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[14064] 完結 復活の時(鋼殻のレギオスif)
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2016/01/21 09:22
警告。

この作品は鋼殻のレギオスの二次制作です。
オリジナルキャラが活躍します。
オリジナルの展開があります。
オリジナルの剄技が出てきます。
文庫本一冊程度の作品を20キロバイト程度にぶつ切りにしています。
やや特殊な表現や単語の使い方があります。

たとえば。
可能性 有ったら良い事が起こる確率。
危険性 有ったら怖い事が起こる確率。
確率 良い事か悪い事か判断できない事が起こる。
等々。

誤字脱字については、スクリーンリーダー(パソコンの画面を読み上げるソフト)で確認していますが、
同音異字や似たような発音のもじについてはかなり鈍くなっています。
お手数ですが見付けましたらご連絡ください。


お詫び。

基本的に一つの話が文庫本一冊分になります。
ですので更新は大まかに三ヶ月から四ヶ月に一度です。
中編や短編はこの限りではありませんが、思いつきで書くと思いますので更新は不安定です。


更新記録。
2009年11月18日 第一話投稿。
2009年12月30日 閑話投稿
2010年2月3日 加筆と誤字そのほか修正。その他版へ移動
2010年3月31日 第二話投稿
2010年8月4日  閑話 赤毛猫の1日を投稿
2010年8月11日 第三話を投稿開始
2010年11月10日 閑話 乙女と野獣を投稿 
2011年2月2日 第四話を投稿開始
2011年4月20日 閑話 ツェルニに死すを投稿
2011年4月27日 閑話 ニーナのお勉強会その一を投稿
2011年5月4日 閑話 ニーナのお勉強会その二を投稿
2011年8月3日 戦慄! 女子寮の朝を投稿 
2011年8月17日 第五話を投稿開始
2011年12月14日 第一次食料大戦を投稿
2012年3月21日 第六話を投稿開始
2012年4月11日 閑話 第二次食料大戦を投稿。
2012年5月9日 大惨事食べ物大戦を投稿。
2012年7月11日 閑話 サイハーデンの戦士達を投稿。
2012年8月8日 第七話を投稿
2013年1月23日 第八話を投稿開始
2013年8月1日 第九話を投稿開始
2013年10月2日 閑話 槍衾がやってくるを投稿
2013年11月20日 閑話 ヴァーサスを投稿
2014年2月5日 閑話 最悪の日を投稿
2014年4月30日 第十話を投稿開始
2014年7月23日 緩和 渚のエトセトラを投稿
2014年12月3日 第十話後半を投稿開始
2015年12月23日 第十一話を投稿
2015年12月30日 エピローグなどを投稿
 
 
 
 
 
 
ネタバレが有るかも知れないと言う根も葉もない噂が流れているような気がする人物紹介

アイリ・ゲルニ(オリジナル)
ナルキ母。

シノーラ・アレイスラ
正体不明の超絶美女

シャンテ・ライテ
赤毛猫? 赤毛猿?

ダルシェナ・シェ・マテルナ
特効こそ我が命!!

ツェルニ
私、お兄ちゃん(レイフォン)のお嫁さんになるの

フェリ・ロス
珍獣?

ナルキ・ゲルニ
おねぇさん?

ニーナ・アントーク
部隊指揮に悩む隊長さん

ミィフィ・ロッテン
死亡フラグ満載の猫

ミュンファ・ルファ
金髪ショートで、幼馴染な巨乳

パス・ワトリング(オリジナル)
みんな死んでしまえばいいのに

メイシェン・トリンデン
作者に気に入られた哀れな乙女

リーリン・マーフェス
霊長類人科リーリン リーリン・マーフェス

ヴァンゼ・ハルデイ
ニヤリの被害者

ウォリアス・ハーリス(オリジナル)
極悪非道な無能武芸者

エド・ドロン
レイフォン最強の盾

オスカー・ローマイヤー(オリジナル)
食肉加工業者の御曹司

カリアン・ロス
レイフォン好き。でもツェルニはもっとすき

ゴルネオ・ルッケンス
被害甚大な武芸者

サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンス
熱狂的戦闘愛好家

シャーニッド・エリプトン
隊長補佐の苦労人

シリア・ゲルニ(オリジナル)
ナルキ弟

ダン・ウィルキンソン(オリジナル)
極度の愛妻家

テイル・サマーズ(オリジナル)
みんな俺の事が嫌いなんだ

ディン・ディー
髭ダコ

デルク・サイハーデン
レイフォン父

トマス・ゲルニ(オリジナル)
ナルキ父

ハーレイ・サットン
誰か僕に出番を分けてくれ

ハイア・ライア
立たされ坊主

リチャード・フィッシャー(オリジナル)
リーリン弟? レイフォン弟?

リンテンス・サーヴォレイド・ハーデン
偏執的数字愛好家

レイフォン・アルセイフ
努力しても報われない呪いがかかっている



[14064] 第一話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:06


 放浪バスの停留所に降り立つと、そこは今までいた都市とは全く違う雰囲気に包まれていた。
 放浪バスという狭い空間から出られたからと言う、開放感だけではないのは、間違いない。
 空気に混じる匂いそのものが、違う感じなのだ。
 彼の生まれ故郷であり、唯一知っていた都市、槍殻都市グレンダン。
 そこは常に汚染獣との戦闘を前提とした、隠れた緊迫感が見え隠れしていたのだが、この都市にそのような物はない。
 汚染獣との戦闘が全く考慮されていない訳ではないのだが、それでも、年中警報が鳴る様な都市とは、全く違う。
 自律型移動都市。
 汚染された世界を放浪する、人類が暮らして行ける、小さな箱庭の世界。
 基本構造はどれもさほど変わらない。
 無数に存在し、轟音を立てて荒れた地面を歩く、金属の足。
 その足に支えられた、かりそめの大地。
 中央に行く程高層建築が増え、外縁部は更地になって行く町並み。
 それは、どの都市でも基本的に変わらないと聞く。
 それはここでも同じだが、やはり、流れる空気はかなり違うと思うのだ。
 よく見れば、建物も新しいものが多く、非常に明るい色のものが目立つ。
 交通都市ヨルテム。
 全ての放浪バスがここに集まり、それぞれの目的地を目指して出発して行く、閉鎖された小さな世界をつなぐ、極々細い糸の起点。
 そこに降り立ったレイフォン・アルセイフは、小さくため息をつきつつ、未だにしつこく疼く右目の傷に触れた。
 ガハルド・バレーンとの試合に圧勝してしまってから、おおよそ三週間。
 右目の傷とつきあい始めてから、二週間少々。
 いい加減、左目だけで世界を見るのにも慣れてきたと感じる、今日この頃だ。

「さて、これからどうしようかな?」

 手荷物と所持金は少ない。
 青石錬金鋼が一本と、着替えが数日分。
 安宿に一週間泊まれば無くなる程度の金。
 どれもこれも、かなり逼迫した状況であるには違いない。

「傭兵でも、やろうかな?」

 武芸の本場であるグレンダンで、最強の十二人に数えられたという事実は、公表するつもりにはなれないが、それでもレイフォンが当面生きて行くための標識になる。
 そんじょそこらの武芸者に負けるはずはないという程度の、きわめて貧弱な標識ではあるが。

「さてと」

 景色に感動したりこれからの行動計画を決めたりしている間に、停留所に残っているのはレイフォンだけになっていた。
 右目の傷と合わせると、かなり怪しい人に見えてしまうかもしれない事に、やっと気が付いたのだ。
 周りから冷たい視線はやってきていないが、とりあえず移動する事にした。

「とは言え、傭兵の募集とかは、どこでやっているのかな?」

 何しろ、全てが初めての事態だ。
 何をどうしたらいいのか全く分からない。
 真っ先に宿を決めて、そこで職安を教えてもらおうかなどと考えつつ、とりあえず都市の中央へ向かってゆっくりと歩く。
 傭兵の求人情報誌なんかがあったら、少し嬉しいかもしれないと思いつつ、紙ゴミを入れる屑籠を覗きつつ歩く。
 なにしろお金がないのだ。
 ゆっくりと、町並みと空気を身体に教え込むように、屑籠を覗きつつ歩く事十五分。
 何やら騒動の気配を感じ取ってしまった。

「やだなぁ」

 傭兵になる予定ではあるのだが、それと不良武芸者と関わるのは話が違うのだ。
 万が一この騒動を起こしている連中が、一般人だった場合、レイフォンにどうにかする自信は全く無い。
 反射的に剄脈を発動させ、思わず手を払っただけでも、相手は大けがしてしまう危険性があるから。
 だがしかし、見つけてしまった以上放っておく訳にもいかないのも、また事実。

「や、やめてください」

 黒髪で小柄な女の子が、泣きそうな瞳で抗議しているのを見てしまったら、なおさら放っておく事は出来ない。
 さらに言えば武芸者らしい少年が、三人で囲んで逃げ道をふさいでいるのだ。
 警察に知らせるという手もないわけではないが、ここに着いたばかりのレイフォンには、警察の出先機関がどこにあるか分からない。

「良いじゃないか? 俺達がこの都市を守っているんだぜ? 少しくらい付合ったって、罰は当たらないだろうに」

 三人のリーダーらしい少年の言い分に、少し苛立ちを感じた。
 都市を守ろうという気持ちは、レイフォンにはない。
 だが、それは今目の前にいる三人組も同じ。
 レイフォンと決定的に違う事は、何もないと思うが、なぜか非情に苛立ちを感じる。

「やめておいたらどうですか? その娘嫌がっているし」

 威圧するわけでも、荷物の中にしまったままの錬金鋼を出す訳でもなく、ゆっくりと近づく。
 別段戦うつもりはないし、もし戦ったとしても素手で何とか出来る自信があるのだ。

「ああ? 俺達のやる事になんか文句有るのか? 一般人がよぉ?」

 ふとここで理解した。
 彼らの行動に非情な苛立ちを感じていたのは、絶対的な暴力で相手に自分の意見を押しつけようとしていたからだと。

「・・・・。僕は、一般人じゃないよ?」

 自分の優位を疑わない人間には、それが幻想だと教える事が平和的に事態を収拾するために必要だと思ったから、あえて言ってみたのだが。

「ああ? 武芸者だからって俺達三人だぜ?」

 数の優位を主張されてしまった。
 確かに、数は力なのだが、質が伴わなければあまり意味は無い。
 彼らは理解していないようだが。

「ねえ。騒ぎは起こしたくないんだ。行ってくれないかな?」

 警察沙汰になるのは、レイフォン的にも困るのだ。
 たとえそれが、女の子を助けるためでも、出来るだけ穏便に済ませたい。

「そう言う事は、俺達みたいに強くなってから言うんだなぁ」

 どうやら、右目の傷が彼らには弱い証拠に見えてしまったらしい。
 別に、この傷で威圧したりとか、報酬金を上乗せしてもらおうとか、そんな事は思っていないのだが、弱いと判断されるとも思っていなかった。

「忠告は、したよ」

 事、ここに至っては、仕方が無い。
 とは言え、汚染獣と戦った事も無さそうな未熟者相手に、錬金鋼を使う必要もない。
 一瞬だけ思考した。

「耳をふさいでいて」
「は、はい?」

 黒髪の少女に向かい、ジェスチャー込みで指示を飛ばしたが、あまり理解してくれているようには見えない。

「耳を、ふさいでいて。すぐに終わるから」
「は、はい」

 何とか理解したのか、少女の柔らかそうな手が、耳をふさいだのを確認した。

「へえ。俺達にやられて、悲鳴を聞かれたくないってか?」
「げへへへへ。状況判断が完璧だなぁ」
「だけど無駄だぜ? 大きな悲鳴が上がっちゃうからなぁ」

 そんなご託を並べる三人組のそばへ、活剄を使って移動。
 一人目の少年の耳の上で、割と本気になって指を弾いた。
 猛烈な破裂音と共に、衝撃波が発生。
 周りの空気をふるわせた。

「ひきゃ!」

 悲鳴を上げたのは耳をふさいでいた少女で、攻撃を受けた少年は脳を直接揺らされたために即座に昏倒。

「え?」
「な、な」

 残り二人の耳の上でも、やはり指を弾いて昏倒させて終了。

「もう、大丈夫だよ」

 一秒少々の出来事だったのだが、少女は何が何だか分からないといった雰囲気で、耳をふさいだまま固まっている。

「大丈夫だよ」

 怖がらせないようにゆっくりと近付き、そっと手を取って耳から外した。

「ひゅぅ」

 一気に気が抜けたのか、その場に座り込んでしまう少女。
 立ったまま失神していなかっただけ、状況的にはましなのかも知れない。

「えっと」

 こんな状況になった女の子を、どうしたらよいのかなど、当然レイフォンは知らない。
 汚染獣なら即座に殲滅しているのだが、相手は女の子だ。
 それなので。

「よっと」
「ひゃ!」

 少女の膝の裏と背中に手を入れると、そのまま持ち上げ、とりあえず現場から離れる事にした。
 人だかりはまだそれほど多くないが、やはり騒動に巻き込まれるのは、得策ではないからだ。

「この辺に、公園とか有るかな?」

 最後が疑問符になったのは、実は質問をしたからではない。

「あ、あのぉ」

 全身から蒸気を吹き上げそうな程赤くなった少女が、気を失っていたからだ。

「ど、どうしよう」

 思わぬ事態に、硬直してしまったレイフォンだった。
 
 
 
 暖かな日差しと、額に感じる冷たい感触を感じつつ、メイシェン・トリンデンは目覚めようとしていた。
 何かやや堅いけれど適度な弾力を持った枕らしい物が、後頭部を支え非常に気持ちがよいので、もう少し眠っていたいような気もするのだが、この後行きつけのスーパーで売り出しがあるので、あまりゆっくりとしているわけにもいかない。
 それほど貧乏をしているわけではないのだが、お小遣いは少ないのだ。
 節約するに超した事はない。

「あれ?」

 何か、衝撃的な事が有ったはずだが、それが何だったのか、思考が迷走している今は思い出せない。
 今朝起きたときからのことをゆっくりと思い出してゆくのだが、明確な記憶という物が徐々に無くなって行くような感覚があり、上手く思い出せない。

「気が付いた?」
「え?」

 同い年くらいの男の子の声が、頭の上の方から降って来たような気がして、慌ててそちらを見て。

「ひゅう!」
「わ! だ、駄目。しっかりして」

 視界にいきなり飛び込んで来たのは、右目を縦断する傷に潰された、茶色の髪と紫色の瞳の少年。
 見知らぬ人が急激に現れたので、メイシェンの思考は一気に混乱に突き落とされた。

「あ、あうあう」

 混乱が加速する最中、唐突に何故こんな事態になったのかを思い出せた。
 騒動が一段落するところまでは良かったのだが、その後の少年の行動がメイシェンをとことん追い詰めたのだ。

「しっかりして。もう、怖い事は無いから」
「あうあう」

 少年はそう言うけれど、男の子に膝枕されている状況で落ち着ける程、メイシェンは人間が出来ていないのだ。

「!!」

 いきなり、額に何か冷たくて気持ちの良い物が当てられた事により、少し落ち着く事が出来た。

「落ち着いた?」
「は、はい」

 それが、濡らしたハンカチである事に気が付き、改めて周りを見回して。

「ひゅぅぅぅ」
「うわ!」

 女性の膝枕で、気持ち良さそうに眠る男性とか、ベンチに座って抱き合っているカップルとか、いきなり口付けをかわしている、女の子と男の子とか。
 そんな人達が一杯いたのだ。
 メイシェンの日常からは考えられないその風景に、再び意識が遠のきかけたが、それを何とか防いだのは、少年の声だった。

「と、取り敢えず、移動したいんだけれど、立てる?」
「・・・・・・・・・。はい」

 歩けなければ、また抱っこされる危険性が極めて高い。
 それは、今さっき回避したばかりの気絶という事態に、問答無用で突っ込む確率が極めて高く、気が付いた次の瞬間に、再び意識を飛ばすという、無限ループに陥る危険性さえはらんでいる。
 何とかして、避けなければならない事態だ。
 力の入らない足腰に鞭打って、少年の腕に捕まりつつ、周りを見ない様に細心の注意を払いつつ、ゆっくりと移動する。
 よくよく考えれば、男の子の腕に寄り添うなんて事も初めてなのだが、それには気がつかないふりをしつつ前に進む。
 不用意な行動は無限ループに突入するので、絶対に避けなければならないのだ。

「あ、あの、ごめん。君が倒れた所から、一番近かったから、あそこ」
「い、いえ。ちょっと驚いただけです」

 驚いたなんて生易しい物ではないのだが、人の良さそうな少年にこれ以上負担をかけないために、少しだけ強がってみた。

「良かった」

 朗らかに笑うその少年は、右目の傷が何かの間違いのような気がしてし方が無い。

「ここに来たばかりで、地理に詳しく無いんだ。送って行くって言えれば良いんだけれど」
「大丈夫です。このまま真っすぐいけば、家の側ですから」

 実を言えば、売り出しに行きたい気持ちもあるのだが、流石に初対面の少年にそんな事は言えない。

「じゃあ、その辺まで送るね」

 今日やって来た放浪バスの乗客のはずなのに、やはり非常にお人好しだと判断した。
 もっとも、お人好しでなければ見知らぬ人間を助けたりしないはずだから、始めから分かっていた事ではあるが。

「きさまぁぁぁぁぁぁ!!」
「うわ!」

 そんな気のゆるみを狙っていたかの様に、いきなり黒い疾風が横から現れ、強力無比な一撃が少年の頭部目がけて放たれた。
 その衝撃から考えれば、かなり優しく、少年がメイシェンを突き飛ばした。
 横に流れる映像と声から何が起こっているのかを判断すると。

「ナッキ」

 黒い疾風は、幼なじみで武芸者の少女。
 赤毛で長身で、非常に押しが強い割に、もう一人の幼なじみのブレーキ役をやっている少女だ。
 名も知らない少年が、武芸者らしい事は知っているが、突然の攻撃になす術無く吹き飛ばされ、壁に激突する光景が展開された。
 メイシェンの脳内だけで。

「え?」
「な!」

 実際には右側、彼にとっての死角からの攻撃だったはずなのに、全く動じる事なく、その拳を右手で受け止めている光景が展開されていたのだ。
 少年は何か驚いたような表情をしているが、それは受け止めた事ではなく、いきなり殴りかかられたからだと言う事も、何となく理解してしまっていた。

「え、えっと?」

 受け止めたは良いが、現状が今ひとつ分からないようで、呆然としている少年。

「貴様!」

 更に激昂したナルキの攻撃が、連続で放たれているようだが、少年は落ち着き払い、全てを受け止めているようだ。
 一般人であるメイシェンには、もはや速過ぎて何も見えなくなっているが、連続して発生している破裂音からそれが予測できるだけだ。
 状況からそう予測しているだけで、本当は違うのかも知れないが、今度は間違いないだろうとは思っている。
 だが、そんな事を考えていたのは、僅かに一秒程度。

「だ、駄目!」

 必死の覚悟で、ナルキの腰にしがみつく。

「メイッチ?」

 突然の状況に、完全に動きが止まるナルキ。
 普段のメイシェンからは、想像もできない行動だったせいもあり、驚愕に支配された顔でこちらを見下ろしている。

「この人は、悪く無い。・・・・・・。とおもう」
「・・・・・・。どっちなんだ?」

 出会って間もないので、はっきりは言えない。

「停留所の方で何か爆発音がしたって聞いて、行ってみたら、メイッチらしい女の子が絡まれていて、怪しい男が連れ去ったって聞いたから」
「あ、怪しいかな?」

 頬をかく少年が、自信なさげにそう呟くのが聞こえたが、メイシェンから見ても多少は怪しいと思う。

「いやいや。よく見なさいよナッキ。こんなお人好しそうな顔して、誘拐なんか出来る訳無いじゃない」
「甘いぞミィ」

 いつの間にか、メイシェンの後ろに忍び寄っていたミィフィが、びしっと少年に指を突きつけ、断言している。
 茶色の髪をツインテールにした、騒動ともめ事を取材するのが大好きな中背の少女だ。

「人を外見で判断してはいけないと、学校で教わらなかったのか?」
「それを言うなら、メイッチを連れて歩いているだけで、いきなり殴り掛かったナッキは、どうなのよ?」
「私は良いんだ。最初の一撃は手加減したからな」
「へえ。あれで手加減だったんだ」

 二人の会話を聞きつつ思い出してみれば、確かに最初の一撃はメイシェンでも何とか見る事が出来たと思う。

「お人好し?」

 呆然とつぶやく少年の声も聞こえたが。

「いい? メイっちがだまされているんだよ? 本能的に危険人物を見分ける、メイっちがだよ?」
「む? 確かに、それはおかしいかもしれんな」
「そうでしょう? もし、それが出来るんだったら、もう少し緊張しているとか、目つきが鋭いとか、いろいろあるはずじゃない?」
「た、確かに」
「それがさ。こんな腑抜けているというか、間抜けているというか、だまされやすそうな顔しているわけ無いじゃない」
「そ、そう言われてみれば、そうだな」

 全然違うと思うのだが、二人の間では認識が共有されているようなので、突っ込むのはやめておく事にした。
 だが。

「あはははははは。そうか。僕ってお人好しで腑抜けで、間抜けで、だまされやすいんだ」

 メイシェンを助けてくれた少年は、何やら呟きつつ、道の隅に座り込み、建物の壁に延々と指で円を描き続けている。
 少し。いや。かなり怖い光景だ。

「そうだったんだ。僕のせいで汚染物質が消えないし、汚染獣が飛び回っているし、生徒会長の性格は悪いし、小隊の人たちの連携が悪いんだ」
「お、おい」
「ね、ねえ」
「あうあう」

 その少年のあまりの変貌ぶりに、三人で少しひいてしまった。

「そうか。そうだったんだ。僕が生まれた事が、全ての現況なんだ。そうだ、生まれてこなければみんな幸せだったんだ」

 なにか、非常に危ない方向に思考が進んでいる事だけは分かった。

「ど、どうするんだ?」
「え、えっと。殴って気絶させる?」
「あうあう」

 この異常事態に、周りに人が集まりだしたが、誰も何もしようとはしていない所を見ると、全員が野次馬のようだ。

「あはははははははははは」

 乾いた笑いだけが、冷たい風にながれていった。
 
 
 
 仕事を終え自宅へと帰り着いたトマス・ゲルニは、我が家だというのにもかかわらず異次元に迷い込んでしまったような、そんな錯覚を感じてしまった。
 今年四十を超えたばかりの警察官である以上に、二人の子供の父親であるのだがこれほど動揺したのはひどく久しぶりだ。
 築二十年の二階建ての我が家に帰り着いたはずが、間違って全く関係のないところに入り込んでしまったと、そう言われた方がしっくりくる状況だ。

「ahahahahahahahahahaha」

 顔に縦線を入れつつ、不気味に乾ききった笑い声を上げる少年が廊下の隅にうずくまり、壁に向かって延々と円を描いていれば、誰だって恐慌状態の一つや二つには陥ろうというものだ。
 その周りを遠くから囲むように、長身で赤毛の妻アイリと、同じく長身で赤毛の長女のナルキ、茶色の髪で、将来的にトマスを超える身長になるだろうシリア。
 そしてナルキの幼なじみでお隣さんの娘、メイシェンとミィフィが恐る恐る囲んでいるのだ。
 是非とも誰かに現状を説明してもらいたい所だ。

「お帰り、父さん」
「ナ、ナルキ。これはいったい何なんだ?」

 少年を指さしつつ、錬金鋼に手をかけつつ、娘に問いかけるくらいには不気味で意味不明だ。

「い、いや。色々あって、少し壊れたというか、かなり壊れたというか」

 何やら、複雑な事情があるらしい事は分かったが、このまま放っておく訳にはいかないのも事実。

「メイシェン君とミィフィ君も、絡んでいるのかね?」
「絡んでいるというか、積極的に絡まったというか」

 いつもは、トマスに似て直線的な性格としゃべり方なのだが、かなり事態が混乱しているのかもしれない。

「仕方が無いか」

 事、ここに至っては、もはや仕方が無いと諦めたトマスは。

「父さん?」

 ナルキの疑問とその他四人の視線を無視しつつ、胸ポケットにしまってあった煙草を取り出し、火を点け、大きく紫煙を吸い込み。

「がは!」

 火の点いている先っぽを、少年の鼻先に近づけた。
 当然のことながら、煙が少年の鼻から進入し、粘膜を過剰に刺激した。

「大変危険なので、良い子の皆さんは、まねをしないようにしてください」

 念のために教育的な発言をしたが、あまり意味がないだろう事は、しっかりと理解している。

「!! ぼ、僕が眠っている間に、何をしたんですか?」

 トマスが馬鹿な事をやっている間に再起動した少年は、両手で胸付近をかばいつつ、円を描いていた壁を背に警戒態勢へと移行する。

「いやいや。眠っていないから」

 その場にいた六人全員から突っ込まれ、ようやっと自分がどういう状況に陥っているのか脳の処理が始まったようだ。

「ぼ、僕は、確か、放浪バスでヨルテムに来て、不良を三人程始末して、えっと。・・・・・。あれ? その後の記憶がない」

 再び、動揺から混乱に陥りそうになる少年に向かって。

「これをくわえて」
「はい」

 根が正直なのか、それとも正常な思考能力が欠如してしまっているのか、トマスの差し出した煙草を、言われたとおりに口にくわえる少年。

「大きく、力の限りに吸い込むんだよ」

 武芸者らしく、猛烈な勢いで息を吸い込み、そのついでに煙草の先端の火が、力強く燃え上がった。

「ごほごほごほごほ」

 一気にむせた。

「やはり、煙草の精神安定効果は絶大だね」
「あなた。未成年に喫煙を強要したのですよ? 分かっているのですか?」

 普段使わない錬金鋼を復元させたアイリが、一歩トマスへとにじり寄る。

「うん。これが手っ取り早い方法だったからね」

 妻であるアイリの冷たすぎる視線に耐えつつ、少年の手で揺れる煙草を奪い取り、自分も大きく吸い込んだ。

「それに、彼が喫煙常習者でない事が分かったのは大きいよ」

 警察官であるので、この辺は少しごまかしをしておいた方が良いかもしれないと思い口にしたが、当然のように誰もそれに乗ってくれなかった。

「それはさておき」

 携帯灰皿で火を消してから、小さな机を持ってきて。
 顔色が明らかに悪い少年を、椅子に座らせ、その周りを一周する。

「さて。吐いてもらおうか?」

 ナルキとシリアが好きな、テレビの刑事ドラマの一シーンをまねてみたのだが。

「は、吐きたいので、洗面器かバケツを貸してください」
「トイレが向こうに有るから、ゆっくり吐いておいで」

 五人の冷たい視線が突き刺さっているが、気にしてはいけないのだと、自分に言い聞かせつつ、少年が帰ってくるのを待つ。
 
 
 
 胃液しか吐く物がなかったが、トイレの水を流し終わったレイフォンは、とりあえず人心地がついた気分にはなれた。

「はあ」

 ため息を一つついて、扉を開けてみると。

「さあ、警察官である貴男が、未成年者に煙草を吸わせた責任、どう取るお積もりなのか、きっちりしゃべって頂きますよ?」
「それは全力をもちまして、責任を取る事を前提に、鋭意協議中でありまして」

 長身で赤毛の女性が、復元した碧石錬金鋼の短剣を男性に突きつけているという、かなり色々問題のある光景が展開されていた。

「え、えっと」
「大丈夫よ。いつもの事だから」

 ツインテールの少女がこともなげにそう言っているのだが、とても大丈夫なようには見えない。
 だが、実際問題としてレイフォンに介入する事が出来るかと聞かれれば、それは断じて否だ。

「それよりもさ」
「は、はい?」

 目の前で行われている戦争一歩手前の光景など、全くないかのように赤毛で長身の少女がこちらに詰め寄ってきているのに、気が付いた。

「今更というか、手遅れだと思うのだが、さっきは済まなかったな」
「何か、有りましたか?」

 謝る少女については、何となく記憶があるような無いような、不思議な感覚を覚えているのだが、謝られるべき事があったかどうかは、全く記憶にない。

「メイっち。あそこでおろおろしているやつ」

 夫婦喧嘩らしき物を前に、一人おろおろしている黒髪の少女を指し示す。

「メイっちを誘拐したやつだと思い込んでな、思わず殴りかかってしまったんだ」

 だから済まないと、改めて頭を下げる少女だが、レイフォンにとっては、全く心当たりがないのでかえって恐縮してしまう。

「い、いえ。たいした被害もありませんでしたし、気にしないでください」
「いや。被害は甚大だったんだが」

 いきなり切れが悪くなる赤毛少女だったが、ツインテール少女は、そんな事お構いなしだった。

「じゃあ、それはそれでおしまいと言う事で。君の名前教えてくれるかな?」
「あ、はい。レイフォン・アルセイフと言います」

 レイフォンが名前を言うと、ほかの四人も続けて自己紹介をしてくれた。

「まあ、とりあえず今日はもう遅いから、家に泊まって行けばいいさ。部屋はあるからな」
「ありがとう」
「気にするなよ。メイッチを助けてくれたのは間違いないんだからさ」

 ナルキがシリアに視線を向けると、軽く頷いて寝床の準備をするために部屋を出て行った。

「貴男は、いつからくだらない官僚主義に陥ったのですか? 我々武芸者は、とっさの戦闘にも耐えられるように、いついかなる時でも心の準備をしておかなければいけないというのに?」
「はい。それにつきましては、関係機関と協議の上、状況の打開を前提にしつつ、対処したいかと」
「ええい! この愚物が!!」

 ついに堪忍袋の緒が切れたのか、短剣が一閃。

「どわ!」

 トマスの鼻先をかすめた。

「付合っていたら、胃に穴が開くぞ。放浪バス暮らしで疲れただろう。夕飯食べて寝てしまえ。メイッチ」

 まだおろおろしているメイシェンだったが、ナルキの呼びかけに何とか応じ、エプロンをその手に取った。

「あの。手伝います」
「え? 料理出来るんですか?」

 レイフォンが何気なく言った言葉に、過剰ともいえる反応をするメイシェンの横に並びつつ、軽く笑顔で答えておく。

「孤児院で育ったんで、一応の料理は出来ると思うよ」
「あ、あう」

 なぜか、いきなりメイシェンの顔が真っ赤に染まったかと思うと、頭から湯気を噴出。

「わ!」

 そのまま昏倒しそうになったので、慌てて背中に手を入れて転倒を阻止。

「あ、あの。メイシェンって、もしかして何か病気なんですか?」

 一連の事態に呆然としていた三人が、このとき再起動。

「い、いや。病気なのは、どちらかというとお前だ」
「そうですね。レイフォンさんの方が、病気です」
「うんうん。レイとんはもしかしたら不治の病かも」

 頷きつつ三人とも同じ様な見解らしく、話の中心にいるのにレイフォンだけがさっぱり分からない。

「とりあえず、メイッチはしばらく再起動しないな」
「そうですね。となると、僕達で食事を作らなければいけないのですが」
「レイとんが作れるんだったら、丸投げしても良い?」

 相変わらず、三人の息はぴったりだ。

「それはかまいませんが」

 事ここにいたって、ようやくレイフォンは気が付いた。

「レイとんって、もしかして僕の事?」
「うん。レイフォンじゃ呼びにくいからね」
「いや。そのままレイとかってのは、駄目かなって」
「駄目」

 ミィフィの断言に、ほかの二人も頷いている。

「まあ、良いですが」

 別段、断る理由も反対する理由もないので、そのまま流してエプロンを身につける。

「食材とかは、どこですか?」
「ほとんど冷蔵庫の中だと思うが」
「床下収納に芋が少々」
「後は、何とか探して」

 三人は全く料理をしない事が分かったので、慣れないキッチンを使った孤独な戦いが始まった。



[14064] 第一話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:06


 ゲルニ家で始めて迎える朝は、レイフォンにとって爽快からはかなり遠いものだった。
 夕食を作るのに四苦八苦している間に、トマスを問い詰め終わったアイリが参戦。
 流石に主婦としての経歴が長いだけあり、レイフォンを効率よく使い料理が完成。
 だが、トリンデン家と、ロッテン家が夕食に参戦。
 人数とメニューが飛躍的に増えたり、仲の良い家族の会話が、いつしかマシンガントークの乱れ飛ぶ戦場に変化したり、孤児院で不特定多数の会話になれているはずのレイフォンでさえ、酔ってしまった。
 眠りについた時間は割と早かったと思うのだが、肉体に比べて精神の回復は遅いようだ。

「おはよう、レイフォン君」
「おはよう御座います」

 すでに出勤体制を整え終わっているトマスが、コーヒーをすすりつつ挨拶してきたので、普通に返してしまった。
 人の家に泊めてもらったのだから、ほかに色々と言うべきことがあると思うのだが、全くその辺を飛ばしてしまった。

「そう言えば、君には色々と聞きたい事があるので、出来れば警察署に来てもらえないかね?」
「け、警察ですか」

 そう言う所とは出来るだけお近づきになりたくないのだが、すでに逃げ道はない。
 そんな事を思っている間に、警察署に連れてこられて、昨日の顛末を思い出せる範囲で全て白状させられてしまっていた。
 メイシェンを膝枕していた当たりまでは、何とか思い出す事が出来たのだが、なぜか、ナルキの登場とかは思い出せなかった。

「つまり君は、頭のそばで指を弾いただけで、相手を気絶させられると」
「はあ。不意を突いたから何とかなったと」

 部屋が空いていないとかで、取調室に連れてこられて、もうすぐ昼食の時間だ。

「成る程ね。不意を突いたはずのナルキの攻撃が、全く通じなかった事を合わせて考えると、君は非常に優秀な武芸者なんだろうね」
「そ、そんな事はありませんよ。グレンダンでは僕よりも凄い人たちがいましたから」

 何人くらいいたかは、あえて言わない事にする。
 むしろ言わない方が平和的に物事が運ぶと思うのだ。

「成る程ね。では本題だ」

 今までのが本題ではなかった事の方が驚きなのだが、実際にトマスの表情はきわめて真剣な物に変わっているのだ。

「あえて言っておくよ。私は、君を批難するつもりはない。野次馬根性と言われようが、知りたいんだよ」
「何をですか?」

 なぜか、非常に強い不安を感じている自分がいる。

「グレンダンでの、君の事を、出来るだけ詳しく」

 そして、大きく息を吸い込み、決意を固めるように、一つの名前を口にした。

「レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ君」

 ミドルネーム付きのその名が告げられた瞬間、レイフォンは自分の表情が徐々に、しかし、確実に抜け落ちて行くのを感じていた。
 不要な感情を切り離す事によって、戦闘態勢を確立するために。

「先ほども言ったが、私は君を非難するつもりも、裁くつもりもないよ。ただ、知りたいんだ」

 間合いを取るためだろう、ゆっくりした動作で冷め切ったコーヒーを一口すすり、不味そうに顔をしかめた。

「レイフォン君が、何をやったかと言う事は、実は警察関係者の間では割と有名なんだよ」
「闇の賭け試合に出ていましたからね」

 闇である以上、違法行為なのは当然だ。
 その流れで、警察関係者にも知られていたのだろうが、これは明らかに誤算だ。
 放浪バス以外で、都市間の情報は流れないのだが、ここは交通都市ヨルテム。
 あらゆる都市から情報が集まってきてもおかしくない。

「他の都市で、レイフォン君が何をしたとしても、それを裁く権限は私を始めとした、ヨルテムの警察関係者にはない」

 よほどの犯罪でなければ、都市から出てしまえば有耶無耶になるのが今の世界だ。
 裁かれるという危険性を、心配する事はないのかもしれないが、問題はレイフォンを受け入れてくれる都市が、無くなるかもしれないと言う事の方だ。
 放浪バスで、延々と旅を続ける事は出来ない。
 ならば、都市を一つ占領するという選択肢を取らなければ、のたれ死にしか道が無いのだ。
 どちらも、あまり好ましい予測ではない。

「だがね。本人を目の前にして分かったのだがね、君は守銭奴ではない。そんな君が、なぜ賭け試合なんかに出たのか、それを知りたいのだよ」

 とりあえずトマスは、騒ぎ立ててレイフォンを追い出すという選択はしないでいてくれるようなので、少しだけ安心した。

「知って、どうするんですか?」

 能面のような表情が嫌いだと、幼なじみのリーリンに言われた事がある。
 今もおそらく、リーリンが嫌いな表情になっているのだろうと、自覚しつつもそれをやめる気にはなれない。

「メイシェン君が助けられた。アイリも君を気に入っている。短いつきあいだが、私も君の事が好きなのだよ」

 言いつつ、煙草に火を点ける。
 昨日、酷い目にあったばかりなので、やや視線がきつくなったのを自覚したが、苦情のたぐいは言わない事にした。

「好きになった人物の事を、知りたいと思うのは、それほど不思議な事ではないと思うよ?」
「・・・・・。僕、男ですよ?」
「知っているよ」

 今の問答が無意味だと言う事は分かっているが、レイフォンとしても間合いを取りたかったのだ。

「つまらない、話ですよ」
「分かっているよ。この仕事していると、つまらなくて後味の悪い話しか聞かないからね」

 逡巡する気持ちは、確かにある。
 だが、せっかく親切にしてくれた人に対して、隠し事をするのは、あまり好ましくない事も分かっていた。
 それに、既にトマスは事実を知っているのだ。
 隠す事は無いし、むしろ全て話した方が良いだろう事も理解している。

「どこから話しましょうか?」

 右目がつぶれていて、犯罪歴のある武芸者に対して、トマスは暖かく接してくれた。
 その恩に報いるのか、それとも厚意に甘えるのか、出来るだけ話す事にした。

「そうだね。なぜお金にあれだけ執着するつもりになったか、そのあたりから話してくれるかね?」

 それはある意味、レイフォン・アルセイフという人物をもっとも効率よく、正確に知るための質問だった。

「つまらない上に、ものすごく不快で暗い話ですよ」
「慣れているよ。警察官なんかやっているからね」

 苦笑を浮かべるトマスが、軽く顎をしゃくり、先を促した。
 のどを潤すために、冷め切ったコーヒーをすすり、顔をしかめた後、短い割に色々あった人生を話し始めた。
 不味いコーヒーをすすると言う行為で、味覚を刺激し、それを起点に感情と表情を戻しつつ。
 
 
 
 昨日は、レイフォンの話が思ったよりも長くかかってしまった。 
 全てが終わったのは、深夜にさしかかろうという時間だった。
 使われた時間の三分の一程は、トマスがレイフォンを抱きしめて、孤児のために努力した事を労う時間に使われた。
 残りの時間も、実はレイフォンの話を聞くために使ったわけではないのだ。
 話自体は、それほど長くかからなかったが、途中で酸素吸入が必要な発作に襲われたのだ。
 精神的な傷を、自ら抉ってしまった事が原因だろうと、常駐している医師は言っていた。
 そんな非常に不安定なレイフォンには、彼を全面的に肯定する人間が必要だと感じているトマスが居る。
 例え間違った方法で稼がれた金だったとしても、言い方は悪いが、汚い金だろうが、それで救われた人間は大勢いるのだ。
 警察官なんかやっていると、理想と現実のギャップの大きさに、胃がもじ切れそうになる事がある。
 昨日の言動を聞く限り、レイフォンには罪悪感がない。
 何が間違いだったかも、今はまだ理解していないだろう。
 ならば、それを教える事こそが、レイフォンに関わった武芸者に課せられた使命なのではないかと、そう考えてさえいるのだ。
 だが、今の問題はそこではないのだ。

「僕は無実だ。出してください!」
「ああ。分かった分かった。誰でも始めの内はそう言うもんだよ」
「信じてください。僕は何もしていないんです」

 鉄格子を両手でつかんだレイフォンが、必死に訴えているのだが。

「三丁目の、下着泥棒。あれはどう考えてもお前の仕業だろう?」
「ちがう。僕はそんな事していません」

 レイフォンの前に居る男は冷静沈着に、しかも、徐々に反論を封じつつ相手を攻撃する。

「ああ。六丁目の女風呂覗きの方を先に自白するか?」
「僕じゃないんです。信じてください」

 鉄格子をつかんだ両手に力を込め、涙を流さんばかりに訴えるレイフォン。

「・・・・・・・・・・・・。そろそろ良いかね? レイフォン?」
「あ、はい。おはよう御座います」

 泣きそうだった表情から一点、朗らかに挨拶を返された。

「旦那さぁ。せっかく興が乗ってきたんだから、もう少し良いじゃねぇですか」
「あほ! 下着泥棒も覗きも、お前の仕業だろう」
「このあんちゃんのノリが良いんで、思わず俺の罪を着せようかと」
「レイフォン。とりあえずそこから出てきてくれるかね?」
「はい」

 深夜になってやっと終わった、レイフォンの事情聴取。
 家へ連れて帰るという選択肢も有ったのだが、双方疲れ切っていたので、警察署に泊まる事にした。
 そして、なぜか宿直室が全て埋まっているという不運に見舞われた。
 トマスはソファーで寝るから良いとして、レイフォンには出来れば寝室を用意したいと考えた。
 留置所の檻が、一つだけ空いているのを確認。
 いささか変わった体験だろうが、鍵をかける必要もないし、本人が了承したので、そこに泊まってもらった。
 で、朝起きて、レイフォンを迎えに来たら、このような始末。

「どこまでページを無駄にすれば気が済むんだい、レイフォン?」
「え、えっと。一度やってみたかったんです」

 五歳の頃から武芸の鍛錬に精を出し、八歳の頃から汚染獣との戦闘に明け暮れ、一般常識の多くが欠落しているとは思っていた。
 違う意味で予想外の展開になった事に、少々では済まない疲労感に見舞われていた。

「とりあえず、朝食でも摂ろうか」
「はい」
「旦那ぁぁ。俺にも飯下さいよぉぉ」
「分かった分かった」

 下着泥棒と覗きの常習者で、変にノリが良いこの男の前にレイフォンを泊めた事を後悔しつつ、彼の朝食の指示を飛ばした。
 女性警官に捕まったら、事故死に見せかけられて殺される。
 そう言う噂が流れているのを、この男が信じているかどうかは不明だが、捕まる時には男性警官と決めている節がある。
 まあ、重罪を犯さないだけましだと思って、トマスはつきあっているのだが、かなり激しく精神力を削られるのも事実だ。

「やれやれ」

 ため息とも愚痴ともつかない言葉を、無意識的に零しつつ、場所を移動する。

「それで、昨日結局聞きそびれてしまったのだが」

 留置所から昨日使った取調室へと移動し、配達された朝食を前に切り出す。

「・・・。はい。猶予が一年もあるのに、グレンダンを出た理由ですね」
「ああ。私が同じ状態に置かれたら、猶予のある時間を最大限使って、これからの身の振り方を考えると思うので、少し気になってね」

 僅かに三週間で都市を出てしまったレイフォンの、その行動に何か不振な物を感じているわけではない。
 理由が分からない行動という物に、不安を感じているのだ。

「陛下から、追放処分のお達しが出て、家に帰ったんです」

 もしかしたら、また酸素吸入が必要になるかもしれないので、その辺の手配もすでに終わっているが、おそらく必要ないだろうとも思っている。

「弟や妹たちが、裏切り者とか、卑怯者とか言う言葉で、僕を迎えたんです」

 かなりきつい話だというのに、レイフォンはトーストにジャムを塗りつつ、平然と話している。

「それは別に良いんですが、敵を見るような視線で僕を見たので、戦うわけにはいかないので、逃げる事にしました」

 敵と戦うか逃げるか、二つしか選択肢がないと思ってしまったようだ。

「それは」

 守ろうとした人たちからそんな視線で見られたのなら、全てが終わったような気持ちになって、人生を投げ出してもおかしくない。
 今までの犯罪者には、結構多いタイプの話なのだが、レイフォンは少し違っているようだ。

「まあ、僕は見たくなかったから、勝手にやっただけなんで、ある意味覚悟は出来ていましたね」

 微笑みつつ、トーストを囓る。

「家には帰れないから、隠れ家で放浪バスが出るのを待ちました」
「隠れ家?」

 守銭奴ではないにしても、倹約家のレイフォンが、そんな物を用意していると言う事は非常に驚きだ。

「廃ビルの一室を勝手に使っていただけですけれど」
「ああ。不法占拠ね」

 それなら家賃はかからないし、誰かに見つかる危険性も低い。

「おいてあったのは、青石錬金鋼が一本と、着替えと食料に水が少々。後、少しのお金ですね」
「ヨルテムに持ってきた鞄の中身が、それか」
「はい。あれが僕の全財産です」

 悲鳴を上げて、泣き叫んでも不思議ではない事を平然と話しつつ、朝食を食べるレイフォン。
 すでに、ここで非常に危険な状態だ。

「悪かったね。好奇心丸出しで聞いたみたいで」
「ただ飯が食べられましたから、お得でしたよ」

 トマスはこの時、非常に不安定なこの少年を、何とかする事がとてつもない難事業である事を理解した。
 そしてもう一つ。
 時として、お約束以外の何者でもない、バカな行動を取るのは、レイフォンが無意識的に自分の精神の均衡を取ろうとしているからかもしれない。
 その危険性にも気が付いた。
 
 
 
 トマスの取り調べを生き抜いたレイフォンは、とりあえずゲルニ家へとやってきていた。
 荷物がここに置きっぱなしだし、当面行く宛てもなかったからだ。
 午前中最後の日差しを浴びつつ、ゆっくりと扉を開ける。

「あら、お帰りなさいレイフォン」
「た、ただいま?」

 ここを自分の家にしたつもりはないのだが、お帰りと言われた以上、ただいまと返さなければいけないような気がするのだ。
 そして、台詞の最後が疑問系になっていたのは、有る特殊な事情があったからに他ならない。

「ほかの人たちは、居ないんですか?」

 玄関まで出迎えに来たのは、アイリを始めとする、女性が三人だけ。

「みんな学校とか仕事とかよ。私たちも曜日が違うだけで働いているし」
「ああ。僕くらいの歳だと、学校に行くんでしたね」

 五歳の頃から時間という時間を最大限使って鍛錬に打ち込んで、八歳頃から試合に出て積極的に汚染獣と戦っていたレイフォンには、学校に行った記憶がほとんど無い。
 天剣授受者に選ばれてからは、その傾向が激しくなり、今ではグレンダンでもっとも学力の低い武芸者になっているという、変な自信があるくらいだ。

「・・・・・・・・。レイフォン?」
「はい?」

 アイリの視線に、何か危険な物が宿ったような気がするが、すでにレイフォンに逃げ道は存在していないのだ。

「一緒に、勉強しましょうね。私たちが、強くして上げるわ」」
「そうよ。武芸者としてはどうか分からないけれど、一般人としては、少し頭を使った方が良いわね」

 両肩に手を置いた、ミィフィ母とメイシェン母。

「え、えっと」
「さあ。私たちでも、何とか教えられる所までは教えて上げるから」

 アイリに持ち上げられて、家の奥へと連れ込まれてしまった。

「きゃぁぁぁぁぁぁ!」

 取りあえず、悲鳴一つ上げてみたが、きっとなんの慰めにもならないだろう事は、十分以上に分かっていた。
 
 
 
 トマス・ゲルニは一昨日に続いて、帰宅した瞬間に異世界へと飛ばされた事を否応なく理解させられた。

「お、お帰りなさい。ご飯になさいます? それともお風呂を先にしますか?」

 縦断する傷に右目を潰された背の低い少年が、フリフリでピンク色でレースのエプロンを着けて出迎えてくれば、誰だって異世界の住人になれるというものだ。

「レイフォン?」

 哀れな少年の後ろでは、にやにやと笑っている女性が三人と、当惑していたりおろおろしたりしている子供が数人いたりする。

「アイリ」
「何かしら?」

 首謀者はおそらく自分の妻だろうと、半ば確信しつつ思い切って聞いてみた。

「私がレイフォンと浮気したら、どうするのかね?」
「殺す」

 問答無用の即答だった。

「い、いや。ほかの選択肢はないのかね?」
「そうね。女の子と浮気するんだったら、半殺し程度で済ませるつもりだけれど、男の子と浮気したら、即座に殺すわ」
「い、いや。だったら、この有様は?」
「勉強の成果よ」
「なんの勉強をさせたんだ?」
「一般常識」

 レイフォンの一般常識が危険なレベルである事は十分以上に理解しているのだが、目の前の自分の妻の非常識ぶりは、もはや言語道断な程に危険だ。

「ああ。貴男が浮気する前に、私がレイフォンと浮気しましょうか?」
「それは犯罪だ」

 青少年を保護する条例が、ヨルテムにはあるのだ。
 それを無視するアイリに恐ろしい物を感じつつも、トマスは思う。
 その半生において、戦いの連続だったレイフォンではあるのだが、孤児院で家事をしていたのもまた事実ではある。
 つまりトマスが何を思ったかというと。

「似合っているかと聞かれれば、非常に似合っているが」

 ふとここで、右目の傷がどうして出来たのかまだ聞いていない事を思い出し、訪ねようとしたのだが。

「ahahahahahahahahahahahahahahahaha」

 尋ねたい本人は、それどころの状況ではなかった。

「壊れてしまったか」
「誰の、どの台詞が切欠だったんでしょうね」
「追求はしないほうが身のためだな。お互いに」
「そうね」

 すべてを流すことに決めたのだが、問題から目をそらせていることは、きっちりと理解している。

「また煙草を使うか?」
「それは駄目でしょう」

 即座にいろんな人から突っ込まれてしまったために、却下だ。

「なら、どうするのだね?」
「傷つき疲れ果てた男なんか、女の子と一緒に寝ればすぐに直るわよ」
「いや。だから、それは犯罪ですって」

 そう言いつつも、アイリの視線が違う方向に向いている事を確認。

「メイシェン君?」

 脱力して、目を回したメイシェンが、ナルキに抱きかかえられていた。

「いつから?」
「父さんの、レイとんとの浮気発言から」

 原因はトマスだったようで、この後完全に発言権はなくなった。

「良いのかい?」

 事ここにいたって、アイリの視線の意味を正確に理解する事ができた。
 その意味を理解しているだろうメイシェン父に尋ねてみたが、非常に喜んでいるように思えるのは、気のせいではないようだ。

「俺は、息子と酒を飲みたかった」

 三人の子供がいるトリンデン家だが、全員女の子なのだ。
 彼の気持ちも分からないわけではない。

「俺の野望を手っ取り早く叶えるためだ。全然問題ないさ」
「そうよ。来年の今頃、メイシェンがお母さんになっていても、なんの問題もないわ」

 メイシェン母が言い切ってしまった。

「そうよね。メイシェンじゃあ、いつになったら彼氏が出来るか分からないし」
「そうそう。私もお兄ちゃんが欲しいし」

 メイシェン姉と、メイシェン妹も計画推進派のようだ。

「じゃあ、ナルキ。二人を運んでちょうだい」
「あ、ああ」

 納得しては居ないようだが、空気に飲み込まれたナルキが、二人を一緒に運んで行ってしまった。

「良いのか?」

 トマスには、疑問の声を上げるしか方法がない。
 
 
 
 朝起きたらメイシェンと一緒のベッドで寝ていたために、危うく違う世界へと旅立ちそうになったレイフォンだったが、何とか現世にとどまる事が出来た。
 朝食の席上、集まった三家族のほとんどから、なんだかさげすみの視線を感じたのは、非常に理不尽だとは思ったが、気にしてはいけないのだと自分に言い聞かせた。

「へたれ」
「根性無し」
「腑抜け」
「腰抜け」

 言い聞かせはしたのだが、トリンデン家の四人から、そんなお言葉を頂いてしまっては、反論しなければいけないような気にもなってきた。
 懸念していた罵声とは、かなり違う内容だったので、その反論もオドオドした物になってしまうだろうが。

「あ、あのぉ」
「よくやったぞ、レイフォン」

 何か言うよりも早く、トマスに抱きしめられてしまった。
 身に覚えのない事で、褒められたレイフォンは、とっさに反発してしまった。

「や、やったって、僕は何もしていないですよ」

 一緒のベッドで眠っていただけで、メイシェンに対して何かやったなどという記憶は、全く存在していない。
 それなのに、トマスは立派にやり遂げたと、レイフォンをほめるのだ。
 ほかの人たちからの視線は、きっと、レイフォンが獣になったとでも思っているのだろうと、心の底から理解した。
 それにしては、台詞が違うような気もするのだが。

「何も、しなかった事を、よくやったね」
「へ?」

 そう言いつつ、頭を撫でられた。

「えっと」

 レイフォンを見つめる人たちの視線が、トマスの行動と反対のものだと言う事は理解している。
 つまり。

「僕がメイシェンを襲ったりしなかったから、みんなの視線が痛いんですか?」
「そうだ」

 いつ、どうやってかは不明だが、メイシェンと一緒に眠っていたのは、とても褒められない状況になる事を期待されたからだと、理解した。

「え、えっと。僕、色々問題がありますけれど?」

 グレンダンでの事もそうだし、これからの展望がない事もそうだし、もっとも問題なのは、実はレイフォンの方ではないのだ。

「問題ないさ。メイシェンが嫌いだとか、メイシェンが憎いとか、大きな胸の女の子が嫌いだとか、そう言う事がなければ、是非ともお婿さんになってくれ」

 メイシェン父が、なぜか涙を流さんばかりの勢いで、レイフォンに迫ってくる。

「え、えっと。僕はまだ十四歳なんですけれど?」

 今年の誕生日が来て、やっと十五歳になるのだ。いくら何でも結婚は早すぎる。

「結婚なんて、年齢制限さえクリアーすれば出来るさ」
「え、えっと。年齢制限があるんですし、ほかにいい男だって、いっぱい居るでしょう?」
「メイシェンがなついている男の子となると、レイフォン君くらいしか居ないのだよ」
「僕たち、まだ知り合ってから三日ですよ?」
「俺達夫婦は、知り合った次の日には入籍していたよ」

 大きく頷きつつ、ほおを染めるメイシェン母。
 どうも、この人達に常識を求めるのはかなり問題がありそうだと、レイフォンは結論づけた。
 自分の常識にも自信はないのだが、ここまで飛んでいると言う事は、さすがにないと判断しているのだ。

「とにかくだ。俺は、早く君と酒を酌み交わしたいのだ。だから、メイシェンと結婚してくれ」

 飲酒可能年齢には、まだかなりあるのだが、その辺は無視する事に決めているらしい。

「メイシェンの意志を無視していませんか?」

 そう。これが最も大きな問題なのだ。
 短いつきあいではあるが、メイシェンがレイフォンの事を嫌っていると言う事はないと思うのだが、それと結婚相手として考えているかと言う事は、別なのだ。

「! そ、そうだったな。考えてみれば、メイシェンが君の事を、ペットと同じだと思っているかもしれんな」
「ペットは、流石にないんじゃ?」

 そうは言う物の、メイシェンに鎖をもたれ、散歩する自分を容易に想像出来る。

「う、うわぁぁ」

 あまりの情けなさに、涙が流れそうになった。

「それで、メイッチはまだ寝ているの?」
「え? 一度起きたんだけれど、目を回して」

 なぜか、ほぼ同時に目覚めてしまったのだ。
 そして、視線があって二秒後。
 全身から湯気を立ち上らせ、目を回して失神してしまったのだ。

「うぅぅぅむ。メイッチも情けない。一押しで全てが片付いた物を」

 ミィフィが、問題のありすぎる事をぼそぼそと呟いている。

「良いのか?」
「まあ、レイフォンさんですから、平気でしょう」

 ナルキとシリアが、何やら感想だか展望だかを口にしている。
 だがしかし、レイフォンにとって女の子とは謎の生物だ。
 よほど汚染獣の方が理解出来ている。
 しかも、結婚となれば、一生のパートナーの事だ。
 安易に決めて良いものでは無いと思うのだが、もしかしたら、世間的にはそうではないのかもしれないとも思う。
 多分幻想だろうが。

「レ、レイとん」

 そんな、ある意味限界の精神状態に表れてしまったのは、もう一人の主役、メイシェン。
 気が付いてしばらく立っているはずなのに、その頬は桜色に染まり、瞳には涙があふれんばかりになっている。

「メイシェン」

 何やら決意も固く、唇をかみしめ、スカートの裾を力の限り握りしめたメイシェンの視線が、レイフォンをとらえた。

「わ、私が眠っている間に、何をしたの?」

 この短い台詞を言う間に、その瞳から涙がボロボロとこぼれ落ちるのを確認。

「う、うわぁ」

 思わず、後ずさる。
 女の子の涙は、老性体六期よりも恐ろしいと感じてしまった。
 だが、その台詞はメイシェンが何か決意を持って発せられた言葉だと言う事は、十分に理解はした。

「同じ台詞なのに、言う人間が変わると、こうも違うもんだとは」
「ああ。メイッチは凄いな」

 ミィフィが何か感動しつつカメラのシャッターを切り、ナルキが感銘を受けているが、問題は断じてそこではないと言いたい。

「レイフォン君」

 何か言わなければならないと、そう決意した物の、何を言って良いか分からないという、切羽詰まった状況のさなか、いきなり肩を掴まれ、後ろを向かされた。

「ここは、言うべき台詞は二種類しかないわ」
「お前はもう俺の肉奴隷なんだから、言う事だけ聞いていれば良いんだ」
「あるいはね、誠心誠意メイシェンに向かってこういうのよ」

 メイシェン母と姉と妹が、小さな声でレイフォンにアドバイスをくれた。

「や、やってみます」

 肉奴隷という物がどんな物かは皆目見当がつかないが、選択して良い物でない事は、何となく分かった。
 なので、もう一つの方を若干アレンジして、伝えるためにメイシェンの前に跪いた。

「はえ?」

 いきなりの展開に動揺激しいメイシェンが、一歩後ずさろうとするが、それを許さず、力の限りスカートを握りしめている手をそっと引きはがした。
 その手を、やはり出来る限りそっと包み込み。

「結婚してください」

 その瞬間、ゲルニ家の音という音が、一斉に停止。

「ひゃう? ひゅう?」

 やっとの事で、メイシェンの意味不明な声が発せられ。

「おいおい」
「私たちは、付合って下さいってお願いしたらって、進めただけなのよ?」
「そうよ。いきなりこんな展開、嬉しい誤算だけれど」
「レイフォンさんって、もしかして天然暴走少年?」

 トリンデン家の人たちの、そんな声も聞こえるが、レイフォンは実はそれどころではないのだ。
 何しろ、謎の生物たる女の子に、こんな事をいきなりお願いしてしまったのだ。
 この後どうなるか、全く予測出来ない。
 未知なる恐怖が、レイフォンを支配しようとした、まさにその瞬間。

「あぅ」

 一声発したメイシェンが、いきなり活動を停止。
 その場に崩れ落ちてしまったのだ。

「うわ」

 どういう状況になっても反応が出来るように、活剄を最大限発動していなかったら、倒れた拍子にどこか打っていたかもしれない程、それは急激な展開だった。

「え、えっと。取りあえず、寝室に逆戻りかな?」
「そうだな。流石にこのまま学校というわけにはいかないだろうな」
「それはそうかもしれないけれど、たしか、皆勤賞を狙っているとか言ってなかったっけ?」
「そういえば、今年こそ休まずに学校に行くって張切っていましたね」

 なにやら、話が危ない方向に進みつつあるような気がするが、レイフォンにどうこうする事は出来ない。

「と言うわけでレイとん。メイッチを抱きかかえて、登校に付合え」
「もちろん、拒否は許さないよ?」
「そうですよね。メイシェンにあんな事して、こんな状況になったんだから」

 何時も以上の連携を見せるナルキとミィフィとシリア。

「わかりました」

 もはや受け入れる以外に、方法はない。

「学校の準備とかわ私がするから、レイとんは取りあえず、出発の準備をしておいてくれ」
「にひひひひひ。これでメイッチも安泰だね」
「じゃあ、僕も登校の準備しますね」

 異常な手際の良さを見せ、それぞれに散っていってしまった。

「じゃあ、私たちも登校の準備を」
「ねえねえ。もしかして、そろそろ遅刻ぎりぎりじゃない?」
「あれ? そう言えば、もうこんな時間だ。朝ご飯食べ損ねた」

 トリンデン家とロッテン家の子供達も、それぞれに登校準備をするために、自分たちの家に帰って行く。 

「あれ?」

 今更ながらに、レイフォンは不思議に思った。
 なんで、全員がここに居るのだろうと。



[14064] 第一話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:07


 子供達が慌てて登校したナルキ家のリビングでは、トマスがある懸念を抱いていた。
 だが、それを表に出さずに悠然とコーヒーを啜りつつ、煙草を燻らせて余裕の態度を見せつけている。

「なあ、今日ってさ」
「なに?」

 トマスが何を言おうとしているか、それに全く気が付いていないように、アイリが小首をかしげる。

「今日ってさ、休みじゃなかったっけ?」
「え?」

 代表してアイリが疑問符を浮かべているが、ほかの面々も、実は同じ様な状態だったりする。

「や、やあねぇ」

 しばらく固まった後、ミィフィ母が、大仰に手を振って声を上げる。

「あの子達、からかっていると面白いから、ついつい悪のりしちゃったのよ」
「そ、そうよ。大事な大事な休みを、忘れるわけ無いじゃない」
「そうですとも。俺達みたいに、不規則な休みじゃないんだから、きっちりと覚えてますよ」
「そうですとも。慌てる姿がかわいらしいので、俺は何も言わなかったんですよ」
「いやだわ貴男。当然分かっていましたよ」

 冷や汗を流しつつそんな事を言っても、誰も信じてくれないだろうが、当面突っ込むのはやめておく事にした。
 なぜかと問われれば。

「じゃあさ。私は遅番だから時間有るけれど、君たちは、大丈夫なの?」

 トマスの一言で、驚愕に固まる五人。

「いけない!」

 アイリのその叫びと共に、蜘蛛の子を散らすように、リビングから出て行くのを見送る。
 当然、コーヒーをすすりつつ。

「平和だねぇ」

 本当はレイフォンにいくつか聞きたい事があったのだが、それはまたの機会になった事だけが、少しだけ誤算だった。
 
 
 
 メイシェンを抱っこしたままかなりの速度で走り、学校という物に到着したレイフォンだったが、そこには信じられない光景が展開されていた。
 町中を突っ走ったせいで、かなりいろんな人に見られてしまったのだが、これはもうレイフォンがしでかしてしまった事の責任をとるためなので必死に我慢するしかない。
 だが、そんなレイフォンの必死の努力をあざ笑うかのような事態が、目の前に鎮座しているのだ。

「休み?」
「ああ。今日は日曜日で休みだった」
「いやはや。世の中信じられない事が多いね」
「どうせ、家の親たちも忘れていたんでしょうね」

 ミィフィを抱えながら走ってきたナルキや、普通に走ってきたシリアが、やはり感想とも展望ともつかない事を言っているが、実は、信じられない事態とはそれではないのだ。

「休みなのに、なんでこんなに人が多いんだろう?」

 そう。休みのはずの学校には、制服らしき物を着た生徒が、かなり大量に襲来しているのだ。
 それはもう、売り出しのスーパーか何かと同じくらいの人出だ。
 あまり通った経験はないが、普段の学校よりも人出が多いのではないかと、そんな疑念を抱いてしまうくらいに。

「部活だろ。まあ、家の学校は部活が盛んだから、ほかの所よりも、休みの人出は多いけどな」
「レイとんは気にせずにメイシェンと一緒に木陰で休んでいてね」
「そうですよ。このまま帰るのはなんだかしゃくなんで、何か適当にやってきますから」

 そう言いつつ、無情にもそれぞれに散って行ってしまう三人組。

「え、えっと」

 取り残されたレイフォンには、周り中から好奇の視線が注がれている。
 レイフォンが移動しない事でじっくりと眺める時間があるせいだろうが、全ての視線が好奇心で輝いているように見えて仕方が無い。
 天剣授受者として、嫉妬や羨望の眼差しには慣れているのだが、このたぐいの物には非常にもろい。

「こ、こかげ」

 取りあえず、まだ目覚めないメイシェンを寝かせるべく、ベンチのある木陰を探して移動を開始する。
 とは言え、倶楽部活動で人の多い学校に、そんな都合の良い物が豊富にあるわけではない。
 やっとの事で見付けた木陰には、ベンチがなかった。
 仕方なく、メイシェンをそっと芝生の上に横たえ、膝枕状態を確保。

「ふう」

 一息ついた物の、まだ周りからの視線はやってきている。
 だが、気にしてはいけないと、何度も自分に言い聞かせ、安らかな寝顔のメイシェンに視線を落とす。

「?」

 今まで接触した事のない、謎の生命体たる女の子に、ついと興味がわいた。
 そっと、鍛練を続けたせいで筋張り、老人のように堅くなってしまった右手の人差し指を伸ばし、頬をつついてみた。

「?」

 今まで感じた事のない不思議な感触を、感覚を強化した右手人差し指がとらえる。

(こ、これは、いったい、なんなんだろう?)

 しっとりと水分を含み、なおかつ弾力が抜群。
 しかし、押した指を跳ね返すことなく、ほとんど抵抗もなくその形を変える。
 いったん指を離し、もう一度、さらに慎重に頬をつつく。

(こ、これは、いったい何なんだろう?)

 謎の生命体の謎の感触に、レイフォンの武芸者の本能が、過去最大限の危険信号を発生させる。

(これは、汚染獣の精神攻撃に違いない!)

 このままでは、食われてしまう。
 レイフォンは、渾身の力を込め、指を引きはがし。
 再びつついた。

(ああ! 何やっているんだ僕は! 早く、離れなければ!!)

 全精神力を総動員して、指を引きはがし、また、つついた。
 それはもう、プニプニという擬音が飛び出してきそうなほどに、情熱的に、しかし、細心の注意を払い、メイシェンを起こさないように頬をつつく。

(だ、駄目だ! 僕が破られてしまえば、ここにいる全員が、汚染獣の餌食になってしまうんだ!)

 生命力のありったけを絞り出し、指を離し、拳を握る。

「はあ」

 安堵とも、失望ともつかないため息をついたレイフォンの視界に、恐るべき物が飛び込んできた。

「これは?」

 メイシェンの髪の毛である。
 たっぷりの水分を含み、つややかに、しかも、柔らかそうな、その極細の黒髪。
 殆ど無意識の領域で手が伸びて、撫でてみた。

(う、うわぁ)

 期待以上のその感触に、理性が半分以上吹っ飛び、メイシェンを起こさないように細心の注意を払いつつ、その髪を撫でる。

(や、柔らかいんだ)

 その生涯の関係上、レイフォンの周りにいたのは、武芸者が多かった。
 女性であっても鍛錬の結果、あちこち堅くなってしまっているのが現実。
 一番近いのが、孤児院の妹や弟たちの柔らかさだが、今レイフォンの感じている柔らかさとは、何かが決定的に違っている。
 今までの事件で散々触っているのだが、その時は他にやる事が有ったために、あまり意識しないで来られた。
 だが今は他にやる事など無く、謎の感触に集中出来てしまうのだ。

(ああ! 僕は、どうしてしまったんだ)

 ヨルテムに着てから、常識という名の怪物達と戦ってきたが、精神汚染をしてくるこれは、全くレイフォンにとって対処が分からない強敵だ。

「え?」

 だがしかし、レイフォンは気が付いてしまった。
 周りという周りを、女生徒の集団が取り囲んでいる現実を。

「あ、あのぉぉ」

 情けなくも、逃げ腰になれない事を後悔しつつ、どうにか声を出してみたが。

「ねえねえ、あれでしょう?」「昨日、トリンデンと一緒に寝たって言う男」「腑抜けそうな顔しているのに、やる事は一人前ね」「今朝なんか、求婚したって話よ?」「うぅぅぅぅ。私という物がありながら、先輩」

 等々等々。
 それはもう、種々雑多な感情が集団で襲ってきているのだ。
 元々、何か出来るはずのないレイフォンだったが、さらに何も出来ない状況に陥ってしまった。
 さらに。

「さっきこいつさ」「トリンデンの頬をつついてにやけていたわよね」「もしかして、その調子であちこちつついて回ったとか?」「ど、どこをつついたのかしら?」「それよりも、何でつついたかの方が、重要だと思わない?」

 そんな会話の後、キャァァァッと黄色い悲鳴があちこちで上がっている。
 非常に、危ない方向に話が進んでいるのだが、疑問は確実に残る。
 そして、答えはすぐに思いつけた。
 ミィフィが登校間もない時間だというのに、噂を広めたに違いないのだ。
 そして、レイフォンのその確信を増強するように、校舎の方で手を振る茶髪ツインテールの少女が居たりする。
 女の子達の集団の後方、校舎の手前では男子生徒が、殺意の混じった視線でレイフォンをにらんでいるし、もはや、ここから逃げる以外の選択肢は存在していない状況だ。
 もう一度メイシェンを抱きかかえて、全力疾走に移ろうかとした、まさにその瞬間。

「ふわ」
「げ」

 なぜか、こういう限界の状態で、狙い澄ましたかのように、目を覚ますメイシェン。

「だ、だめ」

 慌てて、そのまぶたの上に手を置こうとしたが、そんな事で収拾できるほど事態は甘くなかった。

「先輩。そんな男と一緒にネタだなんて、嘘ですよね!!」

 何やら、勘違いしているらしい少女が、絶叫を放ってしまったのだ。

「え? あ、お、ひゅぅぅ!!」

 慌てて上半身を起こしたメイシェンが、周りを見て、自分がどういう状況であったのかを確認。
 あわあわと、何やら取り乱したかと思うと。

「ふぅぅぅぅぅ」

 本日三回目の気絶をしてしまった。

「うわぁぁぁぁぁん! どうすれば良いんだよぉぉ」

 汚染獣との戦闘では決して上げた事のない泣き言を、思わず絶叫してしまった。
 
 
 
 立て続けに衝撃的な事件が起こったせいだろうが、メイシェンの精神はすでに限界を迎えているようだと、ミィフィは確認した。
 校舎の側から、望遠機能付きのカメラで。

「何をやっている?」
「うげ!」

 そんな傍観者で居られたのは、もうずいぶん昔の事になってしまったようだ。
 ナルキの声がかかるのと同時に、本気ではないにせよ、首を絞められた。

「お前、メイッチとレイとんの事、掲示板に書くとはどういう了見だ?」
「い、いや。メイッチって、割と男子に人気有るじゃない」

 性格が災いして、誰かと付合うと言う事は出来ていないが、かなり人気があるのだ。
 その人気を端的に表しているのが、目の前の状況な分けだ。

「だからさ、掲示板に書いて知らしめれば、邪魔が入らないんじゃないかなって」
「それで、騒動を録画して、どう使うつもりだ?」
「もちろん、二人の結婚式の時に、流してみんなで笑おうと」
「ほう。それは面白そうだな」

 ナルキのその台詞と共に、腕に力がこもる。

「ぐぐぐぐぐぐ」
「あの二人を回収して、帰るぞ」

 首から腕が外されたが、軽々と抱え上げられて、メイシェンが気絶したために、にっちもさっちも行かなくなっているレイフォンの側まで運搬されてしまった。
 もちろん、男子を強引に突き破り、女子の荒波を乗り越えるのに多少時間はかかったが、それでもミィフィ一人で移動するよりは断然早く着いてしまった。

「ナルキ」

 救世主でも見たかのように、ナルキにすがりつくレイフォンを見下ろしつつ、もう少し虐めてみても面白いかも知れないと、邪心を抱いてしまった。

「にひひひひひ」

 取りあえず、不気味に笑ってみる。

「な、なんだよ?」

 ナルキがメイシェンを抱き上げたおかげで、何とか行動出来るようになったレイフォンが、恐れおののいて後ずさる。

「メイッチって、頬だけじゃなくて、唇とか胸とかも、ものすごく柔らかいんだぞ」
「はぅ」

 何を想像したかは非常にわかりやすい反応をして、立ち上がったばかりなのに昏倒するレイフォン。

「にひひひひひ」

 こういう初心な反応は、ミィフィにとってご馳走だ。

「いい加減、二人を休ませてやれよ。本当に壊れるぞ」
「うん。長い間楽しむには、それなりの手加減が必要だからね」

 この場というか、ここしばらくはおとなしくしているつもりのミィフィだが、問題は片付けなければならない。

「これ、どうする?」
「ああ。私はメイッチを運ばなきゃならんからな」

 昏倒したままのレイフォンを見下ろしつつ、二人で考え込む。

「シリアを呼ぶか」
「ほかの方法は、無いね」

 いくら小柄だとはいえ、一般人であるミィフィに、レイフォンを運ぶだけの筋力も体力もないのだ。
 
 
 
 レイフォンがナルキ家へとやってきて、おおよそ五日の時間が流れていた。

「色々あったね」
「ええ。色々ありましたね」

 トマスの前に座ったレイフォンは、来たばかりの頃が嘘のように、やつれ果てていた。
 日差しの穏やかな午後なのだが、それは世の中の出来事であって、今目の前にいる少年には関係がないようだ。

「何があったんだい?」

 このところ仕事でほとんど家へ帰っていなかったトマスだが、何が有ったかは割と簡単に予測ができていた。
 一応念のために聞いているに過ぎないのだが、できれば違っていてくれればいいとも思っている。

「勉強とは、汚染獣なんかとは比べものにならない程、恐ろしい敵なんですね」
「まあ、君の過去を考えると、そうなんだろうね」

 普通は逆なのだが、レイフォン・アルセイフという人間にとっては、まさしく恐るべき敵は勉強だったのだろうと予測出来る。

「それで、今まで聞きたかった事を聞いても良いかね?」
「なんでしょうか?」

 リビングのソファーに座り込み、ぐったりとするレイフォンに、もっとも聞きたい事は。

「これから、どうする?」
「ゆっくりと寝たいです」
「・・・。いや、将来の展望とか、そう言う話なんだが」

 頭脳労働が苦手そうなレイフォンにとっては、少しでも休んでおきたいのは分かるのだが、こうも天然な反応を返されると、少々引いてしまう。

「えっと?」
「就職先と言えば、わかりやすいかね?」
「? メイシェンの所に、永久就職じゃないんですか?」
「・・・・・・・・・・。どんな勉強をしているんだい、君は?」
「一般常識らしいですが」

 本人もやや疑問に思っているらしく、自信なさげな返事が返ってきた。

「・・・。なるほど。冗談はこのくらいにして」
「? どこが冗談だったんですか?」

 トマスとしては今の一連の会話は、冗談だとレイフォンも認識していると思っていたのだが、そんな生やさしい一般常識を学んでは居ないようだ。

「後で色々教えるから、取りあえず、お金を稼ぐ方法について話をしよう」
「ああ。そっちの就職だったんですね」

 ポンと手を打ち、納得した表情をするレイフォンの将来に、猛烈な不安を感じてしまった。
 自分の愛妻の威力についても。

「・・・。取りあえず、レイフォンはどう考えていた?」
「傭兵でもやろうかと思っていました。武芸を続けるだけの情熱はないけれど、ほかの技術はないですから」
「そうか」

 とことん、武芸者としてしか走ってこなかったレイフォン。

「ならば、一つ良い就職先を紹介しよう」
「メイシェンの所ですか?」

 思わず笑ってしまった。が。

「? 何か、変な事言いましたか?」
「・・・・・・。いや。警察で働いてみないか?」

 ここで突っ込んでは、話が前に進まない事が分かったので、無視する事にした。

「僕、犯罪者ですけれど?」
「それはグレンダンでの話だし、追放処分を受けた事で帳消しになっているだろう」

 本当はもう少しやっかいなのだが、その辺もやはり無視して話を進める。

「私たち警察の武芸者は、当然犯罪武芸者を取り締まらなければならない」

 一般市民に被害を出さずに、主に犯罪に走った武芸者を取り締まる。
 それがトマスの所属している部署の仕事だ。

「レイフォンには、我々の組み手の相手をしてもらいたいのだよ」
「はあ?」

 今一、理解してくれていないようだ。

「我々に求められるのは、いかに効率よく、辺りに被害を出さずに、目標を無力化出来るか。なのだよ」

 非常な難題を解決するために、トマスの部署のメンバーは、優秀な武芸者を集めて組織化されている。
 個人的な技量もそうだが、連携を含めた組織戦の訓練も十分に積んでいると、自負している。

「だが、ここに君のような非常に強力な武芸者が現れた。ならば君を相手に訓練する事で、もっと安全に確実に、任務を達成出来るようになるのではないかと、そう思うのだよ」
「ああ。成る程」

 やっと理解してくれたようだ。

「強制はしない。引き受けて欲しいとは思うけれどね」
「・・・・・・。五分くらい、考えさせて下さい」
「なぜ五分なんだい?」
「アイリさん達が五分考えて分からなければ、ノリで答えてしまえとそう教えてくれたもので」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。レイフォン。君はもう少し社会的に勉強をした方が良いかもしれないね」
「それは、僕も思います」

 純真な少年にいかがわしい知識を豊富に教える、自分の妻にかなり恐ろしいものを感じつつ、トマスはもう一つ頼み事をするつもりになった。

「それでなんだが、実はもう一つ頼みが有るんだ」
「はい? ナルキと結婚は出来ませんよ?」
「いや。そこから離れてくれないかね?」

 レイフォンの思考回路が、どうなっているか非情に疑問だが、これも後回しにする事にした。

「出来ればなんだが、ナルキとシリアに君の技を伝えて欲しい」
「? 僕の技ですか?」

 理解していない事が分かる表情で、トマスの方を見る。

「サイハーデン刀争術」
「! そ、それは」

 ここに来て、始めてレイフォンの表情が硬くなった。

「サイハーデンの名を汚したくなくて、自ら封印している事は知っている」

 危険極まりない汚染獣との戦闘でさえ、レイフォンは本来の技を封じて戦ってきた。
 それがどれほどの覚悟を必要とするか、実際にはトマスには分からない。
 だが。

「私は、ナルキとシリアの葬式を出したくない」

 エゴである事は十分に理解しているが、それでもトマスの偽りのない思いだ。

「もちろん、私の知っている人たちの葬式など、出来るだけ出したくはないが、実の子供の物は絶対に出したくないのだよ。レイフォンのも含めてね」

 トマスにとって、レイフォンはある意味偶然に知り合っただけの少年だ。
 だが、それでも、一直線に走ってきてしまった、この少年を大事に思う気持ちにも偽りはない。

「君の師父たる、デルク・サイハーデン氏がどういう人か、正確な所、私には分からないが」

 レイフォンから聞いただけだから、断定は出来ないが、おおよその人柄は理解しているつもりだ。

「時間はかかるかも知れないが、デルク氏は君に汚れ役をやらせてしまったのではないかと、後悔すると思うよ」
「そ、そんな事はありません! あれは僕がやった事で!」

 珍しく、レイフォンが興奮して反論している。

「分かっているよ」

 手を挙げて、そのレイフォンを押しとどめる。

「君のその認識は間違いないと思うが、デルク氏の認識とは別なものだよ」
「べ、べつって」

 突然の事で頭がうまく回っていないのか視線がさまよい、混乱している事が分かる。

「メイシェン君と一緒のベッドで眠っていたという、事実があるね」
「・・。はい」

 この辺を理解するためには、実体験を例えに出した方が早いと思い、もっとも衝撃的だった事柄を上げてみた。

「君は、メイシェン君に何もしなかった」
「はい」
「それが君の真実だが、メイシェン君にとっては、また違う」
「ち、ちがうんですか?」

 驚きに目を見開き、硬直する。

「うん。男の子と一緒に寝ていたと言うだけで、メイシェン君にとっては、人生が変わってしまうくらいの体験なんだよ」

 それはもう、この世の風景が一変するくらいには、猛烈な体験だったはずだ。

「え、えっと」
「ホットケーキは一つだけれど、蜂蜜を乗せるか、シロップを乗せるか、はたまた、何も乗せないか、そう言う事なんだよ」

 メイシェンの話では、今一理解していないようだったので、もう少し簡単な例えを出す。

「ああ。味付けが変わるような物ですね」

 ニュアンスが著しく変わってしまったような気もするのだが。

「・・・。まあ、そういうかんじだね」

 本当に理解しているかどうか、かなり怪しいのではあるが、取りあえず話を先に進める。

「デルク氏からの教えを尊いと思っているのなら、それを教え広める事こそが、彼への恩返しだと思うのだが、どうだろうか?」
「・・・。よく、分かりません」
「だろうね」

 もしかしたらトマスが考えるデルク像と、レイフォンのそれは一致していないのかも知れない。

「急がずに、ゆっくり考えてくれて良いよ」
「分かりました」

 そう言うと、なぜかソファーの上で胡座を組み、両手の指をへその辺りでくみ、目をつぶるレイフォン。
 何やら変な習慣があるのか、それともこれも誰かの入れ知恵なのか。

(まあ、実害がないから良いか)

 レイフォンの答えが出るまで、トマスは待ち続ける事にした。
 
 
 
 レイフォンは考えていた。
 身体を使うのは専門なのだが、頭を使うのは、非常に専門外だ。
 汚染獣に頭突きをした事はあるが、今回、その体験は全く役に立たない。

(まず始めに、警察の武芸者と組み手をして、お金をもらう)

 これは、あまり考えなくても良いような気がしている。
 武芸を続ける情熱はすでに失われているが、ほかの方法で生活費を稼ぐ事はおそらく出来ない。
 ならばこの話に乗って、しばらくの間生活するだけのお金を稼ぎつつ、ほかの技能を身につける事は、おそらく最善の選択だろうと言う事は間違いないと思う。
 問題は、ナルキとシリアに、サイハーデンの技を教える方だ。

(僕自身が、サイハーデンの技を使う事は、師父に対しての冒涜になる)

 それは、レイフォンのもっとも恐れる事態の一つだ。

(でも、トマスさんの言う事も、理解出来る部分もある)

 どれだけ優れた技だろうが、伝わらなければ一代限りの特殊技能で終わってしまう。
 それも、デルクに対する冒涜のような気がする。

(だけれど、サイハーデンを汚した僕が、技を伝える事は良いのだろうか?)

 良い事だとは思えない。
 だが、ここで一つ重要な要素がある。

(サイハーデンは、どちらかというと零細流派の一つだ)

 グレンダンではレイフォンが天剣授受者になるまで、その存在はほとんど知られていなかった。
 その様な武門は、たいがいいつの間にか消えているのだが、サイハーデンは違った。
 その大きな原因は、納めた武芸者の高い生存率だ。
 サイハーデンは敵に勝つ事よりも、生き残る事を優先とする武門なのだ。
 だからこそ、その技を修めた武芸者の生存率は非常に高い。
 ある意味、弱者の編み出した技の体系だからだ。
 トマスがナルキとシリアに教えて欲しいと願う理由は、正確には分からないが、もしサイハーデンの技を実戦で使えるようになれば、汚染獣戦などで死ぬ危険性は低くなると期待出来る。
 家族が死ぬという危険性を、少しでも減らす助けが出来るのなら、それはレイフォンにとってやるべき事なのではないかと、そうも思う。

(トマスさんには恩があるし、メイシェンを泣かせるのはいやだし、ナルキとシリアも、嫌いじゃない)

 延々考えているようだが、実はレイフォンに考えているという自覚はない。
 無意識で起こっている思考の流れを、後から言葉として認識しているようなものだ。
 ある意味、直感の延長でしかない。

「答えが出ました」
「え? はやいね」

 目を開くと煙草に火を点けようとしているトマスが、驚いて声を上げている光景と出くわした。

「そんなに、短かったですか?」
「ああ。五秒くらいしかたっていない」
「へえ。僕って、結構頭良いのかな?」

 直感で判断出来るという条件を満たすのなら、レイフォンの頭脳はきわめて高速だ。
 もちろん、数学などの理論構築が必要な場合は猛烈に遅くなるのだが。

「取りあえず、二つの提案を受けます」
「いいのかね? 私が言うのもなんだが、二つとも君の今の状況を最大限に利用した、公平でない取引だと思うのだが」
「それも分かっていますが、僕自身のためでもありますから」

 トマスから頼まれたというのも大きいが、レイフォン自身にもメリットは十分にある。

「ありがとう。本当なら、武芸を続けたくないだろうに」
「はい。武芸を続けるのはおそらく苦痛だと思うのですが、ほかの芸がないですからね」

 何か資格を取るか、手に職を付ければ武芸とは別れる事が出来る。
 そのための時間を稼ぐには、トマスの提案を受けるのも悪くはないと判断している。

「では、いつから始めるかね?」
「ナルキとシリアについては、今夜からでも」
「は、はやいね」

 思い立ったが吉日。
 やる気になっている間に、出来るだけやってしまうと言うのも、またレイフォンの行動原理の一つだ。

「警察の方は、どうしますか?」
「それは、そうだね。私の班の準待機は明後日からなので、その辺りからだとありがたいかな?」
「では、明後日の午前中からでも始めましょうか」

 善は急げというやつだ。

「ああ。じゃあ、これからみんなに知らせておくよ」

 グレンダンにいた頃から教えると言う事はほとんどした事はないが、基本中の基本ならばそれほど難しくないはずだ。
 教える方は素人だが、それは追々慣れて行けばいい。
 少し楽観的に物事を考えたレイフォンは、取りあえずまだ温かいコーヒーをすすった。

「そうだ。いくつか必要な物があるので、そろえたいのですが」
「ああ。費用は私が出すよ。リストアップしておいてくれると助かる」
「分かりました」

 字を書くという行為はかなり苦手な部類に入るが、それほど品数が多いわけではないのでさほど問題ない。



[14064] 第一話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:07


 レイフォンがナルキとシリアに鍛錬を始めたのは、つい先日の事だったとメイシェンは記憶している。
 だが、今となりを歩いている人物は、猛烈に憔悴しているように見えるのだ。

「ナッキ。大丈夫?」

 学校という騒々しい場所に向かう途中、武芸者の幼なじみへと心配の混じった声をかける。

「あ? ああ。熟れない事をしているんで、精神的に辛いだけだ」

 声やしゃべり方にいつもの切れが全く無い以上、心配の量は増える事は有っても減る事は無い。

「武芸者とは剄脈のある人間の事だ。ならば、その剄脈を徹底的に使う事こそ、まず始めにやらなければならない事だ」

 メイシェンの心配を察したのだろう、やや遠い目をしつつナルキが説明してくれているが、武芸者ではないメイシェンには、実はよく分かっていない。

「ならば、常に剄息で剄脈を活性化する事が、もっとも始めにやらなければならない事だ。と言う事で、息の根が止まるまで剄息を続けろと昨日言われてから、出来る限り剄息をやっているんだが」

 ナルキの視線が、メイシェンとミィフィに注がれる。

「分からないよな」
「ぜんぜん」
「ごめん」

 剄脈という物が存在しない一般人には、想像する事さえ困難だ。

「まあ、寝ている間も全力疾走し続けているようなもんだと思うと、割と近いかも知れないな」

 ナルキの心遣いは十分に理解したのだが、全力疾走という物さえあまりやった事のないメイシェンには、やはりうまく理解出来なかった。

「ごめん」
「なるほど」

 そんなメイシェンが理解できないことを謝ったのだが、ミィフィは何やら納得したようだ。

「つまり、心臓がバクバクなのだね」

 うんうんと頷きながら、そう表現している。

「ああ。そうなんだ」

 ナルキもそれに相づちを打っているのだが、実際問題として、体育の授業以外で運動する事がないメイシェンには全く理解出来ない。

「やはり、メイッチには無理か」
「にひひひひひ」

 諦めモードに入りかけたナルキと違い、何やら不気味な笑いを浮かべるミィフィ。

「な、なに」

 恐れおののき、後ずさりつつ、念のために聞いてみる。

「もが」

 何か喋るよりも早く、ナルキの手がそれを阻止してしまった。

「それはだめだ。壊れたらどうするんだ」
「ごがごが」
「分かった、分かった。そのうちな」

 何やら二人の間で話がついたようで、ミィフィの口から手が離された。

「何が、有ったの?」
「なんでもない」
「そうそう。なんでもない」

 秘密にしていると言うよりは、何か企んでいる表情のミィフィが怖いが、もう学校は目の前だ。
 レイフォンに抱きかかえられて登校してからこちら、あらゆる人から注目を集めてしまっているメイシェンにとっては、まさに戦争。
 なぜか、いろんな人からラブレターを大量にもらってしまったり、告白されたりと言う事が非常に増えてしまった。
 女の子からの告白もあるのだが、これは間違いなく冗談だろうと思っている。
 そうでなければ、登校拒否をしたくなってしまうので、全力でその予測を否定している。と言うのが実際だが。
 寝込まずに登校している今現在でさえ、メイシェンにとっては奇蹟のような物なのだ。
 これ以上の幸運は、とても期待出来ない。
 
 
 
 レイフォンとの最初の組み手が終わったトマスは、大きく息を吐きつつ自分の机に突っ伏してしまった。
 普段は、そんなだらしない事はしないのだが、今日というか今回だけは特別だと、自分に言い訳をしつつ、ため息とも感嘆ともつかない息を吐き出す。

「な、なんなんですか、あれは?」

 トマスの班に所属する若い武芸者が、息も切れ切れにそんな苦情とも感嘆ともつかない言葉を吐き出した。

「取りあえず、我々よりも強い事は、これで十分以上に理解出来たわけだな」

 最初の組み手と言う事で、双方の実力を把握するために、トマスの班五人で一斉にレイフォンに飛びかかった。
 いくら若い者が居るとは言え、それは警察という職業柄、経験だけは豊富なこの班の実力は非常に高いとトマスは判断しているし、実戦でもその判断は間違っていないと証明され続けている。
 そんな優秀な武芸者五人が全力で、しかも、連携を取りつつ攻め続けたのだ。五時間にわたって。
 息もつかせぬはずの波状攻撃は、全く通用せず、フェイントや威嚇は無視された。
 実戦であれだけの攻撃をした事はなかったし、もしやったとしたのなら、ヨルテムが誇る交叉騎士団に選ばれる程の武芸者でなければ、確実に取り押さえる事が出来る攻撃力のはずだった。
 だが、相手をしていた少年は、余裕の表情で全ての攻撃をかわしてしまった。
 どれだけ精緻で速い攻撃を仕掛けても、それが来る事が分かっているかのように、軽々と交わされてしまった。
 旋剄を始めとする剄技に至っては、発動する前に見切られていたとしか思えない反応を見せられてしまった。

「つ、強いとは思っていたが、まさかこれほどだとは、思いもよらなかった」

 グレンダンが誇る、天剣授受者。
 それがどれほどの物か、実際トマスは知らなかったのだ。
 それは当然と言えば当然で、放浪バスに乗って、汚染獣の徘徊する荒野を走破しないかぎり、他の都市に行く事は出来ない。
 ならば、その都市でいくら有名だろうが、一歩外に出てしまえば、全く無名と言う事になる。
 今回も、その法則が遺憾なく発揮されてしまった。

「だ、だてに、警察の飯は食ってないと思っていたのに」

 そこここで、同じ様なつぶやきが聞こえる。
 ある程度覚悟をしていたトマスでさえ、机に突っ伏している有様では、ほかの連中を責める事は出来ない。
 恐るべきは、レイフォンのような化け物じみた連中が、他に十一人も存在しているグレンダンという都市だ。
 戦争になったら最後、ヨルテムなんぞ瞬殺されてしまうかも知れない。
 あるいは、レイフォン一人に征服されてしまう故郷の都市というのも、あり得ない予測ではない。
 征服して何をするのかとか、そもそも、そんな気になるのかとかという疑問は置いておいて。

「飲み物いかがですか?」
「ああ。ありがとう。reifon?」

 疲れ切っている連中に飲み物を差し入れるような少年が、都市を征服するなどと言う事はあまり考えられないなと、安心したトマスはなんのためらいもなく、顔を上げ。

「?」

 不思議そうに小首をかしげるレイフォンを、凝視する。
 フリフリでレースでピンクでハートマークな、エプロンを着けた、小柄な少年を。
 お盆の上には強力活性剤という、怪しげな商品名が付けられた超ロングセラーのスポーツドリンクのボトルを五本乗せて。
 トマスと一緒に、準待機任務で詰め所にいた疲れ切っている武芸者四人も、一斉にレイフォンを凝視している。
 当然だが、この詰め所の空気はあり得ない速度で凍り付き、誰も動く事が出来ない。

「どうかしましたか?」

 トマス達全員が凍り付いているのに疑問を持ったらしいが、よく冷えて汗をかいたボトルを、机の上に置いて回るレイフォン。

「なあレイフォン」
「はい?」

 やっと再起動したトマスは、やらなければならない事がある。

「エプロン、誰につけろって言われたんだ?」
「もちろん、アイリさんですけれど? やっぱり青いやつの方が良かったですか?」
「いや。どちらでも結果は同じだよ。たぶんね」

 納得していないようだが、この後スーパーでの買い出しの応援に呼ばれているレイフォンは、後ろ髪を引かれるような雰囲気と共に、詰め所を出て行った。
 もちろん、エプロンは外して。

「班長」
「頼むから、何も言うな」

 最愛の妻であるアイリが、恐るべき常識と行動力を持ち合わせている事は十分に理解しているつもりだったが、その認識が甘すぎる物である事を、これ以上ない程知らされた事件となった。
 
 
 
 レイフォンが鍛練を始めて、一月くらいの時間が流れた。
 息の根が止まるまで剄息を始め、硬球の上を移動するとか、硬球を打ち合うとか、今のところ基本的なものだけなので、教える人間の未熟さは露見していない。
 トマスの強行突撃班の組み手は、すでに実戦レベルに突入しているが、こちらはある程度実力のある武芸者だったので、さほど問題はなかった。

「それは良いんだけれど」

 公共の練習場を借りて、三人で硬球を打ち合いつつ何か物足りない事を、レイフォンは感じ始めていた。
 今日は学校が休みなので、朝からここに来て鍛練三昧の一日の予定だ。

「うぅぅぅぅぅん? 何が足りないんだろう?」

 頭ではこれからの鍛練方法を考えつつ、六十個の硬球が乱れ飛ぶ現状を身体が処理している。

「レ、レイとん。頼むから、あからさまに手を抜かないでくれ」
「そうですよ。ぼ、僕たちが惨めじゃないですか」

 剄息を乱しつつ、ナルキとシリアに苦情を言われてしまった。

「あ。ごめん。でも、二人にはなにか、もっとこう、有るんじゃないかと思うんだ」

 そう言いつつ、レイフォン目がけて飛んできた三十五個の硬球を、それぞれの方向にはじき返す。

「ぬを!」
「うひゃ!」

 見事にそれを裁き損ねた二人が、思わず硬球を踏んで体勢を崩す。
 万全の体制なら、そんなミスはしないのだろうが、そろそろ限界に近づいているのかも知れない。

「少し、休憩ね」

 取りあえず二人の剄息が回復するまで、レイフォンは考え事に専念する。

「・・・・・・」

 もしかしたら、レイフォンの持っている技術では、二人の能力を完全に開花させる事は出来ないのかも知れない。

「となると」

 剄の流れを見て、技を盗めるというレイフォンの特殊技能には、一つだけ弱点がある。

「化錬剄かな?」

 剄を炎や電撃と言った、別な力に変える事の出来る技の総称だ。
 剄の流れ自体は十分に理解して、再現する事も出来るのだが、残念な事に、化錬剄の基本が出来ていないレイフォンには、技を完全に再現する事は出来ない。
 教える事が苦手だと自己評価しているが、それでも、レイフォン自身が出来るのと出来ないのでは、やはりかなりの違いがあるだろう事は十分に理解出来る。

「トマスさんに聞いてみようかな?」

 こうなればもう、二人に実力を付けてもらうために、手段は選んでいられない。
 トマスならば化錬剄を使う人間にも心当たりがあるだろうし、その人からレイフォンが習って、天剣授受者の技を二人に伝える事も出来るかも知れない。

「レイとん? そろそろ再開出来るが」
「ああ。うん。じゃあ、少し違った事をやってみようか」

 化錬剄の事は後回しにするにしても、同じ事を延々と繰り返していたのでは、集中力が切れてしまうかも知れない。
 それは、怪我をする危険性を増やす行為だと理解している。
 ついさっきも、捻挫しなかった事は幸運だったのだ。

「二階に上がろう」

 二階と言ってはいるが、実際に言うなら、5メル程度上を、借りている部屋を一周している手すり付きの廊下の事だ。

「何やるんですか?」

 剄息をほぼ回復したシリアが、錬金鋼を剣帯にしまいつつ、少しほっとした雰囲気でこちらにやってくる。
 五時間程硬球を打ち合って、精神的につかれていたのだろう事が分かった。

「あそこの手すりの上で、組み手」
「手すりの上ってな」
「組み手って」

 言っている事を理解したのだろう、二人が疑問の表情でレイフォンを見る。

「バランス感覚を養うのに役に立つし、気分転換にも良いよ」

 軽く活剄を行使して、手すりに飛び上がる。

「足場が悪い所で動く事で、足裁きの練習にもなるし」

 そう言いつつ下を見下ろし、二人がなかなか上がってこない事に、少し疑問を覚えた。

「どうしたの?」
「い、いや。あれ」

 よくよく見てみれば、二人の視線が訓練場の入り口付近に向けられている。
 レイフォンの位置からは、手すりが邪魔で見えない場所だ。

「?」

 上がったばかりだが、取りあえずそのまま飛び降り、入り口の方を見て。

「あ、あのぉ。お昼ご飯」

 メイシェンが、巨大なバスケットを抱え、恐る恐る中をのぞいていた。

「ああ。もうそんな時間なんだ」

 鍛練になると思わず時間感覚がなくなってしまうレイフォンにとって、メイシェンのお弁当はなくなりやすい時間感覚を取り戻す上できわめて重要だ。
 それを抜きにしても、美味しい弁当は、人生において重要なイベントである事に間違いはない。

「じゃあ、お昼休みね」

 実際にはまだ動き足りないのだが、二人に合わせなければならないのも事実だ。

「た、助かったぁ」
「ふぅぅ」

 そんな台詞を吐き出しつつ、緊張感が消える。
 レイフォンが思っていたよりも、二人は疲労していたようだ。

「これじゃ、駄目だな」
「何がだ?」

 独り言だったのだが、少し声が大きかったようだ。

「ナルキ達の状況を、ちゃんと把握出来ていない」

 それは、いらない危険性を呼び込む事に直結する、出来るだけ回避しなければいけない状況だ。

「気にするなよ。私たちはそれほど柔じゃない」
「そうですよ。一応武芸者なんですから、丸一日は無理でも、半日以上はやれますよ」
「・・・・。そうなんだ」

 天剣授受者になった頃には、すでに一週間ぶっ通しで戦える状態だったレイフォンにとって、二人の台詞は衝撃だった。

「やっぱり、僕たちは異常だったんだ」

 誰にも聞こえないように、ほとんど口の中だけで言葉を殺した。
 レイフォンの内心など、もちろん誰も知らないので、メイシェンに率いられた武芸者三人は、かなり日差しの強い庭へと歩み出た。
 当然そこにはミィフィが場所取りをしつつ、お茶を飲みつつお菓子をつまんでいた。

「太るぞ?」
「大丈夫よ。ちゃんとカロリー計算しているし、これメイッチが作ったやつで、バター使ってないから」

 軽い音を立てつつ、クッキーがミィフィの口の中で砕かれているが、バターを使っていない低カロリーなお菓子だとしても、大量に食べればやはり太ってしまうのではないかと、レイフォンは心配になってしまう。
 まあ、その辺も計算しているのなら、心配する必要はないのだろうが。

「それよりも、早く食べよう」

 お菓子を食べていたはずのミィフィが、もっとも空腹そうな顔をしているのに、非常な疑問を覚えつつ、促されるままにシートへと座った。

「それにしても、ここは平和で良いね」

 お茶をもらいつつ呟いた、何気ないレイフォンの言葉だった。
 一月の間、一度として汚染獣の襲来警報は鳴らなかった。
 その一事だけでも、グレンダンの異常さがよく分かるというものだ。
 これで、ヨルテムに済む人たちが、平和な事に疑問を覚えるそぶりを見せているのなら、レイフォンのこの一言はなかったのだが、あまりのギャップに思わず出てしまったのだ。

「平和って? 汚染獣でも来るのか?」

 サンドイッチを頬張りつつ、不思議そうにナルキに聞かれて、始めて失敗に気が付いた。

「う、うん。グレンダンでは、一月に一度は来ていたし、酷い時には毎週のように汚染獣が襲ってきてたから」
「ちょっと待て! なんだそのすさまじい頻度は?」

 武芸者という生き物であるナルキとシリアは、ヨルテムでは考えられないその頻度に、恐れをなしたようにレイフォンを見る。

「い、いや。なんだと言われても困るんだけど」

 襲ってくる以上は仕方が無い。
 だからこそ、グレンダンの武芸者の頂点に君臨する天剣授受者は、化け物揃いになったのかも知れない。

「レイとんも、参加した事あるの?」

 こちらは、あまり汚染獣という者に縁がないメイシェンが、それでも、恐る恐ると訪ねてきた。
 たぶん、汚染獣は恐ろしいと言う認識しか無いのだろう事が、十分にわかるし、一般人にとってはそれで十分だ。

「何度かね。僕はあんまり強くなかったから、弱い汚染獣としか戦った事無いよ」

 これは真っ赤な嘘だが、本当の事を言っても信じてもらえない事が分かっているので、徹底的に嘘を通す。

「そうなんだ。だけど、戦った事があるだけで、私たちよりも凄いよ」

 なんだか、ナルキとシリアの視線に、尊敬の念が加わったような気がして、少しだけ怖い。
 本当の事を知った時、レイフォンの犯した過ちを知った時、また、あのような体験をするかも知れないと思ってしまったから。

「ま、まあ。他の都市じゃ、あまり汚染獣は来ないって言うし、あんまり戦う事もないんじゃないかな?」

 そう言うレイフォンだが、なぜか最近、再び自主訓練を始めている。
 専用の設備もない状況では、あまり本格的な事は出来ないが、それでも、今の状態を維持するくらいなら、なんとか出来ていると思っている。
 もしかしたら、二人に伝えるという大義名分の元、レイフォン自身が武芸を続けたがっているのかも知れないと、そうも考えるが、これに対する答えは残念ながら出ていない。

「まあ、いいか」

 そんなに慌てて、結論を出す必要はない事だと、考えるのを先延ばしにしてしまった。
 
 
 
 大量の食品が武芸者と一般人の胃袋に消えてしまった頃合いを見計らって。

「レイとん!」
「ふぁい!」

 欠伸をしている最中だったようで、レイフォンの返事から、気合いが完全に抜けていた。

「これからメイッチが買い物に行くから、レイとんが護衛兼、荷物持ちとしてついて行きなさい!」

 ビシッと擬音がしそうな勢いで突きつけたミィフィの指の先で、レイフォンの表情が困惑と戸惑いに彩られた。

「えっと?」
「良いかねレイとん?」

 ここは順を追って、ゆっくりと追い詰めるべきだと、ミィフィの記者魂がそっとささやいている。

「美味しいご飯を食べたいのなら、メイッチの手伝いをするのは当然」
「ミィちゃんは、ほとんど手伝いしないよ」

 メイシェンの突っ込みは、無視。

「レイとんも知っての通り、メイッチは可愛いから、誰に狙われるか分からない」
「確かにな。押しが弱いから逃げられないしな」

 ナルキの援護射撃で、力を付ける。

「そうなると、誰かが護衛をしつつ、荷物持ちをしなければならないのだよ」
「レイフォンさんなら、荷物も大量に持てそうですからね」

 納得の表情のシリアが頷く。

「と言うわけで、午後はメイッチに付合って買い物に行く事!」

 鼻面に指を押し当てて、宣言する。

「え、えっと」

 視線がナルキとシリアに向く。

「この後、手すりで軽く組み手して、その後普通に組み手するつもりだったんだけれど」
「私たちの事は気にするな。普通の組み手くらいなら、普通にやっておくよ」
「メイシェンを寂しがらせてはいけないと思いますよ。婚約者的に」

 二人からも行けと言われてしまった以上、レイフォンに拒否権は存在しない。

「ひゃぅ」

 メイシェンの抗議の声は無視して、レイフォンにさらに詰め寄る。

「さあ、行くのだレイとん。謎の生物に恐れをなしていては、とても武芸者とは言えないぞ!!」

 女の子という者と、ほとんど関わりがなかったと白状したレイフォンの、その弱点を攻撃する。

「わ、わかったよ」

 ぎこちなく頷き、よろよろと立ち上がるレイフォン。

「い、行こう、メイシェン」
「ひゃぁ」

 こちらも、よろよろと立ち上がり、足下も危なっかしく歩き出すメイシェン。

「まてぇぇいい!」

 並んで歩き出した二人を呼び止め。

「最低限、このくらいしないと駄目でしょう」

 言いつつ二人の手をつなげる。

「あぅ」
「はぅ」

 二人で意味不明な声を上げつつ、さらに足下が危なくなりながらも、スーパーの方向へと歩き出すのを確認していると。

「はあ」
「ふぅ」

 居残り組の武芸者二人のため息が聞こえてきた。

「なに?」

 もしかしたら、恋人が欲しいのかと思い、期待しつつ振り返ったミィフィだったが、そこにある現実はそんな生やさしいものでは無かった。

「いやな。レイとんの稽古がむちゃくちゃ厳しくてな」
「今の僕達じゃ、半日付合うのが限界ですね」

 シリアはまだ分かるのだが、同い年では優秀な方に分類されているナルキが、レイフォンの鍛練に付いて行けないという事実に、少しだけ驚愕してしまった。

「うそ」
「本当だ。しかも、まだある」
「ええ。間違いない事実が」

 二人の声も表情も、嘘を言ったり大げさに吹聴したりするものでは無い事が、幼なじみであるミィフィには充分に分かった。

「それって、どういう意味?」

 グレンダンという、武芸の本場から来たレイフォンだから、二人よりは優秀であっても不思議ではない。
 だが、そんなミィフィの予測など、意味はなかったようだ。

「この一月で、その前一年分で伸びた実力を、軽く上回っていると思う」
「そ、それは、成長期だからじゃ?」

 ナルキの恐るべき告白に、何とか理屈を合わせてみる。

「剄息での生活が原動力だというのもあるが、レイとんの実力に引っ張り上げられているような気がする」
「そ、そうなんだ」

 この辺は、武芸者ではないミィフィには理解できないところだ。

「しかも、その伸びた実力で、レイフォンさんに近づいたような気がしないんですよ」
「近づかないって、それはあり得ないでしょう」

 実力が伸びて、さらに遠くなったというのなら、相手の伸びがこちらを上回っている事になる。
 それこそあり得ないと思うのだが、これも武芸者ではないので、はっきりとは断言出来ない。

「いや。レイとんの凄みというか、本当の実力が、分かってきたというか」
「僕達よりも遙か高見にいる事を、やっと理解出来てきたというか」

 なんだか、二人が落ち込んでいるように見える。

「いくら努力しても、あそこに届かないんじゃないかと、そんな風に思うんだ」
「持って生まれた才能の差と言えばそれまでなんですけれど、なんだかへこんでしまいますね」

 メイシェンの頬をつついたりしただけで、違う世界をのぞいている少し変わった少年が、もしかしたら想像を絶する化け物ではないか?
 そう言っているのだ、幼なじみの武芸者二人は。

「そ、そうだったら、なんでそんな優秀な武芸者を、グレンダンは手放すのよ?」

 先ほどのレイフォンの話に、少しばかり嘘があったらしい事は、ミィフィも感じ取っていた。
 基本的に嘘をつくのが下手なレイフォンだから、それは別段気にしていなかったのだが。

「グレンダンで、レイとんがそんなに強い武芸者じゃなかったら、私は武芸者やめるぞ」
「本当は、最強だったと言われた方が、まだ納得行きますね」

 二人の認識が間違っていなければ、何らかの理由でグレンダンを追放されたと言う事になる。
 すぐに思いつくのは、何かしらの犯罪をしたと言う事だが。

「あのレイとんが、犯罪者ってのは、グレンダン最強の武芸者と言われるよりも、信じられない気がする」
「それは同感だ」
「あの人、お人好しですからね」

 三人の認識が一致したのはよい事だが、そうなるとますます、レイフォンがここに居られる理由が分からなくなってしまった。

「これは、調査の必要があるかな」
「それはやめておけよ」
「誰にだって、知られたくない過去くらいは有りますから」
「でも、気になるじゃない? メイッチも絡んでいるんだし」

 幼なじみの引っ込み思案な少女の事を考えると、とてものんびり構えては居られない。
 断じて、好奇心の塊だからではないのだ。

「ミィさ。理由はどうにでもなるとか、そう思っているだろう」
「それは、口実ですよ」

 二人から突っ込まれたが、もはや止まる事は出来ない。



[14064] 第一話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:07


 トマス達の鍛練を終えたレイフォンは、今の自分の状況に、かなり戸惑っていた。
 なぜかと聞かれると、武芸を続ける事が楽しく思えているからに他ならない。
 グレンダンでの失敗が元で目的を見失い、情熱を無くしたと思っていたのだが、ヨルテムに来てからの生活で、徐々に、しかし確実に、レイフォンの中の何かが変化していた。
 今まで覚えてきた技を、誰かに教えるために、レイフォン自身が改めて学習しているのだ。
 剄の流れや体の使い方を、ゆっくり一つずつ、再確認しつつ、技を発動させる。
 それを何度も繰り返し、どう説明したらナルキ達に素直に伝わるかを考える。
 それは、今までにない体験で、覚えた技の違う一面を発見する事さえ珍しくない。
 それらの事が、なんだか楽しいのだ。

「でも」

 武芸を続けることが良い事なのか、悪い事なのか、判断が付かないのだ。
 サイハーデンの技を使う事は、自らに禁じている。
 それを説くつもりはないが、ナルキやトマス達への鍛練も止める事も出来なくなっている。
 二律背反という物かも知れないと考えつつ、良く冷えた強力活性剤をすする。

「でも」

 デルクの事をまだ大切に思うのならば、サイハーデンの技を伝えるべきだというトマスの言葉も、十分に理解出来るし、納得出来るような気もしている。
 問題は、本当にレイフォンが教えても良い物かどうかと言う事で、基礎訓練に終始している今の内に、何とか答えを出しておかなければいけないのもまた事実だ。

「どうしたものだろう?」

 呟きつつ、もう一口すする。

「何考えてるんだ?」

 いつも通りに、机の上でへたばっているトマスが、気だるげな声で思考に割り込んできた。
 他の四人も多かれ少なかれ、レイフォンの独り言と思考に興味があるようだ。

「個人的な事なんですが」
「うむ。私たちで良ければ相談に乗るが」

 大儀そうに身体を起こしつつ、レイフォンの方を向く。

「鍛練、そんなにきつかったですか?」

 あまりのトマス達の状態に、少々やり過ぎたかと思っての質問だ。
 ナルキ達に自分の常識を当てはめる事は大変危険だと学習したが、トマス達ならもう少し大丈夫だろうと考え、若干きつめのメニューを用意したのだが。

「この歳で、あんな事をするとは思わなかったのでな」

 今日の鍛練は、良く滑る油を引き詰めた床の上での組み手だった。
 硬球とはまた違った滑り方に全員が戸惑い、終わる頃には足腰ガタガタになっていた。

「まあ、訓練が実戦よりも優しいなんて事は考えただけでも恐ろしいから、このくらいでちょうど良いんじゃないか?」

 若いやつは元気で良いなと、トマスの愚痴が聞こえるが、レイフォンは少し違う所に思いをはせていた。

「僕の鍛練は、少し厳しかったんだ」
「ああ? まだ、誰も血反吐を吐いていないから、全然平気だろう」

 先ほどの若い武芸者がそう言うのを聞いて、言葉の使い方が間違っていた事を知った。

「あ。いえ。僕の受けた鍛練が厳しかったんだと、思い返したんですよ」
「受けた鍛練が、どう厳しかったんだ?」

 非常に怖々とトマスが聞いてきたので、思わず本当の事を口にしてしまった。

「えっと。小さい頃は、年に二回くらいは死ぬような体験をしました」
「小さいって、八歳で汚染獣戦に参加したよな、お前さん」

 あきれたように、中年の武芸者が呟いたが。

「その前からですよ。五歳くらいから九歳くらいまでの四年間で、八回は死にかけました」

 デルクの鍛練は、それはもう厳しい物だった。
 鍛練の最後で満足に立っていられる者などごく少数だった事が、そのすさまじさを如実に表している。

「そ、それは、凄まじいな」

 全員が引いているようだ。

「まあ、そのおかげで、きちんと納めた人たちの死亡率は、結構低かったんですけれどね」

 不死身と呼ばれた使い手さえ居たサイハーデンだ。
 その原動力というか原因のかなりの所は、デルクの鍛練のすさまじさにあったのだと、レイフォンは思っている。

「そ、そうなのか」

 全員が、かなり引いてしまっている。

「それで、レイフォンは今何を考えていた?」
「ああ。武芸に関しての事を、つらつらと」

 トマスが本来の話に戻したので、レイフォンもそれに従って、昔話を終わりにした。

「まだ、続ける気にはなれないかね?」
「続けても良いのか、それで悩んでいます」

 グレンダンでの事を知るトマス達には、案外気楽に話す事が出来るので、もしかしたら、もっとも強力な相談相手かも知れないと、ふと思った。

「ああ。レイフォンの気持ちは分からなくはないが、剄脈を使わないという状態は、きついのじゃないかい?」
「それはありますね」

 グレンダンを出るまでの時間と、放浪バス内で過ごした時間。
 ごく短いはずだったのだが、それでも、剄脈を使えないという状態が非常にもどかしかったのは間違いない。
 何か、腰の付近がムズムズするようなのだ。

「そうだね。レイフォンに必要なのは、目的意識かも知れないね」
「それはありますね。今の僕はただ流されているだけですからね」

 自分の状況をある程度客観的に見る事が出来るようになっただけでも、ヨルテムに来てトマス達と関わった甲斐はあったという物だ。

「だが、こればかりは私達にはどうする事も出来ないね」
「ええ。僕自身が何とかしなければならないですから」

 その事は理解しているのだ。
 レイフォンが自分で見付けなければならないと言う事は。

「そうそう。誕生日おめでとう」

 唐突に、トマスがそんな事を言ったので、部屋中を見回してしまった。

「誰かの、誕生日なんですか?」

 個人データなど見ているはずもなく、そう聞き返してみたのだが。

「え、えっと?」

 全員の視線が、レイフォンに突き刺さっている。
 それはもう、これ以上ないくらいに、変な生き物を見るような、冷たい視線が。

「君の誕生日だよ、レイフォン」

 あきれがちな疲れ切った声が、トマスの口から漏れた。

「僕の誕生日?」

 壁に掛かっているカレンダーを眺める。
 そこでふと、自分の誕生日を覚えていない事に気が付いた。
 いくらカレンダーがあっても、全く無意味だ。

「ヨルテムの法律だと、昨日が終了した時点で、君は十五歳だよ」
「ああ。そう言えば、そんなイベントもありましたね」

 自分の誕生日などという物に、あまり興味がないレイフォンは、すっかり忘れていたのだ。
 誕生日というイベントを。

「おいおい。自分の誕生日だろうに」

 トマス班唯一の女性武芸者の太い指が、レイフォンの眉間をつつく。

「いや。僕の誕生日の前後って、なぜか汚染獣の襲来が多くて、たいがい戦っている間に終わっている物だったという事情も、少しありまして」

 サヴァリスやリンテンスと共に戦った、老性体六期の時もそうだったが、誕生日というのは戦場で過ごす物だというのが、ここ何年かのレイフォンの常識だった。

「そうすると、ここにも汚染獣がやってくるかな?」
「いやいや。そう言う縁起でもない事を言わないでくれよ」

 トマスが疲れ切った声を出した次の瞬間。
 警察署内に警報が鳴り響いた。

「お、汚染獣か!!」
「落ち着け、馬鹿者!!」

 話の流れで慌てた若い武芸者が、トマスの鉄拳で落ち着きを取り戻した。

「これは、ただの出撃警報だ。我々にも要請が来るかも知れんから、念のために準備をしておくぞ!」

 今までのだらけた雰囲気は一気に霧散し、五人全員が戦闘態勢に移行した。

「と言うわけでレイフォン。今日もありがとう」
「いえ。それじゃあ僕は家に帰っていますね」

 トマス達が戦闘状態に入ったら、レイフォンに仕事はない。
 メイシェンの買い物に付合う約束はあるのだが、まだ時間はありそうだ。
 適当にふらふらしつつ、学校の側で待とうとそう計画したレイフォンは、やや騒然とし始めた警察署を後にした。
 
 
 
 ミィフィが調査を開始して一月半。当然の事だが、難航を極めている。
 この世界において、情報が都市間を移動すると言う事は、非常な困難を伴う。
 それでも、交通都市という立地条件は、情報を集めるという行為には割と有利に働く。
 だが、レイフォン個人の情報となると、途端に難しくなるのもまた事実だ。
 グレンダンという、なぜか放浪バスが寄りつかない都市出身だというのも、大きな原因だろうが、とにかく集められる情報が少ない。
 そんな愚痴を言いつつ、ミィフィはおおよその所は理解しているのだ。
 調べ始めてからこちら、なぜかトマスの視線が厳しい。
 無言のプレッシャーを与えられている感じだ。
 そして、調査している間中視線を感じる。
 思いっきり監視している事を知らせてきている辺り、トマスの内心にも迷いがあるのかも知れないとは思うが、それでも止めるつもりにはなれない。

「負けない」

 権力に対するマスメディアの存在意義とか言う以前に、ミィフィの個人的な資質が、調査の中止を認めないのだ。
 とは言え、そもそも、女学生であるミィフィに出来る事など、あまり多くない。
 レイフォンを追い詰めて白状させるという手も考えたが、それは最終手段にしておきたいし、出来れば使いたくない。

「となると、グレンダン出身者に聞き回るしかないんだけれど」

 公開されている情報をいくら探しても、そんな都合の良い人物は見あたらない。
 個人情報を気楽に公開する事の方が不思議なので、これも当然の結果だ。
 お風呂上がりで、濡れた髪をそのままにして、調査ノートを開く。

「とは言え、これはねぇ」

 だが、今までレイフォン自身の話した情報を整理し、単語を並べたページを眺める。

「サイハーデンか」

 ナルキとシリアに教えている流派の名前だ。
 電話帳でその名前の武門を探してみると、一軒だけその名前の道場があった。
 都市の最外縁近くにある、かなりの零細武門らしい事が分かった。

「ここからだと、一日仕事になるよなぁ」

 ミィフィの住んでいる場所から考えると、ほとんど都市の反対側になってしまう。
 交通費を含めると、かなり痛い出費だ。
 こちらの選択肢も、なかなかとれない。

「手詰まりか」

 トマスに聞いても話してくれるとは思えないし、他の大人達も同じだろう。
 メイシェンとレイフォンの結婚までは、まだかなり時間があるはずだ。
 ここに来て二月半が経つが、未だに手をつなぐだけで蒸気を発生させ、頬をつついて違う世界に旅立つという、想像を絶するバカップルぶりを発揮しているのだ。
 二人供がこんな状況では、結婚など夢のまた夢。
 これは確率の問題でしかないのだが、メイシェンにとっても、男の子は謎の生命体なのだ。
 そう仮定するのならば、それほど急ぐ必要はないのかも知れないと、自分に言い訳をしつつ、ノートを閉じる。
 ヘタレ気味のレイフォンが、自分から犯罪歴を話すという確率はきわめて少ないが、信頼関係を築く事が出来れば、全く無いわけではない。
 そちらからのアプローチの方が、実際には早いかも知れないと思うが、計算尽くで誰かと仲良くするなどという芸は、今のミィフィにはとても出来ない相談だ。

「まあ、じっくりと時間をかけて、ネチネチと調べようか」

 自分の台詞にきわめて不本意な内容を感じつつ、ベッドに身体を投げ出した。

「どわ!」

 投げ出した次の瞬間、いきなり猛烈な勢いでシェイクされた。

「と、都震?」

 ここしばらく感じていなかったので、一瞬驚いてしまったが、ミィフィにとってこの感覚は慣れ親しんだものだ。

「全く。どうしてヨルテムってこう、揺れるのが好きなんだろう?」

 別段、好きこのんで地盤の悪い場所を歩いているわけではないのだろうが、しょっちゅう体験している身としては、愚痴の一つくらいは言いたくなるというものだ。

「う、うわぁ」

 そんな愚痴からの連想が災いしたのか、ロックに乗ってステップを踏むレギオスなんてものを想像してしまった。
 カクテルライトに照らし出され、サングラスでアフロヘアーのレギオスが踊り狂うという、光景をだ。
 どこに顔があるかという疑問は、無視して。

「そ、それはないよね。いくらなんでも」

 うんうんと頷きつつ、念のために避難の準備をする。
 パジャマから私服に着替え、サバイバルキットを取り出し、一階に下りる。
 降りてみれば、すでに全員が避難の準備を終わらせている所だったが、お茶など飲んでいる所を見ると、たいしたことにはなっていないのかも知れない。

「都震、大丈夫だったの?」
「ああ。足の半分くらいが埋もれたけれど、それ以外に被害は無いそうだよ」

 父の話を聞いて、少し安心したが。

「でも、しばらく動けないらしい」

 続く台詞で、少し怖くなってしまった。

「汚染獣、来るかな?」

 汚染獣を避けて移動を続けるレギオスが止まると言う事は、襲われる危険性が高まると言う事に他ならない。
 生き物の匂いに引かれてやって来るという、研究結果があるくらいだ。

「ああ。武芸者に非常呼集がかかったよ。お隣さんは総出で出撃みたいだ」
「ナルキとシリア、大丈夫かな?」
「子供を戦場に出す程、家は逼迫していないさ」

 父のその言葉に、少しだけ安心した。

「レイフォン君は、出撃するのかな?」
「義務はないだろうが、要請は行っただろうね」

 それを聞いて、ミィフィは他の不安に襲われた。

「私、メイッチの所に行ってるね」

 レイフォン達が出撃すると聞いたのなら、それだけで不安定になる事が予想出来るだけに、出来るだけ側にいたいと思うのだ。

「ああ。そうした方が良いだろうな」

 父の了承を得たので、念のためのサバイバルキットを片手に、トリンデン家へと向かった。
 
 
 
 都震を感じた次の瞬間、レイフォンは錬金鋼をひっつかみ戦闘準備を終了させていた。
 出産期に入った汚染獣の住みかを、ヨルテムが踏み抜いてしまったのかと思ったのだ。
 そうなった場合、幼生体を殲滅しつつ、母体を始末しなければならない。
 十分な戦力を持っているはずのヨルテムなら、レイフォンが出撃する必要はないのかも知れないが、武芸者として長年培ってきた反射行動は、おいそれと変える事は出来ないのだ。

「レイフォン? 何やっているの?」

 錬金鋼を復元しつつ、リビングに到着したレイフォンが見たのは、戦闘衣に着替えてお茶を楽しんでいるアイリの姿だった。

「え、えっと? 幼生体は?」
「まだ確認されていないわよ。っていうか、揺れ方はいつもの都震だったから、違うと思うけれど」
「そ、そうですか」

 グレンダンでの生活が長かったせいか、異常事態イコール汚染獣という公式が出来上がっているレイフォンにとって、今回はまさに想定の範囲外だった。

「まあ、取りあえず落ち着いてお茶でも飲んでいなさい。幼生体が来たのなら、それなりに迎撃命令が来るはずだし、家はそんな無能な武芸者飼っていないわよ」

 確かにその通りだと納得したので、錬金鋼を基礎状態に戻すと、三人分のお茶を淹れ始めた。
 レイフォン程の瞬間的な反応が出来なかったのか、ナルキとシリアがまだ来ていないのだ。

「流石と言うべきね。くつろいでいた私は兎も角、あの二人よりも格段に早いなんて」
「グレンダンで都震と言えば、たいがい幼生体が来ましたからね」

 雌性体を潰すために、真っ先にグレンダンを飛び出した事すら有ったレイフォンにとって、襲撃のない都震という物の方がなれないのだ。
 だが、レイフォンの感じている違和感は、実はそれだけではないのだ。
 天剣ではないにせよ調整を繰り返し、もはや自分の身体の一部となっているはずの青石錬金鋼。
 手に持った、その感触に違和感を感じているのだ。
 あり得ない現実を前に、少々混乱してしまいそうだ。

「レイとん。は、はやいな」
「っていっても、錬金鋼以外持ってきていませんね」

 そんな、精神の均衡を失いかけたレイフォンを救ったのは、押っ取り刀で駆けつけた二人だ。
 そんな二人にお茶を手渡しつつ、装備が充実している事に気が付いた。

「サバイバルキット?」
「ああ。私たちはまだ、戦場に出られないからな」
「出られたとしても、遠くから観戦するだけですよ」

 戦場を知らない若い武芸者に、その空気を感じさせるのは重要な事だ。
 汚染獣戦に対して余裕があるのならば、それは正しい選択だろうとレイフォンも思う。
 今まで気が付かなかったが、ナルキは十四歳で、シリアは十三歳なのだ。
 問答無用で戦場にかり出される年齢ではない。
 八歳の頃から戦場に出ていたレイフォンに言える義理ではないのだが、積極的に子供が戦う必要はないのだ。

「そう言えば、レイとんは汚染獣との戦いは経験有るんだったな」
「まあ、少しだけれど」

 あまり突っ込まれたくない話なので、少し視線が泳いでしまった。

「万が一に来たら、出撃要請があるかな?」
「・・・・。無い方が良いかな」

 誰かに教えるという形で再び武芸に関わってしまったレイフォンだが、実際に戦いたいかと聞かれれば、それは残念ながら否だ。
 余裕があるのなら、なおさら戦いたくはない。

「まあ、その辺はまた今度ね。そろそろ何かしら連絡があるだろうから」

 事情を知っているアイリが、頃合いを見計らって話に割り込んでくれたので、少しほっとした。

「そうだな。念のための待機が都市政府から発令される頃だけれど」

 ナルキのその台詞を待っていたかのように、リビングに備え付けられた端末から、武芸者の移動と待機の命令が発せられた。

「それじゃあ、行きましょうか」

 念のためにレイフォンも連れて行かれる事になったが、気が重いのはどうしようもなかった。

「サバイバルキットは、無いんですよね?」
「着替え持って行った方が良いかな?」
「必要なら取りに来れば良いんじゃないですか?」

 戦闘待機ではなく、念のための待機だ。
 それくらいの融通は利くだろうと、シリアと話していたレイフォンも納得した。
 だがしかし、移動出来ないレギオスは、容易に汚染獣を引き寄せてしまう。
 予感と言うよりも、恐怖に近い不安がレイフォンの胸の中にわだかまっていた。
 
 
 
 武芸者の待機所に到着したナルキは、著しく不振な物を見てしまった。

「レイフォン。念のためにこれを渡しておくよ」

 そう言いつつトマスが差し出した者は、青石錬金鋼が一本と、汚染物質遮断スーツ一揃い。

「・・・・・。襲撃があると、思いますか?」
「無い事を願っているが、用心するに超した事はない」

 ナルキ以上にレイフォンの事を知っているらしいトマスが、彼の戦闘能力や経験を遊ばせておく事はないと思うのだが、それにしてもなんだか表情が異常な気がする。
 それは恐らく、戦えば死ぬ事が確定している人間を、戦場に出そうとしている指揮官の表情だろう。
 断言は出来ないが、いくら何でも可笑しいと思う。

「いやなら断ったって良いんだぞ? レイとんはここの住人じゃないんだ」
「そうですよ。ヨルテムはそんなに武芸者に困っている訳じゃないですし」

 ナルキに続いてシリアもそう言うが、トマスをじっと見つめていたレイフォンは、ゆっくりと手を伸ばし、二つを受け取った。

「済まないな」
「平気ですよ。きっと役には立たないですから」

 無駄に終わるというのは、使わずにトマスの元へと返るという意味だ。

「済まないな」

 もう一度謝罪の言葉を吐き出したトマスが、自分の班の元へと歩き去って行く。

「でも変ですね」
「なにがだ?」

 いきなりシリアが意表を突かれたとばかりに、レイフォンの手元をのぞき込んでいる。

「だって、青石錬金鋼持っているでしょう?」
「そう言えば」

 レイフォンの手元には、錬金鋼が二本と遮断スーツが一揃いある。

「形状が違う武器を状況に応じて使い分けているから、二本有った方が便利なんだ」
「へえ。剣以外に何を使うんだ?」

 二ヶ月半の鍛練中に、レイフォンが剣以外の武器を使った事はないが、補助的な者があるのかも知れないとは考えた。

「うん。鋼糸だよ」
「こうし? なんだそれは?」

 聞いた事のない武器の名前に、少々戸惑ってしまった。

「目に見えない程細い糸に剄を通して、閃断を放てるんだ」
「それって、強力なのか?」

 糸で粘土を切る所を見た事があるが、それの延長上で考えてしまったナルキは、鋼糸という武器の能力に非常な不安を覚えてしまった。

「武器としてもそれなりには使えるし、移動手段の補助としてはかなり便利だよ」
「ああ。糸を絡ませてそれを引っ張る事が出来ればかなり速く移動出来るし、空中での足場も確保出来るんですね」

 ナルキが想像出来ずに困っている間に、シリアが正解を引き当ててしまったようで、レイフォンが頷いている。

「こっちの方も鋼糸には出来るんだけれど、移動を考えると二つ有った方が便利だから、トマスさんに頼んで作っておいてもらったんだ」

 警察で何かやっている事は知っていたが、思っていたよりも色々やっているようだ。
 最近はナルキ達が学校に行っている間、化錬剄の修行をしているらしいし、トマスの班の人たちがヘロヘロになっている所も何度か見た事がある。
 もしかしたら、レイフォンの鍛練に巻き込まれているのかも知れないと思うが、すぐにその確率は頭から追い出した。
 いくらレイフォンでも、警察という対人戦闘の専門家相手に鍛練しているとは思えないし、そもそも、優秀な武芸者がヘロヘロになるほどのことを出来るとも思えないからだ。

「僕達も、覚えられますか?」
「どうだろうね。こうなるかも知れないよ」

 そう言いつつ、レイフォンが右手の袖を大きくめくると、肘から手首にかけて、かなり大きな傷跡が現れた。

「練習中に鋼糸の制御にしくじってね、危なく死ぬ所だった」
「危ないな」
「危険ですね」

 ナルキよりもかなり高見にいるはずのレイフォンでさえ、死にかける程の危険な技だと分かったが、移動に使うだけに限定すれば何とか使えるかも知れない。
 そんな事を考えつつ二人を追い立てるように、仮眠室へと向かった。
 今まで気が付かなかったが、かなり遅い時間になっていたからだ。
 美容には興味はないが、睡眠不足で集中力が無くなる事は、出来れば避けたいのだ。
 今のところ戦場に出る事はないと思うが、トマスと同じで用心に超した事はないのだ。
 
 
 
 シェルターへの避難準備を終えたメイシェンだったが、心穏やかというわけでは決してなかった。
 ゲルニ家の人たちが汚染獣の襲来に備えて待機所に詰めている事は、いつもの事ではあるのだが、慣れたからと言って不安が消えるわけではないのだ。

「今からそんなに心配していたら、身が持たないよ?」

 こんな事がある旅に、メイシェンの隣にいてくれるミィフィの声で、少しだけ不安が和らいだ。

「で、でも。唇切ったりとか、膝擦りむいたりしないかな?」
「大丈夫だって、二ヶ月半もレイとんのしごきに耐えたんだよ」

 胸を張って太鼓判を押してくれたが、ふとその表情が心配気に変わった。

「でも、ナッキがレイとんの子供身ごもっていたりして」
「ひゅぁ」

 思わずその状況を想像してしまった。
 照れ笑いを浮かべるレイフォンと、大きなおなかをさすりつつ、謝るナルキ。

「あ、ああああああああああああ」
「じょ、冗談だよ。ねぇ」

 あまりの取り乱しぶりに、ミィフィがメイシェンの家族へと助けを求めたのだが。

「ふむ。それはそれで有りかも知れんな」
「そうですね。お婿さんは欲しいけれど、ナルキちゃんが幸せになるのだったら」
「でもでも、そうするとメイシェンの彼氏が居なくなっちゃう」
「お兄ちゃんが欲しい」

 見事にミィフィの予測を後押しする回答しか帰ってこなかった。

「えっと。メイッチの立場は?」
「あう」

 家族の背信行為に言葉が出ないメイシェンと違って、ある程度冷静なミィフィが反論を試みるが。

「いやしかしね。極限の緊張は人を変えるからね」
「ナルキちゃんだって女の子だし、レイフォン君は間違いなく、男の子よね」
「緊張のドキドキが、恋愛のドキドキに変わるのね」
「お兄ちゃんが欲しいよ」

 たぶん、メイシェンに何かさせたくて、誘導しているのだろう事が分かったが、それが何かはまだ分からない。

「と言うわけでメイシェン」
「差し入れを持って行きなさい」
「もちろん、レイフォンによ」
「お兄ちゃんを取られちゃ駄目よ」
「あう」

 なぜか、すでに弁当が用意されている辺り、メイシェンをのぞくトリンデン家の行動力は、かなりすさまじい。

「もし万が一、ナルキちゃんと出来ていたら」
「そのときはシリア君を狙うのよ」
「大丈夫。シリアならメイシェンの事、きっちり理解しているから」
「この際だから、シリアでもお兄ちゃんと呼べるように努力するね」
「あう」

 何か、猛烈に変な方向に話が進んでいるようだが、取りあえずトリンデン家は平和だった。



[14064] 第一話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:08


 都震が起こった次の日、恐れていた事態がやってきてしまった。
 修理にはあと半日程かかり、移動開始は今夜遅くという予報が出ている。
 予報が当てにならないと言う事態を祈りたいが、それ以前に問題がやってきてしまったのだ。

『汚染獣を発見しました。雄性体二期が三体と、一期が二体です』

 警戒に当たっていた念威繰者の報告が、武芸者の待機所に響き渡る。
 メイシェンからもらった弁当箱を洗っていたレイフォンは、いつもよりも水が激しく飛び跳ねるのを確認して、自分の精神状態が万全ではない事を認識した。
 何とか洗い終えたので丁寧に弁当箱を拭き、あてがわれたロッカーにしまい込む。
 一緒に持ってきてくれたお守りは、慎重にボタン付きのポケットにしまい込む。

「取りあえず移動するか、レイとん?」
「そうだね」

 そう言いつつ、汚染物質遮断スーツと錬金鋼を二本、手に持った。

「あれ?」

 何か、違和感を感じた。

「どうした? 体調が悪いのか?」

 心配気にナルキが聞いてくるが、体調が悪いとは決定的に何かが違う。

「なんでもないよ。少し、違和感を感じたんだ」

 普段なら気が付かないはずだが、戦闘を前にした今は、かなりの重要度で正体を確認し、対応しなければならない。
 それが出来なければ、不完全な状態で戦場に立ち、結果的に死を招くからだ。

「本当に大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「そうかな?」

 どうやら、外から見るとかなり酷い状態であるようだ。

「汚染獣戦には参加した事あるんだろ? そんなに怖いのか?」
「たぶん違うよ。雄性体の二期でしょ? それなら、十分に対応出来るはずだからね」

 戦力が充実しているヨルテムならば、それほど大きな被害を出す事無く殲滅する事が出来るはずだ。
 レイフォン個人の都合としても、青石錬金鋼が一本有れば十分に対応できる敵でしかない。
 だからこそ、今の違和感の正体をゆっくりと考える事が出来るのだ。

「手、震えてるぞ」
「え?」

 ナルキのその言葉で慌てて自分の手を見たレイフォンは、言われたとおりに震えている事を確認した。

「違和感の正体は、これか」

 なぜ震えているのかと聞かれると、まだ原因は分からないが、状況を理解しただけでも前進だ。

「大丈夫だよ。交叉騎士団はかなり強いから、私たちの出番はないさ」
「そうだね」

 トマスがらみで、一度だけ交叉騎士団員を見た事がある。
 天剣授受者と比べれば、流石に見劣りしてしまうが、老性体に一人で挑めとか言わない限りは、充分にその力を発揮してくれそうだと言う事は、理解している。
 もしそれが無くても、雄性体の二期くらいなら、天剣を持たないレイフォン一人で、十分対応出来る。
 出来るはずなのに、なぜか手が震えている。

「そんなに怯えるなよ。大丈夫さ」
「うん」

 ナルキに励まされるという今まで考えた事のない事態に驚きつつも、待機所から出る。
 見学組は放浪バスを改造した見学車に乗り込み、戦場から少し離れた場所まで行く。
 当然、護衛を務める人間も居るのだが、ほとんどは子供達だ。
 十歳から十五歳くらいまでの男女が、思い思いの錬金鋼と共に、乗り込んでいた。
 流石に、子供達用の遮断スーツは用意されていないようで、そんな物を持っているのはレイフォンただ一人だ。

「レイフォン」
「はい?」

 乗り込もうとした瞬間、いきなり後ろから声をかけられ、ステップに足をかけた状態で振り向く。

「・・・。あまり、平気そうではないね」
「トマスさん」

 万が一にでも都市に接近された時の用心のためだろう、通常の戦闘服を着たトマスが、心配気にこちらを見ている。
 ナルキが気が付いたくらいだ。当然トマスもレイフォンの状況を認識している。

「怖いのかね?」
「こわい?」

 汚染獣戦を前に怖いと思った事は、今まで数えるくらいしかなかった。
 そのほとんどが天剣を持つ前だから、感覚的にずいぶんと古い。

「そうか。これが恐怖なんだ」

 今の自分の状況を認識して、その言葉がすとんと落ち着く所に落ち着いた。

「恐怖って。何が怖いんだね?」
「? 何が怖いんでしょうね?」

 自分が恐怖を感じている事は分かったが、何について感じているかは、皆目見当が付かない。

「まあ、実際に戦う場面になれば、問題なく切り捨てますよ」
「いやね。君たちが戦うというのは、かなり物騒な事態になるんだがね」
「そうですね。僕が戦うと言う事は、前線が突破されて、見学車に汚染獣が接近すると言う事ですからね」

 そんな事は有ってはならないのだが、事、汚染獣戦においてあり得ないなどと言う事は、それこそあり得ないのだ。

「ああ。なるほど」

 納得した。今度こそ。

「どうしたのだね?」
「たいしたことではありません。帰ってきたら、詳しくお話ししますね」

 出発を告げるアナウンスが流れる中、トマスに軽く会釈をして、ステップを踏み、見学車の中に乗り込む。

「で。何が怖いんだ?」

 一段落しようとしたのだが、ナルキとシリアに挟まれてしまった。
 レイフォンよりも背の高い二人に挟まれると、非常に圧迫感を感じるのだが、実のところ、羨ましいという感情もあるのだ。
 特に、その身長が。

「うん。待つのが怖いんだよ」

 出撃するとなったら、待機時間はそれほど長くなかった。
 長く待つ事もあったが、優秀な念威繰者のおかげで、残り時間が明確に知らされている事がほとんどだった。
 だが、今回は明らかに違う。
 戦うかも知れないし、戦わないかも知れない。
 予測が出来ない待ち時間という物に、始めて遭遇したのだ。
 戦う事よりも、汚染獣よりも、待ち時間の方が、レイフォンにとっては恐ろしいのだ。

「変なやつ」
「普通、逆だと思いますけれど」

 二人から、かなり痛い突っ込みをもらってしまった。

「まあ、取りあえず、いつでも出られるように、スーツを着ておくよ」

 あまりに痛かったので着替えるという口実の元、二人の側を離れた。
 更衣室と呼ぶにはあまりにも狭い部屋に入り込み、壁に肘打ちをしないように細心の注意を払いつつ、上着を脱ぎ、そこで思い出した。

「これは、持っていた方が良いよな」

 メイシェンからのお守りだ。
 これを持ってきたメイシェンは、何時も以上に緊張して蒸気を吹き上げていた。
 ほとんど言葉を発する事も出来ずに、ミィフィに押し出されるようにお守りだけを差し出し、渡した次の瞬間には目を回して気絶するという、異常ともとれる行動を取っていた。

「なんだったんだろう?」

 弁当を持ってきた時は、別に普段通りだった。
 何やら思いついたらしいミィフィと、一時間程どこかへ消えていた後、帰ってきたら蒸気を吹き上げていたのだ。
 明らかに、その一時間に何かあった事は分かるが、何が有ったかは、流石に分からない。

「まあ、いいか」

 お守りを手に取り、スーツの小さな内ポケットに入れた所で、気が付いた。

「これって、こういう使い方するんだ」

 スーツのデザインは、グレンダンで使っていた物とあまり変わらない。
 天剣授受者用の物でもだ。
 その頃から、ずっと気になっていたのだ。
 どれにでも有る、心臓の側に作られた、何か入れるためのボタン付きの小さなポケットを。
 今まで、お守りなどもらった事がなかったので、気が付かなかった。

「いや。リーリンにもらったけど、家の机にしまいっぱなしだったからな」

 必ず帰って来るという自分への約束事として、机にしまっていたのだが、今回、待機所からここに来てしまったので、机がなかった。
 と言うわけで、始めてスーツのポケットの使い方を理解し、実行しているのだ。

「あれ?」

 ふと気が付いた。
 手の震えが、止まっている事に。

「お守りって、こういう効果があるんだ」

 迷信か、それに類似する事だと思っていたが、意外に実用的な効果がある事を認識したレイフォンは、さっきよりも少しだけ楽な気分で、ナルキ達の元に戻る事が出来た。
 
 
 
 シリアは遠くで展開されている、汚染獣との戦闘を真剣に見つめていた。
 弓や銃を装備した者が、羽に攻撃を仕掛け、地面に叩き落とす。
 ただし、一体だけだ。
 残りの汚染獣には、やはり弓や銃、衝剄などが乱射され、効果的に牽制をしている。
 地に落とした汚染獣に、交叉騎士団を筆頭とする突撃隊が接近。
 集中攻撃を波状展開し、確実に殲滅して行く。
 高い技量を持つ武芸者が、経験に基づくその場に応じた高い練度の連携を行使し、波状攻撃を仕掛ける。
 この戦い方が出来るのならば、汚染獣はそれほど怖い敵ではない。
 逆に言えば、未熟な武芸者しかおらず、経験が不足していて、その場にあった連携を取る事が出来なければ、汚染獣とは大変危険な敵になると言う事だ。
 ヨルテムという、恵まれた都市だからこそかも知れないが、シリアは自らが何時か立つべき戦場を見つめつつ、後ろを気にしていた。
 大きな窓を後付けした、見学専用車の壁際。
 五十人以上詰め込まれ、少し動くだけでも気をつけなければ、誰かにぶつかってしまう狭い車内だが、流石に窓から遠い壁に張り付いている人間は、一人しかいない。
 つい先ほどまで、不安そうな表情をしていたレイフォンが、今は、時々心臓の付近に手を持って雪、安心したような安らいだような雰囲気をにじみ出させている。
 何が有ったのか全く不明だが、レイフォンが落ち着いていてくれるのなら、それに超した事は無いとも思う。
 頼るつもりもないし、その機会もないと思うが、シリアよりも遙かな高見にいるレイフォンが、冷静に戦場を見て戦える状態でいる事は、精神的に非常に安心出来るのだ。
 すぐ隣では、ナルキもちらちらと後ろを気にしているが、おそらく同じ様な心境なのだろうと思う。
 二ヶ月半の鍛練の結果、シリアは自分の実力がかなり伸びたと、自己評価を下していた。
 始めの内は三時間程度しか活剄を維持出来なかったのだが、今は五時間は維持出来ている。
 衝剄や化錬剄も、それなりに使えるようになってきた。
 だが、今目の前で行われている戦場に立つためには、まだ力が足らない。
 おそらくレイフォンならば、あそこで戦えるだろうと思うだけに、なぜ武芸者としての未来を捨ててしまおうとしているのか、それが理解出来ない。
 何か、重大な秘密がある事は予想出来るが、それを知りたいとも思うが、レイフォン自身が喋っても良いと思うようになるまで、それを聞くつもりもない。
 シリアがそんな事を考えている間に、雄性体二期の内の一体が殲滅された事が確認されたと、見学車のスピーカーが知らせてくれた。
 見学車内に、歓声が上がる。
 レイフォンをのぞく全員が、汚染獣戦を見るのは初めてなのだ。
 歓声こそ上げなかったが、シリアも心が浮き立つのを確認出来た。
 だが。

『緊急事態です』

 念威繰者の、感情を感じさせない声が聞こえた。
 歓声を上げている連中は、まだそれに気が付いていないようだが、流石にレイフォンは気が付いたようだし、彼を見ていたシリアとナルキも気が付いた。

『雄性体二期の二体が、包囲網を抜け、見学車に向かっています』
「げ!」

 その知らせに、思わず一言うめいたシリアと。

「む!」

 なぜか、やる気をみなぎらせるナルキ。

「・・・・」

 見た目はなんの反応も見せずに、視線だけが外へ向かうレイフォン。

「姉さん。やる気出しても遮断スーツがないでしょう」
「根性で何とかする!」
「いやいや。それは無理ですから」

 ナルキも分かっているのだとは思うのだが、今この場では、やりかねない雰囲気を振りまいている。
 気力で汚染物質を無効化できるのならば、これほど人は苦労しないと思うのだ。

「護衛の人もいるんだし、もう少し落ち着きましょう」
「しかしだな。護衛は確か五人だろ? 汚染獣二体を足止め出来るのか?」

 ナルキの疑問ももっともだと、シリアも理解している。
 一体だけなら十分に対処出来るだろうが、今の状況では戦力的にかなり厳しい。

「前線から、戦力を引き抜けないですか?」
「向こうが崩壊したらどうするんだ?」

 残りは二体なのだが、それでも油断する事は出来ない。
 その意味でのナルキの認識は間違っていないし、上の方でもそう判断するだろうと言う事が分かった。

「ヨルテムから、応援が来るまで」
「汚染獣の方が速いと思うぞ」

 そう言いつつ、緊急用の出口へと向かいそうなナルキの腕を掴んで、何とか押しとどめる。

「レイとんのスーツを奪って?」

 その手があったかとレイフォンの方を見たシリアも、確認してしまった。
 ナルキの台詞の最後が、疑問系になっている理由を。

「レイとん。武芸者止めるとか言ってなかったか?」
「レイフォンさんですからね。お人好し回路が全力で稼働中じゃないですか?」

 いつの間にかレイフォンの姿が消えているのだ。
 これで、ヨルテムに逃げ帰っているというのなら、まだ救いはあるのだが、おそらくそうはなっていないだろう事が予測出来てしまう。

「逃げていてくれれば良いんですけれどね」
「レイとんの望み的には、逃げているべきなんだがな」

 ナルキとも意見の一致を見てしまった。

「取りあえず、僕達に出来る事はありませんね」
「いや。いざとなったら汚染物質に焼かれてでも戦ってやる!」

 何時も以上にやる気満々なナルキをなだめつつ、シリアはふと思う。
 レイフォンの実力は、本当はどのくらいなのだろうかと。
 今までの鍛練中に感じた実力差は、あまりに大きすぎて判断の材料にはならない。
 ある意味、汚染獣とどう戦うかが、良い物差しになるのではないかと。

「救いがたいのは、僕も同じか」

 この瞬間でさえ、レイフォンと自分の差を計ろうとしているシリアは、少しだけ絶望の味を確認した。
 
 
 
 非常口のエアロックを抜けた先、見学車の屋上と呼べる場所には、先客が居た。
 当然、ここを守っている武芸者五人だ。

「やばいな。二体は手に余るぞ」
「とは言え、外で戦えるやつなんか、居ないだろ」
「成長期の子供用にスーツを作るなんて、不経済も甚だしいですからね」
「でもさ。こういう時は手数が欲しい者よね」
「十着とは言わんから、五着くらいは欲しかったな」

 殺剄をしつつ音が出ないように細心の注意を払ってエアロックを抜けたおかげか、五人ともレイフォンには気が付いていない。
 スーツを持ち込んだ事は知っているはずだが、それを思い出せる余裕がないようだ。
 やはり、そっと移動して、見学車から飛び降りる。
 武芸に対する情熱は、失われたと思っていた。
 だが、二ヶ月半の教員生活で、それがまだ残っている事を知ってしまった。
 教えるという大義名分の元、自分を騙しているのかも知れないとは思うのだが、それでも、新たな技を身につけたりするのが楽しいのだ。
 そして、今こちらに向かっているのは汚染獣が二体。
 明らかに想定外の事態だ。
 ヨルテムからの応援を待っている間に、かなり酷い被害が出る事は間違いない。
 ナルキとシリアの葬式を出したくないと言ったトマスの顔が浮かんだ瞬間、考えるよりも先に身体が動いてしまっていた。

「どうしようもないな」

 グレンダンにいた頃、サヴァリスを戦闘狂のどうしようもない人だと思っていたが、多かれ少なかれ武芸者には似たような性質があるのかも知れないと、少しだけ自己嫌悪に陥っていた。
 そして、何もしないでナルキ達が死んだのなら、今度こそレイフォンは全てを無くしてしまうような気がしている。
 無くしたと思っていた情熱がまだ残っていた事もそうだが、うまく認識出来ない何かが、レイフォンを突き動かすのだ。
 頭の中のもやもやを、意識の外へと放りだし、活剄を行使して、接近中の汚染獣を確認する。
 一体は間違いなくこちらにやってくるが、もう一体の方は、少しだけ違う行動を取っているようだ。
 直線的に、こちらに飛んできていないのだ。
 もしかしたのなら、迂回しつつ横合いから見学車を襲うつもりかも知れないが、そんな知恵を汚染獣が持っているという話は聞いた事がない。
 おそらく、単なる偶然なのだろうと言う事で自分を納得させたレイフォンは、ぎりぎり殺剄が溶けない範囲で高速移動を始めた。
 誰かに見られるのは、得策ではない。
 念威端子は、その殆どが汚染獣の追跡や戦場の把握に使われているはずだが、今の状態なら発見される危険性は少ない。
 あちこちで色々な事が立て続けに起こっているので、その対応に追われているはずだから。

「一瞬で決める」

 天剣授受者のデルボネでもない限り、一瞬の剄の流れを正確に把握する事は困難なはずだ。
 そうなるとレイフォンのとれる戦法はただ一つ。
 錬金鋼が壊れる事を前提にした、剄の集中による閃断を放ち、一瞬で勝負を決め、こっそりと逃げ出す。
 これが、幼生体とかなら鋼糸でこっそりと全てを終わらせる事が出来るのだが、雄性体相手では少しだけ荷が重い。

「銃も一応撃てるんだし、弓だって使えるんだけどな」

 今回持ってきた錬金鋼は、そう言う設定にはなっていない。
 消去法でこれしかないと腹をくくったレイフォンは、そのときに備えて集中力を最大に持って行く。
 右手に持ったのは、グレンダンから持ってきた青石錬金鋼。
 先ほどもらったのは、調整が万全ではないので、こういう場合には使えない。
 射程距離まで、あと少し。
 
 
 
 戦場を遠くに見る事が出来る外縁部で待機していたトマスは、部下の報告に思わずため息が出てしまった。

「動きましたね、彼」
「動いてしまったか」

 開戦直前から望遠鏡を覗く、いつもの部下の報告を聞きつつもう一度ため息をつく。
 活剄だけでは補いきれずに、望遠鏡を使っての監視が成果を上げてしまったようだ。

「こっちに来ていないよな、やっぱり」
「汚染獣に向かって爆走中ですね」

 ナルキとシリアの葬式を出したくないとレイフォンに言ってしまった事が、こんな場面で悪い方向に出てしまった事をトマスは後悔していた。
 そもそも、あんな早い時期に心中をさらけ出す事自体に問題が有ったのだと、今は思う。

「足止めだけで済ませれば良いんだが」
「それなら、何とかごまかせますからね」

 レイフォンの性格を考えるに、足止めだけという中途半端な攻撃はしてくれそうにない。
 やるのならば、殲滅してしまうだろう事が充分に予測出来てしまう。

「一瞬で決められるわけがないから、念威繰者に見つかるな」
「こちらから、援護射撃でも出来れば良いんですけれどね」

 射撃武器はあるにはあるのだが、どう考えても距離が有りすぎる。
 戦線と見学車の位置を、もっと都市側に設定しておけば良かったのだが、あいにくとこういう展開は予測の範囲外だった。

「まてよ」

 ここまで事態が進展して、トマスは疑問がある事に気がついた。
 部下の報告に、爆走中という単語があった。

「念威繰者は、まだ気が付いていないのか?」
「そのようですけれど、殺剄でも使っているのかな? それにしてはかなり速いですね」

 殺剄を使いつつ活剄を使う事は出来るのだが、それには限度という物がある。
 武芸者の力量にもよるが、報告を聞く限りにおいて、レイフォンはかなりの速度で移動している。
 にもかかわらず、おそらく殺剄を使っている。

「天剣授受者ってのは、どれだけ凄いんだか」
「我々の想像を超えている事だけは、間違いないですね」

 投げ槍に言う部下だが、視線は常にレイフォンをとらえているようで、徐々に望遠鏡が移動している。

「会敵します」

 やや緊張をはらんだ報告の少し後。

「おそらく、閃断らしき技を放ちました」

 続く報告を待ったのだが、望遠鏡が見学車の方向に向かって、徐々に移動する事だけが確認出来た。

「どうなった」
「彼が、見学車の方向に、帰って行きます」
「足止めだけで済ませたのか」

 予想とは違ったが、それならそれの方が良いと、トマスは安心したのだが。

『汚染獣雄性体二期の一体が、殲滅されました』
「は?」

 部下の報告よりも、念威繰者の物の方が速かった。
 しかも、トマスの予測とは全く違う内容でだ。

「いやね。一瞬で、一撃で、汚染獣を左右に切り裂いちゃったんですよ。あの人」

 茫然自失気味の部下の報告を聞きつつ、望遠鏡を奪うように覗き込んだ。

「・・・・・」

 奪い取った衝撃で位置がずれてしまったのを修正すると、なにやら背景の荒野とは違う色合いの物が、レンズの向こうに見えるような気がする場所を発見。
 ピントを合わせ、その色違いの部分を凝視してみれば、確かに左右に分かれて横たわる汚染獣の死骸を発見出来た。

「ね? 言ったとおりでしょ」
「ああ。確かに、左右に分かれて、死んでいるな」

 信じられない物を見る事は多いが、これは極めつけだ。

「念威繰者には気が付かれていないようだが、どうやって誤魔化すかな?」
「どうやってって、どうやりましょうね?」

 グレンダンでの事がある以上、不用意にその武勲を評価する事は出来ない。
 出来るだけ秘密にしておきたいのだが、今の状況は非常に拙い。

「俺達が不用意に動く方が、危険かも知れないですね」
「ああ。最速かつ最適な方法が必要だな」

 遮断スーツと予備の錬金鋼は、安全だと思ったから渡したのだが、トマスの予測は今回ことごとく外れてしまったようだ。
 トマスの予測と言うよりは、ヨルテムの全武芸者の予測が外れたと言うべきかもしれない。

「困ったな」
「ええ。これは非常に困りました」

 部下と認識を共有しているのに、これほど暗澹たる思いを味わった事は、今回が初めてだ。

「上の方で、追求してくれないと良いんだが」
「それは、大いに無理でしょうね」

 汚染獣を一瞬で、一撃で殲滅するような優秀な武芸者を、都市の上層部が放っておく事はない。
 間違いなく、と言うよりも、躍起になって探す危険性が高い。
 トマスが考え込んでいる間に、汚染獣は全て殲滅され、後処理が始まってしまっていた。

「取りあえず、後始末が先だな」

 負傷者の収容と治療を含め、終わった後にも色々とやる事があるのだ。
 それが一段落するまでは、取りあえずレイフォンも安全だろうと言う事は理解しているので、短い時間の安堵を味わっていた。
 
 
 
 結局、錬金鋼の耐久限界まで剄を集中させ無かった一撃は、きれいに汚染獣を二つに切り裂く事が出来てしまった。
 放つ少し前に、何も無理をして殲滅する事はないと考え直したのだ。
 ヨルテムからの応援が来るまでの時間を稼げばそれで良い。
 それならば、錬金鋼を駄目にするような攻撃でなくても良い。
 そう考え直したレイフォンは、足止め出来るだろうぎりぎりの威力で、最大限まで集中させた閃断を放った。
 だが。

「なんで、綺麗に切れちゃうんだよぉぉぉぉぉぉ!!」

 思った以上の威力が出てしまい、汚染獣が二つに分かれてしまったのだ。
 これは、かなりの計算違いだ。
 だが、やってしまった物は仕方が無い。
 殺剄を回復させつつ、見学車の側まで戻ったレイフォンが見たのは、護衛の五人が汚染獣と戦っている光景だった。

「おい! そっちに落とすぞ!」

 長弓を装備した武芸者が、一度の動作で五本の針剄を放った。
 その五本は、緩やかなカーブを描く物と、直線的に飛ぶ物に別れ、僅かな時間差を持って汚染獣の翔に直撃、これを破壊し尽くした。

(へえ)

 威力的にはそうでもないが、剄の集中と操作技術はたいした物だと感心してしまう。

「でや!」

 トゲトゲの付いたハンマーらしき物が、長い柄と鎖の先に付いた武器を持った武芸者が、衝剄をまとわせつつ、甲殻に打撃を打ち込む。
 対人用としては色々問題がある形状だが、汚染獣用としては十分な威力を持っているようで、外郭をへこませつつ体勢を大きく崩せた。

「おりゃ!!」

 そこに、短弓を装備した武芸者の素早い十連射が殺到。
 踏ん張っていた足下を崩し、汚染獣の傾きがさらに大きくなる。

「のわ!」

 驚いたのか景気づけか分からないかけ声と共に、左右に並んだ短い銃身から、小さな衝剄の散弾が放たれ、汚染獣の顔面付近に激突する。
 威力よりも数を重視した攻撃は、まさに目くらましにはぴったりだ。

「倒れろ!」

 最後のとどめとばかりに、鋼鉄錬金鋼で作られた巨大な金棒が汚染獣の腹に突き入れられ、仰向けに倒れる。
 ここまでの攻撃に全く遅滞が無く、見事な連携を見せているところを見ると、かなり熟練した武芸者を護衛役としてここに配置したのだろう事が分かる。

「おし! 上手く行ったぞ! 本隊が来るまで、こいつには休んでいてもらうぞ!」

 それぞれの攻撃は、決して汚染獣を倒せる程のものでは無いが、今回のように時間を稼ぐためには十分な威力だった。
 いくら強力な汚染獣とは言え、羽をもがれ仰向けに倒されてしまっては、素早く行動を再開する事は出来ない。
 それが分かっているからこそ、彼ら五人は的確に攻撃を行い、今の結果を呼び込む事が出来たのだ。

(やっぱり、僕たちは異常だったんだ)

 ヨルテムに来て色々な武芸者に会い、天剣授受者という化け物の異常さが、客観的な事実として認識出来た。
 グレンダンではどうしても、強くて当たり前だという認識が先に立つし、今回のように、後ろから観戦するだけと言う事はなかった。

(ああ。この人達と一緒に足止めしておけば、少し優秀な武芸者程度の認識で、乗り越えられたかも知れないのに)

 その考えが浮かんだが、すでに後の祭りである。

(どうしようかな?)

 考えつつ、見学車よりも戦場に近い所に設営されている、救護所へ向かって歩き出した。
 どさくさに紛れて、レイフォンの存在をわかりにくくするためにだ。
 途中で応急処置の手伝いを言いつけられても、その技量は充分に持っているからこそ出来る芸当だと、レイフォンは少しだけ自画自賛してみた。
 後悔の後なので、あまりテンションは上がらなかったが。



[14064] 第一話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:08


 汚染獣を撃退した少し後、ヨルテムの足は完全にでは無いにせよ復旧し、移動をしながら修理する事になった。
 そうなると、戦闘を終えた武芸者達の反省会が始まるのも、また当然の事。
 このような機会に割と使われる大きめの会議室には、色々な部署の責任者達が集められていた。
 トマスも一応都市に残った武芸者の小隊長と言う事で、この場に参加しているのだが、不用意に発言するわけにはいかない。

「問題は、この、誰がやったか分からないやつですね」

 死者が出なかった事は評価されたが、見学車や戦場が都市から離れすぎていた事が問題になったり、味方の誤射で負傷した者が予想よりも多かったなどの反省事項があらかた終わった頃になると、トマスが恐れていた事態が実現してしまった。
 映写機にはこれ以上ない程綺麗に分断された、汚染獣の死体が映し出されている。
 その切り口は、背筋が寒くなる程鋭利で滑らかだ。
 誰がやったかと聞かれれば、それはもちろんレイフォンなのだが、そんな事は当然言えない。
 これほどの威力と切れ味を持った攻撃を放てる武芸者は、数は少ないがそれなりには居る。
 だが、問題は、念威繰者が剄の流れを感知出来なかったと言う事だ。
 それは極々短い時間で剄を練り上げ、収束させ、閃断を放ったと言う事に他ならない。
 威力自体は驚きこそすれ、驚愕はしない。
 問題なのは、実はその時間なのだ。

「私でも出来ない事はないが、二十秒はかかるはずだ」

 交叉騎士団の団長、ダン・ウィルキンソンがぼそりと呟いた。
 六十を超える老練の武芸者で、力業だけでならすでに彼を超える者も居るだろうが、その戦い巧者としての実力は、他の追随を許さない。
 そのはずだった。

「そうです。問題なのは、正体不明の優秀な武芸者がこの都市に居ると言う事ですね」

 司会進行役の騎士団員が、当時の武芸者の配置図を示しつつ問題点を指摘して行く。
 危険極まりない状況なのだが、誤摩化しが効く程、ヨルテムの武芸者は甘くないのだ。
 その証拠に、会議室に集まった熟練の武芸者達のざわめきが大きくなっている。
 隣にいる者と色々と意見を交換しているのだろう事は間違いない。

「ふむ」

 トマスが解決出来ない問題に直面し続け、困惑の果てに身動きが出来なくなっているのを余所に、ダンが小さく唸った。

「まあ、あまり追求してやるな」
「は? しかし、それでは」

 若い団員がダンに詰め寄ろうとしたが、それを手で制止しつつ。
 それを押しのける事は、流石に出来ずに引き下がるのを待ち、おもむろに口を開く。

「これを放った者は確実にいるだろうが、もしかしたら全力を出しすぎて、急性の剄脈疲労で倒れてしまったやも知れぬ」
「は、はあ」

 司会役が、気の抜けた返事をしているのを聞きつつ、トマスは少しだけ安心出来た。

「意地を張れない程疲れてしまって、自分がやったと名乗り出るタイミングを逸してしまったやも知れぬ」

 納得らしい声が、会議室のあちこちから小さく聞こえてきた。

「独断専行はあまり褒められた事ではないが、若い者にはそれくらいの覇気があった方が良かろうて」

 実際には、レイフォンにも予想外の威力が出てしまっただけなのだが、それもここでは言えない。

「ですが、念威繰者が見付けられなかったというのは」
「それもな。あのときはあちこちで混乱しておったし、二度と同じ事態が起こらないように、対応すれば問題なかろう」
「それは、そうなのですが」

 若い団員が何かまだ言いたそうにしているが、それもやはり手で制止する。

「ほとぼりが冷めれば、自分がやったと出てくるだろうて。そのときに団員として迎えるもよし、報奨金を渡すもよし」

 何しろ、ヨルテムの武芸者の頂点に立つ男の発言だ。
 話はダンの発言の方向で収束して行く。

「た、助かったのか?」
「班長、あれ」

 いつもの部下が反省会が終了したので、安心のため息をつき賭けたトマスの視線を、ある方向に向けさせ。

「・・・。後で話があるって顔か?」
「いえ、むしろ、授業が終わったら、体育館の裏に来いやって顔じゃないですか?」

 とても怖い事を言う部下だが、トマスの認識もあまり変わらない。
 ダンの視線がトマスに向けられ、それは決して友好的なものでは無い。
 と、思うのは気のせいであってほしい。

「断頭台に昇るって、こんな気持ちだと思うか?」
「おそらく、大して違いはないでしょうね」

 二人の認識が一致した所で、同時に席を立ち、今もっとも合いたくない男の後を追う。

「レイフォンを責められないし、秘密にしておきたいし」
「団長の追及をかわせるとも思えないですね」

 そんな事を話している内に、ダンの側まで来てしまった。
 長身でごつい体つきをした、ごつい顔の白髪と白いひげを蓄えた、威風堂々たる武芸者だ。
 無言で対峙する事二秒。
 いきなりダンの右手が懐に伸び、書類らしき物を一枚差し出してきた。

「?」

 読めと言う事らしいので、受け取り開いてみて、トマスは少し呆然としてしまった。
 そこに書かれていたのは、単語がいくつか。
 視野狭窄。
 猪突猛進。
 独断専行。
 浅慮暴挙。
 器用貧乏。
 単純馬鹿。
 などの、あまり褒め言葉には使わない単語だった。
 一つ一つはどうでも良いが、全てを並べてみると容易に一人の少年の特色を書き連ねた物だと言う事が分かる。

「これって、あの人ですよね」

 後ろから覗いていた部下も、同じ意見のようだ。

「レイフォン・アルセイフという人物について、グレンダンにいる古い友人に問い合わせて、返ってきた答えだ」

 ダンのその一言で、レイフォンの事がかなり知られているらしい事が分かってしまった。

「君の事はよく知っている。私は君を信じるから、彼の事も信じているのだが」

 間接的だが、レイフォンに悪い感情を持たないで居てくれる事に、少しだけほっとしたトマスだったのだが。

「だが、これだけは知っておきたい。彼はヨルテムにとって、危険な存在になりうるか?」
「そ、それは」

 ダンの一言は、ヨルテムの守護者として当然の物だ。
 否定する事は感嘆なのだが、安易な答えは返って警戒心を招くだろう。

「今のところ、レイフォン・アルセイフはヨルテムにとって、危険ではありません」

 人間は変わる物だ。
 今の状況から、未来を正確に予測する事はほぼ不可能だ。
 だから、現状を報告するだけにとどめる。

「ふむ。危険ではないのだね? 今のところは」
「ヨルテムにとっては」

 こうなっては仕方が無いので、ダンには出来るだけレイフォンを知ってもらう事にした。

「何に対して、誰に対して、危険だというのだね?」

 あえてヨルテムといった事から、正確にトマスの趣旨を了解してくれたようで、願った方向に話が進む。

「レイフォン・アルセイフにとって、レイフォン・アルセイフは危険です。今しばらくの間は」

 トマスが見る限りにおいて、レイフォンは今非常に不安定だ。
 ナルキ達との交流は、彼を安定させ始めているが、安全だと言い切る事が出来るようになるまでは、もうしばらく時間がかかると、トマスは判断している。

「成る程な」

 大きく頷いたダンが、踵を返し、付いてくるようにと顎をしゃくる。

「君の所に、優秀な武芸者が出入りしていると聞いてな。その素性を調べてみたのだ」

 レイフォンにはグレンダンでの出来事は、警察関係者では割と有名だと言ったが、それははったり以外の何物でもない。
 偶然が重なった事から、トマスはレイフォンの事を知ったに過ぎないのだが、その偶然がダンにも働いたようだ。

「調べてみれば、グレンダンの天剣授受者という、化け物だったというわけだ」

 ため息をつきそうな勢いのダンに、思わず硬直する。

「それで、昔のつてをたどってこうなったわけだが、偶然を装って何度か見に行ったよ」
「それは、お手数おかけしました」

 騎士団長ともなれば、かなりの激務なのだが、その合間を縫ってレイフォンの事を見に行くなど、かなりの酔狂と言えない事もない。

「彼を見ていると、若い頃の私を見ているようだよ」

 遠くを見るその視線は、間違いなく昔を懐かしむ老人の物だった。
 覇気に溢れ、今後十年は団長の地位にとどまり続けるだろうと言われている男のものでは無いように、トマスには思えた。
 だが、もしかしたのなら、これこそがダンの人となりなのかも知れない。

「私が初めて乙女と手をつないだのは、十八の頃であった」
「そ、それは、また遅かったですね」

 老人の昔話に付合うのはかなり疲れるのだが、何せ相手は団長だ。
 トマスに拒否権は存在しない。

「うむ。彼程ではないにせよ、私も武芸の道を突っ走ってしまった人生だったのでな」

 武芸者には割と多い事だが、一般常識という物が欠落しやすい。
 昔のダンにも、レイフォンと同じ様な事があったのだろうと、少しだけこの団長に親近感を持った。

「まあ、彼程蒸気を上げる事はなかったが、それでも、初めて触れた乙女の手の柔らかさに、恐れをなしつつも、その感触の虜となった物だ」

 一瞬、目の前のごつい白髪のオッサンが、頬を赤らめつつ女の子と手をつないでいるという、想像してはいけない光景を見てしまった。

「今、とても失礼な事を考えたな」
「滅相も御座いません」

 瞬間的な反応で、自分の頭の中で何が有ったかを綺麗に消去しつつ、ダンに対応した。
 消去したトマスだが、やはり、精神にかかる負担が大きかったようで、少々現実復帰に時間がかかってしまった。

「あれ? でも、結婚は早かったんですよね?」

 トマスがそんな状況だったので、話の腰を折るような部下の発言を止める事が出来ずに、思わず胃が痛くなってしまった。

「うむ。結婚したのは十九の時であった」
「は、はや!」

 部下のように声には出さなかったが、トマスもかなり驚いた。
 ダンについては、色々逸話がある。
 その中でもっとも有名な物が、非常な愛妻家であると言う事だ。
 特に結婚記念日は、どれほどの重要な会議があろうと、渾身の力で欠席。
 いつも家族で過ごすという話だ。
 その中でも、もっともダンと言う人となりを示すエピソードが伝わっている。
 ずいぶん昔に、結婚記念日に汚染獣に襲われた事が有ったそうだが、問答無用で出撃。
 他の武芸者が戦闘態勢を整える前に、やってきた汚染獣、雄性体二期一体を文字通り瞬殺。
 ささやかな家族のパーティーの席に、何食わぬ顔で戻ったとか言う、ものすごい話を聞いた事がある。

「今から考えれば、恐ろしい話なのだが」

 そんな愛妻家のダンが、結婚について恐ろしいと表現したので、思わず身構えてしまったトマスだったが。

「手をつないで妊娠したから、責任を取れと言われてな」
「「は?」」

 とても、聞いてはいけない話を聞いたような気がしたトマスは、部下の頬をつねってみた。

「痛いですよ」
「私の頬もやってみてくれ」

 言われたとおりにトマスの頬をつねる部下の刺激は、間違いなく痛みとして分類され、これが現実だと認識させられた。

「まあ、若気の至りという物だな」
「いや。若気って問題じゃないような気が」
「若いな。世の中には想像を絶する事など、珍しくないのだよ」

 確かに想像も付かない事が、立て続けに起こった今日この頃だ。
 ダンの認識は間違っていないと思うが。

「まあ、実際に結婚した後になって、あれは単なる冗談だったと聞かされた時には、人生止めたくなったがな」
「それはもう、そうでしょうとも」

 トマスだってそんな事があったら、違う世界に旅立ちたくなるかも知れない。

「だから、彼と似た人生を送った私から頼む。彼を育て、はぐくんでやってくれ」
「はい。私の全身全霊を傾けまして」

 ダンがなぜこんな話をしたのか、その理由が分かった。
 実際にレイフォンの姿は、ダンにとって他人事ではないのだろう。
 だからこそ、恥をさらすようなまねまでして、トマスに頼んだのだ。

「うむ。私と同じ過ちを、繰り返させてはいかんぞ」
「はっ! 早速帰りましたら、性教育を実行いたします!」
「うむ」

 一つ頷くと、本来の仕事が待っているだろう彼の執務室に向かって、歩き去って行く。

「それにしても」

 歩を一旦止めたダンが、不思議そうに首をかしげ、小さな声を出した。

「グレンダンは、何を焦ったのだろうな。あれほどの才の持ち主だ。十年、いや、五年育てれば、後世に名を残す偉大な武芸者となれたものを」

 ダンのつぶやきは、トマスにも理解出来た。
 天剣授受者という物が、実際にどんな物かは理解出来ないが、十歳の子供でなければ与えられないという物でもないはずだ。
 ならば、候補者として経験と修行を積ませ、ゆっくりと一般常識も教え込めば、追放せねばならない事態を回避出来たはずだ。
 何か焦ったのか、それとも他の理由かは分からないが、グレンダンの王室の判断は、正しいものでは無かったと言わざる終えない。
 もっとも、これは後からこそ言える事だし、向こうには向こうの事情がある事も理解している。
 だから、トマス達に出来るのは、こうなってしまった事態を、少しでも良い方向に変える事だけだ。
 だからこそ、トマスはやらなければならない。

「班長。早めに実行した方が良さそうですね」
「ああ。そんな馬鹿な事はないと思っているから、まだ無事なだけだ。知られてしまったらレイフォンに未来はない」

 何よりも先に、このことをレイフォンに知らせなければならない。
 トマスは少し残っていた事後処理を部下に任せ、帰宅の道を急ぐ事にした。
 
 
 
 レイフォンは、地上一メルトル少々に張られた洗濯ひもの上に立ち、青石錬金鋼の剣を清眼に構え、自分の中の疑問と戦っていた。
 なぜ、あれほど簡単に汚染獣を斬り殺す事ができたのか?
 本来ならダメージを与えて、他の武芸者がやってくるまでの、時間稼ぎをするはずだった。
 だが、込めた剄から推測した技の威力を、あっさりと凌駕してしまったのだ。
 これは非常に困る事だと、レイフォンは気が付いていた。
 打撃を与えて、行動不能にするだけのつもりが、相手をミンチにしてしまう危険性があるからだ。

(なんで、ガハルドの時は失敗したんだ?)

 全力に近い剄を注ぎ込んだ一撃は、なぜか微妙に外れてガハルドに重傷を負わせた程度で終わっている。
 今回の汚染獣戦と比べたら、とても看過できないほど大きな差だ。

(人を殺す事に、罪悪感があるのか?)

 振り返ってみるが、武芸者が死ぬ事に対してそれほど感情的になった事は、最近はなかった。
 天剣を授かってからは、さらにその傾向が強くなったが、初めて死を目の当たりにした衝撃が大きかったせいか、その後の死体については割と平然としていられた。
 罪悪感があったにしても、あれほど太刀筋を乱す物にはならなかったはずだ。

(なんでだ?)

 直感的に物を考える事に対して、それなり以上に素養のあるレイフォンだが、今回のように理詰めで物を考える時には、非常にその思考能力は低下してしまう。
 その思考と呼べるか怪しい思考を中断して、現状に対して疑問を放つ。

「あのぉ」
「なぁにぃ?」

 剣を始めとする、あちこちにおかしな重みがかかったので、辺りを見回したレイフォンの視界に飛び込んできたのは。

「僕の身体に、洗濯物をぶら下げないで欲しいのですが」
「良いじゃない。別に女物の下着とか干している訳じゃないんだもの」

 アイリの手にあるのは、確かにシャツを始めとする洗濯物だ。

「今日は、洗濯しないって言っていませんでしたっけ?」
「だって、レイフォンを見ていたら、急に洗濯したくなったんだもの」

 どうやら半分嫌がらせで、残りは面白半分で、予定を変更したようだ。

「それに、五分考えて答えが出なかったら、ノリで解決しなさいって言ったじゃない」

 確かにアイリに言われてからこちら、別段困った事はないが、今抱えている問題は少し重要なような気がしているのだ。

「いえ。それだとこの先困りそうな問題なんですよ」
「そうなんだ。じゃあ、邪魔するの止めとくわね」

 そう言いつつ、洗濯物がレイフォンの身体から取り外されていく。

「お願いしますよ」
「ええ。夕食になったら、声をかけるわね」

 何やら非常に消化不良の表情をしたアイリが、渋々といった雰囲気で家の中へと帰って行った。

「はあ」

 一波乱あったが、取りあえずもう一度精神を集中して考えに戻る事にしたレイフォンだったが。

「?」

 いつの間にか、目の前の壁の上に猫が座り込み、レイフォンを見つめている事に気が付いた。
 結構長い間、猫と見つめ合ってしまった。

(あの猫を斬り殺す)

 イメージの中だけで、剄を収束させ、閃断を放ってみた。

(? あれ?)

 イメージの中の猫は閃断を放つ瞬間に、飛び退き抗議の声を上げつつ、どこかへと去っていった。

(なんでだ?)

 たかが猫である。
 レイフォンの実力を持ってすれば、死んだ事にさえ気が付かれない内に、左右二つにする事は容易のはずだ。
 なのに、寸前で察知され回避されてしまった。
 さらに、イメージの中だけで、何十回と斬りかかってみたが、その全ては回避されるか、上手く切る事が出来なかった。

(何でだろう?)

 延々とやっていたのが災いしたのか、目の前の猫は欠伸をすると、狭い塀の上であるにも関わらず昼寝モードに突入してしまった。

「何やってるんだろう、僕は?」

 汚染獣以外の敵に対して、全力を出せないと言う事もあり得るが、ここまでの不様は流石に問題だ。
 汚染獣は綺麗に切れたのに、ガハルドと猫は駄目だった。
 これに共通する事柄を見付けなければ、この先どんな失敗をするか分からない。
 だから、レイフォンはさらに考え込もうとして、頭に何か乗ったような感触を覚えた。

「?」

 何か飛んできたのかと思って、上を見たが特に何も見えなかったので、三度思考の中へ突入しようとしたが。

「レ、レイとん」

 下からメイシェンの声がかかった事で、現実に復帰した。

「あれ?」

 いつの間にか猫はその姿を消し、世界中が紅く染まっていた。
 いわゆる夕方という物で、そろそろ夕飯の時間のはずだ。

「ご飯、出来たよ」
「うん。今行くね」

 洗濯ひもを揺らさないように注意しつつ、芝生の上に飛び降り、唐突に理解してしまった。

「ああ。そうなんだ」

 最近の二つの事柄だけで考えてはいけなかった事に、気が付いた。
 そもそもの始めは、兄弟姉妹達が無事に生きられるために、戦場に立つ事を選んだ。
 レイフォン自身もそうだが、知っている人の死を見たくなくて、夢中で突っ走ってきた。
 だからいつの間にかレイフォンの中では、戦いが二つに分類されていたのだ。
 負ければ、誰かが死ぬ戦いと、誰も死なない戦い。
 前者の場合、レイフォンはその持てる力を全て出し切って戦う事が出来るが、後者の場合、どうしても技の切れや制御が甘くなるのだ。
 ガハルドの時にかかっていたのは、レイフォン自身の名誉や誇りと言った、大して重要ではないもので、他の人の生死は全く関係なかった。
 だから、微妙に技が鈍ってしまったのだし、今さっきの猫の時もそうだ。
 迎えに来たメイシェンの顔を見て、そのことに気が付いたのだ。
 ナルキやシリアの遺骸を見て、号泣する事が解りきっているメイシェンを想像した事で、この結論に達する事が出来た。
 正しいかどうかは、もうしばらく様子を見つつ考えればいい。
 慌てる事は何も無いのだ。

「な、なに?」
「なんでもないよ」

 心配気に見上げるメイシェンの頭に手を乗せ、その柔らかい髪を撫でる。

「ひゃぁ」

 小さな悲鳴を上げつつ頬を上気させるが、逃げようとはしないメイシェンの髪をさらに撫でる。

「あ、あの、レイとん」
「うん?」
「ご、ごはん」

 しどろもどろになりながらも、メイシェンが主張するように、そろそろ行かなければならないようだ。

「うん。行こう」

 名残惜しい気持ちもあるのだが、気が付けばかなり空腹なのもまた事実。
 メイシェンを促して踵を返そうとしたレイフォンだったが。

「?」

 呼びに来たメイシェンの視線が、少しおかしい事に気が付いた。

「なに?」

 微妙に角度が違うのだ。
 具体的には、僅かに上にそれている。

「頭に、何か乗ってるよ」

 言われてみて、少し前に何か乗ったような感触があった事を思い出し、何気なく右手を伸ばしてそれを掴んだ。
 柔らかい布の感触からすると、どこからか洗濯物が飛んできて、偶然レイフォンの頭の上に落ちたといった所だろうと、気軽に考えて目の前に持ってきて。

「ああああああああああああああ!」
「いいいいいいいいいいいいいい!」

 メイシェンの悲鳴に似た叫び声と共に、普段からは考えられない速度で腕が動き、レイフォンの手からその布で出来た品物を奪い取り、必死の形相で後ろ手に隠した。
 当然、レイフォンにはそれを取り戻すと言う選択肢はない。
 例え、非難の視線を浮かべる、今にも泣きそうなメイシェンの顔が目の前になかったとしてもだ。
 なぜなら、それは。

「だ、誰だよ! こんな物僕の頭に乗せたのは!!」

 それは、ピンクの布で出来ていて、あちこちにフリルの付いた、女性用の下着だったからだ。

「うううううううううううううう」

 非があるわけではないのだが、恨めしげなメイシェンの視線に耐えきれずに、家の方を見たレイフォンは、おそらく真実と思われる物を見付けてしまった。
 アイリを先頭に、ナルキ以外の女性陣が非常ににこやかな表情でこちらを見ているという、真実を。

「ううわぁぁぁぁ!」

 汚染獣など比べ物にならない程、恐ろしい敵がこれほど身近にいる事は、レイフォンにとって恐怖以外の何物でもなかった。

「偶然なのよ? 偶然お隣さんの洗濯物が飛んで行っただけで、全く、これっぽっちも悪意なんか無かったんだからね」

 アイリはそう言うのだが、とても信じられる状況ではないし、また、そんな事にかまっていられる事態でもないのだ。
 メイシェンを何とかしなければならない。

「あ、あのぉぉ」
「レイとんの、馬鹿」

 小さいその一言を放ったメイシェンが、通常の三倍近い速度で逃げて行ってしまったのだ。

「駄目ねレイフォン。女の子泣かしては」

 何やら、非常に遠大な計画があるのか、アイリが追いかけろと視線で示している。
 それを拒否する権限は、レイフォンにはない。
 
 
 
 メイシェンは、自分がやった事を冷静に判断しようと、あらん限りの努力をしていた。
 だが。

「メイシェン」
「ひゃきゅ」

 数年ぶりにやった全力疾走で、息が上がり走れなくなった瞬間、レイフォンが隣を歩いていてはとても冷静にはなれない。
 そもそも一般人と武芸者が追いかけっこをしようとするところからして間違いなのだが、そこまで頭が回らなかったのだ。

「あ、あのね。偶然なんだ」
「う、うん」

 レイフォンが、狙って下着を頭に乗せていたなどとは思っていないのだが、感情というか、ノリというかが、納得出来ないのだ。

「え、えっと。その、ごめん」
「レ、レイとんは、悪くないよ」

 偶然の事故であるのならば、誰かに責任があるわけでない事も理解しているのだ。納得しているわけでもないのだが。
 とは言え、メイシェンが今もっとも問題にしているのは、実は少し違う所にあるのだ。
 それは何かと問われれば、未だに後ろ手で隠している、誰の物とも知れない女性物の下着。
 これを、レイフォンに気が付かれないように、どうにかしなければならないのだが、その方法を全く思いつけないまま、メイシェンは歩き続ける。

「あ、あのさ」
「きゃひゅあ」

 かけられた声に、思わず噛んだ悲鳴を上げてしまった。

「え、えっと。そろそろ、家に戻らない?」
「う、うん。もどる」

 他の選択肢はないのだが、どうしても、未だに手に持っている物が気になって、壁を背にしてレイフォンの方を向いてしまう。

「あ、あのね。うんと」

 レイフォンの方も何がメイシェンを困らせているのか、その理由が理解出来たようで、視線がさまよっている。

「じゃ、じゃあ。僕は前を歩くから、それで良い?」
「う、うん。それでお願いします」

 お願いするのが正しい事なのかどうか、非情に疑問ではあるのだが、口から出てしまった言葉を取り消す事は出来ない。

「じゃ、じゃあ。先を歩くね」

 恐る恐るといった感じで、微妙な間合いを取りつつメイシェンの前に立つレイフォンの背中を見つつ、色々な事が思い出された。
 ここ最近、殆ど毎日顔を合わせているのだが、レイフォンのグレンダン時代の話を、全く知らないとミィフィに話した事があった。
 ミィフィから返ってきたのも、やはり謎が多いという答えだった。
 実際には、殆ど何も解らないとぼやいていたのも覚えている。
 ナルキとシリアは、レイフォンが非常に優秀な武芸者であると言っていたが、それほど優秀な人材を都市が手放すのはおかしいとも言っていた。
 人見知りが激しいだけではなく、臆病であるメイシェンにとって、レイフォンに直接聞くという行為は、非常に大きな決断である。
 だが、何時かはそれを知りたいとも思っている。
 もしかしたら、メイシェンが思っているよりも暗い人生を送ってきて、逃げるようにここにたどり着いたのかも知れないとも思う。
 そのせいで、とても疲れているのだとしたら、過去を探られる事はレイフォンにとって非常に辛い事だろうと思う。
 もしかしたら、過去を聞く事で、レイフォンが居づらいと感じてしまい、どこか他の都市を目指して出て行ってしまう事になるのかも知れないとも思う。
 それは、とても悲しい事だと思うのだが、知りたいと思う気持ちと、一緒にいたいと思う気持ちがせめぎ合っている今現在、自分の事ながら、感情をもてあましてしまっているのだ。
 矛盾を抱えたままで居られる程、メイシェンは強くもないし、人生に疲れているわけでもない。
 何時か、決着を付けないといけない事だとは解っているのだが、それでも、先延ばしにしているメイシェンが居るのだ。

「だめだよね、それじゃ」

 小さく呟いたメイシェンは、手に持っていた物を器用に綺麗に畳んでポケットに仕舞うと、歩く速度を少しだけ上げて、レイフォンの隣に並んで、そっと手をつないだ。

「?」

 少し驚いたのだろう、レイフォンがメイシェンの方をちらりと見た。

「ちゃんと、仕舞ったから」

 言わなくても良い事を言ってしまったと思ったメイシェンは、顔が熱くなったのを隠すためにうつむいてしまう。

「帰ろう」
「うん」

 何時か決着を付けなければいけないのは間違いないが、今は手をつないで帰ろうと決めたメイシェンは、少しだけ手に力を込めた。
 だが。

「ひゃぅ」

 いきなりある事に気が付いてしまった。

「な、なに?」

 あまりに突然に悲鳴に似た声を上げてしまったので驚いたのだろう、レイフォンがこちらを見下ろしている。

「な、なんでもないです」

 少々、堅い言葉遣いになったが、実はそれどころではないのだ。
 何を隠そう、メイシェンからレイフォンの手を握ったのは、これが初めてなのだ。
 ある意味、これこそが、今日のもっとも驚くべき事柄だったのかも知れない。



[14064] 第一話 八頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:08


 汚染獣の襲撃から一月程の時間が流れた。
 その間、特に何も変わった事が無く、レイフォンは少しだけ落ち着いた生活を送る事が出来た。
 だが。

「? なんですか、これ?」
「この間の汚染獣戦で、レイフォンが真っ二つにしたやつの報奨金」

 トマスが差し出した、通帳を眺めての一言だ。
 何気なく開いてみて。

「・・・・・・・・・¥ なんですか、この数字?」

 最近、割と一般常識の習得と勉強をしているレイフォンだが、今目の前にしている数字は、明らかに異常な物だという事が解る。

「グレンダンではどうか知らないが、ヨルテムではそれが一般的な報奨金だ」

 落ち着き払っているトマスには悪いのだが、常識という物が決定的に欠けているとしか思えない、そんな数字だ。
 具体的に言うならば、チョコレートパフェを頼んだのにもかかわらず、切っていないチョコレートケーキが出てきてしまったような感覚かも知れない。

「えっと」
「ちなみに。孤児院にそんな金額寄付したら、卒倒してしまう人が出るから、絶対に止めるようにね」
「は、はあ」

 グレンダンで老性体を倒したとしても、これだけの金額はもらえなかったと思うだけに、たかだか雄性体を始末しただけでもらうのは、非常に心苦しい。

「まあ、くれるというのだからもらっておくと良い。結婚したら結構お金がかかるからね」
「! そうなんですか?」

 トマスに言われて、考えてみれば。

「いやいや。そんな事無いですよ。何人も結婚した人知ってますけれど、あんまりお金かからなかったはずですよ」

 孤児院を出て行く人たちの多くが、結婚していたはずだが、その人達からの仕送りがかなりの金額に昇っていたという記憶がある。
 残念ながら、運営を容易にする程ではなかったが、それでも、冬を越せない子が出るような事は無くなって行ったと記憶している。

「たぶんそれは、かなり切り詰めての仕送りだったんだと思うよ。考えてみたまえ。住む所に着る物、食べる物は絶対にお金がかかるんだよ」
「? 廃ビルを不法占拠したり、ゴミ捨て場から服を持ってきたり、あとは、畑を自前で作ったり」
「・・・・・・・。レイフォン。頼むから君の常識をここで働かさないでくれ」

 こめかみに指を当て、必死に痛みをこらえるトマスに言われて考えてみる。
 夫婦そろって畑仕事に精を出すのは良いとしても、メイシェンとゴミ捨て場をあさると言う事は出来ればしたくない。

「・・・・。たしかに、メイシェンにそんな生活はさせたくないですね」
「理解してもらえて嬉しいよ。それとその報奨金は、秘密だからね」
「解っています。僕は表沙汰にはなってはいけないですからね」
「今のところは、ね」

 前回の汚染獣の襲撃を一人で退けられるような、非常識な武芸者がヨルテムにいる事が解ったらどうなるか、それをある程度考えなければ、レイフォンの存在を公にする事は出来ない。
 出来ればこのまま静かに暮らしていけると嬉しいのだが、向こうから問題がやってくる以上、戦う覚悟はしておかなければならない。

「そう言えば」

 ふとここで、ミィフィが何やら萌えていた事を思い出した。

「何かあるんですか? なんだかメイシェンもそわそわしていたけれど?」
「ああ? 長期の休みがもうそろそろだからね」
「長期の休みって?」

 学校という物とは無縁だったレイフォンにとって、この辺の話は非常に理解出来ない。
 だが、長期の休暇という物が有るとしたのならば、レイフォンだってきっと浮かれてしまうだろう事は間違いない。

「ああ。大昔からの習慣らしいのだが、二週間くらいの休みがあるのだよ。それがもうすぐ始まる」
「へえ」

 これは驚きだが、言われて思い出してみれば、特定の時期になるとリーリンがいつも孤児院にいたような気がする。
 アレが長期の休みなのかと今更ながらに感心していると、静かに暮らすという考えとは全く反対の予定を思いついてしまった。

「じゃあ、ナルキとシリアに少しきつめの鍛錬をしても、影響は少ないですね」
「きつめって?」

 学校を休ませるわけにはいかないので、二人の鍛錬についてはかなり手加減をしていた。
 だが、二週間も休みがあるのならば、それを利用しない手はない。

「死ぬ程きつい鍛錬をすれば、かなりの伸びが期待出来ます」
「ああ。君の師父がやっていたやつね」

 デルクの鍛錬は、後の事をあまり考えていないのではないかと思う程、きつい物が多かった。
 あそこまで徹底的にやれるかどうかは解らないが、もう少しだけ真剣にやってみたいとも思うのだ。

「実際に死んだら、かなり困るんだが」
「その辺は、全力で手加減しますから」

 手加減が上手くできるか解らないので、当面は慎重の上にも慎重を重ねるつもりだ。
 錬金鋼もそれ相応の物を用意する必要があるかも知れない。

「それでですね。多少荒っぽい事をしても平気な訓練場なんかがあったら、借りたいのですが?」
「ああ。それなら平気だ。交叉騎士団の訓練場を借りられる」
「? なんでそんな良い所が借りられるんですか?」

 交叉騎士団と言えば、この都市の武芸者の頂点に君臨する集団だ。
 そんな雲の上の人たちが使う訓練場を使えるはずは、普通はない。

「いやね。前回の汚染獣戦で、子供達の訓練を積極的にしようと言う事になってね」
「はあ」

 あまり子供を戦場に立たせることは良い事だとは思えないのだが、いざという時に戦えるかどうかは非常に重要だ。
 見学車に汚染獣がやってきた時も、子供達の中で戦える人材が居れば、あれほど危険な状況にはならなかったと言う事も、また事実なのだ。

「その一環として、団員があちこちに出掛けていって訓練をする事になった」
「その隙間に、僕達が入るんですね」
「そう言う事だ」

 納得が行く説明をもらったので、取りあえず日付を打ち合わせて、トマスとの会見は終了した。

「ナルキ達の都合も聞かないといけないから、少し開始時期は遅くなるかな?」
「今の状況なら、三日あれば十分だと思いますよ」

 まだ、あの二人では三日も活剄を維持する事は出来ない。
 ならば、短い時間に凝縮した方が害が少なく、効果が大きいはずだ。

「それで。他の時間はどうするのかね?」
「? ほかって?」

 言われてみて鍛錬に使える時間は増えるが、ナルキ達が暇になる以上、他にも時間を使える事に気が付いた。
 だが、武芸馬鹿という自分の生い立ちを容認してしまうレイフォンに、どこかへ遊びに行くといった事を計画する能力はない。

「えっと。何しましょうか?」
「いやね。私が聞いているのだよ。何も予定を入れていないと、レイフォンはたぶん木乃伊になってしまうよ」
「木乃伊ですか」

 過度に乾燥した人間の代名詞だと言う事しか知らないが、それが非常に不吉な物である事は十分に理解出来ていた。
 なんとしても、何か予定を入れなければならない。
 ナルキとシリアは多分疲れて動けないだろうから、メイシェンかミィフィを誘って、何処かに出掛けるとか。

「実はね。サイハーデンの道場がヨルテムにあるのだよ」
「! そ、それは」

 思ってもいなかった事態に、レイフォンの頭は一気にパニックに陥ってしまった。
 そこを訪れてみたいとか、鍛練に参加したいとかは思わないが、それでも平常心ではいられない。

「ミィフィ君が張切っているのは、おそらくそこへ行って君の事を調べるつもりだからだと思うよ」

 ミィフィと何処かに出掛けると言う選択肢は、とても危険である事が解った。
 グレンダンではないが、同じ部門の道場ならば、レイフォンのことを知っている確率は、極めて高い。

「調べられて、困る事ばかりですね、僕は」

 グレンダン時代の事を知られるのは、あまり好ましくはない。

「まあ、一応我々で先手を打ってはあるから、あまり心配はないだろうね」

 トマスのその台詞を聞いて、思わず安堵してしまった。

「話はいきなり飛ぶのだが」
「はい?」

 脈絡無く続く話に、レイフォンの混乱はさらに激しくなってしまった。

「デルク氏に、手紙を書こうと思うのだが、良いだろうか?」
「手紙ですか?」

 デルクが、レイフォンの事を知りたいと思っているかどうかと聞かれれば、たぶん知りたくはないだろうと思っている。
 だから、ヨルテムにいる事も知らせていないし、そのつもりもない。

「一度だけ。デルク氏に手紙を書いて、君がここにいる事を知らせて、返事がなかったり好意的な物でなければ、それでおしまいにするつもりだが、出来れば彼に知らせたいのだよ。君がここに居るとね」

 ここにいる事を知っても、デルクには何も出来ないが、だからといって不快な思いをさせるのもいやだ。

「必要は、あまりないと思いますが」
「私は、絶対に必要だと思っているよ」

 何か確信があるのか、トマスの言葉は非常に強い。

「・・・・・・・。一度だけですよ」
「ああ。承諾してくれてありがとう」

 トマスがその気になれば、レイフォンの意志など関係なく手紙を送る事も出来たのに、それをしなかったという事実が背中を少しだけ押した。
 手紙はまだ出されてもいないのだが、すでに心臓がダッシュをかましている現実は、かなり信じられないが。

「それと」
「ま、まだなにかあるんですか?」

 おなか一杯状態のレイフォンは、これ以上の攻撃には耐えられそうにないのだが、トマスはためらいもなく爆弾を落としてくれた。

「交叉騎士団の団長がね、君と手合わせしてみたいと、言っているんだけれど」
「げ!」

 思わずのけぞってしまった。
 レイフォンの事をかばってくれた人であるから、あまり悪い印象を持たれているとは思えないが、えらい人である事には変わりなく、出来れば近づきたくないのが庶民の人情だ。
 アルシェイラの事もあるし、ここは慎重な判断が必要だ。

「別段、君をどうこうするつもりはないのだそうだが、どれほどの腕かは実際に見て確かめたいのだそうだよ」
「え、えっと。百年後くらいじゃ駄目ですか?」
「駄目」

 一言で切って捨てられてしまった。
 これではもう、あきらめてお手合わせをお願いするしかない。

「解りました。日付はそちらで決めて下さい。ナルキ達とかち合わなければ、それで良いですから」
「済まないね」
「いえ。僕の身から出た錆ですから」

 汚染獣戦でもっと考えてから行動すれば、このような事態にはならなかったと思うだけにレイフォンの気持ちは落ち込むばかりだ。
 
 
 
 サイハーデンの道場を訪れてみた物の、たいした成果がなかったミィフィは、おろおろしているメイシェンを伴って、ナルキとシリアが訓練をしているらしい場所へとやってきていた。
 都市外縁部が近い人のまばらな場所に建てられた、見るからに頑丈そうな建物の前で、いったん足を止めて深呼吸をする。
 心構えはいらないと思うのだが、隣を歩くメイシェンにとってはそうではない。

「大丈夫だよ。いくらレイとんだって、ナルキに変な事しないから」
「ち、ちがうもん」

 都震の時に放たれた家族からの冗談を、引きずっているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
 この一月程何やら考えたり迷ったり、はなはだ情緒不安定だったから、ナルキとレイフォンがくっつく事を心配しているのかと思ったのだが、もしかしたら、もっと根本的な事で悩んでいるのかも知れないとこの時考え始めた。

「じゃあ、行くよ」
「う、うん」

 何やら尻込みをしているメイシェンを押して、訓練場へと入る。
 当然、そこはロビーになっていて、いきなり武芸者の特訓風景が広がっているわけではない。
 だが、そこはやはり武芸者の世界だった。
 質実剛健、無駄と装飾が全く無いそのロビーは、一般人にとっては入るだけでも威圧的に思えた。

「あ、あのぉ」
「はい? どうなさいましたか?」

 武芸者かどうかは不明だが、かなりたくましい男性が受付に座っていたので、恐る恐る声をかけてみた。
 いきなりとって食われる事はないと思うのだが、用心に超した事はない。

「今日まで場所を借りている、ナルキ・ゲルニに会いたいのですが」
「しばらくお待ち下さい」

 用件を伝えると、無駄話も余計な詮索もなく、何やら画面を覗き込む受付係。

「予約の終了までは、まだ少し時間がありますが、訓練自体は終了しているようですので、入って頂いて平気そうです」
「は、はあ」

 どんな訓練をしているか非情に疑問ではあるのだが、扉を開けた瞬間ナルキやシリアが飛んできたら、流石に怖いと言う事は十分に理解出来た。

「203号訓練場です。階段を上って、二階の奥の方になります」
「ありがとう御座います」

 かなりたくましい男性に丁寧に話されるという、変な体験をしたミィフィだが、目的の場所は解った。
 メイシェンと一緒に階段を上がり、用途は不明だが、庶民的な家なら三軒は充分に入る程の部屋を二つ通り過ぎ、目的地へと到着した。

「お、おじゃまします」
「お、お、おじゃまします」

 恐る恐る扉を開け、きわめて慎重に中を覗き込んだが、そこは静寂に支配されていた。

「? 誰もいないのかな?」

 受付係の言葉が正しいのなら、訓練はすでに終了しているから、帰り支度でもしているのかも知れないと思ったが。
 それにしては、部屋の中の状況が、あまりにも凄まじかった。
 床と言わず壁と言わず天井と言わず、無数の切り傷が刻まれ、あちこち焦げ付き、酷い所に至っては、陥没したり、建材が粉々になったりしている。
 これが、武芸者の訓練場かと感心しているミィフィの袖を、メイシェンが引っ張り。

「あ、あそこ」

 震える声で、メイシェンの指し示す先にあったのは。

「? ナッキ?」

 そこには、なぜかボロボロの黒こげになったナルキが転がっていた。
 当然、隣にはシリアも居る。
 急いで駆け寄って、息を確かめてみると、息の根は止まっていないようだ。

「死、しっかりしてナルキ」
「死、死んじゃ駄目」

 すでに涙目のメイシェンと一緒に、二人の身体を揺すり起こそうとする事二十秒。

「返事が無い。ただの屍のようだ」
「ひゃきゅぁ」

 思わず呟いた言葉に、律儀に反応するメイシェンが面白いが、ミィフィの直感は事態の変化を捉えていた。
 この際なので、メイシェンの恨みがましい視線は徹底的に無視する。

「あれ? 二人とも、迎えに来てくれたの?」

 そんなのほほんとした声と共に、たぶんこの惨状の創造主が鞄を三つ持って現れた。

「レ、レイとん?」

 そのいつも通りの姿形雰囲気に、思わず恐ろしい物を感じてしまった。
 せめて、疲れているなり怪我をしているなりしていてくれれば、ここまで恐ろしいと感じることはなかったのだが、ミィフィにはどうすることもできない。

「大丈夫だよ。疲れて眠っているだけだから、そのままにしておいて」

 とてもそうは見えないのだが、確かに苦しそうではあっても、呼吸に目立った乱れはない。

「な、何をやっていたの?」
「鍛錬」

 端的にそう言われた物の、それを信じる気にはなれない。

「二人とも、思ったよりも成長が早いんで、少しやりすぎたかな?」
「こ、これが少し?」

 部屋と二人の惨状から考えると、とても少しだとは思えない。

「部屋はもうすぐ大規模な修理が入るから、壊して良いって言われたし、二人にも怪我はあんまり無いと思うよ」
「あ、あんまり?」

 無いと言わない辺りが、とても怖いような気がする。

「うん」

 平然とそう返された所で、ミィフィはこの話題を追求する事を止めた。
 とても怖いから。

「じゃあ、後は帰るだけなんだね」
「そうなんだけれど、二人が起きないと少し問題かな?」
「ああ。荷物が三つに人間が二人だからね」

 いくら武芸者とは言え、数が多いとそれだけで大変なのだ。

「あ、あの。荷物持つよ」
「うん?」

 メイシェンのその一言で、理解していないように頷くレイフォン。

「私たちが、荷物持つから、レイとんはナッキとシアをお願い」
「ああ。うん。じゃあ、荷物お願いね」

 納得がいったのか、鞄を三つ差し出すレイフォン。
 ミィフィは持つと言っていないのだが、事、ここまで話が進展してしまうと、後戻りは出来ない。

「じゃ、じゃあ。かえろうか」

 運動が苦手なメイシェンに荷物を二つ持たせるわけにはいかない。
 と言う事で、ミィフィが持つ事にしたのだが。

「あ、あれ?」

 思った以上に軽いのだ。

「着替えだけだから、殆ど重くないよ」
「ああ。なるほどね」

 よくよく見て見れば、二人の使っている錬金鋼は剣帯に収まっているし、後必要な物は着替えと洗面道具だけだ。
 ならば、量の割に軽いのは当然と言う事になる。

「じゃあ、行こうか」

 軽々と二人を肩に乗せたレイフォンが、いつも通りの声をかけてきた。

「う、うん。帰るのか?」

 抱え上げた事で気が付いたのか、ナルキが眠そうと言うか、疲れ切った声を出したが、とても起きているという雰囲気ではない。

「うん。寝ていて良いよ。少し苦しいかも知れないけれど」
「い、いや。おきるよ」

 そう言いながら、身体を動かすナルキだが。

「活剄を使っちゃ駄目だよ。剄脈疲労を起こすかも知れないから」
「だ、だいじょうぶだ。このくらいはぁ」

 などと言っているが、途中で力尽きてまた眠りに落ちてしまったようで、それきり動かない。

「無理させたかな?」
「ちょっと、無理させたんじゃない?」

 気丈なナルキがこの有様になると言う事は、かなり激しい訓練だったと言う事が理解出来た。

(レイとんの過去って、どんなのだろう?)

 それは、ものすごく興味を引かれる問題だ。
 始めはメイシェンの事からだったが、今はもうミィフィ自身の興味が勝っている。

(とは言え、興味本位で過去を暴くのはあまり褒められた事じゃないし)

 そのくらいはしっかりと認識しているのだ。
 なかなか行動に直結しないという欠点を抱えているが。
 
 
 
 折角の長期休暇だったのだが、レイフォンのしごきのせいでとても休んだ気にはならなかったと言うのが、ナルキの素直な感想だ。
 休日三日目から五日目までの鍛錬だったのだが、たった三日の疲労はしかし、一週間経った今でも身体に残っている。
 武芸者である以上、活剄を使って疲労を回復させる事は当然やっているのだが、それでもなかなか追いつかない。
 良く生き残れたものだと、我ながら感心する程、激しい鍛錬だった。

「そんなに凄かったの?」
「ああ。あの惨状を見ればだいたい解るだろうが、恐らくそれは生半可な認識だ」

 ミィフィの問いに答えつつも、出来れば思い出したく無いと思ってしまうくらいには、壮絶な鍛錬だった。
 だが、確かにあのしごきに耐えた今は、前よりも強くなったと言う確信が有る。
 そうで無ければ、死んでいてもおかしくない程凄まじい物だった。

「そ、そんなに頑張らなくても」
「いや。武芸者である以上、強くならねばならない!」

 メイシェンの控えめな心配は嬉しいのだが、それでもやはり後戻りも立ち止まる事も出来ない。
 なにしろ、目の前に猛烈に強い人間がいて、ナルキを引っ張り上げてくれているのだ。
 応えないわけにはいかない。
 それに、この次に汚染獣が襲って来た時に出来れば前線で戦い、ヨルテムに住む人を守りたいと思っているのだ。
 そのためなら、あれくらいの地獄は。

(い、いや。もう少し軽めの地獄の方が)

 普段は弱気な事など思わないのだが、流石に、あのしごきをもう一度経験したいとは思わない。
 レイフォンが身近にいる以上、間違いなく何度かはやって来るだろうが。

「だが」

 それとは別に、やはりレイフォンがヨルテムにいられる理由について、更に気になってしまうのもまた事実。
 このところ、メイシェンもなんだか考え込んでいるし、ミィフィの調査も全く進展していない。
 ナルキ達がしごかれている間に、ミィフィは彼女なりの仕事をしていた事を思い出し、唐突では有るが話を振ってみた。

「サイハーデンって所は、どうだった?」
「うん? 普通の道場だったよ。訓練が少し他よりもきついみたいで、あんまり門下生はいなかったけど」

 そこでレイフォンについて聞いたようだが、知らぬ存ぜぬの一点張りだったそうだ。

「そうか」

 もしかしたらサイハーデンと言う武門自体が、非常に厳しい鍛錬をする所なのかも知れないが、これもレイフォンがここにいられる理由とはあまり関係がない。
 だが、門下生の少ない理由には十分な説明はついた。
 あれに耐えられる人間は、そうそういないと思うから。

「やはり、聞いてみるしかないか」
「ふぇ?」

 いきなりの展開だった様で、メイシェンが空気の抜けた驚きを上げ、ミィフィが興味津々とこちらを伺っている。
 その瞳は、すでに獲物を狙う猫のように鋭い。

「レイとんの事だ。グレンダンでどんな生活をしていたのかとか、是非とも知りたい」

 単なる好奇心と言うよりも、最近ナルキは思うのだ。
 レイフォンを含めた四人でいたいと。
 三人とレイフォンでは、恐らく満足出来なくなるだろうと。
 トリンデン家の人達の様に、勢いで話を進めるのはあまり好きではないし、何処かでけじめをつけたいと思う。

「うんうん。そう来なくちゃ。休みが終わる前に片付けよう」

 当然の様にミィフィが乗って来たが、問題はメイシェンだ。
 彼女の性格から考えると、なかなか踏み切らないだろう事は理解出来る。

「・・・。うん。私も、知りたい」
「「へ?」」

 だが、幼馴染みの少女から返って来た答えは、ナルキの想像を絶するものだった。
 ある意味、有り得ない反応に一瞬魂が口から出たのではないかと言う程の、衝撃を覚えてしまった。

「い、今なんて言ったんだ?」
「い、今。メイッチが知りたいって言ったような気がしたけれど?」

 ミィフィも同じ心境なのか、非常に驚いている様子が分かる。

「うぅぅぅぅぅぅぅぅ」

 恨みがましい視線で見られたが、生憎とその手のものに迫力と言うものが乗らないメイシェンでは、さほど効果はない。
 だが。

「解ったよ。レイとんに、聞いてみよう」

 メイシェンの背中を軽く叩きつつ、そう話を締めくくった。
 よく考えてみれば、メイシェンが最もレイフォンといる時間が長いのだ。
 色々な事が有ったに違いない。
 二週間の休み中、鍛錬が終わってからは、殆ど二人で何処かに出掛けていた。
 複雑な表情でそれを見送るアイリは、恐らくレイフォンで遊ぶつもりだったのだろうと理解している。
 それを知っているからこそ、トマスが何か手を撃ったのだ。
 同じ時間を過ごしたからこそ、知りたいと思ったのだろう。
 だからこその、メイシェンの今の発言だったに違いない。
 そして、本人が自覚しているかどうかは別として、結婚の話は抜きにしても、レイフォンに引かれている事もまた事実だろう。
 もし万が一にも、レイフォンが犯罪者だったとしたら、結構困った事になるのではないかと思うのだが、その時になったら考えようと深く考えるのは止めたナルキは、何時何処へ呼び出すかと言う打ち合わせに入った。
 お人好し回路を内蔵しているレイフォンが、そんな大それた犯罪が出来る訳は無いと言う結論も、思考停止の一要因だった。
 



[14064] 第一話 九頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:09


 昼間の内に心身ともにぼろぼろになったので、靴を脱いでソファーの上に胡座をかいて力の限りにだらけていた。
 いきなりの事だが、夕食を終えて何も考えていなかったレイフォンは。

「レイとん」
「な、なに?」

 普段は絶対に見る事のないだろう、壮絶な決意を秘めたメイシェンに右の袖を掴まれてしまった。
 その姿は、雨が続いて散歩に連れて行ってもらえない犬の様でもあったし、これから死闘を演じなければならない武芸者の様でもあった。

「一緒に来て」

 そう言いつつ、袖口を掴んだまま、一向に動こうとしないメイシェン。

「? どこに?」
「う、うあう」

 掴んだは良いものの、そこで限界に達してしまったのか、動きが完全に停止するメイシェン。

「ああ」

 そのメイシェンの先、扉の所にナルキとミィフィがいる事に気が付いた。
 恐らく、三人で話し合って、この展開になったのだろう事が理解出来た。

「行こう」

 そっと袖口を掴んでいた手を解き、むしろレイフォンが引っ張る形で、ナルキ達の所へと行く。

「あ、あう」

 何やらいきなり落ち込んだメイシェンと、溜息をついたナルキ達が不思議だが、今はそれどころではないのだ。
 この三人、特にメイシェンの状況から、かなり重要な話がある事は理解出来るし、それが恐らく、グレンダン時代の事だろうと予測出来る。
 今まで色々有ったのに、有耶無耶にして来てしまったつけを、ここで払わなければならない事も、理解しているのだ。
 理解はしているのだが、それをきっちりと受け止められているかと聞かれれば、答えは否だ。
 落ち着いた様に見せかけているが、実際はかなり動揺している。
 始めて汚染獣と対峙した時でさえ、これほど緊張していなかった。
 似た様な精神状態は、今までになかった。
 始めての体験と言うのは、人を緊張させ興奮させ硬直させる。

「ぐわ!」

 思わず壁の角っこに、小指の先をぶつけるくらいには緊張して興奮して硬直しているのだ。
 靴を脱いでだらけていたのが、最も大きな失敗の原因だ。

(っていうか、靴くらい履けよな!)

 自分に心の中で突っ込みつつ、完全に平静を保てていない事だけは理解出来た。

「だ、だいじょうぶか?」

 あまりの唐突な事態に、脱力したナルキが溜息を吐き、ミィフィが何やら写真を撮っている。
 出来ればこのことは、死ぬまで思い出したくない大失態なので、是非ともミィフィの写真は処分したいところだ。

「だ、だいじょうぶ。行こう」

 本当は大丈夫ではないのだが、身の置き所が無いレイフォンは、珍しく強情に意地を張ってみた。

「あ、ああ。こっちだ」

 その意地に免じて見ないふりをしてくれたのか、ナルキが先導してゲルニ家を出る。
 元々、割と外縁部に近い所に有ったナルキ家から、更に人の来なさそうな場所を目指して、ナルキは歩いているようだ。

「この辺で、良いかな?」

 街灯が殆ど無い防風林の側まで来たナルキが止まると、ミィフィが頷いた。
 それを確認したから、レイフォンはメイシェンの手を離し、そっと背中を押して二人の方へとやった。

「レイとん。聞きたい事が有るんだ」
「うん。グレンダンでの事だね」

 覚悟が出来ているかと聞かれれば、まだ出来ていないが、それでも、目の前の三人に隠し事をしたくは無いと思ってしまっていた。
 僅か四ヶ月程度の時間だが、今までに無い生活はレイフォンを大きく変えていたのだろう。

「ああ。レイとんみたいな優秀な武芸者が、何で都市を出られたんだ?」

 代表してナルキが質問しているが、三人の疑問は、おおよそこの辺に集約されるのだろう事が理解出来た。

「そうだね。何処から話そうか」

 グレンダンを出られたと言うよりは、追放された理由は簡単なのだが、恐らく三人はもっと基本的な事を知りたいのだろうとも思う。

「そうだね。出来るだけ始めから話すよ」

 レイフォンの認識が間違っていなければ、始めから、武芸者を目指した辺りから話を始めるのが最も適切だとも思う。
 だが、今ここで話せない事もいくつか有るのも、また事実だ。
 それは、また別の機会に話すとして、レイフォンは最初の単語を口にした。

「天剣授受者と言うのが居るんだ」

 グレンダンに伝わる汚染獣戦における至高の武器、白銀に輝く錬金鋼。
 天剣。
 それを与えられるのは、最大で十二人。
 グレンダンの武芸者の頂点を意味するその称号と錬金鋼を、十歳という年齢で授与されたと言う事。
 そこまで武芸にのめり込んだ原因である食料危機。
 天剣授受者としての報奨金を、孤児院の生活費として納めていたこと。
 他の孤児院の事も気になって、もっと金を稼ぎたいと思ってしまった事。
 その稼ぐ場所として闇の賭け試合に出場し、天剣の技を見せ物として披露したこと。
 それらを出来るだけ順序良く、伝わり易い様に話す。
 賭け試合に出ていた辺りで、ナルキの表情が強ばったのは解ったが、喋るべき時ではないと判断したのか、口をつぐんだままだった。

「じゃあ、その賭け試合に出ていた事がばれて、追放処分?」

 代わりにと言うか、質問しない事が我慢の限界に来たらしいミィフィが、マイクでも差し出し兼ねない勢いで突っ込んで来てしまった。

「それだけなら、多分追放処分にはならなかったと思う」

 今から考えてみれば、強ければそれで良いと言う女王の態度から考えると、賭け試合に出ていただけなら、大して重い罰は下されなかっただろうと思う。
 問題は、女王の性格と態度からどんな事になるか予測せずに、一人で悩んで突っ走ってしまった事だ。

「天剣授受者は十二人だけれど、実力が全てなんだ。だから、自信の有る人は天剣に挑む事が出来るんだ」

 挑戦者が勝てば、自動的に授受者は変更される。
 そうで無ければ、老性体と戦うための天剣授受者の質が落ちかねない。
 まあ、それは建前だろう事は理解している。
 他の天剣を見てみれば、たいがいにおいて戦いが好きだったり、強い奴と戦ってみたいと思っていたりで、腕が鈍る事を極端に恐れる連中ばかりだった。
 つまりは、上を目指すなら好きにしろと言う、暗黙のルールだったのだろうと思う。

「五ヶ月前くらいに、賭け試合の事をバラされたく無ければ、天剣争奪戦で負けろと、脅しをかけて来た人が居たんだ」

 ガハルドにそう脅されて、レイフォンは大いに混乱してしまったのだ。
 誰かに相談する訳にもいかず、結局の所、試合中に殺すと言う選択をしてしまった。
 結果的に殺せなかったがために、天剣を剥奪された上に、都市外追放処分を受けた。
 今から考えれば、ガハルドを殺しかけた事よりも、あまりにも圧倒的な強さを見せつけてしまった事の方が、大きな問題だったのだと言う事を理解出来る。
 あまりにも遅い理解だが、何も解らないよりは遥かにましだと思うのだ。
 同じ過ちを繰り返さずに済む。

「で、でも、レイとんが人を殺せるとは思えないな」

 人を殺すと言う事に何か思う事が有るのか、普段は見せない弱々しい口調でナルキが言う。

「うん。今から思えば、あの状況で僕が人を殺せるとは、到底思えないね」

 あの時かかっていたのは、名誉を含めた、大して価値のないものばかりだった。
 だから太刀筋が鈍り、最悪の結果になったのだと、今は理解している。

「でも、一年も有ったんでしょう? 退去猶予は」

 質問したミィフィに答える形で、レイフォンは孤児院の弟や妹の事を話した。
 師であるデルクも、何もしなかった。
 だから、レイフォンにはもう、逃げる以外の選択肢が無かったのだ。
 武芸に対する情熱は失われ、生きる目的も無くなった。
 かといって、死ぬ様な気にもなれない。
 宛のない、まさしく放浪の旅を覚悟したが、ヨルテムで偶然メイシェンを始めとする人達に出会った。
 その偶然が、レイフォンに今まで気が付かなかった、色々な事を教えてくれたのだと、その偶然に感謝をしているのだ。
 ここで話せる事は、全て話し終えたと、レイフォンは思う。
 武芸者を目指し、文字通りに必死になって強くなった原因というか、原風景を話す事は今この場では出来ない。
 だから、三人の返事を待つ。
 話し始める前は、色々混乱したり迷ったりしていたが、今は何故かすっきりした心境だ。
 やるだけの事をやったのだから、後は結果が出るだけだと、開き直ったのかも知れないし、もしかしたら、三人の事を信じているからかも知れない。
 だからレイフォンは待つ。
 待ちつつ、ふと、もう一つ話せる事が有る事に思い至った。
 恐らく結構重要な事なのだが、すっかり失念していたのだ。
 話そうと口を開きかけた瞬間を見計らっていたかの様に、メイシェンが一歩前へと進み出た。

「わ、わたしは、良く解らないけれど」

 しどろもどろになりつつ、整理出来ていない感情と考えをまとめる様に、ゆっくりと話し出したので、レイフォンは口を閉ざして、再び待つ。

「でも、レイとんが凄い人だって言うのは、解るけど、悪い事をしたのも、解るけど」

 複雑な感情の波に翻弄されている様で、メイシェンの言葉はあまりはっきりとしていない。

「その時、その場所にいなかったから、解らないけれど、それでも、レイとんの事を悪く言う人達が・・・・。怒りたいし、悲しいし・・・。けど」

 再び考え込む様に、唇を噛むメイシェン。

「レイとんは頑張ったんです。頑張って、みんなのために頑張ったのに、それを認めないで酷いことを言うなんて・・・・。間違っていると、思います」

 弟や妹の事を批難され、一瞬反論しかけたが、それを必死に押さえ込んだ。
 メイシェンは批判したいのではなく、レイフォンを弁護したいのだと解ったから。

「みんなの事を、守ってくれたんでしょう?」
「え?」

 一瞬、話が飛んだのかとそう思ったが、少し違うようだ。

「汚染獣のとき、レイとんがナッキ達を守ってくれたんでしょう?」

 前回、思わず汚染獣を真っ二つにしてしまったときの事だと言う事は解った。
 レイフォンが見学者からいなくなった事を知っているナルキがいれば、この結論にたどり着くのはそれほど難しくない。

「うん。あの時も、もう少し考えて行動していれば、色々問題は起こらなかったけれどね」

 トマス達の胃に穴が開きかけるなんて事は無かったはずだと、そう後悔しているのだ。

「レイとんは、みんなの事を守ろうとして、頑張っているんだもの、もうすこし、その、えっと、あの、胸を張っても良いと思う」

 胸を張って生きる。
 メイシェンは簡単そうにそう言うが、犯罪者である以前に、サイハーデンに泥を塗ってしまったレイフォンには、かなり難しい生き方だとも言える。
 だが、ここでもう一度始められるのならば、もしかしたら、胸を張った生き方が出来るかも知れない。
 最近、そう思う様になって来ていた。
 だから、レイフォンはこう言えるのだ。

「ありがとう」

 割と素直にそう言う事が出来た。
 これも、ヨルテムに来たおかげなのかも知れないと思う。

「わ、私に、何か出来る事は無いですか?」
「え?」

 唐突に,いきなりそんな事を言われたので,思わず思考が停止してしまった。

「レイとんは,私達の事を守ってくれているんだもの。私は,戦う事とか出来ないけれど,でも、レイとんのために,何かしたいと思う」

 消え入りそうな声でそう言うメイシェンが,一歩近付き,レイフォンの服の袖をしっかりと握る。

「わ、わた、わたしは、れ、れ、れ」

 何やら必死の形相で,何かを訴えようとしているのだが,顔を赤くして俯きつつ,小さく振るえるだけでなかなか先に進まない。
 だが、その必死さは十分に理解出来るので,じっとメイシェンの言葉の続きを待つ。

(ああ。なんだか最近,待つのになれているな)

 ふと,そんな事を思った瞬間

「私は,レイフォンの事が,好きだから。だから、何かしたいんです」
「・・・。え?」

 頭から蒸気を吹き上げつつ,唐突にそんな事を言われたレイフォンは,再び思考が停止。
 これは思っても見なかった事態だ。

「あ、あう」

 勇気のありったけを振り絞ったのだろう,震えつつこちらを見上げるメイシェンが,ただただ返事を待つために意味不明なうめき声を上げている。
 だが、レイフォンにとって,今の告白は正直意外だった。
 メイシェンの所に,永久就職が決まっていると思っていたので。
 だが、きっちりと言葉にして伝えられた思いには,やはり言葉で返さなければならないと言う事も,確かな事だ。

「ありがとう。こんな僕の事を好きでいてくれて」

 喉につっかえる声を,必死に振り絞り,何とかその言葉を送り出した。

「ありがとう。僕の側にいてくれて」

 考えてみれば,ガハルドとの一件の後,心配したり励ましたりしてくれる人はいなかった。
 もしかしたら,いたのかも知れないが,それに気が付く前にグレンダンを出てしまった。
 ここに来て、トマスを始めとする人たちに出会い,事情を知りつつも庇ってくれる人が大勢いた。
 そして、最も一緒にいる時間が長かったのがメイシェンだ。
 気が付かないうちに、レイフォンの中でメイシェンの占める割合が大きくなっていた。

「ありがとう」

 そのメイシェンから、好きだと言われた。
 こんなに嬉しい事は無かったと思う。
 
 
 
 袖口を必死に掴んだメイシェンと、掴まれたままで硬直しているレイフォンを眺めつつ、ナルキは思うのだ。
 街灯もほとんど無い闇の世界で、必死に袖口をつかむ少女と棒立ちする少年というのは、なかなか見られるものでは無い。

「レイとんはやっぱりお人好し回路が全開だな」
「うん。回りの人がどう思っているかとか、あんまり考えてないみたいだし」

 これはある意味困った事だとも思うのだが、トマスが何故あれほど神経質になって、レイフォンの事を隠しているかは十分に理解出来た。
 天剣授受者と言うのが、どれほど凄い武芸者かは相変わらず解らないが、レイフォンと言う人物についてはおおよそ理解出来た。

「全くレイとんも情けない。ここぞとばかりにメイッチを抱きしめて押し倒せば良い物を!」
「そっちか」

 思わず脱力してしまった。

「それで、アレはどうするんだ?」

 当然、手をつなぎ損ねて、硬直している二人組のことだ。

「にひひひひひひ。あのまま暗がりに放り出しておこう、もしかしたら来年は。にひひひひひひ」

 極悪非道なことをいう幼なじみだが、ナルキも反対はしない。

「そうだな。レイとんが性犯罪者じゃ無い事が分かったし、放っておいて平気だろうからな」

 恋するメイシェンを応援するという気持ちも有るのだが、二人がもう少し落ち着いてからでも良いかと思うのだ。

「私たちは、帰るぞ」
「はいよ」

 そう返事したミィフィが、何時もの野次馬根性を発揮せずに後についてきたのに少しだけ驚いたが、二人の事をそっとしておく事に決めたのだろうと言う結論に達したので、気にせずに家へ向かって歩く事にした。
 メイシェン一人でなら強引にでも連れて帰ってくるのだが、レイフォンが一緒なのだ。
 そちらの方は安心していて良いだろう。

「なかなか、良い少年ではないか」
「うわ!」
「ひぃ!」

 突如、何の前触れもなく後ろからかかった声に驚き慌て、大いに混乱しつつ戦闘準備を終了させ振り返る。
 もちろん、ミィフィをかばうように行動するのは当然だ。

「そう慌てる事もあるまいて」

 声の主は、武芸者と思われる長身で白髪のオッサン。
 やや着崩した感じのある服装と言い、暗がりでは是非とも知り合いたくない。

「だ、だれだ?」

 活剄を最大限行使していても、現在のナルキにはその細かい表情は見えない。

「ふむ。ゲルニ君。トマス氏に会いに行ったら、偶然君たちが出かけるのを見かけたのでね。思わず後をつけてしまったのだよ」
「な!」

 家の付近からつけられていた事に、全く気がつかなかった。
 ナルキは当然としても、レイフォンが気が付かないなどと言う事が有るかと考える。

「有るかもしれん」

 今日あの場所だけならば、レイフォンが見逃してしまったとしても、何ら疑問はない。
 ナルキから見ても、話し始めるまで過度の緊張に囚われていたのだ。
 熟練した武芸者の追跡に気が付かなくても、仕方が無いと言えない事もない。

「ふむ。とりあえず、トマス氏に会いに行きたいのだが、これはどうしたものかね?」

 そういいつつオッサンが左の掌を指し出したそこには、小さな何かの機械が乗っていた。

「げげ!」

 それを見て大いに慌てるミィフィ。

「ミィィ?」

 てっきり、二人をそっとしておこうと決めたと考えたのだが、それはナルキの考え違いだったようだ。
 活剄を使い視力を強化しなくても、おおよそ今の反応で理解できる。
 小型のカメラとマイクで、一部始終を記録しておこうと画策していたと言う事が。

「え、えっと」
「・・・・・。まあ、いいけどな」

 どうせあの二人では、何かできるとは思えないから、気にせずに流す事にした。

「うむ。彼はなかなか良い乙女たちと知り合ったようだな」

 なぜか、感心しているオッサンを伴って、ナルキは我が家へと足を向ける事にした。

「はあ」

 小さくため息をつきつつ。

「それはそうと、あの二人をあのままにしておいて良かったのかね?」
「それは、問題無いと思います。どうせ何も出来ないでしょうから」
「そうそう。何かあってもすでに売約済み。一向に何の問題も無いですって」

 二人の認識は一致を見たのだが。

「しかしな。私は彼よりもやや年上だったが、乙女の柔肌に心奪われたものだよ」
「それは、まあ、心奪われているんでしょうけれど、二人とも初心ですからね」

 頬を突かれただけで、蒸気を上げるメイシェンは元より、突くレイフォンも蒸気を上げてしまうのだ。
 この先の進展は当分望めない。

「ふむ。ならば何も言うまい。万が一の事があっても、お互いが納得しているのならばそれで良しとしよう」

 何故か非常に偉そうな事を言いつつ、付いてきたオッサンの足が止まった。
 振り返ってみると、何か耳を澄ませているような感じだ。

「どうしたんですか?」

 疑問に思ったナルキだが。

「いや。何でもない、気にしないでくれたまえ」

 そう言われて気にしないわけではないのだが、とりあえず家はすぐ目の前だ。
 ふとここで、今まで暗くて良く分からなかったオッサンの顔を見る事が出来るようになっている事に気が付いた。

「?」

 その横顔には、どこか見覚えが有るような気がしなくもないのだが、何故か思い出せなかった。

「ここです」
「うむ」

 やはり偉そうに頷くと、呼び鈴を押してしまう。
 押してから正確に三秒後。

『はい。何方ですか?』

 帰宅してくつろいでいるふりを装っているらしいトマスの、少し緊張した声が聞こえた。
 当然、レイフォンがどう言う話をしたのか気になっているのだ。

「私だ」
『どわ!!』

 オッサンが一言発しただけで、中のトマスが非常に慌てた事が分かった。

『す、すぐに開けますので』

 なにやら、テーブルを蹴ってしまった音や、コップの割れる音などを響かせつつ、トマスの足音が扉の向こう側にやってきた。

「そう、急かずとも良いものを」

 なにやらつぶやいている間に、扉が壊れないぎりぎりの力加減で開け放たれた。

「だ」

 何か言いかけるトマスの口元に、活剄を使って移動したらしいオッサンの掌が押し当てられた。

「ここでその呼び方は拙かろう。お邪魔しても良いかね?」
「む、無論ですとも」

 なんだか今夜は、少し慌てる人間が多いような気がすると思いつつ、ミィフィと別れたナルキは自宅へと入り。

「? どうしたんですか? なんだか顔中アザだらけですけれど?」

 そう。明るい照明の中で見るオッサンの顔は、あちこちアザが出来ていて、かなり酷い状態なのだ。

「うむ。若い者と組み手をやってしまってね。若さにはもう太刀打ちできそうにないよ」

 がははは! と、豪快に笑うオッサンの顔に、やはり見覚えが有るような気がするナルキだが、とりあえずお茶を出すために台所へと向かった。
 
 
 
 誰かがきたようなので自室から見に来たシリアは、リビングの入り口に立ち尽くしていた。
 ソファーに腰掛けているのは三人。
 顔色が悪いトマスが、全身から冷や汗を流しているのは、夫婦喧嘩の時によく見る光景なのであまり気にしなくて良いだろう。
 問題なのは、並んで座ったアイリまで、顔色が悪く全身から冷や汗を流していると言う事だ。

「シリア? そこ、邪魔なんだが」

 後ろからお茶を持って現れたナルキに声をかけられるまで、硬直は解けなかった。

「ね、姉さん」
「うん? どうかしたのか?」

 問題の人物。
 二人の前に腰を下ろした初老の男性は、落ち着き払い、睥睨するわけでも威圧するわけでもなく、その場に座っているだけだというのに、凄まじい存在感を発散している。
 武芸者と言うよりは、人の上に立つ物の発するオーラとでも言える物が彼の全身からほとばしっている感じなのだ。

「そう堅くならんでも良い。私は別段詰問しに来たわけではないのだからな」

 そうは言うものの、存在そのものが非常に問題だと言う事は、初老の男性も理解しているのだろう。
 一向に堅さが抜けない二人に、かまうことなくナルキが用意したお茶に手を伸ばしている。

「実はな。レイフォン君の事なのだが」
「はい! 申し訳御座いません!!」

 いきなり平謝りに謝るトマスを認識したナルキが呆然としているが、シリアにはトマスの方の気持ちが十分に理解できる。

「だ、だれなんだ? あのオッサン?」

 小さな声のナルキの問いかけに、一瞬現実が認識できなかった。

「お、おっさん?」

 平然としている様に見えるだけで、ナルキも内心動揺しているのだと思ったのだが、どうやら男性の正体に気が付いていないだけの様だ。

「だ、誰って。ダン・ウィルキンソン。交差騎士団の団長」
「い?」

 シリアのその小声の回答を聞くやいなや、その場で硬直するナルキ。
 どうやら、本当に気が付いていなかった様だ。

「うむ。私の事などどうでもよろしい。問題はレイフォン君だ」

 こちらの事などお構いなしに話を進めようとするダン。
 実際には十分に意識しているのだろうが、それをおくびにも出さない。

「彼の覚悟は聞いた」
「か、覚悟ですか?」

 覚悟と言われても、シリアにはどんなものか想像も出来ない。
 汚染獣戦の時も、そのあまりにも凄まじい威力のまえに、力量を推し量るなどと言う事が出来なかった。
 そんな想像を絶する様な人の覚悟がどれほどのものか、シリアには分からない。

「彼はこう言ったのだよ。今はまだ何も出来ないが、戦う以外で生活を支えられる様になりたいと」
「!」

 それは、レイフォンという個人を知っているシリアでさえ、少々どころではない驚きを持って知る事実だった。
 武芸者としてしか生きてこなかったと思われるレイフォンが、ほかに生きる道を探すと言う事は、たぶんシリアが想像しているよりも多くの困難を伴うはずだ。

「あれほどの実力を持っていれば、傭兵などやれば左団扇だろうに、それを投げ捨てる覚悟があるのだ」

 だがよく考えてみれば、元々、武芸に対してはあまり積極的ではなかった事も事実だ。
 トマスがどうやってレイフォンを説得したか不明だが、始めの内はさほど熱心に教えているという雰囲気でもなかった。
 ならば、武芸以外の方法で生活を支えられる様になる事が、レイフォンにとっては良い事なのかもしれないと思う。

「あ、あの。団長」
「何だね、トマス君?」

 シリアが色々と悩んでいる間に、トマスが非常に恐る恐るとダンに声をかけていた。

「その覚悟とやらを、いつお聞きになったのですか?」

 ダンの顔を彩るアザから考えて、もしかしたらレイフォンと一戦交えたのではないかと思っていたシリアにしてみれば、少々驚くべき質問だ。

「ついさっきだよ」
「へ?」

 何故か、驚いたのはナルキだ。

「ついさっきって?」
「うむ。君達と一緒にここに来る途中に、レイフォン君が黒髪の乙女に向かって、生活できる様になったら結婚して欲しいとプロポーズしておった」
「なにぉぉ!」

 ダンの目の前だというのに、驚きと怒りに染まるナルキ。
 なんだかんだ言いつつミィフィと同じように、決定的シーンを見る事が出来なかった事が残念なのだろう。

「いや待て。レイフォンはすでにメイシェン君にプロポーズしていたはず。二度目の求婚か?」
「よく考えて見てください。レイフォンは求婚しましたが、メイシェンはまだ返事をしていませんよ」
「おのれレイとん。二人だけの時にそんなイベントをこなすとは!!」

 ゲルニ家の皆さんは、今日も元気だ。
 などと他人事にしておきたいのは山々なのだが。

「ああ。話の続きをしても良いかね?」
「!! は、はい。もちろんですとも」

 身内の世界から帰ってきたトマスが、姿勢を正してダンに返事をする。
 この辺の変わり身の早さは警察官だからなのか、それともアイリの夫だからなのか。
 その辺はいつかきちんと理解したいところだ。

「うむ。それでなのだが。留学させてはどうかと思うのだが」
「留学ですか?」

 動揺著しい三人から、会話の主役を奪ったシリアが聞く。

「うむ。前回の汚染獣戦の影響で、レイフォン君を探し出そうというものが若干だがおるのだ」

 しつこいというのは、少し話が違う。
 あれだけの実力者が正体不明というのは、控えめに言っても少々寝覚めが悪いのだろう。

「成る程。しばらくヨルテムから離す事で、冷静さが戻るのを待つわけですね」
「そうだ。そして、彼の欲しがっている物も手に入るだろう」

 ダンの考えは非常に理解できる。
 だが。

「レイフォンさんの様な実力者を、武芸から遠ざけるのですか?」
「それも考えたのだが、彼が武芸を止めたいと望むのを、無視してしまうのはよろしくない」
「それは、確かにそうですね」

 別段、ヨルテムの戦力が少ないというわけではない。
 ならば、レイフォンの生きたい様にさせるのも、一つの手段ではある。
 ちょうど、都合の良い事もいくつかあるのだ。

「分かりました。ちょうどナルキも留学する予定でしたので、レイフォンも付けましょう」
「ほう? ご息女も何か悩みがあるのかね?」
「はい。その答えを見付けるまでは、ヨルテムから遠ざけた方が良いと考えました」

 ナルキが留学する経緯は十分にシリアも理解している。
 ついでにレイフォンも行く事になれば、それはそれで良いことのようにも思う。

「だが、黒髪の乙女はどうなるのだ? まさか、幼子と二人で長い間待てなどとは言わぬであろうな?」
「お、おさなご?」

 いきなり飛び出してきた単語で、シリアは活動を停止。
 すでに、そう言う関係になっていて、しかも、もうすぐそう言う事になる。
 あのレイフォンがとか、あのメイシェンがとか、トリンデン家の皆さんがとか、色々な疑問があたりを飛び回っている。

「問題有りません。留学組には、その乙女も混ざっていますので」
「ならば良い。では、私も準備にかかろう」

 そう言って立ち去ってしまうダン。

「お、幼子って?」
「あの人の言う事をいちいち真剣に聞くんじゃない。レイフォンと同じで少し問題のあった人だから」

 疲れ気味のトマスが呟くのと、玄関の扉が開き、レイフォンが帰ってくるのは同時だった。



[14064] 第一話 十頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:09


 夕食の支度が始まる前に、メイシェンがナルキ家を訪れる事は、割と珍しくない。
 最近では、殆ど毎日やってきている。
 それは、欠食児童な武芸者がいるからでもあるし、このところ我が家にいると少し騒がしいからでもあるのだ。
 だが。

「メイシェン。これを上げるよ」
「ひゃ?」

 傷も汚れもないレイフォンが指し出したのは、安売りのボールペン。
 この間一緒に買いに行った一品だ。

「へへ。燃え尽きちまったぜ。真っ白によ」
「レ、レイとん?」

 なにやら凄まじく不吉な事を言いつつ、壁を背にした丸いいすに座るレイフォン。
 いきなりその首が前に倒れ、すべての力が抜けてしまう。

「ひゃ!」

 思わず肩を支え、転倒しない様にする。
 上半身だけとはいえ、運動が苦手なメイシェンがレイフォンの体重を長く支える事は不可能だ。
 この部屋にいる二人の支援が絶対的に必要だ。

「っち! この程度の事で死にかけるなんて、情けないにもほどがある」

 憤懣やるかたないミィフィが、教科書を片付け始める。

「全くだ。私達の特訓の時には不死身の無敵だったのに、体を使わないとなったらこの有様か」

 レイフォンの襟首をひっつかみ、ベッドへ放り込みつつ不満を呟くナルキ。
 かなり乱暴に扱われているにも関わらず、一向に何かするわけでもないレイフォンは実のところ。

「寝ちゃったね」

 文字通り、死んだ様に眠っている。
 留学が決定してからこちら、レイフォンにはナルキとミィフィとメイシェンによる勉強尽くしの毎日が訪れていた。
 本人も認めている事だが、武芸者として全力疾走してきたために、学力が非常に低い。
 普通にやっていたのでは、奨学金はおろか入学さえ危ぶまれる状況。
 結局のところ、スパルタ的に詰め込み教育をしているのだが、本人に勉強するという習慣がないために、こちらもはかどっていない。

「しかし、努力はしているんだよな、レイとん」
「うん。努力している事は認めるけれど、なかなか結果が出ないよね」
「・・・・」

 二人の会話を聞いていて、メイシェンはふと思う。
 もしかしたら、レイフォンは努力しても報われないという、呪いにかかっているのではないかと。
 なんだか凄まじい説得力があるような気がしてならないが、それを認めるわけにはいかないのだ。

「そ、そんなことないもん!」

 突如思いついた仮説を、力の限り否定する。
 その余波が消えた頃になって、ふと、視線を感じた。

「珍しいな。メイッチが大声出すなんて」
「にひひひひひ。レイとんと一緒に学校行けるかどうかの瀬戸際だからね」

 にやり笑いを浮かべる二人の視線から逃れるすべは、無い。

「そ、そうだ。私達も勉強しないと」
「そんなもん。とっくにやっているさ。レイとんに教えるために散々な」
「そうそう。レイとん以外は特に問題無い成績だし、今のまま進めば何とか入学は出来るはずだよ」

 そう言われてみれば、確かにそれほど成績が悪いわけではない。
 ややミィフィの成績は悪いのだが、それでも入学試験に落ちると言うほどではない。たぶん。

「じゃあ、今日はこれまでと言う事で」
「そだね。レイとんが寝たんじゃ、これ以上は出来ないからね」

 二人の意見が一致した様なので、メイシェンは逃げる算段を始めた。
 時間が出来たら、間違いなく話の続きがやってくるから。

「そういえば、レイとんのプロポーズには答えたんだっけ?」
「あう」

 不意打ちをミィフィが放ち、それがメイシェンの胸を直撃した。

「そう言えば、有耶無耶になっていたっけな」

 レイフォンの過去を聞いてから、おおよそ一月。
 思い出した様にこの話題が上っている昨今。

「あう」

 後ずさろうとして、すぐにベッドのフレームに退路を断たれてしまった。
 これ以上後ずされば、レイフォンの上に倒れてしまいかねない。

「にひひひひひ。大丈夫だよ。レイとんは昏々と眠っているから」
「そうだぞメイッチ。今なら喋っても誰も聞いていないぞ」

 両親は働きに出てしまっている。
 この家にいるのは、後シリアだけ。
 そのシリアも、先ほど夕飯の買い出しに出てしまっている。
 おそらく、これも計画の一部だったに違いないが、分かったところで意味はない。

「え、えっと」
「うんうん」

 視線を泳がせて、逃げ道を探しつつ時間を稼ぐ。

「あ、あのね」
「なんだ?」

 だが、シリアはさっき出て行ったばかり。
 一時間ほどは戻ってこないはずだ。

「あうあう」

 無意味な声を上げつつ、レイフォンが起きる事に最後の望みを託す。

「すぅぅぅう。すぅぅぅぅぅう」

 規則正しい寝息が聞こえるだけだ。

「ひゃぅぅ」

 腰砕けになってしまった。
 もはや、限界点間近。

「う、うぅぅん。僕に近づくな」

 そんなメイシェンを救ったのは、レイフォンの苦しげな寝言。

「? 何に襲われているんだ?」
「にひひひひひ。もしかしてメイッチ?」
「それはないよ」

 レイフォンならば、間違いなくメイシェンが襲いかかったとしても、平然とよけられるのだ。
 だから違うと言う事にして、寝言の続きを聞く。

「うぅぅん。来るな。ボールペンの分際で、僕を襲うなぁぁぁ」

 なにやら凄まじい形相で、とんでもない事を言っている。

「起こしてあげた方が良いのかな?」
「い、いや。やっぱり寝かせておいた方が、親切じゃないか?」
「そうだよね。ボールペンに襲われるなんて、夢だって分かっているだろうし」

 三人の意見はおおむね一致を見たが。

「ぼ、僕を自由にしてくれ。参考書の分際で、僕を縛るな!」

 今度は、参考書に絡まれている様だ。

「ど、どうしよう?」
「どうするって」
「面白いから、もう少し見ていよう」

 どうするか、行動の選択に迷っている間に。

「な、何でだ! 教科書ごときが、何で切れないんだ!!」

 今度は、教科書と戦っている様だ。

「ど、どうしよう?」
「え、えっと。とりあえずこういう時は、メイッチが手を握ってみるってのはどうだ?」
「それは名案だね。レイとんだって、メイッチに手を握られていれば、安眠できるかもしれないし」

 とりあえず、ナルキとミィフィの提案を受け入れ、うなされているレイフォンの手を握ろうとした。

「僕に触るな!」
「ひゃぅ!」

 いきなりの大声で、思わず心臓が止まりそうになった。

「円周率なんか、だいっ嫌いだぁぁぁぁ!!」

 円周率に縛り上げられる夢でも見ているのかもしれない。

「お、起こしてあげようよ」
「そ、そうだな。さすがにこれは少し拙い」

 ナルキも、同情票に傾いた様なので、ミィフィを見る。

「そうだね。そろそろ起こして運動させないと、明日からの予定が狂うね」

 三人の意見が一致したので、恐る恐るトレイフォンに近づく。

「にひひひひ。王子様を起こすには、やっぱり口付けだよね」

 後一歩でレイフォンに触れるという瞬間、ミィフィのとんでもない発言が飛び出してしまった。
 そして、思わず苦しげに歪められた、レイフォンの唇を凝視してしまう事一秒。

「ひゃぁぁぁ」

 悲鳴を放って飛び退る。

「にひひひひひひ。さあメイッチ。今ならレイとんの唇を奪い放題だぞ?」
「ち、ちがうもん」

 何が違うのか全く理解不能だが、とりあえずそう言いながらミィフィを睨む。

「うんうん。奪う必要なんか無いもんね。すでにメイッチはレイとんのお嫁さんだし」
「きゅぁぁぁ」

 今までと少し違う悲鳴を上げてしまった。

「ち、ちがうもん」
「ほうほう。レイとんのプロポーズは結局のところ失敗に終わるのだね」
「あうあう」

 そう言う意味ではないのだが、ミィフィが言うとそうなるかもしれないと思ってしまう。

「いい加減にしろよな。そろそろ止めておかないと、本格的にメイッチが怒るぞ?」
「うむ。ではそろそろ遊びの時間は終わりだね」

 うんうんと頷きつつ、レイフォンの方を見る。

「じゃあ、普通に起こしてあげたら?」
「う、うん?」

 ミィフィの許可が下りたので、今までよりも慎重に、レイフォンに近づいた。

「リーリン」
「!」

 その瞬間を見計らっていたかの様に、レイフォンの唇が小さく動き、女性の名前らしき物を呟いた。

「だ、だれだ?」
「む、昔の知り合いじゃない?」

 驚愕しているのはメイシェンも同じなのだが、距離が近かったせいでレイフォンの表情を正確に見る事が出来た。
 それは、グレンダンにいた頃を懐かしんでいる物では、決してなかった。
 どちらかと言えば。

「アイリーン、イザベル、エドガー、ヴィルジニー、オリビエ。死なないで」

 唯一残った左目から涙を流して、何に対してかは分からないが、懇願しているのだ。

「カルロ、ギオーム、クラウディア、ケビン、シルヴァーナ、僕が働くから、働いてお金をもらってくるから、だから死なないで」

 今まで聞いた事もないほど、真剣で真摯で、儚い願いを唇から放つたびに、レイフォンの顔を悲しみが支配してゆく。

「とうさん。僕が戦ってお金を稼いでくるから、だから、そんな悲しい顔は止めてよ。お願いだから」

 何かにすがる様に、その手が空を掴む。

「・・・」

 悪夢を見ていたレイフォンは、いつの間にか、過去を見てしまっている事を知った。
 だからメイシェンは、伸ばされたその手を握る事しかできない。

「ぐむ」

 後ろで何か声にならない抗議があがった気もしたが、今はそれどころではないのだ。
 半月ほど前に、レイフォンが武芸者を目指したその理由を聞かされた。
 その結果、レイフォンは呼吸困難に陥り、ナルキやミィフィでさえ数日間暗い表情が抜けなかった。
 メイシェンに至っては、実際に目の当たりにしたわけでもないのに、時々夢に見て夜中に飛び起きる。
 実体験としてレイフォンを形作っているとなれば、その重さはメイシェンの比でない事も理解している。
 理解してしまっているからこそ、手を握る以外に出来る事がないのだ。

「もう、大丈夫だからね」

 ここはヨルテムであって、グレンダンではない。
 過去を持つのは仕方がないにせよ、それに囚われる事は、出来れば止めて欲しいのだ。
 つらい事ならば、なおさら。
 そう思いつつも、一つの疑問が浮かんでいた。

(何で、女の子の名前が多いの?)

 こればかりは、いつかレイフォンに問いたださなければならないと、心に誓いつつ、手を握り続ける。
 
 
 
 買い物を終えて帰宅したシリアは、なんだか非常に疲れている少女二人を確認してしまった。
 リビングにあるソファーに長々と伸びたその姿は、あまりにも嫁入り前の乙女からはかけ離れている。

「どうしたんですか?」

 両手に荷物を持ったまま、リビングの入り口で固まるのもどうかと思うのだが、残念な事に、ソファーは二人によって占領されているのだ。

「いやね。上で二人がラブラブでさ」

 ミィフィが脱力しているのが疲れではなく欲求不満からだと言う事を、何となく認識。

「二人って、何か出来るんですか?」

 メイシェンとレイフォンだ。
 せいぜいが頬を突きあっている程度のはず。
 それが欲求不満の原因かとも思ったが、それにしてはナルキの表情がさえない。

「まあ、レイとんが問題だと言う事に変わりは無いんだがな」

 こちらも、なんだか歯切れが悪い。
 これから察するに、シリアがまだ知らされていない、レイフォンの過去が原因らしいと言う事が分かった。
 もしかしたら、メイシェンが慰めているのかもしれない。
 どうやって慰めているかは不明ではあるのだが、十分にあり得る状況だ。

「成る程。では、二人がいない以上、食事はどうするかを考えなければなりませんね」

 二人の事にこれ以上深入りするのは流石に無粋と思い、強制的に話題を転換する。

「メイシェン姉と妹は?」

 名前を呼んでもらえない事に不憫を感じつつも、聞かれた事には答える。

「今日は補習とかで遅くなるそうです」

 姉の成績は、レイフォンほどではないにせよかなり悪い。
 妹は部活で遅くなる事が日常茶飯事だ。

「家の弟に押しつけようか?」

 ミィフィの家には当然弟がいるのだが、そちらはそちらで非常に問題があるのだ。

「変に手の込んだ物を作って、自滅するのがオチです」

 もう少し基本を学んでからやればいいと思うのだが、何故か、いきなり難しい事を始めて、失敗すると言う事を繰り返しているのだ。
 家計にとって、非常に悪い事なのだが。

「つまりだ。現状を打破するためには、レイとんかメイシェンが活動できる様にならなければならないわけだな」
「うぅぅぅぅん? 夕飯いつになるだろう?」
「自分達で作るという選択肢は、始めから無いんですね」

 ナルキもミィフィもそれなりに作る事は出来るのだが、何時もメイシェンがいるためにやらないのだ。

「これじゃあ、留学したら大変ですね」

 もちろんメイシェンの事を心配しているのだ。

「レイとんにがんばってもらおう」
「そうだな。私も手伝うつもりではいるのだが、レイとんを当てにしておこう」

 何事に付けてもたいがい率先してやるナルキだが、料理だけは例外の様だ。

「はあ。僕が下ごしらえをしておきますよ」

 それほど上手くはないのだが、二人が動かない以上、やるしかないのだ。

「頑張ってねぇ。お姉さんは応援しているから」
「一応手伝う」

 やっとの事でナルキが動き出したのだが、食事が出来るまでの道のりは、まだまだ遠い様だ。
 
 
 
 入学試験に向けた勉強が佳境を迎えようとしている時期を見計らったかの様に、トマスの元へ手紙が届いた。
 しばらく前にデルクに出した手紙の返事だ。

「それは良いのですが」

 目の前にいるのは、やっとの事で捕まえた交差騎士団団長の、ダン。
 忙しい彼と面会すると言う事が、どれほど大変かは知っているつもりだったのだが、まさか予約で一週間待たされるとは思いもよらなかった。
 まあ、ダンの計らいがあったので、一日しか待たなかったのは非常な幸運だった。
 彼の執務室は質実剛健、装飾らしき物と言えば、孫が書いたと思われる絵が数点のみ。
 非常にアンバランスではあるのだが、ダン・ウィルキンソンらしいと言えば、非常に彼らしい部屋だ。

「拝見する」

 そう言いつつ、ダンの手が封筒から便箋を取り出した。
 封筒も便箋も何の飾り気もなく、ここからすでにデルクという人物を予測できてしまう。
 トマスが手紙を受け取った瞬間、それを開ける事への恐怖はなかった。
 だが、一読してみて、トマスが想像していたデルク像とは、やはりかなり違ってしまったのだ。
 ある意味、レイフォンを見ていれば予測が出来たはずなのだが、まるきり甘かったと言わざる終えない。
 
 前略。この度はご丁寧なお手紙を頂いた事、誠にうれしく思います。
 また、我が子レイフォンを保護して頂いた事に、限りない感謝をいたします。
 さて。レイフォンがグレンダンを追放される経緯はご存じとの事。
 ならば、レイフォンに伝えて頂きたい。
 グレンダンでの事の責任、その全ては私にあるのだと。
 我が身の未熟もわきまえず、感情のままに孤児を引き取り、経営難に陥った事。
 レイフォンの武芸の才にばかり目が行ってしまい、他の大切な事を教える事を怠った事。
 全ては我が身にこそ、その責任が有るにもかかわらず、結果としてレイフォンに全て押しつけてしまいました。
 更に、帰宅したレイフォンの事を、守ろうとしたはずの子供達が批難した際、私自身も衝撃を受けていたとは言え、彼を庇う事さえ出来なかった不甲斐なさ。
 全ては、私に責が有る事を、どうかレイフォンにお伝え願いたい。
 そして、自分を責める必要はない。悪いのは無能な養父だと。
 私が出来なかった事を、貴方にお頼みするのは心苦しくはありますが、どうか、レイフォンに伝えて、レイフォン自身が自分を許せる様に、導いて頂きたい。
 どうか、お願いいたします。
 敬愛する、トマス・ゲルニ様へ
 デルク・サイハーデン
 
 全てを読み終えたらしいダンが、深く溜息をつくのを眺めつつ、トマスは理解していた。
 間違いなく、デルク・サイハーデンは、レイフォン・アルセイフの父なのだと。

「レイフォン君の評価は、殆どそのままデルク氏の評価になるわけだな」
「そうなります」

 だからこそ困るのだ。

「これを読んだレイフォンが、ムキになって自分を責める危険性は、かなり高いと思われます」

 と言うよりは、むしろそうならない事の方を想像できない。

「だからこそ、私に相談している訳か」

 普通に渡して事態が好転するのならば、いくらでもそうしたのだが。

「残念ながら、悪いところまで二人は似てしまっています」
「大昔は、父が息子を育て上げ、結果としてよく似た人物になったと聞いていたが」
「今回ばかりは、残念な事ですが、これを渡す事ははばかられると」

 だが、渡さなければ渡さなかったで、非常な問題が出てしまうのだ。

「父に見捨てられたと、レイフォン君が思うのは非常に拙いな」
「はい。これを渡さなければ、そうなると確信してしまっています」

 渡しても渡さなくても、レイフォンが自分を追い詰めてしまうのに変わりはない。

「困ったな」
「困りました」

 頼みの綱だったダンまで、この有様ではどうして良いものかトマスには分からない。

「・・・・。しかし」
「はい?」

 暫く考えていたダンが、なにやら思いついた様にトマスを見る。

「君は、私に助言を求めてきたな」
「はい。他に頼れる人を思いつけなかった物ですから」

 同じ班の連中にも見せたが、トマス以上に困惑するばかりだった。
 ならばと、トマス達よりも人生経験が長く、種々雑多な問題に直面してきたであろうダンを頼ったのだ。

「ふむ。一つ聞くが」
「一つと言わず、この問題が解決するのならば、いくらでもお尋ねください」

 藁にも縋ると言うのは、もしかしたらこんな心理状況なのかも知れないと思いつつ、ダンの質問を待つ。

「レイフォン君は、君を信頼しているかね?」
「は?」

 思わず質問の意味が理解できなかった。

「つまりだね。君が私を頼った様に、彼も君を頼ると思うかね?」

 補足の質問で、トマスも理解できた。

「・・・・。まだ、積極的に私を信頼しているとは言い切れませんが、それでも、多少なりとも頼りにされていると判断しています」

 汚染獣の襲撃の少し前に、レイフォンの悩みを少しだけ聞いた事がある。
 それ以降も、悩んでいるときに声をかければ、ぽつぽつと話してくれる様になってきた。

「ならば、これを渡すべきだな。他の人間の考えを聞くという行為を知っているのならば、後は君の腕次第だ」
「私の、腕ですか」

 武芸者で警察官なんかやっている以上、それなり以上には相談を持ちかけられる事は多い。
 だが、今回のこれは、少々トマスの手に余る様な気もするのだ。

「勘違いしてはいけない。君に押しつけて、後は知らぬ存ぜぬなどと言うつもりはない」

 いざとなったら、ダンも巻き込めと言っているのだ。

「了解しました。では、これはそのままレイフォンに渡したいと思います」
「うむ」

 敬礼一つ残して、ダンの部屋を後にする。
 願わくば、トマスが思っているよりも、レイフォンが他の人を頼りにするという行為を習得していてくれる様に願いながら。
 武芸者として超絶的な才能を持つ故に、殆ど一人で走ってきてしまった少年が、少しだけ周りを見る余裕を持っていてくれる様に願いつつ。
 
 
 
 かなり角度がついてしまった日差しを浴びるリビングのソファーで、レイフォンがそれを手にしたのは、暫く前の話だ。
 おおよそ五分前。
 その五分という時間を、ナルキの見ている前で、封筒を持ったまま固まり続けている。
 ツェルニへの入学試験が終わり、後は結果を待つだけという状況でなければ、とてもこんなのんびりとはしていられない。

「レイとん」

 心配気にメイシェンが声をかけるが、それでもレイフォンは動かない。
 彼の養父からの手紙をトマスが持ってきたと聞かされたときには、ナルキはかなり喜んだ。
 レイフォンの事をデルクが許していると、そう思えたからだ。
 ナルキもメイシェンもミィフィも、それが許しの手紙である事を疑っていない。
 そう。当事者たるレイフォン以外は、誰も疑っていない。
 トマスが読めと言うのだから、絶縁状が入っているわけはないと分かっているはずなのに、それでもレイフォンはその封筒を開ける事が出来ない。
 半年以上の時間を一緒に過ごして分かった事だが、実はレイフォンは非常に臆病だ。
 食糧危機と貧困が、どれほどレイフォンを追い詰めていたか、想像するだけでも恐ろしいほどに、臆病なのだ。
 そして、汚染獣との戦いの時は頼りになるのだが、それ以外では優柔不断きわまりない。
 明らかに好意を寄せているメイシェンとの付き合い方にも、それは現れているし、この手紙の事もそうだ。

「レイとん」
「メイシェン。僕は、これを読んで、良いのかな?」

 今更そんな事を言っているあたり、渾身の力で殴り倒したい衝動に駆られるのだが、それをするわけにはいかない。
 全ては、レイフォンが決めなければ意味がない。
 トマスにそう釘を刺されているから。

「サイハーデンに泥を塗って、養父さんに迷惑をかけて、弟や妹に批難された僕が、これを読んで良いのかな?」

 雄性体を一撃で切り刻んだ、グレンダン最強の十二人の一人。
 そのレイフォンが、今、たかが封筒を持つ事さえ出来ないと、手が震えている。

「大丈夫。きっと、大丈夫」

 実は、ナルキもそろそろ限界なのだ。
 先ほどから開封を急かそうとするミィフィを押さえているのだが、一般人を怪我させない様に押さえるのは、結構大変なのだ。

「う、うん」

 おずおずと、本当にゆっくりと、レイフォンの手が開封された口を広げ便箋を取り出す。
 恐る恐ると、それを開き、一字一句読み間違えない様に、慎重に視線が文章を追って行く。
 一度、下までたどり着いた後、再び最初に戻り、再び読み直す。
 その動作を何度も繰り返し、手紙の内容を理解するために、ゆっくりと瞳を閉じる。
 ナルキも、ミィフィを捕まえていた腕の力を緩め、レイフォンの次の行動を待つ。
 ただただ、待ち続ける。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ナルキ家のリビングを支配している、緊張感は全く衰えない。
 このような空気に、長い時間耐えられるはずのないメイシェンだが、それでもレイフォンから視線を外さず、待ち続ける。

「とうさん」

 どのくらい経ったか分からなくなるほど、緊張している時間が経過した頃、ぽつりとレイフォンが呟いた。

「トマスさん」
「何だね、レイフォン?」

 左目がゆっくりと開き、トマスを見つめる。

「とうさんは、僕を許してくれたのでしょうか?」

 そのレイフォンの言葉に、思わずミィフィが突っ込みそうになるのを、何とか不発に押さえた。

「レイフォン。デルク氏がその手紙で君の事を許していないとしたら、どこをどう探しても、許される人なんかいないと思うよ」

 うんうんと、ミィフィも頷いている。
 当事者としては誰かに確認したかったのだろうが、あまりにも間抜けな質問にも思える。

「そ、そうなんでしょうか?」

 非常に自信なさげだ。

「そう思うよ。私に君の事を頼んでいただろう? それは、レイフォンが立ち直ってくれる事を願っているからだと思うよ」

 非常に熱心にトマスが断言する。

「・・・・・。僕は、本当に、許されて良いのかな?」

 そう呟いたきり、俯いてしまう。
 これはかなり駄目だ。
 思考が後ろ向きなのは仕方が無いが、罪悪感ばかりが先に立ってしまい、一歩も前へ進めていない。
 それだけ、デルクとサイハーデンを大事にしていたと言う事なのだろうが、かなり度が過ぎている様な気もする。

「レイフォン」

 珍しく、メイシェンが本名で呼んだ。

「大丈夫。デルクさんは、レイフォンが不幸になる事を望んでいないから」

 血はつながっていないが、親子である事は十分に理解している。
 と言うか、何で血がつながっていないのか、そちらの方が理解できないほど、デルクとレイフォンは似通っている。

「だから、えっと、あ、あの」

 メイシェンの方も、何をどう伝えたらいいのか上手い言い回しが見つからない様で、困っている。

「本当に、僕は」

 再び、小さく呟いたレイフォンの視線が上がり、トマスをとらえた。

「僕も、とうさんに手紙を出してみようと思います」
「そうだね。直接話は出来ないが、そうするのが一番良いだろうね」

 大事そうに便箋を封筒に戻し、メイシェンの頭を撫でたレイフォンは、席を立った。

「大丈夫なのかね、あれ?」

 レイフォンが部屋からいなくなったとたん、今まで喋れなかった鬱憤を晴らす様に、ミィフィの声がリビングにこだまする。

「まだ何とも言えんが、それでも、他の人に意見を聞くだけの余裕があるのだから、大丈夫だと思う」

 確かにグレンダンにいた頃の話を聞く限り、レイフォンは周りが見えずに猪突するタイプだった。
 それが今は、周りの人の意見も聞いている。
 格段の進歩だと言えない事もない。

「大丈夫だよ。きっと、大丈夫だよ」

 メイシェンもそう言う事だし、ナルキは二階に上がってしまったレイフォンを、もう少し見ていようと決意を固めた。
 
 
 
 散々悩んでいたレイフォンも、三時間ほど部屋にこもっていた後に、やっと出てきた。
 だが、その姿は見るからにボロボロで、ナルキとシリアが三日特訓を受けた後よりも、更にボロボロだった。

「な、何をやっていたんだい?」

 たまらずトマスが声をかけるが、ミィフィには何となくレイフォンが理解できていた。

「・・・。手紙を書いていました」
「は?」

 思わず固まるトマスと、他の二人。

「うんうん。喋る事も苦手なレイとんが、誰かに手紙を書くなんて、そうそう出来る事じゃないもんね」

 恐らく、生まれて始めて書いた手紙なのだろう。
 ならば、なおさら。
 よくぞ三時間で書き上げたと、褒めてやりたいほどだ。

「まあ、手紙が書けたのならば、送るとしよう。私の物と一緒で良いかい?」
「はい。お願いします」

 トマスに手紙を渡したレイフォンが、足下も危なっかしく立ち上がり、そして崩れ落ちた。

「レ、レイとん?」

 床に伸びてしまったレイフォンを心配してメイシェンが声をかけるが、ミィフィは少し違った事が気になっていた。

「どんな内容なんだろう?」
「馬鹿。人の手紙を読むんじゃない」

 ナルキに止められたが、トマスを見ると少し心を動かされた様だ。

「い、いや。まさかとは思うのだが、誤字脱字が連続していたりしないだろうか?」

 うんうんと頷いてトマスに同意する。

「い、いや。いくら何でも、そんな子供じみた間違いはしないだろう」

 自信なさげにナルキが否定するが。

「円周率の存在を知らなかった」
「うぐ」
「電気のアンペアーとボルトとワットが理解できていなかった」
「ぐぐ」

 まだまだ上げればきりがないほど、レイフォンの学力の低さは折り紙付きだ。

「だ、大丈夫だと思うよ」

 自信なさげなメイシェンの声がかからなければ、きっと開封する事に誰も反対できなくなっていただろう。

「何でそう思うのかね?」

 誰もが聞きたい質問を、代表してトマスがする。

「これ」

 メイシェンがレイフォンの手を開かせると、中から出てきたのはポケットサイズの辞書。
 あちこちめくった跡がくっきりと残っている。

「どう判断すべきだと思う?」
「全ての単語を辞書で引いて綴りが間違っていないか、確認した」

 ミィフィが想像するレイフォンならば、間違いなくこのくらいの事はやる。

「やはり、そうか」

 トマスもおおむね同意した様子で、レイフォンの手紙を自分の書いた物と一緒に封筒にしまい、封をした。

「あああああ!」
「いやね。本当に誤字脱字が気になっただけだから」

 抗議の声も聞こえない様に、投函するだけになった封筒を内ポケットにしまうトマス。

「うぬぬぬぬぬ」

 記者魂が、叫ぶのだ。
 レイフォンの手紙を読めと。

「色々あったんだから、少し野次馬根性は押さえろよ」
「だって。知れば知るほど面白いんだもん、レイとん」

 これほど、色々ある人間はそうそう転がっていない。
 出来ればもっといじって楽しみたいのだが、メイシェンの視線が厳しくなり始めたので、当面あきらめる事にした。

「兎に角だ。私はこれを出してくるので、レイフォンを部屋へ運んでおく様に」
「分かったよ、父さん」

 色々思うところがあるが、多分デルクからの返信はレイフォンが泣きながら読むだろうから、その時に聞き出せば良いかと計画を立てつつ、ミィフィも自分の家へと戻る事にした。
 入学試験は終わったが、もうすぐやってくる長期休暇の計画も立てなければならないからだ。



[14064] 第一話 十一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:10


 手紙を出してから、少しの時間が流れた。
 もちろん、ナルキとシリアの鍛錬は続けているし、トマス達との組み手も同様だ。
 だが、それでもレイフォンは非常に落ち着かない。
 時間がある時は、部屋の中をうろうろウロウロと歩き回り、座っては貧乏揺すりをしている有様だ。
 メイシェンが近くにいると、何となく落ち着けるので今日はそれほど酷くは無いと思ったのだが。

「落ち着け馬鹿者!!」
「ぐべら」

 ナルキの鉄拳制裁が、レイフォンの側頭部へと襲いかかる。
 普段なら平然と避けるなり受けるなり出来るのだが、デルクからの手紙を待っている今はとても無理な話だ。

「グレンダンはあまり放浪バスが寄りつかないんだ。返事が来るまでかなり時間がかかるだろう!」
「り、理屈では理解しているんだけれど」

 理解はしていても、納得が追いついていないのだ。

「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 咆哮を上げるナルキの鉄拳が、更に飛んで来るが、それは何とか回避した。
 もちろん、ゲルニ家のリビングに被害を出さない様に、細心の注意を払いつつ、特に観戦している三人に迷惑がかからない様に。

「避けるな!!」
「無理言うなよぉぉ」

 ムキになって殴りかかってくるナルキを捌きつつ、何となく、今のこの瞬間が非常に貴重な物である事を理解してしまった。

「もらった!!」
「上げない!」

 もはや、普段の鍛錬とあまり変わらない拳打の応酬になっている。
 本来レイフォンは肉弾戦は苦手なのだが、今のナルキ相手ならば十分に通用するレベルではある。
 まあ、ナルキの方も全く本気ではないのだが。

「元気だね、二人とも」
「そうですね。何時もの事ながら」
「合格通知も、もうすぐ来るのに」

 メイシェンの一言で、レイフォンの集中力が一気にナルキから離れてしまった。

「え? ごぼべ」
「戦っている途中で、よそ見などするからだ!!」

 顔の正面からナルキの正拳突きを貰ってしまい、思わず鼻のあたりを押さえてうずくまる。

「ご、合格通知って?」

 実は、この単語の意味が分からなかったのだ。

「ツェルニの」
「? ツェルニって、何だっけ?」
「あ、あう。学園都市」
「・・・・・。ああ。そう言えばそんな事もあったかも知れない」

 実際問題、デルクからの返事の方が遙かに気になっていて、合格しているかどうかという心配をすっかり忘れていたのだ。
 そもそも、留学の事も殆ど意識に上らなかった。

「おまえ。本当に脳みそ入っているのか?」

 ナルキが恐る恐るレイフォンの頭を打診でもするかの様にたたく。

「入っているよ。僕だって筋肉と剄脈だけで出来てるわけじゃないんだから」

 とは言ってみた物の、本人でさえ余り自信がない様な気がしなくもない。

「まあ、私達三人は平気だろうから良いけど、問題はレイとんよねぇ」
「そうですね。武芸者としては無敵でしょうけれど」
「頑張ったんだから大丈夫だよ」

 好意的な言葉は、メイシェンからしか返ってこなかった。

「え、えっと」

 思わずナルキの方を見る。

「武芸科なら兎も角、一般教養科だろ? 危ないかも知れないな」

 そのナルキも、うんうんと頷きつつ心配そうな視線を、何故かメイシェンに送る。

「だ、大丈夫だよ。レイとん頑張ったんだから」
「いやいや。犠牲を払っても、何も出来ないと言う事もあるんだ」
「あう」
「はう」

 毎日死ぬ様な思いをしてと言うよりは、何度も走馬燈を見ながら勉学に勤しんだというのに、もしかしたら不合格という結末しか待っていないと思った瞬間、レイフォンは違う世界を見そうになってしまった。

「まあ、大丈夫かも知れないから、心配しておいて損はないんじゃない?」
「あう」
「はう」

 ミィフィに止めを刺されてしまった。

「まあ、あんまり虐めちゃ可哀想ですよ。どちらにせよ賽は投げられて、後は結果が出るだけなんですから」
「あう」
「はう」

 シリアに念押しをされてしまった。
 実際問題として、今ヨルテムにいる事はあまり得策でないのも事実。
 そのための留学だったのだが、色々な事が一気に起こってしまい、レイフォンの処理能力が追いつかなかった様だ。

「取り敢えずお茶にしよう。レイとんで遊んだらお腹すいたし」
「そうですね。お昼ご飯はさっき食べたばかりですから、お菓子を食べると太るかも知れませんけど、お茶だけなら問題無いでしょうね」
「い、いや。お茶とお菓子はセットでしょう」
「良いんですかミィフィ? この間体重計に乗って、恐怖していたと思いましたけれど」
「あ、あれは、ちょっとした間違いよ」

 などと何時もとあまり変わらない時間が、ゆっくりと流れている事に、レイフォンは少し安心した。
 だが、その安心もすぐに終わった。
 ポストに郵便物が放り込まれる音を聞いてしまったから。

「ゆ、郵便だね」
「う、うん。郵便だね」
「よ、よし。私が確認してくる」

 じゃれ合っていた二人は一瞬反応が送れ、レイフォンは動けず、メイシェンも同様だったので緊張と共にナルキが玄関へと向かった。

「て、てがみ、かな?」
「手紙だと思う」

 すでにレイフォンの心臓は全力疾走をしているし、冷や汗をかき手が震えている。

「大丈夫だと思うよ」
「そうですよ。きっと合格しているし、怖い内容の手紙でもありませんよ」

 ミィフィとシリアがそう言うけれど、どちらも全く自信がない。
 
 
 
 ミィフィの見ている前では、グレンダンからの手紙を前にレイフォンが相変わらず固まっていた。
 全身に冷や汗をかき、顔色が青白く手が震え、まるで死刑判決を待つ被告の様な状態だ。

(いや。ある意味正しいのかな?)

 無罪が言い渡される確率が極めて高いのに、有罪確定を覚悟している被告にしか見えないが、心情的にはそれが一番近いのだろう。

「レイとん」

 相変わらず心配気なメイシェンがレイフォンの左の袖をつまんでいる。

「だ、大丈夫だよ。きっと大丈夫だよ」

 そう言う物の、全く手は封筒を開けようとしない。

「読もうか?」
「え?」
「いやね。私が読んであげようかって」

 前回の二の舞になる確率が高かったので、あえてそう言ってみる。
 是非とも内容を知りたいという好奇心も少しはあるのだが、今は目の前のヘタレを何とかしたいと思う方が強い。

「だ、大丈夫だよ。僕が読まないといけないんだから」

 やっとの事で決心がついたのか、震える手が開封し便箋を取り出す。
 だが、その便箋は手から滑り落ち、乾いた小さな音を響かせた。

「う、うわ」
「いや。手が滑っただけだから、安心しろよ」

 自分の失敗で一気に動揺激しくなるレイフォンを叱りつけ、再びレイフォンの手に便箋を握らせる。

「う、うん。よ、読むよ」

 そして、最初の一行を読んだらしいレイフォンは、顔色を土気色にして卒倒目前になってしまった。

「あ、ああああああ」

 何が彼を絶望させたのか、手紙が再び床に落ち、慟哭の叫びをレイフォンが上げる。

「レ、レイフォン?」

 予想と違うそのあまりの反応に、メイシェンが酷く怯え、ナルキとシリアも何も出来ないでいた。
 だからミィフィは素早く床から便箋を取り上げ、ざっと目を通し、声に出してそれを読み上げる。

「レイフォン。私がお前を許す事など無い」

 挨拶も無しに書かれたその一行が、レイフォンに絶望を与えた様だが、かまわずに続きを読む。

「何故なら、お前の犯した過ちは、本来私がやらなければならなかった事だからだ」

 無駄が無く、しっかりとした筆跡を、追う。

「私に甲斐性が無いばかりに、お前が孤児院の運営費を稼がねばならなかった。
 道場などで教えている間に、私自身も清貧を旨とする様になってしまっていた。
 サイハーデンは、たとえ見難くとも生き残る事を目的とする部門だ。
 それを体現しなければならない、サイハーデンの名を継いだ私が、足掻かなかった事が、全ての原因だ。
 そして、私の代わりとして裁かれたお前を、庇う事も出来なかった。
 孤児院も私も、お前に頼らずともやって行ける様になった。
 だからお前は、自分の幸せを考えて欲しい。
 そして、今周りにいる人達のために、何が出来るのか、何をしてはいけないのかを考えて欲しい。
 そして、どうか死なないで欲しい。
 最愛なるレイフォン・アルセイフへ。
 デルク・サイハーデン」

 ミィフィが読んでいる内に、落ち着きを取り戻したレイフォンが、床にへたり込んだままこちらを見上げている。

「ほれ」

 気楽さを装って、手紙を渡す。
 全部読めと。
 無言の圧力が功を奏したのか、恐る恐る手紙を受け取り、ゆっくりと読み始める。
 前回と同様、何度も読んで理解した様で、今度は喜びの涙を流す。

「ほれ。取り敢えず手紙をしまっておいで」
「う、うん」

 とても他の事が出来る様には見えなかったので、部屋へと追い立てる。

「でもさ」

 その姿が見えなくなってから、ミィフィは思わず愚痴る。

「どんな手紙書いたんだか、レイとん」
「ああ? デルクさんの子供だぞ? 似た様な文章だろう」

 ナルキも疲れ果ててソファーに座り込んでいる。

「良かったね」

 ただ一人、メイシェンだけがレイフォンの事で喜んでいる。
 レイフォンに負けず劣らずのお人好しだ。

「それにしても、手紙をしまって来いって追い出したけれどさ」

 少し喋りにくいが、それを誤魔化しつつ続ける。

「なんだ?」
「レイとん、あの手紙どうするんだろう?」

 にひひひと笑いつつ、メイシェンを見る。

「何で私を見るの?」
「だってさ、レイとんがさ、手紙を宝石箱に入れて、僕の宝物だとか言いながら、お花畑で転げ回ったらどうするのよ?」
「ひゃぅ」

 思わずその光景を想像したのだろう、一気に混乱して怯えるメイシェン。

「にひひひひひ」
「楽しそうだな」

 更に疲れ切ったナルキが、二通目の封筒を取り出した。

「本当は、思わず泣き出したいんだろ」
「あ? 分かる? でもさ、キャラ的に泣けないじゃない」

 ミィフィも結構嬉しいのだ。
 本人の前では、決して言えないが。

「でさ。それが結果通知?」
「ああ。私とレイとんの分だ」

 当然だが、今頃はミィフィの家にも似た様な封筒が送られている事だろう。

「にひひひひひ。不合格だったら、どうするんだろう?」
「ああ? そうだな。六年間ツェルニで一時滞在か?」

 それはそれで面白そうだと思うのだが、行動の自由度が少ないので、少し不満でもある。

「早く開けて確認しようよ」
「いや。こっちもレイとんが開けないといけないだろう。グレンダンのと違って、そんなに怖くないはずだし」
「それもそうか。じゃあ、私も自分の確認してこよか」

 と、シリアの腕を捕まえて引っ張る。

「な、なんですか?」
「荷造りをするので手伝え」
「い、今から留学の準備?」
「たわけ。違う用事があるのだよ」

 こう見えてもミィフィは色々と忙しいのだ。
 そして、ふと思う。
 デルクは、レイフォンに許しを求めなかった。
 自分は悪くないと思っているのかとも考えたのだが、文面から違う事が分かる。
 ならば、レイフォンのグレンダンでの将来を奪ってしまった事の責任を、一生背負って行くつもりなのだろうと思う。

「蛙の子は蛙か」

 良くも悪くも、デルクとレイフォンは似ているのだと、改めて認識した。
 
 
 
 デルクからの手紙でレイフォンが許されてから、一月ほどの時間が流れた。
 後三ヶ月もすれば、ここを離れてツェルニへ向かう。
 そんな時期だったが、色々な事があった。
 ナルキとシリアにサイハーデンの技を少しずつ教える様になったし、警察の武芸者との組み手の頻度が非常に上がった。
 そして、生まれて始めて遊園地なる物に行った。
 しかも、女の子と一緒に。
 これも人生初。
 更にジェットコースターという、恐ろしい乗り物に乗せられた。
 連続で。
 そのせいで瀕死の状態に陥ってしまい、女の子に膝枕されるという、これまた人生初体験をしてしまった。
 ヨルテムに来てから、生まれて始めてとか、人生初とか言う体験目白押しだ。
 それ故か、充実した日々を過ごせているのだろうと、レイフォンは思っている。
 三家族合同、全員そろった十四人の食卓というのにもなれた。
 その、恐るべきマシンガントークが乱れ飛ぶ戦場を生き抜いた人達が、お茶をすすったりテレビを見たり、ゲームに勤しんだりしているリビングで、いきなりアイリがレイフォンの顔をまじまじと見つめているのに気が付いた。

「あ、あのぉ?」
「うぅぅん? ねえ、レイフォン」
「はい?」

 散々見つめ続けたあげく、決心したと言わんばかりに、アイリが決然と質問してきた。
 そのあまりにも真剣な表情に、周りにいた人たち全員の視線がレイフォンに向けられる。
 なぜかアイリに向く視線は一つもない。

「右目、どうしたの?」

 言いつつ、自分の右目を右の人差し指で縦になぞるアイリ。

「ああ。これですか」

 何が来るのかと思って身構えていたのだが、用件はたいしたことはなかった。

「ずっと気にはなっていたのよ。でもね、聞くタイミングが今まで無かったのよ」
「そうだ。私も聞こうと思っていて、何時も時機を逸してしまっていたのだよ」

 トマスも同じように、レイフォンの右目の付近を見つめている。

「いや。別段たいしたことないですよ」

 レイフォンにしてみれば、本当にたいしたことがないのだが、どうやらそれで済ませられる雰囲気ではなくなっている様だ。
 レイフォンを除く十三人の視線が、固唾を飲んで事情が披露されるのを待っているからだ。

「え、えっと」

 別段、秘密と言う訳でもなければ、話せないという物でもないのだが、ここまで期待される、あるいは、興味を持たれるほどでもない。

「グレンダンで」

 何故か、ボイスレコーダーとマイクとメモ帳を取り出すミィフィとその父。

「二歳くらいの男の子が」

 全身を耳にしているらしいナルキとシリアと、その他の子供達。

「路面電車の軌道に飛び出してしまって」

 ハラハラと胸の前で手を組むメイシェン。

「運悪くそこに車両が来てしまいまして」

 うんうんと先を促す、ロッテン家の大人達。

「引かれそうだったので、思わず飛び出してその子を抱きかかえて反対側まで飛んだんですが」

 ここまでの展開で、感心したのか感動したのかしているトリンデン家の大人達。

「後先考えなかったんで、目の前にガラス窓があった時は、驚きました」

 先が予測できたのだろう、不満そうなナルキとシリア。

「結局、窓ガラスに飛び込んで、その時のガラスの破片が右目に突き刺さったんですよ」

 もう少し注意していれば、怪我人も壊れる物も無かったのだとそう思うのだが、これこそ後の祭りだ。

「レイとんなら、何とかなったんじゃないか?」
「そうですよ。色々使えそうな技もあるのに」

 非常に納得行かない表情のナルキとシリアが抗議に似た声を上げる。
 不満の原因が怪我をしないための努力を怠ったからだと言う事は、十分に理解できる。

「二歳の子供を抱きかかえたままじゃ、殆ど何の技も使えないよ」

 相手は、とても柔らかい体しか持っていないのだ。
 急激な加速はもちろん、衝剄を放った余波で大怪我をしかねない。
 その危険が分かっていたからこそ、レイフォンは頭から窓ガラスに突っ込んだのだ。

「子供が無傷だったから、それで良いですよ」

 話は終わりだと、お茶をすする。

「でもさ、レイフォン」

 だが、更に不思議そうにアイリが、レイフォンを見つめる。

「はい?」

 まだ、何か不思議な事があるのだろうかと、少し気になった。

「何で治さないの?」

 右目を指しながらそう訪ねられたが、その答えはとうに出ている。

「お金がありませんから」

 うんうんと頷きつつ、お茶の最後をすする。
 そして、部屋の空気が凍り付いている事に気が付いた。

「あ、あの? 僕何か変な事言いましたか?」

 別段、変わった事は言っていないと思うのだが、もしかしたら、また非常識な事をしてしまったのかも知れないとも思う。

「なあ、レイフォン」
「はい?」

 右手で顔を覆っているトマスが、疲れた声を出した。

「預金通帳は見てるか?」
「ええ。時々は」

 基本的に貧乏で貧乏性なレイフォンは、大きな金額という物になれていない。
 天剣授受者だった頃には、かなり大きな金額を貰う事もあったのだが、それはたいがい孤児院に寄付してしまっていたので、全く実感がこもっていないのだ。
 それは今もあまり変わっていない。

「警察での訓練の報酬として、割と普通の金額が振り込まれているはずだが」
「はい。この間記帳してきたら、結構な数字でした」

 数字としてしか扱えないのだ。

「い、いやね。お金はあるんだから、治しても良いんじゃないかって」

 トマスが疲れた体に鞭を打っている様なのだが。

「はあ。お金有るんですか?」

 あまりにも実感がない。

「レイとん。良かったら通帳持ってきて見せてよ」

 わくわくとミィフィが催促するので、トマス達に視線を向ける。

「子供の持つ金額がどの程度な物か知るのも、良い事かも知れないな」

 了承が出たので、いつの間にかレイフォンの部屋になった場所へ通帳を取りに行く。
 他の子供達もあちこちへ散ったところを見ると、それぞれの通帳を持ってくるのだろう。

「そう言えば、お金ってあんまり使わなくなったな」

 寄付する場所が無いからだというのは理解しているのだが、思わず口からこぼれてしまうのだ。

「はい。持ってきましたよ」

 そもそも、ほとんど物がないので、探すのには手間がかからない。
 当然の様に、大人しかいないリビングへと戻ってきていた。

「では、他がそろうまで少し待つ様に」

 いつの間にか司会進行を受け持っているトマスに言われるまま、先ほどまでいたソファーに座り込む。
 程なくしてみんなが戻ってきたが、トリンデン家の長女と三女の顔色が悪い。
 ちなみに、ミィフィの顔色もかなり悪い。

「どうしたの?」
「気にしてはいけない。残高が少ない事を認識しているだけだろうからね」

 トマスの一言で、更に顔色が悪くなる三人。

「では、まず衝撃の真実! レイとんの通帳拝見!!」

 顔色が悪いのを誤魔化す様に、いきなりミィフィに通帳が奪われてしまった。

「あ」

 っという間に残高が調べられ。

「・・・・・・・・$ かなり凄いよ」

 呆然としつつ、ミィフィの手からメイシェンの手へと通帳が移動する。

「・・・・・・£ すごい」

 同じように他の人達に渡る通帳。

「? これって、少ないのかな?」

 当然、他の子供達の物も見るが、別段少ないとは思わなかった。
 だが。

「これは、酷い」

 思わず呟いたのは、残高が限り無くゼロに近いミィフィの通帳。

「悪かったな! 誰かさんのおかげで、出費がかさんでるのよ!!」

 何故か怒られてしまった。

「ねえ、レイフォン」

 最後に通帳を確認したアイリの表情が、かなり怖い。

「な、なんでしょうか?」

 そっと、両肩に手が置かれた。
 メイシェン母とミィフィ母の。

「今すぐに治しに行きましょう」
「い、いや。別段困らないですから」

 お金があるらしいので、断る理由はないのだが、アイリ達が怖いのだ。

「いいえ。傷物の男の子では、お婿に出せません!!」
「そうよ! 傷物の男の子をお婿にする訳には、断じて参りません!!」
「そうですとも!!」

 いつかの様に両腕を拘束され、足を持ち上げられたレイフォンに抗う術はない。

「きぃぃぃやぁぁぁぁぁぁ」

 情けない悲鳴を上げる以外は。
 
 
 
 右目が見える様になった事で、再びレイフォンは自主訓練を厳密に行った。
 見え方が変わったために、太刀筋や見切りが変化してしまったからだ。
 結果として、制御能力が格段に上昇するという事態を体験。
 思い返せば、雄性体二期を真っ二つにしてしまった時にも、制御能力が上がっていた確率があった。
 それまでと同じ感覚で技を放ったので、威力が増してしまい、結果トマス達に多大な迷惑をかける羽目に陥った。
 同じ過ちを繰り返さないために、外縁部で散々閃断や衝剄、化錬剄を放ち、レイフォンの中の認識と威力の誤差を修正した。
 そう考えつつも、レイフォンは悲鳴を上げそうになる口を必死に閉ざしている。
 隣には、恐怖とも歓喜ともつかない悲鳴を上げるメイシェンがいるのだ。
 見栄を張るつもりはないのだが、それでも悲鳴は上げられない。
 こうなった事の発端は、レイフォンの完治と出発前の息抜きをかねて、みんなで遊びに行こうという話からだった。
 以前も行った遊園地に行く事になったあたりで、遺言書と遺品の手筈を終了させた自分を、レイフォンは褒めたい。

「楽しかったね」

 珍しく頬を上気させて、ジェットコースターを堪能した事がはっきりと分かるメイシェンが、立ち上がりながら言う。

「そうだね」

 若干棒読みになりつつも、きちんと返事が出来た。
 これもやっぱりレイフォンは自分をほめたい出来事だ。

「? レイとん、顔色悪いよ?」
「へいきだよ。僕が走るのとあんまり変わらないし」

 実際には、自分で走る方が遙かに気楽なのだが、それは口が裂けても言えない。
 自分が思った方向に曲がれない事もそうだし、乗り物に乗って振り回されるという感覚も、ほとんど始めての体験で、そちらの方にこそ恐怖の根幹があるのだが、当然言えない。

「おうおう。メイッチはジェットコースターに乗ると性格変わるからな」

 乗らなかったミィフィがポップコーンをつまみつつ、のんびりと喋っているのに、殺意の視線を突き刺しておく。

「ま、まあ。メイッチの数少ない楽しみだからな」

 レイフォンの後ろに乗っていたナルキも、若干顔色が悪い。

「うん。次、あれに乗ろう」

 二人の武芸者の事を知っているのかどうか、とても人間が乗って良いものでは無い乗り物を指さすメイシェン。
 何時ものおとなしい彼女とは、やはりかなり違う。

「す、済まない。私はパスだ」

 とうとうギブアップしたナルキが、申し訳なさそうにレイフォンを見る。

「わかった。いこう」

 棒読みの台詞をそのままに、その恐るべき乗り物に立ち向かう。

「うん」

 何時もなら恥ずかしがってやらないだろう事だが、メイシェンの手がレイフォンの手を握り、積極的に引っ張って行く。

「逝ってらっしゃい」

 非常に不気味な台詞を、非常に明るくミィフィが言いながら手を振る。
 今回も乗らないつもりの様だ。

「い、いってきます」

 もしかしたら、本当に遺言が役に立ってしまうかも知れないと覚悟を決めたレイフォンは、ふと思う。
 絶叫マシーンに殺された天剣授受者。
 その一つの事実はもしかしたら、超絶を極める武芸者集団が、やはりただの人間だった事の証明になるのではないかと。

「まさかね」

 サヴァリスやリンテンスが、絶叫マシーンを怖がるとは思えない。

「いや。デルボネ様とかティグリス様なら」

 ショック死してしまうかも知れない。
 かなりの高齢だから。
 それは、現実逃避だったのかも知れない。
 そして、目の前に現れた物は、やはり人間が乗ってはいけない代物に思えて仕方が無い。
 この遊園地は地上百メルトル、幅がそれぞれ二百メルトル程の建物で構成されている。
 その中に、色々な乗り物やアトラクションがある。
 そして、外壁を利用して絶叫マシーンの数々が装備されているのだが、問題は屋上だ。
 当然の事、屋上にも色々な乗り物があり、沢山の人達が楽しそうに悲鳴を上げたりしているのだが。

「こ、これって、乗って平気?」
「うん。前に乗った時にとっても怖くて面白かった」

 無邪気にそう言うメイシェンと、恐怖に引きつるレイフォンの視線の先には、レールがある。
 そのレールの上には、当然の事、座席が乗っている。
 三つの座席をひとまとめにしたやつが三つ。
 最大九人まで乗れる訳だ。
 問題なのは、そのレールが建物の外に向かって延びていて、しかも、いきなり切れていると言う事だ。
 もしかしたら、座席ごと空中に放り出して、絶叫させるつもりかも知れない。
 完璧に死ねるが。

「だ、だいじょうぶ」

 自分に言い聞かせつつ、座席に着き、肩と胸を覆う安全装置をおろす。
 何故か、乗っているのはメイシェンとレイフォンだけだ。
 周りからは、勇者を見る様な哀れな仔羊を見る様な視線が送られてきている。
 嫌な予感という物に襲われつつ、ブザーが鳴ってしまった。

「ひっ!」

 いきなり、レールの基部が前へと滑り出す。
 レイフォンの座っている座席が、建物の端へと押し出されたのだ。
 壊さない様に細心の注意を払いつつ、安全装置を握る。

「!!」

 何の前触れもなく、いきなりレールの先端が降下。
 おおよそ三十度の角度で、絶景が広がっている。

(ああ。感想が変になってる)

 自覚しつつも、レイフォンは見てしまった。
 爪先の遙か下の方。
 おおよそ十メルトルに展開されている、落下防止用のネットを。
 射出してあのネットで受け止めるつもりかも知れないと一瞬考えたが、普通に考えて真下には落ちない。

「!!」

 そんな現実逃避をしている間もなく、いきなり座席が急加速。
 悲鳴を上げる事も出来ない恐怖に全身を縛られ、レールの先端を見つめる。
 射出とはかなり違うゆっくりとした減速で、レールの先端で止まる座席。
 隣では、やはり恐怖とも歓喜ともつかないメイシェンの悲鳴が上がっているが、今はそれどころではない。
 必死に、力加減を忘れない様にしつつ、安全装置にしがみつくので精一杯だ。
 そして、ゆっくりとレールの先端が上昇する。
 まさか、これから本格的に打ち出されるのかと覚悟を決めかけた瞬間。
 ゆっくりと座席が後退して行くのを認識。
 どうやら、生きて帰れる様だ。
 全てが元の位置に戻った頃合いになって、安全装置のロックが外れる音が響いた。
 当然、レイフォンは動けない。
 まだ、硬直したままなのだ。

「レイとん? もう終わったよ?」

 ふと気が付けば、さっきよりも頬が上気しているメイシェンが、不思議そうにレイフォンの事をのぞき込んでいる。

「そ、そうだね」

 全力でもって、手を離す。
 硬直している指を一本ずつ離す。

「し、死ぬかと思った」
「大げさだねレイとんは。あれくらいじゃ人間死なないよ」

 デルボネなら確実に死ぬだろうし、もう一度乗ったらレイフォンだって危ないと思うのだが、これに乗るのはメイシェンは今日で二回目なのだ。
 もしかしたら、人間と言う生き物は汚染獣よりも遙かに恐ろしい生き物かも知れないと、そんな事を少し思いつつ、ふらつく足腰に力を入れ、メイシェンについてミィフィの占領しているベンチへと向かう。

「メイッチはここね」

 何故か非常に元気なミィフィが、ベンチの端っこを指し示す。

「? うん」

 言われるがままに腰掛けるメイシェン。

「レイとんはここ」

 少し離れた場所を指示されたので、疑う余裕もないままそこに座る。

「えい」

 そのかけ声と共に、レイフォンの体が押され。

「ひゃ?」
「はう」

 いきなり左側頭部付近に、何か柔らかくて暖かくて良い匂いのする物が当たった。
 その少し後、視界が非常におかしい事に気が付き、横倒しになっている事と、メイシェンの太股を枕にしている事を認識。

「う、うわ」

 思わず後から悲鳴らしき物を上げてみたが、今のレイフォンに体を起こすだけの精神力は残っていない。
 恐る恐る上の方を見れば、蒸気を吹き上げているメイシェンも見えたのだが。

「ほれ」

 いきなり額に非常に冷たくて気持ちの良い物が当てられた。

「ひゃ」

 二度目のメイシェンの悲鳴でそちらを見ると、ナルキがよく冷えた缶ジュースを二本、二人の額に当てているところだった。

「少し落ち着け、お前ら」

 若干呆れの入った声と共に、缶ジュースから手が離される。

「有り難う」

 何とか礼を言う事が出来たが、レイフォンの頑張りもそこまでだった。

「ああ」

 何故か、視界が急激に暗くなり、どこかへ落ちて行く感覚だけが残った。



[14064] 第一話 十二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/08 21:10


 遊園地での臨死体験から一月少々。
 いよいよツェルニへ出発する日がやってきた。
 一年近く前、ここに来た時は一人だったが、今は違う。
 一緒に留学する事になっているメイシェンやナルキやミィフィがいるのだ。
 レギオスの移動に伴い、揺れるバスにはまだ誰も乗っていないが、そろそろ出発の時間。
 レイフォンの持つ荷物は、青石錬金鋼が二本と汚染物質遮断スーツ一揃い、少々の着替えと多額らしい預金通帳。
 移動中の食料と水。
 大きめの鞄一つに、十分収まる荷物だ。
 放浪バスに乗るのだから、当然大荷物は御法度。
 メイシェンを始めとする同行者全員が、大きめの鞄一つに荷物を納めているのは、当然だ。

「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 トマスを始めとする、ヨルテムに来てお世話になった人達に、挨拶をする。
 三家族全員が、休みを合わせた。
 十人全員の顔をゆっくり見渡し、鞄を手に持つ。

「良かったよ。行きますと言われなくて」

 そのレイフォンにトマスが声をかけてきたが、言っている意味が良く分からない。

「? 行きますじゃ、何か問題なんですか?」
「いやね。帰ってこない様な気がするから」
「ああ。大丈夫ですよ。僕はここに帰ってきますから」

 帰りを待っていてくれる人がいるという事実が、レイフォンは少し寂しい。
 いずれは帰ってくるにしても、別れなければならないから。

「それは良いんですが」

 レイフォンは視線を動かす。
 その先には、交差騎士団団長が腕を組み、その後ろには、若い団員が十人ほど付き従っている。

「気にするでない。私は偶然ここに居あわせただけだ。職務のついでだと思って気にせずに、別れの儀式を済ませ給え」

 済ませたまえと言われても、若い団員の好奇の視線にさらされていては、おちおち挨拶など出来るはずはない。

「はいレイフォン。これを持って行ってね」

 そんなレイフォンの事など知らぬげに、メイシェン母が何か非常にかさばる荷物を差し出す。
 バスに乗る以上あまり歓迎できるものでは無いが、受け取らないという選択肢は存在していない。

「?」

 受け取ってみたは良い物の、大きさの割に非常に軽いそれの扱いに、かなり困ってしまった。
 重い物を扱うのは慣れているのだが、軽い物は専門外だ。

「ひゃぁぁぁぁぁ!!」

 レイフォンが困惑している間に、メイシェンが悲鳴を上げミィフィがにやりと笑い、ナルキが右手で顔を覆った。

「? これ、なんですか?」

 三人の反応から何か非常に困った物だという事は分かったが、正確な正体は未だ理解していない。

「紙おむつ。土に埋めれば三年で分解されて、肥料にもなるという優れもの」
「? かみおむつ?」

 当然だが、孤児院で散々使った経験はある。
 だが、何故レイフォンにそれが必要なのか分からないので、必死に頭を使い、考え。

「・・・・。何を望んでいるんですか?」

 聞かなくても良い事だとは思うのだが、思わず言ってしまった。

「帰ってきた時に、五歳の子供と一緒なのを期待しているのよ」

 うんうんと、トリンデン家の皆さんとゲルニ家の女性が頷き、ロッテン家の皆さんはにやり笑いを浮かべ、残り二人が少し困った様な表情をする。
 六歳なのを期待されないだけ、まだましなのかも知れないが。

「結婚可能年齢じゃないんですよ?」
「私は気にしない。だからレイフォン君も気にするな」

 メイシェン父が、涙を流しつつそう言う。
 団長もおおむねそんな感じでは、レイフォンに拒否権は存在しない。
 おむつを持って行くという意味で。

「はあ」

 もって行く事は非常に問題なのだが、おいて行ける雰囲気でもない。

「取り敢えず、行こう」

 ここは、全力で何も見なかった事にする以外に、方法はないと確信したレイフォンは、メイシェンの手を引いて出発間近のバスへと向かう。

「ひゃぅ」

 なにやら混乱しているらしいメイシェンが、小さな段差に思わずつまずいてしまった。

「おっと」

 荷物を放り出し、倒れない様に支えたレイフォンだったが。

「きゃぁぁ!」

 姿勢を正そうとしたメイシェンが、再びふらつき、その視線が右足の方へと向かった次の瞬間。

「い?」

 その視線を追ってレイフォンが見たのは、かなり凄まじい物だった。

「ああああああああああああ!」

 悲鳴を上げるメイシェンが暴れ出す。
 あり得ない方向に曲がっている、自分の右足を振り回す様に。

「だ、駄目だよ、動いちゃ!」

 これほど取り乱したメイシェンを見たのは始めてだが、今はそんな事を言っていられる状況ではない。
 状況から見て、骨折しているのは間違いない。
 不用意に動かしたら、折れた骨が血管や神経を傷つけてしまう。
 腕や足が一本無くなっても、再生できる医療技術はあるとは言え、損傷を少なくするに超した事はない。
 だが、相手は一般人。
 おまけにメイシェンだ。
 不用意に力を入れて押さえたら、いらない怪我をさせてしまうかも知れない。
 どうするか考えたのは一瞬。

「!!」

 動揺激しいメイシェンの唇に、自分のそれを押しつけた。
 一気に硬直し、全ての動きが止まるメイシェン。

(これで、怪我の悪化はなくなった)

 そう思考しつつ、ゆっくりと傷を刺激しない様に、抱き上げる。
 足首が下にならないように、ふくらはぎに右手を添え、背中を左手で支える。

(ああ。メイシェンは本当に軽いな)

 活剄を使っている訳でもないのに、全く問題無くその体重を支えられる。

(何でこんなに、ふくらはぎも柔らかいんだろう?)

 支えた右腕を殆ど押し返すことなく変形してしまったふくらはぎの感触に、思わず鼓動が早くなる。

(って! 違う。今はそんな事している場合じゃない!!)

 硬直しているメイシェンの唇を解放する。
 当然だが、いきなりの展開に付いて行けなかったのか、大きな瞳を更に大きくしている。

「ひゃぅ」

 だが次の瞬間、限界を超えたようで気を失ってしまった。
 いやな沈黙がレイフォンを包み、いやな騒音がバス停を支配する。

「お、落ち着け僕。この方が何かと好都合じゃないか!!」

 言い訳であるが、気を失ったのならばその間に応急処置が出来る。
 当然だが、メイシェンが動いて悪化する確率が、極めて低くなったのも事実だ。

「なあ、レイとん」

 応急処置をするために、ゆっくりとしゃがんだレイフォンの耳に飛び込んできたのは、おずおずという感じのナルキの声。
 その声に慌てた様子は全く無いので、非常に疑問に思いつつもレイフォンにはやるべき事がある。

「ナルキ。タオルか何か貸して。取り敢えず固定して病院に運ばないと?」

 疑問系になってしまった。
 落ち着き払ったナルキが、メイシェンの右足首を掴み。

「え?」

 何の抵抗も感じさせない、なめらかな動きで、元に戻してしまったからだ。

「あ、あのぉ」
「いやな。メイッチが運動をしない理由ってのがあってな。関節が柔らかすぎて、すぐに外れるんだ」
「は、はずれる?」
「そうだ。追いかけっこをしていて転んだら足首が外れるし、バーゲン会場で迷子にならないように手をつないでいたら、肘と肩が外れるし」
「うんうん。普通に走っていたら、膝が外れた時は少し騒ぎになったよね」

 いつの間にか近づいてきていたミィフィも説明に加わった。

「え、えっと?」

 知らないからとは言え、取り返しのつかないことをしたことだけは間違いない。
 その証拠に、今まで気がつかないふりをしていたのだが、後ろからはなにやら歓声が聞こえたりしている。

「さ、さあ。バスに乗ろう」

 ここは、全力で逃げるに限る。
 決意も新たに、荷物とメイシェンを持ち上げたレイフォンは、旅立ちのバスへと足を向ける。

「な、なあ、レイとん」

 ナルキの視線が、見送りの人達の方を見ている。

「ナルキ!」
「な、なんだ?」
「僕は後ろを振り返っちゃ駄目なんだ! 振り返ったら死ぬのならば、振り返らずに前に進むしかないじゃないか!!」

 全力で、万歳三唱の声を無視する。

「そ、そうだな。・・。メイッチの荷物は私が持つよ」

 理解してくれたようで、ナルキも協力してくれている。

「有り難うナルキ」

 乗車を促す汽笛が鳴り響いたのを幸いに、レイフォンは放浪バスへと乗り込む。
 乗り込んだら、乗客から拍手で迎えられたが、それも全力で無視する。

「はあ」

 メイシェンを窓際の席に座らせ、隣に崩れ落ちたレイフォンは、思わず溜息をつき、外を見てしまった。
 未だに万歳三唱を繰り返している人達は良いとしよう。
 何故か、男泣きの涙を流している団長も、許容範囲だ。
 問題は、他の乗客の見送りに来ていた人達まで、拍手をしたり万歳をしたりしている事だ。
 六年後、ここに帰ってきた時に、今の一幕が忘れられていれば良いが、そうでなければ一騒動間違い無しだ。

「はあ」

 溜息を一つつき、膝の上に置いたままだった荷物を、座席の上に用意されているスペースに押し込む。
 もちろん、ナルキが持ってきてくれていたメイシェンの分も。
 ここでふと、視線を感じた。
 すぐ近くから。

「な、なんだよ?」

 怯えても、逃げ道は存在していない。

「にひひひひひひひひひ」

 笑うだけのミィフィが、非常に不気味だ。

「な、なんだよ?」

 逃げ腰にそう聞いたが、放浪バスはすでに出発した後だ。

「メイッチって、美味しかった?」

 言われてみて、ふと思い返してみた。
 牛乳と蜂蜜。
 卵と苺ジャム。
 そんな朝食のメニューに隠れていて尚、濃厚で鮮烈な甘い。

「はう!」

 そこまで思いだしたレイフォンの本能が、これ以上は危険だとばかりに、ブレイカーを蹴落とし意識が闇に沈み込んで行く。
 その瞬間。
 右手で顔を覆うナルキと、黒くて細くて先の尖った尻尾を、機嫌良さそうに振るミィフィが見えたような気がした。

(ああ。どうかツェルニでは平穏な生活を送れますように)

 短い時間の間に全てを終わらせたレイフォンは、しばしの安らぎが約束された世界へと旅だった。
 
 
 
 放浪バスの停留所にて、リーリン・マーフェスはかなり困っていた。
 足下に置いたスーツケースには、着替えを始めとする身の回りの物が詰め込まれている。
 後は、デルクから託された物が一つ。
 後はもう、バスが出るのを待つだけという状況なのだが。

「ねえ。本当に行っちゃうの?」

 何に困っているかと聞かれれば、
 いつの間にか親しくなっていた、学校の先輩であるシノーラ・アレイスラが、涙目で訴えかけているからだ。

「ええ。レイフォンがツェルニに留学すると聞きましたから」

 そう。足下にあるのはスーツケースが一つだけだが、これからツェルニに留学するのだ。
 ヨルテムにたどり着いたレイフォンからデルクへ手紙が来たのは暫く前の話だ。
 一度きりのやりとりで、その後音信不通なのだが、彼を保護したトマスという人からは、たまに連絡がある。
 それによれば、レイフォンは留学するというのだ。
 リーリンの気持ちなど知らぬげに、のほほんと学園都市に遊びに行くというのだ。

「出来るだけ早く帰ってきてね。私ってば、リーちゃんの胸を揉まないと情緒不安定になってしまうの」
「貴女の情緒不安定は、何時もの事でしょうに」

 そう突っ込んだのは、もちろんリーリンではない。
 何故か不明だが、シノーラのそばには天剣の一人、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスがいるのだ。
 何故という疑問は、シノーラにはしてはならない。
 無駄だから。

「そう言う事言ってると、しばくわよ?」

 グレンダンが誇る天剣、その内でもっとも戦う事が好きだと言われる、サヴァリスを一言と一睨みで黙らせるシノーラ。
 是非とも彼女の出自を聞いてみたいのだが、多分無駄だろう事は分かっている。
 あまり関わり合いになりたくないのだが、残念な事に周りには見物人がいるのだ。
 すでにリーリンは彼女たちの一員だと認識されているようだ。
 徐々に、しかし確実に、リーリンを含めたこの集団から離れている事からも、それが認識できる。

「取り敢えず、六年間は帰ってきませんから、犠牲者は他に探してください」

 胸を揉まれるくらいならば、それほどたいした犠牲ではないはずだ。
 ならば、他の人だったとしても、あまり心は痛まない。

「ええええ。リーちゃんって酷い! 他の人がどうなってもかまわないって言うのね!!」
「胸を揉まれるくらいならば、どうと言う事はありませんよ」

 いい加減疲れてきたので、早くバスの出発時間にならないかと思っているのだが、どうやらつきはリーリンを見放しているようだ。

「取り敢えず、レイフォンを一発殴ってからその後の事は考えます」

 何故ツェルニまで留学するかと聞かれれば、ガハルドとの試合の後行方をくらませたまま、いきなりヨルテムに行ってしまったレイフォンに、乙女の怒りを知らしめるためだ。
 そのために六年という時間を使うのは、少々気が引けていたのだが、デルクが口実を用意してくれた。
 シノーラも背中を押してくれたので、行く事にしたのだが。

「何でシノーラ先輩が止めるんですか?」
「だってぇ」

 身もだえして恥じらったりしている、超絶美女の超絶グラマーな先輩から視線をそらせる。
 とても、見てはいけないような気がしているのだ。

「ふん。あの馬鹿がどう馬鹿になったか、どれだけ馬鹿が悪化したか、ゆっくり見てくると良い」

 こう言うのはサヴァリスではない。
 シノーラの少し後ろにあるベンチに寝転びつつ、火の点いた煙草をくわえている人物からだ。

「リンテンス様。レイフォンは一応馬鹿ですけれど、そこまで酷くないと思いますよ」

 そう。レイフォンに鋼糸の技を伝えた天剣の一人、リンテンス・サーヴォレイド・ハーデンだ。
 お金に困っているわけでもないのに、いつでもどこでもぼろぼろになった服を着ている変わった人物だ。
 まあ、それを言ったら天剣は変人の集まりでしかないが。

「ふん。あれは馬鹿だ」

 リンテンスが言うと、とても真実みがある言葉に思える。
 実際問題として、リーリンもレイフォンはかなり馬鹿だとは思っているのも、そう聞こえる原因かも知れない。

「もしかしたらあいつは、グレンダンの技を他の都市へ伝えるために生まれたのかもしれんな」

 煙草の灰が落ちたが、シャツに到着するまえに空中で停止。
 その形を変えることなく、近くの灰皿まで移動していった。

「それはあるかも知れませんね。ルッケンスの秘奥もあっさりと盗まれましたし」

 なんだか、レイフォンは馬鹿ではあるのだが、使い道のある馬鹿だと言っているように聞こえなくもない。

「そうね。グレンダンの天剣ではなかったと言う事かしら?」
「むしろ、女王の天剣ではなかったと言うべきだろうな」
「そうですね。アルシェイラ様の元では、レイフォンは普通すぎましたからね」

 なにやら、非常に込み入った話になりかけているようだ。
 シノーラまでその話に乗っているところを見ると、やはり王族がらみの人なのかも知れないとも思う。
 だが、リーリンを置いてけぼりにした会話はあまりありがたくない。
 観客の心理状態を気にするつもりはないが、それでも居心地が悪いのだ。

「え、えっと」
「まあ、あいつがいなくなって29206800秒だ」

 いきなりとんでもない数字を出されてしまったので、リーリンは他の二人へと視線を向ける。

「3600秒で一時間ですから」
「えっと、えっと。337日と一時間?」

 二人掛かりで計算して、普通の暦に変換された。

「よくご存じですね」
「ふん! あいつがいなくなってから、俺の食生活が貧弱になったからな」

 つまらなそうにそう言うリンテンスの一言で、ふと思いだした。
 週に三日ほど誰かの食事を作りに出かけていた事を。
 他に女がいるとは思っていなかったが、まさかリンテンスの所にご飯を作りに行っているとは、全く予想していなかった。

「へえ。味覚があったんですか」
「食事などに興味はない。味もどうでも良い。だが、貧弱になったという事実は認識している」

 やはりというべきか、天剣授受者とはかなり変な人達の集まりのようだ。
 そう考えると、確かにレイフォンは天剣ではなかったのかも知れないと思う。
 ここまで切れた人達と比べれば、まだましだったと思いたいのだ。

「雇えばいいじゃないですか? お金に困っているという訳ではないでしょう?」
「259200秒続いたためしがない」

 また、普段使わない大きな数字を出されて、計算に四苦八苦してしまう。

「三日と素直に言えないの?」
「俺の勝手だ」

 リンテンスが大きな数字を使う事はよく知られているが、日常生活はだいたいこんな感じのようだ。

「まったく。貴男にも困ったものですね」
「貴様に言われたくないな」

 熱狂的戦闘愛好家ヴァーサス偏執的数字愛好家。
 二人の舌戦が武力闘争に移行しない事を祈りつつ、リーリンはバスの出発を待つ。

「全く、くだらない事で言い争って、みっともない」

 そう言うシノーラだが、観戦している彼女は非常に楽しそうだ。
 いつもよりも瞳がわくわくしているような気がする。

「もしかして、天剣授受者って、変人の集まり?」

 先ほどから考えている事を、思わず呟いてしまった。

「む? 強ければ後はどうでも良いというのが、天剣授受者だ」
「立派な人というのは、天剣にいましたっけ?」
「一般常識くらいは知っていて欲しいけれど、まあ、基本的に能力が一流なら性格は二の次ね」

 三人から同意の返事を聞いてしまったところで、やっとバスの出発時間となったようだ。
 汽笛がそれを教えてくれた。

「あの馬鹿は、ヨルテムで女をこさえたようだ」
「!!」

 スーツケースを持ち上げたリーリンの耳に、リンテンスの声が届いた。

「お、おんなぁ?」

 最強無敵の鈍感王レイフォンに、そんな物が出来るとは思っていなかったリーリンには、かなりの衝撃だ。

「よくご存じですね」

 サヴァリスもあっけにとられている。

「ふん!」

 口を離れた短くなった煙草が、空中を飛んで灰皿に落ちた。

「473030000秒前に世話になったやつから、レイフォンの事を聞かれてな」
「・・・・・・・・・・・。素直に十五年前と言えないのですか?」
「290秒前にも言ったが、俺の勝手だ」

 なにやら、天剣授受者同士で何かやっているが、リーリンには関係ない。

「リヴァースの所にも連絡が来たそうだ」
「武芸者の世界は、あまり広くないですね」

 シノーラもなにやら納得したのか頷いているが、それも問題ではない。

「ふ、ふふふふふふふふふふふふ」

 体の奥底からわき上がる感情を、制御できない。

「レイフォン。ツェルニであったら、しっかり確認させて貰うからね」

 決意を新たにしたリーリンは、見送り三人の視線を背中に受けつつ、グレンダンを出発する。
 目的地はツェルニ。
 そこでレイフォンを徹底的に締め上げるのだ。



[14064] 閑話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/09 22:03


 汚染物質に焼かれ荒廃した大地を進み、ツェルニへ向かう放浪バスの中。
 レイフォン達は席替えをしていた。
 ヨルテムを出発する際の、混乱のつけを払っているのだ。
 当然だが、メイシェンに睨まれたりしているのだ。
 大勢の前であんな辱めを受けたら、誰だって睨むに決まっているし、レイフォンだって怒るに違いない。

「ウォリアス・ハーリス。よろしくね」

 この時期のバスには良くある事らしいが、乗客の殆どが同い年くらいだ。
 当然、目的は留学。
 とは言え、入学式が近いこの時期では、満席という訳ではない。
 なのでメイシェンとナルキが一つ前の列に移り、そのあおりでウォリアスと名乗った少年がレイフォンの隣にやってきた。
 ミィフィは、通路を挟んだ隣の席二つを占領している。
 ミィフィだけ、やや荷物が多いのがその原因だ。

「レイフォン・アルセイフです。よろしく」

 無難に挨拶を済ませておく。
 やや平らな顔をした、黒髪で細目の少年は武芸者のようだ。
 その剄の流れは遅滞が無く、かなり綺麗な色をしている。
 身のこなしにも無駄が無く、明らかに相当の使い手である事が伺える。
 だが、その流れ方に反して、強さや圧迫感をあまり感じない。
 まだ剄脈が充実していないのか、それとも生まれつき弱いのかのどちらかだろう。
 グレンダンでは生まれつき剄脈が大きく、剄路も太い武芸者は多いが、流れの綺麗な者はあまり多くない。
 鍛錬と実戦を繰り返す中で改善されて行くが、十五才くらいとならば珍しい部類に入る。
 それから考えれば、目の前の少年はグレンダンと反対の性質を持っていると予測できる。

「どこからですか?」
「古文都市レノスから」

 話が途切れると気まずかったのでついでに聞いてみたら、のほほんとした感じで答えてくれた。
 あまり力んだ生き方はしていないようだ。

「ごめん。聞いた事無いです」
「うぅぅぅん? 結構有名だと思ったんだけれどな」

 細い目を更に細くして、小首をかしげるウォリアス。
 小首をかしげるのが癖のようだ。

「アルセイフ君は?」
「交通都市ヨルテムから。ツェルニに留学」

 物はついでとばかりにそう言ったのだが、恐るべき反撃を食らってしまった。
 いや。予測しておいてしかるべきだったのだ。

「? 新婚旅行じゃないの?」
「ひゃぅ」
「はう」

 当然と言えば当然なのだが、見られていた事に驚いて、思わず前の席のメイシェンと変な悲鳴を上げてしまった。

「にひひひひひひひ」

 通路を挟んだ隣の席にいるミィフィが、これ以上ないほど嬉しそうに笑っている。

「まあ、冗談は兎も角として」

 ナルキの溜息が聞こえたあたりで、ウォリアスが話を修正する。
 もちろん荷物を横に置くジェスチャー込み。

「もう少し物騒というか、汚染獣との戦闘が多い都市からだと思っていたよ」
「! ど、どうしてそう思ったの?」

 会って間もない人物から真実を言い当てられて、かなり動揺してしまった。

「簡単だよ。戦闘の多いところの武芸者は汚染物質遮断スーツを着込んで、戦場で大声で早口で的確に指示を伝えなければならない」

 レイフォンにもそんなシチュエーションの記憶はある。

「だから、似たような意味の言葉を使う時にも、聞き間違えが少ない単語を使う」

 言われてみれば、思わず使う言葉という物は、グレンダンの武芸者ではおおよそ共通していたような気もする。

「結局の所、普段でもそう言う単語を優先して使ってしまう癖が付いているんだけれど」

 一般人とは言葉の使い方が違うと言うか、単語の選び方が違うというか、そんな感じの認識は確かに有った。

「アルセイフ君のしゃべり方は、戦闘の多い都市の武芸者のそれだったんでね。ヨルテムにしては少しおかしいかなって」
「そ、そうなんだ」

 生まれた都市の影響という物が、結構大きいのではないかと改めて認識してしまった。

「生まれはグレンダンだから、その辺が少し残っているのかな?」

 こう言っておけば、取り敢えず誤魔化せると思ったのだが。

「・・・・・。もしかして、ヴォルフシュテインなんて、偉そうなミドルネームが」

 再び、いきなり真実を突かれて、激しく動揺する。
 背中を冷や汗が流れ、嫌な緊張が全身を支配する。

「いやね。顔に縦線浮かべて動揺していると、本当の事だって白状しているような物だよ」

 言いながらウォリアスの視線が、少しさまよう。

「何かするつもりはないから、座席の影から恨めし気な視線で見ないで欲しいな」

 その視線の先では、メイシェンが威嚇するような視線をウォリアスに送っているが、迫力はない。
 悪夢を見そうではあるが。

「どうしてそれを知っているんだ?」

 活剄を高めつつナルキが問いただしている。
 すでに錬金鋼を手に持っているあたり、いざとなったら始末すると公言しているような物だ。

「にひひひひひひ。大丈夫だよレイとん。この私が、社会的に抹殺してあげるから」

 メモ帳を持ったミィフィが、非常に怖い笑顔でウォリアスを見つめている。

「い、いやね。だから、僕はアルセイフ君の事を批難するつもりはないんですよ」

 冷や汗を流しつつ、弁解じみた事を言うウォリアスだが、レイフォンにしてもしっかりと知っておきたい。

「どうして、僕の事を?」

 当然のはずのレイフォンの質問に、かなり衝撃を受けた様な表情をするウォリアス。

「・・・・・。古文都市レノス。この名に聞き覚えは、本当にない?」
「全然無いけれど」

 記憶を探ってみても、心当たりはない。
 相手の認識は違うようだし、もしかしたら、頭の中が筋肉と剄脈で出来ていると言われるレイフォンが忘れているだけかも知れない。

「実を言うと、僕もツェルニに行くんだ」

 いきなり話が飛んでしまって、認識が追いつかなかった。

「正確に言うなら、都市の予算が無いから、無能な武芸者を飼っておく余裕がない。半分追い出されたような物だね」

 笑っているように見えるが、もしかしたら、かなり腸が煮えくりかえっているのかも知れない。
 残念な事に、その細い目からはあまり感情を読み取れないのだ。

「そ、そうなんだ」
「そう。ある意味君と同じだね」

 指さされたあたりで、かなり事情に詳しいのだと理解させられた。

「でだね。その原因というのが、二年前の戦争なんだ」

 うんうんと、一人で納得しているウォリアスから視線をそらせて、同行者三人を見回す。
 ナルキの視線がそらされ、ミィフィが興味津々とマイクを取り出し、メイシェンが不安そうにウォリアスを睨んでいる。
 三人とも、話の筋が見えていないようだ。

「その都市と戦った時なんだけれど」

 いよいよ話の核心になったと言わんばかりに、声が潜められた。
 当然、三人もこちらに体を乗り出している。

「相手は、たった一人だったんだ」
「!」

 ウォリアスのその一言で、嫌な予測が一つ出来上がってしまった。

「しかもね。こう言ったんだよ」

 人差し指で上を指さし。

「貴様らを殺し尽くすのに300秒はかけすぎだが、一兆分の一の精密さも必要かも知れん。18000秒ほどかけて死人が出ないように手加減してやる」

 抑揚に欠けるその台詞は、とても、知り合いの言いそうな事のような気がする。

「18000秒って?」
「えっと。五時間」
「何で普通に五時間って言わないんだ?」

 三人の会話を聞きつつ、レイフォンの背中を流れる冷や汗の量は、増大の一途をたどっている。

「その人がさ。目に見えない細い糸を武器に戦ってね。外縁部から奇襲をかけるはずだった部隊も、接岸部に荷揚げされて」

 荷揚げという言葉から想像できる事は、十把一絡げにされて乱暴に接岸部に放り出されたのに違いない。
 そして、そんな事が出来る人間を、レイフォンは一人だけ知っている。

「死人は出なかったけれど、本当に五時間で敗北。しかも、相手は始めに立っていた位置から一歩も動いていない」

 話が見えてきた。

「レイとん。それってもしかして」

 実際にレイフォンの鋼糸の技を見ているナルキは、おおよそ話の内容を理解したようだ。

「さてここで問題です。家が戦った都市と、武芸者の名前は?」

 質問の形を取っているが、それは単なる答え合わせでしかない。

「槍殻都市グレンダンの、リンテンス・サーヴォレイド・ハーデン」
「正解」

 正解を貰ったというのに、全然嬉しくない。

「その時、都市はそれほど傷つかなかったんだけれど、怪我人の治療には手間がかかってね」

 ここまで話が進んで、やっとの事でレイフォンは思いだした。
 二年前の戦争。
 リンテンスが戦ってしまったので、レイフォンは見学しているだけだった。
 だが、接岸部の両脇から荷揚げされた相手の武芸者を覚えている。
 壊れ物注意というラベルが貼られていなかったので、とても乱暴に扱われたと記憶している。
 建物も丁寧に切り刻まれ、破片を回収したリンテンスが、その大きさを細かく調べて不満そうな顔をしていたのも覚えている。

「そ、そうだったんだ」

 非常な動揺と供に言葉を紡ぎ出す。
 レノスのその後はおおよそ理解できる。
 治療が終わった後も、たった一人に負けてしまった武芸者達の立場は、非常に悪い物になったに違いない。
 そんな立場の悪くなった武芸者たちは、リンテンスの戦い方を見て戦力の増強を図るために、少数精鋭策を取ったのだろう。
 この次があったら、無様なまねはしないと。
 結局、予算が削減される中精鋭に回され、優秀でない武芸者のいる場所が無くなった。
 結果として、今ウォリアスは放浪バスの中で、レイフォンの隣に座っている。

「納得いった?」
「これ以上ないくらいに」

 細い目を限界まで細くしたウォリアスが、にこやかに微笑んでいる。
 実際に微笑んでいるかはかなり不明だが。

「まあ、今回の留学は、都市を出るための口実なのかも知れないけれどね」

 色々な都市を見て回りたいのかも知れないし、もしかしたら対人関係で悩んでいたのかも知れないが、今掘り下げる必要はない。

「そ、そうか」

 なんだか安心した様子で、ナルキが錬金鋼から手を離し活剄を納める。

「それで、都市の上の方が躍起になって天剣授受者について調べてね」
「それで僕の事も」
「そ」

 思いの外武芸者の世界というのは狭いのかも知れないと思いつつ、レイフォンは新たな危険性について考えていた。

「気にする事はないと思うよ。ヴォルフシュテイン卿とアルセイフ君じゃ、かなり雰囲気が違うから」
「そ、そうかな?」

 自分自身の事なのであまりはっきりとは分からないが、確かに天剣だった頃とは違っていると思う時もある。
 そもそもウォリアス自身、グレンダン出身と言う事を聞いてから、やっと気が付いたくらいだ。
 かなり人に与える印象が違うのかも知れない。

「そんなに腑抜けた顔していたら、誰も天剣だって思わないよ」
「はう」

 ヨルテムに着いたばかりの頃も言われたが、他人から見たらそうなのだろうかと、かなりブルーになってしまった。

「確かに。実際に手合わせしてみないと、そんなに強い武芸者だなんて信じられんからな」
「そうよねぇ。にひひひひひ」
「あやう」

 三人の意見も、おおむね同じようだ。

「まあ、最後の試合はかなり拙かったけれど、それ以外は割と共感できるからね」
「そ、そうなんだ」

 やはり、ガハルドとの試合は問題だったのだと、改めて認識したレイフォンだったが、今更どうこうできる問題ではない。

「取り敢えず、親がグレンダン出身と言う事にしておけば、同姓同名の別人と言う事で、勝手に納得してくれると思うよ」
「う、うん。その辺で押し通してみるよ」

 だがしかし、これから先、レイフォン本人の事を知っている人間に出会うかも知れないという危険性だけは十分に認識した。
 それについてレイフォンが悩もうかとした瞬間。

「それで、出産は近いの?」
「のわ!」
「ひゃぁぁぁぁぁ!」

 いきなりの話題転換で、再びメイシェンと悲鳴を上げてしまう。
 と言うか、今までの話題はここでお終いと言う事なのだろうが、普通にそう宣告してくれてかまわないと思うのだ。
 非常に心臓に悪い。

「やはり違うのか。紙おむつなんか持ってきているから、もしやとは思ったんだけれどね」

 にひひひと笑うミィフィが不気味だが、ウォリアスの方はきちんと認識していてくれる様で、少し安心だ。

「まあ、ゆっくりしようよ。入学式まではもう少し時間があるし、バスもそれまでにはツェルニに着くだろうから」
「そ、そうだね」

 武芸者としては優秀ではないのかも知れないが、何かレイフォンとは決定的に違う生き物であるらしい、ウォリアス・ハーリスとの付き合いはこうして始まった。
 
 
 
 三回目の乗り換えを終了させ、ツェルニに向かうリーリンはかなり真剣に悩んでいた。
 レイフォンに女がいる。
 リンテンスがそう言った以上、本当にいる確率が極めて高い。
 つい先ほど通り過ぎたヨルテムでその真相を調べたのだが、旅行者が行動できる範囲内では何も分からなかった。
 レイフォンの仮住まいの住所は分かっていたのだが、そこを訪れると言う事も出来なかった。
 グレンダンだったなら、旅行者に認められる行動の自由はかなり大きいのだが、ヨルテムはかなり窮屈だった。
 それでも、連絡を取ろうと思えば出来たのかも知れないのだが、乗り換え時間があまりなかった事が災いしてしまった。
 乗り換え時間五時間というのは、都市を出た事のないリーリンから見ても異常に短いと言う事は理解している。
 放浪バスが寄りつかないグレンダンが全ての原因かもしれない。
 その短じかい時間で耳にした情報と言えば、リーリンが到着する前日に停留所で起こった事件についての話ばかり。
 曰く。緑あふれる大地を目指して、勇者とその伴侶が旅立った。
 曰く。青年の口付けで骨抜きにされた少女が妊娠した。
 曰く。純情可憐な少女が少年の姿をした汚染獣に強引に唇を奪われ、どこへともなく連れ去られた。
 などなど。
 停留所でラブシーンをやった馬鹿がいた事は理解できたし、それがかなり派手で十年は語り継がれるだろう事は確実と言う話だが、リーリンの目的には全く関係がなかった。
 小さく溜息をついて、ふと考える。
 もし、レイフォンがグレンダンを旅立つ時に、見送りに行ったとしたなら。
 無駄だと分かっていても引き留めただろう事は間違いないし、もしかしたのならば、感情にまかせて。

「・・・・・・・・・・・・・・。まさかね」

 そんな語りぐさになるようなことは流石にしないだろうが、それでも口付けの一つくらいなら、無いとは言い切れない。

「そ、それよりも今は、あの馬鹿の事よ」

 自分のしでかしそうな恐ろしい予測から、強引に話をそらせる。
 そもそも、こんなに色々と考えさせられる原因は何かと言えば。
 当然、それはレイフォン以外にはあり得ない。
 ガハルドとの試合の直後、帰宅したレイフォンを見る弟や妹たちの視線は、確かに非常に厳しかった。
 だが、それは、みんながレイフォンの事を好きだったから怒っていたのに、それを全く理解しない馬鹿は二度と帰ってくる事はなかった。
 リーリンが何かする暇が無いほどあっさりと、何の未練もないと言わんばかりに踵を返した姿を最後に音信不通になってしまった。
 リーリンの気持ちも、デルクの後悔も知らぬげに。
 一度だけ、レイフォンらしき人物が子供が路面電車に引かれそうになったのを助けたと聞いたが、怪我をしたはずなのに病院にもかからなかったために確認は出来なかった。
 そんな音信不通が続いたレイフォンにツェルニで逢ったのならば、問答無用で正座させて、小一日説教をしてやろうと思っていたのだが、今リーリンの胸と言わず腹と言わず内包する怒りの量はそんな生やさしいものでは無い。
 あえて言うならば。

「殺す」

 自ら死を望むまでなぶり尽くしてからでなければ、とても慈悲を与える気にはならない。
 それだけの殺意と怒りを胸に、リーリンはバスに揺られる。
 当然、先ほどのリーリン自身がしでかしてしまうかも知れない、恐ろしい予測の反動も含まれている。

「でも」

 実際に逢ってしまったのなら、多分何も出来ないだろう事も分かっている。
 何しろ、無事な姿で再び逢う事が出来るのだ。
 この汚染された世界では、死はそれほど珍しくない。
 グレンダンの天剣授受者とは言え、それは例外ではないのだ。
 一度都市を離れたのなら、それは永遠の別れであってもおかしくない。
 だから、どれだけ心配していたかそれを知らしめる事はするだろうが、それ以上は出来ない。

「はあ」

 溜息が出てしまうくらいに、色々な事が頭の中で渦巻いていて、にっちもさっちも行かない状況になっている。
 これも全てレイフォンがいけないのだが、叱る以外の事が出来るとも思えない。

「はあ」

 いい加減に思考が迷走している事を自覚したリーリンは、眠ろうと瞳を閉じた。
 だが。

「・・・・・・」

 瞼の裏側に現れたのは、どこの誰とも知れない女性を妊娠させて、平謝りに謝るレイフォンの姿。

「・・・・・・・・」

 猛烈な殺意がわき上がってきた。
 いま、もし、レイフォンがすぐそばにいたのならば、確実にその喉笛を食い千切っていたに違いない。
 思わず拳を握り力が入る。

「?」

 その殺意を何とか押さえようと努力している最中、隣に座っていた少年が身じろぎするのを感じた。
 薄目を開けてみると、何かに恐れおののいたように、リーリンから遠ざかろうとしている。
 もしかしなくても、リーリンの殺気が漏れていたようだ。

「こほん」

 小さく咳払いをして取り敢えず自分を落ち着かせつつ、隣に座った同級生になるかも知れない少年が、これ以上恐れないように注意する。
 よくよく考えてみれば、ヘタレで恋愛経験が無く武芸馬鹿の鈍感王レイフォンに、そんな大それた事が出来るはずはないのだ。

「うん。きっと手をつないだとか、その程度よね」

 自分に言い聞かせる。
 どちらにせよ、ツェルニで逢えば分かるのだ。
 自分に言い聞かせたリーリンは、今度こそ眠ろうと必死に瞳を閉じる。
 隣にいた少年が音を立てないように、必死に席を替わる気配を感じつつ。

「これも、レイフォンのせいよね」

 もしかしたらツェルニで恐れられるかも知れないが、その責任は全てレイフォンに有ると、自己弁護をしつつ、リーリンは少し早いが眠りについた。
 まだ、目的地まではかなり遠いのだ。
 今から全力疾走していては、体が持たない。
 
 
 
 放浪バスで移動する事十日。
 体を動かせない事と拷問の区別が付かなくなった頃合いに、やっとの事でツェルニに到着した。
 停留所の周りには、当然の事ではあるのだが、同じ目的でここに来た同年代の少年少女がたくさんいる。
 日差しはそれほど強くなく、割と穏やかな昼下がり。

「つ、つかれた」

 忘れたふりをする訳にもいかないので、ヨルテムから持ってきてしまった紙おむつと共に下車すると、今まで通ってきた都市とはやはり微妙に違う空気の匂いと遭遇した。

「うん。なんだか学園都市といった空気だ」

 当然の事が思わず口を突いて出てしまうくらいに、レイフォンは浮かれていたのだ。

「いや。まあ、気持ちは分かるんだが、もう少し落ち着こう」

 呆れ気味のナルキの声と溜息が聞こえるが、体を動かさないと死んでしまうレイフォンにとっては、まさに水を得た魚状態だ。
 実のところ、ナルキもあまり変わらないようで、せっせと伸びをしたり屈伸をしたりして、固まった体をほぐしている。

「レイとん。嬉しそうだね」

 そう言うメイシェンも、背伸びをして開放感を満喫している。

「にひひひひひ」
「な、なんだよ?」

 何時も通りに笑うミィフィが、やはり怖いが。

「いや。私も私なりに開放感を味わっているだけだよ? にひひひひひ」

 こういう笑い方をするのが癖になっているようだ。

「いや。途中で汚染獣の襲撃とか無いかって心配だったけれど、無事に着けて良かったよ」

 大きめの鞄を肩から提げたウォリアスも、その細い目を日差しに更に細くしている。
 武芸者とは言え、動かない事にそれほど苦痛を感じない様子で、軽く伸びをしただけで普通の状態に戻ってしまった。

「取り敢えず、宿に泊まってから寮を探さないと」

 ヨルテムの時とは違い、今回は割と計画的に物事を運べそうで少し安心している。
 一人ではないと言う事が、これほどありがたいと思った事はかつて無かった。

「そうだな。案内板はあそこか」

 ナルキの視線の先を追うと、確かに立派な柱に固定された、地図らしき物が存在していた。
 それに書いてある道順を覚える。
 この辺は割と得意だ。

「じゃあ、行こうか」

 メイシェンとミィフィの荷物と合わせて四個を、両手に抱える。
 だが、ナルキの視線が少し横にずれている事に気が付いた。

「錬金鋼は、預けなければならないのか」

 地図が貼り付けられている柱の脇に特設された、新入生用の注意書きを読んでいたナルキが呟いた。
 注意書きがある事を示すためだろうが、大きなビックリマークの形をしているこれを作った人は、きっとジョークがなければ生きてゆけない人だろう。
 なぜか見過ごしてしまった事は、全力でごまかしつつそう思う。

「へえ。そうなんだ」
「ああ。これ」

 指し示す先にある文言を読み上げる。

「武芸科生徒は、入学より半年間錬金鋼の携帯を禁止とする。個人的に持ち込んだ物も事務所にて保管する」

 過去に何か問題でもあったようで、丁寧に赤く太い文字で書かれている。

「ふぅぅん。じゃあ、荷物を置いたら預けてこようか」
「そうだな」

 ナルキとウォリアスがそんな事を話している。
 取り敢えず、関係がないとレイフォンは聞き流した。

「レイとん。平気?」
「うん」

 両手に四つの荷物を持っているとは言え、それほど重さがある訳でもないので全く問題無いのだが、メイシェンは少し心配気だ。

「じゃあ、とっとと落ち着こうか?」

 誰からも異論は出なかった。
 だが。

「しかし、四畳半の寮って有るのかな?」
「よじょうはん?」

 いきなりウォリアスが意味不明な単語を使ったので、思わず硬直して聞き返してしまった。

「うけけけけけけ。貧乏な夫婦の新居というのは、四畳半と相場が決まっているのだよ」
「ひゃぁぁ」
「はぅぅ」

 当然、ここで話題に上っているのは二人しかいない。

「にひひひひひ。やはりここが二人の新たな門出の地になるのだね」

 ミィフィとウォリアスは、どうやら似たような生命体らしい。

「冗談はさておき。安い寮があると良いね」
「そうだね。あんまり高いところだと、家賃払うのも大変だし」

 楽しそうに笑いつつ、被害者の事などお構いなしに先を行く加害者。

「ほら。お前らもいつまでも固まっているな」
「あうあう」
「ahahahaha」

 ツェルニでの生活は、レイフォンにとって非常に刺激の強い物になる事が、ほぼ確定した。

「それにしてもウッチンは色々知っているねぇ」
「ねえミィフィ。その名前止めない? タイプミスしたら問題有るよ」
「にひひひひひ」

 いつの間にか、前を行く二人は非常に仲良くなっていた。
 加害者同士で、通じる物があるのかも知れない。
 
 
 
 バスに揺られる事十日。
 やっとの事でツェルニに到着したリーリンは、思わずバスから降りた瞬間、大きくのびをしてしまった。

「はあ。きつかった」

 長時間乗る事を前提としている放浪バスとは言え、その大きさには限度がある。
 そのせいで割と窮屈な思いをしたのだが、それももう終わりだ。
 気が付けば、リーリンの周りから同年代の少年少女がいなくなっていたが、そうまでして恐れられるのも終わりだ。
 何度となくレイフォンに対する殺意がわいたが、それに悩まされるのも、もう終わりなのだ。
 と、思いたい。
 そう。ここはツェルニなのだ。
 そう認識しながらグレンダンとは違う、どこかのんびりしたと言うよりも弛緩した空気を胸一杯に吸い込む。
 外縁部の更地が小さい事を除けば、構造自体はあまり変わらないのだが、それでも、新鮮な感動と共にツェルニの町並みを見渡す。
 色とりどりの建物で、少し賑やかな感じのする風景を眺め。

「さて」

 伸びをして、ざっと空気に体をなじませて気分を入れ替えたので、次は当面の宿を決めて、そこから六年間過ごすための寮を選ばなければならない。
 左右を見回して、案内図を探しながら歩く。
 それはすぐに見つかったが、問題なのは隣に立っている新入生用の注意書き。

「他の都市のもめ事を持ち込む事を禁止する」

 錬金鋼の携帯禁止などと一緒に書かれている、赤い太い文字を読み上げる。

「いろいろあるのね」

 学園都市とは、いくつもの都市から学生が集まるところだ。
 ならば、敵対している都市の住人同士が鉢合わせする確立も十分にある訳で、この手の注意書きは是非とも必要だ。
 だが、ふと思う。
 ここならば、グレンダンの事を知っている人は多くないだろうし、そもそも、もめ事が禁止されているのだ。
 レイフォンにとっては過ごしやすい場所かも知れない。
 ここで一生過ごす訳にはいかないだろうが、それでも、穏やかな時間を送る事が出来るはずだ。
 以前調べたところによると、学園都市が汚染獣と遭遇する確立は、グレンダンはおろか他の都市に比べてもかなり低い。
 それはつまり、戦場に駆り出されるレイフォンの姿を見ないで済むと言う事。
 そう思うだけでも、少し気分が軽くなる。
 その軽くなった気分と共に、取り敢えずの宿を目指して歩く。
 荷物は鞄一つだが、実は結構重い。
 途中でレイフォンに出くわしたら、持たせても良いかもしれないとそうリーリンが考えていたところ。

「へえ。あちこち回って古い資料を集めて回っているんだ」
「そ。そのための古文都市レノス」

 茶髪をツインテールにした好奇心丸出しで質問している同年代の少女と、長い黒髪を後ろで束ねた目の細い少年が、買い物袋をぶら下げながら脇道から出てきて隣に並んだ。
 目的地は同じ宿泊施設のようだ。
 もしかしたら、同級生になるかも知れない二人連れだが、問題はそこではないのだ。

(こ、古文都市レノスって)

 二年前に、グレンダンとセルニウム鉱山争奪戦を繰り広げた都市の名前だ。
 話によれば、リンテンスが一人で、しかも半日で勝利を収めたと聞いている。
 それだけなら問題はないだろうが。

(資料を集めて回っているって)

 もし、その話が本当ならば、細目の少年はレイフォンの事を知っている確率が高い。
 いきなり、リーリンの楽観的な予測は打ち砕かれた。

「でも変だな。あちこち回っているせいで、割と有名だと思ったんだけれど」
「もしかして、ヨルテムの周りにはあまり来ないだけかもよ?」
「それはあるね。ここ百年くらいの記録を見ると、ヨルテムと戦争してないから」
「いやいや。集めるためだけに戦争仕掛けるのかい?」
「接岸するのが、一番確実に接触できるからね」

 言われて思い返してみれば、レノスは戦争が終わった後も、暫くグレンダンと接岸したままだった。
 接岸している間ならば、情報も物資も移動するのにそんなに手間はかからない。
 その間に、色々とグレンダンの出版物とかを買いあさっていったのかも知れない。
 リーリンの悪い予測が、少し現実味を帯びてしまった。
 だが、疑問も残る。
 情報だけならば、放浪バスを使って集めた方がずっと早いのは確実なはずだと。
 なんだか、猛烈に手間暇かかる収集癖を持った都市からの留学のようだ。

「はあ」

 周りを見るふりをして、二人から少し距離を置いた。
 別段やましいことをしている訳ではないのだが、それでも二人の会話を聞き続けることが、少しきつくなってきたのだ。
 この調子では、レイフォンの事を知っている人間が大勢いるかも知れないと、悲観的な予測を立ててしまったから。

「これも全部、レイフォンが悪い」

 まだ再会していないにもかかわらず、やきもきさせられるのも、色々心配させられるのも、全てはレイフォンが後先考えずにいなくなったからだと、そう結論づけた。

「まったく。どこにいるんだか」

 溜息をつき、二人が見えなくなったのを確認して、歩みを再開させた。
 落ち着いたら、レイフォンの事を探さなければならない。
 一万人の新入生の中から、一人を捜す。
 結構大変な作業ではあるのだが、学年ごとに校舎が集中しているのだ。
 一月有れば問題無く探せるだろうと、そう考えていた。
 だが。

「寮が見つかったよ。割と安いところ」
「へえ。じゃあ、明日あたり引っ越ししようか」
「私達も、三人で大きめの部屋を借りたから、そっちに引っ越す」

 少し先。
 割と大きな通りとの交差点に、さっきリーリンの脇を歩いていた二人が、知り合いにでも会ったのか、こちらを向いて話している。
 当然、その話し相手というのはこちらに背を向けているのだ。
 目立つ赤い髪と長身、褐色の肌をした女性と、長い黒髪で小柄な少女は良いだろう。
 問題なのは、記憶にあるよりも背が伸びて肩幅も少し広くなったような気がする、焦げ茶色の髪をした少年。
 とても誰かに似ていると言うよりは、本人だろう。

「僕の部屋は、二人用なんだけれど、一人で使って良いみたい」
「にひひひひひ。メイッチを連れ込み放題だね」
「うけけけけけ。さっそく紙おむつが役に立つね」

 そんな会話が聞こえてきた。
 それは、放浪バスで想像してしまった光景が、現実の物としてリーリンの前に現れようとしている事を、意味しているように思える。
 と言うか、実現秒読み段階に違いない。
 だからリーリンは、一歩前へと踏み出した。
 凍り付いた様に冷たい頭と、灼熱を封じ込めた胸と共に。



[14064] 閑話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/09 22:03


 ミィフィとウォリアスのくだらない話に、抗議の悲鳴を上げようとしたレイフォンだったが、それは喉の奥で凍り付いてしまった。
 汚染獣の老性体。
 それも、何期か分からないほど年を経た個体に、突如として後ろを取られたような、そんな危機感と恐怖。
 それを感じたからかも知れないし、何時もは好奇心に任せてキョロキョロと辺りを見回しているミィフィの視線が、一点に固定され猛烈な勢いで瞳孔が収縮したからかも知れない。
 もしかしたら、糸のように細いウォリアスの目が、限界という壁に挑戦して、それをぶち壊したかの様に大きく見開かれたからかも知れない。

「な、なに?」

 あまりにも急激な二人の変化に、思わずメイシェンが後ろを振り返り。

「ひゃぁぁぁ」

 絞り出す様な悲鳴を上げ、腰を抜かして座り込んだ。

「お、おい」

 それを見たナルキが助け起こしてから振り返り、そして。

「う、うわ」

 普段強気なナルキをして恐怖のあまり、メイシェンを抱きかかえる様にして後ずさらせる存在がレイフォンの背中に迫る。

「レ、レイとん」

 震えるミィフィの声が聞こえ、絶対零度で凍結したつばを強引に喉の奥に押し通した。
 本能は、たとえ汚染物質に灼かれようと汚染獣に生きながら食われようと、ツェルニから脱出すべきだと主張する。
 理性もそれを肯定しているのだが、手も足も全く動かない。
 今の恐怖と比べたのならば、女王の威圧感など子供のお遊戯にしか思えないほど、異常な恐怖などと言う物がこの世にあるとは思わなかった。

「久しぶりレイフォン。元気だった?」

 背筋を凍らせる灼熱の手が、レイフォンの右肩に置かれた。

「う、うわぁ」

 足音を聞いた時点で、誰かという疑問の答えは出ていた。
 だが、何故その人物がここに居るのかという愚問が浮かんだ。
 事実を書き換える事など出来ないというのに。
 そして、今、その声を確認した。
 振り返ったら駄目だという本能と理性の警告を無視し、体がゆっくりと後ろを振り返り。

「ヤアリーリンゲンキソウデナニヨリ」

 抑揚という物が全く無い音の集団が、目の前の人物に向かって放たれた。
 くすんだ金髪を後ろで束ね水色の瞳をした、レイフォンの事をもっとも良く理解しているであろう、キラキラしたとても嬉しそうな笑顔を浮かべつつ、武芸者でもないのに体の周辺に放電現象を起こしている人物へ。

「ええ。とっても元気よ? もうこれ以上ないくらいに元気すぎて困っちゃうくらいに元気」

 猛烈に嬉しそうなリーリンがニコリと微笑み、剥き出しになった犬歯がキラリと耀いた。
 それは、すでに捕まえた獲物をいたぶり尽くしてから、己の欲望のままに食らい尽くすという、無言の宣言。
 リーリンの犬歯がこんなに大きかったのかとか、食べられたらやっぱり痛いのかなとか、くだらないことを考えてしまうのは現実逃避だろうか?

