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[18189] 【ネタ・習作】P3P女主←無印P3男主憑依であれこれ【TS逆行憑依捏造】
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/06/20 16:18
     ●成分表示●

 このSSには以下の属性が含まれます。

   ・TS
   ・憑依
   ・逆行
   ・クロスオーバー(女神異聞録ペルソナ/ペルソナ2罰)

 その他、気になりそうな点は以下に列記します。

   ・ゲーム本編(P3/P3P/ペルソナ2罰)のネタバレ
   ・同性愛っぽく見えるかもしれない描写(外見女主中身男主→美鶴/男性キャラ→外見女主中身男主)
   ・主人公の性格が湿っぽい
   ・本文の6割くらい?がキャラの心情描写
   ・ゲーム本編で明確でない部分の捏造


 ※更新頻度低下中。唐突な更新停止や本文削除もありえますので、ご了承ください。隔週か月刊かわかりませんが、新作が上がるとしたら週末だと思います。



[18189] ●第一回●
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/04/18 01:56


 ――金色の、蝶の夢を見た。

 夢の中で、己は蝶を追いかけていた。
 金色の蝶は追えども一向に捕まらず、やがて行く手に薄紅の光に包まれた女が現れる。
 己と同じ年頃と見えたその少女は、こちらへ何かを問う。けれど、それを聞き取る事はできない。
 やがて意識がぼうっとしてきて、夢の中だというのに、なお眠りに引き込まれていく。
 少女の問いは何か大事なものだと思うのに、それを知る術が無い。
 少女が寂しげに笑い、舞い続ける蝶が金色の残像を残す。そんな光景を記憶の隅に残して、夢は終わった。


   【ネタ・習作】P3P女主←無印P3男主憑依であれこれ【TS逆行憑依捏造】
                  ●第一回●


 『彼女』の眠りを覚ましたのは、モノレールの車内アナウンスだった。
 目を開いてからも、身じろぎもせずにじっと何も無い宙を見詰めている少女。けれどこの深夜の車両には、そんな彼女の様子を気に留める者はいない。
 本日の終電は、少女ただ1人を乗せ、坦々と目的地へ向けて走り続けている。再度のアナウンスが、次は巌戸台、と告げるのを、少女は呆けた様子で聞いていた。――と、

「………。――ッ!?」

 それから少女の、何やら不審な行動が始まった。
 勢い良く座席から立ち上がったかと思えば、正面の窓に近寄って、映った自分の顔を凝視する。頬を一撫でして、今見えているものが間違いなく自分の姿なのだと理解すると、わなわなと震えて2、3歩ほど後じさりした。
 ちなみに彼女の顔は、お世辞抜きになかなか可愛らしいと言えるものである。必要最小限の化粧は彼女自身の魅力を損なう事なく引き立てており、傍目から見れば彼女が何にショックを受けているのかはわからない。

「……なん、で。……なんだこれ…おれ、……どうなってる……」

 動揺にかすれた声が紡いだ「おれ」という一人称。年頃の少女が口にするには随分と似合わない印象だ。
 だが直後に自らの手で口を塞いだのは、一人称の問題でなく、彼女自身が自分の声の高さに驚いての咄嗟の行動であった。
 少しでも落ち着こうとして心臓の上に置いたもう一方の手は、柔らかな膨らみを掴んだ。そこで思わず揉んでみてしまうのは、……『男なら』仕方ない無意識の行動だった、と弁解しておこう。

「これは…美鶴ほどじゃないけど、そこそこ……。……――って、そんなのどうでもいい!! いや、どうでもよくはないけど今はそんな場合じゃない! そうじゃなくて、なんでおれに、…む、胸が、……っまさか、」

 僅かに青ざめた顔で、彼女は自身の身体を眺め下ろした。上から下へと――胸の部分でどうしても固まる視線をなんとかひっぺがし――確認していき、身に着けているのが膝上丈のスカートだと気付いて、また一つ気が遠くなる。
 だが一番の問題はその中身だ。無いところに盛る事は不可能ではないとしても、……あるべきものが無いのだとしたら?

 意を決して、公共の場でスカートの下に手を突っ込むという、極めつきに不審な行動を取った彼女の得た答え。それは……蚊の鳴くような小さな声で「無い」と呟き、そのまま座席に突っ伏してしまうというリアクションから察せられるだろう。


 どれだけの時間、そうして落ち込んでいたのかはわからない。
 少女が気付いた時には、既に周囲の雰囲気はただならぬものへと変化していた。普通ではないが、彼女にとっては良く知ったそれ。また同時に、彼女にとっての『今』ではもう、起こりうるはずのない現象。
 人の英知が力を失い、暗緑色に沈む世界。モノレールを降りて市街へと踏み出せば、血のような赤い水溜りと、無機質な棺たちが迎えてくれるだろう。彼女はその光景を、まざまざと思い描く事ができた。

「……影時間」

 しばらくぶりに出した声は、思ったよりも冷静なものだった。時間の経過もあるがそれ以上に、慣れた非常事態という矛盾した感覚こそが彼女の思考を冷ましていた。
 座席から身を起こした少女は、先ほどまでとは異なる鋭い目付きで周囲を見回した。
 モノレールの扉は開かれていた。扉の向こうに見えるのは駅の構内で、運の良い事に、ちょうどモノレールが駅に到着した時に影時間に突入したらしい。もし少しでもタイミングがずれていたら、機械が動かない影時間ではずっとモノレールに閉じ込められていただろう。
 次に注視したのは彼女が最初に座っていた座席で、そこにはシンプルなスポーツバッグがぽつんと置かれていた。
 車内には、彼女以外の誰の姿も――1つの棺も見当たらない。とすればこのバッグは誰かの忘れ物か、彼女自身の持ち物かである。
 彼女自身には、そのバッグが自分のものであるという記憶は無い。しかし、もしかすると、という推測を裏付けるためには、目の前の唯一の手掛かりであるそれを放置してはおけなかった。

 違ってたらごめんなさい。彼女は心の中であらかじめ誰かにそう謝ってから、バッグの中身の検分を始めた。
 特に珍しいものはない。遠方からの旅程だったのか、着替えと思われる衣類――女性ものの下着も含まれていたがなるべく触れず脇によけた――や、衛生用具、化粧道具一式など。この年頃の女性なら普通に所持しているだろう、当たり前のものが入っているだけだ。携帯電話もあったが、影時間では動かないので意味が無い。
 彼女が欲しかったものはそこには無かった。落胆の色の滲んだ溜息をこぼすが、そのうち別の可能性に気付いて、自分が今着ている制服のポケットを探り始める。最初はポケットがどこに付いているのかすらわからなかったが、すぐに何かを引っ張り出した。
 手にしたものは、小洒落たデザインの財布。彼女はそこに収められている紙幣などには目もくれず、数枚のカードの中からただ1つのものを選び出す。

「知らない校名……でも、今着てるのは月光館の制服……前の学校の学生証?」

 じっとそのカード――学生証を観察する、彼女の表情は芳しくない。
 学生証に記載されている情報は少なく、それは事態の解明どころか逆に彼女の困惑に拍車をかけるばかりであった。
 いくつもの仮説が脳裏をよぎり、けれど全ては何の確証も無い、荒唐無稽な想像に過ぎない。
 現実逃避したくなる頭を左右に振って、もう一度学生証の文字を読み上げる。今度は声に出して、はっきりと。

「――高等学校、学生証。学籍番号……。名前、有里 公子……」

 その後に書かれている住所は覚えの無いものだったが、生年月日だけは記憶している自身のものとぴたり同じだった。
 少し緊張したような表情で写っている顔写真は、目が覚めて最初に窓に映し見た少女の顔と寸分違わなかった。
 彼女はその事実に眉を寄せ、苦しげな声で否定する。

「違う……違う、おれは有里湊だ…公子なんて名前じゃないし、こんな顔じゃ……そもそも男なのに……」

 完全な他人のものでなく、苗字や生年月日といった部分が半端に一致しているのが、むしろ不気味に思えた。
 だがいくら拒んでも、学生証の記載内容が変わるわけではないし、彼女の姿は可憐な少女のままであった。
 深まる混乱を、今が影時間なのだという危機認識によってなんとか抑え、彼女はキッと前を向く。

「このまま……立ち止まってても、どうしようもない。わからないことばっかりだけど、ここが巌戸台なら……みんなが、いる」

 はっきりと言葉にする事で、少しは気力が湧いてきた気がする。
 彼女はそこから一歩一歩、確かめるようにと先へと進んだ。モノレールを降り、駅を出て市街へと。
 外の様子は、彼女が車内で想像した光景そのものだった。禍々しいほどに黄色く輝く巨大な月。歩くたび足元でパシャリと音を立てる赤い水溜まり。直立する棺の数は、駅前を離れるにしたがって少なくなってきた。

 地図はいらない。目的地までの道のりは、思い出すまでもなくわかっている。
 何度この道を通っただろう。誰と共に歩いてきただろうか。この心に刻まれた幾つもの思い出が、嘘や夢などであるわけがない。
 不安を押し殺して今はただ急ぐ。帰るべき場所であるはずの、あの学生寮へと。
 そこに行けばこの理不尽な事態に対しての、何らかの答えが見つかるはずだと信じて。


「……、っは、……っあ…着い、た」

 急ぐあまりに影時間内での身体にかかる負荷も考えずに走って、随分と息が上がってしまった。
 辿り着いた寮の門前で落ち着くまで休憩しながら、彼女はこれからどうしたものかと考える。
 寮へ行って仲間たちに会えば何とかなると思った。けれど、現在の自分の状況をどう説明したものだろう?
 自分自身ですら、把握できている事は僅かなのだ。

 自分の名前は有里湊で、男である。これは絶対に間違いない事実であるはずだ。むしろここから間違ってたら泣く。
 一年の戦いの末に平穏な日常を取り戻し、その代償として自分は死んだ。確かにあの時、死んだと思ったのだ。
 それが何故か、気が付いたら生きていた。しかも『有里公子』という名前の少女の身体になって。

 ――どう考えてもうまい説明が思いつかない。
 こんなざまで、仲間たちに理解してもらえるのだろうか。影時間やシャドウなどという非日常の存在を体験してきた仲間たちなら、信じてくれるかもしれないと希望的観測をしてみる。けれど不安なのは自分の口下手さ加減だ。昔からそのせいでよく相手に誤解されたし、仲間たちとも結局、心からわかりあえたとは言えなかった。

「でも……とにかく、話してみなくちゃ」

 行くぞ、と小さく呟いて顔を上げ、彼女は寮の扉を叩いた。
 窓から窺える学生寮の内部は、他の建物と同じように暗く静まり返っている。それは別段おかしな事ではなく、この寮がかつて彼女と仲間たちの活動本拠地であった頃ですら、わざわざ明かりを灯すためだけに桐条グループ謹製の影時間仕様機器を用いはしなかった。
 ゆえに室内が暗いのは誰もいないという事の根拠にならないのだが、繰り返しノックしても何の返事も無い。
 確率は低いが、本当に全員が出払っているのだろうか。もう無くなったはずの影時間という現象が再び起こってしまった事で、原因究明のための情報収集に行っているのかもしれない。
 それならそれで、仕方が無い。どうせ影時間中はこの寮の入り口に鍵はかかっていないのだから、室内で仲間たちが戻ってくるのを待つ事にしよう。
 彼女はそう考えて、勝手知ったる寮の中へと足を踏み入れた。
 ――直後、横手にあるカウンターから掛けられた声は、彼女にとって馴染みのありすぎるもので。

「ようこそ」

 それが『今』聞こえる事の不自然さすらも忘れて、思わず彼女はそちらを振り向いた。そしてそのまま、固まってしまう。
 囚人のような白黒の縞模様の服を着た、青い目の少年がそこにいた。
 もう2度と会えないはずの相手だった。途端、胸のうちに押し寄せてきた感情の強さに、言葉を失う。
 はくはくと口を開閉させ、何も答えられずにいる彼女の様子を見ても、相手のその幼子の容貌に乗せた笑みは揺らがない。

「遅かったね。長い間、君を待ってたよ」

 それはまるで、過去の光景の焼き直しのようだった。
 彼女にとっての過去、彼女が『彼』として、初めてこの寮を訪れたあの夜。この少年は、今と全く同じ言葉で『彼』を迎えたのだ。
 これは一体何の冗談だ。まさか自分はタイムスリップでもしたというのだろうか。それこそ、ありえない。
 自分が少女の姿になっていると気付いた時以上の不安が、『彼』である彼女の身を震わせる。

「………。ファル、ロス――」
「うん? 君、今何て言ったんだい?」

 彼女の唇からこぼれた名は、あまりにも小さくて少年にも聞き取れなかったようだった。
 しかし少年にとって、その事はあまり重要ではないらしい。「まあ、いいけど」と気を取り直すと、カウンターの上に置かれた薄い本のようなものを手に取って、表紙をめくる。
 よく見ればそれは本ではなく、何かの書面を革張りの装丁で丁寧に綴じてある代物だった。
 少年は書面に目を落とし、そこで初めて笑みを消すと、やや戸惑った表情を彼女へと向けてくる。

「……あれ? おかしいな、どうしてもう、君の署名があるんだろう。君はいつこの“契約”にサインしたんだい?」
「――え?」

 告げられた内容に、彼女の震えが止まった。
 少年は彼女に、開いたままの書面を差し出した。彼女の方から読めるように、ちゃんと向きを変えてから渡す。
 夢現の境をさまよっているような覚束無い足取りで、それでも彼女は書面を受け取った。
 少年が精一杯背伸びして身を乗り出し、彼女が持つ書面の特定の箇所を指でなぞる。

「ほら、ここ。これは君の筆跡だろう? 君の名前、“有里 公子”ってもう書かれているよ」

 確かに、彼女の筆跡とよく似た字で、有里公子という名が署名されていた。
 だが彼女には、その名前でサインした記憶は無かった。彼女が過去に“契約”だからと言われて書いたのは、『彼』であった頃の自分の名前、有里湊である。
 この書面には有里湊の名が無く、有里公子の名がある。そして少年は、こちらを有里公子だと認識しているらしい。

「おかしいよ。君に“契約”を持ち掛けるのは、僕だけの役目のはずなのに。もしかして、僕の方が忘れちゃってるのかな? 君は前に、僕からこの契約書を受け取ったかい?」

 少年は上目遣いに彼女の顔を覗き込んだ。視線には、彼女から伝染したかのように僅かな不安がにじんでいて。
 それで彼女は開き直った。何が何だかわからないが、自分のせいでこの無二の友を不安にさせるなんて、彼女にとってはその方がずっと不本意な事なのである。
 だから彼女は、正直に話そうと思った。自分にとって、真実である記憶を。
 まず言わなければならないのは、自分が有里公子ではないという事だ。

「……ファルロス。おれは、有里公子じゃない。有里、湊なんだ」
「有里…湊? それが君の名前なの? ……え、待って。僕、君に名乗ったかな?」
「おれにもよくわからないんだ。これが夢なのか、過去なのか……何でおれが、…女になってるのか。でもたぶん、ファルロスは何も間違ってなんかないし、おれの記憶が嘘ってこともないと思う。全部説明のつく理由が、きっと――」
「待って、ねえ待ってよ。僕も君の話にすごく興味があるけど、今はあんまり時間が無いんだ。影時間が明ける前に、“契約”を済ませちゃわなきゃ――えっと、つまり、君は有里湊で、まだこの契約書に署名してない、それは確かだね?」

 少年がつい聞き返した疑問は、壮大な物語に発展しそうな気配だった。
 早々に話を遮って当初の用件を優先した少年は悪くない、たぶん。遮られてしゅんとした顔の彼女を見ると、罪悪感が湧くけれど。

「……確かに、『この』契約書におれの名前はない。“契約”は前にしたはずなのに……」
「うぅん……そこも気になるけど、とりあえず後回しにしよう。……まずいな、本当に時間が無いみたいだ。とにかく今は、この契約書に君に署名してもらわないと。前に契約した事があるんなら、中身はわかってるね?」
「ここからは自分の決めた事に責任を取る、だっけ」
「そう。二重契約とか、別に変な事になるような内容じゃないから大丈夫。署名してくれる?」
「……必要だっていうなら」

 彼女が念のために、契約書の短い文面を読んでいると、新しい署名欄が独りでに書面に浮かんできた。
 少年からペンを渡されて、彼女である『彼』は署名欄に自分の名前を書き記す。
 有里公子の署名の下に、『有里 湊』と。
 サインを終えた契約書を渡すと、少年は2つ並んだ署名を確かめて、これでいいとばかりに頷いた。

「これも、君はもう聞いたのかもしれないけど……時は、誰にでも結末を運んでくるよ。たとえ、耳と目を塞いでいてもね」

 結末を、彼女は一度迎えたはずだった。それから何がどうなって今に至ったのか、全くわからないが。
 ようやく開き直ったというのにろくに話もできず、顔にこそ出さないが、複雑な気持ちを持て余している彼女。
 かつて彼女の心に誰よりも近かった少年は、せめて1つの約束を残す事にした。

「今度は僕から、会いに行くよ。それに、僕が君を待った時間から考えたら、次なんてすぐさ」
「……うん」
「その時は、ちゃんと君の話を聞くから。――さあ、始まるよ?」

 その言葉を最後に、少年の姿は瞬きの間に消え失せていた。
 確か彼女の記憶では、以前はもっと余韻を残して、闇に溶けるように消えていったのを覚えている。今回は、それすら難しいほど時間が無かったのだろうか。
 そして彼女自身も、そんな事を考察している暇はないようだった。
 不意に投げつけられた「誰!?」という誰何の声は、否応無く彼女に現実を突きつけようとしていた。



[18189] ●第二回●
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/04/18 12:09


 朝は誰の上にも訪れる。
 徹夜でレベル上げするネトゲ廃人にも、高血圧で早々に目が覚めて徘徊するご老人にも、皆に分け隔てなく。
 もちろん、昨夜気が付いたら自分が女になっていたなどという、非常識極まりない体験をした彼女にも。

 彼女――いや、本人の意識の上では有里湊という名である『彼』は、今朝はいつにも増して早起きして身支度に悪戦苦闘していた。
 何せ女性の外出準備など、つい昨日まで男だった湊にわかるわけがない。化粧道具なんて触った事もないのだ。
 調べようにも彼女の荷物にファッション雑誌の類は無かったし、インターネットという選択肢はうっかりと頭から抜け落ちていた。

 ちなみに、身支度という意味で最初の、そして心理的には最も難関であると思われる、シャワータイムは何とか乗り切った。
 ……心の中で「ごめんなさいごめんなさいごめ(ry」と念じつつ、しっかりバッチリ、デリケートな部分まで洗い上げました!
 その時の湊の男としての心境は、本人の名誉のため黙秘させていただく。

 さて、鏡の前での数十分にわたる試行錯誤の末に、結局湊は諦めた。とにかく汚らしく見えなければそれでいいと割り切って、全てのメイクを落とすと――クレンジングクリームを使うというくらいは知っていたらしい――制服に着替えて鞄の中身を詰め始めた。
 そこへコンコンと、控えめに扉を叩く音がする。

「岳羽ですけど、起きてるー?」

 はい、と短く答えて、湊は寮の廊下に続く扉を開けた。
 扉の前に立っていたゆかりは、湊の姿を一目見るなり、「あ、ちょっと早かった?」と申し訳なさそうに言う。

「? もう、出られるけど」
「え、でも……メイクと髪、まだでしょ? 大丈夫、10分くらいなら余裕あるから。先輩に案内しろって頼まれてるんだ」
「……このままじゃ、変?」
「変、っていうか……昨日のバッチリ決まった感じと比べると、ちょっと。せめてリップくらい、塗らない?」
「………。やって、みる……」

 ゆかりがあまりに残念そうな顔をするので、不承不承、再度鏡の前に戻って口紅を握り締める湊。
 唇に紅を押し当てる、それだけでぷるぷると手が震えている湊を見て、ゆかりは深くため息をついた。

「ああもう……貸して、やったげる」
「あ、うん……」
「ていうか、ベースメイクした? してないっぽいね…今からじゃさすがに全部は無理だし。けど、すっぴんでこれだけ肌キレイとか信じらんない。私だって少しは……」
「岳羽、さん?」
「……何でもない。とりあえず、ファンデと眉、リップだけにしとくから。あと、髪は軽くスプレーするね」

 湊の返事は聞かずに、ゆかりは早速ファンデーションを手に取った。
 その後は「はいはい動かないでー」とか「下地なしでこれだけノリがいいとか」などと聞こえてくるが、そのゆかりの声が決して面倒くさそうではなく、むしろ楽しげであるのはどうしたものだろうか。
 どう考えても最初の宣言より多い数の化粧道具が投入され、湊がまるで玩具にされているような気分になった頃に、ようやくゆかりは満足したようだ。

「でーきた、っと! うん、髪は下ろしてもイイ感じ」
「あ、ありがとう……」
「それじゃ行こっか、――って、やば。もうこんな時間! ごめん、ちょっと走るよ!」
「え、うん!」

 実際のところ寮から学校までなど、案内されるまでもなく歩き慣れている。
 だが湊にとってはそうでも、『有里公子』にとっては初めての道だ。不審に思われぬよう、湊はゆかりの先導に大人しく従って、今にも閉まりそうなモノレールの扉へと駆け込んだ。

「……はぁ、はぁ。あー間に合った…これに乗れれば、なんとか遅刻はしないで済むよ……」
「えっと……ごめん、なさい。お…わたし、の、せいで」
「ううん、途中で調子に乗っちゃった私も悪いし。でも、明日からはやっぱりあなたが自分でした方がいいかもね」

 苦笑いで答えるゆかりに、湊は正直に答えるべきかと迷って、こてんと首を傾けた。
 返事の無い湊を訝って、ゆかりがどうかしたのと問うてくる。
 短時間で名案が浮かぶはずもなく、結局この場は誤魔化す事にした湊である。

「? そもそも、昨日はちゃんとしてたメイク、なんで今朝はできなかったの?」
「あ…その、……そういうやり方も、忘れちゃってるみたいで」
「え、そこまで? いくら記憶の混乱って言っても、それってちょっと酷すぎるんじゃ……」

 湊ばかりでなくゆかりもまた困った顔で考え込み始め、それで自然と会話が途切れてしまった。1つの話題が終わってしまうと、そこで次の話題を持ち出す事ができずにそのまま黙ってしまう。そんなぎこちなさが、『今』の湊とゆかりの距離だった。
 いや、むしろ今のゆかりは、かつてよりも湊に対して気安いくらいなのだ。先ほどの化粧にはしゃいだ様子とて、ゆかりなりに湊と打ち解けようと考えてわざと楽しげに振舞ったとも取れる。かつてと違って湊が外見上は同性である事が、記憶とは異なる関係性を作り上げているのだろうが、さらに1つ理由を上げるならば――。

「……放課後、ほんとに一人で大丈夫? 部活の用事って言ってもそんなにかからないと思うし…やっぱり私一緒に行こうか?」
「ありがとう。でも、たぶん平気だよ。地図も、紹介状ももらったから」

 社交辞令などでなく、本心から案じてくれているだろうゆかりに、湊は少し申し訳なく思う。
 そしてゆかりにここまで心配されるに至った、昨夜の顛末を回想した。


 ファルロスが消えた直後、ラウンジの奥から警戒した様子でこちらを誰何したのは、やはりかつての記憶通り、ゆかりであった。その手に銃の形をした召喚器を構えている事も、美鶴に止められて影時間が明けると同時、気まずそうにこちらを見た表情までもが同じ。
 そうして美鶴とゆかりから、まるきり初対面の挨拶をされるに至って、もはや湊は認めざるをえなかった。
 ――すなわち、自分は『過去』にいるようだと。
 もちろん、今の自分の姿が何故か女性である事から、美鶴たちが自分を彼女らの仲間だった有里湊だとわかっていないだけ、という可能性も考えた。しかし美鶴はゆかりを紹介する時に確かにこう言ったのだ。この春から2年生だから君と同じ、と。
 湊の記憶が正しければ、留年でもしていない限り、ゆかりは現在――2010年の春のはずだ――3年生になるのだ。
 それが2年生の春とくれば、逆に考えて『今』が2009年の春なのだ、という事になる。根拠は美鶴の言葉だけだが、彼女の性格からしてこんな冗談を言うはずはなく、湊にとってはそれだけで充分な証明だった。

 だがそのような事を話の途中で延々と考え続けていたため、美鶴とゆかりに対する応答はかなりおざなりなものになっていたらしい。
 心ここにあらずの湊をさすがに不審に思って、美鶴が大丈夫かと聞いてきたのだ。
 そこでうっかり、曖昧に答えてしまったのがまずかった。……いや、今後の事を考えれば、ある意味で最善の言い訳を手に入れられたとも言えるのだが。
 ともあれ湊はこういう事にされた。『可愛そうな記憶喪失の女の子』と。影時間への適性に目覚めてすぐの者は、記憶の消失や混乱が起こる事が多いとかつて聞いた気がする。その症状がたまたま酷いだけだとすれば、不自然でもあるまい。
 美鶴はさらに部分健忘とか外傷がどうのとか、影時間抜きの一般的な説明をしてくれたが、結論としてはしばらく様子を見るという話で落ち着いた。全ての記憶が失われたわけではないし、日常生活を送るのには問題無い事から、今後回復する可能性を期待しようと。
 もちろん医者ではない美鶴の見立てでしかないので、翌日の放課後には医療機関での受診をとも勧められた。名前が上がったのは辰巳記念病院、かつての自分たちもよく世話になった、桐条系列の総合病院である。美鶴がその場で紹介状を書いてくれたので、受付で見せればすぐに診察してもらえるとの事だった。

 辰巳記念病院の心療科は、実質ほとんど、影時間やシャドウ関連の患者に対応するためにある。担当医師の中には桐条の研究員上がりの者もいて、かつてでは湊たちペルソナ使いのケアにも関わっていた。
 美鶴は湊が適性に目覚めたばかりの不安定さゆえに混乱していると考えているため、迷わずここを勧めたのだろう。
 だが専門医でもさすがに、記憶喪失どころか『中の人』が丸ごと入れ代わっているとは思うまい。
 湊が認識している現在の自分の状態は、タイムスリップした上に別人の身体を乗っ取っているというものだ。いや、かつての記憶には有里公子という人物自体が存在しないのだから、タイムスリップと言うよりもパラレルワールドとかそんなものなのかもしれない。
 いずれにせよ、ペルソナや影時間に引けを取らないほどのSF沙汰である。医者に話したところで、信じてもらうどころかいよいよ真剣に頭の心配をされるだけだろう。むしろ自分自身ですら未だに夢オチを期待している部分がある。

 そういう事なので、この「記憶喪失」が治る見込みは無い。だが、それは大した問題ではないだろう。
 ……そう、『かつて』と同じようにこれから戦いが始まるというのなら。
 犬や小学生にすら協力を願うような窮状で、記憶が曖昧だというだけで充分に戦える人材を、あの人が放ってはおかないだろうから。
 そこまで考えて、苦い裏切りとそれに伴った犠牲が連鎖的に脳裏に蘇り、湊は顔をしかめた。その様子を記憶喪失への不安と受け取ったゆかりによく休むようにと気遣われ、湊は思考を打ち切って自室で眠りに就いた。
 これが大まかな、その夜のいきさつであった。


 湊が回想から戻る頃には、ちょうどモノレールは学校への最寄の駅へと到着していた。ゆかりの「また走るよ」という言葉で、湊もスタートダッシュの準備を整える。
 その後しばらくは、沈思に浸る余裕など無かった。一息ついたのは、始業式の校長の長話が始まってからである。

「なあ、見た? さっき鳥海の連れてきたコ。転校生かなあ、結構イケてたよな」
「確かあのあたりに……お、いるいる。俺らのクラスだよ、ラッキー」

 湊のやや後方からは、そんな噂話がこそこそと漏れ聞こえてきた。素知らぬふりでいれば、そのうち別のクラスの担任教師が私語を注意しに来たが、あまり効果は無いようだった。
 かつての記憶でも転校初日に色々と噂されたのは覚えているが、それは湊が男で、男子に人気のゆかりとともに登校した事で、色気めいた邪推をされたためだった。それが今回は外見上は女であるため、専ら湊自身を値踏みするような内容が多い。

「俺見てねーんだよなー……こっち向かねえかな」
「後でじっくり見ろよ。顔もだけどさ、オレの見たところ胸とか脚もかなり……」
「マジで? 岳羽さんより?」
「髪とか柔らかそー……触ってみてえー」
「ちょっと男子! さっきからうるさいっての!」

 猥談とも言えない軽い雑談ではあったが、それが自分を対象としたものと考えると、やや薄ら寒い気分に駆られる。身体が女になったからと言って、心までもが女として男を恋愛対象にするわけではない。まして性的な対象として見られるなどと。
 男の視点から、こういった男子同士の雑談が本気で相手をどうこうしようと考えてのものではない、というのは理解してはいるが、それでもいい気がするものではない。
 小声ながらもきつい調子で止めてくれた女子に、湊は心の中で感謝を捧げた。

 校長の演説が終われば、始業式はもう終わったも同然だった。
 教室へ移動する途中、心なしか背中にまとわりつく複数の視線を努めて無視して、湊は担任の鳥海について教壇の横に立った。
 自己紹介が簡潔なのは、以前と変わらない。ただ、今回名乗るのは自分の名前ではなく、この身体の持ち主の名前である。

「有里、…公子です。これから一年、よろしくお願いします」
「んー、ちょっとカタいわね。人間関係には愛想も必要よ? はい笑顔笑顔ー」
「え、あ……。…、その……」

 鳥海からそんな指摘を受けたのは、前回には無かった事で、虚を突かれた湊はうろたえた。
 それだけならすぐに立て直せたのだろうが、教室のそこかしこからこちらを見るニヤついた顔やら、忍び笑いつつカワイーなどと囃し立てられるに至って、始業式で聞いた会話が蘇り、完全にフリーズしてしまう。
 沈黙したまま、顔を青くして涙目にまでなっている湊に、「あー失敗したか……慣れない御節介なんてするもんじゃないわ」とぼやきながらも鳥海が助け舟を出してその場は収まったが。
 後から思い返せば自意識過剰だったと笑い飛ばせる程度のものだが、自分が女として見られる事に慣れない今現在の湊では、そこまで冷静に考える事はできそうになかった。
 幸いなのは湊の今の身体がかなり整った容姿であるゆえに、どんな表情だろうがそれなりに愛らしく見える事である。上がり症と言うにも苦しい不審な反応も、本人が可愛い女の子だというフィルターを通せば、内向的な子、といった無難な評価に修正されるのだ。

 ホームルームが終わると、始業式であるこの日は授業は無く、そのまま放課後となった。
 転校生とくれば自由時間に質問攻めにあうのがお約束だが、湊はその洗礼にさらされる事は無かった。自己紹介時の様子から内向的だと思われて、クラスメイトたちの側にも遠慮があったのだろう。
 しかしそんな微妙な空気を無視して、湊に話しかける猛者が1人。

「よっ、転校生! …何だよ、んなビックリすんなって」

 別にびっくりはしていないのだが、あまりにかつてと同じ対応をしてくる相手に、キョトンとしてしまったらしい。
 だがこの男、普段の軽薄な雰囲気とは裏腹に、一人の少女を一途に思い続ける誠実さを持ち合わせるのだ。湊はそれをよく知っていたので、あるいは彼ならば自分が男でも女でも関係無いかもしれないと少し嬉しくなった。自然、笑みがこぼれる。

「おっ、いいねーその笑顔。いやーさっきはいきなり涙目っしょ? 正直話しかけていいものか迷ったんだけど、やっぱ転校生って、色々と1人じゃ分かんねえじゃん? だから不安がってないかなってさ。思い切って正解だったぜ」
「さっきは……ちょっと、混乱しちゃって。ありがとう、じゅ…えと、……あなたは?」
「おっと悪い悪い、名乗ってなかった。オレは伊織順平。ジュンペーでいいぜ。実はオレも、中2ん時、転校でココ来たんだよ。転校生同士、仲良くしような」

 そう言って差し出された手を、おずおずと握り返した。
 かつて初対面で順平から握手を求められたという記憶は存在しないが、あっけらかんとした笑顔には何の含みも無いので、特に忌避感は感じなかった。ところがしばらくしても、何故か順平が手を離す様子が無い。

「………。あの……?」
「……やっべ……手、ちょー柔らけぇ…」
「バカ言ってないで早く離しなさいよこの変態」

 妙に長い握手を終わらせたのは、その絶対零度のツッコミだった。
 順平がパッと両手を上げて弁解するように「変態ってひどくね!? 変態って! オレ一応純粋に――」と焦るのを尻目に、焦らせた当人であるゆかりはさっさと湊を促して距離を取った。
 そして大人が小さい子供に言い聞かせるように、真剣な顔で湊に忠告する。

「アレの事は無視していいからね。女の子と見りゃ馴れ馴れしくするんだから……それでもこんな変態とは思ってなかったけど」
「オレの言う事まるっとスルー!?」
「うっさいバカ。さっきのニヤケ顔、鏡で見てから言いなさい」

 なおも順平が騒いでいるのに背を向けて、改めてといった感じでゆかりは切り出す。
 その内容はかつてにも聞いたものだったので、湊は落ち着いて答える事ができた。

「まあ、なんか…偶然だよね。同じクラスになるなんてさ」
「そうだね。少し、安心した」
「え、そう? ……うん、そっか。少しでも知ってる相手がいる方がいいよね、やっぱり」

 まだ自然とは言えないやりとりだが、ゆかりが湊を気遣ってくれている事はわかる。
 やはり、以前よりもゆかりから歩み寄る幅が大きく感じる。逆に考えると、性別の壁というのは高いものだったのである。
 ぎこちないなりに、何とはなしに笑い合う2人。
 すっかり蚊帳の外に置かれた順平が、いっそ悲痛な声でそこへ割って入った。

「――マジ、お願いだから無視しないで! ウサギは寂しいと死んじゃうのよ!?」
「それ迷信だから」
「へ、そうなの? …じゃなくて! ようやく返事来たぁ……つか、ホントさっきのは別にヤマシイつもりとか無かったんだって。何つーかつい、本音がポロリしちゃっただけで、実際のところは普通にお友達になりたいなー、って感じで」
「言い訳長いし。てか、ふざけてたと思ってたら本音とか……」
「……いーじゃん! もう! それはさ! あのさ、オレとしてはむしろ、二人の関係が気になっちゃったりするんだけど? 初日から一緒に登校したって聞いてさー。レベル高いのが並んじゃって、ウワサのマトだったんだぜー?」
「あのギリギリの時間帯でわざわざ見てたヤツとかいるんだ。ハァ…も、噂、噂ってめんどくさいなあ」

 ついさっきまで凹んでいたはずの順平は、今やその影もなく興味津々に湊とゆかりの顔を見比べている。道化を演じているだけなのか素で面白がっているのか、湊には判別できない。
 ゆかりはうんざりといった様子でため息をつき、居心地悪そうにしている湊の手を取って教室の外へと歩き出した。

「あれ、もしかしてまたオレ、放置プレイ? くう、さすがはゆかりッチ、テクが違うぜ」
「あ、あの……?」
「つっこまない…つっこまないよ、私は。ほら、いいから行こ」
「うん……ばいばい、順平」

 順平の挑発にも乗らず、湊を連れ出す事を優先したゆかり。
 逆らわない方がいいと考えて、湊は一応の別れの挨拶を置き、ともに教室を出て行った。
 ゆかりは湊と手を繋いだまま廊下を進みながらも、何かぶつぶつ呟いている。

「ああもう……らしくないことしちゃった。私、もっとドライだと思ってたのに何で……」
「岳羽、さん?」
「……あ、ごめん。何か私一人で突っ走っちゃって。手、痛くない?」
「大丈夫。あの、ありがとう。お…わたし、だけだったらきっと、まだ順平に捕まってたと思うし」
「あいつも悪いやつってわけじゃないんだけど。ただ、うざいんだよね。すごく」
「うん、なんとなく、わかる」

 妙に実感のこもった顔で頷き返した湊に、ゆかりはツボを突かれたようだ。笑いを抑えようとして、声が震えている。

「っぷ。あいつ、…ほんっとバカだわ……てか、初対面でもう、理解されすぎ……」
「順平だもんね」
「――っあはは! ちょ、それトドメ…あーもうダメ、新学期早々から大爆笑しちゃう……!」

 ゆかりの笑いにつられて、いつしか湊も本気で笑い出していた。それは『今』に来てから初めての、心からの笑いで。
 2人分の笑い声がおさまる頃には、互いをそれまでよりも少し近しい相手と感じていた。

「何だか、不思議だねあなたって。危なっかしくて、守ってあげなきゃって気分になってたけど……意外と、言うことシンラツ?」
「結構丈夫だよ、…わたし」
「うん……これなら、大丈夫かな。玄関まで送っていくから、病院までは1人で行ける?」
「ありがとう。地図の読み方までは忘れてないから、平気だよ」
「そっか。じゃあ、気を付けてね」

 図らずも本人の知らぬところで、順平は湊とゆかりの気分をほぐす役に立ってくれた。その頃教室では、だらだら級友と喋っていた順平が1つくしゃみをして「オレッチの噂をしてる可愛い女の子がいるな!」とか言っていたとか。閑話休題。

 辰巳記念病院の位置は、月光館学園から遠くない。学校の帰りに見舞いに寄って帰れるとか、その程度の距離だ。
 湊がゆかりに見送られて学校を後にし、一応はもらった地図を広げながら、駅前近くの道を通りかかった時だった。
 ――かつて見慣れた大きな背中を、視界の端に見つけてしまったのは。

「……っ!!」

 足早に去っていくコートの後姿を、追って走り出したのは、ほぼ反射だった。だから追ってくる足音に相手が振り返り、胡乱な顔で「俺に何か用か」と訊くのにも、咄嗟に何も言葉が出てこなかった。


 じっと相手を見上げたまま固まっている湊に、相手――荒垣真次郎は、無言でまた踵を返した。
 荒垣からすれば、湊は見知らぬ少女である。おおかた人違いでもして、自分の不良めいた雰囲気に竦み上ってしまったのだろうと考えた。他人から怖がられる事に傷付くような繊細さは、とっくに捨ててしまっている。この出会いも、どうでもいい事として記憶の隅にすら残らず消えていくだろう。
 歩き出した自分の袖を引く少女の顔に、何か強く訴えるようなものを感じたのも、……たぶん、気のせいなのだ。

「……何だ」
「………」
「用なら早く言え。何がしてえんだ」
「……なないで」
「あ? 聞こえねえ、もう1回言え」

 か細い声で呟かれた言葉は、雑踏の中では聞き取れず空気に溶けてしまった。訊き返すものの、少女はそれきり口を噤んだままだ。
 どうにも、事態が膠着してしまった。別段、少女を振り切り立ち去っても構わないのだが、何故かそうする事がはばかられた。それは少女の自分を見つめる視線があまりに真摯であるためか、聞こえなかった言葉が気になっているせいなのか。
 仕方なしにそのまま少女の観察でもしてみれば、自分を引き止めるのとは反対の手に、彼女が何かを持っているのに気付いた。注視すると、この周辺の地図のように見える。

「何だ。迷子かよ」
「………」
「道なら駅員に聞け。ポロニアンモールまで行きゃ交番もある」

 少女が訴えているのはそんな事ではないと直感的に思ったが、会話の糸口がこれくらいしかない。
 荒垣はもともと弁の立つ方ではない。その上2年前からは努めて人付き合いを避けるようになり、ますます無口になった気がする。
 少女は何も言わず、荒垣からもそれ以上何かを話すという事ができず、ひたすら互いの顔を見合ったまま立ち尽くす。
 奇妙な見詰めあいは数分ほど続いたが、結局折れたのは荒垣であった。

「………。どこまで行きてえんだ」
「……辰巳記念病院」
「わかった。付いてこい」

 答えが返ってきたのは幸いであった。ようやく動き出した空気に、荒垣はそっと息をつく。ともすれば不良と少女が睨みあっているとも見えるこの状況は、善意の一般人によって通報されてもおかしくない光景だったので。
 学校へ行かず昼間から溜まり場に出入りしている荒垣だが、警察の厄介になるような真似はしていない。誤解されるのには慣れたと言っても、面倒が避けられるのに越した事はないのである。
 歩き始めた2人の間に会話は無い。無言で進む荒垣の3歩後ろを、少女は黙々と付いてきた。
 いつも通りの自分の足音に比して、やや小走りに聞こえる背後のそれが気になり、荒垣はほんの気持ちほど歩くスピードを緩める。

「……ありがとうございます」
「……別に」

 偶然会って、1度きり世話を焼く事になっただけの相手だ。歩調を合わせてやったのも気まぐれで、深い意味など無い。
 いや、むしろ偶然でこれっきりの相手だからこそ、自然に気遣ってやれたのかもしれない。これがなまじよく知る相手――たとえばあの幼馴染の男あたりなら、あえて不機嫌なように無視して見せた事だろう。もっともあれはこの少女と違って、隣に並んで歩くどころか目的地まで競争だとかほざいて勝手に走り出すような馬鹿だが。

 そう長い距離を進まないうちに、目指す辰巳記念病院の建物が見えてきた。
 念のためかなり近くまで行ってから、荒垣は立ち止まる。残すは道路を直進するのみで、ここからならどう考えても迷うまい。
 少女に振り返ると、病院を示して端的に告げる。

「あれがそうだ。外来ならこのまま真っ直ぐ進んだ入り口だ。心療科の入院患者の見舞いなら、そこから右の別館入り口に行け」
「案内していただいてありがとうございました」
「……じゃあな」

 互いに名乗りすらせず、そこで別れる。
 最初の強い意思を込めた眼差しを思えば、あっさりしすぎているようにすら感じる少女の態度だった。
 ――気まぐれも2度続けば気まぐれじゃないな。
 薄々と何かに気付きながらも、荒垣は去ろうとする少女の背中に声を掛けた。

「……おい。結局、最初に何を言いたかったんだ」
「次に会えた時に、また言います」
「あ? 次って、お前……」

 まるでまた会うのがわかっているような言い回しだ。その疑問を封じたのは、振り向いた少女の笑みだった。
 確信を持った、こちらに挑みかかるような不敵な笑顔。なのにどうしてか、不快ではない。
 口を閉ざした荒垣に最後に綺麗に一礼して見せると、そのまま少女は病院の入り口へ消えていった。

「………。妙な女だ」

 ぽつりと呟いて、荒垣もまた本来の目的地へ向けて歩き出した。
 一目惚れなんてものは信じていないし、僅かに胸を騒がす『これ』は、恋愛感情などではない。あえて言葉にするのなら、予感とか虫の報せとか、そういうものに近い気がする。
 自分の勘が正しければ、あの女は『同類』だ。何が同じなのか、まではわからないが。
 傷の舐め合いなどごめんだし、どうしてもというほど女の正体に興味があるわけでもない。
 だが次に会う事があったなら、また問いかけてみてもいい。

 その程度には、荒垣は少女の事を記憶に留め置いた。


 湊は別れ際のどこか唖然とした荒垣の表情を思い出し、してやったりという気分のまま病院の扉を抜けた。
 あの、かつて血の海で事切れた1人の仲間。殺してしまった相手の息子を庇い、これで自分の役目は終わったとばかりに満足そうな死に顔で逝った男。彼を失って嘆き悲しむ者がいたのに、当人は何の未練も残さずに死を甘受した。

「……――? あれ、おれってあの人のこと……」

 嫌いではない、むしろ仲間として好ましく思っていた相手に、何故こんなもやもやした気分を感じているのだろう。
 結果として真田や美鶴、親しい相手を悲しませて死んでしまったとしても、荒垣のした事は間違いではなかったはずだ。
 天田と一対一で話し、その思いと答えを受け入れる事は、少なくとも彼ら2人にとっては必要な事だった。あるいは天田は荒垣を傷付ける事はしても殺すまではできなかったかもしれないし、荒垣も天田が躊躇う素振りを見せたなら、死んで自分の命を背負わせる事はしなかっただろう。湊から見て、荒垣はそういう残酷な優しさを持った男に思えた。
 ストレガが出てきたのは、不幸な事故だったのだ。荒垣は決して、死のうと思って死んだわけではない。
 それなのにどうして、自分は彼を――

「………。ああそうか、おれにはあんな顔、できなかったから……」

 ある意味これは嫉妬混じりの同族嫌悪か。それが湊の結論だった。
 湊もまた、仲間たちを残して死んだ。アイギスに見守られ、息絶えるその間際までは、湊も荒垣同様に成すべき事を成し遂げて逝ける清々しさのようなものを感じていた。最期の最後で、愛する人の声を聞くまでは。

   ――有里!!

