――金色の、蝶の夢を見た。
夢の中で、己は蝶を追いかけていた。
金色の蝶は追えども一向に捕まらず、やがて行く手に薄紅の光に包まれた女が現れる。
己と同じ年頃と見えたその少女は、こちらへ何かを問う。けれど、それを聞き取る事はできない。
やがて意識がぼうっとしてきて、夢の中だというのに、なお眠りに引き込まれていく。
少女の問いは何か大事なものだと思うのに、それを知る術が無い。
少女が寂しげに笑い、舞い続ける蝶が金色の残像を残す。そんな光景を記憶の隅に残して、夢は終わった。
【ネタ・習作】P3P女主←無印P3男主憑依であれこれ【TS逆行憑依捏造】
●第一回●
『彼女』の眠りを覚ましたのは、モノレールの車内アナウンスだった。
目を開いてからも、身じろぎもせずにじっと何も無い宙を見詰めている少女。けれどこの深夜の車両には、そんな彼女の様子を気に留める者はいない。
本日の終電は、少女ただ1人を乗せ、坦々と目的地へ向けて走り続けている。再度のアナウンスが、次は巌戸台、と告げるのを、少女は呆けた様子で聞いていた。――と、
「………。――ッ!?」
それから少女の、何やら不審な行動が始まった。
勢い良く座席から立ち上がったかと思えば、正面の窓に近寄って、映った自分の顔を凝視する。頬を一撫でして、今見えているものが間違いなく自分の姿なのだと理解すると、わなわなと震えて2、3歩ほど後じさりした。
ちなみに彼女の顔は、お世辞抜きになかなか可愛らしいと言えるものである。必要最小限の化粧は彼女自身の魅力を損なう事なく引き立てており、傍目から見れば彼女が何にショックを受けているのかはわからない。
「……なん、で。……なんだこれ…おれ、……どうなってる……」
動揺にかすれた声が紡いだ「おれ」という一人称。年頃の少女が口にするには随分と似合わない印象だ。
だが直後に自らの手で口を塞いだのは、一人称の問題でなく、彼女自身が自分の声の高さに驚いての咄嗟の行動であった。
少しでも落ち着こうとして心臓の上に置いたもう一方の手は、柔らかな膨らみを掴んだ。そこで思わず揉んでみてしまうのは、……『男なら』仕方ない無意識の行動だった、と弁解しておこう。
「これは…美鶴ほどじゃないけど、そこそこ……。……――って、そんなのどうでもいい!! いや、どうでもよくはないけど今はそんな場合じゃない! そうじゃなくて、なんでおれに、…む、胸が、……っまさか、」
僅かに青ざめた顔で、彼女は自身の身体を眺め下ろした。上から下へと――胸の部分でどうしても固まる視線をなんとかひっぺがし――確認していき、身に着けているのが膝上丈のスカートだと気付いて、また一つ気が遠くなる。
だが一番の問題はその中身だ。無いところに盛る事は不可能ではないとしても、……あるべきものが無いのだとしたら?
