴らしながら回しため息を吐いた。

 「ここ数日ずっと動きっぱなしだったから休める場所を探したいってね」
 「そんな場所、ない」

 メローの無情な否定の言葉に一行はため息をついた。




 「都合が良すぎねぇか」
 「ええ……あまりに………」

 罠を踏み、サイクロプスに襲撃されてから数時間後、三人は噴水に辿り付いていた。
 古風な装飾の施されたアイボリー色の石造り噴水が広間とでも呼べる空間の真ん中に鎮座しており、透き通った水を吐き出している。広間は簡素ながらところどころに石造りのベンチまで設置されており、四方四隅には松明をかける場所まで設けられている。
 『休んでください』とでも言わんばかりの場所。罠を経験した一行にとって、その呑気な噴水と広間はキルゾーンにしか見えなかった。例えるならばクマの人形が戦場に放置されているようなものだった。
 丁度四角形の空間に入るや、セージは四つん這いで地面を丹念に指でこすり始めた。

 「お前らよく調べろよ。ここは閉鎖するには丁度いい場所だ。圧力感知式のが仕込まれてて水責めされたら死ぬしかない。地雷原と思え」

 床を構成するタイルの継ぎ目を擦り、指で押して息を吹きかける。顔を床につけて凹凸を目視で確かめる。猪武者な性格のあるセージとて、二の舞は御免だった。
 ルエも屈んで床を調べだす。メローは床ではなく、壁を。

 「ジライゲン?」
 「………罠! 罠を探せってこと」

 首を捻るルエの素朴な質問。ジライなんてものはこの世界にない。
 しまったと誰にも見えない位置で歯噛みをしつつ、頭の中で適当な言い訳をでっち上げる。

 「聞いたことない単語ですね」
 「おれの………昔読んだ本に書いてあったんだ」
 「そうですか」

 返事をしてすぐに作業に戻る男の背中を一瞥。自分も作業に戻る。
 タイルを擦って違和感がないかを確かめ指で押す。押しては進む。安全地帯を開拓していく。セージは、かつて見たアクション映画に従ってワイヤがないかを手を慎重に伸ばして確かめた。床を調べ、ワイヤを調べ、ついでに魔術が作動しないかを確かめ、一歩前進に数分かける慎重さで全身する。
 噴水から馬三頭分の距離。手が届きそうで届かない絶妙な空間が立ちふさがる。噴水。つい先ほどの罠が脳裏をよぎる。何かの拍子にスイッチが起動して広間が閉鎖され水責めをされたらどうするのだと。
 セージはその場に屈むと、左に手を振った。

 「メロー、左回りに罠を調べてくれ。おれは右回り。んで、ルエは罠が作動したらおれらを抱えて逃げる係。任せたぞ」
 「わかった」
 「まかされました」

 セージとメローは麦を刈る農夫のように屈んで地面を調べ、ルエはいつでも二人を抱えて逃亡できるように身構える。まるで砂の山に棒を突き立て、端から砂を取って行ってどちらの番で棒が倒れるかを競うゲームのように、噴水の外周を調べていく。床を擦り、押して、息を吹きかけ、目を細く大きくして確かめる。
 そして、腰が痛くなってきた頃、やっと噴水に到達できた。
 安全であると実証された地面を歩いていき、噴水に接近する。
 セージは恐る恐る水を掬った。さらさらとした綺麗な清水が指の間からすり抜ける。滾々とわき出す水は冷たく心地よい。
 しかし飲むような真似はせず、傍らで水を物ほしそうな表情で見つめる男の胸を拳で軽く突いた。

 「飲めると思う?」
 「僕としては――――メロー!?」
 「ばっかやろう!」

 きっとこれも罠に違いない。という発想から相談しようとした二人の傍らで、目をぎらぎらさせたメローが水を掬って口に運んでいた。血色の通った唇が水を啜り滴が口の端から伝う。
 セージは咄嗟にメローの両手を捕まえて噴水から引き離したが、ごくりという嚥下する音色を聞いて顔色を変えた。