 目を閉じれば今もはっきりと思い出せる。彼女の自分を呼ぶ声と、最後に見たその泣き顔。
 それがあまりにも悲痛だったから。彼女を置いて逝く事が、何よりも重い罪のように思えたから。彼女の生きる世界を守るために、彼女と愛し合い寄り添う未来を捨てた事を、後悔してしまったから。
 ニュクスを封じるために、自分の命を捧げる以外の道は無かった。それはわかっているのに、彼女の涙を見れば未練が湧き上がる。死にたくないと、まだ生きていたい、彼女と共にありたいと、無様にわめき出すこの心。

「だから、なのかな。こんなことになったのも。おれが、そう願ってしまったから……」

 口にしてから、そんな馬鹿な話、と自嘲する。
 ユニバースは万能の力だ。何事の実現も奇跡ではない、とイゴールに言わしめるほどの。けれどそれは、ニュクスを封印するために自分の命と共に使い切ってしまったのだ。
 だがユニバースの他に、こんな過去に戻ってやり直すなどという荒唐無稽な現象を引き起こす心当たりはない。
 ……いや、過去と言えば、シャドウの中には時間に干渉する能力を持つものがいるという話も、ちらと聞いた気はする。しかしニュクスを封じて以降、影時間もろともシャドウの存在も消えたはずではないか。

「結局は、何もわかってない、か」

 だいたい、もし『これ』が自分の願いだというなら、何故自分が女なのか。これじゃせっかく彼女とまた過ごせても、友達以上にはなれないじゃないか。
 ちなみに、湊の選択肢にいわゆる百合というものはない。……少なくとも今は。
 それにしても、この『過去』は一体どこまでがあの『未来』と同じなのだろう。有里湊が有里公子になっているパラレルワールドなら、仲間たちもどこかしらかつての彼らとは異なっていてもおかしくない。
 彼女も、彼女であって彼女ではないのかもしれない。
 これまで意図的に考えないようにしていたその想像は、湊の胸を痛ませた。


「――あの? 当院に、何かご用件ですか? 外来の患者さん?」
「……え? あ、す、すみません。お…わたし、――あ、紹介状!」

 気付けば、目の前にはこちらを不審げに見ている看護士の姿が。
 湊は随分と長い間病院のロビーで立ち尽くして、思考に没頭していたようだ。慌てて鞄から、紹介状を取り出して渡した。
 美鶴の紹介状の効果はてきめんで、湊は全く待たされる事なく心療科の受診を終えた。しかしそもそも記憶喪失ではない湊なので、結果はお察しというところだ。
 問診のみならず、念のため様々な機械で検査したりと、医師としては可能な限りの対応をしてくれたのだろう。結局は原因不明、今後の回復の見通しも不明と、申し訳なさそうに言われると罪悪感が刺激される。
 病院の門を出る頃には、既に日が傾きかけていた。それから今夜と明日の朝の食事の材料を買えば、寮へ戻るのは夜になっていた。

「…君か。お帰り」
「……ただいま、です」
「ああ。遠慮する事はない、正式な入居先が決まるまでは君もここの寮生だからな」

 この建物がホテルだった頃の名残で、寮の玄関とラウンジは一間続きになっている。ソファでくつろいでいた美鶴が湊に声を掛けたのも、帰ってきた湊がちょうど視界に入ったからで、特別な意味は無い。
 だが湊としては、自分と絆を育んだ美鶴とは違うとわかってはいても、こうして不意に『かつて』と変わらぬ言葉を掛けられるとつい重ねて見てしまい、動揺を抑えられない。昨夜は現実感の欠如からか気にならなかったが、これが夢ではないとわかった今では、愛し合った人から知らない相手として扱われるのが辛かった。
 幸い『今』の美鶴は、それを緊張ゆえのものと捉えてくれたようだが。
 理性ではぼろを出さぬうちに立ち去らなければと思うのに、足が動かない。そのくせ美鶴に対面のソファを勧められれば素直にそこへ腰を下ろすのだから、どうしようもない。

「それは…夕食と、明日の朝の分か。この寮では基本的に食事は各自で賄う事になっているからな」
「……はい。ほとんど、インスタントか温めるだけのものですが」
「寮母がいればいいのかもしれないが、ここは寮生の数自体が少ないし、他の事情もあってな……。すまない」
「いえ、み…桐条先輩…の、せいじゃありませんから」

 湊は料理ができないわけではない。つい出来合いの物を買ってしまうのは、単に料理をしている暇が無いからだ。
 しかし考えてみると2度目の高校2年生なわけで、勉強については心配が無い分、前よりは自由に使える時間は増えそうだ。その分を料理に使うというのもありかもしれない。
 恋人の自分が手料理を振舞ったら、美鶴はどんな顔をしてくれるだろうか。そう考えてしまってから、今の自分が男の有里湊でなく女の有里公子である事を思い出し、目の前の美鶴も美鶴であって美鶴ではないと、心を戒め直すのだった。

「……病院の検査の結果は、はかばかしくなかったと聞いたが」
「昨夜の先輩の見立て通り、現状は経過を観察するしかないそうです」
「そうか…あまり気を落とさない事だ。普通に過ごしているうちに、徐々に思い出せるかもしれない」

 紹介状を書いたのは美鶴であり、病院から診断結果についての連絡が行ったのだろう。だからこれはただの確認だ。
 同時に、精神状態そのものに異常が無い事も把握されているはずであり、美鶴の頭の中では今、湊の今後の処遇についての検討がなされているのかもしれない。すなわち、美鶴の目的にとって『使える』人材か否か、という。

 この時点での美鶴にとって、最優先は父親の心を救いたいという欲求のはずだ。
 自分の働きで父親の望みが果たされたなら、きっと父親は事故以前のように明るい表情を取り戻せる。だから父親の望み――桐条の作り出してしまった悪夢の清算のために、1人でも多くの人材が必要だ。“ペルソナ使い”という、人材が。
 湊は影時間の中を歩いてやってきた。記憶の混乱が酷いとは言えど、少なくとも影人間になる事なく正気で寮まで辿り着いた。それはつまり影時間への適性と、ペルソナ使いとして覚醒する可能性を持っているという事だ。
 見極めるまで、美鶴は湊を手元に置くだろう。そして確信したならば、どんな手を使っても仲間に引き入れる。

 湊はそんな美鶴の思惑を、知っているが拒もうとは思わない。相手が美鶴だから特別というのではない。単に湊が、受け入れる事に慣れているだけだ。
 諦めているのとは違う。だが湊には、自分に向けられた理不尽や悪意でも、それが可能な範囲であれば文句を言わず許容してしまう性質がある。かつての仲間たちにも何度かお門違いな激情をぶつけられたが、あまり気にしていない。人によってはその態度が逆に苛立ちを煽る場合もあるのだが、幸い仲間たちはそこまで八つ当たりを重ねたりはしなかった。

 受け入れられなかったのは――美鶴の泣き顔の焼きついた、自らの死の瞬間だけだ。

「……有里? 大丈夫か?」
「――あ、はい。すみません、つい考え過ぎてしまって」
「いや。気にするな、というのが無理な話なんだろう。そうだな……明彦、この寮のもう1人の住人ならこう言うかもしれん。健全な精神は健全な肉体に宿る」
「鍛錬に打ち込めば、悩むような暇も無くなるってとこですか」

 湊の切り返しに、珍しく美鶴が素で驚いた顔を見せた。
 真田ならこういう意味に取るだろうと考えて答えたのだが、一般的な解釈とは言えなかったかもしれない。

「……君は、あいつと気が合うかもな。少々意外というか…何か部活をしていたのか?」
「していたような、そうでないような……。すみません、この記憶も曖昧です」
「そうか。まあ、意欲があるなら運動系の部活もいいぞ。確か新規入部者の募集が今月中に始まるはずだ」

 湊は自分の、『有里公子』の手を見る。
 学校で順平がもらした通り、柔らかく傷の一つも見当たらない瑞々しい手のひら。マニキュアこそ付けていないが、綺麗に切りそろえられた形の良い爪。特に運動していたとは思えない、まして戦いなど無縁の生活をしてきた『女の子』の手だ。
 美鶴ですら、もう少ししっかりした手をしていた。幾度も剣を振り、豆を潰して、厚くなった皮膚。湊が口付けると目を伏せて、あまり女性らしい手ではないと恥じらった仕草をよく覚えている。もちろんそれには、自分はその手が好きなのだと返しておいたが。その後、手だけかと上目遣いに尋ねられ、そのまま熱い夜になだれこんだのはさらに克明な記憶として刻まれている。

「有里?」
「………。すみません、本当にちょっと、部活に打ち込む必要がありそうです……」

 ――主にこの煩悩を退散させるという意味で。
 苦笑する湊を気遣わしげな目で見る美鶴には、湊の頭の中で自分がどんな事になってるかなんて想像もつかないに違いない。というかバレたら間違いなく処刑される。
 湊は内心で勝手に盛り上がって勝手に青くなっている自分が情けなくなり、夕食を理由に席を立った。


 レンジでスーパーの惣菜を温めながら、なおも湊は考える。
 一応、運動部に入るのには他の目的もある。
 自分がシャドウとの戦いに身を投じる事は明らかだ。その時、この『女の子』の身体はどこまで耐えられるのか?
 ペルソナは確かに、身体能力を大幅に底上げしてくれる。だがそれだけに頼るのは、限界があるだろう。部活を通して少しでも、元になるこの身体を鍛えておくのは悪い事ではない。
 今は突付いただけで簡単に折れそうな身体を、いずれニュクスの攻撃を陵げるレベルまで作り変える。
 ところでよくよく思い出すと、運動部の新規募集が始まったのは、自分が既にタルタロスへ行った後ではなかったか。ならばその前に、自主的に身体の動かし方に慣れておく必要がありそうだ。性別からして違うのだから、以前の自分のつもりで動いても、身体がその通りについてくるとは思えない。ぶっつけ本番の実戦では不安が残る。

「……有里公子、か」

 ふと浮かび上がったのは、美鶴に対して感じる躊躇と同種の疑問だった。
 ――『有里公子』はどうなったのか?
 湊はこの世界がかつて自分の存在した世界のパラレルワールドで、有里公子は女性として生まれた有里湊である、という推測を立てている。それが正しいのか間違っているのかを確かめる術は無いし、どうして世界の壁を破って自分がこの世界にいるのかは考えるだけ無駄だと割り切った。
 ただ、性別が異なるという事は、そこに形成される精神もまた異なるという事だろう。つまりパラレルワールドの『自分』といえど、こうして今考えている自分とは別個の存在であるはずなのだ。
 ならば、……有里公子という『自分』は、どこへ行ったのか?
 この身体を動かしている自分は、有里湊だ。思考にも、自分以外の何者かが割り込んでくるような事は無い。有里公子の精神は、この身体に存在しないように思える。
 もしかしたら。有里湊は、有里公子を塗り潰し、殺してしまったのではないか?

「でも……結局はこれも、考えてどうにかなる事じゃない」

 考えながらも口と手はしっかり動いていたようで、我に返った湊は目の前の空になった食器を片付ける。食事を各自で用意するのだから、当然食器を洗うのも各自の仕事だ。
 夜間の外出はまだ許可されていないので、後はもう風呂に入って寝るくらいしかない。
 空回りするばかりの思考を打ち切り、湊は自室へと引き上げたのだった。



[18189] ●第三回●
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/04/24 14:48
「ようこそ、“ベルベットルーム”へ。私の名は――」
「久しぶり、イゴール。相変わらずの鼻だね」

 相手の名乗りを遮って先にそう呼び掛けると、『相変わらずの鼻』の主はギョロリとした目を数度瞬かせた。
 湊がこんな失礼な物言いをしたのはちょっとした意趣返しのつもりだったのだが、これは宛が外れただろうか。
 ため息をついて「ごめん。何でもないんだ」と謝る湊を、イゴールは興味深そうに観察していた。

 湊は夢の中で、ベルベットルームに招かれていた。
 青一色に統一された内装は『かつて』と寸分違わぬ様子だ。その中でただ1つの相違点は、イゴールと相対して座る湊本人の身体が、有里公子のものである事だった。
 夢と現実、精神と物質の狭間であるこの場所においてすら、自分の身体は女のまま。そして僅かに期待していた、自分の陥っている状況に付いて説明できそうな人物も、何も知らないようである。
 これでは気分も落ち込もうというものだ。

「フム……『久しぶり』とは、興味深い。どうやら貴方は、私の事も、このベルベットルームについても、既にご存知のようですな」
「でもイゴールは、おれと会った事は無い、って言うんだよな」
「その通り。実に不思議な話です。不肖このイゴール、これまでにお会いしたお客人の顔は、1つたりとも忘れておりません。しかし私の記憶では、貴方がここを訪れた事は無いはずなのです」

 イゴールはそう言うと、テーブルの上に置かれた革表紙の冊子に手をかざす。直接触れる事なくめくられてゆくページが、ある場所で止まった。金の蝶の意匠が描かれたそのページには、2つの名前が並んで記されている。

「ほう、これは……。失礼、私とした事が、見誤っていたようですな」
「何を?」
「それを私の口から申し上げる事はできません。ですが時が満ちれば、いずれ『貴方がた』はご自分で答えに辿りつかれましょう」

 面白そうに告げるイゴールは、この疑問についてはもう答えるつもりはないようだ。湊が肩をすくめると、笑って次の話題に移る。

「フフフ。さて、改めてのご説明は必要ですかな? “契約”の内容について確認されますか?」
「いや、いい。自分が選択した事に相応の責任を持つ、だろ。おれが“ワイルド”で、複数のペルソナを扱えるのは変わってない?」
「それもまた、すぐにおわかりになられるかと」

 はぐらかされてばかりだ。不満を込めて、湊は再度、特大のため息をもらした。

「名残惜しいですが、今宵はもう時間切れのようですな。次の機会を楽しみにお待ちしております」
「次はもう少し、質問に答えてくれると嬉しい。そういえば、“鍵”は?」
「“契約者の鍵”ならそこに、既に貴方がお持ちと見えますぞ」

 湊はイゴールの指先が示すところ、自分の制服のポケットを探ってみた。手に触れたものを取り出すと、確かにそれは、『かつて』自分が渡された“契約者の鍵”だった。金属ともガラスとも似た物質で作られた、真っ青な鍵。
 これがあると言う事は、“契約”は2度目でも、鍵は1度目のものがそのまま使えるらしい。

「では、またお会いする時まで――ごきげんよう」

 イゴールの宣言とともに、湊の意識は急速に沈んでいった。


 小鳥のさえずりに目を覚ませば、「ベルベットルームの夢を見た」という感覚が残っていた。
 内容をよく覚えていないのは『かつて』と同じだが、何となくもやっとした気分なので、有意義な会談ではなかったようだ。
 軽く頭を振って気持ちを切り替え、カレンダーに目をやった。
 今日は4月9日、――最初の満月のシャドウが寮に攻めてくる日だ。同時に、自分が初めてペルソナを発動した日。

 そこで湊は、1つの不安に駆られた。
 今の自分は、ペルソナを出せるのだろうか?

 戦いに臨むにあたって、現在の自分の能力を把握しておく事は重要である。
 身体の動きに関しては、少しではあるが、体育の授業で感覚を掴めた。やはり男の時と比べるとパワーが足りないし、まだこの身体事態の基礎体力が低いのが難だ。とはいえ、全く戦えないほどではなさそうである。
 一方のペルソナ能力においては、召喚器が無いので、試す事ができなかった。ユニバースでニュクスを封印した時は召喚器無しでやったが、あれは例外としておく。
 一応、召喚器はあくまでもペルソナ発動を補助するための器具で、無くてもペルソナを召喚する事はできるらしい。しかし召喚器の補助なしでのペルソナ発動は、本人の精神に多大な負担を強いるのだとも聞いた。

 確かめようかとも思ったが、かつて最初にペルソナを発動した直後、自分は精神疲労で1週間もの間昏睡している。それを思うと、今夜の満月シャドウ襲撃を前に、倒れてしまうかもしれないリスクは冒せなかった。
 そのくらいなら、かつてをなぞり、出たとこ勝負で打って出る方がまだましだ。1度はできたのだから、今度だって大丈夫なはず。
 湊はそう楽観視して、考えるのをやめた。
 それから悲愴な表情で洗面台を見つめ、そんな事よりも余程差し迫った難題――目下の毎朝の課題である、化粧を含む『女の子』の身支度に挑むのだった。ゆかりがやけに張り切って指導してくれるので、「どうでもいい」と手を抜くと大変な目に遭うのは昨日で身に染みていた。


 登校から寮への帰宅まで、実に平穏であった。
 湊はほんの3ヶ月ほど前までの、ニュクス打倒を目指してまさしく生き急いでいた日々を遠く感じた。
 それに比して、昨日も今日も、周囲に流されるままにあまりに漫然と過ごしてしまっている。影時間は依然としてここに存在し、世界は滅びへのカウントダウンを始めようとしているのに。
 いずれ訪れる危機を知っている。けれど積極的に行動を起こす意欲が湧かないのは、何をすればいいのか、自分が何をしたいのかわからないからだ。1度死んだ事で投げ遣りになっているというよりは、これは湊の元の性格自体が受動的であるせいだろう。

 唯一自分から動こうとするのは、美鶴の事。死の間際に感じた強い恋着の情が、『かつて』と『今』の区別なく桐条美鶴という存在に対しての執着として働いている。
 それ以外だと、衝動的な行動が1度だけ。荒垣を見つけて、無意識に捕まえてしまった時の事だ。
 まるで自分以外の『自分』の意思で、手を伸ばしてしまったかのようだった。
 少し気になるが、既に同族嫌悪として片付けた件なのでこれは考えなくていいだろう。

 夜になってラウンジへ下りていくと、美鶴がソファで読書をしていた。
 やはり条件反射のように足はそちらへ向いてしまう。これはもう止めようとするだけ無駄だ。
 美鶴には自分と過ごした記憶など無いのだから、重ねてはいけない。何度そう己を戒めてみても、姿を見かければふらふらと近寄っていってしまうこの身は本当にどうしようもない。感情のままに動くのを抑えるべき、精神が弱くなっているのかもしれない。
 そろそろ美鶴にも、湊が彼女に対して何らかの好意を持っている、というくらいは勘付かれているだろう。それでも笑顔で対応してもらえる事に、おかしな期待をしてしまう。

「どうした? そんなところで立っているよりは、こちらへ掛けて休むといい」
「……はい」

 今の自分を傍目から見ると、生徒会室の近くでいつも美鶴への憧れを声高に叫んでいた、あの女生徒と同類になるのかもしれない。
 ……それはちょっと、嫌だ。湊は少し凹んだ。

「今夜は月が綺麗だな」
「――っ、……み…先輩、……それ、せめて男の前では言わないでください」
「うん? …ああ、夏目漱石か。君もなかなか博識だな」

 夏目漱石は、“I love you”を「月が綺麗ですね」と訳したそうだ。
 美鶴は湊の発言の意味を正確に読み取ったが、冗談と思ったのだろう。それとも、本気であってもうまくかわせるつもりか。
 楽しそうに笑って流されると、どちらなのかわからない。

「私は頭のいい人間は好きだぞ」

 訂正。やはり全部見透かしての挑発のようだ。
 有用と思われる人材を留め置くために、自身をエサにする気だろうか。残念ながら湊は速攻で釣られる自信がある。
 幼い頃から帝王学を学んできた美鶴と、所詮一般人の自分では、こうした駆け引きは分が悪い。
 もし自分に有利な材料を探すとするなら、それは。
 自分だけが知っている、決定的な情報は――

「………。なら、頑張って勉強することにします」
「フフ、良い心掛けだ」

 可能な限り自然な笑顔を作って、美鶴に好かれたくて勉学に励むという、さも単純な結論に至ったと見せかける。
 そのまま立ち上がり、おやすみの挨拶を告げて自室へと引っ込んだ。部屋の中に入り、後ろ手に鍵をかけて。そうして湊は、その場にへたりと座り込んだ。

 ――さっき、自分は何を考えた?
 自分だけが知る情報。それは、この時点から見て『未来』にあたる時に、何が起こるかというもの。
 そして何より、『かつて』の美鶴が苦しみながらも話してくれた、彼女の本心。父親に笑顔を取り戻したいという願いのために、奇麗事とわかっている言葉で皆を戦いに駆り立てた事。罪悪感を抱えながら、それでも何より大切だったのは父親の存在であった事。
 ……自分はそれを、口にしようとした。
 自分に駒として以上の関心を持たない『今』の美鶴の気を引くためだけに。過去に遡ったという反則に頼り、自分の力ではないものによって彼女を振り向かせようとしたのだ!
 それはあまりにも酷い裏切りで、侮辱ではないか!!
 自分を愛してくれた『かつて』の彼女への、そして己の願いのために必死に足掻いている『今』の彼女に対しても!

 湊は両手で顔を隠し、苦しげに天を仰いだ。懺悔だったのかもしれない。
 自分の中で荒れ狂う激情が静まるまで、数分もそうしていただろうか。ようやく立ち上がった湊は、まだ覚束無い足取りのまま、ふらふらとベッドに倒れこんだ。うつ伏せに倒れたまま、じっと動かなくなる。
 やがて影時間が訪れるまで、湊はひたすら自己嫌悪にとらわれていた。


 美鶴は作戦室のコンソールデッキを前に、画面に映った1つの部屋の中を見つめていた。
 それは2日前の夜から始まった、とある寮生の影時間における動向を調べるための監視だった。
 対象となる少女の名は、有里公子。学生寮の部屋割りが決まらずに、『偶然』この寮へと一時的に配属される事になった転校生。

 画面の端にある、現在時刻の表示を確かめた。もう残り2、3分で影時間になる。
 今夜の少女は、美鶴が監視に入った時からずっと、同じ体勢でベッドに突っ伏していた。寝返りも打たないので、眠っているわけではないようだ。だらけているというよりも、何かを拒んでじっと息を殺しているような、奇妙な静けさがある。
 少女のそんな姿は、美鶴が影時間以外もそれとなく様子を窺っていたこの3日間で、初めて見るものだった。
 彼女が自室に戻る前、自分と話していた時までは普通だったのだ。なら自分との会話の中に、何か原因となるものがあっただろうか?
 美鶴が思索に浸ろうとした時、ちょうど扉の開く音がして、新たな人物が作戦室へと入ってきた。

「やあやあ、お疲れ様。“彼女”の様子はどうだい?」
「こんばんは、理事長。……今夜は少し、彼女は疲れているようです」
「フム、3日目にして転校疲れかな? ああ、そういえば岳羽くんが、学校帰りに一緒にウィンドウショッピングしたそうだよ。女性の買い物と言うのは実に長いからね――ゴホンッ、いやいや。僕の意見じゃなく、一般論だよこれは」

 横へと歩み寄った幾月――月光館学園理事長にして、“特別課外活動部”顧問である――へ、美鶴は現在までの監視状況を報告した。
 少女の状態を単なる疲れと伝えたのは、先の美鶴の感想があくまでも主観的な印象にしか過ぎないからである。
 普通に考えれば、幾月の言った通り充分な要因もあったのだし、疲労して休んでいるだけに見えるだろう。

 有里公子の監視は、幾月が言い出した事だった。適性に目覚めて間もなく、記憶喪失の症状を抱えた不安定な彼女を、影時間の危険から保護するためにと。
 だが美鶴から見て、幾月は何かそれ以外の理由を持って、彼女を『観察』しているように思えた。
 まさかこの歳の離れた少女に対して、よからぬ欲を抱いているような事はあるまいが――

「僕の顔に何か付いてるかい? 桐条くん」
「は。いえ、すみません。何でもありません理事長」
「なぁに、誤魔化すことはないさ。ごまかす…ゴマ…そう、僕の顔に付いてるからね! ゴマ!」
「………」

 見れば確かに、わくわくとこちらの反応を待つ幾月の頬に、胡麻と思われる白と黒の小さな粒が貼り付いている。
 いつもの悪癖だ。これさえ無ければ、もう少しこの男の評価を上げてもいいのだが。
 美鶴は無言で幾月の顔から視線をそらした。ちょっと『可哀相なものを見る目』になっていたかもしれない。
 ――僅かに芽吹きかけていた疑惑の種は、日の目を見る事なく美鶴の深層心理へ埋没した。

 画面の端で、秒読みが進む。3、2、1…
 ……作戦室の照明が落ちた。窓から見えていた街の明かりが一斉に消え、黄色い大きな満月が唯一の光源となる。
 世界は暗緑色に沈んでいる。何度体験しても、重く圧し掛かるようなこの空気。
 影時間が、訪れた。


 湊はゆっくりとベッドから身を起こした。
 空気の色が変わったのを、肌で感じる。同時に冴えてゆく思考。
 自分を責めて満足しているような、無意味な時の浪費はここまで。ここからは――戦いの時間だ。

「ねえ、起きてる!? ……ごめん、勝手に入るよ!」

 返事をする暇もなく、合鍵で部屋に入ってきたゆかりに、白々しく「何が起こってるの」と問う。
 既に満月シャドウの襲撃による、寮を揺らすほどの衝撃が何度か襲っていた。
 その先は『かつて』と同じ。説明している時間は無いと急かされ、念のためにと武器を渡されて共に階下へ向かった。
 違いと言えば、かつては渡された武器が小剣であったのに対して、今回は薙刀である事くらいだ。男の頃でも使った事の無い武器で、この身体で振り回せるかやや不安だが、重量はそれほどでもないし、どうにかなるだろう。

 1階へ下りて、キッチン脇にある裏口へ向かう2人。
 今まさに扉に手を掛けて外へ、というところで、ゆかりの持つ通信機へと警告が送られた。
 ――襲撃者たるシャドウは複数。寮正門にいるのは雑魚で、本命はどこか別の場所にいる、と。

「何ですかそれ、じゃあどうしろって――っきゃ!?」

 タイミングを計ったかのように、裏口の扉が外から荒々しく叩かれた。重いものを何度も打ちつけるような、ドンドンという音。
 短く悲鳴を上げたゆかりは焦りの表情で「退却!」と叫ぶと、湊の腕を掴んでさっき下りてきた階段を逆戻りし始めた。
 しかし、2階もやはり既に敵の手が回ろうとしていた。窓ガラスが割られ、にじり寄る影の気配が次第に強まる。
 さらに上階へと逃げるが、こうなれば3階とて同じ事だろう。
 ゆかりが見つけた唯一の安全地帯は、非常扉を開けた先の屋上だった。
 そここそが今夜最大の脅威との対決の場であると、湊は知っていたが、何も言わずゆかりの後を追った。

「ハァッ、ハッ――よ、よし。ここなら…」

 遮るものの無い屋上からは、巨大な満月が余すところなく見てとれる。
 出てきた非常扉へ鍵を掛けて一息ついたゆかりを置いて、湊は屋上階中央付近へと足を進めた。
 悪意に満ちた囁きに包囲されるような、ざわざわとした感触が迫ってくる。


 通信機への、再度の警告。既に手遅れであるそれを受け、ゆかりはようやく連れてきた少女が自分から離れた場所にいるのに気付いた。
 呼び戻そうと口を開いて、けれどその言葉は、声になる事なく喉の奥で凍りつく。
 ――月の方角を向いて立ち尽くす少女の背中越し。下から湧き出すかのように現れる、おぞましい異形の影を見て。
 それこそは寮の外壁をよじ登ってきた今夜の『本命』で、伸び上がった大きさは、空の月をこちらの視界から覆い隠すほどであった。

「うそ…何、あれ……あ、あんなの、どうすれば…」

 かたかたと震えだす脚は、後ろへ下がろうとするのを抑えるだけで精一杯。
 対峙するだけで、本能的な嫌悪と恐怖で心が塗り潰されてゆく。わかるのだ、アレは『そういうもの』だと。
 あんなものと、戦えと言うのか。そこまでしなければ、自分の望みは叶わないのか。
 葛藤するゆかりは眼前の事象への対応が遅れ、その己の躊躇が引き起こした1つの結果を目にする事となる。
 異形の攻撃を受け、ゆかりの足元近くまで撥ね飛ばされてきた小柄な身体。
 何も知らぬままに巻き込まれた少女。有里公子は、傷付いてもなお立ち上がろうとしていた。


 受身の態勢から身を起こしながら、湊は切れた唇をぐいとぬぐった。
 やはり今の自分のレベルで、この“魔術師”の満月シャドウを倒すのは不可能だ。ただ1度切り結んだだけで、充分に理解できた。
 まともに戦った印象が無かったせいで侮ったか。よく考えれば、当時の自分たちよりずっと戦闘経験のあった真田の、あばらを折った相手なのである。タナトスファルロスに出てきてもらうほかに、対策は無いだろう。
 それにはまず自分がペルソナを発動させなければならないのだが――。

「私が…私が、やらなきゃ」

 湊は、自分を庇うように前に進み出たゆかりの背を見守る。彼女の手には既に、抜き放たれた召喚器があった。
 警戒してか、満月シャドウは様子見するようにこちらへ近付くのを止めている。召喚器を持つ者がペルソナ使いで、自身を多少なりとも害し得るものであると、理解しているのかもしれない。
 ゆかりは召喚器の銃口を己が額に突き付け、震えるその手をもう片手で無理やりに押さえ込んで――引き金を引いた。

 湊の記憶では、『かつて』ゆかりはこの場でまともにペルソナを発動できなかった。幾度引き金を引いても、攻撃にすらなっていない微かな風の波が床を滑ってゆくだけだった。
 だが、目の前で繰り広げられる光景はどうだろう。ゆかりの頭の上に浮かぶ、牛の頭部を模する台座に繋がれた女性の姿は、確かに。

「……できた? これが、私の“ペルソナ”……」

 ……『今』のゆかりは間違いなく、己のペルソナを発動して見せたのだ。
 それは本来なら喜ばしい事だろう。圧倒的な敵を前にして、対抗するための力は少しでも多い方がいい。
 けれど湊の胸に去来したのは不安だった。『かつて』とは異なる展開となる事で、自分の知る唯一の対抗手段が、使えなくなるかもしれない、という。

「わかるよ、どうすればいいか…私の力、私の――魔法!」

 己との対話を終えて、きっ、と敵を見据えるゆかり。
 微動だにしない満月シャドウへ向けて、ゆかりの疾風魔法“ガル”が放たれた。魔法は一直線にシャドウへ突き刺さり、その表皮を浅く切り裂いて――そして、それだけだった。
 シャドウは身じろぎし、さらなる追撃が来ない事に、こちらを嘲るように腕をくねらせた。何本もの腕の先に握られた剣同士が、ぶつかり合ってチンチンと音を立てる。
 全く効いていないわけではない。が、満月シャドウにとってはあまりに軽い攻撃だろう。
 やはり、現在の自分たちではレベルが違いすぎるのだ。

 ゆかりは彼我の実力差に呆然としていたが、逃亡という選択肢は無いと見える。今背を向けたらたちまち距離を詰められてやられると、その程度は判断できる冷静さを残しているようだ。再び召喚器を額に向けた。
 湊は、覚悟を決めた。今のゆかりが召喚器を手放す事はないし、そうである以上は、召喚器無しでのペルソナ発動を行うしかない。
 できるできないでなく、やるしかない。この時点で“魔術師”の満月シャドウから生き残るには、それ以外無いのだ。タナトスが出てきたのは、あくまで湊のペルソナ発動が呼び水となっての結果なのだから。

 目を閉じて、己の内面深くへと意識を向ける。
 外界の事象を忘却し、ひたすらに己の存在の芯を見つめる。もう1人の自分、秘められし己の本性。
 意外にも、さしたる苦労も無くこれだと思うものに触れる事ができた。後はそれを表まで引きずり出せば、他者の悪意シャドウから自身を守るペルソナとして具現化されるはずだ。
 召喚器を使わないというのは、リスクが大きい。極めて高い集中力が必要で、そして一瞬とはいえ、理性も何も無い丸裸の情動に自身の制御を明け渡す事となる。制御を取り戻す事ができなければ、ペルソナの暴走という結果が待っているのだ。
 召喚器はその一瞬を、銃で自らの頭を打ち抜くという、死を想起させる刹那のイメージで固定している。つまり自分が本当は死んでいないと自覚できた瞬間に、自身の制御権は表層意識へと戻ってくる。これにより容易に、具現化したペルソナの力のみを、安定して行使する事ができるのだ。

 湊は自身の頭上にペルソナが出現したのを、鈍った感覚で捉えた。
 それからじりじりと意識の層を這い上がり、再び身体の制御を取り戻す。一瞬とはいかず、その間に情動のまま何事かを口走ったような気がするが、今は考えるのは後だ。
 目を開けて、己のペルソナを見上げる。視界に入った、その姿は――

「……愚者オルフェウスじゃない? …恋愛ピクシー!?」

 驚愕する暇もあらばこそ。
 迫る殺意に、直感を頼りに左へと跳んだ。直後、自分のいたあたりの床からカキンという音がした。恐らく、シャドウの投げた剣が床にぶつかって弾かれたのだろう。
 ペルソナを発動させたのに何もしてこない湊を、御しやすしと見たか。シャドウはゆかりを置いておき、湊を先に潰す事にしたようだった。続く攻撃が、さらに湊を襲う。
 避けるだけで精一杯で、反撃に移る余裕が無い。ゆかりもこの間にシャドウへまた魔法を放つが、牽制にもなっていない。
 一番の問題は、ペルソナを発動したにも拘らず、タナトスの出てくる気配がしないという事だ。『かつて』はペルソナ発動の直後、そのもう1人の自分を内側から食い破るかのようにして現れたのだが。愚者オルフェウスではないからか?
 だが、敵の攻撃を受けている時に別の事を考えるという愚を犯した湊に、シャドウは待たなかった。
 死角から伸びてきた、先ほど剣を手放した腕の1本が、吸い込まれるように湊の腹へと一撃を見舞った。

「――!! かっ…は、」

 視界の中央で揺れる、“魔術師”のシャドウの仮面。
 その光景を最後に、湊の意識は途切れた。


 美鶴は、眼前の作戦室モニターに映る光景にぎりっと拳を握り締める。
 背後では同じく屋上の映像を見ていた真田明彦が、彼ら2人の出撃を引き止めた幾月にくってかかった。

「だから言ったでしょう! 新人2人じゃ歯が立たないって! ――俺は出ます!!」
「だ、だけど真田くん。君はあばらをやられているし――」
「今のあいつらよりは強い! 元々、俺が連れてきてしまった敵です。俺が何とかする!」

 ついさっき寮の玄関では「奴らが勝手に付いてきたんだ」などと軽口を叩いていた真田だが、一応責任は感じていたらしい。
 掛け続けていたペルソナの回復魔法で、多少はまともに動けるようにもなったようだ。今は作戦室の外へ出ようと、扉の前で幾月と押し問答している。
 何故幾月が自分たちをここに留めようとするのか、理由は美鶴にも推測がつく。
 恐らく幾月は、最初から自分たち全員でも“アレ”に勝てないのだとわかっていた。長年ペルソナやシャドウの研究を続けてきた男だ、敵の力量も想像できたのだろう。しかし、だからといって。
 美鶴は重いため息をつくと、口論を続ける2人のもとへ歩み寄った。

「……明彦」
「止めるな美鶴! お前が何と言おうが、このままじゃ――」
「誰が止めると言った? 私はただ、念を押しておこうと思っただけだ。……無理に勝とうと思うな、最優先は彼女らを逃がす事だぞ」
「! …ああ、わかってる!」
「桐条くんまで! ま、待ちなさい!」

 美鶴が口を挟むとは思っていなかったのか、反論しようとした幾月が扉の前から動いた。真田はその隙をついて、さっさと作戦室を出て行ってしまう。実のところ真田が足止めを甘受していたのは、美鶴が何も言わなかったからであり、美鶴に止める気がないなら幾月の制止などどれほどの効力も無かったのだ。
 ……尻に敷かれている、とは言わないでやってほしい。それは真田本人が最も気にしている部分である。閑話休題。

「理事長。私も行きます。私のペルソナも、本来は戦うためのものですから」
「だが、桐条くん…君たちが行っても、あれには」
「最悪は全滅でしょう。ですが、撤退できる可能性は残っている。それに、篭城するのも逃げるのも、影時間が終わるまで無事でいられる保証が無いのは同じ事です」

 幾月はこの“特別課外活動部”の顧問として大局的な判断をしたのだろうと、美鶴は思う。
 ここで全滅するよりは、現在は足手纏いである有里公子をゆかりともども囮として切り捨てて、戦力の要である美鶴と真田を温存しておく。真田が完全に回復し、美鶴と連携して戦えば、勝ち目もあるだろう。
 何せ自分たちのほかには、シャドウに対抗するための力を持った組織は存在しないのだ。自分たちが全滅すれば、世界はゆっくりとシャドウの脅威に飲み込まれてゆくに違いない。
 けれど美鶴は、まだそこまでは割り切れなかった。自分の都合で巻き込んだ少女たちを、助けられる可能性がまだ残っているうちは、見捨てる事はしたくなかった。

「“桐条”を継ぐ者としては甘いのかもしれませんが、私は――そこまで、人の心を捨てたくはありません」
「桐条くん…」
「我々は屋上で有里を回収したら、非常扉から寮内部を抜けて外へ逃げます。理事長は、どうぞお好きなように。雑魚はあらかた駆逐しましたから、我々とともに外へ出るよりは寮のどこかで隠れている方が安全かもしれません」

 自身の甘さゆえ。それが理由の1つなのは確かだが、本当はもう1つ気になる事があった。
 有里公子が、召喚器も無しにペルソナを発動してみせたという事実だ。美鶴にはそれが、彼女の内なる資質の大きさを示しているように思えた。
 彼女を戦力化できれば、いずれ誰よりも頼もしい味方となる――美鶴はそう確信した。だからこそ、今は逃げるのだ。

 美鶴が最後に、もう1度モニターに映った屋上の様子を見た時だった。
 ちょうど真田が、非常扉をぶち破って戦場へ躍り出たところだ。しかし注目すべきはそこではない。
 シャドウの痛烈な一撃を受けて倒れ伏していた有里公子が、ふらりと立ち上がった。
 歩けるのなら幸いだ、撤退が楽になる。美鶴がそう考えていると、有里公子は予想外の行動に出た。先ほど自分を吹き飛ばしたはずの敵に向かって、近付いていこうとしている。
 馬鹿な、勝てないと既に理解したはずだ。もしかすると気絶する前の記憶が飛んでいるのかもしれない。意識が曖昧なまま、ただ歩いているのだとしたら。
 真田が画面の端で叫んだのが見える。聞こえているのかいないのか、有里公子は立ち止まり、空へ向けて腕を掲げた。その口が開き、何事かを呟いた。そして――。

「むっ…! これは、さっきとは違うペルソナ? 彼女は複数のペルソナを操れるのか!」

 幾月の興奮もあらわな声が、どこか遠く感じる。
 美鶴自身も、もはや映像に見入っていた。画面の中央に君臨する、有里公子の新たなペルソナ。その姿は圧倒的な存在感をもって、敵の動きを押し留めていた。
 何よりも目立つのは、暗い紫苑色をした悪魔のような翼。青ざめた肌の色に、顔の左側には赤い紋様が走っている。両耳の脇から垂れ下がる2筋の金髪が、足元まで伸びてゆったりと宙を泳いでいた。
 鷹揚に腕を組んでいたその人型が、つとシャドウへ向けて指を差す。
 次の瞬間、シャドウの周囲を霜が覆った。一定範囲内の急激な気温の低下。無論、それだけでは終わらない。シャドウを下から貫くように、いくつもの巨大な氷柱が床から生えてその身体を串刺しにする。氷柱に引き裂かれた部分から、さらに冷気が広がってシャドウの全身を凍り付かせてゆく。やがてその場には、シャドウの形をした巨大な氷像が出来上がった。

 ――何という強力な魔法だ。美鶴は感嘆する。
 美鶴自身のペルソナが氷結魔法を使うから、ほかの者よりも理解は深い。あれは恐らく“ブフダイン”、体系化されているうちでは、氷結系単体魔法で最上位にあたるものだろう。氷結系であれより上の威力となると、そのペルソナが固有に持つオリジナルスペルぐらいしかあるまい。

 だがそれでも、シャドウの存在が消える事無く残っているのだから、未だ倒しきれていないという事なのだろう。
 モニターの中で有里公子のペルソナはくいと頭を傾けた。それから口端を引き上げて軽薄な笑みを作り――何故そこまで細かい部分がわかるかと言えば、幾月がご機嫌で機械を操作して画面をズームしたからだ――今度はもう片方の手でシャドウの氷像を指差す。
 巻き起こった現象は、竜巻か。こちらも桁外れの威力である事を考えると、疾風系単体魔法上位、“ガルダイン”あたりだろう。
 竜巻に見えた無数の風の刃は、氷像と化したシャドウを氷ごとばらばらに切り裂いた。
 そうして今度こそ、シャドウは黒い靄となって影時間の空気に溶けた。

 有里公子が、あの巨大なシャドウを撃破した。才の片鱗を見せたとはいえ、最初にシャドウの一撃のみで昏倒した、今はただのか弱い少女という様子だった彼女が。
 しばらくはその現実に頭が追いつかず、誰もその場を動こうとしなかった。
 動いたのは、その有里公子が突然倒れて、ゆかりが慌てて駆け寄る様を見てからだ。
 ゆかりが必死に呼び掛けているが、有里公子は完全に気絶しているらしく、うんともすんとも言わない。
 ……大きな力にはリスクが伴うものだ。少しの不安と、それ以上の期待が美鶴を屋上へと急かす。
 美鶴の顔に、抑えられぬ笑みが浮かんだ。有里公子、彼女がいれば、自分の望みもきっと叶う。
 何故だろう。戦力として大きいとはいえ、たった1人仲間が加わったところで事態の根本的な解決法が見付かるわけでもないのに。

 後に美鶴はこの時の予感を、冗談めかしてこう評している。
 ――女の勘とかいうものだったんだ、と。




[18189] ●第四回●
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/05/01 19:48

 どこまでも続く青い海の中を、漂っているような感覚だった。
 ここはどこだろうとか、自分はどうしてここにいるのか、とか。そういう漠然とした疑問が、泡のように浮かんでは消えてゆく。
 時間の経過も、曖昧だった。もう何日もここで眠っていた気もするし、ほんの数分まどろんだだけのようにも思える。
 この停滞に終わりを告げたのは、自分以外の誰かが近付いてくる気配だった。
 誰かは自分のすぐ近くまで身を寄せ、普通なら衝突するという距離まで踏み込んできて――唐突に、消えた。いや、これは、消えたのではなくて……。

「――ようこそ、ベルベットルームへ。再び、お目にかかりましたな」

 湊はハッと目を開けた。
 そこは見慣れた青い部屋で、自分はいつもの椅子に腰掛け、テーブル越しに部屋の主たるイゴールと対面していた。
 直前まで感じていた、何かの感覚が思い出せない。あれは何だったのだろう。あれは、あの気配は――。

「……イゴール。ここに、おれ以外の誰かがさっきまでいなかったか?」
「さて。私の目には、『貴方』の姿しか映りませんでしたが」

 イゴールは例によって含み笑いつつ、期待はずれの答えを返してくる。しかし、嘘は言っていないはずだ。
 ではやはり、ただの気のせいだったのか。
 釈然としない気持ちを抱えながらも、湊はこの話題を打ち切った。それよりも、最優先で聞かなければならない事があった。気が付いた瞬間に何故これを聞かなかったのかという、極めて重要な質問だ。

「あの後…おれが屋上で、“魔術師”のシャドウにやられてからどうなったかわからないか?」
「と、申されますと?」
「おれはまだ生きてる。身体と意識がまだ繋がってる、そんな気がするんだ。…あの状況から、どうやって生還できた?」
「フム…残念ながら、それはお答えできかねますな。外界の事象に関して、我らベルベットルームの住人は関知せぬものですので」
「――そうやって、はぐらかしてばかりじゃないか!!」

 思わず叫んでしまってから、我に返った湊は慌てて「ごめん」と続けた。
 何をやっているのか。これは丸きりただの八つ当たりだ。イゴールにはイゴールの役目があり、その役目に従って口を閉ざさねばならない事もある。まして、彼が現実世界の様子を知らないのは、非難などされる筋合いの無い厳然たる事実なのだ。
 あの後自分だけでなく、仲間たちがどうなったのかという焦りに、すっかり冷静さを失っているようだ。
 湊は1つ大きく深呼吸して、気を静めてから再び言葉を発した。

「……答えられる事だけでいい。おれの質問に、答えてほしい」
「もちろん、私の語れる事でしたら全て包み隠さずお話ししましょう」

 結局のところ、現実世界の出来事を知るには、一刻も早く現実世界で目覚めるしかないのだ。ならば今は、逆にこの空間でしか、イゴールにしか問えない疑問について訊くべきだ。
 イゴールは気分を害した様子も無く、相変わらずの笑みを浮かべている。
 その目を真っ直ぐに見て、湊は口を開いた。


 白い病室のレースカーテンを通して、うららかな春の陽光が射し込んでいる。
 読み終わった文庫本を閉じたゆかりは、傍らのベッドに眠る少女の吐息が微かに乱れたのに気が付いた。
 もしかして、と期待しながら相手をそっと覗き込む。ゆかりの影がかかった少女の顔、その閉ざされた目蓋がぴくりと震え――やがて静かに開かれた。未だ焦点の合わぬ瞳が、ぼうっとゆかりを見上げている。
 驚かせぬよう、少し小声を心がけながら、ゆかりは少女に話しかけた。

「…気が付いた?」
「………。岳羽、さん?」
「うん。私」

 少女――有里公子は、ぱちぱちと数度瞬きした。それから今度はしっかりと、光の灯った目でゆかりを見つめた。
 ゆかりの顔に、安堵の笑みが浮かぶ。

「気分は、どう? 身体の傷は大した事なくて、もう全部治ってるってお医者さん言ってたけど」
「…悪くはないかな。むしろ、寝すぎたって感じがする」
「あはは、そうだね。だって今日、4月19日だもん。あなた、10日も目を覚まさなかったんだよ。…心配しちゃった」

 笑いながら身振りだけで、怒ってます、というようなポーズをとるゆかり。それはすぐに照れ隠しとバレたようで、有里公子も控えめに微笑んでくれた。
 けれど、笑ってばかりもいられないのだ。ゆかりは有里公子が眠っている間に、彼女に伝えるべき事を整理していた。
 まず何よりも、謝らなければならない。目を閉じて一息挟み、真っ直ぐに視線を向けるゆかりに、有里公子もベッドから上体を起こして話を聞く体勢になった。

「……ごめんね。私、全然役立たずだった。私があなたを屋上に連れ出したのに、逆にあなたに助けられて。でも、そのせいであなたはずっと眠ったままで……ほんと、ごめん」
「…助けた? わたし、シャ…あの怪物にやられて気絶して、――誰かが怪物を倒して、わたしを助けてくれたんじゃ?」
「覚えてないの? あ…まさか、ひょっとしてまた記憶が…!」

 思い当たったのは、有里公子が現在進行形で記憶喪失であるという事実だ。
 彼女の記憶喪失の原因は、恐らく影時間への適性の問題。ならばその適性の進化形とも言える、ペルソナ能力を行使した後は?
 ざあっとゆかりの頭から血の気が引く。先輩たちとすら比べ物にならないほど強力だった、有里公子のペルソナ。あれだけの力を使うのに、どれほどの負担が彼女にかかった? まる10日間も眠りに就くほどの、その後遺症は。

「ね、ねえ! 自分の事、覚えてる!? 今度は名前すら忘れましたとか、そんなの無しだよ!?」
「だ…大丈夫、忘れてないから。覚えてないのは、怪物にやられてからだけ」
「ほんとに? じゃあ、私の名前は!?」
「岳羽ゆかりさん。…最初に、呼んだよね」
「あっ…そうだった。……はは、やだもう、私ってばテンパりすぎ…」

 いつもはツッコむ側のゆかりだが、今回はツッコまれてようやく我に返った。不安になるのは有里公子の方のはずなのに、自分がこんなに取り乱しては話にならない。
 とにかく、今は有里公子の言を信じて、忘れたのはシャドウとの戦いの部分だけと考えよう。彼女が知りたいと言うなら教えるのが、あの場で見ているしかできなかった自分の義務だ。
 ゆかりは、慌てて立ち上がった際に蹴倒してしまった椅子を戻す。それに座り直し、ふぅと息をついて話し始めた。


 湊は、ゆかりの口から語られた、覚えの無い己の行動に眉を寄せた。
 ゆかりが言うには、湊はあの後起き上がり、ピクシーではなく新たに強力なペルソナを発動してシャドウを倒したらしい。しかし湊にはペルソナ発動どころか、シャドウの一撃から立ち上がったという記憶さえ無い。さらに不可解なのは、現れたのがどうやらタナトスではなく、湊自身も知らないペルソナのようだという事だ。
 仮に、意識は朦朧としつつも起き上がれたとしよう。しかしペルソナ発動は、どう考えてもおかしい。
 ペルソナの発動は、“無意識”にできるようなものではない。行使するというはっきりとした意思をもって、自らの心の奥底から己ならざる己を引き上げ、それに振り回される事なく制御せねばならない。

