春の暖かな陽光が差し込む昼下がりの教室、教壇の上では教員が何時ものように黒板に書いた文字の説明をしている。
仄かな暖かさと教員の単調な声が何とも眠気を誘う。
『彼』はその時間は何時も眠気に誘われるままに昼寝をするか、読書をして時間を潰していた。
その事で教師の間で『彼』は有名な問題児として扱われている。
『彼』の名前は紫藤秀次。18歳。私立藤美学園高校3年A組出席番号は10番。
背丈180cm以上の長身であり、鍛えているのか、そこそこ肉付きの良い身体をしている。
髪は黒髪で肩につくほど長く、邪魔にならないように後ろで一本結びで纏めている。
顔立ちは端整ではあるが、その表情を滅多に動かすことはない。
それに加え眉間に残っている大きな傷跡も合わさり、他者を威圧する冷酷な印象を放っていた。
幼い頃、秀次は交通事故に遭いそれ以前の記憶を全て失った。自分を育てたらしい母親の顔すら知らない。
事故が起きて、退院した時に床主にある今まですんでいたと言う家ではなく、東京の父親の家に引き取られたからだ。
何も知らない秀次は父親から母親が碌な母親ではなかったと教わった。半ば育児を放棄し、最後には酒に溺れて早死にしたらしい。
哀れな女だと父は笑っていた。
事故の時に負った頭の怪我の後遺症で感情の大部分が欠落したせいか、目の前で母親を馬鹿にされ、笑われても何も感じる事はなかった。
見ず知らずの人間を馬鹿にされて怒れというのも難しい事だったからかもしれない。
何度か兄とも顔を合わせる事もあった。しかし、何度顔を合わせても、幾度言葉を交わせども、思い出せる事は何も有りはしなかった。
父親からは弟のサポートをしろと言われ、様々な事を学ばされた。
しかし、その弟の母親からは邪険にされ、当の本人からは心底疎まれるだけで顔を見るのも嫌がられた。
事故を装って階段から突き落とされたのも何度かある。
そんな暮らしに最初は何か感じていた事があったような記憶はある。
時が経るにつれ、何も感じないようになっていき、今ではその時に何を感じていたのかさえ思い出せなくなった。
そして追い出されるように藤美学園への入試を受けさせられ、寮に入れられた。ここは父親が理事をしている故に、色々と勝手が利くらしい。
授業中どうどうと別の事をしていても注意の一つされない理由がこれだ。
だからこそ兄以外の教師達は権力を恐れて秀次に関わろうとしない。
生徒にもその雰囲気は伝わったのか、基本腫れ物扱いで近づく者は居なくなった。教師に目を付けられるからだ。
唯一人、昔の友人を名乗る女子との交流はあったが、それだけだった。
それも、その女子が一方的に絡んでいるだけで秀次から何か行動をおこした事はない。
秀次は読んでいた本から目を外して、その女子の席を見るが、授業をサボっているのか昼休みまで居たはずの席には今は誰も座っていない。
珍しいと思いつつ窓の外に目をやってみると火事でも起こっているのか、何時もは無い黒煙の柱が立ち昇っていた。
それも狭い窓から見える範囲だけで3本もだ。
視線を降ろし、街を見る。確かに街から上がっている煙だった。秀次は更に視線を下げ、ありえないものを発見し、視線がソレに固定される。
ガガッ!
『全校生徒・職員に連絡します! 全校生徒・職員に連絡します! 現在校内で暴力事件が発生中です
生徒は職員の誘導に従って直ちに避難してください!!』
教室のスピーカーが叫ぶようにそう伝える。
周りの同級生達は何が起こったのか不安そうに顔を見合わせたり、小声でボソボソと何事かを話し合いを始めた。
そんな中、秀次はアレが暴力事件? と疑問を抱き、眉をピクリとだけ動かす。アレはどう控えめに見ても暴力事件の範疇を超えている。
『繰り返します。現在校内で暴力事件が発生中で』
ブッ!!
キィィ……ン
ガギン!! ……ン
『ギャアアアアアアアアアア!!! 助けてくれ!! 止めてくれ!! ひぃいぃぃ! 助けっひぃ!!
