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[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (士郎×氷室)  【 完結 】
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2011/01/03 16:45
     【 はじめに 】


・このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、


  『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

   
 に触発され、書かれたものです。

・具体的には、『エンゲージを君と』第十七話以降のストーリーを、
 Nubewo様のご了承をいただき、中村成志が《独自に》書きました。

・したがって、『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。

・TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

・拙作からいきなり読み始めても、それなりに理解できるよう書くつもりですが、
 できればNubewo様作『エンゲージを君と』を読まれてから、目を通してください。

・設定は、出来る限り『エンゲージ~』に沿ったつもりですが、一部違ったり、変更したりしたところもあります。

・一例を挙げますと、『エンゲージ~』の魅力の一つである《魔術師としての衛宮士郎》を、描く予定はありません。
 (これは、主に中村の知識の無さによるものです)

・その他、間違い等がある場合、責任はすべて中村にあります。ご指摘ください。

・最後に、Nubewo様の手による正編『エンゲージを君と』の続編に期待し、
 併せて、このような無茶なお願いを、ご快諾いただいたNubewo様に、心よりお礼を申し上げます。

・それでは、どうぞお楽しみ下さい。


     中村成志


    --------------------------------------------------------


     【 ちょっとくだけた裏話 】


 士郎君と鐘ちゃんのイチャイチャが書きたかったからです。

 Nubewo様の作品には、
「続きはどうなるんだあ!」
と思わせる、吸引力があります。

 Fate登場人物ではセイバーに次いで氷室が好き、氷室を題材にしたSSも数本書いている私ですが、
 数ある(そんなに無いか)氷室SSの中でも、『エンゲージを君と』は、出色の出来だと思っています。

 何度も読み返し、わくわくしながら続きを待っているうちに、
「もし、自分がこの続きを書くとしたら、どうするだろう?」
という妄想にとらわれました。

 妄想で止めときゃいいんですが、書いてしまうのがSS書きの性、書いたら読んでもらいたいのがSS書きの業です。
 失礼は重々承知ながら、Nubewo様にお伺いを立てたところ、投稿を快く了承していただきました。

 Nubewo様、本当にありがとうございます。
 正編を汚さぬようがんばるとともに、正編『エンゲージを君と』十八話以降を、心待ちにしております。

 では、長い前書き(てゆーか言い訳)は、このへんで。
 どうぞ、ごゆっくり。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/23 08:29

     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (一)





「ん……」


 突然で済まないが。

 私は今、衛宮の腕に抱かれている。
 すっぽりと包み込まれ、唇にくちびるを押し当てられている。
 ようするに、その、口づけをしている。

 場所は、衛宮の家の、衛宮の部屋。
 晩秋のことであるから、もう少しすると辺りも薄暗くなってくる時刻だ。
 ほとんど何も無い、彼の部屋の真ん中で、私たちは口づけを交わしている。


 もちろん、これが初めてではない。
 衛宮士郎と氷室鐘は、おおっぴらにはしていないとは言え、男女の付き合いをしているのだから。
 しかし、数え切れないというわけでもない。

 指を折ってみると、これで六度目だ。
 初めは、誰もいない美術室で。
 触れ合ったか、触れあわないか分からないくらいの、ソフトキスだった。
 それから、幾度かのデートの最中に、または彼が私の家まで送ってくれたときの別れ際に、
 もちろん人影の無い時を見計らって、私たちは口づけを交わした。
 たいがいの恋人がそうだと思うのだが、交わすたびにそれは、深く、長くなっていった。

 しかし、今回ほど長く、深い口づけは初めてだ。
 やはり、戸外ではなく、誰に見られる心配のない部屋の中、という状況も大きいのだろう。
 彼の求めは、いつになく激しかった。


 衛宮の部屋に入るのは、これで二度目だ。
 最初は、初めてのデートの時。
 あのデートの末、私たちは『エンゲージ』を交わし、付き合い始めた。

 今日は、あのときと同様、彼が昼食をご馳走してくれるというので、衛宮邸にお邪魔した。
 正直、間桐嬢や藤村教諭と顔を合わせるのは気が重かったが、邸に着いてみれば全員が出払っていて、今回は二人きりの昼食を堪能することが出来た。
 その後、改めて屋敷内の案内をしてもらい、衛宮の部屋で談笑していたのだが……


「ん…う、……」
 彼の舌が、私の唇を割る。
 歯茎をなぞり、歯をこじ開け、舌を絡める。
 時折、上唇を甘噛みしてくる。
 それは、彼の性格を現すごとく、焦らず、ゆっくりと。
 こちらに負担をかけないよう、やさしく、丁寧に。

 しかし、それに答える余裕は、私には無い。
 蒔寺や美綴嬢から借りた書物によれば、こういう場合、女性もそれ相応の反応を示さなければならないらしいが、
 まるで木石のように、彼の行為を受けとめているだけだ。
 正直、意識を保ち、膝の震えを押さえるのが精一杯で、他のことにまで力を割く余裕など無い。

 時間の経過が、分からない。
 数分は過ぎたのか、それともまだ数十秒なのか。
 分かるのは、いつもより長いということ。そして、もっと続けばいいと思っている自分を見つけ、混乱しているということだけだ。

 彼の左手はしっかりと私を支え、右手はやさしく髪や背中を撫でている。
 その右手が、ふいに違う動きをした。
 ゆっくりと前に回ると、私の左の胸に……


「!!」


 瞬間。
 私は、彼のやさしい拘束から逃れ、飛び退いていた。


「……え?」
 しばらくして漏れた声は、彼ではなく、私からのものだった。
 今……私は、何をした?

 彼と私は、誰はばかることのない恋人同士。
 それも、たった今まであれほど熱い口づけを交わしていた仲なのだ。
 ならば、彼が次の段階に進むことなど、当たり前ではないか。
 私とて、そうなった時の覚悟はしていたつもりだし、もっと言えば、その、期待すらしていた。
 彼に、さらに愛されることを。
 なのに、私は……


 彼は、初め驚いていたようだが、今は頬を指で掻きながら照れ笑いを浮かべている。
「…衛宮、その……」
 ようやく、言葉を絞り出す。
「いや、いきなりで驚かせちゃったな。ゴメン」
 私の言葉に被せるように、彼は頭を下げる。いつものように、誠実に。

「い、いや!決して嫌だったというわけではないんだ。ただ、その、心の準備が…」
 心の準備など、とうに出来ていたはずだ。彼が彼である限り、私は彼の求めに応じられる。
「ちょ、ちょっとびっくりしただけだ。済まない。だから……」

 そこまで言って言葉が続かなくなった私は、飛び退いた分の距離を詰めて、再び彼の胸に体を預けた。

 でも。
 その距離は、自分が想像していた以上に離れていて。

 目をつむり、顎を上げる。先ほどと同じ姿勢だ。
 だが、顔がこわばり、眉が寄っているのが自分でも分かる。

 こわいのだ。
 彼の求めに応じられなかった自分を、彼はどう思ったか。
 自分が飛び退いた分だけ、彼と距離が出来てしまったのではないか。
 その証拠に、彼は先ほどのように、私に腕を回してくれない。
 もし、このまま……


     ふわり


 怯えに肩が震えだしたとき、先ほどと同じく、いやそれ以上にやさしく、何かが私を包んでくれた。
 そして、唇にあたたかくて湿ったものが触れる。
 それは、初めてのときと同じ、ソフトキス。
 目を開けると、変わらぬ彼の笑顔が、そこにあった。

「お互い、無理はやめよう」
 笑顔のまま、彼は言った。
 そして、私の両肩を掌で包むと、自分から畳に座った。
 必然的に、私も彼の前へ腰を下ろす。
「む、無理などしていない。私は、き、君とならば……」
 そう言いかけた私に、彼はゆっくりと首を振った。

「いや、無理をしてるんだ。
 俺も最近分かりかけてきたけど、どうも、頭の覚悟と心の覚悟って、必ずしも一致しないらしい。
 自分では準備万端のつもりでも、いざその時になると慌てふためく、っていう事ってけっこうあるんだ。」
 彼は、私の目を見ている。薄暗くなった部屋の中でも、その光はしっかりと見て取れた。

「氷室が俺を好きでいてくれるのは、飛び上がりたくなるほど嬉しい。
 でもそれって、こういった心の準備とは、別のことなんだ。
 俺も男だからな。正直言って、氷室をもっと抱きしめたい、体を触りたいっていう欲望はすごくある。
 でもそれは、俺だけが突っ走っても意味がないんだよ。
 そんなことしても氷室が傷つくだけだし、俺にしたって、その場限りの満足は得られるだろうけど、後で後悔するのは分かりきってる。」

 いつもの笑顔のまま、彼は続ける。
「俺が氷室のことを好きで、氷室も俺のことを好きでいてくれるんなら、頭と心の準備が一つになるときは、きっと来る。
 それを待つ時間くらいは、俺たちにはあるんじゃないか?」
 そして、座ったまま私を抱き寄せると、またやさしく口づけをしてくれた。
 先ほどと同じフソフトキス。
 でも、今度は初めに負けないくらい、長い間。


「……すまない」
 ようやく、言葉が出た。
「なんで氷室があやまるのさ?」
 私は衛宮の胸に顔を埋め、彼はずっと髪を撫で続けてくれた。




    --------------------------------------------------------


 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/23 08:29


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二)





 腕時計を見ると、もうそろそろ帰らなければならない時刻になっていた。
「夕飯も食べていったらどうだ?」
 という彼の提案は非常に魅力的だったが、今晩は父が早く帰ってくる。

 冬木市長という要職にある父は、当然ながらあまりプライベートな時間が取れない。
 だから、その数少ない時間くらいは、家族みんなで過ごしたかった。

 彼と父を天秤にかけるようで申し訳なかったのだが、
「なんだ、それなら早く帰らないと」
 と、衛宮は当然のように言ってくれた。
 そして、腰を浮かしかけたとき、


     ちりりん


 玄関の方から、チャイムらしき音が鳴った。
 続いて、扉の引き開けられる音。

「あら?鍵が……
 先輩、もう帰ってらっしゃるん……」
 それから聞こえてきたのは、間桐桜嬢の声。なぜか、言いさしのまま絶句している、
「桜ちゃん、どうしたの?」
「シロウ、帰ってきてるの?あれ、この靴…?」
 藤村教諭の声と、初めて聞く少女らしき声が続く。


 靴……
 あ、私の靴は、当然玄関に…


 しばらく、無音。
 そして、幾人かが家に上がり、廊下を歩む足音。
 その足音はだんだん近づき、私たちがいる部屋の前で止まった。

「……先輩。帰ってらっしゃるんですか?」
 平板な声が、ふすまの向こうから聞こえる。
「あ、ああ。桜、おかえり。藤ねえやイリヤもいっしょか?」
 彼が答える。
 その声は、若干焦っているようにも、戸惑っているようにも聞こえる。
 普段の彼なら、ためらわずに立ち上がり、ふすまを開けているのだろうが、
 そうしないのは、横にいる私の存在のせいか、間桐嬢の声の冷たさゆえか。

「すみません先輩。ちょっとお邪魔してよろしいですか?」
 このふすまを開けて良いか、と間桐嬢が問うてくる。
「あ、いや…うん……」

 彼はふすまと、私の顔を交互に見比べている。
 この雰囲気の中、私と間桐嬢が顔を合わせることに躊躇しているらしい。
 彼らしい気遣いだ。
 もっとも、この空気の理由にまで思い当たっているかどうかは疑問だが。

「私ならかまわないぞ、衛宮」
 だから、彼を安心させるため、にっこり笑って私は言った。
 若干、声が大きく、明るすぎるくらいに響いてしまったが。


「!―――」
 ふすまの向こうで一瞬、何かが震える気配がする。
 それから

「―――失礼します」
 彼の返事を待たずに、ふすまが開かれた。
 その向こうにいたのは、無表情の間桐桜嬢。
 後ろには藤村教諭と、美しい銀髪の少女が立っている。

 三人は私たちを、いや、私を見ても何も言わなかった。
 特に間桐嬢は、不自然なくらい表情を消し、ただこちらを眺めている。


 奇妙な間。


 その沈黙を破ったのは、彼だった。
「あ、ああ。氷室にちょっと昼をごちそうしたくてな。上がってもらってたんだ。
桜たちもいるかと思ってたんだけど…」
「こんにちは、間桐さん。お邪魔している」
 彼の言葉に被せるように、私は笑って言った。
 それにより、間桐嬢の雰囲気がますます堅くなった、ような気がした。

 もうすぐ夕暮れの時刻に、電気もつけていない個室にいる男女。
 さすがに今は抱かれたり寄り添ったりなどしていないが、手を伸ばさずとも触れそうな距離で、隣り合って座っている。
 それが何を意味するのかは、子どもでも分かるだろう。


 彼女の気持ちは、私には痛いほど理解できる。
 なればこそ、ここで引くわけにはいかない。
 ここで引いたら、あれほどの思いをして手に入れたものを失ってしまう、と
 私は理屈でなく理解していた。


 私の微笑みと、間桐嬢の無表情。
 沈黙はどれほど続いたのか。

 ふいに、間桐嬢は何も言わず、何の予備動作もせず、その場を離れた。
「え、おい、桜?」
 困惑した彼の声にも反応せず、彼女は屋敷の奥へと去っていく。
 立ち上がって追おうとした彼の前に、銀髪の少女が立ちふさがるように動いた。


「イリヤ?」
 ますます戸惑う彼には答えず、イリヤと呼ばれた少女は、真っ直ぐ私を見ていた。
 イリヤ……ああ、以前、衛宮との話に出た…

 紅い瞳、抜けるような白い肌、雪を思わせる銀の髪。
 おそらく十歳をいくつも越えていないだろうその少女の、
 なんと美しく、また無機質な表情か。
 先ほどの間桐嬢の無表情とも違う。
 まるで、機械か骨董品を品定めするような目つきで私を見つめてくる。

 さすがに気まずくなり、私も立ち上がって、彼の隣に立った。
「あの、初めてお目に……」
「あなたがヒムロ?」
 お目にかかる、と挨拶しようとした私の言葉を無視して、イリヤという少女は発言した。
 それは、私の首からぶら下がっている見えないネームプレートを読むかのような口調だった。

「……」
 絶句している私の隣で、彼が取りなすように言葉をかける。
「あ、ああ、二人は初めてだったか。
 氷室、前に話したよな。この子がイリヤで、俺の義理の妹なんだ。今は藤ねえ…藤村先生の家に泊まってる。
 イリヤ、この人は……」
「知ってるわ。もう見たし」
 氷のような声で少女は言うと、もう一度私をあの目で一瞥した後、興味を失ったように背を向けた。
 そのまま、居間へと入っていく。

「な!おい、イリヤ!?」
 さすがに彼が、咎めを含んだ声を上げ、彼女を追いかけようとする。
 それを再度、やんわりと立ちふさがるように、藤村教諭がさえぎった。


「ふ、藤ねえ、ちょっと……」
 どいてくれ、と続けようとする彼に、教諭は微笑みながら首を振った。
「……」
 二人の付き合いは長く深いという。それだけで何か通じるものがあったのだろう。
 彼は、納得いかない表情ながらも、黙った。

「こんにちは、氷室さん」
 ひまわりのような笑顔を、教諭が私に向けてくる。でも、
「あ、お、お邪魔しています、藤村先生」
「そっか。噂は本当だったんだね。
 士郎もやるわねー。こんなかわいい子をゲットしちゃうなんて」
 その笑顔は、学園で見るときより、少しだけ寂しげに見えて。

「う、うわさって、藤ねえ…」
「んー?知らないとでも思った?お姉ちゃんの情報網をなめちゃいけないわよ。
 士郎がしあわせそうだったから、あえて口を出さなかったけどね。
 氷室さん、この子、頑固できかん坊だけど、根はとってもいい子だから、見捨てないであげてね」
「あ、いえ、私の方こそ……」
 あわてて頭を下げる。
 そろそろ噂になっていると知ってはいたが、藤村教諭の耳にまで入っているとは思わなかった。

「で、今日はどうするの?晩ご飯もいっしょに食べてく?」
「あ、いや。彼女、予定があるそうなんだ。これから家まで送っていくよ」
「そう。今日はそのほうがいいわね。
 じゃ、士郎、しっかりと送ってあげるのよ。氷室さんも、また来てね」
 そう言うと藤村教諭は、すっと横に寄って道を開けた。
「はい。失礼します、藤村先生」
 私は、もう一度頭を下げた。


『今日はそのほうがいいわね』


 教諭の言葉が、胸に刺さるのを感じながら。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/23 21:05



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三)





「……ゴメンな。二人とも、いつもはあんなじゃないんだけど」
 坂を下りながら、彼が頭を下げてくる。
 街はだいぶ暗くなっていたが、西の空はまだ幾分、明るさを残していた。

 二人、とは間桐嬢とイリヤという少女のことだろう。
「気にしないでくれ。
 以前、君の家にお邪魔したときも言ったが、状況は君よりも理解しているつもりだ」
 本当にすまなそうな顔をしている彼に、私は答える。

 もちろん、人にあんな態度をとられて傷つかないわけがない。
 だが、それはある意味、当然のこととも言えるのだ。
 私が彼を好きになり、彼のそばにいる限りは。

 しかし、彼はその当然の理由に、全く気付いていないらしい。
 今も、私の言葉に不思議そうに首を傾げている。
 それが、衛宮士郎の長所の一つでもあるのだが……

 私の吐くため息を、どんな風にとったのか、彼は続けた。
「とにかくさ、これに懲りてなかったら、また来てくれよ。
 そのときは二人の機嫌も直ってるだろうし、みんなで夕飯でも食おう」
「……そうだな。ぜひまたお邪魔しよう」
 そんな晩餐が開かれることは無いだろう、と内心思いながら、私は話を合わせた。


 坂を下りきり、新都大橋にさしかかる。
 お互い、ポツリポツリと話すものの、会話は弾まない。

 もともと、私も衛宮もおしゃべりというタイプではないので、二人でいる時も多くを話すわけではない。
 寄り添って歩き、たまに手をつないだり腕を組んだりして、視線を交わし、微笑みあう。
 それで充分、満たされる。
 しかし今日は、そういった沈黙とも違う雰囲気が漂っていた。

 原因が私にあるのは分かっている。
 彼は、先ほどの間桐嬢やイリヤ嬢とのやりとりのせいだと思っているようで、口には出さずとも気を遣ってくれている。

 しかし、そうではないのだ。
 そのことについて、気にしていないと言ったら嘘になるが、仕方がないと割り切ってもいる。
 気にしているのは、別のこと。
 彼に対する、私の立ち位置についてだ。


 先ほどのやりとりの中で、彼は間桐嬢に対し、
『桜、おかえり』
 と言っていた。
 藤村教諭やイリヤ嬢も、ごく自然にあの屋敷に馴染んでいた。

 そして、彼への呼びかけ。
 教諭やイリヤ嬢、あの場にはいなかったが遠坂凛嬢も、彼のことを
『士郎』『シロウ』
 と呼んでいた。
 間桐嬢は彼を
『先輩』
 と呼んでいたが、それは私に対する『氷室先輩』などとは明らかに違う、親しみのこもった響きだった。
 それに対し、彼もごく自然な愛情で、彼女たちに答えていた。

 つまり、彼にとって彼女たちは《家族》なのだ。
 気兼ねなくくつろげ、笑いあえる関係なのだ。


 浅ましいことを考えている、と自分でも思う。
 要するに、私は彼女たちに嫉妬しているのだ。
 《衛宮士郎の恋人》という、自他共に認める立場をもらいながら、未だ他人でしかない自分に苛立っているのだ。

「なあ、……衛宮」
「ん?」
「……なんでもない」

 このやりとりも、何度目だろう。
 望んで、ねだって、それで与えられるものではないことは知っている。
 そもそも、何をもって《家族》と呼ぶのか、自分をどう扱って欲しいのか、それさえ自分で分からない。
 焦らなくとも良いではないか。
 今の関係を進めていけば、いずれ自然と彼の《家族》になれるはずだ。

 だが、私の心は満足してくれない。
 至高の物を手に入れたはずなのに、さらなる輝きを、幸せを欲している。それも今すぐ。なんて浅ましい女。
 でも、せめて、その入口へと続くものだけでも……
 つないだ手に力が入り、彼は不思議そうにこちらを見た。


 新都大橋を渡りきり、私の家があるマンションに着く。
「送ってくれてありがとう。……衛宮」
「こっちこそ、今日はドタバタしてごめんな、氷室」
「今度、機会があれば私の家にも上がってくれ……衛宮。
 父にも、改めて会って欲しい」
「そうだな。前に変な形でお会いしたっきりだからな。よろしくって伝えてくれ」

 ずるずると別れを引き延ばす。
 いつもならば、短くも情のこもった挨拶をして別れるのに、今日は、たった一言が言えないために、他愛ない言葉ばかり接いでいる。


「じゃあ、ちょっと早いけど、おやすみ氷室。明日また学校でな」
「ああ、お休み士郎。また明日」
 私の言葉に、彼はいつもの笑顔を見せながら、手を振って去っていく。

 ……その時、きっと私は泣きそうな顔をしていたに違いない。

 そして、交差点を曲がる直前、彼は


     ぴたり


と止まり、そのまま動かなくなった。
 5秒。10秒。
 時が止まったように硬直したあと、彼はいきなり振り向いて、全速力で駆け戻ってきた。

「なっ、ひ、氷室、いま、な、んて…!?」
「あ、ああいや、『お休み』と……」
 彼のあまりの勢いに、少々のけ反る。
「い、いやそれは聞こえたけど、そのあと!その、し、し…」
「……士郎?」
「―――!!!……!!」

 目をまん丸にし、口をぱくぱくさせ、無意味に手を振り回す士郎。
 ……これは……彼には悪いが、けっこう、おもしろいかもしれない……


「え、い、いや、その…な、なんで!?」
「……ダメか?」
 うつむきながら、上目遣いで訊いてみる。

 そう、これが私の第一歩。
 彼の《家族》が、彼のことを『士郎』『シロウ』と呼ぶのなら。
 私にもそう呼ぶ権利を与えてくれても良いのではないか。


 ありったけの勇気を振り絞った問いに、彼はぶんぶん首を振って答えてくれた。
「だ、ダメなんてことあるわけない!!
 ただ、ちょっと、その、不意打ちだったもんで……」
 あさっての方向を向いて、彼が頭を掻く。その顔は、夜目にも分かるくらい真っ赤だ。
 ……まあ、この頬の熱さからして、私の顔色も似たようなものなのだろうが。

「ならば……これからは、そう呼んでも良いか?その…士郎」
「あ、ああ。かまわない。…って言うか、正直言って、すごく嬉しい。……鐘」
「え?」


 瞬間。
 思考が止まった。
 彼は今、何と言った?

「その…そっちが俺のこと名前で呼んで、俺が氷室って言うのもヘンだろ?
 だから……鐘、でいいか?」

 ……誤算。
 私が彼のことをファーストネームで呼ぶのならば、その逆のことも当然考えるべきだったのだ。
 なのに、その可能性はきれいさっぱり、頭から抜け落ちていた。
 先ほどとは比べものにならないくらい顔が、いや、全身が熱くなる。


 しかし、彼は答を待っている。なんでもいいから、しゃべらなければ。
「も、もちろん、私だけが名前で呼ぶのは不公平だ。だ、から、私のことも、それで、いい……士郎」
「あ、ああ。じゃあ、……鐘…」
「士郎……」
「……」
「……」

 どこの、数十年前ラブコメマンガだ、と心の隅で冷静な突っ込みが入る。
 しかし、そんな囁きにも反応出来ないほど、私の頭は茹だっている。
 混乱し、恥ずかしくて……そして、例えようもなく、嬉しい。
 いつの間にか、私は真っ赤になりながら、満面の笑みを浮かべていた。


 お見合いのまま、何分が過ぎただろう。
 脇をゆっくりと過ぎる車のヘッドライトで、私たちはようやく我に返った。
「あ……じゃ、じゃあ、改めて、お休み、鐘。また明日、学校でな」
「……ああ、お休み、士郎。また明日」
 手を振って、今度こそ彼は去っていく。
 交差点を曲がるまで、振り向く回数がいつもより多かったのは、私の気のせいではないだろう。

「―――」
 息をついて、空を見上げる。
 新都の夜空は明るすぎて、星はあまり見えない。


「―― 士郎。」


 何度か、言葉の響きを舌に転がす。
 顔に浮かぶ笑みが消えない。消す気も無い。
 私は、無意味にハンドバッグを胸に抱え、
 マンションのエレベーターホールへと足を運んだ。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
    http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/24 20:11



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四)





「―――」
 息をついて、空を見上げる。
 深山町まで帰ると、夜空には星も多くなってくる。


「―― 鐘、か」
 何度目だろう、言葉の響きを舌に転がす。


 若い女の子にしては、地味というか渋い名前だな、とは思う。
 しかしこの響きは、一見老成しているが、清々しい少女そのもののあの娘に、とても似合っていた。
 そう言えば本人も、この名前を気に入っているって言ってたっけ。

『歳をとってから本領を発揮する名前なんて、気が利いているだろう』
 いかにも彼女らしい感想に、思い出し笑いをする。


 そんな物思いにふけりながら歩いてきたので、帰宅したのはけっこう遅い時間だった。
 みんなもう、夕飯は済ませただろうか。
「ただいまー」
 玄関を開けると、
「あ…おかえり」
 居間から、藤ねえの声。
 あれ?いつもなら桜やイリヤも、元気よく迎えてくれるんだけど。

 靴を脱いで居間に向かうと、藤ねえがぼんやりと座ってお茶を飲んでいた。
「藤ねえ、ひとりか?夕飯は?」
「あ、うん…みんなまだいるよ。ごはんはまだだけど」
「まだ?」

 おかしい。
 仮に俺が帰るのを待っていてくれたにしても、この時間なら夕食の準備くらいはしてありそうなものだ。
 だが、台所は使われた気配もない。
 今日の当番は……桜か。

「桜は?」
「え……うん…」
 どうも今日は、藤ねえまでおかしい。体調が悪いのかとも思ったが、顔色を見る限りそういうことでもなさそうだ。
 桜にしても、様子がおかしかったとは言え、夕飯の当番をすっぽかすほどには見えなかったのだが……


「まあいいや。なら、腹減ったろ。着替えたら、なんか作るから」
「あ、士郎…」
「ん?」
「……ううん、お姉ちゃんが口出すことじゃないね」
 そう言って、藤ねえは微笑んだ。

「?」
 その笑いに含まれた寂しげな影が気になったが、夕飯を食べながらでも話は聞けるだろう。
 とりあえず着替えよう。

 廊下へ出て、自室へ向かおうとすると、
「――桜?」
 離れの方から、桜が歩いてきた。
 大きな、ボストンバッグを抱えて。


「どうした桜?その荷物…」
 まるで、一週間の海外旅行にでも出かけるような大荷物だ。
 それに、外出着を着てコートまで羽織っている。
「どっか行くのか?こんな時間に?」
「……うちに帰ります」
 桜は、俺と目を合わさずに、言った。
「うち、って…間桐の屋敷か?」

 あそこには今、誰もいないはずだ。
 桜の兄の慎二は、半年前の聖杯戦争以来、行方不明という扱いになっている。
 他にお祖父さんがいたという話も聞いたが、その人も行方が分からないらしい。
 そんな所へ、こんな時間に大荷物抱えて、いったい何を……

「今日じゃないとダメなのか?もう遅いし、外はけっこう寒いぞ。明日にしたら……」
 やはり桜は前を向かず、黙っている。
「どうしても急な用なら、送ってくよ。その荷物、持つの大変だろ」
 そう言って、荷物を受けとろうと手を差し出したが、桜は動かなかった。
 代わりに、何かを思いきるように顔を上げて、


「先輩、長い間お世話になりました。お体を大切にして、幸せに暮らしてください」
「……え?」
「使わせていただいたお部屋は、できるだけ片付けました。
 少し私物が残っていますが、申し訳ありませんけど、適当に処分してください」

 何を、言っている?

「……待て、桜。どういうことだ?」
「ですから、うちに帰るんです。
 これまで先輩のご好意に甘えてきましたけど、私にはそんな資格なんて無いって、ようやく気付いたんです」
「資格…って、なんだ?
 いったい何を……」
「私なんかがこの家に通うことを許してくださって、本当に感謝してます。でも、ご迷惑をかけるのはもう止めたいんです。
 今まで、色々とお邪魔してすみませんでした」
「だから!さっきから何を言ってるんだ!?俺がいつ、桜を邪魔者扱いした!?
 俺と桜は家族で……!」
「私には家族なんていません!!」


 思わず声を荒げた俺に、それに倍する音量で桜は叫んだ。
「……」
 そして、横を向きながらうつむく。

「私の…私の家族は、兄さんとお爺さまだけです。
 その兄さんも、半年前……から行方不明で、お爺さまだって……
 …でも、もう誰もいなくても、あそこが私の家なんです。あそこだけが、私の帰れる場所なんです」
 うつむいた桜の目は、髪に隠れて見えない。

「……先輩。
 先輩と私は、ただの上級生と下級生です。
 それだけの間柄なのに、甘えたり、余計な事したりしてごめんなさい。
 もうここには来ませんから、安心してください。それじゃ」
 そして、俺の脇をすり抜けようとする桜の前に、俺は体ごと立ちふさがった。


「……どいてください」
「どけるわけないだろう」
 相変わらず目を合わせようとしない桜を、俺はまっすぐ見下ろした。

「理由を聞かせてくれ、桜」
「……理由なら、今、言いました」
「あんな訳の分からない理由なんて、理由になってない。
 いったいどうしたんだ、桜。
 お前がこの家を嫌いになったって言うんなら、しかたがない。
 でも、仮にも二年間、俺たちは家族だったじゃないか。少なくとも俺はそう思ってきたし、今でもそうだ。
 それを、理由も分からずにいきなり終わりにするって言われても、納得なんてできない」
 そのまま桜からの言葉を待つが、返事は無い。


「…ひょっとして、鐘……氷室のことか?」
 まさかとは思うが、他に理由が思い当たらない。
 思い返してみれば、夕方、鐘と会ったときから桜の様子はおかしかった。
 現に今、《鐘》という言葉を聞いたとたん、肩を大きく震わせた。

「桜に無断で、氷室を家に上げた事を怒ってるんなら、謝る。
 確かに、家族に無断で、あまり知らない人間を招くのは、無神経だった」
 桜は、まるで時が止まったかのように身動きしない。
「でも氷室も、見た目はクールで取っつきにくいけれど、中身はとってもいいヤツなんだ。
 あまり嫌わないで、仲良くしてやってくれないか」
 再び、桜が大きく震える。

 ……以前、鐘と何かあったのだろうか。この拒否反応は尋常じゃない。
「もし、どうしても無理だって言うんなら、無理強いはしない。
 今後、氷室をこの家に招くのも控える。
 だから……」
「本気でそんなこと言ってるの?」


「え?」
 すぐ近くから聞こえた第三者の声に振り返ると、俺の横にイリヤが立っていた。





    ----------------------------------------------------------



このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/25 21:11



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五)





「私には関係ないし、見てておもしろかったから、今まで傍観してたけど。
 シロウがあんまり馬鹿なこと言うもんだから、おもしろいの通り越して腹が立ってきたわ。
 もう一度訊くわ、シロウ。
 本当に、本気でそんなこと言ってるの?」
 イリヤは俺を、真っ直ぐに見上げてくる。

「……知ってるのかイリヤ?理由を…?」
 俺がそう言うと、イリヤは深いため息をつき、
 続いて、笑った。
 その笑みは、いつもの無邪気で小悪魔的な微笑みではなく。


「本当に気付いてないとしたら、あなたは真の意味での馬鹿だわ。
 もし、分かってて気付いてないふりをしているのなら、最低の屑男ね」

 冷酷と嘲弄。
 初めて出会ったころによく見た表情。
 《マスター イリヤスフィール・フォン・アインツベルン》の笑顔だった。


「シロウ。あなた、なぜサクラが二年間もここに通ってたと思ってるの?」
 なぜ、って……

 きっかけは、俺のケガだった。
 そのころ、桜とは知りあったばかりだったけど、なぜか桜は一人暮らしの俺を気遣って、家事の手伝いを申し出てくれた。
 大丈夫だと何度も言ったのだが、
『兄さんからも言われましたから』
 と、おどおどした表情ながらも、決して引こうとしなかった。
 ケガが治ってからも、この家が気に入ったのか、ほとんど毎日来てくれて、
 来るたびに桜は明るく、綺麗になっていって……


 イリヤは、そんな俺の言葉を フッ と鼻で笑った。
「年ごろの女の子が、たとえ誰に命令されたとしても、一人暮らしの男の家に二年間も通うと思う?」
「……え?」

「それだけじゃないわ。
 朝は家主が起きる前から来て、家事全般をこなして、朝夕の食事どころかお弁当まで作って。
 最後の半年間なんて、いっしょに住んでたのよ?
 それをあなた、全部《家族》なんて言葉で片付けるつもり?」

「イリヤさん!!」
 桜が、蒼白になって叫ぶ。
 しかしイリヤは、桜などいないかのように言葉を接いだ。

「それほどまでして尽くしたのに、当の男は全然気付かずに、どっから沸いて出たのか分からない女のコとくっついて。
 そのコがどっかに消えて、やれやれと思ってたら、半年経たないうちに別の女作って、自分の部屋に引っぱり込んでるんですものね。
 いくらサクラが温厚だからって、さすがにキレるわよ」

 普段の彼女からは想像も出来ない、口汚い言葉の羅列。
 しかし、その口調には、

「しかも何?
 挙げ句の果てに、その女と仲良くしろ、ですって?
 シロウ、私がサクラなら、とっくにあなたのこと殺してるわよ。
 いいえ、どんな女性でも、あなたのこと刺したくなるはずだわ。
 出て行くぐらいで済ませてくれる、サクラの優しさに感謝するのね」

 冷笑と嘲弄でも隠せない、紛れもない怒りが籠もっていた。


 言葉が、出ない。
 桜が……俺を…?

 思わず桜の方を見ると、彼女は唇を噛み、必死で全身の震えを抑えていた。

 桜……

 無意識に、声をかけようとして、


「片手落ちなんじゃない?イリヤ」
 また、別の声に遮られた。
 見ると、いつの間に帰ってきていたのか、遠坂が桜の背後に立っていた。

「なあに、リン?異論でもあるの?」
 イリヤの言葉に、遠坂は肩をすくめた。
「まさか。
 こいつの馬鹿さ加減については、100%同意見だわ。
 私が言ってるのは、桜の方よ。この子のことについても言わないと、片手落ちだってこと」
 そして、今のイリヤそっくりの笑みを浮かべて、髪を掻き上げる。


「姉……遠坂先輩…」
「桜。
 今、イリヤがあんたのこと盛大に弁護してくれたけど、私に言わせれば、あんたも士郎と五十歩百歩よ。
 二年間もここに通ってて、どう振る舞えば、士郎に気付かれずに済ませられるのかしら?
 私にはそっちの方がよっぽど不思議だわ」
 そして歩を進め、桜の隣に立つ。

「この際、この馬鹿の鈍感さは、言い訳にはならないわよ。
 現に、氷室さんは気付かせた。
 コイツと氷室さんが、いつごろから接触してたのか、詳しいことは知らないけれど、この秋以降なのは確かよ。
 その一ヶ月にも満たない期間で、彼女はコイツを振り向かせた。
 この馬鹿に気付かせるくらいですもの。きっと、10回は死ねるくらいの勇気を振り絞ったんでしょうね。
 それに比べて桜、あんたはこの二年間、何やってたの?」

 桜は一瞬、遠坂を睨み、何か言おうとしたが、すぐに力無く視線を外した。

「まあ、だいたい想像はつくわ。
 衛宮くんのそばにいると、あったかいのは事実だものね。
 おまけに、ことあるごとに家族だ妹だって、ちやほやしてくれるんだもの。
 いったん浸かったぬるま湯からは、出たくないわよねえ?」

 遠坂の叱責は、桜だけでなく、俺にも向けられている。

「イリヤは士郎に、あんたの想いを《家族》なんて言葉で片付けた、って言ってたけど、
 あんたの方こそ、その《家族》って言葉にどっぷりと浸かってたんじゃないの?」

 棘を隠そうともしない声が、なぜか真摯に響く。


「まあ、家族ごっこに飽きて出て行くっていうんなら、私は止めないけど。
 それにしても、うまいこと考えたもんよね。最高のタイミングだわ」
「「え……?」」
 桜と俺の声が重なる。

「だってそうじゃない。
 さっき藤村先生に聞いたけど、氷室さんが帰ったのって夕方なんでしょう?
 それが許せなくて出てくんなら、さっさと出て行けばいいじゃない。
 それを、士郎が帰ってくるまで何時間も待ってて、玄関で音がしたところで部屋を出る。
 当然、二人は廊下で鉢合わせ。
 振った男に対する、とびっきりの嫌がらせだわ」
「遠坂先輩!」

「あら、違った?じゃあ、こっちのほうかしら。
 廊下で会った士郎に、帰る帰るとだだをこねて、惚れた男の気を引く。
 やさしいやさしい衛宮くんは、当然、桜のことを放っておけずに引き止める。
 さんざん焦らしたあげくに、しぶしぶ残る形を取れば、この家は出て行かなくて済む上、あわよくば愛しの衛宮くんのハートを奪い返せるかも……」
「遠坂、お前!!」

 いくらなんでも、言って良いことと悪いことがある。
 そう思って、思わず声を荒げたが、

「黙ってなさい。今のアンタには発言権なんて無いことぐらい、自覚しなさい」
 氷のような視線で返された。


「リン、シロウの言うとおり、言い過ぎよ。いくら本当のことでも、言っちゃいけないことだってあるわ」

 一見、楽しそうに談笑する二人。しかし、

「イリヤにだけは言われたくないけどね。先に禁句全開で士郎のこと嬲ってたのは、あんたじゃない」

 その姿が、切ないほど痛々しく感じるのはなぜだろう。


「二人とも、そのへんにしておきなさい」
 後ろを振り返ると、居間の入口から藤ねえが出てくるところだった。

「イリヤちゃんも遠坂さんも、やさしいのは分かるけれど、これ以上は非難中傷になるわ。
 士郎にも桜ちゃんにも、あなたたちの心は伝わったはずよ」

 藤ねえは、暖かい微笑を浮かべながら、イリヤと遠坂を交互に見つめた。
 二人とも、少し頬を赤くして黙り込む。
 そんな二人を見てうなずいた藤ねえは、桜の前に立った。


「桜ちゃん、今日はもう遅いから。
 ここにいたくないって言うんなら、私の家に行きましょう?
 誰もいないおうちに帰るのは、やっぱり良くないと思うの」
 桜は、うつむいたまま動かない。が、

「ね?」
 藤ねえが、もう一度やさしく言って、促すように肩を抱くと、抵抗もせずに歩き始めた。

 藤ねえはうなずき、また微笑んで
「イリヤちゃんも、いいわね?」
「そうね。言いたいこと言って、気も晴れたし。
 代わりにお腹空いちゃった。タイガの家でご飯食べようっと」

 そう言うとイリヤは、俺に一瞥も与えずに、玄関の方へ走っていった。
 俺の横を、桜が通り過ぎる。やはり、俺の方を見ない。
 桜の肩を抱いた藤ねえは、すれ違いざま、心配そうに俺を見たが、結局何も言わなかった。


 どれくらい、廊下の真ん中に立っていただろう。
 ふと顔を上げると、遠坂が感情の読めない目で、こちらを見ていた。

「……」
 しばらく遠坂は、観察するように俺を見つめた後、
 やはり何も言わないで踵を返し、離れの自室へと去っていった。



 あとには、俺だけが残った。
 誰からも、声をかけられないまま。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/27 20:52



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (六)





 気がついたら、縁側に座って庭を眺めていた。
 上着を着ているので寒くはないが、別にわざわざ着たわけではない。
 家に帰ってから今まで、上着を脱ぐという行為に頭が回らなかっただけだ。
 空を見上げると、闇はますます濃く、星は数を増している。

 さっきの桜たちとのやりとりを反すうしてみる。
 いや、反すうできるほど、頭の中は整理されていない。
 会話の一つひとつ、そのまた断片だけが、ランダムに浮きあがってくる。


(本当に気付いてないとしたら、あなたは真の意味での馬鹿だわ。
 もし、分かってて気付いてないふりをしているのなら、最低の屑男ね)

 桜が、俺のことを……
 しかも、ここに通い始めたときから、二年間もずっと。
 だが、言われてみれば、思い当たる節はいくらでもある。


 この家に来て、どうしても手伝いをすると言った、あの必死のまなざし。
 初めておにぎりを作り、それを交換したとき、やっと見せた笑顔。
 朝、土蔵で眠ってしまった俺を起こしてくれた、やさしい微笑み。
 聖杯戦争中、遠坂と共同生活することを告げた時の、あの決然とした態度。

(先輩、ボタン取れてましたから)
(先輩、お味噌汁のお味、これでどうでしょう?)
(先輩、無理しすぎです。体こわしちゃいますよ)
(先輩、これからも私に、たくさん色々教えてくださいね)

     先輩……先輩……先輩……


 これだけ溢れるほどに向けられた好意に、全く気づけなかった俺は、
 イリヤの言うとおり、《真の意味での馬鹿》なんだろう。


 ……いや。
 本当にそうか?
 俺は、心の底では、桜の気持ちにとっくに気づいてたんじゃないか?

 さっき、俺自身が言っていた。

(ケガが治ってからもほとんど毎日来てくれて、来るたびに桜は明るく、綺麗になっていって……)

 そう、どんどん明るく綺麗になっていく桜を、俺はまぶしい気持ちで眺めていた。
 笑顔を向けられ、胸が高鳴ったことも、二度や三度じゃない。
 そのたびに俺は、桜は家族だ、大事な妹なんだ、と自分に言い聞かせてきた。
 それはなぜだ?


(あんたの方こそ、その《家族》って言葉にどっぷりと浸かってたんじゃないの?)
(いったん浸かったぬるま湯からは、出たくないわよねえ?)

 遠坂の言葉がよみがえる。
 俺は、この平穏を壊したくなかったんじゃないのか。
 桜の気持ちを認め、それについて答を出すことによって、
 《ぬるま湯》が冷めて、または熱くなってしまうのを、怖れていたんじゃないか?
 たとえ無意識にでも、《家族》という言葉を盾にして、気付かないふりをしていたのなら……


(私には家族なんていません!!)

 桜の叫びが、頭に響く。


「俺は、《真の馬鹿で最低屑男》、ってことか」

 的確すぎて、自嘲の笑みさえ漏れない。


 もうひとつ、ショックだったことがある。
 遠坂の言葉。

(現に、氷室さんは気付かせた。
この馬鹿に気付かせるくらいですもの。きっと、10回は死ねるくらいの勇気を振り絞ったんでしょうね。)


 そうだ。
 付き合い始める前、いっしょに下校するようになって数週間。
 俺は鐘から寄せられる好意に、全く気付けなかった。

 最後の最後、
 新都大橋のたもとで、鐘が心と体をぶつけてきてくれたから、俺もそれに答えることが出来たが、
 そうでなければ、彼女との関係はそれっきりになっていたはずだ。

 俺の中では、日常によくある、ちょっとした刺激として片付けられ、
 今、最も愛しく想っている女性を永遠に手放す、いや、手に入れることを考えもせずに……


 殺意を覚える。
 自分の、馬鹿さ加減にだ。
 遠坂の言うとおり、鐘は《10回は死ねるくらいの勇気》を振り絞ったんだろう。
 桜にしても同じだ。この二年間、どんな気持ちで俺に接していたのか。


 『正義の味方』が聞いて呆れる。
 最も身近な、大切な人たちが、そんな思いをしているのに全く気付かず、あるいは見て見ぬふりをして……


     ぼーん


 居間の柱時計が、一回だけ鳴る。
 見ると、針は11時半を指していた。

 ああ、もうすぐ鍛錬の時間だな、と思って、それから苦笑した。
 この状況でも、日課の方に頭が行くかという自嘲。
 ここに座ってから、時計なんか何度も鳴っているだろうに、この一回にだけ反応した自分が、妙におかしい。

 しかし、とりあえず土蔵には行こう。
 混乱したこの頭で、何時間考えても結論は出ないだろうし、精神集中をして気分を切り替えてから……


「今やったら、死ぬわよ」


 腰を浮かしかけた俺に、声がかかった。
 声の方向を見ると、庭の隅に遠坂が立っていた。
 いつもの真紅の服は、闇にまぎれて若干黒ずんで見える。


「そんな状態で魔術行使なんかしてご覧なさい。
 魔力の暴走、制御の失敗、フィードバックに体は耐えきれず、神経と魔術回路はズタズタ、あっという間にあの世行きだわ」
「……」

 遠坂の言うとおりだ。
 魔術の行使には、最大限の注意と精神集中が伴う。
 それを欠いたまま行ったとすれば、術者に待っているのは《死》あるのみだ。
 そんな、初歩の初歩すら忘れてしまうくらい、俺は混乱していたらしい。

「まあ、私は別にいいんだけど。
 でも、あなたにはもう、泣いてくれる人が出来たんでしょう?
 それに、《あの子》のためにも、アンタは一人前にならなきゃいけないのよ。
 こんなバカなことで死なれたら、二人に会わせる顔が無いわ」

 そう言いながら、遠坂はこちらに近づいてくる。
 そして、流れるような動作で、俺の横に腰掛けた。


 確かに、俺が死んだら、鐘は泣いてくれるだろう。
 遠坂が、セイバーを大事に思ってくれているのも、以前のままだ。

 そんな遠坂の気遣いが、とても嬉しかった。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (七)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/29 18:27



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (七)





「だいぶ参ってるみたいね」

 俺は無言でうなずく。正直、声を出すのも辛い。

「まあ、参ってくれなきゃ困るわ。
 これで、いつものようにのほほんとしてたら、私もイリヤも、本気であなたのこと殺してる」
 さばさばした口調で、遠坂が言う。

 ……遠坂、言ってることがさっきと違うぞ。
 苦笑するが、相変わらず声は出ない。


「で、結論は出た?」
「……わからない」
 やっと声が絞り出せた。

「考えが全然まとまらない。
 桜が俺にしてきてくれたこと、俺が桜にしてきたこと……そんなことばっかりが頭の中を巡って…。
 桜に、なんて言えばいいのか、どんな顔をして謝ったらいいのか……」
「ダメよ」
 煮え切らない俺の言葉を切りさくように、遠坂は言った。

「桜にアンタから何か言っちゃダメ。アンタにはもう、言うべき言葉は無いわ」
「……」


 そう、かもしれない。
 二年間も桜の想いに気付かず、あるいは見て見ぬふりをしてきたんだ。
 今さら俺に、彼女に言葉をかける資格など……
「そうじゃないわよ」
 遠坂は、俺の考えを読んだかのように、苦笑しながら続けた。


「確かに、資格うんぬん、ってのもあるかもしれないけどね。私が言ってるのは、言葉どおりのことよ。
 アンタには、桜にかけるべき言葉は残ってないの。
 アンタはもう、桜に答えたんだから」

 ……意味が、分からない。
 俺が、桜に、答えた…?


「士郎。
 アンタが氷室さんのことを好きになって、それが桜に分かった時点で、アンタは桜の気持ちに対して答えたことになるのよ。
 桜の想いに気付いていたかどうかは、この際、関係無いわ。
 今日、氷室さんといっしょにいる所をあの子に見せたことで、言葉より雄弁に答えたのよ。
 『俺は、桜より氷室を選んだんだ』って」
「……」

「この状況で、桜にかけるべき言葉があるとすればひとつだけよ。
 『氷室とは別れるから、俺と付き合ってくれ』
 どう、言える?」
「………」


 言えない。

 鐘と出会う以前であれば、あるいはそういうことも有り得たのかもしれない。
 だが、今、俺が一番愛し、大切に思っているのは、氷室鐘だ。
 たとえ桜であっても、この想いを違えることなど、出来ない。

 俺の表情を見て取った遠坂は、にっこり笑って言った。

「正解。
 だから、今アンタは動いちゃダメ。アンタはもうボールを投げたんだもの。
 桜がそれをどう受けとるか、それはあの子次第よ。
 そのまま放り捨てるか、投げ返してくるか……
 あの子からのリアクションがあるまで、アンタに出来ることは無いわ」

 きつい言葉をやさしい声で、ズバズバと、染み通るように語りかけてくる。

 確かに、遠坂の言うとおりだ。
 俺は、鐘を選んだ。
 桜の想いを知っていようがいまいが、この事実は変わらない。
 ならば、俺に出来ることは何もない。桜が出す答を、待つしかない。


 ……ある意味、何よりも辛い選択だ。
 俺の大切な人が、俺の馬鹿のせいで苦しんでいるのに、それを傍観することしか出来ないなんて。

「衛宮くんにはちょっとキツいかもね。まあ、乙女心を踏みにじったバツとして、観念しなさい」
 気を遣ってくれているんだろう。遠坂は、ことさらに明るい声で言った。
 そして、そのままの口調で、


「じゃあ、バツついでに、もう少し落ち込ませてあげましょうか。
 桜一人じゃない、って言ったら、どうする?」


「え?」
 振り向いたその先には、

「この家に通い詰めてたのは一人じゃないってこと。藤村先生も、イリヤも、……私も、ね」
 切なげに微笑む、遠坂の顔があった。


「想いの深さでは、桜が一番でしょうね。
 そもそも、みんながみんな恋愛感情って訳でもないし。
 藤村先生は、ほとんど弟としてアンタを愛してるし、イリヤもそれに近いのかな。少なくとも、恋人にしたいっていう気持ちは無いみたいね。
 でも、二人とも《家族》って言葉で割り切れるほどの感情ではないことも確かよ」
 遠坂は、夜空の星を見上げながら、淡々と続ける。

「遠坂……」
 無意識に声が出る。彼女は、それをどう受けとめたのか、


「私?
 んー、私はそうね、『あわよくば』ってところかな。
 アンタが氷室さんとくっつかないで、桜もあんまりモタモタしてるんだったら、動いてもいいかな、って思ってた」

 彼女は笑みを浮かべたまま、透きとおった目で、しばらく星を眺めていた。


 やがて、その眼差しのまま俺に目を移すと、
「だからアンタ、幸せになりなさい。
 これほどいい女たちを袖にして、氷室さんとくっついたんだもの。
 生半可な覚悟だったら、承知しないわよ」

「―――」
 俺は、無言でうなずいていた。


 俺なんかが、幸せになれるのかどうか、それは分からない。
 鐘と、これからどうなっていくのかも分からない。

 しかし、この誇り高き女性に、ここまで言わせたのだ。
 自分の馬鹿さ加減を自嘲している暇など無い。

 全力で進んでいく。

 遠坂に、いや、彼女たちに酬いる方法は、その一つしか思いつけなかった。


 遠坂は、もう一度にっこりと笑って、満足そうに頷いたあと、勢いよく立ち上がった。
「さあて、じゃあ言うべきことも言ったし、私も帰るわ。
 また明日ね」
「え?」
 思わず間抜けな声を出す。帰るって…今からか?

「おい、もう12時過ぎてるぞ。いくらなんでも遅すぎるんじゃないか?
 どうしても用があるって言うんなら、送って……」
 そこまで言って、これがさっきの桜との会話と同じであることに気付く。
 遠坂は、呆れた顔でこちらを見ていた。


「アンタねえ……
 やっぱりその性格、いっぺん死なないと直らないのかしら?」
「……なんでさ?」

「なんでさ、じゃないわよ。
 いい?
 私は今、アンタに告白して、振られたのよ?
 まあ、順番で言うと、振られてから告白したんだけど。
 その直後に、振られた相手に家まで送られるなんて、我慢出来ると思う?
 ましてや、同じ屋根の下で眠るなんて」
 出来の悪い生徒に根気よく言い聞かせるように、懇々と遠坂が諭す。

「あ……」
 確かに、そうだ。
 今の今まで、遠坂自身に教えられてきたのに、それが全く身に付いていない。


 再び深い自己嫌悪におちいる俺に、
「まあ、そんなわけだから、気持ちだけ頂いとくわ。
 実際、襲われても大抵の人間なら大丈夫だし、むしろ相手が気の毒ってもんよ」
 明るい声で、遠坂は言う。

 その口調には、俺への優しさと、若干の虚勢が混じっているように思えた。

「私もしばらく、ここに泊まるのは止すわ。桜にも悪いしね。
 あ、でも魔術講義はもちろん続けるわよ。明日までに、集中力戻しときなさい」
 じゃあねー、と手を振りながら、遠坂は門の方に歩いていく。


「遠坂」
 俺は、立ち上がって声をかけた。
「ん?」
 振り返った彼女は、もう半分、暗闇の中にいる。

「ありがとな」
 その一言に、万の想いをを込めたつもりだった。

「……馬鹿」
 赤い衣装は、苦笑を一つ残し、影の中へ消えていった。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (八) 氷室の視点
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/05/31 19:40


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (八) 氷室の視点





 いつもの交差点で、バスを降りる。
 寒いというほどではないが、早朝の空気は稟としており、冬が間近に来ていることを教えてくれる。

 学園へと通じる坂道は、運動部の早朝練習に向かう学生がちらほら見える程度で、閑散としている。
 もちろん、私もそのうちの一人だ。

 12月にある競技会に向け、陸上部でも最終調整に余念が無い。
 私にとっても、学園生活最後の大会だ。自ずと気合いも入る。


 ……いや、認めよう。
 足取りが軽いのは、気合いが入っているからばかりではない。

 衛宮……いや、士郎との、夕べのやりとり。
 一歩、前進することができた、という満足感が、そうさせているのだろう。

 間桐嬢やイリヤ嬢とのことなど、まだまだ不安要素も多いけれど、
 彼の《家族》となるための一歩を踏み出せたという嬉しさの方が、今は勝っていた。


 そんな充足感に浸りつつ坂道を登っていると、まさに、脳裏に描いていた人の後ろ姿を見つけた。

 珍しい。
 彼は、確かに他の生徒よりは早く登校するが、朝練がある私と同じ時間帯、ということは今まで無かった。

 かすかに疑問を抱きつつ、やはり想い人に朝から出会える喜びには勝てない。
 私は、さらに足取りも軽く、彼の背中に駆け寄った。


「おはよう、士…衛宮」

 士郎、と呼ぼうとしたが、少ないとは言え他生徒が周りにいる路上では、やはり呼びにくい。
 別に隠しているでも無し、堂々としていれば良いのだが、そこはそれ、やはり照れというものがあるのだ。

「…ああ、おはよう鐘……氷室」
 やはり私のファーストネームを呼び掛け、苗字に言い直した彼に、嬉しさと気恥ずかしさを覚える。

 しかし、振り返った彼の顔を見て、そんな気持ちは吹っ飛んだ。


「……」
 いつもの笑顔。
 ぶっきらぼうで、照れくさそうな、でも、なによりも暖かい表情。
 なにひとつ、変わってなどいないはずなのに、

「どうした?」

 そう問いかける彼からは、決定的に《生気》が抜け落ちていた。


 おそらく、顔見知り程度の者が見たら、普段と同じ、と言うだろう。
 いや、彼の友人であっても、いつもより元気が無いな、くらいにしか思わないに違いない。

 しかし、私には分かった。分かってしまった。

 今の彼には人間が、いや、生物が必ず持っているエネルギーが、ほとんど感じられない。


 もともと、衛宮士郎という人間には、どこか空虚な部分がある。
 しかしそれは決して、中身がない、ということではないのだ。
 彼の性格同様、表に出ることはあまりないが、普通の人間を圧倒するほどのエネルギー、
 《生気》と呼び変えても良い物が、その空虚な部分をも含めて、彼を満たしている。

 そんなエネルギーの大きさ、暖かさに触れた者のみがそれを理解し、彼に惹かれるのだ。


 なのに、今の彼からは、そのエネルギー、《生気》が、ごっそりと抜け落ちている。
 視覚ではいつもどおりに見える彼の顔色は、私には土気色に見え、
 普段と同じはずの肉付きは、蚤で削いだかのようにげっそりとやつれて見えた。

「……どうした?氷室」
 いつもと同じ(ように見える)笑顔で、士郎が再度問いかける。
 しかし、私に返事をする余裕はない。

 これが……彼か?
 夕べまで生気に満ち、私を満たしてくれた、衛宮士郎か?
 まるで、一晩で地獄巡りでもしてきたかのようではないか。


「……鐘?」
 三度目の彼の問いかけに、私はようやく我に返った。
 他の生徒たちが、坂道の真ん中で突っ立っている私たちを、不思議そうに眺めながら追い越してゆく。

 とりあえず、動こう。
 私は二、三度頭を振り、彼と並んで歩き出した。
 まだ、声は出ない。

 隣を歩く彼を見る。
 思い違いであれば、という私の願いは虚しかった。
 一見、普段どおりに見える彼の足取りは、まるで鉄球でも引きずっているかのように重かった。
 一歩踏み出すのもやっとなはずのその足を、鋼の意思で動かしているのだ。


「……どうしたんだ?」
 私は、やっと声を絞り出した。
 そんな状態なのに、なおも私のことを心配そうに見つめる、彼の視線に耐えきれなくなったのだ。

「……」
 今度は、彼の方がしばらく無言だった。
 だんだん、二人の歩みが遅くなる。
 それでも、学園は着実に近づき、校門まであと数十メートルの所まで来た時、


「……鐘には、わかっちゃうんだな」
 彼が、ポツリと呟いた。

「心配かけてゴメン。
 なんでもない、って誤魔化したかったんだけど、鐘相手じゃ無理みたいだ。
 でも、一口で説明できることじゃないんで、後でいいか?」
 確かに、もう校門に達している。
 今からでは、詳しい理由を聞く時間など無いだろう。

「……分かった。昼休みに美術室、でいいか?」
「……ああ。ほんと、ゴメンな」

 そして私たちは校門で別れた。
 私は陸上部室へ。
 彼は、教室か生徒会室にでも行くのだろう。

 本当はずっと付き添っていたかったのだが、場所が学校であれば、私たちにはそれぞれの本分がある。
 後ろ髪引かれる、とは正にこの事か。
 彼の背中が校舎内に消えるまで、私はずっとそれを見送っていた。


 午前中は、散々だった。
 朝練習では、アップ終了の号令に気付かず、一人で延々と走り続け、ダッシュの合図に反応せず立ちつくしていた。
 授業が始まっても、機械的にノートを取りはするものの、教科書は前時限のものを開いていたり、
 シャープペンシルをカチカチ押し続け、芯のすべてを机に撒いていたり。

 以前、士郎に振られた(と思い込んでいた)時より、まだひどい。
 あのときは、自分自身をコントロールすればよかった。
 しかし今回は、原因が私ではない。
 他の人の痛みを自分に感じ、それを制御する。
 そんな、生まれて初めての事態に、私は戸惑うばかりだった。


 やっと昼休みのチャイムが鳴り、私は美術室へと向かった。

 最近は昼食のローテーションが確立され、週に三回は蒔寺、由紀香と三人で。
 一回は士郎と二人で。
 残る一回は、我々三人に士郎を交えての食事となっていた。

 その順番で行けば、今日は三人での昼食なのだが、蒔寺たちに詫びて別行動を取らせてもらった。
 彼女たちも、普段とあまりに違う私の様子に戸惑っていたのだろう。
 すんなりと許してくれた。

「……なんか、あったのか?」
 蒔の字が、恐る恐る聞いてくる。
「……わからないんだ」
 私の答も煮え切らない。
「鐘ちゃん……だいじょうぶ?」
 由紀香も、心配そうな顔だ。
「……だと、いいんだが…」
 こんな返事では、余計に心配させてしまうだろうが、そう答えるほか無い。


 美術室は、相変わらず閑散としていた。
 油絵の具や粘土の匂いがして、食事には不向きの場所だからだろう。
 しかし、私には慣れ親しんだ匂いだし、彼も特に気にはならないという。
『オイルやグリースの匂いより、よっぽど上品だよ』
 そう言って笑ったのは、いつだったか。

 いつもならば、軽やかに滑るはずの引き戸が、今日はやけに重く感じられた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (八) 衛宮の視点
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/02 19:41


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (八) 衛宮の視点





 昨夜は一睡もしなかった。
 眠れるとは思えなかったし、眠るつもりもなかった。

 昨夜の出来事。

 桜の言葉を。
 イリヤの、遠坂の、藤ねえの言葉を、何度も、できる限り正確に思い出し、脳裏に焼き付けた。

 想像以上に辛い作業だったが、どうしても俺にとって必要な事だったし、
 辛いと感じる余裕も、今の俺にはなかった。


 空が白み始めたので、少し早いが道場で日課の筋力トレーニングをした。
 何しろ、今夜も遠坂の魔術講義がある。
 集中力を取り戻すには、ルーティンワークが一番だ。

 軽くシャワーを浴び、朝食を作る。
 桜は、当然来ない。
 遠坂も、昨日宣言したとおり、来ない。
 藤ねえもイリヤも、いつもは朝飯をねだりに来るのに、やはり来なかった。
 それでも人数分作り、テーブルに並べ、しばらく待って誰も来ないことを確認した上で、5人分を冷蔵庫に仕舞った。

 いつもよりだいぶ早いが、他にすることもないので家を出る。
 坂を下り、交差点で曲がって、坂を登る。


 こんな時、魔術師というのは便利だ。
 たとえ一睡もしていなくても、昨日の昼から何も食べていなくても、魔力さえあれば、体力の低下をある程度はカバーしてくれる。
 まあ、当然そのあとは揺り戻しがあるのだが。

 少しだけ重い足を動かして坂を登っていると、後ろから声をかけられた。


「おはよう、士…衛宮」

 鐘の声だ。
 そうか、今の時間帯は、ちょうど運動部の連中が朝練に通う時刻なんだな。
 士郎、と呼び掛けて、苗字に言い直す声がかわいい。

「…ああ、おはよう鐘……氷室」
 やはりファーストネームを呼び掛け、苗字に言い直す。
 別にやましいところがあるわけでもないが、そこはそれ、照れというものがある。

 振り返り、視界に入った鐘の顔は、嬉しさと気恥ずかしさに染まっていたが、


「……」
 俺の顔を見るなり、彼女は絶句していた。


「どうした?」

 そう問いかけたが、返事がない。
 彼女の、白磁のような肌から、見る見る血の気が引いていく。
 浮かびかけていた笑みは凍りつき、視線は固定され、俺の声も届いていないようだ。

「……どうした?氷室」
 立ちくらみでもおこしたのだろうか。
 そんな心配を抱きつつ、笑顔で再度問いかける。
 しかし、やはり返事は無い。
 ほとんど恐怖に引きつったその表情は、

 まるで、地獄巡りをしている亡者でも見たかのような顔だった。


「……鐘?」
 三度目の問いかけに、鐘はようやく我に返ったようだった。
 他の生徒たちが、坂道の真ん中で突っ立っている俺たちを、不思議そうに眺めながら追い越してゆく。

 二、三度頭を振った鐘は、無言のまま俺の隣に並び、歩き始めた。
 俺もそれに続く。
 まだ、鐘は声を出してくれない。

 ちらちらと、こちらを伺う気配がする。
 まるで、直視したら俺が壊れてしまうとでも言うかのように。
 彼女の足取りが重い。
 今の俺などより、よほど辛そうだ。
 どうかしたのか?と声をかけようとして、


「……どうしたんだ?」
 鐘は、やっとしゃべってくれた。
 が、それは、無理に絞り出したような声だった。

「……」
 今度は、俺の声が出なくなった。


 まさか……
 気付いているのか?

 今朝、顔を洗うときも鏡で確認した。
 特にやつれてもいないし、顔色も普段と変わらない。
 魔力が足りているせいか、体調もそんなに悪くない。
 少し、体が重い程度だ。

 魔術師ならば、あるいは達人クラスの武道家なら気付くだろうが、
 一般人なら、いつもより元気が無いな、くらいにしか思わないに違いない。
 そう思っていたのに……


 だんだん、二人の歩みが遅くなる。
 それでも、学園は着実に近づき、校門まであと数十メートルの所まで来た時、


「……鐘には、わかっちゃうんだな」
 自然と、口からこぼれていた。

「心配かけてゴメン。
 なんでもない、って誤魔化したかったんだけど、鐘相手じゃ無理みたいだ。
 でも、一口で説明できることじゃないんで、後でいいか?」
 もう校門に達している。
 今からでは、詳しい理由を話す時間は無い。

「……分かった。昼休みに美術室、でいいか?」
「……ああ。ほんと、ゴメンな」

 そして俺たちは校門で別れた。
 俺は教室へ。
 彼女は陸上部室へ行くのだろう。

 別れる間際の、彼女の表情が辛かった。
 ずっと付き添っていたい、とその顔は語っていた。
 しかし、場所が学校であれば、俺たちにはそれぞれの生活がある。
 校舎内に入るまで、背中に彼女の視線をずっと感じていた。



「じゃあ、朝のホームルームはここまで。
 今日も一日、がんばろうねー」

 ホームルームを終え、藤ねえが教室から出て行く。
 俺は、それを追いかけた。

「藤村先生」
 廊下で俺が呼びかけると、藤ねえは驚きもせず振り返った。
 俺を待っていたかのような眼差しだった。

「なんですか、衛宮くん?」
 一応、学園内なので、双方とも少し改まった口調だ。
「ちょっと、お話が……」
 俺がそう言いかけると、藤ねえは微笑んで頷いた。
 そして、人目に付きにくい階段の踊り場まで移動する。


「桜ちゃんのこと?」
 周りに人がいないことを確かめてから、藤ねえは自分から切り出してくれた。
「―――」
 無言で、頷く。
「とりあえず、今日は休ませてるわ。
 安心しなさい、って言いたいところだけど、正直、ちょっと参ってるみたいね」

 やはり――
 俺が俯くと、藤ねえは俺の髪を くしゃり と撫でてきた。

「士郎に、気にするなって言っても無駄なのは分かってるけど。
 桜ちゃんのことは、私とイリヤちゃんに任せておきなさい。
 士郎から、なにか言ったりしちゃダメよ」
「―――ああ、分かってる。
 昨日、遠坂からも言われたよ」

 俺がそう答えると、藤ねえは満足そうに微笑んだ。
「そう。さすが、遠坂さんね。
 彼女の言うとおりよ。
 士郎には辛いだろうけど、今は待つことが桜ちゃんのためよ」

 分かっている。だが……


 俺が俯いたままでいると、藤ねえは急に、掌を爪に変え、俺の頭をガリガリと引っかき回してきた。
「い、痛て!痛てってば!
 何すんだよ藤ねえ!!」
「ほーら!!
 若い男の子がウジウジしてるんじゃない!
 大丈夫よ。
 桜ちゃんは、見た目よりずっと強い子だもの。
 きっと立ち直って、答を出してくれるわ」

 髪をかき回されながら聞く藤ねえの声は、ひまわりのように暖かく、やさしかった。

 やっと魔の手から逃れた俺は、しばらく頭皮を撫でた後、

「サンキュ、藤ねえ」
 横目で視線を合わせながら、愛する姉に礼を言った。


 やがて昼休みのチャイムが鳴る。

 美術室は、相変わらず閑散としていた。
 油絵の具や粘土の匂いがして、食事には不向きの場所だからだろう。
 しかし、機械いじりに慣れた俺には、特に気にならない。
 彼女も
『小さいころから嗅いでいた匂いだ。香水などより、よっぽど落ち着く』
 そう言って笑ったのは、いつだったか。

 いつもならば、軽やかに滑るはずの引き戸が、今日はやけに重く感じられた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (九) 氷室の視点
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/04 19:32



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (九) 氷室の視点





 予想どおり、彼は先に来ていた。

 いつものように、作業台に二人並んで座る。
 二人きりの昼食のときは、いつも彼が弁当を作ってきてくれるのだが、今日は言わばイレギュラーだ。
 私は持参の弁当。彼は、購買部で買ったパンと牛乳。

 食事中、あまり会話が無いのは、いつものことだ。
 ときどき、思いついたことをポツリポツリとしゃべる。
 あとは、彼の隣に座って、ときどき視線を交わして微笑みあうだけで、充分だった。


 しかし、今日はそのわずかな会話さえも無い。
 彼は、機械的に食事を進めていく。
 味など感じていないのではないか。
 いや、まるで鉄塊を噛み、溶かした鉛を啜っているかのような苦行にすら感じられる。

 私も当然、食欲など無いが、箸が止まると、彼が心配そうな顔をしてこちらを見る。
 無理にでも食べるしかなかった。


 食事が終わっても無言は続いていた。
 こちらから切り出してもいいのだが、怖くて出来ない。
 何が彼をそんなに苦しめているのか、それも分からずに安易に声をかけるのは、ためらわれるのだ。

 だが、ひょっとしたら……


「……ゴメンな」
 ポツリと、彼が言った。

「説明する、なんて言っといて、ずっと黙ったままなんて。
 …でも、すごく説明しづらい、言葉にしにくいことなんだ」

 辛そうな、彼の声。
 一言、言葉を吐くために、全身の力を振り絞っているのがわかる。


「ここに来るまで、鐘になんて説明しようか、ずっと考えてた。
 でも、詳しく話そうとすると、いろんな人に迷惑がかかっちゃうんだ。
 だから、……曖昧にしか言えないことを、許して欲しい」

 彼が話すたび、自分の身が割かれるように痛む。
 これは、彼が感じている痛みの、何千分の一なのか。


「……簡単に言うと、俺の馬鹿さ加減のせいで、ある人を傷つけた。
 それだけなんだ。
 ……それしか、言えないんだ。
 だから……ゴメン…」

 もういい。
 しゃべることが、そんなに苦痛なら、話さなくていい。
 私は、自分が感じる痛みに耐えきれず、彼の右手を両掌で掴んでいた。



「……わたしの、せいなのか?」
 無意識に、言葉が出る。
「……」
 彼は、目を見開いて、私を見つめた。


 やっぱり。


 私も、今までずっと考えていた。

 夕べ、私の家の前で別れたときまでは、いつもどおりの彼だった。
 ならば、彼が家に帰ってから、何かがあったということになる。
 そして、その前に起きた、私と、彼の《家族》との邂逅。

 その二つを合わせ、少し想像力を働かせれば、結論は簡単に出る。

 しかし私は、その結論を出すのが怖かった。
 私自身が原因で、彼がこんなにも憔悴するという事実に、耐えきれなかったのだ。

 しかし、現実はやはりそのとおりだった。
 私という存在が、彼と彼の《家族》の絆を脅かし、そのことで彼は……


「違う」


 きっぱりとした声が、耳元で聞こえた。

 いつの間にか俯いていた私は、その声に顔を上げる。
 そこには、
 普段に近い生気に満ちた、彼の顔があった。

「確かに、鐘もこの事に少し関係してる。
 でも、断じて鐘のせいじゃない。
 それだけは、信じてくれ」


 何度か見た、表情。

 付き合ってくれ、と海浜公園で言ったとき。
 私を抱きしめ、『氷室、好きだ』と初めて言ってくれたとき。

 本当に大事なことを言う時、彼はいつもこの表情をしていた。


「問題は、俺自身の根っこに関わることなんだ。
 鐘は、その問題に巻き込まれただけだ。
 そのことについては、ほんとに申し訳なく思ってるけど……
 頼むから、俺のためにそんな顔をしないでくれ」

 ならば、信じて良いのだろうか。
 少なくとも彼は、私のせいではないと、本気で思っている、と。


「……わかった」
 私は、言った。

 私が原因ではない、と思って安心したわけではない。
 むしろ、彼がそう信じているが故に、確信はますます深まった。


 だが。
 彼がそう言ってくれる以上、私はそれに従う。

 昨日の、間桐嬢との邂逅のときと同じだ。
 ここで引いたら、彼を失ってしまう。
 今は両手で、私の両掌を包んでくれているこのぬくもりを、永遠に失ってしまう。

 その思いがどんなに狡く、浅ましくても。
 その想いの故に、どんなに彼を傷つけてしまったとしても。
 この手を放してしまう恐怖には、代えることはできなかった。


「……君の思いは分かった。
 なぜ、と問うのも止める。
 だから、私もひとつだけ言わせてくれ」
 私も、彼の両掌を包み返すように握った。

「我慢しないでくれ。
 少なくとも、私と二人きりのときに、無理に笑ったりしないでくれ。
 先ほど、君自身が言っていたろう?
 私のために、そんな顔をされるのは、……辛い」

 私はそう言って、握りしめた手に目を落とした。

 私の浅ましさへの代償。
 彼が、私のために苦しんでくれるというのならば、
 私は、少しでもそれを受けとめる皿になりたい。
 彼の苦しみが、私の器などをはるかに超えるものであったとしても、
 せめて、それくらいの自己満足はさせてほしかった。


「ありがとう」


 そんな、彼の言葉に、ふたたび視線を上げる。
 彼の顔からは、一瞬だけみなぎっていたあの生気は、消え失せていた。

 かわりに、何とも言えない目で、私を見つめてくる。
 笑っているような、泣き出しそうな、苦しんでいるような、愛しんでいるような。

 そんな目のまま、彼は私を抱きしめてくれた。


 ああ。

 結局、私の苦しみの方を、彼が受けとめてくれたんだ。


 そんな、やるせなさが胸に満ちてくるのを感じながら、
 午後の予鈴が鳴るまで、私は彼の胸に身を預けていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (九) 衛宮の視点
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/27 21:37


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (九) 衛宮の視点



 1分も待たずに、鐘が入ってきた。

 いつものように、作業台に二人並んで座る。
 二人きりの昼食のときは、いつも俺が弁当を作るのだが、今日は言わばイレギュラーだ。
 彼女は持参の弁当。俺は、購買部で買ったパンと牛乳。

 会話もなく、食事が進んでいく。
 当然のことだが、食欲など無い。


 しかし、俺が食べないでいると、彼女も食べづらいのだろう。
 弁当の中身を見つめてため息をつき、俺の視線に気付いてあわてて箸を動かす。
 さっきから、この繰り返しだ。

 俺は、全く味のしないパンを噛み、やけに粘っこい牛乳で喉に流し込んだ。


 食事が終わっても無言は続いていた。
 説明する、と言ったのは俺の方だ。
 だから、俺から切り出さなければならない。


 しかし、どう説明する?
 端折ろうと思って端折れる話じゃない。
 第一、少しでも端折ったりしたら、全く意味が無くなってしまう。

 ならば、一から十まで全部話すか。
 それこそ、不可能だ。
 恐ろしく長い話になる上、
 桜の想い、イリヤや遠坂の叱責、藤ねえの心遣い、
 いや、そもそもの俺たちの関係から、引いては俺が魔術師であることまで、話さなくてはならなくなる。

 特に、桜や遠坂たちの想いについては、絶対に話せない。
 たとえ、相手が鐘であろうとだ。
 それは、俺が勝手に話していい事じゃない。

 では、どうすれば。
 じっと、俺の言葉を待っている少女に、なんと言えば……


「……ゴメンな」
 自然と、声が出ていた。

「説明する、なんて言っといて、ずっと黙ったままなんて。
 …でも、すごく説明しづらい、言葉にしにくいことなんだ」

 さんざ焦らしておいて、そんなことしか言えない。
 そんな自分に対して、吐き気がする。


「ここに来るまで、鐘になんて説明しようか、ずっと考えてた。
 でも、詳しく話そうとすると、いろんな人に迷惑がかかっちゃうんだ。
 だから、……曖昧にしか言えないことを、許して欲しい」

 俺が言葉を発するたび、鐘は辛そうに顔を歪める。
 俺を責めているのか。
 好きだ、恋人だと心を重ね合わせておいて、大事なことは何一つ話してくれない相手に、失望しているのか。


「……簡単に言うと、俺の馬鹿さ加減のせいで、ある人を傷つけた。
 それだけなんだ。
 ……それしか、言えないんだ。
 だから……ゴメン…」

 馬鹿な話だ。
 説明にもなっていない。
 これで納得できる人間がいたら、お目にかかりたい。
 彼女も、細い肩を震わせて、俯いて……


 その、白く小さな両掌で、俺の右手を掴んできた。

「……わたしの、せいなのか?」

「……」


 いま、なんと言った?


 『私のせい』
 彼女は、確かにそう言った。
 悔恨と苦渋に満ちていた頭の中が、急速に透きとおっていく。

 まさか、彼女は、自分が原因で俺が苦しんでいる、と思っているのか?


 思えば昨日、いや、初めてのデートの時にも、彼女は言っていた。

『状況は君よりも理解しているつもりだ』

 今なら、その意味が分かる。
 彼女は、桜の想いに、とうの昔に気付いていたんだ。
 そして、それでも俺を選んでくれた。
 桜やイリヤの視線にも、じっと耐えてくれていたのだ。

 ならば、後は少し想像力を働かせれば分かる。
 夕べ、彼女と別れてから、俺に何があったか。
 俺の家で、俺が《家族》とどんな会話をしたか。

 自分の存在が、俺と俺の《家族》の絆を脅かしている。
 そう、彼女が思い込んでいるのだとすれば……


「違う」


 きっぱりと、俺は言った。
 自分でも驚くくらい、張りのある声だった。
 そのまま、彼女の両掌を、両手で握り返す。

「確かに、鐘もこの事に少し関係してる。
 でも、断じて鐘のせいじゃない。
 それだけは、信じてくれ」

 詳しいことは言えない。それは変わらない。
 しかし、この誤解だけは解かなくては。


 桜を傷つけた。
 イリヤにあんな表情をさせた。
 遠坂にあそこまで言わせた。
 藤ねえの心を痛めさせた。

 この上、俺の一番大切な、この少女まで傷つけてしまったら、
 衛宮士郎は本当に、生きる価値の無いジャンクになってしまう。


「問題は、俺自身の根っこに関わることなんだ。
 鐘は、その問題に巻き込まれただけだ。
 そのことについては、ほんとに申し訳なく思ってるけど……
 頼むから、俺のためにそんな顔をしないでくれ」

 そう。
 究極を言えば、桜の事さえ、きっかけなのだ。
 問題は、俺の根幹。
 俺自身を形作る、この歪みこそが、すべての発生源。

 この少女が、こんなにも辛そうな顔をする理由など、
 どこを探してもあるわけがない。


「……わかった」
 どれほど時が経っただろう。
 吐息のように、彼女は言った。


 ……信じて、くれたんだろうか?