 「わたし、う、ぐ」
 「毒か!」

 メローは何かを口にしたが、言葉にならないという様子で目を瞑り倒れ込んだ。肢体、指先の末端が苦痛を堪えるように蠢く。小柄な肉体を抱きセージは途方に暮れた。
 隣に屈んでメローの額に手を置く男に涙目で問う。

 「しっかりしろよ! 毒か! くっそ毒なんざどうしようも……! おいどうすんだよ!」
 「そんなこと言われても困りますよ! とにかく魔術で」
 「ちが………ひびれ……」

 メローの瞳が開いた。口をぱくぱく鯉のように使い必死に訴える。呂律がまわっておらず酔っ払いのような発音であり、セージとルエは顔を見合わせて、再びメローの口元に注視した。

 「ひびれへら………しゃへれ、っんな」
 「痺れ?」

 意味をくみ取ったセージは噴水の水を、怪訝な表情で見つめた。
 無色透明。匂いもない。毒ではなく、痺れ薬が仕込んであるよう。毒に耐性のあるエルフ族を一口で行動不能に至らしめるとは、恐ろしい威力だった。
 万が一毒のせいで痺れていることも考えられた。その場に寝かせる。

 「やっぱり罠じゃないか!」
 「ですね………きっと彼女も水に仕込みがあるなんて思いもしてなかったんでしょう」

 憤慨するセージを宥めるように、ルエが手でジェスチャーをする。
 しかしセージは口をへの字に曲げて天上を仰いで文句を吐き出した。もし遺跡に管理者がいたとしたら聞こえているだろうから。

 「この遺跡作った奴最高に趣味悪いな! メローもメローだと思うけど。飲むなよ。お前、道端に落ちてるものとか拾って食ったりしないよな」
 「だめ?」

 セージは、首を傾げようとしてできず唇を動かすだけのメローの額を軽く叩いてやった。その手をするりと滑らせがっちりと肩を固定する。

 「言っておくけど毒の中には痺れを感じてからぽっくり逝く種類のもあるから、この場で即効吐いてもらう。抵抗は無意味だから覚悟決めろ。おい、ルエ押さえろ。おれが喉に突っ込むから」
 「………えっ? な、なん………なに、を?」

 呆然と固まるメローに、セージは子をあやすような口調で治療内容を宣告した。異物を飲み込んだ際には吐き出させるのが一番。

 「やむを得ない事情ですね………悪く思わないでください……」

 するりとルエがメローの下半身を腕でつかんで固定した。
 そして広間にか細い悲鳴が上がった。



[19099] 百十八話 野?宿
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2013/08/05 00:57
 通路も広間も危ないとなれば、もはやどこで休憩すべきか判断がつかなかったが、水責めや全方位を囲まれる危険性のある広間よりも、進めるのが二方向に限定される通路で休んだ方がよいのではないかという結論を叩き出した。
 痺れ水――メローの様態を観察してそれが毒ではなく痺れ薬であるとわかった――を鍋に入れてぐつぐつ煮詰め水分だけを蒸発させそれを水滴に戻す作業を行い、やっと水が手に入った。とはいえ時間をかけた飲料水で体を清めるのは憚られ、噴水に飛び込むのも躊躇させられたため、汚れたままを余儀なくされた。
 メローは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。猫のように体を丸めて。メローと付き合っていてわかったことがある。寝ることが好きらしいと。
 松明は板を加工した松明立てで床の上にある。
 ルエが来た通路に胡坐を掻いて座り、その背後にセージが座っていた。
 セージは、いっそ清々しいほどの大股開きに肘杖を付き、顎を乗せていた。片側には槍。銀の剣。二連式クロスボウ。革鎧を干す暇がなかったので、体から妙な臭いが漂っている。それが気に食わないらしくむっつりと唇を結んでいた。

 「風呂入りてえ」
 「それは浴びるほうですか? 浸かるほうですか?」

 ルエが振り返ることなく訊ねてきた。
 背中越しに触れる逞しい背中がもぞもぞと動くのを感じ、こそばゆさを覚える。
 ふむんと鼻を鳴らすと、自分の胸倉の革板をぐいと持ち上げて体臭を嗅ぐ。汗、汚れた水の臭い、革が生乾きのときに生じる不愉快な臭い。女性は汗をかいてもいい匂いなんて大嘘だとセージは思った。