「あ、あのぉぉ」

 牙の生えたリーリンがレイフォンの喉笛に食いつき、一滴残さずに生き血を啜る光景が想像という世界から飛び出し、現実化しようとした瞬間。
 レイフォンのすぐ横を何か引きずるような音が通り過ぎ。

「何でしょう?」

 もの凄く素敵な笑顔のリーリンが、ウォリアスを盾として接近していたミィフィに向けられた。
 激しく首を振って拒絶するウォリアスは、もしかしたらミィフィの金剛剄なのかも知れない。
 一撃で粉砕されるであろう事は、間違いない金剛剄だが。
 そんな現実逃避をしている間に、ミィフィのインタビューが始まってしまった。
 記者根性としては立派だと思うが、一言忠告をしておきたい。
 猫は何故死んだのか? と。

「レイとん。いえ。彼とどういうお知り合いですか?」

 基本的でいて愚かな質問をしたが、これが糸口だと言う事は十分に理解できる。
 メイシェンに孤児院について問いただされた時に、リーリンの事は話しているのだ。

「そうですね。幼なじみですね。同じ孤児院で一年くらい前まで一緒に暮らしていたので」

 それを見た全ての人物を魅了する笑顔と共に、殺意と害意が言葉として迸る。
 ちなみに、リーリンの手に力がこもりレイフォンの肩を粉砕する寸前だ。

「そ、それは、貴女もグレンダン出身と言う事ですね」
「ええ。そうなりますね」

 あくまでもにこやかに、そして、揺らぐ事のない戦闘力と共にリーリンが答える。

「で、では、本題です」
「はい。短めにお願いします。これから結構忙しくなるので」

 当然、その用事とはレイフォンがらみだ。
 出来れば早めに切り上げて欲しいと思う。
 リーリンの用事を。
 そして早く楽になりたい。

「あ、貴方は、オカマですか?」
「・・・・・・? は?」

 突如発せられたミィフィの質問は、あまりにも意表を突き、あまりにも現実離れしすぎていて、誰もが正しく認識できなかった。
 当然その中にはリーリンも含まれているわけで。

「おかま?」

 あまりの事態に動揺したのか、体の周りの放電現象がいきなり消失。
 それどころか、今まで辺り一面を支配していた緊迫感や殺意も霧散している。

「おかまって?」
「い、いえね。レイとんがヨルテムに来た頃にこう言っていたんですよ。女の子なんて物とは接点がなかったから、謎の生命体だって」

 確かにそのような事を言った記憶はあるが、それがリーリンと何の関係があるのか、極めて理解できない。

「い、いや。私普通に女の子ですけれど」
「え?」

 理解できないながらも、状況を見守っていたレイフォンの耳に、違和感のある単語が飛び込んできた。
 それはもう、これ以上ないくらいに違和感のある単語だ。

「な、なに?」

 驚いた様子でこちらを見るリーリンを、見つめ返す。
 
 
 
 修羅場一歩手前だった状況だが、ミィフィの機転によって流血の惨事は回避された。
 だが、新たな問題がすでに目の前に存在している。
 レイフォンの話に何度か出てきていたリーリン。
 聞いている限りでは、かなり年上の女性だと思われた。
 だが、今目の前にいるのはどう贔屓目に見てもナルキと同い年くらいの少女だ。
 レイフォンが嘘をついていたという確率は、無視して良い程度の低さであると認識している。
 だが、ナルキの予測とは違っていたのならば、かなり困った事になる事は間違いない。
 それが理解できているのだろう、メイシェンの身体が硬直している。
 そして、嵐の中心にいるレイフォンの視線が、リーリンの頭の天辺からゆっくりと時間をかけて、足の先まで降りていった。
 そして、再び、ゆっくりと時間をかけて上に。

「!」

 何かに驚いた様に、少し硬直した後に、もう一度、視線が降下開始。

「な、なにやってるの?」

 意味不明なレイフォンの行動に、思わずリーリンが小さな声を出したが、それを全く無視して視線が足先まで到達した。

「レイとん?」

 恐る恐るとメイシェンが声をかけたのだが、それも無視され、徐々に視線が上に移動を開始。
 そして、膝のあたり、スカートの裾をじっと見つめる事三十秒。
 動き出した視線は、今度は胸のあたりで停滞。
 やはり三十秒ほどかけてから、移動を再開。
 セクハラとか視姦とか、非常に女性に対して失礼なことをしているはずなのに、恐らくレイフォンにそんな自覚はないのだろう事が分かった。
 最後に、リーリンの顔を一分近くもしげしげと眺め、そして一言。

「女の子だったんだ」

 場に満ちていた、凍り付く様な緊張感が一気に霧散。
 あまりにあまりな一言に、思わずメイシェンの左手が一閃。

「ピコ」

 ウォリアスが持っていて、メイシェンが譲り受けた合成樹脂製の巨大なハンマー。
 赤と黄色に塗り分けられて、叩くと軽い音がする突っ込み兵器を、レイフォンの後頭部へと叩きつける。
 ピコと口に出すのがメイシェンのお気に入りらしい。

「はあ」

 当然だが、ナルキは右手で顔を覆い大きく溜息をつく。
 レイフォンが嘘をついていたのではなく、リーリンを女の子と認識していなかった事がはっきりと分かったから。
 これならば、全ての辻褄がきっちりと合ってしまう。
 だが。

「愚か者がぁぁぁぁぁ!!」
「がっ!」

 渾身の拳をレイフォンの頭頂部へと叩き落としたミィフィは、少し違う感想を持ったのかも知れない。

「い、痛いなぁ」

 当然、レイフォンは抗議の声を上げるが。

「ええい! 貴様の様な愚か者には、鉄拳制裁でさえ生ぬるいわ!!」

 怒り心頭なミィフィには全く通じない。
 実はナルキも同じような気持ちになってきているのだ。
 あまりにもあまりな展開に、何時も通りのリアクションしかとれなかったが、状況を認識できてきた今は少し違う。
 何しろ、リーリンを女の子として認めていないのだ。
 これは万死に値する罪と言って差し支えない。
 いくら鈍感王レイフォンと言えど、許される限度を超えている。
 そのリーリンはと言えば、あまりにもあまりな発言の連続に、怒る事も忘れて呆然としている。
 そして、ミィフィが。

「こんな、こんな」
「ひゃ!」

 何を思ったのか、リーリンの胸を鷲掴みにした。

「こんな立派な物を付けているのに!!」

 ぐわっしぐわっしと揉みしだく。

「ぐっぬぬぬ」

 何故か、涙を流しながら。

「こんな、こんな立派な物を付けているのに、女の子と認めないなんて、貴様それでも男かぁぁぁ!!」

 絶叫しつつ更に揉みしだくミィフィ。

「あ、あの。止めてください」

 慣れているのか、諦めの心境でミィフィに懇願するリーリン。
 だんだん激しく情熱的になってきているのは、見なかったことにした方が良いのか、それとも即刻止めさせた方が良いのか、判断に迷うところだ。

「なあ、お前ら」
「はい?」

 そんな収拾の付かない混乱のさなか、軽薄というか気の抜けた声がかかった。
 見ると、金髪を後ろで縛った軽薄そうな男性が、呆れた雰囲気を隠すことなくナルキ達の事を見ていた。
 武芸者らしく剣帯に錬金鋼を差しているが、全く威圧感を感じない所を見ると、殺剄のたぐいが得意なのかも知れない。
 なんだか胃のあたりを押さえているところを見ると、もしかしたら始めからこの寸劇を見物していて、そろそろ胸焼け気味なので休憩したいだけかも知れないが。

「新入生だよな」
「はい。先日着いたばかりですが」

 代表して、比較的冷静なナルキが対応している。
 ウォリアスこそ一番冷静なのだが、ミィフィを羽交い締めにするのに忙しく、それどころではないのだ。

「取り敢えず、場所を移そうぜ」

 青年が軽くあごをしゃくって、ある方向を示した。

「え?」

 そして、ふと、周りを見てみる。
 今まで気にしていなかったが、大通りの交差点でこの惨劇は起こっていたのだ。
 つまり、それは。

「ひゃぁぁ」

 あまりにも大勢の人間に見物されている事に気が付いたメイシェンが悲鳴を上げてしまった。

「い、いどうしよう」

 動揺しているが、それでも判断力を持ったウォリアスに促されるまま、引率者に連れられたナルキ達は移動する。
 
 
 
 武芸科四年のシャーニッド・エリプトンは、今年の新入生が異常に面白い連中ばかりなのかと、真剣に検討してしまっている自分を発見していた。
 一通りの自己紹介が終わり、停留所から少し離れ練武館にも近い公園の片隅で落ち着いた六人を目の前に、まず始めに確認しておきたい事がある。

「お前さ。武芸者だよな?」
「? そうです」

 レイフォンと名乗った少年が、何を当然の事を聞くんだと言わんばかりの表情で、シャーニッドを見つめ返す。

「だったら、錬金鋼の携帯は御法度だろ?」

 レイフォンの腰の左側にある、不自然な膨らみを指さしつつ聞いてみる。
 剣帯を着用していないので、恐らくベルトに直接差しているのだろうと予測しつつ。
 もしかしたら、新入生用の注意書きを見ていないのかと思ったのだが、他に武芸者が二人いて、二人ともきちんと預けているらしい事を考えると、非常に不自然だ。

「ああ。一般教養科なんですよ。僕」
「はい?」

 朗らかに言うレイフォンに、ヨルテム三人衆が頷いているが、グレンダンからの留学生は驚きの表情を浮かべている。

「一般教養科?」

 黒髪で細目の少年は、何とも言えないと言わんばかりに、無表情を通している。

「はい。あの注意書きは武芸科に当てた物ですから、僕には関係ないですよ」

 言われてみて、よくよく思い出してみると、確かに武芸科に入学した生徒という前提条件が付いていた。
 付いてはいたのだが。

「来年から、武芸科という文言が削除される事は確実ですね」

 知っていて止めなかったと思われる細目の少年が、非常に楽しそうにそう言っているので。

「ああ。確かに確実だ」

 一応相づちを打っておいた。
 さっきの無表情は、この展開を予測していたかららしい。
 極めて悪質な人格を持っているかも知れない。
 ウォリアスの評価はそこまでにしておくにしても、武芸科に入らない武芸者という前例はないはずだ。
 だから何の問題も無かったのだが、今、目の前にその常識を覆す存在が鎮座しているのだ。
 更にたちの悪い生き物も居るが、これは無視する事にした。
 シャーニッドにどうこうできる訳ではないから。

「それにしても、何で、こんな、こんな立派な」

 何故か再びリーリンの胸を揉みしだくミィフィが、先ほどの話題を蒸し返す。

「あ、あのぉ。そろそろ止めて頂けないかと?」

 なにやら非常に嬉しそうにリーリンのその発達した一部分を揉みしだくミィフィ。

「だって。こんなに立派なんだよ? わたしなんか、わたしなんか」

 涙を流しつつ、そう言うミィフィの胸元を見たシャーニッドは、全てを理解して納得してしまった。
 良く言って年相応な一部分を見て。
 きっとレイフォンは、胸が大きな女性でなければ女性と認識できないのだろうと結論づけて。

「まあ、それはそれとして」

 ウォリアスに羽交い締めにされ、リーリンから遠ざけられたところで、ミィフィが割と冷静に話を進める。

「これ以上ないくらい見事な女の子が幼なじみなのに、何で女の子が未知の生命体なのよ?」

 シャーニッドの認識と少し違うが、人それぞれの世界なので、あまり突っ込んではいけないのだろう。

「ええっと」

 少し困った様な表情で、レイフォンが頭をかき思考する事数秒。

「僕にとって、リーリンって言うのは、うぅぅぅん? リーリンだったんだよ」

 だが、そんなシャーニッドの事などお構いなしのレイフォンは、若干意味不明な事をのたまわっている。

「理解できたか?」

 おろおろしているメイシェンに聞いても無駄な事が分かったので、ナルキに聞いてみたのだが。

「つまり、レイとんにとって、リーリンさんは人間じゃなかったと言う事か?」

 ぴくりと、リーリンの米神が痙攣した。
 ついでに、今まで感じた事のないプレッシャーをひしひしと感じる。
 武芸者でもない少女から発生する圧力に、腰が引けてしまう。

「い、いや。人間だよ。ただ、一緒にいる時間が長かったから、性別に気が付かなかっただけで。スカート履いているところ見たの今日が初めてだし」

 極限の状況の中、人が嘘をつき続ける事は困難である。
 ならば、これこそがレイフォンが持つリーリンのイメージなのだと理解できる。
 非常に問題有りまくりな認識だ。

「へえ。私ってそんな風に思われていたんだ」

 とてもにこやかな笑顔と共に、リーリンがレイフォンに迫る。

「はぅ」

 すでに土気色になったレイフォンの顔色が更に悪くなったのを確認。

「そ、それにしても。グレンダンって言ったら武芸の本場だろ? そんなところの武芸者が何で一般教養科なんだ?」

 目の前で流血の惨事が行われるのを阻止するために、強引に話題をそらせる。
 痴話喧嘩を眺めるのは好きだが、今回は回避する方が賢明だと判断したのだ。

「ああ。その辺色々事情があるんですよ」

 本当に色々ある様で、ナルキが言葉を濁すとリーリンの動きも止まった。
 そして、心配気にあるいは不安げにレイフォンの事を見る。
 想像できないほど、色々な問題が有る事だけは理解できた。

「・・・・。まあ、優秀な武芸者は多いに越した事はないんだが」

 ツェルニに残されたセルニウム鉱山はあと一つ。
 今年行われる武芸大会で敗北したのならば、待っているのは穏やかな滅び。
 それを避けるために、少しでも戦力が欲しい。
 とは言え、何か問題を抱えたレイフォンを武芸科に転科させる訳にはいかない。
 要するに、シャーニッド達が奮戦して勝利すれば良いだけの事だ。

「僕はあまり強くないんですよ。戦力としては、いてもいなくてもどっちでも良いと思いますよ」

 リーリンに睨まれていなければ、普通の少年にしか見えないレイフォンがそう言うのだが、五人の表情や仕草を見る限り、それは謙遜かあるいは隠しているかのどちらかのような気がする。
 だが、それも一瞬。

「ふん! ツェルニの武芸者など、レイとんの手にかかれば、瞬き一つする間に全滅させられるけどね」

 何か、とんでもない事をミィフィが言ってくれた。
 もしかしたら、シャーニッドの予測が当たっていたのかも知れないが、それでもこの発言は捨て置けない。

「ほう。そんなに凄いのかい、そこのヘタレ君は?」

 あえて、挑発的な言葉遣いをしてみた。
 何か問題が有るらしい武芸者一人に、ツェルニの武芸者全員が敗北するなど、有ってはならない事態なのだ。
 一般人であるミィフィに言っても仕方が無いのかも知れないが、それでも言わずにはいられない。
 だが、ふと、他の連中に視線を向けて、そして驚愕してしまった。
 全員が、ミィフィに向かって責める視線を送っていたから。

(まさか)

 あり得ないと思っていたのだが、もしかしたらと、思わなくもない。

「ふん! これを見ろ!」

 いきなり携帯端末を取り出したミィフィに言われるがまま、その小さな画面を視界に納め。

「?」

 一瞬、何が映し出されているのか分からなかった。

「・・・・」

 じっと見つめる事三秒。
 脳がやっとの事でその映像を認識して、理解し始めた。
 どう見ても、大勢の目の前で派手な口付けをしているカップルだ。
 黒髪の少女と茶色の髪の少年。
 目の前の六人の中に、この組み合わせに該当するのはただ二人だけ。

「な、何見せたんだよ?」

 何故か、猛烈に冷や汗を流しているレイフォンの視線が不安げにシャーニッドをとらえている。
 だからシャーニッドは、彼の肩に手を置いて。

「お前はまさに最強だ。あらゆる敵はお前の前に屍をさらす事しかできない」

 ツェルニの全部芸者の中で、これほどの勇者が存在するかと聞かれたのならば、即座に答える。
 皆無、と。

「な、何を見せたんだよぉぉぉぉ?」

 意味不明ではあっても何か感じ取った様で、レイフォンがミィフィに詰め寄っているが、シャーニッドにとってはどうでも良い事だ。

「大変だな」

 リーリンの肩にも手を置いてそう言う。

「え、えっと。何見たんですか?」

 会って間が無いシャーニッドにだって、リーリンがレイフォンの事をどう思っているかは理解できる。
 自分と同じ道を歩むかも知れない少女に同情しても、罰は当たらないと思うのだ。

「いいんだ。生きていればきっと幸せになれる」

 観戦していた武芸者二人が頷いているのを確認しつつ、シャーニッドはこの連中を取り敢えず解散させる事にした。
 新入生が、死体になって発見される確率を少しでも下げるために。
 
 
 
 シャーニッドに解散を命じられたからではないのだが、取り敢えず心の整理をしたかったので、案内された宿泊施設へとやってきていた。

「はあ」

 リーリンは宿泊施設の部屋の床に荷物を放り出し、自身はベッドに腰掛けてから大きく溜息をついた。

「はあ」

 今日は、色々な事がありすぎた。
 ツェルニにやってきてすぐにレイフォンに逢う事が出来た。
 それは良い。
 リンテンスが言うように、彼女が一緒だった。
 まあ、百歩譲って、それも良い。
 変な女に引っかかったのではないかという、心配もあったが、相手はまあ許容範囲内だ。
 と言うか、鈍感王のレイフォンがつきあう事が出来たのが不思議なくらいに、素敵な人だった。
 そのメイシェンの事を嫌う事は出来ないし、批難する事も出来ない。
 そして、もっとも問題なのは。

「私って、リーリンって言う種族?」

 女性として認識されていなかった事が、もっともショックだった。
 いや。実際にはかなり激しくショックだった。
 一瞬動きが止まり怒りを忘れるくらいには、ショックな出来事だった。
 だが、それもまさに一瞬の出来事だ。
 時間が経ち事態を理解したのならば、きっとリーリンはレイフォンの首を絞めていたに違いない。
 あるいは、喉笛に噛み付き血を啜っていたか。
 どちらにしても、流血の惨事間違い無しだった。
 その意味においてシャーニッドの乱入はありがたかった。

「それはまあ、確かにスカートを履いている所なんか、レイフォンは見ていないだろうけどさ」

 あまりにも近すぎたのがいけなかったのか、そうでなくても鈍感王のレイフォン相手に、今の気持ちを伝えるなんて事は出来そうもない。
 そして。

「一般教養科か」

 まだはっきりとはしていないが、武芸科を選んでいないと言う事は、レイフォンは武芸を止めるつもりである事を意味している様にも思える。
 あるいは、学園都市で学ばなければならないことはないから、一般教養科に行ったとも考えられるし、錬金鋼を持ち歩いているところを見ると、色々な考えの中でぐらついているのかも知れないが、あんな事があった後だ。
 二度と戦わないと言ったとしても、リーリンに攻める事は出来ない。

「渡せなかったし、伝えられなかったな」

 デルクから頼まれた錬金鋼もそうだが、もっと重要なのは、弟や妹たちの事だ。
 事件があまりにも衝撃的だったので、リーリンもデルクもみんな戸惑い混乱していたのだ。

「みんなあの馬鹿が悪い。二人部屋にメイシェンさんを連れ込んで子供を作るだなんて」

 バスの中で何度となく想像していた事実に、極めて近い現実的予測を口に出してみて、ふと思う。

「子供を作るって、そんな事レイフォンに出来るのかな?」

 武芸馬鹿である。
 連れ込んだは良いが、何も出来ない確率が極めて高いような気がする。

「うん。きっと何も出来ないよね」

 出来ないから何だと言われると非常に困るのだが、取り敢えず自分を落ち着かせる事には成功した。

「寝よう」

 今日は、これ以上何か考えてもきっとまとまらない。
 それを認識したリーリンは、久しぶりのベッドの感覚を楽しむ余裕もないまま、横になり眠ってしまった。
 
 
 
 深夜の都市。
 巨大な機械がうごめく機関部の一角で。

「はあ」

 ニーナ・アントークは溜息をついていた。
 前に溜息をついたのは、確か武芸大会で惨敗した次の日だったと記憶している。
 実に一年半ぶりの溜息だ。
 学園都市ツェルニは、今日も元気に放浪を続けている。
 それは、機関部で動く機械が正常に活動している事で分かる。
 慣れなければ、長い時間居る事に苦痛を感じる騒音だが、ニーナにとっては都市が生きていると実感できる素晴らしい場所に思えるのだ。
 セルニウムを液化し、それをエネルギーとして都市は動き、人間を生かしているのだ。
 だが、ツェルニに残された鉱山はあと一つ。
 今年の大会で負けたのならば、後はない。
 そのために、ニーナは自らの小隊を編成した。
 あちこちに迷惑をかけ、散々色々な人達とぶつかり、それでもカリアンの協力が得られたので結成する事が出来た。
 性格には非常に問題が有るが、能力は一級品の隊員もいる。
 チームワークなど皆無だが、それでもまだ時間はあるし何とかして行くつもりだ。
 だが、ニーナは溜息をつかずには居られない。
 何故かと問われれば。

「新入生も入って来て、これからだというのに、何故練武館に誰も来ないのだ?」

 現在最小構成員さえそろっていない第十七小隊。
 新入生で即戦力がいるかどうか不明だが、それでも通常の鍛錬をおろそかにする理由にはならない。
 いや。むしろ、定員割れを起こしているからこそ十分な鍛練を積んで、個人の技量を最大限発揮しなければならないのだ。
 だが、いかんせん第十七小隊は非常に出席率が悪い。
 普段から出席率は極めつけ悪いが、それにも限度という物がある。
 錬金鋼の調整をするハーレイは、まあ、毎日来る必要はないし、来られても困るから良い。
 だが、フェリとシャーニッドは明らかに来なければならない人材のはずなのに、連続欠席が四日目に突入している。

「ぬぅぅぅん!」

 思わず変なうなり方をしてしまった。
 思わず力の入ってしまった両手に捕まれたモップが嫌な音を立てる。

「本当に分かっているのか? あの二人は?」

 小隊に誘っておいてなんだが、やる気がないと言うよりも使命感を感じないようにしか見えない。
 過去のシャーニッドはそれほど不真面目ではなかったはずなのだが、何が彼を変えたのかニーナの元に来てから非常にやる気がないように見える。
 更にフェリに至っては、あからさまに手を抜いていると言うよりは、念威繰者としての自分を嫌悪しているようにさえ見える。
 ニーナの忍耐の限界はかなり近い。
 武芸者とは、都市と人を守るための存在だ。
 その武芸者が、やるべき事をやらない。
 これ以上我慢できない事は、ニーナには存在しない。
 かつて、ニーナを助けるために犠牲になった名も無き電子精霊のためにも、都市を守らなければならないのだ。
 だというのにこのていたらく。

「明日、誰も来なかったら」

 切れてしまうかも知れない。
 そうなったニーナがどうなるか、誰も知らない。
 ニーナ自身も。

「ふふふふふふふふふふふふふふふふ」

 偶然通りかかった同僚が、踵を返して逃げ出したのさえ気が付かず、ニーナは笑う。



[14064] 閑話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/09 22:04


 引っ越し作業を終了させたウォリアスは、当面の目的としてでっち上げていた作業を終了させるべく、中央図書館へと向かう。
 まだ涼しい空気を吸い込みつつ、地図を眺めつつ目的地へと向かって歩く。
 古文都市レノスの本分はと聞かれれば、それはもう情報を収集する事以外にはない。
 都市自体が、そのためだけに異常なほどの行動半径を持ち、そのためだけに色々な都市に喧嘩を売っているのだ。
 どういう都市と当たるか分からないので、武芸者の質もそれなり以上には高かった。
 まあ、グレンダンのような異常者の集団と渡り合ったのは、運がなかったと諦める事にして。
 だが、ウォリアス自身は極めて無能な武芸者である。
 剄脈の発達に異常があるのか、それともこれが限界なのか、一般人よりはましと言った身体能力しか持ち合わせていない。
 衝剄のたぐいも使えるのだがその出力は極めて低く、ある意味レイフォンの対極にいるような人間だ。
 そんなウォリアスは、情報収集という物にかなり血道を上げる人間だ。
 だからこそ、実際にその目で他の都市を見てみたいと思っていた。実はもう一つ理由があるのだが、それはあまり人には言えないたぐいのものだ。
 半分追放されたような形だが、それは別段気にしていない。
 計画ではもう少し色々と下調べをしてから、レノスを去るつもりだったのだが、それは少し早まったと言った程度である。
 問題なのは。

「あ、あのぉぉ。何かご用でしょうか?」

 上級生と思われる、かなり怖い金髪の女性が値踏みするかのようにウォリアスを見ているのだ。
 剣帯に入っているラインの色からして三年生らしい事が分かる。
 その剣帯に刺さっている錬金鋼二本が更に怖さを増幅させている。
 そんな怖い女性が見ているのだ。
 たっぷりと五分ほど。

「・・・・・・。いや。済まない。お前が即戦力になれるかどうかと考えていたんだ」
「はあ」

 胸ポケットに耀く十七と書かれたバッジ。
 第十七小隊の人らしい事は分かるのだが、その立ち姿には、何か鬼気迫る物があるような気がしてならない。
 ツェルニの鉱山があと一つなのは知っている。
 そのせいで入学試験の際に、武芸科には特別な配慮がなされていたくらいだ。
 目の前の女性が小隊員だったのならば、その危機感も焦る気持ちも分かるのだが。

「あのぉ。もう行って良いでしょうか?」

 当面の問題として、ウォリアスはやらなければならない事があるので、そろそろ解放して欲しいのだ。
 急ぐかと聞かれればそうでもないのだが、目の前の女性と対峙する事を考えると急ぎの仕事だ。

「あ? ああ。済まないな」

 納得したのかしないのか、なにやら難しい顔をした女性は踵を返して立ち去ってしまった。

「やれやれ」

 その後ろ姿を見送り、ふと思う。
 彼女がレイフォンの実力を知ったのならと。
 ガハルドとの試合の映像は見た。
 相手の実力を知らないが、それでも天剣授受者という生き物が常軌を逸した存在であることは理解できているつもりだ。
 二年前の戦争には参加していないが、映像は見たし体験談も聞いた。
 そんな異常者である天剣授受者の一人が、ツェルニにやってきているのだ。
 彼女がそれを知ってなお、レイフォンの協力を仰ぐかどうかは不明だが、追い詰められれば何でもやるのが人間だ。レイフォンを使わない事の方が考えられない。
 そして、レイフォンの過去については確かに同情しているし、やろうとした事が全面的に間違っているとは思わない。
 だが、試合終了直後にグレンダンが取った行動も、やはり間違っていないと思う。
 それほど危機的状況だったと、ウォリアスは認識しているのだ。
 レイフォンにウォリアスほどの危機感が有るのかは、今ひとつ分からないが。
 高速でそんな思考を働かせつつ、更に独りごちる。

「どうにも出来ないか」

 レイフォンは武芸科ではないのだ。
 一般教養科の人間を、武芸大会に出場させる事は出来ないはずだ。
 当然小隊に入れる事も不可能。
 もし転科させるにしても、定員一杯まで入学させているはずだから、誰かを辞めさせなければならないし、そんな事が出来る人間がツェルニに大勢いるとは思えない。
 権限上出来たとしても、やれるだけの行動力があるか疑問だ。

「・・・・・・・・・・・・・・。まさかね」

 もし、いたのなら?
 もし、レイフォンの事を知っていたのなら?
 この二つを兼ね備えた人間が居たのならば、レイフォンの目的は果たされない危険性が高い。
 レイフォンがツェルニに留学する事になった経緯は聞かされている。
 ならば、もし、レイフォンが転科しなければならない状況になったのなら。

「学園都市が、その役目を果たせなくなるか」

 考えすぎだと思うのだが、偶然とは言えウォリアスはレイフォンの事を知っているのだ。
 他には誰も知らないなどと言う事は、考えない方が良いだろう。

「やれやれ」

 思考を一時棚上げして、踵を返して、図書館へと向かおうとしたのだが。

「あ、あのぉぉ?」

 目の前にいる人物。
 先ほどウォリアスを値踏みしていた女性からは見えない位置にいた、長い銀髪と整いすぎた顔の、年下に見えるのだが剣帯に入っているラインの色から二年生と判断できる少女へと声をかける。
 武芸科の制服の胸には、先ほどと同じ十七と書かれたバッジがある事からすると、もしかしたら金髪の女性から逃げているのかもしれない。

「問題有りません」

 白銀の髪と瞳を持った、超絶美少女と呼ばれる珍獣の一匹だと判断する。
 取り敢えずウォリアスには縁のない生き物のはずなのだが、何故かこちらを見て微動だにしない。

「何が問題無いんですか?」

 無表情にそう言う少女だが、なんだか非常に不機嫌そうに見えるのは、気のせいであって欲しい。

「いいえ。貴方には当面関係のない事です」

 ちらりと、金髪の女性が立ち去った方を気にした少女は、彼女と反対の方向へと歩み去った。
 その行動から考えると、逃げているというのが一番納得の行く結末に思える。
 金髪の女性は、探しているという雰囲気ではなかったが。

「・・・・・・。変な人達ばかりが居るような気がする」

 昨日会ったシャーニッドという四年生は、今年の一年は変な連中ばかりだと言っていたが、二年生にも三年生にも、変な人が非常に多いような気がする。

「まあいいか」

 取り敢えずウォリアスにはやる事があるのだ。
 中央図書館に行き、グレンダン出身者をリストアップする。
 レイフォンの事を知っていておかしくない人間を知っておけば、接触する確率をかなり少なくできるはずだと考えての行動だ。
 荷物を部屋のベッドの上に放り出しただけで、引っ越しを終わらせた気になっているウォリアス自身が、情報を集めるための立前でしかないが。

「あれ?」

 ふとそこで違和感に気が付いた。
 さっきの金髪女性はウォリアスの事を、武芸者だという前提の元で話を勧めていた。
 入学式前なので、制服を着ている訳ではないのに、何故武芸者だと分かったのか非常に疑問だ。
 願書のたぐいを見れば分かるだろうが、彼女にそれだけの用意周到さがあるとは思えない。

「まあ、いいか」

 再び疑問を先送りしたウォリアスは、今度こそ本当に図書館へ向かって歩き出した。
 
 
 
 黒い長髪を後ろで縛った新入生らしい少年から離れ、暫く歩き、周りに誰もいない事を確認してから、猛烈な勢いで落ち込んだ。
 まだ、かなり長い日陰に身を隠し、壁に身体を預けて、それはもう今までにないほど真剣に深刻に、猛烈に落ち込んだ。
 その無表情のおかげで周りからはそう見えないかも知れないが、本人的には猛烈に落ち込んでいるのだ。

「不愉快です」

 フェリ・ロスはそう独りごちる。
 普段通りならば、ニーナが多少怒っていようが切れていようが関係ないと、マイペースで話を進めるくらいの事は出来る。
 だが、今日のニーナは一味も二味も違った。
 さしものフェリでさえ恐怖を感じるほどに、何かに追い詰められているのか、それとも焦っているのかしている彼女からは、危険極まりない雰囲気が流れ出ていたのだ。
 しかも、本人に自覚があるかどうか非常に怪しいが、殺剄を使って歩いていた。
 そのせいで気配に気が付いた時にはすぐそばにいた。
 念威端子で警戒でもしていれば防げたのだが、年中そんな物を展開している程には、流石に暇ではないのだ。
 偶然、新入生を盾に出来る位置にいたから良いような物の、少し運が悪ければ捕まっていた事は間違いない。
 それから先を想像しようとしたところで、フェリは止めた。

「見つからなかったので問題有りません」

 起こったかも知れない事態を予測して怖がるのは、あまりにも無駄な行為に思えたのだ。
 取り敢えず、ニーナは他の場所へと行ってしまった。
 ならばフェリは何時も通りに、念威端子を飛ばして町の様子を眺めつつ、暇な時間をつぶそうと思う。
 兄であり生徒会長であるカリアンの不祥事でも見つけられたら、もうけ物だと思いつつ積極的には探さない。
 念威繰者としての才能に恵まれすぎたせいで、いらないやっかいごとに巻き込まれるのはごめんなのだ。
 そうでなくても、今年から武芸科に転科させられたのだ。
 去年は何も無い良い一年だった。
 今年武芸大会があるらしいので、そのせいでカリアンは何か画策し、陰謀を巡らせているようだ。
 三ヶ月ほど前に、なにやら書類を眺めつつ、暗い部屋で笑うカリアンと遭遇した事がある。
 その姿はあまりにも恐ろしく、暫く悪夢を見たほどだ。
 ツェルニを救う方法でも見つかったのかも知れないと、その時は漠然と思っていたが、そんな生やさしい事態でなかった事を今は認識している。
 極めて強力で具体的な方法が見つかったのだ。
 強引に転科させられた事からも、それは間違いない。
 ならば、どんな光明を見いだしたのかと聞かれると、それは不明のままだが、それでもフェリが無関係だと言う事は考えられない。
 だから精一杯の抵抗をしているのだ。
 無駄に熱いニーナや、何を考えているのか分からないシャーニッドと一緒にはやっていけない。
 取り敢えず、落ち込んだ気持ちを立て直すべく、見晴らしの良い場所にでも行こう。
 そう考えたフェリは景色の良いレストランへと足を向けた。
 ニーナのポケットの一つに、念威端子を忍ばせてある。
 これで同じ過ちを繰り返さずに済むと安心して、フェリはレストランへの道を歩く。
 
 
 
 昼下がりの公園のベンチに座った男女が、お互い見つめ合い何事かささやき会っている光景を眺めつつ接近する。
 その二人に気が付かれないように細心の注意を払いつつ、殺剄を最大展開して後ろから接近する。
 風が向こうから吹いているから、匂いで気が付かれる危険性もない。

「にひひひひひ」
「きししししし」

 耳に飛び込んでくるのは、なにやら意味不明で下品な笑い。
 本来、男性の方にそんな習慣はなかったはずなのだが、やはり急激な変化が起こっているようだ。
 非常に不愉快な展開ではあるのだが、今は自分を抑える時だと言う事は理解している。

「やっと趣味の悪い笑いを体得したようだね」
「ああ。これもお前のおかげだ」

 更に、携帯端末の画面を覗き込みつつささやき会っているが、恋仲という訳ではなさそうな事は分かった。
 射程距離まで後五メルトル。
 草を踏みしめる足音にも細心の注意を払い、日差しと影の位置にも気をつけつつ、更に接近する。

「でだね。これが傑作」
「おお! 空前にして絶後の豪傑だとは思っていたが、まさかこれほどとは!」

 なにやら盛り上がっているようだが、注意がそちらに行ってしまっている今こそが最大のチャンス。
 三メルトルになっていた距離を一気に詰め、男の襟首を力任せに掴む。

「ぐえ」

 なにやら悲鳴らしき物が聞こえたが、そんな物にかまっていてはいつまで経っても訓練など出来ない。
 最低限生きていればそれで良い。

「さあ捕まえたぞシャーニッド!」

 後ろを取り、その襟を掴んでいる以上、もはや遠慮する必要はないし殺剄も意味がない。
 と言う事で、今までの苛立ちを晴らすかのように締め上げる。

「ニ、ニーナ?」

 半分ほど首を絞められた状態にもかかわらず、飄々とした口調と共にこちらを認識するシャーニッド。
 これなら、少しくらい殺しても良いかもしれない。

「さあ。五日分の鍛錬をまとめてやるぞ!! 寝る時間を削れ! 食事時間を切り詰めろ! 死ぬ気で訓練をするんだ!!」

 欠席が五日目に突入しそうな隊員を捜し出し、強制的に鍛えるためにニーナは散々あちこち歩き回ったのだ。
 その途中、黒髪で目の細い新入生と遭遇した。
 数日前に偶然、彼が錬金鋼を預けるところを目撃したので、即戦力になるかと期待をして観察したのだが、どうもあまり優秀ではなさそうだった。
 更に鬱憤が募ったところで発見したのがシャーニッド。
 逃がす訳には行かないので、ニーナの持てる最大の技術を総動員して、今ここにその成果がある。

「い、いや。落ち着けよな。俺は今デートの途中なんだからさ」
「にひひひひひひ。訓練をサボっちゃいけませんよ? 強い男の子になれないですからね」

 茶髪ツインテールの相方の方が話が分かるようだ。
 不気味な笑いには目を瞑って、話を進めることにした。

「レイとんみたいに強くならないと」
「あいつの強さは天然だろ? まあ、勇者で豪傑であると思うがぁぁ!」

 なにやらまだ喋りそうだったので、襟首を掴んだ手に力を込めそのまま持ち上げた。
 多少ならば死んでも問題無いはずだ。

「さあ。武芸大会目指して一瞬たりとも気を抜くな。負けたらその場で貴様を殺すからな!!」

 ニーナの手を叩いて何か訴えかけてくるシャーニッドを無視しつつ、一応連れに挨拶をしておく。
 恋仲ではないとしても、この辺は最低限の礼儀として必要だ。

「第十七小隊長のニーナ・アントークだ。こいつは連れて行くが悪くは思わないでくれ」
「気にしないでください。でも、話で聞いたままですね」

 にこやかにカメラを操作しつつそう言われた。
 シャーニッドからどんな話が行ったかについては、気にならないと言えば嘘になるのだが、今は兎に角訓練の方が重要だ。

「ぐ、ぐぐぐぐ」

 なにやら痙攣しているが気にしてはいられない。
 いざとなったら、蘇生すればいい。

「では失礼する」

 そう言うと、シャーニッドを文字通りに引きづりつつ練武間を目指す。
 フェリを補足しそびれた事は痛恨の極みだが、それは明日の楽しみにとっておいても問題はないと考え直した。
 何よりもまずは、この軽薄な男を鍛え直す事から始めるべきだと判断して。
 
 
 
 ツェルニで最も高い建物の、その一番上にある部屋で軽く傾いた日差しを浴びつつ、ゆっくりとティーカップを傾ける。
 書類や本を並べた本棚に壁を占領されているが、上質な絨毯を引いた生徒会長室は、極めて静かだ。
 激務の間の午後のお茶を飲みつつ、思わず口元がゆるむのを自覚していた。
 爽やかな香りと甘い口当たりのお茶は、カリアン・ロスの大好物の一つだ。
 だが、それが無くてもツェルニを救うために画策してきたカリアンの、長年の努力が報われようとしているのだ。
 多少浮かれても誰からも文句は出ないはずだ。
 だが。

「なあ。カリアン」

 向かいの席で、同じようにお茶をしているごつい身体の友人が、心持ち表情を引きつらせつつこちらを見ている事に気が付く。

「なんだいヴァンゼ?」

 一年の時に知り合い、そのまま交友を続けている武芸長へと注意を向ける。
 カリアンのこの嬉しさを分かち合える人物は、ヴァンゼただ一人だと確信しつつ。

「怖いから笑わないでくれ」

 溜息と共にそう言われた。
 場所はカリアンの執務室。
 思惑など関係なく、無慈悲で無遠慮な一言と共に。
 誰にはばかる事もなく悪事の計画を練る事が出来るここに、ヴァンゼを招待したのは当然カリアンだ。

「酷いねヴァンゼ。私は君を心底から友だと思っているのだよ?」
「ああ。友である事に違いはないが、お前が笑うとろくな事が無いんだ。頼むから笑わないでくれ。特にニヤリとは」

 今ひとつカリアンとヴァンゼの間では、認識の相違があるらしい。
 これはあまり良い状況ではないので、それを改善するために行動する事にする。

「君も私の持つ情報を知ったのならば、思わず笑ってしまう事請け合いだよ?」

 今年行われる武芸大会。
 ここで負けたのならツェルニは滅んでしまう。
 それが分かっているからこそ、目の前のヴァンゼもカリアンも色々と努力を重ねてきたのだ。
 そして先日、待ちかねた最強の手札が手に入った。
 レイフォン・アルセイフ。
 かつて訪れた槍殻都市グレンダン。
 そこで十二名のみに与えられる天剣を、わずか十歳で与えられた天才児。
 その彼が不祥事を起こし都市を追放され、途中いろいろな経緯は有ったがツェルニにやって来たのだ。
 これはもう運命と言って良いのだとカリアンは思っている。
 本人には辛い出来事だったのは分かっているが、レイフォンの事情を考慮している余裕はツェルニとカリアンにはないのだ。

「今年の武芸科生徒に優秀な人材がいるのだよ」
「! ほう。誰だ?」

 ヴァンゼが勢い良く食いついてきた。
 まだ武芸科には転科していないが、それは時間の問題だと確信しているのだ。

「うむ。この人物だ」

 この一週間肌身離さず持ち歩いていたレイフォンの願書を取り出し、皺だらけになっていても尚光り輝くそれをヴァンゼに指し出す。
 その一連の動作を終了させ、ヴァンゼに渡ったところでふと思う。
 これではまるで、愛しい人からの恋文を大事にしている乙女のようではないかと。
 だが更に思う。
 実際問題としてあまり変わらないのだと。
 レイフォンが救世主となるのならば、いくらでも乙女チックな事をしようと、改めて心に誓う。
 カリアンがそんな事を考えている間にヴァンゼの視線が何度も上下する。

「・・・・・・・。一般教養科と書いてあるんだが?」

 隅々まで目を通し、更に見間違いではないかと何度も読み返したヴァンゼの台詞は、カリアンの予測の範囲から一歩も出なかった。
 計画通りという奴だ。

「問題無いさ。転科させる」

 グレンダン時代のレイフォンについては、すでに調べ尽くしてある。
 三ヶ月しか時間がなかったが、グレンダンでの有名人の調査には十分な時間だった。
 何故かヨルテムでの調査は難航を極め、何が有ったかは伝わっていないがそれでも説得するには十分だと判断している。

「お前。妹さんを転科させて憎まれているだろう? その内刺されるぞ?」
「かまわないよ。私の命でツェルニが助かるのならば、収支は著しい黒字だ」

 レイフォンの願書を発見したがために、フェリを武芸科に転科させたのだ。
 そして、ニーナに第十七小隊を設立させた。
 全ては、レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフと言う最強の手札を最大限有効に使うために。

「まあ、出来れば卒業まで待って欲しいとは思うのだがね」

 嘘偽らざる思いが、思わず口から出てしまった。
 だが、そのカリアンをしげしげと眺め、ヴァンゼが重い口を開いた。

「・・・・・・・・・・・・・。前から不思議だったのだが、どうやって妹さんを転科させた? 説得が通用するようには見えないのだが?」

 多くの人が疑問に思いつつも、聞く事が出来なかった質問をするヴァンゼを見てカリアンは確信した。
 これは非常に嬉しいことだ。
 なぜならば。

「その質問が出来ると言う事は、やはりヴァンゼは私の友だね」
「いや。それはどうでも良いから、どうやって説得したかを教えろ」

 折角カリアンが友情を再確認しているというのに、ヴァンゼの視線が非常に冷たく厳しい物になっているところを見ると、弱みを握って脅したとでも思っているのかも知れない。
 非常に不本意だ。

「やましい事はしていないよ。誠心誠意話し合っただけさ、一週間程ね」

 最後には根負けしたフェリが折れてくれたのだ。
 そして、その説得を続けた一時はカリアンにとって心の宝物となっている。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。法に触れるような事をしているわけではないのだな」
「法に触れるって、どんな事をしていると思ったんだね?」

 あまりにも真剣に見つめられたので、その瞳の圧力に屈して、思わずいらない質問をしてしまった。

「いやな。妹さんを手籠めにしたとか言う噂が、まことしやかに流れていてな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。私をなんだと思っているのだね?」

 今度はカリアンが沈黙でヴァンゼを威圧する番だった。
 だが、ヴァンゼは全く怯むことをせずに、カリアンの質問に答えた。

「愛した物が死に瀕している時に、あらゆる手段を講じようとするのは当然の事だ。そんな事を何時も言っているだろう?」
「・・。いくらあらゆる手段と言っても、限度という物があるだろうに?」

 いくら何でもそんな鬼畜なまねをしたのでは、武芸大会以前に色々な問題が出てしまう。
 刺される事はかまわないのだが、政治生命が絶たれる事は避けねばならない。
 その観点からも、腹黒い事は出来ても鬼畜なまねは出来ないのだ。

「ならば、武芸科は定員一杯まで採用しているのに、どうして転科させられるか答えて貰おうか?」
「ああ。そう言う事か」

 いきなりフェリの事に話が飛んでしまったので訝しんではいたのだが、ヴァンゼにとってはそれなりに根拠のある疑問だったようだ。
 その心配が無駄だと言う事は、ヴァンゼも理解しているのかも知れないが、直接カリアンから聞きたいのかも知れないと思い軽い笑みと共に言ってみる。

「毎年入学式前後にもめ事を起こして退学になる武芸者がいるだろう」
「ああ。あれは腹立たしいが、今年もそれがあると?」
「無い方がおかしいよ」

 記録をさかのぼれば、この五十年間毎年のように起こっている。
 無かったのはただの一回のみ。
 確率的には、二パーセント。
 今年がその二パーセントだとしたのならば、カリアンに運がなかったと諦める事も出来るが、確率を更に下げる手立ては講じてある。
 具体的には、敵対関係にある都市の武芸者を入学式会場で近い列に配置するとか。

「すでに手は打ってある。全てはシナリオ通りだ」

 再び口元が歪むのを実感した。
 快心の笑みという奴だ。

「だから、頼むから笑うな。それから、他の生徒に被害が出るような事は避けろ」
「分かっているよ。私を誰だと思っているのだね?」

 考え得る全ての事態を予測し、それに対処できるように手配は全て終わっている。
 だからこそカリアンは笑うのだ。
 ニヤリと。



[14064] 閑話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:eb9f205d
Date: 2013/05/09 22:04


 夕闇が忍び寄ってきた時間帯になっても、新入生が宿を探したり新しい寮に移動したりする行為は終わらない。
 その騒々しく活気のある光景を眺めつつ、しかし、思いもよらない展開に狼狽している自分を発見していた。
 肩に乗る赤い髪の小柄な少女の重さは、さほど気にならない。
 始めの頃こそ体調を崩す事もあったが、今ではすっかり慣れてしまっているし、重さが無い方が落ち着かないほどだ。
 ふと視線を横にやり、少女の足がある事を確認。
 何時もの通りに存在している。
 再び視線を動かし、前方で繰り広げられている光景が、現実の物であるかどうかを脳内で再検討する。
 結論。

「うむ。よく似ているが別人に違いない」

 ゴルネオ・ルッケンスは、そう自分に言い聞かせる。
 ゴルネオが知っている天剣授受者とは、超絶の存在である。
 基準型の都市が半壊する事を覚悟すれば、倒せるかも知れない老性体。
 そんな怪物に、極少数で挑むような化け物が天剣授受者である。
 その筆頭が実の兄であるサヴァリスであり、最も憎むべきがレイフォンだ。

「つ、つかれた」

 断じて、女の子の買い物につきあわされ、荷物持ちをさせられ、青息吐息で公園の芝生で伸びていてはいけないのだ。

「だらしないわね。それでも男の子なの?」

 金髪を後ろで束ねた活動的な少女に見下ろされ、情けない表情などしてはいけないのだ。

「たった六時間買い物につきあわせただけで? それでも武芸者なの?」

 蔑むような視線を甘んじて受けて、飼い主に媚びを売るペットのような表情をしてはいけないのだ。

「そ、そんな事言ったって」

 目の前の、元天剣授受者によく似た少年は、勘弁して欲しいと哀願しているが、似ているだけの別人では仕方が無いのだ。
 ゴルネオとて、実際にレイフォンに会った事は無い。
 映像で見ただけだし、ツェルニに来て五年も経っている。
 きっと記憶が少しおかしいのだ。
 ゴルネオの知るレイフォンは能面のような表情と、冷たく乾燥した瞳をした少年だ。
 それはサヴァリスから聞いた特色でもあり、間違っていないはずだ。
 断じて、女性陣に良いように使われ、ヘロヘロになっているような人物ではないのだ。

「なあ。ゴル。あれ」
「見間違いだ」

 肩に乗ったシャンテが何か言おうとしたのを、強制的に止める。

「で、でも」

 まだ何か言おうとするシャンテを黙らせる。
 赤毛で長身の少女が納得しつつ頷いたり、黒髪で小柄な少女が心配気に頭を撫でたりしている光景から、全力で視線をそらせる。
 女の子三人に買い物につきあわされる。
 それは男にとって地獄のような体験に違いない事は理解している。
 だが、天剣授受者であったのならば、平然とそれに耐えなければならないのだ。
 たとえ今日この瞬間にツェルニが滅びの時を迎えようと、天剣授受者であったのならば、平然と耐えて見せなければならないのだ。

「おて」
「わん」

 黒髪の少女の指し出した手を、喜んで取るようなヘタレではいけないのだ。
 思わずやってしまった行為が恥ずかしかったのか、二人して照れてしまうなど有ってはならないのだ。

「・・・・・・。犬だったんだ」
「ひっ!」

 その光景を見ていた金髪の少女に睨まれて、情けない悲鳴を上げるなどと言う行為は、死んでもしてはならないのだ。
 たとえ、あまりの恐怖にシャンテが頭の後ろに隠れ、ゴルネオが一歩後ずさったとしても。

「・・・・・・。まあいいわ。少し休憩にしましょう。レイフォン。飲み物買ってきなさい」

 金髪の少女が、絶対に間違っている名前を口にしたような気がするが、気のせいでなければならない。
 あるいは聞き間違い。

「はい!」

 ここだけ元気よく返事をして、猛烈な勢いで走り出そうとして。

「ちょっと待ちなさい」
「うお!」

 加速し始めた瞬間に声をかけられ、前のめりに倒れかける。

「な、なに?」
「私は紅茶ね。何が良い?」

 飲み物の注文を聞かずに走り出した少年を止めて、他の二人にも希望を聞く。

「紅茶」
「あう」

 少し腰が引けた返事を返す二人。

「じゃあ、紅茶三つね」

 注文は以上だと言わんばかりに、さっさと行けと手を払う。

「行きます!!」

 再び走り出そうとして。

「ああ。待ちなさい」
「のわ」

 二度目の停止命令に、今度はこらえきれずに前のめりに倒れる。
 顔面から突っ込んで非常に痛そうだ。
 元天剣授受者ではない少年にとっては、きっとかなり痛いに違いないと、同情してしまう。

「レイフォンの分も買ってくるのよ? 好きな物を買って来て良いからね」
「はい!」

 立ち直ったが早いか、土埃をまき散らしつつ走り去る少年。

「なあゴル。レイフォンって」
「う、うむ」

 気のせいでも聞き間違いでもなかったようだ。
 ゴルネオの抱く天剣授受者についてのイメージが、著しく崩れ去ってしまったが、それでも現実は存在し続ける。
 きっと間違いだが。
 それほど多くない荷物と少女三人が残されたが、ゴルネオは動けない。
 もしかしたら、グレンダンとは関係ないところのレイフォンかも知れないという、かすかな希望を見いだしてしまったから。

「それにしても、グレンダンと比べると本当に穏やかな都市ね」

 金髪の少女が、言ってはいけない都市名を口にする。
 だが、まだ希望は残されている。
 グレンダンという都市が他にもあるかも知れない。
 都市の名前は電子精霊に由来しているので、その確率は極めて少ないが、ゼロではない。
 とゴルネオは思いたかったのだが。

「まあ、多い時で毎週汚染獣の襲撃があるような都市と、学園都市を一緒にしたらいけないと言う事だな」

 赤毛の少女が決定させてしまった。
 そんな恐ろしい頻度で汚染獣に襲われるグレンダンという都市が、他にある事はおおよそ考えられない。
 つまり。

「買って来ました!」

 尻尾があったら確実に振っているだろう勢いで、飲み物を買ってきた少年こそが、ガハルド・バレーンを再起不能に陥れた憎むべき敵。
 超絶な技量と他の追随を許さない実力を持ち、都市一つを破壊する事さえ出来る武芸者。
 と言う事になってしまう。
 断じて認めたくないが、現前として事実は存在しているのだ。
 今まで自分が立っていた地面が、猛烈な勢いでその強度を失うのを感じつつ、ゴルネオはその場を後にする。
 これ以上天剣授受者に対するイメージが壊れるのには、耐えられないから。
 
 
 
 買い物が終了したためレイフォンは帰らせた。
 メイシェン達の借りた、かなり広く作られた寮のリビングのソファーに座り、リーリンは大きく溜息をついた。

「無理する事無いと思うぞ」
「そうだよ。いくらリンちゃんが頑張ったって、レイとんが気付くわけ無いもの」

 三人の荷物がまだ片付いていない状況だが、宿泊費を節約するためにここに間借りしているのだ。
 かなり強引だったのは理解しているし、正しい選択だったかどうかも疑問だが、気がついたらこういう状況になっていたのだ。

「分かってはいるんだけれどね」

 別段、リーリンは買い物がしたくてレイフォンを連れ回したわけではないのだ。
 一年分の鬱憤を晴らすという意味合いもあるにはあるのだが、それは副次的な物でしかない。
 本当は、早く元通りの関係を築きたいのだ。
 きっとレイフォンの事だから、リーリンに対して遠慮してしまう。
 それが分かっているからこそ、かなりの無理をして色々と辛い目に遭わせているのだ。
 断じてサディスティックに性格が変わったわけではない。
 とは言え、リーリンの真意に気が付いてくれるほど、レイフォンは器用でも鋭くもない。

「はい」
「? 有り難う」

 キッチンの方に行っていたメイシェンが冷たい飲み物を持ってきてくれたので、それを受け取りそして。

「有り難う」
「? な、なにが?」

 あまりにもいきなりすぎたのだろう、戸惑ったようにメイシェンの目が大きく見開かれている。

「今まで、レイフォンのそばにいてくれて」

 きっと、リーリンがそばにいても、レイフォンは萎縮してしまうか遠慮してしまっただろう。
 それでは、結果的に何の解決にもならない。
 この意味において、さっさと出て行ったレイフォンの判断は正しかった事になる。
 そう考えてやったと言う事は間違ってもないだろうが、結果的に正しかったと思うのだ。

「私だけじゃないです。みんなレイフォンの事が好きだったから」

 普段はレイとんと呼ぶメイシェンだが、本人がいないと割と本名を呼ぶ事が多い事に気が付く。
 もしかしたら、照れてしまっているのかも知れない。

「うん。それでも有り難う」

 ガハルドとの試合の経緯は知っている。
 闇の賭試合に出ていた事もそうだが、その事で脅された事を誰にも相談できず、一人で悩んでいた事も。
 結果として状況は最悪になり、レイフォンはグレンダンを追放され、ガハルドは意識不明の状態だ。
 だが、今は違う。
 レイフォンは他の人に相談して、自分とは違う意見を聞くと言う事を学んでいる。
 それは、武芸者として一人で突っ走ってきてしまった天才にとって、大きな変化だと言える。
 もし、今のレイフォンが一年前に立ち戻れたのならば、きっと不名誉であり、あちこちに迷惑をかけるだろうが、もっと穏便な処置が下る展開になったに違いない。
 すでに過去になってしまった以上言っても仕方が無いが、同じ過ちを繰り返す確率が減った事は大きい。

「あ、あう」

 リーリンに礼を言われて、更に混乱するメイシェンを眺めつつ、ふと思う。

「あの細目の人。グレンダンの事知っているの?」

 ふと気になった。
 ヨルテムの事は知らないようだが、レノスから来た以上レイフォンの事を知っていても不思議ではない。
 むしろ、知らない方が不思議だ。

「ウッチン? もちろん知っているよ。ガハルドって人との試合については、色々言いたい事有るみたいだけれど」

 気楽にミィフィが答えてくれたが、ウォリアスの存在はレイフォンにとってかなり大きい。
 事情を知っていて尚、交友関係を築いてくれるなら、レイフォンにとって非常に大きな財産になる事は間違いない。
 ツェルニにいる間だけだとしても、それは大きな財産だ。

「問題は、他に知っている人間がいるかどうか何だが」

 ナルキが腕を組みつつ心配するが、こればかりはリーリン達にはどうしようもない。
 だが、ツェルニはグレンダンからかなり遠い都市だ。
 わざわざここに留学するような酔狂な人間は、そう多くはないと思う。
 よほどの事情がなければ来ないはずだ。
 それに、グレンダンは放浪バスがあまり寄りつかない都市だ。
 偶然にレイフォンの事を知ってしまう旅行者というのも、かなり確率が低い。

「・・・・・・」

 そこでふと思いだした。
 天剣授受者の選考試合。
 その決定戦の直後に訪れた、銀髪で知的な少年の事を。
 彼は旅行者だと言っていた。
 武芸者でもなかったはずだ。
 計算上、彼がツェルニにいるとしたら六年生。
 ここまで考えたリーリンだが、恐ろしいほどの偶然がなければ彼がここに居る事はない。

「まさかね」

 だがふと思う。
 まさかそんな事は無いと思った直後、それに近い事態が起こっている昨今の現実。
 嫌な汗が集団で背中を駆け下りて行く。

「どうしたの?」

 心配そうなメイシェンの声で現実に戻った。

「何でもないの。それよりも夕ご飯にしましょう」

 他人の家に上がり込んで仕切るのもどうかと思うのだが、嫌な予感と戦うよりはまだましだ。

「そうだな。明後日が入学式だからその準備も必要だしな」

 ナルキが同意してくれた事で、日常が復活する。
 一抹の不安をリーリンの胸に残しつつ。
 
 
 
 入学式を明日に控えてはいても、第十小隊は訓練を休まない。
 それどころか、かなり早い時間から始めていた。
 高さ五メイル、縦横それぞれ二十メイルの部屋は、防音と緩衝を兼ねる素材によって保護されているが、本格的に訓練をすると衝撃波と音がかなり漏れるが、今は昼休憩のために各々がくつろいでいるので、比較的静かになっている。
 そんな第十小隊の訓練場の隅に置かれた椅子に座り、ディンは思考に沈む。
 二年前の武芸大会で惨敗した記憶と、前の小隊長への気持ちを胸に、ディン・ディーは訓練に励んでいる。
 本来のディンの剄量では、正直に言って小隊長を勤め続ける事は困難だっただろう。
 ダルシェナやシャーニッドには有った才能という物が、ディンには欠けていた。
 それでも、今年の大会で負ける事は許されない。
 前の隊長の思いに答えるためにも。
 だからディンは違法酒に手を出した。
 剄脈加速剤を使って、やっとダルシェナの援護が出来るという惨めな現実に向き合いつつも、ディンは前に進む以外の選択肢がないのだ。
 そんなディンの中にある決意を再確認していたところ、訓練場の扉が開き何処かに行っていたダルシェナが帰ってきた。
 何時もなら扉を開けて軽やかな足取りで入ってくるのだが、やや動きがぎこちないような気がする。
 金髪を見事にカールさせている長身の女性の動きがおかしい原因はと見れば、なにやら手に持っているからのようだ。

「シェーナ? 何だ、それは?」

 その何かの大きさは、おおよそ二メルトル弱。
 それなりには重いようで、ダルシェナは活剄を使って運んでいるようだ。
 だが、そこまでして運ばなければいけない理由が思いつけない。
 どう見てもゴミだからだ。
 泥だらけになりあちこち破けた布に包まれ、汚水を滴らせるそれをゴミだと言わずに、何をゴミだと言えるのだろう?

「ゴミ箱は外にあっただろう?」

 ダルシェナともあろう者が、それを認識していないわけはないのだ。
 かなり大きいので、普通のゴミ箱には入らないかもしれないが、それにしても訓練場に持ってくる必要はないはずだ。

「い、いや。これは」

 そう言いながら、部屋の中央にゴミを放り出し、自分の荷物の中からタオルを引っ張り出し、薄汚れた黄色い糸が生えている部分を拭く。
 そして中から現れた物を見て、ディンは驚愕した。

「シャーニッド?」

 それは、つい最近まで第十小隊でディンと肩を並べて戦っていた、狙撃手のシャーニッド。
 何時もは軽薄そうで飄々とした態度を崩さない、今は袂を分かってしまった裏切り者のなれの果て。
 いくら裏切り者とは言え、この有様は流石に看過できない。
 仇討ちくらいはしてやっても罰は当たらないだろう。

「誰にやられたシャーニッド? まだ生きているのならば相手の名前くらいは言ってから死ね」

 死ぬ事前提で話を進めるディンだったが、その声が聞こえたのかシャーニッドが薄目を開き。

「ニ、ニーナに五日分の訓練を一日でやらされた」

 聞き取りにくいぼそぼそとした声で、とても不思議な事を言ってくれた。
 聞き間違いかも知れないと思い。

「五日分の訓練?」

 一度口に出してみたが、完全に意味不明だったので周りにいる連中を見回し、翻訳出来る人物を捜す。

「ああ。確かアントークが愚痴ってましたよ。シャーニッド達が四日も来ないから探して徹底的に鍛えるって」

 ニーナと同じクラスだという隊員の情報を聞いたディンの脳は、素早く回転した。
 それはつまり、鍛錬をサボったと言う事。

「お前に今日を生きる資格はない。今すぐ死ね」

 普段、援護や探査に使っているワイヤーを取り出し首に巻き付ける。
 後は引っ張るだけで終わりだ。
 ボロボロでも悲痛な表情を見せるシャーニッドが、最後の時を迎えようとしたまさにその瞬間。

「ちわっす! 廃品回収ですけれど」

 ノックも無くいきなり扉が勢いよく開けられ、茶髪でツインテールの少女が右手を高々と上げて入って来た。
 思わずワイヤーを外して回収してしまうディン。
 年齢はそれほど高くないようだし、身体も大きいというわけではない。
 女性としては中肉中背と言ったところの少女が、廃品回収をしているなどと言う事はかなり不思議ではあるのだが、偵察か何かで後から本隊が来るという確率もある。
 荷物として大きめの鞄を持っているだけだというのも、この予測に照らし合わせると辻褄が合っているように見える。
 だが、問題がないわけではないのだ。
 今は休憩中だから良いのだが、訓練中だった場合怪我をする危険性がかなり大きいのも事実だ。
 ここは釘を刺しておく必要を感じたディンは。

「・・・。せめてノックはしろ。いきなり入ってくると危ないからな」
「ういっす! それで回収する廃品はどれですか?」

 軽く流されてしまったが、偵察部隊としては早く仕事を片付けたいのだろう事は予測できる。
 とは言え誰が呼んだか分からないので、ぐるりと隊員全員を見渡したが、誰も返事をしない。
 結論として妥当な物は。

「部屋を間違えていないか?」
「いえいえ。ここで間違いないですけれど?」

 携帯端末をいじりながら、そう言う少女の視線が中央に転がっているシャーニッドを捉える。

「ああ。それですよ」
「ああ。これか」

 確かに廃棄物だ。

「おい。おまえら」

 小さな抗議の声も聞こえるが、それは無視。
 その少女はおもむろにシャーニッドの脇にしゃがみ込み。

「辛いですか?」
「とっても辛いぜ」

 何時もの雰囲気を取り戻しつつあるのか、軽口がこぼれる。

「今、楽にしてあげますからね」

 と、何故か鞄を開けて取り出したのは、手斧。

「お、おい?」
「今すぐに楽にしてあげますからね!!」

 呆気に取られている間に、少女の手に握られた手斧が振りかぶられ、振り下ろされた。
 まさに一瞬の出来事。
 だが。

「あれ?」
「た、たすかった?」

 振り下ろされた少女の手には何も握られていなかった。

「落としたのかな?」

 そう言ながらあちこち見回す少女だが、何かが落ちたような音は聞こえなかった。
 だが。

「ふざけるのはその辺にしてよ。僕は結構忙しいんだから」
「!!」

 声に反応して、そちらを見たディンは驚愕してしまった。
 いつの間にか、少女の後ろにもう一人いたのだ。
 焦げ茶色の髪と紫色の瞳をした、なぜか非常に憔悴しているように見える中肉中背の少年。
 彼の右手に手斧が握られている。
 間違いなく、振り上げられた手斧をひったくったのだろう。
 そんな都合の良い少年が、居る事自体には何の問題も無い。
 いや。むしろいなければならないとさえ言えるが、問題はそこではないのだ。

「レイフォン。恩に着るよ」
「それは良いですよ。これも生活のためですから」

 そう言うとレイフォンと呼ばれた少年は、実に軽やかな動作でシャーニッドを肩に担いでしまった。
 片手に持った手斧を少女に渡しつつ。

「もっと丁寧にしてくれよ」
「こうなら良いですか?」

 軽く空中に放り上げられたシャーニッドが、悲鳴を上げる前に抱きかかえられ方が変わった。
 背中と膝の後ろに手を入れるそれは。

「お、お姫様だっこは止めて」
「えっと?」

 これ以外の方法が思い浮かばないのか、疑問に首をかしげるレイフォン。

「さっきので良いよ」

 諦めたのか、多少乱暴に肩に担ぎ直されるシャーニッド。

「じゃあ、回収していきますんで」

 手斧を回収した少女が挨拶して、三人で部屋を出て行った。
 話の展開から考えて、シャーニッド自身が彼女たちを呼んだ事は予測できる。
 そこまでは良いとしよう。

「誰か、レイフォンとか言うやつが部屋に入ってきたのに、気が付いたか?」

 そう。ディンは気が付かなかったのだ。
 元気よく挨拶して入って来た少女に気を取られていたというのもあるが、それでも、レイフォンがああまで近付いても気が付かないと言う事は、あり得ない。

「いや。私も気が付かなかった」

 ダルシェナが代表して答えているが、それはまさに代表した意見だ。
 シャーニッドを軽々と扱った事から考えると、確実に武芸者だ。
 しかも、ディン達には気が付かれない殺剄を行使できる。
 それほどの実力者なら、多かれ少なかれ知っているはずだがディンは知らない。
 そこから導き出される答えは、新入生。

「凄いやつが入って来たな」
「ああ」

 ディンの呟きに、ダルシェナだけが答えた。
 その後、訓練を再開するまでに精神的な再建が必要だった事は言うまでもない。
 
 
 
 太陽がその姿を隠し、かなり涼しくなってからフェリは自分の寮へと帰る事にした。
 昨日ニーナに付けた念威端子はその仕事を遺憾なく発揮し、シャーニッドの地獄を余すことなく伝えてくれた。
 ニーナに捕まらなくて良かったと、心底ほっとするフェリはそれでも用心しつつ寮と呼ぶにはあまりにも豪華な部屋へと帰るべく、正面扉をくぐりエントランスへと入ったところで。

「?」

 決して開けてはいけない扉を開けてしまったのではないかと、そんな予感と言うか疑念がわいてきた。

「問題有りません」

 ニーナに付けた念威端子は、今もその機能を十分に発揮している。
 酷く交通の便が悪い、女子寮へ向かって移動している事を再確認しつつ、それでも肉眼で辺りを見回す。
 特に何も怪しい物は無い。
 それで安堵したフェリは、エレベーターへ向かうべく一歩を踏み出そうとした。

「?」

 何かが、肩に触れたような気がして振り返る。

「捕まえたぞ」

 短く切り詰めた金髪といつも以上につり上がった瞳をした、武芸科の制服を着た少女が視界に飛び込んできた。

「た、たいちょう?」

 地獄の底から響く声と言うのはきっとこれに違いない。
 そんな事を思わず考えるほど底冷えするニーナの声と共に、肩に感じる圧力が増した。
 どう考えても幽霊や亡霊のたぐいではない。

「どうして」

 あり得ない現実に思わず呟いた。
 即座に念威端子を通して向こうの状況を確認。
 そして、ニーナにしては少し反応がおかしい事にやっと気が付いた。

「念威端子なら昼頃に発見したぞ? レウに来て貰って今は寮に向かって移動している最中のはずだ」

 ニーナが気が付きトリックを仕掛けるなどとは、全く思わなかった。
 気が付いたら、即座に粉砕して激怒すると思っていたのだ。

「失敗でした」

 直情型だからと侮っていたようだ。
 そうでなくても、特定の人物の精密監視などと言う物を長時間やる事は、念威繰者にとってもかなり大きな負担になる。
 他に何もしなくて良いのならば出来るが、今回のように邪魔されないように監視する程度の感覚では、このような失敗もあり得る。

「さあ。今から特訓をするぞ」

 軽々と持ち上げられてしまった。

「っく!」

 抵抗してみる物の、始めから勝負は決まっている。
 何しろ相手は肉体派だ。

「念威繰者の訓練ならやっています」
「私との連携訓練だ。不十分だからな」

 実力行使が不可能ならば、理詰めでお引き取り願うしかない。
 自動扉が開き外に連れ出された。

「十分な休養も必要です」
「明日は入学式だけだ。特に問題無い」

 何が問題無いのか分からないが、理詰めでお引き取り願う事も不可能に思えてきた。

「無理強いは良くありません」
「五日も訓練を休まれたのでは無理強いしないわけにはいかん」

 路面電車の駅に向かって移動しているところを見ると、野外訓練場でも借りてあるのかも知れない。
 今日はかなり計画的に行動しているようで、少しだけニーナの人物像を修正する。
 直情型だがたまに計画的だと。

「睡眠不足はお肌の大敵です」
「若いから平気だ」

 女性にとって絶対的な威力を持つ美容を持ち出したのだが、それも通用しなかった。

「っく!」

 もはやニーナが諦めるまで無抵抗の抵抗をしなければならないのかと諦めた、その瞬間。

「何をしているのだね?」

 神か悪魔か、そのどちらの采配かは不明だが、書類を詰め込んだらしい鞄を持った銀髪眼鏡の青年が居た。
 フェリの記憶にも殆ど無いほど上機嫌な様子のカリアンだ。
 悪魔の采配を疑ってしまうのは、フェリの被害妄想かも知れない。

「会長」
「やあニーナ。フェリをどうするつもりだね?」

 明らかに拉致しているとしか思えない状況に、流石に少し口元が厳しくなる。

「五日分の訓練をするつもりですが」
「ふむ。成る程ね」

 カリアンの周りの、空気がなんだかおかしい事に気が付いた。

「いや。それはよろしくないね。明日フェリには少し大事な仕事を頼むつもりなのだよ。今から疲労させられる事は許可できない」

 悪魔の采配である事がはっきりした。
 明らかに何かの悪事にフェリを利用しようとしているのだ。
 批難の視線をカリアンに送ってみたのだが、全く動じた様子もなく。

「拒否しても良いのだけれど。その時はニーナに付き合って貰うよ?」

 カリアンの方を選ぶと言う事を疑っていない口調と、余裕が有りすぎる態度で迫る。
 二者択一。
 ニーナかカリアンか。

「明日の仕事の打ち合わせをしましょう」

 ニーナに付き合わされたのでは、明らかに徹夜になる。
 それならば、まだカリアンの方がましだと判断する。
 一般人であり、生徒会長という激務をこなさなければならないカリアンなら、徹夜と言う事はほぼ考えられない。

「しかし!」

 当然、納得できないニーナが異論を唱えるが。

「まあ、待ち給え」

 更に余裕の表情を浮かべるカリアン。
 ニーナに対しても何かカードを持っている事がはっきりとした。

「明日は入学式だ」
「当然です」

 明らかに知れ渡っている事を言う時、その後に言わなくても分かる事実を突きつけるのがカリアンだ。

「毎年入学式前後に乱闘が起こるだろう?」
「・・・。確かに」

 去年は、入学式の次の日に繁華街で乱闘があった。
 重傷者は出なかったが、建物などにかなりの被害が出たと記憶している。
 その乱闘に参加した武芸者五人が、退学になった事も覚えている。

「つまり、君達には十分な戦力を保持した状態でいて貰わなければならないのだよ」

 ニーナを始めとする小隊員は、武芸科生徒の中でエリートだ。
 そのエリートが警戒しなければならないほど、危険な状況をカリアンが想定している事を理解した。

「今年は敵対する都市の武芸者が結構居るのだ。式場で乱闘騒ぎを起こされた時に、速やかに鎮圧して貰わなければならない」

 入学式の行われる会場で乱闘が起こったならば、一般生徒にも被害が及ぶ危険性が高い。
 そのような事態に備えて小隊員を万全の状態で待機させておく。
 筋が通りすぎていて不気味さを感じるのは、フェリの被害妄想ではないはずだ。

「・・・・・・。了解しました」

 カリアンの腹黒さは理解していないだろうが、危険性が高い事は理解したようで、ニーナがフェリを地面におろす。

「では、君も帰って十分に休んでおいてくれたまえ」
「はっ!」

 何か非常に不満そうな様子を残しつつも、踵を返してさって行くニーナ。

「ふふふふふふふふふふふふ」

 その後ろ姿を見つめつつ不気味に笑うカリアンは、三ヶ月前の夜以上に恐ろしかった。



[14064] 第二話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:48


 日が沈んでずいぶん経ちだいぶ暗くなった部屋の奥、見所の壁に作り付けられた台座の上に乗った木製の小さな家らしき物をじっと見つめていた。
 何をするでもなく、ただそれを見つめている。
 高さ六メルトル。縦横三十メルトルの大きさの部屋には、今は一人しかいない。
 三十分ほど前まではかなり激しく打ち合っていたのだが、その熱も今は冷めつつある。
 孤児院の運転資金を稼ぐために再開したサイハーデンの道場だが、あまり遅い時間まで稽古をしていると言う事はない。
 これでもしレイフォンが居たのならば、かなり激しい稽古を長時間やっていたのだろうと思うと、少し寂しくもあるが、こればかりはどうしようもない。
 やや涼しい風が体を冷やすのにまかせつつ、カミダナを見つめる。

「何やってるんだよ親父?」

 いきなり背後から道場の静寂を破らないほどの、声変わりが済んでいないやや高い声がかけられた。
 思わず身体が少し浮いてしまう。
 全く気配を感じなかった。
 いや。声をかけられた今でも細心の注意を払わなければ気が付かない。
 デルクに対してこんな事が出来る人間は限られている。
 そして、実際にやる人間はこのグレンダンに一人しかいない。

「リチャードか」

 振り返らずに確認する。
 武芸一筋の生き方しかできなかったデルクにとって、息子と呼べる十五歳の少年へ向けて。

「ああ」

 小さく返事をしたリチャード・フィッシャーが横に並ぶ。
 身長はすでにデルクと並ぶほどになり、無駄をそぎ落としたその身体は美しいほどにしなやかだ。
 幸か不幸か剄脈はないが、その身のこなしはレイフォンには及ばないが十分賞賛に値する。
 そうでなければ、熟練の武芸者であるデルクの後ろを取るなどと言う事は、とうてい出来ない。

「また、兄貴の事とか考えていたんだろう?」
「そうだな。考えていたかも知れないな」

 カミダナと呼ばれる物に向かう時、デルクはあまり何かを考えているという意識はない。
 だが、旅立ったリーリンの事や、もう二度と会う事がないかも知れないレイフォンの事を考えていなかったかと聞かれれば、それは違うような気もするのだ。

「まったく。兄貴はヨルテムで女作っているんだろ? だったら元気だろうよ」
「そうだな。あれは武芸馬鹿でお人好しで鈍感だが、それだけに人に好かれるからな」

 デルクが育てていてなんなのだが、レイフォンの育て方を間違ってしまったかも知れないとは思っている。
 武芸と孤児院以外に世界がある事を、レイフォンは知らないかも知れない。
 いや。ヨルテムでの時間がレイフォンの世界を変えたはずだ。
 その新しい世界で生きていって欲しいと思う。
 本当は戦場に出る前に教えなければならない事だったはずだが、レイフォンの才能ばかりに目が行ってしまって教えられなかった。
 デルク以上に武芸一筋で育ってしまった息子の事を思うと、居ても立っても居られない気持ちにはなる。

「トマス殿を始めとする、ヨルテムの方々に頼る事は心苦しいが」

 トマスとレイフォンが出会えたのは、せめてもの救いだと思う。
 デルクにとってもレイフォンにとっても、違う尺度で物を考えてそれを示す事が出来る知人というのは、どんな宝石よりも貴重だ。
 レイフォンがそれを理解して、大切にしてくれればいいと思う。

「姉貴も行ってるんだ。生きていれば色々と変わるだろう」
「そうだな」

 明らかにレイフォンに並々ならぬ好意を抱いているリーリンが、現地妻の存在を知ったのは出発直前だったそうだ。
 リーリンが混乱したままツェルニに向かった事は、容易に想像できる。
 それを証明するかのように、ヨルテムから出された手紙に現地妻の事が書かれていたのだが、リーリンのその混乱ぶりを理解する以上の事がデルクには出来なかった。
 これはデルクの理解能力が低いのか、それともリーリンの混乱が想像を絶するほど酷いのか。
 今の状況では恐らく混乱が酷いのだろうと思われる。

「いや。現地妻とは言わんのか?」

 その混乱した原因を突き詰めて行くと、ヨルテムで出会った女性に到着するのだが、その女性をどう呼んだらいいのかが分からないのだ。
 現地妻は違う気もするし、本妻はもっと違う気がする。
 レイフォンの事だから女友達というのも違うだろうし。
 武芸一筋だったデルクには、的確な言葉が見つからないのだ。

「言うんじゃねぇ? あるいは愛人?」

 黒に近い茶色の髪をゆらしつつ、武芸者になり損ねてしまったリチャードも考える。
 小首をかしげても可愛いと言う事はないのだが、レイフォンと一緒に悪戯をしていた頃からの癖が抜けないのだ。

「まあ、それは良いとしてもだ」

 仕切り直しとばかりにリチャードが大きく手を横に振る。
 話が変わるというジェスチャーだ。
 次の話題はおおよそ見当がついているのだが、デルクにはどうする事も出来ないのがかなり苦しい。

「ツェルニで姉貴がどう出るかだ」
「・・・・。ああ」

 レイフォンは女性と一緒にツェルニに行ったらしい。
 もし、仲睦まじい姿をリーリンが見たのならば。

「レイフォンは生きていられぬかも知れん」

 天剣授受者という超絶の武芸者ではあるが、リーリンとレイフォンの関係はそれ以前だ。
 明らかにレイフォンの方が弱い。
 黙って居なくなってしまったという負い目が有る事を考えると、実力差というか立場の差は更に決定的に広がったと推測できてしまう。

「ああ。怒ると恐ろしいからな」

 リチャードとも意見の一致を見たが、デルクの不安は膨らむ一方だ。
 リーリンならば理性的に怒れると思うのだが、レイフォンが何かしでかせばその限りではなくなってしまう。

「それよりも今の問題はだ」
「これ以上問題が有るのか?」

 身体を使う事は得意だが、頭を使う事は苦手なデルクにとって、これ以上問題が山積するのはあまりありがたくない。
 リチャードの方は、成績優秀というわけではないのだが、それなりの成績を取っている。
 剄脈が無い分、レイフォンよりも武芸に割く時間が短かったためかも知れないし、戦いに出ていた間にリーリンの手伝いをしていたからかも知れない。

「ああ。重大な問題だ」

 まじめな表情でリチャードがデルクを見る。
 吸い込まれそうな漆黒の瞳が、しっかりとデルクを捉え放さない。

「夕飯は何にする?」
「・・・・・・・・・・・。まかせる」

 家事の一切合切はリチャードに任せている。
 リーリンとレイフォンが居なくなり、デルク自身も孤児院を出たために、一時期日常生活は酷い状態になった。
 それを救ってくれたのがリチャードだ。
 孤児院からデルクの面倒を見るために引っ越してきてくれたのだ。
 もしリチャードがいなかったのならば、お客が来てもお茶を出す事さえ苦労したに違いない。
 そう考えると、家事の出来るレイフォンはデルクの子供としては良くできていると言う事になるのかも知れない。
 まあ、人それぞれの価値観があるから、断言は出来ないが。

「あいよ」

 出来れば何か要望を伝えた方が良いのだろうが、生憎デルクは何でも食べてしまうのだ。
 この辺もレイフォンに受け継がれた悪しき習慣かも知れない。

「じゃあ用意するから風呂でも入ってこいよ」
「ああ。済まないな」

 家事を担当する人に頭が上がらないという現象も、レイフォンに受け継がれてしまったのかも知れない。
 もし、レイフォンが誰かと結婚するとしたのならば、明らかに妻の尻に敷かれる人生が待っているだろう。
 家事が出来るはずなのに少々理解不能だが、それはデルクの想像するレイフォンの人生だった。
 
 
 
 ツェルニで迎えた三日目の朝。
 それは入学式が行われる事を意味していた。
 だが、レイフォンにとっては生まれて始めてのその入学式は延期となってしまった。
 リーリンだって楽しみにしていたのだ。
 殆ど学生だけで組織された学園都市の入学式。
 それがどれほどの物かという期待が大きかっただけに、この延期という処置はかなりショックだ。
 いや。むしろ中止になってしまうかも知れない。
 おかげで、正面にいるレイフォンを見つめる視線は始めからかなり厳しい物となってしまっている。

「あ、あう」

 壁際に追い詰められた冷や汗を流す生け贄に、責任は無いと分かっていても八つ当たりしなければ気が済まない。
 昨日から普通に接する事を決意したリーリンは、入学式に続く諸々の事が終わったのならば、孤児院の弟や妹たちの事をレイフォンに話そうと決意していたのだ。
 だというのに、いきなりその諸々が何時終わるのか分からなくなってしまったのだ。
 別段、レイフォンが暴れたというわけではないのだが、全く無関係というわけではないのだ。
 武芸者二名が探知したところによると、発端は些細な口論だったと言う事だ。
 その他の生徒の証言を照らし合わせると、敵対する都市の武芸者が近くに並んだ事で、視線の応酬から口論となった。
 それが過激化して武力闘争となるのに、それほど長い時間はかからなかった。
 剄脈が発動したらしく、何故か朝からぼうっとしていたレイフォンが起動。
 二人の雰囲気に呑まれたのか、他の武芸者の間にも騒然とした雰囲気が蔓延。
 一触即発の周囲から逃げる生徒に巻き込まれて、メイシェンが転倒。
 それをレイフォンが助けたところまでは良かった。
 そのまま、あと少し待っていれば、警備に着いていたらしい上級生の武芸者が駆けつけ鎮圧するはずだった。
 だが、何を思ったのかレイフォンが騒ぎの中心に移動。
 盛大に二人を投げ飛ばして鎮圧するという暴挙に出てしまった。
 確かに、レイフォンが激しく二人を打ち付けたために、騒ぎは一瞬で収まった。
 被害らしい被害は出なかったのはまさにレイフォンの功績として称えるべきだろうが。

「言い訳があるかしら?」

 これでは、武芸以外で生計を立てるという当初の目的が達成できない危険性が増えてしまった。
 今朝聞いた、ウォリアスの予測の内でも最悪の事態が現実として起こってしまった以上、すでに手遅れだが同じ過ちを犯さないためにも、ここは徹底的に検証しなければならない。
 何故かぼうっとしていた事も含めて。
 別に虐めていると面白いとかそう言う事はないのだ。たぶん。

「あ、あう」

 騒動がまだ完全に収まらない内に現場から逃げ出して、今ここに居る。
 レイフォンの背中は壁でふさがれ、リーリンを中心に五人で半包囲している状況だ。
 背水の陣という物かも知れない。
 逃げ場はない。
 もちろんレイフォンの逃げ場だ。

「何であんな盛大な方法を使ったんだ? レイフォンだったらもっと静かに誰にも気が付かれずに、事を終わらせられるじゃないか?」

 何時も一番冷静なウォリアスが静かに問いただす。
 大雑把な質問ではレイフォンが答えられないと考えたためか、一つずつ解決して行くつもりのようだ。
 むしろレイフォンの事を最も良く知っているリーリンがやるべきだったのだが、もしかしたらレイフォン並みには混乱しているのかも知れない。

「え、えっと」

 狭い範囲の質問が功を奏したのか、答え始めるレイフォン。
 何を言うべきか考えつつ、ゆっくりと口を開く。

「寝不足でぼうっとしていた」
「普通の寝不足じゃないな」

 汚染獣と一週間戦い続ける事が出来るレイフォンだ。
 一晩寝ないだけでどうにかなるとは思えない。
 五人の視線が交差され、取り敢えず質問役はウォリアスに絞る事にした。
 そうしないとレイフォンが混乱してしまうからだ。

「リーリンが」
「うん?」

 いきなりの人名に驚く面々。
 そして全員の視線がリーリンを捉える。

「わ、私?」
「うん。一昨日はあんなに怖かったのに、昨日は普通だったから、何が有ったんだろうって気になって、眠れないというか落ち着かないというか考え込んじゃったというか」

 ミィフィやナルキの助言に従って、昨日からグレンダンの時と同じように振る舞っていたのが、逆にレイフォンを追い詰めてしまっていたらしい。
 結果としてリーリンにも責任の一端がある事が判明した。
 この結論には、非常に納得がいかない。

「ああ。それで、半分寝ている頭で条件反射的にやっちまったのか」
「うん。気が付いたら身体が勝手に動いていた」

 やはりレイフォンの頭蓋骨の中には、脳細胞が入っていないのではないだろうか?
 そんな危機感がリーリンの中で再認識された。

「お前は、脳剄脈置換症患者かい?」

 ウォリアスも同じ疑念にたどり着いたのだろう、今まで聞いた事はないがレイフォンに最もふさわしい症状名を口にした。

「あう」

 一声呻いたレイフォンだが、すでに事は起こってしまっているのだ。
 何とか誤魔化さなければならない。

「で、どうするんだ、これから?」

 代表してナルキが話を進めるが、残念な事にリーリン達に持ち札があるとは思えない。

「取り敢えず幸運を祈る。レイフォンの事を知っている人間が上級生にいない事を」

 ウォリアスが絶望的な可能性を示すが、リーリンが気になっているのは少し違うところだ。
 それを確認するために、レイフォンから視線を外して一同を見渡す。

「金髪の女性見た?」
「ああ。第十七小隊の人だって」
「ニーナ・アントークって隊長さんだって」

 リーリンがした質問にウォリアスとミィフィが答えてくれた。
 二人とも僅かだが面識があるそうだ。
 問題なのは、彼女が鎮圧部隊の先頭になっていた事と、レイフォンの行動の一部始終を見てしまっていた事だ。
 メイシェンを助けるところは見ていないかも知れないが、手際よく二人を叩きのめすところはしっかりと目撃していたはずだ。

「レイフォンに熱い視線送っていたような気がしたんだけれど?」
「即戦力を探していたからね。レイフォンならまさに即戦力。それと熱い視線と言うよりは獲物を見つけたと言った感じ?」
「しかも隊員は訓練サボりがち。レイとんは真面目だから引き込めれば隊長さんの精神は安定。きっと誰にも渡さんぞって感じで、すでに売約決定?」

 二人からは絶望的な未来予想図しか得られない。
 話が一段落したところで、レイフォンを見る。
 はっきり言って顔色が悪い。
 自分が何をやってしまったかと言う事と、これからの予測が否応なく認識できてしまったのだろう。

「転科させられるのか?」
「恐らくね。ツェルニに余裕はないよ」

 ナルキも顔色が悪い。
 そして、ニーナがレイフォンの事を知ってしまった以上、本人に転科するように要請する事は間違いない。
 もし、生徒会関係者に知人がいたのならば、強制的と言う事さえ覚悟しなければならない。
 ある意味原因であるリーリンが悩んでも仕方が無いのかも知れないが、それでも、せめてもう少しレイフォンには落ち着いて考える時間が必要なのだ。
 そうでなくても頭が悪いのだから。
 だが。

「申し訳ありません」

 いきなり背後から声がかかった。
 とっさに五人で反転。
 レイフォンを庇うようにして声に対する。
 何処かおっとりとした感じの声だったのは幸いかも知れないが、問題は声では無く内容だ。

「何かご用でしょうか?」

 営業用スマイルを張り付かせたウォリアスが、目の前の女性に対応している。
 ウォリアスのこの切り替えの早さは賞賛に値すると思うのだ。
 商人でもやればきっと成功するだろうと思うほどに。
 と現実逃避気味の感想は置いておいて。
 目の前に現れた女性を観察する。
 黒に近い髪を肩当たりまで伸ばした、声から推察した通りにおっとりとした感じの女性だ。
 いきなりニーナがやってこなくて良かったと胸をなで下ろす。

「い、いえ。貴方達の後ろにいる方にお話が」

 そう言いつつレイフォンを指さすのが分かった。
 敵愾心のような物を感じないので、まだ冷静な反応が出来ているのだが、それでも危機感は募る一方だ。

「えっと。都市警にはこちらで突きだしておきますので」

 相手のペースで話しては駄目だと言わんばかりに、ウォリアスが速攻でレイフォンの襟首を引っ掴み引きずって行こうとする。
 この際犯罪者の方が幾分ましだと判断したようだ。

「いえ。叱責のたぐいではありません。生徒会長がお礼を述べたいと」
「生徒会長がですか?」

 学園都市での生徒会長とは、グレンダンでの女王とあまり変わらないと思う。
 選挙で選ばれるようなので、全く同じというわけではないだろうが、権力者である事には変わりがない。
 そんな人が相手では、明確な根拠無しには拒否は出来ない。
 責任を問われるというわけではないと、女性が明言してしまっているのも大きい。
 どちらにしても、最悪の相手であることも間違いない。

「分かりました。レイフォン行ってこいよ」
「私達は練武間の側の公園で待っているからね」

 渋々とウォリアスがレイフォンを押しだし、ミィフィが今後の予定を伝えた。
 後出来るのは、本当に幸運を祈る事だけになってしまった。
 
 
 
 生徒会長室にやってきたレイフォンは、かなり怯えていた。
 怒られるのではないと言われていたのだが、それでも偉い人と会うと言う事はかなりのプレッシャーだ。
 壁に並ぶ棚には本や書類が整然と並び、きちんと掃除されている事は、この部屋の持ち主が几帳面な性格である事を物語っているし、踏みしめる絨毯がふかふかなのは明らかに権力者である事を主張している。
 レイフォンにとって明らかに長居したくない部屋である。
 カリアン・ロスと名乗った人物は、さっそく本題に入ってくれた。
 非常にありがたい。

「入学式での君の活躍に感謝するよ」
「はあ」
「一般生徒に被害が出なかったのは君のおかげだ」

 目の前の立派な机に座り両手を組み、こちらを見上げているのは、間違いなく生徒会長だ。
 銀髪を少し長めにして眼鏡をかけた美青年だ。
 その視線に宿る威圧感は武芸者でもないのに、レイフォンの背筋に冷や汗を流させるのに十分な威力を持ち、口元だけの笑顔と相まって非常な恐ろしさを演出してしまっている。

「ここは学園都市だ。多くの都市から生徒がやってくる。その中には敵対するところから来る者もいるだろう」

 そんなレイフォンにはお構いなしで話が進んでしまう。
 ついでに失礼してはいけないだろうかと考えるのは、駄目な人間の証拠なのだろうか?

「だからこそ、他の都市のもめ事を持ち込んではならないという規則がある」

 礼を言われるのはもう終わったのだから、出来るならば早くここを離れたいのだが、偉い人というのは演説が好きな生き物だ。
 このまま延々と続けられるか愚痴に発展するか。
 かなり微妙なところだが、出来れば結果は知りたくない。

「特に武芸科生徒には誓約書を渡してサインまでさせているのに、入学式の会場でそれを破るとは、毎年有るとは言え腹立たしいね?」

 疑問系になっている。
 しかもレイフォンに同意を求めているような気がする。
 確かに武芸者が暴れたら、その余波だけで一般人は大怪我をしてしまう。
 だからこそ、武芸者には必要な時以外は剄脈を使わない事が求められる。
 一年前のレイフォンは、その辺の事をしっかり納得していなかった。
 だからこそ、ガハルドとの試合で失敗してしまったのだ。

「はあ」

 そんな思考を頭の中でやりつつ、取り敢えず曖昧に返事をしておいた。

「それでなのだが、もし良かったら武芸科に転科しないかね? 幸か不幸か席が二つ空いたのだよ。レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ君」

 ミドルネーム付きの名前を呼ばれるのは、グレンダンを出て三回目。
 いい加減慣れてしまった。

「別人ですよ。僕はヨルテム出身ですし」
「・・。都市名を出したのは失敗だったね」

 何がいけなかったのか分からないし、にやりと笑うカリアンが途方もなく怖いが、ここは何とか誤魔化さなければならない。
 なのでもう少し言葉をつなげる。

「両親はグレンダン出身ですけれど、僕自身はヨルテムの生まれですから」
「ほう? 私はグレンダンの天剣授受者だとは一言も言っていないが」
「うわ」

 予防線を張ったつもりがやぶ蛇だったようだ。
 もしかしたら、本当に頭蓋骨の中には脳細胞が入っていないのではないかと、自分の事ながら疑ってしまうくらいに間抜けな展開だ。

「それでどうだね?」
「・・・・・」
「奨学金の申請をしていたね。Dランクだが、転科してくれるのならばAランクになる。機関清掃というきつい仕事をする必要はなくなるよ」

 かなり前から用意をしていたようで、レイフォンの逃げ道を効率よく潰して行くカリアンを眺めつつ、レイフォンは考える。
 五分考えて答えが出なければノリで行動しろとアイリに言われた事がある。
 だが同時に出発の少し前に、ダン・ウィルキンソンに言われた事もある。
 ここは仕切り直しをして、生徒会長のペースから外れるべきだろうと判断した。
 制服の内ポケットから、乾燥させて細かく砕いたお茶とレモンの葉を紙に巻いたという、煙草によく似た嗜好品を取り出し口にくわえる。
 そして、指を軽く弾いて化錬剄の火を生み出し、火を点ける。

「!!」

 何か驚いたようにカリアンが批難の視線を向けるのに気が付いたが、かまわずに煙を口の中に貯めてゆっくりと転がしてから吐き出す。
 好き嫌いがはっきりすると言うよりは、際物の嗜好品だけあってかなり不味いが、その不味さが良いのだと交差騎士団の人が言っていたような気がする。
 初めての時は凄まじい嘔吐感ではっきりと覚えていないのだ。
 いつの間にか慣れた不味さを感じつつ考える。
 状況は悪くはない。
 金が無いわけではないが、貧乏性であるレイフォンにとって奨学金のランクが上がる事は、悪い話では無い。
 問題だとするのならば。

「武芸大会は知っているかね?」
「はい。ツェルニの鉱山が後一つなのも」
「それは話が早くて助かるよ」

 嗜好品は見なかった事にしたのか、カリアンが話を続ける。
 ツェルニの事情は全てウォリアスとナルキからの情報だが、時間の節約はお互いにとって好都合だ。

「ここが学園都市である以上、卒業したら二度と来ないのが普通だ。だが、私はこのツェルニを愛しているのだよ」

 知っている事を脈ありと思ったのか、カリアンの話は続く。
 情報を知っている事と思考に関連性はないのも、おそらく知っているのだろうが、その辺は意識的に無視しているに違いない。

「愛する物が死に瀕している時に、あらゆる手段を講じようとするのは良くある陳腐な結末だとは思わないかい?」

 完全にその表情から笑顔の成分が抜け落ちたカリアンからのプレッシャーが、一段と強くなったような気がする。
 全然嬉しくないが、レイフォンは反って余裕が出来た。

「良いね?」

 机の抽斗から一枚の書類を取り出し、こちらに滑らせる。
 転科の書類で、すでにカリアンのサインはしてある。
 今更気が付いたのだが、カリアンの机の上には新しい武芸科の制服まで用意してある。
 全て予定通りなのだろう。
 それに付き合う義理はレイフォンにはない。

「貴方は、僕が武芸を続ける事の意味を理解していませんね」

 ダンに言われるまで気が付かなかった。
 もし、知らずに今の提案を受けていたのならば、きっと取り返しの付かない事態を呼び込んだに違いない。
 そう思いながらレイフォンはカリアンに向かって交渉を開始する。

「うん? どういう意味だね?」
「僕はあまり上手く説明できませんから、知り合いに武芸者がいるのならば聞いてみて下さい。僕の立場を知っていてくれるのなら多分答えてくれますから」

 人に伝える事が苦手なのは間違いないが、カリアンに懇切丁寧に説明するのが嫌だという、子供っぽい理由もあるのだ。
 ほめられた事ではないのだが、それもレイフォンの一部なのだ。

「ふむ。いいだろう。出来るだけ早く話をしてみるよ」

 今はそれで十分だ。
 後はレイフォンが提案を受けるかどうかだ。
 だが、その前にレイフォンの心情をしっかりと認識しておいて貰わなければならない。

「先にはっきりさせておきたいのですが」
「うむ。何だね?」
「僕はツェルニがどうなろうと興味ないです」

 この一言を言うと同時に、嗜好品を携帯灰皿に放り込んで、最後の煙を吐き出した。
 口の中にお茶とレモンの香りが残る。
 一瞬の合間を持って、カリアンの表情が厳しい物になりプレッシャーが更に増した。

「・・・・。まあいいだろう。何を愛するかは人それぞれ。君に強要はしないよ」

 たっぷり睨んだ後でそんな事を言ったとしても誰も納得はしないが、今は別の問題が有る。

「ツェルニがどうなろうと僕はかまいませんが、僕の知っている人達がそれに巻き込まれるのはごめんです」

 メイシェンだけではない。
 ナルキもミィフィもリーリンも、もちろんウォリアスも、ツェルニの滅びに巻き込まれて死んで欲しくないのだ。

「ですから、貴方の要請を受けましょう」

 出来れば、ツェルニで一般人として錆びて行きたかった。
 それが良い事なのかどうかはレイフォンには分からないが、それでも錆び付いて二度と戦えなくなりたかった。
 だが、状況はそれを許してくれなかった。

「感謝するよ」

 本当に喜んでいるかどうかは不明だが、カリアンは笑顔を浮かべた。
 再び戦うと言う事は、メイシェンに心配をかけると言う事だ。
 それが嫌だからこそ、武芸以外で生計を立てるためにここに来たのだが、それは全く無意味になってしまったようだ。
 何かに操られたのか、はたまたレイフォンの持つ運命なのか、入学式の騒動は切っ掛けにさえなっていなかった。

「条件というか便宜を図って欲しい事があります」
「出来るだけ応じよう」

 そんな内心を出来る限り押し込めつつ条件を提示する。
 世の中持ちつ持たれつだ。
 一方的に利用するだけとか利用されるだけとかでは、その関係はすぐに破綻してしまう。
 これはヨルテムにいる間に体験させられた。
 お節介な人達が多かったが、それこそが今のレイフォンを作っているのだ。

「まず。錬金鋼の携帯許可。非殺傷設定はかけないで」
「・・・。訓練の時には?」
「そのための錬金鋼の調達が二点目です」

 なにも、切れてしまう刀剣で訓練をするつもりはない。
 だが、武器を持たないという環境に非常な不安を感じるのだ。
 錆び付きたいと思う自分と相反する思考だが、それもレイフォンの一部なのだ。

「・。ふむ。良かろう。他にあるかね?」

 カリアンが考え込んだのは一瞬で、すぐに了承された。

「もし、汚染獣の襲撃があった場合、時間が有ったのならば作戦会議なり対策会議なりに、参加させて欲しいです」
「当然だね。君以上の戦闘経験を持つ者はいないからね」

 グレンダン以外で、レイフォン以上の戦闘経験を持つ武芸者がいるとは思えない。
 だからこそだが、これはすぐに了承された。

「それと」
「うむ?」
「これの喫煙許可」

 内ポケットから嗜好品を取り出す。

「煙草ではないようだが?」
「よく似ているので」

 交差騎士団の訓練に参加している間に、覚えてしまった良くない習慣の一つだ。
 トマスのように煙草に手を出さなかったレイフォンは、自分を褒めたいくらいだ。
 いちいち説明するのが面倒だし、許可証があるならそれの方が手間が省ける。

「・・・・・。よかろう。錬金鋼の携帯許可証と一緒にそちらの許可証も出しておこう」

 錬金鋼の携帯より少し思考の時間が長かった。
 当然かも知れないが。

「他にもいくつかありますが、それは追々」
「ふむ。ツェルニのためになる事ならどんどん要請してくれ給え」

 サインをした転科書類と用意されていた武芸科の制服を交換したレイフォンは、陰鬱な気持ちを引きずって生徒会長室を後にした。
 もう少し頭を使う癖を付けようと、絶望的な目標を立てつつ。



[14064] 第二話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:48

 
 生徒会長室に残ったカリアンは、時間と共に人は変わって行く物だと言う事を再認識していた。
 グレンダンでのレイフォンの情報を見る限り、守銭奴としての性格が強いように思われていた。
 だが、流石に三ヶ月では徹底的な調査は出来ない。
 こちらが知らない事情もあるだろう。
 そして何よりも、ヨルテムでの生活の事は一切分かっていない。
 あちこちに手を回して調べたのだが、何故か全て邪魔が入ってしまったのだ。
 もしかしたら、レイフォンの周りにカリアンと同じような立場の人間がいたのかも知れない。
 そうだとするならば、ヨルテムでの一年こそが今のレイフォンを形作っている事になる。

「これは、かなり困った事になるかも知れないね」

 転科について了承してくれた事は嬉しい。
 だが、予想していたよりもレイフォンの対応が理性的だったのだ。
 流れに流されてくれると楽だったのだが、そう上手くは行かない事がはっきりした。
 試験結果を見る限り、頭を使う事が得意なようには思わなかったのだが、もしかしたらこれもヨルテムでの経験が関係しているのかも知れない。

「さて。どうなるかな?」

 そろそろニーナが来る頃だというのに、カリアンには考えるべき事が多くある。
 紅茶の葉が燃えた残り香を感じつつ、カリアンの脳細胞は高速で活動を続ける。

「まあ、当初の予定通りに進ませて、その都度修正をするほか無いか」

 折角フェリまで動員して諍いを始めそうな武芸者をマークしていたのだが、全てレイフォンが片付けてしまった。
 念のためにニーナを近くに配置しておいたので、それほど大きく予測から外れる事はないと思う。
 そうカリアンの当面の計画の見直しが終わった頃に、ノックの音がした。

「入り給え」

 返事をするとニーナがなにやら思い詰めた様子で入って来た。
 これはまさにカリアンの思惑通りだ。
 こちらまでイレギュラーになっていたら、かなりカリアン的に困っていたのだが、一安心と言ったところだろうか。

「どうしたね? 新入生にめぼしい人材はいなかったかね?」

 返事は分かっている。
 どちらかと言うと、話しやすいように水を向けたと言った感じだ。

「残念ながら。将来的に使えそうな人材は見つけましたが、即戦力となると」

 語尾が不安定だ。
 間違いなく躊躇しているニーナに、念を押す。

「本当に、誰一人として?」
「・・・・・・・・・・。いえ。一人だけ」

 カリアンも見た。
 二人の武芸者に気が付かれることなく接近し、対応できないほどの速度で投げ飛ばしたのを。
 素人から見てもその手際は凄まじかった。
 同じ武芸者であるニーナならば、更に驚愕してもおかしくない。
 一般教養科と言う事も含めて。

「ですが、彼は一般教養科です。武芸大会には参加させられません」
「転科したよ」

 書類をニーナに見せる。
 驚いたように一瞬目を大きく見開いた後、何度も間違いがないかと書類を見る。

「・・・・。失礼します」

 今まで持っていた書類をその場に放り出し、ニーナはかなりの勢いで部屋を出て行った。
 様子からすると即座に行動に移るだろう事が分かる。
 まさにシナリオ通りだ。

「さて。スペックだけならツェルニ最強の部隊が出来るのだが」

 個人的な性能とチームとしての戦力は別物だと言う事は理解している。
 だから、これから先の事を考えなければならない。

「その前に」

 レイフォンが言っていた武芸者になる事の意味を、ヴァンゼに聞かなければならない。
 もしかしたら、それこそがレイフォンが一般教養科を目指した理由だからかも知れないから。
 万が一にも、レイフォンを敵に回すような事があってはならないのだ。
 
 
 
 途中に有った無人の保健室で着替えを済ませたレイフォンは、武芸科の制服をしげしげと眺め、溜息をついた。

「何処で知ったんだろう? そんなに有名人なのかな?」

 天剣授受者などと言う怪生物は、グレンダンでは有名だろうが他の都市では知られていないはずだ。
 古文都市レノスは例外中の例外だと思う。

「はあ」

 溜息をつきダンに言われた事をもう一度頭の中で思い返す。

「もし、万が一にでも武芸科に転科しなければならないとしたのならば、その時は覚悟を決める事だ。
 お前以上の実力と経験を持った者が学園都市にいるはずがない。
 ならば、未熟な者達に道を指し示さねばならない。
 剄技だけではないぞ?
 いや。剄技などどうでも良いのだ。
 それよりも重要なのは汚染獣との戦いがどういうものか。
 お前が見てきた地獄を教え心構えを持たせなければならないのだ。
 それはさぞかし辛い事だろうが、それでもやらねばならないのだ」

 言われてみて思いだしたのだ。
 八歳の時から汚染獣と切った張ったをやっていたが、初めての戦場で一緒に戦っていた大人が死んだ。
 その時は正しい対応が出来たが、それは偶然以外の何物でもない。
 その後になって、色々な体験談を聞きそして覚悟を決めたのだ。
 汚染獣戦に出る事をデルクに伝えた時、二年待てと言われたのだ。
 その意味がずっと分からなかった。
 デルクも喋る事が苦手なのも大きく影響している。
 だが、ダンに言われてやっと何故止められたのかが分かったのだ。
 体験した事経験した事を後輩に伝えなければ、何時か取り返しの付かない事態になってしまうかも知れない。
 ダンはそれを心配しているのだし、デルクも恐らくそれを教えたかったのだろう。
 もし、レイフォンが一般人になるのならば、そんな事をする必要はさほど無いだろうが、一緒に戦うかも知れない以上は絶対に必要なのだ。
 未熟者に足を引っ張られ戦線が崩壊するかも知れない。
 覚悟がない者のためにレイフォンが死ぬかも知れない。
 その確率を少しでも減らすためにも武芸者となったのならば、指導する事を怠ってはならないのだ。

「できるかなぁ?」

 ヨルテムで一年間教えては来たが、ナルキとシリア以外は熟練した武芸者が多かった。
 レイフォンだけで指導する事も少なかった。
 だがここにはレイフォンが頼れる武芸者は恐らくいない。
 一人でやれるかどうかと聞かれたら。

「多分無理だよな」

 考えつつシャーニッドと会っていた練武間の側の公園に辿り着いてしまった。
 今日もいやになるほど空が青い。

「そうだね」

 一人で悩んでいても仕方が無い。
 取り敢えず一年も一緒に鍛錬をしてきた武芸者がいるし、頭を使う事に長けた武芸者も一人いる。
 レイフォン一人だったら途方に暮れただろうが、今はそうでは無いのだ。
 何とか希望が見え隠れしていた。
 だが。

「レイフォン」
「う、うわぁ」

 公園に入り五人を視認した直後、涙を一杯に貯めたメイシェンに迎撃されてしまった。
 撃破判定なんて生やさしいものでは無い。
 まさに瞬殺。
 少しだけ長い左手の袖を握りしめて、今にも泣き出しそうだ。
 と言うか涙がこぼれているような気がする。
 残り四人も複雑な表情をしている。
 やはりというか何というか、予測されていたのだろう。

「転科しちまったのか」
「押し切られたんだね」
「レイフォン」

 三人がそれぞれの言葉でレイフォンの死体に鞭を打つ。
 本人達にその意志はないのだろうが、レイフォンにはそう思えてしまうのだ。

「生徒会長が転科しろって?」

 冷静を装っているウォリアスが一番複雑な表情をしているが、この中で一番深く物事を考えているのだから当然かも知れない。

「うん。ヴォルフシュテインを知っていた」

 どうして知っているかは分からないが、事実は認めなければならない。
 レイフォンの実力を知っているのならば、全力で転科させられる事は間違いない。
 条件を付けられただけでも儲け物だと思いたい。

「それで良いのか?」
「良くはないけれど、滅びに巻き込まれるのは避けたいよ」

 納得しているわけではないが、それでも、了承してしまっているのだ。
 ならば、やり遂げなければならない。

「左手が少し長いんだけれど、武芸科の制服がきっちり出来上がってる」

 一般教養科の制服を直しているので、その辺でデーターはあるのだろうが、僅かな時間で直せるわけがない。
 明らかに前もって準備されていた。

「・・・・・。出来るだけ力になるよ」
「うん。よろしく」

 一人ではないのならば、乗り切れるかも知れない。
 だが、現実はレイフォンが思っているよりも遙かに過酷だった。
 頭を使うという意味で。

「それでどうするんだ? 正直私はありがたいけれど、このまま武芸者を続けるか?」

 ナルキに聞かれてやっと気が付いた。
 他の仕事で生計を立てるという計画が、初っぱなから狂ってしまったのだと。
 あるいは、心の底では武芸者であることが好きなのかも知れないが、それは今問題ではない。

「えっと。どうしよう?」

 助け船を求めてウォリアスを見る。
 レイフォン本人が考えるよりも確実だ。

「お前が決める! 僕にばかり頼るな馬鹿者!」
「う、うん」

 流石に全て他人任せというわけには行かない。
 先ほど、頭を使おうと心に決めたのだ。
 少しずつでもやらなければならない。
 そんな絶望的な決意を再びした時に声がかかった。

「少々よろしいでしょうか?」
「はい?」

 その声に振り返ると、銀髪を長く伸ばした少女が佇んでいた。
 気配には気が付いていたのだが、敵意とかは感じなかったので放置していたのだ。
 この六人に用事があるとは思わなかったし。
 剣帯に入ったラインから二年生と言う事が分かるが、どう見ても年下だ。
 外見で人を判断してはいけないが、それでもかなり年下だ。
 ついでではあるが非常に整った容姿をしている。
 適切な表現が浮かばないほどに。

「何でしょうか? また誰かから逃げているんですか?」

 面識があるのかウォリアスが会話を始める。
 どうでも良いが、ミィフィと二人でやたらに顔が広いような気がする。

「いえ。貴方に用事があるのです」

 その細い指がまっすぐレイフォンを差す。

「僕ですか?」

 ツェルニに来てから彼女に関わるようなことを、何かやったかと振り返ってみる。

「えっと? 廃品回収に入学式に買い物に」
「いや。多分そっちじゃない」

 ウォリアスには何か見当が付いているのか、少し落ち込んでいるように見える。
 レイフォンには全くあずかり知らないところで、色々と事態が動いているのかも知れない。

「はあ。かまいませんけれど」

 拒否する理由はないが、何故か嫌な予感がするような気もする。
 ついて行かなくてもあまり変わらないような気もするので、了承してみることにした。

「済みませんが」
「はい?」

 未だにメイシェンに捕まれたままだった左手をそっと抜き、少女の後について行こうとしたのだが、唐突に何の前触れもなく、リーリンが話しに割って入って来た。

「もしかしてお兄さんがツェルニにいますか?」

 しかも、話題は全く意味不明だ。

「はい。よくご存じですね」
「何となく似ているような気がしたので」
「知っているのですか?」

 もしかしたらリーリンも顔が広いのかも知れない。
 そんな事も思ったが、ここまで話が進んだおかげでレイフォンにも心当たりが出来た。
 今目の前にいる少女とよく似た特色を持った人物をレイフォンは知っている。
 と言うかほんの少し前まで一緒だった。

「もしかして生徒会長?」
「不本意ですが」

 心底嫌そうな表情と声で肯定された。
 もしかしなくても武芸科に転科した事が原因で、彼女は今レイフォンの前に立っているのかも知れない。
 そしてリーリンの方を見る。
 何故カリアンを知っているのかと。

「・・・・・。グレンダンで一度会っているのよ」
「何時?」
「決定戦の直後。是非ともレイフォンに会いたいって」
「へえ。五年以上前なのに良く覚えているね」

 リーリンは流石に頭が良いと少し感心しているのだが、事態はそれどころではなかった。
 すぐ近くで剄脈の活動が活発になったのを感じて、そちらの方を見る。

「その時事故死に見せかけて殺しておけば、今の事態は避けられたのに」

 とても恐ろしい事をナルキが言っている当たりから、だんだん空気が危険になってきている事に気が付いた。
 その時本当にグレンダンにナルキがいることが出来たのならば、間違いなく手をかけているだろう程に危険だ。
 だが、今回もレイフォンの認識は甘すぎた。

「いや。まだ間に合う。今から事故死に見せかけて」
「待て待て待て。妹さんのいる前でそんな事言うなよ」

 今にも実行しそうなナルキを止めたのはウォリアスだ。
 妹云々は兎も角として、レイフォンもナルキに殺人をやって欲しいとは思っていない。
 だが、全てはレイフォンの思惑など関係なく悪い方向へと突っ走る。

「いいえ。私も兄は一度死んでおくべきではないかと思っていたところです」

 そう言いつつ錬金鋼を復元。
 重晶錬金鋼の杖が出現して、その長い銀髪を念威の光で満たした。
 元々髪は非常に優秀な念威の媒介ではあるのだが、ここまで凄まじい念威の量を持つ人間はそうそう転がっていない。
 それはつまり、異常な念威の才能だと言う事になる。
 デルボネの後継者としてグレンダンが欲しがるかも知れないほどの、異常な才能と言わざる終えない。
 もしかしたら、この才能のせいで色々と嫌な目に合ってきたのかも知れないし、ツェルニにいるのはその辺に原因があるのかも知れない。
 何しろ肉親にあの生徒会長がいるのだ。
 そんなどうでも良いことを考えている間にも事態は進展し続け、ついでのように念威端子が彼女の周りを覆い尽くす。
 その数はどう少なく見積もっても二百は超えているだろう。
 リンテンスだったら全部数えられるかも知れない。
 などと現実逃避気味に考えている間にも、時間はきっちりと流れ。

「げげ」

 驚いた声を上げられたのはウォリアスだけだった。
 一般人である三人はあまりの事態に呆然としているし、ナルキは力強い味方が現れたと張り切っているし。

「あの人何やってるんだろう?」

 レイフォンの方はと言えば、カリアンがどれだけの事を今までやって来たか、そちらに注意が行ってしまった。

「では、私が先導しますので」
「実行は任せて下さい!!」

 すでに計画は発動しつつある。

「ええかげんにせいよ!」

 渾身かどうかは不明だが、ウォリアスの鉄拳がナルキの後頭部を直撃して撃破した。

「そうです。いくら何でも兄殺しは良くないですよ」

 レイフォンも少女を何とかなだめようと、色々と苦心する。
 なんだか最近、女難続きのような気がするのは、気のせいであって欲しいと願いつつ。

「兎に角、先に用事を済ませてしまいましょう」

 このままでは余計な時間ばかり取られてしまうと判断し、レイフォンを捜していた本来の用事を話題に載せてこの場を誤魔化す事にした。
 だが、それが返って逆効果だったようだ。

「問題有りません。あんな用事は無い方が世のためです」

 不機嫌オーラを更に大きくした少女をなだめて目的地に向かうのに、更にいらない時間を使う羽目になった。
 
 
 
 レイフォンに連れられて少女がいなくなったのを確かめ、リーリンは溜息をつく。
 どう考えてもできすぎだ。
 偶然グレンダンに立ち寄っただけの少年が、今のツェルニの生徒会長だなどとは誰も予測できない。
 ナルキが事故死に見せかけてと言っていたが、実はリーリンもあの時、割と親切に対応したことを後悔しているのだ。

「でぇぇぇい! レイとんが武芸を続けることの意味を知りもしない愚か者が!! やはり今からでも抹殺に!!」
「ええい! 警察官志望のナルキが犯罪を犯してどうするんだ!」

 武芸者二人が、なにやら熱く言い争いをしている。
 その余波で周りから人がいなくなっているのだが、これは入学式の騒動からまだ時間が経っていない以上、当然の反応としか言いようがない。
 騒いでいる武芸者二人が気付いていないようだが、まあ、これは仕方が無いのかも知れない。
 さすがのウォリアスも冷静さの限界を過ぎてしまったのだろう。

「私の正義はただ一つだ!!」

 なにやら興奮したナルキの瞳が細められ。
 ウォリアスが何か納得したようにその細い目を更に細くして。

「「悪・即・斬」」

 異口同音だった。

「分かってるじゃないか」
「お前さんは何処の前髪触覚の警官だよ?」

 武芸者とはやはり世界が違うのかも知れないと思えるほど、二人の息はぴったりだ。
 端から見ている分には面白いかも知れないが、同じ集団にいると少し事情が変わってくる。
 グレンダンを出る時に慣れたと思ったのだが、それはあまりにも甘い認識だったようだ。
 非常に恥ずかしいので、出来るだけ他人のふりをするために、ミィフィに話しかけてみる事にした。

「レイフォンに用事って、やっぱり第十七小隊がらみだと思う?」
「入隊しろって言われているんじゃないかな?」

 なにやら地図を眺めつつミィフィが同意する。
 確かに、レイフォンほどの実力者を放っておく余裕はツェルニにはないのかも知れない。
 そして、言い方は悪いがレイフォンを効率的に使うとするのならば、武芸大会で中核となる小隊に入れるのは間違った判断ではない。
 だが、それはレイフォン個人の技量に頼ってしまうことになるかも知れない。
 そうでなくても、学びに来た生徒に志望する学問を授けられないという、学園都市の意義を無視しかねない状況なのだ。
 それは酷く救いがない行為に思えて仕方が無い。
 リーリンの考えが更に暗い方向に行くのを止めたのは、地図を見終わったミィフィの何気ない一言だった。

「ねえメイッチ。さっきから黙ってるけれど、会話において行かれてるの?」
「・・・・・。違うよ」

 ふと気が付けば、さっきまでレイフォンの袖を握りしめていたメイシェンが、今にも泣き出しそうな表情で練武感の方を見つめている。
 いや。実際にはすでに泣いた跡があったりする。

「無いと思うんだけれど」
「うんうん?」

 メイシェンがぽつりぽつりと話し始めたことで、言い争っていた武芸者二人もようやっと落ち着いたようで、こちらの世界に合流した。

「もしかしたら」
「うん?」
「あ、あう。ないとはおもうんだけれど」
「なになに?」
「レイフォンって、努力しても報われない呪いがかかっているのかも」

 逡巡すること十数秒。
 やっとメイシェンが紡ぎ出した言葉には、壮絶なほどの説得力が混入していた。
 いや。むしろレイフォンの努力が報われることの方がおかしいと思えるほどの、凄まじい説得力だ。
 と。半年前のリーリンだったら納得してしまっていたかも知れない。

「・・・・・・。心当たりがありすぎる」
「・・・・・・。犠牲を払っても何も得られない?」

 ナルキとミィフィも同じ結論に達したようで、血の気が引いたお互いの顔を見つめている。

「あり得るな。人は生まれながらにそう言う要素を持っているからね」

 ウォリアスも真剣にレイフォンの事を考えているようだ。
 生まれの不幸を呪う以外に、レイフォンに道はないと言いたげではあるが。

「で、でも。きっと間違いだよ。努力していればきっと報われるよ」

 おろおろと自分の説を否定するメイシェンだが、おもしろ半分にリーリンは考える。
 もし、武芸大会にレイフォンが参加したとしたのならば。

「汚染獣の襲撃で無効試合?」

 有利に戦っている時に汚染獣がやってきて、有耶無耶にされてしまいそうだ。
 あるいは、他の何かの妨害で殆ど活躍できなくなるとか。

「あ、あう」

 同じ結論に達しているらしいメイシェンが声を漏らす。

「あり得る。と言うか、そうならない方が不思議な気もする」
「だよねぇ。レイとんなんだか不幸の星に溺愛されているし」
「いや。むしろ幸福の女神に命狙われてるんじゃ?」

 一気に場の雰囲気が重くなった。
 リーリンにこの場の雰囲気を覆すことは出来るのだが、何となくもう少し見学してみたくなった。
 そして、今までのレイフォンの人生を振り返り努力して結果が得られたかと考える。
 武芸を始めたのは、孤児院の経営の助けになればと思ってのことだ。
 八才の頃から汚染獣と戦い、おおいに孤児院の経営に貢献した。
 そして、そのレイフォンのおかげで助かった子供も大勢いる。
 これは結果が得られたと言える。
 武芸者としての頂点である天剣授受者になった。
 過酷などと言う言葉が陳腐に聞こえるほどの戦場を、いくつも経験してきたはずだ。
 その結果報酬は増額されたが、グレンダンの他の孤児院に寄付をしたために経済状況は返って悪化。
 闇の賭試合に出たことでガハルドの脅迫を受け、最終的にはグレンダン追放。
 方法が間違っていたとは言え、あまり結果が付いてきていないようにも思える。
 そう結論づけていたのは半年前までのリーリンだ。

「大丈夫。少なくともグレンダンではちゃんと報われているから」

 本当にそうかは疑問だが、それでも、全く無意味だったわけではないのだと今のリーリンは知っている。
 汚染獣との戦闘が頻繁に有り年中金欠状態のグレンダンでは、何処の孤児院だろうが経営状態はかなり厳しくなってしまう。
 そんな時にレイフォンが多額の寄付をしたのだ。
 それによって命を救われた子供の数は、かなり多いと聞いている。
 方法は間違っていたし結果は最悪だったが、やろうとしていたことは間違っていなかった。
 レイフォンがいなくなって半年ほどしてから、そんな話が聞かれるようになった。
 暴動になりそうな切っ掛けを作ったことは批難されるべきだが、全く功績がなかったわけでもないのだ。

「今夜にでもちゃんと伝えないと」

 女の子と思われていなかったことがショックで、結局伝えることが出来なかった事柄を今日こそ話そう。
 そう決意したリーリンだった。

「死ぬような思いで勉強したのに奨学金ランクはDだった」
「ヨルテムで汚染獣を倒したのに、騒がれるのが拙くてツェルニに逃げ出した」
「あうあう」

 ヨルテム三人衆は、レイフォンの努力が報われなかった事柄を列挙しているようだ。
 勉強についてはレイフォンだからと諦めるしかないが、汚染獣については少し微妙なところだ。

「ツェルニに来て一般人になろうとしたのに、強引に転科させられる」
「しかも小隊員にならされて使い倒される」
「いや。使い倒されるという言い方は問題有るぞ? 小隊員はエリートなんだ」

 なにやらまだ続くようだ。
 このまま放っておく訳にもいかないので、割って入ろうとしたのだが。

「こうなったら、レイとんの功績が有ったからこそ武芸大会に勝ったのだと、ツェルニの生徒全員に知らしめるべきだ」

 ナルキが盛大に拳を突き上げて宣言する。
 武芸者であるレイフォンを最も良く知るナルキだからこそ、そう言う結論に達したのだろう。
 確かに、武芸科に転科したからにはそれくらいのことがなければ、レイフォンの努力は報われたとは言えない。
 ならばここは涙を呑んで、レイフォンを激励して武芸大会で勝利を収めるべきではないか?
 リーリンがそう結論を出しかけた時。

「いや。それは拙いだろう。レイフォンは一般人になるためにここに来たんだ。だったら功績が無いことこそがレイフォンにとっては最も報われる結果だろう」

 冷静さを取り戻したウォリアスに言われて、リーリンはかなり空気に呑まれていたことを知った。
 自分が何を言ったかを理解したらしいナルキも、一気に冷静さを取り戻す。

「済まないな。生徒会長を殺し損ねたせいで、欲求不満なんだ」
「あのね。そう言う物騒なことはこっそりというんだよ」

 全面的に止めないところがウォリアスの人柄なのかも知れない。
 だが、リーリンは目の前の四人に言うべき事があるのだ。



[14064] 第二話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:49

 
 フェリと名乗った少女をなだめつつも、レイフォンは第十七小隊に割り当てられた部屋にやってきていた。
 教室二個分くらいの広さとかなりの高さを持った、なじみ深いその部屋の空気を吸い、少しだけ胸が苦しくなった。
 グレンダンで間違わなければ、今もこの空気を存分に吸っていられたのだと思うから。
 そして、やはり武芸が好きなのかも知れないと再認識もしていた。
 だが、問題は目の前に聳え立つ金髪を短めに切りそろえた怖い女性だ。
 剣帯に入るラインの色から三年生だという事が分かる。
 そして、その剣帯につるされた錬金鋼が二本。
 どんな武器を使うかは分からないが、左右から繰り出される連撃はかなり驚異になるだろう事が、直感として理解できる。
 だが、それよりも問題なのはその女性のつり上がった眦が痙攣する瞳だ。
 フェリの愚痴を聞きつつやって来たので、それなり以上に時間がかかってしまった。
 もしかしなくてもかなり怒っているのかも知れない。
 部屋の隅にあるベンチで寝転んでいるシャーニッドは、また廃棄物になっているのかも知れないからあまり助けは期待できない。
 触媒液と油汚れが染みついたつなぎを着た青年も同じように部屋の隅にいるのだが、こちらもあまり助けにはならないかも知れない。
 どちらかというと興味津々とレイフォンの事を見ているから。

「良く来てくれた」

 口ではそう言っているが、不満を抱えていることは間違いない。
 その纏う雰囲気はレイフォンの知る武芸者の中で、比較的デルクに近い物があるように思える。
 デルクに近い雰囲気を持つ人と会えたのだが、今この場では全然嬉しくない。

「私が第十七小隊長の、ニーナ・アントークだ」

 そう名乗るそれは、宣戦布告以外の何者でも無い。
 もしかしたら、怒っているのではなく余裕がないだけなのかも知れないと、レイフォンがそう考え始めた頃合いに。

「我々小隊は武芸科のエリートだ。武芸大会では部隊の中核となり、あるいは潜入などの特殊任務をこなす。
 汚染獣との戦闘の際にも、守りの要となる事が義務づけられている。
 それはつまり、ツェルニの守護者であることの証明に他ならない。
 エリートである以上強さと模範となる行動が求められ、常に自らを鍛え続けなければならない宿命を持つのだ」

 一気に言い切って一息つく。
 小隊がどんなところかは理解できたが、しかし、分からないことはある。

「それで、僕は何で呼ばれたのでしょう?」

 小隊員がエリートなのは理解したが、レイフォンがここに呼ばれた理由が分からない。
 まあ、カリアンに正体がばれているし入学式で派手に暴れてしまった。
 入隊しろと言われるのかと思ったのだが、少し違うようなので安心しても居たのだ。
 ニーナの性格ならば、小隊に入れと最初に言うはずだから。

「な!!!」

 何故か猛烈に衝撃を受けるニーナが少し不思議だ。

「ぷはははははははははははは」

 その不思議な空気を笑い飛ばしたのは何故かここにいるシャーニッドだ。
 廃棄物になっているのかと思ったのだが、成り行きを見守っているだけだったようだ。
 そして、何か違う目的でここに居るようだ。

「ニーナが悪い。ちゃんと目的を話さないからそう言う反応をされるんだ」

 非常に楽しそうにしているところを見ると、もしかしたらこの小隊の構成員なのかも知れない。
 別に意外ではない。
 持つ雰囲気や身のこなしから考えるに、銃を使っているらしいことは予測できるし、将来かなりの実力者になるだろう事もおおよそ理解している。
 そのシャーニッドが身体を起こし、レイフォンの方を見る。

「ぶっちゃけだな。お前をスカウトするって事なんだ」
「僕に小隊員になれと?」
「そう言うことだ。お前なら実力的には十分だろうからな」

 実力とシャーニッドは言うのだが、何故か武芸とは関係がないことを期待されているような気がする。
 気のせいであって欲しいのだが。
 シャーニッドの介入で弛緩した空気が一瞬で引き締まり、ニーナから剄の波動が溢れ出した。
 どうやら怒っているのではなく、余裕がないようだ。

「拒否は認めない! これは生徒会長も承認している決定事項だ。
 そもそも、小隊員という名誉を拒否するような軟弱なことを武芸者がするはずがない!」

 なにやらニーナが異常に張り切っている。
 だが、レイフォンにとっては寝耳に水だ。
 生徒会長と取引したのは、武芸科に転科する代わりにいくつかの便宜を図って貰うことだけだ。
 小隊に入れなどと言う事は聞いていない。
 そして何よりも。

「さあ武器を取れ! お前の実力を試す!!」

 大きく手を振り壁際にかかっている大量の武器を指し示された。
 その張り切りまくっているニーナの作る流れに逆らうために、内ポケットから嗜好品を取り出し口にくわえ、指を弾く動作を組み込んだ化錬剄で火を点ける。

「なっ!!」

 案の定ニーナが驚愕に硬直する。
 シャーニッドも思わぬ展開に若干瞳が大きくなっている。
 フェリだけは我関せずと雑誌など読んでいるが、注意はこちらに来ていることは分かる。
 そして、名前を知らないつなぎを着た錬金鋼技師と思われる青年が顔に手を当てて嘆いている。
 どうやら誰からも褒められない行動のようだ。
 まあ、それは当然としておいて、レイフォンはゆっくりと煙を口の中に導く。
 決して肺に送り込んではいけない。
 もし肺に入ってしまったのならば、それはもう地獄の苦しみが待っているからだ。
 周りにいる人間はよい香りがして良いのかも知れないが、吸っている本人には極めつけの慎重さが要求されるのだ。
 ふとここで思う。
 何でこんな物騒な物を嗜好品にしているのだろうかと。
 その思考を遠い棚に放り上げ、ゆっくりと口の中を回した煙を吐き出す。
 酷く不味いが、その不味さを起点に精神を落ち着け思考をまとめる。
 トマスが煙草を愛用しているのも、この辺が原因なのかも知れない。

「貴様!! 武芸者ともあろう者が!!」
「許可は貰っていますよ。生徒会長から」

 ニーナが激高するのは予測できていたので、カウンター気味の攻撃を放つ。

「ぬっ!」

 一声うなって沈黙するが、全く納得していないことは理解している。
 それよりも問題は、レイフォン自身が今置かれた状況だ。
 奨学金といくつかの便宜の結果がこれは、少し納得できない。

「お断りします」
「な、なに?」
「小隊入りをお断りします」

 まだ残っている嗜好品を携帯灰皿に放り込み、蓋を閉めて消火する。

「名誉も栄光も興味有りませんし、誇りも持っていませんから」

 そして、名誉などと言う無価値な物のために戦ってもきっとまた失敗するという確信があった。
 だから、そんな物のために小隊に入ることは出来ないのだ。
 ニーナが納得するはずがないことは分かっているが、これを曲げることはレイフォンには出来ない。

「言っただろう? これは決定事項なのだ。貴様の意志は関係ない!」
「では、何故腕試しがあるんですか?」
「それは簡単だ。貴様をどう使うかが問題なのだ」

 ニーナの言動が何故か非常に引っかかる。
 そして今まであった事柄を振り返ってみる。
 カリアンはあまり好感が持てる人物ではなかった。
 だが、交渉しようという姿勢を崩したことはなかった。
 交渉が決裂しないように色々と画策しているところはあったが、表面上だけでも強制はしてこなかった。
 だが、ニーナは明らかに違う。
 その違いがどこから出てきたものかは分からないが、このままでは非常に困るのだ。

「僕はここに武芸以外で生きる道を探しに来ました。鉱山が残り一つなので転科しましたが」
「途中経過はどうあれ、武芸を志したのならば小隊員になるべきだろう」

 あくまでもニーナはニーナの基準をレイフォンに押しつけようとしている。
 それはある意味仕方がないのかも知れないが、それでも思う。
 志などと言う物がレイフォンに無いことを理解して貰わなければと。
 だから話の腰を折り確認をしなければならない。

「いくつか聞きたいことが有るのですが?」
「何だ?」
「実戦経験はありますか?」

 ここで言う実戦経験とは、当然汚染獣との戦闘だ。
 戦争という対人戦闘も実戦ではあるのだが、生憎とレイフォンにそちらの経験はない。

「いや。幸か不幸かまだ実戦は経験していない」
「では、目の前で同僚が死ぬところも見ていませんね」
「当然だ」
「では、誰か家族が亡くなりましたか? ここ最近」
「いや。十年ほど前に曾祖父が亡くなっただけだ」

 ニーナの回答を整理しつつ、レイフォンはダンが言っていたことが正しいのだと改めて認識した。
 ニーナは戦いがどう言う物か理解していない。
 それは恐らくツェルニの全武芸者にも言えることだ。
 これはかなり大変なことになりそうだと、覚悟を決めるしかない。

「それがなんだというのだ? お前は実戦を経験したというのか?」

 明らかにそんなはずはないと決めつけている。
 まあ、グレンダン以外でならそれが常識なのだろう。
 それ以上に、グレンダンにおいても八歳の子供が戦場に出ることは、極めてまれだった。
 サヴァリスとかは、まあ別格だ。

「公式記録によると、汚染獣との戦いに出た回数は、グレンダンで四十八回。その他には非公式にヨルテムで一回ですね」

 その場に嫌な沈黙が落ちる。
 当然嘘だと思われているのだろう。
 そもそも、一生の内に四十九回も汚染獣戦を経験する武芸者は、グレンダン以外では居ないはずだ。
 グレンダンの常識は世界の非常識。
 そんな標語が浮かんだが、今は違う問題を片付けなければならない。
 
 
 
 ここから先は若干凄惨なシーンがあります。苦手な方は次の頁へお進みください。
 
 
 
 
 
 
 成り行きを見ていたシャーニッドは、レイフォンの言った数字の異常さにかなりの引っかかりを覚えていた。
 嘘だと決めつけるのは簡単だが、僅かに知っているレイフォン・アルセイフという人物から想像するのならば、迂闊に決めつけてはいけないと思う。
 そもそも、四十九回も汚染獣と戦ったなどと誰が信じるだろうか?
 嘘をつくならもっとましな状況を考えるはずだ。
 そう考えさせておいて嘘かも知れないが、今の段階で判断することは危険だ。
 だが、当然ニーナはそんな思考とは無縁だ。
 良くも悪くも直情型なのだ。

「そんな嘘をついて何の得がある!!」

 そうなるだろう事が分かっていたからこそ、ハーレイも頭を抱えている。
 シャーニッドも抱えたいところだが、そう言うわけには行かない。
 取り敢えず、ニーナを止めるために会話に割って入る事にした。

「ああ。まあ、四十九回は兎も角として実戦経験はあるんだろう?」
「いえ。グレンダンで非公式に出撃したこともあるので実際はもっと多いですね」

 あっさりと修正された。
 しかも、非公式に出撃するとなるとかなり特殊な事例になる。
 そして、そんな任務に駆り出されるほどの優秀な武芸者と言う事になってしまう。
 目の前の、大勢の人前でラブシーンをやったレイフォンがだ。

「まあ、回数は問題ではありません。問題なのは僕が何故戦ったかと言う事です」

 更に、出撃回数は問題ではないと言い切られた。
 武芸者とはおおよそプライドの高い生き物だ。
 そのプライドを満足させるために最も簡単な話が、汚染獣をどれだけ倒したかとか何回実戦を経験したかとか、そう言う数の話のはずだ。
 だというのに、レイフォンは数は重要ではないという。
 だんだん四十九回の出撃説に信憑性が出てきた。

「戦う理由など知れている。都市とそこに住む人達を守るためだ!!」

 熱血直情型のニーナでは、レイフォンの話を理解することは出来ないかも知れない。
 時間が経てば話は違ってくるかも知れないが。

「僕に限って言えば違います。グレンダンがどうなろうと関係有りませんでしたから」

 都市に住むことしかできない人間にとって、言ってはいけないことを平然というレイフォンに、一瞬息が止まる。
 軽薄を装っているだけのシャーニッドとは、やはり決定的に何かが違う。

「きさま」

 ニーナは更に過激で、すでに錬金鋼に手をかけて制裁を加える体制を整えてしまっている。
 そのニーナとレイフォンの間に入る。
 ここで流血沙汰は拙い。

「僕は見たくなかったんですよ」

 標的になっているレイフォンは、全く平然としている様に見えるが、その表情がどんどん無くなって行くことは理解している。
 そして、冷たく乾いた視線が何処か遠いところを見ていることにも気が付いた。

「十年ほど前になりますが、グレンダンで食糧危機がありました」

 周りの状況が見えているのかいないのか、昔話を始めるレイフォン。
 だが、その昔話こそが今のレイフォンを作っていることも理解できた。

「見た事がありますか?」
「なにをだ?」

 復元こそしていないが、黒鋼錬金鋼を両手に握ったニーナが一歩前へと出ようとするのを押しとどめる。

「泣きながら自分の子供の首を絞める母親」
「!!」

 ニーナの前に出かけた足が凍り付いたのが分かった。
 シャーニッドの心臓も一瞬以上動きを止めた。

「僅かな食料のために殺し合う兄弟」

 普段無表情を通しているフェリの眉が移動するのを視界の端で捉える。

「餓死した人の死体を争って食べる人達を」

 想像してしまったのだろう、ハーレイが口元に手を持って行くのを確認した。

「つい何時間か前まで、寒いとかお腹減ったとか言って一緒の布団で眠った兄弟や姉妹たちが、朝起きたら冷たくなっていたのを」

 この時シャーニッドは理解してしまった。
 レイフォン・アルセイフという人物は、違う世界で生きていたのだと。

「僕はそんな光景を見たくなかった。だからお金を稼ぐために汚染獣と戦った。孤児だったんで、同じ孤児も助けたいと思って闇の賭試合にも出ました。生きた手でなければ家族を守れないからどんな汚い手を使ってでも生き延びた」

 凍り付いた視線がニーナを捉える。
 そこに圧力は無かったが凄みを感じてしまった。
 その凄みに押されたように、ニーナが一歩後ずさる。

「僕にとって名誉も栄光も誇りも無意味です。志なんて物もありません」

 武芸者とは多かれ少なかれ優遇されているのが普通だ。
 だが、目の前の少年は最底辺で足掻いて生きてきた。
 そこにはニーナのような意志は存在できない。
 生きるために必死にならなければならないから。
 誇りやプライドを守って死ぬことは出来なかったのだ。
 いや。そもそもそんな物に価値を見いだしていないのだ。

「ですので、僕は小隊員にはなれません。他の人を探して下さい」

 丁寧に一礼すると扉を開けて出て行くレイフォン。
 激高する事もなく淡々と静かに、扉が開けられそして閉められた。

「・・・・・・・・」

 あまりにも自分と違う過去を聞いて、衝撃を受けているだろうニーナは全く動かない。
 気持ちは分かる。
 かなり裕福なところの生まれだと聞いたことがある。
 そんなニーナにとって、レイフォンの過去はまさに異世界の話だったに違いない。

「本当の意味で、違う世界の生き物だったのか」

 ニーナほどではないにせよ、シャーニッドもそれなりに優遇された家の生まれだ。
 食べ物に困った経験はない。
 話を聞いて想像は出来るのだが、実感は全く持てない。
 第十七小隊に割り当てられた訓練室に響くのは、周りで行われている鍛錬の音だけだった。



[14064] 第二話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:49


 休憩を終えたゴルネオがそこを通りかかったのは、本当にただの偶然だった。
 シャンテに頼まれた飲み物を買い忘れ、何時もと違う道順で部屋に帰っただけだったのだ。
 食べ物に関しての執着心は人三倍ほど有るシャンテの飲み物を忘れるわけには行かないのだ。
 だが、何時もと違うのは道順だけではなかった。

「おい? どうした?」

 角を曲がってすぐにそれは見えた。
 第十七小隊の部屋の前で、壁に捕まって必死に立っている小柄な影を視界に納めた。
 その肩は震え、足に体重を支える力はなく、すぐに分かるほどの冷や汗をかき、浅く速い呼吸を繰り返すその姿は、明らかに体調に異常が起こっている証拠だ。
 それが誰かを確認するよりも先に駆けつけ、そして驚愕した。

「お前は」

 殺したいほど憎んでいる元天剣授受者。
 その超絶の存在の顔色が土気色に変わり、どう見ても瀕死の状態で立つことさえままならない。
 手に持っていたジュースを床に置き、両手を伸ばしてその肩を押さえ、ゆっくりと座らせる。

「・・」

 そして、その手を首に持って行く。
 一瞬だけ、今なら殺せるという思考が意識に上った。
 だが、それはまさに一瞬の出来事。
 これは違うのだ。
 天剣授受者でも武芸者でもない。
 何が原因かは不明だが、今目の前で死にかけているこれはそれ以前の、ただの急病人だ。
 そう自分に言い聞かせたゴルネオは、手近な第十七小隊の部屋の扉を蹴破った。
 普通に考えるならば、この部屋を出た直後に体調を崩したと判断できるからだ。

「何が有った?」

 だが、盛大な破壊音と共に入ったゴルネオの予測は当たっているはずなのに、その部屋の空気は異常なほど沈殿していた。
 誰か親しい人間が急死したとか、武芸大会でツェルニが負けたとかそんな重苦しい空気だ。
 そのあまりの空気に外のことを忘れて動きが止まる。

「どうしたんだい旦那?」

 唯一、割と気力を残しているシャーニッドがわざとらしい明るい声で応じているが、それは演技であることが分かる。
 だが、その演技でゴルネオは再び外のことを思い出すことが出来た。

「部屋の前で倒れているやつがいる。手を貸せ」

 何か事情があるだろうが、それにかまっている余裕はゴルネオにもレイフォンにもないはずだ。
 だから、目の前の連中の暗い雰囲気は気が付かないことにして、用件を切り出した。

「部屋の前って? だれが」

 重そうな足を運んだシャーニッドが廊下を覗き込み、そして硬直する。
 やはり、レイフォンがここから出た直後に体調を崩したのだろうと言う予測は間違ってはいなかったのだと思ったが、今は詮索している時間はない。

「レイフォン! おいこら。どうした?」

 当然のようにシャーニッドが名前を呼びつつ揺するが、そんな物で収まる状況ではないのはわかりきっている。

「俺が運んで行く。病院に連絡しておけ」

 運ぶだけなら一人で出来るが、先に連絡が行っているかどうかは救命処置に著しい影響がある。
 流石に心肺停止という状況ではないようなので、それほど慌てる必要は無いのかも知れないが、それでも急ぐ方が良いのだ。

「・・・・。私も付き添います。フェリは病院に連絡。シャーニッドとハーレイは扉の修理」

 何時もと違う雰囲気のニーナだが、それでも指示を飛ばしつつ部屋を出てくる。
 それを確認しつつゴルネオはレイフォンを抱え上げる。
 そして驚く。
 壮絶な剄脈があるからこそ天剣授受者なのだが、それでもレイフォンの身体は一般人よりは多少まし程度の細さだった。
 むろん、しっかりと筋肉は付いているが、それでも軽かった。
 一昨日の情けない姿から一転。
 これほど衰弱した姿を見ることになるとは思わなかったが、それでも、こんなところで死んで貰っては困るのだ。
 復讐というゴルネオの目的もそうだし、ツェルニの武芸科にとってもそうだ。

「・・・・・・・」

 抱え上げたレイフォンの口がかすかに動き、誰かの名前を呟いているようにも思えるが、その辺の詮索も後回しだ。
 
 
 
 病院に到着したニーナは、レイフォンの寝かされている部屋の外で医師とゴルネオから事情を聞かれていた。
 酸素吸入が終わり、ただ眠っているだけのレイフォンを遠目に眺めつつ会話が続いている。
 担当した医師が処置をしている間、散々愚痴を言われたがそれはまだ続くのかも知れない。
 ニーナ自身の精神状態もあまり良くないので、出来れば適当なところで止めて欲しいのだが、そんな事はお構いなしのようだ。
 そして、何故レイフォンがこうなったかは理解していないが、直前に何が有ったかを話したとたん事態は動いた。

「グレンダンの食糧危機?」

 どう見ても四十才を超えていそうだが、間違いなく六年生の医師がその太い首をかしげる。
 なぜかかけている眼鏡に隠れて表情が読みにくいが、不振を抱いている事だけは確信できる。
 武芸者と言っても通用するほどの体格を持っているが、間違いなく医療科の六年生なのだが、不振のために首をかしげるとなんだか怖い。

「・・・? 誰かと思えばヴォルフシュテインじゃないか?」
「元です!」

 医師が身分証を眺める事数秒。
 何かに思い当たったのか軽く驚きつつそう言った。
 だが、その医師の軽い驚きの一言に過剰に反応するゴルネオ。
 ニーナが知らない何かがあることは分かるし、それがグレンダンの事だと言う事も予測が出来る。
 そして、ヴォルフシュテインが優秀な武芸者の称号か何かだろう事も分かる。
 だが、元と付いた事に不振を感じた。

「まったく。お前は俺の事が嫌いなんだな?」
「何ですかいきなり?」
「シフトが開ける寸前にこんな患者を連れ込んで、更にグレンダン時代の事を根に持って。ああ? もしかして俺の事が殺したいほど憎いのか?」
「い、いや。そんなわけはありませんよ。同じ都市出身者として先輩の事を尊敬しています」
「だったら何で俺に向かってそんな口利くんだ? ああ?」

 グレンダン出身者だけで盛り上がっているのを横目に見ながら、ニーナは考える。
 元と言うからにはヴォルフシュテインは剥奪されたと見て間違いない。
 剥奪されたからこそツェルニにいる事になる。
 金を稼ぐために闇の賭試合に出たと言っていた事は覚えている。
 それが公になり剥奪され追放された事になってしまう。
 結果として、レイフォンは犯罪者。
 それは、ニーナが思い描く武芸者としてはあってはならない事態だ。

「あ、あのぉぉ」
「ああ?」

 そんなレイフォンを小隊に入れようとしていた事に衝撃を受け、奈落の底に落ちそうになっていたニーナを救ったのは、気弱にかけられた少女の声だった。

「レイフォン・アルセイフが担ぎ込まれたと聞いたんですが」

 振り返ってみてみれば、金髪を後ろで縛った少女と黒髪の少女、そして、スカウトしようかどうしようか迷った黒髪の少年が立っていた。
 病院から連絡が行ったようで、迎えにでも来たのだろう。
 本人はまだ眠っているが。

「ああ。そこで死にかけてる」
「ひゃぁ」

 中年男にしか見えない医師が何気なく言った台詞で、黒髪の少女の顔色が悪くなった。
 残り二人は平気そうなのを考えれば、かなり派手なリアクションと言わざる終えない。

「大丈夫だ。グレンダン時代の食糧危機の事を思い出して、呼吸困難になっただけだ」

 流石に拙いと思ったのだろう、医師がそう修正したが。

「あぅぅぅぅ」

 更に顔色が悪くなり倒れ込む黒髪の少女。
 考えられるのは一つしかない。
 今日はグレンダン出身者の大盤振る舞いだなどと、そんなくだらない事を考えていたのだが。

「こいつもグレンダン出身者か?」
「いえ。ヨルテムだそうですけれど知っているようで」

 ニーナの予測が外れたし、倒れた少女を支えつつ黒髪の少年が説明するが、問題はもう一つあるのだ。
 金髪の少女の顔色も悪くなっているという、かなり困った問題が。

「あははははは。あれは酷かったですよねぇ。弟も妹も気が付くと数が減っていて」

 うつろな瞳でにこやかにそう喋る少女の首筋に、少年の手刀が打ち込まれる。
 流石にこれ以上は危ないとニーナも判断していたが、少年の方が早かった。
 器用に二人の少女を抱えつつ、少年は言うのだ。

「そう言う記憶の処理をしていると人格壊れるから止めるようにね」

 言いつつ視線が医師に向く。
 二人をどうしたらよいか聞いているのだ。

「ゴルネオ。そいつをそっちに押せ」
「こ、これですか?」

 指示されたのは何故かレイフォン。
 今はただ眠っているだけだが、ついさっきまでは色々と大変だったのだが、それは考慮の対象外らしい。
 そんな素人目から見ると危険な感じのするレイフォンを、壁際に押しやれと医師は顎をしゃくる。

「ベッドがもったいない」
「せめて男女で分けるとか」
「性差別は嫌いだ」

 相変わらず、二人のコンビネーションはばっちりだ。
 抗議が無駄だと分かったのか、はたまた二人の扱いに限界を感じたのか、ゴルネオがレイフォンを壁際に押しやり、少年の手によって少女二人がベッドに放り込まれた。

「ヴォルフシュテインもあれのせいで人生狂ったのか」
「元です」

 相変わらずの二人は良いのだが、少年の視線が少し険しくなったような気がする。
 目が細すぎてはっきりとは分からないが、雰囲気も少し厳しくなったと思うのだ。
 もしかしたら、謎の称号について知っているのかも知れない。
 視線に気が付いたようで、医師が胡乱げな視線を投げる。

「お前もグレンダンか?」
「いえ。古文都市レノス。二年前にグレンダンとやり合ったんですよ」
「ああ。そいつは災難だったな」
「まあ、僕にとっては好都合でしたけれど」

 レノスという都市は聞いた事がないが、グレンダンと戦争して負けたらしい事は理解できた。
 それがどうして好都合だったのかは理解できないが。

「まあいいさ」

 あまり突っ込まずに医師が引き下がる。
 ゴルネオはまだ不満そうにレイフォン達の方を見ているが、何かするつもりはないようだ。
 だから聞いてみる事にした。

「ヴォルフシュテインとは何ですか?」
「お前が知る必要はない!」

 何故かゴルネオに怒られた。
 その巨体から出る圧力は凄まじく、ニーナも一瞬鼻白んだ。
 だが、何が有ったかを知らなければならない。
 犯罪者だとしても、第十七小隊には是非とも必要な人材だからだ。
 だが、話題を転換するためだろうが、ゴルネオが先に口を開いてしまった。

「食糧危機。先輩のところはどうでしたか?」
「ああ? 俺のところはたいしたことなかったぞ? 気が付いたら近所のじいさんとばあさんが消えていたがな」
「・・・・。消えていたって?」

 あまりにも簡単に言われたので聞き流しそうになったが、それは医師が言うべき台詞ではない。

「湧水樹の森の側で、人数分の靴が発見されただけだ」

 極めてなんでもない事のように言いつつ、煙草に火を点けて不味そうに一服する。
 彼にとっても食糧危機は非常な重荷なのだろう。
 そして、自分の吐き出した煙を目で追いながら更に。

「お前んところは平気だっただろうけどな、貧乏人のいる辺りは酷かったぞ。ヴォルフシュテインも孤児出身で貧困地区の生まれだったな」
「・・・・・ええ。あの時は食事に苦労していましたよ。使用人達がやつれていったのを良く覚えています」
「お前自身は?」
「おれは、多分恵まれていたんでしょうね」

 ついさっきの圧力など何かの間違いのように、視線をそらせてゴルネオが溜息をつく。
 電子精霊の故郷。
 多くの電子精霊によって都市が運営され、一度として飢饉で食べ物に困った事や、疫病が流行したなどと言う惨事を経験した事のない故郷。
 シュナイバルでは考えられない食糧危機が、グレンダン出身者の過去に暗く蟠っている事は分かった。
 誇りを持てずに戦いに明け暮れたレイフォンの事が、少しだけ分かったような気がする。
 実際には、体験していないので心の底から理解した事にはならないだろうが、それでも想像は出来る。
 だが思うのだ。
 今からでも遅くない。
 誇りを持てと。
 そんなニーナの考えとは関係なく、恐る恐るといった感じの声が質問を放つ。

「失礼ですが。先輩は?」
「俺か? ゴルネオ・ルッケンスだ」
「!!」

 少年の細い目が限界まで見開かれた。
 ゴルネオ個人とレイフォンの間にも、何かあるらしい事がその態度から分かった。
 そして、恐る恐ると唇から一人の人物の名がこぼれる。

「ガハルド・バレーンという人は?」
「兄弟子だ」

 片手で顔を覆いつつ溜息をつく少年は、酷く疲れているように見えた。
 その肩が落ち、老け込んでしまった少年の肩を医師が叩く。

「安心しろ。こいつはお人好しだから問答無用で襲いかかったりはしない」
「レイフォンもお人好しなんですよ。おまけに馬鹿だし」

 足元がおぼつかない少年がそう弁護する。
 その認識はニーナとは少し違うようにも思うのだが、それもレイフォンの一面なのかも知れない。
 そんな事を考えている間に、グレンダン出身者だけで話が進んでしまう。

「兎に角だ。俺のいる内にお前が死体になるところは見たくない」
「俺も死にたくはないですよ。闇討ちが通用する相手でもないですし」

 一連の会話が耳になじんだ。
 そしてニーナは、今日何度目か分からない驚愕に打ちのめされた。
 ゴルネオと言えば、五年生で小隊長を勤めている。
 それはつまり、ツェルニ最強の一角に他ならない。
 そのゴルネオが死体になると言う事は、非公式に汚染獣戦に出撃したというレイフォンの主張を裏付ける物に思える。

「うぅぅぅぅん?」
「ふぁぁぁぁぁ?」
「ひゅぅぅぅぅ?」

 ニーナのその緊迫した思考を妨げるように、間の抜けた声が三人分聞こえてきた。
 視線を向けるまでもなく、ベッドで三人が同時に目覚めたのだ。
 だが。

「ひゃ!」

 二人に挟まれていた黒髪の少女が、一瞬以上早く正気を取り戻してしまった。
 目を覚まして今の状況では流石に驚くだろう。
 狭いベッドに三人で寝かされていれば、ニーナだって身体が硬直するくらいには驚く。
 当然の反応として、大きな瞳が限界を超えて見開かれ。
 そして。

「うぅぅぅぅん」
「ふぁぁぁぁぁ」

 何を思ったのか、残り二人が寝返りを打ち、真ん中の少女の胸に手を置いた。
 さらに。

「ひっ!!」

 二人同時にその胸を揉みしだく。
 あまりにもあまりな現実に、黒髪の少女の硬直が激しさを増すのが分かった。
 呼吸さえ止まっているのかも知れないと思えるほどだ。

「とっても柔らかい」
「うん。柔らかくて良い気持ち」

 何を勘違いしたのか、揉みしだく手に情熱と力がこもる。
 ここで医師が一言。

「硬直していても柔らかいのか」
「あそこは筋肉無いですからね」

 呆然としつつも少年が相づちを打つ。
 止めなくて良いのかと思っている間にも、更に情熱的に揉みしだいていた二人の手が急激に停止。
 寝ぼけ眼だった瞳が焦点を結び、自分達が今何をしているのかを理解し始めたようだ。
 恐る恐ると顔を上げて自分達がどういう状況なのかを確認。

「どぉぁぁぁぁぁ」
「あわわわわわわ」

 慌ててベッドから飛び降りる。
 そして何故か二人そろって床に正座。

「「ごめんなさい!!」」

 異口同音に謝り倒す。
 床に額を打ち付けつつ何度も何度も。
 それを横目に医師が進み出て、未だに硬直している少女の鳩尾を軽く圧迫。
 実際に呼吸が止まっていたようだ。

「ひゅ」

 驚いたような声と共に呼吸を再開。
 慌てて上半身を起こして壁際に避難。
 両手で胸を庇いつつ涙目で二人を見つめる。

「「ごめんなさい!!」」

 更に謝り倒す二人だが。
 どう考えても被害者が納得するはずがない。

「うううううううう」

 更に恨めしげな視線が二人を突き刺す。
 このまま永遠に謝る以外に解決の方法はないと思われた瞬間。

「お前ら、俺の事が嫌いだな」

 何故か知っている人間全部から嫌われていると確信しているらしい医師が一言。
 三人の視線が医師を捉える。

「意識が戻ったんだったらとっとと出て行け! それともなにか? 人体実験希望か? ああ? ラブコメは俺の目の届かないところでやれ」

 その声に三人が周りを確認。
 ニーナ達の事を認識。

「し、失礼しましたぁぁぁぁ!!」

 台詞と共に少女二人を抱えたレイフォンが、廊下を疾走。
 瞬きをする間に見えなくなってしまった。
 病院の廊下を走ってはいけないという規則は、あっさりと無視して。

「僕は置いてけぼりですね」
「野郎の事なんかかまう男が何処にいる?」
「ごもっともです」

 どうやら男という生き物はそう言う習性があるらしい。
 だが、問題にしなければならない事はそこではないのだ。
 空気が弛緩しきっているが、それにかまっていられる余裕はニーナにはない。

「アルセイフの事を教えて欲しい。何が有ったのか」

 三人に頼み込む。
 入学式で見せたあの背筋が凍るような技の切れと、あまりにも豊富な実戦経験。
 どちらか片方でもニーナは得る事が出来ないかも知れないのだ。
 それを持っているレイフォンが欲しい。
 犯罪者だと言う事は間違いないが、どんな犯罪を犯したのかを知りたい。
 もしかしたら、許せるかも知れないから。
 
 
 
 完全に弛緩しきった空気をぶちこわしにしたニーナの質問を聞いて、溜息をつきそうになった。
 ウォリアスを置いて行ってしまったラブコメ三人衆は、この際見なかった事にして現状に対応しなければならない。
 図書館でウォリアスが探したグレンダン出身者。
 その中で最も会いたくなかったゴルネオといきなり遭遇していた事もそうだが、本人だと言う事に暫く気が付かなかった自分にも少し困ってしまった。
 そして、目の前では更に困った人物がこちらを見ている。

「知らんね」
「お前が知る必要はない」

 ある意味グレンダンの恥と言えるレイフォンの事を話したくない気持ちは分かるのだが、相手はニーナだ。
 ここで分からなければ本人に聞くだろう。
 それはつまり、またレイフォンが倒れると言う事になりかねない。
 どう判断するか、かなり難しいところだ。

「知ってどうするんですか? 予測しているとおりのことがあったとしたら?」

 探る視線を送る。
 ニーナの出方次第では今話す方が、傷が小さくて済むかも知れないから。

「第十七小隊にはアルセイフが必要だ。ツェルニにもな」

 当然と言えば当然の返事が返ってきた。
 だが、ニーナの言い方に少し引っかかりを覚える。

「小隊には入らなかったんですか?」

 武芸科に転科した以上、小隊に入るのは当然だと思っていたのだが、ニーナの台詞を聞いているとどうも違うような気がするのだ。
 思い返せば、小隊に入ったにもかかわらず発作を起こしたとしたら、何が有ったか完全に予測できない。
 だが、入らなかったならばある程度予測は出来てしまう。

「名誉や栄光に興味はない。誇りも志もないから、小隊には入れないと断られた」

 暗い表情でそう語るニーナは置いておくとして、ウォリアスが気になったのは少し違うところだ。
 何時もの癖で、少し小首をかしげて思考を進める。

「小隊に入らなかった? 転科には応じたのにか?」
「なぜだ?」

 テイル・サマーズと言う名札を付けた、どう下方修正しても三十代にしか見えない医師が、割と事情に詳しそうな事を言っているし、ゴルネオははっきりと不振を抱いている。
 おそらくでは有るのだが、カリアンがグレンダン出身者から情報を得るためにいろいろ聞いたのだろう。
 手始めに同じ歳のテイルに聞くというのは順当な判断だ。

「会長に逃げ道塞がれて転科はしたが、それ以上の協力はできねぇってか?」
「そんな甘い事が通用する物か」

 二人の予測をそれぞれ処理しつつ思考を続ける。
 レイフォンに誇りや志がない。
 レイフォン本人はそう思っているようだが、ウォリアスは少し認識が違う。

「何が有ったのですか? グレンダンで」

 再び話において行かれたニーナが、やや声を荒げる。
 それを眺めて、ふと思う。
 レイフォンは、ニーナの事が好きではないから断ったのではないかと。

「しらねぇっていっただろう」
「お前が知る必要はない」

 さっきと同じやりとりが繰り返される。
 このままでは埒があかないので、少し話して方向を変える。

「小隊に入れるのは良いとして、その後はどうするんですか? 誇りも志もないと公言しているレイフォンを」
「決まっている」

 堂々巡りになる事は避けられたようで、ニーナの注意がレイフォンからウォリアスに向く。
 入隊が決まったとしても、レイフォンが居心地の悪さを感じてしまえばそれは宝の持ち腐れになってしまう。
 あるいは、レイフォン一人が戦ってしまう事になりかねない。
 それは是非とも避けたいのだ。

「武芸者としての誇りと志を持たせる」
「・・・・・・」

 決まってしまった。
 胸を張って正々堂々と宣戦布告する様に言い切られて確信した。
 レイフォンはニーナの事が好きではないから、小隊には入らなかった。
 それがいけないと言うつもりはないが、もう少し大人的な断り方が出来ても良いのじゃないかと思う。
 わざわざ自分の過去を暴露するような事は、あまりにも賢くない。
 そして問題なのはレイフォンだけではない。

「それはつまり、貴方がレイフォンを導くと?」
「そうだ! 私があいつを導き立派な武芸者にする!」

 堂々と胸を張り間違った出発点から間違った途中経過を通り、間違った答えに辿り着いてしまっている。
 これは非常に問題だ。
 せめてレイフォンの目的を知らない事を願って、質問を重ねる。

「彼が何をしにツェルニに来たかは、ご存じですか?」
「ああ。武芸を捨てて一般人になるために来たと言っていた」

 レイフォンの志望を知っていて尚、ニーナは武芸者になる事を強要するのだ。
 何が有ったかを知らないからだろうが、それはかなり残酷な事だ。
 思わず溜息が出てしまうくらいに、問題だらけだ。

「話した方が良いと思いますが」
「ああ? ヴォルフシュテインについて詳しいのか?」
「公になっている情報と、事件直後の事情は」

 公の情報は簡単に手に入った。
 ガハルドがらみの事件の直後の事情も、潜入していた情報員からかなり詳しい事が伝わっている。
 恐らくテイルやゴルネオよりも詳しいのだろうと思う。

「まあ、あいつがこれ以上ここに担ぎ込まれる確率を減らせるんだったら」
「不本意だが」

 二人から了承を貰ったので、事件のあらましとその後について話す事にした。
 長い話になる事は間違いないので、病院の廊下で立ち話は好ましくない。
 練武勘まで戻り第十七小隊の訓練室で話す事が、すぐに決まった。
 非常に気が重いが、ニーナにレイフォンを理解して貰わなければならない。



[14064] 第二話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:49


 自分では決して走れない速度で病院を出たリーリンだったが、自分達の部屋が近付いている現状を何とかしなければならない。
 いくら元天剣授受者だと言っても、一般人を二人抱えて延々十分以上走り続けるのは流石にきついと思うのだ。
 と言うか、周りの視線がいい加減厳しい。
 少女二人を小脇に抱えた武芸者が、路面電車も使わずに都市内を走り回る。
 あまりにもシュールな光景過ぎる。

「レイフォン。そろそろ止まって」
「え? このまま送るよ?」
「・・。これは送るとは言わない。兎に角止まりなさい」
「もうすぐ家だけど、分かったよ」

 武芸馬鹿ではあると思っていたのだが、まさかこの状況を家まで送ると認識しているとは思わなかった。
 取り敢えず、地面が後ろに飛んで行く映像がかなり怖いので止まるように命令を出した。
 息一つ乱さず汗もかいていないレイフォンの腕からやっと解放され、一息を付く。

「って。何で平気そうなのよ?」
「何でって、そりゃ武芸者だから」

 当然と言えば当然の反応が返ってきたが、問題はそちらではない。
 足腰に力が入らないながらも、何とか自力で立ち上がったリーリンと違ってメイシェンはまだレイフォンに抱えられたままだ。

「メイシェン?」
「きゅぅ?」

 リーリンが声をかけても、現実を見ていないらしいメイシェンの視線がレイフォンを通り越して夜空を見つめたままだ。
 もしかしなくても、羽の生えた人が見えているのだろう。
 まあ、あんな事をいきなりされて平静でいられる人間は、そうそういるものでは無いが。
 やった側のリーリンだってかなり衝撃なのだ。
 そんなリーリンに変わって割と平気そうなレイフォンが声をかける。

「メイシェン。もうすぐ家だよ?」
「・・・・・? うち?」
「うん。ナルキは都市警の方の面接だろうけど、ミィフィはいると思うよ」
「ぃぃふぃ? られ?」

 焦点の合わない視線がレイフォンを通り過ぎて、生徒会本塔付近を捕らえている。
 と言うか、口元もゆるんできているような気がする。
 大変危険な状況だ。

「どうするのよ?」
「え、えっと? もう一度病院に?」
「・・・・・・・・・・・・・・。取り敢えず頭を冷やしましょう」

 病院に担ぎ込んで治るわけではない。
 もうこれは時間が解決するのを待つだけだ。
 そしてレイフォンが何か発見した様子で視線を向ける。

「あそこ、公園だね」
「都合良くあるものね」

 確かにレイフォンの視線の先にあるのは、小さいながらも公園だ。
 何故か見覚えが有るような気がするが、今は詮索している時間が惜しい。
 見つけた公園へメイシェンを運びベンチに寝かせる。
 手際よくハンカチを濡らしてきたレイフォンが、メイシェンの頭を持ち上げ自分の太股の上にのせる。

「・・・・・・。慣れてるわね」
「何度かこんな事があったからね」

 遠い目をして過去を振り返るレイフォンは良いのだが、何が有ったかは是非とも知っておきたい。
 だが、リーリンにはやるべき事があるのだ。
 レイフォンがいなくなった後グレンダンで何が有ったか。
 それを伝えなければならない。
 デルクからの預かり物を渡すかどうかは、もう少し時間をかけて結論を出したい。
 話の脈絡がないが、そんな物を待っていたのでは何時伝えられるか分からないのだ。

「リチャードから伝言があるわ」
「リチャード?」

 最も年が近く仲の良かった弟の名前を耳にして、レイフォンの表情がこわばる。
 きっと批難されるのだと決めているのだろう。
 そんな事はないとリーリンは知っているしリチャードにもそんな気は無いのだが、目の前の武芸馬鹿は予測していないのだ。

「悪事を働くなら、まず俺に相談しろ」

 その伝言を聞いたレイフォンの表情が一瞬怪訝な物になり、そして理解したのか破顔した。

「そうか。リチャードに相談すれば良かったのか」
「そうよ。レイフォン一人だけで悪戯したらすぐに分かったけれど、リチャードと一緒だと暫く分からなかったし」

 ゆっくりと自分の中にある思い出をたぐり寄せているのだろう。
 僅かに残っていた緊張がほぐれて行く。

「そうだったんだ。始めから僕は一人じゃなかったんだ」

 人から羨まれる武芸の才能を持った故に、たいがいの戦いにレイフォンは勝ってしまった。
 だから、一人で何とかしなければならないという視野狭窄状況が出来上がってしまったのだ。
 その結果、誰かに相談するという行為を思いつけなくなってしまった。
 ほんの少しだけ周りを見ていれば、ガハルドに脅迫された時にもまだ遅くなかったのだ。
 その時にリチャードに相談していれば、全ては変わっていた。
 今更言っても仕方が無いが、それでも、同じ過ちを繰り返さずに済む。

「それと」
「うん?」

 大きく息を吸い、そして言葉として吐き出す。

「貴方の支援を心より感謝します。多くの子供達が生き長らえる事が出来、そして高い教育を受ける事が出来ました」

 一気に言い切り、そして絶望した。

「ねえレイフォン?」
「な、なに?」
「貴方がお金送った孤児院からの感謝の言葉よ?」
「そ、そうなんだ?」

 何言ってるんだこいつみたいな表情のレイフォンを見て、さすがのリーリンもあきれ果てた。
 話の流れから、これも伝言である事が分かりそうなものだが、全く理解していなかったのだ。
 このままでは駄目だ。
 せめて人並みに頭を使えるようにならなければ、この先どれだけはた迷惑な事をするか分からない。

「レイフォン。ウォリアスにしっかりと頭の使い方教わりなさい」
「うん。・・・。そう言えばウォリアス置いて来ちゃった」
「・・・・・・。明日謝りましょう」

 状況が状況だけにすっかり忘れていたのだ。
 そして再びリーリンは絶望してしまった。

「何で落ち込んでいるの?」
「うん」

 言ってすぐに思いついた。
 リチャードに相談するという、天剣になる前なら当たり前だった選択肢を思いつけなかった事に、自分を責めているのだろう。

「あんまり自分を責めないでよ? 姉さんや兄さん達は貴方の事馬鹿だとは思っているけれど、批難はしていないわ」
「馬鹿だとは思っているんだ」
「思わない方がどうかしている」

 とことん馬鹿だからこそリーリンはレイフォンに逢いたいと思い、ここまで来たのだ。
 自慢にはならないが卑下する必要もない。

「良かった。僕がやった事が全て間違いじゃなかったんだ」
「ええ。間違った方法だったけれどね」

 調子に乗らせてはいけないのだ。
 時々こうやって批難しておかないと危ないくらいには、徹底的に馬鹿だ。

「じゃあ、帰ろうか」

 いつの間にかメイシェンの頭を撫でていたレイフォンが、ゆっくりと立ち上がる。

「うん」

 いつの間にか復活していたメイシェンも立ち上がる。
 ここでふと思う。
 メイシェンの胸を揉んだレイフォンが、何故衝撃を受けていないのだろうかと。
 考えて、止めた。
 とても恐ろしい風景しか思いつけなかったから。
 そして気が付いてしまった。
 今いる公園は寮のすぐ目の前にあると。
 道を一本挟んだ玄関までおおよそ十五メルトル。
 レイフォンは人間二人を小脇に抱えたまま、本当に送って行くつもりだったのだ。
 以上の事を認識したリーリンは。

「すぐ側だから平気よ?  明日から授業だからレイフォンもとっとと寝なさいね」
「う、うん」

 そう言うリーリンの中から破壊衝動が溢れ出しそうになるのを、必死に押さえる。
 何か感じたのだろう。
 レイフォンの表情がこわばりメイシェンの身体が縮こまる。

「そ、それじゃああした」

 棒読みのレイフォンの後ろ姿が夜の闇に消える。
 すでに寮は見えている。
 ここから帰って襲われる事もない。
 ならばやるべき事は一つ。

「レイフォン。肩の力が抜けたね」
「・・・・・。そうね」

 リーリンが何か言うよりも早いメイシェンの一言で、少し落ち込んだ。
 どんな事がヨルテムで有ったか聞くことばかり考えていて、レイフォンの後ろ姿をしっかりと見ていなかった。
 だが思うのだ。
 どうしてこうも大事なところで色々と余計な邪魔が入るのだろうかと。
 女性として見られていなかった事もそうだし、病院での事もそうだ。
 もしかして呪われているのはリーリンの方かも知れない。

「そう言えば」
「なに?」

 三人部屋に四人で住んでしまっている寮の建物に入る頃になって、非常な違和感を感じる。

「私って、どうしてメイ達と一緒に住んでいるんだろう?」
「あ、あう?」

 メイシェンにも答えが分からないようだ。
 きっと、誰にも分からない。
 とは言え、このまま六年間というわけには流石に行かない。
 折を見て引っ越そうと決意したリーリンは、エレベーターの呼び出しボタンを押した。
 
 
 
 結局のところ、レイフォンの十年少々の人生のあらましを語ってしまった。
 天剣授受者についてはかなり減量した情報を伝えたが、ニーナにはそれで十分だろうしそもそも信じてくれるとは思えない。
 第十七小隊の訓練場にいるのはウォリアスを始めとした、ある意味そうそうたる人物だ。
 生徒会長のカリアンがベンチに座り、真摯な表情で話を聞いている。
 その隣で壁にもたれかかったヴァンゼも歯痛をこらえる表情になっている。
 テイルとゴルネオのグレンダンコンビも壁により掛かり驚きの表情をしている。
 そして問題なのはニーナだ。
 理解できないと言った表情なのは良いだろう。
 そもそも、仕草に気品のような物が滲み出ている以上、かなり裕福なところの出なのだろう事が分かる。
 食べるのに困った事がない以上、レイフォンの気持ちをきちんと理解する事は出来ない。
 ウォリアス自身も飢えた事がないから正確な気持ちは分からない。
 それでも、それに近い状況は経験している。
 その経験がこんなところで役に立つとは思わなかったが、まあ、それは良いだろう。
 問題なのは、ニーナの認識が恐らく全く的外れだと言う事だ。

「つまりですね。守ろうとした人達に批難されたからグレンダンを出たんですよ。追放処分は関係ないです」

 話がガハルドとの試合後に至ると、全員の視線が厳しい物になっていた。
 ゴルネオにとっては、兄弟子が天剣授受者を脅迫したと言う事が信じられないだろうし、テイルは何故レイフォンがグレンダンを出たのか理解してうなっている。
 カリアンは苦虫をかみつぶしたような表情になっているが、これは恐らくレイフォンを守銭奴だと認識していた事に起因しているだろう。
 ヴァンゼに至っては、はっきりと嫌そうな顔をしている。
 深く物を考える以前に、都市に暮らす武芸者の禁忌をあっさりと破るような人物がやって来たのだ。
 当然面白いはずがない。
 だが、それもニーナの理解不能よりはまだ良い。

「何故もっと考えなかった? 子供達の心や希望を守れたはずなのに?」

 そう言うのだ。
 予測した通りにニーナの認識は、明らかに問題だ。
 何故ならレイフォンの持つ価値観とは相容れない種類の物だからだ。
 例えば、もし、今のニーナの言葉をレイフォンが聞いたのならばこう言うだろう。
 死んでしまっては意味がない。
 死がすぐそこで量産されていたからこそ、レイフォンはみんなが死なないように戦ったのだ。
 それを批判する事はウォリアスには出来ない。
 とは言え、食糧危機はとうの昔に終演していた。
 財政難はあっても飢え死にすることはなかったはずだ。
 ある意味無駄な事をやったとも思えるのだが、もしかしたらウォリアスの知らない事情がグレンダンにはあるのかも知れない。
 安易に批判すべきではない。
 それよりも何よりも。

「そもそも、武芸者としてやって行くつもりならば、傭兵なんかやっていれば左うちわなんですよ。それをわざわざツェルニに来たんですから」

 ここに来た目的を全員に知って欲しいのだ。
 武芸以外の方法で生きて行く事を選びたかったのだと。
 だから、あえて話した。
 凄まじい速度で寮に帰還していたレイフォンにも許可を取った。
 あまり乗り気ではなかったが、ニーナに事情を聞かれ続けるのとどちらが良いかと質問したら、あっさりとウォリアスが話す事を承諾してくれたのだ。
 もちろん、本人の体験談ではないのでいくつも憶測がある。
 それは始めに断った。
 不審な事があるのならば、レイフォンに直接聞くなとも念を押した。
 また倒れる事が容易に想像できたからだ。
 まあ、ここまで話せばたいがいの人は慎重に行動してくれるだろうと思う。
 そして実は、ここからが問題なのだ。

「っと、ここまでは一年前の情報です」

 グレンダンでの事はおおかた話し終えた。
 問題なのはヨルテムに着いてからの事だ。
 この一年でレイフォンは大きく変わっている。
 ヨルテムでの事はウォリアスも詳しくは知らないが、ある意味悪事を働く大人達が、レイフォンのそばにいた事は分かっている。
 その大人達から、多大な影響を受けただろう事も予測しているのだが、どんな影響を受けた釜では分からない。
 だが、確実にレイフォンは変わっているのだ。
 ある意味天下無双なだけで突っ走ってきていた人間が、多少なりとは言え頭を使う事を覚えたし。

「一年前のレイフォンが武芸をすると言う事は、子供達の批難の視線に直面し続ける事と同じだったでしょう」

 実際にそこまで引きずるかと聞かれると、恐らく引きずると答える。
 ならば今はどうか?

「ヨルテムで何が有ったかは僕も良く分かりませんが、それでも前向きにはなっているのだと思います」

 錬金鋼を二本常に持ち歩いている。
 ナルキとその弟に鍛錬を施している。
 それは、立ち直り新たな目標を見つけたと思ってさほどの間違いはない。

「つまり。レイフォン君は武芸者としてやって行くかどうか迷っていると」
「そうなりますね」

 カリアンの質問に答えつつウォリアスは思う。
 多分、迷っているのではない。
 何のために戦うか?
 何のために武芸者でいるか?
 それを見つけていないのだと。
 残念な事に、本人がまだ気が付いていないのだ。
 自分が何をやっているかと言う事と、その意味を。
 本当にレイフォンの頭の中には、脳細胞が入っていないのではないかと疑ってしまうくらいに、直感でしか物を判断できていない。

「では、武芸者になる意味というのは?」

 今度の質問はヴァンゼからだった。
 ナルキも同じような事を言っていたが、実はこれについてはウォリアスも良く分からない。
 なので、ゴルネオの方を見る。

「・・・・・・・・・・・・。経験が豊富だ。その経験を俺達に伝えるという意味だと思うが」

 余り自信がないようで、少し間があった。
 これは本人に確認した方が良いだろうと思う。
 経験を伝えるだけでナルキがあんなに激高するとは思えないから。

「できれば、やはり第十七小隊に入って貰いたいのだがね?」
「難しいですね」

 カリアンの呟きに応じつつも、ニーナの事が好きではないらしいレイフォンが、大人しく入るかどうかはかなり微妙だ。
 だがふと思う。
 本当に誇りや志がないから小隊入りを拒否したのだとしたら。
 そちらの方が説得に苦労する事は疑いない。

「少し話してみますが、余り期待はしないで下さいよ? 二週間前にはレイフォンの事なんか殆ど知らなかったんですから」

 念を押しておく。
 失敗しても恨むなと。
 最後にニーナを見る。
 残念な事に、余りにも違う世界の話だった事もあり、上手く理解が追いついていないようだ。
 これは時間をかけてゆっくりと自分なりに考えて貰うしかない。
 そして、ウォリアスが腰を上げようかとした時。

「聞きたいのだが。ガハルドさんは本当に脅迫を?」

 その身体からは想像できないほど小さな声の質問に、ウォリアスは申し訳なくなってしまった。
 別段責任があるわけではないのだが。

「前後の事情から考えても間違いないかと」

 脅していなければ、試合終了後にレイフォンを告発する必要はない。
 そもそも、再起不能の大怪我をする必要もなかった。
 そうは思うのだが、ゴルネオの気持ちも分かってしまうのだ。
 今まで信じてきた人に裏切られると言う事は、かなりきつい体験だ。
 ガハルドもレイフォンも、この一点においては同罪だ。
 その背景に違う物があったとしても。

「取り敢えず今日はここまで。最後にもう一度。不用意に昔の事をレイフォンに聞かないように。発作を起こしたらやっかいですから」

 レノスを一人で撃破したリンテンスとさほど変わらない実力を持っているはずのレイフォン。
 そのレイフォンがトラウマの一つで戦闘不能になる。
 兵器としては未完成も良いところだろうが、このくらいで良いのかも知れない。
 
 
 
 ウォリアスの話を聞き終えたゴルネオは、明かり一つついていない自分の部屋のソファーに座り込み、考え込んでしまっていた。
 兄であるサヴァリスは戦いの事しか考えておらず、ゴルネオなどほったらかしだった、
 名門ルッケンス家に生まれながら、兄と比較され常に劣等感を抱いて過ごしたゴルネオが何とかまっとうに育ったのは、ガハルドがいてくれたからだ。
 ガハルドが稽古をつけ心構えを説いてくれなければ、いつかどこかで取り返しのつかない事になっていたに違いない。
 この意味でゴルネオは幸運だったしレイフォンは不幸だった。
 もし、ガハルドのような人がレイフォンのそばにいたのならば、追放されることなく今もグレンダンで栄光の座に座り続けたに違いない。
 だが、そのガハルドがあろう事か天剣授受者を脅した。
 負けなければ秘密をばらすと。
 ガハルドの身に何か致命的な事があったに違いない。
 そうでなければ天剣を脅迫するという行為など、考えられない。

「はあ」

 制服を脱ぐ気力もなく、ソファーに座ったまま大きなため息をつく。
 病院で電源を落としたままだった携帯端末も、そのままソファーの上に投げ出してしまった。
 いろいろな事がありすぎた。
 レイフォンが倒れてからこちら、今まで知らなかった事が次々と明らかになった。
 食糧危機があった事は覚えているが、それがどれほど凄まじい物だったかは今日まで知らなかった。
 その地獄を生き抜いたために、レイフォンが強くなった事がすぐに分かった。
 もし、レイフォンが体験した地獄にゴルネオが放り込まれたとしたのならば、きっと無事ではいられない。
 致命的に人格がゆがんでしまうか、それとも犯罪に手を染めてどこかでのたれ死んでいるかのどちらかだ。
 そんな世界で生きてきたのだ。多少人と違った価値観や思考を持ったとしても何の不思議もない。
 もっとも、レイフォンが何かするよりも早く食料生産プラントは修復され、飢饉は去ったのだが。
 それでも幼い心に残った傷は大きかったに違いない。
 だからこそ金に執着して闇の賭け試合に出て、今このツェルニにいるのだ。
 ゴルネオ自身が恵まれた人生だったのは間違いないと思うのだが、それでもレイフォンの事を許せるかと聞かれれば、とても許す事は出来ない。
 ガハルドに裏切られたような気もするのだが、それでもゴルネオにとってもっとも大事な人だったのだ。
 その人を傷つけられて黙って居られるとしたら、それは器が大きいのでも慣用なのでもない。
 きっとそれは無関心なのだ。
 そしてゴルネオは、多くの事柄に対して無関心ではいられない。
 だが、ツェルニにはレイフォンが必要だ。
 最前線の戦力として計算しているわけではない。
 レイフォンがいる事によってツェルニの武芸者は、目標とする存在を得られるのだ。
 目標に向かって前進する事は難しくない。
 だからこそレイフォンが必要なのだ。
 だが、ゴルネオの心情的に許す事は出来ない。
 ならばどうしたらよいのだろうか?

「はあ」

 二度目のため息をついてしまった。
 どうしたらよいか全く分からないのだ。
 もしこれで、戦って勝つ事が出来るのならば、全身全霊を懸けてそれこそ命がけで戦う事も出来る。
 だがどう考えても勝つ事は出来ない。
 ならばどうしたらよいのだろうか?
 ゴルネオが更に考え込もうとした瞬間、部屋の扉が控えめにノックされた。

「今行く」

 すでにかなり遅い時間になっているにもかかわらず、部屋にやってくる可能性のある人間のリストを頭の隅で作りつつ、ゴルネオはおかしな想像をしてしまった。
 もしかしたらレイフォンは、狼の皮を被った羊なのではないかと。
 誰から聞いたかは覚えていないが、羊は限度を知らずに突っ走ってしまう生き物らしい。
 食糧危機の時の悲劇を引きずったままだったレイフォンは、限度という物を知らずに全速力で目標のみを見て走ってしまったのではないかと。

「いや。違うな」

 狼の皮を被った羊ではなく、狼になりきれなかった羊なのではないかと、そう思ってしまった。
 もし、天剣になるほどの凄まじい才能を持たなければ、きっとレイフォンは穏やかに幸福に暮らせたはずだ。
 そんな埒もない想像が浮かんだゴルネオは、扉をゆっくりと開けた。



[14064] 第二話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:50


 やや身長が低く体重の大きいエド・ドロンは、割とよく食べる。
 昼食前ではあるのだが、チョコレート菓子を手に持ってやおら立ち上がった。
 今日は午前中だけで授業は終わりだし、のんびりと昼食を食べつつチョコレートをつまんで、午後をゆっくりと過ごそうと思ったのだ。
 そのための準備としてトイレに行こうとしたエドだったが、いきなり生命の危機が到来した事を理解してしまった。
 それは何故かと聞かれたのならば、話は簡単だ。

「ひ、ひぃぃぃぃ!」

 先日行われた入学式で派手な学園デビューをした武芸科のレイフォンが、開けた扉の向こうで腰を抜かし涙を流し、恐れおののいているからに他ならない。
 それはつまりツェルニが今日滅ぶという意味に他ならないように思える。

「え?」

 それはもうあり得ない光景だったので一瞬呆然としてしまった。
 だが、その一瞬が生死を分けた。
 何を思ったのか、いきなりレイフォンがエドにしがみついてきたのだ。
 決定的に、もうエドにはどうしようもない事態に巻き込まれた事を意味する。

「た、たすけて」
「え?」

 一般教養科から転科した武芸者が、一般人に助けを求めている。
 それはもう驚きを通り越してあり得ない事実なのだが。
 それも無理はない。

「ミィフィ。ソード」

 瞳が紅く燃え上がった隣のクラスの超弩級美少女が仁王立ちしていた。
 そして、同じクラスのミィフィが恭しく鞘に入ったままの長大な刀を渡す。
 それをゆっくりと引き抜きつつ超弩級美少女の視線はレイフォンだけを見据える。
 それはもう、これで殺すという意思表示。
 その刀は根本の付近で急角度に曲がり、鋼の輝きを持った凶器。
 どう考えても普通の少女が持てるはずのない物だが、それを軽々と操っている。
 そして、向けられているレイフォンは。

「た、たすけて」

 なんとエドの後ろに隠れてしまったのだ。
 その結果、エドは標的までの障害物となってしまった。
 紅く燃える瞳はエドを認識しているが、路傍の小石を見ているほどにも興味がないのだ。
 それはつまり、レイフォンの前にエドが殺される事を意味している。
 あるいは串刺しで同時に人生を終えるかのどちらかだ。

(ああ。でもこれは悪くない)

 エドは思うのだ。
 これほどの美少女に殺されると言う事は、ある意味で幸せな最後だ。
 持てない事にかけては定評のあるエドだけに、最後とはいえこの展開は悪くないと思える。
 思わずレイフォンを庇うようなまねをしてしまうくらいに、悪くないと思っていた。

(い、いや。待て俺)

 だが、すぐに考えを改める。
 それは何故かと問われるのならば。

(こんなモテ男と一緒に殺されるのは、俺のプライドが許さないんじゃないか?)

 モテ類モテ科モテ男であるレイフォンと一緒に殺されるのでは、恐らくレイフォンの方ばかりが目立ってしまうだろう。
 それではエドが忘れ去られてしまうかも知れない。
 レイフォンの遺影の前に飾られる花束の数々に比べて、エドには遺影さえないかも知れない。
 それは断じて許容できない。

(考えろ俺! 何とかこの場を乗り切って生き残るんだ)

 レイフォンよりもかなり優秀な頭脳がこの時猛烈な勢いで回転。
 そして自分が今持っている物が何かを思い出した。
 恐る恐ると、最小限の刺激でチョコレートを差し出す。
 全く意味のない無機物を見るような視線がエドを捉えるが、それに何とか耐える。

「ど、どうぞお納め下さい」

 後ろの方で安堵の雰囲気が生まれるが、エドには全く関係のない事だ。
 そう。目の前の少女の殺意が降り注いでいる事に比べれば。
 その視線はすでに無機物を見る物ではなくなっている。
 はっきりと敵を殲滅するものに変わっているのだ。

「邪魔をするの?」
「とんでも御座いません」

 切っ先がエドに向けられそうになったので、慌ててひれ伏して攻撃を避ける。
 その瞬間レイフォンが剥き出しになったが、すぐに同じようにひれ伏してしまう。
 呆然としている内に刺されればいいのに。

「怒るにせよ殺すにせよ、エネルギーは必要でしょう。これをお召し上がりになって英気を養って頂きたいと」

 猛烈な敬語の連続になっているが、この危機を乗り越える事が出来るのであれば許容できる。
 そして、エドの主張の正しさを認識したのか、少女の手がゆっくりと伸びてきてチョコレートを一つつまんで行く。
 本来愛らしいはずの唇が開かれ、巨大な犬歯を併せ持った口腔へと消える。
 ゆっくりとチョコレートが口の中で転がされるのが分かる。
 アーモンドを砕いてビターチョコで固めたそれは、エドのお気に入りなのだが今はそれだけが命をつなげる希望だ。
 ドキドキとして表情を窺っていると、表情は全く変わらず手だけが伸びてきて二つ目をつまんで行く。
 それが三つ目、四つ目となるにつれて、段々と雰囲気が穏やかになって行くのが分かった。
 これは行けるかも知れない。
 だが、安心するのはエドが助かった後で良い。
 もしかしたら、本当にエネルギーを補給して本格的に暴れてしまうかも知れない。
 そうなったら目の前にいるエドが生きていられるはずはないのだ。

「美味しい」

 だが、何とかチョコレートを気に入ってくれたのか、瞳の色が水色に戻って行く。
 一箱殆どが消費されたが、それで命が買えたのだったら激安だ。

「「た、たすかった」」

 思わずレイフォンと抱き合って生きている喜びを謳歌してしまった。
 すぐに自分の状況を理解して離れたけれど、記憶は残ってしまっているし。

「にひひひひひひひ」

 不気味に笑うミィフィがカメラを掲げている。
 当然今の一シーンは取られたのだろう。
 まあ、死ぬよりはだいぶましだと思う事にする。
 そんな非日常の教室に日常的な声が響く。

「終わった?」

 エドがそうして安心しているところにかかったのは、始めて見る細目で黒髪の少年。
 なにやらつまみつつ微笑んでいるところを見ると、ずっと見ていたに違いない。
 見ていないで止めろと言いたいところだが、エドが逆の立場だったら間違いなく高みの見物を決め込んだ。
 当然、絶対に巻き込まれない距離から。
 今はチョコレートを頬張っている少女の迫力は尋常な物ではなかったのだ。
 そしてその細目の少年は何の躊躇もなく超弩級美少女に歩み寄り、あっさりと凶暴な刀を取り上げてしまった。
 別段抵抗する事もなくチョコレートを食べて幸せに包まれる美少女。
 それを認識しているのかいないのか、しげしげと刀を調べる細目の少年が、何かに驚いたように少しだけ瞳が大きくなる。

「流通君村正?」

 刀の根本の付近を見つめつつ不思議な発音で何か言ってのけた。
 刀の名前なのかも知れないが、不思議なイントネーションだった。

「にひひひひひ。流石ウッチンだねぇ」
「それは良いんだけれど、どっから持ってきたこれ?」

 ウッチンと呼ばれた少年がミィフィに聞いているが、何故ミィフィが持ってきたと分かったかが疑問だ。
 だが、ウッチンのその予測は正しかったようでミィフィが不気味な笑いと共に答えている。

「にひひひひひ。週間ルックンの倉庫にあった」
「何で刀なんかあるんだよ?」
「なんでも、ルックンに代々伝わる名刀だとか」
「おいおい」

 どうやらミィフィの職場にはこんな恐ろしい物がゴロゴロあるようだ。
 出来るだけ近付かない方が賢明かも知れない。

「まあいいや。それよりレイフォン。少し話があるんだけれど」
「え? えっと。お昼は?」
「・・・・・・。良く食えるな」

 最後に言ったのはエドだ。
 あれほどの恐怖体験をしているというのに、すぐその後に食事が出来るなんて驚きだ。
 まあ、緊張が解けたせいで空腹を感じるのは時間の問題だろうが。

「一緒に食べる?」
「おれか?」

 突然、いきなりの提案で思考が止まる。
 レイフォンのせいでチョコレートが無くなったと言えない事はないだろうが、一緒に昼食と言う事はかなり微妙な話だ。
 何故ならそれは。

「まあ、ウッチンの話があるから余りおすすめは出来ないが」

 ナルキがなにやら恐る恐ると少女に近付く。
 もちろんレイフォンとの間に入らないように細心の注意を払っているのだ。

「込み入った話なんだけれど」

 どうやらエドは余り歓迎されないようだ。
 歓迎されても困るのだ。
 なぜならば。

「ご、ご飯にしよう」

 メイシェンがおそるおそるとお菓子を差し出しつつ、未だに幸せに包まれている少女に提案する。
 そう。レイフォンの提案を受けると、女の子四人と食事をしなければならない。
 今は幸せに包まれているが、何時またバーサーカーモードになるか分からない少女と一緒にだ。
 それは余りありがたくない。
 しかも、何時レイフォンに盾にされるか分からないのだ。

「俺は他で予定があるから、遠慮するよ」
「そうなんだ。じゃあ、また今度ね」
「ああ」

 こうしてエドの恐怖体験は終了した。
 だが、また再び同じ事が訪れないとは誰にも言えない。
 いや。レイフォンが近くにいる以上、これから何度も同じ目に合う事は間違いない。
 ツェルニに来た事を少し後悔し始めたエドだった。
 
 
 
 当然のことではあるのだが、ウォリアスはミィフィが用意してリーリンが握っていた刀を確保している。
 何時また暴走するか分からない人間に、凶器を持たせるのは大変危険だからだ。
 それに、真面目な話を先に片付けなければならないのも、また事実。
 なぜリーリンが暴走状態になったかを知りたいという欲求はあるのだが、血の涙を飲んでそれを押しとどめる。

「でだが」
「うんうん」

 何時ものメンバーで食事を取り始めるのは良い。
 いつの間にかリーリンが完全に元に戻っているのは喜ばしいことだ。
 メイシェンとリーリンとレイフォンが作った料理の数々が、テーブル狭しと展開されているのも良いだろう。
 どこから嗅ぎつけてきたか不明だが、シャーニッドも一緒に食べているのも、まあ許容範囲内だ。
 なので話を始める。

「第十七小隊に入って貰いたいんだそうだ」
「ふぇ?」

 全く予想もしていない事態が起きたとばかりに、呆然としつつ辺りを見回すレイフォン。
 はっきり断ったのにウォリアスを通じて依頼してきたことが非常に驚きなのかも知れない。
 ニーナが嫌いだから入りたくないとはっきり言っていれば、そこで話は終わりだったのかも知れないが、取り敢えず予定通りに進める。

「第十七小隊の現状は知っていたよな?」
「頭数が足らない」
「そ。そこでお前さんが是非とも欲しいんだそうだ」

 言ったは良いが、話が難航することはわかりきっていた。
 だが、事態はウォリアスでさえ予測も出来ない展開へと進んでしまった。

「名誉も栄光も興味はないし、誇りも志も持っていないから入れないって言ったのに?」
「・・・・・・。本心だったのか」

 これは予測していた中で一番くだらない展開だ。
 まあ、ニーナが嫌いだから入らないと言われるよりは、ずいぶんと建設的ではあるのだが、それでも余りにも馬鹿げた展開ではある。

「誇りは兎も角、志なら有るだろう?」
「え? そんな物生まれた時から持ってないけど?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。良く分かった」

 レイフォンと言う人物が良く理解できた。
 溜息をついて辺りを見回して絶望したくなった。
 ここにいる全員が悲壮な表情でレイフォンを見ているのだ。
 それはつまり、レイフォンが志を持っていないと確信してしまっている証拠だ。
 理解が足らなかったとしか言いようがない事態に、再び溜息を付き話を進める。

「ナルキとその弟に武芸の手ほどきをしているんだろ?」
「うん。出来ればナルキ達に死んで欲しくないから」
「でさ。知っている人間がツェルニの滅びに巻き込まれるのが嫌で、武芸科に転科したんだよな?」
「うん。知らない人が死んでも寝覚めが悪くなるだけだけど、知っている人はかなりショックだから」
「でだな。そうやって何かの目標に向かって進もうとする気持ちを志というのだよ」
「え?」

 当然のことなのかも知れないが、ここに居合わせた全員から驚きの波動が伝わってくる。
 辞書をかるく引けば言葉の意味はすぐに分かるし、他の人が使っているのを見ていればおおよそ理解できると思うのだが、もしかしたらウォリアスの常識とは違うのかも知れない。
 そもそも、グレンダンでレイフォンが武芸を始めて八歳で汚染獣戦に出撃するようになったのも、孤児院を何とかしたいと志した事に始まっているのだ。
 言い方は変だが、レイフォンは始めから志を持って戦っていたのだ。
 そして、一時それを無くしてしまったが、今は十分に持っている。

「えっと。みんなが志とか誇りとかって偉そうに言っているから、もっと凄いのじゃないと、そう言わないのかと」
「ああ。そういう風に考えたのね」

 振り返って考えてみれば、レイフォンの身近にいた大人達は、かなり凄い人達ばかりだった。
 天剣授受者に立派な人は少ないようだが、それを統べる女王はそれなり以上の人物のはずだ。
 そんな女傑が身近にいたのでは、そう考えてしまうのも仕方が無いかも知れない。

「肉料理にたとえようか?」
「えっと。お願いします」

 他の人に分かるように、分かりやすく誤解の無いような例えと言えば、余り選択肢がない。

「これは何?」

 三人の力作揃いの中にあって、やや火を入れすぎて堅くなった豚肉を焼いた物を指し示す。

「えっと。僕が作った豚肉のソテー。少し失敗」

 当然のようにレイフォンが作ったと自白。

「では、こっちは?」

 時間が経ってから食べることを考慮し、味付けや火の通り方も完璧と言える豚肉の焼いた物を指し示す。

「私の作った照り焼き」

 こちらもリーリンが答える。
 豚肉の照り焼きというのは珍しいが、美味しいので良しとしようと結論を付ける。

「同じ豚肉の料理だけど、人によってその出来映えが違うでしょう?」
「ああ。豚肉を焼くのが志で、失敗したのが僕なんだ」
「たわけ!」

 余りのことにやや声が大きくなってしまった。
 内罰的というか、後ろ向きというか、悪い特色を遺憾なく発揮したレイフォンに少し怒りを感じる。

「美味しいかどうかなど食べる人間次第だ。そう言うことを言いたいんじゃないの」

 はっきり言ってしまうと、リーリンの作った物よりもレイフォンの作った物の方が、ウォリアス的には好きなのだ。
 歯ごたえがないと少し寂しいと思うのは、間違った感想なのだろうかと少し考えるくらいに。

「ああ。つまりだな」

 言葉に詰まる。
 この先どうしたらいいか分からないのだ。

「つまりだな。どちらが上とか下じゃなくて、まとめて肉料理なんだよ」

 考え込んでいたシャーニッドが横から口を出したが、まさにウォリアスはそう言いたかったのだ。

「肉料理には違いないけど」

 納得していない様子でレイフォンが首をかしげる。

「食べる人間が評価するけれど、肉料理には関係がないだろ?」
「それはまあ。食べられることに変わりはないですけれど」

 シャーニッドも必死に言葉を探しているのだが、やはりレイフォンは強敵だった。

「ああ。えっとな」

 シャーニッドに助けを求められてしまった。
 ウォリアスにしても今この場ではこれ以上どうしようもないので、先送りすることにした。

「じっくり時間をかけてその辺説明するから、今は志は持っていることを知ってくれればいいよ」
「うん。持っていたんだねそんな物」

 さほど興味がないのか、あっさりと流されてしまった。
 思わず殺意がわいてくるような気軽さでだ。
 本当に興味がないようだ。

「で、話を続けるけど」

 レイフォンに一般常識を教えることがとても大変なことが、理解できただけでも十分な収穫だと思うことにして、話を進める。

「入らない?」
「うぅぅぅん? 入らない方が良いかなって思っているんだけれど」
「アントーク先輩が好きではないから?」
「へ? 何で先輩のことが嫌いだと思ったの?」

 心底驚いた表情でウォリアスを見るレイフォンで確信が持てた。
 志云々は別にしても、何か理由があって小隊入りを断ったのだと。

「いやね。自分の意見を人に押しつけるから嫌いなんじゃないかと」
「別にそんなこと無いけど?」
「そ、そうなんだ」
「僕の周りには唯我独尊な人も多かったけれど、人に自分の基準を押しつける人も多かったから」
「良くそんな難しい言葉知ってたなと言うのは置いておいて、それならアントーク先輩にも免疫があるのか」

 少しレイフォンの人物像に修正を加えつつ、ウォリアスは理解していた。
 ウォリアス自身がニーナのことを好きではないから、レイフォンもそうだろうと思っていたことを。

「若さ故の過ちと言うやつかね?」

 呟きつつも、視線を感じていた。
 全員からの疑問の視線だ。
 何故レイフォンがニーナのことを好きではないと思ったのかを聞きたいのだろう。

「ああ。僕はウォリアス・ハーリスというフィルターを通してしか世界を認識できないんだよ」

 核心を言ったが、残念なことに誰も理解してくれていない。
 まあ、いきなりこんなことを言って理解できる人間の方が珍しいだろう。

「僕が余りアントーク先輩のことが好きではないから、レイフォンもそうだろうと思っていたんだ」
「・・・? どうして? ウォリアスの好き嫌いが僕に影響するの?」」
「い、いや。どうしてって」

 真剣に分からないと言った表情で、レイフォンに見つめられてしまった。
 ニーナの事がなぜ好きではないかと聞かれなかったのは、個人的な事情に深入りしたくなかったのか、はたまたフィルターがどうのと言う方に焦点が行っているからだろう。
 ここでまた例えを出してみて理解できるかと思って考え。

「シャーニッド先輩がさ、男の子と手をつないでいたらどう思う?」

 いきなり例えになったせいもあるだろうし、シャーニッドに標的が移ったせいもあるだろうが、呆然とする一同。

「ミィフィだったら、翌週の週間ルックンはシャーニッド先輩のヤオイ疑惑で一杯だろうし、レイフォンだったら仲が良いんだな程度でしょう?」

 二人の方を見てしきりに頷いているのを確認。
 今回は余り外れなかったようだ。

「それがフィルターを通すと言う事。同じ現象を見ても人それぞれの反応があるんだよ」

 これ以上噛み砕いた説明は出来ないので、この辺で納得して欲しい。

「ああ。前にトマスさんが言いたかったのはそう言うことだったんだ」

 納得してくれたようで、手を打って喜ぶレイフォンとその他の皆様。
 その辺の認識が、かなりたりていないようだ。

「はあ」

 大きく溜息をつき姿勢を立て直す。
 非常に疲れているがやらねばならないのだ。

「それで、小隊に入らない方が良い理由って?」
「・・・。うん。出来ればナルキとシャーニッド先輩だけに」

 一般人を避けたその一言で、ウォリアスはかなり重い話になることが予測できてしまった。

「じゃあ、食事が終わってからね」

 その後、何の波乱もなく食事は終わった。
 この後に問題が有ることは間違いないので、楽しむことは出来なかったが。
 
 
 
 昼食が終了して、少し離れた場所で内緒話しをしている四人を眺めつつ、リーリンは驚いていた。
 デルクは誇り高い武芸者だった。
 その誇りが邪魔をして孤児院の経営が上手く行かなかったとは言え、それでも立派な人だと思っている。
 だが、レイフォンはその誇りを持っていないと言い切っているのだ。
 本人が知らないだけかも知れないし、認めたくないだけかも知れないが、今の状況はあまり良い物だとは思えないし、やはりレイフォンには大切な何かが欠けてしまっているのだと理解させられた。
 ならば、デルクから託された鋼鉄錬金鋼を渡すべきかも知れない。
 それを渡したからと言って、レイフォンが誇りを持てるかどうかは分からないが、それでも今よりは胸を張って生きて行くことが出来るはずだ。
 そう考えるリーリンの視線の先では、レイフォンが何か難しい顔をしている。
 ナルキも補足説明をしているのか、その表情は非常に厳しい。
 話を聞いているだけのシャーニッドとウォリアスも、似たり寄ったりだ。
 かなり重要な内容であることは分かるが、それを知ることは恐らく出来ない。
 それは恐らく、一般人は知ることを許されない世界の話だから。

「ミィちゃん、何しているの?」
「うん? 近くの病院を探しているの」

 なにやら地図を見ていたミィフィが、平然とそんなことを言っている。
 実を言えば、昨日レイフォンが倒れた時も、ミィフィが予め病院までの道順を探しておいてくれたので、迷わずに行くことが出来たのだ。
 今日もそれが役に立ってしまうかも知れないと不安になったが、どうやら杞憂に終わったようだ。
 溜息に似た空気を吐き出したウォリアスに促されて、四人がこちらにやってくる。

「ねえねえ。どんな話?」
「ああ? そうだな。取り敢えずレイフォンが無双だって事が分かった」
「おお! それはあのことかね? それともそれとも。ああ!! 心当たりが多すぎる!」

 シャーニッドのおどけた話題転換に乗って、あれこれ考えを巡らせるミィフィだが、候補の多さが非常に腹立たしいような気がする。
 思わず殺気が漏れてしまいそうだ。

「そうそう。これ返しておくよ」

 そのリーリンの状況を知ってか知らずか、ウォリアスが持ったままだった刀をミィフィに差し出す。
 いつまでもそんな物を持っているのは疲れるのかも知れないし、リーリンの精神状態を敏感に察したからかも知れない。
 話題転換としてはあまり好ましくないが、無いよりはましかも知れない。

「うんうん。じゃあリンちゃんに?」

 素早くウォリアスに奪い返される刀。
 リーリンだってあれは危険だと思っているのだ。
 持っている間中、殺意というか害意というか、そんな物に支配されていたのを覚えている。
 もしかしたら、あれにこそ呪いがかかっているのかも知れない。
 好意を持っている人間を殺せと訴えかけるたぐいの。
 ぽっちゃりな男の子がチョコレートで気を引かなければ、真面目に流血の惨事が起こっていた。

「っち! 仕方が無い。それはルックンの倉庫に返してこよう。レイとん」
「え?」

 いきなり話を振られたので、全く反応できなかったようで呆然とするレイフォンに向かって刀を差し出すウォリアス。
 躊躇というか恐れおののいたレイフォンが、わずかに後ずさる。

「レイフォンが持って行くんだって」
「そうだぞレイとん。か弱い女の子である私にそんな重い物を持たせるのはいけないぞ?」

 来る時には持ってきたはずだが、流石に一往復はきついのかも知れない。
 きっと何かの間違いだが。

「え、えっと」

 刀を見つめるレイフォンの視線に複雑な感情が見える。
 憧れと愛情と、恐怖と拒絶、そのほかにも色々な感情が複雑に混ざり合っていて、それ以上はリーリンにも分からない。
 刀を持つことに未だに抵抗があるのだろう。
 それが鋼鉄錬金鋼でなくとも、刀の形をしている以上持つ資格がないと思っているのだろう。

「ほれ。こんな切れない刃物でも危険物なんだ。とっとと持って行く」

 レイフォンに向かって投げられる刀。
 落とすわけにもいかないと思ったのか、やや危なっかしくも受け取る。
 そして自分が握った金属の固まりに向かって、熱い視線を送るレイフォン。
 それはもはや恋い焦がれる視線だと言っても良いくらいだ。
 切れないと言われていても、それでもレイフォンにとってそれは刀であり、情熱と愛情を注ぐ対象なのだという事が分かった。

「それじゃあ、暫くレイとん借りて行くからね」

 ミィフィに先導されるがまま、歩き去るレイフォンの背中を見送る。
 問題を解決するには時間がなさ過ぎるのだ。
 それが分かっているからミィフィはレイフォンを急かせたに違いない。
 二人の姿が見えなくなるのを確認して、ウォリアスに確認する。

「あれ、切れないの?」
「切れるよ。紙くらいなら」
「ああ。ペーパーナイフみたいな物ね」

 ペーパーナイフとしては極めて扱いにくい物だが、全く切れないわけではないのだと理解したのだが。
 用途的に言ってあの刀には刃が付いていないことになる。

「刃は付いていないの?」
「付いてないよ」

 見かけは非常に危険極まりないようだが、中身はそうでもなかったようだ。
 あのままでも惨事は避けられたかもしれない。
 撲殺という道は残っているが。

「それにしても、あんな鉄の固まりなのに、レイフォンはかなり悩んだよな?」
「ああ。刀を持たないって堅く心に誓っているみたいでな。私達に鍛錬する時も技を教える以外では絶対に持たない」

 ナルキの話を聞き、リーリンは決意した。
 レイフォンは刀を持つべきなのだと。
 デルクが言う通りにレイフォン自身が自分を許すために。
 だがふと思う。
 デルクは許したはずなのに、なぜあれほど刀を持つ事を拒否し続けるのだろうかと。

「ねえ。相談に乗って欲しいんだけれど」
「なんだい?」

 何故かシャーニッドが真っ先に飛びついてきた。
 もしかしたら、出番が無くて寂しかったのかも知れない。
 リーリンの隣では、殆ど喋れなかったメイシェンもしきりに頷いている。
 そしてリーリンは、デルクから託された物について四人に話した。



[14064] 第二話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:50


 始めて訪れたツェルニの機関部で、レイフォンは精神に不安を抱えていた。
 無意識的な動作でモップを動かして掃除をしつつ、考えるのはただ一つだ。
 週間ルックンの倉庫に刀を返したレイフォンは、その場でミィフィと別れて自分の寮に帰っていた。
 夜間の清掃のバイトがあるので、仮眠をとらなければならないという建前を前面に押し出して。
 実際には逃げ出したのだ。
 あの刀を持ってしまったために、著しく精神が不安定になっていたから。
 鞘に収まっていて尚、レイフォンの心に狂おしいほどの歓喜を呼び覚ます、ただの鉄の固まりにして殺傷力を秘めた刀。
 あれは間違いなく刀だった。
 例え刃が付いていなくても刀だった。
 天剣の技を見せ物にすると決めた時に別れを決意したにもかかわらず、ナルキとシリアに技を伝えるという大義名分の元未だに振るい続けている武器。
 レイフォンが刀を見てどう思ったかなど、あの場にいる全員が分かったはずだ。
 そして全員が、恐らくレイフォンは刀を持つべきだと言うに違いない。
 それが善意であることは理解している。
 それでもレイフォンが刀を持つことは許されない。
 デルクは許してくれたが、それでもレイフォンには持つことが出来ないのだ。
 もし、もう一度実戦で刀を使ってしまったら、きっともう二度と手放すことは出来なくなってしまう。
 それは、ツェルニに来た目的を諦めることに他ならず、戦いに身を置く武芸者であり続けることだ。
 出撃する度に帰らないかも知れないレイフォンを心配させてしまう。
 それは出来るだけ避けなければならない。
 グレンダン時代リーリンもレイフォンの帰りを心配してくれてはいたが、メイシェンはもっと激しく心配する。
 このツェルニにはレイフォンと同じかそれ以上の実力を持った天剣授受者がいないのだ。
 それは、レイフォンが頼ることが出来ないと言う事。
 確実に無理をしてしまう。
 怪我をしたレイフォンよりも、激しく取り乱すメイシェンを容易に想像できるのだ。
 それは絶対に避けなければならない。
 汚染獣との戦闘が殆ど無い学園都市ならば良いかも知れないが、ヨルテムではそうはいかない。
 だが、武芸科に転科してしまった。
 これはレイフォンの目的が達成されない事を意味するかも知れない。
 これ以上武芸と関わるべきではない。
 だが、今は間違いなく武芸者だ。
 だったらどうしたらいいのだろうか?
 考える。
 考える。
 考える。

「?」

 考えている最中に、いきなり左の頬に何か当たる感触で我に返る。
 いつの間にか考えていたはずが、眠っていたようだ。
 これはもしかしたらあれかも知れない。
 下手な考え休むに似たり。
 それはまあ、置いておいて。
 気が付けば始めにいた場所とは、似てもにつかない景色が広がっているのだが、問題は実はそこではない。

「君が起こしてくれたの?」

 目の前で浮遊する金色に耀く童女に向かって話しかける。
 どうしてこんなところに女の子がいるのかとか、何で裸なのかとか、何で浮いているのかという疑問もあるにはあるのだが、まあ、後で考えようと心に決めた。
 童女が頷いていることだし、お礼を言うのが先だ。

「有り難う。ところで君は誰?」

 五歳くらいに見える、踵に届くほど髪を長く伸ばした童女は、その大きな瞳に好奇心の光を宿して興味津々とレイフォンを見つめている。
 何処かで会ったことがあったかと記憶をさかのぼるが、生憎と思い出せない。
 頭蓋骨の中身が剄脈であるらしいレイフォンが、覚えていないだけかも知れないが、

「へ?」

 目の前で浮かんでいる童女がふわふわとレイフォンの周りを回ったおかげで、それを見ることが出来た。
 前方三メルトル程度のところで通路が終わっている。
 それは良い。
 その先は何か巨大な機械が有り轟音を立てて稼働し続けている。
 それも良い。
 通路の先は無論断崖絶壁になっていて、下の床までおおよそ二十メルトル。
 落ちたらいくらレイフォンでも怪我をする高さだ。
 まあ、それもまだ良い。
 落下防止用の柵が壊れていることに比べたら、どうでも良い出来事だ。

「有り難う。助かったよ」

 感謝の意を込めて童女の頭を撫でる。
 とたんにこれ以上ないほどの笑顔になり、レイフォンの頭にしがみついてきた。

「うわ」

 全く重さを感じない暖かさに頭全体が包まれる。
 異常な事態の連続だったが、やっとの事で童女の正体が分かった。

「ツェルニ。君がツェルニなんだね」

 よくよく思い出してみれば、学園都市に来た時に遠目に見た旗に童女の姿が描かれていた。
 余りはっきり覚えていないが、諸々のことを総合的に繋ぎ合わせると、頭に抱きついて嬉しそうにしているのがツェルニと言う事になるのだろう。
 他に予測できる事態はない。

「保護者っているのかな?」

 嬉しそうなのは見ていてほほえましいのだが、流石に電子精霊がその辺を飛び回っていて良いとも思えない。
 さてどうしようかと考えつつも、バケツの水を替えつつ誰かに聞けばいいかと思いついた。
 なので、綺麗になった床が大量生産された通路を元来た方向に戻る。
 眠っていたはずなのだが、身体は勝手に掃除を続けていたようだ。
 自分でやっておきながら呆れてしまう。
 そんな思考をしつつ歩いていると、もう少しで出発点に戻れるというところで、見知った人物を遠目に確認。
 距離にしておおよそ五十メルトル。
 通路の先、T字路になった場所で一息ついているところのようだ。
 パイプの一つに腰を下ろして、夜食だと思われるサンドイッチを頬張っているその姿は、第十七小隊長のニーナだ。
 あちこち汚れたオイルでまだらになっているが、見間違える距離ではない。
 ニーナが機関部の清掃なんて仕事をしていることに驚きを感じつつも、ついでなのでツェルニのことを話してみようと歩く速度を少し早める。
 ウォリアスが全て話しているはずだから話すのは気が重いのだが、もし居心地が悪くなったとしても、ツェルニに居る事が出来なくなったとしても、レイフォンには帰る場所があるのだ。
 必要以上に恐れる事はない。

「おおいニーナ」
「まさかまたか?」

 そんな決意と共に、もう少しで声が届くという距離になったのだが、先にニーナに声をかける人物がいたようだ。
 機関科の技術者らしいその人物と、意味不明な会話が成立しているところを見ると、時々起こる突発事態なのだろう事が分かる。

「頼めるか?」
「分かった」

 そんな事を考えている間にも、二人の会話は先に進み何処かに行こうと腰を上げるニーナ。
 ここで逃げられてはかなり困ってしまうかも知れない。

「あ、あのぉぉぉ」

 一気に距離を詰めてやや大きめの声をかける。
 何事かとこちらを向いた二人の視線が、レイフォンの頭の上に注がれ硬直する。
 まあ、裸の童女を頭の上に乗せていたら誰だって驚くだろうから、当然かも知れないと思いつつ、二人の側まで移動する。
 当然レイフォンの移動につられて二人の視線も移動する。
 まさに信じられない物を見る視線だ。
 それがツェルニに対しての物なのか、それともレイフォンに対しての物なのか、それは今の段階では分からない。

「この子の保護者って何処にいるんでしょうか?」

 呆然としたままなので、強引に話を進めるために質問したのだが、まだ呆然としたままだ。
 二秒たっても再起動しない。

「もしもぉぉぉっし」

 二人の目の前で手を振っていると、いつの間にかツェルニも加わっていた。
 きっと珍しいのだろう。
 こうまで呆然としている二人が。

「あ? ああ。なんだレイフォン? そろそろ夜食の時間だな。よし。私がおごってやろう」
「そうだな。そろそろ夜食の時間だな。俺も急いで食事に」

 意味不明だが、いきなり現実逃避をしてしまう二人の袖をしっかりと掴む。
 軽く振って現実へと呼び戻す。

「先輩。落ち着いて下さい。この子の保護者を捜しているんですよ」
「あ? ああ。ツェルニの保護者か? お前が保護者じゃないのか?」
「何で僕なんですか? それよりも現実に戻ってきて下さいよ」

 どうやら余りにも衝撃が強かったようだ。
 取り敢えず二人に、持参していたお茶を飲ませて落ち着かせる事にした。

「ツェルニの保護者を捜しているだけなのに、何でこうもみんな驚くんだろうね?」

 パイプに座ってお茶を飲む二人を眺めつつ、レイフォンも適当に座りツェルニを膝の上に乗せる。
 この辺は、孤児院で小さな子供達を相手にしていたので手慣れたものだ。

「落ち着きましたか?」
「ああ。済まないな。ツェルニがあんなになついているのは始めて見たのでな」
「そうだな。ニーナ以外で誰かになついているのを見たのは初めてだな」

 やっと理性的な反応が返ってくるようになってきたので一安心だ。
 それなので話を元に戻す。

「それでツェルニなんですが、歯を磨いてベッドに入れたらいいですか? それともお風呂に入れますか? それとも食事が先ですか? ああ。食事って言っても、セルニウムはどうやって料理するんでしょう?」

 小さな子供の扱いには慣れている。
 だから、その常識に照らし合わせて次の行動を聞いたのだが、目の前の二人は再び呆然としている。

「あ、あのぉ?」

 不安になって声をかける。
 もしかしたら電子精霊は、普通の子供と違う手順があるのかも知れない。
 そうなったら、レイフォンにはお手上げなのだが、ふと思う。
 目の前にはツェルニの専門家が居るではないかと。
 動揺しているのはレイフォンも一緒らしい。

「ああ。気が付いたかも知れないが、電子精霊が歯を磨いたり風呂に入ったりはしない」
「じゃあ、着替えさせてベッドに入れるんですね」

 裸でその辺飛び回っているのは良くない。
 最低限パジャマを着せなければならないが、何処にあるかは不明だ。
 だが、これもやはりツェルニにはいらないのかも知れないと再び思考。

「ああ。着替えもいらないんだが、取り敢えずベッドと言うか元いた場所には戻さないといけないな。付いてこい」
「はい」

 立ち上がったニーナに続いてレイフォンも立ち上がる。
 狙ったわけではないが、心配したよりも会話がスムーズに行っているので良しとする事にした。
 機械科の生徒は他に用事があるのか、ツェルニをレイフォン達に任せて何処かに行ってしまった。
 元々ツェルニをどうにかするために行動していたので、別段レイフォンの行動に変化はない。
 むしろ、詳しそうなニーナに会った事でかなり前進したと言って良いだろう。
 相変わらずツェルニが後頭部に抱きついたままだが、気にする事もないのでそのままついて行く。

「話は聞いた」
「はい?」

 突然そう言われたので、何の話だったかと一瞬分からなかったが、それがレイフォンの過去である事はすぐに理解できた。
 余り触れられて気分の良いものでは無いが、スカウトしようとしているニーナにとっては必要な事なのかも知れないと、先を促す事にした。

「正直に言えば、飢えた事がない私にお前の気持ちは分からないと思う」
「分かって欲しくはないですね」

 レイフォンの気持ちが分かると言う事は、同じ体験をすると言う事に他ならない。
 何処の誰だろうと、あんな体験をして欲しいとは思えない。

「だが、大切な者を亡くした気持ちは理解できるつもりだ」
「? それは」

 実戦経験が無いはずのニーナが経験する事態を想像したが、全く思いつかなかった。
 だが、この世界で死はそれほど珍しくない。
 何かあっても不思議ではないのだ。

「十年ほど前になるのだが、私は誘拐されそうになった電子精霊を助けようとした」
「電子精霊?」

 頭にくっついているツェルニを見る。
 電子精霊と言えば、都市を動かしている自意識の事だ。
 それを助けると言う事は実戦経験が有ると言う事になるはずだが。
 誘拐できる物かどうか疑問だし、出来たとしても八歳程度のニーナがどうこうできるとは思えない。
 とは言え、電子精霊なんて物に会ったのは今日が初めてなので詳しい生態は分からないので、もしかしたら子供にしか助けられないと言う事も、あるかも知れない。

「電子精霊と言っても、私の故郷シュナイバルは、電子精霊の故郷と言われていてな。形のない、そうだな」

 ニーナが遠くを見るような仕草をした。
 そして、ツェルニが心配気にニーナを見ている事が何となく分かった。

「青く耀く綿菓子のような物なんだが、そんな電子精霊がいくつも都市内を浮遊しているのだ」

 想像してみるが、上手くできなかった。
 最終的にツェルニが都市中を飛び回っている光景に行き着いてしまう。
 身長が三十センチくらいの、小さなツェルニが飛び回るところを想像したのだが、それだったらニーナにも何か出来るかも知れないとも思う。

「そのおかげで、シュナイバルは疫病が流行る事も飢饉に見舞われる事もなかった」

 それは羨ましいと正直そう思ってしまった。
 グレンダンにも電子精霊がいくつか居れば、あの体験はなかったのかも知れないと、埒もない事を考えてしまう。

「何とか助ける事は出来たのだが、私自身が重傷を負ってしまってな」

 十年前と言えば、普通はまだまともな鍛錬もしてない時期のはずだ。
 一般人と変わらない状況なら、不測の事態には対応できないだろう。

「文字通り瀕死の重傷だった。
 それを救ってくれたのが、私が助けようとした電子精霊でな」

 話を総合すると、さっぱり分からない。
 レイフォンの頭が悪いせいなのか、そもそも電子精霊が誰か個人を助けると言う事が想像できないのだ。

「酷い怪我をした私を助けるために、自分の身を犠牲にしたのだ」

 そう言うとニーナは自分の身体を抱きしめた。
 何が有ったかは非常に不明だ。
 その電子精霊が人を呼びに行ったとか言う話でない事は理解できるのだが。
 ニーナにとって非常に辛い出来事である事も理解したのだが。

「えっと。つまり?」
「ああ。そうだな。電子精霊がフワフワと飛ぶところを知らなければ、理解は無理かも知れんな」

 レイフォンが理解していない事をニーナは理解してくれたようだ。

「怪我をした私の身体に入る事で、治してくれたのだ」

 沈痛な面持ちでそうニーナが言った直後、相変わらずレイフォンの後頭部に抱きついたままのツェルニの身体が、僅かにでは有るが震えるのを認識した。
 そっと振り返ってみると、何か訴えかけるようにニーナを見つめる大きな瞳と出会ってしまった。
 そして一つだけニーナの認識が間違っているらしい事を、何故か直感的に感じてしまった。

「それは違いますよ」
「何が違うんだ?」

 レイフォンの言葉をやや誤解したらしい、怒気を孕んだニーナの視線を真っ正面から受け止めて。

「多分その電子精霊は、アントーク先輩と同化したんですよ」
「・・・? なに?」
「ですからね、犠牲になったんじゃなくて、持っているエネルギーと一緒にアントーク先輩になったんですよ」

 微かな驚愕の気配が後頭部に感じられる。
 目の前では、事態を理解していないらしいニーナが呆然としているが、ツェルニの反応でおおよそレイフォンの直感が正しい事が分かった。

「その電子精霊は、今もアントーク先輩と一緒にいるんですよ」

 驚愕の気配が去った後にやってきた、歓喜の波がレイフォンの後頭部に伝わる。
 そして、やっと事態を認識したらしいニーナの視線が、レイフォンの頭の少し上に向けられる。
 ツェルニに確認しているのだろう。
 頷く気配を感じる。
 次の瞬間、ニーナの瞳から涙があふれるのを見た。

「ああ! そうだったのか! 私は何も失ってはいなかったのか」

 我が身を抱きしめ座り込み涙を流し続けるニーナに、かける言葉など思いつかない。
 慰める必要のある状況でない事がせめてもの救いだ。
 だからレイフォンはただ見守る。
 放っておいても立ち直る事が分かっているから。
 二十分ほどそうしていただろうか、涙をぬぐいつつニーナが立ち上がった。

「済まなかったな。みっともないところを見せてしまった」
「とんでもないですよ」

 誰かを喪って涙する人など見たくはないが、今回はそうでは無いのだ。
 少しだけレイフォンの胸の奥が痛んだが、別段気にする必要はない。

「取り敢えず、ツェルニを寝かしつけたいんですけれど」
「あ? ああ。そうだな」

 やっとの事で平常心を取り戻し始めたニーナに、本来の目的を思い出させたのだが、耳を引っ張られた。
 ツェルニに。

「な、なに?」

 振り返ってみると、なんだか不機嫌そうにレイフォンを見ている。
 もしかしなくても、まだ眠くないとだだをこねているようだ。

「駄目だよ? ちゃんと眠らないと大きくなれないからね」

 不満の表情も凄まじく、もっと遊ぼうと訴えられた。
 こうまでされると、もう少し良いかとか思ってしまうのは、レイフォンの駄目なところかも知れない。

「はははははは。相変わらず元気なやつだな。だがそろそろ戻らないと駄目だぞ? お前だって何処も悪くないのにあちこち弄られるのは好まないだろう」

 そう言ったニーナが、やや強引にツェルニをレイフォンの頭から引きはがした。
 やはりレイフォンは子供の教育係としては甘すぎるようだ。
 
 
 
 酷い眠気に襲われつつも、レイフォンの横に並び校舎へと向かうウォリアスだったが、活剄を総動員しても眠ってしまいそうである。
 その原因にして結果はと見れば、夜間の機関清掃などと言う激務をこなしているにもかかわらず、全く平然としている。
 まあ、普通に寝不足だったらウォリアスも平気だったのだが、今回はかなり色々と大変だった。

「眠そうだね」
「眠いよ。レイフォンがらみで」
「へ?」

 当然分かっていないレイフォンが疑問を浮かべている。
 これで変に納得したり完全に流したりしたら、出来るかどうかは別として抹殺の対象になった。

「やはり小隊には入って欲しいんだそうだ」
「別に良いけど」
「・・・・・・? なに?」

 夕べはカリアンと散々議論してしまったのだ。
 レイフォンが武芸を続ける意味と小隊に入らない方が良い理由について、ヴァンゼも含めて散々に話し合った。
 結果、小隊には是非とも入って欲しいという結論に落ち着いてしまったのだ。
 理由は十分に納得できる物だったし、そもそも当然の物だったので、ウォリアスの方が折れる形になった。
 結局何処かで実力を見せなければならないのだ。
 実力の分からない者の教えを素直に聞くほどのお人好しは、生憎とその辺に転がっていないのだ。
 最も効果的なのは汚染獣に襲撃され、武芸科全生徒が見守る中レイフォンが戦って勝つという状況だが、何時有るか分からないので却下となった。
 そうなると、次善の策として、小隊戦で活躍するという物に落ち着いてしまうのだ。
 この結果は良い。
 カリアンと激論を戦わせるのは実に有意義だった。
 武芸者であるヴァンゼだが、武芸長という政治に関わる人物との意見交換も有意義だった。
 そう。散々ごねたレイフォンがあっさりと承諾するのに比べたら、何万倍もましだった。

「お前ね」
「断れなさそうだし」
「・・・・・。成る程ね」

 ある意味諦めが先行している事がはっきりと分かった。
 別にそれが悪いとは言わないが、もう少し早めに決断してくれても良いのじゃないかとも思うのだ。
 具体的に言うと十時間くらい早く。
 昨夜何かあったのかも知れないが、余り突っ込んだ話はしない事にした。

「それでやっぱり十七小隊?」
「他の所に入ると小隊戦に出られないんだ」

 他の小隊は、多かれ少なかれ戦力が充実している。
 そんなところに入ってもすぐにデビューというわけには行かない。
 だが、第十七小隊だけは話が別だ。
 元々レイフォンのために作られた小隊という側面もあるし、最小構成人員がそろっていないのも事実だ。
 ここなら即座に対抗戦で戦える。

「アントーク先輩か。会いづらいな」
「ああ? 前もって話してあるから大丈夫だろ?」
「それはそうなんだけれど、昨日のアルバイトでばったり会っちゃってさ」
「はい?」

 話を総合すると、ニーナが機関部の清掃をしている事になる。
 良家のお嬢様っぽいところのあるニーナが、高収入だがきついところで働いている。
 かなり色々と腑に落ちない。

「まあ、色々あったんだよ」
「そうか」

 詳しく聞く事はやめておいて、取り敢えず今後の予定についてレイフォンと打ち合わせる事にした。
 実を言うと、ヴァンゼもレイフォンの実力には非常な興味を持っていて、一度手合わせをしてみたいと主張しているのだ。
 そして、当然ニーナも同じような事を考えるに違いない。
 それは昨日の三人の間でえられた、共通見解だった。
 つまりそれは、今日の午後盛大に手合わせすると言う事が決定した瞬間で。

「えっと。逃げちゃ駄目?」
「駄目。そもそもアントーク先輩の所に入るんだったら、避けては通れない道だよ」

 ゴルネオの所ならば、この行程は不要だ。
 サヴァリスという天剣の側にいた以上、その実力の程は良く知っているだろう。

「と言うわけだから、午後は練武館側の体育館に来るようにって」
「体育館の裏に呼び出し?」
「いやいや。それは違うから?」

 学校に行っていないにもかかわらず、変な事だけ知っているレイフォンを小突きつつも、ウォリアスは認識していたのだ。
 今日も平穏には始まらないと。
 何故かと問われれば。

「ミィフィ。ソード」

 大勢の生徒が登校しているにもかかわらず、玄関の一部が完全に近い無人に陥っているのだ。
 その原因は何かと問われるのならば、玄関前で刀を要求している少女が居るからに他ならず。

「ひぃ!」

 都市一つを壊滅させる事なんて朝飯前の人間が怯えて、非力な人間の後ろに隠れているからに他ならない。
 だから一緒にいる原因に話を聞いてみたのだ。

「今日も元気だね。原因は何?」
「にひひひひひ。これ」

 そう言いつつミィフィが取りだした携帯端末に映し出された映像は、ある意味衝撃的だった。
 それは、幸せそうな表情でメイシェンの膝枕で眠るレイフォン。
 どちらが幸せかと聞かれれば、当然両方だ。

「う、わ」

 ウォリアスを盾にしていたレイフォンが逃げようとするのをひっつかまえて、リーリンの前に差し出す。
 これはもうリーリンに殺されるしかない。

「おっと。これは昨日のだ」

 そう言ってミィフィが端末を弄って新たな映像を映し出した。
 目にした映像では、縦断する傷に右目を潰されたレイフォンが、ゆるみきった顔でメイシェンの頬を情熱的に突いているのだ。
 彼女がいないウォリアスからすれば、もはや死など生ぬるい犯罪行為だと断言できる。

「貴男が馬鹿だとは思っていたけれど、まさか性犯罪者だったなんて」

 糾弾するリーリンの手にはすでに流通君村正が握られている。
 その刀身は日の光を浴びて白銀に耀き、これから行われる残虐非道な行為を心待ちにしているように見える。

「せ、せいはんざいしゃって?」
「ええ。性犯罪者よ? こんなに激しくメイの頬を突いておいて、万が一にも妊娠したらどうするのよ?」
「へ?」

 何故かいきなり動きが止まるレイフォン。
 止まったら死ぬ戦場で生きてきたはずなのにだ。
 この辺は研究の余地があるのかも知れないと思いつつ、成り行きを見守る。

「い、いやだなリーリン。頬を突いただけで妊娠するわけ無いじゃないか」
「っな!」

 妊娠云々は、レイフォンを殴る口実だと思っていたのだが、リーリン的には本気で心配していたのかも知れない。
 周り中がレイフォンと同じ意見で頷いている最中、リーリンだけが凍り付いている辺りからそれが予測できるのだが、どう修正して見ても異常な事態である事は理解している。
 常識人であるはずのリーリンが固まっているのだ。
 立場が反対だったら別に驚かないのだが。

「レ、レイフォン? 貴男誰に教えて貰ったのそんな常識?」
「ふふふふ。一年前の僕だったら手をつないだから妊娠したと言われたら信じ込んだけれど、今の僕は少し違うよ?」

 驚愕のリーリンからの会話で分かった事は一つ。
 ヨルテムでの一年はレイフォンにとって、とても重要だったと言う事。
 信じられないほど重要だったのだろう。
 常識の取得という意味において。

「五歳くらいまで、赤ちゃんは道ばたに落ちていて欲しい人が勝手に持って行くのだとか信じてたのに?」
「ふふん」
「十歳まで、袋がある変な生き物が赤ちゃんを運んでくると信じてたのに?」
「ふふん」
「女の人が赤ちゃんを産んで青天の霹靂だって驚いていたのに?」
「ふふん」

 一々偉そうに笑うレイフォンだが、袋のある生き物云々以降は非常に問題が有る認識だ。
 道ばたに子供が落ちているという認識も、孤児であるレイフォンだからたどり着いた推論なのかも知れないが、こちらもかなり問題が有ると言えば問題がある。
 まあ、正しい教育が施されているようなのでこれ以上の心配はないだろうが。

「っち! 知り合った直後にメイッチが妊娠したからとか言っとけば面白かったのに」

 そんな事を言う邪悪な生き物も居るようだが、ここは取り敢えず話を閉める必要に迫られている。
 驚いているリーリンから刀を奪い取りつつ、ウォリアスは現実を見せつける。

「そろそろ授業だから行かない? かなり目立っているし」

 いきなり玄関の前でこんなことをやっていては、当然目立ってしまいかなりの人だかりが出来ているのだ。
 まあ、このところこんな事が続いているので、もう慣れてしまっている人もいるようで、素通りする姿もちらほら見えるが。
 
 
 
 お昼休みが終わるよりも速く、レイフォンは第十七小隊付きの錬金技師、ハーレイ・サットンの所を訪れていた。
 カリアンとの交渉の際に便宜が図られる事が約束された、刃引き設定の錬金鋼を受け取るためだ。
 なんだか懐かしい感じの建物の中に入ると、やはり懐かしい空気が出迎えてくれた。
 ヨルテムでもそうだが、錬金鋼の調整をするとなるとどうしてもダイトメカニックの所に行かなければならない。
 グレンダンでもそうだったが、錬金鋼に関わるのは同じような雰囲気の人が多い。
 最終的に、ダイトメカニックが集まる建物というのは似たような雰囲気を持ってしまうようだ。
 とは言え、部屋に入ってみてレイフォンはその認識が間違っていたかも知れないと思った。
 端的に言って汚い。
 すぐ足の先には食べ終えた弁当の空き箱が転がっているし、その先にはなにやら雑誌らしき物が大量に埃にまみれている。
 更に、資料や書類が所狭しと部屋中に散乱していて、文字通り足の踏み場もない。
 更に更に、触媒液を始めとするなにやら意味不明な匂いが立ちこめていて、長い時間居る事に苦痛を感じるのだが。
 レイフォンがもっとも強く感じる欲求は、この部屋を掃除して綺麗にしたいという物だ。
 ゴミを捨て、物を有るべきところに片付けて、掃除機をかけて、徹底的な拭き掃除をしたい。
 レイフォンになら出来ると思うだけに、この欲求はかなり強い物になっていた。
 部屋の主が汚い事を全く気にしていない以上、始める事が出来ないのが問題だが。

「初めましてで良いんでしょうか?」
「ううん? 一度会っているんだけれどね」

 挨拶こそしていないのだが、実質的に初顔合わせと変わらないので、取り敢えず二人で挨拶を交わした。
 取り敢えず話を始めないと何時までもここにいる事になるので、すぐに錬金鋼の話に入る。

「それでどんなのにする?」
「訓練用ですから丈夫なやつで」

 殺傷設定のまま持ち歩いている青石錬金鋼をテーブルの上に乗せて、これと同じ設定でと注文する。
 基礎状態の錬金鋼を端末に接続して、設定を読み込んでいたハーレイが、何かに驚いたようにレイフォンを見る。

「? これって、二種類設定があるけれど?」
「ああ。片方は危険すぎるんでこっちだけ」

 青石錬金鋼は二本とも鋼糸に出来るような設定がしてあったので、普通の長剣の設定をハーレイに示す。
 ヨルテムでの調整のおかげで、両方共に万全の状態を維持している。
 とは言え、使い続ければいつかは狂いが出てくる物なので、鋼糸の方の設定も記録しておいてもらう。

「ふむふむ。こっちの方もなかなか興味深いね。一度使っているところを見たいな」
「機会が有れば良いですよ」

 レイフォンの錬金鋼を見て貰う必要に迫られるのは確実なので、多少なりとも媚びを売っておいて問題無いだろうと判断した。
 その度にここに来ていたら、問答無用で掃除を始めそうなのは問題かも知れないが、とりあえず錬金鋼の調整はしなければならないのだ。
 自分の欲求を抑える訓練をしなければならないかも知れない。

「で、これから腕試しなんだよね?」
「そのようですね」

 余り気乗りはしないのだが、承諾してしまった以上やらなければならない。
 そのためにも訓練用の錬金鋼が欲しかったのだ。
 もちろん十分に気をつけて怪我をしないようにはするつもりだが、やはり保険は多い方が良い。

「で、材料はどれにする?」
「黒鋼錬金鋼で」

 実戦で黒鋼錬金鋼は剄の伝導率が悪すぎて使いにくいのだが、この場合はそれが長所となる。
 丈夫なのももちろん長所だ。
 などと会話をしている間にも、流石に手早く新しい錬金鋼が仕上がって行く。

「はい。ちょっと復元してみて」
「はい」

 復元鍵語と共に復元されたのは、今までの青石錬金鋼とはかなり印象が違う真っ黒な長剣。
 軽く振ってバランスや柄の状況を確認する。
 特に問題は見あたらなかった。

「僕は錬金鋼のメンテナンスをやりたくてね、なんて言うんだろうね?」
「ダイトメカニックとグレンダンでは言っていましたよ」
「へえ。なるほどね。うん」

 何か納得したようでしきりに頷いているハーレイを残して、レイフォンは移動する事にした。
 事業で固まった身体を少しほぐしておきたかったのだ。
 ウォリアスを始めとする人達から、頭蓋骨の中に剄脈が詰まっていると言われるのだが、多分それは正しいのだろうとこの頃思うのだ。
 頭を使うと身体が固まってしまって、上手く動かせなくなるのだ。

「取り敢えず、練武館側の体育館だから、歩いて行けばちょうど良いかな」

 全速力ならすぐに到着するのだが、流石に平時でそれをやるわけには行かない。
 なので、出来るだけ歩幅を開けてストレッチをするように歩く。
 入学式がついこの間終わったばかりの学園都市は、何処かまだ浮ついた空気で満たされているが、活力に満ちた空気を胸一杯に吸い込みつつゆっくりと身体を伸ばすように歩く。
 結局武芸とは離れる事が出来ないのかも知れないと思うと、少し心が重くなるが、何処かでこの状況にほっとしている自分が居る事をレイフォンは認識していた。

「武芸が、好きなのかな? お金を稼ぐためだけにやっていると思っていたけれど」

 グレンダンでは金を稼ぐ事しか考えなかった。
 それが変わったのは、ヨルテムに着いてからだ。
 もし、グレンダンで失敗したままツェルニに来てしまっていたら、どうなったか見当も付かない。
 帰る場所が無くなってしまったから衝動的に放浪してしまったのだが、結果的にはそれが良かったのかも知れない。

「なあレイフォン」
「へ?」

 いきなり肩を掴まれ我に返り、振り返った先には何故か疲れ切ったウォリアスの姿があった。
 と言うか若干息が切れている。

「何処へ行くつもりだ?」
「何処って、体育館」
「それは二分前に通り過ぎている」
「え?」

 どうも考え事をしていると周りが見えなくなるようだ。
 その割に身体は勝手に行動を続けてしまう。
 誰にもぶつからずにここまで来る事が出来た事もそうだし、見当違いの場所に行かなかった事も驚きだ。

「取り敢えず戻るぞ」
「う、うん」

 促されるまま方向を転換したのだが、出来るだけ考え事をしながら歩くのはやめよう。
 密かにそう決意したレイフォンだった。



[14064] 第二話 八頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:50


 やっとの事で捕まったレイフォンを連れたウォリアスが体育館に到着すると、全ての準備が滞りなく整っていた。
 ハーレイよりも速く出発したレイフォンの方が、来るのが遅かった理由については色々想像できるが、これは余り突っ込まなくても良い。
 問題なのは、すでにウォーミングアップが終了しているニーナの方だ。
 もちろん、どう言う人物かを詳しく知っているわけではないのだが、それでも明らかに異常に燃えさかっているのだ。
 自分が相手しなくて良かったと心底思うウォリアスの影に隠れるように、レイフォンが怯えるくらいには異常に燃えさかっている。

「やっと来たな! さあ武器を取れ! そして貴様の実力をこの私に見せるのだ!!」
「う、うわぁぁぁん」

 逃げようとするレイフォンの首にピアノ線を巻き付ける。
 これを強く引けば確実にレイフォンを殺せるという、凶暴な代物だ。
 何でそんな物を持っているのかと聞かれると困るのだが、取り敢えず常に一本は持っているのだ。
 暴れそうになる度に少しずつ締め付けつつ、舞台へとレイフォンを押しやりウォリアス自身は観客席へと逃げる。
 レイフォンが助けを求める腕は見なかった事にして。
 五十メルトル四方の競技場を持つこの体育館は、その一面に観客席を持っている。
 百人以上が観戦できるそこに座っているのは、実は思ったよりも多い。
 ヨルテム三人衆とリーリンは良いだろう。
 レイフォン絡みで観戦に来るのは目に見えていた。
 カリアンが居るのもかまわない。
 武芸科に転科させたのだから、是非とも実力を知っておきたいのだろう。
 もしかしたら、標的はニーナの方かも知れないが、まあ、さほど問題はない。
 フェリにシャーニッドにハーレイと、第十七小隊の面々が居るのも当然だ。
 これから一緒に戦う人間の実力を知っておくのは当然だ。
 非常に不機嫌そうにしているフェリが怖いが、関わったら駄目だと判断して他の観戦者を見る。
 その視線の先に現れたのは、対戦を希望しているヴァンゼだ。
 これから対戦するのだから当然だ。
 第一小隊の面々も興味津々とレイフォンを見ているのも、まあ当然だ。
 問題なのは、何故かゴルネオの率いる第五小隊が居る事だ。
 個人的な事情でゴルネオがここにいるのは問題無い。
 だが、小隊員が居る事は少し問題のような気もする。
 まあ、ゴルネオ絡みの問題が有る以上、知っておきたいという気持ちは分かるのだが。

「シャァァァァァァ」

 巨漢であるゴルネオの肩に乗った赤毛の生き物が、威嚇の声を上げているのは少々問題だと思うのだ。
 もしかしなくても、隙あらばレイフォンを襲うつもりなのだろう。
 気持ちは分かるのだ。
 分かるのだが。

「シャンテ。出来れば何だがもう少し大人しくだな」
「シャァァァァァァ」

 何故か恐る恐ると赤毛猫に声をかけるゴルネオだが、返って威嚇の声を大きくさせる事しかできてない。
 その威嚇はレイフォンに向けられているはずなのだが、何故かゴルネオが怯む。

「隊長がいけないのだぞ」

 第五小隊員、オスカー・ローマイヤーが慎重な間合いを取りつつゴルネオにそう言う。
 若干呆れた雰囲気があるところを見ると、何かあったのは間違いないのだが、あまり深く突っ込んではいけないのだろうと判断して距離を取る。
 取り敢えず、赤毛な生き物に関わらないように出来れば、それで良いのだ。

「う、うむ。理解はしているのですよ」
「シャァァァァァァ」

 普段ならどんな事があったのか結構真面目に考えたり調べたりするのだが、今回は余り知りたいとは思わない。
 痴話喧嘩の匂いがするから。

「あ、あの。これどうぞ」
「しゃぁぁぁぁ?」

 そんな一触即発の状況を打開したのは、何故かお菓子の一杯詰まった箱を差し出したメイシェンだ。
 非常におっかなびっくりと言った感じだが、最前列に座ってしまったせいで、後ろからの威嚇の声はかなりきついのだろう。
 取り敢えず食べ物で釣ろうという作戦のようだ。非常に有効性の高い一手だと思う。
 何時もお菓子を持ち歩いているのか、あるいは観戦には必要だと考えているのかは非常に疑問だが、取り敢えず赤毛猫の注意をそらせる事には成功する。
 ゴルネオの肩から飛び降り、いそいそとメイシェンの差し出す箱に手を伸ばそうとして。
 何故か不明だが、白くて小さな手同士がぶつかった。

「シャァァァァァァ!」
「不愉快です」

 何故かシャンテとフェリが威嚇の視線をぶつけ合う。
 体格的には非常に似ている二人だが、もしかしたらその行動原則も似ているのかも知れない。
 大きくなるためにエネルギーを必要としているとか。

「私は先輩だ。敬え」
「敬えと言った瞬間、その人はその資格を無くす物です」

 更に張り詰める空気。
 おろおろするメイシェンだったが、何か思いついたのか鞄の中をあさり。

「も、もう一つありますから」

 同じようにお菓子の詰まった箱を二人に差し出す。
 何で二つも持っているのか非常に追求したいが、まあ、今はそれどころではない。
 どっちがどっちの箱を手に取るかでもめるかと思ったのだが、これは案外すんなりと二人とも手近な箱を確保。
 蓋を開けて片方は幸せそうに、片方は無表情に食べ始めた。
 すでに餌付けされているのかも知れない。二人とも。
 まあ、それはそれとして、競技場の中央ではニーナとレイフォンが五メルトルほどの合間で対峙している。
 審判というか司会進行というか、二人の間に立つのは武芸長を勤めているヴァンゼだ。

「試合形式を取る以上、双方俺の審判には従って貰う」

 ゴルネオを凌駕する巨体を持ったヴァンゼが、逸るニーナを何とか押さえているように見えるのだが、それもそろそろ限界のようだ。
 昨夜何が有ったかは不明だが、ニーナは何か異常にやる気満々だ。

「では、はじめ!」

 上げた腕を勢いよくヴァンゼが振り下ろした次の瞬間、何の躊躇もなくニーナが突っ込んだ。

「いや。それは無謀ですって」

 思わずウォリアスが呟くほど、何の躊躇も迷いもなく、間合いの計り合いもなく突っ込むニーナ。
 右手の鉄鞭が上段から唸りを挙げてレイフォンへと襲いかかる。
 それを微かに身体をかしげる事で回避しつつ、黒鋼錬金鋼の剣の先端を左胸の方に向けた。
 次の瞬間、ニーナの左の鉄鞭が斜めになった剣の横腹を滑る。
 次の一手が分かっていたからこそ、無駄な動きをせずに防御したのだ。
 更に右の鉄鞭ががら空きになった左腹部を狙うが、これはレイフォンが後退した事で空を切った。

「どうしたレイフォン! 貴様の実力はその程度ではないはずだ!!」

 そう言いつつ連続攻撃を繰り出すニーナだが、それは全てレイフォンの防御と回避によって無力化されている。
 その攻撃と無力化は非常に見応えがあるのだが、それでも本来のレイフォンらしくはない戦い方だとウォリアスは思う。

「隊長の言っていた事を信じるのならば、アルセイフ君はかなり出来るはずですが?」
「はい。あんな物ではありません」

 先ほどからゴルネオに話しかけているオスカーが、冷静に試合を眺めつつ感想を口にする。
 確かに本来のレイフォンの実力からすれば、ニーナは瞬殺されているはずだ。
 まあ、それはそれで色々と問題が起こると思うのだが。

「ナルキ」
「ああ。あれはレイとんなりの流儀だ」

 こういう時には、レイフォンとの関係が一番長い武芸者に聞くのが一番だと判断し、ナルキに聞いてみたが当然の様の答えが返ってきた。
 ナルキの返事でおおよその見当は付いたのだが、説明の続きを聞く。

「相手の剄量の七割程度で様子を見る」
「ああ。それで勝てないようだったら、始めて同じ土俵に立ったと」
「ああ。ただ言うとだな。ヨルテムで同じ土俵に立てた人間は数少なかったぞ」
「成る程ね」

 レイフォンが言っていた武芸科に関わる理由とも合致する。
 ならばこれは、試合と言うよりは本当に腕試しなのだ。
 ニーナの腕が試されているという意味で。
 そして、ナルキの説明が終わった観客席が納得に包まれた頃、ニーナの米神に青筋が浮かんでいるのを確認できた。
 内力系活剄で肉体を強化している以上、聴力も当然上がっている。
 ナルキの話が全部聞こえてお冠なのだろう事は理解できるのだが。

「貴様! 全力を出せ!」

 今まで以上の速度と威力を込めた鉄鞭がレイフォンに襲いかかるが、当然のように余裕で防御か回避されてしまっている。
 ニーナにしてみれば当然の要求なのだが、レイフォンを知っている武芸者的には非常に無茶な要求だ。
 もしここで本気を出してしまったら、それは恐ろしい事が起こるのだ。

「全力なんて出せませんよ」

 余裕の態度を崩さずにレイフォンが応じる。
 当然更にニーナの攻撃が激しくなるが、やはり全く通じていない。
 全ての動きが予測されているのだ。
 次の手が予測できれば、最小限の動きと剄量で拮抗できてしまう。
 それを覆すためには、レイフォンの意表を突く攻撃か、あるいは奥の手的な攻撃が必要なのだが、ニーナはそれを持っていないようだ。

「ええい! ならばこれでどうだ!」

 奥の手はなかったが、捨て身の攻撃は持っていたようだ。
 両手を顔の前で交差させ、一気に間合いを詰め衝剄を放つ。
 だが。

「っが!」

 苦鳴を漏らしたのはニーナだった。
 その両手から鉄鞭がこぼれ、前屈みになって倒れる。
 次に認識できたのは、しゃがんだ体制から黒鋼錬金鋼の長剣を前方に突き出しているレイフォンの姿。
 ニーナの突進に合わせて突き出されたのだろう。
 捨て身の攻撃だったが、自爆技になってしまったようだ。
 と言うか、格上の相手にする攻撃ではない。

「勝者レイフォン・アルセイフ」

 無情にもヴァンゼの宣言が会場にこだました。
 当然と言えば当然なのだろうが、もう少しやり様はあった。
 レイフォンの実力が分からないから仕方が無いのかも知れないのだが、それでももう少しやり様はあったと思うのだ。
 同じ条件のレイフォン相手だったら、ウォリアスなら苦戦させる事は出来た。
 言っても意味はないが。
 息を整えつつ姿勢を正すニーナが、非常に悔しそうに羨ましそうにレイフォンを見る。
 今の自分では全く勝てない相手に対するあこがれと嫉妬。
 それは武芸者の困った性癖と言ってしまえばそうなのだが、レイフォンを模倣してはいけないのだ。
 恐らくレイフォンはそれをしっかりと理解している。
 だからナルキがついて行っているのだし、今こうしているのだ。

「では、次は俺の番だな。続くが大丈夫か?」
「大丈夫です」

 今の壮絶な技量を見て、やる気満々なヴァンゼがレイフォンの前に立つ。
 強いやつを見たら戦いたくなると言う性癖を持っているようだ。
 こちらも武芸者である以上当然だ。
 ニーナとの戦いを見た以上慎重になるだろうし、それ以上に実力を計ろうとするだろう。
 長期戦が予測された。
 これならばお菓子は二箱有った方が良いかもしれないと思ったのだが。
 いきなり風が動いた。
 視界の隅を巨大な影が飛んで行く。
 目的地はレイフォンの目の前。
 このタイミングでそんな事をする人間をウォリアスは一人しか予測できない。
 第五小隊長ゴルネオ・ルッケンスが、衝撃波を伴って舞台の中央に降り立った。
 
 
 
 考えるよりも先に身体が動いていた。
 これが非常に問題である事、ヴァンゼに対して失礼だと言う事も理解している。
 だが、もはや待つ事が出来なかったのだ。
 ガハルドが卑劣な事をしてレイフォンを追い詰めた事は理解している。
 その報いを受けて植物状態になった事も理解している。
 ガハルドに対する一撃が元でグレンダンを追放された事もだ。
 そして、レイフォンの過去に同情している事も間違いない。
 だから、そのもやもやを全て片付けたいのだ。

「申し訳ありません武芸長。この場を譲って頂きたい」

 深々と頭を下げる。
 折角至高の相手と戦う機会だというのに、いきなり横から出てきて譲れと言われたヴァンゼの気持ちは十分に分かるのだ。
 それでも、止まる事が出来なかった。
 頭を下げ続ける事十秒、やっとヴァンゼが動く気配を感じた。

「ゴルネオ。・・・・。良いだろう」
「申し訳ありません」

 レイフォンとの関係を知っているヴァンゼが、沈黙の後了承してくれた。
 きっとこの後色々なもめ事を押しつけられたりするだろうが、甘んじて受ける。
 今を逃したら一対一でレイフォンと戦う事が出来ないかも知れないから。

「済まないが、俺と戦って貰う」

 半ば事後承諾でレイフォンに告げる。
 ヴァンゼの挑戦を受けたのだから、当然断らないと思っていた。

「お断りします」
「な、なにぃ?」

 驚いたのは断られた事ではない。
 レイフォンの視線がほんの少しだけゴルネオの顔から横にずれているのだ。
 若干上にもずれている事から考えて。

「シャンテ?」
「シャァァァァァァ」

 ゴルネオが飛び出す寸前まで、お菓子を食べて幸せに包まれていたはずなのに、いつの間にか肩に乗っている赤毛の少女に驚く。
 非常識だとは思っていたのだが、今回の行動は余りにも想定外だ。
 ゴルネオの個人的な事情に巻き込むのは本意ではない。
 なので説得を試みる。

「これは俺とアルセイフの問題でだな」
「シャァァァァァ」

 説得を試みるが、シャンテに聞く耳はないようだ。
 それ以上に何か殺気が強くなっているような気がする。
 更に人間の言葉を忘れているのではないかと心配になったが。

「こいつのせいでゴルは笑わなくなった! こいつのせいでジュースが飲めなかった! こいつのせいで訓練場で待ちぼうけだった!!」
「う、うむ」

 笑わなくなったのはレイフォンのせいであるのは間違いない。
 だが、あと二つはどちらかというとゴルネオの責任なのだ。
 レイフォンの視線が説明を求めているが、出来れば無視したい。

「えっと? 何があったんでしょうか?」
「お前が倒れた時にシャンテに買い物を頼まれていたのだがな」

 はっきりと聞かれてしまっては仕方が無い。
 結局病院に直行してしまったために、ジュースは置き去りになって行方不明。
 今も発見には至っていない。

「待ちぼうけって?」
「お前の過去の話を聞いていてすっかりシャンテの事を忘れてな」

 部屋に帰っても気が付かずに、シャンテと同室の女生徒から問い合わせがあって始めて思い出した。
 他の隊員が帰るように促したのだが、何故か頑固にゴルネオを待ち続けていたシャンテの機嫌が悪いのは当然だ。
 そのおかげでここ数日頭が上がらない状況が続いているのだ。

「・・・・・・・・・・・・」
「う、うぉ!」

 そして極めつけとして、レイフォンから哀れみの視線が突き刺さった。
 これははっきり言って痛い。

「そんな目で俺を見るな! そもそもの原因はお前だ!」

 著しく虚勢を張ってみる。
 そうしないと戦うと決めた心が折れそうだったからだ。
 そしてレイフォンの肩の力が抜けた。

「良いですよ。二人一緒で」
「そ、そうか」
「ええ。ただし、剄の総量はシャンテ先輩でしたっけ? と同じくらいにさせて頂きますが」
「ああ。それでかまわない」

 当然だが、二人掛かりでもレイフォンに全力を出させる事は出来ない。
 いや、むしろここで全力など出せないのだ。
 もしそんな事をしたのなら、その余波だけでこの体育館は崩壊してしまうかも知れない。
 それほど危険なのだ。
 目の前にいる、気の弱そうな少年は。

「・・・・・。では、双方準備は良いか?」

 若干脱力気味のヴァンゼが仕切り直す。
 ゴルネオがグローブとブーツに錬金鋼を挿入し、シャンテが槍を復元する。

「いつでも良いですよ」
「こちらも準備できました」

 ゆっくりとレイフォンが剣を構える。
 ゴルネオも右手を前に付き出し左半身を若干引く。

「では、はじめ!」

 ヴァンゼの手が勢いよく振り下ろされた。
 その直後ゴルネオは拳にありったけの剄を込めて、化錬剄の変化を起こさせる。
 元の大きさの数倍になった拳をレイフォン目がけて振り下ろす。
 小細工は無意味だ。
 そんな事をしていてはとうてい届かない。
 だから後先考えずに全力で打ち込む。
 サヴァリスという同僚が居たレイフォンは、ルッケンス流の動きは見慣れているのだ。
 当然のように軽く回避された。
 それを追って連続で拳を繰り出し蹴りを放つ。
 その合間にシャンテが攻撃の準備を終わらせた。

「シャァァァァァァ」

 威嚇と余り変わらない声と共に、ゴルネオの背中から飛んだシャンテの槍が炎を纏ってレイフォンに迫る。
 その気迫と勢いと威力は、試合と言うよりもむしろ死合だ。

「っち!」

 舌打ちしたのはゴルネオだ。
 全てを読み切っていたかのようにレイフォンが横へと移動して、シャンテの一撃もあっさりと回避された。
 だが、全く無駄ではなかった。
 極々僅かだが、レイフォンの体制が崩れた。

「ふん!」

 今までと拳の軌道をやや変えた攻撃を打ち込む。
 回避が間に合わないと判断したのか、防御に回るレイフォンの手がゴルネオの拳を受け止める。

「貰った!」

 俊敏な動きで背後に回っていたシャンテの槍が、殺意さえ込めてレイフォンの背中へと襲いかかったが。
 起こった現実を認識して。

「え?」
「なに?」

 黒鋼錬金鋼の長剣が槍の穂先を受け止めた。
 未だにゴルネオの拳を受け止め続けているレイフォンがだ。
 しかも背中側に剣だけを回して、一瞬たりともシャンテを見る事がないという凄まじさでだ。

「ひゃ?」
「うお!」

 それどころか、槍を受け止めたままシャンテの両肘を掴み、ゴルネオの方に投げてよこすレイフォン。
 だが、流石に危なげなく空中で体制を変えたシャンテが、ゴルネオの肩に着地。
 それは良いのだが、計算が合わない。
 人間の腕は二本しかないのだ。
 一本でゴルネオ、一本でシャンテの攻撃を受けたとしても、両肘を掴む事は出来ない。
 はずだった。

「き、きもい」
「う、うむ」

 何時もの重さを肩に感じつつ二人の出した感想だ。
 それはある意味非常識で合理的な姿と言えない事はない。
 そう。レイフォンの身体から六本の腕が生えていたのだ。
 二本は元々だとして、後四本は。

「千人衝」

 ルッケンスの秘奥。
 こんな事が出来るのは、千人衝を改良した剄技以外には考えられない。
 とは言え、サヴァリスなら兎も角、レイフォンが人の家の秘奥を使うなどとは思いもよらなかった。

「げ」
「ぬを」

 錬金鋼を待機状態にしたレイフォンが軽く構え。
 更に腕の数が増えた。
 合計十二本。

「うぁたぁ!」

 鋭い踏み込みから一気に間合いの内側に入り込み、十二個の拳が殺到する。
 幻でもなければ錯覚でもない、ある意味実体を持った拳が体にめり込むのを感じた。

「「ひでぇぶ」」

 当然防御はしたのだが、三倍の戦力差はどうする事も出来なかった。
 百発を優に超える攻撃が二人の身体に突き刺さったのだ。
 当然こらえられるはずも無く吹き飛ばされた。

「・・・・・・・・・・・・・。勝者レイフォン・アルセイフ」

 余りにも余りな展開に、ヴァンゼの判定が数秒遅れてしまったくらいだ。
 衝撃はかなり大きかったが、それほど剄が籠もっていなかったためにダメージは殆ど負っていない。
 これも恐らくレイフォンの計算なのだろう。

「シャァァァァァァァァァァァァ!!」

 悔しさの余り、理性を無くしたシャンテが吠えているのをなだめつつ、ゴルネオは聞かずにはいられない。
 さっきの剄技のことだ。

「千手衝です」
「せんしゅしょう?」
「千人衝を改良して少ない剄量で実現できるようにしました」

 簡単に言ってくれるのだが、そもそも秘奥というのは会得するのが難しい物なのだ。
 剄量をいくら抑えたとしてもそうそう出来るものでは無いと思うのだが。

「前にサヴァリスさんが使ったのを見て覚えました」
「・・・・・。化け物め」

 聞いたことはあった。
 レイフォンは一度見た剄技の殆どを自分の物に出来てしまうと。
 まさかと思っていたのだが、どうやら本当だったようだ。
 自分の身体で思い知らされるとは思いもよらなかったが。

「あれってきもいの?」
「はじめの頃は驚いたけれど、その内見慣れたわね」

 観客席の方からそんな会話が聞こえる。
 ヨルテムから来た黒髪の少女とグレンダンから来た金髪の少女が話をしている。
 シャンテにお菓子を与えて気を紛らわせてくれたことには感謝しても良いのだが、今の会話はしっかりと確認しておきたい。

「それはつまり、お前達は何度も見ていると?」
「あ、あう」

 いきなり声をかけたので、少々怖がらせてしまったようだ。
 笑えば愛嬌のある顔だと表現されるのだが、今はかなり怖いはずだと言う事は認識している。
 当然のように激しく怯えて答えることは出来そうもない。

「大勢の料理を一人でやる時にはよく使っていましたよ」
「な、なに?」

 変わって答えたのは金髪の少女だ。
 そして、ゴルネオは更に驚き困惑してしまう。
 料理に使っていたと言う事は。
 恐ろしい予測と共にレイフォンの方を見る。

「便利なんですよ。一人で二人分の仕事が出来るから」
「人の家の秘奥で家事をするな!!」

 頭をかきつつ言うレイフォンを怒鳴りつける。
 レイフォンほどではないが、武芸を神聖視する思考をゴルネオは持っていない。
 身近にサヴァリスという戦闘愛好家が居るせいで、とても神聖視できなかったのだ。
 だが、これは流石に許容量を超えている。

「千人衝で掃除をすると速く終わるんですよ」
「貴様! もう殺す!」

 試合は終わったが、今ここでこいつを殺さなければならないとゴルネオは判断した。
 そうしないと武芸の技が全て家事に使われてしまう。

「鍛錬としても結構良いですよ」
「な、なに?」

 必殺の気合いを込めた拳を叩きつけようとしたが、いきなりのレイフォンの一言で緊急停止。

「普段から使っていると効率的な使い方を身体が覚えるんですよ」
「う、うむ」

 言われてみて気が付いた。
 それ以前に思いつくべきだったのだ。
 千人衝を体得したとしても、それを制御することは至難の業だと。
 千人の自分を創り出しても、全く同じ事しかできなければたいした意味はない。
 まあ、数は力だから全く無意味ではないだろうが、それでも剄量に見合うだけの戦力かと聞かれれば疑問符が付いてしまう。

「な、なるほど」

 納得してレイフォンを見たが、視線をそらされた。
 これは間違いなく出任せだ。

「・・・・・・・・・・・・。アルセイフ?」
「え、えっと」

 更に視線が横にそれる。
 さっき以上の気合いを拳に込める。
 だがそのゴルネオの腕が押さえられた。

「まあ、珍しい技を持っていることは間違いないのだ。もしかしたら覚えられるかも知れないぞ?」
「そう言う問題ではありません! もっとこう、本能というか納得というか」

 ヴァンゼの取りなしで拳だけは納めたが、全く納得は出来ていない。
 だが、稽古相手としてはレイフォンは格好の存在だ。
 何しろサヴァリスと一緒に戦ったことがあるのだ。
 ならば、レイフォンと組み手をすることで得られる物は多いだろう。
 都合良く相手は引け目を感じているのだ。
 言い方は悪いが利用しない手はない。

「まあ、良いだろう」

 そう言って踵を返して気が付いた。
 シャンテが居ないことに。

「シャァァァァァァァ!」
「う、うわ!」

 何故かまた戦闘態勢になっている。
 レイフォンに向かい槍を構えて、今にも飛びかかりそうだ。
 これはかなり拙い。
 試合はすでに終わっているのだ。
 これ以上の戦闘は私闘でしかなく、それは規則違反である以上にゴルネオとしても許容できない。
 なので何とか矛を収めさせるために説得を試みる。

「もう良いんだ」
「私は良くない!」
「シャンテ。向こうにお菓子があるぞ」
「そんな物いつでも食べられる! こいつは今しかやれない」

 強情だ。
 仕方が無いのでとっておきの台詞を口にすることにした。
 出来れば使いたくないのだが、致し方ない。

「会長の妹さんに全部食べられるぞ」
「!!」

 とっておきの餌をばらまいて、ようやくこちらを見るシャンテ。
 だがその目はとうてい納得しているものでは無い。
 ゴルネオも納得していないところがある以上、説得するのは困難を極めるだろう。

「ゴルは良いのか? こいつを生かしたままにしておいて」
「俺は自分の気持ちの整理を付けたかっただけだ」

 勝てないことは分かっている。
 だが、本能というか身体が納得しなかったのだ。
 今は違う。
 ゴルネオとは、やはり見ている物が違うのだ。
 わだかまりが無くなったというわけではないが、今までのようにどうしようもないほどでもない。

「良いんだ。ゆくぞ」
「ぶぅぅぅぅぅぅ」

 やや子供っぽい膨らみ方をしているが、それでもこれ以上レイフォンに詰め寄ることはなくゴルネオの肩に乗るシャンテ。
 取り敢えず今はこれで良い。
 もしこの先何かあったら、その時に考えればいい。
 全てを満足させる方法など無いのだから。
 だが、視線の先にはさらなる問題が鎮座していた。
 もっと正確に言うのならば、ゴルネオが呼び込んだ問題だ。

「シャァァァァァァ」

 シャンテもすぐに気が付いた様子で、そちらを見て再び威嚇の声を上げている。
 そう。頬を一杯に膨らませてお菓子を飲み込もうとしているフェリに向かって。
 どう考えても、つい今し方詰め込んだようにしか見えないし、その手には大事そうにお菓子の入っている箱が捕まれている。
 空だったらメイシェンに返しているはずだから。
 確保しているのが自分の分だとすると。

「私のお菓子を食べたな!!」

 当然返事は返ってこない。
 もごもごと口が動き、必死に飲み込もうとしているのだが、もう暫く時間がかかるだろう。

「ああ。また作ってもらえよ」
「ゴルはそれで良いのか? 私は断固として抗議する!!」

 珍しく難しい言葉を使って飛び出そうとするのを、首根っこを引っ掴んで襲いかからないようにする。
 なんだか今日はこんな仕事ばかりだと、複雑な疲労感に襲われつつもシャンテをなだめようと言葉を探していたのだが。

「あ、あの。今度倍の量を作りますから。あ、あの、えっと。今は我慢して下さい」
「しゃぁぁぁぁ? いいのか?」
「はい」

 今度もメイシェンの取りなしで事無きを得てしまった。
 これははっきり言って立つ瀬がない。
 レイフォンに引け目を感じさせたのは良いのだが、ゴルネオ自身も引け目を感じてしまっている。
 責任は無いのだが、心情的に複雑怪奇だ。

「ああ。取り敢えず座り給え。ヴァンゼの立場もなくなってきているからね」
「申し訳ありません」

 カリアンに指示されるまま、元いた席に着く。
 かなり色々と問題のある立ち会いだったが、それでも得る物は少なくなかったと思いたい。
 少なかったら、くたびれもうけの骨折り損だ。



[14064] 第二話 九頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:51


 第五小隊に所属するオスカー・ローマイヤーは、かなり微妙な雰囲気に包まれ始めた観客席から見下ろしていた。
 銀髪を短く刈り込んだゴルネオに匹敵する身長とやや細身の体格をした、前衛タイプの武芸者だ。
 ヨルテムから来た黒髪の少女、メイシェンのおかげでシャンテとフェリの対決は避けられた。
 それは喜ばしいことだ。
 何よりも二人の少女が骨肉の争いをする姿を見なくて済んだのだ。
 たかがお菓子と侮ってはいけない。
 食い物の恨みは恐ろしいのだ。
 そして視線の先では、食べ物のために人生を狂わされた男が、武芸長であるヴァンゼを全く寄せ付けない戦いをしている。
 全ての攻撃は軽く受け流され避けられ、はじき返されている。
 ニーナの時と同じで、予め来る攻撃が読めているとしか思えない動きだ。
 だからこそ相手の剄量の七割で戦って勝つことが出来るのだ。
 ずいぶん昔に誰から聞いたかは忘れたが、強くなるためには二つの物が必要だと教えられた。
 それが信仰と飢餓。
 家族という信仰対象を持ち飢餓を経験したレイフォンの前に、一般人よりも優遇されて温室で育ったヴァンゼを始めとするツェルニの武芸者では、どれだけ修行をしようとその高見に辿り着く事は出来ないだろう。
 オスカー本人も含めて。
 そんな雲の上のような武芸者に対抗するためには、こちらも信仰と飢餓感を持たなければならない。
 強い者に対する信仰と、自分の弱さに対する飢餓感をだ。

「でね。私がそれ教えてって言ったんだけれど」
「武芸者じゃないと使えないって言われました」
「ああ。やっぱりそうなんだ。武芸者ってずるいよね」

 その二つを持って始めて、レイフォンと同じ土俵に立つことが出来るだろう。
 それでさえ、同じ土俵に立たせて貰ったと言っても良いくらいだ。
 ゴルネオの話が本当だとしたのなら、一緒に戦うことはおろか、近くで観戦することさえ出来ない現状を変えることさえ困難だが。

「私を見るな! まだそんな高度な技は使えないんだ!」
「ナッキ頑張ってるんだからもうすぐだよ」
「無理だって! 理屈は分かるけれど実際にどうやって良いか分からないんだ!」

 もし万が一にでも、老性体がツェルニに襲いかかってきたのならば、オスカーを含めた武芸者はレイフォンの邪魔にならないように、シェルターに批難していることしかできない。
 それはとても受け入れられない事実ではあるが、万が一にでも足手まといになってツェルニが滅んでしまっては元も子もない。
 だが、光明は見いだせている。
 レイフォンという信仰するに足る強者が目の前にいる。
 それと比較してどれだけ弱者かをオスカーは理解した。
 この二つをツェルニの全武芸者が持った暁には、大きな変化が起こることは間違いない

「メイッチが千手衝を体得できたら、お菓子を作る速度だって倍なのにね」
「な、なに! そうなのか! そうか。あいつに頑張ってもらえば私は毎日お菓子を食べられるんだ!」

 カリアンがレイフォンを武芸科に転科させた本当の理由は分からないが、それでも現状は最大限に利用させてもらう。
 オスカーは現実逃避気味にシリアスなことを考えつつも、視線はヴァンゼの劣勢を捉え続けていた。
 そう。巨大な棍が宙を舞って、切っ先が喉元に当てられたヴァンゼの姿をしっかりと見届けた。
 そして、少女達の会話が一段落したらしいと判断してから、ゴルネオに視線を向ける。
 戦い終わったヴァンゼから視線をそらせて。

「武芸長が睨んでいますよ」
「あ、ああ。そのようですね」
「先に済ませておくべきだったと、思っているかも知れませんが」
「ああ。失敗したかも知れません」

 先ほどレイフォンの使った技で盛り上がってしまった少女達のおかげで、ヴァンゼの戦いは非常に注目度が低くなってしまっていた。
 もちろん武芸者はかなりの注意を持ってみていたのだが、それでも会話の方にそれてしまうことも一度ではなかった。
 結果として、ヴァンゼの立場というか立つ瀬というか機嫌というかが、かなり悪くなってしまっているのだ。
 はっきり言って、ゴルネオを最後にすべきだったと後悔しているに違いない。
 非常に弛緩しきった空気で会場が満たされているが、試合はこれで終わりではなかったようだ。

「時にナルキ・ゲルニ君」
「は、はい?」

 突然の呼びかけはカリアンからだ。
 しかも、レイフォンの弟子と呼べる少女に向かって何の脈絡もなく。
 呼ばれたナルキの方は明らかに警戒しているが、この状況では当然だ。
 どんな無理難題をふっかけられるか分からない。
 カリアンとの付き合いは、五年以上になるが、その腹黒さは十分以上に理解している。

「君の実力も見ておきたいのだがね?」
「私のですか?」
「ああ。こう言っては何だが、今までの三試合ではレイフォン君の実力がはっきりとは分からなかった」

 カリアンの言う事ももっともだ。
 レイフォンが強いことは分かったが、どれほど強いかはさっぱり分からない。
 だが、弟子であるナルキが戦うところを見ることが出来れば、それから予測が出来るかも知れない。
 あながち間違った選択ではない。
 それでも分からないかも知れないが、ナルキの実力を知っておくことはマイナスではない。
 だが、問題はいくつもあるのだ。

「きょ、今日は駄目ですよ。錬金鋼を持っていないですから」

 何故か怯えつつそう言うのだ。
 何故怯えているかは置いておいても、一年生であるナルキは錬金鋼の携帯が許可されていない。
 彼女の錬金鋼は保管庫に預けられている。
 今から取ってきたとしてもかなりの時間がかかってしまう。
 もっとも、カリアンのことだからその辺の手はすでに打ってあるだろうが。

「はいこれ」
「げ!」

 オスカーが想像した通り、十七小隊付きの錬金技師が鞄から長細い箱を取り出してナルキに渡そうとしている。
 当然中身はナルキの錬金鋼だ。
 きっと昨日の夜にでも連絡をして、突貫作業で準備させたのに違いない。

「いやぁ。これは手こずったよ。設定が細かくて構造が複雑で、僕一人だったら二日か三日かかっていたよ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。同じ研究室のやつがこう言うのに詳しくて助かったよ」
「余計なことを」

 何か非常に不満そうにナルキが嫌々と錬金鋼を受け取る。
 これでやらないための口実が一つ減ってしまった。
 とは言え、もっと本質的な問題がないわけではない。
 それは、レイフォンが四試合目だと言う事だ。
 いくら武芸者が活剄で疲労を押さえられるとは言え、それには当然限界がある。
 汚染獣との戦闘という非常時ならば仕方が無いが、試合という延期できる場でそれを強要することは望ましくはない。

「ナルキ」

 だが、舞台の中央にいるレイフォンが、ナルキに向かって猫招きをしている。
 疲労などと言う物が存在することを知らないと言わんばかりの、平然とした態度だ。

「え、えっと。あ、明日にしないか?」
「良いけど」

 ナルキの延期嘆願に素直に応じるレイフォン。
 これで落胆したのは場を盛り上げてしまったカリアンだ。
 ナルキの実力も把握しておきたかったに違いないカリアンとしては、この展開は不本意なのだろう。
 激務が続く生徒会長という役職にある以上、そうそう試合をのぞきに来ることは出来ない。
 それはつまり、かなりの確率でナルキの実力をその目で見ることが出来ないと言う事で。

「三百パーセントね」
「さ、さんびゃく?」
「うん」

 オスカーがそんなことを考えている間に、レイフォンが異常な数字を平然と言ってのけた。
 全く意味不明だったので周りを見てみるが、ナルキ以外にそれを理解した人間は居ないようだ。

「今やるんなら一回だけど、日にちが伸びるんだったら一日三百パーセントの福利」

 どんな悪徳貸金業者でも出さないような、凄まじい利息を提示するレイフォンに会場が呆気に取られた。
 暫く誰も何も言わなかった。

「い、いやいや。そんな複利の計算なんかレイとん出来ないだろう」
「ウォリアスにやってもらう」
「他力本願は良くないぞ!!」
「まあまあ」

 なんだか非常に微妙な雰囲気になってきてしまっている。
 だが、真面目な表情で言う以上レイフォンは至ってそのつもりなのだろう。
 そして、実行されて生きていられる保証はない。
 むしろ、死んでしまう保証が出来てしまうくらいだ。

「ええい!!」

 諦めの極致に達したのか、ナルキがいきなり席を蹴って飛び上がる。
 一回転三回ひねりをして舞台中央へと、殆ど衝撃波を伴わずに着地。
 その活剄の切れと早さは驚愕に値する。
 以前のナルキの実力を知ることは出来ないが、今は間違いなく小隊員レベルの強さを持っているはずだ。

「レストレーション!」

 そのかけ声と共に、ナルキの右手に握られた錬金鋼が待機状態を解除された。
 それは鈍い白銀に耀く見事な刀。
 庵峰、切っ先は小さく詰まり、地肌は良く鍛えられて輝きが冴え渡るが、鍔元の一部にやや弱い部分が見える。
 瓢箪刃が明るき冴え渡った殆ど反りのない、二尺六寸の堂々たる刀だ。

「うむ。強く重く良く切れそうだ」

 刃物について造詣の深いオスカーから見ても、それは見事の一言に尽きる名刀だ。
 それを清眼に構えたナルキの左手だけに、何故か皮のグローブがはめられている。
 このグローブにも錬金鋼のカードが差し込まれているが、まだ復元はされていない。
 何か奥の手なのかあるいは予備の物かは不明だが、レイフォンがそれを知らないわけがない。
 これは非常に楽しみな試合になったとオスカーは思い、成り行きを見守る。
 
 
 
 ナルキが刀を持っていることにかなり驚きつつも、続く会話に凄まじい違和感を覚えた。

「コタツとか言う名刀らしいですよ」
「コタツ?」

 第五小隊最年長で防御役のオスカーが、ミィフィの解説で小さく疑問の声を上げる。
 銃使いのはずの彼が、何故刃物について詳しいのか非常に疑問だが、もっと問題なのはミィフィが出した単語だ。

「なんだか暖かそうな名刀だな」
「おう! 中で丸まって昼寝がしたいぞ!」
「いや。ここは映画でも見ながら柑橘系の果物を食べつつゴロゴロすべきだろう」

 シャーニッドを始めシャンテにゴルネオがそんな感想を口にしている。
 オスカーも何故か頷いているところを見ると、ミィフィの間違いに気が付いていないようだ。
 違和感はぬぐえないようだが。
 舞台中央では脱力したナルキが疲れていることだし、少々修正を加えるべきかも知れないと思い、控えめに声を出す。

「あ、あのぉ。コタツじゃなくてコテツ」

 ウォリアスの知識を総動員して検索した結果なので、間違っては居ないはずだ。
 文字列も似ているからミィフィが間違っても不思議ではない。
 だが、事態はあらぬ方向へと進む。

「これか?」
「にゃぁ」

 シャーニッドが首根っこをつまんで持ち上げたのは、何故か額に三日月印が付いた赤毛猫。
 なかなか良いボケだと言っておこう。

「いえね。小鉄じゃなくて虎徹。虎に徹するといった意味合いの刀鍛冶の名前ですよ」

 この辺は知らない人間に説明することが非常に難しいのだが、取り敢えず言ってみる。
 漢字文化というのは、大昔の存在で、今はよほどの専門家にしか分からないのだ。
 だが、もしかしたら誰かが理解してくれるかも知れないから言ってみた。

「へえ。お前さん物知りだな」

 取り敢えずシャーニッドは理解してくれる方向で進んでくれるようだ。
 非常にありがたい。
 そしてオスカーが何か考え込みつつこちらを見て。

「しかし、虎徹という刀には格言があったはずだが?」
「ええ。虎徹を見たら偽物と思え。よく知ってますね」

 良く切れることで知られたらしいので、非常な人気商品だったらしい。
 当然人気商品の常として偽物が出回った。
 問題なのは、偽物の方が遙かに多いという現実で。
 一説には本物の百倍は偽物があるとか無いとか。

「つまり、あれって偽物?」
「え、えっと」

 ミィフィの突っ込みがとても痛い。
 正確を期すならば、錬金鋼である以上全て偽物と言う事になるのだが、問題は元になった刀が本物かどうかと言う事で。

「あ、あれ良く切れるんですよ」
「そ、そうだよ。良く切れるんだったら本物ですよ」

 メイシェンが発した決死の覚悟の台詞に便乗し、ウォリアスは決断する。
 もし偽物だったとしても、それを確かめる術はない以上、本物である確率はあるのだ。
 そして、良く切れるのだったら本物として扱って、何ら差し支えない。
 そのはずだ。

「うむ。良く切れることこそが刀の本分だ。切れるのだったら本物なのだろうが」

 同意してくれたオスカーだったが、なにやら微妙な表情でメイシェンを見つめる。
 そしてウォリアスもその微妙さに気が付いた。

「トリンデン君」
「は、はい?」

 何故かメイシェンのことを知っているオスカーが、ズイっと前に進み出る。
 思わず少し引くメイシェンだが。

「なにやら実感がこもっているような気がするのだが?」
「は、はい。あれで一度料理をしたので」
「そ、そうなのか」

 のけぞり気味のオスカーと一緒に少し引く。
 この二人は錬金鋼や剄技と言った物を、徹底的に家事に利用しているようだ。
 とは言え、長大な刀でどうやって料理などするか疑問だ。
 普通に考えれば明らかに長すぎて、台所で使うことは出来ないはずなのだが。

「一度、天井からつるした大根をメイッチが切ってね」
「何でそんなアクロバチックなことを?」
「ナッキがなかなか切るの上手くならなかったから」

 ナルキが上手く切れないからと言って大根を切ることはないだろうと思うのだが、それはそれで意味があるのかも知れない。
 とは思うのだが、ろくに運動もしていないはずのメイシェンがフルスイングで虎徹を振り回す光景を想像してみる。
 明らかに刀に振り回されているようにしか見えないが、きっと見事に切れたのだろう。
 だからこそのメイシェンの発言であり。

「ナルキ?」

 いつの間にか全員の視線がメイシェンに注がれていたのだが、ふと違和感を覚えて舞台の方に向けてみると。

「ああそうさ。刃のある方で斬りつけても峰打ちしても断面は同じだったさ。ああそうさ。どうせ私なんか刃物も使えない猿さ。ああそうさ。赤毛猿さ」

 なにやら蹲り床に延々と円を描き続けている、自称赤毛猿が居た。
 当然と言えば当然だが、会場全体を微妙と言うには少し冷たい空気が支配する。
 なにやら聞いてはいけない物を聞いてしまったのは間違いない。
 このままナルキが落ち込み続けるだけで、無駄に時間が消費されるかと思われたが。

「ナァルゥキィ」
「っひぃ!」

 間延びした声と共に全てをぶち壊すべく、レイフォンの手に握られた黒い剣が一閃。
 閃断がナルキに向かって疾走。
 埃を巻き上げ切り裂きつつ一直線に命中するかと思われたまさにその瞬間、見事と言うには余りにも早い反応を見せて回避に成功。

「うふふふふふ。流石に反応が早くなったね」
「あ、当たりまえだ! 命中したら大怪我間違い無しの攻撃の不意打ちなんか、そうそう食らってたまるもんか!」

 どうやら、ウォリアスが想像していたよりも遙かに恐ろしい鍛錬を続けてきたようだ。
 そうでなければこれほど見事に反応することは出来ない。
 だが、いかんせん体制というか精神的な状況が悪すぎた。
 立て続けに放たれる閃断は、容赦なくナルキを角へと追い詰めて行く。
 立ち直ったとは言い難いナルキは、まだ自分が誘導されていることに気が付いていないのか、それとも知っていても他に逃げ道がないのか、凄まじい速度で追い詰められて行く。

「し、しまった!」

 そして、あっさりと角に追い詰められてしまった。
 上に逃げることは出来るだろうが、そんな事をすれば次の一撃は完全に避けられない。
 詰まれている。
 そして、何か考えるよりも速く、レイフォンの一撃がナルキに迫る。

「はっ!」

 だが、空気を切り裂いて迫っていた閃断はナルキの発した気合いと共に、何か堅い物同士が激突したような音と共に弾け飛んだ。
 あり得ない事態に、会場が沈黙によって支配される。
 何が起こったか分からない人間ばかりの中、ただ二人だけが事態を正確に理解していた。

「うふふふふ。凄いよナルキ。僕に気が付かれない内に金剛剄を体得していたんだね」
「あ、あああああ! つかっちまったぁぁぁぁぁぁ!」

 窮地を脱したはずなのに、何故か絶望の悲鳴を上げるナルキ。
 頭を抱えて蹲りたいのを何とかこらえていると言えばいいのか、あるいは数秒前の自分を抹殺したいと思っているのか、とてもそんな感じで落ち込んでいる。
 何となくは分かるのだ。
 きっと、こっそり特訓していたことがばれたら、レイフォンの鍛錬がきつくなると思ったのだろう。
 ウォリアスの予測も余り変わらない。

「うふふふふふ。さあナルキ! 僕と遊ぼう! 今という現実に止まったら死んでしまう僕達には、前に進む以外の選択肢はないんだ!!」
「だぁぁぁぁぁぁ!! もう殺す! 絞め殺す刺し殺す毒殺する斬り殺す惨殺する!!」

 なにやら物騒なことを言いつつ、かなり開いていた間合いを旋剄で縮めるナルキ。
 その勢いのまま、刀をレイフォンに向けて叩きつける。

「オラオラオラオラオラオラ!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄!」

 叫びつつナルキの打撃がレイフォンを襲うが、当然のように防御されてしまっている。
 それよりも問題なのは、反りがないとは言え刀を使った攻撃なのにもかかわらず、どう修正しても打撃に見えてしまうナルキの姿だ。
 上手く切ることが出来ないと言っていたのは本当のようだ。
 そして問題はもう一つ。

「あの二人って何時もこうなの?」

 今まで静かな戦いが続いていたというのに、いきなりの展開に少々では済まない驚きを覚えていた。
 観客席を見渡しておおよそ答えを予測していたのだが、取り敢えずミィフィに聞いてみた。

「うん。ナッキの弟と三人で、オラオラ無駄無駄アタタたって、丸一日ボールを打ち合っていたこともあった」
「元気だねぇ」

 剄脈が小さいウォリアスにとって、丸一日動き続けることさえ困難だというのに、あのテンションでボールを打ち合っていられる人間は驚異に値する。
 まあ、熟練の武芸者なら誰でも出来る事なのだろうが、とりあえずウォリアスには不可能だ。

「これがレイフォン・アルセイフか」

 オスカーが何か感心しているが、きっと間違っているのだと思う。
 と言うか間違いであって欲しい。

「もらった!」
「うわ!」

 そんな事を考えている間に、試合は動いていた。
 突如として攻防のテンポを変えたのはレイフォンの足払いだった。
 それに反応が出来ずに転倒するナルキ。
 これで終わったと誰もが思ったのだが。

「ってぇぇい!」
「っち」

 止めを刺そうと接近したレイフォンを阻んだのは、ナルキが無茶苦茶に振り回した刀の切っ先だった。
 まぐれ当たりでもかなりの打撃になるそれを、当然レイフォンは一端下がって回避する。
 間合いを最大限有効に活用してナルキが慎重に体勢を立て直して、第二ラウンドが開始される。

「うふふふふふ」

 何故か非常に嬉しそうなレイフォンが不気味だが、全精神力を総動員してそれを無視する。
 そしてナルキが何か仕掛けるためだろうが、大きく右半身を引き切っ先をレイフォンに向けた。
 それは恐らく突きを放つという無言の宣言だったのだろうが、その後の展開はウォリアスには理解できなかった。

「え?」

 会場全体がそんな感じだったようで、最も近くで見ていたヴァンゼの疑問の声も聞こえるほどだ。
 何があったかは分からないが、ウォリアスが認識できたのはただ三つだ。
 ナルキがレイフォンに向いたまま遠ざかりつつ、床を削って減速していった。
 そしてレイフォンがこちらに背中を向けて何か避けたように見えた。
 レイフォンの背中側、ナルキと反対にある壁が盛大に粉砕された。
 何が有ったかは皆目分からないが、旋剄を超える高速移動が使われたらしいことは分かった。

「し、しまったぁぁぁぁ!!」
「う、うふふふふふふふふふ」

 相変わらずナルキの絶望の叫びと、レイフォンの嬉しそうな笑いが聞こえるが、いい加減なれた。
 会場を見回してみても、案外落ち着いている人間ばかりだ。

「凄いよナルキ。水鏡渡りで間合いを詰める。当然僕はとっさに避ける、ナルキの狙い通りにね」

 背中を見せていたレイフォンがナルキの方に向き直る。
 そしてウォリアスはあり得ない物を見てしまった。
 レイフォンの制服の胸の部分が切り裂かれ、微かとは言え血がにじみ出しているのを。
 相手の七割の剄量で戦って尚、圧倒するだけの技量を持ったレイフォンに傷を付けた。
 そのナルキに驚きを覚える。

「そして、避けた僕の後ろにある壁を蹴る時に旋剄を使って加速。練っていた剄を全て注ぎ込んだ逆捻子を使って超高速の一撃を放ったんだね」
「ああああああああ!」

 レイフォンの説明を聞いているとそれほど難しいことをしているわけではないようだ。
 基本的には、高速の攻撃を二つ続けて放っただけだ。
 壁を蹴る事で立体的な動きになったが、全く新しい攻撃方法というわけではない。
 だが、そこに注ぎ込まれた技量は恐ろしい物がある。
 移動用と攻撃用の剄を二種類、同時に練ることは熟練した武芸者ならたいがい出来るが、ここまで洗練した使い方が学生武芸者で出来るかと聞かれたのならば、かなり難しいと答えるしかない。
 そうでなければ、浅いとは言えレイフォンに傷を付けることは出来ない。

「ああああ、レイフォン落ち着くのだ。これはあれだ、単なる間違いだ偶然だまぐれだ」
「うんうん。偶然もまぐれも運も実力の内だよ」
「ち、ちがう。きっとレイフォンが油断していたからに違いない。うんきっとそうだ」
「そうだね。僕の油断もあったね」
「そうだろう」
「ナルキがこんなに強くなっているなんて思いもよらなかったよ」
「う、うわぁぁぁ」

 何故か必死で自分の功績を無かったことにしようとするナルキと、褒め称えようと努力するレイフォン。
 ナルキの気持ちは分かるのだ。
 実力が付いたことがはっきりと分かれば、今まで以上の地獄が待っているはずだから。

「そんなナルキに激励の言葉を」
「い、要らない要らない」

 どうでも良いが、この二人が戦うと非常に騒がしいようだ。
 そこに問題を見いだしてしまっても居た。

「無様な負け方をしたら特訓ね」
「うわぁぁぁん」

 とうとう泣きの入ったナルキだが、構えは一切乱れないし隙らしい物も作らなかった。
 これはもう、レイフォンの特訓のおかげなのだろう。

「じゃあ、行くよ」

 ナルキの言葉を待つこともせずに、レイフォンから放たれた衝剄が床を盛大に破壊しつつ埃や破片をまき散らし、視界を奪う。
 突然の事に、観客席から悲鳴のような物も聞こえるが、そんな物は戦っている二人には関係がない。

「っち!」

 精神状態は不明だが、ナルキの身体は状況にすぐに反応。
 身体を回転させつつ、切っ先が床を切り裂きつつ衝剄を放ち、周囲に破片の弾幕を張った。
 これならば目つぶしの効果は余り期待できない。
 小さな破片が当たったくらいではどうと言う事はないのだが、位置は特定されてしまう。
 だが、事態は思わぬ方向に進んだ。
 ナルキが飛ばした全ての破片が、虚しく飛び散ったのだ。

「上か!」

 周囲全ての方向に居ないとなれば、残るのは上からの攻撃のみ。
 天井付近に向かった視線の先には、案の定レイフォンが滑空している姿があった。
 いくら何でもこれは逃げられない。
 ここでナルキの選択肢は二つ。
 対空攻撃を放つか、着地した瞬間を狙うか。
 だが、ナルキが選択したのはそのどちらでもなかったと言えるし、どちらでもあったと言える攻撃だった。

「レストレーション02」

 そのかけ声と共に、左手にはめていたグローブが復元の光を放つ。
 現れたのは極細の赤い糸が五本。
 その糸が放電の火花を伴ってレイフォン目がけて疾走。
 一本は直線的に伸びるが、残り四本は微妙な曲線を描きつつレイフォンに迫る。
 これならば対空攻撃と着地点の攻撃と、両方を一動作で行うことが出来る。
 リンテンスの鋼糸の技の縮小版だが、この場面では有効な攻撃だ。

「っふ!」

 その赤い糸がレイフォンを捉えようとした瞬間、いきなり大きく落下コースが変わった。
 恐らく衝剄を放った衝撃で軌道を変えたのだろう。

「っち!」

 それにすぐさま反応したナルキの糸が追尾するが、ほんの僅かに及ばなかった。
 糸での迎撃が間に合わないと判断したナルキは、刀で剣を弾こうとふるったがその軌道を完璧に読まれていたようだ。
 弾いたはずの切っ先が流れて。

「うわ」

 ナルキの目の前に着地したレイフォンの切っ先が、喉元に突きつけられている。
 その背中に糸が届いたが、どう見てもナルキの負けは間違いない。

「勝者レイフォン・アルセイフ」

 ヴァンゼのその声で変にテンションの高い試合は終幕を迎えた。
 観客席から疲労と感嘆の溜息が漏れ聞こえるが、それに同調している余裕はウォリアスにはないのだ。
 この試合でレイフォンの致命的な問題を理解してしまったから。
 そしてもっと問題なのは、武芸者全員がレイフォンに憧れと嫉妬の視線を送っていること。
 そして何故か、カリアンがナルキを情熱的に見つめていること。
 想像以上のナルキの戦闘能力に心惹かれているのだろう。
 気持ちは分かるのだが。
 今のこの状態はあまり歓迎できないのだ。



[14064] 第二話 十頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:51


 肉体的な疲労は感じていなかったが、精神的には非常に疲れていた。
 思ったよりもニーナの攻撃が捌きやすかったとは言え、シャンテ・ゴルネオペアーとヴァンゼの相手は結構大変だった。
 剄量を押さえ込んで戦う以上、それなり以上の緊張をすることは経験済みだったのだが、それでも四試合は少々では済まない疲労をレイフォンにもたらしていた。
 こっそりと溜息をつき錬金鋼を待機状態に戻して、観客席に向かおうとして。

「流石レイフォンだね。僕と互角に戦える日もそう遠くないだろうね」

 そんなウォリアスの声が聞こえてしまった。
 別にそれはどうでも良い。
 良くはないが、これ以上は安心して戦えないレイフォンにとっては、どうでも良いことだった。
 だが、今回も周りがそれを許さなかったのだ。

「それはつまり、君ならレイフォン君に勝てると言う事かね?」
「ええ。少々手間がかかりますが、レイフォンくらいいつでも倒せますよ」

 懐疑的なカリアンの発言は良い。
 それに乗ってウォリアスが大風呂敷を広げるのも許せる。
 問題なのは、観客の殆どがもう一試合を望んでいることだ。
 はっきり言って疲れているので、遠慮したいのだが。
 まあ、試合放棄は無理だとは分かっているから引き受けるけれど。
 ナルキとの立ち会いで少し精神的には回復したし。

「それじゃあリーリンとミィフィとナルキと、後シャンテ先輩?」

 何故か四人の名を呼んで筆談を始めるウォリアス。
 話を聞かれたくないのだろうが、少々これはやり過ぎだと思う。
 確かに活剄を行使すれば、この距離の内緒話は聞こえるが、そんな事をするつもりはないのだ。
 そして更に怪奇現象が立て続けに起こった。
 何故か四人の女性の表情が怪しい笑いに変わり、メイシェンを伴って観客席から降りてきたのだ。

「な、なに?」

 怯えるメイシェンの肩をミィフィが抱き、安心させているのは良いだろう。
 何故か観客席からメイシェンを隠すような位置に三人の女性陣が立つのも良いとしよう。
 ヴァンゼの立ち位置をウォリアスが変えさせているのも良い。
 問題なのは。

「もしかしてメイシェンを武器にするとか?」
「僕をなんだと思っているんだい?」

 展開上レイフォンを倒すことを考えるのならば、メイシェンを打撃武器にすることがもっとも考えられたのだが。
 避けるわけにはいかないし、迎撃するなどもってのほかだ。
 そうなると丁寧かつ慎重に受け止めるしかないわけで、それは猛烈な精神的な疲労を伴う。
 そんな事を続けられたのならば、レイフォンに勝ち目はない。
 まあ、流石にそこまで悪趣味なことは出来ないのだろう。

「武器はこれを使うね」

 その代わりと言わんばかりに、合成樹脂で出来た巨大なハンマーを手に持った。
 元々このハンマーはウォリアスのだから、かまわないと言えばかまわないのだが、なんだか非常に馬鹿にされたような気がする。
 メイシェンを隠すように位置取りしたところでウォリアスが口を開く。

「どちらかが負けを認めるまで続けると言うことで良いかい?」
「良いけど。意識を失ったら負けね」
「それで良いよ」

 大まかなルールが決められた。
 ヴァンゼも何が起こるのか分からない様子で、興味津々とレイフォン達を見つめている。

「では、はじめ!」

 そのかけ声と共に、ウォリアスが何の躊躇いもなく前進。
 一瞬錬金鋼を構えようかと考えたが、余りにも間抜けな光景に思えてそのまま待ち構えることにした。
 素手で戦うのは余り得意ではないが、出来ないわけではないというのも判断の一因だ。
 それに、あのハンマーなら金剛剄を使えば余裕で防げる。
 そして、あっさりと間合いに入り込み、ハンマーが大きく振りかぶられた。

「っぱ」

 その姿勢のまま、いきなり横に移動するウォリアス。

「っぱ」

 いつの間にかしゃがんでいたミィフィの手が、勢い良く上に跳ね上げられ。

「え?」
「?」

 制服のスカートの裾が跳ね上がった!
 その下から現れたのは、瑞々しく滑らかでいて柔らかそうな何か。
 見るからにふわふわの産毛が生え、右に三カ所、左に二カ所の黒子が恥ずかしげに自己主張をしている。
 だが、百分の二秒後に現れた物は、それらの存在を忘れさせるに十分な威力を持っていた!
 滑らかで柔らかそうで艶やかな、フリルでリボンな青い。

「ひゃああああああ!」

 普段のメイシェンからは想像も出来ない勢いで手が動き、スカートの裾を押さえつける。
 その動きではたと我に返ったレイフォンは。

「うわぁぁぁん」

 取り敢えず悲鳴を上げて時間を稼いでみた。
 だが、その次の瞬間に訪れた衝撃は、レイフォンの人生を全て打ち砕くに十分な物だった。

「ピコ」
「ぐわ!」

 何の前触れもなく頭にふり降りた衝撃は、卵を割ることさえ出来ない物だったはずだ。
 だが、それがレイフォンに与えた効果は凄まじく、仰け反り体勢を崩しその場に尻餅をついてしまった。
 見上げた先には当然、細い目を更に細くして喜んでいるウォリアスが居て。

「イエーイ」

 快哉を叫びつつ、後方に控えていた加害者たちとハイタッチを交わしている。
 つまりこれは全て、ウォリアスの作戦だったと言う事を意味していて、それに参加した女性陣は共犯と言う事で。
 メイシェンとレイフォンが被害者だ。

「反則だ! 如何様だ! 八百長だ!」

 当然の権利として抗議を行う。
 認めたら負けだというルールがある以上、レイフォンはまだ負けていないのだ。
 だが。

「成る程。もう一度見たいというのだね」

 ウォリアスがそう言った次の瞬間。

「ひゃ?」

 ミィフィに羽交い締めにされたメイシェン。
 観客席から目隠しをするように立つリーリンとナルキ。
 そして、しゃがみ込みスカートの裾を弄んでいるシャンテ。
 ホレホレと何時でも良いぞと体現している。
 そして、勝ち誇ってハンマーを構えるウォリアスと来れば、もはやレイフォンに選択肢はない。

「ごめんなさい。僕の負けです」

 涙を一杯に貯めた瞳でレイフォンを見るメイシェンが見えなかったとしても、降参する以外にはないのだ。
 一気に脱力してへたり込んだ先では、加害者たちが多いに喜んでいる。
 メイシェンはと見れば、当然のように脱力して座り込んでいる。
 戦うと決めた瞬間にレイフォンは負けていたのだ。

「メイ」
「うぅぅぅぅぅぅぅ」

 力の入らない足腰に鞭を入れて、やっとの事でメイシェンの側に行き手をさしのべたのだが、猛烈な抗議のこもった視線で見上げられた。
 そして。

「・・・・・・。見た?」
「っう!」

 メイシェンに見上げられ、そう訪ねられた。
 見なかったと答えることは出来ない。
 だが、見たと答えることも出来ない。
 まさに二律背反。
 にっちもさっちも行かない状況が変わったのは、質問が発せられてから正確に三秒後。

「レイとんのことだからしっかり見てるよね」
「にひひひひ。そりゃあ。見えない方がおかしい」
「縫い目の一つ一つから黒子の一つ一つに至るまで、しっかりとね」

 ナルキにミィフィにリーリンが保証してくれた。
 全然嬉しくないけれど。
 それを聞いてメイシェンの表情がこわばり。

「・・・。消去!」
「消去しました!」

 鋭く突きつけられたメイシェンの人差し指に命じられるまま、レイフォンの脳はさっき見た映像を消去した。
 多分。

「男の性として、墓まで持って行く記憶だと思うな」

 いらないことを言うウォリアスに殺意が少しわいてしまった。
 具体的に言うと、老性体戦に挑んだ時くらいのささやかな殺意が。

「・・・・・・」

 だが、それも長いこと続かなかった。
 何しろ目の前には、なにやら危険な視線のメイシェンがいるのだ。
 普段大人しい人が怒ると恐ろしいというのは、本当の事かも知れない。
 そんな事を考えている間に、すっくと立ち上がったメイシェンが一言。

「お預け!」
「きゃん!」

 思わず変な悲鳴を上げてしまった。
 犬になったつもりはないと思うのだが、そんな悲鳴を上げてみた物の実は違ったのだ。
 メイシェンの向いているのは加害者たちの方で。

「ふふん。甘いなメイ」
「そうだよ? 私達にはリンちゃんという強い味方がいるのだ」

 つまりメイシェンがお預けといったのは、ナルキ達のおやつが無くなると言う事だったのだ。
 だが、ここで問題になるのはリーリンの存在で、無敵な万能主婦である彼女の協力が得られるのならば、メイシェンのお仕置きは怖くない。
 と、考えているのだろうが、これには実は非常に大きな落とし穴があるのだ。

「ねえ」

 確認のためにミィフィがリーリンを見るが、視線がそらされる。
 レイフォンは知っているのだ。
 お菓子作りに関しては、リーリンはメイシェンの足元にしか及ばないと。
 と言うか、せがまれて作っていたレイフォンの方が上手いくらいだと。

「ごめん。私お菓子は苦手なんだ」

 当然のリーリンの告白に、その場が嫌な沈黙に支配される。
 これは予定が違ったと顔に書いてある二人は良いのだが。

「ま、まさか、私もお預けか?」

 赤毛猫が絶望の悲鳴を上げているのも、実は問題ではないのだ。
 そう。ニヤニヤと笑っているウォリアスに比べれば。

「いやぁ。そう言うオチがあるとは思わなかったねぇ」

 一人だけ余裕の態度だ。
 甘い物がないと生きて行けないというわけではないようだし、当然なのだろうが。

「・・・・・・・」

 更に危険な雰囲気に支配されるメイシェン。
 あんな辱めを受けた以上、容赦する謂われはない。

「成敗!」

 それは命令ではなかった。
 あえて言うのならば、死刑宣告。

「うりゃぁぁ!」
「シャァァァ!」

 武芸者二人が襲いかかったのを契機として、残り二人もウォリアスに躍りかかる。
 抵抗しているのだろうが、剄脈の小さなウォリアスに抗う術はない。
 見る見るうちにボロボロにされて行き、なにやら痙攣しているようにも見えるが、助けるという選択肢は存在していない。

「メイシェン?」

 余りの惨状から視線をそらせて、恐る恐る声をかけたのだが。

「ふぅぅんだ」

 非常にご機嫌斜めなようで、惨劇を背に会場を後にしようとしている。
 ここでもレイフォンが摂れる選択肢はたった一つ。

「待ってよメイシェン」

 何とか機嫌を直してもらうために追いかける。
 ヨルテムに着いた頃から比べると、レイフォンは大きく変わったと思うのだが、メイシェンの変化はレイフォンのそれを大きく凌駕している。
 もはや別人かと思う時があるほどだ。
 だが、そんな事を悠長に考えている暇はないのだ。
 メイシェンを追いかけなければならないから。
 
 
 
 四人の少女にボロボロにされているウォリアスを見下ろしつつ、カリアンはこの惨状を止めようとは思わなかった。
 止める必要がなかったからだ。
 ナルキが一瞬視線を動かしてレイフォン達が居なくなったことを確認すると、マウントポジションで顔をひっかいているシャンテを持ち上げた。
 当然というか何というか、まだまだ制裁がたりていないと暴れるが、身長差は如何ともしがたく空中でじたばたしているだけになった。

「シャァァァァァ」
「はいはい。もうそろそろ終わりにしましょうね」

 ウォリアスの説明が十分ではなかったのか、それともシャンテが勘違いしたかでこの惨事は起こったのだろうと言う事は理解している。
 被害が大きいようだが、それでもやるだけの意味があるのだろうとも思っている。

「それで、この茶番にはどんな意味があるのかね?」

 まだ暴れようとしているシャンテを、宙づりにしたままのナルキに聞いてみる。
 ウォリアスの方が適任なのだが、生憎とまだ喋ることが出来る状況ではないのだ。
 実は、聞いたカリアン自身おおよそ理解はしているのだ。

「酔っている連中に冷水をぶっかけたというのが、正しい表現でしょうか?」
「そうだね。他にも色々と言いたいことはあるけれど」

 思ったよりも軽傷なのか、ややふらついているがウォリアスも立ち上がり観客席へと上がってこようとしている。
 シャンテの攻撃で顔中に出来ているひっかき傷が痛々しいが、本人はあまり気にしていないようだ。
 他の三人は攻撃しているように見せていただけかも知れない。
 十分にあり得る。

「レイフォン君が無敵ではないことの証明かね?」

 カリアンも気が付いたのだ。
 ウォリアスがなにやら悪巧みをしている最中、彼を見る武芸者全員の否定的な視線に。
 レイフォンを倒すことなど出来ないと確信しているそれを見て、カリアンも危険性に気が付いた。
 レイフォン・アルセイフは、模倣の対象にはならない。
 その才能のすさまじさ故に、一般の武芸者は彼のまねをしてはいけないのだ。
 だからこそ、幼稚としか言いようのない策略でレイフォンの欠点を指摘したのだ。
 これ以上ないほど情けない姿を見た武芸者の多くは、多少ではあるが目が覚めただろう。
 唯一の例外として、余りにも恐ろしい物を見たように硬直するゴルネオが居たが、まあ、天剣授受者と呼ばれる超絶の存在があんな姿をさらしたのだ。
 その心理的な衝撃は想像を絶しているはずだ。

「貴男にもですよ。生徒会長」
「私もかい?」

 その細い瞳から表情を読み取ることは難しいが、かなり鋭い物であることは認識できる。
 そして、次の瞬間理解した。
 カリアンもまた、レイフォンという眩し過ぎる光に見せられていたのだと。
 そして、ウォリアスが示したもう一つのことにも思い至った。

「そう言うことか」
「そうです。貴男にも見てもらいたかったんですよ」

 武芸者ではないカリアンに本当のレイフォンのすごさは分からない。
 だが、ウォリアスのすごさは理解できた。
 ツェルニ最強と呼ばれているシャンテゴルネオコンビでさえ、レイフォンにとっては雑魚だったのだ。
 だと言うのに、ツェルニ最弱を主張しかねないウォリアスは勝ってしまった。
 それはつまり、戦術の勝利。
 相手の弱点を知り、それを最大限攻撃して勝利を得る。
 卑怯とも言えるかも知れないが、こんな手を使わなければレイフォンには勝てなかった。
 逆に言えば、卑怯な方法を使えば一般人にもレイフォンを倒すことが出来るのだ。

「成る程。私も酔っていたようだね」

 それだけのためではないようだが、それはまたゆっくりと聞けばいい。
 ウォリアスはきちんとした計算が出来る人間だ。
 ツェルニを守るためになら、積極的にカリアンにも協力してくれるだろう。
 よほどあこぎなことをしなければ、の話だろうが。
 そして、ゆっくりとゴルネオ以外の武芸者に視線を向ける。
 眉をしかめて軽蔑一歩手前の表情でウォリアスを見ているのはニーナだ。
 彼女の性格を考えると当然だろうが、今目の前で何が起こったのかをしっかりと理解して欲しいと思う。
 そして、盟友と結えるヴァンゼを見て少しおかしくなった。
 ヴァンゼを寄せ付けなかった武芸者を倒した勇者を、複雑な表情と視線で出迎えている。
 どう評価したらいいか困っているのだろう。
 後できっちり説明しなくてはならないかも知れない。
 他の連中はおおよそヴァンゼと変わらない反応だが、ただ一人だけ全く違う人物が居た。

「フェリ?」

 そう。実の妹たるフェリだ。
 なにやら猛烈に不満そうな、あるいは不安そうな表情がその顔に出ているような居ないような。

「・・・・・・・」

 なにやらウォリアスに猛烈な殺意を覚えているのか、その視線は非常に冷たい。
 フェリの視線を感じたらしいウォリアスが、冷や汗を流しているのを見つめつつフェリが呟く。

「お預けと言う事は作らないと言う事でしょうか?」
「え?」

 間近まで接近していたリーリンとミィフィが、意表を突かれて固まる。
 シャンテを持ったナルキは全く意味不明だと言わんばかりに、小首をかしげ。

「餌付け完了?」

 一瞬だけ考え込んだウォリアスの台詞が会場を支配する。
 つまりフェリは、加害者達がお預けを食らったとばっちりを受けて、自分も食べられないかも知れないと考えたのだ。
 それが分かったからこその餌付け発言で。

「不愉快です」

 そう言いつつウォリアスの臑を蹴るところを見ると、予測通りのことを考えていたようだ。
 いつの間にお菓子で餌付けされたか、非常に気になるところではあるのだが、取り敢えずフェリに友達が出来たらしいことをカリアンは喜んだ。
 ツェルニに来てから、誰かと交流を持っているという話は聞いていなかったから。

「ああ。レイフォン君に頼んでフェリの分だけ確保とか、出来るのだろうか?」
「シャンテ先輩を暴走させて良ければ」

 フェリの分を作ってもらうことは可能だが、そうするとお預けを食らったシャンテがフェリを襲撃しかねない。
 ツェルニの貴重な戦力を失う危険性は是非とも避けたいので、カリアンの結論は決まっている。

「それは困るね」

 フェリを立てればシャンテが立たずと言う現象が起きてしまっているようだ。
 これは非常に困る展開だ。
 メイシェンの機嫌が直る以外の解決策が思いつかない。

「まあ、レイフォン次第ですけれど三日ほどで制裁解除になるんじゃないかと」
「だと良いのだがね」

 取り敢えずウォリアスの臑を蹴り続けるフェリをなだめつつ、カリアンは思うのだ。
 レイフォンだけでも僥倖だと言うのに、ウォリアスを得られたことは素晴らしいことだと。

「ナルキ・ゲルニ。ウォリアス・ハーリス」

 カリアンがそう考えている間に、いきなりゴルネオが立ち上がりシャンテを回収しつつ二人に話しかける。
 その表情には先ほどまでの驚愕はなく、何かを決意しているように思える。
 そして何の前兆もなく頭を下げた。

「頼む! 第五小隊に入ってくれ」

 その巨体を折り曲げて新入生二人に頼み込む。
 その突然の行動に会場中が唖然とするが、そんな物をゴルネオは気にしていない。
 そして沈黙の降りた世界が続くこと数秒。

「私のような無能非才をそこまで評価して頂きましたこと、これに勝る名誉は御座いません」

 同じように深々と頭を下げるウォリアス。
 作戦参謀として第五小隊に加わる事になれば、戦力は飛躍的に上昇するだろう。
 レイフォンを加えた第十七小隊でさえ、勝てるかどうか疑問なほどに。

「ですが、此度はそのご依頼を断らねばならぬ事、どうかお許しください」

 更に深々と頭を下げて断りを入れるウォリアス。
 きっと何か理由があるのだろう。
 出来ればそれを知りたい。

「何故だ?」

 当然ゴルネオも疑問に思ったようで、ウォリアスにやや詰め寄る。

「小隊に入ったら他に面倒を見なければならない連中が、ほったらかしになるかも知れないじゃないですか」

 軽く答えてはいるが、それがどれほど大変かは理解しているつもりだ。
 レイフォンだけではない。
 恐らくニーナも面倒を見なければならない人間のリストに入っているのだ。
 もしかしたら、ツェルニの武芸者全員かも知れない。
 それが分かったかどうかは不明だが、ゴルネオの視線がナルキに向く。

「申し訳ありません。私もお断りさせて頂きたいと」
「理由を知りたいのだが」

 一度断られて落ち着いたのか、平静を装いつつナルキに対応している。
 だが、多少の付き合いがあればそれが薄皮一枚であることは分かる。
 少しでも気を緩めれば、取り乱してしまいそうだ。

「都市警での仕事に集中したいのです」

 それを理解しているのかどうか、ナルキがおずおずと答える。
 そしてそれは、都市警への就労を希望している以上、本当の事だろう。
 これで続けて三人、小隊入りを断った新入生が出た。
 ツェルニ始まって以来かどうかは別として、かなり珍しい現象であるのは間違いない。

「・・・・・。そうか。騒がせて済まなかったな」

 ゴルネオもそれを理解したのか、今回のことはなかったことにするつもりのようだ。
 だが、カリアンはこの二人の小隊参加を望んでいる。
 レイフォンに唯一傷を負わすことが出来たナルキの実力は、是非とも小隊に入れて活用したい。
 だが、問題は二つ。
 どうやってナルキを説得するかというのは、まあ時間をかけて考えればいいし、最終的には本人の了承を取る事も出来ると確信している。
 二つ目の問題が入れる小隊だ。
 そして、今のところナルキが入れそうな所と言えば、第五か第十七小隊。
 ゴルネオの所なら問題はないのだが、ニーナの所に入れることを考えるとかなり問題が有る。
 レイフォンとの試合中、足払いを食らって倒れた時ナルキは刀を振り回して防御した。
 それを見たニーナは、はっきりと不快そうな表情をしたのだ。
 潔くない行動だと判断したのだろう。
 レイフォンは同じ行動を見て好感を持ったことを考えると、恐らくナルキに教えたのは彼なのだろう。
 そこにレイフォンが使う武門の基本があるのかも知れないが、問題にしなければならないのはニーナの方だ。
 負けそうになって刀を振り回した行為を無様だと評価していたのならば、第十七小隊にナルキを入れることは難しい。
 これは些細では済まない問題になる。

「時にナルキ君」
「・・・・。何でしょう?」

 先ほどレイフォンと戦う切っ掛けを作ったことを恨んでいるのか、ナルキの視線は非常に冷たい。
 いや。はっきり殺意がこもっている。
 今夜は生徒会の執務室に泊まり込もう。
 そう決意したカリアンは気を取り直して疑問を口にする。

「足払いを食らって倒れた時に刀を振り回したが、あれはレイフォン君がそうしろと?」
「はい。悪足掻きが出来ないやつに教えることは出来ないんだそうで」
「やはりか」

 おおよそ予想通りの答えが返ってきたが、こっそりと見たニーナの表情は更に険しくなっている。
 やはり潔くないと判断しているようだ。
 レイフォンが教えたと聞いてもあまり変わらないというか、更に評価が悪くなっているかも知れない。
 昨夜機関部で何かあったらしく、二人の関係は改善されていると思ったのだが、それでもまだかなり大きな溝があるようだ。

「サイハーデン刀争術だったっけ?」
「あ? ああ。そうだけれど」

 ウォリアスが補足説明をするつもりのようで、割って入って来た。
 どうでも良いが、良く知っている物だと感心してしまう。
 ここでふと疑問に思った。
 レノスの情報収集力は理解できる。
 だが、その課程で得られた情報を、何故ウォリアスが知ることが出来たのか?
 これについての説明は全くされていない。
 とは言え、こちらもおおよそ予測は出来ているのだ。
 カリアンの実家のように、情報を扱う家の出なのだろうと。
 だから色々なことに詳しく、情報や知識を集めることに躍起になるのだと。

「サイハーデンは、生き残ることを目的にした流派だよね」
「ああ。だから足掻かないやつは破門だそうだ」

 一連の会話で理解できた。
 そして、グレンダン時代のレイフォンの行動も全て納得できる。
 生きるのに邪魔だから誇りを捨てたのだし、名誉や栄光では食べられないから必要としないのだと。
 迂闊な判断は出来ないが、やや行きすぎであるとは思う。
 そしてもう一度ニーナを見る。
 今度はなにやら考え込んでいるようだ。
 汚染獣戦に出ることはないカリアンだが、それでもどんな世界かは知っている。
 実戦を経た大人達の話も聞いた。
 生きて帰ることこそが最優先だと。
 そして貿易という戦場でも、やはり生き残るために必要ならば誇りを捨てることはある。
 幸いロス家はそんな憂き目にあわずに済んでいるが。

「成る程。良く分かったよナルキ君」
「いえ」

 未だに殺意の視線がカリアンに刺さったままだ。
 レイフォンとの試合以外に何かしたかと思い返してみたが、会ったのは今日が初めてだ。
 考えるまでもなく、何かあったはずはないのだ。
 そしてふと視線を感じて振り向いたことを、カリアンは後悔した。

「・・・・・・・」

 実の妹であるフェリも殺意の視線を送ってきていることに。
 なにやらナルキとアイコンタクトを繰り返しているようにも見える。
 もしかしたら、すでに小隊員レベルの強さを持ったナルキと、ツェルニ屈指の念威繰者であるフェリに襲われる日が来るかもしれない。
 この二人を敵に回して生きて行くことは、非常に困難だ。
 生徒会執務室に泊まり込むだけでは、不十分かも知れない。
 ヴァンゼの所にでも泊めてもらおうと決意を新たにした。
 カリアンがそう決意を固めるのを待っていたかのように、ゆっくりとした動作で少女達に歩み寄る影があった。
 オスカーだ。
 なにやら決意の色も堅く、ゆっくりと威厳のある動作でリーリンの前に立つ。

「失礼だが、マーフェス君は料理をするのだと思うのだが」
「? そうですが」

 いきなりの展開で動揺しているようだが、リーリンを第五小隊に入れようとしているわけではないと分かると、若干緊張がゆるんだようだ。
 そして、オスカーの手がゆっくりと懐に伸ばされる。

「これは正常な経済活動の一環なので、受け取って欲しい」
「はい?」

 出てきた手が持っていたのは、なにやら印刷された紙が一枚。
 いわゆるチラシというやつだ。
 端の方にミシン目が入っているところを見ると、割引チケットか何かが一緒に印刷されているのだろう。

「ローマイヤー食肉加工店?」
「うむ。私が経営している食肉加工店だ」

 そう言われてリーリンがチラシをしげしげと眺める。
 ゆっくりとその内容を理解するために、何度も読み返す。
 そして一言。

「何で小隊員がハムとかソーセージとか作っているんですか?」
「私の実家の家業だからだ」
「えっと? それって家では先輩だけが武芸者と言う事で?」
「いや。代々武芸者の家計だ。百年ほど前の先祖が趣味で始めてな」
「はあ」
「いつの間にか評判になり今では本業になっている」
「それは凄いですね」

 カリアンもその辺は知っている。
 オスカー・ローマイヤーという武芸者は、今現在ツェルニで食肉加工業を営んでいて、かなり流行っているらしい。
 小隊員という武芸者のエリートがやっていると知っている人は少ないが、非常に美味しいと言う事を知らない人間は居ない。
 実際に武芸と燻製を子供の頃から叩き込まれて、両方が好きだというオスカーであるからその腕はかなり凄いらしい。
 生憎と食べたことがないので良く分からないが。

「成る程。そう言うことでしたら今度寄らせて頂きます」
「うむ。君に料理されるのならばハムやソーセージベーコンも本望だろう」

 食べられて嬉しいと思うかどうかは別として、全く料理をしないカリアンがオスカーの店から色々買っても、結局として食材を駄目にしてしまうことは目に見えている。
 ならば、それなり以上の技量を持つリーリンに使ってもらうことの方が望ましいのは確実だ。

「トリンデン君にも渡しておいてもらえるかね?」
「はい」

 素直に頷いて二枚目のチラシを受け取ったところで、何故か急激に活動を停止。
 疑問を湛える大きな瞳がオスカーを捉える。

「何故私達の名前を知っているのですか?」
「アルセイフ君絡みでね。君達は割と有名なのだよ」
「そ、そうだったんですか」

 数日前の大通りでの痴話喧嘩に始まって、数々な揉め事を公衆の面前でやってのけたことを思い出しているのだろう、リーリンとナルキの顔が真っ赤に染まる。
 何故か嬉しそうなのはミィフィだけだが、彼女の場合きっと違うことを考えているのだろう。
 まあ、取り敢えずこの会場は平和だ。
 いつまでカリアンの周りが平和化と聞かれると、非常に疑問ではあるのだが、この会場だけは平和だ。



[14064] 第二話 十一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:e3a07af7
Date: 2013/05/10 20:51


 普段は決してやらないほど荒々しい足取りで歩きつつ、メイシェンはもうあまり怒っては居なかった。
 夕方と呼ぶにはやや暗い町を、かなりの速度で歩く。
 見られたことは多いに怒っているのだが、レイフォンが積極的に行動したわけでなく、どちらかというと被害者なのだ。
 加害者達への制裁はすでに終わっている。
 レイフォンに当たるのは間違いだと理性では分かっているのだが、なんだか納得していないのだ。

「メイ」
「ふぅぅんだ」
「あ、あう」

 こんな会話にならない会話が延々続いているのにも、そろそろ疲れてきた。
 そろそろ許しても良いかもしれないと思って、こっそりと横に立つレイフォンを見て、気が変わった。
 なにやら別なことを考えているのか、視線が明後日の方向を向いているのだ。
 更に溜息をついて落ち込んだりしている。
 怒っているメイシェンを放り出して、自分の世界に旅立ってしまっているようだ。
 メイシェン的にかなりきつい視線で睨み付けること三秒。
 やっと気が付いたようでこちらを見るレイフォン。
 だが遅い。

「メ、メイ?」
「ふぅぅぅんだ」
「あう」

 そっぽを向く。
 首の関節が嫌な音を立てるのではないかと言うくらいに激しく。
 メイシェンのことをほったらかしにして、他のことを考えている以上、制裁は必要だ。

「あ、あの。夕飯一緒に作ろうか?」
「ふぅぅぅぅぅぅんだ」
「あ、あう。か、買い物何処に行こうか?」
「ふぅぅぅぅぅぅんだ」
「あ、あう」

 取り乱しておろおろするレイフォンを引き連れて、メイシェンは歩く。
 買い物目的らしい生徒もいるのだが、メイシェンの前には誰も立とうとしない。
 また荒々しい足取りになっているが、本人にもどうしようもない。
 更に色々話しかけつつ付いてくるレイフォンを引き連れ、取り敢えず暫定的に四人で暮らしている寮へと向かう。
 ウォリアスが実際にどんな理由で、あんな事をしたかは分からないが、今問題にしなければならないのは隣にいるレイフォンだけだ。
 ヨルテムで知り合ってからこちら、色々なことがあった。
 ジェットコースターに一緒に乗ったり、料理を一緒に作ったり、一緒に買い物に行くことは日常茶飯事となっていた。
 ツェルニに来る直前のバス停では、とても思い出したくない辱めも受けた。
 その事件もウォリアスの登場で有耶無耶になってしまった。
 一昨日には寝ぼけていたとは言え胸まで揉まれた。
 しかもリーリンと二人掛かりで。
 中年の医師が怒ったせいで、こちらも有耶無耶になってしまった。
 今度という今度はきっちりと解決しなければならない。
 そうでないとなんだか困ったことになりそうだから。

「あ、あのメイシェン。今夜は僕がご飯作るよ」
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅんんだ」
「あ、あう」

 メイシェンが聞きたいのはそんな台詞ではないのだ。
 更に歩く速度を上げる。
 そろそろ限界速度だ。
 体力的にも関節の強度的にも。
 もしかしたら明日は、筋肉痛かも知れないほど限界が近い。

「あ、あのメイシェン?」
「・・・・・・・」

 呼ばれただけなので、無言で睨み付ける。
 メイシェン的には猛烈に怒っている視線なのだが、他の人から見るとさほどでもないと言われる。
 それでも必死の気迫を込めて、レイフォンを睨み付ける。

「ご、ごめんなさい!」

 とうとう平謝りに謝られた。
 周りの目も気にせずに。

「・・・・。いいよ。もうあんまり怒っていないから」
「ほ、本当?」
「うん」

 これでやっと許せる気がする。
 その心境の変化を察したのだろう、レイフォンの肩から力が抜けた。
 メイシェンの方も力を抜く。

「買い物に行こうか?」
「荷物、もって」
「うん」

 そっと手をつないで買い物をするために方向を変えた。
 まだ新入生が迷子になったりしているようで、都市中に人があふれているように見えるがそれもあまり気にならなくなっていた。
 とりあえず今は、この時間を大切にするために、買い物をしようと心に決めたのだ。
 
 
 
 交通都市ヨルテムの誇る武芸者集団、交差騎士団の中隊長以上が集まるオフィスの席に座り、パス・ワトリングは少々では済まない緊張を覚えていた。
 実際、中隊長以上が集まるオフィスと言っても、正確にはパスの席はこの部屋にはない。
 正式な役職名が中隊長補佐と言う事から、暗黙の了解としてここにいることを許されているのだ。
 では、中隊長補佐とは何をする役職なのかというと、数年後に中隊長になることがおおよそ決まっている、極めて過渡的な役職だ。
 副隊長とか言われることもあるが、現実的には普段の職務を学び、実戦においての部隊指揮を学ぶ。
 何処の誰だろうと、この中途半端な役職を通らずして上に行くことは出来ない、
 つまりここに席が有ると言う事は、将来の中隊長であり、ゆくゆくは交差騎士団長の席を狙えると言う事だ。
 当然挫折する人間も多いし、腕っ節だけが強くてなれる物でもないが、全武芸者の憧れであることは間違いない。
 ある意味、ヨルテムの武芸者の頂点近くにいることになったパスは、今年三十二歳。
 別段早くも遅くもない出世だ。
 おおよそ中隊長補佐になるのは三十から三十五歳くらいで、パスの三十二歳は極めて普通と言える。
 現団長はやや遅く三十七歳だったと記録されている事を考えると、補佐になる年齢は別段それ以降の出世には関係がないようだ。
 なぜ補佐になった年齢が高かったかと言う事は、公式な記録には残っていないが、噂によると結婚記念日にやってきた汚染獣を、独断専行で始末してしまったかららしい。
 三十年ほど前の話しだし、ただの噂ではあるのだが、本人を見ていると間違いのない事実であるように思えてくる。
 命令系統を無視したその行動で出世が遅れたというのも、納得の行く仮説だ。
 とは言え、ダンが正式に中隊長になったのは四十二歳の時。
 普通八年から十年ほど補佐を続けて昇進する物だが、五年というのはヨルテム史上最短の補佐在任期間だ。
 この一事を持ってしても十分にすごい人物である事が分かる。
 それはそれとして。
 パス自身は、この部屋を使うことを許された、ただ一人の女性だ。
 別段女性が差別されているという訳ではない。
 二十年前までは女性が団長を務めていたし、実力と人望それに政治力だけが物を言うのだ。
 そして、何故緊張しているかと聞かれれば、それは僅か四十時間前に就任したからに他ならない。
 縦横三十メルトルの部屋に二十人ほどの人間が居るが、それでも席は半分ほどしか埋まっていない。
 中隊は全部で十二個。
 一個中隊に補佐が二人か三人。
 そして、騎士団長の席もこの部屋にある。
 執務室を別に持っているのだが、そちらにいることとこちらにいることとは半々だ。
 言葉を交わす者は少なく、書類をめくる音だけが響く、静寂に支配されていたのはわずか二分前までの話。
 終業を知らせるベルがなるやいなや、猛ダッシュをかまして部屋を出て行く隊員が相次いだ。
 団長が愛妻家であることが功を奏したのか災いしたのか、残業をする人間はあまり多くない。
 パス自身も実は仕事は殆ど終わっているのだが、何となく早く帰ることに罪悪感を持っているのだ。
 悪いことではないのだが、何となく。
 平時である以上、書類仕事がその大半で、しかも中隊長補佐であるパスにそれほど多い仕事は回ってこないのだ。

「お前も適当で帰れよ」
「は、はい!」

 そんな事を考えていて、急に声をかけられた。
 パスの直属の上司である中隊長が、なにやら決意も固く席から立ち上がり肩を叩きつつ、出口を目指して行く。
 これから何か予定があるのか、それとも鍛錬に打ち込むのか。
 四十代中盤の男性だが、その貫禄というか迫力は下手をすると団長さえも凌駕しかねない強面だ。
 結婚しているという話は聞かないから、これから鍛錬に行くのだろうと思うが、その意気込みたるや凄まじい物を感じる。

「おお? そう言えば今日は発売日だったな」
「ああ! 俺はこのために生きているんだ。汚染獣だろうと団長だろうと邪魔はさせん!」

 なにやら鼻息も荒く、普段から怖い顔を更に怖くしている中隊長。
 それほどの用事があるのならば、早退してもかまわないのではないかと思うのだが、ここで疑問なのは先ほどの単語。
 上着を羽織る中隊長の邪魔にならない程度に、声をかけてみることにした。

「発売日とは、何ですか?」
「ああ? そうか。お前は知らないんだな」

 なにやら納得したのかしないのか、頷きつつマネーカードを確認する中隊長。
 残高が危ないなどと言う事はないはずだが、念のための確認だろう。
 レジに行ってから無かったのではその衝撃はあまりにも大きすぎる。

「しらねぇ方が良いと思うぞ」

 同じ中隊長補佐の先輩が恐る恐ると声を出すが、パスにとっては知らないことこそがもっとも不幸なことなのだ。
 わざわざ言う必要はないので、中隊長への疑問の視線を投げる。
 そして中隊長はパスの疑問に答えてくれた。

「エロ本だ」
「・・・・・・・・・・・・・。はい?」

 何かとんでもない物を聞いたようで、脳が処理を拒否している。
 これはあまりないことなのだが、もしかしたらこの先しょっちゅうあるかも知れないと本能が告げている。
 きっと間違いだろうが。

「エロ本。未成年の閲覧は許可されていない類の本の総称だ」
「・・・・・・・・・・・・」

 沈黙に陥る。
 そう言う物がこの世に存在していることは知っていた。
 弟がこっそりと集めていたのを発見して、半殺しにした上で焼却処分にしたこともある。
 ある意味でなじみ深いはずの単語なのだが、脳はやはり理解することを拒否しているようだ。

「だから言ったのに」

 先輩が言う通りに、聞かない方が良かったかも知れないと思う。
 だが、直属の上司の性格を把握しておくことは、この先の職務にマイナスではないとそう理性で強引に理解させる。
 ひどく脳の働きが遅いような気もするが、きっと気のせいだと自分に言い聞かせる。

「え、え」
「エロ本だ」

 表情がにやけていたら冗談で済んだ。
 セクハラ問題が出るかも知れないが、それなら何とか許容できる。
 だが、明らかに真剣で真摯で真面目な表情で言われた時、どういう対応を取ればいいか全く分からない。
 弟のように半殺しにする訳には行かないのは、間違いないと思うのだが。

「お前はエロ本に命掻けてるからな」
「ああ! エロ本こそ俺が命を掻けるに相応しいただ一つの物!」

 なにやら本当にエロ本が無ければ生きて行けないような気がするほど、中隊長は真剣に力んで部屋を出て行った。
 その後ろ姿に拍手を送る人間がいたような気もするが、絶対に気のせいでなければならない。
 中隊長の詰めるオフィスで、有ってはならない事だから。

「よ、世の中色々な趣味の人がいますね」
「だから止めろと言ったんだ」

 先輩からなにやら言われたが、それを聞き流して何とか体制を整える。
 みんながあんな社会不適合者ばかりではないのだ。
 多分。

「そう言えば、君のような反応をする団員はずいぶん久しぶりだね」
「え?」

 声をかけて来たのは、ダン・ウィルキンソンだ。
 重厚なその人柄と堅実な用兵が高く評価され、この十年交差騎士団長の座に君臨し続けている人物だ。
 だが、今問題にしなければならないのはそんな事ではない。
 当然のことだが、交差騎士団員の中にも女性は大勢いる。
 普通にエロ本などと言われて動揺しない女性がそうぞろぞろ居るとは思えないのだが、ほぼ武芸一筋で突っ走って来てしまったパスなので、同性の友達も多くない。
 なので断言は出来ないのだが、あんまり大勢いるとは思いたくない。

「そう言えば、最近で言えばレイフォンくらいですかね?」
「ああ。奥さんと留学したって言う」
「新婚旅行だろ? あれをした以上新婚旅行だ」

 なにやら、そのレイフォンとか言う人物の話題で、少しパスから注意がそれている間に体勢を立て直す。
 ゆっくりと深呼吸を繰り返して、精神を落ち着け。

「そ、その」
「ああ。君のように武芸一筋であった者は、おおよそそんな反応をするのだ。気にしてはいけない」
「は、はあ」
「かくいう儂もそう言う時期があった。前団長に良く虐められたよ」

 つまり、交差騎士団という組織の中にも武芸一筋ではない人間が大勢いると言うことになる。
 エロ本を買いに行く男性を見て、平然としている女性がいるくらいには。
 これは少々では済まない衝撃を受けてしまったが、深く追求してはいけないのだ。
 ダンがもっと衝撃的な事を言ったような気もするが、今は考えないようにしたい。
 なので違うことを考える。
 取り敢えず先ほど話題に乗った、レイフォンなる人物について考えたが。

「レイフォンという名前の団員は居ないと思うのですが」
「うむ。彼は正式な団員ではない。我々の教官と言うべき人物だし、あるいは教え子と言える人物だ」
「はい?」

 教官と教え子が同居している人物を想像しようとしたが、多重人格以外ではそんな事はあり得ないという結論に達した。
 確かにそれならば、正式な団員にすることははばかられる。
 だが、そんなまじめな思考も五秒と続かなかった。

「あいつもエロネタには弱かったですからねぇ」
「ぐふふふふふ」

 みんなで同じ光景を思い出しているのか、部屋が一種異様な雰囲気に包まれた。
 パスとしては猛ダッシュで今すぐ逃げ出したいところだが、団長との会話中にそれは流石に出来ない。
 なので話を強引に違う方向に持って行く。

「教官と言いましたが、それほどの実力を持った武芸者ならば、私が知らないと言う事はないと思うのですが」
「余所の都市から来たのだよ。そして今ヨルテムには居ない」
「そ、そうなのですか」

 なにやら危ない方向に話が進みそうだったのだが、逃げ道はない。
 そもそもそんな優秀な武芸者を、都市が外に出す訳がないのだ。
 実は架空の人物だと言われた方がしっくり来る。

「レイフォンとは七戦して四勝したが、もし彼が本気だったのならば我々は全く刃が立たなかっただろう」

 そう回想するダンから、若干距離を取る。
 ダン・ウィルキンソンと言えば、ヨルテムにおける最強の武芸者だ。
 剄量を始めとする力業なら勝てる人間は居るだろうが、駆け引きや相手の心理を読むことに長けたダンはただの武芸者ではないのだ。
 そのダンと戦って三勝を納めたとなれば、それは恐ろしい程腕の立つ武芸者と言う事になる。
 だが、問題は更に続くのだ。
 本気だったら刃が立たなかった。
 それこそあり得ないと思うのだが、実際にあったことなのだろう事は部屋の雰囲気から察することが出来る。
 本気ではなかったから勝てたというのならば、そうなのだろうと納得しそうになったのだが。
 それでも三敗しているのだ。
 どうしてそう言う戦績になったのか、是非とも知りたい。

「どうやって勝ったのですか?」
「ふむ。知らなければそれが良いこともこの世にあるのだぞ?」

 ここでもまたじらされた。
 知らないことが幸せなどと言う世迷い言を信じるほど、パスは愚かではないのだ。
 ついさっき体験した嫌なことは、強制的に忘却の彼方へと放り投げる。
 そして、失礼と思いつつモダンに詰め寄る。
 本能が何か訴えているような気もするが、あえて無視する。

「・・・。良かろう」

 何か決心したかのように、一つ頷いたダンが立ち上がった。
 そしておもむろに机を回りパスの前まで来て。
 その長身から見下ろされると、かなりの圧力を感じるがここで負けてはいけないのだ。

「知っているかね? 乙女には、(以下自主規制)」
「!!!」

 思わずのけぞる。
 それほどダンの言ったことは驚きだったのだ。
 こんな場でそんな単語が連続して出てくるという意味で。
 もちろんセクハラだし非常に下品な単語の連続だったのもある。

「っが!」

 パスが驚いている間に、額にデコピンを貰ってしまった。
 思わず尻餅をついてダンを見上げるほど、取り乱していたくらいだ。

「っと。このようなことを四回やって動揺している間に勝ってしまったのだ」

 流石に戦い巧者たるダンだと言うべきだろうか?
 それともただのセクハラ親父だと断罪すべきだろうか?
 それとも、こうまでしなければ勝てない武芸者だと、レイフォンを評価すべきだろうか?
 どちらにせよ、レイフォンという人物が被害者であることがはっきりとした。
 そして、絶望した。
 パス自身もここで、この連中と一緒に仕事をしなければならないのだ。

「良く分かりました」

 何とか体勢を立て直しつつ立ち上がり、ダンを睨み付ける。
 もはや尊敬は出来ない。

「貴方達が駄目な大人だと言う事が」
「ふむ。それを分かってくれるのならばこれに勝る僥倖はない」

 皮肉が通じないのか、それとも本当にそう思っているのか。
 ダンは小揺るぎ一つしない。
 それどころか、まさに威風堂々としている。

「そうだったのかぁぁ! 俺達は駄目な大人だったのか!」
「しまった! レイフォンに悪い見本を見せちまったぁぁぁ!」

 残っていた中隊長の何人かが、そう絶叫しているが、全く後悔していないことは十分に認識している。
 むしろ誇らしげにさえしている気がする。
 このエロボケ共を皆殺しに出来たら、さぞかし気分が良いだろうと思う。
 実行したとしてもきっと裁判で無罪が言い渡されるだろうとも思う。
 それくらい酷い有様なのだ。

「あわてるで無い皆の者」

 その絶叫を遮ったのは当然のようにダンだった。
 そしてやはり威風堂々とこう言うのだ。

「レイフォンにとって我々は反面教師なのだ。ならば駄目な大人を示し続けなければならない!」

 何故か、賛同の波動が部屋を支配する。
 絶望を通り越して、虚無の境地に達しそうだ。

「ぬふふふふふふ」

 何故か不気味に健やかに笑っているダンに、殺意の視線を叩きつける。
 無論そんなことでどうこうなる訳ではないのだが。

「良い目になったではないか。そのくらいの覇気がなければここではやって行けぬぞ」
「恐れ入ります」

 一瞬の隙でもあったら、その喉にショートスピアを叩き込んで切り落としてやろうと狙っているのだが、当然そんな物は存在しない。
 全く持って残念だが。

「それよりも、そのレイフォンとはどんな人なのですか?」

 ダンが勝てない人物についての興味もあるが、レイフォンと組み手をすることが出来れば得る物は多い。
 純真な人らしいので、エロ親父共を皆殺しにした後、交差騎士団をしょって立ってくれるだろう。
 パスと二人で。

「うむ。今ツェルニに留学しているのだが、君があと少し速く就任していれば良い影響を受けた物をな」
「レイフォンさんがですね」
「当然だ」

 やはり、少し無理をしてでもここで殺すべきかも知れない。
 そう決意したパスだったが、その後語られたレイフォンの過去に少なからず衝撃を受けてしまった。
 そして思った。
 もっとましな大人は居ないのかと。
 
 
 
 
 
 
  虎徹について。
 1596年頃から1678年頃
 元々は鎧職人だったが晩年になって刀工に転身。
 江戸初期に竹刀が開発されその形に添った刀がはやる。
 初期の刀はこの流行に即した物で、殆ど反りがない。
 ナルキの錬金鋼はこちらが原型。
 後年になると反りのある刀を作り、こちらの方が評価は高い。
 虎徹の銘のある物はほぼ全て偽物であるらしい。
 
 
 
 
  後書きという名の言い訳。
 
 はい。さんざんお待たせしましたが第二話目を投稿させて頂きます。
 幼生体戦まで行きませんでした。
 おまけに色んな伏線まで張ったり、色々原作からかけ離れたりしています。
 この続きは現在制作中ですが、公開は七月中になると思われます。
 伏線を回収しつつ、疑問点を解決しつつ幼生体戦まで行くつもりです。
 
 さて。虎徹と村正ネタは殆ど使ってしまいました。
 この後の刀ネタはどうしましょうか?
 