 表層意識の制御なく発動されるペルソナ。それは、ペルソナの暴走である。
 さらに仮定を重ね、湊がペルソナを暴走させて、暴走であるゆえに通常は制御下に無い、湊自身が知らないペルソナが現れたのだとする。ならばそのペルソナが、シャドウを殲滅し終わったという都合の良いタイミングで消えたのは何故だ?
 暴走したペルソナは、使用者が完全に意識を失うまで止まらない。そしてペルソナ暴走中の使用者は、自ら意識を落とす事ができず、外部から気絶させてもらわなければならない――このあたりは、『かつて』チドリのペルソナ暴走に関して聞いた説明だ。
 つまり湊がペルソナを暴走させたのなら、シャドウを倒しただけで止まるはずがないのだ。誰かに止めてもらうか、それこそ湊自身が死ぬまで、ペルソナは新たな攻撃対象を求めて動き続ける。

「……怪物を倒してわたしの、そのペルソナっていうものは消えて、わたしも勝手に倒れたんだよね?」
「うん。いきなり、ばたんって。びっくりしたよ」

 自分の知る知識と、現実に起こった出来事が、明らかに矛盾している。
 一体これはどういう意味か。
 湊の理論が全くの間違いで、この世界においては、ペルソナの仕組みとも言うべきものが『かつて』とは異なっている、という可能性は確かに否定しきれない。だが、そんな根幹の部分から違うというのなら、最早湊は何を信じていいのかわからない。
 かと言ってゆかりの話が間違っているという事もあるまい。その場には真田が駆け付けていて、彼も目撃者だったそうだ。

 もしも湊の知識が正しく、ゆかりの言葉も嘘ではないと言うのなら。
 両者の認識の間に横たわる溝。謎のペルソナと、“無意識”での能力の行使。
 これらこそが、何らかの例外事象――“イレギュラー”であった、という結論になるだろう。
 ……そんな曖昧な結論が出たからといって、何の役にも立たないのだが。

「とにかく、あなたが覚えてなくても、私たちがあなたに助けられた事は確かだからさ。だから……ありがとうと、ごめんなさい。これだけは、ちゃんと言っておきたかったんだ」
「…覚えてないわたしが言うのもおかしいけど、そんなに気にしないで? 普段は、わたしが岳羽さんに色々助けられてるもの」
「そう、かな? …じゃあ、そういう事にさせてもらうね」

 複雑な内心が表に出て、苦笑気味になってしまったようだ。
 ゆかりは湊の困惑を察して、それ以上の話題の継続を止めてくれた。一転し、悪戯っぽい調子で重い空気を塗り替える。

「お詫びのしるしにまた買い物でも付き合おっか! 次はちゃんと、全身コーディネイトしようよ!」
「え。それはちょっと、遠慮したいな…」
「あっはは、冗談冗談! 公子がそういうの苦手なの、この前でわかったしね」
「…『公子』?」
「……あ。ごめっ、つい…えっと、………。嫌だった?」

 自分とゆかりだけの会話の中に耳慣れない名前を聞き、湊は反射的に疑問符で答えてしまった。しかしすぐに思い出す。それがこの身体の、――今の自分の名前であると。
 一方オウム返しに問われて、意識せず相手を名前で呼んだ事に気付いたゆかりは、湊の機嫌を伺うように上目遣いに訊き返す。その様子は僅かに甘えるような仕草も混じって、媚びと紙一重でありながら嫌味を感じさせない愛らしさがある。
 ゆかりのそんな態度は、湊にとってもしかすると初めて見るもので。

「……その顔は、反則っ…」
「え? 何?」
「う、ううん、何でもない。名前で呼ばれるのは、……慣れないけど、別に嫌じゃない、かも」

 実際のところ、『かつて』と『今』とで共通している苗字ではなく、名前で呼ばれるというのはやや不安ではある。さっきのように、それが自分の名前であるという自覚がまだ薄いためだ。うっかりしていると、呼ばれても気付かず無視してしまうかもしれない。
 けれどこればかりは、慣れていかなければどうしようもない。第一、断れる雰囲気ではないだろう。
 せっかくゆかりの方から、こちらへ踏み込んできてくれたのだ。
 ここで応えないのは、男ではない。……身体はまあ、確かに男ではないのだが。

「そっか。…あ、あのさ。私の事も…“ゆかり”でいいからね。女同士だし、その…仲良くしようね」
「女同士…そう、だよね。……うん。大丈夫。何にも、おかしくない。『友達』、だもんね」
「そうそう。もう友達だもん、私たち。……あっそうだ! 公子が目が覚めた事、先輩たちに伝えてこないと!」

 おかしくない、友達だから、と肯定しつつ、どこかぎこちない2人である。互いに憎からず思うがゆえに、どこまで近付いて大丈夫なのかと、適切な落し所を探っているようだ。
 先にこの妙に気恥ずかしい空気に音を上げたのは、ゆかりであった。上気した顔色を隠すようにあちらを向いて立ち上がったと思うと、湊の回復を告げに行くという言い訳を残して、足早に病室を去って行った。
 一方の湊としても、限界が近かったらしい。
 ゆかりが出て行ったのを見届けるや否や、頭まですっぽりと布団に潜り込んでじたばた身悶えし始めた。漏れ聞こえる声は「違う違うおれは美鶴一筋なんだちょっとトキメいたとかそんな事断じて無いごめん許してうああぁぁ」という具合だ。
 自室と違ってこの病室が監視されていなかったのは、幸運だったと言えるだろう。……色々な意味で。


 有里公子の病室を出たゆかりは、まだ熱い顔を少しでも冷まそうとばかりに、手で仰ぐのを繰り返していた。

「……あ~…ヤバいってこれ。絶対変に思われてるよ……でもあんな顔されたら、仕方ないよね!? 私普通だよね?」

 動揺を抑えようとはしているらしいが、考えがそのまま声に出ているあたり、全く落ち着けていないのに本人は気付いているのか。
 あんな顔――そうゆかりが評するのは、先ほど有里公子が見せた表情の事だ。
 女同士、というゆかりの言葉にハッとして、そこから確かめるように、一言ごとに区切ってゆっくりと動かされた唇。長く床に就いていたというのに瑞々しいままのそれは、ゆかりを誘うが如くに時折赤い舌を覗かせて、最後に笑みを結んだ。
 ほんのりと染まった頬に、やや斜めから流し見る視線。胸に手をあてて恥じらうような仕草まで完璧で、それでいて演技ではなく素の反応だろうというのが実に罪深い。その姿、無垢なる天使か心惑わす悪魔か――。

「いやいやいや、違うから! 目が覚めたのは公子であって、私が『目覚めちゃった』ワケじゃないから!」
「何に目覚めたんだ?」
「そりゃつまりアッチの道に――…って、ひわっ!? き、桐条先輩!!」

 ゆかりは大仰にのけぞって、勢い良く後退すると背中からぴたりと廊下の壁に張り付いた。
 いつの間に来たのだろう。気付けばゆかりの苦手とする、麗しき同性の先輩が正面にいて、挙動不審な彼女を眺めていた。
 心臓に悪い出来事が立て続けだ。ゆかりは治まらない動悸に息を切らしつつ、美鶴に挨拶を返す。

「お、おは、おはようございます先輩。せせ先輩も公子のお見舞いですよね!?」
「おはよう。そのつもりで来たが……大丈夫か? 随分と顔が赤いようだが…」
「何でもないです! すごく! 健康です!! …そうだ先輩、公子やっと起きたみたいですから! 色々話してあげてください! じゃっ私はこれで! さようなら!!」
「あ、ああ…またな、岳羽」

 美鶴の返事を待つ事無く、ゆかりは踵を返して逃げ出した。病院なので脱兎の勢いとはいかないが、競歩さながらの速度だ。
 角を曲がり、階段を下りて、外来受付のある1階ロビーまで来たあたりで、ようやく頭が冷えてきた。
 外へ出る前に少しだけ、と長椅子に腰を降ろして休息を取る。
 そうして思い返すのは、有里公子との会話だ。あの微妙すぎる空気になる前の、謝罪と感謝について。

 ――結局、伝えなければと思っていた事の半分も言えなかった。
 ゆかりが謝りたかったのは、屋上で何もできなかった事だけではない。もう1つ、いや、2つか。本当はあの場で、有里公子に洗い浚い話すつもりだったのだ。

 まずは、3日間に及んだ監視という名のプライバシー侵害行為について。
 影時間の脅威からの保護を名目にした、有里公子の監視にはゆかりも監視者の1人として携わっていた。その際に監視対象の情報として、有里公子本人が忘れている部分まで含め、彼女の過去を一方的に知る事となってしまったのである。
 乙女の秘密を勝手に覗くだなんて、もしゆかりが彼女の立場であったら憤るのは間違いないだろう。いずれ次の機会には、必ず話して謝る事にする。そして代わりになるかわからないが、彼女には自分の過去を教える。それで何とか、チャラにしてもらおう。

 監視の件については決まりとして、問題はもう1つの方。勢いで話すつもりであったが、よく考えると黙っていた方がいい気もする。
 これはさっきのように資料として記されていたものでなく、恐らく有里公子という人間の根幹に根ざすものについてであるからだ。互いに友と呼び合ったと言えど、まだ付き合いの浅い自分などが口にするのも不快にさせるかもしれない。

 脳裏をよぎるのは、あの屋上での一幕。ゆかりが有里公子を背後に庇って――もっとも、その後シャドウはゆかりを通り越す軌道で直接彼女を狙い剣を投げたので、庇えていたとは言い難い――シャドウと対峙していた時。
 戦闘開始からずっと沈黙していた有里公子は、唐突に早口で何かをまくしたて始めた。うわ言のような、どこか現実から乖離したようなその内容は、印象的な部分だけが幾つか聞き取れた。
 曰く、「愛してる」「死にたくない」「まだ一緒に生きていたい」……そして、「ミツル」という人名。
 人名の方は、たまたま美鶴の名と同じ読みをあてる、別人の男性という可能性が考えられる。それは置いておくとしても、他の部分に関しても軽々しく踏み込める内容ではないだろう。
 想像でしかないが、有里公子自身の忘れた過去の中には強く想う相手がいて、その感情が命の危機に瀕した事で一時的に蘇ったのではなかろうか。そして、それが彼女のペルソナ能力の覚醒のきっかけとなった。
 彼女が今も、その相手の記憶を忘れたままなのかはわからない。けれど忘れているのなら、それが大切な存在であるほど、他人であるゆかりに教えられて知るというのは、ショックなのではないだろうか。
 本当に大切な記憶なら、誰に教えられるでもなく、いずれ自ら取り戻せるはず。
 ゆかりはそう結論を出し、これに関しては自分1人の胸のうちにしまっておく事にした。

 長々と考え事をするうちに、すっかり呼吸も落ち着いていつもの自分に戻れたようだ。
 ロビーには外来患者の姿も、ちらほらと目立つようになってきた。そろそろ寮へ戻るとしよう。
 医師の診断次第だが、あの調子ならきっと有里公子も今日明日中に退院の運びとなるだろう。
 彼女が帰ってきたなら、退院祝いと称して2人でお茶でも飲みながら話そうか。心残りは早めに片付けてしまうに限るのだ。
 お茶請けの菓子をどこで買おうかなどと思いながら、ゆかりは病院の玄関を出たのだった。


 時を少々戻し、有里公子の病室の前。明らかにおかしな様子で去るゆかりを、唖然と見送った美鶴。
 声を掛けるべきではなかったのか? 美鶴にはゆかりの、目覚めるとかアッチの道といった言葉の意味はわからなかったが、何となくそっとしておくのが正しかったような気がしてきた。今さらではあるが。
 肩をすくめて、些末な疑問を振り払う。それよりも有里公子だ。意識が戻ったというなら、よく話をしなければ。

「有里。桐条だ、入るぞ」
「――はい」

 病室の扉をノックして名乗ると、ややあって小さく答えが返された。
 美鶴は室内へと進んだ。窓際のベッドには、布団から有里公子の頭の先だけが覗いている。

「目が覚めたと聞いたが…どうした。気分が優れないのか?」
「いえっ、すみません、ちょっとだけ…待ってください」

 有里公子はそれきりしばらく沈黙した。さっきのゆかりといい、何なのだろう。
 美鶴は首を傾げたが、彼女のために作った時間は、まだしばらくある。待ってほしいと言うのなら大人しく待っていよう。
 それに、有里公子の「ちょっとだけ」は長くはかからなかった。数回深く息を吸うのが聞こえて、やがてのろのろとだが布団から這い出してくる。美鶴は彼女がベッドを降りようとするのを「そのままで構わない」と制した。会話は可能な状態のようだが、やはり医師の診察が終わるまでは安静にさせた方がいいだろう。少し顔も赤いようであるし。

「おはよう。見舞いのつもりで来たんだが、意識が戻って何よりだ。体調はどうだ?」
「おはようございます。特に問題は無いです」
「そうか。まあ、この後の診察で医師の許可が出れば、すぐに退院できるさ。…その前に少し話そうか。色々と気になっている事もあるだろうしな。岳羽からは聞いたか?」
「ある程度は。あの怪物がシャドウって呼ぶものだとか、わたしや…ゆかりから出てきたのがペルソナっていうものだって事。それからわたしは覚えてないですけど、わたしの2つ目のペルソナが、シャドウを倒したと――」

 そう言い掛けて、考え込むように視線を手元に落とした有里公子の声が、不自然に凍った。その表情は何かありえないものを見たかの如く呆然と一点を見つめている。美鶴が「どうかしたか」と問うのも、聞こえていない様子だ。
 震える右手を、ゆっくりと目の前に持ち上げる有里公子。だが、美鶴から見たその手には、どこも異常は見当たらない。

「君の右手に、何かあるのか?」
「……先輩には、見えないんですか。この、痣」
「痣? …いや、私には至って普通の、綺麗な手に見えるが」

 美鶴の言葉に、納得したのだろうか。有里公子は「そうですか」と呟くと目を閉じて、掲げた右手を強く握り込んだ。あまりに強く握っているように見えたので、美鶴は爪の跡が付くぞと声を掛ける。
 間もなく有里公子はぱっと手を開き、もう片手で隠すようにしながら、明らかに強張った笑みを浮かべた。

「……すみません、何でもないんです。屋上での事で、少し精神的に過敏になってるんだと思います」
「…大丈夫なのか?」
「今日一日ゆっくり過ごせば、元通りですよ。ご心配お掛けしました」
「………。そうか。なら今は詳しい説明はしないでおこう。何か気の紛れる話題はあったかな。私はどうも世間話というのが苦手でな」

 有里公子が追求を拒絶しているため、美鶴はこれ以上触れずにそっとしておく事にした。
 他に話す事と言っても特に無いのだが、見舞いに来て相手の様子をおかしくさせただけで帰るというのはいかがなものかと思う。
 無難なネタとして本の好みについて振ってみると、意外に両者の守備範囲がかぶっているのが明らかになり、注目している作者の新作についてなど、時間を忘れて楽しく話し込んだのだった。

 やがて診察の時間だとやって来た看護士によって、有意義な一時は終わった。
 美鶴が有里公子の顔を見れば、すっかり色を取り戻している。彼女が自身で言った通り、先ほどのは一時的な錯覚だったのだろう。
 この後のスケジュールを思い出し、美鶴はそこで暇を告げた。
 有里公子専用の召喚器が仕上がったとラボから連絡があったので、美鶴自身で確認し、引き取りに行かねばならない。
 明日こそは皆を交えて、有里公子に対する説明と、“特別課外活動部”への勧誘を行うつもりだった。


 時間は瞬く間に過ぎて行く。――『時は、待たない』のだ。
 湊は10日ぶりとなる自室のベッドに身を沈め、改めて今日の出来事を回想していた。
 目を覚ます前、ベルベットルームでイゴールから聞いた話は、珍しくほぼ完全な記憶として残っていた。

 湊はイゴールに、何故自分の初期ペルソナが愚者オルフェウスではなく恋愛ピクシーであったのかと訊いた。その答えは、今の湊の心に最も近いアルカナが恋愛であるからというものだった。
 恋愛のアルカナが意味するのは、正位置では、合一、恋愛、自立、選択。また逆位置では、誘惑、迷い、優柔不断など。
 このパラレルワールドと思われる世界で唯一湊を突き動かす、美鶴への止めようのない恋情。それが形を成したものが恋愛ピクシーというペルソナならば、召喚器無しで簡単に手が届いたのも頷ける話だった。

 だが湊が衝撃を受けたのは、そこから派生したイゴールの別の言葉だ。
 愚者のアルカナは、自由、好奇心、無知ゆえのあらゆる可能性。何者でもなく、何にでもなれる存在。しかし今の湊は、何も知らぬ無垢なる赤子ではない。既に自身の自我を確立し、己だけのものを選び取り、『自分が何者であるか、名乗る事ができる』――最後の一節だけは妙に強調されていたが、湊にはどうでもよかった。
 つまりそれは、湊が愚者ワイルドとしての資格を失った、という意味なのだから。
 湊のペルソナ使いとしての強みは、ひとえにワイルドとしての複数のペルソナを扱えるという特性によっていた。それが無くなれば、ピクシーのみが自分のペルソナだとしたら、後には成長の遅さなどの不利な要素しか残っていない。
 これでは、仲間たちの足手纏いになるだけだ。ニュクス打倒どころか、次の満月シャドウとの対決すら覚束無い。
 絶望的な想像に頭を抱えた湊に、イゴールはさらなる説明をした。『かつて』では聞いた事の無い、“契約”の詳細を。

 イゴールは言った。『我、自ら選び取りしいかなる結末も受け入れん』――それは単なる宣言ではない。“契約”によって湊が負う事となる、たった1つの“代価”であるのだと。
 契約とは、己と他者の間に結ばれるものである。そしてそこには必ず、何らかの代価と報酬が存在する。
 湊の『かつて』の“契約”は、望月綾時と名を変えたファルロスが提示する、ある選択肢だけのために交わされた約束だった。しかし今回の、2度目の“契約”はそうではない。ファルロスはあくまでも仲介しただけで、本当の契約相手――『契約主』は、別にいるのだという。
 湊は思わず「何だその悪徳商法」とツッコまずにいられなかったが、イゴールの話では『昔』は契約書さえ無く、口頭での曖昧な説明だけだったそうだ。ちなみにクーリングオフは効かない。
 ファルロスがどこまで知っていたかについては、追求しても仕方が無い事だろう。結局、あの場でよく確かめもせずホイホイと署名してしまったのは自分なのだから。『かつて』たなか社長に計4万円を払った時もそうだが、これこそ自己責任だ。
 釈然としない思いを抱えながら聞いた“報酬”についての説明は、以下のようになる。

 本来ペルソナとは、他者と接する際に身に着ける心の仮面という意味がある。嫌いな相手に対しての冷ややかな態度と、恋人に見せる甘い顔とでは異なるように。だから心の仮面は、複数存在するのが普通なのである。
 実体化した他者の悪意シャドウから自身の心を守るための、心の仮面ペルソナを具現化する力。それがペルソナ能力の定義である。そして心の仮面が複数あるのなら、具現化されるペルソナの種類も複数であっておかしくない。
 イゴール曰くの『契約主』は、契約者にペルソナ能力を与え、その発現と成長をある程度補佐する。加護を与えると言ってもいい。
 ニュクスの封印のために命も力も何もかも使い果たした湊は、2度目の“契約”の“報酬”としてまたペルソナ能力を得た。
 愚者ワイルドではないが、『契約主』の加護により、複数のペルソナを扱う事ができる力。ただし、湊自身の確立された自我と、個々のペルソナが象徴する性質とには相性が存在するため、主にアルカナによって発動しやすいもの、そうでないものとに分けられる。
 多少不便になった部分もあるが、戦闘においては極端に『かつて』と見劣りするような事にはならない。
 イゴールの話を最後まで聞いて、湊はそう結論付けた。

「――…はあ」

 ため息が口をつく。わからない事はまだたくさんあるのだ。
 仰向けに寝転んだまま、右手を顔の上へと持ち上げて観察する。
 ――右手首に浮かぶ、奇妙な痣。こんなものは、あの時屋上で意識を失うまでは存在しなかった。まるで誰かが自分の手首を掴んでいるような、気味の悪い形で染み付いている。しかもそれは美鶴やゆかりには見えない、自分だけが認識しているものなのだ。
 痛みは無いが、見ていると不安が湧き上がってくるような、どうにも不吉な代物である。

 不安と言えば、この先の事も不安だらけだ。
 相談すべき相手など、もとよりいない。『かつて』何故あれほど肝を据えていられたのかと思えば、それはやはり己が無知であり、何に対しても「どうでもいい」と、ある意味全てを受け止める姿勢でいたからなのだろう。
 だが、今の湊は無知ではなく、『知っている』からこそ恐れる。
 そして恐れを知るからこそ、ただ結末を待つのではなく、自分から新たな道を探そうと思える。
 桐条美鶴を愛している今の自分が、この世界で何を目的に生きるのか。そのための手段として、何をすればいいのか。

「おれは――選択する」

 それはこの世界への宣言だった。
 揺らいでいた心は、いつしか静かに昂っていた。まるで影時間、敵を前にした時のように。
 愚者ではなく恋愛が、この世界での己の始まりのペルソナというのなら。恋愛のアルカナに相応しく、自立した己の意思により、未来を選び取ろうではないか。
 これからも何度も迷うだろう。時に決断を後悔し、楽な方に流れたいという誘惑に駆られるかもしれない。
 けれど知恵の実を口にした人は、楽園に回帰する事は叶わない。『知って』しまった以上、もう愚者には戻れないのだから。旅を続け、いつか己の辿り着く“答え”を探し求めるのだ。
 1度は辿り着いた“答え”を否定してしまった湊。ユニバースによって世界を守り、けれど自らの死を後悔で締め括ってしまった。
 そんな湊がもう1度ユニバースを、奇跡を求めるのなら、今度こそ決して後悔しない“答え”を見つけ出すしかない。
 見つかるのだろうか。いや、必ず見つけてみせる。
 湊は、決意とともに拳を握った。



[18189] ●第五回● 4月21日~タルタロス初探索~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/06/05 21:00

 湊は夢現の中、ふと右手がひやりとした感触に包まれたのに気付いた。
 昨夜は誰もいないはずなのに周囲が騒がしいような気がして、よく眠れなかった。その分今日は早めに就寝したのに、やはり空気にノイズが混ざっているような感覚に付き纏われ、僅かな刺激にも目が覚めてしまう。
 けれど今右手に感じる冷たさは、不快ではない。どころか、気持ちいいくらいだ。
 昨日からずっと湊を取り巻いていた雑音は、ぴたりと収まっていた。
 そのまま安らかに眠りに落ちようとした湊を、小さな子供の笑い声が引き留める。

「寝ちゃうのかい? せっかく君の話を聞きに来たのになあ」

 つい先日再会したばかりの友の声に、湊は一気に覚醒した。
 頭を上げて声のした方を見やれば、白黒の横縞の服を来た少年がベッドの淵に腰掛けて微笑んでいる。湊の右手は布団から出されて、少年の幼い両手でゆるく握られていた。

「ファルロス……」
「――もう大丈夫かな。これでたぶん、『あいつ』の印は隠せたよ」
「あいつ? …印?」

 ファルロスはそっと湊の右手を放した。
 最初はファルロスが何を言っているのか理解できなかった湊だが、もう1度右手を見てわかった。
 あの、不気味な痣が消えている。

「君にとっては、良くないものだったからね。『あいつ』に色々と邪魔されたし、僕からも、このぐらいの仕返しはしてやらなきゃ」
「邪魔って?」
「君との“契約”を横取りされちゃった。…まあ、最初に気付かなかった僕も間抜けだったんだけどね。あ、でもその後、『あいつ』も別の誰かにさらに横取りされてたよ」

 ……“契約”は、悪徳商法どころの話ではなかったようだ。
 契約した本人に何の了解も得ずに、契約相手が二転三転とはこれいかに。今時、闇金融の取り立てでもざらに有るまい。
 結局今、自分が“契約”している『契約主』というのは誰なのだろう?

「色々と問題ありな気はするけど……とりあえず、ファルロスが犯人じゃなくて、ほっとした」
「? よくわからないけど、僕は不満だよ。だってずっと、君を――君が僕を見つけてくれるのを、待ってたのに。この前だって君が喚んでくれた気がしたのに、外に出ようとしたら『あいつ』に押さえられちゃうしさ」

 ファルロスは彼曰くの『あいつ』とやらが相当気に食わないらしく、あまり湊と会話になっていない。
 湊にしてみれば、『あいつ』も『契約主』と同じく正体不明である。ただこれまでのファルロスの言葉の断片から、『契約主』とは逆に、湊に何らかの不利益をもたらす相手だろうと推察された。人の右手に勝手に妙な痣を刻んでいった事もだが、屋上で湊がピクシーを発動したにも拘らずタナトスファルロスが現れなかったのは、こいつのせいだったらしい。
 湊がさらに質問すべきかと逡巡していると、ファルロスはやがて思い出したようにぽんと手を叩いた。

「あっ――こんな事を言うために来たんじゃないんだよ。本当は最初に言った通り、君の話を聞くっていう、前の約束を果たすつもりだったんだけど」
「うん」
「印を隠すのに、随分疲れちゃったみたいだ。今日はもう、ちゃんと話せるだけの時間が無いんだ。約束は、次の機会に持ち越しでいいかい?」
「構わないよ。おれの方こそ、グースカ眠りこけててごめん」

 湊は少し申し訳なくなった。ファルロスはちゃんと、前に約束した事を覚えていてくれたのに、自分は今夜ファルロスが来るという事を忘れていたのだから。たとえ根拠が、一年前の記憶であるとしても。
 そんな湊の思いなどよそに、ファルロスは笑顔に戻り「ならよかった」とベッドから立ち上がった。

「昨日から君の周りで騒いでたの、『あいつ』の印に惹かれて来たやつらだよ。でも今いたやつは蹴散らしてやったし、印を隠しちゃったから明日からは来ないと思うけどね」
「ありがとう、ファルロス」
「あははっ。お礼言われちゃったな。どういたしまして…って言うんだよね? …本当に、話したい事はいっぱいあるのに。残念だけど、今日はこれでお別れだ。また会おう」
「うん。またね」

 湊がゆるゆると軽く手を振って見送るのに、ファルロスも真似するように1度手を振り返してくれた。そうして、その場で闇に溶けるようにして姿を消した。
 もちろん、今の湊はファルロスがここから「消えた」のではないとわかっている。ファルロスは湊を器として封じられている、“デス”の最後の欠片なのだ。だから姿が見えなくなっても、実際は湊と常に共にある。
 11月の満月の翌日、彼が封印から解き放たれて、湊に別れを告げるまでは。

「……でも、もしも君が、おれから去らなかったとしたら」

 口にしたのは、昨日の決意を現実にするために考えた方法の1つだった。
 自分が死なず、世界も守られる結末。そんな都合の良い未来を、どうにかして実現できないか。

 世界を守って死んだ自分の後悔は、美鶴と共に生きてゆけなかった事だ。その後悔を解消しないままでは、新たな“答え”を見出す事はできないだろう。つまり、ユニバースは得られない。
 期せずして手にしたこの2度目の生では、美鶴を残して死ぬ事はすまいと決めている。もちろん、だったら美鶴も一緒に死ねばいいなどというのは論外だ。無理心中など、冗談でもごめんである。
 だから求めるべきは、自分の命を使わない、滅びの回避の手段。だがニュクスを封印するには命を捧げなくてはならない。しかし自分の死を前提とした場合、後悔が残ったままのせいでユニバース自体が得られない……堂々巡りだ。

 そこで思いついた事。
 ――だったら、ニュクスを呼ばせなければいいんじゃないのか?
 ニュクスを呼ぶのは“宣告者”だ。“宣告者”は己の役目に覚醒した“デス”であり、望月綾時、つまりファルロスだ。
 ならば“デス”を欠片のまま封印しておければ、ファルロスをずっと自分の中に封印したままでいられれば、ニュクスは呼ばれない。

 ただし、この方法にはまだ穴が多すぎる。
 まず、ニュクスが呼ばれない、ニュクスが封印されないという事は、結果として影時間が消える事もない、という問題だ。
 湊自身は、別に影時間が有ろうが無かろうが気にならない。しかし湊の愛する人、美鶴は違う。今の彼女にとって最も大切なのは父親であり、父親の望みである影時間の消失を叶える事である。美鶴の存在を第一に考えている湊としては、自分が生き残れたとしても、彼女の心が曇ったままでは意味が無いのだ。
 他にも、封印の手段そのものが無いのではないかという懸念がある。
 自分がこの街へ戻って来た時点で、既に封印はほころび始めている。封印から漏れ出したファルロスの気配が、残る“デス”の欠片たる満月シャドウを呼び起こしているのだ。
 封印を上からさらに掛けなおすという事が可能なのかわからないし、実際に封印を行えたのは10年前のアイギスだけだ。今現在屋久島で休眠しているアイギスに、封印のための機構が残っているのかは不明である。何せ、10年間アイギスを管理していたのは、あの幾月なのだから。

 そしてもう1つ。これは問題と言うよりは、湊自身の良心の呵責と言うべきか。
 この方法は、封印される本人である、ファルロスの意思を無視している。
 湊はファルロスを、無二の友と思っている。たとえその正体が人間ではなく、いずれ自らに災い為すものであるとしても。今の彼が、『かつて』絆を育んだ彼とは、同一にして異なる相手だとしても。実際に顔を合わせて話せた期間は僅かでも、心の中という誰よりも近い場所で、10年ともに過ごした存在だ。もはや兄弟と言っても過言ではないと考えている。
 そんな友を、自分の勝手な思惑で、永遠に自分の中に封じ込める。封印されれば今までの10年同様、彼とは会う事も言葉を交わす事もできなくなるだろう。まだ己の役目を思い出せず、無垢に湊を慕う彼を、何も知らせぬまま闇に葬り去ろうと言うのか。
 先ほど、ずっと自分を待っていたと言ってくれたファルロス。
 自分は彼を、裏切れるのだろうか。己の望みのため、彼を犠牲にする覚悟はあるのだろうか?

 ……結論は、まだ出せない。
 しかしニュクスを呼ばないというのが、湊の考えられる限り最も有望な案である事は確かだ。
 ならば今すべきは、情報を集める事だろう。
 この『かつて』と限りなく似た世界において、自分の知識は本当に全てが有効なのか?
 以前の自分が知り得なかった、物事の裏側。秘匿されたさらなる真実。そういったものは、無いのだろうか。
 手にした情報を読み解き、新たに組み立てる事で、自分の望みに至る術を探し出す。
 心にわだかまる迷いを振り切るのは――それが叶ってからでも遅くない。
 影時間の終わりとともに湊は思考を打ち切り、布団をかぶり直して目を閉じた。


 翌日、4月21日の火曜日。
 ゆかりとともに下校した湊は、“ここだけの話”として盛り上がった内容に、女の子の内緒話というものの残酷さを噛み締めたりしていた。確かに登校初日で順平をうざいという意見に頷いたのは自分だが、あんなものは序の口とばかり、ゆかりが暴露する出るわ出るわの順平ネタ。つい先ほど教室で順平から美鶴への苦手意識を指摘されたのが、よほど癇に障ったらしい。
 こうなると『かつて』の湊がゆかりの機嫌を損ねた時は、どんな言われようをされていたやら……怖いので考えないでおきたい。
 あと、盛り上がったと表現した通り、実は湊の方も結構ひどい事を言っていたりする。本人に自覚は無いが。

 寮へ帰って自室に鞄を置いた後は、下校前に美鶴から通達された通り、4階の作戦室に寮生全員が集合する。ゆかりとは自室を出たところで合流し、美鶴と真田は既に来ていてソファに掛けていた。
 全員が揃ったところで、真田が立ち上がって「じゃ、呼んでくるぞ」と美鶴に言い置き出て行った。
 ゆかりの頭には疑問符が浮かんでいるが、この後の展開を知っている湊は口を噤んだ。
 やがて真田に連れられて入ってきたのは、伊織順平――ついさっきまで、散々話のネタにしていた相手である。ゆかりの口から思わず「げ」という声がもれたのは、幸い彼女の隣にいた湊にしか聞こえなかったようだ。

「テヘヘヘ。どうもっス」
「順平っ!? …なんであんたが、ここに!?」
「2年F組の伊織順平だ。今日からここに住む」

 ゆかりの驚愕への答えは、順平本人ではなく、彼を連れてきた真田から返された。わざと誤解を煽るような言い方をしているわけではないが、真田の言葉は少々説明が足りていない。
 もはや本音駄々漏れで「順平と一つ屋根の下とかありえない…」と顔をしかめるゆかり。順平ネタを煽ってしまった湊としては、今後の円滑な関係の障害にならないよう、ここでフォローしておく事にした。

「順平をどうしてもこの寮に引っ越させなきゃならない、切実な理由があるんじゃないかな。それにちゃんと…わたしたち、とは違う階に住むんだろうし」
「当然だな。女子は3階、男子は2階できっちり分けている。付け加えるなら、他の寮と違って各自の部屋にシャワーとトイレが完備されているのは、こういった寮生の男女混成状態をあらかじめ想定しての事だ」

 湊の言葉を、美鶴が引き継ぐ。ホテルから改装されたための利点だが、この寮の個室には全て、トイレとシャワールームが付属しているのである。生活の中の特にプライベートな部分に関しては、全て自室のみで完結できるように配慮されているという事だ。
 逆に言えば自室を一歩出た瞬間からそこは外と同じ、男女別なく複数の人間が共有する空間。そのあたりのけじめを付けるのは、各自に任されている。
 自分以外の女性陣に揃って擁護されては、ゆかりも不満をひっこめて、ため息に留めるしかなかった。
 ちなみに真田が「それを言うなら俺も男なんだが…」と呟いたのは、誰も気にしていない。

「……はぁ。わかりました、そこはもう諦めるとして…切実な理由ってのの方は、何なんですか?」
「ゆかりッチ、よくぞ聞いてくれました! ふっふっふ~驚くなよ? 実はこのオレ、伊織順平はなんと! ……どうよ、想像付く?」
「で、何なんですか?」
「ちょ、無視しないで! 言うから! 勿体振らずちゃんと話すから!」

 順平を全スルーして、美鶴に直接質問するゆかり。そして慌てる順平。
 このくらいのやり取りならば『かつて』と変わらないため、特に手出しする必要はない。さっきのはゆかりが本気で嫌がってそうな反応だったので、口を挿んだだけだ。
 それにしても、こういった微妙な会話の変化は、やはり自分の性別が異なるゆえであろう。
 端々で目につく、些細な『かつて』との違い。それがやがては取り返しのつかない変化に結び付くのではないか――湊は懸念しつつ、昨夜同じく作戦室で開かれた、事情説明会という名目の会合を思い返した。

 昨夜の湊への事情説明は、寮生全員に加え、幾月が主な説明役となって進められた。
 基本的には『かつて』聞いたのと同じ内容だったので、特に語るべき部分は無い。最初は、あの屋上での空白の記憶を除けば初対面である、真田からの挨拶。そして影時間、シャドウ、ペルソナ、特別課外活動部の活動内容の説明。
 最後に、湊のために用意された召喚器とともに、美鶴から告げられた仲間になってほしいという要請。
 湊はそれを「頑張ります」と即答で受け、皆のほっとしたような顔を順に見回した。
 だが、そこで想定外の事態が起こった。
 湊の『かつて』の記憶では、この場で最初のコミュ――“コミュニティ”が発生したはずだった。
 コミュニティとは、己と他者との関係性、絆の形を、タロットカードの大アルカナと対応させて表すものである。己と他者との関係で生まれる心の仮面ペルソナの成長に、密接に絡んでくる要素だ。ワイルドではなくなった湊にもコミュを作り出せるという事は、イゴールに確認してあるので間違いない。
 ここで発生するはずのコミュは『特別課外活動部』、タロットの0番である愚者に対応するものだった。
 ところが、湊が自らの心の中を探ってみても、この時新たに何かが生まれ出た、という感覚はしなかったのだ。
 原因は全くわからない。固く目を閉じて胸に手をあてた、どこか必死に見える湊の姿は、ゆかりが「大丈夫?」と心配するほどで。
 結局その後すぐに解散して自室に戻ったのだが、何度確かめてみても、湊の心にコミュは形作られていなかった。

 現在に意識を戻すと、順平が新たな適性保持者、ひいてはペルソナ使い候補として、寮に招かれたという話は終わっていた。ちょうど幾月が入ってきて、タルタロスの探索をと言い出したくだりだ。
 湊は昨日と同じように、そっと胸の上に手を置いた。……やはり、コミュが生まれる気配は感じられない。
 小さく息を吐き出した湊を、案じるように横からゆかりが覗き込む。

「…やっぱり、不安?」
「ううん、ちょっとだけ……緊張、してるんだと思う。でも、大丈夫だから」
「はいはいそこの女の子たち! ここにとっても頼りになる男が1人いるのを、忘れてもらっちゃ困るぜー?」
「誰かな、真田先輩? でも先輩も、今あばら折れてるしね」
「折れてない! ちょっと痛めただけだ、この程度なら俺だってタルタロス探索に…」
「…明彦?」
「う…わ、わかってる。睨むな、美鶴」

 ……確かにまあ、纏まりの無い集団ではある。
 だが、これでも『かつて』はコミュを築けていたのだ。なのにどうして、今回はだめなのか?
 疑問と不安を抱えながら、話し合いを終えた湊は自室に戻って夜を待つ。
 タルタロスの探索は、今夜すぐにでもという事になっていた。


 影時間。一日と一日の狭間にあり、適性を持つ者のみが認識できる、隠された時間。
 その訪れとともに、常日頃通い慣れた彼らの学び舎は、姿を変える。
 校舎のあちこちから飛び出した新たな構造物がせり上がり、内側からまた別の壁が現れて、さらに上を目指して伸びてゆく。最終的にその成長が止まった時には、種類の違う巨大な玩具のブロックを積み重ねたような、いびつな“塔”に成り果てた。
 タルタロス――シャドウの巣窟であり、いずれ訪れるニュクスを迎える滅びの塔は、今はただ不気味に佇んでいる。

 変貌した学校の前で、湊たち特別課外活動部の面々はその威容を見上げていた。幾月は、今回もついてこなかった。
 門の中では、昼間はさわさわと風に吹かれていた満開の桜が、闇に白く浮かび上がっている。枝全体がまるで生き物のように大きく揺れて、こちらを誘い込もうと動く様は怖気を抱かせる。
 うろたえる順平に比して、湊があまりに平静すぎたせいか。真田が「何だ、お前は大して驚いてないな有里」と訊いてくる。順平がまたぞろ『かつて』のように対抗意識を燃やしてくると面倒なので、あまり不用意な事を言わないでもらいたい。
 実際、湊も1度目にこの変化を目の当たりにした時は、なかなかに驚かされたものだ。今回落ち着いていたのは、もう飽きるほど見慣れてしまったというだけである。しかしそう正直に答えるわけにもいかないので、湊は適当に茶を濁したのだった。

 校門を抜け、正面の精緻なレリーフの下にある扉を開け放つと、広々としたエントランスに出る。
 道を示すがごとく真っ直ぐに伸びた青い絨毯は階段を上がり、中央の置時計のような構造物の内部へ繋がっていた。置時計の盤面中央に人が通れるだけの入り口があり、その先に青白い光のサークルが浮かび上がっている――迷宮内部へのワープポイントだ。

 さて、と湊は考える。
 湊の目的の達成のためには、『かつて』とは変えるつもりの出来事もあるが、逆に変えてしまってはまずい箇所というものがある。
 たとえば今、探索隊メンバーのリーダーの選出。タルタロス探索のペースや引き上げのタイミング、さらには探索中に得た現金とアイテムの管理までが、ここで決定したリーダーの権限となるのだ。
 自慢になってしまうが、これらを漏れなくこなすのは、湊以外の2人には難しいのではないだろうか。ゆかりは恐らく積極的に戦闘を行おうという意欲に欠けるだろうし、順平では戦闘意欲はあってもその他の雑事を任せるに不安が残る。
 すんなりと湊がリーダーに指名されればいいが、今回は『かつて』と違ってゆかりも屋上でペルソナ発動を成功させている。果たしてどうなるか……。
 話の成り行きを見守っていると、そろそろのようだ。真田が発したリーダーの単語に、順平がすごい勢いで食いついてきた。

「リーダー? それ、つまり探検隊の隊長!? ハイ、ハイハイッ! オレオレッ!!」
「………」

 目を輝かせている順平を一瞥し、真田は湊とゆかりの顔を順に見比べる。迷うように顎に手を添えて、結局美鶴に意見を求めた。

「どう思う、美鶴」
「私としては、有里を推す」
「有里か…そうだな。だが、あの強烈なペルソナは今は使えないんだろう? その前の、小さな妖精のようなペルソナでは、少し力不足のような気もするが…」
「ちょ、センパイたちまで! オレを華麗にスルーすんのやめて!!」
「順平、あんたまだペルソナ召喚できてないでしょ? 実戦でいきなりだよ、できんの?」
「だって、ゆかりッチも公子ッチも女の子っしょ!? てか、ゆかりッチはともかく、公子ッチはマジ戦いとか無縁そうってか…」
「ふーん。私はともかくって、どーいう意味かなぁ~」

 ゆかりが何とも言えない笑顔で順平を追求するのを横目に、真田と美鶴の間では結論が出たようだ。
 面白がるような真田の表情に、あまり良くない予感がする。

「よし。この際だ、岳羽と有里の2人に、交代でリーダーをやってみてもらう。それでうまくできた方が、正式なリーダーで決まりだ」
「オレは!? 何でそこに、オレの名前が入ってないんスか!」
「お前がちゃんとペルソナを使えたら、途中でやらせてみてもいいぞ。伊織」
「さっすが桐条センパイ、そう来なくっちゃ!」

 順平がとっても張り切っている……。これは、よく見ていてやらないと危険そうだ。
 湊はゆかりと顔を見合わせた。どちらとも困惑が滲み出ているが、ゆかりが先に口を開く。

「じゃあ…とりあえず、私から先にやってみるって事でいいかな」
「うん。よろしくね、ゆかり」
「できる限り頑張るよ。公子に怪我なんてさせないから、安心して」

 そう言って気合を入れるゆかりは、何だか妙に頼もしい。準備はいいかと問う真田に、しっかりと答え返している。
 最後に湊は、エントランスの片隅に佇む青い扉を見やった。あれがベルベットルームへの入り口である事は既に知っているし、この時点でどうしても入らなければいけない理由も無い。自分にしか見えないそれにこだわって皆の不審を買うよりは、次の放課後にでもポロニアンモールにある入り口の方から訪ねればいいだろう。
 階段を上がってワープポイントに踏み込んだ湊たち3人を、一瞬の浮遊感が包み込む――。


《――聞こえるか? 各自に渡したインカムは、正常に機能していると思うが》

 耳元から僅かなノイズ混じりに、美鶴の涼やかな声が流れてくる。
 懐かしいものだ。風花が加入するまでは、本来ナビゲート能力を持たない美鶴のペルソナで、機械の補助を受けながら通信していた。
 目を開いて周囲を見回すと、ちゃんと3人全員、はぐれずにその場に立っていた。代表して暫定リーダーであるゆかりが、美鶴に状況を報告している。

「通信正常です。全員、無事に最初のフロアと思われる場所に移動できました」
《結構。では、これより探索開始とする。こちらからは、音声でしか君たちの状況は確認できない。現場で咄嗟の判断を下すのは、リーダーである君だ。…やれるな、岳羽》
「はい。今度こそ、ちゃんとできます」

 はっきりと断言して会話を切ると、ゆかりは湊と順平に、自分の後についてくるように言った。
 湊は自分の武器である模造薙刀を下に向けて持ち、小走りに通路を行くゆかりの背を追った。順平は今のところ、さしたる不満も漏らさず指示に従っている。それよりもヒーローのように敵と戦う想像で、頭がいっぱいのようだ。
 ゆかりは毅然と前だけを見つめているが、その張り詰めた姿勢は湊の目に少し危うく映った。今度こそ、と言う彼女の言葉は、屋上で己のペルソナが満月シャドウに全く通用しなかった事への恐れを、引きずっているからではないか?
 そうこうするうち、通路の角から次の小部屋を覗き込むゆかりの動きが止まった。片手で湊たちを制し、じっと奥を窺う。

「……いた。数は少ないけど、シャドウ。見える限り、2体かな。まだこっちに気付いてない」
「奇襲できれば、こっちが有利だよ。いけそう?」
「えー。奇襲とか、カッコ悪くね? ここはやっぱヒーローらしく、正々堂々…」
「順平は黙ってて」
「……ゆかりッチさ、今日特にオレに対して酷くね? 酷いよね?」

 何か順平が凹んでいるが、猪のように猛然と敵に考え無しに突っ込むよりはましかもしれない。
 とはいえあまりに士気が下がっても問題なので、それとなくフォローする湊である。

「ゆかりはリーダーとして、わたしたちがいかに安全に、効率良く勝てるか、考えてくれてるんだと思う」
「リーダーとして、ねぇ…そりゃ、今のところのリーダーはゆかりッチだけどさ」
「ほら、敵があっちを向いた。仕掛けるなら、いいタイミングだよ?」
「うん、公子。順平も、…行くよ!」

 その場から走り出て、一直線にシャドウへと襲い掛かる。
 ゆかりなら弓でまず一撃入れてから、という戦法も使えたのだが、さすがに初めてのリーダー体験でそこまでは求められない。結局は接敵の直前で相手に気付かれ、奇襲とはならなかったが、シャドウ2体を全員で包囲するという有利なポジションを取る事ができた。
 本番はここからだ。ゆかりが指示を出す前に、順平が威勢も良く飛び出した。

「いっくぜー! オラオラオラッ!」
「ちょっと順平! あんたはまず――」

 ゆかりが何か言おうとするが、1度ついた勢いは止められない。
 順平はそのまま、大上段に振りかぶった模造刀を、シャドウの頭上へと叩きつける。振り下ろす際に重心がぶれたのか、僅かに目測を外れた刀は、しかしシャドウの体力の大部分を削り取ったようだ。
 仮面にひびを入れられたシャドウが、人とも獣ともつかぬ苦悶の声を上げた。

「まずペルソナを出せるか確かめろって言いたかったのに……ああもう!」
「ゆかり! 指示を!」
「公子は今のやつに追撃! とどめお願い!」
「わかった!」

 妥当な判断だ。1体ずつ確実に敵の数を減らせば、それだけこちらが攻撃を受ける事も少なくなる。
 湊の今のペルソナは、力の値が低いピクシーである。それに比例して、湊自身の武器による直接攻撃力も弱いが、あそこまで削った相手を仕留め損なうほどではない。
 苦痛にうねうねとその影のような身体をくねらせているシャドウへ、湊の模造薙刀による切り上げが決まる。今度は綺麗に仮面を真っ二つにされたシャドウは、暗い靄となって消え去った。
 残すは、1体。
 ゆかりが自らの額に召喚器を突きつける。発砲音とともに頭上に現れる、ゆかりのペルソナ――イオ。
 彼女の手がシャドウに向けてかざされ、だがそこで何故か、…一瞬の、躊躇があった。それはこの場で、敵に利するものでしかない。