 「浸かるほうがいい。ドラムか……じゃない、石造りの容器の下で薪を焚く本格的なやつがいい。毎日でも浸かりたい」

 セージは危うくドラム缶という文明の利器について言及しそうになるも、首を振って言い直した。脳裏に浮かぶのは純和風なお風呂。設備があるときには利用していたものの、遺跡の中にあるわけもない。
 そして面倒なことがもう一つあった。

 「うろ覚えですがどこかの国ではそういったお風呂が当たり前のようにあるとか。セージは行ったことがあるんですか?」

 無邪気に質問してくる男に、セージは目線を斜め上に逸らし逡巡した。迂闊なことは言えない。
 例の告白以後、ルエは積極的に動くようになった。例えばことあるごとにくっ付きたがったり。事あるごとにセージについて質問したり。
 なまじ生まれ故郷や出生について質問されて答えたくない領域を多々持つセージは、こういった突っ込んだ問いかけには慎重にならざるを得ない。この世界にやってきた理由を告白できたクララであればすんなりいくが、なぜかルエにだけは知られたくないという思いがあった。
 クロスボウの弦の張りに気を取られていたとでも言わんばかりに視線を大げさに下げて水平に戻す。

 「ない。けど、えーっと、どっかで使った時に気持ち良くてさ。はまった」
 「いずれ入ってみたいものです」
 「入るだけならカンタンカンタン。水入れた鉄の容器の下で薪を燃やせば完成」

 堪えたような笑い声が耳を叩いた。首を捻る。

 「なに。ピエロでも出現したかよ」
 「水を満たした鉄の容器の下で薪を燃やして加熱………まるでダシをとってるみたいだなと」

 脳裏になぜかサイクロプスが手足を縛った人間を風呂で煮込んでいる情景が思い浮かんだ。不意打ち的に出現した映像が笑いを作る。口元のにやけを噛み潰し、背後に鼠も殺せない強さの肘鉄。

 「ばかやろ。垢しか出ないぞ。はー………くそ。鎧は臭い、汗も臭い、太陽も風もないからなかなか乾かない。最悪の気分。お前も風呂入りたくならない? 水浴びでもいいよ」
 「入りたいです。水場がないので解決できない問題です」

 背中の様子は見えない。二人して相手の表情を窺うこともできない。背中越しに声が震えるのを感じ取ることだけ。視線は遠く、無限消失点に固定して。
 そのはずだったのだが。
 ふわり、という優しく甘い表現だと誤解があるだろう。汚れた水を吸って乾かした臭いが鼻に触れる。自分も似たような臭いを漂わせていただけに気にならなかった。セージの視界両端に、への字型の何かが出現した。ズボンの裾。靴。つまり足。背中に触れる背骨の感触は無く、強いて言うなら後頭部に硬く尖ったしかし肉の気配のある何かが触れた。
 理解する。背後の男が姿勢を反転させて、自身を挟み込むように足を広げて座っていると。幸い武器類を躱すように足を広げているので有事にも対応できるだろうが、通路の片側だけを監視する体制と化しており、まさに片手落ち。
 苦情を言うべく背後に寄り掛かった。頬に空気を溜めて不満をアピール。

 「アホタレ。背中合わせで守ろうなっ! の予定が台無し。どうしてくれる」
 「だめですか?」

 後頭部にあるのは顎である。理解したところで、糖蜜を混ぜた紅茶を思わせる舌触りの抽象的な問いかけが来た。
 背後から包み込むように手が前に回る。骨の角が皮膚を押す蜘蛛のような指が、体育座りをとっていた両足に這う。
 セージはさせぬと手で守った。逆にむんずと手を掴み取った。