 いや、彼女の目に、安堵の色は見えない。
 その表情は、未だ辛そうに歪んでいる。
 だが、先ほどまでのように、彼女は震えてはいなかった。

 その瞳が物語るのは――決意。


「……君の思いは分かった。
 なぜ、と問うのも止める。
 だから、私もひとつだけ言わせてくれ」
 そう言うと、彼女は再度、俺の手をやさしく包んでくれた。

「我慢しないでくれ。
 少なくとも、私と二人きりのときに、無理に笑ったりしないでくれ。
 先ほど、君自身が言っていたろう?
 私のために、そんな顔をされるのは、……辛い」

 彼女はそう言って、握りしめた手に目を落とした。


 ……彼女に包まれている、と、俺は感じた。
 握られた手から、彼女の想いが流れ込んでくる。
 俺を支える、と。
 俺の苦しみを減じることは出来なくても、せめてその苦しみを受けとめると。


 人と心を沿わせ、重ね合わせたのは、初めてではない。
 セイバーの時も、確かに俺たちは心を共有した。

 だが、今感じる暖かさは、それとも違う。
 頼っていいと。
 苦しいときは、苦しい顔をしていいのだと、その温もりは告げてくる。


「ありがとう」


 ほんとうに自然に、唇から言葉がこぼれ出た。
 彼女が顔を上げ、俺を見つめる。

 空っぽのはずの俺の体に、何かが満ちてくる。
 喜び、哀しみ、苦しみ、愛しさ……

 気付けば俺は、鐘を抱きしめていた。


 ああ。
 なんて、やすらかな。


     (オマエニ、ソンナシカクガアルノカ)


 そんな声を、今だけは心の奥に沈めながら、
 午後の予鈴が鳴るまで、俺は彼女のあたたかさに身を委ねていた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/08 21:02



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十)





 それから数日間、表面上は、なにごとも無く過ぎた。

 彼と私は、いつものように登校し、滞りなく授業を受けた。
 私の部活動が終わるまで、彼は学校の備品修理などで時間をつぶし、
 アルバイトの有る無しにかかわらず、私を家まで送ってくれた。


 本当なら、部活動も休み、少しでも彼のそばにいたかったのだが、彼の方が承知しなかった。

「最後の競技会まで、もう日が無いんだろう?
 こんなことで練習を休んじゃダメだ。
 これで鐘が悔いを残したりしたら、俺は二度とお前に顔向けできなくなる」

 真摯な目で見つめられながら諭されると、俯くしかない。

「それに、今は普段どおりにした方がいい。
 詳しいことを話せなくて、ほんとに申し訳ないけれど、今、俺に出来ることは無いんだ。
 だったら、何が起きてもすぐに動けるように、生活のリズムは崩さない方がいい」

 彼に何があったのか、それは問わない約束をしている。
 彼がそう言う以上、普段どおりに過ごすのが一番なのだろう。

 ……その、《普段どおり》という注文が、今の私には一番難しいのだが。


 彼の方の態度は、一見、本当に普段どおりだった。
 口数もいつもと変わらず、ぶっきらぼうながらも他人の面倒をよく見、外見も行動も、おかしな所は何もなかった。

 だが、私の目には、彼が日一日とやつれていくのが、手に取るように見えた。
 他の人が気付かないのが、不思議なくらいだ。

 いや、異常を感じた人間も、わずかながらいた。


「なあ、氷室。
 最近、衛宮おかしくないか?
 なんか元気が無いって言うか、気が抜けてるって言うか……」

 私と同じ学級の、美綴綾子嬢が、休み時間に私に尋ねてきた。
 その時は、曖昧な返事をして誤魔化したのだが……

 そのことを士郎に言うと、彼は苦笑した。
 彼も、親友である柳洞一成に言われたのだという。

「衛宮。
 近ごろ、どうも覇気が無いと感じるのだが、体調でも悪いのではないか?
 疲れているのなら、生徒会の手伝いなど気にせず、帰って休んでくれ」

 油断してカゼでもひいたかな、って、誤魔化したんだけどな、と彼は笑う。

 笑い事などではないのだが、
 それにしてもさすが、武芸百般の女武道家、美綴綾子。
 そして、古刹柳洞寺の跡取り、柳洞一成。


 しかし、逆を言えば、彼等ほどの者でも、その程度にしか感じられないのだ。
 実際には彼は、いつ倒れてもおかしくない、
 いや、倒れていない方がおかしいくらい、憔悴しきっているというのに。


 食事はしっかり取っているのだろうか。
 夜はちゃんと眠れているのだろうか。
 辛いのならば、休んだらどうだと勧めたのも二回や三回ではない。

 だが、
「鐘が言うほど、体調は悪くないぞ。
 確かに、食欲はあんまり無いし、夜眠れないときもある。
 でも、体が少し重いかな、っていうくらいなんだ。
 休んだりする程じゃないよ」

 そう言って、彼はいつもの笑顔で私を見るのだ。


 あの、昼休みの美術室。

『少なくとも、私と二人きりのときに、無理に笑ったりしないでくれ』

 という私の願いに、彼も頷いてくれたはずなのに。

 やはり、私では無理なのか。
 彼にとって私は、小さすぎる器なのか。
 恋人だと自惚れてはいても、彼が感じる痛み、辛さを受けとめ、支えるのは、
 《家族》ではない私には、重すぎる荷なのだろうか。


 そう思い、ひそかに落ち込んでいたのだが、
 そばで彼を見ているうち、

『どうも、事はそれほど単純では無いらしい』

 そう思うようになってきた。


 彼は、私だから弱みを見せないのではなく、
 他の誰に対しても、同じような態度を取るのではないか。

 彼の《家族》である間桐嬢、遠坂嬢、いや、一番の信頼関係で結ばれているであろう藤村教諭に対してすら、
 このような状況の時、彼は笑顔を見せ、辛さを表には出さないのではないだろうか。


 さらに、もっと根本的な問題がある。
 彼は果たして、痛みを《痛み》として、認識しているのだろうか。

 なにも、小説などでよくある、《無痛覚症》の話をしているのではない。
 正しく言えば、彼は

『自分が感じている痛み、悲しみを、自分自身の《辛さ》として、変換できているのだろうか』


 《家族》との間に軋轢があり、それによって彼が苦しんでいることは理解できる。
 だが、彼を見る限り、自分が負った傷が元で苦しんでいるようには、どうしても見えない。

 むしろ、大事な人が傷ついたことで、その痛みが何倍にも増幅されて彼に投射され、
 それが彼を苛んでいるように見える。


 士郎らしい。

 その事実に思い当たったとき、私はまずそう思い、
 次に、恐ろしさに慄然とした。


 彼と《家族》との間にどんな会話があったのか、それは分からない。
 しかし、それが争いであったのなら、どちらか一方だけが傷つくことなどあり得ない。
 相手が傷ついたのなら、彼もそれ相応の傷を負ったはずなのだ。

 なのに彼は、自分の傷のことなど全く無視して、相手の痛みのために苦しんでいる。


 だが。
 いくら彼が自分の傷に目を向けなくても、彼の肉体は、その傷を鋭敏に感知している。
 そしてその傷は、放っておかれたまま、彼の体を、心を、確実に蝕んでいく。

 もし、彼に、その傷を《辛い》と感じる回路が存在していないとしたら……


 自分の傷を辛いと感じず、体をすり減らし、
 他人の傷に何より苦しみ、心をすり減らす。

 こんな事を繰り返していたら、衛宮士郎という存在は……



 そして、金曜日の朝。
 ついに、私は行動に出た。

『詮索はしない』
 という、彼との約束を破ってしまうことになるが、
 正直、何でも良いから動かないと、私の方がどうにかなってしまいそうだったのだ。


 やったことは一つだけ。
 朝練習の時、二年生の女子に、何気ない風を装って尋ねた。

「間桐さんですか?
 月曜日からずっと休んでますけど。
 なんでも、風邪をこじらせたとかで……」


 ……やはり。


 後輩との話題をさりげなく他へ移しながら、
 私は心に、苦い水が満ちるのを感じていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/10 18:41



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十一)





「衛宮、お前なんかしたのか?」

 金曜日の昼、
 みんなで弁当を囲んでいるときに、蒔寺がいきなり切り出した。


『いつも通りに過ごそう』
 という彼の言葉どおり、ほぼ確立されている昼食のローテーションも、普段どおりにしていた。

 ただ、月曜日にイレギュラーで二人きりの食事をしたため、
 次に彼と昼食を共にしたのは、蒔寺、由紀香も交えた今日だった。

 あと数日で十二月だが、今日は天気も良く、久々に屋上で弁当を広げている。
 私が食べている弁当も士郎のお手製だが、正直、あまり味がしない。
 いや、月曜日から、何を食べても砂を噛んでいるようだ。

 彼も似たような状態らしく、いつもより一回りは小さい弁当箱を、ぽつぽつと突ついている。


「え?」
 士郎は、その弁当箱から顔を上げ、声の主を見つめた。

「え、じゃないよ。
 お前、氷室になんかしたんだろう?」
 眉をひそめ、挑みかかるような口調で、蒔寺が続ける。

「蒔?」
 私は、咎めるような声音で、彼女を制す。
 しかし、蒔寺はちらりとこちらを見たが、追求は止めなかった。


「今週になってから、ずっとメ鐘の様子がおかしいんだよ。
 集中力は無いは、会話は上の空だは、四六時中沈んでて、この二、三日で見る見るやつれちまった。
 おまけに、アタシらが何聞いても『何でもない』の一点張りだ。
 コイツがこんなになる原因は、お前以外に考えられない」

 士郎は、箸を置いて蒔寺の顔を見ていた。


「蒔の字、やめろ」
 私は、今度ははっきりと威嚇するような声を出した。

 なるほど、私の親友であるとはいえ、蒔寺は士郎とは付き合いが浅い。
 だから、今の士郎の状態が分からないのだろう。

 本当は、誰よりも沈み、やつれているのは、士郎自身なのに。
 私は、その苦しみの数千分の一を投射されているだけなのに。


 蒔寺は、私の眼光に一瞬ひるんだようだったが、
「いいや、止めないね。
 お前に聞いてもラチあかないから、コイツに聞いてるんだ。
 衛宮、答えろ。
 返答によっちゃ、アタシはお前を許さないぞ」

 ……彼女らしい、友情の表し方なのだろう。
 その心遣いは嬉しい。
 だが……

「蒔、もう一度言う。それ以上は止めろ。
 私のことで君を心配させたことは済まなく思う。
 だが、これは士郎とは何の関係もないことだ。
 もしこれ以上、士郎のことについて何か言うのなら……」

「いいよ、鐘」

 私と蒔寺の睨み合いに割って入ったのは、当の士郎だった。


「蒔寺、まず、お前に心配かけたことを謝る。
 確かにここ数日、鐘が落ち込んでるのは、俺のせいだ」
「士郎!」

 思わず叫ぶ私を、士郎が手で制する。

「俺が馬鹿なことやって、ちょっと参ってたもんだから、鐘がそれを心配してくれてるんだ。
 事情があって、詳しいことを鐘にも話せなくてさ。
 だから、余計に心配をかけてるんだと思う。
 それが、俺の未熟だって言うんなら、正にそのとおりだ。
 すまん」

 そうして、あぐらの姿勢のまま、蒔寺に深く頭を下げた。


 ここまで誠実に謝られるとは、蒔の字も思っていなかったのだろう。
 慌てたように、目を泳がせた。
「……い、いや。
 だ、だからって、だな……」


「もういいんじゃない?蒔ちゃん」
 振り返ると、今までずっと黙っていた由紀香が、何か諭すような目で蒔寺を見ていた。

 蒔の字が、救いを見つけたように黙る。


「衛宮くん、鐘ちゃん、ゴメンね。立ち入ったこと訊いちゃって。
 でも、蒔ちゃんもこの五日間、ほんとに心配してたんだよ。
 何か私たちに出来ることはないか、二人の役に立てることは無いかって」
「ゆ、由紀っち……」

 真っ赤になって慌てる蒔の字。

 ……二人の友情が、身に染みる。
 由紀香も、きっと蒔寺と同じくらい心配してくれたのだろう。


「でも、今の衛宮くんのお話聞いて、分かった。
 鐘ちゃんだけじゃなくて、衛宮くんもなんだか元気無いなって、ずっと思ってたんだけど、
 むしろ衛宮くんのほうが、ずっと苦しんでたんだね」

 ……由紀香も、気付いていたのか。
 士郎の状態について、ほとんどの人間が顧みもしない中、
 たとえ漠然とであっても、違和感を感じただけでもたいしたものだ。

「なんだよ由紀っち。
 結局、全然気付いてなかったのは、アタシだけってことか?
 そんなら、言ってくれりゃいいじゃんか」
 蒔寺がむくれる。

「違うよ。
 私だって今、衛宮くんや鐘ちゃんに聞いて、初めて思い当たったんだもの。
 それに、なんとなくだけど、私たちが深入りしちゃいけない事のような気がしたし……」
 そんな蒔の字を、由紀香はいつものようにあやす。
 それから、私たちに視線を向けて、


「鐘ちゃん。衛宮くん。
 今、私たちにできることは、何にもないみたいだけど。
 なにかあったら、いつでも言って?
 そのときは、何でもするから」

 ほにゃっと、いつもの暖かい微笑みを見せてくれる由紀香。
 その隣で、蒔の字も真っ赤な顔をして頭を掻いている。


「……ありがとな。蒔寺、三枝さん」
「…今は言えないが、事情を話せるときが来たら、きっと話す。
 それまで黙っている私たちを、許して欲しい」

 士郎といっしょに、二人に頭を下げる。
 正直、心が弱っていた時だけに、不覚にも涙が滲みそうになった。


「……だけど、鐘ちゃん」
「うん?」
 暖かいままの由紀香の声に、顔を上げる。

「いつの間にか、衛宮くんとお名前で呼び合うようになってたんだね」

「「………あ」」


 私たちは、二人揃ってバカみたいに口を開き、
 しばらくお互いを見つめあったあと、

「「………」」

 申し合わせたように、これ以上ないくらい真っ赤になった。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

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[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/12 19:47



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十二)





 陸上部の練習が終わり、いつものように彼と二人、家路につく。
 今日は、昼休みの一件があったせいか、普段より少しだけ空気が軽い気がする。

 しかし、問題は何も解決していない。

 彼と、彼の《家族》との葛藤。
 そして、もっと根本的なこと。
 彼が言うところの、『俺の根っこに関わる』問題。


 二番目の問題については、おそらくすぐには解決しないだろう。
 何しろ、これに取り組もうと思ったら、衛宮士郎という存在のあり方にまで遡らなければならないのだ。

 とりあえず、と言うほど軽くはないが、最初の問題。
 しかし、これも彼によれば、
 『今、俺に出来ることは何もない』
 という。
 ならば、私に出来ることは、さらに無いのだろう。

 なのに、私は……


「士郎……
 君に、謝らなければならない」
「え?」
 不思議そうに、彼がこちらを見る。

「私は、この問題について問うことはしない、と約束した。
 それは、下世話な詮索はしない、と言うことでもある。
 しかし……」
 彼への申し訳なさに、言葉が詰まる。

「今朝、陸上部の二年生に聞いた。
 間桐桜嬢が、月曜日から休んでいるということを」
「……」


 彼の《家族》。

 藤村教諭は、少なくとも見た目は普段どおりに教壇に立っていた。
 遠坂嬢とは同級であるため、毎日顔を合わせてはいたが、特に変わった様子は見受けられなかった。
 ……もっとも、二人とも内心の動揺を表に出すほど、未熟ではないだろうが。

 イリヤ嬢に関しては調べようがないが、初めて会った時の印象から、彼女が原因とも考えにくい気がする。

 となると、残るは一人。
 ある意味、初めから分かっていたことを確認しただけのことだった。


「……知って、どうかしようと思った訳ではなかった。
 ただ、耐えられなかったんだ。
 君の言葉を信じて、黙って君の隣にいる。
 ただそれだけのことに、私は耐えられなかった。
 ほんの小さな事でも良いから、客観的な事実が欲しかった」

 そして、その《客観的な事実》を知った後に味わったのは、以前にも増した苦しみだった。
 自分が原因であるという答の再確認。
 彼を裏切ったという悔恨。

 浅はかな女の独りよがり。
 それを、彼はいったい……


「……ゴメンな」
 呟くように、彼が言った。

 ……え?

 なぜ、彼が、謝る?


「鐘、前に俺の家に来たとき、言ってたもんな。
 状況は、俺より把握してるって。
 いや、その前からずっと言ってた」

 それは……確かにそうだ。
 およそ、恋する者ならば一目で分かるであろう、間桐嬢の熱い視線。
 それに、まったく気付いていない彼に、苛立ちすら感じたものだが……。

「鐘は、その時から気付いてたんだよな。
 今なら、俺もそれが分かる。
 なら、全部は無理にしても、そのことだけでもお前に話せば良かったんだ。
 なのに、そんな簡単なことにも頭が回らないで、それで鐘に余計なことさせて、傷つけて……」


     また、君は。


「少しでも自分が関わってることについて知りたいのは、人として当然の事だ。
 なのに俺は、別のことばっかり考えて、鐘のことは……」


     そうやって、他人のことばかりを。


「確かに、桜の想いに二年も気付けなかった。
 骨身に染みたはずなのに、また、こうやって、鐘のことに気付くことができなかったなんて。
 なんで俺って、こんなに進歩が……」

 それ以上は聞けなかった。
 私は彼の言葉をふさぐため、鞄を放り捨て、士郎の胸に飛び込んでいた。


「……鐘?」
 彼が、呆然とした声を出す。
 だが、そんな声さえ、もう聞きたくない。

 私は、自分の口を彼の唇に、思いきり押し当てた。


 一年でもっとも夜が長い季節。
 街はすでに闇に覆われていた。
 人通りはほとんどなく、我々が立っている所には、街灯の明かりもうっすらとしか届かない。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。
 誰に見られようと構わない。
 今は、この男の言葉を断ち切ることが、私にとって最も重要だった。


 長い間、押し当てていた唇を離す。
 そして、彼の胴に両手を回し、硬い肩甲骨に額を押しつけ、私は言葉を絞り出した。


「もう、いいから。士郎」


 士郎は無言で、私の為すがままになっている。


「自分のために、泣かないと」


 瞬間。
 彼の全身が、大きく震えた。

 全力で抱きしめているため、彼がどんな顔をしているのかは分からない。
 しかし、私の表情は自分で分かる。

 私はきっと、大泣きをしているような顔だったろう。
 しかし、涙は出ない。
 そんな段階は、もうとっくに通り越していた。


 彼は長い間、そのままの姿勢で立っていたが、

「……」

 やがて無言で、私の髪に顔を埋めてくれた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

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[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/14 19:03



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十三)





 手をつないだまま、海浜公園に出る。
 あれから、彼も私も無言だった。

 私の思いは、彼に伝わっただろうか。
 いや、そもそも、何が私の思いなのか。

 自分でも自分の考えが分からない。
 しかし、つないだ手の温もりが、彼の気持ちを代弁してくれているように思えた。


 水銀灯の光りに照らされながら、プロムナードを歩く。
 いつもの道筋だ。
 そして、新都大橋の歩道に続く、登り口にさしかかろうとしたとき、
 彼が突然歩みを止めた。

「?」
 私も彼に倣い、その方向を見る。
 そこには。


 街灯の光が直接届かない薄暗がりに、
 紫の髪。臙脂のリボン。
 ピンクのカーディガンに、薄いコートを羽織った、

「桜……?」

 間桐桜嬢が、佇んでいた。



「……桜」

 士郎が、もう一度呟く。
 その一言には、ありとあらゆる感情が籠もっていた。

 私も、複雑な思いで、まだ薄暗がりにいる彼女を見つめる。

 自分のとった行動に、悔いは無い。
 私はどうしても、そうしなければならなかったのだから。
 しかしそれは、結果的にこの少女を傷つけたのだ。
 恋の倣いとは言え、そんな彼女を見るのは……


 だが。

 しずかに歩を進め、街灯の明かりの下に立った彼女の目を見たとたん、
 私のそんな感傷は吹っ飛んだ。

 思わず、士郎の手を握る掌に、力を込める。
 それは、おそらく《女》としての、本能的な行為だったろう。

「……?」
 彼が、不思議そうに私を見る。
 彼には、分からないのだろう。
 だが、ここにいるのは、恋に破れ、打ちひしがれた少女などではない。

 その瞳に宿るのは、決意。
 そして……


「すみません先輩。ちょっとお時間いただけますか?
 お話したいことがあるんですけど……」
 自分の前でも繋いだ手を離さない、そんな私たちに何を感じているのだろう。
 間桐嬢は、少なくとも表面上は穏やかな態度を崩さずに、そう言った。

「あ、ああ。
 もちろん、いいけど……」
 そう言った彼は、私の方を振り返る。

 確かに、これからの話は容易に想像が付く。
 仮にも恋人である、私の前で話すには、少々問題のある内容だろう。


 だから、ことさらに明るく言った。

「私は席を外そう。
 二人とも、積もる話もあるだろうしな。
 ここからなら、一人で帰っても問題無い。
 士郎、送ってくれてありがとう」
「え、鐘……?」

 訝しげな声を出す彼に笑いかけ、少々オーバーアクション気味に手を離す。

 もちろん、これはブラフだ。
 なぜなら……


「いえ、ご迷惑でなければ、氷室先輩もご一緒していただけないでしょうか?」

 彼女が、こう言うのは分かっていた。
 士郎と二人きりで話をしたいのならば、なにも今この時を選んで、待ち伏せをしなくても良いのだから。

「あ、いや…でも……」
 彼が、困惑したような顔で、私と彼女を交互に見つめる。

「私ならかまわないぞ、士郎。
 彼女は、私にも話があるようだしな」
「……いいのか、鐘?」

 ファーストネームで呼び合う私たちを前にしても、彼女の視線は揺るがない。


 そう。
 間桐嬢の瞳に宿るのは、決意。
 そして、挑戦。

 恋する女にとっては、もっとも馴染みのある光だった。


 彼女は静かに頭を下げると、私たちを先導するように、先に立って歩き始めた。

 なるほど、めったに人は通らないとは言え、ここは新都へと続く、一種の公道だ。
 こんな所で、これから始まるであろう微妙な話をするのは、うまくない。

 いくらも歩かず、間桐嬢が足を止めたのは、公園の少し奥まった場所だった。
 一応、歩道に面してはいるが、そこから半円形状に窪み、言わば簡易休憩所になっている。
 ベンチも一つ設置されていたが、もちろん誰も座らない。

 そこまで辿り着くと、彼女は静かにこちらを振り返った。
 そのまま、私たちを見つめる。


 私は、士郎から一歩後ろに下がり、二人を静観することにした。
 同席を促されたとは言え、今の時点では私は部外者に近い。
 まずは、彼ら同士で話し合うことが先決だろう。


 そして士郎と私は、間桐嬢が口を開くのを待った。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

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[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/16 18:38



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十四)





「……」
「………」

 話がある、と我々を誘った間桐桜嬢は、未だ口を開かない。
 士郎も、彼女の言葉をただ待っている。

 それも当然か。

 士郎は、間桐嬢に対し、負い目を抱いている。
 自分から話しかける資格など無いと、思い込んでいる。

 間桐嬢も、並々ならぬ決意であるとは言え、
 この場に立っているだけで、相当にエネルギーを消耗しているのだろう。

 しかし、このままではいつまで経っても話が進まない。


 仕方がない。
 塩を贈るか。

 とは言っても、私に出来ることは、きっかけの水を向けることだけ。

「間桐さん?」

 促すように、問いかける。
 さて、この一言が、私にとって吉と出るか凶と出るか。

 私の言葉に、間桐嬢は頷く。
 私に向けられた視線に、感謝の意が込められていたと見るのは、自惚れか。


「衛宮先輩。
 最初に、いろいろなことについて、お詫びします。

 今日、こんな所で待っていたこと。
 あの時、ひどいことを先輩に言ってしまったこと。
 あれから今まで、連絡もしなかったこと。

 本当に、すみませんでした」

 そう言って、彼女は深く頭を下げる。

 それに対し、士郎はただ、首を横に振るだけだった。
 まだ、自分は彼女に話しかけることは出来ない、と思っているのか。


「その上で、厚かましいことは分かってますけど、聞いてください。
 私、今から先輩にいくつかお願い事をします。
 叶えてくれ、なんて言いません。
 でも、最後まで聞いていていただけますか?」

「……分かった、桜」
 彼が、大きく頷く。
 この場所に来て、初めて発した彼の声は、この上なく誠実だった。

 間桐嬢は嬉しそうに微笑み、それから大きく深呼吸した。
 両掌を組み、胸に当てる。


「じゃあ、ひとつ目のお願いです。
 氷室先輩と別れて、私とお付き合いしていただけませんか?」


 ……これはまた……

 願い、と言うには、あまりに直球過ぎる物言いだ。
 しかも、当の私を目の前にして。

 二年間培ってきた、彼への信頼に寄るものなのか。
 それとも、玉砕覚悟の体当たりか。

 ……いや、違う。
 彼女の目の光は……


「それはできない、桜」

 間桐嬢の願いが直球なら、士郎の答も迷い無きフルスイングだった。


「あれから、俺もずっと考えてた。
 《家族》なんて言葉で、お前をずっと閉じこめてたけど、
 俺にとってお前は、きっとそれ以上の存在だったんだと思う」
 間桐嬢の目をじっと見つめながら、士郎は続ける。

「でも、今俺が愛しているのは、鐘だ。
 氷室鐘が、俺にとって、一番大切な存在なんだ。
 桜、たとえお前であっても、この気持ちに嘘はつけない」


 ……喜びが、湧き起こってくる。

 二人きりのとき、『好きだ』とは何回か聞いたが、第三者の前で、きっぱり言ってくれたのは初めてだ。
 それも、私にとって恋敵である女性の前で。

 浅ましい女と言われようが、この喜びを消すことは出来なかった。


 しかし、彼は辛そうに顔を歪めている。
 当然だ。
 自分が大切にしている人の気持ちを、否定したのだから。
 彼らしい苦悩だが、それは……


「はい、わかりました」

 満面の笑みを浮かべた、間桐嬢の顔によって、かき消された。


「……桜?」

 あっけにとられる士郎。
 まあ、普通の反応だろうが、一歩後ろで双方の姿を見ていた私には分かる。

 あの願い事を口にしたとき、間桐嬢の目に期待の色は無かった。
 いや、あるいは多少は滲んでいたのかもしれないが、それよりも遙かに光るものがあった。

 それは、あえて言葉に直せば《決着》。
 今までの自分の想い、自分の立場、自分そのものに対する、区切りと言うべきもの。
 言わば道程標(マイルストーン)を設置し、新たな一歩を踏み出すための行い。


「今、先輩の恋人になることはあきらめます。
 氷室先輩といっしょにいる先輩を見てて、私の入り込む隙間なんて無いって、分かってましたし」
「……」

 目を白黒させながら、頭を掻く士郎。
 今まで、死にそうなほどに悩んだ分だけ、ギャップも大きいのだろう。

 しかし、その驚き故に、言葉の裏に隠された意味には気付かないようだ。
 いや、それは普段の彼であっても同じことか。


 ……《今》は、あきらめます、と来たか。


 ふと思ったのだが。
 彼女と私は、案外似ているのではないだろうか。

 物事を深く考えすぎる点。
 思考ばかりで、なかなか行動に移さない点。
 一度行動に移すと、徹底的に突っ走る点。
 策謀を巡らしながらも、行動は意外に単純、という点でも同じだ。

 ちなみに、極秘に入手した情報によると、スリーサイズも私と近似値であるという。
 ……どちらが勝っているか、士郎の前では言わないが。


「じゃあ、ひとつ目はこれでお終いです。
 二つ目のお願い、よろしいですか?」

 明るく笑っていた間桐嬢の顔が、表情はそのまま、目の光だけ真剣さを帯びる。
 士郎も私も、改めて背筋を伸ばした。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/18 19:18



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十五)





「先輩……
 私を、もう一度先輩の《家族》にしてください」

 間桐嬢の、二つ目の願いは、これだった。


「あのとき……私、すごく混乱してて……
 心にも無いこと言っちゃって……
 すごく後悔したんです。藤村先生のお宅で」

 少し俯きながら、彼女は言葉をつなぐ。

 『あのとき』とは、士郎の家で何かがあった、日曜の夜のことを指すのだろう。
 士郎も、その時のことを思い出しているのか。
 真剣な眼差しで、彼女の言葉を聞いている。

「……でも、あのときの私の言葉どおりでもあるんです。
 今、私には、本来の意味での家族はいません。
 でも、だからこそ……
 先輩といっしょにいられた二年間が、
 先輩が私のこと《家族》って呼んでくれた、その言葉が、
 私を支えてくれてたって、やっと気付いたんです」

 ……間桐桜嬢の兄である間桐慎二は、半年前から行方不明だ。
 他に、彼女に肉親があるという話も聞かない。
 彼女の言葉には、事情をよく知らない私にも感じる重みがあった。


「あのとき、遠坂先輩に言われたことについても、この五日間、ずっと考えてました。
 私、先輩に……
 《家族》っていう言葉に甘えて、
 ずっとぬるま湯に浸かってたんですね。
 今なら分かります」

 『ぬるま湯』という言葉に、士郎は肩をピクリと震わせた。

「それで……それでも、思ったんです。
 そんな、なし崩しな関係じゃなくて、自分の意思で……
 私が私であるために、改めて、先輩の家族になりたい、って。
 だから……」

 そして、間桐嬢は、深く頭を下げる。

「厚かましいことは承知してます。
 今さら、こんなこと言える出来る義理じゃないことも、分かってます。
 でも、お願いです。
 私を、もう一度《家族》にしてください。

 私のこと……そう、呼んでください」


 頭を下げた姿勢のまま、彼女は動かない。
 そのまま、どれほど時が過ぎたのか。
 それとも、何秒も経っていなかったのか。


「桜、それって、お願いすることじゃないぞ」


 クスリ、という笑い声に、間桐嬢は顔を上げた。
 私も振り返ると、そこには、困ったような、やさしく包み込むような、士郎の笑顔があった。

「してくれ、も何も、桜は最初から俺の家族だ。
 この間も言ったろう?
 少なくとも、俺はずっとそう思ってきたし、今もそうだ。
 桜も、そう思ってくれてるんなら、別になんの問題も無いじゃないか」

「先輩……」
 彼の暖かさに直に触れたかのように、間桐嬢が目を潤ませる。
 そんな彼女に、士郎は改めて向き直り、


「それに、お願いするのはこっちの方だ。
 俺も桜のこと、遠坂やイリヤに言われたことをずっと考えてた。
 確かに、俺は《家族》っていう言葉で、桜を縛りすぎてたんだと思う」

 彼の言葉には、微かに苦渋が滲み出ている。

「そう考えた上で、改めて思う。
 桜は、俺の家族なんだって。
 俺が大事にしなきゃいけなくて、俺を大事に思ってくれる、大切な人なんだって。

 だから、俺の方から頼む。
 桜。
 これからもずっと、俺の《家族》でいてくれ」

 今度は、士郎の方が真摯に頭を下げる。

「せ、先輩、やめてください、そんな……」
 あわてて手を振る間桐嬢。
 彼女は、しばらくおろおろと視線をさまよわせていたが、


「……分かりました。
 先輩が、そう言ってくださるんなら、確かに『お願い』することじゃないですよね。
 私、これからもずっと先輩の《家族》でいます。
 いやだ、って言っても、もう聞きませんよ?」

 深呼吸を一つすると、彼女は、それこそ桜の花のように笑った。

 その笑顔は、悔しいが同性の私から見ても、惚れ惚れするほど美しかった。


「誰もそんなこと言わないし、言わさないよ。
 これからもよろしくな、桜」

 それに答える彼の笑顔も、清々しく、あたたかだった。


「じゃあ、その家族の権限として、三つ目のお願いをしちゃいます。
 私、今日までは藤村先生のお宅に泊まりますけど、
 明日は朝一番で先輩の家に帰りますから。
 明日の朝食は、私に作らせてください」

「え?
 だって、明日の当番は俺だぞ?」

「いえ、五日間も留守にしてて、当番も放っぽってたんですから。
 お詫びの意味も含めて、私が作ります」

「そんなこと言ったって、この五日間、誰も来なかったから、料理もほとんどしてないし……
 だいたい、冷蔵庫にもろくな材料残ってないぞ?」

「あ、それなら大丈夫です。
 私、これからお買い物してから帰りますから。
 藤村先生のお宅に置かせてもらって、明日の朝、荷物といっしょに持ってきます。
 先生やイリヤさんも来るでしょうし、遠坂先輩にも連絡して、久々にみんなで食べましょうよ」

「なら、余計に大変じゃないか。桜一人には任せられない。
 よし、折衷案だ。
 明日は二人で作ろう。
 この間みたいに、抜け駆けはするなよ?」

「望むところです。
 先輩こそ、いつものように、土蔵で寝過ごしたりしないでくださいね?」


 絶妙の呼吸で、話を進めていく二人。

 ……そろそろ、限界だ。



「話がまとまって、良かった。
 二人の仲も修復したようで、目出度しめでたし、だな」


     パンパンパン


 と拍手をしながら士郎の隣に立ち、腕を彼の左腕に絡める。
 さりげなく、胸を押しつけることも忘れない。

 ついでに、彼の左手の甲を、思いきりつねってやった。

「いっっ!!
 か、鐘!?」

 驚き、慌てたように、私を見る士郎。


 だが。

 たとえ、《家族》で《妹》であるとは言え、
 ここまで息の合ったイチャイチャ振りを、延々と見せつけられて来たんだ。

 《恋人》として、これくらいの悋気は当然だろう?衛宮士郎。


「で、間桐さん。
 君の『お願い』も、もう終わりかな?」

 そろそろ、こっちの身が持たないんだが、というニュアンスを、言外に含ませる。

 少し寂しげながらも、口に手を当てて笑いを堪えていた間桐嬢は、私の言葉に、


「氷室先輩。ずっとわがまま言って、申し訳ありません。
 あとひとつだけ、よろしいですか?」

 そして彼女は、改めて私たち二人に向き直った。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/20 18:43



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十六)





『あとひとつだけ、よろしいですか?』

 と言う、間桐桜嬢の真摯な表情に、私は士郎の腕に絡めていた手をほどいた。
 だが、先ほどのように後ろに下がったりはしない。

 何も、所有権を主張しているわけではない。
 今までの『お願い』と違い、これは私も正面から聞くべきことだと判断したからだ。


 間桐嬢は、最初の願いのときと同じように、胸の前で掌を組み、大きく深呼吸する。
 そして、


「先輩。
 好きです。」


 あらゆる感情を込めた目で、そう告げた。


「初めて会ったときから…
 初めて私の作ったおにぎりを食べてくれたときから、ずっと好きでした。
 あれから二年間、先輩だけを見て過ごしてきました」

 間桐嬢は、胸の前で組んだ掌を きゅっ と握りしめる。

「けど、それは許されないことなんだって、いつも自分に言い聞かせてました。
 私なんかが、先輩を好きになっちゃいけない。
 こんな私が、先輩の隣にいる資格なんか無いって。
 ただ、そばにいられて、ときどき微笑んでくれるだけで、分不相応なほど幸せなんだから、って……」

 士郎が、思わず何か叫びそうになり、 ぐっ と飲み込む。
 そう。
 まだ、彼女の話は続いている。


「でも……
 セイバーさんとのことがあって、氷室先輩とのことがあって、
 イリヤさんや遠坂先輩に言われたことを、ずっと考えて……
 それで、気付いたんです。
 『資格』なんかで諦められるのなら、こんなに苦しまない、って」

 そう言って彼女は、もう一度、彼を《あの眼差し》で見つめた。


「先輩、好きです。
 二年間も黙っていられた自分が、馬鹿に思えるほど。

 先輩が一番好きなのは、氷室先輩だって分かってます。
 でも……」

 おそらく、無意識なのだろう。
 彼女は、士郎に向けて、一歩、歩を進めた。


「先輩のこと、好きでいさせてください。
 お付き合いしてください、なんて言いません。

 二年間、先輩のことを好きでいた私が、先輩が知っている私でした。
 だから……
 私が、これからも私のままでいられるように……

 ずっと、先輩のこと、好きでいさせてください」


 打算も思惑も、微塵も感じられない、
 正真正銘の、真心の発意。

 間桐桜の愛情は、私にすらストレートに響いた。


 そして、それに対し士郎が何か言う前に、


「これは、お返事していただかなくていいお願いです。
 私が勝手に決めて、勝手に思ってるだけですから。
 つまり、何が言いたいかっていうと……

 今までどおり、よろしくお願いします」


 場の雰囲気を暗くしないためだろう。
 彼女はまた、桜花のように微笑み、ぺこりと頭を下げた。


 そんな彼女の振る舞いに、
 士郎は、眼差しのみで答えた。

 首を縦に振ることも、横に振ることもしない。

 彼女が言うとおり、返事をして良い願い事ではない。


 ただ、受けとめる、と。
 彼女の想いを、
 覚悟を、
 ありのままに受け入れ、背負ってゆく、と。

 その眼差しは、告げていた。


 間桐嬢にも、その誠実は充分に届いたのだろう。
 瞳を潤ませ、もう一度、組んだ掌を自分の胸に押しつけた。


 ……全く。

 胸に感じる嫉妬すらも清々しいとは、この二人はどういう関係なのだろう。

 本当の《家族》でも、これほどの絆はあるまい。
 いや、たとえ《恋人》であっても、私はこの領域まで近づけるのだろうか。

 そんなことを思ってしまうほど、彼女と彼の間にある信頼はうらやましく、
 微笑ましかった。



 とにかく、これで士郎を苦しめていた問題の《一端》は、解決したと見て良い。
 彼も、この五日間のようには、悩まなくとも済むようになるだろう。

 だが。
 その他の、いや、彼の根本に関わる問題は、一朝一夕で答の出るものではない。

 それは、ひょっとしたら彼自身が、一生をかけて突き詰めていく問題。

 その道程を思うと、私ですら目眩を憶えるが。
 今度の出来事は、きっと彼にとってプラスに働いてくれるだろう。


 ……そう。
 今度のことは、私にとっても、私と彼の関係にとっても、プラスになったと思う。

 何よりも、彼のことをより知ることが出来た。

 彼が持つ歪みを、悩みを、私自身の体に刻みつけることが出来た。
 そして、それに対して私が何をすれば良いのか、考える機会を与えてくれた。

 その答は、彼同様、すぐに出るものではないけれど。
 答を追い求めなければならない、と教えてくれただけで、私にとっては、本当に感謝すべきことだったのだ。


 彼のために、考えることが出来るのだから。
 それがすなわち、私のことを考えることになるのだから。

 彼といっしょに歩める道を、探せるのだから。



 私は、妬心を抱きつつも、ある意味、惚れ惚れと二人の絆を見つめていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十七)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/22 20:48



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十七)





「これで、私のお願いはおしまいです。
 長々と聞いてくださって、ほんとにありがとうございました」

 間桐嬢がもう一度、ぺこりとおじぎをする。
 想いのたけは全部伝えた、という満足感からだろう。
 その笑顔は清々しかった。


「ああ。
 じゃ、えっと、帰るか。
 もうすっかり暗くなって…、と……」

 歩き出そうとした士郎が、ふと足を止めた。
 私の顔を見、間桐嬢の顔を見て、それから腕を組んで、なにやら考え出す。
 視線は時折、新都の方向や、深山町の方角を向く。

 いったい何を……
 ああ、なるほど。


 要するに彼は、私と間桐嬢を、どうやって送っていこうかで悩んでいるのだ。

 もともと彼は、私を送るためにここまで来た。
 しかし、この新都公園からなら、私の家は橋を渡って程近い。

 対して、間桐嬢が現在住んでいるのは、藤村教諭の自宅。
 ここからだと少々距離がある。
 だが、歩いて帰れないことはないし、バスに乗っても良い。

 だいたい、暗くなっているとは言え、陽の一番短い時期のことだ。
 いくら私たちが女性であっても、送ってもらうような時刻でもない。


 しかし彼には
 『暗くなったら女性は自宅まで送り届けなければならない』
 という信念があるらしい。

 過保護の父親でもあるまいに、と呆れるが、
 同時にそんな彼を微笑ましく思うし、その気持ちを嬉しくも感じる。


 だが、彼の信念に従うとするなら、確かにこれは難題だ。

 私を、当初の予定どおり送っていくか。
 そうなると、せっかく仲直りしたばかりの間桐嬢を一人で帰すことになる。

 では、《家族》の方を送るか。
 それでは、ここまで送って来た《恋人》に対し、義理も人情も欠いてしまうだろう。


『三人で新都へ行き、私を送り届けた後に、間桐嬢を深山町まで送る』

 という案も、無いではないが、
 それこそ机上の空論だ。

 たった今この場で『好きです』宣言をした女性を、恋人との道中に同行させる。

 いくら彼でも、そんな好んで血を見るような選択をするはずが……


「……あのさ、鐘…?」
 士郎が、実に言いにくそうに頭を掻きながら、私を上目づかいに見る。


 …………前言撤回。

 彼は正に、今、私が否定したそのとおりの案を思いついたようだ。

 全く。
 彼は、この五日間の経験で、本当に学習したのだろうか?
 いや、一応は済まなそうに、私にお伺いをたててくる辺り、成長したと言えなくもないのかもしれないが。


 間桐嬢は、今にも私を拝みそうな士郎と、額に掌を当ててうつむく私を交互に見比べ、くすくす笑っていたが、

「氷室先輩。
 申し訳ありませんが、このあとお時間ありますか?
 二人きりで、お話をしたいんですけれど」

 そんな言葉で、士郎の悩みを解消した。


「え、桜……?」

 驚きの声は、士郎から。
 私は、

(やはり……)

 と、内心で深く頷いていた。


 間桐嬢が、今この場にいるのは、過去の自分と区切りをつけ、未来に向かって改めて歩き出すためだ。

 衛宮士郎に関しては、その区切りはついた。
 残るは、私という存在。

 五日前。士郎の部屋の前で、彼女は逃げるように立ち去った。
 以来、全く接点の無かった私に対しても、新たな一歩を踏み出さなければ、間桐桜の目的は達せられない。


「いいとも。
 私も、間桐さんと少し話をしたかったところだ。
 喜んでおつきあいしよう」

 だから私も、笑みを浮かべて答えた。

 私にとっても、これは避けて通れない道だ。
 彼女の方から切り出してくれたのは、正直言ってありがたい。


「ありがとうございます、氷室先輩。
 そんなわけですから先輩、すみませんけれど、先に帰ってていただけます?」
 間桐嬢が、にっこり笑って士郎に告げる。

「あ……、いや、でも…。
 あ、なんなら俺、話が終わるまで、あっちで待ってようか?」
 狼狽する士郎。


 それはそうだろう。
 恋敵同士である、自分の《恋人》と《家族》が、この暗い中、二人きりで話をしようと言うのだ。
 間に立つ男性として、これほど気がかりなシチュエーションは無い。

 しかし。

「いえ、ちょっと長くなるかもしれませんし、氷室先輩とゆっくりお話したいんです。
 本当に、申し訳ないですけど……」

 言葉は丁寧だが、

『アンタがそばにいると、落ち着いて話せないのよ』

 という意味だ。


「うーん……
 でも、ここは暗いし人通りも無いし。
 それに、鐘と桜を、一人で帰らすのはなあ……」

 送るのにかこつけて、あくまで私たちを二人きりにさせまいとする士郎。
 ……いや、ひょっとして彼のことだから、純粋にそっちの方を心配しているのか?


 何にせよ、このままでは埒が明かない。
 なので、私が助け船を出す。

「ならば、大橋のたもとのバス停で話そう。
 あそこなら、車通りも多いから、変な輩も現れないだろうし、
 話が終われば、私たちはそれぞれのバスに乗って帰れば良い」

「あ、それいいですね。
 先輩、それなら心配じゃないでしょう?」
 私の提案に、間桐嬢が即座に乗る。

 それで、士郎には表だって反対する理由が無くなった。


 しぶしぶ頷いた彼は、私たちをバス停まで送ってくれた。

「いいか、話が終わったら、寄り道したりしないで真っ直ぐ帰るんだぞ。
 それと、何かあったらすぐに連絡しろ。飛んでくるから。
 分かったな?」

「まったく君は。
 実の父でも、それほど過保護ではないぞ?」
 呆れる私の横で、間桐嬢も口に手を当てて笑っている。
 だいたい、『連絡しろ』と言ったって、君は携帯電話も持っていないじゃないか。


 彼は、なおも未練がましそうに何度も振り返りながら、もと来た道を帰ってゆく。
 そんな彼を、手を振って見送った私たちは、
 彼の姿が見えなくなると、同時に視線を合わせた。


「ここでは話しづらいな。少し動こうか」
「……そうですね」

 終点に近いとは言え、バス停だ。いつ誰が来ないとも限らない。
 そんな所で、これから始まる話をするのはうまくない。

 私は先に立って、歩道を新都の方向に向かって歩いた。
 あとから間桐嬢が付いてきているのは、気配で分かる。


 バス停から50メートルほど歩いたところで、私は振り返った。
 そこは、街路樹の茂り具合で、周りからの視線を遮ってくれている。

 間桐嬢も、歩みを止める。
 私との距離、2メートル弱。
 このような話をするには、ちょうど良い距離だ。


 まだ宵の口の幹線道路。
 車はひっきりなしに大橋を渡ってゆく。

 向かってくる車のヘッドライトのせいで、間桐嬢の顔は影になって見えづらい。
 向こうから見れば、私の顔は始終光に照らされ、眼鏡が光って見えていることだろう。


 光と影の合間を縫って、彼女が微笑んでいるのが分かる。

 私も彼女に倣い、決意と挑戦を込めた微笑を浮かべた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十八)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/06/24 18:38

     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十八)





 車道を、数え切れないほどの車が通りすぎてゆく。
 彼女と対峙して、どのくらい時が経っただろう。

 彼女は、言葉を発さない。
 もちろん、私から話しかけたりもしない。


 『人生、先出し』
 を座右の銘にしている女傑もいるそうだが、
 その伝で行けば、私は圧倒的に『後出し』派だ。

 まず、受ける。
 相手の手、呼吸を把握し、そこから己の動きを作ってゆく。
 どのような《闘い》も、私はそうして潜りぬけてきた。

 ……それを思えば、自分から衛宮士郎にアプローチし続けたあの一件は、
 我が生涯における唯一の例外であるのだろう。


 彼女、間桐桜も、『先出し』派には見えない。
 思えば、先ほどの士郎との問答も、私と彼の交際に対する、彼女なりの返答とも言える。

 多分に推測が入るが、私に会見を求めたこの行動は、
 ひょっとして彼女にとって初めての能動的行為だったのではないか。


 その、もしかしたら初めての『先出し』を行った彼女は、微笑んだままこちらを見つめている。
 こちらの《先手》を促すように。

 もちろん、それに乗る義理は無い。
 会見を求めたのは彼女だ。
 ならば、彼女から話を切り出す義務があるのが道理。


 根比べにしびれを切らしたのか。
 いや、おそらく予定の範囲内だったのだろう。


「……私、負けませんから」


 間桐嬢は、確定事実を告げるような声音で、呟いた。


 ……先ほど、

『彼女と私は、案外似ているのではないだろうか』

 という感想を、ふと抱いたが、
 改めて考えてみると、それは半分は合っていて、半分は間違っている、と言うべきだろう。

 思索や行動パターンは、似てはいる。
 しかし、私が意識的に思考を練り上げ、策を構築してゆくのに対し
 彼女は半ば無意識にそれを行っているように見える。

 それは、《直感》や《思いつき》などとは違う。
 要するに、答に辿り着くまでの道程を、自分で意識しているかしていないか、の違いだ。
 どちらが良い、悪い、ではない。
 もはやそれは個性の問題に属するだろう。


 とにかく彼女は、絶妙の間で、絶妙にストレートな先手を打ってきた。

『私、負けませんから』

 ジャブとしては完璧だ。
 間合いを正確に測ることが出来、貫通力もある。
 おそらく、私が彼女でも、同じ間で同じ語を発するだろう。


 士郎なら、それに対し、素直に直球で返すのだろうが、私としてはそれでは面白味に欠ける。
 なので、少しひねりを加えてみた。

「ふむ…。
 何に対して『負けない』と言うのかは、問うだけ野暮だが……
 私の想像どおりだとすると、間桐さん、その物言いは、的がずれていないかね?」

「?」
 小首を傾げる、間桐嬢。
 会話をスムーズに運ぶための、ワンアクションだ。

「君が、士郎との交際について言っているのなら、彼の現在の恋人は、私だ。
 彼も、先ほど言っていただろう?
 『氷室鐘が、俺にとって、一番大切な存在なんだ』
 と。
 ならば、君の言う《勝負》は、すでに着いているのではないかな?」

 ジャブに対し、少し強めのジャブを返す。
 タイミングが良ければ、カウンターにはなり得る。

 実際、言葉どおりに私がそう信じているわけでは、もちろん無い。
 特に先ほど、《家族》としての二人の絆を見せられた今となっては。


 その言葉に対し、間桐嬢は素直に頷いた。

「そうですね。
 ちょっと、言葉が足りませんでした。
 ですから、言い直します。

 氷室先輩、
 次は、負けません」


 私の言葉に全く動揺せずに、彼女は言葉を繋ぐ。

「確かに先ほど、あの人は言ってました。
 氷室先輩が、一番大切だ、って。
 でも、こうも言ってましたよね。

 『《今》、俺が愛しているのは、鐘だ』
 って」

 ……士郎の言質を武器にした私に対し、同じ武器で返してくる。
 本当にこの少女は、相手として歯応えがある。


「氷室先輩もご存じでしょうけれど、衛宮先輩には以前、好きな人がいました。
 私は、その人とほんの少ししか、会ったことはないけれど……
 お二人が、本当に信頼し合い、心をゆだね合っているのが、見ていて、痛いほど分かりました」

「……」

「その人は、半月も経たずに先輩の元からいなくなってしまった。
 どんな理由があったのか……私には分かりません。
 でも、先輩はあの人を愛していた。
 心から、愛していた。
 それだけは、私にも分かります」

「……」

「それが、今年の冬。
 そして、半年経って、衛宮先輩はあなたを愛し、付き合い始めた。
 なら……

 同じことが起こる、と期待するのは、おかしなことでしょうか?」


 ……士郎が、かつて愛したという女性のことは、士郎自身から聞いている。
 確か、名を《セイバー》と言ったか。

 もっとも、きちんと経緯を説明してもらったわけではない。
 だが、言葉の端々からも、その女性に対する彼の想いは伝わってきた。

 それほど愛した女性と別れ、それから半年で私と付き合うようになった。
 ならば……


「……間桐さん」
 私は、知らず諭すような口調になっていた。

「気持ちは痛いほど分かるが、それはいささか不用意な発言だ。
 それでは、結果的に彼を侮辱することになってしまう」

「……」

 自分でも分かっていたのだろう。
 間桐嬢は、申し訳なさそうに俯いた。

「彼がどれほど誠実な人間かは、むしろ付き合いの長い君の方がよく知っているだろう。
 彼は以前、その人について言っていたよ。
 『忘れたって意味じゃなくて、綺麗に別れたからな』
 と。
 本当に自然な、穏やかな笑顔だった」

 初めて彼と昼食を共にしたときの、あの屋上を思い出す。

「彼がそう言うのなら、その言葉のとおり、その人とは未練無く別れたのだろう。
 それについては、たとえ私たちでも口出しをして良いことじゃない」

「……すみません」
 彼女は、しょんぼりと俯く。
 そのまま、先ほどまでの強気が嘘のように、押し黙ってしまった。


 ……こういうところも、彼女と私の違う所だ。
 私ならば、反省は反省として、勝負は続行するだろう。
 もっともこれは、性格の違いと言うよりは、人付きあいの場数の差、
 もっと言えば、生い立ちも含めた生活環境による違いだろう。

 とにかく、対戦相手がオウンゴールで自滅しては、勝ちにはなるが決着にはならない。
 なので、私は話を元に戻した。


「それに、その『セイバー』さんと私を比べるのは、筋違いだぞ?
 その人と士郎は、愛し合い、そして未練も無く別れた。

 しかし私は、彼と別れる気など毛頭無い。
 士郎と私が、未練無く終わるときがあるとしたら、ただ一つ。
 終生添い遂げ、死が二人を分かつときだけだ」


 そう。
 それは、ブラフも間の取り合いもない、掛け値無しの私の本音。


 初めてのデートのとき、私は彼に言った。

『少なくとも私は、その、なんだ。付き合ったからには、添い遂げたいと思う』

 そのデートの最後。
 私は、この新都大橋の川を挟んだ反対側で、彼に抱きしめられ

『氷室、好きだ』

 と言われた。

 そして私たちは《エンゲージ》を交わし、付き合い始めた。

 同時に、彼に抱かれながら、私は思ったのだ。
 昼間の言葉を、願望にはしない。

 『終生、この男と添い遂げてみせる』

 と。


 それは、彼にも話したことの無い、私だけの《エンゲージ》。

 《誓い》と《願い》の区別も分からぬ、子どものたわごと、
 と、笑わば笑え。

 その《エンゲージ》は、彼のことを知るにつれ、強固になりこそすれ、衰えなど微塵も無い。
 それはすでに、私自身の一部分となっているのだ。


 私の喝が功を奏したのか、俯いていた間桐嬢に、目の光が戻った。
 私に一礼したのは、感謝の表れか。

「……そうですね。
 なら私も、ずっと思ってたことを、今ここで、言葉にして誓います。

 衛宮先輩と、ずっといっしょにいます。
 ずっとずっと、そばを離れません」

 そして彼女は、にっこりと笑った。


「……こう言える勇気をくださったのは、氷室先輩です。
 前に、遠坂先輩に言われたんです。

 『現に、氷室さんは気付かせた。
 この馬鹿に気付かせるくらいですもの。きっと、10回は死ねるくらいの勇気を振り絞ったんでしょうね』
 って。

 衛宮先輩を意識して一ヶ月足らずの氷室先輩が、そこまで勇気を出したんですもの。
 私が出せない言い訳なんて、ありませんよね」


 ……やれやれ。
 遠坂嬢も余計なことを。

 今振り返ってみれば、確かにあの時は、それくらいの勇気を振り絞った気もするが。
 正直、自分が何をしているのか分からなかった、と言う方が正しい。

 ともあれ、結果的に私の行為は、最強のライバルを私自身が育ててしまったことになるのか。


『因果』

 とは古い言葉だが、実にうまいことを言ったものだと思う。
 一つの行為がひとつの原因となり、それによって生まれた結果が、また一つの原因となる。

 だから人生面白い、
 と、達観できるほど老成はしていないつもりだが。


 とにかく、
 ライバルの復活を前に、私の心は何故か爽快感に満ちていた。

 目の前の彼女の心も、おそらく同じだろう。



 私たちは、流れる車のヘッドライトに照らされながら、
 笑みを浮かべつつ、いつまでも見つめあっていた。





     ―――――――――――――――――――



   【筆者より】


 Nubewo様お休みの間、

『士郎くんと鐘ちゃんのイチャイチャが書きたかったから』

という理由で始めたこの企画。

 気付けば筆者もビックリの、どろどろの愛憎劇になっていました。
 何故だ。

 とにかく、この回で一応、区切りがつきました。
 次回から、今度こそイチャイチャを、《イチャイチャ》を!!
 書きたいと思っております。

 そんなわけで、(多分に筆任せの感はありますが)
 もうしばらくは続く予定ですので、
 お付き合いの程、よろしくお願いします。



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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/03 15:45



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ一)





「そう言えば、以前に尋ねかけたままだったのだが……」
 私は、隣を歩く士郎を見た。

「君の一番の記録は、いくつだったんだ?」
「へ?」

 間の抜けた声を出して、士郎が振り返る。
 まあ、突然こんな問いをされれば、当然か。



 いつもどおりの帰り道。
 彼は相変わらず、バイトも無いというのに部活動終了まで私を待ってくれていた。
 とても嬉しいが、同時に申し訳なくも思う。
 何度かそう言ったのだが、彼は

「そんなに済まなそうな顔をされると、こっちが困る。
 俺は、鐘といっしょに帰りたいから、待ってるだけなんだからさ」

 いつもこう言って、変わらぬ笑顔を見せるのだ。
 それが、こちらへの気遣いでなく、本気で言っているのが分かる。
 だからこそ、余計に申し訳なく、しかし、無性に嬉しかった。

 しかし、その申し訳なさも、あと数日で終わる。
 その事実は、ほっとするような、少し残念なような、複雑な感慨を抱かせた。


「……しかし、士郎。
 待ってもらっている私が言えることではないが、いくらなんでも、今日のアレは無いだろう。
 せめて、前もって言っておいてくれれば……」

 私は少し恨めしそうに、彼を見る。
 頬が熱くなっているのも、自覚できる。

 その士郎は、頭を掻きながら、こちらに済まなそうな目を向ける。

「いや、ゴメン。
 ちょうど、生徒会の手伝いも無かったし、いっぺん近くで見てみたいと思ってたんだよ。
 まさか、鐘があんなに動揺するとはなあ……」


 そう。
 今日、彼はどんな気まぐれか、校庭の隅に立ちながら、陸上部の、
 いや、私の練習風景を、じっと見ていたのだ。

 目立たぬ所に立っていたから、最初は私も気付かなかった。
 私が気付いたのは彼ではなく、下級生からの視線と、ひそひそ声だ。

 こちらと、校庭の一角を見比べるような目。
 それと、


(……あれが…)
(……氷室先輩も)
(へえ、意外と……)


 という、切れ切れに耳に入ってくる言葉。

 集中できないだろう、と下級生を一喝しようとして、
 その視線を手繰り、やっと彼に気付いた。


「………」
 絶句する私と、

「―――」
 無言で手を振る士郎。


     きゃー


という抑えた悲鳴が、下級生から上がる。

 その下級生たちの動揺は、蒔寺と由紀香が治めてくれたが、
 私の動揺は、誰も治めてくれなかった。


 気付いたのが、部活動も終了間際の頃だったから良かったものの、もし初めから分かっていたら、今日一日、練習にならなかっただろう。

 なにしろ、ハイジャンプの最後の一本など、盛大にバーを蹴飛ばしてしまい、

「4メートル72」

 蒔の字に、バーが飛んだ距離を正確に測られてしまったくらいだ。


「だから、ほんとに悪かったって。
 いつも、備品を修理したりしながら、校舎の中から見たりはしてたんだけどさ。
 鐘の練習してる姿を見られるのも、あと少しだろ?
 だから、つい、な」

 ……まあ、彼の言うとおりではある。
 12月に行われる、今シーズン最後の陸上競技会は、六日後に迫っている。
 私たち三年生にとっては、最後の大会だ。

 いや。

 本来ならば、三年生は夏の大会で引退しているのが普通なのだ。
 現に、穂群原の陸上部でこの競技会に出場する三年は、私と蒔寺だけだ。
 依然マネージャーとして現役の、由紀香を加えれば三人か。

 ふとした偶然で始めた陸上競技ではあるが、三年間、それなりに全力を尽くした、という自負はある。
 その最後を締めくくる大会だ。
 自ずと、気合いも入る。


「その、最後の調整を、俺が乱しちまったんだからな。
 ほんと、ゴメンな」

 ……そんなにも真摯に頭を下げられては、こちらもこう言うしか無いではないか。

「……そこまで気にしなくてもいい。
 大会まであと六日、とっくにクールダウンの時期だ。
 むしろ、無用の緊張がほぐれた、とも言える」

 ますます頬が熱くなるのを自覚しながら、私は続ける。


「それに……
 正直、嬉しくもあった。
 誰かに見守られつつ、何かを行うというのは……わ、悪く、ない……」

 ……しばらく、無言で俯きながら、坂を下る。
 横目で ちらり、 と彼を見ると、

「……」

 彼も、顔を赤くしながら、頬を掻いていた。


「そ、それでだ、士郎」
「あ、ああ。なんだ?」

 空気を変えるため、ムリヤリに話題を移す私に、士郎も即反応する。

「先ほども言いかけたが……
 君の最高記録は、いくつだったんだ?」
「へ?」

 さっきと変わらず、間の抜けた声を出す士郎。


 やれやれ。
 これでやっと、始めに戻ったわけだ。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/05 21:14


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ二)





「以前、帰り道に尋ねたことがあったろう?
 君はこの学園に進学する前、ハイジャンプをやっていたというじゃないか。
 その時の記録は、どのくらいだったんだ?」
「ああ、その話か」

 そう、まだ私たちが付き合い始めていなかったとき。
 私が、半ば無理やり、彼との下校をセッティングしていた時に出た話題だ。
 あのときは、私の情緒不安定により、答を聞き逃してしまったのだが……


「あとで、陸上部の仲間にも聞いてみたが、君の逸話は、半ば伝説になっているそうじゃないか。
 なんでも、決して越えられるはずのない高さのバーに、陽が暮れるまで挑戦し続けたとか……」

 実際に見た者が、どれほどいるかは分からない。
 が、その挑戦し続ける姿を見て感動したあるランナーがスランプを脱出、インターハイで新記録を出した、などという、おまけの伝説まで聞かされた。

 そう言われて、彼は頭を掻く。


「伝説とか、そんなおおげさなもんじゃないと思うんだけど……
 ……うーん。
 以前、同じことを、他のヤツにも言われたんだけどな」

 こちらを見る彼の瞳は、本当に困っているようだった。

「正直、そんなことあったっけ?っていうのが本音なんだよな。
 あの頃って、いろんなことに馬鹿みたいに挑戦しててさ。
 走り高跳びも、やった憶えはあるんだけど……」

 満足にバーを越えられた記憶も無いし、ましてやそんな伝説など、どこの話だ、という感覚らしい。


 彼らしい、と内心で微笑みつつ、
「ほう。
 では、なぜその時期に、ハイジャンプだけでなく、様々なことに挑戦したのかな?」

「いや、その頃にちょうど爺さん……義理の親父が死んでさ。
 今思えば、焦ってたんだよな。
 早く爺さんに追いつきたい、って」

「……」

 さらり、と。
 なんでもないことのように、彼は言う。

 が。

「……すまない。
 興味本位で尋ねて良い話題では無かった」

「?
 なんでさ?」

 顔を暗くする私に、彼は本当に不思議そうに尋ね返す。

 ……なんでもないことのように、ではない。
 彼にとっては、これは本当に『なんでもないこと』なのだ。
 誰にはばかることのない、彼にとっての事実であるのだから。


 そんな彼の、無意識の善意に甘え、私は話を戻した。

「では、記録もきちんと測ったことが無い?」
「ああ。
 真剣に競技をやってる人には申し訳ないんだけどな。
 ベリーロールも、背面跳びのやり方も知らなかった。
 いつも正面跳びで、今日の鐘みたいに、バーを蹴っ飛ばしてばっかりいたよ」
「……また君は、そういうことを言う……」

 いくら話を戻したからと言って、そこまで戻すこともないじゃないか。

「ははは、ゴメンゴメン。
 でもさ、今日、じっくり見てて分かったけど、鐘って、ここぞというときは正面跳びなんだな」

 笑いながら彼は、なかなか鋭いところを突いてくる。

「……ああ、そうだな。
 確かに私は、数ある跳び方の中で、正面跳びを最も多用する」


 実際、部活動レベルの競技会に置いては、正面跳びが見られる機会はまず無い。
 あれは、まだクッションが未発達の時代、安全に着地できるように考案された跳び方だ。

 以前、士郎に言ったとおり、正面跳びはベリーロールや背面跳びに比べ、バーを越えるときの重心が高い。
 故に、エネルギーロスも大きく、近代陸上には不向きとされている。

「だが、いろいろな跳び方を、いろいろな場面で試してみて、分かった。
 私に相応しいのは、最も馴染むのが《正面跳び》だと」

 由紀香もそうだが、私はもともと、文化系の人間だ。
 それが、ふとしたきっかけで陸上競技を始めるようになった。
 そのとき、私は思った。
 ストイックに記録のみを追い続けるより、
 《三年間を全力で楽しみながら》勝つ道を見つけよう、と。


「他の跳び方も、しないではない。
 だが、自分自身に最も合う技法で、自分の限界に挑むことこそ、私に似合っている。
 ……三年間、そう思ってきたし、その考えは、今も変わらないつもりだ」

 先輩たちに、跳び方を変えるよう言われたこともある。
 だが、学園卒業後もこの競技を続ける意思の無い私にとって、

 《本気で楽しい陸上競技》

こそが、目標だったのだ。

 そして三年間、その想いはほぼ達成された、と自分では思っている。


 ……そんな私の、青臭い理想話を、彼は真剣に、やさしい目をしながら聞いてくれた。

「そうだな。
 記録とか技術とか、難しいことは俺には分からないけれど、
 三年間見てきて思うよ。
 正面跳びが、鐘に一番似合ってる、って」

 穏やかな口調で、私を肯定してくれる士郎。
 嬉しさに、思わず頬がゆるむ。

 ……待て。
 『三年間見てきて』?


「あれ、言わなかったか?
 俺、一年のころから、陸上部の練習は、けっこうよく見てたぞ」

 きょとんとした顔で、士郎はとんでもないことを言った。

「まあ、だいたいは学園の備品を修理したりしながらだけどな。
 他の部活も見てたけど、なんでか知らないが、陸上部が一番面白かった。
 それも、やっぱり自分が少しでもやってたからかな。
 走り高跳びに、自然と目が行ってた」

 こちらの気持ちも知らぬげに、淡々と続ける士郎。

「その中でも鐘の、あ、いや、当時は名前と顔もろくに一致してなかったけど、
 灰色の髪の女の子が、やけに目についてさ。
 本当に、楽しそうに跳ぶなあ、って。
 だから俺、鐘の顔はけっこう前から知って……

 ……って、鐘?」

「……」


 ……ここまで、人の気持ちをかき乱す台詞を連発しておいて、なぜこの男は、のほほんと、
 心配げにこちらの顔を覗き込むのか。

 こちらは、顔の温度と呼吸の調整に手一杯で、まともに歩を進めることさえ覚束ないというのに。


「…えっと……
 俺、また何かやったか?」
「……いや。
 単に、君が君であることを、私が再確認しただけだ。
 何も心配はいらない。だから、頼むからそう顔を覗き込まないでくれ」

 必死に顔をそらしながら、私は言葉を絞り出す。

 数回の深呼吸をしているうちに、いつの間にか大橋を渡り、私の家があるマンションにたどり着いていた。


「……ではな、士郎。
 毎回のことだが、送ってくれてありがとう」
「ああ、お疲れさま、鐘。
 きちんと疲れ抜けよ」

「調整にヘマはしないさ。
 万全の体勢で、競技会に臨んでみせる」
「……」

 私の表情から、何を読み取ったのだろう。
 微かに眉をひそめた彼は、すでに闇に沈んだ周りを見回すと、


「!」


 瞬間的に体を寄せ、私の口に唇を重ねてきた。

「――― し、しろう!?」

 無論、口づけなど初めてではないが、予備動作無しに行われると、さすがに狼狽する。
 慌てふためく私を見て、彼は、

「どうだ、肩の力、抜けたか?」

 いつもの笑顔で、問いかけてきた。


「……」

 言われて、気付いた。
 体が、軽くなっている。
 軽くなって初めて、私は緊張していたのだと、
 来るべき競技会に向けて、必要以上に力が入りすぎていたのだと、気付いた。

「……全く、君は」

 苦笑、いや、感謝の笑みか。
 私は自然と微笑みながら、彼を見つめた。


「ありがとう、士郎。
 改めて言おう。
 最後の競技会も、全力で楽しむ、と」

「ああ。
 俺も楽しみにしてるよ。
 鐘が楽しそうに跳ぶ姿。

 じゃあな、お休み、鐘」

「ああ。
 お休み、士郎」


 去っていく彼が交差点の向こうに消えるまで、いつものように見送る。

 無意識に、指を唇に持って行く。

 ……今夜は、きっとぐっすりと眠れるだろう。
 できれば、楽しい夢が見られますように。

 そんなことを思いながら、私はエレベーターのボタンを押した。





 そして、その夜半。
 私は、激烈な背中の痛みに、目を覚ました。





    ――――――――――――――――――



【筆者より】

 氷室鐘の、走り高跳びに関する姿勢は、

   TYPE-MOON 公式コミカライズ
   『氷室の天地』(磨神映一郎 一迅社)

の設定を参考にさせていただきました。



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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/07 20:30


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ三)





「《尿路結石》?」
「……ああ」

 息を整えつつ聞き返す士郎に、私は布団から目だけを出し、うなずいた。




 尿路結石。

 読んで字のごとく、尿路系に石が結晶する病気だ。
 発症すると激痛を伴い、血尿、排尿不全等につながる。

 壮年男子や更年期を過ぎた女性に多い病気だが、近年、若い女性の間でも増加傾向にあるという。
 ただ、その原因の多くが、糖分や脂質の取りすぎにあるそうで、そのどちらも過度には好まない私が発症したのは、もう体質としか言いようが無いらしい。

 全く、父系にも母系にも、尿路結石の発症者などいないというのに……




 ベッド上に体を起こし、そんな話を両親としていたら、ノックもそこそこに、いきなり士郎が病室に飛び込んできたのだ。

「っか、鐘!
 だ、だい、じょう…ぶ、か!!?」

「……
 !!」

 一瞬、呆然とした私は、次に自分の格好に気付き、あわてて布団に潜り込んだ。
 いくら士郎とはいえ、いや、士郎だからこそ、愛用のパジャマ姿など見られたくない。
 ……ちなみに、クマ柄だ。

 しかし士郎は、そんな私の混乱に全く気付かず、ベッド際に走り寄ってきた。

「怪我か?病気か?
 熱は?意識ははっきりしてるみたいだけど、どっか痛いところは……!?」

 息せき切って走ってきたのだろう。
 呼吸を整えもせず、矢継ぎ早に質問を重ねてくる。

「ま、待て、落ち着け士郎。
 だ、大丈夫だ。
 今のところ、体にまったく問題は無い。
 だ、だから……」

「本当か?
 なんか、顔が赤いぞ。やっぱり、熱が高いんじゃ……」

 あ、当たり前だろう。
 そんなに息を荒くしたまま、のしかかるがごとくに覗き込まれてみろ。
 ……ま、まあ、決して不快なわけでは無いのだが…

 あ、馬鹿!額に手を当てたりするんじゃない!!


 必死の攻防を繰りひろげる私たちを、両親はあっけにとられて眺めていたが、

「……いや、士郎君。
 鐘の言うとおりだよ。少なくとも現在は、病状は安定しているし、すぐに命がどうこうという病気じゃない」

「そうですよ。
 心配してくださるのはとても嬉しいけれど、少し落ち着いて……
 お茶でもいかが?」

 さすが現市長夫妻と言うべきか。
 すぐに立ち直り、横から士郎に声をかけた。


 その声で、士郎は初めて両親がいることに気付いたらしい。
 ぽかん、と口を開けたあと、あわててベッド際から離れ、直立不動の体勢をとった。

「す、すみません!!
 いきなり飛び込んできて、大騒ぎして……!
 あ、あの、お久しぶりです、それから、えっと…
 は、初めまして、衛宮士郎です!!」

 混乱丸出しの挨拶をしたあと、最敬礼する士郎。

 そんな彼を、父と母は優しくなだめ、とにかく椅子に座らせることに成功した。


「改めて、久しぶりだね、士郎君。
 鐘と仲良くしてくれていることは、この子から聞いているよ。
 できれば、もっと違った場所で会いたかったが……」

「初めまして。鐘の母です。
 お噂は、この子から聞いてるわ。
 本当に、鐘の言うとおりの子なのね」

 万感籠もった目で士郎を見つめる父と、その隣で穏やかに微笑む母。

 ……そう言えば、士郎と父は、あの日、藤村雷画氏立ち会いの下、衛宮邸で顔を合わせたきりだった。
 母とは、むろん初対面。

 あのときの騒動の原因であった《許嫁》の一件を思えば、特に父の、士郎に対する思いは浅からぬものがあるだろう。

 ……それにしても、お父さん、お母さん。
 私が、士郎の話ばかりしているような口ぶりは、止めてもらえませんか……?


 そんな私の気持ちも知らぬげに、両親は士郎に、私の病状を説明している。
 ……正直、そのことも頬を熱くしている原因の一つだ。
 あの痛みを思えば、そんなのんきなことを言う方がおかしいのだろうが、
 若い婦女子にとっては恥ずかしい病名であることは間違いない。


「まあ、そんなわけで、石さえ尿管に触らなければ、通常とほとんど変わるところはない。
 もちろん、治療が必要なのは言うまでも無いがね」

「はあ。
 治療、ですか……」

 一応、命に別状は無いと知って、ほっとしたらしい。
 士郎は安堵の表情を浮かべたが、すぐにまた、不安そうに私を見た。
 治療、という言葉が、引っかかっているのだろう。


 だから、彼を安心させるため、私もベッドの上から言葉を添えた。

「そんなに心配することはない。
 治療、手術と言っても、副作用の出る薬を用いたり、体にメスを入れたりする訳じゃない。
 この病気の場合、体に負担の少ない治療法が確立されていてな。

 『体外衝撃波結石破砕術』と言うんだそうだが……」

「体外、しょう……
 なんか、すごい名前だな」

 余計に不安そうな顔をする士郎。
 まあ、字面だけを見れば、その不安も無理もない。
 私も初めて聞いたときは、どこの格闘ゲームの必殺技だ、と思ったくらいだから。


 しかし、原理は簡単だ。
 要するに、音波の一種を結石に当て、石を細かく砕くのだ。
 尿管に触らないくらい細かくなれば、あとは自然と体外に排出される。
 この施術が確立されてからは、尿路結石の治療の安全性は飛躍的に向上したそうだ。

「……はあ。
 医学の進歩って、すごいな。
 そんなこと、ほんとに出来るんだ」

 彼は感心したような、何か腑に落ちないような、複雑な顔をして首を捻っている。
 気持ちは、分からないでもない。


「そんなわけで、その機械とそれを使える医師が、2日後には空くそうだ。
 だから、明後日に手術、そのあと3~4日の入院、それから大事を取って、2日ほど自宅安静、といったところらしいな」

 あえて事務的に、今後のスケジュールを告げる。
 そのことによって、彼の不安を取り除くことが、目的の一つ。
 そして……


 彼の顔をもう一度見たが、不安そうな、
 いや、心配そうなその色は、薄れてはいなかった。






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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/09 20:10



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ四)





 妙なときに妙な場所で実現した、士郎と私の両親の顔合わせ。
 だが、意外に話は弾んでいるようで、気付けば、私の発症時のことに話題は移っていた。

「娘自慢をするわけじゃないんですけれど、本当に、あの時のこの子は偉かったんですよ。
 痛みを堪えて、自分の足で私たちの寝室まで歩いて、ドアをノックしたんですから」

「お、お母さん……」
 そんな、変な娘自慢をされても困る。

「うむ。
 この病気が発症すると、大の男が痛みで気を失うことも多いそうだからな。
 女は男より痛みに強い、とは言われるが、それを差し引いても大したものだ」

 父も、盛大に親馬鹿を発揮している。
 ああ、士郎。君もそんなに大まじめに頷くんじゃない。


 まあ、正直な話、自分でもよくあの痛みに耐えられたとは思う。
 それは、今まで味わったことのない、いや、想像すらしたことのない、激烈な痛みだった。
 『それはまるで』、と、比喩を探すことすら馬鹿馬鹿しいほどの痛みだ。

 だが。
 その痛みに耐えながら、父母の寝室へと足を運んでいるとき、
 私は、心のどこかで思っていた。

(まだまだ、《あのとき》に比べれば)


 《あのとき》が何の時だったのか、痛みに朦朧とした頭では、はっきりと思い描くことは出来なかった。
 しかし、今なら分かる。
 私は、あの《五日間》を思い出していたのだ。


 士郎の、彼の家族との葛藤。
 その原因の一端が、自分にあると知った時の衝撃。
 そして、苦しむ士郎を間近に見続けた、あの体験。

 あの心労と、今回の肉体的痛みを、比べることは出来ないのかもしれないが、
 《あのとき》を体験していなければ、私はこの痛みに、あっさり音を上げていただろう。

 いろいろと得ることの多い体験だったが、これも、《あのとき》が与えてくれた、大いなる副作用と言うべきか。


 私が物思いにふけっていると、
「あ、いかん。
 士郎君、せっかく来ていただいて済まないが、私はこれで失礼させてもらうよ。
 公務を放り出して来てしまったものでね」
 父が時計を見て慌てて立ち上がった。

「じゃあ、私も席を外させてもらうわ。
 入院の手続きや、必要な物を家から持って来なくてはならないの。
 士郎君、申し訳ないけれど、お時間があったら、鐘のことを見ていてくださる?」
 母も、いつもどおり微笑みながら、腰を上げる。

「あ、もちろんです。
 俺で良ければ……」
「《俺》でないと、鐘は嫌なんじゃないかしら?」
「お、お母さん!」

 父と母は、笑いながら私たちに手を振り、病室を出て行った。

 ……全く。
 私の両親は、あんなにラディカルな性格だったか?


 さて。
 二人きりになってみると、改めて恥ずかしさが増す。

 ここは病院の個室。
 私はベッドの中。
 しかも、パジャマ姿(クマ柄)。

 父母もよくぞ、こんな状況に思春期の男女を置いていったものだ。


「あ、あー。で、士郎」
「お、おう?」

 いかにも、取って付けました、といった私の発言に、彼は過剰に反応する。

「い、いや。
 来てくれたのは非常に嬉しいんだが、学校はどうしたんだ?」
 今は午前10時前。
 本来ならば、面会時間ですらない。

 そう聞くと、彼は頭を掻いた。
「いや、ホームルームのあとに、蒔寺と三枝さんが、俺の教室に来てくれてな……」

 私が急に入院した、という事実を聞くと、原因も何も確かめずに学園を飛び出したのだそうだ。


「……」
 …確かにあの二人には、母から連絡を入れてもらっていたが……

 一人の女生徒が急病で入院したと聞いたとたん、授業を放っぽらかして駆け去ってゆく男子生徒。

『私たち、お付き合いしてます』

と、全校放送で流しているようなものではないか。


 ……まあ、今まで積極的に言わなかっただけで、別に隠しているわけでもないが。
 だいたい、毎日いっしょに下校し、週に一度は私の教室で蒔寺たちも交えて昼食を取っているのだ。
 今さら、と言われれば、返す言葉もない。
 つい先日も、美綴嬢から

『最近、美術室に近寄るのが申し訳なくてなあ』

と、ケラケラ笑いながら言われてしまったばかりだ。


「……悪いな。そこまで頭が回らなかったんだ」
 彼が、申し訳なさそうに頭を下げる。

「…だから、そういう風に謝らないでくれ。
 多少恥ずかしいのは事実だが……私が嬉しくないとでも思っているのか?」

 言った後、再び布団を目元まで引っ張り上げる。
 だが、視線は彼に固定。
 彼も、赤くなりながら、笑って見つめ返してくれた。



「……それにしてもさ。
 命に別状無くて、良かったよ」

 彼が、本当にほっとしたように言う。
 だが……

「……ああ、そうだな。良かった」
 同じように微笑み返さなければならないのに、私の口調は、そうなってはくれなかった。

「……」
「……」


 ……そろそろ、布団を引っ被ったまま話を続けるのも、申し訳なくなってきた。
 パジャマ姿を見られるのも恥ずかしいが、横臥しているところを見下ろされるのも、また恥ずかしい。

 なので、私は起きあがり、足だけ床に降ろした。

「おい、大丈夫か?
 安静にしてないと……」
 そう言いながら、彼はベッドサイドにあったカーディガンを取りあげ、私に着せてくれる。

「なに、問題無い。
 さっきも言ったが、石さえ触らなければ、普段と状態は変わらないんだ」
 視線で礼を言いながら、彼に答える。

 ……そう。
 普段と、なにも状態は変わらないのに。


「明後日、手術。その後、3日間入院。自宅安静が2日。
 計、8日か」

 入院してから今まで、ずっと頭の中で繰り返していた算数を、口に出す。

 それは、つまり。
 五日後に迫った、陸上競技会への参加は、絶望的ということだ。


「……」
 彼も、とっくにそのことに気付いていたんだろう。
 辛そうに、顔を歪める。

「……こんなに元気なんだ。
 いっそのこと、大会が終わるまで手術を伸ばせないものか、医師に聞いてみたんだが……」

 私の言葉に、士郎が否定的な視線を向ける。
 その眼差しに、私は笑って答えた。

「とんでもない、と却下されたよ。
 日常動作ならともかく、激しい運動は厳禁だと。
 当然だな。
 動けばそれだけ、石が触る確率が増えるわけだから」

 あげく練習中に、ましてや大会当日に発症でもしたら、みんなに迷惑をかけるだけでは済まない。


「……本当にな。
 いっそ、もっと寝たきりになるような重い病気だったら、諦めもついたんだろうが……」

 そう言いかけて、 はっ と気付いた。

「……すまない。
 不謹慎な発言だった」
 本当にそんな病気で苦しんでいる人に対し、失礼極まりない。


 二重の意味で沈んでいる私に、

「まあ、確かに今のは、ちょっとアレだったけどな」

 彼は、いつものあたたかい笑顔を向けてくれた。

 立ち上がり、私の隣に腰を下ろす。
 そして、やさしく肩を抱く。

「そんなに強くならなくてもいいぞ。
 いつか、鐘も言ってくれたろう?
 俺と二人きりのときくらいは、辛そうな顔をしていいんだ」


 肩に感じる、彼の掌が温かい。
 頭を傾け、彼の肩に乗せると、とても落ち着く。

 落ち着いてから、今まで私は落ち着いていなかったんだと、
 ひどく不安で、さみしくて、混乱していたんだと、分かった。

「……しろう」

 気付けば私は、彼の服を握りしめ、
 その胸に顔を押しつけていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/11 18:05



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (二ノ五)





 士郎のシャツが、濡れていく。
 押しつけている頬が、それを感じる。

 私は、泣いているのか。

 思えば、物心ついたころから、私には泣いた記憶が無い。
 幼稚園の時も、小学校の時も。
 政治家の娘として、嫌がらせを受けたことも一再ではなかったが、涙を流したことは一度も無かった。


 憶えがあるのは、ごく最近。
 一度は、士郎に振られたと思い込んでいたとき。
 わずかに目尻に滲む程度で、確認する前に顔を洗った。
 二度目は、あの《五日間》の最後の夜。
 顔では大泣きをしていたが、涙が出るほど悠長な状況ではなかった。

 それを思えば、士郎のシャツにどんどん広がっていく湿りが、不思議ですらある。

『泣けることは、救いだ』

 と言ったのは、誰だったか。
 確かに、涙を流すたびに悲しみ、悔しさを再確認する一方、
 甘美とも言える切なさが、胸を満たしていく。

 それはきっと、やさしく私の髪を撫で続けてくれる、あたたかい掌のせいでもあるのだろう。
 私は、声もあげず、しゃくり上げもせず、ただ静かに士郎のシャツを濡らした。


「……」
「……」

 士郎は、何も言わない。
 何も言ってくれないことが、心地良い。

     (仕方ないさ)
     (元気出せよ)

 この状況でそんなことを言われたら、私はその人物を許さないだろう。

 それよりも、私を分かってくれる、分かろうと努力してくれている男性に、こうして黙って抱かれている。
 これ以上の幸せがあろうか。


 だが。

「昨日、さ」

 いつでも、こちらの期待以上のことを、してのけてくれるのが衛宮士郎なのだ。

「帰り道に言ったろ?
 三年間、鐘が跳ぶところを見てきた、って」

 沈黙を押し退け、彼は静かに語り始める。

「もちろん、毎日見てたわけじゃないけどさ。
 俺、本当に好きだったぞ。鐘が跳ぶ姿」

「……」
 沈黙こそが心地よい、と今の今まで思っていたのに、彼の語る言葉はさらに安らかだった。

「楽しんでるのが、遠くから見てても伝わってきた。
 思い返してみると、鐘はずっとそうだったんだよな。
 三年間、全力で楽しんでた」

「……」
 彼の胸に押しつけた頬から、彼の声が、響きが直接伝わってくる。

「競技場で見ることは、もう出来なさそうだけれどさ。
 想像で言うけど、鐘なら、きっと同じじゃないかな、って思うんだ。
 校庭で跳ぶのも、大会で跳ぶのも」

「……」

「だから……
 昨日、思い切って、近くまで見に行って良かったな、って思う。
 鐘は、最後の一本まで全力で、本気で楽しんで跳んでた」

「……」

「……って、俺の感想ばっかり言ってるな。
 もっと気の利いたこと言えればいいのに。
 こんなときに、変な話して、ゴメンな」

「 ――― 」
 シャツに額を押しつけたまま、首を横に振る。

 まったく、この男は……


 そうだ。

 私は、記録を出すことだけを目的に陸上競技を、ハイジャンプを続けてきたわけではない。
 それは、良い記録が出たら嬉しい。
 常に高みを目指し、精進してきたという自負もある。

 しかしそれは、彼の言うとおり

《全力で楽しみながら》

 という条件が、いつも付いていたのだ。
 そして、その理想はほぼ達成された、と思っている。


 最後の競技会に出られないことは、もちろん悔しい。無念だ。
 だが、それは、決して未練に思うことではない。

 私にとって競技会とは、一種のマイルストーン。
 目標であり、区切りではあっても、《ゴール》では無いのだから。


「……ありがとう、士郎」

 静かな安らぎに、私の涙は止まず。

 昼食の配膳の気配がするまで、
 彼はずっと、私の髪を撫で続けていてくれた。





 そして、競技会当日。
 私は、士郎に付き添われ、競技場の観覧席に座っていた。

 天候は高曇り、やや肌寒く、風は無し。
 絶好の陸上競技日和だ。


 手術は、問題なく成功した。
 退院は明日で、本来ならば私はまだ病院にいなければならないのだが、
 予後が良好だったこともあり、主治医が特別に、半日の外出を許可してくれたのだ。

 もちろん、付き添いは必須。
 普通なら、両親がその役目に就くところなのだが、


「お父さんは公務で忙しいし、私もその日は、どうしても外せない用があるのよ。
 困ったわ。
 士郎君。あなたさえ良かったら、鐘の監督役を引き受けてくださるかしら?」

 全然困った風に見えない母の微笑みだったが、断るような士郎ではない。

 ……それにしても、
 改めて思うが、私の母は、あんなファンキーな性格だったか?