痛い痛い痛イいタイイタイ!! 助けて!! 死ぬ!! ぐわああああぁぁぁあああ!!』
その直後に悲痛と恐怖にぬれた絶叫がスピーカーが割れんばかりの音量で響いた。それが途切れた後、しばらく教室内部を静寂が支配する。
少しして、正気に戻った生徒の何人が扉に向けて動き始め、ドアを開いて出て行くと、
それを目で追っていた生徒と教員の全員が堰を切ったかのように逃げ出していった。
教員、生徒問わず、全員が目の前の邪魔な障害物を押しのけ、蹴り倒し、悲鳴と怒号が相次いで響いていく。
秀次はその雑音を耳障りだと思いながらも、今自分の目に映っているモノは何なのか頭の中を探って考えていく。
自分の眼下の校庭では、先ほどまで同じ人間に首を喰い千切られてのた打ち回り、
動かなくなった筈の人間が何事もなかったかのように立ち上がり、ふらふらと校舎に向けて足を進めてきている。
アレは何だ? 人間が人間に喰らいつくという事は起こっても何ら不思議でも不可能でも無い為、理解できた。
しかし、今此方にフラフラとした足取りで歩いて来ているモノは別だ。
人間があれほどまで重傷を負わされても傷口を押さえもせずに、何事も無く歩く事など有りえる筈が無い。
いや、首の肉の殆どを喰い千切られていても生きている人間なんて存在しない。
しばらくの間、アレがどうやって動いているのかという仮説を立て、熟考する。
が、答えらしい答えは出ない。どれもこれも推測に推測を重ねただけの張りぼて以下の理論にすぎないものしか考え付かなかった。
そもそもアレに関する情報は全く無いのも同然なのだから、今答えを出そうとするのが間違っているのかもしれない。
考えを深めるのを打ち切り、これからどうしようか、と秀次は考えた。
悩み始めてどれくらい経っただろうか? とうの昔に廊下の喧騒は消え、静かなものになっている。そこまで悩んでもなお、秀次は答えを出すことができなかった。
答えが出ないまま秀次は自分の鞄から教材を全て抜き、必要だと思えたものを詰めるとフラリと3-Aと入り口に書かれた教室の外へと出る。
「ヒッ……人か? よ、よかった! 助けてくれ!!」
廊下の先に居た男子生徒が教室から出てきた秀次に気付き、一瞬怯えた様子を見せた後、安堵の声を上げて秀次の居る場所へと近寄ってくる。
男子生徒は左手に怪我でもしているのか、左手を庇っているような動きを見せ、時折顔を顰めている。
足も特に怪我をしたようには見えないが、消防斧を杖の代わりにしていて右足を庇いながら歩いている。
その消防斧は、すでに誰かに使ったのか刃が血に塗れ、床に赤い痕跡を残していた。
「生きてる人に会えてよかった……下はもうゾンビだらけでさ」
「そうか」
生きている人間に会えて余程嬉しいのか、男子生徒は聞かれてもいないことを饒舌に話し始めた。
自分の名前、学年、クラス、番号、放送があってあら起こった事、洗いざらい全てだ。
「それで、命からがら逃げ出してきたんだよ……って、なんだよ?」
そこまで話してようやく秀次が自分の左手を注視している事に気が付いたのか、それを隠すように手を後ろに回す。
「これは……あれだよ。ほら階段降りて外に逃げようとしてた時に、後ろから押してくる奴らに思い切り引っかかれてさ……」
また聞いてもいないのに男子生徒が言い訳をしているかのごとく歯切れの悪い言葉を口にした。
「そんな事は聞いていない」
「そ、そうか。そうだよな! って、おい! どこいくんだよ!!」
秀次が踵を返して別の場所に向かおうとすると、男子生徒は慌てた様子で秀次の肩を掴み引き止める。
彼の手から零れ落ちた斧がガランと重い音をたてて床に落下した。
「……何だ?」
「頼む、置いていかないでくれ……」
首だけ回して振り返り、掴まれた肩を見つめ視線を外して男子生徒の顔を見る。
怒りと不安、そして怯えが入り混じった必死の形相を浮かべて秀次の肩を力の限り握り締めている。
絶対に逃がさない。そんな言葉が聞こえてきそうなほどだ。
「離せ」
「……嫌だ! 俺はこんな所で死にたくないんだ!! 助けてくれ!!」
「……そうか。わかった」
こいつは敵だ。
「――っ!? よかった!!」
その言葉を聞くと、何か勘違いでもしたのか男子生徒は驚いたように目を白黒させた後、深く安堵の息を吐いて指の力を抜いた。
秀次は振り返ると同時に下に落ちている斧を蹴り、
肩から離れようとする腕を掴み、
引き寄せ、
足を払い、
頭を殴り、
床に引き倒し、
掴み捻り上げた腕をそのまま圧し折った。