意を決して、公共の場でスカートの下に手を突っ込むという、極めつきに不審な行動を取った彼女の得た答え。それは……蚊の鳴くような小さな声で「無い」と呟き、そのまま座席に突っ伏してしまうというリアクションから察せられるだろう。
どれだけの時間、そうして落ち込んでいたのかはわからない。
少女が気付いた時には、既に周囲の雰囲気はただならぬものへと変化していた。普通ではないが、彼女にとっては良く知ったそれ。また同時に、彼女にとっての『今』ではもう、起こりうるはずのない現象。
人の英知が力を失い、暗緑色に沈む世界。モノレールを降りて市街へと踏み出せば、血のような赤い水溜りと、無機質な棺たちが迎えてくれるだろう。彼女はその光景を、まざまざと思い描く事ができた。
「……影時間」
しばらくぶりに出した声は、思ったよりも冷静なものだった。時間の経過もあるがそれ以上に、慣れた非常事態という矛盾した感覚こそが彼女の思考を冷ましていた。
座席から身を起こした少女は、先ほどまでとは異なる鋭い目付きで周囲を見回した。
モノレールの扉は開かれていた。扉の向こうに見えるのは駅の構内で、運の良い事に、ちょうどモノレールが駅に到着した時に影時間に突入したらしい。もし少しでもタイミングがずれていたら、機械が動かない影時間ではずっとモノレールに閉じ込められていただろう。
次に注視したのは彼女が最初に座っていた座席で、そこにはシンプルなスポーツバッグがぽつんと置かれていた。
車内には、彼女以外の誰の姿も――1つの棺も見当たらない。とすればこのバッグは誰かの忘れ物か、彼女自身の持ち物かである。
彼女自身には、そのバッグが自分のものであるという記憶は無い。しかし、もしかすると、という推測を裏付けるためには、目の前の唯一の手掛かりであるそれを放置してはおけなかった。
違ってたらごめんなさい。彼女は心の中であらかじめ誰かにそう謝ってから、バッグの中身の検分を始めた。
特に珍しいものはない。遠方からの旅程だったのか、着替えと思われる衣類――女性ものの下着も含まれていたがなるべく触れず脇によけた――や、衛生用具、化粧道具一式など。この年頃の女性なら普通に所持しているだろう、当たり前のものが入っているだけだ。携帯電話もあったが、影時間では動かないので意味が無い。
彼女が欲しかったものはそこには無かった。落胆の色の滲んだ溜息をこぼすが、そのうち別の可能性に気付いて、自分が今着ている制服のポケットを探り始める。最初はポケットがどこに付いているのかすらわからなかったが、すぐに何かを引っ張り出した。
手にしたものは、小洒落たデザインの財布。彼女はそこに収められている紙幣などには目もくれず、数枚のカードの中からただ1つのものを選び出す。
「知らない校名……でも、今着てるのは月光館の制服……前の学校の学生証?」
じっとそのカード――学生証を観察する、彼女の表情は芳しくない。
学生証に記載されている情報は少なく、それは事態の解明どころか逆に彼女の困惑に拍車をかけるばかりであった。
いくつもの仮説が脳裏をよぎり、けれど全ては何の確証も無い、荒唐無稽な想像に過ぎない。
現実逃避したくなる頭を左右に振って、もう一度学生証の文字を読み上げる。今度は声に出して、はっきりと。
「――高等学校、学生証。学籍番号……。名前、有里 公子……」
その後に書かれている住所は覚えの無いものだったが、生年月日だけは記憶している自身のものとぴたり同じだった。
少し緊張したような表情で写っている顔写真は、目が覚めて最初に窓に映し見た少女の顔と寸分違わなかった。
彼女はその事実に眉を寄せ、苦しげな声で否定する。
「違う……違う、おれは有里湊だ…公子なんて名前じゃないし、こんな顔じゃ……そもそも男なのに……」
完全な他人のものでなく、苗字や生年月日といった部分が半端に一致しているのが、むしろ不気味に思えた。
だがいくら拒んでも、学生証の記載内容が変わるわけではないし、彼女の姿は可憐な少女のままであった。
深まる混乱を、今が影時間なのだという危機認識によってなんとか抑え、彼女はキッと前を向く。
「このまま……立ち止まってても、どうしようもない。わからないことばっかりだけど、ここが巌戸台なら……みんなが、いる」
はっきりと言葉にする事で、少しは気力が湧いてきた気がする。
彼女はそこから一歩一歩、確かめるようにと先へと進んだ。モノレールを降り、駅を出て市街へと。
外の様子は、彼女が車内で想像した光景そのものだった。禍々しいほどに黄色く輝く巨大な月。歩くたび足元でパシャリと音を立てる赤い水溜まり。直立する棺の数は、駅前を離れるにしたがって少なくなってきた。
地図はいらない。目的地までの道のりは、思い出すまでもなくわかっている。
何度この道を通っただろう。誰と共に歩いてきただろうか。この心に刻まれた幾つもの思い出が、嘘や夢などであるわけがない。
不安を押し殺して今はただ急ぐ。帰るべき場所であるはずの、あの学生寮へと。
そこに行けばこの理不尽な事態に対しての、何らかの答えが見つかるはずだと信じて。
「……、っは、……っあ…着い、た」
急ぐあまりに影時間内での身体にかかる負荷も考えずに走って、随分と息が上がってしまった。
辿り着いた寮の門前で落ち着くまで休憩しながら、彼女はこれからどうしたものかと考える。
寮へ行って仲間たちに会えば何とかなると思った。けれど、現在の自分の状況をどう説明したものだろう?