 観覧席にいる私を見つけ、部の仲間たちが駆けつけてきてくれる。
 これまでの競技会を通して知りあった他校の生徒も、顔を見せに来てくれる。

 来て良かった。
 参加は出来なかったが、この競技会は私にとって、やはりマイルストーンの一つなのだ。


 ……ただ、
 どの友人たちも、私と士郎を見比べ、少し話しただけで去っていくのは、

「お邪魔しちゃ悪いわよねー」

と、去り際に口をそろえて言うのは、何故なのだろう。

 ……入院の時、士郎が授業をすっぽかして駆けつけたのが、校内発表なら、
 この観覧席は、対外発表の場、ということか。

 まあ……
 本気で《今さら》ではあるのだが。


 我々の目の前で、複数の競技が同時進行していく。

 思えば、純粋に観客として、競技を眺めたことは今までになかった。
 常に選手として、あるいはそのサポーターとして、グラウンドに立っていた。

 珍しさも手伝い、あちこちの競技を観戦したが、
 やはり目は、自然にハイジャンプの競技所に行く。

 ……感慨はある。
 この状況なら、このバーの高さなら、私ならばどう跳ぶだろう、と、
 自然に体のあちこちが、選手の動きをなぞっている。


「……鐘?」

 彼が、そっと掌を握ってくる。
 振り向くと、そこには微かに心配そうな目。


「……心配ない。
 無念はあるが、未練は無い」

 私は、微笑みながら彼の手を握り返す。

 そう、私の未練はあの日、君の胸の中で、すべて流し去ってしまったのだから。


「そっか……」
 彼は満足そうに頷き、再びグラウンドに目を向けた。

 そのまましばらく、二人とも無言で競技の進行を眺める。


「そういえば」
 ふと気付いたように、彼は言う。

「鐘の《無念》って、何だ?
 やっぱり、参加出来なかったことが……」

 まあ、それはそのとおりだ。
 三年間の締めに参加できず、画竜点睛を怠ったことまでさらりと流せるほど、私は人間が出来てはいない。

 しかし、素直にそれを認めるのも何となくシャクなので、少しひねりを加えて言った。


「決まっている。
 今後、陸上競技をやる予定のない私にとって、
 最後のハイジャンプは、君の前で見せた盛大な大失敗だったんだぞ。
 無念に思わないわけがないだろう」

「ああ、そう言えば、そういうことになるのか。
 確か、4メートル72、だっけ?」

「士郎!!」

 まったく、いらん記録ばっかり憶えていて……



 怒る私と、なだめる彼。
 揉み合う二人の後ろに、

「……なあ、おふたりさんよ」

 いつのまにか、疲れたように腕を組む蒔寺と、苦笑を抑えかねている由紀香が立っていた。

「よっ、蒔寺。調子良さそうだな」
「こんな所に来ていて良いのか?
 もうすぐ、準決勝が始まるだろう。そろそろ準備をしないと……」

 そんな私たちの言葉に、蒔の字はさらにがっくりと肩を落とす。


「……もうすぐ準決だから、来たんだろうが。
 アンタ等、仲のいいのはけっこうだけどな」

 そう言うと、彼女は腰に手を当て、私たちを冷ややかに見下ろした。

「勝負を前にだ。
 必死でコンセントレーションを高めているアスリートの目の前でだ。
 手を握りあって、イチャイチャ囁きあって、
 あげくにじゃれあって絡み合う、ってのはどういう了見だ?

 ここの参加者全員に、ケンカ売ってんのか?」

「「は?」」


 そう言われて周りを見ると、
 観覧席からは、微笑ましそうな、うらやましそうな視線が。
 グラウンドからは、質量さえも測れそうな、ある種の《気》が、私たちに向けられている。

 そして、改めて自分たちを見ると、
 掌を握りあい、体を寄せ、じゃれあっているような体勢。


 ……い、いや、
 これはあくまで、士郎の不用意な発言を、懲らしめようと、だな……


 私たちは、そそくさと居住まいを正し、
 これ以上無いくらい体を縮こまらせて、必死に周りからのプレッシャーに耐えた。


 ……まあ、
 それでも掌だけは離さなかったから、圧力はいつまでたっても減じなかったのだが。





    ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 『陸上競技会編』、やっとこさ終了です。
 冬になっても部活にがんばる鐘ちゃんに、なんとか区切りを付けさせてあげたいな、という発想で書いてみました。
 合わせて、二人の仲を内外に公表する機会も作ってみたかった。

 二ノ二話の欄外にも書きましたが、鐘ちゃんの走り高跳びに関する姿勢は、

   TYPE-MOON 公式コミカライズ
   『氷室の天地』(磨神映一郎 一迅社)

の設定を参考にさせていただきました。

 このマンガはすごいですよ。
 氷室好き、陸上部三人娘好きは必読の書です。
 もし未読の方がいらしたら、ぜひご覧ください。


 さて、次はどんなエピソードとなりますやら。
 筆者にもとんと予測が付きませんが、もうしばらく、お付き合いをお願いいたします。



    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/21 20:15



 時は、午前10時45分。
 私は、新都駅前広場で、士郎を待っている。

 胸をときめかせて、待っている。

 久しぶりのデート、ということももちろんある。
 しかし、たとえ昨日一日会っていたとしても、このときめきは変わらないだろう。

 なぜなら、今日は……





     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ一)





「えっと、さ……、鐘…」

 いつもの、いや、久々の帰り道。
 士郎は、珍しく語尾を濁らせつつ切り出した。


 入院騒動も一段落し、自宅安静を経て、私が学園に登校したのが昨日。
 その放課後に陸上部のみんなが、私の快気祝いを兼ねた、三年生の引退謝恩パーティーを企画してくれた。

「衛宮くんも、来ればいいのに」

という由紀香の言葉は、陸上部全員の希望でもあっただろうが、彼は苦笑しつつ辞退した。

 まあ、それはそうだろう。
 先日の競技会の一件を思い出すまでもなく、もし彼が同席すれば、私とセットでみんなのオモチャになることは、目に見えている。

 なので、今日が私の再登校後、初めての二人きりの帰り道、ということになるのだが。


「その……
 終業式の日の夜とか、その次の日とか、空いてるか?
 良かったら、だな……」

 よほど言いにくい、いや、照れることなのだろうか。
 士郎は、顔を赤くしながら、言いよどむ。

 終業式の夜?
 その日は確か、学園は午前中で終わって、夜は家で……

 あ……

「……つ、つまり、士郎。
 12月24日と、25日のこと、か……?」
「あ、ああ……」


 ……あまりにも遠回りな言い方をするから、理解するまでに時間がかかったじゃないか。

 12月24日と言えば、終業式であると同時に、紛うことなきクリスマスイブ。
 その翌日は当然、クリスマス当日である。


「その……
 24日の夜は、俺の家で、みんなでパーティーする予定なんだよ。
 遠坂や桜や、藤ねえとイリヤもいてさ。
 で、鐘にも参加してもらえると、うれしいな、って……」

 頬を掻きながら、彼が続ける。

 ……彼の、ぶっきらぼうな心遣いが、とても嬉しい。
 あの《五日間》にもなんとか区切りがつき、私と彼の《家族》との溝は、かなり埋まったと言って良い。
 とは言え、まだ多少ぎくしゃくしているはずのその間柄を、少しでも取り持ってくれようとしているのだろう。

 しかし。

「……すまない。
 イブの夜は、毎年、両親と過ごすことになっているんだ」

 私の家はクリスチャンではない。
 だが、母方の祖父母がそうであったせいか、この日は特別な日、という認識が子どもの頃からあった。
 父もこの日だけは、忙しい公務を割いて、できる限り早く帰宅してくる。

 私が成長している今、いつまでこの習慣が守れるかは分からない。
 だからこそ、守れるところまでは守っていきたかった。


 彼と父母を天秤にかける申し訳なさに俯く私に、

「なんだ、それならそっちを優先しなきゃ。
 こっちは、ただ飲んで食べて馬鹿騒ぎするだけなんだから」

 当然のように、彼は微笑む。

 ……実際、二の足を踏む理由は、それだけではない。
 以前ほどではないにせよ、私は衛宮家にとってはまだまだ《お客様》である。
 彼の言う《馬鹿騒ぎ》でコミュニケーションを深める《家族》の中に、いきなり混ざるのは、いささか気後れがするのだ。

 なので、いつもどおり、彼の無意識の善意に甘えることにした。


「ありがとう。
 ……で、士郎。
 イブの夜は、お互いに予定があるとして、その《次の日》とは?」

 我ながら、意地の悪い質問であると自覚はしている。
 しかし、彼の口から答が聞きたくて、わざととぼけて見せた。

「と、とは?……って……」
 案の定、彼は髪を引っかき回しながら、視線をさまよわせている。

 こんな彼を見て楽しめるようになったあたり、私も少しは余裕が出てきたのだろうか。


 彼はしばらく向こうを向いて歩き続けていたが、

「 ――― 」

 やがて、深呼吸を二、三度繰り返すと、体ごとこちらを向いた。


「……もし、鐘の都合が良ければ、俺に付き合ってもらいたい。
 その日は、ずっと鐘といっしょにいたいんだ」

「………」


 前言撤回。

 たったこれだけの台詞で、私の《余裕》とやらは、跡形もなく吹き飛んでしまった。

 いや、この男から、こんな直球すぎるアプローチを受けて、冷静でいられる女性などいるか?


「……」
「………」

 しばらく、無言。

 しかし、ボールを投げてきたのは彼で、受けとったのは私だ。
 ならば、次は私が言葉を発さなければ。

「……あ、ああ。
 その日なら、一日空いている。
 だから、……私も、その……
 き、君とずっといられると、うれしい……」

 とても、顔を見ながら返事など出来ない。

 ……しかし、最近思うのだが。
 私は、こんなストレートに感情の発露が出来る人間だったろうか?


「……そ、それでだ、士郎」
 羞恥の袋小路に入ってしまうことを防ぐため、私はあえて事務的なことを口にした。

「一日、というと、夕食も君と共に、と考えて良いのか?
 一応、両親にも許しを得ておかなければならないのだが……」

 近ごろ、フランクさが垣間見えてきてはいるが、基本的にうちの親はそういったことには厳しい。
 まあ、士郎は父母の信頼を得ているようだし、夕食くらいなら許してくれるだろうが。

 ……そこまで考えて、ふと、先ほどのやりとりを反すうする。


『その日は、ずっと鐘といっしょにいたいんだ』
『私も、君とずっといられると、うれしい』


 ……《一日》がどこまでを指すのかは、様々な見方があろうが、
 最長で見ると、次の日の朝まで、という解釈も……


「ああ、できればそうしたいと思ってる。
 ご両親、許してくれるかな?」
「し、士郎!?
 い、いくらなんでもそれは許……」

 …………。

「…遅くなるし、やっぱりダメかな?」
「……」

「?
 どうした、鐘?」
「……いや。
 夕食くらいなら、おそらく許してくれると思う。心配しなくて良い」

 思いきり明後日の方向を向いて、なんとか言葉を絞り出す。


「そっか。なら良かった。
 あとは……」

 語尾にいささかの苦悩を聞いた私は、彼の方を振り返る。

「士郎?
 何か問題が……」
 尋ねかけて、一つの可能性に思い当たった。

 もう12月の半ば。
 約束の日まで、あと10日を切っている。
 クリスマスというスペシャルイベントを前に、夕食の話題で男性が苦悩することと言えば……


「……実は、お見込みのとおりなんだよな。
 昨日、やっとそれに気付いて、あちこちの店に当たってみたんだけど、どこも満席でさ。
 ほんとに、情けないんだけど……」

 頭を掻きながら、彼が申し訳なさそうに呟く。

 士郎らしい。

 彼はもともと、そういったイベントには無頓着だ。
 加えて、あの《五日間》以来、様々なことが私たちの周りに起きた。
 むしろ、この段階で準備万端整えられていたら、私の方が仰天しただろう。


 なので、悩む士郎に、小さな助け船を出す。

「ならば、夕食の手配だけは、私がしても良いか?
 心当たりの店が、いくつかあるのだが……」

「え?
 でも、普通そういうことって、男が用意するんだろ?」

 意外と古風なところがある。
 と言うより、こうしたことにはとんと疎い彼のことだ。
 誰かに、吹き込まれたのかもしれない。


「些細なことにこだわって、充実した食事が取れなくなるより良いだろう?
 その代わり、その他の予定は、全部君にお任せする」

 肩肘張らずに楽しもうじゃないか、という私のメッセージを受けとってくれたのだろう。
 彼も、笑って頷いた。

「オーケー。
 じゃあ、申し訳ないけど、お願いするよ。
 それじゃ、当日のプランは気を入れて考えないとなあ」

 さっそく腕を組んで考え込む彼を見て、私も笑った。

「せいぜい、頭を悩ませてくれ。
 しかし、あまり凝りすぎなくても良いぞ。
 なにしろ……」

 確か、最初のデートの時だったか。
 彼に言ったセリフを、もう一度繰り返す。


「私達はどこかへ行きたくて集まるのではなくて、集まりたくてどこかに行くのだろう?」





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このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/24 20:31



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ二)





 そんなわけで。
 私は士郎を待っている。

 胸をときめかせて、待っている。


 正直、一年前までは、なぜこの時期になると世間が騒がしくなるのか、
 私の観察しているカップルが、そわそわ、うきうきと落ち着きを無くすのか、
 頭では理解していても、今ひとつ納得できていなかった。

 私にとってクリスマスとは、両親と共に静かな時を過ごす、
 ただそれだけの日だったから。


 しかし、今ならば分かる。
 その日が本来、どんな意味を持っているのかは別として、
 大切な人と《特別な日》を共有することは、何物にも代えがたい喜びなのだ、と。


 そんな浮かれ気分の故か、待ち合わせ場所が自宅に近いせいか、11時の約束なのに、20分も早く着いてしまった。
 彼は、いつもの笑顔を見せてくれるだろうか。
 私を見て、どんな言葉をかけてくれるだろうか。

 少しうつむきながら、そんな想像をしていると、


「……鐘?」


 聞き慣れた声を、耳が捉えた。

「ああ。士郎。ずいぶん早かっ……」

 視線を上げ、微笑みかけて、


「……」
「………」


 お互いに、絶句する。

 士郎は、私との距離約5メートルの地点で、呆然と立っていた。

 お互いの視線は、お互いの存在に。
 いや、正確には、お互いの外見に注がれている。

 彼は、そのままゆっくり歩を進め、私の1メートル手前で立ち止まった。

 少し視線を動かせば、相手の全身が見える距離。
 そこで双方は、相手の頭頂から爪先まで、じっくりと眺め合った。


「「あの……」」
 声が、みごとにユニゾンする。

「「よく、似合ってる……」」
 ビブラートまで、同じだった。


 いつものトレーナーとジーンズ、とまではいかないにしても、普段どおりのラフな格好を予想していた私は、完全に意表を突かれた。

 彼は、上は紺のジャケットを羽織り、下はグレーのスラックス。
 薄いブラウンのシャツに、濃い青と銀のストライプネクタイを締め、
 茶のローファーを履き、グレーのコートを手に持っている。

 このようなときの定番であると、言えば言えるが、
 普段は服装に無頓着な彼が、セミフォーマルな服装をここまで着こなすとは、思っても見なかった。


「す、すまない。少々動転した。
 いつもと違う雰囲気だったものだから……」
 頬が熱くなるのを感じながら、頭を下げる。

「い、いや、こっちこそ。
 それに、その、鐘だって普段とは……」
 彼も、顔を赤くしながら、頬を掻く。


 そう。
 私の服装も、いつもとは違う。

 上は薄いブラウンのニットセーター、細身の白いスラックスパンツを履き、茶のベルトをアクセントにしている。
 靴は、やはり茶のローヒールパンプス。
 袖だけを通したコートの上に、アイボリーのストールを巻き、
 頭には飾りのない濃い臙脂のベレー帽を乗せていた。

 今まで、黒か灰色系の地味な服しか持っていなかった私にとっては、大げさに言えば革命的なイメージチェンジだ。
 彼が呆然とするのも、まあ無理はない。
 だが。


「そ、そんなに驚くこともないだろう。
 確かに、私のイメージとは合わないとは思うが……」
「い、いや、そんなことない!
 驚いたのは確かだけど、その…あんまり鐘にあつらえたようにぴったりだったから、……えっと…」

 彼の語尾が弱くなっていく。
 それと反比例して、私の頬が、温度を増していく。


 思えば異性に、自分の服装を褒められたことなど、初めてだ。
 父の役職上、パーティなどに出席することも多いが、私はいつも、失礼にならぬ程度に目立たない服ばかり着ていた。
 普段着でも、華美な服装や目立つアクセサリーなどはほとんど身に付けたことがない。
 別に嫌っているわけではないが、これが自分に一番似合うスタイルだ、と自然に思っていた。



 だが、一週間前。
 彼とこの日を約束した、次の日。
 久しぶりに蒔の字、由紀香との時間を楽しもうと待ち合わせ場所に行ったら、なぜかそこに美綴綾子嬢までいたのだ。

「おいおい、そんな身構えることもないだろう。
 あたしがここにいることが、そんなに不満かい?」

 ニヤニヤ笑いながら、腕を組む美綴嬢。
 彼女の笑いは、パーソナリティ的に陰湿さは含まれないので、嫌な感じはしないのだが、
 それでも、やはり警戒心は湧く。

 隣を見ると、蒔寺はそれが当然、と言うような顔つき。
 由紀香も、済まなそうに笑っているが、驚きは無い。


「……知らなかったのは私だけ、ということか。
 それで、美綴嬢。
 理由くらいは、聞かせてもらえるのだろうな?」

 私の持つ、数ある表情の中でも、最高の素っ気なさを含む顔を向けてやったのだが、

「理由って、そんなもん決まってるでしょうが。
 聖なる日を間近に控えた乙女のために、ファッションコーディネーターを頼まれたんだよ」

「ふぁっっ!?」

 意外すぎる単語に、間抜けな声で受け答えをしてしまった。


 思わず、他の二人を振り返る。
 士郎と約束をしたのは、昨日の夕方。
 二人との予定は、それ以前に決まっていた。
 故に、たとえ蒔と由紀香でも、あの約束を知るはずが無い。

「んなもん、予想できないでどうするよ。
 万国共通、ラブコメ恋人のお約束だろーが。
 でも、メ鐘のこったからな。
 いつもの未亡人みたいな格好で行くことも目に見えてる。
 で、心優しいアタシと由紀香が、一肌脱いでやろうと思ったわけだ」

「……ゴメンね鐘ちゃん、黙ってて。
 でも私たち、ファッションってよく分からないし……
 美綴さんだったら、そういうのに詳しいかなって、それでお願いしたの」

 堂々とふんぞり返る蒔の字と、申し訳なさそうに上目づかいになる由紀香。


 ……確かに蒔寺は、和装はプロの域に達するが、普段着はジャージで上等、と言いかねない女だ。
 由紀香も、素材は良いのに、興味が無いのか、質素な服しか身につけない。

 その点、美綴綾子は、武芸百般の女丈夫ではあるが、綺麗なもの、カワイイもの大好きの少女でもある。
 自分自身はラフな服を好むが、ファッションに関する知識は、少なくとも私たちよりは上だろう。


 何重もの意味で、頭を抱える。

 私も士郎も昨日初めて気付いた可能性に、周りがとっくに気付いていたこと。
 多少着飾ろうと思っていたとは言え、いつもどおりの服で出かけようとする思惑を見抜かれていたこと。
 美綴嬢まで引き込んで、私のために動こうとしてくれる友の心使いに、気付かなかったこと。
 そして、三人の顔つきから想像するに、今日は絶対に無事には済みそうにないこと、などだ。


 額に掌を当てて俯いている私を見て、美綴嬢のニヤニヤ笑いは最高潮に達した。

「んじゃ、氷室も覚悟が出来たみたいだから、そろそろ動きますか。
 蒔寺、三枝、体力の貯蔵は充分か?」

「おうよ。
 氷室の着せ替えが出来るなんて、このあと輪廻転生しても無いかもしれないからな。
 地獄の底まで付き合うぜ」

「さ、行こう、鐘ちゃん。
 大丈夫だよ。鐘ちゃんなら、なに着ても似合うはずだから」

 由紀香が、やさしく私の手を引っ張る。
 ……その心遣いは嬉しいが、由紀香。

『なに着ても』

 と言うことは、なんでもかんでも、取っ替え引っ替え、私に着せる、という意味だろうか……?


 その後は、正に予想どおりの展開だった。
 さすがに昼食は取ったが、それを挟んで陽が暮れるまで、私のファッションショーは続いた。

 で、最終的に選ばれたのが、今日着ている一連なのだが。

「み、美綴嬢。
 これは、い、いくらなんでも、体のラインが出過ぎてはいないか!?」

 体にピッタリしたニットのセーターに、細身のスラックスパンツである。
 嫌でも、体型を強調することになってしまう。

「アンタね。
 自分が持ってるその武器を、存分に使わないでどうするよ?
 実際、あたしが知ってる中で、アンタのボディに張り合える女学生なんて、間桐くらいのもんなんだからね。
 そいつを着ていけば、衛宮もイチコロ間違い無し。
 十倍は惚れ直す、ってもんさね」

 呆れたようにため息を履いた美綴嬢は、私を下から上まで舐めるように見、満足げに頷いた。
 それは、塑像家が自分の作品の最終チェックをするような目つきだった。

「おーおー。
 コーディネーター様とモデル嬢の息はピッタリだね。
 やっぱ、『チーム・80オーバーズ』の余裕ってヤツ?」

「「なっっ!??」」

 蒔の字の僻み100パーセントの声音に、思わず、胸を覆う仕草をする、美綴嬢と私。

「鐘ちゃん、きれいだよ。
 すっごく、かわいい。
 これなら、衛宮くんもきっと褒めてくれるよ」

 そんな私たちのやりとりとは関係無く、掌を組んで目をキラキラさせる由紀香。


 ……この服飾が、私に似合うものだとは、未だに思えないが。
 三人の確信に満ちた眼差しに後押しされ、私は、当日この服を着ていくことに決めた。

 照れくさくて言葉には出来ないが、彼女たちの友情に、心から感謝しつつ。



 そんな経緯を、できるだけ簡潔に、士郎に語って聞かせると、

「……やっぱり、同じようなことって、どこでも起こるんだな」
 彼は、苦笑いして頭を掻いた。


 彼によると、やはり今日の約束をした日の晩、夕食の席で

『家の都合で、氷室はクリスマスパーティーには来られない』

と、彼の家族に告げたのだそうだ。

 残念そうな声が起こる中、


「ま、おうちの都合じゃしょうがないわよね。
 で、士郎。
 その次の日は、どうするの?」

 に始まり、

「まさかシロウ、いつもの飾りっ気のカケラも無い服で行くつもり?」

 と続き、

「先輩、それは女性への、クリスマスに対しての冒涜です!!」
「お姉ちゃんは、士郎をそんな甲斐性の無い男に育てた覚えはなーい!!」

 等々、彼が一言も発する余裕すら与えてくれず、
 翌日、遠坂嬢と間桐嬢に連行され、やはりファッションショーを繰りひろげたのだそうだ。


 ……まったく、私たちの周りの友人は、そろいも揃って世話好きと言うか、物見高いと言うか。

 聞けば、士郎が引き回されていた時刻や場所は、私がそうだった所と、ほぼ同じであるという。
 よくまあ、顔を合わせなかったものだ。


 ………
 なにか、策謀めいた匂いを感じるのは、私の僻目なのだろうか?



「ま、まあ、ともかくだ。
 美綴たちに感謝しなきゃな。
 鐘の、俺が今まで知らなかった魅力を見せてくれたんだから」

 士郎が、ますます顔を赤くしながら告げる。

 ……また君は、そういう、どんな女たらしでも恥ずかしくて言えないような台詞を、無自覚に……


「……な、ならば私も遠坂嬢や間桐嬢に感謝しよう。
 私が気付かなかった、君の可能性を教えてくれた」

 私の台詞はどうしても理屈っぽくなってしまうが、それでも彼には効いたようだ。


 そのままお互い、何度目かのお見合い状態となる。


「……じゃ、じゃあ、とりあえず動こうか」

「そ、そうだな。
 時間は、無限ではない」


 私たちは、お互いに残されたわずかな距離を、一歩ずつで縮め、
 今日、初めて、にっこりと笑い合った。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/07/27 20:33



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ三)





「それじゃ行こう。最初に行くとこは決めて……あれ?」

 歩き出そうとした士郎は、なぜか動きを止めた。
 私の肩越しに、向こうを見ている。

「どうした、士郎?」

 私も、彼の視線を追って振り返る。
 そこには、新都駅の改札口があるだけだが……

「いや、なんか知ってる人が見えたような気がしたんだが……気のせいか?」
 士郎は、なおも目を眇めて一点を見ていたが、


「ああ、やっぱり。
 おーい、蒔寺、そんなとこで何してんだ?」
「なっ、蒔!?」

 のんきな声で呼びかける彼の声に、駅の柱の影から、黒い何かが飛び出してきた。

「お、お前!何で分かった!?」
「だ、ダメだよ、蒔ちゃん!!」

 飛び出したのは、彼の言うとおり蒔寺楓。
 それに取り縋り、引きずられるようにして三枝由紀香も顔を覗かせる。

「何でって、そんなに目立つ視線と肌色、チラチラとこっちに向けてたら、嫌でも分かるだろ」
 蒔の自滅行為に、あくまで生真面目に返答する士郎。

「……ったく。だから言ったろうが。
 衛宮はああ見えて、勘も視力もいいから、目立たないようにしろって。
 しかも、第一声でいきなり正体さらすヤツがあるか?」

 最後に、頭を掻きながら登場したのは当然、美綴綾子嬢。


「なんだ?珍しいな、この三人ってのも。
 駅にいるってことは、これからどっか行くのか?」

「「「「………」」」」

 私を含め、四人が額を押さえる。

 ……確かに、美綴嬢の言うとおり、士郎のある種の勘と目は、天下一品だ。
 しかし、この拍手したいほどの鈍さによって、それはすべて帳消しにされてお釣りが来るだろう。


 私は痛む頭をなだめつつ、当然類推されるであろう、もう一つの可能性に声をかけた。

「そちらの方々も、そろそろ姿を見せたらいかがかな?
 オブジェの影は、狭苦しいだろう」

 とたん、駅前に飾ってある塑像の向こう側から伝わる ビクンッ という気配。

(あ、馬鹿、桜!)

などという声も、漏れ聞こえる。

 士郎とは違い、私の言は完全なブラフだったが、相手は見事に反応した。

 ……ふ。
 まだまだ修行不足だな、間桐桜。


 しばしの時を置いて、やはりこそこそと姿を現す、遠坂凛嬢と間桐嬢。

「あれ、桜に遠坂も?
 なんだ、今日は一日、家でのんびりしてるんじゃなかったのか?」

 士郎の、のほほんとした言動はとりあえず無視して、私は、3+2の計五人に目を向け、腕を組んで見せた。


「さて。
 どういうことなのか、納得のいく説明をしてくれるのだろうな」

 我ながら惚れ惚れするほど、冷ややかでドスの効いた声音だ。
 純真な由紀香、根は善良である間桐嬢や蒔の字などは、すでに震え上がっている。

 武芸百般の美綴嬢や、こういった勝負事には海千山千の遠坂嬢も、現場を押さえられては分が悪いと見える。


「い、いや氷室。そんなにマジな目付きするなって。
 やっぱり、ファッションコーディネーターとしては、その効果の最終確認をしとかないとさ……」

「そ、そうよ。
 私や桜だって、士郎の服を選んだ責任があるんだもの。
 あなたが気に入ってくださるかどうか、心配なのが人情じゃない?」

 引きつった笑いを浮かべながら、必死に弁明する二人。
 だが、それで追及の手を止めるほど、『穂群の呉学人』と呼ばれた私は甘くはない。


「ほほう。アフターケアの行き届いたことだ。
 では、ここに今、五人が集っているのは、全くの偶然だと。
 あくまで、私たちを心配してくれる友情の発露が重なっただけと、そう解釈して良いのかな?」

「そ、そうなんだよメ鐘!
 アタシたちは、示し合わせて集まったなんてことは、これっぽっちもだな!」

「そ、そうです、氷室先輩!
 美綴先輩たちがそちらにいらしたなんて、私、ちっとも!」

 私が投げ与えたミエミエの餌に、見事に食いついてくる、蒔寺と間桐嬢。
 さすがに、美綴嬢と遠坂嬢があわてて二人を押さえようとするが、もう遅い。
 ……ちなみに由紀香は、私の眼光がよほど恐ろしいのだろう。先ほどから固まっている。


「そうか。持つべきものは友だな。
 ならば、先週の土曜日、私たち二人の衣装を選んでくれた時刻や場所がほぼ一致していたのも、
 それでいて私と士郎が一度も顔を会わせなかったのも、偶然の成せる業だと?」

「「「「「………」」」」」

 いっせいに押し黙る五人。

 彫像のように固まった彼女たちと、腕を組んでそれを見つめる私。
 士郎だけが、場の空気について行けず、おろおろと私たちを見比べている。


「……いや、参った。悪かったよ」
 最初に白旗を揚げたのは美綴嬢だった。

「確かに、一週間前の服選びから、遠坂たちとは連携を取ってたさ。
 お互いに釣り合う服を、っていう意図もあったんだけど、アンタたちに内緒にしてたのは申し訳なかった」
 そう言って、素直に頭を下げる。
 さすが武道家。潔さも天下一品だ。

「……ごめんなさいね、氷室さん。
 私たち自身も楽しんでた、っていうことは否定しないわ。
 でも、クリスマスに予定の一つも無い女の子五人がやった、ちょっとしたお茶目、ってことで、大目に見てくれないかしら?」
 遠坂嬢も掌を合わせながら、上目づかいにこちらを見る。

「ふむ……」

 そう下手に出られると、こちらも弱い。
 なにしろ、この五人に多大なる世話になったのは、間違いないのだ。


「ごめんね、鐘ちゃん。邪魔しちゃいけないって分かってたんだけど……
 でも、正直に言うと、来て良かった、って思うよ。
 この前見たときも鐘ちゃん、すごくきれいったけど、衛宮くんと並んでると、もっときれい。
 衛宮くんも、すごくかっこいいし、とってもお似合いだよ」

 ……由紀香の、曇り無き目と言葉に、私と士郎は並んで赤くなる。

「本当です。
 氷室先輩、とてもお綺麗ですよ。
 そのファッション、これ以上無いくらいお似合いです。
 私たちも、力を入れて衛宮先輩の服を選んだ甲斐がありました。
 今度、私の服を買うときの参考にさせてくださいね!」

 間桐嬢も、両掌を組みながら、目をキラキラさせている。
 ……その褒め言葉はとても嬉しいのだが、
 私を参考にして買った服を着て、誰の隣に立つつもりかね?



「じゃあ、これ以上はお邪魔になるだろうから、あたし等はこの辺で退散しますか」
「そうね。
 お二人の晴れ姿を見るっていう目的は、果たしたわけだし。
 それじゃ予定どおり、隣町のショッピングモールに行って、独り身の境遇を慰め合いましょう」

 美綴嬢と遠坂嬢が、強引に話を収束させていく。

「え?なんでだよ。
 今日は一日、二人の後を追っ、むぐうっ!!」

 発言しかけた蒔の字の口を、二人がツープラトンで塞ぐ。

「じゃあ、ごゆっくり。素敵な一日を」
「先輩、あとでお話聞かせてくださいねー」

 暴れる蒔寺を、四人がかりで引きずり、彼女たちは新都駅の改札口に消えていった。


「………えっと。
 結局、なにがどうなったんだ?」

 ずっと話について行けず、置いてけぼりだった士郎が、ポツリと呟く。

「気にすることはない。
 私たちは、かくも情に溢れた友に囲まれている、ということだ」

 彼の肩を ぽんぽん と叩き、


「それより、今度こそ動こう。
 このままでは、本当に一日が終わってしまう」

「あ、ああ、そうだな。
 時間は無限じゃないもんな」


 ようやく始まりの台詞に帰ってきた私たちは、今度こそ並んで歩を進めた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:6d8bc831
Date: 2010/07/30 20:36


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ四)





「士郎、ここは……」
「ま、リベンジってやつかな。
 今度は、ちゃんと開いてただろ?」


 新都駅前からやっと動いて、士郎が最初に連れて行ってくれた場所は、駅からほど近い、紅茶専門店だった。

 私たちにとっては、非常に思い出深い店だ。
 とは言っても、二人で入ったことは無い。


 初めてのデートの時。
 新都大橋の真ん中で待ち合わせたあと、最初に士郎に連れて行ってもらったのがこの店だった。
 しかし、辿り着いてみれば、店の開店時間は、約一時間後。

     『WEEKEND Open: 11:00AM』

の札を前に、二人で立ち往生したことを思い出す。


 だが、今は午前11時過ぎ。
 ドアにも堂々と『Open』のボードが架けられている。

「……なるほど。確かにリベンジだな」
 今日という日の始まりに、この店を選んだ彼の微笑みに、私も笑顔を返す。

 そのままドアのノブを引くと、聞こえるか聞こえないかくらいのBGMが流れ出てきた。


 開店して間もない店内は、ほとんど客も居ず。
 窓際の席に座った私たちは、メニューを吟味の上、『本日のお勧めブレンド』とランチのホットサンド、それにスコーンをシェアして一皿頼んだ。

 それにしても、相変わらず紅茶一杯に目を剥くような値段だ。
 それ相応の価値があることは認めるが、とても学生の行きつけに出来るような店ではない。

「そう言えば鐘も、この店は知ってるって言ってたよな」
 待ち時間の間に、士郎が問いかける。

「ここでこうして、茶を飲んだことがあるわけではないがね。
 前にも言ったが、母が紅茶党で、ときどきお使いで茶葉を買いに来るんだ。
 しかし、こうして座ってみると、改めて良い店だと思う。
 落ち着いて話すには、最良だな」

 シックな調度、邪魔にならないBGM、抑制された照明。
 加えて、値の高いことや格調の高さも、客の選別となっているのだろう。
 サイフの軽重さえ無視すれば、正に私たち好みのスポットだった。


「俺も、初めて連れてこられたときは仰天したよ。
 この世に、カンマの付く値段の飲み物があるのか!ってさ。
 でも、飲んでみて納得した。
 味には、それ相応の値段が付くもんなんだな」

 ちょうど運ばれてきたブレンドティーをカップに注ぎながら、士郎が言う。
 そのまま私たちはしばらく、馥郁たる香りと、値段相応の味を無言で楽しんだ。


「……しかし、失礼であることを承知で言うが、意外だな。
 士郎が、こんな高級店に来たことがあるとは思わなかった」

 カップ越しに、士郎に問いかける。
 そのとき私は、少し意地悪な目をしていたに違いない。

「う……」
 言葉に詰まる士郎。

「確か、知り合いに教えてもらった、と聞いたが?」

「いや……
 実は、遠坂に無理やり引っ張って来られたんだよ。
 『紅茶の味を知れ!』
 ってさ」
 士郎が、苦笑いしながらホットサンドを摘む。

「今まで俺は、日本茶党だったからな。
 で、ここで紅茶の美味さに開眼したんだけど……」
「だけど?」
 小首を傾げて、話を促す。

「そのあと、もう語るも涙のスパルタ教育が待っててさ。
 あいつの舌に合う紅茶が入れられるまで、何回やり直しさせられたか」

 紅茶の紅は、血の涙の紅か、というくらいの指導だったという。

「最近になって、ようやくダメ出しをされることも少なくなってな。
 そんなわけで、紅茶にはちょっと自信が、
 ………あ…」


 口調は愚痴っぽくはあっても、暖かい表情で語っていた彼は、ようやく気付いたらしい。

 今は、恋人とのデート中。
 しかも、クリスマスというイベントの、第一歩だ。
 そんな時に、他の女性との交流を楽しそうに語ることが、何を意味するか。

「ご、ゴメン!
 また、やっちまった。
 俺って、ほんとに進歩が無いって言うか……!」
 半ば腰を浮かして、彼が頭を下げる。


 ……妬心を抱いていたのは事実だが、そう誠実な態度を取られると、こちらも罪悪感が湧いてしまう。

「……いや。
 今のは、こちらが悪かった。
 ほとんど、誘導尋問のようなものだったからな」

 彼に、元どおり腰掛けるよう促して、私も頭を下げる。

「自分でも意地悪いとは思うが、君の困った顔が少し見たくなってね。
 半ば答の分かっている問いかけをしてしまった」

 謝りながら、しかし私は、奇妙な暖かさに包まれていた。


 遠坂嬢について語る彼の表情を見ながら、嫉妬はしていた。
 これは、事実だ。

 だが、同時に、彼の持つ温もりが直接こちらに伝わってきた、と言うか、
 苦笑しながらも嬉しそうな彼の感情に、素直に同化できたと言うか……


 ……この感覚は、なんなのだろう。
 先ほど体験した、新都駅前での出来事も思い出す。

 蒔の字、由紀香はもちろん、美綴嬢とも、比較的付き合いはあった。
 それに対し、遠坂嬢や間桐嬢は、実質的には、士郎を通して知りあったようなものだ。
 なのに、その彼女たちと、年来の知己のように、言葉のやりとりをすることが出来た。

 そして今も、遠坂嬢と士郎との間であった出来事を、こんなにも穏やかな、楽しい心持ちで聞いていられる。

 まるで、私の父と母の、ちょっとしたエピソードを聞くときのような……


「……士郎」
「え?」

 まだ、少しおどおどしている彼に向かって、私は自然に、自分でもびっくりするくらい自然に微笑みかけた。

「もう一杯、紅茶をいただかないか?
 私は今度は、ニルギリが飲みたい」
「……あ、ああ。
 じゃあ俺は、……ぬ、ヌワラエリヤ?
 聞いたことないけど、これに挑戦してみるか」

 メニューと真剣に格闘し、彼が決定を下す。

 そして、少し不審そうな目をしてメニューから顔を上げる彼に、私はもう一度微笑んだ。


「そして、良ければもっと聞かせてくれないか。
 遠坂嬢だけでなく、君の家族のことを。
 君が、君の大切な人たちと、普段どんな生活をしているのかを」


 彼はしばらく、目を丸くして私を見つめていたが、

「……オーケー。
 でも、今日はさわりだけな。
 何しろ、エピソードには事欠かない連中ばっかりだから、一日じゃとても話しきれない」

 本当に嬉しそうな笑顔を見せて、頷いてくれた。



 それともうひとつ。

(そんなにうまく紅茶を入れられるのならば、今度は近いうち私のために、
 私のためだけに、入れてくれるのだろう?
 衛宮士郎。)

 そう。
 このあたたかい気持ちは気持ちとして。

 やっぱり、妬ましさを充分に感じているのは事実なのだから。


 そんな意図を込めた視線を送ると、
 意味が分かったかどうかはともかく、彼は一瞬小刻みに震えたあと、
 こくこくと一所懸命に頷いた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/02 19:38



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ五)





「さて士郎。
 次は、どこへ連れて行ってくれるのかな?」

 紅茶の馥郁たる香りを楽しみ、ランチセットでそこそこ腹を満たした私たちは、次なる目的地に向かっていた。

「んー、どこってほど大層なところじゃないんだけどな。
 この先は、鐘にも協力してもらわなきゃならないんだけど……」


 士郎は曖昧に微笑んだまま、その割に迷いも無く歩を進めていく。
 そのままヴェルデの店内に入り、辿り着いたのは、片隅に設けられたDIYコーナーだった。

「?
 なにか必要な買い物でもあるのか?」
「いや、別に無いけどさ。
 一週間考えて、結局こんなことしか思いつかなかった、って言うか……」

 ますます分からない。
『一週間考えて』
 ということは、ここが、士郎が選んだ次なるスポットなのだろうが、デートの場所にしてはあまりにも……

「……あ…」


 そこまで考えて、思い出した。

 まだ、私たちが付き合い始める前。
 半ば強引に彼と帰宅の道を共にし、

『興味がわいたのでね』

 というミエミエの言い訳で、彼の買い物に付いていったことがある。
 その時の店が……

「あのときの俺、ほんとに鈍くてさ。
 鐘の気持ちに、全然気付けなかった。
 そのやり直しもしたい、っていうのが目的のひとつなんだけど……
 わがままかな?」

 彼が、恐る恐る尋ねてくる。


 ……不覚にも、涙がこぼれそうになった。

 彼は、憶えてくれていたのだ。
 私にとっては、ありったけの勇気を振り絞った行動。
 だが彼には、日常を彩るに過ぎない風景の一コマ。

 あの頃の彼にとって、私はその程度の存在だったはずだ。
 なのに彼は、そんな風景に対してさえ責任を感じ、想い出を重ねようとしている。

 あのとき感じた苛立ち、空しさ、惨めさは、消えるわけではないが。
 彼の暖かさに、それらの感情さえ今は愛しく思えた。


「……『あのとき』の君が本当に鈍かったのは確かだが。
 では、今は鋭くなった、と言うのかな?」
 目尻に滲みそうな涙を誤魔化すため、私はあえて気持ちとは全く離れたフィールドについて言及した。

「あう……
 い、いやそれは……まあ、鋭意努力中、ってことで」
 痛いところを突かれた、といった顔で、士郎が頭を掻く。

「ふふ……
 まあ、確実に進歩しているのも確かだ。
 それに、鋭すぎる君など、想像もできないしな」

 そんな会話の中で、なんとか平常心を取り戻した私は、彼の掌をそっと握った。


「では、今日は買い物をするわけではない?」
「ああ。
 ウインドウショッピングってやつかな。
 前に来たとき、鐘がなんとなく興味ありそうに見てたのが、頭にあってさ。
 ここなら、俺の得意分野だし、いろいろ説明もできるし」

(あのとき興味深く見ていたのは、店の品ではなく、その品を選ぶ君だったのだがな)

 まあ、そんな台詞は野暮になるだろう。
 私の未知の分野であることは確かだし、新しい知識を憶えることも楽しい。

 なにより、私の手を引きながら、嬉しそうに道具の一つ、材料の一枚を解説していく彼を見るのは、幸せだった。



 ……そう言えばあの時、ここで見知らぬ人から声をかけられたな。

「おや、エミヤん、こんなところで何してんの?」

 そうそう、こんな感じの台詞で……え?


「ね、ネコさん!?」
 驚き声の彼といっしょに振り向くと、ややくたびれた黒のカッターとエプロンをつけた、目の細い女性が立っていた。

 正に、あの時出会った女性。
 彼が勤めている酒屋の店員、と紹介されていた。名前は《ネコ》としか聞いていなかったが。


「ど、どうしたんですか、こんな時間にこんなところへ!?」
 妙に慌てている士郎。
 あのときは、私と一緒にいたところを見られても
『こんちわ、ネコさん』
 で済ませていたのに。

「それはこっちの台詞、ってセリフは、こういうときに使うんよね。
 ……ふーん」
 そのまま、本物の猫そっくりの細目で、私たちをじっくり眺める《ネコ》女史。


「おかしいとは思ってたんよね。
 いつもバイトはオールオッケー。どんな日でも断ったことのないエミヤんが、
 『24日の夜と25日は、なんとか休ませてもらいたい』
 なんて直訴してくるんだもん。
 そりゃあ、アタシを拝み倒してでも休みたくなるよねえ?」

 私と士郎を交互に見比べながら、《ネコ》女史は、うんうんと頷く。

「しかもこのコ、前にここで会ったコじゃん。
 『そういうのじゃないですよ』
 なんて、しらばっくれてたくせに、今度こそ手なんか繋いじゃってこのー」

 そう言って、肘で士郎の脇腹をうりうりと抉る。


「い、いや、嘘はついてません。
 あの時はほんとに、『そういうの』じゃなかったんです!」
「へえ。
 じゃ、そのあとに『そういうの』になったん?」

 必死で弁明する士郎だが、どうやら《ネコ》女史の方が、一枚も二枚も上手のようだ。
 ……まあ、振り回す手の先に、私の掌がくっついているのだから、説得力など皆無なのだが。


「まあ、あの時のアタシの勘は、間違ってなかったってことよね。

 改めましてコンニチハ。
 アタシは蛍塚ネコ。
 《ネコ》って呼んでいいよ」

 チェシャ猫のような笑いで士郎を突っついていた《ネコ》女史が、急に私に目を向け、片手を挙げる。

「あ……ど、どうも。
 氷室鐘、と申します」
 あわてて頭を下げる。

 正確には初対面ではないのだが、考えてみれば、未知である士郎の知り合いに挨拶するのは、これが初めてだ。

 ……しかし、《ネコ》というのは本名なのか?
 てっきり、ニックネームだと思っていたのだが……


「うーん。
 前に見たときは、エミヤんのタイプと違うかなあ、って思ったんだけどね。
 今見ると、ホントお似合いよ、お二人。
 てゆーか二人とも、あの時と印象違うよね」
 ニヤニヤ、とは言っても、少しも陰湿な感じがしない笑いを向けてくる《ネコ》女史。

 ……第三者の目から見ても、そうなのだろうか。
 あの時から今日まで、様々なことがあった。
 それを潜りぬけてきた私たちは、少しでも《似合う》と言える間柄になったのだろうか。


「氷室さん、だったよね。
 キミは目が高いよ。
 こんな優良物件、今どきめったに転がってないからね。
 大事にしたんさい。
 まあ、ある方面でニブいのが玉に瑕だけど、それも味わいのうち、ってことで」

「あ……は、はい。
 私のほうこそ……」
 重ねて頭を下げる。

 ……士郎の周りには、本当に一筋縄ではいかない人が集まる。
 この《ネコ》女史も、まさにそうだ。
 あたたかく優しいからかいに、私の顔の温度は上昇しっぱなしだった。


「……で、ね、ネコさん。
 ほんとに、今日はどうしたんです?」

 士郎も、私と同じだったのだろう。
 半ば強引に、話の舵を切った。

「ん?
 ああ、あっちで首輪とリードを買いに来たんよ。
 バーボンのヤツ、今のじゃ合わなくなっちゃってねえ」
 そう言って《ネコ》女史は、隣のペットコーナーに目を向けた。

「だから言ったじゃないですか。
 あいつ、レトリーバーなんですから、これからもっと大きくなりますよ。
 店員さんと相談して、それ用のを買わないと」
 苦言を呈する士郎。

 ……《バーボン》とは、犬の名前だろうか。
 いかにも酒屋らしい、というか。

「ああ、そうするわ。
 あ、あとエミヤん。アイツの家もちっちゃくなったんで、その相談にもまた乗ってよね」
 どうやら、あの時に買った材料では、《バーボン》氏の体に合う家は作れなかったらしい。


「んじゃ、お邪魔さま。
 氷室さん、今度ウチにも遊びに来てよね。
 ウチ、居酒屋もやってるから。
 お酒はさすがにだけど、料理もちょっと評判なんよ、ウチ」
 もう一度、さっぱりしたチェシャ猫笑いを見せた《ネコ》女史は、あっさりと背を向けた。

「ありがとうございます。
 あの、近いうちにぜひ……」
 あわててお礼を言う私の言葉が届いていたのか。
 そのまま彼女は、こちらを見ずに手を振りながら去っていく。



「……いや、まさかのまさか、だったよな。
 ここまで『やり直し』できるとはなあ……」
 大きく息を吐きながら、彼が言う。

「……同感だ。
 しかし、本当にさっぱりした、感じの良い方だな」
 同じく深呼吸をしながら、私も素直な感想を彼に伝える。

「ああ。
 藤ねえや、柳洞寺の零観さんとも、穂群原の同級生で親友だったそうなんだ。
 改めて見ると、納得だよな」
「藤村教諭や、零観氏と?」

 柳洞一成の実兄である柳洞零観氏とは、私も面識がある。
 ……なるほど、お二人と親交があったのなら、あの人柄も頷ける。


「しかし君の周りには、本当に個性的な人が集まるな」

「む。
 個性的な人が多いのは認めるけど、別に集まってるわけじゃないし、集めてるわけでもないぞ。
 だいたい、鐘がそれを言うか?」

「……ほう?
 それはどういう意味かな?」


 そんな、たわいない言葉のやりとりを楽しみながら、
 私は、また彼の世界を少し知ったことに、嬉しさを感じていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/05 19:54



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ六)





「じゃあ、鐘。次はどこに行く?」

 DIYコーナーを出ると、士郎は私にそう聞いてきた。

「……どこ、と言うと?」
 思わず首を傾げる。

 今日は、夕食の場所以外は、士郎がプランを立ててくれるのではなかったか?
 最初の紅茶専門店、そしてこの店と続いたので、てっきり今日は《想い出の場所巡り》だと思っていたのだが。


「……あっ、そうか。説明してなかったよな。
 悪い、自分だけ先走って」
 何かに気付いたように、士郎が頭を掻く。

「いや確かに、前の二つはそういう意味もあったんだけどさ。
 今日は、それぞれが興味のある場所に、替わりばんこに行ってみようかと思ったんだよ。

 ほら、初めてのデートの時、鐘、言ってただろ?
 『街中にあるものは大半はもう見知っているものだ』
 って。
 でも実際は、このDIYコーナーみたいに、行ったことのない所って、けっこうあるじゃないか。
 そういう、自分はよく知ってるけど相手はあまり知らない場所を、案内し合うっていうのは、どうかな?」


 ……なるほど。
 先ほど
『この先は、鐘にも協力してもらわなきゃならないんだけど……』
 と言っていたのは、そういう意味だったのか。

 確かに、私と士郎の趣味は、重なるところがほとんど無い。
 だが、お互いの得意分野に、お互いが興味を持っているのも事実だ。
 現に、今のDIYコーナーで士郎の解説を聞くのは、相手が士郎であるということももちろんあったが、とても楽しかった。

「……ふむ。
 なかなか面白いプランだな。
 お互いのことをより良く知り合えて、未知の対象の知識も増す、ということか。
 ならば次は、私の番か?」

「ああ。
 いきなりで申し訳ないんだけど、どっかあるかな?」


 士郎の言葉に、しばし黙考する。
 私の興味のある場所、か。
 いくつか思い当たるが、プランはまだ始まったばかりだ。いきなり趣味に走りすぎるのも……

「……よし。
 ちょうど良さそうなところが、近くにある。
 そこへ行こう」
 そう言って、私は士郎の手を引っ張り、先に立って歩き始めた。



「……ここ、か?」
「不満かな?」
「あ、いや。そんなことあるわけないけど……」

 言葉を濁しつつも、目をぱちくりさせている士郎。
 まあ、無理もないか。


 私が彼を連れてきたのは、同じヴェルデの中にある、輸入食料品店だった。

 ここも、先の二箇所と同じく、私たちの想い出の場所だ。
 初めてのデートの時、紅茶専門店に入れず時間を持て余した私たちは、ここでささやかな買い物などをした。
 つまり、実質上ふたりで初めて訪れた場所、と言って良い。


「まあ、想い出つながりで選んだことは認めるがな。
 しかし、今の私にとって興味深い場所であることも事実だぞ?」
 突っ立っている士郎の手を引き、店内へと入る。

 店内は相変わらず、少々雑多と言っても良い印象だった。
 ワインや紹興酒、各種リキュールと共にハーブやスパイス、チーズとハムなどが所狭しと並んでいる。

「興味深い、って言うと?」
 士郎が、あの時と同じようにチーズを手に取りながら、尋ねてくる。

「…まあ、もう少し秘密にしていようと思っていたんだが……
 実は今、母の料理を少々手伝っていてな」
 少し頬が熱くなるのを感じながら、私は士郎に説明した。


 私の母は料理が上手で、特にフランス料理を得意としている。
 こういう母を持った場合、年ごろの娘はどういう行動を取るか。
 積極的に料理を習うか、全面的に親に依存するか、どちらかだろう。

 私は典型的な後者だった。
 母の域に辿り着くまでの道程の遠さを思い、早々に投げ出していた感すらある。

 だが、士郎の弁当や食事を何回もご馳走になるに連れ、
『このままでは、さすがに女子としてまずいのではないか』
 という焦りが、ようやく湧いてきた。

 なので、遅まきながら母に教えを請うたのだが……


「へえ。
 じゃ、もう少ししたら、鐘のお手製フランス料理を食べさせてもらえるってわけか」
 目を輝かせて微笑む士郎。
 ……その曇り無き瞳が、痛い。

「……士郎。私は先ほど言ったはずだ。
 母の料理を《手伝っている》、と」


 そう。
 教えを請うた私に母がやらせたのは、材料の買い出しから皿洗い、皮むきなどの下ごしらえ。
 あとは、料理している母の横に控え、
『あの調味料を取って』
『こっちの鍋は、もう下げていいわ』
『これの盛りつけ、お願いね』
 等々、完全なるサポート役に徹する日々だった。

 料理は習うのではなく盗め、ということなのかもしれないが、
 年ごろの娘が親に『料理を教えてほしい』と言っているのに、普通こういうことをさせるか?

 あんまりなので、私が文句を言うと、

「私もあなたのお祖母さまから、まずはこんな風にして料理の基礎を習ったのよ。
 それが不満だと言うのなら、そうね、士郎くんに教えてもらったら?
 彼のお料理、とっても美味しいんでしょう?」

と来た。

 確かに、士郎の料理の美味さについては、母にも何回か話したことはある。
 だが、士郎に食べてもらうのを目標にして料理を習いたいと言っているのに、
 当の士郎に習え、とは、どんな論理なんだ。


「……はあ。
 なんて言うか、厳しいお母さんなんだな」
 私の苦渋の説明に、士郎も毒気を抜かれたような顔をしている。

 確かに、私の母は厳しいところは厳しいが、普段はいつもおっとりと微笑んでいる淑女だ。
 それが最近、妙にラディカルというか、ファンキーというか、私の知らない一面を垣間見せつつある。
 今回のこれも、単に厳しいと言うより、なにか裏があるような気がしてならないのだが……


「……まあ、そんなわけで、この店にも母の使いでよく来るようになったんだ。
 今では、どこにどんな食材や調味料があるか、だいたい把握している」
 少々脱線した話を、元に戻す。

 そのまま、目に付いた商品をいくつか彼に説明していく。
 始めは『ふむふむ』『へえ』などど、あいづちが聞こえていたが、気付けば隣が妙に静かになっている。

 どうかしたか?
 と聞こうとして士郎を振り返ると、

「……すごいなあ、鐘。
 洋食が得意な桜だって、多分そこまで詳しくないぞ」
 彼が《本気で感心した》という目で頷いていた。


 ………
 言われてみれば、以前彼とここを訪れた時に比べて、格段の進歩だ。
 商品の単なる知識だけではなく、それをどう使うか、どんな場面で用いるのが良いか、概略なら説明できるようになっている。

 認めるのは若干悔しいが、やはり母の方針は正しいのだろうか……?


「……し、しかし、知識だけではな。
 実際には、私は食材を扱ったこともほとんどないし……」

「なんだ、それなら今度教えようか?」

 経験の無さを恥じる私に、彼は実にあっさりと提案してきた。

「は?」
 思わず、間抜けな声を出してしまう。

「まあ、さすがにここの食材は、俺の専門外だから無理だけどな。
 でも、鐘の説明を聞いてると、料理の基本的な手順や勘どころは、もう押さえてるように思えるんだ。
 なら、あとは実戦あるのみ。
 簡単な料理から始めていけば、すぐに上達するよ」


 ……思わず、絶句してしまう。
 士郎が、私に、料理を……?


 確かに以前、彼の屋敷にお邪魔したとき、
『よければ今度、うちで手ほどきをしてくれないか?』
 と言ったことはある。

 だがあれは、間桐桜嬢との静かな攻防の中で出た台詞であり、実際に習いたいと思ったわけではなかった。
 それを……


「ああ、でも今、鐘を教えてるのはお母さんだしな。
 ちゃんとした教育方針があってやってるのに、俺が横からしゃしゃり出るのはまずいか」

「い、いや!!」

 腕を組んで考え込む士郎に、思わず声をかけてしまう。
 自分で出した声の大きさに、自分でびっくりした。


「……鐘?」
 彼も、目を丸くしてこちらを見ている。

「そ、……その、だな。
 それなら、心配はいらないと思う。
 母はそこまで狭量ではないし、母自身も、し、『士郎に習え』と言っていたんだ。
 一応、了解を取る必要はあるだろうが、まあ……
 ゆ、許してくれると、思う……」

 ……なぜ私は、こんなにも頬を熱くしながら、こんなにも必死になっているのだろう。
 答は分かり切っている気もするが、今それに気付くと、いろいろ大変なことになりそうな気がしたので、あえて無視した。


「そ、そっか。
 じゃあ、お母さんのお許しが出たら、って条件付きだけど、俺が教えてかまわないかな?
 ほんとに基本的な、それも普通のお総菜料理になるだろうけど」

「あ、ああ。
 よろしく、お、お願いする……」

 あれよあれよという間に、士郎の料理教室が決まってしまった。
 いつ頃が良いか、場所はどこにするかなど、具体的なことは後で決めるとして、
 まったく、これは母のスパルタ教育から出た、瓢箪から駒と言うべきか……

 ……まさかとは思うが。
 ひょっとして、母はそこまで読み切っていたのだろうか……?


「じゃあ、鐘」
「な、なんだ!?」
 思考に耽っていたところにいきなり声をかけられ、思わず顔が跳ね上がる。

「……いや。そこまでビックリすることもないと思うんだけど。
 とにかく、そうと決まれば、実習前のプレ課外授業だ。
 次に行くところは決まったぞ」

 彼は、生き生きと目を光らせ、私の手を引いて店を出た。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ七)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/08 19:58



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ七)





 予想に違わず、と言うべきか。
 士郎が次に足を向けたのは、ヴェルデ地下街の総合食料品売場だった。

「俺も普段はほとんど深山町で買い物するからな。
 ここのスーパーは詳しくないんだけど、まあ、基本はいっしょだから。
 まずは、一通り見ていこう」

 詳しくない、と言った割に、彼は流れるような動作で店内に入り、入口に置いてあるカゴに手を伸ばした。
 その取っ手を掴んだところで ぴたり と止まり、

「 ――― 」

 こちらを向いて、決まり悪そうに笑いながら手を離した。

 まあ、それはそうだろう。
 目的地がだんだん所帯じみてくるのに加え、彼の動作があまりに自然だったので、私も、途中まで気付かなかったのだが。

 今は一応、デート中。
 しかも、クリスマスという年に一度のイベントなのだ。
 まさか、レジ袋ぶらさげてこれからのスポットを回るわけにもいくまい。


「……悪い。
 つい、習慣でな」
「いや。
 よくぞ掴んだところで手を止めたものだと思うぞ。
 会計を済ませて店を出るまで気付かないだろう、と予想していたからな」

 からかい半分、本気半分の笑顔で士郎をにらむと、彼は肩を縮めて頭を掻いた。


 改めて、手ぶらのまま店内を回る。
 まずは、生鮮食品からだ。
 ……しかし、素朴な疑問なのだが。
 スーパーマーケットという所は、どうしてどこも、入口付近に野菜や果物が陳列されているのだろう?


 士郎は、食材の一つひとつを手に取り、それを私に示しながら、懇切丁寧に解説してくれる。

 曰く。

 ジャガイモは、大きすぎる物はスが入っている可能性が高いので要確認。
 表面に水滴が付いている人参は、長く放置されていた証拠と見るべき。
 この胡瓜は、皺の寄りがぼやけているから、鮮度が高いとは言えないだろう。
 魚は、水をかけて生きが良いように見せかけている場合があるから、目を見て判断すること。

 等々。


「……君は、本当に年頃の男子生徒なのか?」
 彼の知識の豊富さと眼力の鋭さに、本気で敬意を表しながら、私はつい、とっても素直な感想を漏らした。

「べ、別に好きで覚えたわけじゃないぞ!
 ほ、ほら爺さん…俺の親父は家事なんてなんにもやらなかったし、そのあとはずっと一人暮らしだったんだ。
 やむにやまれぬと言うか、必要に迫られて、だな……!!」

 アジの開きのパックを持った手をぶんぶん振り回しながら、必死になって士郎は力説する。
 しかし、先ほどのDIYコーナーの時を上回る生き生きとした表情を、今の今まで見せつけてくれていたんだ。
 その言には、到底頷けない。


「まあ、いいじゃないか。
 別に非難しているわけでもないし、からかっているわけでもない。
 これだけ熱心で優秀な教師に、生徒が感激したのだと思ってくれ」
 彼の肩を ぽんぽん と叩いて慰めるが、士郎は

(……なんか、鐘ってだんだん遠坂に似てくるよな)
 とか
(桜もそうだったし……女の子ってみんなそうなのかな?鐘だけは違うと思ってたのに……)
 とか、
 今にもしゃがんで床に鼠を描きそうになっている。

 ……こういう屈折した心理表現は、やはり思春期男子特有のもの、と安心して良いのだろうか?



 そんな掛け合いを挟みながらも、衛宮敎授の講義は続く。
 そして精肉売場で、アブラミの色による鮮度の見分け方を教わっていると、


「衛宮ではないか?」

 後ろからかけられた声に、士郎と私は、豚バラ肉から目を離して振り向く。
 そこに立っていたのは、

「珍しいところで会うものだな。
 今日は、こちらまで出てきて買い物……というわけでもなさそうだが」

 端正な面貌。
 筋の一本通った涼やかな立ち姿。
 冷静で怜悧な声音。

 柳洞寺の跡取りにして、穂群原学園の元生徒会長、柳洞一成だった。


「なんだ一成。そっちこそ珍しいな、こんな所へ。
 生徒会の用事か?」
 屈託無く、士郎が返事を返す。

 元生徒会長、と私は言ったが、柳洞一成は、つい一週間前まで、《元》の付かない現役の生徒会長だった。
 だが、
『年が明けても三年生が会長なのは、さすがにまずいのではないか』
 という、生徒会の苦渋の決断により、学期末にようやく新会長が選出された。
 今は、新旧引き継ぎの時期なので、士郎もこんな質問をしたのだろう。


「いや、今日は寺の用向きだ。
 年の瀬は、準備もなかなか煩雑でな。
 入り用の物を調達に来たところだ」

 なるほど、彼の後ろでは、私服姿ながら剃髪した、若い僧らしき人が軽く頭を下げている。

「大抵の品は深山町で揃えるのだが、やはり新都でないと手に入らない物もあってな。
 ここの店主と、先ほどまで仕入れの交渉をしていた」

「そっか。お寺は、年末年始はやっぱり大変だな。
 今年は、俺はいつから行ったらいい?
 なんでも言いつけてくれ」

 真顔でそう尋ねてくる士郎に、柳洞は一瞬目を見開き、

「 ――― 」

 それから、長いため息をついた。


「馬鹿なことを。
 俺の会長交代のときのゴタゴタで、貴様にはあれほど迷惑をかけてしまったのだ。
 この上、お家の事情でまで甘えられるものか」

「お家の事情、って……
 なんだ、毎年手伝ってたじゃないか。変な遠慮しなくても……」

「たわけ」

 なおも食い下がろうとする士郎に、元生徒会長は一喝を入れた。


「貴様にはもう、存分に時間を割かなければならない人が出来たのだろう。
 その人を置いて、何をしようと言うのだ。
 俺とて、馬に蹴られたくはない」

「「え……」」

 士郎と私の呟きが、思わず重なる。
 私たちを見る元会長の視線は、若干、私の方に多く注がれているような気がした。


「……」
 思わず、私と視線を交えた士郎は、

「あ、ああいや……、まあ、それはそうなんだけど……
 あ!た、托竹さん、お久しぶりです!!」

 真っ赤になって視線をさまよわせていたが、元会長の後ろにいる若い僧に、あわてて歩み寄った。
 そのまま、僧と談笑を始める。
 ……どうやら、話を誤魔化したつもりらしい。

 当然、あとには私と元会長が残った。


「……私を見ても驚かないのだな、寺の子」
「まあ、聞いてはいたからな、役所の子」

 二人とも、あえて懐かしい呼び名で声を掛け合う。

 地元の古刹の跡取りとして生まれた男子と、
 地方政治に従事し、今は市長である政治家の娘。

 地元有力者の子ども同士、歳が同じこともあって、二人は幼少の頃から面識はあった。

 逆に言えば、その程度の付き合いだ。
 顔を合わせれば、二言三言声を掛け合い、そのまますれ違う。
 そう、ちょうど今のような雰囲気で。


「少し意外だな。君が、私と士郎のことを知っていたとは」

 清廉潔白、女嫌いとの噂まで立っているこの男のことだ。
 男女の交際などという浮いた話にも、全く興味を示さないと思っていたが。

 まあ、私と士郎の場合、私の入院騒ぎでなし崩しに公認になったようなものだ。
 この男と士郎は友人なのだし、彼が少しくらい興味を持っても……


「当然だ。衛宮が話してくれたからな」
 そんな思いに耽る私に、元会長、いや柳洞一成は、意外な言葉をかけた。

「……士郎が?」

「うむ。
 十月の終わり頃だったかな。生徒会室で聞いた。
 『氷室と付き合うことになったから、承知しておいてくれ』
 と」
 そう言葉を続けた柳洞は、私の目をじっと見つめている。


 十月の終わり頃というと、初めてのデートが終わり、やっと付き合い始めた頃ではないか。

 あの頃。
 別に隠すことでもないが、二人の仲はあまり大っぴらにはしないでおこう、と話し合ってはいた。
 私は、これまでのいきさつもあったので、蒔寺と由紀香にだけは話していたが、
 士郎は、あの《五日間》から察するに、家族にも知らせていないものだと思っていた。

「俺も驚いた。
 いや、衛宮とお主が付き合い始めた、ということにもだが、聞けば遠坂や間桐桜、藤村教諭にも伝えていないと言う。
 それを、俺などに話しても良いのか、と言ったのだが……」

 柳洞は、苦笑しながら眼鏡の位置を直す。

「『なんでか俺にも分からないけど、一成には話しておかなくちゃいけない気がしたんだよな』
 と。
 彼奴は、いつもの顔で笑っていた。

 ……不覚にも、胸が熱くなったぞ。
 俺は、あの男にそんなにも信頼されているのか、とな」

 少し頬を染めながら、満足そうに目を閉じる柳洞。


 ……そうか。

 士郎に関して、今まで私は、藤村教諭や間桐嬢を始めとする《家族》のみに目を向けていた。
 それは、そうせざるを得ない経緯もあったのだが、
 当然のことながら、彼にはそれ以外の世界もあったのだ。

 先ほどの《ネコ》女史もしかり。
 この柳洞一成や美綴嬢を始めとする、友人たちもしかりだ。


 藤村教諭たちは、たしかに彼の家族だが、家族であるが故に、言いづらいこともある。
 そういった事も、自分の信頼する友人には、包み隠さず話す。
 人として、ある意味当たり前のことだ。

 その《当たり前のこと》を、士郎がしてくれたということ。
 それが出来る友人を持っていてくれたことが、なぜか無性に嬉しかった。


「友として、信頼して打ち明けてくれたのだ。
 その信頼を汚すわけにはいかん。
 だから、徹底して知らぬ振りをした。
 たとえ、お主とすれ違ったとしても、な」

 なるほど。
 この男が、そこまで腹を据えていたのなら、私が気付かなかったのも無理はない。

「が、最近の状況を鑑みるに、どうやらお主等は《カミングアウト》とやらをしたらしいからな。
 なので、今日は俺も声をかけたのだ」

 ……堅物のこの男から《カミングアウト》などという言葉が出ると、妙におかしい。


「……ありがとう。
 私からも礼を言う、柳洞一成」
 自然に、彼に対して頭を下げていた。

 彼の親友でいてくれて。
 彼の大事なことを聞いてくれる友として、彼と付き合ってくれて。


「ば……馬鹿なことを。
 俺は、衛宮のためを思って行動したのだ。
 お主に礼を言われる筋合いは無い」

 あわてて目を逸らす柳洞。
 こういうときに、しきりに眼鏡の蔓をいじるのは彼の癖だ。


「……まあ、意外と言えば意外だったな。
 衛宮から初めて聞いたとき、正直、信じ難かった。
 お主には失礼だが、衛宮とお主が並んで立っている様を、どうしても想像できなかった」

 本当に失礼なことを言っているが、気持ちは分からなくもない。
 私自身、現在でも他人に自分たちがどう見えているか、想像も出来ないのだから。

「衛宮は普段があれだからな。
 率直に言えば、自分から彼奴を引っ張っていってくれる、そんな女性が似合いだと、漠然と思っていたのだが……」

 ……以前、そんな意見を聞いた気もする。
 《ネコ》女史からだったろうか。
 確かに、士郎の周りの女性からすれば、私はおとなしい部類に見られるのだろう。

 では、具体的には、彼にはどんな女性が似合うのだろうか。


「……それは例えば、遠坂嬢のような?」

 それとなく水を向けたとたん、柳洞は大きく身震いした。

「冗談でもよせ。
 あの女狐に衛宮を任せるくらいなら、うちで僧として末永く生きてもらった方がよほどましだ」

 本気で厭がっている。
 柳洞と遠坂嬢の確執は以前から聞いてはいたが、なるほど、これは相当なものだ。

 ……しかし柳洞一成。
 いかに士郎の身を案じているとは言え、今の発言は少々危険なのではないか?


 それが分かっているのかどうか、柳洞は こほん と咳払いをした後、

「だいたい、遠坂の名を出すまでもなかろう。
 衛宮には、もはやお主がいる。
 押しも押されもせぬ、立派な伴侶がな」


 しばらく、言葉の意味が分からず、きょとんと立ちつくす。
 そして、

「 ――― !!」

 自分でも滑稽に思うほど、一気に全身が熱くなった。

「な……なにを言っ…
 は、伴侶!?
 柳洞、そういう冗談、は……!」

「失敬な。
 俺は、こういったときに冗談や世辞など言わん。

 俺が先ほど『信じ難い』と言ったのは、あくまで第一印象だ。
 実際、何回かお主と衛宮が二人で居る所を見て、俺の杞憂だったということがよく分かった。
 特にたった今、お主たちが食材を選んでいた場面など、どこのおしどり夫婦かと思ったくらいだ」


 ……士郎とは違った意味で、この男は難敵だ。
 士郎は、殺し文句や恥ずかしい言動を、完全に素で言ってのける。
 対して柳洞は、その言葉の破壊力を充分に承知していながら、平押しに押してくる。

 どちらも、本音であることが分かるだけに始末が悪いのは一緒だが。


 柳洞は、笑みを浮かべながら続ける。

「まあ、俺もこれで、卒業を前にやっと肩の荷が下りた、と言ったところか。
 衛宮には、なんとしても幸せになって欲しかったからな」

 その笑みは、意地悪さを充分に含んではいたが、何故か暖かだった。

「衛宮は、もっと幸せになるべきだ。
 いや、衛宮のような男こそ、幸せにならなければならんのだ。
 なのに彼奴は、自分のことは全く投げ出して、他人の世話にばかり奔走する。
 このままでは、あの男はどうなってしまうのか、と案じていたのだが……」

 私が、あの《五日間》で骨身に染みた心配を、柳洞も口にする。
 さすが、士郎の親友に値する男だ。


「役所の子。
 いや、氷室鐘。
 俺の方こそ、頭を下げて頼む。
 衛宮士郎を、よろしくお願いしたい」

 そして柳洞は、彼らしい折り目正しさで、誠実に頭を下げてきた。

「俺に出来ることがあれば、なんでも言ってもらいたい。
 骨は惜しまん。
 どうか彼奴と、添い遂げてやってくれ」


 ……胸が、熱くなる。
 幼少の頃より、顔だけは見知っていた相手と、今、初めて出会ったような気持ちになる。

 だから私も、できる限り本音で、本気で礼を返した。

「……正直、『添い遂げる』という約束は出来ない。
 そんな自信は、今の私には無い。
 だから、別のことを誓おう。
 添い遂げるために、全力を尽くす、と」

「充分だ」
 柳洞は、満足そうに頷いた。


 ……それにしても。
「衛宮士郎とは、すごい男だな」

 生涯、ただの顔見知りのままだったはずの相手と、こんなにも気持ちを通わせてくれる。
 間桐桜嬢のときも味わったが、このような感覚は、彼を知るまで体験したことがなかった。

「全く、同感だ」
 柳洞も、感慨深そうに呟く。


「ん?
 なにがすごいんだって?」
 二人して深く頷いていたところに、当の『すごい男』が口を挟んだ。

 ……慣れているつもりではいたが。
 この男の、場の空気を読まない緊張感の無さは、もはや天然だ。

 柳洞と二人、がっくりと肩を落としながら、横目で彼を睨む。

「な、なにさ?」
 彼にしてみれば、不当で理不尽な視線なのだろう。
 後ずさりしながらうろたえている。


「一成君、そろそろ次に行かないと……」
 先ほどまで士郎と話していた若い僧が、穏やかに口を挟む。
 剣呑な空気を自然に和らげるのは、さすが修行の賜物か。

「ああ、そうですね。申し訳ない。
 ではな、衛宮。
 氷室、くれぐれも、よろしく頼む」
 一礼して、涼やかに背を向ける柳洞。

「ああ。こちらこそよろしくな、柳洞」
 その背に声をかける。
 その声音は、自分でも意外なほど穏やかだった。



「へ?
 鐘、『よろしく』って、何さ?」
 一人、話の見えない士郎が、疑問符を顔に張り付けている。

 ……少々、いたずら心が湧いた。

「気にすることはない。
 君の親友と、君の今後のことについて、いろいろと協議していただけだ。
 何も心配することはない」

 嘘は全くついていない。
 だが、この物言いで気にしない人間はいないだろう。


「ちょ、ちょっと待て!
 なんか、すごくあやしい匂いがするんだけど……
 鐘、一成と何話してたんだ!?」
 案の定、不安と怯えをあらわにする士郎。


「まあ、いいじゃないか。
 それより、授業に戻ろう。
 確か、アブラミと赤身の境界線がはっきりした物を選ぶのがコツ、だったな?」

「あ、ああ。そうだけど……
 じゃなくて!!
 本当に鐘、いったい……!!」


 必死に、さっきの会話について聞き出そうとする士郎と、
 あくまでとぼけ、豚バラ肉から目を離さない私。


 笑いを堪えるのに腹筋を総動員しながら、
 クリスマス・デートの第五場は過ぎていった。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ八)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/11 20:27



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ八)





「まあ、だいたいこんなところかな。
 あとは、作るメニューが決まったら、また詳しく話していけばいいだろ」

 食材の説明を一通り終わった士郎が、 ふうっ と満足げに息を吐く。

 本当に、今日今までで一番いい顔をしている。
 充実しきった、己の為すべきことを為し遂げた、生き生きとした表情だ。
 ……指摘すると、きっとまた拗ねてしまうだろうから、あえて言わないが。

「ああ、ありがとう。
 本当にためになる授業だった。
 …で、その…だな……」
 ちょっともじもじしながら、士郎に尋ねる。


「……実際の手ほどきは、いつごろ受けられるのかな?
 こちらも、その、準備はしておかないと……」

 降って湧いたような士郎の料理教室だが、やるからにはきちんと教えを受けたい。
 それに……何と言っても、初めてふ、ふたりで料理をするのだ。
 やはり、第三者はいない方が望ましい。

 それには、多くの人が常に集う衛宮邸よりも、私の家の方が、
 いや、決して彼の家族に邪魔されたくない、などといったことではなく……

 そんな想いを巡らせながら、彼にしどろもどろに提案したが、


「ああ、そっか。
 俺の家でやろうかと思ってたんだけど、確かに人が周りにいると気が散るよな。
 鐘も、習ってるなんて事を知られたら恥ずかしいだろうし。
 それに、鐘が料理するんなら、鐘の家のキッチンでやるほうが合理的だしな、うん」

 実にあっさりと、士郎は同意した。

「……」

 相変わらず、全然分かっていない。
 いや、確かに、論理的にも実利的にも、彼の言うとおりなのだが。


「どうした、鐘?額なんか押さえて。
 気分でも悪いのか?」
 士郎が、純粋に心配そうに私の顔を覗き込む。

「……いいや、なんでもない。
 では、場所は私の家のキッチンで。
 日取りは、母に迷惑のかからない日を聞いてから、ということで良いか?」

「あ、ああ。それでいいけど。
 ……鐘、なんで怒ってるんだ?」
 いきなり、つっけんどんで事務的な口調になった私に驚いたのだろう。
 士郎が、《俺、また地雷踏んだか?》といった顔で、恐る恐る尋ねてくる。


 ……全く。
 この男は、本当にいろいろな意味で手がかかる。
 しかし、それが衛宮士郎という男の、魅力の一つでもあるのだ。困ったことに。

 そう。この彼の魅力を一片も損なうことなく、彼と幸せになることが私の義務だ。
 柳洞一成との約束を果たすためにも、
 私自身の《エンゲージ》を貫くためにも。


「別に怒ってなどいないさ。
 ただ、道程は遠いな、と思っただけだ」
 だから私は、にっこり笑って、彼に手を差し伸べる。

「そ、そっか?
 よく分かんないけど……」
 彼は、おどおどしながらも、私の手を握り返す。

「さあ、次の目的地に行こう。
 今度は、私が選ぶ番だったな?」
 繋いだ手を引いて、士郎の先に立って歩き出す。


 なんだ士郎。

(……その笑顔が、なんか怖い)

 とは、失礼な。



     * * * * * * * * * *



 DIY、輸入食材店、地下スーパーと、だんだん所帯じみてきていたデートスポットだが、ここらで本来の目的、

『お互いの趣味を理解し合う』

 に軌道を戻すべく、私は自分の趣味に合った店に、士郎を案内した。


 すなわち、新都駅から少し離れた、画材専門店。

 店の規模は小さいが、品揃えは充実しており、父母の代からこの店は行き付けだった。
 おそらく、冬木市内でもこれ以上の専門店はそうはあるまい。
 幼い頃より絵筆を取っていた私には、ある意味、ふるさとに帰ってきたような気分になれる場所だ。

 店主は気むずかしい老人で、顔見知りの私が士郎を連れて入店してきたというのに、にこりともしない。
 だが、長年の付き合いで、私の来店を歓迎してくれていること、士郎の存在も認めてくれていることが、よく分かった。

 先ほど士郎が私にやったように、私も絵の具のひと色、筆の一本を手に取りながら、士郎に説明していく。


 意外、と言っては失礼だが、最近士郎は絵画に関心を示している。
 美術室で、昼食や放課後のひとときを過ごすようになったせいもあるのだろうか。

 試しに、簡単なスケッチをさせてみると、驚くほどに上手い。
 例えば、花なら花の微妙な造形、陰影のみならず、その花が持つ生命力、個性すらも写し取っているのではないか、と思えるほどだ。
 正直、私でもこれほどのデッサンを描く自信は無い。


 ただ……
 士郎のデッサンに、微妙な違和感を覚えるのも事実だ。

 簡単に言えば、士郎の絵は、絵と言うより《図面》に見えるのだ。

 絵画とは、究極を言えば、描く対象に『自分』というものを込める作業だ。
 抽象画や空想画だけでなく、写実においてもそれは変わらない。
 いや、どんなに自分を殺そうとしても、人が描く以上、どうしても『自分』というものが入り込まざるを得ない。
 それが、《絵を描く》ということなのだ。

 だが、士郎の描くスケッチには、その『自分』がほとんど見出せない。
 対象物の個性なら、魂すらも写し取っているのではないか、と思えるのに。


 この事実は、否応なしに、あの《五日間》を私に思い起こさせた。
 『自分』の歪み、稀薄さに対し、悩み抜いていた士郎。
 いや、今もその苦悩は続いているだろう。


 しかし、そう悲観すべき材料ばかりでもない。

 確かに、士郎のスケッチには、『自分』がほとんど見られない。
 だが、逆を言えば、うっすらとなら『衛宮士郎』を見出せるのだ。
 いや、正確に言えば、

『対象物を写し尽くすことこそが、衛宮士郎の個性』

 ということか。


 確かに初めは、その絵から《士郎》を見つけられず、暗澹とした気分になった。
 だが日に連れて、幾枚も描いてもらうに連れて、士郎のスケッチからその《個性》が明確になってきているような気がする。
 これは、決して私の欲目でばかりはあるまい。


「うれしそうだな、鐘?」
 カンバスの種類について説明していた私に、士郎が尋ねてくる。

「……そう見えるか?」
 答えた私は、確かに微笑んでいた。



「楽しんでもらえたかな?」
 店を出ながら、私は士郎に聞く。

「ああ。
 どこの世界もそうなんだろうけど、絵画って奥が深いな。
 一つの色を出すために、あんなにたくさんの道具があるなんて。

 …でも、アレだけはちょっとなあ……」
 そう言って、彼は眉をしかめる。


 彼の言う《アレ》とは、消しパンのことだろう。
 木炭デッサンのコーナーで、一緒に並んでいたパンに、彼は不思議そうな顔をしていた。
「それは、消しゴムの代わりに使うんだ」
 と教えたときの、彼の顔と言ったらなかった。

 硬い消しゴムではカンバス地を痛めてしまうので、パンは線消しとして昔から使われていたのだ、と説明したが、理解は出来ても納得は出来なかったようだ。

 そう言えば、由紀香も昔、この話をしたら心底驚いていた。
 料理をする者にとっては、ある意味、冒涜にさえ思えるらしい。
 私には、子どもの頃から親しんだ当たり前の道具でしかないのだが。


「いや、決して鐘や美術家の人に異を唱えるわけじゃないんだけどな。
 なんて言うか……なあ…」

「まあ、『所変われば品変わる』というやつだ。
 申し訳ないが、諦めてくれ」
 笑いをこらえながら、彼をなだめる。


「それより、次は君の番だ。
 どんな場所に連れて行ってくれるのかな?」

 まだ首を捻る彼の気分を変えるため、私は尋ねる。
 彼はちょっと考えるそぶりをしていたが、やがて にこり と笑って、私の手を引いた。

「そうだな。こっちも負けていられない。
 任しとけ。とびっきりの不思議スポットに連れてってやる」



     * * * * * * * * * *



 士郎が連れて行ってくれた場所は、まさに私にとって《不思議スポット》だった。

「これは……なんとも壮観だな」
「な? ちょっとしたもんだろ?」
 驚くというより呆れている私の隣で、士郎が自慢そうに胸を張る。


 そこは、新都の中心街から少し離れた場所にある、中古機械部品専門店だった。
 士郎曰く、

『ジャンク屋』。


 先ほどの画材専門店と同じくらいの広さの店内は、壁も床も、天井に至るまで、すべて機械という機械で埋めつくされている。

 さらに外の空き地にはテレビ、冷蔵庫、洗濯機から、軽自動車、バイク、自転車、あれは……ジェットスキー?
 そしてエンジンらしき物から、もはや何に使うかわからない物体までが、うずたかく積み上げられている。


 店の一番奥には、やっと人ひとり座れるスペースが空けてあり、そこには、

「よう、士郎君。
 例の物なら、まだ見つかってない……あれ?」
 顔も体つきも達磨さんみたいな、ヒゲもじゃで丸メガネの男性が、正に《収まる》という感じで座っていた。


「こんちわ、マスター。
 今日はそっちの用事じゃなくて、見学に来たんですよ」
 士郎が、親しそうにその男性に声をかける。

「なんだい、立派な格好してるから、人違いかと思ったよ。
 それに、そんな美人まで連れて。
 なに、見せびらかしに来たとか?」

 カラカラと、本当に達磨さんのように柔和に笑う《マスター》氏。
 士郎は『いや』とか、『そういうつもりじゃ』とか、ぶんぶん手を振っている。
 ……ああ、そんなに手を振り回すと、機械が崩れる。


「まあ、なにはともあれ、ごゆっくり。
 あ、服、汚さないようにね」

 《マスター》氏の言葉に、士郎が しまった! という顔をする。

 ……まあ、確かにお世辞にも清潔とは言えない場所だ。
 うっかりすると、新調したての一張羅が汚れてしまうだろう。

 だが。


「……悪い、鐘。服のことまで考えてなかった。
 ここは今度にして、出ようか?」

「いや。気を付ければ大丈夫だろう。
 それよりも、ここは非常に興味深い。君の解説を聞かせてくれないか」
「……いいのか?」

「もちろんだとも。
 ここは……何と表現したら良いか……
 そう!そうだ。
 君の家の土蔵に、とても雰囲気が似ている」


 何回かお邪魔し、案内をしてもらった士郎の屋敷。
 その中でも、私はあの土蔵が、士郎の工房(アトリエ)が一番気に入っていた。
 埃臭く、雑多なガラクタが積み上げてあるばかりの場所だが、
 そこはなぜか、とても温かく、屋敷の中で一番《衛宮士郎》が息づいているような気がする。

 その土蔵の雰囲気に、この小さな店はよく似ていた。


「……そんなに似てるか?
 土蔵や学園で使う部品は、だいたいここで買ってるけど……そのせいかな?」
 どことなくズレた士郎の返事に、私は苦笑を漏らす。

「そういう意味でもないんだがな。
 ところで、これは何に使うんだ?図鑑かなにかで見た気がするんだが」
「ああ、それは真空管って言って、トランジスタが出来る前の……」

 傍らにある部品を指さした私に、士郎の講義が始まる。
 先ほどのスーパーマーケットでの説明とは違い、正直言って、私には半分も理解できなかったが。

 あの時に負けないくらい、生き生きと楽しそうな士郎の声を聞くのが、嬉しかった。



 幸い、ほとんど服も汚れることなく、衛宮敎授の講義をたっぷり聴いて、『ジャンク屋』を出た。

「楽しめたか?なんか、俺だけ盛り上がっちゃったような気もするけど」
「そんなことはない。
 理解できたかどうかは怪しいが、知的好奇心が充分に刺激された」


 とは言え、埃と機械油の匂いに、少々息苦しかったのも事実だ。
 次のスポット選びは、私の番。
 少し目先を変えたいところだが…


 ……士郎ほどではないが、私もあまり趣味の多い方ではない。
 絵画方面を除けば、あとは陸上競技のスポーツ店か、あるいは書店……

 どうも、ありきたりだ。
 もっと刺激があって、士郎が驚いてくれるような所は……



「……よし。発想の転換だ。
 私も、付き合いでしか入ったことのない所だが、次はあそこに行こう」
 そう言って、士郎に微笑みかける。

「……」
「どうした?」

「…いや、どうしたって、こっちが聞きたい。
 鐘、その笑い、なにさ?」


 ん?
 顔に出ていたか。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ九)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/14 19:21




     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ九)





「……なあ、鐘。」
「なんだ?」
「……どうしても、入らなきゃダメか?」
「当然」

 私は澄まし顔で答える。

 対して士郎の顔は、複雑怪奇に歪んでいる。
 まあ、それはそうだろう。


 なにしろ私たちは今、
 男子禁制のファンシーショップ、ヴェルデ内のぬいぐるみ売場前に立っているのだから。


 店の内外から、うら若き乙女の目が向けられているのを感じる。
 当事者の士郎は、なおさらだろう。

「ここまで来たからには、観念したまえ。
 今度のスポットを選ぶ権利は、私にあるはずだろう?」

 士郎のそんな顔を見るのが目的の半分以上だった私は、さらに状況を進める挙に出た。
 彼の左腕に自分の腕を絡ませ、有無を言わさず引っ張っていく。

「ま、待て鐘!
 ちょ、ちょっと、心の準備……っ!!」
 彼の必死の抵抗も虚しく、店のセンサーは私たちの影をキャッチし、自動ドアを左右に開いた。



 店内は、当たり前の話だが、どっちを向いてもぬいぐるみだらけだ。
 ある意味、先ほど行った『ジャンク屋』にも引けは取らないだろう。

 そのファンシーの森の中を、士郎は密林をさまよう探検家のような腰つきで歩いていく。

 さらに、私が腕を組んで離さないものだから、士郎への注目度はバツグン。
 その視線が、さらに彼を混乱に陥れているのが、手に取るように分かる。
 私はもう、笑いを堪えるのに必死だ。


 自分でも、自分のハイテンションが不思議に思える。
 普段の私なら、こんな目立つ場所で積極的に彼の腕に絡んだりはしないだろう。
 だが今は、士郎の困り顔がグレードアップしていくのが、楽しくて仕様がない。

 ……今まで気付かなかったが、私にはサディスティックな一面があるのだろうか。
 それとも、士郎なればこそか?