 それはそれとして。昨年末に買ったレギオスの十三巻目を読み終わりました。
 途中に狼や竜、宇宙人に白骨死体に幽霊が見えるお巡りさんと浮気しつつです。
 そして、読み終わって一つ気がつきました。
 鋼殻のレギオスという作品全般に感じていた違和感の正体に気がつき、一つの結論に達しました。
 あえて言わせて頂きます。
 鋼殻のレギオスという作品の主人公は、ニーナ・アントークであると!!
 思い返してみれば、第一巻の冒頭のシーンはニーナからでした。
 ニーナがいたからこそレイフォンは活躍したのです!
 この前提に沿って進むと、レイフォンは便利グッズという位置に落ち着くと思います。
 ニーナが力をつけて天剣を持つまでの時間稼ぎという意味で。
 第十三巻でそれが達成されたので、レイフォンの出番はこの先少なくなって行く事でしょう。
 完結する頃には、名前さえ出てこないモブに落ち着くかも。違うと思うけれど。
 そして、第十四巻はどうしましょうか? 手元にはあるんだけれど、かなり厚い。



[14064] 閑話 赤毛猫の一日
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:0e4370c9
Date: 2013/05/11 22:13


 おっす!
 みんな元気か? シャンテ・ライテだぞ。
 今朝は、ゴルがなんだか用事で先に出かけたんでシャンテ一人で通学だ。
 偉いだろう?
 でも、朝ご飯を食べる時間がなかったんで、歩きながら食べているんだ。
 良い子のみんなは真似したら駄目だぞ?
 何かをしながら食べるのは身体に悪いからな!
 それでだけどな! 校舎まで行く途中に、凄く変な物を見つけたんだ。
 何だと思う?
 シャンテの見ている先には路面電車の駅があるんだけど、駅自体は普通なんだ。
 当然、駅にはベンチがあるけど、そのベンチに座っている人物に見覚えが有るんだ。
 オスカー・ローマイヤー。
 シャンテが副隊長をやっている第五小隊にいる、長身でやや細めの身体を持った鋭い感じのする六年生だ。
 ゴルには全然及ばないけど格好いいぞ!
 当然ここに居ることは全然問題無いんだ。
 六年生の校舎はかなり遠いけど、路面電車を待っているみたいだから、きっとこれから授業なんだ!
 もしかしたら、朝の仕事の帰りかも知れないからな!
 もしかしたら、失敗したソーセージとかもらえるかも知れないから声をかけてみるぞ!

「おっす!」

 取り敢えず元気な挨拶をしてみたぞ!
 ベンチに座って膝の上に乗せたお盆で、器用にご飯を食べているオスカーに。
 深皿に入ったスープはまだ温かいみたいで、柔らかそうな湯気を上げているぞ。
 ロールパンには切れ目が入っていて、苺ジャムらしき物が挟まれているな。
 シャンテはマーマレードの方が好きだけどな!
 平たい皿にはスクランブルエッグと思われる物とサラダまで乗っている。
 それをホークとナイフを使って礼儀正しく食べているんだ。
 これがオスカーの部屋だったら全然問題無いけれど、通学路だから問題だ!
 色々な人が通り過ぎている場所なんだ。
 当然他の生徒にも注目されているけど、何故か二年生以上はそのまま通り過ぎている。
 シャンテは始めて見るけどきっとみんな見慣れているんだな!
 驚いてるんだぞ、これでも!

「おはよう副長。今日も良い天気だね」

 シャンテに向かって挨拶しながら、綺麗に食事を続けるオスカー。
 シャンテもあんな風に食べてみたいぞ。
 嘘だけどな。
 礼儀正しく食べるとお腹壊すからみんなも止めるんだぞ!

「座って食べたらどうだね? それでは消化に悪いだろう」

 礼儀正しくそう言われたぞ!
 シャンテは別に平気だぞ!
 でも、なんだかしゃくだからオスカーの隣に座ってみるんだな。
 ゴルは時々綺麗に食べているけれど、きっとお腹壊したいんだ。
 授業サボる口実になるからな!

「いや。そろそろ授業じゃないか?」

 座ってから言うのも変だけれど、もうすぐ遅刻するんじゃないかって時間だと思うぞ?
 シャンテは平気だけどな。
 そんな事を思っているけれど、シャンテは驚いているんだ。
 音を立てずにスープが口の中に消えてるからだ。
 どうやっているかさっぱり分からないけどな!
 やっぱりオスカーも授業をサボりたいんだな、
 朝ご飯を食べていて遅くなったって言い訳するつもりなんだ。
 シャンテが言うんだから間違いない!

「うむ。確かに授業に遅れると言う事はよろしくないな」

 あれ?
 違うのか?

「さて。朝食も終わったことだし行くとするか。副長も授業に遅れん様にな」
「お、おう」

 オスカーがいなくなった場所を活剄を使って調べてみたけれど、食べかすが全く落ちていなかったぞ!
 信じられない。
 きっと、アルセイフと同じ化け物に違いない。
 シャンテが言うんだから間違いないぞ!
 
 
 
 午前中の授業を殆ど寝て過ごしたからお腹が減ったんだな。
 頭を使うとなんだかお腹が減らないのは、シャンテだけじゃないと思うけど、みんなどう思う?

「あ、あのぉ先輩?」

 目の前ではアルセイフが恐る恐るとシャンテに声をかけているんだ。
 きっとシャンテの迫力に恐れをなしているに違いない!
 今なら殺れるかな?
 でも、ゴルはもう怒っていないって言っていたから手は出さないけれどな。

「上げませんよ?」

 なんだか美味しそうな弁当を食べているんだ。
 それもかなり大きな箱に入った奴だ。
 殺したくなるくらいに羨ましいぞ!

「む! 先輩である私にご飯をおごるのは善行なんだぞ? この後きっと良いことがあるぞ」
「い、いや。先輩に睨まれるとそれだけで悪いことが」

 なんだかアルセイフのやつはシャンテを誤解しているようだ。
 ここはきっちりと言ってやらないといけないな。

「私はお前のご飯が欲しいんじゃない! メイシェンのお菓子が欲しいんだ!」
「さっきと言っていることが違いますよ。それにお預けの最中でしょう?」

 む? なかなか良い記憶力をしているな。
 少し殺したくなったぞ!
 でもゴルに止められているから手は出さないぞ。
 偉いだろう?

「そこでお前だ!」
「僕ですか?」
「お前のお菓子を私におごれば全て丸く収まる! さっき言ったことも間違ってない!」
「ああ。成る程」

 やっと納得してくれたようだ。
 記憶力は良いけれど頭が悪いな。
 まあ、ゴルみたいに頭も良くて強いやつなんかそうそういないけどな!
 だけど、シャンテには少し納得がいかない事があるんだ。
 この際だから聞いてみよう。

「だいたい何でお前は毎日お菓子を食べられるんだ?」
「なんでって」

 困った顔をしているな。
 言いたくないのかな?
 は! 分かったぞ!

「そうか! 毎日メイシェンにアルセイフのミルクを飲ませているからお菓子をもらえるんだな!」

 何故かシャンテがそう言った途端、教室にいた男共の半分くらいが噎せたり吹いたりしている。
 女生徒も何人か驚いたりしているようだな。
 みんなの視線がアルセイフに突き刺さっているぞ?
 もしかしてみんなもお菓子が欲しいのか?
 駄目だぞ? メイシェンのお菓子はシャンテのだからな。
 アルセイフをみんなで襲うんだったら止めないけどな!
 まあ、それはそれとして、なんかあったのか?
 シャンテは何にもしてないぞ?

「いやいや。僕お乳出ないですから」
「出ないのか?」

 これはビックリだ。
 帰ったらゴルに教えてやろう。

「牛だって、雄はお乳出ないでしょう?」
「! そうか! そうだったのか!」

 また一つ勉強になった!
 人間の雄もお乳は出ないのか!
 ゴルは結構おっきな胸しているけど出ないんだな。
 念のために今度試してみよう。
 だけど、そうなると。

「そうか! 今度こそ分かったぞ! 毎日メイシェンのお乳を絞っているんだな!」
「っぶ!」
「ひゃっ!」

 いきなり食べていた物を吹き出すアルセイフ。
 もったいないじゃないか。
 それと何でメイシェンまで驚いて胸を隠しているんだ?
 さっぱり訳が分からないぞ?

「せんぱい?」
「なんだ?」

 だけどメイシェンのあれは凄いよな。
 一杯でそうだ。
 お菓子がもらえるなら毎日絞っても良いぞ!
 いや。まてよ?

「そうか。そう言うことなら私が毎日お乳を絞りに」
「先輩先輩」

 脱力し尽くしたアルセイフが、シャンテの服の袖を引っ張る。
 なんかあったのか?

「そう言うこと言ってるとお預けの期間が延びますし、実際にやったら二度ともらえませんよ」
「!! そ、そうなのか?」

 これはもう驚きだ。
 折角、良い手だと思ったのに。

「なら何でお前は何時ももらえているんだ?」
「なんでって」

 暫く考え込んでいるけれど、やっぱり人には言えない秘密が有るのか?
 もしかして、本当は毎日搾っているけれど、シャンテに渡さないために黙って居るつもりか?
 そんな事は許さないんだぞ?
 ゴルに止められているけれど、殺っちゃうぞ?

「食事の準備とか片付けとか、掃除とか買い物とか、毎日じゃないですけれど手伝っているからじゃないですか?」
「!! そ、そうだったのか!! お手伝いをしていればお菓子がもらえるのか!!」

 こ、これは驚いた!
 まさかそんなことだとは思いもよらなかった!
 良し。これから毎日メイシェンの手伝いを!

「いきなり難しいことすると失敗しますから、まずはゴルネオ先輩のところで修行してからの方が良いのでは?」
「!! おう! お前頭良いな!」

 さっきは悪いと思ったけれど、アルセイフはもしかしたら頭が良いのかも知れない!
 やる事が決まったんだったら突っ走るだけだ!

「じゃあ私はゴルのところに戻るからな!」

 窓枠を蹴って一気に一年の校舎を飛び出した。
 目指すはゴルのいる教室だ!
 
 
 
 結局ゴルの手伝いをしたら怒られた。
 何でだ?
 着替えを手伝っただけだぞ?
 良く分からないな。
 でも、それも今はどうでも良いぞ!

「拳に剄を集中させて、化錬剄の変化を起こさせて固定しますよね」
「ああ」

 ここは練武館の第五小隊用の訓練室だ。
 始めてアルセイフのやつがここに来て、ゴルになんだか説教している。
 偉そうなやつだ。
 ゴルに怒られた腹いせに今夜襲っちゃうぞ?

「で、固定したら手袋とか服の袖を脱ぐように、ただしそっと手を引き抜きます」
「う、うむ」

 巨大化したゴルの拳から、恐る恐る手が抜けていくのを見ながら、シャンテはソーセージを頬張るぞ!
 アルセイフは何時でも殺れるけどソーセージは今しか食べられないからな。

「剄の細い糸みたいな物でつながっていますから、暫く放置しても存在し続けます」
「な、成る程」

 さっきからなんかやっているけれど、千手衝とか言う技をゴルに教えているらしいぞ。
 シャンテも今気が付いた。
 でも、ゴルがこれを体得すればシャンテはもっと一杯ご飯が食べられるんだ。
 頑張れゴル。

「それでここからが難しいところなんですが、少しずつ大きさを変えて行きます。ゆっくりと慎重に繊細に」
「う、うむ」

 額に汗が浮かんだゴルは格好いいぞ!
 ゴルの前に浮かんでいる拳は少しキモイけれどな!

「あ」
「ああ」

 だけど、あっという間にその拳が消えちゃったんだ!
 これは驚きだ。
 どのくらい驚いたかというとだな。
 えっと。思わず食べかけていたソーセージをこぼしたくらいに驚いたぞ!

「まあ、ここが一番難しいので仕方が無いですよ」
「そのようだな。だが、これを拡張すれば千人衝になるのか」
「剄の総量もそうですが、他にも少し難しい事がありますから、すぐには出来ないでしょうけれど」

 そうなのか?
 聞いていると簡単そうだぞ?
 焼いたソーセージが無くなったんで、シャンテも訓練に参加してみるんだな。

「こうか?」

 拳に剄を込めて大きくするのは、前にゴルに習っているから出来るんだ。
 凄いだろ!

「・・・・。それはそうなんですけれど」
「・・・・・。ああ。たしかにそうなんだが」

 アルセイフだけじゃなくてゴルの顔も少し変だぞ?
 何だ?

「副長。それは拳ではなくてソーセージだ」
「ぬ?」

 しげしげと見てみると、どう見ても拳にしか見えないな。
 だけど、捻ったら分かったぞ。
 指に全部切れ目が入っているんだ!
 焼いたら美味しいかも知れないぞ!
 嘘だけどな!

「取り敢えず、そこから拳を抜いて」
「ぬ? ぬぬぬぬ?」

 抜けないぞ?
 服ってどうやって脱ぐんだったっけ?
 えっと。
 そう言えば、着替える時ってたいがい他の人がクジ引きでやってくれていたな。
 みんなシャンテが着替えようとすると集まってきて、色んな物に着替えさせようとするんだ。
 便利だけれど、急いでいる時は少し困りものなんだぞ!
 とりあえず、今はこれを何とかしないといけないな。
 そうだ。ここはやっぱり。

「ゴル。脱がせてくれ」
「っぷ!」

 いきなりゴルが吹いたぞ?
 シャンテは何にも変な事言ってないぞ?
 今日はこんな事ばっかりだな。
 取り敢えずゴルは脱がせてくれないようだから、シャンテが頑張って脱ぐんだ!
 足で拳を押さえてみたけど、全然脱げない。
 足の裏で押さえているから結構スカートが邪魔なんだけれど、シャンテはがんばるぞ!
 もっと力を入れようとしたらオスカーに止められた。

「副長。副長にはまだ無理なようだから、取り敢えず休憩したらどうだね?」
「む? さっき休憩したばかりだぞ?」
「そうかね? ソーセージを焼いて砂糖楓の樹液をかけた物があるのだが」
「! 食べるぞ」

 ソーセージが気になったら、すぐに拳が普通の大きさに戻ったぞ!
 これで食べられる。

「シャンテ先輩って、いくつですか?」
「俺と同い年のはずだが」

 頬の赤いアルセイフとゴルがなんだか変な事を言っているけれど、シャンテには関係ないんだな。
 取り敢えず食べる事に忙しいんだ。

「それにしてもそのソーセージ、どうしたんですか?」
「これかね? 私が食肉加工業を営んでいるのは知っているね?」
「はい。チラシをもらっているので」
「あれは私の作った試作品だよ。香辛料の量を間違えてしまってね。少々きつい味になってしまってね」
「ああ。それでシャンテ先輩にあげたんですか」
「ああ。君もどうだね?」
「僕が手を出して、血を見ないですか?」
「・・・・・・。見るな」

 なんだかシャンテのソーセージを盗ろうという相談があったみたいだけれど、平和は守られたみたいだな。
 これで心置きなく食べられる。
 でも、メイシェンのお預けっていつまで続くんだろう?
 うぅぅぅん?
 やっぱりアルセイフを殺してシャンテが独占するか?

「シャンテ」
「むわ?」
「今お前、物騒な事考えただろう?」
「!」

 さ、流石ゴルだ。
 シャンテの事なんかお見通しなんだな。
 凄いぞゴル。
 すぐに千人衝も出来るようになって、アルセイフをぶち殺せるな!
 その時助けになるために、シャンテも頑張るぞ!
 取り敢えず今は栄養付けとこう。
 と言う事でシャンテは食べるので忙しいから、また今度な!
 
 
 
 後書きに変えて。
 はい。復活の時第三話の前祝いとして、こんなのを作ってみました。
 主役は当然シャンテ・ライテ。
 折角主役にしたのに、何故か食べ物の話題しか出せませんでした。
 いや。なんだかそんな気がしたので。
 ちなみに。
 砂糖楓の樹液というのは、メープルシロップの事です。
 焼いたソーセージにかけて食べるのは、ケベック風の食べ方だとか。
 正しい知識ではないかも知れないので、知ったかぶりは危険です。

 第三話は、完成しているので来週から毎週更新する予定です。
 完成してしまっているので、途中で大きな変更が出来ないことを予めご了解ください。
 では本編で。



[14064] 第三話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ca8aed40
Date: 2013/05/11 22:13


 昼間の間に行われた鍛錬の熱が残る、夕闇が迫るサイハーデンの道場の床に寝転んだリチャードは、全く動き出そうという気配を見せない。
 それは当然だ。
 つい先ほどデルク自身の手によって止めを刺したのだ。
 錬金鋼と同じ重さの木刀でのことだが、それでも武芸者ではないリチャードに対して打ち込んだ物としては過去最大。
 何故そんな大人げないことをしてしまったかと聞かれたのならばこう答える事しか出来ない。

「いつの間に実力を付けたのだ?」
 
 気付かぬ内に実力を付けていたために、思わず振るってしまったのだ。
 活剄で強化していないとは言え、鍛え抜かれた武芸者の身体から迸った力は、とうてい十五歳の少年が受け止められる物ではなかった。
 いわゆる気絶をしているのだ。
 一応確認したが、骨折などの怪我はしてないようだ。
 とは言え、数日は身体を動かすことが困難な状況になることは明白。
 しばらくは出前や出来合いの食事にしようと心に誓った。
 それに掃除もデルクが受け持つ方が良いだろうとも思う。
 それくらいには強烈な攻撃を打ち込んでしまったのだ。

「良く死んだ」

 そんな決意を固めている頃合いになって、やっとの事でリチャードが目を開けた。
 言っていることが少々物騒であるが、もしかしたら臨死体験をしたのかも知れない。
 とは言え、死んだ人間は蘇らないのだが、その辺は綺麗に流した方が良いのかも知れないとも思う。

「突っ込みくらい欲しいな。言った俺が馬鹿みたいじゃないか」
「う、うむ。突っ込んで良い物かどうか迷ってしまってな」

 どうやら、突っ込まなければならないところだったようだ。
 この辺の会話の機微はかなり疎いと実感はしていたのだが、どうやらまだまだ修行が足らないようだ。
 恐らくレイフォンも同じような苦労をこれから先することになるだろうと少し不憫に思う。

「それで夕飯何にする?」

 全く何時も通りとは行かないが、心配したほど酷い状況ではないようでゆっくりと立ち上がる。
 とは言え、これから食事を作るとなるとかなりの負担になることは間違いない。
 それはあまり歓迎できることではないのだ。

「今日は出前にする」
「ああ? それは拙いだろう。お客さんもいることだし」
「なに?」

 リチャードが意味不明なことを言っている。
 これはもしかしたら病院に連れて行った方が良いかもしれない。
 頭に攻撃した訳ではないのだが、倒れた時に打ったのかも知れない。
 そう思ったのだが、視線がデルクを捉えていないことに気が付いた。
 今日の鍛錬はもう終了している。
 道場にいるのはデルクとリチャードだけのはずだが、入り口付近を見つめているのだ。
 もしかしたら幻が見えるのかも知れない。
 救急車を呼ぶべきだと判断したデルクだったが。

「いやいや。驚いたねぇ」

 そんな軽い言葉と共にいきなり人が現れた。
 いや。それは恐らく違う。
 殺剄を使ってこっそりと、こちらを観察していたのだろう事が分かった。
 熟練の武芸者であるデルク相手にそんなことが出来る人間は、このグレンダンがいかに広かろうと数えるほどしかいないはずだ。
 そして、現れた人物はそれが確実に出来る。
 それは何故か。

「クォルラフィン卿?」

 鍛え抜かれた身体と銀髪。
 何時も穏やかに微笑んだ甘い表情。
 だが、その視線だけは鋭くリチャードを見つめている。
 そして何よりも他を圧倒する存在感。
 それはグレンダンが誇る天剣授受者の一人、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスだ。
 普通に考えれば、こんな零細道場にやってくる人物ではない。
 レイフォンがいるのならばまた話は違うのだが、今はここにはいないのだ。

「何かご用でしょうか?」

 一瞬で心身を戦闘態勢へと移行させ対応する。
 これは拙いことになるかも知れないと思った。
 何が拙いかは全く分からないが、良くないことが起こる予感という物が、ひしひしとデルクを締め上げる。
 今更レイフォンの罪を問いに来たとは思えないが、他に用事らしい用事を思いつくことが出来ない。

「いやね。レイフォンが普段どんな事をやっていたのか興味がわいてね。少々覗かせてもらったよ」

 全くなんでもないことのように、微笑みつつそう言うサヴァリスだが、天剣授受者にそんなことを言われて鵜呑みに出来るほど、デルクは大人物では無い。
 いや。天剣授受者相手にそんなことが出来る人間が、このグレンダンにいるとはとうてい思えない。
 レイフォンには出来るかも知れないが、あれは別格だ。

「へえ。それで昼頃からずっと見てたんだなオッサン」
「・・・・? おっさん?」

 だが、そんなデルクのことなど知らぬげに、言ってはいけないことをリチャードが言ってしまった。
 今日、サイハーデンは終わりを迎えることだろう。
 天剣を怒らせてしまった武門としてグレンダン史上にその名をとどめることはあるかも知れないが、実質的には今日終わる。

(い、いや。レイフォンがいる。それにヨルテムを始めとする都市に技と心は残る)

 決意して、せめて一太刀と錬金鋼に手が伸びる。
 もちろん、どんな間違いがあってもかすり傷一つ付けることは出来ないが。
 それが一般武芸者と天剣授受者の差だ。
 だが、事態はデルクの覚悟などお構いなしに進む。

「オッサンは酷いな。僕はまだ若いんだよ?」
「ああ? 兄貴よりも上ならオッサンだ」
「兄貴というとレイフォンだね? そうするとグレンダンにいる人の殆どはオッサンだね」
「ああ? オッサン頭悪いな。女の人がオッサンなわけ有るかよ」
「! 言われてみればそうだね。君は頭も良いのだね」
「当然だろう? 兄貴をそそのかして悪戯を成功させていたのは俺なんだからな」

 何故かタメ口の応酬が起こっている。
 これはもしかしたら走馬灯かも知れない。
 いや。もしかしたらすでにサヴァリスと戦い、有るかどうか不明ではあるのだが、死後の世界にいるのかもしれない。
 あり得ない状況に、熟練の武芸者であるはずのデルクの思考が止まる。
 戦場では決して有ってはならないことだ。
 いや。戦場ではないからかまわないのかも知れない。

「取り敢えずオッサンは止めて欲しいのだけれどね?」
「兄貴は駄目だぞ? もういるから分からなくなる」
「ふむ。では、サヴァリスと呼んでくれて良いよ。公式な場では駄目だけれどね」
「なら俺のこともリチャードと呼ばせてやる。光栄に思え」

 なにやら、信じられないことが立て続けに起こっているような気がするので、取り敢えず深呼吸をして心を落ち着ける。
 まずはお茶を出すべきだろうと考える。
 生憎と良いお茶はないが、出さないという選択肢はないのだ。

「ところでリチャード」
「なんだサヴァリス?」
「もしかして死にかけたら剄脈が出来たりしないかな?」
「ああ? そんな事があったらこの世の中武芸者であふれているだろうに」
「成る程。確かにそうだね」

 和やかに笑う二人から距離を取る。
 もしかしたらこれがジェネレーションギャップというやつかも知れない。
 デルクには信じられないことでも、当人達にとってはごく普通の出来事なのだろうと結論づける。

「それで、飯食って行くか?」
「ふむ。そうだね。お呼ばれしてしまおうか」

 なにやら現実的な世界に二人が戻ってきたようだ。
 天剣授受者と息子の作った家庭料理を食べる。
 かなり現実離れしているような気もするが、突っ込んではいけないのだろう。

「・・・・・。リチャード」
「ああ?」
「ここは突っ込むべきところか?」
「・・。どの辺に突っ込みたい?」

 訪ねられたが、何処にしたらよいか全く分からないのが現状だ。
 取り敢えず食事にしようとしか言えない自分を、デルクは少しだけ恥じた。
 
 
 
 セクハラまがいの作戦を立ててしまった加害者として制裁を受けているウォリアスは、夕食の後片付けを命じられていた。
 当然ヨルテム三人衆の寮でのことだ。
 ウォリアス自身の部屋は全く片付いていないことを考えると、非常に問題のある行為ではあるのだが、まあ、代償としては安いと諦めるしかない。
 家族用のアパートという感じの部屋には、近々他の寮へ移動するリーリンの荷物が隅に置かれているが、今夜も仕事があるレイフォンはすでにここには居ない。
 そして、今夜ウォリアスが呼ばれた本当の目的が、リーリンの荷物の中から現れた。
 きっちりと片付けを終え、エプロンで手を拭きつつそれを見る。
 実際に見るのは始めてだが、これが誰に送られた物で何なのかは理解している。

「錬金鋼が入っていそうだね」
「ええ。サイハーデンの免許皆伝の証として、鋼鉄錬金鋼が入っているのよ」

 大きめのお菓子の箱といった感じだが、中に入っているのはある意味レイフォンの今後を変えるかも知れない品物だ。
 丁寧に布で巻かれたそれは、非常に重厚で厳かな雰囲気を持っている。
 武門の本場と言われるグレンダンで、零細ながらも延々と続いてきたサイハーデンの免許皆伝の証。
 そこに込められた意味はウォリアスが思うよりも重いのだろう。

「だがしかし」

 ウォリアスは少しだけ疑問を持ってしまった。
 まさかの展開こそが人を混乱させて、決定的な隙を作る。
 今日のレイフォンのように。

「中身って、本当に錬金鋼?」
「あのね。ウォリアスじゃないんだから、そんな悪戯しないわよ」

 確かに、デルクという人がそんなことをするとは思っていないのだが。
 逆に言えば、人物像を僅かでも知っているのはデルクだけなのだ。

「箱を開けたらさ、引っかかったねレイフォン、とか書かれた紙が出てきたりとか」

 辺り一面がしんと静まりかえる。
 そんな紙が入っていたら、レイフォンは再起不能の大怪我を負ってしまう。

「蓋を開けたら、バネの力で拳が飛び出してくるとか」

 直撃したら最後、即死しかねない。
 無いとは思うのだが、絶対にとは言い切れない。

「だ、大丈夫よ。父さんにそんなことするセンスはないから」
「やりそうな人はいる?」
「・・・・・・・・・・・・。一人だけ」

 ウォリアスの質問に答えるために時間がかかったのは、リーリンが該当する人物を捜していたからではない。
 否定する根拠を探していたのだ。
 それは十分に理解できる。
 そして、心当たりが出来てしまったリーリンに、先ほどウォリアスが出した懸念を否定することは出来ない相談だ。
 そんなコメディーをやりつつも、ウォリアスの脳は実は違う方向で働いている。
 何故未だにレイフォンは刀を使わないのだろうかと。
 ナルキやリーリンの話を総合すれば、刀を持っていてもおかしくはない。
 レイフォンに未練がないのならばそれはそれで良いのだが、流津君村正を持った時のことを考えると明らかに未練がある。
 ならばもっと違うところに問題が有ると考えなければならない。
 そして、実は時間があまりない。
 今日の試合で刀を持ったナルキと、剣を持ったレイフォンが戦ってしまった。
 師弟でどうして武器が違うのかと疑問に思う人間は、間違いなく出てくる。
 あの場で問題が表面化するのを押さえることは出来たが、この次はない。
 最低でもオスカーは変に思っていたし、ヴァンゼやゴルネオも今頃は気が付いているはずだ。
 カリアンも気が付いているはずだが、繊細な問題であることを認識しているはずだから問題はないはずだ。
 そう。問題なのはニーナだ。
 彼女の性格からすると、確実にその事をレイフォンに問いただすだろう。
 最悪の予測として、刀を持てと詰め寄るかも知れない。
 それまでに何とかしなければならない。
 何とかしなければならないのだが。

「さてさて。どうやってレイフォンに話を聞いた物かね?」

 視線の先では、女性四人が箱を開けようかどうしようか迷っている。
 考えをまとめるための時間稼ぎだったのだが、どうやら思わぬ方向に話が進んでしまいそうだ。
 女性陣がそんな状況なのでウォリアスは更に考えに沈み込む。
 レイフォンが刀を持たない理由について。

「・・・。やめた」

 数秒の思考の後、考えることを放棄した。
 不確定要素が多すぎて、全く絞り込めないのだ。
 それに、本人に直接聞けばいいのだ。
 何故剣を使い続けているかを聞くだけならば、そんなに激しい反応は来ないだろう。
 もし、どうしても刀を持たないと決意してしまっていたのならば、レイフォンのその気持ちを優先しても良いかもしれない。
 その場合リーリンがやや可哀想ではあるが。

「も、もしかして、賞味期限が短いお菓子かなんかが」
「い、いや。レイとん甘い物はヨルテムに来るまで苦手だったはずだし」
「で、でも、今は食べられるからもしかしたら」
「父さんも甘い物はあまり好きじゃないから、お菓子はないと思う」

 話を振っておいてなんだが、かなり逸脱が過ぎるとも思う。
 そもそも、錬金鋼以外の物が入っていると決めつけているように思えるのだが、もしかしたらウォリアスの認識が間違っているのかも知れない。
 ただ、話の流れが面白いので、そのまま続きを聞きつつ頭の半分で考えを続ける。
 もし、レイフォンを含めてあまり納得が行かない理由で、刀を持たないと決めていた時の対応だ。
 説得するのは簡単だし、刀を持たせるのもやはり簡単だ。
 逃げ道をふさいで他の選択肢を潰せばいい。
 自主退学という選択肢は潰せないが、今の状況から考える限りにおいて、レイフォンがツェルニを去る危険性はかなり低い。
 だが、その方法では駄目なのだ。
 レイフォン本人が悩んで考えて迷って、そして決断しなければ害だけが残ってしまう。
 最悪、誰かの言う事を聞いていればいいとレイフォンが思ってしまうかも知れない。
 そうなったら最後、ただの戦闘機械に成り下がってしまう。
 断固としてそれだけは避けなければならないのだ。

「やっぱり一度開けて中身を確認して」
「だ、駄目だ! これは神聖にして不可侵なんだ。中身を見るなんて言語道断だ」
「あ、あう。でももし錬金鋼が入っていなかったら、レイフォン死んじゃう」
「そ、そうよ。あの馬鹿に冗談が通用するわけ無いわ。きっと即死よ」

 まだまだこちらの結論も出ないようだ。
 しかしリーリンも気が付いて欲しいと思う。
 そこまで底意地の悪い人間が居たのならば、リーリンはもっと速く箱の中身に疑問を持ったはずだと。
 つまり、中身は間違いなく錬金鋼だ。

「いや。間違って臍の緒が入っているとかもあるかも知れない」

 世の中何が起こるか分からないのだ。
 そのくらいの冗談は覚悟しておかなければならない。
 レイフォンは真面目だから、その辺無理なのだろうが。
 と、ウォリアスの思考も徐々に女性陣に引っ張られているようだ。
 ここは頑張って軌道を修正する。
 レイフォンが刀を持つと何が変わるだろうかと。
 戦闘能力ではない。
 若干の違いはあるだろうが、大きな差はないはずだ。
 後は、レイフォンの戦いに望む気持ちは変わるかも知れない。
 これは大きな変化だ。
 今日の様に、戦う度にレイフォンが追い詰められるという事態を避けられる。
 ナルキとの試合は、恐らくレイフォンの中では稽古の一環として処理されているのだろう。
 だからあれほど楽しそうだった。
 とうてい平常心とは言えないけれど。
 他の三組との試合も、稽古の一環として処理してくれていれば良かったのだが、そこまで期待することは今のところ出来そうもない。
 その追い詰められたレイフォンを平常心へ復帰させるために、セクハラまがいのショック療法を使ったのだ。
 ショックが強すぎたかも知れないが。
 毎回メイシェンを犠牲にしてショック療法をする訳には行かない以上、これは非常にありがたい。
 その他の選択肢を探している間に、女性陣は少々疲れたようでお茶を淹れているようだ。
 非常に心地よい香りが部屋を支配している。
 残念なことに、お茶請けはない。
 ミィフィが懇願の視線をメイシェンに送っているが、当然そんな物で落とされるほど甘くはないのだ。

「って、まてよ」

 ふと驚愕に見舞われた。
 もしかしたら、メイシェンのために刀を持たないのではないかと。
 もしそうだとしたら、レイフォンの精神構造はウォリアスのそれとは相容れない物になってしまっていることになる。

「待て待て待て待て」

 そのあまりの意外さに、思考にブレーキをかける。
 ゆっくりと息を整えて、目の前に出されていたお茶を一口啜る。
 そして、思考を再開。
 刀を持たないことが、何故メイシェンのためになるのだろうかと考える。
 だが、何も思いつかない。

「ウッチンよ。何難しい顔してるの?」
「ああ? ちっとレイフォンの事考えていたんだけれど、少々行き詰まっていてね」
「錬金鋼はもう良いの?」
「そっちはそっちでやってくれてて良いよ。こっちはこっちでやるから」

 おざなりにミィフィとの会話を進行させつつ、二口目を啜り。
 硬直する。
 メイシェンのために刀を持たずに戦う。
 これは流石にあり得ないと。

「まさかな」

 メイシェンのために刀を持たないなどと言う、あり得ない想像を切り捨てた。
 あり得ないなんてあり得ないと言うが、それでもこれは度が過ぎている。
 刀を持てば生きて帰れる確率が僅かでも上がるはずだ。
 メイシェンのために刀を持つと言った方が、説得力が大きい。

「・・・・・・・・・・・・・。あり得ない」

 ウォリアスなら間違いなくそう考える。
 ならばレイフォンは?
 これは非常に疑問ではある。
 前にも言ったように、二週間前にはレイフォンなんて知らなかったのだ。
 長年付き合った人間の思考でさえ、時として読み間違えることがあるのに、僅かな時間しか一緒にいない人間の考えを読むなどと言うことは不可能だ。
 取り敢えずウォリアスには出来ない。

「やはり本人に聞くしか無いのかぁぁ!」

 ここまで思考したところで、恐ろしいことに気が付いてしまった。
 夜間の機関掃除のバイトにニーナが行っているという事実をだ。
 これは絶望的に拙いかも知れない。
 もしニーナが刀を使っていないことを疑問に思っていたら、今日聞いてしまう。
 そして、話の流れ次第ではレイフォンに刀を使えと迫る。
 これは非常に拙い展開だ。
 時計を見るが、残念なことにレイフォンはもう機関部に入っている。

「誰かレイフォンの携帯番号知ってる?」

 最悪の状況を避けるべく努力したいウォリアスだが、連絡方法を知らないことに思い至った。
 そこで、レイフォンの携帯端末の番号を聞いたのだが。

「レイとん、お金がないとか言って携帯は持ってないよな?」
「あう。預金残高多いのに」
「あいつは殺す。私の預金が増えない限り殺す」
「そう言えば、グレンダンでもそんな物持ってなかったわね。念威端子から連絡が来るからいらないって」

 四人からは絶望的な答えしか返ってこない。
 そもそも、機関部は通信圏外のはずだ。
 直接行かない限りは連絡のしようがない。
 フェリに頼み込んで協力を得るという手もない訳ではないが、夜遅い時間に呼び出すのは流石に躊躇してしまう。

「最悪に備えるか」

 ニーナに強要された時の対応を考えなければならない。
 とは言え、何故持たないのかを知らない現状ではそれさえ困難だ。
 そして視線を感じる。

「ウッチン?」

 なにやら心配げな視線で女性陣に見られていたことに気が付いた。
 さっきから時々ぶつぶつ言っていたから、当然ではある。

「レイフォンがもっとも信頼する人って、誰だろう?」
「い、いきなり難しいことを聞くな」

 動揺したのはナルキだ。
 武芸者として一緒にいる時間は長いが、それでももっとも信頼している人間なんて物はそうそう思いつかないのだろう。
 だが、それでも考えなければならないのだ。
 ウォリアスがそう考えている時に、リーリンがもっとも確実な人を指名した。

「やっぱり父さんじゃ?」
「他には?」
「え、えっと?」

 リーリンの言う事は正しい。
 レイフォンがもっとも信頼する人物はと聞かれたら、最初に上がるのがデルクだ。
 だが、二つの理由でそれは今回望ましくない。
 一つはグレンダンが遠いと言う事だ。
 物理的な距離は分からないが、現在の人類の生存環境的には非常に遠いのだ。
 汚染獣との戦闘が異常な数値に達しているグレンダンには、放浪バスも寄りつかない。
 それは、手紙が届くのに非常に長い時間がかかると言う事を意味している。
 あまり時間はかけられない。
 レイフォンもそうだしニーナもそうだ。
 二つ目の理由として、デルクでは命令に近くなってしまうかも知れないと言う懸念がある。
 ニーナの詰め寄りに対抗するためにデルクの命令では、全く意味がない。
 恐らく取り越し苦労だとは思うのだが、念のために他の人も候補に挙げておきたいのだ。

「後は、父さんかな?」
「団長とか?」
「え、えっと。えっと」

 そうなるとヨルテムにいる人物に頼るのが次善なのだが、こちらもなかなか良い人物が出てこないようだ。
 これでは、八方手詰まりだ。
 それを何とかしようと考えるのだが、全く何も思いつけない。

「うがぁぁぁぁ! これもみんなあの馬鹿がいけない!」

 とうとうキレた。
 叫びつつソファーから立ち上がり、拳を天に付き出してイライラした気持ちを世界に知らしめる。
 こんな事ならもっと早く錬金鋼のことを確認しておくのだったと、そう思ったが既に後の祭り。
 カリアンとの話し合いに始まり、ヴァンゼとの折衝等々、やる事が多かったのだ。
 最悪に備えることさえままならない。
 こうなったら明日の朝レイフォンが帰ってきたら、強襲して全てを吐かせる。
 その決意を固めたウォリアスは、腰を落ち着けて紅茶を一気に飲み干した。
 呑まなければやっていられないのだ。

「ナッキのお父さんて、どんな人なの?」
「どんなって、ただの警官だけど? レイとんに色々教えたみたいだけど」
「性教育も?」
「ああ。父さん以外にそんなことする人はいない」

 少女達の会話を聞きつつ、今更な疑問が浮かんできた。
 一応ウォリアスは男性なのだ。
 そしてここには四人の乙女がいる。
 その気になったら何時でも襲える。

「いや。無理だ」

 武芸者として最弱を目指せるウォリアスと、既に小隊員レベルの実力を持つナルキ。
 正面からやり合ったら間違いなく瞬殺されてしまう。
 レイフォンのように弱点を突くという事は出来ない。
 藪蛇になってしまうかも知れないから。

「ただの警官なんて、そんな謙遜しなくても良いのに」
「いや。本当にただの警官だ。それなりに部下の受けは良いようだけど」
「・・・・・。そうなんだ」

 なにやら、リーリンが衝撃を受けている。
 そして、羨ましそうにヨルテム三人衆を見る。

「いいなぁ。レイフォンに一般常識を教えられるような人が、ただの警官だなんて。きっとヨルテムって凄く良い都市なんだろうなぁ」
「い、いや。普通の都市だと思うぞ? 他よりも予算が潤沢なだけで」
「やっぱりお金なんだね。お金が有るから人を育てられるんだ」
「い、いや。そう言う言い方されると、変な罪悪感が」

 万年金欠状態のグレンダンと、交通の要であるヨルテムでは、その経済に大きな開きがある。
 戦闘に直接関係がないところは極力予算を削りたいグレンダンでは、確かに教育機関の予算は十分とは言えないかも知れない。
 そこから考えると、レイフォンはグレンダンによってその人生を狂わされた被害者という見方も出来るかも知れない。
 直接の責任はデルクにあるのだろうが、デルク自身も被害者であるかも知れない。
 闇の賭試合に出ていたのも、福祉に回す予算があまり多くなかったからだとするのならば、これもグレンダンという都市が抱える問題と言う事になる。

「本当に、やってられないな」

 そう呟いたウォリアスは、ヨルテム三人衆が肩身の狭い思いをしている部屋を辞した。
 明日のための準備をしなければならないから。
 具体的にはきっちりと眠って、早朝の襲撃のために気力と体力を充実させるのだ。



[14064] 第三話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:5d223ed1
Date: 2013/05/11 22:13


 機関部で清掃の仕事をしながら、ニーナは考えていた。
 レイフォンのあの強さの理由を。
 ウォリアスの話を聞いた時には信じられなかった。
 入学式でのあの技の切れを見たとは言え、それでもまだ信じられなかった。
 だが、今日の立ち会いではっきり分かった。
 剄量を抑えて尚ニーナを圧倒する力量。
 剣線はおろか、その身のこなしさえろくに見えなかった。
 そして何よりも恐ろしいのは、動きが完全に読まれていた事だ。
 そうでなければ、ああも的確な防御や回避が出来るはずはない。
 それは分かる。
 だが、どうやって読まれていたかが全く分からない。
 もしかしたら、あの読みを会得することには想像を絶する経験が必要なのかも知れない。
 それだけの実力者をグレンダンは追放した。
 汚染獣との戦闘が異常に多いのだから、武芸者の質も異常に高いのかも知れない。
 だから追放できた。
 賭け試合に出ていたことが原因だったとしても、追放するだけの余裕がグレンダンには有った。
 そして、レイフォンは今ツェルニに居る。
 ニーナの部下としてだ。
 ならばニーナはレイフォンを守る義務がある。
 そして、レイフォンはニーナ達ツェルニの武芸者に教える義務がある。
 覚えることがない以上、教えることは学園都市にいる生徒にとっての義務だからだ。
 守るべき者に教わるという現実は少々歪んでいると思うのだが、悪い状況ではないと思う。
 だが思うのだ。
 負けそうになったナルキが刀を振り回した。
 負けたら死ぬ訳でもないのに、無様に振る舞っていた。
 それはレイフォンがそうしろと教えたと言う事らしいが、これはあまり受け入れられない。
 潔くないのだ。
 同じような状況になったレイフォンが負けそうになって、刀を振り回すところを想像することは出来ない。
 きっと何か他の技で切り抜けてしまうに違いないと、確信している。
 実力を付けるまでの過渡的な行為だとしても、それでもニーナにはあまり受け入れられない。

「はあ」

 溜息をつきつつ時計を見る。
 夜食が運ばれてくるまではまだ少し間がある。
 人気のサンドイッチを確保するために時間には気をつけたいが、あまり気にしすぎると清掃作業が疎かになってしまう。
 この辺の加減が難しいところだ。
 夜食のことは置いておいて。
 問題はレイフォンだ。
 第十七小隊に入ることは承諾してくれた。
 喪ったと思っていた電子精霊が、ニーナの中で生きていると気が付いてもくれた。
 恩があるのだ。
 それを何とか返したい。
 だが、返す方法が全く思いつかない。
 鍛錬に打ち込み強くなることが恩に報いる方法かも知れない。
 ならば、どうにかしてほんの少しでも強くならなければならない。
 どうやって強くなればいいのだろうかと考えてみたのだが、余りよい手は思いつかない。

「はあ」

 頭で他のことを考えつつも、丸二年続けてきた清掃作業は身体の方が自動的に問題無く行っている。
 あまり効率は良くないけれど。
 清掃作業の効率が落ちたとしても、ニーナは考えなければならない。
 今までと同じ事をやったとしても、一気に実力が伸びるという訳ではないはずだ。
 今までと違うことをする必要がある。
 何を?
 ここで行き詰まってしまった。

「しまった」

 気が付けば、夜食が運ばれてくる時間を大きく超えてしまっている。
 考え事をしながら何かをしてはいけない。
 この真実を体験できたことが今日の収穫かも知れないと思いつつ、ニーナは質の落ちることが確定した夜食を求めて行動を起こすことにした。
 
 
 
 機関清掃の仕事を終えて軽く睡眠を取った。
 そうしたら既に朝の遅い時間になっていた。
 慌てて身支度を調えると、二人部屋を飛び出す。
 同居人がいれば起こしてくれたのにとも思うのだが、二人部屋を独占できるという贅沢の代償としては安い物かも知れないと考え方を変える。
 朝食を抜くことはあまり好ましくないので、途中で買って行こうと決めたところで、ウォリアスの襲撃を受けた。
 話題は錬金鋼について。
 何故刀を持たないのかと。
 メイシェンが心配するからだと答えた途端、大きく溜息をつかれてしまった。

「あり得ないなんてあり得ないんだなぁ」
「なに?」
「気にするな」

 レイフォンには関係のないところで何かあったようだ。
 それはそれとして、朝食を調達したレイフォンはそれを食べつつ校舎を目指す。
 本当はゆっくりと食べたいのだが、寝坊したために時間が無いのだ。
 散々戦場にいたせいで、歩きながらとか一気食いとか言うのには十分なスキルを持っているのが幸いしている。
 リーリンに見付かったら小言を貰ってしまうだろうが、遅刻するよりは多少ましだろうと考えて、食べながら歩く。

「刀は持てないのか?」
「うん。戦いに出たくない」

 手短に答えつつ、牛乳をすする。
 朝はやはり糖分の多い物を摂りたいので、あんパンがメインディッシュだ。
 少々情けないような気もするが、寝坊のつけは結構大きい。

「成る程な。まあ、レイフォンの実力なら刀を持たなくてもそれほど問題はないか」
「うん。教える分には何の問題も無いよ。それに、天剣以外の錬金鋼じゃ全力は出せないもの」
「・・・。なに?」

 何か驚いた様子でレイフォンを見るウォリアス。
 普通の武芸者が全力の剄を注ぐくらいでは、錬金鋼がどうにかなると言う事はない。
 だが、天剣授受者の選定基準の一つとして通常の錬金鋼では耐えられない剄量を持つという物があるのだ。
 逆に言えば、天剣を持たなければ実力を発揮できないと言う事になる。
 今レイフォンが置かれた状況のように。
 そんな説明をしつつ、ちょっとレアな表情かも知れないと思いつつ、天剣についても教える。

「あれは多分錬金鋼じゃない」
「錬金鋼じゃないって?」
「うぅぅん? 気配がある」
「・・・・? なに?」
「だからね、ヴォルフシュテインには気配があるんだ」

 始めは気が付かなかった。
 だが、五年という歳月を付き合って分かった。
 白金錬金鋼によく似ているが、全く違う何かだと。
 天剣授受者としても剄量の多いレイフォンが、全力で剄を注ぎ込んでも全くびくともしない。
 それどころか、人よりも遙かに弱いが気配のような物を感じるのだ。
 幽霊とかそんなものでは無いと思うのだが、では何だと聞かれると非常に困る。

「天剣って何だ?」
「知らない」
「知らない物を使っていたのか?」
「うん」

 呆れ果てたというウォリアスの表情もやはり珍しいのだろうと思う。
 今日は良い日になるかも知れないと思いつつ、ゆっくりとチョコレートデニッシュを取り出し、口に運びかけて硬直した。
 当然この後に続くべき台詞が全く欠けているのだ。

「刀を持てって言わないの?」
「僕は言わないよ。言えないという方が正しいかな?」

 何時ものことだが、ウォリアスの考えは良く分からない。
 レイフォンは刀を持つべきだと言う方が普通なのに、持てと言えないというのだ。
 これははっきり言って青天の霹靂だ。
 詰め寄られることがないのは助かるが、それでもかなり驚きだ。

「僕は言わないけれど、リーリンは持って欲しいと思っているよ。多分ナルキも」
「そうなんだ」

 ここで始めて、リーリンがデルクからの預かり物を持っていることを知った。
 デルクから鋼鉄錬金鋼を託されたリーリンなら、持って欲しいと思う気持ちは理解できる。
 この一年近く鍛錬を一緒にしてきたナルキも、やはり刀を持った方が良いと思っていることも分かる。
 それでも、メイシェンの泣き顔を見たくないから刀は持たない。
 心配させたくないから戦場には出ない。
 そう決めたのだ。
 全力を出せない上に、レイフォンが頼ることが出来る人間もいない。
 ならば出来ることは戦いに出ないと言う事だけ。
 天剣がない今、どんな錬金鋼を持っても結果にあまり変わりがないと思う反面、刀に対する思いは確かに存在している。
 今はまだ、レイフォンに答えを出すことは出来ない。
 そんな思考をしている内に朝食が終了したので、取り敢えずウォリアスの首を締め上げる。

「ぐぇ」
「言っておくんだけれどねウォリアス」

 少々力を込める。
 今後のために是非とも必要なことを言わなければならないのだ。

「昨日みたいなことをしたら、ブチッて殺しちゃうよ?」
「見たく無いのヴァァ」

 台詞の途中で締め上げる力を強める。
 全力で手加減して殺さないように。

「メイシェンと話せるようになるまでに、どれだけ苦労したと思ってるんだい?」
「わ、わかった」

 やや顔色が悪いが気にせずにもう少し閉めてから、ゆっくりと力を抜く。
 正直に言って、嬉しくなかったかと聞かれるとそんな事はないのだが、それを表面に出す訳には行かないのだ。
 特にウォリアス相手には。
 そして校舎が見えてきた。
 今日は穏やかに始まりそうなので、少々安心しつつウォリアスを完全に離す。
 
 
 
 朝から疲れ切ってしまったウォリアスではあるのだが、収穫は十分にあった。
 レイフォンが刀を持たない理由について、かなり納得の行く説明がもらえた。
 あり得ないと思って思考を停止していた訳ではないのだが、それでもやはり経験していないことを想像で補うには限界があるのだ。
 それを痛感させられただけでも十分な収穫だ。
 問題は、ニーナを始めとする人達が納得するかと言う事だが、まあ、それはゆっくり考えればいいことだ。
 心配させたくないから戦わないという消極的ともとれる理由を、実戦を経験していない武芸者がどれだけ理解できるかも疑問だが。

「それはそれとして」

 目の前に並ぶ数々の料理に少々胸焼けがしてしまう。
 時は昼食時。
 今日はレイフォンの盾と言うべきエドも巻き込んでの昼食会なのだが、その品数の豊富さは驚愕の一言だ。
 七人でも食べきることが出来るかどうか疑問なほどだ。
 だが、エドとレイフォンがいるのだから残ることはないだろうと楽観的な予測を立てて、ブキを手に取る。
 別に錬金鋼を手にしたという訳ではない。
 食事をする道具をブキと呼ぶのだ。
 実際にウォリアスの手に握られているのは、フォークとナイフだし。
 語源をさかのぼって行くと、食事と闘争の関係に行き着くらしいのだが、あいにくと詳しい事情が現代に残されていないのではっきりとはしない。

「やっぱり刀は持てないの?」
「うん。ごめん」
「・・・・。いいよ。レイフォンがそう決めたのなら」

 リーリンとレイフォンの間でそんな会話が進行しているが、今のところ穏やかに推移している。
 強制することは良くないとウォリアスの考えを前もって伝えてあるのが功をそうしているのだろうと思う反面、リーリンの心情が非常に複雑になっていることも理解しているのだ。
 だが、学園都市という実戦を経験することが極端に少ない場所ならば、特に問題はないはずだ。
 しかし、万が一にでも遭遇してしまったのならば?
 その時戦力として期待できるのは、レイフォン以外にはいないのもまた事実。
 いくらこれから教えて行き、ゆくゆくはレイフォンがいなくなった後もやって行けるようにするとは言え、それには非常に時間がかかるのだ。
 それまで向こうが待つ理由は全く無い。
 ツェルニに頑張ってもらうしかないのだが、これも確実という訳ではない。

「レイフォン」
「な、なに?」

 そこまで思考したところで、昼食はおおむね姿を消していた。
 それを待っていたかのようにメイシェンが思い詰めた表情で唇を振るわせる。
 エドがいることを考慮すれば、あまりこの先に踏み込みたくないのだが、それはもう遅いのかも知れない。

「私のために止めないで欲しい」
「え?」

 一瞬何を言いたいのか分からなかった。
 ウォリアスでさへそうなのだ。
 この場にいる人間で正確に事態を理解できたのは、おそらくメイシェンだけだっただろう。

「私のために、武芸を止めないで欲しい」
「あ、あの」
「レイフォン、本当は武芸が好きだと思う。もし、私のために好きなことを止めるつもりなら、えっと、あの、悲しいと思う」

 しどろもどろになりつつそう言うメイシェンの瞳は、既に決壊間際だ。
 これはかなりきつい攻撃に違いない。
 レイフォンに明確な理由と決意、それを支える根拠がないならば陥落は時間の問題だ。

「大丈夫。止めるんじゃないから。戦いに出ないだけだよ」

 どうやら今のレイフォンには三つともそろっているようだ。
 微かに微笑みつつメイシェンの頭を撫でている。
 それを確認しつつ少しだけ安堵する。

「今の、何処が違うんだ?」
「そうだね」

 話に置いて行かれ気味なエドが聞いてきたが、実はナルキ達も疑問を持っているようだ。
 ここは丁寧に噛み砕いて説明する必要があるかも知れないと思い、ウォリアスは頭をフル回転させた。

「・・・・・・。えっっと」

 回転させたが、上手い言い回しが思いつかない。
 それでも何とか分かりやすそうな事例を検索して、一件だけヒットした。

「食べるのは好きだけどマヨネーズが嫌いだみたいな?」

 実はウォリアス。マヨネーズがあまり好きではないのだ。
 子供の頃は大好きだったのだが、チューブから直接啜っていたのが災いしたのか、ある時を境に嫌いになってしまったのだ。
 今日もマヨネーズがかかった料理には手を付けていない。

「何となく納得したような」
「全く意味不明なような」
「どちらかというと更に分からなくなったような」
「マヨネーズ嫌いな人って始めて見た」

 等々。
 少々場を混乱させてしまったようだ。
 一息つきつつ反省しつつ、他に適当な表現があるかと考えて。

「ないな」

 思いつけなかった。
 レイフォン絡みの問題は、ウォリアスの処理能力を遙かに超えてしまっているようだ。
 これほど頭を使っているのに解決できないと言う事自体かなり珍しいのだが、まあ良いだろうと考える。
 これだけの難題を考えるという経験は、無駄にはならないはずだから。

「まあ、取り敢えず教えるのは続けるから安心して」
「うん」

 二人の方はそれなりには納得しているようだから、今回はこれで良いのかも知れない。
 教えるために技を磨き、鍛錬を続ける。
 それは決して間違ったことではない。
 レイフォン相手に戦えれば、よほどのことがない限り遅れを取ることはないだろう。
 更に、グレンダンで培われてきた技の数々をその身に刻んでいるのだ。
 それを伝えることが出来れば、どれだけ人類全体に貢献できるか計り知れない。
 一部からは臆病者とそしりを受けるかも知れないが、それを受け止めることはおそらくレイフォンにとって苦痛ではない。
 そうなるとやはり問題は、ニーナを始めとする人達と言う事になる。
 実はこちらの方もかなり難題なのだ。
 譲ることをしない強い意志という物は、非常に扱いづらい物なのだ。

「突然なんだがレイとん」
「なに?」

 ウォリアスが考えに沈みそうになった頃合いを見計らっていた訳でもないだろうが、ナルキが思い詰めたような表情でレイフォンに詰め寄る。
 刀絡みの話題が終わるのを待っていたのか、それとも他の理由があるのかは不明だが、その表情はこれ以上ないくらいに真剣だ。

「都市警には武芸者の臨時出動枠というのがあるんだが」
「良いよ別に」
「い、いや。話は最後まで聞いてくれないか?」
「僕に出動枠に登録しろって言うんでしょ? ヨルテムでもやっていたから別に問題無いよ」

 話の展開とか流れとかを完全に無視した、レイフォンの先読みのせいでやり場が無くなるナルキの気合い。
 これは少々可哀想かも知れない。
 フォローできないのが心苦しいくらいには。

「そ、そうだったのか?」
「うん。報酬もそれなりに良かったし」
「そうなのか」

 なにやら少々凹んでしまっているようだ。
 十分に気持ちは分かる。
 後でジュースくらいおごってあげても良いかもしれないと思うくらいに、ナルキは落ち込んでしまっている。

「それで手続きとかは今日行った方が良いの?」
「ああ。早めにやっておいてもらった方が良いだろうと思う」
「じゃあ、夜の仕事に出る前によるね」
「頼むよ」

 取り敢えず話がまとまったようだ。
 これでツェルニの治安は安泰になった。
 天剣授受者並みの実力者が、都市の外からやって来て犯罪を行う。
 そんな極小の危険性は、今汚染獣に襲撃されるくらいに低いはずだから。
 あり得ないとは言い切れないが。
 
 
 
 第十七小隊での初訓練を終えて、ニーナは自分の未熟さを思い知らされていた。
 基本的な配置として考えていたのは、ニーナとレイフォンが前衛でシャーニッドが後衛という、ある意味これ以上ないほど完璧に単純な物だった。
 それは良い。
 他の選択肢を考えられるほどニーナは優秀ではないから。
 では何が問題かと聞かれたのならば、非常に話は単純だ。
 レイフォンとの連携が一発で成功してしまったからだ。
 それは喜ばしいことのように思えるのだが、実は大きく違う。
 ニーナの動きにレイフォンが合わせてくれたから、連携が成功した。
 そう判断できてしまったからだ。
 ニーナの動くタイミングを見計らって支援をしたり陽動をやったりと、実に完璧に動いてくれた。
 いや。完璧に動いてくれすぎたのだ。
 長年寝食を共にすることで得られるはずの、あうんの呼吸と呼べる物をレイフォンは既に取得してしまっている。
 逆に、レイフォンを支援するような場面を作ってみたのだが、その時も見事に成功した。
 だが、こちらもやはりレイフォンがニーナに合わせてくれたと思えてしまう。
 だからレイフォンに聞いてみたのだ。

「グレンダンではその都度知らない人と連携することが必要でしたから」

 何事もなかったかのように、実際にたいしたことでは無いのだろうが、そう答えられてしまった。
 流石に狙撃手との連携は少々問題らしいが、そこはシャーニッドがある程度余裕を持てる状況を作ることで、十分に対応できるとも言っていた。
 非常に驚くべき事態だ。
 単純な戦力としてだけではなく、ある程度の集団での戦力としてもグレンダンの武芸者の質は、異常なほど高いことが分かった。
 普通の都市が戦争で遭遇したのならば、瞬殺されてもおかしくはない。
 ウォリアスの故郷であるレノスも、おそらくそうやってあっけなく負けたのだろう。
 だからニーナは自分の未熟さを思い知らされた。
 レイフォンが動くタイミングを見極めることが出来なかった。
 経験不足と言えば簡単だが、ただ自分一人が強くなることだけではとうてい駄目なことは分かった。
 これを埋めるにはどうしたら良いのだろうかと考える。
 少しでも強くならなければならない。
 そうしなければレイフォンから受けた恩を返せないのだ。

「都市警の臨時出動枠?」
「はい。登録して欲しいと頼まれまして」
「おいおい。お前さんそんな事までして大丈夫なのか?」

 今日の訓練メニューが終了して、帰り支度をしているシャーニッドとレイフォンの会話がニーナにも聞こえてくる。
 都市警にそう言う制度があることは知っているが、ニーナ自身はそれに参加してはいない。
 基本的にツェルニは平和であり、優秀な武芸者の招集が掛かるような事件は、ニーナの知る限りにおいて起こっていなかったからだ。

「それは平気ですよ。バイトとかち合った時なんかはお給料が上がるみたいですから」
「い、いや。そうじゃなくてお前自身がさ」
「僕自身ですか?」
「ああ。体力とか」
「ああ。それも多分大丈夫ですよ」

 にこやかにそう語りつつ、帰り支度を進める手は止まらない。
 レイフォンほどの実力者が都市警にいるとなれば、確かに心強い物がある。
 他の武芸者は全て昼寝をしていても良いのではないかと言うくらいに、安心できてしまう。

「それに、都市によって優遇されている武芸者が都市のために働くのは当然でしょう?」
「お前がそう言う考えを持っているとは驚きだけれど」
「建前ですよ。僕自身は都市がどうなろうと興味ないですから」

 相変わらずレイフォンの言うことには問題が有るが、それでも目くじらを立てて修正する気にはなれない。
 建前の上では、確かに都市のために働かなければならない武芸者だが、疎かにしている者も多い。
 それに比べれば、レイフォンの本音はいざ知らず、行動していることは十分に評価に値する。

「それに、身の回りで騒がれたら安心して料理できませんから」
「本音はそっちか」

 評価できるはずなのに、何故かシャーニッドと一緒にニーナも呆れてしまった。
 自分の平和のために都市の平和を守る。
 あながち間違った判断基準ではないと思うのだが、納得が行かないのもまた事実。

「先輩もどうですか?」
「俺か? 立て籠もったやつを狙撃したりとか?」
「長距離からの監視だって十分に出来そうですけれど?」
「女性限定なら」
「それだと駄目そうですね」

 思わずシャーニッドを一発殴りたい衝動に駆られたが、それはきっとやってはいけないことなのだろうとも思う。
 きっと冗談だから。
 だが、ふとここで考える。
 都市警の臨時出動枠に参加することで、集団線のノウハウを得られるのではないかと。
 最低でも、組織が動くところを間近で見られるというメリットは捨てがたい魅力のように思える。

「レイフォン」
「はい?」

 突然話に割って入られたことで、少々驚いた様子のレイフォンがニーナを見る。
 ついでにシャーニッドも、嫌な予感がしてならないと言った雰囲気でこちらを見ているが、既に遅いのだ。

「私達も臨時出動枠に参加したいのだが」
「私達?」
「そうだ。第十七小隊全員で」
「いやです」

 ニーナの提案を切って捨てたのは、扉から出ようとしていたフェリだ。
 普段の無表情をそのままに、嫌そうな雰囲気が辺り一面に充満している。
 どうも、フェリという人物は周りの空気で感情の流れを判断する必要があるようだ。

「しかしだな」
「おことわりです」

 とりつく島がないほど完璧に、素っ気なく言い捨てて扉の向こうに消えるフェリ。
 彼女の事だから、間違いなく参加しない。
 そこは諦めてシャーニッドを見る。

「お、俺もか?」
「当然だ。女性の監視以外の仕事をしっかりこなせ」

 冗談だと思うのだが、取り敢えず釘を刺して置くに越したことはない。
 ついでにレイフォンを見る。

「まあ、実戦を経験するのは悪いことじゃないですけれど」
「実戦?」

 実戦と言われたが、今ひとつ意味が分からない。
 汚染獣や戦争で戦うこと以外の実戦など、有りはしないと思うのだが。

「犯罪に走る武芸者って、容赦ないですからね」
「それはつまり」
「普通に考えて殺されますし、最悪人質になったりします」

 そこまで考えが及ばなかった。
 だが、そう言う意味の実戦を経験しておくことも悪くはない。
 むしろ、積極的に参加すべき事柄ではないかとさえ思う。

「話は決まったな。これから都市警に行くぞ」
「あ、あのなニーナ。これからデートの約束が」
「後で謝罪しておけ」

 嫌がるシャーニッドを引き連れ、レイフォンを案内人にニーナは新しい訓練の場所へと向かう。
 そこで待っているのは、都市を守るためのもう一つの戦場。
 その戦場で、新しい何かを得られるかも知れないと言う期待と共に、ニーナは突っ走る。



[14064] 第三話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:58751d0a
Date: 2013/05/11 22:14

 
 都市警の臨時出動枠とやらに登録した帰りだというレイフォンを襲撃し、ミィフィは予定通りの行動を取っていた。
 予定通りと言っても、何か悪さをする訳ではないのだ。
 ただ、メイシェンが働いている喫茶店を、全員で訪れようとしているだけだ。
 甘い物が食べられるようになったレイフォンと付き合わせたウォリアス。
 都市警の研修が終了してへとへとになっているナルキと、弁当屋の仕事を終えたリーリン。
 そして、取材を兼ねたミィフィで訪れたのだが。
 店内に入って驚くのは、男性客が殆どいないことだろう。
 まあ、お菓子中心の喫茶店と言ったところなので、女性客メインなのは当然だ。
 やや長細いレイアウトの接客エリアにある椅子は、半分ほど埋まっていると言ったところだ。
 これで可愛い女の子でも出迎えてくれたのならば、男性客が大勢入ってくるだろうが。
 そう。今目の前に現れた店員さんみたいに。

「い、いらっしゃいませ」

 既に涙目のメイシェンにお出迎えされてしまった。
 いや。いつも泣き出しそうではあるのだが、はっきり言って今は決壊寸前だ。
 羨ましいその肢体をやや小さめのメイド服に押し込んだという、レイフォンが野獣だったらそのままさらって行きそうな姿でだ。
 いや。どんなヘタレだろうともお持ち帰りしてしまうくらいに凄まじい破壊力を持っているはずだ。

「あうぅぅぅぅ」

 ミィフィ達を確認して、どうしたら良いのか分からない様子で思わず視線が泳ぎまくっている。
 だが、その姿はまさに怯える小動物。
 もっといぢめたくなるか、守ってあげたくなるかのどちらかだ。

「あ、あう」

 その直撃を受けたレイフォンも、やはり言葉を無くしている。本当にお持ち帰りしたらさぞ面白いのだが、流石に今この場でそれをやる事はないようだ。
 まあ、ウォリアスも似たような状況だから二人でお持ち帰りというのは、問題有りまくりだし。
 そして、隣からはなにやら黒い物が漂い出ているが、それが誰からの何かなのかはあえて追求しない。
 ミィフィだって命は惜しいのだ。

「あ、あう。ご、五名様ですね」
「五名です」

 取り敢えずミィフィが代表して対応しつつ、活動が怪しいレイフォンを引っ張って席に座らせる。
 もちろん、これから面白いことが起こると良いなとか考えつつ。
 だが、その望みは当面叶いそうにない。
 一瞬以上見とれていたレイフォンだったが、いつの間にか再起動を果たしたのは良いのだが。
 窓際の四人がけの椅子を女性陣三人で占領し、通路を隔てた壁際の二人席を男連中にあてがい、注文を済ませた。

「砂糖を直接舐めただぁ?」
「う、うん」

 甘い物について、いつの間に食べられるようになったかという質問を、リーリンがしたところまでは良かった。
 ヨルテムに来てからだと答えたのも良い。
 それ以前は殆ど食べなかったと言う事だったのだが、時々デルクと砂糖を舐めていたという話になって、ウォリアスが素っ頓狂な声を上げたのだ。
 当然だが、店内の視線がかなり集まっている。
 これは少々居心地が悪いような気がする。

「よく気持ち悪くならなかったわよね」
「糖分は必要だよ?」

 頭や身体を使うためには、絶対的に糖分が必要だという事は分かっている。
 それは間違いではないのだが、それでも直接砂糖を舐めて平気な人種というのもどうかと思うのだ。

「あのなぁ。武芸者は多分平気なんだけれどね」
「なになに?」

 これはネタの匂いがするとミィフィの記者魂が叫んでいる。
 思わずマイクを突きつけつつ話の続きを促す。

「い、いやな。当然の話なんで記事には出来ないと思うんだけれど」
「平気平気。書くのは私だから。ウッチンはサクサク喋る」

 急かせつつ通路を挟んで更にマイクを突きつける。
 通行人がいないのが幸いだ。

「血糖値が低い状態の時にさ、砂糖みたいな純粋な糖分を摂取すると、いきなり血糖値が上がるんだ」
「糖分摂っているからね」
「ああ。それでだな。その急激に上がった血糖値に驚いてインスリンが分泌されるんだ」
「インスリンって何?」

 ウォリアスの出した単語が分からないとレイフォンが疑問を口にするが、実はミィフィも良く分からないのだ。
 何処かで聞いたような気はするのだが、はっきりどんな物だったか覚えていない。

「血糖値を下げるためのホルモン。糖尿病患者が処方される薬」
「ああ。あれね」

 そこまで言われてやっと思い出した。
 近所のおじさんが確かそんな名前の薬を医者からもらっていたと。
 再生医療が発達した現代だが、内蔵を再生するためには若干の時間がかかってしまう。
 その時間を埋めるための投薬がどうしても必要だったのだ。
 当然ツェルニにくる頃にはその投薬も終了していた。

「でだが、驚いてインスリンが必要以上に分泌されて血糖値が今度は急激に下がるんだ」
「へえ。砂糖を舐めたのに血糖値が下がるんだ」
「下がるの」

 ややあきれ顔のウォリアスの話を聞きつつミィフィは思うのだ。
 何でこうも食べ物に詳しいのだろうと。

「活剄で身体能力の強化をしていたり、稽古や試合の最中はアドレナリンが分泌されているから、多分平気なんだけれど注意しておいた方が良いぞ」
「今までそんなことはなかったよ? 戦闘中に飲むゼリーは全然平気だったし」
「あれはね。二時間ほどかけてゆっくりと吸収されるように設計されているの」
「? あれって機械なの?」
「・・・・・・。いや。いろんな種類の糖分を計画的に組み合わせているの」
「! 糖分って砂糖だけじゃないの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 最後のレイフォンの驚きの叫びで、店内がしんと静まりかえった。
 それはもう、これ以上ないくらいに静寂が辺りを支配している。
 そしてミィフィも驚いていた。
 糖分に種類があることくらいは知っているのだ。
 どんな種類があるかは流石に知らないけれど。
 だというのにレイフォンと来たら。

「まあ、良いさ。この後ゆっくりとその辺について懇切丁寧に語ってあげるよ」
「う、うん。お手柔らかに」
「ああ? お手柔らかにだと? そんな事が出来るか馬鹿者」

 何故か、何時もとはやや違う迫力と共に、レイフォンに詰め寄るウォリアス。
 注文の品を持ってきたメイシェンが後ずさっているほど、その姿には迫力があった。
 思わずミィフィも引くくらいに凄まじい。
 当然ミィフィとメイシェンが引いているのだから、ナルキとリーリンも引いているのだ。
 もっと言えば店全体が引いているような気がする。

「良いかレイフォン? 人類は美味い物を食べたいがために文明を築いてきたのだぞ」
「大げさだなぁ」
「たわけ者め」

 これは関わっては駄目だ。
 本能がそう告げたので、メイシェンの運んできた品物は全て窓際の席に置かせた。
 ただでお菓子を食べたい訳ではないのだ。多分。

「そうだな。例えばだが」
「う、うん」
「勉強しなくてもテストで赤点とっても良いぞ。ただし戦闘用のゼリー飲料と栄養補助食品だけだというのと」
「そ、それは」

 その食事内容は是非とも遠慮したい。
 人生の楽しみの大半が封印されたような物だ。

「勉強して良い点取ったら、リーリンとメイシェンの作るご飯を腹一杯食べられる。レイフォンはどっちを選ぶ?」
「! そ、そうか。そうだったのか」

 レイフォンが驚愕しているが、実はミィフィも驚愕しているのだ。
 今の条件を突きつけられたら、ミィフィも間違いなく頑張って勉強する。

「そうだ。その積み重ねがあるから人類は世界の覇者となることが出来たのだ」
「そうだったのか! 食べ物は偉大なんだ!」
「レギオスを造り上げた古代の錬金術師も、きっと同じように考えたに違いないんだ」

 無音のどよめきが店内を満たした。
 ついでにミィフィの胸の内も。
 これはきっちりと記事にして発表すべきだと判断するくらいに。

「ようっし! 気分が乗ってきた! 今宵は食事と人類と文化について語り明かそうぞ!」
「え? ええ! ちょっと」

 なにやら張り切ったウォリアスがいきなり立ち上がり、レイフォンの首に腕を巻き付けると、そのまま出口に向かって引きずって行く。
 当然誰も助けない。
 巻き添えはごめんなのだ。
 いくら感動していたとしても、今のウォリアスに巻き込まれる事は、非常に危険なのだ。

「あ、あう」

 ただ一人、メイシェンだけが手を振ってレイフォンを見送った。
 色々思うところがあるのだろう。
 テストで良い点を取ったご褒美に何を作ろうかとか、色々と。
 そして、店内の空気が明らかに来た時とは違うことに、唐突に気が付いてしまった。

「トリンデン」
「は、はい」

 いきなりカウンターに肘を突いた男性がメイシェンを呼ぶ。
 別段責めるような口調ではないのだが、それでも何か圧力を感じてしまう。

「君の友達ってみんなあんな人達なの?」
「あ、あう」

 ある意味驚愕の質問をされて、メイシェンの視線が泳ぎ結果としてミィフィ達を捉える。
 当然、店にいる客と店員全員の視線も付いてきた。

「い、いやねぇ。あんな飛び抜けてないわよねぇ」
「あ、ああ。私達はあそこまで酷くないぞ!」

 リーリンとナルキがそう言うのだが、裏を返してしまえば割と似ていると言う事になってしまうのだが、多分二人は気が付いていないだろう。
 見ている人達はきっちり理解しているようだが。

「まあいいさ」

 店長かも知れない男性がメイシェンを手招きする。
 それに素直に従っているところを見ると、間違いなくここの責任者なのだろう。

「彼をしっかりと尻に敷いとけよ」
「あ、あう」
「あれは、誰かの尻に敷かれないと実力を発揮できないタイプだ」
「え、えっと」

 再び視線がこちらに来た。
 しかも何故か全員の。

「い、いやねぇ。レイフォンは誰かの尻に敷かれないと実力発揮できないですよぉ」
「そ、そうだぞ! あれはヘタレだから誰か手綱を持ってないと駄目だ!」
「あ、あう」

 今度の二人の意見には誰も反対できない。
 もちろんメイシェンは反対したいのだろうが、根拠というかその辺が思い浮かばないのだ。

「まあそれは置いておいてだ」

 なにやら仕切り直すと言った感じで、店長が背筋を伸ばす。
 その立ち姿には風格と威厳があるように見える。

「俺達が美味い物を作って武芸科の連中に食わせてやれば、次の大会での勝利は間違い無しだな」

 その一言で、メイシェンを含む店員全員の目の色が変わった。
 鉱山が一つだけだと言う事は誰もが知っているのだ。
 ならば直接戦うことは出来なくても、武芸科の連中を元気づけることで、ツェルニのためになりたいと思うのは間違った行動原理ではないはずだ。

「と言う訳でお前ら! 気合いを入れて美味い物を作れ!」

 その号令一過、今までゆるみ気味だった空気が一気に締まった。
 これは、やはり記事にすべきだとミィフィの記者根性が叫ぶ。
 これほどの期待をかけられているにもかかわらず、次の武芸大会で敗れるなんて事は許されないのだ。
 武芸科全員に発破をかけるためにも、良い記事を書かなければならない。
 良い記事を書くためにも栄養を補給しなければならない。
 結局レイフォン達が置いて行ってしまったお菓子を、横取りする口実が欲しかっただけかも知れないが、それでもミィフィは頑張って記事を書くことを心に誓った。
 当然ではあるが、横取りすると言ってもウォリアスは会計をしないで出て行ってしまったので、結局誰かが払わなければならない。
 ならばミィフィが責任をとって処分しても何ら問題はないのだ。
 そう自己弁護をしつつケーキにフォークを突き刺した。
 
 
 
 ヴァンゼ・ハルデイは少々では済まない理不尽を感じていた。
 場所は彼の私室であり、一人暮らしで彼女もいない以上ここにいるべき人物は、ヴァンゼ一人のはずだったのだが。

「なあ、カリアン?」

 声をかけた相手は、この学園都市の支配者と呼べる人物であり、ヴァンゼの悪友でもある銀髪の美青年だ。
 別にカリアンがここに居る事自体は、何の問題も無いと言えない事はない。
 今現在が、夜の十時を回っていると言っても、男同士の交流には夜でなければ憚りが出る事もあるからだ。

「なんだいヴァンゼ?」

 寝袋にくるまり、夕食と入浴を済ませて就寝前の読書を楽しんでいる事にも、まあ、目をつぶる事が出来ない相談ではない。
 だがしかし。

「今日で三日連続、俺の家に泊まり込んでいるような気がするのだが?」
「うむ。その認識には間違いがないよ」

 何の問題も無いと言わんばかりに、肯定してのけるカリアン。
 少々殺意がわいてしまった。

「自分の家があるだろうに?」
「家という言い方は正しくはないね」

 起き上がる気配もなく、顔だけをこちらに向けてのんびりとそう言うカリアンが、少々うっとうしい。
 つまみ出してやろうかと本気で考えてしまう。

「ここが学園都市である以上、いつかは出て行かなければならない。ならば家という物は基本的に存在していないのだよ」

 カリアンも分かっているのだ。
 ヴァンゼが何を言いたいかを理解していてなお、本質とは関係のないところへ会話を持って行き、はぐらかしているのだ。
 今夜もここに泊まるために。

「いい加減に自分の寮へと帰れ」
「つれないね。ツェルニに来る前に知り合った仲じゃないか?」

 更にはぐらかそうとしている。
 これははっきりと言わなければ話が進まないようだと、そう理解した。

「家に帰る事で何かあるのかね?」
「いや。特に何が有る訳でもないけれどね、ここの居心地が良いのだよ」
「刺される事は覚悟の上だったと思うのだがね」

 そうなのだ。
 カリアンがここに居座る理由とは、マンションと呼べるあの部屋に帰ったが最後、次の日の朝日を拝む事が出来ない事を知っているからだ。
 少々前にあったレイフォンの腕試しが終了した瞬間、フェリとナルキがアイコンタクトを交わしていた事には気が付いていた。
 それがカリアン暗殺計画である事も、二人の事情を考えれば、おおよそ予測が出来る。
 それを避けるために、ヴァンゼの所で寝起きしているのだ。
 ここならば、ヴァンゼの護衛をいつでも受ける事が出来るし、第一小隊の念威繰者の庇護を受ける事も容易だ。
 まさに、ツェルニで最も安全な場所と言える。
 武力的には、レイフォンと同室になる事の方が遙かに強力だろうが、彼自身がカリアンを襲わないという保証はない。
 いや。レイフォンがその気になったら、ツェルニで安全な場所なんて無いのだから、そこは割り切ってしまえば良いのだろうが、流石にそこまでは大胆になれないようだ。
 そして、最も問題なのは、レイフォンではあっさりと呼び出されてしまうと言う事だ。
 メイシェンが食事を作ったと言われただけで、ホイホイ出かけて行ってしまう。
 出て行った後にカリアンが帰ってきたのならば、それはいつでもやれると言う事になる。
 だが、ヴァンゼならばその確率は極めて低くなる。
 武芸長という役職にある以上、カリアンとは頻繁に連絡を取り合っているし、携帯端末を持ち歩いているので、いつでも居場所を確認出来る。
 総合すると、ここが最も安全という判断を下したカリアンの計算は間違いではない。
 間違いではないのだが、当然納得は出来ていない。

「刺される事は覚悟しているが、せめて武芸大会が終わるまでは生きていたいからね」
「そう言って妹さん達を説得してみてはどうだね?」
「フェリが納得するとは思えない」

 確かに納得しないだろうが、説得の努力を放棄して良いと言う事にもならない。
 だが、ヴァンゼは更に恐ろしい危険性にも気が付いていた。
 カウントダウンである。
 武芸大会の終了は宣言される訳ではない。
 だが、生徒会長の任期は明確に定められている。
 後何日で生徒会長ではなくなるかと言う事が、きちんと分かっているのだ。
 もし、自室へと帰り着くたびに、扉を開けた真正面に、貴方の命は後何日ですというカレンダーがあったら?
 それは、猛烈に恐ろしいような気がする。
 是非とも避けたい未来予想図だ。
 とは言え、それもカリアンが自らまいた種なのだ。
 そこから実った以上、刈り取る責任もカリアンにはある。
 これ以上ヴァンゼの部屋に居座られても困るというのもあるのだ。
 なので行動を起こす。

「ヴァ、ヴァンゼ?」
「妹さんと話し合ってこい」

 寝袋をカリアンと共に持ち上げて、部屋の外へと出る。
 少々暴れているようだが、武芸者と一般人ではその身体能力に致命的な差があるのだ。
 ましてカリアンは文系の人間で、体力や筋力は一般人としても下の方。
 とうていヴァンゼに勝てるはずはないのだ。

「お、落ち着き給えヴァンゼ。話せば分かる!」
「だから、妹さんとも話せと言っているのだよ」

 カリアンの苦情を聞き流しつつ、寝袋から落ちない様に注意しつつ、本来のカリアンの寮へと進路を決定する。
 第一小隊に所属している念威繰者にも連絡を取り、万が一にも逃げられないように細心の注意を払いつつもだ。
 向こうに到着して、返却拒否された時は、まあ、その時になって考えようと行き当たりばったりな事を考えつつ。
 
 
 
 第十七小隊が正式に結成されて、初試合の日がやってきた。
 レイフォンが入隊してからこちら、散々訓練を重ねてきた。
 その結果レイフォンは、シャーニッドの狙撃タイミングまで完璧に見切れるようになってしまった。
 何でも、これから撃つぞとシャーニッドの気配が言うのだとか何とか。
 全く意味不明だ。
 試しにレイフォン相手にシャーニッドが撃ってみたのだが、その時でさえ狙撃のタイミングを見切られていた。
 それに引き替えニーナは、あまり変わっていないという自己評価を下している。
 いくつか技をレイフォンから教わることが出来たが、それを使いこなせているかと聞かれれば否と答えるしかない。
 逆に、ニーナの持っている技をレイフォンに見せたところ一発で会得してしまった。
 使いこなせているかと聞いたところ、レイフォンはまだまだだと言うのだが、ニーナから見る限りにおいて、ニーナ本人よりも上手く使っているようにしか見えない。
 これが才能の差という物だとかなりの衝撃を受けもした。
 だが、ツェルニを救うために、ここで立ち止まる訳には行かないのだ。
 例え、レイフォン一人が戦っただけで勝てるとしても。
 だから、血が流れるほどの過酷な訓練を自分に科し、小隊の訓練もそれに引きずられて厳しい物になった。
 フェリやシャーニッドは時々来なかったが、レイフォンは真面目に参加してくれた。
 もっとも強いレイフォンが参加しているというのに、他が付いてこないと言う事態に少々憤慨した物だが、それでも確実に小隊としての戦力は上がっているはずだ。
 その成果が今日明らかになるのだ。
 いつも以上に力が入ってしまう。

「さあ行くぞ! そして勝つぞ!」

 メンバーからの賛同の声は一切無かったが、それは何時ものことなので気にしない。
 ニーナ自身に気合いを入れただけだから。

「作戦はどうしますか?」
「現場を見てから決める」

 レイフォンからの問いに即答した。
 ウォリアスのような卑怯な戦い方をして勝とうとは思わない。
 正々堂々と戦い、そして勝ちたいのだ。
 そのためには事前の作戦の立案も重要だが、現場がどうなっているのかはっきり分からない以上、その場で決めるのがもっとも現実に即していると判断しているのだ。
 それが間違っているとは思えないし、これ以上良い案があるとも思えない。

「へいへい」

 シャーニッドのやる気のない返事と共に、試合会場へと向かう。
 会場では既に二試合が行われており、控え室まで熱気が伝わってくるほどだ。
 ここで無様な真似は出来ない。
 ニーナが先頭を走り、それをレイフォンが支援する。
 フェリの索敵に会わせてシャーニッドが狙撃する。
 基本的な戦法は確立することが出来た。
 後はこれをどうやって使いこなすかだ。
 全てはニーナに掛かっているのだ。
 技と同じで使いこなせるかどうか分からないが。
 それ以前にフェリの索敵に問題が有るような気はするのだが。
 
 
 
 第十六小隊は高速戦闘と連携を得意とする部隊だ。
 旋剄を使った高速移動で相手を翻弄し、それと共に連係攻撃で確実に相手を仕留める戦い方である以上、戦力の配分が非常に重要だ。
 強い相手に多めに戦力を振り分けるか、弱い相手を先に倒してから強い相手に挑むか。
 今回は、戦力配分にかなり苦労した。
 ニーナとシャーニッドはその実力を大雑把に把握している。
 だが、一年生で小隊員に選ばれたレイフォンの実力は全く未知数だ。
 レイフォンに大きめの戦力をあてがい、早めに倒しておいてからニーナを狙うか、レイフォンに足止め程度の戦力を回してニーナを全力で仕留めるか。
 小隊員の意見は真っ二つに分かれてしまった。
 所詮一年生だから早めに始末してしまえと言う者。
 足止め程度にしておいてニーナを狙うべきだという者。
 双方の意見にはそれぞれに長所短所があった。
 議論が紛糾した際に出てくる妥協という選択肢は、この際もっとも危険な賭になりやすいので徹底的に討論された。
 その結果、レイフォンには足止め程度の戦力を張り付かせて、ニーナを積極的に狙うという戦術を採用した。
 その際、肉体言語を使った話し合いに発展したのだが、それはまあどうでも良い。
 狙撃手にも注意を払うべきだが、それは物理的な障害を多めに配置することで、おおむね無効化することが出来る。
 だから殆どの戦力を迎撃に使うことが出来た。
 だが。

『後ろ!』

 試合開始から十分。
 レイフォンの足止めに専念していた隊員が、十三回目の旋剄攻撃を終了させた直後、念威繰者の悲鳴が辺りを支配した。
 小隊長を勤める六年生が、その悲鳴につられてレイフォンの方を見ると、旋剄の効果が切れて減速した直後の隊員が背中から斬撃を受けて倒される光景と出くわした。
 完璧なタイミングだった。
 旋剄は高速移動のため、一度発動してしまうと細かな方向転換などはかなり難しい。
 そして、何時までも高速移動を続けることも出来ない。
 ならば、発動の瞬間と方向を読んで、追撃することは難しくない。
 その欠点があるからこそ、第十六小隊は旋剄と連携を最大限活用した戦術を構築したのだ。
 当然だが、一人では連携がとれない。
 その欠点をレイフォンが突いたことが分かった。
 そして、見事に小隊員を一人撃破して見せたのだ。
 一年生だと侮っていた訳ではなかったのだが、結果だけ見れば戦力の配分を間違ったことは否定出来ない。
 そして、試合も大会も戦いも結果が全てなのだ。
 とは言え、一人でも発動のタイミングを変えたり、途中で緩やかに曲がるなどして追撃を阻止する事は出来る。
 確認はしていないのだが、レイフォンが防御に徹している事で油断して、小細工を忘れてしまったのかも知れない。
 これは明らかな隊員のミスだ。
 勝っても負けてもこの辺をしっかりと評価して、次回に生かさなければならない。
 幸いにして、小隊対抗戦は戦闘ではないので、この次があるのだ。
 この体験は非常に貴重な物になるだろうと、隊長は評価している。

「っち! 狙撃手に攻撃させろ! ニーナをさっさと叩くぞ!」

 と言う思考は瞬間的に押しとどめて、現状の打開を優先する。
 ニーナに張り付いて攻撃している隊員は全部で二名。
 双鉄鞭という武器を最大限生かし、防御力に優れたニーナを短時間に倒すためにはこれ以上戦力をさくことは出来ない。
 時間をかければ、確実に挟撃あるいはフラッグ破壊されてしまう。
 そう判断したのだが。

「なに!」

 気が付けば、レイフォンがすぐ側まで来ていた。
 二人とも一瞬動きが止まった。
 こちらに来ることを予測していなかった訳ではないのだが、それでもあまりにも移動速度が速すぎた。
 何故か硬直したのはニーナも一緒だったようだ。
 この一瞬の硬直に倒せれば良かったのだが、生憎と双方復活するタイミングは殆ど同じだった。
 この事態から推測すると、ニーナの指示ではないだろうが、攻撃側である第十七小隊は隊長であるニーナが倒されれば、それで敗北が決定してしまう。
 ニーナの援護に入るのは当然だ。
 一瞬の硬直の後、二対二の戦いに備えて視線だけで連携を確認する。
 だが、ここで驚くべきことが起こった。

「な、なにぃ!」

 いきなりレイフォンが消えたのだ。
 何処に行ったかと探す。
 フラッグへ向かう後ろ姿を確認出来た。
 まだそれほど距離は離れていない。
 旋剄を使った移動だったようだが、速度は兎も角として発動時間が短いのかも知れない。

「狼狽えるな! 狙撃手が迎撃する! 手早くニーナを倒すぞ!」

 先ほどの計画通りに、二人でニーナに波状攻撃を仕掛け、短時間で倒さなければならない。
 時間をかけてしまえば、シャーニッドの狙撃かレイフォンの攻撃でフラッグが破壊されてしまう。
 既に散々攻撃を受けたニーナは立っているのもやっとと言った感じだ。
 ここで一気に攻撃を集中してしまえば、倒すのに時間は掛からない。
 そう思えたのだが。

『後ろ!』
「え?」

 再びの念威繰者の悲鳴と共に、ニーナを取り囲んでいた隊員の一人が背中からの攻撃で倒された。
 当然やったのはフラッグの方向へ行ったはずのレイフォン。
 冷静なその視線が隊長を捉える。

「僕がフラッグに向かったからと言って、注意しないからこうなるんですよ」

 冷静なその視線と声と共に、黒鋼錬金鋼の長剣がこちらを向いた。
 やられた。
 一年と侮っていたつもりはなかった。
 だが、ここまでの戦い巧者だとも思わなかった。
 旋剄が途切れて動きが止まった瞬間を狙ったのもそうだし、フラッグを取りに行くと思わせて奇襲したのもそうだ。
 これほどの実力者が一年にいるとは、全く想像もしていなかった。
 この試合は負けた。
 そう覚悟した瞬間、狙撃によりフラッグが破壊された。



[14064] 第三話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:58751d0a
Date: 2013/05/11 22:14


 控え室に移動した第十七小隊だったが、勝ったはずだというのに非常に空気が重かった。
 それは何故かと問われたのならば、ニーナが怒っているからだと答えることしかできない。
 何故怒っているのかは、シャーニッドにはおおよそ理解は出来ている。
 それが的外れではあるがニーナらしいと言う事も。
 ベンチの一つを占領して寝転びつつ、冷水を使い固く絞ったタオルを目に当てる。
 一発しか撃たなかったのだが、そこに込められた集中力はかなり激しく精神力を消耗する。
 前線で戦っていたレイフォンもそれなりには疲れているようだが、流石に実戦経験者はまだまだ余裕が伺える。
 そして、十六小隊に翻弄され、倒れる寸前だったはずのニーナだが、試合終了直後からやたらに元気なような気がするのだ。
 怒りは身体を活性化させるという話は、本当らしい。

「なんだあの戦い方は!」

 いきなりそんな怒声が部屋を振るわせる。
 何だと言われてもさっぱり分からないといった風に首をかしげるレイフォン。
 我関せずと雑誌に視線を向けるフェリ。
 何時も通りの展開だ。

「ああ。レイフォンが後ろから攻撃したことを怒っているのか?」
「当然だ!」

 即答だった。
 敵に後ろを見せないと同じだけ、敵を後ろから攻撃しないと言う事らしい。
 全くナンセンスだが、非常にニーナらしくはある。
 ニーナらしくない怒り方をするよりは非常に健全だ。

「後ろから攻撃したらいけないんですか?」
「当然だ!」

 レイフォンの疑問に対してもやはり即答だった。
 この先の会話の流れは読めているのだが、言って止まる訳でもないのでそのまま聞き続けることにした。

「高速戦闘をする場合、止まった時が一番危険なのは常識ですよね?」
「それは分かっている!」
「なら、止まった時に敵に後ろを見せている方が間違いですよ」
「それも分かっている!」

 理解は出来ても納得は出来ないのだろう。
 感情的になるニーナとは対照的に、レイフォンは至って冷静だ。
 どれだけ多くの修羅場を潜ってきたのか是非とも聞いてみたいが、知ってしまったら最後一緒に戦えなくなるような気もしているのだ。
 それは少し寂しい気もする。

「それに、先輩を攻撃していた人達は連携していましたよね?」
「当然だ」
「それはつまり、旋剄を使った攻撃の弱点をきっちりと理解していると言う事ですよね」
「た、たしかに」

 理責めではニーナは納得しないのだろうが、レイフォンにはそれ以外の方法が思いつかないのだろう。
 全く不器用なことだと思いつつも、シャーニッド自身にも良い案というのはない。
 だから流れに身を任せている。

「ならば、フラッグを取りに行くと見せかけた時はどうだ?」
「あれは初歩的なフェイントですよ」

 狙撃手という立場。
 一歩下がった場所から戦場全体を見ているシャーニッドには分かった。
 レイフォンはわざと短めの旋剄を使って移動したのだと。
 それはつまりフラッグへ向かったことはフェイントで、ニーナの援護が主目的であると宣言していたのだ。
 だが、あの瞬間それをきっちりと理解出来た人間は、恐らく狙撃手か念威繰者だけだっただろう。
 戦場を外から見ることが出来なければ分からない。
 あるいは、経験を積んだ指揮官なら話は違うのかも知れないが、そんな経験豊富な人間が学園都市にいる訳がない。
 そして狙撃手であるシャーニッドは次の展開を予測出来たので、丸見えになることを覚悟の上で移動。
 レイフォンが一人を倒した次の瞬間にフラッグを撃ち抜いたのだ。
 とは言え、正々堂々と戦って勝つことを心情とするニーナには受け入れがたい話かも知れない。

「まったく。それじゃあいつかウォリアスに隊長職を取られちまうぞ?」
「あんな卑怯者と一緒にするな!」

 どうやらニーナの中でウォリアスは卑怯者と位置づけられているようだ。
 まあ、分からない話では無いのだが。

「何でもう少し色々な物の見方が出来ないのかねぇ?」
「坊やだからさ」
「どわ!!」

 思わず呟いた独り言に、思わぬ方向から返事が返され、寝転んでいたベンチから転がり落ちる。
 別段、女性であるニーナを坊やと言ったことに驚いた訳ではない。
 そのニーナは完全に意表を突かれ硬直し、フェリでさえ雑誌を放り出して何故かレイフォンに抱きついている。
 思わずフェリの側にいれば良かったかなどと考えたのだが、まあ、これはどうでも良い話だ。
 それは置いておいて。
 当然かもしれないが例外はレイフォンだ。
 殺剄を使ってこの場にいたはずだが、気が付いていたのだろう。
 一言言ってくれればいいのにと思いつつ、壁により掛かりつつ、ショットグラスを片手に持ち、サングラスを着用しているオスカーに批難の視線を向ける。
 色合いからしてショットグラスの中はアイスティーだろうと予測しつつ。

「旦那ぁ。心臓に悪いから止めてくれよ。それに他の小隊の控え室に侵入するのはルール違反だろ?」
「うむ。いやな。少々思うところがあってな」

 全く動じる気配もなく、ショットグラスを傾けるオスカー。
 非常に絵になっているが、今問題にしなければならないことはそこではない。
 今度何処かでやってみようかと思っているのも、全く別な問題だ。

「せ、先輩もレイフォンの戦い方には問題が有ると思われるのでしょう」

 心臓付近を押さえつつニーナが訪ねる。
 取り敢えずショック死はしていなかったようだ。
 レイフォンに続いて病院送りでは、少々問題になるかも知れないからこれで良いのだが。

「うむ。問題だな」
「そうでしょう」

 オスカーが軽くサングラスを直しつつそう言うと、ニーナが我が意を得たりとばかりにレイフォンに向く。
 恐らくニーナとオスカーの認識にはかなりの違いがあることを、シャーニッドは理解している。
 そして、未だにレイフォンに抱きついたままのフェリに少々では済まない疑問も感じているのだ。

「何故我々は、アルセイフ君のような戦い方をしなかったのだろうとね」
「な、なにを?」
「相手の弱点を突くのは戦術の常道。それをせずに負けたのならば単なる負け犬の遠吠え」

 そう。勝たなければ意味がない。
 そのために悪足掻きすることは間違ったことではないのだ。
 それは分かっていた。
 だが、実戦してきたかと問われると否と答えるしかない。

「そもそもだね。対抗試合とは切磋琢磨の場なのだよ」
「分かっています!」

 自分の思っていることと違う進展のせいで、ニーナの感情はかなり爆発気味だ。
 だが、これはきちんと理解してもらわなければならない。
 今日の試合の前にレイフォンが作戦はどうするのかとニーナに聞いた。
 その場で決めると言ったのだが、ニーナから出てきたのはその場を収集する指示だけ。
 それは作戦とは言えない。
 そして、レイフォンの戦い方もそうだ。
 恐らく必要なのだ。今のツェルニには。

「切磋琢磨の場である以上、自らの弱点を誰かに指摘してもらうのは良いことだと思わないかね?」
「それはそうですが」
「弱点を突かれて負けたのならば、何よりも自分自身がそれに気が付くと思うのだが」
「そ、それは」
「アルセイフ君がああしたからこそ、次回の十六小隊の戦い方はもっと洗練された物になるはずだ」

 それは間違いない。
 負けたらそのままにしておくことは小隊員には出来ない相談だ。
 ならば何らかの対応策を講じてくるのは当然のこと。
 思い返せば、レイフォンと戦ったナルキは、レイフォンに向いたまま床を削り減速していた。
 背中を見せていたら容赦ない一撃が襲いかかったはずだ。
 今回の第十六小隊の連中のように。

「それは」

 それきり沈黙してしまうニーナ。
 正々堂々と戦って勝つという心意気は素晴らしいと思うし、それこそがニーナの本質だとは思うのだが、レイフォンのような人材は是非とも必要なのだ。
 すぐにどうこうできるとは思っていないが、それでも誰かに指摘されなければ狂いは大きくなるばかりだ。
 
 
 
 試合が終了した後だというのに、レイフォンは練武館の側の公園でナルキに鍛錬を施していた。
 それを呆然と眺めるフェリの内心は、かなり色々なことが渦巻いている。
 今日の試合、フェリは徹底的に手を抜いていた。
 だというのに第十七小隊は勝ってしまった。
 しかも、ニーナの指示も、殆ど無かったというのに。
 レイフォンが猛烈に強いことは理解しているつもりだ。
 だが、シャーニッドの対応能力もかなり高かった。
 この二人だけで勝ったと言っても差し支えないほどだ。
 その事実を認識した直後、フェリの中で何かが少々傷ついたような気がした。
 念威繰者としての誇りなのか、あるいは違う何かなのか、それはまだ分からないが、それでも何かが傷ついたのだ。
 そんなフェリの視界の端っこでは、なにやらニーナが落ち込んだり考え込んだりしているように見える。
 まあ、余り物を考えずに猪突してその場で何とかする人間には、今回の勝ち方は納得が行かないのだろう。
 どちらかというと、男性二人の戦い方こそニーナが好みそうなのだが。
 そして思うのだ。

「何故、家の小隊員全員がここで油を売っているのでしょうか?」

 シャーニッドにハーレイまで集まって、ナルキの鍛錬を見学しているのだ。
 控え室から続いてオスカーも見学組に加わっているところを考えると、もしかしたらレイフォンがどんな鍛錬を施すのかに興味があるのかも知れない。
 ただ、見学されている本人は非常に落ち着かないようだが、ここを立ち去るという選択は誰もしていない。
 それは何故かと問われると。

「じゃあ、腹筋百回ね」
「お、おう」

 腹筋百回。
 フェリがそれをやれと言われたら、出来ないことはないが相当疲労するだろう運動量だ。
 だが、相手はナルキだ。
 小隊員並の強さを持った武芸者相手に、たった百回と言う事の方がおかしい。
 だが、事態は思いもかけない方向へと突き進む。
 錬金鋼の調整という名目で、持ち出された虎徹をいきなり復元。
 実際にはこの名目のためだけに、ハーレイはここにいると言っても良いくらいなのかも知れない。

「いち、にい、さん、よん、ごお、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう」

 いきなり復元した虎徹を清眼に構えたかと思うと、その刀が腹筋を始めたのだ。
 切っ先が持ち上がり、一定の高さで痙攣しつつ姿勢を維持。
 そこからゆっくりと下がり一息つく。
 それを延々と繰り返すのだ。
 これは少々では済まない驚きと共に、ハーレイがなんだか喜んで映像を記録している。
 実はフェリも今の映像を記憶しているのだ。
 なかなか面白い芸として。

「それって何の役に立つんだ?」
「鋼糸の制御の基本ですよ」
「鋼糸って言ったら、左手に付けてるやつだよな?」
「はい。錬金鋼が目となり耳となり皮膚となるのは当然ですけれど、筋肉にすることが鋼糸には必要ですから」
「成る程な。俺もやってみようかな」

 レイフォンとシャーニッドがそんな会話をしている間に、規定の百回は無事終了した。
 疲労したように見えるナルキと虎徹。
 まだ慣れていないのか、それとも、そもそもかなり激しく剄を消費するのか、
 どちらかというと慣れていないような気もするのだが、見ている分には面白い。
 疲れて息を整える刀が、少々可愛いような気もするし。
 オスカーの方もなにやら錬金鋼を復元して力んでいるところを見ると、もしかしたら結構重要な内容なのかも知れない。
 とは言え、銃使いのはずのオスカーが何故剣なんか持っているのかの方も疑問だが。
 だが、事態はそんなフェリの思いなど関係なく進む。
 普通の素振りを繰り返すナルキの側に、見た事のない青年がいきなり現れた。
 殺剄を使っている訳でもないのに、今の今まで接近に気が付かなかった。
 身長は百八十センチをやや超える程度だが、広い肩幅と厚みのある肉体はただ者ではないことを告げている。
 やや長めの黒髪と険しい黒い瞳がナルキを捉えた。
 そして次の瞬間、何の前触れもなくレイフォンの前に移動して。

「いきなりで悪いんだが」
「はい?」

 低くややこもりがちな声が発せられ、レイフォンの右肩に左手を置く青年。
 どう考えても学園都市の住人ではない。
 医療課にいるテイル・サマーズのように、例外的に老けて見える生徒も居るには居るが、目の前の青年は違う。
 あえて似ている人物を捜すとすれば、それはレイフォンだ。
 その佇まいは風格はないが凄みを感じる。
 一挙手一投足が全て必殺の動きにしか見えない。
 もしレイフォンがあと十年歳を取ったら、きっと目の前の青年のようになるだろうと思えるほど、二人はよく似ている。
 だが、フェリのそんな観察などお構いなしに事態は暴走してしまう。

「はぁ食いしばれ!」
「っが!」

 何の脈絡もなく、青年の右拳がレイフォンの顎を綺麗に捉えた。
 あまりにも突然で殺気も害意もなかったためだろうが、もろに殴られるレイフォン。
 二メルトルほど吹っ飛んで地面に転がる。
 フェリを含めて全員が呆気に取られるほどの唐突な展開だった。
 これはもしかしたら、何かの儀式なのかも知れない。
 サイハーデンの使い手同士が、初顔合わせをする時の挨拶代わりとか。
 それほど何の脈絡もなく、全く予想出来るような空気もなく行われたのだ。
 驚いているのはレイフォンも含めて全員なので、多分違うと思うのだが。

「念のために確認するんだが」
「な、なんでしょうか?」

 いきなりの暴力沙汰から一転、何か確認するようにレイフォンを見る青年。
 殴られた方でさえ普通に受け答えするという異常事態が展開しているのだが、まあ、レイフォン絡みでは常識が通用しないから問題無いのだろう。

「レイフォン・アルセイフで良いんだよな?」
「そう言うことは始めに確認しませんか?」
「ああ? そんな物殴った後が常識だろう?」
「どんな常識ですか!」

 また一人、レイフォンの周りに非常識な人間が現れたようだ。
 類は友を呼ぶと言うが、全くその通りだと思わなくもない。
 フェリを除いて。

「まあ、話があるんだが面貸せよ? そっちの猿も」
「猿って言うな!」

 自覚があるのか、素直に応対してしまうナルキが仕舞ったという顔をするが、既に遅い。
 青年は完璧に猿という認識だろうし、もしかしたらレイフォンも同じかも知れない。

「まあ、その辺は後だ。取り敢えず面貸せ」
「良いですけれど? どんな用事ですか?」
「ああ? てめぇがサイハーデンに泥を塗っていることとかだ」
「!」

 青年の一言で硬直するレイフォン。
 それはいつぞやの発作の前兆と何ら変わらない状態だ。
 それを見てとっさにニーナが割って入ろうとしたが。

「ええい! 一々うっとうしい!」

 青年の二発目の打撃が、レイフォンを復活させる。
 ついでに三メルトルほど飛ばされたが。

「貴様! 何をする!」

 いきなりの展開に呆然としていたのも一瞬、ニーナが本格的に青年に向かって突進する。
 既にその手には錬金鋼が握られ復元の時を待っているが、相手は全く動じた様子もない。

「ああ? 関係ねえやつは黙ってろ!」

 それどころか平然とニーナを追い払うようなまねまでする。
 既にニーナの間合いに入っていることは分かっているはずだが、それでも全く動じる気配はない。

「関係なら有る! 彼は私の部下だ!」

 とうとう鉄鞭を復元して構えてしまった。
 こうなってはもう止まらない。

「ああ? 関係ねえな。これは俺とそいつとそこの猿の問題だ!」

 やはりナルキは猿と認識されているようだ。
 別段フェリには何の問題も無いけれど。

「関係有ると言っている!」

 活剄を走らせて今にも襲いかかりそうな勢いだが、まだ何とかニーナは踏ん張っているようだ。
 青年が後一言でも言ったら流血沙汰間違い無しだけれど。
 どちらから流れるかは別として。

「ああ! ふざけていると叩き殺すぞ!」
「やれる物ならやってみろ!」

 次の瞬間、鋭い金属音と共にニーナの首筋に刀の物落ち付近が押し当てられていた。
 全く見えなかった。
 刀が復元したところはおろか、二歩ほどの距離を詰めたところさえ。

「な!」

 一拍おいて、やっと自分に何が起こっているかを理解したニーナが、驚いているほど凄まじかった。
 だが、それもフェリが驚いた事柄の半分ほどでしかない。
 レイフォンがニーナの側に移動して、長剣で刀を受けている光景も驚きの一端だ。
 殴り飛ばされて三メルトルは離れていたというのに、一瞬でニーナの側まで移動していたのだ。

「ほお。やるじゃないか」
「本当に殺すとは思えませんでしたが、念のために」
「ふん! 本気だったら俺がやられていただろう?」
「一応」

 やはり二人は同門らしい。
 お互いの行動原理を把握している辺りに、それを窺うことが出来る。

「まあ良いさ。こいつには関係ない」
「・・・・・・。行こうナルキ」
「あ? ああ」

 一応サイハーデンを習っているナルキだが、まだ二人のことを理解するまでには至っていないようだ。
 戸惑いと言うよりは現状を把握出来ない様子で、歩き出した二人の背中を追って行く。
 これは是が非でも会話を盗み聞きしなければならない。
 別段レイフォンがどうなろうと知ったことではないのだが、どんな話になるのか非常に興味津々なのだ。
 青年はサイハーデンに泥を塗っていると現在進行形で話した。
 決して過去形ではないのだ。
 恐らくレイフォンはそれを理解していないだろうが、フェリはそうでは無いのだ。
 剣帯に手を伸ばしたところで、違和感に気が付いた。
 無いのだ。重晶錬金鋼が。

「一応聞いておくのだが」
「・・・・・。いきなり悪い影響を受けないで下さい」

 すぐ側まで来ていたオスカーに全く気が付かなかった。
 これは単にフェリの注意が他に行っていたからだけのようだ。
 その証拠にシャーニッドは平然としている。
 だが問題はそこではない。
 確認するよりも先に行動するという、レイフォンを連れ去った青年みたいなことをやっているのだ。
 これはあまり良いことではないと思う。

「盗み聞きは良くないと思うのだがね」
「気にならないのですか?」
「ならないと言ったら嘘になるが、アルセイフ君の問題であることも認識している」

 鉄壁だ。
 力尽くで取り返すという選択肢は存在していない。
 今回は諦めるしかないようだ。

「それにしても、サイハーデンの連中はあんな化け物ばっかりなのかね?」
「うむ。無いとは言い切れないな。少なくともアルセイフ君とあの人は化け物だ」

 男二人でなにやら会話が成立しているようだ。
 別段どうでも良いのだが、ほんの少しだけ気になるような、ならないような。

「どう言うことですか?」

 フェリがどうこうする前に、ハーレイが質問してくれた。
 これは渡りに船だ。

「私には見えなかったのだよ。加速しているところはもちろん、移動している最中も、そして止まったところもね」
「え、えっと」
「加速する時も減速する時も、必ず何かとの摩擦を利用しなければならないはずだろ? レイフォンにはその摩擦がなかったみたいなんだ」
「そ、それって、物理学への挑戦?」

 あの瞬間の記憶を振り返ってみる。
 確かにレイフォンが加速した余波のような物は感じることが出来たが、はっきりとそれだと言い切れるほどの物ではなかった。

「相手もそれを平然と受け止めていた。もしかしたらサイハーデンには物理法則さえ通用しないのかもなって」
「そ、それって、武芸者なんてレベルじゃないんじゃ?」
「だから化け物だと言ったのだよ。私達から見ても凄まじい」

 やはりレイフォンの周りにいる連中には、常識は通用しないようだ。
 そして思う。

「旅行者が錬金鋼を持ち歩く事は不可だったはずでは?」
「・・・・・。言われてみればロス君の言う通りだな。困った物だね」

 オスカーが少々驚いているようだが、これも最終的にはレイフォンと同類だと言う事で片が付いてしまう。
 そして、殺されかけたニーナがやっと腰を抜かした。
 これからが少し大変かも知れないと思いつつ、フェリは覗き損ねたことを少々残念に思っていた。
 具体的には、メイシェンのお菓子を食べられないのと同じくらいに。
 
 
 
 レイフォン達を見送った物の、オスカーにはかなり困った問題が訪れていた。
 何が困ったかと聞かれるとやはりニーナと答えるしかない。
 盗み聞きしようとしたフェリを止めるのに手間は掛からなかったのだが、レイフォンを庇おうとしているらしいニーナはかなり強情だ。

「あいつは私の部下です! 上司が部下を守るのは当然でしょう?」
「今は違う。彼らが問題にしているのは恐らく同門以外は踏み込んではいけない事柄だ」

 腕試しの時に気が付いてはいた。
 ナルキとレイフォンの持つ武器が違うと言う事に。
 それにどんな意味があるか解らずに、踏み込むことが出来なかったのだが、今日それに踏み込める人物が現れた。
 ならば彼にこそ任せるべきなのだ。
 ニーナはレイフォンを守ると言っているが、実は彼こそがレイフォンを守れるのだと言う事をオスカーは理解していた。
 そのためにはこの真っ直ぐ過ぎて周りが見えなくなりやすい隊長さんを、何とかなだめて成り行きを見守らなければならない。

「我々に出来ることは見守ることだけだ」
「そんな事はありません! 私にも何か出来ることがあるはずです!」
「この問題に付いては無い。アルセイフ君を守れるのはあの人だけだ」

 思わず言ってしまった一言がニーナを急停止させた。
 売り言葉に買い言葉という訳ではないのだが、ついつい言ってしまったのだがかなり大きな失敗だ。

「どういう意味ですか?」
「・・・・・・・。君が知る必要はない」

 もう少し気の利いたことを言いたいのだが、残念なことにオスカーにそう言うスキルはない。
 そして、これでは納得しないことも分かっている。

「私は!」
「アルセイフ君がいずれ答えを出す。それまで待とうという気にはなれないのか?」

 ゴルネオから聞いてはいたのだが、ニーナはどうしても自分の意見を通したいようだ。
 それが間違っているとは思わないが、今回のことについては正しくない。

「なあ旦那」
「何か意見があるのかエリプトン君?」
「ニーナにはきっちり説明しておいた方が良いと思うぜ。突っ走られたら厄介だしな」
「事情を知っているのかね?」
「前に少しだけ関わった。その後も色々あったとは思うんだがね」

 シャーニッドの言う事も理解出来るのだが、これは恐ろしく繊細な問題なのだ。
 不用心に首を突っ込めば取り返しの付かないことになりかねない。
 説明したところでニーナの行動が変わるとは思えないが、説明しない時よりは多少ましかも知れない。
 とは言え、補足情報が是非とも欲しい。
 そして幸いにもオスカーには宛がある。

「彼を呼んでみるか」
「ああ。それが良いんじゃねぇですか」

 シャーニッドの方も似たような結論に達しているようだ。
 そうなると連絡を取る必要があるのだが、実は携帯の番号を知っているのだ。
 ゴルネオが第五小隊にスカウトした時に、後々のためにと聞いておいたのだ。
 こんなことで役に立つとは思わなかったが。

「私に錬金鋼を返してくれれば、諸々の準備を整えますが?」
「・・・・・・・・・・・・・・。いや。少々古い方法で対応しよう」

 フェリの魅力的な提案を断る。
 返したからと言ってすぐに覗くとは思えないのだが、念のためという物だ。



[14064] 第三話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:58751d0a
Date: 2013/05/11 22:14


 執務の都合を無理矢理に付けて、カリアンはこの場に出席していた。
 オスカーがなにやら難しい顔をしているのは、間違いなくカリアンがここにいることに対して少々困っているのだろう。
 だが、実際問題として、レイフォン絡みの問題は非常に重要なのだ。
 外す訳にはいかない。

「なんでいるんだ?」
「ふむ。五年以上付き合っているというのに分からないのかね?」
「・・・・・。偶然と言う事にしておきたいな」

 レイフォンのところに来た客に便宜を図ったと思っているのだろうが、カリアンの手はそれ程長くない。
 せいぜいが第一小隊の念威繰者を動員して監視をしているくらいだ。
 それもつい先ほどからやっているというていたらくで、全くこの展開は予測出来なかった。
 それは同席しているヴァンゼやウォリアスも同じようで、少々では済まない困惑をその表情に浮かべている。
 だが、ここで止まっている訳にも行かないので、話を進めるようにオスカーに視線を飛ばす。

「早々だが始めようか」
「そうしてもらえると助かるよ。私は忙しい身なのでね」

 仕切るオスカーだが、この問題について最も心を痛めているらしいので、そのまま任せることにする。
 おおよそのところは、オスカーから聞いていたのだ。
 レイフォンの入隊試験という体裁を持ったあの試合の直後に、錬金鋼が違うことについて。

「ハーリス君に聞くのだが、サイハーデンは刀の武門だね?」
「そうです。刀術についてはグレンダンでも屈指の奥深さを持つと言われています」

 相変わらず詳しいのに驚くが、彼の故郷はそのグレンダンの天剣授受者にボロ負けしたのだ。
 次の機会があったら、絶対に負けないために徹底的に調べるのは当然のことだ。

「だが、彼は剣を使っているね?」
「・・・。それには驚くべき理由がありまして」

 いきなり歯切れが悪くなったかと思うと、話すかどうか躊躇するウォリアス。
 彼の性格からすれば、おおよそ予想も付かない事態が展開したことだけは分かった。
 更に話すかどうか考える事十秒。
 語られた内容は、あまりにも信じられない物だった。

「・・・・・・・・・・・・・。彼女を心配させたくないから戦わない?」

 シャーニッドがやっとの事で呟く。
 彼は偉大だ。
 カリアンは未だに茫然自失の状態だというのに、既に事の本質を理解し始めているのだ。
 その自失の中で考えているのだが、カリアンにはレイフォンの思考回路が理解出来ない。
 あれだけの強さを持っていながら、それを捨て去ろうとしているのだ。
 そして、捨てた物がどれほど大きかろうとレイフォンはきっと後悔はしないだろうとも思う。

「そんな事は許されん! 武芸者とは都市を守るための存在だ! それをただ一人に心配をかけさせないために、戦わないなどと言う事はあってはならない!」

 こういう場合で一番先に激昂するのは、やはりニーナの役目のようだ。
 そしてその激昂に頷く者、苛立ちを覚える者と様々だ。
 どちらかと言えばカリアンも苛立ちを覚えている。
 他の者を圧倒する才能を持ったのならば、それを使うことはもはや義務だと言える。
 だが、僅かとは言え時間が空いたカリアンは、レイフォンの気持ちが分からない訳でもない。
 複雑な感情をもてあますカリアンを余所に、オスカーがニーナを押さえる。

「それは彼個人の問題だ。そしてツェルニでは武芸科に在籍している。それで良いのではないのかね?」
「ツェルニがどうこうは置いておくとして、彼が都市に帰ればきっと戦力として期待されているでしょう」

 グレンダンには帰れない。
 家があるとすれば、それはヨルテムになる。
 だがここで問題が有る。
 ヨルテムは戦力の充実している都市だ。
 確かに戦力は多い方が良いだろうが、それでも嫌がる人間を戦わせるほど困っている訳ではない。
 ならば、レイフォンはある程度自分の進路を自由に決めることが出来るのではないだろうかとも思う。
 サントブルグにおけるフェリの立場とは、似ているようで決定的に違う。

「彼はここに武芸を捨てるために来たと聞いているが?」
「それは未練です! 捨てることは出来ません!」

 ニーナは武芸者であることに誇りを持っている。
 それは素晴らしいことだと思うのだが、どうしても崇高な武芸者の目的と言う立ち位置からしか物を見る事が出来ないようだ。
 視野狭窄というのは簡単だが、あまり良いことではない。
 今のままでは人の上に立つことは出来ない。
 せめて自分と違う物の考え方がある事をしっかりと認識して、それを許容できるだけの度量を持ってほしいと思う。
 それはニーナの人生にとって、極めて大きな財産となるはずだからだ。

「一つ聞きますが」
「何だ!」

 話に割って入ったウォリアスに、噛み付きそうな勢いでニーナが反発している。
 既にけんか腰になっているのは、卑怯な戦い方をしたウォリアスを嫌っているからだろうことは理解している。
 だが、もしかしたらウォリアスはレイフォン以上にツェルニに必要な人材かも知れないのだ。
 出来ればもう少し感情を抑えて欲しい。

「先輩は汚染獣との戦闘経験無いですよね?」
「当たり前だ! レイフォンは五十回ほど戦ったと聞いたが」
「グレンダン以外の武芸者は、全人生を通して十回戦えば多い方なんですよ?」
「だからなんだ!」

 ニーナは理解していない。
 ウォリアスの言う事を徹底的に否定することしか考えていないかも知れない。
 それではこの少年の相手は勤まらないのだ。

「ならば、レイフォンはもう十分すぎるほど戦ったと思いませんか?」
「そ、それは」
「孤児院の経営状況を何とかしたくて戦った。そして今戦わない理由を持っている」

 そうなのだ。
 レイフォンは今、戦わない理由を持っているのだ。
 無目的にこのツェルニに来ているのではない。
 大義名分として修行と言う事でツェルニに来ているが、殆ど何もしていないフェリとはやはり似ているが決定的に違うのだ。

「ツェルニの都合で武芸者をやっていますが、それはこちらの都合でしかないでしょう?」
「だが! 武芸者である以上戦うべきだ!」
「本人の志望は置いておいても十分に戦えますよ? レイフォンが本来の能力を発揮出来ない今でも、一体誰が勝てるんですか?」
「そ、それは」

 そうなのだ。
 レイフォン相手に誰も勝てない。
 そうである以上剣を持とうが刀を持とうが、ツェルニにとってはどうでも良いことなのだ。
 出来れば本来の道を進んで欲しいとは思うが、それは。

「そうだな。ツェルニ武芸者511人。いや。512人はアルセイフ君が剣を持っていても全く困らない」

 少々黙っていたオスカーが気になる数字を出した。
 現在ツェルニ武芸科に在籍している生徒は513人。
 一人だけ、レイフォンが刀を持たないことで不利益を被る生徒がいることになる。
 誰か予測は出来ている。

「ナルキですよね?」
「ああ。ゲルニ君だ」

 ただいま現在サイハーデン刀争術を学んでいるナルキ。
 彼女にとって、レイフォンが刀を持つかどうかはきっと大きな問題なのだろう。
 どれほど大きな問題かは、見当も付かないが。

「ですけれど、かなりの部分は僕がフォロー出来ますから、このままで良いかと思っていたんですが」
「ああ。困らない条件がそろったように見えるね」

 見えるとオスカーが言う。
 実際には違うのだ。
 武芸者ではないカリアンには正確なところは分からないが、それでもそれなりには分かっているつもりだ。

「ええ。細かい所というか本質はやはりサイハーデンからでなければ伝わらない」
「あの人が伝えてくれればいいのだが」
「そうですね。ナルキはレイフォンの弟子ですから、積極的には関わらないのではないでしょうか?」

 そうなると、出来れば刀を持った方が良いという結論になる。
 カリアンとしてもやはり、レイフォン本来の姿を取り戻して欲しいのだ。
 それが、本来の志望と違う事をさせてしまっている事の罪滅ぼしになるかどうか分からないが。
 いや。おそらくレイフォンの志望とは逆の事だとは思う。
 罪滅ぼしどころか、余計なお世話になる事は間違いない。

「そんなに違うのかね?」

 だが、その問題よりも先に解決すべきは、刀と剣との違いについて確認する事だ。
 同じ板状の金属で出来た刃物だ。
 素人考えだが、そんなに違うようには思えない。
 包丁などあまり使った事はないが、物を切る時にさほどその使い方を意識した事はない。

「そうだな。カリアンに分かりやすく説明するとだな」

 考えつつオスカーがウォリアスを見る。
 どうも明確に説明出来ないようだ。

「斧と鋸は知っていますか?」
「斧というと、消防隊が常備しているやつだね?」

 ツェルニにも消防署があり消防隊員がいる。
 その隊員の基本装備の一つとして、斧が使われている。
 整備の手間が掛からずに、確実に動作する信頼性の高い装備として。
 当然それはカリアンも知っている。
 鋸についても、知識としては知っている。
 両方とも実際に使った事はないが。

「斧は、重量や運動エネルギーの全てを一点に叩きつけて、相手を粉砕する事で破壊します。それに比べて鋸は小さなひっかき傷を連続して付ける事で削ります」

 ウォリアスの言う事は分かるような分からないような。
 だが、違うと言う事は理解した。

「刀は鋸に似た使い方ですし、剣は斧に似た使い方です」
「成る程。似ているが全く違うのだね」

 同じ効果を得るにしてもそこにある原理は全く違う。
 ならば、その動きに決定的な違いがある。
 だからこそここまで問題がこじれてしまっているのだ。

「困ったね」

 自発的に刀を持ってくれる事はおおよそ望めないが、強制する事は出来ない。
 そして、説得する事が出来るかも知れない人材が、偶然にツェルニに居る。
 いや。恐らく偶然ではないのだろう。
 あまりにも都合が良すぎるし、レイフォンを知っている事と合わせると、グレンダンかヨルテムからやって来たと考える方が妥当だ。
 他力本願になってしまうが、それでも外的因子で変わる事を願ってしまう。
 出来うるならば、時間をかけてレイフォンに考えて欲しいのだ。
 本来学園都市が果たすべき事柄を果たせない今だが、それでも考えて選択して欲しいのだ。
 
 
 
 ここ数日、溜息の多いレイフォンに視線を向けつつ、少々では済まない胸の痛みと共にメイシェンは授業を受けていた。
 授業は聞いているがその内容は全く頭に入ってこないが、今は勉強よりもレイフォンの方が重要だと思っている。
 レイフォンに何かあった事は間違いない。
 だが、一緒にいたはずのナルキもその事については何も話してくれない。
 武芸者と一般人では住む世界が違うと言う事は知識としては知っていたが、実際に目の当たりにするとやはり疎外感に似た思いを感じてしまう。
 それはとても苦しい事なのだが、ウォリアスには暫くすれば復活するはずだからそっとしておいてくれと頼まれている。
 戦いに出て帰ってこないかも知れないレイフォンを待つと言う事も辛いが、メイシェンのせいで好きな武芸を止めてしまう事も辛い。
 我が儘だと分かっているだけに、答えを出す事が出来ない。
 だからそっと視線を向けるだけに留めている。
 そしてふと思う。
 汚染獣がいなければレイフォンは戦う事がないはずだと。
 汚染獣がいなければレギオスは歩き回る必要はない。
 そうなればセルニウムの消費も大きく減るだろうし、そうなれば戦争もなくなるかも知れない。
 もし、そうなったらレイフォンは好きな武芸を競技として楽しめるはずだ。
 それは素晴らしい事だ。
 その競技でお金がもらえれば、万事丸く収まる。
 そこまで考えて絶望した。
 この願いは世界を変えると言う事に直結しているから。
 汚染獣のいない世界を作る事は、人間には出来ない。
 もし出来るのだとしたら、誰かがとっくにやっているはずだ。

「はあ」

 小さく溜息をついて黒板の方を見る。
 いつの間にか授業内容が変わっている事を確認した。
 どうやら一度以上休憩時間があったらしい。
 これは少々では済まない驚きと共にメイシェンを打ちのめした。
 そして、恐る恐ると教室に掛かっている時計を見る。
 授業時間はあと十五分ほど残っている。
 
「あう」

 小さく呟く。
 下腹部の圧力がかなり大きい事を認識してしまったから。
 このまま何とか我慢出来ればいいのだが、そうでなければ恐ろしい事になってしまう。
 冷や汗が背中を流れているような気もするが、きっと気のせいだと考えてレイフォンの方を見る。

「あう」

 何故か視線が合ってしまった。
 しかも心配げな視線とだ。
 何故今まで見つめている時に気が付かないのに、こんな時だけ気が付くのだろうと不思議に思いつつ、それでも何とか耐える。
 決して手を挙げる事などしない。
 いや。正確には出来ない。
 そんな二重の意味での地獄の苦しみを味わいつつも、ゆっくりと時間は流れて行く。
 それはもう一時間経ったはずなのに、時計の針は五分しか進んでいない程にゆっくりと。
 顔から血の気が引いて行くのを実感しつつ、レイフォンの視線が更に心配気になるのを確認しつつ、更に待つ事五分。
 あと五分で授業が終わる。
 必死の思いでこらえつつ、二時間もそうしていたように思って時計を見ると、僅かに三分しか進んでいない。
 必死に秒針が進むように既に滅んだ神に向かって祈ったが、滅んでしまっては願いを叶える事が出来ないようで、ゆっくりとまるで止まっているのかと思えるほどゆっくりとしか進まない秒針。

「あ、あう」

 既に涙目になりつつも何とかこらえる。
 そしてとうとう終了のベルが鳴った。
 まさか、少し延長するかとか思ったのだが、今回そんな地獄を見る事はなく終了が告げられた。
 急いで立ち上がった瞬間。

「メイ」
「ひゃ!」

 いきなり目の前にレイフォンがいたのだ。
 これはある意味予想しておくべき事柄だった。
 あれだけ心配げな視線でメイシェンを見ていたのだ、終了直後にやってくる事は当然だ。
 当然だからと言って嬉しいという訳ではないのが、今回の問題の複雑怪奇なところなのだが、おそらくレイフォンは分かってくれないだろう事も分かっているのだ。

「どっか身体の具合ぐわ」

 そう続けようとしたレイフォンの側頭部に、ミィフィの鞄が激突。
 よろめいたところに更に蹴りが打ち込まれる。

「ええい! この愚か者が! 馬鹿者が! 乙女の都合という物をしっかりと認識しろ!」

 更に蹴られるかと思ったのだが、いきなりミィフィがメイシェンの方を見る。
 その視線は必殺の間合いに獲物を捕らえた、猫科の生き物にそっくりだ。
 実際に見た事なんか無いけれど、きっとそうなのだ。
 今蹴られたら終わりだ。
 乙女として致命的に終わってしまう。
 だが、それでも何とか耐えなければならない。
 奥歯をしっかりと噛みしめて衝撃に備える。

「何やってるの! さっさと来る!」
「あ、あう」

 どうやら蹴られずに済んだようだ。
 そしてミィフィに引っ張られるまま、目的の場所へと足を向ける。
 かなり足腰に力を入れにくいが、それでも何とか移動を開始する。

「このたわけ者めが! 貴様は鈍いのか鋭いのかどっちだ!!」
「おごわ」

 後ろでは、レイフォンを肩に担いで背骨を折ろうとしているナルキも見えるが、今は目的を果たす事こそが重要だ。
 あまりここで時間をかけてしまうと、もしかしたら混んでしまうかも知れないから。
 そうなったら、さらなる地獄を体験する事になる。
 
 
 
 殺剄を使ってレイフォン達の授業に参加していたイージェ・ハジマは、笑い出したいのを必死でこらえている。
 ここで笑ってしまっては殺剄が解けて、隠れている事がばれてしまうからだ。
 まあ、レイフォンには分かっているようだし、やや離れたところから監視している念威端子を通して、誰かにも伝わっているようではあるのだが、教室内の他の生徒に分かってしまうと少々面倒だ。
 殴り倒して解決出来る問題なら是非とも呼び込みたいのだが、生憎とそう言う類のものでは無いので、ばれない方が断然良い。
 そして、タワーブリッジで締め上げられるレイフォンを眺めつつ思う。
 ヨルテムからツェルニに来て良かったと。
 これほど面白いやつを見る事が出来る事になるのならば、旅をする価値は十分にあった。
 イージェ・ハジマはヨルテム出身の武芸者だ。
 幼い頃からサイハーデンを学び、それなりの実力を身につけた時には十八歳になっていた。
 身についた実力が本物かどうか試してみたくなり、ヨルテムから出て傭兵家業をしつつ世界を放浪する事八年。
 久方ぶりに実家の道場へ戻ってみると、父親が少々煤けている事を発見。
 事情を聞いてみれば驚く事ばかり。
 僅か十五歳かそこら辺でサイハーデンを完璧に使いこなし、父を遙かに凌駕する実力を持つ人間が現れた。
 刀を持てばという条件がついていたけれど。
 しかもそれがグレンダンのレイフォン・アルセイフだった。
 強いやつを見たら戦いたくなるのが武芸者の本能。
 と言う事で探し出して勝負を挑もうとして再び驚いた。
 つい先日学園都市に向かって出発した後。
 更になんだか複雑な事情があるとかで、交差騎士団長と会ってみたりもした。
 結局のところ事情を全て聞き終えて、イージェ自身がツェルニに来る事になった。
 やって来て早々、小隊対抗戦という物があると聞きつけ、物見遊山のつもりで見学に行ってみて驚いた。
 話に出ていた少年が、話に聞いていた通りに長剣でサイハーデンもどきを使っている。
 その身のこなしは恐ろしく不自然で、同じ武門の者とはとうてい思えなかった。
 だから、試合終了後に探し出して詳しく本人から事情を聞こうとしたのだが、赤毛猿に稽古を付けているところに遭遇。
 赤毛猿の素振りは明らかにレイフォンの影響を強く受けていた。
 もの凄く不自然で、更に悪い事に、刀を持つ前の赤毛猿が使っていたのが打棒だった事も災いして、信じられないほどに無様な形になっていた。
 これは事情を聞き出す前に一発殴るべきだと判断して実行した。
 その時、他の連中もいたが、まあ、そんな物はどうでも良いとその時は思っていた。
 いや。今も思っている。
 金髪でやたらに負けん気の強い小娘がいたが、それも一瞬で黙らせる事が出来たし。
 その後三人で話し合った。
 結局、三時間ほど話し合ったが、結論を出す事は出来なかったのだが、それもまあ良いかと今は考えている。
 イージェ自身、正式なサイハーデンも使えるが少々変化もしている。
 ならば、長剣を使ったサイハーデンをレイフォンが興すのならば、それもありでは無いかと考えてもいる。
 そうはならないだろうとも思うが、もう暫く見ていても良いかと思うのだ。
 ちょっとやそっとでは見る事が出来ないラブコメを、こんな間近で見られるのだ。
 傭兵家業で貯めた金もあるし、ここらで一息つくのも良いだろうという考えもある。
 当然だが、このイージェの心境をレイフォンに正直に話す事はない。
 迫った選択肢は四つ。
 そのどれを取るかはレイフォン次第だが、まあ出来れば、刀を持って欲しいとは思っている。
 本来の技を使うレイフォンと戦うためには、どうしても刀である必要があるのだ。

「さて」

 小さく呟き、花摘みと呼ばれる行為に向かった黒髪の少女が戻ってきたので、イージェは教室を出る事にした。
 念威端子の向こうにいる誰かが、そろそろ話をしたくてウズウズしているだろうと思うから。
 政治的な話し合いなんて物はご免だが、レイフォン絡みだとどうしても通らなければならない。
 武芸者を止めるためにここに来たはずなのに、何故未だに戦い続けているのかとか、その辺から聞かなければならないから。
 出来れば肉体言語で話がしたいと思いつつも、イージェは校舎から外へと出る。
 いつも通りにサンサンと降り注ぐ太陽の光で、一瞬視界がホワイトアウトしかけたが根性でそれを押さえつける。
 殺剄を維持しつつ校舎から離れること一分。
 適度な距離を持っていた端子が、急速に接近。

「俺に何か用か?」

 機先を制するつもりはないが、基本的に積極的な性格なのでこちらから話しかける。
 いきなり念威爆雷で攻撃してきたら楽しいのにと、ほんの少しだけ思いつつ、そうならないことは理解している。

『少々お話があるのですが? お時間いかがでしょうか?』
「ああ? かまわねぇよ」

 丁寧な言葉遣いはあまり好きではないのだが、相手に強要するつもりもない。
 合わせるつもりもないが。

『では、ご案内いたしますので』

 そう言いつつ移動をする念威端子を追いかけて、イージェは学園都市を歩く。
 学校に通った事はあったが、結局勉強は苦手なままだった。
 武芸者である以上、剄脈さえあればいいと考える時もあるが、まあ、ここは学園都市なのだ。
 少々違った物の見方をしても良いかもしれないと思いつつ、念威端子について歩く。
 授業中は基本的にみんな校舎の中にいるせいで、町中は非常に静かだ。
 これなら犯罪天国かも知れないと思っているが、あちらこちらに監視カメラがあるし、そもそも旅行者の行動範囲を大きく超えているのは、イージェの方なのであまり大きなことは言えない。
 規則を徹底されてしまったら、バス停のそばで静かにしていなければならないからだ。
 それは非常にうっとうしいことになるので、いい加減な規則のままが良い。
 歩いているだけでは退屈なので、そんな埒もないことを考えているのだ。

「っとそう言えばよ」
『何でしょうか?』

 退屈を紛らわせるために、念威端子に向かって話しかけることにした。
 相手が少女だったら良いのだが、あいにくと男のようなのは、少々残念かも知れない。

「さっきの可愛い生き物達の映像って、録画してねえか?」
『俺にそう言う趣味はありません』
「何でねえんだよ?」
『俺のかってです』

 どうやら決定的に趣味が違うらしいことが分かっただけでも、収穫としては悪くないかも知れない。
 今度から映像記録装置を持ち歩こうと、密かに思っているのは公然の秘密だ。



[14064] 第三話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:15


 訓練室に到着したニーナは、かなり怒り狂っていた。
 ハジマと名乗った青年とレイフォンが話したのは既に五日前の事だ。
 そして、それから五日の間、レイフォンは何か考え込んでいた。
 刀についてだと言う事は間違いないが、話し合いの内容を把握していない上にカリアンからも止められていたために、出来るだけ関わらないようにしてきたのだが、今日という今日は我慢の限界を突破していた。
 何故刀を使わないのか、一応の説明は聞いて知っている。
 だが、それでもレイフォンは刀を持つべきだという結論に達している。
 この世界は死に満ちあふれている。
 そして、武芸者とは戦うべき存在だ。
 戦いたくないといくらレイフォンが主張したとしても、何時かは戦う事になるかも知れない。
 ならば、最も自分の得意な武器を持つ事が生還するためには必要だ。
 そして何よりも問題なのは、実はリーリンの存在だ。
 一時滞在していた場所からニーナのいる寮へと移動してきたリーリンは、レイフォンと刀について一言も喋らなかった。
 それは良い。
 レイフォンとの関わりがまだ浅いニーナに話す事自体が、問題有る行為だと言えるからだ。
 それに、一月くらいしか一緒ではなかったが、何時も明るく活発だった。
 そう。昨日までは全く問題無く影を引きずる事もなく、五人分の食事を作ったりしていたのだ。
 昨日までは。
 正確には昨晩帰りが遅かった。
 何か犯罪に巻き込まれたと考えなかった訳ではないのだが、すぐにその確率を否定した。
 一人で帰って来た訳ではなかったというのも一つの理由だが、何か違うのだ。
 ウォリアスに抱えられるように歩くリーリンは、なんだか精神的なショックを受けたというか、衝撃的な事があった後のように見えたのだ。
 それは今朝まで尾を引いていた。
 最も顕著な変化と言えるのが、溜息が多かったことだ。
 朝食を作る時にも、片付けをする時にも登校をする時にも、溜息ばかりついていた。
 そして、その溜息が非常に重かったのだ。
 それは周りの人間の気分を重くして、沈み込ませるに十分な質量を持っていた。
 ニーナ自身は経験無いのだが、同じ寮に住んでいるレウの言い方を借りるのならば、まるで失恋した後のような溜息の付き方だそうだ。
 本当に失恋かどうかは分からないが、最近の話題の中心と言えばレイフォンが刀を持つかどうか。
 リーリンの状況から明確に拒否されたのだと判断した。
 それは許されない事柄なのだ。
 グレンダンからツェルニまではかなり遠いと聞く。
 その遠く困難で危険に満ちあふれた旅路を乗り越え、リーリンはやって来たのだ。
 それ自体は学園都市という場所に来る生徒全員に言える事だが、最終的には他の生徒達は自分のために来ているのだ。
 だが、リーリンは違う。
 完全に違うという訳ではないだろうが、それでも、レイフォンに刀を届けるという目的があったからこそツェルニに来たのだ。
 そのリーリンの気持ちを無視してまで、刀を持たないというのは、どんな事情があろうと選択すべきではないのだ。
 だからニーナは訓練室の中央に立ち、腕を組みつつイライラとレイフォンを待ち受ける。
 徹底的に話し合い刀を持たせるために。

「おはよう御座います」

 ニーナがその決意を固め終わるのを待っていたかのように、レイフォンがやってきた。
 珍しくフェリやシャーニッドにハーレイと、第十七小隊のメンバーが全てそろっている。
 これは珍しい事だ。
 そろう事がでは無い。
 レイフォンが一番遅いと言う事がだ。
 なにやら用事があるとかで、少し遅れるという連絡はもらっていた。
 だからこそ、ニーナは限界ギリギリで待つ事が出来たのだ。
 だが、それも文字通りギリギリだった。

「レイフォン!」
「は、はい?」

 腹の探り合いのような事はニーナには出来ない。
 ならば真っ向勝負をして活路を見いだす。
 そうやって生きてきたし、これからもそれを改めるつもりはない。
 そして一気にレイフォンの前に進み出る。

「刀を持て」
「? は?」
「刀を持てと言っている!」

 言うが速いか、レイフォンの剣帯から錬金鋼を引き抜いた。
 本来ならこんな簡単には行かないはずだが、あまりにも唐突な展開だったので全く反応出来ないようだ。
 反応出来ていないのはレイフォンだけではない。
 訓練場にいるニーナ以外の全員が、何が起こっているのか理解していない。
 イライラとレイフォンを待っていたから、何かあるのだろうという程度の認識だったようだ。
 呆気に取られた空気に支配された訓練場を感じつつ、ニーナは吠える。

「あ、あの」
「刀を持たずに戦って勝てるかも知れんが、それでは駄目なんだ! お前はもっと強くなって都市を守らなければならない!」

 ニーナがとうてい辿り着く事が出来ない領域にいるレイフォンだが、それでも絶対に負けないという訳ではない。
 実戦経験こそ無いが、ニーナだって知っているのだ。
 汚染物質が充満する都市外での戦闘では、遮断スーツに出来た微かな傷でさえ命取りになると。
 ならば、全力を出すためにレイフォンは刀を持つべきなのだ。

「あ、あの、せんぱい?」

 呆然としつつニーナを見るレイフォンの口が動く。
 なにやら言いたそうだが、かまわず続ける。

「良いかレイフォン。お前が刀を使いたくない本当の気持ちは分からないが、恐らく私達ではお前の背中を守る事は難しい」

 鍛錬に鍛練を重ねて、何時かはレイフォンと並んで戦うつもりではあるが、今はまだ無理なのは理解している。
 だからこそレイフォンは強くならなければならない。
 ほんの僅かでも強くならなければならないのだ。

「だからこそお前は強くならなければならない」
「もしもぉし」

 手をパタパタと振って、居る事をアピールするレイフォン。
 なにやら言いたそうだが更に続ける。

「そのためには刀を持つ事が第一歩だ」

 武器を持ち替えたからと言って飛躍的に戦力が上がるとは思えないが、何もしないなどと言う事はあってはならないのだ。
 リーリンのためにも今のままではいけないのだ。

「あのぉぉ」
「何だ!」

 だと言うのに、気の抜けた声しか出さないレイフォンに腹が立った。
 そしてそのレイフォンが手を出す。

「錬金鋼返して欲しいのですけれど?」
「貴様! 戦わないために刀を持たないなどと言うのはかなえられない願いだ! そしてそれは未練だ。未練など捨ててしまえ!」

 さほど意味はないだろうが、レイフォンから奪った黒鋼錬金鋼をゴミ箱に放り込もうとして、いきなり手首を捕まれた。
 激高していて気が付かなかったが、すぐそばに誰かが来ていたのだ。

「ニーナ」
「なんだ? シャーニッド?」

 何時も飄々としているシャーニッドが、珍しく厳しい表情でニーナを見下ろしている。
 軽薄そうな瞳の色もなりを潜め、真剣そのものだ。

「お前。俺がそう言ったらどうするつもりだ?」
「何の事だ?」

 邪魔されてかなり腹が立っている。
 ニーナ自身の問題でもあるが、本来これはレイフォンのための行動なのだ。
 それを邪魔するのならば、いくら仲間だと言えど容赦する事は出来ない。

「ニーナが強くなろうとする事など無理だ」
「!」
「そんなかなえられない願いは未練だ。捨ててしまえ」

 無理矢理腕を引き抜こうとしたニーナの動きが完全に止まった。
 今シャーニッドに言われた事を、ついさっきニーナはレイフォンに向かって言ったのだ。
 それはレイフォンのためになればと思っていった事だが、それでも言われて見て始めて、それがかなりの衝撃を受ける内容である事が分かった。
 戦わないと言う事を選択しようとしているレイフォンと、戦う事を常に選び続けているニーナでは色々違うのだろうが、それでも受けた衝撃は大きかった。
 精神的な衝撃が身体を支配し、膝が震える。

「わ、わたしは」
「ああ。分かっているつもりだが、もう少しだけ考えてくれよ」

 手から力が抜ける。
 そしてその手から錬金鋼が抜き取られ、シャーニッドがレイフォンに向かってそれを差し出す。

「済まなかったな。騒がしくて」
「いえ。それは良いんですけれど」

 まだ何か言いたそうだ。
 絶対に刀を持たないと決意を新たにするのか、それとも小隊から抜けるというのか。
 どちらにしてもニーナにとって不本意な結論である事は間違いない。
 だが。

「刀に持ち替える事にしたので、それをみんなに伝えようとしていたのですが」

 レイフォンの言葉を理解するのに暫く時間が掛かった。
 そして、それを理解した身体が凍り付くのを実感した。
 これ以上ないくらいに凍り付いている。
 もしかしたら、これが噂に聞いたことがある絶対零度というやつなのかも知れないと思うくらいには凍り付いている。
 目の前のシャーニッドの背中も同じように凍り付いているのだから、ほぼ間違いない。

「リーリンのところによって鋼鉄錬金鋼を受け取ってきたので遅くなったのですが」

 訓練場を嫌な沈黙が支配する。
 これでは、はっきりとニーナは道化だ。
 それを止めに入ったシャーニッドも道化かも知れない。
 何故かフェリの小さな笑い声が聞こえたような気がする。
 気のせいであって欲しいところだ。

「ハーレイ先輩に設定の変更とかを頼みたくて、みんな持ってきたんですが」

 いまさら気が付いたのだが、レイフォンは鞄を持っている。
 肩からかけた見るからに安い作りの鞄から、次々に取り出される錬金鋼。
 その数三本。
 剣帯に収まっていたのを含めて合計四本。
 何でそんなに持っているのかとか疑問は尽きないが、取り敢えず凍り付いた身体を何とかしなければならない。

「お願い出来ますか?」
「う、うん。それはへいきなんだけれど」

 ハーレイの視線があちこち彷徨っている事が分かったが、ニーナにどうこうする事は出来ない。
 まだ凍り付いているから。

「これは子供の頃使っていたやつなんで、少し弄らないと駄目だと思うんですけれど」
「同じ研究室に詳しいやつがいるから平気だと思うよ」
「よろしくお願いします」

 二人の会話は順調に進んでいる。
 ニーナもシャーニッドもまだ凍り付いたままだけれど。
 
 
 
 練武館に設置された十七小隊用の訓練場で、爆笑したいのをこらえていた。
 あちこちに仕掛けた念威端子が受信した映像やデーターを、全て記録しておきたいくらいに爆笑したい。
 だが、それはフェリという個性上出来ない相談なのだ。
 念威繰者なので、感情を外に出す事が下手だというのはあるのだが、それ以上にキャラクターとして爆笑は出来ない。
 寮に帰ってカリアンが帰っていなかったら、死ぬほど笑ってやろうと考えつつも、念威端子経由のデーターは記録し続けている。
 残念ながら、時間的な余裕が無くて全てを記録出来る体制は整えていなかったが、それでもこれで一月は笑えるだろう事は予測している。
 昨日ナルキに拉致られて、メイシェンの働いている喫茶店に連れ込まれたのが事の始まりだった。
 時間を潰すために、散々色々なお菓子を食べて満足したのはよい思い出だ。
 何か起こるような予感がしたので閉店まで粘っていたのだ。
 閉店になれば当然の現象として、メイシェンを迎えにきたレイフォンを認識したのだが、それは普段の腑抜けた表情とは違って決意の色も堅く必死の形相であった。
 何でそんな顔をしなければならないのかと考えるよりも速く、好奇心旺盛なミィフィに先導されてその場を見てしまった。
 メイシェンに向かい、刀を持つと決めた事を詫びるレイフォンの姿を。
 その距離僅かに十メルトル。
 普段なら間違いなく気が付くはずの距離だが、流石に昨日は無理だったようだ。
 だが、問題は実はレイフォン達の方ではなかった。
 フェリのすぐ側にいたリーリン。
 彼女の挙動が著しくおかしくなってしまった。
 それを心配したナルキとウォリアスに抱えられるようにその場を離れた。
 当然ミィフィは覗き続けたそうだったが、フェリがそれを制止した。
 流石にあれ以上は踏み込んではいけないと判断したのだ。
 そして、リーリンはウォリアスによって寮へと送られた。
 鈍感な事では間違いなくツェルニ最強のレイフォンは気が付いていないようだが、他の人達はおおかた分かっている事だが、リーリンはレイフォンに対して並々ならぬ好意を持っている。
 だからこそグレンダンからツェルニまで来たのだ。
 そして、その目的の一つだったはずの刀をレイフォンが持つ事に同意した。
 これは喜ばしい事のはずなのだが、リーリンにとっては非常に酷な話になってしまった

「それで、もう少し長くして重くして」
「これって、今のレイフォンに合っていると思うんだけれど?」
「鍛錬を始めた頃から重い武器に慣れているので、もう少し重くないと」

 ハーレイとレイフォンは凍り付いた二人を視界に納めないように、細心の注意を払いつつ新しい設定について話し合っている。
 それとは逆にフェリは凍り付いて未だに動く事の出来ないニーナとシャーニッドを眺め続ける。
 ナルキに送られながら、フェリは考えていたのだ。
 この後どうなるかを。
 間違いなくリーリンは落ち込む。
 それを見たニーナは間違いなく行動を起こす。
 ならばそれを直に見るために、何時もよりも早く訓練場にいなければならない。
 と言う訳で、誰よりも速く練武館に到着したのだ。
 次に現れたニーナに、この世の終わりを予感したような瞳で見られたが、収支は著しく黒字だ。
 カリアンがヴァンゼから返却されてきたが、まあ、この騒動でずいぶん気分が良くなったので当分生かしておいても良いだろうと考えている。

「でも、なんだかリーリンの機嫌が悪かったんですよ」
「リーリンって言ったら、幼なじみの子だよね?」
「はい。鋼鉄錬金鋼を受け取りに行ったら、寝不足みたいに充血した目で見られて、思わず後ずさっちゃいました」

 フェリの聴覚は、最強鈍感王決定戦で間違いなく優勝出来るような会話が進んでいる。
 話を聞いているハーレイの方はきっちりとリーリンの事を理解しているようで、大きく溜息をついたり呆れたりしている。
 フェリもかなり同感だ。

「何か拙い事しましたか?」
「い、いや。別にそう言う訳じゃないよ」

 何をどう言えばいいのか分からないのか、それとも彼女がいないせいでひがんでいるのか、ハーレイは言葉を濁した。

「それにしても、そろそろ復帰して欲しいですね」
「ああ。多分今日の練習はないと思うよ」
「そうなんですか?」
「レイフォンだってあんな事になったら、再起動するのに時間が掛かると思うけれど?」
「それは、確かにそうですね」

 この辺が分からないほど致命的ではなかったようだ。
 だがふと思う。
 今回はリーリンが相手だったが、メイシェンが相手だったとしたら、話は今以上にややこしく面白い事になるに違いない。
 その時には是非とも居合わせたい物だと思いつつ、帰り支度を始めた。
 今日の訓練はないらしいとなれば、早く帰って爆笑したいので。
 
 
 
 レイフォンから練武館での顛末を聞き終えてから、ウォリアスは大きく溜息をついた。
 これほど真摯でいて馬鹿馬鹿しい展開はそう転がっていないと確信出来る。
 それと同時にニーナという人物が持っている特色も多く理解出来た。
 基本的には善人なのだ。
 ただ、空回りが過ぎるだけだ。
 もっと他の人から情報を集めたりすれば、この惨事というか喜劇というかは避けられた。
 特にリーリンからほんの少しでも話を聞いてから行動すれば、全く事態は違っていただろうと想像出来る。
 端から見ている分には面白いと言えない事はないのだが、ほんの少しでもニーナに関わっている人から見ると非常に危なっかしい。
 非常に評価に苦しむ展開と相まって、ウォリアスはどういう表情を作ればいいか、その判断に困っていた。

「なんて言うか」
「うん。もう少し人の話を聞いて欲しいよね」

 夕闇に支配されたツェルニの町を寮へと帰る最中、レイフォンからそんな台詞が聞こえてきた。
 事もあろうにレイフォンに言われたのだ。
 これはどんな虐めだろうかと考えたくなるほどの仕打ちだが、言った人間は極めて本気なのだ。
 もう一度溜息が出てしまった。
 ニーナは全く考慮していないようだが、はっきり言ってリーリンは失恋したのだ。
 昨晩決定的に。
 だからこそ今日は昼食の時にバイトを理由に来なかった。
 レイフォンはそんな事もあるだろうと気楽に考えていたようだが、メイシェンははっきりと心配していた。
 ナルキに至ってはどうやったら元気付けられるかと考えていた。
 ミィフィは、まあ、彼女の性格からして楽しみ半分心配半分と言ったところだろうか?
 何故そんな事になったかと聞かれると困るのだが、恐らく運が悪かったのだ。
 前日の夜に、いきなりレイフォンが決意の色も堅くメイシェンのバイト先に現れたのだ。
 護衛を兼ねて帰宅する事が多かったので、レイフォンが来る事自体はどうでも良いのだが、決意の色も堅くと言う事は初めてだった。
 そして、フェリを捕縛したナルキとミィフィに引きずられてリーリンとウォリアスもその店にいてしまった事が、悲劇の始まりだった。
 何か決断して選んだ事は理解した。
 その決意を見届けようとしたのは、問題が有る行動だったと思うのだが、決定的に拙かったと言う事ではない。
 こっそりと五人で後を付けた。
 余裕がないのか、レイフォンは全く尾行に気が付かなかったようだ。
 そして、結果的にリーリンは自分の気持ちが届かない事を理解してしまった。
 足元が危ないリーリンを抱えるように寮へと届けたのだが、その時ニーナに説明するという選択肢はなかった。
 それは恐らくリーリンが望まないだろうし、練武館での展開を予測もしていなかった以上、取るべき選択肢だとも思えない。

「でも、リーリンどうしたんだろう? なんだか酷く落ち込んでいたというか、イライラしていたというか、憔悴していたというかしていたけれど? ウォリアスは何か知っている?」
「・・・・・・・・・・・・。いや。何も言うまい」

 思わぬレイフォンのボケに、渾身の突っ込みを撃ち出したくなったが必死にこらえた。
 ここで何か言ってもきっとレイフォンは理解してくれないから。
 三発目の溜息を吐き出しつつ、昨晩のリーリンの震えを思い出していた。
 大丈夫だとは思うのだが、何かフォローをしておいた方が良いだろうとも思う。
 ツェルニに来てから、刺激的な人生を続けている事を自覚しつつ、これはこれで良いかもしれないとも思うのだ。
 あの閉塞した世界に戻るよりは、多分良いのだと。
 そして思う。
 この先もレイフォンは波瀾万丈な人生を送るだろう。
 そして、そのいくつかにウォリアスは巻き込まれるだろうと。
 そして、少しでも結果が良くなるように悪足掻きするだろうと。
 少しでも幸福な未来が訪れるように。
 失敗するかも知れないが、それもまた人生。
 思い通りになる事など無いのだと知っているのならば、何とか許容出来るかも知れない。
 レイフォンもメイシェンもリーリンもニーナも。
 もちろんウォリアス自身にしても。
 今日もバイトのあるレイフォンは、何時もよりも軽い足取りで機関部へと向かった。
 よほど刀を持てる事が嬉しいのだろう事は分かる。
 何故それが嬉しいのか本人はきちんと理解しているだろうか?
 ヨルテムからの使者は、レイフォンにとって最も望ましい選択肢を持ってきてくれた。
 それがあるからこそ、今日レイフォンは非常に穏やかに軽やかに過ごせる。
 誰かの犠牲の上に成り立った幸福だったのならば、こうはならなかった。
 見送ったウォリアスは少しだけ空を見上げた。
 出来ればこれから先、レイフォンの先にあまり重い選択が現れない事を誰かに願いつつ。

「さて」

 問題はむしろリーリンだ。
 何とかしなければならない。
 とは言え、恋愛経験なんて物がないウォリアスには、何をやったらいいかさっぱり分からない。
 だが、何もやらないという選択肢は存在していないのだ。
 だから、取り敢えずいくつかの買い物を始めとする準備をしなければならない。
 褒められた方法ではないのだが、他に何も思いつけなかったから。
 
 
 
 絶対に年齢を誤魔化しているとしか思えない武芸長という大男を前にして、イージェは笑いが止まらない事に気が付いていた。
 正確を期すならば、笑いを止めようという気が全く起こらないのだ。
 端から見ていると非常に危ない人に見えるかも知れないが、そんな事今のイージェにはどうだって良い事だ。

「くくくくくく。レイフォンが刀を持つ事にしただと」

 一歩後ずさったヴァンゼを前にして、イージェは更に笑いの衝動が強くなるのを感じていた。
 そして、この件に関して衝動を抑えるなどと言う行為に全く意味は無い。

「ぷくくくく! はぁぁはっはっはっはっはっは」

 これが笑わずにいられようか?
 あのレイフォンが、刀を持つのだ。
 戦わなくても食って行ける技量を身につけるために、ツェルニに来たはずのレイフォンが刀を持つのだ。
 本来学園都市が持つはずだった機能を失うと言う事はどうでも良い。
 そもそもそうし向けたのはイージェ自身なのだ。何の文句もない。
 色々と揺さぶりをかけたのは事実だが、それでもまさか本当にこうなるとは思わなかった。
 いざとなったら赤毛猿にはイージェがサイハーデンを伝えるつもりだったが、こちらの方が断然良い。
 一応ではあるのだが、選択肢を用意はした。
 刀を持ってサイハーデンを使い続けるか、剣を使ったサイハーデンを興すか、無様に戦い続けるか、そして武芸者を止めるか。
 どの選択肢をとってもかまわないと思ってはいた。
 所詮他人の人生だし、学園都市などと言うのは一時滞在が基本だから、滅ぶのならば出て行けば良いだけの事だ。
 もしかしたら避難が間に合わないかも知れないが、それもまた人生だ。全てを満足させる方法など無いのだから、ある程度頑張ったら結果を受け止めるしかない。
 当然刀を持ったレイフォンと戦いたいというイージェ自身の希望はある。
 だが、それを押しつけるつもりはなかった。
 あれはあれでなかなか面白いからだ。
 だが、更に面白い事態になってきたではないか。

「良いぞ良いぞ! これでこそツェルニくんだりまで来た甲斐が有ったってもんだ!」

 若干十歳でグレンダン最強の武芸者に数えられ、そしてサイハーデンの生き方を実践したために追放された天才。
 父を圧倒しヨルテム最強の武芸者でさえ、瞬殺されてしまう色ボケ暴走糞餓鬼。
 そして、イージェが戦いたくて仕方のない至高の対戦者。
 天剣授受者という化け物だと言うことは知っているが、実際に戦っているところを見たことがないので、グレンダンの取った行動はさっぱり理解できない。
 だが、どう下方修正してもイージェを圧倒する実力を持っているはずなのだ。
 その実力を遺憾なく発揮したレイフォンと戦えるのだ。
 技の錆落としという名目でも良いし、何だったらイージェが黒髪の少女を誘拐して強制的に戦っても良い。
 いや。もしかしたらこの方法こそが一番楽しいかも知れない。一考の価値はある。
 これほど楽しい気分になったのは何時以来だろうと思えるほど、とても良い気分だ。

「それで、一つ頼みたい事があるのですが?」
「ああ? なんだ?」

 頼みの一つや二つ聞いてやっても良い。
 今は非常に気分が良いのだ。

「ツェルニの武芸者を鍛えて欲しいのですが?」
「ああ? お前らをか?」

 少しだけ考える。
 話通りの実力をレイフォンが持っているのならば、別段イージェが何かする必要はない。
 戦争も汚染獣もレイフォン一人に任せてしまっても良いくらいだ。
 だが、本当にそうなってしまったのならば、都市に優遇されている武芸者としては居心地が悪いのも事実だ。
 教えると言う事が苦手らしいレイフォンと違い、ある程度道場で教えた経験もあるイージェならば上達も早いだろう。
 基準を満たすまではイージェが面倒を見て、それ以上になったらレイフォンに任せる。
 そうする事で教える人間の負担がかなり軽くなる。
 傭兵業で稼いだ金があるとは言え、無限ではない。
 授業料という名目で金を稼ぐのも悪くはない。

「良いだろう。どの程度の実力があるか分からねえから、取り敢えずお前から相手しろ」
「い、いきなりですか?」

 なにやら意表を突かれたと言った表情をしている。
 善は急げと言う言葉を知らないのか、もしかしたら契約書などと言う物に何か書かなければならないのか。
 その辺何か事情があるのかも知れないが、問答無用で襲いかかってみてもおもしろいかも知れない。
 そんな事を考えている間に、ヴァンゼが体勢を立て直してしまった。

「取り敢えず契約書を作りたいのですが」
「ああ? めんどくせぇな」

 懸念が的中したようで、役人による役人のための役人の政治に関わらなければならないようだ。
 まあ、武芸長というのは半分は政治家だから仕方が無いのだし、そもそも、契約書を作らないと満足に金をもらう事も出来ないのだから嫌という訳ではない。
 面倒なのでやりたくないだけだ。

「わかった。さっさと作ろうぜ」

 巨大な背中を叩きつつ、事務所のある方向へと歩き出す。
 殴って解決出来る揉め事は大好きだが、そうでない揉め事は大嫌いなので偉い人が側にいるというのは歓迎だ。
 字が間違った程度だったら何とかフォローしてくれるだろうと思いつつ、事務所に向かって歩く。
 そして更に一つ良い事を思いついた。
 いざとなったらヴァンゼを人質にして契約を有利に出来るかも知れないとか、邪な事を考えつつも、イージェは非常に上機嫌だった。

「っとちょっと待て」
「はい?」

 いきなりだが、今の自分が危険極まりないことをイージェは認識してしまった。
 あまりにも機嫌が良すぎるのだ。
 これはもう浮ついていると言って良いくらいに、非常に機嫌がよい。
 このまま契約書に挑んだら敗北してしまうかも知れないことに気が付いた。
 たとえば、驚くほど安い金額で教える羽目になってしまうとか。
 それは非常に問題だ。

「と言う事でやっぱり俺と一戦しろ」
「どう言うことか分からないのですが?」

 イージェの脳内で全てが終わっていたので、流石にヴァンゼには理解できていないようだ。
 それを認識しつつもそれ以上何か言う気にはなれずに、その巨体を力任せに引きずって行く。
 もちろん邪魔が入らない外縁部に向かってだ。
 ヴァンゼの抗議が聞こえるような気もするのだが、武芸者とは戦うことが最も重要な仕事だから特に問題はない。
 とは言え、雇い主になるかも知れないのだから半殺しくらいに止めておいた方が良いだろう事も理解している。



[14064] 第三話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:15


 暗闇に支配されるツェルニの街角を歩きつつ、レイフォンの手が強めにメイシェンのそれを掴んでいるのが分かる。
 完全な静寂という訳ではないが、殆どの音が消えているために前を行く二人の足音も十分に聞こえる。
 当然尾行している方は足音を忍ばせているので、レイフォン達には聞こえていないだろう。
 開いている距離は僅かに十メルトル少々。
 やや暗いが十分に見える距離だ。
 レイフォンが何かを決断した事は理解している。
 それが刀絡みの問題である事もおおよそ理解している。
 イージェの来訪から僅かに五日で何かを選択出来たのだ。
 流される事しかできていなかったはずのレイフォンが、選択できたことをリーリンは祝福しているのだ。
 それがどんな選択だったとしても、レイフォンが決めた事だったらそれで良い。
 そうリーリンが決意を固めてから一分ほど時間が流れた。
 いきなり立ち止まったレイフォンがメイシェンに向き直り、いきなり頭を下げた。

「ごめんメイシェン。僕は刀を捨てる事が出来ない」

 今のレイフォンにとって刀とは戦う事の象徴だ。
 そして、メイシェンを心配させたくないからと戦わない事を選んだ。
 その選択も実は支持したいのだ。
 だが、それでも、やはりレイフォンには刀を持っていて欲しい。
 天剣がない状況では全力を出せない。
 ならば、せめて本来の技を使って戦い、そして生きて帰って来て欲しいのだ。
 二つの相反する思考がリーリンの事も縛り身動き出来なかった。
 少なくとも四日前まではそうだった。
 イージェがどんな話を持ってきたのか詳しくは知らないが、基本的には何も変わらない。
 レイフォンが刀を持つと言う事は武芸者であり続けると言う事だ。
 それはつまり、戦い続けて何時か何処かで死んでしまうかも知れないと言う事だ。
 そして、帰らないかも知れないレイフォンをメイシェンが待つ事になる。
 それが嫌だったはずなのだが、それでもレイフォンは刀を持つ事を選んだ。
 この結論を出した今も、レイフォンは恐らくかなり怯えているに違いない。
 持たないで欲しいとメイシェンに懇願されるかも知れないし、もしかしたら、戦うレイフォンとは付き合えないと絶縁されるかも知れない。
 その恐れと共にメイシェンに決意を伝えているのだ。
 偉いねと頭を撫でてやりたくなるほどに立派な行為だと思う。
 ヘタレなレイフォンにしては十分に立派な行為だ。
 そして僅かな時間が流れた。
 リーリンにとってはほんの短い時間だったが、レイフォンにとってはまさしく永遠に等しく感じられただろう。
 そして、メイシェンの手がゆっくりと上がって行く。
 いきなり叩かれるかも知れないと全身に力が入るのが、遠くから見ていても分かった。
 そんなはずはないと端から見ていれば分かるのだが、本人にそれを求めるのは酷なのだろう。
 ゆっくりと上がった手が、レイフォンの頬に添えられた。
 驚いたようにメイシェンを見るレイフォン。
 こちらからは見えないのだが、きっとメイシェンは微笑んでいるのだろう。
 内心持って欲しくないと、戦って欲しくないと思っていても、それでもレイフォンが決めたのだから、それを許すために無理に微笑んでいるのだろう。

「うん。レイフォンが決めたんだったらそれで良いよ。だから謝らないで」

 予想通りに穏やかな声でその言葉が聞こえた。
 だが、よくよく注意していれば微かな震えを認識する事が出来ただろう。
 これも今のレイフォンに分かれと言う事は酷なのだろうと思う。
 そして呆気に取られるレイフォンの表情はかなり見物だった。
 最近では見る事が出来なかった。
 だが、その表情も一転、不安そうになるのが分かった。
 メイシェンが無理している事には気が付かないだろうが、それでも平静でない事は理解したようだ。

「メイシェン?」
「な、なに?」

 何時までもそんな無理が利く訳がないのだ。
 先ほどよりも明らかに声の震えが大きくなっている。
 限界が近いのだ。

「無理しないで。メイシェンが無理する必要なんか無いんだから」

 これは何だろう?
 よりにもよってレイフォンから無理するなと言う単語が出てきたように聞こえた。
 一人で全てを背負い込んでしまうレイフォンから、無理をするなと告げられる。
 ある意味究極的な嫌がらせともとれるのだが、今回に限ってはあまり外れた台詞でもなかったようだ。

「あ、あの」

 メイシェンが涙声で何か言おうとしている事が分かった。
 それをじっと待つレイフォンと覗き組の面々。

「本当は、持たないで欲しい。怪我とかするレイフォンを見たくない」
「うん」

 必死に取り乱さないようにと頑張るメイシェンの言葉を、ゆっくりと待つレイフォン。
 後ろ向きになったその肩が震えている事が分かる。

「で、でも、好きな事が出来ないレイフォンを見るのも嫌だから、だから、えっと」

 この先何を言いたいのか分からないのだろう、メイシェンの声が途切れ途切れになる。
 かなり言葉に迷ったようだが、言うべき事を見つけたようでそっと顔が上を向いた。

「必ず、帰って来て下さい」
「うん。必ずメイシェンの居るところへ帰るよ」

 震えるその身体をレイフォンがそっと抱きしめる。
 そして、顔を上げたままのメイシェンとやや下を向いたレイフォンがゆっくりと近付く。

「止めて!」

 影から見ているだけのはずだったが、思わず叫んでしまった。
 レイフォンの選択を祝福して支持すると決めたはずなのに、それなのに叫んでしまっていた。
 だが、十メルトルしか離れていないリーリンの叫びが聞こえたはずなのに、二人の距離はみるみる狭まって行く。

「お願い! 止めてレイフォン!」

 声を限りに絶叫した。
 そして理解してしまった。
 重なる二人の影が全てを物語っている。
 今からでも遅くはない。
 駆け寄って二人を引きはがせと、何処かで誰かがささやいている。
 だが、身体は全く言う事を聞かずにその場で震えているだけだ。
 そして、重なっていた影が離れレイフォンが踵を返す。
 レイフォンの腕がメイシェンの肩を掻き抱き、メイシェンの腕はレイフォンの腰に回されている。
 二人が歩む方向にあるのは、質素で小さなアパート。
 それは二人の門出のために用意された、小さな巣なのだろう。

「さよならリーリン。僕はもうグレンダンには行けないんだ」

 首だけをこちらに向けたレイフォンの一言がリーリンをしたたかに打ちのめした。
 グレンダンに帰れないとレイフォンは言わなかった。
 それはつまり、既にグレンダンでの事は過去の出来事だと割り切ってしまっていると言う事だ。
 だが、リーリンにとってはそうでは無い。
 レイフォンの事は現在進行形の問題なのだ。

「駄目! 行かないでレイフォン!」

 必死に叫んだが、それでも二人の歩みは全く変わらず、とうとうアパートの中へと消えてしまった。
 絶望と後悔の念に支配されたリーリンを残して。
 そして、そこで目が覚めた。
 
 
 
 目を覚ますとそこはベッドの上だった。
 濃い緑色のカーテンが引かれ、通り抜けてきた僅かな光が狭い部屋を照らし出している。
 あまり陽は高くないようで、ベッドを照らす光の量はかなり多い。
 だが、実はリーリンはそれどころではないのだ。

「気持ち悪い」

 別段見ていた夢のせいではないと思うのだが、非常に気分が悪い。
 グレンダンで戦闘が長期化した時にシェルターに批難している間に、たまにこんな気分になった事がある。
 その時はレイフォンが無事に帰ってくるかどうか心配していたと思うのだが、今この瞬間は断じて違う。
 服を着たまま眠ってしまったので皺だらけになったのが原因かも知れないし、もしかしたら見知らぬベッドで目を覚ましたのが原因かも知れない。
 お茶の香りのする枕で眠った事など初めてだし。

「・・・・・。なんですと?」

 そう。見知らぬベッドなのだ。
 慌てて身体を起こしたリーリンは次の瞬間再び枕へと頭を押しつけていた。
 拘束されている訳ではない。
 急に起き上がってめまいを起こしてしまったのだ。
 これは今までにない状態である事を再認識。
 今度は細心の注意を払って上体を起こし、視線を周りに飛ばす。
 殺風景な部屋だ。
 家具と呼べる物はベッドただ一つ。
 だが、物がないという訳ではない。
 棚に収められることなく積み上げられた本の数々が、部屋を殺風景に見せつつも賑やかさを演出している。
 窓際から順を追って行くと、医学、数学、物理学、化学、経済学、料理に音楽、言語学に破壊弾道学。
 専門書と思われる物が数冊ずつ分野ごとに並べられているのだ。
 そして、合成樹脂製の大きな板と筆記用具が本の上に無造作に放り出されている。
 これを作った人間は浅く広い知識が何よりも重要だと主張しているようだ。
 その結論に達したところで、昨夜何が有ったかおぼろげに思い出す事が出来たリーリンは、服の皺を気にしつつも寝室の扉の方に向かっておぼつかない足取りで歩く。
 立ち上がると良く分かるのだが、なんだか胸がむかつき下腹部が圧迫されているし、非常に喉が渇いているようにも思う。
 昨夜の事を考えれば当然の現象だと自分を納得させつつ、扉を開いて驚いた。

「おはようリーリン」
「・・・・・・。おはよう」

 ベッドが置いてあった部屋よりは広いのだが、比較対象が少々問題かも知れない。
 その狭い部屋の真ん中に低いテーブルが置かれている。
 そして、冷蔵庫とテレビに固定電話と一通りの家具が壁際に並び、生活感を演出している。
 だが、最も問題なのは、部屋のあちこちに置かれた映像記憶素子や情報記憶素子を納めた小さな箱の数々。
 全てを合わせれば小さめの図書館が設立出来るはずだが、それが全て個人の持ち物だと思うだけで気が遠くなる。
 そして、この気が遠くなるような情報の所有者が、低いテーブルに乗せたなにやら無闇に分厚い本を丹念に読んでいたのだ。
 それはもう一字一句見逃すまいとするかのように、必死の形相で。
 挨拶する時にも視線は本から離れない辺りに、ウォリアスの人となりが現れているように思える。

「そっちがお風呂とトイレ。冷蔵庫の中に飲み物が入っているから適当に飲んで。食事は出来そう?」
「食欲はないわね」

 用意周到というのがウォリアスの心情なのは理解しているつもりだったが、その理解はまだまだ甘かったようだ。
 取り敢えず小型で冷凍装置のない冷蔵庫を開けてみて、溜息をつく。
 中を見渡す必要がないほど、それは綺麗に片付いていた。
 殆ど飲み物と調味料しかないという意味で、綺麗に片付いていた。
 後は果物とヨーグルト、ジャムとバターらしき物が少々。

「何ですぐに食べられる物と飲み物しか入ってないの?」
「食事はたいがいにおいてメイシェンかレイフォンのところだから」
「成る程ね」

 料理が出来ないのかする必要がないのかは判然としないが、取り敢えず冷えたスポーツドリンクを取り出して一気に飲み干す。
 コップを探しても良かったのだが、喉の渇きはかなり深刻になっていたのだ。
 あまり行儀がよいとは言えないけれど、既に後の祭りである。
 妹や弟には絶対に見せられない姿だが、それも後の祭りである。
 こんな醜態をリーリンがさらしているのには当然理由がある。
 切っ掛けは昨夜誘われたからだ。

「レノスでは、十五歳以上の飲酒は許可されているんだ。酒精成分五パーセントまでだけれどね」

 やや強引だったが、ウォリアスに付き合う形で生まれて始めてでは無いにせよお酒を飲んでしまった。
 だが、シノーラに付き合わされた時とリーリンの精神状態が明らかに違った。
 とても平静ではいられなかったはずなので、色々あったのだろう事が理解できる。
 視線の先にある物も、リーリンのその認識が正しいのだと語っているように見えるのだ。
 冷蔵庫の脇にまとめておかれた酒瓶は、合計五本。
 全てが一リットルル程もあるという大きな代物だ。

「えっと? あんまり呑み過ぎちゃ駄目よウォリアス」
「・・・・・・・。僕は一本の半分しか呑んでいないよりーリン」
「! 常習的な飲酒はおすすめ出来ないけれど」
「基本的に僕はお酒に弱いんで呑まないんだ」

 以上の会話から分かった事と言えばただ一つ。
 かなりの量をリーリンが一晩で飲んでしまった。
 あまり褒められた事ではないと言う事は理解している。
 だが、リーリンにだって言い分はあるのだ。
 メイシェンとレイフォンのあのシーンを間近で見てしまったせいで、かなり精神的に追い詰められていた。
 途中からは覚えていないけれど、かなり激しく愚痴を言っていたような気がする。
 おまけにレイフォンがいかに鈍感かを延々と解説し続けたような気もする。
 おぼろげな記憶としても殆ど残っていないが、激しく泣いたようにも思う。
 最終的に、少々つっけんどんなウォリアスが出来上がった訳だ。
 極めて辻褄があう。

「シャワー浴びてきたら?」
「そうします」

 小さな溜息混じりにそう言われたので、それに従って浴室へと続く脱衣所に足を踏み入れたリーリンは、ウォリアスの用意周到さが異常なレベルである事に気が付いた。
 パッケージを解いていない女性物の下着が紙袋に収められておいてあったのだ。
 きっとミィフィかナルキに頼んで買っておいてもらったに違いない。
 何故それが分かるかと問われると、領収書込みのメモが置いてあったからだ。
 後で払いに行かなければならないし、心配させてしまった事に対して謝りに行かなければならない。
 それと、殆ど連絡もなく外泊したことを寮長さんに謝らなければいけないかも知れない。

「はあ」

 重い身体と頭、それ以上に重い心を引きずって服を脱いで浴室へと入る。
 運がなかったと諦めるべきだろうか?
 もし、レイフォンがグレンダンにギリギリまで居たのならば、話は違ったのかも知れない。
 違ったかも知れないがそれは全て起こらなかった歴史だ。
 今更悔やんでも後悔しても全く無意味だ。
 だが、熱いお湯を全身に浴びた事で少しだけ気分が良くなった。
 何時もウォリアスが使っているだろうシャンプーが少々無頓着だったが、それでも清潔になって行くという感覚は味わえた。
 バスタオルで身体を拭き、服を着てからリビングらしい場所に戻ると、なにやら良い匂いがしている事に気が付く。

「ご飯作れるんじゃない」
「作れないとは言っていないよ。朝ご飯はここで食べてるし」

 なにやらコンロにかけた平たい鍋のような物から蒸気が上がり、お米を煮ているらしい事が伺える。
 食欲はないのだが、何か食べないと身体のだるいのが、治らない事は理解している。
 取り敢えずテーブルのそばに座り出来上がるのを待つ。

「その辺にある映像は見て良いよ。出来上がるのにもう少し時間が掛かるから」
「ありがとう」

 言われるがままに映像記憶素子の一覧を眺めて行き、料理関連の物を発見。
 取り敢えずそれを再生機にかけて呆然と眺める。
 呆然と眺めていられたのはほんの一瞬だった。

「ぷっくくくくくく」

 なにやら面白いのだ。
 実際に笑えるかと聞かれると否と答えるしかないのだが、やや無理をしてでも笑う。
 涙を流すか、笑う事で心が平静を取り戻すと何処かで聞いたのだ。
 たぶん涙はもう流したから、笑うしかない。だから笑うのだ。
 そのリーリンの心境に今見ている料理番組はうってつけだった。
 料理番組のはずなのだが、いやまあ、確かにレストランの紹介シーンは魅力的で参考になるのだが、その後に続いた小話が非常に面白い。
 レイフォン絡みですさんだ心が癒されるような気がするほどには、面白いのだ。

「ねえウォリアス。これ貸して」

 料理中のウォリアスに声をかける。
 メニュー画面を見て行くとおおよそ百五十本ほどあるのだ。
 流石に一日で見終わるには無理がある。
 ならば借りていって存分に見る事こそが最善の選択だろうとの結論は、間違っていないはずだ。

「いいけど。料理を作り始めたら見るのは止めた方が良いよ」
「なんでよ? 面白いのに?」
「いや。すぐに分かるから良いんだけれどね」

 なにやら語尾が少し震えていたようだが、それを意識の外に放り出して画面に集中する。
 そして、すぐに自分の行為を後悔した。
 ウォリアスの肩が震えていたのは、笑いをこらえていたのだと言う事にも気が付いた。

「うぅぅぅ。き、きもちわるい」

 大量の溶かしバターで焼かれる、脂身の多い鶏肉を目撃してしまった。
 付け合わせにバターをたっぷり使ったソースでゆでられる野菜と、溶かしバターをこれでもかというくらいに使って焼かれるパン。
 普段でも少々気分が悪くなる程度には油っぽいのに、確実に二日酔いである今これを見てしまってはかなりきつい。
 ヘロヘロとテーブルに突っ伏しつつ映像を止める。
 確かにこれは今見ない方が良かったと後悔したが、後の祭りだ。

「と言う訳でご飯出来たよ」
「私が苦しんでいるのがそんなに楽しい?」

 ニヤリと笑いつつ深皿を差し出すウォリアスに、殺意が芽生える。
 この展開を予想していた事は間違いない。
 出来ればもっと的確に注意して欲しいところだ。

「一度失敗すれば懲りるからね」
「・・・・・。ぬぬぬぬ」

 深皿にお米を煮た物が移されるのを眺めつつ、リーリンは少し唸ってみた。
 唸ってみたが胸のむかつきは変わらない。
 これでバターやチーズを使った料理だったら、明らかに食べる事は出来なかっただろうが、ウォリアスはそんな素直な男ではなかった。

「これは油使ってないから食べられるよ」

 そう言いつつ、なにやら赤い果実をすりつぶした物を煮たお米の上に少量乗せる。
 今まで食べた事のない料理に少々興味を持ったが、相手はウォリアスだ。
 十分に慎重にスプーンで少しだけすくってみる。

「ああ。その果肉は良くほぐさないとかなり酸っぱいからね」
「酸っぱいのね」

 言われた通りに軽く果肉をほぐしてから、改めてスプーンですくって恐る恐ると口に運ぶ。
 酸っぱいと聞いていたが、もしかしたら苦いかも知れないし甘いかも知れない。ウォリアスという人物はそう言う罠をしかけることが大好きだと、この短い時間でリーリンは認識してしまっていたからだ。

「あれ?」

 割と美味しかった。
 二日酔いで食欲はないのだが、それでもこれならある程度食べられそうだ。
 空腹を感じる能力はまだ目覚めていないが、それでも取り分けられた分は食べ終える事が出来た。

「ごちそうさま」
「はい。お粗末様でした。何か呑む?」
「お茶とかが飲みたいかな?」

 なにやら怪しげなイントネーションだったのには目を瞑って、片付けをしつつお茶を淹れるウォリアスを見守る。
 気が付かなかったが、なにやら何時もと様子が違う。
 まあ、記憶がはっきりしないけれど、かなり暴言を吐いたはずだから、少々引かれているのかと思ったが、それにしてもやや様子がおかしい。

「何か私に言いたい事があるの?」
「うぅぅん? 眠っている間に何をしたのとか聞かないのかなって」
「・・・・。そんな度胸あるの?」
「無いよ」

 どうやら、ウォリアスという人物はかなり複雑怪奇な生命体のようだ。
 単純馬鹿なレイフォンとは偉い違いである。
 だが、ここでふと思うのだ。
 思春期の男子などケダモノとあまり変わらないと何処かで聞いた記憶がある。
 であるならば、今目の前にいる生命体は思春期の男子ではないのかも知れないが、単にレイフォン並みにヘタレなだけかも知れない。

「別に僕はそんなにヘタレじゃないよ。もしリーリンと交際していて二人の覚悟があったら、そう言う関係に突入していたよ」
「へえ。それが本当ならレイフォンよりは増しね」
「レイフォンと比べられることに憤りを覚えるべきなのか、安心して接することが出来る男子として評価されると喜ぶべきなのか」

 更に複雑怪奇になるウォリアスを軽く流しつつ、先ほどの料理番組を再生する。
 料理を作っているところを見るのはまだかなりきついのだが、クラハム・ガーと言う進行役兼料理人の話は、テンポが良くて聞いていて飽きないのだ。
 すさんだ心を癒すという事は出来ないかも知れないが、気を紛らわせると言う事は十分に出来る。
 若干下ネタがあるので、評価は微妙なところをうろついているけれど。

「ところでリーリン」
「なぁに?」

 片付けが終わったのか、お茶を持ってやって来たウォリアスが斜め前方に座る。
 なにやら真剣な表情をしているように見えるのだが、眼が細すぎてはっきりとは認識出来ない。

「僕を男だと認識している?」
「しているわよ? 力尽くで私をどうにかする事は出来ない程度のヘタレだと」
「・・・・・。それなら良いけれど」

 微妙な表情をしているらしいウォリアスを横目に、料理番組に集中する。
 ついでではあるが、テーブルの上にあったメモを使ってレシピや作り方のコツを記録して行く。
 なにやらこの部屋は何かを見ながらメモを取る事について、非常に都合の良い家具の配置になっている。
 きっとこれもウォリアスの人となりの一部なのだろう。
 しっかりと頷ける現象だ。
 
 
 
 リーリンが目覚めたのは朝の遅い時間だった。と言うか昼食を作ろうかと考えるような時間だった。
 休日の朝、ウォリアスはたいがいに置いて早く目覚める。
 実は休日ではない時も早起きなのだが、ベッドをリーリンに貸してしまった今朝は何時もよりも更に早起きだった。
 そんな訳で身体のあちこちが痛むのを無視しつつ、延々と読書を続ける。
 中途半端な時間に朝食を摂ってしまったリーリンの体調は、あまり回復していないようではあったが、それでも溶かしバターを大量に使った料理番組を見ても、何とか平静を保てる程度には回復しているようだ。
 やや遅い時間に昼食を摂ったが、おかゆだけの朝食よりは食事量が増えていたのも確認している。
 二日酔いが回復するのには時間が掛かるのだが、それもそろそろ終了しようとしているようだ。
 だが、昨日のリーリンはかなりすごかった。
 何しろレイフォンがいかに馬鹿で鈍感かと言う事から始まり、いつの間にかどれほど優しくて思いやりがあって孤児院のために働いたかに話が変わり、最終的にはリーリンのレイフォンに対する気持ちを延々と語られた。
 酔いつぶれる寸前には大泣きしてしまったのだが、どうやら早々に記憶に止めない状態に移行してしまっていたようだ。
 これはきっとリーリンのためには良かったのだと思う。
 ウォリアス的には少々では済まない、複雑な心の動きを呼び起こしているのだが。

「ねえウォリアス」
「なに?」

 本のページに視線を落としたままリーリンの呼びかけに答える。
 気になったところを記録しておくノートのページが、かなり消費されているところから判断して、結構な時間が経っているようだ。
 窓の外を覗けば、日がかなり傾いているのも確認出来た。

「私達って何やってるのかな?」
「有意義に休日を過ごしている」

 本を読んだり昔の番組を鑑賞したりと言う事は、リーリンにとってはそれ程有意義な行動ではないようだ。
 料理のレシピやコツを書き連ねたメモ用紙が、かなりの量になっているのだが、それも本人にとってはあまり有意義ではないのかも知れない。
 まあ、ざっと見ただけでそのメモには非常な問題があるのを無視しての話だ。
 当然、ウォリアスにとっては非常に有意義な休日の過ごし方だ。誰かに強制するつもりはないが、邪魔されたくもない。

「折角の休みを無駄にしてないかな?」
「僕はたいがいこんな休日の過ごし方だよ」
「ウォリアスってインドア派なんだ」
「レノスの人間はおおよそインドア派だね」

 古文都市という、古い資料や記録を収集する事を目的としているような都市に住んでいるのだ、住人はかなりの割合で都市の影響を受けてしまっている。
 武芸者を始めとするアウトドア派もいるのだが、その数は全体の一割に満たないと言われているほどインドア派の天国だ。
 当然図書館の蔵書は驚異的に多いし、映像ライブラリーも信じられないほど充実している。

「刺激が足らないと思わない?」
「刺激ね。そろそろ夕食だしレイフォンのところに襲撃でもかける?」

 固有名詞を出してリーリンの反応を窺う。
 これで過剰に反応してしまったら、かなり重傷であると判断しなければならないのだが、どうやらウォリアスが思っている以上にリーリンは強がりの出来てしまう女性のようだ。
 出来るだけ無視していたのだが、料理番組を見つつ笑っているリーリンのそれは、非常に乾いていて怖かった。
 非常な努力をしているのは間違いないが、笑えるということ自体がかなり強がりの出来てしまうことを意味している。
 この先更に衝撃的なことが起こったら、壊れてしまうのではないかと思うくらいにリーリンは強がりが出来てしまう。
 あまり良いことではない。
 強いと言う事は堅いと言う事と同義だ。
 何か起こったらぽっきりと折れてしまうかも知れない。
 それを何とか防ぐ方法を、今から考えておくべきかも知れないと、心のメモに大きな字で書きつつも観察を続ける。

「・・・。そうねぇ。メイを連れ込んでいたら頭を撫でて褒めてあげようかしら?」
「首がもげる前に止めるんだよ?」
「善処するわ」

 まあ、実際にメイシェンを連れ込むなんて度胸がレイフォンに有る訳はないので、これはこれで問題無い。
 問題無いと言う事にしておこう。
 無意識でとっているらしいメモが、殺すとかひねり潰すとか物騒な内容なのにも目をつぶって。

「それで、何を聞きたい?」
「・・・。気が付いていたんだ」
「普段のリーリンと違った切り口の会話だったからね」

 普段と違うと言うところを強調してみたが、実は少々違うのだ。
 メモを取りながらも、なにやら考え込んでいた様子であちこち字を間違えていた。
 何が気になるのかと推測すれば、今だけはレイフォンの事だと予測出来てしまう。

「あの人の事、どう思う?」
「イージェの事ね」

 何度か会って話をしたのだが、敬称を付けられる事を異常なレベルで嫌う事と、ヨルテムがレイフォンに用意した条件について分かっただけだった。
 だがまあ、それはそれで良いのだろうと思う

「嫌いみたいだねイージェの事」
「・・・。あの人さぁ」
「うんうん」
「なんだかちょっとグレたレイフォンみたいだと思わない」
「・・・・・・・。それはどうかな」

 リーリンに言われてみて、レイフォンが少々グレたところを想像してみる。
 目付きと言葉遣いが悪くなり、年中誰かに喧嘩を売っているようなレイフォンを想像してみる。
 だけど、泣いている女の子に滅茶苦茶に弱かったり。
 それはまさに、イージェ・ハジマと言う人物像に極めて近いような気がしてきた。

「否定出来ない」
「でしょう」

 ならば、リーリンがイージェを嫌う理由というのも理解出来てしまうと言う物だ。
 なにしろ、レイフォンがイージェと交際を続ける内に似たような性格になってしまう危険性があるのだ。
 それはそれで見たいような気もするが、あくまでも他人としての話である。

「それに、私に出来なかった事があの人に出来るのって、かなり悔しいじゃない」
「ああ。そう言う訳ね」

 レイフォンに刀を持たせる事が、リーリンには出来なかった。
 だが、それをイージェはあっさりとやってしまった。
 それが悔しかったのか、あるいは自分の無力を思い知ってしまったのかの、どちらかと言う事らしい。
 だが、それは有る意味リーリンの思い違いだ。

「イージェと言うよりはヨルテムが頑張ったんだよ」
「どう頑張るのよ?」
「正確には、ヨルテムの武芸者のお偉いさん」

 レイフォンとイージェの話を総合すると、ヨルテムの交差騎士団長という人がかなりあちこちに手を回しているらしい。
 別段刀を持てと強要している訳ではないようだが、ほんの少しでもレイフォンの人生が穏やかな物になるように、苦労してくれているようだ。

「ヨルテムがレイフォンに期待しているのはね、教育者となる事なんだそうだ」
「あれに何かを教えるなんて事が出来るの?」

 普段から武芸馬鹿だと公言しているところのあるリーリンからしてみれば、レイフォンが何かを誰かに教えると言う事が酷く異常に思えるのだろう。
 だが、実際にはレイフォンは馬鹿ではないのだ。
 まあ、それはさておき話を進めなければならない。

「実戦経験だけなら、他の都市の武芸者は全然勝てないでしょう?」
「それはまあ」
「レイフォンが教えるとしたらそれ関連だね」

 実際にレイフォンに期待されているのは、若手の武芸者に汚染獣戦という物がどんな物かを教える事。
 そして基準型都市の場合、殆ど汚染獣と戦う時には組織として戦う。
 連携での戦いを取得するためには、何かと戦うのが手っ取り早い。
 そこへ行くとレイフォンはこれ以上ないくらいに好都合な相手だ。
 何しろ基準型都市が壊滅してしまうかも知れない老性体と戦ってきたのだ。
 生半可な連携はすぐに撃破されてしまう。
 つまり、レイフォンと戦えるようになる事で、たいがいの汚染獣と余裕を持って戦えるのだ。
 これは武芸者の質の向上と、生存率の向上という二つを一緒に行える素晴らしい事だ。
 グレンダンはレイフォンを追放しなければならなかったが、ヨルテムはそれを拾う事で非常に得をするのだ。

「と言う訳で、レイフォンは実戦に出ないで教育に専念するのが基本だね」
「実戦に出ないから刀を持つためのハードルが低くなったのね」
「そ」

 戦いに出てメイシェンを心配させたくないという、レイフォンの心情を最大限にかなえつつ、ヨルテムは最大限の利益を得る。
 双方丸く収まるという珍しい事態がここに起こったのだ。

「それともう一つ」
「まだ何かあるの?」
「ナルキだよ」

 ナルキはただいま現在サイハーデンを学んでいる。
 サイハーデンの最終目的は生き残る事。
 ならば、生き残るために悪足掻きをする事だけを教えても、実はあまり意味がない。
 実際の戦いの場で生き残ってきた武芸者達の技を受け継ぐ事で、その効率は最大限に発揮される。
 逆に言えば、不完全なサイハーデンでは効率が著しく落ちる事になる。
 剣を持ってサイハーデンを教えるだけでは、実は不十分だったのだ。

「技は教えていると思ったけれど?」
「その辺が一般人には理解出来ないかも知れないね」

 技を教わる事と使えるようになる事は、全く別問題なのだ。
 ナルキが刀を持っているにもかかわらず、その攻撃が打撃に見えてしまうのは、明らかにレイフォンに責任がある。
 試合でレイフォンに傷を付ける事には成功しているが、それは突きの攻撃と身体捌きを最大限に使ったからだ。
 斬撃系の技ではない。
 ナルキのためにもレイフォンのためにも刀を持った方が良いのは間違いなかった。

「と言う訳なんだ」
「良く分からないけど分かったわ」

 当然武芸について良く分かっていないリーリンに説明しても、かなりの部分で理解不能なところが出てきてしまうのは確かだ。
 とは言え、そろそろ本格的に空腹を覚えてきたのも事実だ。
 昼食に食べたのは、果物を適当に切ってヨーグルトであえた即席のデザートと、ライ麦を使っていると宣伝されている食パンだけだ。
 普段の朝食メニューでは、流石に空腹を覚えようという物だ。
 そして、ここには夕食を作るような食材はない。

「と言う事でレイフォンのところに奇襲攻撃を仕掛けよう」
「異議はないわね」

 よっこらせと立ち上がったリーリンがややふらついたが、それを見なかった事にする。
 この先もリーリンのフォローが少々大変かも知れないと思うが、それはそれで刺激的で良いかもしれないと思う。
 アウトドアでの刺激にはあまり興味はないが、インドアでの刺激は大歓迎だ。
 



[14064] 第三話 八頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:15


 夕闇が支配しているツェルニの街角で、正確には自分の寮の部屋で、一仕事終えたレイフォンは、ズボンを履こうと中腰になっていた。
 一仕事終えたために、かなりからだがだるい。
 そのだるさから来る脱力感のために、明かりを点けるのが面倒だったので、部屋の中は暗いのだが活剄を使っているので別段不自由はしていない。
 ちなみに、活剄のお陰で電気代の節約が出来ているかと聞かれると否と答えるしかない。
 剄脈を使っているせいで消費エネルギーが多くなり、最終的に食費がうなぎ登りになってしまうのだ。
 と言う訳で、今活剄を使っているのは短い時間だからと言うのと、かなり面倒だからでしかない。
 手間暇を惜しむつもりはなかったのだが、それでもかなり疲れていたのもまた事実だ。
 そして、まさにその瞬間。

「おらレイフォン! 飯の支度をしろ!」
「え?」

 ベルトを持ち上げ膝付近まで来た瞬間、扉が蹴破られて誰かが入って来た。
 それはもう、これ以上ないくらいに完璧なタイミングだった。
 中腰になり、ズボンを膝まで上げた状態で固まる。
 これ以上間抜けな姿はないと思えるほど、間抜けな状態で恐る恐る扉の方を見る。
 この時間やって来るのはウォリアスだけなので、扉に鍵を閉めるという選択はしていなかった。
 だと言うのに、そこにいたのはどう見てもウォリアスではない。
 金髪を後ろで束ねた少女にしか見えない。
 ぶっちゃけリーリンだ。

「・・・・・・・」
「え、えっと」

 嫌な沈黙が辺りを支配する。
 そのリーリンの後から入って来たのは、なんとウォリアスだった。
 呆れたと言うよりは呆れ果てたと言った雰囲気を出しつつ、軽く頬なんかかいている。
 その情景を認識したのは、しかし一瞬でしかなかった。

「レイフォン?」
「は、はい?」

 なにやら凄まじい殺気を感じているような気がする。
 それはもうサヴァリスとかリンテンスとかなみに、危険極まりない生き物が目の前にいるような。
 いや。むしろアルシェイラ並みだと表現できてしまうのではないだろうか?
 そして、恐らくその殺気を放つ生き物が一歩こちらに近付く。
 後ずさろうとして、ズボンが邪魔で上手く動けないことに気が付いたが、すでに終わった出来事でしかない。
 今日リーリンが刀を持っていないのは幸運なのだろうか?
 現実逃避気味にそんな事を考えることしかできない。

「何をやっているの?」
「あ、あう」

 思わず言葉に詰まる。
 何かやましいことをしているというわけではないのだが、それでも言葉に詰まってしまう。
 男としても武芸者としても何ら恥じるような事はしていない。と思う。
 だが、リーリンの殺気があまりにも強烈過ぎて思うように唇が動かないのだ。

「灯り点けて良いかい?」
「あ、あう。どうぞ」

 そんな一種異様な状況に動揺する事もなく、ウォリアスが扉の側のスイッチを軽く叩いて灯りを点けてくれた。
 活剄を使ったままだったので、明るくなったためにホワイトアウトした視界だったが、すぐに見えるようになった。
 状況はリーリンも同じはずだが、一般人である彼女はもう暫く目が慣れるのに時間が掛かるだろう。
 取り敢えず何に対して怒っているか分からないが、状況を認識してくれさえすれば落ち着いてくれるはずだと信じている。
 そして、中腰のままだったのを思い出して、急いでズボンを上げてベルトを締める。
 よろめいた拍子に足に何か絡み付くのを感じて視線を下に落とす。
 ベッドの側にあり、足で引っかけてしまったのは、脱ぎ散らかされた都市外戦装備一式。
 今夜も就労があるので仮眠した直後に一度着て、点検を終えて私服に着替えようとしていたのだ。
 そうでなければ間抜けな格好などと言う物はしていない。

「何やっていたの?」

 明るくなったために状況を認識出来るようになったせいか、リーリンの殺気がいきなり消失して通常モードに復帰したようだ。
 今日も取り敢えず生きていられる事に、安堵する。

「もうすぐ誕生日だからスーツの点検を」
「・・・・。ああ。そう言えばそうだったわね」

 生まれた時からの付き合いであるリーリンには、今の短い台詞で十分に理解してもらえたようだが、当然ウォリアスは何が何だか分からないと言った雰囲気でありながら、冷蔵庫を開けて食材の確認をしている。
 今日もここで食べて行くつもりのようだ。
 食費はもらっているし、どうせ作りすぎてしまうから良いのだけれど、リーリンが一緒に食べるとなると、少々量に気をつけなければいけないかも知れない。
 作りすぎて制裁を食らってはたまらないのだ。

「誕生日って?」
「うん。僕の誕生日の近くになると汚染獣が来るんだ」
「何故か狙い澄ましたかのように来るのよねぇ」

 老成六期のベヒモトの時もそうだった。
 とは言え、グレンダンは年中汚染獣と戦っているような都市だから、ただの偶然と言えない事はないのだが。

「ここは一応学園都市だけれど?」
「ヨルテムでも有ったんだよ。誕生日の少し後に」

 あの時までまさかと思っていたが、普通の都市でさえレイフォンの誕生を祝うかのように汚染獣がやってきたのだ。
 これはもはや何かに呪われているとしか思えない。
 と言う訳で、学園都市と言う事を全く無視して都市外戦装備の点検をしていたのだ。
 備えあれば憂い無しと言うし、準備が無駄になる事の方が準備無しで災難に合うよりも増しなのだ。
 だが、ここで一つ疑問がわいてきてしまう。
 何でリーリンはあんなに怒っていたのかと言う事だ。
 別段何か悪いことをしていたわけではない。
 男としても武芸者としても何ら恥じる事はしていないはずなのに、いきなり猛烈に怒ったのだ。

「ねえリーリン?」
「なに?」

 何故か視線がそれる。
 これはリーリンにとっても突発自体だったようだが、似たような事態にならないように何に怒ったのか是非とも聞いておきたい。
 なので、いつもよりも積極的に事情を聴取してみる。

「何に怒ったの?」
「・・・・・・」

 黙秘権を行使されてしまった。
 更に視線がウォリアスの方を向く。
 勝手に人の部屋のキッチンを使って何か料理を始めている、細目と黒髪の少年に向かって助けを求めるというか、何か話を誤魔化せと主張しているのか。

「うぅぅん? 鍵をかけないで着替えていたからじゃない?」
「それはないよ。僕達が着替えているところにぃぃ!」

 グレンダンにいた頃、着替えているレイフォン達の部屋に突入してきたことを言おうとしたら、いきなりリーリンに脛を蹴られてしまった。
 結構いたい。
 何処でそんな技を覚えてきたのかは分からないが、今日のリーリンは非常にご機嫌斜めなのは理解出来た。
 触らぬ神にたたり無しと言うから、取り敢えずウォリアスが何を作っているかという方向に話を持って行く事にした。

「夕飯だよ。三人分作るんだったら下ごしらえくらいはやらないとね」

 平然と答えを返されてしまった。
 だが、やや作っている物に違和感を覚えてもいた。
 ウォリアスもレイフォンと同じで、好き嫌い無くあらゆる物を食べられるので、適当に食材を鍋に突っ込む事も珍しくない。
 マヨネーズだけは例外で、レイフォンの所にも実は在庫がないのだ。
 だが、今日使っているのは殆ど野菜ばかりだ。
 油は極力使わないようにしているし、味付けも薄目に設定されているようだ。
 これは何かの異常事態であると予測出来る。

「どうしたの?」
「うん? 男の子の日だから」
「男の子の日って何?」
「うん? スポンサー以外からの突っ込みは却下です」

 どうも要領を得ない会話が進行している間に、リーリンは本格的に落ち着いてきたようだ。
 そしてふと気が付く。
 なにやら何時もと様子がおかしい。
 いや。機嫌が悪いと言う事は分かっていたのだが、それ以外に何か体調も悪いように見えるのだ。
 そして気が付いたのだが、目の前の少女と同じ症状を何度か見た事があるのだ。
 と言うか自身の体験としても記憶があるような気がする。
 記憶をさかのぼって行く。
 答えはすぐに出てきた。

「リーリン」
「な、なによ?」

 何か逃げ腰のリーリンに一歩近づき、ゆっくりと息を吸い込む。
 間違いなくアセトアルデヒドという化学物質の匂いを感知出来た。
 化学物質などと言う言葉を知ったのは、つい最近なのだが間違った使い方ではないはずだ。

「お酒はほどほどにね」
「・・・・。何で気が付くのよ?」

 グレンダンを出るまで、二日酔いになった大人という物に会った事はなかった。
 デルクはそもそも呑まないし、活剄を行使出来る武芸者は殆ど酒が残ると言う事がなかったからだ。
 レイフォンの生涯の関係上、一般人との付き合いは限定的だった。
 身近にいたのは孤児院の関係者で、二日酔いになるほど呑むなどと言う事がなかったのだ。
 だが、状況はやはりヨルテムで大きく変わった。
 アイリとトマスは武芸者だったが、その他の大人達は一般人だった。
 三家族の大人達は何か理由を付けて宴会を開くのが大好きだった。
 何故かメイシェンとレイフォンも巻き込まれて、危ない橋を渡る事もしばしばだった。
 二日酔いになった事も実は一度ではない。
 驚愕の真実なのだが、レイフォンが活剄を使えないほど酔わされたことが、一度以上有ったと言う事だ。
 その経験から考えても、間違いなくリーリンは二日酔いだし、ウォリアスの料理もそれに見合った物になっている。

「誰のせいだと思っているのよ?」
「だれのって?」

 いわれのない言いがかりを付けられているような気もするが、逆らうという選択肢はない。
 体調が悪いというのもそうだが、何かもっと重いというか真剣というか、そんな雰囲気がリーリンから流れてきているからだ。
 こう言う時、レイフォンには分からない何かが起こった事を経験上知っているから、言い返す事はしない。
 ちょうど出来上がった夕食を三人で食べたのだが、かなり美味しくなかった。
 別段作り手が手を抜いた訳ではないはずだから、きっとレイフォンの味を感じる能力に問題が出たのだろう。
 実に現実に即した見解であると、レイフォンは自画自賛してしまった。

「そう言えば誕生日って、二人とも確定していたんだっけ?」

 沈黙の食事に耐えられなくなったのか、いきなり口火を切るウォリアス。
 レイフォンもいささか沈黙が痛かったので、これ幸いと話に乗る。
 恐らくリーリンも同じ心境なのだろう、何時もよりも積極的に会話に加わるつもりのようだ。

「五歳くらいの時に父さんがカレンダーを持ってきてね」
「お前達の誕生日を決めるから好きな日を選べって」

 あの時はいきなりの展開で少々では済まない驚きと困惑を覚えた。
 毎年年始の宴会の時にまとめて祝っていたから、固有の誕生日などと言う物が存在する事さえ知らなかったと思う。
 そんな訳で戸惑いはしたが、当時は凄まじく切り替えが早かったようで、リーリンに促されるまま適当な日を指さした。
 それがただいま現在まで続くレイフォンの誕生日になっているのだ。

「でも今から考えると不思議だよね。あの時リーリンが先に決めろって言ったんだけれど」
「ああ。後から決めたリーリンがレイフォンよりも前の日を選んだんだね」
「良く分かるわね」

 呆れ半分のリーリンの単語が空気を振るわせる。
 本当にウォリアスは色々な事を正確に予測出来てしまうと感心する。
 しかし、何故そう言う結論を出したのかは知っておきたいと視線で訴えたところ、あっさりと答えてくれた。

「レイフォンは自分の弟だとか思ったんでしょう」
「ま、まあ、これがお兄さんじゃ私の人生真っ暗だったから」
「酷いよりーリン」

 そう言う裏事情があったなんて今の今まで全然知らなかった。
 かなり衝撃を受けてしまったのだが、ふと思う。
 確かにリーリンが妹だとはとても思えない。
 しっかり者だし積極的だし人付き合いは上手いし、欠点と言えば少々押しが強すぎるところだろうか?
 そう考えると、最低限姉だろうし、もしかしたらお母さんかも知れないとさえ思える。
 実際問題として、孤児院ではお母さん役だったから、これ以上の適任はいないだろうと思えるほどだ。
 だからその気持ちを正直に正確にリーリンに伝える事にした。

「成る程。僕の母親なんだリーリンは」
「・・・・・・」

 何故か硬直する二人を不思議な面持ちで眺める。
 何か拙い事を言ってしまったのだろうかと振り返るが、冗談半分の戯言以外は言った覚えがない。
 だが、空気は瞬間的に凍り付き重さを増している。
 更にリーリンから何か恐ろしい気配が立ち上っているように思える。

「あ、あのぉ?」
「気にするなレイフォン。骨は拾ってやる」

 何かとても不吉な事を言うウォリアス。
 そして、恐ろしい波動が流れ出るリーリン。
 誕生日を迎える前に命日になるかも知れない。
 そんな予感がレイフォンを支配し始めた。
 
 
 
 このところ全く付いていないというか、空回りが多いニーナではあるのだが、機関清掃の仕事を休む訳には行かないので夜間の作業に精を出す。
 そして最近にしては珍しくレイフォンと鉢合わせしてしまった。
 刀の問題が出る前から、何故かレイフォンと機関部で会う事が少なかったのだが、誰かの陰謀だとか言うのではない事がはっきりと分かったので良しとしよう。
 だが、全く問題がない訳ではないのだ。

「どうしたのだレイフォン?」

 何故か顔中にアザが出来ている十七小隊の新人に向かって話しかける。
 あのレイフォンが為す術無くこれほどの傷を負わされたと言う事は、相手は相当の強者に違いない。
 そこまで考えて、それ以上は止めた。
 どう考えてもツェルニにそんな強者はいない。
 イージェという青年ならばあり得るだろうが、それならば殴られた跡だけと言う事はないはずだ。確実に刀剣による傷が出来ているはず。
 ならば残る選択肢はただ一つしかないではないか。
 昨夜リーリンは何処かに泊まるとか言う連絡があり、今日ニーナが寮を出るまで帰ってこなかった。
 そして、リーリンに対してあまり強く出られないレイフォンがこのような姿である。
 途中経過は不明だが、何が有ったかはおおよそ理解出来ようという物だ。

「まあ、色々ありまして。ahahahahahaha」

 喋るのにも苦労しそうな状況ながら、何とか返事は返ってくる。
 この律儀さは賞賛に値するかも知れない。
 濡らしたタオルで顔を冷やしつつもモップを動かし続けているというのも、かなり賞賛されるべき事柄だと思う。
 手が四本ある事には目を瞑って。
 そして、それ以上の会話が無くなり黙々と作業をこなして行くレイフォンを眺めつつ、ニーナ自身もモップを動かし続ける。
 機関清掃中に喋っている者は初心者だけだ。
 そんな体力があるならば昼間の勉学に使うべきだし、そもそも、清掃の仕事というのは寡黙に行う物だとニーナは信じている。
 とは言え、リーリンがどうなったのかとか聞きたい気持ちはある。
 何しろレイフォンが刀を持つと決めた前後辺りから、延々と機嫌が悪いというかふさぎ込んでいるのだ。
 同じ寮に住む以上、その空気にさらされ続けるのはかなり胃に悪い。
 ニーナでさえそうなのだから、他の二人はきっとおちおち眠れないほど疲労しているに違いない。
 その内の一人、レウなどはリーリンが失恋したのだと言って退かないが、ニーナには良く分からない。
 本来ならばリーリンの方に直接聞くべきなのだろうが、ニーナが行動を起こせないほど酷い落ち込みかたなのだ。
 ならば、あまり普段と変わらないレイフォンに聞くべきだとは思う。
 思うのだが、何故か後一歩を踏み出す事が出来ない。
 それでも、ちょうど休憩時間にさしかかった頃合いに話しかけようとした。
 夜食を摂るために手を休めるのならば、きっと話しやすいだろうと判断したのだ。
 だが。

「うを!」
「!!」

 何故かいきなり床が揺れた。
 いや。揺れたなんて生やさしいものでは無い。
 底が抜けたように垂直に落ちたかと思うと、そのすぐ後に斜面を滑るように斜めに落ちる感覚があった。
 機関部中で何かが落ちる音や悲鳴が錯綜する。
 これはただ事ではない。
 何が起こったか不明だが、緊急事態である事だけは確かだ。
 ならば武芸者の緊急招集が掛かるかも知れない。
 戦闘衣と錬金鋼は量に置いてあるが、予備の物が練武館にも置いてあったはずだ。
 ここからならば練武館の方が近い。
 当面の行動方針を定めたニーナは、レイフォンに視線を向けた。
 当然レイフォンも練武館に装備一式を置いてあるはずだから、一緒に行動するために声をかけようとしたのだが、何故かあらぬ方向を向いているのに気が付いた。

「レイフォン」
「最悪だ」

 ニーナの声が聞こえないのか、視線を動かさずに小さく呟いた。
 不審に思いレイフォンの視線の先を追ってみると、そこには見慣れた電子精霊のツェルニがいた。
 だが、明らかに何時もとは雰囲気が違う。
 何時も好奇心に満ちあふれている瞳は、恐る恐ると下を見詰めて小さく震えているように見える。
 これはただ事ではないと認識するのには十分な情報だ。

「レイフォン! え?」

 一刻も早く戦闘準備を整えるために、レイフォンに向かって声をかけようとしたのだが、何故かいない。
 つい今し方までニーナのすぐ側で斜めになった床で滑らないように、手摺りに掴まっていたはずだというのに、その姿を見つける事は出来なかった。
 そして、慌ててツェルニの方に視線を戻してみると、その視線は斜め上の方を向いていた。
 両手を握り合わせて何かに対して祈るように、徐々に視線の角度を変えて行く。
 自分ではどうする事も出来ない運命に立ち向かうために、神へ祈っているというのが一番近いのかも知れない。
 生憎とニーナに信じる神はいないけれど、それでもその気持ちだけは十分に伝わってきた。

「安心しろツェルニ! 何が起こっているかは分からないがきっとお前は私が守る!」

 決めたのだ。
 ここに来て出会ったツェルニを守ろうと。
 そのためにあちこちに無理に頼み込んで、自分の小隊を作り上げたのだ。
 そして鍛錬も欠かさず、今年度になってレイフォンという強力な助っ人も得た。
 未だに何が起こっているか分からないけれど、それでもツェルニだけは守りたい。
 決意を新たにしたニーナは活剄を最大限に使って機関部の出口を目指した。
 
 
 
 都震を感じた次の瞬間、ゴルネオは慌ただしく戦闘準備を終えていた。
 別段、汚染獣の襲来を予感した訳ではない。
 ただ、どうせ何かするのだったら戦闘衣で居た方が都合が良かったし、眠っている最中だったから二度着替えるのが面倒だったのだ。
 錬金鋼の準備をしたのはついででしかない。
 レイフォンのように、剄技で土木作業をするつもりはないのだが、本当についでのつもりで準備してしまったのだ。
 だが、着替え終わり隣の部屋に住んでいるシャンテを迎えに行った時、異常な事態を経験してしまった。
 フリフリの侍女服を着せられたシャンテが、ソファーで丸まって眠っているという異常事態をだ。
 都震があったことなど知らぬげに、とても幸せそうに寝息を立ててよだれまで垂らしている。
 きっと着替えさせられたことさえ気が付いていないだろう。
 何故そんな事をしたのかと聞いてみたのだが、同室の女生徒曰く。

「可愛かったからつい」

 と言う事なので、まあ、これはこれで見なかったことにした。
 だが、そうこうしている間に鳴り響いた汚染獣の襲撃警報は、そのゴルネオを慌てさせるのに十分だった。
 何しろシャンテは脱ぐのが面倒そうな服を着せられて、まだ寝ぼけた状態だ。
 着替えるのには数分を要すること請け合い。
 と言う事で、ゴルネオは着替えを同室の女生徒に任せて廊下に出た訳なのだが。

「!!」

 何かが目の前に現れた。
 とっさの防御反応で手加減抜きの拳と蹴りを繰り出すが、全てが避けられてしまう。
 防御することさえ必要ないと言わんばかりに、綺麗さっぱりと完璧にだ。
 こんな事が出来る武芸者がツェルニに何人いるかと聞かれたのならば、ゴルネオは自信を持って答える。
 ただ一人だと。

「アルセイフか」
「こんばんは」

 何故か汚染物質遮断スーツらしい物を着込み、ヘルメットを首の後ろのフックに引っかけたレイフォンが、平然とゴルネオの方を見詰めている。
 都震が起こった瞬間何処にいたかは不明だが、直後に汚染獣の襲撃を予測して準備を整え終わったのだろう事は理解出来た。
 ならば、何故ここにいなければならないかが分からない。
 カリアンやヴァンゼの所だったらまだ話は分かるのだが、ゴルネオのところに来る意味が分からないのだ。

「何をしに来たんだ?」

 ガハルド絡みで戦いを挑んで見事に負けた以上、あまり引きずるのは性に合わないのだが、何しろ相手はレイフォンだ。
 思わずつっけんどんな言い回しになってしまう。
 それを気にした様子もなく、レイフォンの視線はシャンテのいる部屋を捉える。
 何故一人なのか疑問なのだろう。

「シャンテは今着替え中だ。もう暫く掛かる」

 余計な言葉を省いて端的にそう言う。
 だが、これこそが余計な言葉なのかも知れないと思ったが、既に後の祭りだ。
 それを誤魔化すためにやや強めに詰問した。

「用件は何だ?」
「ああ。その事なんですが」

 腰に差した三本の錬金鋼と汚染物質遮断スーツから、外での戦闘を想定していることは間違いないが、やはりゴルネオのところに来た理由が分からない。
 ゆっくりと息を吸い込み、自分の考えを整理するように吐き出す。

「今来ているのは恐らく幼生体です」
「うむ。雌性体のいる穴蔵を踏み抜いたのだな」

 繁殖期にさしかかった雌性体は、ギリギリまで幼生体の孵化を待つ。
 そして、何か適当な獲物が現れたのならば孵化を行い、その獲物を食べさせるのだ。
 今回その獲物はツェルニだった訳だ。
 汚染獣という生き物の生態を知っていれば、当然出てくる結論であり、レイフォンの装備の選択の理由でもある。
 理由は不明だが、雌性体は幼生体が全滅すると近くにいる仲間を呼ぶ性質があるのだ。
 ならば、ある程度幼生体を片付けたら雌性体を始末しに行かなければならない。
 エアフィルターを突き抜けて、汚染物質が充満している外の世界で雌性体と戦うのだ。
 その場合、汚染物質遮断スーツは是非とも必要な装備だ。
 無ければ戦闘時間が極端に短くなり、更に死亡する危険性が極めつけに高くなってしまう。

「ツェルニの武芸者は、何体までならば死者を出さずに防御出来ますか?」
「そう言うことか」

 ここに来た理由はそれだ。
 グレンダン出身者ならば、おおよそ汚染獣の強さを知っている。
 そこから逆算して、安全に倒せる数と言う物を把握出来るだろうと判断したのだ。
 そしてその判断は間違っていない。
 もしレイフォンがいなかったら、ツェルニの歴史は今日終わると言う事が十分に認識出来るほどには、汚染獣の脅威とツェルニ武芸者の能力を把握しているのだ。
 そしてもう一つ。
 安全を最大限に考慮した上で、実戦を経験させたいのだ。ツェルニの武芸者に。
 だからこそレイフォンはここに来て、この質問をしたのだ。
 ならばゴルネオはそれに答えなければならない。

「おおよそ三百だ。それでも時間が経つと危険だと判断する」
「・・・・。たった?」
「・・・・・・・・・。グレンダンと一緒にするな。ここにいる武芸者は元からそれ程才能がある訳じゃないんだ」

 ゴルネオ自身も知らなかったのだが、学園都市に来る武芸者の質はあまり高くない者ばかりだ。
 グレンダンでは放出しても問題無いと判断されたゴルネオでさえ、ツェルニでは最強の武芸者に数えられるほどなのだ。
 ツェルニとグレンダンを一緒にされては酷く迷惑な話だ。

「五百くらいはいけるんじゃ?」
「ああ。みんながみんな小隊クラスとか、ゲルニほどの実力を持っていれば、五百くらいはいけるな」

 どうやらグレンダンと一緒にしている訳ではなく、実力の把握がかなり甘かっただけのようだ。
 とは言え、ゴルネオの所に確認に来てくれて良かったと言わなければならないのは、どう評価すべきかかなり疑問な展開だ。

「・・。分かりました。取り敢えず三百くらい残しておきます」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。ああ」

 本来の意味はかなり違うはずなのだが、おこぼれに預かるという単語が思わず浮かんできてしまった。
 取り敢えずレイフォンが近くの窓から外に出るのを見届けてから、ゴルネオはシャンテの準備が終わるのを待つ。
 なんだか非常にやりきれない内心をそのままに。
 確かに、一対一では幼生体相手だったとしても、ツェルニ武芸者で勝てる人間は少ないのだが、それでもあの言い様は、少々では済まない複雑怪奇な心の動きを呼び起こしてしまう。
 そして、その心の動きをぶち壊すかに様に扉が開かれた。

「ゴルゥゥ」
「・・・・。馬鹿馬鹿しくなってきた」

 当然のこと開いた扉の向こう側から、着替え終わったシャンテが出てきた。
 ただし、戦闘衣を着ているはずだというのにその姿には精彩が無く、はっきりとやる気も感じられない。
 寝ているところを起こされたのならば当然だとは思うのだが、それでももう少し何かあって欲しいと思うのだ。
 汚染獣の襲撃警報が鳴っているのだし。

「まあいい。行くぞ?」
「おう。お休みぃ」
「寝るな!」

 立ったまま寝ようとするシャンテの首根っこを引っ掴み、肩に担いで予め決められている集合場所へと向かう。
 到着したらまず始めにヴァンゼを捜して、これから何が起ころうとしているのかを説明しなければならない。
 だが、シャンテと良いレイフォンと良い、何故かみんなしてゴルネオのやる気や、気合いを削ぐ行動を取るのだろうと、ほんの少し疑問に思ってしまうのは、ひがみ根性のなせる技なのだろうか?
 とりあえず、予定通りの行動をとるために、活剄の密度を急速に上げた。



[14064] 第三話 九頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:16


 生徒会本塔までフェリを引っ張ってきたカリアンだったが、そこで今までにない拒絶の意志を見せられてしまった。
 一般人よりは多少強力だという程度の筋力ではあったが、一般人としても運動が苦手なカリアンの手を振り払うのはそれ程難しくなかったようだ。

「フェリ。今がどう言う状況か解っているはずだ。念威繰者としてのお前の力が必要なのだよ」

 フェリが念威繰者としての自分を嫌悪していることは知っている。
 念威繰者以外の生き方を探すために、ツェルニに来たことも知っている。
 だが、実際には何もやっていないこともまた知っているのだ。
 ならば、せめて非常事態の時だけでも念威繰者としての力を使って欲しいと、そう思うのは傲慢なのだろうか?

「嫌です!」

 念威繰者というのは、感情の表現が苦手な者が多い。
 フェリもその例に漏れずに、たいがいにおいて無表情なのだが、今この瞬間はきっちりと不快を表している。
 それは今まで見た中で最も激しい感情表現だ。
 もしかしたら、強引に転科させると言う事がなければ、もう少し穏やかに話し合うことも出来たかも知れないが、その選択は既に終わっているのだ。

「お前だってツェルニが滅んだら死ぬことになるのだよ?」
「かまいません」

 即答だった。
 この事態を招いた原因の一部は確かにカリアンにある。
 それを理解していても尚、生徒会長としてツェルニの最高権力者として、使える戦力は全て使って生き残る手立てを考えなければならない。
 だが、ここで問題になるのは、カリアンに対するフェリの心情が著しく悪いと言う事だ。
 今この場でどんな約束をしても、きっとフェリはそれを信じることが出来ないだろう。
 信じることが出来ない約束などに全く意味はない。
 それはつまり、話し合いも妥協も出来ないと言う事。
 長い時間をかければ話はまた違ってくるのだろうが、あいにくと今はその時間が無い。

「みんなで死ねば怖くないかも知れません」
「それはないと思うのだがね」

 フェリをどうにかするためには、決定的に時間が無いのだ。
 汚染獣が実際にツェルニに取り付くまでもう暫く時間はあるが、その前に迎撃準備を整えなければならない。
 フェリのために割ける時間は、もうほんの僅かだ。
 そしてカリアンが絶望しかけたまさにその瞬間、何か黒い影がカリアンのすぐ脇に降り立った。

「!!」

 驚いたのはカリアンだけではないようだ。
 フェリもその瞳を限界まで大きくして、驚きを表現している。
 カリアンなどは心臓が動いているか、思わず胸に手を当てて確認したほどだ。

「ここにいたんですかフェリ先輩」

 悲鳴を上げそうになる口を何とか押さえつけている間に、その影が言葉を発する。
 それはカリアンが良く知る人物であり、この危機的状況をひっくり返してくれるかも知れない、救世主的な存在。

「レイフォン君」
「あれ? 会長いたんですか?」

 わざとだと思うのだが、カリアンの存在に気が付かなかったようだ。
 レイフォンに嫌われる理由については、色々と心当たりがありすぎるので、まあ、気にしないことにする。
 二人の間だけで勝手に話が進んでいるようだし。

「なんですか? 貴男も私に戦えと言うのですか?」
「はい。フェリ先輩が戦ってくれると助かります。でも」
「でも?」
「どうしても嫌だったら強制はしません。戦場に立つのはその意志がある人だけで十分ですから」

 レイフォンの台詞は、今のツェルニの事情を知らないために言えたのだ。
 いや。グレンダンやヨルテムと同じだけの戦力があると思っているのかも知れない。
 非常に迷惑な話だ。
 はっきり言ってツェルニの武芸者で今の状況を乗り切ることは不可能だ。
 レイフォンを計算に入れないならと言う条件が付くが、残念なことにヴァンゼのお墨付きも貰ってしまっている。
 つまり、戦えるのならば多少の無理をしてでも使わなければならないという、切羽詰まった状況であるのだ。

「戦いたくありません」
「そうですか? でも」
「でもなんですか? 貴男も武芸者や念威繰者の義務とか言うつもりですか?」

 激昂しているらしいフェリが、レイフォンに対して言ってはいけないことを言ってしまった。
 武芸者の規律を破ってしまった人物に。
 だが、レイフォンの方は全く平然としてそれを受け止め、更に言葉を重ねる。

「そんな事は言いませんよ。でも良いのかなって」
「何がですか?」
「お兄さんが死んでしまって」
「?」

 突如話を振られたカリアンは、かなりの勢いで途方に暮れてしまった。
 どう考えてもフェリがカリアンのために戦うとは思えない。
 むしろ殺しに来ることを心配するほどだったのだ。
 ヴァンゼの所に泊まり込んでいたのは、つい最近の話なのだ。

「前にも言ったはずです。兄は一度死んでみた方が良いのだと」

 本人の前だというのに、全く物怖じせずに言い切るフェリ。
 覚悟はしていたのだが、かなり胸が痛かった。
 誰にも気付かれることの無いように、こっそりと胸の痛みをこらえる。

「それはおかしいですよ」
「兄弟愛とか言うつもりですか?」
「とんでもない」

 一瞬だけだが、レイフォンがフェリとの仲を取りなしてくれるかも知れないと考えたのだが、それはあまりにも甘い予測だったようだ。
 何の躊躇もなくレイフォンからも切って捨てられるカリアン。

「ならば何ですか?」
「復讐ですよ」
「ふくしゅう?」

 思わず間抜けな声を上げてしまったのはカリアンだ。
 自分の手を汚すことなく、汚染獣による滅びがカリアンを襲おうとしている今この瞬間、それ以外の復讐があるのだろうかと疑問に思ってしまった。
 もしかしたら、レイフォンがフェリの希望を叶えて、なぶり殺しにするとか?

「後で殴れとか言うのですか?」
「とんでもない」

 何故か非常に嫌な予感がする。
 はっきりとは言えないけれど、レイフォンをこれほど怖いと思ったのは初めてだ。
 武芸者としての能力は確かに凄まじいが、その性格から誰かに酷い仕打ちをすると言う事が想像出来なかったのだ。
 だが、今はどうだろう?
 はっきり言って怖い。
 足の指先から毎日少しずつ削って行くことさえ出来るかも知れないと、そんな恐ろしい予測が平然と出てきてしまうくらいだ。

「例えばですね」
「例えば?」
「結婚式があったとしますよね? 当然お兄さんの」
「無いとは言い切れませんね」

 フェリがカリアン・ロスをどう思っているか十分に理解出来る一言だった。
 確かに腹黒いとか陰険とか言われるが、それなりに女生徒には人気があるのだが、妹の評価はだいぶ違うようだ。

「その結婚式でですね」
「はい」
「是非とも忘れたい暗黒の歴史を披露して、緊張している新郎新婦の心をほぐして差し上げるとか」

 あえてここで言うが、フェリは念威繰者だ。
 しかも、かなり凄まじい才能を秘めている。
 その気になれば、カリアンの私生活を全て子細に観察することだって出来るほど、凄まじい危険性を秘めている。
 狙われたら最後、勝ち目は全く無い。
 そして、復讐と言いながらも親切心からの行動のように言って、フェリの罪悪感をかなり軽減している。
 罪悪感なんて物がフェリに有ればの話だが。

「例えばですね」
「はい」

 なんだか、フェリの表情が嬉しそうに思えるのだが、きっと気のせいだろう。
 と言うか気のせいであって欲しい。

「都市長選なんて物があったとして」
「ありますね、そう言うの」
「お兄さんが激務で身体を壊すのを見たくないから、対立候補の方にこっそりとスキャンダル情報を教えて差し上げるとか」

 ロス家は情報を商うことで財をなした。
 逆に言えば、情報の入手や分析加工そして流通と言った物については、相当に優秀なノウハウがあることを意味している。
 それとフェリの念威が融合したらどうなるか?
 考えるだけでも恐ろしいことになる。
 念威繰者の規律とか誇りとかを頼りに、この困難な局面を乗り越えることが出来るだろうかと考える。
 無理である。
 レイフォンのように表舞台に出て罪を犯す訳ではない。
 こっそりと裏方で工作するのだ。
 どう考えても危険極まりない。

「フェリ」

 その結論に達したカリアンは、何とかフェリを宥めようと思ったのだが、すでに全ては決してしまっていた。
 銀髪を紫色に耀かせると錬金鋼を復元。
 無数の念威端子が宙を舞い情報の収集を開始。
 今までに見たことがないほど真剣なフェリを見る。
 全ては終わった。

「私は戦います! 兄さんもさっさと自分の仕事をして下さい」

 言うが早いかカリアンのことなど忘れてしまうフェリ。
 これは非常に拙い。
 何とかレイフォンから取りなしてもらえないかと、懇願の視線を向けてみるが、全然無駄だった。
 カリアンのことなど無視してフェリに全ての注意が行っているようにしか見えない。
 と言うかわざと無視しているようだ。

「何をしたらいいですか?」
「今来ている汚染獣、恐らく幼生体だと思いますけれど、その位置と数の把握」
「問題ありません」
「僕が撃破して行きますから残存数が三百になったら教えて下さい」
「了解しました」
「それと、母体の居場所とそこまでの進行路の割り出し」
「それには時間が掛かります」
「ツェルニに取り付いた幼生体が殲滅されるまでに出来ればいいので、慌てる必要はありませんが余裕は多くありません」

 てきぱきとフェリに指示を飛ばすレイフォンは非常に心強いのだが、少々怖い気がする。
 だが、一転フェリが少し考え込むような仕草をする。
 これはつけいる隙があるかも知れないと思ったのも束の間。

「少し報酬が欲しいのですが?」
「僕が用意出来る物でしたら」
「貴男にしか用意出来ません」
「何が良いですか?」

 フェリが報酬を望むなどと言うことは初めてだ。
 これはきっと途方もない何かを要求するに違いない。
 例えばレイフォンの命とか。
 ならば、この交渉は決裂するだろう。
 ツェルニに迫る危険は大きくなるかも知れないが、カリアンの身に降りかかる恐怖はだいぶ軽減される。
 最高責任者としては、有ってはならない思考ではあるのだが、カリアンとて人の子である。自らに降り注ぐ火の粉は少ない方が良いに決まっている。

「お菓子です」

 一瞬で全ての希望が打ち砕かれた。
 メイシェンのお仕置きはまだ続いていたようで、とばっちりを食らい続けているのだろう。
 そしてそれに耐えられなくなったフェリが、この機会を使いレイフォンからお菓子の横流しを要求している。
 念威繰者の報酬としては非常に低価格だ。
 これを断ることはないと断言出来てしまうカリアンは、きっとこの先地獄を見てしまうのだろう。

「ああ。僕が受け取るお菓子の八割を一週間分でどうでしょうか?」
「問題ありません」

 あっさりと交渉が成立。
 呆気に取られている間に、いきなりレイフォンの姿が消えてしまった。
 当然汚染獣と戦うために出かけたのだろう。
 ツェルニのためにはそれはそれは頼もしいことなのだが、カリアンにとってとなると少々話が違ってくる。
 なので、出来るだけ被害が少なくなるように少々努力してみることにした。

「フェリ?」
「何をしているのですか? さっさと迎撃の準備でもしていて下さい。私は今忙しいのです」

 とりつく島もないとかけんもほろろと言った感じで、汚染獣の情報を集めて加工してレイフォンに送るという作業に没頭するフェリ。
 非常に頼もしいのだが、それ以上に怖い。

「カリアン。妹さんが言う通りにさっさと仕事をしろ!」
「ごぼ! ヴァンゼ首が絞まっているよ」

 始めから側にいて全てを見ていた盟友が、何か非常に手荒にカリアンの襟首を掴み、猫でも扱うかのように運んで行く。
 はっきり言ってかなり苦しいが、カリアンのなけなしの誇りをかけても、苦情は控えめにしなければならない。
 それ以上に問題なのは実はフェリなのだ。

「アルセイフが何をするつもりなのか連絡をくれと伝えてくれ。本当は先に連絡が欲しいが時間がないようだからな」
「分かりました」

 フェリとヴァンゼの間で勝手に話が進んで行く。
 ここでもカリアンに出番はない。
 そしてズルズルと引きずられて行くカリアンだが、是非とも確認しなければならない事があるのだ。

「な、なあヴァンゼ?」
「なんだ?」

 生徒会本塔に入ったところで苦しい息の下、ヴァンゼに話しかける。
 その太い腕を軽く叩き、ギブアップの意志を伝えるのを、当然忘れない。
 なぜならば、用件は非常に重要だからだ。

「フェリが笑っていたように見えたのだが、気のせいだよな?」
「ふ」

 そう。連れ去られるカリアンを見るフェリが笑ったように見えたのだ。
 念威繰者とは表情を表すことが苦手な人達だ。だというのにフェリが笑っていたように見えたのだ。
 ニヤリと。
 その凄まじく不気味な笑顔は、カリアンの魂を凍り付かせるのに十分だった。
 だが、きっと見間違いだ。
 フェリがあんな風に笑うことなどあり得ないと、兄であるカリアンには十分分かっているのだ。
 だが、誰かの保証が欲しいのもまた事実で、取り敢えず盟友であり武芸長を勤めているヴァンゼに聞いてみることにしたのだ。
 きっと間違いだから。

「知らなかったのかカリアン?」
「な、なにがだい?」
「あれこそ俺が恐れているお前のニヤリだ。良かったな客観的に見られて」
「・・・・・・・」

 もし、ヴァンゼの言っていることが本当だったとしたのならば、それはそれは恐ろしいことになる。
 カリアンが笑ってヴァンゼが恐れる時、それは凄まじく邪でいて真摯でいて悪辣なことを考えている時の笑いだ。
 同じ精神状況でフェリが笑っているのならば。

「・・・・・。止めた」

 これ以上考えるのは止めることにした。
 兎に角今は汚染獣の襲撃を何とかしなければならない。
 全ては今日を生き抜いてから考えようと、現実逃避的に心を決めたカリアンは、会議室に集まった生徒会上層部を率いて迎撃の準備を始めた。
 
 
 
 念威端子を使いレイフォンの支援をしながら、フェリは少々驚いていた。
 別段カリアンを憎いと思っていたり、実際に死んでも良いと思っていた訳ではない。
 ある意味意地を張っていただけだ。
 カリアンに武芸科に強制的に転科させられて、かなり怒っていたのは間違いないけれど、今日の状況は少々違った。
 今日の反抗の原因は、自分でも子供っぽいと思うのだが、カリアンへの意地だった。
 絶対にカリアンの言う事だけは聞かないという意地が、フェリに汚染獣戦への参加を拒絶させていたのだ。
 それがどう言うことかは十分に理解しているのだが、それでもフェリは戦うことを拒絶した。
 レイフォンの話を聞いていたが、飢えたことがないフェリにはそれを実感として認識することが出来なかった。
 だが、死に対して非常に強烈なトラウマを持っていることは理解出来た。
 その時のフェリをレイフォンが見たらきっと悲しむだろうと言う事は分かっていた。
 怒り狂ったりするところは全く想像出来なかったが、悲しむところは容易に想像出来た。
 それは分かっていたのだが、どうしても戦うための後一歩が踏み出せないでいた。
 そんなところにやってきたのが話題のレイフォンだ。
 あの状況ならば、レイフォンが一言頼むと言えばそれで良かったのだが、何故か話が非常に変な方向へと飛んでしまった。
 カリアンに復讐するというのは単なる建前で、あの恐れおののいた表情を見られただけでも十分に目的は達成されている。
 メイシェンのお菓子については、まあ、有ったら嬉しいおまけと言った感じだったのだが、損はしていないから良しとしよう。
 実際の所、すでに制裁は解除されていて、お菓子はそれなりにもらえているのだが、多くて困るものでは無いので、駄目で元々といった感じで要求しただけだし。

「はあ」

 だが、問題なのはそのメイシェンのお菓子が食べられないかも知れないと言う、かなり切迫した現状の方だ。
 ただいま現在確認されている汚染獣の総数は千を越えてしまっている。
 そして更に増量中。
 お菓子だったら嬉しいのだが、汚染獣では全然嬉しくない。
 圧倒的な実力を持つレイフォンとイージェという戦力を加えてみても、明日の朝日が見られるとは思えない状況だ。
 だと言うのにレイフォンはその絶望を目の前にして、あっさりと言ってのけたのだ。
 三百になったら教えてくれと。
 その時数字は理解出来たが、実際に何を意味しているのかは全く分かっていなかった。
 そう。念威端子越しとは言え実際に見るまでは。
 そして台詞を普通に解釈するのならば、七百以上をレイフォン一人で何とか出来ると言っているようにしか聞こえない。
 現実味がない。
 そして、続々と増えて行く以外にも母体という戦力が別にあるのだ。
 サントブルグの武芸者全員が全力で戦ったのならば、何とか撃退出来るとは思うのだが、ツェルニにそれを求めるのは無理なのだ。
 というのは実際にレイフォンが戦い始めるまでの話だ。
 フェリが驚いているのは、サントブルグの武芸者が総掛かりで何とか撃退出来るはずの、汚染獣の群れが猛烈な勢いでその数を減らしているからに他ならない。
 始めに認識出来た現象というのが、勝手に汚染獣が輪切りになって行くという信じられない物だった。
 だが違った。
 レイフォンが握っている柄だけの錬金鋼を拡大表示して、微細検索をかけて理解した。
 目に見ることが出来ないほど細い糸が数千本、自らが意志を持っているように蠢いて衝剄を放ち汚染獣を輪切りにしているのだ。
 ハーレイに聞いてはいた、
 レイフォンの持っている青石錬金鋼には二つの設定があると。
 一度はナルキが使っているところも見た。
 鋼糸と呼ばれるその設定は対抗戦などで使うにはあまりにも強力すぎるので、黒鋼錬金鋼には付けられていないと。
 その意味が間違いなく理解出来た。
 千の汚染獣が、ほんの二分少々でその数を三百にしてしまったのだ。
 対抗戦はおろか武芸大会で使うにも、強力すぎる。
 となると汚染獣にしか使えないのだが、それも実は少々違うらしい。
 ツェルニから降りる時も、鋼糸を使い空中での姿勢や速度を制御してしまっているのだ。
 これも反則だ。
 理由は不明だが、ヴァンゼをボロボロにしたイージェがやたらに強いことは理解していた。
 それが成熟した武芸者の実力だというのは理解出来る。
 だがこれは何だ?
 七百を超える汚染獣を輪切りにして、息一つ乱さないレイフォンは、続いてフェリが何とか探し出した母体へ向かって崩壊が進んでいる洞窟へと突っ込んでいった。
 準備運動は終わったと言った感じの気楽さで。
 いや。これから散歩に出かけようと言った感じの気軽さで。

「はあ」

 サントブルグでフェリが経験した戦場とは全く違った、一方的で戦いとは言えない虐殺に手を貸したようで、少々気分が悪い気がしなくもない。
 気のせいだけれど。
 そしてレイフォンの支援が一段落したことで出来た余裕を使って、ツェルニの他の武芸者に目を向けてみる。
 こちらはフェリが知っている通りに、汚染獣相手に複数で挑み、何とか撃退している光景を認識することが出来た。
 だがその中でもやはりイージェは別格だった。
 平然と大きな技を連発して、迅速且つ確実に数を減らしている。
 レイフォンのように異常な戦力という訳ではないのだが、それでもかなりの実力者であることは確かだ。
 カリアンがイージェを教官に雇いたいと言い出したのは無理からぬ事だ。
 だが、強力な一撃を放てる武芸者はやはり少数のようで、徐々にではあるのだが殲滅速度が鈍ってきている。
 体力と気力と剄力が尽きるのが早いか、殲滅されるのが早いか。
 とは言え、洞窟の中へ突っ込んだレイフォンが帰ってくれば、全く問題無く全てが片付くだろう事は間違いない。
 それはある意味、ツェルニ武芸者の敗北と言えるのだが。
 
 
 
 シェルターに避難したリーリンは、何とかメイシェン達を発見することが出来た。
 別に決まったシェルターに避難しなければならないという規則がある訳ではないのだが、だからこそリーリンはメイシェン達を探していたのだ。
 正確を期すならばメイシェンを。
 恐らくミィフィが一緒にいるから平気だとは思うのだが、万が一と言う事が有るのだ。
 リーリンが探し出した時、既にメイシェンは涙目だった。
 と言うか泣いていた。
 そしてレイフォンが何故戦い続けることの象徴である刀を頑なに拒否していたのか、それを理解してしまった。
 祈るように両手を胸の前で組み、大きな瞳から涙をこぼしつつ、全身に力を入れて何かに耐えているのだ。
 その脇ではミィフィが色々と話しかけて気を紛らわせようとしているが、それが上手く行っているとはとても言えない。
 デルクもリーリンも間違ってしまったのかも知れないと、そう結論づけてしまえるほどその姿は痛々しかった。
 そしてリーリンは思う。自分はレイフォンを戦いの場に引きずり出す事しか出来ないのではないかと。
 そんな思考を振り払う。
 今は兎に角メイシェンを何とかしなければならないはずだから。

「レイとんなら大丈夫だよ」
「で、でも」
「隊長さんよりも強いんだから、きっと平気だよ」
「う、うん」

 そんな会話が聞こえているところに、リーリンがやっと到着出来た。
 シェルターの中央付近でしっかりと寄り添っている。
 これはあまり好ましくない。
 男子生徒の視線が二人に注いでいると言うのもあるが、中央付近では色々と不便なことがあるのだ。
 グレンダンで中央付近に居座るのは、よほど真面目な人間だけと相場が決まっていた。
 と言う事で、何とかメイシェンを宥めて隅の方へと連れて行った。
 その間もメイシェンの心配はとどまるところを知らず、どんどんと変な方向に進んで行ってしまった。

「レイフォン、膝すりむいたりしないかな?」
「平気よ。レイとんがそんな怪我する訳無いじゃない」

 少々怪我の規模が小さいような気もするが、実戦に出た武芸者を知らないのならば当然だ。
 そしてここで一つ思い出したことがある。
 これを使って、メイシェンの気持ちを少し落ち着けさせることが出来るかも知れない。
 非常な危険を伴うが無駄ではないはずだ。

「レイフォンだからすりむかないと思うけれど」
「そうよね」
「でも、膝のお皿は割ってしまうかも」

 この一言を言った瞬間、二人の動きが完全に止まってしまった。
 膝のお皿を割るなどと言うことは、普通の人間には考えられない大怪我だ。
 だがレイフォンにとっては珍しくない規模の怪我なのだ。
 小さな頃は微妙に体の使い方が下手だったために、様々な怪我をしてみんなを驚かせたり心配させたり、時には笑わせたりしてきた。

「何時のことだったか忘れたけれど、活剄を使って走っている時に転んでね」
「あ、あう」
「ちょうど尖った石があってそれに膝を打ち込んじゃったのよ」
「ひぃぃ」

 メイシェンとミィフィからとても痛そうな悲鳴が上がる。
 リーリンだってそれを聞いた時はかなり痛かったのを覚えている。
 自分が怪我をした訳ではないけれど、想像上でかなり痛かったのだ。
 その割にレイフォン本人は割と平気そうだったのは、非常な理不尽を覚えてしまった。

「ま、まさか。レイとん今度も膝のお皿を割って」
「あ、あう」

 猛烈に心配そうな表情をするメイシェン。
 だが、明確に心配事をイメージ出来たので、押しつぶされることはなくなっただろうと思う。
 この展開は少々予定外だが、悪くはない。

「で、でもそれ以上に問題が」
「レイフォンが何か馬鹿なことやるの?」

 痛い想像が嫌だったのか、ミィフィがいきなり話題を変えてきた。
 更にそれに乗る形でリーリンも話を合わせる。
 レイフォンが馬鹿な事をやるのは日常茶飯事なのだ。
 だったら汚染獣戦の間にやっても、何ら不思議はない。
 天剣時代はそんな馬鹿をやったら死んでしまったはずだから、大丈夫だったはずだが、今は猛烈に心配だ。

「戦っている時のドキドキが恋愛のドキドキに」
「あああああああ!」

 話の途中でメイシェンの絶叫が辺りに響き渡り、大勢の視線に再び捉えられた。
 半分以上好奇心の視線だったのは、きっと良いことなのだろうと思う。
 だが、普段おっとりしているメイシェンの反応は異常なほど素早く、以前にも何か似たような会話があった事を予測出来る。

「ミィちゃん」
「だ、だって、今回はナッキだけじゃないんだよ?」
「え?」

 最後の疑問の声はリーリンのだ。
 何でナルキが出てくるかは非常に不明だが、それでもミィフィが何を心配しているか、あるいは期待しているかは理解出来てしまった。
 レイフォンが所属している第十七小隊長のニーナは、傍目に見て凛々しい感じの美少女だ。
 もう少しで少女と呼べる範囲を出て行くが、はっきり言ってかなりの美少女だ。
 そして、同じく第十七小隊にいる念威繰者のフェリは、はっきり言って今まで見た中でシノーラに匹敵する美少女だ。
 小柄というか小さな感じはあるが、それがまた良いと思う人もいるかも知れない。
 生憎とレイフォンがどんなタイプの女性が好きかは知らないが、候補だけは非常に多くそして高水準だ。
 こう考えると、戦闘中の緊張から恋愛の緊張に変わった時、対象となることが出来る女性が結構多いことに気が付く。
 優柔不断でへたれなレイフォンだから、もしかしたら一人を選ぶなんて事が出来ないかも知れない。
 最終的にナルキも入れて三人の少女を孕ませる。
 いや。メイシェンを含めれば四人。

「・・・・・・・・・・・」
「ひぃぃぃぃぃ」
「あうあうあうあう」

 すぐ側で二人の悲鳴が聞こえたところで、リーリンは予測という妄想の世界から帰還した。
 どうも余計なことを考えて殺気が漏れていたようだ。
 放浪バスの中でもあったことだが、いい加減に制御しないと何時か取り返しの付かないことになる。
 そして冷静に考えれば、あのレイフォンが誰かを孕ませるなんて事、出来るはずがないのだ。
 出来るのだとしたらリーリンはとっくに二・三人産んでいる。
 それはそれとしても、取り敢えず凍り付いてしまったこの場の空気を、何とか暖めなければならない。

「だ、大丈夫よ?」
「な、何がでしょうか?」
「レイフォンにそんな甲斐性無いから」

 途中経過無しで予測というか、そんな物を披露する。
 取り敢えずレイフォンを心配するメイシェンは少し落ち着いたことだから、問題無いとしておこう。
 リーリンから少し距離を置いているが、きっと問題無い。

「少々よろしいかな?」

 混沌に支配されかけた場の空気を入れ換えるように、涼やかでいて力強い声がかけられた。
 気が付けば、周りの生徒達は少々距離を取ってこちらに興味の視線を送っている。
 リーリンの殺気がそれ程の距離を制覇するとは思えないから、何処かで聞いたことのある、この声の主が原因なのだろうと判断する。
 そして、ゆっくりと視線を背後の男性に向けて。

「きゃぁぁぁぁぁ! 痴漢です変態です強姦魔です殺人鬼です!!」

 力の限り絶叫する。
 視界に入ったのは銀髪をやや長くして眼鏡をかけた、今までに見たことの無いほどの美青年だった。
 いや。見た事がないという言い方はおかしい。
 生徒会の広報や様々な雑誌でよく見かける顔だ。
 だが、実際に肉眼で直接見るのはこれが始めて。
 いや。グレンダンと先日の試合の時に見ているから、正確に言うならば三度目。
 そう。目の前には生徒会長カリアンが微笑と苦笑の中間の表情を浮かべて、リーリン達三人を見下ろしているのだ。
 そして、リーリンが力の限り絶叫したというのに、何故か周りの視線もカリアン本人も平然としている。

「その程度でどうにかなるようでは、生徒会長は務まらないのですよ」
「っち!」

 レイフォン絡みの感情で、少々困らせてやろうと思ったのだが、カリアンはそれ程甘い人物ではなかったようだ。
 自信に満ちあふれ、余裕を持ったその佇まいは、まさに一つの都市の支配者として申し分のない貫禄と言えるだろう。
 だが、よくよく観察すれば少々疲れているようには見える。
 まあ、汚染獣の襲撃を受けているのだから当然だろう。
 当然と言えば、こんなところに居る事が少々問題ではある。
 レイフォンが出撃を渋っているとか言うなら話は違うのだが、メイシェンを心配させたくないと言いつつ、誰か知っている人が死ぬところも見たくないという困った性格を持っているのだ。
 途中経過はどうあれ戦いの場に身を置いているのに違いない。
 生徒会長という最高権力者であり最高責任者がここに居る理由が分からない。

「少し話をしたいと思ってね」
「私とですか?」
「君達三人とだよ」

 もしかしたら、これを機会にレイフォンに対する呪縛を強化しようとしているのかも知れない。
 そんな事を考えたのも一瞬だった。
 レイフォンの性格を考えるなら、その必要は全く無い。

「挨拶が遅れたね。私はカリアン・ロス。覚えていてくれると嬉しいけれど」
「生憎と覚えています」

 どうもつっけんどんと言うか非友好的な態度を取ってしまうのは、仕方のない事なのだろうと思うのだ。
 別段カリアンが悪人という訳ではないと思う。
 腹黒そうではあるが、目的と手段の区別は付くだろうし、必要な場合は折れる事を知っているだろうが、それでもあまり友好的に接する事は出来そうもない。
 ツェルニの事情は理解しているが、それでもレイフォンへの対応は納得している訳ではないのだ。
 そして視線を感じた。
 同時にカリアンが思わず後ずさる。
 冷や汗で濡れる背中に感じるのは、リーリンに向けられている訳でもない視線。
 ミィフィが左腕に抱きつくのを感じつつ、絶対に振り向く事はしないと決意した。
 見たら最後、塩の柱になるか石になってしまうから。

「お、おじゃまだったかな?」

 その恐ろしさはカリアンをしてさえ逃げ腰にさせているのだ。
 リーリンに耐えられるはずはない。
 ならばやる事はただ一つ。
 試合の時にもメイシェンはカリアンを見ているのだが、あの時と今回では危険の度合いが全く違う。
 と言う事で、メイシェンが思いっきり強烈にカリアンを睨んでいるのだ。
 その威力はもはや物理的な圧力として、目標とされていないリーリンにさえ寒気を起こさせるほどだ。
 普段大人しい人を怒らせると恐ろしいというのは、本当のようだ。

「さ、さあ会長。私達とお喋りしていましょう。そうしたらレイとんが汚染獣を粉砕してくれますよ」
「い、いや」
「そうですよ。汚染獣なんて武芸者に任せて私達は信じて待っているしかないんですから」

 逃げようとしたカリアンの腕を二人で掴み、メイシェンの前に座らせる。
 何事にも人身御供や生け贄は必要なのだ。

「こんな美少女三人に囲まれるなんて、生徒会長冥利に尽きると思いますよ」
「男子生徒の羨望と嫉妬の入り交じった視線の集中砲火で、こんがりローストされてしまいますよ」
「い、いや。政権支持率を落としたくないので出来ればそろそろ執務に戻りたいのだが」

 必死にメイシェンを視界の中央に納めないようにしつつ、カリアンをしっかりと押さえるのは大変だが、それでもやらなければならない。
 レイフォンが戦場に出ると言う度に、心配してきたために付き合い方が上手くなってしまっているリーリンと違い、殆どそんな経験のないメイシェンの心境は想像に難くない。
 ならばカリアンに恨みの視線を向ける事で、その不安や恐怖から逃れられるのならば、いくらでも生け贄として差し出すべきだ。
 主に怖いのはリーリンではないし。



[14064] 第三話 十頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:16


 武芸科六年で武芸長を勤めているヴァンゼは、延々と続いている汚染獣の群れに対して、出来るだけ損耗を押さえつつも効果的な攻撃を指示し続けていた。
 実際の戦闘が始まってしまえばカリアンの出番はあまりない。
 事前の準備と事後処理の仕事をするために、何処かに出かけて誰かに会ってくるとか言っていたが、今のヴァンゼにはどうだって良い事だ。
 それはある意味ヴァンゼにも言えることだ。
 武芸長という立場上ヴァンゼ本人が戦う以上に、全体の指揮統率が重要だ。
 と言う訳で迎撃開始から錬金鋼は復元しているが、未だに一撃たりとも汚染獣に浴びせてはいない。
 ある意味ヴァンゼが力業を振るうと言う事はかなり戦況が押されているか、士気が低下し始めているかのどちらかと言う事になる。
 今のところどちらも心配しなくて良いようで少しほっとしている。
 とは言え、気を抜いて良い状況では断じてない。
 現状は割とツェルニに有利だ。
 よたよたと空を飛ぶ汚染獣に対して、砲撃の密度をわざとばらばらにした剄羅砲の攻撃により、分布をだいぶ調整する事が出来た。
 具体的には、こちらが行って欲しい場所付近の砲撃密度を薄くして、待ち構える武芸者の前に着地してもらったりだ。
 当然、剄羅砲による攻撃はそれで役目が終わった訳ではない。
 出来る限りの砲撃を行い、汚染獣を負傷させ戦闘能力を奪うのだ。
 そして、五から十名で編成された武芸者を一体の汚染獣に向かわせて、出来るだけ効率よくこちらの損耗がないように殲滅する。
 ツェルニ武芸者五百名少々に対して、汚染獣は約三百。
 戦力が足らない事は間違いないが、それでも防御機構を活用した事によって戦線は維持出来ていたし、徐々に押し返し始めている。
 フェリ経由でもたらされたレイフォンの思惑をヴァンゼも聞いた。
 この忙しい中ゴルネオとウォリアスにも確認をした。
 そしてヴァンゼも追認する事にした。
 今のツェルニ武芸者にはどうしてもこの戦いが必要だと。
 だが同時に死者が出る事は出来るだけ避けたい。
 そのために散々苦労しているのだが、同時に驚愕もしていた。
 レイフォンが強い事は知っていたが、基準型の都市一つと匹敵あるいは凌駕する戦力を持っているとは思わなかった。
 そのレイフォンが七百以上の汚染獣を始末してくれたのだ。
 ここで無様な真似をする訳には行かない。
 そう意気込んで武芸者達を叱咤激励して戦線を維持しているのだ。
 各小隊も期待通りの働きをしてくれているようで、目立った負傷者も出さずに戦いは続いている。
 ヴァンゼが司令官として抜けた第一小隊の打撃任務は、つい先日痛い目を見せられたイージェに努めてもらっている。
 流石に熟練した技と傭兵として戦ってきた経験を持つイージェは、第一小隊の支援攻撃を受けつつ確実に数を減らしている。
 彼を教官として雇ったカリアンの判断は正しかったのだと、改めて認識した。

「おら! てめぇら! 数撃ちゃ良いってもんじゃねぇんだ! しっかりと急所を狙え! おたおたしている暇があったら剄を込めろ!」

 そのイージェの指示に黙々と従う第一小隊を遠目に見詰めつつ、しかしヴァンゼはかなり複雑な心境だった。
 五百人で三百と戦っているこちらは、実は殆ど余裕がない。
 だと言うのにレイフォンはただ一人で七百を始末して、更に母体にまで止めを刺して現在こちらに向かって帰還中だという。
 どれほどの実力差があるのだろうと考えるのも、かなり馬鹿らしい。
 武芸の本場と言われるグレンダンでさえ、レイフォンの強さは異常だったと言うが、それは納得出来る事情だ。
 あれがグレンダンの平均だと言われるよりは、遙かに納得出来る事情だ。

「気を抜くな! 残りの汚染獣多くはないぞ! 確実に一体ずつ仕留めるんだ!」

 そう檄を飛ばしながらも、戦力に余裕の出てきたところから不足しがちなところへ移動させたりと、最後の一体が殲滅されたのが確認出来るまで仕事は終わらない。
 
 
 
 こっそりとツェルニから出て行って雌性体を始末したレイフォンは、やはりこっそりと帰ってきていた。
 フェリの念威端子を経由した情報を元に、危険がありそうな場所に回ってちょっかいを出してみようかと思っていたのだが、今のところそんな危ない橋を渡っているところはないようだ。
 防御壁や罠を上手く使って同時に複数を相手にしないように、あるいは剄羅砲の支援を受けて効果的な迎撃をしたりと割と上手く戦っている。
 これならば後は観戦していればいいかと気楽に考えていた。
 だが、一種異様な光景を目撃してしまい、気楽な考えは飛んで行ってしまった。

「チェストォォォォ!」

 全長二メルトルに及ぶ巨大な刀らしき物を振りかざし、活剄を最大限に行使して汚染獣に突っ込んでいるのは、第五小隊最年長のオスカーだ。
 その掛け声は戦声でもないのに辺りを振るわせ、汚染獣の動きを一瞬止めさせるほど凄まじい。
 銃使いだと聞いていたのだが、どう考えてもあれは銃には見えない。
 何かあちこちに細工があるようではあるのだが、銃という武器のカテゴリーからは逸脱していると思うのだ。
 だが、それも幼生体の直前までの話だ。
 刀の間合いに入った直後、右手人差し指が僅かに移動。
 ハバキ元に装備された回転弾倉のような物が回転。
 いや。実際に回転弾倉だったようだ。
 激発機構が働き、剄を貯めた弾薬がその力を解放。
 刀身の中を何本も通っている銃身をエネルギーが通り、峯にある極細の銃口から莫大な圧力が掛かった衝剄が迸る。
 その衝剄の反動と巨大な刀の質量、そしてオスカー自身の活剄によって得られたエネルギーで猛烈な速度に達した一撃が幼生体の頭部に降り注ぐ。
 巨大な刃は幼生体の頭部を軽々と両断し、一瞬にして絶命させた。
 汚染獣の中では最も柔らかい甲殻しか持っていないとは言え、その破壊力は凄まじい。
 もしも、激発させる事が出来る弾薬が一発ずつではなく、複数同時が可能ならば今この瞬間でも十分な支援攻撃があれば雄性体二期までなら有効だろう。
 そしてオスカーは周りへの注意を怠らずに、瞬時に体制を整える。
 地面に切っ先が触れるよりも早く、巨刀の軌道を横に変える事で身体が止まっている時間を最小限にする。
 近くにいる汚染獣には第五小隊の他の隊員が牽制の攻撃を行い、オスカーを狙わせないように細心の注意をしている。
 いったん飛び退いたオスカーは、回転弾倉を開けて新しい弾薬を送り込んでいる。
 これはなかなか面白いとレイフォンは思う。
 銃使いの最大の特色を生かしつつ、刀剣による戦闘方法を確立しているのだ。
 銃衝術とは違った新しい戦い方として、何かに使えるかも知れないと記憶に留めた。
 と同時に、銃使いであるはずなのに刀剣について詳しい事も頷ける。
 代々食肉加工業とこの巨刀を使ってきたのだとしたら、結構面白い人生だったに違いない。
 そして、オスカーが後退した隙間を埋めるように二つの陰が飛び出した。
 それは当然、シャンテとゴルネオの二人組だった。
 支援攻撃を指示しつつ二人掛かりで、幼生体に殴る蹴る突き刺す焼き払う噛みつくと、あらゆる攻撃を連続して叩きつけ、徹底的に殲滅している。
 この戦闘エリアは強力な打撃力がある上に、連携や支援も充実しているので問題無く持ちこたえられるようだ。
 時々シャンテの攻撃が人間的でないこともあるが、強引にそれから目を背けて他を見に行く事にする。
 
 
 
 ディン・ディーに指揮された第十小隊の戦闘区域は、やや苦戦を強いられていた。
 苦戦と言っても危険な状況という訳ではない。
 元々第十小隊の戦術という物が、フラッグを取りに行く事を最重要課題として練られた物で、汚染獣戦は考慮されていない。
 だが、基本とする戦い方を変える事は出来なかった。
 柔軟性という一点において、第十小隊は落第点しか取る事が出来ないのは知っている。
 だが、小隊の編成をとっさに変える事の方が危険だと判断したディンは、何時も通りのフォーメーションを変える事が出来なかった。
 突撃を行うダルシェナを支援するという作業自体は変わらないのだが、困難さは明らかに汚染獣戦の方が上だ。
 ディン自身が使っているワイヤーも、本来罠を探知してそれを無効化するために使われる物で、汚染獣に対しては気を逸らせる程度の効果しかない。
 それが分かっているからこそ無理な攻撃はせずに、他の戦闘区域に余裕が出来て、ディンの元に増援が来るのを待つという消極的な戦い方をしてきたのだ。
 そして戦いは終演に向かっている。
 ツェルニの防衛戦は持ちこたえ徐々に押し返している。
 待っていた増援が来ると連絡もあり、目的は完遂されようとしていた。
 だが、ここで計算外の事態が起こった。
 打撃役を一身に受けていたダルシェナの剄量が尽き、動きがみるみる悪くなって行くのだ。
 これは明らかな計算違いだ。
 剄脈加速剤を使っていなくても、才能に恵まれたダルシェナならば十分に持ちこたえられると思ったのだが、どうやら初の汚染獣戦は想像以上に彼女の精神と身体に負担をかけていたようだ。
 荒い息をつきながらも突撃槍を構え、戦う事を諦めないダルシェナに、せめてもの砲撃支援を指示しつつも、部隊編成が間違っていたのかも知れないと考えていた。
 汚染獣戦を考慮して編成を変えた訓練をしておくべきだったと。
 攻撃力が少なすぎる上に、打撃力を持った武芸者が一人しかいないのだ。
 第十六小隊のように高速戦闘を行い、連携して相手を倒すというのとは違う。
 彼らは平均的な打撃力を持ちそれを連続して使う事で、高い攻撃力を発揮する事が出来るが、第十小隊は違う。
 ダルシェナが戦えなくなった瞬間、戦闘力の殆どを失う事になる。
 折角違法酒まで使って剄脈を加速しているのだから、攻撃力の増強を図るべきだったのだ。
 そうする事で負担が一人に集まる事もなく、バックアップも十分に期待出来た。
 だが今はどうする事も出来ない。
 そして、とうとう恐れていた事態がやってきた。

「シェーナ!」

 力を失ったダルシェナの突撃では、汚染獣の甲殻を突き破る事が出来なかった。
 突撃槍は虚しく弾かれ、限界を超えたダルシェナの足は体重を支える事が出来なくなった。
 その場に崩れ落ちるダルシェナに向かって、突き飛ばされたが体勢を立て直した汚染獣が、キチキチと歯を鳴らしつつ捕食行動に入ろうとする。
 ワイヤーを伸ばして援護したが、餌を前にした汚染獣には全く無意味だった。
 だが、全ては一瞬のうちに変わってしまった。
 ダルシェナが無残に食い殺されるところを想像していたディンの耳元に、何処かで聞いたような声が届いた。

「忙しそうですね。お手伝いしましょうか?」
「!」

 その声は全く動揺しておらず、掃除が大変そうだから手伝おうかと言っているようにさえ聞こえる。
 そして、ディンがその声に反応しようとしたまさにその瞬間。
 いきなり汚染獣が正中線に沿って左右に分かれた。
 突進の勢いを殺さずに、ダルシェナの両脇を大量の体液をまき散らしつつ素通りする。
 そして、地面を削ってその速度が完全にゼロになった。
 これで生きているとはとうてい思えない。
 何が起こったのか理解出来ないのは、その場にいる全ての武芸者の共通見解だったようだ。
 ダルシェナでさえ、自分を殺しかけた汚染獣を呆然と見ている事しかできない。

「ただし、何でもかんでも真っ二つですよ」

 何がどうなったか全く分からないが、汚染獣は寒気を覚えるような切り口を晒して、その生命活動を永遠に停止した。
 第十小隊の担当戦域に残る汚染獣は、後三体。
 増援が到着して砲撃を始めた事により、ダルシェナの脱落はそれ程大きな戦力低下にはならなかった。
 それを認識しつつ、辺りを見回してみるが見知った顔以外は誰もいない。

「今、俺の側に誰かいたか?」

 動揺著しいのを何とか押さえつけ、部下に聞いてみた。
 だが、全ての頭が横に振られるだけだった。
 追求したいという気持ちはあるのだが、あまりこの問題に関わっていられるほど状況は安全ではない。
 気を取り直したディンはダルシェナを後退させて、砲撃を主体とした攻撃に切り替えた。
 
 
 
 シンの率いる第十四小隊は、割と優勢に戦線を維持していた。
 元々戦術を駆使した集団戦を得意とするシンにとって、今目の前にいる汚染獣はそれ程怖い敵ではない。
 理性と知性による戦術を使わずに、本能により行動するだけの汚染獣ならば、罠を張りそこに誘い込む事で十分に対抗出来る。
 強固な甲殻や大質量は厄介ではあるが、付け入る隙は十分にある。
 ヴァンゼやゴルネオに比べたらたいしたことはない相手だ。
 とは言え、楽勝という訳には流石に行かない。
 ヴァンゼやゴルネオは一人だが、汚染獣は数が多かった。
 全体の指揮を執っているヴァンゼの砲撃指示が的確だったために、対応出来ないほどの数が来る事がないのはせめてもの救いだ。
 だが、相手は無限ではなかった。
 残り二体。
 他の戦域を気にする余裕はなかったが、何処からも悲観的な空気はやって来ていない。
 ならば、深刻な事態にはなっていないと判断出来る。

「お前のところはどうだ?」

 かつての部下であり、今は第十七小隊長をやっている後輩に向かってそう呟くくらいの余裕はある。
 かなり有望な新人も入った事だし、苦戦する事はあっても崩れる事はあるまいと思うのだが、ニーナの性格を考えると突っ込みすぎるかも知れない。
 それはそれで少々心配ではある。
 双鉄鞭という防御に適した武装をしながらも、何故か前へ出て戦いたがる性格を直し、全体を見つつ指揮を執る事が出来れば相当優秀な指揮官になると思うのだが、今のところ可能性があると言ったところで止まってしまっている。
 非常に残念だ。
 戦いの最中にそんな事を考えられる事こそが、状況を如実に表しているのだろうが、最後の一体が倒されるまで気を抜く事は出来ないと、改めて気合いを入れ直す。
 強力な武芸者に対する戦術の大半をこの戦闘で使ってしまったから、この先の小隊戦には苦労する事になるだろうけれど、それでもツェルニが滅ぶよりは遙かにましな未来だ。
 そもそも、対抗戦は切磋琢磨の場なのだ。
 手の内を見せたとしてもそれは悪い事ではないはずだ。
 レイフォンが第十六小隊戦でやったように、誰かが欠点を指摘してくれるかも知れない。
 それはそれで儲け物だと思う事にして、シンは最後の最後まで気を抜くことをせずに、汚染獣戦の指揮を執り続ける。
 
 
 
 ニーナの指揮する第十七小隊を中心に構築された戦域は、想像を絶する事になっていた。
 苦戦していると言う事ではないのだ。
 どちらかというとかなり余裕を持って汚染獣を押している。
 その原動力はなんとナルキだ。
 レイフォンに傷を負わせた水鏡渡りと逆捻子の合わせ技を最大限使い、確実に一体ずつ始末を付けているのだ。
 それに引き替え、ニーナは一体倒すのにもかなり苦労してしまっている。
 シャーニッドに指揮された支援部隊の攻撃を十分に受けた上で、双鉄鞭を駆使して攻め続けているのだが、分厚い甲殻に阻まれて決定打をなかなか打ち込めないのだ。
 隣で戦っているナルキとはかなりの違いだ。

「でや!!」

 ため込んだ剄を一気に放出して、超高速移動の勢いをそのままに突きを放ち、左右に並ぶ複眼の中央に深々と刀を突き刺す。
 それぞれ逆の向きで刀に絡ませていた衝剄を、甲殻を突き破ったところで解き放ち内部を徹底的に破壊。
 甲殻を蹴った勢いで刀を抜き、左手の鋼糸を防御壁に絡めて十分な距離を後退。
 この一連の動作を繰り返す事で、確実に数を減らしているのだ。
 そして、ナルキを追いかけようとした汚染獣に対して、ウォリアスの曲刀が唸りを上げて細い足を切り飛ばして妨害する。
 ウォリアスと共に戦っている武芸者も、決定打を与える事よりも牽制や嫌がらせの攻撃に主体をおいているようで、ちまちまとした打撃を与え続けている。
 そして、彼らのそばにいる部隊からは、やはりちまちまとした攻撃が汚染獣の目付近に命中しているのだ。
 この小部隊のコンビネーションは見事としか言いようがない。
 連携の訓練をしている訳でもなく、何か話していたと言う事もない。
 お互いがお互いの特製や戦い方を知っているから、自然と連携を取る事が出来ているのだ。
 即席でチームを組んだとはとても思えないくらいに、それは見事としか言いようがない。
 連携という問題を抱えている十七小隊には、決してまねの出来ない現象を、やや呆然と眺めることしかできない。
 突出しがちなニーナに合わせてくれる武芸者がいない事と比べると、非常に大きな差だと言わざる終えない。
 この戦いにレイフォンがいれば話はまた違ったのだろうが、何故かヴァンゼのところに居るという連絡が入っただけだ。
 五十回の戦闘で得られた豊富な経験をヴァンゼに伝えているのだろうが、ニーナ個人にとっては大きな戦力の低下に他ならない。
 だが、愚痴を言っていても話は進まない。
 残る汚染獣は後二体。
 たった今、連撃に連撃を重ねたニーナと射撃部隊の手によって、ようやっと今夜五体目が倒せたのだ。
 これも、十分な射撃部隊が配備されていたからであって、ニーナ個人の実力ではない。
 ナルキと比べる事に抵抗を受けるほど、それはお粗末な戦果としか言えない。
 元々防御向きの武器と技を持っているからだと言うことも出来るが、小隊長としてのプライドはそんな物では守れない。
 安全設定を解除した双鉄鞭は、清々しいほどに剄を通しているというのに、ニーナがそれを使いこなせていないと思えてならないのだ。

「でや!」

 残った内の一体に向かって、ナルキの突きが炸裂した。
 これで後一体。
 だが、今まで通りならばすぐに飛び退っていたはずのナルキが、そのままずり落ちる。

「な、なに?」

 当然そうなるだろうと思っていたのに、違う現象が起こった事で、一瞬思考が止まる。
 呆然とした一瞬を狙ったかのように、残った一体がナルキに襲いかかる。
 力が入らないのか、足が地面をひっかく。
 左手を伸ばして防御壁に絡ませた鋼糸をたぐろうとする。
 だが、こちらも十分な力が得られず殆ど役に立っていない。
 これは間違いなく急性の剄脈疲労が起こって動けなくなったのだ。

「っく!」

 突然の事態に一瞬混乱したが、助けなければならない。
 瞬間的に注げるだけの剄を注ぎ、旋剄で突撃をかけようとしたまさにその瞬間。

「ええい!」

 何か苛立ったのか、はたまた怒ったのかしたらしいウォリアスが、ナルキと汚染獣の間に割って入った。
 曲刀を肩の辺りまで持ち上げ、切っ先は真っ直ぐに汚染獣に向けている。
 これは今までの牽制や嫌がらせの攻撃とは違う。
 根本に填められた紅玉錬金鋼が耀き、大きく曲がった碧石錬金鋼に剄が流れ込む。
 錬金鋼がまばゆい輝きに満たされた瞬間、それは起こった。
 外力系衝剄の化錬変化 炎破・鋭
 全長百五十ミリメルトルに及ぶ大きな針のような形状をした、想像を絶する高熱の固まりが曲刀の先端に出現。
 その高熱を維持したまま、旋剄を使い汚染獣に突撃。
 左右の複眼の間に突き立てる。

「っは!」

 ニーナでは散々打ち据えなければ破る事が出来なかった甲殻を、いともあっさりと打ち破り汚染獣の内部に進入。
 気合いと共にその高熱の固まりを解放。
 周りにある水分を一気に高温の蒸気へ強制的に変化。
 急増した体積が暴力的な圧力に変わり、甲殻に囲まれた汚染獣の内部で暴れる。
 隙間という隙間から体液を噴出させ絶命した汚染獣の甲殻を蹴り、曲刀から手を離し一気に距離を開けるウォリアス。
 本人が言うところでは、剄脈が小さく最弱の武芸者だと言っていたが、目の当たりにした技は汚染獣を一撃で葬り去ったのだ。
 これで最弱などと言う事はそれこそあり得ない。
 二人の実力を知っていたからこそ、ゴルネオは小隊に誘ったのかも知れない。
 潔くないという理由だけで、実力を正当に評価しなかったニーナとは決定的に違う。
 ニーナが自分の未熟さを認識している間に、接近した二人の会話が聞こえる。

「ウッチンよ」
「ああ?」
「今のは何だ?」
「必殺技かな?」
「必殺技ぁ?」

 ナルキもウォリアスの実力を知らなかったのか、驚いたと言った感じで見詰めている。
 ふらふらと歩くウォリアスが、ナルキの側に立ち止まった。
 そしていきなり倒れ込む。

「のを!」

 何故か狙い澄ましたかのように、ナルキの上に。
 あの歩き方から想像できることと言えば、ナルキと同じ急性の剄脈疲労がまず始めに思い浮かぶ。
 もしそうならば、さっきの必殺技は、ウォリアスにとって非常に大きな負担なのだと言う事が分かる。
 ニーナがそんな事を考えている間に、驚きから立ち直ったナルキがウォリアスに向かって苦情を並べ始めた。

「何処に乗っている! さっさと降りろ!」
「みゅぅ? 腹筋だと思う」
「乙女の腹筋に不用意に触るやつは万死に値する!」
「みゅぅ? そんなこといったってぼきゅはもううごけにゃいのじゃ」

 徐々に発音が怪しくなってきたのは、演技なのか本気なのか判断が出来ないところだ。
 取り敢えず戦域にはもう汚染獣がいないのだし、二人をそのままにして置く訳にも行かないので、医療班を呼んで回収した方が良いかもしれないと思い始めた時。

「ご苦労様」
「うお!」
「レイとん」

 どこからとも無く現れたレイフォンがウォリアスの剣帯を掴み持ち上げ、更にナルキを肩の上に担ぐ。
 二人をほぼ同時にどうやって移動させたのかは全く不明だが、一つおかしな事に気が付いていた。

「レイフォン。お前今まで何処で何をしていたんだ?」

 かなり声が鋭くなったのは自覚していたが、それを止める事は出来そうもない。
 何故か完全装備している汚染物質遮断スーツと、首の後ろにあるフックに引っかかったヘルメット。
 実戦用と言う事で殺傷設定のままだという青石錬金鋼が二本と、リーリンの鋼鉄錬金鋼が剣帯に刺さっている。
 そしてあちこちにこびり付いている土埃。
 総合すると都市外での戦闘をやって来たと考えるのが普通だ。
 いや。それ以外の事態が殆ど想像出来ない。
 レイフォンの実力がツェルニ最強なのは知っているが、だからといって隊長であるニーナに何の相談もなく、危険な任務に赴くことなど有ってはならない。
 どう控えめに表現しても、あまり気分の良いものでは無い。

「少々逃げていたんですよ。汚染獣が怖いですから」
「・・・・・。お前が怖がっているのは汚染獣そのものではないだろう」

 はぐらかそうとしている事が分かったので、それを断固阻止する。
 どう言おうとレイフォンはニーナの部下なのだ。
 ならばレイフォンを守る義務がニーナにはあり、レイフォンはニーナの指示に従う義務があるのだ。
 それを無視されて、例え無事に帰ってきたからと言っても、素直に喜ぶ事は出来ない。
 万が一にでも帰ってこなかったら。

「まあ、その辺は後回しですね。今は後片付けが先です」

 話し合う事など必要ないと言わんばかりに、二人を担いだレイフォンが向こうを向く。
 それはまるで、ニーナを認めていないと体現しているかのように思えた。

「レイフォン!」

 思わず叫んで双鉄鞭を構えてしまった。
 だが、その肩が押さえられた。
 勢い込んで振り返った先にいたのは、やや疲れたように見えるゴルネオだ。
 汚染獣の体液にまみれ、小さな傷を刻んだその姿はかなりの迫力があったが、恐らくニーナも外から見ればこんな物だろうと納得する。

「止めておけ」
「し、しかし!」

 いくらゴルネオの言葉とは言え、それを素直に聞く訳には行かないのだ。
 ニーナの立場や誇りと言った事が問題ではない。
 この先レイフォンはニーナに何の断りもなく、何度でも汚染獣と一人で戦ってしまうかも知れないのだ。
 それは小隊という仲間に対する裏切りと何ら変わらない。

「あれは別だ。俺達と一緒に戦う事はあいつの生存率を下げる」
「そう言う事を言っているのでは有りません!」

 ゴルネオの言う事は分かっている。
 ツェルニの武芸者ではレイフォンの足手まといにしかならない。
 それは嫌と言うほど分かっている。
 だが、いや。だからこそもっとニーナ達を信じて欲しいのだ。
 信じて待つ事が出来るかも知れないし、何か出来る事があるかも知れないではないか。

「今の俺達では何も出来ないさ。あいつは特別というか規格外。いや。正真正銘の化け物だ」

 グレンダン出身だけ有り、ゴルネオはレイフォンの事を良く知っているようだ。
 それでも、とうてい納得は出来ない。
 だが、負傷者の収容や汚染獣の残骸の撤去など、やるべき事はいくつもあるのも事実だ。
 レイフォンが言うように、今はそちらを優先させるべきなのも事実なのだろう。
 それは分かっているのだが、それでも憤りが無くなった訳ではない。
 殆どのツェルニ武芸者にとって、初の汚染獣戦は終了したと言えるが、ニーナにとってはとても楽観的な気分になれなかったし、使命を全う出来た満足感も得られなかった。
 悔やむべき事が多く残ってしまったのだ。



[14064] 第三話 十一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:16


 交通都市ヨルテムの誇る交差騎士団、その中隊以上の隊長が集うオフィスに不気味な笑い声をとどろかせつつも、ダンは非常に上機嫌だった。
 メイシェンとレイフォンがツェルニに旅立って既に一月半。
 既に妊娠一ヶ月であっても何ら不思議ではない。
 いや。むしろ妊娠一ヶ月であるべきだ。
 いやいや。もうそろそろ生まれていても何ら問題はない。
 二人の間に生まれた子供ならば、さぞかし可愛らしく強いだろうと思うだけでもダンの表情はゆるんでしまおうという物だ。
 だがしかし、その事と今ダンが上機嫌なのには、直接的な関係はなかった。

「ぐふふふふふふふふ」

 覇気に溢れた若者の視線が、ダンを射殺さんと向けられているのを感じているから。
 この覇気が有ればこそダンは今の責任を後継者に譲る事が出来る。
 若い連中が後を継いでくれると思うからこそ、年寄りは何とか頑張る事が出来るのだ。
 六十を既に超えているにもかかわらず、交差騎士団長をやっているのは後継者がいないからに他ならない。
 色々と理由は思いつけるのだが、誰も後を継ぎたがらないのだ。
 その筆頭として考えられるのは、なんと言っても団長は名誉な職ではあるのだが、残念な事に非常な激務であると言う事だ。
 愛妻家なので、出来うる限りにおいて残業はしていないが、仕事が家にやってくる事も珍しくない。
 この辺の忙しさが後継者が定まらない理由だと思うのだが、それももうすぐ解決するのだ。

「ぐふふふ。ぐふふふふふふふ」
「どうしたのですか団長?」

 あまりにも恐ろしい笑いを漏らしていたせいだろうが、副団長が恐る恐ると声をかけてきた。
 身長はやや低いが、褐色の肌と前後左右に十分な幅を持った四十少し過ぎの男性だ。
 もちろん副団長になるほどの人物だから、武芸者としても優秀であるし、指揮官としても組織の運営者としても至上の優秀さを持っている。
 残念な事にダンの後継者になる事だけは絶対に嫌だと断っているが。
 何故断っているのかは全く理解出来ないが、事実は事実として受け止めなければならない。

「パスを見ていたのだよ」
「ああ。ワトリングですか」

 終業間近の執務室にあって、ダンに向かって猛烈な視線を向ける若い武芸者を愛おしむように眺める。
 視線だけで人が殺せるのならば、今日だけで百回以上ダンは死んでいるだろうが、その視線こそが頼もしい。
 当然、暴力にのみ訴えかけるような馬鹿な人物だったらとっくの昔に騎士団はパスを放り出している。
 ここにいる以上、それなり以上には組織人としても優秀なのだ。
 そして、ここ十年でパスほどの覇気を持った団員はいなかった。
 ダンの後を継ぐべきはもはやパス以外にはいない。

「十年前は、私もあんな感じだったと思いますが」
「む? そうだったか?」

 言われて見て思い返してみれば、確かに十年前には副団長を後継者にしようと思っていた時期もあったと思う。
 だが、いつの間にか覇気が失われてしまい、未だに団長の席を譲れていないのだ。
 この変化こそが団長職を断り続ける原因かも知れないと考えられる。

「うむ。お主のように堕落してしまっては意味がないな」
「堕落と言わないで下さい」

 いきなり副団長の瞳が輝き、殺意ともとれる覇気がみなぎった。
 堕落したと思っていたが、どうしてどうして、まだまだ見込みがない訳ではない。

「ほう? その息で儂を殺してみるか?」
「・・・・・・。貴男の濃すぎるキャラのせいで、多くの団員が団長職を諦めたという事実に、いい加減に気が付いて下さい」
「!!」

 思いもよらない発言に、一瞬息が止まってしまった。
 別段キャラが濃いか薄いかは団長の職務とは関係がないはずだ。
 だと言うのに、そんな些細な事で責任を取る事を諦めるとは驚いた。

「むん? 儂のキャラが濃いのは儂の個性であって団長職とは関係有るまい」
「普通の神経では勤まらないと、大勢が判断しているんですよ」
「むん? 騎士団長が普通の神経で務まる訳有るまいて。両肩にヨルテムに住む十万人の運命が乗っておるのじゃからな」
「それ以前に、変人でなければ勤まらないと思われているんです!」
「な、なに?」

 愛妻家である事は疑う余地のない事ではあるのだが、変人だと思われている事は今の今まで知らなかった。
 これは驚愕の真実であるかも知れない。
 だが、念のために確認してみる。

「成る程、儂は変人だったのか」
「納得しないで下さい」

 何故か半泣きで訴えてくるのを不思議に眺める。
 変人だと認めたからと言って、ダンが何か変わる訳ではないのだ。
 ならばこそ、認めてより良きダン・ウィルキンソンになった方が良いではないかと考えるのだが、どうやら他の人達の意見はだいぶ違うようだ。
 もしかしたら、パスも十年しないうちにこのような腑抜けになってしまうかも知れないと言う危機感が頭をもたげてきた。
 それはつまり、引退出来ないという事実に直結してしまう。
 折角色々と考えている老後の計画が、全て水の泡と消えてしまうかも知れない。
 いや。それ以上に問題なのは家に帰る時間が遅くなるかも知れないと言う事だ。
 ならば一計を案じなければならない。

「成る程な。では今宵はパスを家に招待して家族共々食事をしよう」
「何故そうなるんですか?」
「決まっておる」

 終業時間を告げる鐘が鳴るのを聞きながら、ゆっくりと立ち上がったダンはきっぱりと言い切った。
 全ての計画は瞬時に終わっている。
 後は実行に移すだけだ。

「儂のような変人にパスを仕立て上げるため」
「お願いですから止めて下さいぃぃぃぃ!」

 絶叫と共に腰にしがみつく副団長を引きずり、パスの側まで行く。
 何が起こったのか理解していないようで呆然とこちらを見上げる、若い武芸者の首根っこを引っ掴み持ち上げる。
 空いた手で副団長も掴んで逃げられないようにする。
 一蓮托生というか、二人も後継者を作っておけば安心だと言う事だ。

「な、なにを!」
「今宵は我が家に来るが良い。そして儂の家族共々食事をしよう」

 抵抗するのを無視して二人を引きずるように帰宅の途につく。
 きっとこの二人の内どちらかがダンの後継者となってくれると確信しつつ。
 前回の汚染獣戦直後は、レイフォンをダンの後継者にと考えていたのだが、それはある事情から諦めざる終えなかった。
 レイフォンでは組織を運営する事が出来ないのだ。
 交差騎士団という武芸者だけではなく、一般人をも含む巨大な組織を運営すると言う事は、実は政治的な配慮や考察がどうしても必要なのだ。
 だが、この重要な要素に関しては、レイフォンは確実に落第点しかとれない。
 そしてもう一つ。
 レイフォンに見た事もない十万もの人々を守るという考えがない事が上げられる。
 これは優劣の問題ではなく特製や性質の問題だ。
 例えば、メイシェンを守るためならばレイフォンは全力を尽くす事が出来る。
 だが、ヨルテムを守るためにそれが出来るかと聞かれたのならば、メイシェンが無事ならばその必要はないと答えると思われる。
 一武芸者としては悪くない答えだが、騎士団長となるためにはこれ以上ないほどの駄目な回答である。
 十年以上かければもしかしたら修正する事が出来るかも知れないが、ダンにそれだけの時間はないのだ。
 そうでなくても家族と過ごす時間が減ってきている昨今。
 レイフォン絡みの問題は若い連中に回しても良いだろうとも思う。
 何しろレイフォン自身が、このヨルテムにいないのだ。ツェルニで何か大きな変化が起こると言う事も考えられる。
 少年期の六年間はそれほど大きな変化をもたらすのだ。
 ならば帰ってきたレイフォンをどうするかは、若い連中の仕事と言う事になる。
 と言う事で、二人の若者を引きずって家路を急ぐ。
 
 
 
 朝靄の中の稽古は終わった。
 近くに住む者達はこれから朝食を摂り仕事に向かう事だろう。
 今日も一日が始まるという気分はしかし、すでにデルクの中には存在していない。
 そう。銀髪で長身の天剣授受者が朝食の席に付いているから。

「なあサヴァリス?」
「なんだいリチャード?」

 相変わらず息子は天剣授受者に向かってタメ口を聞いているが、それが別段不思議ではなくなりつつある今日この頃が、少々怖い。
 いや。レイフォン相手には常にタメ口だったが、それは全く別の問題なのだ。

「何時も家で食って行くけどさ」
「うん? 食費は払っているよ?」
「ああ。それは良いんだけれどよ」

 テーブルの上に乗った料理の数々は、豊富な種類と相当な量を誇っている。
 三人分の食事としてはかなり多いのだが、武芸者二人と育ち盛りの少年という構成を考えるのならば、それ程驚く事はないと思う。
 だが、デルクの胃はしくしくと痛み続けているのだ。

「自分の家で食わないのか?」
「うん? あそこは作法が五月蠅くてね」
「ああ。そう言えば良いとこのお坊ちゃんだったか」
「僕をお坊ちゃんと呼んだのはリチャードが初めてだよ」

 確かにサヴァリスの食べ方は、ガツガツと言った感じで上品さとは縁がない。
 一気食いを迫られるグレンダンの武芸者としてはそれで良いのだが、名門ルッケンスの跡取りとしては少々問題ではある。
 それを理解しているデルクだが、和やかに進む会話を聞きつつ、ゆっくりと温めた牛乳をすする。
 段々牛乳の消費量が増えてきているのだが、もしかしたらリチャードはその理由が分からないのかも知れない。
 だから思うのだ。
 レイフォンがいてくれたのならばきっと、サヴァリスとももう少し違った関係を築く事が出来たのではないかと。

「そう言えば親父」
「・・・・? な、なんだ?」

 突如声をかけられたせいで、一瞬以上反応が遅れてしまった。
 これもきっと胃が痛いせいだと思う事にして、リチャードの差し出した紙片を見る。

「兄貴から手紙が来ていた。俺宛だけれど読んでみろよ」
「ああ」

 グレンダンを出てからこちら、殆ど連絡のないレイフォンからの手紙だ。
 これはきっと、何か異常事態だろうと判断して、心を引き締めて開いてみる。
 一読して理解した。
 予想以上の異常事態だった。
 その手紙には極々短い文章が書かれていたが、それは必死であり真剣でありそして何よりも懇願の心に満ちあふれる物だった。

「・・・・・。リーリンが怖いんだ。助けてリチャード」
「ああ。どうやら姉貴が天剣授受者を殺しかけているらしい」
「元だけれどね」

 なにやら非常に楽しそうにサヴァリスが手紙を覗き込む。
 っと、ここで気が付いた。
 レイフォンの話題をサヴァリスの目の前でやってしまっていると言う事に。
 これはかなり拙い事になるかも知れないと思ったのだが。

「いやしかしレイフォンも困った物だね」
「何がだ?」
「天剣授受者の恐怖をグレンダン中に知らしめておきながら、女の子一人に殺されかけるなんて」
「ああ。兄貴が姉貴にボコられるところを見た奴がいたら、天剣授受者とか言う化け物も所詮人だったと言う事になったかもな」

 相変わらず和気藹々とした会話が聞こえる。
 だがやはりデルクは胃が痛い。
 レイフォンはツェルニで、ヨルテムの現地妻と仲睦まじいようだ。
 そのせいでリーリンが恐ろしいのだろう事は理解出来る。
 だが、もし出来るのならば、やはりレイフォンにはここにいて欲しかった。
 若者と老人ではやはり感じる世界が違うのだと言う事を認識してしまったから。
 レイフォンならばきっと、デルクに理解出来るように通訳してくれたはずだと思うから。
 これほどレイフォンの存在を大きく感じた事は、今まで一度たりともなかった。
 これも全て息子を導く事が出来なかったデルクに下された罰なのだと、諦める事しかできない。
 と言う事で、もう一口温めた牛乳をすすり、朝食を終えることにした。
 
 
 
 雌性体を殲滅したついでに、何ヶ所か危なかったツェルニ武芸者を助けたレイフォンは、あるシェルターの側まで来ていた。
 当然だが、ここにはメイシェンやリーリンがいる。
 レイフォンが無事だと言う事を知らせるために来たのだが、事態はあまりにも驚くべき方向へと進んでしまっていた。
 まだ朝日が昇ったばかりだが、汚染獣戦の後始末は最低限しか終わっていない現在、安心して眠っていられる人間などいないのだ。
 と言う事で、当然メイシェン達三人も起きていた。
 それは良いのだが。

「メイ?」
「あう」

 リーリンとミィフィの持つ担架に乗せられたメイシェンは、冷却用ジェルシートを目の上に乗せていた。
 何が有ったかは非常に不明だが、とても恐ろしいことがあったらしいことは理解している。
 少し離れたところをフラフラと歩くカリアンの様子が、全てを物語っているようないないような。
 取り敢えず本人に聞いてみる事にしたのだが。

「それは聞いては駄目です」

 と、やんわりと断られてしまった。
 担架を持つ二人も頷いてメイシェンを支援している。
 これ以上は前に進む事は出来ない。
 ならば取り敢えず保留にしておいて問題はない。
 そう。メイシェン達は問題無い。

「さあレイフォン君。このフリーシーを全部食べてくれ給え」
「ああん会長。私はフリーシーではありません」

 とても虚ろな視線と共に、カリアンがそんな事を言っているのは、放置しておくと拙いかも知れない。
 生徒会役員と思われる女性を差し出して、それを食べろと言う辺りにも非常な問題が有るし。
 そして何が最も問題かと問われるのならば、それはもう汚染獣戦の後始末に他ならない。
 厳密に言えばレイフォンの後始末だが。
 雌性体を殲滅するために出撃したのは良いのだが、実はニーナの事をすっかり忘れていたのだ。
 流石にレイフォンだってあれは拙かったと思っているのだ。
 直属の指揮官に無断で出撃して戦闘を終えてきた。
 天剣時代で言えば、アルシェイラに断りもなく老性体を駆逐して帰ってきたような物だ。
 即座にレイフォン自身が殲滅されても文句は言えない。
 ニーナの怒りも十分に理解出来るのだが、怖い人はあまり得意ではない。
 ならばカリアンに、怒りに怒りを積み重ねているニーナを何とかしてもらわないと、レイフォンの安全な生活が保障出来なくなってしまう。
 だと言うのに、頼みの綱がこの有様では、かなり拙いのだ。
 何とか現世に復帰してもらわなければならない。

「レイフォン」
「はい?」

 そんな困った状況を打開するかのように、声がかけられた。
 念威で一晩中支援してくれていたフェリだ。
 やや眠そうではあっても、十分な気力を持ち、その銀髪が朝日を浴びて耀いている姿は、正直美しいと思う。
 無表情の中にも何か楽しそうな雰囲気を持っている事も含めて、非常に魅力的だ。
 だが、そんなフェリからの提案はあまりにも常軌を逸してしまっていた。

「刀を貸して下さい」
「・・・。駄目です」

 現在レイフォンが持っている刀は、全て実戦用の切れてしまう物ばかりだ。
 念威繰者とは言え、一般的な運動の得意な人間並みの筋力を発揮出来るフェリに、切れる刀を渡してしまったのではカリアンの命が危ない。
 現役生徒会長が戦死したごたごたに紛れて、ニーナ絡みの問題を有耶無耶にとか思ったが、それはあまりにも問題が有りすぎる展開である事はレイフォンにだって十分に分かる。
 だが、当然と言えば当然だが、フェリはその辺の事を十分に考慮していたようだ。

「峰打ちにしますから」
「・・・・・。本当ですか?」
「ええ。切れてしまいそうだったら止めてくれてかまいません」

 そうまで言われたのでは貸さない訳には行かない。
 と言う事で青石錬金鋼の刀を復元して、慎重にフェリに渡した。
 鋼鉄錬金鋼も考えたのだが、何故かこちらは渡してはいけないような気がしたので青石にしたのだ。
 渡された刀の向きを確認したフェリが、大上段に振りかぶる。
 朝日に耀く銀髪と蒼銀に耀く刀の、見る物を圧倒する美しさは驚くしかない。
 正直言って、近付きがたいくらいに美しい。
 と言うよりも、出来るだけお近付きになりたくない迫力があるような気がする。
 そしてフェリが右斜め上に構えたところを見ると、思い切って振り下ろすつもりのようだ。
 これはこれで危険極まりない。
 レイフォンが使う刀は好みの問題で、非常に重い設定になっているのだ。
 それはつまり、単純な鈍器としてもかなりの破壊力を持つと言う事に他ならず。

「死して名を残して下さい」

 ニヤリと笑みを浮かべつつ振り下ろされる刀。
 と言うか、はっきりと殺すつもりで振り下ろすようだ。
 そして、鈍い打撃音と共に地面に倒れ伏すカリアン。
 悲鳴一つ起こらなかった。
 痙攣一つ起こっていない。
 即死かも知れない。
 それを確認すべく、恐る恐ると近付く。

「ふ、ふふふふふふ」
「うわぁぁ!」

 呼吸を確認すべく顔を近づけていたところ、いきなり不気味な笑い声と共に復活するカリアン。
 とっさに後ろに下がって、思わず鋼鉄錬金鋼に手を掻けてしまった。
 あれだけの打撃を受けているにもかかわらず、動作に支障を来した様子もなく起き上がる。
 もしかしたら、武芸者並に身体が丈夫なのかも知れない。
 だったら、武芸大会でも自分で戦えとも思うのだが、もしかしたらフェリが無意識で手加減をしていたのかも知れないし、安易な答えを出すことは危険だ。

「危なかったですね。精神攻撃の後の物理攻撃。さしもの私ももう少しでご先祖様のところに逝くところでした」
「そうですか。では止めを」

 フェリが今度は切れる方向である事を確認して、カリアンに一歩迫る。
 その構えは一分の隙もなく、念威繰者とはとても思えない堂々とした構えだ。
 冗談だと思いたいのだが、どうも二人の間にあるのは本気の殺意。

「フェリ。私を殺して自由を得るかね?」
「ええ。私は貴男を殺して自由になります」

 問答はこれまでと言わんばかりに、フェリが更に一歩前へと出て間合いにカリアンを捕らえる。
 それに受けて立つカリアンは、しかし微動だにせずに、それどころか一歩前に出て迎え撃つつもりのようだ。
 これほどの統治者がそうそういるとは思えず、レイフォンは一瞬尊敬しそうになってしまった。
 だがしかし、そのカリアンはレイフォンを武芸科に転科させたのだ。
 今、転科自体はそれほど悪いことではないと思っているが、好意的に思えるほどレイフォンは人間が出来ていないのも事実。
 などと考えている間に、フェリの手に力が入る。
 これは少々困った事になった。
 カリアンが死んでしまえばレイフォンが解放されると言う事にはならない。
 取り敢えず武芸大会が終わり、ツェルニの危機が去るまでは今のままで居た方が良いと判断している。
 ならば、カリアンも居た方がましな状況であるとも考えているのだ。
 と言う事で。

「ふん!」

 一気にフェリが振り下ろした刀の切っ先をつまんで、蒼銀に耀く刀を奪い取る。
 空振りして体勢を崩すフェリと、衝撃に耐える準備をしていたカリアンが、やはり少し体制を崩す。
 その崩れた体制のまま、何故か批難の視線がレイフォンに突き刺さった。
 なぜか二つ。

「何をするのですか?」
「なんと言う事をしてくれたのだね?」

 フェリからの抗議や批難は十分に理解出来る。
 だが、カリアンからのは非常に理不尽だ。
 どう控えめに考えても、命を救われた以上感謝されることはあっても、恨まれたり批難されたりすることは考えられない。

「駄目ですよフェリ先輩。兄殺しはいけません」
「問題ありません。全ては汚染獣の仕業に」

 どうあってもカリアンを殺したかったようだが、それを諦めてもらわなければならない。
 ならばもう一度、昨夜と同じ手を使うしかない。

「復讐を果たす前に殺してはいけませんよ」
「!! そうでしたね。私とした事が一時の感情に流されるとは」

 どうやらフェリの方は何とか納得してくれたようだ。
 カリアンはまあ、放っておいて問題はないだろうと判断する。
 なにやら心底嫌そうな顔をしている事だし。

「私の大儀を思い出させてくれた事に対して、報酬を授けたいと思います」
「そんな大げさな物じゃないですよ」
「そうですね。これからは貴男の事をフォンフォンと呼んで差し上げましょう。嬉しいですよね」
「・・・・・・・・」

 全くレイフォンの事を考えていないように思えるのは気のせいだろうか?
 だが、レイフォンは理解してしまっていた。
 ロス家の人間は言い出したら聞かないと言う事を。
 抗議したところで聞き届けられないのは分かっているし、そもそもそんなに問題のある愛称という訳ではないのでそのままにする事にした。
 問題なのは、なにやら後ろにいる三人から微妙な空気が漂い出てきている事の方だ。

「あ、あのぉ」

 恐る恐る振り返り確認する。
 担架を持っているリーリンとミィフィに、冷却剤で目を冷やしているメイシェン。
 さっきと全く同じ光景だ。
 だが、リーリンの表情が非常にこわばっているのが分かるし、ミィフィはニヤニヤしている。
 メイシェンは良く分からないけれど、何時もと何かが違う。
 どう違うかは全く分からないが、何かが決定的に違う。

「ふふふふふふ。レイフォン君」
「ひぃぃぃ」

 少女三人を見ていたレイフォンだったが、突如としてカリアンに肩を掴まれた。
 その手は猛烈に冷たく、瞳は更に冷たく、そして宿された魂は形容する事さえ出来ないほど冷たかった。
 何か訴えかけているようにも思えるのだが、正直に言って怖すぎてそれどころではない。

「ふふふふふふふぅ」

 だが、突如として倒れ伏すカリアン。
 フェリの一撃を受けて立ち上がった物の、流石に限界が来て気を失ったようだ。
 当然の現象ではある。
 そそくさとやってきた生徒会役員の手によって、運び去られるカリアンが再び目を覚ました時に、レイフォンの新たなる地獄が始まるのかも知れない。
 出来れば遠い未来の出来事であって欲しい物だ。
 だが、別な問題が既にレイフォンの目の前で持ち上がってしまっているのだ。

「それはそれとしてフェリ先輩」
「何でしょうか?」
「大儀って何ですか?」
「その事ですか。良かったら一緒にやりませんか」

 ミィフィが突っ込んでは行けない場所に突っ込みを入れてしまっている。
 これではカリアンの私生活は本当になくなってしまうかも知れない。
 話を振ったのはレイフォンだけど。

「じゃあ、ご飯を食べながら詳しく聞きましょう」
「そうですね。でもトリンデンがその状況では、料理が出来る人はいないでしょう?」
「リンちゃんが出来ますよ」

 何故か担架に乗せられたメイシェン共々、リーリンの寮へと移動を始める少女四人。
 そしてフェリに掴まり道連れにされるレイフォン。
 リーリンの寮にはニーナもいる。
 これはかなり拙い展開かも知れないと思ったが、既にレイフォンがどうこうできる状況ではなくなっている。
 やはり、誕生日を迎える前に命日がやってくる事は覚悟しなければならないようだ。
 汚染獣戦が終わり、危機の去った一時を照らす朝日の中、レイフォンだけが地獄を見ようとしていた。



[14064] 第三話 蛇足
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:17


 現在ナルキは絶賛入院中だ。
 幼生体という最弱の汚染獣と戦ったのだが、初めての実戦でテンションが上がりすぎたのか、急性の剄脈疲労を起こしてしまったのだ。
 ツェルニの武芸者が全体的にナルキと同じような状況のため、当然個室など有るはずもなく、教室ほどもある部屋にベッドを置いているだけの大部屋に寝かされているのだ。
 当然の事だが、大部屋に並べられたベッドには怪我人がかなりの数寝かされている。
 重傷者がいるという訳ではないが、軽傷者がかなり出たし、剄脈疲労を起こした人間は結構な数に上っている。
 そんな状況なので、ベッドの数が足らずに何人もの武芸者が、床に敷かれたマットレスの上で休息している。
 汚染獣との戦いは、イージェとレイフォン以外の全員が初めてだったのだ。
 無傷の勝利などと言う物を期待する事の方が酷という物だ。
 そして、隣のベッドでは見事に金髪を立てロールにした女性も急性の剄脈疲労で寝ている。
 第十小隊のダルシェナ・シェ・マテルナという四年生だと言う事は知っている。
 ナルキにとって小隊員は憧れの存在ではある。
 警察という仕事の都合上、自分がなる事はあまり考えないが、それでもあこがれているのだ。
 そしてもう一人。
 幼生体を一瞬で殲滅する破壊力の大技を使ってしまい、一撃で剄脈疲労を起こしたウォリアスが床に引かれたマットでゴロゴロしている。
 寝ていると言うよりもゴロゴロしているという表現が適切に思えるのは、なぜだろうと非常に疑問が浮かんだが、ウォリアスだからとあまり突っ込まない事にした。
 それよりも問題は。

「元気にしているか猿?」
「猿って言うな!」

 第一小隊の戦闘区域で激戦を勝ち抜いたはずなのに、何時も通りに斜に構えたままやって来たのはイージェだ。
 幼生体を十五体以上倒したその実力は、ナルキの知る武芸者の中でもかなりの物だと判断出来るのだが、なぜかイージェ自身に威厳や凄みと言った物が感じられない。
 初めてあった時には感じていたはずなのだが、今は全く感じていない。
 それを言うならば、普段のレイフォンも全く威厳や凄みと言った物がないので、サイハーデンの武芸者に現れやすい特色なのかも知れない。
 ナルキにとって人ごとではない。

「退屈だろうからこれ持ってきてやったぞ」

 そう言って放り投げられたのは、携帯用の映像再生装置。
 これでエッチな内容だったら実力差も剄脈疲労も全てを無視して斬りつけたところだが、幸か不幸かあちこちの都市で録られたらしい風景画だった。
 とは言え、基本構造がみんな同じな自律型移動都市なので、どれを見てもあまり変わりがないようにしか見えない。
 だが、暇なのも確かなので適当に流し見していたのだが。

「ああナルキ。少し戻って」
「ん? ・・。これか?」

 何気なく一緒に眺めていたウォリアスの声で、比較的新しい静止画のところで再生を一時停止する。
 ついでに見やすいように画面をウォリアスに向ける。

「・・・・。グレンダンだ」
「グレンダン?」

 ウォリアスのその呟きで、細心の注意力を動員して映像を食い入るように見る。
 だが、ヨルテムと何処が違うのかと聞かれたのならば、さっぱり分からないと答える事しかできない。
 都市旗の立っているところが映っているとか言うのならば話は違ってくるのだろうが、今映っているのは都市の居住区、そのかなり外れの方。
 なぜそれが分かるかと言えば、防風林と外縁部が僅かに見えるからだ。
 外縁部は全て同じだろうからと、居住区の方に何か特色のある建物でもあるかと思って見たのだが、別段そんな物は見あたらない。
 一般住宅以外には、道場らしい建物と病院らしい物が見えるだけだ。

「外縁部の更地が他の都市よりも広いんだ。汚染獣を最後に迎撃するためにね」
「へえ。良く知ってるな」
「一応レノスがやり合ったところだからね」

 実際にウォリアス自身が見たかどうかは兎も角として、指摘されると確かにヨルテムやツェルニに比べて更地が広いような気がする。
 ウォリアスが言う通りに、ここが最終防衛ラインなのだろう。
 だが、レイフォンのような想像を絶する実力者が十二人もいるグレンダンが、ここで汚染獣を迎え撃たなければならない事態というのを想像してみると、相当恐ろしいだろうことだけが予測出来た。
 具体的な事態を想像すると言う事は、当然ナルキには出来ない相談だ。

「グレンダンは恐ろしいところだったぞ」
「まあ、あそこは異常ですからね」
「ああ。三ヶ月しかいなかったのに六回も汚染獣と戦ってた」

 レイフォンから話には聞いていた。
 多い時は毎週のように汚染獣と戦う都市。
 基準型都市が半壊する事を覚悟をすれば勝てるかも知れない、老性体と呼ばれる異形の汚染獣に襲われて尚、殆ど都市が傷つかないグレンダン。
 疑っていた訳ではなかったのだが、それでもイージェという部外者から聞かされると、やはりかなりの衝撃を受けてしまう。

「ちょっと待て」

 だが、その衝撃も予め知っているナルキと全く知らないダルシェナではやはり大きさが違うのだろう。
 驚愕にその瞳を大きく見開き、衝撃でかすれた声を出す。

「なんだその異常な数字は?」
「グレンダンという異常な都市にとっては普通でも、僕らにとっては異常に見えるんでしょうね」
「ああ。前にレイとんが一年に一度しか襲われないって驚いていたしな」

 実際のところは、ヨルテムが汚染獣と戦ったのは約三年ぶりだった。
 それを聞いた時のレイフォンの表情は今でも覚えている。
 これでヨルテムだけが戦闘経験が少ないというのだったら話はまた違うのだが、他の都市も五年に一度戦えば多い方だということは知っている。
 グレンダンだけが異常なのだ。

「俺の八年の傭兵生活で、汚染獣と戦ったのが四回だが、その内三回がグレンダンだからなぁ」

 一連の会話で分かった事と言えば、グレンダンでイージェも戦ったと言う事。
 計算が合わないところもあるが、それにはきっとグレンダンなりの事情があるのだろうと、深く突っ込まなかった。
 そして、武芸者の質の違いについて嫌と言うほど明確に見せつけられたのだろう。

「そ、そんなばかな」

 実際にグレンダンを見た事がない上に、レイフォンの実力を目の当たりにもしていないダルシェナにとっては、全く信じられない事なのかも知れない。
 だがふと思う。
 ナルキ自身も本当の意味で汚染獣と戦うレイフォンを知っている訳ではないのだと。
 ヨルテムの時は残骸を映像で見る事が出来ただけだった。
 そしてツェルニでの戦闘は、戦ったはずだと言う事は分かるがどうやって何体倒したか全く知らないのだ。
 幼生体は数が多く手を焼くから鋼糸を使う事が多いと、以前レイフォンから聞いていたから、恐らく今回もそうだったのだろうと予測しているだけだ。

「馬鹿なっていってもなぁ。実際に見ちまったんだよ。雄性体がゴロゴロやってきて一日で全滅するのをさ」
「ごろごろって?」

 ゴロゴロと言われたので、取り敢えずウォリアスを見てしまった。
 心外だと訴えているような細い眼と出会ったが、これはあまりにも比較対象が悪い事にはすぐに気が付いた。

「ゴロゴロだ。二十体くらいいたと思う」
「・・・・。それがたった一日で?」
「ああ。それも圧勝」

 ヨルテムだったら、勝てただろうが相当の被害が出ただろうし、一日と言う事もないはずだ。
 もし、万が一グレンダンと戦争になったのならば、交差騎士団を中核としたヨルテムと、詳しい戦力を知らないが、レノスとあまり結果が変わらないのかも知れない。
 嫌な汗が背中を流れるのを感じつつ、どうにかナルキは理性を取り戻した。

「グレンダンが物騒なのは傭兵だったら知っていたでしょう?」

 極平然と質問したウォリアスの声が、ナルキに理性を取り戻させたのだ。
 そうでなければ、きっと恐ろしさのあまりレイフォンを見る目が変わってしまっていたかも知れない。
 だが、イージェからもたらされた物はそんな事とは全く関係がなかった。
 いや。ある意味常識という頸木を飛び越えた答えだった。

「ああ? 巡礼だ」
「はい? 巡礼?」
「ああ。全員じゃ無いんだが、サイハーデンを納めて実力に自信のある奴は、グレンダンに行って継承者と戦うんだ」

 サイハーデンの継承者と言えば、それはつまりデルクだ。
 そしてデルクは、レイフォンの師父である。
 実際に会った事はないが、ナルキの想像の中では、もの凄くごつくなって歳を取ったレイフォンという映像で固定されている。
 何故か非常に疑問だが、レイフォンとデルクは瓜二つなのだ。
 ナルキの中では。

「へえ。サイハーデンにそんな風習があったんですか」
「ああ。実際に巡礼に来たのはずいぶん久しぶりだそうだけれどな」

 原因は不明だが、ナルキの想像の中で歳を取ったレイフォン(と言うかデルク)と腕白なイージェが、縁側でお茶を飲みつつ世間話をしているところが出来上がってしまった。
 全く意味不明だ。
 どうもナルキの想像の中で、サイハーデン=レイフォンという図式が固定してしまっているようだ。
 ある意味固定観念と化している。

「デルクさんと戦ったんですか?」
「ああ。あれは凄かったぞ」
「どんな風にです?」
「剄量はまず互角だった。実戦経験じゃ勝てないのは分かっていたんだが」
「力業で押し切ろうとした?」
「いんや。サイハーデンを納めた奴に力業は危険だ」

 それはナルキも知っている。
 サイハーデンは弱者が作り上げた武門だ。
 そこには営々と受け継がれてきた生き残るためのノウハウが詰め込まれている。
 熟達のデルクに力業などで挑んだところで、あっさりと返り討ちに遭うのが関の山だ。

「持久戦になったんだが、これでも結局倒せなかった」
「負けたんですか?」
「いや。お情けで引き分けにしてもらった」

 デルクはかなり高齢のはずだ。
 そんな高齢の武芸者がイージェのような体力絶倫と戦って、持久戦でさえ勝利を収めてしまう。
 流石にこんな恐ろしい連中ばかりがグレンダンにいる訳ではないだろうが、それでも層の厚さを実感するのには十分だ。
 そんな事をナルキが考えている間に、更にイージェとウォリアスの会話は進んで行ってしまう。

「あれ? イージェがいた時期だとリーリンもまだグレンダンにいましたよね?」
「ああ。あの糞親父。囲いやがった」
「・・・・・・・。成る程。悪い虫が付かないようにしたんですね」
「・・・。なあウッチンよ」
「何でしょう?」
「俺は悪い虫か?」
「害虫と言いましょうか?」
「・・・・・・・・・」

 答えは沈黙だった。
 デルクにしてみれば、イージェのような風来坊にリーリンを近づける事が非常に危険だと思えたのだろう。
 だが、ウォリアスはなんだか他の意図があるようで、少しだけ違ったニヤニヤ笑いを浮かべている。
 複雑怪奇で奇想天外なウォリアスの頭の中を想像すると、剄脈疲労が酷くなるような気がしたので深く考えるのはやめにした。

「じゃあ、ここに来たのはレイとん絡みですか?」

 一色触発という訳ではないが、害虫と呼ばれそうなイージェへ話題を振って話を誤魔化す。
 とは言え、ナルキ自身も興味のある問題だ。
 デルクの情けで引き分けにしてもらったから、その弟子であるレイフォンと戦い、何時かデルクを超えるとか言い出すかも知れない。
 武芸者とはそう言う思考をしやすい生き物だ。

「いんや。レイフォンがグレンダンを出た事は知っていたけど、てっきりサイハーデン的な理由かと思ってた」
「何ですかそれ?」

 サイハーデンをただ今現在学んでいるナルキにとって、サイハーデン的な理由というのは全く未知の概念だ。
 もしかしたら、超鈍感大魔王になってしまうとか、そういう事態さえ予測してしまうのは、やはりレイフォンとサイハーデンが同一の存在として認識されているからだろう。

「サイハーデンの技を全て修めると」
「どうなるんですか?」
「放浪癖も付いてくる」
「・・・・・」

 沈黙で答えた。
 放浪癖が付いてくる武門というのには、少々問題が有るような気がするのだが、気のせいだろうか?
 だがしかし、デルクはグレンダンに住み着いているのだ。
 全ての人間に放浪癖がくっついてくるという訳ではないはずだ。

「レイフォンの奴にもその気が有ると思ったんだけれどな」
「レイフォンにもあると思いますけれど?」
「ああ? あんな可愛い嫁さんもらっておいて放浪するのか?」
「・・。確かに今の状態なら放浪はないでしょうね」

 ナルキが思考している間に、ウォリアスがイージェの相手を再開してしまっていた。
 そして少しだけ安心した。
 メイシェンがいればレイフォンは放浪の旅には出ないと。
 だが。