男子生徒は完全に気を抜いて油断していたのか、抵抗らしい抵抗すらしなかった。
あらぬ方向へと曲がった腕を離し、背中から首に手を回し、締め上げる。
男子生徒が秀次の下で咳き込みながら手足をバタバタを動かし、体を返して秀次を振り落とそうともがくのを押さえつけた。
引き倒した時に舌でも噛んだのか、男子生徒が咳をする度に床に赤い水滴が飛び散っていく。
次第に動きが弱くなっていき、首を締め上げていた腕を掻き毟っていた手から力が抜け、床にコトリと落ちた。
死んだ。あっけない。と思いつつ秀次は立ち上がり、後ろに蹴飛ばした消防斧を拾いにいこうと死体の隣を通った時、誰かに足を掴まれた。
「――――ッ!!?」
倒れている男子生徒が顔を床に突っ伏したまま、秀次の左足を掴んでいた。
秀次が足を引き抜こうと動かすが、万力にも似た力で締め付けられ、指が肉にくいこんでいき、痛みだけが増していく。
死んだふり? いや、確実に殺した。と秀次は増していく足の痛みに眉を顰めながら考え、
男子生徒の力が肩を掴んだ時と比べ物にならないほど強くなっている事に気がついた。
男子生徒がゆっくりと顔を上げる。その顔は人間の顔ではなかった。
目の焦点は合っておらず、左右別の方向に向き、瞳孔は完全に開ききっている。
それに目と口からは血が流れ出し、時折、開いた口からは呻いているような音が漏れ出していた。
「早いな……」
復活の速さに少しばかりの感嘆を覚え、左足に噛みつこうと開いた口を狙い靴先をねじ込む。
上の前歯を折った感触と共に、開いていた口が閉じられ、靴底に歯が食い込んでいく感触が感じられた。
噛み付かれた靴をそのまま倒して、靴底に食い込んでいる歯を折っていく。
それでも尚噛みつくことをやめようとしないソレを見て、秀次はコレに知性は無いと断じた。
顎を閉じられないように更に靴をねじ込んでいき、靴先で下顎を押さえ、足を徐々に上へと傾けてゆき、ソレの顎の間接を強引に外す。
歯を折られても、顎の間接外されても全く変化の無い様子を見て、痛みを感じていないと断じる。
掴まれた足の皮膚を破り、ズボンごと指が肉を潰していく。
握っているその手は、籠められた力に耐え切れないのか、爪が内側から剥がれていた。
秀次は、消防斧を拾い上げながら、足元のナニカのデータを纏めていく。
脳内のリミッターが外れているのか、その力は驚異的の一言に尽きる。
しかし、知恵は無く、その力を出せるのは自壊していない最初だけ。
時間が経つにつれコレ単体の脅威度は減じていく可能性は高い。
痛覚は無く、胴体への打撃はほぼ無意味。
「頭を潰されても動けるか?」
拾った斧の刃の裏側に付いていたピッケルをソレの後頭部へと振り下ろす。
先端が頭皮を裂き、
頭蓋を割り、
脳髄を犯し、
肉片を辺りに撒き散らす。
グチャリと音が廊下に響いた。
ソレの体がビクリと痙攣し、手から力が抜けていく。痙攣した以降、ソレが動く事はなかった。
「頭を潰せば死ぬ。電気信号で動いてるのは変わってないか」
頭から消火斧を引き抜くと、こびり付いたピンク色の肉片と血がパタパタと滴り落ち床に赤い斑点を付けていく。
「柄は90cm弱、刃は10cm辺り重さは2~3kg……肉の色とは随分違うな」
エモノを検分した後、ピッケルに付着するピンク色のソレを見て、秀次はそう感想を零すと、
斧を肩に担ぎ目的地を何処とも定める事無く歩いていった。
右、左、左、右、左。得体の知れないナニカになってしまっている同級生や下級生の横を通りぬける。
他の人間は襲われて、今通っているとなりでも集団で集られて喰われているというのに、自分には全く反応を示そうとしない。
原因は靴に布を巻きつけて、足音の殆どが消えているからだろう。と秀次は考えている。
先ほど、確認のためにコインを投げてみればほぼ全てのナニカが反応したのがその証拠だと言える。
それを見たからこそ、床に転がっている死体から服を剥ぎ取って靴に巻きつけたのだ。
移動に呼吸音と衣擦れ以外の音のほぼ全てが消えている今、ナニカが自分の存在に気付く事はなく、目の前を通っても何も反応を示さない。
安全すぎる。と秀次は欠伸をしながらそう思った。下手に慌てたり、予期していないアクシデントさえ起こらなければなんて事も無い。
問題はその音がなった時、ナニカは過敏に反応する上に音が鳴った方向にある障害物にすら噛みつこうとするところだろうか。
おかげでコインを投げた時に後ろから襲いかかられて結局乱闘になった。