「わ、わかった、わかったから鐘。
 逃げやしないから、せめて腕だけはその、離してくれ」
「ん?
 恋人である私と腕を組むのが、そんなに不満か?
 君はそういう薄情な……」
「い、いやそうじゃない!
 そうじゃないけど、そ、その……」
 もはや、臨界点すれすれの目をしている士郎。
 そして、

(……なんか、ますます遠坂に似てくるよな、鐘って)

 などと、なんだか聞き捨てならない独白も聞こえてくる。


「なんだ、君は遠坂嬢とこのような行為をしたことがあるのか?」
「あ、あるわけないだろーーーっ!!!」

 士郎の絶叫が、店内に響き渡る。


「 ――― 」
「 ……… 」


 店中の注視を浴び、真っ赤になって俯く士郎と私。
 ……再び店内に喧噪が戻るまでの数十秒間は、実に、長かった。

「……すまない。
 少々、ハイになりすぎていたようだ」
「いや、こっちこそ……
 修行が足りないな」



 改めて、ゆっくりと店内を回る。

「こういうこと聞くのって、失礼なんだろうけどさ」
 棚に陳列されているぬいぐるみを眺めながら、士郎が言う。

「鐘って、こういうの好きなんだ?
 あんまり興味無さそうなイメージがあったけど……」
「……本当に失礼なことを聞くな、君は。
 これでも、花の乙女の端くれであるつもりなのだが?」
 私の持つ視線の中でも、けっこう高ランクの冷たさで士郎を睨む。

「い、いや!
 決して、似合わないって言うんじゃなくてだな。
 その、好きなら、ひとつくらいプレゼントしてもいいかな、って……!」
 あわてて弁解を始める士郎。
 そんな彼に、クスクス笑いながら答える。

「冗談だ。
 君の好意には感謝するが、確かに、私はこういった可愛らしい物自体には、あまり興味を持てない。
 どちらかと言うと、由紀香のような子が抱いているのを見る方が好きだな」

 この店にも何回か入ったことはあるが、いつも由紀香の付き添いだった。
 私の部屋にあるぬいぐるみは、幼少の頃に買ってもらった小さなクマがひとつ。
 それは今、ガラスの戸棚に入り、想い出ある飾りとなっている。


「だが、まったく興味が無いわけでもない。
 買おうとまでは思わないが……」
 傍らにあった、タレたネコを手に手を伸ばす。

「ぬいぐるみとは、女子にとっていいものだ。
 こう手に取ると、思わず抱きしめたくなるな」

 そう言いながら、ネコを胸に抱く。
 ふんわりした感触が少し恥ずかしくて、甘い感傷が胸を満たす。
 思わず目をつむり、頬ずりをしてその肌ざわりを味わう。
 きっと今、私は微笑んでいるのだろう。


 そうして、ふと目を開けると、

「 ――― 」

 士郎が、 ぽーっ とした顔で、こちらを眺めていた。

「どうした?」

「……え?
 あ……!
 い、いや。どうしたんだろうな!?
 は、あはははは!!」
 夢から覚めたような顔をした士郎は、真っ赤になりながら慌てて手を振る。

「?」



 それにしても、決して広いとは言えない店内に、よくぞこれだけの種類のぬいぐるみを集めたものだ。

 動物、人間はもとより、植物、虫、車や電車、文房具、食べ物、アニメかゲームのキャラクター。
 大きさも、指でつまめるくらい小さなものから、大人が数人がかりでないと運べないような物まで。

 士郎の困り顔を見るのが目的で選んだようなスポットだったが、これはなかなかに楽しめる。
 士郎も、雰囲気にようやく慣れてきたのか、変わったぬいぐるみなどを見つけると、私に抱かせてみたりしていた。


 そんな、客観的に見ると今日初めてとも言える、正統的デートらしき事をしていると、

「あ……」

 士郎が、何か見つけたのか、棚の一点に目を注いだ。
 そのまま、そのぬいぐるみに手を伸ばす。

「?」
 先ほどまでとは少々違った士郎の雰囲気に、私もそのぬいぐるみを覗き込む。


 それは、ライオンを模したぬいぐるみだった。
 それも、たてがみのついた成獣ではなく、まだ仔獅子なのだろう。
 元々可愛らしいぬいぐるみの中でも、さらにあどけなさが強調されていた。

 とはいえ、愛らしさや珍奇さでは、これより勝る品が周りにいくらでもある。

(どうした、士郎?)
 そう、尋ねようとして、


「 ――― 」

 彼の表情に、言葉が出なかった。


 それは、単にそのぬいぐるみを愛でているのではなく、
 何か、別のものを慈しみ、懐かしんでいるような微笑みだった。

 彼が今、何を考えているか、分かるはずもない。
 しかし、彼が胸に宿している温もり。
 それは、私の体にも直接染み込んで来るように思えた。

 愛しさ、安らぎ、回顧、切なさ、そして感謝……


「――― 士郎。」

 私の呼びかけに、ようやく我に返ったのだろう。
 彼は、二、三度まばたきをした後で、反省と後悔の色を含む顔になった。

「……悪い。
 勝手に、物思いに耽っちまって。
 鐘といっしょにいる時だってのに……」


「 ――― 」

 私は、ゆっくりと首を振った。
 先ほどまで、あんなにも優しげな表情で微笑んでいた彼に、そんな暗い顔つきをしないで欲しかった。

「……想い出のある、品なんだな?」
 自分でも不思議なくらい、穏やかな声が出た。

 彼は少し目を見開いたが、
 私の声音と笑み、そして視線を感じ取ってくれたのだろう。
 また、穏やかに笑ってくれた。


「鐘に、隠しごとはできないな。
 実はここ、入るのは初めてじゃないんだ。
 アイツと、半ば特攻みたいな感じで来たことがあってさ」

 手に持っている仔獅子に目を戻し、彼は続ける。

「アイツ、普段は稟としてるくせに、こういう可愛い物に目が無くてな。
 特に、子どものライオンには思い入れがあったらしい。
 このぬいぐるみを、長いこと手に取ってじっと見つめてたよ」


 『アイツ』とは、聞かなくても分かる。

 《セイバー》。

 衛宮士郎が、初めて愛した女性。

「不思議なもんだな。
 こんな些細なことの一つひとつなんて、もういくつも覚えてないと思ってたのに」

 そう言いながら士郎は、仔獅子を掌の中でもてあそぶ。


「とにかく、申し訳なかった。
 鐘と二人でいるときに、アイツのこと思い出すなんて……
 ルール違反もいいとこだ」

 そう言って、彼は真摯に頭を下げる。

 しかし、そうではない。
 そうではないのだ。


「……かわいいな。
 それに、どこか凛々しい」

 士郎の掌の中にある仔獅子に、私も そっ と指を触れる。

「……鐘?」
 彼が、不思議そうな声を出す。

 それはそうだろう。
 恋人ならば、彼を愛しているのならば、ここは盛大に悋気を焼いてしかるべきだ。
 彼の言うとおり、『ルール違反もいいところ』なのだから。

 だが、彼から伝わってきた《温もり》は、そんな感情をほとんど溶かし去ってしまった。


 このデートの初めに、紅茶専門店で、遠坂嬢との逸話を聞いたとき。
 嫉妬を抱きつつも、家族の微笑ましいエピソードを耳にしたような、暖かい気持ちになった。

 今回も、それと同じ。
 いや。
 あのときよりもさらに直接、彼の想いが伝わってくる。

 それは、二人の掌に触られている仔獅子のように、柔らかく温かだった。


 《セイバー》。

 彼が愛し、彼を愛した女性。
 私と同じ人を、愛した女性。

 おそらく今よりも虚ろだった彼に、『何か』を残していった女性。

 もはや、衛宮士郎の一部分となっている女性。


「……この仔獅子は、このまま、ここにあるべきなんだろうな」
「……そうだな。
 で、コイツを本当に欲しいと思ってくれる子に、買われて行ってほしいな」

 士郎と私は、二人でそのぬいぐるみを、そっと元の棚に戻す。



 ……いつか。
 いつかはわからないが、いつか。

 私に本当の自信が生まれたとき。
 彼の話に、本当に素直に耳を傾けることが出来るようになったとき。

 聞いてみたい。
 その女性は、どういう人だったのか。


 士郎、君はその人をどれほど愛し、その人は君に何を残していったのか、

 と。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/17 19:38



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十)





「さて、そろそろ次へ行こうか。
 その様子から察するに、さすがに頭がのぼせてきたのではないか?」
 私の言葉に、士郎も苦笑しながら頭を掻く。

「ご明察。
 ここはやっぱり、男子禁制の地だよ」
 二人で笑いながら、ファンシーショップの出口をくぐる。

 と。



「あーっ!
 シロウ、やっと見つけたーーーっ!!」

 ヴェルデ構内に、突如響きわたる少女の声。
 続いて、銀と紫の砲弾らしき物が、こちらに向かって突進してくるのが見えた。

「え?イリ……
 ぐほっっ!!」
 砲弾は、過たず士郎の腹部に命中。
 当たり所が悪かったのか、彼は咳き込んでいる。

 そんな士郎の状態を全く無視して、砲弾…もとい、少女は言葉を続ける。


「もう!
 午前中からずーっと探してたのに、シロウったら全然見つからないんだもの。
 もう帰っちゃおうかと思ってたんだから!!」

 士郎の胴にしがみついていた少女は、今度は、腹を打たれて前屈みになった彼の首に飛びつく。

「でも、諦めないでよかった!
 やっぱりシロウと私は、運命の糸で結ばれてるんだねーーっ!!」

 そのまま、彼の首を支点にして、くるくると回る少女。
 ボディブローを決められた上、首を絞められて、士郎の顔には既にチアノーゼ症状が出ている。


「っっぷはっ!!
 い、イリヤ、なんでここに!?」

 やっと少女をやさしく引きはがし、士郎は呼吸を荒くしながら尋ねる。
 気持ちよく抱きついていたところを離されたのが不満なのか、少女……イリヤ嬢は、頬を膨らませながら答えた。

「むー。
 なんで、ってご挨拶ね。
 シロウの晴れ姿を見に来たに決まってるじゃない」

「は?」
 間の抜けた声で受け返す士郎。

「ほんとなら、リンやサクラといっしょに、朝からシロウたちのこと観察するつもりだったのよ。
 なのに、ほんのちょっと遅れただけで、リンったら先に行っちゃうんだもの。
 あーあ。
 私も、手のかかる保護者なんか見捨てて早く出かければよかったなあ」

 唇を尖らせながら不満を並べる少女は、とても愛らしいのだが、語られる内容はなんだかとても不穏当だ。


「でも、これはこれで良かったかな。
 こそこそ覗くより、やっぱり間近で見た方がいいし。
 んー……、うふふ」

 彼女はニンマリと笑った。
 そのまま二、三歩下がり、士郎の姿をじっくりと眺める。

「リンやサクラのセンスは認めてあげるわ。
 お兄ちゃん……、かあっこいいーーーっ!!!」

 満面の笑みを浮かべて、またもや士郎の首に飛びつくイリヤ嬢。
 今度は、彼の首筋に顔を埋め、しきりに頬ずりなどをしている。



「………」

 いつかの、海浜公園での間桐嬢と士郎の掛け合い。
 紅茶専門店で聞いた、遠坂嬢とのやりとり。
 そしてつい先ほど士郎が語った、かつての恋人との逸話。

 それらの出来事を、妬心を感じつつも微笑ましく聞いていられた私は、悋気の少ない女なのかもしれない、と自分では思っていた。


 だが。
 それならば、目の前の情景に、
 年端もいかぬ少女、それも義理とはいえ妹とじゃれあう衛宮士郎に、
 なぜ私はこんなにもギスギスした感情を抱いているのだろう?


「い、イリヤ!
 ちょっ、離れて!離して!
 場所を考えろ場所を!!」

 士郎は辺りを見回しながら、絡みつくイリヤ嬢を必死で引きはがそうとして果たせないでいる、ように見える。
 しかし、しょせんは大人と子ども。
 本気を出せば、簡単に振りほどくことが出来るはずなのに、為すがままにさせているのはどういうことか。

 その表情も、困惑の裏に嬉しさが滲んでいる、と感じるのは、私の僻目なのだろうか。
 それとも……士郎、ひょっとして君は、そっち方面の趣味もあるのか?


 自覚できてしまうほど、剣呑な目つきで二人を眺める。
 だが。

「あーっ!ヒムロ!!
 あなたも、かわいいーーーっ!!!」

「は?」
 次は、私が間抜けな声を出す番だった。


 士郎の首から飛び降り、今度は私に向かって突進してくるイリヤ嬢。
 そして、

「その帽子!そのセーター!
 すっごく似合ってる!
 それにヒムロの胸ってふかふかー!
 やわらかーい!!」

 先ほど士郎にしたのと同じように、飛びついて私の首に腕を回してくる。
 ぎゅっ と全身で抱きつき、私に頬ずりをしてきて……


 甘い匂いと、すべすべの肌ざわりに、思わず胸がときめく。
 わ、私は決して、そっちの趣味は、
 っ!やっ……ど、どこを触っ……

 助けを求めて士郎を見るが、彼は首をさすりながら、呆然とこちらを見ていて……
 ……何故、顔を赤くしている?



 やっと私を解放してくれたイリヤ嬢が、改めて私の前に立つ。

「ねえねえヒムロ!
 ヒム……
 ……うーん。
 なんか呼びにくいなあ、この名前」

 腕を組んで、考え込んでいる。

 確かに私の苗字は、外国人、それも子どもには少々発音しにくいだろう。
 ……先ほどの余韻に顔を熱くしながら、ぼんやりと思っていると、

「ねえ、あなたのファーストネーム、《カネ》っていうんでしょ?
 そう呼んでいい?」

 彼女は、実に無邪気な顔と声音で、そう提案してきた。



 ……正直、戸惑わざるを得ない。

 あの《五日間》の前日。
 士郎の家で、この少女と初めて出会った夕方。
 彼女は私を、無機物を品定めするかのような目つきで眺めていた。

『あなたがヒムロ?』

 彼女の第一声の冷ややかさ、否、冷たささえも含まれていない声は、今も耳の奥に残っている。

 だが、それも仕方のないことと思っていた。
 私は、この屋敷の部外者。
 異物であり、ひょっとしたら排除されるべき対象だったのだから。


 あの時の無機質な声音と、今、目の前に聞く笑い声。
 これは本当に、同一人物から発されているのだろうか?



 答えるべき語を見つけられない私を、どう思ったのか。
 イリヤ嬢は、不思議そうな目を向けてきた。

「どうしたの?
 そう呼ばれるの、イヤ?

 ……あ、そうか」

 彼女は、何かに思い当たったような顔をした。
 自分の額を、こつん、と叩く。

「そう言えば、自己紹介もまだだったよね。
 ごめんなさい。手順を間違えてたわ」

 そう言って笑ったイリヤ嬢は、 すっ と背筋を伸ばした。
 両手でスカートの裾を摘み、


「改めまして、ごきげんよう。
 わたくしは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 エミヤシロウとは兄妹にあたります。
 以後、よろしくお見知りおきを」

 今までの無邪気な子どもとは別人のような優雅さで、丁寧に一礼する。


 真の貴族、という人種がまだ残っているとすれば、きっとこのような姿を言うのだろう。
 一瞬、我を忘れて見惚れてしまったが、礼には礼を返さねばならない。

「……ご丁寧な挨拶、痛み入ります。
 私は、氷室鐘。
 若輩ですが、どうぞよろしくご指導願います」

 年下の少女にすべき挨拶ではないが、なぜか自然に言葉が出た。


「うん、じゃあ堅苦しいのはこれでおしまい。
 これからは《カネ》って呼ぶね。
 私のことも《イリヤ》でいいよ」

 少々時代がかった私の礼が気に入ったのだろうか。
 彼女は元の、いや、さらに無邪気な笑顔を送ってくれた。

「ええ。
 よろしく、イリヤさん」
 向こうが呼び捨てで、こちらが『さん』付けというのも妙だが、彼女に対してはそれが自然だと思える。

「うーん、固いなあ。
 ま、サクラも始めはそうだったし。
 こういうのって、慣れよね」
 イリヤ嬢は、ちょっと不満そうに眉をひそめたが、またすぐ笑顔になって、私の手を両掌で握ってくる。



「……あー、イリヤ。
 ちょっといいか?」
 ずっと蚊帳の外だった士郎が、ようやく口を挟んでくる。

「その……
 今日は、鐘にずいぶん懐いてるんだな?
 いや、仲がいいのは、とっても嬉しいんだけど……」

 語尾を濁しながら、イリヤ嬢に尋ねる。
 士郎も、《あの時》とは全く違う彼女の態度に、驚いているのだろう。


 そんな士郎の問いに、イリヤ嬢はむしろ きょとん とした顔で尋ね返す。

「なんで?
 当たり前じゃない。
 シロウはカネのハズなんでしょ?」

「「 ?
  ………
  !!! 」」

 最初、語意が掴めず首を傾げていた士郎と私は、
 次の瞬間、ものの見事に赤面した。


 は、ハズ!?
 ハズ、と言うと、『ハズバンド』の略!?
 つ、つまり、日本語に訳すと……


 絶句している私たち二人の心境も知らぬげに、イリヤ嬢は言葉を続ける。

「なら当然、私とカネも姉妹ってことになるじゃない。
 姉と妹が仲良くするのは、当たり前なんでしょう?」


 ……確かに、彼女の言うとおりだ。
 将来、私と士郎が、その……そういうことになったとしたら、
 彼女は私にとっても《妹》ということになる。

 し、しかし、こういう形で将来の可能性をいきなり突きつけられると、
 いや、決して嬉しくないなどということはないのだが……


「それに、シロウが選んでシロウが好きになった人だもの。
 サクラやタイガからもいろいろ聞いたし、今見てても、ヘンな女には見えないしね。
 なら、リンたちと同じように、カネも私の家族ってことになるんでしょ?」

 変わらぬ笑顔で、イリヤ嬢は言葉を続ける。


 なるほど。
 イリヤ嬢が、ここまで私にフレンドシップを発揮してくれたのは、なにも私自身を信頼したからではない。

 間に士郎の存在があったからだ。

 初めて会ったときに、あそこまで私に素っ気ない態度を取ったのも、彼を案じるが故。
 今日の笑顔も、士郎が私を愛し、大切にしていることを、認めてくれたからだろう。


 ……同時に、思う。


《カネも私の家族ってことになるんでしょ?》


 家族……


 この言葉を、まさかここで贈られるとは。
 それも、私を認める可能性は最も低いだろう、と思っていた少女に。

 胸が熱くなる。
 こみ上げてくる何かを、どうにか押さえようと努力していると、


「だからカネ。
 なんでもお姉ちゃんに相談するのよ?
 シロウはとってもいい子だけど、天然の女たらしでもあるんだから。
 そんな事がまたあったら、遠慮無く言いなさい。
 懲らしめるから」

 真顔で私に言い諭す、イリヤ嬢。


 ……は?
 お姉ちゃん?

 文脈から言うと、その、『お姉ちゃん』とはイリヤ嬢で、私にとっての、ということか?
 確かに、ときどき垣間見せる彼女の威厳は、《姉》と呼ぶにふさわしいものだが、
 いやしかし、外見年齢からして、それはいくら何でも無理な気が……

 混乱した私は、思わず士郎を振り返るが、


「なっ!
 ちょ、ちょっと待てイリヤ!
 『女たらし』とか『そんな事がまた』とか、どういう意味さ!?」
 士郎は士郎で、別の問題でイリヤ嬢に食ってかかっている。

「呆れた。否定する気?
 あつかましい。
 サクラやリンや、その他にも今まで、何人引っかけてきたか忘れたの?
 どうせカネの時も、無意識に殺し文句吐きまくって落としたんでしょ」

 腰に手を当てて、やれやれとため息を吐くイリヤ嬢。
 士郎は顔を真っ赤にしたまま、口をぱくぱくさせている。

 …まあ確かに、そういった側面も、無きにしもあらずだったのだが……



「カネ、だからくれぐれも目を光らせてなきゃだめよ。
 でなきゃこの男、無自覚に女を口説きまくるに違いないんだから」

「ご助言、深く感謝します」
 丁寧に、真摯に彼女に一礼する。

「か、鐘ぇ……」
 士郎が実に情けない声を出すが、あえて無視する。


「それにねえ、カネ。
 んー、うふふ……」

 イリヤ嬢は一転、指を顎に当てながらニンマリと笑う。
 その笑みは、女の私でさえ ドキリ とするほど妖艶だった。

「油断もしちゃダメよ?
 私もシロウのこと、あきらめたわけじゃないんだから。
 カネに少しでも隙があったら、遠慮無く奪い取るからね」

「……肝に銘じます」
 再び、深く頭を下げる。


 年端もいかぬ子どものたわごと、とは、この少女の場合、間違っても片付けられない。
 間桐桜嬢ともども、私にとっては最重要注意人物だ、と改めて認識した。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/20 19:09



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十一)





「あ、あー、ところでイリヤ。
 今日は一人でこっちに来たのか?」
 話題の方向を必死で変えようと、士郎が強引に話に割って入る。

「え?
 そんなわけないじゃない。
 ちゃんと、《自称保護者》といっしょに来たわ」
 士郎いじりにも一応満足したのか、イリヤ嬢がそれに答える。

 そして、左斜め後ろに目を向けた。


 そこにあるのは、ヴェルデ構内のエスカレーター。
 その影に。
 黄色と黒の縞模様の服が、膝をかかえて ポツリ としゃがんでいた。



「……なにやってんだ、藤ねえ?」
 士郎がそこまで歩いてゆき、腰をかがめて声をかける。

「……いいもん」
 その縞模様の人物は、『私、拗ねてます』という声音もあらわに呟いた。

「どーせ私は、みそっかすだもん。
 どこ行っても邪魔者扱いされる、《自称保護者》だもん。
 さっきからずっとここにいたのに、士郎も氷室さんも、こっちを見もしないで。
 二人とも、お姉ちゃんより、そのロリっ子と遊んでるほうが楽しいんでしょ。
 私はここで、エスカレーターとお友達になってるから、三人で仲良くお話してればいいじゃない」

 そう言って、その人物……藤村教諭は、リノリウムの床にさかんに鼠を描いている。


「……藤ねえ」
 士郎も、その横に並んだ私も、困って顔を見合わせる。

 ここまで子どもっぽい、藤村教諭の姿を見るのは初めてだ。
 学園でもかなり活発で、もっとはっきり言えば、はっちゃけている人だとは思っていたが、同時に教師らしい、大度な人物でもあると感服していたのだが。

「そんなに構うことないわよ。
 甘やかすと、すぐにつけあがるんだから」
 私たちの後ろで、イリヤ嬢が実に無情な声で告げる。


「だいたい、自業自得なのよ。
 今日、私たちが出遅れたのだって、タイガがずっとふて寝してたせいなんだから」

「ふて寝?」
 あまり聞かない単語に、思わず私が聞き返す。

「なんだ藤ねえ、あれからずっと布団被ってたのか?」
 士郎も、呆れた声を出す。

「あれから、とは?士郎」
「いや、実はな……」

 苦笑しながら士郎が話す事の顛末に、私も開いた口がふさがらなかった。



 昨日のクリスマスイブ。
 衛宮邸では、家族によるパーティーが開かれた。

 始めは食べて歌って、プレゼントの交換をして、と至極まっとうな流れだったのだが。
 そのうち、藤村教諭が

『じゃーん!!』

 と擬声語を使いながら、懐から何かを取り出した。

 日本古来のカードゲーム、花札。

 遠坂、間桐、イリヤの三嬢も興味津々の顔つきとなり、

『邸内は、賭け事禁止!!』

 という家主の声も虚しく、
 楽しかるべきパーティー会場は、一瞬のうちに賭場に変じたそうな。


「……俺は次の日、つまり今日のこともあるから、ざっと後片付けだけして、さっさと寝たんだけどな」

 翌日起きたときの惨状から察するに、藤村教諭の大負け。
 ちなみに、イリヤ嬢が一人勝ち。
 遠坂、間桐両嬢は、トントンかちょい負け程度。

 そして、居間の隅には布団にくるまって背を向けている、藤村教諭の姿があったという。



「しかし、ってことは遠坂や桜もほとんど徹夜だったのか。
 それにしちゃ、駅前で会った時はいやに元気だったなあ」
 士郎が、感心したように呟く。

 同感だ。
 ……まあ、その理由は、言わずもがなだろうが。


「じゃ、イリヤも寝てないのか。
 ……大丈夫なのか?」
 心配そうな声音で、士郎が尋ねる。
 確かにイリヤ嬢は、溌剌としてはいるが、どこか線の細い感じが見受けられる。

「私は平気よ。
 昨日、たくさんお昼寝したし、帰ったらすぐに休むわ。
 ……それに今日は、シロウを探すついでに、たっぷりとカタを払ってもらわなきゃならなかったし」
 彼女はそう言って藤村教諭を見、またニンマリと笑う。


「うう……
 助けてよう、士郎。
 イリヤちゃんってば、ひどいんだよ。
 行く先々で、目に付いたいろんな物買わせるし、お昼にはスペシャルハンバーグランチ奢らせるし、
 さっきなんか、喫茶店で千五百円のデラックスストロベリーパフェ注文するんだよ」
 士郎の服の袖を掴み、藤村教諭が涙ながらに訴える。

「しかも、お昼ごはんもパフェも、美味しいとこだけ食べて、後は全部残すし。
 私のお昼は、イリヤちゃんの残飯だったんだよう」

「何言ってるの。
 昨日の賭けのカタと思えば安いものじゃない。
 かわいそうだから、ここのぬいぐるみで打ち止めにしてあげようと思ってたのに」

「ぎゃーっ!!
 この上、まだ散財させる気か、このオニっ子ーーーっ!!」

 教諭の絶叫が、ヴェルデ構内に響きわたる。


 ……藤村教諭の気持ちも分からないではないが、とても同情できる経緯ではない。
 だいたい、家族とは言え、教え子達を相手に率先して賭け事を行う教師が有っていいのか?

 士郎も、同じ気持ちなのだろう。
 長いため息をつくと、


「なるほど。
 それは、イリヤが良くない」

「士郎?」
 彼の意外な言葉に、思わず声が漏れてしまう。

 対して藤村教諭は、
「うんうん!
 さすが私の弟だよう!
 さあ士郎!このオニロリっ子にガツンと言ってやって!!」

 士郎は深く頷くと、

「イリヤ」

 イリヤ嬢の両肩に手を置き、少し腰をかがめて、真面目な顔で諭した。


「食べ物は、粗末にしちゃダメだ。
 いくら美味しくても、自分で食べきれないものは、始めから注文したりしないこと」
「はい、ごめんなさい」

 イリヤ嬢も、真剣な顔で頷く。

「っっって、注意するの、そっちかい!!」
 再び構内に響く、虎の咆吼。


「藤ねえのは、自業自得を絵に描いたようなもんだろ。
 俺があれだけ言ったのに、やめなかったんだから」

「ううー
 士郎のいじめっこー!

 ……ひむろさん?」
 真剣に泣いていた教諭が、突然こちらを振り向く。


「氷室さんは、私の味方だよね?
 困ってる先生を見捨てるような、薄情な教え子じゃないよね?
ね?」
 そう言って、両掌を組んで目をキラキラさせながら、上目づかいにこちらを見つめてくるのだが……

「……申し訳ありません、先生。
 公平に見て、士郎の方が正しいかと……」

「ぎゃーっ!
 四面楚歌ーーーっっ!!」
 床に突っ伏す教諭。


「はい、みんなの意見が一致したところで、私たちもそろそろ失礼させてもらうわ。
 これ以上、デートの邪魔しちゃ悪いし。
 ほらタイガ、立って立って」
 イリヤ嬢が、藤村教諭の手を引っ張る。

「うー、士郎のいけずー。
 氷室さんのばかー。」
 まだ涙を湛えながら、教諭がやっと立ち上がる。


「じゃあ行くわよタイガ。
 一番おっきなぬいぐるみ買ってもらうんだから。

 ……と、その前に……」

 ファンシーショップに向かって歩きかけたイリヤ嬢は、ふと足を止め、こちらを振り返った。
 そして、



「ねえシロウ、カネ。
 もう一度、二人で並んでみてくれる?」

 彼女は、にっこりと笑って、私たちに小さな願い事をした。

「「 ? 」」

 士郎と私は、思わず顔を見合わせた。
 先ほどと同じ笑顔のはずなのに、なぜか……


「……これでいいか?イリヤ」

 彼女の言葉どおり、二人で並んでみせる。
 彼の左に私。
 いつものポジションだ。


 イリヤ嬢は、近くから、少し遠くから、右側、左側、後ろに回ったりと、
 様々な角度から、私たちを見つめた。
 ずっと同じ笑顔を湛えながら。

 その後ろで藤村教諭も、やさしい目をして私たちを、そして楽しげなイリヤ嬢を見つめている。


「……うん、
 お似合い!
 どっから見ても、完璧なカップルだわ」

 ひとしきり私たちを眺めた彼女は、本当に満足そうに頷いた。
 ……その笑顔の、何も変わるはずのない笑顔のなにかが、私の胸に残る。


「ねえねえ、カネ」
 彼女が、ちょいちょい、といった感じで、私に手招きをする。

「?
 何か?」
 私は請われるままに彼女に近づき、その前に立つ。

 そして。
 前屈みになった私の首に、

「 ――― 」

 彼女は、そっと腕を回してきた。


 それは、先ほどの無邪気で強引な抱擁とは違い。



「……シロウのこと、よろしくね」



 小さな囁きと同じく、
 柔らかく、温かな慈しみだった。


「……イリヤ、さん?」

 聞き返そうとしたときには、すでにその温もりは、私から離れていた。



「じゃあねー、シロウ!
 カネ、今度うちにも遊びに来てねー!
 絶対だよーっ!!」

 藤村教諭の手を引き、手を振りながらファンシーショップの中に消えていく少女。

 教諭も、やさしい笑顔のまま、こちらに手を振っている。


「……おう!
 イリヤ、藤ねえ、暗くならないうちに帰れよー!!」
 士郎が、少し遅れて返事をする。

 私は、と言えば、



(……シロウのこと、よろしくね)



 彼女の囁きが耳から離れず、
 手を振るきっかけを失ったまま、立ちつくすだけだった。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/23 20:01



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十二)





「……鐘?」
 士郎の、少し心配そうな声で我に返る。

 我に返って初めて、自分が物思いに耽っていたことに気付いた。

「……ああ、すまない。
 イリヤさんのことを考えていたんだ」



 先ほどの、イリヤ嬢の囁き。


(……シロウのこと、よろしくね)


 あの囁きは小さすぎて、士郎の耳には届いていなかっただろう。

 否。

 士郎に聞かせないために、彼女はわざわざ私を抱きしめたのだ。


 兄の恋人に、その人の今後を頼む。
 平凡な、家族として当たり前の願いのようにも思える。
 だが、彼女の笑顔、声音に含まれる何かが、私に告げている。

 この言葉を、決して忘れてはならないと。
 この期待を、決して裏切ってはならないのだと。


 私は、小さく頭を振って、気持ちを切り替えた。
 この問題は、今ここで考えるべき事ではない。
 そもそも、簡単に結論を出して良いことでもない。
 あの言葉と、そして自分自身としっかり向きあい、自分の中で問い続けていくべき事柄だ。


 だから、士郎にもそのことは言わず。
 代わりに、もう一つの真実について語った。

「……先ほど、イリヤさんが私のことを妹と…《家族》と、呼んでくれたろう?
 それが、嬉しくて……な」


 そう。
 彼女が私にくれた、もう一つの言葉。


(カネも私の家族ってことになるんでしょ?)


 今、思い出しても、涙が滲みそうになる。

 あれほど求め、あがき、手には入らないのかと諦めかけていたその言葉が、
 全く予想外の天使から ぽん と手渡されたような。


「……そうだな。
 イリヤの言うとおり、鐘も俺の家族だよ。
 少なくとも、俺はずっとそう思ってた」

「士郎……」

 ここで、そんな言葉を言ってくれるのは、反則だ。
 嬉しすぎて、どうしていいか、この込み上げてくる感情をどう処理すればよいのか、分からなくなってしまう。

 彼の胸に、顔を埋めたくなる衝動を必死に堪え、私は士郎の左腕に ぎゅっ と抱きついた。


「イリヤも言ってたけどさ。
 また、俺の家に来てくれよ。
 イリヤや桜、遠坂、藤ねえ。
 みんなといっしょに、夕飯でも食おう」

 覚えているのか、いないのか。
 彼は、そんな台詞を私にくれた。


 それは、イリヤ嬢と初めて会った日。
 士郎の家で、間桐嬢と睨み合いをした後の帰り道。

 二人の不機嫌の原因に全く気付かなかった彼は、私に今と同じ言葉をかけた。

(そんな晩餐が開かれることは無いだろう)

 そう思いながら私は、彼の言葉に適当な相づちを打った。


 そして今。
 その言葉が繰り返され、それが実現する、……実現しても良い状況になっている。

「……そうだな」
 だから私も、あの時と同じ言葉を繰り返した。

「ぜひ……ぜひまたお邪魔しよう」



     * * * * * * * * * *



「……ところで、次はどうする?
 もうだいぶ、いい時間になってきてるけど」

 しばらく無言で、腕を組んで歩いていたが、ふと士郎が聞いてきた。
 なるほど、腕時計を見るまでもなく、陽もずいぶんと傾いてきている。

 しかし、逆に言えば、まだ陽はあるのだ。
 夕食を予約した時間には、少々早い。

 順番で言えば、次は士郎がスポットを選ぶ番だが……


「……情けないけど、ネタ切れだ。
 こういうときは、自分の無趣味が恨めしいな。
 鐘、どっかあるか?」

 頭を掻きながら、士郎が聞いてくる。
 しかし、こちらもご同様だ。

 喫茶店などに入って時間を潰すのももったいないし、第一、夕食前にすることでもない。
 このまま歩き続けるのも一つの手だが、少々寒いし、にぎやかなことが続きすぎたせいか、疲れてもいる。
 どこか静かなところで、ゆっくりと、有意義な時間を……


 贅沢な望みを抱きつつ、二人で頭を悩ませていると、ふと、道端の広報掲示板が目に入った。



     『クリスマス・ミサ開催
      信者でない方もご自由にお越しください

                         冬木教会』



 開催時間を見ると、最後の回に間に合いそうだ。
 しかも終了後に、予約してある店に行くと、ちょうど良い頃合いとなる。

「ふむ。
 どうだ、士郎。
 次は、ここへ行くというのは?」


 私や、私の父母は、この宗教の信者ではない。
 だが、母方の祖父母がそうであったことに加え、この街は、異国風の物と共に、この宗教に対する馴染みも歴史的に深かった。

 私自身も、丘の上の冬木教会――以前は言峰教会と言ったが――に、何度か礼拝に行ったことがある。

 そのとき説教してくれた壮年の神父は、今年の二月ころから行方不明となっているらしい。
 その後、外国から急遽代理で来た老神父も、秋に帰国。
 今はその後を継いで、年若いシスターが教会の運営を担っているという。

 深い関心があるわけではないが、市長の娘などをやっていると、これくらいの風聞は耳に入ってくる。


 だから、久しぶりにあの教会に行きたいという欲求と、そのシスターとはどんな人物なのかという好奇心から、
 ほんの軽い気持ちで、士郎を誘ったのだが。


「……あ、あの教会に……か?」

 ギクリ という擬音が見事に似合いそうな顔色で、士郎は呟いた。

 気のせいだろうか、腰がわずかに引けている。


 どうかしたのだろうか?

 先ほども言ったように、たとえ信者ではないにせよ、この街の住人にとって、教会は馴染み深い場所だ。
 士郎が、特定の宗教の信者であるという話も聞いていない。

 何がいったい、彼をそんなにためらわせて……


「……あ…」

 そこで、私は思い出した。
 以前、父から聞いた話を。

 十一年前、新都を襲った大火災の時。
 身寄りを失った子ども達は、丘の上の教会に集められ、そこで庇護を受けた。
 そこから里親を募り、子ども達は新しい親に引き取られていったという。

 その災害で親友を失った父は、せめてその息子である《士郎》という名の子どもが生き残っていないかと、真っ先に教会を訪ねたそうだ。
 だが、そこにいた子どもの中に《士郎》は居らず。
 父は、暗澹とした気持ちのまま、帰途に着いた。


 その話からすると、ここにいる士郎は、教会に居たわけでもないようだが。
 しかし、あの大災害の後だ。
 どんな混乱があったのか、私などには知る術もない。

 士郎が、あの教会に引き取られていたのであれば、
 そして、そこで思い出すのも辛い出来事があったのだとすれば……


 ……暗い顔をして俯いてしまった私を見て、士郎はあわてて手を振った。

「あ、い、いや違う!違うよ。
 俺、病院から直接爺さん……義理の父親に引き取られたから、あの教会には行ってないんだ。

 まあ、あんな事情だったから、その後もほとんどあそこには行かなかったし、
 最近も、いろんなことがあって、あの教会にはいい思い出が無いんだけどさ……」


 話のディテールがよく掴めないが、士郎にとって、あの教会はあまり近寄りたくない場所、ということか。

「……すまない。
 知らなかったとは言え、無神経な提案をしたことを謝る。
 どうか……」

 頭を下げかける私に、

「い、いや、だから違うって!!
 そんな思い出も、もう俺の中では片が付いてるし、あの教会自体には何の問題も無いんだ。
 ただ……」

 そこで、再び言葉を濁す士郎。

 ……教会自体に問題が無いのならば、何をそんなにためらっているのだろう?


 彼は、腕を組みながら懸命に頭を巡らせていたようだったが、

「……そうだな。
 よし、行こう、鐘」

 決然と、私にそう告げた。
 ……そこまで覚悟して行くことも無いと思うのだが。


「いや、ここは行くべきだと思う。
 行っても多分、少なくとも鐘には実害が無いだろうし、
 ここらで顔を出しとかないと、それこそ後が怖いし……」

 悲壮な決意の表情で、士郎はますます分からないことを呟く。

 そして、私の掌を取って、率先して教会に向かって歩き始めた。
 心なしか、無理やり蛮勇を奮い起こしているような歩調だ。



 ……なんだか、教会に行くのか、ダンジョンの最深部に向かうのか、分からなくなってきた。

 いったい、冬木教会に何が待ち受けているのだろうか?





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/26 19:26



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十三)





 丘の上の教会は、記憶どおりの姿でそこにあった。


 今年の二月、冬木市の各地で起きた怪事件のひとつとして、この教会の破壊と神父の失踪がある。
 噂では、外装はともかく、礼拝堂内部と居住区は手の付けようも無いほど壊されていたそうだ。

『それはまるで、人外の生物が暴走し、闘争したかのごとくであった』

 という都市伝説付きだ。


 しかし正面に立って、開け放たれている扉から内部を伺うに、そうした痕跡は全くない。
 むろん、新しい木の香が漂ってくるような新装ぶりではあるが、内装そのものは以前と変化は無いようだ。

 クリスマス・ミサの最終回とあってか、内部はすでにかなりの人で賑わっている。
 信者だけではないのだろう。
 家族連れや、私たちのような男女の二人組も見受けられる。


 私は、ほっと息をついて、士郎に話しかけた。

「ずいぶんと壊された、と聞いていたが、見る限りでは無事に修復されたようだな。
 この街のシンボルの一つだ。
 こうして賑わっているのを見ると、安心する」

「まあな。
 …苦労したからなあ……」
 それに返ってきたのは、しみじみとした、心底から感慨の籠もった述懐。

「……?
 苦労、と言うと?」
 不思議に思って士郎を見ると、彼は初めて自分の呟きに気付いたかのように、

「え?
 ……あ、い、いや、なんでもない!!
 元どおりになって良かったよな、うん!」
 あわてて手を振り、作り笑いの見本のような表情をする。


「そ、それより、早く入ろう。
 もうすぐ始まるだろうし、混んでるから、早く行かないといい席取られちまう」

「いい席……と言っても、コンサートではないんだ。
 賛美歌を歌って、説敎を聞いて―――それくらいのことだから、どこでも変わりはないんじゃないか?」
 私の疑問に、彼はしどろもどろに答える。

「あ、いや……
 なるべく目立たない席、というか、終わったらすぐに出られそうな席っていうか……
 その、いろいろとあるだろ?」


 ……不審だ。
 先ほどから、士郎の挙動言動は不審すぎる。

「……やはり、無理をしてここに来ているのではないか?
 だったら……」
「い、いや、違うって!
 さっきも言ったけど、建物自体には何の問題もないんだ。
 ただ……」
 また言葉を濁す士郎。

「建物に問題がないとすると、何か?
 ここに会いたくない人物でもいるのか?」
 業を煮やして、少々詰問口調になる。
 すると、

「 ! 」
 ずばり大当たり、という顔で、士郎が絶句した。


「………
 …いや……
 会いたくない、と言うか、だな」
 しばらくためらった後、彼はようやく重そうに口を開く。

「会うとまずい、と言うか、その後の運命が左右される、と言うか……
 いや、今、会わなくても、いずれはそうなるんだろうけど、
 でも、せっかくこのところ平穏なんだから、もう少し先延ばしにしてもらえればなー、と……」



「ひどいことを言うのね、衛宮士郎」



「「 !!! 」」

 いきなり後ろから声をかけられ、二人とも飛び上がった。

 それも、生半可な後ろではない。
 うなじに息さえ吹きかけられそうな、《超》真後ろだ。

 特に士郎は、飛び上がるだけでは済まなかった。
 私の掌を握ったままいきなり前方にダッシュし、数メートル移動したところでやっと振り返った。
 私も、引っ張られて転びそうになるのをかろうじて立て直し、同じく後ろを見る。

 そこには。


「せっかく久しぶりにお会いするというのに、人をまるで疫病神か何かのように形容するなんて。
 どうやら、先日の労働では改心しきれなかったようね」

 カソック(法衣)に身を包んだ銀髪の少女が、感情の籠もらない視線でこちらを見つめていた。



「か、カレン!?
 いつからそこに!!?」

「あなたたちが、この地点に立ち止まって三十秒後には居ました。
 全く気付かなかったのだとしたら、いささか修行不足ではないかしら?」

 目を剥いて尋ねる士郎に、ゆっくりとこちらに近づきながら、少女はあくまでも淡々と返答する。


 歳の頃は、私たちよりも少し下だろうか。
 小柄で細身な体。
 白い、と言うよりも透きとおるような肌の色。
 目の色は琥珀……いや、金色か?
 髪は、少しウエーブがかかっているが、イリヤ嬢の雪のような色とも、私の灰がかった色とも似ていない。
 まさに銀糸を縒りあわせたような、見事な銀髪だ。
 カソックの下から覗く、白い包帯が痛々しく、彼女の儚げな印象を増している。

 ……カソックを着ているということは、ひょっとして……?


「……士郎。
 この方は……?」
 カレン、と、彼はこの少女を呼んでいた。
 交わされた会話からして、二人は知り合いのようではあるが……

「あ、ああ。
 こいつ……いや、彼女が、新しいシスターだよ。
 カレンって言うんだ。
 で、この人は氷室。
 俺の、……まあ、なんだ……」

 初対面の私たちを、それぞれ紹介する士郎。
 私のことを《恋人》と明言しないのは、彼らしい照れなのだろうが、もっと堂々としても良いのに。
 …いや、単なる照れ以上に、素性を知られることへの怯えのようなものが垣間見られるのだが……


「初めましてシスター。
 氷室鐘、と申します。
 衛宮くんとは、その……お付き合いをさせていただいています」
 彼の態度に首を捻りつつ、シスター・カレンに挨拶する。

「まあ、彼の大切な方なのですね。
 ご挨拶が遅れました。
 私は、カレン・オルテンシア。
 若輩の身ですが、この秋より冬木教会の運営を任されております。
 どうぞよろしく」
 彼女は初めて微笑み、胸の前に両掌を組んで一礼した。


 オルテンシア。

 確か、南欧の何処かの国の言葉で、《紫陽花》を意味したのだったか……?
 名は体を表す、と言うが、可憐で儚げな彼女に、よく似合う響きだ。

「あら、うれしい。
 説明も無しに、私の名前の意味を分かってくださった日本人は、あなたが初めてです。
 私も、この名前がとても気に入っています」

 シスター・カレンは、ますます嬉しげに微笑む。
 女性の私ですら見惚れるほどの笑顔だが、士郎はなぜかそれを、複雑そうな顔で見ていた。


「氷室さん、とおっしゃいましたね。
 失礼ですが、もしや氷室市長とご関係が……?」
「父を、ご存じでしたか?」

「まあ、お嬢さんでいらしたんですか。
 どうりで、どことなくあの方を彷彿とさせるご印象でした。
 氷室市長には、教会の再建や運営などで、多大なるご協力をいただいております。
 どうぞ、よろしくお伝えください」

 なるほど。
 先ほど私自身が言ったように、この教会はある意味、冬木市のシンボルだ。
 その再建に市が、父が力を貸したとしても不思議ではない。

「そのお言葉、父も喜びましょう。
 娘の私が言うのも僭越ですが、こちらこそよろしくお願いします」


 さすがだ、と思った。
 第一印象は可憐で華奢な少女だったが、この歳で一つの教会を任されるだけある。
 一本、芯が通っている。


 互いに再び頭を下げあったあと、シスター・カレンは士郎の方を向いた。
 その目は、彼に対する慈愛に満ちあふれている。

「しばらくお見えにならないと思っていましたが、こんな素敵なお嬢さんとお付き合いされていたとは。
 ならば、あなたのその充実した顔つきも頷けます。
 今までのご苦労に見合った幸せを、手にされたのですね。
 (駄犬の分際で)」

「は?」

 疑問の声は、士郎からではなく、私の口から漏れた。
 ……今、祝福に満ちた言葉の末尾に、恐ろしく場違いな言動が混ざっていなかったか?

 思わず士郎の方を見たが、彼は額に手を当てているものの、驚いてはいない。


「し、士郎。
 シスター・カレンとお知り合いなら、最初から言ってくれればいいのに。
 さすがに驚いたぞ」

 気を取り直して、士郎に話しかける。
 今のは、私の聞き違い……だろう。

「ああ……まあ、ちょっとしたきっかけで、な……」
 彼は、相変わらず煮え切らない口調で頭を掻く。

 代わりに、シスター・カレンが口を開いた。


「なんです、衛宮士郎?
 ミス・氷室に、私たちの仲のことを言っていないのですか?
 それは、不誠実ではないかしら?」

「「は?」」
 今度こそ、士郎と私の声がユニゾンする。

 私たちの……仲?
 不誠実?
 それは、どういう……?

 我知らず、隣の士郎を振り返る。
 いや、睨む、といった勢いだったかもしれない。


「だーーーっ!!
 ち、違う、違う鐘!
 か、カレン!なんだよそれって!?」
 必死に手を振って否定しつつ、士郎が彼女に食ってかかる。

「もちろん、10月の初めに私たちが運命の出会いを果たしてから、今日までの出来事についてです」
 対して、シスターはあくまで真顔で誠実に、幾分寂しそうに告げる。

「あれほどの交流を、あなたは忘れてしまったのですか?
 ……無理もありません。
 こんな素敵な方と巡り会えたんですもの。
 私との仮初めの関係など……」


 《運命の》出会い……
 仮初めの《関係》……

 ……10月の初め、と言えば、まだ私が士郎を意識する前。
 そんな頃から今まで、彼はこの女性と……


「だーかーら!!
 関係ってなんだよ!
 この教会を修理するの、手伝っただけだろ!!」

「私は、最初からその意味で言っていましたが?」

 絶叫する士郎に、しれっとした口調で返すシスター。

「 ! ! 
 ………!!!」
 士郎は顔を真っ赤にし、口をぱくぱくさせる。


「……しゅうり?」
 私も、呆然とした口調で呟く。

「はい。
 彼には、教会の改修などで、ひとかたならぬお世話になったのです。
 ……どうかなさいましたか?
 ひょっとして、私の日本語の使い方が、おかしかったのでしょうか?」

 シスター・カレンが、心配そうに聞いてくる。

「……あ!
 い、いえ、申し訳ない。
 少し誤解をしてしまいました。
 どうぞ、お気になさらず……」


 確かに、自在に日本語を操っているとは言え、この国に赴任して日の浅い彼女のことだ。
 微妙な言い回しが誤解を招くことまでは、理解できないだろう。
 私は、早とちりをした自分を恥じると共に、シスターを安心させるために頭を下げた。

「そうですか、よかった。
 私の未熟のせいで、お二人にご迷惑がかかっては大変ですから」

 そう言うと、彼女は再び花のように笑った。


 ……ただ。
 初めの笑顔が、名前どおり紫陽花のように儚げな印象だったのに対し、
 今の笑顔が、まるで大輪のダリヤのごとく、麗々しく満足げに見えたのは、気のせいなのだろうか?


 そして、何故士郎は、今にも膝を付きそうな姿勢で、頭を抱えているのだろう?





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/08/30 18:46



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十四)





 人いきれのする教会内に入ると、真っ先に目に飛び込んできた。

 先ほど、入口から覗いただけでは気付かなかった。
 祭壇の後ろにそびえ立つように設置されているのは、パイプオルガン。
 それほど大規模ではないが、素人目にも、それが安っぽいまがい物などではないことが見て取れる。

 もちろん、以前のこの教会には無かったものだ。


「これは……何とも見事な物だな」

 思わず、感嘆の声を漏らす。
 その横で、士郎が相変わらず複雑そうな顔をしている。

「お褒めいただき、ありがとうございます。
 このオルガンの設置にも、ミスター・衛宮に多大なるご協力をいただいたのですよ」
 一緒に教会に入ったシスター・カレンが、私の後ろで、少々誇らしげに告げる。

「……君が、組んだのか?」
 驚いて、士郎を振り返る。

「…うん、いやまあ……
 あ、カレン。そろそろ時間だろ?
 始めなくていいのか?」

 わざとらしい、と言っても良いくらいの口調で話を逸らす士郎。
 その目には、

『頼むから、詳しいことには触れてくれるな』

 と、切に懇願する色がある。

「確かに、始まりの時間ですね。
 ではミス・氷室。そのお話は、ミサが終わってからゆっくりと」

 シスターは微笑み、私と、それから士郎を見る。

 ……気のせいだろうか。
 その微笑が、

『そのくらいで、逃げられると思って?』

 と語っているように見える。

 ぽかんと口を開ける私と、がっくりと肩を落とす士郎を見て満足げに頷き、
 シスターは祭壇へと向かった。





 クリスマス・ミサは、パイプオルガンの演奏から始まった。
 鍵盤に向かうのは、もちろんシスター・カレン・オルテンシア。
 重厚かつ軽やかな調べが、教会内に満ちる。

 彼女の演奏は、特に感動するようなものではなかった。
 否、感動を目的に、彼女は演奏しているのではない。
 労働のように、家族との会話のように、日々の営みのように。
 当たり前のことを、当たり前であるために、音にしてゆく。

 それはまるで、祈りのような演奏だった。


 誰もが知る賛美歌を数曲歌った後、シスターが祭壇に立つ。
 華奢で細身な少女が、その場では威厳に満ちた存在に映る。
 それは、決して背後にあるオルガンや、十字架のためばかりではあるまい。

 か細いながらも良く通る声で、シスターは聖書の一節を引き、話を進めていく。
 その声音は、先ほどの演奏にも負けないほどの調べとなり、聞く者をどこかへ導いてゆく。


 ……ただ。

『汝、姦淫するなかれ』

 とか、

『産めよ増やせよ地に満ちよ』

 とかいった一節を口にするたび、私たちの方を向いて唇の端をつり上げているような気がするのは……
 被害妄想の類なのだろうか。


 ちなみに言うと、私たちが座っているのは、席の最前列中央。
 まさに、シスターの真ん前だ。

 こうした集まりの場合、どういうわけか日本人は、最前列に座るのを避ける傾向がある。
 最も遅く入った私たちに、その席しか残されていなかったのも、仕方のないことなのだが。
 ただ、狙ったように二人分、祭壇の真っ正面のみ空いていたというのは、どんな偶然が成せる業なのだろう。
 まるで、何かの魔術でも使ったかのように。


 こうして、有り難くも心安らかなミサは無事に終わり。
 私と士郎は、なぜか、疲労困憊していた。

 ……確か私たちは、夕食までの時間を静かに休むために、ここに来たのではなかったか?



 出口に近い順に、参列者が退席していく。
 一番奥にいた私たちは、当然、一番最後にそこに辿り着いた。

 出口で参列者に挨拶をしていたシスター・カレンが、私たちを見て微笑む。

「ご静聴、ありがとうございました。
 有意義な時間となりましたでしょうか?」

「あ……とても。
 どうもありがとうございます」
 あわてて、頭を下げる。

「御説敎も素晴らしいものでしたが、あの演奏にも感服しました。
 素晴らしい技術をお持ちでいらっしゃる」

 彼女の技巧には、決して天才的な閃きは無い。
 そんなものは、この場には必要ない。
 彼女が持つのは、時代時代の、無数の演奏者が育て上げてきた、幹とでも言うべきもの。
 過去から現在へとしっかり紡ぎ上げられた、触れて確かめられるほどの存在だ。


 私がそう言うと、シスターは嬉しげに頬を染めた。

「過分なお言葉、ありがとうございます。
 無趣味な私ですが、音楽についてだけは、周りにいささかわがままを聞いてもらいました。
 お耳に適ってなによりです」

「無趣味、ねえ……」
 隣から、士郎の呟きが聞こえる。
 他にも大きな趣味があるだろう、と言わんばかりの口調だ。


 そんな士郎に、シスターは じろり と目を向けると、

「そう、その音楽がこの地でも演奏できるのも、ミスター・衛宮のおかげです。
 感謝の想いは尽きません」

 にっこりと。
 本当に、文字にして『にっこり』と表したくなるような笑顔で、シスターは士郎に向かって微笑んだ。

「 ――― 」
 士郎は、その笑顔を受け、無意識なのだろうか、数歩あとずさる。


「……そう言えばシスター。
 先ほど、士郎が教会の修理やパイプオルガンの組み立てなどをしたようなことをおっしゃっていましたが。
 あれは、どういう……?」

「か、鐘!?」

 うろたえた士郎の声が聞こえるが、あえて無視する。
 私も、中途半端に事実を知らされたままでは、居心地が良くない。
 いったい、士郎とこのシスターとの間に、なにが……?



「そうですね。
 そう言えば、その話は途中のままでした」
 シスター・カレンは一度、両掌を組んで目を瞑った。

「私は、この地に赴任したその日から、ミスター・衛宮にお世話になったのです」
 目を開いた彼女は、淡々と語り出す。
 ……目の前で、必死に手を振る士郎など、存在しないかのように。


「あれは、10月の連休初日。
 肌が痛くなるほど、日ざしの強い日でした。
 私は、当座の荷物やパイプオルガンの部品と共に、トラックで冬木の地に来ましたが、慣れぬ地のこと、この教会がどこにあるのか、迷ってしまったのです。
 そんな私に、手を差し伸べてくれたのが、彼でした」

(差し伸べる、っていうか、ノーモーションで目の前に出現されたんだよなあ)

「彼は、私をこの教会に案内してくれたばかりか、荒れ果てた教会の惨状に心を痛める私に、引っ越しと修繕の協力を申し出てくれたのです」

(『拉致』と『強制労働』も、案内・協力って言い換えられるのかな?)

「その上、トラック一杯のパイプオルガンの部品を目にして、
 『何なら、俺が組み立てようか?』
 と笑顔で言ってくださいました。
 私は、あの言葉を一生忘れないでしょう」

(『無理ですか。そうですね、これは精緻にして正規の楽器。そこいらのガラクタとはわけが違います。恥じることはありません』
 あの言葉と笑顔こそ、俺には一生忘れられないだろうけどな)


 ……先ほどから、シスターの説明が進むたび、士郎の聞き取れないほどの声が混じる。
 いったい、何を呟いているのだろう?


「……では、士郎。
 この教会の修繕も、パイプオルガンの組み立ても、すべて君がやったのか?」
 驚き、と言うより、呆れの響きで彼に問う。

「あ、いや。
 さすがに、それは無理だよ。
 正規の大工さんや楽器業者がほとんどやって、俺はその手伝いを……」
 彼が、慌てて手を振る。
 しかし。

「建物の修繕はともかく、楽器の組み立ては、ほとんど彼一人が行いました。
 最終チェックをした専門家も、その正確さに驚いていたほどです」
 横から、シスター・カレンが補足する。


 ……士郎を褒めてくれるのは嬉しいのだが。
 彼のことを誇らしげに語るその口調に、なんとなく神経を刺激されてしまう。


 そんな私の心を知ってか知らずか、シスターは嬉しげに話を進める。

「それだけではありません。
 着任の挨拶回りに市内を回っていたときのことです。
 私はあまり体が強くないのですが、その時も情けないことに、海浜公園で立ちくらみを起こし、倒れてしまったのです。
 気が付くと私は、公園の芝生に寝かされ、ミスター・衛宮が膝枕をして付き添ってくれていました」

「ひ、膝枕なんてしてないだろ!
 上着を丸めて、頭に敷いただけじゃないか!」
「そうでしたか?
 でも、ずっと枕頭に侍っていてくれたことは確かですよね」
「は、はべる、って……」

 ……まあ、彼ならそれくらいは善意で行うだろう。
 私も付き合う前、新都公園で似たようなことをされた。
 ちなみに、抱きかかえられたことすらある。


「そうそう、お宅に招いていただいたこともありました。
 饗された昼食は、私の舌には少し合いませんでしたが……」

「……確かに、
 『頑張ればうちに遊びに来るコトもできる?』
 とは言ったけど。
 昼飯を三回も作り直しさせたヤツの言うセリフか?」

 ……私とて、士郎の家には何回かお邪魔したことがある。
 それに、彼の料理の腕にケチをつけるなど……


「そのあとに出されたデザート!
 フルールの《ラフレシア・アンブレラ》でしたか。あれは絶品でした。
 わざわざ私のために用意してくださって……」

「アンタが、『デザートは出ないのか?』って、無理やり買いに走らせたんだろう!
 きっちりと銘柄指定までして!

 って、鐘……?」


 ……わざわざ、彼女のために買いに走ったのか、衛宮士郎。


 不可解な闇……否、言い訳はすまい。
 完全なる嫉妬の暗黒に包まれた目で、私は彼を凝視していた。

 その暗黒が、彼に向かってほとばしろうとした、その瞬間、


「……とまあ、このようなことが、出会ってから一ヶ月以内にあったのです」
 シスター・カレンの鈴を振るような声が、私の脳髄を冷ました。

「……一ヶ月以内?」

 思わず振り返ると、シスターは、ゆっくりと頷いた。

『天界の美酒を心ゆくまで堪能した』
 といったような微笑みを浮かべつつ。


「はい。
 その後は、教会のことも落ち着いたので、彼と会うことはほとんどありませんでした。
 いえ、それでも何度か、彼の助力を頼もうとしたこともあったのですが……」

 シスターは、穏やかに微笑みながら続ける。

「そのたびに言われました。
 『他に集中したいことが出来たから、悪いけどなるべく勘弁してくれ』
 と。
 人助けが生き甲斐のはずの彼が、何にそんなに熱中しているのかと、不思議に思ったものです。
 特に、今日この日などは、彼にぜひ手伝っていただきたかったのですけれどね」

 そして彼女は、微笑みを少しいたずらっぽいものに移行させた。


「でも、今なら、その理由も分かる気がします。
 立ち入ったことをお聞きしますが、あなた方が出会われたのは……?」

 ……確かに、私が彼に告白したのは、10月の連休から数えて一ヶ月に少し満たないころだ。
 つまり……


 脳内を満たしていた黒い炎が、急速に終息していく。
 代わりに、羞恥が全身を火照らせる。

 ……あれほどまでに誠実な彼と、聖職者であるシスター・カレンとの仲を疑うなど……
 まるで、悪魔にでも魅入られたかのように。
 わ、私は、それほどまでに心の貧しい女なのだろうか……?


「……勘弁してくれ、カレン」

 士郎の声に視線を上げると、彼は右掌で顔を覆い、膝を付きそうになっていた。

「申し訳ありません。
 あなた方が、あまりに幸せそうだったものですから。
 つい、趣味に走ってしまいました」

 全然済まなそうに聞こえない声音で、シスターが詫びる。
 ……確か先ほど、『私は無趣味で』と言われていませんでしたか?



「でも、ミス・氷室。
 今、私が言ったことの中にも、真実は含まれているのですよ」
 シスター・カレンが、先ほどまでとは少し違った雰囲気で、私に語りかける。

「彼は……衛宮士郎は、こういう人間です。
 私のような者にまで手を差し伸べ、自分の犠牲を顧みず……いいえ、自分を初めからいない者として、他者に尽くしてしまう。
 献身とは尊いものですが、度を過ぎるとそれは……」

 意味深に、言葉を切るシスター。
 私は、知らず背筋を伸ばす。

「本来ならば、迷える子羊を導くのは、私のような職に就く者の役目。
 しかし、彼は私たちには……少なくとも私には救えません。
 この男を更生できるのは、共に悩み、苦しみ、その痛みを彼に敎えることの出来る、《普通の人間》だけです」

 彼女の金の瞳が、じっと私を見据える。
 その視線は、こう問うている。


『あなたに、その資格がありますか?』


 柳洞一成との約束を思い出す。

 イリヤ嬢の囁きを思い出す。


 私は、無言で頷いた。
 資格がある、と断言などできない。
 だが、その資格を追い求める覚悟なら、とうに出来ている。
 一介の女学生である私に、何ができるのかは分からないが、それでも……


 私の頷きに、シスター・カレン・オルテンシアは何を感じてくれたのか。
 その名のごとく、可憐に、儚げに微笑み、

「あなた方に、神の祝福のあらんことを」

 目を瞑り、十字を切ってくれた。



「……ありがとな、カレン。
 でも―――『更生』って、なにさ?不良少年じゃないんだから」
 私たちのやりとりを傍らでじっと聞いていた士郎が、照れくさそうに頬を掻きながら聞いてくる。

「呆れたものね。
 あなたのその無自覚が、人々を混乱に陥れていることに、まだ気付かないの?」
 シスターは、『心底嘆かわしい』という態度を隠しもせずに、首を振った。

「ミス・氷室。
 この事も気を付けておいた方が良いでしょう。
 煩悩は誰しもが持つ火種ですが、この男は全く意識せずに、誰彼かまわず火を付けて回ります。
 よほど目を光らせていないと……」

 …なんだか、つい先ほどもイリヤ嬢から、同じ忠告を受けた気がするが……
 それほどまでに、彼の《この事》は衆目の一致するところなのか?


「ぼ、煩悩、ってなんだよ!
 その言い方じゃ、俺がまるで……!!」

「まるで、なんですか?

    男はオオカミなのーよー ♪ 」

「   気を付けなさーいー ♪

 ……って、はっ!?」

 思わずノってしまったのか、士郎が『しまった!』という顔をする。


 ……先ほど、嫉妬の黒い炎は終息した、と言ったが、撤回したくなってきた。
 おそらく私たちが生まれる以前の歌謡曲を駆使してまで、息の合った掛け合いを見せつけられると……


「それでは、衛宮士郎。ミス・氷室。
 お時間もよろしいようですので、この辺で失礼させていただきます。
 どうぞまた、教会にお越しください」

 胸に掌を組んで一礼し、シスターが礼拝堂の奥に消えてゆく。
 その背中は、儚げであると同時に、ある種の威厳に満ちていて。

 ……その上、
『充分に堪能させて頂きました』
 という、満足感に溢れていた。



「……くどいようだが」

 しばらく、二人してその場に佇んだあと、私は呟いた。

「君の周りには、本当に個性的な人物が集まるな」


 彼も、心底疲れた、といった様子で囁く。

「……くどいようだけど、断じて集めてるわけじゃないぞ」





    ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 士郎とカレンの出会い、およびパイプオルガンのくだりは、

   Fate SS サイト 《ミーナの店》(dain氏)
   『Fate/In Britain 外伝 ぼうれいのおきみやげ』

          http://homepage3.nifty.com/dain-h/

の設定を(勝手に)使わせていただきました。

 dain様、申し訳ありません。



    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/09/03 19:14



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十五)





「「乾杯。」」

 ワイングラスを、 かりん と鳴らす。

 二人とも未成年だが、食前酒の一杯くらいは、大目に見てもらおう。
 冷やした赤ワイン、というのも反則だが、この店には、そして私たちにもよく似合っている。

「お疲れさま、鐘」
 士郎が、ゆっくりとグラスを傾けながら言う。

「まさに、今日一日にふさわしい言葉だな。
 お疲れさまだった、士郎」
 私も、軽くグラスを回しながら応える。

「「 ―― 」」
 二人、グラス越しに目を合わせながら、くすくす笑い合う。


 実際、本当に《お疲れさま》な一日だった。
 さまざまな場所に行き、様々な人と出会った。

「今日は、君の知人が勢揃いだったな。
 パーティでもないのに、一日でこれだけ多くの人に会ったのも珍しい」

「ほんとにな。
 俺の知り合いの、総ざらえだった気がするよ。
 でも、鐘の友だちも居たろ?」
「私の知人は、蒔の字に由紀香。それと画材店の店主くらいだ。
 君には、及ぶべくもない」


 そう。

 初めに、遠坂、間桐、美綴の三嬢に、蒔、由紀香。
 次に、バイト先のネコ女史。
 スーパーマーケットで柳洞一成。
 ジャンク屋のご主人。
 イリヤ嬢と、藤村教諭。
 そして、とどめにシスター・カレン。

「本当に、よくもこれだけ個性的な方達を集めたものだ」
「だから、集めてるわけじゃ……
 ……ま、いいか。
 《個性的》っていう点では、反論のしようも無いからな。
 誰かさんも含めて」
「ほう?
 君も言うようになったな」

 別に、ワインの一杯で酔ったわけでもないのだろうが。
 いつになく、士郎の舌が滑らかに動く。
 いや、それは私も同じか。


 この一日で、多くの人に出会った。
 その分、士郎が生きている様々な世界の一端を見せてもらった気がした。
 そして、その人達と交わした、数々の言葉。


(キミは目が高いよ。大事にしたんさい)

(どうか彼奴と、添い遂げてやってくれ)

(……シロウのこと、よろしくね)

(あなた方に、神の祝福のあらんことを)


 どれも、表現は違えど、衷心より士郎のことを思って出た言葉だ。

 彼は、これほど人に愛されている。
 同時に、これほど人に案じられている。
 彼らは、彼らの想いを、私に託したのだ。

 私は……託されたのだ。


「……鐘?」
 急に黙ってしまった私を見て、彼が心配そうな目を向ける。

 ……そのまなざしが、君の最高の長所であり、最大の弱点なんだぞ。

 私は、彼を安心させるため、今の気持ちをそのまま笑顔に変えた。



 出てくる料理は、相変わらず素晴らしかった。

 ここは、私の父が母と一緒になるころから通っていた店だ。
 いわゆる無国籍料理の店なのだが、そういった店にありがちな胡散臭さが微塵もない。

 内装はすっきりと仕上がり、無粋なBGMも流れていない。
 聞こえるのは、客の静かな話し声と、時折厨房から聞こえる、調理の音。
 ある意味、今日最初に行った紅茶専門店にも通じる安らかさが、この店にはあった。

 メニューはお任せで頼んだのだが、多彩に富んでいる。
 和風シーザーサラダのあとに、しじみの中華スープ。
 ポロ葱のブイヨン煮、鯛のポワレ。
 マグロのユッケ、牛肉のたたき。

 今は、豚の角煮を糯米に乗せ蒸籠で蒸したものがテーブルに並んでいる。

 士郎は、メニューの一つひとつに本気で感心し、挨拶に来たマスターに、作り方を熱心に聞いていた。
 私とは馴染みのマスターだが、士郎のことも気に入ってくれたらしい。
 一時は、私や他の客そっちのけで、料理談義に盛り上がっていた。


「……いやあ、うまかった。
 ずっと冬木に住んでたのに、こんな店を知らなかったなんて、損した気分だ」

「喜んでもらえて、私も嬉しい。
 ここは、宣伝をほとんどしないからな。
 目立つ作りでもないし、口コミでしか評判は伝わらない。
 だからこそ、今日のような日でも無理を聞いてもらえたわけだ」

 デザートに、タンポポのコーヒーと杏仁豆腐のケーキをいただきながら、私たちは満足のため息を吐く。


 会話は、静かに続く。
 今日の出来事。
 そこで出会った人たちのこと。
 お互いの趣味、嗜好について。

 途切れそうで、とぎれない。
 とぎれたとしても、笑顔でそれを埋められる。

 いつもどおりの、彼との会話。
 それが、この上なく貴重なものに思えた。



「そう。
 君に、渡す物があるんだ」
 この時のために用意していた言葉。そして、物。

 私はハンドバッグを開け、中から小さな、細長い包みを取り出す。

「……これは?」
 差し出された包みを受けとった士郎が、不思議そうに首を傾げる。

「……。
 君はまさか、今日が何の日であるのか、忘れたわけではないだろうな?」
「……あ。
 じゃ、これ……」
「クリスマスプレゼント、だ。
 ……恥ずかしいことをわざわざ言わせるんじゃない」

 私は、顔を赤らめてそっぽを向く。

「……悪い。
 あんまりいろんなことが起こりすぎたんで、すっかり忘れてた」

 彼が、頭を掻きながら詫びる。
 ……まあ、その気持ちは分からなくもないが。


「……で、だ。
 せっかく用意したんだ。開けてみてくれないか?」
「いいのか?」

 もちろん。
 こうしたプレゼントを渡す醍醐味の一つは、相手がどんな反応をしてくれるか、を見ることにあるのだ。

「えっと…、じゃ、失礼して」
 彼が、緊張の面持ちで包みを開く。

「…いいのか?こんな立派な……」
 男性用の腕時計を箱から取り出し、士郎は私とその時計を、交互に見つめた。

 薄型の本体。銀色のベルト。
 文字盤は黒。時刻を表す数字も描かれていず、秒針すら無い。
 正にシンプル・イズ・ザ・ベスト。
 最小限の用途を最大限の機能で発揮した品だった。

「君も、卒業したら社会人の一員になるんだろう。
 いつも持てとは言わないが、今のような服装をするときは、必要になる場面もあるんじゃないか?」



 そう。
 士郎は、年が明けて学園を卒業したら、社会人と呼ばれる身になる。
 とは言っても、会社員になるわけではない。
 一時期は、法政関係の大学に進学しようかとも考えていたらしいのだが、

『とりあえず、今のバイト先で本雇いにしてもらえることになったから。
 そこで働きながら、自分のやりたいことをゆっくりと探していくつもりだよ』

 いつか、彼は微笑みながら、穏やかな声でそう言っていた。


 ……『自分のやりたいことを探す』というのは、多分、正確な言い方ではないだろう。
 やりたいことは、決まっている。
 そこに至るための道を探していく、という表現の方が、正しいはずだ。

 彼の言う『やりたいこと』が何なのか、私には分からない。
 彼は何も言わないし、私も聞かない。

 聞いても多分、今は言わないだろうし、問いつめたりしたら彼の困った顔を見るだけだ。

 言える時が来たら、彼は必ず私に話してくれる。
 理屈も何も無いが、私は、そう確信していた。



 その士郎は、腕時計を見つめたまま、じっと黙っている。
 心なしか、その表情が引き締まっているように見えて、

「……気に入らなかったか?」

 彼は普段、時計をほとんど持たない。
 携帯電話ももちろん持っていないので、時刻を知りたいときは、誰かに聞くか、時計のある場所まで移動していた。
 ひょっとしたら、押しつけがましいことをしてしまったか、と不安になったのだが。

「あ、いや。
 そんなわけないよ」
 彼は、真顔で首を振った。

「鐘の言うとおりだ。
 これからは、時計無しに過ごすなんて悠長な生活にはならない。
 ……なんて言ったらいいかな。
 『お前は、社会人になるんだぞ』
 って、喝を入れられたような気がしたんだ」

 真剣な表情で語ったあと、彼は清々しい表情で笑い、

「ありがとう、鐘。
 すごくうれしい。
 大切に使わせてもらうよ」

 その時計を、押し戴くように掲げた。


「……い、いや。
 そこまで大層な物じゃない」
 私は、顔が熱くなるのを感じながら手を振った。

「そ、それに、少しぐらい乱暴に扱っても大丈夫だぞ。
 見た目は華奢だが、十気圧防水、対ショック加工、対衝撃材使用。
 それこそ、仕事先でぶつけたりしても、傷も付かないはずだ」

「そりゃすごい。
 ますます、俺にぴったりだな。
 それに……」

 そう言いさして、士郎は私の左手首に目を留める。
 ……気付いてくれたか。

「あ、ああ。
 少し恥ずかしいが、おそろい、というやつかな。
 これくらいなら、いいだろう?」
 弁解するように言いながら、左手を揺する。
 女性用ではあるが、士郎の物と同型の時計が しゃら と音を立てる。

「もちろん。
 じゃ、さっそく……だな」
 士郎は、少し頬を染めながら、その時計を左手首に巻いてくれた。

     かしゃ

 という音が、微かに響いた。





「……じゃあ、次は俺の番だな」
 しばらく、お互いの手首を見つめあったあと、士郎が上着のポケットを探る。

「……」
 思わず、胸が跳ね上がる。

 先ほど、私のプレゼントに驚いていた様子からして、期待はすまいと思っていたのだが……


「鐘。
 メリー・クリスマス」
 差し出されたのは、赤いリボンが巻かれた細い箱。

「……わたしに?」
 言わずもがなのことを、思わず聞いてしまう。
 彼は、微笑んだまま箱を差し出している。

 受けとる両手が、微かに震えている。
 ……何を緊張している。
 先ほど私自身が言ったとおり、クリスマスに恋人へプレゼントを贈るなど、当たり前のことではないか。

 ……そんな一般論も、何の役にも立たない。
 彼からは、無形のものを数えきれないほど貰ってきたが、
 はっきりと形になった物を受けとるのは、これが初めてなのだ。


「開けても……?」
「もちろん」

 リボンを解き、包みを開く。
 うまく動かない指先が、焦れったい。
 ようやく開いた箱の中には……


「………」

 そこにあったのは、ネックレスだった。
 余計な装飾など無い、シンプルな銀のチェーンの先に、
 華美ではないが、美しい意匠の細工が連なっている。
 その真ん中に輝いている、紫の石は……

「……アメジスト、か?」

「ああ。そう言うらしいな。
 俺も、店の人に教えてもらったんだけど。
 もっと派手なヤツとか、煌めいてるヤツもあったけど、なんでか、そいつに目が行ったんだよ。
 鐘に似合いそうだな、って」

「……」


 おそらく、士郎は知るまい。
 アメジストの石言葉は『誠実』。
 また、パワーストーンとしての意味は『真実の愛』。

 だが、そんな言葉遊びよりも、
 彼が、私のために選んでくれたこと。

『鐘に似合いそうだな』

 と思い、購ってくれたこと。

 それが、そのことが、例えようもなく嬉しい。


「か、鐘?どうした?」
 慌てる彼の声が聞こえる。

 当然だろう。
 私は今、そのネックレスを胸に抱きしめ、必死に涙を堪えているのだから。


「……すまない。
 何故だろうな。
 君と付き合い始めてから、すっかり涙腺が弱くなってしまった」

 そう。
 これくらい、士郎のせいにしないと、やりきれない。
 ものごころ付いてから泣いたことなど無かった私が、君と出会ってから、何度涙を堪えたことか。


「ありがとう、士郎。
 本当に」


 この場に、涙は相応しくない。

 だから私は、この心の揺れをすべて笑顔に変え、彼に贈った。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:76af8d97
Date: 2010/09/07 19:15



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十六)





 マスターの暖かい言葉に送られて、店を出る。

 足は自然に、海浜公園の方へと向く。

 彼の左手首には、私の贈った腕時計。
 私の胸元には、彼に贈られたネックレス。


「……正直、期待していたこともあったのだがな」

 彼を横目に見つめ、意味深に左手の薬指を撫でる。

「う……
 まあ、その……考えなかったわけじゃ、ないんだけどな」

 彼が、済まなそうに頭を掻く。

 そんな彼の困り顔に、
「ふふ……」
 つい、笑みがこぼれてしまう。

「冗談だ。
 お互い、そんなに焦ることはないだろう。
 ゆっくりと二人で進んでいければいいし、今は……」

 胸元のアメジストに、そっと指を触れる。


「今は、これで充分過ぎるほどだ」



 川に沿ってゆっくりと歩く。
 温暖な冬木市ではあるが、冬はやはり寒い。
 この時刻、普段なら人影もまばらなはずの海浜公園だが、今日この日だけは、二人連れの姿がちらほらと見受けられた。

 そのシルエットたちは、みな幸せそうに寄り添っている。
 私もごく自然に、士郎の左腕に腕を絡めた。


「……受験の準備、進んでるか?」
 士郎が、囁くような声で聞く。
 この場では、大きな声は相応しくない。

「ああ。
 先日は下見がてら、学校へ願書を提出しに行った。
 なかなか、過ごしやすそうな佇まいだったぞ」
 だから私も、彼に聞こえるように寄り添いながら囁いた。


 年が明けたら、私は近郊の美術大学を受験する。

 穂群原の学園生活を、陸上競技で過ごしてきた私だが、本来は文化系の人間だ。
 この三年間、部活動に勤しみながらも、決して絵筆を忘れたわけではない。
 入学の易しい学校ではないが、技術、知識ともに、まず合格圏内だろうと、教師達からも言われてはいた。

 ただ……


「…これを話すのは、君が初めてなんだが……」
 私は、少しためらいながら口を開いた。

「美術の勉強は、もちろん努力していくつもりだ。
 ただ……、その他にも、やりたいことが増えて、な」

「やりたいこと?」
 士郎が、不思議そうに首を傾げる。

「ああ……。
 どういう形で行うかは、まだ決めていないが……
 実は、政治関係の勉強をしようと思っているんだ」


 政治家を父に持つ私にとって、《政治》は幼いころから身近な存在だった。
 父の苦労、それを支える母の苦労も、間近に見てきている。
 尊い仕事だが、決して綺麗事だけでは済まない、
 『労多くして功少なし』
 の典型。
 それが、私にとっての《政治》だった。

「だが……、憧れていた。
 人に何と言われようと、黙々と己の責務を果たす父の姿に。
 ……同時に、私には無理だ、と諦めてもいた。
 あんな……あんな重圧に耐えることは、私にはできない、と」

 士郎は、私の独白にじっと耳を傾けてくれている。

「正直、諦めていたことすら、忘れかけていた。
 でも……最近、思い出したんだ。
 父の姿が眩しかった、いや、今も眩しいことを」

 そう。
 そして、その眩しさを思い出させてくれたのは……


「……鐘が政治家、か。
 うん。
 合ってると思うぞ」

 士郎は、にっこりと笑って、私の考えを肯定してくれた。

「い、いや……
 まだ、政治家になる、とまで決めたわけではないんだ。
 ただ……、父の力になれるような、その世界の片隅で力を尽くせるような……
 そんな能力を、身に付けたい。
 折を見て、父にも相談しようと思っているんだが……」

「そうだな。
 お父さんなら、きっと適切なアドバイスをしてくれるよ。
 どんな形で関わるにせよ、鐘の力なら、その世界で生きていける。

 ……お父さんみたいに、たくさんの人たちの生活を守っていけると思うよ」

 士郎は、笑顔を絶やさずに続ける。
 私の考えを……進みたい道を、本気で喜んでくれている。


 ………

 笑顔のまま、夜空を見上げる彼の横顔に向かって、

(……きみの、せいだぞ)

「ん?
 なんか言ったか?」
「……なんでもない」



 本当に、君のせいだ。

 君の、救いようのないほどの善意。
 己を初めから無い物として考えるほどの、正義。
 すべての命は、命の分だけ幸せであれと願う、その魂。

 一言で言えば、偽善。
 そんな夢物語など、実現できるわけがない。
 ただ。それでも。


 誰もが一度は夢見る、その姿。
 それを、本気で実現しようとしている、君の姿。

 衛宮士郎。
 君は、正しい。

 その正しさ、眩しさが、
 私に、幼い頃の夢を、思い出させてくれたんだ。


 同時に、思う。

 衛宮士郎。
 君もまた、命ある者だ。
 だから君も、幸せにならなければ。

 私に何ができるか、分からないけれど。
 私の進みたい道が、君の道とどう重なってゆくのか、見当もつかないけれど。

 士郎。
 幸せになろう。
 なるために、努力しよう。
 わたしと、いっしょに。



「―――でも、そうなると、美大と政治学との二足のわらじか。
 来年から、鐘も忙しくなるな」

 私の気持ちを知ってか知らずか、士郎は変わらぬ微笑みを向けてくる。

 焦ることはない。
 私は多くの人と、……自分と、約束したのだから。


「そうだな。
 専門学校のような所に通うか、通信教育か……
 その点も、父に相談してみるさ。

 まあ、忙しくはなるだろうが……」

 そう言いさして、彼の腕に絡めた手に、意味深に力を込める。

「こうして二人で居る時間は、ひねり出してみせる。
 ……さしあたっては、来年の初詣、かな?」

「お、おう……」
 士郎も、頬を赤くしながら応じる。

「そっか……。
 もう、初詣なんて時期なんだな。
 あ……
 じゃあ、鐘の振り袖姿も、期待していいのかな?」

「ふふ……
 それはまあ、その時のお楽しみ、ということにしておこう」


 他愛のない言葉を重ねながら、ゆっくりと、本当にゆっくりとプロムナードを歩く。
 川面から吹く風は寒いはずなのに、体は寒いと感じているのに、何故かそれが気にならない。



「……あ、正月、って言えば………」
 士郎が、何かに気付いたような声を上げる。

「……なあ、鐘。
 前から思ってたんだけど、な。
 その……」

「どうした?」
 照れくさそうに言葉を濁す彼に、首を傾げる。

「いや……
 鐘の家に、お年賀に行った方がいいかな?って。
 ほら、俺、まだちゃんとご挨拶してないし……」

「あ……」

 そう言えば、私の両親と士郎はすでに顔馴染みではあるものの、正式な形での面会はしていない。

 初めは、許嫁騒動の時、士郎の家で父と。
 次は、私の入院騒ぎで、うやむやのうちに病室で父母と。


「……そうか。
 そう言えば、士郎が私の家に、正式に挨拶に来たことは……」

「 !
 い、いや!
 『挨拶』って言ってもだな!
 そういう意味で言ったんじゃ……
 あ、いやその、そういうのが嫌なんじゃなくて、その前段階というか、手順を追って、だな……!」

 私の独白をどう取り違えたのか、士郎はいきなりとんでもないことを言い出した。

「あ、当たり前だ!
 わ、私とて、そういう意味で言ったわけじゃない!
 そういうことは……ま、まだ、その…早……」

 私の言葉も、どんどん語尾が細くなっていく。

「……」
「………」

 しばらく無言。
 いつの間にか、足さえ止まっている。


「は、話を戻すぞ!
 とにかく、だな!!」
「お、おう!!」

 急に声を張り上げた私たちに、周りのカップルが驚いたように振り向く。

「「……」」

 二人、済まなそうに沈黙したのち、

「……と、とにかく、だな。
 ぜひ、うちには遊びに来てもらいたい。
 父も母も、きっと喜ぶだろう」

「そ、そっか。
 じゃあ、ぜひお邪魔させてもらうよ」


 ただ、父の仕事上、正月は年賀の行き来やパーティなどで、特に多忙になる。
 虚礼廃止が叫ばれているとは言え、政治の世界ではまだまだ避けては通れない道だ。

「そんなわけで、松の内……いや、1月の前半は難しいと思う。
 父も、どうせならゆっくりと士郎に会いたいだろうからな。
 だから、詳しい日程は父に聞いてから、ということで良いか?」

「もちろん。
 俺はいつでも構わないから、ご都合を伺ってみてくれ」

 真面目な顔で頷く士郎を見て、私もひとつの可能性を切り出した。


「年賀、ということで思い当たったんだが……
 士郎。
 私も、その……お邪魔できないか?」

「お邪魔、……って、うちにか?
 そりゃ、いつでも大歓迎だけど……」
 何も、年賀などと改まらなくても、と彼は言う。

「いや、もちろん君の家にも遊びに行きたいが、
 藤村教諭のお宅にだ。
 具体的には……雷画翁に、ご挨拶できないだろうか?」


 藤村教諭の祖父でもある藤村雷画氏には、以前、多大なるご迷惑をおかけした。
 約束無しに会いに行き、士郎のことを根掘り葉掘り聞いたり、そのことが原因で、父まで交えての面談となったり……

 今、思い出しても、顔から火が出る。

 その上、その面談の席で動転した私は、ろくに挨拶もしないまま席を立ってしまったのだ。
 それ以来、雷画翁とはお会いしていない。
 あの時の失礼も、お詫びしたいのだが……


「んー……
 雷画の爺さんなら、そんなこと気にしないとは思うけどな。
 確かに、俺にとっても後見人だし、鐘が顔を見せてくれれば、爺さんも藤ねえも喜ぶだろ」

 私の緊張とは反対に、士郎はいかにも気楽に請け負ってくれた。

「ただ、鐘のお父さんとは違う意味で、あの爺さんも正月は忙しいからな。
 やっぱり、松が取れてからになると思うけど……
 都合を聞いてみるよ」

「よろしく、お願いする」


 今年がもうすぐ終わり、次の年が始まる。
 今の時期ならば、鬼も笑ったりはすまい。
 私たちは、来年のことについて、これからのことについて、言葉を交わした。



 話は尽きないが、道はやがて尽きる。
 そろそろ、公園も終点。
 プロムナードも、そこで終わる。

 時計を見るまでもなく、もういい時間だ。
 これ以上遅くなると、両親に心配をかけてしまうだろう。

 ……でも、もう少し。
 この、本当にいろいろなことがあった一日を、もう少しだけ……


「……じゃ、そろそろ帰ろうか。
 ご両親も、心配してるだろ」
 士郎の声音にも、残念そうな響きが混じっている。

 仕方がない。
 どんな一日だろうと、終わるときは終わる。

 終わったのなら、また始めればいいだけの……


「あ……」


 ひとつ、ひらめいた。

「……鐘?」
 不思議そうに私を見る士郎の掌を取って、足早に歩く。

「士郎、先ほどの続きだ。
 もう一箇所、いいだろう?」





「ここは……」

 士郎が呟くとおり、ここは新都大橋のたもと。
 新都側の、ちょうど橋を渡りきった箇所だ。

「想い出の場所巡りから始まった今日だ。
 最後のスポットに相応しくはないか?」


 そう。
 初めてのデートの時。

 今日行った、紅茶専門店や輸入食材店。
 そして、衛宮邸。
 そんな所を回った私たちは、最後にこの場所で立ち止まった。


「……そうだな。
 今日の最後にふさわしい。
 俺の、馬鹿さ加減の再確認も含めて」
 士郎が、苦い顔で笑う。


 あの日。
 橋の真ん中で、彼は私に

『俺と、付き合ってくれるか?』

 と言った。
 その場では他の言葉は、私の本当に欲しかった言葉はくれなかった。

 その時のことを、思い出しているのだろう。


 彼に、そんな顔をさせるのは本意ではない。
 だから、わざと軽い口調で続けた。

「君があのとき、馬鹿だったことは、確かに認めるが……」
「……おい」

 身も蓋もない言葉に、彼が世にも情け無さそうな顔になる。
 そう。
 そっちの顔の方が、まだ良い。

「そういう意味で来たわけじゃない。
 ここは、私にとって特別な場所だ。
 ……私が、初めて安心できた場所なんだから」


『付き合ってくれ』
 とは、言われていた。
 抱きしめられもした。
 だが、それだけでは、確信が持てなかった。

 本当に彼が、私を見てくれているのか、
 浅ましい私は、手に取って眺めることのできる言葉が欲しかった。


 そして、その言葉を、彼がくれたのが、この場所なのだ。


 あの日、この場所で一日は終わり。
 そして、この場所から、私たちは始まった。

 ならば、今日も……



「……鐘」

 彼が、私を抱き寄せる。

 あのときは荒々しく強引で、少し怖いくらいだった。
 今は、……


「鐘、好きだ」
「……うん」

 すっぽりと、パズルのピースがはまるように、私が彼の胸に収まる。

 あの時は、ほんのちょっとだけ、隙間があったように思えたが……
 彼は、少し背が伸びただろうか?