「でももしかしたら、都市ごとに嫁さんと子供と家を作ってしまうかも」
「ああ? あのヘタレにそんな甲斐性有るのか?」
「無いですよ。今のところは」

 ウォリアスの言う通りに、今のところレイフォンにそんな甲斐性はない。
 だが、六年後はどうだろうか?
 取り敢えず、ツェルニで知り合った女性陣を渡り歩くくらいの甲斐性が出来ているかも知れない。
 それは嫌な想像だ。
 どう考えてもメイシェンが泣いてしまう。

「将来的にもそんな甲斐性は出来ねえよ。デルクのオッサンなんか結婚さえしてねえんだぞ」
「へえ」
「最終的にはあのオッサンも武芸馬鹿だからな」
「レイフォンが奇跡的に運が良いんでしょうねぇ」
「伊達に嫁さん探しにグレンダンを出た訳じゃねえな」

 話の展開に脳が付いて行けなくなり始めているようだ。
 もしかしたら睡眠不足が原因で、集中力が無くなってきているのかも知れない。
 取り敢えずレイフォンに浮気するような甲斐性が出来そうもない事がはっきりしたようなので、安心して眠りにつこうかと思ったのだが。

「デルクのオッサンと言えば」
「なんか面白い事でもありました?」
「兄弟子がいたそうなんだが、そいつもグレンダンから出て行っちまったそうだ」
「やっぱり放浪癖があるんですね」
「デルクのオッサンも放浪したかったんだそうだが、サイハーデンを途絶えさせるのが悔やまれたそうだ」
「それで、グレンダンで道場を開いたんですね」
「だけどよ」
「何です?」

 男二人の会話が、ナルキの表層意識を滑って行く。
 会話の流れは理解しているが、その意味をしっかりと認識する事が既に困難だ。
 瞼は開いているのだが、映像は全く脳に届いていない。

「兄弟子が旅立った時の事を今でもはっきりと覚えているそうだ」
「それはそうでしょう。今生の別れかも知れないんだか・・・・・・・・・・・・ら」

 いきなりウォリアスの言葉が止まり、なにやらぶつぶつと口の中で呟いている。
 複雑怪奇にして奇想天外な上に奇妙奇天烈なその思考が、信じがたい速度で何かを考えているのだろう。
 ナルキには想像も出来ないその思考はきっと、レギオスのフィルターを超えて何処か他の都市を見ているに違いない。
 だが、次に起こった現象には眠りかけていたナルキも瞬時に完全覚醒するほどの衝撃が混ざり込んでいた。

「あの馬鹿!」
「うお!」

 突如の大声に、周りで眠っていた武芸者も殆ど起き出してしまったようだ。
 批難の視線がナルキ達に注がれる。
 悪い事は何もしていないのに、少々居心地が悪い。

「くそ! 見たくないってそう言う事か! あの馬鹿! 他人の好意に鈍感なだけじゃない! 自分が何を欲しがっているかも分からないじゃないか!」

 何やらレイフォン絡みの悪口雑言らしいが、普段の落ち着いた表情から一転、なにやら猛烈に怒りを露わにしている。
 更に何かぶつぶつと考えていたが。

「くそ! 取り返しがつかないぞ! どうすんだあの馬鹿は! 本当に脳みそ入ってないのか! 鈍感武芸馬鹿なんかメイシェンの胸で窒息死すれば良いんだ!」

 なにやら結論でも出たのか、いきなり落ち着きを取り戻したように見えるウォリアス。
 周りの注目を集めている事は気が付いているだろうが、それを無視していきなり毛布を引っ張り上げる。
 そこでやっと声をかけたのだが。

「ウッチンよ?」
「ああ? 僕は寝る! ツェルニが滅んでも起こさないでよ!」

 ナルキが事情を聞こうとしたのだが、それを遮って三秒で眠ってしまった。
 何が起こったのかさっぱり分からない。

「こいつどうしたんだ?」
「さあ。ウッチンの頭の中は、入ったら生きては出られない迷宮ですから」
「・・・。そうか」

 付き合いの短いイージェでもウォリアスの複雑怪奇さは理解しているようで、ナルキの説明で納得してくれた。
 だが、眠ってしまったウォリアスは良いとしても、叩き起こされた、周りの武芸者の視線がナルキ達に突き刺さり、非常に痛いような気がする。

「一つ聞いて良いですか?」
「ああ?」

 そんな痛い沈黙を打ち破ったのは、隣のベッドで横になっていたダルシェナだ。
 その表情はなにやら思い詰めた物があり、下手な誤魔化しは出来そうにない。

「グレンダンは常に月に二回は汚染獣と戦っていたのですか?」
「いや。俺が到着する一月前から急に忙しくなったそうだ。それ以前は三ヶ月も襲撃が無くて暇だったとか聞いたが」

 たった三ヶ月襲撃がなかっただけで、暇という表現が出てくる事が信じられないが、グレンダンとはそう言う都市だと諦めるしかないのだろう。
 小隊長としてツェルニ最強をうたわれるゴルネオが、問題無くグレンダンを出る事が出来たのも、きっと武芸者の質が異常に高く層が厚かったからに他ならない。

「平均すると年間十八回くらいだとか聞いたが」
「十八回」

 レイフォンの対汚染獣戦参加回数は、今回を含めて五十回に到達した。
 ナルキが知らされていない非公式の出撃もあったはずだから、実際はもっと多いはずだ。
 そして、追放されるまで七年間レイフォンは戦っていた。
 年十八回が平均値だとしたら、七年間で百二十六回。
 グレンダンの戦闘、その半分近くに出撃していた計算になる。
 それがグレンダンの基準として多いのか少ないのか全く判断出来ないけれど、ヨルテムの基準からしたら異常な数値だ。
 改めてレイフォンというかグレンダンの異常性を認識してしまった。

「そうですか。そんな恐ろしい都市から来たから、あれだけの強さを持っているのですか」
「あれが強いのは別に都市のせいじゃないと思うがな」

 何か考え込んでしまったダルシェナに、小さく呟いたイージェの言葉は、恐らく届かなかっただろう。
 だが思うのだ。
 レイフォンのような異常者を目標としてはいけない。
 僅か一年という時間でナルキが会得した、それが最も重要な真実だった。
 
 
 
 一晩中起きていてレイフォンの支援をしたり、ツェルニ武芸者の戦いを見学していたフェリだったが、少々の眠気を張り倒してリーリンの寮へとやって来ていた。
 目的はカリアン虐待計画をみんなに推奨するため。
 一人の力は弱いが、多くの人が集まればカリアンに胃潰瘍を起こさせる事も出来る。
 それと朝食の確保。
 と言う事で来たのだが、それは少々先の話になりそうだ。

「良く来たなレイフォン! さあ武器を取れ! そして私と戦え!!」

 なぜか絶好調のニーナと遭遇してしまったのだ。
 いや。ここにニーナが住んでいる以上、遭遇する事は始めから分かっていた。
 そして、無断出撃の件で怒っている事も十分に理解していた。
 だが、この異常なテンションの高さはどうだろう?
 双鉄鞭を構えて今にもレイフォンに躍りかかりそうだ。

「あ、あう」

 情けない事に、取り乱してフェリの後ろに隠れてしまうヘタレが、本当の意味でツェルニを救ったと知ったのならば、目の前の怒れる隊長はどうするだろうかと、少し意地悪な考えが浮かんでしまった。
 だが、そんなフェリのことを知ってか知らずか、話はどんどん先へと進んでいってしまう。

「落ち着いてよニーナ。取り敢えずご飯を食べてからにしよう」
「そうよニーナ。腹が減っては戦は出来ないわ。ならば食事こそが最も重要よ」

 リーリンとレウがニーナを押さえているが、そんな物で止まる類の生き物ではない。
 精神力で空腹を押さえて、戦闘を続けられるのも武芸者の能力の一部だ。
 ならば、朝飯前の一戦くらいニーナがやっても何ら不思議はない。

「ええい! 私はこいつの隊長だ! ならば生殺与奪の権利も私にはあるのだ!!」

 ここで理解した。
 初の実戦と徹夜のせいで、やや理性が飛んでしまっているのだと。
 これはこれで面白いかも知れない。
 普段見る事の出来ないニーナを見る絶好の機会だ。
 何か話を振って事態をややこしくしないといけないと決意する。
 そして咄嗟に一つだけ妙案を思いつくことが出来た。

「フォンフォンが芸を披露しますから、それを見て納得したら怒りを収めて下さい」
「ぬん? 芸だと?」

 やはり何時もと少し違う精神状態のようで、即座に反応するニーナ。
 このまま押し切る事が出来れば、レイフォンの芸とニーナの珍しい姿が拝める。
 内心ほくそ笑んだのだが。

「ぼ、僕にそんな芸なんか無いですよ」

 ヘタレで情けない男は相変わらずフェリの後ろに隠れたまま、そんな事を言っている。
 これはあまり良い事ではない。
 非常にレイフォンらしいと言えばらしいが。
 だが、フェリへの支援が横からやって来た。

「にひひひひひ。レイとんよ」
「な、なんだよ?」
「私も芸を見たいんだけれどな?」

 ミィフィがなにやら映像再生機をちらつかせている。
 何か弱みを握っているようだ。
 やはりミィフィとは仲良くした方が良いだろうと、打算的な思考をしている間に。

「・・・・。分かりました。取り敢えずご飯を作ります」
「おお! あれをやるのか!」
「ああ。あれは何度見ても凄いわよね」

 料理をするというレイフォンに反応したのは、ミィフィとリーリンだ。
 フェリ自身料理などした事はないのだが、それでも、ニーナが納得するような芸だとは思えない。
 一人暮らしのレイフォンは何時もやっているはずだから。
 そうは思ったが、玄関前で何時までも騒いでいる訳にも行かず、取り敢えず寮に入る事になった。
 相変わらずメイシェンは冷却シートで目を冷やし、担架に乗せられたままだし。

「それではご覧下さい」

 冷却シートを一時的に取ったメイシェン達三人と、セツナにレウにニーナそれにフェリがソファーに座った直後、レイフォンが一礼した。
 三人一緒に。
 無言のどよめきが辺り一帯を支配する。
 何の脈絡もなく、宣言した瞬間に三人に増えたレイフォンの内二人が掃除を始める。
 その動作に全く違和感はなく、訓練場でよく見かける動きでリビングと食堂の掃除をする二人のレイフォン。
 これだけで一生食べて行けると思うのは、フェリの気のせいだろうかと思えるほど見事な芸だ。
 だが、衝撃は更に続く。

「レストレーション02」

 剣帯から青石錬金鋼を引き抜き、何もしていなかったレイフォンが一声呟く。
 復元の光が消えた後には、本来刀身があるはずの場所には何もない。
 鋼糸だ。
 念威端子を通して精密検査をやらなければ、フェリには全く見えないその糸達が踊り、冷蔵庫の扉が開かれ野菜や卵が宙を飛ぶ。
 衝撃に打ちのめされたように、口を大きく開けて驚いているニーナ達三人と違い、何度か見た事のあるらしい三人は既に拍手をして喜んでいる。
 フェリ自身はどうかと聞かれると、レイフォンは何もしていないのに食材が勝手に下ごしらえされて行く様を見て、無表情を通り越して驚いていた。
 正確に言えば、何かリアクションを取るという行為をすっかりと忘れているのだ。
 理屈では分かるのだが、それでも目の前で起こっている現象が信じられないのだ。
 これならば、ヨルテムで十分に芸人としてやって行けると思うのだが、レイフォン的には何か違うのかも知れない。

「す、凄いな」
「本当。一家に一人いたら家事が楽なのに」
「外食産業に打って出ても成功間違い無しよね」

 ニーナ達が呆然と感想を口にしている間に、どんどんと料理が完成して行く。
 卵が割られボールで黄身と白身が混ざって行く。
 レタスがちぎられ、トマトがスライスされ、タマネギがみじん切りにされる。
 タマネギが混ぜられた卵に放り込まれオムレツの準備が終了。
 そしてパンがトースターで焼かれ始める。
 これはもう、特撮もかくやと言える異常な光景だ。
 もしかすると、技とは極めると芸になるのかも知れない。
 そう思えるほどレイフォンの技は凄まじい芸だった。
 そして失敗した事を悟った。
 映像を記録しておく事をすっかり忘れていたのだ。
 フェリ・ロス一生の不覚である。

「にひひひひひ。これが欲しいですか先輩?」
「・・・・。いくらですか?」

 いつの間にかミィフィがモノクル型のカメラで全てを録画していた。
 片方だけの眼鏡と言った感じの、シンプルなデザインのカメラだが、非常に軽く両手が拘束されないので、取材をする時の必需品と言われている。
 ミィフィの仕事を考えると当然持っているべき品物だ。

「にひひひひひ。ただで良いですよ? にひひひひひ」
「・・・・・・・・・・・」

 ただより高い物は無い。
 後々どんな無理難題をふっかけられるか分からない以上、安易に飛びつくのは危険極まりない。
 強引にミィフィから視線をレイフォンへと戻す。
 そして全ては順調に進み、もうすぐ朝食が完成する。
 掃除もおおかた終わったようで、三人のレイフォンが並んだ。
 皿に盛りつけられた料理を二人のレイフォンが運び、鋼糸を操るレイフォンが後片付けを始めている。
 完璧だった。
 これで納得しないなどと言う事は考えられない。

「お粗末様でした」

 全てが終わり、湯気を立てる朝食がテーブルに並んだところで、二人のレイフォンがかき消えた。
 一人になったレイフォンがお辞儀をして本当に終了したようだ。

「み、見事だったぞレイフォン!」

 あまりの事に怒りを忘れて拍手するニーナ。
 武芸を止めるためにツェルニに来る必要がなかったはずの少年は、若干照れたように頭を掻きつつ、朝食の席に付く。
 だがここで気が付いた。
 今の芸は全て武芸の技の応用だと言う事に。
 恐らくこれでは武芸を捨てた事にならないとレイフォンは考えているのだ。
 実にもったいない。

「うちの寮に住まない?」
「あ、あの。ここ女子寮でしょう?」
「平気よ。女の子で通せば良いんだもの」
「無理ですからそれ」

 セツナが何か猛烈にアタックしている。
 フェリにも十分その気持ちは分かる。
 ロス家はかなり裕福だ。
 その富を使ってレイフォンを雇ったら、さぞかし面白いだろうとか思ってしまっているのだ。
 だが問題はもう少しあるのだ。
 レイフォンの芸が作りだした朝食、それが美味しいかどうか?
 流石に不味かったら見せ物としてしか意味をなさない。
 これは折角の芸が無駄に終わる、と言う事なのだ。
 取り敢えずオムレツを一口食べてみて。

「・・・。美味しいですね」
「本当に。やっぱりうちの寮に住みましょうよ。エプロン付けてれば女の子に見えるんだから」

 味を確認した直後から、セツナの攻撃が激しさを増す。
 それを受けるレイフォンはしかし、幼生体に見せた絶対的な強さを何処かへ置き忘れたのか、徐々に劣勢に追い詰められているようだ。
 だが、フェリはもう少し違うところに注目していた。

「眠ってしまいましたね」
「? 誰が?」
「隊長です」

 指さす先にいるのは、朝食を食べ終えたニーナが、テーブルに突っ伏すようにして眠っているというかなりレアな姿だった。
 これはこれでなかなか見られるものでは無い。

「疲れているんですよ。初めての実戦でしたからね」
「徹夜の上に緊張を重ねたのは同じですよ?」
「僕は論外として、フェリ先輩もだいぶ眠そうですよ」
「・・・・。そうかも知れませんね。仮眠を取ってかまいませんか?」

 寮長だというセツナに向かって問いただす。
 これで駄目だったらかなりきついが、自分の部屋に帰るしかない。
 だが、流石にそんな無情な事をするようには、セツナは出来ていなかったようだ。
 快く空いている部屋を一つ貸してくれた。
 ベッドだけしかなかったが、今はそれで十分なのだ。
 こうして本当に汚染獣との戦いの夜は明けたのだった。



[14064] 閑話 乙女と野獣
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/11 22:17


 突然ではあるのだが、メイシェン・トリンデンは乙女である。
 交通都市ヨルテムが誇る交差騎士団、その団長であるダン・ウィルキンソン公認の乙女である。
 そんな花も恥じらう乙女であるメイシェンだったが、宿命の戦いから逃れることは出来ないのだ。
 事の発端となったのは一週間ほど前、食後にアイスクリームを食べた時であると断言出来る。
 その時に既に戦いの火ぶたは切って落とされていたのだと、今から思い返せば断言出来る。
 全然嬉しくないけれど。

「あ、あう」

 視線の先にいるのは、ヨルテムから一緒にツェルニにやって来た幼なじみの二人だ。
 何時如何なる時にも、メイシェンのことを支えてくれる頼れる親友でもあるのだが、その二人が今は敵として立ちはだかっているのだ。
 取り縄の準備を終わらせて、何時でも捕まえられるように身構えている長身で褐色のナルキ。
 そして、あまりにも恐ろしい兵器を持ち、弱った獲物をいたぶり尽くすことだけを考えているような表情をした、茶髪ツィンテールのミィフィ。
 抗う術はメイシェンの手にはない。
 それでも本能的に後ずさりしてしまう。

「さあメイ」
「諦めるのだ」
「あ、あう」

 捕縛用の取り縄を何時でも投げられるように準備したナルキが、一歩前へと出る。
 釣られるように、あまりにも恐ろしい兵器を振りかざしたミィフィも前へと出る。
 そう。棒を中心に冷え固まったアイスキャンディーを手に。
 恐らくそれで、メイシェンの最も弱いところを攻撃して、完膚無きまでに撃破し尽くすつもりなのだ。

「いい加減に白状しても良いだろう?」
「にひひひひひ。メイっちが虫歯だと言うことは分かっているのだ」
「あ、あう」

 そう。ここ数日奥歯が痛くて堅い物が食べられなかったのだ。
 その関係で、作る料理の全てが柔らかい物ばかり。
 更に、時々頬を押さえて溜息をついていたのでは、確実に二人には分かってしまう。
 分かっていたからこそミィフィは最凶兵器を用意出来たのだろう。
 用意する必要は全く無かったと思うのだが、乗りと勢いで作ってしまった以上使わないと損だと思っているのだろう。
 極めてミィフィらしい思考だと思うのだが、その思考こそがメイシェンには恐ろしくて仕方が無い。
 アイスキャンディーで虫歯を突かれたら最後、メイシェンはショック死してしまう。
 全力を持ってその地獄を回避すべく、メイシェンの脳は今までにない速度で働いた。
 だが、残念なことに解決策は全く思いつくことが出来なかった。
 当然である。
 考える前から分かっていたことだが、それでも考えてしまうのは人間の性という物だろうと判断する。

「大人しく歯医者に行くか」
「これで地獄の苦しみを味わうか」
「あ、あう」

 振りかざされるアイスキャンディーが恐ろしくて身動き出来ない。
 宿命の戦いだとは言え、これはあんまりにもあんまりだ。
 始めから敗北が決まっているのだ。
 ならばメイシェンの取れる選択肢はただ一つ。

「歯医者に行きます」
「「よろしい」」

 二人そろって頷いて解放されたかに見えた、まさにその瞬間。
 いきなりミィフィが目の前にいた。

「それはそれとして。これはこれとして」
「っひぃぃ!」

 小さく悲鳴を上げて後ずさろうとしたが、既に壁際まで追い詰められていてこれ以上は下がれない。
 二ヒヒと笑うミィフィの顔が既に目の前だ。
 そして恐るべき破壊兵器が、目の前に迫る。

「取り敢えず白状したから良いだろう」
「ぬを!」

 まさにこの世の地獄へと落とされようとしたその瞬間。
 いきなりミィフィの襟首が捕まれて持ち上げられた。
 そのまま遠くへと持って行かれるのを眺めつつ、今日のところは生き残ることが出来たのだと安堵の息をつくことが出来た。
 
 
 
 突然ではあるのだが、シャンテ・ライテは野獣である。
 森海都市エルヴァの研究機関が公認する、れっきとした野獣である。
 野獣であるので、本能に従って行動することが多い。
 たとえば、日頃の行動を突き詰めると、わずか三種類にまとめることが出来るほど、単純な生活を送っている。
 その三つとは当然、食う寝る遊ぶである。
 そんなシャンテだからこそ、小隊対抗戦も遊びの一環として、楽しくゴルネオと戦っているのだ。
 だが、今日は状況が違うのだ。
 何が違うのかと聞かれたのならば、非常に話は簡単だ。

「待てシャンテ!」
「にゃぁぁぁぁ!」

 全力の活剄を走らせたゴルネオが、延々とシャンテを追いかけているからに他ならない。
 この追いかけっこは、すでに一時間近く続いている。
 本来ならば、ゴルネオを圧倒する剄量を持つシャンテが逃げられないと言う事はない。
 だが、もう一つの理由によって、シャンテは全力を出せないでいるのだ。
 そう。活剄をいくら動員したとしても、ある部分に力が入らないせいで、著しく効率が悪いのだ。

「待っていたぞ副長!」
「にゃぁぁぁ!」

 後方のゴルネオに注意を向けすぎると、いつの間にか先回りしたオスカーの銃撃がシャンテを襲うのだ。
 これを何度も繰り返している現状では、逃げていられる時間は加速度的に削られてしまう。
 だが、諦めるという選択肢は存在していない。
 ゴルネオとオスカーの挟み撃ちから逃げるために、咄嗟に右へと進行方向を変えて、死にものぐるいの旋剄で距離を稼ぐ。
 更に旋剄を連続使用して、倉庫街の暗く狭い場所へと逃げ込んで一息つく。
 野獣として育ったシャンテだが、体力的に限界が来てしまったのだ。
 普通の状態ならば、まだ逃げ回ることも出来たのだが、今日という日にはこれが限界だった。
 倉庫街の暗い路地に潜み、丸まって乱れた剄息を整える。

「あれシャンテ先輩じゃないですか?」

 そんなさなか、いきなり声をかけられたシャンテは一瞬で戦闘態勢へと復帰した。
 一瞬とはいえ、油断した自分を罵りつつも剄を練り上げて、即座に攻撃できる態勢を確保する。

「・・・・。なんだおまえか」

 これで第五小隊の人間だったら、即座に化錬剄の炎をお見舞いしたのだが、幸か不幸か相手は第十七小隊の人間だった。
 ゴルネオの兄弟子を再起不能にしたとかで、一時期敵対関係にあったレイフォンだ。
 なにやら微笑みつつてを後ろに組んで、暗い方向から現れた。
 少々驚いてしまったが、今はゴルネオがなんとも思っていないといっているし、積極的に敵対する訳でもないので、やや緊張をゆるめて一息つき治す。

「こんな所でどうしたんですか?」
「シャンテの勝手だ!」

 こんな所で何をやっているか分からないのはレイフォンも同じなのだが、先に聞かれた腹いせで少々強めに反抗しておく。
 だがふと思う。
 メイシェンでなくて良かったと。
 普段ならとても歓迎なのだが、今日だけは残念なことに歓迎できないのだ。

「もしかして」
「なんだ?」
「倉庫を襲撃して食べ物を奪うつもりじゃ?」
「シャンテはそんな事しないぞ!!」

 いくら野獣とはいえ、ゴルネオに人の物を取ってはいけないと教えられているのだ。
 ゴルネオに言われた以上、出来るだけやらないように心がけているのにこの言いよう。
 非常に不機嫌になってしまった。
 思わず不意打ちで殺してしまおうかと思ったが、メイシェンのお菓子が食べられなくなりそうなので却下だ。

「そうですか」

 何か納得したようなしないような表情で、うんうんと頷いているレイフォン。
 そしていきなりレイフォンのまとう空気が変わった。
 一瞬で暗い倉庫街が戦場になったような、そんな凄まじい緊張感がシャンテを襲う。

「僕は人を探しているんですよ」
「誰だ?」

 話を続けつつ、剄を練り上げ戦闘態勢を確立する。
 ここが戦場になったらしいので、相手がレイフォンなだけに油断など出来はしない。
 とは言え、正面切って戦って勝てるかと問われるのならば、負けるほか無いと答えるしかないところがつらいが。

「赤毛で虫歯の女性なんですけれど、シャンテ先輩は知りませんか?」

 決定的だった。
 そんな具体的な特色を備えた人間など、シャンテ以外にはいない。
 ナルキも赤毛ではあるのだが、虫歯になっているという話は聞いていないし、そもそも、探す必要があるとも思えない。

「シャァァァァァ!!」

 先手必勝で攻撃しようとして、身体が動かないことに気が付いた。
 何かに縛り上げられているのか、殆ど指一本動かすことも出来ない。
 そしてレイフォンが、後ろに組んでいた手を前に持ってきた。
 その手に握られているのは、柄だけの錬金鋼。

「先輩。確保しましたよ」
「ご苦労だったな」

 レイフォンが後ろに向かって声をかけると、なんとゴルネオが路地へと出てきた。
 その動きは全く余裕で、完全に罠にはめられたことが伺えた。
 思い返してみれば、何故か追われている間、他の第五小隊員を見ていなかった。
 去年は総掛かりだったのだが、今年はレイフォンがいるためにこういう余裕を持った罠を用意することが出来たのだと理解してしまった。
 全ては後の祭りだが。

「シャァァァァァァ!!」

 それでも諦めるという選択肢は、シャンテの仲には存在していない。
 野獣の本能に従って、全力で活剄を動員して暴れる。
 あちこち痛いが、歯医者に行くよりは遙かにましである。
 だが、その抵抗が無駄であるのも、本能が理解していた。
 
 
 
 取り敢えず歯医者の予約を取り、運がよいのか悪いのか次の日には治療台に乗って、まな板の上の鯉となることが確定したメイシェンだったが、実際のところ怖くて仕方が無いのだ。
 歯を削る音と消毒液の匂い。
 そして何よりも、強力なライトで口の中を観察される雰囲気。
 全てが苦手であり、だからこそ痛くても我慢していたのだ。
 それも既に過去形で話されなければならない。
 既に歯医者にやってきていて、しかも受付を終わらせているのだ。
 取り敢えずミィフィが付き添いとしてきてくれているのだが、それももしかしたら逃げないようにと監視に来ているだけかも知れない。
 十分にあり得る。

「トリンデンさん。どうぞ」
「あ、あう」

 待つこと五分。
 何の前触れもなく呼ばれてしまった。
 こうなっては諦めて断頭台に上るしかない。
 断頭台なんて物は見た事無いが、それでもきっと同じような気持ちに違いない。
 だが、事態はいきなりの展開を見せてしまった。
 そう。蹴破られるほどの勢いで扉が開けられると、数人がなにやら抱えて乱入してきたのだ。

「シャァァァァァァ!!」

 何処かで聞いたことがあるような、威嚇とも絶望とも付かない声がしたので、順番が伸びるのならばその方が良いと思いそちらを見てみた。
 そして視界に入ってきたのは、常識を疑ってしまう光景だった。

「レイとん?」
「レイフォン?」

 ほぼ同時にミィフィと同じ物を認識してしまった。
 なにやら必死の形相で汗をかいているレイフォンがいる。
 その表情はまさに真剣で、普段の茫洋とした雰囲気とは一線を画し、これが戦いに赴く時の顔だと言う事を本能的に理解してしまった。
 結果として、思わず鼓動が跳ね上がってしまったほどだった。
 それは良い。
 良くはないかも知れないが、その他の人達の方が遙かに問題だ。

「いい加減に諦めろシャンテ」
「そうだぞ副長。抵抗は全て無駄なのだ」
「シャァァァァァァァ!!」

 レイフォンと同じグレンダン出身で、何か因縁があるらしい、巨漢の第五小隊長ゴルネオと、メイシェンもよく利用している食肉加工店のオスカーだ。
 そして、二人に抱えられ、更にその拘束を振り解こうと全身で抵抗しているのは、小柄で赤毛で猫な第五小隊所属のシャンテ。
 至って意味不明な集団である。
 いや。実はおおよそ理解してしまっているのだ。

「シャァァァァァァ!」

 建物に入ったことを認識したのか、更に激しく暴れ出すシャンテは、何かに縛られてでもいるのか、身体をくねらせる以外の抵抗が出来ないようだ。
 ここまで観察すれば話は見えてくる。
 シャンテが虫歯になった。
 でも歯医者には行きたくない。
 そのまま放置する訳には行かない。
 保護者であるゴルネオとオスカーで協力して連れてきた。
 暴れ方が激しくて手が付けられないので、レイフォンも応援に呼ばれた。
 と、ざっとこんなところだろうと言うことは見ていれば十分に分かる。
 そしてメイシェン・トリンデンは思う。
 あんな無様はさらせないと。
 特にレイフォンが来てしまっている以上、勇気と正義に燃える心で歯医者に立ち向かい、そして堂々と勝利を収めなければならない。
 具体的には泣かないで治療を終えるという勝利を、その手に掴まなければならない。
 そんなメイシェンの決意を待っていたかのように、いきなりレイフォンが大量の汗を流しながら口を開いた。

「せ、先輩」
「なんだアルセイフ。もう少しだ」
「は、速くして下さい」
「弱音を吐くなアルセイフ。お前なら出来る」
「集中力が限界です。これ以上拘束を続けていると」
「どうなるというのだ?」
「ぶつ切りにしてしまいます」
「しゃぁぁぁぁ?」

 暴れているシャンテを含めて、全員の視線がレイフォンに集まった。
 ナルキが必死に体得した鋼糸という物を使って、シャンテの動きを押さえつけているのは理解出来ていたが、それもそろそろ限界らしいと言うところまでは分からなかった。
 元々細い糸を使う技らしいので、少し油断すると縛るのではなく切ってしまうらしいことは理解出来る。
 たこ糸で鶏肉を縛ることはたまにやるメイシェンだが、それをピアノ線でやれと言われたら相当怖い。
 下手に力を入れると鶏肉が切れてしまうし、入れなければ料理中に分解してしまうから、その力加減は非常に微妙だ。
 レイフォンの使っている鋼糸はピアノ線よりも更に細く、しかも相手は生身の生きている人間だ。
 どれほどの集中力で切らないように押さえつけているか、想像するだけで目眩がしてきそうだ。

「切れてしまったら修復は出来るのかね?」
「無理です」

 一瞬の沈黙の後、オスカーが恐る恐るとレイフォンに訪ねる。
 もし切れてしまっても、治療出来ればそれ程大きな問題にはならないと判断したのだろうが、しかしそんな生やさしい危険性ではなかったようだ。

「ぶつ切りというか、不揃いな賽の目切りになります」

 ぶつ切りと言われて思い出すのは、数日前に作った南瓜と鶏肉を使ったシチュー。
 南瓜の方はルーとして使ったが、鶏肉はぶつ切りにしてその存在感と食感を楽しむようにしたのだ。
 思わずシャンテを凝視してしまう。

「う、うむ。あと少しだ。もう少しだ」

 危険性を理解したらしいゴルネオとオスカーの顔から血の気が引いて行く。
 ミィフィも、実はメイシェンの顔からも血の気が引いているのだ。
 目の前で人体が細切れになるところを見てしまうかも知れないと。
 そうなったら、ショックのあまり菜食主義者になってしまうかも知れないし、それ以前に暫く何も食べられない。
 と言う訳で、心の中でレイフォンを応援しつつ出来るだけシャンテの方を見ないように、視線を背ける。
 万が一に備えなければならないのだ。

「はいはい! それじゃあこれ付けてね」

 そんな騒動などお構いなしと言わんばかりに、ケーシーを着た人物がシャンテの側までやって来て、いきなりガスマスクのような物をその顔に押し当てた。
 ガスマスクに見えるが、きっと何か違う用途に使うのだろうと思うが、シャンテを見ないように必死になっているメイシェンには、はっきりと認識することが出来ないのだ。

「シャァァァァァァ!」

 最後の抵抗とばかりに、更に激しく身体をくねらせるが、それも段々と小規模になっていった。
 そして一分ほどすると、完全に動きを止めてしまうシャンテ。
 なにやら瞼を閉じて寝息を立てているように見える。

「麻酔終了」

 ケーシーを着た人物がそう宣言する。
 ほっとレイフォン達三人から安堵の溜息が聞こえる。
 マスクはまだしたままだが鋼糸を解いたのか、だらりと手足が垂れ下がるシャンテ。
 本当に眠ってしまっているようだ。

「感謝するよアルセイフ君。去年は第五小隊総出で押さえつけなければならなかったからね」
「い、いえ。お役に立てたのなら良かったですが」

 レイフォンの視線がシャンテを捉える。
 完全に眠ってしまっているが、着ている服はあちこち切り裂かれ所々軽く出血している。

「・・・・・・・」

 なんだか非常に腹立たしい気がするが、きっと気のせいだ。
 レイフォンにしてみれば、大怪我をさせていないか確認しただけなのだろう事は分かる、
 分かるのだが、気のせいだとは思うのだが、それでもなんだか腹立たしいような気がする。
 だが、全ての事情は一瞬で明後日の方向へと飛んで行ってしまった。

「メイ?」
「あ、あうぅぅぅぅ」

 あろう事か、視線に気が付いたレイフォンがメイシェンを認識してしまったのだ。
 歯医者の待合室で座っていると言う事は、すなわちこれから治療だと言うこと。
 ミィフィの付き添いと言う事で誤魔化せる訳もなく、レイフォンの視線がメイシェンに突き刺さる。
 本人は突き刺しているつもりはないのだろうが、メイシェン的には突き刺さってしまっているのだ。

「これから治療?」
「あ、あう。そ、そうです」

 嘘偽りを言っても仕方が無いので、正直に答える。
 そして気が付いてしまった。
 自らの手で退路を断ってしまったのだと。
 いや。始めから逃げるという選択肢は存在していないのだが、それでももはや後には引けない。

「えっと。色々ありましたがトリンデンさんどうぞ」
「あ、あう」

 こうなってはもう、歯を食いしばって痛みに耐え抜くしかない。
 震える足に鞭を打って治療台に上る。
 今まで料理してきた食材達も、きっとこれほどの覚悟でまな板の上に乗ったのだろうと思うと、これからはもっと感謝して無駄なく使おうと決意が新たになる。

「はいはい。口を開けないと治療出来ないからね」
「あ、あう」

 断じて違うのだ。
 歯を食いしばっていたのは痛みに耐えるためであって、断じて治療を拒んでいる訳ではないのだ。
 違うったら違うのだ。
 
 
 
 虫食いになっていたのは奥歯だったので、しっかりと麻酔をされて治療は終了した。
 とは言え、麻酔は完璧ではなかったようで結構痛かった。
 それでも、覚悟していたほどの痛みは感じなかったが、麻酔はまだ効いているようで、顔の下半分右側に違和感を感じている。
 三時間ほど効果は切れないと言う事なので、夕食を作る際は十分に注意しなければならないと判断出来る。
 味見をする時にも何らかの問題が出てくるだろうから。
 だが、治療室から待合室に移動したメイシェンの前に出現したのは、おそらくはこの世で最も意味不明な出来事達だった。

「ルッケンスさんよ! 前にも言ったけれどシャンテを虫歯にするなよな!」
「も、申し訳ありません」

 巨漢であるゴルネオが、小柄な歯医者に向かって深々と頭を下げている。
 治療はもう終わったのか、眠ったままのシャンテがソファーに寝かされているが、それは事態の僅かな部分でしかない。

「本人に言って駄目だったら、お前が歯を磨いてやれと言っただろう!」
「そ、そう言われましても」
「ああ? 毎回毎回あちこちで騒ぎを起こして! 去年ツェルニ中を逃げ回ったシャンテを追いかけて、どれだけ周りに迷惑かけたと思ってんだ!」
「誠に遺憾です」
「来年も一年生に頼る気かお前は!! それとも来年から獣医に診せるか?」

 メイシェンは一年である。
 だから、去年何が有ったか全く分からないが、レイフォンがいない分、周りの被害は凄まじい物になったに違いない。
 レイフォンが誰かの役に立ったと思うと、それだけで何となく誇らしい気持ちになるのだが、来年もシャンテを縛り上げるかも知れないと思うと、その誇らしい気持ちもずいぶんとしぼんでしまう。

「だったら! おまえがやるしかないだろう!!」
「び、微力を尽くします!」

 冷や汗を流しつつ、歯医者に怒られるゴルネオはまだ良いかもしれない。
 問題は実はレイフォンの方だ。
 我関せずと脇で眺めているオスカーは、来年にはここにいないから対岸の火事と言った気分なのだろうが。

「にひひひひ」
「な、なんだよ?」

 笑っているだけでレイフォンを追い詰めているミィフィ。
 ツェルニに到着した直後にもそんな事があったかも知れないが、今は状況が明らかに違う。
 なぜならば、明らかにレイフォンを虐めるつもりでミィフィが追い詰めているからだ。

「にひひひひ。レイとん」
「な、なんだよ?」

 腰砕けになりかけているレイフォンは、ついさっきシャンテを縛り上げていた時とは別人のようだ。
 今にも泣き出しそうだ。

「上着だけのケーシーしか着ていないメイッチに歯の治療をしてもらいたいでしょう?」
「っぶ!」

 何を想像したのかは理解出来るが、いきなりレイフォンが腰砕けになってしまった。
 もちろん、メイシェンがここに居ると言う事は認識していないはずだ。
 とは言え、あまりにもあまりな格好を想像されてしまって、一瞬反応に困ってしまった。
 レイフォンが喜ぶのだったら、それくらいは良いかもしれないと思わなくもないが、それでもメイシェン・トリンデンは乙女なのだ。
 そんな破廉恥な格好は流石に問題が有りすぎる。

「ミィちゃん!」
「のわ!」

 ミィフィもメイシェンの接近に気が付いていなかったのか、茶髪ツインテールを跳ね上げつつこちらを振り返る。
 そして一瞬で作戦を再構築したのが分かってしまった。
 これはもしかしたら、藪蛇だったのかも知れない。
 だが、既に賽は投げられてしまっているのだ。
 後戻りは出来ない。

「にひひひひ。メイッチもレイとんに歯を磨いてもらいたい?」
「ひゃ!」

 出てきた内容が、覚悟していた物とだいぶ違ったので再び硬直。
 一秒ほどかけて、レイフォンに歯を磨かれる自分を想像する。

「・・・・・・・・」

 結果。なにやら子供扱いされてしまっているような気分になることが判明。
 この案は却下である。

「そ、そんな。メイシェンは子供じゃないんだから。小さな子供の歯を磨くのはなれているけれどさ」

 なにやら聞き捨てならないことをレイフォンが言っているような気がするが、少しだけ落ち着いて検証する。
 レイフォンは孤児である。
 孤児院をそんなに多く知っている訳ではないが、それでも小さな子供が結構な数いることは分かる。
 その小さな子供達が虫歯にならないように、効率よく的確に歯を磨くことはある意味必要な技量と言えるだろう。
 そうなると、レイフォンが慣れていることも十分に頷ける。
 断じてメイシェンが磨かれたいと言う事はないのだが。

「にひひひひ。だったら、二人の子供が出来ても虫歯は大丈夫だね」
「ひゃ?」
「っぶ!」

 続いて出てきたミィフィの台詞に、思わずレイフォンと目があってしまう。
 いや。確かに子供は欲しいと思うし、それ以前に結婚だって考えているのだが、だからと言ってこうもあからさまにそう言われてしまうと、少々では済まない衝撃に見舞われてしまうのも事実。
 思わず見つめ合っていた視線をお互いがそらしてしまう。
 いくら何でも早過ぎるのだ。
 家族がそれを望んでいることは理解しているが、ダンもそれを期待していることは知っているが、だからと言っていくら何でも早過ぎるのだ。

「え、えっと」
「あ、あう」

 明後日の方向を眺めつつ、二人して言葉に詰まる。
 これではいけないと分かっているのだが、だからと言って何か解決策があるという訳でもない。

「にひひひひひ」

 ミィフィだけは絶好調だ。
 お菓子減量の刑に処すことを決定しつつも、話題転換を含めて少し気になることがあった。

「レ、レイフォンは、虫歯とか大丈夫?」
「ぼ、僕?」

 いきなりだったせいだろうが、反応が猛烈に遅い。
 当然である。
 メイシェンが話題を振られたら、レイフォン以上に遅い反応しかできないのは間違いない。

「僕は半年に一度は医者に来て点検しているから、酷い虫歯になったことはないかな」
「へ?」
「な、なに!」

 驚いたのはメイシェンだけではない。
 ミィフィもゴルネオもオスカーも、みんなして驚いている。
 これは相当異常な事態なのだろうと言う事は理解出来た。

「武芸者は歯を食いしばることが多いから、定期的に確認しておかないとすぐに歯が駄目になるんだよ」

 立ち直りつつそう言うレイフォン。
 運動する時に歯を食いしばることが多いのは知っているが、それでも疑問は残る。
 小隊員である二人も驚いているところだ。
 思わずそちらの方を見てしまう。

「た、確かに、歯を食いしばることが多いのは間違いないが」
「私達はそれ程頻繁には来ていないぞ」

 驚いたようにお互いの顔を見つめ合う男性二人。
 レイフォンの行動は相当珍しいのだろう事は分かった。

「それは危険ですよ。虫歯で戦えないなんて事になったらどうするんですか?」
「う、うむ」
「むん」
「今日のシャンテ先輩も、きっと歯が痛くて全力を出せなかったんですよ」
「確かに、いつもならもっと引き離されていたはずだが」
「活剄の密度は十分だったが、それを効率よく使えなかったのか」
「おそらくそう言うことですよ」

 考え込む第五小隊員二人。
 戦いたくないと言いつつも、戦うための準備を怠らないレイフォンは、もしかしたら相当に矛盾を抱えた人物なのかも知れない。
 だが、メイシェンにとってはある意味天恵でもある。
 小まめに来て虫歯の確認をしていれば、今回のような騒動にならずに済むかも知れないのだ。
 これは根気を入れて歯医者に通う価値があるかも知れない。
 虫歯との戦いに終わりがない以上、常に備えることは絶対に必要なのだ。
 決意を新たにしたメイシェンは、次なる戦いに備えて気合いを入れ直した。
 そして、ミィフィはやはりおやつ減量の刑に処すことも決意した。



[14064] 第四話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:10


 第十七小隊の二回目の試合が始まる会場を見下ろしつつ、ナルキはかなり興味深くウォリアスを眺めていた。
 既に一試合終わった会場は、縦横二百五十メルトルの起伏に富んだ地形に、第十七小隊側がせっせと罠を張っている姿を遠くから見る事が出来る。
 当然相手の第十四小隊にこの情報は一切伝えられない。
 そして観客席に座っている生徒達も、一週間前と比べてさえ、対抗試合を熱烈な視線で見詰めている。
 つい最近幼生体の襲撃を受けたツェルニだが、その傷は既に殆ど分からないほど修復され、怪我人も完全に回復しているために試合会場は凄い熱気なのだ。
 観客の殆どが、ツェルニを守った英雄を見ようとみんな集まってきているのだ。
 その気持ちに問題が有る訳ではない。
 ただ、本当にツェルニを守る事が出来たのはレイフォンただ一人だけで、後の武芸者はナルキを含めておまけでしかない。
 その事実を知っているのは、ツェルニ全生徒中で十人程度だろうと思うが、当然公表することは出来ない。
 それは、武芸科全員よりもたった一人が強いことを知らしめると言う事で、パニックに発展する危険性をはらんでしまっているからだ。
 そんな中ウォリアスは何かレイフォンについて、新しい発見をしたようで数日前までなにやら考え込んでいた。
 誰かに何かを言う訳でもなく、何を発見したのかは皆目見当も付かないが、今日この瞬間もやや精彩を欠いている有様だ。
 だからという訳ではないのだが、兎に角話しかけてみる事にした。
 一緒にいるのは何時ものメンバーとイージェにエド。
 エドはなんだかイージェが人数あわせだとか言って引っ張ってきてたのだが、どんな人数あわせなのかは誰にも分からないようだ。

「どう思うウッチン? 十七小隊は勝てると思うか?」
「ああ? 五回やれば一度くらいは第十七小隊が勝つと思う」
「そ、そうなのか? レイとんがいても?」
「レイフォンがいても変わらないよ」

 前回の第十六小隊戦の時は、レイフォンの隙を突いた攻撃をきっかけに勝っているのだが、やはり今回は対策を立てられているのだろう。
 どんな対策を立てたかは全く分からないが、何の用意も無しに試合に臨むなどと言う事はまず考えられない。
 当然第十七小隊の方もそれは分かっているはずだから、ある程度の作戦を考えているのに違いないと思うのだが。

「人数が足らないというのは、戦う前に劣勢に立っている事だからね」
「そ、そうなのか?」
「ああ。レイフォンが無制限で戦えば違ってくるけれどね」
「それは反則だ」

 エドが側にいるからあからさまな事は言えないが、それでもこのくらいは大丈夫だろうと思って口にする。
 その認識はウォリアスも同じらしく、何のおとがめも無しに話が続く。
 そもそもレイフォンの実力絡みの話が拙かったら、ウォリアスの方から振ってくると言う事はないだろうし。

「基本的にレイフォンは強いから、それを最初に無力化するよね?」
「ああ。他に手を出されないように、どっかで足止めするな」

 そのくらいは分かる。
 レイフォンを自由にしておいたのでは、何時後ろから襲われるか分からない。
 ならば撃破出来ないにしても、誰かが足止めしておいた方が良いのに違いない。
 第十六小隊も足止めはしていたが、担当していたのがたった一人だったためにレイフォンに撃破されてしまった。
 これは当時の第十六小隊が五人で編成されていたため、仕方のない選択だったのだろうが、それこそが前回の勝敗を分けたのは明らかだ。
 ならば、今回はもう少し数が多いか、あるいは慎重の上にも慎重を重ねるかのどちらかだろう。

「でだ。第十四小隊の編成は、前衛四支援二念威繰者一だよね?」
「ああ。七人まで戦線に投入出来るからな」

 小隊員候補者も入れるともっと多いのだが、正式な隊員でなければ対抗試合に出す事は出来ない。
 そして、正式な小隊構成員の最大人数が七名なのだ。
 そして殆どの小隊が試合を行う時に、この七人全てを投入している。
 正確に言うならば、最近第十六小隊が隊員を増やしたために、第十七小隊のみが最低人員の四人で試合を行っている。

「ならば、前衛三人でレイフォンを無力化すればいい」
「え、えっと。それだと手が足らないんじゃないか?」

 確かにレイフォンは強敵だが、試合を行う上では自分に制限をかけているので、そこまでどうしようもない相手という訳ではない。
 だと言うのに、念威繰者を除いた戦力の半分をレイフォン一人に振り向けてしまう。
 戦力の集中と言えば聞こえは良いが、逆にレイフォンによって戦力の半分を無力化されているのに等しい。
 結果として他に回す戦力が限られてしまう。
 これはナンセンスだと思うのだが。

「前衛最後の一人で、アントーク先輩を無力化するとどうなると思う?」
「その時は」

 計算上残る第十七小隊の戦力は、狙撃手のシャーニッドただ一人。
 逆に第十四小隊側は、支援役が二人。
 そして、どんな優秀な狙撃手でも、同時に二つの目標を撃つ事は出来ない。
 ここで既に詰んでしまっている。

「僕なら間違いなくこの手を使うね」
「それは間違いない?」

 ナルキが反応に困っていると、突如やたらに元気なミィフィが割って入って来た。
 その瞳は獲物を見つけた肉食獣というか、おやつを見つけた子猫並に耀いていた。
 そして何を期待しているのかも、おおよそ理解する事が出来た。

「僕が作戦を考えるんだったら、そう言う手を使うと言うだけだよ」
「にひひひひひ。それだけ聞けば十分」
「お、おい! な、なにを!」

 そう言うが速いか、席を立ち何処かへと突っ走って行ってしまった。
 なぜかエドを道連れにして。
 ウォリアスの言う事が実際に起こったら、明日はミィフィのおごりで何か食べに行こうかなどと思うナルキは、少々警察官としては堕落し始めているのかも知れないと心配になってしまった。

「で。そうさせないためにはどうするんだ?」
「始めの方で言いましたけれど、数をそろえられないというのはそれだけで劣勢なんですよ」

 変わって話し出したのはイージェだ。
 賭に行くでもなく、第十七小隊が罠を仕掛けるのをじっと見守っている。
 興味津々という訳でもなく、ひたすら暇だから見ていると言った感じだ。
 話しかけたのも多分暇だからだろう。

「それでも何か作戦はあるんだろう?」
「念威繰者がきちんと働くのだったら、機動防御や攻勢防御という手がありますから、十分に対抗出来ますけれど」
「ああ。なら手詰まりか」

 念威繰者が働くというところで、一気に話が終了してしまった。
 フェリが前向きになってその才能を最大限発揮する。
 それは今日いきなりツェルニが爆発四散すると言う事以上にない話だ。
 ナルキがそう思うのだから、イージェが同じように考えても何ら不思議はない。
 それでも他に何かあるのではないかと、ウォリアスに熱い視線が注がれている。
 リーリンとメイシェンから。

「い、いやね。アントーク先輩がシャーニッド先輩の支援攻撃を受けられる位置に、相手の前衛を誘導出来れば話は違うけれど。後はレイフォンとアントーク先輩が一緒に戦うとか」

 その二人の視線に負けたように、ウォリアスが少しだけ違う予測を立てる。
 前の方は割と良い作戦のように見える。
 だが問題はきちんと存在している。
 ニーナが注意を引いてシャーニッドが止めを刺す。
 その逆でも良いが、兎に角確実な連携が必要不可欠と言う事になった。
 これも今の第十七小隊には望むべくも無い。
 あるいは、ニーナとレイフォンが一緒にいることで敵の戦力も集中せざるおえなくなる。
 乱戦になったら隙を突くことも出来るだろうから、第十七小隊に勝ち目が出てくるかも知れない。
 この辺を理解していれば試合は非常に面白くなるだろうが、問題はニーナにそれだけの戦術立案能力があるかと言う事だが、前の試合を見る限りにおいてそれはあまり期待出来ない。
 となると相手の連携が失敗したとか、不測の事態がなければ第十七小隊の敗北は間違いない。
 五回に一回と言ったのはその辺を計算しての事だろう。
 ナルキが考えても、それはかなり楽観的な数字だと思うのだが。
 だが、ニーナが相手をする事になる前衛が十四小隊の隊長だったら話は全く違ってくる。
 防衛側の十七小隊はフラッグを破壊されるか全滅しなければ負けないが、攻めの十四小隊は隊長が倒されたら試合終了なのだ。
 ならばニーナが頑張ってシャーニッドの射線に十四小隊の隊長である、シンを誘い込めれば十分に勝ち目はあるはずだ。

「やると思うか?」
「そんな事が出来るんだったら、勝率は半々になってます」

 そう答えたウォリアスは、少々複雑そうな表情をした。
 わかりきっているはずの対応を取らないと予測出来てしまうニーナに、失望しているのかも知れないし、それに付き合わなければならないレイフォン達に同情しているのかも知れない。
 そして、ミィフィとエドが帰ってくる頃になって試合は始まり、ウォリアスの予想通りの展開になってしまった。
 
 
 
 レイフォンの朝はたいがいにして寝不足だ。
 夜間の機関部清掃をしている以上当然なのだが、それでも今朝はかなり酷い眠気に襲われていた。
 正確に言うならば、久しぶりに一緒になったニーナが振りまく雰囲気が、非常に重かったからだ。
 試合に負けた事を悔やんでいるのかも知れないと思うが、武芸大会に負けた訳でもないのだから気にする必要はないと思うのだ。
 とは言え、とてもそんな事を言える雰囲気ではなかった。
 それ程までにニーナは張り詰めていたのだ。
 断じてレイフォンがヘタレだからと言う訳ではない。
 と言う訳で、何時もと比べられないほどの精神的な緊張を強いられたせいで、非常に眠いのだ。
 登校直後に机に突っ伏して、睡魔という泥沼にはまり込んでしまうくらいに。
 この泥沼を自力で抜け出す事は、恐らく老性体と素手で戦って勝つよりも難しいだろう。

「おっはよう!」
「ぐは!」

 だが、そんなレイフォンの敗戦を救ったのは、昨日の試合で大儲けしたらしいミィフィの放った一撃だった。
 背中を直撃したそれは、全く無防備だったために心臓を一時的に止めてしまったほどだ。
 そんなレイフォンの事などお構いなしに、朝からハイテンションなミィフィは、どんどんとレイフォンに攻撃を放ち続ける。

「なぁにぃ? まさかどっかの幼なじみと遊んでいて、殆ど寝ていないとか?」
「何でそこでリーリンが出てくるの?」

 仕事の関係上殆ど寝ていないのはミィフィも知っているはずなのだが、なぜいきなりリーリンが出てくるか全く不明だ。
 少し後ろでは、エドがなんだか猛烈に睨んでいるし。
 そもそも、リーリンと遊んだとしてもきちんと睡眠時間は取れると思うのだが、やはりまだレイフォンは一般常識が足らないのかも知れない。

「にひひひひひ。なぜか教えてあげぇぇぇ!」

 襟首を引っ張られて持ち上げられるミィフィと、レイフォンほどではないが朝から疲れ気味のナルキが視界に入ってきた。
 もしかしたら都市警の夜勤明けなのかも知れないが、仕事明けにしては微妙に雰囲気が緩すぎる気がする。
 まあ、ナルキの状況は一部不明だが、やや賑やかな感じのする授業前の、教室の中にあって尚、この一帯は更に輪をかけて騒がしいように思える。
 何時も通りイージェも教室の後ろの方で、なにやらカメラを弄んでいるのもいい加減不思議だし。
 レイフォンには知らないことが多くあるようだ。
 それが分かっただけでも収穫だと思えばいいのだろうか?

「話が先に進まないから止めろよな」
「話って、なんか有ったっけ?」

 不思議そうに辺りを見回すミィフィとは逆に、少し溜息をつくナルキ。
 この二人のやりとりを見ていると、なにやら話題というか問題が有ることは間違いないようだ。
 出来れば頭を使う類の問題でないことを願うだけだ。
 だが、昨夜からレイフォンは凶運に付きまとわれているようで、ナルキから出てきた単語は最も恐れていた物の一つだった。

「ウッチンが、試験勉強を始めるとさ」
「! 僕はこれから汚染獣と戦うからとても試験は」

 武芸者を止めて一般人になるためにツェルニに来たはずだが、それでも勉強や試験という単語にはレイフォンを徹底的に痛めつけるだけの威力があるのだ。
 試験と戦うくらいなら、老性体やアルシェイラと戦った方が遙かに増しだと思えるくらいには。
 負けたら死ぬだけで済むし。 
 ・・・・・・。いや。ヨルテムでも武芸者を続けるつもりだから、勉強は要らないのではないだろうか?
 いやいや。それでも一般常識くらいは知っておいて損はないはずだ。
 つい今し方も、知らないことが世の中に多いらしいことを認識したばかりだし。
 そんな事を考えるレイフォンだったが、現実は何処までも過酷だった。

「赤点取って追試になったら、リンちゃんの地獄の特訓とお仕置きの栄養剤だぞ?」
「ぐは!」

 ミィフィの一撃よりも遙かに強烈な攻撃が、レイフォンの心を叩き折ってしまった。
 もう二度と戦えないくらいに。
 机に突っ伏して瀕死の状態をアピールする。
 ニーナの精神攻撃の後だけに、本当に瀕死の重傷だったのだが、世界はとことんレイフォンを痛めつけたいようだ。

「おおっと! こんなところにロッテン家に代々伝わる妖刀、庖丁村正があぁぁぁ!」
「お願いだからそのネタはもう止めて」

 リーリンを暴走させる妖刀もそうだが、なぜかミィフィの周りにはいかがわしい呪いの品がやたらに多い。
 今持っているのも、妖刀とか言いながら、ただの果物ナイフだし。
 だが、侮ってはいけない。
 もしこれがリーリンの手に渡ったのならば、それは恐ろしいことになるかも知れないのだから。
 例えば、果物の皮を剥くようにレイフォンの皮が剥かれてしまうとか。
 一瞬そんな恐ろしすぎる想像が浮かんでしまった。
 と言う事で、全力で消去する。

「と言う事で、今度の休みから始めるそうだから覚悟しておけってさ」
「まだ全然試験期間じゃないよ?」

 と言うよりは、新学期が始まって一月少々。
 試験があるのは二ヶ月近く先の話のはずだ。
 今からやらなくても良いと思うのだが。

「今からやればそれ程詰め込まなくて済むけど、遅くなればなる程密度が上がるそうだ」
「それは嫌だなぁ」
「苦悶式試験勉強術とか言う、恐ろしげな名前まで付いたカリキュラムらしいが」

 勉強の密度が上がる。
 それはあまり歓迎出来ない。
 むしろ絶対に避けて通りたい展開だ。
 なんだか聞くだけで恐怖を覚える名前まで付いているし。
 ならば答えはただ一つ。

「分かったよ。何とか頑張って休日を開けておくよ」
「安心しろレイとん。意識的に用事を入れなければそれで済むはずだ」

 人付き合いがあまり得意ではないせいだろうが、レイフォンの友達はかなり少ない。
 当然だが、清掃の仕事は夜間に限られるので昼間なら殆どフリーだ。
 この先休日の旅にウォリアス先生による勉強が続く。
 ツェルニに居る六年間延々と。
 それはかなりはっきりと辛い出来事なのだろうが、しかし、赤点を取って食事が貧弱になりリーリンの詰め込み授業を受けるよりは遙かにましかも知れない。
 悩みどころである。
 グレンダンにいて天剣授受者だった頃は、多少頭が悪くても何ら問題無く生きて行けた。
 むしろ強ければそれで良かった。
 思えば遠くまで来てしまったと、レイフォンはこの瞬間に思ってしまうくらいに、悲惨な学園生活しか思い浮かべることが出来ない。

「っと、そう言えばウォリアスは?」
「ああ? 昨日の夜図書館に泊まり込んだんだけれど」
「何でそんな物騒なところに?」
「図書館の何処が物騒なんだ?」

 最近ウォリアスと一緒にいることが多いナルキに聞いたところ、なにやら調べ物をしていて思わず泊まり込んでしまったそうだ。
 ウォリアスという人物のことを考えると、それはそれでありなのだが、それはそれは恐ろしい事態が容易に想像出来る。

「何時本に襲われるか分からないのに、何でそんなことしたんだろう?」
「・・・・・・。何時だったか円周率と戦っていたもんな」
「うん。あれは恐ろしい敵だった。倒しても倒しても纏わり付いてきて離れなかったからね。終わりが見えない戦いがあれほど凄まじいとは思いもよらなかったぁぁぁ!」

 話の途中でナルキとミィフィに殴られた。
 かなり力を込めたその打撃は、レイフォンの精神力を根こそぎ奪っていった。
 すでに殆ど瀕死だったのに、これで良く生きていられると思えるほどの打撃だった。

「何するんだよ?」
「悪夢と現実の区別は付けろよな」
「いい加減脳みそを使った方が良いと思うよ」

 二人からの視線は、冷たい物ではなかった。
 むしろ暖かすぎた。
 まるで、水だけ飲んで飢えをしのいでいる哀れな犬を見るような。

「そ、それでウォリアスは?」
「ああ」

 兎に角話題を変えなければならない。
 そうしなければ、レイフォンは自分を無くしてしまいそうだったから。
 その一心でウォリアスが直接告げに来なかった理由を問いただす。

「本棚が崩れて本の下敷きになった。骨折はしていないけれど検査入院だそうだ」
「ほらごらん。何時襲われるか分からない本の側で寝るから」

 これでレイフォンの正しさが証明された。
 自慢げに頷いたのも一瞬。

「ピコ」

 メイシェンの一撃がその自信を粉砕し尽くした。
 その一撃は卵を割ることさえ出来ないはずなのに、レイフォンの心をこれ以上ないくらいに完璧に打ち砕いた。

「め、めい?」
「ピコ」

 振り向いた正面から、再び振り下ろされるハンマー。
 二発目にしてレイフォンはすでに死んでいた。

「レイフォンだって本くらい持ってるでしょう?」

 腰に手を当てたメイシェンが少し怖い。
 そして気が付いた。
 メイシェンが段々リーリン化してきていると。
 これは極めて危険なことかも知れないと思いつつも、レイフォンは自分の用心深さを主張する。

「ぼ、僕は本を出来るだけ遠くにおいているよ」

 本という本を全てベッドから遠いところに押しやっているのだ。
 具体的には部屋の反対の隅っこに、倒れてこないように慎重に積み上げてある。
 これで襲われる危険性を極力軽減しているのだ。
 眠っている間に夢に出てくることもないくらいに、安全な方法だ。
 だが、それを聞いたクラスメート全員の視線が生暖かくなってしまった。

「あ、あう」

 もしかしたら、やはりレイフォンは普通と違うのかも知れない。
 グレンダンで天剣授受者なんかやっていたから、きっと常識が欠落してしまったのだと結論づけた。
 頭を使わなくて良かった世界を懐かしく思うが、それでもそこから出てしまった以上、広い世界を見て回らなければならないのだ。
 それが例え、クラスメートから生暖かい視線で見られることになろうとも。
 
 
 
 昨夜からずっとニーナは考え続けている。
 機関部の清掃でレイフォンと一緒になったが、彼に相談すると言う事は出来なかった。
 なぜならばそれは小隊長であるニーナが解決しなければならない問題だからだ。
 正式に設立された後、初試合に勝利した第十七小隊だったが、汚染獣との戦いを終えてからの、第二戦は見事に敗北してしまった。
 相手は昨年末までいた第十四小隊だった。
 だからこそニーナは張り切っていた。
 シンに見てもらいたかったのだ。
 ニーナがどれだけ強くなったか、第十七小隊がどれほど実力を付けたかを。
 その意気込みで挑んだ試合だったのだが、結果は見事な敗北だった。
 レイフォンという学生とはとても思えない実力者を得た。
 シャーニッドの狙撃能力はツェルニで最も優れているはずだ。
 フェリの念威繰者としての働きは、まあ、それ程問題が有るというレベルではない。
 だと言うのに負けてしまった。
 シンがニーナのことを良く知っているというのは、全く無意味な事柄だ。
 ニーナもシンを良く知っているのだ。
 ならば、なぜ負けたのだろうかと考える。
 作戦負けしていたというのは簡単だが、もし試合の最終局面でニーナがシンを倒していたら、第十七小隊は勝利を収めることが出来ていたはずだ。
 一瞬だが、黒髪を首の後ろで束ねた、細目の少年の顔が浮かんだがその映像を即座に消去する。
 そして結論を導き出した。
 今最もやらなければならないのは、ニーナ自身が強くなると言うことだ。
 レイフォンと出会ってからこちら、かなりきつい鍛錬を続けてきたが、それでもまだ足らないことがはっきりと分かった。
 前回の汚染獣戦の時にも痛感させられたが、ニーナの攻撃力ではまだ足らないのだ。
 攻撃力だけを取った場合、ナルキにさえ及ばないことをはっきりと見せつけられた。
 総合戦力でなら、何とかニーナの方が上を行っているだろうが、それでもそれはほんの僅かな差でしかない。
 何時逆転されるか分からないほどの僅差だ。
 それはニーナの矜持が許さないばかりか、小隊長全員の敗北になってしまうかも知れない。
 そう。小隊長というのは、ツェルニ最強の武芸者である。
 レイフォンのような例外はいるにしても、それが普通だ。
 その前提に立つのならば、小隊長同士の戦いで負けたニーナが弱いと言う事になる。
 それは断じて受け入れることが出来ない。
 ならば話は簡単だ。
 強くなればいい。
 今までよりも厳しい鍛錬を自身に課し、同じような状況になった時に負けないようにすればいい。
 その結論はすぐに出た。
 だが、実際にどうやって強くなればいいのかが分からない。
 練武館での小隊訓練に遅れることを承知で、図書館により様々な武芸の参考資料をあさる。
 だが、当然ではあるのだが、既にニーナが知っていることしか載っていなかった。
 当然だ。
 子供の頃は兎も角として、ある程度成長してからこちら、実際に身体を使うことと共に勉学にも励んできたのだ。
 今更画期的な鍛錬方法など見付かると思った訳ではない。
 再確認をしたかったのだ。
 ニーナ・アントークがやっていることが間違っていないと。
 それを確認して練武館に到着した早々、解散を宣言して全員から変な視線で見られたが、それでも止まることは許されないのだ。
 ツェルニを守るそのために。



[14064] 第四話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:11


 奇っ怪なニーナの行動に驚いたのも束の間、レイフォンはなにやらフェリに拉致されていた。
 歩く度に何時もと違った音を立てる、剣帯に吊された錬金鋼の事が気にはなっているのだが、それを突っ込んで調べるとか考えるとか言う事が、全く出来ない状況に陥ってしまっているのだ。
 シャーニッドが銃衝術を使う事も少し驚きだったのだが、そちらも考える時間は当分なさそうだ。
 そう。フェリに連れ去られているのだ。
 別段力尽くという訳ではないのだが、どうしてか逃げるという選択肢が浮かんでこなかった。
 怖いというのは多分正解なのだろうが、それが何に由来するのか全く分からない以上、迂闊な行動は死を意味しかねない。
 と言う事で、おとなしくフェリの後について歩いている。

「フォンフォン」
「うわ。それ本決まりですか?」

 突如としてフェリから呼びかけられたのは、幼生体戦直後に有耶無耶の内に決まってしまった愛称だ。
 珍獣のようなその名前は出来れば遠慮したいのだが、フェリが考え直してくれると考えることは非常に少ない確率でしかあり得ない。

「嫌なのですか?」
「出来れば違うのが良いかなっと」

 強硬に反対しても良いのだが、それはきっとろくな結果に結びつかないと、ヨルテムからこちらの経験と本能が告げている。
 ならば、控えめな反対こそが最も取るべき選択肢であるように思えた。
 その判断は正しかったようで、小首をかしげつつほんの数秒考え込んだフェリの唇が開く。

「では」
「はい」
「レイレイ」
「・・・・・。大逆転ですね」

 フォンフォンも大逆転的な発想だったが、これは更に大逆転的な発想だと言えるだろう。
 だが、まだフォンフォンよりは増しかも知れないと思っている間に、話は進んでしまう。

「レイちゃん、レイ君、レイッチ、レイタン、レイチン」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「フォンチャン、フォンクン、フォンッチ、フォンタン」

 なにやらとんでもない方向に話が進んでいるように見えるのだが、フェリは既に自閉モードと呼べる状況で、とてもレイフォンの話など聞いている様子はない。
 それ以前に、相当恥ずかしいことになっていると思うのだが気のせいだろうか?
 そんな事を思った次の瞬間、フェリの表情が非常に不機嫌な物となっていた。
 普段無表情なだけに、この変化はあまりにも鮮烈にレイフォンの心に残ったのだが。

「え?」

 その激しい変化のために、全く状況に付いて行けないレイフォンが間抜けな声を出していると、更に険しい表情へと変わって行く。
 そしていきなり蹴りがやってきた。
 戦闘態勢が全く取れていなかったために、もろに脛に一撃を食らってしまった。
 その場で飛び跳ねつつ痛みが引く時間を稼ぎつつ、フェリに向かって抗議の声を上げる。

「な、なにを!」
「これほどの侮辱を受けたのは初めてです」
「ぶ、侮辱ですか?」

 いきなりそう言われても反応に困ってしまう。
 なぜレイフォンが蹴られなければならないのか、さっぱり分からないのだ。

「これだけの恥を私にかかせるとは、貴男は鬼畜ですね」
「・・・・。あの先輩?」
「なんですか?」
「先輩が一人で盛り上がっていただけだと思うのですけれど?」
「・・・・・・・・・・・・・。そうかもしれませんね」

 どう考えてもフェリが勝手に盛り上がって、自滅してしまったように見えるのだが本人的には違うのかも知れない。
 もしかしたら、これもウォリアスが言っていたフィルターを通して世界を見るということなのかも知れないと思いつつ、少しだけ妥協をしてみることにした。

「できれば、フォンフォンかレイレイでお願いします」
「・・・・・。我が儘ですね」
「嘘! 僕が我が儘なんですか?」
「始めからそう言っていれば私は恥ずかしい思いをしないで済んだのです。これを我が儘と言わずしてなんと言うのですか?」

 どうも、フェリの常識とレイフォンの常識には決定的な違いがあるようだ。
 それを知ることが出来ただけでも収穫だったと思えばいいのか、それともこんな人間しか周りにいない不幸を呪えばいいのか。
 非常に判断に苦しむところではあるのだが、その困惑も既に終わりを迎えようとしている。

「あ! では僕はこっちですから」

 帰宅のための分かれ道だ。
 ここで別れれば、明日の訓練までひとまず平穏な生活を送ることが出来る。
 今日はバイトのない日だからニーナの精神攻撃を受ける事もないだろうし、一人部屋なので誰かに引っかき回されるという危険性も少ない。
 明日の授業中が平穏であるという保証は、何処にもないけれど。

「・・・・・・」
「え?」

 だが、歩き出そうとしたレイフォンの足が止まったのは、フェリの猛烈な視線を背中に感じたからだった。
 もし、ここで予定通りの行動をしたのならば、カリアンへの復讐として提案した事柄が、若干アレンジされてレイフォンに向かって実行されることだろうと確信出来る。
 それ程までに恐ろしい視線だった。

「用件が済んでいません」
「ああ。そう言えば、呼ばれただけで話が進んでいなかったですね」

 よく考えるまでもなく、フォンフォント呼ばれただけで愛称の変更へと話題がそれ、そのまま分かれ道まで来てしまっていたのだ。
 これは流石に問題が有ると判断出来てしまう。

「兄が内密な用事があるから、部屋に来て欲しいそうです」
「会長の用事ですか?」

 カリアンがツェルニを救いたいと思っていることは十分に理解しているし、その思いには共感出来るところもあるのは間違いないのだが、いかんせんあの腹黒さはレイフォンにはきついのだ。
 しかも内密な用事となれば、祭りのために協力しろと言うような気軽な内容ではないだろう事は疑いない。

「愛の告白ですね」
「・・・・・・。ヨルテムに帰らせて頂きます」
「冗談です」

 思わず本当に荷物をまとめようとしてしまったほど、それはあまりにも恐ろしい光景だった。
 万が一にでもあったら、ツェルニを破壊してでも逃げ出さなければならないと思うほどには。

「内容は知りませんが、食材を買ってから帰りますので付き合って下さい」
「? 何でフェリ先輩が食材を買うんですか?」
「部屋には材料が何もないからです」

 全く意味不明だったのは一瞬。
 カリアンとフェリは兄妹である。
 ならば一緒に住んでいても何ら不思議はない。
 食材がないというのも、偶然前回の料理で使い切ってしまっただけなのだろうと判断出来る。
 何ら不思議はないので、フェリに促されるがまま買い物に付き合うことにした。
 だが、現実はレイフォンに安息の時間を与えると言う事はしないようだ。

「あの。先輩?」
「なんですか?」

 そしてすぐにまた疑問がレイフォンを支配した。
 あまりにも買い込んだ食材が多すぎるのだ。
 料理は出来るが、量の計算が殆ど出来ないレイフォンから見ても、二人分としては多すぎる量なのだが、すぐに仮説を立てることが出来た。
 きっとまとめて作っておくのだと。
 これならば多すぎるように見える買い物も、それ程驚愕するほどではない。
 二人で食べるのならば、おおよそ四日分と言ったところだろうか。
 会計を済ませて、巨大化した荷物と共にフェリ達の住む寮を目の当たりにしたレイフォンは、今日何度目か分からない驚愕に支配されてしまった。
 明らかにレイフォンの住んでいる寮と比べることが出来ないほど、その建物は立派で大きかったのだ。
 自動扉を抜けた先にあるロビーは、グレンダンの王宮に匹敵するのではないかと思えるほど豪華で、思わず後ずさりたくなってしまったほどだ。

「何をやっているのですか? ぐずぐずしないで下さい」
「あ。はい」

 フェリに促されなければ、きっと回れ右をしていたに違いない。
 それ程に豪華絢爛に見えたのだ。
 そして、自動昇降機に乗り、ロス家の扉を抜けたところで貧富の差をまざまざと見せつけられた。
 二人部屋を一人で使えると喜んでいたのだが、明らかに目の前にあるのは別次元の空間だ。
 扉を入ってすぐにあるリビングだけでも、間違いなく二人用の部屋よりも大きい。
 いや。こういう展開はすでに予測していてしかるべきだったのだ。
 明らかに建物自体立派だったのだから。

「その辺に座っていて下さい。すぐに準備しますから」
「は、はあ」

 そして、部屋に入るとすぐにフェリは食材を詰め込んだ袋と共に、キッチンと思われる場所へと向かった。
 もしかしたら、前回の芸で味を占めたので今回もレイフォンが料理をするかと思ったのだが、どうやら違ったようだ。
 それが良いことなのかどうか非常に疑問ではあるが、取り敢えず言われた通りにソファーに座りキッチンから聞こえてくる音に耳を傾ける。
 食材を冷蔵庫や保管庫に入れ終わったのだろう、キッチンナイフが何かを切る音が聞こえてきた。
 だが、それは猛烈に恐ろしい音だった。
 料理で何かを切る時に、上手い人間がやるとそれは一定のリズムを刻む物だ。
 それを意識していれば、メイシェンが料理をしているのかリーリンがやっているのか、それともナルキかは音で判断出来るほどだ。
 そしてフェリの音というのは、意識しなくても十分にそれだと認識出来る。
 全くリズムを刻まずに、殆ど聞いたことはないが、雨粒が軒から落ちるよりも不規則な衝突音となっているのだ。

「こ、こわぁぁ」

 それは聞いているレイフォンの方が怖くなるほどで、これは大惨事になる前に介入しなければならないと決断させるには十分だった。
 そしてキッチンを覗いたレイフォンは、一瞬硬直してしまった。

「あ、あのぉぉ」
「なんですか? 気が散るので話しかけないで下さい」

 鬼気迫る背中を見せるフェリが、小型のキッチンナイフを握りしめ、親の仇でも見るような視線を芋に向けている。
 だが、その手は恐る恐ると芋を掴み、フルフルと震える手でもってナイフの刃を当てて行く。
 そして、刃を滑らせることもなく力任せに切断されて行くのだ。
 これで良く指が切れないと感心するほどに、危険極まりない切断方法だった。

「一応、一応ですがフェリ先輩」
「なんですか?」

 いったん手を止めたフェリの視線がレイフォンを捉える。
 その視線には恨みでもこもっているのではないかと思えるほど、鋭く冷たく光っていた。
 腰が引けてしまったレイフォンだが、ここは踏ん張らなければならない。

「皮を剥いてから切った方が良いですよ」
「!!」

 それを聞いたフェリの反応から、今日始めて料理をしようとしているのだと言うことを予測出来た。
 何でそんな気になったのか非常に疑問ではあるが、取り敢えず今は現実に対応しなければならないことは間違いない。
 
 
 
 結局のところレイフォンに料理を丸投げしてしまう形になったフェリは、非常に不機嫌になった。
 芸と呼ぶに相応しい分身の術を使っている訳でもないのに、非常に効率よくてきぱきと作業をするレイフォンを眺めつつ、何でフェリ自身が料理などしようと思ったかという疑問も湧いて出てきていた。
 本来の予定では、何処かのレストランで食事をしつつカリアンの用事とやらを済ませるはずだったのだが、今はレイフォンが張り切って料理をしている。
 原因を突き詰めて行くと、どうもフェリ自身も認識していない現象が、心の奥深くで起ったという事は理解出来るが、それがなんなのか非常に疑問だ。
 まあ、その辺はおいおい考えるとして、今問題にしなければならないのはカリアンから来た連絡のことだ。

「兄からです」
「これで失礼!」

 逃げようとしたレイフォンの脛を蹴り飛ばす。
 武芸者のくせに痛みには弱いようで、絨毯の上を悶絶しながら臑を抱えている。
 冗談で愛の告白と言ったのだが、どうやらレイフォンはそれを正直に受け止めてしまっているようだ。
 見ている分には面白いのだが、当事者の一人となると笑ってばかりはいられない。

「生徒会の用事で少々遅れるそうですので、暫く待っていて下さい」
「わ、分かりました」

 絨毯の上で転がっているレイフォンを見下ろしつつ、どうやって暇を潰そうかと考えてしまう。
 既に料理はほぼ完成していて、これ以上進めるとカリアンが帰ってくる頃には冷め切ってしまう恐れがある。
 フェリだけならば本でも読んで適当に時間を潰せるのだが、流石にレイフォンがいる以上それをすることは出来ない。
 逆に待つ対象がカリアンだけだったら、冷め切った料理を出しても全く心は痛まないのだが、ここでもやはりレイフォンの存在が大きく問題になってきてしまう。
 冷め切った料理を出すことを、きっと良くないことだと判断するはずだからだ。

「と言う事で」
「どんな事ですか?」
「心が痛くなければ貴男のことを教えて下さい」
「? 僕のことを話して何で心が痛むんですか?」

 時間を潰すために、慎重に言葉を選んだのだが、生憎と目の前の鈍感大王は全く認識していないようだ。
 キョトンとした視線がフェリへと向けられている。

「グレンダンに帰れない以上、昔話はフォンフォンにとって辛い行為のはずです」
「ああ。なるほど」

 やっと理解したようだが、それも表面的なことだけのようで実感は全くこもっていない。
 気を遣ったフェリが非常に道化のように見えるのだが、これもレイフォンと付き合う以上避けては通れない現象なのだろうと諦める。

「そうですね。じゃあ、僕の兄弟姉妹について少しだけ」
「ええ。辛くなったら私の胸で泣いて良いですよ」
「いや。それは遠慮させて頂きます」

 一瞬レイフォンの視線が、フェリの胸を凝視したように見えたのだが、きっと何かの間違いだと判断してお茶と共にソファーに向かう。
 メイシェンの胸で泣いて良いと言ったら、即座に肯定したのかも知れないと思うと、かなり複雑怪奇な精神状態に陥ってしまう。
 そして思い返す。
 メイシェンのあれと比べたら、フェリのはかなり小さいと。
 
 
 
 予定よりも一時間ほど遅れたが、カリアンはツェルニにおける我が家へと帰り着いた。
 かなり深刻な問題を抱えているとは言え、それでも住み慣れた部屋へ帰ると少しほっとする。
 だが、現状はカリアンの予測すら無視して突っ走っているようだ。
 リビングに到着して、一瞬身体が硬直するほどには想像の外だった。

「でですね」
「・・・。はい」

 なにやらレイフォンが紙に図を書きつつフェリに説明をしているように見える。
 そしてフェリは、それを必死に記憶して理解しようと悪戦苦闘しているように見える。
 念威繰者と言うのは、武芸者のために情報処理を行って、その戦闘を支援するために存在する。
 当然一般人に比べて脳の処理能力は驚異的に高く、記憶能力は比べることさえ出来ないほど高い。
 だと言うのに、レイフォンの話を悪戦苦闘しつつ理解しようとしているのはフェリなのだ。
 これが逆の立場だったら話は全く問題無い。
 あまり優秀とは言えないレイフォンに、フェリが何かを教えようと努力しているというのでも、おおよそ理解出来るし納得も出来る。

「何をやっているのだね?」
「あれ? お帰りなさい」

 何故かレイフォンからしか声が返ってこない。
 これも予想外の事態だ。
 そして更に驚いたことに。

「兄様」
「うを!」

 突如として、涙目のフェリに見詰められたのだ。
 しかも、ずいぶん昔の呼び方でカリアンを呼ぶというおまけ付きでだ。
 唐突な展開に付いて行けず、のけぞって姿勢を崩してしまった。
 ついでではあるのだが、シスコンスイッチが入りそうになってしまったが、これは全くどうでも良いことだ。

「さあフォンフォン。食事にしましょう」
「はい。じゃあ、準備しますから少し待っていて下さいね」

 そう言いつつ、なぜかエプロンを装備してキッチンへと向かうレイフォンと、脱力したように図の書かれた紙を眺めるフェリ。
 ここで聞かなければ、相当先にならないと事実を知る機会がないと判断できる。
 なので、最大限の防御態勢を準備してフェリに声をかける。

「フェリ」
「あれは危険すぎます」
「レイフォン君がかい?」

 確かに、ツェルニ全武芸者で総攻撃をしても勝てないだろうが、人格的には極めてお人好しであり、ある意味ヘタレなレイフォンが危険であるとは思えない。
 だからこそカリアンはまだ生きていられるのだが、フェリから見せられた物は想像を絶していた。

「これは?」

 それは何かの一覧だった。
 恐らく人名らしき物がおおよそ二十ほど書かれている。
 そしてその横には、意味不明の数字がいくつか並び、そしてそのいくつかには意味不明な記号が振られている。
 さらに、なにやら細かな字で色々と書かれているという、非常に奇っ怪な内容の一覧表だった。

「フォンフォンの家族構成を一覧にした物です」
「フォンフォンというのは、当然レイフォン君だよね」

 レイフォンは孤児である。
 そうであるならば、その家族とは同じ孤児であり、相当の人数であることは容易に想像出来る。
 二十人の中には、当然のようにリーリンの名もあり、カリアンの予測が正しいことを物語っていた。

「結婚した人や亡くなった人も含めて、事細かな個人情報があの頭の中にきっちりと入っているのです」
「・・・・・」

 二十人の個人情報が、事細かにレイフォンの頭の中に存在している。
 だが、それだけならばフェリをこうまで消耗させることはなかったはずだ。
 恐らく、カリアンが帰ってくるまでの短い時間に、二十人の十年に及ぶ人生を語られてしまったのだろう。
 そうでなければフェリの今の状態は説明出来ない。
 だが、疑問もある。
 もう二度と会うことが出来ない家族のことを語ったならば、それは相当の苦痛を伴うはずである。
 それなのにレイフォンにはそれが全く見られなかった。
 どちらかというと、非常に上機嫌であるように見える。
 いや。苦痛を伴うという予測自体が間違っているのかも知れないが、それでも今のレイフォンが非常に上機嫌であることだけは間違いない。
 この問題に比べたのならば、人の家のキッチンで腕を振るうレイフォンなど、どうと言う事はない些細な問題である。

「ご飯出来ましたよ」

 にこやかな表情で、エプロンで手を拭きつつ、レイフォンが料理を運んできた。
 腕が六本有ることについては、今更突っ込む気は起こらないのでそのまま流すことに決めたカリアンは、用件は食事の後にすると宣言するに留めた。
 
 
 
 食事が滞りなく終了したところで、カリアンが鞄の中から写真を出してきた。
 今ソファーに座っているのはカリアンとレイフォンの二人だけだ。
 片付けまでレイフォンにさせることには抵抗があるのか、それとも料理に比べたらハードルが低いと判断したのか、キッチンの方でフェリが洗い物をしている音が僅かに聞こえてくる。
 お茶を目の前にしたレイフォンに写真を渡したカリアンの指先が、ゆっくりと表面をなぞって行く。

「前回の幼生体の襲撃で、汚染獣への警戒が不十分だと言う事に気が付かされてね。予算を割いて無人偵察機をツェルニの進行方向へ放ったのだが」
「良いことだと思いますよ」

 ツェルニの戦力では、汚染獣に襲われることは極めて危険だ。
 グレンダンだったら全く問題にならない前回の襲撃でさえ、ツェルニは壊滅の危機にさらされたのだ。

「でだ。最初の偵察機が持ち帰った写真がこれなんだが」
「・・・・・」
「ここに山のような物があるね」

 ゆっくりと写真の表面をなぞっていたカリアンの指が止まった。
 汚染物質の影響だろうが、粒子の粗い写真で非常にわかりにくいが、確かに山のような物が映っている。
 そして、カリアンが指し示したのはその山の中腹付近だ。
 それ以上は先入観を持たせないためだろうが、沈黙を保っている。
 ゆっくりと見る方向や距離を変えて、間違いがないかを確認する。
 いや。間違いであることを期待して散々見詰める。
 洗い物が終わったのか、フェリが隣に座った頃合いになってから、眉間を揉みつつ写真をテーブルに放り出すようにして結論を口にした。

「ご懸念の通りかと」
「・・・。そうか」

 レイフォンの見解も、残念なことにカリアンと同じだった。
 だが、当然二人の会話から取り残されているフェリにはさっぱり分からないようで、放り出した写真をしげしげと眺めている。

「何なのですか?」
「汚染獣ですよ」

 興味半分と言った感じで質問されたので、気楽を装って答えてみたが、当然そんな表面的なことに騙されるほどフェリは愚かではない。
 驚いたように一瞬だけ硬直して、次の瞬間には必死の形相で写真を凝視する。

「山の大きさがはっきりしないのですが、どう少なく見積もっても雄性体の三期とかではないでしょうね」
「そうか」

 ツェルニにある資料と照らし合わせて、既にある程度答えを得ているらしいカリアンはまだ冷静だったが、当然フェリはそうはいかない。
 レイフォンに向けられている訳でもないのに、その小さな身体から凄まじい怒気が吹き出すのを感じる事が出来た。

「貴方はまた!」
「私だって、レイフォン君には武芸大会に集中して欲しいさ。だが、現状がそれを許さない。全く不本意だがね」

 ついこの間幼生体と戦ったばかりだというのに、すぐにまた他の汚染獣と遭遇しようとしている。
 これはもしかしたら、やはりレイフォンの誕生祝いとして世界から送られた祝いの品かも知れない。
 全然嬉しくないけれど。
 それよりも問題なのは、ツェルニ自身の方だ。

「一直線に向かっているんですか?」
「ああ。今のところ進路を変える兆候はない」
「死体だったら良いんですけれど」
「死体だったら何の問題も無く通り過ぎるだけだからね」

 写真に写っているのが死体だったら、何の問題も無いのだが、誕生日云々は兎も角としても、危険であると判断して行動しておいた方が良い。
 汚染獣は、脱皮する時に仮死状態になるらしいことは分かっている。
 もしそうだったら、ツェルニが気が付かずに接近してしまっても何ら不思議はない。
 そして、雄性体三期以降だった場合、ツェルニの現有戦力で対抗出来るのはレイフォンだけだ。
 質量兵器を全て使いきるつもりで挑めば、あるいは勝てるかも知れないがそれは出来るだけ避けたい。
 とは言え、レイフォン自身は戦いたくはないのだ。
 幼生体くらいの雑魚なら兎も角として、今目の前に現れようとしているのはもっと強力な敵なのだ。
 死の危険にさらされるのは天剣時代と同じだが、今レイフォンが背負っているのは孤児院の経営状態ではない。
 生き残らなければならないと言う事に変わりはないが、出来るならば危険は犯したくない。
 折角ダンが取りはからってくれたのだから、ヨルテムに帰って若い武芸者の育成に力を注ぎたいとも思っている。
 そしてそれと同じだけ、ツェルニの武芸者にも伝えたいことが多くあるのだ。

「対策が必要ですね」
「ああ。だが、サントブルグも久しく汚染獣との戦闘が無くてね。感覚的に汚染獣の強さが分からないのだよ」
「・・・・・・。成る程」

 カリアンの言葉にレイフォンは少しだけ自分の異常さを再認識してしまった。
 今のようなやりとりは、グレンダンでは絶対に起こることが無かったからだ。

「今まで戦った中で一番強力だったのは」
「トリンデン君かい?」
「? 何でメイシェンが汚染獣なんですか?」
「いや。私が戦った中で一番恐ろしかったのでね」

 カリアンが遠い目でそんなことを言っているのを聞きつつ、実はレイフォンは少しだけ理解してしまっていた。
 前回の幼生体戦、その時にメイシェンがカリアンを睨み付け続けたという話は聞いた。
 それはミィフィやリーリンの冗談だろうと思っていたのだ。
 だが、カリアンの様子を見る限り、無いと言い切れなくなってしまった。

「それでですね」

 取り敢えず話を元に戻す。
 時間を無駄にしてはいられないのだ。

「老性六期というのとやり合ったんですが」
「勝てたのだよね?」
「ええ。僕達天剣授受者三人がかりで、三日三晩戦い続けて何とか」

 ベヒモトのことは今でも良く覚えている。
 今もしあんな非常識な汚染獣と遭遇してしまったらと思うと、とても生きた心地がしない。
 リンテンスとサヴァリスがいないというのもあるが、何しろ天剣がない。
 レイフォンの剄を受けてビクともしない、対汚染獣戦究極の錬金鋼がなければ、とても実力を発揮することは出来ないのだ。
 となれば、何らかの策が必要不可欠になる。

「一人飛び入り参加させたいのですが」
「一人と言わずにもっと呼び集めて、出来るだけの準備をするとしようか」

 こうして、武芸長であるヴァンゼを含めた汚染獣対策実行委員会が発足することが決定した。
 細目で極悪な武芸者も当然参加予定者に名を連ねている。



[14064] 第四話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:11


 昨晩図書館で不慮の事故にあったウォリアスだったが、いきなりとんでもないことに巻き込まれてしまった。
 自室に帰った直後、かかってきた電話はレイフォンからだった。
 いきなり汚染獣戦についての資料を持っているかと問われて、持っていると即答してしまった。
 そしてしばらく受話器の向こうで何かやっていると思ったら、カリアンが話の続きを始めてしまった。
 最終的にありったけの汚染獣戦の資料を鞄に詰め込み、やって来たのはカリアンが住んでいる寮だ。
 なにやら非常事態らしいのは間違いないので、滅多に使わない活剄を総動員して走ってきて、かなり息が切れているところに、かなり問題ある光景を認識してしまった。
 非常事態なのは間違いないはずだが、いくら広いと言ってもカリアンの部屋に十人を超える人間が集まっては、少々狭いと感じてしまう。
 集まっているのは、生徒会長に武芸長を始めとする、ツェルニを実質的に運営している人物ばかりだ。
 そして異彩を放っているのはやはりレイフォンだ。
 ヴァンゼも含めて頭脳派で占められている中で、レイフォンは完璧に肉体派なのだ。
 実はウォリアスも完璧に頭脳派なので、この異質さはどんどん加速されて行くことだろう。
 だが、実際の問題としてはもっと違うところにあるのだ。

「あ、あのぉぉぉ。フェリ先輩?」
「・・・・。何でしょうか?」

 フェリが展開した念威端子が耀いてウォリアスの周りを取り囲んでいるのだ。
 いわゆる念威爆雷だ。
 一瞬でウォリアスを殺すことが出来るほどに、高密度で高エネルギーな念威端子を見詰めつつ、少々困惑しているのも事実だ。
 いきなりなんでこんな対応されているのか、さっぱり分からないのだ。
 メイシェンのお仕置きがまだ続いているのならば、それはそれで何となく分かるのではあるのだが、既にお菓子は十分供給されているはずなのだ。

「湿布薬の匂いがきついので、外に出ていて下さい」
「ああ。そう言う事ね」

 本の下敷きになったために、骨折は免れたが、それでもかなり酷い打ち身を多数作ってしまった。
 それの対策として体中に湿布が貼られているのだが、当然かなりきつい匂いを周りに放ち続けているに違いない。
 ウォリアス自身は既に慣れてしまっているので全く感じないのだが。

「ああフェリ」
「何ですか?」

 殺意を込めた視線がカリアンを捉える。
 何処か他でやれと言う、無言のプレッシャーだ。
 出来ればウォリアスもこう言う豪華な部屋には長居したくはないのだ。
 レノスにいた時間を思い出してしまうから。

「移動しますか?」
「・・・・。いや。慣れてもらおう」
「不愉快です」
「ごわ!」

 と、何故かレイフォンの脛を蹴り飛ばすフェリ。
 全く意味不明だが、ウォリアスに被害が出なければそれで良いと割り切ることにした。

「それで、汚染獣の資料を出来るだけと言われたんですけれど」

 状況から考えると、ツェルニに汚染獣が接近しているという結論に達したのだが、もしそうだったらのんびりと作戦会議をしている暇はないはずだとも思う。
 ならば相当な異常事態を覚悟していたウォリアスに告げられたのは、やはり相当の異常事態だった。
 そして呼ばれた理由も理解出来た。

「それで勝率を上げるために、僕にお呼びが掛かったと?」
「そうだ。事が事だけに公には出来ないのでね」

 汚染獣に向かって突き進んでいると分かったら、ツェルニは制御不能の混乱に見舞われるに違いない。
 ならば、出来るだけ極秘の内に全てを終わらせるべきだという判断は支持することが出来る。
 そして、最大の戦力であるレイフォンも、天剣がない今は全力を出すことが出来ない。
 そこで白羽の矢が立ったのが、悪事を働いてレイフォンから勝利をもぎ取ったウォリアスと言う事になる。
 だが、レイフォン相手に策略を巡らせるのと汚染獣では明らかに難易度が違う。
 まずはそれを認識してもらわなければならないので、持ってきた情報を開示する。

「取り敢えずこれを再生して下さい」

 持ってきた映像記憶素子をカリアンに渡して、再生する項目を指定する。
 それは、十年ほど前にレノスが遭遇した、雄性体との戦闘記録映像だ。
 この間ツェルニを襲った幼生体とは、明らかに違う巨体と戦力を目の当たりにして、レイフォン以外の全員の顔から血の気が引いて行く。
 レイフォンから見ればそれ程強力な敵ではないのだろうが、それは天剣授受者という想像を絶する怪生物故の認識だ。

「これは、凄いね」

 どんな物を想像していたのか非常に不明だが、映像を見つめ続けているカリアンは今ツェルニが向かっている事態を認識してくれたようだ。
 だが、それも実は少し違うのだろうと言うことがレイフォンを見ていて分かった。

「ちなみに、どれくらいの戦力を予測している?」

 汚染獣戦のエキスパートであるレイフォンが、どんな事態を想像しているかを知っておくのは非常に有意義だと判断して聞いたのだが、とおのレイフォンは一瞬以上考え込んでしまっている。
 これはもしかしたら極めつけというか、想像を絶する最悪の状態かも知れないと思ったのだが、正直聞かなければ良かったと思えてしまった。

「今映っているのは、雄性体三期か四期だよね?」
「ああ。三期だと推定されているね」

 十年前の戦闘に参加した武芸者は、三百二十三名。
 戦死行方不明再起不能合わせて、八十五名。
 再起可能な負傷者が三十二名という、恐るべき被害をレノスに刻んでいったのが、今映像として流れている雄性体四期の戦闘能力だ。
 今のツェルニにこれが来たとしたら、はっきり言ってレイフォン以外は戦力としてあてになるのはほんの数名だけだ。
 だからこそ藁をも掴む感覚で、ウォリアスが呼ばれたのだろうが、レイフォンの表情を見る限りにおいてもっと悪いことを想像しなければならないようだ。

「第二波の偵察機が帰ってくるとはっきり言えると思うんだけれど」
「ああ」
「最低限雄性体五期」

 最低限で、雄性体五期と言われてしまった。
 上限の設定ではなく下限の設定だ。
 だからと言う訳ではないが、溜息をつきつつもう一つの映像記憶素子をカリアンに渡す。
 映し出されたのは、もはや戦闘とは呼べない恐るべき虐殺シーンの連続だった。
 巨大な蛇に、巨大な翅が生えた様に見える汚染獣が、レノスの武芸者の上に自らの身体を叩きつけ、叩き潰し磨りつぶし薙ぎ払うという悪夢の光景。
 レイフォンを除いた全員の顔から表情が一気に消えて行く。
 あえて表題を付けるならば、絶望だろうか?
 凍り付いた空気をその精神力で振り払ったのは、陰険眼鏡の腹黒生徒会長だった。
 だが、それでも完全に振り払えたとはとても言えないようだ。

「出来れば良くできた特撮だと言って欲しいのだがね」

 ある種の期待を込めてレイフォンを見るカリアンの視線は、とても真剣で真摯だった。
 こんな化け物が接近していると思っただけで、生きた心地がしないのは当然なので、特撮である事を望むカリアンの気持ちは分かる。
 それを受けたレイフォンはニッコリと微笑み、そして。

「特撮ですよ」
「ほ、本当かい?」

 突然のレイフォンの一言に、その場に安堵の雰囲気が沸き上がった。
 だが、続いたレイフォンの台詞は、それを木っ端みじんに打ち砕くのに十分だった。
 いや。打ち砕くための前振りだったと言うべきだろうか?

「本物と見間違えるくらいに良くできていますけれど特撮ですよ。何処から見ても老性体一期としか見えないくらい良くできていますね」

 カリアンの希望通りに特撮だとは言っているが、本物と見間違えると言っている。
 明らかにカリアンに対する嫌がらせだ。
 どうもツェルニに来てからレイフォンは、明らかに人が悪くなったようだ。
 誰の影響を受けたのか、その候補に心当たりがありすぎるために、あえて追求は控えることにした。
 カリアンも同じように判断したらしく、ウォリアスへと視線の刃を突き刺す。
 ある意味同じ穴の狢なので、深く追求することはせずにカリアンの質問が発せられた。

「これは?」
「百年以上前にレノスが遭遇した、老性体一期と思われる汚染獣との戦闘記録です」

 その時、レノスに在住する武芸者は千八十五人。
 戦線参加は八百九十七人。
 内、死亡行方不明再起不能者は実に五百九十二人。
 戦力の半数以上が失われた上に、質量兵器もあらかた使い尽くしてしまっていたという。
 ただ一度の汚染獣戦での話だ。
 その後、傭兵団を雇って戦争を乗り切ったり、鉱山でいろんな金属を掘り出したりと、復興作業が大変だったと聞いている。
 ある意味、ウォリアスの人生にとっても、百年前の老性体戦は人ごとではないのだが、今は取り敢えずツェルニが置かれた状況に集中することにした。

「これが老性体か」

 ヴァンゼが絶望的な一言を呟く。
 雄性体三期までだったら、レイフォン抜きでも被害を覚悟すれば何とか勝てるだろう。
 イージェやヴァンゼ、ゴルネオと言った打撃力のある技を持った武芸者を有効活用するために、ある意味生け贄として他の武芸者を差し出すつもりが有ればだが。
 だが、老性体となるとはっきり言って全く別次元だ。
 レイフォン抜きでは勝てない。

「勝てるのかね?」

 誰かがそう呟くのを聞きつつ、ウォリアスの頭の中では既に計画が出来上がっていた。
 誰だって死にたくはないのだ。
 ならば出来るだけのことをして足掻かなければならない。

「情報が欲しいのですが?」
「ああ。必要な物は何でも言ってくれ。出来るだけ用意しよう」

 カリアンの確約を得たので、本の下敷きになってしまって本調子ではないが、それでも全力を出すことを心に決めた。
 
 
 
 ウォリアスが役員何名かと打ち合わせをしている横で、カリアンはいきなり降って湧いた不幸に心の中で散々悪態をついていた。
 ツェルニの滅びを避けるためにレイフォンを武芸科に転科させたというのに、次々とやってくる汚染獣に当然の殺意が湧いてしまう。
 その殺意の内の何割かは、メイシェンに睨まれる事への恐怖の裏返しだが。
 それにしても、老性体という汚染獣の戦闘能力が異常だと言うことははっきりしている。
 そんな異常な汚染獣を専門に倒していた、天剣授受者がツェルニに居るという幸運に喜びを見いだして良いのかと、そんな埒もない事を数分考えてしまっていたのだが。

「お願いというか提案があるのですが」
「? 何かね? 前にも言ったがツェルニのためになることだったら、いくらでも協力するよ」

 突如として、何かを決意したらしいレイフォンが、真剣そのものと言った表情でカリアンに話しかけてきた。
 もしカリアンが乙女だったら、思わず恋してしまうくらいに凛々しく力強いその表情から出てきた提案は、ある意味今のレイフォンにとって当然の内容だった。

「ふむ。小隊員に対して実戦で得た経験を伝えたい」
「はい。僕が帰ってこなくても最低限戦力の上昇になると思いますから」

 レイフォンの一言で、カリアンの思考が一瞬だけ硬直する。
 帰ってこないと言う事はつまり、レイフォンが死ぬと言う事に他ならない。
 そして同時に、汚染獣も倒されてツェルニが生き延びたと言う状況を想定している。
 あり得ない予想ではない。
 そして恐るべき人物に命を削られ続けるカリアン。
 想像しただけで胃に穴が空きそうだ。

「もちろん帰ってきますけれど、外で戦う時には命を都市に置いて行くことにしているので」

 都市に命を置いて行くという表現が、実際にどんな意味を持っているのかカリアンには分からないが、それでも、レイフォンほどの実力者が死を覚悟しなければならないという事は理解出来た。
 そのレイフォンの経験を伝えると言う事は、確かに今現在のツェルニ武芸者には必要なのだろう事が分かった。

「帰ってきてもらわないと、私は胃潰瘍で死んでしまうからね」

 メイシェンに睨まれると言う事は、それは睨まれている時間だけの問題ではないのだ。
 いまだに悪夢を見るのだ。
 幼生体戦からこちら、たまに見るその悪夢のためにカリアンの体重は二キルグラムル程減ってしまっているほどだ。
 汚染獣という敵以上の驚異と言える。

「今ひとつ理解に苦しみますが、万が一に備えるのが武芸者だそうですから」

 当然だが、レイフォン自身も死ぬつもりはないのだ。
 だが、万が一のための準備をしておくこともまた必要だと言う事は、カリアンにもきちんと理解出来ている。
 その万が一の状況が、今目の前に存在しているのだし。

「それと、野戦グラウンドを借りたいのですが」
「あそこで何をするのだい?」

 実戦を想定した訓練をするのかとも思ったが、それは少し違ったようだ。
 そして気が付いた。
 フェリの冷たい視線が延々とカリアンに向けられていると言う事に。
 話の外に置いておかれて不機嫌なのか、それともレイフォンを独占されて不機嫌なのか。
 もし後者だったら、これは非常に嬉しい誤算と言えるかも知れない。
 今のところ確率は高くはないが、思春期の恋愛感情など数年でなくなってしまうことも珍しくない。
 ならば、フェリがツェルニを卒業するまでにレイフォンのハートを確保しておけば、サントブルグは強力な戦力を格安で手に入れることが出来る。
 だがまあ、それはかなり先の話だ。
 兎に角、老性体かも知れない汚染獣の脅威を取り払い、無事に武芸大会で勝利を収めてから全てが始まるのだ。

「技の錆を落としたいんです」
「錆びているのかい?」

 錆と言われて、機関部の防錆用塗料を思い浮かべてしまった。
 もちろんレイフォンが言った錆とは何の関係もない。

「何年も本来の技を封印していたので、上手く使える自信がないんです」
「成る程ね。一人でやれるのかい?」
「いえ。イージェに相手を頼もうかと」

 イージェと言えば、レイフォンと同じサイハーデンの技を受け継ぐ武芸者だ。
 そして、ツェルニの武芸者とは比べものにならないほど、強力な武芸者だ。
 ならば、レイフォンがイージェと戦うことで技の錆を落とそうとするのは正しい判断だと思う。

「無論かまわないよ。ついでに小隊員達にも見せてみたらどうだね?」
「それは恐らく危険です」

 何が危険かは良く分からないが、レイフォンがそう判断しているのならばカリアンにそれを覆すつもりはない。
 現場を知らない人間がしゃしゃり出て、事が上手く運んだ試しがないからだ。
 それよりも、野戦グラウンドのスケジュールを調整した方が良いかもしれない。
 何しろレイフォンとイージェの戦いだ。
 普通に考えて、グラウンドはかなりの被害を被るだろうし、最悪フルリニューアルと言う事まで視野に入れなければならない。

「何時やるつもりだね?」
「出来れば」
「うん?」
「今夜」

 レイフォンから出てきた単語に、かなりの違和感を覚えた。
 今夜と言えば、今からだ。
 既に日は暮れて眠りについている生徒も多いはずだ。
 いや。そろそろ殆どの生徒が眠りについていてもおかしくない時間だ。
 これから始めようというレイフォンの神経がまず信じられない。
 武芸者だからと言う事で納得したとしても、実戦でもないのに暗い中で戦うと言う事は、あまり好ましい展開ではないと思うのだが。

「今からなら確かにグラウンドは空いているだろうが、手元足元が暗いのは少々問題ではないかね?」
「汚染獣戦に昼夜の区別はありませんから」

 当然の返答とばかりに返された。
 汚染獣が夜行性だというはっきりした証拠はないが、それでも昼夜問わずに襲ってくると言う話は聞いたことがある。
 ならば、レイフォンの意見こそが正しいのだろう。

「うぅぅむ。それは許可出来ないね。明日か明後日でどうだろうか」
「そうですね。それで何とか間に合わせます」

 流石に今からでは少々困るのだ。
 明日は試合の予定は入っていないが、それでもあまりにも急激な展開は管理者として少々困るのだ。
 いくらツェルニの存亡が掛かっているとは言え、残り少ないが時間はまだあるのだ。
 
 
 
 二日続けて訓練に遅れてしまったニーナが、第十七小隊に割り当てられた部屋に入ってみると、意味不明な現象が展開している真っ最中だった。
 具体的に言うと、水を一杯に張った洗面器を頭の上に乗せたレイフォンとイージェが、猛烈な速度で斬撃の応酬をしているという、全く意味不明な現象だ。
 レイフォンが青い洗面器で、イージェが赤い洗面器だ。
 全く意味不明なので、取り敢えず視線を横にずらせてみる。
 部屋の隅には、何時も通りにやる気なさげにシャーニッドが寝転がり、脇でフェリが雑誌を読んでいる。
 そこまでは何時も通りだ。
 だが、もう一つ決定的に違うことがある。
 二メルトルに及ぶ巨大な剣のような物を台車に乗せたハーレイが、なにやら熱い視線で斬撃の応酬をしている二人を見詰めている。
 そして、ハーレイの持ってきたらしい剣もかなりおかしい。
 大きさを無視すれば明らかに剣なのだが、それは木で出来ていて鉛のおもりがあちこちにくくりつけられているのだ。
 ハーレイ自身は錬金鋼の調整をすることを喜びとしているが、開発の片棒を担ぐこともあると前に聞いたことがあるし、相方の変人とも少しだけ面識がある。
 恐らくその変人が何か作り、ハーレイがレイフォンに試させて意見を聞くためにあれを持ってきたのだろうと推測を立てたところで、現実逃避のネタが尽きた。

「レイフォン? 何をやっている?」

 取り敢えず、真剣に打ち合っている内の一人へと声をかける。
 他の誰かに聞いて、満足行く答えが返ってくるとは思えなかったし、イージェに話しかけるのは少々敷居が高かったのだ。

「技の錆落としを少々」
「錆落としだと?」

 一瞬何を言っているのか分からなかった。
 レイフォンの技が錆び付いているなどとは思えなかったのだ。
 ニーナを始めとする、ツェルニ武芸者を圧倒する技量を持つレイフォンの、技が錆び付いているなどとはとうてい思えなかったのだ。
 だが、それが勘違いであることをすぐに思い出せた。
 本来刀を使うはずだったレイフォンが、剣を使っていたために、本来の技を封印していたのは知っている。
 刀に持ち替えて時間が経っていないから、ブランクを埋めるために色々やるのは当然の行動だ。
 だが、だからと言って洗面器に水を張って打ち合うなどと言うのは、かなり訳の分からない訓練内容だ。

「無駄な動きをすると、洗面器に張った水がこぼれるんですよ」
「溢さないように動こうとすると確実に力負けするから」
「力の流し方とか重心の取り方とか結構良い鍛錬になりますよ」

 イージェと二人で答えてくれた。
 そしてやっと気が付いた。
 激しく打ち合っているはずなのに、確かに二人の頭の上に乗せた洗面器の水面は殆ど動いていない。
 素人目から見たら芸だろうが、ニーナから見るとそれは間違いなく技だ。
 第一小隊と共に戦ったイージェの戦闘能力が凄いらしいことは分かっていた。
 都市外へ出て母体を倒してきたというレイフォンの戦闘力も、相当凄いのだろうと言う事は予測していた。
 だが、まさかこれほどとは思わなかった。
 そして、この鍛錬方法はニーナにとってもマイナスではないと判断する。
 ならば実行有るのみだ。

「外でやって下さい」

 だが、ニーナが動こうとしたまさにその瞬間、猛烈に冷たいフェリの声が掛かった。
 動こうとしていたからだが急に止まったために、思わず蹈鞴を踏んでしまった。

「な、なに?」

 何故外でやれと言われたのか分からず、フェリを凝視する。
 そして気が付いた。
 シャーニッドがずぶ濡れで寝転がっていることと、横に置いてあるバケツに張った水が結構汚れていると言う事に。
 既にシャーニッドがやって派手に溢してしまったのだろう。
 ニーナは違うと言えればいいのだが、生憎と今やっている二人ほどの洗練された動きが出来るとは思えない。
 ここはフェリに言われた通りに、外でやって被害を最小限に抑えるべきかも知れないと思考したところで。

「そうだ。今日は野戦グラウンドの使用許可が下りたんでそちらで連携の訓練をやるぞ」

 小隊員の誰かに会ったら伝えてもらおうとしたのだが、生憎とここまで誰とも顔を合わせることがなかったために、ずっと言えずにいたのだ。
 訓練室に入ったらすぐに行動に移すつもりだったのだが、いきなり意味不明な光景と出くわしてしまい忘れていたのだ。
 やっと話が前に進んでほっとしたニーナだったが、現実は更に異常な事態へと突き進んでいたようだ。

「すぅぅぅ。ぴぃぃぃぃ」
「zzzzzzzz」

 刀を使い激しく打ち合っているはずの二人から、なにやら寝息らしき物が聞こえてきているのだ。
 思わずそちらへ視線を向けて、そして絶望してしまいそうになった。
 活剄を使わなければ、ろくに見ることも出来ないほどの斬撃の応酬を繰り返しつつ、実際に打ち合っている二人は居眠りを始めてしまっていたのだ。
 しかも洗面器の水は相変わらず微かに揺れる程度。
 どれほどの技量差があるのかを思うと、絶望に胸が締め付けられそうになるけれど、立ち止まることは出来ないと自らに言い聞かせる。
 ツェルニを守るために少しでも強くならなければならないのだ。
 ならば、指を咥えてみているなどと言う事は出来ない。
 全力を持って今二人のいる領域へと到達して、そして追い越さなければならない。
 新たな目標を見いだしたニーナは、そこで困ってしまった。

「どうしたら良いと思う?」

 激しく打ち合っていながらも、居眠りをしている二人をどうやってこちら側に呼び戻すか。
 それは非常な難題だ。
 下手なことをすれば、二人分の斬撃がこちらに飛んでくる。
 それを防げる自信は当然ニーナにはない。
 ふと視界に水の入ったバケツが映った。
 あれを使えば、安全に二人を起こせるのではないだろうかと。
 あるいはフライパンとお玉が有れば。

「却下です」

 だが、再び動こうとしたニーナに待ったが掛かった。
 シャーニッドも先に動いてバケツを確保している。
 これでは手出しは出来ない。
 ならば、やはりフライパンとお玉で。

「! おっと」
「! いけない」

 何か代わりになりそうな物がないか、ロッカールームをあさりに行こうとしたニーナだったが、ここで三度行動を停止せざるおえなくなった。
 何の前触れもなくレイフォンとイージェが起きたのだ。
 そして今まで激しく打ち合っていたのが嘘のように、急激に動きが止まり一瞬だけ静寂が訓練室を支配する。
 すぐに隣の部屋からの騒音が聞こえ出したが、それもすぐに気にならなくなった。

「これは良い鍛錬なんだけど」
「長い間やっていると眠くなるのが欠点かな」

 そんな事を平然という二人。
 今のニーナにはとうてい真似出来ないことをやっておいて、眠くなると言うのだ。
 確かに動き自体は単調だったから、慣れれば眠れるのかも知れないが、そこまで熟達するまでにどれだけの時間が掛かるのか。
 絶望的な気分で二人が洗面器を頭から降ろすのを見ながら、思わず突っ込んでしまった。

「お前らは芸人か?」

 さっきは技だと思ったが、今はもう芸にしか見えない。
 それ程異常なレベルの動きだったのだ。
 だが、二人から返ってきた答えは、更に異常を極めていた。
 いや。それが当然なのかも知れない。

「武」
「芸者」

 何の躊躇もなく言い切られてしまった。
 そして納得してしまった。
 更に納得した自分に自己嫌悪を覚えた。

「本当の達人になると、汚染獣と戦っても水は殆どこぼれないらしいぞ」
「ああ。それは嘘ですよ」
「そうなのか?」
「一度やってみましたけれど半分くらいこぼれましたから」

 更に信じられない話に進んでいるようだ。
 多少目眩がしてきたので、その場をぶち壊して取り敢えず野戦グラウンドに移動することにした。
 訓練の時間は有限なのだと、自分に言い聞かせて。

「そうそうレイフォン」
「はい?」

 野戦グラウンドに出ようとしたまさにその瞬間、何やらやたらに元気いっぱいのハーレイが台車を押して部屋の中央へと出てきた。
 当然、二メルトルを超えるという非常識な木製の剣が乗せられている。

「これを使って見て感想が欲しいんだけれど」
「良いですけれど、もっと小さくなりませんか?」
「うぅぅぅん? 計算上これが限界なんだ。完成してしまえばもう少し小さく軽くできると思うんだけれどね」

 やはりあの変人がなにやら暗躍しているらしい。
 それに付き合わされるレイフォンと十七小隊は、少々では済まない迷惑のような気もする。

「取り敢えず使ってみてよ」
「はあ」
「いやぁ。これ使える人がいてくれて本当に良かったよ」

 確かに、こんな非常識な剣を使える人間がそうそういるとは思えない。
 無理をして使っても、おそらくはさほど意味をなさないだろう事が分かる。
 その証拠に、持ち上げようとしたレイフォンが一度諦めて、活剄を使って再挑戦したほどだ。
 だが、ニーナの認識はかなり間違っていた。

「ぶわ!」

 誰かの悲鳴が聞こえたと思うよりも速く、猛烈な空気の圧力が身体をしたたかに打ち据える。
 気を抜いていたら飛ばされてしまいそうな程の圧力は、レイフォンが軽く振ったように見えた巨剣から放たれた物だ。
 衝剄ではない。
 単に剣が通過したことによって押し広げられた空気の圧力によって、ニーナの身体をしたたかに打ち付ける風が起こったのだ。

「こ、これは洒落にならねぇ」

 イージェさえ慌てて部屋の隅へと避難している有様だ。
 こんな巨大な剣を軽々と振るレイフォンは、本当に凄いと思うのだが。

「な、なんだ?」

 突如として何かが背中を撫でた。
 そのあまりの冷たさに思わず振り返ったことを、ニーナは後悔した。
 気が付いていないのか、レイフォンはなにやら不満げな表情で巨剣を振っているが、今はそれどころではない。
 そしてニーナの視線の先を、惡死惡鬼が通り過ぎて行く。
 長く乱れきった銀髪を揺らし、しずしずと足を運びレイフォンの前に立つ。
 その視線は絶対零度を遙かに下回り、全てを凍らせるためにだけ存在していた。
 だが、その中に宿す魂は、地獄の業火でさえ生温いと思えるほどの高熱を孕み、全てを焼き尽くし破壊するためにそこにあった。

「フェ、フェリ先輩?」

 やっとの事で気が付いたのだろうが、既に遅すぎる。
 必殺を宣言する必要もない視線がレイフォンを捉えて、ツェルニ最強の武芸者をすくませた。
 それはまさに、この世の最悪の全てが宿ったかのような凄まじさだ。

「この髪、毎朝セットするの結構大変なんですよ」
「そ、そうなんですか? な、長いからそうなんですよね」
「ええ。それはもう猛烈に大変なんですよ」

 今のフェリが一人いれば、ツェルニはどんな敵と戦っても圧勝出来る。
 そう確信出来るほど凄まじい気迫をみなぎらせたフェリが、一歩レイフォンへと近付く。
 それと同時に一歩後退するレイフォン。
 レイフォンはやはり凄いと思う。
 ニーナ自身は一歩も動けないどころか、呼吸さえ困難な状況なのに、レイフォンは一歩後退出来たのだ。
 これはある意味賞賛に値する。

「ご、ごめんなさい!」
「許しません」

 ピンク色の舌先が、ゆっくりと唇をなぞる。
 ぞっとするほど美しいその仕草は、レイフォンに向けられた殺意の表れだ。

「あ、あの」

 そしてもう一人勇者がいた。
 ハーレイだ。
 幼なじみで良く知っていると思っていたのだが、まさかここまでの勇者だとは思いもよらなかった。
 今のフェリに話しかけることは、即座に自分の死を意味するという事が分からないとは思えないが、もしかしたらただの蛮勇かも知れないとも思う。

「なんですか?」
「い、いや。レイフォンだって悪気があった訳じゃないんだから、そのえっと。許してあげても良いんじゃないかと」

 徐々に言葉が怪しくなっているが、それでも言うべき事を言ったハーレイの顔色は既に死人のそれだ。
 そしてもうすぐ、ニーナの幼なじみはこの世から消滅するだろう。

「貴方が持ち込んだ物ですよね?」
「うわぁぁぁん! ごめんなさい」

 平身低頭するハーレイとレイフォンを睥睨しつつ、フェリの口の端がゆっくりと持ち上がる。
 明らかにどうやって始末を付けてやろうかと、楽しい計画を構築している。
 全てはこれで終わってしまった。
 そう思ったのだが。

「まあ良いでしょう」

 突如としてフェリが踵を返し、野戦グランドへと歩み去る。
 一気にその場の空気がゆるみ、男二人が脱力してへたり込んでいる。
 これほど恐ろしい体験をするはめになるとは、全く思っていなかったニーナも、一緒にへたり込んでしまった。
 今日の運勢とやらは、最悪だったようだ。



[14064] 第四話 四頁目
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Date: 2013/05/12 21:11


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絶対に何か飲みながら読まないで下さい。
この警告を無視してなお、何か飲みながら読み、起った損害に対しては一切の責任をとれません。
 
 
 
では、先にお進み下さい。
 
 
 
 野戦グランドでの訓練の後、ハーレイの持ってきた巨大な模擬剣の使い方を身体に教えたレイフォンだったが、これで今日が終わったという訳ではなかったようだ。
 いや。もちろんこの後も色々とやる事はあるのだが、一息つくことが出来ると思っていたのだ。
 だが、それもフェリが一緒ではそうそう容易なことではない。
 何時間か前に髪を無茶苦茶にしてしまった以上、報復は覚悟しなければならなかったからだ。
 だが、現実は何処までもレイフォンに過酷だった。

「兄から夕食代をせしめました。儲かりましたね」
「は、はははははは」

 そう言うフェリの視線が命じているのだ。
 これから食材を買って料理をしろと。
 材料費はカリアンが出してくれたので十分な余裕が有るとは言え、今夜も寮に帰らずにロス家で料理をすると言うのは、かなりの問題が有る。
 特にウォリアス絡みで。
 そして、何故か不明なのだが、ウォリアスと一緒にリーリンが食べに来るのだ。
 毎回ではないのだが、時々何の連絡もなくやって来るのだ。
 もし、今夜リーリンがレイフォンの寮にやってきてしまったら。
 明日の朝日を拝めるかどうか非常に疑問だ。
 何故あんなにも不機嫌になるのか非常に疑問ではあるのだが、現実に起こっていることにけちを付けても何ら建設的ではないと自分を納得させて、理不尽な暴力に耐えているのだ。
 逆らうことなどレイフォンには思いもよらない。
 それを言うならば、メイシェンにもフェリにも逆らえない。

「・・・・・・・・」

 逆らえない人間をリストアップすると、全て女性だと言う事に気が付いた。
 ある意味ニーナやナルキ、ミィフィにも逆らいづらい。
 いや。姉や妹たちにも逆らうと言う事が出来ていたとはとうてい思えない。
 黙って悪事を働くという事は出来ていたが、正面切って反抗することは全く出来なかったし、そう言うことを考えることも出来なかった。
 それからすると、アルシェイラを始めとする天剣授受者女性陣には、割と逆らいやすかったことに気が付いた。
 そして絶望的な気分になった。
 既にその逆らえる女性陣はいないのだ。
 思わず溜息と共に涙が出てしまいそうになった。

「何を溜息などついているのですか? さっさと来なさい」
「はい」

 塗擦場に引きずられて行く仔牛のように、トボトボと歩くことしかレイフォンには出来そうもない。
 そして商店街に入ったところで、ある人物と遭遇してしまった。
 いや。遭遇確率は極めて高かったのだが、それがまさか今日だとは思いもよらなかったのだ。
 一瞬の思考停止の後、やっとの事で声をかける。
 心の準備が出来ていないというのは、かなりきつい展開だ。

「や、やあメイシェン」
「れ、れいふぉん?」

 何故か、メイシェンまで動揺著しく、今にも泣き出しそうな瞳が揺れている。
 そしてその視線の先には、何故かフェリがいるのだ。
 汚染獣戦が近付いてきていて、その事をメイシェンに話さなければならないレイフォンと違い、メイシェンには動揺する理由など無いと思うのだが、それでも激しく動揺しているのだ。
 そして逃げ腰なメイシェンに向かい、フェリが一歩前へと出る。

「誤解してもらっては困ります」
「ご、ごかいですか?」
「ええ。私にも責任はありますね」

 なにやら意味不明な会話が進行しているのは分かったが、非常に間に入りづらいような気がしたので、そのままやや引いたところで成り行きを見守ることにした。
 そして、フェリの手が鞄に伸び、何かを掴んだようだ。

「フォンフォン」
「はい?」

 そして呼ばれる愛称。
 メイシェンの前だから良いのだが、いや。それを言うならば既にかなりの人がこの愛称を知っているのは間違いないから今更なのだろうが。
 それでも少々抵抗を感じてしまう。

「少し屈んで下さい」
「? こうですか?」

 軽く膝を曲げてみる。
 フェリの頭の少し上にレイフォンの顎が来ている感じだ。

「上半身をもう少し前に傾けて」
「? こうですか?」

 何をやりたいのかさっぱり分からないのだが、取り敢えず言われた通りにフェリの顔の少し上まで自分の顔を近づける。
 そして驚いた。
 いや。驚愕した。

「あ?」
「い?」

 メイシェンも同じだったようで、驚愕に支配されつつも言葉を何とか絞り出した。
 いきなりフェリの手が伸びて、レイフォンの首の後ろに回したのだ。
 すぐ側にフェリの顔があり、その吐息が掛かる。
 心臓が変なテンポで全力疾走をぶちかまし、全身の血管が拡張して余熱を放出しようと必死に働いているようだ。
 だが、そんな行為をあざ笑うかのようにレイフォンの体温は危険なレベルまで上昇して、その上昇さえあざ笑うかのように事態は進展してしまった。
 首の後ろに回されていた手が前に回り、軽い合成樹脂製の物質同士がぶつかる音が聞こえた。
 そしてフェリが遠のいて行く。
 それに吊られて、銀色の光る細い何かがレイフォンの首とフェリの手を結んでいる。
 いや。現実から逃避するのはよそう。
 鎖だ。
 細くしなやかな鎖が、レイフォンの首からフェリの手に向かって伸びているのだ。
 銀で出来ている訳ではなさそうだが、割と高価らしい事がその光り方で理解できてしまうと言う、なんとも裕福な鎖だ。
 そしてその出発点はと視線を向けて、手で触って確認してみると。

「く、くびわ?」
「ええ。ペットには必要不可欠な装備ですから」

 当然のことを聞くなと言わんばかりに、フェリが平然と答えてくれた。
 あまりの事態にメイシェンに至っては、何のリアクションも取れないで居る。
 そして、最も恐ろしいことなのだが、周りの買い物客の視線がレイフォン達三人に集中しているのだ。
 ある者は蔑みの。
 またある者は羨望の。
 他の者は嫉妬の。
 それぞれの視線がレイフォン達三人に降り注いでいるのだ。

「さあフォンフォン。速く買い物をして食事を作るのです」

 ホレホレと鎖を引っ張られる。
 珍獣みたいなあだ名だと思っていたが、まさか本当にペット扱いされるとは思わなかった。
 だが、いや。だからこそ言わなければならないことがある。

「先輩?」
「何ですかフォンフォン?」
「普通に考えるとですね」
「はい」

 周りの視線が好奇のそれに代わった。
 何とかその視線に耐えてフェリに伝えるべき事を伝える。

「飼い主がペットの食事を用意しませんか?」

 周り中の空気がどよめいた。
 ちらほらと拍手が聞こえたりする。
 そしてフェリの瞳が大きく見開かれた。
 これは思っても見なかった反撃だったのかも知れないと、レイフォンが一瞬安堵の息をついたほどだ。
 これでフェリのペットにならずに済むと。

「そうでしたね。私としたことが迂闊でした」

 なにやら納得したようで、頷きつつレイフォンから首輪を外す。
 そして思考すること一秒。

「トリンデン」
「あ、あう?」
「これを持っていて下さい」

 いきなりメイシェンへ鎖の一端を差し出すフェリ。
 疑問の表情と共に、取り敢えずそれを受け取ったが、すぐに事態はさらなる混乱へと突き進んでしまった。
 あろう事か、フェリ自身に首輪を填めたのだ。
 結果的に言って。

「これで毎日お菓子に不自由はしませんね」

 周りから拍手喝采が聞こえるような気がするが、きっと気のせいだ。
 あまりの事態にメイシェンが呆然として言われるがままに買い物を続けているのも、きっと気のせいだ。
 ついでではあるが、レイフォンが荷物持ちとしてこき使われているのもきっと気のせいだ。
 ペットに指図される飼い主など居ないはずだから。
 
 
 
 成り行き上仕方がないこととは言え、自らをペットにおとしめてしまったフェリだったが、事態はさらなる混乱の渦へと突き進んでいたのだ。
 メイシェン達の部屋に到着した次の瞬間、フェリの後ろにレイフォンが隠れ、その更に後ろにメイシェンが隠れるという、信じられない事態へと突き進んだ原因が、すぐ目の前にいる。
 自分の家に帰れば良かったと思うが、いつカリアンが帰ってくるか分からない状況では、おちおちとレイフォンで遊んでいられないのだ。
 と言う事で、ヨルテム三人衆しかいない部屋へとやってきたが、それはどうやら思っても見なかった成功を収めたようだ。

「フェリ先輩がここに居ることにはあえて突っ込まないわよ?」
「あ、あう」
「はう」

 怯える二人が、更にフェリの後ろへと隠れる。
 こういう事態になるとは思っても見なかったのだが、これはこれで結構楽しい。

「メイと一緒に帰ってくるのも問題無いわよね?」

 目の前で汚染獣以上の脅威となっているリーリンは、きっとそうそう見ることが出来ないはずだから。
 だが、今の体制は少々窮屈ではある。
 メイシェンに持たれた鎖が間接的にフェリの首を絞めているのだ。
 なので、事態を更に混乱させつつ、フェリ自身の身の安全を確保しなければならない。
 先の尖った黒い尻尾を機嫌良く振っているミィフィや、疲れ切った老人のようにソファーに座り込んで全てを見なかったことにするつもりのナルキ、カメラを持ったイージェとウォリアスはきっと傍観者に徹するつもりだろうから。

「でねレイフォン?」
「はう」
「何でフェリ先輩が首輪なんかしているのかしら? 私はそれを是非とも聞きたいのよ? 分かるわよね当然?」

 右手に持った果物ナイフに異様な輝きを宿しつつ、にじり寄るリーリン。
 普通に聞かれたのだったら、当然正直に答えることが出来るだろうが、生憎とただ今現在、レイフォンに平常心など存在していない。
 と言う事なので、ここぞとばかりに虐めてみる。

「フォンフォンがあんな事をするとは思いませんでした」

 次の瞬間、部屋が凍り付いた。
 それはもう、時間さえ止まったかと思うほど完璧に。
 リーリン以外は割と楽しい見せ物程度の雰囲気だったのだが、それが一気に変わってしまったのだ。

「私にあんな屈辱を与えて悦に入るなんて、とても信じられません」

 もちろん、フォンフォンという愛称絡みの自爆のことを言っているのだが、周りの人間がそう取るはずはない。
 そう。激昂し続けているリーリンならばなおさら。

「へ、へえ。そんな事も出来るんだレイフォンは?」
「は、はう」
「偉いねレイフォン?」

 偉いねと言いつつも、持った果物ナイフだけでレイフォンを解体処分する気満々だ。
 各間接部の靱帯や筋肉を切断していって、何個目で死ぬかとか平然と賭けそうな雰囲気がある。
 流石に汚染獣が接近している今そんなことをされたら、フェリ自身が死んでしまう。
 と言う事でネタをバラして事態を収拾しようとしたのだが。

「うんうん! 流石レイとんだ! 女の子を辱めて悦に入るなんてそんな外道な行為、そんじょそこらの男子には出来ないよね!」

 何か映像記憶装置を弄びつつ、ミィフィが元気いっぱいに叫んでしまった。
 どうやら前科があるようだ。
 まあ、ツェルニが危機的状況に無ければフェリももっと遊んだだろうが、これ以上は危険すぎるのだ。
 だからリーリンの手を取り、そして告げる。

「冗談です」
「・・・・? どの辺から?」
「始めから」

 あまり事態を混乱させすぎて、夕食が食べられないという事態は避けたいし、何よりもデザートを取り上げられるという制裁は絶対に回避しなければならないのだ。
 そして何の予兆もなく暴走状態から回復するリーリンと、安堵の息をつくレイフォン。
 そうすると当然何故フェリが首輪などしているかという疑問がわき上がってくる訳で、懇切丁寧に事実を語る。
 それに納得する一同。
 だが、実はまだ問題は解決していない。
 フェリの夕食を誰かに作ってもらわなければならない。
 と言う事で見回す。
 料理が出来るのは当然メイシェンにリーリンにレイフォン。
 可能性があるのはナルキとウォリアス。
 ミィフィとイージェに期待することは地獄を見ることと同義だろうから、考慮の対象外だ。
 そして天恵が降りてきた。
 愛玩動物と料理をする人を、別々に確保すればいいのだと。
 そして見回す。
 メイシェンは実に小動物チックで、首輪も非常に似合いそうではあるが、生憎とお菓子を作ってもらわなければならないので却下だ。
 次にリーリンだが、こちらは愛らしいとか可愛らしいと言うよりも、どちらかというと清純と言った感じだし、やはり料理をしてもらわなければならないので却下だ。
 ナルキだが、はっきり言って凛々しいという言葉がピッタリ来る以上、愛玩動物としては残念ながら不適格だ。
 ミィフィに視線を向けてみるが、その行動を観察していると楽しそうではあるが、少々気性が激しすぎる気がするので却下だ。
 イージェとウォリアスだが、考慮の対象外。
 となるとやはりレイフォンしか居ない。
 先ほどの首輪もこれ以上ないくらいに似合っていた。
 だがここで問題になるのは、やはり料理が出来るという特殊技能。
 だが、今日二度目の天恵がフェリの中に舞い降りてきてしまった。
 そのあまりの恐ろしさに、自らの口元が歪むのが分かる。
 ニヤリと。
 おもむろに首輪を外しレイフォンに付け直す。
 驚いて固まっている姿と相俟って、あつらえたかのようによく似合う。

「決まりました」
「な、何がでしょうか?」
「やはりフォンフォンは私のペットです」
「い、いや。それだと僕のご飯をフェリ先輩が用意しなければならないと」
「私に料理をさせたいのですか?」
「・・・・・。とんでも御座いません」

 前回の料理風景でも思い出したのか、レイフォンの顔から血の気が引いて行くのが分かった。
 そして、やっとの事でフェリに料理させると言う事が何を意味するのか、理解してくれたようだ。
 これで外食に頼らずに済むと少しほっとする。
 実は誰も料理をしないロス家の生活が、フェリに家庭料理に対する望郷の念を呼び覚ましていたのだ。
 ある意味ホームシックと言って良いかも知れない。
 実家のコックが作ってくれた料理の数々を夢見てしまうのだ。
 だが、その苦しみも今日で終わりだ。
 これからはフォンフォンがフェリの食事の面倒を見てくれるのだから。

「あ、あう。レイフォン」
「落ちたわねレイフォン」

 メイシェンとリーリンの視線がレイフォンに突き刺さり、そうでなくても情けない表情が、更にもの悲しくなっているような気がする。
 少しだけ。ほんの少しだけ胸がキュンとなってしまったような気がする。
 なのでそっと視線をそらせる。

「そ、そんな酷いですよフェリ先輩」

 懇願の視線で見られているような気がする。
 これは少々居心地が悪いが、断固としてレイフォンを確保しなければならない。
 なので、思いついた事を並べて煙に巻く事にした。

「これはF理論で説明出来る現象です」
「F理論ですか?」

 突如出した単語に戸惑うレイフォンと、その他の皆さん。
 ここで弱みを見せてはいけないので、堂々と胸を張って説明を続ける。

「縦、横、高さと時間の四つの次元。そしてそれに絡み付く、小さな七つの次元を持つこの世界の基本は、信じられないほど小さな紐です」
「いや先輩。それってM理論ですって」

 当然予測していた通りに、ウォリアスの突っ込みが入った。
 だが、ここをなんとしても乗り切らなければならない。

「そのM理論に変数Fを加えることによって、この世の不条理と理不尽を数学的に、全て解き明かしたのがF理論です」

 部屋中をどよめきが支配する。
 そして更に止めを放つ。

「数学的に解明されたそのF理論に乗っ取れば、フォンフォンは私のペットでありそしてコックなのです」

 勝った。
 小さく胸の中で勝利を宣言した。
 あまりのことにレイフォンは思考停止状態だし、他の人達もただ一人を見詰めている。
 その一人は永遠の謎に挑戦する哲学者のように、そっと静かに考え込んでいる。
 その沈黙は今まで騒然としていた部屋の空気を、生まれてからこれまで感じたことの無いほど静かな世界へと変えた。
 そして実に二分十三秒。
 ゆっくりとウォリアスがレイフォンを見る。

「レイフォン」
「な、なんだよ?」
「数学的に正しいのならば、それは最低でも間違っていないんだ」
「お、をい!」
「だからお前、フェリ先輩の専属コックでペットだ」
「お、おいぃぃぃぃ!」

 分かってやっている人間だけに始末が悪い。
 思考停止状態の最中にそんなことを言われたレイフォンは、当然のように慌てふためき混乱し、そしておろおろと辺りを見回している。
 後一押しだ。

「さあ珍獣フォンフォン」
「ち、珍獣ですか?」
「ええ。飼い主のために必死にご飯を作る珍獣です」
「む、無茶苦茶ですよ!」
「F理論で説明出来ますから、全く持って正しいのです」

 あわあわと取り乱すレイフォンを眺めつつ、他に気が付いている人間がいるかと辺りを見回してみる。
 当然ウォリアスは最初から気が付いて乗ってきているので除外だが、後はミィフィだけが楽しそうにフェリとレイフォンを観察している。
 この混乱の内に全てを終わらせた事に、少しだけ自分を褒めてやりたくなってしまった。
 そんな中、生け贄になった少年の視線が、やっとの事でフェリを捉える。

「あ、あの先輩?」
「何ですかフォンフォン?」

 あまり表情が動かないが、それでも全力で優しげな視線で見詰めてみる。
 視線を真正面から受けて、あっさりと取り乱すレイフォン。

「そ、その」
「はい」
「Fって、何の頭文字ですか?」

 結構痛いところを突いてきた。
 視線が定まらないというのに、頭の中はまだ混乱しているはずだというのに、それでも本能的に急所を突いてくるとは、流石珍獣である。
 だが、それに対する防御は完璧だ。

「知りたいですか?」

 一転ニヤリと笑ってレイフォンに問い返す。
 そのまま答えたとしても全くかまわないのだが、このくらいは選択させても問題無い。

「・・・・・・・・。滅相も御座いません」
「では、速くご飯の支度をして下さい」
「うわぁぁぁぁぁん」

 重い足を引きずりつつキッチンへと歩むレイフォンは、まるでゾンビのようだった。
 こうしてフェリの食生活は、驚異的に豊になったのだ。
 
 
 
 珍獣フォンフォンが泣きながら食事の準備を始めたのを眺めつつ、その片棒を担いでいながら完全に高みの見物を決め込んでいるウォリアスは、実は違うところで頭を使っていたりもした。
 F理論がどうのと言うのは、実はメイシェン対策のためにとっさに話に乗っただけだったのだ。
 そして、今のやりとりで一応の方向性を見いだすことが出来た。
 やはりここはメイシェンに頼るしか無いのだ。
 矛盾しているように見えるのだが、それ以外に有効な方法を見つけることが出来なかった。

「メイシェン」
「あ、あうぅぅ?」

 泣きながら料理をしているレイフォンの後ろ姿を見つつ、心ここにあらずという雰囲気の少女に声をかける。
 いや。実際レイフォンの首輪姿はなかなか似合っているので、これはこれで良いのかと思うウォリアスと違って、メイシェン的にはあまり好ましくないと思っているのだろう。
 まあ、十分以上に気持ちは分かるのだ。

「あのね」
「あう?」
「今度、非常食としてレトルトのシチューを作ろうという計画があってね」
「あう?」

 まだ取り乱し気味だが、少しずつ現実に戻ってきているようで、瞳の焦点がウォリアスに合いだしている。
 と同時に、なんだか敵意がこもってきているようにも思える。
 当然では有る。

「それでメイシェンにも作って欲しいんだ」
「な、何故私なんですか?」
「いや。いろんな人に作ってもらって、試食してもらってからどれにするかを決めるんだ」

 嘘であるが、これはこれでなかなか上手いやり方だと思う。
 それに、好評だったら本当に売り出しても良い。
 まだ迷っているように見えるので、念押しというか駄目押しをする。

「試食役はレイフォンに頼もうと思っているんだ」
「レイフォン?」
「ああ。金欠病に犯されているレイフォンなら、どんな不味い物でも食べるだろうから」
「・・・・・・」

 失言に気が付いた。
 メイシェンから出ている敵意が少しきつくなってしまった。
 いくら金欠病に取り憑かれているとはいえ、身体が資本の武芸者なのだから食事には気をつけているはずだし、そもそもメイシェンが管理をしているような物だ。
 試食に不味い物を食べさせるというのは、少々問題がある。
 もったいないので全部食べる事は間違いないが。
 それはさておくとしても、このまま怒らせてしまっては、安眠が遠のいてしまうので何とか軌道修正を図る。

「そもそも、都市外作業の携行食というのも視野に入っているんだ」
「都市外?」
「そ。鉱山とかでの作業で持って行くやつね。都市外での戦闘経験が多いレイフォンだから、適任だと思ってね」

 都市外での戦闘は数日に及ぶことがあるから、レイフォンも非常用テントとかでの食事は経験しているはずだ。
 ならばこそ、そこでどんな事を思ったかとか、何が便利で何が使いにくかったかと言う事は、都市外活動用の非常食を考える上で非常に有益だ。
 もちろん、戦闘中にレトルトとは言えシチューなど食べている暇はないが、往復の時ならば十分に可能だと思う。
 それよりも何よりも、最も問題なのはメイシェンなのだ。

「と言う事で、レイフォンに試食させるためにレトルトシチューを作りたいんで、協力してくれるかな?」

 細い眼を更に細めて、更に小首をかしげてメイシェンにお伺いを立てる。
 断るとは全く思っていないが、本人の意志を最大限尊重したいのだ。
 ウォリアスが見詰めていると、懐に右手が伸びて行くのが見えた。
 まさかいきなり銃撃とか言う展開を予測したが、出てきたのは何故か基礎状態の錬金鋼。

「レストレーション」
「へ?」

 復元鍵語と共に、メイシェンの手の中で爆発的に大きさと質量が増えた。
 一般的に錬金鋼とは武芸者の武器であるが、音声言語と剄紋を登録しておくことで一般人でも使うことは出来る。
 武芸者しか持たないのは、あまりその必要がないからに他ならない。
 胸のポケットの中に錬金鋼をしまっておいて、いざという時に復元して使うなんてことが必要なのは、おおよそ武芸者くらいな物だ。
 犯罪に巻き込まれた一般人が持っていたら便利だが、念のための保険にしては金額が高すぎるのが問題で流行ってはいない。
 まあ、つまり、メイシェンが持っていることが不思議ではないと言う事は出来るだろうが、意表を突かれたことだけは事実だ。
 そして更に恐るべきことに、復元されたそれは鋼鉄錬金鋼製の刀だった。

「って、ちょっと待った!」

 刀身はレイフォンの刀に比べて、遙かに薄く短い。
 短刀というカテゴリーに入るだろう。
 だが、その全長や薄さに比べてかなり幅がある。
 巨大な包丁かと思えるほどのシルエットだ。
 そして切っ先付近に設けられた、重量軽減のための樋。
 何よりも特徴的なのは、その薄さに不釣り合いなほどの大胆さで打たれた刃文。
 どれだけ優れた技術を持った刀工が作り上げたか、その刃文の入れ方だけで十分に分かる。
 そしてそんな凄まじい技術を持った刀工は、たった一人しか知らない。

「庖丁正宗」

 そして、その短刀のなを呟く。
 いや。もちろんオリジナルではない。
 錬金鋼で有る以上複製であるのだが、名刀中の名刀と呼ばれるそんな幻の一品を持っていることが、全く信じられない。
 データーさえあればいくらでも量産出来るとは言え、その薄さ故に使いこなすことが非常に難しく、滅多に見られるものでは無いのだ。
 そもそも短刀というサイズからして、武芸者はあまり持ち歩かない。
 更にメイシェンが持っていて、しかもこのタイミングで取り出すという意味が分からない。

「おお! それはまさに庖丁正宗! それを使って料理をするのか!!」

 何故か絶好調なミィフィが非常に喜んでいる。
 そして理解した。
 この名刀中の名刀は、まさに包丁としてメイシェンによって使われているのだと。
 さぞかし凄まじい切れ味だろうが、料理に使うことにも疑問を感じる。
 メイシェンが使うには、明らかに大きすぎるし重すぎるのだ。
 思わず目の前が暗くなってしまったが、やる気になっているらしいので何とか変な突っ込みは控えることにした。
 このシチューが、もしかしたら決定打になるかも知れない。
 そう思って、名刀を持ってキッチンへと向かうメイシェンの、勇ましい後ろ姿を見送った。
 それはまさに戦場に向かう戦士のようだった。

「・・・・・・」

 そして視線を感じた。
 リーリンの物問いたげな視線を感じたのだ。
 鋭いところがあるから、もしかしたら何か気が付いたのかも知れないと思ったのだが。

「私も参加して良い?」
「クラハム・ガーみたいな、油こってりは駄目だよ」

 危惧した方向で進まなかったので、何とか冷静に対応することが出来た。
 もしかしたら対抗意識があるのかも知れないが、別段実害があるわけではないので念のための注意をしつつ了承する。

「分かってる。あれは流石にレトルトには出来ない物ね」

 二日酔いの時に見たあれは、流石にトラウマ物になっているのか、身震いしつつもメイシェンとレイフォンがいるキッチンへと足を進めるリーリン。
 それはすでに戦場の様相を呈し始めた、まさにキッチンスタジアムだった。
 誰が最も美味しい物を作れるかという、熾烈を極める戦いの場だ。
 これはやはり、オスカー辺りと相談してゆくゆくは商品化しようかと、思わぬところで拾い物をしたウォリアスは、こっそりと捕らぬ狸の皮算用などしつつ、夕食が出来るのを待つことにした。


 豆知識。
 F理論
 M理論とは、星の動きのような大きな事柄を説明できる相対性理論と、原子核の中で何が起こっているかという小さな世界を説明できる量子物理学、その二つを統一して、一つの理論で宇宙を説明しようとしている理論の事。
 この世界を作っているのは、信じられないほど小さな一種類の紐であり、振動する周波数で色々な現象を起こすという内容。
 このM理論が成立するためには、縦横高さと時間の四つの次元、それに絡みつく小さな七つの合計十一個の次元が必要であるとされている。
 だが、亜空間増設機やオーロラフィールド、ゼロ領域などがある世界には、全く通用しない。
 そこで提唱されたのが、M理論に変数Fを加える事によってあらゆる不条理や理不尽を数学的に説明しようとするF理論だ。
 超統一理論として期待されているが、何故か特定の少年を虐める事にしか使われていないという、悲劇の超理論である。

 珍獣フォンフォン
 霊長類人科に属する、大変珍しい獣である。
 現在ただ一個体しか確認されていない。
 特色として、飼い主のために献身的に家事をすると言う事が分かっているが、他は全く分かっていない謎の珍獣である。

 庖丁正宗
 正宗名刀中の名刀として、現在国宝指定を受けている。
 映像でしか見た事がないが、まさに包丁的な外見をしている少し変わった短刀である。
 メイシェンの錬金鋼はこれが原型であるが、一般人が復元できるかどうかについては原作に明確な記述がないために、勝手な解釈が含まれている。

 ついでに、レイフォンの刀について。
 こちらも明確に記されていないが、刀の特色から考えると正宗であると思われる。
 と言う事で、復活の時でもそれに沿った設定で進む予定。



[14064] 第四話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:12

 
 機関清掃のバイトを終えたニーナは、寮へと帰る道には付かずにそのまま外縁部へと向かった。
 これが初めてという訳ではない。
 レイフォンに手も足も出ずに負けてから、度々こんな事をやって来た。
 だが、対抗試合でシンに負けてからこちら、殆ど毎日外縁部での訓練を自らに課してきた。
 全てはツェルニを守るため。
 何故かレイフォンと機関部で会うことが少なくなっているが、それも今はどうでも良いことだ。
 外の荒涼とした世界を見ることが出来る、ある意味世界の最も外側に立ったニーナは、バックから錬金鋼を取り出して復元。
 基本となる形を始め、攻撃と防御の形を、延々と繰り返す。
 全ての動作は既に完成されている。
 それを繰り返すことで何が変わるか全く分からないが、それでもほんの少しだけでも強くなれるのだったら、やる価値は十分にある。
 そう信じて双鉄鞭を振り続ける。

「はあはあはあはあ」

 剄息が乱れて、思うように剄を練ることが出来ないが、それでもなんとか身体を動かし続ける。
 だが、いくら活剄で補っているとは言え、休息を取っていない身体は限界に近付いているのも確かだ。
 始めてまだ十分ほどしか経っていないというのに、既に足が震えて満足に立つことが出来なくなってきている。

「私は、負ける訳にはいかないんだ」

 そう呟いたが、剄息が乱れている身体はもう、殆ど言う事を聞かない。
 双鉄鞭が手から滑り落ち、身体が地面に向かって倒れる。
 そのまま風になぶられるまま横たわる。
 鼓動はもはや外界の音を全て打ち消すほど激しく、呼吸すれども全く酸素が身体に回らない。
 レイフォンのようになりたいとは言わない。
 他の全てを捨ててあれだけの強さを得たと分かるから、そこまでの力を望んではいないのだ。
 だが、目標としては十分だ。
 卑怯な手を使われてウォリアスに一敗を喫しているとは言え、ニーナやゴルネオ、ヴァンゼの攻撃を全く寄せ付けないレイフォンの強さにあこがれている自分を認識している。
 だからこその鍛錬なのだ。
 だが、いくらやっても差が縮まったとは思えない。
 それでも続けるのは、ツェルニが笑ってくれるからだ。
 今日も中心部から逃げ出したツェルニが、ニーナに会いに来てくれた。
 そして笑ってくれたのだ。
 ツェルニがあの姿でなければ、きっとニーナは今のような心境には、なれなかっただろう。
 それは恐らく間違いない。
 そんな心の狭いことも認識しているが、それでもニーナは鍛錬を続けるしかないのだ。
 洗面器を頭の上に乗せての鍛錬も試してみた。
 開始二秒で殆どの水がこぼれてしまった。
 何度試してもほんの数秒しか持ちこたえることが出来ない。
 と言う事で、洗面器を使った鍛錬は現在中止している。
 困った時には基本に立ち返る物だ。
 だからニーナは基本中の基本である形の鍛錬を続けている。
 きっと明日にはもっと強くなっていると信じて。

「よし! ?」

 呼吸が落ち着いてきたのを確認して、そして立ち上がろうとしたまさにその瞬間。
 何かが首筋に触れた。
 そしてその何かは、抵抗なくニーナを持ち上げ始めた。

「な、なに!」

 驚愕して暴れてみるが、錬金鋼はまだ掴んでいなかった上に、首を捕まれて持ち上げられているために、攻撃が全く届かない。
 混乱して嫌な想像が頭をよぎった。

「誰が何をやっているのかと思えば」

 暴漢かと一瞬だけ恐怖に身がすくんだ次の瞬間、良く知った声がすぐ後ろからかけられた。
 第五小隊員のオスカーだ。
 何故こんなところにいるのか非常に疑問だが、それでも少しだけ安心出来た。
 そして自己嫌悪に陥ってしまった。
 暴漢に襲われたと思った瞬間、恐怖に身体が硬直してしまった。
 そしてオスカーだと知って安心して力が抜けてしまった。
 小隊長を勤めるほどの武芸者であるはずの、ニーナがだ。
 そんなにニーナは弱くないはずなのに。

「このところ外縁部で変な剄の波動がすると思って見に来てみれば、アントーク君が無駄な努力をしていたとはね」
「む、無駄!」

 だが、そんな思考もオスカーの台詞で吹き飛んでしまった。
 一気に活剄を爆発させ、身体を捻り拘束から離れる。
 地面に落ちていた双鉄鞭を拾い上げて構える。
 努力を無駄と言われて落ち着いていられるほど、ニーナは穏やかではないのだ。

「ほう? その身体でまだ動けるとは驚いたが、そこまでにしておいた方が良いな」

 武器を向けられているにもかかわらず、全く動じることのないオスカーを今夜始めて視界に納めて、そしてニーナはいきなり硬直してしまった。
 白衣だったのだ。
 いや。コック姿だったのだ。
 当然剣帯などしているはずもなく、錬金鋼も持っている気配はない。
 だが、それでもオスカーは分厚い壁としてニーナの前に立ちはだかっているのだ。
 そしてその壁は、ゆっくりと拳を持ち上げた。

「どうしたね? 私の言ったことが気にくわないのならば、その錬金鋼で反論してみたらどうだね?」
「っく!」

 無駄という言葉に反応して思わず構えてしまったが、相手はオスカーだ。
 人望も実力もゴルネオに劣る訳ではなく、後輩を育成することの方が重要だと判断したからこそ、小隊長を譲った人物だ。
 前回の汚染獣戦でも、ほぼ単独で十二体を倒している。
 はっきり言って格上の人物だ。
 勝てる見込みはないが、それでも無駄と言われたことには甚だ怒りを覚えている。

「良いのですか? 私は武器を持っていますが?」
「言ったはずだよ。無駄な努力だと。無駄なことをしている時点で私の敵ではないよ」

 余裕だ。
 それに引き替え、確かにニーナの体調は万全だとは言えない
 だが、それがなんだというのだという気持ちも有る。
 だからニーナは、活剄を最大限に動員して双鉄鞭を胸の前でクロスさせた。
 突進しつつ振り抜くことで、最大限の攻撃力を発揮するために。

「無駄だと言ったはずだよ」

 ニーナの状況が分かっているはずだというのに、全く動じることなく緩やかに構えるオスカーをしっかりと見据える。
 そして次の瞬間、ため込んだ剄を爆発させて突進した。

「無駄だと言っているのだよ」

 同じ台詞を続けて使って疲れたといった口調のオスカーが、微かに横にそれた。
 当然、全力で突進したニーナの攻撃は掠りもせずに無駄に終わった。
 だが、避けられることは予測済みだ。
 足を踏ん張り急制動をかけて、身体を回転させて第二撃を放とうとした。
 そして見たのは、オスカーの右手人差し指が鼻先に押し当てられるという物だった。
 思わず絶句して硬直する。

「兎に角、寝ていなさい」
「っが!」

 右手人差し指に気を取られたニーナの鳩尾に、凄まじく重い一撃が打ち込まれた。
 オスカーの踏み込みによって、大地が揺れニーナの身体が軽々と空中に持ち上げられる。
 双鉄鞭が手から零れ落ちるのを、何処か他人事のように思いつつ、ニーナの意識は吹き飛んでしまった。
 
 
 
 次に目覚めたのは、なにやら掃除の真っ最中のことだった。
 五人が組織的に動き回り、無駄なく的確にそして何よりも迅速に掃除が行われている。
 それは、完成された何かだった。
 その中心にいるのは、当然のようにオスカーだ。
 コックの姿は先ほどと同じだが、その視線だけは試合に臨む武芸者のそれだった。
 本人もモップを動かしつつ周りの状況を的確に把握し、新人らしい女生徒に指示を与えている。
 そのオスカーの視線がふと動いて、ニーナを捉える。

「目が覚めたかね?」
「・・・・。ええ。まだ立てるとは思えませんが」

 珍しく嫌みっぽくなってしまった。
 本来のニーナからすればかなり異常な対応だが、それでも態度を改めようとは思わない。
 それだけのことをオスカーはニーナに向かってやったのだ。

「ふう。もう暫くそこで横になっていると良い」

 嫌みが通じたのか通じないのか、軽く溜息をつきつつも掃除の作業に戻る。
 ニーナが今寝かされているのは、どうやら休憩用のベンチらしい。
 ここに休憩用のベンチがあることは十分に異常だが、そのベンチ自体が路面電車の駅にある物だというのもかなり異常だ。
 もしかして無断で持ってきた物かとも思ったが、オスカーの性格を考えるとそれはあり得ない。
 廃棄処分になるのをもらってきたのだろう事は予測できたが、ニーナが寝ていない時は何に使われているのかが少々疑問だ。
 やや変な方向に思考が走っている間に、掃除はあらかた終わったようだ。
 目の前にオスカーがしゃがみ込む。

「気が付いているかね?」
「何にですか?」

 全く要領を得ない会話に少し疲れてしまった。
 身体が疲れているのは知っていたが、今は精神的な疲労の方が重要だ。

「さっきの勝負だが、普通ならアントーク君の圧勝だったのだよ」
「!」

 外縁部での戦いを思い出してみる。
 打撃力だけならばヴァンゼさえ上回ると言われるオスカーだが、防御や回避はそれほど上手くなかったはずだ。
 だと言うのに、ニーナの攻撃は全く掠りもしなかった。
 今から思えば十分におかしな事態だ。

「無駄だといった意味が分かりかけてきたかね?」

 ゆっくりと問われた。
 そして理解してしまった。
 ニーナは自分が思っていた以上に疲労して、本来持っている力さえ発揮出来ない状況なのだと。
 ここまで言われてやっと気が付く自分に、自己嫌悪を覚えた。

「さて。では本題だ」

 これからが本題だとオスカーは言う。
 効果的な鍛錬の方法を教えてくれるのかと思ったのだが。

「君は第十四小隊に残るべきだった」
「っな!」

 思いもかけなかったことを言われて、何度目か分からない硬直を起こしてしまった。
 第十四小隊に残るべきだった。
 それはつまり、隊長として失格だと突きつけられたのだ。
 ニーナ自身が未熟なのは知っているが、それでもそれを克服しようと努力し続けているというのに、失格だと突きつけられたのだ。
 その事実にすぐに反応することが出来ない。
 それを予測しているらしいオスカーが一呼吸おいて、そして訪ねてきた。

「組織の指導者として最もやっていけないことは何だと思うかね?」
「信頼を裏切ることです!」

 まだ思考は混乱のさなかだが、それでもニーナは信じるべき答えを返した。
 だが、オスカーは微かに首を横に振った。

「アニー。それを処理しておいてくれないか」
「ほい」

 突如後ろを向いたオスカーが、近くにいた男子生徒に向かって指示を出した。
 それを聞いたアニーと呼ばれた男性は、立てかけてあったモップを手に持ち、保管庫らしい方向へと歩き出そうとしたところで、軽く手を振って止めるオスカー。
 何かをニーナに伝えたいようだが、まだそれが何かは分からない。

「彼の行動は正しいと思うかね?」
「・・・・・。恐らく正しいと思います」

 掃除はあらかた終わっている。
 ならば、掃除道具を保管庫へ戻すのは当然の行動だ。
 無造作に立てかけてあった以上、この後使うという確率は極めて低い。

「もしかしたら、それとは今燻製釜から出てきたソーセージを、処理とは冷蔵庫に入れておいてくれという意味かも知れないが」

 言われて指し示された方向を見れば、確かに出来上がったばかりのソーセージが台車に乗せられて呆然と佇んでいる。
 それを冷蔵庫に入れろという指示にも聞こえる。
 どちらが正しいのか、ニーナには分からない。
 ここで働いている人間になら分かるだろうが、それもある程度以上一緒に仕事をしてきたからだ。
 そして、何となくだが理解出来てきた。

「曖昧な指示を出してはいけないのだよ」

 そう言いつつ、アニーに改めてモップを片付けてくれるようにと頼むオスカー。
 それを実行するのを眺めていたが、視線がニーナに戻ってきた。

「指揮官とは効率よく作業を進めるために存在しているのだよ」

 それは理解している。
 武芸大会や戦争で指揮系統を破壊するのは、統制された戦闘を妨害する最も基本的な戦術だからだ。
 そこまでは分かる。

「隊長であると言う事は、一人の武芸者である前に集団を運用すると言う事なのだよ」
「それは」

 オスカーの言う事に間違いはない。
 ここまでは理解出来た。
 それでも本来の話に直接関係ないと思う。
 ニーナが疑問を持っていることを確かめるように、一呼吸をおいたオスカーが口を開いた。

「隊長とはどういう職業か学ぶ前に、十四小隊から出てしまったね」
「・・・・・・・」

 オスカーが言った、第十四小隊に残るべきだったというのは、そう言う意味なのだとここでやっと理解出来た。
 勉強不足だと言いたかったのであって、隊長失格だとは言っていないのだと。
 そして思い返してみる。
 ニーナ自身は第十七小隊員に具体的な指示を出していたのだろうかと。
 出すこともあったが、出さないことも多かった。
 上手く行かない現実に歯がみしつつ、怒り狂ってしまったことも一度や二度ではない。

「指揮官であるのならば、個人としての武技の腕はそれ程必要ではないのだよ」

 更に言葉が続く。
 その一言一言は、穏やかなオスカーの表情とは裏腹に、その拳以上の重さを持っていた。
 そして理解してしまっていた。
 今ニーナがやらなければならなかったのは、外縁部での鍛錬ではなかったのだ。

「アルセイフ君のようになりたいかね?」
「・・・・・。いえ」

 レイフォンと戦った直後だったのならば、きっとなりたいと即答していただろう。
 だが今は違う。
 レイフォンは異常なのだと言うことは理解しているのだ。
 一度見た技をそのまま再現出来てしまう能力もそうだし、ニーナの行動を先読みしてしまう能力もそうだ。
 錬金鋼無しで化錬剄を使って火を作り出せるなどと言うのは、はっきり言って非常識の極みだ。
 常識という頸木から外れすぎているのだ。

「そうだね。天才は模倣の対象にはならないし、目標としても恐らくいけないのだよ」

 深く頷き同意するオスカー。
 そして次に出てきたのは、あまりにも恐ろしい台詞だった。

「君は、部下が死んで行くのを見届けることが出来るかね?」
「!! そんな事はさせません!」

 まだ重い身体に鞭を打って、一気に起き上がる。
 一瞬、目の前が暗くなったがそれを気合いで克服する。

「見殺しにすることなど」
「見届ける」

 ニーナの台詞に重ねられたそれは、明らかに違っていた。
 見殺しにするとは言っていないのは確かだが、それでも部下が死んで行くのを黙って見ていることなど出来はしない。
 そうさせないために指揮官がいるのだ。
 反論しようとしたが、オスカーの方が速かった。

「戦えば犠牲が出ることは当然だよ。そしてそれを無駄にしないためにも、効率よく部隊を運営して目的を達成しなければならない」
「それでも、私が犠牲など出させはしません!」

 そう言いきったニーナをじっと見詰めるオスカーの瞳は、酷く複雑な計算をしているようにころころと表情を変えて行く。
 そして落ち着いた。

「今日中に一つの命令が君に下りる」
「命令ですか」
「生徒会長からのね」

 それをどうして知っているのか予測出来ないが、何かが起こっていることは分かった。
 そしてそれにオスカーが絡んでいることと、もしかしたらニーナもそれに巻き込まれていることも。
 とは言え、何が起こっているのかまでは分からなかったし、どんな命令かも分からなかった。
 だが、犠牲が出ると言ったオスカーの問いから、おおよそ推測することは出来る。
 汚染獣が近付いているのだと。
 そして、命令とはレイフォンの事だと。

「レイフォンは私の部下です!」
「それを保証しているのは生徒会長と武芸長だよ」

 冷たく突き放された。
 確かに、生徒会長と武芸長ならばレイフォンを、ニーナの指揮下から外すことは出来る。
 当然納得出来るものでは無いが。

「今の君では十分な指揮を執ることが出来ないからね」
「やってみなければ分かりません!」
「指揮官とは何かも知らないのにかね?」
「!!」

 言われて返せなかった。
 自分が強くなればいいと考えて暴走してしまったこともそうだし、的確で明確な指示を出せなかったこともそうだ。
 今のニーナは恐らく小隊長としては最も無能なのだろうと思う。
 今更それに気が付かされた。
 前回の汚染獣戦では、レイフォンが単独行動を取った事に酷く苛立っていた。
 それは危険な戦闘を一人で行ったからだったが、もしかしたらもっと醜い心の動きがあったのかも知れない。
 レイフォンに対する嫉妬とか、自分の思い通りにならない現実に対する苛立ちとか。
 それを差し引いても、潔くない自分を見詰めてしまった。
 そしてもう一つ思い出したことがある。

「汚染獣戦に関する特別措置法」
「そうだ」

 汚染獣特措法とは簡単に言ってしまえば、武芸大会を意識している小隊編成を一時的に解体して、迫り来る汚染獣に対して迎撃態勢を取る、そのために作られた制度だ。
 ここ十年以上発令されたことがないが、それでも制度は残っている。
 当然その中には、生徒会長命令で小隊員を選抜して、汚染獣との戦闘に出撃させるという内容もある。
 そして今回選抜されたのがレイフォンだったのだ。
 指揮官として現在失格なニーナを放り出して。

「汚染獣にツェルニが接近している危険性がある」
「ツェルニが接近ですか?」

 汚染獣から逃げることが大前提である自律型移動都市が、迫っているという異常事態を前に、ニーナは一瞬色々な思考が停止してしまった。
 内容がきちんと理解出来るように時間をおいてから、オスカーが続ける。

「脱皮する時に仮死状態になることがあるそうでね。今回はそれではないかとアルセイフ君が言っているよ」

 レイフォンの戦闘経験は凄まじい。
 普通の武芸者は十回汚染獣と戦えば多い方だというのに、五十回以上の戦いを経験している。
 その経験から出てきた予測ならば、それなり以上の信憑性がある。

「無論、本当に死体かも知れないが、念のために準備を整える必要がある」

 万が一に備えると言う事は、残りの九千九百九十九は無駄に終わると言う事だ。
 だが、万に一つの確率でも汚染獣と遭遇するのならば、出来る限りの準備を整えなければならない。
 カリアンやヴァンゼの判断は正しいと思う。

「今まで君に声をかけなかったのは、目的を達成出来ないことが予測出来ていたからだが」

 そこで小さく溜息をつく。
 さっきの死を見届けるという質問は、ここに絡んでいたのだと今更ながら理解した。
 そして、あれが最後のチャンスだったのだと。
 それでも、犠牲の上に立って平然としていることはとてもニーナには出来ない。
 だが、オスカーから発せられたのは、また脈絡のない話題だった。

「今日、午前の特別カリキュラムは知っているね?」
「午前最後に突然入った奴ですよね」

 昨日の午後に突然おかしなカリキュラムが入り込んできた。
 突然入ってくること自体が既に異常だが、参加者が更に尋常ではなかった。
 武芸科の小隊員だけが参加者なのだ。
 何か重要なことを伝えたいと企画されたのだろう事は予測していたが、誰がそれを望んだのかは分かってしまった。
 脈絡がないように見えて、オスカーの話はそれなりには一貫しているのだ。

「レイフォンですか」
「自分が帰らなくても、最低限の戦力強化をしたいと言ってね」

 死ぬつもりなのかも知れないと一瞬思ったが、それは違うだろうと言うことはすぐに分かった。
 メイシェンを心配させたくないからと、あれだけの才能を放り出して戦いから遠ざかろうとしたレイフォンが、始めから死を覚悟しているとは思えなかったからだ。
 ならばこれは、本当に念のための措置なのだという事が分かる。

「外で戦う時には、命を都市に残して行くことにしているそうだよ」
「それは」

 実戦などこの間の一回だけだ。
 外での戦闘がどう言う物か話には聞いているが、実体験として全く理解していない。
 恐らく、レイフォンの言うことの方が正しいのだろうと思うのだが。
 だが、やはり納得は出来ない。
 納得出来ないが、今のニーナに何か出来るわけではない。
 それでも、何もしないと言う事が出来るわけがないのだ。

「しかし! 私達は都市を守るために存在しているのです! 一人だけに危険を押しつけて安全な都市の中にいるなど!」
「黙れ!」

 突如として、それまで穏和だったオスカーの表情が激情に支配された。
 それは怒りであり、憎しみであり、そして憎悪だった。
 おもわず身体が強ばって呼吸が止まった。

「無力なんだよ! 私達は弱いんだよ!」

 その激情のまま、剄が放出されニーナの髪をなびかせる。
 ただ、剄が活動を激しくしただけでこんなことが出来るなどとは、今まで知らなかった。

「頼るしか無いんだよ我々は! 武芸大会も汚染獣戦も弱い私達では役に立たないんだよ! アルセイフ君の足手まといにならないように遠くで小さくなっているしかないんだよ!」

 怒りも憎しみも憎悪も、全て弱いオスカー自身に向けられていることが分かった。
 普段穏和なだけに、オスカーの中にそれだけの感情が潜んでいることを初めて知ることが出来た。
 内に秘めているだけに、その激しさは恐らくニーナの比ではないだろう。

「分かるかニーナ・アントーク! 私達が弱いから武芸大会で負けたのだ! 幼生体でさえアルセイフ君がいなければツェルニは滅んでいたんだ!」
「!!」

 その一言で理解した。
 前回の汚染獣戦は、レイフォンによって勝たせてもらったのだと。
 本当ならば、ニーナ達は負けて食われていたのだと。

「そしてそれは私達、上級生の責任なんだよ! 弱い武芸者しか育てられなかった! 私達上級生の失敗のつけをアルセイフ君に押しつけているんだよ!」

 理解してしまった。
 レイフォンが戦いに出ることに最も憤りを覚えているのは、目の前にいるオスカーと武芸長であるヴァンゼだと。
 本当ならば、上級生であるはずの彼らが戦いに出なければならないのに、勝てないどころか足手まといになるからレイフォンに任せるしかないのだと。
 そして前回の武芸大会。
 完膚無きまでに叩きのめされたツェルニ武芸者を、何とか鼓舞して鍛錬を続けさせ、そして目前に迫った武芸大会のために準備をしているのだと。
 思い返せばおかしな話だった。
 ツェルニに残された鉱山はあと一つ。
 この状況ならば、下級生からもっと大量の脱落者が出てもおかしくなかった。
 ニーナ自身は諦めるという選択肢を持っていなかったが、同級生達の中には不安がる武芸者が多かった。
 だが、その不安の声も何時の間にか消えていた。
 いや。オスカーやヴァンゼ、敗北直後から武芸科で責任有る立場にあった者達が何とか消し止めて崩壊を防いだのだ。
 今までそんなことにさえ気が付かなかったニーナの目の前で、オスカーの右手が挙がり顔を覆う。
 そして大きく一つ深呼吸をした後に手が離れると、そこには何時もの表情のオスカーが戻ってきていた。

「済まなかったね。少々取り乱してしまった」
「い、いえ」

 どれだけの重圧がヴァンゼとオスカーにかかっているのか、それがほんの少しだけ分かった。
 指揮官という責任者がどうあるべきか、ほんの少しだけ理解することも出来たと思う。

「取り敢えず、アルセイフ君の講義があるまで、そこで寝ていなさい」

 ついさっきまでの激情が嘘のように、平常心を取り戻したオスカーが、コック姿のまま外へと出て行くのを眺めつつ、ニーナは考え込んでしまった。
 恐らく、一人の武芸者としてそれなりの強さを持っているとは思うのだが、そんな物はこれからレイフォンが向かう戦場では、全く無意味なのだろうと思う。
 だからと言って、指揮官として役に立たないことは理解してしまった。
 だが、作戦を考える参謀としてはどうだろう?

「・・・・・・・」

 駄目だと言う事がすぐに分かった。
 あのレイフォンから勝利を勝ち取ったウォリアスがいる。
 頭脳戦で彼に勝つことが出来なければ、参謀としても役に立たない。
 そして思い知らされた。
 今までやって来た自己鍛錬が本当に無意味だったのだと。
 もしかしたら、無意味だと言う事が分かったことこそが、今までの鍛錬で得られた成果なのかも知れない。
 
 
 
警告。
次回の復活の時は、グロテスクな内容となっています。
食前食後に読むと少々消化に悪いかも知れません。
出来るならば、食間に読む事をおすすめします。



[14064] 第四話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:12


 午前中の、かなりの時間オスカーの仕事場で寝ていたニーナだが、当然レイフォンの講義を聞き逃すなどと言う失態は犯さない。
 何を伝えようとしているのかは分からないが、死を覚悟しなければならない戦場に行く前に、やらなければならないのだから、相当に重要なことだというのは理解している。
 そして今、ニーナがやってきた狭い部屋にいるのは、文字通りツェルニの小隊員全員だ。
 普段不真面目を通しているシャーニッドもいれば、レイフォンと因縁のあるゴルネオもいる。
 ヴァンゼとオスカーも神妙な顔つきで始まるのを待っている。
 だが、少しだけ違和感を覚えた。
 部屋の空気が変だというわけではない。
 ヴァンゼとオスカーが神妙な顔つきで開始を待っている以上、他の小隊員がふざけられるわけがない。
 とは言え、一年生であるレイフォンの話を真面目に聞こうという精神構造の人間も、あまり多くはないのは事実だ。
 全体的にざわついているのは良い。
 それは予測の範囲内だ。
 だが、まだレイフォンが現れていない演台がおかしい。
 一応机があるのは良いだろう。
 だが、その机の両脇にも、なにやら机が並んでいるのだ。
 シュナイバルで公務員の不正があった時に、謝罪会見が行われたが、それに似ている。
 数人で並んで謝罪の言葉を述べて頭を下げるのが常だったが、その時は確かに横長の机が必要だった。
 だが、今回この場で話をするのはレイフォンただ一人のはずだ。
 ご丁寧に布が張ってあって、腰から下が聞いている人間から見えないようになっている。
 非常に意味不明だ。
 だが、それを詮索している時間はない。
 無表情というか能面のような顔をしたレイフォンが、部屋へと入ってきて演台に立ったのだ。
 そして第一声。

「皆さんこんにちは。一年生のレイフォン・アルセイフです」

 普通の挨拶だ。
 だが、そんな物は殆ど無意味だ。
 小隊員であり、第十六小隊戦で鮮烈な活躍をしたレイフォンを知らない人間など、この部屋には誰一人としていないのだ。
 身体の後ろで手を組んでいるらしいレイフォンが、更に続ける。

「最初に言います」

 能面のような顔は、次にどんな言葉を出すか全く予測が出来ない。
 それは、訓練や試合では決して見せない、レイフォンのもう一つの顔だ。

「はっきり言って皆さんは弱い」

 その始めてみるレイフォンから、とんでもない言葉が出てきた。
 いや。ニーナは良い。
 自分が役に立たない弱い武芸者であることを知っているから。
 それでも僅かでは済まない感情の揺らぎを感じた。
 そして、弱いと言われて平然としていられるような人間がこの部屋にいるはずがないのだ。
 ヴァンゼやオスカーでさえ、歯痛をこらえるような表情になったし、それ以外の者達ははっきりと殺気だった。
 だが、その感情が爆発するよりも早くレイフォンの言葉が続く。

「前回の汚染獣戦、あの程度で自信を持たれてしまっては困るので、このような場を用意して頂きました」

 前回の汚染獣戦。
 後から知ったが、幼生体と呼ばれる汚染獣との戦いは、ツェルニ武芸者の総力を挙げて戦い、そして勝った。
 実戦を経験して生き残ったために、武芸者達は自信を持つことが出来た。
 これからも何とかやって行けるだろうと。
 つい今朝まではそう思っていた。
 だが、それが違うらしいことをニーナは聞かされた。
 ニーナ達が戦って倒した幼生体は、おおよそ三百体。
 それが少ないとは思わないが、全部ではないらしいと言う事も予測している。
 レイフォンの視線が、ゴルネオを捉える。
 渋々と、それはもう、これ以上に嫌なことはないと言いたげな表情のゴルネオが立ち上がり、そして恐るべき事実を口にした。

「通常母体となる雌性体、一体から生み出されるのは、おおよそ千体以上の幼生体だ」
「!!」

 部屋にいたほぼ全員から、驚愕のどよめきが起こる。
 あれだけ必死に戦い倒したにもかかわらず、本来相手にしなければならなかった敵戦力の、三分の一でしかなかったのだと。
 そして疑問が浮かぶ。
 残りはどうしたのだろうかと。
 いや。恐らくそれはレイフォンが倒したのだという事は分かる。
 ツェルニの武芸者五百人で、三百しか倒せなかったのに、レイフォンはたった一人で七百前後を始末出来たのだと言う事になる。
 不可能だと思った。

「あり得ん! そんな事が出来る物か!!」

 ここでやっと、感情が爆発という形を取ることが出来たようだ。
 声を上げたのは誰だっただろう?
 恐らく何処かの小隊長だったはずだが、今はそれどころではない。

「出来ますよ」
「どうやってだ!」

 どうやって?
 時間をかければ何とかなるかも知れない。
 だが、普通の方法で短時間に決着を付けることは無理だ。
 あの状況から考えて、ニーナ達が戦端を開くよりも早く、幼生体の数を減らしていたはずだ。
 七百という数の幼生体をどうやってと言う疑問は、当然なのだ。

「こうやってです」
「!!」

 突如として、部屋全体を躍動的な剄の気配が支配した。
 そして次の瞬間、あろう事かニーナの剣帯に収まっていた錬金鋼が空中に持ち上がった。
 いや。ニーナのだけではない。
 その部屋にいる、全員の全ての錬金鋼が、何の支えもなく空中に持ち上がってしまったのだ。
 有るのはただ、躍動的な剄の気配だけ。
 そして、後ろ手に組んでいたレイフォンが、その手を前へと持ってきた。
 おかしな物が握られていた。
 最近持ち替えた刀の、その柄だけが握られていた。

「鋼糸という武器です」

 それを聞いて理解した。
 レイフォンの刀、その青石錬金鋼には特殊な設定が存在していることを。
 それを使って、まるで特撮のように朝食を作るレイフォンを見たことがある。
 これも、その鋼糸による作業なのだという事が分かった。
 ゆっくりと錬金鋼が持ち主の剣帯に収まって行く。
 そして、剄の気配が更に躍動的になった時に、それは見えてきた。
 微かに青く耀く細い糸だ。
 一本ではないらしいことが分かるが、何本かは全く分からない。
 そしてこれが、今、見えているわけではないことに気が付いた。
 レイフォンが見せてくれているのだ。

「千を越える鋼糸を操り、弱敵を切り刻むことが出来ます。幼生体戦には重宝する武器ですね」

 言い終わると、柄が基礎状態へと戻って行く。
 見ることさえ出来ないその武器を、自在に操るレイフォンのその実力に、一瞬恐怖を覚えた。
 小隊対抗戦はおろか、武芸大会でさえ使うには危険すぎるのだ。

「まあ、ここまでは前振りです。本題はここから」

 既に全員が息を飲んでレイフォンを見詰めている。
 強すぎるのだ、レイフォンは。
 それは知っていたつもりだったが、全く不十分だったことをニーナが確認している間に、話は進んでしまう。

「本題は、都市外戦闘についてです」

 表情は変わらない。
 いや。そんな物は始めから無い。
 だが、レイフォンの周りの空気が急激に緊張した。
 それを感じることが出来たからだろう、全ての小隊員が沈黙を持って、次の言葉を待つ。

「都市外戦闘での基本は、無傷で帰るかそれとも死ぬか。二つに一つです」

 誰かが唾を飲む音が聞こえた。
 それはニーナ自身だったのかも知れないし、誰か他の人物だったのかも知れない。

「七年ほど前になりますが、僕が初めて汚染獣と戦った時の話です」

 レイフォンの実戦経験が異常な数値だと言うことは知っている。
 そして、信じられないほど幼い頃から戦場にいることも知っている。
 そして、これから語られるのは、初陣の経験談だろう事が分かった。
 その経験が今の、武芸者としてのレイフォンを形作っているのだと。

「戦闘中に、一緒に戦っていた武芸者の一人が汚染獣に食われました」

 前回の幼生体戦では、そう言う被害はなかった。
 危険だと言う事が分かっていたし、そもそも戦力にそれ程困ることがなかった。
 だから、連携を重視し危険を分散させることが出来た。
 何ヶ所か危ないところもあったが、それも大事には至っていない。
 いや。レイフォンが助けてくれたのだという事が分かった。
 恐らく鋼糸を使い、危険な場面でギリギリの時に、幼生体を切り裂いてくれたのだ。
 ニーナも何体か見た。
 恐るべき切り口を晒して両断されている幼生体の死骸を。
 誰がやったのかその時は分からなかったが、今ならはっきりと分かる。
 レイフォンがいたからこそ、重傷者や死者が出なかったのだと。

「ちょうど腰のやや下辺りに食いつかれました」

 骨盤のやや下辺りを片手でなぞる仕草をする。
 最低限両足切断だ。
 もしかしたら剄脈を傷付けられ、再起不能かも知れない。
 そんな危険な位置に噛み付かれてしまったのだと、理解出来た。

「どう対応することが正しいと思いますか?」

 ここへ来て、レイフォンが部屋中を見回して質問してきた。
 だが、その視線はあくまでも冷たく乾燥している。
 こんな目にならなければ生き残ることが出来なかった戦場。
 それを想像しただけでニーナの背筋を寒気が走った。
 だが、沈黙に支配された部屋でレイフォンが紡いだ言葉は、そんな物が全く生温い想像であることをニーナに教えるのに十分だった。

「出来るだけ苦痛を与えないように、その武芸者を殺すことです」

 何を言っているのか分からなかった。
 いや。分かりたくない。
 一緒に戦っていた仲間を、その手にかけなければならないなどと言うのだ。
 思わず席を蹴って立ち上がっていた。

「そんな事はさせん!」

 絶叫する。
 だが、その声は大きさに反比例するように虚しく響いた。
 そして、レイフォンの視線がニーナを捉える。
 思わず怯んだ自分に鞭を打って、正面からその視線を受け止める。
 負けてはならないのだ。
 誰かの犠牲の上に成り立つ平穏など、断じて認めるわけには行かない。

「では、どうしますか?」
「・・・。そ、それは」

 当然切り替えされたが、言葉が出ない。
 それでも、諦めるわけには行かないのだ。

「す、速やかに汚染獣を倒して」
「それが出来ていれば、そもそも食われません」

 何とか返したが、それはすぐに撃破されてしまった。
 当然だ。
 速やかに殲滅することが出来るならば、誰も犠牲にはならない。

「な、ならば、汚染獣の顎を打ち砕いて」
「その場合、激しく動き回り相当に頑丈な間接を破壊しなければなりません。難易度はあまり変わりません」

 ここではっきり分かった。
 顎を破壊するという行動は、既に試されて失敗しているのだと。
 考えてみれば当然だ。
 汚染獣との戦闘が異常に多いグレンダンで、ニーナが考えるようなことは既に考案され、試されて結果が出ているのだと。

「な、ならば、ならば、腰付近で人体を切断して」
「・・・・・・・」

 レイフォンの冷たい視線の温度が、更に下がった。
 確かに、切られたら痛いことは間違いないが、それでも生きていられるのだったら、何とか許容出来るかも知れないのだ。
 最善とは行かないまでも、それなりによい手だと思ったのだが。

「その場合、痛みと失血でショック死しますね」
「・・・・・。あ」

 レイフォンの視線が冷たくなった理由が分かった。
 麻酔無しでそんなことをやれば、当然その痛みは想像を絶する物になる。
 アドレナリンなどが大量に分泌して痛みを感じなかったとしても、大量の失血はそれだけでショック状態を起こす。
 それに思い至らなかったのは、全く恥じ入るしかない。
 だが、更にレイフォンの言葉は続いてしまった。

「例えそれを乗り切ったとしても、大量の汚染物質に直接内臓を灼かれて死にます。すぐ側に最新設備を整えて、医師と看護師が大量にいる病院がなければ、苦しみ抜いて死ぬことになります」

 都市外での戦闘には、常に遮断スーツの制限がかかる。
 スーツに微かな傷が出来ただけでも、確実に人体を蝕み死に至らしめる汚染物質が充満している以上、手や足なら兎も角腰付近での切断など論外だったのだ。
 その認識がないがために、ニーナは全く的外れなことを言ってしまったのだ。
 それを認めてしまったからだが、力なく椅子に崩れ落ちる。

「そして、共に戦った者の勤めとして、出来るだけ速く確実に、その武芸者の首をはねなければなりません」

 そっと右手が挙がり、自分の首辺りを横になぐ。
 それを見て、鼓動が激しくなり視界が狭まった。
 そこまでして戦わなければならないのかと、恐怖を覚えた。

「初めての実戦でその現場に遭遇した僕は、恐怖に取り付かれて正しい行動を取ることが出来ました」

 それはつまり、目の前にいるレイフォンが、仲間を殺したと言う事だ。
 何時も弛んだ表情をしている、勉強が苦手でヘタレなところのある、ニーナの部下が。
 恐怖のあまりと言った。
 怖かったのだろう事は分かる。
 それでも、とても信じられないし、信じたくない。

「助けようとしなかったのか?」

 呆然とと言うよりも、むしろ縋り付くように言葉を放つ。
 レイフォンにそんなことをして欲しくないと願って。

「そんな余裕はありませんよ。何しろ全てが初めての経験でしたからね」

 ゆっくりとレイフォンが部屋中を見回して、他に異論がないかを待つ。
 だが、都市外での実戦の経験者などここにはいない。
 いるのは、武芸大会を想定した訓練を受けてきた、対人戦闘の経験者だけだ。
 その対人戦闘も、相手を殺す危険性が極めて低いという前提に立った者だった。
 当然、自分が死ぬという危険性も殆ど無い。

「納得する必要はありませんが、もし、耐えられないというのならば、絶対に汚染獣戦、それも都市外戦闘には参加しないで下さい。甘い判断が戦線を崩壊させ、より大量の犠牲者を出すでしょうし、もしかしたら都市に被害が出てしまうかも知れませんから」

 都市外戦闘に甘えは通用しない。
 それをレイフォンはツェルニ武芸者に伝えているのだ。
 何のためにかは分からないけれど。

「死ぬと思ったら死ぬ。勝ったと思ったら死ぬ。助けを求めたら、助けに来てくれた人を巻き添えにして死ぬ。安全だと思ったら死ぬし、逃げようとしたら死ぬ。それが都市外での汚染獣戦です」

 生き残ることが出来るのだろうかという疑問が浮かんだ。
 オスカーから、都市外戦闘をする時には命を都市に残しておくというレイフォンの言葉を聞いた。
 その意味がやっと理解出来てきた。
 想像を絶する戦場に、レイフォンは立ち続けて、そして生き残ってきたのだ。

「出来るのは生き残る確率を上げることだけです。友人に自分を殺させないために、友人を死なせないようにするために、生き残るためには、強くなるしか有りません。そして強くなるための基本中の基本は剄息です」

 やっと話が次の段階へと進んだ。
 いや。この話をするために都市外戦闘のことを話したのだろうと思う。
 ここにいる全員にきっちりと理解させて、武芸者としての覚悟を決めさせるために。

「強くなろうと思ったら人間であることを止めて下さい。武芸者とは思考する血袋ではなく、思考する剄と言う気体です。呼吸の方法が違うんです。呼吸の意味が違うんです。五感の伝える情報よりも剄の伝える情報を信じて下さい」

 武芸者とは剄脈のある人間のことだ。
 そして剄の基本とは剄息だ。
 それは、武芸科の教科書の始めの方に乗っている。
 だが、そこには書かれていないことも色々と伝えられている。

「最終的には、剄息をしたまま活剄や衝剄にしない状況で日常生活を送れるようになって下さい。かなり辛いですが、それが出来るようになると剄量も上がりますし感度も上がります。僕が皆さんに完璧に伝えられることはこれだけです」

 前振りの割に本題があっさりしているようではあるが、それはある意味仕方がない。
 ニーナが刀を持ったところで、双鉄鞭と同じように使いこなすことは出来ないだろうし、レイフォンが双鉄鞭を持ったところで、刀を使うようには戦えない。
 武芸者と武器の間には当然相性があるのだが、その相性が何故起きるのかを理論的に説明出来ない以上、確実に伝えられることは非常に限られている。
 ましてや、レイフォンはツェルニ全武芸者を圧倒する実力の持ち主だ。
 そんな非常識な武芸者から伝えられることが、一般武芸者の役に立つことの方が珍しい。

「組み手の相手や技の相談には乗りますが、最終的に武芸者とは孤独な生き物です。一人で悩んで考えて答えを出して、そして戦場に出るほか無いのです」

 淡々と、それこそ感情の起伏一つ見せずに話を終えたレイフォンが、全員に一礼すると部屋を出て行く。
 残された武芸者達の顔には、色々な感情がやっとの事で浮かんできていた。
 未だに驚愕から抜け出すことが出来ない者も居れば、レイフォンに反感を持ったらしい者もいる。
 だが、伝えられた事柄について考えてる者もかなり多い。
 ヴァンゼやオスカー、ゴルネオやシン、小隊長クラスの武芸者は真剣に今の話を考えているようだ。
 中でも最も深刻な表情で考え込んでいるのは、第十小隊長のディンだ。
 その雰囲気は、同じ小隊のダルシェナでさえ近付くことがはばかられるほど緊迫している。
 それを認識しつつも、ニーナは席を立ちレイフォンの後を追った。
 どうしても納得が行かなかったのだ。
 レイフォンが人を殺めたと言う事もそうだし、それを当然のことと捉えてしまっていることもそうだ。
 ある意味ガハルド事件のことを聞いた時以上に、納得出来ていない。
 だから、レイフォンが部屋を出てから僅かな時間をおいて扉を潜ったのだが、しかし、そこにレイフォンの姿はなかった。
 代わりに佇んでいたのは、レイフォンの同級生であるナルキ。
 男子トイレの扉を右肩に当てて、腕を組んで瞑目している。
 小隊員ではないが、間違いなくレイフォンからさっきの話を聞かされていたために、裏方としてここに来ているに違いない。
 ニーナの接近に気が付いたようで、ナルキが瞼を開けて視線がこちらへとやって来た。

「レイフォンを知らないか?」

 この廊下にいたのならば、間違いなくレイフォンと遭遇しているはずだ。
 殺剄を使ってこっそりと逃げたと言う事がなければ、ナルキは気が付いている。
 その予測は間違いなかったようで、軽く頷くと右肩を当てていた男子トイレの扉を、やや強く叩いた。
 ここにいると言う事をニーナに知らせたのか、それともニーナの接近を中にいるレイフォンに伝えたのか。
 その判断が付かないまま、ナルキの側まで歩み寄ると、誰かが嘔吐する苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
 誰だかは分からないが、酷く体調が悪そうなことだけは間違いない。

「だから言ったんだ。食べ合わせには気をつけろと」

 唐突に中からそんな明るい声が聞こえてきた。
 どうやら二人いるようで、更に嘔吐する呼吸音と明るい声と言うアンバランスな音が聞こえてくる。

「食べ合わせというのにはそれなりの根拠があるんだ。それを無視するんだったらこれくらいは許容しないとな」

 どうやら食あたりか何かのために嘔吐している人間がいるようだ。
 だがここで違和感を覚えた。
 この付近で人がいるのは、ついさっきまでニーナがいた部屋だけだ。
 そして、ここを通ったのは恐らくレイフォンだけだ。
 レイフォンが食あたりで、それ程体調を崩していたようには見えなかった。
 ならば、もしかしたら。

「お待たせナルキ」

 水を流す音の少し後、ようやっと扉が開き、中からレイフォンを引きずるようにして現れたのは、いつも以上に眼が細くなっているウォリアスだ。
 ニーナを見た視線が、少々きつい物に感じたのは、きっといつも以上に細い眼が原因ではない。
 そして、ニーナが見ている前でナルキが空いていたレイフォンの肩を担ぎ、引きずるようにして部屋とは反対の方向へと歩き出す。
 青白い顔をしたレイフォンは、かなり消耗しているように見えるが、ニーナから顔を背けるようにしているのではっきりとは分からない。

「食べ物と言えば聞いたことがあるんだけれどね」
「なんだウッチン?」
「夏期帯を闊歩することが多いレギオスではね」
「ああ」
「芋虫をソテーした物で来客をもてなす風習があるんだそうだ」

 思わず想像してしまう。
 芋虫と言えばあれだ。
 フライパンの上でこんがり焼かれるそれを想像したニーナは、思わず口元を押さえてしまった。
 それはナルキも同じだったようで、非難囂々の視線でウォリアスを睨んでいる。

「へえ。あんなフニフニして歯触りが悪い物で持て成すなんて変わっているね」

 唯一平然と返したのはレイフォンだ。
 かなりずれていると思うのだが、本人的には当然の返しなのだろうと思う。
 変人ぶりに少々呆れてしまった。が。

「・・・・。レイフォンよ」
「なに?」
「何で歯触りが悪いと言う事を知っているんだ?」

 突如今までに聞いたこともないほど、真剣なウォリアスの質問が発せられた。
 そして理解した。
 レイフォンは、あれの歯触りが悪いと自分の体験のように話しているのだ。
 いや。もしかしたらそう言う話を聞いただけかも知れないが、きっとそうに違いないが。

「食糧危機の時に、近くで見つけたから食べてみた」
「「「・・・・・・・・・・・・・・」」」

 三人で絶句する。
 そして更に。

「油で揚げてみたら割と美味しかったかな? 生では流石に食べたことはなかったけれど」

 想像する。
 油の中でのたうちながら揚げられる、あれ。

「「!!!」」

 とっさに口元を押さえつけつつ、まだ近くに有った女子トイレに駆け込む。
 僅かに遅れてナルキも続いているところを見ると、同じ物を想像してしまったのだろう。
 食糧危機が恐ろしい物だとは聞いていたが、ここまで凄まじいとは全く思いもよらなかった。
 
 
 
 取り敢えず、吐き出せる物は全部吐き出して、口の中をすすいでいるニーナの横では、青白い顔をしたナルキもやっと人心地が付いたといった風に鏡を見ている。
 ほぼ同じタイミングで口に水を含み、丹念に口腔の中を転がしてから吐き出す。
 暫くあれを思い出させる料理には手を出さない方が賢明だろうと、そんな事を考えているニーナと鏡の中で視線を合わせたナルキが一言。

「レイとんの奴。今度復讐してやる」

 しみじみと、深刻にそう言うナルキ。
 ニーナも似たような意見を持っている。
 どんな復讐が良いか考えつつ、ハンカチで手を拭いて扉を出ると。

「だからな。目に入る物を片っ端から食べるなよな」
「お腹が空いていたから仕方が無いじゃないか」

 男二人は、扉の向かい側の壁により掛かり、そんな会話の真っ最中だ。
 あまり具体的な表現に入られるとかなり困るのだが、その辺はウォリアスがきっちりと理解しているようで、やや強引に話を打ち切った。

「ほら行くぞ。メイシェンのご飯が待っているぞ」
「・・・・。何が出てくるか恐ろしい」

 ナルキがそう言っているが、これから昼食の時間だから当然なのだが、今の状況で食事というのは少々苦しい。
 だが、相手はウォリアスだった。
 予測出来ることには全て手を打つことを心情としているらしい、この細目の少年にかかれば、あらかたの問題は既に解決しているようだ。

「今日はサンドイッチとサラダだそうだ」
「それなら怖くないな」

 ほっと安堵の息をつくナルキ。
 思わずニーナも、似たようなメニューの昼食を考えてしまったほどだ。
 そして、まだ顔色が悪いレイフォンを真ん中に、三人が建物の外へ向かうために歩き出した。

「・・・・・・?」

 ここで違和感を覚えた。
 いや。そもそもが変だった。
 全てが、レイフォンの講義に合わせて用意されていたような感覚なのだ。
 あの講義の後では、肉を食べることは非常に苦痛なはずだ。
 そうなると、レイフォンの講義の内容を知っていたと言う事になる。
 そして思い出すのは、つい先ほどのレイフォンとウォリアスの会話の不自然さ。
 そして、注意してレイフォンを観察する。

「目に入る物が食べられるかどうか気になるんだったら、汚染獣でも食ってればいいだろうに」
「そうだそうだ。グレンダンだったら汚染獣には困らなかっただろう」

 その最中にも、やはりまだ食べ物の話題が続いているようだ。
 そして、恐るべき物を食卓へ乗せようと提案するウォリアスとナルキ。

「うん。結構美味しかったよ」
「「「・・・・・・・・・・・・・・」」」

 続いたレイフォンの台詞に凍り付く。
 美味しかったというのはつまり、あれを食べたと言う事になる。
 唯一知っている汚染獣である幼生体を思い出す。
 鋼糸を使いぶつ切りにしたあれを、ホークとナイフを振るって、猛烈な勢いで食い散らかすレイフォンを想像する。
 なんだか、非常にリアルだ。

「ほ、ほんとうか?」
「お、おいしかったのか?」

 それは残り二人も一緒だったようで、割と真剣にレイフォンへと聞き返している。
 そしてとてもにこやかな笑顔と共に。

「冗談だよ」
「な、なんだじょうだんか」

 あまりにもあっさりと冗談だと言われて、思わず脱力するニーナとナルキ。
 流石に、いくら食糧危機だからと言って、そしてグレンダンだからと言って、汚染獣を食べるなどと言う非常識以前の問題はやらなかったようだ。
 だが。

「どっちがだ?」
「うん?」

 ウォリアスだけが、真剣な視線でレイフォンを見詰めている。
 その視線は、世界の真理を追究するかのように鋭く、そして妥協を知らないほどに苛烈だった。
 だが、言っている意味が分からない。
 ニーナの困惑を知らぬげに、最も恐るべき言葉が細目の少年の唇から漏れる。

「冗談という単語は、食べたと言う方にかかるのか? それとも美味しかったと言う方にかかっているのか?」

 言われて気が付いた。
 レイフォンは冗談だとしか言っていない。
 何が冗談だったのか、聞いている誰にも分からない。
 反射的に食べたと言う方に冗談がかかると思ったのだが、もし違ったとしたのならば。

「・・・・・・。さあ! ご飯を食べに行こう!!」

 何故か元気よくそう言うと、ナルキとウォリアスを引きずるようにして急ぎ足で突き進むレイフォン。
 さっきまでの弱々しい態度など何処にも見えない。

「お、おいぃぃぃ! どっちなんだ!」
「ま、待て待て待て待て」

 二人の抗議の声など聞こえないかのように、建物から出るべく一直線に歩き去るレイフォンの後ろ姿が、とうとう角を曲がって見えなくなってしまった。
 これで、汚染獣を食べたかどうか確認する術を、当面無くしたことになるが、それで良かったのだと思う。
 いまは、レイフォン自身について考えなければならないからだ。
 気が付くべきだったのだ。
 数人が並べるだけの机と、そこに張られた布。
 そしてナルキとウォリアスが部屋を出たレイフォンを待っていたこと。
 そして何よりも、レイフォンの性格。

「あの馬鹿」

 最初の汚染獣戦での体験は、レイフォンにとって非常に衝撃的だったはずだ。
 それを大勢の前で話したとなれば、本人にかかる精神的負担は想像を絶する物があるはずだ。
 足が震えているのを隠すための机と布だったはずだし、よろめく姿を見せないために二人が待っていたのだ。
 そして、嘔吐してしまったために食べ合わせの話で誤魔化そうとしていたのだ。
 全ては、ツェルニ武芸者を強くするために計画されたのだ。
 ならば、ニーナがやらなければならないのは。

「・・・・・・。何をやればいいのだ?」

 剄息での日常生活は当然だとして、他に何が出来るのだろうかと考える。
 自主鍛錬をするのは当然だとしても、どうやって鍛えるかが全く分からないことに、なんの変わりもない。
 小さく溜息をつくが、実はそれ程落ち込む必要はないのだと結論付けた。
 何しろレイフォンは第十七小隊に所属しているのだ。
 ならば、最も指導を受けやすいのはニーナ達に他ならない。

「・・・・・・」

 そしてここで理解した。
 レイフォンが小隊入りを拒んでいたのは、今の状況を予測していたからに他ならないと。
 先ほどの講義もそうだが、第十七小隊のレイフォンでは言っていることが上手く伝わらないかも知れない。
 そして、第十七小隊が最も恩恵を受けていると思われることも事実だ。
 これは不公平感を即座に呼び起こし、嫉妬や羨望などの悪感情を呼び込んでしまう。

「そう言うことらしいぜ」
「どわ!」

 その結論に達したところで、いきなり後ろから声がかけられた。
 跳ね上がる身体を強制的に沈めて、錬金鋼を復元しつつ打撃を打ち込む。
 相当激しく打ち込んだはずだが、ニーナの鉄鞭は同じ黒鋼錬金鋼の何かによって完璧に受け止められていた。
 なにやら複雑な形をしているが、銃であるらしいことが分かった。
 銃身が上下に厚く、所々に突起などが付いている、射撃武器と言うよりも打撃武器に近い形状をしている。
 こんな武器を使っている小隊員は見た事がないので、握る手をさかのぼって行くと、なんとそこにいたのはニーナの小隊員だった。

「シャーニッド?」
「おう。天下の狙撃手。シャーニッド・エリプトン様だ」

 鉄鞭を受け止めたままヘラヘラと笑うシャーニッドに思わず殺意を覚えるが、問題はそこではない。
 いや。時期を見つけてきっちりと制裁を加えるつもりではいるのだが、疑問なのはシャーニッドが手にしている見慣れない武器だ。

「なんだこれは?」

 しげしげと打撃武器のような拳銃を眺める。
 黒鋼錬金鋼で射撃武器を作ったところで、射程距離は非常に短くなってしまうし、そもそもシャーニッドの武器は軽金錬金鋼製の狙撃銃のはずだ。
 十四小隊との試合の時には、こんな物を持っていなかった。

「まあ、それは後回しで良いじゃないか」

 だが、ニーナの質問をはぐらかしつつ、鉄鞭を受け止めていた拳銃を引く。
 同じ黒鋼錬金鋼製とは言え、鉄鞭と比べるとかなり質量に差があることは明白だ。
 だと言うのに、シャーニッドは平然と受け止めているのだ。
 それはつまり。

「お前。かなり体調悪いだろう」
「っう!」

 図星を刺されて狼狽える。
 思わず視線がそれてしまったのがいけなかった。

「オスカーの旦那がなにやら難しい顔でお前さんのこと見ていたぞ」
「そ、それは」

 猪突してしまうニーナのことを心配しているのか、それとも被害に遭うかも知れないレイフォンの心配か。
 どちらにせよ、かなり拙いことになりかけていたことだけは間違いない。
 だが、問題はもう一つあるのだ。

「シャーニッドはどうなのだ? レイフォンのあの話を聞いて平然としている様だが」

 あまりにも何時も通りの表情だったのだ。
 それはあり得ないのだ。
 おおよその内容を知っていたはずのヴァンゼやオスカーでさえ、平静を保つことがやっとだったのに、シャーニッドは全く何時も通りの飄々とした態度を崩していないのだ。

「俺は知っていたからな」
「な、なに?」

 あまりにも予想外な展開が連続して起こったせいで、ニーナは再び硬直してしまった。
 レイフォンとシャーニッドが割と良く会っているらしいことは、あちこちから話としては聞いている。
 曰く。毎日昼食をたかりに行っている。
 曰く。レイフォンの回りにいる女の子が目当てだ。
 等々。色々な憶測が飛び交っているほどには有名だ。
 とは言え、上の二つが有力な仮説だが、ニーナから見てもそれは間違っていないと思っていた。

「良く昼飯を一緒に食っているんだが」
「たかっているのか?」
「その時に相談されたんだよ。実戦がどんな物か話したらみんなどう思うだろうってな」

 ニーナの突っ込みは綺麗に無視され、何でもないかのように重要な話は進んでしまった。
 そして、シャーニッドこそツェルニ武芸者の中で最もレイフォンから多くを学んでいると気が付いた。
 それが身についているかどうか、非常に疑問ではあるのだが、それでも学んでいることは無駄ではないだろう。
 それを小隊全体の財産にしなかったのは、少々では済まない憤りを覚えるが、それも今日のために黙っていたと言えるかも知れない。

「まあ、俺達がいくら頑張ってもあそこまで行けるかどうかって疑問はあるけどな」
「・・・・・。そうだな」

 レイフォンは異常なのだ。
 アントーク家は代々シュナイバルを守護する武芸者の家系だった。
 そこに生まれたニーナだから、当然かなり本格的な訓練を受けているはずだ。
 ツェルニに来て、一年生の頃から小隊員に抜擢された以上、それはほぼ間違いのない事実のはずだった。
 だが、レイフォンのあの技量と比べてしまうとかなりはっきりと見劣りする。
 もしそれが、命がけの戦場で磨かれた物だとしたら、これから修羅場を潜ることでニーナもあそこまで行けるかも知れないが、その前に命を落としてしまうかも知れない。
 どちらにせよ、実戦の話を聞いてしまった以上、今までのままではいられない。
 そして、甘い考えを持っているなら戦場に立つなと言われてしまった。
 それを否定することは今のニーナには出来ない。
 一人を助けるために百人を危険にさらすような指揮を執ることは、してはならないのだと思い知らされた。
 それはさておき。

「ところでシャーニッド」
「ああ?」

 少しシャーニッドから距離を取る。
 具体的には、ニーナの攻撃が最も強力になる距離にだ。

「いつから見ていた?」
「・・・・・。部屋を出た時から後ろにいた。レイフォンは気が付いていたみたいだけど、他の連中はそうでもなかったみたいだなぁぁ!」

 言葉の最後で一気に踏み込んで、渾身の打撃を打ち込んだ。
 当然予測されていたので受け止められたが、そんな物は関係ない。
 連続して打撃を打ち込み続け、ニーナの息が上がって腕が上がらなくなるまで、延々と攻撃の手を緩めなかった。
 このくらいの制裁は是非とも必要だと思うからだ。
 



[14064] 第四話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:12


 講義をしていた建物を出た次の瞬間、レイフォンの脛を猛烈な痛みが襲ってきた。
 いや。この事態は十分に予測していたのだが、それでもこれほどの痛みがやってくるとは全く思っていなかったのだ。
 引きずってきたナルキとウォリアスは全く我関せずと、明後日の方向を向いているし、助けは期待出来ない。

「ぐぐぐわぁぁぁ」

 二人の肩にかけていた手を外して、必死に痛みをこらえるために膝を抱えて飛び跳ねる。
 こんなことをこの瞬間にやる人間はただ一人しかいない。

「ふぇ、ふぇりせんぱい?」

 長い銀髪と念威繰者特有の無表情がトレードマークな、生徒会長の妹さんだ。
 レイフォンのその表情が気に入らないのか、大きく足を後ろに引いて無事な方の足を狙っていらっしゃる。
 あれを食らったら、暫く歩けない。

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが、一体あれは何ですか?」

 猛烈な視線がレイフォンを捉える。
 ここで間違った反応をしてしまったら、それはもう恐ろしくて眠れないほどの事態になる。
 馬鹿なことと言えば、食べ物絡みの話題の方を思い出すが、フェリがここまで怒り狂っているのは間違いなくそっちの話題ではない。

「最低限、戦力の底上げをしておきたいと思いまして」
「そんな事をしているから、兄に良いように利用されるのです」
「それは理解していますが、ツェルニが無くなってしまうと困るんですよ」

 正確には違うのだが、その辺はフェリも十分に理解してくれているだろう。
 実際問題としては、レイフォン以外で死者が出る実戦を経験しているのは、ツェルニではフェリだけなのだ。
 恐らく聞いていてかなり深刻な精神的ストレスを受けたのに違いない。
 ならば、多少の理不尽は許容出来ると思っていたのだが。

「昨晩、第二陣の探査機が持ってきた情報です」

 そんな予測を無視するかのように、何処から取り出したか全く不明だが、大きめな封筒をレイフォンに向かって差し出す。
 それを受け取り、深呼吸を一つして中を確認して。

「悪夢と最悪と災厄って、どれが一番気楽だと思う?」
「そりゃあ。悪夢じゃないか? 問題は睡眠不足だけだし」

 ツェルニが近付いたためだろうが、前回見た物よりも遙かに鮮明な写真をウォリアスに渡す。
 山の斜面らしきところに蜷局を巻いている、巨大な汚染獣の姿がおおよそ理解出来る。
 それは良いのだが、問題はその汚染獣のある部分だ。
 だが、写真を見てもウォリアスはあまり実感がないようだ。
 流石に、本物の汚染獣なんて物を見慣れているわけではない以上、ある意味仕方がないのかも知れないが、それでも期待してしまっていたのだ。
 現在の絶望的な状況を理解してくれないかと。

「これがどうしたんだ?」

 横から見ていたナルキは、更に何が何だか分からないと言った感じで、じっと写真を見詰め続けている。
 この質問が出ることは、当然なのだろうとは思うのだが。

「脚がない」

 そう言いつつ、誰かが聞いていないか周りに気をつけながら、蜷局を巻いている汚染獣の内側、退化してはいても、脚の痕跡があるはずの場所をゆっくりと指でなぞる。
 汚染獣は、脱皮を繰り返す内に徐々に脚が退化して行くのだ。
 そして、一期の老性体となった時に完全に脚が無くなる。
 つまりこれは。

「既に老性一期と言う事か」
「そう」

 これが死体でなければ、ツェルニが遭遇することになる汚染獣とは、最大限の脅威である二期以降の老性体と言う事になる。
 よりにもよって天剣がない状況で、正面から戦って勝てるかと聞かれたのならば、良くて相打ちだとしか答えることが出来ない。
 それなりの準備をしているのだが、それでも脅威が少なくなったわけではない。
 そしてレイフォンは覚悟を決めなければならない。

「これは食べたら美味しいのですか?」
「「「・・・・・・・・・・・・」」」

 覚悟を決めなければならないはずなのだが、何故か脱力してしまった。
 いや。突然のフェリの台詞を聞いたレイフォン達三人は、そろって絶句してしまった。
 そして冷たい視線がナルキとウォリアスからやって来ている。
 結構痛い視線だ。
 先ほどはニーナを振り切るために強引に話を切り上げたのだが、それが裏目に出てしまっているらしい。
 これは全力で誤魔化さなければならない。

「出来れば、ツェルニの外苑部で迎え撃ちたいですね」
「ああ。遮断スーツの制限が無くなるからな。ところでこれって美味いのか?」

 話題の転換に乗ってくれたと思っていたウォリアスが、再び話を元に戻してしまった。
 だが、遮断スーツの制限が無くなると言うことは非常にありがたい。
 カウンティア程極端では無いが、天剣授受者なんて怪生物の戦闘能力の前では、たいがいの材質で作られた繊維はちぎれてしまう。
 繊維がちぎれてしまえば、汚染物質に灼かれながら戦うという、時間制限が発生してしまう。
 その制限を気にせずに戦えるだけで、かなり勝率が上がるのだが。

「そんな化け物がツェルニに上陸なんかしたら、それだけでパニックだな。ところで、生で食べられるのか?」

 ナルキの台詞の、後ろ半分を聞き流しつつ考える。
 老成二期以降と戦う武芸者なんて物は、グレンダン以外では目にする事が無いはずだ。
 そして、戦闘による衝撃波は確実に都市を揺るがせる。
 その揺れだけで一般人はおろか、武芸者も平静を保てなくなるのは間違いない。
 もしそうなったら、ツェルニは汚染獣によってではなく人の手によって崩壊してしまう。
 それは出来るだけ避けたい。
 折角老性体を倒したというのに、帰ってみたら知っている人達がパニックのために大怪我をしていたとか言うのは、出来るだけ避けて通りたいのだ。
 それでも、勝率が高い方を選ぶべきなのかも知れないが。

「出来れば、兄は今夜辺りに出発して欲しいと言っていました。それでどういう料理方法をするのですか?」

 まだその話題を引っ張るフェリの足がゆっくりと引かれて行く。
 そして、レイフォンの両肩をナルキとウォリアスが押さえて逃がさないようにしている。
 汚染獣と戦う前に、既に危機一髪だ。
 ならばもう、レイフォンに出来ることはただ一つ。

「ごめんなさい。食べたことありません」

 冗談が過ぎたのだと後悔したが、既に遅かったのだ。
 フェリの口元がニヤリと歪むのを見てしまった。
 そして、恐るべき事を言ってきた。

「フォンフォンが倒したのならば、その肉を貴方に食べさせて差し上げます」
「勘弁して下さいよぉぉぉぉ」

 どうやら、講義の内容がフェリをかなり怒り狂わせているようだ。
 実戦経験者にあの話はきつすぎたのだと後悔したが、既に遅いのだ。
 講義は終了しているし、フェリは怒っている。

「帰って来たら、出来る限りのご馳走を作りますから、どうかお許しください」

 平身低頭という言葉は、今のレイフォンのために作られたのに違いない。
 自分でそう思ってしまうほどに平身低頭するレイフォンだった。
 
 
 
 フェリが機嫌を直してくれるためには、合計三十食分の料理が必要だった。
 材料費はカリアンが出してくれるだろうが、それでもレイフォンにとってかなり巨大なペナルティーだ。
 だが、そんなフェリの機嫌など実のところ今のレイフォンには関係ないのだ。
 都市外戦装備に身を包み、試作品という複合錬金鋼その他の装備を調えて、後はもう出発するだけとなった。
 そして、今回の作戦で最も恐れていた、そして先延ばしにしていた問題が目の前にある。
 緊張と、もしかしたら恐怖のために強ばった表情をしたメイシェンだ。
 前回の幼生体戦は、成り行き上ニーナに無断で出撃してしまった。
 そして、やはりメイシェンにも何の連絡もなく出撃してしまった。
 あの時は時間との勝負だったからと言う言い訳も出来るが、それでも心配をかけたことは事実だ。
 予測していた通りリーリンとミィフィが側にいてくれたし、カリアンが犠牲者となってくれたから必要以上に取り乱したりせずに済んだが、今回は事情がかなり違う。
 遠距離で戦うために、どうしても数日ツェルニからいなくなってしまうのだ。

「メイシェン」

 呼びかけたが、反応が何時もよりもかなり鈍い。
 レギオスの最下層にある、ランドローラーや各種作業車のゲートが近い、やや騒々しい一角だ。
 こんなところに呼び出されて、そしてレイフォンの今の格好を見れば、これから何が起こるのか想像出来てしまっているのだろう。
 そもそも、色々と誤魔化してきた物の、メイシェンがそれに惑わされるという確率は極めて低い。
 最低限でも、何らかの不安は抱えていたのだろうことは間違いない。
 そして、それが今現実の物となっているのだ。

「ごめんなさい。これから少し戦いに行きます」

 深々と頭を下げて、戦わないで済むようにと、武芸者を捨てるためにツェルニに来たのに、結局危険なことを続けてしまっていることを謝罪する。
 汚染獣との戦いは避けて通れないとは言え、そんな理屈はグレンダンを出た時に捨てたはずだった。

「レイフォンじゃないと、駄目なんですか?」

 強ばった表情をそのままに、自分の声がレイフォンを殺してしまうのではないかと、それを恐れるような小さな声が漏れ出てきた。
 こんなに心配させるならば、戦場などに出たくないが。

「僕以外では多分駄目だから」

 レイフォン以外で、老性体と戦えるような武芸者は、現在のツェルニには居ない。
 それは間違いない。
 恐らく、有りっ丈の質量兵器と全武芸者を磨りつぶすつもりで挑んでも、レイフォン抜きでは勝てない。
 だが、レイフォンの実力を十分に発揮することが出来るのならば、勝つことが出来るのだ。
 それはうぬぼれでもなんでもなく、単なる事実であり自信だ。
 そしてその認識は即座にレイフォンが異常すぎるのだと、改めて気が付く。

「あ、あ、あの」

 俯いて視線を下げるメイシェン。
 スカートの裾を力の限りに握りしめ、震える膝が今にも折れてしまいそうだが、それでも、何かを伝えようと必死になっているのが分かる。
 だからレイフォンは、紡がれるはずの言葉を待つ。
 床を何かの液体が濡らしているのにも気が付いているが、それを指摘することなど出来はしない。
 そして、沈黙の内に時間が過ぎて。

「無事に帰って来て下さい」
「必ず」

 完璧に涙声の台詞だった。
 だからレイフォンに出来ることは、きっぱりと言い切ることだけ。
 天剣さえあれば、かなりの確率で勝ち、そして無事に帰ってこられるが、今の状況ではどうなるか全く分からない。
 思えば、グレンダンは戦うことだけを考えたら、素晴らしい都市だった。
 天剣があり、天剣授受者がいて、そして戦うための全てがそろっていた。
 そこから出てしまった今になって、こんな危機が訪れるとは思いもよらなかった。
 だが、当然そんなことを言うほどには、レイフォンは馬鹿ではない。

「だから、帰って来たら遊びに行こう」

 これから行くところが地獄の戦場などではなく、軽く運動するために少し遠出するだけのように、気楽にそう声をかける。
 どれだけの効果があるのか全く分からないが、それでも言わずにはいられない。

「はい」

 涙の跡が幾筋も残り、そして未だに表面張力で瞳に溜まっているが、それでも笑顔で送り出してくれた。
 いっそのこと、大声を上げて泣いてくれた方が気楽だったかも知れない。
 それならば、レイフォンは罪悪感と共に戦場に出るだけで済んだし、言う事を聞かないとメイシェンは怒ることも出来たかも知れない。
 だが、行かないでくれとは言わなかった。
 それが、きっとメイシェンなりのけじめなのだろうと思う。
 もしかしたら、レイフォンのために強がってくれているのかも知れない。
 だからレイフォンは、軽くメイシェンを抱きしめると、すぐに踵を返して早足で扉を潜った。
 メイシェンには無理をしないで欲しいと思っているのだが、今回それは見事に無駄な望みとなってしまった。
 どれだけの負担をかけたのか、戦う側であるレイフォンには分からない。
 だが、その負担はきっとリーリンとミィフィが和らげてくれると信じて、一度だけ背中の扉を振り向いてから、出撃するための最終チェックを始めた。

『良いのですか?』
「良くはありませんけれど、他の方法が思いつきません」

 最後の確認のために、ヘルメットを装着した瞬間、非難囂々のフェリの声が聞こえて来た。
 ヘルメットのスリットに入っている念威端子経由の声だ。
 と同時に、一気に視界が明るく広くなる。
 ヨルテムから持ってきた都市外戦装備ではなく、ツェルニで新開発されたそれは、ある意味フェリの念威繰者としての能力があったからこそ、今までと一線を画する設計と機能にたどり着けたのかも知れない。

『トリンデンと別れを惜しんでいる内に、老性体とやらがツェルニに来てしまえば、なし崩し的に戦闘に入ることが出来ますよ。そうすれば、どれだけ貴方に頼っているか、兄を含めて色々な人が知ると思いますが?』
「それは駄目です」

 外苑部で迎え撃った方が有利であるには違いないが、それはいくつもの理由で避けざる終えなかった。
 新式装備が開発されていたから、使わないともったいないとか言う話では無いのだ。
 都市に被害を出さないためというのもあるのだが、何よりも。

「天剣授受者の戦闘は、殆どの場合単独か、同じ天剣授受者と組んででした」
『低脳な連中に足を引っ張られないためですか?』

 相変わらずの毒舌だが、間違いというわけではない。
 天剣授受者として出撃した戦場では、老性体と普通に一対一で戦っていた。
 そんな戦場に一般武芸者などいても邪魔なだけだ。
 あるいは、ひたすら数が多い時に駆り出されることもあったが、その時は破壊力よりも連射性を優先したために、普通の武芸者が恐怖することはなかったと思う。

「違いますよ。怖いからですよ」
『何が怖いのですか?』
「天剣授受者が」

 少し考える。
 どうやったらフェリに理解してもらえるだろうかと。

「前回の幼生体戦を見て、先輩はどう思いましたか?」
『とても人間とは思えませんでした』
「僕がですよね」
『ええ』

 ツェルニ全武芸者をあっさりと凌駕するレイフォンだ。
 あの姿を見てしまえば、普通の武芸者は恐怖を覚える。
 それは理解している。
 だが、フェリの認識は実は正しい物ではないのだ。

「あれは僕の全力のおおよそ十分の一に届きません」
『・・・・・・』

 沈黙が返ってきた。
 当然だと思う。
 ヨルテムで汚染獣戦を見学したり、交差騎士団を始めとする人達との訓練で、普通の武芸者の実力をしっかりと把握することが出来た。
 そんな普通の都市で、レイフォンのような異常戦力は危険すぎる。
 天剣授受者がいるのが当然という、グレンダンでさえ一般武芸者と違ったのだ。

「そして、今回の相手は全力で戦う必要があります」

 もし、全力で戦うレイフォンを一般武芸者が見てしまったのならば。
 グレンダンでさえ、それは危険だと判断されていたのだ。
 ツェルニだったら。

「僕はきっと汚染獣と同じ生き物であると思われるでしょう」

 全長百メルトルを越えるような、巨大な汚染獣とまともに戦える人間が、普通にいるはずがないのだ。
 ならば間違いなく、レイフォンは。

『貴方を排除しようとするわけですね』
「そうなると思います」

 気付かせてはならないのだよ。
 武芸者や念威繰者が人間ではないと言う事を、本当の意味でな。
 アルシェイラに言われたことを理解するのに、かなり長い時間がかかってしまった。
 言われた直後にもきちんと理解出来ていたと思うが、今ならもっと深く納得と共に理解することが出来る。
 一般的な武芸者でさえ、剄脈を持たない人間達にとっては驚異なのだ。
 その一般武芸者をあっさりと凌駕するような化け物がいると、グレンダンでレイフォンは知らしめてしまったのだ。
 同じ過ちをツェルニでする訳にはいかない。

「僕の安全な学園生活のためにも、汚染獣は都市外できっちりと始末を付けます」

 その他の選択肢など無い。
 先ほど終わった講義も、念のための処置に過ぎない。
 レイフォン自身が伝えること、レイフォンを相手に戦うことで伝わること、まだまだ伝えていない事が多いのだ。
 言葉で簡単に伝わることは伝えたが、それは全体のほんの一部でしかない。
 リンテンスの言い分ではないが、最も良く伝わって百分の一。
 普通に考えたら万分の一、下手をしたら億分の一も伝わらないかも知れないのだ。
 そして、ヨルテムに帰ってからの生活もあるのだ。
 ここで死ぬ訳にはいかない。

『成る程』

 理解してくれたようで、フェリの納得の声がヘルメットに届く。
 だが。

『命の危機が迫ると性欲が激しくなると聞きました』
「・・・・・・・・・」
『フォンフォンがトリンデンを抱きしめた時には、思い切って押し倒すのではないかと期待したのですが』
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
『そしてピーをピーにピーして』
「先輩!!」

 全力でもってその先を止める。
 いや。既に遅いのだが、それでも止める。

『何でしょうか?』
「女の子がそんなこと言っちゃいけません」
『性差別は反対です』
「それは話が違いますって!!」

 ピーと本当に口で言っているのだが、どう考えてもそこに入る言葉は決まってしまっているように思える。
 なんだか最近、フェリの暴走が酷いような気がしてならないが、もしかしたらこれも先ほどの講義の影響が残っているのかも知れない。
 レイフォンに意地悪をして気晴らしをしているとか。

「と、兎に角ですね。僕は戦いに行くのであって死にに行くわけではありませんから」
『それは残念です』
「何がでしょうか?」
『覗きをするチャンスだったと』
「・・・・・・・」

 戦う前から既に全力で疲れてしまっている。
 重くなった足を引きずるようにして、予定の区画まで進む。
 その間に、ヘルメットがきちんと装着されているか確認するために、色々と吹き付けられているのだが気にしている余裕など無い。

「そもそもですね」
『はい』

 話を始めの方の話題に切り替える。
 このまま突き進んだら、本当に外苑部で迎え撃たなければならなくなるかも知れないから。

「メイシェンが笑ってくれている内に出撃したかったんですよ」

 既に泣いていたという事実は、この際徹底的に無視する。
 声を上げて泣いてしまう前に、逃げるようにして踵を返したと言う事実も無視する。
 そうでなければ決意が鈍ってしまうから。

『泣いていませんでしたか?』
「錯覚です」

 当然フェリからそう突っ込まれたが、これも全力で否定する。
 出発前から疲れ切っている気がするが、きっと気のせいだと自分に言い聞かせてランドローラーに乗り込んだ。
 二期以降の老性体と戦うのはずいぶん久しぶりだが、それでも出来ることは全てやってある。
 今は、戦って勝って、そして無事に帰ってくることだけを考えよう。
 そう考えつつ、アクセルを開いた。
 
 
 
 出撃するレイフォンを見送ったメイシェンの膝から力が抜け、その場に座り込みつつ声を上げて涙を流すのを確認しつつ、小さく溜息をついた。
 扉が閉まってから、僅かに三秒後のことだった。
 厚い扉だから、レイフォンに泣き声は聞こえていないだろうが、こうなることは十分に予測していたはずだ。
 だからこそ迅速に逃げ出したのに違いない。
 それが少し羨ましい。
 カリアン達が、今目の前で起っている事実から逃げることは許されていないからだ。
 生徒会長であるカリアンには、責任がある。
 このツェルニを運営する責任。
 何かがあった時に、その対策を取り危機を乗り越える責任。
 そして、犠牲が出てしまった時に取る責任。
 全ての責任から逃げることは許されていないし、責任を取ることが嫌ならば責任のある立場に着くべきでは無いのだ。
 とは言え、今回のことは少々度が過ぎていると愚痴りたくなる気持ちはある。
 学園都市だと言うことで油断していたというわけではないはずだ。
 そもそも、老性体なんて非常識な汚染獣と遭遇する都市などと言う物は、グレンダン以外には殆ど存在していない。
 ツェルニは当然として、サントブルグもヨルテムも、恐らくシュナイバルや他の都市も老性体なんて物とは遭遇していない。
 レノスはそんな非常識と遭遇して、奇跡的に生き残ったと言うが、それこそ例外中の例外だ。
 そして、ある意味その老性体と戦うための武芸者たる天剣授受者が、この都市にいたことは幸運だと言えるのだろうと思う。
 元と付いているのには目を瞑っても、十分におつりがくる。
 だがそれは、学園都市ツェルニにとってと言う前提条件が付く。
 カリアン個人にとってとなると、少々事情が違ってきてしまうのだ。
 本来、武芸大会のために用意したはずの切り札が、ここで失われてしまうかも知れないと言うのもあるし、もちろんカリアンの安眠のためというのもある。
 そして、目の前で泣き崩れている少女にとっても、天剣授受者だろうと天下無双の武芸者だろうと関係ない。
 愛する存在が戦場に出て行き、そして帰ってこないかも知れない。
 しかも今回は、往復しなければならないために耐える時間が非常に長い。
 そんな状況に、目の前の少女は耐えられるのだろうかという疑問が出てくる。
 メイシェンの姿を見ていると、恐らく耐えられないと思えてくる。
 だが、レイフォンもカリアンもその辺はきちんと理解している。
 そして、リーリンとミィフィが現れ、泣き続けるメイシェンを抱きかかえて去って行く。
 こんな状況だが、ある計画に沿ってある人物の元へと送り届けるように、手筈は整っているのだ。
 下策だとは思う。
 いや。外道な振る舞いだとは思うのだが、それでもカリアンはやらなければならないのだ。
 目前まで迫っているはずの武芸大会。
 その中核となる戦力を整え、勝利を得るために。
 そして、この後やってくるかも知れない汚染獣の脅威を退けて、ツェルニが生き残るために。

「とはいえ」

 計画は実行段階へ進み、カリアンに残されているのは、結果を待って次の行動に移るという後始末的な物だけだ。
 暇になったわけではないが、それでも一息つくことが出来る。
 老性体を何とかしてくれなければ、ほぼ確実にツェルニは滅ぶが、打てる手は全て打ってしまった以上、結果が出るのを待つしかないのだ。
 もう一度だけ溜息をつき、ままならない現実に対して愚痴をこぼしつつ、ヴァンゼ達が待っている会議室へと足を向ける。
 万が一に備えて、迎撃準備を整えなければならないからだ。
 無駄だとしても、何もしないという選択肢は存在していない。

「同じ穴の狢か」

 何もしないという選択肢がないという考え方は、おそらくニーナと同じだと言う事を認識してしまったが、それでも黙って滅ぼされるなどと言う事は出来ない。
 出来れば、脱出出来る生徒は脱出させたいのだが、二期以降の老性体は独自進化を遂げるというレイフォンからの情報を信じるなら、ろくに脱出計画も立てられない。
 レイフォンが戦った中には、幼生体を大量に抱えた老性体なんて変わり種もいたそうだ。
 もし、やって来るのが吐き出された幼生体だけだったら、ツェルニに残っていた方が遙かに安全だったという事態さえあり得る。
 ここまで厄介な事態というのを経験する都市の最高権力者など、そうそういないだろうと思うのだが、世の中広いから油断は出来ない。
 まあ、そんなに多くいるという話は聞かないから、極めて貴重な体験なのだろうとも思うが。
 ふと、グレンダンの統治者はどうなのだろうかと考えてしまったが、それこそ例外中の例外と言うよりも、異常の中の異常な都市だ。
 きっと老性体との戦いに慣れているに違いないし、それ相応の対策も出来上がっているはずだ。
 なによりもグレンダンには天剣授受者が複数いる。
 レイフォンが抜かれても後詰めがいるという安心感は、今のツェルニの状況と比べると遙かに安心である。
 少しだけグレンダンが羨ましくなってしまった。
 そんな事を考えつつ、ヴァンゼ達の待つ会議室へと到着した。
 扉に手をかけたところでふと思う。
 やらないという選択肢がないという考え方自体は、ニーナと同じだ。
 だが、前もって計画を立てるという一点においてかなりの違いがある。
 そして思うのだ。
 今回の老性体騒ぎでニーナがよい方向に変わってくれればいいと。
 具体的には、計画的に行動するために情報を集めて考えてくれるとか。
 そう言う変化が起こってくれると本当に嬉しい。
 会議室にいる、深刻で血の気の失せたヴァンゼを始めとする武芸者の顔を確認して、カリアンはそう思うのだ。
 シュナイバルに帰れば、ニーナはきっと責任有る立場に立つことになる。
 そのためにはまず何よりも、行動する前に考えると言う事を学ばなければならない。
 突っ走っては駄目なのだと言う事を、今回の騒動でしっかりと学習して欲しいと願いつつ、扉を閉めて対策会議に臨んだ。



[14064] 第四話 八頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:13


 前日の講義の後、小隊員達は異常な熱気に包まれていた。
 一晩寝て、冷静になって講義の内容を理解し始めたのだ。
 自分達がいるのは、死に満ちあふれた危険な世界であると。
 そして、エアフィルターのすぐ外に広がっているのは死の世界そのものであり、そこで戦わなければならないのだと。
 だからだろうが、小隊員で剄息をしていない人間は一人もいなかった。
 自分が死なないために、誰かを殺さないために。
 それはニーナも同じだが、違うところもいくつかある。
 現在ニーナの小隊は定員割れを起こしているのだ。
 当然、汚染獣特措法によってレイフォンが引き抜かれたからだ。
 だが、野戦グランドが修復のため使えなくなったという連絡があったために、小隊対抗戦は行われていない現在、対した影響はない。
 影響はないのだが。

「なんだこれは」

 剄脈を酷使していたために、一晩入院していたために詳しいことは分からないが、目の前にある光景は明らかに異常だ。
 その修復されている野戦グラウンドを見て、ニーナは呆然と呟くことしかできないほどだ。
 大きく大地が抉られているのは良いとしよう。
 ヴァンゼの全力攻撃でなら、これくらいのことは出来る。
 人工的に作られていた山や谷が、粉砕されているのも良いだろう。
 対抗戦でも激しい時には似たようなことが起こる。
 だが、最も恐ろしいのは。

「これって、どうやって切ったんだろうな?」

 暇で付いてきているシャーニッドが、好奇心半分恐怖半分と言った面持ちで呟く。
 ニーナは既に絶句している。
 そしてその視線の先にあるのは、かなり堅いはずの岩が綺麗な賽の目に切られているという、恐るべき光景だ。
 それも鋼糸によるものでは無い。
 明らかに刀剣による斬撃によって、これ以上ないくらいに綺麗に切り裂かれているのだ。
 こんなことが出来る小隊員はいないはずだ。
 レイフォンを除いて。

「これが、レイフォンの実力なのか」

 呟く。
 鉄鞭という打撃武器では当然こんなことは出来ないが、それでも岩に刻まれている切り口はあくまでも滑らかであり、そして角は刃物を思わせるほどに鋭角的だ。
 これをもし人間相手にやったのならば、恐らく切られた人間は自分が死んだことにさえ気が付かないだろう。
 そう思える程までに凄まじい切り口だった。

「レイフォンが新型錬金鋼の切れ味を確かめるとか言ってな、軽くぶった切っていった」

 その声に振り向くと、レイフォンと同じサイハーデンを使う武芸者、イージェがいた。
 いるのは別段問題無い。
 そもそも、技の錆落としをすると言う事で、散々レイフォンと組み手や訓練をしていたのだ。
 野戦グラウンドを破壊するのにも貢献しただろうことは疑いない。
 だが、その姿はあまりにも異常だった。

「どうしたんだよ?」
「ああ? 実戦形式の組み手をやったらこうなった」

 気楽さを装いつつ表情が引きつっているシャーニッドが、何時も通り年齢のことなどお構いなしにタメ口で質問を発した。
 全身に痛々しい包帯が巻かれ、左腕は首から釣られているイージェへと。
 更に顔にはいくつも青あざが残っているという、まさに満身創痍と言った感じだ。
 サイハーデンは刀術と言う事になっているが、補助的に徒手空拳の技もあると言うから、腕が折れていたりあざがあったりするのは問題無い。
 だが、気になるのは実はイージェの方ではないのだ。

「レイフォンは無事なのでしょうね?」

 ここまで激しい組み手をやってしまっては、レイフォンだって怪我をしているかも知れない。
 これから汚染獣戦を控えているはずだというのに、怪我をしているかも知れないレイフォンの心配をしたのだが。

「あれが俺相手に怪我なんかするかよ」

 非常に疲れた声で答えられた。
 聞いた話ではヴァンゼと手合わせをして、一方的な勝利を収めたという熟達の武芸者が、レイフォン相手に一方的にやられてしまった。
 今ニーナとヴァンゼが戦えば、一方的に叩きのめされるのはニーナだろう。
 そこから考えられる力関係を思っただけで、思わずまた絶望したくなってしまった。

「化け物だとは思っていたが、あそこまでとは思わなかった」

 呟くイージェは完璧に疲れ切っている。
 どれほどの高見にレイフォンがいるのか、それが全く分からないほどの実力差を、どうにか縮めなければならない。
 剄息を続けることは当然として、他に何が出来るだろうかと考える。
 そして思いついた。
 強い奴と戦えばいいのだと。
 幸いにしてヴァンゼやオスカー、ゴルネオにイージェという実力者が身の回りにいるのだ。
 これを最大限利用しなければならない。

「今お前、とんでもないこと考えただろう」

 何を考えたのかを察したらしいイージェが、嫌そうな顔をしているが我慢してもらうしかない。
 そもそもイージェは。

「戦うことが好きだと聞いていますが?」
「戦うことは好きだが、怪我している時は休んでいる方が好きだ」

 当然と言えば当然の反応が返ってきた。
 当然今すぐに組み手とか言うつもりはない。
 だが、道を見つけることは出来たと思う。
 後はどうやってそれを進むかだ。
 そして、今ニーナも万全の状態ではない。
 休んで身体を治さなければならない。
 ここでもやはり、無理な自己鍛錬の影響が出ている。

「まあ、私も今は戦える状況ではありませんから」
「ああ。お互い帰って寝るとしようぜ。丸二日経っているはずなのに、体中痛え」

 ならば大人しくしていればいいと思うのだが、そこがイージェという人間のおかしなところなのだろうと思う。
 だが、家へ帰って寝ようという提案には賛成だ。
 一晩入院したお陰でだいぶ身体は動くようになったが、節々が痛いことには変わりがない。
 
 
 
 ランドローラーから降りたレイフォンは、それを見詰めた。
 山の斜面に寝そべるように蜷局を巻いているのは、巨大な汚染獣だ。
 脚の痕跡が全く存在せず、明らかに老性体であることを物語っている。
 だが、甲殻は非常に干涸らびて所々にひびが入っている。
 死骸にしか見えないと思うのだが、目の前から伝わってくる存在感がそれを全力で否定している。
 思わず逃げてしまいたくなるほどの、壮絶な存在感を発するそれが、単なる死骸であるはずがない。
 ヘルメット越しの空気を吸い込み、そして盛大に吐き出す。

『どうしました?』

 そんなレイフォンの状況を見てフェリが声をかけてきた。
 やる気がないと思ったのか、それとも心配してくれているのか。

「本当に恐ろしいのは、今回の相手のように、二期以降の老性体です」
『何を言っているのですか?』

 既にカリアンやヴァンゼには伝えてあることなので、今更何を言っているのか分からないのだろう。
 だが、それを無視して先を続ける。

「二期以降の老性体は一個体ごとにそれぞれ違う進化を見せます。中には天剣授受者数名でかからなければならないと言う非常識なのもいましたし、雄性体二期よりも物理的には弱いのもいました。そう言う場合には違う方向の戦力を持っていましたけれど」
『だから、何を言っているのですか?』
「遺言になるかも知れない言葉です」

 死ぬつもりはないが、死んでしまうことは覚悟している。
 戦場に立つと言う事はそう言うことだ。
 ツェルニというか、メイシェン達の元へ帰りたいという気持ちはあるが、それはレイフォンの都合であって、世界的な都合ではないし、汚染獣には全く関係のないことだ。
 だからこそ、覚悟を決める。
 死ぬ覚悟ではなく、どんな事をしてでも汚染獣を倒して帰るという覚悟を。
 そして、錬金鋼を引き抜き、指定された順序でスティック上の部品を差し込む。

「レストレーションAD」

 復元鍵語を呟き剄を通す。
 途端に巨大な刀が復元された。
 天剣と比べるとどうしても見劣りしてしまうが、それでも他の錬金鋼と比べて、遙かに丈夫で剄を流せる。
 今のレイフォンはこれに頼るしか無い。
 同時に青石錬金鋼も鋼糸として復元する。
 両方の柄頭を合わせて一体化させる。
 そして、準備が完了したことを見計らっていたように、甲殻に入っていたひびが見る間に数を増やし山を崩しつつそれが目覚めた。
 やはりというか当然というか、脱皮で消費したエネルギーを補うために餌が近付くのをギリギリまで待っていたようだ。
 その外見を見て、相手の戦力を予測する。
 もちろん、それは実際に戦いつつ修正される。
 まず外見から分かることは、予測していたよりも小さいと言う事だ。
 寸胴に見えるその胴体を、複数の脚が支えている。
 翔は退化してしまっていて、その痕跡を背中に残すのみとなっている。
 その代わりというか、脚は非常に堅牢そうで、かなりの速度で走ることが出来るだろう。
 そして何よりも頭のすぐ後ろ、人間で言えば肩の辺りから、二対の腕らしい物が伸びている。
 身体の長さに比べて異常に長いその腕の先に、巨大な曲線を描く刃物のような物が付いている。
 相手を切断することを前提にしているようだ。
 間合いが長く、そして二対四本の腕は非常に脅威だ。

「厄介だな」

 呟きつつ剄を練り上げる。
 まず何よりも、その移動手段を奪わなければならない。
 だが、脚の数が多い。
 軽く十対はある。
 移動能力を奪うとなれば、最低限その半分を機能不全に、つまり斬り飛ばさなければならない。
 幼生体と比べるのが馬鹿らしいほどに強靱な、老性体の甲殻を相手に十対はある脚を斬り飛ばすとなれば、考えただけでもかなりもの凄い労力になる。
 だが、まだレイフォンの事に気が付いていないようだ。
 先制攻撃で一本でも斬り落とせれば、それだけ有利になる。

『フォンフォン』
「何ですか?」

 戦闘に向けて精神のスイッチを切り替えたレイフォンの声は、自分で分かるほどに冷たく乾燥していた。
 戦うために不要な物は、全て切り捨てたためだ。

『ツェルニが進路を変えました。急激な方向転換のせいで怪我人が出たと思えるほどにです』
「それはそうでしょうね」

 老性体二期なんて物を間近で発見した、通常のレギオスならば全力で逃げるのに決まっている。
 だが、それが無駄な足掻きであることもレイフォンには分かっていた。

『逃げて下さい』
「無理ですね」

 目の前の老性体は、ツェルニが完璧に射程距離に入るまで待っていたはずだ。
 どんなに急いでもツェルニは逃げ切ることが出来ない、その距離まで。
 ならば、ここで倒さなければ被害が出てしまう。

「さあ、始めようか」

 まだこちらに気が付いていない老性体の足元に、水鏡渡りで突っ込み、四つの節でもって構成されている脚、その構造一番下の間接に大量の剄を込めた複合錬金鋼の根本付近を押し当て、一気に挽き斬る。
 接地部分を見事に斬り飛ばせたが、ただそれだけだ。
 二十本ある脚の一本が切り飛ばされても、実際には何の問題も無いだろうが、痛みが無いというわけではないようだ。
 天地を引き裂くほどの絶叫を上げつつ、老性体がレイフォンを認識する。
 取り敢えず時間を稼ぐことが出来たようだ。
 後は、少しずつ削って行き最終的に始末を付ければいい。
 言うのは簡単だが、やるのは結構難しい。

「餓死するまでにどのくらいかかる? 一週間か一月か? お前は諦めないだろうから付き合ってやるよ」

 生きることを諦めるなどと言うことはない。
 それはレイフォンも同じだ。
 ならば、どちらの方がより強く生きたいと思うかにかかっている。
 戦いは今始まったばかりだ。
 
 
 
 ニーナが寮に帰り着くと、異常な物が待ち構えていた。
 いや。別段狼のお面を被った集団が宴会を開いていたとか、赤毛で長身な武芸者が冷蔵庫を漁っていたというわけではない。
 出迎えたのは何時もここに住んでいるリーリン。
 別段それ自体は問題無いが、その視線は有無を言わさない凄まじい鋭さを持っている。
 何よりもその身体に纏う空気が、ニーナをたじろがせている。

「な、何かあったのか?」

 どもってしまったが、何とか後ずさらないようにこらえる。
 そして、リーリンの後ろ側には、疲労困憊し尽くしたレウまで見える。
 何かあったことは間違いないが、何が起こっているか全く分からない。

「ニーナ」
「は、はい!」

 呼ばれたので思わず直立不動の姿勢になる。
 今のリーリンに逆らってはいけないのだ。

「レイフォンの話題は厳禁です」
「厳禁でありますか」
「ええ。絶対に一言言う事はおろか、レイフォンを想像させることも厳禁です」

 なんだか猛烈に凄まじいことになっているようだ。
 ふと気が付けば、リーリンの目の下に隈が出来ていた。
 レウだけではなくリーリンも相当消耗しているようだ。
 何故そんな事になっているのかと考える。

「まさか」

 既にレイフォンが出撃していると考えれば、リーリンの態度に納得が行く。
 そして恐らく、メイシェンがここに居るのだという予測も出来る。
 いや。メイシェンがここに居るからこそリーリンは消耗しているのだろうし、レイフォン絡みの話題は厳禁なのだろう。
 そして、こっそりとリビングを覗いてみると、案の定メイシェンがいた。
 当然のようにミィフィが側にいるし、ついでのようにセリナも隣に座ってなにやら話しかけている。
 戦力の出し惜しみは無しな状態だ。
 やはり出撃した後だったようだ。

「ねえメイシェン。一口だけで良いから、これ飲んでくれないかな」

 ゼリー飲料のパッケージを持ったセリナが、何とか栄養剤を飲ませようと働きかけているが、それが功を奏したようにはとても見えない。
 そして小さく首が横に振られる。

「ずっとあんな感じなのか?」
「ええ。変な言い方だけれど、私はレイフォンが戦場にいることが日常になっているのよ」

 心配していないというわけではないのだろうが、それでも付き合い方を心得ているからこそ平静を保てるのだろう。
 だが、今のメイシェンにそれを求めることはかなり難しいだろう。
 だが、武芸者の側にいると言う事は、常に危険にさらされる家族や友人を作ると言う事なのだ。
 その覚悟がなかったために、今のメイシェンは酷く憔悴しているのだろう。
 ニーナの冷静な部分がそう告げているのだが、あの姿を見て平然としていられる人間が、そうそういるとは思えないのも事実だ。
 そして理解した。
 レイフォンが戦うことを拒否している理由を。

「私は、無力なのか?」

 レイフォンのために何かしたいと思う。
 だが、一緒に戦うことは恐らく出来ない。
 その戦いを支えることも、恐らく出来ない。
 たった一人で戦いに出ているレイフォンの力になり、そして無事にここに帰ってくるために力を貸したい。
 そう思うが、力がないのだ。
 だが、そんなニーナの思考を打ち壊すようにいきなり地面が揺れた。
 いや。都市が揺れたのだ。

「っきゃ!」

 リビングの方からいくつかの悲鳴が聞こえた。
 ソファーに座っていてもかなり激しく揺れたのを感じたのだろう。
 そして、リビングの外にいたリーリンとレウは更に激しく揺さぶられた。
 何とか転ぶことは避けられたが、大きく姿勢を崩してしまっていた。
 当然ニーナは殆ど体勢を崩さずに済んだが、問題は悲鳴を上げたり転びかけたりした人間ではない。
 沈黙を保っているメイシェンだ。
 こっそりと覗いたリビングのソファーに座っているメイシェンは、血の気が引いた青白い顔を強ばらせて、じっと床を見詰めている。
 それは、ついさっきまでの緊張や不安恐怖が、更に量と重さを増したことが分かる表情と空気だ。
 そして見詰めているのは、恐らく都市が踏みしめる大地だろう。
 汚染され、汚染獣という脅威が存在しているこの世界そのものに敵意を持っているのかも知れない。
 そして気が付く。
 ツェルニが何故それ程激しく揺れたのか。
 それは汚染獣が目覚めたのを察知したからだ。
 つまり、この瞬間レイフォンと汚染獣の戦闘が始まったと言う事だ。
 それを理解しているからこそ、メイシェンがあれほど怯えたのだろう。

「こ、困った物ねツェルニにも!」
「そ、そうだそうだ。きちんと足元を見ないで歩いているから、石ころかなんかに躓くんだ」

 ニーナとメイシェンがその結論に達したからこそ、他の三人もきちんと同じ事を考えた。
 リーリンとミィフィが慌てて全く無実なはずの、と言うか頑張って脅威から逃げ回ってくれているはずのツェルニを悪者にして、メイシェンの恐怖を和らげようとしている。
 完全に失敗しているとしか思えないほど、メイシェンの表情は硬く、歯を食いしばって涙をこらえているようにしか見えないが。

「ごめんなさい」

 そして、血を吐くような声が聞こえた。
 誰の声だったのか一瞬以上分からなかった。
 それはあまりにも小さく、そして弱々しく、なによりもひび割れていたからだ。

「え、えっと?」

 それがメイシェンの発した声であり、リーリンに向けられているらしいことが分かったのは、実に3秒の時間が経ってからだ。
 まるで怖い物を見詰めるような視線が、リーリンを捉える。
 まるで、妻子持ちの男性との浮気現場を発見された、大人しい女性が正妻を見詰めるような、そんな視線だ。

「な、なにをあやまっているの?」

 メイシェンのそんな視線で見詰められたリーリンが、こちらも恐れおののきつつ問い返す。
 どちらも相手を怖がっていると言う事が、浮気現場とは違うかも知れないが、問題はそんなところではない。

「リーリンも心配なのに、私ばかり」

 ふとそこで気が付いた。
 レイフォンを心配しているという一点において、メイシェンもリーリンも違いがないのだと。
 恐怖で一杯一杯のメイシェンが気が付いているというのに、レイフォンの力になれないという自分の現状にだけ目が行ってしまっているニーナと、何という違いだろうかと驚愕する。

「へ、平気よそんな事。今まで何度もレイフォンは戦場に行ってそのたびに帰ってきたんだもの! レイフォンだったら絶対に帰ってくるって信じているもの!」

 両の手で拳を作り、それを胸の前で固く握りしめるリーリンが言い切る。
 グレンダンで散々実戦を経験したレイフォンだ。
 リーリンとの間にきちんと信頼関係を築いていることは間違いない。
 それを前面に押し出すことで、いくらかでもメイシェンの不安と恐怖を和らげようとしているのだろう事が分かるし、それ以外に有効な手があるとも思えない。
 だが、何故かミィフィとセリナが慌てて胸の前でバツ印を作っているのに気が付いた。
 メイシェンの後ろ側でやっているから、サインを送っているのはリーリンなのだろうと思うのだが、何故そんな事をやっているか全くニーナには分からない。
 だが、リーリンはきちんと気が付いたようで、今までの消耗など関係ないとばかりに、その顔から血の気が引いて行く。

「あ、あう」

 視線が全く関係のないレウの方を向くリーリンは、何故か必死に助けを求めているようだ。
 しかし、助けを求められたレウも、処置無しとばかりに首を横に振ってしまう。
 全くニーナには分からないが、本人達にはきっちりと理解されているから良いとしよう。
 良くはないのだろうが、今重要なのは別なところだ。
 メイシェンが必死に耐えているというのに、ニーナは何もしていない。
 無力だと分かっていても、何かしなければならないと心に決めた。
 決めたのならば行動あるのみだ。
 踵を返してどう行動するかを考える。
 何よりもまずやることはカリアンと会うことだ。
 そして、暫く前に研究のためだとか言って巨大な錬金鋼を持ってきていたハーレイを問い詰めることだ。
 状況から推察して、レイフォンは都市外での戦闘を行っている。
 ならば、それなりの装備を調えなければならない。
 
 
 
 どれくらい経ったのか全く分からないが、何度目の攻撃かも分からないが、それでもレイフォンは汚染獣の足に向かって集中的に斬撃を放ち続ける。
 既に三本の足に何らかのダメージを与えたが、それでも老性体の戦闘力が劇的に低くなったというわけではない。
 いや。むしろ怒りや苦痛で最初に比べて戦闘力は上がっていると考えても良いだろう。
 四本の腕の先にある、湾曲した巨大な刃物を振り回しつつ、更に踏みつぶそうと残った足が襲いかかってくる。
 その尽くを回避し続け、更に一歩間違えば錬金鋼が損傷を受けてしまいそうな甲殻に向かって、こつこつと斬撃を放つ。
 鋼糸を翔の名残に絡めて、老性体の背中に着地したレイフォンは、振り落とそうと足掻いて暴れる背中から落ちない様に細心の注意を払いつつ、剄を乗せた巨大な刀を四本目の足の付け根、間接構造のために比較的弱くなっている場所に差し込む。
 顎のような可動域の狭いところなら兎も角、足や肩などの大きく動く場所は比較的攻撃しやすい。
 とは言え、幼生体と比べれば途方もなく難しいが、それでもレイフォンは的確に弱点を見つけて攻撃を打ち込んだ。
 そしてふと思いだした。
 今回二つだけ用意された特殊装備があることを。
 重たい弁当箱と呼称される、縦横十センチ厚さ三センチ程度の、レイフォンの身体に合わせて湾曲している、金属製の平べったい箱を戦闘衣のポケットから取り出し、今作ったばかりの傷口へとねじ込んだ。
 更に、複合錬金鋼の切っ先で奥深くに押しやる。
 柄頭同士で接合された青石錬金鋼の鋼糸で、弁当箱なら蓋に当たる箇所にある安全ピンを引き抜く。
 そして、安全ピンの側にある起爆スイッチを一回転させつつ甲殻を蹴って飛び退く。
 次の瞬間、恐るべきことが起こった。

「でぇぇぇ!」

 思わず空中での姿勢制御を一瞬放棄してしまうほど、凄まじい光景が展開されたのだ。
 くぐもった爆発音と共に、白煙と緑色の体液をまき散らせつつ、足が一本根本からもげたのだ。
 あまりの衝撃と痛みに、老性体が大地を転げ回って苦痛を表現している。
 本来ならば、この隙だらけの瞬間に攻撃を撃ち込みたいところだが、あまりにも激しくのたうち回られているために近付くことが出来ない。
 距離を開けてそれを観察しつつ思うのだ。
 普通に攻撃していたのでは、脚一本を根本から奪うのにかなりの時間と体力がかかったにもかかわらず、重たい弁当箱はそれをたった一撃でやってのけたのだ。
 ウォリアスが言うには、鉱山でも使われている高性能な爆薬だという話だったが、まさかこれほど凄まじいとは思いもよらなかった。
 もっと数を用意出来れば、この戦いはずっと楽な物になっていたに違いない。
 そうは思っても、ツェルニのミサイルの一部を分解して爆薬を調達して、外装や起爆装置を作り上げたために間に合ったのはレイフォンが持っている二つだけだ。
 極めて破壊力のある武器ではあるが、使いどころが難しいのも事実だ。
 残り一個。
 機を見て使わなければならない。
 出来れば残り一個で始末を付けたいところだが、その場合、頭蓋骨の中に直接ねじ込んで脳を破壊しなければならない。
 今の状況ではそれは無理なのだ。
 何しろ老性体はまだ体力を十分に残している。
 再生する間に餓死するかも知れないが、それはずいぶん先の話になる。
 ならば、レイフォンが出来ることはこつこつとダメージを与えて行き、決定打を打ち込める状況を作ることだけだ。
 まだ戦いは続く。



[14064] 第四話 九頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:13


 研究室でハーレイを発見して、尋問か拷問か微妙な方法で情報を引き出したニーナは、どこから嗅ぎつけてきたのか不明だが、シャーニッドを伴って生徒会長室へと到着していた。
 何時ものような笑顔と共に、非常に無礼な方法で現れたことを咎めるでもなく、ゆったりと執務机に座りこちらを見詰めている。
 都市の最高責任者としてはそれで良いのだろうが、何故かこの瞬間は納得が行かない気分になっていた。

「やあ。血相を変えてどうしたのかね?」

 何に対して怒りを覚えてここにやってきているのか、それを十分理解しているだろうが、それを全くおくびにも出さない態度が今は納得出来ないのだ。
 レイフォン一人に危険を押しつけて、のうのうとしているように見えるカリアンに対してだ。
 当然、外から見ただけの話で、内面では色々と考えているし悩んでいるのだろうと思う。
 そこまで予測出来ているからこそ、単刀直入に話を切り出す。

「私も出撃します」
「駄目だ」

 即答だった。
 その態度には全く動揺が見られない。
 だが、当然ここで諦めることなど出来ないのだ。

「レイフォンはたった一人で戦いに出ているのですよ!」
「・・・・・・・」
「それなのに私達は安全な場所で、ただ待っているだけなどと言うことが出来ようはず有りません!」

 沈黙を続けるカリアンに殺意が湧いてきてしまった。
 ニーナにとって非常に長い沈黙の後、やっとカリアンの口が開かれた。

「行ってどうするというのだね? オスカーから聞いているはずだよ?」

 オスカーがニーナに何を言ったか、それをカリアンは知っているようだ。
 それは当然だと思う。
 個人的に親しい間柄だし、それ以上に生徒会長と武芸科のトップに近い人物だ。
 頻繁に連絡を取り合っているだろうし、万が一にも疎遠だったとしてもニーナの状況は極めて大きな事柄だ。
 連絡しないなどと言う事の方が考えられない。

「迎えに行くくらいのことは出来るはずです!」
「・・・・。ふむ」

 何か考え込んでいるようで、今度の沈黙は先ほどよりも長かった。
 そしてゆっくりとカリアンがニーナを見詰める。

「良いだろう。ランドローラーの使用許可を出そう。ただし生きて帰ってくること。合流したのならば向こうの指示に従うこと。それと危険だと思ったのならば逃げてくること」
「逃げません。レイフォンを、部下を見捨てるなどと言うことは出来ません」

 今、レイフォンはニーナの部下でないことは理解しているが、制度上そうなっているだけの話だ。
 感覚的には今もレイフォンはニーナの部下なのだ。

「ツェルニが生き残るために君達は必要なのだよ」
「レイフォンもです!」

 言い切って生徒会長室から飛び出した。
 まだ全力で走ることは出来ないが、それでも早足でランドローラーが収容されている場所を目指す。

「なあニーナ」

 その最中、シャーニッドが生徒会長室を振り返りつつ、何か思うところがあるのか話しかけてきた。
 身体的に問題のないシャーニッドだから、ニーナと一緒に歩いていても何ら問題はない。
 何時も通りの声と口調だ。
 だが、何か深刻な内容らしいことがその雰囲気から分かった。

「生徒会長の言い回しが少し気にならないか?」
「どういう意味だ?」
「いやさ。レイフォンの名前が全然出てきていないと思ってな」

 言われて見て少し考える。
 確かに個人名が全く出てきていなかった。
 だが、レイフォンが出撃していないなどと言う事の方が考えられない。
 そもそも、レイフォン以外の誰が汚染獣と満足に戦えるというのだろう?
 もしかしたら、既に回収班が出発しているのかも知れないが、それでもニーナは何もしないと言う事が出来ないのだ。

「行ってみれば分かることだ」
「まあ、それもそうだけどな」

 いくら考えても、実際に見てみなければ分からないことはある。
 そしてニーナは既に一歩を踏み出してしまっている。
 ならば、走り抜けることだけを考える。
 
 
 
 六本目の脚に深手を負わせたレイフォンだったが、流石に疲労を覚えてきていることに気が付いた。
 時間の感覚は既に綺麗さっぱりと無くなっているが、活剄を総動員していても疲れを感じないなどと言う事ではない。
 もちろん一週間戦い続けることは出来るが、途中で補給出来るのならばやって置くに越したことはない。
 そして今回、補給するための時間稼ぎが出来る装備を、レイフォンはあと一つ持っている。
 七本目の脚の付け根、今までの攻撃で最も弱いと分かった場所に、いい加減剄の伝導率が悪くなってきている複合錬金鋼を差し込み、体内で衝剄を放って傷口を広げて引き抜く。
 その広がった傷口へと、重たい弁当箱の二つ目にして最後の一個を押し込み、鋼糸で安全ピンを引き抜きつつ距離を取り、起爆スイッチを一回転させる。
 前回と同じように脚が根本からもげ、あまりの激痛と衝撃でのたうち回る老性体を観察しつつ、ポケットの一つに押し込まれた高エネルギーゼリー飲料を取り出し、ヘルメットのアタッチメントに押し込み、連動して口の前に飛び出てきた吸い口から一気に胃の中へと流し込む。
 水分と糖分、それにミネラルで構成されたお腹に優しい栄養補助食品という触れ込みだ。
 どれだけ効果があるか、レイフォンには全く分からないが、きっと凄いのだろうと思う。
 凄いのだろうとは思うが、それはただ今現在全く問題にすることではない。
 冷えていれば甘酸っぱさが心地よいはずだが、生憎とレイフォンの体温で暖められているために、全く美味しくないがこれで栄養の補給は終了だ。
 あと三日くらいならば十分に戦える。

『少々よろしいでしょうか?』
「ええ。少しなら」

 レイフォンの状況を把握しているらしいフェリからの通信が入ったのは、そんな一息ついている最中だった。
 当然、老性体の動きから目を離すなどと言うことはしない。
 相手はレイフォンをしっかりと認識している。
 僅かでも隙を見せたが最後、食われるのはレイフォンの方になるのだ。

『隊長達がそちらへ向かっているそうです』
「・・・・・・・。戦闘開始からどのくらい時間がたちましたか?」
『おおよそ丸一日です』

 思ったほどは戦っていない。
 これは恐らく、今戦っている老性体がかなり強い方だからそう感じているのだろう。
 天剣授受者が出るような戦場に楽な物など無かったが、その中でも目の前にいる奴はかなり強い方だ。
 そして、丸一日有ればニーナ達がツェルニからここまでやって来ることは不可能ではない。
 レイフォン自身が一日でやってこられたのが、その確たる証拠だ。
 計算が合ってしまう。

『予定通りの行動を準備しています』
「それでお願いします」

 別段レイフォンが決断しなければならないわけではないのだが、それでもそう言ってしまう。
 まだ老性体は痛みが引かないようで、のたうち回っているから、もう少し休めるかも知れないと判断しつつ、活剄を回復に回す。

『それと』
「はい」
『準備が出来ました』
「分かりました」

 思ったよりも進展が速いようで、少しだけほっとする。
 戦場でこんな感情を覚えることは初めてだが、悪い感じではない。
 痛みが治まってきたのか、徐々に老性体が体制を整えだしている。
 もうあまり時間が無い。
 だが、準備が出来たのならば無理をすることはない。
 相手が動けるようになるのを待って、自分を餌に誘導すればいい。
 天剣がないと言いつつも、それに代わる物をレイフォンは手に入れつつあった。
 それが嬉しい。
 
 
 
 汚染物質に灼かれた大地を、ランドローラーで走ること一日少々。
 薄皮一枚向こうは地獄の世界だが、その事は考えないように前だけを必死に見詰める。
 フェリのナビゲートに従いやってきたのだが、驚くべき事柄に遭遇してしまっていた。
 念威端子越しに向かうべき場所がマーキングされていたのだが、ある程度近付いたところで、いきなりそのマーカーが四つになってしまったのだ。
 レイフォンが四分身しているという確率も考えたが、一つ一つの間にある距離が開きすぎていることに気が付いた。
 短い物でも三キルメルトル、大きなところだと実に五キルメルトルは離れている。

「フェリ! レイフォンのいる場所を知らせろ!」

 遊んでいると言うわけではないのだろうが、あまりの事態に怒気を孕んだ声が出てしまっても仕方が無いところだ。
 他に向かう場所があるとも思えずに、即座にレイフォンの居場所を知らせろとフェリに告げると、四つのマーカーが一つになった。
 そのマーカーに向かって、シャーニッドがランドローラーの進路を修正する。

「なあ、ニーナ」
「何だ?」
「レイフォン一人じゃないんじゃないか?」

 的確に操縦しつつそう切り出したシャーニッドの視線は、しかしニーナに向けられていた。
 それはニーナも考えないではなかった。
 だが、こんな危険な任務にレイフォン以外の武芸者を投入すると言う事は、おおよそ考えられないのだ。
 だからこそ、フェリにレイフォンの居場所を知らせるように指示を飛ばしたのだが、やはり何かが引っかかっているのは事実だ。
 だが、それもすぐに結果が出るはずだ。
 活剄がまだ使えないニーナには見えないが、シャーニッドの視線が前方の風景の一部に固定されたのが分かった。
 誰か、あるいは何かがいるのだろう。
 その目的の場所に向かって、更に進路が修正されるランドローラー。
 そしてニーナにも見えてきた。
 側車付きのランドローラーと、その横に佇む人影を。
 ニーナ達が着ている物と同じ都市外戦装備に身を包み、こちらに軽く手を振っている。

「レイフォン!」

 やっと会えたと思い、声をかけたニーナだったが、当然おかしな状況であることにも気が付いている。
 戦っているはずなのに、レイフォンは全く動かずに佇んでいるだけなのだ。
 いや。もしかしたら戦闘は既に終了していて、ツェルニに帰る途中なのかも知れない。
 それならば全ての辻褄があうのだが。

「今日はお二人様」
「! お、おまえは!」

 シャーニッドの操縦ですぐ側に停車したランドローラーから、ニーナが降りるよりも僅かに速く、佇んでいた人影が声を発したのだ。
 そしてそれは、明らかにレイフォンの物ではなかった。
 だが、知らない人間の声と言うわけでもない。

「ツェルニ最弱の武芸者、ウォリアス・ハーリスです」

 そう。レイフォンから唯一勝ちをもぎ取った、卑怯な戦い方しかできないはずの、ウォリアスだった。
 ゆっくりと二人に向かって頭を下げたが、その仕草は慇懃無礼に見えてしまう。
 ニーナの先入観では、恐らく無い。

「このような荒れた地にようこそおいで下さいました。しかしながら、当方にはあなた様方を持て成すことが出来かねますので、どうぞそのままお引き取り下さいますよう、お願いいたします」

 再び頭を下げるウォリアス。
 その丁寧な口調と仕草に比べて、敬意などと言う物は全くこもっていないのが分かる。
 だが、ここでも問題なのはニーナ達が持て成されるために、こんな地の果てまで来たわけではないと言うことだ。
 そして理解した。
 レイフォンは一人で戦いに出たわけではないのだと。

「レイフォンは何処にいる?」

 改めて訪ねる。
 答えが返ってこないことはおおよそ理解していた。
 ニーナ達はこの戦場に呼ばれていないのだ。
 それはオスカーから既に知らされていたが、それでもメイシェンを見てしまい、居ても立ってもいられなくなって飛び出してきた。
 その結果が、これなのだ。

「レイフォンですか? かなり向こうで戦っているようですよ」

 他人事のように、フェリが先ほど表示したマーカーの、現在位置から五キルメルトルほど離れた場所付近を指し示した。
 つまり、まだかなり先にレイフォンがいると言うことだ。
 そして、ウォリアスは送り迎えのためだけにここに居ると言う事も理解した。
 ならばこそ、ウォリアスはここにいるのだろう。
 だが。

『お話中申し訳ありませんが』
「はいはい」
『フォンフォンが移動を開始しました。到着予想時刻は二十秒後。お客さんはその後10秒でそちらにご到着予定』
「了解しました。では予定通りに」

 フェリのそんな通信が届いてから、僅かに5秒。
 ニーナが状況の説明を求めるよりも速く、何か地鳴りのような音が辺りを支配し始めた。
 それは不規則でありながら、酷く力強く、そして何故か禍々しい音の連なりだった。

「さて。お引き取り頂く時間も無いので一言。死にたくなければ付いてきて下さい」

 ウォリアスのその台詞が終わる前に、空中から何かが降ってきた。
 黒い固まりで、手には巨大な刀らしき物を持っている。
 間違いなくレイフォンだ。

「ただいま!」
「お帰り!」

 二人の間でそんなやりとりが行われた次の瞬間、ランドローラーが土煙を巻き上げつつ加速。
 続いて飛び込んできたのは、巨大な焦げ茶色の物体。
 レイフォンがやってきたと思われる方向から、大地を削り空気を引き裂き、あらゆる物に破壊の洗礼を与えようと猛烈な速度でやって来る。

「舌噛むなよ!」

 シャーニッドの絶叫と共に、ニーナの乗ったランドローラーも加速する。
 レイフォンはあれから逃げてきたのだという事が分かった。
 その汚染獣の発する異常な圧迫感と、自分が今生きているのかさえ分からなくなりそうな猛烈な殺気。
 こんな化け物に勝てるわけがないのだと、そう思ってしまった。
 諦めると言う事を知らないはずのニーナがだ。
 それは恐怖となり、その身体を締め付ける。
 そして、その恐怖は汚染獣に対しての物だけではない。
 レイフォンは、あの汚染獣と戦いあれほどの傷を負わせたのだ。
 それにも恐れを覚えた。
 だが、硬直したのも一瞬。
 歯を噛みしめて恐怖を奥底に沈める。
 何とか自分達を追ってきている化け物を倒して、生きて帰らなければならないのだ。
 そのためにどうすればいいのか、それを考える。
 だが、そんな時間は与えられなかった。

「あの赤い旗の間を走り抜けて! 外れた場所を走ったらそのままあの世行きですからね!!」

 絶叫と呼べる声で指示をしたウォリアスが向かう先には、確かに竿に支えられた赤い旗がある。
 それが二列。
 まるで安全な道を示しているかのような配置だ。
 いや。恐らくあの間だけが安全な道なのだろう。
 速度を落とさないまま、その旗の間にランドローラーが突っ込む。
 距離にして二百メルトル程度。
 出口で急制動をかけつつランドローラーの向きを変えたウォリアスが、レイフォンに向かって巨大な容器を渡した。
 おおよそ十リットルルは入ろうかという、銀色に耀くそれなりに重そうでいて、用途不明の容器だ。

「それでは皆さん、準備は良いですか!」
「何時でもどうぞ!」

 ウォリアスの掛け声と共に、側車に乗っていたレイフォンが立ち上がり、巨大な容器を抱える。
 そしてそのレイフォンの見詰める先にいるのは、見た事もないほど巨大で傷付きながらも、人間を食い尽くそうと迫る汚染獣。
 そして驚いたことに、二人の声には全くおびえがない。
 いや。むしろ確信がある。
 ここであれを倒すのだという、その確信が。
 そして、飛び上がったレイフォンを食らおうとして汚染獣がその巨大な口を開く。
 身体に比べたら小さいが、それでも人間二人を同時に入れられるほどに大きく、何よりもその口腔に密集しているのは、小さな三角形の無数と言って差し支えない歯だ。
 その巨体と敵意だけでも恐ろしいのに、開かれた口から覗くその歯が、更に恐怖を増幅させている。
 だが、その口に向かってレイフォンは一直線に飛び込むかのような軌道を描きつつ、大きく身体を捻る。
 そして、汚染獣の牙が獲物を捕らえようとしたまさにその瞬間、いきなりウォリアスの乗るランドローラーが跳ね上がる。

「でえええいい!!」

 復元した錬金鋼を地面に突き刺し、それを支えに全力で浮き上がる車体を押さえるウォリアス。
 それと同時に、レイフォンがいきなり空中で停止。
 慣性の法則と共に捻っていた身体を逆に捻ることによって、抱えるように持っていた容器を汚染獣の口中に向かって投げつけた。
 更にランドローラーが激しく暴れるも、何とか押さえつけるウォリアス。
 レイフォンがそれに引っ張られるようにして空中を移動。
 いや。先ほどからランドローラーが暴れているのはレイフォンと鋼糸でつながっているからだろう。
 そして、汚染獣の口内に入った容器が、金属の悲鳴と共に破壊された。
 次の瞬間。
 
「う、うわ!」

 隣でシャーニッドが驚愕の悲鳴を上げた。
 いや。恐らく悲鳴を上げたと思う。
 すぐ隣にいるシャーニッドの絶叫が聞こえないほどの、凄まじい音量で汚染獣が苦痛の叫びを放ったのだ。
 そしてニーナは我が目を疑った。
 汚染獣の口から緑色の炎が迸ったのだ。
 そんな能力を汚染獣が持っているのかと疑いたくなるような、それ程までに巨大で猛々しい緑色の炎だった。

「爆破!」

 その汚染獣の絶叫に負けじと、ウォリアスが叫ぶ。
 そして次の瞬間、赤い旗の両脇にあった地面が、いきなり土煙を噴き上げつつ陥没。
 炎によって体勢を崩されていた汚染獣が、その片方へと落下。
 腹を曝して多数の脚がもがいている。

「レイフォン!」
「おう!」

 着地していたレイフォンが、再び活剄を使って高く飛び上がり、落下するよりも速い速度で汚染獣に向かって突き進む。
 目標は、人間で言えば首と頭の境目辺り。
 今までに感じたことの無いほどの莫大な剄の気配が辺りを支配し、レイフォンが持っている巨大な刀が蒼銀の輝きを放つ。
 そして、見事に首と頭の関節部、甲殻が薄いだろう場所へとその巨大な刀が深く刺さる。
 外力衝剄の化錬変化・炎破。

「っは!!」

 気合い一閃。
 直後にレイフォンが甲殻を蹴り三度空中へ避難。
 次の瞬間、限度以上の剄を注ぎ込まれた錬金鋼が爆発。
 それによって吹き飛ばされた甲殻の裂け目から、高温高圧の緑色の液体が噴出。
 莫大な熱量によって、体内の水分を一瞬で水蒸気に変え、その膨大な体積の変化が暴力的な圧力を生む。
 これは、幼生体戦でウォリアスが見せた必殺技と同じだ。
 だが、違うところもある。
 ウォリアスが幼生体で使った技は、刀の切っ先に強力な炎の針を生み出し、その熱と旋剄による突進力で甲殻を打ち破り内部から破壊した。
 今レイフォンが使った炎破は、甲殻の隙間から刀を差し込み完全に中から高熱を発している。
 制御が楽なために破壊力が大きいのだろう事が分かるが、実はまだ終わりではなかった。
 空中で青石錬金鋼を鋼糸から刀に切り替えたレイフォンが、大きく振りかぶる。
 天剣技 霞楼。
 刀身を自分の背中に回して隠すような構えから、一気に振り抜き、そしてその姿勢のまま錬金鋼を手放した。
 レイフォンが放った斬撃が錬金鋼の爆発と内部からの圧力で破壊された汚染獣の甲殻に着弾したが、何の変化もない。
 いや。変化が無いのは見た目だけだ。
 汚染獣の体内。
 頭部の奥深くで何か信じがたいほどの剄の爆発を感じることが出来た。
 そしてその爆心地を中心に、斬剄の檻が出現。
 あらゆる物を切り刻み全てを破壊する。
 と同時に、レイフォンの手を離れた青石錬金鋼が、やはり剄の過剰供給に絶えられなくなり爆発。
 その爆音が消えた頃にやっとレイフォンが着地。

「レストレーション!」

 そして側車に乗せてあった錬金鋼を手に取り、即座に復元。
 それは、オスカーが汚染獣戦の時に使ったと言う、二メルトルに及ぶ巨大な銃にして刀。
 斬獣刀だ。
 天に向かって切っ先を突きつけるように構えたレイフォンが、油断無く緑色に燃える汚染獣を見詰め続ける。
 今の一連の攻撃で仕留められなかった時の用心なのだろうが、まだ生きているとはとても思えない。
 いや。殲滅が確認されるまで戦闘態勢を崩さないことこそが重要なのだろう。

「フェリ先輩?」

 レイフォンが追撃を打つかどうか迷っている間に、ウォリアスがフェリを呼び出す。
 念威繰者が殲滅を確認したら、やっとこの戦いは終わるのだ。

『何でしょうか?』
「いや。汚染獣がまだ生きているかと思いまして」

 だが、フェリから返ってきたのは、猛烈に不機嫌な声だった。
 それはもう、これ以上の不機嫌はないと言わんばかりの凄まじい不機嫌さだった。

『二千度を超えるような炎と、千度を超えるような化錬剄の炎。とても確認など出来ません』
「申し訳ありません」

 なにやら謝り出すウォリアス。
 あの緑色の炎は細目の少年の発案らしいことが分かった。
 二千度という通常は決して遭遇することがない高温で、口の中を焼かれているのでは、いくら何でも生きてはいないと思うのだが。

『取り敢えず末端の温度が下がり出しました。恐らく殲滅出来ているのだと思います』

 なにやら不確定な言い方をするのだが、少々距離を取っているはずのニーナさえ、かなりの熱さを感じる高熱の炎が未だに燃えさかっているのだ。
 言い切ることが出来ないのは当然なのだろうと思う。

『警戒態勢を維持していて下さい』
「分かりました」

 立つ瀬がないと言いたげなウォリアスが、渋々と何か金属の箱のような物を用意する。
 それは縦横十センチ、厚さ五センチ程度の銀色に耀くやや湾曲した長方形の箱だった。
 心当たりがあるのか、レイフォンが即座に食いついた。

「あれ? それってまだ有ったんだ」
「ああ。こっちは起爆装置が時限式なんだ」

 レイフォンとウォリアスだけで話が進んでしまっているが、どうやら爆薬の類らしい。
 武芸大会でさえ、状況によっては爆薬を使うのだ。
 ならば、汚染獣戦で使わないなどと言う事の方が考えられない。
 前回の幼生体戦ではなかったが、恐らく今回は発見から戦闘まで時間が有ったのだ。
 だから用意出来たし、レイフォンは使ったのだろう事が分かる。

『一応殲滅を確認しました』
「了解しました」

 そんな会話の最中、フェリからの声で何とか戦いが終わったらしいことが告げられた。
 結局、ニーナは丸一日ランドローラーを使って移動して、そして戦いの最後を見届けただけだった。
 それが無駄だったとは思えないが、それでも無力感に包まれてしまうのは仕方が無い。
 
 
 
緑色の炎の正体は、化学練成系 第五階位的な超ナパームです。



[14064] 第四話 十頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:13


 結局のところ、何の活躍も出来なかったシャーニッドだが、それは少々残念ではあっても悪いことではないと思っている。
 今日も生き残ることが出来たのだ。
 これに勝る喜びなど、この世に存在しないだろう。
 レイフォンがどんな汚い手を使ってでも生き残ってきたという気持ちが、ほんの少しだけだが分かった気がした。
 本当の意味で死線を潜っていないシャーニッドが、きちんと理解したかという疑問はあるのだが、それを証明する気にはどうしてもならない。
 そして、そんなシャーニッドよりも問題なのは、側車に乗っている隊長さんのことだ。
 話を聞く限りにおいて、メイシェンの心配する姿を見ていられなくなって、思わず飛び出してきてしまったと言う事だった。
 非常にニーナらしい理由で飛び出してきたと思うし、その心情は十分に理解出来る。
 だが、今回その心意気が全く報われなかったのだ。
 いや。今回もだろうか?
 とは言え、責任の一端はニーナ本人にもある。
 カリアンの発言内容がおかしかったこととか、ここに来る途中でいきなりマーカーが四つになったこととか、レイフォンが一人で戦っているわけではないことが、かなりの確率で予測出来ていたはずなのだ。
 途中から気が付いていたようではあるのだが、それでも最初の予定通りに突っ走ってしまったのは非常にニーナらしい。
 だが、目の前に迫っている物を認識したシャーニッドは、予測がかなりの大きさで外れているらしいことに気が付いていた。
 いや。落とし穴が存在していた時点で、かなり大きく予測が外れていたことを認識すべきだったのだ。
 目の前にあるそれは、全長二十メルトルほどもあった。
 横幅も五メルトル近くある。
 高さも3メルトルはありそうだ。
 六つのタイヤが付いた、路面電車に似た形状をした、砂や埃にまみれた古強者のように見える。
 何よりも驚くのは、直径が二メルトルになろうかという六つのタイヤ、その全てに装着された、目の細かい金網の様な部品だ。
 本来、この荒れ果てた大地でゴム製のタイヤは、耐久力の問題から長距離移動には適さない。
 だからこそ、放浪バスもレギオスも多くの脚で移動しているのだ。
 とは言え、多脚で移動することには致命的な欠点がある。
 それは構造が複雑になり、信頼性が低くなると言う事。
 ゴム製のタイヤにもパンクという致命的な問題が有るため、どっちの方が良いかと問われたのならば、適材適所だと答えることしかできない。
 だが、目の前にある車両は違う。
 ゴム製のタイヤの外側に金属の覆いをかぶせることで、荒れた大地に直接触れずに済んでいるのだ。
 構造が単純で信頼性が高く、なおかつ耐久力にさほど問題がない。
 今目の前にあるのは、そう言う夢のような車両なのだが。

「これって、何だ?」

 問題はそこだ。
 どんな目的でこれだけの物を作ったのか、それが最も問題なのだ。
 レイフォンが使っていた巨大な錬金鋼とは訳が違う。
 目の前のこれは、ずいぶん前から使われている形跡がある。
 ならば、何か他の目的のために作られ、たまたま今回このような使い方をされたと考える方が妥当だ。

「都市外作業指揮車と呼ばれていますね」
「指揮車?」

 指揮車と言うからには、複数の車両を統括して運用するために作られたと言う事になる。
 どんな作業をするかという疑問が出てくるが、それを解消することは当面出来そうもない。

「取り敢えずランドローラーはクレーンで上に上げてもらいますから、中に入りましょう」

 ウォリアスに先導されるまま、前輪と中輪の間にある扉のような場所に来た。
 扉のすぐ横に、足がかりとハシゴがあり屋根へと上れるようになっているのは、きっと移動しながら作業するために必要なのだろう事が分かる。
 だが、問題は扉そのものだ。
 普通の扉とは決定的にその強靱さが違う。
 どんな金属で出来ているか分からないが、相当の厚さがあることだけは確かだ。

「ランプが青いことを確認して、扉を開ける」

 扉の右側にあるランプを指し示したウォリアスが、解説口調で続ける。
 いや。実際に解説だろうけれど。
 そして扉を開けると、中は二人が入ればかなり窮屈な程度の空間になっていた。
 なにやら用途不明なハンドルが左側に付いているが、これの解説もその内やるのだろう事が分かる。

「中に入ったら外扉を閉めて、このハンドルを回して気密室の空気から汚染物質を除去する」

 時計回りに回すと、手動ポンプが働いてフィルターへ空気を送るようだ。
 そして汚染物質を除去するという事は分かった。
 車両の中に汚染物質を持ち込まないために、割と勢い良く下から空気が吹き上がりそうだと言う事も理解出来た。
 スカートを履いて入ってしまったら、少々困ることになるかも知れない。

「それで、ここの警告ランプが青になったのを確認したら、内扉を開けて中に入る」

 内扉の左側に設置された、外扉と似たようなランプを指し示し、説明が終わったようだ。
 セルニウムの採掘などもそうだが、都市外での作業はかなり色々と大変だ。

「内扉がロックされるまで外扉のランプは赤ですから、青になったのを確認したら今の手順で入って下さいね」

 ウォリアスとレイフォンが気密室に消えている間に、ランドローラー二台は指揮車の屋根へと綺麗に片付けられていた。
 一々降りてこなくても、この程度の作業が出来るように、色々と仕掛けがあるのだろうことが分かったが、やはり何のためにこんな物が作られたのかが分からない。
 だが、相当の手間暇と予算がかかっていることだけは確かだ。
 タイヤ一つ取ったとしても、恐ろしいほど巨大で、おいそれと作れるものでは無い。
 ならば、何か非常に重要な目的のために作られたのだろう。
 今のところ全く分からないが。

「変わったな」
「ああ」

 そんな考えをしている間に、入って良いという意味のランプが青に変わった。
 先ほどウォリアスがやったように扉を抜けて、密閉した後にハンドルを回した。
 思ったよりも重かったが、それ程時間はかからずに内扉のランプが青に変わる。
 そして車内に入った瞬間、恐るべき物を見てしまった。
 銀髪を短く刈り込んで、目鼻立ちに何処か甘い雰囲気があり、笑ったら愛嬌がありそうな巨漢の凄まじく怒りに満ちあふれた姿だ。
 そして理解した。
 まず始めにやるべきことは、汚染獣特措法に基づいて誰が戦闘に派遣されているかを確認することだったと。
 全ては後の祭りだが、同じ間違いを繰り返さないために、しかと心に刻んでおくことにした。

「何をしに来た?」

 開口一番のゴルネオの台詞がそれだった。
 いや。もちろんこの車に乗ったことをどうこう言っているわけではない。
 この場所にいることについて問いただしているのだと言う事は、十分以上に理解しているつもりだ。

「レイフォン一人を戦わせるわけには行かないと」
「・・・・・・・・・・・・。その心意気はよいとして、結局空回りだったな」

 ニーナの返答の後、大きく肩が二回上下した。
 深呼吸をして感情を抑えていたのだろうことが理解出来る。
 そして、ニーナに向かっていた視線がシャーニッドを捉える。
 その視線は口以上に饒舌だった。
 何故お前が居ながらこんなことになっているのだと。

「面目ない」

 おかしいとは思っていたが、ここまでの事態は全く予測の外だった。
 レイフォン以外の人間がいるとしても、それは少数だと思っていたのだが、落とし穴の件も含めて相当の人間がこの戦闘に関わっているようだ。
 例えば、第五小隊を含めて十人以上とか。

「まあ、説教は後だ。汚染獣殲滅作戦最終フェーズを開始する」

 ゴルネオの宣言と共に一気に部屋の空気が活気づく。
 その時になってやっと車内を見渡すことが出来る余裕が生まれた。
 窓と呼べる物は操縦席と、監視用の小さな物しかないようだ。
 車内は全体的に無駄な空間が取ってあり、放浪バスと同じようにかなり長い間生活することが出来そうだ。
 あちこちに寝ることも出来る座席が設置され、後方には狭いながらも本格的なベッドと簡易型のキッチンが備え付けられている。
 入り口からは見えないが、きっとシャワーの設備も何処かにあるのだろうと思える。
 都市外で作業するために必要だとは言え、かなりいたせりつくせりだ。
 そして、座席の一つに人影があることを発見。
 それは銀髪を長く伸ばした、第十七小隊の念威繰者フェリだった。
 いや。それどころかナルキも奥のキッチンの方から何かを持って現れた。

「最終フェーズ。ツェルニへ帰還する。点呼を取る」

 宣言の後、ゴルネオは一切こちらを見ることなく手順を進めて行く。
 予想通り第五小隊の名前が次々に呼び上げられ、更にフェリにナルキにレイフォンとウォリアスという名前が追加された。
 既に十一人に達している。
 そして更に。

「機械科、オリヴァー・クリス」
「操縦席」
「機械科、ジェシー・マイレー」
「航法席」

 この指揮車を実質的に運用しているらしい機械科生徒二人が呼ばれ、点呼は終了したようだ。
 まだ、シャーニッド達飛び入り参加組は呼ばれていないが。

「人数外二名」
「シャーニッドいます」
「ニーナ・アントークいます」

 取り敢えず返事をする。
 ニーナは、少々居心地悪そうだ。
 そう言うシャーニッドだってかなり居心地が悪い。

「では帰還する。発車」

 その声と共に、モーターの駆動音が高まり指揮車が移動を開始した。
 操縦席にある窓から見ると、きちんと移動しているようだが、荒廃した大地を移動してもさほど景色は変わらない。
 だからこそ航法を専門に行う人間がいるのだろうし、第五小隊の念威繰者以外にもフェリがいるのだ。
 迷子になる危険性は皆無ではないが、かなり低いと言える。

「取り敢えずこれ食べて寝てくれ」
「有り難う」

 ナルキが持っていた物は、どうやらレイフォン用の食事だったようだ。
 非常に良い匂いが車内を支配している。
 ここに来るまで、ゼリー状の高栄養剤しか飲んでいないシャーニッドの腹が景気よくなったが、当然人数外の食料など積んであるはずがない。
 もしかしたら、ツェルニに帰り着くまでゼリーしか飲めないかも知れない。
 それはどんな説教よりも厳しい制裁である。
 搭載量に限界がある以上、改善されることはないだろうが。

「もしよろしければこれをどうぞ」

 ツェルニに返ったら何を食べようかと考え始めた矢先、唐突にフェリが何かを差し出してくれた。
 だがそれは、やはりゼリーのパッケージだった。
 とは言え、違う味の物ならばありがたいと、手を伸ばしかけて止まった。

「・・・・・・・・・・・・」

 そのゼリーのパッケージは黒かった。
 いや。色はどうでも良いのだ。
 問題はその腹に描かれた図柄だ。
 人間の頭蓋骨のように見える。
 そして、その下に大腿骨らしい物が交差して描かれている。
 なんだか非常にデンジャラスな飲み物に見えてきた。
 伸ばしかけた手が凍り付く。
 そっと視線をゴルネオに向ける。
 何故かそらされた。
 もしかしたらフェリに何度も勧められているのかも知れない。
 十分にあり得る。
 ここで選択である。
 無表情にフェリの差し出しているゼリーを口にするか、それともツェルニまで我慢するか。
 あるいは。

「馬車馬のように働きます! どうか真っ当な燃料を補給させて下さい!」

 ゴルネオに必死に頼み込むことにした。
 指揮車の上に何人もいるはずだ。
 ならばシャーニッドにも出来ることがあるはずだ。
 例え労働の報酬がゼリーだったとしても、十分に収支は黒字になるはずだ。
 問題は、ゴルネオがシャーニッドの懇願を受け入れてくれるかどうかだが。

「良かろう。装備を整えて上に行くぞ」

 あっさりと承諾してくれた。
 これで生きてツェルニに帰り着くことが出来る。
 車内に入ったばかりだし、ニーナを置き去りにしてしまうが、背に腹は代えられないのだ。
 
 
 
 シャーニッドが逃げ出した後、ニーナはかなり困ったことになっていた。
 ゼリーのパッケージをニーナに差し出したままのフェリもそうだし、その細い眼で見詰めるウォリアスもそうだ。
 レイフォンだけはナルキが持ってきたシチューとゼリー飲料を平らげて、後方に設置されたベッドへと潜り込んでいる。
 カーテンが引かれて、極力余計な光が入らないように設計されている。
 よく考えられた作りだ。
 そして、食器をしまったナルキが困ったようにニーナとフェリを見ているのだ。
 気が付くべきだったのだ。
 ニーナの寮にいたメイシェンの側にナルキがいなかった。
 あの状況でそれは極めて異常な事態だったのだ。
 メイシェンのことを考えるならば、人手は多い方が良いに違いない。
 なのにナルキがいなかった。
 ヨルテムから一緒に来た幼なじみであるはずの少女がだ。
 それをもっとよく考えれば、レイフォンが一人ではないことに、もっと早く気が付けただろう。
 気が付きさえすれば、そこから色々と考えることが出来た。
 カリアンやヴァンゼは、レイフォンが負けないように最大限の準備をして、今度の戦いに挑んだのだと。

「・・・・・・。隊長。どうぞ」

 必死に目の前に迫るパッケージから視線をそらせる。
 無理な鍛錬がたたってニーナの体調は非常に悪い。
 シャーニッドのように、外で何かして食事を確保すると言う事が出来ない。
 何とか話を誤魔化さなければならない。

「この車は、一体何なんだ?」

 兎に角話を誤魔化すために、ウォリアスに向かって訪ねてみる。
 ナルキに聞いても、きっとウォリアスに話が流れるだろうと思ったからだ。

「武芸大会で敗北した時にも、全生徒の避難する時間を稼ぐために、移動しながらセルニウムを採掘するという計画が立てられました」

 その予測は間違っていなかったようで、淡々とした口調のウォリアスが話し始めた。
 そして驚愕した。
 生徒会上層部は負けた時のことを考えているのだと。
 万が一に備えることが必要だとしても、これはナンセンスだ。
 確かにその辺を掘ればセルニウムは出てくるが、純度の高い物となるとそれは鉱山に頼るしか無い。
 だが、逆に純度のことを考えなくて良いのならば、その辺を掘ればいくらでも出てくると言う事になる。
 滅びの瞬間を先延ばしにして、せめて全生徒を避難させようとするカリアン達の考えは、おおよそ理解出来る。

「とは言え、現在採掘車を制作中ですが、全てが無駄になることの方が望ましいですね」
「そうだな」

 負けた時の準備が必要なことは理解出来る。
 勝ったならば無駄になるが、それはさほどの問題がないはずだからだ。

「そして、無駄になることを望まれたこの車は、採掘する専用車を指揮運営しつつ、作業員が休息することを目的に作られました」

 この車で休息を取りつつも、採掘作業を続けるという前提になって、もう一度じっくりと見回す。
 最大二十人が一気に休息出来るだけの広さを持っているし、簡易型キッチンやその奥にある冷蔵庫もかなり立派な物のようだ。
 ならば、かなり長い間、ツェルニから離れて作業し続けることが出来る。
 全ての準備が無駄になることを願われつつ、万が一のためにこれだけの物を用意した、生徒会上層部の努力の凄さをまざまざと見せつけられた。
 だが、当然疑問もある。

「エネルギー源はセルニウムか?」

 そう。これだけの機械を動かし続けるとなると、それには当然かなりのエネルギーが必要になる。
 そして最も親しみ深い燃料として思いつくのは、レギオスのエネルギー源でもあるセルニウムだ。
 どれだけの採掘能力を持っているか分からないが、セルニウムを得るためにセルニウムを使うというのは、あまり好ましい方法ではないように思える。

「電力です」
「・・・・・。その電力をどうやって作りだしているのだ?」

 ウォリアスが意味ありげに紡ぎ出した言葉に、若干のタイムラグをくぐり抜けて訪ねる。
 電力なのは良い。
 ランドローラーだって電力で動いているのだから、それは問題無いが、これだけの機械を稼働させ続けるために、予め充電しておいたバッテリーだけで賄えるとはとうてい思えないのだ。
 何処かで電力の補給をしなければならないはずなのだ。

「武芸者ですよ」
「・・・・・・・? なに?」

 言われた単語が上手く理解出来なかった。
 だが、何とか言われた単語を素直に並べて、理解しようと努力してみる。
 そうやって並べてみると、武芸者を電気に変換していると言う事になってしまう。
 透明なタンクに入ったシャーニッドが、徐々に分解されて電力になって行くところを想像してしまった。
 完全に無くなったら、次はニーナの番だ。

「武芸者の筋力で発電機を回しているんですよ」
「・・・・。ああ。そう言うことか」

 自転車に使われているような発電機は割とメジャーだ。
 人力に頼らなければならないので、大電力を発揮することは出来ないけれど、構造が単純で維持費がかからないので割とよく見かける装備の一つだ。
 ニーナの住んでいる寮にある自転車にも、一応付いているほどだ。
 実際に自転車に乗ることなど殆ど無いが。
 その発電機と、活剄で強化された武芸者の筋力が加わるとどうなるだろう?
 かなりの発電能力を得ることが出来るはずだ。
 その発電装置が屋根に乗っているのだとしたら、シャーニッドが連れて行かれた理由も納得が行く。
 そして、そろそろ逃避が限界だ。

「さあ。これを飲めば隊長の体調が一気に回復すること請け合いです」

 あくまでも無表情に、淡々と危険そうな飲み物を勧めるフェリ。
 逃げ場はない。

「うぅぅぅん。ごめんなさいメイシェン」

 だが、そんな危険極まりない状況で、いきなり小さな悲鳴が聞こえてきた。
 それは後方に設置されたベッドからだった。
 とても苦しそうでありながら、少し嬉しそうなその声の主は、ニーナを絶望させるほどの化け物と戦い、そして勝ってしまった少年の物だ。

「お願いです。生クリームたっぷりのブッシュドノエルは勘弁して下さい。あぁぁぁ。そんなにチョコレートを載せないで下さい」

 だが、その凄まじい戦闘力とは何の関係もないようで、弱々しく呟きつつ悪夢にうなされている。
 しかも、なにやらとてつもなく甘い悪夢のようだ。
 戦いに出ないで欲しいと願っているメイシェンを振り切って、あんな化け物と戦ってしまった罪悪感が、レイフォンに見せている悪夢なのだろう。

「ああうぅぅぅ。せめてコーヒーを下さい。檄甘ココアは飲めません」

 いや。これは既に甘さによる拷問かも知れない。
 空腹を覚えていたはずのニーナだが、胸焼けがしてきそうだ。

「頭の中に虫歯が出来て死んでしまえば良いんだ」

 小さなウォリアスの台詞に同意してしまった。
 ナルキだけは苦笑を続けているが、それでもかなり顔色が悪い。
 生クリームたっぷりのケーキに、これでもかというくらいにかけられたチョコレート。
 そして、飲み物として用意されたのが檄甘ココア。
 間違いなく胸焼けがして完食出来ない。
 だが、事態は恐るべき方向へと進んでしまった。

「!!」

 いきなりフェリがニーナの前から移動したのだ。
 そして、パッケージの封を切る動作をしつつ、レイフォンの眠っているベッドへと近づき。

「!」

 なにやら押し込むような動作をした。
 そして一度だけ、レイフォンの身体が跳ねた。

「・・・・・・・・・・・・・」

 それきり一切の活動が停止してしまっているように見えるレイフォンから、ゆっくりとフェリが遠ざかる。
 そして一言。

「悪は滅びました」

 視線が泳ぐのが分かった。
 直視しては駄目なのだと。
 それきり、車内は嫌な沈黙に支配された。
 
 
 
 汚染獣が殲滅され、レイフォン達が無事に帰ってくることが伝えられたのは、既に三十分前の出来事だ。
 知らせを聞いた次の瞬間、限界まで引き絞られていたメイシェンの感情が決壊してしまい、声と力の限り泣いているのを見ていたのだが、今は泣き疲れたのか静かに眠っている。
 メイシェンほど極端ではないにせよ、ミィフィもほっと一息ついているところだ。
 何しろ今回の戦い、レイフォンだけではなくナルキとウォリアスも参加していたのだ。
 もしかしたら、ナルキが帰らないかも知れないと言う恐怖に押しつぶされずに済んだのは、実はメイシェンが恐慌状態に陥らないように気を張っていたからに他ならない。
 そうでなければ、きっと一緒になって取り乱していた。
 途中でやって来たニーナがすぐにいなくなってしまったので、交代しつつ四人でメイシェンを支え続けたのは、きっとそれぞれの不安を紛らわせるためだったのだと、今はそう思う。
 メイシェンはリーリンに迷惑をかけたと思っているようだが、実際はそんな事はないのだ。

「分かっているのかしらね?」

 そんな、一段落して弛緩しきったリビングの空気を振るわせたのは、ここの寮長を務めているセリナだ。
 セリナの膝を枕にソファーで眠ってしまっているメイシェンの髪を優しく撫でつつ、小さいはずの声だというのに何故か少し離れたところにいるミィフィに良く聞こえた。

「レイとんがメイッチのこと分かっているのかってことですか?」

 言ってみた物の、それは恐らく違うという事は分かっている。
 どれだけ心配しているかは理解していないだろうが、どんな状態になるかはおおよそ知っているはずなのだ。
 だからこそミィフィもここに泊まり込んでいるわけだし。

「違うわよ」

 視線はメイシェンに向けたまま、やはり小さいのに良く聞こえる不思議な声でセリナが言う。
 何を考えているか、その声からは分からないが、とても重要なことを考えているらしいことは理解出来ていると思う。

「武芸者達が、戦場に出れば死んでしまうと言う事を、ちゃんと知っているのかなって」
「・・・・・。多分知らないと思います」

 少しだけ考えて答えた。
 小隊対抗戦を始めとして色々な試合を見てきたが、どれも違うのだ。
 ナルキとシリアがレイフォンのしごきを受けている時と比べると、その場を支配する空気の重さが違うのだ。
 遠くから見ているだけの一般人であるミィフィにさえ分かったのだ、何かと端っこいウォリアスが気付かないなどと言うことはない。
 だからこそ、メイシェンに負担をかけることを承知の上で、戦場にナルキを連れ出したのだろう。

「私達は、武芸者達が帰ってこないかも知れないってことを、知っているんだと思う?」
「・・・・・・・・・」

 今度は沈黙を答えにした。
 ヨルテムは戦力の充実した都市だ。
 単に武芸者の質が高いと言うだけではない。
 その武芸者を運用するための戦術も、十分に研究されている。
 だからこそ、複数の汚染獣と戦っても重大な被害を出さずに済んでいるのだ。
 だが、それは将来的にも戦死者がゼロだと言う事を意味しない。
 その証拠に、都市間戦争では毎回のように戦死者を出している。
 そして、遺族が涙に暮れる姿を何度も目にしている。
 そしてその光景を、他人事としてしか認識していないかも知れない。
 ミィフィの親しい人達の中にいる武芸者とは、ゲルニ一家を含めてせいぜいが十人程度。
 その誰も戦場に出て行き、帰ってこなかったと言う事はない。
 そして今回も、全員が無事に帰ってくることが出来た。
 ならばこの次は?
 今年行われる武芸大会で、万が一にでも死者が出たりしないだろうか?
 それがナルキでないという保証は、何処にもない。

「メイシェンは、知っているわよね」
「私達も、多分知っているんだと思いますよ」

 普段意識しないが、この世界は死に満ちあふれている。
 レギオスの外に出たら、そこは既に死の世界だ。
 旅するだけでも汚染獣との遭遇を考えなければならない、とても危険な世界だ。
 その危険な世界で戦わなければならない、武芸者がどれほど儚いか、それをしっかりと考えているのかと問われれば、きっと考えていないと答えることしかできない。
 ならば、知らないかと問われたのならば、きっと知っていると答えることしかできない。
 知っているだけで、それを実感として感じていないのだ。
 そして今回、それを否応なく突きつけられた。
 メイシェンは極端だったが、リーリンやセリナ、レウが取り乱してしまっても何ら不思議ではない。
 心臓を冷たい手で捕まれたような錯覚を覚えたミィフィは、未だに不安そうに眠るメイシェンを見る。
 知らせは来たが、それでも自分の目で確認しなければ本当の意味で安心出来ないのだろう。
 みんなが帰ってくるまで、あと二日はかかるという話だから、もう少しメイシェンに付き合わなければならない。
 そして、今眠っているリーリンとレウが起きてきたら、無事なことを知らせて一端寮へ戻り、来ているかも知れない手紙などを持ってこよう。
 そんな事を考えつつも、少し瞼が重くなったような気がする。
 今まで張り詰めていた気がゆるんできているのだと思うが、もう少しだけ頑張らなければならないと気合いを入れ直す。
 
 
 
作業指揮車について。
2009年中頃、アメリカのテレビ番組で紹介された、露天掘りの鉱山で働く作業車が原型です。
ある意味、この指揮車を出したくて、復活の時を書き始めたような物ですが、如何だったでしょうか?



[14064] 第四話 十一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/12 21:14


 往路にかかった時間は一日だった。
 一日少々の戦闘の後、老性体は殲滅出来た。
 だが、そこからツェルニに帰ってくるのには、二日半という時間がかかってしまった。
 当然だ。ツェルニは戦場から遠ざかろうとしていたのだし、作業指揮車の速力はそれ程速くなかったからだ。
 実に五日ぶりにツェルニに帰り着いたレイフォンだったが、なにやらとても身体がだるかった。
 そもそも、活剄を使って長時間戦い続けると言う事は、生体リズムを狂わせると言う事と同義である。
 いくら天剣授受者とは言え、その辺の根幹部分は変わっていない。
 莫大な剄脈を内蔵しつつも、無駄を省き洗練し研ぎ澄ませることによって、常識では考えられないほどの持久力を始めとする、身体能力を上げることが出来るのだ。
 それだけに反動が凄まじい。
 一週間戦い続けることは出来るが、体調が回復するまでに二週間はかかる。
 では今回はどうだったのかと問われるのならば、確かに相手は強力で、命を削るような戦いだった。
 だが、実質的に戦っていた時間は僅かに一日。
 戦闘終了からこちら、二日半も眠り続けていたのだから、ほぼ完璧に元に戻っていて良いはずだ。
 だと言うのに、身体が非常にだるい。
 もしかしたら、戦闘終了後よりも更に体調が悪いかも知れない。
 更に、胸焼けがすると言うか胃がもたれるというか、何か凄まじい暴飲暴食をした後というか、兎に角もの凄く消化器官に負担をかけた後のような気がするのだ。
 その事をウォリアスやナルキに相談したところ、何故か視線をそらされて慰められた。
 知らなければその方が幸せなことと言うのが、確かにこの世にはあるのだと。
 良く分からないが、聞かない方が良さそうだというのは理解出来た。
 そして今、ツェルニに帰り着き、だるい身体を押してシャワーを浴び、剃る必要はあまり感じなかったが髭も剃ったレイフォンの前には、少しだけやつれた感じのメイシェンがいる。
 レイフォンを心配しつつ待つ時間は、戦う側である人間には理解出来ない重さを持っているのだろうことが十分すぎるほどに理解出来た。
 出来るだけ心配させないように細心の注意をしていたが、それでも無くすことなど出来るはずがない。
 だからこそ、レイフォンは言わなければならないことがある。

「ただいま戻りました」

 そっと、触れただけで壊れてしまいそうなメイシェンに向かい、静かに言葉を送り出す。
 もっと他に言うべき事があるはずだが、それを思いつけるほどレイフォンは器用ではない。

「おかえりなさい」

 そして、それはメイシェンも同じだったようだ。
 何の捻りもないが、それだけに深い言葉がレイフォンに届く。
 無事であることは先に知らされていたはずだが、それでもやはり実際に見ないと安心出来ないのが人の性だ。
 深い溜息と共に、強ばっていたメイシェンの表情から緊張が抜ける。
 壊れてしまったのではないかと思えるほど、立つことが困難なほど、疲労しているらしいその身体をそっと抱きしめる。
 出撃前にも同じ事をしたような気がするが、その時はレイフォンも緊張していたようで殆ど記憶がない。
 何に対して緊張していたか、これから戦うことになる老性体に対してか、レイフォンを見送ることになったメイシェンに対してだったか。
 それははっきり分からないが、今、分かることがある。
 ほんの少しだけしか力を入れていないというのに、あっさりとその形を変えてしまうほどに柔らかく、そしてとても暖かい身体からほのかにシャンプーと石けんの香りがする。
 レイフォンの胸を掴んだ小さな掌が、小さく震えていることも、嗚咽をこらえている呼吸音と共に揺れる胸郭の感触、そして、メイシェンの心臓の鼓動そのもの。
 やっと帰ってきたのだと、レイフォンはしっかりと認識した。
 天剣授受者だった頃、戦い終わって帰った家にも、同じように待っていてくれる人達がいた。
 そして今ここでも、待ってくれている人達がいる。
 だからこそレイフォンは、生きることを諦めないでいられるのだ。
 そして何よりも、多くの人と戦うことによって失敗を取り戻せるかも知れないと言う可能性を見つけることが出来た。
 今回の老性体戦は、レイフォンにとって非常に実り多い戦いだった。

「それと、有り難う」
「え?」

 話が唐突に変わったために、驚いてこちらを見上げるメイシェンの瞳は、誤解のしようがないほどに涙で一杯だった。
 悲しみの涙でないからかまわないのだろうが、それでも少し心が痛いような気がする。

「レトルトにする試作シチュー」
「あ」

 珍獣フォンフォンになってしまったあの時、メイシェンとリーリンが隣で作っていたシチュー。
 レトルトパウチに収納され、作業指揮車に積み込まれていたのだ。
 そして出撃前にウォリアスに言われたのだ。
 メイシェンが折角作ってくれたこれを、無駄にしないために生きて帰ってこいと。
 その言葉と罠の準備が進んでいることを知っていたから、レイフォンは無理をすることなく少しずつ汚染獣を削る行為に集中出来た。
 どれか一つでも欠けていたら、生きて帰ることが出来たかどうか疑問なほど、強力な相手だったのだ。

「とても美味しかったよ」
「・・・。よかった」

 まだ涙をこぼしつつだったが、それでもメイシェンの頬笑みはレイフォンを癒やしてくれた。
 その癒しの熱は、僅かずつだが確実に、戦いのために凍り付いていたレイフォンの心を温めてくれるようだ。
 その熱をもっと確かな物にするために、抱きしめていた力を少しだけ強くした。
 
 
 
 作業指揮車とやらに缶詰にされている間、ろくに入浴も出来なかったフェリだったが、当然ツェルニに帰って来たので思う存分お湯に浸って、心身共にリフレッシュすることが出来た。
 念威繰者であるフェリが前線に出ることなど普通は考えられないのだが、今回汚染獣との距離が大きかったために、やむなく出張することになってしまった。
 戦闘開始時点でならば、問題無くフェリの念威が及ぶ範囲内だったのだが、一つだけ不安要素があった。
 それは戦闘時間だ。
 当然だが、ツェルニは汚染獣を発見したら逃げる。
 つまり、戦闘が継続されている限り、ツェルニと汚染獣との距離が開くと言う事だ。
 短時間ならば何の問題も無いだろうが、戦闘が数日間になると話は違ってくる。
 最悪ツェルニが逃げたために、フェリの念威が届かないという事態になりかねない。
 今回の都市外戦装備の要は、念威繰者としてのフェリの能力を最大限生かした視覚補助システムだ。
 予備として通常の視界もきちんと用意されているのだが、当然予備は予備に他ならない。
 汚染獣の攻撃を避けようとした、まさにその瞬間、いきなり念威が途絶えてしまったのではそれは死に直結してしまう。
 レイフォンは大丈夫だと言っていたが、それでも予測されているのならば対策を取りたい。
 そして、対策として考え出されたのがフェリを戦場の近くに置くという今回の手段だ。
 はっきり言って、あんな狭いところで何日も暮らすなど願い下げなのだが、生憎と他の手はあまりにも不確定要素が多くて却下されてしまったのだ。

「にひひひひひひひ」

 そんな回想をしていると、突如として隣から怪しげな笑い声が聞こえてきた。
 ここはツェルニの最下層に近い、都市外作業をする場合の控え室。
 居るのはゴルネオとシャンテ、オスカーとウォリアス。
 そして、ナルキとリーリン。
 あとはフェリの隣で不気味に笑う、不気味な生き物。
 人数外が二人ほどいるがたいした問題ではない。
 なにやらニーナが真剣に考えているようだが、きっとウォリアス先生から出された宿題について考えているのだろう。
 途中経過は兎も角として、ニーナが戦いの場に来ることは予測されていた。
 そうだったからこそ、やや危なっかしかったが、対応することが出来たのだ。
 そして、無謀と呼べるその行動に対する制裁が、今回の老性体戦をどう戦うか、ニーナがその作戦を考えるという物。
 そのための資料として、ウォリアスが使った資料がそのままニーナに渡されている。
 きちんと整理された資料をもらえるという、いたせりつくせりの制裁だ。

「何を笑っているのですか?」

 その制裁はどうでも良いとしても、隣で不気味に笑われるのは少々困ってしまう。
 折角ベッドで手足を伸ばして眠れるというのに、悪夢なぞ見たくはないのだ。

「にひひひひ。今メイッチとレイとんが居る部屋なんですけれどね」

 恋する二人が逢っているのは、このすぐ下にあるフロアだ。
 構造的に面積が小さいので、必要な空間を確保しようとしたら、あっという間に数階分の高さになってしまう最下層、そのワンフロアがあの二人のために開けられているのだ。

「メイっちが待ち伏せしている隣の部屋にですね」
「何か罠を張っているのですか?」
「にひひひひ。ベッドを用意してあるんですよ」

 ベッドである。
 普通に考えると眠る場所なのだが、今回は話が違っている。
 もしかしたら、展開的に何か起こっても問題無い。
 いや。むしろ何か起こるべきである。

「・・・・・。返して下さい」

 思わず剣帯に伸びた手が、錬金鋼を掴めずに空振りしてしまった。
 そして何時の間にかミィフィと反対側にオスカーが立っている。
 ならば話は完璧に分かってしまう。

「駄目」

 一刀両断だった。
 最近、徐々にオスカーの性格が弛んできているように思えるのは、フェリの気のせいであって欲しいところだ。
 そうでなくても、変な人間に事欠かない今日この頃なのだ。

「まあ、アルセイフ君にそんな度胸はないと思うがね」

 そう言うオスカーの表情が、微妙に引きつっているように見えるのは気のせいではない。
 なにやらフェリの背筋にも、悪寒のような物が走っているし、部屋の空気が急激に下がったようにも思えるのだ。
 気温でないところがミソだ。

「ふ、ふふふふふふふふふふ」

 ミィフィ以上に不気味な笑い声から注意をそらせるために、必死になって話題を探す。
 だが、誰かが話題を探すよりも速く、階下から上がってくる扉が開かれた。
 今日に限って下のフロアにいるのは二人だけだ。

「な、なに?」
「ひゃ?」

 扉を開けた瞬間、部屋の空気が異常であることに気が付き、その場で硬直する二人。
 ミィフィが期待した展開があったにしては早過ぎるので、今回何もなかったのだろうと言う事が分かる。
 もしかしたら、隣の部屋に用意してあったベッドに気が付かなかっただけかも知れないが、兎に角状況が動いたのでそれで良しとすることにした。

「お帰り二人とも。速かったね」

 何かがあったと言う事を前提に話が進んでいるミィフィだが、その表情からは血の気が引いて今にも倒れてしまいそうだ。
 考え込んでいたニーナも同じ状況に陥っているので、この話題から強制的に離れなければならないと心に誓う。

「もっとゆっくりしてくれば良かったのに。別に明日の朝になっても、何の問題も無いわよ。ええ。全くこれっぽっちもノープロブレムよ」

 とてもそうは見えないリーリンの台詞は、どんどんと棒読みになって行く。
 そろそろ危ないかも知れない。
 周りにいる人間が迷惑だからと、必死に止めようとする。

「そうそうレイとん」
「な、なに?」

 あまりにも恐ろしいリーリンに気圧されてしまい、行動を起こせなかったフェリ達と違って、今回の騒動の原因を作りだした不気味な生き物が、なにやら手紙のような物を取り出してレイフォンに話しかけている。
 もしかしたら、これこそがこの事態を打開するための切り札かも知れないと、そう思ったのだが。

「シノーラさんて人から手紙が来ていたよ。間違って家に配達されたみたい」

 そう言いつつ、ニヤリと笑いつつ、手紙をレイフォンに向かって差し出すミィフィ。
 だが、受け取ったレイフォンは不思議そうな顔で手紙とミィフィを見比べている。
 もしかしたら、シノーラという人物に心当たりがないのかも知れない。

「シノーラって、誰?」
「・・・・。私に聞くのは間違いだと思わないのかね、君は?」

 賛同の気配があちこちから立ち上っているのが分かる。
 確かに、ヨルテムからレイフォンに来た手紙と言う事は考えられるが、確率としてはグレンダンからだという方が高いと思うのだ。
 それを裏付けるように、リーリンが少々驚いた表情をしているのが確認出来るし。

「シノーラ先輩と知り合いだったの?」
「リーリンの知り合いなのぉぉぉ!!」

 台詞の最後が驚愕していたのは、手紙に書かれている差出人などを読んで驚いたからの様だ。
 名前には心当たりがないようだが、筆跡には思い当たる節があるのかも知れない。
 恐る恐ると、封を切って中身を取り出すレイフォン。
 そして硬直してしまったようで、全く活動が停止してしまっている。
 いつまでたっても再起動しそうにないために、好奇心丸出しのミィフィが手紙を奪い取り、そして読み上げる。
 
 
 拝啓。
 あなた様がグレンダンを旅立たれて一年以上の月日がたちました。
 お元気でいらっしゃいますこととお喜び申し上げます。
 さて。

 リーちゃんに手ぇ出したらぶっ殺す!
 その胸をぐわっしぐわっしなぞと揉みやがったら、天剣十人送りつけてなぶり殺しにする!!
 万が一、億分の一、兆分の一の確率でも孕ませやがったりしたら、切・り・落・と・す!

 これからも壮健でいらっしゃいますよう、遠いグレンダンの地から願っております。
 敬具。

 親愛なるレイフォン・アルセイフ様へ。
 シノーラ・アレイスラ。
 
 
 読み上げられた内容のギャップに思わず全員が絶句する。
 レイフォンが再起動出来ないのも当然だ。
 だが、その絶句の中から動き出したのは、やはりというか何というかウォリアスだった。
 なにやらとんでもない破壊力を秘めた爆発物を扱うように、慎重にミィフィの手から手紙を抜き取る。
 そして3秒ほど文面を見て。

「二人の内どっちの筆跡に心当たりがあるんだ?」
「あ、あう」

 どうやら二人掛かりで手紙を書いたようだという事が分かった。
 それならば、挨拶文と本文のギャップの説明は付く。
 まあ、挨拶文などは定型文章だから、差して意味はないのかも知れないが。

「両方」
「成る程」

 やっとの事で再起動したレイフォンが、もう一度しげしげと手紙を見詰める。
 ウォリアスの手にある手紙を、恐る恐ると遠くから。
 活剄を使って、絶対に触れないように遠くからこわごわとのぞき見る。

「リーリン」
「な、なに?」

 そして、やはり恐る恐るとリーリンに話しかけるレイフォン。
 何か、とても聞いてはいけないことを聞こうとしているかのように、その表情は恐怖によって凍り付いている。

「シノーラさんってさ」
「うん?」
「天剣授受者と親しかった?」

 間違っていて欲しいと思いつつ、質問していることが容易に想像出来る。
 そして出てきた単語も問題だ。
 天剣授受者。
 レイフォンと同等かそれ以上の戦闘力を持つという、人外の化け物達のことだ。
 そんな連中と親しいと言うだけで、シノーラという人物がただ者ではないことの証拠になる。

「うん。留学する私を見送りに来てくれたんだけれど、サヴァリス様とリンテンス様が一緒だった」
「う、うわ」

 それを聞いた瞬間、レイフォンは彫像と化した。
 絶望という名の、誰も再現することが出来ないほど完璧な彫像へと。

「・・・・・・・」

 そして、レイフォンのその状況を認識したウォリアスがなにやら考え込んでいる。
 だが、それだけではない。
 何故かゴルネオも驚いた表情で固まっているのだ。
 先ほど名前が出てきた、サヴァリスというのはゴルネオの兄だ。
 何か心当たりがあるのだろう事が分かる。

「サヴァリス様が何か言ったら、しばくわよとか返していたから、きっとかなり親しいんだと思うけれど、やっぱり天剣時代に会っているの?」
「あ、あう」

 まだ彫像と化したままだが、それでも少しだけ反応することが出来るようになってきている。
 話が先に進みそうなので少し歓迎だ。

「もしかして、黒髪でスタイルが良くて、猛烈な美人で無駄に押しが強い人?」
「そう。やっぱり知ってるじゃない」
「う、うん。名前は知らなかったんだ」

 猛烈にぎこちない表情でそう言うレイフォン。
 もしかしたら、今回戦った老性体以上の脅威を目の前にしているのかも知れない。
 それ程までに絶望と恐怖に支配されていた。

「成る程ね」

 なにやら一人納得した様子で、レイフォンに手紙を渡すウォリアス。
 受け取り拒否したそうだったが、それでもなんとかそれを受け取りポケットに仕舞い込むレイフォン。
 実に嫌そうだ。
 リーリンの暴走も止まったことだし、取り敢えずこれでよいかと思うフェリは、小さく欠伸をした。
 そろそろ家へ帰ってベッドで眠りたいというのは、偽らざる本音なのだ。
 
 
 
 名前を聞いても分からなかった。
 シノーラとは名乗っていなかったので、全く心当たりがないのは当然なのだ。
 わかりかけてきたのは、宛名を見た時だった。
 レイフォン宛の書類は、カナリスが作成していることが多かった。
 天剣授受者は一応女王直轄と言う事になっているから、その辺の文官が作成すると言う事の方が珍しかった。
 カナリスはアルシェイラの影武者もやっていたので、便利に使われてしまったのだろう事が分かったほど、レイフォン宛の書類は彼女が書いていた。
 そして今回の手紙の宛名も、間違いなくカナリスが書いた物だったのだが、問題は何故偽名を使っているかと言う事だ。
 カナリス本人が手紙を出すのならば、そのまま本名でかまわないはずだ。
 となれば、理由は全く不明だがアルシェイラが絡んでいると考える方が納得出来る。
 それを理解した上で、本文を読んでも、更にとても恐ろしい恐慌状態に陥ってしまったのだ。
 これほど恐ろしい手紙をもらったことは、未だかって無いし、もしかしたらこの先も二度と無いかも知れない。
 しかもよりによって、リーリンを孕ませるなどと言う芸当が出来ると判断されているようなのだ。
 そんな勇気はレイフォンにはないのだ。
 まあ、それはさておき、今問題なのはアルシェイラの手紙を貰ってしまったために、冷え固まってしまった心と体を何とか温めなければならないという、緊急的な事態の方だ。
 そこでふと思い出す。
 ヨルテムが都震を起こして動けなくなった時に、メイシェンからお守りをもらった。
 それは今もレイフォンが持ち歩いているし、当然老性体戦の時も、肌身離さずにいた。
 強ばった手を何とか動かして、そのお守りが収納されているポケットをまさぐる。
 小さな布で出来たそれを発見した途端、身体に熱が戻ってきた。
 単純な物だと自分でも思うのだが、今この場では絶対に必要な行動だったのだ。
 と、ここで疑問に感じる。

「そう言えば、これの中身って」

 小さな布で出来た熱の素を取りだし、目の前にかざしてみる。
 お守りである以上、中身が何であれ問題無いと言ってしまえば問題無いのだが、ほんの少しだけ疑問に思ってしまったのだ。
 だが、それによって引き起こされた現象はあまりにも激しかった。

「ああああああああ!!」

 いきなりだった。
 何の前触れもなくメイシェンが絶叫し、目の前に持ち上げていたお守りごとレイフォンの右手を拘束。
 そのまま肩が外れるのではないかと思えるほどの速度で抱え込んだ。
 武芸者であるレイフォンが、肩の脱臼を心配するほどの速度で、一般人のメイシェンが運動したのである。
 これだけでも驚愕に値する事実だったのだが、更に事態は突き進む。

「め、めい?」

 必死に抱きかかえた右手に縋り付くように、レイフォンを見上げるメイシェンの瞳は、表面張力を突き破った涙であふれかえっていた。
 何故そんな状況なのか全く理解出来ないまま、メイシェンの小さな声が耳に届く。

「それは、聞いては駄目です」

 すっかり涙目で訴えかけられてしまっては、否という事は出来ない。
 少々疑問に思っただけなので、全く持って青天の霹靂だったのだが、兎に角頷いてこれ以上追求しないと表現する。
 言葉にしなかったのは、単に驚いて上手く喋ることが出来なかっただけで、深い意味は特にない。
 レイフォンを見上げる少女が、ほっと安堵の表情を浮かべたのを見て、若干だが、中身が気になってしまうと言う事もないわけではないような気がするが、それを殴り倒しても別段何の苦痛も感じない。
 いや。実を言うと他に気にすべき事柄があるのだ。

「おどおどした外見を装いつつも、計算高く行動する魔性の女だとは思っていましたが、まさかこれほどまでに恐ろしいとは思いもよりませんでした」
「・・・・。そうか。これが魔性の女という生き物なのか。始めて見たがなんと恐ろしいのだ」

 フェリとニーナの声が聞こえてきたからだ。
 メイシェンと二人で視線を合わせて、何が起こっているのか、お互いが理解していないことを確認。
 そろってフェリ達の居る方向を見る。
 なにやら目付きが鋭くなっているフェリを発見。
 どういう訳かとても怖い顔をしているニーナも発見。
 果物ナイフで武装しているリーリンがゆっくり立ち上がるのも発見。
 何か恐るべき事態になりつつあることも認識。
 そして、他の人達の視線も少々異常であることも認識。
 ニヤリ笑いを浮かべるミィフィとウォリアス。
 あちゃぁ、と顔を覆って溜息をつくナルキ。
 視線をそらせるゴルネオとオスカー。
 訳が分からないと首をかしげるシャンテ。
 全く意味不明だ。
 だが、シャンテ以外の全員の視線が少し気になった。
 メイシェンを見ているはずなのだが、その視線はほんの少しだけ下を向いているのだ。
 そう。メイシェンの胸付近を。
 何かあるのだろうかと思い、レイフォンもメイシェンの胸付近を見て、そして理解した。
 いや。視線を向ける前に、無意識的な反応で右手の感覚を確認してしまったのだ。
 胸骨と思われる、平たい骨の感覚がある。
 メイシェンの柔らかくて温かい両手の感覚もある。
 だが、問題なのはそれではない。
 それは驚くほどの弾力を持っていた。
 そして信じがたいほど柔らかかった。
 更に、凍り付いたレイフォンの心を蒸発させるほどの暖かさを持っていた。
 何よりも、恐るべき丸みを持ってレイフォンの右手を挟み込んでいた。

「あ」
「い?」

 二人で同時に理解して見つめ合ってしまう。
 そう。メイシェンはレイフォンの右手を両手で捕まえて、自分の胸の谷間へと押しつけていたのだ。
 何が起こっているかを理解したが、それに対応出来るかと問われたのならば無理だと答えるしかない。
 こんな状況は生まれて始めてである。
 いや。小隊入りを断った時に発作を起こして、病院に担ぎ込まれた時、気が付けばメイシェンの胸を揉んでいたという事態はあった。
 何故そうなったのか未だに不明だが、兎に角そういう事態にはなっていた。
 だが今回は訳が違う。
 あろう事か、メイシェンがレイフォンの腕を拘束しているのだ。
 そして、見つめ合っていたメイシェンの瞳に何度目か分からないが、涙が盛り上がるのを確認。

「ひゃぁぁぁ」
「ひぃぃぃん?」

 悲鳴を上げて手を離し、後ずさるメイシェンと、取り敢えずホールドアップしつつお守りを死守するレイフォン。
 そこで気が付いたのだが、メイシェンの視線が批難しているように見えているのだが、何かの間違いであって欲しいところだ。
 だが、現実にメイシェンはレイフォンを責めているようにしか見えないのも、きちんと認識しているのだ。
 そして。

「レイフォンの莫迦ぁぁぁぁぁ!」

 絶叫と共に踵を返す。
 その後を涙のしずくが追いかけているところを見ると、完璧に泣いてしまっているようだ。
 そして、泣きながら扉の方へと全力疾走。

「待ってメイシェン!」

 活剄を使える距離でなかったので、普通に走ろうとしたがどうしても加速力がたりない。
 メイシェンの肩に手が触れるよりも速く、扉を潜ってしまった。

「ぎゃむ」

 そして、一メルトル先にあった壁へと全力で特効を敢行してしまった。
 変な悲鳴を上げて尻餅をつくメイシェンに、やっとの事で追いついた。

「前見ながら走らないと、危ないよ」

 いらないことを言ってしまったと後悔したが既に遅い。
 レイフォンを批難するメイシェンの視線が更に凄まじい物になってしまっている。
 見上げられる視線がもの凄く痛い。

「レイフォンの莫迦ぁぁぁぁぁぁ!!」

 もう一度絶叫しながら立ち上がって、今度こそ廊下を全力で走り出してしまった。
 この先に階段はなかったが、また壁に激突するといけないので、本格的に追いかけることとなった。
 無くすといけないので、騒動の原因たるお守りを胸ポケットにしまいつつ。
 
 
 
 ラブコメを間近で見せつけられたゴルネオは、老性体戦が終わったことを完全に認識出来た。
 これほど弛んだ事態が展開していて尚、戦いの最中などと言う事はあり得ないのだ。
 ツェルニに来てからこちら、天剣授受者の情けない姿しか見ていないような気がするが、きっとレイフォンの個人的な事情なので気にしないことに決めた。
 元と付いていることだし、気にしないに越したことはないのだ。
 それよりも問題は。

「なあ。あのお守りってさ」
「なんだねウッチン?」

 作戦遂行中は張り詰めた空気に支配されていたウォリアスだが、流石にあれを見て尚緊張していることは出来なかったようだ。
 猛烈に気合いの抜けた表情と声で、なにやら確認するためにミィフィに質問している。

「ミィフィが渡せって言っただろう」
「ほうほう。流石ウッチンだね。その通りだよ」

 それ程豊かではない胸を張りつつ、肯定するミィフィは良いとしても、納得して脱力するウォリアスは少々問題かも知れない。
 件のお守りの中身がなんなのか、それを予測していると言う事になるから。

「中身ってさ」
「うむうむ」
「武芸者が持ったが最後、老性体を素手で瞬殺出来るようになるとか言う、根も葉もない出鱈目がまかり通っているという」
「ほうほう。やはり知っていたか」

 どうやら、レイフォンの胸にあるお守りの中身は、かなりメジャーな物のようだ。
 生憎とゴルネオには思い当たる節がないけれど。

「そんな凄まじい物があるのか?」

 だが、良くも悪くも素直なニーナがそれに食いついてしまった。
 根も葉もない出鱈目と言っているのだが、そこは綺麗に聞き流してしまっているのかも知れない。

「にひひひひひ」

 不気味に笑うミィフィが、そっとニーナの耳元へと口を寄せる。
 それに誘われるように全員の注意が注がれるが、いきなりゴルネオの方を向いたミィフィが鋭く警告した。

「男は駄目ですよ。これは女の子の秘密ですからね。にひひひひひ」
「・・・・・・・・・・・・・。そうか」

 ここで理解した。
 踏み込んでは駄目なのだと。
 ここから先は、男が踏み込んでしまってはいけない世界なのだと理解した。
 だから、オスカーとウォリアス、それとシャーニッドを引っ掴み部屋の隅へと避難する。
 万が一にでも関わってしまったら、とても恐ろしいことになりそうだったからだ。
 そして女性陣が円陣を組み、ミィフィがなにやらささやく。
 次の瞬間、聞いていた全員がスカートを押さえつけて絶叫する。

「嘘です!!」

 異口同音だった。
 そして、レイフォンが持っているお守りが相当危険な物であることを認識。
 思わず心の中で冥福を祈ってしまったほどだ。
 だが、事態はそれどころでは終わらないのだ。
 そう。何時の間にかシャンテの姿が消えていたのだ。
 嫌な汗が背中を流れるのを感じつつ、逃げ出すための算段を付けようとしたのだが、相手はシャンテだ。
 同じ小隊に所属していて、隣の部屋に住んでいる以上、何時でもゴルネオを襲うことが出来る。
 ならば、早めに対決して決着を付けておいた方が良い。
 その決意を固めるのを待っていたかのように、興奮で頬を赤らめたシャンテが何処からともなく戻ってきた。
 その手には当然のように、レイフォンが持っていた物と同じお守りが握られている。
 何時用意したかは分からないが、ミィフィが渡したことだけは間違いない。

「ゴル」
「う、うむ」

 期待と信頼と、そしてほんの少しの不安を持った瞳で見つめられたゴルネオの背中を、意味不明な冷や汗が大量に流れる。
 それを証明するかのように、女性陣の視線が猛烈に厳しい。

「これを持っていてくれゴル」
「あ、ああ」
「これを持ってれば、もうゴルは無敵だぞ!」

 これさえあればレイフォンと戦ってさえ勝てると、本気で信じているらしいシャンテの視線が痛い。
 その他の女性陣の視線なんかよりも、格段に痛い。
 中身がなんなのか、ウォリアスに確認したいような、絶対に聞きたくないような、そんな複雑な感情がゴルネオの中で暴れまくる。

「良く泣きながら走っている女の人って見るじゃないですか」
「ドラマとかではありがちだよなぁ」

 そんなこちらのことなど知らぬげに、いや。積極的に見なかったことにするかのように、ウォリアスが取り敢えず関係なさそうなことを話題にしている。
 空気に耐えられなくなったのか、シャーニッドがそれに同調してしまって、会話が成立してしまっている。

「何でぶつからないんだろうと思っていたんですが」
「今日は見事に壁に激突していたなぁぁ」
「メイシェンが特別なのか、それとも最終的にみんなぶつかるのか、興味深い研究課題だと思いませんか?」
「そうだなぁぁ。俺って女泣かせるようなことってしていないから、今まで気にしてなかったけど、調べてみても面白いかも知れねぇなぁぁ」

 完璧にゴルネオのことを無視した会話が、何の緊張感もなく続けられている。
 一縷の望みを持って、オスカーに視線を向けてみたのだが、こちらを見ていないことに気が付いただけだった。
 もしかしたら、レイフォンには及ばないだろうが、これから先ゴルネオにもラブコメ人生が待っているのかも知れない。
 相手がシャンテだった場合、もしかしたらレイフォンを超えるかも知れないと言う、とても恐ろしい未来予想図込みの、ラブコメ人生がだ。
 



[14064] 閑話 ツェルニに死す!
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/13 20:47


 突然ではあるのだが、老性体との戦いを終えたレイフォンは、おおよそ完璧と言って良い日常へと復帰していた。
 メイシェンを泣かせてしまったのは申し訳ないが、ツェルニの歴史を調べていて分かったのだが、汚染獣との接触などと言う物は十年以上経験していない。
 調べた資料が本当ならば、二回続けて汚染獣戦があったのだから、レイフォンがここを卒業するまであんなことはないだろうという予測が出来る。
 メイシェン達を心配させたくないからと、武芸を止めるつもりでここに来たが、ダンの取りはからいもあり、割と安全に武芸に関わって行けそうで、将来の展望もおおよそ開けている。
 非常に明るい未来が待っているのだ。
 待っているのだが。

「そう言えば、グレンダンにいる時には甘い物食べられなかったんだよね? レイとんって」
「そ、そうだけれど」

 突然のミィフィの振りに、本能的に腰が引けてしまうレイフォンだった。
 脈絡のない話ほど恐ろしい展開はないと、過去の経験から学んでいるという事実もあるのだが。

「そう言えば、今は食べられるのよね? なんで?」

 この手の展開から逃れる術をレイフォンは未だ見つけていない。
 それは何故かと問われるのならば、ミィフィが話題を振り、それに誰かが何の気無しに反応してしまうからだ。

「ヨルテムで絶叫マシーンに乗った後に、緊張と興奮で喉が渇いてね」
「へえ」

 危険であると言う事は認識しているのだが、それでも聞かれたならば答えなければならない。
 相手がリーリンであったならばなおさらである。

「その時にアイスクリームを食べたんだけれど」
「ああ。それがとっても美味しかったってオチね」
「うん」

 始めてメイシェンと絶叫マシーンに乗った後に、食べたアイスクリームの美味しさは忘れられない。
 ほのかな苦味と嫌みにならない甘さ。
 何よりも口の中に広がる冷たさが癖になりそうだった。
 とは言え、その快感を求めて絶叫マシーンに乗るなどと言う事はないのだが。
 だが、メイシェンのところに永久就職をしてしまったら、ちょくちょくそう言う経験をする羽目になるかも知れない。
 それだけが希望に満ちた未来にある、ただ一つの不安かも知れない。

「それにしても、ツェルニに絶叫マシーンがないのが残念よねぇ」

 茶髪で揉め事を眺めるのが大好きな生き物が、なにやら期待に満ちた瞳でレイフォンを見ているのだ。
 もしかしたら、主題がこれかも知れない。
 よりにもよって、絶叫マシーンがだ。
 ほんの数日前に戦った老性体など、ただ力押ししかしてこない雑魚でしかないと言い切れてしまうほど、レイフォンにとって脅威となる存在がだ。
 まあ、ツェルニには無いそうなので少し安心していたのだが。

「そう言えば、さっきから出てきている絶叫マシーンって何?」

 聞き慣れない単語に疑問を持つリーリン。
 そう。戦う者の天国と言われるグレンダンにはなかったのだ。
 ヨルテムやツェルニを見て思うのだが、グレンダンは極端に娯楽施設が少なかったのだ。
 だからこそ、闇の賭試合なんて物が平然と開かれていたりもしたのだ。
 そんなグレンダンが非常に懐かしい。
 そして、何時ものメンバーで大量の料理をこの世から消滅させている最中に、あんな恐ろしい物の話題などごめん被りたいのだが、生憎とミィフィとリーリンは非常にノリノリで話し始めてしまっているのだ。
 思い出しただけでも食欲を無くしてしまうレイフォンなどお構いなしにだ。

「へえ。ヨルテムにはそんな物があったんだ」
「うん! って、ツェルニに来る時に寄ったよね?」
「グレンダンを出るのに手間取ってね、一日居なかったのよ」

 グレンダンは、戦う者にとっての天国だ。
 年中襲ってくる汚染獣と戦うために、あらゆる設備が戦闘を前提に作られている。
 そして、その関係で放浪バスさえあまり寄りつかない。
 結果的にグレンダンを出るのは結構大変なのだ。
 そうなると、入学という期限が決められている以上、ヨルテムによって観光などと言う贅沢は言っていられないのだ。

「へえ。乗ってみたいなぁぁ」

 何故か、リーリンの視線がレイフォンを捉える。
 二ヒヒと笑ったミィフィの視線もレイフォンを捉えている。
 だが残念なことに、本当にこれ以上ないほどに残念なことに、ツェルニには絶叫マシーンなどと言う恐ろしい物はないのだ。
 一安心である。

「有るよ」
「え?」

 ほぼ真上から降り注ぐ日差しが、木の葉によって心地よい程度に弱められている席に、あまりにも予想外の一言が飛び出してきた。
 声の主を捜すと、何故か昼食時は何時も不機嫌になっているように見えるエドが、卵焼きを口に放り込んでいるところだった。
 いや。食事が不味いとか言うのではないらしいが、何故か昼食時は非常に不機嫌で無口になってしまうのだ。

「有るって、絶叫マシーン?」
「ああ。建築実習区画に変に高い建物があるでしょう?」
「・・・・。ああ。寮から見えるあの塔みたいなの。何だろうってずっと気になっていたんだけれど」

 リーリンとエドの会話を聞きつつ、視線を感じていた。
 その視線の主は、見て確認するまでもなくメイシェンだ。
 無類の絶叫マシーン大好き人間であるメイシェンの視線。
 それはつまり、一緒に行こうという無言の誘いだ。
 そして、それを断るという事は出来ない。
 老性体との戦いに出る時、一緒に遊びに行こうと誘ったのはレイフォン自身なのだ。
 後戻りは出来ない。

「・・・・。次の休みに一緒に行こうか?」
「うん!」

 何時もは大人しいというか、引っ込み思案なメイシェンだが、こと絶叫マシーンに関わると積極的に行動してしまうのだ。
 そして、もう一人。

「じゃあ、私も暇な時に行ってみようかな?」

 決して一人で行くとは言わないリーリンの視線が、レイフォンを捉えている。
 もしかしたら、生け贄に差し出されてしまうのかも知れない。
 絶叫の神に生け贄として差し出され、骨も残らずにしゃぶり尽くされるところを想像してしまった。

「・・・・・・・・。違うような気がする」

 多分違うと思うのだが、最近運の悪いことが多いレイフォンとしては慎重にならずには居られないのだ。
 だが、そんな事とは関係なく話は突き進む。

「駄目だよリンちゃん」
「何が?」

 いきなり真剣な視線でリーリンを止めるメイシェン。
 これはもしかしたら、何か理由を付けてリーリンが絶叫するのを止めようとしてくれているのかも知れない。
 ついでに、レイフォンが生け贄に指し出される事も防いでくれるかも知れない。
 そう期待したのだが。

「始めて乗る時は一人で行ったら危ないよ」
「一人じゃ駄目なの?」
「うん。私が初めて乗った時は貧血起こしたもの」

 貧血を起こしたら普通、嫌いになるのではないだろうかと思うのだが、もしかしたらその時に変な快感スイッチが作動してしまったのかも知れない。
 例えば、サヴァリスが戦いの中だけで耀いてしまうような、そんな物騒なスイッチがメイシェンの何処かにあるのかも知れない。
 非常に疑問である。

「・・・。そうなんだ。じゃあ、誰かと一緒に行こうかな?」

 そう言うリーリンの視線が、レイフォンを圧死させるほどの勢いを持った。
 これはつまり、本格的に連れて行けと言う命令だ。
 命令拒否は即死刑に違いない。
 更に、エドから凄まじい敵意と殺意が漏れ出しているような気がする。
 何故かは全く不明だが、事実は認めなければならない。

「あ、あう」

 取り敢えず誤魔化してみたが、当然そんな物は通用しない。
 むしろ圧力が増したような気さえする。

「じゃあ、今度の休みにみんなで行ってみようか!」

 何故か既にカメラを装備した茶髪ツインテールが張り切っている。
 恐らくこう言う流れになることを予測していたのだろう。
 いや。これをこそ狙っていたに違いない。
 非常に納得できる予測である。

「ウッチンも来るよね?」
「僕? まあ、レイフォンが遊びに行くんだったら、勉強会も開けないから良いけれど」
「エッドンは?」
「俺も良いよ。別に用事無いから」

 テキパキと段取りを整えて行くミィフィ。
 もはや退路は存在しない。
 遺書を書いておこう。
 そう決意したレイフォンは、最後の昼食を再開した。
 いや。休みまでまだ何日か有るから、最後の昼食ではないかも知れないけれど、それでも昼食を再開した。
 
 
 
 そしてただいま現在、目の前には想像を絶する何かが存在している。
 それは、棟だ。
 高さは三十メルトルになろうかという、十階建ての建物に匹敵する棟だ。
 そしてその棟の周りには、なにやらパイプが張り巡らされ、レールらしき物がうねっている。
 そのレールは、おおよそ最上階付近から螺旋を描きつつ、地上部分まで来ているように見える。
 しかも、途中で捻りや回転が加わっているように見える。
 更に、なにやらジャンプ台のような物が見えるような気がする。
 きっと気のせいだが、見えるような気がする。
 今からでも遅くないので、仮病を使った方が良いと本能も理性も主張しているのだが、残念なことに非常に楽しそうにしているメイシェンの前でそんなことは許されない。
 そして、始めての体験でワクワクしているリーリンも居る以上、逃走は不可能である。

「へえ。近くで見るとやっぱり大きいわね」
「うん! とっても怖そう!」

 やはり、絶叫マシーンを前にしたメイシェンは人格が入れ替わっているとしか思えないほどに、非常に積極的である。
 既にレイフォンの右手は拘束され、地獄の断頭台へと引きずって行かれているのだ。
 だが、レイフォンの身体は完全に諦めているというわけではない。
 何故なら、自由な左手が助けを求めているからだ。
 必死にこの場から連れ出してくれる存在を探す。
 いきなり武芸大会が始まっても何ら問題無い。
 汚染獣が大挙して襲撃してきても全くかまわない。
 そして、そのレイフォンの願いが届いたのか、柔らかく小さな手が左手を包み込んだ。

「リーリン?」

 それは頬笑みを湛えた、幼なじみの少女のものだった。
 そっと包み込んだ手に力がこもり。

「さあレイフォン! 行くわよ!!」
「あ、あう」

 当然の成り行きとして、メイシェンとリーリンに引きずられるようにして、恐怖の棟へと連行されて行く。
 後ろからやって来るのは、哀れみと羨望と嫉妬の視線達。
 ただの一つとして足音は続かない。
 これは、重大な裏切り行為だ。

「た、たすけて」

 振り向き、助けを求めて、そして絶望した。
 遺影を掲げていたり、喪服の準備をしたりしている連中ばかりだったから。
 既にレイフォンが死ぬことは確定なのだ。
 更に言えば、ミィフィとイージェがカメラを構えて一部始終を記録しているのだ。
 来週の週間ルックンは、きっとレイフォンの死亡記事で埋まるだろう。
 ツェルニを救った英雄として、少女達によってその命を絶たれた、哀れな男として。

「楽しみだね!」
「うん! こんなの始めて!」

 少女二人はもの凄く楽しそうだ。
 二人だけで楽しんで欲しいと思うのは、人間として何か間違っているのだろうか?
 そんな埒もない事を考えている間に、最上階へと向かうエレベーターへと乗ってしまう。
 その扉は、まさに人生を終えるための鋼鉄の刃となって、眩い外の光を全て断ち切る。
 静かに閉ざされ、薄闇に支配され、そして天へと登り出す小さな箱。
 レイフォンを導くのは可憐な少女二人。
 もしかしたら、可憐な少女ではなく天使なのかも知れない。
 いや。むしろ悪魔か死に神。
 そんな事を考えている僅かな時間をおいて、とうとう天国への扉が開く。
 いや。地獄の門だろうか?