「――ガル!」

 その僅かな隙に、シャドウはゆかりが放つ魔法の射線上から逃れていた。本来目標に当たると同時に弾けて複数の風の刃となるはずだった疾風は、何の手ごたえもなく真っ直ぐに壁へと吹き抜けてしまった。
 魔法が外れるとは思わずに呆然としているゆかりへ、シャドウが反撃の爪を伸ばす。ゆかりは、無防備だ。この状態でまともに攻撃をくらえば、大怪我になる。

「ゆかり!」
「えっ、公子――」

 湊はシャドウの攻撃が届く前に、ゆかりの身体を抱きかかえるようにして、一緒に横へ跳んだ。
 1体目のシャドウを屠った後、ゆかりに近い位置に移動していたのが功を奏したようだ。間一髪でシャドウの爪を逃れ、床に倒れはしたものの傷は無い。

「公子…ごめん、私……やっぱり、屋上のあいつに魔法が効かなかった事…」
「うん…わかってる。無理しないでって言いたいけど、今はだめだね。けど、リーダーの仕事は直接敵を倒すだけじゃないんだよ?」

 安心させるように軽く微笑みかけて、ゆかりを残し立ち上がる湊。
 空振りから体勢を立て直したシャドウも、すぐにこちらへまた仕掛けてくる。今度の攻撃は、湊が薙刀の柄で受け防御した。
 ピクシーは耐の値も高くなく、そう何度も受けていては腕が痺れてしまう。しかし背後にはまだ座り込んでいるゆかりがいるのだ。

「ゆかり、立って。順平に指示を」
「あ、そ、そっか。順平――」
「言われなくても、真打登場だぜ!」

 シャドウと鍔迫り合いしつつ、湊は僅かに視線を流して声の方向を見る。
 数メートル離れた場所で、順平がやや緊張した面持ちで召喚器をこめかみに押し当てていた。目を見開いたまま引かれた引き金、乾いた破砕音。順平の頭から溢れ出た光の粒子が、機械的な翼を備えた人型を形作る。
 人型が、頭をこちらへ向けて前傾体勢を取った。
 これは、まずい。湊は意図的に薙刀に込めた力を抜くと、自分が身体を捻る事でシャドウのこちらへの圧力を横へ受け流した。そのまま、急いでバックステップで離脱。
 直後、湊とシャドウがいたあたり――今はシャドウのみがいる位置へ、戦闘機のような姿勢とスピードで、順平のペルソナが突っ込んできた。鋭角的な兜や翼の先が、刃となってシャドウを切り裂く。順平のペルソナの最初のスキル、“スラッシュ”だ。
 不意をつかれての攻撃に、シャドウは防御する間もなく一撃で消滅した。
 だが、今のタイミングはあまりにも際どすぎる。湊が順平の動向に注意していなければ、あるいはわかっていても、『本当に』戦闘の素人で離脱が間に合わなかったとしたら……。


《――この馬鹿!! あんた、何考えてんの!? 今の、公子巻き込むつもりだったの!?》
《な、馬鹿はないだろ!? せっかくオレの活躍で、公子ッチ助けてシャドウ倒したってのに! つかゆかりッチ、さっきからオレのする事全部気にくわねーみたいじゃん!》

 エントランスに響くノイズ混じりの叫び声に、美鶴は通信機を耳元から離して眉を寄せた。
 状況を確認したいところだが、リーダーを任せたゆかりは怒り狂っていて話になりそうにない。ゆかりに言い返している順平も、似たような状態だ。
 その上今のゆかりの言葉に、待機している真田までが「巻き込んだだと!」と気色ばむ様子を見せている。
 美鶴はため息を落とし、残った1人へと直接通信を繋いだ。

「有里? とにかく、全員無事だな?」
《はい。みんな特に怪我はありませんし、シャドウは殲滅し終わっています》
「そうか。すぐに戻って来いと言ってやりたいが、あいにく迷宮から帰還する方法は、フロアのどこかにある脱出用ワープポイントを使うしかないんだ。もう何戦か、してもらう事になると思う」
《覚悟はしています。わたしもできるだけ、2人のフォローに回ります》
「すまんな」

 美鶴は有里公子への通信を終え、こっち側の問題児に目を移す。
 隠し持っていたらしい武器、ブラスナックルを両手にはめて、いそいそと迷宮入り口へ続く階段を上がっているところだ。

「そのかさばるグローブをどこから出したのか気になるが……明彦? お前は何をしようとしている?」
「俺が救援に向かう! 俺は強くなったんだ…あの時とは違う、今度こそ――」
「痛めたあばらを抱えて、たった1人でか? ワープ先は常にランダムに変化するんだぞ、彼女たちの元へ辿り着くまでにシャドウに出くわし、逆にお前が助けの必要な状態になるのが関の山だと思うがな」
「お前こそどうしてそんなに落ち着いていられるんだ! お前にとっては、あいつらもシンジも、ただの…」
「………」
「――! …すまん美鶴。言い過ぎた……」

 美鶴に向けられた強い視線が、微かな戸惑いの後、気まずそうに逸らされた。だが未だに救援に行くという意思は折れていないようで、真田はその場に武器を装備したまま立ち尽くしている。
 美鶴は手元の機器を操作し、こちらから現場への音声をカットする。
 そしてなだめるように、真田の激昂した理由を解きほぐしてゆく。

「巻き込んだ、とは言っていない。危うく巻き込みそうだった、というだけだ」
「似たようなものだろう。この先も同じ事があって、今度こそ順平がペルソナで他の2人を傷付けるような事態になったら……そうなる前に、俺が止めてやるべきなんだ」
「確かに伊織の、力に酔っているような有様は、あの頃の荒垣を髣髴とさせなくもないがな」

 結局のところ、真田の泣き所は、彼の幼馴染である男に関する事なのだ。
 荒垣真次郎。美鶴たちとともに特別課外活動部に属していたが、2年前の“事故”により心に深いトラウマを抱えた彼は、そのまま姿を消した。寮どころか元いた児童養護施設にも戻らず、しかし時折目撃報告を耳にするので、少なくとも生きてこの街のどこかに居を構えてはいるのだろう。
 真田も、偶然会う事はあっても、住居を突き止めたりといった深追いはしていないようだ。あの時事故現場で、慟哭する彼に対して何も言えなかった自分たちが、いまさら口を出せるかという思いがあるのかもしれない。
 荒垣を襲った悲劇が、真田をより『強さ』の追求に急き立てているのは間違いない。もともと妹の事もあり、自らの内に入れた存在は自らの手で守らなければ気が済まない性質だ。
 あの時自分がもっと強ければ荒垣を止めてやれた――その考えが今、有里公子を己のペルソナの攻撃に巻き込みかけた順平を、ペルソナで一般人を殺してしまった荒垣に重ねさせている。

「だがな、明彦。あの時と今では、状況が違う。伊織は荒垣じゃない……彼に荒垣のような、力への病的な渇望というものは無いし、いずれ落ち着くだろう。それに万一傷付いても、有里と岳羽のペルソナはどちらも回復魔法が使える。大事に至る可能性は低いと思う」
「…しかし」
「やれやれ。今のお前よりは、まだしも現場の有里の方が落ち着いているぞ?」
「………。随分と、有里を買っているんだな」
「フフ。女の勘とか言うやつさ」
「は?」

 美鶴の口から出るのが似合わぬ単語に、真田が目を剥いたのを面白く眺める。
 もう真田が単騎突貫する心配も無さそうだ。
 再び機器を操作しながら、ふと湧き上がった思いが呟きとしてこぼれ落ちる。真田には聞こえないそれには、自嘲の念が満ちていた。

「……彼女らも荒垣も、ただの――か。そうかもな…所詮私は、自分の望みが第一なんだ。そのくせ完全に切り捨てる覚悟も持てない……とんだ偽善者だよ」

 ほんの数秒瞑目し、それで美鶴は完全に気分を切り替えた。
 手元のスイッチを入れ直す。現場の騒乱は既に収まっているようだ。

「……岳羽? 話は付いたのか?」
《あ、桐条先輩。とりあえず、次の戦闘は順平がリーダーやるって事で決まりました》
《大船に乗ったつもりで、どーんとまっかせなさいっての!》
「どういう成り行きでそうなったのか疑問なんだが……有里?」
《はあ。わたしもよくわからないんですが、いつの間にか険悪な雰囲気から、ただの意地の張り合いになってました》
「…伊織がリーダーというのは?」
《約束したじゃないッスかセンパイ! オレがペルソナ出せたらリーダーやらせてやるって!》
《やらせて「みても」いい、だけどね》

 ゆかりのツッコミにも動じず、すっかりその気になっているらしい順平。これはもうこちらから何を言っても聞くまい。
 何かあっても、先ほど美鶴が自身で言った通り、回復スキル持ちが2人いる。どうにかなるだろう。

 美鶴はそれから、また集中して音声を拾う作業に戻った。戦闘に入ると、シャドウの声らしきものがノイズとなって、通常よりも通信が聞き取りづらくなるのだ。
 順平のリーダーぶりはと言うと、やはり猪突猛進の気が否めない。ほかの2人がどちらも女子で自分だけが男という事実が、余計に色々と彼を煽っているようだ。

《見よ! 男・伊織順平の大活躍!》
《――って、転んでんじゃないこのカッコつけ!》
《ゆかり、あっちはわたしが引き付ける! 順平の回復お願い!》

 どうやら順平が目立とうとして派手にスリップし、あわや敵の集中攻撃を受けそうな状況らしい。
 武器をしまった真田が、こめかみを揉みつつ「……あのバカ」と嘆息した。
 美鶴としても、これなら最初から、有里公子を正式なリーダーに据えておいた方がよかった気がしてきた。何せさっきから、指示を出すというリーダーの役割をしているのが彼女ばかりである。でしゃばるつもりは無いのだろうが、暫定リーダーであるはずの順平が、1人で空回りしていては仕方があるまい。
 ただ1つ怪我の功名というか、良かった部分もあるにはある。先の戦闘では何か迷いがあったらしいゆかりが、この混乱した戦況では余計な事を考える暇も無く、しっかりとペルソナを扱えていた点だ。これなら、この先もう彼女が攻撃を躊躇する事は無いだろう。

 やがて戦闘が終了したようだが、ゆかりをリーダーとしていたさっきより、さらに疲労は濃いのだろう。各自が息を整える気配があり、それから一瞬の沈黙。この後訪れるものは予想がつく。美鶴は通信機器を耳から遠ざけた。

《――だから、何であんたは人の話を聞かないわけ!?》
《だって今回はオレがリーダーじゃん! そっちがオレの指示聞く側!》

 真田が顔をしかめたので、スピーカーのボリュームもやや落とした。
 喧々囂々と言い合う2人を置いておき、美鶴はまた有里公子に報告を求める。

「有里?」
《殲滅終了してます。軽く見回った限り、この周辺にはもうシャドウの気配は無いです》
「それは良い報せだ。では、あとしばらくは岳羽と伊織が叫んでいても、敵襲を受ける心配は無いという事だな」
《それはそうなんですが……》
「うん? どうした」
《……その前に、もうわたしが限界です。すみませんが先輩、音量絞っておいてください》

 おや、と美鶴は首を傾げた。そして有里公子の言葉通り、自分のインカムを耳から外して首に引っ掛けた。
 これは意外な展開になった。美鶴がこれまで見てきた限り、有里公子は何事にも冷静で、激しない性質だったので。その彼女の声が、今は噴火直前の火山のように、低くくぐもって感情を抑え込んでいる。
 美鶴は少し考えて、音量を調整しつつ暫しの間は聞き手に徹する事にした。
 次の瞬間。

《――いい加減にして!! ゆかりも順平も! …わたしたち、“チーム”でしょ!?》


 目の前には、互いに相手を罵ろうとしていた口をぽかんと開けたまま、呆然とこちらを見ている2人がいる。
 湊が腹の底から振り絞った叫びは、場の主導権を完全に奪う事に成功した。しかしその程度の結果は、もうどうでもよかった。
 既に湊には何の計算も無い。積もり積もった苛立ちが、湊から思考の余裕を奪っていた。

 どうしてこの2人は、命の懸かってる戦場でこんなくだらない真似ばかりしているんだ?
 何でこんなに仲が悪いんだ? 『前』はこんな事は無かったはずなのに。『前』は初戦闘だというのを差し引いても、もっとスムーズに連携が取れていたのに。
 自分のせいか? 自分が何か余計な事をしたせいだろうか?

 怒鳴られるとは思っていなかったのか、ゆかりは叱られるのを怖がる子供のようにびくびくとした態度で言い訳を始める。
 その彼女の言葉を遮って、事実をオブラートに包む事なく突きつけた。

「き…公子、……ごめん、でも」
「ゆかり。ゆかりに余裕が無いの、たぶんわたしのせいもあるよね。それはごめん。だけど、だからってその八つ当たりまで順平に向けちゃだめだよ」
「八つ当たりって…別に、私…!」
「違う?」

 重ねて問えば、ゆかりは何も反論できずに目をそらした。
 それを横に見て俄然機嫌を良くした順平が「そうそう!」と何度も頷くのに、お前もだとばかりに厳しい視線を向ける湊。

「順平はもっと悪い。どうして何でもかんでもカッコつけて、1人で突っ走ろうとするの? それで失敗したら、みんなが危険になるんだよ? 最初に順平が使ったペルソナのスキル、避けるの間に合わなかったら、わたしも大怪我してたかもしれないんだよ」
「――っでも結局避けれたじゃんか! あれだよ、ほら……オレってリーダーの器だから! 公子ッチなら避けるってくらい、最初からわかってたんだなー、これが!」
「別に1回や2回の失敗ならわたしだってこんな怒らないよ、順平は今日初めてだもん。だけどリーダーだって言うなら、仲間の状態は最優先で把握してなきゃいけないんじゃないの?」

 冗談でかわそうとしてきても、誤魔化されてなんかやらない。
 リーダーという役目が何を求められるのか、順平はそれすら理解できていないのだから。最低条件もクリアできていないのに、あくまでもリーダーは己だと言い張るのなら、その調子に乗った鼻をへし折るだけだ。

「順平が何度も変なポーズ決めるために足元滑らせて転んで、その度に順平に追撃がいかないように敵の注意引きつけたり、前に立って盾になったりしてたわたしとゆかりの事、ちゃんと見えてた? 見るつもりは、あった?」
「変なポーズとか言うなよ! オレの必殺技が成功すれば、それくらい一気に逆転できるって!」
「そうやってオレがオレがって、結局ただ自分が目立ちたいだけだったんじゃないの?」

 湊が呆れすら含んだ声でそう言い捨てると、ここまでかろうじて湊に対しては取り繕っていたらしい順平も爆発した。
 くわっと眉を吊り上げ、唾が飛ぶ勢いで怒気を撒き散らす。

「! オマエこそ、オレが苦労して削った敵のとどめだけ持っていっただろ!」
「チームの中で誰が1番とかとどめを刺したとか、そんなのどうでもいいよ。やれる人がやればいい」
「オレにとってはどうでもよくねえよ!!」

 興奮のあまり、手にしていた模造刀を力一杯床に振り下ろす順平。あの勢いでは刀身自体が歪んだのではなかろうか。
 男の本気の怒りというのは、女性の多くにとっては恐ろしいものだ。順平の初めて見る一面に、ゆかりが小さく「ひっ」と声をもらして怯んだ。
 だが、その怒りを向けられている当人たる湊は微動だにしない。
 当然である。湊は男だし、順平のこの程度の癇癪は予想の範疇だ。綾時から真実を知らされた後の、お前のせいじゃんか、と言われた時の衝撃に比べればぬるい方だろう。
 怖くなどないし、こんなところでいつまでも躓いているわけにはいかないのだ。
 なのに、それなのにどうして、

「……何で、わかってくれないの? 遊びじゃないんだよ? 負けたら、ほんとに死ぬかもしれないのに……」

 声が揺れる。それがどんな感情によるものなのか、頭の中がぐちゃぐちゃでわからない。
 こんなのもう嫌だ。自分が知る『仲間たち』は、こんな分からず屋じゃなかった。それぞれに問題を抱えてはいても、最低限守るべき一線は心得ていたはずなのに。

「こんなの、仲間じゃない……」

 静まり返ったフロアでは、ごく小さな呟きですらも明瞭に各人の耳に届いた。そしてそれが、決定的な一言だった。
 ゆかりは無言のまま項垂れ、順平が役者のように大袈裟な身振りを伴って空々しく答える。

「ああそうかよ。ならちょうどいいじゃねーか。こっからはそれぞれ自分だけでやろうぜ?」
《――おい、馬鹿を言うな順平!》

 通信機から聞こえてきたのは、美鶴ではなく真田の声だ。ここまでエントランスで黙って聞いていたが、あまりの雲行きの怪しさに口を挟まずにいられなくなったようだ。逆に美鶴は、この状況に至っても静観したままでいる。
 順平と真田の口論が始まった。
 一方で湊は、自分で言ったはずの言葉に酷く衝撃を受けていた。

 こんなやつら自分の仲間じゃないと突き放した。これは『自分の知る仲間たち』ではないと。
 ――じゃあ、『自分の知る仲間たち』は、どこにいるんだろう?

「あ……」

 行き着いた解答に、湊はびくりと身体を跳ねさせた。
 ……答えは、この世界のどこにもいない、だ。
 自分はこの世界を『かつて』の過去と同等と考え、物事は『かつて』と同じように進むものと思っていた。多少の差異はあれど、根幹の部分で変化する事はなく、今目の前に在るのも『かつて』の仲間たちの過去の記録みたいなものだと。
 だが今自分が対峙している者たちは、その過去の記憶を裏切って、まるで違う方向へと勝手気ままに進んでいる。そしてそうなるきっかけを作ったのは、元を辿れば恐らく、この世界にとって異物である自分の行動なのだ。

 自分のせいで、『自分の知る仲間たち』を消してしまった。その認識は、湊に酷い恐慌をもたらした。
 かたかたと、身体が震えて止まらない。薙刀が手から滑り落ちて、模造品らしい軽い音をたてて床に転がった。自分で自分を抱き締めるように両の二の腕を掴み、僅かに背を丸める。
 そんな湊の異常に気が付いたのか、まだ怖々といった調子だが、ゆかりが様子を窺ってくる。

「……公子…? ねえ、どうしたの…」

 少し下から覗きこむように湊の表情を確かめて、ゆかりは突然「公子!?」と悲鳴のような声を上げた。
 湊がどうしてそんな声を出すんだろうとゆかりを見れば、あまりに痛ましげな視線を向けてくるのが不思議であった。
 ゆかりの声の高さに、真田と水掛け論を繰り返していた順平も湊に注目する。そうして、順平までがぎょっと目を見開いて一歩後じさりしたのがわかった。
 直前まで激情に歪んでいた順平の顔が、困惑と焦りでどんどん情けなくほころんでいく。

「……ちょっ…おま、ここでそれは卑怯だろ!? 女の子の涙とかさぁ、最終兵器じゃんそれ!」

 湊は言われて初めて気付いた。何だかやたらに目が熱い。

「なっ…!? 泣いてない、泣いてなんか…!」
「泣いてんじゃん、ほらぁ! ……あーあーもう、オレが悪かったって! それでいいっしょ? もうこの話終わり! な?」
「…公子」

 怒りも苛立ちもどこへやら、バツが悪いといった態度で帽子をいじりだす順平。
 順平だけではない。ゆかりも、先ほどまでの怯えの影を振り切って、真剣な眼差しで湊の前に立つ。二の腕に指が食い込むほど強く掴んでいた湊の両手をそれぞれ外させて、自分の手で包み込んだ。

「あのさ。公子の言う事――その通りだなって思う。公子に言われて気付いたの。確かに私、最初は自分で勝手に悩んでたの棚上げして、順平に八つ当たりしてるとこあった。もちろん順平はもっと悪いけど」
「え、そこ普通はお互い様って言うとこじゃね!?」
《お前はちょっと黙ってろ順平》
「こんなの仲間じゃない。ほんと、そうだよね。私たちみんなバラバラだもん。今はまだ、仲間じゃない。……でも、これから仲間になっていけないかな。気付いた今から、ちゃんともう1回始められないかな」

 その言葉は、『かつて』を探し求める頑なな湊の心にひびを入れた。
 これから仲間になる。もう1回始める……。
 ――ああ、そうだ。自分はまだ何も、始めてすらいなかったのだ。
 自分は結局、何も見えていなかった。過去の記憶だけを唯一の正解と決めつけて、現実がそうあるべきだと思い込み、そこにあるものが自分の記憶通りでなければ理不尽に怒りを感じて。目の前にいる、彼女ら自身を見ようとはしていなかった。

「そう、そうなんだ……消えてなんて、なかった」
「え?」

 そうだ。彼女らは初めから、ちゃんとそこにいた。
 自分がみんなを消してしまった? 酷い傲慢だ。彼女らは彼女らであり、岳羽ゆかり、伊織順平、真田明彦、桐条美鶴、――それぞれに自らの意思を持って生きている1人1人の人間だ。湊の行動によって変化する部分まで含めて、彼女らという人間の個性なのだ。
 過去という型枠にはまらないから、『かつて』と違うから彼女らは仲間じゃない、というのは間違いだ。
 自分が今の彼女らを見ていなかったから、自分こそが彼女らの仲間になれなかったのだ。

「ごめん。ごめん、ゆかり……わたし、…見えてなかったの、わたしの方だった」
「どうして? 私が自分で気付いてなかった事を公子はわかってたし、順平だって図星つかれたからあんな逆ギレしたんだよ」
「違う。わたしが、わたしが見てたのは――」

 懺悔する罪人のごとくそのまま先を口にしようとして、だが辛うじて飲み込んだ。湧き上がる感情はとどまる所を知らず、身体を興奮状態へ引きずっていく。はっ、はっ、と自分の吐き出す息の音がうるさい。
 言えるわけがない。過去に未来にパラレルワールド、そんな話を大真面目に語り出せば、いくら何でも引かれて終わりだ。
 けれど今真摯に自分を見つめてくるゆかりに、本当の事を伝えたいという強い欲求がある。
 事実をありのままに話す事ができないのなら――ならばせめて、今自分が感じている、この心からの感情を言葉として。
 潤んだ瞳に映るゆかりは、じっと湊の言葉を待って微笑んでいる。
 湊は浅く速い呼吸を落ち着かせる間も無く、頭で考える前にぽろぽろとこぼれ落ちてくる単語を必死に繋ぎ合わせた。

「わたし…わたしっ、死にたくない」
「うん。私もだよ」
「ゆかりも、順平にも、死んでほしくない!」
「…うん。私も、公子に生きててほしい」

 静かに頷くゆかりの声には、母性のようなものすら感じられて。
 こんな岳羽ゆかりの姿は、知らなかった。自分が『かつて』見てきた彼女の顔は、お愛想を除けば葛藤と悲しみが多かった気がする。
 けれど、これも確かに彼女の一面なのだ。湊が変化した事で、ゆかりが湊に見せる顔もまた変化した。
 ゆかりが屋上で“魔術師”のシャドウから庇ってくれた事を、どうせここで彼女が死ぬはずがないなどと、冷めた目で観察するだけだった自分は何と愚かだったのだろう? 『自分の知る仲間たち』という記号ではない彼女が、あの時湊を助けるために恐怖をねじ伏せ、どれほど勇気を振り絞ってくれた事か。

 ああ、まだ遅くはないだろうか? こんな自分でも、まだ皆は受け入れてくれるだろうか。
 いよいよ目蓋を決壊して、頬を流れゆく涙。ゆかりが放した湊の両手はすっかり強張りもとれていて、その手でごしごしと目を擦ると「こら、こすっちゃダメだったら」とたしなめるように言われた。
 少しはましになった視界にまっすぐとゆかりを捉えて、もつれる舌を何とか動かす。

「……わたし、ゆかりと。…みんなと、仲間になれる?」
「もちろんだよ。ね? 順平も」
「お、おう。ここで無理とか言うほど空気読めなくないぜオレ」
《俺はとっくに認めてたんだがな。お前の準備が今ようやく整ったっていうなら、それでいいさ》

 この場の2人だけでなく、通信機の向こう側からも、軽やかな応えが返ってきた。
 残すは、湊が一番声を聞きたい人。耳を澄ませれば、僅かなノイズと笑み混じりの吐息の気配。

《やれやれ。私は昨日言ったはずだぞ有里? ――君が必要だ。今度こそ、ちゃんと聞いていただろうな?》
「…はいっ! もう2度と、忘れません!」
《フフ、その調子なら大丈夫そうだ。ではそろそろ探索を再開してもらおう。最後は君がやれ有里。次の戦闘が終わったら、私と明彦で誰が正式なリーダーとして相応しいか判断しよう》

 はい、と湊はもう1度はっきりと返事をして。
 ゆかりを見る。ぐっと拳を握って、不敵に笑って返してくれた。
 順平を振り向く。戸惑いを残したまま立ち尽くす彼へと、晴れ晴れとした心で告げる。

「わたしの事、泣いたりして、頼りないって思うかもしれない。でも、信じてみてほしい。みんなで生き残って、勝って帰れるように、精一杯やるよ。それでだめだって思ったら、戦いの後で言ってくれて構わないから」
「うっ。いや、まあ…」
「……お願い。順平」

 女言葉にも慣れたものと思っていたが、こういう一対一の状況で言う「お願い」は未だに微妙に気恥ずかしい。泣いたり怒ったりと散々なところを見せておいて今さらだが、また少し頬が熱くなった。そういう自分の状態を自覚していて、つい下を向いて目をそらしてしまうが、それでは気持ちが伝わらないともう1度順平の顔を見て。少し、斜め下から見上げるような風になっただろうか。
 湊の言葉に迷ったのか困っているのか、突然「お、おおおおう!」と素頓狂な声を上げた順平はあちこち視線をさまよわせた。手をわきわきと無意味に動かす挙動不審な態度に、またゆかりが半眼になっている。

「しょ、しょーがねえなぁ! 女の子にそこまで言われちゃ、断れねえもんな!」
「ホントにわかってるのかなぁ…」
「心配ご無用、ゆかりッチ! オレはやるときゃやる男だからさ!」

 言葉の表面からはふざけているようでも、順平にはもう、当初あったような過剰なまでの慢心は見られない。指示を無視して闇雲に突っ走る事も、次の戦闘からは控えるだろう。
 ともあれ、これでチームは立ち直った。今度こそは、さっきまでのような無様な戦い方にはならないと断言できる。それに足るだけの信頼を、湊は今確かに感じているから。

 そう、今ならわかる。何故昨日、自分が特別課外活動部に加入したタイミングでコミュを得られなかったのか。
 人と人との絆というものは、一方通行ではありえない。自分が相手を想い、相手も自分を想ってくれる。その感情が何であれ、互いに対して向ける心があってこそ、絆は生まれるのだ。
 なのに湊は『自分の知る仲間たち』という幻想を追い、今目の前にいる1人1人の存在を見ようともしないままで、彼女らにその幻想を押し付けていた。相手と心から向き合う事を、放棄していたのだ。これではコミュが、絆が生まれるはずがない。

 床に転がっている、自分の武器を取る。
 しっかりとその柄を握り持ち、宣誓するがごとくもう片手を胸の中心に置いて目を閉じた。
 今まさに、生まれ出ようとする何かを自らの内に感じる。
 それは熱だ。心を温め、己が震える時に恐怖を吹き飛ばす勇気をくれるもの。
 それは光だ。道を示し、己が迷う時に背中を押し歩き出させてくれるもの。

「……わたしは、みんなと一緒に生きて帰りたい。ゆかり、順平、桐条先輩、真田先輩…みんなと、一緒に生きていきたい!」

 ――それは、力だ。己が戦いに臨む時、もう1つの自分として敵を打ち破る加護となるもの。
 どくん、と1度大きく鼓動が跳ねた。同時に身の内を駆け巡る、懐かしくも激しい、大きな力の奔流!
 流れの中心、胸に押し当てた手の下に、光り輝く1枚のカードが出現するイメージ。
 カードに描かれた絵柄、それが意味するタロットのアルカナは……“審判”。
 正位置が意味するのは、復活、再会、最終決断、新生、再出発。『自分の知る仲間たち』という幻想を捨て、真実共に戦う仲間として「新生」し、新たな関係の「再出発」とする。

 さあ、ここから新たに始めよう。
 過去を求めるのでなく、過去を踏まえてより良い未来を手にするために。
 今度こそ後悔せず、愛する人を悲しませず、そして自分が心を繋いだ人たちが笑って生きていける世界を目指して。

「行こう! ゆかり、順平!」
「了解! 公子!」
「よっしゃ、任せとけ!」

 闇が漂う迷宮の中を、一陣の風が吹き抜ける。
 連なる3つの足音は軽快に、次なる獲物を探して駆け抜けていった。


     ――初稿10/05/08
     ――改稿10/06/05



[18189] ●第六回● 4月22日~“魔術師”コミュ発生~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/06/05 21:09
「……ん。こんな感じ、か」

 湊は鏡の前で、前から斜めからと顔を動かして眺めてみて、おかしなところがないかチェックする。
 少し心配だった、泣いた事による目の充血や目蓋の腫れなども、一夜明ければほとんど残っていなかった。いつも通りに化粧を施せば、そろそろ見慣れた感もある、ちょっとした美少女の出来上がりだ。
 ゆかりのお化粧レッスンは昨日で一応の卒業となり、今日からは自分だけで朝の支度をこなす事になる。気楽になったのはいいが、いきなり手を抜けばバレバレなので、そこは徐々にといこう。

 まだ食卓で茶漬けをかきこんでいる順平の近くを、「行ってきまーす」と軽い挨拶で通り過ぎる。答えようとして飯が気管に入ったか、むせたような苦しげな声が聞こえたが、構わず玄関を出た。ご老人じゃないのだし、茶漬けで死んだりはするまい。
 足取り軽く、心も軽く。こうして笑顔で駆けている自分は、何だか昨日までとは違う人間みたいだ。
 涙は心を洗い流すと言うけれど、本当にそうかもしれない。

 昨夜“審判”のコミュニティ『特別課外活動部』を手に入れて、きっと自分はようやくこの世界に受け入れられた気がしたのだ。もちろんそれまでも、世界が自分を拒絶していたというわけではなく、逆に自分がこの世界を認めていなかったのだが。
 でも、ちゃんと目を開けてみれば、世界はこんなにも自分に優しい。そして自分も、この世界を好きになれると思う。
 美鶴と自分がともに生きていられる世界だけが、1度死んだ自分の望みのはずだったのに。たがが外れてしまったように、貪欲にどこまでも願いを広げてゆく自分は愚かだろうか。美鶴、仲間たち、『かつて』コミュを築いた相手、それにファルロス――全員一緒に、幸せを手にしたいと叫んでも、この世界ならまだ許されるんじゃないだろうか?

「知らなかったな。おれって、すごく欲張りだったんだ」

 呟いた声すら、春を歌う鳥のようで。
 学校へと向かう湊の姿は、誰の目にも楽しそうに、弾んで見えたという。


 今日も良く晴れている。
 清々しい空気の中を歩き、学校へと辿り着いた湊はふと足を止めた。正門から校舎までの敷地内に植えられた桜が、もうちらほらと散り出している。昨日の影時間に見た、妖しいまでに咲き誇る様は、今シーズンにおける有終の美であったのだろう。
 花びらとともに、結い上げた髪を風に遊ばせていると、背後から聞き知った声がした。
 振り返れば、いつもと変わらぬ姿の真田がいる。実に健康そうで、これで本当にあばらを痛めているのかと聞きたくなるほどだ。

「おはよう、同じ電車だったんだな。昨日の今日だが、疲れは残っていないか?」
「身体は別に辛くないです。精神的にも、すっかり持ち直しました」
「そうか。まあ、あれだけ啖呵を切ったんだ。しばらくは順平のやつも大人しいと思うぞ」

 昨夜の湊の醜態を思い出したのか、抑えられない笑いが漏れている真田に、湊は憮然とした顔を返した。真田はそれに全く悪いと思っていない態度で「悪い悪い」と手を振って見せる。
 それから湊のすぐ近くまで身を寄せると、少し潜めた声でこう続けた。

「美鶴は休めと言うが、実際あばらの方はそう大した事もない。俺もじきに復帰するから、その時は頼むぞリーダー?」
「…そうですね、桐条先輩が許可してくださったら」
「やれやれ。お前は本当に美鶴が好きだな」
「なっ…!?」

 まさか自分の美鶴への恋心を見抜かれたのかと、湊の身体全体に緊張が走った。――が、よく考えてみると真田にそんな恋だの愛だのといった感情の機微が察せられるはずもないのだ。
 ちなみに湊が『かつて』から継続して抱いている真田へのイメージは、バトルマニアの朴念仁である。割と酷い。
 一瞬で跳ね上がった鼓動をなだめながら真田の表情を確かめるに、完全にこちらをからかっている態度なのが見てとれる。どうにも昨夜の件で、湊にとっては傍迷惑な意味で気に入られてしまったようだ。
 ……湊の真田に対する印象に、『大人気ない』が加わった。

「ははっ。じゃあな。1時限目は授業を潰して全校朝礼だが、話が退屈だからって寝るなよ?」
「寝ませんよ!」

 咄嗟に言い返してから、『かつて』は年末近くなるほど学校で居眠りする確率が上がっていた事を思い出した湊である。しかしこの時期で全校朝礼と言うと、美鶴の生徒会長就任演説か。それはかぶりつきで聞くつもりなので、まあ嘘は言っていないだろう。
 真田は最後まで笑ったまま、湊の肩を叩いて去っていった。
 朝からのいい気分が台無しだ。おれはオモチャじゃないぞ、と内心拳を握り締めていた湊は、ふと視線を感じて周囲を見回す。

「……?」

 だが視界に入るのは、普段通りの生徒たちの登校風景である。
 こちらを見ている複数の気配があったように思ったのは、気のせいだったのだろうか?
 あまり遅れると、鳥海のやる気の無い注意を聞く事になる。湊はそれきりこの視線の事を忘れて、校舎玄関へ向かったのだった。


《――であるからして…》

 一見いい事を言っているようで、実際は何の中身も無い無味乾燥な長話が続く。
 校長のありがたいお話とやらは、真田自身が有里公子に言った通り、酷く眠気を誘った。全校朝礼も既に予定時間の半ばを終え、椅子に座りっぱなしの生徒たちの中にはうとうとと舟をこぐ者が現れ始めている。
 真田も目を開けている事を放棄した1人だが、耳近くで囁かれた警告にビクリと反応する。

「……おい、真田。ご学友のお嬢さんが睨んでるぞ」
「! 美鶴、待っ…――って、おい! こっち見てないじゃないか」
「うん、嘘だ。お前があまりに気持ち良さそうに寝ているのでムカついた。てかお前相変わらず桐条に弱いな…」

 むっつりと顔をしかめて「うるさいな。ほっとけ」と真田は毒突いた。ニヤニヤこちらを観察しているのは、真田が普段からその程度にはぞんざいな口を利く相手である。
 真田に友人は少ないが、全くいないというわけではない。良くも悪くも高校生活3年目ともなれば、それなりに人間関係はある。
 隣の男にも、あばらを痛めて薬を飲んでいるから眠い、という話はしてあった。忘れていないだろうにこうしておちょくってくるのは、人が悪いのか、この退屈な時間に心底飽き飽きしているのか。

「まあそれはいいとしてだ。聞いたぞ、校門前で2年の転校生に手ぇ出したんだって?」
「転校生――有里か? 手を出したって、またそういう話か…」

 いつものように呆れた態度で嘆息して見せる。身に覚えの無い濡れ衣を着せられるのは、不本意ながら慣れていたので。
 しかし今回は、やや引っかかった。校門前、有里公子。場所と人物だけなら、ほんの数十分前の出来事と符合するような。

「……ん? ああ、そうか。確かに…『手』は出たな、つい」

 なるほど、うまい事を言うものだ。有里公子に構いつけるうち、自然に手が伸びて肩を叩いていたのを見られたのだろう。
 だが笑う真田に対して、相手は信じられないものを見るような目を向けてきた。

「えっ? …ちょ、マジか? 例によっての根拠レスな嫉妬とか、ネタじゃなくて?」
「何だ。そんなに驚く事か?」
「いや、だってさあ、お前…これまで実際オンナに興味とか無かったじゃん? へえー、ほおー、ふーん。あーいうのが好みか」
「…勘違いしてないか? 俺はただあいつの肩を――」
「いやいやいや、よーくわかった! 何も言うな。オレはお前を応援してやるぞ。あの牛丼が恋人でボクシングバカの真田クンに、ようやく訪れた春だもんな」

 そこまでは、教師に私語を注意されるかされないかという、ぎりぎりの声量であった。しかしこういった話題に対しては耳ざとくなるのが高校生という年頃の常であり、あっという間に真田の周囲は騒がしくなった。囁き交わす程度の声でも、何十人と集まれば波のように大きなうねりとなる。
 校長はこの状態でも全く意に介する事なく喋り続けている。生徒が聞いていようがいまいが、あまり関係無いのかもしれない。
 さすがに担任教師が1度わざとらしく咳払いをすると、次第にざわめきは収まっていった。
 いつもの事だと肩をすくめ、真田は元凶たる隣の男を睨んだが、奴は真面目くさった顔で演説を静聴するふりをしている。発言の撤回を求めるのは難しそうだ。

 真田は再度、特大のため息を落した。
 ――全く、自分の有里公子への感情は、そんな面白おかしく囃されるものではないというのに。

 真田は、自分が有里公子に、亡くした妹を重ね見ている事を自覚していた。
 いつから、と問われれば、昨夜の一件以外にありえまい。それまでの彼女はただの後輩であり、シャドウの討伐という目的を掲げて共に戦う仲間の1人。真田明彦個人として、特別な思い入れのある相手では無かったのだ。
 それが、あの時の彼女の涙声を聞いて。
 思い出したのは、10年以上も前の事。自分と荒垣の取っ組み合いの喧嘩を、泣きながら止めようとした妹の姿だ。

 真田と荒垣は、同じ孤児院で育った幼馴染にして親友である。それに妹――美紀が生きていた頃は、真田の後ろをちょこちょこと付いて歩く美紀も含めて、3人でよく一緒に行動したものだ。
 しかし男というものはいかんせん、他者と優劣を競いたがる性分がある。それが気の合う友であっても、くだらないきっかけから口論、そして拳が出るに至るのも珍しくない。分別の無い、幼い頃ならばなおさらだ。
 真田と荒垣も度々喧嘩になり、ただでさえ気の弱かった美紀を、怖がらせ泣かせてしまった。
 けれどあの時は、いつものように泣いているだけだと思っていた美紀が、突然真田の背に飛びついてきて。荒垣の方は、驚いて動きを止めた真田を殴り飛ばしてから、美紀の存在に気付いたのだったか。普段から共にいる真田でも滅多に見られないほどの狼狽ぶりだった。
 何とか美紀を泣き止ませ、怪我が無い事も確認して、どうしてこんな危ない真似をしたのかと訊いた。
 その答えが、おにいちゃんもシンジおにいちゃんも好きだからケンカしないでほしい、というもので。真田と荒垣が喧嘩をしてはあちこち傷だらけになるのが嫌で、泣いててもどうにもならないとわかったら、もう飛び出してしまっていたらしい。
 ……それ以後、真田と荒垣が喧嘩になる回数は激減した。

 結局昨夜の件は、有里公子が綺麗にまとめた形で終わった。
 流れを変えたのは彼女の涙であり、心からの叫びである。泣き喚いて己の意見を通そうとするのは子供の我が儘だろうが、彼女のそれは違う。美紀が真田と荒垣を泣いて止めたように、仲間を想うがゆえに有里公子は泣いたのだ。
 これだけで有里公子と妹を重ねてしまう自分の思考回路は、随分と短絡的だと自嘲する。
 だが別に、重ねたからといって何か弊害があるというわけでもないのだ。今は休養中だが、戦闘に復帰すればむしろ、思い入れがあるだけ仲間として気を配れるだろう。

「……まあ、可愛がって悪い事はないだろ」

 自分が特定の異性を特別扱いする、という事が何を意味するのか。
 致命的に理解していない真田は、1人で勝手にそう納得していたのだった。


 全校朝礼があった以外は、特に目新しい事も無い日常だった。
 放課後、鞄に荷物を詰めながら湊は、講堂の演壇に立った美鶴の言葉を思い返していた。
 全員が1つの思いを1年間ずっと切らさずおくのは簡単ではない、大事なのはそれが途絶えても確実に回る仕組みをいかに造っておくか――それは、学校生活と言うよりもむしろ、自分たち特別課外活動部にこそ向けられたもののように聞こえた。ゆかりが、真田が、そして美鶴自身が、己の心の芯としたものを砕かれて絶望し、けれどそれを乗り越えてまた仲間として共に歩む事を選んできた『かつて』。
 結果論でしかないし、今の美鶴がそんな可能性未来を描いているとも思わないが、2度目を生きている湊には耳にしみた。

 さて帰ろうかというところで、湊はクラスメイトの女子に声を掛けられた。これまで1度も話した事の無い、『かつて』でもあまり関わった覚えの無い相手だ。
 笑顔の下に何か含むものがあるような、微妙な表情で彼女は廊下を指差した。

「あのねぇ、有里さん。あなたに話があるって人が、外で待ってるよ? 大事な大事な、話なんだってぇ」
「……大事な話? わたしに…誰が?」
「さあね、あたしにわかるわけないじゃん? 早く行った方がいいと思うなぁ」
「そう…だね。ありがとう」

 何か釈然としないが、重要な話があるという相手を待たせておくのが良くないのも確かだ。
 湊は彼女に礼を言うと、鞄を持ったまま廊下へ出た。タルタロス初探索の翌日に交番の黒沢巡査を紹介されたと記憶しているので、できれば早めに話とやらが終わるといいと考えて。

「ちょっと。アンタが有里公子?」
「――あ、はい。わたしが有里ですが」

 湊が相手を見つける前に、相手の方から呼び止められた。
 声の方を振り向くと、他のクラスの女生徒と思われる2人組がこちらをじっと見ていた。
 1人は染めた金髪の生え際だけが黒い巻き髪の少女。もう1人は、湊の男としての視点で見てすら、濃すぎるのではないかという化粧を施した少女だ。2人が放っている空気は、何やら剣呑である。

「……ふぅん。アンタがねぇ」

 2人組はそれっきり、湊の事などそっちのけで、自分たちだけでぼそぼそと言い交わしている。聞き取れる部分だと「何だ、大した事なくない?」とか「男の前じゃブッてるんじゃないの」とか、よくわからないが悪意が感じられる。
 話があると言う割りには、あまりに失礼な態度である。

「……あの、用が無ければわたしは帰りますけど」
「ハァ? 何勝手に言ってんの」
「アンタさぁ、ちょっとチョーシ乗ってんじゃない? 転校生だからって抜け駆けとか、マジKYってカンジ。真田センパイに肩抱かれるとか、何ソレ? そーやって何人男くわえ込んだの?」

 ……何だろう。今何か、宇宙語を聞いた気がする。
 理解するのを頭が拒む内容に、湊はただ言葉を失った。

 湊の代わりに解説するならば、男をくわえ…云々というのは、そもそも精神が男である湊にはまずありえない話だし、その前の真田に肩を抱かれたというのも、事実ではない。
 真田が肩を、というのなら、それは今朝の校門で軽く肩を叩かれた事だろうか。どうやらその時湊が感じた複数の視線は、噂好きな女子たちのものであったらしい。彼女らが面白おかしく話を広げる間に、真田が親密な様子で湊の肩を抱いていた、という表現に摩り替わってしまったのだ。
 未だ固まったままの湊に、女生徒2人はなおもねちねちと嫌味を投げつけている。廊下を通りすがる他の生徒たちは、遠巻きに眺めたり関わりたくなさそうに去るだけで、この状況を放置していた。
 いつまで続くのだろうか? 何も言わない湊に女生徒たちがさらにヒートアップしてきたところで、救いの手は意外な人物からもたらされた。

「あっれー公子ッチ、まだこんなトコいたのかよ? 今日はオレがラーメン奢ってやるって言わなかったっけ?」
「あぁ!? 伊織かよ、ウザ。あっち行ってろ!」
「女同士の話に割り込んでくんなっつーの!」

 反応したのは湊よりも、怒りの形相の女生徒たちの方が早かった。
 自分を庇うように目の前に立った順平の背中に、湊はまたしても驚くばかりだ。
 女生徒たちの剣幕に、順平は「おー、こわ」とおどけるように両手を上げて見せる。

「つっても、オレの方が先約だし? 早く行かねえと店混むし。用が済んだんならもういいっしょ?」
「終わってねーし! ソイツにもう真田センパイに近付かないって、キッチリ――」
「さ! 行こうぜ公子ッチ」
「な、待てっつってんだろ!」

 もはや女性らしさの欠片も無い荒れた口調でぎゃあぎゃあとわめく2人を尻目に、順平は湊の腕を引いて歩き出す。まだ混乱が残る湊だが、これが降って湧いたチャンスである事は間違いなく、順平について足早にその場を後にした。
 階段を下りる頃には、女生徒たちのやかましい声も聞こえなくなっていた。


 湊と順平は、そのまま玄関まで逃げてきた。さすがに腕は途中で離している。
 靴を履き替えて外へ出ると、下校する生徒たちの波が丁度良く引けた時間帯であり、ほんの数人の人影しか無い。
 湊はようやく、ほっと息をつく。その横で順平も、一気に緊張が解けたようだ。

「っあああもー! オマエね、転校早々から何つーヤバいのに目付けられてんだよ! 見た時マジ一瞬肝冷えたよオレ!?」
「うん。順平が連れ出してくれなかったら、日が暮れるまであのままだったかも。ありがとう」
「どういたしまして、って…いや、そうじゃなくて! 危機感持とうぜ少しは……」

 今一理解していない様子の湊に、順平が語ったところによると。
 湊に恫喝まがいの「女同士の話」をふっかけてきた2人組は、隣のクラスの所属で、悪い意味で有名らしい。普段はそこまで素行が悪いというわけではないが、真田が絡むと態度が豹変する。溜まり場に出入りする不良と付き合いがあるとか、以前真田に積極的に声を掛けていた女子をその不良に襲わせたとか、噂レベルならもっと凄まじい内容もある。
 それでも停学になったりしていないのは、これまではあくまで彼女らの仕業だという証拠が無かったからだと言う。ただ今回は、ターゲットである湊に堂々と接触してきている。

「たぶん焦ったんじゃねーの? 今まで真田サンから女子の肩抱くとか無かったし、オマエが手強いライバルに見えてんだろ」
「それ誤解だから。肩抱かれたりなんてしてないし、叩かれただけ。単に子供扱いされてるんだよ」
「ふーん。ま、事実がどうでも、噂ってのは勝手に広まってくもんだしな。とにかく、気を付けろよ。オマエの場合、転校生だからまだ地盤固まってないっつか。今のうちに叩いとけって思われてるぜ」