「……私もだ」
 彼の背中に、腕を回す。

「士郎、君のことが、好きなんだ」



 この時間でも、橋にはひっきりなしに車が通る。
 そのヘッドライトに、照らされながら。


 彼は、あの時の言葉を、もう一度私に贈ってくれ。
 私も、心の底から、彼を抱きしめた。










    ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 『クリスマス編』、終了です。
 長かった……

 オールスターキャスト、プラス、スペシャルゲスト。
 このストーリーを、3~4話で軽く、と考えていた、私は馬鹿です。

 でも、彼らのイチャイチャをたっぷり書けたので、満足満足。


 まだ描きたいエピソードはありますので、もうちょっと続きます。
 気が向かれたら、覗いてやってください。



    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:3d8058f6
Date: 2010/09/11 18:37



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ一)





「鐘、少し落ち着きなさい」

 キッチンから、母が声をかけてくる。

「え?」
 ダイニングのテーブルを拭いていた私は、手を止めて振り返る。

 落ち着け、とは少々心外な言葉だ。
 私は別に、家事を失敗したり、視線をきょときょとと彷徨わせたりもしていない。

「お母さん、私が落ち着いていないように見えるのですか?」
 なので、いつもどおりの沈着冷静、学友から《ザ・クール・ボイス》と表現される声音で答える。
 その声に、

「 ――― 」
 母は、軽いため息で応じた。


「見えます。
 朝から家の中を行ったり来たりして、まるで動物園の熊みたいに。
 用もないのに物を動かしたり、埃も無いのにハタキを持ち出したり。
 そのテーブルを拭くのだって、今日で何回目?」

「………」

 手に持つ台拭きを眺める。

 確かに言われてみれば、ここを拭くのは、覚えているだけで四回目だ。
 他にも、リビングの掃除、玄関やトイレのチェック、自分の部屋の整頓など、数日前から数えれば何回行ったか分からない。

 だが、自室はともかくその他の場所は、綺麗好きな母が日頃から完璧なまでに整えているフィールドだ。
 今さら私の出る幕はなく、結局、右にある物を左に動かし、上にある物を下の棚に移動し、やはり収まりが悪いのでそれらを元に戻し……

 要するに、全く無駄なことに時間を費やしているわけだ。
 ……認めるのは癪なので、あえて無表情で通したが。


 腰に手を当て、呆れたように私を見ている母の向こうで、リビングのソファに座る父が、書類越しに懸命に笑いを噛み殺している。

「……お父さん。
 何か、面白いことでも?」

 八つ当たりは百も承知だが、私も腰に手を当て、少々剣呑な目つきで睨んでやった。

 父は『もう耐えられない』といった風情で顔を上げ、

「いやいや。
 面白いと言うより、嬉しいんだよ。
 我が子が、こんなにも娘らしい娘に育ってくれたかと思うとね」

 噛み殺す作業をあっさりと放棄し、満面の笑顔を私に向けた。

 普段、笑いどころか苦虫を噛み潰したような顔の父が、こんなにも豊かな表情を見せる。
 それは、一人娘にとって、喜ばしいことには違いないのだが。

「……それは、どういう意味でしょう?お父さん」


「さあさあ、鐘。
 そんなに眉間に皺を寄せるんじゃありません。
 跡が付いて、あの人の前でも取れなくなるわよ」

 父を睨み付ける私の手から、母が台拭きを取りあげる。

 ……もう、何度目の感慨になるか分からないが。
 私の両親は、こんなにもフランクでファンキーな性格だったか?


「家のことはもういいから、下まで彼を迎えに行ってらっしゃい。
 そろそろ、お時間でしょ?」

 両親のアイデンティティーについて真剣に悩む娘など、とんとあずかり知らぬ、といった風情で母が言う。

 確かに少し…いや、だいぶ早いが、そろそろ約束の時間だ。
 すぎるくらいに几帳面な彼のことだから、そろそろ到着している、ということも充分考えられる。

「……はい。
 では、行って参ります」

 私は、椅子の背に架けてあったカーディガンを取りあげながら、両親に答えた。

 ……染まる頬を見られないよう、顔を背けつつ。



 一月も半ばとなった、ある土曜日。
 時刻は、もうすぐ午前11時になろうとしている。

 今日は、士郎が初めて我が家にやってくる。

 先日のクリスマス・デートの時。
 『鐘の家に、お年賀に行った方がいいかな?』
 と言った、彼の提案が実現したわけだ。


 年賀、と言うには少々遅いが、父の役職上、年末年始は激務の時期でもある。
 その煩雑な儀礼も一段落し、今日、ようやく父の体が空いた。
 いや、本来なら峠を越えたとは言え、まだまだ忙しい身のはずなのだが、無理をして時間を作ってくれたらしい。

 父の心遣いに感謝すると共に、やはり父にとっても《士郎》は特別な存在なのだ、と改めて思った。


 ちなみに、私から提案した藤村雷画翁への年賀だが、これは士郎の口利きにより、明日の日曜日に伺うことになっている。

 偶然ではあるが、双方の保護者に、二日続けて挨拶することになったのだ。
 その初日、と思えば、やはり緊張もする。


 エレベーターを降り、外に出る。

 私の住む蝉菜マンションは、高層建築ではあるが、同時に敷地もたっぷりと取ってある。
 建物の出入口からは門までは、プロムナードが緩やかなS字を描いて伸びている。
 木や建築物などの配置によって、外から直接には建物内を覗けない仕組みだ。

 プロムナードの途中にはいくつか、半円形に窪んだ休憩所が設けられ、ベンチなどが据えられている。

 そうした場所を通り過ぎ、門まで辿り着くと、


「あ、鐘」


 案の定、と言うべきか。
 私の、最も安らげる笑顔が立っていた。


「相変わらずせっかちだな、君も。
 約束の時間までは、まだ相当間があると言うのに」

 少々呆れながらも、その笑顔に接する嬉しさには勝てない。
 私は、足早に彼に近づいた。

「む。
 せっかちなのは認めるけど、今着いたばかりだぞ。
 だいたい、早く来てくれたって言うんなら、鐘も同じじゃないか」

 士郎も、少々口を尖らせながら歩を進める。
 ……まあ、彼の言うとおりではある。


 士郎の服装は、紺のジャケット、グレーのスラックス、茶のローファー、グレーのコート。
 要するに、クリスマスの時とほぼ同じ格好だが、今日はシャツは純白、ネクタイは濃い臙脂だ。
 手には、土産なのだろうか、紙の手提げ袋を持っている。

 一張羅、と言うと言葉は悪いが、だいたい士郎がこんなフォーマルな服装をすること自体珍しいのだ。
 何回見ても、見飽きることは無い。


「とにかく、よく来てくれた。
 父と母も、朝から待ちかねていたぞ」

 ……先ほど両親から指摘された、私の動向は除く。

「そ、そっか。
 ……なあ、鐘。
 俺、どっかおかしな所、無いかな?」

 自分の格好をあちこち眺めながら、彼が私に尋ねてくる。

 私がそうであったように、彼もまた緊張しているのだ。
 そう思うと現金なもので、こちらの気持ちが少々軽くなった。

 ……同時に、少し欲求、と言うか、いたずら心も湧く。
 見た限りでは、おかしな所など何一つ無いのだが……


「……ふむ。
 特におかしな所は無さそうだな。
 ん?
 いや……」

 そのまま、彼をプロムナード脇の休憩所まで引っ張っていく。

 時間もまだだいぶ早いし、急いで家に上がることもないだろう。
 ここは一つ、めったに見られない士郎のフォーマルスタイルを、心ゆくまで鑑賞したい。

「ネクタイが少々、曲がっているようだな。
 どれ……」

「ほ、ほんとか?」
 慌てて直そうとする彼の手を押さえる。

「まあ待て。
 鏡の無い場所では、自分で直すより第三者の手で行った方が確実だ。
 だいたい、この結び方は何だ?
 これでは、崩れるのも当たり前だ」

 そのまま有無を言わさず、曲がってもいないネクタイを彼の首からほどき抜く。

「お、おい鐘?」

「いいからじっとしていろ。
 君は普段、結び慣れていないからこうなるんだ。
 私は、私服でよくタイを結ぶからな。
 こういったことは、慣れた手で行った方が良い」

 シャツの襟を立て、改めてネクタイを彼の首に回す。
 実際には、自分の首に結ぶのと他人に行うのとでは勝手が違うのだが。

 それでも、数十秒格闘した甲斐あって、完璧なハーフウィンザーノットに仕上げられた。


「よし。
 どうだ士郎、これで……」

 ずっと彼の胸元に注いでいた視線を、ひょいと上に上げる。
 そこには。

「……」

 真っ赤になって私を見下ろす、彼の視線があった。


 ……当たり前だ。
 他人のネクタイを直すからには、当然その人物に寄り添わなければならず、さらには、完璧を期すためにネクタイの結び目に眼を近づけるのは必然で、その結び目は通常、人の顔の真下にあるわけで……

「……」
「………」

 だから、このような状況になってしまったのも、偶然にして必然なのだ。


 冗談から駒。

 そんなことわざがあったかどうかは知らないが。
 とにかく、予定どおりの行動がもたらした予期せぬ結果に、私の頬も見る見るうちに熱くなっていく。


「……鐘」
「……士郎」


 私は彼のネクタイに、彼の胸に手を添えたまま。
 彼は、その両腕をゆっくりと私の体に……



「なあ、あんたら。
 気持ちは分からないでもないが、一応、場所と時間帯ってやつを考えて行動してくれないもんかね?」

「ぐえぉっっ!?」

 いきなり外部からかけられた第三者の声に、私は無意識に後方に跳びずさる。
 ……ちなみに、あとに続いた愉快な悲鳴は、私が士郎のネクタイから手を離すことを忘れた結果だ。


「み、美綴嬢!?
 な、なぜ?いつからそこに!?」

「なんで、って、外出するときに、自分の家の玄関から出てくるのは当然でしょうが。
 その玄関先でプライベートなことしてる、あんらたらにこそ『なんで?』って言いたいよ」

 美綴嬢は腕を組みながら、呆れた顔を隠しもせずに言う。

 ……確かに、彼女の言うとおりではある。
 ここは私の家ではあるが、同時に数十世帯が同居する高層マンションの出入口でもある。
 そんな場所で、日中このような行為を行っていた私たちこそ、咎められてしかるべきだろうが。

 それにしても、このタイミングで図ったように、マンションの住民中もっとも出てきて欲しくない人物が出てくるか?


「その目。心外だね。
 いくらあたしでも、あんたたちの動向を見張ってて、いい所で顔を出すなんて暇なことしやしないさ。

 それより氷室。
 あんたこそ、そろそろ離してやったらどうだい?
 そのままじゃ衛宮、いっちまうよ?」


 美綴嬢にそう言われて、改めて自分の手を、その手が掴んでいる物を見る。
 ―――ネクタイをいきなり引っ張られた上、彼女との問答の間中、あちこちに振り回された士郎の顔色は、もはや蒼を通り越して白くなり始めて……

「 !!! 」

 ……その後。
 彼への介抱と、私の謝罪に、どれほどの時間が割かれたかは置くとして。



「……ふーん。
 ずいぶんめかし込んでるじゃないか、衛宮。
 何、とうとう年貢を納めに来たとか?」

 美綴嬢が、腕組みしながらニヤニヤ笑いを私たちに向ける。
 陰湿なところが少しも無いのが彼女の人徳だが、脅威であることに変わりはない。

「ね、年貢って、なんだよ。
 俺はただ、鐘のご両親にお年賀に来ただけで……」

 士郎が、まだ喉をさすりながら答える。

「お年賀にしちゃ、ずいぶん遅いけど。
 まあ、氷室のお父さんは忙しいからね。
 こういう事は、たっぷりと時間を取って進めた方がいいもんな」

「だ、だから!
 『こういう事』って何だよ!」

「お年賀だろ?」

「……」


 ……聞くところによると、士郎の弓の腕前は、武芸百般にして前弓道部長、美綴綾子も一目を置くほどであるというが。

 少なくとも舌戦においては、彼は彼女の敵では無いらしい。

 放っておくと、どんどん墓穴を掘りそうなので、無理やり話に割って入った。

「み、美綴嬢。
 出かけるのではなかったのか?
 待ち合わせならば、遅れるのは良くないぞ」

 少々わざとらしくはあるが、ここは武道家の常として時間に潔癖な彼女の性格を突くしかない。

「お、そうか。
 いやー残念。
 もう少し遊びたかったんだけどね」
 携帯電話を取り出し、時間を確認した美綴嬢は、心底残念そうな顔をした。

 癪ではあるが、今はこちらが不利だ。
 ここは一刻も早く、彼女に立ち去ってもらって……


「間桐も、時間には厳しいからな。
 まあ、理由を言えば、納得してくれるだろうけど」

 ……去る前に美綴嬢は、見事な爆弾を落としてきた。

「さ、桜!?」
 士郎が、頓狂な声を上げる。

「ん?
 ああ、今日は、弓道部レディースの新年会なのさ。
 今年は、間桐が纏め役だからね。
 あのコ、怒ると怖いからなあ……」

 自分が怒られることを恐れるふりをしつつ、私たちにプレッシャーをかけてくる。
 流石は美綴綾子。
 敵ながら、あっぱれな高等戦術だ。


「……確かに、今日は自分も出かける、って言ってたけど……」
 士郎が、私の横で呟く。

 なるほど、間桐嬢は士郎と半分同居しているのだから、彼がその動向を知っていてもおかしくない。
 だが、それならば間桐嬢が士郎の予定を把握していてもおかしくないわけだ。

「?」
 眼で、士郎に問いかけるが、

「 ――― 」
 彼は、無言で首を振る。

(言うの、忘れてた)
 という意味だ。

 めったにないフォーマルスタイルで出かけたのだから、恋人である私と会うことは予測しているのだろうが、
 私の家に行くことまでは、彼は話していないらしい。


 別に悪いことをしているわけではない。
 士郎の言うとおり、ただの年賀なのだし、よしんば美綴嬢の揶揄するような状況であったとしても、私と士郎は恋人同士なのだ。
 誰に憚ることがあろうか。

 ……と、開き直れれば良いのだが。

 間桐桜嬢にだけは、私も士郎も、少々憚らざるを得ない。


 あの、新都大橋のたもとでの、彼女との対決。
 お互いに遠慮などせず、堂々と競おうと、手袋を投げ合った。

 だが、だからこそ。
 彼女に《卑怯》と思われるような行為はしたくない。

 今日のことにしても、別に隠していたわけではないし、隠したいわけでもないのだ。
 ただ、知られるのならば、士郎か私の口から。

 第三者を通してではなく、公明正大な形で……



「……そんなにマジな顔するなよ、二人とも」

 かけられた声に顔を上げると、美綴嬢が苦笑しながら頬を掻いていた。

「冗談冗談。
 心配しなくたって、あんたらの事情に首を突っ込む気は無いさね。
 ましてや、間桐はかわいい後輩なんだ。
 からかいの対象にはしたくないからね」

 軽くバンザイをしながら、彼女が続ける。

 考えてみれば、そういった陰湿な行動とは対極にあるのが、美綴綾子という女性だ。
 分かっていたはずなのだが、事が事だけに、少々動揺してしまったらしい。

 ……しかし、美綴嬢。
 ならば、《私たちは》からかいの対象にしても良い、ということか?


「美綴……」
 感謝の眼差しを向ける士郎に、

「気になるんなら、衛宮。
 あんたの口から話しとくんだね。
 ま、多少怖い目には遭うかもしれないが、話し忘れたあんたの自業自得、ってことで」

 湿気ゼロ、意地悪度100の眼差しを返す、美綴嬢。

 ゴクリ、と士郎が喉を鳴らす。


「おっと、ほんとに遅れちまう。
 じゃあな、お二人さん。
 衛宮、頑張りな。
 セリフ間違えるんじゃないぞ」

 スカッとした笑顔を残し、美綴嬢が背を向ける。


「せ、セリフってなにさ!?
 だ、だから俺は……!!」

「『あけましておめでとうございます』、だろ?」

「……」


 口をぱくぱくさせる士郎と、額に手を当てる私を残し、
 美綴嬢はカラカラと笑いながら、手を振って去っていった。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:109927d3
Date: 2010/09/15 20:44



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ二)





「お邪魔します。
 あの、遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
 本年も、よろしくお願いします」

 玄関先で、士郎が両親に深々と頭を下げる。
 『しゃっちょこばる』という形容そのままの緊張振りだ。


「こちらこそ、よろしくお願いするよ。
 本当によく来てくれたね、士郎君」

「そんなに緊張しないで。
 自分の家だと思ってくつろいでくださいな。
 それにしても、本当に几帳面なのね。
 時間ぴったりだわ」

 やさしく微笑む父と、玄関の時計を見ながら彼をねぎらう母。
 ……約束の20分前には下に来ていたこと、
 美綴嬢との前哨戦のことは、とりあえず忘れることにする。

「さあ、しばらくリビングで休んでいてね。
 今、お昼ご飯を用意しますから。
 鐘、士郎君をご案内なさい」

「はい、お母さん」

 士郎にスリッパを勧め、上がるように促す。
 『緊張するな』という方が無理なのだろうが、士郎、下を見ろ。スリッパはもっと左だ、左。

 父母に分からないように、彼の背を軽く叩いてやる。
 彼は はっ と何かから解かれたように瞬きし、

「 ――― 」

 まだ少々ぎこちないながらも、いつもの照れくさそうな笑顔を浮かべてくれた。



 士郎の相手は父に任せ、母と私はキッチンで昼食の最後の仕上げを行う。

「今日は、鐘との合作なんですよ。
 この子ったら、士郎君が来るまでに、簡単な物でいいから何か一品教えてくれ、って……」
「お、お母さん!」

 危うく食器を取り落としそうになりながら、母に抗議する。
 しかし、そんなものは聞こえませんとばかりに無視しつつ、

「だから、多少出来が悪くても大目に見てちょうだいね。
 なにしろ、この子のデビュー作なんだから」

 ……確かに、そうお願いしました。
 何品もある昼食の中の、ほんの一つ。
 甘鯛のポワレ、青菜のソテー添え。
 クリスマス翌日からこっち、それだけを、受験勉強もそっちのけにして何度作ったか。

 でも、お母さん。
 今、この場でそれを言いますか?
 ……ああ、士郎。
 君も、そんなに期待に目をキラキラさせるんじゃない……。


 並べられた数々の料理は、素晴らしいものだった。
 母はフランス料理を得意とするが、他の料理が不得意なわけでは決してない。
 また、一つのジャンルにこだわらず、それらをミックスさせ、オリジナルに仕上げる手腕にも長けている。
 今日の品々も変に気取らず、家庭的総菜の面影も残した、温かい物に仕上がっていた。
 いつも食べているはずなのに、改めて母の腕前に脱帽する。

 ―――同時に、私のちっぽけな料理が、惨めにすら見えたものだが……


「……うん、うまい」
 ナイフとフォークを意外に器用に操って食事をしていた士郎が、私の料理を一口食べて、そう呟いた。
 そして、二口、三口と手を進めてくれる。

「……士郎?」

「お世辞じゃないぞ。
 こと料理に関しては、俺は絶対に嘘は言わないし、言えない。
 もちろん、お母さんの料理みたいに絶品、とまでは断言できないけど、これが初めて覚えた料理なんだろう?
 なのに、ここまでの味を出すなんて。
 頑張ったんだなあ、鐘」

 そうして、本当に満足そうに笑ってくれる。
「……」

 …君が嘘を言えないのは、料理に限ったことではないが……
 おかげで私は、頬を熱くするやら、込み上げてくるものを押さえるやらで大忙しだ。


「だから言ったでしょう?
 私だって、及第点に達していないものを、お客様に出させたりなんかしません。
 彼の舌にかなって良かったじゃないの」
 そんな私に、正面に座った母が優しい目を向けてくる。

「……はい」
 私は、感謝を込めて母を見つめ返した。

「でも士郎君、本当に味覚が鋭いのね。
 これなら、安心して生徒を任せられそうだわ」

「「は?」」

 意外な方向に進む母の言葉に、士郎と声が重なる。

「これからは、士郎君が先生になってくれるそうね。
 鐘も、それまでに少しでも腕を上げておこう、って必死だったのよ。
 母親が言うのも何だけど、この子、筋は悪くないから」

「お、お母さん!?」

 私があわてて遮ろうとすると、母の隣にいた父までが笑みをたたえ、

「外野がいると、授業に集中できないだろう。
 次に、私たちが二人とも出かける日はいつだったかな?」
「そうですね。
 今度調べて、鐘にいくつか候補を教えておきます。
 士郎君、この家のキッチンや材料は、遠慮無く使ってね。
 マンツーマンで、しっかり鍛え上げてちょうだい」

「 !! …… 」
「…は、はあ……」

 ナイフとフォークを持ったまま、二人並んで真っ赤になる。

 ……お父さん、お母さん。
 この家で、士郎と二人きりで、料理をしろ、と……?

 いえ、密かにそれを望んでいなかった、とは言えないのですが……



 楽しくも、時々心臓に悪かった昼食は無事終わり。
 その後は、リビングに場所を移して、お茶と雑談を楽しんだ。

 テーブルに乗っているのは、あの紅茶専門店で売っている茶葉《本日のお勧めブレンド》で入れた紅茶と、同じくあの店オリジナルのスコーン。
 士郎が、わざわざ手土産に持ってきてくれた物だ。

 これを手にしたときの、母の喜びようと言ったら無かった。
 まるで少女のように目をキラキラさせ、その紙袋を ぎゅっ と抱きしめ、
 『ありがとう、士郎君!』
 と……

「鐘から聞いたけれど、士郎君も紅茶を入れるのがお上手だそうね。
 せっかくだから、入れてもらえれば良かったかしら?」
 上機嫌でカップに鼻を埋める母。

「―――あ、いえ。
 これには足元にも及びません。
 最近、ちょっとは自信が付いてきてたんだけど、喝を入れられたって言うか……」
 真剣な顔で紅茶を含み、舌に転がす士郎。
 帰ったらさっそく特訓せねば、と考えているのが丸分かりだ。

「まあ、お世辞でも嬉しいわ。
 じゃあ後で、とっておきのコツを教えてあげる。
 この勘どころを掴めれば、味がワンランクは上がるわよ」
「ほんとですか!?
 ありがとうございます。ぜひ……!」

 絶妙の掛け合いで、話が弾んでいく。
 父は苦笑したまま、私はどういうわけか限りなく無表情に近い表情で、二人を眺めている。

 ……ずいぶん、母と《も》親しげじゃないか、衛宮士郎。


 あのクリスマス・デートの時、イリヤ嬢やシスター・カレンから受けた忠告を思い出す。
 本当にこの男は、まるっきり無自覚に殺し文句をぽんぽんと……

「……鐘?」
「なんだ?」

 いつの間にか、士郎がこちらを不思議そうに、心配そうに見ている。
 それに対し、条件反射的に出た私の返事は、我ながら氷湖を渡る風のように冷ややかだった。

「……いや…」
 士郎は慌てて目を逸らし、横目でこちらをちらちら伺っている。
 暖房はそれほど効いていないのに、額に汗が滲んでいるのはどういう訳か。


「鐘。」
 二の句の継げなくなった士郎に代わって、父が微笑みながら話しかけてくる。
 ―――いや、微笑み、と言うより、爆笑を辛うじて押さえている風にも見えるのだが……

「君の、士郎君への気持ちは充分わかったから、そろそろ勘弁してあげなさい。
 何も、自分の母親にまで焼きもちを妬かなくてもいいだろう?」

「は?」
「お、お父さん!」

 間の抜けた声を上げる士郎と、目を剥いて腰を浮かす私。
 そんな私を手で制しながら、

「お母さんも娘想いなのは分かるが、あまり挑発するのはよしなさい。
 鐘どころか、こちらまで妬けてしまいそうだよ」

「ごめんなさい。
 士郎君って、その気にさせるのがすごくお上手なんですもの。
 でも、この娘の今の様子だと、確かに余計なお節介はしなくても良いみたいね」

 夫婦そろって楽しそうに、本当に楽しそうに笑いながら、スコーンを囓っている。


「……あの、すみません。
 それって、どういう……?」
 心底分かっていない、という顔つきで、士郎が尋ねる。

 両親は、そんな士郎の態度に、目をぱちくりさせた。
 ……ややあって、

「……本当に、鐘の言うとおりの子なのね。
 なんだか、悪いことをした気になってきたわ」
「本当にな……
 士郎君、気にしないでもいい。
 年寄り二人が若い頃を懐かしんで、ちょっとした悪戯をしただけなんだよ」

 今度は、本当に温かな微笑で、私たち二人を見つめた。

「はあ……
 ……?」

 返事だけはするものの、相変わらず欠片も理解していない士郎。
 説明を求めるように私を見るが、

「………」

 私は、と言えば、もうソファに転がりたくなるくらいに脱力していた。
 ……どこの世界に、娘の恋人を誘惑して、嫉妬に燃える子どもの姿を楽しむ親がいるんだ。


 本当に、これが父と母の本来の性格なのだとしたら。
 今までの、厳格で寡黙だった両親は、いったい何だったのだろう……?



「これなら……どうかな?」
「ええ。
 よろしいかと思います」

 疲れた体をソファに沈めていたら、父と母の口調が少し変わったように聞こえた。
 顔を上げると、両親は、微笑みは残したまま真摯な眼差しでこちらを見つめている。

「「 ? 」」

 士郎と思わず顔を見合わせ、知らず背筋を伸ばす。

 そんな私たちに、父が静かな口調で切り出した。


「士郎君。鐘。
 二人に、ちょっと見てもらいたいものがある。
 その上で、意見を聞かせてくれないか?」





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:5c2209ca
Date: 2010/09/19 18:57



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ三)





 母が、ティーカップや菓子皿をテーブルの脇に寄せる。
 出来た空間に、父は白い封筒を一つ置いた。

 どこにでも売っているような、何の変輝もない封筒。
 表には、何も書かれていない。

「まずは見て欲しい。
 話は、それからしよう」
 父が、中を改めるよう、手振りで促す。


「「……」」

 私たちは、少し顔を見合わせたあと、

「それじゃ、失礼して……」
 代表して士郎が、封筒を手に取った。

 裏返しても、やはり何も書かれていないことを確かめ、糊付けされていない封を開く。
 中身の紙片を一目見るなり、


「       」


 士郎から、あらゆる意味での表情が消え失せた。

「……士郎?」
 私の呼びかけにも、彼は全く反応しない。
 ただ、その紙片に視線を注いでいる。

 写真……だろうか?
 この角度では、光の加減でよく見えない。
 いったい、何が……

「どうした?何か変な……」
 覗き込もうとした私にようやく気付いた彼は、反射的にだろう、その封筒を隠す素振りを見せた。

「……」
 しかし、それも一瞬。
 次には、覚悟を決めたように、その紙片の最初の一枚を私に手渡した。
 受けとった私は、


「  !!  」


 呼吸を、忘れた。
 視界の狭まるのが、分かる。
 指先が、みるみる冷たくなってゆく。
 カラー写真のはずのその色彩まで、なぜか半分モノクロームに見えた。


 そこに写っているのは、抱き合った男女の姿だった。

 時刻は夜。
 背景は、新都大橋のたもと。
 ジャケット姿の男性と、臙脂のベレー帽をかぶった女性。

 間違えるはずもない。
 つい先日、私と士郎が過ごした、クリスマス最後のひとときだった。


 食い入るようにその写真を凝視する私に、士郎が横から次の写真を手渡してくる。
 写真は、全部で五枚あった。

 新都駅前で見つめあう私たち。
 ヴェルデから、手を繋いで出てくる私たち。
 海浜公園のプロムナードを、腕を組んで歩く私たち。
 マンションの前で、唇を重ねる……私たち。

 屋内での画像が無く、特に夜間の写真の粒子が粗いのは、おそらく隠し撮りだからだろう。
 相当離れた場所からの撮影でなければ、私はともかく、勘の鋭い士郎が気付かないはずがない。


「………」

 声を出そうとして、出せない。
 かけがえのないものに、汚物をなすり付けられたような心地がする。

 あの日。
 私に、私たちにとって、一生忘れられない日になるであろうこの時間を、
 おそらく胸が悪くなるような目つきで、レンズ越しに観察していたのだ、この撮影者は。


 五枚の写真を燃え上がらんばかりに凝視し続けた私は、ようやく大きく深呼吸をした。
 そして、隣の彼を振り返る。
 そうでもしないと、なにか暖かいものを目にしないと、
 このやりきれない黒い思いに、沈んで行ってしまいそうだったからだ。

 だが。


「 ――― 」

 彼は、以前にも増した無表情で、もう一枚の紙片に目を落としていた。

 それは写真ではなく、A4サイズの再生紙だった。
 中途半端に大きな文字が横書きで、紙面いっぱいに並んでいる。

「………」

 二度、三度、その文面を追っていた士郎は、最後に目を閉じ、軽く息を吐いた。
 そして私の方を向き、なんとも切なそうな目で笑いながら、その紙片を差し出した。

 ……こんな時にすら、君は笑うのか。

 とりあえず、現在の状況とは関係の無い感慨を抱きつつ、それを受けとる。

 先の写真と同封されていた代物だ。
 私もある程度覚悟して目を通したが、それは、写真など比較にならないくらい、やりきれない内容だった。



 印字された活字は妙に不鮮明で、見ていて軽い嘔吐感を誘った。
 旧式のコピー機で何十回も複写を重ねれば、このような文字になるだろうか。

 文章の一番上には、タイトルのつもりか、一回り大きな活字が一行、印字されている。


『冬木市長の一人娘、フィアンセはヤクザの跡取り!?』


 以下、三流週刊誌の文体をさらに下手にしたような文章が続く。


 現冬木市長H氏の一人娘が、ついに意中の人を射止めた。
 お相手は、同じ学園に通う、E君。

 そして、『E君』には両親も無く、身寄りも全くいないこと。
 戸籍にはあやふやな記述が多く、改ざんされた可能性もあること。
 当然一人暮らしのはずなのに、複数の女性と同棲している模様であること。
 後見人は、冬木市では知らぬ者の無い暴力団『F組』の組長、F氏であること。

 それらの事柄が、何回か読み直さなければ意味が分からないほど粗悪な文章で得々と綴られている。


『若く美しい市長のお嬢さんを手に入れるのは誰か、各界でも話題になっていたが、正にE君はシンデレラ・ボーイと言っていい幸せを手にした。
 しかしながら、その経歴、生活態度、そして人脈等を見るに、市長の一人娘に相応しい男であるか、他人事ながら心配せざるを得ない。
 この事実が公になった場合の、市議会および市政の動揺が、今後注目されるところである』

 その文章は、こんな形で終わっていた。



 どのくらいの時が過ぎたのだろう。


     かちゃ


 という音に、ようやく私は意識を外に向けることが出来た。
 隣を見ると、士郎がティーカップを取りあげ、冷めた紅茶で喉を潤している。

 その横顔は、一見、普段と同じだ。
 先ほどの無表情とも違い、ぶっきらぼうながらも穏やかな雰囲気を湛えた、いつもの士郎の顔だ。

 しかし、そんなはずはないのだ。
 私たちの想い出を土足で踏みにじるような写真。
 最低のピーピング趣味で、プライベートのあること無いことを書き立てた記事。

 ……そんな物を見せられて、
 士郎、なぜ君は、そんなにも普段どおりの顔をしていられる?


「どうかね?」

 向かいから、父の声が響く。
 ……正直、その声を聞くまで、そこに父母がいたことも忘れていた。

 聞きたいこと、言いたいことは無限にある。
 なぜ父が、このような物を持っているのか。
 この写真と文章の制作者は誰なのか。
 何より、なぜ父は、今日この時、私たちにこれを見せたのか。

 なのに、言葉が出ない。
 内に溢れる物が多すぎて、外に出て来ない。

 そんな私の状態を察したのか、父の方から私たちに向かって語り始めた。


「一週間ほど前に、マンションの郵便受けに入っていた物だよ。
 当然、送り主は分からない。
 封が糊付けされていなかったのは、害のある物は入っていないことを知らせるためだろうな」

 父の言う『害』とは、刃物や爆発物などのことを言うのだろうが……
 ある意味、私たちにとってこれ以上『害』のある物は無い。

 抗議の視線を向ける私に、父は静かな眼差しを返した。

「鐘。
 先日、君は私に言ったね?
 『政治の仕事に就きたい』と。
 そのためのアドバイスを、私にして欲しいと」

 ……確かにそうだ。
 クリスマスの時に士郎に話したとおり、私は子どもの頃から憧れていた父の姿に、追い付きたいと願った。

「ならば、これも私からのアドバイスと思ってもらっていい。
 政治家である限り、このような非難中傷は日常茶飯事だ。
 私もお母さんも、これに類する手紙や噂、時には雑誌の記事に接した事は数え切れない。
 政治の世界に入るということは、これらと直面するということでもあるんだよ」

「……」

 独身の頃から、政治の世界で生きてきた父。
 そんな父の世界を承知の上で、一緒になった母。

 政治家が被るプレッシャーは計り知れないと、子供心に感じてはいたが、
 私が見てきたものは、氷山の一角だったのか。


「同じことを、士郎君。君にも言わなければならない」

 俯いて唇を噛んでいると、父は今度は士郎に向き直った。

「政治家の……市長の一人娘と交際する、ということは、こういう事だ。
 プライバシーは無いに等しく、過去を憶測され、絶えず好奇の目がつきまとう。
 それでも、鐘と付き合ってくれるかい?」

 口調は穏やかだが、父の言葉は私には、

『それだけの覚悟が、君にあるのかね?』

 という詰問に聞こえた。



 また、速度の測れない時間が過ぎる。
 やがて、

「ひとつ、確認してよろしいですか?」

 士郎が、普段の表情のまま、父に向かって問いかけた。

「いいとも。何だね?」

「氷室市長のおっしゃるのは、こういう意味でしょうか。
 天涯孤独の、ヤクザを身元引受人にした男が、お子さんと付き合うことなど許さないと。
 早々に別れるように。
 そういうことでしょうか?」

「士郎!!」

 あくまで普段どおりに士郎は言葉を綴るが、冗談ではない。
 語る内容は、言語道断だ。
 しかし。

「……そうだ、と言ったらどうするね?
 市長として、娘が問題の多い男性と付き合うことは、スキャンダルでしかない。
 即刻別れるか、もしくは、ヤクザとは縁を切り、住まわせている女性たちも家から追い払えと。
 そうして綺麗な体になったら、娘との交際も考えてやる、と言ったら?」

 父までが、普段どおりの穏やかな口調で、信じられない言葉を並べる。


「お父……!!」
 思わず、ソファから腰を浮かしかけて、

「 ――― 」
 目の前に座る、母の手振りと視線に静止された。

 あなたは今、口を挟んではいけない。
 その資格は、あなたにも私にも無い。
 母の目は、そう告げている。


 浮かした腰を、静かにソファに戻す。
 それを確認してから、士郎が口を開いた。


「申し訳ありませんが、お言葉に従うことは出来ません」
 正面の父を見て、きっぱりと言う。

「確かに、この文章に書いてあることは、事実ではあります。
 俺は、血縁は全く無い孤児で、戸籍も藤村の爺さん……雷画さんが、何も覚えていない俺のために便宜を図ってくれたって聞いてます」


『あまりその辺りは話せんの。あの頃は蛇の道、というものがまかり通ったんじゃよ』


 ……以前、雷画翁と話した時の言葉を思い出す。


「俺の家に複数の女性が住んでいる、というのもその通りです。
 同学年生と後輩、ときどき義理の妹と姉代わりの女性も泊まっていきます。
 客観的に見れば、俺はこの文章に書かれているとおりの男なんでしょう」

 淡々と、あくまで普段の態度のままに、士郎は語りを進める。


「でも、俺はそれのどこが悪いのか、分かりません。
 今、挙げたことは、全部俺が俺になるために必要だったことです。
 十一年前に俺は孤児になり、義父に拾われた。
 そのころから、藤村の爺さんは本当に親身になって、俺を慈しんでくれた。
 
 今、いっしょに住んでるヤツらだってそうです。
 彼女たちは、俺の家族です。
 どこに出しても胸を張れる、俺の大切な人たちです。
 
 彼らと縁を切ることは、俺自身を捨てることです。
 衛宮士郎として生きてきた十一年間を、抹消しろ、と言われているのと同じです。
 そんなことは、考えることすら出来ません」

 士郎の言葉を、父は肯定も否定もなく、ただじっと聞いている。


「同じ理由で、お嬢さん……鐘と別れることも、有り得ません。
 彼女は、俺の一番愛する人です。
 付き合い始めてから、まだほんのわずかな時しか過ごしていませんが、
 彼女がいたから、俺はここまで進んで来られた。
 もし、ご両親が俺との交際を禁ずると言うのなら……」

「言うのなら?」
 感情の読めない目を向けながら、父は先を促す。

「鐘を、ここから連れて行きます。
 彼女を悲しませることになるのは分かっています。
 でも、俺にとって、他の選択肢は無い。
 たとえ鐘が、厭がったとしてもです」


 ……士郎…

 淡々と、きっぱりと告げる彼の言葉に、私は混乱する。
 そこまで私のことを……という喜びと、
 私の意思を無視して……という戸惑い。

 だが。


「鐘。君はどうする?
 士郎君は、無理にでも君を連れて行く、と言っているが?」

 父の声が、追い打ちをかける。
『混乱している時間など、お前には無いのだ』
 と責め立てている。


 幼い頃より敬愛し、離れることなど考えた事もない、父と母。

 己にエンゲージを課すほど愛した、唯一無二の男性、衛宮士郎。

 楽しかるべき、その両者の顔合わせの席で、私は、なんという無理難題を突きつけられているのだろう?



 助けを求めて、視線をさまよわせる。

 だが、父は静かな視線でこちらを見つめたまま。
 母もその隣で、励ますような、促すような眼差しを送るだけだ。
 隣の士郎も、心配そうな表情ではあるものの、やはり何も言ってくれない。


 誰も、助けてくれない。
 否。

 助けてくれない、のではない。
 助けられないのだ。

 なぜならこれは、私しか答を出すことの出来ない事柄だから。


「わたし、は……」
 声が、漏れる。
 このあとに、どんな言葉が続くのか、私自身にも、見当が付かない。

「わ、わた、し……
 ごめ、んなさ、い……」

 膝のスカート地を ぎゅっ と掴む。
 きつく、目を閉じる。


「ごめんな、さい……お父さん。
 私は……しろうといっしょに……いたい………」

 食いしばった歯から漏れた言葉を、自分の耳で聞く。





 ……そういう、結論だ。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:53b6b0da
Date: 2010/09/23 19:58



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ四)





 何の音も聞こえない。
 俯き、目を固く瞑った私に感じられるのは、己が掴んでいる膝の感触だけだ。


 子どもはいつか、親と離れる。
 そんなことは、言われるまでもなく分かっている。
 しかし、今日突然、こんな形でそれが訪れるなどと、誰が予測できるだろう。

 しかも不慮の別れや、やむを得ない事情などではない。
 私が、両親を捨てたのだ。

 父母ではなく恋人を……士郎を、選んだのだ。

 後悔しているのか、いないのか。
 それすらも、今の私の頭では判断できない。
 ただ一つ分かるのは、《士郎と別れる》という選択肢は選べなかった、ということだけだ。
 それだけは、なにがあっても選択することは出来なかった。

 その代償として、今の苦しみがある。
 本当に敬愛していた両親を捨てた私は、本日をもってこの人達の子どもではなくなり、二度と会うことすら……



「大人になったな、鐘。」

「え?」

 予想外の言葉に思わず顔を上げると、そこには、

「今朝も言ったが、本当に嬉しいよ。
 我が子が、こんなにも立派に、娘らしい娘に成長してくれたことがね」

 慈愛に満ちた笑顔でこちらを見つめる、父と母がいた。


「おとう……さん…?」
 知らず、唇から言葉が漏れる。

「鐘。士郎君。
 まず、君たちに謝りたい。
 二人を試すような真似をしたことは、本当に申し訳なかった」

 父が深く頭を下げ、隣の母もそれに習う。
 どちらも、限りなく真摯な表情だ。

「……ためす…?」
 鸚鵡返しに、問い返す。

「ああ。
 頭を下げたくらいで許してもらえるとは思わない。
 だが、これはどうしても必要なことだった、ということも理解して欲しい。
 子を案じる親としては、そうせざるを得なかったんだ」
 父が、微かに苦渋を滲ませた表情を見せる。


 ……よく、意味が分からない。
 しかし、そうすると、今までのすべてはお芝居だった、ということか?
 あの写真も、手紙も、士郎との問答も……?

 この人達は、私たちを騙して、苦しむ様を……

「いや、それは違うよ。鐘」
 呆然から疑問、疑問から怒りに、表情を変化させつつあった私の隣で、士郎が冷静に言葉を綴った。


「鐘のお父さんが、そんなことするはずがない。
 だいたい、あの写真も文章も、俺たちを試すためだけに用意するには、手間がかかりすぎてる。
 あれは、相当な悪意か歪んだ意思を持った人間じゃないと出来ない。
 お父さんは、そのどちらも持っていない人だって、鐘の方が知ってるだろう?」

「……」

 自分を、恥じた。
 士郎の言うとおりだ。

 父も、そして母も、そのような悪意を持つ歪んだ人物ではない。
 だからこそ、そんな背中を見続けてきたからこそ、私は憧れ、政治を学びたいと思ったのだ。
 なのに、私は……


「いや、士郎君。
 言葉は嬉しいが、それは少々買いかぶりすぎだよ。
 この写真や文章が匿名で郵便受けに入っていたのは事実だ。
 しかし、それを利用して君たちを騙し、試したのも、また事実だからね」

 父が、苦い笑みを浮かべて言う。

「鐘。
 君が、今までの希望どおり美術の勉強にだけ力を注ぐつもりだったのなら、私もこんな事はしなかったろう。
 したとしても、もっと後で、もっと穏やかな形で話したかもしれない。
 しかし君は、政治の事を学びたいと言った。
 その世界に身を置き、そこで力を尽くしたい、と」

 父も、冷め切った紅茶を取りあげ、口を湿らせる。

「どこの世界でも言えることだろうが、政界で頼りになるのは、自分の意思のみだ。
 広く意見を取り込みつつも、不当な圧力や理不尽な非難中傷に流されない、強い意志だ。

 私に相談してきたとき、君が本気であることは分かった。
 だからこそ、君が政治の仕事に向いているか、確かめたかった。
 《親》という圧力、《密告》という中傷に簡単に屈するようでは、とてもこの世界で生きていくことは出来ない」

 父の言葉が、胸に刺さる。
 ……政治の仕事に就きたい、と願ったのは本気のつもりだった。
 しかし、自分が本当にその世界に向いているかどうかまで、私は真剣に考えたか?

「だが、君は選んだ。
 誰にも頼らず、自分の意思で、自分の大切な物を。
 親として、こんなにも立派に成長してくれた娘の姿ほど、嬉しいものはない。
 ……多少、寂しいのも、事実だがね」

 軽い冗談に紛らせながら、あくまで父の口調は、そして横に控える母の微笑も暖かい。


「そして士郎君。
 君にも、いくら詫びても詫び足りない。
 しかし同時に、娘を誇りに思うよ。
 よくぞ君を選んだと。
 よくそ君に選ばれた、とね」

 同じ微笑のまま士郎に向き直り、父が深々と頭を下げる。
 いつもの士郎なら、人にこんな態度を取られたら、慌てふためいて手を振っているだろうに、
 今は、父と同じくらい真摯な態度で背筋を伸ばしている。

「先ほどの繰り返しになるが、市長の娘と交際する、とはこういう事だ。
 しかし、あそこで君が身を引く素振りを見せたり、ましてや藤村氏や君の《家族》と交際を絶つ、などど言い放ったりしたら、
 私は君を、この家から叩き出していたよ。
 有無を言わさずにね」

 柔和な笑みのまま、父がなかなか物騒なことを言う。



「……では、お父さん…」
 恐る恐る確認する私に、父は今度こそ破顔した。

「娘が幸せを掴んでいるのに、それを引き剥がす親がどこにいるね。
 君は、このまま士郎君と歩んでいきなさい。
 私の職責のことを思って遠慮などしたら、それこそ家から叩き出すからね」

「そうですよ。
 若い人の幸せを考えるために、年長者は存在するんです。
 私たちも、そうやって上の人に支えてもらってきたんですからね」

 母も、いつもどおりの穏やかな笑顔で口を添える。


「………」

 両親に愛されている、と実感するのは、初めてではない。
 だが、ここまで痛切に、親の愛を実感したことはなかった。

 込み上げるものを必死で押さえながら、責任も同時に感じる。
 これは、言うなれば《元服の儀式》だ。
 今まで、文字通り『子ども扱い』をしてきたが、これからは対等の大人として扱うぞ、という通告なのだ。


「―――お父さん、お母さん」

 知らず、私はソファから立ち上がっていた。
 士郎も、私の意を汲んでくれたのか、同時に立ち上がる。

「「本当に、ありがとうございます」」

 そのまま、ありったけの想いを込めて、頭を下げた。

 そんな、青臭く不器用な表現を、父と母は、慈しむように受けとめてくれた。





「―――でも、お父さん。
 あの写真と文章は、どうするんですか?」

 私たちは気にしないにしても(気味の良いものではないが)、冬木市長の職にある父からすれば、スキャンダルの火種にはなりうる。
 匿名で、しかも直接郵便受けに放り込まれた物だ。
 人物を特定するのは難しいだろうが、何も手を打たなくて良いのだろうか?

「気にしなくてもいい、と言ったはずだよ。
 こういった事にはそれなりの対処法がある」

 そんな私の心配に、父は片眼を瞑って答えた。


「調べてみたが、インターネットやヘイトメールなどでは、あの内容の記事は出回っていない。
 となると、単なる非難中傷とも考えにくい。
 私にダメージを与えるのなら、そちらの方がはるかに簡単で効果が大きいんだからね。

 ひょっとしたら、私にではなく、君たちの交際に嫉妬した誰かの仕業かとも思ったんだが……。
 その可能性も薄い、と考え直した。
 焼きもちにしては、あの仕掛けは大がかりすぎる」

 確かに、写真だけなら度の過ぎたストーカー行為の範疇に入るだろうが、
 プライバシー保護の厳しい現在、士郎の戸籍にまで踏み込むのは一般市民には荷が重い。
 逆を言うなら……

「となると、残る線は政治的な駆け引きだ。
 『お前の秘密を知っているぞ』
 というやつだな。
 そう考えれば、人物もある程度絞り込めるし、対処法もいくらでも用意できる」

 そう言って、父は少し意地の悪い笑みを浮かべた。


「士郎君。
 そのときは申し訳ないが、君のこともカードとして使わせてもらうよ。
 場合によっては、藤村氏とも相談しなければならない。
 蛇の道は蛇、と言うからね」

「……」

 今さらながらに、父のたくましさ、したたかさに呆れる。
 読みの深さ、判断の確かさに加え、士郎の過去まで手持ちの札にすると言って憚らない厚顔さ。
 それでいて、政治家としての純な理想も決して失わない。

「分かりました。
 俺なんかがどんなカードになるのか、見当もつかないけど……
 使えるのなら、遠慮無く使ってやってください」

 士郎が、笑いながら受ける。
 こちらも、なんだか面白がっているようにも見える。



「さあさあ。
 面倒な話はこれくらいにして、お茶を入れ直しましょうね。
 すっかり冷めてしまったわ」

 母が ぽん と手を叩いて立ち上がる。
 私も、手伝おうとして腰を浮かして、

「士郎君、手伝ってくださらない?
 さっきお話しした、『とっておきのコツ』を教えてあげる」
「ほんとですか!?
 ありがとうございます。ぜひ!!」

「……」
 いそいそと母に続く士郎の後ろ姿を、中腰のまま見送る。
 限りなく無表情に近い表情で。


「……鐘。」
「なんですか?お父さん」

 爆笑寸前の顔で私に声をかける父に、隕石のごとく冷たい声で答える。

「まあ……
 大人になると、色々ある。
 すべてに反応していると身が持たないということも、あるんじゃないかな?」

「……」

 人生の先輩からの意見は、非常に貴重だったが。

 理屈で納得できても、感情は納得できない。
 否、

 断じて納得したくなかった。





 マンションを出ると、もう陽はほとんど沈んでいた。


『夕食も食べていけば良いのに』

 と両親も熱心に誘ったが、明日は藤村雷画翁のお宅に伺う日でもある。
 それなりの用意もしなければならないので、夕食はまたの機会に、ということになった。

(……桜にも、今日のこと言っとかないといけないからな)

 私にだけ聞こえる声で、士郎が囁く。
 ……確かに、美綴嬢との前哨戦で判明したように、今日のことを知らない間桐嬢に、遅ればせながら報告をしなくてはならない。

(……がんばってくれ)

 私も、衷心より彼の無事を祈って、囁いた。



 門まで続くプロムナードの途中、あの簡易休憩所で、士郎は立ち止まった。

「……ごめんな、鐘」

「 ? 」

 なぜ、彼が頭を下げているのか、分からない。
 それは、母にまで口説き文句を振りまく無意識には憤慨したが、そこまで真面目に謝られるほどの事でもないし、
 私もそれほど狭量なわけでは……


「鐘の意思を無視して。
 お父さんやお母さんから、無理やり引き離す、なんて言って。
 …俺は藤村の爺さんも、遠坂や桜達も、何も捨てないなんて言っといて、鐘には……」

 ……その話か。
 早とちりに、内心赤面する。
 しかし、本当に心痛を感じているらしい士郎を、放っておくわけにもいかない。

「そんなことを気にしていたのか?
 あれは、父の設問自体がそういうものだったのだから、君が気に病むことではないだろう」

 そう。
 娘と付き合いたければ過去を捨てろ、と言われた士郎と、
 親と恋人とどちらかを選べ、と言われた私では、問われる立場そのものが違う。

 士郎にとっては、理不尽極まりない話。
 私への問いは、言わば大人になるための関門だったのだから。


 すっ と彼に寄り添う。

「…それに……
 正直、嬉しかった。
 君が、そこまで私のことを求めてくれている、ということが」

 照れ隠しに、目の前にある彼のネクタイを弄びながら、答える。


 実際、嬉しくもあったが、意外でもあった。
 自分の存在など考えもせず、常に他人にのみ視線を向けていた士郎が、
 あれほどまでに強引に、私のことを……自分の未来を求めてくれた。

 ……士郎と付き合い始めて、私は変わった、と周りからよく言われる。
 どこがどう変わったのか、自分ではよく分からない。
 だが、ならば……
 それと同じことが、士郎にも言えるのだろうか。
 彼が変わること―――幸せになることに、私も多少なりとも関われているのだろうか?


「本当に、悪くない。
 ……騎士にさらわれる姫君、というのは、このような気分だったのかな」

 ……言ってしまってから、猛烈に恥ずかしくなる。
 どう考えても、私の口にするような台詞ではない。
 なるほど、確かに私は変わった、のか……?

「き、騎士、って……」

 彼も、見る見るうちに真っ赤になる。
 私は当然、とっくの昔に同色だ。


「……士郎」
「……鐘」


 ネクタイを弄んだ手もそのままに、私は彼の胸にもたれかかる。
 彼は、その両腕をゆっくりと私の体に……



「……あんたら。
 冗談も、続けて同じネタじゃ笑えないよ?」

「ぐえぉっっ!?」

 第三者の声に、あわてて後ろに飛び退く私。
 愉快な悲鳴の主は、当然士郎だ。
 ……さすがに、今回はすぐに手を離す。


「み、美綴嬢!?
 今、お帰りか。は、早かったな?」

 柳眉をつり上げる彼女に、精一杯の愛想笑いを贈る。
 確かに、二度続けての失態は、笑い話にもならない。

「―――あたしは約束を守って、間桐の前でも知らぬ存ぜぬを決め込んでたってのに。
 あんたら、そんなにあたしに言い触らして欲しいのかい?
 それともまさか、あれからずっとここで抱き合ってた、なんて言うんじゃないだろうね?」

 もちろん、そんな暇なことをするわけがない。
 ……今の彼女に何を言ってもマイナスなのは分かり切っているから、反論はしないが。


「……まあ、いいや。
 追求するだけ、こっちが虚しくなりそうだからね。

 それより衛宮、ちゃんとご挨拶はできたのかい?
 台詞、間違えたりしなかっただろうね?」

 お得意のニヤニヤ笑いに移行する美綴嬢。
 ……若干、眉の辺りが寄っているのが気にかかる。

「あ、当たり前だろう。
 ちゃんと、『あけましておめでとうございます』って、挨拶したよ」

 朝の教訓があるからだろう。
 今度は士郎も、墓穴を掘らずに対応する。


「へえ、そりゃ良かった。
 第一印象は大事だからね。
 
 でも欲を言えば、もうちょっとドラマがあってもね。
 父と恋人との一騎打ち。
 『お前みたいなやつに、娘は渡せーん!』
 とか、
 『それなら、お嬢さんを連れて駆け落ちします!』
 とか……」


「「 !!! 」」


 士郎のみならず、私まで思わず絶句する。

 しまった、と次の瞬間思ったが、その隙を見逃すような美綴綾子ではない。


「なに?
 ほんとにそんな事になったわけ!?
 なんだ、どういういきさつからそうなったんだい!?」

「い、いや、美綴嬢、誤解だ。
 私たちはそのような……」

「そ、そうだぞ美綴。
 いくらなんでも、《駆け落ち》とまでは……」

「し、士郎!!」

「なんだいなんだい。
 予想以上に面白そうじゃないか。
 今朝の約束をきちんと守った友だちには、ご褒美に詳しい話を聞かせてくれるんだろうね。
 あ、嫌ならいいよ。
 今ここで間桐に電話して、朝からの経緯を洗いざらい……」

「み、美綴ーーーっ!!!」


 携帯電話をちらつかせながら、軽いフットワークを踏む美綴嬢。

 それを捕まえようと、必死に駆けまわる士郎。

 額を押さえながら、膝を付きそうになるのを懸命にこらえる私。


 最後の最後まで波乱を巻き起こしながら、
 少々遅い年賀の第一幕は過ぎていった。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:fa1728eb
Date: 2010/09/27 19:12



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ五)





 いつもの交差点でバスを降りたら、いつもの笑顔が出迎えてくれた。

「ありがとう。
 だが、ほとんど往復することになるんだろう?
 無理をしなくても良かったのに」

 私もいつものように微笑みながら、彼に言う。
 若干、済まなそうな響きが混じっていることが自分でも分かる。

 実際、今日の目的地は士郎の家のほんの近所。
 現地集合か、彼の家で待ち合わせ、ということで充分だったはずだ。

「この交差点からなら、近道があるんだ。
 俺の家に寄ってから行くより、早く着けるよ。
 それに、やっぱりこういうのって、二人そろって行くもんだろ?」

 そう言って、彼は屈託なく笑う。
 《当たり前》の行為を《当たり前》というパフォーマンスにしない。
 いつもの、無意識かつ自然体の、彼の善意だ。


「じゃ、行こうか。
 まだだいぶ早いから、ゆっくり歩いても充分間に合うぞ」
 そう言って、彼は私の掌を取り、本当にゆっくりと坂道を上り始めた。



 少々遅い年賀の二日目。
 今日は、士郎の後見人に、ご挨拶に伺う。


 昨日の―――私の家での父母とのやりとりを思い出す。
 あれ自体は、私たちの覚悟を試すための、言わば試験だったが、それに使われたテキストが問題だった。

 藤村雷画。
 冬木市の老舗極道集団である『藤村組』の組長。
 その方が士郎の後見人であり、今日向かうのは、あの文章で攻撃されていた集団の、言わば総本山である。

 おそらくは父の政敵から送られた文書に書かれている、その場所に、
 私たちが日を置かず訪問したりしても良いのだろうか……?

 市長としての父の立場を案ずる私たちを、当の父は笑い飛ばした。


「何度も言うが、君たちは私の立場などを考える必要は全くない。
 自分の娘にそんなことを心配されるのは、親として屈辱でもあるんだよ。
 言い方を変えれば、鐘。
 君たちがそんな心配をするのは、十年早い」

 柔和な笑みのまま、父はなかなかきついことを言う。
 ―――大人としては扱うが、まだまだ一人前ではないのだぞ、というところか。

「あの写真や文章にしても、誰がどういう目的で送ってきたのか、もう大方検討は付いているんだ。
 ならば、これから先は私の仕事だ。
 政治家としてそれくらいのことも出来ないと、君たちは私のことを思っているのかな?」

 自分たちの僭越に身をすくませ、さらに親の愛が身に染みるのを感じつつ、
 それでも一応、最後の懸念を口にした。

「でも、お父さん。
 藤村さんのお宅を訪問したところを、また隠し撮りされたら……?」

 父は、今度こそ声を上げて笑った。

「そのときは、そうだな。Vサインでも出してやりなさい」



「……本当に、鐘のお父さんってすごいよな。
 大人っていうか、格が違う、って言うか」
「……全くだ。
 我が父ながら、あれほど大度な人物であるとは思ってもみなかった」

 坂を上りながら、二人で感嘆の息を漏らす。
 幼い頃より憧れた父の姿。
 あそこまで辿り着くには、私はどれほどの時を重ねれば良いのだろう……?


「まあ、お父さんの言うとおり、こそこそすると相手の思う壺だよな。
 どうせやるなら、堂々としてなきゃ」

 私の思考が、少々マイナスに傾いたのを察したのか、士郎が明るい声で言う。
 ……全く、普段は鈍いくせに、こういうところだけ鋭い。

「そうだな。
 何も恥じることはしていない。
 今日も、恩師と君の親代わりの方にご挨拶に伺うだけだ」

 だから私も、笑顔で彼に答えた。



「……」
 そんな私を、彼はまぶしそうに眺めている。
 なぜか、頬が少々赤い。

「?
 どうした?」

「あ……いや。
 今日の鐘、かわいいな、って……」

「 ! 」

 ……い、いきなり真昼間の道端で、何をとんでもないことを口走るのか、この男は。

「あ、い、いや!
 いつもが可愛くない、って言うんじゃないぞ!
 ただ、服装が、普段とは、その……」

 フォローは嬉しいが、気にする箇所が全然ずれている。


 確かに今日の私の服は、藤色のブラウススーツにアイボリーのコート。
 白のローヒールパンプス。
 そして胸には、士郎から貰ったアメジストのネックレス。

 先日のクリスマスに比べれば大人しめではあるが、年賀に伺うのだから、これは当然だろう。
 しかし、蒔寺曰く
 『365日未亡人のような格好』
 である、いつもの私と違うのも、士郎の言うとおりだ。


「その……な、なんだ。
 や、やはり、改めてご挨拶に伺うのだからな。
 あまり地味な雰囲気でも返って失礼かと思って、だな……」
 先日、蒔の字や由紀香を付き合わせ、見立ててもらったのだ。

 先日のクリスマスの時は、二人や美綴嬢に半ば拉致されてファッションショーを繰り広げたものだが。
 士郎の反応を見て、もう一度あの笑顔を見てみたい、と考えたことは、事実だ。

 …人はこれを、『味を占める』と言うのだろうか……?


「そうだな。
 いつもの格好も似合うとは思うけど、鐘はもっと冒険してもいいと思うぞ。
 クリスマスの時もそうだったし、そういったカラフルな服、鐘にすごく似合ってる」

 ……
 だ、だから、町中でそういう、平静を保てなくなるような殺し文句を、無自覚に吐くんじゃない……

「……な、ならば、君だってそうだろう。
 今のような格好をいつもしろとは言わないが、普段ももう少し洒落っ気があっても良いのではないか?」

 士郎の服装は、昨日と同じくジャケットとスラックス。
 ただ今日は、ブルーのシャツにネクタイは締めておらず、第一ボタンを開けている。
 馴染みの家に行く分、昨日よりはリラックスしているのだろう。
 そういった、ちょっと崩したセミフォーマルスタイルも、彼には意外なほど似合っていた。

「うあ……
 で、でも俺の場合、こういった格好すると七五三になるしな。
 あんまり似合わないものに金使っても……」

「だから。
 君は、自分というものをもっと客観的に見つめる癖を身につけた方が良い」

「そんなら、鐘だって同じじゃないか」


 ある意味、不毛な議論をしつつ、坂道を上る。

 途中から道は、家の軒を掠めるような裏通りに入った。
 表通りより、心なしか坂もきつくなる。
 これが、士郎の言う《近道》か。



「そういえば、夕べはゴメンな。
 夜遅くに電話しちまって」
 士郎が、頭を掻きながら詫びる。

「遅い、と言っても午後9時過ぎだろう。
 謝るほどのことじゃない。
 まあ、内容……と言うか、君の口調には少々驚かされたがな」

 昨日、士郎が帰宅し、夕食後にその日のことを父母と振り返っていたとき。
 士郎から私の携帯電話に連絡があったのだ。
 非常識、というほどの時間ではないが、彼にしては確かに珍しい。

 その要件というのが、

『明日、雷画爺さんの家に行った後、頼むから、俺の家で夕食を食べてくれないだろうか?』

 というものだったのだ。


 なるほど、士郎の家と藤村教諭のお宅は、歩いて数分のご近所だ。
 近くまで来て素通り、というのも、義理を欠く行為かもしれない。
 もともと、年賀などと改まる事ではないが、近々お邪魔するつもりだったのだし。

 だが。

 それを私に告げる士郎の口調が、懇願に近かったように聞こえたのは、
 加えて、受話器の向こうから じわり と感じた妙なプレッシャーは、いったい何だったのだろう?

 とにかく、その場で父母に快諾を受け、

『ぜひお邪魔したい』

 と返答したのだが。


「あのとき、何かあったのか?
 君の雰囲気は、どうもいつもと違っていたが」

 士郎の声の後ろで

(カネー!待ってるからねーっ!)

 という、イリヤ嬢らしき声が聞こえたことからして、家族にねだられたのだろうと想像したが。
 しかしそれくらいで、彼があれだけ必死の声音になるだろか?


「……」
 彼はしばらく黙っていたが、やがて頭を掻きながら話し始めた。

「…実は、昨日のことを、桜に話したらな……」

 桜、という固有名詞を聞き、私の背筋も伸びる。


 そう言えば、私の家への年賀行を話し忘れていた士郎は、帰宅後に家族(主に間桐嬢)にその旨を報告したはずだ。
 別に伺いや報告の義務は無いのだが、そこはそれ、フェアプレーの精神というものがある。

 と言うわけで、その時の状況を切れ切れに語る、士郎の言葉に耳を傾けたのだが。



(うふ、うふふふ……
 そうですか。氷室先輩のご両親に、ご挨拶に行ったんですか。そうですよね。お正月ですから、お年賀には行かなくちゃいけませんよね。お父様とお母様にご挨拶かあ。うらやましいなあ。憧れちゃうなあ。え?当たり前じゃないですか。お年賀なんだから、『あけましておめでとうございます』っていう台詞なのは。
 くすくす。
 変な先輩ですねー。なんでそんなに震えてるんですか?そっかー。今日、美綴先輩が何かもの言いたげな素振りだったのは、そういうことだったんですねー。でも先輩、水くさいですよ。あらかじめ言ってくだされば、私も服のことやおみやげのことでご相談に乗れたのに。先輩も氷室先輩も遠慮深いんですねー。え?明日は藤村先生のお宅にお二人で?
 わー。
 ご両家の親御さんと親代わりの方にご挨拶なんて。いいなー。ますます憧れちゃうなー。素敵だと思いませんか、イリヤさん?分かってますよ。お年賀なんでしょう?どうぞごゆっくり過ごしてきてくださいね。あ、でもお帰りの時はこちらにも寄ってくださるんですよね?こんなに近くにいらっしゃるのに素通りされるなんてこと、無いですよね?
 くすくすくす。
 遠坂先輩。明日のお夕飯は、二人でうんと豪華に作りましょうよ。先輩と氷室先輩を主賓に迎えるんですから、腕の振るい甲斐がありますよね。あ、藤村先生。あちらでのお年賀が終わったら、責任持ってお二人を連れてきてくださいね。先輩先輩。そうと決まれば、氷室先輩のご都合を伺ってみてください。大丈夫。まだ9時過ぎですもの。氷室先輩もきっと、喜んで承知してくださいますよ。楽しみだなー。待ち遠しいなー。
 うふ、うふふふふふ……)



 ………。

 何故だろう。
 士郎は切れ切れに、会話の断片しか語っていない。
 にもかかわらず、脳裏に完璧なまでに間桐嬢の発言が再現されていくような気がする。

 しかも、イメージ上の間桐嬢の姿は、なぜか黒くて白くてストライプだった。
 控えめに言って、ものすごく怖い。


「……というわけで、だな。
 桜の発案に、家族全員で力いっぱい賛同した結果、昨日の電話になったんだが……」

 士郎の言葉に、我に返る。
 頭を振って、妄想を振り払う。

 なぜ私は、あんな想像をし、幻聴を聞いたのだろう?
 仮にも間桐桜嬢が、
 ―――『妹にしたい女の子コンテスト』で、いつも由紀香とトップを争うあの女性が、あんな魔王のごとき迫力を醸し出すはずがない。

 ないとも。


「そ、そうか。
 では、今日の昼食は藤村雷画翁のお宅でいただき、夕食は士郎の家で、間桐嬢や遠坂嬢が腕をふるってくれるのだな?」

 間桐嬢の料理は士郎の直伝、しかも洋食では既に師を越えている、と当の士郎自身が言う。
 遠坂嬢の腕前も、調理実習の授業で確認済み、さらに得意は中華料理であるという。
 ……楽しみであると同時に、これから士郎に一から習っていく私にとっては、プレッシャーでもある。


「そういうこと。
 まあ、今日一日は、俺に付き合ってくれ」

 士郎はそう言って、やや頬を染めながら、繋いだ手に少し力を込めた。

「……ああ。
 藤村先生のお宅も、君の家への訪問も、とても楽しみだ」

 私も、答えるように掌を握り返す。


 そうやってゆっくり歩を進めるうちに、
 深山町お屋敷街の中でもひときわ存在感のある門の前へ、私たちは辿り着いていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:35c205b6
Date: 2010/10/01 19:45



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ六)





 災難は、予期せぬ時にやってくる。
 予期が出来るものなら、それが災難となる確率は、当然ながら低くなるのである。
 ―――そう、例えば、この屋敷の玄関をくぐった直後に見舞われた出来事のように。



 『藤村組』

 と雄渾な筆で書かれた表札が掛かる門をくぐり、私たちは玄関の前に立った。
 一般市民ならば、ここがどういう場所であるかは知らなくても、その場が醸し出す威圧的な気配に押し戻されただろう。

 だが、士郎は全く臆することなく、勝手知ったる他人の家とばかりに、無造作に玄関の引き戸を開けた。

「こんにちはー」

 私も以前に訪問したときは、胸に後ろ暗いところがあったからだろう、この雰囲気に圧倒されたものだ。
 しかし、今は隣に士郎がいる。
 誰に何を憚ることのない、年賀でもある。

 だから、私も士郎に続き、多少緊張しつつも気負いなく玄関から屋内に入ったのだが。


「士郎ーっ!!氷室さん!!
 いらっしゃい!待ってわよーーーっ!!!」

 前方から突進してきた謎の物体に、私たちは身構える暇もなく、あっという間に拘束されてしまった。
 状況を確認しようにも、頭を完全にロックされ、顔をなにか柔らかい物質に押しつけられているので、前を見ることも出来ない。
 ただ、拘束される瞬間、黄色と黒の色彩が目に飛び込んできたばかりだ。

「なっ!
 ちょ、ちょっと藤ねえ!
 いきなり何やってんだよ!」

 私の横で、士郎がもがきながら大声を上げる。


 藤ねえ?
 では、我々の頭を抱え込み、動きを封じているこの物体……もとい、人物は、藤村教諭か?

 種々の状況を鑑みるに、藤村教諭は長い廊下を全速力で走り、玄関をくぐった私たちに飛びついて、二人の頭をその胸に掻き抱いたらしい。

「もーう!
 さんざん焦らしちゃって、士郎も氷室さんもテクニシャンなんだから!
 そんな悪い子には、お姉ちゃんがこうやって、お仕置きしてあげるのだーっ!!」
 意味不明の奇声を上げながら、ますますヘッドロックに力を込める教諭。


 さすが、学生時代は『冬木の虎』と異名を馳せた御仁だ。
 その俊敏さ、膂力の強さは目を見張るものであり、
 さらに意外なことに、押しつけられた胸の豊かさと柔らかさは、さすがは大人の女性と言うべきか、少々自信のある私でも負けを認めなければならないほどで、
 いや、そんなことより、二人いっぺんに頭を抱きかかえられているため、私と士郎の頬が、く、唇が……!