「「いらっしゃいませ!!」」

 元気ハツラツ、気分爽快に挨拶をしてきたのは、当然ここの従業員。
 男性三人に女性二人の組み合わせが、おそろいの制服を着て出迎えてくれた。
 既に男性三人は、なにやらベストのような物をその手に持っている。

「ようこそいらっしゃいました! ささ。これをお召し下さい」

 一瞬の停滞も存在せず、流れるようにレイフォンの身体にベストが着せられて行く。
 合成樹脂の繊維を織って作られた、丈夫さだけが特色の簡素なベストだ。
 いや。背中に何か付いているところが通常の物とは違うかも知れない。

「これは?」

 振り返り何が付いているのかを確認する間にも、メイシェンとリーリンにも同じベストが装着されて行く。
 だが、その光景に注意を払う余裕は始めからレイフォンにはない。
 なぜならば。

「え、えっと? これって?」

 振り向いた視線の先にあるのは、フックにしか見えない部品だ。
 高いところで作業する時によく見かける、外側へとバネの力で部品を押し、輪を完成させるタイプのフックだ。
 それを確認している間に、誘導されて棟の最外縁へと進み出てしまっていた。

「あ、あのぉぉ?」

 そして、その背中に付いたフックが頭上にある、レールに取り付けられた滑車のような部品に噛み合わされる。
 きちんと噛み合わされているかを確認する従業員。

「右手を左胸に、左手を右胸に当ててください」
「こ、こうですか?」

 テキパキと指示され、身体の前で腕を組むような状態にさせられる。
 あまりにも的確な指示を素早く出されたために、反射的に言う事を聞いてしまう自分が情けない。
 そしてなによりも、とても恐ろしいことが起こりそうな予感がするが、既に後の祭りなのである。
 いや。最初から手遅れだ。

「では、地上に到着するまでその姿勢のままでいてくださいね」
「え? え? え?」

 ふと見上げた視線の先にあったのは、レールだ。
 その銀色のレールは、棟の周りを回っているそれであることに気が付いた。
 途中でひねれたり回転したりしていた奴だ。
 凄まじい悪寒が背筋を走り、鳥肌が立ち背筋が凍り、更に冷や汗が背中を濡らす。

「それでは、逝ってらっしゃいませ!!」
「ええええええええええええ!!」

 女性従業員のその台詞と共に、いきなり後ろから突き飛ばされて思わず前へと身体が流れる。
 倒れることを防ぐために踏み出した足は、しかし床を踏むことはなく、虚しく空気をかき乱しただけだった。
 そのまま重力に引かれて、急降下を開始。
 既に悲鳴を上げることさえ出来ない恐怖が全身を縛り上げ、流した涙が猛烈な速度で後方へと流れて行く。
 螺旋を描きつつ降下した身体がいきなり上昇へと転じ一回転。
 更に二回捻りの後、もう一度急降下したと思った次の瞬間、ほぼ水平に身体が流れるほどの急激な方向転換。
 その後も、いくつか何かあったような気がするが、それを認識することを脳が拒否してしまったようで、殆ど何も覚えていない。
 覚えているのは。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁんん!」

 いきなり、目の前でレールが途切れていた。
 出発時の姿勢を維持したまま、途切れたレールを越えて空中に放り出される。
 次に目の前に迫ったのは、ネット。
 そのネットに向かって全力で突撃。
 勢いを完全に殺されて自由落下。
 下に備え付けられていたマットの上に転がって暫くした時に、やっと空が青いことに気が付いた。

「ああ。空が青い」

 これほど青い空が美しいと思ったことはなかった。
 そして気が付くと、隣にメイシェンとその向こうにリーリンが転がっている。
 二人も放り出されてここに居るようだ。

「はあ」
「ほお」

 二人の口から、溜息とも吐息とも付かない音が漏れ出てきた。
 そして、潤んだ視線と上気した頬をそのままに、呆然と空を眺めている。
 恐怖に凍り付いたレイフォンと違い、なにやら満足しているように見えるのは気のせいであって欲しい。

「怖かったねぇ」
「うん! とっても楽しかった!」

 怖かったと言いつつ、リーリンの表情にはなにやら満足感と達成感があるような気がする。
 メイシェンは、まあ、こう言うのが大好きだから当然としても、リーリンは問題だ。
 もしかしたら、メイシェンと同じスイッチが入ってしまったのかも知れないから。
 そんな、新たな恐怖にさいなまれているレイフォンが起き上がれないでいるにもかかわらず、身体を捻る二人。
 そして、二人の視線がレイフォンを捉える。

「・・・・・・・」

 全身に冷や汗が浮かぶのが分かった。
 天剣授受者としても屈指の剄量を最大限使って、都市一つを滅ぼすことが出来る生命体として、全力で逃げなければならないと思うのだが。

「「レイフォン!」」
「ひゃぅ?」

 二人に声をかけられただけで、逃走の意志が打ち砕かれる。
 そして、柔らかく小さな、そして非力であるはずの手が二つ伸びてきた。
 未だに胸に当てていたレイフォンの両手が、優しくしかし確実に捕まれた。

「「もう一度乗ろう!!」」

 死刑宣告はこうして発せられた。
 
 
 
 茫然自失の状況でありながら、口から何か白い物を垂れ流しつつ、生け贄の仔羊が連れ去られるのを見送りつつ、ミィフィは思う。
 良い絵が取れたと。
 ルックンに載せる記事、そのネタがそろそろ尽きかけていたところに仕入れたのが、建築実習区域にある建設されたは良いが、あまりの恐ろしさに殆ど誰も乗らないという絶叫マシーンの噂。
 エドが知っていたのは意外だったが、好都合ではあったと心中笑いが止まらない。
 一周目にして既にほぼ死んでいるレイフォンだから、本当に死亡記事を載せることになるかも知れないが、それはそれで愛嬌である。
 貴い犠牲は無駄にせず、骨の欠片までしゃぶってやろうと心に誓ってここに来たのだ。

「しかし、世の中恐ろしい物があるもんだな」
「レノスにはなかったのか?」
「ここまで凄まじいのは、流石に」

 イージェとウォリアスの会話を聞き流しつつ、タイトルはどうしようかと考える。
 出来るだけセンセーショナルに書き立てたいと思っていたが、事実を書いただけで十分に刺激的である。
 ここは、少し地味目のタイトルを付けようかなどと思いつつ、カメラのシャッターを切り続ける。
 滅多に見ることが出来ないメイシェンのパンツルックもそうだし、活動的なリーリンのズボン姿もなかなかに良い絵である。
 レイフォンによると、グレンダンでのリーリンはスカートを履かないそうであるが、ツェルニではスカートを履いている方が普通なのだ。
 普段見ることのない姿を見られただけで、ここまで話を持ってきた甲斐が有ったというものだ。

「へへへへへへ。モテる男なんか絶滅してしまえば良いんだ」

 暗い情熱に突き動かされたエドの、低い笑い声が少々怖いけれど、それを出来るだけ無視しつつ三周目に連れ込まれようとする犠牲者をファインダーに捉える。
 既に意識はないのかも知れないが、それでもメイシェンもリーリンもお構いなしに引きずって行く。
 普段ならば決してそんなことはしないのだが、安全な恐怖のために理性が完全に飛んでしまっているのだろう。
 あるいは、始めて出会った同好の士との時間が、周りに対しての配慮を消し飛ばしてしまっているか。
 どちらにしても非常に珍しい事態であることは間違いない。
 二ヒヒヒヒと笑いつつ、タイトルを思いついた。
 そのタイトルとは。
 
ツェルニに死す!



[14064] 閑話 ニーナの勉強会その一
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/13 20:48


 緊張と共にニーナはカリアンの前に立っていた。
 ほぼ正面から差し込む陽の光によって、細かいカリアンの表情を見ることは出来ないが、あまり好意的でないことだけは間違いなさそうだ。
 何故こうなったかと考えると、事の起こりは、前回の老性体戦終了直後に遡る。
 何も考えずに行動したニーナにやや怒りを覚えたらしいウォリアスが、大量の資料と共にツェルニが老性体と戦うとしたらどう戦うか、その作戦計画を立てろと言う課題を出してきたのだ。
 ニーナの努力の方向に苦言を呈しているオスカーも、当然それには賛成だったようで、あっさりとこの宿題が決まってしまった。
 そして渡された資料は、ざっと目を通すだけで三日かかるという膨大な物だった。
 今現在ツェルニにある物資と戦力を事細かに列挙したそれは、当然のように凄まじい量だったのだ。
 それぞれの責任者から直接話を聞くことが出来たウォリアスと違い、ニーナにそんな贅沢は許されていない。
 だが、それでも一週間かからずに会心の出来と言える作戦計画を作ることが出来た。
 びっしりとタイプの文字が並んだ、五枚に及ぶ力作だ。
 基本的にはレイフォンに頼らなければならないが、地形を最大限に利用した戦術はかなり有効だと自負していた。

「Dマイナスだ」
「!?」

 採点を担当するのはカリアンとヴァンゼだが、武芸長は用事があるとかでこの場には居ない。
 と言う事でカリアンの評価が降りたのだ。
 生徒会長という戦いには関係のないカリアンの評価だが、それでも明らかに低すぎると感じてしまう。
 他の人からの評価を気にするという訳ではないのだが、それでも自信作に対する低い評価は許容できない。

「悪くはないと思うのですが」
「全く駄目だ」

 抗議の声を出してみたが、即座に切り捨てられた。
 小さく溜息をついたカリアンが抽斗を開けて、なにやら分厚い書類の束を取り出す。
 その書類の束の厚さは、ニーナの作戦計画書とは比べることが出来ないほど分厚かった。
 間違いなく二百枚はあるだろう。
 ここで出てくると言う事は、何のための書類かはすぐに分かる。
 そしてそれを誰が作ったかも。

「何がいけないというのですか?」

 レイフォンが汚染獣を狭い場所に誘導し、周りの地盤を爆破して動きを封じる。
 そこへツェルニの保有する質量兵器を撃ち込み殲滅する。
 基本的にはそれが被害を出さずに戦う方法だと思うのだが。

「失敗した時のことを考えていない」
「失敗など許されません!」

 汚染獣との戦いで失敗すると言う事は、即座に誰かが死ぬと言う事だ。
 そんな事を考慮することは許されない。
 だが、思わず反論した直後、それが間違っていることに気が付いた。
 質量兵器を使って殲滅できなかったときにどうするか?
 あるいは、罠を仕掛けるのに適した地形が存在していない時にはどうするか?
 それを全く考えていないと。

「そうだ。この作戦が使えない時どのように戦うか、あるいは、これで殲滅できなかった時、どうやって戦線を立て直すかが考えられていない」

 ニーナの表情の変化を見たのだろう、一拍おいてカリアンが言葉を続けた。
 失敗したと言う事が、即座に誰かの死につながるというわけではないのだ。
 ニーナが自分の認識を修正している間に、カリアンの方も何か考え付いたようだ。

「ふむ。これを渡すことは簡単だが」

 そう言いつつ、ウォリアスの作戦計画書を弾く。
 それがどれほど優れているかは分からないが、非常に悔しいことは確かだ。
 何しろ、小隊長であるニーナよりも、優れた作戦立案能力を持っているという証拠なのだ。
 だが疑問もある。
 どう考えても、あれほどの量を書くことは短時間では無理なのだ。
 汚染獣らしき物が発見されてから、レイフォンが出撃するまで一週間はなかった。
 となれば、極々短い時間で作られたと言う事になる。

「はっきり言っておくとね。全てウォリアス君が作ったというわけではないのだよ。彼の母都市であるレノスが老性体と戦った時に、その教訓から立案された作戦が元になっているそうだ」

 大元があるのならば、それをツェルニの現状に会わせて修正するだけで良いから、ずいぶんと作業量としては楽になる。
 少々ずるをされたような気分になってしまった。

「とは言え、君にも同じ事が言えるはずなのだがね」
「それは」

 流石に老性体との戦いなど聞いたことはないが、シュナイバルが汚染獣に襲われたことは何度もあった。
 そしてその時の戦いの記録を、きちんとニーナは見ている。
 ツェルニでさえ、前回の幼生体戦以外にも数度の汚染獣戦を経験している。
 そこで培われた戦術を始めとする教訓を、図書館から引き出して参考にすると言う努力を全くしていなかった。
 アドバンテージがウォリアスにあるのは間違いないが、それでも覆せないほどではないし、そもそも、殲滅できなかった時のことを考えておくのは当然のことだ。
 カリアンの評価は多少厳しいかも知れないが、決して間違いではない。

「知っているかねニーナ?」
「何をでしょうか?」

 なにやら含みを持たせたカリアンの視線が、ニーナをしっかりと捉える。
 そしてその唇が開かれ。

「作戦とは常に二手、三手先を考えて立てる物なのだよ?」
「・・・・・」
「一手しか考えていなければ、追い詰められて敗北する。前回の武芸大会のようにね」

 思い返すまでもなく、前回の武芸大会の勝敗を分けたのは、戦術の差だ。
 こちらの攻撃は全て防がれ、逆に相手の攻撃は全て成功していると言っても良かった。
 ならば、やはりツェルニに今最も必要なのはレイフォンのような強者ではなく、ウォリアスのような知恵者なのだ。

「と言う事でニーナ・アントーク」
「はい」
「ウォリアス・ハーリスに特訓してもらおう」

 裁定は降りた。
 ある意味今までの中で最悪の裁定だったが、それでも拒否は許されない。
 ツェルニを救うために必要だというのならば、どんな努力だってする覚悟はずいぶん前に出来上がっている。
 気が重いのは誤魔化しようがないが。
 
 
 
 無駄に重い気持ちと共に、生徒会本塔を出たニーナを待っていたのは、教官であるウォリアスではなかった。
 やたらに明るい表情の武芸者だ。

「ようニーナ。その様子だと落第点もらっちまったようだな!」
「先輩?」

 昨年まで彼が隊長を務める小隊にいた。
 つい先日は、彼の作戦の前に見事に敗北を喫してしまった。
 第十四小隊長のシン・カイハーンである。
 戦闘中以外は非常に口数の多いこの人物をニーナは尊敬しているのだが、今はなんだか非常に会いたくない気分だ。

「まあ、お前さんに大規模な部隊の作戦を考えろなんて無理なんだろうけれどな!」

 うんうんと一人勝手に納得して頷いているシンは、間違いなく一連の事態をきちんと把握している。
 そしてニーナを待ち伏せしていたのだ。

「どんなご用でしょうか?」

 思わず声が尖ってしまったが、これは仕方が無いことだと自己完結する。
 全てを知っていて待ち伏せをして、声をかけてきているのだ。
 何か企んでいるとしか思えない。

「まあ、そうカリカリしなさんな」

 ポンポンと肩を叩かれた。
 憤りを感じるのは、何か間違っているんだろうか?

「聞きたいことがあって待っていたんだ」
「何でしょうか?」
「実際にその目で見てどうだった?」

 話を速く切り上げたいと思っていたのだが、発せられた質問で凍り付いた。
 何を実際に見ての感想か? それが分からないはずはない。
 レイフォン達が倒した老性体のことだ。

「映像は見た。正直に言って、お前んところのルーキーが居なかったら、ツェルニは滅んでいただろうと思う」

 そのシンの認識に異存はない。
 あんな化け物と戦える武芸者が、ツェルニに二人も三人もいるはずはないのだ。
 だが、おかしなところもある。

「映像を見たのですか?」

 そう。シンは映像を見たと言っている。
 ビデオを見たのかも知れないが、それにしては表情が真剣すぎる。
 むしろ、あんな物を見せられて、特撮でないと思うことの方が難しいはずだ。
 実際に見たニーナでさえ、何かの間違いではないかと思ってしまうほど、老性体もレイフォンも異常だった。

「ああ。ライブ中継でしっかりと見せてもらった」
「!!」
「お前らが合流して混乱するところなんか、暫く笑えるくらいに感動した」

 ライブ中継という言葉が適当かどうか分からないが、普通に解釈すると、戦闘開始直後からあの戦いを見続けていたと言う事になる。
 そして、シャーニッドと二人してレイフォンとウォリアスを間違えて、声をかけた後に硬直していた情けない姿もしっかりと見られていたのだと理解させられた。

「とは言え全員じゃねえ。汚染獣と戦いに出るって言う話は、第一、第三、第五、第十四小隊にしか知らされていなかった」
「な!」

 現在十七有る小隊の内、何故その四個小隊にだけ知らされていたのか、それは疑問ではあるが、それ以上の疑問もある。
 レイフォンと直接関わっているニーナに、事前の連絡がなかったことだ。

「お前に知らせなかったのは、オスカー先輩が言ったことと関係しているんだそうだ」
「な、なぜそれを?」
「あん? 一昨日、先輩と呑んだ時に愚痴られた」

 驚愕した。
 あのオスカー・ローマイヤーが、シン相手に酒を呑みながら愚痴をこぼす。
 あまりの事態に現実逃避しようとしたが、シンはそれを許さなかった。

「兎に角だ。あの化け物を直接見てどうだった?」
「どうだったと言われましても、もの凄かったとしか答えられません。とても怖かったです」

 あの時のことは良く覚えている。
 あんな想像を絶するような化け物がいると言うこともそうだが、正面から戦えるレイフォンの事も怖かった。
 実はその恐怖は今もニーナの心の片隅に居続けているのだ。
 自分の小隊に所属しているとは言え、恐怖を覚えてしまっているのだ。

「お前が怖かったとなると、こりゃ駄目だな」
「? 何がでしょうか?」

 何が駄目だったのかさっぱり分からない。
 だが、その何かは非常に重要だと言う事が、シンの表情を見ていて分かった。

「彼奴らが抜かれた時に、迎撃の中核になるのが居残りの三個小隊だったんだが」
「・・・・・・」
「お前が怖かったとなると、敗北間違い無しだったな」

 第一、第三、第十四の三個小隊員にあの戦闘の映像を見せたのは、万が一にでもレイフォン達が敗北した際、ツェルニで迎撃する戦術を考えるためにだと言うことが分かった。
 そして思い出したのだが、選ばれた四個小隊は、全て前回の幼生体との戦いで組織戦を行い、余裕を持って終焉を迎えられた戦域担当でもあった。
 つまり、シン達こそツェルニ最後の防壁となるべき存在だったのだ。
 だが、そのシンが敗北を認めている。
 普段だったら、それに憤りを覚えるニーナだが、老性体を見てしまった以上軽はずみなことはとうてい言えない。

「ちなみにな」
「はい」
「第五小隊がレイフォンの支援に回った理由が分かるか?」
「・・・・。残念ながら」

 ゴルネオに率いられた第五小隊があそこにいた理由と問われてみても、あまりはっきりと答えることは出来ない。
 個人的にゴルネオが同じ都市出身だからと言う事くらいしか思いつけない。
 逆にヴァンゼがあそこにいなかったことの理由はすぐに思いつける。
 ツェルニの最終防衛戦、その指揮を執らなければならない以上、ヴァンゼが出撃するわけには行かなかったのだ。
 もしかしたら無力かも知れないが、それでも戦わないなどと言うことは考えられないから。

「ゴルネオ個人が、レイフォンの事を知っているからだとさ」
「それは」

 ゴルネオとレイフォンの間に、色々と事情があることは知っている。
 だが、直接会ったのはツェルニに来てからだという話も聞いている。
 少々、話が見えない。

「天剣授受者とか言う化け物のことを知っている。と言い換えても良いんだそうだが」

 天剣授受者。
 グレンダンの誇る最強の十二人。
 以前ウォリアスから聞かされた物は、シュナイバルで考えられる最強の武芸者と遜色ないという程度だった。
 だが、実際は全く違った。
 老性体などと言う想像を絶する化け物と、正面から戦うことが出来る人外の存在。
 ニーナが知る武芸者とは決定的に違う存在だった。
 そして、その違いをゴルネオは知っていると言う事になる。

「なんでも、ゴルネオのお兄さんが天剣授受者なんだそうだ」
「!! そ、それは」

 それが本当ならば、ゴルネオがあそこにいた理由は説明できる。
 説明できると言う事は理解したと言う事でもあるのだが、残念ながら納得は出来ていない。
 現実的な問題として、確かにニーナがあそこにいてレイフォンを支援することが出来たのかと問われたのならば、出来ないと答えることしかできないが。

「それはそれとしてだ」
「・・・・・。まだ何かあるのですか?」

 嫌そうな声であることが自分でも分かった。
 この先まだ何かあるのかと思うと、かなり憂鬱だ。

「ああ。あの緑色に燃える液体とか」
「・・・・・。私は知りませんよ」

 ウォリアスが持っていた、あの容器の中身が液体であることは間違いないが、それがなんなのか全く予測できない。
 それはシンも良く知っているようで、軽く頷いてから続きを口にした。

「知っている奴に会いに行かないか?」
「・・・・・・・・・・。不本意ですが」

 どちらにせよ、ウォリアスには合わなければならない。
 いや。もっと言えば生徒として彼の元に赴かなければならない。
 年齢が低いというのは気になるところだが、それは絶対的な条件ではない。
 問題なのは、卑怯な手を使ってでも勝とうという浅ましさだ。
 生きるためには仕方が無いとしても、それでも納得できていないのだ。
 
 
 
 やって来たのは、何故か錬金科の建物、しかもハーレイ達が使っている研究室だ。
 扉を開けて入ってみると、そこには当然ウォリアスが居たしハーレイもいた。
 変人という評価が定着しているキリクは、今のところ居ないようだ。
 とは言え、出来ればここには来たくなかったのだが、ウォリアスがいると言われてしまった以上来ないわけには行かない。
 来たくなかった理由の第一と言えば、なんと言っても汚いからだ。
 食べ終えた弁当やパンの包装紙がそこここに転がり、専門の雑誌らしき者が無造作に積み上げられ、飲み終えて洗われていないカップが放り出されている上に、健康そのもののニーナでさえ喘息の発作を起こしそうなほどに埃が積もっているのだ。
 そんな部屋に好んで行きたいと思う人間などそうそういない。
 そう。ここを使用しているハーレイに代表される技術者や研究者以外は。
 その技術者や研究者という生き物の生態が、何故研究されていないのか全く不思議でならないと思えるほど凄まじい部屋なのだが。

「・・・・・・・・・・・・。天変地異の前触れか?」

 だが、久しぶりにやってきたハーレイの研究室は綺麗さっぱりと片付けられていたのだ。
 そこここに埃が溜まっているが、せいぜいが三日ほど掃除をサボっている程度の量だし、無秩序に積み上げられていた雑誌が、銘柄とバックナンバーを基準に綺麗に並べられている。
 食べ終えた弁当の空き箱は転がっているが、驚愕の事実としてそれはたったの四つでしかない。
 天変地異の前触れでなければ説明が付かない。

「いや。天変地異が起こったからこそ綺麗なのか」

 そう結論付けるしかない。
 ツェルニが老性体に向かって突っ込んだからこそ、この部屋は綺麗に片付いているのだと。
 これでもし、目の前にいるウォリアスが掃除をしているというのならば話は分かるのだが、別段そんな雰囲気はない。
 いや。そもそも何でこんなところに居るのかという疑問はあるのだが、それもこの部屋が綺麗だという事実に比べれば、どうと言う事はない。

「酷いなぁぁ。この間レイフォンが来て徹底的に掃除していったんだよ」
「・・。ああ。それで納得がいった」

 主夫として凄まじい技量を身につけているレイフォンが来たのならば、あっという間に全てが綺麗に掃除された上に片付けられるに違いない。
 老性体と戦っただけでは飽きたらず、無秩序とも戦うとは驚くべき能力だと感心してしまったが。

「それで、シン先輩と一緒にどうしたんですか?」
「あ? ああ。生徒会長から連絡が来ていると思うのだが」

 不本意ではあっても、必要とあらばやらなければならない。
 気が重いのは変わらないけれど。

「俺の方は、緑色に燃える液体とかのことを聞きに来た」

 ニーナとは違った理由でここに来ているシンは、当然目的を達成しようとするわけだ。
 二人の話を聞いて数秒考えるウォリアス。

「先に言っておきますが。僕は戦術家としても戦略家としても、どう上方修正しても二流です。政治家としては居ない方がましでしょうし指揮官としてはこれ以上失格な人間もいません」

 何故かいきなり自己評価を始めるウォリアス。
 しかし納得が行かないところが多い。
 戦術家として、戦略家としてウォリアスが二流だったのならば、ニーナの立場は全く無くなってしまうのだ。

「そんな僕ですが、偉大な先人達の知恵を吸収して整理して、それを運用するという能力は少々優れていると自負しています」

 ここまで話が進んでやっと理解した。
 いや。カリアンから既に知らされていたのだ。
 ウォリアスは、レノスが作り上げた対老性体戦術を、ツェルニに合わせただけだった。
 古きを知ってそれを効率よく運用すること。
 それこそがウォリアスの能力だと。

「レノスには熟練して覚悟を決めた武芸者が多かったけれど、レイフォンが居なかった。ツェルニはその逆だったというわけですね」

 状況の違いを元に、以前から有った戦術に改良を加えるという能力に優れていると言う事だろうと結論付ける。
 それでも十分に凄いと思うが、ウォリアス自身の評価はかなり低めだ。

「で、前回使った補助兵器について少々説明を」

 そう言いつつ、ハーレイの机の上に置いてあった、湾曲した金属製の箱を持ち上げる。
 それは、落とし穴の付近でウォリアスが取り出した時限式の爆薬だ。
 レイフォンにこそ持たせるべきだったと思うのだが、何かの理由でそうはなっていなかった。

「これは実物ではありません。中に粘土を詰めて同じ重さになるように出来ている訓練用ですね」

 言いつつ起爆スイッチらしい物を捻る。
 当然何も起こるはずはなかったのだが、次の瞬間辺り一面を爆音が支配した。

「うを!」
「どわ!」
「きゃっ!」

 驚いて悲鳴を上げる武芸者三人。
 目の前にある以上あれが爆発したなどと言う事はないのだが、それでも本能的に驚いてしまうのだ。
 そして、それを眺めつつ溜息をつく錬金科のハーレイ。
 今の現象に酷くなれているように見える。

「またやったのかいジェド?」
「・・。ここ最近にしては珍しく小さな爆発だ」
「だからね、ガスバーナーと小麦粉で粉塵爆発は止めて欲しいと、何度も言っているだろう?」
「しつこいなタイチ! 粉塵爆発は男のロマンだと何度も言っているだろう!」
「そのたびに掃除するこちらの身にもなってくれと言っているんだよ!」

 すぐ隣の部屋からそんな会話が聞こえてくる。
 つまりこれは良くあることなのだ。
 納得できないがきっとそうなのだ。

「ああ。ちなみにお隣の二人ね。この爆薬作った人達って」

 何時も通りに話すハーレイを見ても、ニーナのその予測が間違っていないことを物語っている。
 非常に納得行かない。
 そして気を取り直したらしいウォリアスが、小さく咳払いをして説明を続けた。

「鉱山なんかでも使われているRDX爆薬の改良品で、主成分はトリメチレントリニトロアミン。低感度爆薬として作られている物で起爆装置を使わなければ殆ど爆発はぁ」

 指を振りつつやたらに上機嫌で解説をするウォリアスの視線が、ニーナとシンを捉える。
 そして、一瞬動きが止まる。
 いきなり専門用語を使われても全く理解できない。
 シンに至っては完全によそ見をしている有様だ。
 説明しても聞いていないことを理解したのだろう、非常に残念そうにもう一度小さく咳払いをしてから、少し切り口を変えた。

「まあ。この重たい弁当箱と呼ばれている爆薬一個で、あの巨大な老性体の脚を一本吹き飛ばすことが出来るんですよ」

 そう言われて思い出してみる。
 確かにあの老性体は、脚がいくつもなかった。
 それは、レイフォンの攻撃の成果だと思っていたのだが、どうやら少し違うようだ。

「勘違いしてはいけませんが、脚を吹き飛ばすと言っても、それは甲殻を貫いた内側から起爆した時の話です。普通に使っただけであれだけの破壊を得ることは出来ません」

 ニーナの認識は尽く外れているようだ。
 用意された爆薬は、レイフォンの攻撃力に上乗せすることを前提に作られていた。
 だからこそ大きな戦果を上げることが出来たのだ。

「そして、レイフォンに渡したのは鋼糸を使って起爆装置を作動させ、即座に爆発が起こるタイプでした。ですがこれは時限式です。意味は分かりませんよね?」

 微笑むウォリアスが少々怖いと感じてしまった。
 そしてニーナには分からなかったが、シンは何か心当たりがあるようで、微かに驚いた表情をしている。

「お前があそこにいる意味が分からなかったが」
「分からなかったんですね」
「ああ。今は何となく分かる」

 なにやら二人だけで話が進んでしまっている。
 ウォリアスの言う、時限爆発式である意味をシンは気が付くことが出来た。
 ニーナにはまだ良く分からないが、ウォリアスがあそこにいた理由について考えてみる。
 当然、ニーナ達を追い返すためだけに待機していたわけでは無い。

「レイフォンの補給かと思ったんだが」
「その側面もありました。予備の錬金鋼やゼリー飲料、遮断スーツの代えなんかを持っていましたからね」

 斬獣刀を持っていたことから、補給担当であるという意味は分かる。
 そして一つの疑問が浮かんできた。
 シンがニーナの元にやってきた理由、あの緑色に燃える液体だ。
 ウォリアスがあれを持っていた理由が分からない。
 危険物らしいが、ここぞという場所で使うために持ち歩いていたと言う事も考えられるが、落とし穴の側に置いておけば良いはずなのだ。
 ならば、あの時ウォリアスが持っていることに意味があったはずだ。
 その意味や理由を考えるが、全く思いつくことが出来なかった。

「僕は五重の防衛線を設定しました」

 ニーナが考えているのを待つつもりが無いのか、それともヒントが隠れているのか、話し始めるウォリアス。
 五重の防衛戦と言われて、更に考える。

「第一番目は当然レイフォンですよ」
「五番目が俺達ツェルニ居残り組か」

 シンは話しについて行けている。
 だが、ニーナはまだ分からない。

「第四防衛線が、作業指揮車で」
「三番目があの落とし穴だな」

 四つまでが埋まった。
 そして、ハーレイを含めた三対の瞳がニーナを見る。
 当然分かるだろうと言いたげな視線だ。
 だからこそ、必死になって考える。
 老性体を迎え撃ったその現場を、ニーナは見てきた。
 実際にレイフォンが戦っている姿を見たのは、ほんの短い時間だったが、それでもきちんとその瞳で見たのだ。

「・・・・・。お前が第二防衛線か」

 あの落とし穴とレイフォンの間には、ウォリアス以外誰もいなかったし、何もなかった。
 あの老性体に対する防壁としては極めて脆弱だと思うのだが、それでも第二防衛線と言えるのはウォリアスだけだった。
 そして、細目の武芸者はゆっくりと首を縦に振った。

「僕自身は極めて貧弱ですけれど、それでもあの老性体にかなり大きな打撃を与えることは出来たはずです」

 自信があるようだが、それに賛同することが出来ない。
 どんな方法をとるつもりだったのか、全く不明だからだ。
 仮に炎破を使ったとしても、あの甲殻を打ち破る事は不可能に思えるし、そもそもウォリアス自身無能な武芸者である事を認めているのだ。
 どうやってあの老性体に打撃を与えるのか、興味津々だ。

「この時限発火式の爆発物を、僕は僕が食われる直前に、老性体の口の奥へと放り込みます。勿論作動させた状態で」

 食われる直前に、強力な爆発物を口の中に放り込む。
 ウォリアス自身も死ぬだろうが、老性体も口の中にかなりの打撃を受けるはずだ。
 これならば、武芸者としての能力に関係なく、ある程度の損害を強要する事が出来る。
 だが、少しおかしい。
 時限式である必要がないのだ。
 構造が複雑になればそれだけ信頼性は落ちるはずだ。
 万が一を考えれば、多少の性能低下よりも信頼性の向上を取る。
 ニーナでさえそうなのだから、ウォリアスが同じように考えないわけがない。

「作動させて三十秒経った時点で爆発します。この意味が分かりますか?」

 再び三対の視線がニーナに注がれる。
 ウォリアスとハーレイは当然答えを知っているし、シンもおおむね予測しているようだ。
 だからと言うわけではないのだが、必死になって何故時限式でなければならなかったのかを考える。
 だが、分からなかった。

「分からない」
「成る程」

 落胆した雰囲気もなく、ウォリアスが訓練用の爆弾を弄ぶ。
 そして、何か思いついたのかポケットをまさぐり小さなケースを取り出した。
 蓋を開けると入っていたのは、カプセルに入った薬がいくつか。
 何の薬かはまったく分からないが、常備薬であることは確かなようだ。

「これは、胃散で溶けないように出来ています。効果薬品を腸で吸収させるための処置ですね」
「・・・。そうだな」

 何を言いたいのか、まだ分からない。
 だが、ヒントは胃散で溶けない。

「飲み込んだ薬は、当然のことですが時間が経つと、消化器官内の奥の方まで進みますよね?」
「・・・。ああ」

 胃酸は関係なかったようだ。
 迂闊な発言をしなくて良かったと、内心胸をなで下ろす。

「もしも、喉よりも奥でこれが爆発したら、どうなると思いますか?」
「!! その時は」

 もし、人間の身体の中で何かが爆発したのならば、それはどんな小さな物だったとしても致命的な破壊をもたらす。
 それはいくら汚染獣だとしても変わらないはずだ。
 どう少なく見ても、かなり手ひどい怪我をすることだけは間違いない。

「この重い弁当箱で消化器官を、そしてあの緑色に燃える液体、ナパームと呼ばれていますが、そのナパームの発生させる炎を呼吸に乗せることで呼吸器官を破壊します」

 全ては内部から汚染獣を攻撃するための装備だった。
 その構造上、どうしても防御力が低い内臓を破壊されたのならば、どんな生き物だろうと殺すことが出来る。
 それを改めて示されたのだ。

「レノスが百年前に老性体と戦った時の教訓ですが、どんな重装甲を施そうと腹の中まで鎧を着込むことは出来ない」

 言われて見るまでもなく当然のことだった。
 武芸者も同じだ。
 あのレイフォンでさえ、フェリが調合したゼリーを飲まされて瞬殺されたのだ。
 あらゆる武芸の流派で広く普及している徹し剄。
 剄を浸透させて身体の内部から破壊する技も、そもそもが汚染獣の甲殻に対抗した物だったはずだ。
 それをウォリアスは突き詰めて実用しただけに過ぎない。

「あの緑色に燃えるナパームも、厳密に合成した炭化水素に激しく燃える薬品を数種類組み合わせた物です。空気に触れると勝手に燃え上がって二千度の猛烈な熱を発生させます」

 ウォリアスの説明を聞いてはっきりと理解した。
 あのナパームとか言う液体は、戦闘機動をしている武芸者が持つには危険すぎるのだと。
 だからこそ、ランドローラーに乗せてウォリアスが管理していたのだと。

「結果的にレイフォンが敗北した場合、僕を食らうことによって老性体は甚大な打撃を受けることになります」

 自分の死と引き替えに、老性体に打撃を与える。
 言って良ければ、ツェルニのために犠牲になるとウォリアスは言っているのだ。
 だが、それを肯定することは出来ない。
 誰かの犠牲の上に成り立つ平穏などと言う物を、認めることは出来ないのだ。

「納得してませんね」
「当然だ!」

 あの化け物が脅威だと言う事に変わりはない。
 だが、だからと言って犠牲が出ても問題無いというわけではない。

「勘違いしてはいけませんが。これは次善の策です。事実としてレイフォンは負けなかったし、罠は全て上手く働いたし、老性体は殲滅できました」

 淡々とそう言うウォリアスだったが、視線が少しニーナからそれた。
 そちらを見ると、シンが少し難しい表情で何か考え込んでいる。
 シンが何を考えているのか、やはりニーナには分からない。

「一つ疑問がある」
「何でしょうか?」

 ゆっくりと考えた末に、おもむろにシンが口を開いた。
 その瞳に疑問と納得の色が同時に現れているように、ニーナには思えた。

「何故、レイフォンは先に老性体の喉の奥で爆発させなかったんだ?」
「!!」

 気が付いた。
 レイフォンだったら、遠隔操作で作動させることが出来る。
 ならば、もっと楽に戦えたはずではないかと。

「僕も疑問でしたけど、納得しています」

 ウォリアスは完全に納得しているようで、ゆっくりと手に持ったままだった爆弾を机の上に置く。
 そしてゆっくりと呼吸して。

「まず始めに機動力を奪わなければ、ツェルニに向かわれる危険性があった。だから脚を攻撃した。だそうです」

 理解できるような気はする。
 レイフォンを無視してでも、ツェルニを襲うかも知れない老性体、そうなったら折角用意した罠が無駄になる。
 ならば、何よりも先に機動力を奪ってレイフォンとの戦いに集中させる。
 そうすることでツェルニの安全を確保したのだろうと思う。
 効くかどうか不明な攻撃をするよりも、確実な方法をとりたかったのだろうと思う。
 どの程度の爆発が起こるか分からない以上、レイフォンのその思考は極めて納得できる物だ。

「成る程な。てっきり持っていることを忘れていたのかと思ったんだが」
「僕もそれは思いました。なんだか視線が泳いでいたんで、忘れていた方が本当だと思いますね」

 ニヤリ笑いを浮かべて話すシンとウォリアス。
 確かに、新しい装備のことを忘れて今まで通りの戦い方をするのは、非常にレイフォンらしいと思える。
 ハーレイも頷いているところを見ると、この四人の中で見解の相違はないようだ。
 そして、この話題を最後に本日の講義は終了となった。
 気が付けば何時の間にか完全に日が暮れていたし、ウォリアスはこれから少し用事があると言う事だったので、次回の講義は生徒会本塔内にある武芸科の資料室で行うことを決めて。



[14064] 閑話 ニーナの勉強会その二
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:97102e9f
Date: 2013/05/13 20:48


 前日に引き続きニーナはウォリアスの講義を聴くこととなった。
 ただ聞くだけではない。
 必死に頭を使って出来るだけ多くの物を吸収しなければならないし、そもそも、ただ聞いているだけと言うことをウォリアスは容認しないのだ。
 そして、生徒会本塔内にある、武芸科資料室に到着したニーナは驚愕に固まった。
 なぜならば、既にウォリアスが到着していたからだ。
 いや。それだけなら何の問題も無いのだが、なにやら眠そうに歯を磨いている。
 もしかしたらここに泊まり込んだのかも知れない。

「おはよう御座います」
「・・・・・。おはよう」

 いきなり予想外の事態になっているが、相手が相手だけに許容するしかない。
 取り敢えず、空いている適当な席に付き、ニーナは準備を整える。

「さて。昨日少し触れましたが、迎撃戦の詳細を」
「ああ」

 言いつつ、一口サイズのサンドイッチを口に放り込みつつ、コーヒーをすする。
 よくよく見れば、着ている物は昨日と同じだ。
 やはり、ここで寝泊まりしているようだ。

「第一防衛戦でレイフォンが敗北した場合については、昨日話しましたね」
「ああ。お前が命がけで打撃を与えると言う事だった」

 仕方が無いという言葉を使うつもりはない。
 都市を守るために、ニーナはニーナを含めた誰の犠牲も払うつもりはないのだ。

「何かの理由で僕が失敗して、老性体がツェルニへ向かった場合、第三防衛戦が機能することになります」

 第五小隊とナルキが用意した落とし穴だ。
 動きを封じて何かの攻撃を仕掛けることは理解しているが、だが決定的な欠点がある。

「気が付いていると思いますが、あの落とし穴は戦場とツェルニを結ぶ直線上にありませんでした。老性体を察知してツェルニが逃げたというのもありますが、地盤の関係上あそこにしか掘れなかったという理由もあります」

 ツェルニから戦場へ直行したはずのニーナ達が、その存在に気が付かなかったという事実がある以上、直線上に並んでいなかったのはおおよそ間違いがない。
 それでは無意味だ。
 罠とは、そこに標的がやってきて始めて意味を持つ。
 ならば、最低限戦場とツェルニを結ぶ直線上に仕掛ける必要があったのだ。
 ニーナが気付いているほどだから、当然ウォリアスもしっかりと認識している。

「そこで囮が必要になりますね」
「・・・・・。ああ。・・・・・。ナルキか!」
「オスカー・ローマイヤーとナルキ・ゲルニです」

 何故、あの場所にナルキが居たか、それはずっと疑問だった。
 だが、罠にはめるための囮として使うというのならば、話は分かってしまう。

「勘違いしてはいけませんが」

 囮にするならば、逃げ足だけが重要で、それ以外の能力は期待しない。
 超高速移動という能力のあるナルキならば、囮にはもってこいだと思ったのだが、やはりウォリアスに機先を制された。

「囮になれる人間を他に思いつけなかったんですよ」
「・・・。どういう意味だ?」

 思いつけなかったという。
 それがどう言う意味かまだ分からない。

「この場合、抗戦しつつ罠まで誘導しなければなりませんでした。あの老性体を相手にですよ?」

 言われて見てやっと気が付いた。
 罠まで誘導するとなると、足が速いだけでは駄目なのだ。
 ある程度冷静な判断能力が必要で、それを戦闘しつつ維持しなければならない。
 ニーナを恐れさせ、硬直させた老性体を相手にだ。
 ただ立っているだけでも、逃げ回っているだけでも駄目なのだ。
 きちんと戦いつつ誘導するには、想像を絶する精神力が必要になるに違いない。

「そこで白羽の矢を立てたのが、レイフォンが一年近く特訓して、臨死体験を済ませているナルキでした」

 臨死体験という凄まじい単語を平然と使うウォリアスに、かなりの憤りを覚えたが、それでも話は分かるような気がする。
 あの老性体とまともに戦えるレイフォンから、一年の時間特訓を受け続けていたのだ。
 度胸は十分に付くことだろう。

「本来なら、メイシェンを支えるためにツェルニに残したかったのですが、どうしても一人足らなかったので」

 ツェルニの最終防衛戦、その要である小隊から人を裂くことは出来なかった。
 となると極端に人選は難しくなることは間違いない。
 そして、それと同じように重大な疑問がわき上がってくる。

「私は候補に挙がらなかったのか?」
「まったく」

 一刀両断だった。
 ウォリアスの判断基準をニーナは満たしていなかったのだと理解した。

「猪突猛進型の人間を使うほど、僕は人生投げていませんから」

 そう言いつつ、少し含みのある笑顔でこちらを見ているようだ。
 何か反論しなければならないのかも知れないが、無駄な努力をしていた手前、あまり大きなことは言えない。

「一つ訪ねますが。アントーク先輩は、作戦計画に乗っ取って行動することが出来ますか?」
「当然出来る!」
「例え、すぐ側を走っていた人間が目の前で食われても?」
「そ!」

 そんな事はさせないと言おうとして、言葉を飲み込んだ。
 もし、ニーナが隣を走っていた人間を助けようとして、最終的に罠へ誘い込めなければ全てが無駄になる。
 非情に徹して行動しなければならないのだ。
 レイフォンの講義を聴いた今でも、それが出来るかどうかと問われたのならば、否と答えることしかできないし、そもそも否と答えるためにニーナは日々努力しているのだ。
 ウォリアスの考える戦いの方法と、ニーナのそれは決定的に違うのだ。

「ふむ。納得していませんね?」
「当然だ!」

 それが必要であると言う事は理解しているが、断じて認めることは出来ない。
 例え犠牲者がウォリアスだったとしても、誰かの犠牲の上に成り立つ平穏などあってはならないのだ。

「私は! ツェルニを守るために私を含めた誰も犠牲にはしない!」

 犠牲が出ないようにするために、指揮官が居るのだ。
 それがどれだけ微かな可能性だろうと、諦めてしまってはそこでお終いだ。
 だからこそニーナは反論する。

「・・・・・・・・・・・・・。はいはい。頑張ってくださいね」

 だが、相手をしていたウォリアスは何か納得したのか、はたまた諦めたのか、暫く何か考えていてから投げやりにそう言ってコーヒーをすすった。
 今のやりとりの何が問題だったのか、ニーナには分からないが、それでも何か致命的な間違いを犯してしまったことだけは理解した。

「投げるなウォリアス・ハーリス!」
「どわ!」
「!!」

 そんな瞬間を狙ったように、第三の声が資料室に響き渡った。
 いや。間違いなく狙っていたのだと思う。
 目の前でコーヒーをすすっていたウォリアスが、盛大に転んで床に黒い液体をぶちまけた。
 ニーナもそれ程違った反応が出来たわけではない。
 飲み物を持っていたかどうかの違いでしかないのだ。

「武芸長?」
「うむ」

 そこにいたのは、ツェルニ全武芸者の頂点に立っている、ヴァンゼ・ハルデイその人だった。
 厳つい顔に厳つい雰囲気をまき散らしつつ、悪戯が成功した小さな満足感が見え隠れしているような気がする。

「殺剄をして人の側に来てはいけないという法律があったのを忘れたのですか! オスカー先輩も貴方も! どうして武芸科の頂点付近にいる人達は!!」

 始めてウォリアスが激昂するところを見たと思うのだが、その気持ちは十分以上に理解することが出来る。
 ニーナも全く同じ気持ちなのだから。
 だが、殺剄に関する法律などツェルニにあっただろうかという疑問は、ニーナの中に少しだけ残った。

「まあ、それはそれとして」
「誤魔化さないでください!!」
「今はニーナの方が重要だ」
「それは認めますけれど」

 なにやら激昂していたウォリアスが、一息ついて椅子に座り直す。
 それを見たヴァンゼも、近くにあった椅子に座った。
 誰も、床の上に零れたコーヒーについては気にしていないようだ。
 そこに既に憤りを感じてしまった。

「何故伝えない?」
「僕が伝えたら、それこそ逆効果です」
「・・・・・。確かにそうかも知れんな」

 二人の間だけで会話が成立している。
 しかも、ニーナにとってかなり重要な内容で。

「よろしいですか?」
「ああ。お前が主役だからな」

 言いつつヴァンゼの視線がニーナを捉える。
 それはしかし、かなり厳しいものだった。
 ゆっくりと息を吸い込み、そして。

「俺とカリアン、そしてお前は言ってはならない。既に犠牲は払われた。その犠牲に見合う成果を俺達は何とかして得なければならない」
「誰も犠牲になってなどいません!」

 ヴァンゼの一言は、致命的にニーナの心に突き刺さった。
 まだ、誰も犠牲になってはいないのだ。
 そのはずなのに、ヴァンゼは既に払われたという。
 納得することなど出来はしない。
 それ以前に、ウォリアスが言うべき事のはずなのに、ヴァンゼが代わりをするなどと言う事を認めることも出来ないのだ。

「ウォリアスが言わないのは、お前が彼のことを否定しようとしているからだ。それに、そもそもこう言うことは、ずいぶん前に俺かシンから話さなければならなかった。俺達の方の落ち度でもある」

 ヴァンゼがそう言うと、少し考え込んでいたウォリアスが席を立った。
 そして、床を拭くための準備をしつつ距離を取る。
 ここから先はヴァンゼとニーナの問題で、自分には関係ないと言う事なのかも知れない。
 そして、それ以上に問題なのはニーナが感じているウォリアスへの嫌悪感だ。
 卑怯な戦い方をしたウォリアスを快く思っていないことは間違いないが、それが何時の間にかかなり深刻な嫌悪感になっていたのだ。
 自覚がなかったわけではないが、それでも認めたくはなかった。

「さて本題だ」

 そんなニーナのことを理解しているのか居ないのか、ヴァンゼが小さく息を吸い込む。
 既に払われた犠牲について、説明するためだと言うことは十分に理解している。

「俺とカリアン、そしてニーナ。三人だけは払われた犠牲に見合う成果を上げる義務がある」
「どんな犠牲が払われたというのですか!」

 それが分からない。
 幼生体戦で怪我人は出たが、それは全て武芸者だった。
 そして誰も死んではいない。
 武芸者である以上都市を守って戦うことは絶対だ。
 そして、戦って犠牲者を出さないために指揮官が居るのだ。
 前回、レイフォンの助けがあったとは言え、死者を出さずに済んでいるはずなのだ。
 そうなると、幼生体戦での怪我人とヴァンゼの言う犠牲とは恐らく意味が違う。

「学生のみが持っている当然の特権、自分の将来を決めるための試行錯誤、そのために使うべき時間をレイフォン・アルセイフから奪っている」
「? レイフォンは武芸者以外にはなれません」

 あれだけの才能を持った武芸者を、どんな都市だろうと遊ばせておくなどと言うことはない。
 ヨルテムのように教官として招くというのもそうだし、グレンダンのように前線の戦力として期待するのもそうだ。
 武芸者として生きる以外の選択肢は、レイフォンにはないのだ。

「そうだ。だが、それを決めるのは最終的にはレイフォンだ。そして、武芸以外で生計を立てる道を探すためにツェルニに来た。言う意味は分かると思うが」
「・・・・・・。はい」

 グレンダンでのこともあり、武芸者として生きて行くことを止めたがっていたのは以前に聞いた。
 それは未練であると思うのだが、それでも最終的に決めることが出来るのはレイフォン本人だけだ。
 そう考えるならば、レイフォンが迷うという学生として当然持っている時間が奪われている。
 ましてここは学園都市だ。
 本来ならば、何よりも迷ったり考えたりする時間こそ守らなければならない。
 それが出来ないと言うことは、レイフォンにとって非常に大きなマイナスだと言える。
 マイナスを犠牲と言い換えるのならば、既に犠牲は払われていたのだ。
 今までそれに思い至らなかったニーナこそ、迂闊だとしか言いようがない。
 思い返せば、フェリも同じような経緯をたどっている。
 フェリとレイフォンが試行錯誤をして、最終的に自分が何者であるかを決めるための時間、確かにそれをカリアンとヴァンゼは奪っている。
 そして、その犠牲の上にこそ第十七小隊は成り立っているのだ。
 ならば、犠牲者など出さないなどと戯れ言を言う権利はニーナにはない。
 いや。そもそもニーナがシュナイバルから出ようと思った動機も、決められた道を歩く事が正しいかどうか分からなくなったからと言う理由もあったはずだ。
 ニーナ自身も迷ったり考えたりするために、ここに来ているというのに、フェリやレイフォンにそれを許さないと言っているような現状は、酷く滑稽でありいびつだ。

「そうだ。ただし、厳密に言えば、誰も彼もが誰かの犠牲の上に今を生きているのだろうが、それでも俺達三人だけは決してそんなことを言ってはいけないのだよ」

 溜息混じりにそう言うヴァンゼの表情は極めつけに厳しかった。
 カリアンの独走だったのかも知れないが、それを止められなかったのは、武芸大会で連敗してしまった武芸者全ての責任だ。
 そして、その責任を全て背負うべきなのがヴァンゼだ。
 ニーナは、自分が思っているよりも何も分かっていなかったようだ。
 だが、いや。だからこそ深刻な疑問がある。
 ウォリアスだ。
 十五歳でしかない彼が、何故そんな事まで理解しているのか?
 ある意味の天才なのかも知れないが、それでもウォリアスの実力には驚愕してしまう。

「今すぐに答えを出す必要はないが、ゆっくり考えろ。お前は組織を率いる人間だ」

 オスカーの話を聞いてさえ、ニーナには組織を率いると言うことが良く分かっていなかったようだ。
 そして、犠牲というのが単に物理的に現れる物でないことも、理解し始めた。

「ウォリアス!」
「・・・・? はい?」

 一通りの話は終わったと言わんばかりに、本来の講師をヴァンゼが呼んだが、呼ばれた当の本人はなにやら別なことを考えていたようで、非常に反応が遅かった。
 視線がこちらを向き、そして焦点がヴァンゼとニーナに合う。

「ああ! そちらの話は終わりましたか」
「ああ。俺は他の用事を片付けに行く」
「僕の周りで殺剄は厳禁ですからね」
「覚えておこう」

 そう言うと、堂々と部屋を出て行く。
 もしかしたら、またこっそりと戻ってくるかも知れないが、今のところは安心していて良さそうだ。
 
 
 
 ヴァンゼが出て行って、一息ついたところでウォリアスが口を開く。
 今まで何を考えてあれほど集中していたのか、それは全く分からないが、それでも今はニーナへ向かって意識を集中している。

「途中になりましたが、第三防衛線へ誘い込む囮、それが二人だった理由は分かりますよね?」
「ああ。どちらか片方が食われても目的を果たすためと、二人いればお互いに支え合ってあれの恐怖で身動き取れなくなることが少なくなるからだ」

 微かに頷いてニーナの認識と、ウォリアスの計画が離れていないことを告げた。
 だが、ここでもやはり少し疑問がある。

「もっと用意しようとは思わなかったのか?」
「戦力の逐次投入は愚策ですが、無駄な犠牲を出すのもやはり愚策です。そして、二組四人で何とか出来るだろうと思っていました」
「・・・・・。ゴルネオとシャンテか」

 第五小隊長を勤めるゴルネオと、相棒であるシャンテが囮の役を引き継ぐことで、万が一の事態に備えることが出来ると判断したようだ。
 もちろん、あそこにいた武芸者の、本来の仕事は、落とし穴を作ることだったのは言うまでもない。

「それで、その落とし穴ですが、落としただけではあまり意味がありません」
「ああ」
「そこで使うのが作業指揮車です」

 あの移動基地と呼べる指揮車でひき殺すのかと思ったが、どう考えても老性体の方が大きかった。
 ならば、他に何か打撃力があるのだろうと思ったのだが、続いた言葉は想像を絶する異常な物だった。

「機械科と錬金科の有志が、大砲を作りました」
「・・・・・・。何故?」

 大砲である。
 作業指揮車ならば、万が一にツェルニが敗北した時に使うからと、おおよそ建造の理由は理解できるのだが、大砲などと言う物を作る理由が全く思いつかない。
 質量兵器が必要ならば、その役は当然ミサイルがやるはずだというのに、わざわざ大砲を作らなければならない積極的な理由が、全く思い浮かばないのだ。

「趣味だそうです」
「・・・・・・・・・・・・」

 趣味で大砲を作ると言う事にも驚くが、そんな物を使おうとする人間にも驚く。
 どう考えても、それ程大きな威力を出すことが出来そうにないのだ。
 何しろ趣味で作っているのだから。

「何処で仕入れたか不明ですが、色々と考えられていて、理論上あの老性体の甲殻を打ち破れるそうです」
「・・・・・・。冗談ではないのか?」
「僕も確認しましたが、計算上甲殻を打ち抜いて、かなりの打撃を与えられるはずです」

 それはそれで驚きだ。
 今回のために作ったわけではないだろうに、どうしてそんな強力な武器を作ったのかとことん問い詰めたい気分だ。
 レギオスには、それ程多くの余剰物資があるわけでもないし、そもそも、作っただけで使わないとなれば完全にエネルギーの無駄なのだ。

「何でも完成までに十年かかったとかで」
「・・・・・・・・・・・・・・。そうか」

 十年である。
 それはどう計算しても、二世代にわたって作り続けられたと言う事になる。
 それどころか、何人もの技術者があらん限りの知識と技術を有りっ丈使って、精魂込めて作り上げたに違いない。
 使う予定がないにもかかわらず、何故そんな物を作っていたのか、非常に疑問ではあるのだが、技術者というのはそう言う生き物だと納得しておいた方が良さそうだ。

「作業指揮車の屋根に、大砲を据え付けましたが、残念なことに精密誘導なんて事は出来ませんでした」
「それで、落とし穴で動きを封じてからの砲撃か」
「そうです」

 そして、落とし穴に落ちなかった場合、作業指揮車は自らを囮として砲撃を実施する。
 もちろん、その時には生還を考えずに、外れることなど考えられない零距離からの砲撃になったことだろう。
 ここまで来ればそれはおおよそ理解できるという物だ。
 だが、ここでも疑問がある。
 それだけの能力があるのならば、もっと有効に使えるのではないかと。

「実のところ、砲弾が三発しかありません。試射も出来ない状況なので、ぶっつけ本番ですね」
「成る程」

 使えない理由は常に存在しているようだ。
 もし、レイフォンが健在な状況で老性体が落とし穴に落ちて、ナパームといくつかの強力な技で殲滅できず、レイフォンが戦闘の限界に到達していたのならば、後のことを考えずに砲撃は行われただろう。
 最悪、レイフォンやウォリアスが巻き込まれることも考慮の上で。
 そして理解した。
 全ては老性体を殲滅するために用意されたのだと。
 これでおおよそ迎撃作戦の全容を把握することが出来た。

「さて。順序が逆になってしまいましたが、この作戦の目的です」

 これが最後だと言わんばかりに、ウォリアスの口が開く。
 しかも、聞くまでもない最も基本的な内容について、これから話すつもりのようだ。

「老性体の殲滅ではないのか?」
「違います。ツェルニが生き残ることです」

 ツェルニが生き残るために、老性体を殲滅する。
 違いはないと思うのだが、ウォリアスの考えでは違うのだろう。

「ツェルニが老性体の探知範囲外に逃れることが出来るなら、殲滅する必要はありません」
「・・・・。ああ。そうだな」

 無理をして殲滅する必要はないと言っているのだ。
 だが、非常に大きな問題が有る。
 それは、傷を負った老性体が新たな餌を探して、近くにある都市に襲いかかるかも知れないと言う問題だ。
 ツェルニは助かっても、他の都市が犠牲になってしまっては意味がない。
 確かに、あれだけの準備をしてレイフォンまで投入したにもかかわらず、殲滅できなければ、ツェルニに打つ手はないのだろうが、逆にツェルニだけ助かれば良いという趣旨にもとれてしまう。
 そもそも、これだけの準備をしていて、殲滅するための強力な支援兵器があるのだ。
 殲滅できて当然だと思うのだが。

「汚染獣、しかも老性体とは常識と正気を疑うような化け物です。これで殺すことが出来ると思っているといきなり復活したりするそうです」

 そんな事は考えられない。
 高温の炎で体内を焼かれて尚、生きている生命体などと言う物を想像することは出来なかった。
 しかも、ナパームとレイフォンの剄技、二重の攻撃で殲滅できなかった時のことを考えているなどと、想像を絶する思考方法だ。

「そもそも、レイフォンが炎破を放ったのはナパームでは殺せないと思ったからですし、それでも足りなくて浸透斬撃の技まで使っている」

 言われてみて思いだした。
 レイフォンは青石錬金鋼の刀で、今まで見たこともない凄まじい破壊力の技を使っていたのだ。
 念には念を入れるというレベルの話では無い。
 あれでもまだ足りないと言わんばかりに、更なる攻撃の姿勢を見せていた。
 つまり、汚染獣戦、しかも老性体戦というのはそう言う物なのだ。
 そして、そんな想像を絶する戦場でレイフォンは戦い、そして生き残ってきた。
 それを認識したニーナの身体は、急速に冷えて行った。
 レイフォンを部下にすると言う事を、始めて理解したような気分だ。

「以上で、老性体戦の講義を大雑把に終了します。詳しくは生徒会長のところに具体的な方法について書いた計画書があるので、それを見てください」

 そう締めくくるウォリアス。
 確かに、カリアンに見せられたあの計画書を詳しく解説することは、ウォリアスには出来ない相談なのだろう。
 能力的な問題ではなく、一年生という学年的に、そして何よりも時間的に。

「そうそう。今度こそ最後ですが、僕はニーナ・アントークという人物を結構高く評価しています。これは嫌みでも何でもなく本心から」
「・・・・。そうか」

 本心からと言われたが、考え無しにレイフォンの元へと走ってしまったニーナは、とても自分を評価することなど出来はしない。
 もしかしたら、ウォリアスの評価だからだというのもあるのかも知れないが、それでもニーナは自分を評価することが出来ない。

「不公平や不条理、理不尽に対して不満を抱えている人は多いですし、文句を言う人なんかそれこそ何処にでも居ますが、行動する人は極めて少数です」

 ウォリアスの言うことをそのまま理解すると、考え無しに行動してもそれは評価できると取れてしまう。
 だがしかし、当然続きがあった。

「当然、やれば良いという訳ではありません」
「・・・。そうだな」
「個人的に行動する時には、別段後のことを考える必要はありませんが、誰かを巻き込む時や集団を率いる時にはきちんと考えなければなりません。アントーク先輩はそこが欠けていただけですね」

 つまり、何かをする前に十分に考えろと言いたいのだ。
 組織を率いると言う事は、そこに所属する者達に対して責任を持つと言う事に他ならない。
 その責任を持つためには、事前の準備や思考がどうしても必要になるのだと、ニーナはやっと理解した。
 少し遅かったが、それでも理解した以上は実際にやらなければならない。
 新たな気持ちと共に、まだ調べ物があるというウォリアスを残して資料室を後にした。
 
 
 
 なにやらニーナに講義をしていたらしいウォリアスから、カリアンに会いたいという連絡をもらったのは、いい加減夕方になってからのことだったとフェリは記憶している。
 それは急ぎの用事ではなかったし、公式の物でもなかったので、最終的に寮に来るようにというカリアンからの指示を中継した記憶もある。
 そして今、太陽は既にその姿を消し去り、煌々と輝く月が中天に差し掛かろうとする時間である。

「ふふふふふふ。なんだか怒っているようだねウォリアス君?」
「あははははは。全然これっぽっちも全く持って怒っていませんよ、カリアンさん」

 二人とも笑顔を張り付かせて、なにやら牽制か威嚇を始めている。
 縄張り争いでもするつもりだろうかと、ふとどうでも良いことを考えつつ、目の前にあるお菓子をつまみつつ紅茶を啜る。
 お菓子はウォリアスが持ってきた自家製、ミックスフルーツ・パウンドケーキである。
 レーズンやオレンジピール、レモンピールにクランベリー、その他にも色々なドライフルーツが細かく刻まれ、ブランデーを効かせたスポンジの中で踊っている。
 メイシェンが作るほど洗練されていないが、やや荒っぽいその仕上がりは、これはこれで有りだと思う。
 もう少し甘くしても良いと思うのだが、まあ、この次作る時にでも注文を付ければいいと結論を出す。

「ふふふふふふ。もしかして私に何か言いたいことでもあるのかね?」
「あはははははは。実は疑問があったので、それを解消して頂きたいと思いまして」
「ふふふふふふふふ。私のような凡人に答えられる問いならば言ってみたまえ。誠心誠意答えさせて頂くよ」

 なにやら外界が五月蠅いが、取り敢えず薄く切ったパウンドケーキに噛み付きつつ、やや濃いめに淹れた紅茶を啜る。
 なにやらウォリアスは何時もと違うような気がするが、ケーキに免じて全てを見なかったことにしてやろう。
 そう決意を固めているのだ

「あははははははははは。何でメイシェンがリーリンの寮に泊まり込んでいたのかなって思って」
「ふふふふふふふ。そんな事かい。既に答えは出ているのではないかね?」
「ええ出ていますよ」

 いきなり渇いて怖い笑いを捨て去り、これ以上真面目な表情など出来ないという真剣な顔でカリアンに向かい合うウォリアス。
 どうやら威嚇と牽制は終了して、実際の戦闘が始まるようだ。

「アントーク先輩を失敗させるため、あるいはその価値を見極めるためですよね?」
「分かっていてここに来たのかい?」
「ええ。間違っていたら嫌じゃないですか」

 ミサイルと砲弾が言葉へと姿を変えた質量兵器同士が、相手を討ち滅ぼそうと放たれる。
 取り敢えずフェリは、殆ど手が付けられていないパウンドケーキを確保して、安全と思われる距離まで後退する。

「ニーナがどう行動するか、それを見たかったというのもあるが」
「行動して失敗して、そこから自分の体験として学ばせたい」
「分かっているじゃないか」
「理解はしていますよ。それがアントーク先輩にとって必要であると言う事もね。ですが」
「なんだね?」
「僕の言う事を、とことん否定してしまったらどうするつもりだったんですか? あり得ない予測ではなかったですよ」
「その時は、ニーナを切り捨てるよ」

 今の会話を聞いていると、ニーナは謀略によって失敗させられたと言う事になる。
 そもそもニーナは、メイシェンが住み慣れた寮にいなかったところから疑問を持つべきだったのだ。
 まあ、ニーナにとってはよい薬になったと言う事で、特に問題はない。
 なにやら、非情にフェリにとって魅力的な内容が会話の中にあったような気もするのだが、それは聞き流した方が精神安定上良いのだろうと結論づけて、全てを忘却の彼方へと放り投げる。

「私が予測した失敗の中で、最もニーナらしい失敗をしてくれて安心しているよ」
「アントーク先輩らしくない失敗をするよりは、だいぶましですからね。ですが」
「なんだね?」

 細目で長髪の少年の視線が、いきなり鋭くなった。
 眼が細いからと言うのとは明らかに違う。
 その迫力はカリアンを超えてしまっているように思える。
 非常に疑問な展開だ。

「分かっていると思いますが、確認のために言いますよ」
「そうしてくれ給え」

 ふと思う。
 カリアンの髪をウォリアス風に縛ったら少し面白いのではないかと。
 いや。むしろウォリアスに眼鏡をかけさせた方が、もう少し面白いかも知れない。

「貴方はカリアン・ロスという人物の、人生の主役ではありますが、人間社会全体の主役などではありません。ツェルニという集団の中で中心的な人物ですが、世界の中心ではありません」

 誰かの人生を考えるならば、その主役は人生を生きている本人に違いない。
 ただ、それが社会全体となると全く話は違ってくる。
 筋は通っているし理解も出来る、何よりも納得が行く。
 特にカリアンのような腹黒陰険眼鏡は、自分こそが世界の中心であると思っているかも知れないのだ。
 ここらでやはり、一度死んでみた方が良いかも知れないとも思う。

「それは理解しているよ。私は組織の中心にはなれても何かの主役にはなれない」
「ならば、今回みたいなことは止めて下さい。そうでなくても貴方絡みの問題で忙しいんですから」
「ふふふふふふふふふふふふ。ツェルニの滅びを避けるためになら、私は何だってやるよ?」
「具体的に僕にこれ以上仕事を回さないで下さい。そもそも、ヴァンゼさんを潜ませたのも貴方の仕業でしょう」
「そうだよ。ニーナに組織の長という職務を理解させるためにね」

 やはり死ぬべきだ。
 今夜辺り、ナルキに連絡をして抹殺してしまおう。
 そう結論付けつつ、厚めに切ったケーキを口に放り込む。

「実は私も疑問があるのだが、聞いて良いだろうか?」
「僕に答えられる範囲内なら」

 一段落したようで、攻守が入れ替わる。
 それを確認しつつ、ウォリアスの前から手つかずの紅茶を奪い取る。
 このまま冷めてしまうのはもったいないのだ。

「君は一体何歳なんだね?」
「さあ」
「レノスに問い合わせても十五歳であるという答えしか返ってこなかった」
「速いですね」

 既にレイフォンの事を調べているので、ウォリアスに特に動揺した形跡はない。
 やや呆れていると言った感じではあるが、特に不快に思ったと言う事もないようだ。

「だが君のその考え方、物の見方、何よりも立ち居振る舞いはどう考えても十五歳ではあり得ない」

 それはフェリ自身も疑問に思っていた。
 年相応の行動をすることもあるが、レイフォンやニーナ絡みでは全く印象が違うのだ。
 年齢を誤魔化していると言われた方が、遙かにしっくり来るほどに落ち着いている。

「十五歳ですよ? 永遠の十五歳かは自信ないですが」

 はぐらかす答えが返ってきた。
 これは当然カリアンも予測していた。
 フェリだって予測していた。
 もしかしたら、レイフォンは知っているのかも知れないが、別段何か問題が有るというわけではない。
 それよりも問題は。

「成る程。まあ良いだろう。ところで一つ頼みがあるのだが」
「あまり時間をかけなくて良いのならば」

 カップに残った、最後の紅茶を飲み干す。
 それは、パウンドケーキへ別れを告げる儀式でもあった。
 そして、ロス家が抱える問題を、カリアンが口にする。

「夕飯を作っていってくれないかね?」

 そう。夕食がまだなのだ。
 そして、料理が出来るウォリアスをわざわざ自宅へと招いたのも、全ては夕食を確保するため。

「・・・・・・・・・・・。珍獣は?」
「レイフォン君なら夜間の清掃へ出かけているよ」
「外食するという選択肢は?」
「レイフォン君の料理に慣れてしまってね。外食が少々味気ない物に思えているのだよ」
「フェリ先輩の手料理は?」
「その選択肢を選ぶのだったら、私は卒業までゼリー飲料だけで生活するよ」

 珍獣フォンフォンが料理を作りに来てくれたのは、この一週間ほどの間にわずか三回。
 だがしかし、その僅かな回数で既に外食をするという選択肢が困難になってしまっているのだ。
 もしかしたら、こちらこそ餌付けされているのかも知れないが、珍獣フォンフォンだから特に問題無い。
 フェリ自身が料理をするという選択肢は、フェリ自身にとっても危険であるので、出来るだけ取りたくないのだ。
 いや。料理でカリアンを抹殺するというのもありだろうが、間違って自分で食べてしまっては命に関わりかねない。
 こちらでの使い方も、あまり好ましくないだろう。

「贅沢を言っていますね」
「あっはっはっはっはっはっは!! 私の家は裕福だから贅沢には慣れているのだよ!!」
「自慢になりませんから、それ」

 突っ込みを放ちつつ、手元を見るウォリアス。
 あまりにもあまりな展開に、少々疲れて喉を潤したくなったのだろうが、既に紅茶はフェリのお腹の中である。
 からになったカップを不思議そうに眺めたのは一瞬。
 理解の視線と共に、その細い瞳がフェリを捉える。
 そして次の瞬間、驚愕に支配されたように限界を超えて見開かれるウォリアスの瞳を見た。
 その視線は、紙の箱を見つめているような気がする。

「フェリ先輩?」
「何でしょうか?」

 しらを切り通す。
 それ以外に何もする事はない。

「質量が、最低でも一キルグラムル以上あったパウンドケーキ、それが今どこにあるかご存じありませんか?」

 そう。ウォリアスが持ってきたミックスフルーツ・パウンドケーキは、その姿を完璧にこの世界から消し去っていたのだ。
 だからこそしらを切らなければならない。

「ゼロ領域に飲み込まれたのではないでしょうか?」
「ゼロ領域ってなんです?」
「F理論で解明できる、謎時空です」
「解明できているのに謎はないですよ」

 猛烈に鋭い突っ込みをその胸に受けつつ、視線をそらせ誤魔化すための話題を探す。
 ウォリアスとカリアンの舌戦を眺めるだけというのは、実は結構大変な精神力を消耗する行為だったのだ。
 消耗した精神力を補給するために、パウンドケーキはゼロ領域に消えてもらわなければならなかったのだ。

「さあ。速く夕食の支度をして下さい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。太りますよ?」
「失礼ですね」

 言いがかりである。
 パウンドケーキはゼロ領域に消えてしまったのであって、断じてフェリのお腹の中に入ったのではないのだ。

「・・。分かりましたけれど、僕の分も作りますよ?」
「それで結構だよ。いや助かるよ。やはり手料理の方が望ましいからねぇ」

 珍しく、本当に奇跡的にカリアンとの意見の一致を見た。
 取り敢えず、これで食事の確保という難題がだいぶ改善された。
 料理を始めたウォリアスを眺めつつ、珍獣フォンフォンを正式にロス家のコックとして雇えないだろうかと、本格的に思考するフェリだった。
 
 
 
 ちなみに、次の日から暫くフェリは体重計に乗らなかったという。
 
 
 
  ニーナについて。
 これを書いていて思ったのですが、俺がニーナをあまり好きではない理由というのが、犠牲云々の台詞だったような気がします。
 原作四巻でフォーメッド相手に似たような事を言っていたのを読んで、一気に不満というか疑念というかそう言う物が貯まっていったような。
 ただし、これは俺、粒子案と言うフィルターを通して見た光景である事をしっかりと認識して下さい。
 間違っているかも知れないし、とてつもない偏見かも知れないですから。



[14064] 戦慄! 女子寮の朝
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/13 20:48


 その朝、突如として目覚めた。
 本来休日というのは、一日寝て過ごすためにある物だという信念の元、記念女子寮の住人の一人であるレウは、既に遅い時間であるにもかかわらず寝間着のままだった。
 いや。正確には目覚めたというわけではない。
 目は覚めていたのだが、ベッドから起きるという選択肢を取ることが出来なかっただけなのだ。
 だが、そんな平穏な休日も一瞬にして打ち破られてしまった。

「レウ! 来てくれレウ!!」

 その声の主は、同じ記念女子寮の住人であり、熱血武芸者であるはずのニーナの物だと言う事に気が付いたのは、寝間着姿もそのまま階段を駆け下りる途中でのことだった。
 普通に考えるならば、武芸者であるニーナが一般人であるレウに助けを求めるなどと言うことは、殆ど考えられない。
 だが、自分が女であることを認識していないらしいニーナの場合、色々思いもしない面白いことになることもしばしばなのである。
 などと思っていたのは、ニーナをその視界に治めるまでのことだった。

「きゃぁぁぁぁぁ!! って、一体何をしたのニーナ!!」

 視界に飛び込んできたのは、金髪を短く刈り込んだ凛々しい武芸者であるニーナだ。
 それは問題無い。
 問題というべき物は、真っ赤に染まった包丁をその手に持っていたことと、完膚無きまでに破壊された流し台を認識したからに他ならない。
 何が起こったのか非常に疑問な展開だ。
 流し台が汚染獣となって襲ってきた?
 もしかしたら、他の食材が意味不明な敵として立ち塞がったので、力尽くで戦ったついでに流し台が破壊された?
 いやいや。そんな事は殆ど考えられない。
 ならば何をしていたのかと尋ねてみたら。

「いや。少々小腹が減ったので料理でもしようと思ったのだが」
「それで、何で流し台がこんな有様に?」
「うむ。サンドイッチ用のトマトを切ろうとしたのだが」
「切ろうとして?」
「上手く切れなかったので衝剄を上乗せしたのだが」
「・・・・・・・・・・・・。セリナさんには一人で怒られてね」

 もっと言えば、修理費はニーナ持ちだ。
 それ以前に、何でトマトを切ろうとして衝剄を上乗せしなければならないのだろうかという、基本的な疑問がわき上がってきてしまったのだが、すぐにそれ以前の問題が有ることに気が付いた。
 なにやら良い匂いが漂ってきているのだ。
 恐る恐ると視線を、横にずらしてみる。

「何でこんなところに居るの?」

 視線の先には、ある意味居てはいけない人達が座り、なにやら朝食らしい物をつまんでいた。
 視界に入ったのは三人。
 ここの住人であるリーリンは、問題無いと言えるだろう。
 いや。ニーナを止めなかったことと、彼女に料理をさせたというところで問題が有るかも知れない。
 そしてその横に座り、黙々と目の前の惨事など無いかのように食事を進めるのは、第十七小隊員のフェリだ。
 そして、最後の一人。
 これ以上ないくらいに眼が細く、背中までの黒髪を首の後ろで束ねた少年。
 話としては知っているが、始めて合う事になるウォリアスだ。
 三人が朝食を摂っているにもかかわらず、何でニーナが料理などするつもりになったのか、非常に問題である。
 いや。まさかこんな展開になるなどと思いもよらなかったのだろうが、だがしかし疑問がまだ残る。
 この惨事を生み出したニーナは、何故リーリンではなくレウを呼んだのかという疑問だ。
 嫌な予感しかしていない。
 そのレウの疑問を察したのだろう、細目の少年が口火を切った。

「いや。僕が朝食作りましょうかって言ったら」
「隊長が自分だって料理くらい出来ると言い張りまして」
「私達の助けは要らないから、先に食べていてくれって」

 おおよそ話は分かった。
 ウォリアスに出来るのだったら、自分にも出来ると証明しようとして、この惨事を作り上げてしまった。
 ならば、レウがやるべき事は一つしかない。

「私にも朝ご飯作ってくれるかしら? ウォリアス君」
「良いですよ」

 細い眼を更に細めると、黒髪の武芸者はテキパキとベーコンエッグを作っている。
 その横では、トースターが軽い稼働音を上げつつパンを焼いている。
 そして、テーブルの上には当然のようにサラダが鎮座して食べられるのを待っている。
 その手際の良さは、ニーナとは雲泥の差である。
 もはや、どちらを選ぶかなどと言うのは考えるまでもないほどの、完璧な差である。
 珍しく、ふて腐れたような、ニーナの視線を無視できるくらいには、完璧な差である。
 焼き上がったパンに、ピーナッツクリームとブルーベリージャムが塗られ、目の前に置かれるまで僅かに十分弱。
 まさに完璧な腕だった。
 レイフォンのように驚異的というわけではないが、住人の武芸者に比べれば全くもって問題無い。
 対抗意識というか、反骨精神で始めてしまったのだろうが、全ては出来もしない料理を始めてしまったニーナに責任がある。
 ニーナに料理をさせてしまった人達にも、責任はあるかも知れないが、レウにはない。
 断じて無いのだ!
 それは置いておいても、一つだけ不思議なことがあった。
 問答無用でピーナッツバターが塗られていると言う事だ。
 よくよく見てみれば、フェリやリーリンの朝食にも、きっちりとたっぷりと塗られている。
 問答無用でというよりは、これこそが基本だと主張しているようにも見える。
 だが、話をここで止めてしまってはいけない。

「それでニーナ。ウォリアス君に作ってもらう?」
「む、むぅぅぅ。いや。私にだって意地がある!! 料理の一つや二つやってやる!!」

 更に力んでまな板へと向かうニーナが持つのは、ただの包丁のはずだというのに、そこに宿る殺気は半端なものでは無い。
 まさにこれから戦いに挑もうという、武芸者の気迫と覚悟が見え隠れしているような。

「サンドイッチの神髄も理解しない人が、料理が出来るなどと暴言を吐くとは、世も末ですねぇ」

 そんな状況を知っているはずだというのに、焼いたパンの間にピーナッツクリームと苺ジャムを挟んだ、巨大なサンドイッチを頬張りつつウォリアスが聞こえよがしに言う。
 いや。ニーナに聞かせているのだ。

「なに!! 神髄を知らぬだと! サンドイッチとは基本的にパンの間に何かを挟む料理のことだろう!!」

 当然、そんな挑発を見逃すほどニーナは穏やかな性格をしていない。
 一瞬で沸騰してウォリアスをにらみ据える。
 ニーナがウォリアスを嫌っているらしいと言う話は、リーリンから少し聞いたのだが、どうやらそれは本当の事のようだ。

「ふ」

 鼻で笑って、大きく口を開けて更に一口囓るウォリアス。
 勝てるはずのない戦いに挑んでいると言うことに、ニーナは気が付いているのだろうか?
 いや。気が付いているからこそ熱くなってしまっているのか。

「なんだ! 何がおかしい!!」

 そして、当然更なる挑発に乗ってしまうニーナ。
 だが、これは悪い展開ではない。
 これ以上キッチンが破壊されずに済む。

「サンドイッチの基本とはまさにその通り。しかしアントーク先輩は理解していない」
「何をだ!!」
「サンドイッチとは簡単に作って、手軽に食べることが出来る料理なんですよ? キッチンを破壊してまで作ることはない」
「うんうん」

 思わずレウが同意のうなずきを放ってしまった。
 手軽に食材を切って、パンの間に挟んだり、乗せたりするのがサンドイッチという物だ。
 断じて流し台を粉砕してまで作るようなものでは無い。

「ぬぬぬぬぬぬぬ!!」

 包丁を握りしめて唸るニーナ。
 題名を付けるとしたら、敗北者だろうか?

「例えば、これとかをそのままパンに挟んだとしても、それは完璧なサンドイッチなんですよ」

 そう言いつつ取り出したのは、なにやら青い箱に収まった食材だ。
 トーファーキーという名前が印刷されている。
 製造元を見れば、ローマイヤー食肉加工所と有る。
 ハムの一種のようだ。

「これは大豆の蛋白質を固めて、味を付けたという健康的な食品です」
「へえ。肉じゃないんだ」

 箱ごと受け取り、栄養成分などを確認してみると、動物性蛋白質は本当に使っていないようだ。
 これは、もしかしたらダイエット食になるかも知れないと思い、調理方法のところを読んでみて驚いた。
 既に味付けがしてあるので、本当にパンに挟めばすぐに食べられるのだ。
 これを使えば、確かにニーナでもサンドイッチが作れる。

「これは良いわね。売れそう」
「今回、オスカー先輩が完成させたんだそうで、ダイエットはしたいけれど美味しい物も食べたいって言う人向けに、売り出すんだそうですよ」
「贅沢な注文に応えてくれるなんて、嬉しい限りよね」

 売れるのは間違いない。
 ダイエットに興味のない女の子なんか、全体の一割居れば多い方だろう。
 ならば、多少高くても飛ぶように売れる。

「美味しいのよね、これ?」

 ただし、いくらダイエットに効果があるとは言え、美味しくなければ意味がない。
 あのオスカーが作って売り出したのだから、美味しくないなんて事は、それこそ考えられないだろうが、念のために確認しておくことにする。

「美味しいですよ。ルックンでも特集が組まれるそうですから、僕だけの感覚じゃないですね」
「それなら安心ね」

 何を美味しいと思うかは、最終的には個人的な感覚にゆだねられる。
 どんなに評判の良い店に行っても、レウの舌に合わないと言うことはあるのだ。

「試してみますか?」
「・・・・・・・・・・。お昼に頂いて良い?」
「もちろんですよ。じゃあ一ダースくらい置いて行きますね」
「・・・・・・・・・・・・・・・。それが狙いか」

 そう言いつつ、大きな鞄から大量の箱を取り出して、テーブルの上に乗せて行く。
 二種類の味付けがなされているらしく、赤と青の箱が積み上げられて行く様を眺めつつ、レウは確信していた。
 何故こんな時間にウォリアスがここに居たか?
 何故ニーナをことさら挑発するようなことを言っていたか?
 全てはトーファーキーなる食品を、この記念寮に置いて行くためだったのだと理解できた。
 もしかしたら、オスカーから試食してくれる人を探せと命じられているのかも知れないが、ルックンでの特集が組まれている以上その段階を過ぎているはずだ。
 ならば、大量に貰ってしまって処分に困っていると考えるのが妥当なところだろう。
 そんな事情を予測できるが、別段文句があるわけではないが、してやられたという気持ちは拭えない。
 ニーナとはそりが合わないだろうと言うことが、この一連の騒動を見ているだけで十分に理解できた。

「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ!!」
「アントーク先輩もいかがですか? オスカー先輩が精魂込めて作ったので、とても美味しいですよ?」

 更に挑発をするウォリアス。
 いや。既に虐めである。
 まだスライスされていないパンを用意し、後は適当な大きさに切ってトーファーキーを開封し、そして挟めば全てが終わる。
 わずか二十秒でサンドイッチが完成するのだが。

「要らん! 私は! 私の手で作り上げたサンドイッチを食べる!!」
「貯金はいくらありますか?」
「な、なに?」

 激昂したニーナが、もう一度包丁を握り直して、まな板へ向かいかけたその動きが止まった。
 よりによって、貯金額を尋ねたウォリアスの声でだ。

「残金が少ないようだったら、修理費は借金になりますねぇ」
「それは面白いですね。小隊長を勤めるほどの人物が、借金まみれの人生。くすくす。思わず笑ってしまうくらいに面白いですね」

 食べ終わってお茶を飲んでいたフェリが、無表情に笑いつつニーナを更に虐める。
 もしかしたら、本当に借金まみれの人生になることを阻止しようとしているのかも知れないが、何故か虐めているようにしか見えない。

「う、うぅぅぅ」

 そして、親からの仕送りが無く、貧乏学生を続けているニーナにろくな貯金など有るはずもない。
 握った包丁がフルフルと震えているところを見ると、内心では相当迷っていることは間違いない。
 ならば、同じ寮で同学年という立場にいるレウが、親切にもニーナに道を示してやることこそが必要だろう。

「ニーナ」
「な、なんだレウ?」
「毒味をして」
「ど、どくみ?」

 レウのその台詞で、呆気に取られているのは、ニーナだけではない。
 レウを除いた全員が、何言っているんだか解らないとこちらを見ているが、話はまだ終わっていないのだ。

「美味しいとは思うんだけれど、やっぱり不安じゃない? だからニーナに毒味をしてもらいたいのよ」

 うんうんと一人納得して頷く。
 そして、ウォリアスがなにやら納得したように、ゆっくりとサンドイッチを噛みしめ。

「それは毒味じゃなくて、味見」
「おお! その突っ込みを待っていたのよ」

 これで誰も突っ込んでくれなかったら、かなり寂しかったのだが、一安心である。
 そして、ニーナの反応を見る。

「味見。味見と言う事ならば、致し方ないが」

 何が致し方ないのか全く不明だが、取り敢えずこれ以上の破壊活動は阻止できたようだ。
 自分を納得させるように何度も頷いたニーナが、持っていた包丁をパンへと向ける。
 向けて、

「・・・・・・・・・・・・」

 そこで凍り付くニーナ。
 思い返してみれば、パンをスライスすることさえさせた事がなかった。
 これは決定的に問題であると、遅まきながらに気が付く。
 シュナイバルでは、良家のお嬢様として育てられたと聞いている。
 そしてツェルニでは、セリナとレウによって料理という料理から遠ざけられていた。
 トーファーキーが有れば、ニーナでもサンドイッチが手軽に作れると思っていたのだが、それはとんだ思い違いだったようだ。
 しかも原因の一端はレウにもあるのだ。
 最終的に、今のニーナは全くもって家事無能力者であると言う事だ。
 いや。掃除洗濯は出来るから、料理に対して無能だと言うだけだろうか?

「僕が切りますか?」
「私が切るから、ニーナは座っていて」

 危うくウォリアスが出しゃばりかけたが、それはリーリンが制することで事なきを得た。
 テーブルを破壊されるのは、出来るだけ避けたいのはレウだけではないのだ。
 そして、当然のことではあるのだが、ニーナの震える包丁など別な世界の出来事のように、スムーズにパンを切り分けるリーリン。
 そして、包装を解いてそのまま挟んで紅茶と共にニーナの前に差し出した。
 わずかに十八秒という早業だった。

「はい。どうぞ」
「あ、ああ。頂きます」

 あまりの早業に、全く反応できないニーナだったが、目の前に出された以上食べないわけにはいかない。
 未知なる食べ物に挑むためだろうが、若干表情が硬くなっている。
 だが、それも一口食べた直後に氷解した。

「うむ。流石オスカー先輩だ。味付けと良い歯ごたえと良い、申し分ない」

 珍しく絶賛するニーナを横目に、お昼のメニューが決まった事に安堵した。
 レウが目を光らせているから大丈夫だと思うのだが、まかり間違っても、ニーナにこれ以上の破壊をさせるわけには行かないのだ。

「豆は人類の食生活にとって、必要不可欠な食材ですからね。味わって食べて下さいよ」

 やたらに食べ物に詳しい上に、猛烈なこだわりがあると聞いたことがある。
 もちろんリーリンからだ。
 どうやらそれも本当だったようで、なにやら真剣な表情でトーファーキーサンドイッチを食べるニーナを観察している。
 いや。残さないかどうか監視しているのかも知れない。
 当然そんな視線を受けているニーナは、面白いはずはないようで。

「ふん! そんなに豆が好きだったら、お前もサンドイッチにして食べればいいだろう!」

 いつも以上に強気の反応で、ウォリアスにはとことん突っかかるニーナ。
 だがしかし、その気持ちは分かるのだ。
 ここまで豆にこだわっているにもかかわらず、本人は食べていない。
 それどころか、ニーナ以外の誰にも食べさせようとしていないのだ。
 だがここでおかしな事に気が付いた。
 リーリンもフェリも頷いてニーナの発言を肯定しているのだが、唯一ウォリアスだけが不思議そうに辺りを見回している。
 これはやばい。
 何がやばいかは不明だが、兎に角何かが猛烈に危険であると、レウの本能が叫んでいる。
 と言う事で、サンドイッチと紅茶を持って食堂から逃げる準備を終了させる。

「一つ誤解ですが」
「なんだ?」
「ピーナッツは豆科の植物ですよ」
「なに?」

 驚くべき真実が告げられた。
 てっきりナッツの一種だと思っていたのだが、ピーナッツは豆科の植物だったようだ。
 いや。ウォリアスが間違っているという確率も存在しているのだが、それは極めつけに低いような気もしている。

「ナッツの一種じゃないの?」
「ナッツというのは、おおよそ木の実を差して言うのですが、ピーナッツはマメ科ラッカセイ属の一年草なんですよ」
「そ、そうなのか?」
「大豆とかひよこ豆とかの仲間ですね」

 レウの中に眠っていた本能が、急激に活性化を遂げて逃げろと叫んでいる。
 その叫びに押し出されるように、食卓を離れる。
 サンドイッチと紅茶とトーファーキー、それにスライスしていないパンを乗せたトレーを持ってだ。
 横に並ぶのはフェリただ一人。
 リーリンはと見れば、新しいことを学べたと言わんばかりに喜んでいるし、ニーナは既に驚愕のために凍り付いている有様だ。
 ならば、二人を見捨てて逃げなければならない。
 むしろ生け贄として置いて行こう。
 そう決意したレウは、フェリを伴って食堂の扉を固く閉ざした。
 昼食は既に確保してあるから、今日一杯ウォリアスが暴走しても何ら問題無い。

「興が乗ってきましたね」

 扉の向こうから、悪魔の声が聞こえてきたような気がするが、きっと気のせいだ。
 耳を塞ぎたいが、荷物が多いのでそれは出来ない。

「速く遠くへ移動して、ゆっくりと休日を過ごしましょう」
「そうしましょう」

 二人を生け贄にした以上、もはや休日を満喫する以外にやることはない。
 二人で二階へと上がり、一階の出来事は遠い世界の現象であると自分に言い聞かせる。
 ゴロゴロしつつ、新しいサンドイッチを堪能し、読書でもして過ごそう。
 そう決意した。

「そもそも豆というのはですね、低脂肪高タンパクでありながら繊維質が豊富な食材でして、更に種類によっては痩せてしまった土地を復活させるという特殊能力まで持っているんですよ。まさに人類にとっての至高の食材である豆でしたけれど、更に品種改良がなされて、より栄養価が高くなり、栽培しやすくなりと、いたせりつくせりの驚異的な食材として今に生きているんですよ」」

 うんちくを語り出したウォリアスの声だけが聞こえる。
 そう。ウォリアスだけの声が聞こえる。
 リーリンはまだ、その恐ろしさに気が付いていないのだろうし、ニーナはまだ凍り付いたままなのだろう。
 それを予測しつつも、レウは怠惰な休日を過ごすために階段を上る。
 セリナに連絡しておくことも当然忘れない。
 二人の犠牲の上に、記念女子寮は平穏を維持し続けなければならないのだ。
 
 
 
 ピーナッツについて。
 マメ科ラッカセイ属の一年草。
 落花生、南京豆などの別名がある。
 茎の先が地面に刺さり、そこに実を付けるという珍しい特性を持つ。
 千葉県八街市に巨大な竜巻でも発生したら、日本のピーナッツ生産能力は壊滅的打撃を受ける。
 ただし、消費量の九割ほどが輸入なので消費には影響がないかも知れない。

 トーファーキーについて。
 アメリカの食品会社が開発した、七面鳥の代用品。
 クリスマスなどで七面鳥の丸焼きを食べる習慣があるが、菜食主義者などは当然食べられない。
 そこで豆腐を原料にして、七面鳥と同じような調理法で食べられるトーファーキーが生み出された。
 感謝祭やクリスマスの時期には、七面鳥のような巨大な固まりで販売されているが、その他の時期ではサンドイッチの具材としてスライスして売られている。
 今回登場したのはこちら側。
 ちなみに、トーファーキー(Tofurky)は商標登録されている。
 
 
 
 後書きに代えて。
えっと、今月にレギオスの最新刊が出る記念?
それとも、聖戦のレギオスが文庫化する記念?
地上波アナログ放送がほぼ終了した記念?
アニマックスで、BLOOD C放送開始記念?
とりあえず意味不明ですがお届けしました。

と言う事で、ナンの脈絡もなくピーナッツが豆である事を聞いたのでそれをネタにしてみました。
トーファーキーはついでのネタでした。
第五話は、十七日くらいから投稿できると思いますが、現在順調に遅れていますので、過度の期待をしないようにのんびりお待ちください。
ちなみに、第五話ではウォリアスはあまり出てきません。と言う事で閑話での活躍となりました。



[14064] 第五話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:07


 レイフォンの弟でありながら、その実色々な面倒を見てきたリチャードは少々の溜息と共に、遙かツェルニから来た手紙を開いた。
 リーリンとレイフォンからの手紙だ。
 レイフォンからの手紙は殆どリチャード宛で、デルクや他の人に来たという話は聞いていない。
 一度だけデルク宛に来たことはあったが、それは完全に例外的な事柄だった。
 そして、リチャードだけに手紙が来るという事実は、未だにレイフォンに頼られているのかも知れないと言う、少々困った予測を裏付けるための材料になってしまいそうだ。
 まあ、ツェルニには頭の使える人間がいるそうなので、大した困りごとは書かれていないのが救いだが。
 高等学校の校舎二階にある休憩所で、ぬるいと評判のコーヒーを啜りつつ何度も読み返した手紙をもう一度眺める。
 レイフォンからの手紙の内容としては、暫く前に老性体二期と戦い、天剣を持たない状況だったがあまり苦労せずに倒せたという、少々驚くべき事柄が書かれていた。
 実はリーリンからの手紙にも似たようなことがかいてあった。
 もっとも、女性特有の丸っこい文字で書かれていたのは、老性体戦の事よりはもっと恐ろしげな内容だったが、まあ、レイフォンだったら死なないだろうと自分を納得させても居た。
 だが、一月近く前に出された手紙がやっと届くというこの自律型移動都市世界の不便さは、何とか改善して欲しい物だと思ってしまう。
 都市間を電話線で結んではどうかという、あまりにも現実離れした案を、レイフォンが昔言っていたのだが、そんな方法も検討する価値はあるかも知れないと思ってしまうほどには不便だ。

「でだがサヴァリスよ」
「なんだいリチャード?」

 誰もいないはずの休憩所で、独り言のように知人の名を呼ぶ。
 この時間この休憩所は殆ど無人である。
 運動系のクラブに所属している連中は、もっと体育館や運動場に近い休憩所を使うし、文化系の連中はクラブ活動している部屋で休憩をするからだ。
 ここを使うのは図書館に用事のある一部の人間だけのはずなのだ。
 断じて、レイフォンの元同僚で天剣授受者が居て良い場所ではない。
 もっとも、サヴァリス辺りに常識は通用しないのだと認識しているから、それ程問題はないのだが。

「一日俺を付け回していたみたいだけれど、そんなにストーカーは面白いか?」

 何故人気のないこんな休憩所を使っているかと問われたのならば、一日サヴァリスに付け回されていたからだ。
 もしかしたら、命を狙ってくるかとも思っていたのだが、それならば道場でいくらでもやれるはずだから、何か用があるのだろうとこの場所を選んで話を振ったのだ。

「心外だね? 僕は君と殺し合いたいだけだよ?」
「俺は一般人だって」

 基本的にリチャードは礼儀には礼儀を持って返す人間だ。
 当然無礼な振る舞いには無礼を持って対応する。
 特にサヴァリス相手に礼儀正しくなどと言うのは、もはや考えることが苦痛なほどである。
 万が一にでも公式の場に出ることがあったら、精一杯猫を被るつもりではいるのだが、どのくらい猫を被っていられるか甚だ疑問である。

「まあ良いけどな。兄貴からの手紙読むか?」
「うん? 僕と殺し合いたいとか、死闘を演じたいとか、死合たいとか、もしかして僕を殺したいとか書いてあったかい?」
「ねぇよ」

 隙あらばリチャード相手にでも襲いかかってきそうな、この危険極まりない戦闘愛好家が天剣授受者かと思うと、グレンダンの将来について少々では済まない危機感を覚えてしまうのだが、まあ、汚染獣戦が多いからこれで良いのかも知れないとも思っている。
 非常に矛盾した思考を切り捨てつつ、レイフォンからの手紙をサヴァリスに渡す。

「・・・・。ほう。天剣無しで老性体二期と戦って、僅か一日で倒したと」

 普段からにやけているだけのサヴァリスの表情が、一気に破顔した。
 こう言うとおかしな表現に思えるのだが、実際にそう思えるのだ。
 それは多分、普段のニヤケ笑いは取り敢えず貼り付けてあるだけの物で、今のが心からの笑顔なのだと言う事だろう。
 手紙を渡したことを少々後悔しているリチャードだったが、事態は全くお構いなしに進む。

「おわ!」

 いきなり風景が溶けた。
 これは恐らく動体視力を無視した、高速移動による現象であろうと思う。
 痛みも違和感もないが、凄まじい力で何かに引っ張られているのだ。
 そして、今の状況からある人物をすぐに思いつくことが出来た。
 実は二年近く前のこと、レイフォンに同じようなことをされた記憶があるのだ。
 そして、このグレンダンにおいてさえ、この武器を使える人間はたったの一人。

「ああ! もう」

 溶けた風景の中で、サヴァリスだけがその輪郭を保ったまま、リチャードの視界の一部に存在し続けている。
 恐らくサヴァリス自身も高速で移動しているのだろうと思うのだが、リチャードにはどうすることも出来ない。
 そして、不意に投げ出された。

「っと!」

 とっさに受け身を取って衝撃を最小限にする。
 回転する視界の中で、ある人物を確認。
 ボロボロのコートを着込んだ、ボサボサ頭の中年男性だ。
 回転を止めてから、更に詳しく観察するがその必要はなかった。
 原因は全く不明だが、猛烈に不機嫌な様子で何処か遠くを眺めている険しい視線。
 これでもかというくらいに短くなった煙草。
 それはレイフォンから聞かされていた、ある人物の特色と完璧な一致を見ていた。

「貴方はどうしてこうも力業に走りたがるかな?」
「貴様の話が長いからだ。一体俺を何億秒待たせれば気が済む? そのガキの娘と貴様が結婚するまでか?」
「それをお望みならばどうぞ。貴方なら何処にいても女王の命令を実行できるでしょうから」
「俺が何億匹汚染獣を虐殺しようと、それは俺個人の趣味の問題だ。女王などとは関係ない」
「汚染獣と戦うことこそが女王の最重要命令でしょうに」

 天剣授受者同士がなにやらもめているようだが、取り敢えずリチャードには関係のない話だ。
 なので話に夢中になっているらしいサヴァリスから、レイフォンの手紙を回収する。
 これをそのままにしておくと、色々と厄介なことになりそうだと言う事に、遅ればせながら気が付いたからだ。

「ところでリチャード?」
「ああ?」
「その手紙リンテンスさんにも見せたいんだけれど?」
「・・・・。どうしてもか?」
「うん♪」

 何故か最後だけ猛烈に機嫌が良さそうだった。
 と言うかはっきり言って不気味なほどに機嫌が良さそうだ。
 と言うよりはむしろ、気持ち悪いほどだ。

「レイフォンが老性二期と戦って、一日でけりを付けたそうですよ」
「・・。ほう」

 微妙に感心しているのか、それとも取り敢えず相づちを打っただけなのか、判断に迷う反応をリンテンスがする。
 聞いた人柄からすると、微妙に感心している方だと思うのだが、断言することは危険極まりないだろう。
 と言う事で、リンテンスに向かって手紙を差し出す。

「成る程な」

 リチャードが指し出した手紙を、武芸者特有の身体能力を遺憾なく発揮して、信じがたい速度で全て読み終えてしまったようだ。
 とても人間業とは思えないのだが、これも天剣授受者の能力なのだろう。
 レイフォンで慣れているつもりだったが、それは甘い認識だったようだ。

「それで、俺に用なんだろう?」
「うん? そうそう忘れていたよ」

 どうでも良さそうに笑うサヴァリスと、やはりどうでも良さそうにそっぽを向くリンテンス。
 リチャードのことよりも、レイフォンの戦果の方が重要だと体現している。
 常識と良識が通用しないのは、レイフォンだけではなかったようだ。

「しばらくの間、君の護衛をすることになってね」
「天剣授受者がか?」

 驚きだ。
 天剣授受者とは、性格や人格は兎も角として、グレンダンを守る最強の盾であり矛のことだ。
 その天剣授受者が二人してリチャードを守ると言っている。
 そこから導き出される答えは、どう楽観的に見てもかなり深刻な物だ。

「気が付いていると思うけれど、少々厄介ごとでね」
「厄介ごとには慣れているさ」

 軽くうそぶいておく。
 最近は特にサヴァリスが年中道場にやってくるので、不穏な空気にも慣れてしまった。
 恐るべき事であるが、慣れてしまったのだ。
 実際問題、始めてサヴァリスと会った頃には、僅かでは済まない緊張を強いられていたのだ。
 サヴァリスは気が付いているようだが、全く気にしていなかったし、デルクはサヴァリスの方に気を取られていて気が付いていなかったようだが、実際にはかなり緊張していたのだ。
 その緊張との付き合い方に、やっとこさ慣れたと思ったら、更なる厄介ごとが降ってきた。
 不運である。

「普段の生活の邪魔はしないけれど、出来るだけ一人で居る時間を増やしてくれると助かるよ。ついでに人気のないところをフラフラしてくれると、僕としては最も好都合だね」
「一つ聞くんだが」
「なんだい?」
「サヴァリスが襲ってくるなんてオチじゃないだろうな?」
「それは無いよ。僕だって一応仕事と私事は区別しているからね」

 にこやかにそう言っているのだが、それを信じて良い物かどうか、判断に苦しむところだ。
 だが、もう一つ聞きたいことがある。

「何で俺なんだ?」
「そうだねぇ。レイフォン絡みで色々と」
「喋りすぎだ」

 今まで殆ど無視していたリンテンスの声で、これ以上の質問が不可能であることが分かった。
 どう言おうと、天剣授受者とはグレンダンを守っている武芸者の中でも、最強の連中なのだ。
 ならば、色々と不安はあるのだが、天剣授受者の言う事に従っておいた方が良いだろうとも思う。

「分かった。ケリが付いたら言ってくれよ? 俺だって色々とやることがあるんだから」
「それはもちろん。ところでリチャード?」
「殺し合わないぞ」
「違うよ」

 なにやら、今までにないサヴァリスの迫力に、少々腰が引けてしまう。
 慣れたと言っても、それは天剣授受者としてのサヴァリスではなく、あくまでも私人としてのサヴァリスなのだ。

「僕の殺剄は下手だったのかい?」
「・・・。俺は一般人だ。殺剄なんか効かねえよ」

 そっちだったのかと少し安堵する。
 剄脈無しでも殺し合おうとか言われたら、流石に生きていられる自信はないのだ。
 と言う事で、本人にも理解できてないのだが、何とか説明するために言葉を探す。

「サヴァリスの匂いがするんだよ」
「どんな匂いだい? もしかして鼻の奥がつんと来るような良い匂いかい?」

 明らかに何か期待している目の色だ。
 ここはその期待を見事に裏切らなければならない。
 そうでないと、厄介ごとの前にサヴァリスに殺されてしまうから。

「言葉にしにくいんだが」
「うんうん?」
「空気がサヴァリス色に染まるというか、空気自体にサヴァリスが溶け出しているというか、そんな感じなんだが、分かるか?」
「うん。全然分からないよ」
「だろうな」

 本人もこの感覚には、少々困惑しているのだ。
 それを他の人間に教えるなんて事は、ほぼ不可能なのだ。
 何故かリンテンスも興味深げに、横目でこちらを窺っている。
 もしかしたら、リチャードのこの感覚は非常に珍しい物なのかも知れない。
 武芸者が持つ特有の匂いというか空気を、感じることが出来ると気が付いたのは何時の頃だったか覚えていない。
 始めはデルクやレイフォンの接近に気が付く程度だったのだが、何時の間にか誰が側にいるかも分かるようになってしまったのだ。
 レイフォンが天剣授受者になった後も、それは全く変わらずに作動を続けている。
 そして、他の人間が武芸者を的確に認識できているという話は聞いたことがない。
 となれば、もしかしたら、グレンダン始まって以来の特殊能力なのかも知れない。
 最悪の場合、研究機関に持ち込まれて生体解剖とかもあり得る。
 厄介ごとで死んだことにしてしまえば、どんな事だって出来るのだ。
 むしろそちらの方が心配になりつつも、突如として行われた会見は終了した。
 
 
 
 試合開始の合図と共に、ニーナは走り出した。
 レイフォンが老性体という化け物と戦ってから一月以上の時間が流れている。
 その間に色々なことがあった。
 シャーニッドが銃衝術を使うことがはっきりしたり、都市警の依頼を受けて荒事に参加したり。
 そして、フォーメッド・ガレンという強行捜査課課長と知り合うこととなった。
 かなり癖のある人物ではあったが、組織が動くところを目の当たりにして、責任者という物がどうあるべきか、その一端を見たような気がしている。
 そして今ニーナは走っている。
 第五小隊との対抗戦が行われている今現在、ニーナの役目は陽動だ。
 レイフォンがシャンテとゴルネオを無力化し、ニーナが突っ込むことでオスカーを始めとする戦力を、出来る限り陣地から引きづり出す。
 手薄になったところをシャーニッドが接近してフラッグを奪取する。
 シャンテとゴルネオをレイフォンが撃破すれば、第五小隊に走る動揺は大きな物となるだろうし、接近戦もこなせるシャーニッドの突撃は、ある意味奇襲の効果が得られる。
 銃衝術を披露してから三試合目だから、そろそろこの戦い方に対策を立てられているかも知れないが、その場合でもレイフォンが後詰めでフラッグを狙いに行くことになっている。
 以前だったら、一発勝負というか出たとこ勝負になっただろうが、今はきっちりと後のことを考えて作戦を立てている。
 ウォリアスから出された課題は、明らかにニーナの血肉となって今を作りだしている。
 だが、予想外のことというのは何時如何なる時にでも起こる物だ。

「やあ、待っていたよアントーク君」
「せ、せんぱい、だけ?」

 出発地点から第五小隊陣地の距離、その三分の二を迎えた辺りで出くわしたのが、一月ほど前に説教を食らった六年生のオスカーだ。
 何時も通りの自然体で佇んでいるが、その手には当然のように錬金鋼が握られている。
 いや。握られていると言うよりは既に構えられている。

「っち!!」

 それを認識した次の瞬間、ニーナは大きく飛び退ってオスカーの第一撃目を回避しようとした。
 そして、予測した通りにオスカーの攻撃は放たれ、そしてニーナの身体をかすめて多いに冷や汗を流させた。

「そ、それは!」

 オスカーは本来銃使いだ。
 対抗試合で、あの斬獣刀を使うことはもってのほかと言う事らしく、通常は剣を使用しているが今日は違った。

「ほう。私の攻撃を回避したか。アルセイフ君との訓練は効果を発揮しているようだね」

 余裕の表情で、巨大な錬金鋼の先端部を持った左手がスライドする。
 重々しい金属音と共に、空薬莢が排出され新たな弾薬が薬室へと送り込まれる。
 黒鋼錬金鋼製らしい、その黒光りする全長二メルトルになろうかという、恐ろしげな外見をしたものは銃であるらしい。
 らしいというのは、その外見が異常だからに他ならない。
 銃身の下に平行して弾倉があるのは良いだろう。
 その銃身と一体になった弾倉が非常に頑丈そうで、殴ることが出来るというのもさほど問題無い。
 銃身自体も非常に肉厚であり、更に楕円形を半分に切ったような形状をしている。
 明らかに打撃武器だ。
 ここまでならばシャーニッドの拳銃と似たような物だから、それ程驚くことはない。
 問題なのは、その弾倉の先から伸びた五十センチほどもあろうかという、剣だ。
 真っ直ぐに伸びるそれは、どう考えても突き刺したり切ったりするための装備に見える。
 全体的な印象としては、銃と言うよりはむしろ槍に近い。
 シャーニッドの拳銃と同じく、接近戦にも対応できるという、恐るべき錬金鋼をオスカーが持っている。
 しかも、先ほどの攻撃は確実に避けたはずだというのに、見事にニーナにかすっているのだ。
 そして、注意して見ればはっきりするが、銃口がかなり大きい。
 そう。散弾銃だ。

「厄介な」

 双鉄鞭を構え直し、現状を分析する。
 ここにはオスカーしか居ない。
 シャンテとゴルネオはレイフォンが押さえていることを、フェリの念威端子越しに確認している。
 残る第五小隊員は念威繰者を入れて四人。
 明らかにシャーニッド一人が相手取るには多い人数だ。
 どうやら、ニーナの作戦は読まれていたようだ。

「ふむ。作戦を立てると言う事を覚えたようだが、まだまだだね」

 そう言いつつ第二射が放たれた。
 だが、相手が散弾銃だと分かっていれば、何とか回避することが出来る。
 距離が比較的近く、効果範囲が比較的狭いからだ。
 とは言え、ここでニーナが倒されてしまえば、第十七小隊の敗北が決定してしまう。
 それを避けるために、何か手立てを考えなければならない。
 逃げ回るというのもあるだろうし、急速に接近して懐に入り込むというのも有りだ。
 オスカーが持っているのが拳銃だったなら、間合い的には双鉄鞭と変わらないので危険であることに変わりはないが、今目の前にあるのは違う。
 その打撃部位から判断して、間違いなく槍に似た使い方を想定しているはずだ。
 ならば、間合いの内側に入り込めばニーナの方が有利。
 問題は、どうやって散弾をかいくぐって懐に飛び込むかだが。
 
 
 
 メイシェンの見ている前でレイフォンが戦っている。
 とは言え、これは試合だしレイフォンが怪我をすると言う事はほぼ考えられない。
 だが、それを理解していて尚メイシェンは非常に心配だ。
 世の中どんな事があるか分からないのだ。
 ミィフィとリーリン、それにウォリアスとイージェ、ついでにエドという何時ものメンバーで観戦しているのだが、思わず胸の前で手を組んで無事にレイフォンが帰ってくることを祈っているのだ。
 そして、今戦っている相手は第五小隊長のゴルネオだ。
 その巨漢から繰り出される攻撃力は、まさにツェルニ最強クラスであるらしい。
 メイシェンは武芸者ではないので、その辺詳しくは分からないが、ミィフィが仕入れてきた情報によるとそう言うことらしい。
 だが、現実としてメイシェンが見ているのはある意味何時もの光景だった。

『アルセイフ!!』
『ゴルネオ!!』

 接触した次の瞬間、ゴルネオの腕が六本に増えた。
 それを迎え撃つレイフォンの腕も六本に増える。
 何時も通りのレイフォンだ。

『たぁぁぁぁぁりゃぁぁぁぁぁぁ!!』
『ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!』
『おおっと!! 双方いきなり腕の数が増えたぁぁぁぁ!! これは凄まじい打ち合いだぁぁぁぁぁぁ!!』

 雄叫びと共に拳をぶつけ合っているらしい二人。
 そして、絶叫を放ったのは司会進行というか解説の女生徒だ。
 既に絶好調を通り越して、興奮のあまり卒倒しそうな勢いだ。
 そして、そんな解説の暇すら惜しいとばかりにレイフォンとゴルネオが六本の腕で、正面から殴り合っている。
 既にメイシェンには何が何だか分からないほど、凄まじい打ち合いをしているらしい。

『双方一歩も引かずに殴る! 殴る! 殴る! 殴る! 殴る! 殴るぅぅ!』

 実際に見えているのか全く疑問だが、取り敢えず二人の周りで土埃が舞っているところを見ると、確かに何か行われているのだろうと思う。
 全く見えないのでさっぱり分からないが。

『これぞゴルネオ・ルッケンス!! これぞレイフォン・アルセイフ!! いや違う! これこそ! これこそ槍殻都市グレンダンだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』

 その絶叫が辺りを支配した次の瞬間、いきなり今まで殴り合っていた二人の動きが完全停止。
 近くを飛んでいる映像中継装置へと、二人一緒に視線を向ける。
 そしてじっとそのまま中継装置を見詰める二人。

『・・・・・・・。え、えっと? もしかして、違ったりしますか?』

 声が冷や汗を流せるとしたら、今聞こえているのがそれだ。
 うんうんと頷くレイフォンとゴルネオの周りだけ、いきなり空気の温度が低くなってしまったようだ。
 だが、その低温状況も僅かに一瞬だった。

『炎剄将弾閃!』

 何処からともなく現れた赤毛猫が、その髪と同じ紅い槍を回転させつつそう叫び、炎の固まりを創り出す。
 そして、回転の勢いをそのままに、渦を巻いた炎の固まりがレイフォンとゴルネオに向かって飛翔する。
 よりにもよって、殆ど密着して殴り合ったまま固まっている二人に向かってだ。

『ば、馬鹿!』

 焦ったのはむしろゴルネオの方だったようで、驚愕に支配された一瞬の後、回避行動を取ろうとした。
 だが、あまりにも驚くべき事態が発生してしまった。

『な、なにぃぃぃ!』

 いきなりゴルネオの身体をレイフォンが捕まえたのだ。
 それも六本の腕でしっかりがっちりと。
 これはもしかしたら、一蓮托生というか死なばもろともというか、そんな敗北覚悟の行動かと思ったのだが。

『えい!』
『う、うわぁぁぁ!』
『え?』

 何を思ったのか、あろう事かシャンテの放った炎に向かってゴルネオを投擲。
 あまりの事態にゴルネオは当然としても、シャンテまで全く反応できなかった。
 そして、見事に炎の固まりにゴルネオが激突。
 当然、その灼熱の炎に焼かれて。

『どわぁぁぁぁ!!』

 服が焼け焦げ、悲惨な有様で地面に激突。
 メイシェンの見ている観客席まで、何かの焦げる匂いが漂ってきそうだ。
 同士討ちだとは言え、当然撃破判定で第五小隊は最大の戦力とも言えるゴルネオを失った。
 だが、本番はこれからだった。

『貴方はなんて酷い人なんですか!』
『な、なにぃぃ!』

 ピシッと擬音がしそうな勢いで、レイフォンの左手人差し指がシャンテに突きつけられる。
 当然のように、三本の左手である。
 レイフォンが何を持って、シャンテを酷い人だと言っているのか、それは全く分からないが、かなり怒っているらしいことは間違いない。
 会場全体を、緊張と沈黙が支配する。
 そして一言。

『仲間をこんな有様にして、貴方はそれでも人間ですか!!』
『お前が言うな!!!』

 思わずシャンテの絶叫に、観客席全員の気持ちがシンクロしてしまった。
 確かにゴルネオは第十七小隊所属というわけではない。
 所属ではないから全く問題無いと言えば、問題無いのだが。

「レイフォン、あんたどんどん性格がひねくれて行くわね」

 隣の席で見ていたリーリンの一言が、恐らく観客席全員の統一見解だったのだろうと思う。
 だが、まだ試合は終わっていない。
 
 
 
 六発目の散弾をかろうじて回避したニーナだったが、ダメージがかなり蓄積していることを理解していた。
 直撃を許してはいないが、回避するだけでも精神力と体力をもの凄く消耗するのだ。
 普通に銃を持った人間と戦う時ならば、銃口と引き金にかかった指の動きに注意していれば、攻撃を見切ることは出来る。
 だが、それが散弾だった場合かなり難易度が上がってしまう。
 攻撃範囲が面であるために、回避行動が通常よりも大きくなってしまうからだ。
 そして銃使いの特色として、剄の制御を全て活剄に回すことが出来る。
 当然、反応速度も上がっているわけで、中途半端な回避などあっさりと追いつかれてしまうのだ。
 引き金が引かれた瞬間に、旋剄を使って移動すればそれ程のこともないのだろうが、その場合明らかに距離が開いてしまう。
 距離が大きくなればその構造上、散弾の効果範囲が広がってしまう。
 それはつまり、次の攻撃を回避できるかどうか分からないと言う事につながる。
 高速移動が必要なのは間違いないが、それにはオスカーから離れすぎないという条件が付いてしまう。
 以上の状況を打開して、ニーナが勝利するためには、弾倉に入っている散弾を使い切った瞬間を待つしかない。
 そこまで持ちこたえることが出来るかどうか、それは全く不明だがやるしかないのだ。
 残弾が無くなってしまえば、あれは槍として考えることが出来る。
 槍のように大なきな散弾銃の間合いの内側に入り込めれば、何とか有利に立てるはずではあるのだが、それでもオスカーを相手にする以上油断は出来ない。
 油断は出来ないが、勝機がないわけではないのだ。
 そして、それは唐突に起こった。

「む?」

 いきなり軽い金属同士がぶつかり合う音だけがした。
 普通は銃声によって聞こえないはずの音だ。
 それはつまり、弾倉内の弾薬を全て使い果たし、装填しなければ飛び道具としては使えないと言う事。
 今しかない。
 内力系活剄の変化・旋剄。
 収束した剄を脚に流し、一気にオスカーに向かって加速。
 その加速力と共に右の鉄鞭を叩きつける。
 散弾銃を持ち上げて、大きく振ることで防御するオスカー。
 だがそれは計算済みだ。
 オスカーほどの実力者を、一撃で倒せるなどと言う事の方が考えられない。
 右手を前に出すことで左手を引いていた。
 その左手を、右手を戻すと共に前へと突き出す。
 狙うのはオスカーの顔面。
 胸や腹を狙いたかったのだが、そこはきっちりと散弾銃で防御されていた。
 防御されて膠着状態を作られる危険性があったために、消去法で顔面を狙ったのだが、恐るべき物がニーナの視界に飛び込んできた。
 銃床だ。
 左手で持っていた銃身を引くことで、ニーナの動きよりも一瞬速く突き出すことが出来たのだろう。
 そして、その銃床にはとても凶暴な突起が付いていた。
 そして理解した。
 この状況こそオスカーが狙っていたのだと。
 残弾がある状況で接近戦を挑んでこなかったのも、途中で装填しなかったのも、この状況を狙っていたからに違いない。
 考えてみれば、残弾の確認をするのは銃使いとしての鉄則だ。
 それを怠りわざわざ驚いて見せたのも、この瞬間を狙っていたからに他ならない。
 そして、ニーナの腹筋に向かって突き進む銃床を止める術は、無い。
 歯を食いしばり腹筋に力を入れて、倒れることだけは防ごうとしたまさにその瞬間、いきなり試合終了のサイレンが鳴り響いた。

「え?」
「っむ?」

 左手を突き出しかけて止まるニーナと、あと僅かで目的を達成するところだった銃床。
 急激な展開に二つの動きが全くもって停止する。
 何が起こったかは予測できているのだが、心も体もそれを納得していないのだ。
 それ程までに急速な展開だった。
 そう。第五小隊敗北のサイレンが高らかに鳴り響いたのだ。
 目の前には不完全燃焼気味のオスカーが居るし、ニーナだって全くもって不本意な勝ち方だ。

「隊長の作戦は失敗したのか」

 小さく呟いたオスカーが錬金鋼を基礎状態にして踵を返す。
 その背中はかなり不本意そうであった。
 だが、兎に角試合は終わってしまったのだ。
 ならば、これ以上戦う事もできず、ニーナも踵を返した。



[14064] 第五話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:07


 第十七小隊、勝利を祝う会という建前の宴会が開かれている店の一角で、レイフォンは少々困っていた。
 いや。実際にはかなり困っているのだ。
 祝勝・第十七小隊と書かれた大壇膜が、店の迷惑顧みずに張られた店内は、既に酒池肉林の宴の真っ最中だったりする。
 実際に酒池肉林かどうかは分からないけれど、取り敢えずレイフォンの認識としてはそうなのだ。
 ちなみにでは有るのだが、祝勝・第十七小隊と書かれた大壇膜の裏側には、祝勝・第五小隊と書かれていたりする。
 どっちが勝っても裏返せば良いだけだという事実を取ってみても、この宴会が開かれなかったという確率は全く存在していない。
 そこまでは良いだろうが、この宴会の凄まじさは、少々レイフォンにとって苦手とするところだ。
 こう言う時にブレーキをかけてくれるはずのリーリンは、何故か用事があるとかでこの場を欠席している。
 ナルキはニーナに引っかかっているし、自力で何とかしなければならないようだ。
 私の歌を聴けと絶叫してからこちら、延々二十分以上熱唱しているミィフィの声をBGMに、事態の打開策を検討するレイフォンは声をかける。

「イージェ?」
「なんだ?」

 レイフォンの疑問の声に応えつつ、せっせと紅茶の葉を加工した煙茶を入れている箱に、煙草を詰めるという作業を続ける。
 既に半分ほど煙草に入れ替わってしまっている。

「僕まだ喫煙許可年齢じゃないですよ?」
「それがどうした?」
「ど、どうしたって」

 法律である。
 取り敢えず守っておいて問題無いはずである。
 だが、イージェは完璧にそんなことお構いなしに、せっせと煙草と入れ替え続けている。

「良いかレイフォン?」
「はい?」
「煙草とは大人の嗜好品だ。いや。大人のみが許される嗜好品だ」

 なにやら力説を始めるイージェ。
 周りの人間がどんどん遠ざかって行くのを感じているが、それは決して不利益ではない。
 なぜならば、ニーナの同級生達から散々色々な質問をされていたからである。
 自分の努力ではないにせよ、あの状況から逃げ出せるのだったら何の問題も無い。
 問題無いはずなのだが、なにやら納得が行かない。

「かつて俺は都市全てが禁煙という恐ろしいところに行ったことがある」
「それはまた珍しいですね」

 全面禁煙の都市がでは無い。
 そんなところにイージェが行こうと思ったことが珍しいのだ。
 しかも、禁煙を破って吸っていたというオチではないはずだ。
 規制を守って吸うことこそイージェが尊重しているのだから。
 レイフォンに煙草を勧めているが、きっとイージェの中では矛盾していない行為なのだろう。

「お陰で俺は都市外で喫煙をする羽目になった」
「・・・・・・。死にますよ?」

 普通に考えて、都市外でフィルター無しで呼吸すれば五分で肺が腐って死ぬ。
 煙草一本三分だとしても、入院は間違いない。
 喫煙する度に入院していたと言う事も、イージェならばあり得る。
 だが、出てきたのはそんな常識を覆す言葉だった。

「安心しろ! 汚染物質など煙草の火で浄化できる!!」
「ほ、本当ですか!!」

 驚きである。
 もし煙草の火で汚染物質が浄化できるのならば、武芸者にとって喫煙の習慣こそ絶望的な状況を打開する、画期的な手段となるはずだ。
 思い返せばリンテンスは、常に煙草を銜えつつ戦っていた。
 もしかしたら、こっそりと自分だけ煙草で楽をしていたのではないかという疑惑まで出てきてしまう。
 だが、自信満々のイージェの、次の発言で全ては決定してしまった。

「嘘だ!!」
「どわ!」

 思わずテーブルに突っ込む。
 周り中で似たような反応が続出しているところを見ると、結構真剣に聞いていたようだ。
 エッヘン! と、偉そうに胸を張るイージェを軽く睨み付けてみる。

「実際問題として、煙草とは自分を律することが出来る人間にのみ許された、崇高でいて神聖な行為なんだ」
「だからって、全部入れ替えないで下さいと言っているんです!」

 レイフォンが体勢を立て直す前に、イージェは全ての煙茶を煙草へと入れ替えてしまっていた。
 これも戦術の一環なのだろうかと思ってしまうほど、見事な手並みだった。

「それにだな」
「はい?」
「俺はお前を大人として、いや、男として認めているんだ。と言う事で一緒に吸おうじゃないか」
「それが狙いですね」

 どうもレイフォンの周りには、癖の強い人間ばかり集まってくるようだ。
 その癖の強い人間の中には、当然メイシェンも混ざっている。
 普段はそうでもないのだが、絶叫マシーンを見ると途端に人格が入れ替わってしまうのだ。
 あれは恐ろしい。

「ゴルゥゥゥ」
「お預け」

 そんなレイフォンの聴覚は、今日の対戦相手である第五小隊の、隊長と副隊長の会話を捉えていた。
 どちらかと言うと、飼い主とペットの会話に近いような気がするが。
 当然であるのだが、ゴルネオはあちこち焦げたままこの場に来ている。
 元々あまり激しい火傷はしていなかったのだが、それでも髪の毛が焦げてしまった跡は、伸びるまでどうしようもない。

「お腹すいたぁぁ」

 だだをこねるシャンテの前では、他の第五小隊員達が、猛烈な勢いで料理を消滅させている。
 空腹だというのもあるのかも知れないが、もしかしたらシャンテが暴走する前に、全てを食べ終えようとしているのかも知れない。
 そして、その食事の手を一端止めた人物がシャンテを見る。

「副長」
「お、おう?」

 その隊員の中には、当然オスカーも居るのだ。
 そして、珍しく怖い表情でシャンテを睨んでいる。

「アルセイフ君と隊長の戦いは時間稼ぎだ、と隊長が言ったのは聞いているね?」
「おう」
「だと言うのに、肉弾戦をしているところに、あんな破壊力のある技をぶち込んでどうするつもりだったのだね?」
「う、うわぁぁん」

 泣きが入るシャンテというのは、非常に珍しいかも知れない。
 だが、シャンテの暴走がなければ第十七小隊は敗北していたのだから、幸運だったと言って良いのだろうと思う。
 そして、もう一人の隊長はナルキが遠くに行ってしまったためだろうが、何か考え込んでしまっているようだ。
 そう。シャンテの暴走がなければ、間違いなく敗北していたのだと言う事を知っているからこそ、何か考え込んでいるのだろう。
 話としてしか聞いていないが、第十四小隊との試合後、外縁部で無茶な特訓をして身体を壊しかけたと聞いた。
 同じ事をするとは思えないのだが、この次にどう言う行動を取るか全く予測できないという一点において、レイフォンは胃の痛みを覚えても不思議ではない精神状態になる。
 だが、シリアスな考えはそこまでだった。
 何を思ったのか、近くを通りかかったメイシェンを見つけたシャンテが立ち上がり。

「ちゅ」
「ひゃ?」

 いきなりメイシェンの頬を舐めた。
 いや。これ以上ないくらいに何の脈絡もなく、唐突な展開で凍り付くメイシェンと宴会に集まっていた殆ど全員。
 ミィフィの歌声もかき消え、軽快な音楽だけが無駄に流れているという凄まじさだ。
 唯一何か感じることがあったのか、驚きの表情をしているシャンテだけが、決定的に凍り付いていなかった。

「ゴルゴルゴルゴルゴルゴル」
「な、なんだ? どうしたというのだ?」

 あまりにもあまりな展開に、どういう反応をして良いのか分からないメイシェンが凍り付いている間に、ゴルネオの元へと小走りに近付くシャンテ。
 そしてそのシャンテは何か重大な発見をしたように、かなり激しく興奮しているようだ。
 鼻息が荒く頬が紅く、そして何よりもその瞳に驚きと感動の色を宿している。
 そしてその興奮をそのままに、重大な一言を放ってしまった。

「メイシェンがとっても甘かったぞ!!」
「な、なにぃぃぃ!!」

 店の中を同じ言葉が支配した。
 そして何故か、シャンテとメイシェンを除く、全ての人の視線がレイフォンを捉えている。
 そしてほぼ全ての視線が、本当にメイシェンは甘いのかとレイフォンに問いただしているのだ。

「え、えっと。何故僕に聞くんでしょうか? 本人に確認すべきではないかと愚考する次第ですが」

 少々取り乱し気味に、難しい言葉を使ってみる。
 かなり真剣に取り乱しているのだ。
 だが、他の人達は全く違う反応をしているのだ。

「自分が甘いかしょっぱいかなんて、分かるわけ無ぇだろうに」

 イージェがそう言うと、みんなして頷いて同意であることを示している。
 そして更に質問の視線が厳しくなってきた。
 答えろと言うのだ。
 この場で。

「え、えっと。何で僕に聞くんでしょうか?」
「お前が一番メイシェンを味わっていそうだからだ」

 とてつもない一言をイージェが口にした。
 そして、その意見も正しいと店中に居る全員が肯定している。
 ように思える。
 そしてそれはあながち間違った予測ではない。
 ヨルテムを出る時のあの一件を始め、メイシェンが甘いらしいと言う事は十分に知っているのだ。
 だが、このまま突き進むわけには行かない。
 何とか穏便にことを進めなければならない。
 どう答えたら穏便にことが進むだろうかと考える。
 結論として、全く思いつかなかった。
 一種異様というか、何かの切っ掛けで爆発してしまいそうな空気が店中を支配する。
 だが、世界はレイフォンが考える時間などくれなかったようだ。

「シャンテ。何をしようとしている?」
「うん! アルセイフに食べられる前に、メイシェンを食べるんだ!!」

 その会話で、やっとシャンテが何時の間にかテーブルに近付き、そしてあろう事かホークを二本逆手に持っていることに気が付いた。
 ここで疑問である。
 店にいる人の大半が考えている、味わうとか言う行為と、シャンテがこれからメイシェンに対してやろうとしている行為は、同じ物であろうか?
 恐らく違う。
 いや。絶対に違う。
 どう考えても、実際にメイシェンはシャンテのお腹の中に消えてしまいそうだ。
 更に救いがたいのは、食べようとしている本人には全くこれっぽっちも害意なんて物はない。
 おそらくだが、悪気もなければ殺意さえない。
 有るのは単に食欲だけ。

「シャンテ」
「おう?」
「こっちの料理を食って良いから、トリンデンを食うのは止めろ」
「? おう。そっちを食べて良いんだったらメイシェンは後でも良いけど」

 どうあってもメイシェンを食べると主張するシャンテ。
 よほどレイフォンに取られるのが気にくわないらしい。
 教育係に批難の視線を向ける。
 ばつが悪そうに、あるいは泣き出しそうな表情で明後日の方向を向くゴルネオ。
 まさかここまでとは思っていなかったようだ。
 最近こんな展開ばかりだと思うのだが、これもある意味レイフォンに定められた運命かも知れない。

「それでレイフォンよ」
「な、なんでしょうか?」

 そんな現実逃避をしていられたのは、しかしほんの一瞬。
 イージェのこれ以上ないくらいに真剣な瞳が、レイフォンを捕らえている。

「メイシェンは甘かったのか? かなり甘かったのか? もの凄く甘かったのか? 濃厚な甘さだったのか? それとも爽やかな甘さだったのか?」

 全て甘いという前提に立った言葉の連続攻撃に、下がる場所が無いにもかかわらずじりじりと後退してしまうレイフォン。
 気が付けば、料理に戦いを挑んでいるシャンテ以外の、全員の視線がレイフォンを捉えていた。
 そして。

「ささ。赤毛猫が他のご飯に夢中になっている間に、是非ともお召し上がり下さいませ。甘くて柔らかくて、とっても美味しいで御座いますよ」

 そう言いつつ、茶髪猫がメイシェンをレイフォンの横に座らせる。
 更に信じられないことに、レイフォンの周りは全て女性陣で包囲されていた。
 全く気が付かなかった。
 つい一瞬前まで、ここまでの重囲はしかれていなかったはずだというのに。
 見ればイージェも店の隅に寄りかかり、カメラを構えつつこちらを観察するに留めている。
 いったいいつ移動したのか、こちらも全く分からなかった。
 そして視線を横に向ければ、メイシェンの頭上になにやら陽炎が立ち上っているのに気が付いた。
 蒸気を吹き上げるまで、それ程時間が無い。

「取り敢えず」
「ひゃ?」

 何故か用意されていた、氷水の入ったビニール袋をメイシェンの頭に乗せる。
 何よりも頭を冷やさなければならないのだ。

「いきなり冷やしたな」
「これはきっと、冷やして固めてから揉んで柔らかくするためだ」
「成る程。流石アルセイフ君だ。ゆっくりと楽しむつもりだね」
「いやいや。きっと冷え切ったメイシェンちゃんに向かって、お互いの身体で暖め合おうと言うつもりだ。間違いない」

 等々と、遠くからそんな男どもの声が聞こえてくる。
 そして、目の前にいる女生徒達は現実問題として、そう言う展開になって欲しいと願っているように、レイフォンからは見えてしまう。
 男共がたむろしているのとは違う壁により掛かり、ナルキは大きく溜息をつきつつ片手で顔を押さえているし、ニーナはあまりの展開に全く付いて行けない様子で、なにやら呆然とレイフォンを見ているだけだ。
 援軍は期待できない。
 絶望的な戦いには慣れているはずだというのに、それでもこれほどの絶望を味わったことは始めてかも知れない。
 そう思いつつ、事態の打開策がないかと無駄な思考を進めたりしているのだ。
 
 
 
 第十七小隊の祝勝会が開かれている、まさにその瞬間、リーリンは憂鬱な気分で目の前の少年をにらみ据えていた。
 いや。憂鬱なのはリーリンの個人的な都合であって、目の前でなにやら資料を読みあさっているウォリアスには、全くもって関係のない話なのではあるのだが、それでも延々一時間以上ほったらかしにされては多少苛立とうという物だ。
 別段ウォリアスがリーリンを呼び出したというわけではないし、どちらかと言うと押しかけたので文句を言える立場にはないのだが。

「で? 何やってるの?」

 向こう側からの事態解決が望めない以上、自分で動いて何とか改善するしかないのだ。
 と言う事で声をかけてみた物の、この行為に意味があるのかどうかかなり疑問だ。
 もしかしたら、声が聞こえないほど熱中しているかも知れないし、最悪の場合リーリンがここに居ることにさえ気が付いていないかも知れないからだ。
 だが、その最悪の予測は見事に裏切られて、ウォリアスの視線がリーリンを捉える。

「うん? ツェルニについて調べている」
「それって、どういう意味かな?」

 ツェルニについて調べていると言われても、具体的に何をやっているのかさっぱり分からないのだ。
 電子精霊について調べているのではないことは、おおよそ理解しているつもりだが。

「ツェルニは組織戦が苦手だ」
「? えっと」

 組織戦と言われて、ウォリアスが見ている画面を覗き込んでみる。
 なにやら文字の羅列が、猛烈な速度で流れているわけではない。
 むしろ全くもって動いていない。
 だから、その文字列を上から順々に読んで行く。

「十年ほど前に、汚染獣の接近を感知したことがあったんだけれど」
「それは知っているわ。レイフォンがそんな事言っていたから」

 老性体戦の少し後に、レイフォンがこれで安心だとか言っていた記憶がある。
 聞いてみると、学園都市が汚染獣と遭遇する確率は極めて低く、ここ十年ほど交戦記録がないから、卒業するまで戦わずに済むというようなことを言っていた。
 ウォリアスが見ているのも、そのときの資料のようであると見当が付く。
 断定できないのは、意味不明の専門用語が頻繁に出現していて、細部を把握する事が出来ないからだ。

「その時の汚染獣は、雄性体二期か三期だったらしいんだけれど」
「うん」
「当時最強と言われた武芸者が一人で殲滅に出かけていった」
「何処のグレンダンよ?」

 汚染獣に単独で挑むような、そんな恐ろしいことをするのは、グレンダンだけだと思っていた。
 だが、残念なことにツェルニでも似たようなことが起こっていたようだ。
 もしかしたらリーリンが知らないだけで、汚染獣戦とは単独戦闘が基本なのかも知れない。
 ならば、天剣授受者が一人で出撃するのも納得が行くという物だ。

「・・・・・・・」

 いや。納得が行かない。
 養父であるデルクは、戦闘集団の隊長を務めていたと聞いたことがある。
 そして、レイフォンも最初の頃は集団の中の一人として戦っていたと聞いたことがある。
 ならば、やはり汚染獣と戦うと言う事は、おおよそ集団戦になるはずだ。
 ツェルニだけがやはり違うと言うことかも知れない。

「少数精鋭は間違った判断じゃない。相手が単独で強力な場合、下手に数を出しても被害が増えるだけだからね」
「・・・・。つまり、全体的には質が低かった?」

 数を出して被害が増えると言う事は、つまり傑出した能力を持つ少数と、言い方は悪いが大多数の落ちこぼれが混在していたと言う事になる。
 それは別段珍しいことではない。
 グレンダンでさえ、一般武芸者よりも遙かに能力の低い武芸者はいた。
 そう言う、能力の低い武芸者にとって、グレンダンは非常に居心地の悪い都市だったことは間違いない。
 去年までツェルニにグレンダンからの留学生がいたが、ツェルニ基準でも成績が悪く今年になる前に辞めてしまったらしい。

「そう言う評価も出来るね。でも、僕は集団戦とは言っていないよ」
「? えっと。組織戦」
「そ」

 組織戦と集団戦と何処が違うのだろうかと考える。
 だが、答えが出ようはずが無いのだ。
 リーリンは一般人であり、経済については少しだけ囓ったことがあるが、武芸者や戦いについては完璧に素人なのだ。

「そうだね。老性体戦ではレイフォンが主に戦ったでしょう?」
「まあ、そう言うことになったわね」

 老性体となれば、グレンダンでも天剣授受者が戦っていた。
 いや。老性体と戦える武芸者は天剣授受者しかいなかったのだ。
 レイフォンが戦うのが当然だと言うつもりはないが、それでも他の人が戦場に出るよりは正しい判断だと思う。
 納得は出来ないのだが。

「で、生徒会長や武芸長が色々と悪事を働いたでしょう?」
「メイを出汁にしたりとか?」

 ニーナを失敗させるためにメイシェンを出汁にしたとウォリアスから聞かされた時には、思わず本格的にカリアンを殺しに行こうかと思ってしまった。
 フェリとナルキの気持ちが十分に分かった瞬間だったが、今はその殺意を何とか押さえる。
 このまま進むと拙いことになると判断したのか、思考を破棄するように手をスライドさせるウォリアス。

「そうだね」

 小首をかしげつつ、左手を握り人差し指だけをそこから伸ばす。
 そして左手をクルクルと回す。
 最近知ったのだが、これはウォリアスがなにやら高速で頭を回転させる時に現れる癖だ。

「たとえば」

 何か思いついたのか、口を開きかけたところで、再び閉じられる。
 例えが上手くなかったようだ。

「今回の老性体戦を例に取るとだね」
「先に思いついたのは良いの?」
「それは危険だから却下」

 折角考えて思いついた物は、なにやらリーリンを怒らせる内容だったようだ。
 まあ、これ以上殺意の対象が増えても困るので、聞かなかったことにする。

「都市外作業指揮車を使ったり、罠を用意したりと、色々とレイフォンの助けになるような行動をみんなで取ったでしょう?」
「そうね。それがなかったら危なかったかも知れないって、レイフォンが言っていたわね」

 天剣授受者は、グレンダン最強の武芸者ではあるのだが、それは無敵ではないし不死身でもない。
 極めて危険な戦いだったことを、後から知った。

「生徒会長があれやれこれやれって指示を出して、それをそれぞれの責任者が細かい指示に変えて、最終的に下っ端が実際の作業をする」
「下っ端は何時も肉体労働よね」

 特にレイフォンは常に肉体労働だ。
 ここまで考えて、何か何時ものリーリンと違うことに気が付いた。
 自分の事ながら、少々認識が甘すぎる気がする。
 だが、ウォリアスの言う組織的に動くという意味はおおよそ理解できた。
 と思う。
 要するに、トップダウン方式で仕事をこなして行き結果を出すと言う事だ。

「それが組織的に何かをするって事」
「それって、当然じゃない?」

 老性体に襲われたなんて事は、通常の都市にとっては危険すぎる事態だ。
 それに対応するために全力を尽くすのは当然だと思うのだが。

「じゃあ、グレンダンを考えてみよう」
「対象が悪すぎない?」

 グレンダンは、老性体と戦ってもたいてい都市に被害らしい被害は出ない。
 殆ど戦死者さえ出ないという異常な都市である。

「老性体とグレンダンが戦う時、天剣授受者の支援はどうなっているか知っている?」
「それは、デルボネ様が念威を使って?」

 そこでふと、ツェルニの取った行動とグレンダンの行動の違いに気が付いた。
 天剣授受者が複数いるという、信じられない戦力の充実ぶりを無視してしまえば、その対応には凄まじい違いがある。

「そ。グレンダンではデルボネ・キュアンティス・ミューラという天剣授受者が、個人的な能力で天剣授受者を支援しているだけ。都市外戦装備の開発や錬金鋼の調節と言った、下準備は違うと思うけれどね」

 ウォリアスがやったように、罠の準備をしたり送り迎えをしたりと言った、当然の支援が全く存在していない。
 いや。全く無いと断言することは出来ないが、レイフォンからそんな話を聞いたことがない。
 グレンダンの異常さがはっきりとしてきたが、実はまだ話の途中だった。

「ツェルニでも同じ事が出来る」
「無理よ」

 ツェルニは学園都市である。
 レイフォンはいるが、デルボネに匹敵する念威繰者などいない。
 いや。

「・・・・。フェリ先輩?」
「そ」

 何故かいた。
 それもすぐ身近に。
 フェリの念威繰者としての能力は驚くべき物で、それこそデルボネに匹敵してしまうのだという話を、やはりレイフォンから聞いた。

「フェリ先輩の念威で支援を受けつつ、レイフォンが単独で戦うことが出来た」

 それはつまり、ツェルニでも個人的な支援だけで戦えると言う事になる。
 これが問題なのだと言う事に気が付いた。

「で、十年前の汚染獣戦なんだけれど」
「やっぱり念威繰者が一人だけ協力したの?」
「うんにゃ。念威繰者じゃなくて機械科の一生徒が、ナビゲーション装置を作って、単独出撃した武芸者の帰還の手伝いをしただけ」

 驚くべき事態が過去のツェルニで起こっていたことがはっきりした。
 個人的な技量に頼るという行為が、ツェルニの十八番なのかも知れないと思えてしまう。

「英雄型の戦い方だね。傑出した人物がいればそれで問題無いけれど、いなければ全く戦力として役に立たない」

 その欠点が現れたのが、前回までの武芸大会なのだという事が分かった。
 もしかしたら、今年の武芸大会でも同じ事が起こるかも知れない。
 レイフォンと言う傑出した戦力を最大限生かした、英雄を必要としている戦い方をすることによって。

「僕が前に言ったこと覚えている?」
「レイフォンが勝利に全く関係ないことこそが、報いることだ」

 入学式の後に、ウォリアスが言った言葉だ。
 まさか、これほどの意味があったとは思いもよらなかった。
 だが、小さく欠伸をしたウォリアスは気分を入れ替えるのか、リーリンに視線を向けた。

「まあ、難しい話はここまでにしてだね」
「なによ?」

 端末の電源を落としつつ、ウォリアスの視線がリーリンを捉える。
 いや。捉えていたのは暫く前からなのだが、はっきりと標的として認識されたようだ。
 短い沈黙の後、とうとうその言葉は発せられた。

「祝勝会には行かないの?」
「ああ。それね」

 何故今まで難しい話をしていたのかと疑問だったのだが、どうやらこの質問をするための前振りだったようだ。
 リーリンは自分が思っているよりも、よほど怖いことになっていたようだ。

「だってさ」
「うん?」
「宴会となったら、酔いたいじゃない」
「・・・・・・。メイシェンと言う肴でレイフォンと言う酒を呑んで騒ぐ訳ね」

 確実にそうなるとは限らないが、だがしかし、ミィフィがいる以上危険性は極めつけに高い。
 今頃どんな悲惨なことになっているか、予測するだけで殺意が沸き上がってきてしまうほどだ。
 レイフォンに向かって。

「あまりにも良くできたらさ」
「頭撫でてあげるのは良いけれどね」
「首がもげたら嫌じゃない」
「いくら飾りだっていっても、必要だからね」

 おおむねウォリアスとの会話は成功しているようだ。
 これは非常に嬉しいことだと言って良いのかもしれない。

「それじゃあ、取り敢えず」
「なによ? ひやかしには行かないわよ?」

 ゆっくりと椅子から立ち上がる、ウォリアスの細い眼がなにやら思案の色を浮かべる。
 そして一言。

「夕飯おごるよ。リクエストはある?」

 何の脈絡もないが、このまま寮に帰るのは少々厳しい。
 セリナは生徒会の仕事とか言って、帰りが遅いことは確定している。
 ニーナとレウは祝勝会で、当分帰ってこない。
 そうなるとあの女子寮にはリーリン一人と言う事になる。
 あの巨大な寮に一人でいるのは、どう控えめに表現しても心地よいという状況ではない。
 なので。

「低カロリーで美味しい物」
「・・・・」

 扉に向かいかけたウォリアスの顔が、一瞬リーリンにむきかけた。
 正確に言うならば、リーリンのお腹付近に視線を向けようとして、強引に扉の取っ手を凝視する。
 レイフォンだったら、間違いなく視線はリーリンを捉えていたはずだ。
 デリカシーのある男性で良かったと思う。
 ウォリアスのために。

「じゃあ、最近見つけた定食屋にしよう」
「安いところを選んだのね」
「貧乏じゃないけれど、お金は大切だからね」

 そんなどうでも言い会話をしつつ、資料室を出たウォリアスについて歩きつつ、男友達という物とは縁がなかったのだと、ふと気が付いた。
 これはこれで新鮮な感覚である。
 この珍しい状況が、少しでも長く続けばいいと思うのだが、そのためにはリーリンとウォリアス双方の努力が必要である事は、きちんと認識しておかなければならない。
 今日のように片方にだけ負担を強いる関係は、長く続かないのだから。



[14064] 第五話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:07


 針のむしろという言葉の意味を、レイフォンは昨日きっちりと理解してしまった。
 女生徒に囲まれつつ、男性陣の凄まじい嫉妬の視線にさいなまれつつ、メイシェンを何とか冷やし続けるという、かつてやったことのない経験をした。
 それだけで最終的に全力で疲れ切ってしまったのも、既に昨夜の記憶として恐怖と共に脳の片隅へと追いやることが出来た。
 もし、フォーメッドがお祝いに駆けつけてくれなければどんな事になっていたか、そして、レイフォンとメイシェンを助け出してくれなければ、どれほど恐ろしい事になっていたか想像するだけでも寿命が縮む。
 あんな恐ろしい事件は二度とごめんではあるのだが、これから先も恐らく数度は経験することになるだろうと確信もしている。
 それは予測と言うにはあまりにも確実な、未来予想図である。
 そして今何をしているのかと問われるのならば、老性体戦の後から始まった、各小隊単位相手の訓練に向かうところなのだ。
 訓練場所に向かいつつ食事をしているのだ。
 今朝はゆっくりと眠りすぎたために、朝食と昼食を兼ねた特大パンを囓ろうと、大口を開けたところで後ろから声をかけられた。

「レイフォン・アルセイフ」
「ふぁい?」

 あまりにも突然だったために、思わず大口を開けたまま間抜けな声と共に、凄まじく間抜けな状況のまま腰を捻って後ろを見てしまった。
 気配自体は感じていたのだが、別段攻撃的でもなかったし隠れてもいなかったので、完璧に警戒していなかったのだ。
 そして視界に入ってきたのは、痩せぎすで長身の男性だった。
 痩せぎすとは言え、ただ単に細いだけではない。
 その身体はきっちりと鍛えられているし、眼光も鋭く、立ち姿に目立った隙らしい物はない。
 それなりに腕の立つ武芸者と言った感じだ。
 武芸者であることは、その身体を流れる剄脈が見えることからも確実だが、もう一つ身体的な特色がある。
 髪を短くしているのが一般的な武芸者の世界ではあるが、目の前の男性のように完璧に丸坊主というのは流石に珍しい。
 そしてその人物とは、若干面識がある。
 入学式前と幼生体戦で、色々とあった人物だ。
 シャーニッドが以前所属していたという、第十小隊長のディン・ディーその人だ。
 そこまで観察して、ふと気が付いた。
 未だに大口を開けたままであるという事にだ。

「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

 何となく気まずい沈黙が流れる。
 大きな棒状のパンに縦の切れ目を入れて、その間にコロッケと炒めたソバを挟むという、かなりのボリュームを備えた武芸者の間では人気の食べ物は、全開ギリギリの大口を開けなければ食べることが出来ないという、凄まじい巨大さを誇っているのだ。
 そんな歩きながら食べられるパンに齧り付こうとした、まさにその瞬間に声をかけられてしまったために、こんな間抜けな展開になっているのだ。
 そうでなければもう少し違った状況を作り出すことが出来た。
 そして、ディンの視線が少し横にそれる。

「ああ。すぐに済むので、取り敢えず口だけ閉じてもらえるだろうか?」

 気まずい沈黙の後だけに、その言葉はまさに天啓となってレイフォンの脳天を直撃した。
 思わず気絶したいくらいの天啓だった。

「え、えっと」

 口を閉じるついでに、少し言葉を迸らせてみる。
 情けなさで死ねるとしたら、まさにレイフォンはたった今、死んでいただろう。

「こちらの事情ではあるのだが」
「はい?」
「お前がツェルニにしてきたことと、これからすることの全てに感謝する。有り難う」

 それはやはり突然の出来事だった。
 何の脈絡もなく、いきなり頭を下げて礼を述べると、そのまま踵を返して立ち去って行くディン。
 残されるのは、いきなりの展開に付いて行けずに硬直しているレイフォンと、やはりいきなりの展開に戸惑ってオロオロする無関係な人達。
 取り敢えず、レイフォンも踵を返して、中断してしまった昼食を再開させつつ、この場を立ち去ることにした。
 だが、ディンがおかしな事を言っていたのにも気が付いていた。
 これまでツェルニのためにしてきたことに感謝するというのは、十分に理解できる。
 幼生体から老性体と、レイフォン抜きで生き残ることが出来なかったことは間違いない。
 本来なら、レイフォンはメイシェン達が死ななければそれで良いと言った考えで、ツェルニが助かったのは結果でしかないが、それでも感謝されることは十分に理解できる。
 問題は、これからツェルニのためにすることについても感謝されたことだ。
 確かに、これから第十四小隊との訓練に向かう予定ではある。
 毎週末にもうけられた二日有る休み、その内一日の午後を、各小隊の訓練に参加することになっている。
 これは、対人戦を主眼に置いたツェルニの小隊制度を大きく弄ることなく、汚染獣戦に適応させるための訓練の一環だ。
 レイフォンを汚染獣に見立てて、戦術の構築や各小隊員の訓練を実施するのだが、それについてディンに礼を言われたというわけでは、多分無い。
 先週は第十小隊との訓練だったが、金髪縦ロールの女性以外はまともに戦えなかったが、それを引き合いに出しているというわけでもなかった。
 もっと、何か大きな規模でレイフォンが何かすることを期待しているような気がするのだ。
 例えば、武芸大会で率先して戦い、敵を圧倒しろとか、そう言う内容に聞こえてしまう。
 だが、それでも何か引っかかる物があるのも事実だ。
 そこまで考えて。

「やめた」

 延々考えていると、きっと良くない事が起こるような気がするので、思考を放棄しつつ持ったままだったパンに齧り付いた。
 取り敢えず今は腹を満たすことを考えなければならない。
 腹が減っては戦は出来ないのだ。
 
 
 
 戦闘力としては、恐らくツェルニ全武芸者よりも強力であるはずのレイフォンだったが、まさかあんな間抜けなところに遭遇するとは全く思わなかったと、元第十小隊長ディン・ディーは思う。
 原因を作ったのはディン自身だと言えるのだろうが、まあ、あまり深く追求することは控えようと心に決めた。
 それよりも今は、やらなければならない事もあるのだし。

「お前は何をやっているんだ?」

 細い路地の横を通る時に、そんな声を出してみた。
 そして、その声に反応するかのように空気が僅かに動く。
 思った通りである。
 そして、小さな声が聞こえてきた。

「よ、よう」
「ふん。貴様にしてはずいぶんとお粗末な展開だな」

 空気の揺れと、声のした方向へと視線を向ける。
 そこにいるのはかつて同じ小隊にいた戦友、シャーニッドだ。
 半分無意識で殺剄を展開し続けているその姿は、はっきり言って不審者そのものだ。
 さらに視線が泳いでいるところを見ると、先ほどの会話が始まる前から、ディンを付け回していたと見て間違いないだろう。
 そして、沈黙を嫌ったらしいシャーニッドが、ばつが悪そうな視線と共にディンに向き直り。

「俺の殺剄って下手だったか?」
「いや。見事な殺剄だと俺は思う。未だに殆ど察知できていないからな」
「お、おい?」

 シャーニッドがいるだろう事が予測できたので、小さな声で話しかけてみただけなのだ。
 居なかったら独り言と言うことで自分を納得させればいいので、低リスクハイリターンな賭だった。

「俺を付け回しているだろうと思っていたよ」
「・・・。はあ。頭を使う奴って、どうしてこうも性格悪いんだろうな」

 おそらくシャーニッドは、女友達から昨夜ディンが何をしたのかを知ったのだろう。
 そして、いつからかは不明だが、何かしでかさないかと心配になって後を付けていたのだろう。
 非常にシャーニッドらしい行動だ。
 だからこそディンには手に取るように、先を読むことが出来たのだ。

「小隊、解散したんだってな」
「・・。ああ。昨晩武芸長にあって、手続きを済ませてきた。みんなの意見は一致している。シェーナのも含めてな」

 ツェルニの滅ぶ姿を見たくないために、剄脈加速剤にまで手を出した。
 だが、それでも才能という壁を越えることは出来なかった。
 ダルシェナやシャーニッドにさえ、ディンは全く及ばないだけではなく、恐らく足手まといになってしまう。
 いや。先週レイフォンとやった訓練では、間違いなく小隊員はダルシェナの足手まといにしかなっていなかった。
 そして諦めることが出来た。
 先代の第十小隊長のことは、未だに心の奥底で想っているが、ディンの執念でどうにかなるという物ではなくなってしまったのだ。
 剄脈加速剤を使っても、それを制御する能力が決定的に追いついていない以上、無駄な足掻きにしかなっていないのだと理解してしまったから。
 そして何よりも、レイフォンがこれからするであろう事が分かってしまったから、やっとの事で決心が付いたのだ。
 だが、続いたシャーニッドの声に少なからず違和感を覚えたのも事実だ。

「そうか。シェーナも決心が付いたのか」
「? 少しニュアンスが違うような気がするのだが」
「・・・・・・・・・」

 何故か急にシャーニッドの視線が冷たくなったような気がする。
 いや。今現在も冷たさが増しているような気がするが、はっきり言って原因が不明だ。

「・・・。まあ、いいや」

 見詰められること三十秒。
 何か諦めたのか、それとも飽きたのか相変わらず原因は不明だが、シャーニッドの視線が通常の温度を取り戻した。
 全く原因不明だが、取り敢えず話を進められそうなので少し安心だ。

「それで、これからどうする?」
「ツェルニのために働くさ」

 問われたので即答した。
 即答はしたが、実際問題どうやって役に立つか、それは全く分からない。
 剄脈加速剤のこともあるから、色々と難題が山積みではあるのだが、それでも何もしないなどと言う事は考えられない。
 先代隊長のためというのもあるが、それ以上にディン自身がこのツェルニを愛しているのだ。
 ならば、非才の身とは言え何か使い道があるのではないかと考えることは止められない。

「なら付いて来いよ。お前みたいのが必要な場所を知っている」

 軽く肩を叩きつつそう言うシャーニッドは、何か企んでいるようでもあり、これから遊びに行こうとしているようでもあった。
 それはまるで、一年も昔に戻ったような、そんな不思議な錯覚を覚えるほどだった。
 そう言えばと突如疑問が湧いて出てきた。
 何故シャーニッドは小隊を抜けたのだろうかと。
 そして聞いてみたのだが、答えは全く要領を得なかった。

「まあ、俺が何かするのは間違いだと思うわけだ。お前が何かすれば全て決着が付くんだがな」

 ディン自身が何かしなければいけないらしいことは、何となく理解できたのだが、具体的に何をすればいいのかさっぱり分からない。
 どうやらシャーニッドとディンでは見ている世界がかなり違うようだ。
 その違いのせいでシャーニッドは小隊を抜けたのかも知れないと、そう思うようになった。
 どう違うのか、全く理解できないのは少々しゃくではあるが、その内分かるだろうと当面の思考を放棄した。
 
 
 
 レイフォンが鈍いことはおおむね知っていた。
 だが、旧友の中にもレイフォン並に鈍い生き物が居たことは、何故か知らなかった。
 いや。気が付きたくなかったのかも知れない。
 戦場を外側から見詰めている、狙撃手という立場だから、見える物が多いと思っていたのだが、もしかしたらそれは大いなる間違いだったのかも知れない。
 今夜辺りにでも、ダルシェナとディンについて考えようと決心しつつ、シャーニッドが目指すのは生徒会本塔脇にある、武芸科の書類仕事を一手にこなしている建物だ。
 当然一般人も大勢働いているが、それでも武芸者の割合がかなり多い。
 そして、昨夜電撃的に小隊を解散したディンのことを知らない人間はこの建物には居ないだろう。
 と言う事で、視線の集中砲火を浴びる羽目に陥った。
 なにやら、どっちが攻めでどっちが受けだとか言う、関係ない内容の声も聞こえたが、それは徹底的に無視して地下へと降りて行く。

「この先には、使われていない部屋がいくつかあっただけだと思うが」
「使われ始めた部屋があるんだな、これが」

 一年に入った、極悪武芸者のために用意された小さな部屋があるのだ。
 昨晩までは、資料室の一つを占領していたのだが、地下室の用意が出来たためにそちらへ移動しているはずだ。
 小隊の解散と同じ時に、生徒会役員をしている女性から話を聞いたので、多分間違いない。
 何故地下室なのかは全く不明だが、取り敢えずウォリアス自身気にしていないから問題無いのだろうと結論付ける。
 そして、階段を下りて三十歩ほど進んだところで、一つの扉と遭遇した。
 プレート以外は古ぼけたその扉の向こう側こそ、ディンを必要としている部署があるはずなのだ。

「戦略・戦術研究室?」

 真新しいプレートにそう書かれているのを読み上げるディンの視線は、これ以上ないくらいに不審げにシャーニッドを捉えている。
 この部署が正式に稼働するのは今日からなので、知らないのは当然なのだが、それでもかなり怪しいとか思われているのだろう。
 シャーニッドだって、非常に怪しいと思っているのだ。
 地下にあることからして、怪しさ爆発である。
 世界征服をもくろんでいるとか言われても、何ら不思議がないくらいに怪しい。
 その怪しさを殴り倒して、扉を開けて絶句した。

「もう一度だ! もう一度!!」
「何度やっても同じです。勉強して出直してきて下さい」

 なにやら怒りの形相も凄まじく、端末に殴りかからんばかりに騒いでいるのは、第十七小隊長であるニーナだ。
 何故ここにいるのか非常な疑問だったが、答えはすぐ側にいた。
 リーリンである。
 恐らく、ウォリアスに餌をやるためにリーリンが出かけるところにニーナが鉢合わせ。
 なにやら話し込んでいる内にウォリアスが何か始めると聞いたために、ニーナがここにやってきて、そして徹底的に敗北した。
 まあ、ざっとこんなところだろう。

「後一歩で勝てたではないか!!」
「そう見えるだけです。このゲームは数値の設定項目だけで三百を超えているんですよ? それを理解していないアントーク先輩では百年やっても僕には勝てませんから」
「やってみなければ解らん!!」

 第五小隊戦の時には、なにやら作戦らしき物を立てることを学習しているように見えたが、やはり本質的にニーナは猪突猛進型のようだ。
 溜息混じりに極悪武芸者の視線がシャーニッドを捉える。
 なにやら、凄まじく嫌な予感がするが、逃げ場など存在していない。
 そして、細目の極悪武芸者が思考する事二秒。

「これ以上やるんだったら、少し腕を上げてからにして下さい」
「だから、お前とやって腕を上げようと」

 確かに、戦術の構築という一点において、ウォリアスはニーナよりも遙かに優れている。
 達人とやり合うことで腕を上げようとするニーナの考えは、それ程間違っているとは言えないのだが。

「生徒会長から、ツェルニが負けないための方法を考えろと言われている上に、武芸長から汚染獣戦についての戦術を考案しろと迫られて、更に武芸科の書類仕事が何故か僕のところに回ってきているんですよ? この二日寝ていないんですよ? 可哀想だと思ったら、他の人とやって腕を磨いてきて下さい」
「う、ううむ」

 なにやら、一年生に凄まじい仕事量を回している上級生が居るようだ。
 今のは聞かなかったことにした方が良いのかもしれないと思うが、無関係を気取ることは出来なかった。

「取り敢えずそこにいるシャーニッド先輩とやって、勝てるようになったら挑んで下さい」

 突如として話を振られた。
 そして、嫌な予感は見事に的中してしまった。

「へ? お、おれ?」
「そうです。第十七小隊の最年長者として、指導する義務がありますよね」
「い、いや。戦術とか言われても、俺って狙撃以外には無能な武芸者だから」

 腰が引ける。
 相手が他の人間だったら問題はなかったのだが、今回はニーナだ。
 確実に徹夜になる。

「分かった! これは借りて行くからな!」

 そして、シャーニッドが何かするよりも速く、ニーナが行動を起こしてしまった。
 こうなったらもう止められない。
 そして、その手にはなにやら情報記憶素子が握られている。

「頑張って下さいね。それは都市運営シミュレーターと言って、仮想の都市を運営することが出来るという優れものですから」
「お、おい待て」
「鉱山争奪戦争だけをとっても、数値の設定項目は三百以上、戦略や戦術の構築を含めると千以上の設定が出来ますから」
「だから待て」
「取扱説明書を読むだけで二時間以上はかかりますから」

 なにやら、想像を絶する凄まじいゲームを、ニーナ相手にやらなければならなくなったようだ。
 しかも、中途半端なところで降りることは出来ない。
 何しろ相手はニーナだ。
 そして、ディンに話を振ることも恐らく出来ない。
 戦略・戦術研究室にとって、ディンは必要な人材になるはずだからだ。
 ならば、人身御供となるべきはシャーニッドただ一人だけ。

「さあ行くぞシャーニッド! 寝る時間を惜しめ! ゲームを進めながら食事をするぞ! 死ぬつもりで体得してウォリアスを打倒し、そしてツェルニを勝利に導くのだ!!」

 これは駄目だ。
 本質的に猪突猛進型のニーナは、既に周りが見えなくなっている。
 カリアンやウォリアスに指摘されてきた、考えてから行動するという事柄が全く出来ていない。
 取り敢えず行動してから考えるというのは、非常にニーナらしいとは思うのだが、巻き込まれるのはかなり困った事態である。

「お、おいニーナ!」
「なんだシャーニッド! 常に時間は流れているのだ! 急ぐぞ!」

 シャーニッドの声など聞こえぬと言わんばかりに、襟首を引っ掴まれて引きずられて行く。
 入学式前にもこんな事があったと思うが、もしかしたら、また廃棄物となってその辺に転がっているかも知れないと、そんな暗い未来予想図が出来上がってしまった。
 廃品回収業者に連絡しておいた方が良いかもしれないと思いつつ、とりあえずあきらめてニーナと一緒に歩き出したのだった。
 
 
 
 見事な手腕でニーナを追い出したウォリアスが、次に視線を向けたのは見事に禿げ上がった頭を持った、長身の男性だった。
 武芸科の小隊については、それ程詳しくないリーリンでも、誰なのかは一目で分かるほど、目立つ特色を持ったディンが扉の横から部屋の奥へとやって来る。
 その視線は真剣そのものだった。

「珍客と言うべきでしょうか?」
「俺は不要だったか?」
「とんでもない。一段落したら声をかけるつもりでした」

 席を立ったウォリアスが、ディンに右手を差し出す。
 ニーナに対しては、席を立つこともせず、当然握手を求めることもしなかったのを考えると、その態度には凄まじい差がある。
 実際問題として、ニーナのことが好きではないウォリアスだったのだが、二時間近くも付き合わされてしまってはいい加減怒ってしまっても不思議はない。
 と言うよりは、良くも二時間付き合ったとウォリアスを褒めたいほどだ。
 追い出したという行為は、大人げないとは思うのだが、それはお互い様だし。

「取扱説明書をくれないか?」
「端末経由で見られますよ」

 ディンは何の迷いもなく端末を操作して、説明書を熟読しているようだ。
 ここからして既にニーナとは違う。
 先に行動してしまうニーナと比べることの方が、問題であるというのは理解しているが、それでも決定的に違う。

「一つ聞くが」
「何でしょうか?」

 リーリンが持ってきた昼食に手を伸ばしつつ、ディンの質問に答えるつもりのようだ。
 あまり好ましいことではないのだが、何かしながら食べないとすぐに食事を抜いてしまう生き物だから、この辺は大目に見るしかない。

「レイフォン・アルセイフ」
「戦略的に使うつもりですよ」
「やはりそうか」

 軽い単語のやりとりで会話が進行して行く。
 始めからリーリンのことなどすっかり忘れているように、何の躊躇いもなく進んで行く会話だが、実はかなり困った単語が入っているのだ。

「あ、あのぉ」
「うん? どんな質問かな?」

 おずおずと声を出すと、即座にウォリアスが反応する。
 恐らく、既に質問が来ることを予測していたのだろう。

「戦略的にレイフォンを使うって」
「うん? 戦略兵器として使うって事だけど」
「せんりゃくへいきって何?」

 戦略兵器である。
 言葉の意味は分からないが、なにやらキノコ雲が上がりそうな話になりそうだ。

「そうだね。分かりやすい説明をするとだね」
「優しくしてね」

 放っておくと、専門用語が連続で飛び出して、全く理解できない説明を延々と聞かされる羽目になるのだ。
 それは既に一度体験済みなので、同じ轍は踏まない。

「政治的に、建築実習区画と決めて」
「家の寮の周りね」
「建築実習をするために必要なインフラを整えるのが、戦略になるんだよ」
「具体的には?」
「機材を運ぶための路面電車の軌道を造ったり、道幅を広く取ってみたり、配管工事の訓練をするためにわざと色んな地盤を用意したり、他に迷惑をかけないために商店の類の出店を制限したり」

 言われるまでもなく、建築実習区画に建っている女子寮は不便である。
 近くの駅まで結構な距離があるし、近くの店などと言う物は存在していない。
 住むためには不便なところだが、建築実習をするためには必要な処置であることは理解できる。

「それで、そこに建物を造るのが戦術」
「ふむふむ」
「政治的に、あるいは戦略的に敗北している状況を、戦術的な勝利で挽回することは不可能だと言われているんだけれど」
「えっと」
「建築実習区画という政治的戦略的環境に建っているために、そのデザインは優れているし家賃も安いと言う戦術的勝利を収めているのに、住んでいるのが全部で四人な女子寮とか」
「ああ」

 戦略的がどうのと言うのは前振りで、最終的には今リーリンが住んでいる寮が、不便だと言いたいのかと思ったが、少し考えると違うらしいことが分かる。
 もし、今住んでいる寮が居住区にあったならば、入居希望者が殺到することだろうと言う事は分かる。
 あの場所にあるからこそ、あの安さで待たずに入れるのだ。
 建物一つ建てるだけでも、環境が整っているかどうかで、ずいぶんと結果が違ってくることが分かる。
 つまり。

「・・・・・・。えっと。レイフォンと言う地面に武芸科の人達が立つの?」

 話が見えなくなってしまった。
 取り敢えず想像してみたのだが、ナルキにフェリにニーナが、レイフォンの上で踊っているという意味不明の光景しか思い浮かばない。
 何故か女生徒限定なのに、少し腹が立っただけだ。

「むしろ、レイフォンと言う土台に武芸科という建物を建てて、武芸者を住まわせる?」

 違う方向で考えてみたのだが、更に訳が分からなくなってしまった。
 そして、ウォリアスに視線を向ける。

「ある意味、レイフォンと言う基礎に、ツェルニ武芸者それぞれが、勝手に建物を建てると言うべきかな?」
「? えっと?」

 更に訳が分からなくなってしまった。
 落ち着いて考えようと、大きく深呼吸をする。
 だが、さっぱり分からない。
 三秒の思考の後、ウォリアスが更なる混乱を巻き起こす。

「えっと。・・・・。レイフォンが下ごしらえをして、武芸科全員で料理をして、ツェルニが食べる?」

 更に訳が分からなくなった気がする。
 だが、そのシチュエーションには問題が有るのだ。

「レイフォンじゃ、量の計算や栄養管理が出来ないけれど」
「それをやるのが僕達かな?」
「なら安心ね」

 取り敢えず、理解できないことが分かったので深く追求することは諦めた。
 卒業するまで、戦略や戦術の基礎講義を受けるのは是非とも避けたいところである。

「取り敢えず、理解できないと言う事が分かったから良いわ」
「助かるよ。理解するには二年はかかるからね」

 六年間かかると覚悟したリーリンだったが、それは少し見込みが厳しすぎたようだ。
 と、そんな事をやっている間にディンは説明書を読み終えたようだ。
 二時間かかると言っていたのだが、速読の特殊技能があるのかも知れない。
 そして、なにやら端末を操作している。
 ならば、リーリンに出来ることはもう殆ど無い。

「きちんと食べるのよ? レイフォンを筆頭に武芸者は身体が基本なのに食事を抜きがちだから」
「へいへい。高エネルギーゼリーだけでも一週間生きられるけれど、きちんと食べます」

 とても信じられないことを平然と言ってのけるウォリアスに驚きを感じるが、もしかしたらリーリンが知らないだけで結構こう言う人間はいるのかも知れない。
 まあ、その辺はリーリンが気をつければいいのだから、問題無いのだろうと結論付けて、戦略・戦術研究室を後にしようとした。

「って、何で食べ物にあんなにこだわるのに、ゼリーだけで一週間生きられるのよ?」

 ピーナッツから始まった講義は丸一日続いた。
 しかも、まだまだ喋り足りないとその全身から欲求が迸っていた。
 今言っている事と矛盾している。
 あるいは実際に食べる事よりも、解説や説明をする事が好きなのかも知れないが、それにしても甚だ納得が行かない展開である。

「仕事と割り切っている間は、信じられないほどの粗食に耐えられるんだよ」
「・・・・。たがが外れると美食に走る訳ね」
「そ」

 どうやら、やはりかなり困った生き物である事がはっきりした。
 リーリンの周りには、何でこうも困った人間ばかりが集まるのだろうかという疑問と共に、今度こそ部屋から出る事にした。
 昨日、リーリンと別れた後も仕事を続けたウォリアスに、これ以上負担をかける事は望ましくないという判断も存在しているのだ。



[14064] 第五話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:08


 サヴァリスとの接触から既に十日。
 何事も無く何時もの生活は続いていた。
 違っているところと言えば、サヴァリスとリンテンスの気配を遠くに感じることくらいだ。
 気配を感じると言っても、それはリチャードの特殊能力を持ってしても、おぼろげに感じる程度の長距離である。
 これで、いざという時に間に合うのか著しく疑問ではあるのだが、レイフォンと同じ人外の化け物だというのならば、十分に間に合うのだろうと言う事は理解している。
 不安ではあるのだが。
 だが、実は問題は別なところにあるのだ。

「で? あんたは誰なんだ?」
「うん? 通りすがりの謎の美少女よ。これほどの美少女に話しかけられて、嬉しくないなんて事はないわよね」

 そう言うのは、黒髪で長身の女性だ。
 武芸者らしいことは間違いないのだが、それ以上のことはさっぱり分からない。
 むしろ分かりたくないと本能が絶叫しているような気がするほどだ。
 だが、事態はリチャードの思惑など知らぬげに突き進み、シノーラと名乗った美女は何故かリチャードと同じ方向へと歩いているし、話しかけてきているのだ。
 これ以上いらない揉め事からは逃げるべきだと思うのだが、相手から接近して来る以上どうしようもない。
 まあ、巻き込まれても、武芸者らしいからリチャードよりは役に立つだろうと割り切ることにする。

「美少女ねえ」

 そんな内心をおくびにも出さずに呟いたのは、年齢的な問題についてだ。
 明らかに二十歳は超えているだろう女性を、普通は少女などとは呼ばない。
 まあ、美しいという表現を否定するつもりはないが、別段それはどうでも良いことだ。
 それよりも問題は、むしろリチャードの記憶の中にこそ有る。

「シノーラ・アレイスラ」
「あら? 私の美貌ってそんなに有名だったのね!」

 何故か疑問符ではなく感嘆符が付いている。
 なにやら凄まじい自信があるようだ。
 だが、リチャードにとって美人かどうかなどと言うのはどうでも良いことなのだ。
 美男子であるサヴァリスに付きまとわれているために、幻滅しているというわけではない。
 ずいぶん昔から、見た目の良い物に対して酷い抵抗があるのだ。
 それは、一応美少年のカテゴリーに入るレイフォンや、美少女と言って良いリーリンに対しても言えることで、この二人に対してさえ僅かに引いた位置からしか接することが出来なかった。
 と、それも今はどうでも良い。

「姉貴の胸を揉んでいたそうだけれど」
「うん♪ リーちゃんの胸って素敵だったわよねぇ。君もそう思わない?」
「俺に振るな」

 確かに、リーリンの胸は凄かったと思う。
 レイフォンがもう少しリーリンの気持ちに敏感だったら、とっくの昔に揉んでいたと断言できるほどに凄かった。
 実際問題として、ヘタレなレイフォンにそんな事が出来るとは思っていないけれど。
 と、また話が変な方向にそれてしまった。

「それで、俺に何の用だ?」
「うふふふ。お姉さんと良い事しない」
「他を当たってくれ」

 相手がレイフォンだったら、面白いほど狼狽えるだろうが、リチャードは違う。
 自分にそんな魅力がないことは、十分すぎるほどに熟知しているのだ。
 ならば、何時も通りに切って捨てるだけで良い。

「えぇぇぇぇぇ! 色々と教えてあげるのにぃぃ」
「だから、他を当たれ。そしていい加減用事を済ませて俺から離れろ」

 人通りはそれ程多くはないが、残念なことにシノーラは非常に目立つのだ。
 最終的にはリチャードも同じカテゴリーの変人としてみられているような気がして仕方が無い。
 周りの視線が、徐々に生暖かくなってきているし。

「うふふふふふ。そう言うストイックなところが素敵」
「・・・・・・・・・・・」

 レイフォンが天剣授受者であったことが、信じられなくなりつつある自分を発見していた。
 天剣授受者とは、超絶の存在だ。
 その体内に宿した剄脈は都市一つを滅ぼすことさえ可能で、技量だけでもその辺の武芸者など足元にも及ばないはずの、まさに超絶の存在だ。
 そして、そんな超絶の存在だからこそ通常の性格をしていてはいけないのではないか?
 シノーラを見ているとそんな気がしてきて仕方が無い。
 何でそんな事を考えたのか、全く持って疑問ではあるのだが、リチャード的にはそんな結論に飛んでしまったのだ。
 そして、その基準で判断する場合、レイフォンは明らかに一般的で収まる精神構造をしていたと断言できる。
 武芸に関する冷徹な態度も、デルクとそれ程隔絶しているというわけではなかったし、もしかしたら優秀な武芸者には多い傾向なのかも知れないが、それでも一般的で通用すると断言できる。
 その前提に立って考えるならば、レイフォンは天剣授受者になるべきではなかったのかも知れない。
 そんな事をふと思っているが、これもやはり話が横道にそれているだろう。

「色々と厄介ごとに巻き込まれているんだよ、俺は」

 酷い疲労と共に言葉を吐き出す。
 このまま家に帰って、布団を被って寝てしまいたいところだ。
 デルクの食事の世話とかがなければ、間違いなくそうしている。
 特にこの意味不明な生き物のために疲れているのだが、それを理解してはくれないだろうと言う事はきっちりと認識しているのだ。

「うふふふふ。若いのに苦労しているのね」
「兄貴と良い、親父と良い、常識と良識が欠如している連中ばかりだからな」

 特にサヴァリスとか、シノーラとかがと言う台詞は何とか飲み込んだ。
 天剣授受者であるサヴァリスのことを、見知らぬ人間に悪く言うのは気が引けたし、本人の前で非常識だというのもはばかられたからだ。

「ねえねえ。リーちゃんから手紙来てない?」
「姉貴から? きてるけれど」

 どうやら目的はリチャード本人ではなく、リーリンの方だったようだ。
 もしかしたら、シノーラに宛てて手紙なんか書いていないのかも知れない。
 それを寂しく思って、こうして襲撃に来た。
 辻褄が合う。

「もしかしてさ」
「ああ?」
「私に胸を揉まれたいとか、胸にすり寄ってきて欲しいとか、ああん! もしかして私のこの胸に! 豊満なこの胸に!! 死ぬほど埋もれたいとか書いてなかった?」
「・・・・・・。何処の天剣授受者だよ?」

 サヴァリスと同じような反応を見せられて、一気に脱力してしまった。
 もう少し、何か違う反応があっても良いのではないかと思うのだが、それは贅沢な望みなのだろうかと疑問に思うほどだ。
 だが、当然シノーラはそんな事情など知るよしもなく、不思議そうにリチャードを見ている。

「天剣授受者って?」
「サヴァ。クォルラフィン卿が、兄貴の手紙にそんな事書いてなかったかって」
「っち! あの戦闘狂のニヤケ馬鹿が」
「?」

 なにやら、サヴァリスを詳しく知っているようなことを言うシノーラの雰囲気がいきなり変わった。
 むしろ、本性を現したと言った方が良いかもしれないほどに、猛々しい雰囲気を発散させている。
 そして、唐突にある恐るべき危険性に気が付いた。

「・・・・・。まさかな」

 だが、あまりにもあり得なかったので、それを脳内だけで処理してしまった。
 目の前の物騒な生き物が、グレンダンの女王だなどと言う、恐るべき危険性を考えついただけで、リチャードは自分の脳が致命的に何か間違っているのだと確信できてしまうほどには、おそるべき危険性だった。
 その恐ろしすぎる予測を何とか殴り倒して、取り敢えずリーリンに手紙を出すことを決めた。
 シノーラにも連絡を取ってやってくれと言う、懇願の手紙をだ。
 これ以上の揉め事は困るのだ。
 
 
 
 平日の授業を終えたレイフォンは、意味不明な事態に直面して驚愕していた。
 むしろ混乱していたと言っても良いだろう。
 それはつい今し方フェリの念威端子経由でもたらされた情報だった。

「隊長とシャーニッド先輩が行方不明?」
『正確に言うならば、隊長の寮近くにある病院にいることは確認されていますが、それはあくまでも肉体がと言うことです』
「?」

 いきなりこんな事を言われて、驚愕しない人間はいないだろうし、取り乱して視線があちらこちら彷徨っても、別段おかしな事ではないはずだ。
 肉体を確認出来るのに、行方不明というのはさっぱり理解できないのだから。
 なので、疑問の視線を念威端子へと飛ばしてみる。

『ゼロ領域を見て何か譫言を垂れ流しているようです』
「ゼロ領域って何ですか?」

 訪ねた直後に思い出した。
 ウォリアスの作ったパウンドケーキが、そのゼロ何とかに飲み込まれて、フェリの体重が増えたとか何とか。
 そちらも全く意味不明だったのだが、更に訳が分からなくなっている。

『取り敢えず、精神崩壊と同義語だと思ってもらって、問題無いかと』
「それって、かなり問題なんじゃ?」

 精神崩壊である。
 普通に考えて入院だし、もしかしたら母都市への強制送還というのもあり得るはずだ。
 断じて、今日の訓練が中止になるなどと言う、簡単な連絡の理由であってはならない。
 と思うのだが、フェリは違うようだ。

『一日寝れば治ると、ドクター・サマーズが言っていますから問題無いかと』
「・・・・・・・・。それの方が問題では?」

 医師であり、同じグレンダン出身のサマーズには色々と世話になっている。
 訓練で怪我をすれば、ほぼ間違いなくシフト開け直前だし、居住区の方で何か問題を起こして病院に行けば、何故かそこで非常勤の仕事をしていたりする。
 非常に因縁というか縁のある人物だ。
 優秀な医師であることは間違いないのだが、それはあくまでも外科であり内科であって、断じて精神科ではない。
 専門外の患者を扱うことは出来るはずだが、それでももう少し対応として正しい物が存在しているはずだと思う。

『問題有りません。消化器でもって二人を強制的に眠らせただけですから』
「・・・・・・・・・・・・」

 聞かなかったことにしよう。
 そう決意したレイフォンは、フェリに礼を言い終えると、今日これからどうするかと考える。
 何しろ人付き合いが苦手で、狭い範囲でしか友達が居ないレイフォンの事だ。
 誰かと連れだって遊びに行くなどと言うことはほぼ考えられない。
 かといって、このまま寮に帰ってしまってはそのまま明日の朝まで出てこないだろう事が予測できる。
 今夜バイトは入っていないから、間違いなく明日の朝まで寮を出ない。
 それはいくら何でも不健康な生活であるのは、きちんと理解しているのだが、ならばどうするかという選択肢を思いつけない。
 ウォリアス先生に特別授業をしてもらうというのも、ほんの一瞬考えたのだが、それはまさにほんの一瞬で消去した。
 学生の本分とは勉学にあると言うが、頭を使うことが苦手なレイフォンにとって、それは出来れば避けて通りたい道なのだ。
 最低限の常識や、頭を使うことを学習しなければならないと思うのだが、それでもやはり積極的には選べない。
 週に二日有る休みの内、どちらかの午前中をウォリアス先生に取られているのだ。
 これ以上休みが減ることは容認できないという現実もある。
 考えてみれば、小隊単位の対汚染獣戦研究をかねた訓練と、特別授業で二日有るはずの休日は、半分は吹き飛んでいるのだ。
 なんだかんだ言って、老性体戦からこちら、レイフォンはかなり忙しいのだ。

「にひひひひひひひ」
「うわぁぁぁぁ」

 そんな思考をぶち壊したのは、揉め事大好き茶髪猫だ。
 思わず飛び退りつつ、盾を構える。

「な、なんだ!」

 レイフォンよりも少しだけ背が低くて、体重の大きな同級生を前方へと押し出しつつ、必死になってミィフィから視線をそらせる。
 関わっては駄目なのだと本能が叫んでいるわけではないが、それでも条件反射的に防御行動を取ってしまうのだ。

「さあエド!」
「な、なんだ? どうした?」
「金剛剄を張ってミィフィの攻撃を阻止するんだ!!」
「俺は一般人だ! そっちの武芸者に頼め!」
「あ。そうか」

 迷惑そうに、持っていたお菓子の箱を落とさないようにしつつも、必死の形相でレイフォンの腕から逃れようとする。
 一瞬でも攻撃を防いでくれたのならば、レイフォンは逃げる事が出来るのだが、エドの言う事にも一理ある。
 と言う事で、千斬閃を使ってナルキを確保。

「愚か者が!!」
「ぐえ!」

 分身のレイフォンがナルキを本体の前へ持ってきた直後、振り返りざまに結構な威力の蹴りがやってきた。
 思わず直撃を食らってその場にへたり込む。
 ナルキの攻撃が来ることは、ある程度予想していた。
 十分に受け止めるなり受け流すなり出来ると踏んでいたのだが、実際には直撃を受けてしまった。
 少し見ない間に、ナルキの実力がかなり上がっていたのに気が付かなかった。
 剄の総量と言うよりは、身体捌きがいきなり見違えるほどに速く、そして鋭さを増していたのだ。
 これは驚きの真実だ。

「一々茶髪猫ごときに恐れおののくんじゃない! お前それでも武芸者か!!」
「武芸者かどうかは関係ないと思うけれど」
「なら、無闇に凄い剄技を安売りみたいに連発するな!!」

 ナルキが絶叫するのも当然かもしれないと思う。
 最近、ことあるごとに千斬閃や千手衝を使って楽をしているような気がする。
 反省すべき事は反省すべきかも知れない。
 鍛錬の一環と言えないことはないのだろうが、それでも流石に普段から使いすぎではあるかも知れない。

「にひひひひひ」
「う、わ」
「後ろを取ったぞレイとん」

 そんなやりとりをしている間に、何時の間にかミィフィが後ろに回り込み、更に肩に手を置いていた。
 これほど見事に後ろを取られたことは初めてだ。
 天剣授受者さえ目指せるのではないかと思ってしまうほどだ。
 ミィフィ・ヴォルフシュテイン・ロッテン。
 悪くない名前のような気がする。
 と、そんなどうでも良いことを脳の半分ほどで考えつつ、身体は猛烈な反応を見せていた。
 具体的には、エドをミィフィに向けて押し出していたのだ。
 とっさの事態で、蹈鞴を踏むエド。
 何とかレイフォンの押し出しに耐えて、踏みとどまる事には成功したが。

「ほほう」
「な、なんでしょうか?」

 当然、そんな状況になってしまった二人の顔は、異常なほど接近していた。
 エドに夢中になっている間に、ミィフィから逃げるという戦術を考えたわけではないが、状況は最大限に有効に使わなければならない。
 と言う事で、後ずさったのだが。

「待つよろし!!」
「うわぁぁぁ」

 何故か、エドの向こう側にいるはずなのに、後ろからミィフィに声をかけられた。
 慌てて振り返って見えたのは、スピーカーを持つナルキの姿だけ。
 気配を探る暇さえなかったことが災いした。
 未だにミィフィはエドの向こう側にいるはずだが、遅いのだ。
 しまったと思った時には既に遅かったのだ。
 右腕に感じる、一般人のはずなのに武芸者であるはずのレイフォンを完璧に拘束する掌を感じていた。
 その膂力は凄まじく、とても振り解くなどと言う事は出来そうにない。
 いや。それどころか、上腕骨を握りつぶされそうな勢いだ。

「さてレイとん。用件に入って良いかね?」
「あ、あう。どうぞ用件にお入り下さい」

 もはや抵抗することは出来ない。
 蛇に睨まれた蛙。
 狼に睨まれた羊。
 絶体絶命であり、現状を打開する手立ては存在していない。

「ふふふふふ。メイッチ」
「あ、あう?」

 そして呼ばれたのは、何故かメイシェン。
 何時もオドオドとした印象を受ける少女だが、この瞬間は事態に全く付いて行けない様子で、ミィフィとレイフォンを恐る恐ると見比べている。
 だが、呼ばれた以上行動しないという選択肢は存在していないのか、恐る恐ると、石橋を叩いて渡るような足取りで、こちらへと近付いて来る。

「さあ。レイとん! メイッチを連れて行くのだ!!」

 いきなりだった。
 話の脈絡もなく、何の複線もなく告げられた台詞に、戸惑っているのはレイフォンだけではない。
 だが、何とかリアクションを取らなければいけないのも事実。
 なので、取り敢えずメイシェンに向かって行くべき場所を上げてみることにした。

「えっと? 歯医者?」
「違うよ」
「病院?」
「違うよ」
「買い物?」
「ちがうよ」

 ぱっと思いつく場所を連続してあげてみたのだが、全てが外れてしまったようだ。
 だが、他にメイシェンが行かなければならない場所というのは思いつけない。
 そして、他に候補を挙げることが出来ないことを理解してくれたのか、やっとの事でメイシェンの目的地が明らかになった。
 だが、それはある意味想像の外にある場所の名前だった。

「錬金科の建物」
「? 錬金科って、錬金鋼とか作っているところだよね」
「うん」

 そして思い出した。
 メイシェンが使っている包丁は鋼鉄錬金鋼だったと。
 錬金鋼の調整や保守点検には、どうしても専門的な技術が必要だ。
 ならば、錬金科の建物に用事があっても何ら不思議ではない。

「それと」
「うん?」
「屋台のアイスクリーム屋さん」
「成る程」

 錬金科の建物の近くにあるのだろう、その屋台に寄ることも目的の一部なのだろう。
 全て辻褄が合う。
 そして気が付いた。
 ミィフィも、意地悪でレイフォンに声をかけたわけではないと。
 良く酷い目に合わされるので、とっさに先入観で行動してしまったのだと。
 つい最近も酷い目に合ったばかりだし、それは仕方が無いことなのかも知れないが、今後はもう少しだけ慎重に行動しようと心に決めた。

「これ上げる」
「なに?」

 そう考えたところで、ミィフィから何やらチケットらしき物をもらった。
 なにやら、激しい原色で印刷されたそれは、割引チケットのように見える。
 オスカーの食肉加工店ではない。
 それにしてはデザインが派手すぎるのだ。
 そして、それを渡したミィフィの視線が、獲物を捕らえた肉食獣のようになっていることに、この瞬間に気が付いた。
 既に後の祭りである。

「二ヒヒヒヒヒヒ。二名様ご宿泊招待券だぞ」
「「・・・・・・・・・・・・」」

 思わずメイシェンと視線が合ってしまった。
 そう。合ってしまったのだ。
 二名様ご宿泊招待券と言うからには、それはつまり。

「ええっと?」
「ああう?」

 視線がそらされる。
 リアクションに困ることこの上ない。
 どうやってこの場を誤魔化そうかと、辺りを見回して絶望した。
 教室に残っていた全員が、なにやら凄まじい温度でこちらを見ているのだ。
 超高温と、極低温の双方が混在するその視線の集中砲火は、レイフォンごときの防御力ではとても防ぐことなど出来ない。
 と言う事で、メイシェンの手を引いて全力で教室から撤退した。
 一般的には逃走というかも知れないが、取り敢えず撤退と言う事にする。
 
 
 
 建物を出てからこちら、延々とメイシェンと手を繋ぎ続けていたことに気が付いたのだが、誰かに止めを刺されるわけではないので特に問題はない。
 と言う事で、錬金科の建物が見えだした、ただ今現在も、手を繋いだままなのだ。
 その小さく柔らかな暖かさを持った感覚のせいで、心臓は全力疾走を続けているが、それは決して不快な刺激ではない。
 思い返せば、メイシェンはどこもかしこも柔らかかった。
 とは言え、触ったことのある場所というのはもちろん限られている。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 思わず鼻血が出そうな体験を思い出しつつ、だがしかし油断をせずに辺りに警戒の視線を飛ばし続けているのだ。
 世の中何が有るか分からないと言う事は、既に身をもって知り尽くしている今日この頃。
 警戒だけは怠れ無い。
 だが、それでも思ってしまうのだ。
 メイシェンは何処を押しても柔らかいし、そして何よりも甘いのだと。
 このまま何処かで美味しく頂いてしまおうかとか思っている自分を、実は不思議な気持ちで見詰めていた。
 レイフォンはあまり欲という物が強くない。
 お金に執着していたことはあったが、それは孤児院の経営を何とかしたいと思ったからだったし、あの悲惨な食糧危機に何も出来なかった無力な自分を、もう一度繰り返したくなかったからだ。
 そして手段として手に入れた天剣授受者と言う名誉も、賭試合に出るために利用しただけで、別段なりたいと思ってなったわけではなかった。
 名誉でお腹はふくれないから、別段無くなっても惜しくないと今だって思っている。
 天剣という錬金鋼はあったら便利だとは思うが。
 食欲に関しては、まあ、人並みにはあると思う。
 武芸者という生き物は、極めて大量の燃料を消費する生き物だ。
 それを計算に入れると、レイフォンの食事量はそれ程多いというわけでもなかった。
 睡眠欲となると、はっきり言って良く分からない。
 まあ、他の人の体験談を総合すると、可もなく不可もなくと言ったところだろう。
 そして今問題にしているのは、なんといっても性欲。
 健全な男の子である以上、有って当然なのだが、それでもやはり少々気後れしてしまうのがレイフォンがヘタレだと言われるゆえんかも知れない。
 散々セクハラまがいなことをやっておいて、二の足を踏むのはどうかと自分でも思うのだが、最後の一線を超えられないのもまた事実。
 だがしかし! 今日はいささか事情が違っているのだ。
 そう。メイシェンと手を繋いでいるのは左手である。
 そして、右手側に付いているポケットの中には、何故か二名様ご宿泊招待券が入っていたりしているのだ。
 ミィフィからもらったという記憶はない。
 何時の間にか入れられたという感覚もないのだが、現実問題としてレイフォンは今そのチケットを持っているのだ。
 これは、最大限に問題である。
 天からの誘いか、はたまた地獄への招待状か。
 そして、ここでレイフォンは気が付いた。
 メイシェンの視線も、一カ所にとどまらずにフラフラと揺れていると言う事に。
 そして、そのメイシェンの制服、胸ポケットにレイフォンが持つ物と同じチケットが入っていると言う事に。
 これはもしかしたら、やはり悪魔の誘いかも知れない。

「・・・・・・・・・・・」

 だが、それも、錬金科の建物が見えてきた瞬間までだった。
 午後の授業が終わったこの時間だというのに、いや。この時間だからだろうか、建物のあちこちから色々な色の煙が噴出しているように見える。
 定番の黒や白は良いとして、緑に赤、黄色にピンク、更には瞬間的に形容できないような色まで、様々な煙が噴出しているのだ。
 有害物質は含まれていないと思うのだが、それでも腰が引けてしまうくらいには色々な色で着色された煙が、あちこちの窓から吹き出し続けているのだ。
 そして最も驚いたことと言えば、メイシェンが驚いていないと言う事だ。
 普通に考えるならば、間違いなくメイシェンは驚いて怯える。
 だと言うのに、全く気にした様子がない。
 これはつまり、始めてここに来たわけではないと言うことであり、もっと言えばよくここに来ていて目の前の現象を何度も経験していると言う事になる。
 慣れというのがどれほど恐ろしい行為なのか、それを理解した瞬間だった。
 いや。視線は建物に向いているが、頭の中は別なことを考えているのかも知れないが、これ以上踏み込むことは大変危険である。
 と言う事で、無理矢理話題を振ることにした。
 ちょうど、建物の前にある公園に、屋台が見えてきたことだし。

「アイスクリームの屋台って、あれかな?」
「!! そ、そうです」

 かけた声に反応して、驚くほど身体が跳ね上がったメイシェンの視線が、やっとの事で現実を捉えたようだ。
 何とか一安心である。
 いや。安心してはいけないのだろうか?

「そ、それで、なんにする? おごるよ」
「え、えっと。あ、あの」

 なにやら取り乱しまくるメイシェンの挙動は、どんどんと怪しくなって行く。
 レイフォンとは違う内容かも知れないが、何かほかの事を考えていた証である。
 何とか平常心を取り戻してもらわなければならない。
 レイフォン自身が、平常心からかなり遠いところにいるので、かなりの難事業ではあるのだが、やらないわけにはいかないのだ。

「お、落ち着いてメイシェン」
「あ、あう」
「こう言う時は素数を数えるのが良いって聞いたよ」
「そ、そすうってなんだっけ?」
「え? なんだっけ?」

 二人であうあうと言って、無駄な時間が流れて行くのを感じつつ、視線を飛ばして知っている人がいないかと辺りを窺う。
 素数が何かを理解しなければ、落ち着きを取り戻すことが出来ないからだ。
 そして見つけた。
 オイルと触媒液に汚れたつなぎを着た、第十七小隊のダイトメカニックである、ハーレイその人である。
 技術系の人だし、素数がどんな物か知っていそうである。
 と言う事で、メイシェンを連れてハーレイに向かって歩く。
 だが、驚くべき事が起こっていた。
 なんとハーレイがアイスクリームの屋台へと向かい、なにやら二種類買っているという、驚くべき事態だ。
 彼女と一緒かなどと思ったわけではない。
 技術畑の人が甘い物を食べると言う事に驚きを覚えたのだ。
 いや。糖分が必要なのは肉体労働者だけではないはずだから、アイスを食べていても何ら不思議ではないのかも知れない。
 そんな混乱と共に歩みを重ね、とうとうハーレイを射程圏内に捉えた。
 だが、やはり一人ではなかった。
 車椅子に乗った青年へと片方を渡している。
 不承不承というか、嫌々受け取っているようにしか見えないが、ハーレイの態度は至って平静なので、むしろこれが平常運転なのだろうと思う。
 そして、その青年は不健康そうな白い肌と、整った顔立ちをしているのだが、決定的に目付きが悪すぎた。
 これでは、女生徒は元より男子生徒も近付きたがらないだろう。
 だが、驚くべき事は実はそこではなかったのだ。
 突如としてこちらを見た青年が声をかけたのは、なんとメイシェンだったのだ。

「なんだ。垂れ目女か。今日の盾は赤毛猿じゃないのか」
「あ、あう!」

 どうやらメイシェンと知り合いのようだ。
 いや。垂れ目女とか赤毛猿とか、全く容赦ない酷評をしているように見えるが、視線も極めて剣呑ではあるのだが、ハーレイが笑いをこらえつつこちらを振り返ったところを見ると、本人的には決して悪く言っているわけではないのだろうと思う。
 しかし、事態を説明して欲しいのも事実である。

「えっと、知り合い?」
「あ、あう! 錬金科のキリク先輩」

 垂れ目女と酷評されることさえ初めてではないせいか、メイシェンの対応は至って平常だった。
 いや。完璧に平常というわけではないようだが、取り敢えず酷い混乱はしていない。

「ああ。一般人が鋼鉄錬金鋼で料理をするなんて暴虐に手を貸すとは思わなかったが、取り敢えずそいつの武器は俺が手入れをしている」
「武器ですか?」
「武器だろう」
「・・。まあ、武器ですね」

 確かにメイシェンが使ったが最後、あの包丁はナルキの斬撃よりも凄まじい切り口を創り出すことが出来る。
 それを考慮するならば、間違いなくメイシェンにとっての武器と言う事が出来る。
 いや。料理人にとって調理道具は、すべからく武器なのかも知れない。

「それで、貴様は誰だ?」
「僕ですか」

 成り行き上の興味以上は持っていないと言った感じの、殆どどうでも良い質問がやってきた。
 だが、レイフォンが何かを答えるよりも速く、キリクが驚いたような表情になった。
 そして、なにやら凄まじく鋭い視線でレイフォンを切り刻む。
 だが、その視線も一瞬のことだった。

「ヘタレ顔の武芸者。まさか、本当にいたのか、レイフォン・アルセイフ」
「い、いや。本当に居たのかって、どういう意味でしょう?」

 なにやら、伝説上の生き物を目撃したと言いたげな視線で見詰められた。
 そして、その脇ではとうとうこらえきれなくなったのか、ハーレイが爆笑を始めてしまっていた。
 ここまで来れば、おおよそ話が見えてくると言う物だ。

「ヘタレ全開で、ペットに成り下がったツェルニ最強武芸者。冗談だと思ったのだが」
「い、いや。確かにヘタレですし、ペットに成り下がったりもしましたが」

 ヘタレだと言われるのにはもう慣れた。
 フェリのペットとして社会的に認知されつつあることも、理解している。
 両方とも断じて納得は出来ないが。

「成る程な。ならば俺の作品をぶち壊してくれたのも貴様か」
「作品ですか?」
「ある意味、愛娘を弄ばれたと言い換えてもかまわない」
「いや。そんな度胸有りませんから」
「成る程。ヘタレだというのは本当か」

 何かツボにでも填ったのか、息も絶え絶えに全力で笑い転げるハーレイの手からアイスが零れ落ちるのが見えた。
 レイフォンの隣では、メイシェンがどう反応して良いか分からずに困り果てている。
 実はレイフォンだって困り果てているのだ。
 キリクの作品を壊したと言われたが、それが何か思いつかないのだ。
 だが、それはキリクの一言でおおよそ解決できた。

「複合錬金鋼だ」
「ああ! あれの制作者が貴方だったんですね」

 やっと納得がいった。
 前回の老性体戦で使った巨大な刀。
 見た事もない特色をいくつも兼ね備えた、あの錬金鋼がなかったのならば、おそらくレイフォンは今ここに居なかっただろうし、もしかしたらツェルニも存在していなかったかも知れない。
 そして、制作者が酷い人間嫌いで変人だという話も、ちらっとハーレイから聞かされたような記憶もある。

「無様な使われ方をして壊れたのではないかと心配だったが、剄の過剰供給で爆発したなどと言う話は、暫く信じられなかった物だ」
「滅多にそんな事にはなりませんからね」

 天剣授受者が複数居るグレンダンでさえ、剄の過剰供給で錬金鋼を破壊できる人間など滅多にいなかったのだ。
 他の都市ならばなおさら出会うことはないだろう。
 そして、あの状況では錬金鋼の破片一つ持ち帰ることは出来なかった。
 それが、ほんの少しだけ悔やまれている。
 キリクは誇りを持った立派な技術者なのだと理解してしまったから。

「それで、あれはお前の役に立ったか?」
「はい。あれでなければ乗り切ることが出来なかったです。僕が生きているのもツェルニが有るのも貴方のお陰です」

 深々と頭を下げる。
 ウォリアスの作戦があったから、ツェルニは残ったかも知れないが、レイフォンはどう頑張っても助からなかった。
 それをしっかりと確信しているからこそ、キリクへと頭を下げる。

「ふん! 道具なんぞは誰かの役に立って壊れるのが宿命だ。出来ればその壊れ方が有意義であって欲しいがな」

 そう言いつつそっぽを向くキリクが、何故か照れているように思えてならなかった。
 見た目分かりにくいが、案外可愛い人なのかも知れない。
 当然本人の前では、口が裂けても言えないが。

「この次はもっと良い物を造ってやるから、貴様はそれを有効に使う方法だけ考えていれば良い」
「出来れば、二度とあんな事が無い方が良いですけれどね」

 メイシェンに心配をかけるのもそうだし、レイフォン自身怖いことが好きというわけではないのだ。
 クラリーベルとかサヴァリスのような、戦いを楽しむという性癖を持っていない以上、死ぬかも知れない状況は出来るだけ避けて通りたいのだ。
 レイフォンのそんな思いを知ってか知らずか、キリクの興味は既に他へと映ってしまっているようだった。
 いや。これももしかしたら照れ隠しかも知れないが。

「それで貴様はいつまで笑っているつもりだ」
「ぷくくくく。ま、まって、変に笑いのスイッチが入っちゃって、も、もうちょっと笑わせて」

 第十七小隊のダイトメカニックは、死ぬのではないかと思えるくらいに笑い続けていた。
 取り敢えず、ハーレイが笑い終わり、キリクとの口論というか口げんか、問題点の洗い出しが一通り終わり、四人のお腹にアイスが消えてからメイシェンの包丁の調整が行われることとなった。
 そして驚いたことが一つ。
 散々ハーレイの研究室を掃除していたレイフォンだったのだが、キリクと合ったことはなかったのだ。
 これはこれでかなりの驚きと言える。



[14064] 第五話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:08


 一日の間に色々なことがあって、危うく忘れそうになっていたのだが、夜間の清掃作業という仕事があったのだ。
 昨日も色々あったが、今日も色々あったのだ。
 とある事情により、二名様ご宿泊招待券は未使用だ。
 その事情のために、おそらくこれからもツェルニ在学中は使う事はないだろうと思っている。
 それはレイフォンがヘタレだからと言う、どうでも良い理由と共に、もう一つ重大な事情に根ざしているのだ。
 だがしかし、レイフォンとて健全な思春期の少年であるからして、メイシェンとそういう関係になりたくないかと聞かれれば、是非ともなりたいとは思っているのだ。
 だが、その本能的な欲求に従うわけにはいかない極めて重要な事情も確かに存在している。
 これから先の事を考えると、いつまで理性が持つか疑問ではあるのだが、それでも全身全霊を持って耐え抜かなければならないと思っている。
 特にミィフィの協力が必要かもしれないとも思っているのだ。これ以上挑発をしないで欲しいという意味で。
 そして、今日はリーリンの様子も何故かおかしかった。
 批難するような視線で見られたかと思うと、何かほっとしたような溜息をついたり、その直後にはいきなり何かに腹を立てたりと、見ている合間に表情や雰囲気がころころと変わったのだ。
 これはこれで非常につかれる現象だったが、それも既に過去へと旅立っている。
 そして総決算と言えるのは、清掃作業を始めるための準備室に現れた、予想もしなかった人物との接触である。

「アルセイフ君か。相変わらずここで仕事をしているのだね」
「オスカー先輩?」

 機関部清掃のために訪れた控え室には、何故か食肉加工業を営んでいるオスカーが居た。
 もしかしたら、夜食の材料でも運んできたのかと思ったのだが、おそらくは違う。
 通常、夜食は業者が完成させた状態で機関部まで運んできて、そこで販売だけするというシステムを取っている。
 そうでなければ、食事の衛生管理が非常にやりにくくなるから当然で、ここにオスカーが居る理由が全く思いつけない。
 そんなレイフォンの疑問を察したのか、質問する前に答えてくれた。

「ここの責任者が、同じ都市の出身でね。色々と世話になっているので賄賂を届けに来たのだよ」
「賄賂ですか?」

 もちろん、本当に賄賂を持ってくるような性格ではないが、それに近い状況であることは間違いない。
 だが、オスカーほどの人物が世話になるという状況の方が信じられないのも事実だ。
 もちろん、色々な人との関わりを持つことが絶対に必要であることは間違いないが、それでも、こんな時間にオスカーがここに来なければならないほどの事態が分からない。

「実はだね」
「はい」

 いきなり声を落としたオスカーの方へ向かって、一歩進み出る。
 ここで大声を出されると少々驚いてしまうが、オスカーはそんな事をする人ではないと確信しているので、かなり安心だ。

「刀絡みの問題が起こっている時にだね」
「小隊に入ったばかりの頃ですね」
「そう。その時期にアントーク君とアルセイフ君が、同じエリアで仕事をしないように取りはからってもらったりしたのだよ」
「へ? 何でそんな事を?」

 刀を持つかどうかで悩んでいた時期は確かに有った。
 それは既にレイフォンの記憶の一部であり、迷って答えを出したという経験は間違いなく血肉となって今を作っている。
 だが、それとニーナと同じエリアにならないようにしたというオスカーの行動に、全く関連性を見いだせないのだ。

「アントーク君では、君に刀を持つ様に強要しかねなかったからね」
「・・・・・・。それは現実として既に経験済みですね」

 あの時のことは忘れられない。
 最終的にニーナが再稼働するまでに、二時間も必要だったのだ。
 だが、それはレイフォンが答えを出した後だったから、笑い話で済ませられるのだが、迷っている時だったらどうなっていたか、非常に疑問である。

「訓練の時などには干渉できなかったが、少しでも危険は減らしておきたかったのでね」
「え、っと。ご面倒おかけしました」

 レイフォンは、知らないところで色々な人に助けられて、今ツェルニで平穏無事に過ごしている。
 それを改めて認識して、深々と頭を下げたが。

「いや。アルセイフ君が我々のためにしてくれたことに比べれば、どうと言う事ではないよ」
「そんな大げさなことじゃないですよ。最終的には僕自身のためにやったことですから」

 幼生体の時も老性体の時も、最終的にはレイフォンが嫌な思いをしたくなかったから戦っただけで、ツェルニのことはおまけでしかない。
 おまけの方が巨大な気がするが、それでもレイフォンからすればツェルニがおまけなのだ。

「特別カリキュラムのこととか、小隊戦での君の戦い方とかも含めてだよ」
「そう言えば、そんな事もありましたね」

 老性体戦直前の、特別カリキュラムのことは今でもはっきりと覚えている。
 戦場を経験した武芸者として、後輩達に伝えるべき事を伝えなければならないと言う事は分かっているのだが、それでもかなりの負担であったことも間違いない。

「あのカリキュラム以降、武芸科全体の空気が一変したのは認識しているかね?」
「それは何となく」

 小隊対抗戦では、極力今まで通りにやるという暗黙のルールが出来上がっているが、その裏で行われている訓練はかなり過酷な物になっている。
 怪我人の出る割合が急速に高くなったのもそうだし、時間が長くなったのもそうだ。
 そして何よりも密度が高くなっている。
 全ては、レイフォンの行ったカリキュラムが切っ掛けになっているのだ。
 そもそも、そのつもりで行ったので何の問題も無い。
 休みが猛烈な速度でなくなっているという事実は少々困ってしまうが、それでもやらなかったよりは良かったと思っている。
 だがしかし、武芸者達の努力を一般人に知られてはならない。
 アルシェイラに言われたことは、おそらく正しいのだ。
 だからこそ、一般人には気付かれてはならないのだ。
 武芸者や念威繰者が人間でないと言う事を、本当の意味で気付かせてはいけないのだ。
 だからこそ、対抗試合は今までと同じようにイベントとして楽しんでもらっているのだ。
 レイフォンが変なノリで暴れ回っているのも、実はこの辺の事情と関連しているのだ。
 武芸者の実力など、武芸者だけが知っていればそれで良いのだと、ほぼ全員の意見は一致しているはずだから。

「アルセイフ君が来たことによって得た利益に比べれば、私の努力など全くもって足りていないよ」
「そんな事はないと思いますよ。隊長のこととか」

 ニーナにブレーキをかけたのはオスカーだと聞いている。
 カリアンの暗躍によって、失敗させられたらしいと言う話はウォリアスから聞いたが、オスカーがニーナを止めたことに変わりはない。

「あれは、少々予想外だったがね」

 カリアンに対する憤りか、それとも他の何かなのか、オスカーの表情から穏やかさが急速になくなって行く。
 これはかなり怖いことになりそうだと、本能が告げているような気がする。
 なので、全力で話を誤魔化すことにした。

「そ、それよりも、こんな夜遅い時間に出てこなくても良かったでしょうに」
「うん? それは簡単だよ。私の知人は夜行性なので昼間はたいがい寝ているのだよ」
「・・・・・。何処の吸血鬼ですか?」
「本人は、山猫の末裔だと言っているが」

 山猫がなんなのか少々疑問ではあるのだが、どうやら相当逝ってしまっている人のようだ。
 あまり近付かない方が良いかもしれない。
 レイフォンがそう判断したのを見計らったかのように、オスカーが退室を宣言し、代わってニーナが入って来た。
 これから徹夜の清掃が始まるのだと、いやが上にも実感した瞬間だった。
 だが、サマーズ医師の小火器による治療でひどい事になっていたはずだと思い出し、しげしげと観察してみたのだが、痕跡を発見する事は出来なかった。
 手加減した攻撃だったのか、それとも活剄を総動員して治したのか、全く不明だが関わらない方が良いかもしれないと判断して、何も聞かずに機関部の清掃作業を開始した。
 
 
 
 念威繰者であるフェリは、あまりにも恐ろしいことを思いついてしまったために、そんな自分を恥じて外縁部へとやって来ていた。
 そう。それはあまりにも恐ろしく、そして魅力的すぎたのだ。
 そして何よりも、計画を実行することは極めて困難であり、ツェルニ最高権力者であるカリアンの助力を得たとしても、おそらく実現することが不可能な物だった。
 そんな非現実的な計画を立ててしまった自分を恥じて、フェリは気分転換を兼ねて外縁部へとやって来たのだ。
 そして、エアフィルターを突き抜けた外の世界へと念威端子を飛ばす。
 汚染物質による焼け付くような感覚は、選択的に排除。
 その状態で、感覚を広げる。
 空気の揺らめきや、殆ど誰にも気付かれていないだろう、微生物が活動する様子を堪能しつつ、端子を遠くへと飛ばし、更に遠くの物を見るために意識を集中する。
 暫くそうやって、誰よりも遠くを認識している間に、徐々に精神が落ち着きを取り戻してきたことを認識した。
 あのまま、情熱に任せてしまっていては取り返しの付かないことになったかも知れないが、その危険は回避されたのだ。
 かなり遠くへ飛んで行ってしまった端子に、帰還命令を出そうとしてふと気が付いた。
 何かがおかしいと。
 端子が送ってくる情報に精神を集中させ、可視光線から紫外線、そして赤外線、更に磁気の状況などを総合して、その巨大な物体が何かをやっとの事で理解した。
 このままツェルニが進めば、二日ほどで到達する場所に、それは有った。

「これはどうしたことでしょう?」

 どうしたことかと独りごちながらも、実は考えていることは違うのだ。
 むしろ、これをどうしようかと考えているのだ。
 あまりにも異常な事態のせいで、フェリでさえとっさに決断できなかった。
 だが、取り敢えず陰険腹黒眼鏡な肉親に面倒ごとを押しつけることにした。
 こう言う時にこそ、コネというのは使うべきなのだ。
 実の兄をコネと呼んで良いかどうかは別問題として。
 
 
 
 機関部での清掃という重労働が終了する直前のことだったが、いきなりニーナが呼び出された。
 当然と言えば当然だが、呼び出したのは生徒会で、もっと正確に言えばカリアンだ。
 そして更に当然のこととして、同じエリアで働いていたレイフォンも一緒に付いてきてしまった。
 別段帰っても問題はなかったのだが、夜明け直前の呼び出しなどと言う物は、間違いなく緊急事態である。
 最終的にはレイフォンも呼び出されると見て間違いない。
 最悪の状況として、眠りに落ちた瞬間に叩き起こされるという、これ以上ないくらいにきつい展開だってあり得るのだ。
 ならば、眠らないでそのまま一足先に行動しておいた方が、まだ精神的な疲労の度合いが少ない。
 汚染獣との戦闘が数日間に及ぶのはよくあることなので、眠らずに行動を続けると言う事は何ら問題無い。
 機関清掃の後に、授業を受けることに比べたら何ら問題無いくらいに、どうと言う事がない。
 だが、少々困った物を見てしまってもいた。

「フェリ先輩?」
「何でしょう?」

 なにやら非常に不機嫌そうな表情と声と共に、第十七小隊の念威繰者が返事をしてくれた。
 完璧に制服を着こなして、何時も通りの髪型で、その身だしなみに一切の緩みもない。
 それはこの部屋にいるもう一人の人物、カリアンについても同じ事が言える。
 もしかしたらこの兄妹は、自宅でも制服をきっちりと着ているのかも知れない。
 いやいや。眠る時にも一糸乱れぬ身だしなみを心がけているという危険性だって有る。
 そんな恐ろしいところに住むことにならないとは思うのだが、それでもあまり近付きたくはない。

「何かあったのですか?」

 そんなレイフォンの心境など知らぬげに、全く何時も通りにニーナがカリアンへと質問を放つ。
 ふとここで恐ろしいことを思いついてしまった。
 ニーナの家も、母都市では裕福なところだと聞いたことがある。
 ならば、やはり眠る時にも身だしなみに気をつけて、完璧な寝相を実現しているのかも知れない。
 大勢での雑魚寝が基本であり、寝相の悪い子に蹴飛ばされることも日常茶飯事であり、レイフォン自身何度も他の子を寝床から叩き出したことも有る身としては、驚くと共に恐怖も感じてしまっていた。

「もう少し待ってくれ給え。後二人ここに来る予定なんでね。その間に朝食でもどうかね? まだだろう?」

 あまりにも恐ろしいその予想を徹底的に消去している間に、カリアンが手配しておいたのだろう軽めの朝食が運ばれてきた。
 ロールパンに切れ目を入れて、ジャムを塗った物とサラダ、そして紅茶を胃の中に流し込み終わった直後、やはり恐るべき物が視界に飛び込んできた。
 完璧に制服を着て、起き抜けの表情など微塵も見せない武芸長のヴァンゼだ。
 その後ろには、やはり完璧に覚醒している第五小隊のゴルネオまで居る。
 もしかしたら、裕福なところの人間は、眠る時にも身だしなみをきっちりとして、僅かな乱れもない完璧な寝相を実現しているのかも知れない。
 孤児出身で貧乏が身体に染みついているレイフォンは、この時ほど自分の境遇を喜んだことはなかった。

「朝早くから済まないね。少々問題が発生したので君達に集まって貰ったのだよ」

 そう言いつつカリアンが抽斗から取り出したのは、何時ぞやの老性体戦の前に見たのと全く同じ封筒だった。
 思わず引く。
 またあんな物騒な奴とやり合うのかと思うと、恐ろしく寿命が縮む思いだ。

「二時間ほど前に無人偵察機が持ち帰ってきた写真なのだが」
「二時間だと? またえらく急いでいるな」
「先に情報があったのでね」

 そう言うカリアンの視線が、ほんの一瞬フェリを捉えたような気がした。
 となれば、フェリの念威で先に異常を察知。
 それを確認するために偵察機を飛ばして、確認のために写真を現像。
 その直後ニーナ達に非常招集が掛かったのだと予測できる。

「これは!」

 だが、そんなレイフォンの予測などお構いなしにヴァンゼの驚きの声が聞こえてきた。
 また汚染獣だ。
 今度こそメイシェンを泣かせてしまう。
 そんな事を考えたのは、しかし一瞬のことだった。

「そう。レギオスだよ」
「え?」

 カリアンの声に、思わず間抜けな声を出してしまった。
 てっきり汚染獣がやってきていて、その迎撃任務に駆り出されるのだと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。

「それは分かるが。まさか都市戦か?」
「いや。それは違うはずだよ。この辺を見てくれ給え」

 偉い人が二人で何かやっているのは分かるが、取り敢えず汚染獣でないことがはっきりしたので一安心しているレイフォンにはどうでも良いことだ。
 だが、そうすると非常招集の意味が分からない。

「これがどうしたというのだ?」
「見た事があるような気がしないかい?」
「・・・・・・・・・! まさか」
「そう。ツェルニが唯一保有しているセルニウム鉱山だよ」

 余所のレギオスの保有する鉱山に近付くというのは、殆ど考えられないことではある。
 頻繁に有るようなら、そもそも都市間戦争や武芸大会など始めから意味がないから。
 だが、何か突発的な理由で起こる確率は存在する。
 例えば、都市のエネルギーが極端に少なくなり、本来自分の持っている鉱山までたどり着けない場合などだ。
 だが、それでも少しおかしいと思う。
 もし、都市の飢餓状態が深刻だとした場合でも、採掘するのは最低限のセルニウムのはずだ。
 本格的な補給ではないのならば、長居する必要はない。
 にもかかわらず、ツェルニが発見できる距離に近づくまでその場に居続けている。
 ならば、かなりの異常事態であると判断できてしまう。

「都市と言えども、飢餓には勝てなかったと言う事なら良いのだが」
「問題はそこだね。この写真は夜間に撮影されているが、灯りが全く見えていないのだよ」
「それはつまり」

 何か通常では考えられない事態が起こったという事だ。
 そして、それこそが非常招集の原因である。

「第五および、第十七小隊には、この都市に出向いて貰って危険の有無を確認して貰いたい」

 危険があった場合、ツェルニは全力の迎撃態勢を構築できる。
 無ければ何の問題も無く、鉱山での補給に専念できる。
 どちらにせよ、偵察しないなどと言うことは考えられない。
 そこで最大の戦力を有する第十七小隊と、レイフォンの事を一番理解しているゴルネオの第五小隊が選ばれた。
 至って順当な判断であると、そう結論付けられてしまう。
 何か裏があるかも知れないと考えてしまうのは、目の前にいる、腹黒陰険眼鏡の人となりのせいである。
 
 
 
 順当な判断であると思っていた。
 ツェルニ最強のレイフォンを有する、ニーナが指揮する第十七小隊と、ツェルニで唯一天剣授受者などと言う化け物を理解しているらしいゴルネオが指揮をする、第五小隊の混成部隊。
 その混成部隊が出向いて、謎の都市を調べる。
 そのはずだった。

「なんでナルキがここに居るの?」
「い、いや。私に聞かれても困るんだが」

 そう。問題なのは、ニーナの目の前で困惑しきりに首をかしげている赤毛で長身の武芸者だ。
 攻撃力だけを取れば、明らかにツェルニでも最強の一角に数えられるというのは理解している。
 前回の老性体戦でも、レイフォンのバックアップ要員として、万が一の囮として派遣されていたほどに、優秀な武芸者であることも理解している。
 だが、それでも、納得できていないニーナが確かに存在している。
 いくら優秀だとは言え、一般武芸者であり、更に一年生であるナルキがここに居る理由が、皆目分からないのだ。
 いや。レイフォンのような規格外ならばまだ分かるのだが、最終的にはナルキは規格内に収まる武芸者である。

「夜勤をしていたらいきなり呼び出されて」
「あれよあれよという合間に、ここに連れてこられてしまったわけだね」
「ああ。さっぱり訳が分からないんだが、また老性体とか言わないだろうな?」

 ここはツェルニの最下層。
 都市外作業の拠点となる場所であり、ランドローラーの発進口も存在している。
 言うなれば、ここから先は都市外と言う事である。
 そして、つい一月ほど前に老性体との戦いに赴いたのも、やはりここだった。
 ニーナは見ていないが、間違いなくここから出撃したはずだ。
 ならば、ナルキの心配も十分に理解できようという物だ。

「今回は、汚染獣って訳じゃないみたいだけれど、何が何だか良く分からなくて」
「成る程な。何が起こるか分からないから、動員できる最大の戦力で望む。戦術の基本だな」
「そうなの?」
「この間ウッチンがそんな事言っていただろう」
「そう言えば、そんな事言っていたかも知れないね」

 テンポの良いナルキとレイフォンの会話が耳を通り過ぎて行く。
 付き合いは既に一年以上と言う事もあり、お互いの呼吸が完璧に飲み込めているようで、その会話には一寸の隙も存在していない。
 だが、事実としてナルキが呼ばれたのは、ある意味数合わせでもあるのだ。
 現在ニーナ達が着ている新型の都市外戦装備は、まだ数をそろえる事が出来ていないために、第五第十七の二個小隊分と、もう一着しか無かったのだ。
 そして先に声をかけたのがイージェだったが、こんな朝早くから働く事を拒否。
 次に声をかけたナルキが無事捕まったという事情も実はあったりするのだが、全部説明する必要はないと、心の中にしまっておく。

「じゃあ、これナルキの錬金鋼だよ。昨日少し設定を弄ったから確認してみて」
「分かりました」

 沈黙を保っている間に、二人の会話に、自然に割って入ったのはニーナの幼馴染みで、ダイトメカニックのハーレイだ。
 存在感が薄いと言われるが、それでも自分の仕事をきちんとこなしているという立派な幼馴染みだ。
 そしてナルキが復元した錬金鋼を見て、少しだけ意外に思った。
 全体的には以前レイフォンと戦った時や、幼生体戦の時と変わらないが、刃文が数珠刃に変わっていることと、反りが深くなっていてどちらかと言うと優しい匂いを放っているように見える。
 明らかに刀の性質が変わっている。
 以前は、突きを主体にしていた刀の作りが、今は挽き切ることを主体にしているように見える。

「うんうん。刀はやっぱり反りがないと刀らしくないね」
「まあ、ここ最近何とか切ることが出来るようになってきたからな」

 レイフォンが刀を持つようになって二ヶ月少々。
 その間にナルキの鍛錬も色々と変わったのだろう。
 その変化の象徴が今手にしている刀なのだろう。

「キリクが、速く猿から人間になれって言っていたよ」
「そう言われても、難しいんですよこれ」

 素振りを繰り返し、違和感がないかを確認しているナルキがぼやく。
 ニーナ自身切る武器と言う物とは縁がないが、レイフォン達が使っている刀の潜在能力を引き出すことは、かなり難しいと言う事だけは認識している。
 だが、実はもっと違うところで不信感を抱いていたのだ。

「シャーニッドは何処へ行った?」

 そう。夜勤明けだとは言え小隊員でないナルキが来ているというのに、ニーナの部下であるシャーニッドがまだ来ていないのだ。
 まあ、性格的に言って真っ先に来ることはないと思っていたが、それでももうすぐ出発時間になろうという頃合いになってまでこないというのは、全くもってけしからん事態だ。

「シャーニッド先輩? 呼び出しはかけたから、もうすぐ来ると思うけれど、ああ、来たよ」

 ナルキの錬金鋼の確認が終わったハーレイが、視線で指し示した先には、確かにシャーニッドが居た。
 だが、その立ち居振る舞いはあまりにもだらしなく、まだ半分眠っているとしか思えないほど弛みきっていた。
 いや。完璧に眠っているニーナでさえもっとしゃきっとしていると断言できるほどに、弛みまくっている。

「よう。こんな朝っぱらから元気だねぇ」

 来て早々、弛みまくった声と共にそんな挨拶がやってくる。
 既に第五小隊は完璧に出発準備を整えているというのにだ。

「出発した後に詳しく説明してやるから、さっさと着替えてこい」
「へいへい」

 もちろん、付き合う理由など無いので、早々に都市外戦闘衣一式を差し出して追い立てる。
 やはり弛みきった表情で差し出された戦闘衣を眺めたシャーニッドの視線が、ニーナに向けられ、更にフェリへと流れ、ナルキを素通りしたところで再びニーナに注がれた。
 そして一言。

「なんだかエロイな」
「さっさと着替えてこい!!」

 荷物をまとめてシャーニッドへと叩きつける。
 第五小隊の方から、失笑が聞こえてきたが、それを全力で無視する。
 そして、何故かナルキの殺意の視線がシャーニッドを追っているのにも気が付いていたが、それも無視する。
 何故か、何時如何なる時でも飄々としているシャーニッドの、その雰囲気に助けられたことは多いのだが、それでもこう言う場ではきちんとして欲しいと思うのだ。

「どうしたの、こんな朝早くにこんな場所に?」

 そんなニーナの心境を察しているのか居ないのか、何故か頷いていたレイフォンの視線が、いきなり上へと続く階段付近へ注がれた。
 シャーニッド以外の準備は終わっているので、ニーナもそのレイフォンの視線に習って階段付近を見て、そして驚いた。
 メイシェンを中心に、リーリンとミィフィがいきなり出現していたのだ。
 老性体戦でも、見送りに来たというメイシェンだから、今回もそのために来たのかも知れないと思うのだが、まだ夜も明けきらないこんな時間にやってくるとは思っていなかったのだ。
 そして、ニーナの驚愕が消え去るよりも早くにメイシェン達三人がレイフォンへと近付く。
 なにやら決意の色も堅く、強ばった表情をしたメイシェンは良いだろう。
 もしかしたら、目的の都市に危険が待っているのかも知れないのだ。
 既に心配でたまらないのだろうと予想できる。
 だが、問題はそのメイシェンを挟んでいる二人の方だ。
 二人とも、ニヤニヤと下品に見える笑いを浮かべているのだ。
 ミィフィが浮かべる分には何の問題も無い。
 問題はリーリンだ。
 ある意味、何か人格が壊れてしまって再構築したのではないかと思えるほどに、なにやらニヤニヤとしているのだ。
 そして、二歩先に進んだメイシェンがレイフォンの前に立ち、脚を肩幅に開き、右手が素早く動き、胸の内ポケットから何か銀色に耀く細長い金属片を取り出して、レイフォンに突きつけた。

「? な、なに?」

 あまりにもあまりな展開に、全く反応が出来ないレイフォンの心境は十分以上に理解できる。
 その金属片が何かを認識したニーナだって理解できないのだ。
 メイシェンが右手でレイフォンへと突きつけていた、その金属片の正体とは、スプーンだったのだから。
 何処にでも有る、ティースプーンである。
 特に高価な物でもなければ、何か呪いの品というわけでもなさそうである。
 そんな状況だから、全員の注目がメイシェンとレイフォンに集まった、まさにその瞬間。

「浮気したら、眼球抉っちゃうぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 数秒の沈黙が降りてきた。
 そして、その直後に凍り付いた。
 時間がでは無い。
 ツェルニでもない。
 レイフォンや他の人達でもない。
 メイシェンが凍り付いてしまったのだ。
 何が何だか分からない。
 だが、一瞬の時間差を置いて理解した。
 メイシェンが何故凍り付いたのかと言う事をだ。
 浮気を許さないと言う事はすなわち、貞操権の主張に他ならない。
 それが出来るのは、法的な手続きを終了させた夫婦か、あるいはそれに極めて近い関係の者同士だけ。
 言った後になってそれを理解したのだろうメイシェンは、凍り付きながらも蒸気を吹き上げるという奇跡的な現象を実行している。
 そして、ニーナの理解が進んだ今になっても、周りの人間は沈黙を保ち続けている。
 だが、そんな沈黙に支配された場でも動ける人間がいた。
 ミィフィとリーリンだ。
 凍り付いて固まったメイシェンを、ゆっくりと仰向けに横たえたのだ。
 何時の間にか用意されていた担架の上へと。

「それじゃあ逝ってらっしゃい」
「気をつけて逝ってくるのよ」

 そんな台詞を残して、凍り付いたままのメイシェンを担架に乗せたまま、何時の間にか呼んであったエレベーターで上の階へと消えて行く。
 全く意味不明でいて唐突な展開である。

「え、えっと。浮気って、僕にそんな甲斐性有るのかな?」
「安心しろレイとん。お前にそんな甲斐性はないから」
「そうだよね。僕にそんな甲斐性有るわけ無いよね」

 何故か安心したように微笑むレイフォン。
 激しく何かが間違っていると言う事には、気が付いていないようだ。
 いや。間違っていないのだろうか?
 それはそれとしても、出発前に既に疲労困憊してしまっている自分を、唐突にニーナは発見してしまった。
 出来ればこのまま帰って仮眠を取り、授業に出るという日常へと復帰したいとさえ思ってしまう。

「おまっとさん! って、なんか有ったのか?」

 そんな疲れ切った空気を掻き回して、活力を呼び戻す声が聞こえてきた。
 遅れてやって来たシャーニッドが、準備を終えて戻ってきたのだ。
 片手を上げて挨拶した姿勢のまま、あまりにも異常な空気を感じ取り固まっているが、もはやそれは問題にならない。
 もう、疲れ切った空気は霧散しているのだから。
 そしてニーナは感謝したい気持ちを持っていたのだ。
 この時ほど遅刻魔の上級生が有難いと思ったことはなかった。
 これはこれで、もの凄く何か間違っていると思うのだが、兎に角出発することが出来そうで安心した。
 
 
 
 
眼球抉っちゃうぞについて。
MF文庫j 日日日(あきら)作の蟲と眼球シリーズから引用。
少々癖があるけれど割とおもしろかったのと、とある事情で最後のパートを作り直したためにメイシェンに泥をかぶってもらいました。



[14064] 第五話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:08


 老性体戦でも使った、都市外作業指揮車に揺られること丸一日。
 レイフォン達、ツェルニ偵察部隊は見事に廃都市と思われる場所にやってきていた。
 その足は完全に止まっているが、有機プレートの自己修復機能は生きているのか、エアフィルターを抜けて汚染物質に触れた草が枯れて、微かな風邪に揺らめいているのを確認出来る。
 見るからに寂しげな光景であるが、もし今年の武芸大会で敗北をしたのならば、ツェルニがたどる未来予想図でもあるのだ。
 その目に焼き付けておかなければならない光景ではあるのだが、偵察という仕事上あまり感傷に慕っていることも出来ない。

「放浪バスの引き上げ機は破壊されているようだ。そちらはどうですか?」
『こちらには停留所そのものが見あたらない。ワイヤーを使って上がるしかないだろう』

 別な方向を調べていたゴルネオとの通信が、念威端子を通して耳に飛び込んでくる。
 状況はのっけからかなりシビアな展開であるようだ。
 誰にも気が付かれることなく溜息をついたレイフォンは、鋼糸を復元して上へと伸ばす。
 伝わってくる感触を確認して、丈夫そうな建物の幾つかに絡め、自分の身体と装備合わせて百キルグラムル程度の重量を引き上げようとした。

「フォンフォン」
「はい?」

 そんな時に声をかけられた。
 もちろんフェリからである。
 いや。これでニーナにまでフォンフォンと呼ばれたら、世を儚んでヨルテムに逃げ帰ってしまうかも知れないから、それはそれで良いのではあるのだが、何故このタイミングで呼ばれたのか皆目見当が付かないのが恐ろしいところだ。
 ここでいきなり料理をしろとか言われたら、それはそれは困ったことになる。
 汚染物質のせいで、すぐに食材が駄目になってしまうからだ。

「私も上げて下さい」
「? 鋼糸でですか?」
「ええ。ワイヤーに掴まって上るのは面倒で疲れるので」
「・・・・・・・。分かりました」

 とても恐ろしい注文を付けられるのかと思っていたが、レイフォン的には非常に簡単な内容だったので、若干のタイムラグを持って了承した。
 そう。レイフォンにとっては造作もない簡単なことである。

「ナルキも頑張って上るんだよ」
「鋼糸でか? 上るのか? ここを?」
「うん」

 ナルキの鋼糸は、本来移動の補助や対空迎撃のような、あまり力のかからないことに使われている。
 だが、やはり得意ではないにせよ、出来るのと出来ないのでは大きく違う。
 と言う事で、強制的に鋼糸で都市まで上がって貰うことにした。
 当然、慣れないことをするために非常に疲れるはずだが、鋼糸自体あまり使うことがないために、出来るだけ状況を見つけて訓練しないと何時までも出来ないと思うのだ。
 念のためにではあるが、もし万が一ナルキが転落した時にも、大怪我をしないように少し下にレイフォンの鋼糸でネットを作ってある。
 ナルキの実力ならば、空中で姿勢を立て直して綺麗に着地できるだろうが、念のためだ。
 レイフォンのその心配を認識していないはずのナルキが、鋼糸を復元して上方へと伸ばす。
 長さ的には十分ではあるのだが、剄量が違うためにレイフォンとはその速度がだいぶ違うのは仕方が無いことだ。
 と言う事で、フェリと自分を合わせた重量を軽々と扱って都市部へと先に上がる。
 ニーナとシャーニッドも、ワイヤーを使ってゆっくり上がってくるが、ナルキへ向ける視線が哀れみのそれになっているのは当然だろう。
 だがしかし、既に第十七小隊員達にとっても人ごとではなくなりつつある。
 ナルキの特訓がイージェのしごきに変わりつつある今日この頃、レイフォンに精神的な余裕が生まれつつあるのだ。
 だが、そんな未来の予測をしていられるのもそれ程長い時間ではなくなっている。
 もうすぐ都市部へと到着してしまうのだ。
 この先何が出てくるか、非常に恐ろしい。
 前回の老性体戦は、ある意味馴染み深い敵が相手だったが、今回はどんな事態がやってくるか分からないのだ。
 それは極めて恐ろしいことである。

「現在までのところ、都市部に、敵性あるいは生体反応はありません」
「分かりました」

 フェリがそう言っているのだから、ほぼ安全であると思うのだが、それでもレイフォンは鋼糸を伸ばして微細な振動を感知し続ける。
 その情報量の多さに、脳が沸騰しそうな感覚を覚えるが、半分以上条件反射的にやってしまうのだ。
 それというのも、念威に引っかからない老性体とか居たら、それこそ万事休すだからだ。

「私の念威が信じられませんか?」
「信じていないわけではありませんが、習い性というか条件反射的な反応ですね」
「無駄な努力だとは思いませんか?」
「生き残るためだったら、どんな努力だってしますよ。例えそれがテストのために徹夜することだって」

 未だに、老性体と戦うよりも、テストのために勉強することの方が苦しい。
 そう考えると、未知なる脅威に立ち向かっている今の状況の方が、遙かにましであるという結論も出てくる。
 少し気が楽になった。
 自分でも単純だと思うのだが、それでも気が楽になったのは確かだった。
 
 
 
 都市部へと到着したニーナが目にしたのは、ある意味異常な光景だった。
 見渡す限りに広がる廃墟。
 そしてあちこちに広がる血の跡。
 ただそれだけだった。
 視界の限り、人工物は尽く破壊されているし、戦いの跡も垣間見える。
 だがしかし、遺体が全く存在していないのだ。
 これほど異常な光景という物は未だかつて見たことがない。
 そして、最もこう言う惨状に慣れているはずのレイフォンへと視線を向けるが、やはり同じように辺りを見回しているだけだった。
 そうなると、これは異常の中の異常と言うことになってしまう。
 そんな恐るべき現象が起こった都市の側へと、ツェルニがやってくる。
 冗談ではないと叫びだしたい気分だ。
 つい一月前に老性体という化け物と遭遇したばかりだというのに、再びこんな異常事態と遭遇するとは思わなかった。

「何が有ったと思う?」
「分かりません。遺体が完全に無いなんて事は考えられないんですが」
「少し前にツェルニが襲われた、あの数の多い奴は?」
「幼生体ですか? それだと建物はもっとこう、横から押し倒されていないといけないんですが、上から押しつぶされた感じで壊れていますから」
「だとするとだ。誰かが遺体を片付けたと言う事か?」
「それは有るかも知れませんが、断言は出来ません」

 シャーニッドも同じように疑問を感じたようで、レイフォンへと質問したが、やはり明確な答えは返ってこなかった。
 ならば、何か証拠を探さなければならない。
 何が起こったにせよ、その痕跡は残っているはずだ。
 その痕跡を繋ぎ合わせて、真実を突き止める。

「と言う事でナルキ」
「は、はい?」
「警察官としてのお前の出番ではないかと思うのだが」
「い、いや。私は強行捜査課で、頭を使って難事件を解くのは専門外なんですが」
「そうなのか?」
「そうなんです」

 捜査ならば、捜査の専門家と思って声をかけてみたのだが、どうやら捜査にもそれぞれ専門があるようでナルキには無理なようだ。
 となると、もう一人の一年生の顔が思い浮かぶのだが。

「ウォリアスを連れてくるべきだったか?」

 頼るのはしゃくではあるのだが、それでもウォリアスが居ればきっとなにがしかの答えを出してくれたのではないかと、そう思うのだ。
 だが、ナルキとレイフォンの予測は明らかに違っていた。

「ウォリアスがこんなところに来たら」
「何処かの図書館に入り浸って、とても捜査なんてしないと思いますが」

 言われて見て考える。
 古文都市レノスというのは、古い資料をかき集めることを最大の目的にしているような都市だと聞いた。
 そして、ウォリアスという人物は明らかにその都市の影響をもろに受けている。
 いや。これ以上ないくらいに情報収集という物に情熱を傾けている節がある。
 ならば、住民が居なくなった都市の情報を根こそぎ持って行こうと、あらん限りの非道な行いをするとしても何ら不思議はない。
 いや。むしろ死んだ人に情報なんて要らないと嘯きつつ、極秘資料を喜々として強奪して行きそうだ。

「あり得るな」

 連れてこなくて良かったと、そう言う結論へ達した。
 確かに、死んだ人達に情報など不要なのだろうが、それでも、墓荒らしを目の前でやられて気分がよいはずはないのだ。

「そもそも、ウォリアスは戦略・戦術研究室に詰めっきりで、殆ど出てこないらしいですよ」
「そう言えばリーリンがお風呂に入れろって僕に言って来ていたっけ」

 ニーナが挑んだ時に、既に二日連続で殆ど寝ていなかったはずだ。
 その後も状況があまり変わらないのだとしたら、それはそれで非常に困ったことになってしまうと思うのだが、カリアンやヴァンゼはその辺きちんと考えているのだろうかと疑問に思う。
 必要なことは間違いないのだろうが、結果を出す前につぶれられても困るのだ。

「風呂に入れろだと?」

 だが、問題は実はそこなのだ。
 リーリンは女子寮に住んでいることからして確実に女性であることは間違いない。
 ウォリアスの方は少々疑問ではあるのだが、ほぼ確実に男性であるはずだ。
 女性が男性を風呂に入れる。
 それはそれでかなり問題のある展開だと思うのだが、本人達はあまり気にしないのだろうかと疑問にも思う。

「デッキブラシで洗われて泣いてるウォリアスって、なんだか想像できないか?」
「泣きながらこれからはお風呂に毎日入りますって、許しを求めるところなんか完璧に想像できますよね」

 男二人の認識は一致しているようだ。
 視線を横にずらしてみると、ナルキも頷いている。
 一皮むけたウォリアスと遭遇することになるかも知れない。
 そんな事を一瞬考えたが、話が著しく離れていることにも気が付いていた。
 そもそも、レイフォンに風呂に入れろと言っているのだ。
 リーリンが入れるというわけではないはずだ。
 無いはずだが、レイフォンはただ今現在この廃都市にいる。
 つまりそれは、リーリンがウォリアスをデッキブラシで洗うと言う事で。

「・・・。この状況の詮索は後回しだ。今は危険がないかを確かめることの方を優先する」

 あり得るかも知れない破廉恥な情景から目を逸らせるために、今やらなければならないことを口にする。
 本来ニーナ達はそのためにここに来たのだ。
 目的をきちんと決めて、それを達成するための方針を決める。
 それこそが、失敗しないコツだと指揮に関する教科書の何処かにかいてあったと思う。
 ならば、目的に沿って行動すべきである。

「・・・・・・・・・・・。シェルターや機関部などに、生存者がいると思うか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。それはどうでしょうか? 断言は出来ませんが、期待は薄いかと」

 危険がないかを確認するためには、やはり情報が欲しい。
 もちろん、端末情報を持ち出すのも重要なことだが、それ以上に生きた情報源を確保できれば、それに越したことはない。
 だが、都市がこの有様では、生存者が居るという可能性は極めて低いと、レイフォンに言われるまでもなく理解している。
 とは言え、探す価値が全く無いというわけではないのだ。

「第五小隊と合流して、向こうとも話し合った方が良いな」
「第五小隊は北回りに都市を回ってくるそうです。あちらに合わせるとすると一時間半後に合流できるかと」

 向こうの念威繰者と連絡を取り続けていたらしいフェリの報告を聞いたが、それは少し時間がかかりすぎるとも思う。
 とは言え、状況が分からないのに分散しているのは極めて危険だ。

「分かった。周りを警戒しつつ移動して第五小隊と合流する」

 分からない以上、基本に忠実になるのは仕方のないことだ。
 正体不明の敵に各個撃破されるという危険性は、レイフォンが居る以上ほぼ考えられないが、第五小隊は少々危険かも知れない。

「・・・・・・・・・・・・・。私は何を考えている?」

 だがすぐに気が付いた。
 最終的には、ここでもレイフォンに頼ってしまっているのだと。
 これではいけない。
 出来る限り頼らずに、自分の手で事を成し遂げなければならない。
 改めて気合いを入れ直したニーナは、合流予定地点へと向けて足を進め始めた。
 
 
 
 一度合流した捜索隊だったが、そのままでは非常に効率が悪いのは覆しようのない事実だった。
 と言うわけで、現在は離れすぎない程度の距離を置いて捜索活動をしている。
 具体的には二キルメルトル程度までを限界として、相互に監視と警戒の網を張りつつ捜索している。
 第十七小隊は、現在シェルターの中を調査中だ。
 それを念威端子越しに監視しつつ、フェリは絶対にあの中には入らないと堅く心に誓っていた。
 端子を通してでもはっきりと血の匂いが伝わってくるのだ。
 入ったら当分取れないと確信できるだけに、絶対に入らないし風下側にも立たない。
 何故そんなに意固地になっているのかと問われたのならば、それは簡単だ。
 数日前に大量に貰ったメイシェンのお菓子に、変な匂いが付いたら台無しだからだ。
 そう。今この瞬間も、フェリの持つ鞄の中には大量のクッキーが詰め込まれているのだ。
 最優先目標は、そのクッキーを死守することである。

「・・・・・・・・・・・。何かが違います」

 そう。何かが決定的に違うような気がする。
 だが、判断そのものは間違っていないはずだ。
 端子を送り込んで調べれば、話は簡単であるにもかかわらず、ニーナが何故か張り切ってシェルターへと突撃してしまったのだ。
 乾ききらない血だまりに支配されている、全滅しているシェルターにだ。
 何をそんなに熱くなっているか、さっぱり分からないが、付き合う義理は無いので外でゆっくりとみんなが帰ってくるのを待つ。
 引きずられて入ることになった、シャーニッド達は可哀想だが、犠牲は必要なのだ。
 そんな事を考えつつ無意識的な動作で手が鞄に伸びようとするが、それを寸前で止める。
 ここはツェルニではないのだ。
 万が一にでも長期滞在となったら、補給することが出来ない貴重物資となりかねない。
 そんな危険極まりない事態を予測して、消費を抑えなければならないのだ。

「鉄の意志で食べるのを我慢しましょう」

 レイフォンに頼んで作ってもらうという手もあるが、材料が満足に残っていないことだって考えられるのだ。
 慎重になるに越したことはない。
 そんな、猛烈な葛藤を生む時間はしかし、唐突に破られた。
 当然のことだが、ニーナ達がシェルターから出てきたのだ。

「くわぁぁ! たまらん」

 大げさに悲鳴を上げて深呼吸するのはシャーニッドだが、流石のニーナもその行動を咎めようとはしていない。
 中の光景は端子で確認した以上の凄まじさだったのだろう。
 入らなくて良かったと、心の底から安堵を覚えた。

「やはりかなりおかしいですね」
「何がだ? あれ以上に凄惨でないと駄目だとか言うなよ」

 臨時で第十七小隊へ編入されたナルキが、レイフォンの呟きを拾って非難がましい声を上げている。
 当然その顔色は優れず、はっきり言って一番ダメージを受けているように見える。
 汚染獣戦の時は、小隊員としても上位の実力を見せつけるのだが、流石に全滅したシェルターなんて物に入るのは初めてのことなのだろう。
 ナルキの心境は十分に理解できるし、ニーナに引きずられてしまったことも悲劇であると同情してしまう。

「食べ残しがない」
「食べ残しって、もしかして」
「うん」

 言うなと、ナルキが視線で訴えかけているが、そんな物に気が付くようにレイフォンは出来ていないのだ。
 軽く呼吸を整えると。

「シェルターの状況からすると、汚染獣は小さめだったみたいだけれど、それでも隅っこに入った指の先とか、靴の中に残った踝から先とか、そんなのが残っていて当然なはずなんだけれど全く無かった。汚染獣が何か道具を使って、行儀良く食べたと言うのじゃなければ、間違いなく誰かが遺体を片付けたんだ」

 想像する。
 幼生体が、ナイフとフォークを使って人間を食っているところを。

「・・・・・・・・・・・・・・・。フォンフォン」
「はい?」

 加害者がヘラヘラとこちらを見た。
 いや。もしかしたら笑っているわけではないのかも知れないが、フェリには笑っているように見えるのだ。
 と言う事で、無防備なその脛に渾身の蹴りを撃ち込む。

「ぐわぁぁぁ! ひゅぅ」

 悲鳴を上げて脛を抱えて飛び跳ねようとしたところに、追撃を放つ。
 爪先の指の部分に、的確にヒールを押し当てて、強弱を付けつつ踏みにじる。
 変な吸気音を最後に、レイフォンから空気の流れが観測されなくなった。

「馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だと思っていましたが、穏やかな表現をするとか、オブラートに包むとか、ぼかした言葉を使うとか、状況を匂わせるとか言う賢い方法は思いつかなかったのですか」

 更に心ゆくまで踏みにじり、そして呼吸が止まっているレイフォンから脚を離した。
 周りから同意の空気が漂ってきているし、いくらレイフォンが馬鹿だろうと同じ過ちをするとは思えないから、これで十分だろうと自分を納得させる。
 もう少し虐めたいが、この意味不明な都市で戦力を不必要に消耗することは避けたいので仕方が無い。

「それで、他のシェルターも調べますか?」
「い、いや。そろそろ日が暮れる。野宿するのはあまり好ましくないから何処か使える宿を探そう。向こうにもその旨を伝えておいてくれ」

 出てきた時よりも青い顔をしているニーナに言われるがまま、フェリは第五小隊の念威繰者を通してこちらの意志を伝えた。
 同時に、端子を飛ばして近くで使えそうな建物がないかを探す。
 レイフォンはまだ両足のダメージから立ち直れないのか、蹲ったまま非難がましい視線でフェリを見ているが、気にしてはいけない。
 だが、それも限界に近付きつつある。
 その情けない姿に嗜虐心がくすぐられてしまうのだ。
 思わず、笑いが漏れそうになるのを割と真剣にこらえる。
 
 
 
 フェリの地獄のような制裁を生き抜いたレイフォンだったが、休む暇を与えられずこき使われていた。
 あちこちから食材をかき集めてきて、第五小隊員の分までご飯を作っていたのだ。
 ナルキの手伝いがなければ、泣きながらメイシェンのところに逃げ帰っていたことだろう。
 それくらいフェリの制裁は凄まじかったのだ。
 料理関係の仕事をしているオスカーも居るには居るのだが、残念なことに食材の専門家であり料理はあまり得意ではないとのことだった。

「シャァァァァァ!!」
「不愉快です」

 そんなわけで、ナルキと共同して料理を作り上げ、それがテーブルの上に乗せられたのはつい五秒前のことだった。
 そして今目の前で、既に牽制が始まっている。
 レイフォンの作った物でも食べることは別問題と言った感じのシャンテと、取り敢えずシャンテに対抗したいと思っているらしいフェリの、威嚇の応酬だ。
 他の面々は、料理の皿をかっさらって逃げる算段をしているようにしか見えない。
 実を言えば、レイフォンもその中の一人だ。
 折角作ったのに台無しにされては困るのだ。

「しかし、相変わらず美味そうだな」

 だが、そんな周りのことなど知らぬげに、シャーニッドだけが平然と食べる準備を終わらせて、フォークとナイフを手にしている。
 レイフォンが見る限りにおいて、驚くべき精神構造だ。

「そ、そうだな。だが、これなら問題が無くなるかもしれんな」
「何か問題が有りましたか?」

 料理に問題はないはずだ。
 食べようとしている人達には、少し問題が有るかも知れないが。

「いやな。セルニウムの補給の間は休みになるのだが」
「機械科を始め、上級生がみんな採掘に駆り出されるからね」
「そうです。その間に強化合宿をやろうかと思っていたのですが、問題は食糧の確保でした」

 シチューの皿を確保したニーナが、非常に不本意そうに話し出し、それに反応したのは鶏肉のソテーを確保している、やはり不本意そうにしているオスカーだ。
 二人が不本意そうにしているのは、もしかしたらきちんとテーブルについて食べられないからかも知れない。
 良家の出身者には割と多い思考なので、おおよそ理解できる。

「成る程。場所の見当は付いていると言う事だね」
「はい。食料生産区画の一部が農閑期でして、そこを使えそうなのですが」
「そう言う場所の側には店もろくにないからね」

 話を聞きつつこっそりと鋼糸を復元して、シャンテとフェリの周りに蜘蛛の巣状の結界を張り巡らせる。
 最悪の事態になっても、全滅を避けるために。
 リンテンスから学んだ鋼糸の技だが、実は戦闘以外でこそ活躍することの方が断然多くなっているという事実に、少々では済まない不条理さを感じてしまっている。
 まあ、ある意味今は戦場と言えるかも知れないからかまわないのかも知れないと、自分を誤魔化しつつ陣を完成させた。

「料理の出来る人間には心当たりがあるのですが、出来ればあまり頼りたくなかった物ですから」
「そこで白羽の矢が立ったのがアルセイフ君か。しかし、彼も訓練に参加するのだろう? いくら何でも訓練をしながら料理は出来ないだろう?」

 少女二人以外の視線がレイフォンへと注がれる。
 もしかしたら、そんな便利な機能も付いているのではないかという、興味津々の視線だ。
 残念ながら持っていない。
 首を横に振ることで、その事を伝えた後にやってきたのは、期待が裏切られたという脱力感だった。
 なんだか非常に負けた気がする。
 とは言え、千人衝での作業は非常にレイフォンの精神に負担をかける。
 常日頃からやっている掃除とかだったら問題無いが、料理となると要求される精度が全く違うのだ。
 いくら器用貧乏のレイフォンとは言え、訓練をしつつ料理をするとなると流石に無理である。

「そうか。流石に人間そんなに器用になれるわけではないのだな」

 残念そうにニーナが呟いているが、一体レイフォンをなんだと思っているのか、かなり真剣に聞きたい気分がする。
 聞くのが怖いので聞かないけれど。

「まあ、それはもう少し話が進展してからと言うことで、今は明日の行動を決めてしまいましょう」

 場に満ちた脱力感を払拭するように、ゴルネオがサラダボールを抱えて少女二人から遠のきつつ話題の転換を図る。
 これにはレイフォンも賛成である。
 なんだか、何時か簡単な訓練をしつつ料理が出来てしまいそうな自分に、少々怖い物を覚えていたからでもあるが、明日の予定というのも十分に重要な内容である。

「明日我々は機関部へ行ってみるつもりです。生存者が居るとしたらあそこが最も可能性がある」
「分かった。我々はもう少し他の場所を当たってみよう。とは言え、生存者がいると思うか?」

 ニーナとゴルネオの会話を聞きつつ、シャンテとフェリの分を除いた料理の避難が終了した。
 これで最悪の結果は避けられたので、精神的に一段落だ。

「居なければ、遺体の謎が解けません」
「それは確かにそうだが、脱出した後だとは考えられないか?」
「ですが、戦闘からそれ程時間が経っていないように見えます。ならばまだ何処かにいるとも考えられます」
「筋道は通っているな。・・・。ならば第十七小隊は機関部を、我々は地上部で危険がないかを確認する」

 隊長二人の会話は何の問題も無く進んで、明日の行動は決定されたようだ。
 ならば問題は、空腹を我慢したまま睨み合っている少女二人と言う事になる。

「二人とも。沢山作りますからどっちの方が多く食べられるか競争しませんか?」

 何とか解決したいという一心で、思わずおかしな提案をしてしまった。
 滅んだ都市で何をやっているのかとか、かなり色々と問題のある行動ではあるのだが、話が前に進まない以上仕方がないのだ。

「お前の言うことなんか聞かない!!」
「馬鹿ですか? 馬鹿なんですね。そうですかやはり馬鹿でしたか」

 最終的には、二人から冷たい言葉しか返ってこなかったが、それでも話が進んだことで良しとしよう。
 後ろ向きにそう考えたレイフォンは、取り敢えず確保しておいた自分の食事に手を付け始めた。
 空腹なのは誤魔化しようがないのだ。
 だが、スプーンでシチューを掬った次の瞬間、弛みきっていた、フェリの周りの空気が一転したのを感じた。
 ある意味、日常から戦場に瞬間移動したような、そんな恐るべき速度の変化だった。

「南西の方向、距離五百メルトルに動体反応。家畜などではありません」
「確認しました。ただし、生体反応は確認出来ていませんが、動力反応もありません」

 第五小隊の念威繰者の方でも確認が取れたようで、矢継ぎ早に報告が上がる。
 それを聞きつつ、レイフォンはスプーンをその場に放り出して立ち上がっていた。
 夕食を食べ損ねて残念だと思う気持ちを引きずることなく、瞬時に戦闘のために精神を切り替える。
 いや。食べ物の恨みは恐ろしいと言うから、少しだけ何時もよりも攻撃的になっているかも知れないが、それでも冷静さを失う事の無いように、戦闘のためにあらゆる感情を全て切り落とした。

「先行します!」

 言い捨てると、窓を開け放ってそこから外へと飛び出す。
 相手は移動しているにもかかわらず、生体反応も、何かの動力で動いているのでもないという。
 そんな非常識な相手と戦える人間など、レイフォンを含めて存在していないが、それでも最大の戦力であるレイフォンが最初に接触することが、最も望ましいと思うのも事実だ。
 いや。最悪の場合特殊進化した老性体などと言う、あまりにも恐ろしい敵の出現さえ覚悟しなければならない。
 つい最近、老成二期とやり合ったばかりだというのに、またあんな化け物と戦うことになるのは、正直に言って気分が重いのだが、まだ敵だと決まったわけではないと、自分を少し誤魔化しつつ指定された方向へ向かって警戒を怠らないように注意しつつ、他の隊員が当分追いつけない速度で走る。
 万が一の場合でも、レイフォンだけだったら逃げる事が出来るからだ。



[14064] 第五話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:09


 障害物を効率よく越えるために高く跳躍したレイフォンは、視線を指示された付近へと向けた。
 そして理解した。
 確かに通常の生き物ではないと。
 目的とする場所付近にいたのだ。
 金色に耀く、四つ足の動物らしき物が。
 活剄を使って視力を強化してみるが、それは雄山羊のように見えた。
 猛々しく伸びた巨大な角が頭頂部を飾り、悠然とその場に佇んでいる。
 報告では移動しているとのことだったが、レイフォンが見つけた瞬間から全く動いていない。
 跳躍の最高点を過ぎ、穏やかな降下に入りつつある今も、それは変わりがない。
 そして、その金色に耀く雄山羊の少し手前に着地するために、軌道をやや修正した第二跳躍を実行した。
 計算通りに、謎の山羊の宿泊施設側、二十メルトル付近へと着地することに成功した。
 この一事を取ってみても、相手に敵意や害意がないことが分かる。
 目の前に着地するのを黙ってみている敵など、よほどのお人好しか自信過剰な馬鹿者しか居ないからだ。
 万が一に攻撃された時のために、復元しておいた鋼糸を刀の状態へと変化させつつ、レイフォンの思考は既に凍り付きかけていた。
 敵意も害意もない。
 汚染獣特有の、飢餓感と共にある殺意さえない。
 だが、その場にいるだけの雄山羊から、壮絶な存在感が溢れ出しているから、レイフォンの思考は凍り付きかけているのだ。
 その存在感は、とてもレイフォンに耐えることが出来ないほど強烈な物だ。

「なんだ、お前は?」

 未知なる存在に上手く動かない思考と共に、レイフォンは問いを発する。
 敵ではないと思うが、味方であるとも思えない。
 ならば、排除すべき存在か?
 それにも明確に答えることが出来ない。

『お前は違うな』

 その黄金の雄山羊が、都市そのものを振るわせるように喋った。
 いや。その口は固く閉ざされているから、もしかしたら違うのかも知れないが、それでも目の前の未知なる存在が喋ったとしか思えなかった。

『この区域の者か。ならば伝えよ。我が身は既にして朽ち果て、もはやその用を為さず。魂である我は狂おしき憎悪により変革を遂げ炎とならん。新たなる我は新たなる用を為さんがための主を求める。炎を望む者よ来たれ。炎を望む者を差し向けよ。我が魂を所有するに値する者よ出でよ。さすれば我、イグナシスの塵を払う剣となりて、主が敵の悉くを灰に変えん』

 長い台詞の間、やはり雄山羊の口は閉ざされたままだが、それでも間違いなく目の前で言葉を発しているのだと直感的に理解した。
 だが、そこから先を決断することが出来ない。
 戦うべきなのか、それとも交渉を持つべきなのか、はたまたお引き取り願うべきなのか。
 だが、一つだけ分かったことがある。
 こんな異常な存在をツェルニに向かわせるわけには行かない。
 ならば、ここで戦いその行動能力を奪わなければならない。

「簡単に言うな」

 自分の出した結論に甚だしい疑問を持ってしまった。
 敵対行動を取っているわけでもない存在に、一方的に押しまくられている状況を脱して、その戦闘能力や移動能力を奪う。
 どう考えても無理な話だ。

『止めておけ。今お前が感じているのは、お前自身だ』

 意味不明なことを言っている雄山羊に向かって、一歩踏み出す。
 だが、距離は全く縮まっていない。
 そして驚愕した。
 雄山羊が後退したというわけではない。
 レイフォンが動いていないのだ。

「そんな」

 色々な汚染獣と戦ってきた。
 普通の都市だったら確実に滅ぼされているような、老性体二期以降とも何度か戦った。
 ついこの間も、老成二期と戦い、何とかそれを撃退した。
 だと言うのに、そのレイフォンが一歩も動く事が出来ない。
 こんな異常な存在がツェルニに乗り込んだのならば、間違いなくこの都市のように廃都市となってしまう。
 その事態だけは絶対に避けなければならない。
 そう決意したレイフォンは、錬金鋼に回さないように細心の注意を払いつつ、全身に全力の剄を巡らせる。
 全身から衝剄を迸らせ、あらゆる物を吹き飛ばそうと試みる。

『無駄だ。我は道具。我は何者でもない。何者でもない以上切ることは出来まい』

 混乱しつつあるレイフォンの思考だったが、それでも片隅に残っている冷静な部分が雄山羊の言っていることが正しいと認めていた。
 だが、ここで止まることなど出来ようはずが無い。
 ツェルニに行かせるわけにはいかない。
 いや。
 この場に留めておくことさえ危険だ。
 食事時だったために、捜索隊全員があの場所にいた。
 ならば、それ程時間を経ずにみんながここに来てしまう。
 そして、誰かが犠牲となってしまうだろう。
 誰か一人でも帰らなかったら、きっと誰かが悲しむ。
 レイフォン自身には関係ないと言えない程度には、ここにいる人達と深く関わってしまっているのだ。
 そして最も恐れなければならないのは、ナルキが犠牲になることだ。
 もし、ナルキが帰らなければ、メイシェンが悲しみの中で壊れて行くかも知れない。
 その危険性を認識した次の瞬間、恐怖が消えた。
 感情の尽くを切り捨て、目の前の存在を敵と見定めて、滅ぼすために我が身を省みずに・・・・・・。

「違うだろ」

 それでは駄目だ。
 レイフォンが帰らなかった時も、結果は同じなのだ。
 ならば、目の前の雄山羊を切り伏せ無事にツェルニに帰らなければならない。
 感情を全て切り捨てるのとは明らかに違う、何か静かな水面のような精神状態に変化した。
 それと同時に、今まで呼吸することさえ困難だった威圧感が、殆ど消えて無くなっていることに気が付いた。

『おお! その極限の意志は見事。だが、やはりお前は違う』

 雄山羊から初めて生き物らしい感情が見えた気がした。
 それは驚きであり賞賛であったかも知れないが、今のレイフォンにとってはあまり意味のない出来事だ。
 そもそも、雄山羊の認識は間違っているのだし。

「これは極限の意志なんかじゃない。グレンダンにいた時の普通だ。極限なんかじゃない」

 常に戦場に出て、そして帰る。
 考えてみれば、レイフォンは始めからここに居たのだし、今だってここに居るのだ。
 ならば何ら特別なことではなく、何時も通りの日常でしかない。
 相手が正体不明の、生き物かどうかさえ怪しい黄金に耀く雄山羊だと言うだけのことだ。
 だが、敵と見定めた雄山羊は、確実に知性を備えてレイフォンと交渉、あるいはそれに近いことをしようとしている。
 戦う必要はないのかも知れないが、それでも野放しにしておくことは出来ない。
 活剄で強化した感覚が、後ろから多数の人間が接近しているのを捉えている。
 もはや時間はない。
 今まで清眼に構えていた刀を、右下段へと移す。
 全身に回った活剄の余波だけで既に赤熱化している青石錬金鋼は、もはや使い物にならないだろう事が分かる。
 ならば使い捨て覚悟でほぼ全力の剄を注ぎ、一気に閃断を放った。

『見事』

 捉えたという感覚はない。
 放った剄はそのまま雄山羊を素通りし、少し先にあった建物を斜めに切り裂いて終わった。
 だが、効果があったかどうか非常に疑問であるのだが、閃断を受けた雄山羊の姿が揺らぎ、そしてそのまま消えて行くのを確認することも出来た。
 その次の瞬間、レイフォンは未だに刀を持ったままだったことに気が付き、慌てて全力の活剄を使って投げ捨てた。

「ひぃぃ!」

 ギリギリだった。
 僅か五メルトル先で錬金鋼が爆発。
 真面目に寿命が縮む思いを味わったが、それでもなんとか無傷でおかしな敵との戦いを終えることが出来た。
 そして、その爆発音が消えた頃合いになって、とりあえず錬金鋼だけを手に持っただけと言える状態の、ほかの面々が駆けつけてきたのだった。
 
 
 
 夕食の準備を終えつつあるリチャードを眺めつつ、デルクは嫌な汗が背中から流れるのを止めることが出来ないで居た。
 今日も滞りなく道場の稽古は終了し、近くに住む武芸者はみんな帰宅している。
 そして今道場に残っているのは、デルクとリチャードだけである。
 何ら問題無いはずだというのに、冷や汗が止まらない理由については、何となく心当たりがある。
 ここ何日か、人であって人でない不気味な気配が身の回りにあるために、緊張を解くことが出来ないのだ。
 武芸者である以上、常に戦いのために準備をしておくことは当然である。
 そのためにも、日常生活でも緊張を完全に解くと言うことはない。
 それはグレンダンという汚染獣との戦闘が異常に多い都市に住んでいる、全ての武芸者について言えることだし、レイフォンに至っては恐るべき事に眠っている時でさえ戦闘時並に感覚を鋭くしていたほどだ。
 リーリンが蹴り起こしに行く時は、何故か全く反応できなかったのだが、これはもしかしたら一種の遊びだったのかも知れない。

「どうしたんだ親父? なんだか無駄に緊張しているみたいだけれど」
「う、うむ」

 そんなデルクの緊張を感じ取ったのだろう、リチャードが巨大な鍋をテーブルに置きつつ軽い口調で話しかけてきた。
 だがデルク以上に、リチャードも緊張していることが分かる。
 普段は決して見せないほど、その視線は鋭く研ぎ澄まされ、何か起こったらすぐにリアクションを取れるように身構えているのだ。
 デルクの知らないところで何か進行していることだけは間違いない。
 サヴァリスが決闘を申し込んできたとか言う話でなければ、かなり恐ろしいことが進行しているのかも知れないと思う。

「何事もなければよいのだが、なにやら不穏な気配を感じてならないのだ」
「・・・・。ああ。武芸者に狙われているという感覚はあるんだが、その感覚が不安定というか揺らぎがあるというか」
「お前も感じていたのか」

 レイフォンの殺剄さえ効果がないリチャードの感覚でさえ、明確に捉えることが出来ない相手。
 それは即座に天剣授受者以上の実力者に狙われていると言う事につながってしまうかも知れない。
 そんな存在が居るとすれば、それはグレンダン女王アルシェイラだけ。
 つまり、デルクとリチャードはアルシェイラに狙われている。

「それはありえん」

 狙われた次の瞬間には、道場ごと綺麗に蒸発しているはずだ。
 それがグレンダン女王の実力である。
 そして問題はもう一つ。
 デルクの感じている人間ではないかも知れないと言う気配。
 もし、この人間ではない気配をリチャードが感じているのだとしたら、不安定だと言う事も納得が出来る。
 そこまで考えた瞬間、気配が動いた。

「来るぞリチャード!」
「おう!」

 ここ数日持ち歩いていた鋼鉄錬金鋼を復元。
 次の瞬間壁が粉砕されて、爆発的な勢いで破片がデルクと姿勢を低くしたリチャードを襲う。
 咄嗟にテーブルを蹴って横倒しにして破片を防ぎつつ、牽制のための針剄を放つ。
 それと同時に埃で塞がれた視界が、向こうからの衝剄によって割られた。
 第一線を退いたとは言え、デルクは熟達の武芸者である。
 そのデルクに拮抗するだけの戦闘能力を持つ襲撃者に、凄まじい悪寒を感じつつもリチャードを庇うように立ちはだかる。
 何が有っても息子を傷付けさせるわけには行かないのだ。
 そして、それは見えた。

「お主は! ガハルド・バレーン!!」

 それは、一年ほど前にレイフォンにより植物状態に追いやられたはずの、因縁のありすぎる武芸者のように見えた。
 だが、明らかにガハルドではない。
 その目に生気も知性も理性も存在せず、有るのはただ憎しみと闘争本能のみ。
 そして何よりその身に纏うのは、剄の気配ではない。

「お主に何が有ったというのだ?」

 植物状態になったまま、その意識は戻っていないと聞いている。
 戻ったとしても、今目の前で起こっている現象を説明することは出来ない。
 だが、困惑していられる時間は既に無かった。
 大きく息を吸い込んだガハルドらしき物から、なにやら振動が沸き上がる。
 それが徐々に高く鋭く暴力的になった。

「拙い!」

 何が起こるか、直感的に理解できてしまった。
 外力系衝剄の変化、咆剄殺。
 高まった振動波が凝縮され、分子構造を破壊する衝撃波として指向されて撃ち出される。
 内力系活剄の威嚇術で破壊力を押さえようとデルクが動くよりも速く、何かが脇を通り過ぎた。

「なに?」

 一瞬だった。
 何かが目の前に広がり、一瞬でそれが霧へと変化を遂げた。
 なにやらとても良い匂いがする、摩訶不思議な霧へとだ。

「親父! 咆剄殺だ!!」

 不思議な現象に呆然としていられたのは、僅かに一瞬だった。
 なにやら緊張に支配されたリチャードが、巨大な鍋を抱えてデルクの斜め前に佇んでいる。
 そしてその鍋の中身が、リチャードが作った大量のシチューだったことを思い出した。
 そしてやっとの事で目の前で起こっていることの説明が付いた。
 鍋の中身をデルクの前にぶちまけて、シチューを分子崩壊させることで咆剄殺を防いだのだと。
 霧状になったのは、水の分子が細かく砕かれたからだと。
 咄嗟の判断ではないだろう事は分かる。
 ルッケンスの流派には知られていないはずだが、レイフォンは咆剄殺を習得していた。
 何度か外縁部で使っているところを見たこともある。
 そして、リチャードはそのレイフォンの咆剄殺を無効化する方法を、色々と試していたのも覚えている。
 まさか、実際に役に立つとは思いもよらなかったが。
 だが、これが使えるのは一度きりでしかない。
 相手が状況を理解したら、それに対抗する手段を取ってくると言うのもあるが、そもそも咆剄殺を封じ込められるほどの、大量の液体はおいそれと用意できないのだ。
 大量のシチューは既に破壊され霧となり果てている。
 相手の準備が終わる前にこちらから動いて決着を付けなければならない。
 決意を込めて一歩前へと踏みだし、水鏡渡りで一気に間合いを詰める。
 そして全力の剄を乗せた一撃を変わり果ててしまったガハルドへと放った。
 確実に捉えたはずだったが、手応えがおかしい。
 堅さと柔軟性を兼ね備えた衝撃吸収材に斬りつけ、そして受け止められてしまったようなそんな感じだ。
 慌てて錬金鋼から手を放して全力で後退する。

「どうなっている?」

 あまりにも異常な事態が立て続けに起こったせいで、動きが一瞬以上止まってしまった。
 これは致命的だ。
 ガハルドらしき何かから、再び振動がわき起こる。

「いかん!」
「あのよう」

 デルクが絶望の声を上げた瞬間、リチャードがやはり声を上げた。
 だが、それはある意味脱力してしまっていたのだ。

「なににやけてるんだ?」

 咆剄殺が放たれた。
 そのはずだったが、何も起こらなかった。
 そしてデルクは見た。
 ガハルドの少し後ろにいる、既に顔なじみとなってしまった天剣授受者を。

「クォルラフィン卿?」
「やあ。なかなか良い夜だと思わないかい? 特にこんな面白い奴と戦えるなんて、心躍るとても良い夜だと思うだろう?」

 いつも以上ににこやかなその表情は、しかし、しっかりとリチャードを捉えている。
 むしろガハルドなど眼中に無く、本命はリチャードだと言っているように、その視線はデルクの息子を見据えているのだ。
 これは非常に危険である。
 思わずリチャードとサヴァリスの間に割って入る。
 まさか、この瞬間に天剣授受者が一般人へと襲いかかるとは思えないのだが、それでも割って入る。

「まさかルッケンスの秘奥を、あんな方法で防がれるとは思わなかったけれど、これはこれで面白いねぇ。そう思うだろうガハルド? 人間やめてまで習得したというのに、一般人に防がれる程度の威力でしか咆剄殺を撃てないなんて、本当に面白いと思うよね?」

 ここでやっと視線がガハルドを捉える。
 だが、それは路傍の小石を見るよりも遙かに興味がなかった。
 いや。邪魔な虫を見る程度の敵意と殺意はこもっているかも知れない。

「ちなみに、さっきお前が放った咆剄殺は僕の咆剄殺で中和したんだよ。こう言う使い方もあると言う事を納得したかい? 正直お前なんかと遊びたくないけれどこれも女王からの命令でね。仕方なく、渋々と、嫌々相手をしてあげるよ?」

 次の瞬間、サヴァリスの視線がデルクを捉える。
 いや。おそらくリチャードを捉える。
 そして、本来の標的でないはずの、デルクの背中にびっしりと冷や汗が流れた。
 今まで戦った汚染獣などとは全く次元の異なるその威圧感に、呼吸が止まったのをはっきりと認識した。
 後ろではリチャードが腰を抜かしているのが分かるが、それをどうにかすることなど思いもよらないほどの、凄まじい威圧感だった。

「まあ、楽しみは後に取っておくとして、先に仕事を片付けようか? 本当に面倒でやりたくないんだよ? レイフォンを脅して天剣授受者になろうなんてしたような、そんな情けない武芸者と戦うなんて、まっぴらごめんなんだよ?」

 挑発をしていることは理解できた。
 ガハルドに理性や知性が残っているかは不明だが、それでもその挑発に怒りの表情を浮かべてサヴァリスへと向き直る。
 いや。実際に怒りの表情だったかは自信がないが、兎に角サヴァリスへと相対した。

「そうそう。君に相応しい戦場を用意してあるから付いておいで」

 そう言った次の瞬間、サヴァリスがかき消えた。
 それを追う様にガハルドも居なくなった。
 そして残ったのは、壁が見事に破壊された無残な姿となった台所だけ。

「リチャード?」

 ここに来て、やっと息子へと視線と注意を向けることが出来た。
 そして視界に治めたその姿は、やはり完全にサヴァリスに飲まれて腰を抜かしていた。

「なあ、親父」
「なんだリチャード」

 デルク自身も相当疲労しているのだが、それでもリチャードに向かって手を差し出す。
 助け起こしながら、しかし次の言葉は何となく予想できていた。

「俺も学園都市に留学したくなってきた」
「実を言えば、私も留学したいと思っていたところだ」

 既に老年に達しているデルクが留学することは出来ないのかも知れないが、それでもリチャードだけはもう少しましな人生を送って欲しいと思う。
 訳の分からない襲撃事件は、こうして膜を落とした。
 少なくとも引退した武芸者でしかないデルクと、一般人でしかないリチャードにとっては、天剣授受者が出てきた瞬間に終わっているのだ。
 
 
 
 リチャードが咆剄殺を封じ込めるとは全く思っていなかったが、それはそれは非常に楽しい光景だったとサヴァリスは確信している。
 咆剄殺は習得が困難なために、ルッケンスで最強の技だと思われているが、実を言えば破壊力はそれ程でもないのだ。
 更に言えば、どうしても空気中を振動波が進む間に拡散してしまうから、距離が開くとそれだけで本来の破壊力を発揮できなくなると言う致命的な欠点がある。
 そして今日知ったのだが、咆剄殺など大量の水があるだけで十分に防げてしまうのだ。
 もちろん、あれを放ったのがサヴァリスだったら、デルクもリチャードも完璧に粉砕していた自信がある。
 と言うか、道場ごと吹き飛ばす方が遙かに簡単だったと言い切れる。

「ふはははははははははははは!! 楽しいねガハルド! 老性体に取り憑かれた武芸者と戦えるからと思っていたんだけれど、もう君なんかどうでも良いよ! 早く片付けてリチャードと遊んでみたいんだ」

 心の底からの高揚感と共に、笑い声を上げつつ走る。
 建物の屋根を足場に高速で移動する。
 そして空中の一点できっちりと停止した。

「ようこそ戦場へ」

 リンテンスの張り巡らした鋼糸の上に立っているのだ。
 傍目には何もないところに立っているようにしか見えないが、そこはそれ、天剣授受者の張り巡らせた鋼糸である以上、相当の衝撃でも十分に持ちこたえることが出来る。

「理解できるかどうかは兎も角として言っておくけれど、足の裏からの衝剄は止めないこと。逃げようとしたら即座に切り刻まれるからね? まあ、僕にとってはそっちの方が楽で良いんだけれどね。ああ。なんでリチャードは一般人なんだろうねぇ? レイフォンの代わりに天剣授受者になれるくらいの才能があったらきっと楽しかったのに。この世は全く不条理だと思わないかい?」

 別段挑発しているつもりはない。
 ただ思ったことをガハルドと老性体に向かって喋っているだけのことだ。
 これほど楽しい気分になれたのは、リンテンスとレイフォンと共に戦った、ベヒモトの時以来だ。
 目の前の不細工な咆剄殺しか放てない木偶人形など、もう本当にどうでも良い。
 だが、サヴァリスが折角技の完成まで待ってやったというのに、こちらの台詞を全く聞いていないようなそのそぶりに苛立ちが募る。

「だからね! 人の話はきちんと聞こうよ! 折角僕が饒舌になっているんだからさ!!」

 ガハルドがじっくりと練り上げた疾風迅雷の型から迸り出た蹴り技を、風列剄の一撃で粉砕する。
 じっくりと技が完成するまで喋りながら待ってやったというのに、更にこちらの話を聞く気がないと言わんばかりの態度に、嫌気が差してきた。
 サヴァリスの軽い一撃で撃退できる程度の、脆弱な技しか放てない老性体に取り憑かれているガハルドに。

「これなら普通の老性体と戦った方がよっぽど面白いよ? 全く特殊進化して都市を内部から破壊するなんて、着目点は良かったのにそれを生かす実力がないなんて、嘆かわしいこと甚だしいよ!」

 発端は数週間前に遡る。
 幼生体の大群落に突っ込んでしまったグレンダンは、当然駆逐には成功した。
 だが、念威繰者が幼生体の対応に追われている隙を突いて、老性体の変異体が都市に進入したことが分かった。
 当然公表することは出来ずに、天剣授受者が駆逐するために駆り出された。
 だが、人に寄生することで場所を転々としつつ破壊活動をする老性体相手に、流石に手こずったのは少し前の話だ。
 餌としてガハルドを放置してその側に老性体を追い込んだ。
 思惑通りにガハルドに寄生したが、隠れることに特化したためかデルボネの探査を逃れてしまったのだ。
 だが、ガハルドに寄生した時点で決着は付いていたのだ。
 そう、レイフォンへの恨みをもったガハルドなら、その行動は予測可能である。
 そして今、逃げられない状況を作り、サヴァリスが最終的に止めを刺すことになったのだ。
 なったのだが。

「ああ。本当にこの世はままならないねぇ」

 リチャードに老性体を取り憑かせた方が、よっぽど面白いことになったと今頃になって気が付いたのだ。
 自分の浅はかさを思い知らされた上に、相手が弱いとあっては目の前の敵などもうどうでも良い。

「面倒だからさっさと始末を付けるよ」

 宣言の次の瞬間、サヴァリスの身体が二つに増えた。
 更に次の瞬間には四つに、次の瞬間には八つに、爆発的にその数を増やし、僅か数秒後に千を越えるサヴァリスが老性体を包囲する。
 活剄衝剄混合変化・千人衝。
 ルッケンスの秘奥であり、最も派手な技で一気に勝負を付けにかかる。
 全てはサヴァリス自身の欲を満たすため。
 軟弱な老性体なんかに引っかかって、時間を無駄には出来ないのだ。

「安心すると良い。ガハルドは汚染獣戦での戦死者と言う事で、盛大に弔ってあげるから」

 その言葉を切っ掛けに、千のサヴァリスが一気に老性体に襲いかかり、乱打に次ぐ乱打を繰り出す。
 当然大きさ的にそれ程でもない老性体相手に、千を越えるサヴァリスは余ってしまうのだが、化錬剄の糸をつなげることで無駄なく戦力を使うことが出来ている。
 そして、僅か三秒後にはただの肉片となってグレンダンの夜風に散ってしまった。

「ああしまった。棺桶に入れる分を残しておかなくちゃいけなかったんだ」

 既に後の祭りである。
 まあ、父親に言って空の棺桶だけ用意して貰えばいいかと、あっさりと自己完結したサヴァリスだったが、次の瞬間思わず動揺してしまった。

「おおっと!」

 いきなりリンテンスの鋼糸で作られた戦場が崩壊したのだ。
 いや。せっかちなリンテンスのことだから、終わったと判断して糸を回収したのだろう。
 当然、この程度の高さから落ちたくらいではどうと言う事はないが、それでも一瞬ほど驚いてしまったし、文句の一つくらいは言っておかないと流石に気が済まない。

「全く貴男はもう、どうしてこうも力尽くで事を運びますかね?」

 あまり文句を言っているように聞こえないかも知れないが、それでもサヴァリス的には不平不満を口にしているのだ。
 だがここでふと恐ろしいことに気が付いた。

「リンテンスさん? まさかリチャードにちょっかいだそうとか考えてませんよね? それは駄目ですからね。あれは僕の玩具なんですから」

 この線だけは譲れない。
 例えグレンダンを崩壊させるような戦いに発展したとしても、リチャードと遊ぶのはサヴァリスの権利なのだ。
 例えアルシェイラの命令でも、これだけは聞けないかも知れない。
 そんな事を考えつつ、数秒の自由落下を楽しみつつ、サヴァリスは通い慣れたサイハーデン道場を視界に捉え続けた。
 
 
 
 
 
 廃貴族について。
 こちらでは原作通りに雄の山羊であるメルルンに登場していただきました。
 構想段階では、役目だけ同じで違うキャラも考えていたのですが、どうも動かしてみるとしっくり来ませんで、最終的に原作に敬意を表して(どこら辺に表しているかは謎)メルルンとなりました。
 ちなみに、候補に挙がったキャラは以下の通り。

凶暴化したフリーシー(羊 ミッシングメール)
凶暴化したビスマルク(兎 本日の騎士ミロク)
凶暴化したパトラッシュ(犬 フランダースの犬)
凶暴化したラスカル(アライグマ あらいぐまラスカル)
凶暴化したピカチュー(ピカチュー ポケモン)

 すべて可愛い系の動物であるあたりに、俺の限界を感じますね。
 ただ、最後の最後まで使うかどうするか迷ったキャラがいます。
 それは。

凶暴化したデーモン閣下(人間 実在)

 これはかなり凄い事になると、構想段階ではっきりしていたために、泣く泣く却下してしまいました。
 たとえば。

「フハハハハハハ!! 我が輩の体は既にして朽ち果て、魂である我が輩は狂おしき憎悪により、悪魔として変革を遂げん!!」
「う、うぁ」
「新しき我が輩は、世界征服の野望を達成するために、新たな器を求める!!」
「ひぃぃん」
「そして小僧!!」
「は、はひ!」
「その肉体を我が輩への供物として捧げよ。嫌だというのならば」
「いうのならば?」
「蝋人形にしてくれる!!」
「ど、どうぞこの体をお使いくださいませ!!」

 等々。
 閣下に取り憑かれたレイフォンが、あのお姿でツェルニを徘徊して、いつの間にかツェルニ武芸者の全員があのお姿に変わってしまうとか。
 そんな事を考えてしまったので、泣く泣く却下しました。
 ああ。でも、黒巫女のデルボネ様は書いてみたかったかな?
 誰か書いてくれる人がいるとうれしいです。



[14064] 第五話 八頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:09


 昨夜の一件のせいで、殆ど眠っていないレイフォン達だったが、しかし、異常なハイテンション状態になっていて誰一人として眠そうではない。
 そもそも、数百メルトルしか離れていない場所で、レイフォンがほぼ全力の剄を発動させたのだ。
 その余波だけで近くに有った建物に損害が出たし、現場に移動している最中だったニーナ達はもっとはっきりと鳥肌だったという。
 それはそうだろう。
 天剣授受者とは都市一つを完全に破壊することの出来る異常者のことであり、更にレイフォンはその天剣授受者の中でさえ剄量が多かったのだ。
 そんな異常者の中の異常者の、全力の剄を近くで感じ取れば、鳥肌の一つくらい立って当たり前だし、恐怖のあまりにレイフォンに二度と近付かなかったとしても何ら不思議はない。
 しかしこれも、今考えているからこそそう思えるだけで、あんな意味不明な存在相手に手加減などする余裕は、レイフォンにはなかったのだ。

「信じてくれるんですか?」
「お前が寝ぼけて剄を全力で使ったという落ちはないだろうし、家の念威繰者も不明な存在は確認している。信じないわけにはいかない」

 渋々と喋るゴルネオの声を聞きながらも、レイフォン自身は自分の遭遇したあれが本当にいたのか、実のところ疑っていたのだ。
 何しろ、通常の生き物ではないし、汚染獣でもない。
 こうなるとウォリアスをツェルニに置いてきてしまったことが悔やまれる。
 とは言え、いくら何でもあんな物のことを知っているとは思えないが、最悪の場合でも考えることをウォリアスに押しつけて、あれについての問題が解決したつもりになることで少し安心することが出来る。

「お前の言う事を疑う理由がないというのもあるが、私には一つ心当たりがある」
「心当たりですか?」

 全員で集まって朝食を胃の中に流し込みつつ、本日の予定の最終確認をしつつ、昨夜のあれについての、意見交換会の最後になって、ニーナが気になることを言い出した。
 なにやら自信があるようで、真っ直ぐにレイフォンを見詰めてゆっくりと唇が開く。

「この都市の動力源が生きているのならば、居るべき者がいるだろう」
「!! 電子精霊」
「そうだ」

 言われるまでその可能性について全く思い至らなかった。
 いや。実際には無意識の内に考慮対象から外していたのだろう。
 レイフォンが唯一知っている電子精霊である、童女の姿をしたツェルニからは、あれほど凄まじい気配というか圧力を感じたことはない。
 もちろん、他の都市の電子精霊など見たこと無いので、断言は出来ないが、それでもツェルニの仲間にあんな恐ろしいのがいるとは思いたくないのだ。

「・・・・。違うかも知れない」
「電子精霊ではないと思うのか?」

 レイフォンは自分の考えにブレーキをかけた。
 先入観と言うよりは、思い込みで判断してはいけないと散々ウォリアスに説教を食らっていたからだ。
 もっとも、思い込みで判断しないなんて事が、おいそれと出来るはずはないので、現在進行形で練習中なのだ。
 その練習の意味合いも込めて、自分の思考にブレーキをかけたのだが、ふと漏れた言葉をニーナは少し違ったように受け止めたようだ。

「いえ。電子精霊かどうかは分からないですが、僕達はツェルニしか知りませんから、どうしてもそこから話を始めてしまうなって」
「ああ。そう言うことか」

 納得したようでニーナが軽く頷く。
 何しろ、都市の心臓部や電子精霊については殆ど何も知らないのだ。
 ここであれこれ考えて答えが出ると言う事も無いだろうと割り切って、本来の仕事に戻らなければならない。
 気にはなるが、それにこだわりすぎてしまって、ツェルニを危険にさらすわけにはいかないのだ。

「では、予定通り我々は機関部へと向かいます」
「では俺達は都市部の捜索を続ける。夕方まで別行動だが十分に気をつけろ」
「分かりました」

 前日は戦力の分散を恐れたのだが、今日の夜にはツェルニがこの付近へと来てしまうために、時間の短縮の方が優先されたのだ。
 人数の少ない第十七小隊には、昨日に引き続きナルキが飛び入り参加することになって、変なテンションのまま朝食は終了した。

「シャァァァ!」
「フゥゥゥゥ!」

 終了したのだが、何故か威嚇の唸り声が二つほど聞こえる気がする。
 恐る恐るとそちらへと視線を向けてみると、銀髪を長くした念威繰者と、燃えるような赤毛をした武芸者がお互いの鞄を大事そうに抱えながら、威嚇の応酬をしてるという恐るべき光景へと遭遇してしまった。
 二人のあの鞄の中身は、メイシェンの作ったお菓子が入っているはずで、この廃都市ではそれはそれはとても貴重な戦略物資であることは分かるのだが、それでも目の前の二人はあまりにも恐ろしいほどに威嚇の唸り声を上げている。

「レストレーション02」

 何故そんな威嚇の応酬をしているのか全く不明だが、あまり動じないナルキが左手の鋼糸を復元。
 十本に増えている鋼糸がフェリをやんわりと絡め取り、そのまま空中に浮かべて野獣の戦場から遠ざけた。
 と同時に、ゴルネオの手が伸びてシャンテを捕まえ、自分の肩の定位置へと座らせる。
 二人の動きに全く遅滞は存在せず、見事な手並みだった。
 特にナルキの鋼糸の使い方はかなり見事な物で、今見ている限りにおいては全く危なげない。
 力業で自分と装備を、短距離でさえ一気に持ち上げることは出来なかったが、体重の軽いフェリならば安全で確実に運ぶことが出来るようになっているようだ。
 これならもう少し本数を増やすか、高度な使い方を教えても良いかもしれないと思うのだが、取り縄の延長として鋼糸を捕らえている節のあるナルキでは、いくら操れる本数が増えたとしても幼生体の虐殺なんて事には使えないかも知れないと、最近になって考え始めてもいた。
 だが、今対応しなければならない問題はそれではないのだ。

「どうしたんですか先輩? 理性を無くすほどお菓子の残りが少ない訳じゃないでしょう?」
「そう言うわけではありません。協定を結んだだけです」
「なんですかそれは?」

 持ち上げたフェリを肩車するという快挙を成し遂げたナルキが、話を進めてしまっているのは、きっと良いことなのだと思う。
 メイシェンの幼馴染みであるナルキならば、フェリもシャンテも一応の敬意を払うはずだから。
 特にシャンテにとっては、敵と認識しているらしいレイフォンよりもずっと敬意を払うべき存在であるはずだ。

「お互いのお菓子に対して相互不干渉を貫き、ツェルニに帰り着くまでは休戦とする」
「休戦をしているから、手出しが出来ない。だから威嚇の応酬というわけですか」
「話が早くて助かります。昨日私のお菓子に手を出そうとした時に、そう言う話になりました」

 昨日のいつ頃そういう事態になっていたのか非常に疑問ではあるのだが、取り敢えずここで戦闘にならないならばそれに越したことはない。
 だが、おかしな事もある。
 シャンテが野獣であることは疑いない事実だが、それでも他人のお菓子に手を出すような性格ではない。
 いや。ゴルネオが散々そう言って教育しているから、おそらく手を出すなどと言うことはない。

「私のおやつボックスを弄っていたお礼をしただけだ! 私は悪くないぞゴル!」
「分かった。取り敢えずお互い相手のお菓子には触らないというのならば、それで問題はない。さっさと仕事を片付けてツェルニに帰るぞ」
「おう! 帰ったらアルセイフの目玉をメイシェンが抉るんだな!!」
「いや。浮気はしていないだろう」
「な、なに! まだ浮気してないのか? なんて情けない奴だ!!」

 途中からおかしな方向に行ってしまったが、取り敢えず作業開始の準備は整った。
 浮気していないと情けないと思われているようだが、その辺は気にしてはいけない。
 きっと浮気がなんなのか理解していないから。
 それよりも問題なのは、あと十二時間以内にはツェルニがここまでやって来てしまうと言う事だ。
 その前に安全を出来る限り確認しなければならないのだ。
 フェリを肩車したままのナルキを先頭に、第十七小隊は少しテンションが落ちた身体と心で、仕事に向かうこととなった。
 
 
 
 子供扱いされているというのに、全く表情が変わらないフェリの後ろ姿を眺めつつもニーナは少々疑問に思っていた。
 ナルキを羨ましそうに見ているシャーニッドの後頭部を叩いたついでに、気になる人物の方へと視線を向けてみる。
 そうレイフォンだ。
 昨日、あの異常ともとれる剄を放出したにもかかわらず、本人は全く何時も通りに生活していることから考えると、別段無理をした結果だというわけではないようだ。
 老性体戦の時にも、想像を絶するような剄の放出を感じはしたが、それでも何かの間違いではないかと思っていたのだ。
 あの剄量はどう考えても異常だったから。
 しかし、やはり異常でも勘違いでもなく、レイフォンの剄量はニーナの想像を絶していると言う事がはっきりと確認出来た。
 だが、その異常者であるはずのレイフォンは何時もと少し様子がおかしい。
 なにやら考え込んでいるというのか、何かを思い出してそれを追っているというか、頭を使っているようにしか見えないのだ。
 別段、レイフォンは頭が悪いから使わなくて良いと思っているわけではない。
 だが、普段と違うことを側でやられると、少々不安になるのも事実である。

「何を考え込んでいるのだ?」

 と言う事で、不安を解消するために声をかけてみることにした。
 声が届かないほど集中しているという訳ではないだろうし、そもそも二本目の青石錬金鋼が鋼糸として復元され、四方八方に伸ばされている以上考えに没頭しているというわけではないはずだ。
 もし考えに没頭されてしまったら、この付近一帯が危険地帯となってしまうから、それはそれで何の問題も無い。

「昨日のあれについて考えていたんですが」
「何か気になるのか?」

 気になると言えば全てが気になるのだが、それでもレイフォンが考え込んでいる理由にはならない。
 もしかしたら、今朝ニーナが言った電子精霊かも知れないと言う憶測を信じ込んでしまっているのかも知れない。

「あれが電子精霊だったとしたらと思うと、少し同情してしまうと言うか、共感してしまうと言うか」
「? 同情に共感?」

 そしてレイフォンが考えつつ、ゆっくりと単語を紡ぎ出した。
 だが、出てきた単語が上手く理解できなかった。
 何故、同情と共感を覚えなければならないのだろうかと疑問に思う。

「あれが使っていた言葉の中に」
「ああ」
「憎悪のせいで狂ったと言うようなのがあったので」
「憎悪だと?」

 電子精霊とは、都市そのものだと言い換えても、それ程おかしくない。
 都市である電子精霊が憎悪のせいで狂う。

「それはつまり、汚染獣に滅ぼされたことで狂ってしまったと、そのような意味だと?」
「はい。ツェルニからあんな恐ろしい気配というか圧迫感は感じませんでしたけれど、もし憎悪のせいで狂っているのだとしたら、それ程不思議じゃないかなと」

 考えつつそう言うレイフォンの歩みが完全に止まった。
 そしてそれに釣られるようにして、ナルキもシャーニッドもその場に止まった。
 何時もより高い位置にあるフェリの視線も、レイフォンを捉える。

「どう言うことだ?」

 もちろんニーナも止まり、レイフォンに向き直り問いただす。
 電子精霊が狂うなどと言うことが信じられなかったのだ。

「珍しい事じゃないと思うんです。身近にもそう言う例はいくらでもありますよ。人間の話ですけれど」

 レイフォンの視線がフェリを捉える。
 何か心当たりがあるのか、フェリの表情が珍しく、本当に珍しく引きつるのを確認することが出来た。

「例えば、ツェルニへの愛のために狂った腹黒陰険眼鏡なイケメンとか」
「・・・・・。非常に不本意ですが、ツェルニに来るまでの兄はああいう人ではなかったと思います」

 フェリの嫌そうな雰囲気に飲まれつつも、カリアンについて考えてみる。
 前回の武芸大会での惨敗後、それまで殆ど知られていなかったカリアンが急速に勢力を拡大したのは確かだ。
 その根底にあるのは、ニーナと同じツェルニを守りたいと思う気持ちのはずだ。
 だが、それがもしツェルニに対する愛のために狂った結果だとしたら、あまり好ましいことではないと言わざるおえない。
 ツェルニにとってカリアンが必要であることは間違いないが、それでも好ましいというわけではないのだ。

「僕自身も、グレンダンでの食糧危機がなければ、きっと今とは全く違った人間になっていたはずですし」

 レイフォンを始め、グレンダン出身者の心に深い傷を残した食糧危機。
 あれがなければ、レイフォンが金のために闇の賭試合に出ることはなかっただろうし、そもそも今のような超絶的な強さを持っていたかも疑問だ。
 良くも悪くも、レイフォンの原動力になっているのは食糧危機での無力感なのだ。

「そうなると、この都市の住民が殺されて怒り狂ったのが、レイフォンが昨日出くわしたっていう金色の山羊な訳か」
「そう言う考え方も出来るなって言うだけですよ。そもそも、電子精霊だったらそうだろうなという程度ですし」

 シャーニッドの相槌に応じつつ、レイフォンの脚が前へと踏み出された。
 この話題はここまでで、調査を続けなければならないという無言の宣言だ。
 その宣言に異を唱えるつもりはニーナにはない。
 フェリの発見した機関部への入り口は、もうすぐそこなのだ。
 微かな音と共に先行する鋼糸と、宙を漂うフェリの念威端子を追いかけるように、ニーナ達は機関部へと歩み続ける。
 だがふと思う。
 もし、ツェルニが滅んだのならば、あの愛らしいツェルニも憎悪に狂ってしまうのだろうかと。
 そんな姿は見たくない。
 見たくはないならばどうするべきかと考えて、すぐに答えが出た。
 いや。問われる前に既に答えは用意されていたのだ。
 今ニーナはツェルニを守るためにあらゆる努力を続けている。
 この努力で結果を出せば、それはつまりツェルニを守ると言う事であり、憎悪に狂うことを阻止することが出来るのだ。
 とは言え、言うのは簡単だが実行することは極端に難しい。
 その険しさを再認識しつつも、ニーナは目の前の入り口を破壊して機関部への侵入を果たした。
 
 
 
 薄い緑色の闇に沈む機関部を進みつつ、シャーニッドはかなり窮屈な思いを味わっていた。
 まず第一に狭い。
 続いて独特の匂いがきつい。
 種々雑多で用途さえ分からないパイプが、ところかまわずに走り回り、その隙間を縫うように人間用の通路が申し訳程度に這いずり回っているという、凄まじく窮屈な場所こそが全ての自律型移動都市共通の心臓部だと思うと、やはり隠れたところで努力することこそが重要なのではないかと、変な方向へと思考が進んでしまう。
 そんな自分でも意味不明な思考を切り捨てるべく、普段から機関部に出入りしている二人へと声をかけてみる。

「よくお前さんらこんな場所で働けるな」
『灯りが点いていればもう少し広く感じますよ』

 ニーナとレイフォンはここで清掃の仕事をしているのだが、それはシャーニッドの常識を遙かに凌駕する超人的な偉業に思えてならない。
 暗いのは、灯りが点けば何とかなるだろうが、広く感じるというのも何となく分かるつもりではあるのだが、それでもここで一晩働くなどと言うことは、全く想像の外だ。
 下手に活剄を使ってしまったら最後、機械油と錆防止用の塗料と、その他色々な匂いの集中攻撃で、瞬間的に気絶してしまうだろう。
 そう思いつつ、隣を歩くニーナに視線を向ける。
 シャーニッドと同じ念威端子を流用した暗視スコープを装着したニーナが、やはり平然と前を見詰めながら進んでいる。
 レイフォンの姿は確認することが出来ない。
 広大で入り組んだ機関部を捜索するために、ここでも二手に分かれることとなった。
 ニーナとシャーニッドが一組で、レイフォンが単独行動だ。
 フェリは機関部には入らずに、入り口の外で待っている。
 念のための護衛としてナルキもフェリと一緒だ。

「へいへい。それはそうと、レイフォンが見たって奴が電子精霊だったら、ここにいるのかね?」
「その可能性は高いな。機関部の外へツェルニが出たところを見たことはない」

 シャーニッドはそのツェルニさえ見た事がないので、全く何とも言えないが、いきなり目の前が真っ暗になったことで、予想もしていなかった何かが起こったことを理解させられた。
 瞬時に細心の注意を払いつつ活剄を展開する。
 そして剄を、目に集中的に集める。
 内力系活剄の変化・照星眼。
 射撃系の武器を使う武芸者ならば、誰でも使うことが出来る基本中の基本である活剄の変化だ。
 とは言え、今シャーニッドが使っているのは通常のから比べて少しアレンジが入っている。
 暗い場所での視界を確保することに特化した照星眼だ。
 スコープを使うよりも遙かに視野を広く取ることが出来る上に、殆ど自然色で見ることも出来るという優れものだが、残念なことに非常に集中力を必要とするために、今のシャーニッドではせいぜいが一時間くらいしか維持できないのだ。
 だからこそ、緊急事態に備えて温存しておいた。
 そしてその緊急事態が起こったので、躊躇無く使ったのだ。

「フェリ! おいフェリ! 返事をしろ!」

 隣で怒鳴っているニーナを確認すると、当然のようにかなり色めき立っている。
 眉間に皺が寄り、既に錬金鋼を手に持ち何時でも復元できる状態になっている。
 流石ニーナで咄嗟の判断は見事だ。
 緊急事態であることは間違いない。
 ならば、兎に角戦う準備を整えるのは当然のことだ。
 だが問題はいくつもある。

「くそ! 何が起こっているんだ! レイフォン!」

 残念なことに、通信に関してはフェリの念威に頼り切っている。
 と言うか、こんな障害物の多いところでは電波はあまり役に立たない以上、念威に頼る以外にないのだが、それが今回完璧に裏目に出てしまっている。

「落ち着けニーナ」
「ええい! これが落ち着いていられるか! 速くフェリの元へ戻って安否を確認しなければ!」
「だから落ち着けと言っているんだ。取り敢えず錬金鋼は剣帯に戻せ」

 ニーナの右手に触れて、力みすぎている手を外側から軽く圧迫する。
 混乱したままでは、シャーニッドの誘導に従わないかも知れないので、どうにか落ち着いて貰わなければならないのだ。

「良いかニーナ。俺には見えているんだ。道しるべも残してきてあるから、お前が落ち着いていれば普通に歩く程度の時間で元のところに戻れる」
「ほ、本当なのか?」
「ああ。左手で俺を殴ろうとしているところとかも、きちんと見えているから兎に角拳を降ろせ」

 もしかしたら、乙女チックな危機でも感じたのか、怖い顔をしたニーナの左手が危険な状況なのだ。
 シャーニッドが行動不能になってしまっては、更に事態がややこしくなってしまう以上、是非とも落ち着いて貰わなければならない。

「よ、よし。では誘導を頼むぞ」
「・・・・・。ああ。だからな、左手の錬金鋼もしまってくれよな」

 シャーニッドに掴まるためだろうが、右の錬金鋼は剣帯にしまった物の、何故か左手のは持ったままだ。
 やはり、乙女チックな危険でも感じているようだ。
 無理矢理何かするほど落ちぶれてはいないと思うのだが、どうやらニーナはそう思ってくれていないようだ。
 まあ、今はそれでも問題無いから良しとしよう。
 問題を先送りにしたような気もするが、それでも時間が惜しいのでニーナを引っ張って歩き出す。
 別段、ニーナが心配しているような事態が起こったとは思っていないのだが、それでも万が一と言う事が有るのだ。
 まず目指すのは、当然ついさっき曲がったばかりの角だ。

「しかし、目印を残したと言っていたが」
「ああ。念のために曲がる度にケミカルライト性のテープを貼ってきた。活剄で視力を強化すればニーナにも見えると思うが」

 実際には、活剄を使わなくても見えるのだが、急激に暗くなったために目が慣れるまで時間がかかってしまうのだ。
 これはもしかしたら、暗視装置の欠点かもしれないと思いつつも、暗性視野を確保するためにも、ニーナには活剄を使ってもらう事とした。

「やってみよう」

 そう言うと、何か力み出すニーナ。
 視力の強化は日常的にやっていると思うのだが、暗闇の中でと言うのは初めての経験なのだろう。
 なかなか上手く行かないようだったが、暫くすると歩調が普段のそれに近付いてきた。
 ほのかに光る夜光塗料を目印にすることで、移動への恐怖がだいぶ和らいだのだろう。
 これならば、思ったよりも速く戻れるかも知れない。

「フェリに何が有ったと思う?」
「思ったほどの緊急事態じゃないと思うぜ」
「何故そう思う?」

 沈黙を嫌ったのか、ニーナに問われたので頭をぶつけたりしないように、細心の注意を払いつつ、先を急ぎつつ答えることにした。
 そもそもフェリは一人ではないのだ。

「フェリちゃんの念威繰者としての実力は、間違いなくツェルニ最強だよな?」
「・・・・。ああ。あれだけの能力を普段から使っていてくれれば、なんの文句もないくらいには」

 普段、やる気が全く存在しないフェリの行動に、色々と思うところがあるのだろうが、今はそれに関わってしまっては話が前に進まない。
 関わったら面倒だというのもあるが、兎に角進めることにする。

「でだ。そのツェルニ最強の念威繰者の側にナルキが居るんだぜ?」
「それは分かるが」

 歯切れが悪いのは、ナルキの実力を正当に評価しているからだろう。
 幼生体戦で確認出来たように、攻撃力だけならば既にツェルニでもかなり上位である。
 そして、防御力に関しても金剛剄を体得している以上、相当優秀である。
 更に、鋼糸による感覚の補助と警戒、移動補助などと言う便利な機能まで持っている。
 はっきり言って、小隊員でないことが不思議なくらいに、非常に優秀な武芸者である。
 そして何よりも、レイフォンに一年にわたり訓練されているのだ。
 格上の相手だったとしても瞬殺されると言う事は、あまり考えられない。
 それこそレイフォン並の実力者がいきなり現れて、あの二人を襲うなどと言う事でもなければ、フェリは確実に異変が起こったことをシャーニッド達に知らせているのだ。
 だと言うのに今回、ノイズ一つ無くいきなりフェリとの接続が断たれた。
 何が起こったかは全く不明だが、全く未知の武芸者の攻撃と言う事は殆ど考えられない。

「つまり、レイフォン並の強者なら、俺達が急いだところで全く無意味だし、そうでないならばナルキがきちんと対応しているだろうから、あまり焦らなくて良い」
「う、うむ。確かにそうだな」

 行動が先行しがちなのは、やはりニーナの本質なのだと改めて理解した。
 シャーニッドが言った程度のことは冷静になればニーナだって分かるはずである。
 冷静になって考えるよりも先に、行動してしまう人間に必要なのは、やはりウォリアスのような、悪巧みの出来る人間だ。
 あるいは、一歩引いたところから観察できるシャーニッド。
 ならば、隊長さんの足りないところを補うために、もう少しだけ頑張ってみるかと、ほんの少しだけ前向きに考えることにした。
 ディンが自分で蹴りを付けた以上、シャーニッドももう少しだけ前向きに行動を起こしても良いはずだから。

「その歩き方は、隊長とシャーニッド先輩ですね」
「おう。レイフォンか? 今どこにいる?」

 そう決意した瞬間、すぐ側からレイフォンの声が聞こえたので、あちこちに視線を飛ばしてみたが、生憎と狭い通路上に後輩の姿を発見することは出来なかった。
 もしかしたら、角を一つ曲がったところにいるのかも知れない。
 足音で誰なのかを予測しているそぶりからして、あながち間違っていないのだろうと思っていると、何か違和感を感じた。
 シャーニッドの身体のすぐ外側に、微弱な剄の波を感じるのだ。
 そして、唐突にそれは見えた。

「ってをい! 俺達を殺す気かお前は!!」

 そう。ニーナとシャーニッドの体の周りを、まさに蜘蛛の巣のような密度でおおっている、微かに耀く、細い糸の集団が見えたのだ。
 それはもう間違いなく、レイフォンの使う鋼糸の群れであり、あの幼生体を虐殺してのけるという、物騒な代物だ。

「大丈夫ですよ。二人の周りを取り囲んで怪我とかしていないか確認しているだけですから」
「いやいやいや。それってもっと簡単にできるだろう? 足音の響き方とか声とかでさ」

 何しろ相手はレイフォンである。
 こちらが思っても見なかったことを平然とやってのける、異常者と思えるほどの器用さを持った人間である。
 まあ、だからこそ殺す気など無いのだと言うことは理解している。
 理解はしているのだが。

「レイフォン! フェリのことが心配だ。先行して確認してくれ」

 そんな漫才を見なかったことにしたのか、割と真っ当な指示をニーナが出す。
 だが、残念なことにその指示に意味はないのだ。

「鋼糸を先行させました。フェリ先輩とナルキ以外に大きな生き物は居ないみたいです」

 そう。レイフォンの鋼糸は十キルメル以上平然と伸びるのだ。
 シャーニッド達を捉えたと言う事は、既にその先へと進んでいて当然だし、あのレイフォンが落ち着いている以上、誰かと戦闘になっていると言う事も無い。
 そんな会話をしている途中で、レイフォン本人がシャーニッドの視界に現れた。
 そして驚いたことに、鋼糸を操っている以外に何か剄を使っている気配がなかった。
 いや。レイフォンほどの達人だったらシャーニッドごときに探られるような使い方はしていないのかも知れないが、それでもその歩く姿は全く普通通りでありすぎた。

「お前、見えているのか?」
「へ? 見えていませんよ。ただ、行きの時の歩幅と歩数を正確にたどっているだけで」
「「・・・・・・・・・・・・」」

 そちらの方が凄いと思うのだが、どうやらレイフォンにとってこの手の芸当はそれ程珍しいことではないようだ。
 一体どれだけの特殊技能を持っているのか、一度ゆっくりと聞き出してみたいと思う。

「それよりも、入り口が見えました。一緒に上げますか?」
「・・・。いや。念のためにレイフォンだけ先に上がってくれ。万が一の戦闘になった場合、私達が居たのでは足手まといだ」
「分かりました」

 ニーナの指示を聞いたレイフォンは、次の瞬間猛烈な速度で上昇を始めた。
 その異動先を視線で追ってみると、確かに外の灯りが微かに見える。

「何処まで化け物なのか、本当に疑問の限りだな」
「・・。ああ。だが、私達はなんとしてもレイフォンに近付かなければならない」
「気が重いねぇ」

 ニーナがやると言ったら、それは並大抵の決意ではない。
 そしてそれに付き合わされるのは、当然シャーニッドだ。
 ツェルニ最強の念威繰者であるフェリは除外だし、当然レイフォン本人も除外だ。
 となれば、消去法でシャーニッドしか居ないのだ。
 気が重くなっても、全くもって文句を言われる筋合いはない。
 内心でそんな事を考えつつ、降りる時に使ったワイヤーグリップを掴んだ。
 電動モーターで上がるのは少々時間がかかるが、他の選択肢は存在していない。
 ニーナにもグリップを掴ませて、何か異常事態が起こっているらしい地上へと向かうことにした。



[14064] 第五話 九頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:09


 地上に到着したニーナが見た光景とは、ある意味飛びっ切りの異常事態だった。
 端的に言ってしまうと、ナルキの膝枕でフェリが昼寝をしていたのだ。
 い、いや。何を言っているのか分からないと自分でも思うので、瞳を閉じて大きく深呼吸をして、もう一度現実と向き合った。

「・・・・・・・」

 やはり、フェリがナルキの膝枕で昼寝をしている。
 だがしかし、何時までも混乱しているわけにはいかないのも事実なので、現状を詳しく観察してみることとした。
 まず第一に、眠っているフェリの表情だが、やや血色が悪く眉間に皺が寄っていることが分かる。
 次に、ナルキの表情も非常に険しく、戦闘直前の武芸者のそれである。
 更に、非常用に用意された水筒の蓋が開けられて、五本全てが空になって転がっている。
 そして、何か嘔吐した物と思える跡が近くに有り、それに土をかけているレイフォンを確認出来る。

「ああ。何が有ったのか聞いて良いか?」
「はい。ただ、第五小隊の皆さんがこちらに来ているようですので、到着後でもよろしいですか?」

 やっとの事で平静を取り戻したシャーニッドの要求に対して、ナルキが厳しい視線をフェリに送ったまま答えた。
 突然、フェリとの連絡が取れなくなったことは第五小隊の念威繰者にも分かったはずだ。
 ならば、当然こちらに異常事態が起こったことも予測できるので、辺りを警戒しつつ接近してくることは当然である。
 そして、同じ説明を何度も繰り返すという無駄な努力をするのは、誰だって嫌な物だ。

「分かった。第五小隊が来るまで待とう」

 シャーニッドとレイフォンとアイコンタクトを取り了承の意思を確認した後、ニーナが代表して答えた。
 とは言え、どんな事態になっているのか早く知りたいという欲求は収まるところを知らない。
 なので視線を他に放ってみて、何か事態を予測できる物がないかを探してみる。
 フェリが後生大事に持ち歩いていた、お菓子の大量に入った鞄が目に止まった。
 何故か蓋が開け放たれ、幾つか地面に零れているが、これが原因であるとは考えられない。
 だがしかし、他に何か異常を訴えかけるような物は存在していないので、最初から手詰まりだ。
 だが、やはり第五小隊は違った。
 その驚くべき統率力と機動力を駆使して、僅かな時間でニーナ達と合流してきたのだ。
 これで事の顛末を聞くことが出来る。
 やや不思議なことと言えば、全員が若干息を荒くしているところが上げられるが、それはフェリが突然倒れたことに比べたらどうと言う事はない、些細な出来事だ。

「早かったですね」
「ああ。墓荒らしまがいのことをやってしまってな。罪悪感というか居心地の悪さというかを感じていたのだ。そして埋め終わった直後にロスからの念威が途絶えた」
「ああ。それで全力だったんですね」

 やや驚き気味だったレイフォンとゴルネオとの会話を聞く内に、死者の眠りを妨げるような行為をしていたことに、若干の怒りを覚えたが、それでもツェルニの安全を確保するためには仕方が無いことなのかも知れないと、かなり無理矢理に自分を納得させた。
 ゴルネオを筆頭に、全員の顔色が悪いことも、声を出さなかったことの一因だろうが。

「それで、何が起こったのだ?」

 レイフォンとの会話を終えて、息を整えたゴルネオの視線がナルキを捉える。
 ナルキ以外にここに居なかった以上、聞くべき人間は彼女しかいない。

「全く不明なのですが、お菓子を食べながら機関部を調査していたフェリ先輩が、いきなり泡を吹いて倒れまして」
「他のことをしながら食べると危険なのに。喉に詰まらせたのかな?」

 レイフォンが微妙に間の抜けた言葉で続きを促す。
 だがしかし、突然のフェリの昏倒を考えれば、無いと言い切ることは出来ないのもまた事実だ。

「ああ。私もそう思って呼気で吐き出させようとしたのだが、呼吸は浅くて早かったがそれ以外の異常はなかった」
「? じゃあ、なんで倒れたんだろう?」

 喉に詰まらせたのでなければ、原因は更に不明となってしまう。
 その後ナルキがどう言う行動を取ったのかも、非常に疑問である。

「ああ。さっぱり分からなかったんだが、何かの理由で毒物でも混入していたのかも知れないと思って」
「いやいや。メイシェンのお菓子にそんな物は入ってないよ」
「私もそう思うんだが、取り合えず胃洗浄をやってみたんだ」

 ナルキの視線が嘔吐物を埋めた辺りに向けられる。
 これで一つ謎が解けたと言って良いのかも知れない。

「胃洗浄をしたら、何故か呼吸が落ち着いて血色が良くなった。やはりお菓子に何か原因があったと思う」
「うぅぅぅん? メイシェンのお菓子だよ? それだったら僕が作った朝食の方がよっぽど疑わしくない?」
「いや。朝食が原因だったら、突然意識不明になったりしないだろう」
「それもそうだけれど」
「それ以前に、他の人に症状が全く出ていないじゃないか」

 何しろメイシェンの作ったお菓子が疑われているので、レイフォンとしても全力で疑いを晴らしたいようだが、残念なことに状況証拠は全てお菓子を指し示している。
 いや。それ以前に頭を使って事件を解決するのは専門外だと言いながら、立派に状況から推論を立てているナルキに少々感心してしまってもいた。
 この調子で、この都市で何が有ったかも解き明かしてくれればいいのにと、ほんの少しだけ思ってしまったが、これは全く話が別である。

「でも、痛んでいたとか汚染物質に汚染されていたとかじゃないなら、身体に悪い物が入っているわけが・・・・・・・・・・。あれ?」

 更に弁護しようとしたレイフォンが、散らばっているお菓子の一つを注視して、そして疑問の声を上げた。
 そして何故か、復元状態だった鋼糸を使い、一つを慎重に持ち上げる。

「これって?」
「なんだ?」

 疑問に思っているのは、この場にいる全員であり、そして全ての視線がレイフォンが持ち上げたお菓子に集中する。
 それは、なにやら焼け跡が痛々しい茶色の物体だった。
 何故焼け跡が痛々しいなどという表現が出てきたか非常に疑問ではあるのだが、これ以上的確に表現する言葉をニーナは知らない。

「メイのじゃないよな、それ」
「違うと思うというか、絶対に違う」

 本格的に疑問に思っている全員が見詰める前で、その茶色の物体がゆっくりと回転する。
 形が非常にいびつだった。
 痛々しく焼けた場所と、殆ど生ではないかと思える場所が混在していた。
 既に売れるだけのお菓子を作れるメイシェンが、こんな失敗作を創り出すはずはない。
 では、一体これは何処から出てきたのだろうかと、疑問に思った矢先。

「ああそれ、私のおやつボックスに何時の間にか入っていた怖いお菓子だ」
「な、なんだ? 怖いお菓子だと?」

 いきなり叫んだシャンテの台詞に対して、オウム返しの反応しかできないゴルネオの気持ちは十分に理解できる。
 ニーナだって全く意味不明だし、他の隊員も全く理解できていないようだ。

「おう! 昨日ロスが私のおやつボックスを弄っていたから、取られていないか確かめたんだ」
「数えているのかお前は?」
「? 当然だ。お菓子が無くなったら生きていけないじゃないか」
「そ、そうか。それで、その怖いお菓子を見つけたのか?」
「おう! なんだか触るのも怖かったから、箸でつまんでロスのおやつ入れに混ぜておいた」

 そんな恐ろしげな物だったら、普通に捨てないだろうかと疑問に思うのだが、シャンテにしてみれば違うのだろう。
 実際に全く違う行動を取っていることだし。

「しくじりました」

 ここまで話が進んだところで、不意に声が聞こえてきた。
 それはこの騒動の唯一の被害者であり、ニーナの部下であるフェリの物だったが、それはあまりにも弱々しく、受けたダメージが相当大きいことを想像できる物だった。

「先輩、目が覚めたんですね。それで、何にしくじったのですか?」

 膝枕したままのナルキの質問に、少しだけ瞼を持ち上げて自分の状況を確認したフェリが、ゆっくりと口を開いたが、それはあまりにも意味不明な単語から始まった。
 いや。この騒動全てが意味不明な以上当然の成り行きなのかも知れない。

「それは、害獣駆除用に私が制作したお菓子です」
「・・・・・・。害獣駆除って、なんですか?」

 害獣である。
 ニーナの寮にも、害虫駆除用の薬品が幾つかあるが、獣となると話は全く違ってくるし、そもそもそんな大きくて危険な生き物はツェルニに存在していないはずだ。

「そこの赤毛害獣を駆除しようとして作りました」
「・・・・・・・・・」
「別に、トリンデンに作れるのだったら私にも作れるはずだと思って、お菓子作りに挑戦したけれど、一口味見したら次の朝だったとかそう言うオチではありません。折角作ったのだから何かに使わなければ損だと思って、赤毛害獣に食べさせて殲滅しようなんて、後付けの理由で作ったわけではありません。最初から害獣駆除用として作ったお菓子だったのに、まさか本能的にそれを察して私自身が食べる羽目になるなんて、全くこれっぽっちも思っていませんでした」

 これは、かなり怖いかも知れない。
 何故か不明だが、フェリの喋り方が何時もと違う気がする。
 何時も口数が少なく、喋る時には毒舌になりがちなフェリが、なにやら裏事情まで懇切丁寧に話しているような気がしてならない。
 だが、混乱しているニーナと違う人間がいた。
 レイフォンだ。
 鋼糸でつまんでいた茶色の物体を更に遠くに運んで、更に完全に覆い尽くす。
 繰弦曲・崩落。
 鋼糸で作られた繭の内側に向かって衝剄が放たれる。
 普段ならば、エネルギーの一部は無駄に拡散してしまうのだが、完全に囲んでいるためにその無駄が発生せず、眉の中は凄まじい破壊の嵐となる。
 そして、鋼糸が解かれた時、そこには何も存在していなかった。

「あのなレイとん。凄すぎる技をこんな事で使うなよな」
「い、いやだって、怖いじゃないか。もし吸い込んじゃったら、汚染物質並に危険かも知れないのに」

 言われて見て気が付いた。
 鋼糸で運んでいった先は風下だと。
 その念の入れ様は凄いとしか言いようがないし、使った技自体も相当に凄まじかった。

「アルセイフ」
「はい?」

 危機的なのかどうか、判断に苦しむ状況を打ち破ったのは、割と切迫したゴルネオの声だった。
 そしてゴルネオを視界に納めてみれば、いつも以上に引き締まった顔をしていた。
 何か重大な用件があるのだろう事が、その佇まいと表情からだけでも十分に理解できる。

「その鋼糸で、機関部を調査できるか?」
「出来ないことはないですが」

 出てきたのは、現在ニーナ達がこの廃都市にいる理由に絡んだ内容だった。
 と言うか、今までの一連の騒動ですっかりと忘れてしまっていた。
 もうまもなくツェルニがここまで来てしまうのだ。

「微妙な言い回しだな。ロスが戦力として暫く使えないからと言って、調査をしなくて良いと言う事ではない。鋼糸でやれるのだったら我々は他を調べるのだが」

 提案は十分に納得の行く内容だった。
 優秀な念威繰者が不慮の事故で戦線を離脱してしまった以上、他に使える物はなんでも使って調査しなければならない。
 まあ、それを言うならば、既にフェリによってこの都市中が十分に調査されていると思うのだが。

「少し危険ではありますね」
「どの辺がだ? 精度が落ちることはこの際目を瞑るが」

 ゴルネオの方は割と合理的なことを言っていると思うのだが、何故かレイフォンの方が曖昧というか、言葉を濁しているというか、躊躇しているような素振りを見せている。
 それ以上に、何か懸念があるのか危険だと言っていることに、非常に疑問を感じる。

「セルニウム保管庫の側で、鋼糸が何かとこすれたりぶつかったりして、火花が散ったら爆発の危険性もあるかと」
「う、うむ。成る程そう言うことか」
「自分の歩いた道を遡りながら調べるくらいは問題無いですが、全く知らないところだと少々危険が大きいかと」

 出てきたのは、ある意味当然の言葉だった。
 鋼糸と言っても、最終的には錬金鋼である。
 ならば、金属部品とぶつかった場合、火花が散ると言う事も考えられるし、十分に危険である。

「仕方が無い。人海戦術で調べるしかないか。それで良いだろうか?」
「・・・・・・? は、はい! それで行きましょう」

 今まで聞き役に徹していたために気が付くのが遅れたが、もしかしたらゴルネオも状況に動揺していて手順を踏み間違えたのかも知れないが、ここでレイフォンの上司であるニーナに話が振られてきた。
 普通に考えるならば、先にニーナに話を通すべきなのだが、事態が異常だったためにニーナ自身もすっかり忘れてしまっていたのだ。
 とは言え、何とか反応が遅れたが、それでも人海戦術で機関部を調べることに異存はない。

「では、時間ギリギリまで機関部を調べることとする。アントーク」
「はい」

 呼ばれたが、今度はきちんと対応が出来たし、ゴルネオが何を考えているかも分かった。
 そして視線をナルキへと向ける。

「私はこのまま先輩の看病ですね」
「ああ。手間をかけて済まないな」
「いえ。こう言うのは得意な分野ですから」

 そう言うナルキの視線はしかし、相変わらず厳しいままだった。
 それは間違いなく、警察官のそれだった。
 あるいは救急隊員の視線だったかも知れない。

「よし! では残りの全員で機関部の調査に入る。指揮権はこちらで貰って良いか?」
「お願いします」

 最後の確認として、誰が指揮官かを決めた。
 これを確認しておかないと、統率に問題が有るので当然であるし、人数的に第五小隊の方が多いので、ゴルネオが指揮官であることも当然だった。
 こうしてツェルニが来るまでの数時間、機関部内で過ごすこととなったが、結局特に危険な物は発見できなかった。
 電子精霊とおぼしき、黄金に耀く雄山羊も含めて。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 おまけ。
 この下にあるのは、制作途中でボツとしたネタによる話です。
 第五話五頁目の最後のパートです。F理論の続きですので周りに人がいる状況で読むと、人格破綻者と思われるかも知れません。
 十分にご注意ください。
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 フェリによって発見されたらしい廃都市を調査し、危険がないかを確認するために最下層にやってきたゴルネオだったが、突然のことに戸惑ってしまった。
 いや。調査に行くというのは何ら問題無い。
 第五小隊を預かる隊長である以上、如何なる時であろうともツェルニの安全を守るために最善を尽くす覚悟はしてあるし、それは隊員一人一人についても言えることである。
 そのはずであった。

「なんだ?」

 だが、目の前に例外が存在しているのだ。
 そして、その例外に戸惑っているのだ。
 一年の時に色々あって、未だに色々ある赤毛猫の副長がその例外だというのは、かなりやりきれない思いではあるのだが、兎に角現状と向き合わなければならない。
 そう。なにやらモジモジとしているシャンテと向き合わなければならないのだ。
 モジモジである。
 これ以上シャンテに相応しくない単語がこの世に存在しているとしたら、それは遠慮という単語ぐらいだろうと思えるのだが、もしかしたらゴルネオの知らないところでもっとあるかも知れない。

「ゴル」

 なにやらモジモジとしているシャンテから、金属の擦れ合う音が聞こえてきたような気がする。
 だが、実はそんな些細なことなどお構いなしに話は別なところで進んでいるのだ。
 そう。グレンダン出身で兄弟子の仇であり、更に超絶の存在であるはずの元天剣授受者らしき生き物が、情けない表情で助けを求めているような気がしているのだ。
 よりによって、シャンテのことで手一杯なゴルネオに対してである。
 だが、それも無理はない話なのかも知れない。
 第十七小隊長であるニーナは、極力その光景から視線をそらせ続けているし、狙撃手であるシャーニッドは寝癖の残る髪を振り乱して、呼吸困難で死ぬのではないかと思えるほどに笑い転げているのだ。
 ダイトメカニックのハーレイは、何故か非常に羨ましそうに見ているのだが、もしかしたらどんな内容だろうと出番が欲しいだけかも知れない。
 そして、そして、最後に残った念威繰者であるフェリはと見れば、悠然とレイフォンの前を歩いてこちらにやってきている。
 いや。それは正確ではない。
 レイフォンを引っ張ってこちらへやって来ているのだ。
 その左手から、銀色に耀く鎖が伸び、そして元天剣授受者な生き物の首に装着された、非常にこった作りの首輪につながっている。
 目の前が真っ暗になってしまった。
 これは何かの間違いに違いないと、瞼を閉じて大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出しながら瞼を開いて現実を見つめ直す。

「・・・・・・・・・・・。アルセイフ」
「何も言わずに助けて下さい」

 天剣授受者とは、超絶の武芸者のことであるはずだが、もしかしたら決定的に何か違うのかも知れない。
 いや。元と付いてしまうと決定的に何か違った生き物になるのだ。
 そうに違いないと心に堅く言い聞かせて、そして視線をそらせる。

「ゴル」

 そして、シャンテが何かを差し出している姿が視界に飛び込んできた。
 シャンテ専用に作られたという、猫耳付きヘルメットを抱えて、尻尾付き都市外戦装備を身につけて。
 こちらもこちらで少々問題かも知れない。

「なんだ?」

 シャンテの行動に疑問を持ったわけではない。
 いや。十分に疑問ではあるのだが、今問題としているのは恐ろしく違う事柄だ。
 シャンテが差し出しているのは、それは鎖だった。
 鋼鉄で出来ているらしいそれは、明らかに装飾品の類ではない。
 重量物を移動させる時に使うような、明らかに実用一点張りで頑丈に作られている鎖だ。
 何故そんな物をシャンテが持ち出してきているのか、それは分からないのではあるが、それでも何となく受け取ってしまった。

「クスクス。ずいぶんと貧弱なペットを飼っているのですね」
「な、なに?」

 受け取った次の瞬間、そう声をかけられた。
 そして思わず視線を動かして、声のした方を見れば、元天剣授受者を従えた念威繰者がいた。
 そして、全身から冷や汗が流れるのを感じた。
 そう。ゴルネオ自身が今持っているのは鎖である。
 レイフォンの首輪につながっているのも、形状や用途を無視すれば同じ鎖である。
 そして、凄まじく嫌な予感と共にシャンテを注意深く観察する。
 そして驚愕した。
 首輪である。
 シャンテの細い首に、これ以上ないほど不釣り合いな首輪が巻かれているのだ。
 いや。ある意味これ以上ないくらいに相応しい首輪かも知れない。
 その首輪は、合成皮革で作られているようで非常に丈夫そうだった。
 分厚くそして幅も広い。
 更に言えば、首を守るように棘棘が配備されている。
 子供の頃に見たアニメに登場する凶暴な犬は、おおかたこんな首輪をしていたような記憶がある。
 つまり今の状況を客観的に見れば。

「・・・・・・・・・・・・・」

 客観的に見ることが出来なかった。
 何しろシャンテをペットとして飼っていることになっているのだ。
 しかも、もの凄くごつい鎖と首輪をした、凶暴な赤毛猫のシャンテをだ。

「お前のところのペットみたいに、シャンテはヘタレじゃないぞ!!」

 そして、ゴルネオのことなどお構いなしに、馬鹿正直にフェリの相手をしてしまうシャンテ。
 あまりにも危険な雲行きに、ゴルネオが何かするよりも早く話は進んでしまう。

「フォンフォンは私のためにご飯を作ってくれていますよ?」
「ゴルだって、シャンテのためにご飯を作ってくれるぞ!!」

 ふと思う。
 こちらの方がまだ正常な飼い主とペットの関係ではないかと。
 飼い主のためにご飯を作るペットなど、ツェルニにしか居ないはずだと。
 ならばこれで良いのかもしれない。

「それだけではありません。フォンフォンは私のために献身的に掃除をして、更に洗濯までしてくれるのです」
「むぅ? 掃除と洗濯は同じ部屋の奴がやってくれているな。ゴル! 今日からゴルがやってくれ」

 飼い主としては、きちんと掃除と洗濯をしなければならないだろう。
 と考えたのは僅かに0,03秒。
 そもそもが、フェリが自慢しているのはペットの能力であり、飼い主の能力ではない。
 ここで問題になるのは、赤毛猫のシャンテと珍獣フォンフォンの能力の差と言う事であって、決してゴルネオとレイフォンの違いではないはずだ。

「そしてこれが最も重要なのですが」
「ぐわぁぁ!」

 そう言いつつ、何故かフェリの右の踵がレイフォンの左爪先を、しかも小指の先辺りを丁寧に踏みにじる。
 あまりの痛みに、最初の悲鳴以外は口をパクパクさせているだけで、一切の声が出ていない元天剣授受者が、少しだけ哀れに思えてきた。
 そして、普段無表情なフェリの口元が歪んだ。
 ニヤリと。

「フォンフォンは私の身体を舐めて綺麗にしてくれるのですよ? しかも毎日。こんなに献身的なペットを飼っているのは、全人類で私ただ一人でしょう」

 一人で十分だと突っ込むべきだろうか?
 それとも、不純な行為に走るなと叱るべきだろうか?
 はたまた、何故レイフォンの脚を踏みにじって喋れないようにしているのかと、疑問を解決するために努力すべきだろうか?
 そんな常識的なことを考えてしまったのが、全ての敗因だった。

「馬鹿にするな! シャンテだってゴルを舐めて綺麗にするくらい出来るぞ!! 今すぐにだってやってやる!!」

 その時、空気がどよめいたような錯覚を覚えた。
 いや。実際にどよめいたのかも知れない。
 そしてゴルネオは見てしまった。
 フェリの表情が嗜虐的に歪むのを。
 これこそを狙っていたのだと気が付いた。
 あちこちからの色々な視線にさいなまれつつも、ゴルネオは理解してしまっていた。
 全てはフェリの策略であり、そして全ては既に駄目になっているのだと。

「ふふふふふふ。フォンフォンには劣るかも知れませんが、なかなか優秀なペットではありませんか」
「なめるな! シャンテはそんなヘタレペットよりもずっと役に立つんだぞ!!」

 やはり、駄目かも知れない。
 何が駄目なのか具体的には分からないが、それでも何かが決定的に間違った方向へと突き進みつつあることを認識した。
 やはり、シャンテと関わってしまったために、レイフォン以上のラブコメ人生へと転落しつつあるようだ。
 絶望の溜息をつきつつ、鎖を軽く引きシャンテを回収する。
 今は、廃都市の調査という目の前の問題へ逃げるべきだ。
 いくらシャンテでも、廃都市でゴルネオを襲ってくるなどと言う事はないはずだから。
 いや。そうあって欲しいと願っているのかも知れない。
 兎に角、ゴルネオはシャンテを肩に乗せて出発の最終確認を始めたのだった。
 
 
 
 
 後書きという名の言い訳。

 はい。と言う事で短めになってしまった九頁目の埋め合わせとしてこんな物をお送りしました。
 実はこれ、本編に入れるために書いていた物だったんですが、いかんせんギャグ要素が強すぎました。
 メルニクスでシャンテに襲われて、全身を綺麗にされるゴルネオなんてのは、完全にギャグですからねぇ。
 でも、折角書いたのにお蔵入りはつまらない。
 と言う事でおまけとしてここに乗せることとなりました。
 いかがだったでしょうか?