自分自身ですら、把握できている事は僅かなのだ。
自分の名前は有里湊で、男である。これは絶対に間違いない事実であるはずだ。むしろここから間違ってたら泣く。
一年の戦いの末に平穏な日常を取り戻し、その代償として自分は死んだ。確かにあの時、死んだと思ったのだ。
それが何故か、気が付いたら生きていた。しかも『有里公子』という名前の少女の身体になって。
――どう考えてもうまい説明が思いつかない。
こんなざまで、仲間たちに理解してもらえるのだろうか。影時間やシャドウなどという非日常の存在を体験してきた仲間たちなら、信じてくれるかもしれないと希望的観測をしてみる。けれど不安なのは自分の口下手さ加減だ。昔からそのせいでよく相手に誤解されたし、仲間たちとも結局、心からわかりあえたとは言えなかった。
「でも……とにかく、話してみなくちゃ」
行くぞ、と小さく呟いて顔を上げ、彼女は寮の扉を叩いた。
窓から窺える学生寮の内部は、他の建物と同じように暗く静まり返っている。それは別段おかしな事ではなく、この寮がかつて彼女と仲間たちの活動本拠地であった頃ですら、わざわざ明かりを灯すためだけに桐条グループ謹製の影時間仕様機器を用いはしなかった。
ゆえに室内が暗いのは誰もいないという事の根拠にならないのだが、繰り返しノックしても何の返事も無い。
確率は低いが、本当に全員が出払っているのだろうか。もう無くなったはずの影時間という現象が再び起こってしまった事で、原因究明のための情報収集に行っているのかもしれない。
それならそれで、仕方が無い。どうせ影時間中はこの寮の入り口に鍵はかかっていないのだから、室内で仲間たちが戻ってくるのを待つ事にしよう。
彼女はそう考えて、勝手知ったる寮の中へと足を踏み入れた。
――直後、横手にあるカウンターから掛けられた声は、彼女にとって馴染みのありすぎるもので。
「ようこそ」
それが『今』聞こえる事の不自然さすらも忘れて、思わず彼女はそちらを振り向いた。そしてそのまま、固まってしまう。
囚人のような白黒の縞模様の服を着た、青い目の少年がそこにいた。
もう2度と会えないはずの相手だった。途端、胸のうちに押し寄せてきた感情の強さに、言葉を失う。
はくはくと口を開閉させ、何も答えられずにいる彼女の様子を見ても、相手のその幼子の容貌に乗せた笑みは揺らがない。
「遅かったね。長い間、君を待ってたよ」
それはまるで、過去の光景の焼き直しのようだった。
彼女にとっての過去、彼女が『彼』として、初めてこの寮を訪れたあの夜。この少年は、今と全く同じ言葉で『彼』を迎えたのだ。
これは一体何の冗談だ。まさか自分はタイムスリップでもしたというのだろうか。それこそ、ありえない。
自分が少女の姿になっていると気付いた時以上の不安が、『彼』である彼女の身を震わせる。
「………。ファル、ロス――」
「うん? 君、今何て言ったんだい?」
彼女の唇からこぼれた名は、あまりにも小さくて少年にも聞き取れなかったようだった。
しかし少年にとって、その事はあまり重要ではないらしい。「まあ、いいけど」と気を取り直すと、カウンターの上に置かれた薄い本のようなものを手に取って、表紙をめくる。
よく見ればそれは本ではなく、何かの書面を革張りの装丁で丁寧に綴じてある代物だった。
少年は書面に目を落とし、そこで初めて笑みを消すと、やや戸惑った表情を彼女へと向けてくる。
「……あれ? おかしいな、どうしてもう、君の署名があるんだろう。君はいつこの“契約”にサインしたんだい?」
「――え?」
告げられた内容に、彼女の震えが止まった。
少年は彼女に、開いたままの書面を差し出した。彼女の方から読めるように、ちゃんと向きを変えてから渡す。
夢現の境をさまよっているような覚束無い足取りで、それでも彼女は書面を受け取った。
少年が精一杯背伸びして身を乗り出し、彼女が持つ書面の特定の箇所を指でなぞる。