「―――お嬢。
 お喜びなのは分かりやすが、その辺で勘弁しておあげになったらいかがです。
 親爺も、お待ちかねですし」

 私たちが必死になってもがいているところへ、苦笑したような低い声が割って入った。

「むー。
 安さんたら、ムード無いんだからー」
 しぶしぶ、といった感じで、拘束が解かれる。

 やっと開けた視界の先には、角刈りの、柔和な顔つきをした中年男性が笑っていた。
 優しげなその顔の、しかし鋭い眼光と醸し出す雰囲気は、隠しようもない。

 だが、そんな男性に士郎は至って気楽に話しかけた。

「いや、助かりましたよ安さん。
 あのままだったら俺たち、虎の胸に抱きつぶされるところだった」

「こらーっ!!
 私を虎と呼ぶなーっっ!!」

 《安》氏に頭を下げる士郎に、藤村教諭が涙目で絶叫する。
 だが、そんな叫びも慣れっこなのか、

「呼んで欲しくなけりゃ、少しは行動を慎め、藤ねえ。
 おかげで、せっかく綺麗に梳いてある鐘の髪の毛が、乱れちまったじゃないか」

 憮然とした表情でお説教する士郎。
 どうやら、いつものやりとりらしい。
 隣の《安》氏も、にこにこしながら聞いている。


 だが、いつまでも玄関先で姉弟喧嘩をさせておく訳にもいかない。

「いや、士郎。
 気持ちはうれしいが、私なら大丈夫だ。
 それほど芸のある髪型をしているわけでもないしな」
 もともと私の髪は、細くて癖がない。
 だからこの程度なら、頭を振って両指で軽く梳いてやれば、ほぼ元通りになる。

 そんな仕草を行っている私に、藤村教諭が済まなそうに頭を下げてきた。

「ごめんなさいね、氷室さん。
 朝から、あんまり待ち遠しかったから……」

「お気になさらないでください、先生。
 遅くなりましたが、改めまして、あけましておめでとうございます」

 そんな教諭に、背筋を伸ばして礼をする。

 新学期になり、すでに学園で授業を受けている相手に対して、今さらこんな挨拶をするのも間が抜けているが、今日はあくまで年賀なのだ。
 形は整えなければならない。

「ありがとう、氷室さん。
 あけましておめでとう。今日は本当に良く来てくれたわね」
 藤村教諭も、いつもの向日葵のような笑顔で答えてくれる。

 双方、頭を下げている隣で、士郎が ほっ と安堵の息をつくのが分かった。



「さあ、挨拶もお済みになったところで、ご案内いたしやしょう。
 親爺……組長も、朝からお待ちかねです」
 《安》氏が、頃合いを見計らって声をかけてくる。

「そうねー。
 さあさあ、氷室さん、遠慮無く上がってね。
 今日はあなたのために、ご馳走いーっぱい用意してあるんだから」
 教諭が、笑顔のまま私の手を両手で引っ張る。

「なんだよ藤ねえ、俺のためには用意してないのか?」
 士郎が、苦笑しつつ教諭に文句を言う。

「ふーんだ。
 お姉ちゃんのことをいじめる弟なんかに、食べさせるご飯はありませんよーだ」

「そんなら俺も、弟の頭を抱き潰すような姉には、飯作ってやらないぞ」

「なんだとーーっ!!」

 私の手を離し、またもや士郎と口論を始める教諭。

 その光景を苦笑しながら眺める《安》氏に、私は話しかけた。


「あの……先日は申し訳ありませんでした。
 突然お伺いして、ご迷惑を……」

 この人は、以前私がここを訪問したときに、出迎えてくれた男性である。
 あの時は、一介の女学生が突然やってきて、組長と面会したいと言い出したのだ。
 さぞかし仰天したことだろう。

 だが、《安》氏は笑って手を振った。

「なあに、気にしないでくだせえ。
 それが、あたしらの仕事だ。
 それに正直、お歳の割に度胸の座った娘さんだと感心してたんですぜ。
 そのお嬢さんが、坊の想い人になってくださるんですから、あたしらにとってもうれしい限りだ。
 どうか、坊のことをよろしくお頼み申しやす」

「そ、そんな……」

 『想い人』という古風な表現にも、年上の男性がきっちりと腰をかがめて頭を下げてくることにも驚いて、私の方こそ真っ赤になりながら慌てて手を振った。


 《冬木の老舗暴力団》と言われている藤村組ではあるが、この男性を見るだけでも、決して粗暴な暴力集団などではないことが分かる。
 これまた古風な表現だが、《極道》と呼ばれた昔ながらの『組』と言うにふさわしい。


「さあ、切りがねえんで、どうぞお上がりになっておくんなさい。
 お嬢!坊!
 あたしはこのお嬢さんをお連れしますんで、お二人はどうぞごゆっくり!」

 《安》氏は、私を促すと同時に、ますますヒートアップする藤村教諭と士郎の口喧嘩に、明るく声をかけた。





 通されたのは、和室だった。
 おろしたてのの畳。白さが際だつ襖。立派な床の間には年代物の掛け軸が掛かり、匂い立つ水仙が鉢に生けられている。
 士郎の家のくつろげる居間とはまた違う、静謐な暖かさだ。

 その部屋の中央には、大きな椋木の座卓が置かれ、上品な和食が並べられている。

 …以前に無理矢理押しかけたときは、重厚な洋間に案内されたものだが……


「シロ坊、氷室さんのお嬢さん。
 よう来てくださったな。
 何もないが、ゆっくりとくつろいでいっておくれ」

 痩身ながらもかくしゃくとした老人が、皺を深めて微笑む。
 あの時、その洋間で、二人きりで話をした相手。
 言わずとしれた、『藤村組』組長、藤村雷画翁だ。

 膳を並べていた女性達も去り、今はこの部屋には四人のみ。
 私の右隣に士郎。
 真向かいには藤村教諭がにこにこしながら座り、はす向かいに雷画翁。


「遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
 突然の訪問をお許しいただき、ありがとうございます」

 士郎といっしょに、雷画翁に頭を下げる。


「いやいや、堅苦しいのはここまでにしよう。
 まずは一杯」
 雷画翁は笑いを絶やさず、こちらに徳利を向けてくる。

「「 ――― 」」
 思わず顔を見合わす士郎と私に、

「まあ、お二人とも未成年じゃから大っぴらには勧められんがな。
 猪口に一杯くらいいいじゃろう。
 それくらいは、年寄りに付き合っておくれ」

「そうよお。
 二人とも、もうすぐ卒業なんだもの。
 お酒くらい飲めるようになっておかないと、後で苦労するわよー」

 雷画翁の優しい声音に被せるように、藤村教諭の発言も続く。
 その手には、すでに横縞模様のお猪口が握られている。

「お前には飲ません。
 酔って暴れられでもしたら、せっかくのこの場が台無しじゃ」

「だーいじょうぶよ。
 だって、士郎がいるんだし」

「そりゃどういう意味だ、藤ねえ」

 そんな掛け合いを挟みつつ、全員の杯が満たされた。
 ……正直、教師が率先して生徒に飲酒を勧めるのもどうかと思うのだが。
 まあ、そんな台詞はこの場では野暮だろう。


 酒のおかげでもないのだろうが、その席は本当に和やかで楽しかった。
 藤村教諭の言うとおり、出される日本料理は絶品だった。
 士郎の作る家庭料理とはまた方向の違う、芸術品とも呼ぶべき品々である。

 話し手はもっぱら藤村教諭だが、士郎も普段よりリラックスしてそれに応戦し、私も控えめに口を挟む。
 そんなやりとりを、雷画翁が杯を片手に、にこにこしながら眺めている。
 そんな光景だ。



「ねえねえ。
 昨日は、氷室さんの家にお年賀に行ったんでしょ?
 どうだった?」

 藤村教諭が、興味津々といった視線で私を見つめる。

「どう……と言われましても。
 父母はすでに士郎とは面識がありましたから、やはり堅苦しいものではありませんでした。
 昼食を共にし、食後のお茶を飲んで……そんなところです」

「むー。
 なんか、盛り上がりが足りないわねえ。
 こう、わくわくどきどきするようなシチュエーションは無かったの?」
 私の常識的な説明が気に入らないのか、教諭は子どものように頬を膨らます。

 ……昨日の帰り、美綴嬢からも同じ追求を受けたことを思い出す。
 あの時は、うっかり二人とも態度に出してしまったおかげで、えらい目にあった。

「お年賀で、どんな盛り上がりを期待してるんだ、藤ねえ。
 ちゃんと行儀良くしてたよ」
 士郎も、昨日の轍は踏まんぞとばかり、無難な受け答えをする。


「そうさのう。
 なにか、やんちゃな奴らがちょっかいを掛けてきたとも聞いたが。
 そちらの方はもういいのかな?」

 私たちの言葉を縫うようにして、雷画翁が さらり と口を挟む。

「「 ――― 」」

 思わず沈黙する、私と士郎。
 知らない人が聞けば、謎かけのような言葉だが、私たちには意味は明らかだ。

 昨日、父に見せられた、あの写真。
 思い出したくもない、あの文章。

 それを、この老人も知っているのか。
 何故 ――― と問うのも愚かだろう。
 答は、一つしかない。


「……ご存じでしたか」

「まあのう。
 向こうさんから電話があったよ。
 今、調べさせとるところじゃ」
 飄々と、老人は言葉を接ぐ。

 士郎も、言葉を選びつつ応対する。

「……気にするな、まかせろ、って励まされたよ。
 俺たちが口を挟むのは十年早い、とも言われた」

「いいことを言う。
 その御仁の言うとおりじゃよ。
 面倒くさいことは年寄りに任せて、お前らは自分のことに専念したらええ」

「気持ちは嬉しいけど……
 でも、何かあったら、やっぱり言ってくれ。
 俺たちのことで迷惑がかかるのは……嫌なんだ」

 士郎の真摯な言葉に、私も頷く。
 私たちに何ができるわけでもないが―――。
 やはりこれは、私たちの問題でもあるのだ。

 そんな私たちに、雷画翁は

「 ――― 」

 苦笑とも満足の笑みとも取れる顔を向けたのみだった。


「なに?
 お爺さま、何かあったの?」
 ひとり、事情を知らされていないらしい藤村教諭が、首を傾げる。

「お前は知らんでええ。
 お前に聞かせたら、マシンガン持って飛び出しかねんからな」

 物騒な言葉で、雷画翁が答える。

 確かに、士郎を可愛がることにかけては人後に落ちないこの女性が、事の次第を知ったら、激怒するだけでは済まないだろう。

 教諭は口を開きかけたが、そのまま言葉を飲み込んだ。
 おめでたいこの席で問いただす内容ではないと、考えたのかもしれない。



 場の空気を変えようとしたのか、教諭は打って変わって明るい声を出した。

「でも、桜ちゃんも言ってたけど、憧れちゃうわよねー。
 恋人の自宅に、正装してご挨拶なんて。
 女の子の、永遠の夢だわー」

「ふ、藤ねえ!
 だ、だから昨日から言ってるように、あれはお年賀だって!」
 慌てて口を挟む士郎も、教諭には計算済みらしい。

「んー?
 そんな言い訳が通るとでも思ってるの?
 お年賀だなんて理由付けても、ご両親に正式にご挨拶に行ったことには変わりないのよ?
 それに、こうやってうちにも来たんだから、士郎と氷室さんは晴れて両家公認。
 もう、許嫁みたいなもんじゃない。
 ねー、氷室さん?」

 真っ赤になって食って掛かる士郎を横目で見ながら、私にも話を振ってくる教諭。
 それは、私の照れる姿をもっと見たい、という欲望が丸分かりの目だったが。


「 ――― 」


「……氷室さん?」
 絶句してしまった私に、藤村教諭が不思議そうに声をかけてくる。

「―――あ、ああ。
 申し訳ありません。
 少し、ぼうっとしてしまって……」


 ……なぜ、私は絶句したのだろう?

 教諭が発した《許嫁》という響きを聞いたとたん、どういうわけか、体の芯が硬直するような……



「……許嫁、と言えば、」

 そんな、私の自己韜晦を見破るように、雷画翁が声をかけてくる。


「以前の話、あれは、あのままなのかな?」





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

 『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ七)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:56bdea77
Date: 2010/10/05 21:30



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ七)





「 ――― 」

 再度、絶句する。


 《許嫁》……


 他の誰かから言われたのであれば私も、士郎のように真っ赤になって照れていただろう。そこはかとない嬉しさも感じつつ。

 だが、この人から。
 あの顛末をすべて知っているこの老人から言われたことで、体の奥に沈めていたものが、ゆっくりと浮上して来てしまった。

 私と士郎を繋いだ、そもそもの発端。
 そして私にとっては、正直、消し去りたい暗い記憶。



「……申し遅れました。
 実は、今日お伺いしたのは、過日のお詫びも兼ねてのことなのです」

「鐘……」

 背筋を伸ばし、雷画翁に改めて向き直った私を、士郎が気遣わしげに見つめる。
 そんな彼に私は微笑みかけ、また翁に視線を戻した。

「先日、お約束もせずに突然訪問してしまったこと。ぶしつけな問いを重ねたこと。
 また、士郎…衛宮くんのお宅でお会いした時も、満足なご挨拶すらせずに席を立ってしまい、大変ご無礼をいたしました。
 一人でお詫びする勇気も出ず、こうして衛宮くんに付き添われるまで伸ばし伸ばしにしていたことを、どうかお許しください」

 士郎と教諭の視線を感じつつ、そのまま深く頭を下げる。


「ほ……
 お若いのに義理堅いの。
 さすが、氷室さんの娘さんじゃ。こういう所もよう似とる」
 雷画翁が、口をすぼめて笑う。

「気にせんでええよ。
 お嬢さんには悪いが、正直、忘れかけとった。
 こないだシロ坊から、お嬢さんを連れて年賀に行きたい、と言われるまでな」

 そのまま、杯で口を湿す翁に、藤村教諭が問いかける。

「え?
 氷室さん、ここに来たことあるの?
 それに、士郎の家でお爺さまと会ったって……」

「大河」
 そんな教諭に、雷画翁はたしなめるような声を出すが、

「いえ、藤村組長。
 このままでは、先生もお話が見えずにご不快かと思います。
 よろしければ、事情をお話したいのですが……。
 士郎、君も良いか?」

「……ああ、俺はかまわない。
 知られて困る話じゃないしな」

「……」

 私の問いかけに、きっぱりと答える士郎。
 ……やはり、こだわっているのは、私だけなのだろう。


 雷画翁からも特に反対の意思表示は無いので、私は藤村先生に向き直る。

「先生。今まで黙っていて申し訳ありません。
 決して、他意はないのです。
 ただ、少々複雑な話で……」

「ううん。別に気にしないでいいよ。
 それに、言いにくいことだったら、私に気を遣わなくても……」

「いいえ。
 これからは、先生にもいろいろご相談する機会が多いかと思います。
 ですから、知っておいていただきたいのです。

 ……私には、《士郎》という名前の許嫁がいました」


 息を飲む教諭に、私は出来る限り客観的に、事実を並べていった。

 父の親友の息子である《士郎》は、十一年前の大火災で死亡したと思われていたこと。
 あるきっかけで私が、その《士郎》と衛宮士郎の関係を調べ始めたこと。
 この家まで雷画翁を尋ね、衛宮士郎の前歴などについて問いただしたこと。
 それが発展し、雷画翁、父、私と士郎が、衛宮邸で会合を行ったこと。


「徹底的に調べれば、分かることなのかもしれませんが。
 士郎には、その意思はありませんでした。
 父も、士郎がこうして平穏に生活している以上、あえて波風を立てることもあるまいという意向でした」

 淡々と、私は藤村教諭に説明していく。
 ……だが、自分でも分かっている。
 その実、決定的な《何か》には、わざと言及を避けている、ということを。


「……士郎は、それでいいの?
 自分の、本当のお父さんやお母さんが分かるかもしれないのに……」

 私の説明を聞き終わった教諭が、心配げに士郎に声をかける。
 ……さすが、彼の姉を自負する人だ。
 私ではまだ、こんな風な自然な問いかけは出来ない。

 それに対し、士郎はいつもの笑顔を教諭に向けた。

「かまわないよ。
 って言うか、分かっても分からなくても、別に俺にはどっちでもいいんだ。
 俺は衛宮士郎なんだから、それ以上のことは気にしてない」

 藤ねえだって知ってるだろ?と小首を傾げる。

「……そうだね。
 士郎は、切嗣さんの子どもなんだもの。
 私も、それ以上のことはどっちでもいいや」

 さっきの逡巡が嘘のように、陽気に微笑む教諭。


 二人の絆の深さに、ちょっと嫉妬してしまう。
 が、それ以上に微笑ましさも感じる。
 私にも、このように自然に振る舞える日が来るだろうか。
 いつになるか分からないが、この人たちの家族と名乗れる日の自分を夢見て、私は……


「話がみんなに行き渡ったところで、改めるがな。
 今日、二人が揃ってここに来たということは、その話が実った、と思ってええんかの?」

 ……なのにこの老人は、そんな私を現実に引き戻すのだ。

 あの時も……
 士郎の家で会談をした時もそうだった。
 過去なんて関係ないと、士郎自身がそう言っているのに、雷画翁はどうして蒸し返すのか。


「爺さん。
 なんで昔のことにそんなにこだわるんだ?
 今も言ったけど、どうでもいいじゃないか、そんなこと」
 士郎も、本当に不思議そうに雷画翁に問うている。

 だが、違う。
 違うんだ、士郎。

 それは、私にとっては『どうでもいい』話なんかじゃない。


「お前が、他の誰でもない、氷室さんのお嬢さんを連れてきたからじゃよ。
 年寄りの覗き趣味、と思うてくれてもいいがな。
 お前にとってはどうでもいい話でも、氷室さん……市長には、かけがえのない約束だったはずじゃ。
 お前が、その《士郎》君なのかどうかは、この際置いてじゃ。
 その約束を成仏させるためにも、その辺のところははっきりさせた方がいいと思うたのさ」

「鐘の、お父さんの……」

 言いよどむ士郎。


 《約束》に対する父の思いは、私も充分理解しているつもりではいる。
 だが、私はまだそれほど強くない。
 ―――あの時の絶望。
 心の真ん中に冷たいものを突き通されたような感覚を、再び味わいたくはない。

 なのに、話の流れは、どんどんそちらに向かって突き進んでゆく。


 ……聞きたくない。


「どうじゃ、シロ坊。
 このお嬢さんは、お前の《許嫁》で、いいんかの?」


 聞きたくない、聞きたくない聞きたくない!


「……あの時と同じだよ。
 俺は、鐘をそういう風に見ることは出来ない」


 ………

 きっぱりと、そう言い切った。





 自分が、俯いているのが分かる。

 藤村雷画翁の前で、この言葉をまた聞くことになったのも、何かの因縁か。

 そう。
 私は、士郎に拒絶されたことが、二度ある。



 一つ目は、新都大橋のたもと。
 何度アプローチしても全く反応の無い彼に、頭がヒートし、
『抱きしめれば、実感してくれるか?』
 と、無理やりその胸に飛び込んだ。
 彼の足は後退し、その手は私を押し返した。

 今なら、それが自然な反応だと分かる。
 思いも寄らない相手からそんなことをされれば、誰だって無意識に距離を取ろうとするだろう。


 しかし、二つ目。
 衛宮邸での四者会談のとき。
『婚約の件は、どうされるんかの?』
 今と同じ、雷画翁の問いかけに、士郎はいささかの逡巡も無く答えた。


『すみませんが、俺、私は氷室さんをそういう風に見ることは出来ません』


 一つ目の、条件反射のような反応と違い、それははっきりとした士郎の《意思》だった。
 ……今の回答と同じく。


 そんな士郎の答があったからこそ、私も自分の想いをはっきりと自覚できた。
 そして、無謀とも言える接触を繰り返し、結果的にそれが今に繋がっているわけだが。


 しかし、だからといって
 《士郎に拒絶された》
 という痛みが薄まるわけではない。

 心が狭いと言われようが、あの一言は私にとって、非常な心的外傷になっている。

 まして今、その台詞をそっくりそのまま繰り返された。



 ひっそりと自嘲する。

 私自身に約したエンゲージ。
 柳洞、イリヤ嬢、シスター・カレン、その他多くの人に託された想い。
 そして、彼と築いてきたと思っていた多くの事柄。

 それらも、私の独りよがりの産物だったのか。


 ……士郎は、私が想うほどには私のことを……





「だって、そうだろう?
 何度も言うけど、俺は衛宮士郎なんだから。
 
 鐘のお父さんには申し訳ないけれど……
 お父さんの親友の息子で、親同士の約束で、小さかった鐘と婚約してて……
 
 そんな風には、どうしても思えない。
 無理にそんな風に思うのは……間違ってる」


「……え?」
 思わず、声が漏れる。

 そんな私に気付いているのかどうか、士郎は雷画翁を真っ直ぐ見つめながら言葉を接いだ。

「俺は、切嗣の子どもになって、衛宮士郎になった。
 そして、その俺のまま、鐘に出会って、鐘を好きになったんだ。
 鐘も……衛宮士郎である俺を、好きになってくれたんだと思う。

 だから、俺と彼女は、衛宮士郎と氷室鐘だ。
 親同士が決めた許嫁じゃない」

「 ――― 」

 ……士郎。

「それに……俺と鐘は、その……まだ、そういう約束はしてない。
 あ、いや!
 したくない訳じゃないんだけど、その、まだ時期尚早って言うか……」

「 ! 」
 …な、なにを口走って……

 士郎は こほん と咳払いを一つして、続ける。


「これから、俺と鐘がどうなるのか、俺たちにも分からない。
 どちらかに何かがあるのかもしれないし、案外、簡単に喧嘩別れってことになるのかもしれない。

 でも俺は、鐘とずっといっしょにいたい。
 《死ぬまで一緒に》なんて大見得、今は切れないけれど……
 少なくとも、そうなるように頑張っていく。
 全力を尽くして、実現させたいと思ってるよ」


「………」

 この、おとこ、は……





 ……結局、私が浅はかだった、ということか。

 士郎は、私を拒絶したのではない。
 その前段階の、問いをする上での設定そのものがおかしい、と言っていたのだ。


 やっと、思い出す。
 あの四者会談の最後。
 士郎の屋敷を飛び出し、庭に佇む私に、彼は言ったではないか。

『俺かどうかわからない人の婚約を俺が継いだら良いみたいな話で、それっておかしいだろ?』

 なのに私は、《彼から拒絶された》というその一点にのみ目が行き、他のことは考えられなかった。


 笑いがこぼれる。

 ずっと前から、
 否、
 最初から彼は答を示してくれていたのに、私だけがそれに気付かず、
 勝手に『心的外傷』などと悲劇に浸っていた。



 そして、もうひとつ。


(俺は、鐘とずっといっしょにいたい。
 《死ぬまで一緒に》なんて大見得、今は切れないけれど……
 ……全力を尽くして、実現させたいと思ってるよ)


 私が、自分自身に約した《エンゲージ》。
 それは、彼にも話したことはない。

 なのに、それとそっくり同じ内容の発言を、今、彼はしてくれた。
 真摯に、己の真情を語ってくれた。


(士郎は、私が想うほどには私のことを……)


 笑わせてくれる。
 自分自身に対し、そう告げる。

 衛宮士郎は、氷室鐘なんぞよりも、何倍も相手のことを想ってくれていた。

 私を、愛してくれていた……



「――― 鐘?」

 彼の心配そうな声が、耳元で聞こえる。

 気付けば私は、両掌で自分の腕を抱き締め、必死に歯を食いしばって、嗚咽を堪えていた。

「鐘、どうした?
 どこか……」


 頼む、士郎。
 今は、声をかけないで欲しい。

 嬉しさ、切なさ、自己嫌悪、そして、君への愛情。

 すべてが入り混じって私を満たし、爆発しそうなんだ。

 こんなところへ、さらに君の声を聞いたりしたら、私は……



     ふわり



と、士郎の反対側から、柔らかい抱擁があった。

 顔を上げると、向かいに座っていたはずの藤村教諭が、限りなく優しい表情をしながら、私を包んでくれている。


「ほれ、シロ坊。行くぞ」

「え、え?
 だ、だって爺さん……」

「ええから。
 たとえ想い人じゃからといっても、見られたくない顔もおなごにはあるんじゃ」

 雷画翁が、士郎を立たせて引っ張っていく気配がする。



 ふすまの閉まる音と共に、その気配が消えたとき。
 それが、私の限界だった。


「 ――― !!」


 私は、私を包んでくれる暖かい胸に顔を押しつけ、思いきり泣きじゃくっていた。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ八)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:cefd9e47
Date: 2010/10/09 20:10



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ八)





 泣いた。
 泣き続けた。

 声を枯らし、
 しゃくり上げながら、
 身を揉むようにして、

 私は、柔らかく温かい胸に顔を押しつけ、泣きじゃくった。



 本当に、士郎と付き合い始めてから、私の涙腺は緩みっぱなしだ。
 喜びにつけ悲しみにつけ、それ以前には瞳が潤んだ覚えすら無いというのに。


 際限なく涙をこぼしたのは、つい先日。
 最後の陸上競技会を前に発病し、病室で士郎の胸を濡らした時だ。

 しかしあの時も、泣くと言うよりは涙が勝手に溢れてきた、といった感じだった。


 比べて今は、屋敷中に響き渡っているのではないかと思うほど声を上げ、肩を激しく震わせ、時々咳き込みすらしている。
 おそらく嬰児だったころ以来、これほど全身で泣いたことは無かった。


 記憶が、よみがえってくる。
 母の胸の柔らかさ。甘くて気持ちが落ち着く匂い。
 私を包んでくれる、腕。

 そんな、覚えているはずもない記憶は、
 今、私を包んでくれている温かさと同じだった。



「……ありがとうね、鐘ちゃん」

 私の涙がようやく小止みになったころ、教諭……藤村先生が慈しむように呟いた。
 その声に、濡れた顔を上げる。
 そこには向日葵のような、母のような笑顔があった。

「士郎を、好きでいてくれて。
 そんなに泣くほど、士郎を愛してくれていて。
 先生、とっても嬉しい。
 涙が出るほど、嬉しいよ」

 言葉どおり、その声は少し潤んでいる。

「士郎が言ってたことも、すごく嬉しい。
 あの子、あそこまで鐘ちゃんのこと、好きなんだね。
 女の子に、あれほど気持ちをぶつける士郎、初めて見た」

 その瞳は、私を見つめながら、どこか遠いところに思いを馳せているようにも見えた。





「鐘ちゃんも知ってると思うけど……
 士郎、切嗣さんに引き取られたころから、どっか変わっててね。
 あ、ヘンな子、っていうんじゃないんだよ。
 ちゃんとしたいい子なんだけど、どこかが空っぽって言うか、自分に目が向いてない、って言うか……」

 昔をたどるように、先生は淡々と続ける。

「初めは、しょうがないよね、って思ってた。
 あんな体験して、身の回りのことが全部変わって……
 誰でもそんな風になるだろうな、って。
 でも……

 切嗣さんと暮らして、士郎が切嗣さんに憧れるようになってから……
 そんな感じがどんどん大きくなって―――ううん、はっきりと固まってくる気がしたの。
 ちゃんと自分を持ってるのに、他人の事ばっかり気にして、人助けばっかりして……」

 彼の性格。
 あの《五日間》で私が骨身に染みた、彼の空洞は、その頃からのものだったのか。


「切嗣さんが亡くなってからは、ますますそんな感じが強くなってね。
 私やお爺さまたちも、心配はしていたんだけど、どうしていいのか分からなかった。
 ……だって、士郎のしてることって、正しいんだものね」

 その通りだ。
 衛宮士郎は正しい。
 その正しさこそが、彼にとっての最大の長所であり、また弱点なのだ。


「せめて、近くで見ていようと思って、あの家に通ってたの。
 二年前から桜ちゃんも来てくれて、少しは良くなるかなって思ってたんだけど……それでも相変わらずでね。

 でも、一年前…去年の2月から、ちょっと変わり始めたの。
 きっと……
 好きな人が出来たからだと思う」

 少し口籠もるのは、話す相手が私―――彼の現在の恋人だからだろう。



「セイバーさん、ですね」

 涙にかすれた声で言う。

「……士郎が、言ったの?」

「いいえ。
 名前と、思い出をひとつふたつ、聞いたくらいです。
 でも……分かります。
 士郎がその人のことを、心から愛していたことは」

 私の言葉に、先生は微笑んでうなずいた。

「ほんとに士郎は、鐘ちゃんが好きなんだね。
 他の人には、セイバーちゃんのことなんて、話したことなかったのに……」

「……どういう、方だったんですか?」
 好奇心に負けて、つい聞いてみる。

「……申し訳ないけど、それは士郎から聞いてね。
 あの子のプライバシーにも関わるし……
 その方がいいと思う」

 ―――そのとおりだ。
 以前に、私自身が思ったことでもある。
 いつか、私に本当の自信が生まれたとき、士郎が愛した人のことを、彼自身から聞きたい、と。


「それに……私もそんなに事情を知ってるわけじゃないのよ。
 セイバーちゃんのことはすごく憶えてるんだけど……
 考えてみれば、あの子とは数えるほどしか顔を合わせてないのよね」

 先生が、苦笑しながら続ける。

「あのときって、ちょうど冬木市でいろんな事件が起きてる時でね。
 鐘ちゃんも覚えてると思うけど、学園でもいろいろあったでしょ?
 私も、そのことでかけずり回ってて、あんまり士郎の家にも行けなかったし……」

 ……一年前の2月。
 穂群原学園で起こった、有害薬品集団中毒事件。
 生徒のほとんどが影響を受け、私自身も数日間入院した。

 この人も、ダメージは私たちと同じ、あるいはそれ以上だったろう。
 なのに入院もせず、病院や生徒の自宅を回り、私たちを励ますことに全力を注いでくれた。


「でも、ほんのちょっとしか会ってないけれど、分かった。
 士郎は、本当にセイバーちゃんの事が好きで、セイバーちゃんも士郎の事が好きなんだな、って。
 
 あの子は、ほんとに夢か幻みたいな子だった。
 いつの間にか士郎の前に現れて、私たちが気づかないうちに、どこかに行っちゃったの。
 けれど……」

 先生は、そこでいったん言葉を切った。

「あの子は、士郎の中に何かを残していってくれたと思う。
 幻なんかじゃない、確かな何かを。
 セイバーちゃんがいなくなって……
 それから、士郎は変わったの。
 どう、とは言えないけど、変わったような気がする」


 今でも自分を省みることが希薄な士郎だが、当時はもっと虚ろな部分を持っていたのだろう。
 だが彼女と出会い、彼女が残した《何か》によって士郎は……

 しかし先生は、そこで暗い瞳をした。



「……でもね。
 変わったのは確かなんだけど…、目標もはっきりしたみたいなんだけど……
 何て言ったらいいんだろう。
 士郎は、セイバーちゃんが残していった物に、戸惑ってるようにも見えたの。
 慣れてない、って言うのかな。
 
 結局、それからの士郎は、取り憑かれたみたいに剣の稽古をして、遠坂さんから一生懸命何かを習って……
 ……怖かった。
 どんどん、どっかへ行っちゃうような気がしたの。
 正しいんだけど、士郎がすごく不幸せになっちゃうような……」

 先生の言っていることは正直、抽象的で意味がよく分からない。
 ……でも、その痛みは、分かる気がする。
 私が、あの《五日間》で味わった苦痛と、同質の苦悩。


「でも、なんにも言えなかった。
 ただ、見てるだけだった。
 ハラハラしながら、見てるだけだったの。三ヶ月前まで」

 あの苦痛を、一年間も。
 我が身になぞらえ、顔を俯かせる。
 空洞を抱えながら進んでいく弟を、この人はどんな思いで見守っていたのだろう。

 ………三ヶ月前、まで…?



 思わず顔を上げると、向日葵の笑顔が待ってくれていた。

「ちょうどそのころからよね。
 鐘ちゃんと士郎がお付き合いし始めたのって」

「 ――― 」

 それは……どういう?

「そのころから、また士郎は変わったの。
 ううん。
 定まった、って言った方がいいかな。
 
 セイバーちゃんがくれた物を正しく……みんなにとってじゃなくて、士郎にとって正しく使い始めた。
 ……そんな風に見えるようになったの」


 言葉が、出ない。
 先生の微笑みを、呆然と見つめる。


 いつか、そうなれればと思っていた。

 自己の希薄さに苦しむ士郎の隙間を、僅かでも埋めることが出来たら。
 その手助けをすることが、出来たら……

 ……その夢は、ほんの少しでも、叶えられていたのだろうか?


「私は……士郎の役に立ったんでしょうか……?」

「あたりまえじゃない」

 先生は、むしろ驚いたように目を見張った。

「鐘ちゃんがいなかったら、士郎はあんなに幸せそうな顔をしてないわ。
 あの子が幸せに……これからも幸せになっていくためには、どうしてもあなたが必要なのよ。
 だから……」

 そして、真摯な目で私を見つめる。


「士郎をお願い。
 もちろん私も見守っていくつもりだけど、いっしょに歩けるのは……
 いっしょに苦しんでいけるのは、あなただけよ」


「……先生」

 胸が、いっぱいになる。
 ますます、言葉が出ない。

 士郎の役に立てていた、という喜び。
 藤村先生をはじめ、士郎を愛する多くの人から寄せられた、期待の重さ。
 その二つが、体の中で綯い交ぜになる。

 ……これからも、やっていけるのだろうか。
 士郎への想いは、他の誰にも負けないつもりだ。
 だが、たいした取り柄もない、一介の女学生である私に、何が……


「大丈夫よ」

 不安に身を固くする私を、先生は今まで以上に強く、やさしく包んでくれる。

「士郎は、私の自慢の弟だもの。
 その士郎に、一番愛されてるあなたなら、きっと出来る。
 
 だって私の、自慢の妹だもの」



 妹……



 ……そういえば、先生はいつの間にか、私のことを《鐘》と呼んでくれている。
 とてもやさしく。
 慈しむように。


 去年のクリスマス。
 イリヤさんは、私を妹と……家族と、呼んでくれた。

 そして今また、藤村先生も私のことを……


 ……だめだ。
 また、涙、が……


「私たちに出来ることがあったら、何でも言ってね。
 鐘ちゃんと士郎のためなら、お姉ちゃん、一肌もふた肌も脱いじゃうから」

 いたずらっぽく続ける先生に、私はしゃくり上げながら、言葉を紡いだ。


「……さっそく、おねがいしても、いいです、か…?」

「うん。何?」

「…もう少し、……この、ままで……」

 先生の胸に、顔を埋める。


(…おねえ、さん……)


 そんな私の髪を、先生はいつまでもやさしく撫で続けてくれた。





 士郎と雷画翁が戻ってくるころには、私と先生は元通り席に着いていた。

 あれから、洗面所で顔を洗い、先生の化粧道具をお借りして、腫れぼったい目の回りにファウンデーションを乗せた。
 鏡に映る、真っ赤な目だけはどうしようもなかったが、

「……大丈夫か、鐘?」

 恐る恐る、心配そうに聞いてくる士郎に向けた笑顔は、我ながらすっきりと晴れやかだったと思う。

「ああ。
 心配をかけて済まない、士郎。
 もう大丈夫だ」

 私の言葉に、というよりは、私の表情に ほっ としたのだろう。
 彼は、やっと愁眉を開いてくれた。


 そう。
 本当に、もう大丈夫だ。

 君から、自信をもらったから。

 新しい《姉》から、温もりをもらったから。

 きっと今の私は、先ほどまでの私より、強い。



「どうやら、言うとおりのようじゃな。
 お嬢さん、爺いが余計なことしでかして、済まんの」

 雷画翁が、穏やかな目を私に向けて、頭を下げてくる。

「とんでもありません、組長。
 むしろ、私の方こそお礼を言わせてください。
 お気遣いをしてくださって、本当にありがとうございます」

 少々慌てて、頭を下げ返す。


 この人にはきっと、初めから分かっていたのだろう。
 勘違いから来る私の苦悩も、それに対する士郎の答えも。
 すべてを分かって、素知らぬ顔でお膳立てをしたのであれば……
 本当に、この老人は喰えない。


「ほ。
 そう言ってもらえるのは嬉しいが、若いお嬢さんから『組長』と呼ばれるのも、何やら寂しいの。
 せめて、『爺さん』くらいにしといてもらえんか」

「それではあまりに……
 では、その……お、『お爺さま』、と。
 私のことも、名前でお呼びください」

「はっはっは。
 こりゃあ、可愛い孫が出来たの。
 では、鐘さん。
 これからも、いろいろとよろしく頼むよ」

「はい、お爺さま」


「ちょっと、お爺さま。
 それを言うなら、可愛い孫が『出来た』じゃなくて、『増えた』でしょ」

「あのなあ、爺さん。
 鐘を気に入ってくれたのは嬉しいけど、いくら可愛い女の子と知り合いになれたからって、そんな一足飛びに……」

「ほほ。
 シロ坊。気持ちは分かるが、こんな爺いにまで、焼きもち妬くこともないじゃろうが」

「ばっ…!
 や、焼きもちなんかじゃなくて、……だな!!」

「ちょっと士郎。
 なに?それじゃお姉ちゃんは『可愛い女の子』じゃないって言うの!?」

「うわっ!
 やめーっ、藤ねえ!
 さっきから見てれば、何杯飲んでるんだよ!!」



 騒々しくも暖かい会話。
 転げ回ってじゃれ合う、恋人と姉。
 それを肴に、嬉しげに杯を重ねる祖父。


 改めていただいた、お酒のせいばかりではないだろう。

 そんな光景を、私は笑いながら、
 涙が出るほど笑いながら、飽くことなく眺め続けていた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ九)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:643263a9
Date: 2010/10/14 19:11



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ九)





士郎  「ただいまー」
大河  「たっだいまー!」
鐘   「おじゃましま……わっ!?」
イリヤ 「カネーッ、キターッ!!」
鐘   「い、イリヤさん、お久しぶりです」
イリヤ 「ほんとよ、カネ。会いたかったー!」
士郎  「お、おいイリヤ。いきなり飛びついたら危ないだろ。
     あと、ちょっと古い」
凛   「(ニヤニヤ)あら、いいじゃない。
     背後から合法的に氷室さんを抱けたんだから」
大河  「そうよねー。
     士郎ったら、倒れそうな鐘ちゃんを抱いて支えちゃって、ナイトみたい」
士郎  「と、遠坂、藤ねえ!
     これはあくまで、鐘が危なかったから……だな!!」
イリヤ 「むー。
     シロウってば、そういう機会は逃さないのよねー」
鐘   「い、イリヤさん、それはともかく、そろそろ、…ん、や、その……」
士郎  「そ、そうだぞイリヤ。
     いつまでも鐘の胸に顔を擦りつけてたら……」
イリヤ 「あれ、何シロウ、妬いてるの?
     気持ちいいよー、カネの胸。いっしょにする?」
士郎  「ばっ!
     な、なに言って……」
イリヤ 「あ、もうやり飽きてるとか?」
士郎・鐘「「 !……!!! 」」
桜   「……で、先輩。
     いつまで氷室先輩を抱きしめてらっしゃるんですか?」
士郎  「……あ。
     わ、悪い、鐘!桜!」
鐘   「い、いや。
     謝られることでは……」
桜   「私も、謝られても困ります。
     遠坂先輩たちも、のっけから挑発しないでください」
凛   「あはは。ゴメンゴメン。
     イリヤもそろそろ離れなさい。
     アンタがそんなことするから、ついいじっちゃうんじゃない」
士郎  「……今さらだが、遠坂。
     いじる、ってお前……」
イリヤ 「そうよー。
     リンってば、自分の性癖まで他人のせいにして欲しくないわ」
凛   「……アンタに言われたくはないわね」
桜   「で・す・か・ら。
     お二人とも、このままじゃ、話が進まないでしょ?
     氷室先輩たちを、いつまで玄関先に立たせておくつもりです?」
凛・イリヤ「「 はい 」」
桜   「改めまして、氷室先輩。
     本当に、よく来てくださいました」
鐘   「あ、ああ、間桐さん。ドタバタして申し訳ない。
     お招きいただき、感謝します」
桜   「こちらこそ、急に無理を言ってすみません。
     さあ、お上がりください……って言うのも、他人行儀ですよね。
     ご馳走、いっぱい用意してますから」
大河  「さあ、鐘ちゃん行こーっ!
     お姉ちゃん、もうお腹ぺっこぺこーー!!」
鐘   「……藤村先生。
     まだ夕方ですし、食事にはいささか早いかと……」
士郎  「……さっきまで、あっちで盛大に飲み食いしてなかったか?藤ねえ」



     * * * * * * * * * *



大河  「士郎から聞いたけど、鐘ちゃん、この家にも何回か来てるんだよね。
     私が知ってるのは一回だけだけど」
鐘   「ええ。三回……、四回目になりますか。
     先生とお会いしてからは、お邪魔していませんでしたが」
桜   「(お茶を出しながら)
     ……あの時は、本当にすみませんでした。
     失礼な態度を取っちゃって……」
鐘   「あ、いや間桐さん。頭など下げないで。
     私の方こそ、挑発的な行為を……」
桜   「でも、氷室先輩は何も悪くないのに、私ったら……」
鐘   「いや、あの立場だったら、私でもああしている。
     その……(恋する)女子として、当然のことだ」
桜   「ありがとうございます。でも……」
鐘   「いや……」
イリヤ 「はい、そこまで。
     ほんとに二人って、似てるのは体型だけじゃないわね」
鐘・桜 「「(胸を隠すしぐさ) なっ!? 」」
士郎  「い、イリヤ!?いきなり何を……」
イリヤ 「(無視して)二人が謝り合うことじゃないでしょ。
     どっちも全然悪くないんだから。
     悪いのは……」
凛   「まあ、決まってるわよね」
大河  「やっぱり、そうなるかー」
鐘・桜 「「 …… 」」
士郎  「う……
     ……俺、なんだろう、な…」
桜   「せ、先輩!そんな…こと……」
鐘   「そ、そうだぞ士郎。君は……あー…」
士郎  「 ――― 」
凛   ( パカンッ!! )
士郎  「いっ!
     な、なにすんだ遠坂!?」
凛   「暗い顔してんじゃないわよ。景気悪い。
     アンタが悪かったのは確かだけど、もう昔のことでしょ」
イリヤ 「そうよ。
     正確に言えば、悪かったのは《あの時の》シロウ。
     今のシロウは、あの時のシロウのどこが悪かったのか、理解してるでしょ。
     なら、今さら落ち込んだり、謝ったりすることじゃないわ」
凛   「ま、完全に理解してるかどうかは、今でも怪しいけどね」
イリヤ 「あら、リン。
     完全に理解しちゃったら、シロウじゃなくなっちゃうじゃない」
凛   「それもそうか。
     いじり甲斐もなくなるしね」
士郎  「……なんか、とてつもなく非道いことを言われてる気がするんだが」
イリヤ 「(無視して)だからカネ、サクラ。
     あなたたちも、気にすることないわよ。
     忘れちゃいけない事ではあるけど、今のあなたたちも、《あの時の》あなたたちとは違うんだから」
鐘   「イリヤさん……」
桜   「……はい。ありがとうございます、イリヤさん。遠坂先輩も」
凛   「べ、別にそれこそ頭下げられる憶えは無いわよ……」
イリヤ 「そうよね。
     リンはシロウのこと嬲ってただけだし」
凛   「……ほんとに、アンタだけには言われたくないわ」
大河  「それに、鐘ちゃんや桜ちゃんが謝るんなら、イリヤちゃんなんか土下座しないとねー」
イリヤ 「私が?なんで?」
鐘   「……(苦笑)」
大河  「うわー、この悪魔っ子わ。
     鐘ちゃんに何したか、憶えてないの?」
イリヤ 「失礼ね。人を健忘症みたいに。
     挨拶しただけじゃない。『あなたがヒムロ?』って」
大河  「日本では、ああいうのを《挨拶》と呼ばーん!!」
イリヤ 「 ?
     カネ。私、あのとき何かおかしかった?」
鐘   「……いえ(笑)。
     ただ、率直なご挨拶だったので、少々面食らいましたが……」
士郎  「いや、あれってかなりきつかったと思うぞ」
イリヤ 「そっか。
     こっちで言う『ヒトミシリ』ってやつなのかな?」
凛   「―――見てなかったけど、目に浮かぶわ。
     アンタ、本当の人見知りの人に対して、失礼極まりないわよ」
イリヤ 「でも、あの時はほんとにカネのことよく知らなかったんだもん。
     あ、でも、もちろん今は違うよ?
     大好きな、私の妹だからね」
鐘   「……(目尻を拭う)
     ありがとう、イリヤさん」
凛   「…ま、感動的な場面だけど……」
大河  「ロリッ子が巨乳を《妹》って呼ぶのもねえ……」
鐘   「 ! (再び、胸を隠す)」
イリヤ 「……。
     別に、珍しいことじゃないわよ。
     私なんか、見かけ年上なのに未発達の妹や、ハタチ軽く過ぎた行き遅れの妹まで抱えてるんだし」
凛・大河「「誰のことじゃ、そりゃーっ!!?」」
士郎  「……鐘。
     危ないから、ちょっと離れたほうがいい」
桜   「……氷室先輩。
     あの、ついていけてます?」
鐘   「(はっ と我に返って)
     あ、ああ。ありがとう士郎、間桐さん。
     いや、外でもお会いしているから、慣れたつもりでいたんだが……」
桜   「あんまり、無理なさらないほうがいいですよ」
士郎  「そうだぞ。
     それに、鐘にまで慣れられたら、俺は夢も希望も……」
桜   「……(にっこり)先輩。
     それって、どういう意味なんでしょう?」
士郎  「え?
     …おわっ!?い、いや桜!別に深い意味は、だな、いやちょっと待っ……!!」
鐘   「………
     (士郎の言うとおり、いきなり慣れろ、と言う方が無理なのかもしれないな)」



     * * * * * * * * * *



桜   「さあ、お待たせしました。
     これで最後ですよー」
士郎  「ありがとう、桜。
     みんなもいいか?」
全員  (うなずく)
士郎  「じゃあ、改めて、鐘。
     衛宮家へようこそ」
全員  「いらっしゃーい!」
鐘   「本当にありがとう、皆さん」
イリヤ 「お客様扱いなのは最初だけ。
     これからは遠慮しないわよ、カネ」
凛   「アンタ、遠慮してるつもりでいたの?」
大河  「ふっふっふ。
     そうよ、鐘ちゃん。これからこの食卓は、戦場と化すのだ!」
士郎  「藤ねえ。
     意味違うし、戦場にしてるのは藤ねえだけだろ」
桜   「心配しなくても大丈夫ですよ。
     おかわりたくさんありますからねー」
イリヤ 「ねーシロウ。早く食べようよー」
凛   「そうよ。あんまり焦らすと、突っつくからね」
士郎  「―――なにでだ、遠坂。
     じゃあ食べようか。いただきます」
全員  「いただきまーす!!」

士郎  「む……
     桜、遠坂。また腕上げたな」
鐘   「本当。おいしい……」
凜   「まあね。今日は気合い入れて作ったから」
桜   「お口に合って何よりです」
イリヤ 「二人ってば、今日はすごかったのよー。
     朝から買い出しに出かけて、両手で持てないくらい材料買い込んで、一日中台所に籠もって。
     鬼気迫る雰囲気だったわ」
凜   「アンタねえ。せっかくいい気分に浸ってるのに、ネタばらしするんじゃないわよ」
桜   「(俯いて笑う)……もっと早くから知っていれば、また違った準備もできたんですけど……」
士郎  「あ……
     い、いや、すまん桜」
鐘   「その、……うっかりお伝えし忘れてしまって……」
桜   「(にっこり)
     冗談ですよ。でも、がんばったのは本当ですから」
士郎  「(ほっ)
     まったく、こんなに上達されると、師匠も弟子もあったもんじゃないな」
桜   「あら先輩。
     お褒めいただいて光栄ですけど、和食はまだまだ先輩にはかないません。
     これからも、たくさん教えてくださいね」
士郎  「おう。
     和食が最後の砦だからな。俺もがんばらないと」
鐘   「そうか。
     桜さんは、洋食が得意なんでしたね。この牡蠣のグラタンなど、本当に……」
桜   「……」
鐘   「…あの、桜さん?」
士郎  「どうした、桜?」
桜   「……え、いえ。だって氷室先輩、私のこと《桜さん》って……」
鐘   「あ……
     も、申し訳ない。つい、無意識に……」
桜   「あ、いえ違うんです!
     ―――その、嬉しくて……」
士郎  「……桜」
鐘   「……では、これからも?」
桜   「はい、ぜひそう呼んでください」
鐘・桜 「(見つめ合って微笑む)」

鐘   「……しかし、桜さんも遠坂嬢も、本当にお上手だな。
     これでは私など……」
凜   「あら氷室さん。桜はファースト・ネームで呼んで、私はまだ《嬢》付け?」
鐘   「残念ながら、君を名前で呼ぶ勇気は、未だ私には無い」
士郎  「あー……
     まあ、気持ちは分かるなあ」
凜   「……お二人とも、一度いろいろお話を伺いたいわね。特に、衛宮君」
士郎  「なんでさ!?」
イリヤ 「でもカネ、あなたは料理しないの?似合いそうなのに」
鐘   「……悔しいですが、知識の段階でとどまっている程度です。
     とてもこの料理には……」
士郎  「そんなことないぞ。
     昨日いただいた甘鯛の焼き物は、すごく美味かった」
鐘   「あ、あれは、あの料理だけを……」
イリヤ 「なんだ、それならカネもシロウに習えばいいじゃない。
     サクラもそうだったんでしょ?」
桜   「ええ。私は、先輩の一番弟子です」
士郎  「そうか。なら鐘は、二号ってことになるな」
鐘・桜 「「は??」」
士郎  「いや、今度鐘の家で料理を教えることになってるんだよ。
     鐘は知識充分、基礎も出来てるから、きっとすぐ桜みたいに……って、どうした?二人とも」
桜   「……あっ、い、いえ!」
鐘   「な、なるほど、そういう……」
士郎  「 ? 」
凜   「……そりゃ、固まるでしょ。
     自分の恋人をいきなり《二号さん》呼ばわりしたら」
士郎  「ばっ……!!
     と、遠坂!そういう意味じゃ……、だ、だいたい《さん》付けてない!!」
桜   「…でも……そうすると、私は……」
凜   「桜。
     頬染めながらなに考えてるのか、だいたい分かるけど……」
桜   「……え?
     や、やだ遠坂先輩!私、そんなこと……」
イリヤ 「えー、どんなことー?」
桜   「……!!(真っ赤)
     ふ、藤村先生!お味はいかがですか!?さっきからずっとお静かで……、先生?」
イリヤ 「無駄よ。
     完全にハイパー・タイガー化してるわ。もう食べ物しか目に入ってない。
     当分、あっちの世界から戻ってこないわよ」
凜   「今はもうライバルがいないもんだから、やりたい放題ね」
桜   「いらしたら、もっとすごいことになってたんでしょうけどね」
鐘   「ライバル?
     と言うと、藤村先生ほどの人が、他にも……?」
凜   「あっ……いえ、まあ…」
桜   「え、ええ、その……」
鐘   「 ? 」
イリヤ 「……。
     でも、カネはあんまり食べてないね。おいしくない?」
鐘   「は?
     いえ、これを美味しくないなどと言ったら……」
イリヤ 「でも、周りに比べておハシも遅いし、ごはんも一回しかおかわりしてないし」
桜   「(ぴくっ)」
鐘   「いえ、でももう普段の倍くらいは……」
イリヤ 「それで!?
     なに、カネってそんなに少ししか食べないのに、その胸……」
鐘   「い、イリヤさん!ですからその話題は……」
凜   「(ぴくぴくっ)」
士郎  「そうだなあ。
     俺も弁当作るようになって知ったけど、鐘ってけっこう小食だよな。
     まあ、藤ねえは別格としても、俺の知ってる女の子……
     あ、いや、そんなにたくさんはいないけど、みんな気持ちいいくらい食べてくれるし……
     って、どうした遠坂、桜?」
凜・桜 「(ぴくぴくぴくっっ!)」
鐘   「……士郎」
士郎  「ん?」
鐘   「もう何度目の忠告になるか分からないが……
     君はもっと、女心というものを学んだ方が良い」
士郎  「 ?
     それは俺も努力してるつもりだけど……なんでさ?」
鐘   「例えば、それ、現在背後に迫っているような危険を未然に防ぐためにだ」
士郎  「危険って……
     どわっ!?」
凜   「……言いたい放題言ってくれるわね。
     元はと言えば、全部士郎のせいでしょうが」
桜   「くすくす。そのとおりです。
     私たちをこんな体にしたのは、先輩なんですよ?」
士郎  「なっ!
     か、体、ってなにさ!?変な言い方……」
凜   「(無視して)氷室さんも、気をつけた方がいいわよ。
     コイツのテクは半端じゃないから」
桜   「そうですよ。
     今は週に一~二回だから耐えられるでしょうけど、いっしょに暮らして毎日三回、あの攻撃にさらされたら……」
鐘   「……君たちの言が、《士郎の料理の腕前》を意味するのは理解できるが。
     彼の言うとおり、あまり誤解を招く言い回しは……」
凜   「そうなったが最後、毎日の有酸素運動30分くらいじゃ済まないのよ?」
桜   「ええもう。
     万有引力の法則を呪ったり、《To be or not to be》を地で行ったり……うふふふ」
鐘   「聞こえていないか。
     ―――まあ、彼女たちの気持ちも分からないではないが」
士郎  「か、鐘!
     深く頷いたりなんかしてないで、助けてくれ!」
鐘   「残念だが、心情的に私は彼女らの味方だ。
     これを機会に、身をもって女心を学んでもらいたい」
イリヤ 「……カネって、けっこうクールに怖いよね」



     * * * * * * * * * *



士郎  「(息を整える)
     ……ま、まあなんだ。
     話を戻すけど、そうすると、桜と鐘は《兄弟弟子》ってことになるんだな」
凜   「この場合、《姉妹》でしょ」
桜   「そっか。
     じゃ、私は料理では氷室先輩のお姉さんになるんですね。なんだか嬉しいです。
     何でも聞いてくださいね」
鐘   「ありがとう、桜さん。
     ……私は姉に恵まれたな。イリヤさん、藤村先生に続いて桜さんも。
     今まで一人っ子だった分、うれしい。
     そうなると……」
凜   「残念だけど、私の料理は独学よ。
     士郎の、勉強の師匠ではあるけどね」
鐘   「そうか。残念というか……。
     まあ、遠坂嬢を《姉さん》と呼ぶのも、胆力がいりそうではあるしな」
凜   「……ほんっとに、一度じっくりとお話したいわね。氷室さん」
鐘   「いやいや、お手柔らかに願いたい。
     しかし、これらの料理をすべて独学で学んだのか。信じがたいな。
     特に、この麻婆豆腐などは、もう……」
凜   「……まあね。
     ソレだけは、人から教えてもらったんだけど」
士郎  「そうなのか?」
桜   「私にも、作り方教えて欲しいです。
     かなり辛いんだけど、それがまたクセになりそうで……」
凜   「ソレ、オリジナルレシピだと、こんなもんじゃないわよ。
     私が苦心してアレンジして、やっとここまでに押さえたんだから」
桜   「これで、ですか?…じゃ、オリジナルって、どれほど……」
士郎  「いったい、誰に教えてもらったんだ?」
凜   「……い、いいじゃない、誰でも!
     要は、美味しければいいんだから!!」
士郎  「…いや、そりゃそうなんだが……」
大河  「士郎ーーーっっっ!!!」
士郎  「おわっ!!
     い、いきなり耳元で怒鳴るな、藤ねえ!」
イリヤ 「あ、タイガおかえり」
大河  「お酒お酒、お・さ・け!!
     何故に酒が無い!?
     酒無くして、なんの宴会ぞ!!」
士郎  「(呆れて)まだ飲む気か?
     昼に、雷画爺さんのとこでさんざん飲んだじゃないか。
     だいたい、テーブルの料理あらかた食い尽くした後で言うことか?」
桜   「あっ、そう言えば遠坂先輩!」
凜   「まずっ!すっかり忘れてたわ」
士郎  「お、おい桜、遠坂……?
     ―――って、なんだその大量の瓶は!?」
凜   「なにって……見て分からない?
     ワインよ。白、赤、ロゼ……」
士郎  「じゃなくて!
     なんでワインなんか出てくるんだ!?」
凜   「だって、しょうがないじゃない。
     中華と洋食に日本酒じゃ会わないし、紹興酒もいいのが無かったのよ。
     ワインなら無難でしょ?」
士郎  「だからそういう意味じゃなくて!
     あ、こら、そこの英語教師!
     電光石火でコルク栓抜くな!!」
イリヤ 「ささ、カネ。
     いけるクチなんでしょ?」
鐘   「……とと。
     すみません、イリヤさん」
士郎  「だからイリヤも!
     ナチュラルにお酌してるんじゃない!
     鐘もあっさり受けるな!」
鐘   「しかし士郎……」
イリヤ 「そうよー、いいじゃない。
     私たち、全員十八歳以上なんだから。設定上」
士郎  「《設定上》とか何さ!?
     だいたい、それでも未成年だろう!!」
イリヤ 「どのみち、もう手遅れよ。
     この状況を止められる馬力が、シロウにある?」
士郎  「(見る見る杯を重ねる大河、凜、桜を見て)
     ……う。」
イリヤ 「そーいうわけで、カネ。
     私にも注いで?」
鐘   「いや、イリヤさんそれは……」
士郎  「だ、ダメに決まってるだろ、イリヤは!」
イリヤ 「なんで?私は……」
士郎  「《設定上十八歳》でもダメなの!
     肉体上はまだ子どもなんだから!」
イリヤ 「もー。シロウったら固いんだから。
     私、あっちやお城では、ディナーでいつも飲んでたんだよ?」
鐘   「いや、イリヤさん。
     アルコールは身体の発育に良くありません。
     あなたの精神年齢はともかく、体はまだ発育途上なのだから、飲まないに越したことはない」
イリヤ 「むー。
     分かった。カネが言うんならそうする」
士郎  「……俺の時と違って、えらく聞き分けがいいように見えるんだが」
イリヤ 「(無視して)でもカネ、ほんとに飲めるんだね。
     全然顔色が変わらない」
鐘   「それこそイリヤさんくらいの時から、特別な日などはワインを飲ませてもらっていましたから。
     ほんの一口ですがね」
イリヤ 「なによー。
     じゃ、私が飲んでも、カネくらいのプロポーションにはなれるってことじゃない」
鐘   「…だ、だからイリヤさん、もう……」
凜   「ふっ。
     甘いわね、イリヤ。
     こういうのは、本人の体質が物を言うのよ」
イリヤ 「プロポーションが?
     あ、道理でリンも飲んでるけど……」
凜   「ち・が・う・わ・よ!!
     飲める飲めないの話!
     体型だけじゃなくて体質も桜に似てるとしたら―――氷室さん、あなた絶対ウワバミ級に飲めるわよ。
     あの子ったら、完全に水気だし……」
桜   「(くすくす)とーさかせんぱーい?
     わたしって、おみず系なんですかー?」
凛   「ひゃう!?
     さ、桜!
     いえ、《系》じゃなくって《気》!
     ほんのり酔ってる桜って可愛いな、って……ね、ねえ士郎?」
士郎  「だから、そこで俺を巻き込むな。
     たまには一人で、発言の責任取ってこい」
凛   「なによ、師匠を見捨てる気!?
     ひおっ!?
     さ、桜、ちょっと落ち着いて、まずは離れて……」
桜   「あー、とーさかせんぱい、わたし、すっかり酔っちゃいましたー。
     くすくす。なんだかねむたいし、おなかもくうくう鳴ってるしー」
凛   「だ、だから抱きつくなそんなとこ触るな床に引きずり込むな!!
     桜、アンタ完全にシラフでしょ!?」
大河  「あーっ!
     桜ちゃんも遠坂さんも、おもしろいことやってるーっ!
     あたしもあたしもーーー!!」
士郎  「……鐘。
     俺にも一杯くれ」
鐘   「(はっと我に返る)あ、ああ。
     しかし……、いいのか?」
士郎  「このカオス目の前にして、飲まずにやっていられるか」
鐘   「いや、それについては同意見だが、私が言うのはそのカオスのことだ。
     止めなくても……」
士郎  「無理。
     収束させるんなら、それこそ魔法でも使わないと」
イリヤ 「シロウ。
     これ止めるのは、魔法どころか聖杯でも無理だわ」
士郎  「そういうこと。
     だから、もっと離れるぞ二人とも。中途半端な距離じゃ、飲み込まれちまう」
イリヤ 「そうね。
     バトルロイヤルって、リングサイドで見てる分にはおもしろいし」
士郎  「…ったく。
     明日も学校があるって、何人が覚えてるのかな?」
鐘   「……士郎もイリヤさんも、いやに落ち着いているが。
     ひょっとして、この家ではこのようなことはよくあるのか?」
士郎  「ん?
     そうだな、今日は鐘が来てるからみんなもはしゃいでるけど。
     ま、だいたいこんなもんだ」
鐘   「 ――― 」
士郎  「 ?
     どうした、鐘?」
鐘   「……いや。
     これが日常茶飯事なのだとしたら、私は果たして慣れることができるのだろうか、と……」
イリヤ 「だーいじょうぶよ、カネだったら」
士郎  「そうだなあ。
     今日を見る限りでは、鐘なら無理に慣れなくても……」
鐘   「……。
     それはいったい、どういう意味かな?士郎(ニヤリ)」
士郎  「のわっ!?
     ま、待てちょっと鐘、落ち着け!!……」

鐘   「( ! ! )」
士郎  「( ……!!! )」

イリヤ 「ほらやっぱり。
     慣れるまでもないわ」





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ十)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:c5418edf
Date: 2010/10/18 20:00


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ十)





士郎  「あ、鐘。
     そろそろ……」
鐘   「え、もうこんな時間か。
     名残惜しいが……」
イリヤ 「えーっ!?
     カネ、帰っちゃうのーっ!?」
鐘   「すみません。
     明日は学校がありますし……」
イリヤ 「いいじゃない。
     今日は泊まっていって、明日シロウと夫婦通勤すれば」
鐘   「 ――― 」
士郎  「い、イリヤ、それって《通勤》じゃなくて《通学》……」
凜   「士郎、突っ込むところが違うわよ。
     イリヤも今日は諦めなさい。
     だいたい女の子が、何の用意も無しにお泊まりなんて出来ると思う?」
鐘   「と、遠坂嬢。それも問題が違……」
イリヤ 「だって、お部屋はいっぱい余ってるし、寝間着や下着は、サクラの借りれば問題無いでしょ。
     さすがにリンのは無理だけど」
凜   「……アンタ、さりげなくケンカ売ってるわけ?」
桜   「そ、それにですね、イリヤさん。
     制服や勉強道具とかはどうするんです?
     今日突然お泊まり、っていうのは、やっぱり無理がありますよ」
鐘   「……申し訳ない、イリヤさん。
     それに、両親が心配すると思いますし……」
大河  「そーよ、イリヤちゃん。
     鐘ちゃんはこの家の家族ではあるけど、おうちではお父さんやお母さんも待ってるんだから。
     残念だけど、今日は……ね?」
イリヤ 「 ――― 」
鐘   「……イリヤさん。
     次に訪問するときは、父母の許可を取って、ぜひ泊まらせていただきたいと思います。
     私も非常に残念ですが、今日はそれで許していただけないでしょうか?」
イリヤ 「……ほんと?」
鐘   「ええ。
     両親次第ですが、おそらく許可してくれると思います」
イリヤ 「……分かった。
     ゴメンね。わがまま言って。
     今夜はずっといっしょにいられると思ってたから」
鐘   「こちらこそ。次は、必ず」
凜   「……ということで話がまとまったみたいですけど。
     いかがですか、家主で恋人の衛宮君?」
士郎  「え?
     お、俺!?」
凜   「(ニヤニヤ)だってそうでしょ。
     ハーレム状態にさらに磨きが掛かる上、恋人と一つ屋根の下で眠るのよ。ガマンできる?」
鐘   「 !……!! 」
士郎  「ばっ……!
     と、遠坂、お前楽しんでるだろ!」
桜   「そ、そうです遠坂先輩!
     せ、先輩は、そんな状況で、そ、そんな、こと……」
士郎  「……桜。
     なぜ、語尾がフェードアウトする?」
大河  「まあ、教師としては止めなきゃ行けないところなんだろうけど、今さらだしねー。
     この家の状況を考えると」
イリヤ 「そーよ。
     どうせ、シロウとカネが重なろうとしても、リンとサクラが黙ってないんでしょ?」
桜   「い、イリヤさん!」
凜   「な、なんで私まで勘定にいれるのよ!?」

士郎  「ま、まあとにかく、だ。
     その問題は、鐘のご両親に伺ってから、ってことで」
鐘   「あ、ああ。
     さっそく今夜、聞いてみる」
イリヤ 「お願いね、カネ。
     あー、楽しみだなあ。カネといっしょに寝るの」
凜   「あら、アンタもちょっとは無邪気なとこあるじゃない」
イリヤ 「ふーんだ。リンには分からないのよ。
     カネの胸って気持ちいいんだよー。ふかふかふわふわしてて。
     タイガやサクラもなかなかだけど、私はカネのが一番……」
凜   「……マジでケンカ売ってるわけね、アンタは」
桜   「ま、まあ遠坂先輩。
     イリヤさんは無邪気なだけで……」
凜   「こんな悪意に満ちた《無邪気》がどこの世界にあるのよ!」
イリヤ 「ね、カネ。いっしょのお布団で寝ようね」
鐘   「……あ、は、はい。ぜひ…」
凜   「渾身で無視するなあっ!!」
大河  「まーまー遠坂さん、リラックスリラックス……」
イリヤ 「きっとあったかいよー。
     ちょっと狭いけど、シロウと三人、カワノジで……」
凜・桜・大河「「「ちょっと待ていっっ!!」」」
イリヤ 「もう、なによ三人そろって。
     こんな夜遅くに大声張り上げるなんて、レディとしての自覚が足りないわよ」
大河  「アンタが言うなあ!」
桜   「そ、そうです!
     だいたいイリヤさん、意味分かって言ってるんですか!?」
イリヤ 「失礼ね。私だってニホン語の慣用句くらい知ってるわよ。
     カワって、Flussのことでしょ?
     ショーケーモジって偉大よね。あの流れの感じがすごく出てる。
     それを同衾に見立てるなんて、もっとロマンティックだわ。
     《川》の左のラインがシロウで、右がカネ。私がその真ん中に……」
凜   「誰も、『川の字で寝る』の詳細解説をしろなんて言ってないわよ!!」
大河  「だあめえーーっ!!
     この屋敷内で、不純異性交遊なんて認めませーーんっ!!」
桜   「い、いくらイリヤさんが中に挟まってても、そんな状態じゃ先輩、突っ走っちゃうじゃないですか!!」
イリヤ 「あらいいじゃない。
     私、ちっとも構わないわよ?」
凜・桜・大河「「「構うわっっっ!!!」」」

鐘   「……なあ、士郎」
士郎  「言いたいことは何となく分かるけど……何だ?」
鐘   「いや……
     《家主》とは、気苦労が多い割に存在感の薄いものなのだな、と……」
士郎  「―――ここの常識を一般化することは難しいだろうけど。
     それに気づいてくれただけで、すごく嬉しい」



     * * * * * * * * * *



(気をつけてー)

(また絶対来てねー)


 そんな声に何度も手を降り返しながら、坂を下る。
 隣には、当然のように士郎。

 夜も更けているとは言え、また、彼なら当然の行動とは言え、これから私の家まで…と思うと、やはり申し訳なく思ってしまう。

 が、同時に、騒がしくも楽しかった今日……
 いや、昨日を含めた二日間を、二人きりの時間で締めくくることができる。
 それをうれしく思う自分もいる。


 そう。
 この二日間、本当にいろいろなことがあった。

 士郎を意識し始めてから今日まで、事の無かった日はむしろ少ないけれど。
 その中でも昨日と今日は、私にとって……私と士郎にとって、とりわけ大きな時間だった。


 父と母の愛によって、私は大人への第一歩を踏み出し。

 雷画翁と藤村先生の手で、士郎への信頼と自分自身の気持ちを再確認し。

 衛宮家の人々は本当に自然に、当たり前のように私を迎え入れてくれた。


 どれもこれも、私にとってかけがえのないもの。
 一度持ってしまった今、手放したら私が《私》でなくなってしまうもの。


 来てもらって良かった、と思う。
 行って良かった、と、心から思う。

 そんな大切な時間を、私にくれたのは……



「いや、ドタバタしちゃって悪かったなあ。
 昨日は昨日で、けっこう色々あったし。
 疲れたろ、鐘?」


 うーん


 と伸びをしながら、士郎が私に語りかける。

 その目は、ほんとうにいつもの彼だ。
 いつもの彼であることが、本当にうれしい。

「いや。
 疲れなかった、と言えば嘘になるが、その何倍も楽しかった。
 むしろ疲れなど、感じる暇が無かったよ。
 藤村先生のお宅でも、君の家でも」

 正直な感想を口にする。
 陳腐な表現だが、《時が止まれば》とさえ思った。
 いつまでも、この暖かい空間に身を置いていたかった。


「そっか。
 なら良かった」
 ぶっきらぼうに、本当にうれしそうに、士郎が呟く。

 ……その、本当にうれしそうな口調に、微かな不安を抱く。

「……君は?」
 思わず、聞いていた。

「ん?」
 夜空を眺めていた彼が、私を振り返る。

「君は、楽しくなかったか?」

 士郎が、心底うれしいと思っているのは、口調で分かる。
 しかしそれは、昨日と今日そのものが、彼にとって楽しかったからなのか。
 それとも……『私が』昨日と今日を楽しんだことが、うれしいのか。


 衛宮士郎は、虚ろな人間。
 人の喜びが何よりうれしく、人の苦悩が何より辛い。

 彼に親しい人から何度も聞き、私自身も何度も実感してきた。

 だが私は、君の《うれしさ》が見たいんじゃない。
 君が《楽しむ》様を、見たいんだ。

 彼を案ずる多くの人の気持ちも乗せ、私は彼に問う。

「君は……楽しかったか?」


「もちろん」
 そんな私の問いに、彼はあっさり答えた。

 ……その、屈託のない、満足げな笑み。
 街灯を写す瞳。
 その奥にあるものは、決して《虚ろな闇》などではなかった。


 ほっ とした。

 彼が何を楽しんだのか、詳しいことは分からない。
 だが、彼は楽しんだ。
 この時間を。
 私といた、この二日間を。

 それだけで、今はいい。

 そのことが、この二日間で私が得た《かけがえのないもの》に加えられた、最高の光だ。



 しばらく、満足の沈黙に包まれながら、並んで坂を下る。

 空には、十三夜の月。
 周りに冴え冴えとした星を従え、街灯に負けないくらいの影を、足元に形作っている。


「……でも、鐘。大丈夫なのか?
 イリヤのわがままに付き合わせちゃったけど……」

 坂を下り終わるころ、士郎が、少々申し訳なさそうに口を開いた。
 私の、先ほどの台詞を、気にかけているのだろう。


『次に訪問するときは、父母の許可を取って、ぜひ泊まらせていただきたいと思います』


 確かに、父が昨日見せた《写真》と《文章》のことを思うと、『士郎の家に宿泊する』などという行為は、藪を突いて蛇を出すことになりかねない。

 しかし。


「そんなに気にしないでくれ。
 父も言ってくれていたし、君自身も言っていたじゃないか。
 こそこそ行動すれば、それこそ相手の思う壺だ。私たちは、誰に恥じることもしていないのだから。
 
 それに……
 私自身も、本当に楽しみなんだ。
 家主である君に許可を得ずに、話を進めたことは申し訳なく思うが……」

 頭を下げかける私に、彼は笑って手を振った。

「あ、いや。それこそ気にしないでいいよ。
 正直、俺もうれしいし。
 さすがに、イリヤと三人で、っていうのはまずいけど……」

 そして、そのままの口調で、とんでもない爆弾を落としてきた。


「 !!!
 あ、あたりまえだ!
 よ、夜とはいえ、住宅街の道端で、な、何を……」

「あ……、い、いや!
 別に、ふ、深い意味は無くてだな!
 単に、イリヤが言ってたから、その……」

 両手を振り回し、慌てて彼が言い訳する。



 ……その慌てぶりが、言い訳が、私の中の《何か》を刺激する。
 あるいは、先ほどまで頂いていたワインが、残っていたのだろうか。

 ――― 数瞬の逡巡の後、


「……。
 深い意味は、無いのか?」

「え?」
 よほど意外な問いだったのか、彼が聞き返す。

「……桜さんは、
 『そんな状態じゃ先輩、突っ走っちゃうじゃないですか!』
 と言っていた。

 君は……
 突っ走りたくは、ないのか?」



( ――― !!)


 言葉にならない悲鳴を発したのは、彼ではなく、私だ。

 『突っ走りたくは、ないのか?』
 の『か?』の字を言い終わった瞬間、我を取り戻した。


 な、何を口走っているのだ、私は!!



 歩みが、止まる。
 ぎくしゃくと、彼に向きあう。

 しかし、目など合わせられるはずもない。

 もはや、熱いのを通りこして、全身が痛痒い。
 歯を食いしばって、立っているのがやっとだ。


 ……士郎。
 何でもいいから、声を出してくれ。
 私からは、もう……


 ―――いや、何も言わないでくれ。
 何か言われてしまったら、私は、もう……



「……ないわけが、ない」

 瞬間的に永遠な沈黙のあと。
 耳朶に、彼の声が響いた。


 ほんの少し、視線を上げる。
 まだ、彼の目を見ることは出来ない。
 せいぜい、動く口元が視野に入る程度だ。


「……突っ走りたくない、なんてこと、あるわけがない。
 桜の、言うとおりだ。
 もし、イリヤが言ってたとおりの状況になったとしたら……」

 動悸を静めるように、彼は大きな吐息を漏らす。

「イリヤが、間に居ようが居まいが、関係ない。
 俺は……自分に責任が持てない」

 かさぶたを剥ぐような、彼の声音。
 彼も、必死に激情に耐えている。
 それが、分かる。


「……でも、
 突っ走っちゃいけないんだ。
 俺の準備が済んで……、鐘の準備が整うまで……
 でないと……」



 彼の言葉に、―――思い出す。
 それは、付き合い始めて間もないころ。
 場所は、彼の部屋。
 私たちは、口づけをしていて……


『いや、無理をしてるんだ。
 俺も最近分かりかけてきたけど、どうも、頭の覚悟と心の覚悟って、必ずしも一致しないらしい』

 彼の更なる求めに、反射的に私が《否》を示したとき。

『俺が氷室のことを好きで、氷室も俺のことを好きでいてくれるんなら、頭と心の準備が一つになるときは、きっと来る。
 それを待つ時間くらいは、俺たちにはあるんじゃないか?』


 ……あのときの、彼の言葉。
 あのときの、彼の態度。

 彼は、ずっと待ってくれていたのだ。
 私の《準備》を。

 『頭の覚悟と心の覚悟』が、一致する日を。


 涙が、こぼれそうになる。
 同時に、笑いがこぼれる。

 本当に君は、なんて愚直な……



 彼に、寄り添う。

 彼の胸に、もたれかかる。

 そっと、彼の背中に腕を回しながら、


「……人は、成長するものなんだぞ?」

 呟く。

「……え?」
 彼の声が、聞こえる。

 腕に力を込め、その鎖骨に鼻を埋める。


「……あれから、どれくらいの時間が過ぎたと思っている?
 私は……一致した。
 君の準備は、……どうだ?」

 言って、ますます腕に力を入れる。
 彼の顔など、見られるはずもない。


 どれくらい、呼吸を数えただろう。

 彼の腕が、私の力を上回る勢いで、私を捕まえた。





 私たちの準備は―――整った。

 いつ、《その時》が来るのかは、分からないけれど。

 彼も私も、潮が満ちるように、自然に《その時》を迎えることができるだろう。



 夜も更けたとは言え、まだまだ宵の口。

 いつ、人通りがあるか分からない。

 でも、そんなことはどうでもいい。



 私は、冷たくも明るい月に照らされながら。

 彼の熱さを、全身で感じ取っていた。










     ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 『お年賀編』、終了です。
 長かった……、って、前回も言ってた気もしますが。

 ―――肝に銘じておこう。
 俺は、話を書こうとすると、見積もりの数倍の文字量が必要なのだ、と。


 はてさてこの二人、今後どうなってゆくんでしょうか。

 もうちょっと続きますので、どうぞよろしく。



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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:ec4e5bf8
Date: 2010/10/22 20:27



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ一)

 



「――― こんな、ところ、か……」

 家の中を見渡し、ひとり呟く。
 この台詞も、今日何度目になるだろう。

 今日は早朝から―――否、数日前から、大掃除にも匹敵するほどの片づけを行った。
 特に、キッチン周りと自室は入念に。

 もともと私の家は、母が綺麗好きであり、私もその薫陶を受けて育ったので、仮に年末だったとしても大掃除などする必要もないくらい整頓されている。

 それを、少しでも汚れらしきところを見つけたら徹底的に擦り落とし、何度も掃除機をかけ、小物を無意味にあちこちに移動し……

 まさに今年の初め、士郎が年賀の挨拶に来たとき以来……いや、それ以上の奮闘だ。


 あのときは、さすがに母に呆れられ、父から失笑を買ったが、今日はそんな突っ込みを入れてくれる人もいない。

 そう。
 今日は、この家には私一人。
 父は相変わらずの公務で、特に今日は大事な会議があるとかで、深夜まで帰らない。
 母は母で、婦人会の会合があるから夕食までには戻れない、何か適当に食べて頂戴、と言い残し、先ほど出て行ったばかりだ。

 寄りにもよって、このような日に……



 浮かんだ想念を、頭を振って追い払う。
 今、そのことを考え出したら、私はもう一歩も動けなくなってしまうだろう。
 だからこそ、余計なことを考えないよう、今まで掃除に没頭してきたのではないか。

 しかし、それももう限界、と家の中の整頓振りが告げている。


 清掃用のエプロンを外し、キッチンの椅子に腰掛ける。
 他のことを考えよう。……《そのこと》を、頭から追い出すために。
 浮かんでくるのは、母が外出時に残していった言葉。

(鐘。あなたはもう大人なのだから、細かいことは言わないけれど……)

 先日の年賀の折。
 父母による《元服の儀式》を受け、私は大人の端くれとなった。
 それ以来、両親は本当にうるさいことは言わなくなり、ほとんど私の自主性に任せてくれている。
 その母が、改まってこんな風に切り出すのは、珍しいとも言えるのだが。

(大人の行動には、常に責任が伴います。
 その責任を受けとめるだけの覚悟、そして周りに迷惑をかけず、事をスムーズに運ぶための準備。
 それは、大人としての最低限の義務なのよ。
 そのことだけは、忘れないで)

 いつも笑みを絶やさない母が、非常に真剣に、私の肩に手を置いて言い諭す。
 内容は少々抽象的だが、私は素直に頷いた。

 大人とはいえ、娘は娘。
 まして、法的には未成年でもある身だ。
 今日、この家で私が置かれる状況について、
 流されるな、学生らしく節度ある行動を取れ、と母は言いたいのだろう。



 ……。
 他のことを考えるつもりが、結局《そのこと》に直結してしまった。

 頬に上る血を、深呼吸して無理やり下げる。

 時計を見ると―――約束まで、あと一時間弱。
 さすがに、早すぎる。
 早すぎるが……このままこうして座っていると思考が暴走し、本当に動けなくなってしまう。
 私はもう一度頭を振ると、外出着に着替えるべく、自室に向かった。



 ドアのオットーロックがかかる音を背に聞き、エレベーターホールへ歩を進める。
 外出着、とは言っても、今日は屋内での作業が中心となるので、なるべく動きやすい服装―――

 すなわち、シンプルなデザインの空色のブラウス。ブラウンのフレアスカート。
 薄いグリーンのカーディガンを引っかけた上に、ショートコートを羽織る。


 ……服装として動きやすいことは確かだが、この色合いはいかがなものか、と心の隅で突っ込みが入る。

 もともと私の持っている服は、ほぼ黒灰系統だった。
 口の悪い蒔の字からは『氷室未亡人』などと呼ばれていたが、別に気にもしなかった。
 それが自分に一番合っている、と思っていたから。

 それが、他のクラスメートたちが着るような服に、少しずつだが興味を示しはじめ、
 徐々に年相応の―――場合によってはそれ以上の、カラフルな服に袖を通すようになった。
 ……特に、《彼》の前では。

 私自身は、未だにこのような色合いの服が似合うとは思えないが、
 そんな服を纏った私を見るたびに
 『すごく似合う』
 と喜んでくれる《彼》の笑顔を思い浮かべると……

(この服はどうだろう)
(あの人が着ているスカートは私にも合うだろうか)

 ショーウィンドウや、道行く人の衣服を見ている自分に気付く。


 ……全く。
 これが、私だろうか?

 エレベーターを降り、待ち合わせ場所に向かってゆっくり歩を進めながら考える。



 数ヶ月前までの自分には、想像もできなかったろう。

 クール、怜悧と言われ、《女史》と評され、

 『彼女に惚れると凍傷を負う』

 とまで噂された、この氷室鐘が。

 少女趣味のカラフルな服に身を包み、
 恋人の来訪のため数日前から掃除を繰り返し、
 今、その人に会うために、約束より数十分も前に外出している。

 そのような、恋に身をやつす乙女を観察することこそが、私の娯楽であり、ライ フワークであったはずなのに。


 まったく……



 すれ違う人々が、私を見る。
 なぜか、みな笑顔だ。
 まるで、微笑ましい物を見るような、慈しみの顔を浮かべている。

 どうしたのだろう?
 やはり、この服の色合いは私には……

 そこまで考え、原因に思い当たった。


 私は、微笑んでいるのだ。

 うっすらと頬を染め、少し俯き、恥ずかしげに肩をすくめ、微笑しながら歩いているのだ。
 まるで、『私は今、恋をしています』と宣言するかのように。


 思わず、立ち止まる。
 一気に頬に血が上り、顔を上げていられなくなる。
 そんな振る舞いが、ますます周囲の目を引く。


 大きく深呼吸をしてから、また歩き出す。
 今度は、顔を赤くしたまま、眉を寄せて少し大股に。
 これはこれで、注目を集めることに気付き、慌てて普通の歩調に戻るよう努力する。


 ―――なにをやっているのだ、私は。


 そんなこんなで結局、待ち合わせ場所である新都駅前広場に、30分も前に着いてしまった。





 ……士郎の、せいだ。


 広場のオブジェ前で深呼吸を繰り返しつつ、脈絡もなくそう思う。

 いや、脈絡は、ある。


 私が、こうした服を着るようになったのも、掃除に念を入れるようになったのも、道行く人に注視されるようになったのも、
 元はと言えばすべて、あの男がらみのことが原因なのだ。

 あの男に関係のないことであれば、私はまだまだ『穂群の呉学人』と呼ばれたクールさを保つことが出来る。
 ……できる、はずだ。

 あの男のせいで、私は自分のアイデンティティーに悩み、歩道の真ん中で赤面する羽目になるのだ。
 まったく恋とは、げに恐ろしきものかな。
 いや、恐ろしいのは、一人の少女をここまで変貌させてしまう、あの男か。


 ―――八つ当たりであることは百も承知だが、責任転嫁でもしないと、やっていられない。
 彼こそいい面の皮だろうが、もう少し私の罵倒の標的になってもらうことにした。



 だいたい、あの男は周りの人間を無防備にさせすぎるのだ。

 独特の雰囲気―――オーラと言ってもいい空気で、こちらの鎧を剥がし、リズムを崩し、少しずつ自分のペースに巻き込んでいく。
 それを用心し警戒していると、突然思いもかけない角度から言葉の攻撃を仕掛けてくる。
 それに慌て、失態を招き、ますます彼のペースに巻き込まれ、自分を曝してゆく。

 それらのオーラや攻撃が、完全に天然無自覚であることに、また腹が立つ。

 もし万が一、彼がその武器を自覚し、自在に操れるようになったら……
 想像するだに恐ろしい。


 その武器の犠牲者は、なにも私だけではない。
 いや、数え上げれば切りがないだろう。



 たとえば、彼の家族。

 筆頭は遠坂嬢だ。
 学校では完全なる淑女として振る舞っているが、彼のそばにいるときの彼女は、目を疑うほどの変貌振りである。
 彼が以前《あかいあくま》と呟いていたが、正に至言。

 桜さんは、彼の前では桜花のように微笑み、口数も多く朗らかだ。
 これも、少なくとも学園で望見していた時の、大人しく儚げなイメージからは想像しにくい。
 ……時折見せる、背筋の凍るような黒い笑みも含めて。

 藤村先生は……あまり変わらないか。
 否。変わりこそしないが、あの放埒な性格が、彼の前では自乗でパワーアップしている。
 だだっ子風味すら加わっている。

 イリヤさんに至っては、言わずもがな。
 彼女ほど、彼や彼の家族といっしょにいる時と、それ以外の時のギャップが激しい人もいないだろう。
 私自身が、骨身に染みてそれを知っている。


 家族以外でも、彼といるときの友人たち……
 例えば美綴嬢、柳洞一成。それに蒔の字や由紀香らも、普段見せない表情をごく自然に出している。



 そう。
 彼の前にいる人々は、みな自然だ。

 普段見せる姿などより、よほどくつろぎ、生き生きとしている。


 極めつけが、うちの父と母だ。

 謹厳実直、いつも寡黙で苦虫を噛み潰したような顔の父と、
 微笑みを絶やさないが、口数も少なく厳しいところは厳しい母が、
 彼の前では、また彼に絡んだ事柄では、妙にフランクでポジティブでファンキーな性格になっている。

 そしてまた、それらの言動の、なんとしっくり馴染んでいることか。
 生まれたときから一緒にいる私には、未だに信じ難いが、
 これがあの人たちの本来の性格である、と誰かに言われたら、やはり納得せざるを得ないだろう。


 本当に、あの男は、会う人間の虚飾を剥ぎ取り、本来の性格を露出させ、
 しかもそれを極めて自然に、その人物や他人に不快感を起こさせないまま……



 ……ちょっと、待て。

 すると、―――なにか?

 今まで考えてきた論理に、先ほどまでの私の行動を当てはめると。


 私は、恋ゆえにカラフルな色合いの服を着たり、浮き足だって慌てふためいたりしているのではなく。


 少女趣味で、おっちょこちょいで、キャピキャピ風味で、涙もろい、
 士郎と付き合いだしてからの私が、本当の私の性格、ということか!?



 ………。


 待て。
 落ち着け、氷室鐘。

 これは、私のアイデンティティーに関わる問題だ。

 出生より今日まで築き上げてきた私の性格と行動パターンは、決して一朝一夕で崩れ去る物ではなく、また崩れて良い物でもなく、いや、それでは今の自分が嫌いであるかと問われれば、無論そういったことはあるはずもないのだが、しかしながら問題はそこにあるのではなく、あくまで彼と対峙したときの私の態度にこそ事態究明の鍵があるのであり、さらに、さかのぼって考えてみれば



「鐘ってば」



「ひゃうっ!!?」

 突然、耳元で聞こえた言葉に、私は愉快な声を上げて直立した。


 すごい勢いで上げた顔の鼻先三寸には、たった今まで罵倒していた男の顔。


「 !!! 」

 次の瞬間、私は声にならない悲鳴をあげ、すり足でバックダッシュしていた。
 そんな私を、彼は呆然と見ている。


「し、士郎!?
 い、いい、いつからそ、こに!?」

 驚きすぎて、呂律が回っていない。

「いつって……
 けっこう前からいたぞ。
 鐘が気付いてくれないもんだから……」

 彼も、目をぱちくりさせながら答える。

「そ、そうか。
 すまない。少々、考え事をしていた。
 し、しかし士郎。
 だからといって、いきなり眼前で声をかけることも無いだろう。
 親しき仲にも礼儀あり、と言ってだな……」

「なに言ってんだ。
 手を振ろうが、声をかけようが、全然反応しなかったのは鐘のほうだろ。
 ……なんか、あったのか?」

 彼が、本当に心配そうに私を見る。



「……確認するが、士郎。」

 ごくり、と喉を鳴らして、私は尋ねた。

「私は、……どんな表情をしていた?」


「どんな、って……そうだな。
 微笑んでたかと思うと、急に首を振ったり、眉をしかめたり、赤くなってぶつぶつ呟いたり―――
 ……って、鐘?」



 ……。

 と、いうことは、だ。

 私は、冬木市で一番人出の多い、新都駅前広場で、
 彼がやってくるまでの十数分間、
 恋する乙女丸出しの、ひとり百面相を、やってのけていた、ということか?