[14064] 閑話 第五話の後始末
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/14 22:10

 
 鉱山での採掘作業が始まったという情報がツェルニに流れたのは昨日のことだった。
 この補給が非常に重要なことは間違いないし、今回に限って言えばいつも以上にほっと出来る状況であると、都市の運営者は思っていることだろう。
 何しろ、レイフォンが入学してからこちら、汚染獣との戦闘が立て続けに起こり、更に廃都市との接近などと言う非常事態まであったのだ。
 補給できることにほっと胸をなで下ろしていることだろう。
 願わくば、これが最後の補給になら無ければ良いとも思っているだろう。
 そして、何よりも重要なのだが、作業中は授業が完全に停止する。
 機械科や錬金科を始めとして、教師役の上級生のかなりの人数が作業に駆り出されるから、その間授業が出来ないのだ。
 上級生にとっては辛い作業の連続であり、全然有難くないだろうが、下級生にとってはちょうど良い骨休めだ。
 第十七小隊はこの後合宿をするという話ではあるのだが、レイフォンにとっては勉強するよりも身体を動かしている方が楽なので、大した問題はない。
 だが、その合宿ももう少し後からになる予定だ。
 廃都市の調査という重要な任務から戻った二個小隊だったが、フェリの体調が思いの外優れないことが発覚したのだ。
 原因は間違いなく、あの恐ろしいお菓子である。
 どれだけ凄まじい物を造ってしまったのか、そちらの方も疑問ではあるのだが、兎に角今は特にすることがないためにのんびりとしている状況だ。
 レイフォンを筆頭に、メイシェンにナルキにミィフィとリーリン、ウォリアスとイージェというメンバーで昼食のテーブルを囲んでいる今この瞬間は、とても貴重な骨休めの時間であるのは間違いない。
 メイシェンとリーリンとレイフォンの手による、大量の料理が並んだ頃合いになって、何故かフェリとシャーニッドも参加してきたのだが、これは取り敢えず問題無いことにしておこうと思うのだ。
 特に、体調が悪いはずのフェリがここに居ることは極秘事項だ。

「ふぁれ? ふぁるき」
「口の中に物が入っている時に喋るな」

 そんなのんびりした時間の中で、料理を口の中に目一杯詰め込んだミィフィが、何かに驚いたように何時も大きな瞳を更に大きくしてナルキを見る。
 当然、そんなはしたない真似をしたのだから、ナルキは注意するのではあるが、ミィフィにとっては何処吹く風である。
 そしてその好奇心丸出しの視線は、ナルキの腰、その左側へと注がれている。
 そこには、何時の間にか都市警のマークが入った錬金鋼が収まっていたのだ。

「その錬金鋼って」
「ああ。これは都市警のだ」

 校則で、一年生の錬金鋼携帯許可は半年後となっているが、例外が幾つかある。
 小隊員になることと、都市警などの公の職業で携帯が認められることだ。
 後は、汚染獣戦などの非常事態に、母都市から持ってきている者がいれば、殺傷設定のまま使用することが出来るくらいだろうか。
 殺傷設定のまま常時携帯しているレイフォンの場合は、例外中の例外である。
 そして制度上許可されると言っても、都市警の錬金鋼は基本的に打棒限定であるため、錬金鋼である必要性はそれ程大きいわけではない。
 だが疑問もある。

「それってやっぱり刀なの?」
「いや。打棒だ。と言うか都市警で許される武装は基本的に打棒だけだ」
「へえ」

 レイフォンとイージェがサイハーデンを教えている以上、その武器は刀であるはずだが、やはり都市警で働くとなると打棒でなければならないらしい。
 そもそも、レイフォンと出会う前のナルキは、打棒による訓練を中心に受けていたから、もしかしたら未だにこちらの方が身体に合っているのかも知れない。
 いや。そもそも、ナルキの場合鋼糸でさえ取り縄の延長として捉えている節があるから、もしかしたら刀も打棒の延長として捉えているのかも知れない。
 いやいや。それならば刀に反りを持たせる必要はなかったはずだからこれは恐らく違う。

「だからテメェは赤毛猿って呼ばれるんだ。刃物を使えるんだったらそっちにしろよな」
「いえ。打棒は警察官の誇りですから。汚染獣戦ならば刀の方を使いますが、対人戦ならば打棒の方を使います」
「・・・・。そう言えばエルメンさんの道場で本格的に打棒を習っていたんだよね」

 リヴァースがヨルテム出身であることは知っていたが、その父親と会うことになろうとは全く思っていなかった。
 そうと知らずに、ナルキに連れられてエルメン道場を訪れ、訓練が終わり昔話に付き合っている内に、息子のことが話題になった。
 そして、盾を持って戦争に出て行き、そして今はヨルテムにいないという話と名字から、リヴァースらしいと思い至った。
 そして、彼の息子がグレンダンでどう言う生き方をしているかを伝えた時の、老人の表情をレイフォンは未だにはっきりと記憶している。
 いくつもあった重要な出会いの中でも、とても印象に残っている事柄だ。

「そう言えばお前は警官希望だったな。悪人斬り殺したくならねえか?」
「なりませんから。ドラマの中みたいに、犯罪者に暴力振るうのは二流以下の警察官です」
「ふん! 自慢じゃ無ぇが、俺は人間として三流を目指しているんだ! 気に食わない奴はぶった切る!!」

 ナルキとイージェでは、決定的に物の考え方や見方が違うようだ。
 ここまで違うというのも珍しいが、それでも全面衝突にならない辺りに、イージェの大人を感じる。
 ただ言うと、どちらかと言うとレイフォンはイージェの側の人間だ。
 気に入らないことは力尽くで解決する。
 そのせいでグレンダンから追放されたのだし、今ツェルニに居るのだ。
 そこでふと思う。
 もう少しナルキの側に寄らないと、この先も失敗するかも知れない。
 これからは、もう少しナルキの生き方を見習おうかとそんな隠れた決意をしている間にも、話はどんどんと先へ進んでしまう。

「そう言えば、鋼糸って言ったっけ? あれも都市警じゃ使わないの?」
「いや。あれは取り縄と言う事で、少し強引に許可を貰っている。今も一応携帯しているが、剣帯には入らないのでこっちだ」

 そう言いつつ、胸のポケットからカード型の紅玉錬金鋼を取り出す。
 レイフォンのように、柄の形状をしていれば剣帯に納めることは問題無いが、ナルキやゴルネオのようにカード型だと特殊な形状の剣帯を作らなければならないので、ポーチやポケットに入れていることの方が多いようだ。

「へえ。ナルキでもそう言う制度の悪用ってするんだ」
「悪用って言うな。そもそも私の実力じゃ細い取り縄と同じにしか使えないんだ」

 ヨルテムからこちら、ナルキに対して色々と鍛錬を施してきたレイフォンではあるが、残念なことに目を見張るような成果などと言う物とは全く無縁だ。
 教えることに不慣れだというのもあるだろうし、そもそもレイフォンは自分が異常者であることを理解しているので、落胆はしていないのだが、それでも少し凹んできている今日この頃ではある。
 そして、その典型例が実はナルキなのだ。
 本人が認めているように、鋼糸の数は十本に増えているにもかかわらず、残念なことに相手を切り刻むと言ったことが出来ないでいる。
 その根本的な理由は、やはりナルキが取り縄として捉えているからに他ならないことがはっきりとした。
 それが悪いと言うつもりはない。
 そもそも、鋼糸を教えようとしたのも取り縄の妙技を見たからに他ならないのだし、ナルキならばこのままでも良いかとも思う。
 警官を目指しているナルキにとって、必要なのは相手を殲滅する力ではなく、相手を無力化する力なのだ。

「ふむ。でも、有って困ることはないかな?」
「・・・・・・。いや。大きすぎる力を持ってしまうのは問題ではないかと思うのだが」
「いやいや。天剣授受者並の犯罪武芸者とかいた時に便利じゃない」
「いやいやいや。そんな物騒なもんは滅多にいないというか、普通の都市にはまずいないから」

 心持ち、ナルキへの鍛錬を厳しい物にしてみても良いかもしれないと思うレイフォンと、それを避けようとするナルキの会話は珍しくない。
 だが、今日は観客が少しだけ多かった。

「赤毛猿の分際でぐだぐだ言ってねえで、ヨルテムを支配できるくらいに強くなればいいだろうに」
「それは無理ですから。私はそれなりに優秀だとは思っていますが、交差騎士団を相手に全面戦争なんて出来ませんから。そもそも、そんなことしたらヨルテムは崩壊しますから」

 ナルキとイージェのこの手のやりとりも最近珍しくない。
 なにやら、ヨルテムの首脳陣に恨みでもあるのか、ことあるごとにナルキをけしかけるイージェ。
 毎度やっていて飽きないのだろうかと考えてしまうほどだ。

「そう言えばさ」
「なに?」

 そんな会話の袋小路に入り込もうとした矢先、いきなりリーリンが話題の転換を図った。
 このまま武芸者の話題だけで盛り上がってしまっては、流石に問題有るのでそちらへと注意を向ける。

「ナルキが鋼糸使う時って、復元鍵語ってレイフォンと同じよね?」
「・・。ああ。それには色々と理由があってな」

 一つの錬金鋼に二つの設定を持たせているレイフォンと違って、ナルキの場合はそれぞれ違う錬金鋼を使っているので、変える必要は本来無いはずだ。
 無いはずなのだが、少々事情があって変えているのだ。

「鋼糸を習い始めた頃にな」
「うんうん?」
「刀と鋼糸と二つ錬金鋼を身につけている状態で」
「状態で?」
「復元鍵語を一種類にすると、問答無用で二つ同時に復元してしまったんだ」

 復元鍵語を唱えて剄を流すと、錬金鋼は記憶復元する。
 つまり、剄を流さなければ基礎状態を維持するのだが、どうしても片手だけに剄を流すという事に慣れなかったようで、二つ一緒に復元してしまったのだ。
 制御に問題がなければ、そのまま両方とも復元しておいて何ら問題無いのだが、最初の頃自分の鋼糸に巻き付かれたりと言う事が何度かあった。
 最終的に、復元鍵語を二種類用意することで選択するという方法を採用したのだ。
 もちろん、今ならば問題無く鍵語一つで二種類の錬金鋼のどちらかを復元できるのだが、一度染みついてしまった習慣を変えることが難しくなっている。
 目立った問題がないからそのままにしてあると言うだけだ。

「へえ。ナルキって割と不器用だったの?」
「普通、複数の武器を持ち歩く事って無いからね。ナルキが不器用と言うよりは、むしろ想定してなかったから試行錯誤だったんだよ」

 ニーナの双鉄鞭や、シャーニッドの銃衝術用の拳銃と言った、二つで一セットという場合を除いて、複数の武器を使い分ける武芸者というのは実は希なのだ。
 もちろんいない訳ではない。
 普段狙撃銃を使っているシャーニッドが、拳銃を持ち歩いているように、たまに見るのは事実だが、ナルキやレイフォンのように同時展開して使うというのは極めて希なのだ。
 天剣時代は、剣と鋼糸をその場その場で使い分けていたから同時展開ではなかったが、ヨルテムからこちら何かと同時展開することが多くなっているのは少し不思議だ。

「成る程な。つまりレイフォンがやはり異常だと言うことか」
「それは間違いないですよ。僕は異常者の中の異常者ですからね」

 リンテンスではないが、天剣授受者などと言うのは人外の中の人外であり、異常者の中の異常者なのだ。
 そもそも他の人と比べることが著しく間違っているのだ。
 そして、視線を感じた。

「え、えっと」

 レイフォンが異常だという事実も、メイシェンの前には吹き飛んでしまう程度の重みしかない。
 不機嫌と言うよりも、悲しそうな視線で見られてしまっては、天剣授受者などという化け物のことなどどうでも良いのである。
 レイフォンが人と違うと言う事を、真面目に主張すると酷く悲しむのだ。
 事実としてレイフォンは異常者であるのだが、それでもメイシェンの前では普通の人でありたいと思う。

「そ、そう言えばウッチンも錬金鋼持ってきてるんだよね? 普段使っているところ見たこと無いけれど」
「ああ。僕は小隊員でもなんでもないからね。携帯許可はもう少し先でないと下りないよ」

 レイフォンも幼生体戦の時に一度だけ見ている。
 碧石錬金鋼の曲刀だった。
 鍔元に紅玉錬金鋼がはめ込まれ、化錬剄を使うことを前提としつつ、収束率を上げることで技を容易にしているという、特化型の錬金鋼だったと記憶している。
 ちなみに言えば、レイフォンはまだあの炎破という技を本来の使い方で体得できていない。

「へえ。そんなんで武芸大会に間に合うの?」
「僕は元々前線の戦力としては期待されていないからね。裏方であくどく働いて勝てるようにするよ。それに、基本的に一年生は武芸大会では戦力として、それ程期待されていないからね」

 確かにウォリアスの技量は凄まじいと表現できるが、その反対に剄脈が小さすぎて武芸者としての総合戦力では、ツェルニでも下から数えた方が圧倒的に早いだろう。
 反対に、頭を使うことには非常な才能を持っていて、もしウォリアスと戦ったとしたらレイフォンでは勝てないと思われる。
 実際に一度は完璧な敗北を喫しているし。
 そんな事を考えていると、いきなりナルキが何か決心したようにウォリアスへと視線を向ける。

「そうだウッチン」
「うん?」
「あの炎破って技、教えてくれないか?」
「レイフォンに習って。あれは使うまでに十分以上剄を練らなきゃならない上に、一度使うと何日か動けなくなるんだから」

 幼生体戦で使ってしまったウォリアスは、実際問題として他の剄脈疲労患者よりも、格段に回復が遅かった。
 毎回そんな事になっていたら、流石に色々と問題が出てくると思うのだが、実はレイフォンはまだあの技を完璧に自分の物にしていないのだ。

「無理だよ。僕自身あれを使えないもの」
「・・・? 老性体戦で使っただろう?」
「あれは、刀の先に収束させられなかったから、甲殻の中で無理矢理技を発動させたんだよ。ぶっつけ本番だったけど上手く行って良かったよ」

 天剣授受者だった頃から割とぶっつけ本番で技を試していたので、それ程違和感というか非常識さは感じなかったが、今から思い返せば技にしくじって錬金鋼を失い、危うく死ぬかも知れなかったのだ。
 その時のことを思い出す度に、未だに背中に冷や汗が流れる。
 だが、今問題としているのはナルキにどちらが教えるかと言う事だ。

「・・・・・・・・・・・・。レイフォンが使ったのが本来の炎破だ」
「へ?」
「僕が使ったのは、甲殻を貫けない未熟者用にアレンジされた奴」
「え?」

 ウォリアスの言うことを整理する。
 つまり、幼生体戦で使われた奴の方が簡易版である。
 それはつまり、簡易版の方がレイフォンに再現できていないと言う事。
 つまり、技の解析に何か致命的な間違いを犯している危険性がある、と思ったのだが。

「とは言え、炎破・鋭の方が、技の制御が難しくなってしまって使う人間は滅多にいないけれどね」
「ああ。未だに収束させるのに手間取っているもんね」

 異常者の中の異常者であるレイフォンが手間取っているのだ。
 本来、化錬剄は得意ではないとは言え、ヨルテムで基礎を学んでからこちらずいぶんと使える技が増えた。
 基礎が出来ていてさえ、レイフォンが手こずっている技が、おいそれと使えるわけがない。
 非常に納得である。
 未熟者用に改良しようとして、返って難しくなってしまっては意味がないが、その手の悪足掻きはレイフォン的に大好きだ。
 幼生体戦の時には、ナルキが助かっているのだし。
 何が幸いするか分からないのがこの世の中だと、再確認した。

「サイハーデンに逆捻子ってのがあるだろう」
「うん」

 刀身に逆方向で絡めた二つの衝剄を纏わせ、相手の体内で解いて破壊するという技だ。
 現状ナルキが使える数少ない、サイハーデンの技でもある。
 鎌首とか焔切りとかも一応は伝えたのだが、残念なことに実戦で使えるレベルには至っていない。

「それと同じように、鍔元から衝剄を螺旋状に流して、切っ先付近でその回転を速くするんだ。そして衝剄を化錬変化させて高速回転する炎の針を作る」
「ふむふむ」

 ウォリアスのアドバイスで割とすんなりイメージできた。
 青石錬金鋼では少々荷が重いかも知れないが、それでも帰ったらやってみようと心に軽く決心する。
 再現できたのならば、ナルキに教えても良いかもしれないが、問題はナルキが体得できるかどうかだ。
 そもそも、使っているのが黒鋼錬金鋼製の打棒と、鋼鉄錬金鋼の刀である。
 両方とも化錬剄を使うには向かない材質だ。
 使えるとしたら、左手に付けている紅玉錬金鋼の鋼糸。

「レイとん。今猛烈に凄いことを考えなかったか?」
「それ程意表を突くことは考えてないよ。そもそもこれならナルキでも使えそうだしね」

 冷や汗を流しつつ何か言いたげなナルキだったが、その言葉は飲み込んだようだ。
 いい加減武芸絡みの話題だけで昼食を続けるのにも、限界が見えてきたこともあり、話題は最近流行の映画へと移っていった。
 だがレイフォンは心の底で祈るのだ。
 どうか絶叫マシーンへと話題が流れませんようにと。
 そしてその願いは叶えられた。最悪な方向でだったが。

「そう言えばレイとんよ?」

 茶髪猫のその声でレイフォンの背中に冷や汗が流れ、あまりの緊張に活剄が勝手に最大の密度で身体を支えた。
 だが、そんな物は目の前の揉め事大好き茶髪猫には全く通用しないのだ。
 そして今回、それは過去最大の破壊力を持ってレイフォンを襲ってきた。

「これまだあるけれど、何時でも使えるように何枚かもって行く?」
「みゃぅ!!」
「ぶしゅ!!」

 メイシェンと二人で変な悲鳴を上げてみた。
 そしてミィフィの手の中には、何故か二名様ご宿泊招待券が握られているのだ。
 前回は、レイフォン自身に色々な理由を付けて利用する事はなかった。
 他にも理由があるとは言え、最終的に使わなかった。
 それを知っているはずだというのに、このタイミングで聞いてくるミィフィの真意が理解できない。
 何故だろうと考える。
 前回は、もしかしたらスキャンダルを作り上げてスクープをものにするつもりだったかも知れない。
 激しくいたしてしまったために、機関部清掃に出られなかった事を大きく取り上げて、堕落してしまったツェルニ最強武芸者などというスクープ記事をでっち上げる。
 あり得ると言える事実に、レイフォンの体温は激しく下降した。
 ならば、今回、このタイミングで持ち出してきたのは何故だろうかと考える。
 そして、殺気を感じた。

「リーリン?」
「うふ、うふふ、うふふふふふふふふ」

 フォークとナイフで武装したリーリンが、ゆっくりと席を立ちレイフォンへとにじり寄る。
 両手に持った武器で、レイフォンを骨も残さず召し上がるつもりのようだ。
 食べられるのって痛いのだろうかと思ったのも一瞬、何とか生き残らなければならない。

「い、いや。それは実は色々と真剣な理由がありまして、げ、現在前向きに検討しつつ理性と知性を持って対応している最中でして」
「へ、へえ。前向きに検討しているんだ。へえ」

 なんだか変なことを口走っている間に、若干ではあるが落ち着いてきた。
 もちろんレイフォンがである。
 逆にリーリンは、前向き発言で更に興奮状態へと移行したようだ。
 だが、まだ望みはあるのだ。
 一瞬ほど逃げだそうとしたらしいウォリアスが、リーリンを押さえるために動き出してくれているところを見ると、どうやら今日も何とか生きていられるようだ。
 ウォリアスなら採掘作業の間、廃都市で情報をあさりまくっていると思っていたのだが、実際は戦略・戦術研究室に住み込んでいる。
 それはなぜかと聞いた事があったのだが、答えはある意味非常に常識的だった。
 商業科で情報を専門に扱う有志が廃都市を現在捜索中であるらしい。
 そして、ツェルニが武芸大会で勝利したのならば、集めた情報を好きなだけウォリアスがもらえると、カリアンとの間に契約がなされているとか。
 好物を目の前にぶら下げられて徹底的に働かせる古典的な方法であると、理解していてなお思惑通りに働いてしまっているのだとか。
 もうこうなると、どちらの方が悪人か分からないのだが、レイフォンに直接関わらない事なので見ないふりをしている。
 そう。今のリーリンに比べたらどうと言う事のない些細な出来事である。

「そ、それにだね、そ、その、あ、あの、ツェルニに居る間はそう言う関係になるのは危険ではないかと思っているというか、心配しているというか」
「危険に心配?」

 レイフォンが呟いたその単語に真っ先に反応したのは、何故かシャーニッドだった。
 何か心当たりがあるのか、それとも廃都市でのことを覚えていて反応したのかは不明だが、僅かにリーリンの瞳に知性と理性が戻ってきたような気がする。
 今を逃してはならない。

「一般人が武芸者を生むのは危険だから」

 今の一連の言葉で、リーリンが完全に平常心へと復帰したように見える。
 これで何とか話を聞いてもらえる下地が出来上がった。
 後は、理性と知性を総動員しつつ、何とか欲望というか欲求を抑えるために、みんなに協力してもらう。
 特に何かに驚いているミィフィの協力が得られるかどうかで、レイフォンの学園生活は大きく変わってしまうのだ。

「なに、それ?」

 驚いた表情そのままにミィフィが訪ねてきたが、それはあまり不思議ではない。
 一般人が別種の生命体である武芸者を生むことは危険性を孕んでいるとは言え、そうしょっちゅう起こることではないのだ。
 もし頻繁に起こることだったら、武芸者と一般人の婚姻は制限されているはずだし。
 そのようなことをどもりつつも何とか説明する。

「そう言えば、父さんのお母さんがそれでなくなったとか聞いたわね」
「うん。それで苦労したって言うからね、少し慎重になった方が良いかなって」

 突発的武芸者だったデルクを出産したことで、その母親は亡くなったという。
 父親も何かの事故で既に死亡していて、孤児として育ったというようなことを聞いた記憶がある。
 滅多に起こらないとは言え、避けられるのだったら避けた方が良いのだ。
 あれだけ嫌っていたルイメイと同じ轍を踏むことに対して、引っかかりがあるというのも事実として存在するが。

「ツェルニでは、って限定的だったのは?」

 もう一つのキーワードに反応したのは、当然のことウォリアスだった。
 実はこちらの方もかなり重要なのだ。
 結果を見届けてはいないが、ルイメイの場合はまだ救いがあった。
 天剣授受者である以上、それなり以上の金銭的な余裕が有る。
 ならば、十分な治療を受けることが出来れば、身体を損なっても生きることは出来たかも知れない。
 そこがデルクと決定的に違うところだが、実はツェルニにはもっと大きな問題が有るのだ。

「ツェルニじゃ、十分な治療が受けられないと思うから」
「・・・・。ああ。成る程な」

 当然のことだが、ツェルニは学園都市である。
 そして、人口の殆ど全てが十代中盤から二十代前半くらいまで。
 そう。妊娠して出産するという基準型都市ならば当然あるはずの営みが、ここでは殆ど無いのだ。
 もちろん、僅かではあるが毎年妊娠と出産は記録されている。
 それでも、ここの医師の間では、一般人が武芸者を生み、そして身体を損ねるという経験はおそらく無い。
 つまり、最悪の場合メイシェンを喪うという危険性を孕んでしまっているのだ。

「いや。それって相当珍しいはずだぞ。家の父さんも突発的武芸者だったけど、爺ちゃんも婆ちゃんも元気だし」

 そう言うのはナルキだ。
 レイフォンも何度かトマスの両親に会っている。
 武芸者ではなかったが警官だったという話も聞いている。
 そう。出産時に身体を損なうという危険性は極めて小さいのだ。
 普通なら小さいのだが。

「相手が僕だからだよ」

 そう。相手がレイフォンだった場合、危険性は極めつけに高くなってしまうような気がするのだ。
 シャーニッドやウォリアスだったら、無視して問題無い程度の危険性だと思うのだが、自分で言うのも変だがレイフォンは違うのだ。

「・・・。あり得ないほどの不運を呼び寄せる男だからな」
「・・・。なんでこんなに不運に見舞われるんだろうって程だからな」
「そうだな。レイとんならば最悪に備えておいてさえ不安かも知れないな」

 シャーニッドにウォリアスにナルキに肯定されてしまった。
 出来れば否定して欲しかったのだが、残念なことに三人もレイフォンと同じ見解のようだ。

「そんな事有りません。レイフォンは頑張っているんだから、きっと大丈夫です」

 そう言ってくれるのはメイシェンだけだが、最も危険なのはそのメイシェンなのだ。
 素直に頷くことが出来ない。
 いや。そもそもまだ頑張っていないのだし。
 そして何よりも、うら若い女性が口走ってしまっては、色々と問題のある台詞を発してしまったのだが、今頃になってからそれに気がついた様子で、凍り付きつつも蒸気を吹き上げている。
 とりあえずナルキが冷たいジュースで冷やしているが、いつまで持つかかなり疑問である。
 そんな弛緩気味の空気だったが、例外がいた。

「なんだ、そう言うことか!!」

 そう。すべての現況である茶髪猫だ。
 なにやら納得したと言いたげに頷き、そして上着のポケットから何か小さな箱を取り出す。
 凄まじく嫌な予感がする。
 具体的には、リーリンに解体処分されそうな感じの、嫌な予感だ。

「さあレイとん! これもぼ」

 何か叫びかけたミィフィの口をウォリアスが塞いだ。
 それと同時にナルキが小さな箱を奪い取り、シャーニッドへと放り投げる。
 最後にシャーニッドが小さな箱を、自分の服のポケットへとしまった。

「もがごがむご」
「はいはい。そのうちね」

 口を塞がれていても尚、講義するミィフィの相手をしつつウォリアスがこちらを向く。
 少しだけ真剣な表情だ。

「最終的には、ヨルテムに帰ったらかまわないと言うことだな」
「ひゃぅ」
「ぢゅぁ」

 攻撃は凄まじかった。
 もはや、レイフォンが生きていられるのが奇蹟と言えるほどに。
 そして、それは間違いではない。
 ツェルニでは危険だが、ヨルテムならばかなりの確立で安心なのだ。
 潤沢な予算に支えられ、十分に高い医療技術を持ち、更に過去の治療記録も豊富に残っているヨルテムならば、ほぼ安心してメイシェンとの間に子供を作る事が出来る。
 それでもやはり、抵抗を感じているレイフォンがいるのも確かだが、今問題にしなければならないのはもっと別な事である。
 そう、死が立ち上がったのだ。
 それはリーリン・マーフェスという人の形をしている。

「うふ、うふふ、うふふふふふふふふふふふふふ」

 帰れないかも知れない。
 天剣授受者だった頃、死を覚悟したことは何度もあった。
 それでも、文字通りに死力を振り絞って生き抜いてきた。
 だが、それでも今日この場でレイフォンは死ぬことになる。
 本能がそう叫んでいるのだ。
 
 
 
 食肉加工店のオーナーであり、経営責任者であり、更に品質管理責任者であり、おまけに営業責任者でもあるオスカー・ローマイヤーは、自らの預金通帳を眺めて深い深い溜息をついてしまった。
 その深さはレギオスの足元から、エアフィルターの頂上を軽く越えてしまうと言うほどに、凄まじい深さである。
 何故かと問われたのならば、話は非常に簡単であり、そして深刻だ。
 残高が非常に少ないのである。

「珍しいですね、社長が溜息つくなんて、おおよそ四年半ぶりですか?」
「やあ、アニー。そんなに久しぶりだったかい?」

 人気のないところで溜息をついていたはずだが、それでもやはり仕事場である以上誰かには聞かれてしまう物なのかも知れない。
 そして、その相手というのが入学直後から一緒に働いてくれているアニーであることに、自分が少し甘えているのではないかとそんな疑念を感じてしまった。

「そりゃあ。ツェルニが負けた時もつかなかったですからね。あれは確か、自信満々で出荷した製品が売れなくて、大量の返品を貰った時でしたか」
「ああ。あの時も酷かったね」

 先代のトーファーキーのことだ。
 今から思えば、学生しかいない学園都市という物を甘く見ていたと言えるのだが、その時は全くもって自信満々だった。
 そのあげくに破産一歩手前の損害を出して、全身の血の気が引く音を聞いた物だ。
 学園都市特有の援助金制度がなければ、きっと何処かの枝にぶら下がっていたに違いないほどには、非常に衝撃的な出来事だった。

「で、今回はなんですか?」
「うん。先日の第十七小隊との試合でね」
「珍しい武器使っていましたね」
「そうなのだよ。あの錬金鋼は非常に維持費がかかる物でね」
「ああ。今回も金絡みですか」
「うん。今回の方がまだましだけれど、しばらくは呑みに行けない」

 実はオスカーは非常にエールが好きなのである。
 それもヘーフェヴァイツェンと言う特殊な銘柄が大好きで、ツェルニでは非常な高級酒に数えられている。
 いや。学生しかいない都市である以上、飲酒が出来る人間の方が少ないために元々酒類は割高なのだが、その中でもヘーフェヴァイツェンは生産量が少なく、驚くべき高値になってしまっているのだ。
 目の前にある預金通帳の残高では、当分は呑みに行けない。

「なんでそんなもん使ったんです? 何時もみたいに剣なら安かったでしょうに?」
「うん。今年の武芸大会で敗北は許されないのだよ」
「ああ。久しぶりだから感覚を忘れているかも知れないと」
「うん。アントーク君ならば十分に感覚を思い出せると踏んで使ったのだが」
「思った以上に手強くなっていたと」
「六発全弾使う羽目になるとは思わなかったよ」

 第十七小隊戦で使った散弾銃の正体は、銃剣術という特殊な格闘術を前提に作られた散弾銃だ。
 ある意味オスカーの奥の手だと言っても良い。
 そもそも散弾銃を使う銃使いが珍しい。
 その理由は幾つかあるが、最も問題なのはコストパフォーマンスが悪いからだろうとオスカーは考える。
 そもそも散弾銃には二種類存在している。
 拡散型と収束型だ。
 拡散型というのは、簡単に言ってしまえばシャワーのように一本の銃身を幾つかに分割して、衝剄などを撃ち出すものだ。
 構造が単純で扱いやすいが、その構造上大出力には耐えられない。
 目くらましや牽制、あるいは威力を必要としない対人戦でしか使われない。
 そして問題は収束型だ。
 厳密に言えばこれは散弾銃ではない。
 言って良ければ、複数の弾薬と複数の薬室と、複数の銃身をひとまとめにしたようなものだ。
 実際オスカーの散弾銃は、一つの薬莢に九発分の麻痺弾が詰め込まれている。
 そして銃身の外壁に散弾範囲調節用の器具を取り付け、九本の銃身をどの程度の範囲で散らすかを決めているのだ。
 そう。はっきり言って普通の銃に比べたら、その製造維持費は遙かに高いのだ。
 だが、出費を惜しんでツェルニが敗北してはたまらない。
 と言う事で奮発して使ったのだが、予想以上の被害が出てしまったのだ。
 とは言え、実際には銃以外の出費の方が大きかったのだ。
 対人工作費という名の出費だ。
 具体的にはレイフォンが勤めている機関部の責任者への賄賂とか、商品を置いて貰っている店の責任者への接待とか。
 レイフォン絡みの出費は、後でカリアンにでも請求しようとは思っているが、取り敢えず預金残高が非常に少ない。

「と言うわけでアニー」
「なんですか?」

 嫌な予感でもしているのか、若干引いて行く友人を追い詰める。
 具体的には、退路を塞ぐように移動して、部屋の隅へと追いやる。

「今夜おごってもらえないだろうか?」
「いやです」
「・・・・・。即答だね」
「社長の飲み代なんか払ったら、俺は破産しますから」
「私はそれ程飲まないよ?」
「無茶苦茶高い酒ばっかり飲むでしょうに」
「心外だね。私が好きになる酒が、たまたま高いだけだよ」
「自分で言っていて違和感を感じませんか?」
「うん。猛烈な違和感を感じているね」

 あまり従業員にたかるのはよろしくない。
 と言う事で、オスカーは暫く禁酒することにした。
 好みに合わない酒を呑むほどには、飲酒の習慣があるわけではないのだ。
 
 
 
 
 ヘーフェヴァイツェン
 原材料の一部に小麦を使った白ビールの一種。
 濾過の工程を省いているので、蛋白質などを豊富に含んでいるが、その分濁ってしまっているかなり癖の強いビール。
 ただし、俺自身が呑んだ事はないので詳しくは不明。
 
 
 
 後書きに代えて。
 第五話と、諸々の説明不足を補うためにこんなもの書きました。
 ナルキがリヴァース父の道場に通っていたと有りましたが、DVD付属の月刊ルックンにて連載されていた、レター・トゥ・レターの設定を利用しています。
 この中で、ミィフィとハイアが知り合いだったり、フェリとシャーニッド父が知り合いだったり、ニーナの家族関係が明らかになったりとかなり面白かったです。
 俺は中古のを買いましたが、それでも四万円ちょっと。かなり痛い出費でしたけれど、もしよろしかったら挑戦してみてください。



[14064] 閑話 第一次食料大戦
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:17


警告。
この話はF理論の続きであり、かなりイタイ内容となっています。
特に後半はとてもイタイ事となっています。
本編とは関係有りませんというか、むしろ黒歴史に分類されると思われます。
以上の事に注意しつつお読み下さい。
 
 
 
 その日、突然ではあるのだがレイフォンはフェリに呼び出された。
 別段、何か問題が起こったとか言うわけではないはずだ。
 もしそうならば、最優先でカリアンの執務室辺りに呼び出しがかかるはずだが、今回はマンションと呼べる寮への呼び出しだったのだ。
 何かあったとしても、武芸者としてのレイフォンの実力が必要だというわけではないだろうと判断できる。
 もしかしたら、珍獣フォンフォンとしての能力が必要とされているかも知れないが、人間とは慣れる生き物らしく、何時の間にか珍獣であることに違和感を覚えなくなっていた。
 なので、かなり気軽にエントランスを抜けて、螺旋階段を上り、ロス家の扉の前に立ち、呼び鈴のスイッチを押し込んだ。

『はい。開いているので入って来て下さい』
「失礼します」

 どうせ念威で確認しているだろうからと思っていたが、鍵をかけるという労力さえ惜しんでいるようで、軽くノブを捻っただけで扉が開いた。
 だが、事態はいきなり常識を吹き飛ばして突き進む。

「い、いやぁぁぁぁ」
「らめぇぇぇぇぇ」
「ひぃ?」

 いきなりだった。
 何の脈絡もなく複線もなく、前触れさえも存在せずに、いきなり少女二人の悲鳴が耳に飛び込んできた。
 しかも良く知っている少女達の悲鳴である。
 更に、なにやら少し色っぽいような気がする。
 何が起こったか全く不明だが、それでも身体はきちんと反応して、条件反射行動で、剣帯から青石錬金鋼を引き抜きつつ、悲鳴のあった方向へと軽い跳躍を終了させていた。
 そこは、以前レイフォンが腕を振るったキッチンだった。
 そして見てしまった。

「うふふふふ。こうですか? ここがいいんですか?」
「あ、あふ。やめてください」
「こ、こわれてひまいまふ」

 そこにいたのは三人。
 この部屋の住人であり、レイフォンを呼んだ張本人であるフェリ。
 流しの側に立ちはだかり、この世を睥睨するかのように佇んでいる。
 そして、そのフェリの視線の先にいるのは少女が二人だ。
 そう。メイシェンとリーリンである。
 だが、普段活発で物怖じせずに前へと進むはずのリーリンは、壁際にへたり込み恐怖のあまりメイシェンに抱きついている。
 そこにいるのは、普段からは想像も出来ないほど弱々しく、涙を流すことしかできない少女だった。
 そして、フェリから視線を離すことが出来ずにいるようだ。
 メイシェンは更に悲惨だった。
 リーリンの身体にしっかりとしがみつき、必死にフェリから遠ざかろうと虚しく脚で床をこすり、スカートが危険域までまくれ上がってしまっている。
 そして、やはりその視線は恐怖のあまりフェリから離すことさえ出来ず、必死の形相で見詰め続けている。
 更に、恐るべき事にレイフォンもフェリから視線をそらせることが出来なくなってしまった。
 いや。身動き一つ出来ない。
 どう見てもクルミにしか見えない木の実を左手で支え、それを割るにはあまりにも巨大なハンマーを右手で振りかぶっているフェリを目の前にして、身動きなど出来ようはずは無いのだ。
 支えられているクルミの周りには、なぜかひびが入っているだけのものが幾つか転がっているのは、全く持って謎である。
 そう。クルミにひびを入れようとすれば、確実にフェリの指にもひびが入ってしまうから。
 そして、振り上げられたハンマーが振り下ろされた。
 真っ直ぐにでは無い。
 軌道自体は真っ直ぐだったのだが、打撃を与える面は斜めだった。
 結果的に、角の部分でクルミを打撃。
 見事にひびが入ったと喜んではいけない。
 勢いのまま流れたハンマーの面部分が、フェリの左手人差し指を強打。

「うふふふふ。とても楽しいと思いませんか?」

 そういいつつ、フェリの柔らかい桃色の舌が強打された左手人差し指をなめる。
 とても妖艶でいて、そして何よりも恐ろしい光景に、悲鳴を上げる事さえ出来ない。
 だが、恐怖は違う形で更にレイフォンを襲うのだ。

「もしかして、こちらの方が良いのですか?」

 そう言いつつ、フェリの左手は、不規則な凹凸をもった、球形に近い茶色の物体を手にする。
 それは通常、芋と呼ばれる根菜類であるはずだ。
 だが、それが今凶器として三人を恐れおののかせ、その身を金縛りに遭わせている。
 そして、ゆっくりと右手が持ち上がり、ハンマーから持ち替えたキッチンナイフをその恐るべき球形の根菜類の、その表面へと持って行く。

「ら、らめぇぇぇ! こわれちゃいまふ」
「ひぎぃぃいぃぃ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」

 三人の懇願の声など知らぬげに、キッチンナイフが球形の凶器の皮を、かなり厚く剥き始めた。
 だが、恐怖はまだ終わらない。
 そう。キッチンナイフの軌道の先、ほんの数ミリの所に、左手の親指が来ているのだ。
 そして、何かの拍子にキッチンナイフの刃が滑った!!

「「「ひぃぃぃ!!」」」

 三人そろって悲鳴を上げる。
 今回は、何とか悲鳴を上げる事が出来たと、現実逃避気味に考えた。
 だが、そんなレイフォン達などお構いなしに、フェリは全く平然としていた。
 いや。とても、非常に楽しそうである。

「うふふふ。惜しかったですね。あと少しずれていたら、親指の第一関節を切り飛ばせたのに。うふふふふ」

 そう。レイフォンは見てしまった。
 その類い希な武芸者の資質に裏打ちされた動体視力によって、恐るべき光景を見てしまったのだ。
 フェリの左手の親指、その爪が微かに切り飛ばされるところを。
 全身から冷や汗が流れ、体温が一気に下がる。
 恐怖のあまり、飛んで行ってキッチンナイフを奪い取ると言う事さえ出来ない。
 止めてくれと懇願することしかできない。
 隣に座り込んでいる少女二人と何ら変わらない。

「ああああ。先輩!!」
「わ、私達に料理をさせて下さい」
「嫌です」
「そんな事を仰らずに!!」
「頑張って、美味しいお菓子を作りますから」
「何を言っているのですか? 私は料理という行為を楽しんでいるのですよ? ああ。この自らの身体を切り刻むような快感。何故これほどの楽しみを他の人に分け与えなければならないのですか? これは独り占めすることにこそ意義があるのですよ」

 いや。少女二人の方が強かった。
 レイフォンは、恐怖のあまり悲鳴を上げることしかできなかったにもかかわらず、メイシェンとリーリンは事態を打開しようと積極的に行動しているのだ。
 だが、その行動も全てフェリの前に粉砕されてしまったが。
 それでも、二人は諦めなかった。

「毎日美味しいご飯を作りますから」
「毎日美味しいお菓子を作りますから」
「ひう! きちんと掃除洗濯しますから」

 ここまで二人が頑張っている以上、レイフォンも奮起しなければならない。
 そして三人で必死にフェリに懇願する。
 土下座をしてフェリに再考を願う。

「・・・・・・・・・・・・」

 そして、レイフォンの類い希な武芸者の素質が理解してしまった。
 土下座をしていて本来見えないはずの、フェリの表情を読んだのだ。
 それはもしかしたら、剄脈の働きかも知れないが、今はどうでも良い。

「仕方がありませんね。そこまで三人が言うのならば、非常に不本意ですが家事をお任せしましょう」

 レイフォンは感じてしまった。
 フェリが笑うのを。
 ニヤリと。
 やはりこれも、剄脈の力なのかも知れないが、全然嬉しくない。
 だが、この目の前の恐怖の大王を何とか宥めることには成功したのだと、少しだけ前向きに考えることが出来る。
 出来たはずなのだが。

「ではリンリン」
「わ、わたしですか?」
「ええ。リンリン。ご飯の準備をお願いします」

 フェリの視線は、間違いなくリーリンを捉えて放さない。
 そして、レイフォンは何故か安堵の感情を覚えていた。
 いや。理由は分かっている。
 世界で唯一の珍獣として、飼い主であるフェリの身の回りの世話を焼いていたのだが、仲間が出来たのだ。
 それも、最も頼れる人が仲間となってくれたのだ。
 これ以上嬉しいことはない。
 そのはずだったのだが。

「シェンシェン」
「あ、あう? 私ですよね?」
「ええ。シェンシェンはお菓子を作って下さい」

 あうあうと言葉にならない声を漏らしつつ、材料と道具を探し始めるメイシェン。
 珍獣仲間が増えたようだ。
 もちろん、フェリの目論見通りである。
 だが、これとてあの、料理の名を借りた恐怖の儀式よりはましであると断言できる。

「フォンフォン」
「はい?」

 そして、当然の成り行きとしてレイフォンにも声がかかったが、だが疑問がある。
 そう。キッチンナイフで芋の皮むきを始めたリーリンと、計量スプーンを片手にお菓子作りを始めたメイシェンがいるのだ。
 レイフォンが手出しする必要はないし、むしろそれは邪魔になるだけである。
 呼ばれた理由が分からないのだ。

「私の身体を舐めて綺麗にして下さい」
「ひぃぅ?」

 フェリがとんでもないことを仰った。
 そして、部屋の空気が一瞬にして絶対零度を下回った。
 蝶番が錆び付いた、巨大な扉を無理矢理開くよりも、もっとぎこちない動作で二人の少女がレイフォンを見る。
 その手には、キッチンナイフとスプーンが握られている。
 スプーンで眼球を抉られて、キッチンナイフで全身の皮を剥かれるに違いない。
 その恐るべき未来予想図を、何とか回避するために全力で行動することとする。

「フェリ先輩?」
「何ですかフォンフォン?」
「僕に死ねと言うのですか?」
「男には、死ぬと分かっていても行かなければならない時があるとか聞きますが?」
「僕は男を止めても生きていたいです」
「なんて惰弱なのでしょうか? ですが、この部屋が血の海になるのは少しだけ問題ですね」
「少しですか?」
「仕方がありませんから、部屋の掃除でもしていて下さい」

 レイフォンの突っ込みは見事にスルーされてしまった。
 そして、ある意味順当な指令が下ったが、これはこれで十分に了承できる範囲内だ。

「頑張って綺麗にします」
「ええ。テレビの裏側とかも綺麗に掃除して下さいね」
「わかりました」

 なにやら、少女二人の安心した溜息に背中を押されるようにして、レイフォンは掃除を始めたのだった。
 
 
 
 突然ではあるのだが、生徒会長であるカリアンは何かに導かれるようにして、ツェルニにおける我が家へとやって来た。
 帰ってきたという感じではない。
 本当に、全く未知の場所へとやって来たと、そんな感じなのだ。
 そして、それは間違った判断ではないのかも知れない。

「お帰りなさい」
「・・・・・・・・・・。やあ、レイフォン君。ただ今戻ったと言って良いのかな?」

 扉を開けた瞬間にカリアンを出迎えたのは、その手にぞうきんを持ったレイフォンだった。
 別段、この程度で驚くことはしない。
 なぜならば、珍獣フォンフォンとなったレイフォンが、たまに来て家事をして行くことは既に日常となっているからだ。
 だが、何時もと少しだけ様子がおかしいことにも気が付いていた。
 そう。レイフォンの後ろでは二人のレイフォンがテレビ台を持ち上げて、フェリの指示に会わせて微調整を行っている。
 指示を出しているフェリはと見れば、ソファーに座りとてもくつろいでいるように見える。
 だが、侮ってはいけない。
 フェリが座ったソファーを二人のレイフォンが持ち上げ、元有った場所へと運んでいる最中なのだ。
 いや。たった今、正確に元の場所へと戻されたようだ。
 今まで手が六本有ったレイフォンは何度か見ている。
 三分身して掃除をしているところも、一度見ている。
 だが、五分身しているところを見るのは初めてである。
 更に嗅覚に刺激があった。
 なにやら魚を焼く良い匂いがしている。
 そして、ケーキでも焼いているような甘い香りもしている。
 つまり、七分身。
 過去最多の分身技の披露に、カリアンの反応が遅れてしまったのだ。

「ちなみに」
「なんだね?」
「キッチンではメイシェンとリーリンが料理をしています」
「ああ。レイフォン君が七分身しているのではなかったのだね」
「今日は五分身までです」

 今日はと言う断りが入っているところを見ると、もしかしたらカリアンの知らないところで、七分身くらいは平然と行われているのかも知れない。
 ゴルネオの家の秘奥が原型らしいことは聞いている。
 この状況を見たら、一体何と言うだろうかと、ほんの少しだけ考えてしまったが、実はカリアンが他人事としていられたのはここまでだった。

「はい」
「なんだね?」

 目の前のレイフォンが、手に持っていたぞうきんを差し出す。
 しげしげと眺めるが、特別な何かがあるとは思えない、レイフォンお手製のぞうきんである。
 続く言葉こそが、重要だったのだ。

「アンアンも掃除を手伝って下さい」
「・・・・。念のために確認するのだがね。アンアンとは私のことだよね?」
「当然でぎょ!」

 突然、レイフォンの頭がこちらに向かって傾いた。
 それと同時に、テレビ台を微調整していたレイフォンが二人と、一人用のソファーを移動させていたレイフォンが二人、瞬時に消えて無くなった。
 どうやら、目の前のレイフォンが本体だったようだ。
 だが、驚愕すべきは別なところである。
 前傾姿勢となったレイフォンの後頭部が見えたのだ。
 そして、そこに突き刺さっている重晶錬金鋼を発見。
 その向こう側に、右手を真っ直ぐにこちらへ伸ばしているフェリも発見。
 瞬時に錬金鋼を復元して、抜き撃ちの要領でレイフォンの後頭部へ目がけて投げつけたのだと言う事が、この一事で十分に理解できるという物だ。

「ふぇ、ふぇりせんぱい?」
「何を考えているのですかフォンフォン? こんな見た目だけしか脳のない家事無能力者を、栄光に輝く私の珍獣コレクションに加えようなどと、貴男には珍獣筆頭としての誇りはないのですか?」

 反応に困った。
 見た目だけの家事無能力者と言われれば、確かに返す言葉はない。
 だが、珍獣が栄光に輝くだろうかという疑問がある。
 更に、レイフォンが珍獣筆頭だというのだ。
 これはどう判断すべきだろうかと考える。

「ああ。取り敢えずお茶をもらえるだろうか? 少々座ってゆっくりと考えたい事柄があってね」
「なんて言う家事無能力ぶり。やはり貴男など珍獣に相応しくありませんね」

 そう言いつつ、レイフォンにお茶の準備をしろと命じるフェリを眺めつつ、カリアンは思うのだ。
 もしかしたらフェリは、取り返しの付かないところへと突き進んでいるのではないかと。
 だが、答えはゆっくりと出して問題無いはずだ。
 レイフォンが設置してくれたソファーに座り、レイフォンがもってきたお茶を飲みつつ、レイフォンがもってきてくれたお菓子をつまみつつ、考えることとした。
 目の前には、四人のレイフォンに傅かれたフェリがいるが、今は考えることこそが重要だと意識を切り替える。
 
 
 
 記念女子寮のキッチンに据えられた椅子に座り込みつつ、リーリンは昨日の顛末を、エプロンを装着して作業しているウォリアスへと話して聞かせていた。
 今日、ロス家の家事担当はレイフォンなので一息付けているのだ。
 とは言え、昼食時の弁当はリーリンが作成したし、同様にお菓子はメイシェンが作成した。
 全く何もしていないというわけではないのだが、流石に夕食を作る気力にはやや欠けてしまった。
 と言う事で、戦略・戦術研究室に籠もりがちなウォリアスを引きずってきて、半分ほど強制的に女子寮の夕食を作らせているのだ。

「てな事があったのよ」
「それは災難だったね」

 何故こうも消耗しているのかを話している最中にも、なにやらウォリアスの持ってきた小麦粉が練り上げられ、発酵が行われているが、何でも全粒粉とか言うダイエットに効果的らしい小麦粉だと聞いた。
 もちろん、明日の朝食べるパンになる小麦粉だ。
 全粒粉について詳しく聞きたかったのだが、一体どれだけの蘊蓄を語られるか分からないので、興味はあったが細かいことを聞くことははばかられた。
 これ以上の精神攻撃には耐えられないのだ。

「フェリ先輩も、やはりロス家の人間だねぇ」
「そうよねぇ。生徒会長だけが腹黒いのかと思ったけれど、邪悪な黒神官、ダークフェリも相当に黒かった物ね」
「・・・・・・・」

 フェリの名前を出したところで、ウォリアスの行動が一時停止。
 今は一通りの作業が終了して、白いカレーだか辛いシチューだかが鍋の中で煮られている。
 鶏肉とにんじんや芋と言ったオーソドックスな内容だが、なにやら後一手間かけるつもりのようでほうれん草をゆでていたのだ。
 そのウォリアスが、ゆで上がったほうれん草を、細かく切っている手を止めて、リーリンの方を見る。

「ダークフェリ?」
「違うわ。邪悪な黒神官、ダークフェリ」
「そう言う問題なの?」
「ええ。あの時の恐ろしさはまだ表現できていないと思うわ」

 そう。邪悪なのだ。
 ただ料理を見せられているだけなはずなのに、あんな恐ろしいことをされて平然としていられる人間など、そうそういるものでは無いのだ。
 そして、リーリンの表現能力では、これ以上の言葉が思い浮かばないのだ。
 何よりも恐ろしいのは。

「何しろ私達二人も、珍獣にされてしまったのだから」
「ああ。それは確かに邪悪だね。でも」
「でも?」

 ふと、視線がほうれん草へと戻されたが、手は止まったままだ。
 なにやらウォリアスからも邪悪なオーラが立ち上っているような気がするが、もはや気にしてはいられない。

「珍獣って、一夫多妻なのかな?」
「・・・・・・・・・・・・・・」

 小さく呟かれた言葉に、思考が一瞬停止する。
 人権を剥奪されて珍獣に貶められたが、もしかしたら、それは悪いことではないのかも知れない。
 フォンフォンに妻を複数養うだけの甲斐性があるかどうか、非常に疑問ではあるのだが、それでも選択肢が増えると言う事は悪いことではない。
 だが、リーリンのその思考を妨げるように、ウォリアスは元の話題へと戻ってしまった。
 リーリンのこの思考こそが狙いだったのかも知れない。
 そう。珍獣も悪くないかも知れない、と。

「話を聞くと、もっとこう、邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリって感じだけれど」
「暗黒神?」

 テーブルに突っ伏していた顔を少し上げて、ウォリアスを見る。
 今の、人間を止めかねない思考はそのままにして。
 細い瞳は相変わらずだが、なにやら非常に納得したような雰囲気が漂っているような気がするのは、気のせいではない。

「だってさ。邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリへの、生け贄になりたいって人が出てきそうじゃない」
「ああ。成る程。そっちの方が良いわね」

 流石ウォリアスであると感心する。
 これくらいでないと、あの時のフェリを表現できないだろうと思うのだ。
 そして、フェリへの生け贄になりたいと希望する人間は、きっと後を絶たないだろう事も予測できる。
 ならば、神官ではなく神であった方が何かと都合がよいだろう。
 納得してしまったリーリンは問題無いが、横で会話を聞いているだけの同居人であるセリナは少々困った表情をしている。
 まあ、だいぶ病んだ内容の会話だから仕方が無いだろう。
 そして、手を止めていたウォリアスが作業を再開。
 細かく切り刻んだほうれん草が、ミキサーへとまとめて放り込まれて、ほうれん草ジュースが作られる。
 そして、そのほうれん草ジュースを、あろう事か完成間近のシチューだかカレーだかに流し込んだ。
 思わず驚愕と共に質問する。

「それって、なに?」
「うん? ほうれん草と鶏肉のカレー」

 お玉で中身を掻き回しつつそう答えてくれたウォリアスの瞳は、自信に満ちあふれているように見える。
 だが、ほうれん草ジュースを入れた以上、緑色のカレーになってしまう。
 そこに浮かぶ野菜と鶏肉の数々。
 食卓に並んだ時、少々衝撃を受けてしまいそうだ。

「それで、最終的に三体の珍獣が出現したわけだね」
「ええ。私も珍獣になってしまった訳よね」
「流石、邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリだね」
「ええ。邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリにかかれば、ツェルニ全生徒が珍獣化してしまうかも知れないわ」
「いや。それは無いよ。珍獣は名誉の称号らしいじゃない」
「ああ。そう言えばカリアン会長は珍獣にはなれなかったわね」

 そう考えると、珍獣となるためには家事能力が絶対に必要と言う事になる。
 そして、もっと重要なのはもちろん名前だ。
 連呼して様にならなければ、珍獣となることが出来ないのだ。
 ならば、他に珍獣候補がいるかどうかと考え始めたリーリンに、控えめな声がかかった。
 寮長を務めるセリナである。

「ねえ。その会話止めない? 聞いていると痛々しいのよ」
「大丈夫ですセリナ先輩。私はもう痛みには慣れましたから」
「私が痛いのだけれど?」
「慣れれば気持ちいいかも知れませんよ?」

 無理な注文を付けつつ、ウォリアスの作っている物に興味津々だ。
 どんな味になるかというのもあるが、その作り方を覚えてみたいのだ。
 グレンダンに帰って、デルクやリチャードに食べさせた時の反応が、非常に楽しみである。
 その視線を感じたのか、ウォリアスがこちらを向いた。
 味見をするためだろう小皿に、僅かに白くなった緑色の液体を入れながら。

「味見する?」
「ええ」
「私も味見するわ」

 当然では有るが、会話を聞くことに疲れたセリナも参加する。
 実を言うと、リーリンもこの会話に少々疲れ始めていたのだ。
 変化はどんな物でも大歓迎である。

「へえ?」
「あら?」

 そして、二つの小皿に乗せられた緑色の液体を味わい、少しだけ感心してしまった。
 少々のえぐみはある物の、奥行きのある苦味と僅かな酸味は結構美味しいと思うのだ。
 これは是非とも作り方を聞き出さなければならない。

「ねえねえ」
「はい?」

 だが、先に行動したのはセリナだった。
 なにやら瞳に情熱を湛え、ウォリアスへと詰め寄る。

「ここに住まない?」
「一応僕は男ですが?」
「大丈夫よ。髪を縛っている紐をリボンにすれば、誰も気が付かないから」
「いやいや。気が付きますから普通」

 以前レイフォンにも似たようなことを言っていた。
 そして、リーリンもセリナの意見に賛成である。
 別段、家事は面倒ではないのだが、邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリのために料理をすることを考えると、手伝いは多い方が断然良いのだ。

「あれ?」

 だが、標的となっているウォリアスの視線が、キッチンの窓の一つを捉えたことで、事態は急変を迎えることとなった。
 そしてリーリンも見てしまった。
 桜の花びらのような念威端子が、なにやら嬉しげにこちらを見ているところを。

「取り返しの付かないことをしてしまったのかも知れない」
「ええ。明日からツェルニは、邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリの支配下に置かれることとなるわ」
「だからその会話は止めて」

 泣きの入ったセリナには悪いのだが、これはもう殆ど実行されてしまった事実なのだ。
 何しろ邪悪な暗黒神にて、永遠の美少女たるロード・オブ・ダークフェリには、ツェルニ最強武芸者にして、珍獣筆頭たるフォンフォンが付いているのだ。
 きっと、ツェルニの黒歴史が明日から始まる。
 
 
 
 その頃、珍獣筆頭となったフォンフォンはフェリの食事の準備をしていた。
 だが、突如としてフェリがニヤリと笑い、そしてレイフォンの方をご覧になった。

「あ、あのふぇり?」
「違います」

 そう言いつつ、なにやらメモ用紙に書き連ねている。
 それを渡されたレイフォンは絶句した。
 なにやら、とても長い名前らしき物が書いてあったのだ。
 そして、フェリの視線がとてもイタイ。

「あの、ふぇりせ、あう。邪悪な暗黒神にて、永遠にして超絶な美少女たるロード・オブ・ダークフェリ」
「なんでしょう? ヘタレなのに最強にして、珍獣筆頭たる第一使徒フォンフォン?」

 どうやらこのフレーズがお気に入りのようだ。
 だが、レイフォンには限界という物があるのだ。

「普通に会った時にも、こう呼ばないといけないのでしょうか?」
「それは流石に面倒ですね。私達の時にだけ有効としましょう。非常に残念ですが」

 何か、誰かやったようだ。
 その結果、非常に痛々しい名前でフェリを呼ばなければならなくなってしまったのだ。
 珍獣仲間である、メイシェンやリーリンにもおそらくこの呼び方を強要するのだろう。
 なんだか、今すぐヨルテムに逃げ帰りたい気分だ。

「ですが、何時かは全世界を私の支配下に置き、この私! 邪悪な暗黒神にて、永遠にして超絶な美少女たるロード・オブ・ダークフェリが君臨するのです」
「う、うあ」
「うふふふふふふふふふ。恐れ敬いなさい愚民共。崇め奉り供物としてお菓子を捧げるのです。この私!! 邪悪な暗黒神にて、永遠にして超絶な美少女たるロード・オブ・ダークフェリに対して」

 なにやら壁に向かって呟いているフェリから、強引に視線をそらせる。
 とても痛くて見ていられないのだ。

「ああ。この身を切り刻まれる痛みが快感となる感覚。いいえ。魂が粉砕されるような痛みが快感となって」

 更にヒートアップするフェリから、少しずつ遠ざかる。
 巻き込まれたら最後、レイフォンに生きていることは出来ないのだ。

「さあ! ヘタレなのに最強にして、珍獣筆頭たる第一使徒フォンフォン! 何時かグレンダンをもその支配下に置くために、貴男の力が必要なのです!! 早くご飯の用意をしなさい」
「何処に関係があるんですかぁぁぁぁ!!」

 グレンダンを料理で支配するわけでもないはずだが、兎に角レイフォンはフェリの夕飯作りを再開した。
 それ以外に、自分を維持する方法がなかったから。
 
 
 
  ほうれん草と鶏肉のカレー。
 数年前にカレー専門店で、おもしろ半分で注文した品物。
 いきなり出てきたやや白みを帯びた緑色のカレーに、思わず一瞬引いた記憶がある。
 味自体は悪くなかったので、ごくたまに食べに行っているという一品である。
 
 
  後書きに代えて。
 はい。レギオス十九巻目発売の前祝いに、一品をお送りしました。
 ちなみに、これは三部作の一話目に当たります。二話目と三話目は第六話中に紛れ込ませるつもりです。
 
 えっと。この話、前半は予定通りなんですが、後半はなんかこう何か間違ってしまったような感じです。
 リーリンがぼやきつつウォリアスが料理を作りつつ、蘊蓄を垂れ流されてセリナが泣いてしまうと言うのが、本来の後半の構成でした。
 何故こうなってしまったのか全く不明です。
 もしかしたら、俺の頭の中にオーロラ粒子が住み着いてしまっているのではないかと、そんなイタイ事を考えている今日この頃。
 
 始めのとこでも書きましたが、この話は復活の時本編とは全く関係がありません。
 ネタ的に出てくることはあるかも知れませんが、邪悪な暗黒神にて、永遠にして超絶な美少女たるロード・オブ・ダークフェリと言うフレーズは書くのが面倒なので二度と出てきませんのであしからず。
 では最後に、この言葉で締めくくりたいと思います。
 
  ツェルニの黒歴史がまた一頁。



[14064] 第六話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:18


 元第十小隊狙撃手だったシャーニッドは、ストーカーまがいの行動を取っていた。
 別段やましいことをしている訳ではないのだが、それでも気が引けてしまっているために、こそこそと隠れたり殺剄をしたりして、後を付けているのだ。
 少し先には、金髪を見事な縦ロールにした元同僚が歩いている。
 ダルシェナだ。
 そして、シャーニッドがダルシェナを尾行している理由はある意味簡単である。
 第十七小隊の戦力強化である。
 廃都市でフェリが突然倒れた一件ではっきりしたのだ。
 ニーナ自身少数精鋭を気取るつもりはないと言っているが、廃都市での一件で人数は多い方が良いことがはっきりしたのだ。
 フェリが倒れた時、ナルキが居なかったらシャーニッドでさえ平静を保てていたか分からない。
 ナルキという実力者がいたからこそ、ニーナを押さえつけて冷静に判断して行動できたのだ。
 そして、ここが重要なところなのだが、そのナルキは臨時隊員なのである。
 ツェルニに帰って来てしまえば、当然のように第十七小隊の指揮系統から外れてしまった。
 何度も臨時隊員を雇うと言うわけには行かない以上、何処かで正式に指揮系統へと取り込まなければならないのだ。
 だが、ナルキは現在小隊員になることを拒否している最中。
 ならば、別なところからスカウトするのが常識的な判断である。
 そこで、当然のように思い当たったのが、古巣である第十小隊が解散したために、所属部隊が無くなったダルシェナの勧誘である。
 だが、だがである。
 ダルシェナとディンの間の微妙な問題が解決していない現在、ダルシェナに声をかけると言う行為が、非常に気が引けるのだ。
 いや。もはや気が重いと言って良いほどにシャーニッドの心と身体を重くしているのだ。
 だが、何時までもストーカーまがいの行動をやっているわけにも行かない。
 溜息一つついて、一気にダルシェナとの距離を縮める。

「よ、ようシェーナ」

 脇に並んだ瞬間に、声をかけた。
 だが、反応は全く無かった。
 殺剄をしているというわけではない。
 数秒前まではしていたが、今はしていない。
 しかし、反応は全く無い。
 無視しているというわけではない。
 視線がこちらを向くこともなかったし、呼吸が乱れると言う事も無かった。
 もしかしたら心拍数さえ変化していないかも知れない。
 本当に気が付かない様子で、真っ直ぐ前を向いて歩いているのだ。

「あ、あの、ダルシェナ・シェ・マテルナさん?」

 あえてフルネームで呼びかけてみた。
 先ほどよりも大きな声で。
 だが、それでもやはり全くもって反応がない。
 これはおかしい。
 何か異常事態が起こっているかも知れないと、辺りを見回してみる。
 そして認識した物と言えば、ヘタレな男を見るような視線でシャーニッドを見る、多くの通行人だけであった。
 間違いなく、シャーニッドは殺剄をしていないし声をかけても居るのだ。
 それでも、現状を説明することは出来ない。
 確かに、ずいぶん長いことこそこそと尾行をしていたことは間違いないから、ヘタレであることは認めよう。
 だが、ダルシェナが全く無反応であることの説明がつかない。
 そして、標的は既にシャーニッドの射程外へと離脱しつつある。
 これはいけない。

「シェーナァァァァァァ!!」

 なりふり構っていられないので、思い切ってその細い腰に抱きつく。
 思わず、このままお持ち帰りしようかなどと言う不埒な考えさえ沸き上がってくるほどに、完璧に後ろからその細い腰へ向かって、タックルするようにして抱きつく。
 そして、この時になって始めて反応が現れた。

「ふん!」
「ごは!」

 肘打ちである。
 首筋に見事な一撃が撃ち込まれた。
 咄嗟に活剄を使って強化していなかったら、即死していたかも知れないほどの一撃だった。
 レイフォンに頼み込んで、金剛剄を習っておけば良かったかも知れないと、ほんの一瞬ほど思うくらいには、凄まじい一撃だった。
 そして、そんな凄まじく危険な一撃をくれた後になって、やっとの事で視線がシャーニッドを捉える。

「なんだ。廃棄物かと思ったらゴミだったのか」
「よ、よう。少し時間もらえないか?」

 シャーニッドを認識してくれたのならば話をすることが出来る。
 ほとんど完璧に自然体で、わざと無視していた技量に少々呆れてしまったが、それをおくびにも出さずに本来の目的へと話を持って行く。
 ここでへこたれてはいけないのだと、自分を奮い立たせる。
 廃棄物とゴミの違いについて、少し聞いてみたいところだが、こだわってはいけないのだ。

「その手を放したら考えてやっても良いが」
「逃げないか?」
「ああ。貴様のような腑抜けから逃げるようには出来ていない」
「無視しないか?」
「話があるようだからしばらくは我慢してやろう」

 確約を得たので、恐る恐ると腰から離れる。
 かなりもったいないような気がするが、機嫌を悪くされてしまっては元も子もないのだ。

「それでどんな話だ? ふざけた内容だったら本格的に無視するぞ」
「本格的って、さっきのはまだ小手調べか?」
「抱きつかれたら反応しただろう?」
「・・・・。もしかして」
「死にたいのか?」
「滅相も御座いませんとも」

 本格的に無視されたら、何をやっても反応がないかも知れないと思った瞬間、色々とやましいことが頭の中を駆け巡ってしまった。
 これはもう、若いから仕方が無いのだと自分を納得させつつ、手近にあった喫茶店へとダルシェナを連れ込む。
 ホテルに連れ込んだら、きっと辺りの被害を顧みずに攻撃されそうだったからだが、だがしかし、問題は喫茶店の方にあった。

「いらっしゃいませ」

 なんのまぐれか、そこはレイフォンが行きつけの喫茶店だった。
 本来レイフォンが行き着けるような喫茶店など、このツェルニに存在するはずはないのだが、ある要素によってそれは生まれた。
 そう。ヨルテムからついてきた奥さんであるメイシェンだ。
 彼女が働いている喫茶店へ、毎日ではないにせよ送り迎えをすることで、自然と行きつけの喫茶店などと言う物が出来たのだ。
 だが、これだけなら問題はない。
 出迎えたのがメイシェンだったら、顔なじみと言う事で軽く挨拶する程度で済ませられた。
 だが、だがである。

「ふぇ、ふぇりちゃん?」
「にめいさまですね」

 出迎えてくれた店員さんの身長は、メイシェンと殆ど同じだった。
 髪の長さもメイシェンと同じくらいだろう。
 だが、似ているのはおおよそ、それだけである。
 黒髪は銀髪へと変わり、小動物のような振る舞いは無気力とも取れる冷徹さへと変わっていた。
 何よりも問題なのは、見ているだけで幸せになれたあの巨乳が、揉まなければ幸せになれない貧乳へと変わってしまっていたことで。
 いや。もしかしたら、最悪の場合、揉んでも幸・・・・。

「おごわ!」

 突如蹴られた。
 それはもう、なんの気配もなく完璧な不意打ちだった。
 脚を振りかぶったところさえ気が付かなかったし、痛みが来て始めてフェリの脚が移動したことを認識できた。
 ここまで見事な奇襲攻撃を経験したのは、生まれて初めてである。

「ロス」
「・・・・。なんでしょうか?」
「今日二人目だね?」
「三人目が出ないように、努力しているつもりです」

 ここの店長が、やや冷ややかな視線でシャーニッドを見た後に、フェリに注意とも言えない注意をする。
 そして、既に被害者は存在していたのだと知った。
 それは恐らく、素直な反応をしてしまったレイフォンだろうと思ったのだが。

「あっちの怪しい人の、注文した品をきちんと届けること。蹴っちゃ駄目だからな」
「任務了解」

 店長の指し示す先を見て、シャーニッドは自分の予測が外れていたことを知った。
 そこにいたのは、レイフォンではなかった。
 だが、全く知らない人間と言うわけでもなかった。
 フェリと同じ銀髪を、やや長めにしたその男はサングラスとマスクで顔を隠しているつもりのようだ。
 だが、正体はバレバレである。
 見なかったことにした方が良いのかもしれないと、店長の方へと視線を向ける。

「ああ。厨房を任せていた奴が独立してね」
「この時期にか? 珍しいな」

 ここは学園都市である。
 ならば、年度の変わり目に独立をしたりするのが普通で、この時期というのは割と珍しい。
 だが、無いというわけではない。

「それで、トリンデンを厨房に回したんだが、接客する人間が不足してな」
「それでフェリちゃんを?」

 第十七小隊の念威繰者であるフェリを、どうやってスカウトしたか、非常に疑問であるが、それでも使いこなしているところが凄い。
 愛想を振りまけないのでは、立派にやっているとは言い切れないかも知れないが。

「試作品のお菓子を食べて良いという条件を出したら、案外あっさりと」
「餌付けされているのか」

 メイシェンのお菓子で餌付けされているらしいことは、ずいぶん前から知っていたが、その症状が少し悪化しているようだ。
 だが、悪い兆候ではない。
 お菓子のために愛想を振りまくフェリというのも。

「・・・・・・・・・・・。恐ろしい」

 かなり怖い内容になってしまったので、全力で記憶領域から消去する。
 そして、店長に導かれるままに窓際の席へと移動する。
 怪しげな銀髪を蹴りつけたフェリが、トレーを持って脇を通り過ぎるのを見送りつつ、その姿を観察する。
 黒を基調とした侍女服を着たフェリの魅力は、メイシェンと違った凄まじさを発揮しているが、残念なことに全てはその無表情で帳消しとなってしまっている。
 やはり、多少、ほんの少しだけでも愛想を振りまく訓練が必要かも知れない。
 だが、目の前の女性からの視線を何とかする方が先決かも知れないと、やっとの事で気が付いた。

「シャーニッド」
「取り敢えず、この件に関して俺は無実だ」
「無実だと? ほう? どの辺が無実なのだ? もしかしてピンクでないところが無実なのか? それとも下着は無実だと言うつもりか? 私にはお前が紹介したようにしか見えないのだがな?」
「い、いや。無実の証明は出来ないって相場が決まっているじゃないか。って言うか、店長さんが経緯を話してくれたじゃないか」

 無いことを証明するのは、非常に難しい。
 それこそ、化学や数学の世界でしか実現できないと言っても良いくらいだ。
 そして、実際問題として、フェリがアルバイト情報誌でも読んでいたら、間違いなくこの手の仕事を紹介するだろうと自分でも思ってしまう。
 服飾科にちょうど良い人材を知っていることだし、ダルシェナの先入観は、あながち間違いではないのだ。
 今回、たまたま違っただけである。

「ごちゅうもんをどうぞ」

 そんな切迫した状況で、やはりと言うかなんというか、フェリが注文を取りに来てしまった。
 当然、まだ決まっていない。
 いや。シャーニッドは飲み物だけで粘るつもりだから問題無いが、問題はダルシェナだ。
 こちらも飲み物だけというわけにはいかない。

「当然おごりだろうな?」
「お、おい、シェーナ?」

 凄まじく鋭い視線で見詰めてくるのは良いだろう。
 だが、問題は下の方だ。
 そう。シャーニッドの左足の甲にダルシェナの右足のヒールが押し当てられているのだ。
 それはつまり、拒否したら制裁を加えるという宣言に他ならず。

「もちろんだぜ! でも、どっかの枝にぶら下がるほどの注文は控えてくれると嬉しいかな?」
「いいだろう。貴様の葬式なんぞに出たいわけではない」

 こちらの交渉は割とすんなり終了した。
 一安心である。
 とは言え、かなり凄まじい寮の注文をされてしまったのでかなり痛いが、それでもなんとか許容範囲内に収まっている。
 出来ればだが、今回の出費は対人工作費として経費扱いにして欲しいところだ。
 堅物なニーナだとは言え、そのくらいは許容してくれると信じたい。

「それで、話とは何だ? 下らない用件だったら破産させる」

 注文した品が目の前に並んだところで、ダルシェナの方から切り出してきた。
 こちらとしても、切り出すタイミングを見計らっていたからそれで問題無い。
 目の前に並んでいる品物が、ダルシェナの外見から想像していたよりも、なんだか可愛らしいお菓子が多いことには、目を瞑って切り出すこととする。

「ぶっちゃけて言うとだな。第十七小隊へ入って欲しい」
「断る」
「即答かよ?」
「ふむ。全部食べ終わってから断った方が良かったか?」
「い、いや。追加注文されるよりは遙かにましだが」

 なんだか、漫才をしている気分になってきたがここで折れてはいけない。
 ナルキの決意が固い以上、どうにかしてダルシェナに入って貰わなければならないのだ。
 戦力が多くて困ることは殆ど無いのだし。

「武芸大会はどうするつもりだ?」
「私なりに戦うさ」
「一兵卒としてか?」
「・・・・。ああ。十小隊が解散した以上、他に方法はない」

 ディンとの関係がこじれているわけではない。
 むしろ何もなさ過ぎたのだろう。
 その結果、ダルシェナの中で第十小隊の占める割合が、大きくなってしまったのだ。
 その小隊が解散してしまった以上、もしかしたら武芸に対する情熱がかなり無くなってしまっているかも知れない。
 だが、このままではダルシェナのためにもならないのだ。
 ツェルニから卒業した後、母都市に帰ればきっと武芸者として期待される。
 詳しくは知らないが、ダルシェナの実家もかなり裕福であり、尚かつ名門だったはずだ。
 ならばこそ、情熱を無くしたダルシェナを放っておく訳には行かない。

「・・・・。なんだか学校の先生みたいな考え方しているな」
「いきなりどうした? やはり貴様、ありもしない物が見えているのか?」
「やはりって何ですかシェーナ?」
「? なんだ貴様。自分に妄想癖があることに気が付いていなかったのか?」
「いや。そんなもんねえから」

 妄想癖などあったならば、とうの昔に死んでいるはずだ。
 そして問題はそこではないので、これ以上の深入りを避けることとした。

「だいたい貴様のところには、凄まじいのが居るだろう?」
「それは認める。・・・。だけどお前は我慢できるのか? 何でもかんでもレイフォンに任せきりにしてしまうことに」
「・・・・・・・・・・」

 向こうから話を振ってくれたことで、こちらが有利になったとは思わない。
 だがしかし、責める時に責めないという判断も出来ない。
 ならばこそ、あえて挑発をしてみる。

「あれがどれだけ凄まじいか、お前はまだ本当のあいつを知らない」
「ふん!」

 老性体と戦うレイフォンを、ほんの僅かに見ただけだが、それでも想像を絶するような世界で生きてきたのだ。
 その事実をダルシェナは知らない。
 ならば、これを軸に挑発するのは当然の戦術という物だ。
 そして、今まで冷たい光を宿していたダルシェナの瞳に、火が灯るのが分かった。
 それは情熱という名の炎であり、そしてそれを宿しているからこそのダルシェナなのだ。

「良いだろう。その挑発に乗ってやる」
「礼は言わないぜ? だけど、これからもよろしくな」

 シャーニッドの個人的な感情としても、第十七小隊の状況からしても、ダルシェナの参戦は有難い。
 そして問題は、実はこれからなのだ。

「でだが、ディンのことなんだが」
「ディン。何処にいるのだ? このところ全く会っていないのだが」
「・・・・・・・・・・・・。なに?」

 これにはかなり驚いた。
 そして納得した。
 おそらく戦略・戦術研究室から、殆ど出ないで色々やっているに違いない。
 それこそ寝食を忘れて、ツェルニが勝利する方法を模索し続けているに違いない。

「何処までも手のかかる奴だ」

 本当に学校の先生のような気分になってきた。
 だが、それ程悪い気分ではない。
 いや。むしろなんだか将来の目標を見つけたような気さえする。
 レイフォンを始めとした、問題を抱えた人間と多く付き合っている今だからこそ、こんな選択肢が見えてきたのかも知れないとさえ思える。
 
 
 
 鉱山での採掘作業とは関係なく、それどころか昼夜の区別もなく、戦略・戦術研究室にはたいがい誰かいる。
 ウォリアスが寝ている時にはディンが起きているし、ディンが風呂に入っている時にはウォリアスが作業をしているといった具合にだ。
 そして今日この瞬間にも、きちんと三人がいた。

「きちんとお風呂に入っているでしょうね?」
「「もちろんはいっています」」

 問いを発したのは、金髪を後ろで縛った活発な美少女であり、尚かつこの研究委員の飼育係でもあるリーリンその人である。
 当然問いに答えたのは、飼育される側のディンとウォリアスである。
 そしてただ今現在、二人はきちんとした食事を摂っているところである。
 実は、あまり珍しいことではない。
 殆ど毎日リーリンが餌を運んできてくれるからである。
 レイフォン達が廃都市でなにやらやっている間に、研究室でもそれなりの事態が動いていた。
 ツェルニの都市情報をシミュレーターに組み込み、手に入る限りの都市の地形データーも同じく組み込み終わった。
 更に、幾つかの戦略環境を検討して、仮想空間内で実行し、そして検証を終了させた。
 その結果は実は割と良い手応えであった。
 だが、そんな事は目の前で腰に手を当てて、餌をきちんと食べているかどうか監視している少女には全くもって関係がない。
 入浴や歯磨きに、睡眠と言った、人間としてやって叱るべき事柄をないがしろにするウォリアス達にとっては、これ以上ないくらいに助かっている少女である。
 だが、それでも、レイフォンが苦手としているというか、頭が上がらないと溢していた理由を認識できてしまっていた。
 何しろ押しが強いのだ。
 いや。多くの子供達の面倒を見なければならない以上、押しが強くなければきちんとした生活が出来ないはずだから、当然と言えば当然なのだが、それでも少々頭が上がらないことについて情けなくなってしまう。

「着替えはしているわよね」
「「とうぜんです」」

 きちんと尻に引かれているような気がするが、まあ、これも仕方が無いだろう。
 生活無能力者ではないにせよ、研究熱心になってしまっているのは間違いないのだ。
 誰か面倒を見てくれる人がいることは、非常に有難くて感謝はしている。
 とは言え、リーリンが部屋から退出した直後に、二人そろって溜息をついてしまう事くらいは、ご容赦願いたいところだ。
 そしてもう一つ、今までと違った変化が起こっているのだ。
 重要なことではないが、それでもそれなりには効果のある変化である。
 だが、事件は唐突に発生した。

「ディン!!」

 その掛け声と共に、蝶番の軋む音を立てつつ、扉が蹴破られた。
 そして入って来たのは、金髪を見事な縦ロールにした長身の女性だ。
 元第十小隊の突撃隊長、ダルシェナで間違いない。
 いや。特攻隊長だろうか?
 そんな事を考えてしまうほどに、その勢いは凄まじく、そして扉を破った勢いそのままにディンの元へと特攻。

「シェーナ? 何かあったのか?」

 驚いて、持っていたサンドイッチを落としかけるディンと、あまりの事態に呆然としているリーリン。
 だが、ウォリアスだけは事の本質を理解していた。
 ダルシェナの後ろから、こっそりとこちらを覗き込んでいるシャーニッドだ。
 おおよそ理解できた。
 そしてダルシェナとディンを見る。

「ここで何をやっているディン! 答えろ!!」
「お、落ち着くんだシェーナ。首が絞まっている」

 胸ぐらを掴み上げ、締め上げつつ前後に揺すられている。
 これで満足に答えられる人間がいたら、一度会ってみたい物だと思うのは、現実逃避だろうか?
 そのままディンを前後に揺すること数秒。
 ある瞬間を境に、ダルシェナの視線は恐ろしく冷たく研ぎ澄まされ、まるで殺意でも持っているかのようにディンを捉えていた。

「ええい! それよりも風呂が先だ!!」
「ま、待ってくれシェーナ!」

 何かを勘違いしたらしいダルシェナが、無理矢理ディンを掴み上げて蹴破ったばかりの扉へと引きずって行く。
 問答無用である。
 止めるべきなのだろうが、そんな時間は全く存在していなかった。
 その迫力は凄まじく、シャーニッドさえ道を開けてしまったほどだった。
 そして、抗議するディンの声が徐々に遠のいて行くのを聞きつつ、ウォリアスは念のために言わなければならないことがある。

「室長なんですけれどね」
「何かしら?」

 風呂が先だというダルシェナの発言以来、リーリンの眉間に縦皺が入ってしまっているのだ。
 このままにしておくことは出来ない。
 と言う事で、扉を修理しているシャーニッドにも聞こえるように、少し大声で話を続ける。

「風呂にはきちんと入っているんですよ」
「へえ。そうなんだ」
「ただね」
「ただ?」

 不審げなシャーニッドの視線が来る。
 疑っているリーリンの視線がいたい。

「何を思ったのか、室長は髭を生やし始めたんですよ」
「そう言えば、あれって無精髭じゃなかったんだ」
「無精髭じゃないんですよ」

 そう。スキンヘッドのディンだったのだが、ここ何日か髭を生やそうと努力しているのだ。
 それはきっと、見た目で馬鹿にされないための努力なのだろうが、きちんと生え揃うまで見苦しいのも事実だ。

「それをマテルナ先輩は誤解したのでしょうね」

 そう。ダルシェナの視線が厳しくなったのは、ディンの髭を視界に納めた瞬間だったと断言できる。
 それが無精髭だと判断された。
 ならばきっと風呂にも入っていないと結論付けられた。
 酷く納得の行く話だ。

「どうせ努力するんだったら、髭じゃなくて髪の毛にすればいいのに」
「「・・・・・・・・・」」

 リーリンのその言葉で、男二人は少しだけ思考を停止した。
 確かに見事な禿ではある。
 だが、あれは禿げているのではなく、剃っているのだ。

「ああ、あれって、剃っているらしいぜ、あのタコ」
「タコ? ディン先輩って、剃っているんですか?」
「ああ。俺も何度かしか見たことがないんだが、ごく希に僅かに髪の毛が生えているんだ」
「へえ。本当に剃っているんだ」

 リーリンは半信半疑のようだが、ウォリアスは何度か剃っているところを目撃しているので、きちんと知っている。
 まあ、禿げているのを誤魔化すために剃っているという確率は、無視できないとは言え、それでも剃っていることに間違いはないのだ。

「っと、それよりもどうしたんですか? 前回は室長を連れてきましたけれど、今回は揉め事と一緒ですよね」
「あ、ああ。家の小隊にシェーナを勧誘したついでに、ディンに会わせに来たんだが」

 シャーニッドはシャーニッドで色々と活動しているようだが、今回は揉め事の方が主体になってしまったようだ。
 巡り合わせという物は、避けて通ることが出来ない物のようだ。

「室長がいないのなら、少し仕事を進めておいた方が良いかな?」
「ご飯はきちんと食べなさいよね?」
「はいはい」
「はいは一回」
「ふぁい」

 脱力系の会話をしつつも、ウォリアスの思考は少し変な方向へと進んでしまっていた。
 デッキブラシである。

「僕らに向かってさ」
「うん?」
「これで洗われるのと、自分でお風呂に入るの、どちらが良いか決めなさいって言ったじゃない」
「言ったわね。ついこの間」

 その時リーリンの手には、デッキブラシが握られていた。
 なんでも、孤児院で入浴拒否児童を脅す時にそれを使っていたとか何とか。

「あのブラシって、きちんと片付けた?」
「当然でしょう。きちんとお風呂の掃除用具入れに入れてあるわよ」
「なら良いんだけれどね」

 最悪の場合、ダルシェナがディンをデッキブラシで洗浄するという、とても恐ろしい事態になるかと思ったのだが、それが回避されたようで少し安心だ。
 だが、シャーニッドも含めた昼食が終わった頃になって、ダルシェナとディンが帰ってきた。
 そして、綺麗に髭を剃られたディンの魂が抜けていた。
 更に、何故か頬が若干紅かったダルシェナがいた。
 深く追求することは止めようと、三人の間で暗黙の了解が取られた。
 
 
 
  デッキブラシで体を洗う事について。
 どこかで読んだ事だけを覚えていて、第五話あたりから使ってきましたが、最近読み返した宇宙の戦士(ロバート・A・ハインライン)に出てきていました。
 少々癖のある作品ですが、一度お読みになる事をおすすめします。



[14064] 第六話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:18


 前回の老性体戦で、色々大変な目に合ったリチャードだが、何とかサヴァリスに殺されずに済んでいた。
 だが、それもいつまで続くか甚だ疑問である。
 ここは、サヴァリスを押さえられる人と仲良くするしかない。
 仲良くなってしまえば、何とかあの戦闘愛好家とも付き合えるかも知れないのだ。
 だが、問題はサヴァリスを押さえられる人が、このグレンダンにいるのかどうかと言う事で。

「でだがシノーラさんよ」
「・・・・・。いつから気が付いていたの?」

 グレンダンの昼下がり、日が燦々と降り注ぎ蒸し暑さを感じるさなかに、リチャードは誰もいないはずの場所へ向かって話しかけて、そして若干の時差を置いて返事が返ってきた。
 そして、視線の先にいるのは何時ぞや襲撃された超絶的な変人であるシノーラだ。

「少し前に俺と目が合ったはずなんだが」
「・・・・・・・・・・・・。二百メルトルも先から気が付いていたのね」

 シノーラが近付いてきたらしいことが分かったので、感覚を頼りにそちらへと視線を向けたのだ。
 そして、その感覚は見事に的中して、周りに気が付かれていないらしいシノーラを発見することが出来た。
 ちなみに言えば、過去最長距離での発見と補足だった。
 だが、実はそれは事実の半分でしかないのだ。

「それと」
「うん?」
「シノーラさんそっくりな人が少し後ろにいるのも、きちんと分かっているから」
「!!」

 発見されていたことに驚いて、近くにあった枝を揺らしてしまうそっくりさん。
 相当意外だったようだ。
 まあ、殺剄をしているらしいので当然と言えば当然である。
 そして、恐る恐るとこちらにやってくるその人物は、何処からどう見てもシノーラそっくりだった。
 一部を除いて。

「と言う事で、揚げパンに砂糖をまぶした奴を、大量に買ってくること」
「・・・・。はい」

 何故か肩を落として歩み去るそっくりさん。
 気の毒なことをしたような気がするのは、何故だろうかと、そんな事を一瞬考えてしまった。

「それでなんだが」
「うんうん? リーちゃんから手紙が来ているとか?」
「いや。続きは来てねえし、シノーラさん所にも書くようにとは伝えたんだがな」
「うんうん。良い子ねぇ。ご褒美に揚げパン少し上げる」
「悪いね」

 用件に入れないが、揚げパンは嫌いではないので、有難く貰っておくこととする。
 と、話が横にそれてしまっていることは間違いないので、強引に修正する。

「でだが」
「うんうん?」
「クォルラフィン卿のことなんだが」
「・・・・。なんで天剣授受者のことなんか、話題に出るのかな?」

 惚けるつもりのようだ。
 予めそうなるだろうとは思っていたのだが、やはりそうなってしまったので、追い詰めることとする。

「俺が武芸者を発見できる距離ってのは、おおよそ剄脈の大きさに比例するんだ」
「つまり、剄量が多いと遠くから発見できるって事ね?」
「そうなるな」

 これには一つ例外事項がある。
 それは剄脈の特色を十分に知ることだ。
 簡単に言えば、良く知っている武芸者ならば、相当遠くからでも十分に発見できる。
 例えばレイフォンの接近ならば、シノーラよりも遠くから察知できるし、ガハルド事件の時サヴァリスとリンテンスの存在を遠くからでも認識できたのもそうだ。
 正確を期すならば、リンテンスはサヴァリスのおまけのような感じで認識できたのだが。
 つまり。

「あんたはまだ二回しか会ってねえのに、二百メルトルも離れたところから発見できた」
「ふむふむ」
「サヴァリスとかなら百メルトル以内に近付かないと、分からなかったのにだぞ?」

 既に正体がばれていることを知っていて尚、惚けようとしているシノーラ。
 いや。これは完璧に遊んでいるとしか思えない。

「つまりだ」
「はいはいはいはい!! その通り!! 私こそがグレンダン女王アルシェイラでぇぇす!!」

 結論を言わせてくれなかった。
 まあ、こんな展開になるとは思っていたので驚くことはないが。
 驚かないが、少々溜息が出てしまう。
 溜息のついでに、一つ確認する。

「あそこで揚げパン買っているのも、天剣授受者だろ?」
「影武者のカナリスちゃんね」

 よりにもよって、アルシェイラの影武者などさせられているかと思うと、一瞬にして同情の念でリチャードの胸は一杯になった。
 暖かい揚げパンの入った、巨大な袋を抱えたカナリスが近くまで来たので、ついでにその肩を叩いてその労を労ってしまったほどだ。

「あ、あう。分かって頂けるのですね」
「貴女の苦労は、何時かきっと報われるはずです。どうか負けないで下さい」

 サヴァリスに付きまとわれているリチャードだからこそ、カナリスの苦労は痛いほど分かってしまうのだ。
 もしかしたら、苦労の方向や種類が違うかも知れないが、それでもその痛みは十分に共感できてしまう。
 と言う事で、女王よりもカナリスの方への態度が丁寧となったわけで。

「ねえねえ。私に対する敬意とか敬いの心は?」
「なんだそれ? もしかしてサヴァリスよりも怖い生き物か?」

 当然アルシェイラはややご機嫌斜めになったわけである。
 とは言え、このままだと本題が非常に怖いことになりそうなので、少しだけ譲歩してみることとした。

「敬語使って話されたいんだったら、そうするけれど、どうする?」
「・・・・・・・・・・・・・。ぬわぁぁぁぁぁ!!」

 どうやらアルシェイラの中で、非常に色々な葛藤が起こっているようだ。
 頭を抱えて泣き叫びつつ、カナリスから揚げパンの袋を強奪して、猛烈な勢いで食べ始める。
 当然では有るのだが、周りからなにやら冷たい視線が注がれているのだが、女王陛下は全く気にしていらっしゃらないようだ。
 カナリスとリチャードにとっては、針のむしろと言ったところだが。

「むぅぅぅ。外に出てまで敬語と付き合いたくないわね。良いわ。特別にタメ口を許してあげる。感謝するように」
「へいへい。感謝の印として、兄貴の現地妻の写真をご覧頂きましょう」

 そう言いつつ、暫く前の手紙に同封されていた、黒髪で大人しそうな少女の写真をアルシェイラに渡す。
 どうでも良い事だとは思うのだが、恋愛という物が現実世界に存在している事を知らないらしいレイフォンが、よくもまあ、女の子などとつきあう事が出来た物だと感心してしまう。
 これももしかしたら、ヨルテムに移住したからこそなのかもしれない。
 ならば、レイフォン個人にとって追放処分を食らった事は、幸運、あるいは好都合だったのかも知れないと考えられる。
 あくまでもレイフォン個人にとって、結果的にでは有るが。
 リチャードがそんな思考で遊んでいる間に、変化は一瞬にして起こった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・。リーちゃんの胸ももめないヘタレのくせに、こんな可愛い子を落としているとは。レイフォン。侮れないわね」

 台詞だけを聞いていると物騒なのだが、その表情はとても楽しそうである。
 そして、アルシェイラの視線が、写真のメイシェンの胸付近に注がれていることにも気が付いた。
 万が一にでも、アルシェイラがメイシェンと会ったならば、速攻で揉むこと請け合いな野獣の視線でだ。
 思わずレイフォンの現地妻の冥福を祈ってしまったほどには、危険極まりない視線だった。
 まあ、グレンダンがツェルニと接触することなど無いから、それ程恐れる必要はないのだろうと思うのだが。
 と、本題から著しくずれてしまった。

「本題なんだが」
「? この子を私に紹介するのが本題じゃないの?」
「それはタメ口叩いて良いお礼の品」

 前回もそうだったが、アルシェイラと話すとなかなか話が進まない。
 もしかしたら、これこそが女王の実力なのかも知れないと、少々絶望的な気分になったが、それを殴り倒して最も危険な人物について相談する。
 そう。サヴァリスの危険度が最近凄まじいことになっているのだ。

「寄生型の老性体が現れたら、俺に取り憑かせて殺し合おうとか」
「あんなのはそうそう来ないと思うけれど」
「来られたら即座に命の危険だ」

 相手は天剣授受者だ。
 彼らの頼みを断ることが出来る人間は、このグレンダンでは極々少数である。
 目の前で揚げパンを頬張っている、人外魔境はその例外中の例外だ。

「剄脈の移植技術を開発して、俺に移植して殺し合おうとか」
「そんな物は当分無理よね。・・・・・・・・・・」

 なぜか、とても怖い表情でリチャードを見るアルシェイラ。
 それはもう、生け贄の仔羊を見るような視線であり、もしかしたら、人体実験に提供される犠牲者を見送るようでもあった。
 剄脈の移植技術などと言うのは、今まで研究されてこなかったはずだから、そう簡単にできるはずはないのだが、アルシェイラは何かそれに代わる技術を知っているのかも知れない。
 そんな恐るべき視線だった。
 だが、詮索するのは怖いので強引に目をそらして話を進める。

「で、でだが」
「うんうん?」
「サヴァリスを何とか止められないか?」
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅん? 私って基本的に放任主義だしぃぃ」
「語尾を伸ばすな!」

 何故か、可愛らしく恥じらうアルシェイラに殺意が湧いてくる。
 かなり切羽詰まっているのだ。
 そう。女王であるアルシェイラに頼もうと決断するくらいには。

「天剣授受者を外に出すなんて事は、殆ど不可能だし、相手がサヴァリスじゃ私が言ったくらいで止まるわけ無いしぃぃ」
「・・・・・・・・・・・。やっぱり止まらないのか」
「なにしろ、授与式で私に襲いかかってきたし、他の天剣とグルになって戦いを挑んできたりしたしぃぃ」

 何でサヴァリスが天剣授受者でいられるのか、非常に疑問になってきた。
 と言うか、レイフォンが天剣授受者であったことが非常に疑問になってきた。
 やはり天剣授受者とは、武芸者として超絶の存在であると同時に、人格が破綻していなければならないのだと、そう思えるからだ。
 そしてふと、カナリスのことが気になった。

「いいんだいいんだ。私なんかどうせ陛下の影武者で、面倒な書類仕事ばっかり押しつけられて、ないがしろにされてばっかりいるんだ」

 何時の間にか、揚げパンの入っていた空袋を屑籠に放り込みつつ、すねている女性を発見しただけだった。
 やはり天剣授受者とは人格破綻者でないと勤まらないらしい。
 いや。すねていると言う事はカナリスはまだ本来の天剣授受者ではないと言う事で。

「止めた」

 これ以上問題が増えるのはごめんなのだ。
 取り敢えず、サヴァリスの仕事を増やすことでリチャードの安全を少しだけ図ってくれることとなり、かなり疲れる面談は終了した。
 天剣授受者に、戦う以外に仕事が出来るかどうかと言う、かなり深刻な疑問は残ってしまったが。
 
 
 
 突然王宮に呼び出されたサヴァリスは、著しい困惑の中に放り込まれてしまっていた。
 目の前には、珍しいことにアルシェイラ本人がいるが、その内容からすれば当然の事柄である。
 天剣授受者への命令であるのならば、影武者のカナリスでは無理がありすぎる。
 だが。

「もう一度お願いできるでしょうか?」
「なんだ? 貴様とうとう脳まで剄脈に犯されたのか? まあ良いだろう。耳の穴かっぽじってよっく聞け」

 かっぽじって聞けと言った時だけ、アルシェイラの本性が見えた気がしたが、それは別段珍しいことではないので気にしてはいけない。
 気にしなければならないのは、むしろその先の用件の方だ。

「放浪バス停留所の警戒任務を命じる。技量が落ちない程度の、鍛錬の時間は認めるが、それ以外は徹底的に停留所の安全を確保しろ」

 やる気なさげにそう言うアルシェイラの視線が、サヴァリスを睨み付ける。
 面倒ごとを押しつけられて怒っているように見えるが、サヴァリスにそんな記憶は全く無い。

「御意ですが、何故突然そんな事になりましたか?」
「ああ? 心当たりがありすぎて思いつけないのか?」
「いえいえ。全くもって心当たりがない物ですから」

 なんだか心外なことを言われたので、必死で否定する。
 こう見えてもサヴァリスは、汚染獣と戦うこと以外は殆ど何も考えていないし、鍛錬で誰かを殺したなんて事も滅多にないのだ。
 いやいや。鍛錬で誰かを殺したことなど、多分無かったはずだ。
 通常は誰かを相手にする事自体が気まぐれで、半殺しにするくらいで止めているし。
 だと言うのに、アルシェイラはサヴァリスに全ての原因があると言っているのだ。

「リチャードに」
「はい?」

 突然、愛しのリチャードの名前が出てきたので、少々驚いてしまった。
 もしかしたら、アルシェイラもリチャードを殺したくなったのかと、勘ぐってしまった。
 何しろ、知れば知るほど面白いのだ、リチャードは。
 そして、猛烈に強力なライバルの出現を確信したが、その確信は幸運な事に、今回見事に外れる事となった。

「老性体取り憑かせて、殺し合おうとか言っているそうだな」
「それが何か?」

 取り憑かせることに成功したら、もちろん誠心誠意全力で殺して差し上げるのだが、生憎と寄生型の老性体なんて物は、そうそう出てこないのだ。
 前回のが特殊すぎたと言えるだろう。
 そして、その絶好の機会をサヴァリスは逃してしまったのだ。
 悔やんでも悔やみきれないが、後悔という言葉はサヴァリスの辞書には存在していない。
 と言う事で、現在剄脈の移植技術がないかと、あちこちの医師や学者に問い合わせているだけである。

「そう言うことをやっている時点で、お前が社会不適合者だと気が付くべきだと思うのだがな」
「? 僕達は戦うことだけ考えていれば良いのではありませんか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。良く分かった」

 何故か疲れたようなアルシェイラに、少々驚きを覚えた。
 天剣授受者三人がかりで全く歯が立たなかったというのに、今はサヴァリス一人で疲労困憊させているのだ。
 世の中ままならないと、最近よく思うが、もしかしたら普通の人間は常にそんな事を考えているのかも知れない。
 これは、もしかしたら大発見かもしれないとは思ったが、たいして気にとめることなく記憶の奥底へとたたき込んで、深く考える事はやめてしまった。
 その理由は簡単だ。
 戦う事だけ考えている方が、楽しいからに他ならない。

「取り敢えず、貴様は停留所の警護をやっていろ。呼ばれもせんのに勝手に出歩いたらぶち殺すからな」
「御意ですが。リチャードを連れて行っては?」
「当然駄目だ」

 どうやら、リチャードがアルシェイラに何かお願いしたようだという事は分かった。
 そうでなければ、こうも極端な処置が降りることはないはずだ。
 天剣授受者とは、生まれた時にそうなると決められた存在であり、何時何処で生まれようとそんな物は関係ない。
 問われるのはその強さのみ。
 だと言うのに、今回は非常に特殊な状況だと言える。
 だが、ここで考え方を少し変えてみる。

「ふむ。外からの武芸者と遊べるかも知れませんね。それはそれで楽しそうだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「リンテンスさんの例もあるし、もしかしたら強い奴と戦えるかも知れませんね」

 物事は前向きに考えた方が、何かと楽しい。
 サヴァリスの場合は、戦うこと以外に何もない以上、どうやってそれを楽しむかを何よりも先に考えるのだ。
 アルシェイラが呆れたような視線で見詰めてきているが、そんな物はもうどうでも良い。
 一刻も早く、外から強い武芸者がやってきて、犯罪を起こさないかと、それだけが楽しみである。
 
 
 
 サヴァリス絡みの問題が、大方片付いたと思っていたリチャードは、目の前の現実を認識して、深い深い溜息をついてしまった。
 同じテーブルを囲んでいる父はと見れば、シチューを掬うためにもったスプーンをそのままに、完璧に凍り付いてしまっている。
 それも無理はない。

「あのよう、アルシェイラさんよ」
「いやん。シノーラって呼んで」

 そう。グレンダンが誇る天剣授受者を、実力で統べるべき存在が、同じテーブルを囲んでいるからに他ならない。
 リチャードの能力を持ってすれば、二百メルトル離れた場所からでも、その存在を確認することが出来るのは間違いない。
 だが、それはたかだか二百メルトルでしかないのだ。
 レイフォンの場合、五百メルトル以上の距離からでも、その存在を認識することが出来ていた。
 だが、その長距離をもってしても、僅か数秒とかからずにリチャードの目の前に現れることが出来た。
 更に驚くべきかあきれるべきか悩むところだが、周りの被害を考慮して慎重に加速しての結果だった。
 ならば、レイフォンを凌駕する武芸者であった場合どうなるだろうか?
 しかも、距離的には半分以下である。
 その結果が目の前にいる。

「急にサヴァリスが来なくなったらぁぁ、お夕飯を作り過ぎちゃうだろうと思ってさぁぁ。折角作ったんだからぁぁ、私が食べてあげないといけないと思ったわけよぉぉ」

 語尾を伸ばす喋り方が、なにやらいたくお気に召したらしい。
 それは本題ではないので、取り敢えずスルーすることとする。
 問題は、いきなり女王などと言う怪生物が食卓に現れたために、未だに固まり続けているデルクの方だ。
 心臓発作を起こしていても何ら不思議ではない。
 目の前で手を振ってみて、意識があるかどうかを確認する。

「・・・・・・・・」

 返事がない。
 只の屍のようだ。

「いやいや。生きてるから」

 取り敢えず自分に突っ込みを入れつつ、深皿にシチューを盛りつけ、アルシェイラの前へと置く。
 確かに、話題を振った当日にサヴァリスが来なくなるとは思わなかったので、何時もの調子で夕食は大量に作ってしまっていた。
 食べきることを考えると、確かにアルシェイラの参戦は心強い。
 それは間違いないが、今問題としなければならないのは、固まってしまっている養父の方である。
 と言う事で、デルクの鳩尾を強く押し込んで、意識をはっきりさせようと努力する。
 結果、全く無駄だった。

「どうするんだ、これ?」
「私の愛の力で」
「頼むから、これ以上話をややこしくしないでくれ」

 どうやら、アルシェイラは非常に暇らしい。
 だからこそ、リチャード達をからかっているのだと判断できる。
 グレンダンが平和だと言えるのかも知れないが、非常に傍迷惑なことであることは間違いない。
 そして問題は、デルクをこの世に呼び戻すことである。

「リチャード」
「おやじ。気が付いたのか」

 だが、自然治癒力で復活してくれたようで、デルクの唇から言葉が零れ落ちる。
 しかし、その目は未だに虚ろであり呼吸さえままならない様子だ。

「私はもう駄目だ。レイフォンに先立つ不孝を詫びて欲しい」
「待て待て待て待て」

 両肩を掴んで前後に揺すり、少しでも意識がはっきりするようにと努力する。
 たかだか女王が来襲したくらいでこんな状況になるとは、デルクも寄る年波には勝てないのかと思ったが、実は違うのだろうと言うことは理解している。
 武芸者にとって、アルシェイラとはそれ程に凄まじい存在なのだ。
 リチャードのように、ある意味客観的にアルシェイラのことを見られるわけではないのだ。
 とは言え、何故か不明だが、サヴァリスのことに一応のケリが付いた今の方が、遙かに問題であるという事実が、リチャードを散々に打ちのめした。
 だが、これは始まりに過ぎない。
 グレンダンにいる以上、この地獄はまだまだ続くのだと言う事は、きちんと理解できているつもりだ。
 やはり、学園都市に留学すべきかも知れない。
 そんな事を真剣に考えつつ、デルクを覚醒させるための努力を続ける事にした。
 



[14064] 第六話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:19


 突然のことではあるのだが、フェリ達第十七小隊は強化合宿をすることとなった。
 合宿自体は既に決まっていたのだが、廃都市探索行動中に、フェリが自爆した影響でズルズルと延期になっていたのだ。
 だが、それも昨日までの話である。
 正確には昨夜までの話である。
 夕食の終了直後にカリアンから命令されたのだ。
 明日から第十七小隊は合宿するようにと。
 既にニーナを始めとする全小隊員には連絡が行き届き、最後に知らされたのがフェリだったのだ。

「廃都市探索中の傷害未遂と、フェリ自身が負傷した事による捜索能力の減少。これには制裁が必要だという意見が多くてね」
「・・・・・・・。主に生徒会長からの意見ですね」
「当然だろう。私はこのツェルニの安全を最大限図る義務があるのだよ。拒否した場合トリンデン君達に頼んでお菓子の供給を完全に止めるが、どうするね?」
「・・・・・・・・・・・。なんて悪辣で陰険なのでしょう?」
「はははははは。伊達に陰険腹黒眼鏡と呼ばれていないよ」

 と言った会話があったために、手を抜くことさえ出来ずに、生産区画の空き領域を間借りした、強化合宿に参加している次第である。
 新入隊員であるダルシェナを含めた、第十七小隊員が現場となる宿泊施設へと到着してみると、既に何人かが来ていて準備をしていた。
 午前の早い時間だというのに、元気なことだと呆れ半分関心半分で見てみれば、殆どが知っている顔ぶれだった。
 家事担当らしいリーリンと、その手伝いらしいウォリアスはまあ問題有るまい。
 ウォリアスとなにやら企んでいるらしい、元第十小隊のディンがいるのも何となく頷ける。
 問題は、取り敢えず必要ないはずの人間が二人ほどいることである。
 第十七小隊付きのダイトメカニックである、ハーレイは少々意外だったが問題としてはそれ程大きくない。
 そう。車椅子に乗って不機嫌そうにしている男に比べれば、何ら問題はない。
 いや。もしかしたら不機嫌なのではないのかも知れない。
 眩しそうに目を瞬きつつ、片手で庇を作って日光を遮っているところからすると、普段部屋の中にしかいないので単に眩しいだけかも知れない。

「キリク先輩? どうしたんですかこんな所に?」
「貴様のとばっちりだ」

 どうやらレイフォンは知っているようで、不機嫌そうにしている男に割と平然と話しかけた。
 レイフォンの性格を考えると、これはかなり異常な事態であると思うのだが、キリクの方も平然と不機嫌そうに言葉を返している。

「複合錬金鋼の簡易版を作っているという話は知っているな?」
「ええ。少し前にハーレイ先輩から」
「そいつが完成したので、最終調整をするのだが、貴様らが下らない合宿などしたせいで俺までこの有様だ」
「それは僕に言われても困りますが」
「当然だ。俺はこれを企画した奴に文句を言っているんだ」

 企画した奴と言えば、当然それはカリアンである。
 ならば、どこからかカリアンに話が伝わることを望んで、不平不満を漏らしているのに違いない。
 フェリも便乗したいところではあるが、お菓子が減らされては困るので黙っておくこととする。
 もちろん、事態が好転したら猛反撃に出るつもりなのは、当然の事実である。

「ああ。取り敢えず荷物を置いて、三十分後にここに集合だ。午前中は各自、自己鍛錬の時間とする」

 緩みかけた空気をニーナが強引に引き締めて、強化合宿という名の拷問が始まったのだ。
 リーリンがいるとは言え、ふんだんにお菓子を食べることが出来ないという現実は、フェリにとってかなりきつい事態なのだ。
 それでも諦めるなどと言う事が出来ようはずは無い。
 速攻で荷物を部屋に放り込み、キッチンへと駆け込む。
 当然のようにリーリンとウォリアスが、なにやら働いて昼食の準備をしている姿が見える。
 そのままの勢いでウォリアスに近付き、その服の裾をつまんで上目遣いで見詰める。
 この辺の行動については、メイシェンで散々研究しているのだ。
 一撃必殺の自信があった。

「どうしましたフェリ先輩?」

 だが、男なら確実に撃破できるはずの攻撃を受けて尚、ウォリアスは平然とフェリを見下ろしている。
 これは計算外であるが、今更引き下がるわけには行かないのだ。
 なんとしてもお菓子を確保するために、更に涙を少し溜め込んで見詰める。

「何かお菓子を下さい」
「はいはい」

 この攻撃が通用したのかどうか怪しいが、何かくれるようでウォリアスが作業の手を止めて、冷蔵庫を漁る。
 その手がすぐに何かを掴みだし、そしてフェリの前へと差し出した。

「これが今日一日分ですよ」
「・・・・・・。少な過ぎると思いませんか?」

 演技が限界に達したようで、何時も通りの無表情を基本とした声になってしまった。
 何しろ差し出された物が酷い。

「最安値の板チョコ一つで、私が満足するとでも?」
「そう言われましても、こんなのしか用意していないんですよ」
「何でもっと用意していないのですか?」

 ここは生産区画であり、ツェルニの最果てと言って良い場所である。
 当然のこと、店などと言う物は存在していない。
 ならば、少し多めに用意しておくべきである。
 用意周到なウォリアスならば、一年分くらい備蓄しておいても何ら問題無いはずだ。
 いや。備蓄しておくべきである。
 だが、次の一言で疑問は氷解する事となった。

「生徒会長が」
「あの悪魔め」

 全てカリアンの陰謀であることがはっきりとした。
 だが、まだ諦めることは出来ない。

「フェリ先輩にあまりお菓子を食べさせないようにと」
「そんな命令は拒否して下さい」
「その代わり、サントブルグから来る情報を、格安で売ってくれると」
「悪魔と取引するなど、貴男はそれでも人間ですか?」
「悪魔と取引出来るのは人間だけですよ。そして僕の最優先事項は情報を集めることですから」
「っく!!」

 戦略の失敗を戦術で挽回することは、極めて困難である。
 戦略環境を整えてフェリを追い詰めたカリアンの前に、為す術無く翻弄される自分を、少しだけ哀れんだ。
 だが、まだ諦めるには早い。

「それに、何よりもですね」
「何でしょう?」

 やや微笑ましそうな顔と共に、ウォリアスの上からの視線がフェリを捉える。
 これは物理的な身長差による物だけでは、おそらく無い。

「生徒会長は心配しているのだと思いますよ」
「あの悪魔が、私の心配をする? 必要な時に使えないと困りますからね」

 違うかも知れないとも思うのだが、どうしてもカリアンのことを好意的に評価できないのだ。
 特に今は、どんな物を見せられても、それが腹黒い策略にしか見えない。
 だが、続いたウォリアスの未来予想に、一瞬背筋が凍り付いた。

「来年の今頃、体重が二倍になっているとか」
「・・・・・・・」

 無いと言いきることは出来ない。
 なぜならば、最近乗った、体重計の示す値が本当ならば、ここ最近で五パーセントほど体重が増えていたからだ。
 原因を考える必要はない。

「あるいはですね。これから毎週歯医者に通わなければならないとか」
「それは有りません」

 流石にそれは無い。
 毎食後に歯磨きは欠かさないし、だらだらと何か他のことをしながら食べているという訳でもない。
 虫歯の危険性はそれ程大きくない。

「お菓子を食べているために、きちんとした食事が出来ていないのではないかと」
「それもありません」

 栄養管理がきちんとしている訳ではないが、それでもお菓子の食べ過ぎで食事を疎かにしているという訳ではない。
 と言う事で、カリアンの心配事の半分以上は杞憂である。
 だが、一つだけ十分に危険な心配事は存在している。
 それは間違いない。

「と言う訳で、合宿中は少し我慢しましょう」
「・・・・・。悪魔的な策略にしてやられた私の不甲斐なさがとても悔やまれると思いませんか?」

 何時も以上に平坦な声で言ってみたが、敗北を覆すことは出来ない。
 フェリ・ロス一生の不覚であった。 
 
 
 
 前庭に出たダルシェナだったが、既に先客がいた。
 キリクとハーレイ、そしてレイフォンだ。
 キルクが基礎状態の錬金鋼をレイフォンに差し出しながら、なにやら注文を付けているのが聞こえる。

「良いか、簡易型であるそいつは形状変化を省略して重量をかなり抑えることに成功しているが、それでも通常の錬金鋼よりもかなり密度が高く重い」
「前回使った奴以上でなければ、特に問題はないと思います」

 ダルシェナ自身あまり気にとめていなかったが、目の前にいる錬金科の二人は割と有名らしい。
 第十七小隊の専属技師であるハーレイは、当然として、キリクの方はその変人ぶりでかなり有名だと言う事だ。
 あくまで他人事なのは、ダルシェナ自身との接触が殆ど無かったからで、別段積極的に無視しているというわけではない。

「復元して様子を見てくれるかな? 割と良い出来だと思うんだけれど、最終調整は早めにしておきたいから」
「分かりました」

 言いつつそれは姿を現した。
 形状は最近レイフォンが使っている刀だった。
 だが、一回り大きくなっているのにも気が付いたが、最も目を引くのはやはり地金が漆黒であることだろう。
 ただ黒いだけではなく、錬金鋼の粒子が七つの星の形にちりばめられ、見る物にある種の感動を与える美しさを持っていた。

「へえ。凄いですね」
「当然だ。こいつには俺の実家にある名刀のデータが使われている。普通の錬金鋼では再現出来んがこれはかなり近付いているはずだ」

 不機嫌そうに言うキリクの言葉を聞きながら、レイフォンがその漆黒の刀を構え軽く振って様子を確認している。
 用心しつつ、恐る恐るといった感じなのは、やはり始めて持つ道具に対する用心のためだろう。

「重さとかバランスとかどう?」
「そうですね。今のところ問題無いです。重さも丁度良い感じですし」

 そのレイフォンの台詞を聞いて少し意外に思った。
 体格から考えると、新しい錬金鋼は明らかに大きすぎるし、重すぎると思うのだが、本人は丁度良いと言っているのだ。
 更に、振り下ろしや切り上げ、横薙ぎなどの基本的な型を繰り返しつつ、ゆっくりと身体と錬金鋼をなじませ続けるレイフォン。

「うぅぅん? 重心を後5ミリくらい手前に出来ますか?」
「5ミリ手前ね。他に気が付いたことはある?」
「そうですね」

 更に、細々した注文を付けるレイフォンと、熱心にメモに取るハーレイ。
 脇で聞いているキリクは相変わらず不機嫌そうにしているだけだ。

「こんな所だと思いますが」
「分かったよ。午後の訓練に使えるように調整するから貸して」
「はい」

 基礎状態へと戻された錬金鋼が、ハーレイの手に渡った頃合いを見計らっていたのか、キリクが再び口を開く。
 だがそれは、もしかすると説教だったのかも知れない。

「貴様が使う以上大丈夫だとは思うが、念のために言っておく。間違っても全力の剄など込めるな。他の錬金鋼に比べたら遙かに丈夫ではあるのだが、それでも限度という物がある」
「そうそう。限界をきちんと掴むまでは慎重に扱ってね」
「殆どの錬金鋼の長所を伸ばしているとは言え、貴様のような規格外生物が扱うには心許ない。実戦ならば仕方が無いが、訓練ごときで木っ端微塵などにしたら只ではおかん」
「はっきり言ってそれ一本で、普通の錬金鋼五本分くらいの費用がかかっているんだから、手荒に扱っちゃ駄目だよ」
「前にも言ったが、道具など使われて壊れるために存在するような物だが、出来るだけ有意義に壊すのが貴様の役目だ。力任せにぶっ叩いたりなぞするな」
「何時ぞやみたいに、剄の連続過剰供給で解かすとか言うのも無しだよ」
「ステレオは止めて下さい!!」
「「モノナルなら良いんだな」」
「・・・・・・。ステレオでお願いします」

 キルクに続いてハーレイまで注文を付け始め、圧倒されたようにたじたじとなるレイフォンを眺めつつ、ダルシェナは驚いていた。
 剄の過剰供給で錬金鋼が溶けるなどと言う話は、今までに聞いたことがない。
 木っ端微塵になるなどと言う事態は、はっきりと想像の外側だ。
 そして理解した。
 シャーニッドがレイフォンがどれだけ凄いか、その本当の姿を知らないのだと言ったのは、全くの事実だったのだと。
 だが、その恐るべき武芸者を前にして怯むわけには行かない。
 なんとしても追いついて、そして追い越さなければならないのだ。
 実力を隠している場合ではない。
 そう決意したダルシェナは、突撃槍の柄を回転させ、細剣を取り出した。
 それを目敏く見つけたのは、当然のようにシャーニッドであり、即座に声をかけてきたのも彼ならではの早業だろう。

「なんだ? シェーナも奥の手を持っていたのか」
「お前と同じだ。必要かどうかは兎も角として、鍛錬しておいた方が良いには違いないからな」
「違いない」

 そう言いつつ、シャーニッドはシャーニッドの訓練を開始した。
 ダルシェナも、自分の訓練を始めようとして、そして凍り付いた。
 視線の先にはレイフォンがいる。
 青石錬金鋼の刀を手にして、幾つかの基本となる形をゆっくりと再現しつつ、微調整をしているような動きに見える。
 だが、今の微調整の段階でも既に恐るべき実力差を直感的に把握できてしまった。
 そう。その動きはあくまでも滑らかであり自然体であり、そして練り上げられ、洗練され、研ぎ澄まされ、何よりも磨き抜かれていた。
 そして、ごく僅かな余裕が存在しているその動きは、とても美しい。
 そう。とても美しいのだ。
 単純な振り下ろしの動作でさえ、見る物が見ればその光景に目を奪われてしまう。
 いや。単純だからこそ違いをはっきりと認識できるのだろう。
 ふと気が付いて、周りの連中に注意を向けてみたが、散々見慣れているはずだというのに、視線がレイフォンを捉え気味になっている。
 それ程までに美しいのだ。

(私は、あそこまで行けるのだろうか?)

 剄量という武芸者を武芸者としている力の源に差がある事は理解しているが、レイフォンの実力は他の面でもぬきんでているのだ。
 対汚染獣戦を想定した訓練では、それを前面に出すことはなかった。
 なぜならば、汚染獣とはその巨体を活かした攻撃をする人外の存在のことで、人間のように洗練された技を使うことなど無いからだ。
 だからこそダルシェナは、レイフォンの強さの殆どが剄量にあると勘違いをしてきた。
 それが違うことが今明らかとなった。
 剄量を爆発的に増やすことは、殆ど不可能である。
 だからこそ、諦めという名の逃げ道を見つけていたのだ。
 それは間違いだった。
 剄量を抜きにしても、レイフォンはあまりにも強すぎたのだ。
 だが、剄量と違って、技量ならば何とか追いつけるのではないだろうか?
 兄やレイフォンのように、卓越した技量を得ることが出来れば、素晴らしいことに違いない。
 シャーニッドの挑発によって火を点けられた情熱が、更に激しく燃え上がるのをダルシェナは感じた。
 必ず追いつき、そして追い越すと心に決めて、個人訓練を始めた。
 
 
 
 昼食を終えたダルシェナは美味いコーヒーを飲み損ねたことに未練を感じつつも、きちんと訓練を行うことは出来た。
 だが午後の訓練を終えた今、絶望に支配されようとしていた。
 レイフォンが異常すぎたのだ。
 剄量だけでなく、その技量だけでも想像を絶する領域に達していることは理解しているつもりだった。
 だが、その認識や理解は全くと言って良いほど低く見積もられていたのだ。
 訓練は連携をどう取るかという基本的なところから始まった。
 それはダルシェナという戦力が加わったことで、隊のバランスが変わったために当然行われる、基本的な行程だった。
 そう。問題はレイフォンの異常さだった。
 対汚染獣戦の訓練で顔を合わせているとは言え、それ程長い時間ではなかったし、そもそもが敵として対峙して、完膚無きまでに敗北した時の話だったのだ。
 そんな前提条件の元、レイフォンと組んで攻撃に出たのだが、連携は殆ど何の問題も無く成功してしまった。
 そう。成功してしまったのだ。
 本来ならば、始めて会った人間と連携など取れるはずがないのだ。
 よほどの熟練者同士でなければ、それは望めないはずなのだ。

「遠いな」

 訓練が終わり、精根尽き果てて座り込んで、一言だけ口にする。
 技量で追いつくことは不可能ではないと、午前中の風景を見てそう思った。
 だが、夕日を浴びている今は絶望と無力感に囚われてしまっている。

「シェーナ」
「ディン」

 建物の中で何かやっていたはずのディンが、よく冷えたスポーツドリンクの入った、ボトルを放り投げてくる。
 重い身体に難儀しつつもそれを受け取り、そして気が付く。
 ディンとこんな風に接するのは、ずいぶんと久しぶりだと。

「笑ってくれて良い。惨めだ」

 故郷で自信を喪失してここに来た。
 ディンとシャーニッドに出会い、そしてチームを組んで、気が付けば小隊員にまでなった。
 第十小隊は解散してしまったが、それでもダルシェナ自身に実力が無いと言うことにはならない。
 入学した時と比べて、確かに実力は付いているはずだった。
 だが、それは指揮する人間がいて、支援してくれる人間がいて、始めて発揮できる攻撃力だと言うことが、今日はっきりと理解できた。
 レイフォンとの訓練でさえ、ディンを始めとする第十小隊の指揮と支援があった。
 今日、レイフォンと二人で訓練して思い知ったのだ。
 何時の間にか、周りを見ることが出来なくなっていたのだと。
 それは、ディンの指揮や仲間の支援が充実していた証拠でもあるのだが、逆に無くなってしまえばダルシェナにはそれ程の価値はないのだと。
 それを気が付かされてしまった。
 レイフォンは、確実にダルシェナが次に何をするかを予測し、幾つかの候補を挙げ、そして現実にそれが起こった時の反応速度を上げておく。
 訓練を始めてからしばらくは、その恐るべき能力に全く気が付かなかった。
 そう。あまりにも違和感がないがために、しばらくは気が付かなかったのだ。
 レイフォンが合わせてくれていると言うことに。

「笑えんさ。シャーニッドから聞いたが、あいつはニーナ相手にも同じ事をやってのけたそうだ」
「ふん! 化け物だな」
「・・・・・。ああ」

 ディンと二人で夕日を浴びつつ、ゆっくりと話せる日が来ようとは思ってもいなかった。
 だが、それはもっと違う場面であって欲しかった。

「俺は、あいつを戦略兵器として使うつもりだ」

 小さく呟いたディンの視線は、遙か遠くを見詰めていた。
 その視線の先に何を見ているのか、それは今のダルシェナには分からない。

「あいつは天才だ。それも異常なほどの天才で、模倣することはおろか目標とすることさえ危険だ」

 天才は模倣の対象にはならない。
 なぜならば、天才はその持って生まれた才故に偉業を成し遂げることが出来るからだ。
 才を持たない人間に、同じ事をしろと言うことの方が無理なのである。
 だが、目標とすることは出来る。
 ああなりたいと思い、努力することで自らの力を高めることは出来るのだ。
 だが、レイフォンはそれさえ危険だとディンは言うのだ。
 そして、ダルシェナも同じ意見だ。

「ああ。あれはたまに見て、凄いなと感心して、自分も頑張ろうと思う程度にしておかないと、自分と他の人間を巻き込んで災いを振りまくだけになりかねない」

 以前の、対汚染獣戦での心構えを説かれた授業でも思い知らされた。
 レイフォンは違うのだと。
 その実力以上に、人としてのあり方が違いすぎるのだ。
 誇るでもなく、ただ淡々と事実のみを語り、そして遙か彼方にある目標を示す。
 見知らぬ都市で目にする道路標識に似ているかも知れない。
 指し示された方向へ行くことが、近道だというところがよく似ている。
 それに引き替え、人間的には非常に不器用であり、恐ろしいほどに年相応なのだ。
 武芸が絡まない場合という条件は付くが。

「何で、あんな奴が学園都市にいるんだ」

 独りごちる。
 不審を感じているわけではない。
 不条理は感じているが、それでもレイフォンには感謝しているのだ。
 ツェルニの武芸者には、絶対に必要だと。
 そう思いつつ、最後に残った液体を一気に飲み干して、未だに重い身体に鞭を打ちつつ立ち上がる。
 食欲はあまりないが、これから夕食なのだ。



[14064] 閑話 第二次食料大戦
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:19

 
 レイフォン達が外での訓練をしている最中、リーリンは当然のように料理などと言う何時もと変わらない仕事をしていた。
 とは言え、何時もとは色々と違うところがあるのも事実だ。
 その最たる物が、助手と呼ぶべきウォリアスが居ることだ。
 居るのだが。

「これ何?」

 突如としてリーリンの目の前に差し出されたのは、なにやらメニューが書かれた数枚の紙片だった。
 メモ帳を引きちぎったようなそのいい加減な紙には、いくつもの料理の名前と使うべき食材、そして作り方が書かれていたのだ。

「僕が考えた合宿中のメニュー」
「・・・・・・。凄い量だと思うんだけれど?」

 そこに書かれていたのは、孤児院で十数人分の料理を作り慣れたリーリンからしても、かなり多いように思えた。
 だが、相手はウォリアスだ。
 恐るべき計算の元に計画されているに違いない。

「大雑把に言って」
「うん?」
「事務仕事する人達の、一日の消費カロリーは、おおよそ千八百キロカロリー。室長とキリクさん、ハーレイさんとリーリンと僕の五人」
「そうなるわね」

 事務仕事というわけではないが、リーリンがそんな大量のカロリーを消費するとは考えられない。
 五人で、八千キロカロリー。
 ここまでは何の問題も無い。

「軽度の肉体労働をする人の消費カロリーは、おおよそ二千キロカロリー。フェリ先輩だね」
「そうね」

 ここまでで一万キロカロリーだ。
 リーリン一人だったら、おおよそ六日分に相当する。
 六人分の食事なので当然ではあるが、少しだけ引いてしまった。

「で。重度の肉体労働をする人の消費カロリーは、おおよそ二千五百キロカロリー。ダルシェナさんとシャーニッドさん、アントーク先輩とレイフォンの四人ね」
「ええ」

 何故かニーナだけ名字で先輩を付けて呼んでいることに気が付いたが、指摘することは避けて通るに越したことはない。
 ウォリアス自身が認めているように、ニーナのことがあまり好きではないので、その現れだろうから。

「合計一日に二万キロカロリー。それで、出来れば一日に三十品目を摂ることを進めているから、最終的に僕が作ったメニューがそれ」
「・・・・・・・・・・・・・。成る程」

 やはり恐るべき計算の元、恐るべき計画が進んでいたようだ。
 そしてリーリンは、それを現実世界に出現させなければならない。
 かなりの仕事量だが、ウォリアスと二人ならばそれ程大変でもないかも知れない。
 それは分かるのだが、直感的に仕事をしてしまうリーリンとは根本から全く違っているようだ。

「ちなみに」
「なに?」
「食事以外にスポーツドリンクやおやつで摂取するカロリーは計算外ね。多分二千五百キロカロリーだと少ないと思うから」

 全て計算ずくである。
 なんと恐ろしい生き物なのだろうと、改めて実感してしまった。
 だが、今回に限っては非常にありがたいのも事実だ。

「さて。さっさと昼食の準備をしよう。欠食児童が五人雪崩れ込んでくるから」
「そうよね。あの人達のことだから」

 そう言いつつ、昼食用と書かれたメモを一枚選びだし、そして硬直した。
 全粒粉を使ったパンで、ピーナッツなどを使ったサンドイッチ。
 そして多めのフルーツとサラダ。
 止めに牛乳という内容だったのだ。

「ねえ、これって」
「うん? 消化効率を考えると、昼食時に脂肪分や蛋白質は控えめにした方が良いんだよ」
「そ、そうなの?」
「うん。脂肪は消化吸収に時間がかかるのは当然だし、蛋白質は吸収と排出に水分が必要だからね。まあ、水分は気にしなくて良いだろうけど」
「・・・・。そうなんだ」
「ビタミンとミネラルの摂取を考えると、全粒粉のパンは必要だし果糖は血糖値が急に上がらないから有利なんだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「豆と牛乳の蛋白質は消費する分を補うためだね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 これは本格的だ。
 もはやリーリンの立ち入るべき領域ではなくなっている。
 ウォリアスが食事にこだわることは知っていたが、まさかここまでとは思いもよらなかった。
 専門的な知識を持った、栄養士の領域へと差し掛かっているように思える。

「さあ。僕は考えるのは得意だけれど作るのはそうじゃないんだ」
「そうなの?」
「そ」

 分業することで効率よく事を運ぶというのは、現代社会の基本構造だとは思っていたが、ここまで徹底されるとは思わなかった。
 だが、立ち止まっているわけには行かない。
 リーリンはこの合宿で、大勢の食事の面倒を見なければならないのだ。
 決意も新たに包丁を持ち、そしてキッチンへと向かう。

「ちなみに、おやつはきちんと用意してありますから安心して下さい」
「?」
『それは本当でしょうね?』
「!!」

 突如話し始めたウォリアスに不審を抱いた次の瞬間、聞いたことのある声がすぐ側から聞こえてきて驚いてしまった。
 黒い長髪の中から、花びらのような念威端子を取り出す少年を見る。
 相手はフェリであることは間違いない。

「木の実をふんだんに使ったパウンドケーキですよ。一昨日作った奴で、味もなじんでいるはずですよ。チョコレートクリームをかけて甘味をましてありますからお楽しみに」
『そう言う情報は先に下さい。この合宿に少しだけやる気が出て来ました』
「それは何よりです。ただし夕飯の後ですよ」
『昼食後にはなりませんか?』
「なりません」

 なんだかんだ言っても、結構フェリには甘いのかも知れない。
 もしリーリンだけだったら、確実におやつなど用意しない。
 だが、今は昼食の準備に精力を傾けなければならないのも事実だ。
 
 
 
 ニーナは疲れ切っていた。
 訓練で見せつけられた、レイフォンの凄まじさは既に慣れてしまっているからそれ程でもない。
 ダルシェナが加わったことによって、連携を最初から考えなければならないが、それは午後からの予定なので今のところ心配しているという程度である。

「どうしたのニーナ?」
「い、いや」

 目の前のテーブルには、やたらに豪勢に見える昼食が鎮座している。
 そう。鎮座しているのだ。
 茶色がかった白いパンはウォリアスの推奨する、全粒粉という小麦粉の一種を使った物だろう。
 適度な厚さに切られたパンの間に、ピーナッツクリームがたっぷりと塗られている。
 そして、当然のことなのだろうが、苺とブルーベリー、そしてマーマレードという三種類のジャムが一緒に挟まっている。
 ピーナッツとジャムで作るサンドイッチも、ウォリアスが推奨するメニューだ。
 更に、大量に盛りつけられたサラダと、切り分けられて蜂蜜入りのヨーグルトがかけられ、食べるだけになった果物の数々。
 全て、ウォリアスが推奨する昼食メニューに準じた内容だ。
 女子寮でも良く出てくるので間違いない。

「こうなることは予測していたからな」

 そう。この合宿を計画した瞬間に、食事担当としてリーリンを呼ぶことをまず始めに考えた。
 だが、一人では少々荷が重いかも知れないとも考えた。
 セリナにも応援を頼みたかったのだが、生憎と錬金科の生徒は殆ど採掘作業に駆り出されてしまっているために、断念せざるおえなかった。
 となると、残る選択肢は細目で性格が悪く頭が良く回り、更に食事に偏見を持った少年と言う事になってしまう。
 そう。こうなることは予測していたのだ。
 こうなることが分かっていたからこそ、頼むのに二の足を踏んでしまっていたのだ。

「僕の昼食に何かご不満でも?」
「い、いや。そんな事はない。と言えば嘘になるかも知れない」

 確かに十分なボリュームを持ち、栄養面もきちんと計算されているのは分かる。
 実家での食事と比べても、何ら遜色はないと断言できるほどだ。
 そう。ここにウォリアス本人が居なければ、これ以上を望むべくも無い。

「うわ! うまそうだな」

 ウォリアスの正体を知らないシャーニッドが喜んでいる。
 それはダルシェナも同じだ。
 表に出すかどうかの違いでしかないのだ。
 だが、ニーナの注意は黒髪の少年へと向けられているのだ。
 何時暴走するか分からない、この爆弾へと。

「ああ! この果物一つ一つ、野菜の一つ一つ、ジャムの一品一品、パンの一切れから牛乳に至るまで!! 全てを懇切丁寧に説明したい!!」
「それは止めて」

 そう。食べ物が絡むとなんだか変にテンションが上がり、説明を始めてしまうと言う恐るべき性質を持った、極悪武芸者の正体を知らないがために、のほほんと手を洗ったり出来るのだ。
 リーリンが止めているが、きちんと止めることが出来るかどうか、甚だ疑問なのだ。

「まあ、それは冗談ですよ。僕だって状況くらいはきちんと認識していますから」

 そう言いつつ席に付くウォリアス。
 認識しているとは言っているが、何処まで自制できるかは全くの謎である。
 だが、状況は更にニーナの介入を許さずに突き進む。

「取り敢えず食べてしまいましょう。そしておやつを」
「それは夕食後ですよ」
「たった八時間早まるだけではありませんか?」
「チョコレートクリームがまだ出来ていないんですよ」
「何という手抜きでしょう? 貴男はそれでも料理研究家ですか?」
「いやいや。僕はどちらかと言うと食文化史研究家」

 何故か不明だが、フェリがウォリアスと漫才を繰り広げている。
 攻撃するのならばここしかない。
 そう決断したニーナは、そそくさと椅子に座りサンドイッチに手を伸ばす。

「頂きます」

 自分に言い訳するためにそう呟き、一口目を囓る。
 何時も女子寮で食べているのと同じ味がした。
 だが、何時もに比べてサラダと果物が多いことにも気が付いた。
 そして何よりも、食卓を囲んでいる人数が多い。
 女子寮の二倍以上の人間が、忙しなく手と口を動かしているのだ。

「ああ。サラダの味付けを忘れてましたぁぁ」

 非常にわざとらしくウォリアスが声を上げ、そしてキッチンへと歩き、手に持って帰ってきたのはコーヒーミル。
 塩を小さじ三杯と、なにやらハーブらしい物を小さじに半分。
 きちんと蓋をして、ミルの電源を入れて、丁寧に粉砕しつつ混ぜ合わせる。
 そして出来上がった物を、ボールに盛りつけられたサラダへと振りかける。
 今の動作に、全く躊躇などはなかった。

「ほう。お前は塩の使い方を分かっていると見えるな」
「当然ですとも」

 そして、それを見ていたダルシェナが褒めてしまう。
 そう。よりにもよって、ウォリアスを褒めてしまったのだ。

「塩に香りを付けると、一気に格調高くなりますからねぇ」
「そうだ。だが、ツェルニの料理人共はその辺が分かっていない連中ばかりでな」
「嘆かわしいですよねぇ」

 ニーナとて、塩に香りを付ける方法やその効能くらいは知っている。
 実家で料理人がやっているところを、何度も目撃しているのだ。
 とは言え、このまま進むわけには行かない。

「済まないが、コーヒーをもらえるだろうか?」
「コーヒーですか? タンニンが鉄分とくっついてしまうんで、食後暫くしてからの方が良いですよ?」
「そうなのか?」
「そうなんです」
「理由は理解できると思うのだが、食事の内容が少し甘すぎるのだ」
「なるほど」

 ニーナが何かするよりも早く、ダルシェナが食事に注文を付け、それにウォリアスが対応するという構図へと突き進む。
 そして、この要求は割と共感を得ることが出来る物だ。
 全体的に甘味が強すぎて、もう少し口の中をさっぱりさせることの出来る飲み物が欲しいのだ。

「良いですけれど、少し待っていて下さい。これからロースとしますから。他に飲みたい人はいますか? ローストの希望も出来うる限り答えますが」
「ああ。ハイローストか、フルシティーで頼む」

 何の躊躇もなく、ウォリアスとの会話を進めるダルシェナ。
 だが、このまま進むわけには行かない。
 ウォリアスが暴走しなかったとしても、今からローストするなどと言うこととなれば、午後の練習は大幅に遅れてしまうのだ。
 個人個人のローストに応えるとなれば、なおさらである。

「ねえウォリアス?」
「うん?」
「何で粉になっている奴を使わないの?」
「何を言って居るんだいリーリン? ハンドロースト、ハンドドリップはコーヒーの基本だよ?」
「レノスの基本をここに適用しないこと」
「僕の基本だよ」
「もっと駄目」

 こうなることが分かっていたからこそ、ニーナはリーリンに食事の世話を頼むことに躊躇をしたのだ。
 その後リーリン主導の元コーヒーが制作され、ダルシェナが竹の香りを付けた塩を入れて飲んだりなどと色々あったが、昼食は無事に終了の時を迎えることが出来た。
 この一度の食事だけで、ニーナは胃に穴の開く思いを味わってしまったのは内緒である。
 
 
 
 午後の連携訓練を終えて帰ってきたニーナは、再びの徒労感と無力感に襲われていた。
 居残り組が、全員キッチンに集まっているのは良いだろう。
 当然のように良い匂いがしているのも問題無い。

「バターを厚底の鍋に放り込んで、最弱の火力でじっくりゆっくりと解かすの」
「何時間かかるのよ?」
「だいたい十五分から二十分くらい」

 なにやら、人の顔がプリントされたエプロンを装着したウォリアスが、コンロの前に立ちはだかり作業をしている。
 その脇には、何故かリーリンも同じエプロンを装備して相槌を打っていたりしている。
 既にニーナは自分の存在意義に疑問を持ち始めてしまっているのだが、周りは誰も気にしていないようだ。

「でもって、バターが溶けている間にこっちの鍋の中身を始末するの」
「下ごしらえした羊の肉と、人参、玉葱、馬鈴薯と、その他野菜をブイヨンで煮込んだという鍋ね」
「火から下ろして温度が下がったところで、このルーを入れる。本来ならスパイスを調合して作るのが当然なんだけれど」
「そんなウォリアスの当然に付き合っている暇は、当然の様にない訳よ」

 漫才ではない。
 むしろ、何か完成してしまっているコンビネーションを感じる。

「今回使うのは、ツェルニで密かにその名が轟いているヴィシャスカレー店が、一般向けに発売しているルー」
「このお店は前に一度行ったけれど、結構美味しかった記憶があるから、とても楽しみよ」
「そして、ゆっくりとお玉の中で解かしてダマにならないように細心の注意を払うこと」
「つぶつぶのあるカレーなんか、誰だって食べたくないわよね」

 むしろ、ウォリアスのアシスタントだろうか?
 料理ショーには必要かも知れない。

「で、完全に溶けたところで一工夫をする」
「隠し味って必要よね」
「ヴィシャスはルーは売っても、秘伝は当然売らないから僕のオリジナルね」
「何を入れるつもり? 下手な物入れたら市場へ送りつけるわよ?」
「大丈夫。こんな事もあろうかと用意しましたのが、これ!!」
「こんな事もあろうかって、献立考えたの貴男でしょう」
「普通に売られているケチャップじゃないのよ。かのオスカー先輩御用達の一品を、大さじ一杯ほど入れるの」
「突っ込みを無視する手腕は見事ね。で、オスカー先輩が何でケチャップにこだわるの?」
「それはもう、自分の作ったソーセージでホットドッグを作った時に、最後にかけるためだよ」
「ああ。マスタードも絶対に必要よね」
「そうそう。ある都市では、ある程度以上の年齢になったら、ホットドッグにはケチャップをかけてはいけないという法律があるんだって」
「へえ。それは凄いわね」

 あのオスカーが、ホットドッグにかぶりつく姿を想像して、止めた。
 あり得ると言えるし、あり得ないとも言えるからだが、どんどん話が進んでしまっているのが主な原因だ。

「さて、こうやっている間に良い具合にバターが溶けてきたようだから、ここで鍋を火から下ろして、浮いてきている固形物を取り除く」
「普通のバターみたいに見えるけれど?」
「脱脂バターといった感じで、後で使えるから別に取っておくこと」
「有る物は徹底的に利用する。ウォリアスの性格がそのまま出ているわね」
「で、上澄みを取り除いたら慎重に、別の鍋へ移す。この時下に沈んでいるのは塩分とかの不純物だから、適度なところで止めておくこと」
「それも何かに使うの?」
「色々な使い道があるよ。で、それで取り出したのがこれ。このご機嫌な黄金に耀くバターオイル」
「へえ。溶かしバターって綺麗なのね」
「綺麗なだけじゃないよ? これはとても焦げ付きにくいの。フライパンの温度が二百度近くになっても焦げない」

 ここでいきなり、ウォリアスの手が持ち上がり、あらぬ方向へと今まで使っていたヘラを突きつけた。
 何か飛び散っているが、多分気にしてはいけないのだ。

「奥さん! 今日はこれだけ覚えて帰ってね!!」
「奥さんなんて何処にいるのよ?」

 ここは学園都市である。
 奥さんなんて物がそうそう転がっているわけではないのだ。

「今作った、出来たてホヤホヤのバターオイルを、予熱しておいたオーブンの、天板に引いて、適度に切ったパンを並べて再びオーブンへ」
「焼いた後じゃいけないの? 折角作った溶かしバターがもったいないから?」
「いやいや。焼いたパンにバターを塗るのと、バターを塗ってから焼くのじゃ結果に雲泥の差があるの。これはもう食べてみないと分からないけどね」

 そこでいきなり、ウォリアスの視線が鋭さを増した。
 その視線が向く先は、なんとハーレイ。

「そこ! メモを取らないで覚える。そして家に帰ったら実際に作って確かめるの!!」
「は、はい!!」

 他のことでメモを取っている様子はなかったが、この溶かしバターだけは違ったようで、きっちりとメモを取っていたようだ。
 そして、メモを取っただけでやらなそうだと判断したウォリアスが、きっちりと釘を刺したと言う事だろう。

「さて。隠し味も入れたことだし、後はもう保温鍋に入れて煮込むだけ」
「保温鍋って便利よねぇ。燃料費もかからないしじっくり弱火で煮込めるんだもの」

 何故かリーリンの視線がニーナを捉える。
 もしかしたら、女子寮にも一つ欲しいと思っているのかも知れない。
 確かに、シチューなどをやる時には極めて便利そうである。
 などと思っている間に、ウォリアスが外鍋の中に内鍋を入れてしまった。
 不思議だったのは、カレーの入った鍋を入れる前に、他の鍋が入っていたことだが、他の料理を作っていたのだろうと結論付ける。
 完成したから、新たな鍋と入れ替えた。
 納得の行く説明である。

「はい。羊肉のカレー、ヴィシャス風。是非一度お試し下さい」

 何故か、とんでもない方向を向いて一礼するリーリンとウォリアス。
 だが、それでも思わず拍手してしまった。
 漫才として結構面白かったのだ。

「ちなみに、今夜のご飯はこれじゃないですからね」
「な、なに!!」

 ここまで引っ張ってきておいて、いきなり目の前で煮られているカレーが夕食ではないと知らされ、思わず抗議の声を上げるニーナと、観客全員。
 だが、相手はウォリアスだった。

「これは明日の夕飯。一晩寝かせた方が味がしみこんで美味しくなるんですよ」
「う、うむぅぅ。ならば仕方が無いか」

 美味しくなるのだったら、一晩我慢できるかも知れない。
 だが、当然問題もある。

「今夜は、バタートーストと、鳥の丸焼きトロン風。それと野菜のスープ。おやつにパウンドケーキですよ」

 先ほどカレーと入れ違いになった鍋は、野菜スープだったようだ。
 やはり、ウォリアスは一筋縄ではいかない。

「ああそうそう。明日の夕飯はカレーとゆでたお米、それとアイスなんですけれど、味のリクエスト有りますか? これから作りますからよほどの注文でも応えられますよ」

 その場を沈黙が支配する。
 まさかここまでとは思いもよらなかった。
 強化合宿が、いつの間に夕食会になってしまったのだろうかと、真剣に疑問に思ってしまうところだが。

「ストロベリーです。ストロベリー以外にはあり得ません」
「何を言う!! クッキーアンドチョコレートだ。他の選択肢など存在していない」

 フェリが真っ先に声を上げ、それに対抗するようにダルシェナが注文を付ける。
 負けては居られない。

「バニラだ。バニラ以外のアイスなど邪道でしかない」

 当然のようにニーナも参戦。
 そして、渾身の声と共に邪道に走る二人を正道へと戻すために働きかける。
 バニラ以外のアイスなど、存在することが許せないのだ。

「はいはい。全部作れると思いますから、喧嘩しないで下さいね」
「「「え?」」」

 言われたことが理解できなくて、一瞬反応に困った。
 アイスとは、結構手間暇かかる物だったはずだ。
 なのに、丸一日で三種類作ることが出来ると言っているのだ。

「ここにあるアイスクリーム製造機は小型なんで、一リットルル程度ですから、三種類作ってもそんなに手間じゃないですよ」

 そう言いつつ、何故か氷の準備を始めるウォリアス。
 ついでのようにオーブンでトーストと、内臓を取り出し色々な物を詰めた鶏肉が焼き上がった。
 なんだか、強化合宿をしているという感覚がどんどん無くなって行くような気がしてきた。
 それ程までに、夕食が豪華だったのだ。
 
「一種類に付き千ミリリットルルですから、一人当たりだいたい三百センチキューブ程度の割り当てになってしまいますけれど」
「何でリットルルと、センチキューブって単位が出てくるの?」

 豪華になったのだが、それでもウォリアスはやはり驚異だった。
 ミリリットルルと、センチキューブは同じなのだが、それでも一瞬ほど混乱してしまうのだ。
 同じように感じたのだろうリーリンが突っ込んでいるが、当然そんな物で小揺るぎ一つしないのがウォリアスだ。

「うん? それこそがウォリアスクォリティー」
「そんな不必要な物捨てなさい」
「嫌です」

 漫才は更に激化の一途をたどるかと思われたが、料理が冷める事を嫌うのは二人に共通の見解だったようで、なんだかんだ言いつつも食べるための準備は進んで行く。
 美味しい物が食べられるのだったら、ウォリアスという凶悪な爆発物と付き合う事も、それ程悪い事ではないのかも知れない。
 そう考え始めている自分に恐怖を覚えたニーナだった。

「ねえねえウォリアス」

 そんな恐怖体験の最中、気の抜ける声と共にレイフォンが小さく手を挙げて、あろう事か恐るべき怪生物へと声をかけた。
 いや。レイフォンならばニーナとは違う戦い方が出来て、そしていつか勝利を収める事が出来るかもしれない。
 一瞬だけそう期待したのだが。

「作り方とレシピが欲しいんだけれど?」
「収録したのを編集したら貸してあげるよ。材料とかもきちんと載せるから楽しみにしていてね」
「い、いや。収録って?」

 そう。収録である。
 そして、リーリンとウォリアスがあらぬ方向へ向かって挨拶していた事を思い出し、視線をそちらへ向けて脱力してしまった。
 カメラがあったのだ。
 しかも、よくよく注意して探してみると、キッチンのあちらこちらに設置してある。
 始めから録画するつもりだったのだ。
 そして納得もしていた。
 変にノリノリだったリーリンの事とか。
 こうして、強化合宿は意味不明な料理番組の制作と共に、あと二日続く事となる。
 
 
 ちなみに、この後暫くして、ツェルニの料理ショーという番組が十三話作られた。
 出演しているのは当然リーリンとウォリアスである。
 漫才だか料理番組だか分からないとクレームが来たようだが、それなりに人気は出たらしい。
 
 
 
 色々な解説。
 
  一日二千五百キロカロリー。
 大昔の歩兵は一日に三千キロカロリーほど消費していたようだが、ここではそれ程激しい運動をしているとは考えていない。
 ただし、少し低めに見積もっていると思うので、おやつなどで補給する事とした。
 
  昼食時に脂肪と蛋白質を多く取らない。
 脂肪を消化吸収するのは、結構身体に負担のかかる行為である。
 蛋白質はそれ程では無いけれど、水分の補給が必須条件なので行動中に取る事は控えた方が望ましいらしい。
 
  セリナが参加しなかった理由。
 錬金科と言っても、セリナは薬学の方なので直接採掘作業に関わる事はないと思うが、ご都合主義と言う事で。
 
  塩とハーブをコーヒーミルで挽く。
 アメリカは、その名もソルトというレストランで、実際に行われている方法。
 竹の香りがする塩は、沖縄で実際に作られているらしい。
 コーヒーに入れると酸味と苦味を抑えて、マイルドな味わいになるらしい。
 普通の塩をインスタントコーヒーに入れて飲んだが、二百センチキューブ当たり、ティースプーン三分の一くらいだったら、マイルドな味わいになって飲みやすくなった。
 ちなみに、レストランソルトで、気軽に塩を取ってくれと言ってはいけない。
 ソルトには八十種類ほど塩を用意してあるらしいので、きちんと用途を絞ってからでないと危険かも知れない。
 
  コーヒーは食事の後暫くしてから。
 お茶やコーヒーに含まれるタンニンが、食事で取った鉄分とくっついてしまうので、一緒に摂取する事は望ましくないらしい。
 一説によると、三割くらいはタンニンとくっついてしまって、吸収できないとか。
 
  溶かしバター。
 普通にバターをフライパンに乗せると、蛋白質などの不純物が原因で焦げてしまう。
 世界の料理ショーや、その他の番組でも今回紹介した方法で、純粋なオイルを作っているので間違ってはいないはず。(保証の限りではない)
 
  料理ショー。
 世界の料理ショーと、チューボーですよを足して二で割った感じを想像してくれると、ほぼ間違いないと思う。
 
  ケチャップ。
 俺は良くカレーの隠し味にケチャップを入れる。
 
  ホットドッグにマスタードだけを付ける。
 これは完全に冗談。
 
  バターを塗ってからトーストする。
 これははっきり言って、焼いてから塗ってしまうのがもったいないくらいに美味しい。
 俺は、別な料理であると主張する。
 
  アイスクリーム。
 ベースミックスを用意しておけば、味付けを変える事は簡単であるらしい。
 実際に作った事がないので眉唾物である。
 
 
 
  後書きに代えて。
 と言う事で、第二次をお送りしました。
 時間軸的には合宿一日目の当たりの話になります。
 ダルシェナが色々と感じている間に、舞台裏では漫才が進行していました。
 と言う話でした。



[14064] 第六話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:19


 強行捜査課長であり、養殖科五年のフォーメッド・ガレンは少々困っていた。
 ツェルニの治安を守るという職業について五年。
 色々なことがあったのは当然だとしても、今年は何時も以上に揉め事が多いような気はしていた。
 その多くがレイフォンと言う一年生に起因しているのは、ある意味当然なのだろうとも思う。
 そう。第五小隊戦が終了した夜、祝賀会に参加したフォーメッドが見た物とか。
 あれは今から思い返してみても恐ろしい体験だったと、背筋が凍る思いである。
 十重二十重に包囲されたレイフォンが、扉を開けたフォーメッドに助けの視線を向けてきた時点で、逃げ出したいという心境に狩られた物だ。
 警察官という仕事から来る義務感が、逃げるという選択肢をかろうじて取らせなかっただけで、本心では非常に逃げたかったのだ。
 何しろ、包囲しているのは全員が女性であり、されているのは気の弱そうな黒髪の少女とレイフォンだ。
 何が有ったかは分からなくても、かなり異常な事態であることだけは間違いない。
 丁度そこにいたナルキも動員して、二人を助け出すのに三十分近い時間を要したほどには、その包囲網は完璧にしかれていたのだ。
 まあ、それに比べたら目の前で起こっている困りごとなど、ものの数ではない。

「だから! 犯罪者を殺しちゃ駄目なんです!!」
「ええぇぇ!! いいじゃねえか。拘置するのだってただじゃねえんだ」
「そう言う問題じゃありませんから。それと、普段訓練で使っている錬金鋼を使って下さい」
「ええぇぇ! 切れない刀じゃ首跳ねられないだろう」
「跳ねなくて良いんです」

 違法学生による密輸事件。
 どうも違法酒も絡んでいそうな今回のヤマ。
 限定的ではあるが、なぜか密輸組織の具体的な情報が都市警へと密告されてきていた。
 残念ながら、相手側に武芸者がいるかどうかや、その実力に関する情報は全く無かったが、それでも都市警としては十分にありがたい情報量だった。
 とはいえ、相手側の戦力が具体的に分からない以上、出来ればレイフォンを含めた第十七小隊の助力が欲しかったのだが、生憎と強化合宿を行っていると言う事で、違う助っ人を頼むこととなった。
 そこで引っ張り出されたのが、レイフォンに次ぐ実力と評判の、武芸科教官であり傭兵でもあるイージェである。
 折衝役というか、緩衝材は当然ナルキに丸投げしてしまったのだが、現状を考えると少しだけ後悔してしまっても居た。
 そう。暇をもてあましたイージェが、ナルキをからかって遊んでいるのだ。
 ナルキもからかわれていることは理解しているのだろうが、根が真面目なために一々きちんと反応してしまっているのだ。
 見ている分にはほほえましいが、延々とこんな状況を見せつけられては、少し胃もたれ気味になって来たりもする。
 既に日は沈み、目星を付けた建物の周りはきちんと包囲してある。
 何時ぞやのレイフォンの包囲網以上に、厳重な布陣を敷いているから、そうそう抜け出せるとは思えないのだが、それでも保険としてイージェは必要だった。
 必要だったのだが、早く向こうからアクションを起こしてくれないと、少し胃が痛くなってくるかも知れない。
 痛む前に、突入命令を出せばいいのだろうが、会話のテンポを考えるとそれも実は難しい。
 と、現実逃避をしているわけにも行かないので、ナルキとイージェに話を振る。

「ああ。そろそろ突入したいんだが、そちらの準備はどうだ?」
「おう。俺なら何時でもいける」
「止める自信はありません」

 二人から当然の返事が返ってきたので、シリアスモードへと移行する。
 違法学生などと言う物は、単位が取れないために滅多にいないのだが、それでも存在する不条理を何とかしなければならない。

「武芸者はいるのか?」
「ああ。小生意気にこっちを威嚇してやがるのが一匹と、弱そうな奴が二・三匹」

 既に人間扱いしていないところから考えると、暴力沙汰になった場合の手加減は、一切無用なつもりのようだ。
 非常にイージェらしいと思うが、あまり派手にされて後始末が面倒になるのは少しだけ困る。

「家の連中も少しは使えるようになっていると言うし、これなら何とか取り押さえられるか」

 幼生体とやらに襲われた少し後、新作作物の遺伝配列データーが盗まれるという事件があった。
 その時の相手は、熟練の武芸者が五人だった。
 こちらの武芸者も五人だったが、残念なことに対人戦闘の熟練度に決定的な差があった。
 瞬きする間に、機動隊員が切り伏せられてしまった、危機的状況を救ってくれたのが、今回呼べなかったレイフォンだった。
 その後、イージェやナルキ、時々レイフォンに頼み込んで機動隊員の訓練をやって貰った。
 その甲斐有ってか、最近ではよほどの実力差がなければそれなりに戦えるようになったらしい。
 らしいというのは、教官役からの情報で、フォーメッド自身が確認したわけではないからだ。
 そして、今夜その成果が試されるのだ。

「っち! くるぞ!!」

 何故か、今まで弛んでいたイージェが慌ただしく錬金鋼を復元。
 次の瞬間には、シャッターが内側から爆発したように吹き飛んだ。
 あちこちから悲鳴が聞こえてくるが、まだ距離があったためにそれ程深刻な事態にはなっていないようだ。
 催涙弾の斉射を指示しつつイージェを見ると、既に突っ込んだ後だった。
 段取りや手順という単語を知っているか、一度聞いてみたい男であるが、今はそれどころではない。

「さぁぁぁぁぁ!!」
「っち!!」

 爆発から数秒後、煙を引き裂いて一人の武芸者が目の前に迫っているのだ。
 フォーメッドに真っ直ぐと突っ込んできたところを、何とかナルキが前に出て防いでいるが、あまり楽観していられる状況ではない。
 実力が上の人間との対戦に慣れているとは言え、それだけでは決定力に欠けるのは当然である。

「刀?」

 だが、それよりも、驚いて動きが止まるナルキの方に、よほど驚いてしまった。
 止まったら死んでしまう戦場を前提に鍛えられているはずの、ナルキが驚きで止まってしまったのだ。

「はぁぁ!」
「あ!」

 案の定、そんな決定的な隙を見逃すほど相手は甘くなかった。
 刀を受け止めていた打棒を軸に、ナルキを踏み切り板代わりにして大きく跳躍する。
 当然、空中では身動きできないはずだが、それを攻撃できる状態の人間など一人としていなかった。
 街頭を足場にして、あっと言う間に遠ざかってしまう。

「逃がすか!!」

 この段階になって、やっとナルキが復活。
 フォーメッドが何か言うよりも早く、逃げた刀男の後を追ってしまった。
 もしかしたら、決定的な隙を見せてしまったために逆上してしまっているのかも知れない。
 かなり危険な状況だ。

「全力で犯人を確保!! それが終了し次第イージェはナルキを追ってくれ!! 念威繰者はナルキの追跡とレイフォンへの連絡」

 その後も、手短にしかし確実且つ具体的な指示を立て続けに出しつつ、フォーメッドはかなり焦っていた。
 都市警とは都市民の安全を守るためにある組織だが、だからと言って損害を無視して犯人を追って良いというわけではない。
 特に、今のナルキのように冷静な状況判断が出来ない警官では、返って周りに被害を出しかねない。
 そうなっては、ナルキにとってもツェルニにとっても害だけが残る結果になってしまう。
 こんな状況で頼りになるのは、傭兵として修羅場を潜ってきたイージェと、ツェルニ最強という噂が流れているレイフォンだ。
 他力本願だが、使える物を使わずに被害が出るよりはかなり増しなはずである。
 
 
 
 屋根の上を連続で飛びつつ、ナルキはかなり真剣に自己嫌悪を覚えていた。
 一瞬とは言え、致命的な場面で完全に思考と運動を止めてしまったのだ。
 顔の左半分に刺青を施した、赤毛の武芸者と目があった瞬間、これはやばいと言う事ははっきりと認識できた。
 普段はそれ程でもないが、訓練中のレイフォン並に危険な生き物だと言うことが、はっきりとナルキには分かったのだ。
 そして、彼が持っていた武器にも驚きを覚えた。
 刀である。
 犯罪武芸者がどんな武器を持っていようと、それは別段驚くことではない。
 だが、その刀があまりにも見事な一品だったために、一瞬戦いを忘れてしまったのだ。
 今ナルキが生きていられるのは、相手に殺意が全く無かったからに他ならない。
 いや。害意という物が全く感じられなかった。
 それどころか、良く反応したと褒められている雰囲気さえ感じられてしまった。
 もしかしたら、そう感じたことが硬直の間接的な原因なのかも知れない。
 だからと言って、見逃すなどと言うことは出来ない。
 改めて決意を固めたナルキが、脚に回す剄の量を増やして刺青刀男との距離を僅かずつ縮める。
 とは言え、単独で何とか出来る相手ではない事は重々承知している。
 フォーメッドを狙われたために、数秒逆上してしまっていたようだが、上空の冷たい空気が頭を冷やしてくれたのだ。
 目的は、イージェやレイフォンが到着するまでの時間稼ぎ。
 延々と追いかけっこをしていても、相手の方が実力は上なので、何時かは引き離されてしまうだろうが、援軍が到着するまでの時間を稼げればナルキの勝ちである。

「とは言え」

 訓練中のレイフォン並に危険な生き物相手に、時間を稼ぐと言う事だけでも十分に命がけだ。
 それでも、治安を守る警察官としてはやらなければならないのだ。
 そして、唐突にナルキの計算が崩壊した。

「さぁぁぁぁぁ!!」
「うわぁぁ!」

 突如、前を飛んでいた刺青刀男が振り返り、旋剄でナルキへ向かって突っ込んできたのだ。
 ナルキ自身も高速移動中だったために、その相対速度は想像を遙かに超える物となっていた。
 何とか体制を整えつつ、活剄を総動員して、刀の攻撃を都市警支給の打棒で受け止める。
 レイフォンやイージェの動きを見慣れていなければ、今の一撃はもろに食らっていたことだろう。
 高速移動同士のぶつかり合いだ。
 いくら武芸者だからと言っても、致命傷を受けかねない破壊力を、活剄を総動員して骨格の剛性を高めつつ何とか耐える。
 だが、ナルキよりも先に打棒の方に限界がやってきた。
 見る間に罅が入り、どう楽観的に評価しても武器として使えそうもないレベルへとだ。

「さぁ!!」

 更に、刀刺青男の一声と共に、一瞬で打棒が砕け散った。
 そして気が付いた。
 全ての動きではないにせよ、かなりの部分に見覚えが有る。
 そして、今打棒を粉砕した技を、ナルキは一度以上実際に受けて良く知っている。

「蝕壊」

 ヨルテム時代に、レイフォンの攻撃を真っ向から受けようとして、何度かこれで錬金鋼を破壊された経験がある。
 そして、蝕壊の後にやってくるのは。

「さぁぁぁぁ!!」
「やられるか!!」

 旋剄の速度から予測できた勢いそのままに、蹴りがやってきたが、来ることが分かっていれば何とか防ぐことが出来る。
 カウンター気味の蹴りを放ったが、そこで致命的なミスに気が付いた。
 一撃で、脛骨に罅が入ったのだ。
 相手の蹴りの威力を受けたから当然である。
 金剛剄で防ぐべきだったと今頃気が付いたが、既に遅いのだ。

「っち!」

 痛む脚を無視して、相手を蹴る要領で距離を取り、手近な建物の上に着地する。
 ナルキのこの状態を認識していれば、相手は確実に逃げるはずなのだが、悠然と着地した。
 お互いの間合いの少し外側へと。

「大したもんさぁ。あれを食らったら普通吹っ飛ばされて瓦礫に埋もれる物さぁ」

 余裕なのか、それとも語尾にさを付けるのが癖なのか、非常にむかつく喋り方をする。
 だが、そのむかつきを相手にぶつける事さえ今のナルキには少々無理な話だ。
 打棒は既に粉砕され、攻撃力の大半を失っているのだ。
 それを理解しているからこそ、相手は悠然と対面していられるのだろうと言う事は分かる。
 そして、それよりも問題は脚の方だ。
 脛骨は人体の骨の中で、最も骨密度が高く強度が高い。
 そう。骨密度があまりにも高すぎて、一度折れてしまえば回復するまでに三ヶ月はかかるという、脛骨に罅が入ってしまったのだ。
 どれだけ活剄を動員しても、短時間に回復する事など不可能。
 いや。病院に入って全力で治療をしたとしても、完治までには一月近くかかるだろう。
 そして、脚の負傷はナルキの高速攻撃手段と、逃走手段の喪失を意味する。

「さぁぁ? どうかしたかにぃちゃんさぁぁ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。ころす」

 暗いから仕方が無いのだとは思うが、ナルキを男だと思っている目の前の刀刺青男に、深刻な殺意が湧いてきてしまう。
 湧いてきてしまうが、移動と攻撃双方に致命的とは言えないが、深刻なダメージを受けている現状では、それはほぼ不可能な話だ。
 ならば、ウォリアスのような悪辣な罠に落とす。

「・・・・・・・・・・・・」

 無理である。
 そんな頭があるのだったら、最初から使っている。
 ならば、方法は一つしか存在しない。

「サイハーデンの技を受け継いでいる割には、ずいぶんとお粗末な人生送っているな」
「!! 何故それを知っているさぁ?」

 かかった。
 レイフォンやイージェの攻撃を散々受けてきたために、目の前の男の動きは何となく読めるのだ。
 もちろん、完璧にでは無いし、全てでもない。
 そして、ナルキの仕掛けた罠にはまりつつある。

「さあな? お前みたいな変態刀刺青男に、懇切丁寧に教えてやるほど、私はお人好しじゃないさぁ」
「・・・・・・・・・。オカマだったさぁ?」
「・・・・・・・・・・・・・。ぶちころすぞ」

 一人称でやっと女である事を認識したかと思ったのだが、反応はナルキの想像とは別の方向へと進んでいた。
 もはや生かして返す事など出来はしない。

「ほう? 今の一撃、向こうずねに罅は入ったさ。それでオレッチをぶち殺すさ?」
「ふん。一歩も動くことなく貴様を殺す事など、ホットケーキを作るよりも簡単さ」

 何でいきなりホットケーキかという疑問を、相手も持ったようだ。
 実を言うと、ナルキ自身も少し疑問だ。
 すぐに焦がしてしまうので、苦手である事は事実なのだが。
 それは置いておいて。

「レストレーション02」

 唯一残った、本来は補助武装の鋼糸を復元する。
 紅玉錬金鋼製の、二十本の糸が辺りに広がる。
 少し慌てて後退する刀刺青男。
 鋼糸の危険性を十分に知っている事が、これではっきりとした。

「厄介なもん使うさ」

 相手の評価は割と高いようだが、これはあくまでも補助武装である。
 レイフォンのように、幼生体の虐殺など出来る代物ではないし、そもそもが取り縄の延長でしかないのだ。
 繰弦曲など、夢のまた夢でしかない。
 だが、少しだけ慎重にさせる事が出来た。

「なんてさぁぁぁ!!」
「う、うわぁぁぁ!!」

 と思ったのも束の間、いきなり旋剄で飛び込んできて、大上段からの一撃を放ってきた。
 何とか打棒の残骸で防いだが、当然完璧などと言う事はなく、後ろに飛ぶ事でやっと衝撃を吸収できたという始末だ。

「鋼糸でオレッチを倒せるんだったら、即座にやっているはずさぁ。思わせぶりな態度は拙かったさぁ」
「・・・・。っち。見た目よりも頭が良いのか」
「・・・・・・・・・・・・。ぶち殺すさ?」

 痛む脚に鞭打ちつつ、立ち上がり鋼糸を回収して、防御陣らしき物を引く。
 ついでに化錬剄で作った電撃を流し、不用意に触れたら危険だと相手に知らせる。
 何処まで通用するか分からないが、やらないよりはましである。

「高速移動が出来ない上に、武器もないお前が出来るのは、せいぜいが時間稼ぎさぁ」
「その割にはのんびりしているじゃないか」

 こちらの手の内を読まれていたのは痛いが、それでもなんとか時間を稼がなければならない。
 刀刺青男の実力ならば、短時間でナルキを戦闘不能にする事も出来るだろうし、殺すのはもっと簡単だ。
 こちらが高速移動できない事を知っているならば、逃げる事などそれこそ赤子の手を捻る程度の手間で出来るはずなのだ。
 なのにそれをしようとしない。

「さぁ? オカマなんか始めてみたから、もう少し観察してみるさ?」
「・・・・・・・・・・・・」

 完璧にナルキを男だと思い込んでいるようだ。
 なんとしてでも一矢報いなければ気が済まない。
 警官である事は間違いないのだが、それでもナルキには女としての矜持があるのだ。
 だが、戦闘能力がほぼ無くなっているのも事実だ。

(いや)

 鋼糸という、本来補助の武装が残っているし、強力な電撃を打ち込めれば、時間稼ぎとしては十分だ。
 そして、もう一つ試行錯誤して手に入れた技がある。
 それを試すために、出来うる限りの最高速度で剄を練り上げる。
 
 
 
 サリンバン教導傭兵団の団長であるハイアは、少々困っていた。
 何故か必要に追ってくるオカマに悩まされていたのである。
 違法酒絡みでツェルニに来たので、当然追われる事はわかりきっていたのだが、それでもこれは少々異常な熱意を持っているように見える。

「さぁ? もしかして奥の手でも出すのかさ?」

 そんな物があるなら是非見てみたい物だと、割と期待しているのだ。
 目の前のオカマは、武芸者としては割と良い線行っていると思うのだ。
 活剄の速さと切れは、二流の上の方か一流の下の方と言った感じだが、酷く場慣れしているのだ。
 自分よりも格上の人間と戦うコツという物を、きちんとわきまえているのだ。
 そうでなければ、最初の攻撃の時に撃破している。
 そして、何故かサイハーデンについても詳しいのだ。
 そうでなければ、蝕壊を正確に言い当てられるはずがない。
 とは言え、勝負自体は既に詰まれてしまっているはずだというのに、諦めずにハイアに向かって突っかかってきているのだ。
 いくら時間稼ぎのためとは言え、執念さえ感じる情熱の理由がさっぱり分からない。

「良い事を教えてやろうか?」
「さぁ? ただで教えてくれるんだったら、聞いてやっても良いさぁ」
「いいぞ」

 急速に剄が練られている事は理解しているが、それをどう使うか見てみたいので、未だに逃げ出さないで居るだけなのだ。
 これでつまらない技を見せられたら、もしかしたら間違って殺してしまうかも知れない。
 この先の事を考えると、かなりよろしくない事態に違いないが、それだけハイアは目の前のオカマに期待しているのだ。

「良いか、良く聞けよ」
「さぁ?」
「私は、女だぁぁ!!」
「さ?」

 一瞬何を言われたか、全く理解できなかった。
 その僅かな一瞬の隙を突く形で、鋼糸が複雑に絡み合う。
 そして、細長い筒のような形状へと変化を遂げる。
 外力衝剄の化錬変化・炎破 鋭。
 練り上げられた剄が鋼糸を駆け巡り、高速回転をしつつ化錬変化を起こす。
 そして出現したのは、高速回転によって細長い杭のようになった、灼熱の固まり。

「反則さ」

 全長二十センチくらいでしかないが、問題は刀を接触させる事が出来ないと言う事だ。
 もし、一瞬でも接触してしまったら、膨大な熱量を吸収し、良くても強度が下がってしまう。
 それは、鍔迫り合いが不可能になった事を意味しているのだ。
 とは言え、紅玉錬金鋼本体にそれ程の熱が伝わっているわけではないようなので、驚異度としてはそれ程大きくない。
 大きくはないが、殺さないように倒す事が、少しだけ難しくなってしまった。
 そう考えつつ、改めて目の前のオカマの動きに、注意を向ける。

「・・・・・・・? おんな?」

 さっき聞いた単語を、やっと脳が理解し始めた。
 そして、灼熱の固まりのせいで出来た陽炎越しに、赤毛で褐色な武芸者を観察する。
 特に胸の付近を。
 全集中力を総動員して、穴が開くほどの勢いで見詰める。
 他の場所よりも性別を区別しやすいのだが。
 最終的に、女であるとは判断できなかった。

「・・・・・・・・・・・・。嘘はいけないさぁ」
「貴様!! 私の言う事を全く信じていないな!!」

 激昂しつつ技の制御は全く揺るがない。
 思ったよりも腕の立つ武芸者かも知れないと、目の前のオカマへの評価を少し改める。
 だが、このおかしな対決はいきなり終止符が打たれた。

「っが!」
「さ?」

 何の脈絡もなく、いきなりオカマが倒れたのだ。
 編み上がった鋼糸もそのままに、前のめりに倒れてぴくりともしない。
 だが、高速回転する灼熱の杭は綺麗にかき消えている。
 ハイア自身何もしていないので、少々意外な成り行きだ。
 状況を確かめようと、用心しつつ何かの罠かと思って近付いたが、全く反応がない。
 逃げ腰になりつつ、左の爪先で頭を小突いてみたが、これでも反応がない。
 ここまで来ると、残る選択肢は、急性の剄脈疲労。

「身の程を知らないで、技を使うからさ」

 考えてみれば、鋼糸を使って化錬変化を起こし、灼熱の杭を作るなどと言う事は、かなり効率が悪いはずだ。
 ハイア自身も化錬剄を使うから良く分かる。
 きちんと熟練していないと、非常に剄脈に負担がかかるのだ。

「そこまでして、オレッチを捕まえたかったのかさぁ?」

 既に意識を失っているオカマに向かって、少し呆れ気味の一言を放つと、ハイアは本格的に逃走する事とした。
 後の事を考えると、これ以上揉め事を起こすのは拙いのだ。
 既に遅いかも知れないが、状況を悪化させるわけには行かないのだ。
 と言う事で、オカマ警官をその場に残して逃げだそうとした。

「さ?」

 そして気が付いた。
 何時の間にかミュンファが近くまで来ていた事に。
 狙撃担当なのに、殺剄が下手なミュンファの接近に気が付かなかった事から考えて、ハイア自身かなり勝負にのめり込んでいたようだと、少し他人事のように考える。

「団長?」
「殺してないさ。勝手に倒れたさ」

 錬金鋼を基礎状態へと戻し、ミュンファへと向きながら、何故か視線が何時もよりもきつい事に気が付いた。
 普段、おっとりとしているというか、迫力のないミュンファだが、この瞬間だけはなぜだか非常に怖い目でこちらを見ているのだ。

「何かあったかさ?」
「・・・・・・・・・・・」

 答えは沈黙だった。
 ますます何が何だか分からない。

「女の人です」
「さ?」

 意味不明な単語を並べているミュンファの視線をたどると、オカマ警官に注がれていた。
 つまり、オカマ警官が女だと言っているわけだ。
 だが、それはあり得ないのだ。

「これが女だったら、男と呼べる生き物は今の三分の一になってるさ」

 せせら笑いつつ、こちらに向けて何人かが高速で接近してくる事を認識した。
 明らかに武芸者である。
 そして、その内の一人は、明らかにオカマ警官よりも強い。
 倒せない事はないだろうが、時間がかかるかも知れない。
 となれば、これ以上ここにいる事は害だけが残る。
 不満そうなミュンファに合図を送って、今度こそ本格的に逃走に移ったのだった。
 



[14064] 第六話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:20


 つい先ほど、刀刺青男との激闘を終えたナルキだったが、今は遙かに恐るべき敵と向かい合っている。
 いや。既に日が昇っているから、つい先ほどという表現は、かなり無理があるだろう。
 だが、現実に立ち塞がっている問題は、断じて表現上の問題ではない。

「お前は馬鹿だ」
「済みません」
「ああ? 分かってるのかてめえは? 自分と相手の力量差も分からずに突っかかっていって、ろくに使えもしない技を使って自滅しただと? その頭蓋骨の中には何も入ってないんだな」
「そうかも知れません」
「レイフォンみたいに、剄脈が入っているんだったらまだしも、空っぽじゃ飾りにもならねえ!!」

 建物の屋上で回収されたナルキだったが、即座に病院に搬送されてしまったそうだ。
 そして、急性の剄脈疲労で入院となったわけだが、回収にも立ち会ったイージェが付き添いをしているわけだ。
 そして、勝てない相手に無謀に挑みかかり、無様な敗北を喫したナルキは現在イージェから説教を食らっているところである。
 既に三十分ほども続いているが、終わる気配は全く無い。

「サイハーデンは生き残るためにあるんだ。死にに行くためにあるんじゃないんだ」
「はい」

 しかも、非常に珍しい事にイージェの言う事は、凄くもっともなのである。
 それだけ、今回のナルキの行動は危険だったと、そう判断されているのだ。
 そして、それはナルキの方にも異存はない。
 危険だと言う事は、最初の一撃を受けた瞬間に分かった。
 それでも深追いしてしまったのは、自分の実力を過信したからと言うわけではない。
 フォーメッドを狙われたからと言うのもあるが、それと同じだけ、警官としての義務感がナルキに無謀な追跡をさせたのだ。
 もし、あの刀刺青男に、僅かでも害意が有れば、ナルキは既にこの世には居ない事は間違いない。
 それは十分に分かっているのだ。

「ああ。それ以上罵るとこの後使い物にならなくなると思うんだが」
「ああ? この頭蓋骨空っぽ女になんか使い道があるのか?」

 一応仲裁に入ってくれたフォーメッドだったが、こちらも瞬殺されてしまった。
 そして、この瞬間でさえ、ナルキに反論の権利など無い。
 だが、猿から女に格上げされた事は嬉しいかも知れない。

「・・・・・・・。違う」

 断じて違う。
 何処をどう取っても、断じて違う。

「ああ? まさかその中、何か入っているのかぁぁ?」
「脳みそが耳かき一杯分くらい」
「・・・・・。それはずいぶん立派な中身だ」

 咄嗟に反論してしまったためだろうが、今まで全力疾走していたイージェが急制動をかけた。
 だが、そろそろもう少し建設的な方向へと進まなければならない。

「それで、逃げた男なんだが」
「左目の所に刺青があったんだったか?」

 そう思ったのはイージェやフォーメッドも同じだったようで、やっと話が前に進む。
 とは言え、大して有益な情報は持っていない。
 一通りの話を終えたが、二人の表情は苦いままだ。

「刺青で刀で、サイハーデン」
「赤毛で語尾にさを付ける」
「年齢は、私達とあまり変わらないかと」

 ツェルニの学生だと言われても、さほどの違和感はない。
 だが、それは武芸者としての能力を無視した場合の話だ。
 武芸者としては、明らかに学生レベルを超えている。
 ある意味レイフォンに非常に近い印象を受ける。
 そんな非常に優秀な武芸者が、何で違法酒なんかに手を出したのか疑問だが、それでも事実として存在しているのだ。

「まあ、昨日の夜捕まえた奴らを絞って吐かせるさ」

 フォーメッドがそう言いつつ部屋を出て行く。
 徹夜明けのはずではあるのだが、そんな物お構いなしに仕事に邁進するその姿に、思わず憧れの視線を投げてしまったほど凛々しい。
 目の前で、憮然とした表情をしている割に、戦い以外では殆ど役に立たない武芸者よりは、遙かに尊敬に値する。
 流石に、この評価を表に出すわけには行かないので、少し気になっていた事を訪ねる事にした。

「サイハーデンって、そんなに門下生って居ないんですよね?」
「・・・ああ? そうだな。基本的に零細武門だからな」

 若干の合間の後答えてくれたイージェだったが、違和感を感じた。
 本来、自分の流派を零細だなどと言うのはあまり心地よい事ではない。
 だが、そんな一般常識がイージェに、サイハーデンに通用するはずはないのだ。
 弱者が作り上げてきた、ある意味卑怯な流派であるサイハーデンは、隆盛を誇ってしまってはその存在意義を大きく失ってしまうのだ。
 別に卑下する必要はないが、零細である事を誇りに思っても何ら不思議ではない。
 だと言うのに、イージェの反応が気にかかる。

「さっきも言ったが、サイハーデンは生き残るための流派だ。そしてそれは都市に住み着いている武芸者にはあまり受け入れられないが、流れ者の武芸者、傭兵にとっては十分に重要な項目になる」
「戦いで生き残れないと、報酬とかもらえませんからね」

 都市に住み着いている武芸者ならば、自分が死んでも都市から報奨金が遺族に支払われる。
 だが、傭兵の場合はどうだろうか?
 詳しくは知らない。
 そもそもヨルテムが傭兵を雇ったという話は、聞いた事がない。
 レイフォンのように、事情がある場合はこっそりと雇うらしいので、公になる事は滅多にない。
 ナルキが知らなくても、これは問題無い。

「俺の経験から言うと、報奨金払うくらいなら死んでくれた方がましだ。って都市が多かったな」
「・・・・。グレンダンでも?」
「ああ。あそこは特に金が無いから、死んだ傭兵の葬式だって、年に一回まとめてやるという徹底ぶりで」
「うわ」

 聞けば聞くほど、グレンダンという都市は弱者にとっては、住みにくい場所である事がはっきりしてくる。
 そんな恐ろしいところで、最強の武芸者となったレイフォンは、やはり異常者なのだろうと少し納得もしたが。

「・・・。つまり、傭兵だったらサイハーデンを使っていても、不思議ではない?」
「全ての技を修めたかどうかは別として、囓っていても不思議じゃないな」

 ただの傭兵だとは思えないが、イージェの見解にはそれなりの説得力があるような気はする。
 と言う事で、昨晩の刀刺青男が傭兵という前提で考えを進めてみる。

「違法酒の一味に、用心棒として雇われたと考えるのが妥当でしょうか?」
「あの逃げっぷりからすると、そう考えるのが一番しっくり来るな」

 もし一味だったら、取り囲まれた状況でああも徹底的に逃げたりはしないだろう。
 せめて戦うふりくらいはするはずだ。

「だがな」
「はい?」

 そこまでナルキが考えたところで、イージェがなにやら考え込みつつ視線を彷徨わせている。
 心当たりがあるというわけではないが、何か引っかかる事があるようだ。

「デルクのオッサンから聞いたんだがな」
「グレンダンですね」
「ああ。それとそろそろ敬語は辞めろ」
「・・・。分かった」

 イージェの変な習慣として、やたらと敬語を嫌うのだ。
 使われるのは嫌いだし、自分が使うのも嫌いという、社会不適合者である。
 だが、今その辺を突っ込んでも全く意味がないので、話を先に進める事とした。

「兄弟子が都市外に出たって事は言ったよな?」
「幼生体戦の後に」

 あの時は、ウォリアスがなにやら考えついてしまったようで、色々と後始末が面倒だった。
 だが、今のところイージェ側の話が見えない。

「リュホウと言うそうなんだがな、その兄弟子」

 正確な名前を聞くのは初めてだが、未だに話の筋が見えない。
 話から想像するリュホウは、明らかに老年に達しているはずである。
 昨晩ナルキが見た青年ではないはずだ。

「もし、そいつの弟子かなんかだったら、継承者と呼べるかも知れないな」
「・・・・。つまり、イッチャンやレイとんと同じだと?」

 当然だが、イッチャンというのはイージェの愛称である。
 当然だが、ミィフィの命名である。

「ああ。デルクのオッサン曰く、自分よりも伝承者として相応しかったのがリュホウだそうだから、その弟子となったらナルキが勝てないのも納得だと思ってな」

 イージェはそう言うのだが、ナルキからしてみると少し話が違う。
 ナルキはまだ、サイハーデンの技を全て修めているわけではない。
 いわば、まだ継承者と呼ばれるほどではないのだ。
 もし、継承者と呼ばれるサイハーデンの使い手がいれば、ナルキは確実に負ける。
 だが、少しおかしいとも感じていた。
 イージェが何時もと違って真面目すぎるのだ。
 これは、かなり深刻な違和感と言える。
 だが、意識がもうろうとしてきたのも事実だ。
 なにせ、かなり強力な武芸者と対峙して剄脈疲労を起こしている上に、脛骨に罅が入っているのだ。
 回復のために睡魔に襲われても、何ら不思議ではない。
 何か考え込みつつ部屋を出て行くイージェを見送りつつ、ナルキは瞼を閉じた。
 
 
 
 昨日の夜は、オカマ警官に絡まれるという、人生始まって以来の大惨事に見舞われたハイアだったが、何故か未だに大惨事に見舞われている有様である。
 いや。正確を期すならば惨事と言うほど深刻ではない。
 相棒であり幼馴染みであり、更に団員でもあるミュンファの機嫌がすこぶる付きで悪いだけだから。
 心当たりは全く無い。
 更に、問い質したところで不機嫌が増すばかりだという奇妙奇天烈さである。
 鉱山での採掘作業があるためだとかで、休日だと言うことで朝早くから遊びに出ている若い連中であふれかえっている町中で、いい加減この空気を改善すべくハイアは元凶へと声をかけることとした。

「ミュンファさぁ? いい加減にしないとオレッチ怒るさぁ?」
「ハイアちゃんの馬鹿」
「団長と呼ぶさぁ」

 何故か不明なのだが、機嫌が悪かったり感情が高ぶったりすると、ミュンファはハイアのことをちゃん付けて呼ぶのだ。
 何度注意しても直らない癖で困っているのだが、団員はおおむね理解しているようで誰も気にしていない。
 気にしているのはハイアだけである。

「まったく。あのオカマに絡まれてからこちら、ろくな事が無いさぁ」
「オカマじゃないもん」

 そしてもっとも奇っ怪なことと言えば、ミュンファがあのオカマは女だと主張していることなのだ。
 あれが女であったら、世の中に男など存在できなくなると思うのだが、ミュンファは違う意見を持っているようだし、もしかしたらハイアが気が付かないだけで本当は女かも知れない。
 まあ、そんな事は今はどうでも良い。
 日が昇ったツェルニの町をだらだらと歩きつつ、視線を適当に飛ばす。
 普段は頭の隅へと放り込んでいるが、ここにはサイハーデンの使い手であり、そして元天剣授受者が居るのだ。
 デルクの弟子が天剣授受者となったと聞いた時、養父のリュホウがとても嬉しそうだった姿を、今でも明確に思い出すことが出来る。
 外への憧れが強く、グレンダンを出ることを決意した時、サイハーデンの伝承者をデルクに押しつけてしまったと、そう後悔しているところを見たのも、一度や二度ではない。
 その後悔の重荷を、少しでも軽くしてくれたデルクの弟子には感謝しても良いと思うのだが、残念なことにとてもそうは考えられない。
 リュホウの後悔を晴らすことが出来るのは、その息子であるハイアでなければならなかったのだ。
 ハイアがグレンダンにいたのならば、天剣授受者となったのは自分だったと信じている。
 リュホウの弟子はデルクの弟子よりも強い。
 そう。ハイアはレイフォンよりも強いと信じているのだ。
 そう信じているからこそ、レイフォンへの感情は複雑な物へと変わり、ツェルニに来ることとなった今回の事件に対する態度も、色々と複雑になってしまっているのだ。
 これではいけないと思うのだが、割り切ることなど不可能。
 このもやもやした感情に決着を付けたい。
 簡単な方法として、直接レイフォンと戦えばいいのだが、サリンバン教導傭兵団結成の目的を考えれば、協力を仰ぐのが当然である。
 ハイアの感情をねじ伏せてでも。

「っきゃ!」

 そんな複雑怪奇な感情と現状の摺り合わせをやっていたために、周りへの注意力が不足気味となっていた。
 本来有ってはならないことではあるのだが、人とぶつかってしまった。
 無意識的な動作で避けて当然だというのにである。
 この一事を取ってみても、ハイアの精神状況が平常から遠いことは間違いない。
 そして、ぶつかった人物へと八つ当たり気味な視線を向ける。
 相手は少女だった。
 年齢はハイアよりも少し低い感じである。
 長くて艶やかな黒髪をもった、とても大人しそうな少女である。
 ぶつかった衝撃に耐えられなかったようで、なにやら色っぽい格好一歩手前で路面にへたり込んでいる。
 とても小動物チックというか、良く知っている誰かに似ているし、思わず虐めたくなってしまうような、そんな感じの少女であったために、本当に虐めてしまうこととした。

「ああ? 何か用かさぁ?」
「あ、あう。す、済みませんでした」

 まだ一言しか言っていないにもかかわらず、既に涙目である。
 昨晩からのイライラが募っていたためだろうが、嗜虐的な気持ちが後から後からどんどんと沸き上がってくる。
 別段、目の前で倒れている少女に対して何か悪い感情を持っているという訳ではないのだ。
 あえて言うならば、虐めなれている感じであったために、自制心が働かないのだ。
 そう。あまりにも突然の展開で対応が出来ていない幼馴染みで眼鏡な少女によく似ていたために、全くと言って良いほど自制心が働かない。

「さぁ? もしかしてオレッチに文句でもあるのかさぁ?」
「ひぅ。ご、ごめんなさい」

 もはや泣きじゃくるまで後半歩の距離もないだろう事が伺える。
 あまり手ひどく泣かれてしまっては、後味が良くないのも事実なので、そろそろ切り上げようかと思っていたのだが、それはある意味遅かったようだ。

「おい、見ろよ」「世も末だよなぁ」「あんな大人しそうな子を虐めているぜ」「しかも一緒に歩いている子が困っているのにだぜ」「実はあの子に頭が上がらないから、もっと大人しい子を虐めて喜んでるんじゃねぇのか」「最低な男って生き物を俺は今目撃しているんだな」

 等々。
 周りを歩いていた若い連中が、よってたかってハイアを批難しているのである。
 しかも、ハイア自身あまり褒められた行動でないことを理解しているがために、非常に居心地が悪い。
 更に、後ろからなにやら非難がましい視線というか、恨みがましい視線が来ているような気がしてならない。
 ハイア・サリンバン・ライア一生の不覚かも知れない。
 だが、行動のために使える思考の時間は殆ど無い。
 なぜならば、暇な人間が周り中に集まってきて、巨大なゴキブリでも見るような視線でハイアを見ているのだ。
 耐えられるはずがない。

「と、兎に角、来るさぁぁ!!」
「ひゃぅぅぅ!!」

 色っぽく倒れ損ねた少女の膝裏と背中に手を入れて、そのまま持ち上げて全力疾走をする。
 当然活剄は使っていないが、それでもその辺の人間が追いつけるような速度ではない。
 実際、武芸者であるはずのミュンファが呆気に取られて置いてけぼりになる程度には、凄まじい速度だったのだ。

「あ、あう! ハイアちゃん待ってよぉぉ」

 そう叫びつつ、押っ取り刀で後を追ってくるミュンファは、ずいぶん前に見ることが出来なくなった幼女のままだった。
 場違いではあるが、その当時の、一緒にお風呂に入った頃を懐かしく思い出してしまったが、それも一瞬の出来事だった。

「お、おい! あいつ自分の女をおいていったぞ!」「それどころかぶつかって押し倒した女を連れ去ったぞ!!」「強姦魔だ。きっと常習的強姦魔に違いない!!」「都市警だ!! 都市警を呼んであいつをぶち殺すんだ!!」「俺達持てない男が必死に我慢しているってのに!! 自分の女を捨てて、新しい女を連れ去るなんて、神が許しても俺が許さん!!」

 等々。
 あのオカマ警官に絡まれてからこちら、ろくな事が無い。
 いや。もしかしたらツェルニに来てからこちら、ろくな事が無いのかも知れない。
 少しだけ自分のやっていることに自己嫌悪を覚えたが、それでも走る動作だけは止められない。
 普通に考えても、都市警に突き出されてしまうからだ。
 万が一にでも、またあのオカマ警官と遭遇したら、ハイアの精神は致命的な打撃を受けてしまうからだ。
 と言う事で、徐々に活剄を使い走る速度を上げる。
 当然、抱えている少女が死んだりしないように、細心の注意を払いつつ。
 
 
 
 途中から活剄を使って持久力を上げ、かなりの距離を走破したハイアは、やっとの事で一息ついた。
 肉体的には全くもって平気ではあるのだが、生憎と精神的には猛烈なダメージを食らってしまっているのだ。
 モテない男の負の感情が、あれほど凄まじいとは思いもよらなかった。
 そして、抱えたままだった少女をその場にそっと降ろす。
 乱暴に扱うことなど考えも及ばないからだ。
 基本的に生真面目なハイアは、一般人に対しては非常に親切に振る舞うことが多い。
 今回は、非常にまれなケースだと自己弁護を試みる事は忘れない。

「大丈夫さぁ?」
「あ、あう」

 何とか気を失っていないと言った程度の返事だが、兎も角コミュニケーション能力が存在していることは確認された。
 これで、ろくに話しも出来ないほど取り乱されたりしたら、目も当てられないところだったと、胸をなで下ろしているところで、ふと、後ろから殺意の視線を感じた。
 咄嗟に剣帯に伸ばしかけた手を止める。
 その視線は、良く知っている人物のそれだったからだ。

「さぁ? どうしたのさミュンファさぁ?」
「・・・・・・」

 ハイアの問いかけに帰ってきたのは、何故か殺意がきつくなる視線。
 きつくなるとは言え、それは通常のミュンファと比べてのそれであり、平均的な基準ではないので、全く怖くない。

「兎に角、巻き込んで悪かったさ。適当なところまで送って行くさ」
「あ、あう」

 ある意味、ミュンファと通じるところのある少女へと手を差し伸べる。
 おどおどとした立ち居振る舞いから、迫力のない瞳、そして大きな胸に至るまで、結構よく似ている。
 二人を並べたら、結構面白いことになるかも知れないと思いつつ、未だにへたり込んでいる少女の右手をやや強引に引っ張った。
 こうでもしないと、何時までもここでへたり込んでいそうだったからだ。
 だが!!

「は、はいあちゃん」
「団長と呼ぶさぁ」

 いきなりミュンファが何か驚いた様子で、ハイアの腕にしがみつくように行動を止める。
 その表情は、まさに鬼気迫るように必死であり、そして視線はとある一点を見据えている。
 自然と、ハイアもミュンファが見ているところを見て、そして一気に全身の血が引くのを感じた。

「さぁぁぁぁぁ!!!」
「あうぅぅぅぅぅ!!」
「あう?」

 そう。ハイアが掴んだ少女の右手は、見事に原形を留めていなかったのだ。
 指は、まるで骨などと言う物が存在していないかのように、あらぬ方向へと曲がり、手首はこれでもかと言うほどにひねれてしまっている。
 それは、肘に対しても言えることであり、やはり人間としては考えられない方向を向いているのだ。
 結論はただ一つ。

「おお、折れてるさぁぁぁ!!」
「ハイアちゃんの莫迦ぁぁぁ!!」

 珍しくハイアの方が取り乱して、現状をどうしようかとあらぬ方向を見回す。
 応急処置を始めているミュンファとは偉い違いである。
 その割に、黒髪の少女は落ち着いているように見えるが、これは当然あまりの激痛に現実感が無くなっているのだ。
 兎に角現状を何とかしなければならないと、変な踊りを踊りつつ辺りを見回す。

「ど、どうするさぁぁ? こ、殺して口封じさ!!」
「ハイアちゃんの人でなし!!」
「じゃ、じゃあどうするさぁぁ!!」
「きゅ、きゅ、救急車ぁぁぁ」
「おお! その手があったさ」

 珍しくミュンファから真っ当な意見が出てきたので、慌てて周りを見て電話などがないかを確認する。
 居住区や商業区から外れてしまっているためだろうが、ボロアパートや空き家と言った使えそうもない物しか存在していないことを確認。
 何処かの家に上がり込んで、電話を借りるという選択肢さえ絶望的である。

「さぁぁぁぁ!!」
「あうぅぅぅぅぅ」

 これでは救急車を呼ぶことさえ困難である。
 だが、事態は一気に進展する。

「やかましい!! ああ。お前ら! 俺が久々の休みで! 家でくつろいでいるのが気に入らないほど! 俺のことが嫌いか!!」
「さ?」

 いきなり怒鳴られた。
 しかも、学園都市にいるはずのない中年男に。
 思わず、今まで焦りまくっていたのが嘘のように、急速に冷静さが蘇ってくるほどに、その事態は異常だった。
 そして、その中年男が黒髪の少女を視界に捉えたことで、いきなり話が進展した。

「あう」
「なんだお前か。ああ? 今日の下手人はヴォルフシュテインじゃないのか?」
「あう」
「全く。お前らと関わるとろくな事がねえんだがな」

 何故か黒髪の少女と中年男の間では、何の齟齬もなく意思疎通が行われている。
 だが、問題としなければならないのはその事実ではない。
 会話の中に出てきた固有名詞が、ハイアの中で急激に存在感を増しているのだ。
 そして、その結果として驚愕して身動きが取れなくなってしまった。
 よりにもよって、ヴォルフシュテインの身内を拉致してしまい、更に腕の骨を木っ端微塵にしてしまったのだ。
 別段レイフォンとの関係などどうなっても良いと思うほどには、ハイアは割り切れていなかった。

「つうか、また外れたのか」
「あう」
「取り敢えず入れ。ただの脱臼だったら簡単に治せるから」
「あう」

 更に、ハイアのことなどお構いなしに会話は進む。
 そして、何の躊躇もなく少女が立ち上がり、中年男が出てきたらしいボロアパートへと向かう。
 その動作は非力ではあっても、別段痛みをこらえている様子ではない。
 そして、会話の中に聞き捨てならない単語が含まれていることを認識。

「だっきゅう?」
「ああ? 脱臼がどうかしたのか?」

 脱臼である。
 そして、改めて少女の右手を観察して、骨が砕けているのではなく、ただ単に関節が外れていることを認識した。
 痛くなくても問題のない展開ではある。
 だが、厳然として、とても大きな疑問が存在しているのだ。
 いや。その疑問は既に存在していて今まで気が付かなかっただけである。
 そう。ハイアはそれ程強く握っていないのだ。
 それ以前に、肘が外れるほどの衝撃を少女に与えたという記憶さえない。
 謎である。
 だが、そんな逡巡をしている余裕はない。
 中年男の一人住まいのアパートに、非力な少女が入って行こうとしているのだ。
 万が一のことがあったら、流石に寝覚めが悪いので、その後に続いて歩く。
 そして、扉を開けた中年男の後に続いていた少女の身体が、いきなり硬直した。
 何かあったのかと思い、少し歩く速度を上げたハイアは、扉の向こう側に恐るべき物を見てしまった。

「あ、あう」
「・・・。地獄さ」

 そこは一言で言ってしまえば、汚かった。
 いや。もはや人間が存続することさえ不可能であると断言できるほどに、あらゆる物が散乱していた。
 厚さ数センチの埃の下にである。
 更に恐ろしい事実として、あちこちに足跡が残っているのだ。
 埃を強制的に移動させて、その下にある物を取った形跡もそこここに垣間見える。
 それはつまり、目の前の中年男が、この環境で生育しているという証である。
 人類ではあり得ないと断言できるかも知れない。

「少し散らかっているが気にせずに入れ。死にはしない」
「あ、ぅぅぅ」

 ハイそうですかと、入る訳には行かない。
 誰かが生け贄となり、安全であることを確認しなければならないのだ。
 そして、か弱い少女をこんな恐ろしい場所へ送り込む訳には行かない。
 いくらレイフォンの関係者だったとしても、それとこれは話が別なのである。
 振り返り、ミュンファを見る。
 錬金鋼を復元して、ハイアを援護してくれるつもりのようだ。
 いや。ハイアに何かあったら、この建物全てを破壊するつもりだ。
 ツェルニと自分達の安全のために。

「早くしろ!!」
「さぁぁぁ!!」

 選択肢は存在していない。
 思い切って、恐るべき魔境へと一歩を踏み出した。
 傭兵であるハイアにとって、不潔であると言う事はそれ程異常な事態ではない。
 別段、ハイア個人の部屋が散らかっていたり汚れていたりする訳ではない。
 ハイア自身の努力に寄らないという事実はあるが、それでも割とこぎれいな部屋に住んでいる。
 だが、多少不潔だったとしても何ら問題無い。
 目の前のこの惨状が異常なだけである。

「多少散らかっている程度で、人間は死なんから安心して入ってこいと言っているんだ」
「あんた人間さ?」
「人間だ。そして医者だ。更にここの学生だ」
「さ?」

 立て続けに二つ、異常な言葉が中年男の口から零れ落ちた気がした。
 ゆっくりと、そして慎重に足を踏み出しつつ男を観察する。
 だが、医者であると言う事は否定できないが、学生であると言う事は全くもって疑わしい。
 だが、それも、中年男が自分の学生証をハイアに見せた段階で打ち砕かれた。
 テイル・サマーズと書かれたそれは、間違いなく目の前の中年男がここの学生であり、更に二十歳を少し過ぎたばかりであることを知らしめている。
 偽物であると言う事も出来るが、よほどの事情がなければ全く意味がない。
 つまり目の前の中年男は。

「トリンデン」
「あう」
「さっさと来い。さっさと治して俺の久しぶりの休日をこれ以上邪魔するな」
「あ、あう!!」

 知り合いらしい少女が、恐る恐るとテイルの元へと近づき、そしてやはり恐る恐ると右手を差し出す。
 それからは、まさに熟練の技を見せつけられるようだった。
 瞬きする間に肘の関節がはめ込まれ、手首や指の関節もあれよあれよという間に、元の形へと戻されて行く。
 脱臼だというのは本当だったらしい。

「ハイアちゃん」
「団長と呼ぶさぁ?」

 信じられないほどの手際の良い復旧作業を眺めていると、突然後ろから声をかけられた。
 そして、もう一人ここにいるはずの人物を視界に納め、そして疑問を感じた。

「そこ、どいて」
「さ?」

 何処からもってきたのか全く不明だが、背負い式で巨大な業務用掃除機を装備しているのだ。
 何時もおどおどしているその瞳は、これから戦いに赴くために鋭い光を放ち、ハイアさえ圧倒しそうな勢いだ。
 だが。

「何をするつもりだ!! ここは先祖代々掃除をしていないんだ!! 今日を限りにこの居心地の良い部屋を!!」
「黙れ!!」
「っう!」

 テイルを一喝して黙らせたミュンファが、掃除機のスイッチを入れる。
 そして、傭兵団随一の掃除技能を遺憾なく発揮して、あまりにも埃にまみれた部屋を綺麗にして行く。
 伊達にハイアの部屋を毎日掃除している訳ではないのだ。
 ハイアがやらなくて良いと言っても、全くもって手抜きなどせずに掃除している訳ではないのだ。
 この日、午前中の時間を全て使って、メイシェンと名乗った少女と共にミュンファは心ゆくまで掃除をした。
 ハイアは、テイルが邪魔をしないように見張りつつ、邪魔にならない場所へと移動する以外には何もしなかった。
 なぜか、非常に負けたような気分であった。



[14064] 第六話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:20

 
 合宿三日目の午前中が終了しようとしていた。
 この後、三度目の昼食がやってくるのかと思うと、少々気分が重くなりがちなニーナだったが、事態は突然あらぬ方向へと進展してしまう。
 なにやら焦った表情で、宿泊施設からリーリンとウォリアスがやってきたことが発端だった。
 ウォリアスは公用の携帯端末を持っているが、それを振りかざして一路レイフォンを目指しているのだ。
 リーリンに至っては、顔面蒼白を通り越して土気色である。

「ちょっと大変よレイフォン!!」
「レイフォン! 兎に角電話に出ろ」

 模擬戦の最中にもかかわらず、全く周りのことなど無視して、携帯端末をレイフォンに手渡す二人に、何らかの緊急事態が起こったことを認識した。
 ウォリアスだけではなく、リーリンまで慌てているところを見ても、それは明らかである。
 しかも、その緊急事態がどんな物か、ニーナには全く想像も出来ないのだ。
 それはレイフォンも同じだったようで、反応がかなり鈍い。

「うん? 何かあったの?」
「ええい! これでどうだ!!」

 左手に刀を持ち、右手に持った携帯端末を見ながら、呆気に取られているらしいレイフォンに業を煮やしたウォリアスが、ハンズフリー機能を作動させたようで、いきなりミィフィの声が携帯端末から迸り出てきた。
 こちらも、かなり焦っているようで、何時も以上に落ち着きがない事が、その声だけで十分に分かる。

『レイとん!! 一大事だぞ!!』
「どうしたの? スクープ記事を山羊に食べられたとか?」
『ええい! 戯け者め!! メイッチが誘拐されたのだぞ!!』
「ああ。そうなんだ」

 別段大したことはなかったようで、携帯端末をウォリアスに返そうとするレイフォン。
 だが、その動作が急激に停止。
 ここで、ニーナを始めとするその場にいた面々が事態を把握し始めた。

「なに?」
『だ・か・ら!! 今朝早く女連れの赤毛男に、お姫様だっこでメイッチが誘拐された!!』
「お、お姫様だっこでメイシェンが誘拐されたって!!」

 それまで比較的緩かったレイフォンの表情が、今まで見たことがないほど真剣味を帯び、そして、老性体戦前の講演会の時のように、冷たく渇いた瞳へと変化して行く。
 戦闘モードへ移行したレイフォンの周りが、その温度と湿度を急激に失って行く。
 だが、レイフォン本人の中には、今まで感じたこともないほど激しい炎が燃えさかり、その赤毛男とやらを灰も残さないための準備が進んでいる事が、未熟であるニーナにさえ十分すぎるほどに分かった。

『都市警が探しているんだけれど、昨日の夜ナッキを病院送りにしたのも、その赤毛男らしくて!!』
「へえ。ナルキを病院送りにしたんだ」

 恐るべき平坦な声が、レイフォンの口から零れ落ちる。
 メイシェンを連れ去られ、ナルキを病院送りにしたその赤毛男に対する怒りのために、どうやら感情が上手く働かなくなり、返って冷静に、いや。冷酷になれているようだ。
 そして、今まで携帯端末を見詰めていた視線が移動する。
 その場にいる人間を、ゆっくりと見渡しただけだったはずだ。
 だが、それだけのことで、ニーナは一瞬心臓が止まったのではないかという錯覚に囚われた。
 完全に呼吸は止まっていたはずだ。
 それ程までに、今のレイフォンは凄まじい圧力を発しているのだ。
 そして、その恐るべき視線が、フェリを捉える。

「フェリ先輩?」
「分かっています」

 レイフォンの圧力を正面から受けているはずだというのに、対応するフェリは全く何時も通りだった。
 いや。違う。
 何時もとは比べることが出来ないほど冷たくなっているために、レイフォンの視線に耐えられるのだ。
 そして、次の瞬間には、その長い髪全てが昼間であるにもかかわらず、燐光を放つのがはっきりと分かった。
 今まで見たこともないほどの、凄まじい念威の量を目の当たりにしたニーナだが、それに驚いている暇など存在していない。

「例え、ツェルニの全生徒の個人情報を覗くこととなろうとも、トリンデンの居場所は見つけ出して見せます。ですから」

 重晶錬金鋼から飛び立った念威端子が、普段とは一線を画す鋭い機動を描きつつ、ツェルニ全域へと飛んで行くのを眺めつつ、息苦しさが増していることにも気が付いていた。
 そう。レイフォンである。
 それ程大きくないはずのその身体から、制御に失敗しているとは思えない統制された剄が迸り出ているのだ。
 問題が有るとすれば、その剄の量が尋常ではないと言う事だ。
 その証拠に、簡易・複合錬金鋼が赤熱化を始めているのだ。
 体内を流れる剄の余波だけで、通常では決して起こらないはずの現象を起こすほど、今のレイフォンはやる気満々である。

「例えツェルニを滅ぼすことになっても、メイシェンは無傷で取り返して見せます」

 ここに、赤毛男の未来は決定した。
 間違いなくフェリによってその所在を突き止められ、レイフォンによって細切れにされてしまうだろう。
 もしかしたら、ついでにツェルニも細切れになってしまうかも知れない。
 それ程までに、今の二人は容赦がない。
 だが、人ごとだったのはここまでだった。

「隊長?」
「・・・・! な、なんだ?」

 突然、レイフォンの視線がニーナを捉えていることに気が付いた。
 心臓が変なリズムでダンスを踊り、横隔膜を始めとする呼吸筋は、ストライキでも起こしたかのように全く働かず、生まれたての草食動物のように立っていることが困難だ。
 それでも、意地で何とか声を絞り出すが、どう贔屓目に見てもしわがれて、まるで臨終を間近に迎えた老人が最後の力を振り絞っているようにしか思えない。
 そんなニーナに向かって、レイフォンはとても優しげな笑顔と共にこう切り出してきたのだ。

「済みません。用事が出来ましたので少し出掛けてきます」

 とても優しげな笑顔だというのに、それは死を覚悟する物だった。
 断った次の瞬間、何故か首だけで空を飛んでいる自分を想像できてしまう。
 ならば答えはただ一つ。

「ああ。気をつけて行ってくるのだぞ」

 赤毛男の冥福を祈りつつ、そう告げた次の瞬間には、レイフォンの姿はかき消えていた。
 今から移動していても無駄になるかも知れないが、それでもじっとしていることが出来なかったのだろう。
 気持ちは十分に理解できるが、今は全く別の問題が有る。
 そう。フェリを除く全員の腰が抜けてしまったという重大な問題が有るのだ。
 もっとも付き合いの長いはずのリーリンでさえ、泣き出さんばかりの表情でへたり込んでいるし、何よりも驚きなのは。

「こ、こわかったぁ。レイフォンが本気になるとああなるのか」

 老性体を前にしても、全く動じることの無かったウォリアスでさえ、今はその場にへたり込んで深々と息を吐き出しつつ、レイフォンが置いていった携帯端末を眺めている。
 フェリのサポートがある以上、軟弱な機械など必要なかったのだろう。
 だが、置いてけぼりを食らった機械からは、更にミィフィの声が流れてきている。

『おおい!! 聞こえているか!!』
「あぁ。はいはい、聞いていますよ」

 何時の間にか、精神状態をおおむね回復させたウォリアスが相手を始めたが、取り乱していたミィフィの声が通常運転へと復帰していることに気が付いた。
 もしかしたらレイフォンが行動を開始したことに対する安心感があるのかと思ったが、少し違ったようだ。
 そう。致命的な出来事が起こったのだ。

『メイッチから連絡があってね』
「ああ。身代金の要求でもあったの?」
『違う違う』
「ああ。身代金代わりにその身体を差し出せとか?」
『そうじゃなくてね。誘拐じゃないって』
「・・・・・・・? え?」

 耳で聞いた単語を理解するのに、少し時間が必要だった。
 つい一分前まで、メイシェンが誘拐されたと騒いでいたはずなのに、それが違ったと冷静に伝えているのだ。
 よりにもよって、レイフォンが突っ走ってしまった後でだ。

「フォンフォンに連絡しましょうか?」
「・・・・・。そうですね。無実の人間が細切れになるのを、何とか阻止しないと」

 フェリとウォリアスの会話を聞きつつ、ニーナは思う。
 超絶的な天才二人を、この先使いこなして行くことが出来るのだろうかと。
 本気のレイフォンを制御することなど、ニーナには不可能であるように思えて仕方が無い。
 そして、全力状態のフェリを怒らせる恐ろしさを、やっとの事で理解し始めたのだ。
 ニーナにとっての騒動は、むしろこれからである。
 
 
 
 ツェルニ外縁部へとやってきたハイアは、既に二人の人物が約束の場所に来ていることを認識して、そして一気にテンションが下がった。
 茶髪で中肉中背の少年は問題無い。
 元天剣授受者であり、同じサイハーデンの継承者であるレイフォンとは、一度会って決着を付けなければならないと思っていた。
 だから、それは問題無い。
 問題なのは、茶髪をツインテールにしている少女の方である。
 連絡の全てはメイシェンに任せていた。
 ハイアがやると誤解が凄まじい勢いで増殖することが分かっていたし、ミュンファでは事情の説明に時間がかかりすぎてしまうと判断したからだが、この事態は全く予想外だった。

「ニヒヒヒヒヒ。久しぶりだねハイアちゃん」
「どの面下げてオレッチの前に現れたさ? ヨルテムの性悪女」

 暫く前、ヨルテムでのいざこざを処理した際に、少しだけ関わったミィフィとツェルニで遭遇するなどとは、全くもって考えていなかった。
 出来れば、一生関わりになりたくない類の生き物である。

「ご挨拶だねぇ。この私が直接君と取引してあげようというのだよ?」
「取引なんかするつもりはないさ」

 目の前のレイフォンは、非常に不機嫌な表情と、敵意のこもった視線でハイアを見ている。
 それは問題無い。
 むしろ望むところである。
 だが、その隣にいる茶髪な生き物は、ニヤニヤ笑いを消すことなくハイアを見ているのだ。
 メイシェンと一緒に連れてきたミュンファは、明らかに気圧されて腰が引けているという、武芸者としてはあるまじき気弱さを発揮しまくっているし。
 何でこうも問題が多いのか、非常に疑問である。

「なに! 折角この私が取引してやろうと、取って置きをもってきたというのに、それ程までにメイッチが魅力的か!!」

 次の瞬間、レイフォンの目に宿っていた敵意が殺意へと変わった。
 そして、その顔から一切の表情が消えるのが分かった。
 思わず錬金鋼に手を伸ばそうとしたハイアだったが、それを何とかこらえる。

「取引する以前に」
「まあ、これを見給え」

 ハイアの言葉を遮り、ミィフィがなにやら情報記憶素子を取り出した。
 思わず見てしまった。

「ニヒヒヒ。これはな。金髪ショートで巨乳で、眼鏡な幼馴染みと、あんな事やこんな事をしてしまうと言う、非合法の卑猥映像が入った記憶素子なのだぞ」
「ひゃ!!」

 ミィフィの台詞の終了と共に、腰が引けていたミュンファが可愛らしい悲鳴を上げてメイシェンの後ろへと隠れた。
 何が何だか分からないが、兎に角話を元に戻さなければならない。

「そんな物は要らないさぁ」
「なに!! 欲張りな奴だな。ならばこれでどうだ?」

 話を元に戻そうとした矢先、仕切り直されてしまった。
 手に持っていた記憶素子をポケットに戻し、別な物を取り出したのだ。

「これはな、金髪ショートで巨乳で、眼鏡な幼馴染みに色んなコスプレをさせて、エッチな拷問をしてしまうと言うマニア垂涎の一品だぞ? しかも非合法品だ」
「あ、あう」

 ふと視線を向けてみると、必死の形相でミュンファを守ろうと両手を広げているメイシェンが居た。
 守られている武芸者はどうしているのかと思えば、なにやら真っ赤な顔と潤んだ瞳でハイアの方を見ているような見ていないような。
 嫌な予感がしてきた。

「だから! そんな物はいらないと言っているのさ!!」
「なんだと! なんて強欲な奴だ」

 更にもう一度、ポケットの中に消えた手が持ち出してきたのは、当然のように情報記憶素子だった。
 制止するべきだと思うのだが、そんな暇をミィフィは与えてくれなかった。

「これこそ幻の一品!! 金髪ショートで巨乳で、眼鏡な幼馴染みが、女王様となって虐めてくれるという最強の一品でな」
「だから!! そんなものは!! いらないと言っているさ!!」

 強引に話を切断する。
 付き合っていてはいつまでたっても進まないからだ。
 だが、やはり進まなかった。

「そうかそうか。金髪ショートで幼馴染みで、眼鏡な貧乳が好みか」

 何故、全ての作品で金髪でショートで幼馴染みで、更に眼鏡な女の子が出てくるのか不明だ。
 いや。分かりたくない。
 更に、貧乳という所にミュンファが打撃を受けている所なんかも、絶対に分かりたくない。

「違うって言ってるさ!!」
「・・・!! まさか、長い黒髪で巨乳が好みか!!」
「それもいらん!」
「ま、まさか!! 男の子が好きなのか!!」
「いい加減にするさぁぁ」

 もう溜息しか出ない。
 だが、それでもやるべき事をやらなければならない。
 ミュンファを守ろうと必死になっているメイシェンの手を、出来るだけ優しく掴み、自分の前にもってきたハイアは、そのお尻を軽く叩いてレイフォンの方へと押しやる。

「きゃ!!」
「なっ!!」

 間違ってもミィフィの方へでは無い。
 当然のことではあるのだが、勢いに乗ってトテトテと走りレイフォンの後ろに隠れたメイシェンが、中腰になりつつスカートを押さえ、ハイアを睨んでいるが気にしてはいけないのだ。
 その胸を強調するような格好になっていることとか、気にしてはいけないのだ。
 儲け物だとか思ったが、口にも表情にも出さないように気をつける。

「ただで返してやると言っているのさ!!」
「な、なに!! そうかそうか。やはりこの私の美しさに恐れをなしたな!!」
「・・・・・・・・・・・。ああ。ヴォルフシュテイン?」
「元。だよ」

 レイフォンからの殺意の視線が、かなりきついことになっているのだが、これ以上ミィフィと関わるよりは遙かにましだと思うことで、話をする相手を変えることとした。
 思えば、最初からこちらへ話を振っておくべきだったと、今頃気がついた自分に自己嫌悪を覚えたが、とりあえず話を進めなければならない。
 殺意を抱いている人間と話し合い、そしてまとめるなどと言う自信はないが、それでもミィフィを相手にするよりはだいぶ疲労が少ない。
 戦闘になったらなったで、それはそれで一向にかまわないことだし。

「悪気があった訳じゃないさ。それだけは理解して欲しいさ」

 結果的に色々なところに迷惑をかけたという事実は、違法酒絡みの連中とツェルニに入った時と同じだが、悪気は全く無かったのだ。
 誤解されるのはかまわないが、軽蔑されるのは少々居心地が悪いのだ。

「どの辺に悪気がなかったんだ? メイを誘拐したところか? それともナルキを病院送りにしたところか? まさかとは思うんだけれど、メイのお尻を叩いた辺りか?」
「ナルキって誰さ?」

 話の途中に出てきた、聞いたことのない固有名詞に少し驚いた。
 だが、ハイアが原因で入院した人間と言うのは、ここツェルニではおそらく一人しかいない。

「もしかして、オカマの警官さ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。殺すよ?」
「ああ?」

 何故か、レイフォンからの殺意の視線が三割ほど増した。
 それどころか、ミィフィから虫けらを見るような視線を向けられた。
 更に、メイシェンからも非常に不満なことが分かる視線を向けられているのだ。
 そして、何故かミュンファが三人に頭を下げて謝っているという異常事態に、ハイアはどう反応して良いか分からずに話を元に戻すこととした。

「まあ、それはどうでも良いさ。兎に角用件は終わったから今日のところは引き上げるさ」

 暫く前までは、あわよくばレイフォンと一線交えるつもりだったのだが、ミィフィの相手をしたために精神力を使い果たしてしまったのだ。
 今日はこのまま帰って寝てしまおうかとさえ思うほどに、ハイアは疲れ切っていたのだ。
 だが、事態はそんな生やさしいことでは収まらなかった。

「きゃ!!」

 いきなりとても可愛らしい悲鳴がしたかと思うと、レイフォンの後ろに隠れてハイアを睨んでいたメイシェンが、突如として後ろを振り向きスカートの裾をしっかりと押さえている。
 そして、その視線の先には、巨悪の根源と言える茶髪な生き物が、一瞬ニヤリと口元を歪めて挑発してきていた。
 中腰のメイシェンが、まるきりおしりをハイアの方に突き出しているように見えるのだが、全身全霊を傾けて気にしてはいけないのだ。

「ああ。メイシェン。なんて可哀想なの!! レイフォンによってお嫁に行けない身体にされてしまっていたけれど、とうとうお婿ももらえない身体になってしまうなんて!!」

 棒読みの台詞と共に、メイシェンをしっかりと抱きしめつつ舌をこちらに向かって出すミィフィ。
 明らかに何か企んでいるが、それがどんな物かを察することなどハイアには出来ない。
 だが、次の台詞も全く謎だった。

「み、みぃちゃん?」
「こんなに、こんなに可愛いのに!! おしりが二つに割れてしまうなんて!!」

 一瞬呆気に取られた。
 何処の誰だろうと、二つに割れていると思うのだが、どうやらここからが本番だったようだ。

「せめて、せめてパンツを履いていたら、割れずに済んだかも知れないのに!!」
「な、なにぃ!! 撫で回しておくんだったさ!!」

 思わずもったいないことをしたと、心の底から思ってしまった。
 ついでに口から本音が漏れたが、折角だからまくっておくんだったとも思った。
 卑猥映像はどうでも良いが、実物は違うのだ。
 そして、何故か、身体を左に傾けた。

「?」

 何かが、すぐ横を通り過ぎたような気がしたが、それがなんだったのか分からない。
 だが、目の前にいたはずのレイフォンが消えていることを認識。
 そして、後ろから地面を削って止まる音を確認。
 更に、地面を削る音をかき消すかのように、何かとてつもなく丈夫な何かが、盛大に切れる音を聞いたような気がした。
 それらは、一瞬のうちに殆ど同時に起こったのだ。

「な、なにさ?」

 事態が飲み込めなかったのは一瞬だった。
 首筋の右側に、微かな痛みを感じた。
 触ってみると浅く切られていた。
 ならば、話は簡単である。

「あれ? やったと思ったのに、何で生きているんだろう?」

 土煙を背にしながら、長大な刀を下げたレイフォンが、微かに首をかしげながらこちらに戻ってくる。
 間違いなく、超高速で駆け抜けつつ、ハイアの首筋へと一撃を入れたのだ。
 意識するよりも速く身体が動かなければ、今頃首から上が空中に飛んでいたことだろう。
 だが、事態は更に突き進む。

「ミュンファ?」

 軽い足音がすぐ隣から離れて行くのを聞きつけ、そちらを見れば当然のようにミュンファがミィフィとメイシェンの側へと小走りに近寄って行くところが見えた。
 その手には、復元された弓が持たれている。
 そして、ミィフィ達と合流したミュンファの弓が、ハイアを正確に捉える。

「な、なにさぁぁぁぁ!!」

 突然、全力の射撃を食らった。
 動揺していたというのもあるが、その攻撃は今まで見てきた中で最速であり、更に凄まじい収束率を誇っていた。
 とどめとばかりに、過去最大の破壊力を秘めていた。
 針のように極限まで凝集された衝剄が、咄嗟に避けたハイアのすぐ横を唸りを伴いつつ通り過ぎて行く。

「みゅんふぁ?」
「ふんだ! エッチなハイアちゃんなんか、消し飛んじゃえば良いんだ!!」

 大人しい人間を怒らせてはいけない。
 どっかの誰かから聞いた言葉が、脳裏をよぎったが既に遅い。
 すぐ後ろに、押さえ込んでいるはずだというのに、今まで感じたことがないほど膨大な剄の固まりが近寄ってきているからだ。

「さあ。仲間の許可も貰ったし、少し死んでみようか?」

 とても優しげな笑顔のレイフォンが居た。
 だが、その瞳に宿る冷たさは恐るべき物だった。
 背筋を冷たい汗が流れ落ちて行くが、サリンバン教導傭兵団の団長として、逃げる事も恐れを表に出すことも出来ない。
 サイハーデンの継承者としてならば、逃げても良いかもしれないが、それはハイア個人の存在意義を否定しかねない行為である。
 と言う事で、予定とは違ってしまったが戦うために刀を復元する。

「丁度良いさ!! レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ!! オレッチの方がお前よりも強いって事をぉぉ?」

 台詞の途中で、レイフォンの姿が数百へと増えた。
 それぞれが、赤熱化している錬金鋼を振りかざし、ハイアへ向かって襲いかかってくる。
 何かの冗談だと思いたい光景だった。
 
 
 
 ハイアの台詞が途中で叩ききられてから、正確に三十二秒後、何時ぞやのシャーニッド以上に凄惨な廃棄物が地面に転がっていた。
 散々衝剄で小突き回され、化錬剄の炎でこんがり焼かれ、やはり化錬剄の電撃で焦がされて、そして斬撃であちこち切り刻まれているという、これ以上ないくらいに完璧な廃棄物だ。
 少し離れたところにしゃがみ込んだミュンファが、復元した弓の端っこを持ち、反対側の端っこでハイアを突いているが、全くもって反応がない。
 もしかしたら、このまま火葬場へ運んだ方が良いかもしれないが、ミィフィには先にやるべき事があるのだ。

「なあ、レイとんよ?」
「うん?」

 清々しい笑顔と共に、袖で汗をぬぐっているレイフォンへと声をかける。
 まさに、良い運動を終えたスポーツマンと言った風袋であるし、隣に立ったメイシェンの差し出した、タオルもそれを補強している。
 苦言を呈すると言えば、タオルで汗を拭くべきだと思うが、今は疑問の解決が先だ。

「おしりが二つに割れているのは」
「知っているよ」
「さぁあぁぁ?」

 当然のように、清々しい笑顔のまま応えてくれた。
 廃棄物が少し動いたようだが、気にしてはいけない。

「孤児院時代に、一体何人の子供と、お風呂に入ったと思っているんだい?」
「ああ。まあ、それはそうか」

 いくらレイフォンだからと言って、そこまで愚かではないのだ。
 となると。

「これは?」

 廃棄物を指し示しつつ訪ねる。
 答えは分かっているが、念のための確認である。

「うん? メイをお姫様だっこで連れ去って、挙げ句の果てにあんなに乱暴に扱ったんだから、これくらいは許容範囲だよ」
「まあ、それもそうか」

 確かに、ハイアはやってはいけないことをやってしまった。
 ならば、その制裁は受けるべきだとは思うのだが。

「パンツは?」
「うん?」

 実のところ、問題がこれだ。
 明らかにレイフォンは、メイシェンがノーパンだったと聞かされて怒り狂ったのだと思えるのだ。
 ミィフィからしてみて、あまりにも短い時間で事が始まってしまったために、はっきりと断言できないので、是非ともはっきりとさせておきたいのだ。

「メイシェンが履いてないなんて事、有る訳無いじゃないか」
「さぁあぁぁああぁ?」
「ふむ。分かっているのか」

 メイシェンが履いていないとしたら、それはごく僅かな状況以外では考えられない。
 例えば、レイフォンの部屋にお泊まりするとか。
 そのくらいのことは当然分かっているのに、何であんなに切れてしまったのかが疑問だったのだが、その疑問は何故か吹き飛んでしまった。

「これがミィフィだったら、受けを狙って死ぬ気でとかも考えられるけれどね」
「それは同意するさ」
「ぬぅわぁぁにぃぃ?」

 続いたレイフォンとハイアの認識には、少々同意しかねる部分がある。
 いくらミィフィだからと言って、パンツを履かずに出掛けるなんて事は、それこそあり得ないのだ。
 彼氏も居ないことだし。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 少し寂しくなってしまった。
 別段彼氏が欲しいとか思っている訳ではないんだが、居て困るという訳でもない。
 学生という状況を考えると、居た方が良いと言えるだろう。
 だが、厳然たる事実として、ミィフィには彼氏が居ないのである。
 ここは断然八つ当たりをするべきであると判断する。

「ボロ負けしたハイアちゃんに良いものをあげよう」
「要らないさぁ」

 ポケットをまさぐって、必殺の一品を探し当てる。
 指先にその感触を確かめつつ、嗜虐的な笑顔になっていることをはっきりと認識できた。

「いらないって言っているさ」
「ニヒヒヒヒヒ。そうかそうか。ならば」

 廃棄物が自己主張するなどとは世も末だが、せめてもの情けで受け入れてやっても良い。
 と言う事で、ミュンファという名前らしい少女へと視線を投げる。
 ルックンの情報網を最大限使って、ハイアとその相棒のことは調べてあった。
 だからこそ、こうもピンポイントな準備をすることが出来たのだが。

「ひぃ!」

 視線が合った途端、何故か小さな悲鳴を上げて後ずさるミュンファ。
 そんなに怖い顔をしているとは思っていないのだが、もしかしたら、他人から見ると結構凄いのかも知れない。
 だが、やる事には何ら変わりがないのだ。

「君にこれをあげよう」
「あ、あう」

 メイシェンと同じ生き物らしく、怯える視線でミィフィを見る少しだけ年上の少女へと、必殺の一品を渡す。
 内容は当然、本来ミィフィが持っていてはいけない物である。

「ニヒヒヒヒヒ。これはね」
「あ、あう」
「金髪眼鏡で巨乳な幼馴染みが、聖裸服をきて完全看護をしてしまうと言う恐るべき一品でね」
「ひぅ」
「ニヒヒヒヒヒ。服を買えるお店の住所が最後に記録されているのだよ」
「か、買わないと駄目ですか?」
「当然駄目だよ」

 逃げ道を残すなどと言うことはしない。
 徹底的に追い詰め、そしてハイアの看護をさせるのだ。

「はいはい」
「のわ!!」

 だが、突然身体が持ち上げられた。
 こんな事が出来るのはレイフォンだけである。
 振り向けば当然の様に、何時もの表情に戻ったレイフォンがすぐ後ろにいた訳で。

「その人には関係ないんだから、あまり虐めちゃ駄目じゃないか」
「ええええ! メイッチと同じで虐めると可愛いじゃないか!!」

 それは建前で、本音は、間接的にハイアを虐めたいだけである。
 いや。完璧な八つ当たりである。

「はいはい。ナルキのお見舞いをしてから合宿に戻るんだからさ」
「うぅぅぅ。仕方が無いなぁぁ。じゃあ、それしっかり見て勉強するんだよ」
「い、いやです」

 涙を一杯に貯めた視線で抗議してくる少女を眺めつつ、レイフォンに吊り下げられたままミィフィはハイアとの、久しぶりの接触の地を後にした。
 今度、また遊んでやろうと固く決心しつつ。
 



[14064] 大惨事食べ物大戦
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/15 22:21


 突然ではあるのだが、カリアン・ロスはツェルニの生徒会長である。
 司法研究科六年であり、もう一年もしないうちに卒業を迎える。
 だが、今問題としなければならないのは、目前まで迫った武芸大会に勝ち、セルニウム鉱山を確保して滅びを回避することだ。
 武芸科の訓練はヴァンゼやレイフォン、そしてイージェといったスペシャリストがいるので問題無いが、予算の確保や都市運営などなどと、やる事はいくらでもあるのだ。
 そんなカリアンだから、昼食の時間などと言う物は殆ど無い。
 たいがいにおいて都市外作業用に作られたゼリー飲料をすすって済ませている。
 しかも、予算には一応余裕が有るのだが、それでも無駄なことを好まないために賞味期限が迫った物を優先的に飲んでいる。
 裕福で贅沢には慣れているはずなのだが、味もろくに感じない仕事中の食事に、予算と労力を裂く気にはなれないのだ。
 何時も通りに書類の決裁をしながら、抽斗の一つに大量に放り込んであるパッケージの一つを取り、殆ど無意識的な動作で封を切り、そして一気に飲み干す。
 躊躇してはいけない。
 生暖かいゼリー飲料の不味さはもはや伝説的なのだ。

「?」

 だがここで、違和感を覚えた。
 何か何時ものゼリーと違うような気がする。
 だが、結論を導き出すことは出来なかった。

「ごわぁぁ!」

 何か、苦痛が全身を貫く。
 それが痛みなのかどうかさえ分からない何かに、身体を蹂躙されつつもカリアンはまだ持ったままだったパッケージを見た。
 視界がかすみつつあるが、まだ何とか見えている今しか確認する時間はないのだ。
 その表面の殆どは黒で塗装されていた。
 だが、一部に白が配されている。
 その白い図柄は、人間の髑髏のように見えた。
 その下には、大腿骨らしき物が交差している。
 つまり、カリアンが今躊躇無く飲み込んだ物の正体とは。

「ふぇ、ふぇりぃぃぃ」

 老性体戦の終了後に、レイフォンを瀕死の状態に陥れたという、伝説のデンジャラスゼリーだった。
 疲労困憊したレイフォンは、これを飲んだために丸二日間意識不明だったと聞く。
 だがそれは、おそらくレイフォンだったからこそ二日で済んだのだ。
 体力のないカリアンでは、意識を無くしたら二度と目覚めることがないかも知れない。
 その恐怖を振り払うように、必死に緊急呼び出しボタンを押し込む。
 本来は、有るとは思えないが刺客の到来などに対応したものだったが、ある意味暗殺であるから間違った使い方ではないのかも知れない。
 これを押してしまえば、隣の部屋に詰めている秘書が駆けつけてくるまで、僅かに五秒。
 その時間だけ意識を確保しておけばいいのだ。
 目標があるならば人間は何とか耐えられる。
 長く感じたが、実際の時間は十秒以上ではあり得ない。
 椅子の上にいることさえ困難になり、ゆっくりと床へと身体が傾いて行き、そして完全にくずおれた。
 そして、くずおれ机の端からしか見ることの出来ない扉が開かれ、現れた人物を見てもう一度絶望した。

「クスクスクスクス。どうかしましたか?」

 銀髪を腰まで伸ばし、人形のように整った顔に氷のような無表情を貼り付けたその美少女は、ゆっくりとカリアンの元へと歩み寄る。
 そして、カリアンは死を覚悟した。
 暗殺者が救護のためにやってきたのだ。
 生き残ることなどあり得ない。
 ヴァン・アレン・デイ当日のことだった。
 
 
 
 一昨日から昨日にかけて、ハトシアの実とシャンテ絡みのごたごたに巻き込まれたレイフォンだったが、その事件もゴルネオの被害だけでおおよそ終了した。
 そして今、日常という世界へと返ってくる事が出来たのだ。
 更に、非常に珍しいことではあるのだが、レイフォンは今ヨルテム三人衆の住んでいる寮へとやって来ていた。
 普段は通学の途中で待ち合わせをしたり、学校で直接会ったりしているのだが、今日は少々荷物が多いと言う事なので朝に迎えに来いと命じられたのだ。
 ミィフィに。
 そして訪問した直後ミィフィの攻撃を受け、首をロックされた状態のまま、メイシェンの部屋の前へと連れて来られてしまっている。

「やっほうメイッチ!! レイとんが迎えに来たよぉぉ!!」

 そう声をかけた次の瞬間には、蹴破らんばかりの勢いで扉が開けられた。
 当然、首をロックされたレイフォンも一緒にメイシェンの部屋へとお邪魔することとなり。

「え?」

 次の瞬間視界に飛び込んできたのは、当然のことメイシェンだった。
 窓を背にしていても、それは間違えようがない。
 ベッドから立ち上がろうとしているところだ。
 既に髪は何時も通りに整えられ、何時でも泣き出しそうな瞳に驚きの色を乗せてこちらを見ている。
 こんな時間に来ることなど初めてなのだし、当然ミィフィが知らせているなどと言う事はない。
 驚くのは当然なのだが、次の行動に移ろうとしない。
 普通なら何かリアクションがあるはずだ。
 驚いて、立ったばかりのベッドへと座り込んでも良いし、軽く手を挙げて挨拶を返してきても問題無い。
 だが、メイシェンは全く動こうとしない。

「あ、あの、メイシェン?」

 そう声をかけてみた物の、凍り付いてしまっていることだけはレイフォンにだって十分に理解できている。
 それは何故か?
 ベッドから立ち上がろうとして中腰になっているからである。
 本来中腰というのは、結構辛い姿勢なのだが、今のメイシェンにとっては何ら問題無い。
 そう。スカートを膝の付近まで引き上げているという状況の前では、中腰でいることなど何ら問題ではない。
 とても柔らかそうな白い肌は瑞々しく、日差しを背にしたその姿はまさに清らかな乙女である。
 い、いや。中腰になったためにいつも以上に強調され、縛ったリボンとブラウスを持ち上げている、その豊満な胸の膨らみはあまり清らかではないかも知れない。
 いやいや。胸の膨らみが豊満かどうかと清らかかどうかは、全く関係がないから問題無い。
 つまり、メイシェンは今も清らかな乙女なのである。
 スカートが中途半端なところで止まっているけれど。

(ああ。薄桃色なんだ)

 そう心の中で呟く。
 何が薄桃色なのかという詮索はしてはならないのである。
 前回は水色だったが、何がと言う詮索はしてはいけないのだ。
 そして、数秒の時間が無為に流れた。
 今見ている映像は、何時ぞやの腕試しの時の映像と共に、脳の最重要記憶領域へと慎重に保管しつつ、ミィフィが握ったままだった扉のノブを掴み、ゆっくりと閉める。
 他に何かするべき事は存在していないのだ。
 そして大きく一つ息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 ミィフィの拘束をやんわりと解き、立ち上がる。

「なんだ? メイはまだ準備中だったのか?」

 ここでやっともう一人の住人であるナルキが、自室から出てきた。
 これは最大限利用しなければならない。
 ミィフィとアイコンタクトで全てを打ち合わせて、そして即座に行動に移す。

「「ナルキ!!」」
「な、なんだ?」

 当然、何が起こっているか分からないナルキが驚愕して固まっている間に、全てを終わらせるのだ。
 今まで色々と酷い目に合わされてきたミィフィだったが、この瞬間だけは共闘しなければならないのだ。

「「後は任せた!!」
「な、なんだ?」

 当然レイフォンは登校の準備を終了させている。
 そしてミィフィも、鞄を持つだけになっていたようだ。
 そして二人で後も見ずに寮から逃げ出す。
 この後何が起こるかなど考えてはいけないのだ。
 
 
 
 最終的に、ナルキに付き添われたメイシェンが登校したのは、レイフォン達が到着してから二十分後のことだった。
 良くもこれだけ短い時間で、メイシェンを再起動させられたと関心こそすれ、批難したりすることなど有りはしない。
 そして恐るべき事が判明したのだ。
 なんとミィフィは朝食を抜いていたのだ。
 どうやらメイシェンは、朝食の準備は制服を着た後にやるつもりだったようだ。
 ただ単に、メイシェンを驚かせたくてレイフォンを朝早く呼び寄せただけだったようだ。
 ミィフィが着替えを終わらせていたのも、レイフォンを迎えて襲撃するためだったとすれば、納得が行こうというものだ。

「と言うようなことがあってな」

 そして今、昼食の席でナルキが事の顛末を大雑把に語っている。
 集まったメンバーは何時も通りで、ナルキにリーリンにフェリ。
 そして徹夜続きだったらしいウォリアスと、非常に元気そうなイージェ。
 何故かシャーニッドに連れられたエドも、何時も通り一緒にいる。
 そして目の前には、メイシェン渾身の力作と、リーリン快心の絶品料理が所狭しと並んでいる。
 昨夜機関清掃があったために、レイフォンは料理をしていないが、それでも十分な量がそろっているし、質的に何ら問題無いのは当然である。
 そしてこれが最も重要なことなのだが、ミィフィとレイフォンはお預けを食らっているのだ。

「くぅぅん」
「あぅぅぅ」
「ふんだ!」

 懇願の視線でメイシェンにお伺いを立てるが、当然のようにそっぽを向かれてしまった。
 それはまあ当然のことではある。
 あんな辱めを受けて、平然としていられたらそれこそ清らかな乙女ではない証拠だから、それはそれで問題無い。
 問題なのは、今空腹だと言うことだ。

「お前って、何処までラブコメ体質なんだよ?」
「ぐへへへへへ。そうでなくちゃつまらねぇよなぁ」

 酷くやつれているウォリアスの溜息混じりの呟きと、変にテンションの高いイージェの、下品な笑いが空っぽの胃に響く。
 そして、当然のようにリーリンとナルキの視線も非常に冷たい物となっている。
 いや。明らかにリーリンのは殺意さえこもっている。
 何故こもっているかは全く分からないが、それでもこもっているのだ。

「まあ、若い内に色々体験しておいて損はないな」
「へへへへへへ。もてる男なんてみんな餓死すれば良いんだ」

 シャーニッドとエドは何時も通りの反応だ。
 空腹であることに変わりはないけれど。
 当然のことではあるのだが、メイシェンの許可を貰わなければ、目の前の食事に手を付けることは出来ない。
 なのでさっきから懇願の視線を送っているのだが、当然まだ怒ったままだ。

「見ていると情けなくて腹が立ってきますね」

 そう言いつつ席を立ち、レイフォン達の方へやって来たのは、鞄を手に持ったフェリだ。
 もしかしたら、何か食べさせてくれるのかも知れないと、ほんの僅かな期待を込めてその挙動に注目する。
 それはミィフィも同じだったようで、必死の形相でフェリを見ている。
 それはもう、女神を崇拝するかのような真摯な視線だ。
 そして、女神がそっと鞄の中から何かを取りだした。
 それは二つだった。
 それは黒かった。
 それは、レイフォンの背中に冷や汗を流させた。
 それは、ミィフィに絶望という名前の雷を叩き落とした。

「これを飲めば、二、三日何も食べなくても平気だという、私が調合した超臨死ゼリーです」

 臨死である。
 しかも、超である。
 即死でないのは救いなのだろうか?
 それとも、死に神の采配なのだろうか?

「さあ。遠慮せずに二人ともこれを飲んで下さい」

 後ずさる。
 空腹とは言え、あれに手を出してはいけないのだ。
 何故か全く不明だが、レイフォンの全身を冷や汗の集団が猛烈な速度で駆け下りて行く。
 それはもう、リーリンに惨殺されかけた時と同じくらいに、危険極まりないと感じてしまっているのだ。

「クスクス。安心して下さい」
「な、なにをでしょうか?」
「ど、何処を安心すればいいのでしょうか?」

 二人そろってフェリを観察する。
 どう見ても嗜虐的に、事態を楽しんでいるようにしか見えない。

「兄で人体実験は終了しています。死にかけるだけですから安心して下さい」
「何処を安心するんですか?」
「生徒会長よりも私はか弱いですよ」

 あれを飲むくらいなら、餓死寸前まで我慢した方がましである。
 いや。この事態を根本的に解決するためには、メイシェンのお許しが必要だ。
 そうすれば、あの恐ろしげなゼリーから逃れられるだけではなく、満足な食事だって出来るのだ。
 と言う事で、メイシェンに助けの視線を送ろうとして、絶望した。

「クスクスクスクス」

 当然フェリは気が付いている。
 レイフォンとミィフィだけが気が付かなかった。
 三人を残した残りのメンバーは、机と椅子を移動させて、怖々という感じでこちらを観察しているのだ。
 もしかしたら、恐怖映画を見て楽しんでいる感覚に近いのかも知れない。
 十分にあり得る。

「さあ。存分に召し上がれ。完璧な栄養計算を行っていますから、これだけ飲んでいても全く健康的に過ごせますよ」

 何個目で死ねるだろうかとか考えてしまった。
 何個までだったら平気だろうかとは考えない。
 何時、慈悲に満ちた死が訪れるかそれが問題なのだ。
 この極限の拷問は、授業が再開されるその瞬間まで続いた。
 
 
 
 昨日はバンアレン・デイというものだったそうだ。
 他人事なのは、ニーナにはあまり関係がなかったからだ。
 セリナに延々とお菓子を作れとせっつかれたが、それを極力無視して過ごした。
 だが、完全に無関係というわけにはいかなかった。
 長身で赤い髪をした先輩と関わってしまったからだ。
 不可思議な現象をいくつも経験した。
 なんといっても、雷迅という技を見せられた。
 攻撃に特化した技で、確かに防御主体のニーナには是非とも必要な技だった。
 その後機関部へと案内する羽目になったが、まあ、それ自体はさほど問題無い。
 問題なのは、機関部の入り口で遭遇した、変な集団の方だ。
 その変な集団、お面を付けてフードを被った連中と戦う羽目になった。
 ニーナの攻撃が命中したら、中身は空っぽだったのに驚いたが、問題はその後だ。
 何故か上手く身体が動かない瞬間を狙って、お面集団の一部が機関部へと侵入しようとした。
 その時、助けを求めるつもりはなかったのだが、それでもレイフォンの顔が浮かんできた。
 次の瞬間には、そのレイフォンがニーナの前にいて、何時の間にかそこにあった白銀に耀く剣を手にした。
 そしてただの一撃でお面集団を吹き飛ばしてしまった。
 帰さなければ巻き込まれると言われたために、その場に放置してしまったが、それで良かったのかどうか未だに確証が持てない。
 一度機関部へ降りて出入り口へと戻ってみると、何故かレイフォンが正気に戻っていて更に雷迅を知っているというのだ。
 全くもって訳の分からない事件だった。
 だが、今問題としている事柄はもっと即物的でいて、それ故に困難なものだ。

「でだが、これは食べても大丈夫な物なのか?」

 その赤毛の先輩、ディクセリオ・マスケインから貰ったのだ。
 内圧で上下の金属板が変形した缶詰を。
 何でもディックの大好物だとかで、一度食べてみろとかなり強引に渡されたのだ。
 しかも、かなり大量に。
 先輩であるし、雷迅を見せてくれた恩もある。
 とは言え、内圧で変形した缶詰というのは中身が腐敗している証拠である。
 ディックの好物だからと言って、不用心に食べる気にはなれない。
 そうなれば、食べ物に詳しい人間に聞くのが一番だ。
 と言う事で、やや抵抗を感じたのだが、ウォリアスを女子寮へと呼んで件の缶詰を見せる。
 いや。正確にはニーナが呼んだわけではない。
 戦略・戦術研究室に籠もり気味なウォリアスを、リーリンが食事に招待したのだ。
 そのついでに缶詰を鑑定して貰っているというのが、正しい表現になるだろう。

「ああ。ニシンの塩漬け缶詰ですね」

 何故かろくに見ないうちにそれがなんであるか解ったようだ。
 流石と言うべきか、それとも、それ程の特色が缶詰にあるのか。
 だが、正体不明の敵に挑みかかるよりは遙かにましであることも事実。

「これは食えるのか?」
「食べられますよ。発酵しているだけですから」
「・・・・・。発酵と腐敗では何が違うのだ?」

 ウォリアスの言葉に少しだけ疑問を持った。
 今まで気にしていなかったが、発酵と腐敗は何が違うのだろうかという疑問が湧いてきたのだ。
 別段、知らなくても何ら問題無いのだが。

「同じ現象ですよ」
「お、同じなのか?」
「ええ。現象としては同じです」

 平然と返ってきた答えに、かなりの衝撃を覚える。
 発酵も腐敗も同じなのだとは、どうしても思えないのだ。

「人間にとって、都合の良い物を発酵。悪い物を腐敗と呼び分けているだけですから」
「・・・・・・・・・・。そうなのか?」
「そうなんです」

 何度も頷きつつ、なにやら小麦粉を練っている。
 食事に招待されたはずだが、最終的に作るのを手伝わされているようだ。
 きっと、栄養補給と軽い運動をかねた、合理的な理由でそうしているのだろうと思うのだが、実はもう一つ不思議なことがあるのだ。

「にゃぁ?」
「はいはい。少し待っていてね」

 何故かソファーに座り込み、セリナの方を見詰めている赤毛で小柄な女性がいるのだ。
 昨日何か問題を起こしたのか、問題に巻き込まれたのかしたらしい、第五小隊のシャンテその人である。
 普段以上に猫的な属性を発揮して、座りつつも何か非常に機嫌良さそうに丸くなっている。
 そしてセリナの方はと見れば、なにやらお菓子の準備をしているが、ニーナは見てしまった。
 セリナが隠し持った、小さな注射器を。
 何か液体が入っているわけではない。
 ならば採血のために使うのだろうと思うのだが、何故シャンテの血液が欲しいのかが分からない。
 いや。分かりたくない。
 こっそりと笑うセリナの表情が、もの凄く怖いからだ。
 と言う事で、ニシンの塩漬けとか言う物を開封しようと試みる。
 著しく変形しているために、非常に缶切りを当てにくいが、それでも何とかするのがニーナクオリティーだ。

「そうそう。それが大好物だった武芸科の先輩がいまして」
「ああ。ディック先輩だろう」

 こんな変な物が好きな人間など、そうそういるものでは無い。
 ならばもうディック以外に考えられない。
 そう言えば、貰った人物がディックだと言うことは言っていない。
 これを開けて、みんなで食べる時にでも言えば良いかと作業に集中する。

「良く知っていますね?」
「私を脳筋人間だと思っていたのか?」

 珍しくウォリアスに感心されたので、思わず調子に乗って悪い言葉を使ってしまったが、まあ今回だけだからかまわないだろう。
 この次があるかどうか怪しいのだから。

「ディック先輩の肝いりで作り始めたんですけれどね、なかなかに癖の強い味と香りなもんで、未だに少数生産の貴重品というか、高級品に分類されるらしいですよ」
「ほう。ただでそんな物をくれるとは流石に太っ腹だな」

 雷迅も殆どただで見せて貰ったようなものだし、レイフォンが教えてくれるというのならば、体得できる確率は極めて高い。
 丸儲けである。
 そして、小麦粉を延々と練りつつ殆どこちらを見ないウォリアスが。

「そうそう、それを開ける時に注意事項がありましてね」
「うん?」

 ちょうど夕食の用意が出来たのか、リーリンとレウもこちらにやってきた。
 少し変わった物を夕食に出せるかも知れないと、ニーナは期待を持った。

「内圧が高い上に悪臭が凄まじいので、屋内での開封は厳禁なんですよ」
「ほう。そう言う物なのか? ・・・。なに?」

 奇跡的な確率で、缶切りが引っかかってしまった。
 そして思わずウォリアスの方を向いた拍子に、力が入り金属を打ち破り、そして内圧が解放された。
 
 
 
 目の前には、ハンカチで鼻と口を押さえたレイフォンがいる。
 普段こんな事をされたら、それこそ女性陣が烈火のように怒り狂うところだろうが、残念なことに現在は非常事態の真っ最中なのだ。

「ああ。信じてくれないとは思うのだけれどな」

 その当事者であると同時に被害者であるウォリアスは、女子寮の四人と共にレイフォンの部屋を訪れていた。
 現在女子寮は封鎖されている。
 ニシンの塩漬けの缶詰は、それはもう凄まじい悪臭を振りまくのだ。
 しかも、なかなか臭いが取れないというおまけ付きの凄まじさである。
 と言う事で、清掃専門業者に入って貰って、徹底的に清掃してもらう事となっている。
 現在進行形でないのは、夕食の時間だったからで、作業自体は明日からとなっている。
 再び人が住めるようになるためには、数日かかるという診断結果が出ているほどに、ニシンの塩漬け缶詰は凄まじいのだ。
 そして、ここにいないもう一人は、現在ツェルニ中を逃げ回っているらしい。
 もともと、野獣に育てられたシャンテは、非常に感覚器官が敏感だった。
 そこへ持ってきてあの悪臭の直撃を受けてしまったのだ。
 涙を流し、鼻水を垂らしながら、全力の活剄を使って女子寮の壁をぶち破って脱出。
 そのまま行方不明となっていたのだが、第五小隊が総出で捜索。
 つい先ほど果樹園の側で泣き声を聞いたという情報を得たところだ。
 よほど臭かったのか、あれから二時間以上経っているというのに、シャンテは未だに泣いているのだ。
 ならば、目の前にいるレイフォンの対応も納得できようというものだ。

「全員服を着替えて、これでもかというくらいに身体を洗った後なんだよ」
「そ、そうなんだ?」

 はっきりと疑いの視線でこちらを見るレイフォン。
 ウォリアスだけだったら、間違いなく嘘だと決めつけられていただろう。
 リーリンやニーナがいるから疑われているだけで済んでいるのだ。

「それで、ここに何の用?」

 そう。ここはレイフォンの部屋である。
 二人部屋を一人で使えると喜んでいるという話は聞くが、それでもかなり狭い。
 普段ならば、よほどの用事でもない限りここには来ない人達が、ただ今現在ここにいる。
 そう。非常事態なのだ。
 そして非常事態ならば、贅沢は言っていられないのだ。

「ここに、四人泊めて欲しいのだ」

 代表してニーナが言う。
 残り三人も頷いている。

「無理です」

 即答されたが、それは当然だ。
 ここにはレイフォンが住んでいるのだ。
 そこに四人の女性など放り込むことは、おおよそ不可能である。
 ただ一つの解決方法を無視すれば。

「お前が僕ん所に泊まれば話は簡単だ」

 そう。レイフォンがウォリアスの部屋に泊まりさえすれば、二つのベッドに四人で寝られる。
 狭いだろうが、非常事態ならば仕方が無いし、数日間の辛抱なのだ。
 だが、当然そんな物でレイフォンは納得しない。

「有料の宿泊施設は?」
「断られた」

 そう。着替えて身体を洗ったというのに、有料の宿泊施設に断られてしまったのだ。
 レイフォンの今の状態を見れば、その判断が間違っていないことは十分に納得が行く。
 もしウォリアスが責任者だったら、間違いなく断っていると言い切れる。

「・・・・・・・・・・・・・・・。分かりました」
「済まない」

 長い沈黙の後、レイフォンが渋々と了承してくれた。
 これでやっと人心地つくことが出来る。

「お詫びにニシンの塩漬けを」
「持って帰って下さい、そんな物騒な代物は!!」

 何を思ったのか、ニーナが差し出した変形した缶詰を払いのけるレイフォン。
 容器が破損しなくて良かったと胸をなで下ろしつつ、十分すぎるほどにレイフォンの気持ちが分かる。
 と言うか、ニーナの考えが分からない。
 
 
 
 求めよ、さらば奪い取れ。
 この言葉を残したディックは今、その言葉の通りの行動を取っていた。
 そう。ニシンの塩漬けの缶詰が保管されている倉庫へと侵入し、持てる限り持って逃げ出したのだ。
 殆ど需要がないために、生産量が限られている上に、知っている人間まで極少数となれば、警備など殆どされていないのは当然のこと。
 と言う事で、悠々と盗んで記念女子寮へと侵入した。

「げへへへへへ。俺って強欲だからよ」

 室内は、特有の悪臭で満たされている。
 素人が嗅いだならば、瞬時に逃げ出すだろうこの悪臭こそ、ディックにとってはお袋の味ならぬお袋の臭いだ。
 いや。じいさんの臭いだろうか?
 胸に吸い込みつつナイフを強引に突き立てて、更に臭いをきつい物へと変える。
 これで、もう暫くここは無人だ。
 久しぶりにツェルニにやって来たのだし目的も達成できたので、少し骨休めをしようと思い立った。
 事は昨夜ニーナと会う少し前に遡る。
 ツェルニと縁を結ぶ事を目的にやってきたのだが、ふと思いだしたのはディックが脅して製造を開始させたニシンの塩漬け。
 あまりにも懐かしくなったというわけではないのだが、それでも思いついたらどうしても食べたくなった。
 と言う事で、売っている店を見つけて盗んできたのだが、気まぐれで全部ニーナにやってしまった。
 と言う事で、縁を結び終えて目的を達成した今になって、倉庫へ侵入して更に大量に盗み出してきたのだ。
 記念女子寮にやってきた理由は簡単。
 ここなら確実に食料品があるから、盗むのは簡単。
 もしかしたら、料理された物があるかも知れないから、それとニシンの塩漬けを食べようと思っていたのだ。
 だが、入ってみたら建物はもぬけの殻。
 更に悪臭に支配されている。
 ならばもう、やる事は一つしかない。
 と言う事で、開封した缶詰と夕食らしい料理をつまむ。
 これほどゆっくりと食事が出来るのはずいぶん久しぶりだと、ほんの少しだけ気を緩める。
 ここでもし狼面集なんかが襲ってきたら、それこそ恨み辛みを込めて全滅させるところだが、今日はそんなイベントは存在していないようだ。

「げへへへへへへ。暫くここは俺のもんだ」

 ツェルニの卒業生であるディクセリオ・マスケインは、取り敢えず暫くここで骨休めをすることとした。
 非常に傍迷惑であるが、全く気にしていない。
 
 
 
 その瞬間、何が起こったか全く分からなかった。
 それでも、シャンテは本能的に行動できたのだと思う。
 具体的に言うと、その何かから逃げるという行動を取ることが出来たのだ。
 あと三秒あそこにいたのならば、二度と美味しい物が食べられない身体になっていただろうと、そう確信している。
 だが、それでも、未だにシャンテの目からは滂沱の涙がこぼれ落ち、鼻からは鼻水が延々と流れ続けているのだ。
 あれが何だったのか、シャンテには分からない。
 分からないが、とても恐ろしい物だと言う事は間違いない。
 こうまでシャンテを苦しめる物が、平穏無事な何かであるはずがないのだ。
 そして、シャンテは全力で走り続ける。
 目は見えないし鼻も利かないが、他の感覚器官を総動員して、障害物を避けながら、時々粉砕しながらも全力で走り続ける。
 止まっては駄目なのだ。
 止まったら最後、あの恐るべき何かに追いつかれてしまうから。
 女子寮を逃げ出して数分した頃、走る速度を落としたことがあった。
 あそこから逃げたのだからもう大丈夫だろうと思ったのだが、それはシャンテを追ってきていたのだ。
 目や鼻に降り注ぐ何かが強烈になったのだ。
 正体不明の何かは、シャンテを捉えようと未だに追い続けているに違いない。
 その証拠に、活剄を使って回復をしているはずだというのに、未だに涙と鼻水が止まらないのだ。
 これほど恐ろしい化け物から逃げることなど、出来るとは思えないのではあるが、それでも野生の本能が逃走を選択し続けているのだ。
 止まったら死んでしまうかも知れないのならば、走り続ける以外にないではないか。
 だが、走り続けるにも限度という物がある。
 そもそもが、シャンテの活剄はあまり効率が良くないのだ。
 ゴルネオを凌駕する剄量を持っていたとしても、それはかなりの部分で無駄に消費されてしまう。
 そう。もうすぐあれに追いつかれてしまうのだ。

「シャンテ!!」

 絶望が首筋を撫でた瞬間、最も愛しく頼りになる人物の声が聞こえた。
 目も耳も使い物にならないが、耳には何ら問題はない。
 だからこそ、シャンテには聞こえたのだ。

「ゴルゥゥゥゥゥゥゥ」

 涙と鼻水を流しつつ、ゴルネオの声のした方向へと全力で走り続ける。
 そして、唐突にシャンテの感覚は目の前に障害物が何もなくなったことを認識した。
 これならばゴルネオのいる場所まで一直線だと、そう確信した。

「シャンテ?」

 だが、次の瞬間には、そのゴルネオの声が右後ろから聞こえてきたのだ。
 どうやらすぐそばにいたのに、活剄を使って走っていたために行き過ぎてしまったようだ。
 とはいえ、落胆する必要は全く無いのだ。
 大きく時計回りに円を描けばゴルネオの所にたどり着けるのだ。
 ならばもうやる事はただ一つだけだ。
 ゴルネオのいる場所に向かって全力疾走するだけであるから、最後の力を振り絞って活剄を総動員して、更なる加速をしようとして、そして何かに足を取られた。
 勢いを殺せないまま、身体が前方へと投げ出されつつ、空中で回転する。
 致命的な失敗だ。
 ゴルネオが待っている場所まで、あと少しだというのに、躓いてあれに追いつかれてしまう。
 だが、次の瞬間襲ってきた何かは、今までの恐るべき正体不明の何かとは違った。

「ごぼごぼごぼごぼ」

 息が出来なくなった。
 次の瞬間、シャンテは自分が水の中にいるらしいことを認識した。
 そして不思議に思った。
 正体不明の、あの恐ろしい何かが追いついてきていないのだ。
 それどころか、涙と鼻水が急速に収まり始めている。
 いくら活剄を使って回復させようとしても、一向に収まる気配の無かった、あの恐るべき何かが急速にシャンテから離れて行く。
 だが、驚いている暇はないのだ。
 そう。シャンテが今いるのは水の中である。
 そして、陸上での狩りは十分に心得ているのだが、水の中などと言う物に入ったことはない。
 それはつまり。

「ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ」

 吐き出した空気の分からだが重くなり、どんどんと沈んで行くという現実が目の前にある。
 このまま、あの何かに殺されるのではなく、溺れて死ぬことになるかも知れないと、そう思った瞬間、とても力強い手がシャンテを抱えた。
 そして、驚くほどの速度で上昇して行く。

「ごほごほごほ。ゴルゥゥゥゥゥゥ」

 水面から顔が出て、呼吸を整えた次の瞬間、シャンテは自分を助けてくれた最も頼りになり、最も愛おしい巨漢の首に力任せに抱きついた。
 そこに一切の手加減はない。

「ぐえ!」

 何か変な声がしたような気がするが、今のシャンテにはどうでも良いことだ。
 兎に角恐ろしい体験続きだった今日を生き残れたことをゴルネオに感謝しつつ、抱きついた手に込めた全力を緩めることはしない。
 
 
 
 当然の事、ゴルネオが自分とシャンテを支えきれなくなり、再び水の中へと沈んでしまったが、第五小隊総掛かりで無事に救出された。
 こうして三日続けてシャンテに振り回されたゴルネオと第五小隊の苦労は、報われたのであった。 
 
 
 
 朝日が病室を照らす中、カリアンは目覚めた。
 一事は死を覚悟したが、何とかフェリ以外の人間が駆けつけてくれて、命は助かった。
 とは言え、丸二日近く意識を失っていたらしく、頭の上にある時計で日付を確認したカリアンは、驚いてしまった。

「レイフォン君と同じ程度には、私の生命力は強いのかな?」

 口にしてから気が付いた。
 レイフォンは、治療を受けずに丸二日昏睡していたのだ。
 カリアンは、治療を受けて二日近く昏睡していたのだ。
 この差は決定的である。
 治療が間に合わなければ、今頃本格的に葬式の真っ最中だったかも知れないのだ。
 あまりにも恐ろしい事態に、十分以上に鳥肌が立ってしまった。
 これからは、ゼリー飲料には細心の注意を払おうと、堅く心に誓う。
 だが、油断してはいけない。
 相手がゼリー飲料だけだとは限らないのだ。
 これからは、誰かに毒味をして貰ってからでなければ、水一杯すら口に出来ないかも知れない。
 そんな恐ろしい未来予想図を思い浮かべたカリアンは、今だけは安らかな眠りをむさぼることに決めた。
 そうでなければ、とても耐えられないからだ。
 
 
 
 
 
  解説。
 シュールストレミングについて。
 意味としては、酸っぱいバルト海のニシン。
 世界一強烈な臭いを放つ発酵食品として、一部で有名。
 臭いの強度としては、焼きたてのくさやの七倍近い強烈さだとされているが、俺自身試した事がないので全く不明である。
 リクエストにより登場させようとしたが、オスカー先輩では臭いに負けてしまいそうだったので、レギオス世界最強のトラブルメーカーの大好物となった。
 ちなみに、缶詰後に発酵が進むために、日本では缶詰扱いされていないそうである。
 インターネットなどで手に入るそうなので、度胸のある方は一度お試しください。

  後書きに代えて。
 ディックがこそ泥になっているという突っ込みは、不可ですのでご了承ください。
 それはさておき、実はこの話こそが食料大戦の原点だったりします。
 一応の完成を見たのが、なんと去年の九月と言うから、かなり掲載まで時間がかかってしまいました。
 ディックのおじいさんの特色などで、かなり加筆修正が加わっているのは言うまでもありません。
 まあ、これ以上はやらないつもりですので、ご安心ください。



[14064] 閑話 サイハーデンの戦士達
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/16 20:13


 その日ハイアは病院のベッドの上で悶絶していた。
 レイフォンにこれ以上無いくらいの敗北を喫してから、既に一週間が流れている。
 その間に色々なことがあった。
 生徒会長とか言う銀髪の腹黒悪魔がやってきて、不法入都を見逃す代わりにツェルニ武芸者を鍛えてくれないかと持ちかけられたり、ミィフィの持ち込んだ映像記憶素子を見てしまったミュンファが、なにやら動揺著しくハイアの元から逃げ出したりと、色々あった。
 何よりも驚いたのは、パジャマを着たナルキと遭遇したことだろう。
 そう。生地の薄い服を着ていて始めて分かったのだが、胸付近が膨らんでいるのだ。
 なにやら変な病気でなければ、オカマだとずっと信じてきた警官は、女性だったと言う事となる。
 ミィフィの見下すような視線も、ミュンファの批難の視線も、メイシェンの不満げな態度も、認めることは非常に腹立たしいのだが、レイフォンの怒りも納得が行こうという物だ。
 目があった途端、ナルキに殴りかかられたりしても、あまり文句は言えなかったのだが、犯罪者ではないと言う事になっているために実力行使はなかった。
 もちろん、冷たいと言うにはあまりにもさげすんだ目で見られたが、実力行使だけはなかった。
 もちろん、万全な状態だったら返り討ちに出来るのだが、レイフォンとの戦闘での負傷は思ったよりも後に引いているために、今のところまだろくな戦闘能力を回復できていないのだ。
 今襲われたら、幼生体はおろか、学生武芸者にさえ遅れを取ってしまうだろう程には、ハイアの傷は回復していないのだ。
 そんな中、一週間目にして最悪の人物が入院中のハイアの元へとやって来たのだ。

「よう。兄弟」

 二十代中盤の青年だった。
 黒い髪をやや長めにして、皮肉げな黒い瞳がハイアを見下ろしている。
 着ている服は、最大限譲歩して、着崩しているといった感じだ。
 無駄なく鍛えられたその肉体を見るまでもなく、周りの空気は明らかに熟練の武芸者のそれだ。
 そして、ハイアの記憶の中にこんな兄弟はいない。
 親の記憶などと言う物は無いので、もしかしたらハイアが知らないだけかも知れないが、それでもこんな兄弟はいないはずだ。

「誰さぁ? オレッチに兄弟はいないさぁ」
「ああ? 同じサイハーデンの継承者で、同じレイフォンにぼこられた仲じゃねぇか。かてえこと言うなよ」

 当然のハイアの返答に、当然の様に返された答えで、一気にテンションが下がりまくった。
 サイハーデンらしいと言う事は、その立ち居振る舞いからおおよそ分かっていた。
 同門だからこそ、僅かな空気の揺らぎからでも見分けることが出来るのだが、まさかレイフォンに挑んで一方的に叩きのめされたところまで同じだとは思いもよらなかった。
 それにしては全く悔しそうでないが、人それぞれだからハイアはあまり気にしない。
 だが、次の単語ははっきりと気になった。

「所で、そのレイフォンに一矢報いたくねえか?」
「さあ?」

 ニヤニヤと言うには、やや苦味のある笑みと共に皮肉げな視線が少し鋭さを増す。
 本気であるらしいことは間違いないが、二人掛かりで戦って勝つというのは、ハイアのやり方としてはあまり上位ではない。
 最上の勝ち方としては、当然一対一で戦った末の結果であるが、二対一というのはギリギリ合格ラインと言ったところである。
 ただ勝てばいいと言う訳ではないのだ。
 特に元天剣授受者のレイフォン相手には、戦い方と同じように勝ち方が重要なのだ。
 前回のように、茶髪猫に一方的にボコられた末の敗北とかは、絶対に避けねばならない。
 一度は仕方が無いが、二度目など有ってはならないのだ。

「やるんなら勝手にやって、勝手にぶちのめされるさぁ」

 と言う訳で、この青年の話は断ることとした。
 戦い方や勝ち方もそうだが、なにやら危険な匂いがするのだ。
 そう。例えばあの茶髪猫と同じような、危険な匂いがしているのだ。
 近付かないに越したことはない。

「ああ? 折角ヨルテム秘伝のレイフォン暗殺術を会得したってのによ」
「・・・・・・・。突っ込みどころ満載な危ない話は、絶対にお断りさ」

 ヨルテムと言えば、あの茶髪猫の故郷である。
 それに、秘伝なんて物をおいそれと披露するはずがない。
 更に、暗殺術などと言われてしまった。
 総合的に判断するまでもなく、こんな怪しげで危ない話には関わらない方が良いと結論付けた。

「ああ? なんだてめえ。危ない橋の方を喜んで渡るんじゃねえのか?」
「オレッチはそんな趣味はないさぁ」

 傭兵団の長などと言う職業は、たいがいにおいて危険と隣り合わせな物だ。
 ならば、もっとも重要視すべき事柄は、危険と利益を天秤にかけて判断を下すことだ。
 危険ばかり多くて実入りがない仕事などは、きちんと断るのが優秀な傭兵団長の、最低限の資質と言っても過言ではない。
 そしてこの場合、ハイア個人の趣味が大きく関わっているが、それでも尚、この男の話は危険であると判断したのだ。
 
「成る程な。じゃあ、レイフォンの首は俺が貰っちまうけれど、それで文句は無いよな?」
「かまわないさぁ。ヴォルフシュテインに勝ったら、お前にオレッチが勝って、オレッチこそが最強さぁ」
「ほう。でかい口叩くじゃないか」

 まだ名前も聞いていない、同門の男の視線が、急激に厳しさを増した。
 そして、だらしなく着ていたシャツの胸ポケットへと手が伸びる。
 次の瞬間、ハイアは今までで最も屈辱に満ちた敗北を味わう羽目になったのだった。
 
 
 
 途中経過は全く不明だが、何故かナルキは練武館近くの体育館に来ている。
 入学直後に腹黒陰険眼鏡な生徒会長の取り計らいで、レイフォンと一戦交えてしまった場所である。
 ここにいるのは、ある意味そうそうたるメンバーだ。
 カリアンこそいないが、第一小隊と第五小隊の面々はそろっているし、第十七小隊もフェリ以外は来ている。
 メイシェンやミィフィと言った一般人は来ていないが、当然の様にウォリアスはナルキの隣に座って、ポップコーンを食べつつ観戦するつもりのようだ。
 そして何よりも問題なのは、体育館の中央に佇む二人の存在である。
 そう。イージェとレイフォンだ。
 何時も通りにニヤニヤとした笑いを浮かべたイージェは、自信満々でこの場に望んでいるが、対するレイフォンはやや疲れたような表情で脱力気味に見える。
 対照的な二人である。
 イージェが登場した頃は、二人はよく似ていると思っていたのだが、徐々に本性を現してきたためにこのような構図と相成っているのだ。
 化けの皮が剥がれたというか、ツェルニになじんでしまったのだろうと思う。
 レイフォンが疲れ切っているのは、きっと無理矢理この場に引っ張り出されたからだろう。
 何時も通りに不幸な奴だと、心の中で軽く同情しつつ事の成り行きを見る。

「良く来たなレイフォン」
「来なかったらメイシェンのスカートを毎日めくるって脅しておいて、どの口で言っているんですか?」

 ナルキを瞬殺できるはずのハイアを、激怒したレイフォンを使って廃棄物へ変えたというミィフィの武勇伝は聞いている。
 イージェも同じ道を歩む寸前だったことが分かったが、今回は未遂なので安心だ。
 と言うか、レイフォンと戦うためだけにそんな危ない橋を渡ってしまう辺り、イージェという武芸者の人格が非常に疑わしい。
 このままでは、イージェと同門と言うだけで、ナルキも駄目人間のレッテルを貼られてしまうかも知れないと、そんな恐るべき予想が脳にちらついた。

「うへへへへ。だってよ、そうでもしねえとお前全然戦ってくれないじゃないか」
「嫌だよ。イージェとやると疲れるんだもの」
「うへへへへ。そうかそうか」
「どんな罠張ってるか分からないし」

 イージェと戦った後、確かにレイフォンは疲れ切っているように見える。
 だが、それは実力が拮抗しているからと言う訳ではない。
 どんな悪巧みをされているか分からないという、隣に座っている極悪武芸者と同じ種類の精神的緊張から来る物だ。

「だってよぉ。普通にやったら勝てねえんだもん」
「もんじゃないでしょう! もんじゃ!!」

 このやりとりだけで、レイフォンのやる気は見る見ると減って行くのが分かった。
 既にイージェの術中に填ってしまっているようだ。
 そして、脱出の方法などレイフォンの手にないのも間違いない。

「さっさとやって、さっさと帰りたいんだけれど」
「いいぜ? 今日こそ貴様をぶちのめして俺が最強であることを証明してやる」

 今まで、つい一瞬前まで弛みまくっていたイージェの空気が、恐るべき速度で張り詰めた。
 そして右手が伸び、ベルトに突き刺さっている錬金鋼を引き抜く。
 そして何故か、左手は胸ポケットへと伸びていた。

「イージェ?」
「じゃあ、行くぜ!!」
「イージェ!」
「へぶ!!」

 イージェの左手がひらめいた瞬間、何故かレイフォンが少し慌てて制止したが、全ては一瞬で終わってしまった。
 イージェの左手につままれた、なにやら掌サイズの紙が宙を舞った。
 そして、レイフォンの右手が完璧にイージェの顔面を捉えていた。
 全ては一瞬の出来事だった。

「それは危ないから止めた方が良いよって、もう遅いね」
「ぼ、ぼぞい」

 宙を舞っていた紙片が床に落ちる、微かな音が沈黙に支配された体育館に木霊した。
 もはや何が起こったかさっぱり分からない。
 周りを見てみれば、ウォリアスを除いた全員がナルキと同じように、解説してくれる人間を捜している。
 となれば。

「ウッチンよ?」
「僕が前に使った手は覚えているよね?」
「ああ」

 代表してナルキがウォリアスへと質問をする。
 そして返ってきた答えは、ある意味懐かしい物だった。
 今回と同じ場所で、ナルキも協力してレイフォンに強烈な敗北を叩きつけた、凶悪な作戦だ。
 あの時はメイシェンを使ったが、今回は紙切れだった。
 ならば、白い面を上にして落ちているのは、間違いなく写真だ。

「とても卑猥な写真を見せて、レイフォンを動揺させて、その隙に勝ってしまおうという、対レイフォン戦術の根幹だね」
「・・・・・・・・・」

 全員の視線がイージェを捉える。
 間違っているなどと言う事はあり得ないが、念のための確認は必要なのだ。
 だが、十八才未満は見ない方が良いかもしれない写真に、手を伸ばそうとする猛者は決して存在しない。
 そんな事をしたのならば、この後の学園生活が非常に窮屈になってしまうから。
 その沈黙を嫌ったのか、レイフォンが軽く左手を振りつつ言葉を発するが、それはあまりにも恐ろしい内容だった。

「同じような手をヨルテムで散々食らったから、返し技を身につけたんだ」
「返し技って、そんなもん有るのか?」
「有るよ」

 物理的な技だったら返すことも出来るだろうが、精神面への攻撃は極めて対応が難しい。
 それは、ある意味レイフォンが変革を遂げなければならないと言う事を意味していると思うのだが、知り合った頃から何かが変わったと言う印象はあまり受けない。
 もし変わっていたら、とっくにメイシェンは人妻になっていることだろうし。
 いや。現実はもっと問題に満ちあふれている。
 ヨルテムで散々食らったと言っていた。
 つまり、交差騎士団がこの戦術を多用したと言う事に他ならない。
 ヨルテムが誇る武芸者集団であるはずの交差騎士団が、こんな卑劣な手を多用したという事実に、ナルキは途方に暮れる思いがした。

「・・・・・・」

 だが、団長であるダンの厳つい割ににやけた顔を思い出して、十分にあり得ることだと断言した。
 もしかしたら、ナルキが知らないだけで、世の中には駄目な人間が溢れているのかも知れないと、そう考えてしまう。

「兎に角、卑猥な物を出した人を見たら、即座にぶん殴る」
「・・・・・・。成る程」
「手加減が効かないことが多いんで、かなり危ないから止めようと思ったんだけれど、イージェの方が速かったんだ」
「・・・・・・」

 何故、行動を起こす前のイージェに声をかけたかが、これで嫌になるくらい分かった。
 分かりたくないというのに、十分すぎるほどに分かってしまった。
 気分は最低最悪だ。
 そして、ウォリアスが勝てたのは写真ではなくメイシェンを使ったからに他ならず、危うい勝利だったのだと今になって分かった。

「うへへへ。人から譲り受けた技なんぞ、そうそう役に立たないと言う事が分かっただけで十分儲け物だな」

 鼻血を盛大に流しつつにやけるイージェに、少しだけ感動を覚えてしまった。
 間違いなく気のせいだけれど。
 そして、流れる血をそのままに刀を構え治す。
 まだやるつもりのようだ。

「これからが本番だぜ!!」

 清眼に構えた刀を、横一文字に持って行く。
 そして、そのしのぎを覗き込むような姿勢となり。

「我、不敗也。我、無敵也。我、最強也」

 そう呟いた、イージェの周りの空気が、今まで以上に張り詰め、その身体が一回り大きくなった錯覚を覚えた。
 何かの技を使ったようだが、当然のことナルキには分からない。
 今まで習ったサイハーデンにこんな物はなかった。
 ・・・・・・・。いや。

「ウッチンよ?」
「自己暗示だね」
「だよな」

 漫画で見たことがある。
 しかもかなり昔の奴だ。
 実際にこんな場面に遭遇することになるとは、全くもって思いもよらなかったが、ナルキ自身一度やっているから、もしかしたらヨルテム武芸者のお家芸なのかも知れない。
 凄まじく嫌な予測に、思わず寒気を感じてしまった。

「ネタは漫画だけれどな。俺なりの改良をしてあるから気をつけろよ?」

 ナルキの寒気など知らぬげに話は進む。
 レイフォンを見るイージェの視線はあくまでも透明で鋭く、何よりも恐ろしく研ぎ澄まされていた。
 これこそが、イージェの本気なのだと言う事がはっきりとした。

「自己暗示で、恐怖を押さえ込んだり攻撃衝動を激しくしたりするのは、割と色んな都市でやっていることだね。ただね」
「・・・。ああ」

 漫画でこれをやったキャラは、主役に一撃で倒されてしまったはずだ。
 そして、恐怖心を押さえ込み攻撃衝動を前面に押し出し、潜在能力を引き出したとしても地力の違いは克服できないのだ。
 最終的にイージェの実力では、どう足掻いてもレイフォンの敵ではない。

「良いですよ。どんな技でも好きなだけ使えばいい」

 そう言いつつ、刀を左の腰へと回す。
 そして、左手で刀身を下から支えるように包み込んだ。
 抜刀術。では無く。

「ふははははは!! レイフォン! 貴様の負けだ!!」

 それを見た次の瞬間、イージェが全力で突っ込む。
 その速度は、予め活剄で視力関連を強化していたナルキでさえ、捉えることが困難なほどの速度だった。
 その速度のまま、大上段に構えた刀を。

「ごふ!」

 振り下ろす前に、二歩前へと進んだレイフォンの焔切りが腹筋に食い込んでいた。
 当然の結果である。

「鞘がないことくらい十分に承知していますから。普通に焔切りを使うでしょう」
「へ、へへへへ。そうだよなぁ」

 そう言いつつ崩れ落ちるイージェ。
 当然の結果に、会場を失望の溜息が支配したのは当然のことである。
 だがナルキはそんな失望とは無縁だった。
 ギャグ的な展開に付き合っていられる精神状態にはないのだ。
 とても気になることが二つあるのだ。

「自己暗示って、必要だと思うか?」
「そうだねぇ。使えて困ることはないと思うよ」

 実戦などと言う物は、幼生体との戦い一回きりである。
 ヨルテムでは遠くから見ていただけだった。
 老性体戦では、万が一レイフォンが倒された場合に汚染獣を引き寄せて、罠に落とすための予備戦力として、やはりかなり遠くから見ていただけだった。
 だが、その僅かな経験しか持たないナルキでも十分に分かる。
 汚染獣との戦いは、まさに生存競争なのだ。
 食うか食われるか。
 その戦場で、恐怖で身体が動かないなどと言うことは、有ってはならない事態だ。
 だが、始めて戦場に出る武芸者が、全員冷静に判断して行動できるとはとうてい思えない。
 レイフォンでさえ、初陣の時は恐怖に支配されたというのに、ナルキがそうならないなどとはとうてい思えない。
 幼生体戦は、都市内で支援が十分にあったために冷静に行動できたが、もっと強力な奴との戦いで同じように行動できると言う保証はない。
 ならば、自己暗示だろうと何だろうと使うべきだと思うのだが、ウォリアスは少し否定的な視線の動きでナルキを見る。

「恐怖というのは、適度にあると脳の計算能力が上がって、何時もよりも敏捷に行動できるんだ。それをごっそり無くすのは、あまりお勧めできないかな?」
「そ、そうなのか?」
「そ。僕も老性体戦で使ったけれど、あれはあまり頻繁に使うべきじゃないと思う」
「使ったのか?」

 老性体戦と言えば、ついこの間遭遇した奴のことだ。
 あの時、ウォリアスはただレイフォンが来るのを待っていただけで何かをしていた訳ではない。
 そのはずだ。

「僕が役に立つと言う事は、レイフォンが死んで、僕自身が老性体に食われると言う事を意味したからね。そのための準備をしていた」
「そ、それは」

 今まで考えたこともなかったが、老性体戦でウォリアスは自らの死と引き替えに老性体に大打撃を与えるために、あの場所にいたのだ。
 ナルキ達と違い、ただ一人で荒野の真ん中に。
 ある意味、戦いに夢中になっていたレイフォンよりも、遙かに厳しい環境で自分の死を見続けていたのかも知れない。

「あの時僕は、これは映画で食われても痛くもかゆくもないし、死ぬなんて事はないって自己暗示をかけ続けていた。そうしなかったらいざという時にナパームの入った容器を放り出して、全力で逃げていたはずだからね」

 ナルキは、すぐ隣にレイフォン以上の怪物が座っていることに気が付いた。
 剄脈が小さく、一般的な武芸者の基準では最弱かも知れないが、恐るべき未来予想図を正確に描いて、黙々とそれに備えるという、気が狂いそうな精神状態に耐え抜いた、おそらくツェルニ最強の武芸者が隣に座っているのだ。
 そのウォリアスがあまり使うべきではないというのだ。

「きちんと訓練して、恐怖を克服することの方が重要だね。自己暗示は邪道だし、後々の日常生活に問題が出るかも知れない、麻薬を使った時の効果を自分で発揮するだけだよ」

 言われて見れば、確かにそうかも知れないとも思う。
 最終的には、脳内物質をコントロールして精神状態を変化させるのだから、恐怖を克服するような強力な自己暗示は危険かも知れない。
 それは、また後で考えることとして、ナルキにはもう一つ聞きたいことがあるのだ。
 そしてそれは、ある意味自己暗示よりも遙かに重要な問題なのだ。

「所でウォリアス。是非とも正直に答えて欲しい質問があるんだが」
「なんだい? 僕に答えられる物だったら」

 ナルキの周りの空気が、一瞬にして張り詰める。
 それはこの体育館全てへと伝わり、あんまりな展開で脱力していた武芸科の全員が緊張するのが分かった。
 そしてナルキは、決定的な質問を発する。

「サイハーデンは、駄目人間の大量製造流派かなんかか?」
「っごわ!」

 中央で刀を持ち、イージェを見下ろしていたレイフォンがもんどり打って倒れる。
 剄脈が絡むと、ツェルニ最強の武芸者であることは間違いないが、精神面が著しく不安定で弱いところのあるレイフォンにとって、この質問がどれだけのダメージを与えるか、それは十分に理解しているが、それでも聞かなければとても落ち着けない気分になるのだ。
 そう。ナルキは現在サイハーデンを学んでいるのだ。
 最悪の展開として、ナルキまでも駄目人間になるかも知れないのだ。
 それを避けるべく行動するのは、人間として間違っていないだろう。

「ふむ。そうだね。強い流派など存在しない。いるのは強い武芸者だけだ」

 会場全体が固唾を飲んで見守る中、ウォリアスの声が微かに空気を震わせる。
 そして、この答えは少しだけナルキを安心させた。

「駄目な人間がサイハーデンを納めていると言うだけで、流派自体は問題無いと思うけれど・・・」

 言葉の最後が濁された。
 そしてそれはある意味予想通りだ。
 幼生体との戦いの直後、イージェがいっていた事とも関連する。
 サイハーデンの技を全てを納めると、放浪癖も付いてくるとイージェは言っていた。
 例外は当然あるのだが、それでも間接的に知っている武芸者の多くは生まれた都市を離れて、旅を重ねて生きているのだ。
 つまり、駄目人間大量製造流派だという疑惑を、完全に否定することは不可能。
 そもそも、不可能の証明は非常に難しいのだ。
 俄然不安になってきた。

「取り敢えず、ナルキが頑張って駄目人間以外でもサイハーデンを使えると言う事を、この世界に知らしめるというのはどうだろう? それ以前に駄目じゃない武芸者っていないの?」
「・・・・。いる」

 聞かれて思いだした。
 そう。ヨルテムのサイハーデンの継承者たるイージェの父親は、立派な人物だった。
 武芸者としてはそれ程突出した実力を持ってはいなかったが、武芸に対しては非常に厳しい姿勢を貫く人だったが、それでも駄目人間などとはとうてい呼べない人だったと断言できる。
 子供は決定的に駄目人間だが、父親は違ったのだ。

「少しだけ明るい未来を見られるような気がしてきたよ」
「頑張れナルキ。サイハーデンの命運はお前さんの肩に掛かっているぞ」

 他人事な台詞だが、それでもナルキにとっては十分な励ましだった。
 だが、ふとここでもう一つの危険性に気が付いた。
 そう。サイハーデンを納めた優秀な武芸者は、駄目人間になってしまうのではないかという危険性だ。
 中央付近でぶっ倒れている二人とか。
 折角明るい未来を予測できたナルキだったが、目の前には凄まじい暗雲が立ちこめていることにも気が付いた。
 
 
 
 一部始終をこっそりとのぞき見していたハイアは、オカマ警官ことナルキの懸念を払拭することが出来ない自分に、恐るべき自己嫌悪に陥っていた。
 客観的に見ると、確かにハイアは駄目人間である。
 思わず本能的な発言をして墓穴を掘ってみたり、八つ当たり気味にメイシェンを怖がらせてみたりと、色々と反省するべき所があるのだ。
 イージェというヨルテム出身の武芸者が敗北したことは、これはどうでも良い。
 病室にいたハイアを一撃の下に戦闘不能にした、その手腕は見事としか言いようがなかったが、同じ手をくらい続ければ対抗策を用意するのは当然のことであり、何時までも同じ手が通用することの方が遙かに異常なのが武芸者の世界だ。

「ハイアちゃん?」
「帰るさ。ここにいる理由はもう無いさ」

 一緒に付いてきたミュンファの方を極力見ないように注意しつつ、ハイアな阿鼻叫喚の地獄となり果てた建物からの脱出を試みる。
 そう。サイハーデンの武芸者にとっての地獄から、とっとと逃げ出すのだ。
 イージェの策にまんまと填り、第十一肋骨の先端を丁寧にマッサージされ、剄息も出来ないまま三十秒という長きにわたって悶絶した記憶と共に、この地獄から逃げるのだ。
 別段卑猥な映像などと言う物に興味はない。
 ぱっと見ミュンファにそっくりだったために、思わず突きつけられた写真に注意が行ってしまっただけなのだ。
 断じてミュンファの方が胸が大きそうだなどとは思っていない。
 写真の女性が着ていた服を、ミュンファに着せたら凄そうだなどとは、全くこれっぽっちも思っていないのだ。
 思っていないが、それでも、現状でミュンファと目を合わせることが非常に気恥ずかしいのだ。
 と言う事で、痛む身体に鞭打ちつつ、無理に前だけ向いて背後の地獄から遠ざかるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 ここは地の果てグレンダン。
 強者の天国、弱者の地獄。
 弱肉強食を体現する戦う都市。
 そのグレンダンの外縁部にほど近い、零細武門サイハーデンの道場、そこに併設される居住区域の、部屋の半分近くを占領するベッドの上で、リチャードは唐突に目覚めた。
 グレンダンの学校的に休日ではあるが、朝の鍛錬があるために普段からかなり早起きである。
 武芸者の割に早起きが苦手なデルクとは偉い違いだが、養父の苦手な部分を補佐するのもリチャードの勤めだと思い、かなり速く目覚める習慣が付いているのだが、今度ばかりは異常だった。
 時間がでは無い。
 深夜と呼べる時間に、サヴァリスの襲撃を受けるなどと言う事でもない限り、朝まで目が覚めるなどと言うことは滅多にない。
 時間は何時も通りだった。
 目覚めた場所がでもない。
 気が付いたら見知らぬ都市の、芝生の上で寝ていたとか、汚染物質に支配されていない上に、自律型移動都市が存在していない世界で目覚めた訳でもない。
 時間も場所も何時も通りだった。
 では、何が異常だったのか?
 寝ている人間がである。
 別段、リチャードが別の誰かに変わったと言う訳ではない。
 そう。同じベッドにもう一人入り込んでいただけなのだ。
 しかも、驚くべき事にうら若い女性である。
 だが、喜んではいけない。
 喜べるようなシチュエーションではないし、人物でもないからだ。

「な、何をやっているんですか!!」

 驚き慌て、覆いに取り乱しつつリチャードの腕を抱きかかえるようにして横たわる、黒髪で長身の女性に声をかける。
 強いて救いがあるところを探すとすれば、熱くなかったためにきちんと寝間着で眠っていたと言う事だろう。
 そう。リチャードだけが。

「お早う御座いますリチャード」

 普通に返事をしたように見えるその女性は、薄いネグリジェ一枚をその身に纏っているだけだった。
 思春期真っ盛りなリチャードにとって、それはもはや衝撃を通り越して破滅的な破壊力を秘めていた。
 いや。思春期かどうかは別としても、凄まじく破壊的な威力を秘めていた。
 そう。その女性とは。

「カナリスさん」
「はい?」

 強者の天国グレンダンで、その名を轟かせる天剣授受者の一人にして、女王アルシェイラの影武者であり、更に執務代行をやっているという恐るべき立場にいる女性だったのだ。
 どうしてリチャードのベッドの中にいるのか、それが気になると言えばなるが、それ以上に恐るべき状況であることも認識していた。
 そう。リチャードの感覚で捉えられなかったのだ。
 いや。

「眠っている間は感知できないのか」
「そのようですね」

 平然とした態度を装いつつ、そう答えるカナリスではあったのだが、その頬は隠しようがないほど紅く、瞳が潤んでいるような気がする。
 これはリチャードがどうのこうのではなく、おそらくアルシェイラに無理矢理やらされたせいで、色々と胸の中が荒れ狂っているためだろう。
 つくづく不憫な人である。
 だが!!

「リチャード」
「何ですか?」

 突如として、今までにない厳しい視線で見詰められた。
 それはもう、これからお前を殺すと言われるのではないかと言うくらいに、凄まじく厳しく鋭い視線だった。
 そして、このリチャードの予測はある意味正しかったのである。

「着替えたいので」
「あ? ああ。俺はそっぽを向いていますから」

 女性の着替えというのは、思春期の男の子にとって、かなり魅力的なシチュエーションである。
 いや。男と生まれたからには、一度はゆっくりと観察してみたい状況であると断言できる。
 だが、それをカナリス相手にするほど、リチャードは命知らずではない。

「申し訳ありません」
「気にしなぐぇ!!」

 突如として凄まじい一撃を首筋に貰った。
 サヴァリスと初遭遇した時、デルクに撃ち込まれた奴と比べるまでもなく、こちらの方が遙かに強力だ。
 そして理解した。
 始めからリチャードを眠らせるつもりでいたと言うことを。
 薄れ行く意識の中で、次に目覚められるだろうかという不安がよぎってきたが、それも一瞬でしかなかった。
 
 
 
 おまけ。
 
 
 
 リチャードは死ななかった。
 だが、気が付いたのは昼過ぎであり、更に、近くにある病院のベッドの上だった。
 その日の午後遅く、カナリスが見舞いに来てくれた。
 大量の駄菓子を分け前だと言いつつおいていった。
 アルシェイラも見舞いに来た。
 こちらは、ふがいない奴だとその視線でリチャードを攻撃し続けていた。
 おそらくではあるのだが、アルシェイラがカナリスと賭をしていたのだろう。
 リチャードに気が付かれることなく接近できるかどうかと言うような、そんな下らない賭をしていたのだろう。
 そして、見事に寝込みを襲われたリチャードは、カナリスと一緒のベッドで目覚めるという無様な真似をしてしまった。
 景品の半分ほどを迷惑料と言う事でカナリスから貰ったが、全然嬉しくなかった。
 孤児院の弟や妹たちは喜んで、またもってきてくれとか言われたが、二度とごめんである。
 やはり、天剣授受者と関わったがために、リチャードの周りも、色々と騒動が多発することとなったようだ。
 レイフォンがいてくれたのならば、きっと被害はレイフォンに向かったはずだから、リチャードは安全だったのにと、少しだけ考えてしまったほどには、このところ騒動が多い。
 少しだけ後ろ向きな思考をしたリチャードは、身体と心を治すために早々に眠りについたのだった。
 
 
 
 
 
 
 後書きに代えて。
 はい。短編をお送りしました。・・・・・・・・・? あれ?
 サイハーデンの武芸者が、いかに強くて格好良くて頼りになるかという話を書くはずが、なんでこんな駄目人間が大活躍する話になってしまったのだろう?
 っは!! これはあれか? 魔王なあの娘と村人Aを、読んだからか!! 勇者には勝てないの方なのか!! 分かったぞ!! 妖狐×僕SS(いぬぼくシークレットサービス)を読んだからに違いない!!
 うん。きっとそうだ。断じて俺が駄目人間だからじゃない!!(いや。どんどん嘘くさくなって行くな)
 と言うわけで、第七話の前祝いにこんな話をお送りいたしました。
 とはいえ、七話は少しまじめ成分多めでお送りする予定ですので、ここで飽きないで頂けると嬉しいです。
 
 そうそう。魔王なあの娘と村人Aに、シュールストレミングが出てきました。
 俺の前作では不慮の事故か、せいぜいが不法占拠のネタだったのに比べると、あちらは無差別テロって感じでしたね。
 食べ物なのに、なんでこんなに破壊力満点なんでしょうね、シュールストレミングって。
 
 
 そうそう。これは完全に蛇足なんですが、いぬぼく風のレギオス作品を計画しました。
 配役まで考えたんですよ。
 狐=レイフォン。 白鬼=フェリ。 青鬼=カリアン。 木綿=シャーニッド。 雪=ダルシェナ。 狸=ゴルネオ。 髑髏=シャンテ。
 目玉=ディン。 河童=ハーレイ。 小人=メイシェン。 草鞋=ナルキ。 大蛇=ミィフィ。 等々等々。
 ただ、オリジナルのエピソードを思いつけなかったんで、構想の段階でぽしゃりましたけれど。
 誰か書いてくれませんかね? 僕娘のフェリとか。
 え? ニーナですか? 猫又とか?