下手に何かすると逆に危険を招く。そう考えながら歩いていると、教員棟に繋がる渡り廊下に辿り付いていた。
現代国語担当の脇坂が血を流して倒れていたのを目視し、死にたてかと観察したが、
目が飛び出して頭が陥没して動いていないところを見ると、既に誰かに再度殺された後のようだ。
と確信し、秀次は斧を置き、腰を下ろし、死体を詳しく調べ始める。
頭の陥没具合から、凶器は細長く、円筒形で頑丈な物であると推定できた。恐らく金属バットだろう。
胸と腰には穴が開いている、何か先端が鋭い細長い棒で突かれたのだろうか。
右腕の肩付近の骨は完全に砕かれている、鈍器での強打、先ほどと同じ金属バットによるものだと推定する。
ピッケルでこじ開けた口からは少量の肉片と、学制服らしき布着れが零れ落ちた。
秀次はソレを見て、ここで脇坂は誰かに噛みついたのだと推測した。少なくとも3人~5人の集団の誰かに。
最初は脇坂に誰かを噛まれて、それをやめさせようと棒で突き、バットで殴打するが脇坂はそれを無視して噛みつきを続行、
そして最後にバットで頭を強打され、その衝撃で噛みつかれていた肉が完全に食い千切られ口内に肉片と布切れが残った。
筋書きとしてはこんなものだろう。分かってしまえばどうとでもない話だ。
と秀次は欠伸を零しながら斧を拾い上げ目の前の管理棟へと足を進める。
職員室の前までくると、ナニカの数も減ってくる。
教室棟と校庭がナニカで溢れかえっている分、余り人の詰めていなかった此処、管理棟に来る個体は少なかったのだろう。
「喉……渇いたな」
既に空になった缶ジュースを捨て、秀次は息苦しそうにカッターシャツの第一ボタンを外しながらそう言うと、
ナニカはその音と声に気付いたのか此方に目がけてワラワラとゆっくり近づいてくる。秀次はソレに斧を構えて応じた。
先ずは斧頭で一番近くにいた個体の顔面へ刺突、鼻の骨を砕きたたらを踏ませるがそれ以上の効果は無く、個体は再度前進。
斧を振り上げ背後から近づいてきた別個体の頭にピッケルを突き刺し、振り降ろすと同時に引き抜き目の前のナニカの頭を両断。
頭に刃が食い込んだ死体を左足で蹴りつけ、斧を引き抜き、
右足を軸に体ごと回し遠心力をつけてその後ろから近づいて来ていた個体の首を跳ばす。
斧の重さに体が振り回される前に自分から床に身を投げ出して転がり、立ち位置を変える。
床に斧が当たり、鉄が石を引っ掻く音が微かに鳴った。ナニカ達が音の方向を捕捉して首をグリンと回し、進む方向を変える。
落ちてきた首の髪の毛を掴み、ナニカの背後にあるドアを狙って投げつける。
鈍い音が鳴り、ナニカ達の注意が此方から逸れて床に落ちてゴロゴロと転がる首に移った。
背中を向けたナニカに斧を振るい
頭蓋を砕き、
首を跳ばしていく。
自分以外立っているモノがいなくなった廊下で、秀次は斧をクルクルと回して弄びながら、
返り血で真っ赤に染まったカッターシャツと制服を見て、静かに溜息を零した。
秀次は職員室のドアを無造作に開ける。教員は全員逃げた後なのか誰も居ない。後ろ手でドアを閉め、そのまま給水場に足を運んだ。
その途中で返り血で赤く染まりきった制服とカッターシャツを脱ぎ捨てる。
血と肉に塗れた斧と鞄も、今や誰も座ることのないだろう机の上に置いた。
シンクに頭を突っ込み、そのままハンドルを捻る。
蛇口から勢い良く飛び出した水が頭を濡らし、顔にこびり付いていた血と肉を洗い流していく。
蛇口から出る透明な水はシンクに落ちる頃には赤く染まっていた。
手を洗い、顔と頭を洗い流した後、シンクから顔を引き抜き、そばに掛けられてあったタオルを一枚手に取り、水気を拭き取っていく。
傍に置いてあったカップを引き寄せ、出しっぱなしにしていた水を汲み、それを呷るように飲み干した。
それを喉が潤うまで、ニ三度と繰り返したあと、ハンドルを捻って水を停める。
秀次はタオルを放り投げ、その場に座りこんだ。
昨夜はロクに眠れなかったからか、先ほどから眠気がこみ上げてきているのが嫌でも分かった。
壁に頭をを預け大きく息を吐く。そこそこ運動したからか、冷水を被った直後だというのに体は程好い熱を持ち、眠気を誘っている。
そういえば今日はまだ昼寝もしていなかったのだ。と霞がかった頭でそう思った。
息を吐きながらゆっくりと目を閉じていく。落ちていく意識の中で、
そういえばアイツはまだ生きているだろうか? と少しだけ気にかかった。
秀次の体から完全に力が抜け、頭の重さでズリズリと体が横に傾ぎ、倒れる。誰も居ない部屋の片隅で静かな寝息だけが微かに響いていた。