 「くっつき過ぎ!」
 「くっつきたいです」
 「お前は恋する乙女か!」

 手を抓って、背後に頭突き。頑なに引っ付こうとする男に攻撃した。
 が、両足を狭め引っ付くばかり。鍛えているとはいえ女。体格も負けている。しまいには諦めてなすがままにされた。
 ルエがセージの髪の毛を整え始めた。慣れぬ手つきで乱れを正し、その過程で頬に指が触れる。
 くすぐったさを覚えて目尻が揺れる。ため息を吐き、拘束していた手を解く。

 「しゃあない。今だけは恋人になったみたいに髪の毛弄ってもいいようにしといてやる」
 「恋人ですか―――なりたいです」

 ストレート。ど真ん中。見事にミットに突き刺さる言霊に眩暈さえ覚えた。
 頬にかかる指を捕まえて引きはがし、振り返った。至近距離。息がかかるであろう距離。侵害されると不快感を覚えるパーソナルスペースという概念がある。この世界でも同様に通用する普遍的な考えではあるが、不思議と不快感はなかった。
 眉を寄せ、視線を逸らす。壁の染みに興味を奪われたとでもいうように。

 「ハッ……ほかにいい女の子は一杯いるだろ。ガサツで乱暴で馬鹿で男言葉の女なんて捨てろ。そりゃ……おっぱいは大きいし、見た目はいいだろうけど中身は大概どうかしてる」

 欠点を羅列しつつ指を折り、頭を前に戻して視界から逃れる。
 背後で首を振る仕草があった。

 「お断りします」
 「頑固者な奴。あぁそういえば聞きたかったことがある」

 セージは話題を探そうと言葉にならない呟きを漏らして時間を稼ぎ、一つだけ浮かんだそれに飛びついた。相手の手を握り、指を弄って遊びながら。

 「同性愛ってどう思う?」

 お前は馬鹿か? 自分で自分の後ろ指さして笑う。もし自在に操れる汗腺があったとしたら、顔から汗を流したに違いない。
 背後の男が首を捻り怪訝そうな顔をするのも無理がないことだった。質問の意図が掴めず目を細める。

 「同性愛………? いきなりですね。実は女性しか愛せないとか言わないでください。個人的な話になりますが、愛の形はそれぞれ。愛したい人を愛せば、倫理観や世間体を気にするよりも充実していると思いますが」
 「いやお前。ルエはどうなの。実は両方いける口とか」
 「女性しか愛せません」
 「わかった。正常でよかった。いや………うん、それが当たり前か。あんまりにも女の子に手を出さないから男色かとばかり。里でも女の子に声かけられてたじゃんか」

 セージはにやりと嫌味な笑顔を浮かべた。ルエは整った容姿と物腰の柔らかさゆえに女性受けがよくしょっちゅう声をかけられていた。進展はなかったが。

 「……おちょくらないでください。女性しか愛せませんよ。中には同性でも構わないヒトもいるそうですが。一体こんな質問に何の意味があるんです」

 ルエがむっとして、何を思ったかセージの頬をもてあそび始めた。横に引く。押す。ふにふにと頬の肉が形を変える。
 きっと今自分は面白い顔をしているだろうなと想像する。手を払おうと思えば払えるだろうが、不愉快さを抱かなかったが、発音の阻害要因にほかならず、指を持ってどけた。

 「覚悟――――あるいは再確認? 悪い、言葉にできない」
 「へんなセージですね」
 「おれはいつも変なんだよ? 知らなかった?」
 「ええ」

 奇妙な沈黙があった。
 セージの頬に触れる指はいつの間にか広がっており、頬全体を包み込むようになっていた。
 マズイ。直感的に悟る。雰囲気がマズイ。どうマズイのかと言えば雰囲気に流されてしまいそうという意味でマズイ。
 雰囲気という魔の手が迫る。物理的にも、頬にあった手が滑ってうなじに触れる。ぞぞぞ、と背筋が毛羽立つ。黙っていたらおかしなことになる。話題を探しに探して、上体の姿勢を変更した。
 くるりと身を翻して、相手の胸元に飛び込み肩を抱く。鎧を着込んでいるのだ、胸が当たるなどの危険性を考慮しないでもいいと考えたが、その考え自体常識的におかしいことは度外視した。