[14064] 第七話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/16 20:14


 槍殻都市グレンダンの中央にある王宮にて、女王であるアルシェイラは激怒していた。
 切っ掛けというか原因は愛しのリーリンからの手紙だった。
 手紙が来たこと自体は、全身全霊をもって歓迎すべき事柄である。
 昨今存在しなかったほどの機嫌の良さで封を切ったのだが、その状況は十五秒と続かなかった。
 もし、レイフォンがリーリンを押し倒して出来てしまったというのだったら、切り落として一生かけてリーリンとその子供の面倒を見させてやるつもりだったが、事態は恐るべき方向へと突き進んでしまったのだ。
 いや。ある意味情けない方向へと進んでいるのだ。

「まさか、この時期に廃貴族と遭遇することになるとは、思いもよりませんでした」

 執務を放り出してリーリンからの手紙を読んでいたので、当然カナリスが近くにいるのだ。
 何か言っているようだが、そんな物はどうでも良い。

「レイフォンが敵に回る危険性があります。サリンバンだけでは荷が重いと思いますので、天剣を誰か差し向けるべきではないかと愚考します」

 手紙に同封されていた、小さな紙片に向けて、全力の殺意を込めた視線を叩きつける。
 何かの雑誌の切り抜きとおぼしきそれへと、天剣三人に反逆された時でさえ笑って許していたアルシェイラが、全力の殺意を込めて睨み付ける。
 その視線は極限の集中力で維持しているため、例えデルボネでもおいそれとは察知できないだろう。
 なぜそんな事をしているのかと問われるのならば、非常に話は簡単である。
 無駄とも思える技量を注ぎ込んでいないと、グレンダンを破壊し尽くしてしまいそうだからだ。
 あまりのリアクションの無さを不審に思ったのか、カナリスの視線が少し訝しむ物へと変わったのが分かったが、アルシェイラは自分を抑えるので必死なのだ。

「あ、あの。陛下?」
「ああ? なんだかナリス? 貴様がレイフォンをぶち殺しに行きたいのか?」
「へ、へいか?」

 何言っているのか分からないという顔をするカナリスだが、アルシェイラには余裕がないのだ。
 そう。視線の先には、なにやら仰向けに倒れて泡を吹いている元天剣授受者がいるからに他ならない。
 これが、老性体との戦いの結果だというのならば、笑って所詮その程度だったと流すことも出来た。
 だが、事態はそんな中途半端ではないのだ。
 絶叫マシーンとか言う乗り物で、レイフォンはこんな無様を曝しているのだ。
 一緒に乗っていたリーリンと現地妻は非常に元気だというのにだ。
 例え元と付いたとしても、天剣授受者であったはずの武芸者がこんな無様な姿を曝しているという事実に、破壊衝動がふつふつと沸き上がってきてしまう。

「そうか。お前が行かないというのならば、この私自身がレイフォンをぶち殺しに行ってやる!!」
「お、お待ちください陛下!!」

 当然の反応と理解していても、制止するカナリスに憤りを感じる。
 レイフォンの前にカナリスを血祭りに上げるべきかも知れないと、そう危険極まりない考えが浮かんできた、まさにその瞬間だった。

「陛下におかれましては、ご機嫌麗しくないようですね。もしかして手紙のせいでしょうか?」
「ああん?」

 突如、何の前触れもなく現れたのは、放浪バスの停留所で腐っているはずのサヴァリスだった。
 何時も通りににやけた笑いと共に、悠然と現れたその姿に、更に破壊衝動が高まる。
 だが、ここで当然の妙案が思い浮かんできた。
 ヒントはサヴァリスの口から出てきた手紙という単語だ。

「サヴァリス」
「はい。陛下」

 レイフォンの事情を知っているのならば都合がよい。
 更に、最近毎日夕食のお世話になっているリチャードへの恩返しも出来る。
 レイフォンを殺すことで恩返しというのは、少々問題かも知れないが、リチャード本人が狙われるよりは幾分増しだろう。
 更に、熱狂的戦闘愛好家を満足させることも出来る。
 全てが満足行く素晴らしくも、当然の計画だ。

「ツェルニまで行ってきてな」
「はい?」

 何故か疑問の表情をされた。
 手紙でレイフォンの事を知っているのではないかも知れないが、もはやどうでも良い。

「ちょっとレイフォンをぶち殺してこい」
「は?」

 始めて、生まれて始めて、アルシェイラはサヴァリスの目が点になる光景を目撃した。
 これは珍しいとかも思うのだが、それをゆっくりと観賞している余裕はないのだ。
 隣では、カナリスが顔に手を当てて大きく溜息をついているが、それはこの展開に付いてか、それともアルシェイラがグレンダンを離れることを諦めたからか。

「なんだ貴様? レイフォンを殺すという任務に文句でもあるのか?」
「い、いえ。そのようなことは御座いませんが、如何せん、話の脈絡があまりにもなかった物ですから」
「なに!! 貴様の頭は、話の脈絡など理解できるのか?」
「一応そのくらいの能力は持っています」
「驚きの新事実だな」

 サヴァリスについて新たな発見があったが、それは本筋とは何の関係もないので、見なかったこととする。
 問題はレイフォンだ。

「てっきり、ツェルニで廃貴族らしき物が見付かったという知らせが、こちらにも来たかと思ったのですが、違ったのですか?」
「何故それを知っているのですかサヴァリス?」

 話がここに来て、やっとカナリスが介入したがアルシェイラにはどうでも良いことだ。
 速く話を進めて、レイフォンを抹殺したくて仕方が無い。

「弟がツェルニに居まして、サリンバンの接触を受けたそうですよ」
「成る程。その知らせは確かにこちらにも来ているのですが」
「おや? 陛下がご機嫌麗しくない理由は、廃貴族ではなかったので? サリンバンの団長がレイフォンに挑みかかって、完膚無きまでに敗北したそうですから」
「ああ。その辺も知らされていますが、あまり詳しくは書かれていないですね」

 もう十分だろうと、話に割って入ることとする。
 女王であるアルシェイラが、臣下の会話を妨げないという、最上級の温情を与えたのだ。
 ならば、それ相応の対価を支払うべきである。

「廃貴族などどうでも良い。兎に角レイフォンをぶち殺してこい」
「御意ですが。いかがなさいました?」
「いくら戦うことが好きとは言え、あまりにも唐突すぎましては」

 話が進まないので、リーリンから送られてきた雑誌の切り抜きを二人に向かって見せつける。
 これで納得するだろうとそう確信して。

「? レイフォンが情けないのは何時ものことではありませんか?」
「いや。これは何時もよりも少しだけ情けなさが強いようですね」
「そうだ。何時も以上に情けない姿を晒していることに、我慢がならない」

 別に、ヘタレなのは問題無い。
 実際の戦闘さえきちんとこなしていれば、後はどうでも良い。
 そうでなければ、リヴァースを天剣には選ばなかっただろう。
 だが、今回のこれは、流石に限界を超えている。

「と言う事でサヴァリス。ちょっとレイフォンぶち殺してこい」
「御意ですが」
「なんだ? まだ文句があるのか?」

 やっと話が前に進んだかと思えば、熱狂的戦闘愛好家であり、戦闘狂であるサヴァリスの反応が、今一ぱっとしない。
 これはおおいに計算違いだ。

「ここにかかれている」
「ああ?」
「絶叫マシーンとは何でしょうか?」
「ああ?」

 言われて見て、レイフォンをこうも情けない姿にした、絶叫マシーンという物について、何ら知識がないことを発見した。
 ならば、もう少し条件を付けてみる必要があるのかも知れない。

「ふむ。言われて見れば、確かに絶叫マシーンなどと言う物は知らないな。ならば貴様がその絶叫マシーンとやらを体験してみて、怖いとか思ったら生かしておけ」
「御意」
「何も感じなかったら抹殺しろ」
「承りました」

 そう言うと、とても嬉しそうに部屋を出て行くサヴァリスを見送りつつ、カナリスの視線が少しきついことも認識していた。
 無視しても良かったのだが、気の迷いという奴で相手をしてやることとする。

「なんだ?」
「サヴァリスでは、全力で何も感じなかったと言い張ると思うのですが」
「それは考えられるな」

 戦うこと以外は特に興味のないサヴァリスである。
 全身全霊を傾けて、絶叫マシーンに乗っても何も感じなかったと言い張るかも知れない。
 いや。そう言い張るのは間違いない。

「他の人間を差し向けるべきでは?」
「他って、誰を向かわせるんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。リヴァース辺りを」
「カウンティアも一緒に行くな」
「そうなったら、ツェルニは危険ですね」
「ああ」

 独占欲と嫉妬の権化と言えるカウンティアが、学園都市に行く。
 しかもお人好しのリヴァースと共にだ。
 学生から色々と聞かれて、それに懇切丁寧に答えるリヴァース。
 その姿に我を忘れて、目から衝剄を飛ばして辺りを破壊するカウンティア。
 まるで目の前に起こっているようにはっきりと見えてしまう。

「・・・・・・・・・・・。トロイアットはどうでしょうか?」
「来年から、ツェルニは出産ラッシュだな」

 女たらしであるトロイアットなんぞを行かせたら、即座に軟派に走るに違いない。
 しかも、武芸以上に磨き込まれた軟派のテクニックにかかっては、若い少女達に抵抗の術はない。
 結果は見る前から明らかである。

「カルヴァーンやルイメイは?」
「カルヴァーンは道場があるし、私を放り出しては行きたがらないだろうな。ルイメイは会敵必殺になりかねない」

 レイフォンとルイメイは、個人的に色々と経緯があるのだ。
 特にレイフォンは殆どルイメイを毛嫌いしている節がある以上、ツェルニ全土を焦土と変えて、即座に戦ってしまうかも知れない。
 そんな危険極まりない物を、学園都市に行かせるほどアルシェイラは無茶苦茶ではないのだ。

「え、えっと」
「ティグリスはカルヴァーン以上に、私を監視するつもりだから行かないし、デルボネは論外だな」
「あ、あう」

 理路整然とカナリスを追い詰める。
 こんな機会滅多にないために、非常に楽しい。

「バーメリン」
「ツェルニが見えたら全力攻撃間違い無しだ」
「・・・・・・。残るのは」
「リンとお前だが」

 リンテンスが行くとしたら、それは凄まじい異常事態の予感がするばかりだし、執務をほったらかしにするアルシェイラを残して、カナリスが出掛けるはずがない。
 つまり。

「サヴァリス以外にいないのですね」
「天剣授受者だからな、何しろ」

 人外魔境、変態的変質者の集まり、強さだけを徹底的に極めた異常者集団。
 それが天剣授受者である以上、これは当然の結果である。
 もちろん、そうなるように仕向けたのはアルシェイラ本人であり、それを悔いているという訳ではない。
 いや。むしろ誇りであると胸を張って言い切ることが出来るのだ。

「ふむ」

 もし、この基準で考えるならば、やはりレイフォンは天剣授受者ではなかったと言う事となる。
 確かに剄量自体は、現天剣授受者中最大を誇っているが、それ以外はあまりどうと言う事はない。
 確かに、一目見た技の殆どを再現できる能力はあるが、本来の威力を発揮することはなかった。
 瞬発力はかなり良い線行っていたが、技の奥行きもなく、見た目派手なだけだったと酷評することも出来る。
 ここまで考えて、ふと思う。
 レイフォンに天剣を授けたことは間違いではなかったのかと。
 その時になれば準備は終了している。
 それがアルシェイラの持論だったのだから、焦る必要はなかった。

「・・。まあいいか」

 既に選択は終わり結果が出ているのだ。
 ならば、今のこの事態を見極めて、新たな選択をするほかに出来ることなど無い。
 割り切ったアルシェイラは、リーリンからの手紙を読み返すべくハンモックに身体を乗せた。
 もちろん、カナリスの抗議の視線など完全無視である。
 
 
 
 リーリンの手紙と昼寝を堪能したアルシェイラは、当然の行動としてリチャードの作った夕食を攻略すべく、何時ものように強襲を仕掛けていた。
 夕食を強奪する代償として、近々サヴァリスがグレンダンから居なくなることを伝える。
 恩を仇で返してばかり居ては、何時か毒を盛られかねないから、時々有益な情報も伝えるのだ。

「というぅわけぇなのぉよぉぉ」
「語尾以外も伸ばすな」

 折角可愛らしい喋り方をしているというのに、リチャードは相変わらずつれない反応しかしてくれないし、デルクに至っては出来るだけアルシェイラを視界に納めないように、必死の努力をしている有様だ。
 もう少しこう、何か刺激的な出来事が欲しい今日この頃である。

「でもよ」
「うぅん?」

 そんなアルシェイラの要望がかなったのか、激辛カレーがたっぷりと盛りつけられた皿が、目の前に置かれる。
 近くの安売り店から調達してきたらしい、色々混ざり物の入ったパンと、サラダにデザートというメニューだ。
 期待しているのとは少し違うが、これはこれで有りである。

「天剣授受者に都市外での仕事って」

 当然、任務の詳しい内容は伝えていない。
 むしろ、レイフォンを殺しにサヴァリスを差し向けたなどと、いくら何でも言える訳がない。
 ここまで考えると、やはり恩を仇で返しているのかも知れないと、ほんの少しだけ自己嫌悪に陥る。
 僅かに0,3秒で忘れたけれど。

「特にサヴァリスなんか送って、相手の都市を破壊する以外に何か出来るのか?」
「それは大丈夫じゃない? いくらあの馬鹿でもそのくらいは考えるでしょうから」

 サヴァリス本人にとっては、レイフォンとの戦闘もそうだが、廃貴族がツェルニに出たという状況も、それなりに魅力的なはずだ。
 きっと、廃貴族を我が物にしようと画策するに違いない。
 あの頭でどんな策が考えられるか疑問ではあるが、それでもいきなり都市を滅ぼすような真似はしないだろう。
 おそらく、たぶん、きっと、ツェルニを破壊するなどと言うことはしないはずである。

「うん。そう信じよう」
「・・・・・・・・・・・」

 アルシェイラの心の中を読んだ訳でもないだろうが、リチャードの視線が少し厳しい。
 いや。サヴァリスという人選をしただけで、おおよそどんな内容の仕事か察することが出来るのだろう。

「むしろよ」
「うんうん?」

 豪快にパンをちぎって、カレーに浸してからかぶりつく。
 王宮でこんな事をしたら、あちこちから苦情が殺到してくるだろう食べ方だ。
 そして、こう言う食べ方が出来ることも、ここを訪れる理由の一つである。

「むかついたんでレイフォンを抹殺しに差し向けました♪ って、言われた方がしっくり来る人選じゃないか?」
「・・・・・」

 口の中に物が一杯なので喋れません。
 そう言う態度を全力で取る。
 決して動揺して、超刺激物が気管に入ったりしてはいけないのだ。
 ゆっくりと咀嚼して、味わってから飲み込むふりをしつつ、その莫大な活剄を総動員しつつ、気管に入り込んでしまった激辛カレーの一滴を何とか秘密裏に処理する。
 そして、全てをやり終えた後で、リチャードへと批難の視線を向けるのだ。
 自分、グレンダン女王アルシェイラ・アルモニスは、そんな莫迦なことで天剣授受者を派遣などしないと。

「今、短い時間だったけど、もの凄く剄脈が活発になったよな」
「な、なんのことかなぁぁ?」

 当然と言えば当然のことだが、剄脈の動きを察知できるリチャードには筒抜けだったようなので、全身全霊を傾けて誤魔化すこととする。
 そんなアルシェイラの視線の先で、リチャードの手が緩やかに動く。
 そしてその軌道の先にあるのは、デザートである。
 とても酸っぱい林檎を薄切りにして、たっぷりの蜂蜜に漬け込んだという、恐るべき一品である。
 漬け込んでから三ヶ月という、食べ頃の一品である。
 激辛カレーの後に食べるデザートとしては、最高の一品である。

「シノーラさんよ?」
「な、なにかな?」
「林檎の塩漬けをデザートに食べたいかい?」
「い、いやぁねぇ。塩漬けの林檎なんて、甘く無いじゃない?」

 切り口が変色しないように、塩水を付けるという話は聞いたことがあるが、塩漬けの林檎などと言う物は聞いたことがない。
 美味しいかも知れないが、断じてデザートではないと思うのだ。

「でだが」
「な、なにかな?」
「実際問題、何が有ったんだ? 絶叫マシーンとやらでボロボロにされた兄貴を抹殺に行ったのか? それとも、廃都市で見たって言うおかしな生き物絡みか?」
「あ、あはははははははは」

 リーリンとレイフォンから手紙が来ていたようだ。
 この確率をきちんと計算すべきだったと思ったが、既に後の祭りである。
 きちんと話して理解して貰わなければならない。
 そして、レイフォンの事は半殺しまでだと、サヴァリスに命令を追加しなければならない。
 面倒ごとが増えてしまった。
 
 
 
 旅の準備を終えていたサヴァリスの元へ、アルシェイラがやってきたのは数日前のことだった。
 一日でも早く、一時間でも早く、一秒でも早くレイフォンと殺し合いたかったのだが、残念なことに放浪バスが居なかったために、出発できなかったのだ。
 そして、その間の悪さが、更なる悲劇をサヴァリスにもたらした。
 そう。レイフォンを殺してはいけないというのだ。
 折角強い相手と心置きなく戦えると思っていたのに、これは驚くべき事態の変化である。
 だが、すぐに合点がいった。
 最近、サヴァリスの代わりにリチャードの所で夕食を摂っているアルシェイラが、きっと何か失敗をしでかして妥協せざる終えなくなったのだ。
 ならばもう、肩をすくめて世の中の不条理に溜息をついて諦めるしかない。

「世の中ままならないことばかりですねぇ」

 折角放浪バスの停留所を警護するという、外から来る武芸者と戦いやすい仕事をしていたというのに、犯罪を犯してくれる武芸者というのは、どれもこれも小物ばかりだった。
 溜息一つで吹き飛ばせる程度の、ゴミのような奴らばかりだった。
 そして、憂鬱極まりないその仕事から解放され、レイフォンと殺し合えると思っていたにもかかわらず、最大でも半殺しまでと言われてしまった。
 少しだけ気分を悪くしてしまった。
 ほんの少しだけだ。

「途中で立ち寄った都市でも、滅ぼしてしまいましょうか?」

 軽い気持ちでそんな事を言いつつ、放浪バスへと乗り込む。
 都市を守っている武芸者だったら、グレンダンに来た連中よりはきっと面白いに違いない。
 リンテンスの例を挙げるまでもなく、きっと世の中には強者が大勢いるに違いない。
 それを発掘するためにも、都市を一つ二つ滅ぼしてみるのもまた一興かも知れない。

『アホなこと考えていると、またバス停の守衛をやらせるぞ』
「!! へいか?」

 突如耳元で響いた声に、一瞬身体が浮かびかけてしまった。
 だが、それが念威端子越しであることにも、同時に気が付いた。

「驚かさないでくださいよ。折角自分を腐らせないように苦労しているのですから」
『ふん! 取り敢えず無事に帰ってきたら、好きな老性体と三回くらい遊ばせてやるよ』
「それは、本当ですよね?」
『ああ』

 アルシェイラの確約を得た。
 無事グレンダンに帰り着ければ、老性体と遊べる。
 紆余曲折を経て始まった都市外への旅立だったが、やる気がみなぎってきたのが自分でもはっきりと分かった。

『では行ってこい』
「はい。老性体の件、お忘れにならないように」
『ああ。間違ってレイフォンを殺してしまいましたとか言うのがなければな』
「!! その手がありましたか」

 真面目に、真剣に、何よりも任務を遂行することばかり考えていて、うっかりミスをしましたという基本的な失敗を忘れていたのだ。
 痛恨の極みである。
 そして、今からではそのうっかりも許されない。
 いや。間違って殺してしまったから老性体戦の約束は反故にされるかも知れないが、そこにこそ重大な問題が有ることに気が付いた。

「うぅぅむ? レイフォンと殺し合うのと、老性体三体と、どっちの方が面白いだろう?」

 扉が閉まる直前に出て行った端子に聞こえないように、そっと小さく呟く。
 短い時間に凝縮された、一秒を磨りつぶすかのような戦いと、数日間かけてゆったりと殺し合う戦い。
 どちらの方が、よりサヴァリスを満足させてくれるのだろうかと考える。
 この一事を考えることで、ツェルニまでの長い道のりは退屈せずに済むかも知れない。
 それだけでもサヴァリスにとっては喜ばしいことだ。
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 はい。予測された方も多かったですが、何時ぞやの絶叫マシーンネタが、さらなる地獄をレイフォンにもたらす事となりました。
 ちなみに、林檎の塩漬けなどという食べ物は、今のところ俺は知りません。世界のどこかにあるかも知れませんが、見た事も聞いた事もありません。
 誰かが作って感想を書き込んでくれたりすると、かなり嬉しかったりします。
 林檎の蜂蜜漬けは、今年やってみようかと準備しているところなので、来年頭くらいに感想をお知らせできるかも知れませんが、駄目かも知れないので過剰な期待はご遠慮ください。



[14064] 第七話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/16 20:14


 ふと、レイフォンは恐るべき寒気が背筋を駆け上るのを感じて、思わず振り向いてしまった。
 ツェルニに来たばかりの頃、突如としてリーリンに後ろを取られた時に匹敵するような、そんな恐るべき寒気を感じたからなのだが、幸か不幸か視界に入ったのは、生徒会長室に作り付けられた本棚だけであった。
 いや。これははっきりと危険な兆候である。
 レイフォンの直感がそれを声高に主張しているのだ。
 だが、今は目の前に迫った現実を何とかしなければならない。
 生徒会長室にいるのは、レイフォンとナルキ。
 当然のこととしてここの現使用者カリアンと、その盟友ヴァンゼ。
 そして、何故かフェリとゴルネオである。
 話題となっているのは、廃都市でレイフォンが遭遇した謎の生き物についてだ。
 ツェルニに帰って来て、刺青男を瞬殺した少し後になってから、ゴルネオが廃貴族という物について情報を出してきたのだ。
 本人曰く、ただの与太話だと思っていたのですっかり忘れていたとのことだったが、思い出させた人間が問題だった。

「待たせちまったさぁ?」

 顔の左側に刺青をした、赤毛の男が悪びれた様子もなく、生徒会長室に入って来た。
 ナルキが腰を浮かしかけるが、それをカリアンが手で制する。
 違法酒の組織の用心棒としてツェルニに来ただけで、それ以上の関係がない上に、契約違反という大義名分を得て、こっそりと都市警に情報を渡したりもしていたという、非常に姑息な奴である。
 と言う事で、ナルキと同様レイフォンも友好的に接する必要を感じない。
 メイシェン絡みでは、散々痛めつけたのでもうあまり気にしていないが、それでも友好的にと言うのは無理な話である。
 ナノで少し虐めてみる事とした。

「あれ? 金髪ショートで眼鏡な巨乳の、幼馴染みフェチさんじゃないか」
「ひゃぁ!」

 刺青男こと、ハイアの後ろから入って来たミュンファが当然の様に動揺する。
 少し悪いことをしたかも知れないと反省する。
 ミュンファに対してだけであるが。
 ハイアの方は、さほど動揺していないので少し悔しい。

「そのねたはもういいさぁぁ。ヴォルフシュテインは根に持つタイプさ?」
「元だよ」

 思わず、全力で攻撃してみじん切りにしてしまいたくなったが、その衝動を全力で抑えつける。
 未だにナルキをオカマだと信じ切っている辺りにも、手加減する理由を感じないし。
 そんな、弛んでいるのか緊張しているのだか分からない空気を、カリアンの咳払いが払拭する。
 そう。事態は割と深刻な方向へと突き進んでいるのだ。

「今日集まって貰ったのは、ツェルニの暴走にどうやって対応するかを話し合うためだ。都市の運行そのものに我々は関わることが出来ない。だが、手をこまねいている訳にはいかないのも事実なのだよ」

 そう。サリンバン教導傭兵団からもたらされた情報が事実ならば、ツェルニは汚染獣の群れに向かって、まっしぐらに突っ込んでいる最中なのだ。
 汚染獣によって都市を滅ぼされ、狂おしき憎悪によって変革を遂げた電子精霊が、ツェルニに影響を与えていると、ハイアは主張している。
 現在、フェリが都市外へと念威端子を飛ばして、サリンバンからの情報が正しいかを確認中だ。
 どうやって汚染獣の存在を確信したかなどの情報は、まだツェルニ側にはもたらされていないが、ことがことだけに十分な時間をかけて準備しなければならない。

「確認しました。雄性体と思われる個体が十二、それ程の大きさではありません。ツェルニの進路上で仮死状態です」

 折も折、最悪の情報がフェリから届けられた。
 溜息をつくカリアンとヴァンゼ。
 難しい顔を続けるゴルネオ。
 隣のナルキは、はっきりと強ばった表情をしている。
 それは当然なのだろうと、ここ一年以上にわたって一般の武芸者の感覚と接してきたレイフォンは思う。
 何しろ、相手は雄性体が十二。
 それ程の大きさではないと言う事から、一期か二期。
 レイフォンだったら、倒すだけだったらそれ程問題のある相手ではない。
 とは言え、全く問題がないという訳ではない。
 何よりの問題となるのは、数が多いから、万が一突破された時のことを考えなければならないと言う事。
 もし、持っているのが天剣だったのならば、力押しでどうにでもなる相手だが、今手元にヴォルフシュテインはないのだ。
 そしてこれが三ヶ月前だったら、とても厳しい状況だっただろうが、今は違う。

「それでレイフォン君」
「はい」

 そして、暗い空気に満たされた執務室に、凜としたカリアンの声が響く。
 そこには都市の責任者としての義務感や責任感と共に、レイフォンに対する厚い信頼があるように思える。
 それが演技かどうかは分からないが、それでも、信頼されているという事実は少し嬉しい。

「ツェルニの戦力で撃退できるかね?」
「少々厳しいですが可能です」

 三ヶ月前だったのならば、レイフォンは不可能だと答えることしかできなかった。
 だが、今は違う。

「第一中隊と、第二中隊は前線に出せると判断します。それぞれ一体ずつを相手にして貰います。第三中隊は念のためにツェルニの防衛に置いておく必要があると思いますが」

 ヴァンゼの指揮する第一中隊は、第一、第二、第九、第十二小隊で編成されたバランスが取れた中隊だ。
 ゴルネオの指揮する第二中隊は、第五、第七、第十三、第十五小隊で編成された打撃力重視の部隊だ。
 そして、シンの指揮する第三中隊は、第四、第八、第十四、第十六小隊で編成された連携と陽動を主眼に置いた中隊だ。
 それぞれ、雄性一期ならば何とか倒せる程度の実力を、ここ最近取得してきたとレイフォンは評価している。
 レイフォンを相手に訓練してきた中で、自然発生的に生まれた中隊という非公式の精度が、今回の汚染獣戦では十分に役に立つこととなった。
 だが、当然問題もある。
 そう。現在十六個の小隊があるのに、名前が挙がったのは十二個だけであるとか。

「第四中隊は?」
「駄目です」

 残る第三、第六、第十一、そしてレイフォン所属の第十七の四小隊で編成される第四中隊は、残念ながら戦力として計算することが難しい。
 第三小隊のウィンス指揮下で訓練をしているのだが、指揮官の戦い方が真っ正面から攻めるという物のために、汚染獣と戦うのには適さない。
 全滅覚悟でなら使えるだろうが、そんな事は最後の最後の手段として取っておくべきだ。
 と言うか、出来るだけ使いたくない。

「ふむ。では、二個中隊とレイフォン君で汚染獣を始末できるのだね?」
「確認された奴だけならば、問題無いはずです」

 犠牲者が出るかどうかは断言できない。
 いや。おそらく死者が出るだろうと予測できる。
 恐ろしく運の悪い事態というのは、何処の戦場でも起こる物だし、それを一々恐れていては何も出来ない。
 だが、今までの訓練通りの動きが出来るのならば、最低限レイフォンが他の汚染獣を倒して来るまでの時間稼ぎは十分に出来る。

「そうなるとアルセイフが十体を相手にすることとなるが」
「バックアップがしっかりしているので、問題はないと思います」

 汚染獣のことだけを考えて良いのだったら、レイフォン一人で十二体全てを始末することも出来る。
 例え、天剣無しの状態だったとしても、何とかなるのだ。
 だが、それでは武芸科全体としては意味が無くなってしまう。
 何よりも、ツェルニに直接的な被害が出てしまうかも知れない以上、十分なバックアップや防御態勢は必要だ。
 第三中隊を残したのはそのためだし、都市外でのバックアップもグレンダン時代を圧倒しつつある。
 いや。グレンダン時代にバックアップなんて物はなかったが。
 それはそれとしても、作業指揮車を始めとする都市外戦支援装置はここ最近、非常な速度で充実している。
 老性体との戦いが、いかに衝撃的だったかを物語る事実だろう。

「少し良いさぁ?」
「何だね、ハイア君?」

 話がまとまりかけ、準備に向かおうとした矢先、緊張感を欠く何処かの、誰かの声が部屋に流れ出てきた。
 気にせずに退室しようかとも思ったが、残念なことにそう言う訳には行かないことも、十分に理解しているのだ。

「オレッチ達は情報を提供するだけで良いのさ?」
「いや。君達には第四中隊を始めとする武芸者の教導を頼みたいのだがね」

 そう。サリンバンは教導傭兵団なのである。
 実際に武器を取って戦うことも出来るし、誰かに教えることもその仕事の内なのだ。
 そして、重要な事実として、傭兵として雇うための予算を、ツェルニは用意できない。
 それならば、教導の方に予算を使って、自分の所の武芸者を強くした方が、遙かに有意義な使い道と言えると判断された。
 そして、その判断をレイフォンは支持しているのだが。

「ああ。それはいいけれどさ。家の連中も腕が鈍ってしまいそうだから、今回だけ格安で仕事を受けてやっても良いさぁ?」
「ほう? それはまた急な申し出だね」

 カリアンの視線が八割ほど厳しさを増した。
 それを受け流しつつ、ハイアの視線がレイフォンを捉えていることに気が付いた。
 それはつまり、まだレイフォンよりも自分の方が強いのだと主張したいのだ。
 今度は対汚染獣という環境でそれを証明しようとしているのだと、それが分かった。
 だが、次の瞬間ハイアの視線はレイフォンから離れて、隣に座っているナルキへと向けられた。
 この瞬間、次にハイアが何を言い出すのか見当が付いたが、レイフォンには反対する気は無かった。
 何時か来るはずの物が、突如としてやって来たと言うだけであり、覚悟を決める時間と参戦するかどうかを決める権利が、ナルキに有る分、まだましな状況だ。

「それと提案なんだがさぁ」
「うん? 私をお義兄さんと呼びたいというのならば、断固お断りだよ?」
「だれも、あんたみたいな腹黒そうな奴を親戚にしたいなんて思ってないさ」

 このハイアの意見だけ、レイフォンは全力で同意である。
 生まれつき付き合っているフェリでさえ、真剣に頷いているところを見ると、実家でも相当腹黒かったのだろうと判断できる。
 少し傷付いた表情のカリアンだったが、すぐに何時もの柔和な笑みへと切り替わった。
 それを確認したのか、ハイアが予想通りの提案をする。

「そっちのオカマ警官を家で使ってみたいのさぁ」

 次の瞬間、ミュンファが席を立ち、連続で頭を下げて謝りだし、ナルキの右手が剣帯に収まった鋼鉄錬金鋼へと伸び、レイフォンが即座に鋼糸を復元した。
 やはり、前回きちんと息の根を止めておくべきだったと後悔しつつ、ハイアの周りを鋼糸で取り囲む。
 血の一滴も残さないように、全てを衝剄で粉砕し、鋼糸に剄を走らせた熱で焼き尽くすために。

「ああ。ゲルニ君は女生徒なんだがね?」
「さぁ? 知っているさぁ。だけどオレッチの中ではそいつはオカマ警官さぁぁ!!」

 最終的に、ミュンファの右手が一閃。
 ハイアの後頭部をペチリと叩いて、それ以上の暴言を妨げる。
 それを見たレイフォンは、小さく舌打ちをしつつ完成間近だった陣を解いた。
 だが、ナルキは少し違った反応を見せている。
 そう。今の話の中心はどう考えてもナルキである以上、笑って済ませるという訳には行かないのだ。
 オカマ発言もそうだし、参戦の話もそうだ。
 だが、答えは決まっているようなものである。
 そう。汚染獣との戦いは、本来避けて通れない。
 そんな道理はグレンダンを出た時に捨てたはずだったが、それでもレイフォンは今も戦い続けている。
 そして、ナルキも武芸者である以上、戦う心構えは出来ているはずだ。
 レイフォンの弟子ならば尚のこと。
 そして、やはり、予想通りの返答がナルキの唇から流れ出す。

「参加するのはかまわないが、私はそんなに優秀な方じゃないと思うが」
「さぁ?」

 しかし、これに疑問符を投げつけたのは、何故かハイアだった。
 そして、ミュンファも少し意外そうな表情でナルキを見詰めている。
 ヴァンゼとゴルネオは頬を搔いたりして、どう反応して良いか分からない様子だ。
 レイフォンが見る限り、ナルキは十分に優秀な部類に入ると思うのだが、どうも本人はあまりそう思っていないようだ。

「い、いや。一年の中ではかなり優秀だと思うけれど、そんな判断基準全く意味ないはずだ」

 若干苦しげなナルキの言い訳を聞きつつ、一年の中で優秀かどうかに意味がないという認識には同意できた。
 サヴァリスではないが、汚染獣と戦えない武芸者などゴミも同然だと、レイフォンも思う時がある。
 もちろん、他にも武芸者が必要とされる場面は多くあるのだが、話がややこしくなるので考えないこととした。
 目下の問題はナルキが優秀かどうかと言う事柄だし。

「・・・・。オカマ」
「・・・・殺すぞ」
「どうでも良いさ。それなりに使える腕だってことは、このオレッチが保証してやるさ。ヴォルフシュテインに習ったさ。そんなに無様な腕に仕上げるはずがないさ」
「それは同意します」

 ハイアの断定に、レイフォンも同意を示す。
 一年以上にわたってレイフォンが鍛えてきたのだ。
 元々活剄の切れなどはあったのだし、その後の鍛錬で実力は十分に伸びている。
 もちろん、汚染獣に単独で挑めなどと言ったら、瞬殺されてしまうだろうが、陽動などは十分にこなせるのだ。
 だが、次のハイアの言葉を聞いて、理解不能状態へと陥った。

「それに、オカマを推薦してきてる奴もいるさぁ」
「・・? なに?」

 推薦するという行為は理解できるが、ナルキをハイアにとなると話はかなり違ってくる。
 だが、三秒後、レイフォンは一人だけそんな事をする人間を思いつけた。
 そう。ヨルテム出身の放浪武芸者であり、サイハーデンの継承者でもある少々変わった人物だ。

「イージェ」
「そうさ。俺が付き添うからお前んところで使ってやってくれないかって頼まれたさ。オレッチとしては別段断る理由はないさぁ」

 同じ傭兵であり、サイハーデンの継承者である二人ならば、さぞかし意気投合しただろうと、そう確信できる。
 そして、仲間を増やそうとしてナルキを巻き込んだ。
 全てに納得が行くという物だ。
 本人は迷惑かも知れないとは全く考えない辺りにも、二人が意気投合した痕跡が見えるような気がする。

「ナルキ?」
「・・・。出撃します」

 そして、最終的に戦うかどうかを決めるのは、ナルキ本人の決断と言う事となる。
 だが、ここで大きな問題が有る。
 汚染獣との戦いは心配していない。
 レイフォンが一年以上鍛えてきたのだし、十分なバックアップと熟練者による連携の補助を期待できる。
 そう。問題は汚染獣ではなく。

「メイシェンが泣いて縋ってきたら、何とかするんだよ」
「う、うん。何とかしてみる」

 そう。問題はメイシェンなのだ。
 老性体戦の時もそうだし、廃都市探索の時もそうだが、ある意味ナルキを伴ってレイフォンは戦場へと向かっているのだ。
 これは、メイシェンにとって凄まじい精神的な負担となることは間違いない。
 更に悪いことに、今回は間違いなく実戦に放り込まれるのだ。
 メイシェンがどんな事になるか、十分以上に予測できようという物だ。
 そして、この問題は他人事ではないのだ。

「レイとんも、メイッチに泣かれても自分で何とかしろよ」
「何とかしてみるよ」

 当然だが、ウォリアスに知恵を借りるつもりなのは当然である。
 貸してくれるかどうかと言う問題は、この際考えない。

「では、ツェルニからは第一、第二中隊と、レイフォン君とゲルニ君を前線に出すと言う事で良いかね?」
「かまわないさぁ。でも、少し家で訓練していった方が良いさぁ」
「それはそうだね」

 善は急げと言う訳ではないだろうが、会談終了を待たずにナルキはハイアに連れ去られてしまった。
 今度の実戦を終えて帰ってきた時、ナルキがどう変わっているかというのを楽しみにしつつ、レイフォンの注意はカリアンとヴァンゼ、ゴルネオへと向かう。
 そう。ツェルニが暴走しているとなると、この先も戦いが続くことになるのだ。
 もはや、グレンダンと同じ状況だと考えなければならない。

「それで、ツェルニの暴走なのだが、どう対処したらいいと思う?」
「うぅぅむ。これは、俺達にはどうしようもないな」

 カリアンの問いにヴァンゼが苦り切った表情で応じる。
 そう。都市の最重要区画と言うべき電子精霊については、今の人類は全く何も知らないのだ。
 絶望的な状況だと、レイフォンを含めた三人がそう思った瞬間。

「試してみても良い方法があるのですが」
「ゴルネオ? 何かいい手があるのか?」
「良い手かどうかと問われると、危険極まりないとしか答えられませんが」

 ヴァンゼに答えたゴルネオの視線が、レイフォンを捉える。
 そして、凄まじい提案をしてきた。

「グレンダンへ援軍を頼みます」
「・・・・・・・・・・・。まさか」

 ゴルネオが何を考えているか、それが直感的に分かってしまった。
 今回の汚染獣程度ならば、レイフォン一人でも何とか片を付けることが出来る。
 だが、この先のことまでは全く分からない。
 そう。レイフォンは極めて強力な武芸者ではあるが、最終的には人間であり、疲労することは間違いないし、体調を崩すことだってあり得る。
 それを補う方法として中隊を正式に編成することも検討されているが、それでもレイフォン一人との戦力差は絶望的に開いたままだ。
 そう。レイフォンが倒れた時がツェルニの終演の時だと言っても過言ではない。
 解決方法がないように見えるが、実はある。
 外から強力な武芸者を呼べばいいのだ。
 そして、幸いにしてゴルネオとレイフォンには十分すぎるほど優秀な人材に当てがある。
 性格や人格については、非常に問題が有ることは確かだが、ツェルニにえり好みをしている余裕はないのだ。

「サヴァリスさんは呼ばないでくださいよ」
「当然だ。兄さんを呼んだらお前と戦わせろとか言い出すに違いない」

 そう。グレンダンから天剣授受者を借りてくればいいのだ。
 いや。天剣授受者である必要はない。
 熟練した武芸者を二十人借りてくるだけで、それだけでも用は足りるのだ。
 問題はいくつもあるが。

「何を対価に差し出すのだね? 自慢ではないが学園都市にそれ程の余裕はないよ?」

 そう。カリアンが言うように報酬がないのだ。
 サヴァリスならば、最終的にレイフォンと戦わせると言えば来るかも知れないが、この選択肢は最後の最後である。
 レイフォン個人としては、絶対に取りたくないが、ツェルニに余裕はないのだ。
 ならば、他の代金を用意しなければならない。
 そしてもう一つ。

「それ以前に、間に合うのだろうか?」
「それは、何とも答えられません」

 そう。レイフォンがへたばる前にグレンダンからの援軍が来なければ、結局のところ何の意味もない。
 大きな問題は以上の二つだが、これを何とか解決しなければならないのだ。
 最速の方法として、グレンダンが是非とも欲しいと思うような報酬を、グレンダンに送り届け、その代金として優秀な武芸者を送ってもらうと言うのがあるが、こんな幸運が積み重なったような手は当然取れない。
 最低限、交渉をする人間と一緒に送らなければならないだろう。
 問題ばかりだからと言って、何とかしなければならない。
 そこでふと思いだした商品があった。

「複合錬金鋼はどうでしょうか?」
「ふむ。通常の錬金鋼を遙かに超える強度と汎用性は、十分に商品価値としてあるだろうが、レイフォン君のような使い手がグレンダンにいるのかね?」
「・・・・・・・・・・・・。残念ながら」

 レイフォンのように、技のバリエーションが豊富な武芸者など、いくらグレンダンでも居ない。
 複数の武門で技を修めた武芸者はいるが、その場合でも接近戦か遠距離戦かどちらかに偏るのが普通だ。
 ならば、複合錬金鋼の汎用性はさほど意味をなさない。

「簡易・複合錬金鋼ならば、何とかなるかも知れません」
「ふむ」

 そう。形状を一度決めてしまうと変更は出来ないが、その分軽量化に成功している錬金鋼ならば、商品価値は高いように思う。
 もちろん、通常の錬金鋼の限界を超える剄の持ち主など、天剣授受者以外には居ないから、オーバースペックのような気はするが、強度や設定の幅広さは非常に魅力的だろう。

「簡易・複合錬金鋼を対価として差し出すとして、問題は交渉に行く人間だね」

 他の商品となると、グレンダンが欲しいと思うような物をツェルニは持っていない。
 と言う事で、こちらはおおよそ決まったのだが、問題は援軍を頼むために誰がグレンダンへ行くかだ。
 ベストな人選はカリアンなのだが、非常時に生徒会長不在ではツェルニを維持することは困難となる。
 次点としてあげられるのは。
 カリアンとヴァンゼ、フェリとレイフォンの視線が集中する。

「・・・・。俺ですか?」
「そうだよ、ゴルネオ・ルッケンス君」

 名門ルッケンス家の次男として、それなり以上のコネをもったゴルネオならば、あるいは目的を達成して帰ってくることが出来るかも知れない。
 レイフォンの方が知名度はあるのだが、残念なことにグレンダンから追放された身であるので、交渉など不可能だ。
 いや。そもそもの事実として、レイフォンに交渉ごとなど出来ようはずが無い。
 消去法でゴルネオなのだが、実はこれにも問題が有る。

「第二中隊を指揮する人間がいなくなるし、そもそも戦力として重要な君を派遣することは非常に大きな賭になるが」

 第二中隊の指揮だけの問題ならば、オスカーに任せてもかまわないだろう。
 だが、汚染獣を倒すための打撃力としてのゴルネオはツェルニにとって貴重である。
 この人選も、消去法と言うよりも苦肉の策でしかない。
 そして、ここまで話が決まった状況で問題になるのが。

「実行して、援軍を得られるだろうか?」
「難しいでしょう」

 カリアンの問いに、ゴルネオが答える。
 最悪の結果として、ゴルネオがグレンダンから帰る前にツェルニが滅ぶかも知れない。
 暗い問題しかないが、何もせずに滅びを待つ訳には行かないのだ。
 そして、ゴルネオの出発が決まったところで今回の会議は終了となった。
 放浪バスが来たならば、即座に出掛けられるように準備をしつつ。
 
 
 
  後書きに代えて。
 まるまる一話会議だった。まあ、それはおいておくとしても、かなり無理のある展開だったのは否めない気がする。
 確かにツェルニは戦力不足だけれど、グレンダンが貸してくれるかどうかという問題に対して、しっかりと考証しているかと聞かれれば、はっきりと殆どしていないと答える事が出来る。
 うん。何ともいい加減な話になってしまった。誠に申し訳ない。
 とはいえ、生き残るためにだったら殆どどんな事でもするのがカリアン達であると思うので、このくらいは考えただろうと、この話を作ってみました。
 
 ああ、そうそう。三頁目はものすごく卑怯な展開になりますので覚悟をしてください。



[14064] 第七話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/16 20:14


 暗い内容の会議が終了したので、気分転換もかねてレイフォンは軽く散歩をすることにした。
 今のツェルニは、まだ身近に迫った危機など知らないために、非常に何時も通りの状態である。
 その活気に溢れた空気を壊さないように、気配を半ば程まで消しつつ町を歩く。
 数日後には、何時もの都市外作業指揮車に乗って戦場へと向かわなければならないが、それはまだ先のことだと強引に割り切る。

「!!」

 内心の焦りを始めとした色々な感情を表に出さないように注意しつつ、ゆっくりと歩いていたレイフォンは突如としてすぐ後ろに気配を感じた。
 一般人からしたら、すぐ後ろという訳ではない。
 だが、武芸者にとっては一秒を磨りつぶす程度の時間で届いてしまうと言う、至近距離だ。
 もちろん、活剄による肉体強化や、衝剄による遠距離攻撃、更には化錬剄による間接攻撃をされれば瞬時に反応する自信はあるが、それでも攻撃の意志を持った人間の接近を感知できなかったことが驚きだ。
 つまり相手は熟達の武芸者。
 それを踏まえた上で、慎重に気配を探ると同時に、何時でも剄を爆発させられるように準備を整える。
 ここは一般人が大勢歩いている場所である。
 こんな場所で戦うことは避けなければならないが、被害を最小限に食い止めるために、先制攻撃をすることまで視野に入れておく必要はある。
 だが、それも相手がどんな武芸者なのかを把握してからのことだ。
 歩調も呼吸も変えないように細心の注意を払いつつ、気配を読むといくつか解ったことがある。
 相手はおそらく一人である。
 そして、おそらく射撃系の武器を使わない。
 レイフォンとの距離の取り方から判断して、接近戦を主体にした戦い方が得意だ。
 そしてなによりも、相当の手練れである。
 戦って負けるとは思えないが、力を制限した状態ですぐに片が付くとも思えない。
 そこまで確認したレイフォンは、何気なさを装いつつ人通りの少ない方向へと進路を変える。
 当然、追跡者もきちんと付いてきている。
 胃の痛くなるような追跡劇を五分ほど続けると、人通りが殆ど無くなった。
 もう少し進めば、開けた場所へと到着する。
 この事実から、追跡者はレイフォンにしか用事がないことがおおよそ確定した。
 ふと、ここまで来て疑問に思う。
 相手は誰なのだろうかと。
 サリンバン教導傭兵団の関係者である確率は高い。
 レイフォンの事を知っていなければ、こんな面倒なことをするはずがない。
 だが、サリンバンの関係者ならば、もう少し直接的に行動をしてくるとも思う。
 何時ぞやのハイアのように。
 それも、もうすぐ分かるはずだと精神を戦闘モードへと入れ替える。
 油断していて良い相手ではない。
 もしかしたら、ハイアよりも強力な武芸者かも知れないのだ。
 手頃な角を曲がった瞬間、最小限の剄で千斬閃を発動。
 分身をそのまま歩かせつつレイフォン本人は殺剄をして、暗い場所へと隠れる。
 目論見通りならば、目の前を追跡者が通りすぎることになる。
 外れて戦闘となっても、人通りが少ないこの場所ならば、被害は最小限で済ませることが出来る。
 瞬時に判断を下して、青石錬金鋼に手をかける。
 本当ならば、簡易・複合錬金鋼を使いたかったのだが、ハイア戦で駄目にしてしまったためにキリクに散々怒られ、ただ今現在新しいのを制作中なのだ。
 なにやらハーレイが張り切って改造をしているらしいし、どんな物が出来上がってくるか楽しみではあるのだが、手元には青石と鋼鉄しかないのだ。

「!!」

 空気を揺らさずに呼吸すること五回。
 目の前に人影が現れた。
 その人物は白髪だった。
 おそらくデルクよりもやや年上だろう。
 そして、間違いなくデルクよりもかなり強い。
 殺剄をしている訳でもないのに、その存在感は空気に溶け込み、並の武芸者ではすぐ後ろに立たれても気が付かないだろう。
 その立ち居振る舞いは、基本的にデルクやレイフォンと同じだ。
 それはつまり、ハイアと同じサイハーデンの継承者だと言うことを意味する。

「!!」

 僅かに動揺してしまったために、殺剄が弛んでしまったようだ。
 空気に溶け込んでいた動きから一点、白髪の男性は隙のない動きで剣帯へと手を伸ばし、基礎状態の錬金鋼を引き抜きかけている。
 遅れる訳には行かない。
 手をかけていたために、刹那の間遅れたがほぼ同時に動き出すことが出来た。
 サイハーデン刀争術 虚蠍滑り。
 半復元状態の錬金鋼に剄を流すことによって、極薄の刃を形作り刹那の間維持することで、予測不能な斬撃を相手に叩きつけることが出来る技を放つ。
 いや。放とうとした。

「う、うわ!!」

 目の前の白髪の老人は、抜きかけた錬金鋼からあろう事か手を放し、そのまま掌をこちらに向けて肩の辺りまで持って行ったのだ。
 左手も同様の位置と形で止まっている。
 それはつまり、戦う意志がないと言う事の表明に他ならず、そんな人間に間違ったとは言え攻撃を放つことは出来ないのだ。
 慌てて復元直前だった錬金鋼を明後日の方向に向けて、刀が形作られるのを待つ。
 実はこの瞬間、全くの無防備になっているので、ウォリアス並に卑怯な方法で攻撃されるのではないかと心配したのだが、今回杞憂で終わったようだ。

「いや。これは大変失礼しましたヴォルフシュテイン卿」

 微かな頬笑みと共に、落ち着いて良く通る声が振ってきた。
 この瞬間、やっとレイフォンは相手の顔を正面からはっきりと見ることが出来た。
 そして、思い出したくない顔との共通点があることを認識。
 そう。老人の顔、その左側に刺青があったのだ。
 どっかの誘拐犯と殆ど同じ物が。
 つまりこれは、ハイアの身内である。

「元ですよ」

 とは言え、ハイアとは違って礼儀正しい人のようだったので、つっけんどんな対応は控えることとした。
 デルクよりも年上に見えるというのも、判断を後押しする理由となったことは言うまでもない。

「いえ。私にとっては、貴男は今もヴォルフシュテイン卿なのです」

 今にも跪きそうなその姿におおいに恐縮してしまった。
 天剣は剥奪されたのだ。
 それはとても不名誉なことであると、それはレイフォンにも分かる。
 後悔も反省もしていないが、現状は正しく認識していると思う。

「心苦しい言い方をお許し頂けるのならば、デルクの不甲斐なさのために貴男は道を踏み外したのです」
「そんなことは!!」

 咄嗟に反発してしまったが、相手はそれを両手を挙げることで、柔らかく受け止めてしまった。
 その対応一つとっても、世界という現実の中で、どれだけの修羅場をくぐり抜けてきたかが理解できようという物だ。
 そして一つ、気になることがあるのも事実だ。

「デルクは昔から酷く不器用でしたからね。それはヴォルフシュテイン卿にも言えることですし、ハイアはこれ以上ないくらいに不器用ですから、もしかしたらサイハーデンの武芸者には共通して言えることかも知れませんが」

 そう。目の前の老人の言い方はデルクを良く知っている者だったのだ。
 それはつまり。

「貴男が、父の兄弟子という」
「はい。リュホウ・ガジェと申します。不肖の息子がご迷惑をおかけいたしましたこと、深くお詫びいたします」

 再び深く頭を下げられた。
 どうしてこの父から、あの息子が生まれたのか非常な疑問を感じる展開である。
 名字が違うところを見ると、養子かそれに近い関係なのだろうが、それでも非常な違和感を感じずには居られない。

「立ち話も何ですし、よろしければ我らの家へおいで頂けませんか?」
「・・・。お招きに預からせて頂きます」

 騙し討ちなどと言う事が出来る人ではないことは、既に十分すぎるほど分かっている。
 それに、サリンバンの放浪バスというのも見てみたい。
 何よりも、ナルキがどんな訓練をしているのか知りたいと思い、お招きに預かることとした。
 そして、少しだけ、暗く沈んだ気持ちが持ち直していることにも気が付いていた。
 それはもしかしたら、デルクに極めて近い人と出会えたからかも知れないと、ほんの少しだけ、そう思った。
 
 
 
 傭兵団のバスへと到着したレイフォンは、少々反応に困ってしまっていた。
 視線を彷徨わせて窓の外を見れば、傭兵団の訓練風景を視界に納めることが出来る。
 つい先ほど会議室から退室したはずのナルキが、やや危なっかしいながらも傭兵団との訓練に勤しんでいるのは、何ら問題無いだろう。
 ナルキとシリアの二人で、あるいはイージェの父と三人でレイフォンを相手に連携の訓練も、少ない時間ながらやったのは無駄ではなかった。
 それを確認出来る程度には見られる連携訓練だ。
 その訓練を、イージェも一緒になって受けているのも別段問題のある事柄ではない。
 なんだかんだ言って、イージェとハイアは非常に共通点が多いから、傭兵団と意気投合することはもはや当然と言えるだろう。
 問題は傭兵団専用の放浪バスの中である。
 通常の放浪バス数台分はあろうかという巨大な外見に相応しく、内装にも十分な余裕が有り、これならば長い旅もそれ程苦痛ではない。
 テーブルの向かい側に座っているリュホウが穏やかに微笑みつつ、お茶を出してくれているのも全く問題無い。
 リュホウの隣に覆面とフード付きマントを被った、怪しげな人がいるが、それも、何とか許容範囲内だと言えるだろう。

「あ、あの」
「お気になさらないでくださいヴォルフシュテイン卿」

 出来うる限りやんわりと、その反応に困る光景について問い質そうとしたのだが、最上級の柔らかさで押しとどめられてしまった。
 視線を横の怪しげな人物に向けてみるが、全く反応がなかった。
 これは、既に反応に困るというレベルを超えた事態である。

「おやじぃぃ」
「黙れ」

 情けない声で許しを請うのは、つい先ほどナルキを連れ出した刺青刀男である。
 ナルキを病院送りにし、メイシェンをお姫様だっこで誘拐した上に、おしりを二つに割った極悪非道な犯罪武芸者は、しかし、その威容を既に失っていた。
 そう。壁際に立たされ、両手に水の入ったバケツを持ち、そして、すぐ横に竹刀を持ったミュンファが番をしているという、あまりにも情けなさ過ぎる姿で三度レイフォンの前へと現れたのだ。
 何か恐るべきことが起こったのは間違いないが、それを想像することが出来ない。
 いや。出来れば想像したくない。

「つい先頃、私は傭兵団の長をハイアに譲ったのです」
「は、はあ」

 突如始まった話に全く付いて行けない。
 昔話かとも思ったが、それにしてはリュホウの視線が厳しい。

「十分な資質をハイアは持っていると判断し、私は気ままな教導専門の傭兵として、色々な都市を放浪するつもりでした」

 それは割と穏やかでよい人生かも知れない。
 通常の傭兵のように、最前線で切った張ったやる訳ではなく、若い人材の育成をするとなると、老成した武芸者というのは割と重宝されるからだ。
 そう。長年戦い抜いてきたノウハウが詰まった、まさに至宝の武芸者と呼べるからだ。

「ですが、ことヴォルフシュテイン卿絡みとなると、いささか冷静さを欠いてしまうようでして。天剣授受者となった貴男を褒めたことが原因であるのは明らかです。私にも責任はありますが、前回のことお咎め無しという訳には行きません」
「オレッチは悪くないさ。悪いのはあの悪魔のような茶髪猫さ」

 リュホウの言葉に反論するハイアの気持ちは、十分すぎるほどに、痛いほどに分かる。
 今までどれほど酷い目に合わされてきたかという回数に関して言えば、ハイアなどレイフォンの足元にも及ばないのだ。

「それを差し引いても、貴男には協力を仰ぐべきであるのに、敵対してしまうとは言語道断」
「別にこんな奴のっっ!」

 言葉の途中で、ミュンファの構える竹刀が頭を強打した。
 何故か涙目になって抗議するハイアに、猛烈な既視感を覚えてしまうレイフォンだった。
 リーリンに拳骨を貰ったり、ルシャに拳骨を貰ったり、そんな経験でレイフォンの過去はおおよそ構成されているのだ。

「その知らせを聞いて、私と隣にいる念威繰者のフェルマウスは、取る物も取り敢えずツェルニにやって来たという次第でして」
「はあ」

 隣にいる怪しい人は念威繰者であることが判明したが、だからどうしたという訳ではない。
 むしろ事態が更に混迷の度合いを深めてしまっている気がする。
 何しろ、傭兵団独自の念威繰者を抱えていないかも知れないのだ。
 それは、戦場で目隠しをして戦っているのに等しい。
 だが、傭兵として長年生きてきただけ有って、その辺はきちんと対応済みだったようだ。

「フェルマウスの後継者をグレンダンから招いたのですが、流石においそれと傭兵団になじめる物ではないようでして」
「そうなのですか?」
「はい。残念ながら」

 傭兵という存在はグレンダンでは割と良く目にする。
 あまり良い印象を受けないが、戦闘が多いグレンダンでは重宝する存在であることも事実だ。
 とは言え、それ程深い付き合いという訳でもないので、今ひとつ実感が湧かない。

「優秀なのですが、少し気が弱いところが難点でして」
「成る程」

 傭兵とは、ある意味強気でないと勤まらない職業である。
 負けそうな時でも、胸を張って威張っていないとならないと聞いたことがある。
 そんな職業に就くのに、弱気というのは非常な弱点だ。
 グレンダンから招いたと言う事は、それなり以上の戦場を経験しているはずだが、グレンダンという組織の一部として働いた場合と、傭兵という組織の外で働いたのでは、かなり勝手が違うのは予測が出来る。
 その辺の環境の変化に付いて行けないのだろうことは、おおよそ理解できるという物だ。
 レイフォンだって、ヨルテムの交差騎士団にいきなり所属して、いきなり汚染獣戦に駆り出されたら、戦う前に疲弊してしまうのは目に見えている。
 天剣時代のように、一人で出掛けていって戦えばいい訳ではないので、事前準備や組織的な運営などで非常に疲れてしまうだろう。

「ここまではこちらの事情ですので、あまりお気になさらないで頂きたい」
「努力してみます」

 そうとしか答えることが出来ないレイフォンは、冷え始めたお茶をやや強引に喉に流し込んだ。
 少し苦かった。

「問題は廃貴族によってツェルニが暴走しているという事実です」

 そう。ここからが問題である。
 どうやって遠距離の汚染獣を察知したのかも疑問だが、それよりもツェルニの暴走の方が遙かに問題である。
 今のところ本当に暴走しているのかは判断できないが、もうすぐそれは確認出来る。
 そう。レイフォン達が迎撃に出撃すれば、あるいはもう少し近付けば汚染獣が目覚めるはずだ。
 通常ならばその瞬間にツェルニは、以前の老性体戦のように全力で逃げ出す。
 もし逃げ出さなければ、汚染獣によって都市を滅ぼされ変革を遂げた電子精霊の影響を受けて、ツェルニが暴走していると言う事の証明になる。
 出来ればそんな証明は見たくない。

「ツェルニが暴走している場合、どうやったら止められるでしょうか? ご存じですか?」
「残念ながら。ですが、廃貴族をどうにか出来れば防ぐことが出来るやも知れません」
「廃貴族ですか」

 どうしても話がそこに戻ってきてしまう。
 廃貴族をどうにかしないことには、ツェルニに待っているのも暴走の末の滅びである。
 そこでふと、違和感を覚えた。
 今のツェルニによく似た都市を知っているのだ。
 それも、ヨルテムやツェルニよりも詳しく。

「グレンダン」
「はい」

 リュホウが重々しく頷き肯定する。
 そう。汚染獣を追い求めるその姿はまさにグレンダンそのものだ。
 グレンダンが廃貴族に影響を受けているのか、それとも何か他の理由があるのかは分からないが、ツェルニがグレンダン化していると言って良いだろう。
 ならば、ゴルネオが提案した通りグレンダンからの増援がどうしても必要になる。
 出来れば、天剣授受者の増援が・・・・・・。

「駄目かも知れない」

 天剣授受者で、誰か増援に来てくれるだろうかと考える。
 サヴァリスは来るかも知れないが、レイフォンの安全のために却下したいところだ。
 他の面々を思い出して行くが、絶望に押しつぶされそうである。
 と、レイフォンの呟きを拾ったらしいリュホウが、怪訝な顔をしてこちらを見ていることに気が付いた。

「何が駄目なのでしょうか?」
「い、いえ。お気になさらないでください」

 雄性体が一体とかならば、今のツェルニでも余裕で撃退できる。
 だが、グレンダンのように連続して大量に来られたならば、裁ききる自信はない。
 レイフォンがいくら強力だとは言え、老性体三期とかがやってきたら対応できるか疑問なのだ。

「廃貴族を何とかする方法がありますか?」
「・・・・。有ります」

 レイフォンの問いに答えるまでに、沈黙があった。
 それは、きっと何か痛みを伴う方法なのだと言う事が直感的に分かった。
 ツェルニを守るために、その痛みを伴った方法をとるか、それとも滅ぶかという選択が迫られているのだ。
 レイフォンの手に終える話では無い。
 出てきたばかりだが、カリアンの所に話を持って行くしかない。
 
 
 
 数時間前に出て行ったはずのレイフォンが、老年に達した人物と、お面を付けた怪しげな人物を連れて戻ってきた瞬間、カリアンは相当事態が切迫していることを察知した。
 犠牲を払うか滅ぶかの二択でしかないのかも知れないと、そう腹をくくった。
 そして出てきた話は、ある意味覚悟を決めたカリアンでさえも、絶望的な気分にさせるに十分な内容だった。

「つまり、都市を守るという極限の意志を持った武芸者を育てるべく、廃貴族がツェルニに取り憑いて暴走させていると」
「そうなります」

 ここは学園都市だ。
 学園都市とは何かと問われたのならば、それは多くの学生が成長して育って行く場所であると答えることが出来る。
 この意味からしたのならば、廃貴族によって暴走したツェルニならば、武芸者は驚異的な速度で成長して行くだろう。
 生き残ることが出来るならばと言う、絶対の条件が付いてしまっているが。

「逆に考えれば、極限の意志を持った武芸者に取り憑けばツェルニは元通りになると、そう考えてよろしいのでしょうか?」
「確かなことは言えませんが、現状よりは遙かに希望を持つことが出来ると思われます」

 同席していたヴァンゼの問いにも、リュホウと名乗った老人は淀みなく答えている。
 廃都市でレイフォンが聞いた、謎の山羊の台詞にも、極限の意志という単語が含まれていた。
 ならば、極限の意志を持つ者を廃貴族が探しているというのは、おおよそ正しいのだろうと思う。
 全くもって問題の解決になっていない。
 学園都市が生徒を犠牲にしたとなれば、それは極めて巨大なスキャンダルになる。
 最悪の場合、連盟からの追放と言う事さえあり得る。
 出来るだけ取りたくない選択肢であるが、汚染獣との戦闘で大量に犠牲者が出たという事態と比べると、どちらがよいのか咄嗟に判断できないところだ。

「出来れば、廃貴族をサリンバン教導傭兵団に引き取って貰いたいところだが」
「それは恐らく無理でしょう。我々には都市を守りたいという極限の意志はありませんので」
「傭兵ならば当然ですな」

 基本的に、傭兵とは都市の外の存在である。
 外からやって来て、外へと去って行く。
 これは当然、学園都市と性質としてはよく似ている。
 カリアンにしても、サントブルグからツェルニに来て、サントブルグへと帰るのだ。
 ならば、ツェルニ武芸科生徒に、ツェルニをどうしても守ろうとする極限の意志を持った者が現れない確率も存在する。
 そうなれば、ツェルニは確実にじり貧となって、そして滅びの時を迎えることになる。

「グレンダンへ増援を要請しようかという話があるのですが、どう思われますか?」
「・・・・・・・・。それは良い案のように思えますが、ヴォルフシュテイン卿は」
「いえ。ルッケンスの家系に連なる者がおりますので」
「おお! ならば援軍を得られるかも知れませんが、問題は」
「バスですね」

 二十時間ほど前の話だが、放浪バスが去ってしまっていたのだ。
 おそらくリュホウが乗ってきた物だろう。
 傭兵団のバスを借りられればこの問題は解決するのだが、逃げ出す心配をしなければならないために、借りられる見込みは多くない。
 現在、ツェルニにて廃棄されたバスを修理しているところだが、使えるようになるかどうかは疑問だ。
 構造的には問題無かったとしても、都市から都市へと移動する機能を得られるかどうか、それは修理が完了しないと分からない。
 バスさえ来れば、リュホウにグレンダンとのパイプ役をやって貰うという手も使えるのだが、これもこれからの交渉次第だろう。
 それよりも問題は、今目の前にやってきている危機を乗り切ることが出来るかどうかだ。

「汚染獣戦なのですが」
「それは恐らく問題有りますまい。ヴォルフシュテイン卿がいらっしゃる上に、ハイアを筆頭に傭兵団も加勢するのです。これで抜かれるなどと言うことは万に一つもありません」

 この絶望的な展開の中で、唯一と言って良いほどの明るい材料を得られた。
 だが、それも今回に限っての話である。
 この次、同程度の汚染獣と遭遇した場合、傭兵団を雇う金が無い以上、ツェルニの保有している戦力だけで戦わなければならない。
 質量兵器の準備も必要だし、更なる戦力の充実も必要だ。

「ツェルニ武芸科の生徒を鍛えて頂くための予算は確保してありますが、そちらの方はいかがでしょうか?」
「私も訓練に参加いたしましょう。少々厳しいですが、危機が目の前に迫っている以上耐えてくれると信じています」

 熟練の武芸者であるリュホウが、訓練に参加してくれるという話は、非常にカリアンにとって大きな成果だ。
 大きな危機が目の前に迫っている現状ならば、訓練はまさに必死の内容となり、同じ時間でも何倍も充実した内容となり、何よりも一人一人の身体にその成果が残るだろう。
 それは、ツェルニの暴走という非常事態を乗り越えた時にも、きっと有効に働く。
 だが、疑問もある。

「こちらの念威繰者よりも速く汚染獣の接近を察知なさったようですが」
「・・・。それは」

 ここでリュホウが言いよどんだ。
 そして、その視線が隣に座る仮面の人物へと向けられる。
 念威繰者だという話だが、仮面を付けている理由も、一言も話さない理由も、カリアンには皆目見当が付かない。
 だが、それも氷解することとなった。

『私からご説明申し上げましょう』

 念威端子を介した合成音声で語られた事実は、カリアンだけではなくヴァンゼやレイフォンも驚愕させるのに十分だった。
 だが、念威を使わずに汚染獣の情報を察知できるというその能力が、どれほど有効かは言うまでもない。
 フェルマウスの自己紹介が終わり、そこでリュホウの表情がかなり険しくなるのが分かった。

「念のために申し上げておきますが」
「伺いましょう」

 今までにない何かが、リュホウから放射されカリアンを押し包む。
 それは殺気や害意などではなく、何かの決意であり、彼なりの覚悟であることは間違いない。
 そしてこの感覚は、非常に心地よい緊張感をカリアンにもたらした。
 経験を積んだ商人との交渉の席で、希に感じることのある一瞬たりとも、相手から視線をそらすことが出来ない緊張感。
 それをリュホウから感じることが出来た。
 ならば当然のこと、カリアンはしっかりと相手を見詰めて対応しなければならない。
 視線をそらせた瞬間に勝負が決まるのは、何も武芸者の世界だけではないのだ。

「私はツェルニなど無くなっても、おそらく何も感じないでしょう」
「そうでしょうね」

 リュホウは傭兵である。
 もし、都市という物に愛着があるのだとしてもそれはグレンダンであり、ツェルニではない。
 カリアンにとってツェルニは失いたくない、愛すべき存在であるが、レイフォンにも言った通り、それは他人に強要すべき感情ではない。
 理性ではそれをわきまえつつも、感情が受け入れないが、それを表に出すことなくリュホウの言葉を待つ。

「ですが、ヴォルフシュテイン卿。いや。レイフォンの、人生の再出発の場を失うことは出来るだけ避けたいのです」

 あえて、グレンダンの天剣授受者ではなくレイフォン個人が問題だと、そうリュホウは言っている。
 それは、レイフォンに何か特別な感情を持っているのか、それとも違う何かなのかはカリアンには分からないし、明確に知る必要もないことだ。
 それよりも、レイフォンの再出発の場を無くしたくないから、ツェルニに協力しているのだと明言していることこそが重要だ。
 調子に乗って色々注文した場合、最悪レイフォンとその親しい人物だけを連れてさって行くかも知れない。
 カリアンに対して、そう釘を刺したのだ。

「理解しました。私としても、ツェルニを失いたくはありませんので、協力をお願いする以上の事はいたしますまい」
「ご理解頂けたこと、感謝いたします」

 お互いに思うところがある以上、妥協はどうしても必要だ。
 その後、色々なことを決めてリュホウとの打ち合わせは終了した。
 
 
 
  後書きに代えて。
 と言う事でハイア父登場。いや。レイフォンとハイアの間を取り持つ人間がいないと、喧嘩を始める事がわかりきっていたので、誰かオリキャラを作らなければいけないと思っていました。
 実を言うと、イージェにこの役をやらせようと思っていたのですが、同じサイハーデンと言うだけでハイアが敬意を払うわけがない事に気がつきました。(ツェルニで駄目人間になっているのも、理由の一部ですけれど)
 と言う事で、お義父さんに出場願ったわけですね。
 フェルマウスについては、原作をご覧くださいと言う事で、すべてカットさせて頂きました。
 リュホウが生きているので、一緒に放浪の旅を続けているところが違いますけれど、誤差の範囲と言う事で。



[14064] 第七話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/16 20:15


 明日の早朝出撃と決まったナルキだったが、いきなり第二中隊長のゴルネオに呼び出されてしまった。
 何かヘマをしたという訳ではないはずだし、そもそも、今回の出撃においては命令系統が違うのだから、呼び出しを食らう理由がないと思うのだが、それでも、何か真剣だったために素直に応じてしまったのだ。

「呼び出して済まないな。取り敢えずそこに座ってくれ」
「はい」

 明日の戦闘に備えるために、医療関係の人間でごった返すフロアの隅に置かれた、机と椅子が二つ並んだ場所に到着したナルキは、意味不明の状況だったが言われた通りに椅子へと座る。
 そして、改めてゴルネオのことを観察した。
 何時も通りに厳つい顔であるが、心なしか緊張の影が見える。
 それは当然だろうと思う。
 明日は間違いなく死闘になる。
 そして、何人かはツェルニに帰ってくることが出来ないかも知れない。
 そんな状況で平然としていられるほど、ツェルニの武芸者は実戦慣れしていない。
 だが、今問題としなければならないのは、ゴルネオの手に持たれている巨大な試験管だ。
 太さ三センチ程度、長さは三十センチ程度の透明な管の中には、何かが入っているという訳ではない。
 何か入っているという訳ではないはずなのに、厳重に密閉されているのが、少々不気味で不可解だ。

「袖をまくって前腕を出してくれ。掌を上にしてだ」
「? はい」
「左手の方だ」
「? 分かりました」

 全く疑問だらけだが、何か意味があるのだろうと思い、やはり指示された通りにする。
 献血をする時にこんな体制を取ったことがあるが、それによく似ている。
 だが、献血とは明らかに違うことが起こった。
 素早く試験管の密閉を解き、試験管の口をナルキの、剥き出しになった前腕に押し当てたのだ。
 力が入っているという訳ではないが、何をされているか分からないので、一瞬身体が跳ねてしまった。
 そして、次の瞬間、恐るべき事が起こった。

「な、なに!」

 いきなり、褐色の皮膚に黒いシミが現れたのだ。
 そして、じりじりと炭火で炙られるような痛みを感じる。
 もちろん、炭火で実際に炙られたことなど無いが、感覚としてはまさにこんがりと焼かれているのだ。

「この試験管の中に入っているのは」
「は、はぃ?」

 思わず声が裏返った。
 未知なる現象というのはかなり恐ろしい物だ。
 特に苦痛を伴うとなれば、平静を保つのが困難になる。

「都市外の空気だ」
「!!」

 思わず手を引っ込めようとしたが、ゴルネオの手が伸びてきてしっかりと押さえつけられてしまった。
 炙られる感覚は、既に激痛と呼べるレベルへと到達している。
 それでも、ゴルネオは容赦なくナルキの手を押さえつけ、気が付けば、第五小隊の面々がナルキの身体を総掛かりで押さえていた。
 暴れることも出来ないまま、都市外の空気、汚染物質に皮膚を焼かれるしかない。
 だが、その恐怖の体験も、ゴルネオが試験管を離したところで終了となった。

「な、何ですかいきなり!!」

 思わず声が大きくなる。
 だが驚いたことに、周りにいる医療課の人間の注意を引いていない。
 またやっているのかと言った程度の、慣れきった視線が幾つか来ただけだ。
 この一事だけで、何度もこんな事が行われてきたのだという事が分かる。

「グレンダンでは、都市外戦闘をする武芸者全てにこれをやっている」
「な、なんで?」

 第五小隊の面々が、汚染物質に灼かれた皮膚に応急処置をしているが、それを何処か他人事と認識しながら質問をする。
 全く意味不明なのだ。

「都市外戦装備が損傷した場合、汚染物質に灼かれるな」
「・・。当然です」

 世界は汚染物質に満ちている。
 だからこその自律型移動都市であり、汚染獣なのだ。
 分かりきったことを言うゴルネオに、少しだけ殺意の視線を向けてみたが、当然のこと小揺るぎ一つしない。

「ならば、出来るだけ安全な環境で灼かれる痛みを経験しておけば、戦場で取り乱さずに応急処置をするなり出来るだろう」
「・・・・あ」

 そう。ナルキは未知の体験に驚き、完璧に取り乱してしまっていた。
 これがもし戦場だったならば、それは即座に死につながるはずだった。
 そう。知らないことこそが最も恐ろしいのだ。
 だからこそ、医療設備が充実した場所で、安全を確保した上で体験することによって、知らないという危険を回避したのだ。
 レイフォンから、汚染物質に灼かれる痛みについては、話としては聞いていた。
 だが、やはり実体験とは違いがある。
 そして、戦闘が非常識なレベルで多いグレンダンにおいて、武芸者の損失は出来るだけ避けたいのは当然のことだ。
 となれば、事前準備として汚染物質に灼かれるという体験をさせるのも当然のこと。
 ナルキがここに呼ばれた理由が分かった。
 出来れば、先に言って貰いたいとも思うが、突然の体験で学んだ方が有効だと判断しているのかも知れないし、あまり突っ込んで何か言うのは控えた方が良いだろう。

「俺の用事は以上だ。手当が終わったら準備をしておいてくれ」
「分かりました」
「本当は、もっと早くやるべきなのだがな、お前の出撃を知ったのは二時間前だったのでな」
「それはもう。傭兵団のせいですから先輩の責任ではありません」

 この恐怖体験はこれで終了したようだが、安心など出来はしない。
 そう。間違いなく明日は地獄の戦場に立ち、そしてなんとしても帰ってこなければならないのだ。
 灼かれた前腕は多少痛むが、動かす時に違和感はあるが、これで生きて帰れる確率が上がるのだったら、非常に安い買い物である。
 そう自分を納得させたナルキは、袖を治しつつ人でごった返す区画を後にした。
 
 
 
 脇で見ていて胃の痛くなるリュホウとカリアンの話し合いから、実に四十八時間という膨大な時間が流れた。
 話し合いの脇にいたレイフォンが精神的な疲労を駆逐しつつ、汚染獣戦のための準備をしていられた時間は、しかし既に存在していない。
 そう。ここはツェルニ最下層にあるゲートのすぐ側。
 数ヶ月前に、老性体との戦いへ赴く際、メイシェンに泣かれてしまった場所のすぐ側である。
 その少し後、廃都市の調査に赴く際に、眼球を抉ると宣告された場所でもある。
 そして今、この場にいるのはレイフォンを筆頭に汚染獣戦に向かう第一、第二中隊を始めとする、戦闘部隊である。
 ハイアが指揮する傭兵団からの選抜部隊も、すぐ側で最終確認をしているところだ。
 今回もバックアップをしてくれる都市外作業指揮車は、既にツェルニを出発した後だ。
 そして、もっとも問題となる人物が、傭兵団の戦闘装備を身につけてレイフォンの脇に佇んでいるのだ。

「こ、これからどうしたら良いと思う?」
「ぼ、僕に聞かれても困るよぉ。ど、どうしよう?」

 前回も前々回も、直接の戦闘をすることがなかったナルキが、半分涙目でレイフォンに縋り付かんばかりの勢いで、質問という名の懇願をしてきているのだ。
 そう。メイシェンになんと言って出撃を告げればよいか、全くもって分からないのだ。
 ツェルニに来てからの戦闘を前提とした出撃が二度目であるレイフォンでさえ、全くもって分からないことを、初心者であるナルキが分かる訳がないのだ。
 だが、考える時間など既に存在していない。
 もうすぐ時間である。
 それはつまり、ミィフィとリーリンによってメイシェンがここに連れてこられると言う事を意味している。
 天剣時代には、決してこんなことはなかった。
 リーリンは心配してくれていたようだったが、出撃を見送るなどと言うことはなかった。
 老性体戦の時は、メイシェンとレイフォンの二人きりだった。
 だが、今は大勢がこちらを見ているのである。
 ハイアの生暖かい視線がとても痛いし、ヴァンゼの蔑む視線はとても痛い。
 ゴルネオに至っては、全くこちらを見ようともしない。
 元が付いたとしても、天剣授受者の情けない姿を見たくないという気持ちは、それこそ痛いほどに理解できる。
 留守番のシンが何故かとても健やかな笑顔と共にレイフォン達を見ているのだが、その視線でさえとても痛い。
 涙目になっているナルキが珍しいとか、そんな事に感動を覚えていられるような余裕はないのだ。
 そして、とうとう扉が開いた。

「あ、う」
「うぁ」

 視線の先には、既に決壊してしまったメイシェンを支える少女二人が居た。
 このところ、準備を口実に殆どメイシェンに逢いに行かなかったことが、ここへ来てとんでもない破壊力を持ってレイフォンを責めさいなんできている。
 そして、恐ろしいことに、ミィフィもとても平常心であるとは思えないほど顔色が悪い。
 普段、揉め事を探し回っている好奇心丸出しの視線が、焦点を失って出撃間近の騒然とした空間を見渡している。
 ナルキとレイフォンを捉えたはずだというのに、何故か素通りしてしまっているという事実一つとっても、極限状態であることが伺えるという物だ。
 ここまで認識したところで、視線を感じた。
 そう。三人の中では唯一平常心に近いはずのリーリンの視線だ。

「「う、うぁ」」

 その視線は語っているのだ。
 この二人を何とかしなければ、今ここで殺すと。
 何とかしなければならない。
 汚染獣に殺されるのならば、この世を呪うことも出来るかも知れないが、リーリンに殺されたのでは自分を呪うことしかできないのだ。
 もはや決死の覚悟で、メイシェンとミィフィへと向かって足を踏み出す。
 老性体と戦う時でさえ震えなかった膝が、小刻みに震えていることを認識していても、それでも前に進み、そしてきちんと二人を落ち着かせなければならないのだ。
 一歩遅れてナルキが続くが、気配を探るまでもなくとても怯えていることが分かる。
 誰に怯えているのかは、それは恐らくナルキ本人にも分からないだろう。
 そして、動揺著しい少女二人の前へと辿り着いてしまった。
 もはや、頭の中は真っ白である。

「メイシェン」
「あ、あの、レイフォン」

 俯き気味に涙を流すメイシェンを見詰めた時、レイフォンははっきりと分かった。
 これから戦場に出て行き、そして二度と帰ってこないかも知れないと。
 戦場に出ることは日常の一部と言っても良いくらいだが、天剣時代はお金を稼ぐことしか考えなかった。
 それだけを考えてたために、自分が死ぬかも知れないなどと、全く考えなかった。
 いや。どんな恥をさらそうと生きて帰るのだと心に誓って戦場に出た。
 だが、今はもう違う。
 廃貴族がレイフォンの心境を極限の意志と言っていたが、それはやはり違ったのだ。
 死闘を繰り広げる場所から、生きて帰る覚悟はどんな武芸者でもしなければならないのだと。
 戦うだけでは駄目なのだと。
 勝つだけでは駄目なのだと。
 戦って、勝って、そして何よりも生きて帰ってこなければ駄目なのだと。
 自分の物とはとても思えない両手を伸ばし、メイシェンをゆっくりと抱きしめる。
 その暖かさと柔らかさを、きちんと記憶する。

「大丈夫。今回もみんな居るから、僕一人じゃないから。ちゃんと帰ってくるよ。ナルキだってきちんと連れて帰ってくるよ」
「・・。はい」

 小さなメイシェンの声が聞こえた。
 そして、とても柔らかく小さな手が、レイフォンの服を渾身の力を込めて掴む。
 都市外戦用に作られた、非常に強度のある布地は、メイシェンの力程度では皺が寄ることさえ殆ど無かったが、それでもレイフォンを引き留めるためには十分すぎた。
 行かないでくれと、メイシェンは訴えているのだ。
 だが、それを聞き届けることはレイフォンにはできない。
 ツェルニに居る誰にも出来ない。
 だから、レイフォンはゆっくりと、メイシェンを壊さないように慎重に、肩を掴んでいた手に力を入れて、そっと引きはがした。
 そして、しっかりとメイシェンを見詰める。

「大丈夫。絶対に帰ってくるよ。だから・・・・」

 だから、どうしろと言うのだろう?
 安心しろ?
 冗談ではない。
 戦いに行く人間を見送りに来ているのに、安心しろなどとは口が裂けても言えない。
 グレンダン時代、多くの武芸者が戦場から帰らずに、遺族が泣き伏す姿を何度も見てきた。
 死ぬつもりなど全く無いが、それでも死ぬかも知れないと言う覚悟は常にしなければならない。
 だが、言葉の続きは言わなければならない。

「だから、またみんなで一緒に遊びに行こう」

 結局出てきたのは、前回と同じ台詞だった。
 あの後酷いことになったのは、十分に記憶に新しいが、それでも他に言うべき事を思いつくことが出来なかった。
 そして、前回この約束は叶えられたのだから、今回も大丈夫だとメイシェンと自分に言い聞かせる。
 その思いが伝わったのか、メイシェンの手に入っていた力が少しだけ弛んだ。
 そっと両肩を押しつつ、レイフォンが僅かに後ろに下がる。
 行かなければならないのだ。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 メイシェンの頬を、止めどなく流れる涙を見詰めつつ踵を返す。
 その動作の途中、視線だけでリーリンにお願いをする。
 この瞬間ほど、幼馴染みの存在が大きいと思ったことはなかった。
 メイシェンとミィフィが極限状態にある中で、リーリンはおそらく余裕を持っていてくれるだろうと、そう確信してのことだったのだが、何故か凄まじい殺意の視線で突き刺された。
 疑問ではあるのだが、それにかまっていられる余裕など無い。

「大丈夫だ。私は脇でこそこそしているだけだから、レイとんよりもずっと安全なところにいるんだから」
「う、うん」
「じゃあ、メイのこと頼むな。それと、リンちゃんにあまり迷惑かけるなよ」
「善処するよ」

 ナルキの方も、ミィフィにきちんと挨拶をすることが出来たようだ。
 なんだか、出張に行く父親と聞き分けのない娘のような会話に聞こえるが、それでも、レイフォンのよりはよほどしっかりとしている。
 ナルキも踵を返したところで、二人そろって歩き出す。
 心と体を戦闘態勢に切り替えつつ、出撃する人間からの視線が、非常に生暖かいことに気が付いた。
 特に生暖かいのが、イージェとハイアのそれだ。
 相変わらずカメラで一部始終を撮影しているらしいイージェと、呆れているのか怒っているのか、はたまた莫迦にしているのか微妙な表情をしているハイア。
 こちらも疑問だが、今はこれからの戦闘へと精神を切り替えなければならない。
 出発の時間まで、あと二分。
 
 
 
 レイフォン達が出発したのを見届けたリーリンは、非常な理不尽と共に少し上の階にある作業準備室と言うところに来ていた。
 レイフォンの気持ちは十分に分かるとは言え、それでもメイシェンのことをリーリンに頼むその無神経さというか、鈍感さはとてもではないが平静でいられるものでは無い。
 殺意のこもった視線で見たとしても、何ら批難されるいわれはないのだ。
 そんな消化できていない感情と共に、階段を上がった部屋はかなりの人で埋まっていた。
 本来は、都市外作業で使う機材を準備したりする場所なのだが、今は完全に戦闘態勢が敷かれている。
 万が一のための予備戦力こそ都市の外縁部に用意されているが、ここには救急医療班を始めとした各種支援設備がそろっているのだ。
 その中でも異彩を放っているのが、部屋の隅に端末や机を設置して陣取っている、戦略・戦術研究室にいるはずの二人組だ。
 なにやら真剣にモニターを見詰め続けている二人だが、別段これから起こる戦闘に備えているという訳ではない。
 それは二人の前にあるモニターに映し出されている情報でも十分に分かるという物だ。

「何しているの?」
「うん? お別れはもう済んだ?」
「見送りは済んだわ」

 微妙に不吉な言い間違いをするウォリアスを睨んで、単語を修正した後に肯定した。
 だが残念なことに、完全に間違いではない。
 レイフォンが強いことは知っているが、それでも帰ってこないかも知れないのが戦場だ。
 それは、グレンダンにいた頃に嫌と言うほど知った現実である。
 そんな現実を無視するかのように、リーリンの質問に答えろと視線で訴えかける。
 まだ戦闘が始まっていないとは言え、メイシェンは予断を許せる状態ではないのだ。
 残念なことに、今回ミィフィもあまり状況的に安定しているという訳ではない。
 あまりこの連中とのんびり話をしていられる訳ではない。

「この後の戦闘を想定して、幾つか準備をね」

 そう言いつつ示されたモニターには、ツェルニの保有する質量兵器の状況や、備蓄物資の在庫状況が列挙されていた。
 どう考えても、今回の戦闘で使う情報でないのは、素人のリーリンにも十分すぎるほど理解できようという物だ。

「今回のは良いの?」
「今回は勝てるよ。前線が突破されたら、次でツェルニは滅ぶけれどね」

 あっさりと恐ろしい予測をするウォリアスの表情には、しかし全くもって悲観した様子はなかった。
 それは隣に座るディンにも言えることだ。
 レイフォン達が失敗するとは全く考えていないようだ。
 万が一突破されたとしても、汚染獣も無傷では済まないはずだ。
 傷付いた汚染獣ならば、ツェルニに残る戦力でも撃退は可能だと判断しているのだろう。
 当然、それはじり貧の状況を招くために、この次の戦闘に耐えられる保証が無くなるが。
 そもそも、この二人の役割は事前の準備であって、前線での指揮や運用ではない。
 冷静に見える二人は、そう見せかけているだけかも知れないし、もしかしたら、この次の準備をすることで内に潜んでいる恐怖と戦っているのかも知れないのだ。

「いつまで続くのかしら」

 二人の内面が気になったついでではないだろうが、リーリンがもっとも心配することが思わず口から漏れてしまった。
 これがグレンダンだったら、そんなに問題はなかった。
 リーリンが生まれる前から汚染獣と戦い、そして生き残ってきた最強の都市。
 天剣授受者という絶対の守護者を頂点とした、戦場で研ぎ澄まされてきた熟練の武芸者達が居るグレンダンならば、何の不安もなく日常を過ごすことが出来た。
 もちろん、レイフォンが帰らないかも知れないと言う心配はあった物の、それ以外は非常に落ち着いて生活することが出来ていた。
 だがここはツェルニなのだ。
 天剣授受者は居ない。
 レイフォンは居るが、全力を出すことが出来ない。
 熟練の武芸者さえいない状況では、この先の戦いは非常に困難な物となるだろう。
 それを何とかするために全員で努力しているが、努力が報われる保証など何処にもないのだ。
 戦いという現実がある武芸者はまだしも、それが無い一般人の方が先に参ってしまうかも知れない。

「そうだね。廃貴族とやらの眼鏡にかなう武芸者が現れるまでだね」
「それって、何時よ?」

 リーリンの小さな声を拾ったらしいウォリアスが返してきたが、それは全く答えになっていなかった。
 むしろ不安をあおるという意味では、全くの逆である。
 救いがたい事実として、廃貴族の眼鏡にかなう武芸者が出ると言う事は、誰かが犠牲となると言う事だ。
 それはそれで、かなり寝覚めが悪い。
 だが、このままで行けば、必ず犠牲者が出る。
 出る犠牲者を最小限に抑えるならば、廃貴族へ生け贄を差し出すべきかも知れない。

「・・・・・。最低ね」
「最低なことをやるために、僕達や生徒会長が居る訳だね」

 そう言うウォリアスの視線は、何時もと全く同じであった。
 それが演技なのか、それとも違うのか、リーリンには分からない。

「ここにいても憂鬱になるだけだ。トリンデン達のところに行くべきだな。後二・三時間で戦闘開始だ」

 今まで黙っていたディンに指摘されるまでもなく、少しでも明るい材料を探してここに来たというのに、得られた物は今まで以上の重苦しさだけだった。
 完全に来る場所を間違えてしまった。
 溜息をつきつつ、メイシェン達の待つ場所へと向かうしかない。
 安易な太鼓判を押されるよりもましだと思う以外に、平静を装う材料がなかった。
 
 
 
 ツェルニからランドローラーで走る事二時間少々。
 今ゴルネオの目の前には、未だ休眠中の汚染獣が横たわっている。
 その数十二体。
 全てが雄性一期と言った感じだが、幼生体と比べることが出来ないほどの巨体を前に、第二中隊に所属する武芸者達はやや怯えたような視線を交わし合っている。
 それは無理ないとゴルネオも思う。
 幼生体戦はレイフォンに勝たせて貰った。
 老性体戦は殆どの武芸者は、最近になって映像で見ただけ。
 通算二度目の実戦が雄性一期というのは、かなりきつい物がある。
 グレンダンのように、熟練した武芸者が後見人となっているのならば、それ程恐れることはないのだが、生憎と今回レイフォンも他の汚染獣を相手にしなければならない。
 これだけ悪条件がそろっていて、未だに泣き出す人間がいないと言う事だけでも、十分に賞賛に値する状況と言えるだろう。
 だが、このままではいけないのも間違いはない。
 特に、第二中隊長となったゴルネオにとって、現状の怯えた武芸者が居ることは、非常に危険である。

「良く聞けお前達」

 ならば、何とかして士気を上げて目の前の戦いに勝たなければならない。
 これから先も、ツェルニが何度汚染獣と戦うか分からないが、全く戦わなかったとしても、実戦を経験した武芸者は非常に貴重なのだ。
 一人でも多くの戦力を連れて帰らなければならない。

「これから雄性体との戦闘へ突入する。改めてここで覚悟を決めて貰うぞ」

 蛮勇は要らない。
 自己犠牲も要らない。
 必要なのは戦い、勝ち、そして何よりも生き残って次に備えることだ。

「良いか。動けなくなった奴は見捨てろ」

 だから、あえてゴルネオはこう切り出した。
 周り中の空気が、一気に緊張の度合いを増す。

「助けようとしたら被害が倍増する。苦しんで死にたくなかったら自害しろ」

 冷酷に、戦場でどうするかを部下達に伝える。
 何時かのレイフォンのように、徹底的に冷酷に。

「守るべきは仲間ではなく都市だ。そのために必要なことは、臆病になることだ」

 仲間のために命がけで戦う。
 耳に心地よいが、今回そんな事を言っている余裕はツェルニには無い。

「卑怯と言われようと時間がかかろうと、出来うる限り被害を少なくするために臆病になれ。だが、自分で動けなくなったら即座に見捨てる。ここはそう言う戦場だと言う事を心に叩き込んでおけ」

 あえて命令する。
 命令を出したゴルネオが、全ての責任を取るために、部下達に仲間を見捨てろと、そう厳命する。
 そうしなければ、戦力の少ないツェルニなどすぐに滅んでしまうから。

「各自装備の点検にかかれ」

 ゴルネオの言葉を聞いて動揺している人間も多いが、それでも、自分の命がかかっている以上、装備の点検の手を抜くなど考えられない。
 戦略・戦術研究室が作らせた、こんな時のための装備があるかどうかで、本当に生死を分けてしまうかも知れないから。
 ふと、隣から視線を感じた。
 やや不安そうに見上げているシャンテだ。
 軽くヘルメットを叩いて、言うほど大変な戦いではないのだと、そう伝える。
 そう。レイフォンを相手に自然に組まれていった中隊一つで、たかだか雄性体を一体片付けるだけで良いのだ。
 連携が乱れた途端に、轟音を響かせつつ飛んでくる衝剄に比べたら、汚染獣の突進や触手の攻撃など、笑えるほどに大雑把で未熟な攻撃でしかない。
 全く恐れることはない、とは言えないが、それでも驚異度としては明らかにレイフォンの方が大きかった。
 まあ、元と付いても天剣授受者である。
 雄性体と比べること自体が大きな間違いではある。
 そして、そのレイフォンへと視線を向ける。
 少し離れた場所にある大きな岩の上に座り込み、念威端子越しでなにやら話し込んでいるらしい。
 流石にもの凄い落ち着き様だ。
 ふと気が付けば、何人もの視線がレイフォンへと向けられている。
 助けてくれるとは思わないだろうが、それでも安心できる事実ではあるのだろう。
 万が一にも、ツェルニに被害は及ばないと、そう確信出来るのならば、僅かでも余裕を持つことが出来るのだ。
 それで十分ではないだろうか。
 
 
 
 そろそろ戦闘が始まろうとしている頃合いだというのに、ニーナは訓練場で散々打ちのめされていた。
 いや。第四中隊の全員が地面に転がされている。
 相手はたったの一人。
 老年に達しているはずの、顔の左半分に刺青をした武芸者にだ。
 レイフォンほどの強大な衝剄を撃ってくると言うことはなかったが、それでも、その一撃はとても重く、防御において自信を持っていたはずのニーナでさえ、ただの一撃で吹き飛ばされたほどだ。
 ツェルニの外では、二個中隊と傭兵団、そしてレイフォンが汚染獣と戦っているというのに、ニーナ達は為す術無く新たな教官に打ちのめされてしまっているのだ。
 その事実こそが、身体の痛み以上にニーナを責めさいなんでいる。

「こ、こんな所で遊んでいる暇はないんだ!!」
「ほう。遊びのつもりだったのかね?」

 思わず漏れたニーナの言葉に、きちんと反応するリュホウ。
 戦闘要員だけで二十人になる第四中隊と戦い、圧倒的な実力差を見せつけた熟練の武芸者は、息一つ乱すことなくニーナの側に歩いてくる。
 右手に握られているのは、レイフォンが持っている物よりも一回り小さい刀だ。
 一応刃止めはされているようだが、そんな物はただの気休めでしかない。
 そのつもりになりさえすれば、骨を断ち肉を裂き、容易に人を殺すことが出来ることはレイフォンやイージェで十分すぎるほどに証明されている。

「遊びに付き合うつもりなど無い。君達が戦場に出たところで、足手まといになるだけだと言うことを、折角教えてあげているのに、分かってもらえないのかね?」

 違う。
 この老人は、レイフォンとさえ一線を画す武芸者だ。
 剄量を計算に入れた実力差ならば、レイフォンの方が上だろうが、潜った修羅場の数は遙かにリュホウが上だ。
 それは純粋な戦いだけの話では無い。
 教育者として、色々な都市で教えてきたその実績が、リュホウをしてレイフォンと比べてさえ一線を画す武芸者としているのだ。
 この危機的状況で、このような人物に師事できることは、おそらくツェルニにとってもニーナにとっても幸運なことなのだと思う。
 そう思うが、それでも、戦場に出ているレイフォン達のことを思うと、今すぐにでも駆けつけたいのだ。

「分からないのかね? 君達は二十人。私はただの一人。一撃を入れることはもちろん、倒すこととてそれ程難しくはない」

 これは嘘だと思う。
 確かに、レイフォンのような異常な強さという訳ではないが、それでもニーナからすればイージェを越える化け物に他ならない。
 幼生体の襲撃からこちら、イージェという教官を得て実力は上がったはずだった。
 レイフォンを汚染獣に見立てた訓練で、連携訓練も積んだはずだった。
 だが、それでも目の前の老武芸者には全く通用しなかった。
 中隊としての練度が今ひとつだと言うことも、レイフォン相手の訓練で他の中隊に比べて、遙かに被害が多く戦果が少ないと言う事も、ただの言い訳にしか過ぎない。

「それでも、私に止まることは許されないのだ!!」

 叫びつつ活剄を総動員して立ち上がる。
 双鉄鞭を構えて、全身に力を入れ、そして打ち倒された。

「寝ろ!」
「っが!」

 刀の一閃で吹き飛ばされ、そして仰向けに倒れた瞬間、追撃の拳が鳩尾に突き刺さった。
 全ての空気が肺から迸り出て、そして意識が遠のいて行く。

「指揮官とは味方を殺して成果を出す、非常に徹しなければならない立場なのだと、そう認識したまえ」

 犠牲を出さないために指揮官が居るはずだというのに、リュホウはそれを真っ向から否定した。
 それが正しいのだとは思うが、断じて認めることは出来ない。
 そこでふと、ウォリアスの講義中にヴァンゼが乱入してきた時のことを思い出した。
 あの時ヴァンゼは言った。
 既にレイフォンの犠牲の上にカリアンやヴァンゼ、そしてニーナはいるのだと。
 それも多分正しいのだろうと思う。
 だが、それでも、ニーナはニーナ自身を含めた誰かの犠牲を認めることは出来ない。
 だが、現実に汚染獣との戦闘に参加することも出来ずに、ここでリュホウに打ちのめされてしまっている状況だ。
 ゆっくりと意識が遠のく中、ならばどうしたら良いのだろうかという疑問が、頭の中に浮かんできた。

「その認識を得て始めて、指揮官とは犠牲を極力出さずに成果を出すことが出来るのだ。そして、そのためにこそ指揮官は卑怯で悪辣であることが何よりも求められるのだよ。正面から馬鹿正直に戦うことしかできないのならば、末端の兵士でいるべきだね」

 そうリュホウの声が聞こえたような気がしたが、定かではない。
 
 
 
  後書きに代えて。
 と言う事で、戦闘直前の風景をお送りしました。
 リュホウが指揮官について語っていますが、これは完全に俺の偏見の固まりですので、信じない方がよろしいかと思います。
 さて、この次は第七話の終わりになります。
 メルルンは誰にk寄生するのでしょうね?



[14064] 第七話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/16 20:15


 実戦は二度目だ。
 一度目は幼生体との戦いだった。
 都市外縁部で、記録映像でしか見た事のない、津波のように押し寄せる幼生体の群れを前に、ひたすら目の前の戦闘のみに集中した。
 だが、あの時でさえ、レイフォンが先に七割の幼生体を始末してくれていたからこそ、絶望的な戦力差を知ることなく地道に戦えたのだ。
 次の老性体との戦いは、予備戦力として現場にいただけで、充電作業と穴掘り以外に何かしたという認識はない。
 実際に敵を視認し、そして刀を振るうのは今回が二度目だ。
 別段、恐怖に身体がすくみ上がるなどと言うことはない。
 目の前にいる、大きいだけで鈍重な雄性一期と比べたら、日頃訓練してくれているイージェやレイフォンの方が、遙かに強力で恐ろしい。
 当然のこと、油断などしている暇はナルキにはない。
 薄皮一枚向こうは、命の存在を許さない地獄の世界だ。
 僅かな傷が即座に死につながる戦場で、油断などしている暇はない。

「ナルキ!!」
「おう!」

 それ以上に、一緒に戦っている傭兵団の人使いの荒さが、油断などと言う贅沢を許してくれないのではあるが。
 なぜか、傭兵団と完全に意気投合した、イージェの人使いの荒さは、もはや筆舌に尽くしがたい物になっているのは、非常な疑問を生む。
 とはいえ、指示されて余力がある以上はやらなければならない。
 イージェに指示された瞬間、全力の旋剄と共に汚染獣の横腹へと突撃する。
 幾つか習った、サイハーデンの技の仲で、唯一実戦で効果的だと認められた逆捻子を発動させる。
 叩きつけるのではなく、撃ち貫く。
 雄性体一期の外皮に向かって放つのではなく、その遙か向こう側、反対側にいる武芸者に向かって技を届かせる。
 そのイメージで放つことによって、ナルキの逆捻子は十分な威力を発揮することが出来る。
 斬撃系の技は、全て叩きつけるか殴りつけるかと言ったイメージが抜けきれないために、十分な威力を発揮することが出来ずにいるのだが、今は一つだけで十分だ。
 ナルキの攻撃が決定打となることはない。
 八人一組の中に混じり、牽制や嫌がらせのために、汚染獣の死角からこそこそと近付き、ネチネチと逆捻子を放っては逃げる。
 傭兵団の主力が到着するまでの間、ツェルニや他の戦場に目の前の雄性体を行かせないための攻撃だ。
 だからこそ、危なくなったら他の武芸者が気をそらしてくれるし、無理に危険を冒すことなく問答無用で逃げる事も出来る。
 戦闘開始から既に一時間近く。
 正確に確認している訳ではないが、レイフォンの方の割り当ては既に終わりかけているようだ。
 相変わらず人間離れしているというか、想像を絶する強さというか、非常識というか、もはや凄いとしか表現のしようがない。
 戦い始まるまで、そのレイフォンに敵意を燃やしていたハイアだが、当然の様に今は沈着冷静にこつこつと雄性体を確実に始末して回っている。
 流石にレイフォンほどの異常さを発揮している訳ではないが、それでもナルキなどと比べることに問題を覚えるほどには強い。
 そして遠くない未来において、ナルキが足止めしている奴も、その生命活動を停止するだろう。
 いや。おそらくハイアを待つまでもなく、他の汚染獣に回っている戦力がもう一組でも来れば、それでお終いになる。
 先制攻撃でその翔をもぎ取り、多くの脚を切り飛ばされた雄性体は、短時間で移動できる状況ではない。
 それでも、身をよじるようにしてツェルニへ向かう素振りを見せたり、あるいは邪魔な武芸者をはじき飛ばそうとしたりと、抵抗は未だに十分に危険なレベルだ。
 とは言え、弱ったところにナルキよりも熟練した武芸者が、散々に攻撃を撃ち込んでいるのだ。
 ナルキ自身の攻撃は決定打とはなっていないが、それでも汚染獣の体力を少しずつ削ぎ落とす役には立っているはずだ。
 そんな事を、激突までの一瞬に満たない時間で考えたナルキは、汚染獣の甲殻へと逆捻子を撃ち込む。
 外皮を貫通し、その内側にある肉へと切っ先が刺さる。
 刀身にまつわりつかせていた、方向の違う二つの衝剄を解きほぐし傷口を抉る。
 それと同時に甲殻を蹴りつけて距離を取りつつ、復元した鋼糸を更に傷口に浸透させる。
 外力衝剄の化錬変化 紫電。
 化錬剄で生み出した電撃で傷口を焦がす。
 汚染物質を吸収して再生する汚染獣とは言え、短い時間で完璧にと言う訳には行かない。
 ならば、ナルキが出来ることは時間を稼ぎつつ、打撃部隊が来るまでに少しでも弱らせておくこと。
 割り当て的には傭兵団の獲物だが、もしかしたらレイフォンが来るかも知れないし、他のツェルニ部隊が来るかも知れない。
 それは分からないが、ナルキのやることには何ら変わりがない。
 
 
 
 三体目の汚染獣を始末したハイアは、ほんの一瞬だけレイフォンの方に視線を向けてみた。
 五体目の始末が終わったところだった。

「天剣授受者ってのは、本当の化け物さ」

 いくつもの形態を切り替えられるという、使い勝手の悪い錬金鋼をそつなく使いこなし、その剄量に物を言わせて非常識な速度で汚染獣を討ち取って行くその姿は、認めることははばかられるが確実にハイアよりも強いだろうと判断できる。
 認めたくない事実だが、現実として目の前に存在している以上、渋々とではあったが認めない訳には行かないのだ。
 非常に不本意であるが。
 とは言え、ツェルニの学生達もそれなりに頑張っているし、のんびりと観戦している訳には行かない。
 レイフォンを見ていたのは、ほんの一瞬でしかないのだ。
 まかり間違っても、サリンバン教導傭兵団が汚染獣の殲滅で学生武芸者よりも遅くなってはいけないのだ。
 一対五の戦力差とは言え、それでも最後まで戦っている訳には行かない。
 危険を冒す訳には行かないが、傭兵団として戦ってきた戦歴にかけて、遅れを取る訳には行かないのだ。

『ハイアちゃん』
「・・・。団長と呼ぶさぁ」

 当然のことではあるのだが、支援攻撃をしていたミュンファの声に応えつつ、ハイアは目の前の戦場に意識を戻す。
 ここに安全地帯など存在しないのだ。

「それで、どんな用事さぁ?」
『は、はい団長。第三分隊のところがもうすぐ片付くそうです』
「さあ?」

 第三分隊と言われて、一瞬分からなかった。
 本来この分隊は陽動や足止めに特化した、機動力中心の部隊であって、打撃力はそれ程大きくないはずなのだ。
 確かに、時間をかければ雄性体の一期くらいは倒せる戦力はある。
 それは間違いないのだが、今回はその時間があまりにも短すぎる。
 ハイア達の主力部隊が五体倒している間に、一体倒せれば良くできたと言える程度の戦力のはずなのだが、今回はそのペースがかなり速い。
 そして思い出した。
 今回、ツェルニから借りてきた戦力がいると言うことを。
 もしかしたら、ルーキーに良いところを見せようと、何時も以上に張り切ったのかも知れないと、一瞬の半分ほどの時間考えたが、それはあり得ないと結論付けた。
 そんな莫迦なことをやっていたら、とうの昔に死んでいるから。
 ならば。

「もしかしたら、割と良い拾い物だったさ?」

 残ったのは、ナルキの攻撃力が予想よりも大きかったと言う事。
 活剄の切れと速さには、注目に値する物があったが、衝剄はそこそこで、化錬剄は自爆技に近かったはずだが、もしかしたらそれは思い違いだったのかも知れない。
 あるいは、前回戦った状況が悪すぎたのか。
 この思考も、一瞬の半分ほどの時間でやり遂げたハイアは、四体目の汚染獣へと襲いかかる。
 最終的にはナルキもツェルニ武芸者なのだ。
 傭兵団の沽券と、ハイアの意地にかけて負ける訳には行かない。
 とは言え、当然無理などをするつもりもないが。
 
 
 
 ツェルニ武芸長であるヴァンゼは、第一中隊を率いて汚染獣と戦っていた。
 いや。今も尚戦い続けているのだが、おおよそ決着は付いている。
 翔をもがれ、脚を切り飛ばされ、甲殻のあちこちから出血した雄性体は、もはや瀕死の状態でしかない。
 だが、当然油断などはしない。
 油断などしたら、とんでもない一撃がやってくる教官と、延々と訓練を続けてきたのだ。
 息の根が止まったことを確認出来るまで、一切気を緩めることなく指示を出し続ける。
 ヴァンゼ自身も武器を振るい、汚染獣へ打撃を撃ち込んできたが、中隊の指揮官としての、役割の方に重きを置いた戦い方をしてきた。
 指揮系統と士気の維持こそが、この先いつまで続くか分からない、ツェルニの暴走を生き抜く、唯一の方法だと信じているからだ。
 ならば、武勇を誇ることは他の武芸者に譲ってしまっても何ら問題はない。
 注意をそらすための攻撃を指示しつつ、第二中隊のゴルネオがどんな状況か、ほんの少しだけ気になった。
 もちろん、失敗したという報告は聞いていない以上、今も汚染獣と戦っていることは間違いないが、被害が出たかどうかが気になる。
 レイフォンが失敗するなどと言うことは、全くもって考えつかないが、ゴルネオやヴァンゼ自身は失敗をするかも知れないのだ。

「打撃部隊は準備をしろ! 左後ろから嫌がらせをして注意がそれたら、その時に攻撃しろ!」

 指示を出しつつ、戦場全体を見渡せる位置にこそ、指揮官は立つべきだと改めて思った。
 中隊規模の指揮運用ならば問題はないが、それ以上の規模の部隊となると、もう少し離れた場所から戦いをトータルで見る必要がある。
 被害を減らすために、見殺しにする指示を出すためにはこの位置が必要だが、もう少し多くの戦力を調達できたのならば、それを有効に使うために広い視野が必要なのだ。
 とは言え、それらは全てこの戦いを生き延びた後の話だ。
 生き延びるために、目の前の戦場に集中する。
 そして、一人でも多くをツェルニに連れて帰るために。
 仲間を見殺しにしろと言う命令を、今回は出さずに済みそうだと、そう考える自分を戒める。
 まだ、汚染獣の生命活動が停止したという報告はない。
 
 
 
 割り当ての五体を駆逐し終えたところで、レイフォンは一息ついていた。
 とは言え、ここは戦場であり、一息つくと言っても、それはまさに一呼吸分の時間でしかない。
 ツェルニに帰り着き、都市外戦装備を全て外して、そしてシャワーを浴びて、こっそりとメイシェンに預けてある命を返して貰うまで、気を抜くなどと言うことは考えられない。
 一息ついている瞬間でさえ、空気の流れや周りの音に注意を払いつつ、何時でも逃げ出せるように準備を終えているのだ。

「フェリ先輩?」
『何でしょうか?』

 巨大な刀の形状をした、正式仕様の複合錬金鋼を肩に担ぎつつ、フェリに声をかける。
 普段使っている刀よりも二回りほど大きく、確実に三割は重い上に、形状変化が出来るという使いやすいのか悪いのか分からない錬金鋼だが、それでも天剣がない今はこれに頼ることしかできない。
 などと小言を言いつつも、雄性体一期を五体屠ったはずだというのに、まだ十分に余裕のある新型錬金鋼は非常に有難い。
 キリクやハーレイに感謝の気持ちで一杯だが、それもツェルニに帰り着いてからの話だ。
 そう言えばと、ここで一瞬思い出す。
 三人で一つの研究室を使っているはずだというのに、二人しか未だに知らないと。

「他の戦線はどうなっていますか?」
『今のところ、軽傷者が十名ほど出ましたが、命に別状はないようです。応急処置は終了しています。残りの雄性体は四体です』

 思ったよりも被害が少ないことに、再び小さく溜息をつく。
 ツェルニの武芸者から死者が出ることは確実だと思っていただけに、この知らせに思わず力が抜けてしまったのだ。
 しかし、それもフェリが送ってくれた、簡素化した戦域図を見るまでの話だった。
 第一印象は、みんな良くやっているという物だった。
 攻撃と陽動、後方支援を巧みに入れ替え組み立て、ネチネチと嫌がらせのような攻撃を繰り返し、徐々に、しかし確実に汚染獣の抵抗力を削ぎ落としている。
 ツェルニ武芸者の分担、雄性体一期二体は、既に瀕死の状態であり、大した驚異ではないはずだというのに、それでも嫌がらせのような攻撃を続けているのだ。

「うん。卑劣で、卑怯で臆病な良い戦い方だ」

 正々堂々と戦うなどと言うことは、汚染獣との戦いではやってはならない。
 人間に比べて、遙かに凄まじい生命力を持ち、汚染物質を栄養源として再生できる汚染獣に、真っ正面から挑むなどと言うのは正気の沙汰ではない。
 そんな壊れた人間は、せいぜいが天剣授受者くらいな物だろうと確信する。
 そう。レイフォンを含めた天剣授受者以外は、汚染獣とは正面から戦ってはいけないのだ。

『それは褒め言葉なのですか?』
「もちろんですよ」

 だが、良くも悪くもレイフォンのサポートをしてくれているフェリにとっては、正面から戦って勝つことの方が普通になってしまっているのかも知れない。
 天剣授受者などと言う、人外の物騒な生き物と、普通の武芸者を一緒にしてはいけないのだ。
 そして、レイフォンでさえ、支援攻撃があった方が楽に戦えると言う事を、再認識しつつある今日この頃なのだ。
 そう。卑劣で、卑怯で臆病な戦い方の方が遙かに楽だというのは、戦場に出たばかりの頃にはきちんと知っていたはずなのだ。
 天剣授受者なんて物になってしまったために、楽に戦うという現実を見失っていたのだと、ツェルニに来てから思い知った。
 思い返せば、リチャードに相談するという発想を無くしたのも、天剣授受者となった頃からだった。
 改めて、レイフォンは自分が間違った方向へと進んだのだと言う事を認識した。
 だが、この続きを考えるのはツェルニに帰り着いてからでもかまわない。

「ナルキの方は無事ですか?」
『無事です。それどころか、もうすぐケリが付くようです』
「へえ」

 傭兵団へと貸し出されたナルキが、重傷を負うなどと言う事は考えていなかったが、戦果が予想よりも大きいことに少しだけ驚いた。
 一年以上にわたって訓練してきた以上、弱いなどと言うことはないのだが、もしかしたらレイフォンが知らない間に強くなっていたのかも知れないと、少しだけ嬉しくなった。
 だが、それもフェリからの詳しい情報を貰うまでのことだった。

「逆捻子じゃないよナルキ」

 ナルキらしい都市外戦装備を身につけた武芸者の、その技を見てそう呟く。
 拡大された映像で見る限りにおいて、ナルキは殆ど突き以外の技を使っていないようだ。
 鋼糸が伸ばされているし、化錬剄も使っているようには見えるのだが、それはあくまでもついでの攻撃にしかなっていない。
 ナルキ周辺の戦域図を見ると分かるのだが、傭兵団は明らかに陽動や嫌がらせに終始している。
 攻撃の主力を担っているのは、驚くことにナルキなのだ。

『何処が違うのでしょうか?』

 念のためと、ナルキの戦っている戦場へと向かっていると、フェリから疑問の声が聞こえてきた。
 他のツェルニ武芸者の方に不安がないかと問われたのならば、殆ど無いと答えることが出来る現状が、レイフォンにこの行動を取らせた。
 そう。ナルキが攻撃の主力を担っているという事実を、ナルキ自身があまり認識していないようなのだ。
 これはかなり深刻な事態を引き起こしかねないと、それ程強くない危惧を抱いたのだ。
 深刻な事態を引き起こすかも知れないと言う、強くない危惧などと言う物がこの世に存在していることを始めて知ったが、別段嬉しくも何ともない。

「逆捻子というのはですね。刀を突き刺して、その周りを破壊するための技なんですよ」

 甲殻を打ち破り、刺さった刀の周りに纏わり付かせた衝剄を解きほぐす時、当然傷口は見た目よりも遙かに大きくなる。
 これこそが逆捻子の本来の姿なのだが、ナルキのは明らかに違う。
 いや。逆捻子の応用版と呼べる技を、それと知らずに使っているというのが正解だろうか。

「貫き通すことに注意が行きすぎて、纏わり付かせた衝剄が直進しすぎてます」

 刀身の周りに纏わり付かせた衝剄は、そのままの形を維持しつつ直進している。
 甲殻の中での打撃技であるはずなのに、その到達深度は刀の全長の数倍に達しているだろう。
 もはや逆捻子とは呼べないほどに、技が変化してしまっている。
 そう。汚染獣の筋肉を貫通し、内蔵に被害を与えているほどに深く突き進んでしまっているのだ。
 だからこそ、予想以上に汚染獣の負傷が大きくなり、傭兵団はそれを分かったからこそナルキを主攻にした戦術に切り替えているのだ。
 もちろんフォローもきちんとやっているのだが、ナルキ自身に主役をやらせているという事実を伝えている様子はない。
 危険だとは思っていないが、少しだけ嫌な予感はしている。
 幼生体戦では、ペース配分を間違えて、最後の最後でガス欠を起こしてしまったことだし、念のために移動しているのだ。
 同じ失敗を二度もするとは思えないが、それでも始めてもった弟子と呼べるナルキのことが、少しだけ心配になっているのだ。
 いや。ハイアの時にもガス欠を起こしているから、今度やったら三度目になる。
 そうならないように、本人も注意しているだろうが、念のためにレイフォンも移動するのだ。
 もしかしたら、過保護かも知れないと思わなくもないのだが、それでも行動は止めなかった。
 
 
 
 散々に雄性体に攻撃を撃ち込んできたナルキだが、ただ今現在は途方に暮れてしまっていた。
 そう。撃ち込みやすい場所は全て逆捻子の傷跡で埋まってしまっているという現実に、かなりの勢いで途方に暮れてしまっているのだ。
 いや。ここまで攻撃をしてもまだ生命活動を止める様子のない汚染獣に対して、途方に暮れてしまっていると言った方が的確かも知れない。
 それは分かっていたはずなのだが、それでも、ここまで攻撃してまだ生きているという事実に、かなりの衝撃を受けてしまっているのだ。

「どうしたら良いと思う?」
『ええっと』

 近くにいるイージェに問いかけてみたが、答えは返ってこなかった。
 それは当然なのかも知れない。
 ナルキが放り込まれた集団は、基本的に陽動や足止めを専門とした部隊であり、決定的打撃力という物を持っていないのだ。
 戦いが長引くことは基本なのだろうが、それでもここまで長引いたことはなかったのかも知れないし、もしかしたら、気が付かないうちにナルキが足を引っ張ってしまったのかも知れない。

『取り敢えず、少し休憩するか?』
「それは、拙いんじゃないでしょうか?」

 流石に休憩するというのは拙いだろうと言う事は分かる。
 もうすぐハイア達が来ることは確実だが、もう少し他に出来ることがあるはずだと思うのだ。
 思うのだが、何か良い手が思いつくという訳でもない。

「取り敢えず、どっかに逆捻子を撃ち込める場所を探さないと」

 汚染獣は巨大だ。
 ナルキが受け持っている範囲内では、あらかた穴を開けてしまったが、少し移動すればまだ撃ち込める場所があるはずだと視線を彷徨わせる。
 と同時に、部隊長に指示を仰ぐことも忘れない。
 勝手な行動をして良いのは、自分が危険になった時だけなのだ。
 そう考えている間も、汚染獣から目を離しているつもりはなかった。

「っく!」

 だが、それでも僅かに集中力が落ちてしまっていたようだ。
 油断したことに歯がみしつつ、旋剄を使って汚染獣から遠ざかる。
 右脇腹から、左鎖骨にかけて焼ける感覚が若干の時差をおいて状況を教えてくれた。
 当然、断末魔の状態とは言え、汚染獣はかなり激しく動き回っている。
 いや。断末魔だからこそ激しく動き回り、色々な物をはね飛ばす。
 その中には、誰かの攻撃で飛び散った汚染獣の甲殻、その破片も含まれている。
 そして、運悪く、その甲殻の破片がかなりの速度でナルキに命中してしまった。
 大きな破片という訳ではないが、距離が近かったためにかなりの速度が残っていた上に、非常に鋭利だった。
 そう。ナルキ自身の傷は笑って済ませることが出来る程度であったが、都市外戦装備はとても冗談では済まない損傷を負ってしまっていた。
 そもそもが、微かな傷でさえ致命的な欠陥となる装備なので、傷がある状態というのは全て洒落にも冗談にもならないが、それでもかなりの切り口をさらしてしまっている。
 出撃の前日に受けた訓練がなければ、取り乱してしまったかも知れないほど、皮膚を焼かれる感覚は苦痛を伴った。
 更に悪いことに、裂け目が大きすぎて、手持ちの応急装備では対応できない。
 だが、呼吸関連の場所をやられなかっただけ、ほんの僅かな余裕が有るはずだ。
 汚染物質を吸い込んで死亡する場合、それはおおよそ肺の機能が停止した事による窒息死だと言われている。
 ならば、ナルキはまだ幸運だと言う事になる。

「申し訳ありません、戦線を離脱します」
『ご苦労だった。戦いはおおむね終わっているから、ゆっくり休んで良いぞ』
「了解しました」

 分隊長へと報告しつつ、更に汚染獣から距離を取る。
 ナルキが抜けた事で開いた穴は、イージェがせっせと何かの技で塞いでくれているから、少しだけ安心できる。
 応急処置用のスプレーを使っても、あまり危険でないところまで下がれたと確信して、やっと止まる。
 かなり遠くまで下がってしまったが、臆病なくらいで丁度良いとレイフォンも言っていたことだし、これくらいで丁度良いのだと自分を納得させ、応急処置を始めた。
 作業指揮車まで戻れば、替えのスーツが置いてあるはずだし、そこまでは旋剄を使えば、五分で届くはずだ。
 そう計算したナルキは、ふと視線を横へとずらせた。
 汚染物質によって、じりじりと灼かれる痛みは感じるが、応急処置が功を奏したのかだいぶ鈍くなっている。
 だから見えてしまったのだと思う。

「ああ。レイフォン」

 愛称ではなく本名を呼ぶ。
 ナルキ達が散々手こずった汚染獣を、殆ど一撃で始末してしまった中肉中背の武芸者を視界に納めてしまったから。
 ナルキにあれだけの力があれば、もっと速く始末することが出来たはずだし、何よりも怪我をすることもなかった。
 そして、きっとメイシェンやミィフィを心配させることもないはずだ。
 いや。戦いに出ること自体を心配しているのだから、どれほど強かろうとあまり変わらないのだろうとは思うが、それでももっと力が欲しいと、そう思ってしまった。

「ツェルニを守れるくらいの力が欲しい」

 都市か人か、どちらをより助けたいかと問われたのならば、ナルキは人と答える。
 だが、ツェルニが暴走している現状で人だけを助けることは、おそらく不可能。
 ならば、人を助けるためにはツェルニを守らなければならない。
 だからこそ、ナルキはツェルニを守れるだけの力が欲しいと、そう思ってしまったのだ。
 そしてその瞬間、胸に空いた空虚な器が、何か暖かな物に満たされるような、そんな不思議な感覚を覚えた。

「レイフォン?」

 雄性体を瞬殺したレイフォンが、何か慌ててナルキの方へと走ってきている光景が視界に飛び込んできた。
 それはもはや、疾走でさえないほどに凄まじい速度だった。
 ナルキが苦労して後退した距離を、ほぼ一秒で走破して、そして足を掴もうとするかのように、跳躍して手を伸ばしてくる。

「あれ?」

 そう。足を掴もうとするかのように跳躍して、手を伸ばしてきているというのに、ナルキはどんどんレイフォンから遠ざかって行く。
 この時ナルキは、自分が空中に浮いているらしいと言う事を認識した。
 そして、その瞬間、全てが白く塗りつぶされた。
 
 
 
  逆捻子について。
 ここではさも異例と言った書き方をしている、ナルキの逆捻子ですが、おそらくこれは違うと俺は思っています。
 通常の逆捻子は、ドリルで穴を開けた場所に、ダイナマイトを差し込んで起爆するというのに対して、こちらはドリルで穴を開けたところに、パイルバンカーで杭を打ち込むと言った違いはありますが、やる事に大きな違いはありません。
 逆捻子という技は一つでも、目的とする効果が違えば、色々なバージョンが出てくるのは必然です。
 と言う事で、深く貫く逆捻子もサイハーデンにはあると予測する次第です。
 成り行き上、少々大げさに書いているだけですのであしからず。
 
 と書いたのは、六月中頃の事でした。二十一巻で実際に似たような技が出てきて、少々驚いています。
 人間の想像力って、思ったほどの違いはないのかも知れませんね。
 とりあえず、執筆時点のまま投稿させて頂きました。
 
 
 
  後書きに代えて。
 ここまでおつきあいくださいまして、ありがとう御座いました。
 と言う事で、メルルンに蹂躙されたのはナルキとなりました。
 正直に言って、これで良いのかかなり疑問ではありますが、ニーナの場合、電子精霊との親和性だけで選ばれていますから、こういう展開もありかと思いました。
 と言うか、ナルキにメルルンを取り憑かせるために、色々と小細工を労してきたと言っても過言ではありません。レイフォンに弟子入りさせたり、老性体戦に参加させたり、色々と。
 まあ、何はともあれ、原作五巻まで終了となりました。
 お気づきの方もいると思いますが、ここまでが第六話に入るはずでした。執筆速度が異常に遅くなったために、第七話となっているだけで、六話目から通すと十一頁で片が付いていますし。
 そうそう。第八話は今年中の公開を目指していますが、俺が非常に苦手としているシーンがてんこ盛りなために、予定が達成されるかどうか、非常に疑問な展開となっています。
 とはいえ、どんなに遅くとも、来年の春までには何とか書き上げたいと思いますので、しばらくお待ちください。
 ショートオブや短編はこの限りではありませんので、そちらはお楽しみに。
 



[14064] 第八話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:06


 ふと目覚めると、そこはバス停の側に良くあるような、宿屋の食堂だった。
 眠っていたつもりはないし、椅子に座ったまま姿勢よく眠るなんて特技も持っていないが、それでもナルキは唐突に目覚めた。
 少し身体が重いが、別段何処か怪我をしているという訳ではなさそうだし、ゆっくりと首と視線を回して現状を確認する。
 この手の施設は、都市警の仕事で散々出入りしたから、おそらく間違いではない。
 間違いはないはずだが、それでも違和感を覚えたので、更に辺りを見回してみて、そしてすぐに気が付いた。
 宿屋の食堂というのは間違いない。
 旅に疲れたと顔に書いてある人達が、大勢いるという時点で、間違いなく放浪バス絡みの施設である。
 そして、かなり床面積が広くあちこちに無駄な空間を取ってあるのは、狭いバスから解き放たれた人達に、存分に開放感を味わって貰うためだと言う事も間違いない。
 そして何よりも、食べ物の匂いと音に支配されている以上、ここは間違いなく食堂である。
 ツェルニでもヨルテムでも、バス停の側にある宿屋というのは、よほど変なところに行かなければ、おおよそこんな感じの雰囲気を持っていた以上、結論に間違いはない。
 だが、それでもここが全く知らない場所であるという事実に比べれば、些細な問題である。
 そう。都市警の仕事で、散々あちらこちらの宿屋に出入りしていたはずだというのに、全く見覚えがないと言う事実の前には、どうと言う事のない慰めである。
 取り敢えず、椅子に座り直しつつ深呼吸をして、心を落ち着ける事にした。
 ふと気付いて窓の外を見詰めてみるが、やはりツェルニやヨルテムとは少し違った町並みを確認することしかできない。
 何が有ったのだろうかと振り返ってみて、そしてもう一つの違和感に辿り着いた。
 そう。都市外戦装備に損傷を受けていたはずだし、笑って済ませることが出来るレベルだったが、負傷もしていたはずだったというのに、その痕跡が全く無いのだ。
 さらに、服装それ自体もかなり違っている。
 別段、乙女チックな物に変わっているという訳ではないのだが、やや地味なつなぎを着ているのだ。
 腰を締め付けているベルトには、きちんと錬金鋼が刺さっているし、このまま都市警へ仕事に行くことだって出来そうだ。
 これは大いに驚くべき事実である。
 いや。都市外で戦っていたはずだというのに、何時の間にか宿屋の中にいるという事実も、大いに問題ではある。
 結論として、さっぱり訳が分からない状況に放り込まれたのだと、そう言うことになってしまう。
 著しく不本意な展開であるが、何とかこの状況を切り抜けて、ツェルニに帰り着かなければならない。
 そして、ここから思考が前に進まないのだ。
 入都した記録がないのに存在する人間は、間違いなく犯罪者である。
 都市外強制退去処分とかもあり得る。
 ならば、何時ぞやの情報窃盗団のように、放浪バスへ強制乗車という手段に訴えるべきかも知れない。

「いや。それは駄目だろ」

 警官を目指す身としては、出来うる限りにおいて、犯罪行為は避けて通りたい。
 通りたいのだが、残念なことに他の選択肢という物を全く思いつくことが出来ない。
 八方塞がりである。
 溜息をつきつつ、今度は食堂にいる人達へと視線を飛ばしてみる。
 ビュッフェスタイルを取っているようで、思い思いの料理を好き勝手にとって、知り合いと一緒にテーブルを囲んでいる光景と出くわした。
 だが、その中で一人だけ、たった一人だけ、明らかに異質な存在がいた。
 他の人の三倍は有ろうかと思われる料理を、それこそ目にも止まらない速度で片付けている銀髪の男性だ。
 食べることに生き甲斐を覚えているという訳ではなさそうだ。
 その食事風景は、役所で事務仕事をしている人間が、淡々と書類を作成して判を押している光景に極めてよく似ている。
 無表情とは言わないが、楽しんでいるという訳でもない。
 そして、その男性はおそらく武芸者だ。
 鍛え抜かれたその腕には、びっしりと筋肉が付いているし、何よりも微弱ではあるが剄の波動を感じる。
 この感じ方は、ナルキの感知能力が低いのか、それとも相手が最低限の剄脈だけしか動かしていないのか、そのどちらかだろう。
 そして、レイフォンが普段生活している雰囲気に極めて近いから、おそらく最低限の出力に絞っている方だろうと当たりを付ける。
 そして、そこで、その男性に親近感を覚えた。
 いや。既視感と言った方が近いかも知れない。
 銀髪を長くして、首の後ろで無造作に束ねたその姿は、一瞬ウォリアスを思い浮かべたが、彼ならば食べ物に執着することはあっても、事務的に食べるなどと言うことはない。
 それ以前に、髪型が原因ではないようだと気が付いた。
 顔をじっくりと観察する。
 整っているのに、何処か甘い雰囲気を漂わせている顔は、ナルキも良く知る人物と共通しているような気がする。
 何処で見たのだろうかと疑問に思っていると、その武芸者と視線が合ってしまった。
 そして、何故か微笑まれた。
 更に、全く意味不明だが、背中に冷や汗が流れるのを感じてしまった。
 だが、相手から認識されてしまっている以上無視することは出来ない。
 顔をじっくり見ている視線に気が付かれたのだろうし、だからこそ目があってしまったのだ。
 と言う事で、取り敢えず話しかけてみることとした。
 言葉を交わせば、何かが分かるかも知れないからだ。

「す、済みませんが」
「うん? もしかして僕と殺し合いたいのかい? でも駄目だよ? あと二十年みっちり修行してからなら兎も角、今の君では瞬殺してしまって楽しくないからね」

 何故かとてもおかしな方向に話が進んでしまった。
 敵対する意志はないし、そもそも荒事をするつもりなんてこれっぽっちもないというのに、何故この男性はいきなり殺し合うつもりなのだと思ったのだろうか、そう疑問に思う。
 だが、話はここで止まらなかった。

「もしかして、僕を殺したいのかい? ならば仕方が無いから、嫌々、渋々、ほとほと困った状況だと溜息付きながら相手してあげるけれど、瞬殺するのは許してくれるよね? 十分の三秒くらい苦しいだけだから、きっと大丈夫だよね?」
「い、いや。そんな話では無いのですが」

 関わってしまってはいけない人間だったと、そう理解したが既に遅い。
 目の前の人物はとても爽やかな笑顔と共に、ナルキに向かって攻撃的な剄を微弱に放出してきているのだ。
 攻撃的な剄を微弱に放出するなどと言う、高等技術を、ただで見られたことに感謝する心境にはなれない。
 何故かと問われたのならば、目の前の危険人物は間違いなく、今のナルキよりもかなり強いからだ。
 格上の人間との対戦には慣れているとは言え、それには当然限界がある。
 例えば、全力状態のレイフォン相手では、どう足掻いても一秒持たないだろうという自信がある。
 目の前の男性が、十分の三秒と言っているのも、あながち間違いではないと思える。
 いや。実際に戦ったのならば、十分の一秒持つかどうか怪しいところだ。
 それは何故かと問われたのならば、目の前の人物が誰なのか、それを理解してしまったからである。
 そう。レイフォンと同じかそれ以上の実力者である。
 そして、銀髪と甘いマスクをもった青年。
 既視感を覚えたのは、ゴルネオ・ルッケンスにどことなく似ているからに他ならず、だとするのならば、目の前の人物は。

「サヴァリス・ルッケンスさんですか、もしかして」
「うん? そうだけれど、何処かで会ったかな? ああ。もしかして、僕を倒して天剣を我が物にって人かい? それなら軽く戦ってあげるよ? 殺さないように気をつけるけれど、もし死んでしまっても恨まないでくれるよね?」
「い、いえ。そんな話でもないんですが」

 熱狂的戦闘愛好家とか、戦闘狂とか、バトルジャンキーとか、戦うことしか考えていない危険人物とかレイフォンが言っていた、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスと言う事となった。
 話を聞いた時には、珍しくレイフォンが冗談を言ったのだとそう思っていたが、どうやら本当の事を語っていたようだ。
 何でいきなりこんな物騒な生き物と鉢合わせしてしまったのか、それが非常に疑問だが、これでここが何という都市かははっきりとした。
 槍殻都市グレンダン。
 人類最強の武芸者に守護された、最も安全で、最も危険な都市。
 他の選択肢など存在しない。
 最強の盾であり、最強の矛をグレンダンがおいそれと手放す訳がないからだ。
 レイフォンは、まあ、例外中の例外というか、もはや何かの間違いで天剣になったとしか思えないから論外だ。
 それは置いて置くとしても、ほんの少しだけ希望が見えてきたとも言える。
 ここがグレンダンならば、レイフォンの師父であるデルクがいるはずなのだ。
 迷惑だろうが、彼に仲介を頼んで穏便にツェルニに帰ることが出来るかも知れない。
 そう思った直後のこと。

「君はマイアスの武芸者とは少し毛色が違うようだけれど、留学の途中か何かかい? いや。それにしては時期が全然違うね?」
「・・・・・」

 全身全霊を傾けて、動揺を押さえ込んだつもりだが、それでも天剣授受者に察知されないなどとは考えない。
 剄量だけではなく、その技量さえも一般武芸者とは比べることが出来ない超絶の存在だ。
 心臓の鼓動一つたりとも、聞き逃してはくれないだろう。

「そう緊張することはないよ? 僕はマイアスに足止めされて退屈なだけなんだ。ここで騒動が起こってくれたら、それはそれは楽しいだろうになって、そう思っているだけなんだよ?」
「そ、そうですか」

 そして、僅かな希望は打ち砕かれた。
 グレンダンの守護者が、何故都市を離れているかは知らないが、ここにデルクがいないことだけは間違いない。
 だが、実は希望が打ち砕かれたなどと言う生温い話ではなくなっていることに、ナルキはやっとの事で気が付いた。
 そう。サヴァリスの視線に宿った凶暴性が増しているのだ。

「勘違いだったかも知れないね」
「な、何がでしょうか?」

 全身から冷や汗が流れるなどと言う話を聞くが、そんな事態がこの世に存在するとは今まで思わなかった。
 だが、ナルキは今その有るはずのない事実を存分に味わっているのだ。
 とても喜ぶ気にはなれないが、事実としてサヴァリスの視線は間違いなくナルキを捉えているし、その凶暴性は増し続けているのだ。

「僕とみっちり一年間修行してみないかい?」
「え、えっと。私は割と急いで帰りたいんですが?」
「うん? ここに足止めされている間だけでも良いよ? 解放される時に殺し合ってくれれば、それで僕は満足だから」
「い、いえ。私は殺し合いたくないですから」

 サヴァリスの口元が歪んで行くのを眺めつつ、ナルキは走馬燈を見てしまっていた。
 危険を感じた脳が、今までの人生を振り返り、目の前の危機を回避する方法を探すという、その走馬燈をナルキは見ているのだ。
 それはつまり、身体は目の前に死に直結する危険が迫っていると判断していると言う事で。

「僕と君の間にある、四メルトルという距離を超えて、更にこの雑踏の中、ささやいている声を正確に捉えているその活剄はなかなか凄いと思うんだよ」
「う!!」
「それを計算に入れると、もしかしたら一秒近くは粘れるかも知れないよ? 試してみたくなったよね?」
「い、いえ。全く全然これっぽっちも」

 気が付かなかった。
 咄嗟だったので、立って近付くことさえせずに、相手がレイフォン並の武芸者だと思ったために、思わず座ったまま声をかけてしまっていたのだ。
 当然活剄で聴力を強化しているから聞こえるだろうと、そう判断したし、ナルキ自身もこの距離で相手の声を聞き分けることが出来たため、そう判断してしまったのだ。
 いや。今のナルキならば、もっと遠くからのささやき声でも十分に捉えることが出来る。
 それを察したからこそ、サヴァリスはナルキの潜在能力を開発して暇を潰そうと、そう考えたのだと分かった。
 そう。暇つぶしに命の危険にさらされているのだ。
 にこやかに笑い続けるサヴァリスが、ゆっくりと立ち上がる。
 ナルキの右手が、思わず鋼鉄錬金鋼に伸びる。
 万全の状態でナルキが戦ったからと言って、素手の天剣授受者に勝てるはずがないことは分かりきっている。
 だが、いきなり視線の凶暴性が焼失した。

「うん? 何か事情があるようだね。ふむ? それはそれで楽しそうだ」

 ナルキの手が錬金鋼に伸びていることを見ているはずのサヴァリスは、何故かいきなり笑みを深くして踵を返す。
 いきなりの展開について行けないナルキだったが、小さなサヴァリスの声が聞こえてきたことで、ますます混乱が酷くなってしまった。

「僕は錬金鋼を没収されたんだけれど、君は違うようだね。少し付き合って貰うよ? 殺し合うのは何時でも出来るけれど、今はもっと楽しいことが始まりそうだからね」

 拒否権は存在しない。
 いや。死ぬ覚悟があるのだったら拒否できるかも知れないが、ナルキにその選択は出来ない。
 
 
 
 殺剄を展開したまま活剄を使うという技術は、レイフォンから散々習っていた。
 習っていたが、まだ習得したという段階でしかない。
 たとえばの話だが、殺剄と活剄を同時に使ったレイフォンの後について行くなどと言うことは、ナルキには到底不可能な話である。
 不可能な話ではあるのだが、それでもサヴァリスがゆっくりと走ってくれたお陰で、何とか遅れずについて行くことが出来た。

「ぜぇぜぇぜぇ」

 それでも、一般人はおろか、ツェルニの準小隊員がやっと付いて行ける程度の速度で移動されたために、酷い息切れを起こしているのも事実だ。
 剄息を乱してはいけないと、レイフォンから常々言われているのだが、そんな生温い速度で移動してくれなかったのだ。
 周りの状況を確認するなどと言うことも出来ずに、今立っているのが何処かの建物、その屋上であることに気が付いたのは、だいぶ剄息が回復してきてからのことだった。
 活剄で疲労を駆逐しつつ、周りを見回す余裕が出来た。
 そして、違和感を覚えた。
 具体的に何がおかしいとは言えないが、それでも、何かが何時もと違う。
 それ以上に、何か張り詰めた空気に満たされているというか、何かほんの少しの切っ掛けで破裂してしまいそうな、そんな空気を感じ取ることが出来た。
 サヴァリスという危険人物がいる、この屋上がと言う訳ではない。
 この都市そのものが張り詰めていて、何時切れてしまってもおかしくない、そんな状況なのだ。
 これはいくら何でもおかしい。
 暴走状態のツェルニでさえ、ここまで張り詰めた空気ではなかったと思う。
 それは、都市の運営をしているカリアン達が、情報を秘匿しているからかも知れないが、それでもマイアスの現状を説明することは出来ない。
 都市上層部が隠しきれないほどの、非常事態がこの都市で進行しているとしか考えられないが、そんな物があることの方が信じられない。

「ふむ。思っていたよりも優秀だね。頑張れば一秒以上生きていられるかも知れないけれど、やっぱり殺し合わないよね?」
「む、無理ですから」

 この人は駄目だ。
 本当に戦うことしか考えていない。
 だが、そんな物騒な生き物と遭遇してしまったのだし、現状でサヴァリスを振り切って逃げるなど妄想することさえ出来ない。
 一般武芸者と天剣授受者の間には、想像するだけでも絶望するほどの開きがあるのだ。
 だが、サヴァリスも戦うためにナルキをここに連れてきたという訳ではないようで、視線が都市の外縁部へと向けられて、あまりこちらに注意を払っていないようだ。
 何にそんなに興味を引かれたのかと思い、サヴァリスの見ている方向へと視線を向ける。

「!!」

 そして、理解した。
 違和感の正体を、これ以上ないくらい明確に。
 そして、マイアスの張り詰めた空気の原因も、否応なく理解した。
 もし、ツェルニで同じ事が起こったのならば、おそらく同じように張り詰めてしまうに違いない。
 汚染された大地を、無数の金属製の足で放浪し続ける都市が止まっているのだ。
 そう。自律型移動都市の足が、止まっているのだ。
 振動を感じることはないが、足が大地を踏みしめる音が途絶えていると言うだけで、まるで世界が死んでしまっているかのような印象を受けるほどに、目の前の光景が信じられない。
 いや。都市が止まることはごく希にある。
 鉱山での採掘作業などがそれだ。
 ツェルニもついこの間、完全に移動を止めた時期を経験している。
 だが、マイアスが採掘中だという訳ではなさそうだ。
 都市外で何か作業をしているという雰囲気ではないし、そもそも、きちんとした理由があるのならばここまで張り詰めた空気にはならないはずだ。
 つまりこれは、突発事態だと言う事に他ならない。

「気が付いたようだね。この都市は止まっているんだよ。ワクワクしてきただろう? 何時汚染獣に襲われるか分からないと思っただけで、僕はもう興奮のしっぱなしなんだよ。ああ。老性体とか来てくれたら、さぞ楽しいことだろうと思うと、血湧き肉躍り、魂が躍動するんだ」
「そ、そうですか」
「天剣無しで老性体と戦えるなんて、レイフォン以外ではそうそう経験できないとても楽しいイベントだからね!!」

 うっとりとした視線を都市外へ飛ばしつつ、異常なハイテンションで語り続けるサヴァリス。
 汚染獣が来る前に、何とか都市を再起動させる必要があるのではないかと思うのだが、全くそんな考えはないようだ。
 そもそも、レイフォンが老性体と戦ったのは、他に方法がなかったからであって、断じて趣味に走った結果ではないのだ。
 だが、目の前にいる天剣授受者は、何処をどう間違ったのか趣味で老性体と戦いたがっているのだ。
 いや。それ以上に。

「レイフォンみたいに天剣無しで老性体と戦って、勝てるんですか?」
「うん? 当然戦えるよ。勝てるかどうかなんて関係ないじゃないか? 命を削るような戦いこそ、僕達の最も望む物だよ?」
「い、いぇ。私はきちんと勝って友達を守りたいんですが」

 ツェルニを守りたいと思っているのは、間違いのない事実だが、それでも、最悪の場合は友達だけでも守りたいのだ。
 その思いに嘘偽りはない。
 断じて、戦いが目的ではないのだ。

「うん? 君もレイフォンと同じ種類の武芸者なんだね。・・・。おや? レイフォンを知っているのかい?」
「っう!」

 完璧に動揺してしまった。
 これで気が付かない人間がいたら、是非ともあってみたい。そして渾身の突っ込みを入れてみたいと思えるほどに、完璧に動揺してしまった。
 レイフォンとは誰かという疑問を持たなければならなかったのかも知れないが、何しろ天剣授受者だから知っていても不思議はない。
 元と付いていても、グレンダンでは有名人だったのだ。
 それも理解しているサヴァリスの、視線の温度が上がった気がした。
 思わず後ずさる。
 だが、そんな物は全くの無意味だった。
 楽しげなサヴァリスの視線が、ナルキの身体を舐め回すように動く。
 セクハラ的な視線だったらまだマシだったのだが、明らかに違う。
 レイフォンとナルキの共通点を探しているのに違いない。
 そして、その視線がベルトに刺さったままだった錬金鋼に止まる。
 そう。サイハーデンの訓練でも使っている、雄性体戦で散々使った鋼鉄錬金鋼へと、溢れる情熱と共に視線が注がれる。

「それは、間違いなく刀だね? レイフォンは武器を持ち替えたんだね。本来の刀に」

 まるで夢心地だと言わんばかりに、サヴァリスの視線がうっとりとする。
 咄嗟の判断に命を賭ける武芸者には、割と直感的に物事を把握するという傾向がある。
 そう。問題の後に過程などが存在しないかのように、いきなり答えにたどり着いてしまうのだ。
 そして、相手は人類最強武芸者であり、何よりもサヴァリスの答えは間違っていないのだ。
 ある意味思い込みとも取れる答えの先は、会って間もないナルキでさえ容易に想像できてしまう。
 そう。本来の技を取り戻したレイフォンと、心ゆくまで殺し合いたいとか思っているに違いない。
 聞きしに勝る危険人物であることを認識したナルキだが、それでも、今の状況ではとても必要な戦力であることも事実だ。
 老性体が来るかどうかは別としても、確実に汚染獣はやって来る。
 ならば、戦力は多い方が良いだろうし、天剣授受者という人外の化け物ならばなおさらに有難い。
 有難いのだが。

「ところで話は変わるんだけれどね?」
「な、なんでしょうか?」

 逃げ腰で訪ねる。
 勘を取り戻すために戦おうとか言い出されたら、ナルキに拒否権は存在しない。
 そう。ナルキが死んだとしても、マイアスにとっては著しい黒字なのだから。
 
 
 
 雄性体五体を蹴散らすためにレイフォンは走る。
 もはや何度目の戦闘なのか、考えるのも面倒なほどに戦い、そして全ての汚染獣を塵芥と変えてきた。
 雄性体一期が三体までだったら、ツェルニの中隊に任せることが出来るほどには、戦闘が続いている。
 もはや彼らを学生武芸者だと侮ることは出来ない。
 最初から侮っていた訳ではないが、今から思い返せば、中隊の組織が固まった直後の雄性体戦では、まだまだ危険な状況があったように思う。
 だが、今の三個中隊には、全く危ないところは見られない。
 雄性体二期一体ならば、任せきりにしても何ら問題無いほどに、戦場での経験を積んで、確実に強くなっているのが分かる。
 だが、それでも、今回のように雄性体五体とかになったら、レイフォンが単独で出撃する場合もある。
 二体くらい任せても良かったのだが、流石に連戦に次ぐ連戦で疲弊が目立ってきた。
 そのお陰で、レイフォンはさほど疲労している訳ではないので、今回の単独出撃となった。

(いや。違うだろ)

 単独出撃を強く希望したのだ。
 戦っていないと、精神の均衡を取れなくなりつつある。
 戦うことに快楽を見いだしているという訳ではない。
 ただ、ナルキを連れ帰ることが出来なかった負い目と、そして何よりも、その事でレイフォンを責めることをしないメイシェンから逃げているだけだ。
 やはりミィフィもレイフォンを責めようとしない。
 ナルキが異常な状況で行方不明となったことを、きちんと捉えつつも必死に帰ってくることを願っている少女達と比べたら、戦うことしかできないなど、情けなくて自分に腹が立ってくる。
 だが、それでも闘うことしかできないのが、レイフォン・アルセイフと言う生き物だ。

「本当に、どうしようもないな!!」

 憤りを込めた錬金鋼を振りかぶり、最初の汚染獣を一刀のもとに両断する。
 持っているのが天剣だったのならば、雄性体一期か二期が五体程度、一撃の下に瞬殺することも出来たが、今の複合錬金鋼でそれをやることは出来ない。
 そのもどかしさも相俟って、レイフォンは次の汚染獣に向かって、高速で突っ込む。
 二体目の複眼の間に巨大な刀を突き立て、甲殻の中で衝剄を放ち絶命させる。
 天剣授受者になったことで、全てが上手く行くと思っていた時期もあった。
 実際にしばらくの間は順調だった。
 全てが狂ったのは、ガハルドに脅迫されたあの夜だ。
 あの時にリチャードにでも相談していたのならば、レイフォンの人生は全く別な物となっただろう。
 だが、もし、レイフォンがツェルニにやってこなかったのならば、どう頑張ったとしても、老性体との戦いに勝利することは出来なかったはずだ。
 出会っていなかったとしても、メイシェンやミィフィ、ナルキが死んでいたことは間違いない。
 ならば、ガハルドに脅され、グレンダンを追放され、ヨルテムに流れ着き、そして今、ツェルニに居ることは、とても素晴らしいことだと言えるかも知れない。
 それでも、やはり、ナルキが居ないことは大きなマイナスだ。

「あの山羊のせいだ!!」

 ナルキが空へと消える瞬間、確かにレイフォンは見た。
 傷付いた都市外戦装備を纏った、長身の女性の背後に、黄金に耀き雄々しい角をもった、巨大な雄山羊の姿を。
 あれが廃貴族だというのならば、ナルキは極限の意志を持ってしまったために連れ去られたのだと、そう言うことになってしまう。
 レイフォンからすれば、笑ってしまうような下らない物のために、ナルキが連れ去られてしまった。
 更に掬いがたいのは、レイフォンこそが、その極限の意志を持つ手伝いをしてしまったと言う事だ。
 その身体を鍛え上げ、極限状態に陥りやすい戦場へと誘ってしまったのだ。
 冗談ではない。
 冗談ではないが、確かにそう言った味方も成り立ってしまう。
 だからこそやりきれない。

『あまり猛り狂うのは、貴男のキャラと整合が取れなくなりますよ』

 三体目を輪切りにしたところで、不意にフェリの声が耳に飛び込んできた。
 いや。この表現は正確ではない。
 フェイススコープに接続されているのはフェリの念威端子であり、そして何よりも、レイフォンの独り言を延々と拾い続けていたのも彼女なのだ。
 他人の独り言や愚痴に付き合うこと以上に、精神的に負担のかかる作業をレイフォンは知らない。
 いや。学校の授業以外でと言う条件は付くが、どう過小評価しても、フェリにとってかなり精神的な負担になったことは間違いない。

「済みません。何か言いながら戦わないと、太刀筋が荒れてしまいそうで」
『そう言う物なのですか?』
「多分」

 ツェルニに来るまでは、明らかに違った。
 グレンダン時代のレイフォンは、戦いの場に感情を持ち込むことを拒絶していた。
 あらゆる感情を排除して、生きて帰ることのみを追求する。
 そうやって戦い、そして天剣授受者となった。
 その基本は、ツェルニでもさほど変わらなかったはずなのだが、もしかしたら、拒絶することに限界が来たのかも知れない。
 廃貴族が、レイフォンの精神状態を極限の意志と言っていたが、やはり違ったのだろうと思う。
 戦闘が続いているが、廃都市で廃貴族と遭遇した時のような、静かな湖面のような気持ちにはなれていないのだ。
 もしかしたら、極限であるだけに、長続きしないのかも知れないが、取り敢えず今のレイフォンにそんなたいそうな物はない。

『後二体ですが、このままサポートを続けますか?』
「いえ。次の汚染獣の探索をお願いします」

 既に後二体であるから、念威繰者のサポートはそれ程必要という訳でもない。
 ならば、次の戦いが何時になるのかの方が、より重要な情報となることは間違いない。
 そして、それ以上に心配なこともあるのだ。

「フェリ先輩は、きちんと休んでいるんですか?」
『問題有りません。トリンデンのお菓子を補給できない方が、よほどきつい状況であると断言できます』
「・・・・。きちんと休んでください」

 フェリの発言が、完全にらしくないと思う。
 メイシェンのお菓子のためにシャンテを暗殺しようとしたことはあったが、今は完全に状況が違う。
 そもそも、作る役であるメイシェンがそれどころではない精神状態なのだ。
 その精神状態を改善する手立てを考えつかない現状で、補給がどうのと専門用語に聞こえる単語を使う時点で、かなり参っていることが伺えるという物だ。

『問題有りません。昨夜もきちんと一時間は眠りました』
「全然足りていませんからね、それ」

 レイフォンの精神状態も、それ程良いという訳ではないが、いざ戦いとなれば何とかまだやれる。
 いや。現実から戦闘という逃げ道へと突っ走ることが出来る分、他の人よりは増しなのだと言える。
 人間、目の前の仕事を片付けるために、一時的に重要な物事を忘れることが出来るという、便利な機能が付いているのだが、残念なことにメイシェンには目の前の仕事などと言う物が殆ど無いのだ。
 学校の授業も休みがちだし、食事を作ることもしなくなっている。
 リーリンやウォリアスが食事を作って差し入れているが、それでも、徐々に顔色が悪くなり、やつれてきていると聞く。
 残酷な言い方だが、これでナルキの死亡が確認されたのならば、大いに泣いて取り乱して、そして時間が経てば、精神の再建を始めることが出来たはずだ。
 今の、訳の分からない行方不明という現状は、一事の衝撃よりも遙かに厄介なのだ。
 何時終わるか分からない汚染獣との戦いよりも、メイシェンの精神状態の方が差し迫った問題だと、改めて認識したレイフォンは、手近にいる汚染獣へと突撃した。
 
 
 
 無事に戦闘を終えたレイフォンが、ツェルニに帰って来るという連絡を受けたリーリンは、薬を使ってメイシェンを眠らせてから、戦略・戦術研究室へとやって来ていた。
 念のためという訳ではないが、ミィフィも一緒だ。
 まだ余裕が有る内に、何とかしなければならない。
 何時も通りにやや散らかった地下室に入るなり、回り道抜きでいきなり本題へと入る。

「メイシェンがかなり限界なんだけれど、何かいい手は無いかな?」

 何時もの二人組が、なにやら意味不明なことをやっている研究室に入ると、すぐにそう切り出した。
 そこでリーリンは、自分もあまり平常心でないことを嫌に成る程明確に認識してしまった。
 普段ならば、もう少し違う話題から入るだろうし、何よりもやや散らかっている室内の方に注意が行くはずだからだ。
 まだ余裕が有るとは言っても、楽観できる状況ではない。
 薬を使わなければ、眠れなくなっているメイシェンはその最たる物だが、探せば他にいくらでも問題はある。
 と言う事で、リーリンにとっての最重要課題から片付けようと思ったのだが、最初から躓き気味だった。

「うん? レイフォンと同じベッドで寝かせておけば、それでおおよそ大丈夫じゃないかな?」
「それは名案だな。あの二人を一緒に寝かせれば、当面大丈夫なはずだ」

 ウォリアスとディンから返ってきた答えは、残念なことにリーリンの期待したような物ではなかった。
 とは言え、今の提案には一定の効力があるかも知れないと、思わないことも、無いかも知れないと、断言できるかも知れない。
 憔悴しているミィフィが、一瞬身体を硬直させたが、実害が出ていないので話を進めることとする。

「他にない? もっとこう、きちんと解決できるようなのが」

 一緒のベッドでメイシェンとレイフォンを寝かせるというのは、確かに評価できるかも知れないとは思うのだが、問題の表面化を先送りにしているだけだとも言える。
 根本的な解決方法が見付かるまでの、その場しのぎの方法ならば、リーリンだって幾つか考えたのだ。
 その中には、当然二人組の出した答えもあったには、有ったのだが。
 レイフォンの気持ちは決まっていると分かっていても、今、その案を採用することは危険であると思うのだ。
 メイシェンの身体の問題で。

「根本的と言われると、不確定要素が多すぎてかなり難しいよ」

 ウォリアスの愚痴とも弱音とも付かない発言は理解できる。
 ナルキが廃貴族とやらに取り憑かれたらしいことは、おそらく間違いないようだが、それでいきなり消えてしまうと言うのは、全く話が見えてこない。
 何日か前に、疲れ果てたレイフォンが言っていたことがある。
 ナルキの死体が見付かれば、その時の衝撃は大きいが立ち直ることも出来るだろうと。
 今の、この訳の分からない状況こそが全ての元凶であると。
 それは理解できる。
 理解は出来るが、とうてい納得することは出来ない。
 レイフォン自身も、現状を嘆きながら対応する疲れが溜まっていたために出てきた言葉だったようで、言った直後後悔していることがはっきりと分かる視線だった。

「それでも、何とかしたいのよ」

 リーリンにとって、ツェルニの現状がどうのと言う事よりも、メイシェンのことを何とかすることの方が遙かに重要だ。
 身近な者にしか注意が行かない、器量の小さな人間と言われようと、ツェルニ全体のことを考えることはリーリンには出来ない。

「これは、半分冗談だと思って聞いて欲しいんだけれど、それでもかまわない?」
「かまわないわ」

 しばらくの逡巡の後、溜息と共にウォリアスが何かを決断した。
 その視線は、何故か真っ直ぐにリーリンに向けられているのだが、それは今までに見たことがないほどに複雑な感情を宿していた。
 哀れみや同情など、普段から割と接することの多い感情と、全く見たことのない不思議な物が入り交じっているが、それでも次の言葉が致命的な内容であることは間違いない。

「前提条件として、メイシェンもレイフォンも本質的には弱い人だ」

 ウォリアスの認識している前提条件に間違いはない。
 武芸に関してだけならばレイフォンは強いのだろうが、それを支える土台はとても脆弱だ。
 孤児院の経営状態を何とかしたくて戦場に出て、天剣授受者となったが、それは多くのお金を稼いで家族を養うためだった。
 つまり、家族に拒否された瞬間、レイフォンは戦うことが出来なくなってしまった。
 その程度の土台で戦ってきたのがレイフォンなのだ。
 そして、メイシェンに関してはもっとはっきりとしている。
 誰かが支えていないと、すぐに倒れてしまうことは、ただ今現在証明され続けている。

「この前提を最大限有効に使うことで、二人を安定させる」

 それは、さっき出てきた二人を一緒に寝かせると言う事だ。
 それだけで、かなり長い時間を二人は稼ぐことが出来るだろう。
 だが、やはり全く根本的な解決にはなっていない。
 そう思ったのだが、違った。

「レイフォンが戦場から帰らなければ、その瞬間にメイシェンは完全に壊れてしまうだろうね」
「そ、それは考えなかったわ」

 武芸に関してレイフォンは強い。
 それはグレンダンで証明され続けてきた事実だと思っていた。
 だが、それでも、レイフォンが死なないという意味ではない。
 そこに思い至らなかったリーリンの精神状態も、かなり限界だと言えるが、問題はメイシェンとレイフォンだ。
 二人を一緒に寝かせたとしても、レイフォンが帰らなければ、やはりメイシェンは同じ道を歩んでしまうだろう。

「だから」
「だから?」

 嫌な緊張のために、リーリンの背中に冷や汗が流れる。
 それはミィフィも同じようで、顔色がかなり悪くなっている。
 だが、そんなリーリン達のことなどお構いなしに、おそらく唯一の有効手段であり、最も避けたい方法が細目の武芸者の唇から漏れ出した。

「メイシェンがレイフォンの子供を身籠もればいい」
「「!!」」

 そして気が付く。
 瞼の間から覗く、ウォリアスの視線が酷く冷たくリーリンを捉えている。
 この提案をどうするか、その答えでリーリンという人間を見ようとしているのだ。
 全身の血が逆流できずに下がって行くのが分かる。
 熱を持っているはずの頭の中で、恐ろしく冷たい塊が脈動している。
 だが、リーリンが何かするよりも速く、問いを発したはずのウォリアスの目が大きく見開かれ、そして顔を手で覆うと大きく溜息を付いた。

「吐き気がする」

 そう呟く唇から零れ落ちてきたのは、血が滴り落ちないのが不思議な声だった。
 自分がどんな問いを発したかを、今頃になって気が付いたという訳ではないと思うが、ならば何故こんな反応をするのかが全く分からない。

「そりゃあ。あんな事提案したら、誰だって吐き気くらいするよ」

 だからだろう、ミィフィが重い唇をやっとの事で開いて、ウォリアスを支持するような発言をする。
 誰もウォリアスを責めることは出来ない。
 それは分かっている。
 他の方法などリーリンにも思いつかないのだ。
 だが、ウォリアスは明らかに違っていた。

「そんなんじゃないよ。提案自体は、他の方法がないという一点において、僕は全面的に支持するし、そうじゃなきゃ口にしないさ」

 その提案がどう受け止められるか、それが分かっていないはずがないのだ。
 ミィフィもそのくらいは分かっていても、それでも話を進めるためにあえて聞いたのだろうという事は間違いない。

「リーリンがどんな反応をするか予測して、それが実際にどうなるか観察している自分に、吐き気がする。僕は自分の人生を生きていないんだって、そんな結論が出ちゃったから」
「人生って?」

 突如出てきた単語に、思わず辺りを見回せば、リーリンやミィフィだけでなく、ディンでさえ完全に理解不能だという表情をしている。
 いきなり人生なんて単語が出てきて、戸惑わない人間は滅多にいないだろう。
 だが、ウォリアスはこの話題を追求されることを避けるようで、手を降ろしてリーリンをしっかりと見詰める。
 その視線には、先ほどまであった冷たさはほぼ見えなくなっていた。
 だが、それでも、とうてい暖かな物にはなっていない。
 実験動物を観察するような、そんな視線でしかない。

「それで、どうする? 止めるんだったら他の方法を何とか考えるけれど」
「・・・・・」

 話を振られて、そして考える。
 このままでは、確実に破局がやってくる。
 レイフォンは戦うことで現実逃避が出来るだろうが、メイシェンはずっと向き合わなければならないのだ。
 だが、それでも、リーリンに決断することは出来ない。
 まだ、レイフォンへの気持ちはその胸に残っているから。

「考えると言ったけれど、他の方法が見付かるとは思えないし、そもそも、何もしなかったらいずれ確実にそうなる。遅いか速いか、子供が出来るか出来ないかの差でしかないよ」

 追加で出されたウォリアスの言葉に間違いはない。
 そう。誰も何もしなければ、間違いなく二人はそう言う関係となる。
 そう。ナルキが見付からなければ、確実にそうなる。
 子供が出来るかどうかは、それは分からないが、変えることは出来ない。

「っう!」

 その時、リーリンの胃が急激に収縮した。
 殆ど何も入っているはずがないにもかかわらず、焼けるような痛みと共に何かが喉をせり上がってくる。

「これ!」

 咄嗟のことだったが、予測している人間がいた。
 ウォリアスの差し出した袋に向かって、黄色みがかった白い液体を吐き出す。
 喉を灼く痛みと、口の中に残る酸味がリーリンを更に責める。
 レイフォンへの思いがその胸にあるにもかかわらず、それでもメイシェンのことを心配している自分を嘲笑っているのだ。
 もし、万が一にでもメイシェンが自殺でもしてしまえば、リーリンにもまだ機会はあるかも知れないと、そう考える自分を確かに認識したから、胃液を吐き出したというのに、それでもまだリーリンは自分を責めてしまう。
 背中をさすってくれるミィフィの、掌の暖かさでさえも、リーリンを責めているように思えてしまう。

「考えてみたら」
「うん?」
「朝ご飯食べたきり、何も食べていなかったのよ。気持ち悪くなっても仕方ないわね」
「食事抜くのは良くないよ。健康のためにはね」

 あえて強がってみせる。
 何処の誰が見たとしても、食事を抜いたために嘔吐している訳でないことは分かりきっているが、それでも強がる。
 弱音を吐く権利など、リーリンにはないのだと自分を叱咤する。
 そうしなければ折れてしまいそうだから。
 その決意を改めて固める。
 弱音を吐いて良いのは、ナルキが帰ってきてからだと。
 折れてしまわないように、決意をもう一度固めたのだ。
 そして次の瞬間、見てしまった。
 にじんだ視界の中央に、黒いゼリー飲料のパッケージを。

「・・・・・・」
「他に缶詰とカロリービスケットもあるけれど、どれを食べる?」

 今までのリーリンの覚悟や思いを、綺麗さっぱりと薙ぎ払ってしまったのは、ウォリアスの差し出した食べ物達だった。
 いや。食べ物に擬態した恐るべき何か、だ。

「・・・・・・・・。カロリービスケットと水をお願い」
「美味しいよ? このゼリー。缶詰も適度に膨張していて」
「ビスケットと水でお願い」

 ウォリアスはもう駄目だろうと、この時リーリンは確信した。
 平静を装ってはいるが、既に限界を超えてしまっているのだと確信した。
 そうでなければ、こんな恐ろしすぎる食べ物に擬態した何かを列挙するはずがないのだ。

「さっきフェリ先輩に、黒いゼリーを十倍に薄めて飲ませたら、心安らかに眠ってくれたよ。それはもう死んだようにぐっすりと」

 本当に死んでいるのではないかという質問は、あえてしなかった。
 肯定されるのが恐ろしかったというのもあるし、もしかしたら、既にウォリアスは黒いゼリーがなければ眠れなくなっているのかも知れないから。
 考えてみれば、ツェルニの行く末を最も確実に予測しているのは、禿げ上がった頭を持つ四年生と、瞳の細い危険人物なのだ。
 どれだけの負担と戦い続けているか、リーリンには想像することが出来ない。

「十倍か。俺もそれで眠れた時期があったな」
「僕は今、五倍でないときちんと眠れませんよ」
「俺は四倍少しだ。お前は強いな」

 そんな男二人の会話が聞こえる。
 予想したように、既にこの二人は限界を超えてしまっているのだ。
 そして、おそらくこのまま行けば、ツェルニが限界を超えてしまう。
 グレンダンでは全く問題にならなかった、汚染獣との連戦という事態だったが、学園都市ツェルニでは想像を絶する絶望と戦う時間だったのだと、改めてリーリンは認識した。
 放浪バスがやってくれば、ゴルネオが旅立つことが出来る。
 そうすれば、グレンダンからの援軍を待つという希望に縋ることだって出来たはずなのだが、今もゴルネオはツェルニに居る。
 希望の見えない戦いはまだ続くのだ。



[14064] 第八話 二頁目 
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:07


 溜息と共に、ナルキは狭い部屋の中を漁っていた。
 学園都市とは言え、都市警に所属しているナルキが、漁っているのだ。
 何処と問われたのならば、サヴァリスが押収された錬金鋼が、仕舞ってあると思われる部屋をと答えることしかできない。
 屋上での会話で頼まれたのは、サヴァリスの錬金鋼を回収する、その手伝いをしろと言う物だった。
 手伝えと言われたのだが、部屋へと入った次の瞬間、サヴァリスが片っ端から荷物を放り出したために、ナルキが単独で漁っている状況である。
 既に手伝いと呼べる状況ではない。むしろ主犯と言い切る事が出来るかも知れない。
 手際良く荷物を改めているナルキを、壁により掛かって眺めている主犯は実に楽しそうだが、やっている方は極めつけに気分が重い。
 警官希望だというのに、コソ泥のようなことをしているというのもそうだし、マイアスに何故いるのか分からないという状況もそうだ。

「これですか?」

 それ程厳重に仕舞われていないことは分かっていた。
 基本的に都市警と揉め事を起こす都市外からの犯罪者というのは、放浪バスで逃げ出さなければならない。
 閉鎖された都市内で見知らぬ人間が隠れることは、極めて困難だからだ。
 そして何よりも、マイアス都市警は外部から来た武芸者に、注意を向けていられる状況ではないのだ。
 となれば、取り敢えず他の来訪者の荷物と一緒に保管というのが妥当な判断だ。
 扉に付いている鍵を破壊すれば、後は探して取り出せばそれでお終いである。
 壊した鍵をどうしようかとかも考えなければいけないのだが、流石にそこまでは責任が持てない。
 と言う事で、カード型の錬金鋼をサヴァリスに向かって放り投げる。
 溜息付きながらやっているとは言え、そこは警察関係者である。
 多少なりとも知識と経験が有れば、全くの素人がやるよりは遙かに効率的に捜し物が出来るし、被害を押さえることも出来るのだ。
 そう。部屋中が都震でひっくり返ったような惨事を防いだという事実一つ取ってみても、ナルキの行動は賞賛されるべきである。
 鍵の破壊行為は、部屋が荒らされなかったという功績で帳消しにして貰うこととしよう。
 諦めにも似た気持ちのナルキとは、全く関係がない人間は無茶苦茶に元気だ。

「そうそう。これだよ」

 とても嬉しそうなサヴァリスを一発殴りたいが、それをすると必然的に死合になってしまうのでぐっと堪える。
 だが、そんなナルキのことなどお構いなく、おもちゃを買って貰った子供のように元気いっぱいな主犯は、とても凄まじい褒め言葉を放ってくれた。
 よりにもよって、後片付けをしているナルキに向かってである。

「僕がやったら部屋中滅茶苦茶になっていたところだよ」
「それが分かっているから、私が一人でやって、そして片付けているんです」
「うん。君は泥棒の天才だね」
「ごふ!」

 よりにもよって、学園都市でとは言え、警官であるナルキに向かって、泥棒の天才だというのだ。
 とてもにこやかな笑顔以外に出来そうもない、人外魔境の戦闘狂がだ。
 暴発させるために挑発しているというのならば、話はまだ納得が行く。
 救いがないというか、やりきれないというか、どうしようもないというか、サヴァリスは完璧に褒め言葉として泥棒の天才だという言葉を使っているのだ。
 命に代えて、この非常識な男を殺すべきかも知れないと思うのだが、どうやっても無理な話なので溜息と共に諦めることとした。
 そして恐るべき危険性に気が付く。
 もしかしたら、レイフォンもこんな連中と関わったために、駄目人間になってしまったのではないかと、そんな危険性に気が付いてしまったのだ。
 もしこの推測が正しいのならば、将来的にはナルキも駄目人間に。

「・・・・・・・・・・・。よそう。考えるの」

 恐ろしすぎるために、これ以上考えるのを止めた。
 もしかしたら、この心の動きこそが駄目人間への最短ルートかも知れないが、それでも恐ろしすぎる想像に耐えられないのだ。
 取り敢えず、これで汚染獣との戦いを有利に運ぶことが出来そうだと、無理矢理前向きに考えることとする。
 だが、サヴァリスはまだまだ止まらなかった。

「うん? 何故考えるのを止めるんだい? 僕は君のことを褒めたんだよ? 天剣授受者の僕に褒められたから調子に乗って、あわよくば僕を倒そうとか思うはずだよ?」
「・・・・・・・・・・・」

 頭を使って、戦う相手を作ろうとしていることは十分に分かった。
 褒める動機が不純だが、それは別段問題無い。
 全くの善意で褒めているのだと思っていたが、そうでもなかったのだという事実が分かったが、全然嬉しくない。
 褒めるという行為自体は、それなりに有効であると思うのだが、決定的に間違っているのだ、今回は。

「私は、一応警察関係者なんですよ、一応ね」
「うん? そうだったんだ。これは失敗だったねぇ。それで精神的なダメージを食らっていたのか。調子に乗って僕に襲いかかってくると言うのも、無理な話だね」

 これっぽっちも反省している素振りも見せずに、そんな事を言うサヴァリスに向かって溜息を付きつつ、後片付けを続ける。
 時間帯は深夜であるから、おいそれと巡回は来ないだろうとは思うのだが、もし見付かったら最悪である。
 警官であるナルキが窃盗を働いているという事実以上に、揉め事を起こしたら戦闘狂が張り切ってしまいそうだからだ。
 そして奇跡的な事実として、マイアスは鍵一つを犠牲として戦闘狂の宴から救われたのだった。
 
 
 
 錬金鋼の回収という窃盗行為に手を貸した建物から出たところで、とある事実が厳然として存在していることに気が付き、一瞬以上硬直してしまった。
 考えるまでもなく、ナルキには寝る場所が無かった。
 正式な手段でマイアスに入った訳ではないから、当然と言えば当然なのだろうが、だからと言って状況が好転するという訳でもない。
 恐る恐ると隣を歩く戦闘狂へと視線を向けてみる。

「うん? 寝るところがないんだろう。僕の所に泊まって行けばいいよ。どうせ宿泊費はマイアス持ちだからね」
「あ、有り難う御座います」

 もちろん、その提案を期待していたので、それはそれで何の問題も無いのだが、実はもっと切実な問題が有るかも知れないことにも気が付いていた。
 ナルキの貞操絡みの問題ではない。
 この男に限って言えば、女性という生き物をきちんと理解していないと断言できる。
 レイフォンにとって、女生とは汚染獣以上の未知の生物だったが、サヴァリスは女性という種類の人間がいることを、おそらく知っているが理解していないのだ。
 だからこそ、ナルキの貞操絡みの問題は全く気にしなくても良い。
 問題はもっと根本的なところにあるのだ。

「それで、これからどうするんですか? 何とかマイアスが停止している理由を探り出して、出来れば解決しないと」
「うん?」

 サヴァリスの錬金鋼は、あくまでも保険である。
 もし襲われた場合、マイアスの犠牲が少ない内にサヴァリスをけしかけることが出来るかも知れないと、そう思って協力したのだ。
 都市上層部が実力を知らなければ、おそらくグレンダンの天剣授受者の出撃は、だいぶ遅くなるだろうからだ。
 だからこそ、強引に戦闘に参加させるために錬金鋼を盗み出したのであって、最善はマイアスが再起動することだ。
 だが。

「錬金鋼が手元に戻ってきたんだから、後は汚染獣が来るのを待つだけだよ? ああ。僕と訓練をしたいんだね。そう言うことはもっと速く言ってくれないと」
「・・。人の話を聞いて下さいよ」

 そうだろうと予測はしていたが、実際にサヴァリスの答えを聞いてしまうと、酷く脱力してしまう。
 とても嬉しそうにナルキの身体を舐めるように見るサヴァリスから、少しだけ距離を取る。
 貞操の危機は全く心配ないが、命の危険はどっさりと目の前に山積しているからだ。
 こんな物騒な生き物と同僚だったと言うだけで、レイフォンの事を尊敬してしまいたくなるくらい、とても命の危険を感じている。
 だが、突然にサヴァリスの視線が真剣味を帯びた。
 何事かと身構えたのも一瞬、とてもにこやかな笑顔と共に、ナルキの腰の左側を指さす。

「錬金鋼は隠しておいた方が良いよ。没収されたらもう一度盗みに入らなければならないからね」
「・・・・。それは、確かにそうですね」

 サヴァリスの手に錬金鋼がある以上、ナルキの活躍の場など無いとは思うのだが、それでも万が一と言う事はありえる。
 と言う事で何処に隠すか一瞬考える。

「レストレーション02」
「うん?」

 左手に填めたままだった紅玉錬金鋼を復元。
 ベルトから外した錬金鋼を右腓骨の外側、ズボンの内側へと鋼糸を使って縛り付ける。
 殺傷力の高い鋼糸だが、ナルキが使う分にはさほどでもない。
 少しだけ気をつけておけば、足を切ることもないだろうし、いざという時には鋼糸を使って一気に右手までもってくることが出来る。
 便利な方法だと自画自賛したのは、しかし一瞬のことでしかなかった。

「あ、あの?」

 サヴァリスの視線が、つい三秒前よりも熱を帯びてナルキを捉えているのだ。
 その熱量は、既に恋する乙女のそれを凌駕すると思えるほどであり、ヒシヒシと命の危険を感じてしまう。

「リンテンスさんの鋼糸の技だね。ずいぶんと縮小しているけれど、それでも闘う時にはなかなか便利なんだよね。僕も一時期覚えようかと思ったんだけれど、君は既に体得しているんだね」
「え、えっと」

 失敗したと後悔したが、既に後の祭りである。
 マイアスの事情を何とかするよりも先に、ナルキは自分のことを何とかしなければならないようだと、やっとの事で心が納得したのだった。

「と、兎に角今日はもう寝て、明日以降に備えましょう」
「うん? 僕と戦うために体調を万全にするんだね。それはとても魅力的な提案だね」

 何でこの男は、人の話を聞かないのだろうかと疑問に思うのだが、もしかしたらわざと聞かないふりをしているのかも知れないと言う結論に達した。
 激怒したナルキが襲いかかってこないかと期待しているとか。
 この推論に立って今までの言動を再確認してみると、全て納得行くような気がするから恐ろしい。

「一緒のベッドで眠るかい? 鋼糸で僕を絞め殺すとかしてくれると楽しいと思うんだよ」
「襲いませんから。それと同じベッドで眠るというのは流石に拙いでしょう」
「うん? 僕から襲うことはしないよ?」
「そう言う問題ではありませんから」

 何で漫才をしなければならないのだろうかと、疑問に思うナルキは、大きく溜息をつきつつ、戦闘狂との一夜を過ごすべく歩みを少しだけ早めた。
 もしかしたら、都市警に捕まった方が安全ではないかと、そんな事を考えつつ。
 
 
 
 明け方になって、それは発見された。
 押収品を入れるために使われている、宿泊施設の倉庫、その扉の鍵が破壊されていたのだ。
 どんな目的があったかははっきりと分からないが、都市警に所属する少年はとても恐ろしい事態が起こっていることを、これ以上ないくらいに明確に把握した。
 いや。マイアスが止まっているという事態が既に驚異的な非常事態なのだが、その中にあってこの些細な事件はとても恐ろしく感じているのだ。
 視線は自然とロイ・エントリオの方へと向けられる。
 都市警に所属する武芸者としては、少年の直属の上司に当たる、非常に頼りになる先輩へと、縋るような視線を向ける。
 異常事態が続けて起こっている現状でさえ、きっと何とかしてくれるとそう信じて。

「兎に角無くなっている物を確認してくれ。紛失物のリストが出来上がったら、そこから見えてくる物があるはずだ」
「了解しました」

 視線に気が付いたロイの出した、的確な指示に従う。
 指示に従ってさえいれば、きっと大丈夫だと固く信じて捜索すること十五分。
 荒らされていなかったために作業効率は極めて高く、捜索は順調に進み、それは発見された。
 取られたと思われる品物はただの一つだけだった。
 記録と照合するまでもなく、記憶に残っている品物だったので、それをそのままロイへと告げることとする。

「錬金鋼?」
「はい。グレンダンから来たという武芸者所有の錬金鋼でした」

 その武芸者のことは良く覚えている。
 いや。忘れることが出来なくなっている。
 にこやかに笑う色男だった。
 長めにした銀髪を首の後ろで無造作に束ね、鍛えられた筋肉とその身のこなしだけで熟練の武芸者であることが分かった。
 だが、最も恐ろしかったのはその瞳だ。
 にこやかな表情の裏で、鋭く周りを観察していた訳ではない。
 まるで、これから楽しい祭りが始まることを期待しているかのように、愉悦に耀いていたのだ。
 おそらくではあるのだが、マイアスが置かれた状況を認識していて尚、心の底から楽しみにしているのだ。
 何時汚染獣に襲われるか分からない、この現状を心底楽しみにしているのだ。
 それが分かってしまったからこそ、サヴァリスと名乗った武芸者のことを忘れることが出来ない。
 そして、その貴重なはずの情報をロイへと知らせる。

「ふむ。マイアスの状況が分かっていて楽しみにしているとなると、戦うことだけが楽しい危険人物と言う事になるのか」

 それは独り言だったはずだが、そのロイの認識に異議を挟むつもりはない。
 むしろ大賛成だ。
 だが、少しだけ安心できる材料でもある。
 汚染獣がやってきたならば、サヴァリスを最前線へと放り出し、双方が弱ったところをマイアス武芸者の総攻撃で殲滅する。
 貴重な犠牲としてサヴァリスは、マイアスの英雄として長らく湛えられることだろう。
 ここまで考えて、自己嫌悪に襲われた。
 自分達の努力ではなく、外から来た意外性によって勝利を得ようとしていることもそうだし、危険人物を後ろから攻撃して抹殺しようとしていることもそうだ。

「取り敢えず、朝食後にその人物と会って少し話をしてみよう。もしかしたら、マイアスの防衛に参加してくれるかも知れない」
「・・・。はい」

 やはりロイは違った。
 自分のように臆病な手しか思いつかない雑魚とは、そのあり方が決定的に違ったのだ。
 正々堂々と、あの危険人物と向き合い、そして誰も傷付かない方法で、現状を解決しようとしている。
 ロイがいれば、きっとマイアスは平穏を取り戻すことが出来る。
 そう信じることが出来たことに、自分でさえも恐ろしいほどの安堵を覚えた。
 
 
 
 諸々のところから上がってきた報告に目を通しつつ、カリアンの胃は恐るべき速度で病んでしまっていた。
 自らの精神を鼓舞して、前を向き続けることは出来ていると思うのだが、その歪みがあちこちに出始めているのだ。
 だが、これは別段特別なことではない。
 ツェルニ全域が、多かれ少なかれこんな状態なのだ。
 第一戦で戦っているヴァンゼを始めとする三個中隊も、たった一人で戦場へと出ているレイフォンも、そして訓練を続けている第四中隊も、一般生徒の中にさえ恐怖が広がりつつある。
 それを止める手立ては、もちろん取っているのだが、何時までも続くという訳ではない。
 都市の暴走という恐るべき事態に直面し続け、平穏を保ち続けることが出来るグレンダンの戦力を、是非とも少し分けて欲しいのだが、ゴルネオの旅立ちが失敗した影響でほぼ不可能な状態となっている。
 このままでは、何時か何処かが決壊し、そしてツェルニは汚染獣にでは無く人の手によって滅ぶだろう。
 それを阻止する方法は、カリアンの手の中にはない。

「せめてもの救いは、補給が終了していると言う事だろうか?」

 つい最近、ツェルニはセルニウム鉱山での補給を終わらせている。
 そう。汚染獣に滅ぼされなければ、あと十ヶ月は存続を許されているのだ。

「いや」

 補給のために鉱山の側に戻ることが出来れば、そこで一息つくことが出来るかも知れない。
 ならば、この時期の暴走こそが災厄であったと言う事になる。
 だが、問題は他にも山積しているのだ。
 しかも、全てがかなり危険度の高い問題ばかりである。
 メイシェンとレイフォンの関係もそうだし、深刻ではないが、原因不明な食料生産プラントの不調もそうだ。
 原因不明と言えば、あちこちで構造物が崩壊をしているという事実も上げられるだろう。
 死人が出ると言った事態にはなっていないが、崩壊自体が増加傾向にある以上、危険極まりない事態であることに変わりがない。
 不調な場所を上げれば、きりがない。
 こう言い変えることが出来るかも知れない。
 学園都市ツェルニ全てが不調を来していると。
 そこに住まう人も含めて。

「愚痴を言っている暇さえないとはね」

 溜息を付き、パッケージを確認してからゼリー飲料を口に運ぶ。
 戦略・戦術研究室では、超臨死ゼリーを薄めて睡眠薬代わりに使っているそうだが、カリアンはまだそこまで絶望に支配されてはいない。
 何時かは必要になるかも知れないが、それでもまだ、カリアンは諦めてはいない。

「弱気になっているのは、私も同じか」

 超臨死ゼリーを使うかも知れないと、そう考える時点でカリアン自身が弱気になっていることの証明である。
 あれがどれだけ恐ろしいかは、カリアン自身が身を持って体験しているのだ。
 溜息を付きつつ、必要な書類にサインをしていると、扉がノックされた。

「開いているよヴァンゼ」
「入るぞ」

 扉を叩くその音とテンポで、それが盟友の物だと言う事はすぐに分かった。
 ヴァンゼ自身も、戦闘と執務で多忙を極めているはずだが、その間隙を縫って来たと言うことは、それなりに重要な用件であると腹をくくったのだが、今回は少し違ったようだ。
 その手に、不釣り合いなほど華麗なティーセットが乗っていたからだ。
 見覚えが有る。
 それはカリアンが生徒会室でお茶をする時に、必ず使うティーセットだ。
 つまり、ヴァンゼの用件とは。

「茶菓子が手に入ったのでな、少し休憩にしよう」
「・・・。ふぅ。良いだろう。その挑発、乗ってやろう」

 軽口を返しつつ、飲み終わったゼリーのパッケージをゴミ箱へと投げ捨てる。
 お互い、余裕などと言う物は無いのだが、それでも、このまま燃え尽きる訳には行かないのだ。
 何処かでゆとりを持ち、再出発しなければならない。
 そのためにヴァンゼが用意してくれた機会を、カリアンはきちんと利用しなければならないのだ。
 思えば、レイフォンを武芸科に転科させる悪巧みをしたのも、この生徒会室であり、盟友のヴァンゼであり、あのティーセットだった。
 仕切り直すには丁度良いだろうと思う。
 その体格からは想像も出来ないほど華麗に、手際よくお茶を淹れるヴァンゼを眺めつつ、カリアンはそう決意を新たにした。
 だからこそ笑うのだ。ニヤリと。
 
 
 
 延々と続く訓練のさなか、ふとニーナは考えた。
 アントーク家というのは、代々に渡ってシュナイバルを守護してきた、いわば騎士の家系である。
 双鉄鞭で武装した、誇り高い騎士の家系だ。
 だが、ニーナは続けて考えた。
 ニーナという個人は、自らを誇れるほどの武芸者なのだろうか?
 ニーナ個人の実績という物を、出来うる限り冷静に振り返ってみる。
 誘拐されそうになった、シュナイバルの電子精霊を救った。
 これは胸を張って誇ることが出来る実績だろうか?

「出来ないな」

 野戦グラウンドに横たわり、何時も通りに晴れ渡った空を眺めつつ、そう言う結論に達した。
 最終的には、自分と相手の力量差を考えることもせずに、闇雲に突っ込んで重傷を負ってしまった。
 助けようとしたはずの電子精霊と同化することによって、やっとの事でニーナ自身が助かることが出来たという、とても情けない結末を迎えている。
 こんな結末を誇れるはずがない。
 では、ツェルニにやって来てから、何か誇ることが出来る実績を上げられただろうか?
 入学直後に第十四小隊へスカウトされた。
 もちろん、入隊直後は、他の隊員の足を引っ張るだけ引っ張ったと断言できるが、それでも、そんなに悪くはなかったのではないだろうかとも思う。

「・・・・・。いや。違うな」

 十四小隊に入ったことは、誇らしいことだとは思うのだが、それは武芸大会で勝利するための力になって、始めて本当の意味で誇ることが出来るのだと思う。
 武芸大会で連戦連敗だという事実がある以上、小隊員だろうと何だろうと誇りを持つことは出来ない。
 では、第十七小隊を結成してからはどうだろうか?
 レイフォンのお陰もあり、小隊対抗戦での成績は上から数えた方が速い。
 だが、これもやはりニーナが誇れるという類のものでは無い。
 オスカーに諭され、レイフォンの本当の実力を見て、そして指揮官であろうとしたが、ニーナの本質を変えることが出来ないのか、どうしても前へと出て戦ってしまう。
 シンやウォリアスとの勉強会を経験したお陰で、戦術の構築に関してはそれなりに出来るようになったが、やはりニーナはまだ変わっていないのだと、それだけは間違いない。
 なぜならば、誰かに指示を出すよりも、自分が率先して動いてしまうからだ。
 小さな集団の指揮官としては、それ程間違ってはいないと思うが、例えばツェルニの中隊を預かる場合には非常な問題になる。
 集団を効率よく動かして戦果を得るためには、どうしても最前線から離れなければならないのだが、離れると言う事が出来ないのだ。
 これは、指揮官として非常な欠点であると分かっていても、それでもニーナの本質は最前線で戦うことなのだと、改めて認識してしまってもいる。
 それ以上に問題なのは、汚染獣戦でニーナは殆ど何の役にも立っていないという事実があると言う事だ。
 幼生体戦では、レイフォンが殆どの個体を殲滅していたからこそ、余裕を持って戦い勝つことが出来た。
 老性体戦の時には、予め準備していなかったら、確実にニーナの行動が不利に働いただろう。
 それを防いだのはウォリアスの用意周到さだ。
 そして、ただ今現在のツェルニの暴走。
 汚染獣と連戦している現状でも、ニーナは何の役にも立っていない。

「・・・・・・・・・・・・。そうか。私は自分が思っているよりも、武芸者としても指揮官としても役に立たないのか」

 リュホウに散々に打ちのめされ、何度もグラウンドに転がされて、やっとの事で認めることが出来た。
 ニーナ・アントークは、役に立たないのだと。
 レイフォンのようになりたいと思っていないと、ずっとそう考えてきたはずだったが、本当はレイフォンのようになりたいのだ。
 ツェルニにとっての脅威を、実力で排除したいのだ。
 ニーナは、騎士ではなく英雄になりたいと、そう思っているのだ。
 それでは駄目なのだと、やっと、心と体が理解した。
 レイフォンのような、ある意味異常者ではないニーナが、英雄になることは出来ない。
 ならば、せめて無能という評価を避けるべきだ。
 武芸者としては、強い部類に入るだろうが、そんな物は汚染獣の前には全く無意味に違いない。
 だが、一方の事実として、小隊員でニーナよりも実力の劣る武芸者が、戦場に出て生きて帰ってきている。
 だが、これは個人の強さがどうのと言うよりも、犠牲者を出さないように中隊の指揮をする人間が細心の注意を払っているからこそ、生き残ることが出来たのだ。
 個々の実力ではなく、集団としての実力が物を言っているのだ。
 リュホウが言っていた、指揮官とは悪辣でなければならないと。
 ウォリアスは卑怯な策を使って、レイフォンに敗者の地位を押しつけた。
 負けそうになったナルキが、刀を振り回して足掻いた時、レイフォンはその行動を高く評価していた。
 ならば、ニーナがやるべきなのは、正々堂々と戦って勝つことではなく、むしろその逆なのではないだろうか?
 むろん、正々堂々と戦うことは重要だが、ツェルニの現状を考えると、戦力を温存し続けなければならない。
 汚染獣との戦いは、何時終わるか分からないのだから、人や物の消耗は出来うる限り押さえなければならないのは当然で、ニーナの個人的な思考を差し挟む余地など無い。
 むろん、正面から戦って勝つことこそが最も重要なのは間違いないが、状況がそれを許さないのならば仕方が無いではないか。
 いや。仕方が無いなどと言うのがそもそもの間違いだ。
 やはり正々堂々と戦って、汚染獣を殲滅し、ツェルニを世界最強都市として全人類を跪かせるべきで。

「・・・・・・・?」

 何かが違う。
 そう。ニーナの個人的な思考を優先させて、ツェルニを世界最強にする訳には・・・。

「うわ!!」

 突如として、とても冷たい物が空から降ってきて、混濁していたニーナの思考を一気に吹き飛ばした。
 慌てて身体を起こして周りを見てみれば、何時も通りの光景が広がっていた。
 リュホウに散々に打ちのめされ、野戦グラウンドに転がる第四中隊の面々が、高圧放水による覚醒を遂げているという、何時もの光景である。
 第四中隊と呼ばれている面々は、呻きつつも意識を取り戻して、起き上がりつつある。
 毎回毎回、同じ事を繰り返しているというのに、リュホウは声を荒げることもなく、むしろ淡々と叩きのめしては高圧放水で覚醒させるという作業を続けている。
 金剛剄を習っていた時のレイフォンと同じで、根気良く出来るようになるまで付き合ってくれているのだ。

「さて。そろそろ何か違うことをしてもらえないだろうかね? 水道代も莫迦にならないことになりつつあるようでね、生徒会から苦情らしき物が私のところに来ているようなのだよ」

 何故か、とても不確定な話し方をしているが、それでも、そろそろ色々なところで限界が訪れていることは間違いない。
 話としてはニーナも知っている。
 ツェルニのあちこちで都市の構造に問題が起こっていることや、深刻ではないが、食料生産プラントの不調、建築資材を培養する施設も、あまり快調ではないという話も聞いた。
 ニーナ達が戦力になるまで、ツェルニは待てないところまで来ているのかも知れない。
 それを認識した瞬間、ニーナの背中を冷たい汗が一筋だけ流れた。
 本当に、時間が無いのだ。
 理想を追い求めることは大切だが、それもツェルニが無くなってしまっては意味がない。
 ならば、やはり、ウォリアスのように卑怯な手を使ってでも勝たなければならないのだろうと思う。
 こう考えることに抵抗はある。
 抵抗はあるが、それでも、必要なことだけは理解している。
 理解しているが、納得はしていない。
 納得はしていないが、それでも、やらなければならない。

「シャーニッド、ダルシェナ」
「あいよ」
「なんだ」

 全身ずぶ濡れなダルシェナと、何故か殆ど濡れていないシャーニッドに声をかける。
 この二人が、ニーナのすぐ側にいたのは幸いだった。

「リュホウを倒す。手を貸してくれ」
「その意気込みは良いが、どうやるのだね?」
「・・・・・・・」

 二人に声をかけたはずだというのに、何故かリュホウがすぐ側で体育座りをしているという光景と出くわしてしまった。
 ダルシェナとシャーニッドも驚いているから、殆ど瞬時にここまで移動してきたのだろう。
 とても謎な展開だが、強引にそれから目を逸らせる。
 いや。逸らせてはいけない。

「貴男を倒すための作戦を決めるのですから、遠くに行っていてもらえないと駄目ではないかと」
「ふむ? 成る程。奇襲攻撃を仕掛けるつもりだね。では私は向こうに行っていよう」

 僅かな言葉から、ニーナの基本戦術を予想されてしまうと言う事故は起こってしまったが、それでももはや止まることは出来ない。
 改めて二人へと視線を向けるついでに、厳重に辺りの気配を探る。
 殺剄をしたリュホウを発見するのは難しいだろうが、やっておいて損はないと思うのだ。
 そして、ニーナがやろうとしていることを手短に伝える。
 手数がそろわないために、かなり大雑把な計画だが、それでも何らかの効果はあるだろうと期待する。

「分かった。指揮はお前が執るのだな」
「はい。私が指揮を執ります」

 ダルシェナの質問に答えつつ、リュホウを見やる。
 刀の状態を確認していた、老年の武芸者の視線が、微笑ましげにニーナを捉えた。
 やれる物ならばやってみろと、挑発しているようには見えない。
 やっとここまで来たのかと、呆れているようにも見えない。
 純粋に、これから何が起こるのかを楽しみにしていると言った、そんな暖かな光を湛えている視線だった。
 そしてその視線こそ、ニーナを怒らせる。
 お前を倒すために必死になっているというのに、自分の理想を捨ててまで倒そうとしているというのに、何故楽しみにしているのかと憤りを感じる。
 だが、その暖かな視線も一瞬で霧散した。
 続くのは、冷徹で鋭い戦士の視線だ。
 どんな事をしようとしているのか、それを探る恐るべき鋭さをもった刃物が、ニーナの身体を素早く解剖して行く。
 物理的な痛みを覚えそうなその視線に耐えつつ、剄を練り上げる。
 初撃はシャーニッドの狙撃だった。
 一直線に飛んだ剄弾は、しかし命中することなくリュホウの頭のすぐ脇を通り過ぎる。
 あからさまな狙撃が命中するくらいならば、ニーナ達はこれほどまでに苦杯を舐めさせられていない。
 続くのはニーナだ。
 まだ未完成ではあるが、雷迅を放ち一気に距離を縮めつつ攻撃を放つ。
 やはりこれも、余裕で回避される。
 不完全な雷迅だと言うこともあるが、真正面から一直線に突っ込むこの技をニーナが使ったところで、熟練の武芸者には通用しない。
 レイフォンが使えば話は全く違ってくるが、今問題としなければならないのは、ニーナとリュホウとのやりとりだ。
 通用しないことは既に分かっている。
 ニーナ自身もリュホウも。
 その証拠に、脇をかすめたニーナが僅かに振り向くと、リュホウは追撃を放つことなくダルシェナを注視している。
 そして、当然の様にダルシェナの突撃が始まる。

「シャーニッド!!」

 ここで、シャーニッドに第二撃目を放つ様に指示を出す。
 微かに驚いた表情のリュホウが、ダルシェナの攻撃を回避しつつシャーニッドへとその注意を向ける。
 だが、攻撃を放ったのはダルシェナだった。
 その足が持ち上がり、突撃の勢いを回転に変換することで生まれた速度をもって、リュホウの脇腹へと突き進む。

「っむ!」

 今まで、ダルシェナの行動は殆ど一直線の突進だけだった。
 細剣での攻撃があるとは言え、どちらかと言うと槍を使った突撃の方を好むダルシェナの性格上こうなっていたのだが、今回は完璧な奇襲攻撃となった。
 だが、熟練の武芸者と学生武芸者では、やはりあらゆる物が違った。
 驚愕で動きが止まることもなく、それどころか、今まで以上に鋭い反応を見せたリュホウが、ダルシェナの蹴りを腕で防御する。
 そして、ここでシャーニッドの第二撃が放たれた。

「っち!!」

 体勢を崩しつつ、この訓練で始めてリュホウの放つ舌打ちが微かに聞こえた。
 だが、ここまでしてもまだ攻撃は回避されてしまった。
 ダルシェナの蹴りの威力に、自らの脚力を合わせて空中へと逃げるリュホウ。

「貰った!!」

 ここで、ニーナが第二撃を放つ。
 照準を付けなければならないシャーニッドよりも、体勢を完全に崩してしまったダルシェナよりも、一歩外にいたニーナの方が速く動けるから。
 そして、僅かな時間でさえも、武芸者の戦いにおいては致命的になる。
 活剄衝剄混合変化 雷迅。
 愚直なまでに突撃を突き詰めたこの技を放つ。
 ニーナの放てる最高の一撃を、空中で移動がほぼ不可能なリュホウに向かって、手加減することさえ出来ない一撃を放つ。

「っは!!」

 だが、それでも届かなかった。
 サイハーデン刀争術 逆捻子・長尺。
 突撃するニーナに向かって、向きの違う螺旋を二つもった衝剄の塊が放たれる。
 威力自体は大したことがない。
 それはせいぜいニーナの攻撃力の、十分の一に、やっと届くかどうかと言う程度の低出力だった。
 だが、照準が明らかに致命的だった。

「っぐ!」

 真っ正面から、ニーナの頭部へと直撃した、衝剄の塊のせいで雷迅の軌道が僅かにずれる。
 リュホウが自由に動けないのと同じように、ニーナも一度定まった軌道を変えることは困難だ。
 僅かな角度の違いでも、距離が開くと致命的なズレとなってしまう。
 そう。ニーナの身体がリュホウのほんの少し左を通り過ぎるという、致命的な違いを生んでしまう。
 だが、まだ終わらない。

「ぐわ!!」

 連続した銃声と共に、旋剄で距離を詰めていたシャーニッドの奥の手である拳銃が、至近距離からリュホウを襲う。
 散々体勢が崩された状況で、着地の僅かな手前、回避も防御も非常に困難な状況で放たれた剄弾は、確実にリュホウの身体を捉える。
 そして、止めとばかりにダルシェナの突撃槍が至近距離から投擲される。

「ぐふ!」

 見事に腹筋に突き刺さった突撃槍を見たリュホウは、微かに笑いつつその場に崩れ落ちる。
 そこまで見届けたニーナ自身も、急速に接近する地面に、受け身を取ることが出来ずに激突して意識を飛ばしてしまった。
 だが、ほんの少しだけ満足している自分を発見した驚きを感じることが出来たので、悪い気分ではなかった。
 
 
 
 生徒会室の椅子に座り込んだカリアンは、一つの報告を見て溜息をついていた。
 リュホウが教官をしている第四中隊の戦力化についての報告書には、幾つかの注意書きと共に戦力化が出来たという一文が添えられていた。
 戦力化出来ることは、とても喜ばしいことである。
 喜ばしいことではあるのだが、それでも注意書きの一つがとても重要だった。

「中隊として運用することは不可能ではないが危険である。四個小隊を遊撃戦力として投入するべきと考える。か」

 既に善戦している三個中隊とレイフォンは、かなり消耗してきている。
 このままでは、何時か確実に破綻する。
 それを救うと期待された第四中隊だが、使いどころがかなり難しい状態となってしまった。
 戦力は集中して使う方が効率的である。
 カリアンでも知っている戦術の常識から考えれば、期待はずれと言わざるおえない。

「ウィンスかニーナが指揮を執ってくれると助かったんだが」

 前に出たがるニーナと、正面からの戦いに執着しているらしいウィンスでは、中隊規模の指揮官は務まらなかったようだ。
 これははっきりとした誤算だが、それでも戦力が増えたと前向きに捉えなければならないのがカリアンの立場だ。
 いっそのこと、オスカーに第四中隊を指揮させてみてはどうかとも考えたが、すぐにそれが駄目だという結論に達した。
 中隊を指揮出来る人材は、今のところツェルニに四人いる。
 ヴァンゼとゴルネオ、シンとオスカーだ。
 だが、オスカーは少し特殊な経過をたどって中隊指揮が可能となっている。
 グレンダンに援軍を頼みに行くという計画が立てられた時、第二中隊の指揮を執る人間がいなくなると言う現象が予測された。
 それを解決するために、先代の第五小隊長だったオスカーにも第二中隊の指揮が出来るようにと、訓練が施されたのだ。
 結局のところ、放浪バスが来ていない現状では、ゴルネオが旅立つこともなくオスカーが指揮を執ることもなくなっている。
 そして、決定的なのが、第二中隊と第四中隊は全く性質の違う部隊だ、と言う事だ。
 オスカーに第四中隊を指揮させるためには、今から指揮官としての訓練をしなければならないと言う事になる。
 第二中隊の打撃力を引き抜いて、何時戦力化出来るか分からない第四中隊を結成するには、現状は厳しすぎるのだ。

「それでも、一戦一戦の疲労を減らすことが出来るかも知れないな」

 遊撃戦力とは、詰まるところ牽制や陽動を別な指揮系統で行う部隊と言う事になるはずだ。
 指揮命令系統が混乱する危険性があるかも知れない。
 集団対集団ならば、あまり心配はないことなのだろうが、一対多数の戦場が基本である今回は、指揮命令系統の混乱は出来るだけ避けて通りたい。
 強力な攻撃をするために、わざと隙を作った隊列を整えたところに、遊撃部隊が飛び込んで巻き添えという、どうしようもない馬鹿馬鹿しい展開は避けなければならない。

「いや。流石にそこまで間抜けなことにはならんか」

 そう考えたが、油断は出来ない。
 戦場とは、あり得ないことが起こる空間なのだ。
 そんな事を考えつつ、これはヴァンゼ達と相談の上で決めることだと割り切り、そして新たな書類に視線を落として、最終的に脱力した。
 そこには、第四中隊を解体して小隊として運用する上での、考えられる問題点と利点が列挙されていたから。
 これを先に読んでおけば、この数分間のカリアンの思考はなかったはずだ。
 それはつまり、他の仕事を片付けることが出来たと言うことに他ならない。
 この忙しい時に無駄をしてしまったと溜息をつき、カリアンは精神を立て直して次の書類へと視線を落とすのだった。
 
 
 
 
 
  後書きになっていない後書き。
 林檎の蜂蜜漬けなんて物を、とうとう作ってみました。
 材料として、丸々と太った紅玉を二つと、レンゲの蜂蜜を五百グラム。
 紅玉は洗って四分割後、厚さ二ミリくらいにスライス。
 大きめのタッパーに切った林檎を放り込み、レンゲの蜂蜜を全力投入。
 念のために、冷蔵庫で三ヶ月ほど保存という、至極簡単な漬け物でした。
 林檎の歯触りが好きならば、一週間目くらいから食べられますが、甘さがしみこむのは一月後くらいから。
 なかなか美味しかったので、今年の秋にも作る予定。
 
 ちなみに、安納芋という、というサツマイモを購入。
 炊飯器で軽く料理してみようかと思っている今日この頃。
 結果は来週報告したいと思います。
 
 
 後書きになっていないという突っ込みは却下です。俺自身十分に理解しているから。



[14064] 第八話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:07


 朝食が終わるのを待って、危険極まりない人物との対面が始まった。
 目の前には、グレンダンから来た武芸者が何時も通りににこやかな笑いを浮かべているが、それを信じることなど出来ようはずが無い。
 保管庫の鍵をあっさりと壊し、誰かに見とがめられる前に錬金鋼を盗み出した人物なのだ。
 並々ならぬ実力者だと思っていた方が無難である。

「朝早く申し訳ありません」
「いえいえ。これのことで来るとは思っていましたが、思ったよりも速かったですね」

 ロイの挨拶を真正面から受け止めたサヴァリスという猛獣は、ポケットから自分の錬金鋼を取り出して机の上に置いた。
 それは、間違いなく彼の持ち物であり、そして、ここに有ってはならないはずの品物だった。
 彼が盗んだのならば、当然のこと隠しているはずだし、犯人が違うのならば当然彼が持っているはずがないのだ。
 だと言うのに、サヴァリス所有の錬金鋼は目の前に存在している。
 この展開は流石のロイも予想していなかったのか、呆然と机の上にある基礎状態の錬金鋼を見詰めているだけだ。
 同席している下っ端警官である自分はと顧みれば、どちらかと言うと落ち着いてサヴァリスを見詰めていた。
 だが、これは能力が高いとか、修羅場に馴れているとか言う建設的な理由からではない。
 単にロイの付き添いで来ているから、有る意味他人事としてみることが出来ているからこそ、比較的落ち着いてこの状況を見ていられるのだ。
 そして、他人事として見ているからこそ、行動を起こすことが出来ない。
 最終的には、ロイと一緒に呆然と見詰めることしかできていないのだ。

(な、なさけない)

 そうは思うのだが、どうしたら良いのか分からないという現実から逃れることは出来ないのだ。
 無言の睨み合いと呼ぶには、いささか緊迫感のない時間が流れた。
 そして、無意味な時間を打ち破ったのは、当然の様にサヴァリスだった。
 あろう事か、机に出した錬金鋼を引き寄せ、そして上着のポケットへと平然と仕舞ってしまったのだ。
 本来ならば、都市警できちんと保管しておかなければならないはずの、危険極まりない錬金鋼をだ。

「そ、それは!!」
「うん?」

 慌てて手を伸ばしたが、既に錬金鋼はサヴァリスの服の中。
 相手は、武芸の本場と呼ばれるグレンダンからの武芸者だ。
 その武芸者から、愛着のある錬金鋼を取り戻すなどと言うことは、相当の困難を伴う事業となることは請け合いだ。
 もはや余所の都市にある窃盗データを取り戻すよりも困難だろう。
 だが、次に起こったのは平警官を驚かせるのに十分な事柄だった。

「持っていないよ」
「・・・? は?」

 言いつつ上着を脱いでこちらに差し出すサヴァリス。
 ロイが凍り付いたままだったために、慌てて受け取りポケットというポケットを探るが、錬金鋼は出てこなかった。
 そうなると視線は当然ズボンに行き着く訳で。

「こっちも渡そうか?」
「・・・・・・。いえ。無駄なようですので」

 自信満々にそう言われてしまえば、そこには絶対に存在しないと言う事となる。
 というのはフェイントと言う事も考えられるが、そんなオチではないことは何となく分かった。
 何よりも、これ以上平警官の自分がロイを差し置いて話を進めることがはばかられたのだ。
 なので視線を横にずらして上司を観察する。
 凍結から脱したロイだったが、それでもこれ以上何をやっても無駄であることは理解しているようで、視線でお引き取り願えと命じられた。
 逆らう理由も気力もなかった。

「いや。これはこれでなかなか楽しかったよ。また機会があったら遊んでくれると嬉しいね」
「・・・・・・。善処します」

 沈黙の後、ロイが絞り出すように言った言葉に、全くもって異存はない。
 こうして、恐ろしすぎる武芸者との対決は呆気なく終了したのだった。
 
 
 
 一部始終をこっそりと見ていたナルキは、サヴァリスの錬金鋼を渡しつつも溜息をつきたくなってしまった。
 手品の種は簡単である。
 サヴァリスが錬金鋼を上着に仕舞ったのならば、警官に見付からないようにナルキが鋼糸で回収する。
 たったそれだけの話だ。
 本来ならば、こんな事に手を貸すのは嫌なのだが、何か勘違いしたサヴァリスの頼みとあっては引き受けざるおえない。

「いやぁ。なかなかに楽しいイベントだったね。ナルキも存分に楽しんだよね」
「全くもって楽しんでいませんから。私が警官だと言うことはしっかりと理解して下さいよ」

 何をどう勘違いしたのか、はたまた何か開けてはいけない扉を開けてしまったのか、警官が取り乱す姿を是非とも見たいと言い出した時には、正直に暗殺すべきだと判断した。
 出来るはずはないのでやらなかったが。
 この戦う事しか考えていない狂人が、暇をもてあましていると言う事は十分に理解できる。
 その暇を潰す手段を色々と画策しているというのも、おおよそ理解できると思うのだが。

「もう少し自重して下さい。貴男が暴れたらマイアスはその時点で終わりなんですから」
「うん? そんな事は理解しているよ? だから逸る気持ちを押し留めようと色々考えているんじゃないか」
「もう少し平和的な方向で考えては、くれないでしょうね」
「最大限平和的だと思わないかい?」
「・・・・・。実は思っているんですよ、これが」

 凶悪事件を起こして、そうでなくても手一杯なマイアスを混乱のどん底に叩き落とすくらいは、このサヴァリスならやりかねない。
 マイアスの全武芸者を、お茶を飲む程度の感覚で全滅させることが出来るのだから、今日の被害は警官二人だけだ。
 極めつけに平和的な暇つぶしの方法であると、言い切ることが出来ると判断できるナルキは、自分の置かれた環境に非常な憤りを覚えていた。
 そして、現実に対して言いたいことが山ほど有るナルキの見る限り、上司と思われる人物の方がよりダメージが大きかったようだが、同席していたもう一人も相当に疲れ果てていたことは間違いない。
 思わず、自分の立場を忘れて同情してしまうくらいには。

「次は何をして遊ぼうかな」

 そう呟く危険人物の相手をさせられているという、驚くべき立場にいるナルキに同情されたならば、あの警官二人はどう反応するだろうと、ほんの一瞬だけ考えた。
 だが、それもほんの一瞬だった。
 ふと、何かの接近を感じたのだ。
 別段危険な代物という訳ではない。
 宿泊施設の中を移動中であり、最も危険な生き物はナルキの前を悠然と歩いている以上、騒動が起こるという危険性はそれ程高くはない。
 だが、小さな質量しか持たない物体が、空中を移動しているらしいことを認識した瞬間、何時でも錬金鋼を手元に移動できるようにして、視線を動かした。
 動かすのは出来うる限り視線だけだ。
 そして今回、視線だけでその移動物体を捉えることに成功したのは、ささやかな幸運だと言えるだろう。
 だが、幸運もそこまでだった。

「・・・・・・。疲れているな、私は」

 視界に飛び込んできたのは、小さな物体であった。
 それは、青い羽毛に覆われた、当然の結果として小鳥だった。
 羽毛に覆われている生き物は、おおよそ鳥だけだから当然なのだが。
 当然なのだが、それでもナルキは自分がこうも緊張している事実に脱力してしまいそうだった。
 きっと、目の前を歩く戦闘狂と関わったために、色々と精神的に追い詰められているのに違いない。
 そうでなければ、小鳥の接近にこうも緊張したりはしないはずだ。
 そして、驚いたことに青い羽毛に覆われた小動物は、ナルキの肩にピトッと止まってしまったのだ。
 ナルキ自身に、小動物に好かれるという特製はあっただろうかと、少しだけ考える。
 メイシェンは小動物チックだが、それはかなり違うと思うのだ。
 そんな一瞬の隙を突くかのように、前を歩いていたサヴァリスがふと振り返る。

「うん? どうしたんだいその小鳥?」
「・・・。食べませんよ?」

 念のための予防線を張ってみる。
 無駄であることはきっちり理解しているし、サヴァリスが小鳥に興味を持つとは全く思っていないが、念のためだ。

「うん? 僕にもそのくらいの常識はあるよ。それに、食べたとしてもそれ程お腹はふくれないようだしね」
「理解していてもらえて嬉しいです」

 皮肉気味に返してみるが、全く通用した様子がない。
 当然である。
 だが、サヴァリスの視線は少しだけ小鳥を真剣な様子で見詰めているようなのだ。
 そちらの方に驚きを覚えてしまったくらいには、真剣味を帯びていた。
 もしかしたら、ナルキ以上の戦闘能力を持っているのではないかと、一瞬の十分の一くらい疑ってしまったが、そんな事があるはずがないと結論付ける。
 何しろ相手は小鳥なのだ。

「良く接近に気が付いたね」
「ああ。そっちですか」

 無気力を装いつつ少しだけ驚いてもいた。
 言われるまで気が付かなかったが、何故ナルキは、小鳥が接近してくるだけであんなに緊張したのだろうか?
 精神的に疲れているからと言う事もあるだろうが、それにしても緊張の度合いが異常だった。
 それは、かなり深刻な疑問だった。
 そう。何か失ってはいけない物が、今ナルキの肩にいるような、そんな凄まじい直感もあるのだ。
 
 
 
 第四小隊所属のフランク・タコスは現在有名人だ。
 小隊員と言う事もあり、元々それなりに有名だったが、この一月の間にその知名度は天井知らずの跳ね上がりを見せ、ヴァンゼやゴルネオ、レイフォンさえ凌駕するのではないかと言われている。
 第四小隊の戦績は、決して良いとは言えないし、フランク自身の戦闘能力もそれ程高くない。
 身長はレイフォンよりも低く、前後左右はかなり大きい。
 もちろん、武芸者であるからして、太っているという訳ではなく、骨格が前後左右に大きいのだ。
 本人は結構気にしている骨格の問題だが、汚染獣との戦闘と言う事となれば、別段何の問題も無い。
 だがしかし、とても残念なことに、フランク自身認める通りに、戦闘能力は決して高くない。
 小隊員を戦闘能力順に並べてみたら、下の方から数えた方が早いだろうと断言出来る程度の、ある意味居ても居なくてもさほど問題無い武芸者である。
 そう。ただ一つの事実がなければ、汚染獣戦が連続するこの異常事態で、目立つべき存在ではないのだ。

「ほぉぉら。こっちおいでぇぇ」

 今日の獲物は雄性二期が一体。
 他に雄性体一期が三体いるのだが、それは第一中隊とレイフォンが片付けに行っているので気にしなくて良い。
 そう。気にすべきはフランクに向かってまっしぐらに突っ込んでくる、羽根の生えた雄性体二期だけだ。
 他にも武芸者はいる。
 第三中隊は規定通りの人数がそろっているので、念威繰者を除いても二十人以上がこの戦場にいる。
 にもかかわらず、何故か汚染獣はフランクのみを標的として、全く他に餌がないかのようにまっしぐらに突っ込んでくるのだ。
 今回が初めてという訳ではない。
 第三中隊が汚染獣との直接的な戦闘に参加したその瞬間から、何故かフランクだけを標的に目がけて突っ込んでくるのだ。
 いや。幼生体との戦いでさえ、真っ先にフランクが狙われていた。
 だからだろうが、今ではもう、兎に角フランクを餌にして汚染獣を釣るという基本戦術が固定してしまっているほどに、間違いなく真っ先に狙われるのだ。
 当然、そんな状況が延々と続いたために、餌にされる方もしっかりと馴れてしまっている。
 油断出来るほど神経が太い訳ではないが、それでも、間合いの取り方や回避のタイミングなど、かなり色々なことをその身体に刻みつけることに成功している。
 そうでなければ、とっくに食われて死んでいるとも言えるが。
 そして、その経験から判断した最善のタイミングで、右手を大きく振りかぶる。
 手に持っているのは、二キロの爆薬を詰めた円筒形の物体。
 持ちやすいように取っ手まで付いていると言う、親切設計の破壊兵器だ。
 余計な動作をする必要はない。
 ただ、大口開けてまっしぐらに突っ込んでくる汚染獣の、喉の奥に向かって四キロ近い円筒形の、金属の塊を投げつければよい。
 手首に巻かれた部品から伸びる、遅延信管作動索が限界を超えたところで手投げ爆弾から抜ける。
 そうすると、僅かに五秒後に信管が作動するという寸法だ。
 五秒と言っても、武芸者が活剄を使って投げるのだから、いかに四キロの重さがあるとは言っても、それは時速百キルを超える速度を実現する。
 結果的に、汚染獣の喉の奥でいきなり二キロの爆薬が炸裂し、円筒形を形作っている金属片を高温高速でばらまく訳で、それはもうかなり手ひどい打撃となる。
 そんな事を考えている間にも、身体はきっちりと仕事をこなし、作動索が抜けた手投げ爆弾が、回転運動をしながら迫り来る汚染獣の、口の中へと消えていった。
 それを見届けた次の瞬間、フランクは全力の旋剄を横に向かって発動させた。
 一秒にも満たない時間の後、猛烈な質量をもった雄性二期の汚染獣が、大地をその顎で削りつつ通り過ぎて行く。
 どんなに数をこなしても、この瞬間に冷や汗が背中を流れることを止めることは出来ない。
 そして、通り過ぎた汚染獣は、自分が捕食にしくじったことを認識して、再び空中へと舞い上がろうとしたまさにその瞬間、くぐもった爆発音と共にその巨体を一瞬痙攣させて、完全に動きを止めた。
 こうして創り出された好機を逃す訳がない。
 第三中隊の全員の総攻撃で、羽根と足がもぎ取られる。
 汚染獣戦で最も重要なことは、どの時点で機動力を奪えるかと言う事だ。
 空中を飛ぶ羽根と、地上を高速で移動出来る足を失えば、戦線を突破されてツェルニに被害が出る危険性を極限まで少なくすることが出来る。
 フランクという囮がいるからこそ、この戦術を基本として第三中隊は戦っているのだが、考案された時点では最も使えないと評価されたりもしていた。
 最も重要となる囮を、人間側が特定させられないからだ。
 一人で戦場に出ているレイフォンだったら、別段問題はなかった。
 あるいは、帰還しないことを前提とした特攻だったら、こちらも問題はなかった。
 だが集団戦で、二十人以上いる状況下で、誰か一人だけを囮として人間側が特定させることは、非常に困難だとされた。
 今だって困難だ。
 フランク自身、何故自分が最も先に襲われるのか分からないし、おそらく汚染獣以外には誰も分からないだろう。
 もしかしたら、食べ物の名前を持ってしまっているから狙われるのかも知れないが、確定する方法が無い以上はどうしようもない。
 だが、状況がこうなっている以上、それを使わないという選択肢こそ存在していない。
 なので、毎回毎回、怖いのを我慢して汚染獣に食われる寸前まで引きつけ、決定的とは言えないが、有利に戦いを進めるために一撃を見舞うのだ。
 そして、その忍耐の一撃は今回も有効に働いてくれたのだった。
 出来れば誰かに変わって欲しいのだが、どんな要素が汚染獣を引きつけるのか分からない以上、フランクの寿命が尽きるまではこの仕事をこなし続けるしかないだろう。
 九割方の諦めと共に、フランクも汚染獣の足を一本奪い、更なる攻撃のために指揮官の指示を待つのだった。
 
 
 
 戦闘を終えて帰ってきたフランクは、いきなりの提案におののいてしまっていた。
 それ程長い時間を生きてきた訳ではないのだが、こんな提案をされるなどとは思いもよらなかったのだ。

「映画ですか?」
「はい。映画です」

 生徒会長の秘書の一人が、律儀に返答をしてくれた。
 見た事もない美人という訳ではない。
 ちょくちょく見ているので、見た事がないと表現することは出来ないのだが、それでも、これだけ間近で見るとなると話が違ってくるのも、当然の事実ではある。
 まあ、それは置いておくとしても。
 生徒会長自身が、並み居る候補者を薙ぎ倒して今の地位を手に入れたというのは、あの当時のことを知る人間だったならば常識的な知識と言える。
 では、その秘書はどうなのだろうか?
 実はこれには、幾つか有力と思われる説が存在していて、定説というのはない。
 定説はないのだが、目の前に佇む長身の美女を見ていると、カリアンと同じように周りを薙ぎ払って今の地位を手に入れたのではないかと、そんな結論に到着してしまいたくなってしまう。
 だが、問題はそこではないのだ。

「俺を主役にした映画なんて作って、なんか意味あるんですか?」
「有ります」

 そう。よりにもよって、フランク・タコスを主役とした映画を作りたいと、生徒会から打診を受けたところなのだ。
 コメディーだったら話はまだ分かるのだが、秘書の表情からすればどうやら違うと判断できてしまう。
 そして、見た目がそれ程良くないフランクを題材とする以上、恋愛物である確率も極めて低い。
 そしてツェルニの置かれたこの状況。

「俺が戦うところを、適当に編集して映画を作ると?」
「実写映像は使わないつもりです。ですが、題材が貴男であることだけは確実ですので、許可を頂きたいと」
「はあ」

 つまりだ。プロパガンダとは少し違うだろうが、都市民の精神を安定させるための、娯楽作品の題材になれと言っているのだ。
 それならば全てに納得が行く。
 この危機的状況の中でも、汚染獣を効率よく倒すための方法が存在していて、事実それで戦果を上げているというのは、宣伝方法を問わずに有効な戦意高揚の手段となるだろう。
 なるだろうが。

「俺の顔出して、みんながっかりしませんかね?」

 問題はそこだ。
 フランク自身が認めるところだが、決して顔が良いという訳ではない。
 悪くはないが、せいぜいが平均的な作りをしていると自己評価を下している。
 例えば、第十七小隊のように、美形揃いだったら何の問題も無いのだろうが、フランクは決して美形ではないのだ。
 だが、やはり生徒会とは魔王の住まいし場所だった。

「それは大丈夫です。実写映像は使いませんので」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。成る程」

 最初に言っていたではないか。
 実写映像は使わないと。
 登場人物についてもそれは同じなのだ。
 納得は行かないが、理解は出来る。
 そして、ツェルニの状況で最も重要なのは、都市民の安全と安定を守ることだ。
 ならば、フランクは自らのちっぽけな自尊心を粉砕してツェルニのために・・・・。

「・・・・・・。えっと」
「ちなみに」
「拒否は認められないんですね。分かります」
「ご理解頂けて恐縮です」

 話の筋からすれば当然のことだ。
 そして、目の前の美人秘書さんは、恐縮と言いつつ全く悪びれた様子がない。
 やはり、噂通りに今の地位を力尽くで奪い取った人なのだと言う事が確信できた。
 この認識を得られたことと、それなりの報酬を引き替えにフランクは自尊心や誇りを悪魔に売り渡したのだった。
 
 
 
 雄性一期を二体仕留めて帰ってきたレイフォンだったが、その心に一切の高揚感はなく、ただただ疲労を覚えるだけだった。
 だが、ツェルニに帰ってこないという選択肢も存在しないし、何よりもメイシェンの様子が気になってもいる。
 徐々にではあるが、中隊の戦闘力が上がってきているために、レイフォンの負担が減ってきているという事実は嬉しいのだが、それでも長期的には確実にツェルニは追い詰められる。
 戦力を補充する術が存在していないというのもそうだし、学生のみで運営されているために、戦いそのものに恐怖を覚えてしまう生徒も少なくない。
 グレンダンでもたまにあった事態だが、ツェルニでは深刻さの度合いが違う。
 中隊構成員に、その手の精神疾患が現れていないのは、せめてもの幸いである。
 連続する避難警報はむしろ、一般生徒への精神的な負担を増加させ続けているのだ。
 そしてその最も深刻な生徒の一人が、メイシェンである。
 本来のメイシェンも、それ程強い人ではなかったのだが、ナルキが行方不明となったために、精神的な疲労は恐ろしいほどの速度で進行してしまった。
 レイフォンに何か出来ることはないかと考えているのだが、一緒にいる時間を増やすことさえ危険である。
 そう。レイフォンは戦う側の人間なのだ。
 都市の外へと出て行き、そして帰ってこないかも知れない人間なのだ。
 扉を閉める姿を見たら、それが最後かも知れない。
 そこにかかる重圧は、おそらくレイフォンが考えるよりも遙かに大きいのだろう。
 そうなると頼みの綱は、ミィフィとリーリンと言う事になるのだが、リーリンは兎も角ミィフィもあまり余裕のある状況では無くなりつつあるらしい。
 それはそうだとレイフォンも考える。
 汚染獣との戦闘が頻発するグレンダンで生まれ育ったリーリンならば、ある程度の慣れが存在する。
 だが、汚染獣との戦闘をあまり経験しないヨルテム出身のミィフィには、力を抜くための慣れが存在しない。
 これは決定的な違いである。

「どうしたら良いだろう?」
「・・・・・。帰ってくるなり僕にその質問をすると言う事は、お前さんも相当追い詰められているな」

 目の前に座っているのは、レイフォンからすれば神とさえ言える、ツェルニ屈指の頭脳労働者であるウォリアスだ。
 頬が痩せこけ、目の下に隈が出来て、更に肌に張りが無くなって、目だけが異様にギラギラしている不健康オーラを辺りにまき散らしている、同級生に頼るしか無いのだ。
 武芸者自体はまだ戦えるが、ツェルニのインフラを支える一般生徒にダメージが蓄積しつつある現状を、何とかしなければならないと活動しているせいで、この数日で急速に不健康になってしまった。
 物理的な話ではなく、精神的な問題であるため、決定的な解決策が存在していないのが大きいという話も聞いている。
 忙しいのは分かっているが、レイフォンがと言うよりもメイシェンを何とかして欲しいのだ。
 本当に、戦うことしかできないレイフォンには、どうすることも出来ないのだ。

「既に手は打ってあるんだけれどね。問題はリーリンで」
「? リーリンが?」
「ああ。リーリンが、だ」

 何故ここでリーリンの名前が出てくるのかが分からないが、それでも、きっとなにやら複雑な事情が存在しているのだろう事は分かる。
 どんな事情があるのか疑問ではあるが、ウォリアスは待ってくれなかった。

「それと、お前さんの覚悟だ」
「どんな覚悟?」

 いきなり覚悟と言われても途方に暮れてしまう。
 戦う覚悟も、戦場で死ぬ覚悟も既に出来ている。
 死にたい訳ではないが、それでも、死んでしまう覚悟は出来ているのだ。
 だが、不健康を煩った同級生から出てきた言葉は、レイフォンにとって許容できる内容の物ではなかった。

「メイシェンを孕ませる」
「却下」

 廃都市探索後に明言しているというのに、ここでまたその話題を持ち出したウォリアスを睨むが、だが、すぐに押し負けてしまった。
 それ以外の方法がないのだと、その視線が訴えているから。

「ちなみにだが」
「う、うん」

 レイフォンが視線をそらせたのを、考慮の余地があると正確に判断したらしいウォリアスが、言葉を続ける。
 そして、それはレイフォンに覚悟を決めさせるべき力を持っていた。

「レノスからもってきた」
「何を?」
「一般人が武芸者を出産した際に、起こりうる心身の障害についての治療記録」
「・・・・・・」
「万全だとは言わないけれど、ヨルテム程じゃないと思うけれど、それでも危険率はかなり低くなる」

 ウォリアスはやはり違うと、改めて認識した。
 一般人が武芸者を生んで健康を損ねる危険性は、極めて小さい物だ。
 その極小の危険性に備えて、レノスから医療データを持ってきたウォリアスの思考を、レイフォンは理解することが出来ない。
 理解することは出来ないが、それでも感謝はしている。
 今にも壊れるかも知れないメイシェンを、何とか支えることが出来るのだから。

「・・・・・・・・」

 そこで思考が止まる。
 止まってしまう。

「子供をどうやって作るかとか、その辺の情報もあるけど、いるか?」
「・・・・。一応知っているつもりだよ」
「それは何より」

 返事を返しはした物の、実際問題としてそれが出来るかと聞かれると、とても疑問である。
 交差騎士団との関わり合いの中で、色々と不良中年達に教えて貰ったのだが、それを実戦の場で使えるかどうかとなると、かなり疑問である。
 訓練と実戦が違うのは、何も汚染獣戦だけではないのだ。
 だが、やらなければならないのも確かなことだ。
 覚悟を決めろと言うのは、このことだったのだと理解したレイフォンは、今まで感じたことがないほど重い身体を何とか持ち上げて、不健康に支配されつつある部屋を後にした。
 
 
 
 一体何時以来ここには来ていないのだろうかと、レイフォンはどうでも良いことを考えつつ、その扉を開けた。
 メイシェン達が三人で住んでいるアパートと呼んで良い部屋だ。
 前回訪れたのは、ハイアを廃棄物へと変えた少し後だった。
 暴走したツェルニが汚染獣の群れへと突っ込んで行く、少し前の話だ。
 わずか一月ほど前のことだというのに、扉を開けたその場所の雰囲気はずいぶんと変わっていた。
 夜と呼べる時間が始まって暫く過ぎている部屋の中は、当然の様に灯りが点けられていた。
 僅かに暖色を帯びた光に照らされる部屋の眺めは、記憶にある通りのはずだ。
 家具の配置などは全く変わっていない。
 それでも、この部屋は別な空間となっているように、レイフォンには思えた。
 以前は掃除が行き届き、常に何かお菓子を作っているような甘い香りに支配されていた。
 部屋もどことなく明るかったし、何よりも空気が決定的に軽かったように思う。
 だが今、この部屋を支配している空気に溶け込んだ匂いは、なんなのだろうかと疑問に思う。
 知らない匂いではない。
 いや、むしろ慣れ親しんだ匂いだ。

「メイシェン?」

 思えば不義理を働き続けてきた。
 メイシェンが精神的に打ちのめされていると言う事を知りつつ、それに関わろうとしてこなかった。
 リーリンやミィフィに任せきりにしていた、そのツケを支払わなければならない。
 例え罵られたとしても、それを受け止め続けなければならない。
 もっとも、メイシェンが罵る姿を想像することは出来ないが、それでも覚悟だけは決めておく。
 そうすれば、心の痛みを幾分和らげることが出来るから。

「・・。レイフォン?」

 空気が動いた。
 その揺れと表現できる動きの元は、ソファーに座っていた。
 呼吸以外の殆どを停止していたメイシェンが、ゆっくりと身体を起こす。

「メイシェン」

 そして、その姿に準備していた覚悟が吹き飛ばされ、鋭く強烈な痛みが胸を襲う。
 何処を押しても柔らかくて、とても甘い匂いがしていた少女の面影はすっかりと消え失せていた。
 怯えてやつれた、まるで屍のような姿となって、ゆっくりと表現するにはあまりにも非力な動作で立ち上がる。
 その瞳に光はなく、ただひたすらにレイフォンを見詰めるそれは、あまりにも無気力だった。
 そして、やっとの事で理解できた。
 この部屋を支配しているのは、恐怖の匂いだと。
 汚染獣との戦いの後、武芸者から漂うそれと、何ら代わりがない恐怖の残り香だ。
 つまり、メイシェンは、ここで戦っているのだ。
 迫り来る全ての物と、逃げる事さえ出来ずに、ただの一人で。

「ただいま」
「・・。おかえりなさい」

 底まで考えて、やっと絞り出した言葉だったが、返ってきたのはやはり無力な言葉の羅列だった。
 ここまでメイシェンを追い詰めてしまった原因は、廃貴族という不可思議な存在だが、結果の何割かにレイフォンの不義理がある。
 精算しなければならない。
 だが、どうやって?
 そこで思考が止まってしまう。
 確かに、メイシェンがレイフォンの子供を身籠もれば、その子供を支えとしてこの先、生きて行くことが出来るかも知れない。
 だが、それは本当にレイフォンが精算したと言えるのだろうか?
 いや。それは本当にメイシェンのためになっているのだろうか?
 そう考えてしまったレイフォンは動けない。
 ここに来るまでに、色々と覚悟を決めてきたはずだというのに、土壇場になってしまうと何も出来ない。
 だからと言う訳ではないだろうが、先に動いたのはメイシェンだった。
 無力で緩慢な動作でゆっくりとレイフォンに近付き、そして胸に向かってその小さな手を伸ばす。
 更に身体全体が、力なくレイフォンの身体に寄りかかる。

「やっと、帰ってきてくれたね」

 全身でレイフォンにしがみつくようにしながら、そう言われた。
 それは、罵られるよりも遙かに強烈な一撃となって、レイフォンの胸を打ち貫く。
 帰ってきたら、遊びに行こうと言っておきながら、戦いが続くことを口実に自分の部屋にさえ戻らなかった。
 ナルキが行方不明になったことさえ、ミィフィに伝えて貰って直接会うことを避け続けてきた。
 その結果がこれなのだ。
 そっと、壊れないように細心の注意を払いながら、両手を広げて小さくなってしまったメイシェンの身体を抱きしめる。

「遅くなってごめん」
「帰ってきてくれたから、それで良いよ」

 何もせずとも、そこにいてくれるだけで良いと、メイシェンは言ってくれたが、それでは全く駄目なのだ。
 何かをしなければならない。
 だが、レイフォンに出来ることなど戦うことだけ。
 それ以外は本当に、何も出来ないのだと思い知らされた。
 それでも、出来ることが無くても、一緒にいる事は出来るのだと、その意志を声に変えて絞り出す。

「今夜は一緒にいられるよ」
「うん。ご飯作るね」

 そう言いつつ身をよじって、レイフォンから離れようとする。
 離すまいとして、ほんの少しだけ抱きしめた腕に力を込めた。

「一緒に作ろう」
「・・。うん」

 暫く抵抗しようとしていたが、それでもレイフォンの提案に乗ってくれた。
 そっと、力を抜こうとして異変に気が付いた。
 自分の力で立っていない。
 驚いて慎重に身体を動かして、メイシェンの様子を確認する。

「メイシェン?」

 返事はなかった。
 代わりに、少し苦しげな寝息だけが聞こえた。
 ただ、レイフォンの服を掴んだ小さな手だけは離していない。
 ふり解くことは簡単だ。
 簡単だが、今のレイフォンに出来ようはずは無いが。
 おかしな気分だ。
 強力な汚染獣を平然と殺す力がありながら、女の子一人満足に救えないレイフォンがでは無い。
 人が生きて行くには、あまりに過酷なこの世界が今も続いていることに、少しのユーモアを感じたのだ。
 そして、ふと疑問に思う。

「この世界に神とか悪魔とかがいたら、僕達を見てなんて言うだろう?」

 灯りに照らされた部屋の外、窓から僅かに覗く月を見詰め、ふとそんな疑問が浮かんだ。
 必死に足掻いているのを嘲笑うだろうか?
 それとも、もがき苦しんでいるのを見て笑うだろうか?
 淡々と、見える物を受け入れそれを情報として処理してしまうのだろうか?
 世界を見詰める存在のことなど、レイフォンには分からないが、少しだけ疑問に思ったのだった。
 
 
 
  後書きに代えて。
 と言う事で、ある意味ターニングポイントを迎えました。実際に迎えているんですよ? 俺が書かないだけで、この後きちんとターニングをポイントしているんですよ。
 ちなみに、途中で不義理という単語を使いましたが、この使い方が正しいかどうか疑問だったりします。あるいは、もっと適切な単語があるのだろうか? どなたかご存じでしたら教えてください。
 
 さてサツマイモ。
 炊飯器に芋を並べて、水を百CCほど注ぎ、ふたを閉めてからスイッチオン!
 もちろん、綺麗に洗っておく事は当然ですね。
 できあがりは、少し水っぽい焼き芋って感じでした。
 時間が経って冷めてしまったので、電子レンジのトースター機能で十分ほど加熱して食べても見ましたが、こちらの方が感覚的に美味しかったかな?
 まあ、なんにせよ、この後しばらくはおかしな料理はしない予定ですのであしからず。

 さて、誤字脱字を修正した奴を上げていたんですが、現在さらなる修正を加えなければならない状況になっていまして、少々へ込んでいます。
 なぜならば、外縁部を、外縁部と書き続けていた事に気がついたから。
 さて、一体どのくらいの間違いがある事やら。



[14064] 第八話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:07


 ふと目覚めたナルキは、一瞬驚愕に支配されてしまった。
 サヴァリスと同じ部屋で寝ているために、心臓に悪い目覚めをすることは既に日常となり果てている。
 床で毛布にくるまって眠っていたはずだというのに、何故かサヴァリスと同じベッドで目が覚めてみたり。
 心臓に悪いことこの上ない同居生活だが、それを解消する術をナルキは持ち合わせていない。
 何しろ、都市に入った記録がないのだから、問答無用で豚箱に放り込まれても何ら文句を言える立場ではない。
 立場ではないのだが、それでも、豚箱の方がまだ精神衛生上安眠を得られるかも知れないと、考える今日この頃だった。
 だがしかし、今驚愕に襲われたのはサヴァリスの顔を、超至近距離で見てしまったからではない。

「私に懐くのは良いんだが、少しだけ安眠させてくれると嬉しい」

 鳥類の特色と言える表情の読み取れない、丸い瞳を見返しつつ、猛然と活動を続ける心臓が落ち着くのを待つ。
 追い出そうかとも考えたのだが、何故かそれをしてはいけないような気がしたので、一緒の部屋で眠ったのだが、もしかしたら、せめて鳥かごを用意すべきだったかも知れないとそんな事を考えたりもしている。
 用意すると言っても、鳥籠なぞ調達する宛はないのだが。

「うん? 起きたのかい」

 平和的に小鳥さんと喋っているところに、この世の争乱の元凶になりかねない男が、とても健やかな笑顔と共に現れた。
 本人は、至って平和的にマイアスでの生活を楽しんでいるつもりなのだろうが、ナルキからしてみれば早くこの危険人物との縁を切りたいところだ。
 やはり、不法入都で自首して、豚箱に避難すべきかも知れないと考えるが、最終的には豚箱を襲撃してでもナルキと戯れようとしてくるかも知れないので、余計な被害を出さないために実行に移すことは出来ない。
 八方塞がりという奴だ。

「お早う御座います」
「うん? 何度も一緒のベッドで眠った仲じゃないか」
「事実を表してはいますが、一般的な意味じゃないですよ」
「せめて、起き抜けの一撃ぐらいは欲しいと思わないかい?」
「全然人の話を聞いていませんね」

 レイフォンの苦労が骨身にしみて分かろうという物だ。
 よくもまあ、グレンダンはこんな凶暴な生き物を飼っていられる物だと感心するが、それでも、あの都市にはそれが必要だったのだと言う事は理解している。
 納得しているとは言えない状況だが。

「それはそれとして、これからどうする? 僕としては速く汚染獣が来てくれると嬉しいんだけれどね」
「都市の足が止まっている理由とか、考えないんですか?」
「それは、他の人の仕事だと思わないかい?」
「・・・・。それはそうですけれど」

 確かに、都市の足が止まっている原因を探し出して解決するのは、錬金技師や機械技師の仕事だとは思うのだが、もっと違う反応が有っても良いのにと、何度目か分からない思いに囚われたが、そんなナルキを驚愕させる音が辺りに響き渡った。
 そう。汚染獣の接近警報だ。
 そして、恐る恐ると凶暴な武芸者の方向を見る。

「ワクワクしてきたよね?」
「全くこれっぽっちも」

 当然の表情をしたサヴァリスを発見しただけだったが、それでもこのまま一日を無駄に過ごさずに済むかも知れないという考えも、確かにナルキの中にはあった。
 とは言え、ナルキが正面切って戦いに参加できるという訳ではない。
 何しろ、都市に入った記録がない武芸者なのだ。
 緊急事態だからと言って、おいそれと前線に出られる訳ではないのだ。
 そのはずだったのだ。

「うわぁぁぁぁ!!」

 そんな葛藤を知ってか知らずか、サヴァリスがナルキをお姫様だっこして、いきなり走り出した。
 扉を蹴破り、傍若無人に廊下を突っ走り、既に何人かが避難行動をしていた階段の壁を、斜めになって走破して、宿泊施設のロビーへと到着してしまっていた。
 ロビーに一番乗りしたサヴァリスだが、当然の様に宿泊している人間としてはという但し書きが付く。
 そう。制服を着た少年がいるのだ。
 その都市警から派遣されている少年が、驚きに硬直してこちらを見ているが、ナルキだってかなり驚いているのだ。
 ふと気になって、肩に止まっていた小鳥さんへと視線を向ける。
 あろう事か、平然とナルキをまん丸な瞳で見返してくれた。

「あ、の! 避難誘導をしますので、暫くこちらでお待ち下さい」

 動揺著しいはずだが、どもりつつもサヴァリスを止めようとしてくれる隊員には悪いのだが、未だにナルキをお姫様だっこしている危険人物が止まるはずはないのだ。
 その証拠に、とても良い笑顔と共に隊員を無視して宿泊施設から出ようとしている。
 ナルキは、まだだっこされたままだ。

「も、もしもし!! 貴男だけならともかく、そちらの女性は置いていって下さい!!」

 有りっ丈の勇気と言うよりは、もはや蛮勇を振り絞ってサヴァリスからナルキを助け出そうとしてくれているのだが、そうは問屋が卸さないのだ。
 こう言う時に使うかどうかは全くもって疑問な言葉だが。
 いや。それ以前に、サヴァリスだけだったら問題無いと言っているところが、そもそもの問題かも知れないが、相手は天剣授受者だから平気なのかも知れない。

「うん? 彼女は大丈夫だよ。槍殻都市グレンダンでその人有りと言われた武芸者の、弟子に当たる人でね。この学園都市くらいならば朝食前の運動程度の気持ちで征服できるから」
「普通は、そんな無茶は出来ませんから!!」

 叫びつつも、サヴァリスに縋り付いて止めようとしてくれているこの少年は、何時ぞやサヴァリスが悪ふざけで錬金鋼を使ったトリックを見せた時に、取り調べをしていた内の一人だと言うことを思いだした。
 上司に比べると影が薄かったが、それでもナルキの記憶には残っている。
 まあナルキに限って言えば、確かに、グレンダンにその人有りと言われた武芸者の弟子だと言われれば、確かにそうなのではあるが、だからと言ってマイアスを征服する力などナルキにはないのだ。
 と言っている内に、隊員を引きずりつつ宿泊施設から出て、かなり歩いてきてしまっていた。

「ああ。やって来るのは老性体かな? 老性体だよね? 老性体以外にあり得ないよね!!」

 見事な活剄を使い、無茶苦茶な勢いで外縁部を目指すサヴァリスからそんな声が聞こえる。
 微かに頬を赤らめて、呼吸が弾み、体温が高い。
 こんな状態の人間を、ナルキは良く知っている。
 例えば、ヨルテムでレイフォンと一緒に歩いていた、黒髪の幼馴染みとか。
 ツェルニでも、あまり状況は変わらなかったような気もするが、流石に多少の慣れがあったのか、それ程顕著な変化はなくなっていたが、基本的に今のサヴァリスと同じだと言える。
 それはつまり。

「・・・・・・・・・・・。こんな世界終わってしまえば良いんだ」

 今の思考を全力で消去していたナルキだったが、おかしな物を視界の隅に捉えた。
 あえてそれを言葉にするならば、細い光で作られた網。
 何かを取り囲むように、作られたその光の網の中に、今、ナルキの肩に止まっているのとよく似た小鳥が大量に捕らわれている。
 全く意味不明な現象を見ていたのは、しかし一瞬の出来事だった。

「何をしているんだ!!」

 その叫び声と共に、サヴァリスの行く手を遮るように一人の少年が現れた。
 それは、ロイと名乗った都市警の隊長であり、サヴァリスに縋り付いて止めようとしてくれている少年の、上司に当たる人物だった。
 そして、ロイもサヴァリスを止めようと四苦八苦しているのを眺めつつ、ナルキは光の網の方に注意を取られている自分を発見していた。
 何故、あれがそんなに気になるのか分からない。

「兎に角、いくら優秀とは言え、都市外から来た武芸者を即座に戦わせる訳には行かないのです!!」
「うん? ならば話は早いじゃないか」
「何処が速いんですか!!」

 今、サヴァリスの最も危険なスイッチが入ってしまった。
 そんな直感がナルキの胸に沸き上がってきた。
 そして、魔女の釜の蓋が開かれる。

「マイアスの武芸者を僕が殲滅すれば、全て丸く収まるという訳だね」

 そう。マイアスの武芸者が全員戦闘不能だったならば、外から来た武芸者に頼る以外にないのだ。
 そして、最悪を通り越している事実として、サヴァリスなら笑いながらマイアス武芸者を、死者を出さないように手加減しつつ、戦闘不能に陥れることが出来るのだ。
 もし、万が一にでも、全員を殺して良いと思われたならば、五分以内に全員がこの世から退場を余儀なくされてしまう。
 それ程の実力を、ナルキをお姫様だっこしている危険人物は持っているのだ。
 その実力差を認識しているのかどうか、ロイと名乗った青年の表情が硬直する。
 何処まで本気か分からないという表情ではない。
 実際にやりそうだと確信している表情で、凍り付いているのだ。

「・・・・」
「ああ。僕は当面手出ししないよ? グレンダンでも、若手でピカイチだと言われているナルキが、先に汚染獣と戦うんだからね」

 ちなみにでは有るのだが、ナルキはグレンダン出身者ではないし、立ち寄ったことも、見た事もない。
 その辺全く無視してサヴァリスが更に続ける。

「例え相手が老性体だったとしても、一撃で粉砕できるだけの実力を持っているんだよ」
「持っていませんから! この前雄性体とやり合った時だって!! 穴だらけにしましたけれど、結局倒したのはレイフォンだったんですからね!!」
「おや?」

 思わず上げた抗議の声で、サヴァリスの視線がナルキを捉える。
 そしてその視線の危険さに気が付いた。
 何がいけなかったのかは分からないが、確実にサヴァリスの視線は危険だ。

「やはり実戦経験があるんだね。しかし、雄性体ごときに手こずるはずはないよね? あれだけの活剄を使えるんだから、鎧袖一触だったはずだけれど。ああ。五期とかの大物だったんだね。それなら納得だよ」

 しまったと思ったが、遅い。
 思わず汚染獣との戦闘経験があると言う事を、よりにもよって都市警の前で公言してしまったのだ。
 実際にやり合ったのは一期だったが、ご丁寧に五期などと言う老性体と見間違えるほどの大物との戦闘経験があると、何処かの天剣授受者が修正してくれているし。
 そして結果的に、時期は不明だが、確実に戦闘に参加させられることだけは間違いない。
 問題は、マイアスの武芸者が何時汚染獣を殲滅できるかにかかっている。
 速ければナルキの参戦はないだろうし、遅ければある。
 そこまで考えたところで、ふと胸の中で何かが蠢くのを感じた。
 あえて表現するのならば、胸の中にある空洞を埋め尽くした何かが、猛烈な熱と勢いをもって、ナルキを戦場へ駆り立てようとしている。
 そんな何かが、胸の中で蠢くのを感じたナルキは、唐突に肩に止まっている小鳥の正体を理解した。
 いや。胸の中の何かが教えてくれたのだ。
 それは、ナルキの肩に止まっていて良い存在ではない。
 それは、この都市にとって最も重要な存在なのだと。
 それとは別に、ナルキの中の熱は戦場へと駆り立てる。
 小鳥を返さなければならないという使命感と、戦場へと駆り立てる熱がナルキを苛んだが、それはしかし一瞬でしかなかった。
 ナルキにとって、都市を守ると言う事は汚染獣と戦う事ではない。
 そして、今回マイアスを守ると言う事は、断じて直接汚染獣と戦う事ではない。
 一瞬でこの結論に達したナルキは、全力で胸の中の闘争本能を抑制する。
 そして次の瞬間、活剄を使って、脊柱起立筋と殿筋、半腱半膜様筋と大体二頭筋などを使って、サヴァリスを弾く要領で空中へと移動。
 腹筋や大体四頭筋を使って身体を丸め、四分の三回転して地面に立つ。
 今のところ、胸の奥の熱を押さえ込むことに成功していた。
 そして、信じられないほど身体に力がみなぎり、つい最近手こずったはずの雄性一期くらいなら、本当に鎧袖一触に出来そうな自信がナルキを支配する。
 そして理解した。
 サヴァリスの本当の恐ろしさを。

「くくくく。ああ。素晴らしいよナルキ。とうとう僕と殺し合ってくれるんだね?」
「違いますから。私はこれから機関部まで行かなければならないんですよ。汚染獣はサヴァリスさんに任せますから」

 サヴァリスの性格がでは無い。
 隠されていた戦闘能力を、直感的に感じ取ることが出来るのだ。
 おそらく、みなぎっている力がそれを感じさせてくれたのだろうと思う。
 そしてそれは、今のナルキから見ても遙かに遠く、戦えば間違いなく数秒以内に殺されることが分かった。
 だからと言う訳ではないが、殺し合いなど出来はしないのだ。

「うん? 汚染獣と戦うよりもナルキと殺し合った方が、僕はずっと楽しいんだけれどね?」
「きっと、凄い汚染獣が来ていますから」

 剄息で常に活性化している剄脈を更に刺激して、最大限の瞬発力を確保する。
 それと同時に、目の前の危険人物を何とか汚染獣戦に向かわせなければならない。

「うん? 期待はずれだったんだよ」
「・・・? え?」

 サヴァリスの台詞を、脳が理解し損ねた。
 だが、それは僅かに一秒程度の時間だった。

「それはつまり、サヴァリスさんには既に汚染獣が見えていると?」
「うん? ナルキにも見えるはずだよ?」

 そう言われて、恐る恐るサヴァリスの見ている方へと視線を向ける。
 準備をしていたために、見詰めようとしただけで活剄が発動して、視力が爆発的に強化された。
 そして見た。
 雄性体一期の汚染獣を。

「・・・・・・・・・・・・・。雑魚だ」
「うん。雑魚だよ」

 胸の中の何かが存在しない状態のナルキでさえ、一撃で撃破できると確信できるほどに弱々しい汚染獣は、幼生体から脱皮したばかりの個体に見えた。
 こんな弱敵相手では、サヴァリスが満足するはずがない。
 むしろ、戦わせたら、欲求不満が爆発して、直後にナルキに襲いかかってくるかも知れない。
 そして、側にいる都市警の二人へと視線を向ける。
 恐怖に支配された顔で辺りを見回しているロイと名乗った青年の行動だけで、まだ他の誰にも見えていないことが分かった。
 そして、もう一度サヴァリスを見る。
 とても素敵な笑顔でナルキを見詰めていた。

「雑魚なんかマイアス武芸者に任せて、僕達は僕達で愛をはぐくまないかい?」
「それは愛とは言いませんから」

 全力で突っ込みつつ、水鏡渡りで機関部へと向かう。
 サヴァリスから逃げられるとは思わないが、もしかしたら、気まぐれで今だけは見逃してくれるかも知れないから。
 そして、ナルキは機関部へ行かなければならない。
 肩に止まった小鳥、電子精霊マイアスを返すために。
 それが、多くの人の命を救うことだと確信して。
 汚染獣との戦闘は気になるが、雄性体になりたてだったら、きっとマイアスの武芸者だけでも撃退できるはずだから。
 
 
 
 褐色長身の、赤毛武芸者が瞬時に消えたことは驚きに値したが、それを見逃したサヴァリスという武芸者に対してもかなり驚いていた。
 いや。その認識は少し違うのかも知れない。

「ああ」

 頬を染め、潤んだ瞳で熱い吐息を放つその怪生物は、既に都市警の下っ端の理解を大きく超えた存在だった。
 いやまあ、最初っから越えていたのは事実なのだが。

「剄を練り上げる速度、それを技へ変換する速度と滑らかさ。何よりも僕でさえ一瞬驚いた切れと超加速」

 今まで見たことも聞いたこともないほど優秀だと判断できる、目の前の武芸者でさえ驚いたのだったら、都市警の下っ端武芸者でしかない自分に見えなくても、何ら問題無いのだと無理矢理納得する。
 おそらく、ロイにさえ見えていなかったはずだから、見えているサヴァリスの方が異常なのだと、そう結論を付ける。

「ああ。僕は生まれて始めて、女性という生き物に興味を持ったよ。ああ。ナルキ。僕は君を愛してしまったようだよ」

 恍惚とした表情でそう語る武芸者からはしかし、通常の男女の間にある愛情を伺うことは出来なかった。
 そう。恍惚とした表情はそのままに、潤んだ瞳さえ変わらず、それは獲物を前にした肉食動物の視線だったからだ。
 熱い吐息は、化錬剄の変化を起こしているかのように周りの気温を上げていることからも、それは十分証明できるという物だ。
 思わず、滅んでしまった神に、ナルキという女性武芸者の冥福を祈ってしまった。

「今は共に戦うことが出来ないけれど、それは僕らに課せられた試練なんだよ。他のことに気を取られていては、愛を育めないからね」

 見逃したのは、ナルキが他に目的を持って行動していると判断したからだ。
 気が散っている人間と戦ってもつまらないと、そう判断したようだ。
 本当に、戦うことしか考えていない生き物のようだが、問題は実は違うところにある。

「隊長? どうしますか?」
「ああ。そうだな」

 呆然としている感じのロイへと視線を向ける。
 信頼する隊長も、立て続けに起こった展開にかなり驚いているようだったが、それでも思考をまとめるように、大きく息を吸って吐き出す。

「俺はあの女性を追って機関部へ行く。お前はサヴァリスさんをシェルターに避難させてくれ」
「・・・・・。了解しました」

 この危険人物が、大人しくシェルターに避難するはずはない。
 ならば、何故ロイは実現できない指示を出したのか。
 それは、言って良ければ、口実である。
 取り敢えずシェルターに避難してくれと指示を出したが、相手がそれを聞かなかったのだと、後で問題になったら主張するために出された指示なのだ。
 それを理解したからこそ、旋剄で機関部へと向かったロイを見送りつつ、小さく溜息をついてしまった。
 どうにか出来るかも知れないと言う一点において、まだナルキの方が見込みがあると、下っ端武芸者だって判断できたから。

「それで、シェルターに避難して欲しいのですが?」
「うん? 君も僕と愛を語りたいのかい?」
「それは違いますからね」

 汚染獣が接近していて、マイアスが動けないという切迫しているはずの状況の中でさえ、この異常な武芸者は余裕綽々だ。
 ふと振り返り、サヴァリス達が見ていた方向へと視線を飛ばし、活剄で限界まで視力を強化する。
 まだ、汚染獣らしい飛行物体を捉えることさえ出来ていない。
 どれだけの実力差があるのか、考えるだけで絶望してしまいそうな気分だ。

「ふむ? 僕としてはナルキの方が気になるけれど、汚染獣ごときにマイアスを荒らされてしまっては、愛を育むのに支障が出てしまうかも知れないね」
「ですからね。それは愛とは言いませんからね」

 こんな状況で漫才をしなければならない自分に、少しだけ不幸を感じたが、それを強引にねじ伏せる。
 やる事があるのだ。
 どうやら、目の前の変態的な武芸者は汚染獣戦への参加を希望しているようだから、武芸長にその事を知らせて、余計な混乱を避けなければならない。
 下っ端は下っ端で、やる事が多いのだと、少しだけ安堵した。
 こんな危機的状況で、仕事もなく待機などしていたら、気が変になってしまいそうだから。
 そんな小心な自分を認識しつつも、サヴァリスを連れて武芸長のいるだろう場所へと移動しようとして、そして気が付いた。

「いない」

 何時の間にか、サヴァリスが消えていたのだ。
 
 
 
 小うるさい都市警の下っ端武芸者を振り切ったサヴァリスは、外縁部の建物の一つ、その屋上で事の成り行きを見守る。
 サヴァリスの腕から逃げ出したナルキの剄量が、突然信じられないほど上がったのは認識していた。
 そして、それこそがツェルニに向かうための目的なのだと言う事も、直感的に理解することが出来た。
 だが、この状況は悪くない。
 あわよくば元天剣授受者と戦えるかと思っていたのだが、借り物とは言え、ナルキの実力はサヴァリスを楽しくしてくれるのに十分な物だった。
 だが、事はそれだけでは収まらなかった。

「ふむ。初代ルッケンスは割と本当の事を書き残したのかも知れませんねぇ」

 ルッケンス家にとって、初代とはもはや神話である。
 そんな人物の書き残した事柄から、本当は疑うこと自体が問題なのかも知れないのだが、それでもサヴァリスはかなり眉唾物だと考えていた。
 何しろ、記録にある時期に大規模な戦闘が都市内で起こった記録という物が、グレンダンには存在していなかったのだ。
 そこから考えて、事実に尾ひれが付いて今に伝わったのだとそう考えていたのだが、どうやらサヴァリスの認識の方が間違っていたようだ。
 機関部へと突き進んだナルキの前に現れたのは、まるでコピーでもしたように個性の欠片もない、画一的な集団だった。
 被っているお面の模様も、全て同じという徹底ぶりだ。
 イグナシスの下っ端武芸者達だ。
 個々の戦闘能力を見れば、かなりの差でナルキの方が有利という程度の、どうと言う事のない連中だが、数が多い上に完璧と言って差し支えない連携で襲いかかってくるのだ。
 焦るナルキとお面集団の戦闘は、何とかナルキが有利だと言える程度の様相を呈しつつある。

「ああ。それでも君はとても耀いているよ」

 多数対多数の戦いは経験しているだろうし、汚染獣戦で多数対一の戦いも経験しているはずだ。
 だが、一対多数の戦いという物は未経験だったようで、ナルキは少々戸惑っているようではあったが、それでも優位に戦いを進めることが出来ている。
 廃貴族の助けを受けているとは言え、それは剄量だけの話であるはずだ。
 ならば、お面集団を相手に優位に戦いを続けていられる現状は、まさにナルキの持って生まれたセンスそのものだと言える。
 武芸者に強大な力を与える廃貴族と、それを無駄なく使うことが出来る人材の融合。
 それはもしかしたら、天剣授受者になることさえ出来るほどの、優秀な武芸者の誕生を意味しているのかも知れない。

「ああ。やはり僕は君を愛してしまったようだよ。二人でもっと強くなって、二人の愛を育もう」

 不満があるとすれば、廃貴族が全力を出していないことだろうか。
 まさか、あの程度で全力などと言う事はあり得ないとサヴァリスは睨んでいるのだが、何かの切っ掛けがあれば変わってくるはずだとも思っている。
 それはもしかしたら、汚染獣との戦闘かも知れないし、一度死にかけるという体験かも知れない。
 何はともあれ、よたよたと飛んでくる汚染獣などよりは、よっぽどサヴァリスの興味を引く戦いは、もう暫く続きそうである。
 もし、ナルキが敗れるようなことがあったら、その時はどうしようかと僅かに思考を巡らせる。

「うん。あの程度の連中に負けるようなら、それは大したことがなかったと言う事だね」

 ナルキを愛しているのは間違いないが、それとこれは話が別なのである。
 だがしかし、ナルキが負けるなどとは全く思ってもいないのも事実だ。
 慣れていないとは言え、それなりに考えた戦いをしているのだ。
 今も、攻撃してきた個体の足を鋼糸で掬い、思わぬところで体制が崩れたために連携が乱れた隙を突き反撃して、地道に数を減らしている。
 これをやって行けば、必ずナルキが勝利するだろう。
 そして、鋼糸という見えにくい罠の存在を知ったために、襲う側の動きが鈍くなっているのも大きい。
 この場合は、損害を恐れずに全力での総攻撃こそが必要だというのに、どうも今ひとつ戦いの機微を弁えていないようだ。
 ナルキが優勢になりつつあるのは喜ばしいが、つまらない戦いになって来たのが少し残念だった。
 暇つぶしに、やっとこさ外縁部へ到着した汚染獣を捻り潰してこようかと思うくらいには、つまらない戦いとなってしまっていた。
 少し。いや。かなり残念でつまらない戦いから視線を外し、恐怖に顔を引きつらせたマイアス武芸者の、奮戦の方へと注意を向けた。
 こちらはこちらで、もしかしたら楽しいことになるかも知れないから。

「おや?」

 そして気が付いた。
 ロイと名乗った、都市警の武芸者の姿が見えないのだ。
 いや。いる場所はおおよそ分かっているのだが、ナルキとお面集団との戦いに関わろうとしていないのだ。
 これは少し興味が出てきた。
 ロイがどうなろうと知った事ではないのだが、ナルキに関わる事にはすべて興味を持てるのだ。
 
 
 
 遮光カーテンを通りすぎて尚、暖かな日差しを浴びて目覚めたレイフォンは、一瞬ほど驚いてしまっていた。
 本来ならば、レイフォンは一人で住んでいるために、誰かと一緒に寝ると言う事はない。
 孤児院では違ったし、ある意味ヨルテムでも同じ家で住んでいた。
 それは、ツェルニの寮でも同じ事が言えるのだが、流石にあの建物で誰かと一緒に暮らしていると表現することは難しいので、レイフォンは一人で暮らしていると言う事となる。
 だが、今は少々事情が違う。
 日差しの暖かさとは全く違った、柔らかな温もりがレイフォンの手の中にあるのだ。
 まだ、この状況になって間が無いために、起きた時や、何かの拍子にふと驚いてしまうのだ。
 だが、それもほんの一瞬でしかない。
 まだ眠っているメイシェンを起こさないように、細心の注意を払いつつベッドから抜け出す。
 朝早い時間ではあるが、戦場が近いためだろうと思うのだが、ゆっくり眠っていると言う事が出来ないでいるのだ。
 そしてもう一つ。
 今日、全ツェルニ生徒を前にしたカリアンの演説があるのだ。
 もちろんレイフォンが何かするなどと言う事はないのだが、それでも、今のツェルニの現状を全生徒に知らせることによって、人身を安定させてインフラに問題が起こらないようにすると言う目的は非常に重要だ。
 思わず、カリアンに声援を送ってしまいたくなるくらいには、今日の演説が重要であると言う事を理解している。
 それを理解していて尚、レイフォンに出来ることと言えば、メイシェンと二人分の朝食を準備することだけだ。
 本来ならば、ミィフィとナルキもここに住んでいるのだが、今は二人ともいない。
 ミィフィはリーリンの寮へと長期単身赴任だと言っていたし、ナルキは、おそらくこのツェルニの中にはいない。
 廃貴族とやらに取り憑かれ、既にかなり長い時間が経っているが、未だに消息を掴めていない。
 ツェルニに居ない以上、それは当然なのかも知れないが、その事実を受け入れることは非常に困難だ。
 だからこそ、メイシェンもレイフォンも追い詰められているのだ。
 だが、それでも、レイフォンは、諦めることは出来ない。
 メイシェンを守るためと言う事もあるが、レイフォン自身がナルキの帰りを待っているのだ。
 だからこそ、今、メイシェンと一緒に暮らしているのだし、汚染獣とも戦っているのだ。
 何時終わるか分からないが、それでも、諦めることは出来ない。

「あれ?」

 ふと、ここで違和感を覚えた。
 レイフォン・アルセイフは、こんなに前向きな人間だっただろうかと。
 グレンダンにいた時は、もっとこう、暗く沈み込みがちだったという認識がある。
 死なないために戦い、家族を守るために金を稼ぎ、結局失敗して全てを失ったのは、暗く、冷たく、沈み込んでいたからだとそう思っている。

「おや?」

 そして更に違和感が酷くなった。
 そもそもレイフォン・アルセイフは、こんな事を考える人間だっただろうかと。
 これはもしかしたら、おかしな友達が増えたからかも知れないし、もしかしたら、レイフォン自身が変わったからかも知れない。
 良い方向に変わったのか、そうでは無いのかは分からないが、それでも、今の気持ちはそんなに悪いものでは無い。
 朝食を摂ったら、支度をして戦略・戦術研究室へと顔を出そうと、そう思った。
 ある意味、レイフォン以上に過酷な戦場へ立たされている人達に、ほんの少しでも何かで切るかも知れないから。
 具体的には、食事の差し入れとか。
 リーリンもちょくちょく行っているようだし、さほど必要はないだろうが、念のためという奴である。
 ここまで考えた時、寝室の気配が動き出すのが分かった。
 まだかなり早い時間なのだが、メイシェンもあまりぐっすりとは眠れないのかも知れない。
 あるいは、レイフォンの気配を察して目が覚めてしまったのか。

「お早うメイシェン」
「お、お早うレイフォン」

 振り返ると、丁度扉を開けて出てきた瞬間だったので、気軽を装って挨拶をしてみる。
 そう。装っているだけなのだ。
 まだ、この生活に慣れていないために、心臓は変なテンポでダンスを踊っているし、動作一つ一つもかなりぎこちない。
 だがそれは、メイシェンも同じ状況であり、扉を盾にしながら挨拶を返し、ぎくしゃくと油の切れたロボットのような動作でこちらへとやって来る。
 出来れば、その緊張をほぐしたいところではあるのだが、残念なことにレイフォンにそんなスキルは存在しない。
 と言う事で、二人で平静を装いつつぎこちなく用意が終わった朝食を摂ったりするのだった。
 
 
 
 冷たい汗が背中を流れるのを感じながら、それを無視してゼリーを啜る。
 どんな状況であれ、食事を抜くことは得策ではない。
 更に、目の前の不機嫌の塊を刺激しないためであるのならば、ウォリアスはそれこそ死ぬ気で食事を摂ることだろう。
 全く楽しめなかろうが、毒が入っていようがかまいはしない。
 いや。即死できるのだったら、毒入りの料理を喜んで食べてしまうかも知れない。
 それ程までに、目の前の怒れる少女は恐ろしいのだ。
 いや。怒っているのとは少し違うことは理解しているのだが、他の表現は更に遠いような気がしているのだ。
 視線を僅かに動かして、ウォリアスの直属の上司を伺う。
 スキンヘッドの上司も、恐る恐るとゼリーを啜っている光景を確認するだけだった。

「それで、カリアンさんの演説ってもうすぐなんでしょう?」
「うん? そろそろ始まるけれど中継でも見る?」

 ツェルニが置かれた現状を全生徒に知らせて、そして奮い立たせるカリアンの演説はもうすぐ始まる。
 それは、おそらく成功することだろう。
 カリアンの実家は情報の商いを生業としていると聞いている。
 そこで育ったのならば、手元にある情報にどのような加工すればどのような反応を人々がするかを、きちんと学んでいるはずだし、そもそも、この程度のことが出来ないようでは、並み居る対立候補を蹴落として生徒会長になるなど出来ないのだ。
 その意味において、ツェルニは非常に恵まれた指導者を得たと言える。
 まあ、もう少し方法を考えて欲しいと思うことはいくらでもあるが、それでも、現状ではとても必要な人材である。
 出来れば、ウォリアス達の現状も何とかして欲しいのではあるが、それは恐らく贅沢すぎる望みなのだろうと言う事は、きちんと理解している。
 だが、その贅沢すぎる望みは思わぬ人物によって叶えられた。

「よぅ。きちんと生きているかぁ?」

 第十七小隊所属の狙撃手にして、ツェルニ一の伊達男と自己主張しているシャーニッドだ。
 ウォリアスにもディンにも真似することが出来ない、とても朗らかな笑顔と共に爆発寸前の少女へと歩み寄っているのだ。
 一体、どれだけの修羅場をくぐり抜けたらこんな事が出来るのか、一度で良いから聞いてみたいが、今は駄目だ。
 なんとしてもリーリンの荒ぶる魂を沈めてもらわなければならないのだ。

「少し良いか?」
「何でしょう? この二人をきちんと生かさないといけないんですけれど」

 シャーニッドの質問に答えたリーリンだが、それはどちらかと言うと八つ当たりに近い力強さを持っていた。
 それは、取り敢えず生きているウォリアス達の監督が必要だと主張している辺りからも伺える。
 風呂に入らなかったり、生活リズムが滅茶苦茶になったりはするが、きちんと生きて行くことは出来るのだ。
 そのはずだ。

「いやな。少し込み入った内容なんだ。屋上にでも出ないか?」
「・・・・・・・」

 逡巡しているのが分かる。
 入学前から付き合いのあるシャーニッドに、こうまで言われてしまっては少し断り辛いのだろう。
 そして、今のリーリン相手にこんな事が言えるのは、おそらくツェルニひろしと言えどシャーニッドだけだ。
 第十小隊絡みで、シャーニッド達にも何かあったようだし、思うところがあるのだろうとも思う。

「分かりました」
「わりいな」

 あまり悪びれた様子もなく、リーリンを連れ出すシャーニッドの視線が、何故かディンを捉える。
 その瞳に何時もの軽薄な色はなく、何かとても真剣な鋭さを持っていた。
 そしてその意味を、ウォリアスはおおよそ理解できていると思う。
 そう。ツェルニの歴史が何時終わるか分からない今の状況では、思い残すことは少ない方が良いと思うのだ。

「室長。少し外の空気を吸ってきたらどうですか? ここは僕がいますから」
「? ああ。そうさせてもらおうか」

 ウォリアスなりに気を遣ったと思ったのだが、残念なことにディンはそれを理解してはくれなかったようだ。
 それはディンが鈍いのか、それとも何か他の理由によってなのか、観察を続けることで分かってくるだろうと思う反面、触れてはいけないことであるとも思っているのだ。
 扉が閉まり、機械の駆動音が耳障りに感じだした研究室で小さく溜息をつく。
 まだ、ウォリアスはレノスの呪縛から逃れられていないのかも知れないと、そう思ったから。



[14064] 第八話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:07


 一対多数の戦いは初めてだった。
 汚染獣との戦いも、犯罪者との戦いも、常に少数を多数で包囲殲滅するという前提があったために、一対多数の戦いの訓練などしてこなかったのが大きい。
 レイフォンやイージェ、ハイアとの戦いは、当然のこと一対一だったために、今回が初めてだったのだ。

「はあはあはあはあ」

 同じ格好、同じ体格、同じ声、同じ錬金鋼、そして完璧と言って良い連携を駆使して襲いかかってきたお面集団だが、その全てを返り討ちにすることが出来た。
 だが、本当に倒す事が出来たのかはかなり疑問である。
 何しろ、致命的な一撃を入れる度に、溶けるようにその個体が消えて行ってしまったのだ。
 最初の一人を倒した瞬間には、流石に驚いて動きが止まりかけたのだが、止まる事を許さないレイフォンの訓練を受けていたお陰で何とか切り抜ける事が出来た。
 ナルキの体感時間では、とても長いあいだ戦っていたような気がしたのだが、汚染獣戦がまだ始まっていないところを見ると、せいぜいが十分程度の時間だったのだろうと思える。
 馴れないことをすると、とても疲れると言う事を再認識したナルキは、内ポケットに避難させていたマイアスの安否を確認する。
 ナルキ自身も、あちこちに傷を負ってしまっているが、幸いにして既に血は止まっているし、戦闘能力の低下につながるような物もない。
 そして、マイアスはと見れば、こちらは全くの無傷で、相変わらず感情の読めないまん丸な瞳でナルキを見返すだけである。
 だが、これで良いのだ。
 今、ナルキの手にあるのはこの都市そのものと言える電子精霊だ。
 怪我をしてしまったら、それこそ大事になる。

「と、それどころじゃないな。兎に角機関部へ行って、どうにかしてマイアスを元の場所に返さないと」

 問題はそこである。
 都市の心臓部である機関部に、よそ者を入れてくれる訳がない。
 汚染獣戦で混乱しているだろうが、それでも、警備が全く無いと言う事は考えられない。
 乱れ気味だった剄息も整ったことだし、最悪の場合強行突破かと思った、まさにその瞬間、後ろから人の気配が近付いていることに気が付いた。

「っち!」

 お面集団の生き残りかと思い、切っ先をそちらに向けたナルキだったが、そこで動きが止まる。
 斜めに降り注ぐ日差しが暖かいなとか、そんな現実逃避をしたくなるような人物を視界に納めてしまったからだ。
 もちろんサヴァリスではない。
 サヴァリスだったら、もっと接近されても気が付かなかっただろうし、気付かせるつもりだったらもっと遠くから分かったはずだ。
 そう。殺剄をしているはずだというのに、近付いただけで分かる程度の技量しか持たないのは、マイアスの武芸者であり都市警に所属しているロイだ。
 嫌な空気が辺りに充満するのを感じながら、それでも切っ先をロイから外すことはしない。
 マイアスの武芸者だから、敵ではないと思うのだが、残念ながら味方でもないのだ。

「僕は敵ではありませんよ?」
「だと思うが、味方である保証はないんでな」

 ナルキにとって、味方と呼べる存在はマイアスにはいない。
 いや。ある意味サヴァリスは味方かも知れないが、今ここにはいない。
 だから、出来るだけ慎重になるのだ。
 刀の切っ先を突きつけたまま、ゆっくりと後ずさる。
 一瞬の気の迷いや油断が、即座に死につながることを身体は理解している。
 レイフォンが身体に刻んでくれた。
 その身体を使って、マイアスを本来いるべき場所へと返さなければならない。

「そう警戒しないで下さい」

 無理な注文を付けつつも、両手を挙げているにもかかわらず、ある程度以上近付かないロイの冷静さを確認出来た。
 取り乱した人間は、時として恐ろしいほど愚かなことをするのだ。
 それが、今のロイにないことは非常に有難い。
 そのロイの行動を確認して尚、ナルキはゆっくりと遠ざかる。
 今、この瞬間にここに居ると言う事は、さっきまでの戦闘を物陰から見ていたと言う事。
 その行為一つで、警戒するのには十分だ。

「あの戦いに参加しなかった訳を知りたいのだったら簡単ですよ。僕ごときではあっと言う間に細切れになってしまうと思ったからですよ」
「だろうな」

 ナルキ自身、胸の中にいる何かの力がなければ、あのお面集団には勝てなかった。
 それを理解しているから、ロイの判断を批判するつもりはない。
 だが、それでも、やはり味方だと思うことに躊躇してしまう。
 異常な事態を連続で経験しているからかも知れないし、もしかしたら、都市警の人間と言うことで、無意識な警戒が働いているからかも知れない。
 だが、もし、ロイが味方でいてくれたならばとも思う。
 そうなってくれたならば、機関部への侵入が非常に楽になるからだ。
 だが、それを望んでしまっては隙を生む事になるのも事実だ。

「それで、ナルキさんでしたか? 貴方の目的は何ですか? 機関部へ行くとか言っていたようですけれど」
「ああ。機関部へ行かなければならない。何も聞かずに案内してくれないか?」

 無理な注文をする。
 もし、逆の立場だったら、間違いなく錬金鋼を抜いて周り中に警戒を呼びかけているだろう。
 だが、驚いた事に、ロイの行動は少し違った。

「何も聞かないという事は、流石に無理ですね。大雑把でも良いので、目的を言ってもらえませんか? もしかしたら、協力できるかも知れませんし」
「・・・・・・」

 これは少し困る提案だ。
 出来れば強力を取り付けたいところだが、それでも、ナルキの手にあるのは大勢の命を左右する存在なのだ。
 思考が堂々巡りを始めようとした、その瞬間。
 内力系活剄の変化 旋剄
 突如、ロイの姿が目の前に現れた。
 何かを考える暇はなかった。

「ぐわ!」

 都市警の正式装備であるらしい打棒を振りかぶっていたロイの、足の間を思いっきり蹴り上げていた。
 勢いのまま、何の容赦もなく、手加減などと言う物がこの世に存在している事さえ知らないとばかりに、渾身の力を込めて蹴り上げた。
 そして気が付いた時には、ロイは泡を吹いて昏倒しているという事実だけが目の前に存在していた。

「・・・・・・・・・・・・・。あ」

 咄嗟だったと、言えるかも知れない。
 反射的にと、言い訳をする事が出来るかも知れない。
 だが、事実としてナルキの目の前に存在しているのは、マイアスの都市警に所属する武芸者を、必殺の威力の蹴りで鎧袖一触にしてしまったという、動かしがたい現実なのだ。
 それは、マイアスへの敵対行為だと、そう言い換える事が出来る現象に他ならない。
 これはかなり困った事になった。
 ロイが目を覚まして、事実を正直に報告してくれたのならば、あるいは間違いであったと証明できるかも知れないが、唯一の証人は当分目覚めないだろう事は疑いない。
 ならば、ナルキに出来る事と言えばただ一つ。

「お前の犠牲は無駄にしない」

 懐をまさぐり、通行に使うだろうカードキーを拝借する。
 これで、機関部への侵入が楽になったと、心の何処かでそんな邪な考えが蠢いているが、それを意識的に無視する。
 全ては、危機的状況に陥ったマイアスを助けるための、尊い行為なのだと、自分に暗示をかける。
 ついでに身ぐるみはいて、もっと話を楽にしようかという悪魔のささやきもついでに無視する。
 そこまで落ちる事は、ナルキには出来なかったのだ。
 そして、必要最小限の収穫を得たナルキは、貴い犠牲に軽く敬礼をしてから、踵を返して機関部へと向かった。
 
 
 
 ナルキがしてしまった事を遠くから見ていたサヴァリスだったが、内心少々複雑な思いで一杯だった。
 ロイに同情してしまっている、男という生き物という共通点を持ったサヴァリス。
 不意を突いたにもかかわらず、ナルキに瞬殺されてしまった情けない武芸者を見ているサヴァリス。
 不意を突かれたにもかかわらず、一瞬の迷いもなく、容赦などせずに始末したナルキを賞賛しているサヴァリス。
 その他色々なサヴァリスを内包しつつ、情けなくも昏倒している武芸者から視線をそらせる。
 その先には、こちらも情けなくも、よたよたと飛んでくる汚染獣の姿があった。
 ロイが、どんな意図があってナルキに攻撃を仕掛けたのか少しだけ疑問ではあるが、それを今考えるつもりにはなれない。
 問題なのは、このもやもやした何かをどう処理するかだ。
 出来ればナルキと心ゆくまで殺し合いたいが、廃貴族が本気を出さないのではつまらないし、そもそも、ナルキ自身の気が散っていては楽しさも半減という物だ。

「消去法で君と戦う事にしたんだけれどねぇ」

 汚染獣を見る。
 エアフィルターの中で戦うとなれば、瞬殺間違い無しの弱敵である。
 もちろん、油断をすればサヴァリスと言えど危険ではあるが、天剣授受者が戦いに赴く時に、油断をするなどと言う事の方が考えられない。
 戦ってもつまらない事請け合いなのだ。
 だが、それでも、このまま何もしないで見ているだけと言うのも、サヴァリスの中の何かが許してくれないのだ。
 と言う事で、活剄を総動員して跳躍。
 砲撃を物ともせずに、エアフィルターの中に突っ込んできた雄性体の直上へと移動。
 ついでのように、マイアスからの砲撃を軽く回避する。
 外力系衝剄の変化 流滴。
 極限まで浸透力を高めた衝剄を、汚染獣の頭部へと放つ。
 表面で爆発することなく、その衝剄は細胞内の奥深くまで浸透して行き、脳のある付近でその猛威を振るう。
 即座に汚染獣の甲殻を蹴り、距離を取りつつ、やはりマイアスの砲撃を避ける。
 少し離れた建物にサヴァリスが着床したところで、力を失った汚染獣が外縁部へと落下する。
 こんな好機を逃すほど、マイアス武芸者は間抜けではなかったようで、渾身の総攻撃をかけて甲殻を破壊し、肉を引きちぎり内蔵をズタズタにした。

「やれやれ。僕の天使は今どこで何をしているのかな?」

 始末した汚染獣などへの興味は放り出し、ナルキの方へと視線を向ける。
 丁度、機関部への入口を発見したようで、ロイから奪ったカードを使って進入を図っているところだった。
 その動作は慎重であったが、それでも流れるように美しく、まるで泥棒をするために生を受けたような、そんな印象を受けるほどだった。
 思わずサヴァリスの鼓動が跳ね上がってしまった。

「ああ。ナルキ。早く君と心ゆくまで殺し合いたいよ。そうか。これが恋焦がれるという感情なんだね」

 頬を染めたサヴァリスは、建物の床を蹴り、ナルキが侵入した機関部を目指して飛んだ。
 その行動に迷いはない。
 
 
 
 リーリンを伴って屋上へやって来たシャーニッドは、来るべき時が来た事を実感してしまっていた。
 今ツェルニは暴走状態にあり、武芸科生徒を含めた全員が何時死ぬか分からない状況なのだ。
 だからこそ、思い残す事がないように誰も彼もが色々と活動的になっている。
 例えば、久しぶりに日の光を浴びに出てきたディンが、金髪を盾ロールにした女性に拉致されたりと言う事も起こりうるのだ。
 遙か下方、建物の一階にしつらえられた出入り口から、強引に連れ去られている旧友を見送りつつも、シャーニッドはやらなければならないのだ。

「諦めきれないか?」
「・・・・・・・。無理ですよ、そんな事」

 韜晦することなくリーリンが、溜息と共にその心情を吐き出した。
 レイフォンになみなみならない好意、いや。
 はっきりと恋愛感情を持っているリーリンのその溜息は、シャーニッドも付きたい類の物だった。
 二人で一緒に溜息をついてしまえれば、それはそれで安らぎを得られるのかも知れないが、どう考えても一時的な物で長続きはしない。
 シャーニッドの中にダルシェナに対する思いが、決定的に叶わない事が分かった今でも残っているように、リーリンの中にもあり続けているのだ。
 それを消す事は出来るかも知れないが、今ではない。
 もしかしたら、一生付き合わなければならないかも知れないその思いと共に、リーリンは今ここに居る。
 だからこそ、同じような思いを持ったシャーニッドがいれば、気を紛らわせる事ぐらいは出来るかも知れない。
 いや。それは傲慢なのかも知れない。
 もしかしたら、全く役に立たないどころか、再び歩き出すための邪魔になるかも知れない。
 女は強いのだ。

「これから、どうする?」
「これからですか?」
「ああ。この暴走が収まったら、さ」

 ツェルニを辞めてグレンダンに帰るか、それとも、二人の破局などを期待してこのまま残るか、あるいは、ヨルテムにまで着いて行って愛人の座を狙うか。
 まあ、後半二つはないと思うが、選択肢としては考えられる。

「そうですね。取り敢えずレイフォンを死なない程度に殴ってみても良いかもしれませんね」
「ああ。そいつはなかなかのアイデアだ」

 既に散々、殴ったり怖がらせたりしていると思うのだが、けじめを付けるためには必要な行為だろうとも思う。
 シャーニッドには被害は来ないだろうし、レイフォンも死なないのだったらそれはそれで問題無い。
 そしてやはり思う。
 リーリンに限った事ではないが、女は強いのだと。
 グレンダンに君臨する女王も、おそらくこれほどまでに強いのだろうと思うと、思わずレイフォンに同情してしまいたくなる。
 だが、それもこれもレイフォンという人間を通して見た場合でしかないことは、きちんと理解しているつもりだ。
 そこから離れてしまえば、シャーニッドはそれ程リーリンという少女のことを知っている訳ではない。

「ところでシャーニッド先輩?」
「あん?」

 ふと、リーリンの雰囲気が変わった。
 鋭くなったと言うよりは強固になった。
 何かを警戒するように、何かに備えるように、何かに立ち向かうように。

「私のこと軟派しようとしています?」
「・・・・。そう言う誤解をしたんだね。そんなつもりはない」

 そう言いつつ、既に活剄で強化しなければ捉えられない場所まで移動してしまった二人を見る。
 シャーニッドには、もう届かない場所へと行ってしまった二人へ。
 もしかしたら、届いたかも知れない人を思って。

「・・・・・・・・・・・」

 だが、何故かリーリンの雰囲気が更に強固になった。
 いや。むしろ拒絶しているかのように刺々しい物となったと言っても良いかもしれない。
 何かを避けるように、何かの接近を阻むように、絶対に関わらないように。
 この誤解の方向は、おおよそ分かろうという物だ。

「・・・。言っとくが」
「伺いましょう」
「タコじゃないからな」
「・・・・。縦ロールの人ですか」
「そうなんだ」

 似たような思いを持っているリーリンには、そのまま素直に言うことが出来た。
 もう少し甲斐性があれば、もしかしたらダルシェナにも言えたかも知れないことを、言葉にすることが出来た。
 レイフォンの事をヘタレだと散々言ってきたシャーニッドだが、自分もさほど変わらないのだと言う事はきちんと認識している。
 それを認識していて尚、変わることが出来なかった。
 だから、今のこの結果があるのだ。
 全てを受け入れて、そして、また何処かへと向かわなければならない。
 男という生き物は、この切り替えが非常に下手なのだとそう思う。
 女の方が強いのは、きっとこの切り替えの上手さなのだろうとも思う。
 溜息をついたその瞬間、空気が変わった。

「っく! 建物に入れリーリン!!」
「え?」

 今まで感じたことのない、危険な空気がシャーニッドを貫く。
 そして、空間が揺らめいた。
 エアフィルターの外側ではない。
 気流のコントロールが行き届いているはずの、内側の空間が渦を巻くように揺らめいて、そしてそれが現れた。
 何の予兆もなく、突如としてその巨大な質量は現れた。

「やべえ」

 リーリンを避難させることさえままならないほどに、唐突に現れたのは汚染獣と呼ぶことさえが間違いだと思えるほどに、圧倒的な力を秘めていることが分かる生き物だった。
 いや。生き物と呼ぶことさえ間違いかも知れない。
 あまりにも巨大なトカゲのような体幹。
 太く強靱な後ろ足と、それとは対照的に細く短い前足。
 長い頚が支える頭部は攻撃的に鋭角を描き、空を突き刺すように生えた一本の角がまるで王冠のように聳え立っている。
 そして、その巨大な質量を支える力強い翼をはためかせ、それはそこに君臨していた。
 全てが圧倒的だった。
 以前倒した、老成二期の汚染獣など、今目の前に現れた何かと比べたら、まるで子供の玩具のように思えるほどの、圧倒的な存在感を持って空中にとどまっている。
 レイフォンでさえ勝てないことは間違いないと思えるほどに、圧倒的な存在を前にして、しかしシャーニッドは考える。
 リーリンが目の前で死ぬことだけは避けなければならないと。
 だが、具体的な方策が浮かび上がるよりも早く、それは起こった。

「人よ。・・・。境界を破ろうとする愚かな人よ。何故ここに現れた」

 全身を覆う、コケの生えた鉄のような色をした鱗を振るわせて、それは言葉という音を迸らせた。
 それは、愚かな人間に対して恐怖のあまりに死を忘れさせるように、天から振り下ろされた鉄槌だった。

「お、汚染獣が喋っている?」

 あまりにも異常な事態のせいか、シャーニッドは返って冷静になれた。
 現実味がないのだ。
 今感じている恐怖でさえも、本物だとは思えない。

「足を止め、群れの長は我が前に来るが良い。さもなくば即座に我らの晩餐に供されると思うが良い」

 だが、もはやどれほど生きたか分からない汚染獣の声は、確かにそこに存在していた。
 それは深い知性と溢れる怒りを内包しつつも、威厳を持ってツェルニという箱庭に振り下ろされた。
 その振り下ろされた鉄槌に恐れをなしたかのように、金属のきしみを上げつつツェルニが止まる。
 その光景を眺めて頷いたように見えた汚染獣は、少し満足した様子で続ける。

「それでよい。使いは、既に向かわせた」

 その言葉を最後に、始めからそんな物など居なかったかのように汚染獣の姿がかき消えた。
 後に残されたのは、都市が移動する音が完全に無くなった、まさに死のような静寂だけだった。

「な、何だったんでしょうね、あれ?」
「お、俺に聞かれても困るぞ。レイフォンなら分からないかな?」
「む、無理じゃないかと思うんですが」

 あまりにも唐突な展開で、目の前で起こったことをどう処理して良いか分からない人間のことなど、きっと汚染獣はかまってくれないだろう。
 だが、目の前にいたあれと戦ったら、確実に負けることだけは理解している。
 それだけは、ツェルニの全生徒の共通見解だろう。
 
 
 
 外縁部に置かれた専用放浪バスの屋根に座り込んだハイアは、あまりにも唐突な展開に付いていけない自分を呆然と眺めていた。
 この展開に付いて行ける人間がいるとしたら、それはもう何か違う生き物であると断言できるくらいに、唐突で何の脈絡もない展開だった。
 ふと、自分の側を浮遊している念威端子を視界に納めた。
 フェルマウスの物ではない。

「フォルテアリ」
『何でしょうか団長?』

 最近になって、やっとの事で聞き馴れた返答を認識しつつ、何をどうやって質問すべきかを考える。
 適切な質問などと言う物があるのかどうかさえ怪しい今回の展開を前に、考えることを諦めた。

「あれって、何だったさぁ?」
『さあ。いきなりでろくに調べられませんでしたし、そもそも、念威が恐ろしく通らない奴でしたので、じっくり調べても分からないかも知れません』
「成る程さぁ」

 フェルマウスが抜けた穴を埋めるべくグレンダンからやって来た念威繰者は、個人的な能力からすればそれなりに優秀だった。
 ただ、傭兵団という特殊な組織を理解するのに時間がかかってしまったのだ。
 それが終了していることが、唯一この異常事態においては吉報だったかも知れない。
 ツェルニがあれと戦うと言うのだったら、全力で逃げる事を選択する。
 そのためには、どうしても念威繰者の補助が必要なのだ。
 まあ、フェルマウスとリュホウを総動員しても、逃げ切れるとはとうてい思えないほどに恐ろしい奴だったのは、直感として理解できているから、本当に気休め程度の吉報だろうが。

『ただ、はっきりしている事があります』
「それは何さぁ?」

 フォルテアリが、とても確信を持った声を念威端子に乗せてくる。
 付き合いの短いハイアでも分かるほどなのだから、これは相当に確実な事だろうと腹をくくった。

『あれは、女王が倒すべき汚染獣です』
「さぁ?」

 フォルテアリの言う事が一瞬分からなかった。
 武芸者でも天剣授受者でもなく、女王が倒すべき汚染獣だとそう言ったのだ。
 力で天剣授受者を統べる女王以外に、あれと戦う事が出来ないと、そう言い換えてもかまわないのだろう。
 それは、傭兵として、サイハーデンの継承者として生きてきたハイアにとっては、放っておけない認識であるように思えるのだが、それでもあれを実際に見てしまった後だと、納得してしまうのも事実なのだ。

「本当に、この世界はやってられないさぁ」

 色々な都市を回り、学園都市の周りには何故か有力な武芸者を揃えた都市が有ったりと、そんな不思議な経験を重ねてきたハイアはやけ気味の独り言を叫んでから、屋根に横になった。
 今はまだ、戦う時でも逃げる時でもないことが分かっていたから。
 
 
 
 突如起こった事態に、ニーナは何か行動を取ることが出来なかった。
 数日前に汚染獣との戦闘を終え、新たに発見された個体については、今は第二中隊と二個小隊が戦場へ向かっているはずだが、それが外の現実であるとするならば、今ツェルニで起こったのは一体何だったのだろうかとそう考えている。
 咄嗟だったので、一緒にいたレウを避難させることさえ出来なかった。
 いや。そもそもそんな余裕はなかった。
 言いたいことだけを言って、さっさといなくなってしまった何かに対応することなど誰にも出来なかっただろう。
 だからこそ、今のツェルニは驚愕に支配されつつも何とか存在を続けていられるのだろうという直感もあるのだ。
 だが、問題となるのはこれからのことだ。
 何かは、群れの長をよこせと言っていた。
 このツェルニでその地位にいるのは、当然のこと生徒会長であるカリアンである。
 危険極まりない場所へと向かうカリアンが、最低限の護衛を付けるとするならば、それは間違いなくレイフォンである。
 レイフォンが勝てるとは思えないが、それでも最大限の努力をするとなれば、間違いなく連れて行くことになるだろう。
 ヴァンゼやオスカー、ゴルネオにはツェルニを守るという責務がある以上、選択する訳には行かない。
 それはニーナについても言えることだ。
 フェリとレイフォンを欠いているとは言え、第十七小隊は遊撃戦力として期待されていて、そして結果を出せたのだ。
 汚染獣対策戦力として、唯一単独行動をしているレイフォン以外にいない。

「ニーナ?」
「・・・・・・。私は、無力だな」

 レウの声が聞こえたので、思わず言ってしまった。
 そして思い直す。
 無力なのではない。
 二人が帰ってくるべき場所を守ることを期待されているのだ。
 それは、決して無力などではない。
 何度も経験してきた。
 老性体戦の際には、手痛い失敗をした。
 その後も、理性では理解しているつもりだったが、身体がどうしても前へと出たがってしまった。
 ツェルニの暴走が始まってから、リュホウに散々打ちのめされた。
 そしてやっとの事で、指揮官がやるべき事を身体が理解できたのだ。
 また、前の自分に戻ることは許されない。
 今度こそ、役目を果たさなければならない。
 潔い生き方を尊いと思うが、今のニーナがそれを目指したところで、自己満足にしかならない。
 守るべきなのはツェルニと、そこに住む六万人の人達なのだ。
 ニーナの個人的な願いや誇りではない。

「ああ。そう言うことだったのか」

 思い至った。
 レイフォンが、孤児院のために戦い、どんな卑怯なことをしてでも生き延びてきた、その根底にあった思いを。
 カリアンやヴァンゼ、オスカーが必死に足掻き続けてきた理由を。
 やっとの事で理解することが出来た。
 守るべきは、ニーナの矜持ではないのだと。
 いや。ツェルニとそこに住む人達を守ることが出来るならば、それこそがニーナが誇るべき実績なのだと。

「なんだ。そうだったのか」
「ニーナ?」

 突如として独り言を呟き、そして笑い出しそうなニーナを心配してレウが声をかけてくれたが、それがとても嬉しい。
 誇り高い武芸者と人は言う。
 レイフォンに誇りを持って欲しいと、ニーナ自身も思っていたし、本人に対してではないが何度か発言している。
 だが、その誇りについてニーナはきちんと考えたことがあっただろうか?
 おそらく無かった。
 そして、考えた訳でもないのに、突如として答えが降ってきたのだ。
 誇りとは、自らの行いによってもたらされた結果に対して持つ物だと。
 何をしたいかでも、どの様にやったかでもなく、何をやったかについて持つべき物が誇りなのだと。
 ならば、レイフォンはやはり誇りを持つことが出来ないのかも知れないとも思う。
 孤児院のために働いたが、それは途中で放り出さざるおえなかった。
 ガハルドに脅されたことを発端とした事件で、グレンダンを追放されてしまった以上、もはや家族のために出来ることが無くなってしまったのだから。

「いや。それは違う」

 自分の結論に対して、反抗を試みる。
 確かに途中で投げ出すことになってしまったが、全く無駄だったという訳ではない。
 貧しかった孤児院に、多少なりとは言え蓄えが出来ただろうし、もしかしたら、都市中の人達に孤児院の問題を思い出させることが出来たかも知れない。
 無駄ではなかったのだ。
 贔屓の引き倒しかも知れないが、ツェルニに着いてからのことは確実に誇ることが出来るはずだ。
 幼生体に襲われた時も、老性体に近付いてしまった時も、そして暴走している今でも、レイフォンがいなかったらツェルニは滅んでいた。
 そして何よりも、ツェルニ武芸者にとって目標となることで、実力の底上げを図ってくれているのだ。
 この実績を誇っていけないというのならば、この世界に誇り高い武芸者など一人もいないだろう。

「そうか。お前は誇りを持っていないのじゃなく、知らないだけなんだな」

 誇りなどと言う物がこの世に存在していることは知っていても、それがどんな物か知らないから自分の手の中にあっても気が付かない。
 ならば、ニーナがやるべき事は、それをレイフォンに教えることだ。
 そのためには、ニーナ自身が誇りを持たなければならない。
 カリアンとレイフォンが帰るべきこの都市を、きちんと守って出迎えなければならないのだ。
 そこまで考えたニーナは、とても身体が軽くなっていることに気が付いた。
 これならば、きちんと役目を果たすことが出来る。
 そう確信できる身体の軽さだった。
 
 
 
 ツェルニ全土を襲った異常事態はしかし、既に過去の物となった。
 テイルにどうこうできる話ではなかったことだし、この騒動で怪我をした人間が運び込まれたという連絡も無い以上、このまま全てを他の誰かに投げてしまっても良いのかもしれない。
 その誰かというのは、取り敢えずカリアンとレイフォンだろうと思うが、まあ、そちらはそちらで何とかしてもらうしかないと割り切る。
 今は、テイルの中にある情報記憶素子をどうにかすることの方が重要だ。

「なんだこれ?」

 渡してきた細目の変人に問い質す。
 いきなり呼び出されて、座った瞬間に手渡されてしまって、戸惑っているのだ。
 何の変哲もない情報記憶素子だが、外見などどうでも良いのがこの手のブツの恐ろしいところだ。

「一般人が武芸者を産んだ際に、体調を崩した時の症状とそれに対応した治療記録です。千三百件」

 そう言われて、改めて手の中の記憶素子を確認する。
 今、手の中にある物はツェルニでは殆ど手に入らない情報だ。
 そもそも、学園都市で出産することは極めて希だ。
 そして、一般人が武芸者を産んで身体を壊すことも、かなり希だ。
 つまり、ツェルニ限定ではあるのだが、これ一つでかなりの財産になるのだ。
 いや。医療情報というのは、どの都市に行ってもかなりの価値を持つから、全く無駄になると言う事はない。

「レノスを出る時に散々悩んで持ってきたんですが、結果だけを言えば幸運でしたね」
「・・・。ヴォルフシュテインにとってはな」

 メイシェンとレイフォンが深い関係になったらしいと言う事は、風の噂に聞いた。
 この手の噂は、何時の間にかどこからか流れてくる物だ。
 二人の関係をとやかく言うつもりはない。
 これが一般都市だったならば、それ程問題はなかった。
 だが、学園都市である以上、万が一のことを常に心配しなければならない。
 ここには、経験を積んだ産婦人科医はいないのだ。
 だが、今、テイルの手の中にある情報記憶素子は、二人に降りかかる危険性をかなり減らしてくれるはずだ。
 それは、メイシェンにとってもそうだが、残されるかも知れないレイフォンの方が遙かに大きいだろう。

「大切に使わせてもらう」

 例え、グレンダンで問題を起こしたとしても、最終的にはテイル達一般人をレイフォンが守ってくれていたのだ。
 恩返しという訳ではないが、それでも何か出来るという事実は大きい。
 ツェルニの今の事態を考えれば、それは更に大きい事実だ。

「まあ、学生出産というのは流石にないと思いますが」

 ウォリアスはそう言うが、若い二人がどうなるかなんて物は、誰にも分からないのだ。
 既にお腹に新しい命が宿っていたとしても、何ら不思議はない。
 期待している人達もいると聞くし、世の中色々と大変なのだ。

「それはそうと」
「はい?」
「お前さんは、あれ放っておいて良いのか?」

 先ほど現れた、喋る汚染獣の話題を持ち出す。
 割り切れるとは思うのだが、気にならないと言ったら嘘になる。
 だと言うのに、目の前の武芸者は全く気にした様子がないのだ。

「僕が何をやったって何の役にも立ちませんって。だったら、出来ることをやった方がまだ建設的ですよ。それに、交渉はそれほど困難ではないと思っています」
「なんでそうおもうんだ?」
「相手はおそらく人類を長い間観察し続けてきているはずですし」
「何で、そう思うんだ?」

 あれについてウォリアスが知っているという訳ではなさそうだが、それでも、何の予測も立てていないという訳でもなさそうだ。
 煙草を取り出しつつ、時間潰し程度の興味で訪ねてみる。

「境界を破る愚かな人とか言っていましたよね?」
「・・。ああ」

 あの声は、ツェルニの地表部分にいれば誰でも聞くことが出来ただろうし、浅いところならば地下にいてもそうだっただろう。
 生徒会本塔の地下で仕事をしていたウォリアスが、知っていても何ら不思議ではない。

「つまり、人がここに入ってこないように何時も見張っていたと言う事でしょう?」
「ああ。成る程な」

 観察と言うよりは、むしろ監視対象として人類を見ていたと言う事だと理解する。
 理性と知性があるならば、監視対象についての知識を集めようとするのは当然のことだ。
 最終的に、あの汚染獣は人類についてかなり詳しいと言う事となる。
 そして、境界線に近付かなければそれで良いという考えである事も、おおよそ予測できる以上、交渉はそれほど困難ではないはずだ。
 ツェルニの進行方向に干渉できないので、絶対ではないが。
 だが、問題として考えなければならないのは、いざ戦うとなった時の事だと思考を進めて、ついでのように呟く。

「厄介だな」
「まったく。ツェルニの全力じゃ、おそらく倒せない」

 レイフォンが強いことは間違いないが、あれに勝てるとは思えない。
 いや。天剣授受者の総掛かりだろうと、おそらくあれには勝てない。
 ならば、あれを倒せるのはグレンダン女王と言う事となる。
 そして残念なことなのだが、ツェルニにはグレンダン女王はいないのだ。
 もし、カリアンが汚染獣との接触をしくじれば、間違いなくその日の内に汚染獣のお腹の中で消化されてしまっているだろう。
 交渉が成功したとしても、ツェルニが行ってはいけない方向に進んでしまってたら、やはり汚染獣の晩餐となってしまう。
 目の前の変人やテイル自身を含めた、ツェルニの全生徒が、絶望すればいいのか、希望を持ち続ければいいのか、さっぱり分からない時間が暫く続くだろう事だけははっきりと分かった。
 
 
 
  後書きに代えて。
 今回もニーナが少し変わりました。誇りについての見解は、俺の体験や考えが大きく反映されているので、あまり信じない方が宜しいでしょう。
 さて、何度かニーナの事をあまり好きではないと書いてきましたが、全く評価していないというわけでもありませんでした。
 ただ、改造するにしてもこの辺まで話を持ってこないと機会がなかったために、散々苦汁を舐めて貰ったわけです。
 この先は、指揮官としてもう少し自然というかましな事をしてくれると思いますので、ファンの方は期待しつつお待ち下さい。
 出番が少ないのはどうしようもないかも知れませんが。
 
 ついでではありますが、終わってしまったロイの人生に弔意を表したいと思います。南無阿弥陀仏。



[14064] 第八話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:08


 ロイの持っていたカードを使うことで、比較的容易に機関部への侵入を果たしたナルキは、マイアスの道案内を得て目的地へと向かっていた。
 道案内と言っても、マイアスの見ている方向へと進んでいるだけなので、あまり効率は良くなかったが、それでもパイプが入り組んだ機関部を手探りで歩くことに比べれば、遙かに容易な道のりだったと言えるだろう。
 これがもしツェルニの機関部で、歩いているのがレイフォンだったならば、殆ど単独で中心部へと到達できただろうが、残念ながら、それを望むことは出来ないのだ。
 だがしかし、大雑把とは言え道案内があるのと無いのでは、雲泥の差がある。
 複雑にパイプが入り組み、方向感覚が全く無くなってしまった現状に不安を抱きつつも、それが見えてきた。
 なにやら正体不明のプレートで囲まれた、機械の塊に見える物。
 それが、この都市の、本当の意味での中心部であることは間違いない。
 ナルキの中の何かも、それが中心部であると断定しているし、何よりも。

「待ち伏せのつもりか?」

 そう声をかける。
 独り言ではない。
 確かにいる存在へと、その言葉を放った。
 そして、気配が動く。

「よくぞ見破ったと言っておこうか」

 物陰から現れたのは、先ほど全滅させたはずのお面を被った武芸者だった。
 いや。倒した連中よりも、存在感があるような気がする。
 もしかしたら、ナルキが倒したのは、レイフォンの千斬閃に似た、実体を持った幻覚だったのかも知れない。
 そう考えれば、致命的な打撃を与えた瞬間に、消えて無くなった理由も納得が行く。

「未熟なる者よ。その力ここで失うには少々惜しい。我らのために使わぬか?」
「断る!」

 ナルキの中の何かが叫ぶ。
 それは、目の前に現れたお面武芸者を、例えマイアスが滅ぶことになろうとも倒せと絶叫している。
 だが、その絶叫がなかったとしても、ナルキは断った。
 今、ナルキがマイアスを手放すと言う事は、都市に住む大勢の人間が死を迎えると言う事だ。
 それを認めることは出来ない。
 都市か人かと問われたのならば、人を取ると応えるナルキだが、今は都市を守ることが人を守ることにつながるのだ。
 ここで引く訳には行かない。

「よく考えるのだ。鍛錬の苦痛、汚染獣の恐怖から逃れたいとは思わぬか? 多くの武芸者が我らと共にイグナシスの夢想を共有すれば、オーロラフィールドは開かれ安寧の世界を切り開くことも出来るのだぞ?」

 鍛錬の苦痛と言われて、一瞬だけクラッと来た。
 レイフォンのしごきから逃げられるのだったら、それも良いかもしれないと、ほんの一瞬考えてしまったが、すぐにその思考を切り捨てる。
 ナルキだけが逃げてしまっては駄目なのだ。
 全ての人達が逃げられなければ、それはきっと駄目なのだ。
 その決意と共に、鋼鉄錬金鋼を握り治す。
 行動で敵対を表現する。

「ふふ。未熟な上に理も弁えぬとわな。良かろう。貴様に宿った力我らが頂く」

 そう言うと、武器破壊を主眼に置いているらしい錬金鋼をナルキへと向ける。
 はっきり言って、ツェルニに居た頃のナルキだったら一対一でもかなり危なかった。
 一対多数となれば、瞬殺されても何ら不思議はなかった。
 だが、今はナルキの中にいる何かが力を貸してくれる。
 いや。むしろ闘争へと迸ろうとしている。
 それを何とか押さえつつ、慎重に間合いを計る。
 ここは機関部。
 マイアスの中心部であり、損傷してしまったが最後、今の人類に修復する統べはないのだ。
 今のナルキならば、楽勝できる相手であったとしても、周りに被害を出さないようにとなると話は飛躍的に難しくなる。
 マイアスを守らなければならない。
 そして、そのためには、どうしても目の前のお面武芸者を始末しなければならない。
 レイフォンだったのならば、鼻歌交じりにやってのけただろう。
 どんな強力な技を放とうと、機関部には傷一つ着けることなく、戦ったという認識を得ることがないほどあっさりと勝利を収めてしまっただろう。
 だが、ナルキは違う。
 この閉鎖空間内では、水鏡渡りを含めた高速移動は使えない。
 化錬剄などもってのほか。
 剄量は上がっているようだが、それを上手く使いこなす技量が決定的に足らない。
 その状況の中で、最善を尽くし、そして結果を得なければならない。
 おそらく目の前のお面武芸者は、そこまで考えてここで待ち伏せをしていたのだろう。
 それを認識していて尚、ナルキの選択は変わらない。
 じりじりと、爪先で距離を詰めつつ、最善の手は何だろうかと考える。
 斬撃系の技は、キリクに言われるまでもなく大したことはない。
 打棒の時の癖が抜けきらずに、刀を叩きつけてしまうために、本来の切れ味を発揮できないのだ。
 だが、一つだけ使えそうな技があることに気が付いていた。
 ぶっつけ本番という訳ではない。
 レイフォン相手に、散々練習してきた技ではあるが、相手が悪かったのか、それともナルキの限界だったのか、一度としてヒットしたことがなかった。
 だが、今はそれにかけるしかない。
 じりじり爪先で詰めていた距離が、ナルキの間合いの僅か外側へと縮まる。
 次の一瞬に全てが決する。
 練り上げた剄を、一気に爆発させ、脚力を強化して一歩を踏み出す。
 加速のためではない。
 上方への移動でもない。
 振り上げた刀の威力を増すために、剄を込めた足で大きく踏み込む。
 機関部を振動させた踏み込みからの一撃は、しかし、劇的な効果を得ることは出来なかった。

「ぬるい!!」

 何の捻りもない一撃だったために、お面武芸者は余裕を持ってナルキの攻撃を受け止めることが出来た。
 元々、刀というのはその切れ味を増すために薄く作られている。
 武器破壊を主体とした錬金鋼相手には、最悪の組み合わせだと言える。
 当然の結果として、接触した鋼鉄錬金鋼から悲鳴のような金属音が聞こえてきたが、それにかまっている余裕はナルキにはない。
 用意していた技を発動させるために、最大限の集中力を動員する。
 サイハーデン刀争術 鎌首。
 爆発させた剄を一気に鋼鉄錬金鋼へと流し込む。
 そして、ものおち部分から閃断を放つ。

「な、なに!!」

 サイハーデン刀争術とは、弱者が強者と戦い生き残るために編み出された流派だ。
 そこには当然、不意打ちや騙し討ちのような技が含まれている。
 その典型例が、今ナルキが使った鎌首だ。
 普通に受けてしまったのでは、刀が止まった状態からの第二撃目が致命的な攻撃となって襲いかかってくる。
 そして、目の前のお面武芸者は、ナルキが放った鎌首をどうにか出来る技量を持ち合わせていなかったようだ。
 実戦で使ったことが無かったので非常に心配だったが、どうやら上手く使えたようだ。
 だが、頭部に致命傷を撃ち込むことが出来たが、ほっとするよりも早く、驚くべき事はここからだった。

「あ、あれ?」

 頭部に致命傷を受けたのならば、間違いなく死ぬはずだ。
 だが、今まで存在感を放っていたお面武芸者は、他の分身と同じように始めからそこにいなかったかのように消えて無くなってしまったのだ。
 結果を認識して、一瞬とは言え硬直してしまったナルキは、自分を叱咤して他の伏兵がいないかを警戒しつつ、マイアスが本来いるべき場所へと近付いて行く。
 破壊されかけた刀は、罅が入り、これ以上の酷使には耐えられそうにないが、鋼糸だけで戦うことは出来ないので、何とかしのぐしかないと腹を決めたのだったが。

「サヴァリスさん」
「うん? どうしたんだいナルキ? もしかして次は僕を殺してみたくなったのかい?」

 ふと気が付くと、息がかかるほどの近距離にサヴァリスがいたりして、一瞬冷や汗が流れてしまった。
 そもそも、気が付いたのも単なる偶然でしかない。
 構えた刀に、ちらっとだけ銀髪が映ったから見つけられただけで、そうでなければ確実に気が付かなかっただろうと断言できる。
 いや。ちらっと見えたのでさえサヴァリスが狙ってやったのに違いない。

「今のは、おそらくイグナシスの下っ端戦闘員だね。雑魚には違いないけれど、殺しきれないところが少し面倒かな? それよりもさっき使った技はサイハーデンだよね? 僕にも使ってみてくれないかな?」
「使いませんから。それと、見ているだけじゃなくて手助けしてくれても良いでしょうに」

 サヴァリスが助太刀してくれていたら、ナルキはあんなハラハラする展開を経験しなくて済んだのにと、そんな不満があるのだ。
 不満はあるのだが、サヴァリスがどうして助太刀しなかったのかも、おおよそ理解しているつもりだ。
 きっと、ナルキの実力を見極めるとか、殺し合いの経験を積ませるとか、そんな戦闘狂的な理由に違いない。

「ナルキが戦っているところを、特等席から観戦できる機会なんて、そうそう無いからね。ゆっくりと堪能させてもらったよ」
「そ、そうですか」

 てっきり、ナルキが誰かと殺し合う経験をするのを邪魔したくなかったとか、そんな話だと思っていたのだが、かなり違う内容となっていた。
 心なしか、サヴァリスの吐息が熱いような気がするが、きっと気のせいだと結論付けて、正体不明のプレート群へと進む。
 あそこにマイアスを返しさえすれば、それでこの都市は再び動き出すことが出来るのだと信じて。
 ナルキと戦いたいがために、サヴァリスが邪魔するなどと言う絶望的な事態にならないことを祈りつつ。
 プレートの山の前まで来たナルキは、サヴァリスに注意を払いつつも、そっとマイアスをそのプレートへと向かって差し出す。
 マイアスは、それを認識したのか、ゆっくりと羽ばたき、ナルキの手を蹴って本来いるべき場所へと帰っていった。

「はあ」

 これで一息付ける。
 そして、もしかしたら、ツェルニに帰れるかも知れない。
 そう思ったのだが、心残りもあるのだ。

「そう言えば、汚染獣はどうなりましたか? 騒ぎが大きくなっていないから殲滅できたんだと思いますけれど」
「うん? 僕が手を貸してあげたからね。ナルキが機関部に入る前にケリは付いていたよ」
「そ、そうですか」

 そう言えばと思い返せば、機関部に入り込んだ辺りから、胸の中の何かが少し大人しくなったような気はしていた。
 それが汚染獣の殲滅と関係があったのだと気が付いたが、実は事態はそれどころではないのだ。
 気が付けば、自分の身体が薄くなり出しているのだ。
 それと同時に、今まで沈黙を保っていたマイアスの機関部が、轟音を立てて稼働し始めたのだ。
 マイアスは無事に元の場所に戻り、そして、都市の移動が再開されたのだ。
 心なしか、遠くから歓声が聞こえるような気はするが、ナルキの中の安心感は別な理由からの物だ。
 これで帰ることが出来る。
 そのナルキに向かって、サヴァリスの熱い視線が突き刺さる。

「ああ。行ってしまうのだね、僕を捨てて」
「その言い方は止めて下さい!!」
「レイフォンに頼んでおいてくれないかな?」
「何をですか!!」
「ナルキをもっと強くしてくれと。僕と全力の殺し合いが出来るくらいに」
「無理です!!」

 天剣授受者などと言う非常識な生き物と、同じ土俵に立つことなどナルキには出来ない相談だ。
 剄量も技量も、ナルキでは全然足らないのだから。

「ならば仕方が無いね。・・・。そうだ。じゃあ、ツェルニに行ったらレイフォンと殺し合ってこの僕の失恋の心を癒やすことにするよ」
「誰が失恋したんですか!!」

 そう叫んだ次の瞬間、ナルキの意識はふと途切れたのだった。
 
 
 
 何時もそこにある物がないと、人というのは非常に落ち着かない精神状態となるのだと、ミィフィは改めて認識していた。
 メイシェンとレイフォンが一緒のベッドで寝ているから、住み慣れた自分の部屋へ帰れないことは気にならない。
 ルックンの取材や編集作業で泊まり込むことが多かったし、そもそも、ツェルニ全体が異常な興奮状態の中にいるために、何処にいても緊張を解くなどと言う事は出来ないという事実は、確かに有る。
 だが、現在体験しているような異常事態は、やはり今までの興奮状態とさえ明らかに違った緊張感をもたらせている。
 そう。ツェルニの足が完全に止まっているのだ。
 鉱山での補給作業という訳ではない。
 見た事もない汚染獣に命じられたツェルニが、自主的にその足を止めてしまったのだ。
 見えない糸が張られたような緊張感を持ったまま、ツェルニに住む人達は息を潜めて現状が好転するのを待ちわびている。
 ツェルニの代表者として出発したカリアンと、その護衛として連れ出されたレイフォンが無事に帰ってきて、ツェルニに張り詰めている緊張の糸を緩めてくれるのを待っているのだ。
 そう。汚染獣に呼び出されたカリアンがレイフォンを連れて出発したのは、既に半日ほど前になる。
 戦うつもりはないらしいと、出発間際のレイフォンは言っていたが、その予測が正しいかどうかは誰にも分からないのだ。
 もしかしたら、呼び出した汚染獣とは全く関係のない個体がやってきて、ツェルニの全生徒を捕食してしまうかも知れない。
 接触を終えて帰ってきた二人を出迎えるのは、無残に食い散らかされたミィフィ達と言う事も十分に考えられるのだ。

「そ、それは、少々嫌かも知れない」

 実際にはかなり嫌である。
 まだ十五年しか生きていないのだし、やりたいことだって沢山あるのに、ここで死ぬなどと言うのは断固拒否すべき未来である。
 だが、ミィフィ自身に戦う術がないことも事実である。
 原黒陰険眼鏡の生徒会長に、どうにか頑張ってもらうしかないのが辛いところだ。
 レイフォン共々無事にツェルニに帰って来て、そして、この異常事態から脱出したいところだ。
 だが、兎に角もミィフィにはやるべき事がある。
 今回も危険な場所へと出発してしまったレイフォンを心配している、幼馴染みを何とかしなければならないのだ。
 汚染獣に向かってツェルニが突っ込んでいた間に、二人が一線を越えたらしいことは間違いない。
 それはおおよそ見ていれば分かるという物だし、そうなるようにミィフィも色々と協力した。
 リーリンも協力してくれた。
 きっと、色々な感情が複雑に入り乱れて、本人にも制御できなくなりつつあるのだとは思うのだが、それでも、今回は協力してくれた。
 だが、それも一時的なことに過ぎない。
 今回の接触で、レイフォンが帰らなかった場合、メイシェンがどうなるかなどは考えたくないが、それでも、万が一の事態に備えなければならないのだ。
 そのために、ミィフィは暫くぶりになる我が家へと足を進める。
 近付くにつれて、段々足が重くなってしまったが、それでも、何とか前へと進む。
 
 
 
 都市外戦闘に備えるために、ツェルニの最下層へとやって来たゴルネオは、肩に掛かる重さを再認識して平静を保とうと努力し続けていた。
 まだ、丸一日しかたっていないために、鮮明な記憶として残っているあの事件、突如としてツェルニの上空へと現れた汚染獣は、とてもでは無いがゴルネオの手におえるような相手ではなかった。
 あんな異常な汚染獣がいるということ自体が驚きだが、それでも迎撃の準備だけはしておかなければならない。
 喋る汚染獣との交渉が成功しても、他の汚染獣がやってこないという保証はないのだし、抵抗せずにむざむざと食われるというのも納得の行かない展開である。
 出来れば、きちんと抵抗して、そして全員が生きて、このおかしな事態から脱出したいと思っているが、それが果たせるかどうかは非常に疑問である。
 それ以前の問題として、ツェルニは内部に爆弾を抱えているような物だ。
 多くの生徒が不安を抱え、事態がどう転ぶかを息を潜めて見詰め続けているのだ。
 昨日一日は、誰も彼もが次に何が起こるか分からずに、緊張の糸を張り詰め続けるだけで何も起こらなかった。
 だが、もし、どこかで、誰かが、何かをしてしまったら、それを切っ掛けに暴動が発生してもおかしくない。
 あんな汚染獣が突如現れた瞬間に、制御不能の暴動が起こって内部から崩壊しなかったことの方が、遙かに不思議だ。
 もちろん、そんな事にならないように、都市警や小隊員があちこちで働いているのだが、何時までも現状を維持し続けると言う事はおそらく出来ない。
 押さえてるはずの都市警や武芸者だって、何時かは限界が来るのだ。
 耳が痛いほどの静寂と、胃を引きちぎられるような緊張に支配されたツェルニは、内外の敵から責め立てられて何とか存続しているような物なのだ。
 そして、ゴルネオ達が対応できるのは、外からの脅威だけ。
 それも、あまり強力な個体が来た場合や、幼生体の集団が来たら、撃退などままならないという寒い現実が存在している。

「ゴル?」
「何だ、シャンテ?」

 そんなゴルネオの心境を知ってか知らずか、いや。おそらく知っていて声をかけてきたシャンテを見上げる。
 何時も通りに脳天気な表情をしているのかと思えば、なにやら心配気にゴルネオを見下ろしている。
 そんな深刻な顔をしていたのかと、自分に問いかけてみれば、していたと答えることが出来てしまう。
 指揮官としては失格だと自嘲の笑いを押し殺しつつ、話の先を促す。

「ゴルは大丈夫だ」
「そうか?」
「おう。何しろ! 私のお守りを持っているんだからな!!」
「っぶ!!」

 思わずのけぞってしまった。
 器用にバランスを取って、転落を免れるシャンテ。
 老性体戦直後に、シャンテから渡されたお守りは、確かに今もゴルネオの都市外戦装備の内側に仕舞い込まれている。
 結局のところ、その正体が何だったのかは怖くて確認していないが、なにやらとても危険極まりない物であることだけは確信できている。
 確信できているのだが、それでも、お守りという物はきちんと持ち歩くべきだとそう思っているのだ。
 だからこそ、今の瞬間でさえ持ち歩いているのだが、まさか、話題として出てくるとは全く思っていなかった。

「シャンテ?」
「おう? 私のお守りを持っていれば、ゴルは無敵不敗最強だぞ!!」

 どちらかと言うと、シャンテの方が無敵不敗最強のような気がするのだが、今は黙って感謝しておくこととした。
 深刻な感情も、過度の緊張も、先行きの不安も、この瞬間だけはあまり感じずに済んでいるから。

「そうだな。どんな敵が来ても俺は負けない」
「おう! ゴルは強いんだぞ!!」

 ゴルネオは、自分の肩の上で拳を突き上げて気炎を上げる赤毛な生き物をちらりと見上げ、改めて決意を固めた。
 どんな敵が来ようと、全力で戦い、そして勝利を手にすると。
 そう決意すると、ずいぶんと身体と心が軽くなったような気がした。
 単純な物だと思う反面、これでよいのだとそうも思う。
 
 
 
 さてと、戦略・戦術研究室に籠もったままだったウォリアスは、座り続けていたために痛みが酷い身体を押して、扉を開けて外へと向かった。
 カリアンとレイフォンが出発してから、ほぼ二日の時間が流れた。
 その間、特にこれと言った変化は起こっていない。
 町全体に、目に見えない緊張の糸が張り巡らされ、誰かがその糸を切ってしまうのではないかという恐怖はあるが、実行に移した人間はまだ現れていない。
 これはおそらく、立て続けに異常事態が起こったために、場数を踏んだ生徒全員がある意味馴れてしまっているためだろうと思う。
 暴走初期にあんなのが現れたら、即座に暴動が広がり、収集の出来ない混乱の中、ツェルニは滅んでいたに違いない。
 そのツェルニの暴走からこちら、異常な事態というのには十分な耐性が出来ているとは言え、ここまでの規模は流石に限界を超えかけている。
 何しろ、瞬間移動できる上に、人の言葉を操ることが出来る汚染獣がいたのだ。
 想像を絶する体験をした今回、ツェルニの他の生徒にとってはとてつもないストレスだろうが、ウォリアスにとっては悪くはない刺激に分類されている。
 未知の体験が出来ているからだ。
 残念なことは、体験したことを他の都市へと伝えられないかも知れないと言うところだろうか。
 出来れば、喋ることが出来る汚染獣が存在していると言う事を、レノスに伝えたいのだが、その方法が残念ながら存在していない。
 一応、サリンヴァンの放浪バスに今回の事態についての詳しい報告書を乗せてもらっているが、無事にこの区域を脱出できる保証はない。
 それはサリンバンも分かっているようで、何時もよりも真剣な表情で情報記憶素子を受け取ったハイアは、料金はレノスに着いてからもらうと言っていた。

「さてさて。一体何が起こっているのやら」

 この世界がおかしいことは、ずいぶん前から分かっていた。
 そう。伝承が正しいのならば、辻褄が合わないことがいくつもあるのだ。
 今ある情報を繋ぎ合わせて、この世界の成り立ちを解き明かすことが出来るかも知れないとは思わない。
 失われてしまった情報があまりにも多いから。
 だが、それでも、知りたいという欲求を抑えることは出来ないし、情報を集めたいという気持ちを抑えることも出来ない。
 それでも、今の状況が既にウォリアスがどうこうできる物でないことは分かりきっている。
 ダルシェナに引きずられていったディンは、喋る汚染獣が消えた直後に戻ってきた。
 そして、二人してあの汚染獣と戦い、なんとかして生き残る事が出来ないかと話し合った。
 結果は最初から出ていた。
 レイフォンが勝てないと断言した瞬間に、ツェルニに残された手段など無いのだ。
 だが、一つ分かったことがある。
 何故、グレンダンは天剣授受者などと言う人外の化け物を集めているのか?
 その理由が分かったのだ。
 あれ、あるいは類似した、現実離れした汚染獣と戦い、そして勝つために異常な強さを持った武芸者を集めているのだ。
 そうであるならば、汚染獣に向かって突撃を続けるグレンダンの行動も説明が付く。
 本来、都市の行動に人間が関わることは出来ないが、それを可能にする方法がグレンダンには有るのだろうと、そう仮定すればと言う前提条件は付くが。

「いや。逆かも知れない」

 都市が強い武芸者を求めたからこそ、今のグレンダンは存在するのだと、そう言い換えることも出来る。
 グレンダンに引き寄せられるように、天剣授受者が集まってきた。
 だとするのならば、武芸者を含めた人類は、現実離れした汚染獣と戦うために都市によって生かされていると言う事も出来るかも知れない。
 まだ結論はおろか、仮説さえ立てられない状況だが、それこそが望ましい。

「うん。これはこれで知的好奇心をそそられるね」

 新たな検討課題を見いだしたウォリアスは、強い日の光を避けるように日陰を選んで歩きつつ、外縁部を目指す。
 戦うつもりはない。
 いや。幼生体の一体くらいだったら何とか差し違えることは出来るが、それ以上はもうお手上げだ。
 ツェルニの終演を告げる、破壊者達が最も良く見えるのが外縁部だ。
 だからこそ、外縁部で自分とツェルニの終わりを待とうというのだ。
 無駄に終わるかも知れないが、それはそれで結構な話だ。
 だが、無駄な思考で遊びつつやっとの思いで辿り着いた外縁部には、先客がいた。
 外縁部にシートを引き、その上に小さなコンロと薬缶を含めた、お茶のセットを揃えている少女達の集団である。
 いや。集団というのは少々語弊がある。
 そこにいるのは僅かに四人でしかない。
 銀髪を念威の光で耀かせた小柄な少女が、嫌そうにこちらに視線を飛ばしてきた。
 いや。もはやガンを飛ばしていると言える勢いだ。

「どうしたことですか? 貴方が日の光の下に出てくるなんて珍しい」
「気まぐれですよ。取り敢えずあの二人が帰ってくるまで、することが無くなったので」

 そう言いつつ、シートの横に立ち、活剄を使ってレイフォン達が向かったらしい方向を見るが、当然のこと何か変わった物が見える訳ではない。
 視線を横にずらして、汚染獣などの危険が迫っていないかも念のために注意をする。
 フェリがいる以上、問題無いと思うのだが、念のためである。

「それで、何やっているんですか、四人で?」

 フェリに向かって訪ねる形になったが、答えてくれるのは誰だってかまわない。
 外縁部へ座り込み、お茶会をしているのは四人だ。
 フェリとリーリン、メイシェンとミィフィだ。
 まあ、聞いたがおおよそのところは予測している。
 おそらくレイフォンの事が心配で、危険であることが分かっていても、来てしまったメイシェンとリーリン、それに付き添う感じのミィフィ。
 その行動に触発されて、何となくここにやってきたフェリと言ったところだろう。
 ウォリアスのように、破滅を最も見晴らしの良いところで待つなどと言うおかしな思考を持っている人間は、そうそういる訳ではないのだ。

「まあ、物見遊山かな?」
「そんなところだと思ったよ」

 代表して答えたミィフィの声は、心なしか震えていた。
 それは、この場所の気温が少し低いからかも知れないし、もしかしたら、何時汚染獣の大群が視界に飛び込んでくるか分からない恐怖からだったかも知れない。
 それを深く追求することなく、ウォリアスは外縁部から外の世界へと、視線を投げ続ける。
 だが後悔もしていた。
 帽子か日傘を持ってくるのだったと。
 殆ど真上から降り注ぐ日差しが、予想以上に体力と気力を削っているのだ。
 ここに長い間とどまることは出来ない。

「帰ってくるまで、ここで待っているなんて話は無しだよ?」
「うん? もうすぐ帰ってくるかも知れないじゃないかね?」

 ここに留まることが出来る、残り時間を考えながらも話を続ける。
 心配なのは分かるのだが、ここで待ち続けることはおそらく出来ない。

「往復に、最低限四日はかかる」
「へ? どうしてそう言いきれるの?」
「フェリ先輩の念威に引っかからなかった。そこから逆算すれば、往復二日以内の場所にあれはいないはずだよ」

 とは言え、あれに常識が通用するかどうかはかなり疑問だ。
 いや。通用しないと思っておいた方が良いだろう。
 その前提で、何か打てる手はないかと考えた。
 考えたのだが、先に進むことは出来なかった。
 どの様に、常識が通用しないのかが分からないのだ。
 これでは、何かを予測してそれに備えることは出来ない。

「まあ、気が済んだら帰っておいで。今日は久しぶりに休暇を取ることにしたから。夕食くらいなら作るよ」

 予測して、その対策を立てることが仕事であるウォリアス達にとって、この事態はもはや手におえなくなっているのだ。
 と言う事で、今日と明日は休みをもらっている。
 急な汚染獣の襲撃があったとしても、今まで作ってきた作戦でおおよそ撃退できるはずだし、出来なければ、やはりウォリアスの手にはおえない。
 この辺は割り切ってしまっているのだ。

「レイフォン、いつ帰ってくるかな?」
「明日辺りじゃないかな?」

 ウォリアスの言葉が聞こえないのか、メイシェンとリーリンのそんな会話が聞こえる。
 それをどうこうするつもりはない。
 人間は、目の前の希望に縋らなければ生きて行けない時があるからだ。
 むしろそれを予測して、もう少し希望的なことを言っても良かったのにと、少しだけ自分を非難した。

「そうだね。今回都市外作業指揮車は使っていないから、ランドローラーのバッテリー次第かな? 切れたら、会長さんを背負って走らなきゃならないから、もう少し時間がかかるかも知れないね」

 ふとここで考える。
 都市外作業指揮車は、今何をやっているのだろうかと。
 そして、見える範囲に何かを発見した。
 活剄を総動員してそれが何なのかを確認して、そして驚愕のために身動き取れなくなってしまった。
 疑問に思った、都市外作業指揮車が、いたのだ。
 その周りに、機械科の生徒らしき人影も見える。
 何をやっているか、それはもはや疑問の余地はない。
 試し掘りだ。
 ツェルニが停止している今だからこそ、比較的安全に試験をすることが出来るというのは分かる。
 鉱山での採掘中も、同じような試験をしていたという話は聞いていた。
 だが、この非常時に、まさか試し掘りをしているとは思わなかった。

「いや。今だからか」

 ツェルニが異常な事態にある今だからこそ、自分達がここでこうして仕事をしているのだと知らせて、誰かを安心させたいのだろう。
 その誰かの中には、当然自分も含まれている。
 極めて納得の行く仮説を打ち立てることが出来たウォリアスは、ふと、視線に気が付いた。
 やや表情が強ばったフェリの視線が、ウォリアスに向かって放たれ続けている。
 自然な動作を装いつつお菓子をつまむその姿はしかし、かなりぎこちなく、フェリ自身が平静ではないことがうかがい知れた。

「ウッチン」
「はい?」

 その動作と視線のまま、声さえも固くなったフェリに呼ばれた。
 緊急事態ではなさそうだが、楽観できる状況でもなさそうである。
 そしてなによりも、ここで情報を伝えることに問題が有ることも同時に分かった。

「お茶菓子が少なくなってきました。買い出しに付き合って下さい」
「良いですよ」

 駄目だという理由はない。
 ここで話せない内容となると、あれとの接触を持つために出発した二人絡みと言う事が考えられる。
 どんな物かは分からないが、あまり好ましくないことだけは間違いない。
 お菓子が少なくなっているという事実もあるだろうが、口実であることも理解している。
 だからウォリアスは、脳内で近くの店を検索しながら、立ち上がったフェリと共に歩き出すのだった。
 強烈な日差しに、そろそろ体力が限界を迎えつつあったが、活剄を使って何とか誤魔化しつつ。
 そして伝えられた事実は、どう判断したらよいか判断できない類の物だった。
 そう。ある一定以上の距離を超えると、念威が全く届かなくなると言う事実だ。
 まるで、そこに壁でもあって、念威が吸収されてしまっているような感覚だという。
 即座に危険な状況が思い浮かぶという訳ではないが、楽観的な状況でないことも間違いない上に、何が起こるのか分からないという不安もあるという、どうすることも出来ない状況がやってきたのだ。
 これは、ウォリアスが最も役に立たなくなる状況に他ならない。
 取り敢えずお菓子を大量に買いながら、防衛体制の強化についてヴァンゼと打ち合わせるという妙技を見せただけであった。



[14064] 第八話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/05/17 22:08

 
 なにやら挙動不審だったフェリに連れられて、ウォリアスが買い出しに行くのを見送りつつも、リーリンは何か胸の中のもやもやが急速に大きくなるのを感じていた。
 もしかしたら、もやもやの原因は、隠し通せていなかったフェリの態度だったかも知れない。
 だが、それではないという変な確信が何処かに存在していた。
 メイシェンとミィフィのたわいない会話を装ったやりとりを聞きつつ、深く考えに沈む。
 この胸の内のもやもやは、暫く前から有ったような気がしたのだ。
 一月とか言う話では無い。
 もっと最近。
 この何日か。

(ああ。あのときだ)

 そして、思い至った。
 シャーニッドに連れられて屋上に行き、そして、あれを見た時から何か変化が起こり始めていたのだ。
 そして、それがここに来て急速に大きくなり、リーリンに自覚を促したのだ。
 あの、喋ることが出来る偉そうな汚染獣と、何処かで会った事があるような、そんな感じがしてならないのだ。
 いや。もっとこう、懐かしささえ覚えていると言っても、そんなに間違いではないはずだ。
 何故、そんな事を思っているのか全く分からないが、それでも、リーリンの中の何かは確実にあの喋る汚染獣を知っているのだ。
 だが、武芸者でもないリーリンに、汚染獣との知り合いなどいるはずもなく、万が一に武芸者だったとしても、二度も三度も戦うなどと言うことはそう滅多に起こらないはずだ。
 滅多に起こらないからこそ、グレンダンには天剣授受者が取り逃がした老性体に、名前を付けるという習慣があるのだ。
 頻繁に起こることだったら、こんな習慣は意味をなさなくなってしまうだろうから。

(じゃあ、何で懐かしいなんて思うのよ?)