 地盤という抽象的な表現に首を傾げる湊に、順平は「つまり、庇ってくれる同性の先輩とか、友達とかってコト。あ、桐条先輩ってのはナシな」と付け加えた。
 順平の話では、ゆかりにも真田と同じ寮へ移る時に、件の女生徒たちからの嫌がらせがあったらしい。ただゆかりの場合は本人の性格が負けず嫌いであるのに加え、同学年の友人や部活の恐い先輩など、彼女の味方が校内にそこそこいるのが幸いした。

「今じゃゆかりッチには何にも手出しできねーって状況らしいぜ? ゆかりッチの場合はそれ以前に、そもそも本人が真田サンに興味ナッシングだけどさー」
「わたしも別に、そういう意味では真田先輩の事どうでもいいんだけど」
「うわー……それ、真田サンの前では言うなよ? あーいう人って一旦気に入った相手には弱いんだから」

 順平が哀れむような顔で真面目くさって言うので、そういうものだろうか、と湊は一応覚えておく事にした。
 後々、湊がこれを意識しながら真田に接したせいで、話が妙な方向へ転がっていく羽目になるのだが――まあ、それについてはいずれ語るとしよう。

 話が長くなってきたので、湊たちは敷地内に設置されたベンチに移動した。ちょうど桜の枝が大きく張り出している真下にあり、散りつつあると言えども風情を感じられる。
 ベンチに落ちている花びらを軽く払って、友人同士として不自然でない程度に距離をあけ、2人並んで座った。

「要するに、真田先輩にあまり近付かないようにしつつ、友達たくさん作って、校内での交流を広げろって事だよね?」
「そうそう。真田先輩の方は寮同じだし、今朝みたいに? アッチから来られる事もあるから難しいけどな」
「友達の方は、わたしも元々そのつもりだったから大丈夫。すぐには無理かもしれなくても、少しずつ頑張るよ」
「そっか。オマエの場合、クラスメイトよりは部活や委員会絡みの方が伝手作りやすいと思うぜ。最初の自己紹介ん時の態度とか、その後の1週間以上の病欠とか、ちょい話しかけ辛いってか、遠巻きな雰囲気出来上がっちまってるし」

 ベンチの背に両腕を乗せるようにしてもたれつつ「オレも結構フォローしたんだけど、女子の方はなー」と空を仰ぐ順平。
 そんな順平の横顔を、湊は少々意外な思いで眺めていた。しばらくすると視線に気付いたか、順平もこちらを向いた。

「ん、何? オレッチに惚れちゃった?」
「……そういうのじゃなくて。ただ、わたしのために色々してくれてたんだなって」
「あー。まあ、言ったじゃん? オレも転校生だったからさ、わかるんだよ。ガッコってさ、結構キビシー部分あるし。女子は特に、グループに入れないとキツいって聞くよな」

 笑って「せっかく可愛い女の子が来たってのに、暗い顔させとくのももったいないじゃん」と誤魔化されたが、冗談めかした言葉の裏にある確かな気遣いを、湊は感じ取った。
 だって湊は知っている。順平が何の下心も無しに、純粋に自分を心配してくれたという事を。
 湊が身体もちゃんと男だった『かつて』においても、同じように順平は声を掛けてくれた。あの時順平がクラスメイトを紹介して、積極的にその輪に入れてくれなければ、元々受身な気質である湊はうまくこの学校に溶け込めたかわからない。
 後々の嫉妬とか八つ当たりとかでつい忘れられがちだが、本来の順平は空気の読める気配り屋であった。

「……順平は、すごいな」

 それは奇しくも、『かつて』チドリが順平に告げた言葉と似ていた。
 湊自身は、順平とチドリの間にあった会話を知らない。この言葉が出た経緯も、チドリの時とは違う。
 だが順平に対して与えた衝撃は、恐らくそれに匹敵するものがあった。茶化す余裕も忘れて目を見開いた順平は、呆然と間の抜けた返事を返す事しかできなかった。

「へ? …そ、そう?」
「すごいよ。わたしには、同じ転校生だからってそこまで他人に親切にするなんてできないもの」

 湊は胸に灯る、ほのかな光を感じる。
 湊が『かつて』は見失っていた、この地でできた最初の友人が自分に向けてくれた温かな気遣い。そして、今だからこそわかる、それがどれほど得難いものであったかという事。
 今の順平が湊を案じる心。それをしっかりと受け取って、自らも応えたいと思う湊の心。
 触れ合った心と心、――ここに確かに、絆は生まれた。“魔術師”コミュが、湊の新たな力となった。


 重ねた両手でそっと胸を押さえて微笑む有里公子の姿は、舞い散る桜の花びらにも似て可憐であった。その唇からこぼれた言葉は真摯であり、お世辞や愛想など抜きにした、彼女の心からの本音であるとわかる。
 カッと熱くなった頬の色を誤魔化そうと、順平はわたわたと慌てた末に、頭の上の野球帽を深くかぶり直す。
 順平には、誰かに真っ向からこんな風に褒められた事が無かった。遠い昔にはあったのかもしれないが、覚えていない。

 いつからだろう。自分の本心を隠し、その場その場で適当に調子を合わせて生きてきた。その方が、楽だったから。叶わぬ夢を追って現実との齟齬に苦しむのも、深く付き合った相手から手酷く拒絶されて心を痛めるのも、馬鹿馬鹿しいと切って捨てたのだ。
 自ら道化を演じ、ムードメーカーを買って出て。それは順平が身に付けた、一種の処世術だった。集団の中で一定の役割を確保し、弾き出されないようにしてきた。
 有里公子に親切にしたのだって、その一環でしかない。いや、多少は順平自身が言い訳に用いた通り、同じ転校生だからと自身を重ねての同情もあったかもしれないが。
 しかし一方で、そんな現在の自分への葛藤があった。漫然と流れてゆく日々を無為に過ごす、本当の意味では誰にも必要とされない、無力で何の価値も無い自分。
 変わりたくて、でも変われない。今さら生き方を変える事は恐ろしく、変われるだけの自信も無かったから。

 昨夜、空回りしているとわかっていながらも、ひたすら戦闘の先陣に立とうとしたのも結局はこれが理由だ。
 特別な力を得た。なら自分は、特別な存在であるはずだ。人に必要とされ、仲間たちに頼りにされるべきであるはずなのだ。
 これこそが、自分の存在する意味なのだ。学校で皆の中に埋没し、波風立てずにへらへら笑っている、そんなものは真の自分を隠すための仮の姿だったんだ。本当の自分は、もっと、もっと――

 ……けれどやっぱり、それは錯覚だった。自分は結局、リーダーの器ではなかった。『ヒーロー』は自分じゃなかったのだ。
 戦いなど無縁に過ごしてきたはずの、あの柔らかな手の少女は、まるでそれが運命であったかのように自然に戦場に立っていた。自分とゆかりに常に気を配り、ゆかりが暫定リーダーをしていた時だって、実際に場の空気を握っていたのは有里公子だった。
 自分が彼女を巻き込む形でペルソナの攻撃を発動してしまっても、鮮やかな身のこなしで回避して見せた。あれで素人だなどと、誰が思うだろうか?
 それが、本物のヒーローの実力。天性の素質、特別である証。本物の前では、ニセモノの自分など無様をさらしただけだった。

 なのにその本物のヒーローたる彼女が、今順平をすごいと褒める。誠意ある感謝の中に、僅かな尊敬すらにじむような視線で。
 それはまさしく順平が欲していたもの。自分の存在を確かに肯定してくれる言葉。
 特別と思い込んだ戦場では順平など皆の中の1人でしかなかったのに、ただの処世術であった日常での己こそを、戦場でのヒーローが賞賛している。

 順平の脳裏を、一瞬にして様々な感情が駆け巡る。
 歓喜。誇らしさ。でも消せない嫉妬。猜疑。
 巡り巡って、結局は相手と自分の差に落ち込む。こうして自分がぐるぐる考えている事だって、彼女にはどうでもいい話だろう。
 有里公子の無邪気な笑顔を見れば見るほど、自分のみじめさが身につまされる。
 もし彼女がペルソナ使いでなく、ただの転校生の女の子だったなら、もっと素直に彼女の言葉を受け入れられただろうか?
 得意げに笑って「ようやくオレッチのすごさがわかったか! わはは、苦しゅうないぞ」なんて、軽口の1つも飛ばせただろうか。
 だが現実の有里公子を前にした順平には、表情は帽子で隠せても、苦い思いが声を低めるのまでは止められない。

「……どっちが、すごいってんだよ」
「え?」
「昨日の戦いさ、オレなんて足引っ張るばっかで…それに比べて、オマエはすげーよな。リーダーやるために生まれてきたんじゃねーの? その後だって何つったっけ、みんなと一緒に生きていきたい? ……何でそーいう事さらっと言えるワケ?」
「……それは、」
「オレだってゆかりッチだって結局は会ったばっかの他人だろ。その他人をさ、命懸けてまで守ろうって何で思えるんだよ。オレみてーにカッコつけたいってんでもないのに、……そっちのがよっぽど、難しいじゃんか」

 刺の混ざった言葉を吐いて、順平は帽子を上げると常に無い真顔で有里公子を見据えた。いつものように、なあなあで済ませてしまえばいいのにと、自分の中の誰かが呆れている。
 でもここで誤魔化さないのは、あえてその刺を彼女に見せる事は、せめてもの誠意であるように思えたのだ。昨夜涙声で訴えてきた彼女への、これが今の順平なりに、表せる限りの応えだった。


 風が梢を揺らし、色気の欠片も無く見つめあう2人の間を花びらが舞う。
 数秒、それとも数十秒。視線をそらさずに順平の心に向き合った湊は、ゆっくりと口を開いた。

「……他人じゃ、ないからだよ」
「わたしたちもうお友達でしょ、ってか? マジでそんなん思ってんの? それで納得しろって!?」
「ちょっと違うかな。『お友達』じゃないよ。わたしにとっては、――もっと、強い執着だから」

 わけがわからない、というように眉間にしわを寄せる順平に、湊は曖昧に笑んで見せた。
 他人ではない。『かつて』と重ねないと決めはしたが、それでも彼らは湊にとっては仲間なのだ。これからの1年を共に歩む、また『かつて』があるからこそ、さらに深く関わって絆を結ぶと決めた人たち。
 しかし今の順平に対して、自分が2度目の時間を生きているなどと正直に言えるわけもなく。
 湊が理由として選んだのは、またしてもこの言い訳だった。

「わたし、記憶喪失なんだ」
「は? ……え? 何、その唐突な振り?」
「冗談とかじゃないよ。最初にこの街に来た夜、寮に着いた時にはもう、わたしに昔の記憶は無かった。前の学校の事とか、これまで世話してくれてた親戚の顔も、何にも。桐条先輩は、影時間に対する適性への目覚めが、うまくいかなくて混乱したせいだろうって」
「何ソレ、何そのヤバい話!? つか、初耳なんですけど! じゃあ何、オレも一歩間違ったらキオクソーシツだったワケか!?」
「どうだろ。わたしが特に酷いってだけかもしれないし」

 順平のリアクションが大きすぎて、話が別方向にずれそうだ。
 湊はずいっと身を乗り出して、強制的に順平の注意をこちらに向けさせると「つまり」と続けた。

「記憶喪失のわたしにとっては、わたしを初めて受け入れてくれた寮のみんなが家族みたいなものなの。順平だって寮の一員になったんだから、同じだよ。わたしの居場所はあの寮で、他に行くところなんて無い。家族を、自分の居場所を守りたいって思うの、おかしくないでしょ?」
「――かぞ、く?」
「難しい事なんて、わたしは考えてない。ただ、この街でわたしが『生き始めて』最初に一緒にいてくれた人たちと、これからも一緒にいたいだけ。わたしはそういう、単純な人間だよ」

 姿勢を戻して、湊はこれで終わりとばかりに順平の言葉を待った。
 先ほどは言い訳と言ったが、湊の言葉全てが嘘であるわけでもない。少なくとも、仲間たちと共に生きていきたいという願いだけは偽り無き真実の想いだ。そして湊に有里公子という少女が育った環境の記憶が無いのも、また事実である。
 疑われるかと多少は身構えていた湊だが、順平はそれよりもさっきから「家族」という単語ばかりを繰り返している。

「……順平?」
「…ん、ああ。…悪ぃ。何でもねーよ。そだな、まだ理解できねー部分もあっけど……オマエが本気だってのは、よくわかった」

 順平は話を打ち切ると「そろそろ行こうぜ」と立ち上がり、真顔なのはそこまでだった。2、3歩進んで、湊がまだ座ったままなのを振り返ると、いつものニヤリ顔で腕組みしてふんぞり返る。

「おいおーい。このオレがせっかく奢ってやるって言ったんだぜ? 滅多にないってこんなラッキーチャンス!」
「…あれ、あの場から逃げ出す作り話じゃなかったの?」
「まあ昨日の詫びも兼ねてって事で。大丈夫! 男・伊織順平に二言は無い! 今日はまだそこそこ財布があったかいからな!」

 ラーメンラーメン、と調子っぱすれに歌い出した順平を追って、仕方なく湊も歩き出した。
 何だか、肩透かしだ。心で向き合ったと思ったのに、途中で逃げられたような。
 湊は『かつて』順平の私情に立ち入った事は無い。だから、今の順平が何かを抱えているのはわかっても、その正体に関しては推測しかできない。家族という単語に反応したのだから、恐らく家庭の事情なのだとは思うが。
 順平は横に並んだ湊をちらと見て、だがすぐに視線を前に戻す。それから独り言のように、静かに呟いた。

「……ちっとさ、時間欲しいんだわ。正直、オマエの気持ちに応えられるほど、今のオレ自身が色んなコトにケジメつけられてねーし。言い方悪いかもしんねーけど、……まだ、重すぎるってかさ。オレから聞いておいて何だけど」
「うん。そう言われても、仕方ないよ」
「とりあえず、普通に付き合ってくれっと嬉しい。オレだってオマエの事嫌いじゃねーし、いい友達になれたらなって思ってる」

 その後は何となく無言のまま、校門へ向かって歩く。
 敷地を出る前に突然、順平が立ち止まった。何やら重要な事に気が付いた、といった様子で湊を振り向きのたまう内容は。

「なあなあ! 考えてみたら今の会話、何か公子ッチがオレに告白したみてーじゃね!?」
「安心して。それは絶対無いから」
「ナッハハハー。……ですよねー」

 キラキラと擬音の付きそうな爽やかな笑顔で断言した湊に、順平は予想以上に凹まされたようだ。深くため息をついて、くずおれるようにその場にしゃがみ込んでしまった。
 まさか期待していたわけでもないだろうに、つくづく大袈裟な男だ。湊はそう思い、どうでもいい話として流した。

 ちなみに今さら校舎から出てきた真田が一直線に寄ってきて、取り巻きの女子たちからまたぞろ湊が睨まれたのは余談であろう。立ち直った順平に「ちょ、真田サン空気読んでください!!」と言われて、意味がわかってない真田もお約束だ。
 真田の用件は湊の記憶通り、武器の入手経路としてのポロニアンモール交番の紹介だった。
 そして今回も幾月からの支度金は5千円だった。『かつて』の年末あたりでは十数万円という出費が当然だった湊も、順平と一緒になって「しょぼい」ともらしたのであった。


 ともあれ、新たなコミュを作るという意味でも、湊にとっての本格的な学園生活が始まった。
 性別が違うという事で、以前は簡単に友達になれた相手と話し辛かったり、逆に全く接点の無かった相手と縁を持つ事ができたり、色々な変化が予想される。『かつて』友近との間に築いた“魔術師”コミュが、今は順平との間に発生したわけだから、それぞれのアルカナに対応する相手が大幅に変わる可能性もあった。
 全ては、これからの湊の行動次第だ。1つ確かなのは、自分から動かなければ何にもならないという事。
 自らの足で歩いていき、心を注いで絆を生み出す。世界を守る方法を探すのと同等に、今の湊には必要な行動だ。
 そして湊自身が今最も欲している絆、その相手はもちろん――

「……美鶴」

 自室で明日からのスケジュールを組み立てつつ、想い馳せるのは彼女との大切な記憶。
 ここに彼女から貰ったバイクのキーは無いけれど、この心に焼き付いた思い出こそが何よりの証だ。

 ……けれど湊はあえて目をそらしたままでいる。
 今の仲間たちを『かつて』の彼女らと重ねないと言いながら、美鶴だけは全くその区別がつかぬほどに重ねたままでいる事に。
 それもやむなきかな。この世界において湊の生きる目的とすら言えるものが、桐条美鶴という人間への恋情だ。今の湊がこの世界の美鶴を『かつて』の彼女と別人だと認めるのは、湊自身の生きる意味を否定する事に等しい。
 だが、コミュを築くには一方通行の思いではいけない。湊からだけでなく、相手の方でもまた、湊が自分の心に向き合ってくれていると感じられる事が必要なのだ。
 はたして美鶴が、湊が自分に誰かを重ねていると気付けないほど、愚鈍な人間だろうか?

 シャワーから上がって、女性ものの下着を着けるのにもすっかり慣れてしまった。もともと脱がせた経験はあるし、自分が身に着けるという抵抗感さえ乗り越えてしまえば、さして難しくもない作業だ。
 髪を乾かしてパジャマに着替え、ベッドに身を投げ出した湊は明日からのまた新たなコミュを想像する。
 くすくすと上機嫌に笑い、ベッドの上でそのしなやかな身体をくねらせる少女が、心は男性であるなどとは誰にもわかるまい。
 布団にもぐり、ほぅっと艶めいた吐息をもらして。恋にくもったその瞳に映るのは、決して実らぬ果実だ。
 湊が自分の恋人としての美鶴を求めれば求めるほど、今の美鶴の心は湊から離れてゆくだろう。けれどその皮肉が現実として立ちはだかるのは、いま少し先の話となる。
 夢見る少女そのものの姿をして、湊は静かに眠りに落ちていった。


     ――初稿10/05/16
     ――改稿10/06/05



[18189] ●第七回● 4月23日~『かつて』からの贈り物~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/05/29 22:03

 複数の商業施設を詰め込んだポロニアンモールの一角には、入居を予定していた店舗が直前でキャンセルしたのか、何の用途にも使われずにデッドスペースになってしまった場所がある。
 2階にあるカラオケ店の真下に位置し、広場から続く路地としておざなりに整備されたそこは、階段の影に隠れて普段から人の目にも止まらない。犯罪行為の現場としてはうってつけに思えるが、幸いすぐ隣が交番であるために、今まで何の事件も起こっていなかった。

 湊は今、その路地の前に立っていた。時刻は放課後、寄り道する生徒や買い物の主婦たちで賑わう中、ただ1人でじっと何も無い路地の奥を見つめる湊はやや浮いている。
 しかし湊だけにはそこにある扉がはっきりと見えていた。路地の突き当たりの壁、その先は建物の外に出てしまうはずの位置に、不自然に存在する青い扉――ベルベットルームへの入り口は、人の意識から外れた場所にぽつんと佇んでいた。
 湊は路地の奥へと足を踏み入れる。扉の前に立ち、ポケットから取り出した青く光る鍵を鍵穴へ差し込んで。僅かにきしむ音をたてて開いた扉、一瞬の意識の空白、そうして次に訪れるのはイゴールの――

「ようこそ、ベルベットルームへ。お待ちしておりました」
「………。誰?」

 イゴールの声、ではなかった。というか、湊が全く知らない相手のようだ。
 立ち竦んだまま室内を見回せば、いつものようにテーブル正面の椅子に座るイゴールの傍ら、『かつて』ではエリザベスがいた場所に控える、1人の男の姿があった。エリザベスと同じ銀髪と金の瞳を持ち、服装もまた彼女のものと似通っている。ただし彼女の装いをエレベーターガールとするならば、この男の方はベルボーイといった趣きだ。
 男はその作り物めいて秀麗な容貌にアルカイックスマイルを浮かべ、隙の無い歩みで近付いてくると湊に手を差し出した。

「お手をどうぞ」
「え? いや、別に自分で…」
「ご遠慮なさらず。お客様をご案内するのが、案内人たる私の務めでございます」
「案内人? あなたが? ……エリザベスじゃなく?」

 混乱した湊は『かつて』との違いを問うが、湊の口から出た名前に、何故か男はピシリと笑みを凍らせた。
 それからかなり無理のある――と言っても湊から見ればさっきまでよりもよほど人間らしい――笑顔を作り直し、怖々といった雰囲気で湊に問い返してきた。

「……あ、姉上のお知り合い…なのですか?」
「知り合いというか、まあ。おれが一方的に知っている、という事になるのか」
「そう、ですか。てっきりあの姉上と同じような凄まじい――失礼。…お、お強い女性なのかと……いえ、余計な事を申し上げました。私の杞憂だったようです」

 あからさまにほっとした様子で息をつく男は、湊が自分の一人称をおれと言ったのにも気付いていないようだ。
 エリザベスを姉と呼ぶのだから、この男は彼女の弟なのだろうか? 確かに容姿はとても良く似ているが。
 謎の答えを求めて湊がイゴールへ視線をやると、イゴールは楽しげに含み笑いをもらしつつも助け舟をよこした。

「これこれ、テオドア。お客人をお待たせしてはなりませんぞ」
「は、私とした事が! さあ、ご案内致します。どうぞこちらへ」
「いや、だからおれは自分で」

 湊の返事を聞かず、テオドアと呼ばれた男は湊の手をとって部屋の中央へ導いた。やや強引であるのは、未だに姉の名を出された動揺から立ち直れていないのだろう。
 男の白手袋を着けた手に促され、湊はイゴールの対面の椅子に掛けた。そこでようやく男は一礼して下がり、最初のようにイゴールのやや後方で直立姿勢をとる。
 笑いっぱなしのイゴールに、湊は単刀直入に切り込んだ。

「で、あれ誰」
「このたび貴方をご案内する事となる、このベルベットルームの住人の1人です。貴方がご存じないとは意外でした」
「おれの記憶だと、案内人はエリザベスだったから。エリザベスの弟なのか?」
「人の姉弟とはやや意味が異なりますが、確かにそのような言い方もできますな」

 曖昧な返答だが、実のところ湊もそれほど興味があるわけでもなかったので、どうでもいい。姉の名が呼ばれる度にぴくぴくとこめかみを引きつらせる男に直接聞くのも哀れであろうし。
 湊がこの話題を終わらせようとしたところで、イゴールは今思いついたといった口調で男に告げる。

「おお、そうでした。お客人がご存知でないのなら、まずご挨拶させねばなりません。テオドアや」
「はい」
「先ほどは少々、無礼でしたよ。ご婦人の手を許可無く握るとは、紳士としてあるまじきです」
「は…誠に、申し訳ございません。私もまだまだ修行が足りぬようです」
「謝罪は私ではなく、お客人に直接なさい」
「仰る通りです……そうさせて頂きます」

 イゴールがやんわりと叱るのに、男は僅かに眉を下げて落ち込んだ風である。
 しかし湊に注目されているのに気付くと、襟を正してその横まで歩み寄ってきた。背中を丸めるようなみっともない真似はせず、腰からまっすぐ上体を折って綺麗にお辞儀する。

「ご挨拶もせず、先立っての無礼の数々。誠に申し訳ございませんでした。今後はさらなる精進を重ねて参りますので、どうかお許し願えませんでしょうか」
「あのくらいで怒ったりはしない」
「ありがとうございます。では改めまして――私、この度お客様の案内人を務めますテオドアと申します。以後、お見知り置きを」
「…有里湊だ。今後ともよろしく頼む」

 エリザベスと違って少々抜けたところがあるように思えるが、基本的に生真面目な男のようだ。
 最初こそ驚かされたものの、慣れれば特に問題があるわけでもない。むしろエリザベスを恐れている様子など、『かつて』彼女の最後の依頼を達成するまで幾度も叩きのめされた湊としても妙な親近感が――。

「湊様ですね。ああ…私は幸運です。『初めてのひと』が湊様のような美しいお嬢様だなんて」
「待て今の発言は何だ」

 前言撤回、やっぱ無理。キラキラするな頬を染めるなこっち見んな。
 自分の今の外見は愛らしい少女である、それは認めよう。でも『初めてのひと』とか意味わかんない。何か卑猥だし。
 湊は一瞬で鳥肌の立った腕をさすりながら、錆び付いたネジのようなぎこちない動きでイゴールの方へ首を向けた。

「どーいういみだ、いごーる?」
「おや、随分と動揺されておいでで…」
「やかましいさっさと話せアレに何吹き込んだ」
「何か誤解なさってはいませんかな。テオドアはただ、案内人としての初めてのお客人が貴方であると言っているのですよ」
「え? ……それだけ?」

 恐る恐るとテオドアに視線を戻すと、相変わらずの輝く笑顔で湊を見ている。その瞳の中に邪な欲望の色は無い。というか、むしろ純粋すぎて湊の方が居たたまれないほどだ。
 ……思わず、そんな目でおれを見るなと叫んで逃げ出したくなった。
 だがとりあえず、これだけは言っておかなければならない。子供の夢をぶち壊すようで心苦しいが、たぶん黙ってたらもっとまずい。

「……とても言いにくいんだが」
「何でしょうか? 私は湊様の案内人。何でも仰ってください」
「あのな、おれは男だ」
「……おかしいですね。耳が遠くなったようです」

 笑みを保ったままかろうじてそう答えたテオドアだが、よく見ると口元が引きつっている。
 見たくない現実というのは、ままあるものだ。だがそれを受け入れなければ、前には進めないのである。

「まあ確かに身体は女なんだけどな、何故か。でも中の人は男だから」
「くっ……な、中の人なんていません…!」
「酷いオチでごめんな? 同じ男として、気持ちはわからんでもない」

 屋久島での野郎3人で挑んだミッションで、真田を尊い犠牲に捧げかけた件を思い出す。あれは詐欺だった。
 だからこそ湊は最初にテオドアに明かすのだ。あの時の自分の絶望を、これから案内人として共にやっていく相手に味わわせたくはないから。そう、これはテオドアへの湊の厚意なのだ。決して反応を見て遊んでいるわけではない。
 湊は部屋の隅で頭を抱えて「男性…でも、身体は女性…いやしかし…」と葛藤し始めたテオドアを、生温かい笑顔で見守った。ちなみにイゴールは一連のやり取りを見ていたが、止めなかったと言っておく。

 しばらくの後、そこには1つの試練を乗り越えた漢の姿があった。
 彼はすっくと立ち上がると、誰に向かってでもなしに、厳かにこう宣言した。

「――やはり私は間違ってはいない。中身が男性であろうと人間でなかろうと、身体が女性であるのならご婦人として丁重に扱うのが紳士たるものの礼儀なのだから!」
「だ、そうですよ。お客人」
「うん。とりあえずおれに被害が無ければどうでもいいな」

 自分がけしかけたくせに、酷い言い草である。
 それというのも、冷静になって考えれば、テオドアが湊の脅威となる事はないだろうとわかるからである。何せ自分で紳士とか言っちゃうくらいなのだから、よもやこっちの意思を無視して襲い掛かろうなんてするはずがない。
 こいつは安牌。男である自分を偽る必要も、無闇にあちらの反応を恐れる事もない、楽な相手だ。
 ……ある意味では、湊がテオドアに心を開いていると言えるのかもしれなかった。もっとも、テオドアとしてはそんな認識をされても嬉しくないだろうが。


 湊は気を取り直して、今日ベルベットルームを訪れた理由、新たなペルソナを生成したいという旨を告げた。イゴールはこの世界においても湊が複数のペルソナを扱えると言ったが、『かつて』と違って戦闘により直接ペルソナを入手する事はできないようだった。
 ではどうやって新たなペルソナを手に入れるのかと訊いた湊に、以前イゴールはこう答えただけだった。
 すなわち、“コミュニティ”が貴方の新たな力となるでしょう、と。

「あれからコミュが2つできた。これで新しいペルソナを作れるんだな?」
「――ほう、“魔術師”と“審判”ですな。では早速始めると致しましょうか。テーブルの上のカードをよくご覧下さい。伏せられたそれらのカードは、貴方の中に生まれた『他者に向ける心』の欠片です……」

 イゴールは“マインドマンサー”である。ベルベットルームを訪れる契約者たちの手助けをし、彼らの内に眠る心の欠片を集めて、1つのペルソナとして呼び覚ますのだ。
 彼が契約者の心の欠片を見出すために象徴として用いるものは、主にタロットカードの大アルカナである。今回彼は湊に対して、小アルカナまで含めたタロットカードのフルセット、計78枚を使った。
 イゴールの指示通りに湊がカードの束の上に手をかざすと、そこから数枚のカードが独りでに飛び出して、床に落ちてしまった。

「……いいのか? カード落ちたけど…おれのせい?」
「テオドアが拾ってくれますので、お気になさらず。あれらは現在の貴方には生み出す事叶わぬペルソナです。発動も降魔もできぬ、言うなれば相性最悪なアルカナですな」
「最悪って……」
「逆に最良の相性もございますぞ。こちらは発動に必要となる精神力が半分で済む。貴方の今の心の根幹たる“恋愛”のアルカナです」

 落ちたカードは、全て大アルカナであった。
 にこやかに拾って見せてくれたテオドアの手の中にあるのは、“愚者”“女教皇”“正義”“運命”“剛毅”“節制”“塔”“月”“世界”の9枚だ。
 湊が“世界”のカードを見るのは初めてである。確か“宇宙ユニバース”と同じ意味であると記憶しているので、今の自分に作り出せないというのは当然かと思う。“愚者”についても、ワイルドの資格を失ったために作れないのだ、と考えられる。
 しかしそうなると、残りの7枚が相性最悪というのは何故だろうか? 何か法則性があるような気もするが、あと少しのところで正解が出てこない。
 では逆に他の、相性が最悪でないアルカナの共通点とは何だろう。“恋愛”は相性最高という事で、これも例外として考える。
 イゴールはペルソナの生成にコミュが関わると言った。しかし今の自分が持つコミュは2種類だけだ。
 ならば対象となるアルカナと、コミュとの関わりとは一体――

「――あ、」

 思わずもれる声。そうだ、気付いた。
 対象アルカナ“魔術師”“女帝”“皇帝”“法王”“戦車”“隠者”“刑死者”“死神”“悪魔”“星”“太陽”“審判”――これらは皆、『かつて』湊が築いたコミュに対応するアルカナなのだ。
 かけがえのない絆で結ばれた人もいれば、真に分かり合う前に湊自身の死で別れねばならなかった相手もいる。けれどコミュを築いたという事は、彼らから湊へ、そして湊から彼らへと向ける心が確かにあったという証なのだ。
 湊が彼らと関わったという事実は、影時間の消失とともに忘れられてしまった。しかし今、湊の中でその記憶が存在し続けているように、きっと彼らの中でも湊へ向けた心は「無くなった」わけではないのだ。
 友近、小田桐、文吉爺さんに光子婆さん、宮本、Y子とりうみ、舞子、ファルロス、たなか社長、早瀬、神木……

「おや、これは…」

 イゴールがその血走った目を、驚愕にさらに見開く。
 テーブルの上の束から、今度は湊もイゴールも何もしていないのに、飛び出してきた何枚ものカード。それらは床に落ちる事なく宙を滑り、湊の周囲に円を描くように浮かんで光を放ち始めた。
 やがて輝くカードそれぞれから、見覚えのあるペルソナの姿が1つずつ現れる。
 同時に、今はもう――あるいは『まだ』――聞こえないはずの人たちの声が脳裏に響いて。

 魔術師ネコマタ――友近。
『よう、元気でやってるか? えらく可愛い姿になっちまったんだなぁ…おっと、オレの守備範囲は年上だから安心しろよ』

 皇帝フォルネウス――小田桐。
『久々だな、有里君。やはり君は、僕が見込んだ人間だった。今は新たな難題にぶつかっているようだが、君ならば前以上の結果を残せると信じている。それに…今回限りは僕も君の助けになれそうだ』

 法王オモイカネ――文吉爺さん、光子婆さん。
『こりゃ何とした事じゃ! 婆さんや、湊ちゃんが女の子になっちまったぞ!』
『まあまあお爺さん。男の子でも女の子でも、湊ちゃんは湊ちゃんですよ。私たちの可愛い湊ちゃんを、助けてあげましょう?』

 戦車アラミタマ――宮本。
『女になったんなら、部活違っちまうな……また1年終わったら男に戻ってねえかな? ――生きて戻って来いよ。んで、次の年こそ一緒に大会出ようぜ』

 隠者ヨモツシコメ――Y子とりうみ
『ちょっとぉ、ヨモツシコメって黄泉醜女って書くんだよ! ヒドくない!? ってか、リアルとっくにモロバレだったとかY子恥ずかしすぎて死んじゃう (*ノ∀`*テレッ』

 刑死者イヌガミ――舞子。
『もー! 大人になったらおにいちゃんのおよめさんになったげるって言ったのに! やくそくやぶったらいけないんだよ! わんわんも怒ってるんだから…ちゃんと帰ってこないとだめだよ!』

 悪魔リリム――たなか社長。
『なーに、アンタって随分罪作りなオトコじゃない。言っとくけど、アタシはオンナには厳しいわよ? そのメイクちょっと薄すぎるわ、オトコ引っ掛けるんならもっとクッキリした配色じゃなくちゃ』

 星ナンディ――早瀬。
『何やら妙な事になってるみたいだが、お前ならきっとどんな場所でも頑張っていける。それでももしお前が逃げ出したくなる時があったら…俺を思い出せよ。お前のライバルだった、早瀬護をさ』

 太陽ヤタガラス――神木。
『やあ……。まさか、僕よりも早く君が逝ってしまうなんて思わなかった。わかっていたら、なんて言うのは無しにするよ。ただ、君が良ければ…そちらの僕と、もっとたくさん話してやってくれるかい』

 次々に掛けられる声はどれも温かく、そしてちょっぴりの困惑も混ざっていた。
 これは湊が想像する彼らの言葉なのだろうか? それとも、本当に世界を越えて『かつて』の彼らが想いを届けてくれたのか。
 真相はわからない。けれど確かに、それは力となった。浮かび上がったペルソナたちは、光の粒子に姿を変えて湊の身体に吸い込まれていった。ペルソナを放出したカードは光を失い、再びテーブルの上の束の中へと戻っていく。
 残ったカードは、後3枚。だが湊が自らの内に宿しておけるペルソナの最大数は、12である。恋愛ピクシーが最初からあるので、今宿った9体を合わせると、残りの枠は2つ。
 どうなるのかと思っていると、不意に湊の耳元を小さな子供の笑い声がかすめた。

『今回は僕は他のみんなに譲る事にするよ。みんなと違って、僕はこっちでもそっちでも同じ僕だしね』
「……ファルロス? …いや、――綾時?」
『同じだよ。だから、僕の事で悩まなくても大丈夫。君の幸せを、願ってるよ』

 声が遠のくのに合わせて、“死神”のカードから光が消える。そしてテーブルに戻る前にくるりと湊の周りを一回転し、その後も束に直接戻らずに、テーブルの端で表側を向けて倒れた。イゴールがそれを手にとって「自己主張の強い“死神”ですな」と呟いた。
 ファルロスの言葉の意味を考える間にも、次のカードがペルソナを映し出す。“審判”のカードはチカチカと光を明滅させ、その度に違った相手の声がかぶさっては騒ぎ立てる。

 審判アヌビス――ゆかり、順平、真田、風花、アイギス、天田、コロマル……
『うわぁ…何か、……何て言ったらいいの? や、また君が生きられるって事は、いいんだけどさ…』
『おっほぉー。変わっちゃったなオマエ! こりゃもう、ハイレグアーマー着けてみるっきゃないだろ! ハイレ――ぶぇ』
『目標の沈黙を確認。任務完了です』
『アイギス、さすがです! …って、順平くん……えっ、大丈夫だよね?』
『順平さんって、本当に一言多いですよね。あ、僕は別にいいと思います。必要なら着けるべきじゃないですか、どんな防具でも』
『まあ、何だ。そっちの俺たちともうまくやれそうで、一安心だ。……シンジの事で無理するなよ。お前のせいなんかじゃないんだ』
『ワンッ、ワン!』

 ……感動とは別の意味で拳を握りたくなる一言もあったが、既に制裁されたようなのでよしとしよう。
 今の彼らとは違う、互いに全く遠慮が無いというか、色々と駄々漏れな雰囲気である。けれどその中に感じられた、湊への心配や励ましの感情。

『――てめぇのしたいように生きろ。俺は説教なんてガラじゃねえからな、アイツに任せる』

 光を失う間際、カードから微かに聞こえたのはあの人の声で。湊が「アイツ?」と訊き返すものの、答えは無く束に戻っていった。
 そうして、最後。湊の正面へと舞い降りてきて、ペルソナを投影する“女帝”のカード。
 現れた半透明の姿は、床までつくほどの金髪を背に流し、漆黒のドレスを纏って知恵の輪を手にした女。女帝リャナンシーだ。
 リャナンシーは、これまでの他のペルソナと違って、まるで本当の人間のように表情があった。哀れむように、愛しむように、静かな瞳でじっと湊を見つめていた。その口が、ゆっくりと開かれて。

『君は……時々、酷く愚かになるんだな』
「美鶴…?」
『恐らく、この「私」が何を言おうが今の君には届かないだろう。きっとこれは、君が自分で…あるいはそちらの「私」が、気付かなければいけない事だ』
「美鶴? …何を言ってるんだ? おれは、」
『君が再びの生で何をしようと、誰を選ぼうと、それは君の自由だ。だから本当はこんな事を言うべきじゃない。わかってる……ああ、やはり私も愚かな女というわけだ』

 美鶴の声で話すリャナンシーは、湊の問いに答える事はしなかった。ただ、ふっと悲しげに微笑んで。

『それでも、これだけはどうか言わせてくれ。――君を、愛している。……ずっと』

 リャナンシーはふわりと宙を蹴って、その白い腕を湊の肩口に絡ませた。椅子に座ったままの湊の膝に乗り上げるように身を寄せ、唇同士が今にも触れ合いそうな距離で――しかし、触れる直前で彼女の姿は朧に霧散した。

「……美鶴?」

 存在が消失したのではない。他のペルソナ同様に、光の粒となって湊の中に戻っていっただけだ。
 でも、もう名前を呼んでも声が返ってくる事はない。
 湊は彼女の言葉の意味を考えてみるが、やはりよくわからない。……わかっては、いけない。
 まるでもう2度と会えない別れの挨拶みたいだなんて、そんな馬鹿な事を思ってはいけないのだ。

 テオドアが、神妙な表情で湊に何かを差し出した。
 湊の視界は歪んでいて、それが何なのかよく見えない。頬を伝う、冷たい感触がある。
 湊が差し出されたものを受け取らぬままでいると、テオドアは「失礼致します」と一言断ってから、それを優しく湊の頬に押し当てた。両頬を同じように真っ白いハンカチで拭き取られて、ようやく湊は自分の状態に気付いた。

「……あれ? …何で、――おかしいな、涙なんて、おれ」
「湊様は、“悲しい”のですか?」
「悲しくなんてない! そんなはずない、だって美鶴はちゃんとおれのそばにいるんだ、……寮に帰ればお帰りって言ってくれて、おれに期待してるって笑いかけてくれて…!」

 ……そうだ、『桐条美鶴』は今も寮で自分の帰りを待ってくれているはずだ。
 自分が愛する彼女。今しがた、自分をずっと愛していると告げてくれた彼女。そして未だ自分を愛してはいない――、

「違う。いや、違わない? …そう、そうだよ、美鶴……美鶴は美鶴だ。おれの大事な美鶴…」
「『美鶴』様――湊様は、その方のために悲しまれている?」
「控えなさいテオドア。それは案内人の分を越えています」

 この日2度目のイゴールの叱責は、初めのそれとは異なって、有無を言わせぬ厳しさをはらんでいた。
 テオドアは納得のいかないような、まだ湊を気にしている態度だが「…差し出がましい事を申しました」と謝罪して、ハンカチをしまうと後方の定位置へ戻っていった。
 だがイゴールとテオドアのやり取りなど、湊には聞こえていないのかもしれない。涙がおさまってなお、自分自身に言い聞かせるかのごとく、ぶつぶつと独り言を繰り返している。

 室内には湊の呟く声と、イゴールがタロットカードをシャッフルする音だけが響いていた。
 ベルベットルームでは常に流れているはずの、どこか懐かしさを感じる女性の歌声もいつの間にか止まっていた。あれは“全ての人の魂の詩”――自らを騙して心を閉ざす、今の湊には感じ取れないのだろう。


 それからどのくらい経ったのか。
 湊が不意に大きく息をついて顔を上げた。その表情に憂いの影は見当たらず、もうさっきまでの自分が何を言っていたのかさえ忘れてしまったようだった。
 歌が再び、青い部屋を満たしてゆく。

「……ああそうだ、ペルソナ。これで12体、フルに持ってるんだよな。また違うペルソナを作りたい時は、どうすればいい?」
「既にお持ちのペルソナを帰還させて、枠を空けていただく事になりますな。戦闘で経験を積ませ、スキルを覚えきったペルソナを帰還させれば、アイテムに姿を変えて貴方のさらなる力となってくれるでしょう」
「そっか。じゃあ、ペルソナじゃなくなっても形として残るんだな。みんなを消すみたいな気分にならずに済みそうだ」

 軽く笑ってさえ見せた湊だが、その声はどこか空虚であった。
 気遣わしげにこちらの顔色を窺うテオドアにも、湊は何も気付かない。
 イゴールはいつもと変わらぬ調子で、カードの束をテーブルに置き直すと両手を組んだ。

「さて、今回のペルソナの生成過程はあくまでもイレギュラーであると考えていただきたい。本来はこれらのカードを用いて貴方の中から『他者に向ける心』を汲み上げ、1つのペルソナとして呼び出すのです」
「そのためにコミュが必要?」
「左様。今貴方に宿っているアルカナも含め、それよりも上位のレベルのペルソナを生み出すためには、新たなコミュを築き、またコミュの絆をさらに深めねばなりません。より一層他者へと心を注ぎ、他者からも心を預けられる事が肝要です。それにより汲み上げられる『他者に向ける心』も増え、生成できるペルソナも多様なものとなりましょう」

 つまりペルソナが欲しけりゃ、とにかく何をおいてもコミュれ。
 段々と抽象的でわけがわからなくなってきたイゴールの説明を、湊はそう総括してすっとばした。
 他に重要な部分と言えば、『かつて』コミュを築いていてさらに今もコミュを発生させた“魔術師”と“審判”については、“恋愛”同様にアルカナ相性が最良となって発動コストが半分になった事。
 また現在は相性最悪なアルカナも、対応するコミュが生まれれば、生成と発動が可能な程度には相性が好転するらしいという事。
 他には……。

「発動に必要な精神力が、スキルごとに決まってるんじゃなく、ペルソナごとに固定ってのはしばらく慣れないかもな」
「たとえばレベル8のリリムに使わせるマリンカリンと、レベル39のナンディに使わせるマリンカリンでは、ナンディのマリンカリンの方が疲れます。現在の貴方の精神力だと、ナンディを日に何度も発動するのは厳しいでしょうな。相性最良となってコスト半分で済むアヌビスでも、やはり多用はできぬかと。ただし、発動せず降魔させておくだけならば精神力の消費はありません」

 発動はしないにしても、現在の自身より遥かに上のレベルのペルソナを降魔しておけるというのは、武器による直接攻撃力や敵の攻撃への耐性などの点で有利である。自身のレベルとペルソナのレベルの差による、暴走などのデメリットも特に無いと言う。

「ふーん……最初はどうかと思ったけど、やりようによっては前より楽になるかもな」
「他にご質問はありますかな?」
「いや、今日はここまでにしとく。今夜あたり早速タルタロス行ってみて、具合確かめて…何かあればまた来るよ」
「そうですか。では、テオドア」
「はい。どうぞ、扉までお送り致します」
「別にいいって言ってるのに…」

 断固として譲らないテオドアに根負けし、「ま、どうでもいいか」と湊は彼の手をとって椅子から立ち上がった。
 扉の前まで来るとテオドアは少し下がり、文句の付けようが無い礼で湊を見送った。

「またのご来訪をお待ちしております、湊様」
「……ああ、またな」

 湊が扉を抜け、また扉が閉まって、外の世界から射し込む光が一筋も残さず消えるまで。
 テオドアはじっと頭を下げたまま動かず、姿勢を戻した後もただただ湊が去った扉を見つめていた。
 そんなテオドアの様子を観察し、イゴールがため息とともに口を開いた。

「テオドアや」
「……はい」
「貴方にとって湊様は初めてのお客人…心を傾けるのもわかります。ですが、案内人とお客人の関係を越えてはなりませんよ」
「…私は、湊様に“心”を傾けているのでしょうか?」
「それがどれほどの深さであるのかは、私にも量りかねますがね。好奇心程度か、確かな絆を求めるほどか、はたまた恋心――いえ、これはいくら何でもありませんか。湊様はあの通り、精神は男の方ですからね」

 イゴール自身も、“心”が何なのかという問いに明確な答えを持ってはいない。
 マインドマンサー、心の海を自在に泳ぐ術を持つ者と言えども、その全てを知り尽くしているわけではないのだから。
 そのイゴールが創造した存在であるテオドアもまた、“心”について思い悩む事もあるだろう。今真剣な表情で己の感情と相対しているテオドアを、イゴールはまさに親の心境で見守る。
 ――と、その真剣なテオドアが、真顔のままこちらを振り返って。

「でも身体は女性ですよ?」
「黙りなさい」
「はい…」

 イゴールに笑顔で一蹴され、テオドアはすごすごと部屋の奥に下がっていった。
 客人の悩みに直接答えを与える事はできないが、せめて新たな悩みというか頭痛の種を与えるような事は避けたい。こんな事ならエリザベスの方に任せるのだった、とイゴールが後悔したとかしなかったとか。
 ともあれ、湊の気付かぬところでまた新たな絆の芽が顔を出したのだった。


     ――初稿10/05/24
     ――改稿10/05/29



[18189] ●第八回● 4月24日~“戦車”コミュ発生~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/05/29 23:18


 昨夜のタルタロスは、順調に最初の番人を倒して、自分たちの力に手応えを感じたところでお開きとした。
 湊は今のところ、一晩で新たに上るのは5階ずつと決め、ゆっくりと事を進めていた。まだ1年は始まったばかりだし、仲間たちの体調に気を配りながら、翌日に疲れを残さない範囲で経験を積んでいけばいい。自分も含めて皆にある程度スタミナがついてきたら、もう少し攻略ペースを上げるつもりだ。
 持久力を上げるためには、戦闘経験を重ねて効率的な体力・精神力の使い方を身に着ける事だ。
 しかしそれ以外、日常の部分でも、今の湊にはまだ努力できる余地が残っている。

 4月24日、放課後。湊は早々に教室を出ると、運動場を集めた別棟に続く渡り廊下を走っていた。今日から運動部の今年度部員募集が始まると、昼休みに順平から聞いたからだ。
 順平はあれから、本人の言葉通りに普通の友人として付き合ってくれている。まだ彼の事情に深く踏み込めるほどではないが、“魔術師”のより強いペルソナを得るためには、いずれ避けては通れないだろう。