「ほら、ここ。これは君の筆跡だろう? 君の名前、“有里 公子”ってもう書かれているよ」
確かに、彼女の筆跡とよく似た字で、有里公子という名が署名されていた。
だが彼女には、その名前でサインした記憶は無かった。彼女が過去に“契約”だからと言われて書いたのは、『彼』であった頃の自分の名前、有里湊である。
この書面には有里湊の名が無く、有里公子の名がある。そして少年は、こちらを有里公子だと認識しているらしい。
「おかしいよ。君に“契約”を持ち掛けるのは、僕だけの役目のはずなのに。もしかして、僕の方が忘れちゃってるのかな? 君は前に、僕からこの契約書を受け取ったかい?」
少年は上目遣いに彼女の顔を覗き込んだ。視線には、彼女から伝染したかのように僅かな不安がにじんでいて。
それで彼女は開き直った。何が何だかわからないが、自分のせいでこの無二の友を不安にさせるなんて、彼女にとってはその方がずっと不本意な事なのである。
だから彼女は、正直に話そうと思った。自分にとって、真実である記憶を。
まず言わなければならないのは、自分が有里公子ではないという事だ。
「……ファルロス。おれは、有里公子じゃない。有里、湊なんだ」
「有里…湊? それが君の名前なの? ……え、待って。僕、君に名乗ったかな?」
「おれにもよくわからないんだ。これが夢なのか、過去なのか……何でおれが、…女になってるのか。でもたぶん、ファルロスは何も間違ってなんかないし、おれの記憶が嘘ってこともないと思う。全部説明のつく理由が、きっと――」
「待って、ねえ待ってよ。僕も君の話にすごく興味があるけど、今はあんまり時間が無いんだ。影時間が明ける前に、“契約”を済ませちゃわなきゃ――えっと、つまり、君は有里湊で、まだこの契約書に署名してない、それは確かだね?」
少年がつい聞き返した疑問は、壮大な物語に発展しそうな気配だった。
早々に話を遮って当初の用件を優先した少年は悪くない、たぶん。遮られてしゅんとした顔の彼女を見ると、罪悪感が湧くけれど。
「……確かに、『この』契約書におれの名前はない。“契約”は前にしたはずなのに……」
「うぅん……そこも気になるけど、とりあえず後回しにしよう。……まずいな、本当に時間が無いみたいだ。とにかく今は、この契約書に君に署名してもらわないと。前に契約した事があるんなら、中身はわかってるね?」
「ここからは自分の決めた事に責任を取る、だっけ」
「そう。二重契約とか、別に変な事になるような内容じゃないから大丈夫。署名してくれる?」
「……必要だっていうなら」
彼女が念のために、契約書の短い文面を読んでいると、新しい署名欄が独りでに書面に浮かんできた。
少年からペンを渡されて、彼女である『彼』は署名欄に自分の名前を書き記す。
有里公子の署名の下に、『有里 湊』と。
サインを終えた契約書を渡すと、少年は2つ並んだ署名を確かめて、これでいいとばかりに頷いた。
「これも、君はもう聞いたのかもしれないけど……時は、誰にでも結末を運んでくるよ。たとえ、耳と目を塞いでいてもね」
結末を、彼女は一度迎えたはずだった。それから何がどうなって今に至ったのか、全くわからないが。
ようやく開き直ったというのにろくに話もできず、顔にこそ出さないが、複雑な気持ちを持て余している彼女。
かつて彼女の心に誰よりも近かった少年は、せめて1つの約束を残す事にした。
「今度は僕から、会いに行くよ。それに、僕が君を待った時間から考えたら、次なんてすぐさ」
「……うん」
「その時は、ちゃんと君の話を聞くから。――さあ、始まるよ?」
その言葉を最後に、少年の姿は瞬きの間に消え失せていた。
確か彼女の記憶では、以前はもっと余韻を残して、闇に溶けるように消えていったのを覚えている。今回は、それすら難しいほど時間が無かったのだろうか。
そして彼女自身も、そんな事を考察している暇はないようだった。
不意に投げつけられた「誰!?」という誰何の声は、否応無く彼女に現実を突きつけようとしていた。