 「こっ……こうしないと! ……こうしないと敵を見張れないだろ?」

 セージは相手の肩から通路の反対側を監視するべく顔を出した。ルエも返事と同時に似たような姿勢を取る。

 「名案です!」

 上ずった声で頷き合う。吹き出しそうな状況。頭では理解しているのだ。通路の二方向を見張るなら背中合わせが合理的であり、抱き合いながらなど、非合理の塊。曖昧に心理を誤魔化して、その誤魔化しの手法が合致してしまっている。
 無言。体が近すぎて呼吸さえ耳を打つ。見張りという名目のため、遠くを監視する。意識の瞳は遠くよりもすぐそばにある体を意識するばかりで油断が綯い交ぜだったが。
 銀髪と金髪。
 子供をあやすように銀髪が金髪の頭を撫でている。

 「たまにだったら……」
 「はい」
 「たまにだったら、抱き着いたりしてもいいよ」

 セージの額が赤信号になった。自分で言っておいて羞恥心に打ちのめされ、ぱくぱくと口を開閉して、しまいには口をきゅっと結んで目を閉じた。
 その熱を持った頭を細く繊細な、それでいて血管の浮いた男性的な指が優しく撫でる。負けず劣らず赤い顔の彼は、汚れて光を損なっている髪の毛を慈しんでいた。
 一方二人から少し離れた地点で寝たふりをしていたメローは、いつ見張り番の後退について切り出すのかを悩んでいた。二人が抱き合ったところで欠伸でもしてやればよかった。前にも起きる機会を喪失したな、と機械的に考える。

 「うーん」

 わざとらしく伸びをして、寝返りを打つ。
 メローの鋭い瞳が二人がぱっと離れたのを確かめた。むくりと起き上がると、目を擦る。

 「交代。つぎは、どっちが寝る?」

 子供な外見からは想像できないくらいに冷静なメローであった。



[19099] 百十九話 水場が無い!
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:40b707b0
Date: 2015/09/03 06:26
 迷路の攻略法のひとつに、壁を伝っていくというものがある。
 だがまともではない迷路でその攻略法はまるで通用しない。穴があれば、隠し通路もある。果てしない落とし穴もある。もしかすると通路に見せかけた幻かもしれない。
 ようするに、ひたすら前に進むしかないのだ――。

 カシュッ、カシュッ、という小さな音が響いている。
 いつもの如く眠りに貪欲なメローを傍らに二人の影が作業をしていた。
 セージは己の武器の手入れをしていた。オリハルコンの穂先を持つドラゴン骨の柄の槍。銀の長剣。二連装クロスボウ。どれも自分の命をここまで繋いでくれたアイテムである。
 向こう見ずで無鉄砲。無謀。先走りがちな性格のセージにとってこれらのアイテムがなければ死んでいたであろうことは言うまでもなく。
 だから整備は丁寧に行うのだ。槍はきわめて強靭な神の金属とも称されるオリハルコンと、鉄のように強く竹のようにしなやかなドラゴンの骨で作られている。穂先の手入れは主に汚れを落とすこと。骨は脂を染み込ませて磨くことである。
 長剣は砥石で磨いてやる。
 クロスボウは定期的に弦を張り替えて巻きなおす。専用の器具を含めると恐ろしく複雑で携行に不向きな一品ではあるが、ロウから譲り受けた品をガンマンさながらの早撃ちに活用できる程度にはなじませてきた。愛着が強く沸いていた。
 セージに明らかに好意を持つルエは、近頃アイテムの整備を手伝うようになっていた。
 なってはいるのだが。