 渡り廊下は、校内緑地として整備された明るい広葉樹の木立の中を突っ切っている。緑地へは廊下の中ほどから出られるようになっていて、季節ごとの野の花も楽しめるそこは、友人と集ってお昼を食べるのに人気のスポットだった。
 湊がふと視線を流すと、どこかで見たような女子生徒が、緑地の手前側に生えた1本の木をしげしげと眺めていた。
 思わず足を止めて、彼女の背後から「あ、柿の木」と言ってしまう。

「! これって、やっぱり柿の木なの?」
「う、うん。そうだよ。商店街の古本屋のお爺さんたちが、大切にしてる木なんだ」

 思い出した。この生徒、『かつて』もここでいつも木を見上げていた子だ。柿が好きなんだろうか?
 彼女は湊に驚かされた事など気にもせず、さらに「古本屋?」と話を聞きたがる様子だ。
 湊はその勢いに押されて、古本屋の老夫婦が柿の木の生育を気にしている事や、その店が25日にリニューアルオープン予定だというのも喋ってしまった。うんうんと頷く彼女に、木が切られる事になるという未来までうっかりともらしそうになって、慌てて口を噤む。

「そっかぁ…うん! 何か色々わかった。誰だか知らないけど、ありがとね! バイバイ!」
「あ、うん。バイバイ…」

 彼女はぶんぶんと手を振ると、竜巻のようにあっという間に去っていった。
 唖然としつつ、思う。……何だったんだろう。
 思わぬ寄り道になったが、さほど長く話し込んでいたわけでもないらしい。湊は我に返ると、本来の目的に従って、運動場棟へ繋がる扉に手を掛けたのだった。


 扉を開けると、その音に気付いたのか1人の少女がこちらを振り向いた。湊と彼女の距離はやや離れているが、じっと見つめてくる彼女の視線の強さは無視できなかった。
 だが湊が近くへ寄っていくと、彼女は逆に興味をなくしたように目をそらした。よくわからない相手だ。
 とはいえせっかくなので、女子の部活について訊いてみるくらいはいいだろう。湊は彼女の前に立って話しかける。

「こんにちは。運動部に入りたくて来たんですが、今募集してるのって女子だとテニス部とバレー部だけですか?」
「ええ、そうですけど。…テニスがやりたい、とかってはっきりした意欲があるわけじゃないんですね」
「正直に言うと、その通りです。どちらもやった事が無いのは同じで、部活に入りたいのはまず基礎体力を上げたいからですし」

 あけすけに答えれば、少女はやや意外そうに湊の顔を見た。
 さらに湊の手、中でも爪が伸びておらず、マニキュアも塗られていない事を確かめると、それまでの無表情を崩して笑う。

「ごめんなさい、何だか勝手にあなたの事決め付けてたみたい。最近、部活をただの肩書きだって考えてるような人が多くって」
「別に気にしてません。あなたは、どこの部の人なんですか?」
「私はテニス部で、2年のリーダーをしてる岩崎理緒。あなたは見ない顔だけど、新入生かな?」
「2年F組の転校生で、有里公子です」
「同じ学年なんだ。なら、敬語とかいらないよ。テニス部の見学、していく? やる気のある人なら大歓迎」

 理緒はテニス部の部員勧誘のためと、この運動場棟の廊下で独り、来るかもわからない部員候補を待つよう顧問から言われたらしい。新入生が何人か通りかかったが、声をかけてみても見込みのなさそうな相手ばかり。
 勧誘と言うならいっそプラカードでも作って校内を巡回するべきかと、本気で検討を始めていた頃に湊が訪れたというわけだ。

 湊はひとまず、理緒の申し出を受けてテニス部の活動風景を見学する事にした。
 理緒によると、バレー部についてはわからないが、テニス部では基礎練習と体力づくりが活動の半分以上を占めるそうだ。確かに実際の試合をして技を磨くのも大事だが、基本となる部分をおろそかにしては結局うまくいかないのだ。
 理緒の後についてグラウンドへ出て、女子テニス部に割り当てられた一角へ向かう。
 しかしやがて視界に入ってきた光景は、ほとんどの部員が練習もせずそれぞれ好き勝手に駄弁っているというもの。理緒は苦虫を噛み潰したような顔で「もう、また…!」と呟き、湊を置いてつかつかと部員たちのもとへ歩み寄った。

「何してるの? 走りこみ終わったら壁打ちって、言ってあるはずだけど」
「げ、岩崎……別にさぼってたんじゃないって。ちょうど走り終わって、ちょい休んでたってか…」
「その割には、息上がってる人誰もいないみたいだね。だったらもう、休憩は切り上げていいんじゃない?」
「はいはい。もう、うるさいなぁ…」

 理緒の注意で三々五々に散っていく部員たちは、「熱血スポ根女とか今時はやんないし」とか「せっかく次の合コンの話してたのに」などとぶつぶつ文句を言っている。
 それでも練習が再開されたのを見届けて、理緒はハッとして湊のところへ戻って来た。

「ごめん! あなたの事、放り出しちゃってた」
「いいよ。だいたい、状況はわかったから」
「……ほんと、ごめん。最近はいっつもこうで…あなたが入ってくれても、あんまりしっかりした全体練習とかできないかもしれない」
「基礎練は人数必要ないみたいだし、平気だよ。まあ、できれば大会とか出たいなって、思わなかったわけじゃないけど」

 早瀬のように、部活の大会で知り合った相手とコミュを持てたかもしれない、と考えれば少々残念ではある。しかし今の自分が女である以上、男の早瀬にライバルと認識される事はないので、これは捕らぬ狸の皮算用だろう。
 何気なく言った言葉だったが、理緒はそれに「大会に?」と食いついてきた。さっきからの態度といい、他の部員の評する通り、『熱血スポ根』なのかもしれない。

「えっと。どうせやるなら、って」
「そう…そうだよね? せっかく大会っていう、みんなで目指せる目標があるんだもの。やってやろうって思うよね?」
「わたしは、ね。でも、別に無理なら部内の空気とか乱すつもりもないし…」
「大丈夫! 一緒に頑張っていこう? 真面目に基礎練やれば、あなたが必要だっていう体力はちゃんとつくから」

 理緒の気迫に負ける形で、湊はそのままテニス部の入部届けにサインした。
 職員室に顧問を訪ねると、テニス部顧問はあの叶エミリであった。倫理の担当で、『かつて』友近が熱を上げていた女教師である。
 叶は気だるげに髪をかき上げながら「公子ちゃんねぇ。じゃ、行きましょうか」と湊を伴ってグラウンドへ足を伸ばした。そうして部員たちを集めて湊を適当に紹介すると、後の事を理緒に押し付けて叶自身はさっさと戻ってしまう。
 友近を弄んでいたような節もあったし、湊としてはあまり好きになれないタイプの教師だ。

 練習時間はまだ残っていたので、途中からだが湊も参加する事にした。
 ユニフォームのようなものは特になく――アンダースコートなんて着けたくなかったので湊はほっとした――体育で使っているジャージをそのまま着ればよいとの話であった。
 運動場棟の一角にある女子更衣室へ入ると、中には誰もいなかったが、残された香水の香りが鼻をくすぐった。いわゆる、『女の子の匂い』というのだろうか。さらにロッカーの幾つかからは、脱いだものの一部がはみ出していたりした。
 これは下手に目の前で女子の下着姿を見るよりも、湊の男としての精神にキた。一応はこれまでに体育の授業もあったのだが、湊は更衣室へ移動する女子集団から抜け出して、トイレで着替えていたのでわからなかったのだ。

「どうしよう、おれ変態だ……」

 ……今さらな発言である。でも本人はようやく自覚した事実に大真面目に凹んでいる。
 湊は顔を真っ赤にして「うぅぅ」と唸るとうずくまってしまった。案外ただ落ち込んでいるというだけでなく、何がしかの興奮めいた感情もあるのではと――いや、これ以上の推測はは名誉毀損であろう。
 改めて弁明するならば、これは湊自身の性癖がアブノーマルというわけでなく、本来男性であるのに突然女性として暮らす事を余儀なくされたために起こした混乱である。それなら身体が変わってすぐになるだろうとか、反論はあるかもしれない。しかし心のどこかに棚上げしていた問題が、ふとしたきっかけで蘇ってしまう、というのは誰しもある事ではないだろうか。

 更衣室でたっぷり数分も頭を抱えていた湊だが、やがて立ち直ったのかのろのろと着替え始めた。
 ロッカーに荷物と制服を入れて鍵をかけ、ハーフパンツと体操服にジャージ上着という出で立ちでグラウンドに出た湊を、待っていたらしい理緒が迎えてくれた。

「遅かったね。……何だか、顔赤いみたいだけど大丈夫? 気分悪いの?」
「だ、大丈夫。ちょっと自分の性――何でもない。うん、少し考え事しちゃっただけ」
「? ならいいんだけど…じゃあ、練習始めようか。テニス初めてって言ってたし、今日はみんなに混ざって軽く雰囲気掴んでみよう」

 その後は真面目に練習に取り組んだ甲斐あって、余計な邪念は頭から吹き飛んでいた。
 軽くとは言ったが理緒の教え方はスパルタで、未経験者の湊にも容赦無かった。次からの基礎練習も厳しいものになる事が予想され、それだけに確かに体力はつくだろうと思われた。


 練習が一段落し、理緒はこの日の活動報告をするという事で職員室へ出かけていった。
 今日はやや早上がりだそうである。何でも、最近港区内で変質者が出没しているせいだとか。遭遇する時間帯が日没後から夜にかけて多いため、女子の部活はあまり暗くならないうちに終えるようにとの生徒会からのお達しだ。
 理緒が行ってしまい、湊が結構な疲労に息をついていると、今まで話しかけるチャンスを窺っていたのか、わらわらと他の部員たちが集まってきた。

「ね、ね! アンタ知ってるよ、真田センパイの彼女でしょ!」
「えー、アタシは伊織の女だって聞いたけど? ホントのところ、どっちなの?」

 湊は思わずむせた。
 ……どこでどうしてそうなった?

「!! ――ゴホッ、…な、何それ!? どっちも嘘、ひどい誤解!」
「えー、隠さなくっていいって! 確かに真田先輩って人気あるし、警戒しちゃうのもわかるけどさぁー」
「そうそう、うちらの中には『過激派』とかいないし。てか、真田センパイて結局観賞用だし? 実際付き合うには重そうってか、周りがアレだし覚悟いりそうだよね。アンタ勇気あるじゃーん!」

 詳しく話を聞くと、例によって噂が斜め上に進化しているらしかった。
 今のところ優勢なのは真田の彼女だという方で、順平の方は噂の広がりに危機感を持った一部の真田ファンが、やっきになって流しているデマだというが……どちらにしろ湊本人にとっては迷惑な話である。真田と順平にも、申し訳ない。
 それにしても最初の校門前で肩を叩かれたのが、こうまでこじれているとは。
 転校生という湊の話題性と、真田がこれまで女子に親しげにした事がないという事実が相乗効果になっているのはわかるが、いくら何でも酷すぎだ。どうやって収拾すればいいのか、もはや湊にはお手上げである。

「でもー、あたし聞いたのは教室まで迎えに来て人前で堂々とベロチューかましてたって」
「それもう元の話にかすってもいない…」
「そうなの? つまんないなー」
「でもさ、実際全然眼中に無い相手なのに勝手に周りで盛り上がられんのってウザいよねー。伊織との噂なんてサイアクじゃん」
「あるある! しょーがないな、アタシらで噂の打ち消し手伝ったげよっか?」
「是非お願いします」

 厄介な女の子の好奇心が、救世主に変わった瞬間だった。
 拝みそうな勢いで目を輝かせた湊に、部員たちは顔を見合わせて笑った。それも嫌な笑いではなくて、本当に何でもない、この年代の女の子特有の『箸が転んでも』のたとえになるようなものだ。
 それぞれに湊の背中を叩いたり、頭を撫でたりしながら部員たちが言う。

「何かアンタ、カワイー! 天然? 妹っぽいー」
「世間知らずってか、雰囲気スレてないよねー。どう? 今度アタシらと一緒に合コン参加してみる?」
「やめなって、こんなコがまかり間違って大学生ってだけのキモ男とかにお持ち帰りされたらカワイソすぎるしー」

 次々にまくしたてられ、返事をする余裕が無い。湊はあわあわと口を開閉させて困惑した。それがまた彼女らの『カワイイモノセンサー』を反応させている事はわかっていないようだ。
 理緒が戻ってくるまでいじり倒され、解放された頃にはぐったりと精神的に疲れていた湊である。

「……大丈夫? みんなどうしてああなんだろ。恋とか男とか、そんなのばっかり」
「ううん…そういうお年頃、なんじゃないかな……でも助かった、ありがとう岩崎さん」
「いいよ。これから一緒に大会目指して頑張ってく仲間だもの。遠慮とかしないで、何かあれば私に言って?」

 ごく自然に、微笑み合う2人。
 特別課外活動部とはまた違う、日常を共にする『仲間』――目の前の理緒に加え、少々強引ではあるが、それぞれに湊を受け入れて好意的に接してくれるテニス部の部員たち。
 同じ運動部という括りではあっても、『かつて』とは180度違う女性としての集団。
 これまで関わりの無かった顔ぶれと過ごす、全く未知の領域の予感に、湊の心にまた新たな絆の萌芽が生じた。
 コミュニティ“戦車”――湊はその感覚を、大切に胸に抱き締めた。

「ところで有里さんは着替えないの? 今日はもう終わりだけど」
「あー…ええと、……みんなが着替えた後でいいよ……」


 湊が1人で着替え終わって更衣室の外へ出ると、ちょうど別の部活の女子たちが入れ替わるように入っていった。……危ないところだったようだ。
 まだ帰らずに残っていた部員たちが声を掛けてきて、噂については任せておけと快く請け負ってくれた。
 それから早く帰れと言う巡回の教師の注意を受け、全員その場で解散したのだった。

 夕焼けの空に、犬の遠吠えが響いている。コロマルのものではないが、それがきっかけで神社へ顔を出してみようという気になった。
 人通りの少ない道を、独り歩く。
 教師の注意を忘れたわけではないが、湊からすれば、変質者がどうした、というものだ。
 万一出てきたとして、コートの前を広げたら中は裸の男、とかだったら鼻で笑ってやる。何せそんなモノ『かつて』正真正銘の男だった湊は見慣れているのだから、悲鳴を上げて逃げるなんて可愛らしい反応をしてやるつもりは無い。
 いや、それどころかモノによっては哀れみの目で見てしまいそうだ。
 初めての時は美鶴から「お、大きいんだな…」とか熟れた頬で言われちゃった湊なのだ。そんじょそこらの野郎のナニなんぞ、全く相手にならないだろうという自信がある。
 ……結局遭遇する事は無かったのは、湊にというより変質者の方にとっての幸いであったろう。

 長鳴神社の石段をゆっくりと上りながら、『かつて』学力上昇祈願で賽銭を入れに通った事を思い出す。湊は最初から美鶴に惹かれていたし、彼女が頭の良い人間が好きだと聞いてからは、学年トップ目指してできる事は何でも試してみたものだ。
 今となってはテストなど余裕で、祈ったのもここではなく『かつて』の神社だが、まあ感謝の意くらい伝えてもよかろう。
 そう考えて賽銭用の硬貨を取り出そうと鞄に手を突っ込みつつ、石段を上りきった湊の視界に予想外の人物の姿が映る。

「――舞子?」
「えっ? …おねえちゃん、だあれ?」

 不思議そうにこちらを振り向き、ぱたぱたと走り寄ってくる、赤いランドセルを背負った女の子。『かつて』は“刑死者”のコミュを築いた相手である、舞子だ。
 何を言えばいいのか、咄嗟に言葉が出てこない。まさかこんな早くに出会えるとは、思ってもみなかったのだ。
 黙っている湊を下から見上げて、舞子が首を傾げる。

「おねえちゃん、どうして舞子のお名前知ってるの? お母さんの言ってた『すとーかー』さん?」
「ち、違うよ!」
「じゃーあ、せんせーの言ってた『へんたい』さん?」
「う…そ、それも違――」

 違う、と否定しようとして、舞子のあまりにまっすぐな視線に湊はたじろいだ。
 昨日のやはり純粋であったテオドアの目、そして今無垢な瞳で自分を見つめる舞子。その前ではさっきまでアレな事を平気で考えていた自分が、酷く汚れた大人に思えてしまうのだ。まして自分が変態ではないかとは、まさに今日直視させられた問題である。湊は我知らずのうちに、一歩足を引いた。
 そして子供というのは、そういう大人の挙動に聡い。
 舞子はぱっと湊から離れると、指を差して大声で叫んだ。

「やっぱり『へんたい』さんなのね! だめなんだよ! 悪いことしたらけーさつにつかまるんだから!」
「何もしないよ! お、わたしは、ただ…」
「せんせーは『へんたい』さんに会ったらにげなさいって言ったもん! お話しちゃだめだって!」

 わーっ、と叫びながら舞子は湊の脇をすり抜け、神社を下りていってしまった。
 湊はそれを呆然と見送るしかなかった。引きとめようにも話を聞いてもらえるとは思えないし、無理やり捕まえでもしたらそれこそ『へんたい』の仲間入りだ。

「……どうしよう」

 舞子の姿が完全に見えなくなった頃、ぽつりとそう呟く。
 前述したように、舞子は“刑死者”のコミュ相手である。だが今回こんな形で別れてしまった以上、舞子が今後自分を警戒せずに話してくれるかと言えば果てしなく不安が残る。最悪の場合、コミュを発生させるどころか舞子がこの神社に2度と現れないかもしれない。
 そうなれば、“刑死者”のペルソナは現在保持しているイヌガミ以外のものは手に入れられないという事になるだろう。

「何でこんな…おれが悪かった? 前から外れた事をしようとしたから? でもそれじゃ、前の悲劇を回避するなんて…」

 混乱のあまり、鞄を取り落としその場に立ち尽くしたまま、両手で顔を覆ってぶつぶつと思考を垂れ流す。
 自分の行動によって、『かつて』とは異なる結果が導き出される可能性について、理解したつもりでいた。だがこんな、決定的な悪果に至るとは想像できなかったのだ。
 焦りがじわじわと心を侵食していく。自分から動く事により、『かつて』よりも物事が悪化するかもしれない。
 これまで自分は、この世界で何をしてきただろう。悪い結果は今回だけで終わりじゃないのでは?

 ……実際のところは、今回の事は巡り合わせの悪さとしか言いようがないものだ。
 舞子が塾の日でもないのに、たまたま神社で寄り道するのを選んだ事。
 港区全域の学校に、変質者に注意するようにとの連絡が回っていた事。
 そして湊自身の現在の心理状態が、変態という単語に過敏に反応してしまった事。
 全てが絡み合い、舞子が湊を疑う状況と、疑いを晴らせない湊という構図を作り出してしまったのだ。

 だが1度湧き上がった不安は、その原因を解決しない限り、なかなか消せない。
 忘れたつもりでも、重要な決断が必要な場面で浮かび上がってきて、判断を誤らせるもとになりかねない。
 湊の心の棚は増えるばかりだ。いつかその中身の重さに耐え切れず、一気に底が抜ける日が来たとしたら。
 参拝するという目的も忘れ、鞄を拾ってふらふらと神社を立ち去った湊を、境内の奥から一対の真紅の眼が見つめていた。


     ――初稿10/05/29



[18189] ●第九回● 4月27日~『噂』が呼ぶ悪意~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/06/20 15:59

 複数の、好奇の視線が突き刺さるのを感じる。
 放課後の生徒会室。湊はこの場の長として君臨する美鶴の横に立ち、彼女による紹介を待っていた。

「先日も話したが、彼女が有里公子だ。今日から生徒会の一員として働いてもらう。最初は勝手がわからないと思うので、皆も快く教えてやってほしい」
「有里です。よろしくお願いします」

 テオドアのように完璧にとはいかないが、それなりに綺麗な礼をして顔を上げ、周囲の反応を見る。
 大方の者は、歓迎してくれているようだ。クリップボードを持った、黒ぶち眼鏡の女子生徒が、はにかみつつ会釈を返してくれた。確か1年生で、会計の伏見と言ったか。
 一方でじっとこちらを値踏みするような目を向けてくるのは、小田桐だ。同じ2年生で風紀委員であり、『かつて』では“皇帝”コミュの相手であった。
 気を抜けばすぐに思い出に飛びそうになる己を叱り付け、湊はそつの無い笑顔で対応する。
 小田桐は片眉を器用に持ち上げて、フンと息を吹き出すと腕を組んだ。

「会長が人を推薦するとは。よっぽど有能なんだろう」
「期待に応えられるよう、頑張っていくつもりです。何か問題があれば、ご指導をお願いしますね」

 湊の答えに一瞬面食らったように目を見開いた小田桐だが、やがてニヤリと笑みを乗せた。
 小田桐は聞いてわかる通り挑発的な言動の多い男なので、初対面の相手は大抵が彼に怖気づいたり苛立ったりするのだ。だが湊はその点、実に友好的かつスマートな受け答えをした。これだけでも、小田桐は湊に一目置いたようだった。

「君はなかなか見所があるようだ。僕は風紀委員の小田桐秀利と言う。これから有意義な関係を築いていこうじゃないか」
「ええ、ありがとうございます。小田桐さん」

 貼りついたような笑顔を崩さぬままで、差し出された手を握り返した。それに、同学年だというのに外さない敬語。
 これは湊の、相手に踏み込まぬという隔意であった。
 何故、『かつて』コミュを築き、今もその機会を得た相手に対して心を閉ざそうとするのか?
 それを説明するには、少々日付を遡る必要があるだろう。


 3日前に神社で舞子に逃げられた後、寮の自室へ戻った湊は少し冷静になって考えてみた。
 舞子は『かつて』の“刑死者”コミュの相手だった。その舞子と、コミュを築く前に決定的な決裂を迎えてしまった。
 しかしそれは、この世界で“刑死者”コミュを作り出せない、という根拠にはならないのではないか?
 たとえば“魔術師”コミュだ。『かつて』ではコミュ相手は友近だったのが、今は順平を相手として発生している。
 同様に、“刑死者”コミュもまた、舞子以外の誰かとの間に生まれ得るのではないだろうか?

 ただ、たとえそうだとしても、『かつて』の経験により舞子の抱える悩みを知っている湊は思ってしまう。自分が舞子と一緒に遊んでその心を慰め、相談に乗ってやらなければ、この世界の舞子は寂しいままじゃないかと。
 だがその押し付けの善意めいた感情すらも、別の場所で目にした出来事によって否定されたのだ。

 昨日、日曜日の事だ。本当はリニューアルオープン当日、土曜のうちに訪れようと思っていた古本屋へ、湊は足を向けた。
 古本屋を営む老夫婦の文吉爺さんと光子婆さんは、『かつて』で“法王”のコミュ相手だった。
 ちなみに当日行けなかった理由は、放課後いっぱい使ってテニス部員たちと一緒に、例の噂の掃除に奔走していたためだった。その結果は……はかばかしくなかったと言っておく。噂の根拠は湊自身の心当たりだけでなく、真田の周囲からも1つ信憑性のある話が流れていたそうだ。何を言った、あのタルンダ連発馬鹿が――と、湊が心中で舌打ちしたとかしないとか。閑話休題。

 ともかく古本屋に着いてみると、文吉爺さんも光子婆さんも、店番そっちのけで誰かと楽しそうに話していた。
 はて誰だろうと『かつて』の記憶を引っくり返すうちに、相手が先にこちらに気付いた。明るい表情で話しかけてきたのは、あの柿の木をいつも気にしていた女子生徒であった。どうも彼女は湊の語った話に興味を引かれて、古本屋まで柿の木の葉を持ってきて、爺さんたちに見せてやったらしい。爺さんたちはその女子生徒の行動にいたく感激して、彼女をまるで孫を見るような目で可愛がっている。
 湊は愕然とした。――そこは、おれの場所だったのに!
 心ではそう叫んでも、現実に口に出す事などできやしない。けれど素直によかったねと彼女らの関係を祝福もできず、ただ曖昧に笑みを返した湊に、彼女は続けてこう言った。私のお爺ちゃんとお婆ちゃんは私が生まれる前に死んじゃったけど、こんな風に話してるとほんとのお爺ちゃんたちといるみたいなの、と。
 それを聞いて、湊は思ったのだ。……ああ、この子は自分よりも強く、この2人との絆を必要としているんだ。
 同時にこうも思った。文吉爺さんたちにとっても、きっと必ずしも、自分が必要であるわけではないのだ、と。

 湊はすぐに、古本屋を後にした。寂しさが顔に出ていたのか、爺さんたちが少し心配そうに見ていたけれど、何も言わずに出てきてしまった。名前を名乗る事さえしなかった。
 たぶんあの女子生徒は、『かつて』の自分同様に爺さんたちを励ましてくれるだろう。どうしても『かつて』の記憶を引きずってしまう自分よりも、彼女の方が誠実に、心からの言葉を伝えられるかもしれない。
 だとしたら、自分はこのまま爺さんたちに関わらない方がいいんじゃないのか。爺さんたちだけじゃない、誤解されたままの舞子も、他の『かつて』コミュを築いた人たちも。
 彼らが問う前からその正解を知っていて、わかりきった応答を繰り返すだけの自分じゃなくて。知らないけれど、真剣に自分の頭で考えて答えようとする、別の誰かと付き合えるなら、きっとその方が――。


 突然視界が明るくなって、湊はハッと顔を上げた。
 扉の方を見やると、小田桐が電灯のスイッチから手を離すところだった。

「あ…すみません」
「暗い場所での作業は目に悪い。自分の身体の事も、気遣いたまえ」

 気が付けば、窓から入る西日もかなり少なくなっていた。あれから結構な時間が経ったようだ。
 美鶴は自分を紹介した後、早々に別の用事があると言って去っていった。桐条グループ総帥の一人娘ともなれば多忙である事くらい、皆がわかっているので、誰からも文句は出なかった。
 湊に割り当てられた主な仕事は、広報書類作成の手伝いだった。新学期が始まってまだ日が浅いため、しばらくはこの手の案件が多いのだ。『かつて』の経験を活かしてばっさばっさと片付ける湊は、他の生徒会メンバーから見ても頼もしい助っ人であった。

「仕事の進み具合は――ふむ。さすがだな」
「桐条先輩の顔に泥を塗れませんから。他の皆さんは、もう帰られたようですね」
「ああ。君に声を掛けようとしていたが、集中を乱させたくなかったので僕が伝言として預かっておいた。君に渡したのは普通なら数人がかりで分担して終わらせる量だから、きりの良いところで切り上げて終わってくれという事だが」
「…えっと。全部仕上げてしまったのですが」
「そのようだね。まさかこれほど優秀とは、僕も予想外だったよ」

 湊が手渡した書面に目を通しながら、満足そうに顎を撫でる小田桐。時折ふむふむと頷いているので、スピードだけでなく中身の方も及第点をもらえそうだ。
 時計を見ると、最終下校時刻まで残り30分を切っている。
 生徒会の書類は一応全て、職員室の鍵付きのひきだしに保管しなくてはいけない。自分の帰り支度を終えて、湊は「合格だ」と書面を纏めた小田桐と共に廊下へ出た。小田桐が持っていた鍵で生徒会室も施錠して、2人並んで職員室まで歩く。

「ありがとうございます。小田桐さんの仕事は終わっていたのに、わたしに付き合って残っていてくださったんですよね」
「君の能力を測ろうと思っての私心さ。気にする事は無い。次はいつ来られるのだったかな」
「心苦しいのですが、あまり頻繁なお手伝いはできそうになくて。せめて参加できる時は、十全に働かせていただきます」
「そうか。まあ、君ほどの力量ならばどこでも引っ張り凧だろうしな」

 あまりに小田桐が褒めちぎるので、面映ゆい気分になった湊である。実は作業をしながら延々別の事を考えていたなどとは、言わずにおいた方がよさそうだ。
 職員室で書類と鍵を教師に預ければ、もう帰るだけだ。玄関へ一緒に向かいながら、そっと視線を滑らせて小田桐の様子を観察する。
 胸を張り、肩で風を切って歩く様。普段からしかめ気味の顔を今は機嫌良くほころばせ、その姿はまるで『かつて』自分と並んで歩いた彼と変わらずに。

 ――やはり重ねてしまう。
 仲間たちとは違う。今の仲間たちを『かつて』と切り離して考えられるようになったのは、前の仲間たちとは戦友でこそあれ、個人同士の繋がりは最後まで希薄なままだったという皮肉があってこそだ。戦ってゆくために最初から仲間たちという括りで見ていた『かつて』と異なり、この世界では岳羽ゆかり、伊織順平といった個人を見て、それぞれと手を取り合って仲間という関係を新たに作ったのだ。
 初めから仲間だったという認識を壊される事によって、ようやく『かつて』とは異なる個人としての彼女ら自身が見えてきた。
 ではこの世界の小田桐や文吉爺さん、舞子たちを『かつて』と切り離すには、何を壊せばいい? 『かつて』の彼らと築いた絆を、忘れ去れと言うのか? そんな事できるわけがない。
 できないなら、結局重ねる事でしか彼らを認識できないのなら、最初から深く関わるべきじゃない。深く関わった後で、相手が見ているものが自身ではないのだと気付けば、決して自身を見てはもらえないのだとわかれば、いたずらに傷付くだけではないか。
 だから自分は関わらない方がいい。『かつて』かけがえの無い絆を得た人たちとは、この世界では他人でいるべきだ。
 散々理屈をこねた末に、湊はそういう結論に持っていった。自分が彼らと関わろうとしないのは、彼らのため。彼らを傷付けないためなのだ、と。

 ……だが本当は、違う。傷付きたくないのは、湊の方だ。
 これ以上、『かつて』絆を結んだ人たちから拒絶されたくないから。舞子のように大切だと思う相手から突き放されるのが辛いから。
 今の湊は、仲間たちとのコミュを得て開き直れたようでありつつ、内心にはまだ多くの棚上げした問題を抱えている。ほんの少し弱いところを突付かれただけで、たちまち心は不安定になるだろう。
 舞子に拒絶された事は、今の湊にはショックが強すぎたのだ。時間が経てばやわらぎ、もっと冷静に自分の行くべき道を選べたのかもしれない。しかし湊はその衝撃から逃れるために、拙速な答えを求めた。

 人と人との関係は、0か1かで表されるものではない。
 コミュを作れなければそこに絆は無いのかと問われれば、否だ。だが、今の湊はそれに気付かない。
 ペルソナを生み出すためにコミュが必要だという条件は、湊自身の思考の方向性を固定してしまった。絆の力とはすなわちコミュであり、コミュ無き関係に真の絆は生まれ得ないという思い込みに至ったのだ。
 けれど、いずれ湊は己の間違いを知るだろう。それを教えるのもまた、誰かとの絆であるはずだ。
 タルタロスの中で、ゆかりの言葉が湊の目を覚まさせたように。あるいは、『かつて』湊自身がコミュを築いた人々の心の後押しをしたように。
 その時が訪れるまで。湊は自らで作り出してしまった、心の迷路をさまよい続ける。


 玄関を出た小田桐は、下駄箱前で別れた有里公子の表情を思い返した。
 小田桐は、いずれ多くの人を率いるような立場となる事を目指している。そのためにある程度は人の感情を察する術を知っているし――察したからといって遠慮はしないのだが――そうでなくともさっきまでの有里公子はわかりやすかった。
 何か、酷く思い悩んでいるようだった。それも恐らくは、小田桐に関係ある事で。
 ちらちらとこちらを見て、時折ため息なんぞつかれては、誰だって気になるだろう。だがいかんせん、小田桐と彼女は今日が初対面である。まだ大して親しくもない異性の悩みに無神経に踏み込むのは、小田桐でもさすがに気がひけた。

 頭を振って帰ろうとしたところで、既に宵闇に覆われた周囲の景色を見て、はたと気付いた。
 そういえばここ最近、港区内で変質者が出没しているとかで生徒会でも警戒態勢を強めているのだった。変質者の目撃される時刻はちょうど今のような、日没から夜にかけてが多い。女性である有里公子を、1人で帰していいものだろうか。
 ……いや、待て。それ以前に、彼女はどうしたのだ。少々遅すぎるのではないか?
 彼女は自分と共に下駄箱まで来て、ふと何かを見つけたように反対側の廊下を見ると、先に行ってくれと告げてそちらへ歩いていったのだ。忘れ物かと問えば曖昧に、そんなところです、と答えたが……思えば、不自然だった。まさか校内に変質者が入り込んだなどという事はあるまいが、何か不都合でもあったのかもしれない。一応様子を――

「――離して!!」

 その声が聞こえたと同時、小田桐は駆け出していた。
 壁を隔てて外まで響くほどの大声を出すというのが、今日会った彼女の印象からは考えにくかった。逆にその事実こそが、彼女の身に何か大変な事態が起こっているのだと知らせている。
 玄関に戻りまず下駄箱の周囲に目を走らせると、2年F組の靴箱がある並びから、探していた相手が上履きのまま飛び出してきた。
 彼女は小田桐に気付くと「あ、」と何かを伝えようとして、だがその一瞬足を止めた隙に、靴箱の方から伸びてきた何者かの腕に掴まれて奥へと引き込まれてしまった。どたばたと揉み合う音が聞こえる中、小田桐は彼女を追ってその場に踏み込んだ。

「何をしている!」
「…あァ? 何だオマエ、すっこんでろよ」
「小田桐…さん!」

 目の前に広がる光景は、実にわかりやすい。
 3年生と思しき体格の良い金髪の男が、有里公子の首に手を掛けて下駄箱に押し付けている。さらにもう片手は、彼女の制服の裾を押し上げてその内側へ潜り込もうとしていた。完全な、婦女暴行の現行犯だ。
 有里公子は抵抗しているが、女性の力ではこの状況は覆せまい。小田桐は眉を吊り上げると、風紀と印字された左腕の腕章を強調しながら男へと近付いた。

「風紀委員の目の前で暴力行為とは、いい度胸だ。貴様、何組の何と言う生徒だ? 先生に報告して職員会議にかけてもらうぞ」
「……バーカ。オレぁとっくに退学くらってんだよ」
「何だと? 退学処分になった者が何故制服で――」
「危ない、小田桐さん!」
「!? ッが、ぉあ…っ!」

 有里公子の警告を、確かめる余裕は無かった。ニヤつく男の無造作に振り出した蹴りで、近寄りすぎていた小田桐は、横腹の柔らかい部分へとめり込むような一撃を受けたのだった。
 有里公子が、悲鳴のような声で小田桐の名を呼ぶ。それによって何とか、小田桐は立ったまま踏み止まった。
 このまま男の暴力に屈するわけにはいかない。ダメージは深刻だが、ここで自分が倒れては彼女は悪漢によって心に一生物の傷を負う事になりかねない。己の正義感は、これを見過ごしてはならぬと叫んでいる。
 片手で腹を押さえながら、小田桐は考える。どうすればこの状態を打破できる?
 教師を呼びに行く暇は無い。その間に彼女に加えられる危害、下手をすればどこかへ拉致されて、なおおぞましい仕打ちを受ける可能性すらある。既に退学になっていて、何の枷も無いらしいこの男ならやるだろう。
 しかしかと言って、さして腕っ節が強いわけでもない自分が奴をどうにかできるのか。
 必死に思考を巡らせる小田桐は、有里公子の静かに呟いた言葉を聞き逃した。

「……小田桐を、傷付けたな」
「あン? 何だお嬢ちゃん、聞こえねぇぜ?」
「おれの友達を、傷付けるやつは許さないって言ったんだ…!」

 ……次に見たものを、小田桐は幻覚だと思った。
 有里公子を押さえ込んでいた男が、ボールか何かのように軽々と宙を舞ったのだ。美しく放物線を描いて飛んだ男は、小田桐の視界を外れると壁にぶつかったらしく派手な音をたてた。
 そして男を吹っ飛ばした有里公子だが――何か出てる。
 肩の上から、エジプトの壁画にいそうな頭だけ動物の人型が、握った天秤を思いっきり振り抜いた姿勢で半透明で浮いている……。

 小田桐は有里公子を凝視したまま沈黙した。とりあえず目をこすってみたが、幻覚はまだそこにある。
 有里公子も小田桐をじっと見たまま動かなかった。ただし微妙に顔色が青い。
 彼女の上にいる幻覚が、懐から何か布を取り出して天秤を拭うと、すーっと姿が薄れて消えていった。
 小田桐は意を決して、彼女に話し掛けた。

「………。あー…その、……有里君」
「火事場ノ馬鹿力ッテ凄イデスネー」
「明らかに棒読みだ! と言うか違う! 火事場の馬鹿力はあんな妙なもの出ない!」

 ツッコミまくる小田桐自身も混乱している。さっきまでは蹴られた痛みで声を出すのも辛かったはずなのに、叫ばずにいられない。
 理性ではこれを幻覚だと思いたいが、飛び出す言葉は有里公子を追求するものだ。彼女が異性だとか、大して親しくないとかもう関係ない。自分の信じていた常識を目の前で覆され、平静を保つ事ができるほどの柔軟さは小田桐に無かった。
 有里公子は吐息をこぼし、懇願するように問いかけてくる。

「錯覚だった、という可能性は?」
「……無理だな。僕は現実主義者だが、自分の目で見たものは否定できない」

 小田桐は少し間を置いて、そう返した。
 有里公子の口から、錯覚、という現実的な理由付けをされて。それでも結局信じられなかったのは、答えた彼女の声にこそ、それが嘘であるという色がありありと滲んでいたからだろう。
 自分が落ち着くために、嘘でもいいから何か説得力のある言い訳が欲しいと思った。けれど実際に言われてみれば、やはり小田桐自身の信念が、嘘を嘘と知りつつ受け入れる事を拒んだのだ。

 小田桐は壁際でのびている男の惨状を見やる。顔面が見られたものじゃなくなっているが、命に別状は無さそうだ。床に歯と思われる白い欠片が転がっていた。血はそれほど飛び散っていないので、掃除は必要なかろう。
 有里公子の行為は、危険物を持ち込んだとか、はっきりとした校則違反ではない。だがそれによって醸される結果は、下手な刃物などよりよほど厄介だ。証拠となる武器が無いのだから、目撃者さえいなければ、か弱い少女にしか見えない彼女が、大の男を得体の知れぬ力で殴打したとは誰も考えない。
 そして現状、小田桐は有里公子を完璧に信用しきれるほど、彼女について知っているわけではなかった。
 小田桐の他人に対する基本的なスタンスは、性悪説に基づいている。自分のその主義を正しいと信ずるならば、ここで彼女だけを例外として見逃すわけにはいかないのだ。

「このままでは僕は風紀委員として、君を危険人物と見なさなければならなくなる。たとえ君自身に悪意が無くとも、“事故”という事もありえるのだよ。…今回はまあ、正当防衛の範疇かもしれないが」
「……!」
「正直に答えてくれないか。今のは一体、何だ? 君がやったのは間違いないんだろう。君の――超能力、とかなのか」

 一瞬口ごもったのは仕方あるまい。そんなものが現実に存在するなど、小田桐はこれまで考えた事は無かったのだから。
 僅かに目を見開いて「事故…」と小田桐の言葉を繰り返した有里公子は、俯いて乱された制服を整え始めた。非常事態の連続で意識していなかったが、彼女の今の姿は制服上着の前が開かれ、ブラウスのボタンは千切れ飛んで……白く滑らかな素肌と、2つの膨らみを覆う薄桃色のレースのついた布地が――いやいや、何をいつまでも見ているのだ自分は!
 気付いた途端に狼狽し、「し、失礼した!!」と上擦った声で後ろを向く小田桐。耳に入る音はジッパーを引き上げたり僅かな衣擦れなど、聞くだけなら服を直しているのでなく服を脱いでいるとも区別つかない。何やら背徳的な気分すら感じてしまい、小田桐の内心はさっきまでと違う意味での混乱に見舞われていた。
 そうだ、有里公子自身が意外に冷静なので忘れかけていたが、彼女はたった今暴漢に襲われてあわや貞操の危機だったのだ。女性ならこれほどの恐怖はなかろうに、そこへさらに小田桐の言葉で追い詰められては、いくら何でも酷すぎやしないだろうか。先の事に対する懸念はひとまず置き、ここは被害者を気遣ってやるのが正しい対処法だろう。
 しかし残念ながら、こんな状況で相手に掛ける言葉が小田桐にはろくに思いつかなかった。

「その、…君が悪事を働くなどと考えているわけではない。ただ僕は風紀委員の職責として、この学校で無用な騒動が起こるのを見過ごせないというか、…君自身のためにもここではっきりさせた方がいいと!」
「そうですね。今回の事があった以上、2度目3度目が無いとは言えない……これで終わりか、わからないですから」
「……それはどういう意味だい」

 有里公子の憂いのこもった言葉に、聞き捨てならない部分があった。小田桐はあちこち飛び回る思考を纏めて、問いを重ねる。
 許可を得て再び彼女の方を向くと、何事も無かったように元通りの制服姿で佇んでいた。ブラウスのボタン部分も、リボンタイでうまく隠れているので大丈夫だろう。
 有里公子は小田桐に諦めまじりの笑みを向けると、落ちていた鞄を拾って携帯電話を取り出した。

「先に警察を呼んでいいですか。この人もうこの学校の生徒じゃないから、職員会議でなく公の場で処罰してもらいます」
「ああ、もちろん構わないが。君はいいのか?」
「事情を知ってる方に来てもらいますので」

 警察が関係しているとなると、彼女の事情というのはなかなか大事のようだ。
 彼女が特に隠さなかった電話の内容から、犯人を引き取りに来るのが、黒沢というポロニアンモール交番の巡査だと知った。サイレンを鳴らさずに来てくれるそうで、当直の教師への説明はするが、あまり騒ぎにはならずに済むかもしれない。
 当分は起きないだろう犯人をその場に放置して、2人は玄関扉前の外が見渡せる場所へと移動した。有里公子は靴も外履きのローファーに替えてきた。そうしてぽつぽつと、何気ない会話を始める。

「他の生徒が残ってなくて良かったです。この場合、下校時刻を早める原因になった変質者に感謝でしょうか?」
「やめたまえ。そこのと同類の犯罪者だぞ」
「冗談です。そんな手段でしか女性と接触できないなんて、哀れだなーとは思いますけど」

 有里公子の態度は、小田桐と会った初めよりも砕けたものになっていた。丁寧語なのは変わらずだが、厳密に敬語と言えるほどかっちりした話し方はしなくなった。笑顔も今の方がより自然で、素の彼女に近いだろう。
 小田桐は礼節をわきまえた人間が好きだが、彼女とはもともと学年も同じで、敬語で接される事の方が不自然なのだ。これからも生徒会の一員としての関係は続くのだし、と自分に言い訳してからこう提案する。

「それと、…普通に話してくれて構わないよ。僕と君で、大きな立場の違いは無いのだから」
「普通、に?」

 有里公子はオウム返しにそう言った後、困惑したように小田桐を見上げた。
 向けられる視線は、職員室から下駄箱へ向かう途中に感じたのと同じもの。何かを訴えようとして、けれど躊躇しているような。
 小田桐は辛抱強く待った。やがて有里公子の、か細い声が紡がれる。

「……呼んでも、いいんでしょうか。普通に」
「本人がいいと言っているだろう?」
「えぇと、…じゃあ、――小田桐。……あっ、ですます付けなくていいのと、名前呼び捨てしていいかってのは違う?」
「違わないさ、好きに呼ぶといい。君は少し遠慮が過ぎる。1度や2度の間違いなど、人間なのだから当たり前だ」

 するりと唇から滑り落ちた台詞に、小田桐は自分で言っておきながら微かな戸惑いを覚えた。
 人間だから、間違いを犯すのが当たり前。これではまるで、風紀委員である自分が規則違反を肯定しているようではないか。
 どうしてこんな事を言ってしまったのだろう。取り消さなくては――慌てて口を開きなおすが、それは有里公子の揺れる瞳とかち合って、結局訂正できずに終わった。この状態の彼女を突き放す事は、小田桐が持つ信念のさらに深い部分が許さなかったのだ。
 有里公子は、さながら迷子の子供のようだった。今にも泣き出しそうな雰囲気で、救いを求めるがごとく小田桐に問い縋る。

「間違っても…いいのかな? ……わたし、失敗ばっかりしてる。知ってるはずなのに――知ってるから、どうすればいいのか、わからなくなる。わからなくて、立ち止まったままそこから進めなくて…っ」
「なら、誰かに道を訊けばいい。もっとも、尋ねる相手はしっかり選ばなくてはならないがね。君が信じる、君を本当に思ってくれる相手と、よく話してみたまえ」
「わたしが、信じる人……?」
「そうだ。そして道がわかったら、とにかく歩き出してみる事だ。それでも間違っているというのなら――その時は、君を見守っている誰かが止めてくれるだろう」

 小田桐の言葉は、有里公子の心へ届いたように思えた。
 彼女の顔から、苦悩の影が去ってゆく。その様に安堵して、小田桐は調子付いてこう言い加えた。

「君が望むなら、僕もその誰かの中の1人としてあろうじゃないか。何、気に病む事はない。今はこの学校の一風紀委員というだけだが、僕はやがて人の上に立つ男だからね。正しき指導を必要としている人間を前に、手をこまねいている真似はしないさ」
「……うん。ありがとう、小田桐」
「当然の事を言ったまでだよ」

 慇懃な面を剥がし、迷いの霧を晴らして、有里公子の本当の笑顔が表れた。それは単なる造形の美しさを超えて、感謝と喜びと、人の持つ綺麗な感情のありったけでこちらへぶつかってくるような。
 小田桐は思わず呆けてしまってから、かろうじて目をそらして誤魔化すために咳払いした。
 小田桐の態度の不自然さには気付かなかったのか、有里公子は外を眺めて「あ、来たみたいだ」と玄関扉へ歩み寄った。小田桐も彼女の視線の先を追うと、校門から続く道を小走りに駆けてくる警察官の姿が見える。
 どうせならもう少しくらい、遅くなっても構わなかったのだが。一瞬そんな馬鹿な事を考えた自分を、小田桐はすぐさま消し去った。


 日はとっぷりと暮れ、住宅街に灯る明かりは家族の団欒を思わせる。
 湊はモノレールを降りて、寮へと続く道を歩いていた。隣には、不審者を警戒して端々の暗がりに目をこらす小田桐。
 黒沢巡査に犯人を引き渡した後、湊は小田桐に寮へ来てほしいと頼んだ。事情説明はそこで、美鶴を交えて行いたいと。
 小田桐はそれに頷き、こうしてボディーガードのように湊に同道してくれているというわけだ。
 いつも装備やアイテムの調達のために夜でも構わず出歩いている事を考えると、何やら大袈裟な気がする。湊本人は未だに自分が男だという意識が強いため、先ほどあんな目に遭ったにも拘らず、相変わらず危機感が薄いのだった。