「お、おいどうした、鐘!?
 いきなり頭かかえて膝付きそうになって……
 どっか、具合でも悪いのか!?」



 ――― 頼む、士郎。
 お願いだから、少しだけ私に時間をくれ。


 私のアイデンティティーの欠片を、少しでもかき集めることが出来るだけの、時間を。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:134f20b1
Date: 2010/10/26 19:41



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ二)





 アイデンティティーの欠片をできる限り掻き集め、どうにか行動できるようになるまで十数分。
 ようやく、私と士郎は当所の目的地に向かうことが出来た。

 すなわち、ヴェルデ地下の総合食品売り場。

 そう。
 今日は、かねてからの懸案であった

 『士郎の料理教室』

 初日なのだ。



 前々から話の出ていたこの試みが、今日―――2月の第一日曜日にまで延びたのには、もちろん理由がある。

 端的に言ってしまえば、私の大学受験のためだ。


 1月の最終週、私は近郊の美術大学を受験した。

 士郎と付き合い始めてから……否、私が士郎を意識し始めてから、
 正直言って、受験勉強どころではない日々が続いたような気もするが。

 しかし、部活動や様々な事件を経験しつつも、決して絵筆を忘れたわけではないし、ましてや勉学をおろそかにしたつもりも無い。
 自惚れと言われるかもしれないが、技術・知識ともに多少の自信はあったし、専門教師の方々にも
 『まず合格圏内』
 と言われていた。

 試験直前に慌てて詰め込み作業を行うのは、私の美学にも反する。
 なので、年が明けても普段と変わりなく過ごそうと思っていた。

 ……のだが。


「いや、ラストスパートで気を抜いちゃいけない」

 実に、正しいことを言い出す男がいた。
 お察しのとおり、衛宮士郎である。

「それでなくてもここのところ、鐘の周りはごたごた続きだったからな。
 万が一にも俺のせいで、鐘の受験に影響があったら、俺は一生お前に顔向けできない」

 そう言って、より一層の勉学を熱心に主張する。


 さらに、有言実行の人でもある彼は、年明けから、極力私の時間を拘束しない方向で行動した。
 すなわち―――デートの時間が、ほとんど無くなったのだ。

 1月中旬に両家を行き来した《年賀回り》は、その意味では希有な例外だったと言える。


 もちろん、会う時間が全然無かった訳ではない。

 受験間近のこの時期、三年生はほぼ自主登校。
 学園の授業など有って無きが如しだったが、彼も私も毎日登校した。

 私たちは何も、有名大学に入るために穂群原学園に通っているわけではない。
 三年間、充実した日々を送るため。
 人生の一頁を実りあるものとして綴るためだ。

 当然、昼休みなどは昼食を共にしたし、
 下校時もいつもと同じく、彼はアルバイトの有る無しに関わらず、私を送ってくれた。


 が。

 逆に言えば、二人きりになれる時間などそれくらい。
 例えば帰り道に、ちょっと公園にでも寄っていかないか、などと控えめに誘っても、

「いや、今が大事な時期なんだから。
 大切にした方がいい」

 などと、聞きようによっては違う方向にも取れる台詞を述べて、彼は頑なに私を自宅まで送り届けてくれる。


 これが、まったく機械的に、何も感じずに行動しているのならばともかく、
 むしろ彼の方が、私といっしょにいたい気持ちを抑えるために、身を裂かれるがごとくの表情を浮かべ、
 しかも必死にそれを隠しているのが丸わかりなのだ。

 そんな顔をされてまで自説を主張できるほど、私は神経が太くない。

 ……蛇のなまごろし、とまでは言わないが、
 彼と充分な時間を過ごせないストレスを考えれば、多少なりとも寄り道でもした方が、勉強がはかどるような気もするのだが。


 そんなわけで、年明けからこちら、私はある意味、悶々とした時間を送ってきた。
 ある時など、やはり無欠席で通学してくる美綴嬢に

「よう氷室。衛宮断ちはずいぶん辛いと見えるねえ。
 ま、辛抱辛抱。
 あと少しだよ」

 などと、豪快に肩を叩かれたりしたくらいだ。

 彼女なりの励ましなのは分かるが……その『衛宮断ち』というのは、何なんだ。



 とにかく、ある意味私にはもっとも辛い一ヶ月間が過ぎ、晴れて今日……


「ほんとにがんばったなあ、鐘。
 疲れとか、残ってないか?」

 満面の笑みを浮かべる士郎の隣を、やはり会心の笑みで歩くことが出来る。

「本当に心配性だな、君は。
 試験が終わってから、一週間も経っているんだぞ」

 確かに、完璧を期すためのラストスパート、プラスその…多少の欲求不満もあって、試験終了後はいささかぐったりもしていたが。
 本当に久々の、士郎と過ごせる一日を前に、そんなものはとっくに吹き飛んでいる。
 むしろ、少しでも近くで彼を感じていたい、という欲求を抑えるのに、一苦労なくらいだ。

 だが今は、休日の午前中。
 場所は、人々が集う駅前。

 そんなところで、まさか早々に腕を組んだり、ましてや抱きついたりなど……


( ――― かくごは ― )


「……」
 ふいに動きを止めた私を、彼が不思議そうに見る。

「どうした?」
「あ、ああ。なんでもない。
 それより、急ごう。
 もう、開店しているころだろう?」

 彼の掌を握り直す。

 そう。まだ午前中なのだ。
 手をつなぐくらいが、私たちには相応しい。

 二、三度頭を振って幻聴を払い、私は彼を引っ張るようにして足を速めた。



 約束の時間よりずいぶん早く出会った私たちだが、駅前でのゴタゴタが結果的に時間調整となり、ヴェルデに着いたときにはちょうど開店時間だった。

 二人でここに来るのは、あのクリスマス・デートのとき以来だ。
 あのときは、方々を回った末に地下へ行ったのだが、今日は真っ直ぐに足を向ける。


 地下総合食品売場は、開店直後だというのに、多くの人で賑わっていた。
 閑散とした様子を想像していた私が目を丸くすると、

「共働きとか、普段忙しくてなかなか買い物できない人たちが、まとめ買いに来てるんだよ。
 レクリエーションも兼ねてるんだろうな。
 車で来て、家族で買い物して、お昼をどっかで食べて……そんな感じじゃないかな」

 彼の説明に納得する。
 まったく、いつものことながら、こういった所帯じみたことに関する士郎の洞察は鋭い。

 私たちも、さっそく買い物籠を取り、人混みの中に加わった。


 以前来たときは、言わば総論的な士郎の課外授業だったが、
 その伝で言うなら、今日は各論、実地研修だ。

「前にも言ったけど、俺に教えられるのは和食、それもお総菜料理だけだからな。
 鐘は知識も充分だし、お母さんからも習ってるから、基礎の基礎からやる必要はないだろ。
 だから、ポピュラーで応用の効くものを作ろう」

 そう言って士郎は、さっそく食材に手を伸ばしている。
 ちなみに今日は、どんな物を作るのか、と尋ねると、


 ごはんと豆腐の味噌汁、肉じゃが、ほうれん草のおひたし。
 そして、私が唯一作れる『甘鯛のポワレ』の発展形として、鰤の照り焼き。

 それと、
「家の冷蔵庫にキャベツと人参が少し残っている」
 と私が言うと、

「よし。じゃ、それで即席漬物も作ろう。
 これ覚えとくと、便利だぞ」

 ……。
 以前にも感じたことなのだが。
 この男は、本当に年頃の男子学生なのだろうか?



 人混みの中には、家族連れや老夫婦だけでなく、見るからに新婚、といった二人連れや、恋人同士とおぼしきカップルも見受けられる。

 初々しいものだ、と幾分、以前のような視線で観察をしていて、

「……」

 思わず苦笑した。
 私たちこそが、その『恋人同士とおぼしきカップル』そのものだろうに。


 そう言えば、以前にここで声をかけられたことがある。
 柳洞一成。
 元生徒会長にして士郎の親友。

『お主たちが食材を選んでいた場面など、どこのおしどり夫婦かと思ったくらいだ』

 などと、私たちをからかっていた。

 いや、彼はそのようなからかいをする人物ではない。
 多少、皮肉っぽくはあったが、彼がそう言うのなら、私たちは本当にそのように……


(……人は、成長するものなんだぞ?)


「 ――― 」
 またも聞こえた幻聴に、動きが止まる。

 否。

 これは幻聴ではなく、私自身の……


 慌てて再度頭を振り、食材選びに専念する。
 まったく、受験が終わって気が緩んだのか、あの時のあの場面が……

「鐘。」
「な、なんだ!?」
「……いや、そんなに驚かなくていいけど。
 でも、とりあえず今日は、ベーコンは使わないから」





 いけない。

 意識すまいと思えば思うほど、頭の中にあの時のシーンがよみがえってくる。

 今までは、受験勉強に没頭することで、それを意識の外に追い出し。
 数日前からは、家の大掃除で気を紛らわし。
 つい先ほどまでは、士郎との久々の時間に有頂天となり、頭から消えていた光景。


(……あれから、どれくらいの時間が過ぎたと思っている?
 私は……一致した。
 君の準備は、……どうだ?)


「~~~~~!」

 自分自身が吐いた言葉が、ついに明確に脳裏に聞こえる。


 認めよう。

 士郎の家へ年賀に行った帰り道。
 私と彼が、確認し合った事柄。


(私たちの準備は―――整った。)


 あれ以来、あのことが頭から離れない。

 受験勉強という当面の障害が除かれた今、それを気にするなと言うのは、私にとって無理な注文だった。

 まして今日は、本当に久々の、士郎との一日。
 隣に彼がいる、という事実だけで、胸は高鳴り、頬が染まる。
 とどめは、私の家の状況だ。
 買い物を終えた今、私たちは《その状況の》家に向かいつつある。

 これだけ条件が揃っていて、なんで平静な顔ができようものか。

 なのに。


「……鐘。
 ほんとに大丈夫か?
 なんか、今日はおかしいぞ」

 この男は真顔で、本気の口調で、純粋にこちらを心配して尋ねてくるのだ。
 私は、自分では気の短い方だとは思っていないが、さすがに怒りを禁じ得ない。


 彼は、あの時の会話を忘れてしまったのだろうか?

 忘れるはずがない。

 あのとき私たちは、うるさいくらいに響くお互いの心音を聞きながら、固く抱き合ったのだ。
 鈍感ではあるが、誠実で細やかな彼が、あの時のやりとりを心に残していないはずがない。



 ならば……

 軽く歯噛みをする。
 彼がこんなに落ち着いていられるのは、やはり《経験の差》というものだろうか。

 私にとって彼は初恋の人であるが、彼にとって私は―――そうではない。



 《セイバー》。

 彼がおそらく初めて愛した女性。
 間違いなく、本気で愛した女性。

 もとより、詳しい話など聞いたことはない。
 それでも、彼と彼女の間柄は、通り一遍の表面的なものではなく、
 まさに命を賭け、お互いの存在を賭け合った、ギリギリの恋愛だったことくらいは、分かる。

 当然、そこには男女としての肉体的なつながりもあっただろう。
 無ければ、おかしい。


 それは、いい。
 嫉妬していない、とまで言えば嘘になるが、それは、彼の人生にとって本当に大切な経験だったのだから。


 悔しいのは、自分の経験の無さだ。

 もとより、士郎以外の男性にこの身をまかせることなど、想像もできないが、
 それでも、このような状況の中、落ち着き払っている彼の横で、
 勝手に狼狽し、赤くなっている自分を客観的に見つめると、みじめな気分になってくる。



 いつだったろうか。
 前にも、こんな気分を味わったことがあった。

 あれは確か……まだ私と彼が付き合う前。
 気持ちのすれ違いから私が彼を避け、彼がそれを捕まえて、

『氷室、俺と付き合ってくれ。』

 と言ったとき。


 あの時の士郎は、私には落ち着いて見えた。
 私がこんなに苦しんで、ぼろぼろになっているというのに。
 女性を捕まえて何かを言おうとしているのに、この男は取り乱しもせずに平然としているように、私の目には見えた。

『ずいぶんと君は大人じゃないか。それは過去に恋愛を経験している故の強みだろうか?』

 腹立ち紛れに、そんな酷薄な皮肉をぶつけさえした。


 今なら、それが間違いだったことが分かる。
 彼は、そんな器用な性格ではない。
 そんな器用な性格だったら、私も、周りの人々も、これほどまでに苦労はしない。

 あのとき落ち着き払って見えたのは、単に緊張から顔が強張っていただけであり。
 加えて、彼がここぞと言うときにだけ発揮する、勝負度胸の強さ故だった。
 本当はあのとき、私に負けないくらい彼も悩み、混乱していたのだ。



 だが。
 やはり、経験の差という物は、厳然として存在する。
 特に、こうした男女に関することについては、如実に差が現れる。

 彼も《あの時》以来、私に負けず劣らず、そのことを意識し、悶々としてきたはずだ。
 彼の性格を思えば、それは簡単に推察できる。


 しかし、それでもこうやって平然としていられるのは
 ―――少なくとも、平然を装っていられるのは、やはり彼のほうが、一歩先を進んでいるからだろう。

 そうでなくて、あれほどの会話の後、久々に同じ時を過ごす恋人の前で、
 しかも、これから向かうその恋人の家が、どんな状況にあるのかを知っていながら……



 ……知っていながら?


 彼は―――知っている、のだろうか?



「……士郎?」

「ん?」
 ずっと私を心配し、こちらの気配を伺っていた彼が、私の呼びかけに答える。

「なんだ?」
「その……私は、話したか?」
「なにを?」

 きょとんとする彼の瞳を見ながら、私は今までの記憶をフル回転させる。
 ―――あー。


「その……今日は、両親が………よ、夜までかえらない、ことを、だ」

「 ――― 」


 士郎の右手から、スーパーのレジ袋が、落ちた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ三)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:3c77f5af
Date: 2010/11/02 19:32



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ三)





「あ、違う。
 ジャガイモの皮を剥くときは、もっと薄く―――こそげるくらいの気持ちでいいんだ。
 皮に栄養があるんだからな」

 キッチンに立ち、指導が始まるころになって、ようやく私たちは平常な会話が出来るようになった。



 なにしろ、


(今日は、両親が………よ、夜までかえらない、ことを、だ)


 あの問いかけの後、士郎はこちらが感心するほど真っ赤に茹で上がり、数分間棒立ちに硬直してしまったのだ。

 やっと動けるようになり、取り落としたレジ袋を拾い上げてからも、まるで某SF映画の通訳ロボットのような歩き方をするは、こちらに話しかけようとして意味不明の音声を発するは、ちらちらとこちらを見たかと思うとぶんぶん頭を振るは、正に

《動揺》

という言葉をそのまま人型にしたような慌て振りだった。


 それを見て、ほっとした。

 彼にとって―――少なくとも恋愛については、『経験』というものは意味を成さないらしい。
 私の朝からの煩悶を、一気に濃縮したような彼の挙動に、多少なりとも溜飲が下がったことも事実だ。


 ―――もっとも、それで私が落ち着きを取り戻したかいうと、それはまた別問題である。
 むしろ、彼の動転振りが、私の動揺を加速してしまったらしい。

 エレベーターのボタンを間違えたり、家の鍵がどうしても穴に入らなかったり、彼を家に上げる前に最終チェックのため無意味に室内を走り回ったり……


「……鐘。
 とりあえず落ち着くために、落ち着いて深呼吸して、少し落ち着こう」

 彼が、自分自身に言い聞かせるように提案する。

 確かに、こんな心理状態で料理などしようものなら、どんなことになるか。
 技術が身に付く、付かない以前の問題だ。
 最悪、怪我や事故に繋がりかねない。


 彼といっしょに深呼吸を繰り返し、エプロンを装着し、腕をまくって手を洗い―――
 まるで儀式のように、それらに真剣に取り組んでいるうちに、ようやく心が静まってきた。
 そして、改めて

「では、先生。
 今日はよろしくお願いします」

「よし、こっちは準備出来てるからな。
 鐘は―――あ……」


 ……だ、だから。


(私は……一致した。
 君の準備は、……どうだ?)


「―――」
「………」

 せっかく落ち着いたのに、
 思い出させるんじゃ、ない……





 苦心の末、ようやく出来上がった昼食を、彼と二人で食べる。
 差し向かいで箸を動かしていると、先ほどとは別の意味で、妙に気恥ずかしい。
 ―――気恥ずかしいのだが、それがまた、妙に嬉しい。

 気付けば、自然に顔がほころんでいる。
 それは、真向かいの彼も同じだった。


 しかしそれとは別に、料理の師匠としての彼は、なかなか厳しかった。
 以前、この家に年賀に来て、私の料理を――まさにこのテーブルで――食べたとき、彼は言っていた。

『こと料理に関しては、俺は絶対に嘘は言わないし、言えない』

 その言葉の通り、今日の料理に関しては、何とか及第点なのは鰤の照り焼きのみ。
 あとは、『尚精進ヲ要ス』といった判定だったようだ。

 ―――思わず、溜め息が漏れてしまう。
 まあ、最初からうまくいくのならば、こうやって教えを受ける必要も無いわけだが。
 士郎はもちろん、桜さんや遠坂嬢、あの領域に近づくまでには、どれくらいの研鑚を積まなければならないのか。


 落ち込みつつ、ふと顔を上げると、彼もまた溜め息を吐いていた。

「……まったく。
 講習初日でこれだけのものを作るなんて。
 これじゃ、師匠なんていらないぞ、ほんとに」

「え……?」
 知らず、聞き返す。

「だってそうだろ。
 確かに、お客さんに食べさせるにはちょっとあれだけど、立派に料理になってるじゃないか。
 これで、初めての料理だって言うんだから……」
 彼は、むしろ呆れたような顔で首を振る。

「そ、それは、君が手伝ってくれたから……」

「いや、そうじゃない。
 確かに俺も少しは手を貸したけど、味そのものに関わることには、ほとんど手出ししてない。
 俺も、人に敎えるのは初めてじゃないからな。
 その辺の所は、ちゃんと心得てる」

 確かに、私には兄弟子……いや、姉弟子がいる。
 しかし、あの人の腕前とは比べるべくも……

 そんな私の思いを読んだわけでも無いのだろうが。


「ほんとに、桜がこのこと知ったら、本気で悔しがるぞ。
 いや、
 『妹に抜かされるわけにはいきません!』
 って、メラメラ燃えあがるかもな。
 あいつ、最初はおにぎりも満足に握れなかったんだから」

「桜さんが?」
 思わず、声を上げてしまう。

 信じられない。
 あの、良妻賢母の典型、料理ならなんでもござれの桜さんが……

「ほんとさ。
 あ、でも、俺が言ったってことは内緒な。
 でないと、後が怖い」
 そういって、ちょっと大げさに震えてみせる士郎。

「……どうかな。
 なにしろ、私は彼女の妹だからな。
 姉に逆らう、というのは……」

「おいおい」

 笑い合いながら、二人で箸を進めていく。



 ……改めて知った事実だが。
 士郎は、教師の才能もある。

 厳しいところは厳しく。
 教え方も的確で、説明に無駄がない。
 だが、決して無味乾燥ではなく、生徒に自分で考えさせる方法も知っている。

 そして、なにより生徒をやる気にさせる接し方。
 褒めるところはきちんと褒め、しかも褒めすぎない。
 口で言うのは易しいが、誰にでも出来ることではない。

 さすがは、あの名教師・藤村大河の弟、と言ったところか。


 ―――教壇に立つ士郎、というのも、案外似合うのではないかな。

 そんなことを思いつつ、含み笑いをしていると、


「まあ、これで俺も、張り合いが出てくるよ。
 いくらなんでも、弟子二人にそろって追い抜かれるわけにはいかないからな」
 半分強がりだけどな、と彼が、笑いながら話を継いでくる。

「師匠がそう言ってくれるのならば、私もやる気が湧いてくるな。
 姉妹弟子二人で、師匠越えを目指すか」

 私も笑みを向けつつ、彼に返す。

 ……心の中では、
 あまり上達しなくてもいい、いつまでも彼に、料理を習う立場でいたい、
 と思いつつ。





「後片づけも、料理の大事な一環である」
 という師匠の方針の下、キッチンを元どおりピカピカに磨き上げ。
 私たちは、今はリビングで食後のお茶を楽しんでいた。

 私の家では、母の好みもあって、こういうときは大抵紅茶なのだが、
 せっかく和食をいただいた後なので、日本茶を喫することにした。


 もちろん、これも料理教室の一部分でもある。
 食中のお茶は士郎が入れたが、今度は私の番だ。

 先ほどの士郎の手並みを思い出しつつ、慎重に行う。
 紅茶に関しては、ひととおり手順を知っているつもりだが、日本茶の入れ方には、それと似ている部分も、似て非なる部分もあった。

 師匠からは、お褒めの言葉はなかったが、ダメ出しも無し。
 ま、『普通です』と言ったところか。


 しばらく、お茶を啜りながら話を楽しむ。
 途切れそうで、途切れない会話。
 途切れたとしても、それを埋められる笑顔。
 彼との、いつもの楽しいひとときだ。



 しかし。

 やはり、少しずつ口が重くなってゆく。


 料理に夢中で、いや、あえて夢中になって、今まで意識の片隅に追いやっていたが。
 先ほどまでのやりとりが―――この家に、二人きりで居る、という事実が。
 私たちの口を、重くさせる。

 だが、先ほどまでのように、狼狽はしない。
 私たちは、もう《準備》は整っているのだから。



 どちらともなく言葉を発さなくなって、数分。
 彼が、不意に立ち上がり、

「 …… 」

 私の隣に、腰掛けた。


「―――鐘。」

 彼が、私の肩を抱き、そのまま抱き寄せる。
 私は、それに逆らわない。

 そのまま、彼がゆっくりと、私に口づける。
 浅く、深く、やさしく、力強く。


 そのリズムに酔いながら、私は自分を確認する。

 うん。
 大丈夫だ。

 今は、ずれていない。
 私の頭と、私の心の《準備》は、ぴったりと重なっている。


 しかし。

 彼から感じるリズムには、何かしら迷いが感じられる。

 それは、頭と心が重ならないが故の、迷いではあるまい。
 《覚悟》が定まらないためでも、無いはずだ。

 ならば、彼は何を……



 ―――そうか。


 彼は、《場所》について、迷っているのだ。


 彼に、私とひとつになることへの躊躇は無い。
 しかし、今日この場所で、という想定は、おそらく彼には無かっただろう。

 恋人の家。
 自分が愛する人のテリトリー、ある意味で精神的な『城』とも言える場所で、そのようなことを行うのは、
 その人の聖域を侵すことに繋がってしまうのではないか、と。

 彼は、そう悩んでいるのだ。


 ……実に、彼らしい。
 やさしくて、思いやりがあって、同時に、鈍感だ。

 心から愛する人と結ばれるのに、自分の家だから嫌だ、などと言う人間が、
 どこの世界にいるというのか。



 彼の口づけを受けながら、私は微笑んでいた。
 口で説明するのはたやすいが、それは野暮になるだろう。

「……しろう。」

 だから私は、区切りを見つけて彼からそっと唇を離した。
 彼の掌を取り、そのまま立ち上がる。



「私の部屋に、行こう」





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ四)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:3c77f5af
Date: 2010/11/07 18:29

     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ四)





 私の部屋に二人で入り、ドアに鍵をかける。
 もとよりこの家には、彼と私の二人きりだが、それでも鍵をかける。

 窓に遮光カーテンを引き、できる限り暗くする。

 室内を見回し、軽く息を吐く。

 すべて、儀式の一環として。


 そして、その部屋の真ん中で―――装飾が少なく、年頃の少女にしてはやや殺風景な部屋の真ん中で、改めて彼と抱き合う。

 部屋の中は、無音。
 壁の時計は、クォーツではないので音を立てず。
 防音製の高い窓からは、外の雑音も入ってこない。

 耳に響くのは、私と彼が触れあう音。
 あとは―――心音。



 部屋に入ってからの彼は、先ほどの迷いを脱ぎ捨て、積極的に私をリードしてくれる。
 私の想い……私の、決意を、私の行動から読み取ってくれたのだろう。

 婦女子が、自分から男子を自室に誘う。

 あのときは、自然に口から出た言葉だが、今、思い返してみると……

 口づけを受けながら、別の意味で頬が染まる。
 しかし、後悔は無い。



 口づけのリズムが、だんだん激しくなる。
 彼の、見かけによらずたくましい左腕は、しっかりと私を支え、
 右掌は、やさしく私の髪や背を撫でている。

 その右掌が、ふいに違う動きをして……


 ―――うん。
 大丈夫だ。

 今度は、あの時のように驚いたりしない。
 私の左胸に置かれた彼の掌を、逃れたりなどしない。

 むしろ、その掌を愛おしいとさえ感じる。


 少し唇を離して、彼は私を見る。

 私は、微笑んで頷く。

 彼も、微笑みを返してくれた。



 再び、口づけの中、彼の掌が私の体をさぐる。
 大切なものを、確かめるように。
 無骨だが、誠実に。限りない優しさを込めて。


 口づけのリズムと、その愛撫の中、私の頭は、だんだん朦朧としてゆく。
 私の体から、だんだん力がぬけてゆく。

 これ以上、膝が自分を支えきれない。
 その、一歩手前で、

「 ――― 」

 私は、背後のベッドに、自分から腰掛けた。

 当然、抱き合っている彼も、それに引かれる。


 ふたり、ベッドに体重を預ける。
 私の体が、だんだん背後に傾いてゆく。



 口づけは、止むことを知らない。

 彼の舌が、私の唇を割る。
 歯茎をなぞり、歯をこじ開け、舌を絡める。
 時折、上唇を甘噛みしてくる。
 それは、彼の性格を現すごとく、焦らず、ゆっくりと。
 こちらに負担をかけないよう、やさしく、丁寧に。


 ―――あのときは、それに答える余裕は私には無かった。
 彼の行為に、意識を保つことで精一杯だった。

 しかし、人は成長する。
 今の私は、不器用ながらもそれに答えることが出来る。

 彼の真似をして舌を絡め、唇を甘噛みし、少し離してはまた吸い付き……


 頭の朦朧さが、増してくる。
 いや、朦朧としている、と言うより、別の世界で思考をしている、と表現した方が的確か。

 私の思考はこの世界を離れ、別の次元へと移行する。
 どんな世界……?

 ―――知るものか。



 彼の手が、私のカーディガンを脱がす。
 ブラウスのボタンを、一つひとつ、ゆっくりと外していく。

 下に着たシュミーズと……肌が、露わになる。


 ……恥ずかしい。

 恥ずかしくないわけが、ない。

 初めて異性に―――彼に、自分の肌を見られるのだ。

 どんなに遮光性の高いカーテンで窓を覆ったとしても、時刻は、未だ昼過ぎ。

 暦の上では春の明るさは、この部屋にも充分に侵入し、
 部屋の中を……わたしを、照らし出す。


 恥ずかしい。

 恥ずかしいが……それだけだ。

 不安も、怯えも、無い。


 私の衣服を脱がす、彼の指が愛しい。
 露わになった肌を愛撫する、無骨な掌が愛しい。
 ときどき唇を離して私を見る、彼の眼差しが、愛しい。

 彼への感情に耐えられなくなった私は、彼の頭を抱き寄せ、自分から彼の唇に吸い付いた。



 彼が、私を少しずつ脱がしていく。

 合間に、彼も一枚ずつ、自分の衣服を脱いでいく。



 母に済まないな、と、ふと思う。

 今日、出がけに母は言っていた。

 ……言っていた。

 ―――なんと、いっていただろう?


(あなたはもう大人なのだから、細かいことは言わないけれど……)

 ああ、そうだ。
 いつも笑みを絶やさない母が、珍しく真剣な表情で、私の両肩に掌を置いて、言ったのだ。

(大人の行動には、常に責任が伴います。
 その責任を受けとめるだけの覚悟、そして周りに迷惑をかけず、事をスムーズに運ぶための準備。
 それは、大人としての最低限の義務なのよ。
 そのことだけは、忘れないで)


 大人の、責任。

 両親から大人として扱われているとは言え、私は法的には未成年だ。

 大人としての責任を取れない年齢である私は、このような行為をすべきではなく。
 そんな、娘を想う母の忠告を、私は今、無駄にしようとしている。


 ……いや。
 本当にそうか?

 あの時の言葉は、少々抽象的だった。
 母は、ひょっとしたら、もっと違うことを言いたかったのではないか?

『責任を受けとめるだけの覚悟』
『周りに迷惑をかけず』
『事をスムーズに運ぶための準備』

 母は、責任を取れない事はするな、と言ったのではなく、

(それは、大人としての最低限の義務なのよ)

 《事》を成すのなら、第三者へ迷惑をかけることなく、責任を受けとめるための《準備》を怠らず、
 それこそが、大人としての《義務》だと―――


「……士郎。」

 この部屋に入って、初めて私は、言葉を発した。

「避妊具の用意は、あるか?」




















     何を言っているのだ、私は!!!??




















 別世界に行っていたはずの思考が、一気に現実に引き戻される。

 熱を帯びていた体が一瞬にして冷え、別の熱によって覆い尽くされる。

 か、仮にも、愛する人と初めての時を過ごそうとしている、ふ、婦女子が、
 まさにそ、その行為の真っ最中に、当の恋人に向かって、
 ひ、ひにん……ぐ?
 そのような、即物的で散文的で具体的な名詞など真っ向から男性に投げつけてどこの経験豊富な女性でもあるまいにこんな言葉をいきなり浴びせられた彼の心中は察するに余りありいや察することなど恐ろしくて出来るはずもなく―――



 思考が暴走し、朝の自分など比較にならぬほどのパニック状態に陥る。

 ―――永遠にも似た長い時間が過ぎた、ような気がした。
 が、実際には、一瞬だったらしい。
 それが分かるのは、


「ああ、持ってきてる」


 私の言葉に、士郎が、実に自然に答えたからだ。


「あの夜から、鐘といっしょになりたい、ってずっと思ってたからな。
 このあいだ、隣町まで行って買ってきたんだよ。
 ……今日、使うとは思わなかったけどな」

 さすがに、深山町や新都で買う勇気は無かった、
 と、彼は頬を染めて笑う。



 ―――ほんとうに、きみという、男は……



 失言をした、私へのいたわりでは無い。

 経験者の余裕などでも、勿論ない。


 彼は真実、私とひとつになりたいと思い、
 そのために、自分がどう行動すれば良いのか、考えたのだ。

 母の言うとおり、『大人としての責任』を、果たそうとしたのだ。


 それは、言い換えれば、私への想い。

 私と彼が進むべき、未来への想い。



「しろう―――」


 改めて、彼に抱きつく。

 今こそ、胸を張って言える。

 恐れなど、無い。
 後悔など、微塵も無い。

 彼とひとつになることに、誇りすら感じる。


 羞恥で燃え上がっていた私の体が、また別の熱によって上書きされる。
 それは、無上に心地よい、涼しさにも似た―――





 彼の手が、私を少しずつ剥がしていく。

 彼も、少しずつ自分を剥いでゆく。



 お互いに、もう脱ぎ捨てるものが無くなり、

 最後に彼は、まるで聖なる物を扱うような手つきで私の眼鏡を外し、



 そっと、サイドテーブルに置いた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)
     http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ五)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:c6db9df5
Date: 2010/11/11 20:05


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ五)





 閉じたまぶたの上からでも、室内の光が減っていくことが分かる。

 暦の上では春とは言え、まだまだ日は短い。
 もうだいぶ、陽も傾いているのだろう。



 私は今、自分のベッドの中にいる。
 自分のベッドの中で、彼といっしょにいる。

 私の右側に彼は仰向けになり、私の頭は―――意外に、と言っては失礼だが、そのたくましい胸の上に置かれている。
 彼の胸の上に頭を置いて、私は目を閉じている。


 こんなとき、 波の音がする だとか、 音楽が聞こえる だとか、詩的な表現が出来れば良いのだが。

 あいにく、そちらの才能は私には無いらしい。

 聞こえるのは、彼の心音。
 感じるのは、彼の体温。

 それだけだ。



 妙に、五感が鋭くなっているような気もする。
 同時に、その感覚はひどく遠い。

 わたしはただ、自分が感じるすべてに身をまかせ、ゆっくりと暗くなっていく部屋の中で、じっと目を閉じている。


 きもちがいい。

 ねむい。

 だが、ねむりたくない。


 この鼓動を、このあたたかさを、いつまでも感じていたい。

 ときおり、わたしの髪や背をなでてくれる手を、いつまでもかんじていたい。

 ねむらずに、いつまでも……



 ―――ゆっくりと。
 やさしく。

 だが、不意に。

 そのあたたかさが、去っていく。


 私の頭をそっと持ち上げ、枕の上に乗せる、誰かの(……だれの?)手。

 そして、ひそやかにベッドを抜け出していく、わたしのしあわせ。


「 ――― ! 」

 思わず、その方向に手を伸ばす。

 だが、その手はわずかにあたたかさを撫でただけで


「ああ、ごめん。
 起こしちゃったか」


 かわりに、やはりあたたかい声が振ってきた。



「……しろう?」

 彼の名を、呼ぶ。

 響きは、いつもと同じ。
 当たり前だ。
 同じでなければ、困る。

 けれど、どことなく、いつもとは違っている、ような……


「よく眠ってるみたいだったから。
 なるべく起こさないようにしたつもりだったんだけどな。
 ごめんな」

 彼の、困ったような声に、ようやく目を開く。

 先ほど感じたとおり、ほとんど光が無くなった部屋の中で、
 彼は、衣服を身につけている最中だった。


「―――どう、」

 したの?

 とまでは言えなかった。

 当然の話だ。

 彼は―――帰るのだ。



 もう陽も沈み、そろそろ夕飯の支度を始める時刻。

 母は、

『夕食までには戻れない』

 と言っていた。

 それは、夕食が終わった頃には戻ってくる、ということ。


 いくら私の母が寛大で、彼との付き合いに理解があると言っても。
 帰宅したら、娘が恋人とベッドの中にいました、というのは、さすがにまずい。

 それこそ、母の言う『大人としての責任』から外れる行為だ。


 だから、この時間に彼が帰るのは当然。
 私から、離れていくのも、必然。



 ……私は、理性を総動員していた。


『帰らないで』


 この一言を、押さえ込む。
 ただ、それだけのために。


 彼が私から離れていったとき。
 身を引き裂かれる思いがした。

 比喩ではない。
 本当に、私はその痛みを感じたのだ。


 両親にどう思われてもいい。
 誰に迷惑がかかってもいい。
 彼に……彼が困ったとしても、―――いい。


 士郎。

 かえらないで。

 さっきまでのように、私を抱きしめて。

 でないと、わたし、は……



 私は、どんな顔をしていたのか。

 ふと気付くと、彼の顔が、近づいていた。


 ほとんど光を失った部屋の中でも、表情を読み取れるくらい、近くに。

 その、彼の表情は……


「 ――― 」


 彼が、私に口づけを、くれる。


 先ほどまでのように長くもなく。
 情熱的でもなく。

 ただ、唇とくちびるを触れあわせるだけの、ソフトキス。

 その口づけは、しかし―――



「また明日、な。鐘」

 いつものとおりの言葉。
 私の家の前で別れるとき、そのままの笑顔で、彼が言う。


「ああ、士郎。ありがとう。
 また、明日。」

 いつものとおりの返事を、
 私も、笑顔で、返せる。


 そのまま彼は、部屋のドアまで歩いていき、
 扉を開け、

「 ――― 」

 いつもの交差点で振り向くように、
 笑顔で手を振ってから、


     ぱたん


 ドアを、閉めた。





    ―――――――――――――――――――





 どのくらい、ひとりで横たわっていただろう。

 遮光カーテンが引かれたままの室内は、もう完全な闇に覆われていた。

 でも、さみしくはない。

 彼が、残していってくれた口づけが、教えてくれた。
 私は……ひとりでは、ないのだと。


 ただ……何も考えられない。

 考えようとして、これからどうしようと何度も考えようとして、
 ―――結局私は、こうしてベッドに寝そべっているだけだ。



 現実的なことを考えよう。
 散文的なことを、かんがえよう。

 この暗さからして、さすがに母もそろそろ帰ってくる時刻だろう。

 母はいきなり私の部屋に入ってくることもないだろうが、
 それでも顔を合わせたときに―――その時は服を着ていたにしても―――この状態、というのはやはり良くない。

 冬とは言え、それなりに汗もかいている。
 母が帰ってくる前に、せめてシャワーくらいは浴びて……



 そう思い、まだうまく動かない体を動かして、起きあがろうとしたとき。


   ふわり


 と、なにかの匂いがした。



 ああ。

 このにおいは、とても、おちつく。


 私の肌に、染みついたにおい。

 でも、私の匂いではない、におい。


 シャワーを浴びるということは、つまりこのにおいと……



 ―――シャワーは、明日の朝でもいいだろう。

 母が帰ってきたとしても、申し訳ないが、寝たふりをすれば済むことだ。

 それよりも、この匂いともう少し……


 今夜一晩だけ、この匂いに包まれていても、罰は当たるまい。


 私は、起きあがりかけた体を、再びベッドに沈め。

 同じく、この匂いが残っている寝具にくるまって。

 もう一度、目を閉じた。



 ひと筋、涙がこぼれるのを感じながら。





    ―――――――――――――――――――





 《夜風》と言ってもいい寒気に、肩をすくめながら。
 少年―――もう少年を脱した青年は、軽く息を吐いた。


 彼女の家は、オートロックだったはずだ。
 こういうときに、現代技術の便利さを感じる。
 自分の家ならば、戸締まりについて悩まなければならなかっただろう。

「 ――― 」

 散文的なことを考えている自分に、つい苦笑する。
 少なくとも、恋人と初めてひとつになれた男が、その帰り道に考えることではあるまい。



 考えること。

 青年の顔は、苦笑から思案へと変化する。
 散文的なことから、さらに現実的な事を考える顔に。


 彼女と、身体を重ね合わせた。
 そのこと自体には、いささかの悔いも無い。

 しかし、責任を、感じる。

 それは、彼女の純潔を奪ったとか、男としての責任を取るとか、そういった次元の問題ではない。


 青年は、特殊な環境に身を置いている。
 一般人には知られていない、否、知られてはならない、環境。

 さらに自分は、その《特殊な環境》の中でも、さらに異端だ。
 いや、間違いなく世界全体から見ても、自分の理想……夢が、決して叶えられるはずの物ではないこと。
 それは、青年自身が知っている。



 何度も、考えてきた。
 彼女の想いを知ったときから、
 自分の想いに気づいた時まで。

 そして、結論を出した。
 自分の夢と、彼女への想い、
 そのどちらとも、捨てることなど出来ない、と。


 だが、今になって。
 彼女と身体を―――人生を重ね合わせた今になって、
 それが、頭だけで考えられた絵空事であったことに気づく。


 あらゆる意味で普通ではない自分が、あらゆる意味で一般人である彼女と、人生を重ね合わせた。

 その責任を、自分はどうやって取ってゆけば良いのか。





 もういない人のことを思う。
 黄金の髪と、翠の瞳を持った人のことを、思う。

 アイツとなら、こんな思いをせずにすんだのだろうか。

 アイツも、あらゆる意味で普通の人ではなかった。
 いや、客観的に見れば、《人》ですらなかった。

 たとえ、もう二度と会えなくとも、
 アイツへの想いだけ抱いて生きてゆけば、
 ―――他の女性を巻き込むような真似をしなければ、今のような苦しみは……



     ぴしゃっ



 音がする。

 自分で、自分の頬を叩いた音だ。


 何を、今さら。

 今さらそんなことを考えるのは、彼女への……もういない彼女と、今そこに存在する彼女への、冒涜だ。


 それでも自分は、あの灰色の髪と瞳の女性を、愛した。
 離れることなど、到底出来なかった。


 それが、結論だ。



 ならば。
 次の問は、その地点から発されなければならない。

 自分の夢が、今までの考えのまま、彼女への想いと共存できるとは、どうしても思えない。


 ならば、夢を諦め、彼女と歩んでいくのか。

 いや、やはり彼女を巻き込むことを良しとせず、離れていくべきか。

 ―――それとも。
 ひょっとして、第三の、答が……



「 ――― 」

 夜風が、体を通り抜ける。

 思わず、ジャンパーの襟を合わせ直す。

 その、拍子に。


   ふわり


 と、なにかの匂いがした。



 ああ。

 このにおいは、とても、おちつく。


 自分の肌に、染みついたにおい。

 でも、自分の匂いではない、におい。



 ―――結論は、今すぐに、出さなくてもいいだろう。

 いや、この問への答は、性急に出して良いものではない。
 納得のいくまで考え、自分の全存在を絞り尽くして、出してゆくべきもののはずだ。


 それよりも、今は。

 今だけは、この匂いといっしょにいたい。

 今夜一晩だけ、この匂いに包まれていても、罰は当たるまい。



 橋を渡り終えた青年は、
 改めてジャンパーの襟をかき寄せながら、


 自分の家に向かう道とは違う方向へ、

 ―――川沿いのプロムナードへと、
 ゆっくり、歩を進めていった。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

 に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:745355a1
Date: 2010/11/15 20:03


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ六)





「キエーッ!!
 ど、どこのレディースコミックの主人公だ、オマエはぁぁぁ!!!」

 聴き終えたとたん、蒔の字がいきなり立ち上がって、木人拳のポーズを決める。
 その顔は、興奮のためか真っ赤に染まっている。


「か、かねちゃん……わああ……」

 私の向かいでは、由紀香が同じく頬を真っ赤に染め上げつつ、両掌を組み、夢見るようにまぶたを閉じている。

 ……私の顔は当然、二人よりも何倍も紅潮しているはずだ。


 客観的には、異様な光景に見えただろう。
 暦の上では春とはいえ、まだまだ風の冷たい中。
 年頃の娘三人が、わざわざ屋上で弁当を広げ。

 ひとりは意味不明の奇声を発しながら踊り狂い。
 一人は完全に夢の中を漂うような顔つきをし。
 そして最後の一人は俯き、このまま爆発でもするのではないかと思えるほど、全身を火照らせているのだから。

 人のほとんどいない屋上を選んだ由紀香に、改めて感謝をする。
 こんな場面を、なんで人様に見せられようものか。





 まあ、このような状況になったのも、自業自得ではある。


 《あの日》の翌日。

 私はまだ暗いうちから起き出してシャワーを浴び、身だしなみを完璧に整え、
 いつものように―――いつもと同じように他人から見えるよう努力しつつ―――学園に登校した。
 もちろん、校内で彼と出会っても、いつもの通りのあいさつが出来るよう、シミュレーションを繰り返しながら。

 ところが。
 完全な想定外だったが、先に来ていたらしい士郎と、校門でばったり顔を合わせてしまったのだ。

「「 ――― 」」

 ふたり、棒立ちになって固まる。
 瞬間湯沸かし器のように、一気に全身が熱くなる。
 彼も、赤インクでも浴びたかのように指の先まで真っ赤だ。


 どれくらい立ち尽くしていたのか。
 間の悪いことに、そこへ

「おはよう、鐘ちゃん、衛宮く……ん?」
「……お前ら、朝っぱらから校門で、阿形吽形の真似か?」

 由紀香と蒔の字が登校してきた。

 他の生徒も、不思議そうに私たちを見ながら脇をすり抜けていく。


 彼女らの声が起動スイッチになったのか、

「―――あ。
 ああいや!
 お、おはよう鐘!
 元気か蒔寺、三枝さん!?
 は、はははは!!
 じゃ、そういうことで!!」


『私は隠し事をしています』

 と全身で表現しつつ、士郎は踵を返すと、全速力で校内に駆け去っていった。

 残ったのは、棒立ちのままの私と、心配げな由紀香、不信感丸出しの蒔の字。

「―――んじゃ、メ鐘。
 昼休みにゆっくり、事の次第を訊かせてもらおうか」

 蒔に ぽん と肩を叩かれたのも、当然の結果と言えよう。



 さらに、昼休みになってからの私たちの動向も、彼女らの疑惑をあおったらしい。

 本来ならば今日は、ローテーションとして私たち三人プラス士郎で、昼食を取るはずなのだが、
 私の教室に来て、手作りの弁当を渡す士郎に、

「……
 きょ、今日、は……」
 俯きながら口ごもる私。

「あ、ああ……」
 彼も同じ気持ちだったのか、 ちらり と私の目を覗き込んだだけで、ますます赤くなりながら足早に立ち去った。


 当然だろう。
 あんなことがあったその翌日、差し向かいで平然と食事が出来るほど、私も彼も度胸が据わってはいない。

 その結果として、


「「……」」

 そんな私たちを じーっ と見つめる、我が親友ふたり。

 そんなわけで委細を説明するべく、この季節、最も人の少ないであろう、屋上へと移動した。



 蒔寺も由紀香も、なにも興味本位で私たちの事情を聴きたがっているわけではない。

 なにしろ、私たちには前科がある。


 あの《五日間》。
 士郎が、身を擦り切らすほど悩み、私もその照射を受けてげっそりとやつれてしまったとき。

 この二人はやはり、私たちのことを心より心配してくれた。
 その友情は、今もって私の胸を温めてくれている。


 あの時の私たちの弱り方を、つぶさに見てきている二人だ。
 また同じような事が、と案ずるのも無理はない。

 故に、私にはある意味、二人にこのことを報告する義務すら有るのだ。

 そう思い、昼食があらかた終わった後、なるべく簡潔に、事実のみを淡々と話した。

 ……つもり、だったのだが。





 蒔寺の踊りは、未だ止むことを知らない。
 由紀香は、今もってこちらの世界に帰ってこない。

 ―――思い返してみるに、話しているうちに頭がのぼせ、相当具体的なディティールまで説明してしまったような……

 私としては、この嵐が過ぎ去るのを、首をすくめて待つしかない。


「クッソウ、メ鐘!
 アタシたちより先におんむぐうっ!?」

「ば、馬鹿!?
 蒔!!」

 テンションがピークに達した蒔寺が、声高に叫ぼうとするのを、慌てて口を塞いで止める。

 長い付き合いだ。
 この女が何を叫ぼうとしたのが、幻聴を聴くがごとくに予想できる。



『クッソウ、メ鐘!
 アタシたちより先に女になりやがって!
 で、愛しの衛宮の、胸の中はどうだった!?
 氷の女がとろけて燃え上がるくらい、甘くて激しくてアルティメットだったのかあぁぁぁっっ!!?』



 屋上がほとんど無人とはいえ、校庭や窓の開いた教室には、山ほど人がいるのだ。
 この《人間拡声器》に、肺活量の限りにそんなことを叫ばれたら、
 私と士郎は明日からこの学園に登校できなくなってしまう。


 暴れる蒔寺を、全身と全筋力を使って押さえ込む。
 必死の攻防を繰り広げる私を救ったのは、天使の一声。

「だめだよ、蒔ちゃん。
 鐘ちゃんをからかったりしちゃ」

「むぐ。」

 はい。 と頷いたらしい。
 由紀香のおっとりとした諫めに、たちまち蒔寺が力を抜く。

 これ以上暴れそうにないことを慎重に確かめた上、私はゆっくりと拘束を解いた。


「でも鐘ちゃん、よかったね。
 ほんとに……よかった」
 まだ頬を赤くしながらも、由紀香が改めて、満面の笑みをくれる。
 心なしか、涙ぐんでいるように見える。

「まあ悔しいけどさ、
 氷室だから、しょうがないよな。
 アタシたちの時には、アドバイスしろよ」
 こちらも、頬を染めながら頭を掻く蒔の字。
 少々意味不明だが、言葉よりも声音と表情で、喜んでいるのが伝わってくる。


 ……胸が、熱くなる。
 全身が痛痒いほど恥ずかしかったが、やはり話してよかった、と思う。

「ありがとう、二人とも。本当に」
 この素晴らしき親友達に、私は心からの感謝を込めて、頭を下げた。


「いよおーっし!
 んじゃ、次の休みにはパーッと新都に繰り出そうぜ!
 氷室の初体験を祝もぐおっ!?」

 拳を突き上げ、高らかに宣言しようとした蒔寺の口を、由紀香と二人、両側から塞ぐ。


 ―――だ、誰にも聴かれていなかった…と、信じたい……





「うあ……
 し、知られちまったか。ふたりに……」

 もともと赤かった顔をさらに赤くし、士郎が頭を掻いた。



 飛ぶような速さで授業が終わり、その帰り道。
 士郎は、いつもの場所でいつものように、待ってくれていた。

 微笑み合ってから、二人並んで歩き出す。
 ―――朝の轍を踏まぬよう、授業中にずっと覚悟を練っていたおかげで、思ったほどの醜態はさらさずに済んだ。

 士郎も同じだったのだろう。
 少なくとも、見た目はいつもどおりの下校風景となってくれた。

 ……双方の肌が、必要以上に赤く染まっていたことは、この際無視するとして。


 こんな場合、沈黙は敵だ。
 私も士郎も、目に付くもの思いつくものすべてを話題とし、なんとか空隙を作らぬよう努めた。

 昨日に比べて少し寒さが和らいだようだ、とか、
 この家の庭では、もう梅が咲いているな、とか、

 とてもティーンエイジャーとは思えぬ会話だったが、
 とにかく、そんなやりとりを続けているうちに、ようやく胸の動悸も少しは静まってきた。

 なので、会ってからずっと伝えようと思っていた、昼休みの一件を彼に語ったのだが……



「―――す、すまない。君の了承を得ずに、勝手に。
 明日にしようか、とも思ったんだが……」

 場の雰囲気に釣られたこともあるが、なにより、心配そうな二人の顔を見ると、話さずにはいられなかったのだ。


「あ、いや違うよ。
 嫌だって言うんじゃないんだ。ほんとだぞ。
 あの二人には、ほんとに世話になってるし、
 折を見て話しとかなきゃ、って俺も思ってたんだ」

 私の申し訳なさを払うためだろう、
 慌てて手を振り、微笑んでみせる士郎。

「―――ただ。
 明日、あの二人にどんな顔をして会えばいいのかな、…って。
 ほら、三枝さんの、あの笑顔とか考えると……」

 そう言って彼は、ますます頭を引っかき回す。

 ―――確かに、異性の知人にこういったことを知られた場合、その人物と顔を合わせるのは、かなりの覚悟がいるだろう。

 私とて、もしもこの事を柳洞一成に知られたとしたら……
 想像するだけで、穴に入りたくなる。

 まして、士郎の言うとおり、こういった場合の由紀香の純真天然の笑顔は、ほとんど凶器に等しい。


「それに薪寺なんか、祝福代わりにいきなりドロップキック放ってきそうだしな。
 背後にも気を付けとかないと」

 ―――そんな馬鹿げた事はアレはしないし、させない……と、言い切れれば良いのだが。
 あの女の行動パターンだけは、長年付き合ってきた私にも、読み切れない。
 しばらくは厳重監視の下に置き、もしものときは身を挺してでも止めるしかあるまい。



「……でも、さ」
 彼が、赤い顔のまま、空を見上げて呟く。

「やっぱり―――嬉しいよな。
 俺たちの、本当に個人的なことだけど、こうやって友達に祝福してもらえる、って」

「……そうだな」
 私も彼の視線を追って、流れる雲を見つめた。

「嬉しいな。
 本当に……うれしい」





 そんな会話をきっかけに、私も彼も、ようやく肩の力が抜けたようだ。
 今度こそ、いつもと同じ雰囲気で、坂道を下る。


 私の美術大学受験の合格発表が、今月中旬にあること。

 士郎の、卒業してからの仕事のスケジュールについて。

 そう言えばイリヤが『カネ、いつ泊まりに来るの!?』って騒いでたぞ。

 それは嬉しい。両親と家主の許可さえ貰えれば、すぐにでも泊まりに行きたいが、どうだ?


 現在について。
 未来について。

 私たちの話題は、尽きない。



 ……話題は、尽きないのに。

「 ――― 」
「 ……… 」

 交差点を曲がり、坂道を下りきり、
 大橋たもとの海浜公園に近づくに連れて、

 またもや徐々に、二人の口が重くなってゆく。


 士郎は、左の掌を無意味にぶらぶらと振り。
 私は、右掌の汗を、しきりに拭う。

 理由は、分かりすぎるほど分かっている。
 先ほどと同じではないが―――先ほどの理由に連なるもの。



 まだ私が陸上部の活動に勤しんでいたころ。
 士郎との帰宅は、たいてい陽が沈んでからだった。

 夕闇に包まれて、士郎と私は手をつないで坂道を下り、
 新都大橋にさしかかる頃には、腕を組んでいる。

 それが、あのころのパターンだった。


 しかし、私が部活動を引退し、陽のあるうちに下校できるようになってからは、
 さすがに学校から手をつないで帰宅、という恥ずかしい真似は出来なくなった。

「なーにを今さら、バカップルが」

 などと、口の悪い蒔の字は言うが、それこそ心外だ。

 私たちは、どういう訳か『結果的に』気恥ずかしい行為を人前に晒してしまう状況が頻出するだけであって、
 決して人目を憚らずに、いちゃいちゃしているわけではない。

 ―――断じて、無いのだ。


 まあ、そういったわけでここ最近は、坂道を下りきるまではそういったスキンシップはあまり行わなくなっていた。
 ……言い換えれば、下りきってからは、その、行っていたのだが。

 具体的に言えば、それは新都大橋のたもと。
 夕暮れの海浜公園。

 この辺りまで来れば、同じ学園の生徒もほとんど見かけず、
 さらに、公園というシチュエーションもあって、それほど抵抗もなく手をつなぐことが出来る。


 そして。
 その―――いつも士郎と自然に触れ合える公園に私たちは今、足を踏み入れつつある、
 というのが現在の状況なのだ。



「 ――― 」
「 ……… 」

 ふたり、相変わらず無言。
 針で突っつけば爆発しそうなほど、緊張している。


 馬鹿馬鹿しい、と自分でも思う。

 私と士郎は、誰憚ることのない恋人同士。
 しかも、つい昨日、……その、…は、肌を合わせあった間柄なのだ。

 今さら、手をつなぐ繋がないで、なにをそんなに固くなっているのか。


 ……だが、それが虚勢であることも、私は理解している。



 昨日、私と士郎は、すべてを許し、すべてを委ね合った。
 言い換えれば。
 私の部屋で別れてから今まで……たとえ掌と言えど……一度も素肌を触れあわせていないのだ。

 つまり、ここで手をつなぐ、ということは、
 彼の温もりを再び感じると言うことは、

 ―――あの時のすべてを追体験する、ということなのだ。



 手を繋いだ瞬間、あの時の記憶が奔流となって襲ってくるのが想像できる。

 否。

 そんな事を考えている時点で、すでに奔流に弄ばれている。


 彼の左手が、カチカチに固まっているのが、横目で見受けられる。
 私は、両手で学生カバンを握りしめる。

 このような心境で手をつないだら、どうなってしまうか、自分でも分からない。
 さりとて、このままの状態で私の家まで歩いて行くのも、あまりに不自然だ。

 昨日、すべてのリードを彼に任せてしまったのだから、今日は私が積極的になるべきだろうか。
 見た限りでは、私のほうが少なくとも彼よりは余裕がある、ようにも思える。


 右掌をカバンから離し、ぎくしゃくと彼の方へ伸ばす。
 ……視線は、前方を向いたまま。

 簡単なことではないか。
 いつものように、ごく自然に、すぐそばにある彼の左手を、そう、何かを拾い上げるがごとく気楽に……



     すっ



 と。


 私の右掌が、何かに包まれた。

 吹き溜まりの落ち葉を、掬い上げるかのような感触で。


 思わず隣を見ると、


「 ――― 」


 顔を真っ赤に染めたまま、そっぽを向いている、彼の横顔。

 掌に目を落とすと、彼の左手が私の右掌を、ぶっきらぼうに、しかし優しく包んでいる。
 ……まるで、拾い上げた枯れ葉を、崩さずに握るように。



 ああ。

 このあたたかさ。
 この感触。



 思い出す。

 私は昨日、これを全身で受けとめた。


 そして、感じられるこの匂い。

 今日の朝まで、私はこの匂いに包まれていたのだ。



 触れあうことに、あんなにも緊張していた自分が、馬鹿に思える。

 昨日、全身で納得したことを、今また、手をつなぐだけで確信できる。

 私のしあわせは、―――ここにある。



 そっぽを向いていた彼も、今は視線をこちらに注ぎ、おだやかに微笑んでいる。
 私と同じ気持ちでいてくれるのだろう。
 理屈も何も無しに、それが分かる。


 彼が、ほんの少し、手に力を込める。
 私も、ほんの少し、それに答える。

 お互いの掌の中にある落ち葉を、決して崩さないように。





     たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか





 誰が詠んだのだったろう。
 そんな短歌を、ふと思い出す。



 彼の手は、決して私をさらってはゆかない。

 同時に、決して私を置き去りにもしない。


 二人で、歩む。
 歩む道を、ふたりで見つけてゆくのだ。



 私は、右の掌に受けた温もりにすべてを委ね。

 彼は、左手に与えられる私の感触を慈しみながら。


 陽の沈みかかった新都大橋を、ゆっくりと渡っていった。










    ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 『初体験編』、終了です。
 いや、恥ずかしかったです、書いてて。

 《ケダモノ士郎くん》にしては、ずいぶん紳士的でしたが、そこはそれ、
 『人は、成長する』
 ってことで、ひとつ。


 ようやく、大きな山を越えました。

 あと二つ三つ、短い(ほんとか?)エピソードがありますので、どうぞお付き合いのほどを。



 (文中に出てくる短歌は、歌人 河野裕子さんの作です)



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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (六)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:5e8fe465
Date: 2010/11/19 23:55



「その人のことを、聞かせてくれないか」

 夕陽の照る橋の上で、私は彼に言った。










     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (六)










「やったな、鐘。」

 隣から受験票を覗き込んでいた彼が、私の肩をやさしく抱く。

 確かに、ある。
 キャンパスの中、掲示板に張られた数百の数字の羅列。
 その中に、私の受験番号は紛れもせずに書かれていた。


 ほうっ と息を漏らす。
 試験を受けたとき、手応えは確かにあった。
 教師たちからも、お墨付きはもらっていた。

 しかし、こういうことに《絶対》は無い。
 背に負っていた荷が、静かに降ろされるのを感じつつ、私は一瞬目を閉じ、

「―――ありがとう、士郎。本当に」

 目を開け、彼を見上げて微笑んだ。



 2月中旬の土曜日。
 今日は、私が受験した美術大学の、合格発表日だった。

 昨今はインターネットや電子メールで結果をすぐに知ることが出来る。
 だから、わざわざキャンパスまで足を運ぶ必然性は無い。
 だが、私は自分の目で確かめたかった。
 ひとつの努力が実を結んだのか否か、体で感じたかったのだ。

 それに、わざわざ付き添ってくれたのが士郎。

「子どもではないんだ。
 一人で行ける」

 そう言ったのだが、こういうときに彼は頑固だ。
 あるいは、私自身が気付かずにいた強がりを、彼は見抜いていたのかもしれない。

 その証拠に、肩に置かれた掌が、本当に嬉しい。
 自分で思っていた以上に、私は不安で、緊張していたのだ。


 もう一度だけ、番号を確かめてからキャンパスを出る。
 校門にある、梅の古木の花は、もう散りかけていた。



 両親に、結果を伝える携帯メールを送る。
 本当なら、今日は私の家で、士郎を交えた祝いの席を開く予定だったのだ。

 しかし、例によって父は急な公務で深夜まで帰れず。
 母も、関わっている会でトラブルがあったとかで、外出している。

「夕食までに帰れなくはないけれど、これじゃ充分な準備も出来ないわ。
 残念だけど、日を改めましょう」

 本当に残念そうに、母は言っていた。

 父母と喜びを共に出来ないのは私も残念だが、何も形だけがすべてではない。
 折り返し送られてきた返信メールの言葉だけで、私は充分に幸せだった。

 それに、《捨てる神あれば拾う神あり》とも言う。
 その代わりに、と言っては何だが……


「じゃ、まずどこへ行こうか。
 家に着くのは夕方でいい、って言ってたから。
 イリヤはむくれてたけどな」

 新都駅の改札口を出た彼が、私を振り返る。

 そう。
 私は今日、初めて士郎の家に泊まりに行くのだ。



 以前からイリヤさんにねだられていた、士郎の家での宿泊。
 あの年賀が終わった夜、両親に伺いを立てると、
 『いつでも、行ってきなさい』
 快く許可をくれた。


 その後、私の受験などがあり、延び延びになっていたが、
 私の家での晩餐が難しくなった、と数日前、彼に伝えたら、

「えっと、…なら、―――どうだ?」

 と、彼が口籠もりながら代替案を出してくれたのだ。

 両親は、もちろん快諾。
 いやむしろ、もろ手を挙げて送り出そうとしていた風にも見えたのだが……


 とは言え、彼の家で二人きりになれるわけではない。
 むしろ今日は、衛宮家の家族が勢揃い。
 イリヤさんは勿論、藤村先生、桜さん、遠坂嬢も、やる気満々といった状況らしい。
 ―――なんの《やる気》なのかは、よく分からないが。

 本当なら、この足で彼の家に向かっても良いのだが、

「どうせ今夜は、ドンチャン騒ぎになるのが目に見えてるんだから。
 昼間くらい、恋人同士で合格のお祝いをしなさい。
 ちゃんと彼女を満足させてあげないと、はっ倒すからね」

 士郎が家を出るとき、遠坂嬢からきつく申し渡されたのだそうだ。


 遠坂嬢と言い、私の両親と言い、そして彼と言い。
 私の大学合格を、疑わず信じてくれていたことに、胸が熱くなる。
 私を包んでくれているものの大きさを改めて感じるのは、こういう時だ。

 ……が。
 彼女の気持ちは非常に嬉しいのだが、どうも言い回しが微妙なような気が……


 とにかく、この好意に甘えない手はない。
 夕方までのひととき、私は思う存分、彼のそばにいることに決めた。



     * * * * * * * * * *



 一度私の家に戻り、用意しておいたボストンバッグを持って、再び玄関を出る。
 心ゆくまで彼との時間を過ごした新都の空は、もう夕陽に染まり始めていた。


「疲れてなければ、歩いていこう。
 気持ちのいい天気だし、まだ時間は充分にあるしな」

 私のボストンバッグを自然に手に取りながら、彼が言う。
 自分で持てる、といいかけて、止めた。
 彼はすでに、当たり前のように歩き始めている。
 良くも悪くも、これが彼なのだ。

 2月にしては、暖かい一日。
 夕方になっても、それは変わらない。
 むしろ、風が心地良いくらいだ。
 そんな中、彼と並んで歩く。
 そんな何気ないひとときが、たまらなく愛しく感じる。


 新都大橋の歩道を渡る。
 右手には、未遠川の河口。そして、海。
 その上に、夕陽がゆったりと輝いている。

 ふたり、どちらからともなく、立ち止まる。
 橋の欄干に手をかけ、無言で海を、沈みゆく夕陽を見つめる。

 金色の光が、やさしく私たちを包む。
 彼は、穏やかな顔をして夕陽に視線を向けている。



 私は、肩に提げたハンドバッグの中から小さな箱を取り出し、

「―――士郎。」
 振り向いた彼に、差し出す。

「 ?
 これって……」
 受け取りながら、不思議そうに首を傾げる士郎。
 その仕草に、思わず笑ってしまう。

「質問しよう。
 今日は、何月の何日だ?」
「何日って、2月の……あ…」

 そう。
 今日は、2月14日。
 バレンタインデー、と全国的に呼ばれる日だ。


「相変わらずだな、君は。
 今日回った新都でも、嫌になるくらいキャンペーンをやっていただろうに」

「あ、いや……
 今まで、全然縁がなくてさ。
 俺には関係ないもんだと思ってたから……」

「―――そう言われると、傷つくな。
 私は、そんな薄情な恋人と思われていたのかな?」

「い、いや、違うよ!
 単に、頭に無かっただけで―――
 け、決して鐘のことを、だな……!」

 ……いじめるのは、この辺にしよう。
 本気で彼は、焦って手を振り回している。

 私は、言葉を継ぐ代わりに、夕陽を受ける彼に向かって、笑顔を送った。


「―――ありがとう、鐘。
 すごく、うれしい」

 私の気持ちを汲んでくれたのだろう。
 彼も、箱と私を見比べ、最高の笑顔を贈ってくれた。





 再び、二人並んで夕陽を見つめる。
 黄金の輝きは、余すことなく辺りを照らしている。

 そんな輝きを見つめながら、彼が ぽつり と呟く。


「―――そうか。
 もう、2月の半ば、なんだな」


 その口調には、覚えがある。
 いつか、何回か聞いた響き。
 彼の眼差しにも、覚えがある。
 かつて、何回か見た視線。

 それはいつも、ある人のことを考えていたときに―――





「その人のことを、聞かせてくれないか」





 自然に、口から出ていた。

 驚いたように、彼が私のほうを向く。
 私は、その視線をしっかりと受けとめる。


「聞かせてくれないか。
 君が今、考えていた人のことを」

 自分でも、穏やかな声だと思う。
 その人。
 彼の、かつての恋人のことを聞こうとしているというのに。


 いつか、聞きたいと思っていた。
 彼が本当に愛し、彼を本当に愛した人のことを。
 いつか、自分に本当に自信が持てたときに。

 今の私が、自信を持てたわけでは、勿論無い。
 だが、いつのころからだろう。
 『自信』うんぬんに、以前よりはこだわっていない自分に気付いた。
 だから、自然に口から出ていた。


 聞きたい。

 《セイバー》。

 その人は、君にとって、どういう存在だったのか、を。



「―――。
 まず、謝る。
 ごめん、鐘」
 どれほど時が経っただろう。
 彼が、私に向かって真摯に頭を下げる。

「確かに今、俺はアイツのことを思ってた。
 鐘が隣にいるっていうのに。
 自分に腹が立つよ。
 同じことを何回も繰り返して、なんでこんなに進歩が無いんだか……」

 唇を噛む彼に、首を振る。
 それはいい。
 そんなことは、当たり前のことなのだ。
 命をかけて愛した人を、そんな簡単に忘れてしまったとしたら。
 その時にこそ、私は君を蔑む。

「それと―――今までアイツの話題を避けてたことも謝る。
 鐘にとって、愉快な話題じゃないだろうと思ってた。
 でも、もし鐘さえよければ……」
 彼は、いったん大きく息を吐く。

「聞いてほしい。
 アイツのことを。
 たぶん今も、俺の中にいる、彼女のことを」


 私は、ゆっくりと、強く、うなずいた。





「さっき、思ってたんだよ。
 アイツと会えなくなってから、ちょうど一年になるんだな、って」

 彼は、夕陽に視線を向けながら、話し始める。

「アイツとは、去年の2月の頭に初めて会ってさ。
 ―――月が、すごくきれいな夜だった」



 まばゆいばかりの黄金の髪。
 翠緑玉の瞳。
 白磁を砕いて擦り込んだような肌。
 なにより、高貴にして高潔な意志を感じさせる、その佇まい。

 地獄に堕ちても忘れることは無いだろう、と彼は言う。


 身長は150cm半ば。折れてしまいそうな細身の体。
 明らかに私たちより2~3歳は若い外見。
 どう見ても《少女》そのものだった彼女は、

「なのに、呆れるほど強くてさ。
 俺の剣の師匠になってくれたんだけど、もう情け容赦の欠片もなくて、失神させられたのも数えきれない。
 藤ねえでさえ、片手で軽く捻られてたくらいだ」
 《冬木の虎》と異名を取った藤村先生を手玉に取るとは、確かに並みの腕ではない。

「おまけに、えらく頑固でな。
 言い出したら絶対に引かないし、何遍言い争いしたことか」
 それは……君といいコンビじゃないか。

「怒るとほんと怖くて。めったに笑わないし、嬉しそうな顔することも少なかった。
 あ、でも可愛い物―――ぬいぐるみとか抱いてたときは、ほんとにかわいかったな。
 あの時だけは、年相応に見えた」
 ヴェルデのファンシーショップで見た、仔獅子のぬいぐるみを思い出す。
 あの仔獅子が、似合う人だったのだろう。

「あと、言うと怒られたけど……えらく食いしんぼでな。
 藤ねえと、いつも熱いバトルを繰りひろげてた。
 一度冗談で、
 『昼メシ抜き』
 って言ったら、その後の稽古がもう……」
 本気で彼は、身を震わせている。
 なるほど、年賀の時に遠坂嬢や桜さんが『藤村先生のライバル』と言っていたのは、彼女のことだったのか。


 今までの話をまとめると、
 外見は美少女そのものだが、剣の達人にして頑固一徹。
 しかし、可愛い物と美味しいものに目がない。

 ……想像できるような、出来ないような。



「アイツと会ったきっかけ……
 ごめん。
 それは、鐘にも言えない」

 今まで苦笑しつつも楽しそうだった士郎の声が、ふいに真剣味を帯びる。
 私も、改めて背筋を伸ばす。

「ただ、日常の出会いじゃなかった。
 ―――前に、遠坂が言ってたろ?
 『私と彼は、言ってみれば戦友よ』
 って」
 昼休みの屋上。私と士郎が、言わば初めてまともに接触したとき。
 遠坂嬢は、確かにそう言っていた。

「遠坂と俺と、アイツ。
 俺たちは、紛れもなく《戦友》だった。
 あるゴタゴタに巻き込まれて……そこで、俺たちは出会ったんだよ」
 一年前の《ゴタゴタ》。
 あのころ多発した、怪異な諸事件が思い浮かぶ。
 しかし、私はそれを脳裏から払った。
 今は、それについて考える時ではない。

「アイツは……俺を守ってくれた。
 初めは義務から。
 途中から、自分の意思で。
 
 最初から、
 『私はシロウの剣です』
 って言ってくれて。
 最後は、
 『シロウは、私の鞘だったのですね』
 って、言ってくれた」

 《剣》と《鞘》。
 なんという、強固な結びつきだろう。
 そこまで二人は、互いを委ね合っていたのか。


「……アイツには、願いがあった。
 ほんとに普通の女の子なのに、それまでアイツはとんでもない重責を負わされてたんだ。
 自分が望んで背負ったんだ、って言ってたけど……
 それを背負いきれなかった、それで多くの人が傷ついたことに、アイツ自身が苦しんでた。
 
 アイツの願いは、その苦しみを消すことじゃなくて……
 その苦しみの元である、自分を消すことだったんだ」

 彼の爪が、 ガリ と橋の欄干を削る。

「そんなのって、あるか。
 アイツは、ほんとに頑張ったんだ。
 苦しんで、闘って……
 なのに、そのあげくに、自分自身を否定するなんて」
 ……彼の話は、正直、抽象的でよく分からない。
 しかし、伝わってくる物は、ある。
 彼は紛れもなく、本気で怒りを感じている。

「アイツに、《楽しむ》ってことを教えてやりたくて。
 人が幸せなのを見て喜ぶんじゃなくて、自分自身が楽しむ、ってことを実感させてやりたくてな。
 ―――無理やり、デートに連れ出したんだ。
 新都を、一日中引っ張り回した」
 ……彼らしい。
 人が苦しむ様を、憤ることも。
 目的に突進するための、手段の愚直さも。

「アイツはアイツなりに、その日を楽しんでくれた。
 自惚れかもしれないけど、俺は今もそう思ってる。
 でも……
 アイツの頑固さは筋金入りでな。
 認めないんだよ。
 楽しいなんて認めたら、自分が傷つけた人たちに申し訳ない、って」
 ……ますます君に―――特に、以前の君に似ている。
 今まで私や周りの人たちが感じた苦悩を、そのとき彼も体験した、ということか。

「で、派手に言い争って、大ゲンカして。
 その時は、アイツのことを放っぽらかして帰っちまったんだ。
 あんまり腹が立ったから」

 そう言いさして彼は、初めて気付いたように辺りを見回した。



「……そうか。
 なんで、こんなとこでアイツのこと思い出したのか、分かった」
「 ? 」
 彼の独白に、視線だけで質問する。

「ここなんだよ。
 アイツと大ゲンカしたの。
 俺が放っぽって帰って……数時間後にまた来てみたら、そのままの姿勢でアイツはここに突っ立ってた」

 彼の言葉に、私も辺りを見回す。
 そうか、ここが……

「……おもしろいもんだな。
 忘れてたと思ってたのに、こうして話し出すと、次から次へと思い出してくる。
 未練なんて無い、って思ってたんだけど……」
 そう言って彼は、苦い笑いを浮かべる。

 だが、そうではない。
 それは、未練などではない。
 むしろ、私は嬉しく思う。
 士郎。
 君が、初めて愛した人を、そんなにも鮮明に憶えてくれていて。



「―――いろいろあって、そのゴタゴタも片付いて。
 アイツは、元いた場所に帰っていった。
 俺が、アイツにどれくらいのことをしてやれたのか、分からないけど。
 最後に見せてくれた笑顔……
 あれで、けっこう俺もやれたんじゃないか、って。
 アイツの答を、見つけてやれたんじゃないか、って、そう思ってる」

 そう言い終わり、彼は大きな息をつく。
 長い話が終わった、と、その息が告げている。



「……もう、彼女に会えることは?」
 私は、たったひとつだけ質問をした。

「無い」
 彼は、きっぱりと言った。

「あっちゃ、いけないんだ。
 アイツは、本当に満足して帰っていった。
 もう一度会えるとしたら、それは満足してなかった、ってことだ。
 そんなの、俺が許さない。
 アイツも……きっと、許さない」

 そろそろ、水平線に接しそうな陽を見つめ、彼は言う。


 そうか。
 ならば……私に出来ることは、たったひとつ。





「士郎。」
 私の言葉に、彼が振り向く。

「約束して欲しい。
 今後、万一、君と私が別れるようなことがあったとして……」

「鐘!?」
 よほど意外な言葉だったのか、彼が非難するように叫ぶ。
 私は、それを視線だけで鎮める。


「万が一、だ。
 君から私との別れを告げるようなことがあったとして……」
 私は、大きく息を吸い、そして吐く。

「私のことを嫌いになったのならば、仕方がない。
 私より愛する人が出来たのならば、これも仕方がない。
 だが……」

 再び叫びそうになる彼の言葉に被せるように、私は言葉を接いだ。


「―――約束して欲しい。
 決して、それ以外の理由で、私からは離れない、と。
 それ以外の理由で、私の元から去ることなど、認めない。

 もしも……
 私に黙って消えようとしたとしても、
 私はついて行く。
 それこそ、地獄の底までついて行くからな」

 彼の視線をかっきりと受けとめ、私は宣言する。

 呆然と目を見開く彼に向かって、私はさらに言う。


「君の……セイバーさんに対する想いは、分かった。
 その人が、君にとって何だったのかも。
 だが、私は彼女のようにはなれない」

 《剣》と《鞘》。
 彼は、そう言った。

 私は、彼の《剣》になどなれない。
 なることなど、想像も出来ない。
 さりとて、彼の《鞘》にもなれそうもない。

 そう。
 おそらく果てしない夢を追うだろう彼に対し、私は足手まといにしかなるまい。


「―――っ、かね……!!」
 三度叫ぼうとする彼の口を、今度は右手指で塞ぐ。





 ならば。
「私は、君の《足手まとい》になる」





 衛宮士郎は虚ろな人間。
 人の幸福が何より嬉しく。
 人の不幸が、なにより辛い。

 こんな人間に最も相応しいのは、彼の剣となり盾となる存在。
 だが、私はそのどちらにもなれない。

 ならば。


「君の足手まといとなって、どこまでもついて行く。
 放っておいたら、どこへ飛んでいくか分からないからな。
 せめて、それくらいの重しは必要だろう?」

 私は、彼の足手まといにしかなれない。
 ならば。
 私は自分に相応しい存在となる。

 彼の足手まとい。
 彼の、場。
 彼が迷い悩むとき、ほんのわずかでも良い、足元を固める礎となれたら。



「―――鐘。」

 彼の腕が、動く。
 私を引き寄せ、抱きしめる。
 私も、その背に腕を回す。

 私が、最も安らげる空間の中で、もう一度私は繰り返した。


「……約束して欲しい。
 決して、私から、離れない、と」

「………
 ありがとう」

 彼が呟いた返事には、万の意味が籠もっていた。





 今、分かった。

 彼女から、私はバトンを受けとっていたのだ。


 虚ろだった彼の中に、『何か』を植え付けていったのが、彼女。
 ならば私の役目は、その『何か』を育て、彼を満たすこと。


 会ったこともない、おそらくこれから会うことも無い女性に、限りない親近感を覚える。
 バトンは、受けとった。
 こんな私が、どこまで出来るのか、見当もつかないけれど……



     ふわり



 と、肩に手を置かれた気がした。

 彼に抱かれながら、思わず後ろを振り返る。

 そこには、





「 ――― 」





 眩しすぎて目を細めたくなる、黄金の輝き。

 沈みゆく夕陽を受けとめて光る、新都大橋の橋柱が立っているだけだった。










    ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 『バレンタイン編』、終了です。

 履歴を見てみると、士郎くんとセイバーが初めて会うのが2月2日。
 橋の上での大ゲンカが、2月14日。
 そして、別れが16日の朝。

 そんなセイバーの想いを、鐘ちゃんなりに受け継ぐには……?

 答の片鱗が、少しでも書けていれば良いのですが。



    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (七)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:f76ce11f
Date: 2010/11/23 19:40


 夜中、喉の渇きで目が覚めた。
 晩のパーティーで、少々ワインを過ごしてしまったらしい。
 ふと視線を下にやると、私の胸に抱きついたまま眠っている銀色の髪。

「ん……カネ…」

 その髪が、少し身じろぎをする。
 イリヤさんは、本当に私の胸がお気に入りらしい。
 今日初めて士郎の家に宿泊した私の布団に、先日の年賀で宣言したとおり、当然のように潜り込んできた。

 その際、
『さ、シロウも早くはやく』
 と、布団の中から手招きしたので、家族内で一騒動あったのだが……

 結局、(当然のことだが)士郎とは別室。
 私は、一つ布団でイリヤさんと枕を並べている。


 さて、いったん気付くと、喉の渇きが耐え難くなってきた。
 枕元の腕時計を見ると……もうすぐ、午前1時か。
 イリヤさんを起こさないよう、そっと布団を抜け出す。

 音を立てないよう台所まで行き、水を一杯勝手に飲ませてもらう。
 このへんは、正に勝手知ったる他人の家だ。

 一息ついてから部屋に戻ろうとすると、

「 ――― ? 」

 庭に面した廊下が、かすかに明るい。
 足を運んでみると、雨戸の一枚が開けられ、そこから光が漏れている。
 誘われるように外に出れば、空には月。
 青白い光が、冴え冴えと庭を照らしている。

 しばらく、その光景に見とれたが、やはり早春の夜は寒い。
 身震いを一つして屋内に戻ろうとしたとき、


(トレース・オン)


 どこからか、声が聞こえてきた。

 ?
 誰か、まだ起きて……
 そちらに、我知らず足を向ける。

 土蔵。

 重そうな扉が、半開きになっている。
 私は、何の気無しに中を覗こうとして……










     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (七)










 誰もいない教室で机に直に座り、片ひざを抱えて、夕陽をぼんやりと見ていた。
 考えているようで考えていない、そんなとりとめのない頭の状態は、久しぶりだ。
 もう少しこの感覚を味わってから帰ろう、と思っていたら、

「遠坂嬢?」

 後ろから、声をかけられた。

 呼び方一つ、声ひとつで分かる。
 私をこう呼ぶ人間は、たった一人。

「氷室さん、帰られたんじゃなかったの?」


 氷室鐘。
 明日まで、私の同級生。
 頭脳明晰、スポーツ万能、沈着冷静、容姿端麗、……スタイル抜群。
 およそ欠点が見つからない女性でありながら、性格の地味さ故か、あまり目立たない。
 あらゆる事に秀でながら―――あらゆる意味で、普通の女性。

 ついでに言えば、あの馬鹿の恋人。


「いったん家まで帰ったんだが、部室にちょっとした忘れ物をしてね。
 せっかくだから、教室の見納めをしようと思って来たんだ。
 ―――君は?」

 紙袋を掲げて見せながら、彼女が問い返す。
 なるほど、今日もあいつが家まで送っていったはずなのに、横に張り付いていないのはそういうことか。

「私も似たようなものね。
 さっきまで卒業式の打ち合わせをしてたんだけど、なんとなくここに来ちゃった。
 ……やだ、もうこんな時間?」

 腕時計を見て、ちょっと驚く。
 こんなにぼんやりと時を過ごしたのは、本当に珍しい。


「卒業生総代ともなると、忙しいな。
 それにしても、ミス・パーフェクトが物思い、か。珍しい。
 まあ、今日が実質最後なのだから、無理もないか」
 ちょっと皮肉な笑みを浮かべながら、彼女が言う。

 私と話すときは、彼女はいつもこんな口調になる。
 いや、そうじゃなくて、もともとこういった話し方が彼女の持ち味なのだ。
 ……まったく、あいつの前ではスーパー乙女のくせに。

「否定はしないけど。
 でも、それはあなたも同じでしょう?
 女史―――いえ、『穂群の呉学人』が、忘れ物にこと寄せて教室まで感傷に浸りに来るんだから」

 なので、私もいつもの口調でカウンターを返してやる。
 だがこの女は、今度ははっきり ニヤリ と笑って、

「まあ、客観的に見れば珍しい部類に入るのだろうな。
 『あかいあくま』には及びもつかないがね」

 ―――見事な、クリス・クロス。
 こんな異名を彼女に教えるヤツは、一人しかいない。
 ……今夜の魔術講義、覚悟しときなさいよ。





 彼女と肩を並べて、校門を出る。
 夕陽は、もう山の端に掛かろうとしていた。

「忘れ物は明日でも良かったのだが……
 来てみるものだな。
 遠坂嬢といっしょに帰宅できるなど、幸運だ」
 私の隣では、氷室さんが相変わらずの笑みを浮かべて歩いている。

「……確かに、氷室さんといっしょに下校するのは初めてでしたわね。
 特に最近は、その隙も無くて。
 蒔寺さんが嘆いていましたよ。
 『アイツ、最近夫婦で帰ってばっかりで、付き合いが悪くなった』
 って」
 完璧な優等生ボイスで逆襲してやると、案の定、

「ふう―――な、なにを……」
 とたんに、真っ赤になって口ごもった。

 氷室ころすにゃ刃物はいらぬ、士郎の『し』の字も言えばいい ってね。
 大いに溜飲を下げるとともに、―――なにか、少しだけうらやましかった。



 二人で、夕暮れの坂道を下る。
 確かに、珍しい。
 氷室さんとこうして帰ることも、そもそも、私が誰かといっしょに下校することも。
 そんなことをしたのは、桜と……あいつとくらいだ。

 とにかく、都合が良いとも言える。
 彼女には、確かめておかなければならないことがあった。
 それも、それと気付かれずに。


「―――そういえば氷室さん、この間のお泊まりではごめんなさいね。
 結局、ドンチャン騒ぎになっちゃって」

「いや、非常に楽しかったよ。ぜひまた、お願いしたい。
 …まだ学生の分際で、あれだけ飲んでしまったのもどうかと思うがね」

「まあ、明日には卒業なんだし。それくらいはいいんじゃない?
 じゃ、夜もぐっすり眠れた?」

「いや、それがな……」
 苦笑して、彼女が続ける。

「飲み過ぎたのが仇になって、夜中に目を覚ました。
 喉がひどく渇いてね。
 それで、失礼とは思ったが台所で水を……」
 言いさして、何か考える表情をする。
 ―――ここで、せかしてはならない。

「…そういえば遠坂嬢。
 士郎は、夜中でもよく修行をするのか?」

「修行?」
 何食わぬ顔で、問い返す。

「いや、雨戸が開いていたので外に出てみたんだが、土蔵を覗くと士郎が何かやっていてな。
 声をかけようとしたんだが……」



     * * * * * * * * * *



 土蔵の中を覗こうとして―――何かに押し戻された。
 目に見えない、何か。

 思わず二、三歩後ずさる。
 気のせい……では無い。
 確かに何かが、土蔵全体から膨れあがり、私の身体を圧している。
 武闘家である美綴嬢なら、それを《気》と呼ぶのだろうか。

 半開きの扉から、僅かに中が見える。
 座っているのは―――士郎。
 土蔵の明かり取りから差し込む月光に、体が淡く照らされている。
 両手に持つ何かが、月光を受けて時折 ぎらり と光る。
 体全体から、陽炎が立ち上っているように見える…のは、錯覚か?