 「あつい」

 セージは、いつの間にか背後に回って抱きついてきている男の手を払う。
 一緒に整備し始める。ルエが手伝うと言い出す。整備が終わって暇になると積極的にスキンシップを図り始める。
 いろいろと吹っ切れている彼である。整備もスキンシップの一環に過ぎない。色恋に長けているでもない男唯一の武器は積極性と素直さであった。
 背後から男の腕に抱かれる。違和感しかなかったのも最初だけ。数度やられるとむしろ安心感を覚えてしまう。
 セージは今まであったことを日記に簡潔に記していた。装備の整備は終わっている。
 言語はすべて日本語。漢字はかなり忘れてしまっているため、ひらがなとカタカナが多い。文字が蛇がのたくったような列を描いているがもともと悪筆だったので書き方を忘れているわけではない。
 さらさらと羊皮紙に羽ペンで描き出していく。
 自分がこの世界に来るまでの切欠。いつ、どこで、誰と出会ったのかの簡単なメモ。来た道。これから行くであろう道。
 書きつつも自分の髪をせっせと手入れする男の体を意識する。
 命の恩人。幼馴染。友人。あるいは、恋人。
 不思議な関係である。片や異世界からやってきた。片や原住民。片や魂だけが別の人物。片や純粋に魂と肉体が一致した人物。
 日記の人物の項目にルエの名前もあった。
 悩み、『バカ』と書いておいた。筆を置くと、折りたたんでいた両足を投げ出して背後に寄りかかる。

 「もうさ、前から思ってたんだけど……タメで話そうぜ」
 「タメですか。しかし……」
 「いけるっしょ? むしろ何でずっと丁寧口調なんだろうなお前」

 ルエがうっと声をつまらせた。
 セージは背後の男を肘で突いた。

 「愛してるとか言ってたよな。じゃあタメでしゃべらないとな!」

 言うなり赤面をする。何を言っているんだ俺はと口を塞ぐ。
 まるで――考えるのをやめた。
 セージからの提案に何を思ったのか、ルエは小難しい顔をしていた。女性的でさえある整った顔立ちに皺を寄せて、沈黙していた。
 ややあって表情を崩すと、瞬きをした。

 「わかった。これでいいか?」
 「やればできんじゃん。そっちの方が似合ってるぜ。なんでやらなかったんだ」

 うーんとルエが唸る。その間も手の中でさらさらと流れる金糸をつくろっているあたりはさすがである。

 「兄に強く言い聞かせられてたんだ」
 「ああ、女装癖の……」

 脳裏に浮かぶのは美貌を持つ人物が女性的な衣服に身を飾って町へ繰り出す様。
 だが、男である。
 ルエが目じりを揉み解していた。

 「言うなよ。兄が夜な夜な女装してお忍びでほっつき歩いてるのを見せられる僕のことも考えてくれ。
  お前もどうだとか言われたけど断ったよ。
  するわけないだろ。兄貴にはついていけないよ」

 ため息を吐き毒づく男。
 セージはやはりなと確信を深める。このルエという男は、どうやら本心を徹底的に優男風貌に偽装している節があった。
 優男。紳士。を装った、けれど中身はどこにでも居る男の子なのだ。
 中身が男の子であるセージにはむしろ納得の展開であった。

 「まあ女装というなら俺も……」

 女性の肉体を被っているのだから女装に当たるのではないか? という言葉をとことん抽象的に漏らす。
 ルエがくっくっくと喉を鳴らした。
 開き直った上に、紳士的な態度を拭い去った彼はまるで別人のようでもあったが、長年付き合ってきてなんとなく本性を知っていたセージには違和感を覚える要素はなかった。

 「むしろセージのは男装だろ。たまにはドレスとか着てみたほうがいいと思うよ」
 「白いドレスでも着て欲しいってか」
 「ああ」

 コンマ数秒の肯定をする男が居た。ルエだった。

 「…………そ、そうか……そうか……」

 相手の体の間で小さくなる。積極的かつまっすぐに好意を伝えてくる相手に対し、おちょくったところで通用するかは分からない。言葉が出てこなくなったので会話を打ち切って、日記の続きを書く。
 不可思議な文字が並んでいくのをルエが背後からじっと見つめていた。
 冷たく鋭利な瞳が羊皮紙を観察している。

 「どこの言葉なんだ?」
 「以前いたとこ」
 「いや、こんな文字は見たことない。これでも頭はいい方でね。色んな言語を読んできたが……」
 「以前いたところで使ってたんだってば」