 それにしても、あの犯人は許せない。黒沢に引っ立てられていきながらも、全く反省の色も無くこちらを罵倒していた。
 相手を力で従わせて性的関係を強要するような輩は、男の恥だ。いやむしろ人間のクズだ。死ねとは言わないが、千切れろ。ナニが。
 ――とまあ、元男のくせに、結構過激な事を考えている湊である。
 もともと湊は、男であった時からこういう事に関しては潔癖症のきらいがあった。愛情とその証明としての身体の関係という、今時中学生でも鼻で笑うようなロマンチシズムを信じているというか……結婚とは何かと言う美鶴の問いに、愛の結果と臆面も無く即答しただけはある。
 ともあれ、今回の体験でその認識がより悪化したのは確かだろう。
 汗で湿った犯人の手で触れられた箇所が気持ち悪く、何度も首をさすっている湊を小田桐が心配そうに見た。

「……大丈夫かい? こういった事件がトラウマになる女性も少なくないし、カウンセリングを受けた方がいいんじゃないか?」
「平気。怖いんじゃなくて、怒ってるだけだし」
「そうか。…まあ、男の全てがああじゃない。男の僕が言っても説得力は無いかもしれないが」
「小田桐があんなのと同じなわけないでしょ。ほら、全然大丈夫」

 湊はすぐ傍にあった小田桐の片手を掴んで、ぴたりと自分の頬に押し当てた。何ともないと強調するように笑って見せるが、その仕草は逆に小田桐の方を硬直させてしまった。
 足を止めて、しばらく絶句していた小田桐は、無邪気に「どうしたの?」と問う湊に深々とため息をつく。

「……とりあえず、離したまえ」
「あっ、ごめん。化粧付いた? 最低限にはしてるんだけど、やっぱりぺたぺたするかな」
「いや、そうではなくて…わざとじゃないなら君、無防備すぎるだろう。もう少しこう、自分の言動が男にどう受け取られるのか考えてみないかね」

 小田桐の発言に、湊はむぅと考え込んだ。……確かにちょっと、今のはスキンシップ過多だったか?
 ここにいる小田桐は、最終的に軽くふざけ合う事すら許される距離だった『かつて』の彼ではないのだ。知り合って間もない「野郎」にくっつかれても、気味悪く思うだけだろう。
 ――何度も言うが、湊自身は自分が男だという意識がある。普段なら一応は、今の自分の身体は女である、という認識も残っているのだが、『かつて』男として絆を築いた相手の前ではそれすらすっぽ抜ける場合がある。普通に話していいと言われ、自戒の手段となっていた丁寧語を取り払った後ではなおさらだった。一人称だけは、最初「おれ」と言いそうになるたびに必死に直したので、もう滅多な事では崩れないのが幸いだが。
 そんなわけなので、小田桐の忠告は見当違いに解釈された。

「……わかった。気持ち悪かったよね、ごめん」
「どうしてそうなるんだね?」

 悄然として顔を曇らせ、とぼとぼと1人で歩き出した湊を、小田桐の呆れた声が追ってくる。
 湊は小田桐が再び横に並んでも、無言で足を進めるだけだ。傍から見れば、拗ねているという形容が当てはまるだろう。

「有里君」
「………」

 呼びかけにすら答えない湊に、小田桐がお手上げだと言うように肩をすくめる。
 小田桐は仕方なく、直接湊に触れる事で引きとめようとして、しかし何故か直前で躊躇したようだった。小田桐が迷っているうちに、湊はさらに先へ歩く。

 湊は自分の態度が幼稚だという事は理解していた。この小田桐には自分と共に過ごした記憶が無いという事も。
 けれど、彼が間違ってもいいと言ったから。遠慮するなと、間違ったなら己が止めてやると言ってくれたから。
 だから……賭けてみたくなったのだ。
 ここで彼が自分を見放して、何も言わず離れてゆくならそれまで。
 だけどもし、こんなどうしようもない自分の癇癪を叱ってくれて。多少嫌味混じりでも構わないから、『かつて』の彼のように自分の隣にいてくれるというのなら――。

「……有里君!」
「っわ、」

 思考に沈みかけていた湊は、背後からぐいと肩を引かれてバランスを崩した。だがそこは伊達に戦闘経験を積んでいない、片足を軸にして身体を反転させる事で後ろへと倒れずに済む。顔を上げると、ちょうど正面から小田桐と向き合う形になった。
 小田桐は苦虫を噛み潰したような表情で、湊の両肩に手を置くとやや早口に喋り出す。

「いいかね? 今の君はあんな事があったばかりで、動揺が抜けていないんだ。そこは僕とて勘案しよう。だからこんなわかりきった話をわざわざするのは、今回きりと心得たまえ」
「う、うん?」
「君は先ほど自分を気持ち悪いなどと言ったが、勘違いも甚だしい! あれはつまり、誰にでもあのような仕草をして見せれば、…君にその気が無くとも相手の男を付け上がらせてしまう、と言いたかったんだ。無論、僕はそんな愚かな思い上がりはしないがな!」
「誰にでもなんてしないよ? 小田桐だから…」
「君、本当にたちが悪いぞ!? そういう言葉を男の前で軽々しく言うな、もっと自分が女性であるという危機感を持ちたまえ!」

 小田桐がほとんど叩きつけるように発した警告は、ここでようやく湊に通じた。女性である、というくだりで「あー…」と間の抜けた相槌を打った湊は、おもむろに自分の胸を見下ろして納得する。
 そして自分が女だとして、これまで自分が小田桐の前でやらかした事を振り返ってみると――うん、これはまずい。
 乾いた笑いをもらす湊から手を離し、腕組みした小田桐は念押しする。

「……理解してもらえたかい?」
「実によくワカリマシタ。ほんとごめん。というか、安易な思い込みに走らなかった小田桐の鉄壁の理性に拍手したい」
「当然だ。風紀委員たるこの僕が、自ら風紀を乱すような行為に手を染めるなどあってはならないからな」

 フンと鼻から息を吹き、口端を引き上げる小田桐。本人が言った通り、今回限りは湊の至らなさも水に流してくれるようだ。
 また2人して並んで歩きつつ、湊の頭に浮かぶのは、賭けに勝った、という言葉だった。
 小田桐はちゃんと止めてくれた。
 コミュの有無に拘らず、思った以上に酷い間違い方をしてたらしい湊を、見捨てる事なく正してくれた。
 小田桐はやっぱり小田桐だった。『かつて』も今も、彼の心の芯にあるものは変わらない。己の信念のもとに、正しい事を為し、他者をもまた正しき道へ導こうとする意志だ。

 湊の知る『かつて』の彼はそのうち、信念を貫くためには力が必要であると思い込み、信念が力を得るための口実になるという本末転倒な状況に陥った。他者から独善と謗られながら、そんなものは愚か者の負け惜しみだとうそぶいて。
 だが力を得る代償として、彼自身の信念で正しいと認めている湊を切り捨てる事を突きつけられた時、彼は自らの行動の矛盾に気付いたのだ。そして真実、己の信念を昇華するために進み始めた。

 湊はそういう小田桐と友であれた事が嬉しかったし、今も心根を同じくする彼と友になりたいと思う。
 重ねてたっていいじゃないか。最初のきっかけはそうでも、形作られる絆の姿は必ずしも『かつて』と同じとは限らないのだから。
 相手のためだと言い訳して、結局自分は不安から目を背けたかっただけだ。自分から踏み出す勇気が無いばかりに、小田桐を試すような真似までして。見捨てられなかったという安堵が得られてみると、その自分の臆病さを呆気なく認める事ができた。
 だから次の提案も、突拍子が無く放たれたように見えても、湊にとってはここでこそ言うべき一言だった。

「小田桐。わたしと、友達になってよ」
「僕は友人といえど、問題の追及に関して手を緩めたりはしないぞ?」
「もちろん。そういう小田桐だから、わたしは友達になりたい。友達として、わたしを見ていてほしいし、わたしも小田桐が進む道を傍で見ていたい。だめかな?」
「……君は…まったく。簡単な事がわからないと思えば、時々こちらの望む言葉を的確に突いてよこすのだから、恐れ入る」

 それは、湊が小田桐秀利という人間を「知っている」からだ。
 小田桐がその部分で感心してくれると、やはりズルをしてるような微妙な気分になる。でも、だから彼と関わってはいけない、というのは極論を過ぎた暴論であると思い直した。
 小田桐は言いたい事ははっきり言う男だ。重ねられていると感じて不快に思えばそう教えてくれるだろうし、彼の考えをこちらが勝手に決め付けて、何も言われないうちから尻尾を巻いて逃げ出す必要なんて無いのだ。

 今の小田桐と友になりたい。
 そう思うきっかけは『かつて』の彼と友であった事実でも、この想いが嘘であるわけじゃない。
 湊は、小田桐を知っている今の自分として、この世界の小田桐と友として歩む事を決めた。
 たとえそれが、間違いであるといずれ小田桐自身から断ぜられる可能性をはらんでいても。
 真の絆へ至る関係として、コミュの発生という現象によって認められる事が無くとも。

 湊の差し出した手を、握り返す小田桐。その不敵な笑みに、湊も満面の笑顔で答えた。
 コミュは生まれない。それでも、もう構わなかった。
 やってみないうちから諦めて、そこに壁があると思い込み、ただ震えてうずくまっているのはこれでおしまいだ。

「ありがとう、小田桐」
「どういたしまして、だ。……少し急ごう。あの警官が連絡したから、寮で会長が君の帰りをお待ちかねのはずだ」
「うん。そうだね、桐条先輩にちゃんと話さなきゃ」

 美鶴の名が出た事で、湊はさらに気が大きくなる。1人でぐるぐると迷っていた最近の自分は、馬鹿みたいだった。
 小田桐が言ってくれたように、信頼できる相手に話す、という選択肢があったはずなのに。そもそも最初にモノレールで目覚めた時、自分が仲間たちに相談しようと寮へ向かっていたのを忘れていたのか。
 これはただの、勢いに駆られた開き直りかもしれない。
 けれど、美鶴になら自分は全部話していいと思う。かけがえの無い絆を結び、愛し合った彼女――それ以前に、桐条グループ次期総帥としての教育を受け、聡明な頭脳を有する彼女ならば。きっと自分の話も一概に妄想の類とは切り捨てずに、何らかの検証や背景の調査を行わせ、正しく吟味してくれるはずだ。
 その過程で新たな情報が得られるかもしれないし、少なくとも『かつて』よりは確実な対策を立てられる。
 ああ本当に、今の段階で気付けてよかった! 湊は内心一気に舞い上がって、小田桐の手を引く勢いで寮への道を行くのだった。


 美鶴はラウンジをそわそわと歩き回っている真田にため息をついた。
 数十分前の電話での連絡から、ずっとあんな感じだ。猛然と飛び出していこうとするのをなだめ、その後も何度落ち着けと繰り返したか――どうもつい最近似たような事があった気がする。
 しかし、檻の中の猛獣を監視するような気分もこれで終わりのようだ。玄関の外から、迎えに出ていた幾月の明るい声が響いてくる。
 ばっと振り向いた真田の視線の先、扉を開けて待ち人はやってきた。

「いやあ、心配したよ有里君! 無事で良かった、それに…小田桐君だったね、よく彼女を守ってくれた。感謝するよ」
「いえ、風紀委員として当然の事です。名前を覚えていただけて光栄です、理事長」

 言葉を交わし合う幾月と小田桐の間、護られるようにして姿を見せた有里公子。
 彼女は他の誰でもなく美鶴へとまっすぐに目を向けて、忌まわしい体験の痕跡など微塵も感じさせぬ笑顔で口を開いた。

「ただいま帰りました、先輩」
「ああ、お帰り。…無事と言っていいのかわからないが、その。少なくとも、怪我は無いように見えるな」
「未遂ですから、わたしは大丈夫です。ブラウスは、ボタンを付け直さないと着れませんけどね」

 思いのほか元気な有里公子の様子に、ラウンジに集合していた全員がほっと息をついた。
 真田と違ってソファに座ったまま、俯いてじっと重い雰囲気を纏っていたゆかりが「公子!」と叫んで駆け寄った。抱きつかんばかりの彼女の喜びは、有里公子の方が困惑するほどだ。そこへ順平が、軽い調子で声を掛けている。

「だーから言ったっしょゆかりッチ。公子ッチならヘーキだって。むしろ犯人ボコっちゃったかもしれないぜ?」
「馬鹿言わないで順平! 男のアンタにはわかんないの! 男に襲われるなんて…女の子にはすっごい怖い事なんだから!!」
「えっと、…男でも男にそういう意味で襲われたらショックだと思う。あと、犯人は本当に殴っちゃった。……ペルソナで」
「え?」
「は? …マジ? てか、ペルソナって影時間以外でも出んの?」

 美鶴はそれとなく小田桐を見た。ペルソナや影時間の存在を知らぬ一般人には、不審な会話だろう。
 小田桐は特に今の話に食いつくでもなく、ただ静かに美鶴を見返してきた。だがそれは疑問に思っていないのではなく、むしろ全て話してもらうという固い意思の表れであるようだった。
 有里公子が、おずおずと美鶴の前に進み出て頭を下げた。

「すみません、先輩。状況を脱するためとはいえ、思わずペルソナを使ってしまって……小田桐に、目撃されました」
「……君から彼に、話は?」
「寮で先輩を交えて、と。私だけで勝手に話すべきではないと思ったので」
「そうか。いや、已むを得ない事だ…それよりも君の身の方がよほど大切だからな。小田桐には、私が話そう。彼は口の固い男だよ。加えて利口だ、していい事と悪い事の区別はつけられる」

 美鶴はそこで、小田桐に向き直る。腕を組み、女王の風格で立ちはだかると艶然と唇を吊り上げた。
 学園での、生徒会長として役員たちを束ねる姿とはまた違う。
 今の美鶴は、“桐条”として振舞っている。国を越えて名を知られる巨大複合企業である桐条グループ、その拠点たるこの街において、現総帥の娘たる彼女に睨まれればどうなるかは想像に難くない。そして逆に、彼女の信を得る事で与れる恩恵についても。

「――そうだろう、小田桐?」
「無論ですよ、会長。僕は馬鹿ではありません」

 こちらもニヤリと笑む事で応えた小田桐に、美鶴は頷くと腕を解いて、ラウンジのソファを彼に勧める。
 先にソファの中央に座った美鶴と、テーブルを挟んで対面の位置に小田桐も掛けた。
 さて、どこまで話すべきか。そして今後、彼をどう使うべきか。
 有里公子が戻るまでに確認した小田桐秀利のパーソナルデータを思い出しつつ、美鶴は彼に提示するエサと鎖について考えた。


 順平は有里公子を囲んでいるゆかりと真田を、一歩引いた場所から眺めていた。
 心配だったのはわかるが、あんな猫の子を構うようにひっきりなしに話しかけても、有里公子だって鬱陶しかろうに。
 だいたい、有里公子がこのくらいでどうにかなるわけないのだ。だって彼女は――。

「……そうだよ。アイツ“特別”なんだから。…オレなんかと違ってさ」

 呟いた声は小さくて、彼女らに届く事はない。
 先日有里公子と話した際、順平は自分の本音を自覚した。自分は彼女に嫉妬していた。
 どこまでも平凡で、特別な力を得てさえも結局皆の中の1人として埋没するしかない自分。それに比べて、ペルソナを得た自分たちの中でもさらに特別な能力を持つ彼女――ああほら、今だって幾月に乞われ、召喚器も無しにまた見た事の無いペルソナを発動させている。
 彼女の口から『家族』という言葉が出て気付いた、家族である実の父親から目を背けて、向き合う事を放棄している自分。対して、こんなみっともない思いを抱えている自分を、家族同然だなんて言ってまっすぐにぶつかってきた彼女。

 彼女と自分を比べると、自分がみじめでどうしようもなかった。
 目の前に彼女がいると当り散らしてしまいそうで、でもそんな風にしかできない情けない自分が嫌でたまらなくて。苦しくて、何でもいいから逃げ出したくなって。
 だから順平は、こう考える事にしたのだ。彼女だけが、“特別”であるのだと。

 彼女は“特別”だから、自分が敵わなくたって仕方ない。
 彼女は“特別”なんだから、自分と比較したってしょうがない。嫉妬なんて、する必要もない。
 全部、彼女が“特別”なだけであって、自分が劣っているわけじゃない。自分だけが格好悪いわけじゃない、彼女と比べたら皆似たようなものだ。だから何も、悩む事は無い。このままでいいのだ、何も変わらなくても……。

 彼女と自分が最初から全く違うものだと思えば、すうっと気が楽になった。
 アイツは特別。だからリーダーでも当然。転校してきていきなり生徒会に誘われるのも、特別なんだからおかしくない。
 特別なんだから、一般人に襲われたくらいで大人しくヤられるわけないし。
 特別なアイツに、所詮凡人な自分の助けなんて必要無いだろう? 特別なんだから、最後には何もかも1人で完璧に終わらせるさ。

「そうさ、…オレなんて結局、アイツには必要ねーし……」

 楽になったはずなのに、どこか苦い思いの抜けない内心を隠すように。
 順平は帽子のつばを引き下げると、有里公子に対して背を向けた。


 湊は今しがた帰っていった小田桐の満足げな様子を思い、交渉を纏め上げた美鶴の話術に舌を巻く。
 ゆかりと真田の気遣いに応えるのが忙しく、あまり詳しくは聞けなかったが。さすがは桐条の次期総帥というか、『かつて』目にする機会が無かっただけで、美鶴は本来卓越した対人スキルを身に付けている。ただそれが仲間という身内に対してとなると、交渉相手として捉えないため、うまく説得できない事が多いのだ。

「さて、有里。今度は君の話を聞こう。もちろん、話せるところだけで構わないのだが…君が言ったという、『これで終わりかわからない』とは、どういう意味なんだ?」

 ついさっきまで小田桐に見せていた顔とは違う、自然体に近い態度で湊に接する美鶴。いつかそれを、また恋人としてのとろけるようなものに変えてほしいと思いつつ――おっと、今はそんな事を考えている時ではない。
 今度は全員がソファに座って、湊の話を聞く態勢となった。ただし幾月だけは、これからまた学校へ行って当直教師との話し合いだ。残業だよと肩を落として出て行く幾月を、寮生全員でにこやかに見送ってやった。

「ええと。じゃあ、最初からお話ししますね。わたしのその言葉の根拠も、小田桐が駆けつける前のやり取りにあるので」

 湊はまず、この日起きた事実だけを要点を挙げて説明した。
 小田桐と下駄箱前で別れた後、湊は廊下の暗がりから手招く人影に歩み寄った。考えてみればその時点で既に怪しいのだが、湊はよもや校内での蛮行など思いもよらず、件の犯人であった人影のもとまで近付いてしまった。犯人は小声で――恐らく小田桐に気付かれたくなかったのだろう――湊の名を確認し、自分を真田のクラスメイトで、彼から伝言を預かったのだと言った。

「俺の名前を使っただと…つくづく腹の立つ奴だ」
「たぶん、偶然じゃないと思います。推測になるので、後で纏めます」

 伝言の内容を聞こうとする湊を誤魔化して、犯人はさらに廊下の奥、何故か鍵の開いていた音楽室へと連れ込もうとした。さすがに湊でも不審に感じ、音楽室へ入らずに伝言について問いただしたがはっきりしない。寮に帰って直接真田から聞く、と湊が踵を返したところで、犯人の態度は豹変したのだ。
 犯人は突然掴みかかってくると、壁に湊を押し付けて制服上着のジッパーに手を掛けた。事ここに至っても事態を把握しきれていなかった湊が、何をするのだと怒りを表すと、犯人は下卑た笑みを浮かべて答えた。

「確か……どうせわかってて付いてきたくせに、とか、あいつらの言ってた通り澄ました顔してとんだ淫乱だな、とか」
「何それ!? 許せない! どうしてこう、男って――」
「待て、岳羽。それよりも注目すべき点があったぞ」
「ええ、先輩。わたしもそこが気になって、ちょっと鎌掛けてみたんです。『あいつらって、まさか――』って」
「…いやいや。その緊急事態で、ンな余裕あるって女の子としてどうなの。いくら公子ッチでも、どーよそれ?」
「順平うっさい」「黙れ伊織」「話をそらすな順平」
「ちょ、全員ツッコミとか酷くね!? てか、真田先輩にそれ言われたくないッス!」

 順平の茶々を排して、続きを話す。
 犯人は湊の引っ掛けに、「そーそーその通り、アンタが愛しのセンパイに手ぇ出したってキレまくってるアイツらの事」と返した。調子に乗ったか、「そんなワケで頼まれたのさ、アンタをぐっちゃぐちゃにしちまってくれってな」とまで付け加えてよこしたのだ。
 ほかにも湊の聞かされた内容には、口にするのがはばかられるようなものもあったが、話の本筋には関係ないので割愛する。とりあえず携帯のカメラを向けられた時には、冗談じゃないと少し本気を出して抵抗し、犯人を振り払って逃走に移った。

「そして下駄箱で、小田桐が合流、か」
「はい。それと冒頭の、これで終わりかわからない、と思った理由ですが…犯人は小田桐が駆けつける直前に、こうも言ってたんです。こんな役得ほかの野郎に渡してたまるか、って」
「……なるほど。つまりこういう背景が見えてくるわけだ。犯人は有里を良く思わない数人のグループに依頼され、今回の凶行に及んだ。だが恐らく、その依頼は他の複数の人間にも出されていて、今後も有里は狙われる可能性がある」

 湊の証言を咀嚼し、冷静にそう結論を出す美鶴。
 そして、ここで順平が真顔で手を挙げた。ふざける様子は無いので、発言が許可される。

「オレ思ったんスけど……その公子ッチ良く思ってないグループって、隣のクラスの例の2人組じゃねーかな。前々から嫌なウワサ、結構聞くし…実際こないだ、教室の前で公子ッチの事ネチネチいびってたんスよ」
「もしかしてそれ、私がこの寮に移る時に色々言ってきた人たちの事? 今度は公子にターゲット移したってわけ?」
「やー、ゆかりッチの代わりってか、むしろ本格的に公子ッチ個人が狙われてるっつか……ねえ?」

 順平はちらっと湊の顔色を見てから、真田に視線を固定した。つられるようにゆかりも真田を見る。2人の注目する先を追って美鶴、そして最後にやや複雑な表情で湊が。
 8つの瞳に見つめられ、たじろいだ真田が言葉をどもらせる。

「……な、何だお前たち。俺の顔に何か付いてるのか」
「っかーっ! もう、これだから真田先輩はダメなんスよ!」
「ダメ!? 俺のどこがダメだと言うんだ、おい順平!」
「……犯人の話にあった、依頼主の言う『愛しの先輩』とやらが明彦だと言うのか?」
「たぶん、そういう事だと思います。ほかに心当たりなんて無いですし…あ、わたしが真田先輩に何かしたってのは誤解ですから! 校門前で少し話しただけなのが、変な噂になっちゃってて……」

 真田のあまりの鈍さに呆れた順平が、拳を振り下ろす真似で啖呵を切った。それでもわかっていない真田と、口論になる展開だ。
 その脇では、男どもの騒ぐ声などまるで無視して、美鶴と湊が推理を重ねていた。ゆかりは一瞬どうすべきか考えていたが、テーブルを挟んで両手でがっしりと組み合い力比べを始めた野郎2人に見切りを付け、素直に女性陣に加わったのだった。


 湊の帰宅から小一時間。今後の対策も含めてだいたい話すべき事は話したあたりで、ラウンジでの寮生会議は終了した。
 ちなみに野郎どもの方は、あばらを痛めている真田が途中で無念のギブアップ宣言となった。真田は復帰したらリベンジだと息巻いているので、順平はちょっと覚悟しておくべきだろう。
 それはともかく、話し合いで決まったのは大まかに2点。
 まず湊自身が警戒心を持ち、学校の行き帰りのみならず、校内でもなるべく1人にならない事。特に下校時は、ゆかりや順平、他の寮生と同道するのが望ましい。
 もう1つは湊は関係ない。要するに、真田自重しろ、である。「何故だ!?」と心外そうに言われても、こっちが困る。

 めいめい自室に引き上げ始めたのを見計らい、湊は美鶴に声を掛けた。
 小田桐と話して吹っ切れた決意を、また迷ってしまう前にちゃんと打ち明けておきたかったから。

「――桐条先輩!」
「ん? どうした有里、言い忘れた事でもあったか?」
「いいえ、それとは別件で……あの、でも、とても大切な事なんです。わたし、」

 事件の被害者として気遣ってか、今夜の美鶴は特に湊に優しかった。階段を上がりかけていたのをわざわざ戻ってきて、正面に立つと少し背を倒し、湊の目線に合わせてくれる。微笑みつつ「うん?」と穏やかに先を促す彼女は、『かつて』の恋人としての姿よりも、遠い記憶の中の母を思わせた。ゆるくカールさせた髪が肩口を滑り落ち、ほんの僅か、香水の芳しさが鼻をくすぐる。
 美鶴のいつもとは違う態度に、湊の鼓動は跳ねた。どぎまぎして、頬に熱が上るのを感じる。
 スカートの生地を握り締め、落ち着かない態度で、声まで震えてきた。美鶴の顔を、まともに見られない。

「わ、わたし、…先輩に相談したい事があって。今、まだお時間…ありますか?」
「ああ、大丈夫だ。今日はもう予定は無いし、こんな時くらい君のために何かしてやりたいからな」
「ありがとうございます…!」

 きゅっと胸の前で手を組み合わせ、湊ははにかんだ。……無意識の仕草である。
 美鶴は笑みを深め、呟いた。独り言に近いそれは湊には聞き取れなかったようだが。

「桐条の庭で花を手折ろうとは、愚か者がいたものだ……見ているがいい、次は無い」
「先輩…?」
「何でもないさ。君があまりに愛らしいので、明彦のやつが本当に血迷わないか心配になったよ」

 冗談か本気か判別つかない発言に、湊は返す言葉に迷って「…それは無いですよ」と曖昧に濁した。
 しかしおかげで、少し頭は冷えた気がする。
 湊はしっかりと美鶴の目を見つめると、幾分か力を取り戻した口調で本題を切り出した。

「……わたし、これまで先輩や、みんなに黙ってた事があります」
「黙っていた事?」
「はい。わたし、知ってるんです。これから、…何、が…――?」

 不意に息苦しさを感じ、湊は言葉を詰まらせた。けほっと軽く咳をして、やはりまだ少し苦しい。
 だがこの程度なら話せる――今という機会を逃したくなく、もう1度口を開いた湊を、今度こそはっきりとした苦痛が襲った。

「……有里? おい、どうした!?」
「かっ……は、ぁ――」

 苦しい。まるで何者かに首を絞められているようだ。息ができない。
 本当に誰かの手がそこにあるのではないかと、自分の手で首に触れてみるが何も無かった。しかし圧迫感は酷くなる一方で、よろけた湊はダイニングと廊下の間の間仕切りにもたれかかった。
 これはただ事ではないと見た美鶴が、湊を支えながら、まだ上の階の廊下にいるだろう仲間たちを呼ぶべく声を張り上げた。
 そして湊は、引きつるような細い息の音すら途絶えさせてがくがくと震えていた。身体から力が抜け、視界が暗くなる。
 混乱する頭で、湊は自分が身を預けている透明プラスチック板の間仕切りを見た。照明の落とされたダイニングは暗く、間仕切りに鏡のような効果を持たせて、湊の顔を映し出している。
 湊は目を見開いた。声が出せれば、悲鳴になっていたかもしれない。
 間仕切りに映った湊の首、そこにあの痣が絡み付いていた。人の手の形の痣――いや、これはもう痣というよりも影だ。手の形の影が2つ、まるで両手で湊の首を絞めるような形で浮き上がっている!
 湊の意識は、そこで限界だった。

「有里!? しっかりしろ、有――」

 余裕を失った美鶴の声も、もう聞こえなくなった。
 完全にブラックアウトする寸前、湊は意識と無意識の狭間にわだかまる影を幻視する。
 影は、月光館学園の男子制服を着ていた。ポケットに手を突っ込み、首からイヤホンを下げている。長く伸ばした前髪が目を隠し、その分よく目立つ口元を、ニィと嘲笑に歪めて。
 影が、何事かを囁いた。普通なら聞き取れないだろうそれは、嫌にはっきりと響いて。

 ――それは、“ルール違反”だろう?

 影の言葉を認識した直後、湊の思考は途切れた。
 だがこの奇妙な邂逅だけは、やがて目を覚ました後もくっきりと湊の記憶に残る事になる。
 湊が最後に見た、影の姿。それは、湊本来の――男の『有里湊』の風貌そのままだった。


     ――初稿10/06/20



[18189] ●第十回● 4月28日~“恋愛”コミュ発生~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/07/17 00:39


 湊がこの日、目を覚ましたのは時計のアラームが鳴る前だった。
 影時間やタルタロス探索といった夜更かしの割りに、日頃は規則正しく起床時刻を守っているのだが。まあ、遅くなるよりはいい。
 布団を抜け出し、まずはシャワーかと、タオルを収めてある箪笥に手を掛けて。
 ふと、疑問が浮かんだ。

 ……昨夜、自分はいつ眠りに就いたのだったか?
 部屋に戻ってきた記憶が無い。その前の出来事を順に思い出してみる。
 生徒会に入り、帰り際に暴行犯を撃退し、臨時寮生会議があって。そうだ、自分は美鶴に『かつて』の話をしようと――そこで何故か息苦しくなって、それから……

「――!! おれ、首…!」

 咄嗟に首を押さえて、そこに何も無い事を確かめた。
 だがまだ安心できない。壁際に設置された洗面台に駆け寄り、鏡を覗き込む。映し出されたのは、若干の怯えを滲ませた己の顔。強張った手をゆっくりと外し、その下から表れるのは白く細く――痣どころかシミ1つ無い、滑らかな首の皮膚だけで。

「……何も、無い? …夢だったのか?」

 気が抜けたように、呆然と呟いて鏡の前で立ち尽くす。
 あの現象が全て、夢か幻覚の類だったと? それにしてはあまりにも感触がリアルだったし、夢だとしたら逆に、一体いつから現実では無かったのか。確実に現実ではないと判断できるのは、せいぜいあの人影くらいだ。
 嘲笑う、『有里湊』の影。確かに自分の姿であるはずなのに、漂わせる雰囲気は酷く不吉だった。
 今にもその禍々しい気配が蘇ってきそうで、湊はぶるりと身を震わせる。

 自分の記憶の、どこまでが本当なのか。その場にいたはずの、美鶴に問えばはっきりする。
 早めに起きられたのは幸いである。さっさと身支度を終えて、ラウンジに下りる事にしよう。
 こびりつく不安を努めて忘却し、湧き起こる寒気を消し去らんと、熱いシャワーに身をさらす湊だった。

 シャワーで汗とともに昨日の嫌な感覚を流してしまえば、少しはさっぱりした気分になった。
 制服に着替えるのは朝食を取ってからでもいい。ワンピースに春物のカーディガンという出で立ちで下りてきた湊だが、1階にはまだ誰もいないようだ。
 考えてみれば当然だった。普段からすれば1時間近く早いこの時刻に、先に来てわざわざ待っている誰かがいるわけがない。
 落ち着こうと意識しても、やはりどこかに動揺が残っていたらしい。半端に空いた時間をどうするか思案しつつ、とりあえず冷蔵庫を開けてみて――ああ、賞味期限切れ直前の卵が大量に残っている。ここのところ自炊をさぼっていたので、予定が狂ったのだ。
 顔を上げた湊は時計を確かめて「よし」と頷き、再び階段を上がっていった。


 ゆかりはダイニングで朝食を取るために部屋を出た。
 どうも、気分が優れない。下の冷蔵庫にしまっている食パンをトーストにして、ストロベリージャムを一塗りという予定だったが、もうカロリーブロックだけで済ませてしまおうか。どうせ今日は、弓道部の朝練も無い事だし。
 階段へと歩き出して、しかし途中で足が進まなくなった。僅かな逡巡の後に廊下を戻り、自室を通り過ぎて、立ち止まったのは3階の一番奥――有里公子の部屋の前だ。

 ゆかりの気鬱の原因は、昨夜倒れた有里公子の容態にあった。
 目を閉じれば思い浮かぶ、美鶴の腕の中でぐったりとする有里公子の姿。美鶴の切羽詰った叫び声に呼ばれ、自分やほかの皆が1階へ戻ってきた時には既に意識が無かった。どんなに名前を呼んでも、一向に目を覚ましてはくれなくて。
 4人が4人ともに取り乱し、結局助けを呼んだはずの美鶴自身が真っ先に正気に返るという無意味な結果になった。
 とにかく有里公子を彼女の部屋へと移して――なりふり構っていられなかったので「俺が運ぶ!」と立候補した真田に任せた――その先は男連中を締め出し、ゆかりと美鶴で着替えやら何やら世話をした。
 それからもう1度、ラウンジに全員で集まって美鶴から詳しい状況を聞いたのだ。

 美鶴の話では、有里公子は美鶴に何事かを伝えようとしたところで、突然呼吸困難に陥ったそうだ。正確な原因は不明だが、だいたいの見当はつくと美鶴は憂いた。
 ポイントは、呼吸にしろ有里公子自身の仕草にしろ、首という部位に関係している点である。
 その日彼女が体験した、未遂とはいえ強姦されかかるという忌まわしい出来事。その中で彼女は、犯人の男に首を絞められて抵抗を封じられたのだ。恐らくその記憶がトラウマとなり、美鶴に話しかけた際の何かをきっかけとしてフラッシュバックを起こし、恐慌状態に陥ったのだろうと。

 ゆかりは、どうして彼女の苦しみに気付いてやれなかったのかと後悔した。
 彼女があまりにも何でもないように振舞っているので、本当に大した事はないのだと思い込んでしまった。けれど強姦なんて、女性にとっては想像すらしたくないおぞましい状況だ。未遂だったから、それがどうした? 剥き出しの欲望と悪意に、自身がさらされる恐怖に変わりはなかろう。

「……私が。…私だけは、あの子の事わかってあげなきゃいけなかったのに」

 こぼれ落ちた言葉には、ゆかりが有里公子に対して抱く思いの裏側が僅かに見え隠れする。だがゆかり本人はそれに気付かず。
 思い詰めた顔で、有里公子の部屋の扉を叩く。返事を待ち、数秒、数十秒、……

「いない? それとも、…ショックで、寝込んでるとか……」

 充分にありえる話だった。
 表面上は強がっていても、きっと彼女の内面は柔らかく、傷付きやすい。
 初めてタルタロスに挑んだ時の涙は、ゆかりの有里公子に対するイメージを強固なものにした。それ以前の出来事でも同様の感想を抱いてはいたが、あの光景は決定打だった。
 本当はとても怖いのに、戦おうとする彼女。……『私と同じように』頑張ってる、あの子。
 でも、頑張ったってどうにもならない事もあるし、心が疲れすぎて頑張れない日だってある。
 せめて今日ぐらいは、ゆっくり1人で休ませてあげよう。例の噂と今回の事件について考えれば、本当は事件翌日である今日こそ、いつも通りに元気だというポーズを校内で見せつけた方がいいのだが。
 ゆかりは静かにその場を立ち去り、当初の目的通り1階へと下りていった。

 廊下を歩いていくと何やらキッチンの方が騒がしい。いつもなら、朝であっても寮生全員が揃って食事なんて事は滅多に無いのだが。
 この寮の1階にある共用キッチンはダイニングと間続きであるため、正確にはダイニングキッチンと呼ぶべきか。その中央に置かれた大きなテーブルに、大小様々な皿に載せられた料理が並んでいるのが見えた。
 ゆかりは吸い寄せられるように、テーブルへと歩み寄る。席についている順平が、朗らかに片手を上げてよこした。

「……どうしたの、これ」
「おーう! ゆかりッチ、遅いじゃん! 今日の朝はお茶漬けでもコンビニ弁当でもないぜ! まさにこれぞ、日本の朝ごはん――」
「あんたの食生活に興味とか無いから。そうじゃなくて、誰が作ったのこれ。まさか桐条先輩じゃないでしょ」
「そうだな。あいにく私は家庭科の授業でくらいしか料理をした事が無い」

 名前を出した相手から直接答えが返ってきて、ゆかりは慌ててそちらを向いた。
 お盆を持ち、あまつさえそれに載った人数分の味噌汁を、テーブルに配膳している美鶴の姿。失礼ながら、似合わないという感想を持ってしまったゆかりである。遅ればせながら「おはよう、岳羽」と付け加えられた挨拶に、こちらも動揺しつつおはようございますと返すのが精一杯だった。
 さらに別の盆がテーブルに下ろされ、それを運んできたのは真田である。5つの茶碗のうち、1つだけがやたらと山盛りだ。

「よう岳羽。お前の分も持ってきたが、食うよな?」
「へ? あ、えっと、…私も食べていいんですか?」
「ああ、あいつは遠慮せず食えと言っていたぞ。賞味期限の迫ってる食材の処分だそうだ」

 あいつ、と真田が指す人物は、もう残った1人しかありえない。
 真田が移動して、ゆかりの位置からも障害物無しに見通せる壁際のキッチン。そこで忙しく動き回って、後片付けをしている後ろ姿。
 順平に名前を呼ばれて、振り向いた仕草に合わせて純白のエプロンが翻る。その瞳にゆかりを映し、何の不安もわだかまりも無く晴れ晴れと微笑んで見せて。

「ゆかり、おはよう」
「――おはよう、公子…って、大丈夫なの!? 休んでなくて平気?」
「うん? わたしは、別に何ともないよ。良く寝たし、体調だってバッチリ」

 有里公子の言葉に、嘘は無いように思える。だが、昨夜とてそう考えて結局は。
 ゆかりは美鶴と真田に視線だけで問いかけた。本当に、彼女は大丈夫なのかと。2人ともに頷いて返すのを見ると、どうやら自分以外も彼女に不自然な印象を見出す事はできなかったようだ。
 その時視界の端に、至極真面目な顔で有里公子を見つめている順平が見えた。
 まさか、自分や美鶴たちですら見落とす何かに、順平だけが気付いたというのだろうか? 順平はこちらの目を見返してくると、さも重要な事を告げるとでもいう雰囲気で、ゆっくりと口を開いた。

「オレのためにメシ作ってくれる、真っ白いエプロンの美少女……良くね? これ、マジ感動ものじゃね?」
「あんたにまともな反応期待した私がバカだった」
「えっ、何!? じゃあ今の目配せとか何の意味あったワケ?」

 残った洗い物を済ませようと、また背を向けた有里公子のところに真田が「手伝うぞ」と寄っていった。しかしあれは彼女の体調を心配しているというより、単に構いたいだけだろう。ゆかりも何かするべきかと思ったが、流し台の前に3人並ぶとなるとさすがに手狭なので、やめておく。
 彼女の平気だという自己申告を信じていいのか。
 前例があるだけに不安を収めきれず、席に座りながらもゆかりが美鶴に訴えるとこう説明された。

「彼女は昨夜倒れる直前の事は、よく覚えていないようだ。私に、昨日自分がどうしたのかと訊いてきたしな。それに、妙な事も言っていた。自分の首に痣が見えなかったか、とか……」
「痣、ですか? …何の事でしょう」
「トラウマを象徴するイメージかもしれないな。恐慌を起こすきっかけになっているのかも――いや待て、痣か。確か……」
「心当たり、あるんですか」
「………。いや、私の記憶違いだった。気にしないでくれ」

 何か知っているけれど言えない、という態度があからさまな美鶴を、ゆかりはじっとりと睨んだ。だが美鶴は、言わぬと決めて飲み込んだ事に関して、容易く口を割るタイプではない。
 食卓の険悪な雰囲気に、順平がわざとらしくため息をついて仲裁に入る。

「朝っぱらからよそうぜー? せっかくの公子ッチの手料理が、マズくなっちまう。こーんなに美味そうなのに、もったいねーよ」
「順平。あんたは公子が心配じゃないの?」
「大変だとは思うけどさ…ゆかりッチはちょい、過保護すぎんだよ。アイツそんなに弱くねーって。“特別”なんだから」
「“特別”って何!? それが酷い目に遭って平気だなんて理由にならないじゃない! 私はあの子の友達として当然の――」

 ガタンとテーブルを揺らす勢いで立ち上がるゆかりに、順平は面食らって「ど、どうどう、ゆかりッチ!」と両手で制する。もっともそんな暴れ馬でもなだめるかのような文句では、ゆかりの怒りをさらに煽るだけだったが。

「おいおい、何を騒いでるんだお前たち」
「ゆかり? …嫌いなおかずでもあった?」

 ゆかりたちは基本的に声を潜めて会話していたため、離れたキッチンにいた有里公子と真田には、内容は聞こえなかったらしい。片付けを終えて来てみれば何やらピリピリした空気で、2人して疑問符を浮かべている。
 有里公子のきょとんとした顔を見て、ゆかりはぐっと憤りをこらえる。何でもないよと少し引きつった笑顔で答え、椅子に腰を落とすと誤魔化すように彼女を褒め始めた。

「そ、それにしてもすごいね。公子って、料理うまいんだ。見た目と匂いからして、もう美味しそうって感じだよ!」
「本に載ってるレシピ通りだから、味はありきたりだけどね。卵を使っちゃいたかったから、そればっかりだし」
「これだけバリエーションがあれば充分だろう。私も今朝は、君の料理を食べてみたくて実家の厨房にキャンセルの電話を入れたよ」
「何だか不安です。最初から桐条先輩に食べてもらうつもりなら、こんな有り合わせじゃなくてちゃんとしたものを作ったのに」

 そんな冗談交じりに笑っている有里公子に、暗い影はやはり見当たらず。ゆかりはようやく、ひとまずの落ち着きを得たのだった。
 テーブルの正面では、いただきますを言う前におかずに手を伸ばした真田を、美鶴が笑顔で威圧している。幾許かのやり取りの後、全員席について食べ始めると、ゆかりもしばらくは食事だけに集中した。
 有里公子はああ言ったが、謙遜も甚だしい。確かにメインは玉子だが、ちゃんと栄養バランスを考えて他の食材も使ってあるし、何よりどのメニューも美味である。ゆかりの特にお気に入りは、甘く仕上げられただし巻き玉子だ。大皿から一切れ、二切れとつまむうちに、たちまち無くなってしまった。ほかの寮生たちも、それぞれ好みのものを確保して満足そうにしている。

 実のところ、この寮の食事事情は非常に貧弱である。いや、それも人によるのだが。
 他の寮では寮母がいて、寮生たちの食事を朝夕と用意してくれる。ゆかりが前にいた寮もそうで、この寮に来るまでゆかりは、食事の支度にかかる煩わしさとは無縁でいられた。
 しかしこの巌戸台分寮は、特別課外活動部の本拠地であるという理由から、一般人の寮母を置くわけにはいかないのだ。世話をしてくれる人間がいない以上、日常における雑事は寮生各自の負担となる。食事だって当然、自炊するか店屋物を買ってくるかしかない。かかる費用もそれぞれの自腹である。
 ゆかりも最初は自炊しようとしたのだ。けれど、ペルソナや戦いの事で悩んでいると、そちらまで手を回す精神的余裕は無くて。ついつい、コンビニやスーパーの惣菜とか、パンをトースターに突っ込むだけとか、簡単な方法で済ませてしまっていた。
 難儀しているのはゆかりばかりではないだろう。順平もゆかりの知る限りではカップ麺やコンビニ弁当ばかりだったし、真田はそもそも牛丼以外を食べているのを見た事が無い。……まあ、真田の場合は好きでそうしているのかもしれないが。
 恐らく今現在健全な食生活を送っているのは、実家の桐条家から毎日食事を宅配してもらえる美鶴ぐらいだ。もちろん、そもそも彼女の立場が自分たち庶民とは根本的に違うという事はわかっている。でも彼女が自分を基準にしてこの寮の生活状況を考えているとしたら、それは間違いであると言わざるをえない。

「つまりは久々にまともな食事にありつけて幸せって事で」
「何がつまりなんだ?」
「真田サンは牛丼食ってりゃそれでいいかもしんないけど、オレらには人間らしい食いもんが必要なんスよ!」
「なっ、牛丼を馬鹿にするな! いいか、牛丼はタンパク質と炭水化物を豊富に含む、ボクサーにとって必要な――」

 真田が何か長口上をまくしたてているが、誰も聞いちゃいない。
 ともあれ、終わりを見れば和やかな朝食風景であった。
 順平が音頭を取り、皆で声を合わせてごちそうさまをして。その光景に家族揃って食卓についた幼い頃を思い出し、ゆかりは湧き上がる温かい気持ちを噛み締めた。ゆかりが子供の頃を思い出す時は、いつも懐かしさと切なさが波のように交互に蘇ってくる。それが今は、辛さなど抜きに、ただほんのりと幸せな空気の中を漂っていられた。
 美味しいものをおなかいっぱい食べた後だから? 確かにそれは大きな要素だろう。でもきっと、何よりの理由は。

「――ありがとう、公子」
「どういたしまして。ゆかりの口に合ったかな?」
「うん、すごくおいしかった。……こういうの、ずっと忘れてたな。独りじゃないって、いいね」

 そうぽつりともらした言葉に、有里公子があまりに優しげな表情で頷くので。
 急に恥ずかしくなったゆかりは、「な、何言ってんだろ私!」と取り繕うと話題を変えた。今日から基本的に寮生同伴での登下校となる有里公子へ、初日は自分に任せろと見得を切る。
 有里公子が食材の補充のため帰りにスーパーに寄りたいと言うと、耳ざとく聞きつけた順平が、ならオレがと割り込んできた。ちゃっかりと自分の食べたいものを言い加えるあたり、狙いがバレバレだ。
 不届き者をしっしっと片手で追い払い、もちろん買い物も付き合うよと確約するゆかりであった。


 お昼を告げるチャイムが鳴り、生徒ばかりとなった教室の中は喧騒に包まれる。
 湊は机の上にランチクロスを敷いて、朝のうちに購買で買っておいた調理パンを取り出した。余裕があれば朝食の残りで弁当を作るつもりだったが、食欲旺盛な男子2名のおかわりで、ご飯もおかずも無くなったのだ。
 まあ、男だった頃の自分の食事量を考えれば、あのくらいは消費して当たり前かもしれない。

 それにしても本当に有り合わせで作ったものを、うまいうまいと皆して頬張る様を見ると、嬉しさ半分心配半分というところだ。湊の料理の腕前は、悪くはないが所詮は素人である。これまで一人暮らししてきた中で、食費の節約のために身に付けたスキルでしかない。まずいものよりはうまいものを食べたいから、作り続けるうちにある程度は上達できたと思うが。
 その湊の普通な料理にここまで食い付くというのは、普段の食生活どんだけ酷いんだ、とつっこみたくなる。本当に喉元まで出かかったのを誤魔化した事に、食べるのに集中している皆が気付かなかったのは幸いだろうか。
 少なくとも湊は『かつて』も手の空いてる時には自炊したし、外食するにしても定食屋でバランスの良いメニューを選ぶよう心掛けていた。……そういえば、『かつて』はキッチンで自分用に料理していると、後ろを順平がちらちらと通りかかったり咳払いしてみたりという事が何度かあったような気がする。とてもどうでもよかったので、毎回スルーしてるうちに向こうもやらなくなったが。もしかしてあれは、分けてほしいという意思表示だったのだろうか?