 どのくらい、その見えない《何か》に圧倒されていただろう。
 《何か》はやがて、潮が引くように徐々に終息していった。

 士郎が ほうっ と息をつくのが分かる。
 そして彼は、ゆっくりと振り向いた。


「あれ、鐘?」

 きょとんとした顔で、彼は声を出した。
 さっきまでの緊張感は何だったんだ、と言いたくなるくらい、のんきな声だ。

「どうした?こんな時間に」
 その、いつもどおりの声に ほっ として、

「それはこっちの台詞だ。
 こんな夜中に、こんな所で何をやっている?」
 土蔵に入り、彼に近づく。

 近くで見た彼は、この寒さだというのに総身が汗で濡れ尽くしていた。
 手に持っているのは、刀剣―――日本刀か?


「……いや、剣の稽古の一環でさ。
 精神統一のための瞑想をしてたんだよ。
 いろいろな時刻で試してみたんだけど、どうもこの時間帯が一番集中しやすいらしい」

「いろいろ―――と言うと、いつもやっているのか。
 ……そんな物を持って?」
 また ぎらり と光る刀を見やりながら、彼に問う。
 私は、少し怯えた目をしていたのだろうか。

「あ、……これ、遠坂が家にあったのを貸してくれたんだよ。
 こういったのを見てると、集中しやすいんだ。
 ―――怖がらせちゃったか?ごめんな」
 そう言って彼は、刀を横に置き、私に頭を下げる。
 そのそばには、そっくりな刀が鞘に収まって置かれていた。



     * * * * * * * * * *



「瞑想、と言っていたが、何か―――もっと激しいものを見ているような気がした。
 士郎は、あんな事を毎晩やっているのか……?」
 心配そうに眉根を寄せ、氷室さんが呟く。

 あの馬鹿。
 いくら修行マニアだからって、恋人が泊まりに来た夜にまでやってんじゃないわよ。
 おまけに、《あの日本刀》を投影してたわね。
 普段、嫌って言うほどしごいてやってるのに、全く……

「ま、いつものことよ。
 自分を鍛えるのは、あいつの趣味だからね。
 日本刀見てたのも、そう。
 あいつ、刀フェチだから」

「刀フェチ!?」
 彼女が、目を丸くして驚く。
 ……ちょっと、言葉が悪かったか。

「あ、いえ、別に刀に頬ずりしてるとか、夜な夜な辻斬りに出るとか、そういうんじゃ無いわよ?
 ただ、剣と相性がいいみたい。
 見てると、気力が充実してくるんだって」
 自分でも、あんまりフォローになってないな、と思いつつ続ける。

「そ、そうか……
 しかし、《剣》か。
 ―――、だから、《セイバー》さんなのか……?」
 彼女が、独り言のように呟く。
 …私は、あえてそれを無視して、

「別に集めてるわけでもないみたいだから、気にしないでいいわよ。
 高価な刀を買いあさって、新婚家庭の家計を逼迫させて、なんてことにはならないから」
 にしし と、我ながらどうよと思う笑みを浮かべて言う。

「し、しんこ……」
 たちまち真っ赤に染まるスーパー乙女。
 やれやれ、これで気が逸れてくれたみたいね。



 あいつから、
『鐘に、修行してるところを見られた』
 と言われたときは、肝が冷えた。

『大丈夫だよ。瞑想だって言ったら信じてくれたから』
 なんて、のほほんとした声で続けるので、張っ倒してやった。
 まったく、神秘の秘匿を何だと思ってるのよ、あいつは。


 私は、冬木の管理者だ。事態は把握しなければならない。
 最悪の―――本当に最悪の場合は、彼女の記憶操作まで考えなければならない。
 管理者として、それは当然のことなのだが……。

 今、私は本当に ほっ としている。
 あいつの言うとおり、彼女は魔術行使の現場そのものを見たわけではないようだ。
 ……私も、甘くなったんだろうか。
 あいつの言う『家族』って言葉に、浸ってるつもりは無いんだけど。


 それにしても。
 このことについては、一度あいつととことんまで話し合わなければならない。
 一般人に、もしも魔術行使の現場を目撃されたら。
 そして、それが《協会》に発覚したとしたら。
 ……《協会》は、私のように甘くはないのだ。

 あいつが、彼女と共に生きていくことを選んだのは、知っている。
 ならば、なおさら事態の重大さを、叩き込んでおかなくては。
 私が、―――日本にいる間に。



「そう言えば、遠坂嬢は留学するのだろう?
 ……すぐに、出発するのか?」

「えっ?」
 タイミング良く彼女に声をかけられ、思わず声を出してしまう。

「あ、いいえ。
 向こうは9月からが新学期だから、卒業してすぐに、ってことは無いわ。
 でも……何だかんだと用意があるから、出発は6月か7月くらいかな」

「そうか。
 ロンドンに留学とはうらやましいが……やはり長くかかるんだろう?」

「そうね。
 基本は4~5年だけど、せっかくだからしっかりと学びたいし。
 場合によっては、10年近くは……」

「―――そうか」
 彼女は、夕焼けに目を向ける。



 改めて、彼女の横顔に見入る。
 一年生の頃からの同級生。
 でも、いつも当たり障りのない会話だけで、突っ込んだ付き合いなどしてこなかった。

 もっとも、それは彼女に対してだけではない。
 私は、誰に対しても当たらず障らずの付き合いをしてきた。
 ……あいつに、出会うまでは。


「しかし……時々は帰ってくるんだろう?」
 希望を滲ませながら、彼女が問う。
 ―――この人も、ずいぶんと感情を表に出すようになった。
 以前は、《氷の女》の異名どおり、何があっても眉ひとつ動かさなかったのに。

「ええ、もちろん。
 向こうの休みは長いそうだから。
 こっちにも色々と責任があるから、出来る限りは帰ってくるつもりでいるわ。
 ……そうね。
 あなたたちがどこまで進展したかも、確認しなきゃいけないし」

「っ!
 ま、また君は、そういうことを……」

 本当にこの人は、あいつのこととなると、面白いくらい《女の子》そのものになる。



 ―――今でも、ときどき考える。
 もし。
 もしも、あのとき。
 セイバーが自分の世界に帰った後、私があいつにアプローチをしていたら。


 あり得ないことじゃなかった。
 聖杯戦争を共に生き抜き、その後も魔術の師として、近いところからあいつを見てきた。
 日が重なるごとに、あいつに惹かれていくのが……癪だけど、自分で分かった。

 でも、積極的に動かなかったのは、ひとつは桜のことがあったため。
 ひとつは、あいつがセイバーの事を忘れていなかったため。
 そして……やっぱり、私は臆病だったんだろう。

 桜と三人、なんとなく三すくみの恰好をしているうちに、あいつの前にこの人が現れ。
 あいつはこの人を……氷室鐘を、愛するようになった。


 時々、考える。
 私があいつといっしょになっていたら。

 私は、魔術師。
 当然、あいつの夢を叶えるために、ありったけの魔術を教え込んでいただろう。
 その結果、どうなっただろうか。
 あいつも魔術師として、生きていっただろうか。
 それとも……


 また、考える。
 もしも、桜とあいつがいっしょになっていたら。

 あの子はきっと、あいつと二人だけの幸せを求めただろう。
 ひょっとしたらあいつは、夢を諦めて、桜と幸せになる道を選んだかもしれない。
 でも、それは……


 しかし、あいつは彼女を選んだ。
 氷室鐘と、共に歩むことを選んだ。

 彼女が、私と…桜と、どう違うだろう。

 魔術師ある私とは、当然、百八十度違う。
 同じ一般人……である桜とも、彼女は、やはり違う。

 桜は、心から愛する人がそばにいれば、それで充足する。
 彼女は―――



「そう言えばあいつ、この間いきなり言ってきたわよ。
 『法政関係の勉強をしたいから、どっかいい所知らないか』
って。
 あなたに感化されたの?」

「私も驚いた。
 つい先日、同じように聞かれたばかりだ。
 特に法律を学びたい、と言っていたが……」


 私が言われたのは、ある夜の魔術講義が終わってからだった。

『何、あんた魔術やめるの?』

 尋ねた声は、我ながら冷ややかだったと思う。
 やっぱり、魔術師になるのを諦め、表の世界で生きていくことにしたのか。
 氷室さんといっしょに歩むために。

 ―――そう、思ったのだが。

『やめるわけないだろ。
 これからも講義はお願いしたいし、剣の修行も続けるよ。
 ただ……』
 そこであいつは、いったん言葉を切った。
 それは、言いよどんでいるのではなく、

『それだけじゃ、足りないんじゃないかって思ったんだ。
 今までは、魔術と剣だけでやっていけると考えてた。
 けど、今の世界がどうなってるのか―――どういう法則で動いてるのか、
 それを知った方がいいんじゃないか、って』

 新たな自分の決意を、告げるためだった。


 あいつが、変わろうとしている。
 それは、私には少なからぬ驚きだった。

 ―――が、考えてみれば、別に意外でもない。
 衛宮士郎は《魔術師》ではなく、《魔術使い》だ。
 魔術によってこの世の根元に至ろうとする私たちとは、根本的に異なる。
 彼にとって魔術とは、剣と同じく、自分の夢を達成させるための武器に過ぎない。

 ならば、その武器を新たに増やすこと。
 それに考えが至るのも、言わば必然。
 そしてその武器は、ひょっとしたら、彼の夢を新たな局面に……


「全くあいつも、それならそうともっと早く言えばいいのに。
 それだったら私も、それ用に勉強の特訓してやったのにさ。
 今からじゃ、ろくなこと教えられないじゃない」
 少々オーバーアクションで呆れ、 うーん と背伸びをする。

「そうか。
 遠坂嬢は、彼の勉強の師でもあったな。
 ……で、どうかな?
 師匠としては、彼が法律を修めることが出来ると思うかね?」
 横で、彼女が微笑みながら尋ねる。
 顔では笑っていても、やっぱり心配なんだろう。

「まあね。
 あいつ、へっぽこだけど頭が悪いわけじゃないから。
 修行マニアでもあるし、一度決めたらいいとこまで行くんじゃない?

 だいたい、今どきの正義の味方が法律のひとつも知らないなんて、笑い話にもならないものね」


「正義の、味方?」


 何気なく言った一言に、彼女は訝しげに反応した。
 ―――まずっ。
 ひょっとしてあの馬鹿、氷室さんに話してないの?



 正義の味方。
 あいつの―――衛宮士郎の夢。
 自分でも、実現することなんて無いと知り尽くしている、それでも追いかけようとしている、夢。
 そんな大事なこと、なんで自分の恋人に話してないのよ、あいつは。

 ……自分の恋人だから、か。

 あいつの性格なら、軽々しく彼女には話せないわよね。


 さて、そうすると困った。
 あいつが話していないことを、私が勝手に伝えたことになってしまう。
 どうやって誤魔化そうか、頭を悩ませていると、


「……ふむ。《正義の味方》、か。
 なるほど。
 それは、良い言葉だ」
 彼女は、感心したように頷いている。

「彼の理想が、余すことなく言語化されている。
 まさに、彼の夢に相応しい言葉だ。
 ……《正義の味方》か。
 うん、《正義の味方》―――」

 本当に嬉しそうに、彼女がその単語を繰り返す。


 あのー……、ひょっとして、知ってました?



 いや、あの馬鹿が、彼女に気軽に打ち明けることなど、考えにくい。
 同時に、どんなに頑張ったところで、あのアンポンタンなくらい剥き出しの善意を、彼女に隠しおおせるとも思えない。

 つまり、あいつは必死に隠してるつもりで、
 彼女はとっくの昔に知っていて、
 私は、それに名前を付けてあげただけ、という……


 ―――だ・か・ら、バカップルって、嫌いなのよ!!





 夕陽はほとんど没し、坂の下の交差点が近づいてくる。
 彼女はそこから、バスに乗って帰るという。

「ありがとう、遠坂嬢。
 いっしょに下校することが出来て、楽しかった」
 彼女が言う。
 こんなに率直に微笑まれたら、私も素直にならざるを得ない。

「私もよ。
 一度、あなたとはゆっくり話がしたかったから……
 実現できて良かったわ」

「完了形で言うこともないだろう。
 君の出発の日まで、まだ間はある。
 それ以後の日々も、充分にある。
 ―――出来ればまた、もっと深く、長く、語り合いたいものだ」

 ……本当に、率直ね。
 でも、異論は無いわ。


 交差点に辿り着く。
 折良く、バスが近づいてくる音が聞こえる。


「遠坂嬢」
 彼女が、今までと同じ口調で問いかける。

「なに?」
「君は、士郎のことが好きなのか?」



 ―――。

 ……やって、くれるわね。
 今、このときに。

 でも、ここで慌てふためくなんて、私の自尊心が許さない。
 『いつも余裕を持って優雅たれ』
 遠坂の家訓も、許さない。

「ええ、好きよ。今でも」
 さらっ と言えたのは、必ずしも家訓のせいばかりでは無かったかもしれない。

「でも、正直言って付き合うのはゴメンだわ。
 あんなアンポンタン、四六時中そばにいられたら、私がノイローゼになっちゃう」
 ……これは、ちょっと無理が入っているような気もする。


「―――すまない。
 だが、これだけは聞いておきたかった。
 君自身の口から」
 彼女が、私に向かって頭を下げる。
 やめてよね。

「私にこれだけ言わせたんだから、あなたには背負ってもらうわよ」
 我ながら邪悪な笑みを浮かべながら、彼女に顔を寄せる。

「あの馬鹿、任せるわ。
 放っとくと、どこにすっ飛んでくか分からないから。
 しっかりと監視してやってちょうだい」

 私の言葉に、彼女は力強く頷く。

「承知した。
 私は、彼の足手まといになる。
 彼に、考える時間を与えるための重しとなり、地獄の底まで付いていく。
 ……たとえ、彼が何者であろうとも」


「 ――― 」
 気付いて、いるの?

 思わず、身構える。
 『管理者』としての使命が、頭をよぎる。
 もし、彼女が知っているのだとしたら、私は……


「そう、決めていた。
 君のおかげで、その決心がより強固になった。

 彼が、君に何を学んでいるか、そんなことには関心が無い。
 私は、彼と共に歩む。

 私の《エンゲージ》を、必ず守り抜いてみせる」

 きっぱりと、断言する。


 ―――かなわないわね、恋する乙女には。



 《エンゲージ》。
 彼女が何を誓ったか、それは分からない。
 訊くつもりは無いし、訊いていいものでもない。

 でも、これなら大丈夫ね。
 仮に、彼女が士郎の正体に気付いたとしても、彼女なら、

 この、二人なら……



 彼女が、バスに乗り込む。
 私は、それを見送る。

「ではな、遠坂嬢。
 明日の卒業式で会おう。」

「ええ、氷室さん。
 また、明日。」


 彼女を乗せたバスが、ゆっくりと坂を下りていく。

 バスが見えなくなってから、

「 ――― 」

 一息ついて、私は坂を登り始める。



 さあ、今夜もあの馬鹿に、しっかりと魔術を叩き込んでやらなきゃ。
 とりあえず今日は、普段の倍増し、ってことで。



 ふと空を見上げると、残照はもう、ほとんど消えていた。










     ―――――――――――――――――――



【筆者より】


 『卒業式前日編』、でした。

 『クロスゲージ』世界では唯一、鐘ちゃんと深い交流が無かった遠坂嬢。
 二人の間柄は、これくらいの《君子の交わり》が良いんじゃないかと。


 さて、やっとここまでやってきました。
 次のエピソードで、完結の予定です。

 あと少し、お付き合いのほどを。



    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (終ノ一)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:2d521e60
Date: 2010/11/27 19:05



 (トレース・オン!)

 奇妙な呟きとともに、銀光の刃が降り注いできた。










     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (終ノ一)










「カネーっ!
 サクラ見に行こ、サクラ!!」

 勝手知ったる衛宮家の玄関をくぐったら、いきなりイリヤさんが飛びついてきた。
 まあ、毎回のことなので、特に驚きはしない―――が、私の胸に顔を長時間擦りつけるのは、正直その……勘弁してもらいたい。
 それはともかく。

「桜、さんを……ですか?」

 見に行くも何も、桜さんはイリヤさんの後ろで、苦笑を浮かべて立っているのだが……

「イリヤ、発音がややこしいわよ。
 それじゃ、この子を眺めることになっちゃうじゃない」
 その桜さんの肩に手を置いて、遠坂嬢がイリヤさんに声をかける。

「そーそー。
 それも見応えありそうだけど、今、問題なのは櫻!
 櫻の花!
 チェリー・ブロッサムよ!!」
 桜さんを挟んだ反対側では、藤村先生が


    なっにっもーかもー めっざっめーてくー ♪


 と、歌いながら主張している。
 ……先生。私はその歌を知らないのですが。

「結局、何を言いたいんだ?藤ねえ」
 私といっしょに玄関をくぐった士郎が、ワンマンショーを繰り広げている先生に声をかける。

「いえ先輩、そんな複雑なお話じゃないんです。
 お花見をしようか、ってみんなで話してまして」

「「お花見?」」

 桜さんの苦笑混じりの声に、私と士郎は思わず顔を見合わせた。



     * * * * * * * * * *



「なるほど。そういうことですか」

 居間に移り、お茶をすすりながら改めて話を聞いて、ようやく理解した。


 きっかけは、桜さんの一言だったらしい。

『もう、すっかり春ですねえ』

『そうね。もうすぐ、櫻の花もほころぶんじゃない?』

『よーし、そういうわけで週末はパーッとお花見なのだーっ!!』

 ―――何が『そういうわけ』で、どうして『お花見』なのか、藤村先生の論理展開は相変わらず理解できないが。
 あまり奇異とも思わなくなったあたり、私もこの家に慣れてきたのかもしれない。


「提案は唐突だけど、いいアイデアじゃないかって話してたのよ。
 4月になるとみんな忙しくなるから、その前にね。
 それに私、考えてみればお花見ってやったことないのよね」
 煎餅をかじりながら、遠坂嬢が言う。

「私もです。
 ―――実家にいた頃は、そういうイベントに縁が無くって」
 少し寂しそうな影を滲ませながら、桜さんが続ける。

「……あー、そうだな。
 去年も正直、花見どころじゃなかったしなあ。
 あ、じゃイリヤも初めてなんだな?」
 その影を、鋭敏に察知したのだろう。さりげなく話題をずらす士郎。
 桜さんが、彼を感謝のまなざしで見つめる。

「そうね。
 私もオハナミって経験したことないわ」
 イリヤさんも、話題に乗って話を進めていく。

「向こうでは、春のお祭りはあったみたいだけど、伝え聞くニホンのオハナミに相当する物ではなかったわ。
 だから私もすっごく興味あるのよ。
 満開のソメイヨシノの下で、複数の男女が昼間から入り乱れて、飲んで食べてアビキョーカンのランチキサワギするなんて、ロマンティックよねー」

「「「「 …… 」」」」

 夢見るように掌を組むイリヤさんの前で、二の句の継げない私、遠坂嬢、桜さん、そして士郎。
 ……まあ、誰がそんな知識を与えたのか、想像はつくが。


「藤ねえ……」

「なに?」

「可愛く『なに?』じゃない!
 日本の伝統行事を、歪めた状態でイリヤに吹き込むな!」

「なによー。
 私、嘘なんてひとつも言ってないもん。
 お花見って、そういうものじゃない」

「自分の常識を一般化するな!
 だいたい、毎度毎度、花見のはずが乱痴気騒ぎになっちまうのは誰のせいだと思ってる!
 俺や、組の若い衆が今までどれくらい苦労したことか……!!」

 突如始まる姉弟喧嘩。
 辛い過去を思い出したのだろうか、士郎の声は微かに涙ぐんでいる。



「……え、えーと。
 じゃ、先輩はお花見の経験あるんですね。
 氷室先輩はいかがです?」

 舌戦がようやく小休止した頃合いを見計らって、桜さんがすかさず話をそらす。
 私も、その努力に全面的に協力。

「え、ええ。
 私も、いわゆる『お花見』の経験はありません。
 父が出席するパーティーに付き添って、ホテルの庭の櫻を眺めたくらいです」

「わあ、素敵。
 それこそ、ロマンティックですね-」

「……回りの方々も素敵なら良かったのですけれどもね」

 思わず、苦笑する。
 政治がらみのパーティーだ。
 いくら櫻がきれいでも、平均年齢も含め、ムードも何もあったものではない。


「それじゃ、お花見の経験者は士郎と先生だけってことね」

「……俺は、あれを『花見』とは断じて認めたくないぞ」

 遠坂嬢のまとめに、激情収まらぬ士郎はまだ不満の声を漏らす。
 ―――よほど悲惨な体験をしたのだろうか?

「拗ねない拗ねない。
 それなら、なおさらよ。
 私たちで《正しいお花見》をすればいいじゃない」

「そうですよ先輩。
 考えてみれば、このメンバーでお出かけしたことって無いじゃないですか」

「ふむ……
 言われてみれば、そうだな。
 みんなにも普段苦労かけてるし、たまにはパーッとやるか」

「やったー!!
 では士郎!さっそくご馳走を所望じゃ!!
 あとはビールと日本酒とワインとサワーと……」

「―――ただしみんな。
 虎の監視と鎮圧は、共同責任な」

 私を含め、他の四人がいっせいに力いっぱい頷く。

「なんでよーっ!!!」



「問題は、場所ね」

「お花が綺麗なのはもちろんですけど、あんまり混んでないところがいいですよね。
 ―――あるかなあ?そんな都合のいい場所。
 みんなに聞いて回るとか……」

 遠坂嬢や桜さんが、額を寄せて相談している。
 そこへ、

「あー、その件なんだけどな。
 たぶん、心配しないでいいぞ」

「「 は? 」」

 士郎の声に、不思議そうな声を出す二人。
 その視線に、私と士郎は微笑んで頷き合う。

「いや、実はさっきな……」



     * * * * * * * * * *



 私と士郎は、新都の喫茶店でお茶を飲んでいた。
 テーブルを挟んで座るのは、一組の男女。


「いやー。
 考えてみれば、この四人が一つ卓に座るってのも、不思議なもんだよね。
 絵的にイメージ出来ないって言うか」

「同感ではあるな。
 一年前ならば、想像もできない顔ぶれだ」

 頬杖を突きながら からから と笑うのは美綴綾子。
 その隣で、無表情に紅茶を啜るのが柳洞一成。

 向かいに座る私と士郎は、この組み合わせに苦笑するやら目をぱちくりさせるやら。


「……確かに珍しいよな。
 俺と一成、鐘と美綴は友達同士だったけど」
 士郎の言葉に、私も頷く。

 士郎と美綴嬢も友達ではあるし、私と柳洞も、友達とまでは言えないにしても子どもの頃からの馴染みだ。
 しかし、柳洞と美綴嬢の組み合わせというのは、正直意外だ。
 ……まあ、それを言うなら、私と士郎の組み合わせこそが、半年前までは考えられなかったことではあるのだが。



 卒業式も無事終わり、もう何日かで4月になるというある日。
 夕方から衛宮邸で過ごそうとしていた士郎と私は、その前に二人きりの時間を味わうべく、新都を散策していた。

 そして、ヴェルデの前でばったり会ったのが、この二人。
 あまりの意外さに絶句する私たちに、


「む、奇遇だな衛宮、氷室」
「よっ、相変わらずお熱いねえ、お二人さん」

 照れも慌てもせず、堂々と声をかけてくる。
 そして、狐に摘まれたような顔の私たちは、彼らといっしょに喫茶店に入り、こうして今、茶を喫しているのだが。



「いやしかし、全然気付かなかったな。
 まさか、お前たちが、なあ……」

 二人のポーカーフェイスが崩れたのは、士郎のこの一言からだった。


「ま、待て衛宮。
 今、なにを想像した?」

「何って……
 意外だけど、お似合いだな、って」

「……あははー、衛宮。
 もうちょっと、はっきり言ってごらん?」

「いや、美綴嬢。
 はっきりも何も無かろう?
 二人は付き合っ……」

「「 !!! 」」

 私の言いさしに、目の前の二人はお互いに顔を見合わせ、声にならない叫び声を発した。
 もちろん、瞬間的に顔を真っ赤に染め上げて。


 ―――その後、意味解読の困難な釈明が、どれくらい私たちに浴びせられたかは、置くとして。



「なんだ、まだだったのか」

「だ、だからな、衛宮。
 まだ、とかそういう問題では……」

「しかし、誤解しても仕方ないだろう。
 二人は実に絵になっていた。なあ士郎?」

「……氷室。
 あんた、ここぞとばかりに仕返ししてないかい?」

 美綴嬢の殺気漂う視線を、私は軽く受け流す。
 ―――今までの君の仕打ちを考えれば、これくらい可愛いものだろう?


 とにかく、事実として二人は交際をしているわけではなく。
 今日は、4月から通う大学の手続きと、それに伴う様々な物品を買い揃えに来たのだそうだ。

 二人が、近郊の大学に合格したことは、卒業以前から聞いてはいた。
 ある程度名の通った総合大学なのだが、学部が違えどそれが同じ大学だったことに二人が気付いたのは、合格してからだったという。


「まあ俺は、卒業したらすぐに仏門に入るつもりだったのだが。
 父から
 『坊主にはいつでも成れる。学ぶ機会を逸してはいかん』
 と諭されてな」

「で、あたしも、この優秀だけど世間知らずの坊さんに、少しお節介を焼いてあげようと思ってね。
 『袖すり合うも多生の縁』ってやつ?」

「美綴。
 それは、少々使い方が違うぞ」

「いいじゃないか。
 その固さが心配なんだよ、あんたは」


 ……二人の掛け合いを見ている限り、仲むつまじきカップルにしか見えないのだが。
 隣の士郎も、そう思っているのだろう。
 微笑みながら二人を眺めている。


 柳洞一成と、美綴綾子、か。
 在学時代は、かたや生徒会長。かたや弓道部主将。
 スポーツ系クラブに厳しかった当時の生徒会において、この二人はいつも角突き合わせていた。

 反面、美綴嬢が学園祭の実行委員長を務め、生徒会がそれをバックアップしたりと、協力関係も築いていた。

 そういった色気も何もない付き合いの数々から、お互いを信頼できる相手、と自然に見極めていったのだろう。


 二人はこれからどう進展していくだろう?
 少なくとも、お互いに好意は持っているものの、火種はまだ発火していない。
 そういった段階、と見た。

 ―――久しぶりに、『恋愛探偵』の血がうずく。
 これほど《絵になるカップル》も、近年あるまい。

 さて、どの程度の手出しと、どの程度の観察をすれば良いか……


「な、なんだよ氷室。
 その、生あったかい眼差しは」

「……衛宮。
 お前の視線は、
 『暖かく見守っているぞ、俺たちは』
 と、語りかけられているように思えるのだが」

 二人の狼狽する声に、私たちはただ、微笑みを贈るだけだった。





「―――そ、それでだ、衛宮。
 先ほど、美綴とも話していたのだが」

「そ、そうそう。
 みんな忙しくなる前に、なんか一つやらないか、ってね」

 強引に話を逸らすべく、柳洞と美綴嬢が咳払いしてから話し始める。
 まあ、今日はこれくらいにしておいてあげよう。
 突つきすぎると、後が怖い。


「なにか、とは?」
 なので、二人の話にあえて乗る。

 美綴嬢は、 にかっ と笑って身を乗り出した。


「柳洞が、いい櫻を持ってるんだってさ」



     * * * * * * * * * *



「「「「 櫻 ? 」」」」

 衛宮家の面々が、声を挙げる。


「まあ、正しくは一成が、じゃなくて柳洞寺が、だけどな」
 士郎が、苦笑しながら続ける。


 冬木市の古刹、柳洞寺。
 境内のみならず、所有する土地は広く、そのほとんどが奥深い森や山であるという。

 その土地の一角に、毎年見事な花を咲かせる、櫻の古木があるそうだ。

「もちろん所有地の中だから、他の花見客も来ない。
 一成の家では、いつも春になるとそこで花見をするんだそうだ」

「そこに、私たちも参加しないか、と。
 私たちだけでなく、気心の知れた友人を集めて、卒業記念を兼ねた集まりを開こうではないか。
 そういうことのようです」

 士郎の言葉に、私が続ける。


「そりゃあ、願ってもないけど……」

「いいの?お寺の敷地内でそんなことして。
 お寺って、お酒ダメなんじゃなかった?
 えーと、
 『クンシュがサンモンになんとか』
 とか……」

 遠坂嬢やイリヤさんが、疑問の声を挙げる。
 《お酒がダメ》
 と言われた藤村先生は、見るからに不安そうだ。


 しかし、そんな不安に士郎は笑って手を振った。

「心配すること無いよ。
 柳洞寺の所有地にあるってだけで、別に境内じゃない。
 だいたいあそこは、
 『葷酒山門に入るを許さず』
 なんて、固いところじゃないからな。
 ご住職や、一成の兄さんの零観さんが、あのとおりの人だし、
 柳洞寺はコペンハーゲンの大事なお得意さんなんだから」

 ―――古刹が酒屋の得意先である、というのもすごい話だが。
 とにかく、士郎の説明でみんなはようやく愁眉を開いた。


「よかった。
 じゃ、場所は心配することありませんね」
 桜さんが、掌を打って喜ぶ。

「想像してたより、ずっと大がかりになりそうね。
 気心の知れた人っていうと、後は三枝さんと薪寺さん……うわ」
 何を想像したのだろう。遠坂嬢が、微かに眉を寄せる。

「よおーっし!
 んじゃ、士郎!
 当日は、コペンハーゲンからありったけのお酒を運んでくるのだーっ!!」
 藤村先生が、天に拳を突き上げ、咆吼する。

「わーい!たっのしみー!!
 カネ、その日はたくさん入り乱れてランチキサワギしよーね!!」
「い、イリヤさん、
 ですからその知識は違……あ、や……」
 私の胸に飛び込んで顔を擦りつけるイリヤさんに、なんと説明したら良いか思い悩む。

「―――そうか。
 そうするとかなりの人数になるし、メンバーがメンバーだから、
 弁当は人数分×1.5……いや2、か?
 買い出しは……」
 横では士郎が、さっそく主夫魂を発揮している。


 そしてそのまま衛宮家は、『第一回花見大会・前哨戦』へと雪崩れ込んでいくのだった。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (終ノ二)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:7e8ea931
Date: 2010/12/01 19:48


     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (終ノ二)





「―――よし。」

 もう一度、バッグの中を確認する。
 お弁当の詰まった重箱、紅茶を入れたポット、身の回りの品々。
 食器類や地面に敷くシートは、向こうで用意してくれるとのことだ。

 そのバッグを肩に担ぎ、ざっと室内を見渡してから、私はマンションを出た。


 深山町行きのバスに揺られる。
 考えてみれば、このバスに乗るのは卒業式以来だ。
 士郎の家に行くときは、行き帰りとも、いつも歩いていた。
 視線の高さ、速さが変わると、見える物も違ってくる。
 景色のちょっとした変化が、 春なんだな と実感させてくれる。

 私の服装も、あの頃に比べてぐっと春らしくなった。
 薄いピンクのワンピース。グリーンのカーディガン。白のミドルヒールパンプス。
 相変わらず、「これが私か?」と思うようなカラーリングだ。
 ……桜餅のように、見えなくもない。

 桜さんのイメージカラーとも被ってしまうが、今日ばかりは勘弁してもらいたい。
 何しろ、今日は……



 いつもの交差点でバスを降り、 ほっ と一息つく。
 見上げれば、空は真っ青。
 ところどころに、刷毛で擦ったような薄い雲が浮かんでいる。
 風は無し。

 絶好の、お花見日和だ。



 先日話題に出た『お花見』案は、あれからとんとん拍子に話が進んだ。
 計画を練ったのは、士郎と柳洞一成。

 計画を完璧に立案し、遺漏無く進行させる柳洞。
 細かい部分を修正しつつ、その計画を実現化する士郎。
 こういうとき、このコンビは実に頼もしい。


 最終的な出席者は、柳洞家の方々、衛宮家の面々、美綴嬢と蒔寺、由紀香。

 いつものメンバー、と言えなくもないが、こうして一堂に会するのは珍しい。

 会場設営や、基本的な物品及びおにぎりなどの主食の用意は、柳洞家が行ってくれる。
 飲み物全般は、コペンハーゲンのネコ女史が、参加がてら運んできてくれるそうだ。

 そして私たちは、おかず担当。
「なんでもいいから、一人一品以上、作って持ってくること」
 という、衛宮実行委員長からのお達しだ。


 ……正直言って、このお達しは私にとってプレッシャーだった。
 士郎、遠坂嬢、桜さんの料理の腕前は言わずもがな。
 美綴嬢はイベント料理に長けており、作る量が増えれば増えるほどその真価を発揮するという。
 由紀香は、家庭料理を作らせたら、士郎に勝るとも劣らない。
 蒔寺は――この事実を知った者は必ず五秒は絶句するのだが――実は『和食の達人』である。

 つまり、こと料理に関しては、このメンバーの中で私が一番の未熟者なのだ。


 気後れしている私に、料理の師である士郎は言った。
「普段どおりでいい。
 なにも、無理に気取って作ろうとすることはないんだ。
 今の鐘の腕前だと、ちょっと不安なのは分かるけど、人様に食べてもらうのも、料理教室の一環だと思ってくれ」

 ……優しいようでいて、よく聞くとなかなか手厳しいことを言っているが。
 とにかく、師匠の言葉どおり、私が現在まともに作れる料理数品を、重箱に詰めていくことにした。


 すなわち、鰤の照り焼き。筑前煮。そして、関東風の甘い卵焼き。

 最初にこの卵焼きを教わったときは、
「卵焼きが、甘い!」
 という事実にびっくりしたものだ。
 だが食べ慣れてみると、これはこれで捨てがたい味がある。
 士郎によると、
「関西風に比べて、出し汁の量が少ないから初級者でも作りやすい」
 のだそうだ。

 その関西風の卵焼きは、もちろん士郎がたくさん作ってきてくれる。

 とにかく、私が作った三品も、家で練習に練習を重ねた。
 試食をしてくれた父母も、最後にはげんなりとした顔をするくらいに。
 その甲斐あって、なんとか食べられる味になった、と自分では思っているのだが……



 そんな、ちょっとした不安もあるが、それも楽しみの隠し味のようなものだ。


 さて、ここから柳洞寺まで、もう一行程ある。
 今日は、現地集合。
 士郎は最初、いつものように
「迎えに行くよ」
 と言っていたのだが、私が遠慮した。

 食べ物は持ち寄り、とは言え、メインはどうしても士郎が作ることになる。
 その他の雑用なども考えれば、私を迎えに来る暇などないはずだ。
 いつも、いっしょにいるのだ。
 たまには、こういうことがあってもいい。


 ……強がりであることを苦笑して認め、肩のバッグを担ぎ直す。
 もう一回、深呼吸してから、歩き始めようとして、





「あ……」


 向こうの坂から、士郎が一人で下ってくるのが見えた。
 お弁当等だろう、両手に大荷物を抱えている。

 桜さんや他の面々は、先に行っているのだろうか、姿が見えない。


「士郎」

 坂の上に向かって手を振る。
 あちらも気付いてくれたのだろう、嬉しそうに笑って、足早に坂を下りてくる。
 私も、小走りに彼に駆け寄ろうとして……



    ブロォォォォ


 右手の坂から、自動車が下ってくるのが見えた。

 私は歩みを止める。
 しょうがない。車が通過するのを待ってから、交差点を渡ろう。

 下ってくるのは、白いスポーツカーだった。
 しかし、乱暴な運転だ。
 かなり急な坂なのに、ほとんどスピードを落とさず、センターラインも無視して、運転者は……


 こちらを、見ていない。


 運転者は、助手席の女性に片手を伸ばし、にやけながら何か語りかけている。
 フロントガラス越しでも、はっきり見える。
 その視線は前を、―――私の方を向いていない。


 思わず、後ずさる。
 すぐに、民家のブロック塀が背に当たる。

 スポーツカーは、まるで狙ったようにこちらに直進してくる。

 横へ―――
 足を動かそうとして、

「 ! 」

 縁石に、足を取られた。

 思わず、尻餅をつく。

 バッグの中の重箱が、派手な音を立てる。
 『ああ、これは中身がこぼれたかな。』
 そんな、のんきなことを、つい考える。


「 鐘 ! 」


 声が、聞こえる。
 士郎の声だ。
 しかし、私にそちらを振り向く余裕は無い。

 運転者が、ようやくこちらを見るのがわかる。
 半笑い。
 何が起こっているのか、理解できていない顔だ。
 手も動かさず、まっすぐ突っ込んでくる。
 それが、妙にスローモーションに見える。


「鐘、逃げろ!」


 士郎の声が響く。

 そうだ。
 私は何を冷静に、運転者の観察などしているのだ。
 逃げなければ。
 這ってでも、ここから移動しなければ。

 だが、体が動かない。
 いや、動くことは動く。
 だが、私の体は、私の意識に比べて、おかしなほど緩慢にしか動かない。
 まるで、私の頭の中だけ除いて、時の流れが突然滞ってしまったかのように。


 それでも、車は着実に近づいてくる。
 運転手が、やっとハンドルを切っている。
 だが、遅い。
 加速のついた自動車は、タイヤが動いただけでは運動エネルギーの方向を変えられない。
 スポーツカーは、車体の左を斜めに見せただけで、スリップしながらこちらに向かってくる。



 死ぬ。


 唐突に、理解した。
 私は、この鉄の塊と、背後のコンクリートブロックに挟まれ、死ぬ。


「 鐘 ――― !!!」


 士郎の声が、近づいてくる。
 そちらを、向きたいのに。
 君の笑顔を、見たいのに。

 なぜ私の視線は、こんな無粋な鉄の塊から離れないのだろう。



 塊が、目の前に迫る。

 ―――冗談だろう?

 思わず笑ってしまう。
 こんな、三文小説のエンディングのような……



(トレース・オン!)



 奇妙な呟きが、聞こえた。
 それは、低いが妙に通る声で、

 そして私は、いつだったか、その呟きをどこかで……



     銀 !



 視界の隅に、光が走った。

 その光は、突っ込んでくる自動車の右前輪を、過たず貫く。

     ガクン!

 と、自動車が傾き、さらに右を向く。

 しかし、間に合わない。
 自動車はスリップしたまま、横腹を見せて私の目の前に―――



     弾!!  弾!!  弾!!  弾!! 



 突然、私の眼前に、何かが続けざまに降ってきた。
 やはり銀の光を放つそれらは、私の鼻先を掠め、一直線にアスファルトの地面に突き立つ。

 これは……剣?

 刃渡り1メートル半はある大剣がずらりと並び、私の前に鉄の壁を作る。
 そこに、スポーツカーが突っ込んできた。


     !!~~~~~!!


 耳をつんざくような、金属音。
 弾ける火花。
 スポーツカーは、剣の壁を斜めに滑り、私から離れていく。
 そして、

     がごっっ!!


 という嫌な音を立て、民家のブロック塀に突っ込み、
 ようやく静止した。





 ―――。

 何が、
 起こったのだろう。

 いや、私は……生きている、のか?


 何度か、瞬きを繰り返す。
 気付けば、剣の壁など、どこにも見あたらない。

 ―――幻?

 いや、アスファルトには、深く穿たれた穴が一列に……



「……か、ね…」

 声に、視線を上げる。

 士郎が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
 ほっとした。
 私はまだ、彼を見ることが出来る。

 安堵をそのまま笑顔に替え、彼に向けようとして……

「 ――― 」

 その笑顔が、凍り付いた。


 彼の肌は、完全に土気色となり。
 足取りは、まるで幽鬼のようによろめき。
 こちらに向ける視線だけが、異様なほど爛々と輝いている。


「し、ろう?」
 呆然と呟く。

「……鐘。
 だい、じょうぶ  か…?」
 やっとのことで私に辿り着いた彼は、そのまま私の肩を抱こうとして、


「 !! 」


 そのまま、膝から崩れ落ちた。

「士郎!」

 思わず、彼を抱きとめる。
 必死に彼を支える私の肩に、彼の顔が乗る。

 その唇の端から流れ落ちる、一筋の、赤い……



「士郎!
 しっかりしろ、士郎!!」


 私は、彼を抱きしめ、絶叫していた。





    ----------------------------------------------------------



 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (終ノ終)
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:987d98c8
Date: 2010/12/05 15:12



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (終ノ終)





 掌を離さなかった。

 事故現場からここまで、ずっとだ。


 病院に運ばれ、医師に診察を受けるときだけはさすがに離れたが、
 それ以外は、ずっと彼に付き添っていた。



 現場に駆けつけた救急隊員は、私が抱きかかえている士郎を一目見ると、躊躇無く救急車に乗せようとした。
 それほど、誰が見ても彼は傷つき弱って見えたのだ。

 だが、彼はそれを拒否した。

「事故に、会ったのは、彼女だ。彼女を…」

 切れ切れの息の中で、ようやく口にする。

 しかし私も、傷はなにも負っていない。
 尻餅をついて、服が汚れた程度だ。
 それよりも彼を、と隊員に懇願する。

 お互いに譲らない私たちに困惑したのか、隊員は結局、私たち二人まとめて病院に搬送した。



 深山町の総合病院は、大きいとは言えないが新しくて清潔だった。
 救急車で運ばれた場合、外傷は無くても一応診察を受けることになっているらしい。
 だが、ここでも彼はそれを拒んだ。

 自分は、怪我などしていないと。
 恋人の危機を目の当たりにしたので、動転しているだけだと。
 顔面を蒼白にしながら、必死に主張する。


 我慢強いことに掛けては人後に落ちない士郎が、
 あの《五日間》の苦悩でさえ、特定の人以外には気付かせなかった士郎が、
 これほどまでに苦痛をあらわにしている。
 しかも、それを頑なに認めようとしない。

 士郎は確かに頑固で、一度決めたら絶対に引かない、というところがある。
 しかし、決して頑迷でも、自分を把握できない愚か者でもない。
 普段の彼なら、どうしても自分の手に負えないときは、他人の助けも求めるだろう。

 なのに、この頑なさは異常だ。
 ……まるで、苦痛の原因を知られるのを、恐れているかのように。


 押し問答がしばらく続いたが、医師も最後は匙を投げざるをえなかった。



 診察を終え、いったんロビーに出ると、みんなが待っていた。

 花見に参加するはずだった衛宮家の面々、柳洞をはじめ友人たち。
 そして私の両親。

 みな心配そうな顔をしているが、とりわけ士郎の状態に驚いたようだ。
 事故に会ったのは氷室なのに、なぜ衛宮がこんなに衰弱しているのか、と。
 だが、説明できるほどの事情も私は知らないし、そんな心境でもなかった。
 ただ、みんなに頭を下げるだけだった。



 その後、使われていない相談室のような一室に通された。
 父母と、藤村先生が付き添ってくれる。

 警察官から事情聴取を受ける。
 事情も何も、交差点で立っていたら、いきなり車が突っ込んできたのだ。
 それ以外のことなど、語りようがない。
 警察官もその辺のことは分かっているのか、聴取は簡単に終わった。

 ―――あの時、視界を掠めた銀光、目の前に突き立った剣のことは黙っていた。
 気付けば、そんなものはどこにも無かったし、無いものを語るのも馬鹿げている。
 ……それに。
 語ってはいけない、と、心のどこかが警告していた。


 警察官が出て行き、しばらく待たされた。

 隣に座っている、士郎を見る。
 彼は、表情を僅かに歪め、必死に何かに耐えている。
 顔は相変わらず血の気が全く無く、
 冷たすぎる指先は、微かに震え続けている。

 時折、 ゴクン と士郎の喉が動く。
 私に崩れ落ちてきたとき、士郎の口の端から流れ出た、一筋の血を思い出す。
 では、彼が今飲み込んでいるのは……


 向かいに座る両親も、藤村先生も、心配そうな目で じっ とこちらを見ている。
 しかし、何も言わない。言えないのか。



 どれくらい時が過ぎただろう。
 先ほどの警察官が、また入ってきた。
 相手の事情聴取も終わったらしく、私たちに概要を説明してくれる。


 スポーツカーを運転していたのは、私たちと同じく、学校を卒業したばかりの未成年。
 免許取り立てで、昨日の夜から車を乗り回し、その帰りだったという。
 酒気まで帯びていたというのだから、呆れたものだ。

 当事者の私が言うのも何だが、結局、ありふれた事故だ。
 それが、これほど待たされたのは、一つには私の父が冬木市長だ、ということもあるらしい。
 政治がらみの故意、という線も警察は見ていたようだ。


 そんな説明を聞きながら、正直、私の意識はそこから遠かった。
 そんなことは、今はどうでもいい。
 私の隣で、必死に平静を装おうとしている、彼の容態こそがすべてだった。


「保護者の方、よろしいですか?
 相手方のご両親も来られていますので……」
 警察官に促され、両親と藤村先生が出て行く。
 これから、民事だ賠償だと、面倒なことがあるのだろう。


 二人きりになる。
 私は、言葉を発さない。
 彼は、そもそも言葉を発せるような状態ではない。

 時折、 ゴクン という音だけが響く。
 その音を聞くたび、胸が張り裂けそうになる。

 そんな私を見て、彼はさらに辛そうな顔をする。
 ―――なぜ君は、こんな状態の時にまで、人のことを……





「ちょっと、いいかしら?」

 コンコン とノックされ、ドアが開けられる。
 入ってきたのは、遠坂嬢だ。
 ―――そういえば、先ほどロビーでみんなに会ったとき、彼女だけはその姿が無かったような……

 遠坂嬢は、士郎を ちらり と見て、微かに眉をしかめた。
 そして、私に普段の笑顔で語りかけてくる。

「氷室さん、申し訳ないけど、ちょっとこの馬鹿、貸してもらえない?
 すぐに返すから」

「っ!」

 普段どおりの口調が、逆に神経を逆なでする。
 今は、そんな軽口を叩いている場合ではないはずだ。

 思わず非難の声を上げようとして、

「 ――― 」
 笑顔の瞳に宿る、真摯な光に気付く。
 口調は軽くても、彼女は決してこの場を茶化しているわけでは無い。

 だが、今の状態の士郎から離れる、というのも……


 悩む私の肩が、 ぽん と叩かれた。
 振り返ると、士郎が微笑んで立ち上がろうとしている。

 思わず支えて、いっしょに立ち上がる。
 彼はそんな私の手を押さえ、
 『心配ない』
 という風に ぽんぽん と軽く叩いた。

 そのまま、震える足で扉へ―――遠坂嬢のところへ歩いてゆく。
 彼女は、そんな彼を感情の測れない視線で見つめている。手は、一切貸さない。

「ごめんなさいね、氷室さん。
 すぐ戻るわ」

 遠坂嬢は笑って手を振って、士郎と共に部屋を出た。



     * * * * * * * * * *



       ~ Interlude in ~



「――― あっち、向きなさい」
「いいから。背中めくって。……動くんじゃないわよ」
「 ・・・・・・ 」
「はい、終わり。これで少しは楽になるでしょ」
「全く―――。無茶したもんね。
 タイムラグ無しの遠距離同時展開投影なんて、今のレベルのアンタがやったら、こうなるの分りきってたでしょうに」
「現場の方は心配しなくていいわよ。
 警察が本格的に調査し始める前に、痕跡は出来る限り消してきたわ。
 他に目撃者はいないみたいね。運転してたヤツも、酔っぱらってて細かいことまでは覚えてないそうよ」
「アンタね。私のこと何だと思ってるのよ。
 仮にもこの地の管理者なんだから、それくらいのこと知るだけのコネクションはあるわ」
「……で、どうするつもり?」
「とぼけんじゃないわよ。
 私は『他には』目撃者はいない、って言ったの。
 唯一の目撃者を、どうするつもりか、って聞いてるのよ」
「―――殺気立つのは勝手だけど。
 士郎。
 アンタにさんざん話したわよね。
 魔術師にとって神秘の秘匿は絶対。
 一般人にその行使を目撃されたときは、速やかにその痕跡を消すべし。
 その話をアンタ、どう聞いてたの?」
「そうね。
 管理者としては、彼女の記憶を操作するのが一番確実だわ。
 でも……」
「話は最後まで聞きなさい。
 一般人なら、そうせざるをえないわ。
 でも、魔術に関わるものすべてが、魔術を使えるわけじゃない、ってことよ」
「いい例が私の母だわ。
 あの人自身は魔術回路の無い、普通の人間だった。
 でも、魔術に関わる家で育ち、血統としては申し分なかった。
 だから、父と結婚して私と……いえ、私が、生まれたのよ」
「やめてよ、そんな目。
 私が言いたいのは、アンタが取るべき道は二つだ、ってことよ。
 一つは、さっき言ったように彼女の記憶操作をすること。
 この場合は、アンタにそんな技術は無いから、言ってくれれば私がやるわ。
 もう一つは、アンタのことを彼女に洗いざらい話すこと。
 そして、秘密を守るよう誓ってもらう。
 でも、説得に失敗したらそれこそ記憶操作だし、それ以前にバケモノ呼ばわりされることも覚悟しておくのね」
「士郎。
 アンタに、任せるわ。
 ひとつだけ言っておくけど、このままうやむやにして以前のまま、っていう道だけは無いと思いなさい。
 事態はもう、そんな状況は通り越してるわ。
 それに、アンタが彼女といっしょにいる限り、これからも同じような事は必ず起こる。
 考えようによっては、いい機会だわ」
「……そんな顔しないの。
 あくまで私の勘だけどね。彼女…たぶん知ってるわよ」
「もちろん、具体的には知らないはずよ。
 でも、アンタが普通の人間とは全然違うことは、嫌ってほど分かってるでしょうし、
 アンタが、他人と違うことが《出来る》のも、……気付いてると思う。
 けれど、仮に知っていたとして―――今まで彼女の態度が変わったことがあった?」
「自分の恋人を信じなさい。
 アンタが好きになって、アンタを好きになった人でしょう?
 彼女の《普通さ》は、きっとあたしやアンタの想像以上よ」
「……さあて。
 そろそろ戻りましょうか。
 あんまり放っぽっとくと彼女、ヘソ曲げちゃうわよ」
「ん?
 なに、士郎」
「………。
 バカ。」



       ~ Interlude out ~



     * * * * * * * * * *



 それほど間を置かず、士郎と遠坂嬢が戻ってきた。

 彼を一目見て、 ほっ とした。

 顔色が、回復している。
 まだ万全とは言えないものの、先ほどまでの、死人を思わせる肌の色に比べれば、格段の差だ。
 方法は分からないが、遠坂嬢が何らかの処置をほどこしてくれたのだろう。

 代わりに―――、なぜだろう。
 その表情は、別の意味で、苦渋の色に満ちている。

 彼と、彼女の間に、どんな会話が……


「氷室さん、寂しい思いさせてごめんなさいね。
 約束どおり、コイツ返すわ」
 遠坂嬢だけは、普段の口調のまま私に話しかける。

「じゃ、私はみんなの所に行ってるから。
 ほら士郎、がんばんなさい。
 氷室さん。
 この馬鹿、任せるわ」

 そう言って彼女は、士郎の背中を押し、手を振りながらドアを閉めた。





 しばらくして、両親と藤村先生が戻ってきた。
 おおまかな話し合いは、なんとか終わったらしい。

 時計を見ると、もう午後を大きく回っていた。
 時間の経過など気にする余裕は無かったが、ずいぶん長くかかったものだ。


 ロビーで待っているみんなに合流する。

「みなさん、本当に済みませんでした。せっかくのお花見を……」

 士郎と二人で、頭を下げる。
 今からではもう、花見など行う時間は無いし、そもそもそういった気分にもならないだろう。


 櫻はすぐに散る。
 それぞれに忙しい彼らが、近日中にまた集まるのは難しい。


「気にすることなんかないさ。
 あんたたちが悪いわけじゃないんだから」
 いつものように からっ と笑いながら美綴嬢が言う。

「そうよ。
 オハナミを経験できなかったのは正直言って残念だけど、ソメイヨシノって来年も咲くんでしょう?」
 イリヤさんも、にっこり笑って続ける。

「それに、お花見じゃなくてもいいじゃないですか。
 4月が過ぎて皆さんが落ち着いたら、ピクニックにでも行きましょうよ」
 桜さんが、掌を打って微笑む。

 他のみんなも そうだそうだ とか、 どこへ行こうか とか、盛り上がっている。

「……ありがとな、みんな」

 士郎が、ぽつり と呟く。
 それはそのまま、私の気持ちでもある。

 その言葉に、私たちにとってかけがえのない人達は、みな笑顔で返してくれた。



 とりあえず今日は、この場で解散。
 父母は自動車で来ているので、一緒に帰ろうと言う。

 傷一つ無かったとは言え、交通事故に遭ったのだ。
 その言葉に従うのが普通なのだろうが―――


「すみません、お父さん、お母さん。
 先に帰っていていただけますか?」
 私の言葉に、両親が驚いた顔をする。
 周りのみんなもだ。

「鐘!?」
 一番驚いているだろう、士郎に目を向けながら、私は続ける。

「ちょっと、彼と話したいことがあるんです。
 体は大丈夫ですし、彼が送ってくれると思いますから。
 ―――いいだろう?士郎」

「あ、ああ。
 それはもちろんいいけど……鐘?」

 彼の目には、驚きだけでなく疑問の色がある。
 なぜ、今この時に……と、視線が語っている。

 桜さんをはじめ他の友人達も心配そうな顔をしている。
 比較的冷静なのは、遠坂嬢とイリヤさんくらいだ。
 静かな目をして、私と士郎を見つめている。


「……分かったよ、鐘。
 私たちは、先に戻る。
 士郎君、鐘をよろしく頼むよ」
「何かあったら、すぐに連絡するのよ。
 じゃ、お願いね士郎君」

 私の視線に宿るものを、感じてくれたのだろう。
 両親は笑って許してくれた。





 春の日差しの中を、ゆっくりと歩く。
 荷物はそれぞれの家族に持って帰ってもらったので、二人とも手ぶらだ。

 その手を、私の方からつなぐ。
 彼が、少し驚いた顔をする。
 普段なら、陽の高いうちから街中で手をつなぐことはあまりないのだが、
 今日は……今日だけは、彼の体温を感じていたかった。



 士郎は、相変わらず思い悩む表情をしている。
 彼が、何をそんなに悩んでいるのかは分からない。
 分からないが―――


『ちょっと、彼と話したいことがあるんです』

 両親にそう言ったが、本当に話したいことがあるのは、士郎の方のはずだ。


 先ほどの、遠坂嬢の言葉。

『この馬鹿、任せるわ』

 それは、卒業式前日の夕方。
 彼女と二人で下校したときに託された、彼女の願い。

 あえてその台詞を繰り返すことにより、彼女は私に、何かを伝えようとした。


 彼女が伝えようとすることならば、
 そして、彼がこれほどまでに悩むことならば、
 それはきっと、大事なことなのだろう。


 だから、私は求めた。
 彼と、二人きりで帰ることを。

 思い悩む彼を、いつまでも見ていたくはないから。





 手をつないだまま、新都大橋にさしかかる。


 ふと、思う。
 この橋の上で、士郎とどれほどの時を過ごしただろう。

 士郎の家は、この橋のこちら側にあり。
 私の家は、向こう側にある。

 私が彼に会うために、
 彼が私に会うために、
 私たちは、幾度となくこの橋を渡った。

 そして、数々の想い出が生まれた。


 私の想いに気付かない彼に無理やり抱きついたのは、この橋のたもと。
 彼が『デートしてくれ』と言ったのも、そう。
 初めてのデートの待ち合わせ場所は、橋の真ん中。
 彼に初めて『好きだ』と言われた。
 桜さんと、友情にも似たライバル関係を築いた。
 クリスマスの夜の抱擁。
 ―――彼の口から《彼女》のことを聞いたのも、この橋だった。


 そして今も、衛宮士郎と氷室鐘は、手をつなぎながらこの橋を渡ろうとしている。

 どれもこれも、
 私たちにとって、かけがえのない時。

 おそらくこれからも、数えきれないほど生まれていくであろう想い出の、場所。





 橋の真ん中で、士郎が立ち止まる。
 うつむき、なにかを決心しようとしている顔。

 その横顔を眺めつつ、ふと、私はあることに気付いた。
 いや、以前から薄々感じていたことに、改めて目が向いた、と言うべきか……


「―――。
 かね……」
「士郎。
 君は、背が伸びたか?」

 深刻な口調で彼が話し始めようとした時と、私がのんきな質問を発したのは、ほとんど同時だった。

「……え?」
 彼が、目を丸くして聞き返す。

 それに構わず、私は彼の両手を両掌で握り、体ごとこちらに向かせる。

 そのまま背筋を伸ばし、彼に寄り添う。
 やっぱり、そうだ。


「士郎。
 君は、背が伸びている。
 おそらく、これからも伸びるのではないか?」

「―――え。
 い、いや、そんなことない、と思うけど……
 だって、こうしてみても、前と変わらないじゃないか」

 狼狽しながら、彼が言う。


 確かに、見た目の身長差は以前と変わらない。
 私の目の前に、ちょうど彼の唇が来る。

 初めてのデートのとき。
 彼の家に向かうバスの中で確認した高さと、同じだ。


『氷室は歩き方とかしゃんとしてるから、こっちも背筋正さないと目線が同じになっちまうんだよな』
『これくらいの差であれば私がヒールを履いたとしても逆転することはない』
『う、そっか。ヘタすると身長入れ替わるんだな、ヒールで』


 自分の背があまり高くないことに悩んでいた、彼の苦笑を思い出す。

 だが。


「―――士郎。
 ひとつ忠告するが、自分の恋人のファッションくらい、常にチェックしておくものだぞ。
 私は今、何を履いている?」

 いたずらっぽい笑みで、彼を見つめる。

「なに、って……、あ…」


 そう、今私が履いているのは、白のミドルヒールパンプス。
 踵の高さは、7㎝ほどだ。

 初デートの時の靴は、確か学校指定のローファーだったから、高さに4~5㎝の差はある。


「……気付かなかった。
 いや、そういえば服も靴も、なんとなくきつくなったな、って思ってたんだけど」
 彼が、驚いたように頭を掻く。

「言われて初めて気付くのも、君らしいな。
 まあ、私は別に、構わないのだが……」

 意味深に、言葉を切る。


「この分なら私も将来、ウェディングドレスを着られるかな?」

「 ――― 」

 彼が、言葉に詰まる。
 ……憶えてくれていたか。


 あのときの、身長談義の結末。
 士郎が気にするのなら、別にハイヒールなど履かなくても良い、と思い、
 そのあと、あることに気付いて……


『ウェディングドレスにはヒールがつき物だった、と思い出しただけだ』


 今でも、私自身は身長差など全く気にしていない。
 だが、彼のコンプレックスが取り除かれ、
 それによって、ウェディングドレスを着て彼の隣に立つことが出来るのなら……

 それは、とても素敵な未来ではないか。





 士郎は、視線をさまよわせ、戸惑っている。
 なぜ今、私がこんな話をするのか、測りかねているのかもしれない。

 だが、意図など無い。
 私は話したいことを、話したいようにしゃべっているだけだ。
 だから次の言葉も、自然に出る。



「ありがとう、士郎」

「……え?」

 彼が、不思議そうに呟く。


「私を助けてくれて、ありがとう。
 嬉しかった」

「 ……… 」
 彼は、呆然と私を見ている。



 あの時の銀光。
 連なった、剣。

 ほんの一瞬で消えてしまったけれど。
 あの光に私は、紛れもなく《士郎》を感じた。

 この半年間、いつも身近に感じ続け、
 時として全身で受けとめた、《士郎》自身を。


 あのとき、彼が何をしたのか、私には分からない。
 関心も、無い。
 彼が、命をかけて私を助けてくれた。
 それだけが、私にとっての事実だ。


 ゆえに、私は一寸の迷いもなく、言える。

「ありがとう、士郎。本当に。」





「―――。
 鐘。」

 士郎が、私を真っ直ぐ見つめる。
 もう、先ほどまでの迷いは、その瞳には無い。

「うん。」

 私も、彼を真っ直ぐに見つめ返す。


「鐘に、話さなきゃいけないことがある。
 今まで黙っていたことを、許してくれ、とは言わない。
 突拍子もない話に聞こえるとも思う。
 でも……」

 彼はそこで、息を継いだ。

「できれば、最後まで聞いて欲しい。
 そして―――答を、聞かせてくれないか?」

「分かった」

 彼の、いつもどおりの真摯な瞳に、私も真剣に頷きをかえした。



 大仰なことの嫌いな彼が、ここまで前置きをして言うのだ。
 それはきっと、彼にとって、重要なことに違いない。


 ……しかし。

 彼には申し訳ないが、それが必ずしも、私にとっても重要な事柄であるとは限らない。



 私にとって、本当に大事なことは、ただ二つ。


 一つは、士郎自身のこと。
 士郎が、自分の内に『楽しさ』を感じ、そして幸せになること。


 もうひとつは、私だけの《エンゲージ》。
 彼と出会い、付き合い始めてから、ずっと私の中にある、誓い。

 ――― 終生、彼と添い遂げる。



 この二つ以外に、私が本当に大切に思うことなど、有りはしない。



 だから、私は心気を澄ませる。

 彼が、どんな言葉をくれても、正直に反応できるように。




















 大きく息を吸い、彼は話し始める。

「俺は……魔法使いなんだ。」





 私は、驚く。

「凄いな。」










          (了)










     ―――――――――――――――――――



【筆者より】



 まず、最後まで読んでくださった皆様、
 並びに、このような無茶を快くお許しいただいたNubewo様に、心より感謝を申し上げます。


 62回、半年以上もかけて書いてきて、結局、士郎くんと鐘ちゃんのハッピーエンドまでには届きませんでした。

 でも、そこに至るきっかけ、そのまた取っ掛かりくらいは、示すことが出来たんじゃないか。
 そう、思っています。

 これから、この二人がどうなるのか。
 正直、筆者にも見当が付きません。
 案外、(文中のどこかにも書いたように)あっさりとケンカ別れということになるのかもしれません。

 けれど、この二人なら、七転八倒しながらも二人三脚で進んでいってくれるんじゃないかな、と期待もしています。
 ……自覚の無いバカップル振りで、周囲に砂を吐かせつつ。


 さて、平行世界『クロスゲージ』は終了しました。
 筆者は改めて一読者に戻り、
 正編『エンゲージを君と』の再開を、心待ちに待つことにします。


 改めて皆様、本当にありがとうございました。
 機会があれば、またお会いしましょう。





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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。





[18987] クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) 番外編 ~ あるいはエピローグ
Name: 中村成志◆01bb9a4a ID:8338d2af
Date: 2010/12/11 18:49



     クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) 番外編 ~ あるいはエピローグ





 目を開けたら、明るかった。
 だから、今は昼だ。

 まったく、ものが見えなくなってから、どれくらい経つんだろう。
 いまでは、明るいか暗いかぐらいしか分からない。

 だから、目が覚めて明るかったら昼、暗かったら夜だ。


 明るいけれど、すごく明るいってほどじゃない。
 夜が明けたばっかりか、それとも夕方だろうか。

 よく分からないけれど、なんとなく夕方、っていう気もする。
 確率は半々だ。


 お布団から、手を出してみる。
 そんなに寒くはない。
 もっとも、この部屋は空調が行き届いているから、いつも暑くも寒くもない。
 でも、外は暑いんだろうなーとか、寒いんだろうなーくらいは、気配で分かる。
 まあ、外れる場合もあるけど。


 ライガの家はニホンの家だから、ほとんどの部屋はタタミ敷きだ。
 中には洋間もあるけど、お客様が来るときくらいにしか使ってないらしい。よく知らないけど。

 だから、そんなタタミのお部屋にベッドが置いてあると、なんとなくおかしい。
 まだ目が見えるころ、それを見た時はおもわず笑ってしまった。

 ほんとは、タタミの上にお布団を敷いて寝る方が好きだ。
 シロウの家に泊まるときもそうしてたし。

 でも、こっちのほうが立ったり寝たりするのに楽だし、私の世話をしてくれるお手伝いさんにも都合がいいんだそうだ。
 そうなるとこっちもイソウロウの身だから、わがままは言えない。
 もっとも、今では立ち上がることも自分で起きあがることも出来ないけど。


(たいくつだなあ……)

 出した手で、お布団を てしてし と叩いて遊んでみる。

 手探りで呼び鈴を探してチャイムを鳴らせば、お手伝いさんが来てくれる。
 でも、今のところ用事はないし、用もないのにそばにいられても、息が詰まっちゃう。
 いい人たちなのは分かってるんだけど。

 シロウの家なら、こんなことはなかった。
 シロウはもちろん、サクラやリンやタイガもいて、たいくつなんて、したくてもさせてもらえなかった。

 でも今、あの家にいるのは、公式にはシロウひとりだ。

 私が起きあがれなくなって、リンがロンドンに行くと、サクラもタイガの家に来た。
 シロウと二人っきりで住むことに遠慮したらしい。

 まったく、サクラは押しが弱いんだから。
 私だったら、これ幸いと無理にでも居残るのに。


 もっとも、毎日朝ごはんと夕ごはんを向こうで食べて、休日も向こうで過ごすのは今までどおりだ。
 要するに、今まで私がやってたことを、サクラが代わってタイガとしてる、ってこと。

 私も、シロウの家に行けなくなったのはつまんないけど、タイガとサクラが同じ家にいるのはうれしい。
 二人とも忙しくて、昼間はあまり家にいないけど、帰ってきたら私の部屋に来て、おしゃべりしてくれるのがうれしい。

 リンも、留学する直前まで、この家やシロウの家で、ずっと私の体を見てくれた。



 リンは現在、魔術師の最高学府、ロンドンの《時計塔》に留学している。

 聖杯戦争終結以来、リンはあらゆる学術書をひもとき、ありったけの器具を駆使して、私の体を調べ上げた。

(ちょうどいい実験材料だわ)

 なんて憎まれ口を叩いてたけど、私を少しでもこの世に留めようとする努力であったことは、言うを待たない。

 でも、アインツベルン妄執の結晶である《私》には、どうしても迫ることができなかった。


(……なんだったら、いっしょに来る?
 向こうだったら、何か糸口が掴めるかも……)

 リンには珍しく歯切れの悪い口調で、言ったこともある。

 でも、私はそれを断った。

 リンの好意には感謝するけど(本人にはそんなこと、悔しくて絶対言えないけど)、
 天才魔術師・トオサカリンが、一年以上かけて糸口すら掴めなかった問題が、場所を変えただけで解決するとも思えない。

 それに私が、時計塔の仇敵とも言える《アインツベルン》製ホムンクルスだと、万一露見してしまったら……
 人体実験は、実家だけでたくさんだ。

 結局私は、万一の可能性に賭けるより、残る日々を愛する人のそばで過ごすことを選んだ。


(―――そう。
 アンタが決めたんなら、何にも言わないわ。
 さよなら、イリヤ。
 けっこう楽しかったわよ)

 ロンドンへ去る間際、リンは私にそう言った。



 あんな女でも、いなくなるとなんだか寂しい。
 リンがいなくなってからもう……

 どれくらいだっけ?


 最近、時間の経過がよく分からない。

 リンと別れてから、何日経っているのか、分からない。
 さっきごはんを食べたのか、もう半日食べてないのか、分からない。
 今が夏なのか冬なのか、冬なら何度目の冬なのか、分からない。

 シロウのことは忘れるはず無いけど、この前シロウが来てからどれくらい経つのかが分からない。


 そう。
 シロウも最近忙しくなって、いつもそばにいてくれる、っていうわけにはいかない。

 でも、タイガやサクラを送りがてら、ほとんど毎日私の部屋に来てくれる。

 タイガやサクラが来てくれてもうれしいけど、やっぱりシロウが来てくれるのが一番うれしい。

 だって、シロウが来るときは、足音だけでもう分かるんだもの。


 目や体といっしょに、私の耳も言うことをきかなくなってきた。
 だれかがしゃべってるのを聞いても、ぼあーんとかみゆーんとかいった感じに聞こえてしまう。
 かろうじてまだ、意味は分かるけど。

 ちなみに、触覚も同じようなものだ。
 触ったり触られたりしても、薄いゼリー越しのようで、なんとも頼りない。


 でも、シロウのときは別。
 足音はちゃんとシロウの足音だし、触ってくれる手も、ちゃんとシロウの手だ。





 あ。

 そう思ってたら、さっそくその足音が聞こえてきた。
 しかももうひとつ、うれしい足音といっしょだ。

 どうしよう。
 眠ったふりして、おどろかしちゃおうかな。

 でも、そんなことしても時間がもったいない。

 だから、もうひとつの方法で、おどろかすことにした。
 ふすまが開いた音と同時に、そっちに向かって声をかける。


(いらっしゃい、シロウ。カネ。)








(なんだイリヤ、起こしちゃったか?)

(こんにちはイリヤさん。すみません、お休みのところを……)

 とりあえず、おどろかすのに成功。
 でも、成功しすぎて心配かけちゃったみたい。
 まったく、こういうときに善人って始末が悪いわね。

 でも、いいわけするのもつかれるから、私は笑って首をふった。
 これくらいなら、今の私にもできる。


 シロウは私の枕元にすわり〔タタミの上に置いてあるイスに腰かけたのだろう。ほんとに似合わない〕、
 私の髪を撫でてくれる。

 うん。
 これは昨日もやってくれた。
 それはおぼえてる。


(イリヤさん、お加減はいかがですか?)

 カネは、布団から出したままだった私の手をにぎってくれる。
 これは昨日は……無かった気がする。
 でも、おぼえてるから、きっと最近やってくれたんだろう。

 にぎってくれたカネの手を、ゆっくり指でなぞる。
 あ、左手に指輪。
 前にも気付いたかもしれないけど、おぼえてない。

 カネは美人なのに、あんまり着飾ったり装ったりしない。
 リンみたいにハデになれとは言わないけど、もう少しキレイにしてもいいのに。

 だから、こんなアクセサリを着けるのはいいことだ。
 シロウからのプレゼントだったら、もっといい。うん。





 カネの指をさぐりながら、思う。

 最初にこの女を見かけたとき、なんでシロウはこんな女に近づくんだろう、と思った。

 セイバーという、人類史上に輝く魂と恋仲になり、
 サクラという、完全無欠な家庭人に慕われ、
 リンという、当代きっての天才魔術師に惚れられた、エミヤシロウが。

 ちょっとは美人だけど、こんなとりたてて取り柄も無さそうな女に。


 初めて面と向かって顔を合わせた日も、冷たくすることすらしなかった。

 私には関係のない女。
 だから、確認だけした。

『あなたがヒムロ?』

 と。



 でも。

 私やリンがきついこと言って責めた挙げ句、シロウが半死半生になって悩んだときも。

 サクラが同じくらい悩んで、結局シロウに想いをぶつけたときも。

 この人は、シロウと同じくらい悩んで、同じくらい半死半生になっていた。
 この人は、サクラと相対して、正々堂々と競い合っていこう、と言った。

 そう、タイガやリン、サクラ、そしてシロウから聞いた。


 それから、ちょっとずつ気になって、みんなからこの人の話を聞いた。
 とくに、シロウから話を聞いた。

 シロウはしゃべるのがヘタだから、あんまりよく分からなかったけど。
 でも、シロウの中にあるものを、彼女がおおきく育てている、っていうことは分かった。


 聖杯戦争の時、キリツグの子どもを殺そうと勢い込んでニホンまで来た私は、
 その子どものあまりの善人さ、間抜けさ、虚ろさに、完全に拍子抜けしてしまった。
 本当なら、聖杯戦争が終わったらどんな形にせよ生きていられるはずのない私が、
 曲がりなりにも今まで意識を保っていられたのは、
 この間抜けで虚ろな弟が、心配でしょうがなかったからだ。





 そして、改めて彼女と出会ったのは、……
 ……出会ったのは……

 いつだっけ?

 とにかく、そこそこ寒くて、にぎやかな日。
 にぎやかな建物の中。

 かっこいい服を着た、カッコいいシロウと連れだっていたヒムロ。
 赤いボウシをかぶり、体にぴったりしたセーターを着て、とってもかわいかった。

 そしてなにより、ヒムロといっしょにいたシロウの笑顔。
 タイガやリン、サクラ、そしてくやしいけど私といるときも、あんなにしあわせそうなシロウの笑顔、見たことなかった。


 そして、そこでいろいろおしゃべりして、分かった。

 ヒムロが、シロウをしあわせにしているんだ。

 カネがいないと、シロウはしあわせじゃないんだ。

 おそらくセイバーがシロウに残していった《心》。
 それを育てていけるのは、リンでもサクラでも(ほんとにくやしいけど)私でもない。
 ヒムロカネだけなんだ。


 なら、あとは話はカンタン。
 シロウをしあわせにしてくれる人は、ぜんぶ私の味方だ。

 そう思って、カネに抱きついて寄り添ったら、
 とっても気持ちがよかった。

 ふかふかふわふわの胸もそう。
 すべすべの肌もそう。
 涼しげないい匂いもそう。

 ちょっと時代がかった話し方もおもしろかった。
 ふだんはクールなのに、すぐに乙女っぽく照れちゃうところもかわいかった。
 なにより話していて、声を聞いているだけで、とっても気持ちよかった。

 だから、私は思った。


 私、この人好きだ、って。
 シロウの次くらい、好きだ、って。





(イリヤさん?)

 カネは、ずっと私の手をにぎってくれている。

 カネもシロウと同じように、ううん、シロウよりもっと忙しくなって、あんまり会えない。

 でも、とくにここ最近は、無理して時間を作って会いに来てくれるのが分かる。
 ほとんどはシロウといっしょだけど、カネひとりで来てくれることもある。
 どんなときでも、今みたいに私の手をやさしくにぎってくれる。

 無理しなくてもいいよ、って言いたいんだけど、でもそれでほんとにあんまり来てくれなくなると悲しい。
 だから、わがままだけど言えないでいる。


(学校の帰り?)

 自分で質問したのに、自分の声じゃないみたい。
 だいたい、自分の耳でも
 『アッオウモガエイ?』
 としか聞こえない。
 やれやれ、発声器官にまで来ちゃったか。

(ええ。
 新都で士郎と待ち合わせをして、こちらへ。
 今日は、道々のお庭で梅が咲いていましたよ)

 でもカネは、そんな私の言葉を正確に聞いて、答を返してくれる。

 《ウメ》っていうのは花で、早い春に咲くんだっけ?
 ということは、今は……何月だろう?
 初めてシロウと会ったときも、《ウメ》って咲いてた気もする。


 カネは、もう一度私の手を きゅっ と握りしめてから、お布団の中に入れてくれる。
 冷えるといけない、っていう、カネの心づかいなのは分かるけど、ちょっと残念。

 でも、わがままなんか言わないで、いつもどおり、二人にいろんなお話をしてもらった。


 シロウの仕事先のバーテンダー姿が、けっこう評判になってること。
 カネがかよってる学校のこと。
 サクラが最近、ますますキレイになってきたこと。
 リンから週に一回は手紙が来るけど、いくら勧めても頑としてメールを使わないこと。
 タイガが、ほんのちょっとだけど髪を伸ばし始めて、でも全然いつもと変わらないこと。


 どれも、初めて聞くような気もするし、何回か聞いたような気もする。
 でも、どの話もおもしろい。


 それでもやっぱり、一番おもしろいのは、シロウとカネのこと。
 この二人のバカップルぶりを聞いてるだけで、ほんとうに時間なんか忘れてしまう。

 ちょっと惜しいのは、鋭いツッコミ役がいないこと。
 リンがここにいたらホウフクゼットウだったろうし、タイガの咆吼はちょっと体に響くけど、サクラの穏やかで黒い微笑みでもいい。


 なにより、私がツッコミたくてしかたない。
 ニッコリ笑って、今思ってることを言うだけで、この二人はどんなに慌てふためいてくれるだろう。

 でも、今の私には、それもできない。
 慌てふためく二人を見ることもできない。
 それが、ちょっとさびしい。


 だから、笑いながら二人の話を聞いている。
 聞いてるだけでおもしろい。
 聞いてるだけで、あったかい。
 いつまでも、聞いていたいのに。





(……じゃ、そろそろ帰るよ。またな、イリヤ)

(明日も伺えると思います。イリヤさん、お気をつけて)


 私の体が、ほんのちょっと つかれたな って顔をしたんだろう。
 それを見逃さない二人は、さりげなく別れの声をかけてくる。

 もう。
 なんで、そんなとこだけ鋭いのよ、二人とも。


 でも、わがままは言わない。
 言えないせいもあるけど、言わない。

 私のことを思ってくれてるんだし、二人も忙しいんだし。
 明日も来てくれる、って言ってるし。

 ……でも。








(カネ)

 私はもう一度、お布団から手を出し、
 立ち上がる気配のする方向に向かって、


     ちょいちょい


 という感じで手招きした。


 これは、今やっておかなくちゃいけない気がした。
 明日になったら、忘れてるかもしれない。

 そう。
 明日になったら、もう……



(?
 何か?)

 カネが前屈みになって、こちらを覗くのがわかる。
 その気配をたよりに、


( ――― )


 私は、そっと両腕を回した。

 うん。
 当てずっぽうだったけど、なんとかうまく、カネの首を抱けたみたい。


( ……… )


 息をのむ気配が伝わる。

 ああ。
 カネも、あのときのこと、おぼえてくれてるんだね。

 だから私も、あのときと同じことを、カネにお願いした。





(……シロウのこと、よろしくね)





 あのときは、ほんとに突然だったから、カネも返事なんかできなかった。
 私も、聞くつもりはなかったし。

 でも、こんどは、





(……はい。必ず)





 そう言ってカネは、私の頬をやさしく撫でてくれた。



 よかった。
 安心した。


( 必ず )


 カネが、そう言ってくれるなら、安心だ。
 この言葉があるだけで、私は安心して行くことができる。


《……ドコヘ行クノ?》



 しばらく、カネの匂いをたのしむ。
 すべすべのほっぺたと、私の体に当たるふかふかふわふわの胸を楽しむ。
 きもちいいなあ。
 それに、なんだかなつかしい。



 しばらくして、私はカネを離した。
 ずっとこうしていたかったけど、カネの迷惑になることはしたくない。

 カネも、なんだかなごり惜しそうだったけど、ゆっくりと私から離れていった。





 離れちゃうと、やっぱり残念。
 余韻を楽しむため、上にさしだした両手を、しばらくそのままにしていた。

 両手をゆらゆらゆらして遊んでいたら、



( ――― )
( ……… )



 私の両掌を、なにかが包んでくれた。







 ああ。
 言われなくたって、わかる。


 私の左掌を握ってくれてるのは、シロウの手。
 いつも機械いじりしてるからゴツゴツしてるけど、とってもあったかい。
 でも、私がおぼえてるより、ちょっと大きくなってる気がする。
 シロウの体も、大きくなったんだろうか?

 右の掌を包んでくれるのは、カネの手。
 さっきもそうだったけど、細くて、すべすべして、ちょっと冷たい。
 その冷たさが気持ちいいけど、カネって冷え性?ビタミン取らなきゃ。

 二人の両掌が、私の掌をそれぞれ包んでくれている。
 きもちいい。
 きもちいいって、こういうことを言うんだ。


 でも、ちょっと不満。

 確かに私とシロウ、私とカネはつながってるけど、これじゃシロウとカネがつながってないじゃないの。





(( ――― ! ))





 だから、つなげた。
 私の左手と右手を寄せて、シロウとカネの掌をくっつけた。

 うん。
 これで完璧。

 こんどこそ、ほんとにきもちいい。





 こんなときこそ、ふたりの顔が見えたらいいのに、とおもう。


 人間には《カミサマ》っていうのがいて、ときどき願いをかなえてくれるんだそうだ。

 そりゃあ私は、半分は人形だけど、もう半分はれっきとした人間なんだから、
 こういうときくらいは目が見えるようにしてくれてもいいのに。

 まったく、《カミサマ》ってのも気がきかないんだから。


 でも、まあいいや。

 《カミサマ》なんかより、シロウとカネだ。
 ふたりが、ほんとにきもちよくって……








 あれ?
 なんか、手の上にふってくる。

 顔の上や、パジャマの上に、水がふってくる。

 これって……なみだ?

 なに、シロウとカネ、ないてるの?



 ダメじゃない。
 もういい大人なのに、泣いたりなんかしたら。

 まったく、こんなんだから、私もおちおち寝てなんかいられないのよ。
 手のかかる弟と妹を持つと、つかれるんだから。



 ま、でもいいかな。
 たよられてる、っていうのも、わるくない。

 それに、このなみだも、きもちいい。
 シロウのて、カネのてと、おなじくらいきもちいい。





 ああ。
 きもちいいから、なんだかねむくなってきちゃった。

 わたしがねむったら、シロウもカネも、このてをはなして、かえっちゃうだろう。


 でも、いい。
 あしたもきてくれる、っていってるし、

 あした、きてくれたら、また、てをにぎってもらうんだ。





( ―――! )

( ……!……!! )





 シロウとカネが、なんか、いってる。

 もう、いみもわからない。



 でも。

 シロウとカネの声は分かるよ。

 例え顔が見えなくっても、

 例えどこに行ったとしても、

 二人の声は決して間違えたりなんかしない。










 お休み、シロウ。

 お休み、カネ。



 私の、可愛い弟。

 私の、大好きな妹。










 私の………















     ―――――――――――――――――――



【筆者より】



 番外編~またはエピローグ。

 イリヤは、いっぺんとことんまで書いてみたかった。


 これで、ほんとに終了です。

 ありがとうございました。



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 このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、

   『エンゲージを君と』(Nubewo 作)

に触発され、書かれたものです。

 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。

 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、
 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、
 その文責はすべて中村にあります。




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