 ルエが甘い雰囲気を取り払って質問してくる。社会、文化。兄の側近として動いていた彼の専門分野である。
 彼は多くの言語を学んでいたが、いずれにも該当しない文字が並んでいた。疑問に思うのも仕方がない。
 話すべきだろうか。話さないほうがいいか。
 セージはルエの『バカ』の記述の横に『頭はいい』と書いた。矛盾している。

 「それどこなんだ? 前から聞きたかった」
 「あーえーっと……」

 背後からルエが質問を投げてくる。純粋なる疑問。逢ったときから聞きたくてたまらなかったであろう内容であった。
 『実は別の世界の日本国で男やってたんだけど神様とか言う糞に殺されてふと気がついたらエルフの女の子なってたんだよねアハハ』。
 一人首を振ると、無駄な音声を発生させまくって時間を稼ぐ。
 信じてくれそうにないし、説明したくもない。

 「き、記憶がなくてさ。気がつくと燃える家の中に居た感じかなあ。たぶん、もともと古い古い時代の言葉を勉強でもしてたんじゃないかな。
 エルフ狩りとかいうくそったれ政策のせいで放浪することになった」
 「ご両親は……」
 「死んだと思う。覚えてないからわからん」

 嘘は言っていない。嘘だけはついていない。真実を隠してはいるが。
 別の世界の両親は生きているだろう。この世界の体の持ち主の両親は死んでいるだろう。
 ルエがそうかと言うと。セージの首元に顔を埋めた。

 「甘いにおいがする」
 「汗だろ! 風呂ずっと入ってねえぞ!」

 相手ににおいを嗅がれている事実にセージの顔がりんごになった。前髪の生え際まで赤く熟していく。
 迷宮に潜ってしばらく。水浴びする機会など恵まれず、故に皮製の鎧にこびりついたにおいはなかなか強くなっていた。
 今は脱いでいるが、衣服についた匂いというものはなかなか強いもので。
 洗濯しようにも川がない。井戸もないし、水場がない。
 すんすんとルエの鼻がなっている。
 セージが衣服を剥がれた生娘のように顔を赤くするや、相手の腕の隙間から這って抜けていく。
 体を抱くようにしつつ、相手の方を振り返りもせずにメローのもとへ。ローブを床に敷いて黒髪を散らしたなまめかしい肩をたたく。途端にびくんと体が揺れる。
 例の如くメローは狸寝入りをしていたのだった。セージとルエがいちゃつくのを傍らで観察していたのだ。時折薬を仕込んでみたりハプニングを装って仕掛けさせたり。外道なキューピットがここに居た。しかもそのキューピットは弓で人を殺すのだ。酷い世の中である。
 わざとらしく欠伸をすると――もそもそとローブの海から体を起こし、伸びをする。
 セージがタオル片手に居た。

 「体、綺麗にしよう! な! あのバカの目隠しをやってくれ! それか水を出してくれ!」
 「……………やだ。ルエとやって」

 ごろんと寝転ぶメロー。感情表現の薄い彼女としても棒読み極まったもの言いだった。
 ―――二人仲良く体をタオルで擦りあえばいいんじゃない?
 という黒い意志がセージに見えるわけもない。セージは相手が寝入ってしまったのを前に絶望していた。

 「僕がやろうか」
 「死ね!」

 一発殴る。手のひらでがっつり受け止められた。ルエがへらへら笑った。
 唇を噛み、しかしひるむことはない。セージとはそういう性格である。
 急にあわただしく荷物を纏め始めると、鎧を着込み始める。固定具をつける。槍を背負う。銀の剣とクロスボウを腰へ。荷物入れをつける。たいまつを手に、立ち上がった。
 何事かと目を丸くするルエと、現在進行形の狸寝入り中のメローの肩をたたいてまわり、前と後ろに続く通路の前方を指差した。

 「しゅっぱつするぞのろまども!」

 起きて目を擦るメロー、一言。

 「そっちは今来た方」



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久々すぎてどうかなりそうだった


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