 回想の中の順平に微妙な申し訳なさを覚え、比較するように今朝の皆の笑顔を思い浮かべて。あんなに喜んでくれるのなら、また暇な時間があれば皆の分も作ってみようか。声には出さず、小さく喉の奥で笑う。
 傍目から見ると、いつもよりちょっとだけ機嫌が良さそうな湊であった。
 そこへ「公子」と名を呼ばれて、振り向くとゆかりが軽く手を振っていた。ゆかりは自席を立ってこちらへやってくると、湊の隣席の主が弁当を持って教室を出るのを見届け、その机を湊のものと向かい合わせにくっつける。

「ね、一緒に食べよ」

 ことさら親密な態度を装うのは、湊に悪意を持つ者たちへの牽制になればという思惑だろう。
 しかしこれは逆に、湊に巻き込まれてゆかりまでもが攻撃の対象とされたりはしまいか? 不安になった湊は小声で「ゆかりは大丈夫なの?」と確認してみた。ゆかりは最初何の事かわかっていなかったが、湊の気遣うような表情に合点がいったようだ。

「私の方は心配いらないよ。前に撃退してるし、弓道部のこわ~い先輩が味方だから」
「うん……でも、気を付けて。わたしはいざとなったらまたペルソナで何とかできるけど、ゆかりはそうじゃない」

 他の生徒たちには聞こえないよう、顔を近づけて囁き合う。互いの吐息すら感じ取れる距離に、意識の上ではあくまでもゆかりと異性である湊は、焦りに近いむず痒さを覚えてしまう。
 妙な気分を紛らわすように、湊の頭は別の懸念について考える。

 昨日寮に帰ってから幾月に言われて試してみたところ、湊のペルソナは召喚器を用いずとも、また影時間かそうでないかに拘らず、自由に発動が可能であるようだった。普通はその条件のどちらかが欠ければ、精神に尋常ではない負担がかかるものなのだが。これも『契約主』による加護の一環だろうか。
 けれど、あの暴漢を吹き飛ばした時点ではそんな事は知らなかった。あれは小田桐が傷付けられるのを見て頭に血が上り、自力では相手をどかせないけれど、それでもどうにかしたい――そういう願望が極まった末、手足の代わりにペルソナが出た、という感じだった。
 宿主たる湊の望みを反映しての動きなのは確かである。が、発動したいと意識しないうちに勝手に出てしまうというのは、どちらかと言えば暴走に近い。一歩間違えれば、小田桐が言った通り“事故”にもなりかねない危険をはらんでいる。……荒垣が、天田の母親を殺してしまったような“事故”に。

 1度ベルベットルームへ行き、もっと詳しく今の自分のペルソナ能力について訊く必要がある。早速放課後にでも寄りたいところだが、今日はゆかりが一緒にいる。ポロニアンモールの何も無い路地裏になど入っていくのは不審だろう。
 というか、コミュの事を考えるなら、登下校時に寮生の誰かと同伴せよというのは厄介な話だ。今日のように必要な買出しはともかく、寄り道は控えるよう言われたし、新たなコミュを求めてぶらぶらと街を歩くのも無理だろう。下手をすると休日も誰かと一緒でなければ外出できないのだろうか。

「……早く、何とかしたいね」
「うん。オトコ使って、自分は安全なとこから悪巧みとか卑怯にもほどがあるっての! 公子は絶対、私が守ったげる。それで黒幕も、引きずり出して二度と変な事考えれられないようにしてやるんだから」

 思うところは、少し違うが。湊もゆかりも、この状況をいつまでも続ける気は無いのは一致している。
 ゆかりはむしろ湊本人よりも怒っていて、黒幕を特定したら殴り込みに行きそうな勢いだ。しかしゆかりが殴り込むよりも先に、特定された時点で黒幕は退学処分にされていそうな……『かつて』風花の失踪を病欠扱いで隠蔽した江古田を、下衆と言い放って処断した美鶴の凛々しい立ち姿が目に浮かんだ。

 あまり長く内緒話を続けているのも、周囲の余計な好奇心を煽ってしまう。借りた席に座ったゆかりが、何でもなかったように自分の昼食を広げた。湊と同じく、購買で買ったサンドイッチのようだ。
 こちらに聞き耳をたてている生徒がいない事を確認し、小声で会話を再開する。

「やっぱり今日、普通に登校して正解だったよ。もし今日公子が休んだら、黒幕が調子に乗ってどんな酷い噂流したかって思うと」
「酷い噂って?」
「だからさ、ほら……公子が、」

 ゆかりの言いよどむ理由を察せらず、首を傾げる湊。
 何度もためらった末に、ゆかりが「ああもう、耳貸して!」と湊を引き寄せた。
 向かい合った机の上に2人ともが上体を乗り出す格好で、ぐっと目の前に迫ったゆかりの顔。そこから頭と頭で左右にすれ違うように、さらに互いの間隔を狭めて。熱を持った呼気が、耳元で産毛を揺らす。
 湊は思わず「…っ」と息を詰め、目をつぶった。そんな場合では無いのに鼓動が早まり、きっと頬も赤くなっている――困った事にこの有里公子の身体は耳が『弱い』らしい。男だった頃もややその傾向はあったが、ここまで敏感ではなかったはずだ。

「――公子が昨日、男に襲われて…その、……最後までされちゃったとか、そういう感じのだってば!」
「…あ、ありえないそれ。そんな事になるくらいなら、……逆に掘ってやる」
「え、掘る? って何?」
「相手の痛みを強制的にわからせる最終手段、かな? なるべくやりたくないけど。突っ込むモノも現場で適当に用意する事になるし」
「……ふ、ふーん。よくわかんないけど、強烈そうだね。それはともかく、ホントかどうかなんて関係無いんだよ。相手はそれで、公子が追い詰められて、真田先輩に誤解されればいいって思ってる。でも事件翌日に被害者のはずの公子が元気に学校来てれば、いくら噂でも信憑性無さすぎて、ただのデマだってわかるから」

 ぞくぞくくる感触を何とかねじ伏せて、ゆかりの話を噛み砕く。途中混乱したせいで変な事を言ったような気もするがどうでもいい。
 確かにそんな噂が立って、実際に公子がこの日休んでいたとしたら、何も知らない生徒は信じてしまうかもしれない。事実の一片を根拠とした事で、噂はより爆発的に広まるだろう。そうなってから否定しようとしても、簡単には収まるまい。
 しかし現実には、湊はこの通りぴんぴんしているし、真田はそもそも最初から湊の側である。黒幕の思惑は、今回に限って言えば何一つ成就しなかった事になる。犯罪事件まで起こすような相手が、このまま大人しく諦めてくれるとも思えないが。

 嫌な仮定についてはそれで終わりにして、ゆかりが湊の肩を掴んでいた手を離した。
 湊は顔を伏せてゆっくりと姿勢を戻した。まだ頬が熱いのを気取られたくなかったためだが――その不自然さを見逃してくれるゆかりでもなかった。「どうかしたの?」と下から覗きこまれて、当然のようにバレた。

「ちょ、な、何て顔してんの!? …え、私のせい? 何で!?」
「ご、ごめん。耳、すごい弱いみたいで……」
「そそそういうの先に言ってよ! え、どうしよ、どうしたらいいのこの場合!?」

 湊につられるように、ゆかりまで赤くなってわたわたと混乱する。
 結局2人とも落ち着いたのは、それから数分も経ってからだ。ちなみに教室での状況のため、外へ食べに出て行かなかったクラスメイトたちにしっかり目撃されている。

 さて、この物語をご覧の皆様ならばもう予想がついておいでかと思うが。
 今回の、湊とゆかりの顛末が一体いかなる噂となって広がるのか――語るまでもなく、また大筋に関わりのある出来事でもないので、この場で言葉を重ねる事は控えておく。
 必要であれば、いずれ折に触れて話題に上るだろう。


 ポロニアンモールの、交番から2軒隣で営業する瀟洒な喫茶店、シャガール。
 夜間も開いており、ませた女の子から年配のご婦人まで、広い年代の女性層をリピーターとして獲得している。人気の秘訣は、店独自のブレンドにこだわった“フェロモンコーヒー”。何でも、飲めばたちどころにフェロモンが出て、異性の視線は釘付けだそうだが……。

「うーん。効果あるのかな、これ? 味は悪くないけど」
「ゆかりはこういうのに頼らなくても、充分魅力あると思うよ」
「あははっ。公子がそういう事言う? …ってやば、公子がこれ以上魅力的になったら余計に変なのが湧くよ! 真田先輩とかも、そのうち本気でくらっと来ちゃうかも」
「無い無い。真田先輩の恋人は牛丼だから」

 ゆかりと有里公子は、学校の帰りにスーパーで食材を見繕い、さらに寄り道してシャガールで休憩していた。すぐに冷蔵庫に入れなければならないものは買っていないし、店内は空調が効いているので大丈夫だろう。
 ゆかりが常に張り付いていたからか、結局この日の学校内では、有里公子に対する悪意を持った働きかけは無かった。下校時も買い物中も、なるべく周囲を気にしてみたが、特に怪しい人物は見かけなかった。何も無いのは良い事だが、逆に全く動きが無いというのも、手掛かりが得られず調査が進まない。
 まだ熱いコーヒーを冷ましがてら、ゆかりはこの事件の展望について有里公子へと水を向けた。特に忌避する事もなく話に乗ってくる彼女に、湯気を散らす吐息に混ぜて安堵の思いをこぼす。相談といった形で話題にする程度なら、どうやら昨日のように倒れられる心配は無さそうだ。

 昨夜話し合った段階では、ゆかりはこの一件をすぐに片が付くものと考えていた。しかし事件翌日である今日に何の音沙汰も無いところを見ると、相手はそう馬鹿ではないのかもしれない。
 この件を解決するために必須なのは、暴行犯をそそのかした黒幕――校内に存在する、有里公子を害そうとするグループ――を特定する事だ。特定した後は、厳罰をもって改心させるなり、問答無用で排除するなり、そのあたりは美鶴や幾月に任せてよかろう。
 順平やゆかり自身の心当たりから、有力な容疑者の名前は既に上がっている。その容疑者たちが、噂に踊らされるままに有里公子をいびっていたという事実もある。だがそれだけではまだ、状況証拠にすら至らないのだ。何せ真田のファンで、有里公子を疎ましく思っている人間などいくらでもいるのだから!
 美鶴と幾月の影響力を背景にするとしても、不確かな噂や推測だけで一般生徒の処分に踏み切る事はできない。相手を黒幕として断じるには、言い逃れできないはっきりした証拠が必要だ。

 警察の方で暴行犯を取り調べているし、有里公子を襲うよう依頼した人物については、そのうち情報が回ってくるに違いない。本来なら警察の捜査情報が外部にもれるなどあってはならないが、そこはこの街における“桐条”の権威でどうにかなるのだろう。
 その情報に、ゆかりたちが目星を付けている容疑者の、特徴や名前などが一致すればしめたもの。たださすがに犯罪を犯すにあたって、馬鹿正直に本名や素顔をさらすとも思えない。偽名、変装といった線を考えれば、やはり決定打としては不足か。
 これは、長丁場になるかもしれない。2人して頭をつき合わせ今後の対策を話し合う中、ふと有里公子がこうもらした。

「何人もに依頼してるっぽいってのを、逆手に取れないかな。複数の証言を得られれば、状況証拠くらい出てくるかも。……いっそ、囮作戦とか。駅裏の溜まり場なんて、いかにもだよね。わたしが1人で行って、寄ってきた連中から何か聞き出せれば――」
「バカ言わないで! そんな危険な事、公子にさせられるワケないでしょ!?」
「で、でもわたしなら平気だよ。第一危険って言ったって、シャドウと戦うほどじゃ」
「それとこれとは別! ダメ! …もう、お願いだから、あんま心配させないでよ」

 ゆかりが意識して憂いの色をにじませれば、有里公子は言い訳を諦めて「…ごめん」と手元に視線を落とした。
 しかし本当にわかっているのか、微妙なところである。スプーンでくるくると無意味にコーヒーをかき混ぜて、まるで子供が怒られて拗ねているような仕草だ。
 これ見よがしに、はあっとため息を落としてゆかりは続ける。

「公子はさ、ホントに無防備すぎだよ? 男なんて狼なんだし、女だってさ、…嫉妬とか、色々汚い部分あるんだから。私は公子の事守ってあげたいと思ってるけど、公子自身が自覚無しでフラフラしてたら、守れるものも守れないよ」
「……うん」
「納得してないって顔。ここまで言って、まだ反論ある?」
「反論っていうか、…ただ、ちょっと不思議で」

 有里公子はそこで言葉を切り、口を開いてはまた閉じるといった躊躇を繰り返していた。
 ゆかりはじっと待つ。有里公子はこうして迷う時ほど、大切な事を言うのだ。
 やがて有里公子は、手遊びをやめると顔を上げてゆかりを見つめる。皿に置かれたスプーンが、チンと高い音を奏でた。

「……あの、ね。ゆかりは…どうして、こんなにわたしに優しくしてくれるのかな、って」
「どういう意味? だって公子は私の友達でしょ。友達を心配するのって、おかしい?」
「う、ううん。おかしくなんてないんだけど、何だか…何て言うのか、……ゆかり前に言ってたでしょ、自分の事もっとドライだと思ってた、って。それが、…わたしのうぬぼれでなければ、だけど。わたしにだけ特別、優しく接してくれてるような気がして」

 有里公子の言う、以前の自分の発言。それを思い出して、ゆかりは考え込んだ。
 確かにそのような事を言った気はする。あれは有里公子の登校初日で、鼻の下を伸ばしている順平のもとから彼女を連れ出したあたりでの話だったか。その後は順平をネタに2人して笑い合い、なかなかに冗談も通じる彼女に安心して1人で送り出し――。

 ……そうだ。あの頃はまだ、自分は有里公子をこれほどまで気に掛けてはいなかった。
 記憶喪失であると、前夜に聞いた。だから多少、彼女が不安にならない程度には親切にするよう気を配っていた。けれど、これも自分が言った事だが――危なっかしくて守ってあげなきゃって気分になってたけど、これなら大丈夫かな、と。
 その時点でゆかりは、彼女に過剰に干渉する事をやめたはずだったのだ。
 それを再び覆したのは、何故か。今の自分が彼女に対して感じる、この庇護欲めいた感情はどこから来ているのか。
 タルタロスで見た涙? いや、もっと前だ。あの巨大シャドウの襲撃で、屋上で彼女を背に庇った時には既にあった。
 ではその前はどうだろう。襲撃の前日も、やはり化粧についてわざわざ自分から教えに行くなど、同様の心理状態だったと思う。
 件の発言と、襲撃前日の間。有里公子の登校初日の、夜にあった事と言えば。

「……そっか。言われてみたら、そうかもしれない。…うん、私公子の事は他の友達と違うって思ってるんだ」
「友達と、違う?」
「あ、勘違いしないでね! 公子は友達だよ? でも、これまで『友達』として付き合ってきた人たちとは違うって言うか、…何か、もっと深い関係って言うかさ。上辺だけじゃない、本音で色々話せる相手だなって」

 有里公子の登校初日、その夜。ゆかりは幾月に作戦室へ呼び出され、美鶴と共同で有里公子の監視に就くように言われた。
 影時間の間だけとの事だったが、その際に監視対象の情報として彼女の詳細なプロフィールを書面で渡されて。本人のプライバシーを度外視したやり方に嫌悪を覚えつつも、読み込んだ内容から浮き上がってきた彼女の過去に、強く惹かれるものを感じたのだ。
 それを踏まえて襲撃の日を迎え、有里公子が入院、そして。

「公子が退院した日の夜、3階の休憩所でお茶したの覚えてる?」
「覚えてる、けど……もしかして、わたしの身の上について一方的に知っちゃったって、まだ負い目に思ってるの? あれはゆかりが自分の事も話してくれて、チャラになったよ? そもそも、最初からゆかりの責任じゃないんだし」
「うん、ありがと。それはあの時公子が許してくれたから、もういいんだ。そっちじゃなくて、…私の、両親の話」

 さらに当時の事を思い出すゆかり。
 10日間の昏睡から目覚めて寮へ帰ってきた有里公子を、ゆかりは見舞いの後に考えていた通り、2人だけのお茶会に誘った。
 寮の2階以上には各寮生の個室のほか、階段ホールから続くようにして共同スペースが設けられており、自動販売機とテーブルセットが置かれて休憩所となっている。
 初めは有里公子を自室に呼ぶ予定だったゆかりだが、いざ見回してみると、人をもてなせるような部屋ではなかった。別に汚らしいという意味ではない。これまで自分以外の相手を部屋に入れる必要を感じなかったので、向かい合って座れるテーブルのような家具が無く、話をするにもお互いベッドにでも腰掛けるしかないという状態だったのだ。
 そういうわけで休憩所で、コンビニ菓子に自動販売機の剛健美茶をおともに、お茶会もどきを開いた。
 話したのは、昼間病室で言えなかった、有里公子のプロフィールを彼女自身に無断で見てしまった事への謝罪。そしてもう1つ、ゆかりの家庭環境についてだった。
 有里公子は気にしていないと言ったが、ゆかりは自分だけが相手の情報を知っているのはフェアではないからと説いた。
 だが本当は、ゆかりの方が有里公子に知ってほしかったのだろう。自分の境遇を、そして彼女に抱いている親近感を。

「話したよね。小さい頃にお父さんは死んじゃってて、お母さんとは距離が空いてて……もう随分前から、私独りきり。忘れてるのかもしれないけど、公子も両親亡くしてて。ううん、忘れてるなら余計にだね。公子も、独り。私と同じだって」
「うん。聞いたね」
「今までの『友達』はさ。みんな、ちゃんと両親元気で…ちょっとした事でお父さん嫌いとか軽く言えちゃうような、幸せな子たちで。みんなには私の気持ちはわからないんだって思ったら、結局みんなの中でも私は独りで……友達なんて、口先だけだった」
「ゆかり……」

 ゆかりから目をそらす事なく、有里公子は話を聞いている。必要以上の言葉は挟まず、相槌や名前を呼ぶだけで続きを促してくれるのはありがたかった。今はとにかく、この思いを吐き出してしまいたかったから。

「でも公子は、私と同じだから。だからきっと…私の気持ちもわかってくれるって、思ったんだ。私だって、公子の気持ちをわかってあげられる。心からわかりあえる、本当の『友達』になれるだろうって、すごく嬉しかった」

 早口にそこまで言い切って、ゆかりはすっかり冷めたコーヒーで唇を湿らせた。
 話している間は興奮で押し潰されていた理性が、僅かながら戻ってくる。
 自分の告白に、有里公子はどう答えるだろうか? 彼女はゆかりが口を閉じた後、「心から…わかりあう」と呟いて目を閉じ、胸に手をあてて真剣に考え込んでいる。
 その間がもどかしく、ゆかりは次第に怖くなった。もしかしたら、自分の思いを拒絶されるのではないだろうかと。
 自分と同じである有里公子ならば、自分をわかってくれる。そう自身に言い聞かせつつも、けれど頭のどこかで「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかける自分がいた。そんな思考に対して、彼女との友情を疑うなんてと憤るまた別の自分も。

 ……本当は、ゆかりが疑っているのは有里公子ではない。疑ったのは、ゆかり自身がたった今口にした言葉だ。
 嘘を言ったわけではない。確かに、先の言葉はゆかりの本心だった。でもそれは、――それは、『本当の友達』に抱くのにふさわしい感情なのだろうか?
 わかりあいたいと言いながら、相手の思いを決め付けて、同意を求める身勝手さ。
 ゆかり自身が、己の発言に秘めたその傲慢さをどこまで理解していたかはわからない。しかしその自らの過ちに、僅かなりとも気付いていたからこそ、ゆかりは未だ思索途中の有里公子に新たな質問をぶつけた。それにより、前言を有耶無耶にしたかったために。

「――なんて、ね。私だけ盛り上がっちゃって、バカみたいだよね。公子は別に、そんなの頼んでないのにさ。ごめんね、私が公子の事構うの、迷惑だった?」
「あ…ううん、そんな事ないよ! わたしは、その、…むしろ感謝してるし、純粋に疑問だっただけだから。わたしこそ、ごめん。言い辛い事、言わせちゃった。でも、ゆかりが話してくれて、嬉しかった」

 ところどころ声を詰まらせる有里公子だが、それは嘘で取り繕うためではなく、感情が飽和したせいだろう。その証拠に彼女の頬は喜びに火照って、笑顔の中心で光を弾く瞳は全く淀みない。
 思い通りの反応を得て、ゆかりも「えへへ」と笑み崩れた。

「よかった。なら、これからも思いっきり優しくしてあげるから、覚悟しといてよね?」
「うん。ありがとう、ゆかり」
「よしっ。それじゃ、そろそろ行こっか。あんまり遅くなったら、先輩たちがうるさいし」

 ゆかりは残ったコーヒーを一口にあおると、空になったカップを静かに皿に戻した。
 真似するように有里公子も一気飲みを――あれは少々量が多いような、しかし本人は飲み干すつもりのようだ――敢行し、途中で苦しげにしつつも、何とか全て胃に流し込んだ。陶器のカップが皿とぶつかって音をたてるが、喉を鳴らして一気飲みなどしておいて、今さら無作法も何もない。
 無理を通したツケとして、上がった息をはぁはぁと整えている有里公子に、幼子を見守るような心持ちになったゆかりである。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
「うーん。公子ってどうしてこう、妙に男らしい事するんだろなー。たまにだけど…ってちょっと、ホントに平気!?」
「ゴホッ! …へ、平気平気! うん、何でもないよ全然! バッチリ!」

 男らしい、のくだりで唐突に咳き込んだ有里公子は、急に顔色まで青くなったように見える。
 彼女の平気はあてにならないとゆかりは思っているので、何度も重ねて確認し、最後は額に手をあてて熱を測った末にようやく納得してやった。眉尻を下げて情けない表情を向けてくる彼女に、「思いっきり、優しくするよ?」と前言を強調する自分は、たぶんとてもイイ顔をしている。でも、それもこれも心配ばかりかける彼女がいけないのである。
 買い物袋両手に店を出て、家路につく。有里公子がおろおろして、わたしも持つからと申し出てくるけれど、やんわりと拒否。
 実は結構重い。それでもゆかりをひっきりなしに気遣ってくる有里公子を見れば、これでちょっとは自分の心配もわかってくれるだろうかと、少し得意な気分になった。

「……ゆかり。わたし、」
「ん、なぁに?」
「――ッケホ、…ううん、何でもない」

 荷物を持つ持たないとじゃれている最中に、ふっと有里公子の声に影が差した気がして、ゆかりは彼女を振り返った。
 だが、彼女は言い掛けた言葉を飲み込んでしまったようだった。首元に手を置いて考え込む様子が少し引っかかる。また、何か辛い事でも思い出しているのかもしれない。あるいはゆかりの意趣返しが効き過ぎたのだろうか。

 ゆかりから見た有里公子は、かなり子供っぽい。感情がすぐに顔に表れるし、言動の端々に幼さがにじんでいる。隠し事も苦手のようで、悩んだり苦しんでいれば一目瞭然だ。
 しかし周囲に対して無意識に強がって見せるので、大丈夫と言い続けて倒れるまで、本人すら無理をしている事に気付いていない場合があったりする。しかも、本当に辛くてたまらない時でも、彼女は他者に助けを求めようとしない。彼女は独りだから、きっと頼れる相手がこれまで周囲にいなかったのだ。

 でもそんな彼女の姿は、自分だけが気付いている事なのかもしれないとゆかりは思う。だってそうでなければ、こんなに『可哀想』で優しくしてほしがってる彼女を、ほかの皆はどうして気に掛けないのだろう? 順平なんて、彼女を友達だと言いながらも「アイツは“特別”だから」と言い訳して、実際は遠巻きに見ているだけではないか。
 そうだ。自分だけが、彼女の本当の辛さをわかってあげられる。彼女と同じ、独りの自分だけが。

 ――だから私が彼女に優しくしてあげないと。
 優しくしてあげる。ねえ、優しくされたら、嬉しいでしょう?
 だって私は嬉しいもの。私は『優しくされたかった』もの! だから私と同じこの子に優しくするの。可哀想なこの子に!

「やっぱり持つよ、ゆかり」
「どうしようかなー」
「持ち手のところ、食い込んでて痛そう。ゆかりが痛いの、わたし嫌だよ」
「私も公子が痛いの嫌だな。なのに公子は私に黙って危ない事するんでしょ? あーあ、心配だなー」
「…し、しないよ! 囮とか、もう考えてないから!」

 やはりまだ諦めていなかったか。そう言わんばかりに睨めば、有里公子は今度こそ反省したように「ごめんなさい…」と俯いた。
 これ以上は優しくするよりもいじめに近くなってしまうだろう。仕方ないという雰囲気を装って立ち止まり、ゆかりはビニール袋の片方を有里公子に差し出した。ぱっと顔を上げた有里公子は、素早く袋を受け取ってゆかりから遠ざけてしまう。
 そんな後ろ手に隠さなくても、取ったりしないというのに。

「ありがと、ゆかり!」
「それって私の台詞じゃない? てか、取らないからその持ち方やめようよ。重いんだから、バランス崩すよ」
「大丈夫。わたし、重いもの振り回すの自信あるから。バス停とか」
「……それ、どこからツッコんでほしいの? むしろ私に対する挑戦だよね?」

 再び軽快な会話を交わしつつ、笑顔で歩き出す2人。
 本音を吐露しただけ、これまでよりさらに互いの心を通じ合ったという喜びを感じながら。

 ……ゆかりは、理解しているだろうか。
 有里公子に優しくするのは、彼女が自分と同じだから。彼女の姿に、自分を重ねているから。
 幼い印象の強い彼女に、『優しくされたかった』幼い頃の自分を投影しているから。『可哀想』だった自分を見ているから。
 彼女に優しくする事で、過去の自分が優しくしてもらったような錯覚に浸る。それは心理学で言う、代償行為に相当するだろう。彼女への友情の発露だと自身を誤魔化して、結局は全て自分のためにやっている事なのだ。

 もちろん、内心がどうあれ実際の行為が相手のためになっている事は変わりない。
 ただゆかり自身が、己の行動の根底にあった心理を自覚した時、自分をどう思うのか。
 今はまだ、わからない。けれど、本当に有里公子とわかりあいたいと願うのなら。そして彼女がゆかりとわかりあいたいと思っているのなら。ゆかりはいずれ、自分の心を真っ向から見つめなければならなくなるだろう。
 今日の問答は、ほんの始まりに過ぎない。


「ただいまー」
「戻りました」
「岳羽も有里も、お帰り。今日は無事に過ごせたようだな」

 寮へ帰ると、ラウンジで待っていた美鶴が出迎えてくれた。
 湊はゆかりから残りの買い物袋を受け取って、キッチンの冷蔵庫へと向かった。ゆかりの方は早速この日の出来事を美鶴へと報告している。とは言っても何も無かったのだが。
 食材を冷蔵庫へ詰め込みながら、湊はシャガールでのゆかりとのやりとりを思い返す。
 心からわかりあえる、本当の友達になりたいとゆかりが思ってくれていた事。
 少し手を止めて、胸の奥に灯った新たな光に意識を向ければ、そこには“恋愛”のコミュニティ。自分とゆかりに、絆が芽生えた証。

 湊はこれまで、頭のどこかでやはり『かつて』のゆかりのイメージを基に考えていたらしい。この世界でゆかりが、自分に対して妙に優しくしてくれる理由が気になって仕方なかった。
 だが、直接聞いてみれば何という事もなかった。結局は『かつて』自分がゆかりに積極的に関わろうとしなかったというだけで、きっとゆかりは元から情の深い人間であるのだろう。情を向ける相手を彼女はちゃんと選んでいて、『かつて』自分はその中にいなかった、という事なのだ。
 そして今、自分はゆかりとコミュを築いた。友達として、互いにわかりあいたいと願って。
 これからもたくさん話をしよう。その過程でゆかりの事を知り、自分の気持ちも知ってもらって、もっと仲良くなれる。未だにゆかりの優しすぎるというか、子供をあやすような態度が慣れずにくすぐったいけれど、女の子の友情ってこういうものなのかもしれないし。

 ただ1つ不安材料というか、ゆかりのみならず皆とわかりあうために、障害となる要因が自分にはある。
 実は男だとか、未来を知ってるとか、つまりは『かつて』の記憶について、他者に話す事ができないという事実だ。
 話さない、ではなく、話せない。自分の意思に関わらず、『かつて』の知識を誰かに話そうとすると、息ができなくなる。シャガールからの帰り道で、ゆかりに話しかけてやめたのもそのためだ。昨夜倒れた時と全く同じこの感覚は、自分が今もあの痣――そして嘲笑う自分自身の影――に監視され続けているという恐怖を呼び起こした。

 誰にも、本当の事を言えない。
 これまでは言っても信じてもらえないとか軽蔑されるとか、自分が話したくなかったから話さなかった。しかしいざ話したいと思ってみれば、得体の知れぬ存在に邪魔される。直接口にできないなら手紙で、とペンを取れば、また手首に浮かび上がった痣によって手を握り潰されそうな痛みを味わった。

 自分の『かつて』の記憶について伝えられないという事は、それを元にした仲間への警告や説得も難しい。何せ根拠が無いのだから。
 幾月が裏切ると知っていても、どうしてそう考えたのかを言えない。ゆかりの父に着せられた罪が濡れ衣だという真実も、皆が幾月を信用しているこの状況では、当のゆかりにすら信じられないだろう。
 この世界の未来を、自分の知る『かつて』と同じにはしたくない。自分も死なず、世界も存続させたい。
 昨夜できるなら美鶴に全てを話し、協力を得たかった。だがそれが無理だというのなら。

 ――誰にも話せないのなら、やはり自分独りで全てを行うしかないのだ。

「ん、どうしたんだ有里。冷蔵庫の前で難しい顔なんかして」
「……真田先輩。…いえ、何でもないんです。明日はお休みだし、また皆の分もごはん作ろうかなって」

 既に食材は綺麗にしまい終えていた。
 湊がその場をどくと、真田は「そいつは楽しみだ」と笑いながら冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。ペットボトルのラベルにはマジックで真田の名が書いてある。キッチンに置かれたこの大きな冷蔵庫は共用なので、特に水などは誰のものなのかわかるように記名が推奨されているのだ。

「まだ言ってなかったが、お帰り。今日は大丈夫だったか?」
「ゆかりから桐条先輩にも報告してくれてますけど、何も無かったですよ。……あれ、まだ話してるんだゆかり。珍しいな」
「そうだな、何か盛り上がってるみたいだぞ」

 真田がラウンジの方を見ながらのんきに言う。ラウンジとダイニングキッチンの間も、上半分が透明な間仕切りのみで繋がっており、そこそこ見通しが利く造りだ。
 ゆかりが美鶴を苦手にしているのは知っているので、2人だけで何やら話し込んでいる光景は湊には意外に映る。もちろん仲が良くなるにこした事はないから、湊が口出しする話でもないが。延々と学校での湊の様子を話してるとも思えないし、美鶴があんなに興味を示すような話題なら自分も是非知りたいところだ。
 ……おや、これはゆかりに嫉妬してしまったという事だろうか?
 美鶴の事となると、我ながら本当に心が狭い。真実を打ち明けられないとわかって、少し焦っているのかもしれない。
 黙りこんだ湊に、真田が話題を変えて話しかけてきた。

「しかし随分買い込んできたな。あれ全部明日の俺たちのメシになるのか?」
「さすがに全部じゃないですよ。でも大半は使ってしまうと思います。生野菜だと多いように見えても、調理して嵩が減りますから」
「そうか。これだけ一気に使うんなら、食う側の俺たちが材料費ぐらい払わないとまずいんじゃないか? 調理代金については、まあ、サービスしてもらえると助かるが」

 後半は冗談めかして言う真田に、湊も笑って「じゃあ、次からは徴収しちゃおうかな」と返しておいた。ちなみに、明日の次の予定は今のところ無い。手間隙かけて複数人分をゆっくり料理していられる日は、そうそう多くないのである。
 再び美鶴たちの方を見ると、ようやく話が終わったようだった。
 僅かな嫉妬らしき感情も、真田の問いに答えるうちに消えていた事に湊は少しほっとする。
 仲間内で嫉妬とか三角関係とか、どんな悪夢だ。現状ではまだ湊の一方的な片想いなのだから、そんなのは妄想に過ぎないが。

 ……ありえないが、もし『かつて』湊がゆかりや風花にも手を出したとしたら。
 きっとそれはそれは恐ろしい修羅場が巻き起こった事だろう。半笑いで「無いなー」と呟く湊が、その仮定が自らの可能性の1つであったと知る事は永遠に無かった。
 そしてまた、今思い浮かべたのとは異なる顔ぶれによる、仲間内での恋情の交錯。そんな可能性についても、のほほんと明日の朝食について考えている湊は思い至らないのであった。


     ――初稿10/07/17



[18189] 蛇足もろもろ
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81
Date: 2010/07/17 00:51

     ●蛇足もろもろ●

 ここに置いているもの↓
  ・最新話の1つ前の話までの微妙な粗筋
  ・設定を原作ゲーム風表記にしてみた
  ・最新話までに出たキャラまとめ
  ・各話の後書きもどき
 なんとなくつらつら書き出してみた。ここに関しては、飽きたら消します。「チラ裏だから!」が免罪符。


   ◆最新話1つ前(第九回)までの主人公寄りな粗筋◆

 ゲーム本編1周目を、コミュがったがたで仲間のレベルも足りてないというギリギリの状況でクリアした男主人公。卒業式で恋人の美鶴の涙に未練を残しながら死に、気付いたら何故か物語開始時に逆行して、しかも女の子の身体になっていた。
 初めは自分の置かれている状況に付いていけず、記憶喪失を装いながら何とか世界に適応しようとする主人公。女になった事で異なる周囲の視線に戸惑いつつ、流されるままに最初の満月の、巨大シャドウ襲撃を迎える。
 無事にペルソナ・恋愛ピクシーを召喚できた主人公だが、巨大シャドウの攻撃により意識を喪失。ベルベットルームでの問答を終えて現実で目を覚ますと、既にシャドウが倒されて10日が経っていた。シャドウを倒したのは主人公だと言われるが、主人公自身にはその記憶が無い。右手に表れた奇妙な痣とともに、謎は深まる。
 シャドウ襲撃事件をきっかけに、この世界がやはり自分の知る流れで進みつつある事と、その中に「既に知っている」自分が存在している意味を思う主人公。流されるだけでなく、独自に流れを変える方法を考える。だが「知っている」という意識は主人公の周囲の人間に対する認識に影を落とし、彼らを過去の記憶の焼き直しとして一面的にしか見えなくさせていた。共に戦ってみて初めて、過去と現在との仲間たちの違いに気付いた主人公は、ゆかりの言葉に胸打たれて心を改める。
 過去ではなく、今のこの世界で生きる人たちを見つめる事が、コミュ発生の第一の条件だと思い知った主人公。しかしどうしたって、過去にかけがえの無い絆を結んだ相手に対しては、今と過去を分けて考える事ができない。ついにはそのかけがえの無い絆を結んだ相手であった舞子に拒絶され、今を生きる人たちに積極的に関わる事への恐れを抱いてしまった。
 そんな中、1つの“噂”が主人公を煩わせる。真田と自分が、恋人として付き合っているというのである――何を馬鹿な。
 だが“噂”は学園に蔓延し、そのせいで主人公に向かう悪意は犯罪事件として表面化した。事件そのものは力技で解決し、その場に居合わせた小田桐との問答で怯える心に区切りを付けた主人公は、今の美鶴に1周目の体験を告白する決心をする。ところが、あの右手に表れた痣と同じものに首を絞められ、「それはルール違反だ」と釘を刺されてしまうのだった――。


   ◆原作ゲーム的に設定してみた◆

  ◇主人公の状態

 1周目(無印P3)男主人公:有里 湊
   クリア時レベル:99
   クリア時ステータス:学力MAX(天才)/魅力ランク5(オーラが出ている)/勇気ランク4(頼りがいがある)
   クリア時MAXコミュ:愚者/魔術師/女帝/皇帝/法王/戦車/隠者/刑死者/死神/悪魔/星/審判
   クリア時発生済みコミュ:太陽
   クリア時未発生コミュ:女教皇/恋愛/正義/運命/剛毅/節制/塔/月
   他特記:ミックスレイド・ハルマゲドン使用可能だった。無印には永劫コミュが存在しない

 2周目(本編・P3P)主人公:有里 公子
   最新話でのレベル:10前後
   ステータス:学力MAX(天才)/魅力ランク5(可憐な天使)/勇気ランク3(ここぞでは違う)
   コミュについて:別項に記載
   所持ペルソナ:ピクシー/ネコマタ/アラミタマ/フォルネウス/オモイカネ/リリム/ヨモツシコメ/イヌガミ/ヤタガラス/リャナンシー/ナンディ/アヌビス
   他特記:ペルソナ最大所持数は12のまま引き継いでいる。勇気がランクダウンしたのは2周目知識で動く前に考えすぎてるせい

  ◇本編最新話でのコミュデータ(予定部分はまだ変動する可能性あり)

 愚者『????』:未取得
 魔術師『伊織順平』:ランク1「同じペルソナ使いの仲間で、クラスメイト。友人として、湊を日常で気遣ってくれている」
 女教皇『????』:未取得
 女帝『????』:未取得
 皇帝『?????』:未取得(第二回で発生フラグが立っている)
 法王『????????????(構成メンバー:???/?????/????/????)』:未取得
 恋愛『岳羽ゆかり』:ランク1「同じペルソナ使いの仲間で、クラスメイト。友人として、湊を色々と心配してくれている」
 戦車『運動部(岩崎理緒)』:ランク1「女子テニス部の仲間たち。湊の入部を歓迎してくれている」
 正義『???』:未取得
 隠者『???(?????)』:未取得
 運命『??????(????)』(?????):未取得
 剛毅『????』:未取得
 刑死者『??』:未取得
 死神『?????』:未取得
 節制『????』:未取得(第七回で発生フラグが立っている)
 悪魔『??????(????)』(????????????):未取得
 塔『????』:未取得
 星『????』:未取得
 月『????』:未取得
 太陽『???????????(????)』:未取得
 審判『特別課外活動部(構成メンバー:岳羽ゆかり/伊織順平/真田明彦/桐条美鶴)』:ランク1「共に戦うペルソナ使いの仲間たち。過去の焼き直しではない今の彼女らと、新たな道を歩き始めた」


   ◆ここまでのキャラ(モブ以外)と主人公との関係とか◆

  ◇有里湊/有里公子

 主人公。名前はコミックス版と、ネット上で広く使われているものを拝借。
 ペルソナという精神に根ざした力を扱う割りに、このSS本編中ではかなりメンタルが弱い。一応そういう設定にした意義はあるが、語られるのは物語終盤の予定のため、読む方からすると単に悩みまくりで鬱陶しい印象になりがち。
 10年もの間“デス”の欠片を抱え込んでいた影響により、情操面がやや未発達で、周囲から見ると言動の端々に幼さがある。
 何事においても美鶴第一。

  ◇岳羽ゆかり

 初出は第二回。
 本人のペルソナは恋愛、対応コミュも恋愛。
 主人公を同性として見ているからというだけでは説明のつかない、原作女主プレイと比較しても不自然なほどの、主人公への過剰な優しさを見せる。本人は気付いていないが、それはゆかりが主人公に自身の境遇を重ね、主人公に優しくする事で過去の可哀想だった自分が優しくしてもらえたような気分になっているから。つまり代償行為の一種である。
 主人公が「可哀想」でなくなって、過去の自分と重ねる事ができなくなった時、ゆかりは何を思うのだろう……。

  ◇伊織順平

 初出は第二回。
 本人のペルソナは魔術師、対応コミュも魔術師。
 最初は主人公をある程度異性として意識していたが、ペルソナ使いとして共に戦い、自分よりも活躍する姿に嫉妬してからは恋愛対象としては見ていない。自分と主人公の差に悩み、その悩みから逃れたくて主人公を自分と違う“特別”であると言い訳する。
 だが、その言い訳もいつまでもつだろうか?

  ◇真田明彦

 初出は第三回。
 本人のペルソナは皇帝。
 タルタロス初探索で仲間の不和に涙を流した主人公に、幼い頃に自分と荒垣の喧嘩を止めた妹の姿を重ねる。
 妹のように主人公を構い、だが校内で自分がアイドル的な立場にあると充分に理解していないがゆえ、構われる主人公が周囲の女子からどんな目で見られるのかという事に気付かない。

  ◇桐条美鶴

 初出は第二回。
 本人のペルソナは女帝。
 主人公が自分を特に慕っているらしいとは気付いているが、それがどんな感情なのかは未だ見極められずにいる。
 自分の目的のために、特異なペルソナ能力を持つ主人公を「使える」人間として目をかけている。しかし純粋に自分を信じているだろう主人公や仲間たちに真実を語らず戦いへ導く事に、罪悪感を捨てきれない甘さを持つ。

  ◇荒垣真次郎

 初出は第二回。
 本人のペルソナは刑死者。
 たまたま街を歩いていて出会った主人公の、自分への態度に興味を抱く。また、何故か主人公を自分と「同類」であると感じた。
 主人公に会った日以来、奇妙な胸騒ぎに駆られている。

  ◇コロマル

 初出は第八回だったり。神社の境内の奥から主人公をじっと見てた赤い眼の正体。
 動物の勘的に、主人公に何か不自然な印象を感じているが、現在はまだ赤の他人なので気にしていない。

  ◇テオドア

 初出は第七回。タルタロス初探索時(ゲーム本編での初出時)に主人公がベルベットルームに顔を出さなかったため、イゴールが主人公に選択肢を提示せずに、エリザベスでなくテオドアの方を案内人として決めてしまった。
 テオドアにとって主人公は案内人として導く初めての相手であり、特別な思い入れを抱きやすい状況だった。加えてこれも初めて目にした、人の涙に対して感じ入るものがあったようだ。

  ◇ファルロス

 初出は第一回。
 ゲーム本編と違って、最初に寮で出会った時から既に、妙に人間くさい仕草が垣間見られる。
 1周目の記憶は無いはずだが、主人公に悪影響を及ぼす痣を隠してくれるなど、好意的な態度をとっている。

  ◇幾月修司

 初出は第三回。
 今のところ、ゲーム本編と異なる目立った言動は無いようだ。主人公の特異なペルソナ能力に興味を示している。

  ◇岩崎理緒

 初出は第八回。
 真面目に部活動をしないテニス部の他の部員たちに苛立ち、体力づくりが目的と言いつつもしっかり練習する主人公を歓迎する。

  ◇小田桐秀利

 初出は第九回。
 主人公を、性別を越えて良き友になれる相手と考えている。
 主人公のペルソナを目撃した事で、影時間や特別課外活動部の真の活動について教えられ、生徒会長としてでなく桐条グループ令嬢としての美鶴とのコネを手に入れた。
 これによりゲーム本編コミュ内容の、権力を得ようと焦って、独断で教師の依頼を引き受ける事はなくなりそうである。コミュに代わる精神的成長を促す出来事は、果たして彼に訪れるのだろうか?


   ◆後書きもどき◆

 物語全体の中で絶対に外せない重要エピソードは決まっているが、それ以外の個々のコミュの肉付けに関してはまだ不確定多し。
 そのタイミングで発生可能なイベントを中心に、今回はこれだけ書く、というようにその回ごとに主要なテーマと挟むべき伏線を決め、後は筆の赴くまま。だから予定に無いオリジナル展開なんてことに(ry
 オリジナル展開とは言っても、物語の本筋をゆがめるほどかけ離れた状態にはならない。言ってみれば原作漫画に追いつきそうになってオリジナルの敵やエピソードを挟むアニメのような……どう見ても駄作一直線です本当にありがとうございました。

  ◇第一回・第二回

 ノープロット。
 元々は、P3Pを「無印クリアした男主が憑依した女主」という設定でプレイしながら、プレイ記録をSS風に仕立てたもの。第二回の後半まで書いてある状態で第一回を投稿、反応が悪くなかったので調子に乗って書き上げた第二回をそのまま投稿。
 現在の展開と比べると大きな矛盾になりそうな箇所が放置されている。ツッコミくらったら修正するかも。

  ◇第三回

 やはりプロットは無し。物語の終わらせ方だけはこの頃に決定。第一回・第二回で放置された矛盾がまだ直ってない。もう矛盾じゃなくて、これこれこういう心の動きがあったからこうなったんだよ! と屁理屈付ける方が簡単な気がしてきた。
 ペルソナの設定を、異聞録や2罰とすりあわせようと頑張った形跡がある。しかし結局固めきれていない。

  ◇第四回

 設定語り多め。それを誤魔化すように百合くさいゆかりがいたりする。

  ◇第五回

 ようやくここで主人公の目指すべき方向性が語られる。展開遅すぎる。
 最初の投稿では色々と省いた部分を、感想でのご指摘もあり後に加筆修正。
 筆者はアンチでもヘイトでもないつもりだが、展開の遅さゆえに話がぶつ切りになり、その時点ではキャラの扱いに差を付けているとしか見えないような描写になる場合がある。しかし全体を見ると、主人公含め全キャラが平等に落とされているはずである。

  ◇第六回

 第五回の修正にあわせて、こちらも加筆修正済み。ついでに初の真田視点が加わり、以降の真田の主人公構いっぷりの根拠が明確に。
 順平コミュのきっかけとして、ちょっといいとこ見せようとモブ踏み台にエピソード作っただけなのに、それが後々オリジナル展開に発展するだなんて……この時は思ってもみなかった。

  ◇第七回

 初回投稿で主人公の言動がおかしかったので後に部分修正、マーガレットの名前が出なくなった。
 “”が連続しすぎて読みづらい?
 テオドアにドM疑惑があるとどこかで見て以来、ヤツをどうやって虐げようかと考えている筆者の思惑が滲み出ている。

  ◇第八回

 原作コミュのフラグ折り開始。あとTS設定があんまり生きてなかったので少し意識して書いてみた。

  ◇第九回

 あれ、小田桐をこんなに出番多くするつもりは無かったんだが……まあいいやこれでコミュキャラ外れたけど充分目立ったよな。
 とりあえず、主人公が1周目知識ひけらかすフラグを潰しておいた。孤独に頑張ってください。

  ◇第十回

 原作知らない方向けに1つ言い訳を。
 原作のゆかりはこのSSと違い、主人公を自分と同じだと考えて勝手な共感を抱いた事をこの時点(コミュ発生時)で反省している。このSSのゆかりが反省できておらず、むしろ思い込み悪化してるのは、ゆかりが優しくしてくれるからって何も考えず喜んでる主人公のせい。原作のゆかりはそんなに嫌な子じゃない。


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