 懐かしいと思う以上、それは過去において一度以上は会っている証拠である。
 そこに矛盾が存在している。
 この疑問を解くことは、おそらくリーリン以外には出来ないだろう。
 何処の誰だろうと、リーリンの記憶の中を探すことなど出来はしないのだ。
 この結論に達したリーリンは、更に深く自分の中へと意識を向ける。
 こんな感じの、矛盾や不条理を感じたことがなかっただろうかと。

(有る)

 理不尽や不条理は時々感じるし、レイフォンから見ればリーリンこそが理不尽の塊であると映る行動を取ったことは多かった。
 だが、今感じているようなもやもやを伴う矛盾を感じたことは一度しかない。
 そう。一度だけ有った。
 それは、シノーラと遭遇した時に感じた。
 あの時リーリンは、シノーラを見ただけで何故か涙を流していた。
 会ったこともない人を見て、突如として悲しくなってしまったのだ。
 それは、今この瞬間と同質の矛盾、あるいは違和感であるように思う。
 あの変な人と会った瞬間のことを、ゆっくりと呼吸を整えて思い出す。
 レイフォンがいなくなってしまってから、半年ほど経った頃だったと思う。
 穏やかな日差しが降り注いでいた公園で、その人物は木陰に身体を投げ出して昼寝をしていた。
 別段珍しい光景と言う事はなかったのだが、それでも、その時の何かがリーリンを昼寝をしている人物へと引き寄せた。
 既に、この時点で何かが違っていたのだ。
 そして、シノーラを明確にその視界に納めた瞬間、突如として言いようのない悲しみに胸が締め付けられ、涙を流していた。
 その瞬間の映像をリーリンは驚くほど明確に記憶している。
 その明確な記憶の中、一部分が何故か拡大して行く。
 普通ならそんな事出来るはずがないのだが、何かに導かれるようにやれてしまった。
 そして、その引き寄せられた先は、シノーラの瞳だった。
 普通に考えるならば、そこに映っているのは視線の先にいるリーリンであるはずだった。
 だが、違った。
 その瞳の中には、四本足の獣の姿が映り込んでいた。
 柔らかそうな毛並みに覆われた、人に似た四肢をした、猛々しい獣の姿だ。
 その獣の姿に、見覚えが有る。
 だが、それを確認するよりも先に、獣の後ろに何かいることに気が付いた。
 それは、黒い少女だった。
 リーリンよりも少し年下に見える、長い黒髪を持ち、黒いドレスに身を包んだ、とても美しい少女だった。
 その、少女と、視線が合う。

「ああ」

 何かが、リーリンの中で動き出した。
 それは、リーリン・マーフェスという人間の中に眠っていた、誰か、あるいは何かだった。
 その何かが、黒い少女へと信号を送る。
 言葉でもなく、合図でもなく、それは、リーリンには信号としか受け止められないような何かだった。
 そして、ほんの少しだけ、世界のあり方が変わったような気がした。
 いや。世界のあり方がでは無い。
 リーリンのあり方が、少しだけ変わった。
 リーリンが変わったからこそ、世界が変わったのだと、そう理解した。
 そして、何かが遠くで起こっていることを認識した。
 その次の瞬間、リーリンの意識は闇に落ちていったのだった。
 
 
 
 何か悪いことでも起こったらしく、フェリの強引な誘いを受けたウォリアスが連れ去られるのを認識しつつ、ミィフィは必死に二人の行動からメイシェンの注意をそらせ続けた。
 ナルキが居なくなり、そしてレイフォンまで死地に赴いてしまっている現状は、既にメイシェンの精神の限界に迫りつつあるはずだ。
 いや。あるいは既に限界を超えてしまっているかも知れない。
 もし、限界を超えてしまっているのだとしても、ミィフィのやることは変わらない。
 なんとしても、二人が帰ってくるまでメイシェンをきちんと支える。
 それ以外にすることはなく、そして、それをやっているからこそミィフィは比較的平常心を保てているのだ。
 だが、それも既に過去の出来事となりつつあった。

「リンちゃん!!」
「しっかりして!!」

 突如としてリーリンが倒れたのだ。
 フェリとウォリアスが居なくなって、僅かに数分での出来事だった。
 直前に、溜息に似た息をつくのを確認しているが、関連性があるかどうか全く分からない。
 あまりの展開に、メイシェンまで声を荒げて取り乱してしまっているほどだ。
 そして、現状で最も心配しなければならないのは、メイシェンとレイフォンが深い仲になったことを原因にしている、精神的な緊張や不安が限界を超えてしまったという危険性だ。
 当然のことだが、こんな現象に対応する術をミィフィは持っていない。
 兎に角呼吸と脈拍を確認しながら、救急車を呼ぶことを考える。
 フェリがいれば話は簡単だったのだが、生憎と今は買い出しに出掛けつつ深刻な話し合いをしているはずだ。
 と言う事で、携帯端末に手を伸ばす。
 呼吸も脈拍も何ら問題無いのだが、素人の判断は危険であるのも事実だ。
 念のために病院に運び込んだ方が良いに決まっている。
 そう決断して行動しようとした矢先、そのリーリンがいきなり覚醒した。
 よく眠った後のような、満足げな表情でだ。

「お早うミィフィ」
「お、お早うリンちゃん?」
「メイシェンもお早う」
「あ、あう。お、お早う」

 取り乱し気味の二人にお構いなく、きちんと焦点が定まった視線が空中の一点を見詰めるリーリン。
 そこに何かあるのだろかと疑問に思い、二人してリーリンの見ているらしい場所に視線を向ける。
 だが、そこにはただエアフィルターを通して空が広がっているだけで、目立つほどの何かは存在していない。
 そう思ったのは、しかしただの一瞬だった。
 リーリンの行動を疑問に思うまもなく、それは起こった。
 突如として、エアフィルターの内側にシミが現れたのだ。

「う、うわ!」
「!!」

 思わず上げてしまったミィフィの悲鳴と、声を出すことさえ出来ないメイシェンが、見詰める先にシミがある。
 それは、数日前に現れたあの汚染獣と同じ存在だと、そう思ったからだ。
 それはつまり、カリアンの交渉が失敗に終わり、今頃はレイフォンと二人で汚染獣のお腹の中で消化されているという事実を物語っている。
 そう思ったのはしかし、数秒の出来事だった。
 落ちてきたのだ。
 自由落下という奴をやっているのだ。
 それは、人一人分程度の大きさだった。
 黒っぽいつなぎを着た、褐色の肌をした赤毛の人間に見えた。
 地表十数メルトル付近まで、ただ落ちてくるだけだったが、突如として姿勢を制御。
 見事な身のこなしで足から着地してのけたそれは、何処からどう見ても人間にしか見えなかった。
 いや。もっと、良く知っている人にそっくりだった。

「ええい!! 今度は何処だ!! グレンダンだとか言ったら怒るからな!!」

 そう絶叫する声にも、聞き覚えがある。
 呼吸のしかたも、視線の動かし方も、全ての動きに見覚えが有る。
 ふらりと、メイシェンが立ち上がった。
 少しだけ遅れて、ミィフィも立ち上がる。
 それを見届けたように、リーリンも立ち上がった。
 そして、空から落ちてきた少女がこちらをはっきりと認識。
 その瞳が大きく見開かれた。
 理解できないという表情をしていることに気が付いたが、おそらくミィフィ達も同じような顔をしていることだろうと、変な納得があった。
 そっと、メイシェンが一歩を踏み出した。
 大きくミィフィも踏み出す。
 次の瞬間、目の前にしなやかな筋肉に包まれた胸が迫り、三人を一緒くたに抱きしめる腕を確認出来た。

「ミィ、メイ、リンちゃん? 本物だよな? グレンダンとか言うオチじゃないよな!! ちゃんとツェルニで良いんだよな? 帰ってきたんだよな、私は!!」
「あ、ぅ」

 絶叫しながら涙を流すナルキに抱きしめられながら、ミィフィもメイシェンもリーリンも、声を出すことは出来なかった。
 ナルキが帰ってきたのだ。
 今は、その事実だけで十分だ。
 他のことは、もっと落ち着いてから考えればいいし、答えが出る必要さえない。
 ナルキが帰ってきたのだから、全てはそれで良いのだ。
 
 
 
 大量のお菓子を詰め込んだ籠を持ったウォリアスは、突如としてその歩行を止めた。
 カリアンが出掛けてからこちら、恐怖に落ちることも出来ずに張り詰めたままの空気が、少しだけ動いたことを感じ取ったからだ。
 悪い方向へ進んだという訳ではない。
 それだけは何故か確信できた。
 では、この空気の変化は何に由来するのだろうかと立ち止まったまま思考をしている最中、足の裏から何かの振動が伝わってきていることに気が付いた。

「フェリ先輩?」
「当然感知しています。ツェルニの動力が息を吹き返しました」

 動力が息を吹き返したという表現をとっているが、正確を期すならば、ツェルニが移動するための準備を始めたと言う事になる。
 これ自体は望ましい事かどうか判断が難しい現象だが、この行き場のない現状が動くというのは良いことのように思う。
 ここに留まっていては、何時かセルニウムが底を突いて都市の機能が止まってしまう以上、補給のために移動しなければならないのだ。
 それだけは間違いのない事実だから、何時かは動くと思っていたが、それがこのタイミングでやって来るとは全く思っても見なかった。
 だが、事態は更に予想を超えた展開を迎えてしまったようだ。

「それと」
「何かありましたか?」
「ゲルニを発見しました」
「? ナルキを? 何処でですか?」

 ナルキを発見できないからこそ、メイシェンもレイフォンも追い詰められていたはずだというのに、その前提条件がいきなり打ち砕かれてしまったのだ。
 テイルに渡した医療データや、何時破壊行動に訴えるか分からないリーリンの相手とか、ウォリアスのやって来たことが全て水の泡となって消えてしまったことを意味しているのだ。
 しかも、あまりにも唐突な展開で。
 とは言え、見付かったという現実を受け入れることが嫌という訳ではない。
 むしろとても嬉しいのだが、あまりにも唐突すぎる展開に付いて行けていないのだ。
 質問したのも、実は精神状態を立て直すための時間稼ぎでしかないのだが、返ってきた答えは更なる混乱をもたらす物だった。

「それが」
「それが?」
「トリンデン達のすぐ側に、唐突に現れました」
「・・・・・・・・」

 世の中は非常に驚きに満ちている。
 予測してそれに対応するために、ウォリアスは色々な権限を持っているのだが、そんな物は何の役にも立たないのがこの世界なのだとそう認めざるおえない。
 愚痴っぽいことを考えつつも、現実に対応するために脳を再稼働させる。

「えっと。じゃあ、しばらくは四人だけにしておいた方が良いかな?」
「そのようです。きちんと録画していますから、フォンフォンが帰ってきたら見せて差し上げましょう」
「・・・・・・・・・・・・。いじめっ子」

 見せられたレイフォンがどう反応するか分からないが、残り四人の方は予測できる。
 かなりこっぱずかしい思いをすることだろう。
 その光景を想像しているらしいフェリに向かって、少しだけ真面目な声で頼み事をする。

「武芸長に連絡をして、外で待機している部隊をツェルニに引き上げさせて下さい。それと、レイフォン達の後を汚染獣が追ってくるかも知れませんから、全部隊の戦闘準備をしておいてくれと」
「分かりました。では、そちらのケースに入っているプレミアムアイスクリームを二つ」
「任務了解」

 本来、ヴァンゼに指示を出せる立場にはないのだが、今回はウォリアス達が一番早く事態を認識できたために、このような流れとなっている。
 もっとも、指示を出さなかったとしてもきちんと仕事が出来るだろうから、ほんの少しだけ手間を省いたという程度のことになるのだろうと考えつつ、言われた通りのアイスを二つ籠へと放り込む。
 ナルキが見付かったことで嬉しいと思う反面、冷静な部分が事態の急変を訝しんでいるのも事実だ。
 そう。廃貴族に取り憑かれて誘拐された時には、きちんとした理由があった。
 ウォリアス達には理解できないし、共感など以ての外だが、それでもきちんとした理由があり結果があった。
 だが今回はどうだろうかと、そう考えてしまう。
 結果がある以上、それには原因が有るはずだと考えるのは、ウォリアス的には当然のことなのだが、世間的にはどうだろうかという疑問もある。
 人それぞれだとは思うが、それでも考えを続ける。
 そして一つだけ、恐ろしい危険性があることに気が付いた。

「フェリ先輩?」
「何でしょうか? 貴方のおごりでもっと買って良いのですか?」

 残念なことに、あるいは幸運なことに、この危険性を検討しているのはウォリアスだけだったようだ。
 それはそれで何ら問題無い。
 こんな事を考える人間ばかりがいたのでは、社会という物はとても住みにくい世界になってしまうから。
 だが、兎にも角にも、ウォリアスが思い付いてしまった恐ろしすぎる予測を何とか否定しなければならない。
 知らないだけで、何処かの誰かが原因を作り、ナルキの帰還という結果が起こったのだと信じるために。

「そうですね。そちらにあるパーフェクトバームクーヘンをおごりますから」
「もうけました」

 話の途中で、一個で二日分の食費が飛んで行ってしまうと言う恐ろしいバームクーヘンを大事そうに抱えるフェリ。
 メイシェンのお菓子が欠乏しているために、禁断症状が出てきているのかも知れない。
 いや。もしかしたら欠乏症かも知れない。
 まあ、今はどっちでも良いので、話を続ける。

「気が付かれないようにナルキを出来るだけ調べて下さい。汚染獣とは言いませんが、何か他の生き物が擬態しているのかも知れませんから」
「・・・・・。貴方の脳は虫が湧いているのですか?」
「その方が良いですよ。違うという証拠が欲しいんですよ。唐突な展開だと不安になるので」

 実際にナルキが他の生き物だと思っている訳ではない。
 だが、フェリに言った通りに不安なのだ。
 原因を探せない結果という物は、それだけでとても不安になるのだ。
 この感覚を他の人に強要するつもりはないが、大事そうにバームクーヘンを抱えているフェリには調査をする義務が既に存在している。
 そう。パーフェクトバームクーヘンを手放さない限りは、義務が存在しているのだ。
 永遠の難題に挑む哲学者のような真剣な瞳をしたフェリが、考えているのを見守りつつ、ウォリアスも思考を進める。
 このままだとアイスが溶けてしまうと。
 その心配を余所に、ドーナツ型の焼き菓子とウォリアスを見比べること三秒。
 諦めの溜息をついた。
 そして、念威繰者らしからぬとても嫌そうな表情と共に何かに集中しだしたのを確認。
 結果が出るまで暫くかかるかも知れないので、取り敢えずアイスは専用ケースへと戻すこととした。
 溶けてしまっては美味しくなくなってしまうからだ。
 そして、馬鹿馬鹿しい予測が違っていてくれることを祈りつつ、フェリを引っ張って店の端っこへと移動する。
 営業妨害をするのも、ウォリアスの本意ではないからだ。
 
 
 
 都市外で待機していたニーナ達は、突如として呼び戻されてから、僅かに時間が経った。
 それは食事を終わらせる程度の時間だったと思うのだが、その時間の間に色々なことが知らないうちに起こっていたようだ。
 そう。あの喋る汚染獣に命じられて停止していたツェルニが、少々の前触れと共に移動を再開したのだ。
 しかも、今まで進んでいた方向とは全く逆の方向へと。
 そしてこの方向転換が、ニーナに希望を持たせた。
 汚染獣を求めて突き進んでいたツェルニの暴走が、収まったのではないかという希望だ。
 この希望が現実の物となるかどうかは、暫く経たないと分からない。
 どの程度の時間がかかるか分からないが、それでも、希望と共にあるのだからそれ程の苦痛は感じないだろう。
 そして、もう一つの情報を何処かへ行っていたシャーニッドが仕入れてきた。
 その手には、なにやら携行食らしい物を三人分持っているところからすると、食事を調達してきてくれたのかも知れないが、何故か感謝することが出来ない。
 それは、その表情がとてつもなくにやけていて、とても満足していたからだ。
 更に止めとなるのが、調達にかかった時間である。
 なんと、一時間少々の長きにわたって行方不明だったのだ。
 そして、近くまでやって来て気が付いたのだが、女性物の石けんの匂いがシャーニッドから漂っているのだ。
 これは、もしかしたらと勘ぐるのには十分すぎる情報である。
 その情報を元に、全力で突っ込みたいところだが、シャーニッドの先制攻撃でそれは不可能となってしまった。

「ナルキが見付かったんだってよ」
「? なに? ナルキが?」

 待ちに待った情報だったはずだ。
 ニーナ自身も直接知っているし、一度は指揮下に置いていたことだってある後輩の安否が確認されたのだから、とても嬉しい情報のはずだ。
 だが、今ひとつ実感が湧かない。
 食事のついでのおやつでも持ってきたかのような、シャーニッドの口調や雰囲気のせいかもしれないし、あまりにも唐突な展開のせいかもしれない。
 もしかしたら、ニーナ自身がその目で確認していないからかも知れない。
 だが、これで一つだけ確実に問題は解決した。
 ツェルニの暴走が収まったことを確認出来れば、後は事後処理だけの話になるから、先の見えない現状から脱出することが出来る。
 そのためには、カリアンとレイフォンが無事に戻ってくることが絶対だ。
 交渉に行った二人を無事に迎えるために、何時戦いになっても良いようにシャーニッドの持ってきた食事を受け取った。
 腹が減っては戦は出来ないのだ。
 
 
 
 ツェルニが動き出してから二日近い時間が流れて、やっとの事で出張したカリアン達が帰ってきた。
 ただし、大量のお土産をつれて。
 持って帰ってきたのだったら、あまり問題はなかったのかも知れないが、残念なことに連れてきてしまったのだ。
 ヴァンゼの視線の先に、小さなシミのような地上を走ってこちらにやってくる人影と、それを取り囲むように迫る空飛ぶ巨大なお土産がある。

「各隊戦闘準備は終わっているな? これを乗り切れば後は日常生活に復帰できるはずだ。全員奮戦して生き残れよ」

 ツェルニ全武芸者を総動員して、カリアン達が連れてきたお土産を迎撃する準備を整える。
 そう。十二体に及ぶ汚染獣という願ってもいない迷惑なお土産を、何とか迎撃して逃げ切らなければならないのだ。
 本当はもっといたそうだが、途中でレイフォンが何とか数を減らしてくれたそうだ。
 ならば、残りの十二体くらいはツェルニ武芸者で何とか片を付けたい。
 無理なことは分かっているが、ヴァンゼの心情的には全てをレイフォン抜きで倒したい。
 とは言え、ここで死者を出してしまう訳にも行かないので、外縁部へ有りっ丈の剄羅砲を揃え、一般武芸科生徒を総動員して剄の充填をやらせている。
 集中砲火で機動力を奪い、地面に落としたところを十五個の小隊で弱い者虐めをするという作戦だ。
 ヴァンゼ自身が指揮する第一小隊は、戦力の足りないところへの補充要員として待機しているが、おそらく今回の戦いでは出番は多くないだろうとも計算している。
 カリアンをツェルニに放り込んだレイフォンも、おそらく戦力として計算できるだろうし、何よりもこれが最後だと思うことで全員の士気が上がっている。
 これならば、第一小隊の活躍の場はないだろうとさえ思えるほどだ。

(いや。こう言う時こそ慎重に、足下を掬われてしまっては意味がない)

 勝っている時こそ慎重に、気をつけて指揮を執らなければならない。
 ヴァンゼの判断ミスのせいで、大勢が死んでしまっては意味がない。
 何時も通りに、何時でも見殺しにしろと命令できるように心の準備をしつつ、その命令を出さないように指揮を執ることだけを考える。
 出来るならば、もっと他の熟練した武芸者や指揮官に丸投げしたいような重圧を背骨に感じつつ、ヴァンゼはカリアンとレイフォンの接近を待つ。
 そして、剄羅砲の射程距離に達した瞬間、軽く右手を振り上げて、そして、自然な動作を意識しつつ振り下ろす。
 力んでしまったら、剄羅砲部隊の連中に要らないプレッシャーをかけることになり、返って効果が得られなくなるかも知れないから。
 何時も通りに、力まないことを意識した動作が功を奏したのか、念威繰者を経由した命令の直後に放たれた、集中砲撃は十分な効果を発揮して、十二体中九体の汚染獣がきりもみしながら地面へと落下した。
 残り三体も、全く無傷という訳には行かず、辺りに血液を振りまきつつもツェルニ外縁部へと辿り着いたが、その瞬間、密度を増した剄羅砲の第二撃目が殺到。
 かなりの深手を負わせることが出来た上に、ツェルニの外縁部からも叩き落とすことに成功した。
 ここから先は、後は小隊員の仕事だ。
 瀕死と思われる個体には、一個正体ずつをあてがう。
 剄羅砲の第二撃を食らった三個体と、頭部に直撃を受けた不運な一個体。
 合計四個体に陽動が主体の第三中隊を振り向ける。
 当然のこと、深入りはせずに応援が来るまでの時間稼ぎだ。
 残り八個体。
 元気そうな三個体に、第一中隊の三個小隊を差し向ける。
 出来れば頼りたくないが、レイフォンが戦場にやってくるまでの間戦線を維持させるのだ。
 中途半端な五個体は、第二中隊を主力とした残りの小隊を全て投入し、行動不能以上の戦果を目的にする。
 おそらく第一小隊が参戦するとすれば、第二中隊の戦闘区域の何処かだろうと予測したヴァンゼは、軽く手を振って部下を適切な位置へと移動させた。

「でだが、俺は何処で何をすれば良いんだ?」
「そうですね。元気な奴と戦いたいですか? それとも、死にかけている奴をなぶり者にしたいですか?」

 幼生体戦に続いて、再びヴァンゼの直轄となったイージェが、お祭りが待ちきれない子供と同じように、ワクワクしながら話しかけてきたので、思わず訪ね返してしまった。
 ツェルニの暴走が収まったと判断出来たことと、カリアンが無事に帰ってきたことで少々浮ついているらしいことを、これ以上ないくらいに自覚できる出来事だった。
 自覚したのならば、それを修正して、出来るだけ冷静に判断し行動しなければならない。

「では、瀕死の奴を片付けてきて下さい。戦力を集中するためには、個体の数が少ない方が都合が良いので」
「あいよ」

 返事をするが早いか、第三中隊が嫌がらせをしている付近へと旋剄で移動してしまった。
 まあ、これで、瀕死の奴が片付くのは時間の問題だから、もしかしたら、本当に第一小隊の出番はないかも知れないと、そんな事を考えている間に、カリアンを背負ったレイフォンがツェルニのゲートへと到着したらしく、行方不明だったナルキの、張り切った声とそれに応じるレイフォンの、嬉しそうな声が念威端子越しに聞こえてきた。
 そして、ナルキとレイフォンがこちらへ向かって移動してきていることを剄の動きで感知できた。
 だが、まだ安心は出来ない。
 最後の個体の殲滅が確認され、全員がツェルニのゲートを潜り寮へと帰るまで、一瞬たりとも気を緩めてはいけないのだと再確認したヴァンゼは、改めて全部隊の状況を確認するのだった。
 
 
 
 マイアス都市警のしがない下っ端武芸者は、恐れ戦きつつ目の前の人物を後ろから観察し続けていた。
 頼りになる上司であるロイはここにはいない。
 股間への打撃は想像を遙かに超える被害をロイへと与えていたようで、未だに入院したままという悲惨な状況である。
 医師の意見によれば、このまま女性にしてしまった方が手間がかからないとか何とか。
 まあ、それは冗談であると思うのだが、現実問題としてロイはまだ戦線へ復帰していない。
 まあ、目の前にいる危険人物を相手にするには、マイアス武芸者の全力でも力不足だと思うのだが、いないと不安になるのだ。

「ああ。これは試練なんだね」
「何の試練ですか」

 疑問ではなく、愚痴をこぼす。
 放浪バスの停留所に毎日やって来ては、バスが来ないかと辺りを見回すという行為を延々と繰り返しているサヴァリスだが、時々桃色の溜息と共に意味不明なことを口走るのだ。
 恐ろしさのあまり引いていたのは、しかし、ずいぶんと前の話になってしまっている。
 頻繁ではないにせよ、こんな状況に遭遇し続ければ、誰だって馴れてしまうと言う物だ。

「この僕の愛が試されているんだよ。ナルキやレイフォンに逢えない無為な時間を乗り越えて、二人と殺し合えるその時のためにね」

 とても物騒な愛情であるが、巻き込まれなければそれで良いかとそんな事を考える。
 警察官としては、何とか止めたいところではあるのだが、生憎とナルキもサヴァリスも下っ端武芸者にどうこうできる相手ではないのだ。
 もしかしたら、レイフォンという人物は違うかも知れないが、ナルキと並んで名前が出てきた以上、ほぼ同格の相手だと判断して間違いない。
 となれば、出来ることは周りの被害を最小限に抑えることだけである。
 ぶっちゃけマイアスでなければそれで良い。
 そう考えていたのだが、事態は急変を迎える。

「ひぃぃぃ!!」

 突如として、全く何の前触れもなく、それは起こった。
 今まで溜息をつきつつ外を眺めていたサヴァリスから、瞬時にして、もはやどれだけ凄まじいのかさえ分からないほどの剄が迸り出たのだ。
 どうやら、サヴァリスという武芸者の能力を過小評価していたのだと、この時やっと気が付いた。
 もはやマイアス武芸者の全力攻撃が力不足などと言う話では無い。
 故郷の武芸者を総動員したとしても、目の前の変人武芸者には全くかなわないと、そう確信できるほどの凄まじい剄の放出だった。
 しかも、どことなく余裕のある雰囲気を感じ取ることが出来た。
 剄の本流がでは無い。
 サヴァリスが、全く平然と座り続けているのだ。
 その姿に力みは存在せず、恐るべき事に全くの自然体なのだ。
 もはや、どれほどの実力を隠し持っているのかを推し量ることさえ馬鹿馬鹿しい。

「ああ。そう言うことだったんだね。僕の欲望を満たすためにこの世界は作られたのだね」

 桃色の溜息をつくように、血の滴るような声が聞こえる。
 滴るのは、当然下っ端武芸者の少年から流れ出た血潮である。
 その滴る血を舐め取りつつも、闘争を前にして剄を猛らせる超絶の武芸者がゆっくりと立ち上がる。
 その視線の先に何が有るのか、全くもって分からないが、サヴァリスが望んでいた光景以上の何かだと言うことは確実だ。
 そうでなければ、これほど興奮することはないだろう。
 マイアスを振るわせるサヴァリスの哄笑を聞きつつ、地獄の門は開かれたのだと言う事だけは理解できた。



[14064] 第九話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/08/01 21:49


 ナルキの目の前には、当然の事ではあるのだが、実質的にツェルニを運営しているお偉いさん達が並んで座っていた。
 大きめの会議室を貸しきりにして、机と椅子を並べただけの質素な状況だが、それでも、かなり凄い眺めである事には違いない。
 とは言え、見知った顔ばかりであり、緊張して話す事が出来ないなどと言う事には、なっていないのがせめてもの救いだろうか。
 いや。マイアスで体験したような、知り合いが全くいないという状況に比べれば遙かにましである。
 生徒会長であるカリアンと、その相棒であり武芸長であるヴァンゼ。
 老性体戦の際に顔合わせした事のある各科の長が並び、更にレイフォンやイージェも関係者と言う事でこの場に出席しているが、実のところナルキよりもレイフォンの方が緊張しているように見えるのは、ある意味当然の事かも知れない。
 何しろ、戦闘が絡まない時のレイフォンは恐ろしく小心者なのだ。
 まあ、それは今はどうでも良い。
 何故こんな会議が開かれたかと問われたのならば、話は非常に簡単であり、そして当然の物であった。
 廃貴族の影響を受けたツェルニが暴走して、汚染獣の群れに突っ込み続け、最終的には人間の言葉を話すという想像した事もない恐るべき何かと遭遇してしまったのだ。
 その異常事態の過程で、廃貴族に取り憑かれて疾走していたナルキの事情聴取が行われるのは当然の事であり、そして必然でもあった。
 まあ、ミィフィやメイシェン、リーリンと言った人達には既に話しているから、話すための要領を心得ているので、それ程苦労をするという訳でないことは救いなのだろうとも思う。
 それでも、同じような話を何度もするのは流石にきつい事なのも事実である。
 と言う事で、一回で全てが終わるようにとカリアンが取りはからってくれたのだ。
 そのお陰で、偉い人に取り囲まれるという精神的な負担を強いられているので、どちらがよいかと聞かれると困るのだが。

「それで、何処に行っていたんだね? ツェルニに居なかった事はほぼ間違いないし、空中からいきなり湧いて出てきたというのも確認されているのだが」

 出席者がそろった事を確認したカリアンの質問で会議は始まった。
 そして、ナルキに関して言えば、最も重要な質問が最初にされるのは当然の事。
 だが、カリアンの質問に明確な答えを返す事が出来るかどうか、ナルキに自信はない。
 なぜならば、ナルキ自身に何が起こったのかをきちんと理解していないからだ。
 そう。放浪バスを使わずに他の都市に移動するなどと言う事実を、どう自分に説明したらよいかとか、色々と困ったことがあるのだ。
 だが、答えられるところはきちんと答えるつもりでいるのも事実だし、そして、この質問には答える事が出来る。

「学園都市マイアスと言うところにいました」

 自信満々に答えたのだが、当然の事、室内には微妙な空気が流れてしまっている。
 これですぐに話を進められる人間がいたら、それは恐らく、想像を絶するおかしな人生を歩んできた事の証明となるだろう。
 放浪バスを使わずに都市間を移動する事は不可能なはずだというのに、それをやったのだとナルキが宣言したのだから。
 しかも、行き先で起こっていたのは、電子精霊を巡るおかしな戦いだったのだ。
 周りにいるお偉いさん達がお互いの視線で、誰も理解していない事を、確認するのを待つ間に、ナルキは自分の体験した事を再確認する。
 そうでもしないと、確かに体験したのだと断言できないような、そんなあやふやな気持ちになったからだ。
 だが、確かにナルキはマイアスに行き、そしてお面を付けた集団と戦い、更にグレンダンの天剣授受者と遭遇してしまったのだ。
 ナルキが確認しおえるのと時を同じくして、小さな咳払いと共にカリアンが次の質問を発する。

「ああ。信じられない事なんだが、マイアスで君は何を見てきたんだね?」
「そうですね。色々な事がありましたよ」

 結局のところ、体験した事を出来るだけ事細かに話す以外の選択肢など存在していないのだ。
 そして、全てを話し終えるのに二時間ほどがかかってしまった。
 途中、サヴァリスの話が出たところで、念のためにレイフォンへの確認が行われた。
 人相風体、そして発言の内容まで、出来うる限り細かく話して、それがサヴァリス本人であるらしい事がレイフォンによって確認された。
 更に念のために、ゴルネオまで呼び出されて決定的な確認も行われた。
 ヨルテム出身のナルキが、グレンダンの天剣授受者などを直接知っているわけがないことは当然である。
 レイフォンのように都市を出た場合や、リヴァースのように、外から来ない限りはナルキが直接知る事は考えられない。
 つまり、ナルキ自身が不安に思うような非常識な体験は、間違いなく起こったのだと本人も含めて確認された。

「・・・。信じられないような話だが、天剣授受者を見たという事実は動かしがたいようだね」

 サヴァリスが何故グレンダンを出ているかについては謎だが、事実として存在している以上しかたがない。
 原因よりも事実の方が遙かに重要なのだ。
 そう。このまま行くと、サヴァリスがツェルニにやって来てしまう。
 あるいは、その危険性が恐ろしいまでに高い。
 いや。別れ際にツェルニに行くというようなことを言っていたではないか。
 任務の内容によってはナルキの危機は回避出来るが、残念な事に何故グレンダンを出たかについては全く謎なのである以上、最も危険と思われる状況を想定しておかなければならないのだ。
 解決する方法など存在していないが、何とかしなければならないのだ。
 と言う事で、元の天剣授受者に視線を向ける。
 助けてくれと。

「え、えっと。サヴァリスさんが来たら、僕が真っ先に逃げ出したいよ」
「だよな」

 だが、当然の事ではあるのだが、レイフォンからは色よい返事は返ってこなかった。
 あんな恐ろしい思考方法をする超絶の武芸者と関わり合いになりたくないのは、当然の事であるのだ。
 ここで再び、サヴァリスの目的についての疑問が浮上してくる。
 天剣授受者とは、グレンダンの誇る最強の武芸者であると同時に、都市を守るための最後の砦であるはずだ。
 そんな天剣授受者を、何故グレンダンは都市外へと出したのか。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 嫌な汗が背中を流れる。
 サヴァリスは、もしかしたら、ナルキの中にいる廃貴族に用事があるのではないだろうかと。
 それならば、ナルキのような、どうと言う事のない武芸者に熱烈なラブコールを送っていた理由にも説明が付く。
 そして、その廃貴族だが、原因は不明だが、今は完全にその活動を停止しているが、何時また暴れ出すか分からないという危険な代物である事には間違いない。
 出来れば、サリンバンに熨斗を付けて差し上げたいところではあるのだが、残念な事に、ナルキには廃貴族をどうやって身体の外へと追い出すかが分からない。
 最悪の場合、ナルキがグレンダンまで行かなければならなくなるかも知れない。
 天剣授受者のいる、グレンダンにである。
 そして想像する。
 頬を染めたサヴァリスにお姫様だっこされて、傭兵団の放浪バスへと連れて行かれるナルキを。
 新婚旅行の先は、当然の事、最も危険で、最も安全な都市グレンダン。
 待ち受けるのは、天剣授受者の死をもたらす祝いの席。

「う、うわ」

 想像するだけで寿命が縮む思いだ。
 出来る事ならば、サヴァリスの用事は廃貴族とは無関係であって欲しいところだ。
 ナルキが、自分の将来についてとても恐ろしい予測を打ち立てている間にも、会議はろくな成果を出さずに終了した。
 元々が、異常事態の連続だった以上、常識人しか居ないツェルニ上層部にどうこうする事など出来るはずはなかったのだ。
 だが、これは一度はやっておかなければならない、ある意味儀式のような物である事も理解している。
 これを抜きにして、ナルキやカリアンは日常へと復帰する事は出来ないのだ。
 出来れば、これで全てが丸く収まってくれると嬉しい。
 出席者の全てがそう願った事が、ほぼ唯一の成果だったのかも知れない。

「ああ。ゲルニ君」
「はい?」

 会議が終わったので、退室しようとしたナルキを呼び止めたのは、かなり真剣な表情をしたカリアンだった。
 そして、生徒会長からの提案は、あまり心地よい物ではなかったのだが、必要であることも分かったのでナルキは了承する以外に道はなかった。
 
 
 
 途中から参加した会議が無事に終わった事を確認して、ゴルネオはどうしてももう一度確認しておかなければならないと、そう自分を奮い立たせる。
 ナルキの証言に間違いがないのだったら、マイアスにいたのだ。
 グレンダンの天剣授受者であり、自らの兄であるサヴァリスが。
 どんな目的で都市を出たかは、知りたくない。
 いや。目的はおそらく廃貴族であろう事は察している。
 ルッケンスの家系に連なる者として、初代の現実とは思えない話は耳になじんでいるし、そもそもツェルニ自身が廃貴族の暴走に巻き込まれてしまっていたのだ。
 その前提に立ってみれば、廃貴族という狂った電子精霊が存在していると言う事と、取り憑かれた武芸者が超絶の力を発揮する事はおおよそ信じている。
 そして、その廃貴族を確保するためにこそサリンバン教導傭兵団は結成され、現在ツェルニに居るのだ。
 そこまでは良いだろう。
 だが、既に超絶の力を持つサヴァリスが、何故廃貴族などを求めてやってくる必要などがあるというのだろう? そう言う疑問があるのも事実なのだ。

「ナルキ・ゲルニ」
「はい?」

 その疑問を解決できるかどうかは分からないが、それでもゴルネオは訪ねなければならない。
 近くを歩いていたレイフォンを小脇に抱え、何故か顔色の悪いナルキを捕まえて質問を発する。
 本当に、マイアスにいたのはサヴァリスだったのだろうかと。
 いや。答えは出ているのだ。
 ナルキの証言は全てでは無いにせよ、ゴルネオの記憶にあるサヴァリスと一致している以上、確かめる必要はないのだろうが、それでも訪ねなければならないのだ。

「ああ。念のためと言うよりも、違っていてくれると嬉しいと思っているのだが」
「サヴァリスと名乗っていました」
「出来れば、何かの間違いであって欲しいのだが」
「天剣授受者だというような事を言っていました」
「他人のそら似とか、もしかしたら、違う人間がそう名乗っているだけとか」
「明らかにレイフォンと同格の実力を持っていましたし、私の感じた命の危険は並大抵の物ではありませんでした」
「・・・・・・・・・・・。済まないな、時間を取らせてしまって」
「いえ。気持ちは分かりますし、間違っていてくれたらどんなに良いだろうとも思います」

 全ての希望が打ち砕かれたが、それでもゴルネオは伝えなければならない事がある。
 廃貴族について知っているだけの事を、元天剣授受者と、天剣授受者に追われる哀れな武芸者に伝えておかなければならないのだ。
 それだけが、サヴァリスによって色々と大変な事となる二人に、ゴルネオができる唯一の事だから。
 思えば、実の兄との確執にさえならない関係が、ガハルドとの関係を深める切っ掛けとなり、ツェルニに来る遠因となった。
 レイフォンに対して、思うところがない訳ではないにせよ、現状を受け入れなければ前へは進めないのだ。
 そんな内心を出来るだけ出さないように話を進め、そして終了させたところで、ふと思いだした事があった。

「そう言えば、各小隊長の紅白試合があるのだったか」
「ああ。そう言えばそんなイベントもありましたね。先輩も参加するんですよね?」
「ああ。俺は白組の主将をする事になっている。後はその時にくじ引きで決まるそうだ」

 もうすぐ武芸大会が始まるはずなので、最終的に各小隊にどんな割り当てをするかを決めなければならない。
 その参考にするために、各小隊長での試合をする事になっているのだが、意味があるかと問われると、ゴルネオ自身はあまりないと判断している。
 汚染獣との連戦の中で、お互いの事は良く分かっている。
 それは小隊長同士の間でも言える事で、どんな場面でどんな判断を下すかは、おおよそ予測できてしまっているし、本来小隊対抗戦はそのためにもある物だったはずだ。
 まあ、今年に限って言えば、半分以上エンターテイメントとかしているが。
 そう。未だにゴルネオの小脇に抱えられている元天剣授受者の影響で。

「頑張って下さい。草葉の陰から応援していますから」
「いや。まだ生きているだろうナルキ・ゲルニ」

 そう突っ込んだゴルネオだったが、残念な事に、この先も生き続ける事が出来るかどうかは、著しく疑問である。
 もし、本当にサヴァリスが廃貴族を確保するために動いているのだとすれば、確実にナルキは身の危険にさらされる。

「咆剄殺で惨たらしい死体になっている初夜の光景とか、想像してるんですよ私」
「・・・・。ああ」

 初夜という単語が何故出てきたか理解できないが、それでも、危険性としては十分以上に高いと判断できる。
 そう判断したゴルネオは、レイフォンを解放しつつも試合会場へ向かって歩き始めた。
 時間があまりないためだろうが、ナルキの事情聴取からすぐに試合が行われる事となってしまっているのだ。
 日を改めてくれれば良かったのにと、そんな愚痴っぽい事を考えつつも身体は勝手に動く。
 
 
 
 小隊長達の紅白試合を眺めつつも、ナルキの胸にあるのは常にサヴァリスの事だけである。
 もちろん恋い焦がれる乙女チックな意味合いではなく、血潮が飛び交い命が風前の灯火となるような意味での事だ。
 シンとニーナの対決を網膜はきちんと映しつつ、それを脳で処理しているという実感は全く存在していない。
 ナルキが知っているニーナよりも確実に強くなっている事とか、シンの技の切れが恐ろしいほどに鋭くなっているとか言う情報も、全ては意識の表面を滑り落ちてしまって行くだけだ。
 だが、そんな現実からの避難も一瞬で打ち破られた。

「うわ!!」

 突如として、会場を轟音が支配したのだ。
 それだけではない。
 紫色の光によって視力も奪われた。

「な、なんだ? サヴァリスさんの襲撃か!!」

 思わず腰を浮かせて錬金鋼に手をかける。
 とは言えナルキに出来る事と言えば、苦痛を少なくするために自刃する事だけ。
 いや。油断していたら自刃さえ出来ないかも知れない。それだけの実力差が天剣授受者との間にはあるのだ。
 だが、当然だが、今回はナルキの早とちりというか、混乱状況での誤判断だった。
 その証拠に、優しく肩におかれたレイフォンの手は非常に落ち着いている。
 そう。サヴァリスが来たら、間違いなく殺し合いをする事となっているレイフォンが、落ち着き払っているのだから、今回は違うとやっとの事で身体と心が理解できた。

「隊長の雷迅だよ。まだ不完全みたいだけれど何とか使えたみたいだね」
「あ? ああ。隊長さんも強くなってるんだな」

 心臓が全力疾走をしているのを押さえつつ、浮いたままだった腰を席へと下ろす。
 この程度の事で取り乱していては、とても日常生活は送れないのだ。
 だが、そんなナルキの考えを吹き飛ばすような台詞が、レイフォンの口から零れ落ちる。

「雷迅を隊長に教えたのは僕だけれど」
「ああ?」
「僕は何処でそれを覚えたんだ?」
「・・・・・・」

 レイフォンは武芸莫迦である以上、武芸という特定分野に関しては常人が達する事の出来ない境地にいる。
 一度見た技を自分の技として再現するという特殊能力を持ち、全力の十分の一でも剄を注ぎ込めば通常の錬金鋼は破壊されてしまうと言う、圧倒的な剄量をも持っている。
 そんなレイフォンが、何処で技を見たかを忘れるなどと言う事はおおよそ考えられない。
 それはつまり、常識的な経路で覚えたのではないと言う事を意味していて。

「・・・・・・・・・・・。考えるのはウッチンに任せよう、レイとん」
「・・・・。そうしよう」

 二人の認識が一致した頃になって、紅白試合はヴァンゼの率いる紅組の勝利で幕を閉じたのだった。
 
 
 
 会場を出たレイフォン達だったが、この後の予定という物は特に決まっていない。
 とは言え、やる事がない、と言う訳ではない。
 連続した汚染獣との戦闘で明らかになってしまった実力を見込まれ、小隊に属していない武芸科生徒からやたらとラブコールがかかっているのだ。
 もちろん、全てに応える事など出来はしないために、各小隊が鍛錬の指導をしたりしているのだが、それでもレイフォンに直接習いたいという人は結構いるのだ。
 まあ、もうすぐ武芸大会という切羽詰まった状況では、どう足掻いたとしても基礎的な事に終始してしまうから、問題という問題はないのだが。

「そう言えば、ウッチンはどうしてるんだ? 最近顔見ないけれど」
「ウォリアスなら、報酬がどうのって言っていたから、きっと図書館に籠城してるんだと思うよ」
「ああ」

 ナルキの疑問に答えるついでに、ツェルニの暴走が終わってから、殆ど会っていない友人の事を思い出した。
 メイシェンの事とかで散々頼ってきておいて、酷い話ではあるのだが、連絡が来たのが一度だけであり、実際にはこの十日ほど会っていないという状況では仕方が無い。
 更に、居ると思われるのが図書館では、レイフォンから会いに行くなどと言う芸当はとても出来ないのだ。
 だが、不幸はとことんレイフォンを愛してしまっているようで、向こうからすり寄ってきた。

「と、噂をすればウッチンだが」
「・・・。なんだか一杯荷物があるね」

 そう。視線の先にいるのは間違いなく細目の極悪非道武芸者であり、台車に乗せた荷物と共にほくほく顔でこちらに向かってやって来ているのを確認出来る。
 何を運んでいるかは、ウォリアスの性格と状況からおおよそ間違いない。

「レイフォン発見!!」
「う、うわぁぁ!!」
「ナルキも発見!!」
「きゃああ!!」

 何故か、とても良い笑顔と共に指さされてしまった。
 しかもその指先は、クイクイと曲がってレイフォンとナルキを地獄へと誘っている。
 そして、色々な恩を持ったレイフォンに逃げるという選択肢は存在していない。
 ナルキは完全にとばっちりだが、地獄の旅に道連れは必要である。
 そして、なけなしの勇気を振り絞りつつ、隣を歩いていたナルキを道連れに、死に神に匹敵する知識収集マシーンへと近付く。
 そして確認する。
 台車に乗せられているのは、かなり古い本であると。
 埃を被り、なにやら変色している紙と、そこから発散される独特の、甘い香りがレイフォンの背中に冷や汗を流させる。
 今夜は悪夢を見る事が確定した。

「これ、どうしたんだ? 分かるような気はするが念のために。盗んだとかじゃないよな?」
「違うよぉ? きっちんと生徒会長から許可をもらって、三百冊のデータを電子化して持って行って良いって」

 警官としての義務感からか、腰が引けた状態だったがナルキが質問を発し、ウォリアスがそれに答えるのを聞きながらレイフォンは思う。
 三百冊の本を電子データにしたら、どんな料理が出来るのだろうかと。
 現実逃避である。
 ウォリアスが変に上機嫌である事も、この逃避に拍車をかけているのだが、現実は更に突き進む。

「レイフォンの所に暫く置いておいてくれないかな? 家に置いておくと日常生活が出来なくなるってリーリンが五月蠅そうだから」
「あ、あう」

 これだけ大量の本を自室に持ち込んだウォリアスがどうなるか、それはもはや考えるまでもない。
 全てを電子データに変換して、完璧に読破するまで部屋から出てくる事はないだろう。
 これから武芸大会があるという重要な時期に、戦略・戦術研究室もそうだが、是非ともウォリアスの悪逆非道ぶりが必要なのだ。
 それを抜きにしても、日常生活が出来なくなる人間をリーリンが放っておく事など考えられない。
 そして何よりも、世話になっている以上レイフォンに拒否は許されないのだ。
 と言う事で、当分の間悪夢に襲われる事が確定したのだった。
 
 
 
 三百冊というと、多いのか少ないのかナルキには判断できない数字だったが、実際に運んでみるとその質量と体積に圧倒されてしまった。
 胸の中にいる廃貴族は昼寝でもしているのか、こんな時は全くもって働いてくれないために、活剄を総動員してもかなりの疲労を覚えると言うほどには、凄まじい質量と体積だった。
 普段ミィフィやメイシェンが買ってくる本は、殆どが文庫サイズなのでそのつもりで居たのも大きいだろう。

「あ、あう」
「ああ!! これを全て僕の物に出来ると思うだけで、胸がときめいてきてしまうよ!!」

 だが、今回運んだ本の半分ほどは、見るからに威圧感と存在感のあるハードカバーだった。
 残り半分も大きな本ばかりで、冊数の割には場所を取る事この上ない。
 本が近くに有ると悪夢を見てしまうと言うレイフォンにとって、既にこの部屋は汚染獣との戦場以上の地獄となってしまっているし、実はナルキもかなりきつい物を感じているのだ。
 文庫サイズが三百冊だったら、ここまでの衝撃は受けなかっただろうが、ハードカバーだと話が全く違うのだ。
 既に土気色になっているレイフォンの顔を眺めつつ、ナルキも速くここから脱出しようと心に誓った。
 戦闘を前にしたサヴァリスなみの変態から距離を置きたいという気持ちも当然のように有る。
 知らないだけで、この世界にはこんな変態が大量に生息しているのではないかと、そんな疑問も浮かんできたが、兎に角今は逃げ出す事を最優先に考えなければならない。
 そのはずだったのだが、突如部屋の扉がノックされ、返事をする前に爆発的な勢いでそれが開かれた。
 そして現れたのは、ナルキが疾走する前と微妙に印象の違うリーリン。
 何処がどうとはっきり言うことは出来ないのだが、何処かが、あるいは何かが違う気がする。
 そのリーリンが、部屋の中を見回して、莫大な量になっている本を無視してウォリアスをロックオン。

「もしかしてウォリアス? ここに住みたいとか言い出す訳?」

 流石というかなんというか、ウォリアスという危険極まりない生き物の生態をきちんと把握していたようだ。だからこそ、どこからか情報を得て、このタイミングでここへとやってくる事が出来たのだろう。
 レイフォンの部屋に置いて予防線を張るところまできちんと予測しての事だったら、それはもの凄く的確な読みと言える。
 だが、今回この行動は無駄に終わるのだ。それも予測済みかも知れないが。

「そ。ここに住めば僕は幸せになれるんだ」

 だが、ウォリアスから出てきた言葉は、ナルキの考えをあっさりと否定するものだった。
 本末転倒どころの話では無い。
 折角ナルキとレイフォンが大量の本をこの部屋に運び込んだというのに、それが全て無駄になろうとしているのだ。
 それを予測したリーリンが来なかったのならば、間違いなく現実の物となっていただろう。
 道で会った時と言っていることが違うが、欲望にまみれた人間の言動ほどあやふやな物はないので、こちらの方が本音だろうと判断する。

「ナルキとレイフォン?」
「は、はひ?」
「な、なにかな?」

 そんな現状を認識しているのかどうか、酷く冷静なリーリンが二人を呼ぶ。
 その瞳に宿るのは、とても冷たく鋭い光だ。
 そして、その瞳と同じ声が命令を発した。

「女子寮へこの荷物を運んで頂戴」
「か、かしこまりましたリーリン様」
「謹んで承らせて頂きます」

 レイフォンと二人で、これ以上無いくらいに恭しく力仕事を請け負う。
 これほど恐ろしい生き物は居ないと、武芸者の本能が絶叫しているのだ。
 だが、それに引き替え、ウォリアスは平然と三人を眺めつつ何か考えている。
 普通に考えるのだったら、幸せを奪われるならば抵抗するはずだというのに、そんな兆候は全く伺えない。
 だが、次の瞬間何か決意を固めたように大きく頷いた。
 そして一言。

「ならば仕方が無い。僕は女の子になろう」

 意味を理解出来なかった。
 いや。理解したくない。
 それはリーリンも同じだった様子で、硬直したままウォリアスという変な生き物に視線を固定している。
 髪が長いし、どちらかと言えば細身であるので、女の子として通用するかも知れないが、それでもかなりの整形手術が必要なのは間違いない。
 どれくらいの費用がかかるだろうかと現実逃避気味に考えること十五秒。

「・・・。あのさ」

 三人の視線の、集中砲火を浴びる事十五秒、なにやら少し疲れたウォリアスがけだるげに頬を搔く。
 何か訴えているように見えるが、それを理解する事をナルキの精神は拒絶している。

「冗談なんだから突っ込んで欲しいんだけど」
「「「え?」」」

 今度は、驚きで身動きが取れなくなってしまった。
 そもそもウォリアスという生き物は、情報を集めるためだったら自分の身を犠牲にすることさえ惜しまなかったはずだ。
 ならば、男を捨てることさえ平気だとそう直感したのだが、少し違ったようだ。

「命くらいだったら要らないけれど、男を捨てるのは少し考え物だよ」
「そ、そうなのか?」

 男という生き物は、もしかしたら、自分の命よりもそちらの方を大事にするのだろうかと、この部屋にいるもう一人の男へと視線を向ける。
 困った表情と視線を返されただけだった。
 どうやら、命を捨てるのも男を捨てるのも嫌と言う事らしい。
 レイフォンの反応の方が遙かに理解できるが、問題はウォリアスの方だ。

「ここから一日三冊持って行って、自分の部屋で読むよ。大体百日で終わる計算だね」

 どの辺からが冗談で、どの辺からが本気なのか分からないウォリアスの提案は、リーリンによって了承され、レイフォンの部屋には百日の間威圧的な本が居続けることとなったのだった。
 幾つかの未解決の問題を残したままだったが。



[14064] 第九話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/08/07 19:43


 紅白試合が終わったニーナは、突如としてカリアンに呼び出されて生徒会長室へとやって来ていた。
 何か問題が起こったという訳でないことは、カリアンの周りにいる役員の表情から何となく分かったが、心地よい内容の話でないことも同時に理解できてしまった。
 執務机の上にある書類を、猛烈な勢いで決済しつつニーナの接近を察知したカリアンの視線が上に向く。
 事務仕事をする人間は、皆この手の芸当を平然とやってのけるのだが、ニーナに真似が出来るとはとても思えない。

「呼び出しておいて済まないが、少しだけ待っていてくれ給え。この書類という奴は、組織を動かすためには必要な神経伝達物質だと思うのだがね、どうにも量が多くてかなわないよ」

 そう言いつつ、武芸者からしても相当の速度で決済が進んで行くのを眺めつつも、ニーナは少し不安になっていた。
 一月前から比べて、指揮官としては成長できたと思うのだが、それが本物かどうか自信がない。
 基本的な性格として、ニーナは前へと出てしまう。
 後方から全体を見て指示を出し、そして結果について責任を取るという責任者として、果たして役割をきちんとこなせるのだろうかと。
 目の前のカリアンを見ていると、とても自信が無くなってくる。
 特に、書類仕事をきちんとこなせるのか自信が無くなってくる光景だったが、それも唐突に終わりを迎えたようで、カリアンの視線がニーナをしっかりと捉える。

「さて。待たせてしまった上に唐突な依頼で申し訳ないのだがね」

 断れないことがはっきりと分かった。
 カリアンが下手に出て、しかも、命令ではなく依頼という形を取っているこの現状で断っては、ニーナの良心は致命的な打撃を受けてしまう。
 小隊結成時に散々迷惑をかけた上に、つい最近まで隊長として色々と問題を抱えていたニーナを、見守り続けてくれたカリアンの頼みを断るなど、とても出来ないのだ。
 だが、そんなニーナでさえも、カリアンからの依頼について平静でいることは出来なかった。

「ナルキを監視しろと?」
「そうだ。観察と言い換えても良いが、きちんと報告はしてもらう」

 そう。行方不明だったナルキを監視して、その行動や言動を出来うる限り細かく報告しろと、そう言われたのだ。
 残念なことに、これを平然と了承できるほどニーナは鈍くできていない。
 だが、カリアンの視線も表情も真剣そのものであり、冗談を言っている訳でもなければ、軽い悪戯という訳でもなさそうだ。
 そして、カリアンが言葉の続きを放つ。

「ナルキ君も了承してくれているよ。自分自身でも何が起こったのか分からないのならば、何らかの変化が起こっていても不思議ではないし、変わっていなかったとしても、誰かにそれを証言してもらいたいとね」
「す、少し待って頂きたい」

 監視しろと言うカリアンの意図も分からないが、それを了承するナルキにも疑問を覚える。
 だが、その感情を素直に表現してしまっては、以前の自分に戻ってしまいそうなのも事実なので、強引に話の腰を折ってゆっくりと瞳を閉じてから、カリアンとナルキの行動について考える。
 一呼吸目では何も思いつけなかった。
 だが、三呼吸目になった頃になって、少しだけ分かってきた。
 放浪バスも使わずにツェルニから居なくなったナルキは、間違いなく今の人類の知らない方法で移動したはずだ。
 そして、何らかの異常な体験をした。
 その異常な体験というのがどんな物かは分からないが、ナルキは自分がきちんと自分であるか疑問を持ってしまっているのだろう。
 カリアンの方も、そんな異常な事態に巻き込まれたナルキが危険でないか、その確証が欲しいのだろう事も分かってきた。
 本来、無罪の証明というのは難しいが、行動を観察して分析することでかなり確実な状況証拠とすることが出来る。
 つまりカリアンもナルキも、ニーナに安全であるという証拠を提出して欲しいのだと、そう結論付けることが出来た。
 もちろん、安易な評価をすることは許されない。
 安易な評価や手抜きの報告宇することが許されないからこそ、ある意味生真面目で融通の効かないニーナが選ばれたのだと、その結論に達した。
 ニーナ自身、自分が融通の利かない人間であることは重々承知しているので、この人選は妥当な物だとそう判断することも出来る。

「・・・・・。色々と不満を覚える途中経過でしたが、引き受けます」
「ほう? 少し変わったね」

 少し表情を柔らかくしたカリアンの視線が、ニーナを捉える。
 ギリギリだったとは言え、今回は今までのニーナとは少し違う行動を取ることが出来たのだと、少しだけ安堵しても良いかも知れないと、そう考えることとした。
 今までだったら、仲間を疑うようなことは出来ないと突っぱねてしまっただろうから、かなりの変化だと思う。
 カリアンもそう評価しているからこそ、表情が柔らかくなったのだろう。
 まあ、ナルキの同意がなかったとしたら、了承していたかどうかはかなり怪しいところではあるのだが、それでも引き受けることにした。

「先に言っておくとだね。ゲルニ君に何が起こったのか彼女から聞いたが、今それを話すことはしない。先入観になってしまうと後が大変だからね」
「理解できます」

 全ては、ナルキが安全であることを確信するための行動である。
 ならば、失踪中のことを知らない方が変な先入観を持たずに観察し、報告することが出来るという判断は間違っていないと思う。
 そしてここまで来てふと気になったことがある。
 レイフォンだ。
 レイフォンの性格を考えると、観察することを伝えてはいないだろう。

「レイフォン君には内緒だよ。明らかに挙動不審になってしまうからね」
「分かりました」

 知らない人間だったら、平然と日常生活を送ることが出来るはずだが、相手が良く知る人間になった場合、どんな挙動不審をするか見当が付かないのがレイフォンだと認識している。
 ニーナの認識は、カリアンのそれと一致したようだ。
 気の進まない仕事を引き受けたが、それもこれも、ツェルニとナルキを守るためだと強引に自分を納得させたニーナは、生徒会長室から去ったのだった。
 
 
 
 通常の放浪バスの三倍近くある我が家の屋上に出たミュンファだったが、その視線の先にいる人物を認識して、少しだけ肩が落ちてしまった。
 サリンバン教導傭兵団を束ねるハイアの背中は、ミュンファでさえ声をかけることがためらわれるほどに、張り詰めているように見える。
 昨日は全く何時も通りだった。
 何時も通りにリュホウとなにやら言い争い、レイフォンに喧嘩を売りに行ったが、食事の支度をしているからと相手にされなかったと、夕食の時に愚痴を聞かされた。
 団員の殆どがいる中での発言は、軽い笑いと少しの安心感をもって迎えられたと記憶している。
 この状況になったのは今朝、ハイア宛に届いた手紙を開封してからのことだった。
 一度読んだ後に、徹底的に粉砕されて焼却されてしまった手紙の内容は、誰も知ることが出来ないが、何か決定的にハイアを追い詰める内容だったのだろう事は理解できる。
 そうでなければ、現状を説明することが出来ない。
 そこまで考えた時、後ろに誰かが立ったのを感じた。
 ミュンファの認識する限りにおいて、この手の行動を取るのはフェルマウスだったのだが、本人は既に傭兵団を去ったのだからとツェルニの宿泊施設に泊まり込んでいて、殆どここにやって来ることはない。
 ならばと、念のために用心しつつ振り返り、そしてその人物を視界の中心へと捉えた。

「フォルテアリさん?」
「はい。新参者の念威繰者で、しかも発音が極めて難しい通り名を選んでしまった間抜けなフォルテアリです」

 フェルマウスの遠縁だとか言う話を少し聞いた気がするが、そんな事はさほど問題ではない。
 切るのを面倒がって伸び放題という欠点を抱えていて尚、ミュンファが羨むほどに、その薄い金髪はしなやかで艶やかだ。
 とは言え、目を見張る特色というのはせいぜいがその金髪くらいな物で、顔を含めた全体像は極めて平凡である。
 だが、その平凡な外見の内側には、経験の差を差し引いてもフェルマウスには及ばないだろうが、それでも念威繰者としてかなり優秀であると断言できる。
 まあ、欠点というか癖の強いところを上げるとなると、念威を使わないととても回りくどく言葉の数が多いところだろうか?
 ミュンファの確認の言葉に返ってきたのも、かなり色々と自己主張をしている言葉の連続攻撃だったし。

「そ、それで、どうしたんですか?」

 フォルテアリの略歴を頭の中でなぞりながらも、何故彼がここにいるのかを問いただす。
 問いただすと言っても、ミュンファがやったら全く迫力に欠けるので、単に聞いているのと区別が付かないのだそうだ。
 団員の意見は全て一致しているので、相当確実な状況判断だと思うのだが、それは今どうでも良いことだ。

「はい。団長の所に来た手紙が気になりまして。封筒からグレンダンの匂いがしたと思ったのですが、それを確認する前に粉砕されて化錬剄で綺麗に燃やされてしまいまして、もしかしたら、俺宛の恋文かも知れないなどとは思っている訳ではないのですが、それでもその内容には著しい興味を引かれている訳なのですが、団長があの様子では今暫く様子を見る以外に方法はないようですね」
「そ、そうですね」

 念威を使わない時だけ、その言葉が異常なほど多くなる変わった念威繰者に指摘されるまでもなく、ミュンファから声をかけることがはばかられるまで追い詰められたハイアのことも、手紙のことも、もの凄く気になる。
 だからミュンファは、ハイアから少し離れた場所でその背中を見詰め続ける。
 何かが変わる訳ではないのだが、それでも見詰め続ける。
 
 
 
 後ろの方でなにやら騒いでいた二人が静かになったのを確認しつつ、ハイアは今朝届いた手紙について考えるふりをしつつ、実は何も考えられずにいた。
 本来サリンバン教導傭兵団というのは、先代のグレンダン王が廃貴族を探して捕獲させるために結成された組織だ。
 そのために、専用の放浪バスと熟練の武芸者を与えられ送り出された。
 だが、それもリュホウが団長を務めるようになった辺りからかなり怪しくなってきてはいた。
 そう。世界を放浪していること自体が目的になったかのように、方々の都市で色々なことを経験してきた。
 その結果、ハイアが団長を務めツェルニにやって来た。
 何の因果か、廃貴族などにさほど興味のないハイアが団長をやっている今になって、それは発見された。
 そして、何故か廃貴族の発見された都市に元とは言え天剣授受者がいたり、それが同じサイハーデンの継承者だったりと、色々と因縁を感じる展開となった。
 そう。問題は、廃貴族発見の報をグレンダンに送った手紙の返信にある。
 そこには、今までの苦労を労いつつグレンダンに戻れば、十分な報酬を支払うことが記されていた。
 そして、天剣授受者をツェルニに送るので廃貴族の捕獲をその人物に引き継げと。
 それはつまり、サリンバン教導傭兵団の解散を意味する。

「・・・・・・・」

 ここで、思考が停止してしまう。
 この先に進めない。

「いや」

 この先に進みたくないのだ。
 だが、このままここで立ち止まっていることもハイアらしくないので、少し戻ってきた気力を振り絞り考えを進める。
 グレンダンからの命令である以上、それに逆らうことはおそらく出来ない。
 この世界の構造上、命令を無視して放浪を続けてもさほど問題無いだろうが、グレンダン出身者が半分近くを占める団員の間に、確実に動揺が広がる。
 それは、組織が内部から崩壊するかも知れないと言う爆弾を抱えることに等しい。
 そんな危険を団長であるハイアが、自ら引き込む訳には行かない。
 手紙が来たことを秘密にしておくことも、ハイアの今の状況を不審に思われてしまうだろうから出来ない。
 ならばどうしたら良いのだろうか?
 結論は、最初から出ている。

「・・・。皮肉が効いているさぁ」

 元天剣授受者は、グレンダンでしくじって家族を失う羽目になった。
 そしてハイアは、任務の達成が困難になったと判断されて、そしてお払い箱になろうとしている。
 生まれた都市などと言う物を殆ど覚えていない、この放浪バスこそが家で有り、家族であるハイアが、それを奪われようとしている。
 よりにもよって、レイフォンと同じ目に合おうとしているのだ。
 いや。それも正確ではない。
 レイフォンは突然に失いそして再び手に入れたが、ハイアはこうして迷う時間を与えられ、そしてその先はまだ見えていない。
 運が良いのか悪いのかは別問題だが、ハイアは家族と家が失われるまでに時間を与えられた。
 自分の心を整理して、そして天剣授受者がツェルニに到着する時までに色々な物にケリを付けなければならない。

「・・・・・・・」

 ケリを付ける。
 そう。何よりもハイア個人がケリを付けるべきは何なのだろうかと考える。
 この答えも、やはり既に出ている。
 小さな呼気と共に、立ち上がる。
 まず向かうべきは父であるリュホウの泊まっている宿泊施設だ。
 ケリを付けなければならない。
 そう。レイフォンと戦いどちらが強いかを、誰の目にも分かるように、何よりもハイア自身が納得できる形で勝者と敗者を定めなければならない。
 前回のように茶髪猫に弄ばれて、実力を発揮する暇が無いような戦いをすることは出来ないのだ。
 正々堂々と正面から戦い、そして勝つ。
 負けたとしても、ハイア自身が自分に言い訳が出来ないようにしなければならない。
 そのために、リュホウの手を煩わせることになるが、ハイアはどうしてもここを通らなければ前に進むことが出来ないのだ。
 
 
 
 宿泊施設でリュホウを捕まえて、少しの時間話した後一緒にレイフォンの元を訪れた。
 だが、残念なことに、戦うべき相手は授業中だった。
 学生などと言う職業に就いたことのないハイアは、すっかり授業という物があることを失念していた自分に怒りを覚えつつ、校舎の外で終わるのを待つこととした。
 なぜかイージェは教室の後ろの方でにやけているが、あまり関わらないことに決めて、リュホウと並んで壁により掛かりつつ、授業が終わるのを待つ。

「それで、どうするつもりなのだ?」
「さぁ? 天剣授受者が来たらオレッチ達はお役ご免さぁ」

 唐突にリュホウが質問を放ったのは、小さな欠伸が出る頃合いになってからだった。
 そして、その疑問の真意をきちんと分かっていながら、ハイアはあえて違う答えを返した。
 実際問題として、傭兵団が解散となった後どうするか、ハイア自身全く何も考えていないからだ。
 いや。レイフォンとの勝負が終わるまでは考える気になれないと言った方が的確かも知れない。
 当然、その辺まできちんと認識したリュホウの視線は、しっかりとハイアを捉えている。

「傭兵団などどうでも良い」
「んな!!」

 だが、その口から出てきた言葉を受け流すことは出来なかった。
 リュホウ本人にとっても、思い入れのあるはずのサリンバン教導傭兵団のことをどうでも良いと切り捨てたのだ。
 思わず硬直した心と体でリュホウを見返す。
 そう。心と身体が硬直してしまっているから、どんな感情も考えも浮かんでくることはなく、ただじっとリュホウを見詰める。

「お前とミュンファの行く末に比べたら、傭兵団などどうとでもなる程度の問題だ」
「お、おやじ」

 続いた言葉がリュホウの気持ちを伝えてくれなければ、ハイアはきっと動き出すことが出来なかった。
 それ程までに衝撃的な内容だったのだ。

「私やイージェのように、死ぬまで彷徨い続けるか? 他の者達には故郷があるが、お前とミュンファにとっては傭兵団こそが故郷。それを失う辛さは分かるつもりだ」
「っは! 別段どうって事無いさぁ。ミュンファは知らないけど、オレッチにとっては吹けば飛ぶ程度の話さぁ」

 たとえ、リュホウ相手だろうと弱気なところを見せることは出来ないと、出来る限りの強がりを張ってみる。
 実際にそうでないことはハイア自身もリュホウも分かっているが、それを表に出すことは何故かはばかられた。

「そうか」

 微かな笑いが混じった声を聞く限りにおいて、完璧に隠し通せたという訳ではないことがはっきりとした。
 生きてきた時間の長さを考えれば至極当然の結果であるが、それはそれでなんだか非常に悔しい。
 と、ここでいきなりサイレンが鳴り響いた。

「んな!!」

 再び驚きの声を上げつつ周りを確認する。
 汚染獣の襲撃警報ではない。
 ならば、サイレンの意味は一つ。

「都市間戦争さぁ」

 これで、決闘は先延ばしになることがはっきりとした。
 ハイアの気持ちはどうあれ、すぐ近くで戦争をやっている状況では、落ち着いて戦えない。
 横槍が入ったりしたら、気持ちの整理も着かないかも知れない以上、今日この後戦うと言うことは出来なくなった。
 そう思った。

「この時間に訓練をすると公表されている。おそらくそれだろう」
「さぁ?」

 真剣なリュホウの視線と言葉がハイアに届かなければ、変な落ち込み方をしてしまったに違いない。
 そもそも、訓練があるなどと言う話は聞いていないのだ。
 だが、そんな話は聞いていないと言おうとして、今朝からずっとふさぎ込んでいたために、誰とも話さなかったことを思いだした。
 笑いを含んだリュホウの視線がハイアを捉えて放さない。
 とても居心地が悪いが、これが訓練だったのならば極めて重要なチャンスではある。
 その証拠に、教室の窓から飛び出して何処かへ向かう武芸者を視界に捉えることが出来た。
 当然、その中にはレイフォンとナルキも確認出来る。
 このいたたまれない空気をぶち壊すためにも、やるべき事はただ一つ。

「ちょっくらレイフォンに宣戦布告してくるさぁ」
「うむ。派手に迷惑をかけて戦っても後味が良くないからな」

 リュホウも話題の転換には乗ってくれたようで、ハイアと共にレイフォンを追跡することに同意してくれた。
 後はもう、突き進むだけだ。
 宣戦布告するついでではあるのだが、いたたまれない空気を吹き飛ばすために、少しだけ馬鹿な事をしようと思い、そのための準備も整える。
 
 
 
 
  おまけ!!
 ここからの話は来週の冒頭シーンとは全く関係ありません。ストレスの貯まった俺の暴走ですので、その辺ご了承下さい。
 
 
 
 
 
 
 武芸大会に備えた訓練のために教室を飛び出したレイフォンは、あまりにも異常な物を見てしまったために空中での姿勢制御を謝り、危うく地面に激突するところだった。
 それはあまりにも異常であり、そして良く見知った物だった。

「何をやっているんだ?」

 声が尖ることを押さえられない。
 斬り殺すつもりで放った視線はしかし、のほほんとした表情に迎撃されて効果を発揮しなかった。
 そう。同じサイハーデンの継承者であり、因縁が色々とある傭兵団の団長へ向かった視線が、のほほんとした表情に迎撃されてしまったのだ。
 ハイアがこんな顔をするとは全く思っても見なかった。
 だが、それを見たために姿勢制御にしくじった訳ではない。
 そう。立っているハイアの僅かに手前にいる存在が問題なのだ。
 そう。のほほんと笑う団長の前に座らされて涙目になっているのは、同じ傭兵団に所属している金髪眼鏡で巨乳な幼馴染みの少女だ。
 だが、何時もと決定的に違っているところがある。
 そのために涙目になって、レイフォンに助けを求めているのだ。
 本来助けを求めるべき人間が、後ろにいるというのに、前に向かって助けの視線を飛ばしているのだ。
 それは何故かと問われたのならば、ミュンファが、亀甲縛りにされていたからに他ならない。

「・・・・・・」

 思わず生唾を飲み込む。
 い、いや。メイシェンに匹敵してしまうある部分が、縛られているためだろうが、何時も以上に強調されてしまっているために、とても平静を保つことが出来ないのだ。
 これはつまり、男という生物の持つ最も根源的な部分が刺激されてしまっているからであって断じて浮気とかそんなものでは無いと断言できるかも知れない。
 うん。間違いなく浮気などと言うものでは無い。

「なあレイとん」
「な、なになるき?」

 そんな時に、弟子と呼べる少女の声が後ろからかかったために、おもわず身体が浮き上がるほど驚いてしまった。
 全く接近に気が付かなかった。
 これは、ナルキの技量が上がったという訳でないことは、きちんと理解している。
 ミュンファのある部分に集中力が持って行かれたために、隙だらけになっていただけなのである。
 それはそれとして、名残惜しい光景から視線をずらせてナルキを捉える。
 レイフォンの方を見ていなかった。
 ミュンファとハイアを見ているという訳でもない。
 その視線は、二人の少し後ろ、木陰にいる人物に向けられていた。
 こちらも良く知っている人物だ。
 デルクの兄弟子であるはずのその老人は、全サリンバン教導傭兵団団長のはずだ。
 だが、その身体に威厳は既に無く、巨木の幹に向かってお茶を飲みつつ遠い目をしているだけだった。
 決してこちらを見ようとしないその姿に、何故か涙がこぼれてきてしまった。

「ヴォルフシュテイン」
「な、なんだ?」

 あまりのリュホウの悲しい姿に心奪われ、もっと困った二人がいることに全く気が付かなかった。
 いや。出来れば忘れたかったのだ。

「オレッチと決闘をしてもらうさぁ」
「な、なに?」
「今ここで返事をもらうさぁ」
「い、いや」
「さぁ? 断るって言うんだったら、こっちにも考えがあるのさぁ」
「ま、まて」

 気が付いた。
 ハイアも平常心を保っていないと言う事に。
 レイフォンもナルキも、そして周りに集まりつつある観客も、全員が何処か平常心を忘れてきたように、状況に流される。

「断ったら、ミュンファの背中にミミズを入れちまうのさぁ」
「ひぃあぅ」

 宣言されたミュンファが、逃げようと足掻く物の、それは尽く失敗に終わる。
 亀甲縛りにされているだけではなく、首輪に繋がる鎖をハイアに握られていると気が付いたのは、この瞬間だった。
 ミュンファに逃げ場はない。
 そして、レイフォンにも逃げ場はない。
 ある意味、ハイアにも逃げ場はない。
 だが、ハイアだけはここで止まらなかった。

「更に」
「ま、まだ何かやるのか!!」
「サイハーデンは駄目人間の大量製造流派だって、世界中に宣伝して回るさぁ」
「・・・。おいハイア」
「ついでに、性犯罪者の痩躯だってデマも流すさぁ」

 のほほんとしたハイアの表情はそのままに、そんな恐るべき脅迫をしてくる。
 だが、レイフォンを動揺させたのは脅迫そのものではない。

「泣くくらいならそんな脅迫するなよ」

 そう。のほほんとした表情そのままに、その瞳からは滂沱と涙が流れて、その内面でどんな心の動きがあるかを教えてくれている。
 それは、木陰でお茶を飲んでいるリュホウにも言えることである。

「泣いてなんかいないさぁ。熱いんで目から汗が流れているだけさぁ」
「それを人は涙と言うんだよ」
「オレッチは言わないのさぁ」

 どうあっても平然とレイフォンを脅迫していると言う事にしたいらしい。
 別段、それに合わせること自体は問題無い。
 問題無いと思う。
 問題無いと言うことにしておきたい。
 そう。既にここまで話が進んでしまった以上、レイフォンには決闘を受けるという選択肢以外存在していないのだから。
 拒否したが最後、あらぬ噂が世界中に流れて、いたいけな少女の背中にミミズが放り込まれてしまうのだから。
 こうしてレイフォンは、ハイアとの決闘を了承したのだった。



[14064] 第九話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/08/14 21:09


 指定された集合場所へと移動している最中、レイフォンは後ろの方から高速で近付く気配を二つ感知した。
 それは、ツェルニの学生ではあり得ない速度で急速に距離を詰めてくる。
 いや。その表現は正しくない。
 全力状態のナルキを含めた数名ならば、何とか出せる速度で接近してくる。
 そして、接近してくる気配には覚えがあった。
 色々と因縁のある傭兵団の現団長と、師父と色々と因縁のある元団長だ。
 少し速度を落としつつ振り返り、そして呆気に取られた。

「ヴォルフシュテイン!!」

 復元した刀、では無く、その辺に落ちていた小枝を振りかざして接近してくるハイアと、その後頭部をひっぱたくリュホウを見てしまった以上、呆然とする以外のことが出来ようはずが無い。
 リュホウの突っ込みはかなり激しかったところを見ると、かなりシリアスな展開だったのをハイアがぶち壊してしまったために、少々怒っているのかも知れないと、現実逃避気味に考えつつ視線を動かす。
 隣を飛んでいるナルキに助けを求めたのかも知れないが、それは無意味だった。
 同じように、後ろを確認したはずだというのに、無理に前だけ向いて目的地に一直線だったのだ。
 批難するつもりはない。それどころか、レイフォンもそれに習うこととする。
 何時の間にか、追ってくる気配が三つになっているが全力で無視する。

「お前も突っ込めさぁぁぁ!!」

 何処かの誰かがそんな事を言っているようだが、レイフォンにはやるべき事があるのだ。
 そう。高速移動できない念威繰者であるフェリを拾うために、二年の校舎へと向かわなければならないのだ。

「じゃ、じゃあナルキ。僕はフェリ先輩を拾いに行くから」
「お、おう。大丈夫だと思うけれど気をつけてな。浮気なんかしたらメイッチに眼球抉られるからな」
「僕にそんな甲斐性はないよ」

 そんな会話をしつつ、後方からやってくる声を徹底的に無視しつつ、フェリが待っているであろう場所へと進路を大きく変える。
 そのついでに、被害が出ない程度の衝剄を放って追いすがってくる何かの接近を妨害する。
 関わってしまっては駄目だと分かっていても、同類だと思われるのも嫌なのである。
 抗議の声を聞きつつ、二年の校舎に到着。

「巻き込まれていませんか?」
「気のせいです」

 会った直後の、フェリの冷たすぎる視線と声を出来る限り無視しつつ、そっとその小さな身体を抱き上げる。
 浮気をするつもりなど無いが、こうしないと高速移動できないのだ。
 そしてふと気が付く。
 勝利を確信した視線が、レイフォンの背中に突き刺さっていることを。

「スクープさぁ」
「なに?」

 それは当然、刀刺青男ことサリンバン教導傭兵団の団長であるハイアの声だった。
 念のために振り返って確かめた先にいたのは、ニヤニヤと笑うハイアと、微笑ましそうに二人を見ているリュホウの姿だった。
 そして恐るべき事に、その後ろにはイージェまでいた。
 当然のこと、イージェの手には何時ものカメラが握られ、映像の記録が続けられている。
 フェリを抱き上げているこの光景だけを見れば、なにやらこれから色々な事情があるのではないかと想像できてしまう光景ではある。
 そして、イージェの性格からすれば、確実に色々と揉め事を起こして楽しむ。
 だが、事態はレイフォンのそんな予想さえもあっさりと無視して突っ走り続ける。

「フォンフォンがこんなに積極的だとは、今の今まで知りませんでした」
「え、ええぇぇ?」
「私を攫って思いを遂げようだなんて、そんな野獣だったのならば、もっと速くこうしてくれても良かったのに」
「ええええええええ!!」

 何故か頬を染めるでもなく、淡々と喋るフェリの台詞がレイフォンを追い詰める。
 しかも、視線はレイフォンを捉えていない。
 そう。イージェのカメラを捉えている。
 ニヤニヤと笑うハイアとイージェの視線が、もっと言ってくれとせがんでいるように見える。
 もちろんフェリに向かってである。

「フォンフォンがそう望むのでしたら、私は側室でもかまいません」
「側室って、何でしたっけ?」
「でも、出来たら二人の作るお菓子を沢山下さい。私はそれだけで十分に幸せです」
「話聞いてますか先輩?」
「何でしたら、私が貴方方二人を養って差し上げてもかまいません」
「おおいい」

 軽く身をよじったりしつつ、自動的に台詞を読み上げ続けるフェリをどうするかと考える。
 一番良いのは、ここに置いて行ってしまうことだが、これから訓練である以上実行することは極めてよろしくない。
 次に考えついたのが、三人が追いつけないほどの全力疾走で集合地点へと突っ走るという物だったが、確実にフェリを殺してしまうので却下だ。
 つまり、打つ手など存在していない。

「でもよぅヴォルフシュテイン?」
「な、なんだよ?」

 そんな打つ手が存在していない状況の中、嫌らしい笑みを浮かべた刀刺青男がその触手でレイフォンを責める。
 いや。触手ではないかも知れないが、レイフォンを責める。
 そして放たれた台詞は、ある意味とても思い出深い物だった。

「お前の返答次第じゃあ、オレッチはこのことを忘れるさぁ」
「・・・・・・」

 一年半近く前に、ガハルドから似たような台詞を聞いた覚えがある。
 忘れるつもりはないが、気合いを入れて覚えていようとも思っていなかったが、まさかツェルニで似たような台詞を聞くとは思いもよらなかった。
 いや。ある意味で事態はグレンダンの時よりも深刻だ。

「忘れるのはハイア。お前だけなんだな」
「ぐへへへへへ。俺とカメラはきちんと覚えておいてやるぜぇ? 結婚式の時に公開してやっても良いくらいだよなぁ」
「私は何も見ていませんヴォルフシュテイン卿」

 そう。ハイアだけが忘れても何の意味もないという事実がある以上、グレンダンの時よりも深刻で過酷である。
 いや。事態はもはや想像を絶するほどに残酷であった。

「私の胸に刻み込まれたこの記憶を奪うことなど、誰にも出来ようはずがありません」

 念威繰者であるフェリまでもが、レイフォンを虐めて楽しんでいる現状を残酷と言わずして、何を残酷と言えば良いのだろうかと少し疑問に思ってしまったが、これこそが現実逃避だ。
 そして、迷っている時間さえもない。
 フェリを連れて行かなければならない以上、集合場所へと移動しなければならないのだ。
 それを口実として、ゆっくりと足を曲げて、慎重に加速する。
 当然、そんな緩い加速で置いて行ける武芸者などツェルニには存在していない。
 こうなればもう、玉砕覚悟の攻撃しかないと腹をくくる。

「ああもう!! 要求は何だ!! ミィフィの命だとか言うつもりじゃないだろうな!!」
「そんなもん要らないさぁ」

 街頭の頭や看板を蹴りながら上昇して、屋根の上に達したところで悠然と着いてくる脅迫者達に質問を放つ。
 ハイアは何か用事があるようなので、取り敢えずそれから対応しようと決めたのだ。
 そして真っ先に思い付いたのが、色々な因縁があるらしいミィフィ絡みの問題だったが、どうやらこれは違ったようだ。
 一安心と言って良いのかどうかは、少し疑問だが、話の続きを促す。

「オレッチと決闘をしてもらうさぁ。もちろん茶髪猫はどっかに置いてでおいてさぁ」

 ミィフィを置いでおくという意見には賛成できるが、前半の方は非常に問題である。
 真っ正面からハイアと戦ったのならば、勝つことは出来たとしても、無傷という訳には行かないだろう事は確実だ。
 剄量に難はある物の、その技量だけを取れば天剣授受者としても十分に通用する実力者なのだ。
 レイフォンの手元に天剣があったのならば、力押しで完全勝利を得ることも出来るだろうが、それを望むことは出来ない。
 ならば、答えはたった一つしかない。

「武芸大会が終わった後ならかまわない」
「さぁ? 今年いっぱい待てってかぁ?」

 本来レイフォンが武芸科に転科したのは、汚染獣と戦うためではない。
 その他色々と面倒ごとに巻き込まれたが、本来の目的と言うのは、武芸大会で勝利してツェルニの滅びを回避するためだった。
 ならば、出来る限りにおいてそれを優先させなければならない。
 今のツェルニ武芸科の実力ならば、おいそれと負けるとは思わないが、戦いなど終わってみないと分からない以上、念を入れておいた方が良いのは間違いない。
 とは言え、大会期間がいつまで続くか分からない以上、ハイアの不満ももっともである。
 ここは妥協するべきかも知れない。

「一戦だ。一度戦って勝っておけばその次に負けてもツェルニは滅ばない」

 目的を達成するためにこそ努力はするべきである。
 だとするならば、レイフォンのこの判断はあながち間違ったものでは無いはずだと、そう信じることにする。
 ハイアとしても、この辺で妥協できるのではないかとそう思うのだ。
 そして、逡巡する気配が後ろを着いてくる。

「いいさぁ。オレッチにも色々と事情があるさぁ。そいつを片付けながら待ってやるさぁ」

 答えを聞きつつ、小さく溜息をつく。
 これで、取り敢えず揉め事が一気にやって来るという事態は避けられたとそう思うから。
 大人と老人の興味津々の視線とか、念威繰者の少し冷たい視線とかが気になるが、既に集合場所は目の前である。
 カメラに収まった映像とかを何とか消し飛ばしたいが、それをぐっと堪えてフェリと共に訓練に参加することとした。
 
 
 
 武芸大会を想定した訓練が終わり、シェルターから出たミィフィは思わずニヤけてしまった口元を押さえることが出来ずにいた。
 そう。全ては偶然なのだ。
 偶然シェルターから出たミィフィの前に、とてつもなく不機嫌な刀刺青男が降り立ったと言うだけのことでしかない。
 状況を確認するために、隣にいるリーリンとメイシェンに視線を向ける。
 二人とも驚いて固まっているだけであることを認識しただけだった。
 ならば、二人が覚醒するまでの時間を適当に稼がなければならない。
 別段、それは必要と言う事ではないのだが、ミィフィの精神衛生上やらなければ気が済まないのだ。

「ふむ。美しすぎるこの私を誘拐しに来たという訳だね?」
「異次元の怪生物なんぞ誘拐する趣味はないさぁ」
「そして私を人質にレイとんに卑怯な戦いを挑み、そして惨めに敗北する訳だね?」
「人質にするんだったら、そっちの垂れ目脱臼女にするさぁ」

 この瞬間、メイシェンに新しい二つ名が加わった。
 脱臼女。
 まあ、それは置いておくとしても、戦略としては十分に正しいと断言できる。
 メイシェンを人質に取り卑猥な罠を仕掛けることこそが、レイフォンの潜在能力を最も効率よく引き出す方法だからだとウォリアスから聞いた。
 伝聞なので正確ではないかも知れないが、それでもレイフォンに対しては有効な手段であることは間違いない。
 とは言え、手加減が出来ないそうなので、本当の意味で一撃必殺になるかも知れないが、まあ、それは目の前の不機嫌な傭兵の問題だから気にするべき事柄ではない。

「そもそも、ヴォルフシュテインとは正々堂々と決闘することになったさぁ。どっかの異次元怪生物な茶髪猫なんぞが関われないように、正々堂々さぁ」
「な、なに!!」

 ハイアのその言葉を聞いた瞬間、今まで呆然としていたリーリンとメイシェンが一気に覚醒して、今聞いた事柄をお互いに確認し合っている。
 実際問題としてミィフィも驚いて一瞬とは言え硬直してしまっていたのだ。
 戦うことが好きではないレイフォンが、どうしてハイアと戦うことに同意したのか、それがとても疑問なのだ。
 ミィフィ自身が提案したように、誰かレイフォンの親しい人間を人質にとって戦いを挑むとかなら兎も角、普通に正々堂々と戦いを挑んでも受けないとそう思っていたのだ。
 ツェルニの暴走中に、何か致命的な変化がレイフォンに起こったのでないとすれば、これには間違いなく裏があると確信する。

「ぬふふふふふ。するぞするぞ。スクープの匂いがするぞ」
「・。そんなもんはないさぁ」

 この時勝利を確信した。
 ハイアが返事をするまでに、僅か一瞬の間があったのだ。
 ならば、何かの裏事情が存在していて、それを対戦するハイアまでもが隠している。
 そう直感した。

「ぬふふふふふふふ」
「な、何さぁ」

 事情を全て吐かせるために、両手をワキワキさせつつもヨルテムで可愛がってあげた武芸者へと迫る。
 あの時は楽しかったねと、昔話から始めて、それとなく今回の核心へと迫るのだ。
 そして、ルックンでその情報を全て公開して売り上げアップを目指す。
 だが、突如として全ての計画が崩れる。

「な、なに!!」

 一歩前へと進んだ足を、二歩三歩と進めようとしたところで、両肩に手が置かれた。
 その手は小さく力も弱かったのだが、ミィフィ自身も非力な乙女でしかない以上、抗うことは出来ない。
 そして、分かっていることではあるのだが、肩におかれた手の正体を、視線だけを動かして確認する。
 そこにいたのは、割と真剣な表情のリーリンとメイシェンだった。
 いや。もっとこう、手厳しく批難しているようなそんな空気を感じる。

「え、えっと?」
「ミィフィ」
「ミィちゃん」
「な、なにかな?」

 二人からのプレッシャーがミィフィを追い詰める。
 二人ともかなり怒っているのだ。
 何故この二人がこれほど怒っているのか、さっぱり分からないが、レイフォンとハイアの決闘が絡んでいるだろう事は理解している。
 そこでふと思い至る。
 レイフォンとハイアの間には、直接ではないにせよ色々と因縁があったのだと。
 それを精算するために戦うのだとすれば、下手に干渉するととても痛い目に合う。
 いや。既に痛い目に合っている。

「レイフォンが納得しているんだったら」
「邪魔しちゃ駄目だからね」
「お、おう」

 この結論に達したところで、二人から念押しがやってきた。
 逆らうことなど出来ようはずが無い。
 そんな事をしたら、美味しいご飯もお菓子も取り上げられてしまうのだから。
 かなり残念ではあるのだが、それでも逆らうという事は出来ない。
 そもそも、あまり派手にスキャンダル記事を書き続けていると、最終的には記者としての取材が出来なくなってしまうのも事実。
 まあ、そもそも、そんなにおかしな内容の記事を書くつもりなど無いのだ。
 何時ぞや書いたツェルニに死すは好評だったが、二匹目の土壌などそうそういない以上、地道な取材と下準備こそが大切だと言う事くらいはきちんと理解している。
 返す返すも残念ではあるが。
 安堵の溜息をついている刀刺青男をもう少し虐めたいとも思うのだが、今やってしまうとミィフィの立場が悪くなることもきちんと理解しているのだ。

「まあ、またその内遊んでやるから寂しがるなよ」
「お前と遊ぶくらいなら、汚染獣と戯れている方が楽しいさぁ」

 そんな捨て台詞を残しつつ、何処かへと飛んで行ってしまった。
 だが、決闘の直前の取材くらいはしてみたいと思っているミィフィから逃れることなど、出来はしないのだ。
 
 
 
 辛くもミィフィの攻撃を退けることが出来たハイアだったが、状況はあまり好転しているという訳ではない。
 何も変わっていないと言った方がしっくり来るだろう問題と向き合っているのだ。
 レイフォンとの決闘という、自分なりのけじめを付ける目処が立ったからには、傭兵団のけじめを付けなければならない。
 そしてこれは、リュホウやフェルマウスに頼ることなど出来ない。
 団長であるハイア自身が、団員の前で宣言しなければならないのだ。
 天剣授受者が来たのならば、傭兵団は解散になると。
 専用のバスに返ってきたハイアは、その決心が鈍らない内にと全員を食堂に集め、丁寧に焼却処分にしてしまった手紙の内容を開示する。
 団員の反応は様々だった。
 本来の目的を達成できないと分かったために、消化不良をする古参の団員もいたが、故郷に帰ることが出来ると喜ぶ物も多かった。
 ハイアやミュンファほど若い団員というのは流石にいないが、それでも若手の中にはこれからの目標を無くしてしまい、呆然とすると言う今朝の自分を思い出させる反応をする者も居た。
 ある意味他人事としてそれらを眺めつつ、ハイアはこれから武芸大会が終わるまでどう過ごそうかとそんな事を考えていた。
 もちろん、鍛錬を疎かにするつもりはない。
 幸いなことに、リュホウやイージェと言った熟達の武芸者がいるのだし、ツェルニの教導も契約は終わっているから時間も人も問題無い。
 そこでふと、視線を感じた。

「なにさぁ?」

 その視線をたどって行くと、ミュンファとフォルテアリと遭遇した。
 そして疑問がわき上がってくる。
 ミュンファは分かる気がするのだ。
 ハイアと同い年であり、この先どうしたら良いのか分からなくて困っているのだろう事は、おおよそ予測できる。
 問題はフォルテアリの方だ。
 つい最近グレンダンからやって来たばかりで、やっとの事で傭兵団に馴れたと思っていたら、帰ることになるかも知れないと言う話になって、戸惑っているのかとも思ったのだが、それも少し違うような気がしている。

「俺の野望が達成できないと言う事について、色々と言いたいことがあったり無かったりすると思うのですが、それは今置いておくとしても、グレンダンを出てまだ一年経っていないというのに戻ることについて、感慨深いと表現できないと思う次第です。更に言わせて頂くならば」
「何が言いたいのさぁ? 念威端子経由で言えさぁ」

 この新しい念威繰者は、念威端子を使わないで喋ると猛烈に言葉の数が増えるのだ。
 それを効率よく黙らせるには、当然念威端子を使う以外に方法はない。
 既に、傭兵団の中ではフォルテアリと会話する時には、端子を経由するのが常識となりつつあるほどだ。
 そうでないと、軽い情報のやりとりだけで一時間はかかってしまうからだ。

『二度と戻らない覚悟でグレンダンを出てきた俺のメンツが保たれません』
「さあ」

 そして、効率を上げて出てきたのが、かなり屈折した心の動きだったりしたために、反応に困ってしまった。
 聞いた話では、グレンダンでは傭兵はとても扱いが悪い。
 イージェの言い分を信じるならば、報酬を出すくらいなら死んでくれた方が有りがたいと言う事だったし、葬式も年に一度まとめてやるという徹底ぶりだとも言っていた。
 そんな都市の出身者でありながら傭兵団に参加するとなれば、それはかなりの覚悟を必要とすることは間違いない。
 そして、その覚悟をして出てきた都市に、一年少々で返らなければならないという今回の展開は、確かに色々と屈折してしまうだろう。
 だが、この問題は割と簡単な解決方法がある。

「イージェと一緒に傭兵でも続けるさぁ」
『成る程。それは一考の価値がある提案です』

 そう言いつつ、端子を周りに飛ばしながら食堂を出て行くフォルテアリを眺める。
 なんでこうも面倒な人間が、ハイアの知り合いには多いのだろうかと。
 まあ、傭兵団なんかを率いていると良くあることであるので、あまり気にしないでもう一人の方へと視線を向ける。
 そして仰け反った。

「な、なにさぁ」

 捨てられた子犬のような視線で見られていたと、そう表現することは出来るかも知れないが、断じてそんな生半可な威力ではなかった。
 あえて言うならば、一緒に死んでくれと懇願されている視線だ。
 いや。もちろん、一緒に死んでくれなどと言われたことはないが、ミュンファの視線は間違いなくそれ程の決意を秘めているのだ。
 仰け反ってしまっても批難される謂われはない。

「ハイアちゃん」
「お、おう」

 思わず、何時もと違う喋り方をしてしまったし、団長と呼べとも言えなかった。
 何よりも、団員の全ての視線がハイアとミュンファを注視しているのだ。
 フォルテアリに至っては、イージェ並に何か映像記録装置などを持ち出している有様である。いつ戻ってきたのか分からないほどに凄まじい手並みを拝見してしまったが、当然の事として全然嬉しくない。
 瞬時に、レイフォンの気持ちが分かってしまったくらいに、嫌な汗が背中を流れる。
 今度会ったら、もう少し優しくしてやろうかなどと言う仏心を出してしまうくらいには、恐ろしい体験である。

「ハイアちゃんはどうするの?」
「お、俺か?」
「うん」

 後ずさろうとする身体を、何とか踏みとどまらせる。
 ここで引いたら、何かが終わってしまうような気がしている訳ではないが、何故か、意地でも引きたくないのだ。

「ヴォルフシュテインとの決着が付いてから考えるさぁ」

 そして、呼吸一つ分くらいの時間をおいてから、出来るだけ何時も通りの態度を装いつつ答える。
 だが、言ったことに間違いはない。
 レイフォンとの決着を、双方に言い訳が出来ない状況で付けなければ、ハイアは何処にも行くことが出来なくなってしまっているのだ。
 何故だろうかと考える。
 リュホウの後悔を引きずっているのかと思っていたが、それは少し違うような気がしている。
 もしそうならば、ハイアが目指すべきはレイフォンではなく天剣でなければならない。
 ここまで考えて、そして気が付いた。
 同じだからだと。
 家族と故郷を無くして、そしてレイフォンは再び手に入れることが出来た。
 そのレイフォンと戦うことで、ハイアももう一度手に入れることが出来るのではないかと、そんな非論理的なことを考えているのだと。
 鼻で笑えるほどに下らない理由だとそう理解してしまっているが、それでも戦わずにはいられない。

「最低さぁ」
「な、なにが?」

 そこまで考えた時、小さく自分を罵ってしまった。
 戦うことは是非ともやるべきだと思っている。
 だが、もはやそこに勝敗は関係なくなりつつあることに気が付いたのだ。
 勝敗に関係なく戦おうとしている自分に腹が立ってきた。
 戦うと決めた以上、そこには絶対に勝つという意気込みが必要だ。
 そうでなければ、最後に踏ん張りが利かなくなるから。
 汚染獣との戦いにおいて、最後の踏ん張りが利くかどうかは極めて重要だと、色々な都市を渡り歩いてきたハイアは骨身にしみて理解しているはずだというのにだ。

「気にする事無いさぁ。オレッチは気にしないさぁ」
「そ、そうなの?」
「おう」

 だが、そんなハイアの内心をミュンファに押しつけることは出来ない。
 ハイアには、ハイアの意地ややり方があるように、ミュンファにはミュンファの選択があるはずだから。
 そして、思わず後ずさった。

「な、なななにさぁ?」

 さっきよりも凄まじい何かを秘めたミュンファの視線が、ハイアを後退させたのだ。
 それに抗う術などハイアの手の中にはない。
 そして気が付いた。
 何時の間にか団員がいなくなっているという驚愕の事実に。
 何を期待したのか、予測したのか、危惧したのかは知らないが、フォルテアリを含めた全員が気配を察知できる範囲から居なくなっているのだ。
 ご丁寧に、フォルテアリのカメラだけが残されている。電池が抜かれ撮影できない状況になって。
 そして理解した。
 これこそが、レイフォンが最も恐れている事態なのだと。
 やはり、レイフォンとハイアは良く似ているのだと、その結論に達して絶望した。
 そう。ハイアにもラブコメ人生が待っているかも知れないから。
 だが、当面の問題は、目の前にいる幼馴染みの少女をどうするかだ。
 未知なる戦いが今始まる。



[14064] 第九話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/08/28 19:06


 それは唐突に現れた。
 平野を進むツェルニの前方に立ち塞がるかのように、現れたのは、ツェルニと同じ学園都市。
 そう。武芸大会の初戦が始まろうとしていた。
 学園都市マイアス。
 この一戦にツェルニの存亡がかかっていると言っても過言ではない。
 過言ではないのだが、ある特定の人達にしてみれば、かなり迷惑な相手である。

「落ち着いてナルキ!!」
「そうだよナッキ! 兎に角落ち着いて」
「ナッキ! お願いだから刀はしまって!!」
「そうよナルキ。切腹なんて痛そうなことは止めて!!」
「はははは。この世は所詮弱肉定食。生きていてもなんにも良いこと無いからあの世で幸せになるんだ」

 レイフォンの目の前には、何故か刀を逆手に握ったナルキが、今にもその切っ先を自らの腹部へと突き刺そうとしていたりする。
 その瞳に光はなく、絶望の闇の中から死という逃げ場所を見詰め続けていた。
 それどころか、四字熟語を間違っているようだが、それ程までにナルキは限界の精神状態なのだろう。
 それを目の前にして、ミィフィにメイシェン、リーリンと一緒に何とか思いとどまらせようと努力しているのだが、ナルキが止まる気配はない。
 気持ちは分かるのだ。
 何しろマイアスには、グレンダンから来た天剣授受者がいるのだし、間違いなくツェルニにやってくるのだし、確実にナルキかレイフォンと戦うこととなるのだ。
 レイフォン自身が認めている通りに、サヴァリスが来たら真っ先に逃げ出したいところである。
 閉ざされた世界では、逃げる事さえ至難の業だが、レイフォンなら何とか出来るかも知れない。
 だが、ナルキは無理であろう。
 だからこそ、この世からの逃亡を図っていることは理解できるのだが、それは出来たら止めて欲しいのだ。
 と言う事で、取って置きの手段を使うこととした。

「待ってよナルキ! そんな刃引き設定の刀じゃ切腹なんか出来ないから!! せめて切れる刀で苦痛の時間が短いようにしないと!!」
「・・? え?」

 今にもその腹部へと突き進もうとしていた切っ先が、急激に動きを止めて凍り付く。
 汚染獣との戦いのまま、安全設定を施していない虎徹の切っ先がだ。
 普通ならこんな幼稚な詐術に引っかかりはしないはずだが、いっぱいいっぱいのナルキには十分に効果があったようだ。
 そして、こんな絶好の隙を見逃すほどレイフォンは錆び付いていない。

「確保!!」

 ナルキの手から刀を引ったくり、少女三人に命令を飛ばす。
 何か叫びつつ突進したミィフィに押し倒され、リーリンに右手を抱え込まれ、更にメイシェンが足に抱きついている状況では、これ以上抵抗することなど出来ようはずが無い。

「うわぁぁぁぁ!!」

 身をよじって暴れているが、活剄を使って強引に引き剥がすなどと言う事は出来ないようだ。
 間違いなく誰かが怪我をするから、当然の反応である。
 それを見越していたからこそ、レイフォンも少女三人に確保命令を出したのだ。
 だが、油断は出来ない。

「最終的にこれで」

 そう言いつつ、近くにあったタオルで猿ぐつわを噛ませて、舌を食い千切られないようにする。
 止めとばかりに近くに有った布団で、簀巻きにしてきっちりと縛り上げる。
 四人で息をついてこの件はやっと終了となった。

「それにしても、本当に天剣授受者がマイアスにいるの?」
「それは多分間違いないよ」

 一息ついてお茶を淹れたところで、リーリンに尋ねられた。
 場所はナルキ達の借りているアパートのリビング。
 今ナルキは、簀巻きにされた姿そのままに、メイシェンの膝枕で一休みをしているところだ。
 優しく髪を撫でられているが、その瞳からは滂沱の涙がこぼれて、慰められているとはとうてい思えない姿だが、取り敢えず一休みと言ったところだ。
 都市が見えたのは数時間前のことだった。
 それがマイアスだという知らせがフェリから届けられた瞬間に、ナルキが切腹を計ったという超展開の後が、あちこちに物が散らばった部屋に残っている。
 そしてリーリンの疑問はもっともであり、レイフォンだって疑問に思わないではないのだが、ナルキの証言を聞けば聞くほどサヴァリス本人に間違いないと確信できてしまう。
 戦うこと以外に興味がない天剣最凶の人物だけに、レイフォンのように何かをしくじって追放処分という事にはならないだろう。
 何かをしくじるような余地は、サヴァリスにはないのだから。
 ならば、何かの理由があってグレンダンを出たと言う事になる。
 そうなると、この時期ツェルニでの用事となると、それはもう廃貴族以外には殆ど考えられない。
 リーリンやゴルネオに用事と言うこともあるかも知れないが、どんな内容なのかを考えつくことが出来ない。
 となれば、想像できる事態について備えておくことしかできない。
 以前ウォリアスがそう言っていたので、多分間違っていないと思う。

「だけどさぁ。ナッキに取り憑いている山羊さんだっけ? それをどうにかしないと解決にならないんだよねぇ」
「どうにかしたいのは山々なんだけれど、グレンダンに連れ帰る以外に方法がないってハイアも言っていたし」

 お茶を飲みつつ今後の対策を話し合う。
 話し合うとは言っても、解決策を思いつける人間などツェルニには存在していない。
 頼みの綱のウォリアスでさえ、ナルキに都市外逃亡を勧める始末である。
 放浪バスがないのならば、都市外戦装備でツェルニの少し外にいれば良いという、とても乱暴な方法だが、相手がサヴァリスならば有効かも知れない。
 誰か優秀な念威繰者の協力を得られなければ、とても有効な方法ではある。
 だが、不用意に飛びついてはいけない。
 最悪の場合として、カリアンを脅してフェリの強力を取り付けて、都市外でナルキを襲うという事態も想像できるのだ。
 そこまで考えたレイフォンの頬に、視線が当たっていることに気が付いた。
 突き刺さってはいないが、それでも無視できない圧力を持っているそれをたどってみると、何故かリーリンが少し怖い顔でレイフォンを見ているのに気が付いた。

「え、えっと?」
「レイフォンなら何とか出来るんじゃないかな?」
「な、なんとかですか?」

 思わず敬語になりつつもリーリンの提案を受けて、少し引いてしまった。
 サヴァリス相手に何とかすると言う事が、何を意味しているのかリーリンが理解できているか、少し疑問になたからだ。
 楽しく戦うこと以外に何も考えていないサヴァリスが、ナルキを襲わないように何とかすると言う事は、とても平和的ではない手段以外にはないのだ。
 それはつまり、サヴァリスの大好きな殺し合いをすると言う事に他ならない。
 そして、同じ天剣授受者同士が戦えば、どちらが勝つかは、その時になってみないと分からない。
 だが、無下に断ると言う事もかなり難しい。
 絶望という暗闇の中から、ただ一筋の光を見つけたような視線でナルキに見詰められているからだ。
 それは膝枕しているメイシェンも、片付けをしているミィフィも同じだ。
 むしろ、断ることなど出来ない状況が出来上がってしまっている。
 ならばレイフォンに出来ることは、ただの一つ。

「微力を尽くしてみることにするよ」
「レイフォンを倒さない限りナルキと戦えないって事にすれば、サヴァリス様も納得してくれるでしょう」
「・・・・。それが何を意味しているかリーリンは理解していないよね?」

 とても小さな声で言ったので、当然のことリーリンには聞こえていないだろう。
 認識できたのは、猿ぐつわを外されて息を吹き返したナルキだけ。
 とても力強い視線で、頑張ってくれと応援されてしまった。
 
 
 
 レイフォンが出てきていないとは言え、訓練場には第十七小隊の面々がそろっていた。
 ニーナの視界の中でシャーニッドがベンチで寝転び、フェリが何かの雑誌を読み、ダルシェナが壁に寄りかかり瞑目しているし、ハーレイが端末を弄っているという日常の風景が展開されている。
 運命の対戦相手をマイアスだとレイフォン達に知らせたフェリの笑顔が、とても怖かったのは既に過去の話しとなって、日常を取り戻している。
 出来れば記憶から永遠に抹殺したいところだが、それはまだ出来ていない。

「前回の戦績は二勝二敗。可もなく不可もなくって感じだね」
「最初の対戦相手には丁度良いと考えるべきか? いや。油断することこそを戒めるべきだ」

 ハーレイの情報を咀嚼しつつ、ニーナは改めて決意を固める。
 この大会で勝たなければならないのだと。
 とは言え、前回に比べて戦力は異常なほど強化されているから、そうそう負けることなど無いと思うのだが、絶対に負ける事はないと思い込んで油断することだけは避けなければならない。
 戦略・戦術研究室の暗躍もあるから、よほどのことがなければ大丈夫だとは思うのだが。

「そう言えば、ディンがなにやら小細工をしていたが、シャーニッドは内容を知っているか?」
「俺がか?」

 ニーナに合わせた訳でもないだろうが、ダルシェナの疑問はとても重要だ。
 あのウォリアスと二人でなにやら暗躍している、元十小隊長のことだから、どんな手を使ってでもツェルニを勝利させるだろう。
 どんな戦術で戦うつもりなのかについては、ニーナもそれなりには聞かされている。
 暴走している間の連携訓練を通じて、各部隊の特色や行動はおおよそ理解できている。
 だが、全てを知らされている訳ではないし、その時にならなければ決められない戦い方というのも確かに有る。
 だが、戦う前に勝つ算段を付けておくのが戦略だと言うことなので、ずいぶん前から色々と暗躍しているのがあの二人だ。
 そう。暴走中のギリギリの状態でさえ、武芸大会の準備をしていたという噂さえある。
 そこまでやっている二人の努力に報いるためにも、負けることだけは許されない。
 全力で戦い、そして勝つのだと心に決める。
 全てはこれからなのだと、そう決意する。
 だが、続いた台詞はある意味予想しておくべき物だった。

「何でも、これ以上ないくらいに卑怯な戦い方をするって言っていたから、勝ったとしたら相手に謝りたい気分になるんじゃないか?」
「・・・・・・・・・・・・・・」

 予測していなかったために、決意が揺らいでしまった。
 勝者となった側が、敗者に向かって誤りたくなるような戦い方などと言う物は、残念なことにニーナの知識の中には存在していない。
 それはつまり。

「・・・・・・・。い、いや。勝たなければならない以上、どんな卑怯な手段だろうと選択肢として捨てるべきではないはずだ」
「そうだ。私達には後がないんだ。なんとしても勝たなければならないはずだ」

 強引に自らの方向を定める。
 それはダルシェナも同じだったようで、表情が引きつっているし視線が定まっていないが、それでも勝つことに貪欲になろうと努力しているようだ。
 正々堂々と戦って勝つことこそ重要だという、ある意味負けた時の言い訳をしてはいけないのだ。
 結果が全てなのだ。
 強引に自分にそう言い聞かせている最中、訓練室の扉がノックされる音が聞こえた。
 誰か来る予定があっただろうかと訝しんでいる間に、ハーレイが扉を開けて、そして驚いた。

「ディン?」
「ようタコ」
「タコと言うな」

 どんな恐ろしい作戦を考えているか分からないはずのディンが、何時も通りのいかめしい姿でそこに立っていた。
 その後ろには、当然のことウォリアスも居る。
 当然のことかも知れないが、細目の極悪武芸者の手には手土産とおぼしきお菓子の箱が持たれていた。
 これは、何かとても恐ろしい事態になったのだと、それだけが認識できた瞬間だった。
 もしかしたら、本当に誤りたくなるような戦い方をすることになるかも知れない。
 だが、それでも勝たなければならないのだ。
 とは言え、一つ大きな懸念がある。

「私は勝つことに意義を見いだせるだろうか?」

 どんな卑怯なことをしても勝たなければならないのだとしたら、勝利の杯とは甘美ではなく苦いのかも知れない。
 そんな恐るべき予測と共に戦略・戦術研究室の二人からの提案を聞くのだった。
 
 
 
 もはや日常生活の一部となってしまっていることだが、リチャードは四人分の朝食をせっせと作っていた。
 自分とデルクの分は何ら問題無い。
 作らないといけないというのもあるが、どうせならばきちんとした美味しい食事をしたいから、二人分を作るのは何ら問題無い。
 問題なのは、本来ここで食事をする必要がない二人の方だ。

「ねえねえリチャード」
「お腹が空きました」
「待ってろ」

 そう。朝食の催促をしている二人のことだ。
 料理を続けている最中、視線をずらせて朝の鍛錬が終わったデルクを見てみる。
 目の焦点が合っていなかった。
 もしかしたら、このまま取り返しの付かない事態へと突き進んでしまうかも知れない。
 無いとは思うのだが、認知症にかかってしまうとか。

「・・・・・・・・」

 今日も良い天気だなという現実逃避をしたくて仕方が無いが、それを全力で堪える。
 ここでリチャードまでが惚けてしまっては、サイハーデンの道場は完全に機能を停止してしまうのだ。
 それだけは何とか阻止しなければならない。
 最悪の事態に備えるために、ヨルテムにあるサイハーデン道場に応援が欲しいという手紙を送ったのが、暫く前の話だ。
 未だに返事はないのだが、人類の住環境的に言って、一年は待たなければならないだろう。
 駄目だと言われるにしても、応援が来るにしても、最低限それだけの時間は待たなければならない。
 いや。これも現実逃避だ。

「速く速く」
「あまりゆっくりしていると、執務に差し支えが出るので、早めにして頂けると嬉しく思います」
「えええ! 執務よりもご飯の方が遙かに重要よ!!」
「そんな事は御座いません!!」

 問題を引き起こしている二人組へと視線を向ける。
 何故か手には、フォークを握っているが、これをどうするつもりなのかリチャード本人にも分からない。
 分かっていることと言えば、グレンダン女王アルシェイラ・アルモニスと、天剣授受者のカナリス・エアリフォス・リヴィンが、毎日朝食を食べに来ていると言うことだけだ。
 そして、夕食も週に二度か三度やってきているという事だけだ。
 一般のご家庭にやってくるほど、王宮の食事は酷いのかとそんな事を考えた時期もあったが、違うらしいことは大体分かっている。
 きっと、味よりも食事の雰囲気とか、我が儘を聞いてくれる人とか、騒々しい会話とかの方が重要なのだろう事は理解できているのだ。
 理解できるが、当然納得など出来るはずがない。
 だが、納得できなくても現実問題として毎朝食事に来る二人を何とか捌かなければならない。
 と言う事で、リチャードが料理を作る能力は、飛躍的にその精度と速度が向上しつつあった。
 もはや、活剄を使わないと包丁の動きを捉えることさえ困難なほどだ。
 リチャードに剄脈はないから使えないのが残念で仕方が無いくらいに、凄まじい速度で包丁が野菜や果物を切り分け、そして卵が混ぜられてオムレツが作られる。
 その他の料理もどんどんと作られて行くのだ。
 そして、全ての料理が食卓の上に並んだ。

「出来たぞ。さっさと食って仕事に行け」
「ええええ!! ご飯が終わったらのんびりとお茶を飲んで、それが終わったらお昼を食べるつもりなのよぉ」
「いつまでお茶を飲んでいるつもりですか!! 働かない者は食べてはいけないのを知らないのですか!!」

 朝食を猛烈な勢いで片付けつつ、二人の会話は一切止まることがない。
 どうやって口を使っているのかとても疑問だが、一つしかない口で二つの仕事をこなしている二人から視線をデルクへと向ける。

「・・・・・・・・・・・。ああ。お茶が美味しい」

 未だに焦点の合わない視線が、食卓を彷徨っている。
 ちなみに、デルクの手にあるのはオレンジジュースだ。
 もはや駄目かも知れない。
 レイフォンさえいてくれたならば、二人の相手を任せてしまえるのに。そうしたら、デルクとリチャードは平穏な世界でのんびりと暮らして行けるのに。リーリンと二人で学校に行って勉強して、帰ってきたらデルクとレイフォンの食事を作ったりして、平穏無事に生きて行けるのにと、そんな埒もない事を考えてしまった。

「兄貴。兄貴がいてくれたのなら」

 そうしたら、デルクももう少しシャキッとしていたに違いない。
 だが、現実問題としてレイフォンはいないのだし、アルシェイラとカナリスはいるのだ。
 その現実を見詰め続け、そしてサイハーデン道場を何とか存続させなければならない。
 武芸者でもない一般の十五才が背負うには、あまりにも重い荷物だが、事ここに至ってしまっては仕方が無い。
 そう決意したリチャードは、アルシェイラとカナリスによって食い荒らされた食卓に向かって突撃を敢行するのであった。
 朝食を抜くことは出来れば避けたいからだ。
 だが、それは少し遅かったのかも知れない。

「俺の分を取っておけ!!」
「どわ!!」
「きゃっ!!」

 大量に用意したはずの朝食は、その残骸を残して全てがこの世界から消滅していたのだ。
 納得することは出来ないし、怒りにまかせて持っていたフォークを二人の眉間に向かって投げつけたとしても、何ら文句を言われる筋合いはない。
 残念なことと言えば、二人共が寸前でフォークの接近に気が付いて回避してしまったと言う事だろうか。
 二人が恐る恐るとこちらを見ているのを無視しつつ、取り敢えず何か食べる物が残っていただろうかと冷蔵庫を開けるために席を立つのだった。
 
 
 
 マイアスとの接触は翌日の午前中に行われた。
 轟音を立てて、双方の接岸部が接触するのを待ってから、カリアンは相手の生徒会とのやりとりのために歩き出す。
 ルールのある武芸大会である以上、それなりの形式は必要なのだが、今回は色々と特殊になってしまっている。
 まず何よりも、ここで負けたのならば、ツェルニは本格的に滅びの準備に取りかからなければならないと言う事。
 都市外作業指揮車を始めとする、セルニウムの採掘準備はおおよそ整っているとは言え、消費量を上回る補給が出来るかは全く未知数である以上、使わないに越したことはない。
 続いて問題なのは、つい最近までナルキがマイアスにいたという事実だ。
 電子精霊の強奪と思われる事件に巻き込まれ、それを解決するためとは言え、都市警に所属する武芸者を一撃必殺の元に倒してしまったという事実は、少々問題が有るかも知れない。
 そして三つ目が最も厄介なのだが、ナルキの証言が正しいのならば、マイアスにはグレンダンの天剣授受者がいるのだ。
 しかも、天剣最凶と恐れられているらしい戦闘狂という話も聞こえてきている。
 これからの大会がどんな物になるかさっぱり分からないが、当面サヴァリスの引き受けは遠慮しておきたいところではある。
 これ以上揉め事が起こることに、いかに陰険腹黒眼鏡の生徒会長とは言え、精神的な限界が近付いているのだ。
 とは言え、受け取り拒否が出来る状況でないことも事実なので、何とか平穏無事に事を進めたいと、そう思いつつマイアス生徒会長が近付いて来るのに合わせて進み出る。
 マイアス側の生徒会長は、やや気弱げだったが、それでも十分な自信を持ってカリアンと向かい合っている。
 事実はどうあれ、汚染獣との実戦をくぐり抜けたことにより、自信が付いているのだろう。
 だが、それは所詮一度きりのことに過ぎない。
 つい最近までツェルニは、連戦に次ぐ連戦をくぐり抜けてここまで来たのだ。
 潜った修羅場の数だけならば、そんじょそこらの都市には負けない自信がある。
 だが、それでも油断は出来ない。
 自分を戒めつつも、形通りの挨拶と取り決めを行い、このまま何事もなく過ぎますようにと踵を返す。

「実はですね」
「はい?」

 用件は分かっているので、そのまま逃げ出したい気持ちを抑えて返したばかりの踵をもう一度回転させる。
 とても健やかな笑顔と共に紡がれた言葉は、やはりサヴァリス絡みだった。

「どうしてもツェルニに渡りたいという人がいるのですが、武芸大会を始める前にお引き渡しを済ませませんと」
「後ほどでは駄目でしょうか?」

 出来れば、これ以上の揉め事はごめん被りたい。
 サヴァリスがツェルニにやってくれば、間違いなくレイフォンと戦わせろと言うだろうし、もしかしたらナルキを殺させろと主張するかも知れないのだ。
 そんな事態は出来るだけ避けたかったのだが。

「いえ。もう貴方の後ろにいらっしゃるので」
「!!」

 慌てて振り返ると、息がかかるほどの至近距離に銀髪を首の後ろで縛った青年がにこやかに佇んでいた。
 一瞬以上心臓が止まってしまったような、それ程の恐ろしい体験だった。
 だが、恐怖はまだ始まったばかりだった。
 そう。カリアンの後ろに控えていたヴァンゼを始めとする武芸者達全員が、驚き喫驚し硬直しつつサヴァリスを見詰めているのだ。
 それはつまり、マイアスの生徒会長が指摘するまで、気が付いた人間が誰もいなかったと言う事になる。
 もちろん、レイフォンならば話は違うだろうが、生憎とここにはいないのだ。

(こ、これが天剣授受者か)

 レイフォンが穏やかな性格だからカリアンは生きていられるのだと、それを心の底から認識することが出来る事件だった。
 だが、カリアンはまだサヴァリスという男を理解していなかったようだ。

「やあ。始めてお目にかかるね。僕はサヴァリス・ルッケンス。何時も弟が世話になっているようだね」
「始めましてサヴァリスさん。私はツェルニ生徒会長のカリアン・ロスと申します。貴方の入都を認めましょう。事後承諾のようですが」
「いやいや。なんだかとても楽しそうだったから、平和的に挨拶をしたくなってしまってね。驚かせてしまったようで申し訳ないね」

 皮肉を込めた攻撃も、あっさりと受け流されてしまい、しかも平和的に挨拶をしていると本人はそう確信しているようなのである。
 これほど恐ろしい生き物だとは、思いもよらなかった。
 想像を上回っていた。
 だが、まだこんな物ではなかったことがすぐに分かった。

「ところで相談なんだけれどね」
「なんでしょうか? これから武芸大会が始まりますので、貴方にはシェルターに避難していて頂きたいのですが」
「そう、その武芸大会のことなんだけれどね」
「伺いましょう」

 出来れば聞きたくないが、都市の運営に責任を持つ身としてそれはやってはいけないことだ。
 そしてサヴァリスはちらりと、都市の中央付近へと視線を投げた。
 そう。都市旗が立っている生徒会本塔の方向へと流し目を送ったのだ。
 その流し目はしかし、色っぽいという表現からはほど遠い物だった。
 あえて言うならば、堪えきれない闘争本能の迸りだろう。

「マイアス武芸者は僕が始末するから、ナルキと戦わせてくれないかな? もちろん、レイフォンとも戦いたいけれど、僕は今、ナルキととても戦いたいんだよ」
「・・・・・・・・・・・」

 戦いたいのではなく、殺し合いたいのだと言う突っ込みを何とか飲み込む。
 そしてサヴァリスが何を見たのか、それを理解できた。
 だが、それでも、事態を先延ばしにしなければならないのがカリアンの立場だ。

「申し訳ありませんが、それは学園都市連盟規約違反となりますので、どうしてもと言うのでしたら、武芸大会が終わった後にお願いします」
「うん? 成る程ね。流石に僕も都市連盟なんて組織を完膚無きまでに破壊するのには時間がかかるね。それだったら暫く待っていた方がマシかも知れないね」

 どうやら納得してくれたようで一安心だ。
 そして、溜息をついたまさにその瞬間、いきなりサヴァリスが視界から消えて無くなっていた。
 周りの武芸者全員が呆然としているところを見ると、やはり彼らにも見えていないのだろう事が分かる。
 そして遠くで、良く知っている武芸者の悲鳴が微かに響いたのだった。
 これからが地獄だと、そう実感できる悲鳴だった。
 
 
 
 第五小隊長であるゴルネオは、別段油断しているつもりはなかった。
 何しろマイアスには実兄であるサヴァリスがいるのだ。
 ゴルネオはそんな状況で油断など出来るほど、大物ではないし、万が一のために最大限の警戒をしているのは当然のことだ。
 このところの訓練と連戦で、一昨年とは比べものにならないほど実力が上がったと思っていたし、それは恐らく間違いのない事実だったはずだ。
 だが、それでも、目の前に現れた銀髪の青年を認識した瞬間、咄嗟に千手衝を発動させて全力で殴りかかってしまっていた。
 そう。覚悟していたし、最大限の警戒をしていたにもかかわらず、何の前触れも察知できずに目の前に現れた天剣授受者に驚き、全力で攻撃をしてしまっていた。
 その攻撃の激しさや鋭さは、幼生体戦の始まる前にレイフォンに向かって打ち込んだ物の比ではなかった。
 そう。レイフォンとの遭遇のように予想できていなかった前回と、サヴァリスがいることが分かっていたために準備できている今回では、比較にならないほど凄まじい攻撃が出来たはずだった。
 だがしかし、明らかに強くなっているはずのゴルネオの全力の攻撃だったというのに、サヴァリスはほんの少し驚いた表情をしただけで全てを回避してしまった。
 防御する必要さえないと言わんばかりに、全てギリギリのところで回避するという念の入れようだった。
 そして、ひとしきりゴルネオの攻撃を避けたサヴァリスが少しだけ距離を開けて、そしてとても嬉しそうな笑顔で頬笑んだ。
 そう。ゴルネオの背筋を冷たい汗が大量に流れるような、死を覚悟させる笑顔で頬笑んだのだ。

「ツェルニが連戦連敗していたと聞いたから、戦況を変えるだけの実力を持っていないのかと思っていたんだけれど、どうやらそれは少し違ったようだね。学園都市の武芸者のレベルは思ったよりも高いようだね」
「うげ」

 そう言いつつ、左手をついと持ち上げ、右頬に付いた血をぬぐった。
 そう。ゴルネオの攻撃がかすって皮膚が切れて出来た傷口からにじんだ血を、とても嬉しそうにぬぐったのだ。
 もちろん、大前提としてサヴァリスが油断していたというのがあるだろう。
 更に、千手衝はある意味レイフォンのオリジナルであり、始めて見たためにその対応が遅れたというのもあるだろう。
 だが、それでも、グレンダンにいた頃のゴルネオだったら、あるいは去年のゴルネオだったら、かすり傷一つ付けることさえ出来なかったのは間違いない。
 だが、今は出来ている。
 自分の実力が上がったという事実を、実兄で確認出来たことを喜ぶ気持ちはしかし、ゴルネオには存在していない。
 サヴァリス相手にそんな事を考える余裕など、ゴルネオにはないからだ。
 合計六本の腕を構えて、サヴァリスの攻撃に備えつつ、今日死ぬことを確信していた。

「プシャァァァァ」
「うん?」

 だが、そんな状況だというのに、ゴルネオの肩に乗っていたシャンテが、何時の間にか前に出てサヴァリスを威嚇していた。
 疑問符を浮かべたサヴァリスが、興味津々とシャンテを観察する。
 これはかなり拙いことになったかも知れないと思いつつ、おもわず身体の奥底から力が湧いてくるような錯覚を覚えてもいた。
 そう。錯覚に過ぎないのだ。
 シャンテのために戦うと決めた瞬間に、力が湧いてくるなどと言うことは有ってはならないことなのだから。

「成る程ね」

 そんなこちらの状況など知らぬげに、サヴァリスがなにやら納得していることを認識した。
 そしてその視線が、ツェルニのある一点を貫く。
 視線を送ったのでもなく、見詰めたのでもない。
 それは明らかに貫いていた。

「僕は幸せ者だね」
「・・? な、なにをいっているのですか?」

 続いた台詞が理解できず、一瞬以上心と身体が硬直してしまった。
 だが、驚愕はまだこれからだった。

「二人掛かりで僕を殺したいだなんて、こんなにもゴルに愛されているなんて思わなかったよ」
「? ふぁ、ふぁにを?」
「でもだめだよ? 僕は真っ先にナルキと愛を育みたいんだ。ゴルとはその後だよ」
「に、にいさん?」
「そう。愛のために戦う僕こそ、愛の戦士なんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」

 驚愕のあまり、もはやあらゆるリアクションを取ることが出来なかった。
 五年。言葉にすれば短いが、人が変わるにはあまりにも十分すぎる時間だったようだ。
 ふと視線を向けると、シャンテの姿が消えていた。
 いや。ゴルネオの後ろに隠れて、服の裾をしっかりと握り、涙を堪えて必死に縋り付いてきていた。
 その姿に思わず心の中で、何かとても熱い物が噴出するような気がしたが、断じて錯覚であると自分を騙す。
 シャンテに萌えてしまったなどと言うのは、確実に錯覚でなければならないのだ。
 そこまで自分を騙してから、視線を前方に向けてみると、当然の様にサヴァリスの姿は消えていた。
 これで一安心である、と普通ならば言えるのだろうが、相手は天剣授受者である。
 何時何処から襲撃してくるか予測など出来はしないのだ。

「ああ。隊長」
「な! なんでひょう先輩」

 途中噛んでしまうくらいに、オスカーからかかった声で動揺してしまった。
 恐る恐ると後ろを振り返る。
 視界に収まった武芸者は、全員が事の成り行きを全く理解していないことが分かった。

「いまのは、もしや」
「兄です。天剣授受者の」

 隠してもなんの意味もないので、正直に重要なところだけを話す。
 次の瞬間、オスカーの手が伸びてきて、労うように励ますように、あるいは同情するように肩を叩いたのだった。
 
 
 
  後書きに代えて。
 這い寄ってくる暴走超特急を見ていた時期に書いたために、リチャードの武器がフォークになっているだけです。
 深い意味はありませんのであしからず。



[14064] 第九話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/09/04 20:10


 それは予定通りに始まった。
 ツェルニとマイアスの武芸者、それぞれ二百人が接岸部付近へと集まり、正午のサイレント共に戦声を上げて激突の瞬間へと加速して行く。
 激突の余波を空気の振動で感じつつ、生徒会本塔の最上部、都市旗の前へと座り込んだウォリアスは双眼鏡と念威端子からの情報を、脳内で処理しつつ幾つかの戦術プランから最適な物を模索し続ける。
 普通にやっても、おそらくは勝てる。
 ツェルニの暴走中に武芸科生徒が獲得した経験は、母都市に帰った瞬間に膨大な財産となり得るほどの物だった。
 もちろん、リュホウやハイアの教導があったからこそ、全ての武芸科生徒が生きてこの瞬間を迎えることが出来たのは間違いない。
 それだけの財産を各々が十分に発揮することさえ出来れば、レイフォンに頼ることなく勝つことは出来るだろう。
 だが、それではウォリアスの存在意義が無くなってしまう。
 と言う事で悪知恵を絞り、いかにして楽々とマイアスに勝つかを考える。

「ふむ。覗き魔より武芸長へ。戦術プランC7の発動を具申します」

 接岸部での激突を遠くから見ながら得られた結論を、ヴァンゼへの意見具申という形で身体の外へと吐き出す。
 ウォリアスに指揮権はないから、当然の行動だが、その間にも徐々にツェルニ側がマイアスを押して行く光景を眺めつつ、脳はこの先の状況を幾つも構築して行く。

『その意見を採用する。各員に通達する。戦術プランC7を実行に移す。高速打撃部隊を前面に押し出せ』

 数秒の沈黙の間に、おそらくヴァンゼの側にいるディンの意見も聞いたのだろう、ウォリアスの提案が受け入れられツェルニ側の陣形が徐々に変わって行く。
 本来、高速移動を得意とする第十六小隊を中心に編成した部隊は、陽動や牽制と言った戦術を行うために使うべき物で、正面からのどつき合いに投入すべきではない。
 特に現状のように、接岸部という限定された戦場でとなれば、その真価を発揮することは出来ない。
 それはきちんと理解している。
 ヴァンゼもディンも、当然ウォリアスも、更には投入された高速打撃部隊も、きちんと理解している。
 理解しているからこそ、力業で徐々に押されて後退するのに合わせて、ツェルニの第一陣や二陣が徐々に陣形を変えているのだ。
 そして、僅かに五分後。
 ツェルニ側の構築したU字陣形の中にマイアス第一陣がいるという状況が出現していた。
 これならば、ツェルニ側は攻撃を集中できるが、マイアス側は多くの方向からの攻撃にさらされることになる。
 圧倒的にツェルニ側が有利かというと、実はそうでもない。
 兵数が同じ場合、U字陣形を組んでしまうと、各々の壁の厚さが薄くなってしまう。
 つまり、突破されやすいと言う事になる。
 もちろん、ただ今現在の状況を見ているだけならば、ツェルニ側はマイアスの倍の兵数を揃えていることになるが、すぐ側に敵の増援部隊がいる状況ではさほどの意味はない。
 それはマイアス側も分かっているようで、第二陣が動き出す。
 しかし、その動きが唐突に停止する。
 そう。接岸部に現れたツェルニ、潜入部隊のせいでだ。
 ゴルネオを指揮官とするこの部隊は、簡単に言えば第二中隊だ。
 汚染獣戦で鍛え上げられた、打撃力重視の最精鋭が、接岸部へと突然現れ、マイアス第一陣の背後へと襲いかかる。
 その打撃力を持って、マイアス第一陣に出来るだけ大きな損害を与えるために、潜入作戦からこちらに回されたのだ。
 
 
 
 
 
 指揮を執るゴルネオは、少々息を荒げつつも平静を装い剄を練り上げる。
 レイフォンに言われるがままに剄息を続けてきた甲斐が有ったのか、呼吸の乱れはゴルネオ本人が気が付いただけで、他の誰にも気が付かれることはなかった。
 本日二度目の、自分の成長を実感できる事柄だったが、状況的にあまりのんびりしていることは出来ない。
 本来の潜入任務から、接岸部での奇襲に戦術を切り替えたために、少なからず消耗している。
 ここで出来うる限りの戦果を上げなければ、この後の戦いが厳しい物となってしまうだろう。
 この認識はオスカーも一緒だったようだ。

「はっ!!」

 裂帛の気合いと共に、虎の子である収束型散弾銃が火を噴く。
 神速の七連射は、六十三発の麻痺弾となってマイアス第二陣へと殺到する。
 突如の奇襲で動きを止めたが、現れたゴルネオ達が比較的少数だったことに気が付き、再度前進して奇襲部隊を挟撃して殲滅しようとしていた部隊の動きが完全に止まる。
 そこに、遠距離攻撃を得意とする隊員の追撃がかかり、更に第二陣の動きが鈍る。
 この機を逃すことなど出来ようはずは無い。

「シャンテ!!」
「おう!!」

 急速に剄を練る気配を感じつつも、ゴルネオ自身も技を発動させる。
 活剄で全身の骨格の剛性を高めつつ、筋力を底上げする。
 更に化錬剄で拳を最大限まで大きくする。
 その拳をマイアス第一陣へと向けると、その先端部にシャンテが乗る。

「ふん!!」

 シャンテが乗った瞬間に、一気に力を解放して撃ち出す。
 飛び出す瞬間に、シャンテ自身の活剄で強化された跳躍力が上乗せされ、常識では考えられない速度で飛んで行く。
 当然、こんな曲芸まがいの技を見せられて、マイアス第一陣が呆然と動きを止める。

「炎剄将弾閃」

 呆然とシャンテが飛んでくるのを見詰めていたそのただ中に、化錬剄の炎が撃ち込まれる。
 もはや反応することさえ出来ずに、炎に飲まれるマイアス武芸者に憐憫の情を覚えていられる余裕は、ゴルネオにはない。
 いや。ツェルニには無い。
 戦列に開いた穴にシャンテが飛び込み、更なる破壊と殺戮と暴力を振りまく。
 それに呼応するために、ゴルネオも一息で疲労を打ち払い突撃する。

「ぬん!!」

 活剄衝剄混合変化 千手衝。
 合計六本の手で近くにいた武芸者をたこ殴りにする。
 防御しようとしたが、数こそが力だと言う事を、その身をもって知ったに違いない。
 ボロ雑巾のように吹き飛ぶのにはかまわず、次の獲物に標的を定める。
 更に三人を始末したところで、一人活きの良いのと遭遇した。

「うう、うわぁぁ!!」

 見上げた根性と言うべきか、はたまた蛮勇と呼ぶべきかは分からないが、六本の手を持ったゴルネオに向かって、剣を振りかざして突っ込んできた。
 一対の手でその攻撃を受け止め、もう一対の手で肘を拘束し引き寄せる。
 そして、最後に残った一対で鳩尾と顎を同時に攻撃して撃破する。
 その場に崩れ落ちたのを確認して、次の標的を探したゴルネオだったが、シャンテの息が上がっていることに気が付き、回収して少しだけ後退する。

「ぜぇはぁぜぇはぁ」

 剄量はもの凄いのだが、残念なことに効率よく使うことに決定的な問題を抱えているシャンテに、あまり無理をさせることは出来ない。
 レイフォンがあと一年早くツェルニに来ていれば、話はずいぶんと違ったのだろうが、無い物ねだりをしても仕方が無いと割り切って、奇襲部隊の状況をざっと見渡す。
 オスカーを始め、殆ど全員が奮戦しているために、マイアス第一陣は恐ろしい被害を出しているように見える。
 これには当然、半包囲をしているツェルニ部隊の攻撃も大きな十分な効果を出していることだろうと推察する。
 そろそろ潮時かも知れない。
 第二中隊は、打撃力を重視した部隊ではあるのだが、その分経戦時間は少し短い。
 汚染獣戦ではローテーションを組んで、一人一人の戦闘時間が長くならないようにしてきたが、今回のような奇襲攻撃では短時間での攻撃力こそが重要だ。
 だからこそ、出し惜しみ無しでの全力攻撃を仕掛けたのだし、そのためにシャンテもゴルネオも急速に消耗したのだ。
 殺剄をしながらの高速移動などと言う、かなり難度の高い技を使ったり、接岸部の下側に張り付いて合図をまったりと、色々と苦労をして消耗したことも大きいが、それだけの苦労をした甲斐はあったのだと、戦果を確認しつつそう思う。
 
 
 
 
 
 予定通りに、三十秒ほどの短時間でマイアスに大きな被害を与えた奇襲部隊は、左右に分かれてマイアス側へ退路を示す。
 当然、ただ引かせることはせずに、必要な攻撃で失血を強いるのだが、相手の指揮官はかなり優秀なのか、この状況での戦果は思っていたほどではなかった。
 とは言え、マイアス第一陣が被った被害は戦闘不能者を三十名ほどは出しているはずだ。
 この戦果に満足しつつも、遠くから観戦しているウォリアスにも誤算はあった。
 何よりも大きな誤算というのが、実はゴルネオだ。
 まさかシャンテを投げつけるなどと言う荒技に出るとは思っても見なかった。
 実を言うと、呆気に取られたのはマイアス側だけではなかった。
 そう。ツェルニ側も一瞬以上呆然として動くことが出来なかったのだ。
 あの一瞬がなければ、マイアス側の被害は全体の一割に迫っていたことだろう。
 残念ではあるが、まだ十分に取り返せるし、何よりもマイアス側は戦意を落としてしまっているはずだし、逆にツェルニ側はやれるという思いを得ることが出来た。
 この精神のあり方は、ルールのある試合ではとても大きな差になり得る。
 ヴァンゼの認識も同じらしく、ツェルニ第二陣を先頭に編成され直した部隊が、接岸部を越えてマイアス側へと進軍して行く。
 戦闘不能者は三十人程度だろうが、無傷な者などいない第一陣は激しく消耗しているために、攻撃を受けつつ徐々に後退して行く。
 後退しつつ、都市内に残っている防衛部隊を吸収して、再度正面からツェルニ部隊を押し返そうという計画だろう。
 戦力の集中という基本からすれば当然の判断である。
 だが、戦力の集中という一点において、既にツェルニはそれをおえているのだ。
 現時点で、ツェルニ側が有利だと言う事は、ヴァンゼもマイアスの指揮官も分かっている。
 だからこそ、無理に反撃をせずにじりじりと攻撃を受けつつも後退して行くのだ。
 そしてこの先の問題は、マイアスの戦力集中が終わるまでに、どれだけの損害を相手に与えることが出来るかというところにかかっている。
 都市旗を背にしたウォリアスの、視線の彼方で行われている、正面決戦はもう暫く凪の状態が続きそうだった。
 
 
 
 
 
 マイアス潜入部隊の一つを率いつつも、なにやら主戦場が盛り上がっている気配を感じていた。
 接岸部から少し離れたところにあったパイプを伝い、ツェルニ内に潜入して既に五分以上。
 主戦場の盛り上がり方とは対照的に、こちらは不気味なほど静かだった。
 ツェルニ側の武芸者はおろか、自動防衛装置さえ全く存在していない状況に、これが罠かも知れないとそう覚悟せずにはいられなかった。
 だが、その罠を食い破ることが潜入部隊には求められているし、出来ると判断されたからこそ念威繰者を含めた六人はここにいるのだ。
 曲がりくねった道をひた走り、少し大きな通りと遭遇する。
 曲がり角の手前で急制動をかけて気配を探る。
 首だけ出して、そっと左右を見渡すが、やはり人のいる気配を感じない。
 罠だと言う事はほぼ確定だと思うのだが、問題はその内容だ。
 だが、ここで立ち止まっていることも得策ではない。
 被害が出ることを覚悟の上で、大きめの通りへと一歩を踏み出し、そして都市の中央へ向かって進路を取る。
 道はほぼ直線。
 左右には背の高い建物が並び、長距離からの狙撃には適さない。
 有るとすれば、建物の中からの奇襲攻撃。
 対応としては二種類。
 建物を一つ一つ検めて安全を確保して行くか、最大限の速度で移動して奇襲のタイミングを外すか。
 答えは既に決まっている。
 警察の犯人捜索ではない。
 時間をかけてツェルニ側の防衛体制が整うのを待つことは、得策でない以上、最高速度で突っ切る以外の選択肢はない。
 この認識は、部隊員全ての共通認識だったようで、ほぼ全速で走る後をきちんと着いてきている。
 念威繰者を置いて行くことは出来ないために、体力に自信のある隊員が担いで運んできているのを、一瞬振り返って確認する。
 長距離からの狙撃は心配ないが、やはり何処かで待ち伏せされているか、高速移動を得意とする部隊が後方から迫ってくるとそう考えていた。
 だが、今のところ誰かが接近してくる気配を感じることは出来なかった。
 ならば、待ち伏せ攻撃への備えをしておくことが重要だ。
 手を振って、防御力が高い隊員を前へと配置する。
 その配置が終わった頃、少し開けた場所へと出た。
 それ程大きくはないが、何かの集会には使えそうなくらいはある、中途半端な大きさの広場のように思えたが、現実はあまりにも意味不明だった。

「みんなぁぁ! 今日は来てくれて有り難うぅぅ!!」
「っは?」

 何の前触れもなく、突如として現れたのは、何故かきわどい服を着た女性だった。
 いや。きわどい服を着ているかどうかはこの際問題ではない。
 取り敢えず着ているのだから、なんの問題もないとしておこう。
 元気よく挨拶をして、大きく手を振って、観客に愛想を振りまいているように見えるが、きっと気のせいだと判断する。
 武芸大会の真っ最中に、そんな莫迦なことをやっている人間がいる訳無いのだと、そう思うからだ。
 だが、その思いはあっさりと裏切られる。
 更に、勝手にテンションを上げたその女性は、何を思ったのか、いきなり響きだした曲に乗り、唄って踊って笑ってと、何かのコンサートでもしているかのような行動を取りだしたのだ。
 その場にいた全員が呆然とした、まさにその瞬間。

「ぐは!!」
「どわ!!」
「な、なにぃぃ!!」

 いきなり巨大な鎌を持った、黒尽くめの大男に襲われ、一瞬の間に二人を倒されてしまった。
 更に黒尽くめの男が現れ、攻撃に加わると、一気に敗色濃厚となった。
 それどころか、今度は黒尽くめの女も現れる始末。
 自分自身もその黒装束の女と戦いながらも、念威繰者と護衛を何とか守ろうとしたのだが。

「猛禽のシン惨状!!」
「え?」

 四人目が現れた次の瞬間、その人物の持つ細剣が唸りを上げ、凝集された剄弾が念威繰者とその護衛に向かって放たれた。
 登場してからの身のこなし、技を放つまでの短さ、更に、撃ち出された剄弾の速度、どれをとっても正面から戦っても瞬時に敗北するほど高度に洗練されていた。
 そんな強力な武芸者が奇襲を仕掛けてきたのだ。
 結果は火を見るよりも明らかであり、二人とも派手に吹き飛ばされて痙攣しているだけだった。
 悲鳴一つあげる暇さえなかった。
 疑問の声を上げたのだって、他の誰かだった。
 そして、思わずそんなあまりに酷すぎる展開に一瞬とは言え注意を向けていたのが運の尽き。

「ぐは!!」

 黒尽くめの女性が放った攻撃が、見事に鳩尾へと入り込んでいた。
 しかも、今の攻撃は明らかに、今までの速度や練度とは桁が違った。
 つまり、猛禽のシンとやらが念威繰者を倒すのを待っていたと言う事になる。
 だが、悲劇はこれだけでは終わらなかった。

「不覚!!」
「猛禽のシンよ!! 我らは十分に任務を達成しております!! 何をそれ程悔いておられるのですか!!」

 隊長格と思われる猛禽のシンとやらが、なにやら地団駄を踏みそうな勢いで後悔している様子に、部下と思われる大鎌を持った黒尽くめが訪ねている。
 だがその仕草は、一々大げさであり、まるで舞台俳優のようだ。
 いや。彼だけではない。
 残りの黒尽くめ二人も、跪かん勢いで猛禽のシンの周りに集まっている。
 その状況を見ながら、出来るだけこっそりと剄を練り上げる。
 そう。まだ意識を失っていないのだ。
 ならば、やる事はただ一つ。

「自動コンサート装置の電源を、入れたままにしてしまっておった!!」
「な、なんと!!」
「取り返しのつかぬ事を!!」
「この失態、万死に値いたします!!」

 なにやらとても盛り上がっているようだ。
 そして、自動コンサート装置とか言うのは、今も軽快な音楽に合わせてなにやら唄っている奴のことを言っているのだろうと、そう結論付ける。
 あれは、良く出来た立体映像か何かのようで、戦闘があったことさえお構いなしに唄って踊っているという非常識な代物だ。
 確かに、あんな物の電源を入れたままだったとなれば、あちこちから苦情が来るだろう。
 そう。電源を切り忘れていたというのならば。
 とても、切り忘れたなどと言う可愛らしい現象でないことは、四人の言動から分かろうという物だ。

「だがあんしんしろ!! 俺はお前達を必ず守る!!」
「「「隊長!!」」」
「例えこの身を焼かれようと、この責任は俺一人で取る!!」
「そのようなことを仰らないで下さい!!」
「我ら黒い三連星!!」
「如何なるところであろうと、それが黄泉の国であろうと、必ずお供いたします!!」
「おまえたちぃぃぃぃぃぃ!!」

 感動のシーンなのかも知れないが、間近で見られているというのに、それを喜ぶ気にはなれない。
 地面に這いつくばっているからと言うのもあるだろうが、何よりも今は武芸大会で、そして、まだ戦う力を残しているのだ。
 ならば、やる事はただ一つ。
 一気に剄を練り上げ、衝剄として撃ちだそうとしたまさにその瞬間。

「ぐは!!」

 一瞬前まで、完全に弛みきっていた四人から、衝剄の集中砲火を受けて身体が吹き飛ばされるのを感じた。
 まさに青天の霹靂である。
 だが、薄れ行く意識の中で聞かされた台詞は、あまりにも予想外の物だった。

「空気読め!!」

 全員が呼吸を合わせ、一糸乱れぬ発声をやってのけた一言は、これが武芸大会であると言う事を、彼らが認識していないかも知れないと言う、恐るべき懸念を生み出すのに十分だった。
 だが、その懸念を確認する術はない。
 そう。急速に意識が闇へと引きづり込まれて行くからだ。
 
 
 
 
 
 座り続けていて、いい加減あちこち痛くなり出したウォリアスだったが、それでも伝えられた映像を見てかなり脱力してしまっていた。
 第十四小隊が、なにやら策略を巡らせていたことは知っていた。
 自信満々で迎撃任務に挑んだことも、やはり知っていた。
 だが、まさか、あんな方法で奇襲をするとは思いもよらなかった。
 いや。まあ、ウォリアスの考えた罠の数々に比べて、確実性が劣ると評価できるとは思うのだが、それでも、なんの知識もない人間があれを回避することはかなり難しい。
 ある意味、一発芸である。

「まあ、撃退できたんだから良いけど」

 シャンテとゴルネオの時もそうだが、ツェルニ武芸者は、なにやらおかしな方向へと突っ走りつつあるような気がしてならない。
 確実に実力で上回っている相手の虚を突き、最小限の労力で倒していると、そう言うことも出来るが、やはり、何かが決定的に間違っているような気がしてならない。
 悪逆非道の限りを尽くしているウォリアスに言えた義理ではないが、他人がやっているところを見ると、少々心が痛んでしまうのも事実だ。
 念のために周りの状況を確認する。
 情報源は大きく分けて二つ。
 念威繰者による物と、完全に機械的な情報。
 確実さで言えば、念威繰者の方が遙かに優秀だが、フェリのような異常な能力でも持っていなければ、都市全体を把握することはほぼ不可能である。
 それに比べると、機械を使った方は数を用意することが出来る分、大雑把な情報を集めると限定してしまえば、恐ろしく優秀である。
 今回も、都市のあちらこちらに遠赤外線を使って、人間が動いているかどうかを判定する装置を数万個設置して、念威繰者の負担を大きく減らすことに成功している。
 元々、防犯用に設置してあった物を流用しているだけなので、予算もあまりかかっていないし、とても都市に優しい探査装置である。

「ふむ。侵入した敵部隊の半分を撃破。とは言え、十人くらいはここまで来るか」

 予想していたよりも、マイアス側の潜入部隊が多かったが、機械による早期発見と変な方向に進みつつあるツェルニ武芸者の活躍で、恐るべき勢いで駆逐されて行くのを眺めつつ、ウォリアスは膝の上に乗せた拡散型散弾銃に弾薬を放り込んだ。
 本塔まで来ることが出来る人数は、おそらく十人程度であると思うのだが、それだけいればここまでやって来る奴がいるかも知れないからだ。
 最後の手段は用意してあるが、それを使うことはウォリアスにとっての敗北を意味する。
 ウォリアスにとっての敗北を避けるためならば、散弾銃を使うことはもちろん、最後の最後にとっておいた奥の手を使うつもりでいる。
 出来れば使いたくない奥の手なので、最終防衛部隊が片を付けてくれると嬉しい。
 そんな事を思っている間に、接岸部での戦いは順当にツェルニが優勢な状態で進んでいるようだ。
 既に戦場はマイアス側へと移動している。
 
 
 
 
 
 順調に進軍してきたツェルニ武芸者達だったが、このまま勝たせてくれるほどマイアスも甘くはなかったようだ。
 もちろん、散々積み重ねてきた訓練と、それに裏打ちされた実戦を経験した以上、負けるなどと言うことは考えていないが、それでも進軍速度が遅くなったという事実はあまり歓迎できる物ではない。
 かなりマイアス側に攻め込んでいる現在、明らかに地の利が相手にある以上ゆっくりしていると状況は悪くなるからだ。
 最前線の少し後方にいるゴルネオの視界に入る戦術は、おそらく汚染獣を想定した物に近いのだろうと思う。
 防護壁の向こう側から中遠距離の攻撃を撃ち込み、ツェルニ側の戦列に隙を作ると同時に、壁の前に待機している近距離戦部隊がその傷口を広げに来る。
 ツェルニも幼生体戦で似たようなことをやっているので、ゴルネオの認識に間違いはないはずだ。
 問題なのは、この戦術が時間稼ぎであると言う事だ。
 ここでツェルニ側を足止めしている間に、マイアス内に残った防衛部隊から戦力を抽出し、新たな戦線を作るつもりなのは見ていれば分かる。
 その抽出した部隊は、おそらくツェルニ側の後方から攻めてくるだろう事も分かっている。
 分かっているが、それでも、実際に現れた時には少ないとは言え動揺してしまうだろう。
 そこで被害が出れば、負けないとは言え、徐々に戦いは苦しい物になって行く。
 明らかに、地の利はマイアス側にあるのだ。
 ツェルニ側としては、戦力の集中が終わる前に各個撃破したいところだが、生憎と防護壁を起点にしているマイアス側の方が遙かに有利で、短時間で蹴りを付けることは困難である。

「隊長」
「どうしましたかぁぁ!!」

 そんな困り果てていた折も折、オスカーに声をかけられて振り返ったゴルネオは、恐るべき物を見てしまった。
 そう。そのあまりにも恐ろしい光景に、シャンテがゴルネオの影に隠れてしまったほどだ。

「私を前線に投入してもらえないでしょうか?」
「そ、それは」

 オスカーのような強力な武芸者を前線に送り出せば、確かに事態は有利に動く。
 それは間違いないのだが、オスカーが手にしている錬金鋼が明らかに問題だった。

「それを使うのですか?」
「今使わずして、何時使うというのですか?」

 肩に担いだ、全長二メルトルになろうかという、黒光りする巨大な刀を軽々と扱うオスカーから、少し後ずさってしまった。
 対汚染獣戦で使われる、斬獣刀だ。
 十分な支援攻撃を受けつつオスカーがこれを使えば、確かに防護壁を粉砕することは出来る。
 ツェルニ側の戦力はまだ十分にあり、オスカーの狙いを十分に実現することは出来る。
 出来るのだが。

「・・・・・・。死人は出さないように注意して下さい」
「最大限留意します」

 本当に留意するか疑問ではあるが、他の手立てがないのも事実。
 念威繰者を経由してヴァンゼにオスカーが出ることを知らせつつ、進路上にいる味方に待避する準備を呼びかけた。
 普段のオスカーだったら、味方をはね飛ばして突進するなどと言うことはしないだろうが、今は明らかに人格が入れ替わっている。
 そう。今のオスカーに二つ名を付けるとするならば、味方殺し。
 敵味方関係なく、目の前の障害物を実力で粉砕して、そして目的を達成しようとするだろう。
 もしかしたら、許可を出さなかった場合のゴルネオさえ吹き飛ばしかねない気迫がみなぎっていた。
 準備が整うのに、二十秒とかからなかったが、その間にもオスカーの周りの空気は恐るべき速度で緊張し、味方であるはずだというのに、何時破裂するかと恐怖を感じるほどだった。

「では、俺達も続きますから」
「感謝するよ隊長」

 その一言と共に、オスカーと防護壁の間にいたツェルニ武芸者が高速で移動して軌道を確保する。
 運悪く転んだ奴がいたら、きっとそれがこの世での最後の不運になるだろうと心配したが、そんな恐ろしすぎる事態は避けられた。
 安堵の息をつくよりも速く。

「ちぇすとぉぉぉぉおおお!!」

 その叫び声と共に、オスカーが疾走する。
 幼生体を平然と両断できる威力を持った攻撃はしかし、その後の訓練と戦闘で明らかに破壊力が増している。
 その証拠に、マイアス側から放たれた遠距離攻撃が、オスカーの身体から迸り出る剄の流れで弾かれ、ただの一撃もダメージを与えることが出来ていなかった。
 突進と同時に始まった、ツェルニの援護射撃がある以上、オスカーの突進を沮むことはほぼ不可能となった。
 距離にしておおよそ五十メルトル。
 時間にしたら、おそらく一秒かかっていないだろう。
 そしてついにその時がやってきた。

「粉砕!!」

 高らかな宣言と共に、幼生体の突進程度ではビクともしないはずの防護壁が轟音と共に粉砕された。
 それは、防護壁全体からしたらたかが知れた範囲の出来事だったかも知れない。
 巨大な質量と膨大な活剄によって振り下ろされたとしても、それはたかが一撃であり、ただの一人なのだ。
 だが、オスカーが砕いた物は実は違うところにあるのだ。

「我に断てぬ物無し!!」
「ひ、ひぃぃぃぃ」

 防護壁を粉砕しただけでは止まらずに、その下に有った強化されたはずの舗装面さえも破壊した斬獣刀をそのままに、拳を天へと突き上げ、オスカーが吠えた瞬間、全てが決した。
 防護壁はただの壁へと成り下がり、その光景を間近で見てしまったマイアス武芸者の士気は打ち砕かれた。
 接岸部での包囲線で数を減らされたマイアス側は、防護壁を頼りに援軍が来るのを待つという基本戦術を実行していた。
 だが、頼りにしていた壁が粉砕された瞬間、士気も打ち砕かれたマイアス側が持ちこたえることは不可能となった。
 この戦場だけで限定してしまえば、明らかにツェルニ側の方が数が多く、暴走という異常事態を経験したために練度も遙かに高い。
 ここで負ければ後がないという必死さも加わっている。
 つまり、数と質で相手を凌駕し、士気においても圧倒する。
 どんな未熟な指揮官でも、この状況で出す命令などただの一つだ。

「続けぇぇ!!」

 拳を握りしめ、腹に力を込めて、声に剄を乗せてゴルネオは叫ぶ。
 オスカーが作りだしてくれた好機を逃さず、このままマイアス中心部へと突き進むために。
 跳躍で壁を飛び越え、着地点にいた不運な奴を踏み台として、近くにいた武芸者を吹き飛ばしてゴルネオは突き進む。
 止まることは許されない。
 後に続くのは、第五小隊を中心とした一部隊だけではない。
 その場にいたほぼ全ての武芸者が、ゴルネオと同じように壁を飛び越え、割れ目から駆けだして突き進む。
 
 
 
 
 
 ゴルネオの突進を見送りつつヴァンゼは次の作戦の準備をしていた。
 わけぇもんはええのぉ。
 などと思っている自分を認識しつつ、こっそりと斬獣刀に寄りかかっているオスカーに歩み寄る。
 先ほどの一撃は、明らかにオスカーの限界に近い攻撃だった。
 本来ならば、斬獣刀の峯の部分に設置された噴射口から衝剄を撃ち出して、威力を上げる作りになっている。
 だが、流石に武芸大会でそこまでするのは拙かろうと思い、またその必要もないと判断したヴァンゼによって、弾薬は全て抜かれた状態だったのだ。

「ご苦労だったな。少し休んでいて良いぞ。後は若い連中がやってくれるだろうからな」

 更に問題となるのが、マイアス側からの攻撃を弾いた剄の走らせ方だ。
 レイフォンの金剛剄を参考に改良したはずだが、まだ使い慣れていないためにもの凄く燃費が悪いのだ。
 本当に一発勝負が必要な時のため、取って置いた大技だったのだ。
 つまり、今のオスカーはガス欠状態で、しばらくは殆ど動けないのだ。

「ああ。少し休ませてもらうよ。歳は取りたくない物だね」
「まったくだ」

 二十歳そこそこだというのに、なんでこんな会話しているのかとても疑問だが、現状ツェルニ側が圧倒的に有利な状況を作り出せている。
 士気を砕かれた兵士の末路は二つに一つ。
 逃げ出すか特攻するか。
 特攻したとしても、ツェルニ側の先頭を行くのは攻撃力ならツェルニ最強の、シャンテとゴルネオの二人組だ。
 続いている連中にしても、半年前ならいざ知らず、今ならば相当の逆境にも耐えられるだろうと確信している。
 そして、その確信を裏付けるようにして、ツェルニは恐ろしいほどの速度で前進を続ける。
 罠があって止まってしまったとしても、その時はヴァンゼが指揮する部隊がいる。
 攻撃部隊は、おおよそ大丈夫だろうと、その結論に達したが、もちろん油断などしていない。
 汚染獣との戦いで、味方を見殺しにしろと命令することはなかったが、それでも、あの時の心構えはヴァンゼにとって大きな財産となっているのだ。
 この戦いも、負けられないと。



[14064] 第九話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/09/11 18:37


 事態は刻々と悪くなって行く。
 接岸部で行われていた戦闘は、明らかにマイアス側へと移動し、その速度は徐々に、しかし確実に速くなっている。
 前回の武芸大会で、ツェルニは連戦連敗という不名誉な戦いをしていたはずだった。
 その情報が有ったことは事実だが、油断などしているつもりはなかった。
 だが、結果的にマイアスは負けつつある。
 そして、恐ろしいことではあるのだが、ツェルニの生徒会本塔付近へと攻め寄せている潜入部隊は、その半数以上が途中で迎撃され、残りもかなり消耗してしまっている。
 敗色が濃厚となっている。

「っち!!」

 自分に向かって放たれた麻痺弾が、偶然に躓いたことで頭の上を通り過ぎる。
 本当の事を言えば、悠長にそんな状況判断をしている余裕など無いのだ。
 潜入部隊一つを率いてツェルニへやって来た物の、途中で二割近い戦力を失い、更に狙撃によって徐々に追い詰められているという現状を何とかしなければ、マイアスは敗者の席を押しつけられてしまう。
 鉱山が残り一つとなったツェルニの、必死さを甘く見ていたのか、それとも、これこそが本来の実力なのか。
 狙撃手から死角になる位置へと残り少ない退院を呼び寄せる。
 短い距離の移動でさえ、気楽に行えないほどの技量を持った狙撃手を何とかしなければ、近いうちに全員が戦闘不能となってしまうことだけは間違いない。
 ならば、取るべき選択肢は一つしかない。

「援護しろ。狙撃手を叩きのめす」

 反論を許さない強い調子で命令を飛ばす。
 実際問題として、他の選択肢は存在していない。
 二百メルトル以上離れている建物にいることは分かっている。
 そこから、一秒以上制止していると麻痺弾が飛んできて、よほどの偶然がなければ仕留められてしまう。
 移動している最中でさえ、同じ速度でいると危険極まりない攻撃が来る。
 命令を受けた隊員が、遮蔽物から一瞬だけ身体を出して、目標と思われる建物に向かって衝剄を放つ。
 実際の効果があるかどうかは兎も角として、僅かでも相手が怯んでくれるならばそれは儲け物である。
 三人に減ってしまった隊員が、交代で衝剄を放つのを背にしながら、旋剄で一気に距離を詰める。
 相手は狙撃手だ。
 護衛にもう一人いるかも知れないが、接近戦になれば何とか互角以上に戦えるはずだ。
 もし失敗したとしても時間は稼げる。
 稼いだ時間で、誰かが本塔に取り憑くことが出来れば、狙撃手からの死角を駆け上ることが出来るはずだ。
 そう信じて、二度目の旋剄で更に距離を縮める。
 立て続けに二度、銃声が響いた。
 最悪二人が倒されただろうが、それでもまだもう一人いる。
 そう信じて、三度目の旋剄で目標の建物、その壁にへばりつくことが出来た。
 そして見上げる先に、一階の窓から覗く銃身を確認出来た。
 勝った。
 銃身が見詰める先には、仲間がいる。
 自分が、この恐るべき狙撃手を倒すことが出来れば、確実に本塔への道が開ける。
 乱れそうになる呼吸を整えつつ、銃身の真下へと移動する。
 銃身を掴み、それを引きずることで動揺を誘い、接近しての一撃で仕留める。
 勝負は一瞬で決まる。
 そっと、相手に見えない位置まで手を伸ばした瞬間、それは見えた。

「え?」

 銃口だ。
 こちらを見詰めるそれは、明らかに銃口だ。
 狙撃手がこちらを向いたのでも、銃がこちらを向いたのでもない。
 銃身は、未だに仲間へ向かっている。
 だが、その銃身の先端部が曲がり自分を見詰めているのだ。
 あり得ない。
 そう思った直後、至近距離からの麻痺弾の直撃を受けて意識が途絶えた。
 
 
 
 
 
 接近していたマイアス武芸者を一撃で仕留めたシャーニッドは、こっそりと溜息をついていた。
 そして、溜息をつき終わった直後、呼吸を整えて本塔の向こう側へと向かっている背中へと、二発打ち込み無力化した。

「ふう。楽には勝たせてくれねぇか」

 長距離の狙撃だけではなく、銃衝術での接近戦も出来るとは言え、専門職と正面から戦うことは極めて危険であった。
 それなので、もう一枚用意することが出来た切り札を切った訳だ。
 ネタは簡単。
 レイフォンがナルキに鍛錬を施している最中に、何度か目撃していた。
 そう。剄を流し込んで虎徹を腹筋させていた技の応用だ。
 レイフォン自身は、あれで万を超える鋼糸を操るという話だったが、そこまでのことをシャーニッドは望んでいない。
 望んだのは、姿勢や銃を動かすことなく銃口の向きを変えること。
 実弾仕様の銃にはたまに見かけるが、影に隠れた相手を撃つことが出来るように、銃身が大きく曲がっている物がある。
 同じ事を剄弾仕様でやることも出来るが、そのためには銃を二本持ち歩かなければならない。
 ならばと、こっそり必死に練習して今日に間に合わせることが出来た。
 まさか本当に使うとは思わなかったが、保険は多い方が良いのは間違いない。
 だが、問題がない訳でもない。

「百メルトルで、四時方向に三センチくらいずれているか」

 剄を流し込んで銃身を曲げた場合、復元する際に微妙なズレが出る。
 何度やっても、四時方向に三センチから五センチは着弾点がずれるので、それを計算に入れて撃たなければならない。
 今回の最後の狙撃は、距離が二百五十メルトルになっていたこともあり、二発続けて撃つという念を入れたのだ。
 結果的に二発とも撃ち込むことが出来たが、シャーニッドが思っていたところからは、やはりずれてしまっていた。

「こりゃあ、終わったらハーレイに見てもらわないと駄目かも知れないな」

 口元が弛むのを感じつつ、そう独りごちる。
 自分の仕事を終えたという満足感もそうだが、ツェルニ側はかなり優勢であり、旗を取りに向かっているマイアス武芸者の数も、ずいぶんと少ない。
 このまま行けば、シャーニッドも始めて味わう勝利の美酒という物と遭遇できるかも知れない。

「いや」

 勝利の美酒などと言う物は幻想でしかない。
 おかしな方向へ突っ走ってしまっているツェルニ武芸者達は、きっと、そこここの戦場であらん限りの趣味と嗜好を凝らした戦闘を繰り出していることだろう。
 そして、怨嗟の声を上げながらマイアスの武芸者達は倒されて行くことだろう。
 それを全て見なかったこととして、勝利の美酒などと嘯く強さをシャーニッドは持っていない。
 更に、フラッグの側にいるのはツェルニ史上最悪の性格破綻者である。
 あの頭の中からどんな罠が出ているのか、シャーニッドは知らない。
 だが、それら全てを飲み込んで勝たなければならない。
 ニーナは既に気が付いていた。
 この戦いに勝ったとしても、もしかしたら、その勝利を誇ることが出来ないかも知れないと。
 もしかしたら、ウォリアスはここまで考えてツェルニを導いたのかも知れないと、そんな事を一瞬考えて背筋が寒くなった。
 そして、この先に踏み込むのを止めることとした。
 現実問題として、武芸大会はまだ終わっていないのだし、ツェルニの危機的状況は何も変わっていないのだ。
 強引にそう考えて、次なる標的を探すために念威繰者と連絡を取るのだった。
 
 
 
 
 
 それは突然としてやって来た。
 いや。突然その場所に突っ込んでしまったと言った方が的確だろう。
 マイアス都市警に所属する下っ端武芸者である彼は、退院したばかりのロイについてツェルニ奥深くへと進んでいた。
 だが、曲がりくねった道を高速で移動し続ける武芸者が、常に視界に仲間を入れていることは非常に困難である。
 であるからして、ロイに続いて角を曲がった瞬間に見えてしまった光景に驚愕して硬直してしまったとしても、何ら問題無いのだ。

「・・・あ」
「あぁ」

 見えた物は単純だった。
 ツェルニの武芸者が、ロイを倒していたと言うだけのことである。
 そう。相手が顔見知りでなかったのだったら、何ら問題のある光景ではなかったと断言できる。
 その相手は、褐色の肌と短めの紅い髪をしていた。
 割と背が高い方に分類されるだろう。
 女性にしてはと言う但し書きが付いているのだが。

「ええっと。済まん。ついうっかりというか咄嗟にと言うか、勢いというか」

 それは、何時の間にかマイアスから居なくなっていたナルキという女性だった。
 もっと言えば、いつからマイアスにいたのかも分からない。
 そして何よりも、ロイを女性一歩手前にしてしまった武芸者だった。
 更に、恐るべき事に、ロイは股間を押さえて泡を吹いて意識を失っている。
 ナルキの足は蹴りを放った後のように、少しだけ左右の位置がずれている。
 結論は間違いない。

「折角。折角やっと退院できたのに」
「い、いやな。脇道から突然飛び出してきたんで、思わずというか咄嗟というか勢いというか、そのなんだ、えっとだな」

 言い訳をしているが、それはもはや後の祭りでしかない。
 いや。もはや後の祭りでさえ無いかも知れない。
 なぜならば、おそらくロイは精神的に折れてしまっているかも知れないからだ。
 本当に女性としてしか生きて行けないかも知れないのだから。

「そ、そうだ!!」

 こちらのことにかまっていられる精神状態にないらしいナルキが、なにやら思い付いたのか大きく手を打ってこちらを見る。
 その視線は、明らかに事を有耶無耶にするための犠牲の羊を求めていた。
 そして、途中で仲間とはぐれてしまっているので、ここにはロイと自分しかいない。
 ついでのように言えば、戦う力を残しているのは都市警の下っ端武芸者である自分ただ一人だけだ。

「武芸大会なんだし、戦ってみようじゃないか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 言いつつ刀の切っ先をこちらに向けるナルキは、是が非でもこの場を有耶無耶の内に何とかしたいようだ。
 ここで疑問である。
 咄嗟とは言えロイを瞬殺してしまう武芸者と戦って、勝ち目はあるだろうか?
 マイアスを襲った汚染獣を、雑魚だと切り捨てた武芸者と戦って?
 戦うことしか考えていない危険人物であるサヴァリスに、熱烈に愛されている女性と戦って?
 答えは決まっている。

「しっかりして下さい隊長。こんな傷すぐに治りますよ。再生治療なんて簡単なんですからね。治ったらまた一緒に働きましょうよ」

 徹底的にナルキを無視してロイを回収する。
 向かう先はマイアス。
 きっと明るい未来が待っているのだと信じて、後ろも横も見ずに、懐かしき故郷を目指す。
 切っ先が揺れている赤毛の武芸者のことなど、そこに存在しないないかのように振る舞う。
 関わってしまっては駄目なのだと、そう心に誓い、マイアスの不利が確定している戦場を、敗残の身を引きずるようにして歩く。
 実際にロイを引きずっていることだし、いくら有利だからと言っても、ツェルニ武芸者はこんな状態の敗残兵を襲うほど暇ではないと信じる。
 マイアスに勝ち目がないことはやる前から分かっていた。
 サヴァリスが心躍らせて莫大な剄を迸らせるような存在が、この学園都市にいるのだ。
 しかも、最低一人、最悪の場合二人。
 そんな超絶の都市と戦って勝つ見込みなど、最初から無かったのだ。
 だったら、ロイを回収するという大義名分を持った下っ端武芸者が戦わなくても、何ら問題無いとそう断言できる。
 きっとそうだと自己弁護をする。
 こうして彼の武芸大会は、殆ど何もしないで終わったのだった。
 
 
 
 
 
 散々な戦いだった。
 ツェルニ生徒会本塔のてっぺんに辿り着いてみて、そう実感する。
 鏡の代わりに、剣の切っ先を出して上に誰かいないかと確認する。
 旗の向こう側に、一人だけいた。
 しかもそいつは、こちらに背を向けて座り込んでいる。
 自軍が優勢であるからと油断しているのだろう。
 油断したい気持ちは十分以上に分かる。
 ここまで来る間に、殆どの仲間は打ち倒されてしまった。
 前年の武芸大会では連戦連敗だったという記録を見たが、それが遙か過去の出来事だったのだと、そう実感できるほどに、今年のツェルニ武芸者は強力だった。
 一兵卒に至るまで、マイアスと比べると優秀であり、小隊員などとなれば、もはや冗談抜きに強かった。
 この棟を登っている間にも、あちこちに潜んでいた武芸者に少しずつ数を減らされた。
 結果的にはただの二人だけになってしまったが、それでもこの状況で勝機が見えてきた。
 ゼスチャーで相手のいる位置と、大まかな状況を伝える。
 念威繰者の支援が滞っているのか、それとも近くの戦場が混乱しているのか、こちらにはまだ気が付いていないようだ。
 ならば方法はただ一つ。
 二人一緒に飛び出して、そして座っている奴に牽制の攻撃を放ちつつ旗を奪い取る。
 何時マイアスの敗北が確定するか分からない以上、悠長にしている余裕もない。
 微かに頷き合い、そして一気に飛び出して、そして驚愕の事実を向き合った。

「どわ!!」
「ぎゃ!!」

 視界に飛び込んできたのは、銃身を短くし、水平に並んだ拡散型散弾銃の銃口。
 近距離に特化しているが、その分密度の高い弾幕を張ることが出来るという恐るべき武器である。
 そして、こちらに背を向けたままの武芸者の人差し指が、気楽な動作で引き金を絞り込むのが見えた。
 咄嗟に錬金鋼を放り出して、屋根に張り付いて麻痺弾の効果範囲から逃れる。

「ひぃぃぃぃ!!」
「え?」

 だが、相棒は思わず仰け反ってしまったらしい。
 悲鳴を聞いて振り返った先には、虚空だけが広がっていた。
 ここから落ちて助かるだろうかという疑問が、一瞬だけ脳裏をよぎったが、それをあえて無視して次の動作を実行に移す。
 近距離で高密度な弾幕を張ることは出来ても、あの形式の銃は再装填に時間がかかるはずだ。
 水平二連構造だから、もう一発撃つことが出来るかも知れないが、それを何とか回避すればこちらの勝ちだ。
 屋根に着いていた手を離して、飛び出そうとして、違和感に気が付いた。

「な?」

 手が離れないのだ。
 身体が硬直しているという訳ではない。
 手が、屋根に張り付いているのだ。

「瞬間、強力接着剤を屋根全体に塗ってあるから、下手に剥がそうとすると掌が全部剥がれるからね」

 黒髪を背中の辺りで縛った、細目の武芸者がこちらを向く。
 その手には、再装填が終わった散弾銃が握られていた。
 気が付いていないのではなく、準備万端整えて待ち構えていたのだと、この時になって気が付いた。
 やられた。
 後一歩で旗を奪取できるが、この場に戦力は存在していない。
 錬金鋼は遙か下の方だし、両手が屋根に張り付いている状況では、どうすることも出来ない。

「ところで、落ちた人は助けた?」
「きちんと空中で保護したよ」
「・・・・・え?」

 高性能らしい望遠鏡でマイアスの方向を確認していた黒髪の武芸者が、問いを発した。
 そして、その問いに応じた声は、恐るべき近さから聞こえた。
 具体的には、すぐ右隣から。

「こんにちは」
「こ、こんにちは」

 茶色の髪と紫色の瞳をした武芸者が、手を伸ばせば触れられるほど側に佇んでいた。
 今までその存在を感知することは出来ていなかった。
 いや。今だって感知しているとは言えない。
 思わず挨拶されたので、どもりつつだったが返してしまった。
 更にその武芸者は、この場にいて、落下した仲間を空中で保護したと言っている。
 更に驚くべき事柄として、瞬間、強力接着剤が塗られているという屋根を、平然と歩いて旗の側まで移動している。
 接着剤が塗られていないのかとも思ったが、よく見ると彼は屋根の上に立っていなかった。
 少しだけ、ほんの一センチくらいだけ空中に浮いていたのだ。
 そして止めとばかりに、その手に持っているのは剣の柄だけという錬金鋼。
 全てが異常で規格外な武芸者が、すぐ側にいることに気が付いたが、全ては遅すぎるのだ。

「どうやって歩いているんだ?」
「うん? 足の裏から衝剄を常に出し続けているだけだよ。僕の体重を支えられる分」
「・・・・・・。やっぱり、聞かなきゃ良かった」

 マイアスを見続けている武芸者が、溜息混じりに発した台詞は十分に共感できる。
 自分の体重を支えられるだけの衝剄を、延々と放ち続けられる武芸者など、そうそういないだろう。
 一瞬だけだったら何とかなっても、長時間となると殆どいない。

「想像できてたから、今まで聞かなかったんだ」
「鋼糸を使っているとか言うオチなら良いなと思って聞かなかった」

 鋼糸という武器が、実際にどんな物かは分からないが、旗の側に佇んでいるのが想像を絶する武芸者であることだけは十分に理解できた。
 噂に聞いた、グレンダンからやって来た武芸者と同じ類の生き物だろうと言う事も、何となく分かった。
 この戦いは、やる前から敗北が決まっていたのだと、そう確信させられる展開だった。
 
 
 
 
 
 恐るべき事に、マイアスの戦線は殆どその機能を失っていた。
 マイアス側の部隊は、その殆どが孤立させられて各個撃破されてしまっている。
 そして、既に生徒会本塔の直前まで押し込まれてしまっているという状況だ。
 だが、ここで易々と負ける訳には行かない。
 望みは薄いのだが、ツェルニに潜入した部隊が勝利をもたらしてくれるかも知れない以上、時間を稼ぐための努力を放棄することは許されない。
 その一心で、マイアス武芸長は指揮を執り続けているのだが、それも既に限界を迎えつつある。
 巨大な刀と収束型散弾銃を使い分ける、恐るべき武芸者が障害物を粉砕し、その粉砕された場所に銀髪の巨漢と赤毛な生き物が飛び込み、傷口を広げるという基本戦術に、もはや最終防衛戦も崩壊寸前なのだ。
 更に、打撃専門の部隊が退くのと入れ替わりに、双鉄鞭で武装した気の強そうな、防御専門の武芸者がやってくると有っては、反撃する糸口さえなかなか掴めない。
 何が一番の問題かと問われたのならば、いくら攻撃を当てても全くもって平然としている、双鉄鞭の武芸者だ。
 不死身ではないかと疑いたくなるような撃たれ強さで、打撃部隊が息を吹き返す時間を稼がれてしまっている。
 このままでは、時間稼ぎをすることさえ不可能になる。
 だが、そんな事を考えている間にも、事態は突然としてあり得ない方向へと突き進む。

「全員そこまでだ!!」
「なに?」

 突然発せられた声に、思わずその場にいた全員がそちらの方向へと視線を向けてしまう。
 ツェルニ側も同じ状況であることを考えると、何かの問題が起きたのかも知れないと思ったが、事態はそんな甘いものではなかった。

「な、なにを?」

 視線の先には二人いた。
 金髪を見事な縦ロールにした女性と、その首に腕を巻き付けて良く切れそうな包丁を持った、禿で無精髭の男だ。
 意味不明なその光景に、一瞬思考が止まる。
 その一瞬の隙を見逃すまいと、禿で無精髭の男が動いた。
 巨大な包丁が、女性の戦闘衣、それを止めているベルトの内側へと差し込まれたのだ。
 念のために言っておくのだが、明らかに二人ともツェルニの武芸者である。
 ツェルニ武芸者が、ツェルニ武芸者を人質に取っているようにしか見えない。
 他の解釈が存在しているのだったら、是非ともそれを聞きたいところだが、そんな疑問を持つ時間さえ与えてくれなかった。

「それ以上戦うと言うのならば、この女がどうなっても知らないぞ!!」
「・・・・? は?」

 意味不明だ。
 マイアス武芸者を人質にとって降伏を迫るのだったら、何とか許容範囲内で収まったかも知れないが、残念なことに全く状況が違う。
 リアクションを取ることが出来ず固まっている周りなどお構いなく、禿の無精髭は先に進んでしまった。

「特にこいつの下着がどうなっても知らないぞ!!」
「っちょ!! 待てディン。そんな話は聞いていないぞ!!」

 人質に取られている女性にも予想外の展開だったようで、慌ててその拘束から逃れようとしている。
 い、いや。女性の服を切り刻むと主張しているらしい禿の無精髭はどうでも良い。
 むしろ派手にやって欲しいと心の底で思ってしまっている。
 だが、それと現状の乖離は恐ろしいまでに大きい。
 そこでふと、視界が暗くなったことに気が付いた。

「え?」
「ふん!」
「ごふ!」

 試合が始まる前に見た、ツェルニの武芸長が目の前にいた。
 そして、その棍が振り下ろされた。
 最終的に、呆気ないほど簡単に地面に転がされてしまっていた。

「迎撃しろ!!」

 事、ここに至ってから、ようやく周りの人間が反応した。
 周りで始まった乱戦をかいくぐり、三人がツェルニ武芸長へと迫る。
 咄嗟だったとは言え、その三人の行動は見事な連携が取れていた。
 微妙に到達時間を変えることで、一撃で全員が戦闘不能になることを防ぎつつ、相手の防御も困難にしていた。
 だが、事態は恐るべき結果へと突き進む。
 活剄衝剄混合変化 棍旋激。
 水平に伸ばした棍が轟剣によってその長さを伸ばす。
 更に、一方方向から衝剄を打ち出すことで、一気に恐るべき加速を得る。
 棍のその加速を殺すことなく、身体を大きく振り回し、射程内の全てに決定的な打撃を与えた。
 接近することさえ出来ずに吹き飛ばされる三人を見送りつつ、必死の思いでツェルニ武芸長の足にしがみついた。

「一つだけ、一つだけ教えろ」

 問答無用で止めを刺そうとする、ツェルニ武芸長の足を抱え込みながら、聞きたいことはただ一つだ。
 武芸大会が始まってからこちら、ずっと疑問に思っていたことを何とかしなければ、死んでも死にきれない。

「普通に戦っても勝てたはずだ。それだけの技量をお前達は持っていた」

 どう控えめに考えても、明らかにツェルニ武芸者はマイアスの武芸者よりも強かった。
 実際の腕っ節もそうだが、戦術に関しても、圧倒的とは言わないが、かなり上を行っていた。
 なのに、なぜか、おかしな罠を張り巡らせ、精神的な奇襲を仕掛けてきている。
 こんな戦い方をする理由を、是非とも知りたい。

「何故だ? 何故普通に戦おうとしない?」
「ふん。それは簡単だ」

 蔑むと表現するには、あまりにも同情がにじんだ視線で見下ろされた。
 なんだか、それはそれで腹が立つが、疑問の答えを聞きたいという思いの方が強かったので、そのまま聞くこととした。

「折角考えたのに、使わないともったいないだろう」
「・・・・・・・・・・・・・・。あぁ。そうかもしれないな」

 全ての力が抜けて行くのが分かった。
 このまま、二度と目覚めることがないかも知れない。
 そんな覚悟をしてしまうほど、深い闇に向かって意識が落ち込んで行くのが分かった。
 
 
 
 
 
 決着は付いた。
 ヴァンゼの目の前には、マイアスの都市旗が翻っている。
 この場には、隣にオスカーがいるだけで、後は竿を破壊して手にするだけだ。
 まだ戦闘が終わったという訳ではない。
 未だに抵抗を続けるマイアス武芸者は確かにいるが、それはしかし、遙か下界での出来事でしかない。
 オスカーの手が伸びてきて、ヴァンゼに竿を握れと急かす。
 抗う理由など何処にもない。
 そっと手を伸ばし、ヴァンゼの手には少し細い竿を握る。
 それと呼応するようにオスカーの蹴りが放たれ、根本から破壊した。
 その瞬間、マイアスが自らの敗北を認めるサイレンが鳴り響き、ツェルニは滅びの危機から逃れることが確定した。
 下界では、今まで戦っていた武芸者達が、喜び肩を叩き合い、あるいは敗北感に打ちひしがれて肩を落としている。
 前回の敗北から二年。
 折れそうになる心を自ら奮い立たせ、部下の前では決して弱気を見せず、今年になって入って来たレイフォンとウォリアスという規格外の生き物の手を借りて、ツェルニの暴走では見殺しにしろと命じることを覚悟しつつ、その命令を出さずに何とか乗り切った。
 長かった。
 その思いだけが胸を埋め尽くす。

「拙いな」
「どうしたねヴァンゼ?」

 小さな呟きを、隣にいたオスカーだけが拾った。
 喜んでいるツェルニ武芸者に向かって、大きく旗を振りつつ決してそちらを見ずにヴァンゼは答える。

「泣いてしまいそうだ」
「ふん」
「なんだ?」

 自らの弱みを見せられる数少ない友人に、今の状況を端的に教えたのだが、鼻で笑われるという予想外の現象が起きてしまって少しだけ気分を悪くしてしまった。
 だが、それも、横目でオスカーの姿を確認するまでの短い時間だった。

「私はもう泣いてしまっているよ」
「そのようだな」

 満面の笑顔を浮かべるオスカーの瞳からは、止めどない涙がこぼれ続けている。
 そして、ヴァンゼもこれ以上堪えることは出来ずに、決壊してしまった。
 オスカーがどれほど嬉しいかヴァンゼには分かる。
 おそらく、この気持ちを理解できるのは五百人を超えるツェルニ武芸者の中でも、十人といないだろう。
 他にいるとすれば、カリアンを筆頭に暗躍した生徒会役員くらいだろう。
 だが、実はまだ終わっていないのだ。

「ここから降りる時に気をつけないとな」
「ああ。アルセイフ君の鋼糸も、ここまでは届かないだろうからね」

 ツェルニ生徒会本塔で、万が一の落下事故に備えているレイフォンの鋼糸も、ここまでは届かないはずだ。
 涙で視界がぼやけているまま、降りるとなれば何時も以上の用心をしなければならない。
 勝った直後に、武芸長が転落死したのでは、ツェルニ武芸科末代までの恥となってしまうだろう。
 大きな荷物が肩から降りた、それを実感しながらも、ツェルニにある部屋に戻るまで、決して油断は出来ない。
 例え嬉し涙だとしても、他の武芸者にそれを見せることは褒められたことではない。
 勝って当然だと、そう強がらなければならないのだ。
 そう決意したヴァンゼは、流れる涙をそのままに、細心の注意を払いつつ、オスカーと連れだって地表を目指したのだった。
 
 
 
 
 
 ツェルニ生徒会本塔の屋根に陣取ったウォリアスにも、マイアスの敗北を知らせるサイレンは聞こえていた。
 散々悪辣な罠を張り巡らせ、負けないようにしてきたつもりだったが、実際に勝つとやはり感慨深い物がある。
 一年でしかないウォリアスでさえそうなのだから、連敗記録を伸ばし続けてきた上級生達の喜び様は想像に難くない。
 今夜は夜通しの宴会だろうと、そのくらいの予想しかできないが、おそらく明日一杯まであちこちでどんちゃん騒ぎだろう。

「ああ。武芸長も泣き出してる」
「なに?」

 そんな事を考えている最中、あまりにも恐るべき報告をレイフォンがしてくれた。
 別段、もはや人間とは思えない人外魔境のレイフォンが、マイアスの中心部にいるヴァンゼを視認できていても何ら問題無い。
 未だに屋根に張り付いたままのマイアス武芸者は、驚きのあまり凍り付いているが、ウォリアスにとってこの程度は日常となり果てているのだ。
 だが、問題はヴァンゼが泣いているという事実。
 あのごつい顔で泣くのかという突っ込みは兎も角として、驚いてしまう事実だ。
 だが、それもすぐに納得の現象へと変わった。
 この戦いに負けたのならば、滅びが現実味を帯びてくるところだった。
 もちろん、この一戦に負けたのならば、即座にツェルニの足が止まるという訳ではなかった。
 それでも、人心に与える精神的な打撃は恐ろしい大きさになったはずだ。
 暴走している時には起こらなかった暴動が、ツェルニの社会を破壊してしまっても何らおかしくないほどに、巨大な一撃となったことだろう。
 それが分かっていたからこそ、ヴァンゼは勝利と共に涙を流したのだろう。
 だが、もう一つ疑問もある。

「武芸長と一緒にいるのは、誰?」
「オスカー先輩だね。鋼糸伸ばして万が一落ちたら拾えるようにしているけど、二人ともおっかなびっくり降りてるから大丈夫そうだよ」
「その触手何処まで伸びるんだ?」
「鋼糸ね。ギリギリ向こうの旗に触れるくらい」
「・・・・・・・・・・・・。そうかい」

 戦略も戦術も、天剣授受者という化け物には全く無意味なようだ。
 思えば、リンテンスも都市戦で一歩たりとも動いていなかった。
 師弟では、その技の威力や切れに決定的な違いがあるだろうが、それはもはやウォリアス達の踏み込めないところの話である。
 流石にこの辺まで来ると、日常の風景としては処理できなくなってしまう。
 だが、これで一つ山を越すことが出来た。
 次の戦いに向けて準備をしなければならないが、来週武芸大会があるなどと言う事はないだろうから、少しゆっくりしようとそう心に誓った。

「あのぉぉぉ。そろそろ剥がしてもらえませんか?」
「ああ。えっと中和剤は持っているよね?」

 マイアスが敗北した以上、都市はまた別々の方向に歩き出す。
 その前に元のところに戻っておかないと、とても大変なことになるのは確実だ。
 レイフォンに指示して、接着剤を中和する。
 恐る恐ると手を離すマイアス武芸者を眺めつつ、いい加減ウォリアス自身もここから移動したいところだ。
 そう。接着剤の効果時間は実はあまり長くない。
 放っておくと、空気中の埃をくっつけてしまって、急速にその接着力を失ってしまうからだ。
 だから、武芸大会が始まる直前にウォリアス自身が散布したのだ。
 そこまでは良かった。
 問題は、一瞬の油断だった。
 そう。足を滑らせてしまい、罠を仕掛けた本人が屋根にくっついてしまったのだ。
 まあ、これはこれで見晴らしが良いからかまわなかったのだが、長いこと同じ姿勢を取っていると、とても疲れるのもまた事実。
 武芸大会も終わったことだし、最後の防衛戦としても十分に機能したことだし、ウォリアス自身も勝ったことだし、そろそろ屋根と決別をしたいところだ。

「まあ、負けずに済んだことだし収支は黒字かな」
「? 勝ったでしょ?」
「ツェルニはね。僕は負けなかった」
「?」

 下へ向かって行くマイアス武芸者を見送っていたレイフォンの視線が、疑問を湛えてウォリアスを見る。
 ツェルニの勝利と、ウォリアスの不敗が別であることが疑問なのだろう。

「レイフォンが戦わなかった。戦っていたら、それは僕やツェルニ武芸者の敗北だったさ」
「えっと? 僕はツェルニ武芸者に数えられてないの?」
「ああ。うぅぅん。ツェルニ武芸者なんだけれどね」

 改めて正面から聞かれて、答えに困る。
 ディンとも一致した意見だったが、レイフォンを戦略的に使うことはあっても、戦術的に使うことは出来るだけ避けるつもりだった。
 レイフォンが戦うと言うことは、去年までの弱いツェルニと何ら変わらないと言う事だったからだ。
 レイフォンがツェルニ武芸者かと問われたのならば、ツェルニの武芸者だと答える。
 だが、戦力として計算してしまうことには反対だった。
 レイフォン自身が認めているように、単独で一つの都市を滅ぼすことが出来る武芸者に頼ってしまったら、そこで終わりなのだと、そうディンもウォリアスも考えている。
 この辺をきちんと伝えるためには、恐ろしいほどの時間と労力を費やさなければならないだろう。
 だが、事を単純にしてしまうことも出来る。

「今回の武芸大会で、僕が立てた目標だよ。レイフォンを戦わせないというのはね」
「ああ。成る程ね」

 取り敢えず納得してくれたようで一安心だ。
 念のためにと、屋根中に中和剤を振りまいているレイフォンを眺めつつ、ウォリアスは少しだけこの先に不安を覚えていた。
 この、驚異的な能力を持った武芸者を支えている精神は、あまりにも普通すぎるから。
 サヴァリスとまでは行かないが、もう少し強固な何かがないと、また失敗をしてしまうかも知れない。
 自分の行動を決定するための指標として、レイフォン自身の持っている何かを使えないだろうか?
 そう考えるウォリアスはしかし、何時もの間にかレイフォンがいなくなっているという驚愕の事実に、打ちのめされるのだった。
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 と言う事でマイアス線終了です。
 実を言うと、しばらく前に自律型移動都市の大きさを計算した事があります。
 アメリカの、小麦収穫量を基本に、人口から自律型移動都市の大きさを逆算したのですが、年一回小麦を収穫するとなると、だいたい北海道くらいの面積が必要になってしまいました。十万人を養う小麦を生産するだけで。
 どんなに生産力を上げたとしても、最低限北海道程度の大きさが必要であると仮定した場合、明らかにリンテンスやレイフォンの鋼糸は長く伸びすぎると思ったのですが、今回そのまま使いました。
 厳密に言うと、リンテンスは接岸部から都市旗を奪ったのに対して、レイフォンは中央から中央に糸を伸ばしているので、その長さはリンテンスの倍となってしまいます。
 この辺書いていてどうかとも思いましたが、とりあえず考えたとおりに書いてみました。いかがだったでしょう?
 そう言えば、どなたか自律型移動都市の大きさについての資料って持っていませんか? 有ったら是非参考にしたいのです。



[14064] 第九話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/09/11 18:38


 戦勝に賑わう街角を歩きつつ、第五小隊長であるゴルネオは殺剄を維持しつつも、視線を辺りに飛ばして捜し物をしていた。
 殺剄をしているのは、別段サヴァリスから逃げるためではない。
 相手が天剣授受者では、相当なことをやっても、捕まる時には捕まるし、殺される時には殺されるので、その辺はある程度諦めている。
 では、何故殺剄をしているのかと問われたのならば、話はとても簡単である。
 そう。戦勝で賑わう街角を第五小隊長などと言う怪生物が歩いていたら、間違いなく人だかりが出来てしまうからだ。
 そうなったら最後、写真を撮られるのは確実だし、握手を求められることも十分に考えられる。
 そして何よりも恐ろしいのは、周り中を囲まれてしまうことだ。
 そうなってしまったら、お調子者が見物料を取り始めるかも知れないし、見物のために長蛇の列が出来ても不思議ではない。
 そうならないように用心して、殺剄を維持しつつ捜し物をしているのだ。
 ちなみに言えば、捜し物はゴルネオの右腕と言えないことはない、赤毛な怪生物だったりする。
 普段はゴルネオの肩に乗っているのだが、食欲が刺激されると何処かに飛んで行ってしまうと言う、あまりにも傍迷惑な特殊技能を備えた副長を捜しているのだ。
 だが、人でごった返す場所で探し出すのは困難を極める。
 念威繰者を動員できれば少し楽だっただろうが、生憎と、オスカーを含めて全員が何処にいるかさっぱり分からないという、末期的な状況に陥ってしまっているのだ。
 だが、そんな末期的状況は、突如として解決された。

「シャンテ?」

 飛ばしていた視線に、やたらに目立つ紅い髪が飛び込んできたからに他ならないのだが、探し人は一人ではなかった。
 もはや、どんちゃん騒ぎと表現することしかできない店内だったが、何故かその一画だけは人が少なく、外からでも十分に見つけることが出来たのだが、シャンテと一緒にいる男性が少し問題かも知れない。
 いや。問題と言うよりは、頼りになると表現すべきだ。
 銀髪を短く刈り込んだ、肩幅の広い男性が右側の席を占領している。
 黒髪を短く刈り込んだ、ずんぐりした体格の男性が左側の席を占領している。
 その後ろ姿に、見覚えが有りすぎた。
 間違いなくオスカーと、そしてフォーメッドだ。
 ある意味、散々世話になっている二人がシャンテを確保しておいてくれたのだろうと、そう楽観して店の中へと入って行き、そして全てが誤解だったことを悟った。

「うにゃぁぁぁ」

 持っていた、巨大なガラス製のコップを、やや乱暴にテーブルに叩きつけつつ、シャンテが溜息らしき物を付いた。
 まだ後ろ姿なのでその表情は分からないが、持っているコップには褐色の泡のような物が付着しているように見える。
 更に問題なのは、似たようなコップがもう一つあると言う事で、こちらには白い泡のような物が付着している。
 いや。巨大なガラス製のコップなどと現実逃避をするのは、もう限界だ。
 それは、一般的にこう呼ばれている。
 ビールジョッキと。
 全身から、血の気が引いて行く音というのを、生まれて始めて聞いた。
 ナルキが経験しただろうそれを、ゴルネオもまた味わう羽目となったのだ。

「どうだね副長?」
「飲んでみた感想は?」

 左右に陣取る男二人が、シャンテになにやら質問しているのが聞こえるほどに近付いたが、理性がその会話を理解することを拒否している。
 まるで、シャンテに酒を呑ませているように聞こえるその会話を、全力で理性が拒絶しているのだ。
 いや。こちらの現実逃避も既に限界を超えている。
 認めるしかないだろう。
 二人掛かりで、シャンテに酒を呑ませているのだと。
 そして、最も恐ろしいのは、男二人の手には、新たなジョッキが握られていると言う事だ。
 オスカーの手に握られているのは、白く濁った黄金色の液体が入っているジョッキだ。
 彼が好きこのんで飲んでいるビールが、俗に白ビールと呼ばれる物であることは知っている。
 ゴルネオ自身も、何度か付き合いで呑んだことがあるから間違いはない。
 そして、フォーメッドの持つジョッキには、やはり濁った褐色の液体が満たされていた。
 白ビールと対をなすとオスカーが評価していた、黒ビールという物だろう。
 生憎と、こちらはまだ呑んだことはないが、問題はそんな低レベルな話では無い。
 問題の本質は、シャンテに酒を呑ませていると言う事だ。

「にゃぁ? どっちも苦いじょぉ」
「そうかそうか」
「苦いのが美味いのだぞ」
「うにゃぁぁ?」
「さあ」
「もう一杯」

 既に酔いが回っているらしいシャンテの前に差し出されるジョッキ。
 そして、条件反射的にそれに手を伸ばすシャンテ。
 これは、とても危険である。

「にゃ!!」

 言われるがままに、ジョッキに手を伸ばそうとしたシャンテの腰を引っ掴み、そのまま肩の上に担ぎ上げる。
 今の今まで殺剄をしていたために、オスカーでさえ接近に気が付かなかったようで、驚いた男二人の顔がゴルネオの方を向く。
 その、不埒な二人を睨み据えてから、シャンテを担ぎ直して店から出ようとした。

「何をするのだね隊長?」
「折角良いところだったんだぜ?」

 二人からの抗議の声で、その行動を止めてしまった。
 二人の台詞を聞いていると、まるでゴルネオの方が悪いことをしているように聞こえてしまう。
 非常に納得の行かない流れであるので、再び向きを変えて、男二人を見やる。
 当然の様に、非難の視線で見られた。

「何をしているのかという疑問は、こちらの物です。シャンテに何をしているのですか?」

 かなりの憤りを込めて二人を見るが、何故か全く共感を得られなかった。
 いや、それは始めから分かっていたことだと言える。
 問題なのは、全くゴルネオの言っていることを理解できていないらしいと言う事だ。

「何を言って居るのだね隊長?」
「おかしな事を言ってくれてるなルッケンスさんよ?」

 更に、常識がない人間を見るような視線を向けられている。
 もそもそと動くシャンテを担ぎ直しつつ、二人の次の台詞を待ってしまった。

「副長は既に飲酒可能年齢だよ」
「そうだぜルッケンスさん。なりは小さいが二十歳過ぎだぜ」
「・・・・・・・・・・・・・・? え?」

 思わず凍り付く。
 そして、冷静になって考えてみる。
 シャンテの年齢についてだ。

「・・・・・・・・・・・・・」

 考えるまでもなく、シャンテとは入学直後から関わり続けている。
 普通に考えるのならば、明らかに飲酒可能年齢である。
 だが、だがである。
 ゴルネオの肩の上で、もそもそと動いている赤毛猫を捕まえて、飲酒可能年齢だと言って良いのだろうか?
 答えは否である。
 断じて否である。
 この結論に達したゴルネオは、反論のために口を開こうとしたのだが、それを急激に停止させた。

「何をしているシャンテ?」
「うにゃぁ?」

 もそもそと動いていたシャンテの行動が、いきなり意志有るそれへと変化したかと思うと、シャツのボタンを外そうと四苦八苦し始めたのだ。
 普通に考えれば、明らかに服を脱ごうとしているように見えるが、衆人環視の中、そんな事をさせる訳には行かないし、そもそも脱ごうとしている理由が全く不明なのだ。
 そして、問いを発したのだったが、ある意味当然の答えが返ってきてしまった。

「あついじょぉぉ。ごる。ふくをぬぐからおろしてくれ」
「待てぃ。真剣に待てぃ。莫迦! スカートに手をかけるな!!」

 ビールを二杯も飲んでしまって酔ってしまっているのだ。
 ならば、血行が異常に良くなってしまって、暑苦しくて仕方が無いことは十分に理解できる。
 理解できるのと納得できるのは違うし、当然のこととして、支持することなど出来はしない。
 出来うる限りここから速く連れ出し、そして、シャンテの部屋に放り込まなければならない。
 部屋の中なら、多少裸になろうと下着姿になろうと、大きな問題にはならないはずだ。
 そして、ふと、視線を感じた。

「な、なにを?」

 今まで非難の視線で見つめていた二対の瞳が、納得の色を浮かべているのだ。
 今までのシャンテとの会話で、この二人は何を納得したのだろうかと疑問になる。
 そして、想像の翼を羽ばたかせて遙か彼方まで飛んで行った先に、恐るべき答えが一つだけ転がっていた。
 それはもはや、想像することさえ憚られる結論だった。
 そう。酔っているシャンテを部屋に連れ込み、介抱するという立前の元、色々といかがわしい事をしようとしていると、そう思われているのだ。

「いや。済まなかったね隊長」
「俺達が間違っていた」
「「早く介抱してやってくれ」」
「まてぃ!! 何を考えているんですか!!」

 真剣に抗議する。
 今まで生きてきた中で、最も真剣でいて激しい抗議をする。
 だが、その抗議は二人の面の皮を滑るだけで、とても内側に届いているようには見えない。
 更に視線を感じた。

「っぅう」

 店にいるほぼ全ての人間の、その視線がオスカーとフォーメッドと同類だったのだ。
 いや。殺意や害意を持った視線も多かったが、最終的にはゴルネオの行動を既に確定してしまっている視線ばかりだった。
 もはや、これ以上ここで何を言っても意味がない。
 それどころか、時間をかければかけるほど不利になる。
 シャンテが服を脱ごうと必死に足掻いているという状況の前では、ゴルネオの抗議や抵抗など全くの無意味である。
 折角ツェルニが勝利を得たというその日に、ゴルネオは致命的な敗北を喫してしまった。
 ロリコンだとか外道だとか言う小声の非難を聞きつつ、ゴルネオは店を出る。
 活剄まで使って、恐るべき噂の並から遠ざかる。
 すぐに追いつかれる事は分かりきっているが、それでも逃げずにはいられなかった。
 
 
 
 
 
 戦勝に沸くツェルニの地上部から遠ざかり、ニーナは人気の少ない機関部へとやって来ていた。
 流石に無人という訳ではないが、それでもこんな日に地道に仕事をしている人間は、予想通りに少ない。
 別段、誰か知り合いに会いに来た訳ではないのでかまわない。
 いや。知り合いに会いに来てはいる。

「ツェルニ!!」

 機関部の中央に聳え立つプレートの山の上に、何時も通りに漂っている金色に耀く童女に声をかける。
 呼ばれたツェルニは、何時も通りの速度でもってニーナの胸の中へと飛び込んできてくれた。
 今日の勝利で、ツェルニが滅びる事はなくなった。
 それは、心の底から嬉しい。
 正確に表現するならば、ツェルニが滅びを避けられた事だけは、心の底から喜ぶ事が出来る。

「ああ。勝ったんだぞツェルニ。私達は勝って、お前が餓死する事はなくなったんだ」

 自律型移動都市を動かしている食料とも言えるセルニウム鉱山を、ニーナ達武芸科の活躍で一つ増やす事が出来た。
 二年近くにわたって、散々苦労してきた甲斐が有ったと、そう表現する事も出来る。
 だが、実際のところ、勝てたのは今年偶然に入って来た一年生によるところが大きい事も、しっかりと認識しているのだ。
 レイフォンと、認める事はしゃくだが、ウォリアスが入学してきてくれた事で、ツェルニは勝つ事が出来た。
 この二人が入学してきたせいで、化学変化が延々と起こったお陰で勝てたのだと、そう表現できる事実こそが、ニーナに重くのしかかる。

「勝ったんだツェルニ。勝ったんだ。勝ったのに、なんで晴れやかな気分になれないんだろうな、私は?」

 ニーナ自身も活躍できた。
 打撃力重視のオスカーやゴルネオが開けた穴に入り込み、塞ぎに来た連中の攻撃を受け止め続け、そして次の打撃の準備が終わったところで交代し、ニーナ自身も息を整えると言う事を繰り返し、そして勝つ事が出来た。
 だと言うのに、ニーナの脳裏をよぎるのは、あらん限りの悪辣な作戦を実行し、相手に本来の実力を発揮する機会を与えず、自らの実力のみをひけらかすという光景ばかり。
 普通にやっても確実に勝つ事が出来た。
 それは間違いない。
 半年前のニーナだったら、間違いなく途中で倒れているだけの攻撃を受け止め続け、更には反撃さえも出来るだけの実力が、今は備わっているのだ。
 ニーナが特別伸びたという訳ではない。
 ツェルニの小隊に名を連ねている武芸者ならば、さほど変わらない伸び方をしているし、一般武芸者でさえも、一昨年と比べるとかなり強力になっていた。
 そう。普通にやっても勝てたというのに、考えた悪辣な作戦を使わなければ損だとヴァンゼが主張し、それに異議を唱える人間は、ニーナを含めても少数だった。
 お祭りが大好きだというヴァンゼが率先するのは仕方が無い。
 悪のりしたシンが賛成するのは仕方が無い事だろう。
 ウォリアスは、まさに悪辣な事をするために散々準備してきたのだから、それも当然と言える。
 だが、ディンまでダルシェナを使った精神攻撃を準備しているとは全く思わなかった。
 いや。巻き込まれたダルシェナが気の毒と言えるのだが、それでも、真面目だと思っていたディンまであんな罠を用意していたという事実が、ニーナを強かに打ちのめしているのだ。
 そこまで考えたところで、顔に何か暖かな物が触れている事に気が付いた。

「ああ。ツェルニ」

 疑問の表情を浮かべたツェルニの、小さな手が、涙を流すニーナの頬に添えられていたのだ。
 勝ったというのに、嬉しくもない涙を流している自分を発見したニーナは、少しだけ強くツェルニを抱きしめたのだった。
 そうでもしなければ、とても自分を保つ事が出来そうになかったから。
 
 
 
 
 
 すっかりと日が暮れたツェルニの町を見下ろしつつ、ウォリアスは自分の境遇にかなりの不満を持っていた。
 色々と言いたい事はあるのだが、今問題としなければならないのは、目の前に現れた茶髪猫だ。
 保温容器の蓋を開けると、明らかに揚げてから間が無い鶏肉をフォークで刺して、それをウォリアスの方向へと突きだしてきている。
 未だに湯気を立てているそれを眺めつつ、小さく溜息をつく。

「はいウッチン。あぁぁん」
「あぁぁん」

 話の流れであるから仕方が無いと、諦めの極致に達したウォリアスは口を開けて、熱々の揚げ物を口の中へと放り込んでもらう。
 口の中を火傷しないように細心の注意を払いつつ、鼻へ抜ける香りを堪能する。
 きっと、この時のためにメイシェンが腕によりをかけて用意していたご馳走の一部だろう。
 だが、わざわざウォリアスのところに運んできてくれたのだと感謝する気にはなれない。
 冷たい風と、熱々の揚げ物が覇権を争う時間を楽しみつつ、視線を少し降ろしてみる。
 そして見えてきたのは、都市旗が建てられている建物の屋根だ。
 そう。マイアスとの戦いが終わり、ここに居続ける理由など何一つ無いというのに、ウォリアスは未だに屋根に貼り付けられたままだ。

「美味しい?」
「うん。美味しいよ」

 とても嬉しそうなミィフィの問いに、にこやかに返事をしつつ答えは見付かっていた。
 わざわざご馳走の一部を運んできたミィフィ。
 何処から調達したのか全く不明だが、とても性能の良い保温容器。
 更に、屋根に上がるために用意されたハシゴ。
 止めとして、ウォリアスを残して消えてしまったレイフォン。
 大会直後から用意していたと考えるには、あまりにも用意周到すぎる上に、豪華な装備だ。
 おそらくは、大会が始まる少し前から計画されていたのだろう。
 そう。ウォリアスが屋根に張り付いてしまって、ズボンを脱がなければ脱出不可能となった辺りから。
 ミィフィに弱みを握られているらしいレイフォンが逆らえるはずもなく、祝勝会のために入念に準備しているメイシェンが料理の拠出を断るはずはない。
 全てが、目の前の茶髪猫の暗躍の元に行われていたのだ。
 制裁を加えるべきは誰なのだろうかと、考えるまでもなく分かりきっている。
 だからこそ、その瞬間まではミィフィの思惑に乗ったまま進む。

「ところでミィちゃんよ」
「なんだいウッチン?」

 期待に胸ときめかせている茶髪猫を眺めつつ、期待通りの疑問を投げつける。
 その先をどうするか、既に決まっているのだ。

「ご馳走持ってきてくれて有難いんだけれどね」
「うむ。渾身の力を込めて私に感謝してくれ給え」

 凄まじい満足感と共に、次の言葉が出るのを待つミィフィ。
 それに応えるウォリアス。

「僕をここから解放してくれるという選択肢は、もしかして持っていないのかな?」
「おお!! すっかり忘れていたぞ。済まんねウッチン」

 言いつつ、これ見よがしに取り出す小瓶には、当然の事実として接着剤を中和する液体がぎっしりと詰め込まれている。
 小瓶を受け取りつつ、とても嬉しそうな茶髪猫を眺めつつ、やっと屋根から離れる事が出来る開放感を味わう。
 半日以上ここにいたために、いい加減腰も足もガタガタになっているが、珍しく活剄を走らせて疲労を駆逐する。
 そして、慎重に立ち上がる。
 ここは勾配の急な屋根の上であり、一歩間違えば、ウォリアスなどひとたまりもない高さにいる事を常に意識しておかなければならない。
 マイアスの武芸者も、レイフォンが助けなければ即死だった場所で、油断などしている暇など無いのだ。
 そう。尻尾を幻視してしまいそうな程の嬉しそうな茶髪猫と違って、ウォリアスは油断などしない。

「・・・・。あ」
「うん?」

 憤りを込めてミィフィを見詰めていた視線を、僅かに横にずらせて小さく呟く。
 具体的には、ハシゴの足元付近を軽く見詰める。
 ウォリアスがそんな事をしたために、咄嗟の行動でミィフィも同じ場所を見てしまった。
 そう。ハシゴの足元を越えて、断崖絶壁の彼方に広がる地面を。
 一瞬にしてミィフィが凍り付くのが分かった。
 猫は猫でも、高所恐怖症の猫だったようだ。
 まあ、それが予測できていたからこそ、下を見せたのではあるが。

「ああ。ごめん。なんでもないや」

 言いつつ、出来るだけハシゴを揺らさないように注意しつつ、それでいて不安をかき立てる程度の速度で体重を移動して、ミィフィの横を通り過ぎる。
 屋根から解放されたのだから、ここにこれ以上いる理由はないと宣言するために、ハシゴを滑り降りる。

「っひぅ」

 珍しく可愛らしい悲鳴が聞こえたような気がしたが、それを無視して一番近くにあったベランダへと降り立つ。
 実は、ミィフィを虐めているだけではない。
 半日以上屋根にくっついていたために、生理的な現象が切羽詰まっているのだ。
 実を言うと、もはや余裕など存在していないのだ。
 一刻も早くトイレへと駆け込みたいのだ。
 慌ただしく窓を開けて室内に飛び込もうとしたところで、か細い呼び声を耳が拾ってしまった。
 当然の事、高いという事実を認識して動きがとれなくなっているミィフィの物だ。
 ここで、究極の選択である。
 ミィフィを見捨てて己の目的を達成するか。
 それとも、地獄の苦しみを味わいつつ手を差し伸べるか。
 この後、ミィフィと永遠に関わらない人生が待っているのだったら前者であるが、生憎と五年半はツェルニで一緒に暮らす必要があるのだ。

「どうしたミィちゃんや?」
「う、うっちんよぉぉ。たすけてぇぇ」

 もはや外見を取り繕うだけの気力もないのか、弱々しい声で助けを求めるミィフィに、思わず意地悪をしたくなってしまったのはしかたのない事だと、自分で自分に言い訳をする。
 ハシゴを揺らさないように、自分の身体を出来るだけ刺激しないように登り、そしてそこで困ってしまった。
 そう。活剄を使ってミィフィを持ち上げる事はどうと言う事のない簡単な作業だ。
 いくら非力な武芸者であったとしても、それくらいは何ら問題無くできる。
 だがそれは、下腹部の圧力が臨界を迎えている状況では極めて危険である。
 吸水性素材で作られたズボンを履いている訳でもなく、都市外戦装備の基本となっているおむつを装着している訳でもない現状で、危険を冒す事は憚られる。

「ああ。ちっと用を足してくるから、そのまま待っていてくれや」
「・・・・・。え」
「いやな。あと一時間早かったらギリギリセーフだったんだけれどね、限界なんだ」

 そう言いつつハシゴを下りる。
 ミィフィの悲鳴を聞いたような気もするが、それにかまっていられる状況ではないのだ。
 結局見捨てる羽目になってしまったが、五分ほどで戻って救出するのだし、それ程酷い事にはならないだろうと考えたウォリアスだった。
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 
レギオスの大きさについて。
俺の計算では、北海道くらいの大きさになってしまいますが、これはあくまでも現代の農業生産力から逆算した物です。
宇宙空間で効率よく農産物を栽培するために水耕栽培とか、もはや非常識と思えるような方法が考案されつつある昨今。自律型移動都市の大きさを劇的に小さくできるかも知れないですね。
都市内に亜空間を増設するというのは、それはそれで有りな考えですが、そうなると、ほぼ無限に人口を増やす事が出来るようになって、そしてレジェンドと似たような事態が起きるかも知れませんね。
ある意味、隠し絵の世界ですかね?
まあ、雨木さんも具体的な大きさなんか考えないで書いていた節がありますから、あまり突っ込むのも野暮という物かも知れませんね。
とは言え、思考の遊びとして考えると結構面白いです。
その昔、人類を他の星系へ移住させるためのアガメムノン計画とか言うのもあって、散々遊び倒した物です。
 
ついでではありますが、宇宙で自給自足できる人工天体や船について考えてみたいと思います。
 
少し書きましたが、アガメムノン計画というのが昔有りました。
宇宙世紀のコロニーを宇宙船に改造するというと分かりやすい作りで、四万人が生活できるそうです。
 
そのほか俺が読んだSFの中で最も大きな人工天体は、ダハク。
反逆者の月に登場する宇宙戦艦で、もろに月のサイズがありました。
ここまで大きいと、農場も問題無く取れるので全くもって完璧な自給自足ですね。
続いてイゼルローン要塞。
ご存じ銀河英雄伝説に登場する、直径六十キロの要塞です。
こちらも、軍需工場から食料生産区画まで、全て完備している完璧自給自足型。
次は少し小さくなって、都市船アブリアル。
星界シリーズに登場していましたが、戦旗五巻で派手に沈んでしまいました。
こちらは、建造当初無限動力を持った人類最強戦力でしたね。
大きさをはっきりと記憶していませんが、全長数キロだったはず。
次に上げるのは、恒星間航行能力は持っていませんが、それでも長期間自給自足が出来るというフォン・ブラウン。
プラネテスに登場する木星往還船です。
微生物まで完璧にコントロールした食料生産区画を持ち、七年に及ぶ航海に耐えられるという恐るべき船でした。
こちらの全長も確実に数キロ。
最後がヤマト。
宇宙戦艦ヤマトの主役メカで、説明はあまり要らないようですが、2199になってからかなりパワーアップしています。
初放送時は食料などは事前備蓄が必要でした。(途中で食べられる物を確保しなければならなかったという描写がありました)
しかし、最新の方ではほぼ自給自足できてしまっていました。(最も不調を来したようで、最終的には補給に立ち寄っていますが)
脅威です。たった三百メートル少々の船に、ほぼ完璧な自給自足環境を作るなど、驚くべき脅威です。
 
ここまでとは言いませんが、自律型移動都市の食料生産区画もかなり小さくできるのかも知れません。
最も、ヤマトの千人に対して自律型移動都市の十万人であり、長期間の航海に耐えられる作りと、半永久的に人類を生かすためなど、違いは多いので比較は難しいですが。
 
などなどと思考の遊びをしてきましたが、実際問題としてどうなっているんでしょうね?
繊細な環境であるのだけは確かなので、グレンダンで食糧危機が起こったのも頷けます。
むしろ、他の都市で起こらない方が奇跡的かも知れませんね。




[14064] 閑話 槍衾がやってくる 前編
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/10/02 21:14


 ツェルニが勝利を収めたその夜に、レイフォンは戦慄を覚えていた。
 深夜になっているというのに、ツェルニ生徒の興奮は一向に収まる事を知らず、繁華街からは大勢のさんざめく声が聞こえてきているが、外縁部に近いここは静寂を保っている。
 だが、その静寂は何時破裂するか分からない緊張を孕み、そして何よりもレイフォンを取り巻く環境が静かな展開など全くもって約束してくれていない。
 後ろにいるのは、褐色赤毛の武芸者であり、ある意味弟子と呼ぶ事が出来る少女だ。
 何時も勝ち気ではっきりしている少女が、レイフォンの背中に隠れ、必死にその服を掴んで助けを求める姿に、何か普段とは違う物を感じてしまっているような、いないような。
 そして、前にいるのはグレンダンからの使者サヴァリスだ。
 何時も以上に深い笑みを湛えたその表情は、これから何が起こるのか楽しみにしている少年のそれである。
 期待しているのが、お祭りとかの平和的なイベントでない事が、決定的に違うかも知れない。
 いや。ある意味お祭りかも知れない。
 血祭りという、とても平和的ではないお祭りに招待されかけているのだ。
 そして、逃げ場は存在していない。
 リーリンに何とかしろと言われたという事実もあるが、レイフォン自身が出来るだけの事をしたいと思っているのだ。
 半泣き状態で腰が抜けたミィフィを、ウォリアスが背負って帰ってきてから既に四時間ほどが過ぎ去っている。
 そのミィフィとウォリアスを交えた宴会が終わってからでも、既に一時間以上が経過しているはずだ。
 出来れば、あのまま部屋へと帰って眠ってしまいたかったのだが、生憎と問屋が卸してくれなかったのだ。
 そう。とても熱烈な視線でナルキを見詰めるサヴァリスを認識してしまっていた以上、あのまま帰って眠ってしまうと言う選択肢は存在していなかった。
 それでも、宴会が終わるまで待ってくれたサヴァリスの気遣いに感謝すべきかも知れないと、ほんの少しだけ思ってしまったが、そんなレイフォンにお構いなく話は突き進む。

「ああ。僕とナルキの愛を妨げようとしているとは、罪作りな男だねレイフォン?」
「・・・・。それ、微妙以上に言葉の使い方が間違っていますからね」

 正確を期すならば、微妙などと言う可愛らしい表現ではないくらいに違うのだが、そこを突っ込んでいると話が先に進まないのも事実なので、これくらいで受け流す事とする。
 ゴルネオから、もしかしたら廃貴族を狙ってサヴァリスが来たかも知れないと言う情報をもらっている以上、下手な事をすれば即座に死につながる程度の覚悟はしている。
 とは言え、いきなり愛などと言う単語が出てくるとは思わなかった。

「僕とナルキは、愛という絆で結ばれているんだよ? それを邪魔するというのだったら例え陛下の命に背く事となっても、レイフォン。君を殺すよ?」
「・・・・・・・・・・・。サヴァリスさん」

 ここで気が付いた。
 サヴァリスは愛という単語を乱用したいのだと。
 何が原因か分からないが、単語自体がとても気に入ってしまっているのだ。
 だからこそレイフォンは言わなければならない。

「貴方が愛しているのはナルキじゃないでしょう」
「うん? 僕はナルキを愛しているよ。心の底から愛しているからこそ殺し合いたいんだよ」

 流石にサヴァリスだと、そう表現できるだろう。
 恐怖のあまり小さく痙攣したナルキの手を、そっと外してサヴァリスに相対する。
 言うべき事は既に決まっている。
 だからこそ、指を突きつけて絶叫する事が出来る。

「貴方が愛しているのはナルキじゃない。殺し合いそのものを愛しているんだ!!」
「な、なんだって!!」

 そう。サヴァリスはナルキを愛しているのではなく、心の底から楽しめる殺し合いを愛しているのだ。
 たまたまその標的がナルキになっただけの事でしかない。
 ならば話は簡単である。
 サヴァリスの間違いを正して、彼なりの平常へと戻ってもらえばいいのだ。
 だが、結果的に甘かった。
 自らの間違いを指摘されて硬直していたサヴァリスの視線が、少しだけ理性を取り戻す。
 いくら戦闘愛好家だと言っても、この程度の事は出来るのだと言う事を知ったが、その認識さえも甘かった。

「なんだそうだったのか。と言う事でやはりレイフォン。僕と殺し合おうよ」
「・・・・・・。めげませんね」
「うん? めげている時間なんか僕にはないんだよ」

 硬直したのは、まさに一瞬。
 瞬時に平常運転へと戻ってしまったサヴァリスは、やはりレイフォンとの戦いを所望なさった。
 極限に前向きな戦闘愛好家だと、そう表現できるかも知れないが、全くもって嬉しくない。
 なぜならば、ほっとした気配を背中に感じるし、躍動的な剄の高まりも前方に感じるからだ。
 これこそは、前門の虎後門の狼というのだろうと確信する。
 だが、その剄の高まりが瞬時にして消失した。
 あまりにも唐突な展開で、思わずサヴァリスに斬りかかりそうになる身体を何とか留める。

「と言いたいところだけれど、やはり陛下の命令は実行しておかないと後が面倒だからね」
「何しに来たんですか貴方は?」

 てっきり廃貴族を確保するために来たと思っていたのだが、なにやら別な用事があるらしい事にやっと気が付いた。
 用心しつつ、戦闘状態の精神はそのままに、少しだけ話を聞く体制へと移動する。
 油断など出来はしない。

「絶叫マシーンとか言うのに完膚無きまでに叩きのめされた記事を読んだ陛下がね」
「・・・。ああ。あれですか」

 既に遙か過去の出来事としか思えないのだが、実際問題として、老性体などよりも遙かに恐ろしい絶叫マシーンに殺されかけたのだ。
 その記事はルックンで掲載され、ツェルニで知らぬ者のいない珍事として記憶され続けている。
 出来れば、全生徒の記憶を抹消したいくらいなのだが、生憎とレイフォンにその手の芸は出来ない。
 そしておそらくではあるのだが、リーリンの手によってグレンダンに知らされたのだ。
 正確を期すならば、シノーラと名を変えたアルシェイラへと。

「あまりの情けなさにレイフォン抹殺指令が出たのだけれどね」
「どんな写真を撮られたのか未だに知らないですね」

 ミィフィの事だから、きっと恐るべき情けない写真を撮り、それを堂々と掲載したのに違いないと分かっていたから、未だにルックンは表紙を見るだけで遠ざかるという生活を送っている。
 ルックンを破り捨てるとか言う話ではなく、レイフォンが逃げるのだ。
 破ったところに、自分の写真が現れる事が怖いから。

「グレンダンにない絶叫マシーンとか言う物がどんな物か、ほんの少しだけ興味を持ってね」
「グレンダンは、本当の意味で僕にとって天国だったんだ」

 戦っていれば良かった。
 多少頭が悪くても問題無かった。
 絶叫マシーンなんて物もなかった。
 天国から追放されてしまったがために、レイフォンは苦労しているのだと、改めて理解した。
 全て自分の責任である。

「でだね。僕がその絶叫マシーンとやらを体験して、怖かったら手を出すなと命じられているんだよ」
「・・・・・・・・・・。意地でも怖くなかったと言って、殺し合うつもりですね」
「うん? そんな事はないよ。陛下がヘマをしたせいで半殺しまでだと釘を刺されてもいるからね」

 あのアルシェイラがどんなヘマをしたかについて興味があるが、問題はそこではないと強引に目を背ける。
 そして考える。
 あの恐ろしすぎる敵に挑みかかり、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスが無傷で済むのかを。
 おそらく無理である。
 レイフォンがヘタレだと言う事もあるだろうが、自分の思う通りに動けない機械に乗せられるというのは、特に、武芸者にとっては致命的に不快で恐ろしい体験なのだ。
 ならばと考える。
 傷を負っているサヴァリスなら、楽に殺れる。と。

「・・・・・・・・・・・・。ああぁ」

 恐ろしい速度で、自分が汚れて行くという事実を認識してしまった。
 これもきっと、グレンダンという天国から追放されたためなのだとそう結論付ける。
 ツェルニに来たばかりに、ウォリアスという極悪非道な悪魔と知り合ってしまったがために、レイフォンは剄脈の暗黒面へと引き寄せられているのだ。
 だが、もはや止まる事は出来ない。
 サヴァリスではないが、止まっている暇など無いのだ。

「と言う事で、一刻も速く絶叫マシーンとやらを体験したいんだけれど」
「ツェルニが平常運転に戻るまで無理でしょうね」
「それは残念だね。ああ。この熱くたぎる心と身体を何とか鎮めないと夜も眠れないよ」

 久々の勝利を得て、血湧き肉躍っているツェルニ全生徒の前では、絶叫マシーンなど木の葉一枚の重さもない。
 これで時間が稼げた、そう思った瞬間、いきなり事態は急変してしまった。

「おや?」
「うん?」
「な、なんだ?」

 突如として、ツェルニの空が七色の膜に覆われたかと思うと、何か言葉には出来ない違和感を身体が感じた。
 それは、平衡感覚の微妙な狂いだったかも知れないし、もしかしたら、聴覚が捉えられなくなった、自律型移動都市の足の音かも知れない。
 もしかしたならば、ツェルニの何処かで立ち上った巨大な炎の柱のせいかもしれない。
 だが、それ以上に、何か決定的に違う物を感じていた。
 あえて言うならば、世界が変わった。

「おや? 都市の足が止まっているようだね」
「問題は、おそらくそれじゃないですから」

 簡易・複合錬金鋼を復元する。
 異常事態なのは間違いない。
 そしてツェルニで異常事態と言えば、ハルペーの襲来が真っ先に思い出されたからだ。
 サヴァリスと二人で勝てるかと問われたのならば、きっと勝てないと答える事しかできないが、それでも無抵抗という訳にはいかない。

「サヴァリスさん?」
「うん? 天剣だったら持ち出し不可だったよ」

 ふと気が付いてみてみれば、サヴァリスが装備していたのは、明らかに通常の錬金鋼だった。
 グレンダンの秘宝と呼ばれる天剣を、おいそれと持ち出す事は出来ないだろうから、それはそれで良いのだが、戦力の低下は明らかである。
 以前戦った、老性体二期だったら、問題無く勝つ事が出来ただろうが、ハルペーとか辺りになるといくら何でも無理である。
 いや。天剣授受者全員が完全な状態だったとしても、ハルペーと戦って勝てるかどうかと問われたのならば、かなり厳しいと答える事しかできないだろう。
 だが、虎徹を復元して構えるナルキと三人で気を張っていたのだが、いくら待っても何も起こらない。
 いや。こちらの方向にやってこないと言うべきだろうか。
 かなり離れた場所で、誰かと誰かが戦っているような気配だけがする。
 そこまでは良いだろう。
 だが、その二つの戦力の気配は、どちらも記憶にない物だった。

「ワクワクしてきたね」
「全くこれっぽっちも」
「ああ。ナルキ。僕はやはり君を愛してしまっているようだよ」
「他の人を愛してあげて下さい。グレンダンの女王陛下とか」
「いやいや。陛下は駄目だよ。僕なんかとは遊んでもくれないんだ」

 和やかを装った会話を交わしつつも、二人とも何か神妙な顔つきをしている。
 この気配に覚えがあるのかも知れないが、それを確認する暇はなかった。
 そう。二人とも高速移動をしてしまったからだ。
 当然、レイフォンもついて行く。
 サヴァリスだけだったら見捨てても罪悪感を感じる事はないだろうが、ナルキが居ると言うだけで事情が違ってくる。
 サヴァリスにしてはやや慎重に、ナルキにとってはほぼ全力で、レイフォンは二人に合わせて移動して行くと、とても見覚えのある建物の前で戦闘が行われていた。
 赤毛でお面を被った武芸者が、同じお面を被った雑魚を蹴散らしているという、少し訳の分からない光景だったが、問題は実はそこではないのだ。

「雷迅」

 レイフォンがニーナに教えた技だ。
 未だに、ニーナが使いこなせていない技だ。
 レイフォンが、何時覚えたか分からない技だ。
 その雷迅を、赤毛の武芸者が使いこなして、圧倒的な戦力差で雑魚を蹴散らしている。
 ついでに、周りの建物や建設用の足場を粉砕しているようだが、止めて良い物かどうか分からないために傍観に徹する。
 徹しているのは、一緒にいる二人の方も同じだった。

「ワクワクが止まらないよ」
「心臓止まって下さいよ」
「ナルキが僕の心臓を止めてくれるのかい?」
「そんな力はありませんから、他の人に頼んで下さい」
「愛しているナルキに止めて欲しいんだよ」
「私じゃなくて殺し合いを愛しているんでしょうに」

 こんな時だというのに、ナルキとサヴァリスはとても連携の取れた会話をしている。
 だが、その視線は極めて真剣に戦場を見詰めている。
 そして思い出した。

「お面の集団」

 マイアスで電子精霊を盗んだ一味が、全員お面を被っていたという話を思い出した。
 ならば、今目の前で行われている戦いは、割と深刻な物であると判断しなければならない。
 問題なのは、どちらに加勢するかと言う事だ。
 手っ取り早く両方殲滅してもかまわないというのだったら、数秒以内に全て片付ける事が出来る。
 ナルキの経験が確かならば、マイアスを襲ったのは雑魚の方だと思うのだが、断定する事は危険な気がする。
 レイフォンが逡巡している間に、戦いは赤毛武芸者の圧勝で終わってしまった。

「ったく。見てるだけかよ?」

 息を弾ませた赤毛武芸者が、お面を外しつつ苦情を言ってくるが、こちらとしては即断できる状況ではなかったのだ。
 それはきちんと理解しているようで、苦情を続ける事はなかった。
 不思議な事と言えば、外したはずのお面が何時の間にか何処かに消えていた事だが、それを追求する暇はなかった。

「俺は用事があるんだ。手伝わなくて良いから邪魔だけはするなよ」

 そう言いつつ、やはりこちらの答えに興味がない様子でニーナの住む記念女子寮へと入って行こうとする。
 だが、その行動をナルキが妨害する。
 水鏡渡りで一気に赤毛武芸者の前へ出て、虎徹を突きつけて牽制する。

「こんな時間に女子寮に入ろうとするような奴を、はいそうですかと見過ごす訳には行かないんだ。警察官としてはな」
「ああ。そういえばそうか」

 一瞬だけ、ナルキがどうして邪魔をしたのか疑問に思ったのだが、警察官だったならば当然だと言う事に気が付いた。
 まだ宵の口ではあるのだが、それでも、不審者が女子寮に入ろうとしているのだ。
 警察官だったら、間違いなく職務質問をするだろうし、行動で止めようとしても何ら不思議ではない。

「うっとうしいな。ぶち殺すぞ」

 本性を現したのか、ナルキを威嚇しつつ何故か焦る赤毛武芸者。
 一瞬だけ考えたレイフォンは、ナルキと赤毛武芸者の間に入って虎徹の切っ先をそっと押し下げた。

「レイとん?」
「異常事態だよ。あれだけ雷迅を連発したのに、誰も出てこない」
「・・あ」

 そう。その特色として雷迅はもの凄い騒音をまき散らす。
 どう考えても、どんなに熟睡していたとしても、どんな人間でも起き出す事は間違いない。
 だと言うのに、記念女子寮からは誰かが起きだしたという気配は伝わってこない。
 それどころか、都市全体から殆ど音を感じなくなっている。
 活剄を使って聴力を強化しても、人の話し声一つ聞き取る事が出来ないというのは、どう控えめに表現しても非常事態である。

「僕らも一緒に行こう。建物の中で雷迅を使われたら迷惑だし」

 言いつつ青石錬金鋼を鋼糸として復元する。
 建物の中ならば、明らかに刀よりも鋼糸の方が使い勝手がよい上に、死角を補う事も出来て便利なのだ。
 少しだけほっとした息をついた赤毛武芸者が、レイフォン達を避けて記念女子寮へと入って行く。
 それに続くレイフォンとナルキだが、何故かサヴァリスが着いてこない。
 いなくても問題無いと言えば問題無いのだが、その行動に少々驚きを覚えてしまってもいた。




[14064] 閑話 槍衾がやってくる 後編
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2013/10/02 21:15


「僕の事は気にしないで良いよ。少し考え事があってね」
「そうですか」

 何を考えているのかとても気になるが、サヴァリスの性格からしていきなり襲ってくる事はないだろうと判断して、赤毛武芸者の後について行く。
 何度か訪れた事がある建物だというのに、拭いきれない違和感を覚えつつも赤毛武芸者の後をついて行く。
 当然用心は怠らない。
 だがある瞬間、先行させた鋼糸の反応が一部おかしい事に気が付いた。
 切られたという訳ではない。
 いきなり反応だけが消えている場所があるのだ。
 レイフォン達の発生させている振動の他には、空気の動く感覚以外に感じないが、その反応さえない場所があるのだ。
 脳内でその場所がどこだったのかを検索して、そして血の気が引く音を聞いた。

「隊長の部屋が変だ」
「ああ。やっぱりそこか!!」

 ある程度予測していたのか、赤毛武芸者が一気に跳躍して二階へと躍り出る。
 更に、ニーナの部屋を知っているかのように迷うことなく扉を蹴破った。
 間違っていたらどうするのだろうかという疑問はあるが、それどころでない事も事実なのだ。
 だが、そこでまた事態が動くのを止めてしまった。
 赤毛武芸者が、蹴破った状態で立ち止まっているのだ。
 何故だろうかという疑問もあったが、お構いなしに脇をすり抜けてニーナの部屋の中へと突入する。

「・・・? え?」

 突入して目にしたのは、ベッドで眠るニーナを取り囲むようにして佇むお面の集団。
 ここでレイフォンも動きを止めてしまった。

「莫迦! そこがどんなところか分からないで突っ込む奴があるか」
「?」

 どこと問われたのならば、ニーナの部屋だと答える事が出来る。
 他の答えなど存在していないはずだというのに、今のツェルニ以上に、ここがニーナの部屋ではないと断言できる違和感も感じていた。
 そして、それは起こった。

「その通りだ愚かなる者よ」

 一糸乱れぬ発声で、全員が喋っているのに一人で喋っているとしか聞こえないという妙技を披露するお面集団。
 その事態を受けたのだろう、ナルキも部屋の扉のところで止まっている。

「お前のいるところは世界の理が違うんだ!! 武芸者としての能力は使えないんだぞ!!」
「? え?」

 慌てて剄息を確認する。
 だが、おかしな事は立て続けに起こっている。

「? あれ?」

 何時もと変わらなく剄を練る事が出来る。
 赤毛武芸者の言っていることと、自分の身体に起こっている現実の間で、一瞬だけ思考が停止する。
 その瞬間を見逃すほど、相手は無能ではなかった。

「その命もらった」

 ニーナを取り囲んでいたお面集団が、一斉にレイフォンに向かって襲いかかってきた。
 その手に持っているのは、武器破壊を主眼に置いたカタールと呼ばれる獲物だ。
 凶暴な突起を並べたその武器が一斉に振りかぶられる。
 咄嗟に剄を刀に流し込み、そして技を放つ。
 天剣技 霞楼
 レイフォンを中心に、閃断の檻を形成し、周りにある全ての物を切り刻む。
 もちろん、錬金鋼を破壊しないように注意を払ったために、威力自体は大したことはない。
 そもそもここは室内なので、そんな大きな威力は必要ないのだが、問題はそこではなかった。

「なに?」

 もちろん、ニーナや部屋を傷付ける事はしないが、それでも、襲いかかってきたお面集団は瞬時に細切れとなり空気に溶けて無くなってしまった。
 ナルキの話を聞いていたし、外での戦いを見ていたのだが、それでも一瞬目の前で起こった事を理解できなかった。
 そして、驚いたのはレイフォンだけではなかった。
 もう一人。

「なんだと?」

 部屋の外で見ていた赤毛武芸者が、驚きの声を上げている。
 武芸者の能力を使えないはずの場所で、レイフォンが天剣技を使ったためだろうが、それは使った本人だって同じ事なのだ。

「普通に使えますよ?」
「そ、そうみたいだな」

 喫驚して固まっているというのとは少し違う、少しだけレイフォンを恐れているようなその雰囲気から、この場所では本当に武芸者としての、最終的には剄脈を働かせる事が出来ないはずだと言う事を間接的に確認出来た。
 だからと言って、レイフォンがこれ以上何か出来るという訳でもない。
 すぐ側で天剣技をぶっ放したにもかかわらず、未だに眠り続けているニーナを起こすべきかどうかさえ分からない。
 そもそも、起こし方というのがさっぱり分からないのだが。

「えっと、隊長とかどうしましょう?」
「ああ。それは放っておけばそれで良い。後は勝手に元に戻るはずだ」
「そう言う物なんですか」
「そう言う物なんだ」

 半信半疑と呼ぶよりは、かなり猜疑心が強いが、それでも、レイフォンに代案がある訳でもないので、扉を潜り外へと出る。
 改めて、ここで意識して剄息をしてみるが、何ら問題無く剄を練る事が出来る。
 ニーナの部屋に出入りする時に、何か違和感を感じたが、それだけである。
 何が起こっているか全く理解できないが、それでも、取り敢えず事態は収束へと向かっていると思うのだ。
 ならば、それで良しとしようとあまり深く考えるのは止めてしまった。
 これではいけないのかも知れないが、レイフォンごときに分かる事は限られているのだ。

「兎に角、サヴァリスさん拾って帰ろう。殺し合いは暫く先になるだろうから」
「ああ。出来れば消えて無くなってくれると私としては嬉しいけど」
「それは同感だよ」

 ナルキと、そんな会話をしながらゆっくりと廊下を歩く。
 サヴァリスが消えている事はないだろうし、危険が遠のくという訳ではないが、それでも訳の分からない事件から日常へと精神が復帰する時間を稼ぎたかったのだ。
 赤毛武芸者も一緒に歩く。
 そこでふと、彼の名前を聞いていない事を思いだしたが、即座に全く知らないわけではないことにも思い至った。
 そう。雷迅を使いこなす事が出来る武芸者など、レイフォンはただの一人しか知らない。

「ディック先輩ですよね?」
「・・・。ああ。そうだ」

 返答までに時間が有ったが、レイフォンの予想通りの答えがもらえた。
 その答えの瞬間、なにやら不穏な気配を感じたので、少しだけ警戒をする事とする。
 実力の程は分からないが、即座に殺しに来るという訳ではない。
 ならば、それで十分であると思ったからだ。
 だが、聞いておきたい事もある。

「僕は貴方と今日始めて会いますが、どうやって雷迅を覚えたんでしょうね?」
「俺の方こそ聞きたいよ」

 自分の方こそ聞きたいと言いつつ、その視線に落ち着きはなく、何か隠しているらしい事は確実だと思われるが、追求しても答えてくれない事は分かったので、それ以上言葉を交わすことなく建物の外へと出る。
 そして、騒動はまだ終わっていないのだとそう実感できた。

「サヴァリスさん?」
「やあレイフォン」

 今まで見た事もないくらいに上機嫌な戦闘愛好家がいたとあっては、騒動が終わったなどとはとても思えない。
 いや。むしろこれから騒動がやってくるのだと、そう断言できるだろう。
 そしてその予測は、裏切られることなく実行へと移された。

「考えていたんだよ」
「何をですか?」

 刀をサヴァリスに向ける。
 殺意は持っていないが、きちんと始末しなければならないと確信している心が、戦闘態勢へと移動する。

「僕は殺し合いを愛しているんじゃないんだよ」
「じゃあ、何を愛しているんですか?」

 ナルキではなく、殺し合いを愛していると、そうレイフォンは思っていたのだが、サヴァリスは違う答えに辿り着いているようだ。
 レイフォン自身、自分の心の中が正確に分かっている訳ではないし、他人の心を理解できるなどと言うつもりはない。
 だが、サヴァリスに関して言えば、ある意味単純なためにある程度予測できると、そう思っていた。
 だが、甘すぎた。

「僕は、僕を殺してくれる存在を愛しているんだよ」
「・・・・・・・・」

 駄目だこりゃ。
 感想はその一言に尽きてしまう。
 だが、まだ話は途中だった。

「だけれどね。やはりナルキが僕を殺してくれると嬉しいとも思っているんだよ」
「そ、それはむりですから」

 記念女子寮に後退しつつ、ナルキの縋り付く視線がレイフォンの背中に突き刺さる。
 殺してくれと懇願すると言い換えても、それ程問題無いだろう。
 だが、これで一つ分かった事がある。
 レイフォンこそ勘違いをしていたのだと。
 サヴァリスは、サヴァリスなりにナルキを愛しているのだと。
 それが通常の男女のそれとは違ったとしても、そして、殆どの人から共感を得る事が出来ないとしても、それでもおそらく愛しているのだ。
 とてつもなく傍迷惑な事に。
 ふと気が付けば、ディックまで女子寮内に後退している。
 レイフォンだけが取り残されたと言った方がしっくり来るだろう。

「・・・・・・」
「ああ。もしかしてレイフォン? 僕に愛されたいのかい?」
「滅相も御座いません」

 これはかなりきつい。
 サヴァリスを殺してしまうと呪いがかかるなんて生やさしい事態ではない。
 死者に愛されると言う事がどんな事か分からないし、知りたいとも思わないが、相手がサヴァリスである以上何かとても恐ろしい事になる事だけは間違いない。
 だが、殺さない限り止まらない事も分かりきっているのだ。

「っと言いたいところだけれども」

 レイフォンが動けなかった分、サヴァリスが動いた。
 視線は少し後ろに向けられている。
 ナルキとは違う人物を標的として、そしてしっかりと追尾し続けているように思える。

「お、おれか?」
「そうだよ。ナルキやレイフォンとは何時でも殺し合えるけれど、君とは今しかやれないと思うからね」

 そう言うサヴァリスの手には、既にダイトが復元されていた。
 いや。ここに来る前に既に復元されていたから、そのままここで考え事をしていただけなのだろう。
 用意がよいと言うべきか、それとも違う反応をするべきか、かなり困ってしまうところだ。
 だが、レイフォンにとってはサヴァリスとの死闘を延期できるという一点において、この展開は悪くはない。

「こいつの方が歯ごたえがあると思うぜ?」
「それは認めるけれど、出来ればレアな方とやり合いたいんだよ」
「レアってな」

 レアという一点において指名されたディックには申し訳ないが、出来ればこのまま話を進めてしまいたい。
 なので、こっそりとディックの後ろへ回り込み、その背中を蹴り飛ばした。

「どわ!!」

 サヴァリスの方に注意を向けていたためだろう、全く気が付かずにレイフォンの一撃を受けてしまい、蹈鞴を踏んで前に出てしまうディック。
 そして、ナルキと二人で記念女子寮の中へと引っ込む。

「お、おいてめえら」

 当然の様に抗議の声を上げるが、視線は既にサヴァリスを捉えて放していない。
 一瞬の油断が死につながると身体が理解している証拠だ。
 雷迅を連射していた事から考えても、ニーナよりもかなり強力な武芸者である事は間違いないし、不意を突かれたらレイフォンを倒す事も出来るかも知れない。
 だが、現状はそんな生やさしくはない。

「さあ、僕と愛し合おうじゃないか」
「てめえ。そんな愛はいらねえ。・・・・・なんてことだ」

 そこで何故かディックが溜息をついて、少しだけ身体から力を抜いた。
 何か思うところがあるのか、それとも諦めの極致に達してしまったのか。
 そして呟く。

「強欲な俺にも、欲しくねえもんが有ると言う事か」

 言いつつ首を振り、そしてつと左手を顎に持って行く。
 そのまま手を持ち上げると、何故か顔に狼のお面が被さっていた。
 一瞬の早業と言うよりも、何か決定的に違う物を感じる仕草に一瞬だけ思考が停止する。
 だが、それも一瞬の事でしかなかった。
 サヴァリスが、左半身を前にして構えた次の瞬間。

「こうなったらてめえをぶっ殺してやるさ」
「ああ。僕を愛してくれているんだね?」
「俺に愛なんてもんはねえ。有るのは奪い尽くすという強欲だけだ!!」

 そう言った直後、青い光が迸り轟音が辺りを支配した。
 活剄衝剄混合変化 雷迅。
 レイフォンからすれば既に見慣れた技だし、サヴァリスも既に何度も見ているそれは、正面から撃ち込むにはあまりにも愚かだった。
 ほんの少しだけ横にズレさえすれば、その破壊力は驚くほど小さくなる。
 後は背中に向かって一撃を放てば楽に無力化できる、そのはずだった。

「なに!!」

 レイフォンでさえ迎撃の手段を思いつけるのだ。
 他のどんな人だって思いつけるはずだ。
 だと言うのに、サヴァリスは雷迅を正面から受け止めた。
 その左手が、ディックの放った一撃を正面から受け止め、そして粉砕された。
 肩の関節は外れ、肘と手首はあり得ない方向に折れ曲がり、指の骨が皮膚を突き破って盛大に出血をしている。
 冗談抜きに正面から受け止めたのだ。

「て、てめえ」

 その光景に驚き、鉄鞭を引いて飛び退るディック。
 それと比較してサヴァリスは平常運転だった。
 飛び散った自分の血を盛大に浴びつつ、その口元はとても楽しそうに、そして恐るべき凶暴さで笑みの形を作っている。
 久しぶりに見る、サヴァリスの満足の表情を眺めつつ、レイフォンはこの戦闘愛好家と自分が決定的に違う生き物である事を再確認した。
 間違いなく、避けられるのだったら避けるはずの攻撃を、わざわざ受けてその威力を堪能するなどと言う選択は、絶対にしないからだ。
 こんな恐ろしい生き物と同僚だったという事実が、強かにレイフォンを打ちのめしたのだが、それも一瞬の出来事でしかない。
 まだ戦いは終わっていないのだから。
 一瞬だけ固まったディックが、鉄鞭を引いて距離を取る。

「いや驚いたよ。一撃をもらった時に撃ち込んで君に愛されるつもりだったのに」
「俺はてめえなんか愛さねえからな!! ていうか、普通に殺すって言えよ!!」

 よく見るまでもなく、左手で受けたサヴァリスの右手は、何時でも拳を撃ち込めるように構えられていた。
 ディックの攻撃で身体が痺れなければ、確実に勝負は終わっていただろう。
 負傷して使い物にならなくなった左手を気にするでもなく、サヴァリスが再び構える。
 それに合わせるようにディックも再び雷迅の構えに入った。
 次の一撃で勝負が付く。
 サヴァリスの性格上、単純に避けると言う事はないだろうし、ディックの方もそれは分かっているはずだ。
 同じような愚者の一撃を放つ訳がない、そうレイフォンが思った瞬間、それは放たれた。
 活剄衝剄混合変化・雷迅。
 レイフォンの予想などお構いなしに放たれるのは、全く同じ愚者の一撃。
 そしてそれは起こった。
 雷迅を受けたサヴァリスの姿が、揺らめいたかと思うとかき消えたのだ。
 そして次の瞬間、横から現れたサヴァリスの右拳がディックへと迫る。

「え?」

 驚いたのはナルキだけだ。
 レイフォンは雷迅が発動した瞬間には気が付いていたし、ディックは驚く前に次の行動に移っていた。
 剄を纏わせた右の人差し指がサヴァリスの額へと伸びる。
 もしかしたら、浸透系の技で脳を破壊するのかと思ったが、どうやら違うらしい事が剄の動きから分かった。
 それがどんな意味を持つのかは分からなかったが、次に起こった事は更に理解不能だった。

「え?」

 ナルキと共に驚きの声を上げる。
 狼面集ならば分からなくはないのだが、サヴァリスの攻撃が命中して明らかに致命傷を負ったと思った瞬間、その身体が溶けるようにかき消えてしまったからだ。
 それどころではない。
 雷迅の余波で散々荒らされた記念女子寮の周り、それが見る見るうちに何事もなかったかのように元通りになって行くのだ。
 記録映像の逆回しを見ているような感覚だったが、明らかに違う事も理解していた。
 そう。全く音がしなかったツェルニのあちこちから、色々な雑音が聞こえだした。
 そして、ツェルニではないという妙な感覚も消えてしまっていた。

「おや?」

 そしてもう一つ。
 完全に破壊されたはずのサヴァリスの左手が、こちらも何事もなかったかのように元通りになっているのだ。
 だが、それだけではなかった。

「おや? これはどうした事だろう?」
「なんですか?」

 用心しつつ、最小限の言葉で状況を把握しようと努力する。
 ウォリアスだったら手もなくやってのけたのだろうが、生憎とレイフォンにそんな機能は付いていないので、細心の注意が必要なのだ。
 そして、その努力は報われた。

「とても満足行く戦いが終わった後のような感覚がするんだよ。心地よい熱が冷めて行く時のなんかこう、もの悲しいような満ち足りたようなそんな感覚が」
「そ・う・で・す・か」

 あえてぎこちない調子を作って答えを返す。
 平常を装うなどと言う事は、到底不可能である以上、異常さを前面に押し出す以外に道はないのだ。

「それに、なんで僕達はこんなところに居るんだろうね? さっきまで外縁部で睨み合っていたと思ったんだけれど。そうだ。ナルキに殺されたら幸せだという結論に達しているんだけれど、それはここで考えていたんだったかな?」
「・・・・・・・」

 無反応を通す。
 反応する事は、全て墓穴を掘るような気がしているので、全力で無反応を押し通す。
 そして、何とか話題を変えなければならない。
 必死の視線を飛ばし、そしてある物が視界に飛び込んできた。
 全高三十メルトルになろうかという、棟だ。
 これしかないと、肘でナルキを突いて視線で目標物を指し示す。

「あれですよ。あそこの棟を見ようと言う事になったんですよ。ツェルニ最強の絶叫マシーンを見ておくのも一興だと言う事になったんですよ」
「うん? そうだったかな?」

 明らかに疑っているが、これで押し通す以外の選択肢など存在していない。
 ツェルニが勝利を収めた日というのもあるが、そもそも深夜に絶叫マシーンなどやっているはずはないのだが、常識が通用しないのが天剣授受者である以上、この線で押し切るしかないのだ。

「それとも、予備知識無しで体験してみますか? 僕はそれで死にかけましたけれど」
「うん? レイフォンが生きているんだったら僕も大丈夫じゃないかな? それに、予備知識なんか無い方が断然楽しいよ。老性体との戦いみたいにね」

 そう言いながら恐怖の棟に背を向けて外縁部へと向かうサヴァリス。
 取り敢えず誤魔化す事が出来たと、心の底でこっそりと安堵する。
 だが、甘かった。
 当然考えておくべき事柄という物が、確実にこの世の中にはあるというのに、レイフォンはそれをやらなかった。
 そのツケがいきなりやってきてしまったのだ。

「そうだレイフォン」
「なんです? 殺し合ったりはしませんよ?」
「違う違う」

 念のための予防線を張ったのだが、絶叫マシーンが体験できない以上、これから殺し合いになるとは考えていないが、それでも予防線を張らずにはいられない。
 そして、レイフォンの張る予防線などざるである事が直後にはっきりと分かった。

「泊めてくれないかな?」
「・・・・・・。はひ?」
「いやね。ツェルニに入った後の事は何も考えていなくてね、今夜泊まるところがないんだよ。だから、レイフォンの部屋に泊めてもらったら嬉しいなって、そう思ったんだよ」
「あ、い、え、お、う、うぅぅ」

 視線がナルキを向きそうになるのを、必死に堪える。
 そう。ナルキから、とても深い哀れみの視線がレイフォンの背中に注がれている事を認識しているから。
 マイアスでナルキが体験した物と比べても、遙かに恐るべき夜がこれから始まるのだ。
 だが、現在のツェルニの状況的に言って、今から宿泊施設を探すと言う事はほぼ不可能である事も事実だ。
 野宿させても心は痛まないが、どんな化学変化が起こるか全く分からないというおまけが付いている以上、出来るだけ穏便な方法をとりたいのもまた事実なのだ。

「今夜だけですよ?」
「仕方が無いね。明日はナルキの所に泊めて」
「女の子三人で暮らしているんですから、そう言う事は止めて下さいよ」
「僕は気にしないけれど、ナルキが気にするのは良くないね。折角なんだから楽しく殺し合いたいからね」

 サヴァリスにしか理解できない理論の展開で、どうやら納得した事だけが分かった。
 こうして、意味不明な騒動はやっとの事で終わる事となった。
 問題は、むしろこれから連続してやってくるかも知れないが、当面の安息は得られたかも知れない。
 いや。むしろ安息は遠のいたと言って良いだろう。
 
 
 
 
 
 ふとした何かを感じて、ゴルネオは目覚めた。
 反射的に時計を見る。
 色々有りすぎた武芸大会の日付が、過去へと旅立って二時間少々。
 真夜中であるにもかかわらず、ツェルニの町からは未だにお祭り騒ぎが聞こえ続けているが、ゴルネオの眠りを妨げるような危険な物は存在していない。
 何故目覚めたのか疑問に思う。
 昨日は色々有りすぎた。
 サヴァリスがやってくる事は覚悟していたが、あそこまで変わってしまっているとは全くもって思っていなかった。
 武芸大会で勝利を収めて、ツェルニの滅びを回避する事が出来たのは僥倖である。
 その後、考える事さえ恐ろしい嫌疑をかけられ、そしてその嫌疑から逃れる術を持ち合わせていないという事実はあるが、しかしそれは、日が昇ってからの騒動であり、やはりゴルネオの眠りを妨げる物ではない。
 酔って服を脱ごうとしているシャンテを、合い鍵を使って自室に放り込んだのは既に四時間以上前の話だ。
 同室の女性は外出していたが、自分の部屋で裸になろうと多少の奇行に走ろうと、それはゴルネオには何ら関係のない話である。
 では、何故、ゴルネオは目覚めてしまったのか?

「ん?」

 考える事数秒。
 異変はゴルネオの寝室、ベッドの中で進行していた。
 何かとても体温の高い生ものが、もぞもぞと蠢いて足にすり寄ってきているような。

「な、なに!!」

 文字通り、体温の高い生ものが、あろう事かゴルネオのベッドに潜り込み、そしてすり寄ってきているのだ。
 こんな事をするのはシャンテ以外に思い付かないが、決定的な事実として、ゴルネオの部屋の鍵を持っているのは、本人ただ一人なのだ。
 シャンテの都合上ゴルネオは合い鍵を持っているが、その逆は危険極まりないために作っていない。
 例えば、夜中にシャンテの侵入を許してロリコンの嫌疑が証明されてしまうとか、そう言う危険を避けるための措置である。
 こっそり進入する事が不可能な状況を作って置くに越した事はないのだ。
 そのはずだった。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 そしてゴルネオは、掛け布団をめくり、あまりにも恐ろしい光景をその網膜に焼き付けてしまった。
 全身の血の気が引く音というのは、既に聞いていた。
 だが、今聞いているのはそんな生やさしい現象が発する音ではない。
 あえて言えば、以前レイフォンが戦った老性体二期が暴れて、山を崩した時の轟音。
 あれ以外に匹敵する物とて無いほど、恐るべき音を今ゴルネオは聞いている。
 そう。全裸のシャンテがゴルネオの足にすり寄ってきている光景を前にして、一体何をどう認識すればよいのか全く分からない。
 だが、一つだけ確かな事がある。
 ロリコンという罪で裁かれると言う事だ。
 こっそりと隣の部屋に放り込んでおきたいところだが、この状態のシャンテを引き剥がすと言う事はとても危険だ。
 寝ぼけて全力の活剄でも使われた日には、間違いなくゴルネオの足が粉砕されてしまう。
 いや。足一本を犠牲にする覚悟があるのならば、シャンテを隣の部屋に・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・・・。はあ」

 シャンテの保護者が帰ってきた音を捉えてしまった。
 既に隣の部屋は無人ではなくなっている。
 全てが終わった。
 何をどう言おうと、誰も弁護してくれない未来に向かって進むしかない。
 ゴルネオの未来には、槍衾が待ち受けているのだ。
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 少々間が開いてしまいましたし、思っていたよりも長いですが閑話をお送りしました。
 原作の槍衾を征くです。
 タイトルが変わっていますが、これは未来の絶望をあえてタイトルとしたためです。
 誰の絶望か?
 もちろんゴルネオの絶望です。
 この先、ツェルニ生徒会公認のロリコンとして在学中白い目で見られ続ける事となるでしょう。
 あるいは、シャンテの成長が再開すれば話は違ってくるかも知れませんが。



[14064] 閑話 ヴァーサス
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2014/02/05 16:12


 レイフォンの目の前には、とてもおなじみの光景が広がっていた。
 何時もの体育館に、何時もとあまり変わらない観客が入り込み、そして何時もの相手が目の前で薄ら笑いを浮かべつつこちらを見ている。
 縦横二十メルトル、高さ十メルトルになろうとする空間にいるのは、レイフォンを入れて三人だ。

「ここが違うけれど」

 そう。何時もならばここにはレイフォンを含めて二人しかいないはずだ。
 ヨルテム出身の傭兵であり、サイハーデンの継承者であり、ある意味最も戦いたくない武芸者であるイージェとの戦いならば、レイフォンと二人だけがここにいる事になっている。
 だが、今日はイージェが戦う訳ではない。
 戦う相手はサリンバン教導傭兵団長のハイアである。
 マイアスとの武芸大会の寸前に脅されて、今日ここで決着を付けるという経緯はどうでも良いとしよう。
 問題なのは、ハイアがイージェそっくりの薄ら笑いを浮かべつつ、かなりの大きさの紙袋を抱えていると言う事だ。
 高さはおおよそ二十センチ、横幅は十センチ。その紙袋がぱんぱんに膨らんでいるのだ。
 しかも、その大きさに比べてとても軽そうである。
 小麦粉を使った粉塵爆発とか言う技を使うのかと思ったが、それにしては明らかに軽すぎる。
 とても中身が気になる。

「なあハイア」
「ぐへへへへへ。良く来たなレイフォン」
「ふひひひひひ。その度胸だけは褒めてやるさぁ」

 何故かハイアに声をかけたというのに、イージェが何時もの挨拶をしてきた上に、やはり薄ら笑いを浮かべたハイアも何時もと様子が違う。
 これは危険信号である。

「おっと! 逃げようなんて思わない事さぁ」
「そうだぜぇ。逃げたらどうなるか解ってるんだろうなぁ?」
「・・・・・・・・・・・。どうなるんだよ?」

 精神力を削るという戦術に弱い事は既に誰もが知っている事であり、そして対抗する手段をレイフォンは持っていない。
 だから、出来るだけ聞き流す事としているのだが、生憎とイージェ相手にも成功した事がない。

「そこの脱臼女のランジェリーが、写真付きでツェルニ中に出回るのさぁ」
「んんああああ!!」

 思わず変な声を上げてしまった。
 ハイアが言う脱臼女とは当然の事メイシェンである。
 それはつまり。

「ああああああああああああああああああああああ!!」

 案の定、珍しく観戦に来ていたメイシェンの悲鳴が体育館を支配する。
 その身体は既にして完全に紅く染まり、あまつさえ蒸気を頭から吹き上げている。
 そんな事をされる訳には行かない以上、レイフォンに逃げるという選択肢は存在していない。
 更に言えば、紙袋を傷付けるという行為も非常に危険であり、出来る事ならば全てを無傷で回収しなければならないという、あまりにもハードルが高い難題を突きつけられた事になる。
 あまりにもハードすぎる戦いになった。
 だが、精神的打撃を受けたまま戦う訳には行かないので、何とか時間を稼いで体勢を立て直すために悪足掻きをする事とする。

「ど、どうやってそんな大量のらららら、ランジェリーを?」

 その戦術として、当然の疑問を口にする。
 メイシェン達の住まいを知っているはずだから、間違いなく盗む事は出来るだろうが、それにしてもあの紙袋一杯のランジェリーを盗む事が可能なのだろうかと考えた。
 能力的には出来たとしても、実行に移せるかという問題である。

「そこの茶髪猫が、オレッチのために盗み出してくれたのさぁ」
「ぬぅぅわぁぁぁにぃぃぃ?」
「みぃぃぃぃちゃんん!」


 名指しされたミィフィが思わず抗議の悲鳴を上げる。
 だがその悲鳴は、無実の叫びではなく、共犯者の裏切りに対する抗議であるようにレイフォンには聞こえた。
 そして、この場にいる全ての注意がミィフィに注がれたが、ただの一人を残して全てが人外の魔物を見る視線だった。
 そう。ほぼ全員がミィフィならやりかねないとそう思ってしまっているのだ。
 特ダネのために友達を売り渡したのだと。

「お、おおおお、落ち着くのだみんな! こ、これはわなだ!! 明らかに罠であると断言する!!」

 立ち上がり手を振り回し、顔を真っ赤にして大声で無実を訴えるミィフィだが、それを信じているらしい人物は、ただの一人しかいなかった。
 そう。ただの一人だけ信じているのだ。

「落ち着けミィちゃん」
「う、ウッチン! 私の無実を信じてくれるのか!!」
「信じるから詰め寄るな」

 元々隣に座っていたミィフィだったが、あまりの展開に我を忘れてウォリアスの膝の上に乗り上げ、更に五センチという近さで絶叫を放ってしまっている。
 ほんの些細な切っ掛けでミィフィの口の中にウォリアスの鼻が刺さりそうだ。
 そんな状況を打開すべく、ミィフィの顔を押し戻しつつウォリアスが口を開く。

「良いかよく考えるんだミィちゃんや」
「お、おう」
「あの量のランジェリーを盗まれたとしたら何時だ?」
「そ、そんなのここに来る前に決まっているじゃない!!」

 ここに有る以上、それは絶対に間違いない。
 マイアスとの武芸大会の後のような、あの不思議空間でなければ、それは間違いない。

「ここに来る前って言ってもな、お前さんメイシェンと一緒にここに来ただろうに」
「・・・・・・・あ」
「ああ」

 思い返すまでもなく、メイシェンとナルキはミィフィと一緒に来ている。
 ならば、一般人でしかないミィフィがメイシェンのランジェリーをどうこうする機会など存在していない事となる。
 予め盗んでおいたという確率も存在しているが、その場合はメイシェンに察知される確率が上がってしまうのでほぼ考えられない。

「ふひひひひひひ。よくぞ気が付いたさぁ」
「き、きさまぁぁ」

 あっさりとミィフィの関与を否定したハイアに、当然怒りを爆発させた。
 本物の猫のように牙を剥きだし、今にも飛びかかりそうな勢いのミィフィをウォリアスが押さえる。

「そもそもその中身が女性のランジェリーである確率も低いと言う事に気が付くべきだな」
「え? そ、そうなの? そこの刀刺青男が盗んだとかじゃないの?」
「無いと思う」

 傭兵をしていたために、色々とすり切れているところはあるとは言え、基本的にサイハーデンの武芸者であり、最終的にはレイフォンと似通ったところがあるハイアであるから、女性物のランジェリーを盗むなどと言う事は相当考えられないとレイフォンも今頃になって気が付いた。
 そう思って見てみれば、違和感があると言えるかも知れないと表現できるような気もする。

「そこの茶髪猫に濡れ衣を着せて社会的に抹殺するのがこの作戦の目的さぁ」
「ぐへへへへへ。なんであくどい奴なんだ。俺様だってそんな非道な事はやらねえぞぉ」
「・・・・・・・・・・・・・。やらないさ?」
「おう」

 イージェとハイアの漫才の間にレイフォンは精神の立て直しを終了させた。
 色々とあったために、このまま帰りたい気分だが、そうは問屋が卸してくれないだろう。
 そして理解した。
 ハイアとレイフォンは最終的には似たような生き方をしていると思っていたが、実は違うのだと。
 もしかしたら、イージェの影響を受けて変質してしまっているのかも知れないが、やはりレイフォンとは違うのだと。

「なんて奴だ!! 貴様それでも人間か!!」
「お前だけには言われたくないさぁ」

 そんな事を考えている間にも、ミィフィとハイアの会話が先に行ってしまった。
 まあ、実害はないから別段かまわないのだが、会場に集まった面々の全員が、ハイアの意見に同調しているが、それもどうでも良い事とする。
 問題は、レイフォンの後ろにあるのだ。

「今日はあそこの刀刺青男と戦うんですからね」
「分かっているよ。僕という物がありながら浮気性だね」
「その話は止めて下さいよ」

 グレンダンからサリンバン教導傭兵団の解散命令書を持ってきたというサヴァリスが、こっそりと後ろにやってきていたのだ。
 どうしてこうも、次から次へと厄介ごとが襲ってくるのかとても疑問ではあるのだが、一つ一つ対処しておかなければならないのも事実だ。
 例えば、レイフォンの部屋に居座り続けているサヴァリスとか、毎晩悪夢を見せる本とか。

「ああ」

 思えばツェルニに来てからと言う物、本当についていないとそう振り返る。
 本当に呪われているのかも知れないと思う今日この頃だが、目の前では漫才を終えたハイアが闘志をみなぎらせている以上、戦わない訳には行かない。
 立て直したはずの精神は、まだボロボロだが、それでも何とか体勢を立て直す。

「っとそう言えば、サリンバンが解散になるけれど、それはもうケリが付いているの?」
「さあ? そんなもんどうでも良いさぁ。オレッチはお前を倒せれば後は野となれ山となれさぁ」
「計画性がないね」
「お前に言われるとは、嫌な世の中になったさぁ」

 そんな会話をしつつ、サヴァリスとイージェが観客席へと移動した事を確認しつつ、簡易・複合錬金鋼を復元して青眼に構える。
 ハイアもやや小振りな刀を同じように青眼に構える。
 いや。正確に言うならば、レイフォンが好む大きさの刀よりも小降りだ。
 そして何よりも問題なのは、その構えに隙らしい隙は存在せず、適度な無駄が存在していると言う事と、何よりも美しいと言う事だ。
 それは、レイフォン自身の構えを鏡に映しているのとはまた一味違った感慨を胸に刻みつける。
 イージェの構えにも隙は見あたらなかったが、美しいと表現するには少しだけ荒々しさが前面に出すぎていた。
 リュホウやデルクの構えは、美しさという一点においてレイフォンやハイアよりも上質だと思うが、注意して見なければ分からないほどひっそりとした奥行きがあり、その深さが恐ろしさに変わってしまいそうだった。
 その三人の構えのどれとも違う、ある意味レイフォンの構えとの共通点が多いハイアの構えを見詰めつつ、切っ先を僅かに右へと滑らせる。
 袈裟切りをするぞと言う圧力をハイアにかけたのだが、それはあっさりと無視され突きを入れると脅された。
 レイフォンは更にその脅しを無視して、微かに重心を落として切り上げると宣言する。
 ハイアは微かに、ほんの僅かに体重を左に移動して、回避した後に手痛いしっぺ返しを食らわせると豪語した。
 視線や筋肉、刀や剄の僅かな動きで相手の動きを読み取り、それに対応する準備を済ませる。
 相手は同じサイハーデンの継承者である以上、他の流派を納めた武芸者では気が付かないような、あるいは誤解するような僅かな違いにもきちんと正解を引き当てるハイアとの睨み合いは、レイフォンにとってとても新鮮だ。
 どんどんと雑念が消えて行くのを感じられていたが、今は殆ど何も考えずに、ハイアの動きを先読みし、ハイアに動きを先読みされるという行為をひたすらに繰り返す。
 静止した戦いの中、ふとレイフォンは考えた。

「さあ!!」
「?」

 今夜は何を食べようかと。
 その疑問と正面からぶつかっていた瞬間、裂帛の気合いと共に上段に振りかぶったハイアが突っ込んできた。
 その気迫は洗練され研ぎ澄まされ、そして何よりも鮮烈だった。
 そこから迸る斬撃も、気迫に負けないほどに素早く滑らかでいて、そして鋭かった。
 何かを考える必要はなかった。
 身体が僅かに左に移動したのを認識した瞬間、切っ先が右肩をかすめるのを感じた。

「っは!」

 身体が勝手に動き、ハイアの右脇腹目がけた横薙の一閃が走る。
 埃さえ巻き上げないほどに静かな歩方で移動したハイアは、その斬撃を綺麗に回避する。
 双方、刀の間合いの内側に入り込んでしまっているため、一瞬だけ動きが止まる。
 そして、視線がぶつかる。
 灼熱の闘志と冷徹な計算が同居する、ハイアの瞳の奥に、冷たくなる事さえない、完全に凪いだ瞳をしたレイフォンがいた。

(あれ?)

 レイフォンはこんな瞳で戦っていたのだろうかと、疑問が浮かぶ。
 都市内で汚染獣と戦った事は数えるのも面倒なほどだ。
 その時、複眼に映る自分の姿を何度も見た。
 だが、汚染獣が映しだしたレイフォンはもっと冷たく乾燥した、無機的な戦う機械のような印象だったはずだ。
 今ハイアと戦っているレイフォンとは、明らかに違う。
 対人戦だからだろうかとも考えたが、争奪戦会場で天剣に映った自分も、やはり冷たく乾燥していたと記憶している。
 グレンダンにいた頃とは、レイフォンが違っているのだと知る事が出来たが、それは僅かな一瞬でしかない。
 刃での斬り合いには間合いが狭すぎたが、それでも出来る事は幾つかある。

「っち!」

 一瞬の膠着を脱したのは、ハイアの放った一撃だった。
 刃の部分ではなく、柄頭でレイフォンを殴りに来たのだ。
 どう考えても素手で殴るよりも威力があり、一メルトル近くになる刃よりも小回りが利く柄頭の一撃を、かなり真剣な後退で空を切らせる事に成功した。

「流石と言っておくさぁ」
「僕も流石だと言っておくよ」

 剄量に難はあったとしても、その技量はまごう事なき本物だ。
 天剣授受者としても別段恥じるべき何かが欠けているという訳でもない。
 間合いの一歩外側に相手を置いた状況で再び睨み合う。
 実を言うと、あまり有利な戦いではない。
 本来天剣授受者とは、汚染獣との戦闘を専門に行う武芸者の事だ。
 対人戦闘の経験は、汚染獣戦に比べて豊富とは言えない。
 そして、剄量に物を言わせた力業で押し切るというのも、錬金鋼の関係でかなり厳しい。
 だがハイアは違う。
 傭兵部隊というのも、汚染獣との戦闘は確かに経験するだろう。
 だが、同じだけ戦争にも駆り出されるのだ。
 つまり、ハイアは対人戦闘においてレイフォンを上回る経験を持っている。
 剄量に難のあるという事実は、錬金鋼の事を心配せずに全力で戦える事の裏返しだ。
 負けたからと言って、何かが変わる訳ではないが、それでも勝ちたいと思っているレイフォンがいる。
 右手に持っていた刀を、左の腰付近に持って行く。
 左手を峯側から添えて刀身を囲む。
 サイハーデン刀争術 焔切り。
 当然ハイアも同じ技を使える。
 そして、同じように構えた。
 だが、明らかに違う。
 ハイアの刀身には既に炎が纏わり付き、その陽炎で剄の流れが見えにくくなっている。
 唯一分かった事と言えば、左手に回されている剄の量が多く、支えている付近だけ炎が避けている事だけだ。
 確実に、斬撃と化錬剄が生み出した炎による、二重の攻撃がやってくる。
 そう考えた瞬間、ハイアの足が動いた。

「っく!!」

 どんな対応を取るか、まだ決めていないというのにハイアが動き、そしてレイフォンはそれに対応しなければならない。
 咄嗟に、構えから技を放つ。
 猛烈な速度で空気を切り裂きつつ突き進んだ刃同士が激突。
 甲高い金属音を響かせつつ火花を散らせる。
 そして、一瞬だけ遅れて化錬剄の攻撃がやってくる。

「っち!」

 他の方法など思い付かなかった。
 刀に向かう力をそのままに、ハイアの焔切りに押される形で後退する。
 それでも尚、炎はレイフォンへと向かってくる。
 振り抜いた状態から、床の上を滑りながら、焔切りの続きを放つ。
 大きく振り抜かれた刀の軌道をそのままに、大上段に持って行き左手を添え、そして力の限り振り下ろす。
 刀に籠もっていた衝剄と相乗効果で、炎を切り裂く事が出来たが、まだ終わっていない。

「さあ!!」

 割れた炎の間から、ハイア本体が急速接近。
 その刀には既に炎が纏わり付き、次の一手で終わらせるという気迫と共に突き出される。
 サイハーデン刀争術 逆捻子・炎弾。
 逆捻子・長尺と同じ要領で放たれた螺旋を描く炎がレイフォンへと迫る。

「まだ!!」

 まだ負ける訳には行かない。
 その一心で切っ先の下がっていた刀を跳ね上げる。
 外力衝剄の化錬変化 炎破・鋭。
 高速回転する剄の流れから生み出された、灼熱の炎の塊がハイアの放った螺旋を描く炎と激突する。
 高熱同士が激突して周りの空気を膨張させる。
 その膨張する空気に逆らうことなくレイフォンもハイアも後退する。

「反則技使うとは良い度胸さぁ」
「お前に言われるほどじゃない」

 天剣が手元にあったのならば、力押しでどうにかなる相手だ。
 剄量の違いというのは、それだけ大きな意味を持つ。
 だが、残念な事にレイフォンの手元にあるのは、どうやっても全力に耐える事が出来ない刀だけだ。
 いや。

(ハイアは化錬剄の炎を刀に纏わせていた)

 内側に貯める事が出来ないのだったら、外に貯めておけばいいのではないだろうか?
 一瞬でどの様に剄を外側に貯めておくか思案する。
 すぐに思い付いた。
 焔切りを使う時、右手と左手で衝剄を放ち、それを激突させて炎を生み出す。
 ならば、左手で放つ衝剄で、右手で放った衝剄を拘束しておけばそれでよいはずだ。
 思い付いたら即実行することとする。
 再び焔切りの構えを取る。
 構えたレイフォンの雰囲気が今までと違うことに気が付いたのだろう、ハイアの目が細まり少しだけ用心しつつ、爪先で距離を詰めてくる。

「同じ技を使うつもりじゃなさそうさぁ」
「光栄に思えよ。僕が新しい技を思い付いた時に使うのは、今回が二回目だ」
「・・・・・。一回目はどこで使ったさぁ」
「始めての老性体戦で」

 あの時は、尻尾でくっついているというおかしな老性体との戦いだった。
 ヘマをやって汚染獣に呑まれるなどと言う体験までしたが、あれから既に六年近くが経っている。
 あの時に比べれば、失う物など無いに等しい。
 だから思い切ったことが出来る。
 ハイアの呆れた視線も一瞬だった。
 すぐに冷徹な計算と炎のような闘志を湛え、レイフォンをしっかりと見詰める。
 魂を刻むような時間をかけて、炎を纏った刀を青眼に構えたハイアが間合いのギリギリ外側へと到着した。
 簡易・複合錬金鋼を破壊しないように注意しつつ、衝剄を放ちそれを拘束する。
 思っていた通りに刀の周りに蟠ってくれているが、慣れていないことも手伝って身体にかかる負担は予測を超えていた。
 それでも衝剄の供給は止めない。
 ゆっくり、しかし確実に、本来ならば放てないほどの衝剄が溜まって行く。
 莫大な剄の気配を察知したらしいハイアの表情から余裕が完全にかき消える。
 そして、その余裕の無さに押された訳でもないだろうが、一歩踏み出す。

「っっは!!」
「さぁぁ!!」

 同時に技を放つ。
 何しろ始めて使う技なので、威力の調整など出来ないし、細かいことは全て考えずに放つ。
 刀同士が激突したのは一瞬だった。
 炎を引き連れた刀が、華々しい衝撃音と共に砕け散り、炎を吹き飛ばし、その向こう側へと極限まで圧縮された衝剄が突き抜ける。

「どわ!!」

 咄嗟に仰け反り、尻餅をついたハイアの鼻先を微かに切り飛ばし、止まることを知らない衝剄が突き進む。
 広いとは言え、室内で使って良い威力ではなかった。

「・・・・あ」

 と思った時には既に遅く、派手に壁を粉砕した衝剄が遙か彼方へと飛んで行くのを確認出来た。
 近くに建物が無くて良かったと、胸をなで下ろす暇さえない。
 簡易・複合錬金鋼が、まるで砂で作られていたかのようにボロボロと崩れ去ってしまったのだ。
 そしてレイフォンは教訓を得た。
 いや。鋼糸で大怪我をした時に既に教訓を得ていた。
 技を覚えても、使う時には細心の注意を払うべきだと。
 鋼糸の時にはレイフォンの腕が切り裂かれ、今回は体育館を大破させてしまった。

「な、なにさ、いまのは!!」
「さあ?」

 使ったレイフォン自身が分からないのだから、ハイアに分かる訳がないのだ。
 この世の誰にも分からないに違いない。
 外見的には化錬剄と同じだが、その発動方法が全く違うことはレイフォンが使って確認している。
 他の誰かに真似できるとは思えないから、もしかしたらレイフォンが始めて使えるようになり、そして最後に使う武芸者かも知れない。

「ああ。取り敢えず双方武器使用不能と言う事で、引き分けで良いのか?」

 ここまで話が進展した状況で割って入ってきたのは、この試合にも顔を出してくれていたヴァンゼだった。
 イージェが審判をやってしまっては、どちらかが死ぬまで戦うことになりかねないので、ヴァンゼの干渉は有難い。
 レイフォンに異存はないのでハイアを見ると、こちらは少々不完全燃焼気味であることが分かった。
 ここは、レイフォンが妥協する必要があるだろう。

「今の技を使えるようになったら、再戦してやっても良いよ?」
「さあ? だれにいってるさぁ?」

 鼻の先から血を流しつつ凄んでいるが、全く迫力がない。
 それどころか、少々笑いを誘ってさえ来る。
 思わず口元が歪むのを自覚できてしまった。

「今笑ったさ?」
「取り敢えず出血を何とかした方が良いと思うぞ」
「それもそうさ」

 そう言いつつ試合会場から立ち去るハイア。
 後には点々と血痕を残しつつ、再戦することが決まった。
 有言実行のところがあるから、止血だけしてもう一戦挑んでくるかも知れないが、もう一度同じ事をやれと言われてもしばらくは無理なのだ。
 錬金鋼がないというのもあるし、レイフォンの身体にかかった負担がかなり大きかった。
 だが、揉め事は後ろからやってきているのだった。

「ですからね、今日はもう戦いませんよサヴァリスさん」
「うん? あの程度では死闘とさえ呼ばないよ。その熱くたぎる魂を鎮めるためにも、僕と愛し合わないかい?」
「あいませんから」

 何時の間にか近くまですり寄ってきていたサヴァリスを冷たくあしらいつつ、この後どうするかと考える。
 キリクとハーレイのところへ行って、新しい錬金鋼を作ってもらわなければならないだろうし、もしかしたら、体育館を破壊したことで書類仕事が待っているかも知れない。
 どちらにしても気が重い予定しかないことに気が付き、更に落ち込んでしまった。
 だが、取り敢えずこの歩く混沌を何とかしなければならない。

「そもそも、絶叫マシーンは試したんですか?」
「うん?」
「それを試さないと僕と戦えないでしょう」
「ああ。そう言えばそんなイベントもあったね。これから一緒に行かないかい?」
「逝きませんか・・ら」

 ここでふと、視線を感じた。
 と同時に、恐るべき冷や汗が背中を流れる。
 錆び付いてしまった首を必死に回し、レイフォンへと突き刺さっている視線の発生源を確認する。

「ああ」

 確認する必要は全く無かった。
 絶叫マシーンという単語に敏感に反応するのは、この場にいる中ではただの二人だ。
 珍しく来ていたメイシェンと、同じく滅多に来ないはずのリーリン。
 二人からの視線が、レイフォンへと突き刺さる。
 一緒に行こうと、地獄へと誘っている。
 そして、抗う術はない。

「ああ。後片付けはこちらでやっておくので、サヴァリスさんと絶叫マシーンを体験してくると良い」
「う、うぁ」

 小さな親切でありながら、とてつもなく大きなお世話を焼いてくれたヴァンゼの提案が完璧にレイフォンの退路を断ってしまった。
 だが、少しだけ安息を得てもいた。
 今回はサヴァリスという道連れがいるのだ。
 それだけで、少しだけ、心が軽くなった。
 
 
 
 
 
 三人がかりで引き立てられて行くレイフォンを見送ったウォリアスだったが、実はかなり疲労していた。
 主に剄脈絡みの疲労である。

「どうしたねウッチン?」
「あん? あの二人の戦いを見ていたら剄脈疲労を起こしかけた」
「ああ」

 どうしようもなく剄脈が小さいウォリアスにとって、もはや異次元の戦いでしかない二人の動きは見ているだけでもかなりの負担だったのだ。
 実際に、剄量を全て視力関連に回していたにもかかわらず、殆ど残像さえ捉えることが出来なかった。
 技量だけとってもレイフォンには届かないことが分かっているとは言え、それでも一応武芸者の端くれとして二人の戦いは見ておきたかったのだが、結局は殆ど徒労に終わってしまった。

「と言う事で、後で録画したディスク貸して」
「いいとも」

 当然であるのだが、ミィフィは二人の戦いを高画質高速録画していた。
 ご丁寧に、会場全体を納められるように広角レンズを使って。
 どれだけ熱心なのかとても疑問ではあるのだが、それでもウォリアスとしてはとても助かった。

「しっかし凄かったね! あれが超一流の武芸者同士の戦いなのかね」
「だろうね。あれ以上の技量と剄量となると想像できないよ」

 実際に言えば、既にさっきの試合さえ想像の上を行っていたのだが、それは今はどうでも良いことだ。
 問題なのはレイフォンが使った技の方だ。
 錬金鋼の中に剄を留めておけない以上、外に対流させておくという発想自体が単純なようでいて、単純さ故に思い付く武芸者はあまりいないだろう。
 いや。やらなければならない武芸者自体が少ないのだから、もはやそんなレベルの話では無いのだろう。
 錬金鋼が耐えられないほどの剄量を持っているとしても、グレンダンだったら天剣授受者になっているだろうし、他の都市ではその実力を発揮すること自体がとても少ないに違いない。
 本人さえ、その本当の実力に気が付かないうちに一生を終えてしまうかも知れない。
 ならば、もしかしたら、レイフォン以外に使う必要のない技と言う事になる。
 だが、問題はそこではないのだ。

「あの莫迦、どこまで莫迦だったら気が済むんだ?」

 武芸を金儲けの手段だと割り切っていたと、ずいぶん前に聞いたことがある。
 だが、本当は武芸が好きだったのかも知れないと、そんな疑問を持った時期もあったと言っていた。
 しかし、その認識全てが間違っていたことをレイフォン自身が証明してしまった。

「どう考えても、武芸をするのが楽しいだろう。しかも、誰もやらないことをやって喜ぶって言う変態的な特性がついてる」
「ああ。レイとん割りとそんな感じだね」

 ウォリアスの独り言を拾ったミィフィが合いの手を入れてくれるが、違うという意見は全く持っていないようだ。
 もし、生まれが違っていたら、どれほどまで変態的な武芸者として人々の記憶に残っていたか恐ろしくなるほどだ。
 聞くところによると、鋼糸を使って料理をしながら千人衝で掃除をしたとか言う。
 他の誰にも出来ないことをやってのけ、それがどれほど異常か認識することなく、一時の笑いとして終わらせてしまう武芸者。
 それがレイフォンだとそう言いきることさえ出来てしまうかも知れない。
 まさかそんな事はないと思いたいところだが、短い付き合いでさえそれを否定することは出来ない。
 まさに、武で芸をする者なのだとそう確信できてしまう一日だった。

「しかし、レイフォンの奴どこへ向かうつもりなんだろうな?」
「うん? メイッチのところへ永久就職」
「ああ。それはそれでレイフォンらしいか」

 世界の命運をかけて戦うなどと言うよりも、メイシェンと二人でとても地味にお菓子屋さんをやっているという方が、遙かにレイフォンらしい生き方であるとそう思う。
 願わくば、自分を殺しながら生きる人生などがレイフォンのところにやってきませんように。
 何に対してか全く不明だが、そう祈ったウォリアスは体育館の修理について話し合っているヴァンゼ達の横を通り、本で溢れている我が家へと帰るのだった。
 
 
 
 
 
 
 ちなみに、この戦いがあった夕方のことだが、某天剣授受者と元天剣授受者が、瀕死の状態で病院に担ぎ込まれたそうだが、それはもはやどうでも良いことがらである。
 
 
 
 
 
  二十五巻への突っ込み。
 書かない方が良くなかったかい?
 俺達の戦いは永遠だみたいな終わり方は、あまり好きでは無いせいもあるだろうが、冗談で書いたフェリが永遠の美少女になるというのがとても気に入らなかった。
 ドラグミットファンタジアの続きに期待かな?

  そうそう。全くこれはどうでも良いことですが、今回ハイアが持っていた紙袋の中身をこっそりとお教えしましょう。
  それは、ハイアの使用済みランジェリーです!!(きゃぁぁぁぁぁぁぁ)
  ある意味、袋が破れていたら大惨事でしたね!!



[14064] 閑話 最悪の日
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2014/02/05 16:13




 突然ではあるのだが、レイフォンはただ今現在、地獄のただ中に放り込まれていた。
 天剣抜きで老性体二期とやり合った時に比べてさえ、遙かに過酷な地獄に放り込まれていると断言できる。
 そう。レイフォンにとって最も忌むべき行事であるテストが間近になったために、勉強という戦場へと駆り出されているのだ。
 いや。ウォリアス先生の授業は続いているから地獄が過酷になったと、そう表現すべきかも知れないが、問題はまだ有る。
 勉強そのものが地獄だというのには違いないが、その事実は地獄の半分でしかないのだ。
 そう。最も大きな問題なのは、何時もレイフォンを助けてくれていたウォリアスが、勉強を教える側へと、つまり敵となって目の前に立ちはだかっているからだ。
 いや。これも日常の地獄であった。
 本題に入ろう。
 本題というのは、逃げるという選択肢は最初から存在していないと言う事実だ。
 そう。リーリンとフェリが後ろに控えている状況で、逃げるなどと言う選択肢が存在できるわけがないのだ。
 流石ウォリアスだと評価して良いかも知れない。

「さて、基本的なところから始めようか」
「お、お願いします」
「そう堅くなるなよ。お前さんは本来頭が良いんだから」
「ぼくが?」
「レイフォンが!!」

 驚きである。
 慌てて振り返り、レイフォンの認識が正しいかどうかを確認する。
 リーリンとフェリも驚いているところを見ると、レイフォンの頭が悪いというところは、全世界共通の認識である。
 だと言うのに、ウォリアスは頭が良いと言っているのだ。

「勘違いしちゃ困るが、頭が良いのとテストの成績がよいのは別問題だからな」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」

 その言葉を聞いて少し安心する。
 だが、厳然として問題は存在し続けている。
 テストの成績がよいのと頭の良いのが別問題だとしたら、レイフォンはこれからどうすればよいのか分からない。

「身体を使う事とおおむね同じ理屈が、頭を使う事にも言えるんだ」
「そ、そうなの?」
「いくら天剣授受者だって、なんの訓練もせずに強くなったりしないだろ」
「それは、まあ、そうだけど」
「それと同じ理屈で、頭も使っている内に良くなって行くんだよ。レイフォンは身体と剄の制御が上手いんだから、少し改良するだけで十分に使えるようになるさ」
「そ、そうなんだ」
「ああ。向き不向きの問題はあるけれど、赤点取る事はなくなると思う」

 確かに、殆どの剄技を見ただけで再現できるという才能を持ったレイフォンだとは言え、鋼糸や化錬剄などの特殊な技はかなりの努力をしなければ会得する事が出来なかった。
 それと同じ事をもう一度やる事になるのかと思うと、かなり気が重いが、それでも、これから先、延々とウォリアス先生の特別講義を受け続けるよりは、遙かにマシだとそう自分を納得させる。
 だが、それでも問題が有る。

「僕って、頭良いのかな?」
「普通に使う意味ではかなり悪いと思うけれど、少し改良すれば使えるようにはなるさ」
「そ、そうなんだ」
「ああ。と言う事で始めるぞ」

 かなりの難題だろうと言う事は理解している。
 その証拠に、ウォリアスの視線が恐ろしい程細く鋭くなっている。

「先に言っておくけれど、人間の脳は一秒間に百兆個の命令を出していると言われている」
「ちょう?」
「億の一万倍」
「え、っと」

 リンテンスの操る鋼糸が億を超えているという噂はある。
 そのリンテンスが一万人で攻めてくるところを想像してしまった。
 勝てるはずはない。
 一秒と持たずに殺される事こそが現実であり、おそらくは慈悲なのだとそう結論付ける。
 いや。百万人のリンテンスが襲いかかってくるのだ。
 絶望を感じる暇さえ存在していない。

「ただし」
「う、うん?」
「百兆回じゃない」
「うん?」

 何が違うのかを考える。
 百万人のリンテンスに細切れにされる以外に、何処か違うところがあるのだろうかと考える。

「一億の道があれば、そこを通る命令は一秒間に百万回になる」
「・・・・・・?」

 さっぱり訳が分からない。
 だが、よくよく話の大元を思い出してみると、リンテンスが百万人で襲いかかってくると言う話ではなかったはずだ。
 脳が百兆個の命令を出していると言う事で。

「僕の脳も百兆個なの?」
「個人差はあるだろうけれど、そんなに大きくはないはずだよ。大体、脳の殆どは生命維持に使われていると言われているから」
「へ?」

 生命維持と言われてもぴんと来ない。
 それを認識しているらしいウォリアスが言葉を放とうとしたが、それを途中で止める。
 そして考える事五秒。

「ああ。考えないでも呼吸したりお腹が減ったりするだろ」
「それは当然じゃない?」

 どこの誰だって普通にやっている事である。
 レイフォンのその認識を披露したのだが、ウォリアスの反応は激烈だった。
 一瞬にして場の空気が凍り付き、リーリンとフェリが一歩後ずさる気配を感じられた。

「愚か者め」

 そしてこの瞬間、レイフォンの背中に冷たい汗が流れた。
 入学直後、メイシェンの働いている喫茶店へ出掛けた時、食べ物の話題から延々と蘊蓄を聞いた時に匹敵する程の、冷たい汗が背中を流れ落ちる。
 丸々一晩、人類と食事について語られたあの体験はレイフォンの中でトラウマとなっている。
 だが、目的を忘れないのがウォリアスの最も特出すべき特徴であった。

「・・・・・。細かい話は抜きにするけれど、脳の一部に血糖値を相対的に感じる場所があってな、その場所が正常に働いていると腹が減るんだが、間違って働くと物が食べられなくなったり食べ続けたりという、摂食障害になるんだ」
「そ、そうなんだ」
「ああ。大雑把に言うとそうなってる」

 かなり、恐ろしく途中経過を端折っている事は不満そうなウォリアスの表情一つからでも十分に理解できる。
 本当は、もっと詳しく、それこそ人類発祥に至る瞬間にまで遡って語りたいのだろう事は容易に想像できる。
 それを、ここまで短い言葉に圧縮してくれたというのは、当然レイフォンの試験勉強という目的を達成するためだ。
 試験勉強に感謝する日が来ようとは思わなかったが、それでも事実としてウォリアスの蘊蓄話を聞かずに済んだのは喜ばしい事だ。
 だが、現実は更に過酷だった。

「まあ、それは後々の話として本題に戻ろう。今までは単純に記憶したり計算するだけだったけれど、これからは頭を効率よく使う方法を覚えるから、かなり大変な事になるけれど、レイフォンだったらきっと大丈夫さ」
「た、他人事になっていませんか?」
「教えるのは僕だからね。他人事じゃないよ。楽しみにしているけれどね」
「たのしいんですか!!」
「ああ。僕が培ってきた頭を効率よく使う方法を、まだ誰も手を入れていないレイフォンという個体に対して使う。ゾクゾクしてくるよ」

 冷や汗が再び流れてきた。
 まるで、レイフォンを使った人体実験を楽しみにしているように見えるウォリアスから逃げ出したいが、そんな事は出来ないのだ。
 生け贄を哀れむ視線が、背中に二つ刺さっているから。

「ある意味、僕こそ学園都市だと言う事も出来る。誰かに持っている情報とそれを効率よく使う方法を伝授する。ツェルニに来て本当に良かったよ」
「は、はははははははは」

 ここで理解した。
 ウォリアスという人間は、天剣授受者と基本的に同じ人間なのだと。
 武芸の強さに偏っているか、それとも、知識の収集に偏っているかの違いしか無いのだと。
 何処まで行っても、おかしな人間と関わる事しかできないレイフォンは、ほんの少しだけ自分の生まれを呪ったのだった。
 
 
 
 
 
 ウォリアスの特訓を受けたレイフォンは、わずか三十分という時間で撃破されてしまった。
 現在は、熱暴走をしている脳を冷やすべく濡らしたタオルなどを頭の上に乗せている。

「情けない」
「そう?」
「情けないと思わないの?」
「全く、これっぽっちも」

 つい先ほどまで、怪しげな妖気を漂わせていたウォリアスだが、レイフォンが活動できなくなった瞬間に平常運転へと復帰していた。
 この切り替えの速さは異常だと思うのだが、問題はリーリンの認識とウォリアスのそれとにかなりのギャップがあると言う事だ。

「誰だって慣れない事をすれば短時間でギブアップしてしまうよ」
「それはそうだろうけれど」

 理屈としては理解できているのだ。だが、それでも納得していないリーリンも確実に存在する。
 そもそも、レイフォンの頭が悪くないと認識しているところからして、決定的に違っていると思うのだ。

「そうだね。これ投げるから受け取って」

 リーリンの疑問を理解したウォリアスは、全く意味不明だが使いかけの消しゴムを掌で弄びつつ、投げる仕草を繰り返す。
 意味不明である事を、隣でお菓子をつまんでいるフェリと視線を合わせる事で確認する。
 どうでも良いが、最近のフェリは常に何か食べているような気がしてならない。それでも、体型が変わらないという事実が存在している以上、リーリンに何かを言う権利はない。
 視線をウォリアスに戻すと、軽い動作で消しゴムが宙に放り上げられた。
 それを、両掌を広げてキャッチするリーリン。
 運動が苦手だが、これくらいはどうと言う事はない。

「今の一連の動作だけれど、簡単に解説すると、消しゴムという馴染み深い物体の質量を脳はきちんと認識しているんだ」
「それは、まあ」
「でだ。その消しゴムが宙を飛んでいるところを目が捉えてその情報を脳へと送る」
「うん」

 ここまでは何の問題も無い。
 出来るならば、ピーナッツ事件のような惨事は避けて欲しいところだが、その辺はウォリアスもきちんと理解しているようで話が進む。

「僕が投げた動作や飛んでいる速度から加えられたエネルギーを大雑把に予測するんだ。そのエネルギーでどんな軌跡を描くかを予測して、その着地点付近に手を出して捕まえる」
「うん」

 エネルギーなんて物を予測しているとは思えないが、確かに経験に基づいて着地点へ手を出した。
 何度でも言うが、運動が苦手なリーリンにだってこのくらいは出来る。

「武芸者は、この運動予測が無茶苦茶に得意なんだ。だから、汚染獣だろうと人間だろうと、構えから放たれた攻撃の威力を想像できる。レイフォンの場合は剄の流れも考慮しているから、その予測精度は極めて高いわけだね」

 そう言われても、リーリンは武芸者ではないのできちんと理解できたかは分からない。
 だが、思い返してみれば、ある程度年齢が行った後のレイフォンは、確実に身体の使い方が上手かった。
 それが、意識していないところでの能力だと言われたのならば、納得する以外にない。

「それで本題なんだけれど」
「元々脳の構造にはそんなに違いはないんだ。処理の問題も生命維持に比べれば大したことはない。問題なのは使い方をきちんと理解して体得しているかどうかだね」
「そこなのね」
「そ。そこを何とかすれば、天才的な閃きとかはないにせよ、赤点を取らなくて済むくらいにはなるはず」

 言われて見れば、ウォリアスがレイフォンに勉強を教え始めたのはツェルニ到着直後からだった。
 小学生が解くような問題から始めて、やっとこさツェルニ基準に足がかかろうかというところである。
 こんなにゆっくりしていて大丈夫なのかと不安に思っていたが、頭の使い方を覚えさせるという立ち位置から見てみると、間違いだとは言えないかも知れない。
 断言できないところがかなり痛いが。

「基本的な事は覚えさせたし、計算問題をやらせて脳の基本的な使い方も覚えさせた。後は応用と物を考える時のとっかかりを覚えれば、それ程苦労はしないと思うよ」

 ウォリアスはそう太鼓判を押してくれたのだが、試験はもう目と鼻の先に迫っているのだ。
 のんびりしていて良いのかという疑問も出てくる。

「まあ、今回のテストには間に合わないよ」
「間に合わないの!!」

 試験勉強だと言う事で応援に来たのだが、それはレイフォンを拘束するための口実だった事が判明した。
 流石悪逆非道な知将だとその評価を高くした。
 いや。どちらかと言うとウォリアスは参謀だろうか?

「本来十年かかる仕事を短時間でやろうとしているんだ。しかも、頭が固くなり出した年齢でだからね。僕の見立てでは、卒業までに目標を達成できたら御の字。追試は覚悟しておいてもらおうか」
「・・・・・・・・・・・・」

 理解した。
 リーリンが目の前を見ているのに対して、ウォリアスはレイフォンが卒業する頃を見ているのだと。
 だからこそ無理をさせないで、追試で時間が取られる事を覚悟の上で、日程やペースを配分しているのだと。
 そしてツェルニでやる事が増えた事を理解もしていた。
 レイフォンに頭を使う癖を付けさせるという、この共同作業を完遂するという難事業だ。
 目的地は遙か彼方にあり、そこまでの道のりは厳しいが、それでも力強い相棒がいるのだったらきっとたどり着ける。

「つまり、私はここに来てお菓子を食べていればそれで良いんですね」
「・・・・・・。太りますよ?」
「・・・・・・・・・・・・・」

 無言のフェリに蹴られるウォリアスを眺めつつ、ほんの少しだけこれからの道筋に暗雲が見えてしまったリーリンだった。
 
 
 
 
 
 合計四回レイフォンは熱暴走で冷却期間を必要とした。
 そして五回目となった今は、昼食の休憩を兼ねて徹底的な冷却を行っている最中だ。
 リーリンの目が冷たさを越えて、痛々しい物を見るそれになっている事をレイフォンはまだ知らないのかも知れないが、問題はそこではない。

「そう言えば、暫く前に戦略と戦術について解説し損ねたね」
「・・・・。覚えていたんだ」
「うん。やっと分かりやすそうな例えを思いつけたんだ」

 これは悪魔の宣戦布告だ。
 レイフォンという人質がいる以上、リーリンに逃げ場はない。
 そしてフェリにも逃げるという選択肢は存在していない。
 ロス家の食事はリーリンやウォリアスに支配されてしまっているから。
 逃げてしまったら、二度と作ってもらえないかも知れないのだ。頑張ってこの危機を乗り越えるしか方法はない。

「お手柔らかにね」
「大丈夫。リーリンにも分かるように考えたから。ただし、あまり正確じゃない事は理解しておいて欲しいな」
「それはかまわないわ。正確で難しいのは授業だけで十分よ」
「助かるよ」

 助かるよと言いつつ、ウォリアスの瞳はこれ以上ないくらいに細められ、そして何よりも、獲物を捕らえた肉食獣のようにきらめいていた。
 危険極まりない状況である。

「政治的な決断で、これからは外食を控えて家でご飯を作る事にしたとして」
「うん?」
「まずは料理を作る場所、台所を何とかしなければならないよね?」
「まあね」

 台所のないところで料理を作る事は出来るだろうが、それは猛烈に効率の悪い作業となる。
 あるいは、焚き火で肉を焼くだけとか言う単純な料理しかできなくなってしまう。
 ニーナだったらそれで十分だろうが、リーリンやウォリアスでは明らかに不満の種となるだろう。

「コンロの口が一つしかないところで、まな板を置く場所もないような台所で妥協するか、それとも、コンロの口が四つあってオーブンも備え付けのがあるような本格的なところにするか」
「私なら本格的なところね。家賃が安ければ」
「普通はそうなるね。で、まあ、それは本題じゃないから置いておくとして」
「うん?」
「台所が決まったら、そこに置く冷蔵庫や鍋、包丁なんかを揃えなきゃならないよね?」
「台所だけじゃ料理は出来ないもん、当然よね。食器とかもここに入る訳よね」

 なんだかんだ言いつつ、料理ショーのノリで相手をしているリーリンに尊敬の眼差しを送りつつ、レイフォンの様子を観察する。
 完全に死んでいるようでぴくりとも動かない。

「それで冷蔵庫や鍋、包丁なんか道具を揃えるのを当面環境戦略と呼ぶ事にするんだけれど」
「環境を整えるというそのまんまの意味ね」
「で、環境を整えたら次にやる事は調味料を揃えたり食材の備蓄を決めたりする事だよね?」
「お米とか小麦粉とか、もっと言えばレトルト食品とかなんやかんやね」
「短期間で使う肉や魚野菜や果物もこの辺に入るわけだね」
「そうそう。冷蔵庫の中が空っぽだと料理は出来ない物ね」
「よく使う材料や調味料を備蓄しておく事を状況戦略と呼ぶ事にするよ」
「うんうん」

 言葉は難しいが、料理をしている人間にしてみれば、通常の作業なのだろう事は十分に理解できる。
 フェリ自身は料理をしないのであまり理解しているとは言えない。

「戦術的勝利で戦略的敗北を補えないというのは、おおよそ環境戦略の辺りの話だね」
「と言うと?」
「コンロが一つと小さな冷蔵庫しかないのに、フルコースとか大勢に食事とか無理でしょう?」
「小さな台所でそれは相当無理ね」
「そ。この場合、大は小を兼ねるんだよ。例えば僕ん所よりもロス家の台所の方が使いやすいのはおおよそ環境戦略の責任だね」
「フェリ先輩のところは良いわよねぇ。家も負けていないとは思うけれど」

 確かにフェリの今住んでいるところは、二人しかいないにもかかわらず豪華な設備が整っている。今年に入るまでお湯を沸かす以外に使わなかった事が申し訳ない程の充実ぶりだ。
 それに引き替え、リーリンの住んでいる寮は大人数が共同生活をする事を前提に作られているので、フェリのところ以上に充実した設備が存在し、更にセリナやリーリンが積極的に料理をして使っているという状況だ。
 この辺の話は十分に分かると思う。

「でだね、用意した環境と状況を最大限使うために献立を考えるのが戦術だね」
「無計画に料理を作ると余計な買い物が増えて無駄も出る物ね」
「そ。それを避けるためにあるのが戦術で、戦術に沿って料理をするのが戦闘。結果として料理が出来上がるけれど、それが戦果というわけだね。指揮官が料理人と言う事になるかな?」
「成る程、分かりやすいような気がしてきたわ」

 分かったと断言できないのか、あえてしないのか分からないが、実はフェリも似たような状況である。
 感覚的に理解できていると思うが、それを応用する事が出来るかどうは全く未知数だ。

「そしてここからが本題」
「なになに?」
「ここにレイフォン・アルセイフという摩訶不思議な機材が存在しています」
「熱出して使い物にならないけれどね!!」
「今はね。でもこれはとても重要な機材です」
「どう使うの?」
「この機材。食材や調味料を入れて暫くほったらかしにしておくと、あら不思議。一段階以上上質な製品として出てきます!!」
「おお!! それはお得ね!!」

 段々通販番組のノリになって来ているのだが、二人は気が付いているのだろうか?
 気が付いていて止められないのだろうか?

「しかもこの機材!! なんと!! 恐るべき機能を備えつつ非常識な程の格安!!」
「これは詐欺だわ!! 生まれながらに非常識であるとしか形容の方法がないわ!!」

 リーリンの台詞を聞いたらしい機材が、涙を流している事を知っているのだろうかという疑問を覚えつつ、黙って続きを待つ。
 レイフォンの不幸よりもフェリの娯楽が優先されるのだ。

「以前言っていた、レイフォンを戦略的に使うという意味が何となく理解できたと思うけれど、リーリンは分かったかな?」
「ええ!! 十分すぎる程に分かったわ!! 何しろ、同じ料理人が同じ設備や道具を使って作ったとしても、食材や調味料が上質ならそれだけで美味しい料理になる物ね!!」
「その通りだよリーリン!!」

 なにやら教育番組か感動巨編にも見えるがこのまま進んでしまって良いのだろうかという疑問も浮かんでくる。
 最終的には終わるまで何もしないが。

「つまり!! ツェルニという家にとってレイフォンというのはまさに魔法の機材なのさ!!」
「素敵!! 一家に一台是非とも欲しい機材だわ!!」
「リーリン!! 残念だけれどこれは一つしかないんだよ!!」
「そんな!! そんな事ってあり得ないわ!! なんで一つしか用意できなかったのよ!!」
「これは偶然に生まれた機材なんだよ!! だから今はツェルニにしかないんだ!!」
「なんてこと!! 世界中がお金を出して買いたがるはずなのに!! 一つしかないなんて犯罪よ!!」

 ここまで来て、冷却が完全に終わったらしいレイフォンが逃走を図ろうとしたが、逢えなく襟首を捕まれて捕獲されてしまった。
 二人掛かりで。
 もちろん、フェリは何もしていない。

「でだね。実はもう一つツェルニには奥の手があるんだ」
「なになに? もしかしてウォリアス?」
「残念でした。僕は効率よく食材を使えるように献立を考える人。作る人じゃないんだ」
「じゃあ、どんな奥の手があるの?」
「味の素さ!!」

 そう言いつつ、何故かポケットから味の素の瓶を取り出すウォリアス。
 何時も持ち歩いているのだろうか?

「え、えっと? それってどういう?」
「ふっふっふふふふ」

 不気味に笑うウォリアスの手のが蓋を開け、レイフォンの頭に味の素の瓶を持って行く。
 つまりそれは、フェリとリーリンでレイフォンを食べて良いと言う事。
 思わず喉が鳴ってしまった。

「あ、あのぉ」
「まあ、これは冗談」

 とても残念だが、ウォリアスは味の素の瓶を懐にしまってしまった。
 何故そんな物を持ち歩いているのかとかも疑問だが、ここで取り出した理由も少し疑問だ。

「これを一振りすれば、たいがいの物が美味しくなってしまうと言う脅威の化合物、グルタミン酸ナトリウム」
「か、かごうぶつ」
「化学物質と言い換えても良いけれど」
「それは嫌」

 化合物とか化学物質とか言われると、何故かとても危険な物に思えてしまうのは不思議だが、実際にはそんな事はない。
 そもそも、ビタミンも蛋白質も糖質だって化学物質や化合物でしかないのだから。

「出来上がった料理にこれをかけてしまっているのがシン隊長達だね」
「ああ。あれはそう言う位置づけなのね」
「そ。学園都市にはあった方がよい調味料だね」
「学園都市には?」
「そ。学園都市には」

 今までのノリから少し冷静になり、真剣味を帯びるウォリアスの視線がリーリンを捉える。
 これからは少し真面目な話だというサインだろう。

「実を言うと、学園都市には戦術から下で何とかする以外の選択肢がないんだ」
「え、えっと?」
「例えばだね。政治的決断で騎士型の戦い方をすると決めるよね?」
「グレンダンでは流行らないけれどね」
「あそこの戦場は過酷だからね」

 騎士型の戦いという物は確かに存在する。
 被害を恐れずに打撃力重視の突撃をして勝つという物だ。
 汚染獣戦が頻繁に有るような都市では、犠牲を顧みなければすぐに滅んでしまうだろうから、グレンダンで流行らないのは理解できるし、人を育てるための学園都市でやらないのにも十分な説得力がある。

「学園都市では、基本的に六年で人がいなくなってしまうよね?」
「そうなっているわね」
「経験者がいないと騎士型は被害が大きいだけの戦い方になるんだよ。その経験者、熟練した指揮官がいない以上学園都市ではやらない方が良いよね?」
「自殺行為だって事?」
「そ」

 フェリの予測は間違っていなかったようだ。
 理由は少し違っていたが、そんなに外れてはいない。

「それとね。騎士型の戦いに適した流派というのをある程度納めた生徒が来ないと、打撃力にも問題が出てくる」
「来る者は拒まずの学園都市でそれは難しいわよね」
「そ。あえて言うならば、この設備と道具と食材を使って料理を作れと指定されているようなものだね」
「ああ。つまり、ある物を最大限有効活用する必要がある訳ね」
「そ。そのために必要なのが戦術の構築と味の素だね。ツェルニには魔法の機材があるからある意味勝って当然だね」
「成る程」

 ここまで来れば話はおおよそ理解できる。
 専門用語を使わずに説明したウォリアスの努力に敬意を表したくなる程だ。
 過去のツェルニは、最も重要な戦術の構築や味の素をほったらかしにしていた。
 今年になってからは、十分な質と量を確保する事が出来たので勝つ事が出来た。
 無論レイフォンの影の協力は当然あったが、もしかしたらウォリアスが入学しただけで良かったかも知れない。

「さて、ここまで話をしておいてなんだけれど、政治的決断をしようが戦略的環境を整えようが、戦術的勝利を収めようが、ある一つの要素に全てが縛られるんだけれど、リーリンはそれがなんだか分かる?」
「そんなの当然分かるわよ!!」
「レイフォンは?」
「あ、あう」

 不意の展開に頭が付いて行けないようだ。
 実を言うと、展開には付いて行けているのだが重要な要素という物は予測できていない。
 だが、それはとても簡単な要素だった。

「お金でしょう?」
「そ。お金で買えない物も確かに有るけれど、買える物が多いのも事実だよ」
「お金が無ければ十分な広さの台所を持った家にも住めないし、きちんとした機材を揃える事も出来ない!!」
「それどころか、賞味期限ギリギリの割引商品しか変えない人生だって待っているんだ!!」
「人生はお金によって支配されていると言っても過言ではないのね!!」
「少しのお金と少しの幸せこそが基本だけれど、制御できる規模の財政能力は必要だね!!」

 これには納得する。
 ロス家の事を考えれば素直に理解できるのだ。
 お金が有るからこそ、フェリは何不自由することなく育ち、キッチンに行けば何時だってお菓子をもらう事が出来た。
 全てが、では無いにせよ、それは重要な要素なのだ。
 と、ここでいきなり空気が変わった。

「さて」
「レイフォン」
「あ、あう」
「「第六ラウンドに突入しようか」」
「あぁぁうぅぅ」

 影の功労者たるレイフォンには、まだまだ地獄が続くようだ。
 それを認識しつつもフェリは、何となく満足感を得たのだった。
 
 
 
 
 
  解説!!
 一秒間に百兆個。
これは暫く前に見たドキュメンタリーでの知識。脳をテーマとしていたために興味本位で見ていたので、実はあまり明確な記憶がないので、知ったかぶりは危険極まりないでしょう。

 レイフォンは頭が良い。
汚染獣戦などの描写を見ると、きちんと頭を使って戦っている事が多いようなので、本来レイフォンは頭が良いがその使い方が悪いと判断。
それを頑張って修正すれば赤点は免れるはず。

 政治と戦略と戦術について。
大きく間違っていないと思うが、所詮は読書量が多いだけの凡人の浅知恵なので、正確であるはずはない。
話の種にするのにはよいだろうが、専門的な知識を持った人と議論するのは大変危険なので止めておく事をお勧めする。




[14064] 第十話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1ef6c788
Date: 2014/04/30 13:59


 何時の間にか接近していた切っ先を刀の横腹を叩く事で逸らせる事に成功したが、次にやってきた柄頭の打撃が頬をかすめた事で、大いに肝を冷やしたナルキは、兎に角距離を取って仕切り直そうと試みた。
 だが、ナルキが開けた距離を殆ど時差無く詰められただけでは飽きたらず、低い軌道を描く右からの回し蹴りがやってきた。
 一連の攻撃は全て円を中心にした動きで、一撃一撃と言うよりも、連続して相手を追い詰める事を目的とした物だった。
 その結果、ナルキは上空へと追い詰められる。

「っち!!」

 舌打ちをしつつも軽く、出来うる限りぎりぎりの高さの跳躍で避ける。
 そうしなければ、着地の瞬間を狙った追撃がやってくる事は分かりきっているからだ。
 だが甘かった。

「っう!!」

 刀の横腹での打撃が右腹部を狙う。
 この攻撃が決まらない事は分かっているのだ。だからこそ威力が落ちる割には派手な目隠しになる横腹での攻撃をしている。
 この次にどんな攻撃が来るかは分からないが、来る事が分かっているのならばあえて腹部への打撃をもらう事で相手の意表を突く。
 その覚悟で腹筋に力を入れた。

「ぐわ!!」

 甘かった。
 確かに刀の横腹による攻撃はナルキの腹部に接触した。
 そう。接触しただけなのだ。
 次の瞬間、いきなり軌道を変えた刀の峰部分が右脇の下へと突き刺さる。
 短い距離の、落下の瞬間を確実に捉えたその一撃は、右腕の戦闘力を大きく奪うという戦果を上げる事に成功した。
 更に円運動は続く。
 右から左への運動ではなく、下から上へのとその方向を変えて、左足が顎へと迫る。
 咄嗟に上体を大きく後ろへ傾けて攻撃を回避してしまった。

「あ」

 次に見えたのは、天井だった。
 そして首筋に曲刀の切っ先が押し当てられ敗北が決定する。

「なあ、ウッチン?」
「うん?」
「本当に最弱なのか?」
「最弱だよ。剄脈を少しでも使ったらナルキには絶対に勝てない」
「・・・・。それはそうかも知れないが」

 マイアスとの戦いを終えて一月半。
 汚染獣の襲撃も武芸大会もない平和な時間が過ぎていったのだが、この時間がとても恐ろしい物に思えたナルキは、あちこちに出掛けていって組み手の相手を頼んで回った。
 ヴァンゼやゴルネオは元より、シンやディンにも頼んだし、ニーナとだって組み手をやっている。
 そして、その殆どで満足行く手応えを得る事が出来たのだが気が付いた事もあった。
 剄脈の使い方は上手くなったという実感はあったのだが、それ以外ではあまり変化がないのではないかという疑問だ。
 もちろん、レイフォンと始めて出会った頃に比べれば明らかに上達しているし、ツェルニに来てからと比べても成長していると思うのだが、剄脈に頼りすぎているのではないかという心配だと言い換えても良いだろう。
 武芸の基本は剄脈である事は間違いない。
 だが、力業だけが上達しただけではやはり駄目である事も事実だ。
 それはレイフォンを見ていれば良く分かる。
 全人類がどれくらいいるか分からないし、その中の武芸者の割合なんて物は知るよしもないが、それでもレイフォンの剄量が恐ろしく多い事だけは理解している。
 おそらく全武芸者でも五本の指に入るのではないだろうか。
 そんな莫大な剄量を誇っているレイフォンだが、その身に刻んだ技一つをとっても恐ろしい程に洗練されているのだ。
 いや。同じ天剣授受者のサヴァリスや、サイハーデンの継承者であるハイアにしても、ナルキと比べるべくも無い程洗練された技をその身に刻んでいる。
 達人と呼ばれる武芸者の必須条件だとするのならば、どうにかしてナルキもそこへ辿り着きたい。
 そこでふと思い付いたのが、ツェルニ最弱の武芸者を自称しているウォリアスだ。
 剄脈が異常と言って良い程小さく、一般人よりはましな程度のウォリアスと戦う事で、何か得られるかも知れないと思って組み手を頼み込み、そしてあっさりと負けてしまった。
 技の切れ、身のこなし、そして流れ。
 全てがナルキとは一線を画していた。

「ど、どうやったらそこまで行けるんだ?」
「さあ。僕にとってはこれが普通だからね」
「普通って」

 ウォリアスにとっての普通は、他の人にとっての異常であると断言できる。
 いや。それはツェルニに来てから何度も見せつけられた事実でしかない。

「まあ、剄脈が小さいから、他のところで何とか勝とうと足掻いた結果だとは思うんだけれど」
「そうなのか」
「化錬剄なんかがそうだね。炎破は一度使うと後が大変だけれど、威力だけならかなり良い線行っているからね」

 実際に使っているところを見たのは、幼生体との戦い一度だけだが、その破壊力は確かに警戒するには十分だ。
 問題は、連発する事が出来ない上に制御がとても大変だというところだろう。実際にナルキも使えるが、制御の面倒さも手伝ってあまり使いたい技ではない。

「・・・・・?」

 制御が面倒だから使いたくないとナルキは考えた。
 ウォリアスは、使った後の剄脈疲労が嫌だから使わない。
 使わないという事実は同じだが、その事実を支えている理由が全く違う。
 いや。ウォリアスは兎に角頭脳が先行する人間なのでこれは当然なのかも知れない。
 では、レイフォンはどうだろうかと考える。

「・・・・・。もう一戦してくれないか?」
「いいよぉ。今日はロス家にご飯作りに行く日じゃないし、この後予定は入っていないから」
「・・・・・・・・・・・・。頼むよ」

 剄の制御という一点においても、レイフォンは人類最強だろうし、剄脈そのものの大きさにしても人類最強だ。
 そんなレイフォンが何故化錬剄を使わないのかという疑問を持ってしまったが、それは本人に確認すればよい事なので考えるのをやめにした。
 だが、その疑問を無効にしたとしてもウォリアスの予定には驚かされる。
 カリアン達のご飯をレイフォン達が作っている事は知っていたが、ウォリアスまでそれに加わっているとは思いもよらなかったのだ。
 世の中、恐ろしい事が多いのだと再認識したナルキは、呼吸を整えウォリアスとの二戦目に挑むのだった。
 
 
 
 
 
 教導傭兵団は解散となり、多くの隊員が故郷へと帰るはずだった。
 だが、実際には殆ど全ての隊員がツェルニに、もっと言えば専用の放浪バスに残っているという事実を前に、ハイアは少々気持ちをもてあましてしまっていた。
 二度と会えない事を覚悟してマイアスとの武芸大会が終了した直後に、解散を宣言した身としては、小言の一グロス程は言いたいところだ。
 だが、そんな事をしたとしても、なんの意味もない事は理解している。
 小言を言ったくらいでどうにかなるような隊員など一人しかいないし、その一人を虐めても気分は憂鬱になるだけだと分かっているからだ。

「たいくつさぁぁ」
「することがねぇ」

 少し年上の兄弟に向かって言ったわけでもないのだが、返事は律儀に返ってくる。
 いや。別段ひねくれた盗撮マニアの傭兵崩れを兄だと思っているわけではないのだが、それでも、もしかしたら兄かも知れないとか言う考えは存在していたりしなかったりするのだ。

「なんか楽しい事無いかさぁぁ?」
「レイフォンをからかって遊ぶのも飽きて来たしなぁ」

 ヨルテム出身の不良武芸者は向かえに座り込み、鼻くそなぞほじりつつハイアの相手をしてくれているが、全くもって有意義ではない。
 むしろ有害と言ってしまえるような気がする。
 どの辺が有害かと問われたのならば、ハイアの気持ちが弛んでしまうところだと答える。

「汚染獣とやり合っていた時期が懐かしいぜ」
「さぁ? オレッチは見ていただけだったから、あんまり変わらないさぁ」
「考えて見りゃあ。グレンダンは天国だったぞ。何しろやる事が無くなるって事がねえ」
「それは魅力的な話さぁ」

 マイアスとの武芸大会が終了してから一月半。
 学生であるレイフォンには試験という地獄の戦場があったらしいが、当然の事ハイアやイージェにはそんな物はない。
 羨望と嫉妬の眼差しで見詰めてきたレイフォンの顔は一生忘れられない程の見物だったが、それだけで暇な時間を潰す程ハイアは堕落していないのだ。
 いや。このまま暇な時間に浸食されてしまえば堕落する事だってあり得る。
 つくづく、戦う事しかできない生き物である事を認識したハイアだったが、悩みの種はもう少し違うところにもあったりするのだ。
 そう。甘い空気、いや。甘い匂いに支配されつつあるリビングとか。

「ここはね。ダマにならないように少しずつ」
「こ、こう?」
「そう」

 金髪眼鏡で巨乳な幼馴染みは、黒髪で癒し系な巨乳とお菓子作りなどしているという事実が、ハイアを更なる悩みのどん底へと叩き落としているのだ。
 既に幾つかは完成まであと少しという所まで来ているようで、オーブンは景気よく甘い香りを放ち続けている。
 鍛錬以外にする事が無く腐りかけているハイアとは一線を画すその勤勉ぶりに、強かに打ちのめされたような気分になろうという物だ。
 ならば、他に何かやる事を見つければいいとも考えるのだが、どうにもやる事が思い付かない。
 もしかしたら、レイフォンのように学生にでもなっていれば話は違うのかも知れないが、生憎と無職の少年である事に変わりはない。
 いや。今からでも遅くないから、ツェルニに入学してしまおうかと本気で考えてしまう。
 だが、そうなるとレイフォンを完膚無きまでに叩きのめしたテストとの戦いが始まる事になる。
 それは、出来れば遠慮しておきたい戦闘である。

「・・・・・・・・・・・・・。オレッチも駄目人間さぁ」
「ああ? 駄目じゃない人間なんてつまらねえだけだぞ」

 完璧な駄目人間を目指しているらしいイージェにそう言われると、何故かとても強烈な危機感に見舞われてしまう。
 こうなったら手段を選んでいる場合ではない。
 誰か適当な奴を見つけて時間を潰さなければ、本当の駄目人間になってしまう。
 その危機感に支配されかけたその瞬間。

「済まないが。メイッチはこっちに来ているか?」
「さあ!!」
「な、なんだ!!」

 危機感に支配されかけたその瞬間、鴨がやって来た。ネギをしょってないのが残念だが、贅沢は言っていられない。
 咄嗟に立ち上がり刀を復元して褐色赤毛のオカマ武芸者に突きつける。

「なんだぁぁ!!」
「良いところに来たさあ。お前にサイハーデンを伝授してやるさぁ」
「なんだ!!」
「オレッチが暇な時に来たのが運の尽きと諦めて、オレッチが心ゆくまでしごかれるさぁ」
「まてまてまてまて」
「問答無用さぁぁ」

 一応周りを見回して、茶髪猫がいない事を確認する。
 今日はナルキだけのようだ。
 ならば遠慮する必要はない。

「私はメイッチを向かえに来たんだ!! お前と戦うためじゃない!!」
「問答無用と言ったさぁぁ!!」

 衝剄を纏わり付かせた刀でナルキに斬りかかる。
 咄嗟に身体が動いたナルキが、やはり咄嗟に衝剄を纏わり付かせた刀でそれを受ける。
 狭い放浪バスの中なので、当然威力は加減しているし、そもそもハイアが楽しむためなのですぐに倒れられても困るのだ。
 だが!!

「ハイアちゃん!!」
「な! なにさぁ?」

 すぐ側でお菓子を作っていたミュンファの、何時にない強い口調で全てが打ち砕かれる。
 少し、恐る恐るという気持ちがある事は認めよう。
 その気持ちを殴り倒してミュンファの方を見る。
 未だにサリンバンの制服を着ているのはよいとしよう。他の服など殆ど持っていないから仕方が無いと諦めるという意味でだが。
 だが、その先はよろしくない。

「さぁ!!」

 ピンクである。
 何がと問われたのならば、エプロンであると答える。
 だが、それだけではない。
 あえて言わせて頂ければ、巨乳である。
 今まで意識する事はなかったのだが、ピンクのエプロンを押し上げる事で強調された戦略破壊兵器がハイアをロックオンしている。
 思わずその付近へと視線が向いてしまった。
 そして、その視線に飛び込んできたのが二つの巨大な固まりだけではなかった。

「さあ?」

 お盆である。
 そして、その上に乗せられたのは、歪な形をした何かであった。
 真っ黒になっているとか、おどろおどろしい気配を放っているとか言うわけではない。
 単に形が悪いと言うだけに見えるお菓子だ。
 そのお菓子を、あろう事かお盆ごとハイアに突き出しつつ接近するミュンファ。

「味見して」
「さぁ?」
「味見して」
「お、おい?」
「味見」

 その瞳は、まるで単身汚染獣との戦闘に挑む武芸者のように真剣であり、そしてあろう事かハイアを圧倒する迫力を備えていた。
 思わず後ずさろうとしたが、それは出来なかった。
 そう。後ろから押されたのだ。
 いや。退く事を許さないとナルキがその手でハイアを押しとどめたのだ。
 ならば選択肢はただの一つ。
 慎重に、ミュンファの視界から手が消えないように細心の注意を払いつつその型崩れしたお菓子をつまみ上げる。
 そして、ゆっくりと口元へ持って行き、中へと放り込みゆっくりと噛みしめる。

「?」

 やや、口当たりに均一性を欠いているが、それでも甘さ控えめの、普通のお菓子の味がする。
 最大の技量を注ぎ込んだ一撃が効果を上げているのか、それを確認しようとする視線がハイアをつぶさに観察して、そして解体して行く。
 一撃で仕留められたという自信がないのだという事は分かった。
 ならばハイアは、ミュンファに向かって効果を言葉として告げる義務がある。

「不味くはないさぁ」

 次の瞬間、熟練の武芸者は姿を消し、認める事は憚られるのだが、とても可愛らしい感じの少女の、笑顔が目の前に存在していた。
 そして気が付く。
 ミュンファの後ろにいる垂れ目脱臼女も、何故かとても嬉しそうにしているという事実に。
 更に、すぐ後ろから何か良からぬ気配が漂っている事にも気が付いたし、もっと言えば、横合いから何かの機械が駆動する音が聞こえていた。
 そして理解した。
 これがレイフォンの見ている地獄なのだと。
 だが、逃げ場は存在していない。
 
 
 
 
 
 最終的に、気合いの抜けたハイアと、始めからやる気の無かったイージェに無理矢理付き合わされ、駄目人間になるための特訓に参加させられてしまった。
 午前中は割と有意義だと思っていたのだが、午後はこれでもかと言うくらいに駄目な時間を使ってしまったナルキは、現在レイフォンとの組み手の真っ最中だ。
 一日の終わりくらいは、きちんと何かをやったという達成感と共に過ごしたかったからだ。
 外縁部に近く、多少の音を出そうが振動を放とうが問題にならない場所での組み手は、レイフォンにとって制限が少ないからと言うだけの理由で選択された。
 思い返せば、ニーナの秘密特訓もこの付近で行われていたと聞いたから、武芸者の考える事は最終的には似通ってきてしまうのかも知れない。
 そして、そのレイフォンはと見れば、テストが終わったためにとても元気溌剌の状況だ。
 頭は悪くないらしいと言われては見た物の、最終的には身体を動かす事の方が得意だという事実に、なんの変化もないのだろう。

「ま、まった」

 一分に満たない組み手で、完全に息が上がってしまった、ナルキの静止の声で放たれようとしていた斬撃は急速に停止した。
 剄を使わない状況でのウォリアスはかなり強かった。
 全力全開、本気を出したイージェもかなり強い。
 そして、ハイアの実力はナルキの遙か上を行っている。
 その三人と比較して尚、レイフォンはとてつもなく強く感じる。
 だが、息が上がってしまった理由にはならない。
 ここ最近の鍛錬はかなりきつい物があったが、それでも一分に満たない時間で息が上がるなどと言う事はなかった。
 当然、ナルキとの鍛錬が多いレイフォンも疑問に思ったのか、少し距離を置いてから刀を剣帯に納めて、心配げな視線と共に近付いて来る。
 一度距離を置いたのは、鍛錬と日常を明確に区別するためのようだ。

「どうしたの?」
「わ、分からないんだが、とても剄脈を使う事が辛いと感じているんだ」

 駄目人間になるための特訓をしている時には、もちろんこんな症状は感じなかった。
 とは言え、レイフォンとの鍛錬を始める直前と比べても体調が悪くなっているような気がしている。
 風邪でも引いたのだろうかと、ふとそんな事を考えたが、レイフォンの視線が少しだけ厳しい事に気が付いた。

「な、なんだ?」
「風邪薬は飲まない方が良いよ」
「なんで?」

 風邪を引いているかどうかさえ疑問だというのに、何故かレイフォンは風邪薬を飲むなと割と真剣な表情で言うのだ。
 何かレイフォンにしか分からない事情があるのかも知れないと思い、先を促してみる。

「剄脈の拡張かも知れないから」
「なんだそれは?」

 剄脈というのは、成長と共に大きくなる事は確かだが、それも本来持っている許容量に向かって増える。
 容量の決まった容器に水を注ぐような物だと例えられるが、拡張となるとまるで話が違う。
 容量そのものが大きくなって行くように聞こえてしまうのだ。

「極希にあるらしいんだけれど、成長の途中で剄脈が拡張するんだ。そうなると身体のバランスが崩れて上手く剄がコントロールできなくなったり、体調を崩したりするんだ」
「そ、そうなのか?」
「僕も小さい頃に何度かやって酷い目に合ったから間違いないよ」
「そ、そうか」

 どうしてこう、レイフォンは揉め事というか不幸に愛されているのだろうかと疑問に思う。
 だが、経験者の言葉はきちんと聞かなければならない事は間違いない。
 これ以上の鍛錬は止めて、家に帰って早めに寝てしまう事としようと心に誓った。
 だが、その前に少しだけ確認しておきたい事もある。

「風邪薬を飲むとどうなるんだ?」
「僕の場合」
「うん?」
「意味不明な事を延々と喋り続けたらしい」
「らしい?」
「記憶があんまりはっきりしないんだ。リーリンは気持ち悪かったって言って居たから、相当酷かったんだと思う」
「・・・・・。風邪薬は死んでも飲まない事にするよ」
「そうした方が良いと思う」

 リーリンでさえ気持ち悪かったと言っているのだ。それがもし、ミィフィだった場合どうなるか想像するだけで背筋が寒くなる。
 背筋が寒くなったついでに、全身が冷えてきているようなほてってきているような。

「・・・・・・。ああ、レイフォン」
「・・・何が起こったのかな?」

 本名で呼ぶ時には、たいがい何か問題が起こって助けを求める時だと認識されてしまっているようで、少しだけ後ずさられてしまった。
 そして今回も、レイフォンのその危機意識は間違いではない。

「足腰に力が入らないんだが」
「・・・・・・」
「家まで連れて行ってくれないかな?」
「・・・・。いいよ」

 嫌がられているというわけではないのだが、それでも少し腰が引けているのは事実だ。
 原因は理解できる。
 こちらもミィフィの影に怯えているのだ。
 そんなに心配する事はないと思うのだが、それでも完全に否定は出来ないのだ。
 それこそがミィフィのミィフィたるゆえんである。
 
 
 
 
 
 映画館を出たフランク・タコスは大いなる衝撃と共に深い溜息をつく事しかできなかった。
 ツェルニが汚染獣へと突き進んでいた頃に制作が決まった映画がある。あろう事か、汚染獣の食欲を刺激するという特異体質を持った、フランクを主人公にしたという脅威の戦意高揚映画だった。
 それは、まあ、仕方が無い。
 あの当時のツェルニはまさに崖っぷちを延々と歩き続けているような物だった。
 何かの間違いがあれば、即座に全滅という事を常に覚悟し続ける極限の日々だった。
 その極限の精神に、ほんの僅かでも余裕を与える事が出来るのだったら、それに越した事はないという思いも確かに有った。
 実際には、断る事が出来なかっただけなのだが、それを気にしてしまったら人生やっていられないので、完璧に流す事とする。

「はあ」

 再び溜息をつく。
 映画の出来が悪かったというわけではない。
 ツェルニに居るイケメンを総動員した感のある、豪華すぎる出演者と切迫した空気を体験した演出家が力の限りを注ぎ込んだ、ある意味渾身の一撃だったと言って良いだろう。
 そう。渾身の一撃が強力すぎたのだ。
 フランクの精神を粉砕し、背中を丸めるくらいに、その出来映えは恐ろしく素晴らしかった。
 どんな苦境に陥ろうと諦める事を知らず、どれほど強大な敵を前にしても怯む事を知らず、仲間を助けつつ都市を守り通す姿は感動を覚えずにはいられなかった。
 フランク以外の観客は、武芸者を含めて涙を流さない物は居なかったと言っても良いくらいだ。
 主役のモデルが自分でなかったのならば、フランクだって感動の涙を流したかも知れない。
 だが、だがである。

「俺は平凡な武芸者なんだがなぁ」

 映画の中の自分と、現実の自分の、あまりの落差に背筋は曲がり、心はねじ切れてしまった。
 もはや戦う事など出来ないかも知れない。
 そう。レイフォンのような化け物と違って、フランクは一般的な武芸者でしかない。
 特に心はごく平凡な武芸者でしかない。

「いや」

 聞くところによると、レイフォンも一般的な武芸者であるらしい。
 取り敢えず、心は一般的な武芸者の範疇に入るらしい。
 ならば、映画の中の自分と比べるべきはもっと高燥な魂を持った誰かと言う事になる。
 そこでふと思い出す人物がいた。
 第十七小隊長のニーナだ。

「・・・・・・・」

 実を言うと、少し離れた席に座って映画を観賞していた。
 だが、その瞳は観賞などと言う平和的な行動をしている人物のそれではなかった。
 あえて言うならば、人生の目的を見いだした人物の、いや。自分が向かうべき目的地を見いだした迷い人のそれだった。
 レイフォンのような、武芸の能力だけを見れば規格外の人物を部下にしている以上、彼女にかかる精神的な負担は恐ろしい物があるだろうと想像できる。
 ニーナ自身は優秀な武芸者でしかない以上、どうあっても何らかの重圧を受け続けているに違いない。
 そんな潰されないために必死になっているニーナが、あの映画を見てしまったらどうなるか?
 自己犠牲の上に都市を守ると言い出すかも知れないが、映画の主人公は必死に戦い、そして都市を守り抜き自分も生き抜いた。
 自己犠牲を尊いと主張する内容ではなかった事だし、大勢を引っ張るというある意味指揮官として最も重要な要素も含まれていた。
 だから、ニーナは考えるかも知れない。
 指揮官とは、あのようにあるべきだと。

「まあ、俺には関係ないかな?」

 あの主人公は、おそらくニーナの理想像として定着してしまう事だろう。
 そして、今のニーナと理想の間にある通り道には、武芸長という職業が存在している。
 つまり、何年か後の武芸長はニーナと言う事になるのだが、濃すぎるキャラに引っ張られる、平凡な部下の悲哀は既にあちこちに散在している。
 第五小隊の副隊長とか、第十四小隊の隊長とか。
 最終的には、ツェルニ全武芸者の悲哀として長く学園の歴史に残る事となるだろう。
 フランクには関係ないので完璧に他人事である。
 なぜならば、その頃には卒業しているからである。
 いや。

「・・・・・・・・・・・・。留年だけは絶対に避けよう」

 この決意を胸に、残りの学園生活を無難に過ごす事がフランクの至上命題となったのだった。



[14064] 第十話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1ef6c788
Date: 2014/05/07 21:52


 話題の映画を見てきたというニーナは、少しだけ考え込んでいるようだった。
 シャーニッドも見に行ったのだが、エンターテイメントとしては割と良く出来ていると表現できるが、残念な事にあれを実際にやられたらかなりうっとうしいというのが本音だ。
 だが、ニーナはおそらく違う。
 暫く前のニーナにとって、あの映画の主人公こそが理想だった事を考えると、指揮官として成長しつつあるこの時期にあれを見た事はかなり拙かったのかも知れない。
 ここでまた元に戻ってしまったら、今度こそカリアンやウォリアスから見放され、レイフォンは何処か他の小隊に持って行かれてしまう事だろう。
 もちろん、おまけとしてフェリもついて。ダルシェナにとって第十七小隊にいる理由が希薄な以上とどまることの方が考えられない。
 だとすると、シャーニッドも身の振り方を考えるべきだろう。
 このままニーナについて色々と画策するか、それとも諦めてしまうか。

「・・・・。むりだわな」

 現状を考えると、見捨てるという選択肢は殆ど取れない。
 第十小隊の事もあるし、拾ってくれた恩もあるが、何よりもシャーニッド自身がニーナの事を好きだというのが大きい。
 異性としてはとても付き合う気にはなれないが、それでも指揮官として、あるいは上司としてならば実に魅力的に見えている。
 もしかしたら錯覚かも知れないが、若い時の恋などと言うのは殆どが錯覚なのだから、それでも良いのだろうとも思う。
 何時もの訓練場にいるのはニーナとシャーニッドの二人だけ。
 そろそろダルシェナかレイフォンが来るはずだが、フェリは何時も通りにかなり遅刻してくるだろう。
 遅刻しないとならないと頑なに信じている節があるフェリだから、よほどの事がないと時間通りには来ない。
 何時ぞやの錬金鋼絡みの時のような、恐ろしい事態にならなければきっとフェリは来ない。

「ああ。ニーナ」
「なんだシャーニッド?」

 もう少しだけ時間が有ると思ったので、話をする事とした。
 シャーニッドも、あの映画を見た事を伝えて、そこから単刀直入に切り込む。

「まさかとは思うんだが、あの主人公を見習おうとか思ってねえよな?」
「・・・。実を言うと、あの主人公は羨ましいと思っているんだ」
「おい?」

 想像の中で最も酷い展開になるかと思い身構えたが、ニーナの手が上がり先走るなと押しとどめる。
 その仕草に、迷いを見てしまったシャーニッドは、返って不安になったが、話の続きがあるのだったらそれを聞いてからでも遅くないと、そう結論付けて先を促した。

「羨ましいのだ。特異体質があったとは言え、それに振り回されることなく使いこなし、多くの仲間と信頼関係を築いて脅威に立ち向かう。私に出来ない事だらけなのでとても羨ましくてな」
「成る程」
「今のままでは駄目だが、何時かあそこへ辿り着きたいとは思っている。理想と言うよりも目標だろうか」

 考えつつ喋るニーナを見て、シャーニッド自身がかなり驚いてしまっていた。
 今年度が始まった頃だったら、間違いなくあの主人公のようになりたいと無我夢中で突っ走ってしまったはずのイノシシは、既にここにはいないのだ。
 理想と現実をきちんと区別して、目標に向かって進む事が出来るニーナならば、何時かはあそこにたどり着けるかも知れない。
 まあ、そうなった時に指揮下にいたいとは思わないが、部下から信頼されているという事実は、上司にとって極めて得がたい財産であると言う事もおおよそ理解しているつもりだ。
 遠い先の事は置いておくとしても、現在の第十七小隊で考えるならば、今のニーナは良質な指揮官だと言えるだろう。
 あるいは、良質な指揮官になろうとしている。
 少しだけ肩の荷が下りた事を実感している内に、ダルシェナとレイフォンがやってきた。
 そして予想通り、フェリはきちんと遅刻してきたのだった。
 
 
 
 
 
 おそらく、人類最強の一角である、グレンダンの天剣授受者、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスは青い空を見上げつつ悩んでいた。
 何故勝てないのかと。
 既に五回挑んでいるが、全てが完膚無きまでの完敗であり、ある意味アルシェイラ以上の強敵である事は認める。
 サヴァリスが出会った中で最強だと、そう表現しても何らおかしくはない。
 そこまでは問題無いとしよう。
 強い奴と戦いたいという己の欲求を満たすために生きているのだから、最強の敵と戦う事に何ら不満はない。
 不満はないが、不審は存在している。

「何故、彼女達は平気なんだろうね?」

 汚染物質のせいで霞がかかったような青空を眺めつつ、何時の間にか慣れてしまったネットの感触を背中に感じつつ、サヴァリスは独りごちる。
 アルシェイラがお気に入りらしいリーリンと、レイフォンの現地妻であるメイシェンは、何度もあの恐るべき敵に挑みかかり、幾度となく勝利を収めたというのに、何故自分は勝てないのだろうかと不審に思う。
 そう。ツェルニが誇る絶叫マシーンという代物に挑み続け、敗北を重ねているのだ。
 幾度となく挑み続けているのにはきちんとした理由がある。
 全く恐くなかったとアルシェイラに報告するために、勝つまで挑み続けるというあまり生産的ではない事をやっているのだ。
 その理由とは、もちろんレイフォンと殺し合うため。
 そのためにツェルニに来たというのに、何故絶叫マシーンごときに勝つ事が出来ないのだろうかと疑問に思う。
 これでは、レイフォンと殺し合う事が出来ないではないか。

「おや?」

 ここで疑問を覚える。
 アルシェイラが見ていないのだから、恐くなかったと報告だけすればよいのではないかと。
 とても魅力的な疑問だ。
 だが、その希望的な未来予想図を破棄する。

「駄目ですかねぇ」

 絶叫マシーンに敗北した姿はリーリンにも目撃されている。おまけに雑誌の取材とやらで写真まで撮られてしまっている。
 更に言えば、アルシェイラの事だから、間違いなく確認行動を取るだろう。
 嘘がばれてしまったら、どんな罰が待っているか分からない。
 アルシェイラに殺されるというのならばまだしも、飼い殺しにされたのではたまらない。
 となれば、選択肢はただの二つ。
 レイフォンを諦めるか、それとも勝利するか。

「これは少し考え物ですねぇ」

 レイフォンと殺し合いたいのは間違いないが、このまま挑み続けても絶叫マシーンに勝てる見込みはない。
 ならばどうすればよいだろう?
 目的は心ゆくまで殺し合う事。
 レイフォンはその相手でしかない。
 しかも、半殺しまでだと制限がついている。
 ならば、とここで発想を転換してみる。
 死力を尽くした戦いで死ぬ事こそが喜びであるのならば、何もレイフォンにこだわる必要はないのではないだろうか?

「そうだ。ナルキで埋めれば良いんだ」

 愛しいナルキと殺し合い、そしてレイフォンと殺し合えない寂しさを埋めればいいのだと思い付いた。
 未だに発展途上であるナルキの強さだが、何度か死にかければ飛躍的に技量も戦うための心の強さも上がる事だろう。
 勝ち目のない戦いに挑み続けるよりは遙かに生産的である。
 この結論に達したサヴァリスは、ようやっと動くようになった身体を引きずり、愛しい愛しい、ナルキの元へと参上するのだった。
 
 
 
 
 
 レイフォン曰く、剄脈拡張に見舞われたナルキだったが、朝起きたらだいぶ体調が良くなっていたために学校に行き、そして帰り際に突如として悪寒に襲われた。
 決して有ってはならない程の恐るべき悪寒を覚えたナルキは、隣を歩くミィフィが一歩前へと進んでしまった事にさえ一瞬以上気が付かなかった。
 ちなみにメイシェンとレイフォンは何処かに買い物に行くとかで別行動だ。どこに何を買いに行くかとか、いつ帰るかとかは聞いてはいけない。
 今日中に帰ってくるのかさえ怪しいので気にしてはいけない。

「どしたのナッキ?」

 あまりの突然の停止を不審に思ったのだろう、ミィフィが振り返りつつ問いただしてくるが冷静に対応する事などナルキには出来はしない。
 何よりも、背中に感じる恐るべき気配と呼ぶことさえ出来ない空気が、冷静さを奪っているのだ。

「い、いやな。何かとても恐るべき物に後ろを取られたような気がしているんだが、気のせいだよな」

 後ろを振り返ることなく訪ねる。
 答えは分かりきっている。
 これが初めてというわけではないし、恐るべき事ではあるのだが、最後というわけでもないだろう。
 そして、ナルキの予測はミィフィによって肯定される事となる。

「それってもしかして、銀髪を首の後ろで適当にくくった、にやけた顔のお兄さんじゃない?」
「だよなぁ」

 それでも、間違っていてくれと願いつつゆっくりと振り向く。
 そしてそこには、想像通りの人物が想像通りの笑顔で佇んでいた。

「やあナルキ。少し僕と殺し合おうよ」
「・・・・・。レイフォンとやっていて下さいよ」
「うん? 事情があってね。レイフォンとは殺し合えないんだよ」
「それは知っていますけれどね」

 突如サヴァリスが後ろに現れ殺し合いをせがんでくる事は珍しくない。
 レイフォンと戦うための条件が絶叫マシーンである事もしっかりと認識している。
 今日も挑み、返り討ちにあったのだろう事は容易に想像が出来る。
 だが、何か何時もと違う印象を受けるのも事実だ。
 それは恐らく、サヴァリスがナルキを見る視線が何時もよりも熱っぽいからだろう。
 何時もよりも熱を帯びた視線が、とても恐ろしい。

「諦めたんだよ」
「・・・・・・・・・・・・。何をでしょうか?」
「絶叫マシーンに勝つ事を」
「・・・・・・・・・・・・・。では?」
「これからはナルキ一筋だよ。大丈夫。僕を殺せるくらいに強くなるまできちんと面倒を見てあげるから、僕と結婚しよう」
「お断りです」

 男性から求婚されるというのは、ある意味乙女にとってとても嬉しい事のはずだ。
 例えばだが、メイシェンがレイフォンから求婚されたのならば、それはもう心臓が止まってしまうのでないかと思う程に喜ぶはずだ。
 いや。知り合って早々に求婚していたが、あれはノーカウントだ。
 だが、ナルキが断ったところで、目の前の生ける混沌、狂える戦闘愛好家は止まる事をしないだろう。
 そしてもう一人。

「にひひひひひ」

 暴走する混沌、呼吸する揉め事製造装置は既になにやらメモを取っている。
 廃貴族に取り憑かれマイアスへと行ってからこちら、ナルキの人生は波乱の連続であるように思えてならない。
 溜息をついたところで何も変わらない事は十分以上に理解しているが、それでもつかずにはいられないのだった。
 だが、今日に限ってはサヴァリスを遠ざける口実が存在しているのだ。

「私、剄脈拡張が起こっているらしくて、暫く使うなってレイフォンに言われているんですよ」
「うん?」
「あ」

 これで、今日は安心して過ごすことが出来ると、そう思った瞬間がナルキにもあった。
 そう。一瞬前まではそう思って行動していたのだ。
 だが違った。
 いや。この口実では安心や安全は確保できないし、間違いなく危険の度合いが増すのは火を見るよりも明らかだったのだ。

「ああナルキ。僕を殺すために剄脈を拡張してくれているんだね。こんなに嬉しいことはないよ」
「ま、まって」
「そうだね。十分に安定するまでは使わない方が良いだろうと僕も思うから、しばらくは愛し合えないけど何とか希望という火を灯して耐えてみせるよ」
「ま・」
「ああ。なんて良い日なんだろう。諦めるというのも悪くはないのかも知れないね」

 言いたいことだけ言ってしまうと、そのまま姿がかき消えた。
 何処かでナルキと殺し合うその日のために、技量が落ちないように懸命の鍛錬に打ち込むのだろう。
 とてつもない迷惑な話なのだが、本人にとっては道理にかなった最善の行動なのだろう。
 再び溜息をついていると、肩を叩かれた。

「きっと良いことあるよ」
「・・。だと良いな」

 とても楽しそうな笑顔と共に言われたのだが、ナルキとしては全く共感できない。
 それどころか、何とかしてもっと楽しい展開にしようと努力しているようにしか見えないミィフィを伴い、ナルキは家へと帰るのだった。
 
 
 
 
 
 マイアスとの武芸大会が終わって一月以上経ったこの日、今年二戦目の学園都市がツェルニの前へと現れた。
 大きめの山を回り込んだ次の瞬間に現れたために、ほんの僅かな混乱もあったが、今年のツェルニは緊急事態や異常事態に慣れてしまっていたために、殆どの混乱はほどなく収束した。
 いや。実際問題は一つ以外は全て収束したと、そう表現できる。

「はあはあはあはあはあ」
「なんと言うことだろうねナルキ? 僕達の愛を邪魔するなんて万死に値すると思わないかい?」
「お、思いませんからぁ」

 剄脈拡張が収まり安定したと言う事を確信したサヴァリスが、とても良い笑顔でナルキをデートに誘ったのは放課後になってからだったと記憶している。
 レイフォンも巻き込んで、外縁部で、三人で愛を語らい、そして身も心も重ねるという熱い体験をした。
 などと言うことは断じてあり得ない。
 レイフォンを何とか巻き込んで、死に物狂いの鍛錬にならない程度の、ゆるい殺し合いは武芸大会が間近であるために中断された。
 当然のこと、サヴァリスはとてつもなく機嫌が悪いようで、近付いて来る都市を恐ろしく剣呑な視線で見詰めている。
 睨むという表現の方が的確かも知れないが、どう修正してもそれは、どうやってなぶり殺しにしようかと策を練っている、いじめっ子の視線でしかなかった。
 朝焼けの中に佇むサヴァリスの姿は、何となく格好良いような気がしなくはないが、間違いなく気のせいである。
 呼吸を乱すこともなく隣にやってきたレイフォンの方が、遙かに格好良いように見えてもおかしくないのに、頼りなくぼんやりしていると認識しているから、間違いなく気のせいである。
 レイフォンが、他のことに気を取られているというのでなければ、気のせいである。

「今なら、突如の機関部爆発で戦争を回避することが出来るかも知れないね、レイフォン?」
「無理だと思いますよ。と言うか、生徒会長が貴男を訴えてツェルニの無実を証明しようとすると思います」
「ふむ。それは有りそうだね。カリアン君だっけ? 彼はなかなか策士みたいだからね」

 サヴァリスに策士と評価されたカリアンが凄いのか、そうでないのかはナルキには分からない。
 だが、見えていた都市が一瞬で消えて無くなるという、非現実的な光景を目撃しなくて済みそうなことだけは分かった。
 しかし、ナルキの希望的観測は脆くも打ち砕かれる。レイフォンによって。

「今夜、メイシェンと映画を見に行くって話になっていたんだけれど」
「それまでには終わるから!! ここで話をややこしくしないでくれ!!」

 咄嗟にサヴァリスの方を見ると、とてもにこやかな笑顔と共にウインクなどしてくれた。やる気満々だ。
 最悪の場合、メイシェンとデーとしたいがために相手の都市を滅ぼすという、あるいは、ナルキと愛し合いたいがために機関部を破壊するという、あまりにも身勝手な動機の虐殺が起こりかねないことが分かった。
 いや。この予測に現実味がないわけではない。
 ヨルテムが誇る変態集団である交差騎士団、その長を務める人物は、結婚記念日を家族で過ごすために勝手に出撃して汚染獣を瞬殺したという経歴の持ち主なのだ。
 レイフォンがヨルテムに永住するつもりならば、あってもおかしくない展開である。
 サヴァリスは言うまでもない。
 だが、流石にこれは冗談だろうとそう結論付ける。
 その証拠に、軽く肩をすくめたレイフォンの視線は、何時も通りの穏やかさを湛えていた。
 あえて言えば、サヴァリスはやる気満々だ。

「取り敢えず、昼頃から始まるはずだから、何か食べて少し休んでおこう。僕は何もしないと思うけれどナルキは多分仕事があるから」
「そうだな。ウッチン達が悪逆の限りを尽くしているから、レイとんは何もしなくても良いんだよな」

 それこそがレイフォンに報いることだと入学式直後にウォリアスが言って居た。その意見に間違いはないとナルキも思っている。
 ならば、レイフォンはメイシェンとの映画のことでも考えていれば良いし、ナルキは全力で目の前の戦いをしのげばいい。

「ああ。今からでもツェルニに入学できないかな? そうしたら正々堂々と弱い者虐めが出来るし時間の節約も出来るし、戦争にも勝てるし、良いこと尽くめだと思うんだけれど」
「相手の都市のことは全く考えていませんね?」
「うん? 当然じゃないか」

 いざとなったら、サヴァリスを止めるためにレイフォンが動くことになるだろう。
 そうなったら、何処かの誰かが望む通りの死力を尽くした殺し合いに発展するのは間違いない。
 そこまで考えての言動なのだと言う事に気が付いた。
 懇願の視線でレイフォンを見る。とても嫌そうな表情をしているところを見ると、やはりサヴァリスと戦いたくはないのだろう事が分かる。
 だが、それでも事態を何とかしようと頑張ってくれた。

「そもそも、学園都市には年齢制限がありますから、サヴァリスさんは無理ですよ」
「うん? 少し老けているだけだから問題無いと思うんだよ。僕はこれでも二十歳なんだからね」
「弟さんはどうするんですか!!」
「ああ。そうか。ゴルを殺して代わりに僕が戦えばいいのか」
「止めて下さい!!」

 この人はどこまで本気か分からない。
 どこまでも本気かも知れないし、全て冗談かも知れない。
 やはり天剣授受者は常人ではないのだと、その事だけは嫌に成る程分かった。
 
 
 
 
 
 メイシェンとの映画を延期するという苦痛の展開を乗り越え、溜息と共にレイフォンが集合場所へ到着すると、何故か青い顔をしたウォリアスが横になっているという異常事態と遭遇してしまった。
 元気溌剌と言ったことはないが、常に平常運転のウォリアスのこんな姿を見ることは初めてなので、少々驚愕して後ずさってしまった。

「ど、どうしたんだ?」
「レイフォンか」

 やや力が抜けた何時もの声ではなく、とことん力尽きていると言う事が分かる音の連なりが口から零れてレイフォンの耳に届いた。
 これは、想像を絶する異常事態が発生したに違いないと用心しつつ話を続ける。

「今回の相手、アルフィスだと分かってな」
「アルフィスって学園都市だったんだ」
「ああ。それで、少々猛り狂ってしまっている自分を発見してしまってな」
「猛り狂うの? ウォリアスが?」
「僕だって人間なんだから、そう言うことだってあるさ」

 食べ物以外でウォリアスが平常心を失うなどとは思っても見なかったので、かなり驚いたが、確かに人間なんだから色々あるに違いないとも思い直す。
 レイフォンにだって色々あるのだから、当然でもある。

「で、平常心を取り戻そうとしている最中に、イージェの奇襲を受けてな」
「・・・。ああ」

 ヨルテムに到着したその日の内に、トマスに煙草を全力で吸わされて昏倒しかけた記憶が蘇る。いや。むしろノックアウトされてしまっていた。
 レイフォンも、こんな姿を曝していたのだろうと言う事は、容易に想像できる。
 不意を突かれて、思わず言われるがままに煙草を吸ってしまったのだという事が分かる。
 とても、親近感が湧いてくる情景だった。

「ニコチン中毒は、暫く横になっていると治るよ」
「活剄を走らせているんだがね、僕の剄脈じゃ暫くかかる」
「だよねぇ」

 これでツェルニは大丈夫なのだろうかとほんの少し不安になったが、おそらく問題無い。
 なぜならば、ウォリアスは戦いが始まった時には既に仕事が終わっている人だからだ。
 レイフォンの出番は、今回もないかも知れないが、ツェルニが負けるなどと言うことは考えなくても良いだろう事も分かる。

「今回の奴は、精鋭で中央突破をしてくるはずだから、もしかしたらレイフォンに頼ることになるかも知れないから、心の用意だけはしておいてね」
「へえ。強いの?」
「多分強い。ぉぇ」

 ニコチン中毒が限界に達したのか、横を向いて荒い息を吐くウォリアスにこれ以上負担をかけてはいけない。
 その結論に達したレイフォンは、身も心も重いまま遠くに見つけたニーナの元へと歩くのだった。
 そう。身も心も重いのだ。
 アルフィスを徹底的な滅びから救い出すためにサヴァリスを止めるために、レイフォンがその身を犠牲にしたのだ。
 そう。メイシェンとの映画を延期して今夜サヴァリスと殺し合わない程度の鍛錬をすると。
 こうでもしないと、本格的に武芸退会に強制参加してきそうだったから、仕方が無いのだ。
 だからと言って、完全に諦めがつくわけではない。
 武芸大会で活躍することはないが、相手の都市のために果たす役割は、おそらくアルフィス全武芸者を凌駕してしまうことだろう。
 見も知らない他人のために身も心もボロボロにすると言うのは、レイフォンの性格的にはとても酷い重労働なのだ。
 やらなければならない事は分かっているが、それでも、身も心も重いままニーナの元へと辿り着いてしまった。
 念のために戦う準備だけはしておくが、出来れば武芸大会本番くらいは何も考えずに昼寝をして過ごしたい。
 そう願いながら。
 



[14064] 第十話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1ef6c788
Date: 2014/05/14 12:50


 それは、ある意味異常な光景だった。
 本来ならば、カリアンとのやりとりをするのは、アルフィスの生徒会長であるはずだったが、何故か武芸長という男性が応対の全てを取り仕切った。
 それは越権行為だとニーナは思うのだが、もしかしたら、アルフィスでは武芸長が武芸大会を仕切ることになっているのかも知れないと思い、何も言わずに一通りのやりとりが終わるのを見守った。
 濃い茶色の髪と鋭い目つきをした武芸長は、確かにやり手であろう事が分かったし、生徒会長の陰の方が薄かったのは認めるが、違和感をぬぐうことは出来なかった。
 試合開始は正午と決まり、各々がそれぞれの準備へと取りかかる。
 マイアス戦では、打撃部隊が休息を取るための時間を稼ぐという役割を存分に果たしたニーナだが、今回は試合開始直後に突っ込んでくると予測される部隊を迎撃するという任務を負っている。
 ここで崩れてしまえば、戦いそのものに悪影響を与えかねない重要な役だと念を押されている。ニコチン中毒で身動きできないウォリアスからそう聞かされるという、少々反応に困る展開だったが、それでもやるべき事がはっきりと分かっている以上、全力を尽くすのがニーナだ。
 指揮下に入ることになった部隊を見渡す。
 見知った顔ぶれと言えるのは、ダルシェナとナルキ、そして何故か第十四小隊の面々だ。
 とても良い笑顔のシンと目が合ってしまった。
 別段プレッシャーを与えるつもりはないのだろうが、この自分を使いこなして見せろと無言の圧力をかけられているような気がしてくる。
 何しろ、一年程前まではニーナこそがシンの指揮下に入っていたのだ。
 逆転しているというと聞こえは良いが、マイアス戦での暴れ方を考えれば、出来るだけ単独行動をさせたくないという上層部の考えには共感できる。
 ウォリアスは違う見解のようだったが、見ていて危機感を覚える暴れ方をされるのはとても胃に悪いのだろう事は理解しているらしい。
 ニーナだって、シンの戦い方を肯定することにはかなりの苦痛を感じているのだ。
 そこまで分かっているからこそ、シンがとてもにこやかにニーナを見ているのだとしたら、それはつまり、首輪をはめられる物ならはめてみろと、そう挑発していることになる。
 恐るべき重圧に背骨がきしみを上げそうだが、それを精神力で何とか跳ね返さなければならない。

「だが」

 ニーナがやることになった作戦行動は、更なる負担を強いる物だった。
 それだけ上層部に期待されていると思えばやる気も出てくるが、ニーナにとって恐ろしく難しい課題であることも事実だ。
 だが、やらなければならない。
 何よりも、シンを暴走させないために。
 ニーナが決意を固めた瞬間、大会を開始するサイレンが鳴り響いたのだった。
 
 
 
 
 
 派手なサイレンの音と共に、接岸部に待機していた双方の武芸者が雄叫びを上げつつ激突する姿を眺めつつ、サヴァリスはサンドイッチをつまみつつツェルニの旗を背に日向ぼっこと洒落込んでいた。
 別段、食べ物に興味はないのだが、ニコチン中毒だという細目の武芸者に強引に持たされたのだ。
 ツェルニに来てから仕入れた情報が正しいのならば、細目の武芸者こそがレイフォンを使い、僅か一日で二期の老性体を始末した参謀と言う事になる。
 知略を尽くした戦いという物がこの世に存在していることは理解しているが、サヴァリス自身はそれに価値を見いだしてはいない。
 いや。正確に表現するのならば、価値を見いだしていなかったとそう表現することになるだろう。

「ふむ」

 薄く切ってトーストしたパンに、卵が挟まったサンドイッチを噛みしめつつ眼下で行われている戦いを興味津々と観察する。
 双方前衛が力任せに激突しているように見えるが、それが完全に出来レースであることが分かる。
 ツェルニ側が手を抜いているのだ。
 その証拠に、開始されてからこちら、その場に留まることを最大の目的としているように積極的攻勢には出ていない。
 これで、力不足で出られないというのだったら話は分かるのだが、明らかに、何人かは実力を全く発揮せずにその場に留まり続けている。
 アルフィス側がこの事実を理解しているかどうかは別だが、ツェルニ側は明らかに次の一手に誘い込むためにその場に留まっている。

「これはこれで楽しそうですね」

 もちろん、老性体との戦いを例に出すまでもなく、サヴァリスにとって技量と剄量と精神力を全て注ぎ込んだ、死合こそが最上ではあるのだが、そこに知恵という物が加わったらどうなるのかを見てみたい。
 そしてその答えの一端を示しているのが、あの細目の武芸者だ。
 いや。彼が所属している研究室だ。
 条件付きならばレイフォンにさえ勝つことが出来るという、ある意味脅威の能力を持っているらしい。
 実際にその場に遭遇したことはないが、ここはツェルニだ。
 サヴァリスを連戦連敗に追い込んだ恐るべき乗り物が存在している以上、何が有っても何ら不思議ではない。

「僕も留学すれば良かったですかね?」

 無理なことは分かっているが、世界はこうも驚くべき刺激に満ちあふれているのだったら、少しの無理をしてでもグレンダンから出るべきだったかも知れないと、そう考える。
 だが、それでも分かっているのだ。
 グレンダンと同じだけツェルニが異常であると言う事は。
 そうでなければ、レイフォンがいるはずはないし、天剣授受者を叩きのめす乗り物が存在してるわけがないのだ。
 ならばやはり、ツェルニに留学すべきだったのだとその結論に達する。
 ほんの少しだけ不運を呪いつつ、五個目のサンドイッチを口に放り込む。
 そのサヴァリスが見ている先では、ツェルニ第二陣がゆっくりと慎重に左右に分かれて行く光景が広がっていた。
 突出した敵部隊を左右から挟んで殲滅するのかとも思ったが、第一陣がゆっくりと後退して行くところを見ると、もう少し凝った嗜好で戦ってくれるようだと見当を付ける。
 ニコチン中毒の武芸者の頭から出てきた戦場が、今、サヴァリスの前に出現しようとしている。
 
 
 
 
 
 戦いつつ後退してアルフィス第一陣を懐深く引き寄せる。
 後退しつつ戦線を維持することがこれほど大変だとは思わなかったが、それでもニーナは出来うる限り的確と思われる指示を出しつつ、指揮下に置かれた部隊の隅々に視線を飛ばす。
 本来ならば、最前線で戦いたいところだが、指揮官は指示を出す職業だと言うことを色々な人達から教わった。
 汚染獣戦でのヴァンゼの的確な指揮に比べれば、遙かに見劣りするだろうが、それでもなんとか後退しつつ戦い続けられている。
 気が付けば、ツェルニ第二陣がニーナが指揮する部隊の両脇に出現していた。
 その部隊と連携しつつアルフィス第一陣の進撃を食い止める。
 この場で勝てない程強いわけではない。
 いや。第一陣同士が正面から戦えば、明らかにツェルニが勝っていた程度の強さだ。
 だが、それとこれは話が違うのだ。
 今やるべき事は一武芸者としての戦いを極めることではなく、指揮官としての経験を積むこと。
 そう自分に言い聞かせたニーナは、前へと出ようとする自分を押さえつけてほころびかけた場所へとシンの第十四小隊を送り込み傷口を塞ぐ。

「もう少しだ!! もう少しで我々は勝つぞ!!」

 指示を出すついでに声を張り上げ、実力を発揮できないで苛立っているらしい部下達を押さえつける。
 ここで突進してしまったら、全体の計画が崩れて負けることだってあり得る。
 それが分かっているからこそ、ニーナ自身も自分を押さえつけて戦線を維持することだけに全力を注ぐ。
 目の前の戦いに勝つことだけならば、何の問題も無くやれる。
 だが、その勝利が武芸大会の勝利に結びつくかは全く不透明だ。
 だからこそニーナは現状維持に必死になる。
 そしてその瞬間は来た。

「今だ!!」

 予め伝えられていた作戦構想は簡単だ。
 アルフィス側が突進してきたら、出来る限りツェルニ側が戦力を集中してこれを押しとどめる。
 突進してきた部隊が疲れたら、次の部隊と入れ替わるための一瞬の隙を突き、攻撃力を集中させて出来る限り削る。
 接岸部での戦闘はこれを基本とする。
 もう一つ、状況が変わった場合の作戦も用意されているが、それを何時発動するかはニーナには分からない。
 アルフィス側次第だからだ。
 ひたすら忍耐を続けるニーナの指揮が功を奏したのか、アルフィス側は大きな被害を出しつつ部隊を後退させる事に成功する。
 力任せに押し返すよりも、ツェルニ側の消耗が少ないことを主眼に置いた戦術は、最初の一撃と言う事もあり予想以上の成果を上げているようだ。
 だが、二度目以降は効果が薄くなるだろうし、何度もやっていれば確実に対抗手段を取られる。
 その時、力任せの攻撃で相手を撃破する。
 そう。アルフィスの戦力を削るだけではなく、ツェルニの武芸者にストレスを与えて、いざという時の攻撃力を増そうという作戦だ。
 そして、それに対応するためにアルフィスが行動を変化させた時こそ、次の一手のために部隊を動かさなければならない。
 人格破綻者ではないにせよ、性格に致命的な問題が有るウォリアスが考えただけ有り、双方にとって最も嫌な作戦であり、部隊を指揮する人間に途方もない負担をかける。
 だが、アルフィスの戦い方ならば有効であり、決まった時の効果は計り知れない。
 だからこそニーナは、深追いしないように指揮下の部隊にブレーキをかける。
 ツェルニが勝利するその瞬間まで、全く気の抜けない戦いはまだ続く。
 
 
 
 
 
 見ている前で、面白いようにツェルニ側が有利に立っていることを認識しつつも、サヴァリスは少しだけ退屈を覚えてきていた。
 アルフィスがもう少し嗜好を凝らした戦いをすると思っていたのだが、今のところはニコチン中毒の武芸者の、掌の上で踊らされているだけである。
 開始から一時間程が経過した現在に至るまで、戦場はアルフィスが押し切れずに後退する度に被害を蓄積させて行くという、最初と同じ展開を延々と繰り返しているだけなのだ。

「ふむ。これはつまらないですね」

 頭上にあるツェルニの旗を見上げる。
 これをちょっと引っこ抜いたら面白いことになるのではないだろうかと、ほんの少しだけ考える。
 考えるだけでやらないが、そうでもしていないと退屈でレイフォンかナルキに襲いかかりそうなのだ。
 だが、そんなサヴァリスを喜ばせるためではないだろうが、アルフィス側の動きが変わった。
 消耗した部隊を下げつつ、今までに無い規模の戦力を接岸部からツェルニ側へと送り出す。
 その中心にいるのは、他の雑魚とは明らかに違う、おそらくアルフィスの最精鋭達。
 この戦力をぶつけてツェルニのこしゃくな防御を打ち破ろうという腹なのは間違いないが、これは恐らく失敗するとサヴァリスは確信していた。
 なぜならば、ツェルニ武芸者は規則正しく乱れることなく迎撃態勢を整えているからだ。
 明らかにアルフィスの戦術を読み切った上で全てを計画している。

「ふむ? アルフィスが莫迦なのか、それともあのニコチン中毒武芸者が凄すぎるのか、どちらでしょうね?」

 サヴァリスの見ている間に、双鉄鞭を駆使して防御の要となっていた、確かレイフォンの部隊の隊長を勤めている武芸者が、視線で指示を飛ばし、その指示に従った部隊がゆっくりと後退しつつ左右へと別れる。
 左右から挟み撃ちにするつもりなのかと思ったが、そんな安直な戦い方はしないだろうとも思う。
 それ以上に問題なのは、アルフィス側の最精鋭部隊が後方の犠牲を全く気にせずに、前へと突き進んでいることだ。
 孤立しても問題無い強さならばこの戦い方は十分に有効だろうが、残念なことにそこまで突出した実力者を発見することは出来ていない。
 それはつまり、最精鋭部隊が適地の奥深くで孤立し、そして、ツェルニ側の最精鋭部隊の集中攻撃で消滅すると言う事。
 そう。目の前で行われている戦いには、決定的な違いがある。
 アルフィス側は、接岸部を迂回してツェルニへと侵入している部隊があるが、ツェルニにはそんな小細工をしている部隊は存在していない。
 ツェルニは防御することを主眼に置いた布陣で、全武芸者が自都市内に配置されているのだ。
 戦力差は明らか。
 お互いの置かれた状況から戦力差を的確に把握することが出来ていないのか、それとも、自軍の戦力を過大評価しているのか。
 判断は出来ないが、それでもこの戦いの行方は見えてしまった。
 少しだけ残念だ。
 
 
 
 
 
 散々苦労して、アルフィスの最精鋭部隊とその他の連中を分断することに成功したニーナは、ここで大きく息をつくことが出来た。

「ああ。押さえるのがこれほど大変だとは思いもよらなかった」

 全てはアルフィスの最精鋭部隊をツェルニ中央部へと誘導するため。
 そこに待ち構えているヴァンゼとゴルネオに指揮された、文字通りツェルニ最強部隊とつぶし合わせるために、散々苦労して何度も暴発しそうになる味方を、心血を注いで止め続けた。
 だが、もうそんな気苦労は要らない。

「良く耐えた!! もはや我々の前に敵など存在しない!! 存分に蹂躙しろ!!」

 そのニーナの声を聞いた指揮下の部隊は、その全ての、武芸者の目の色が変わった。
 もはや、弱いふりをして前線を支えるだけというつまらない仕事から解放されたのだと。
 この後は、全力で相手を蹴散らしてアルフィスに勝つことが出来るのだと。
 鬨の声を上げつつ、今までに溜まり続けた鬱憤を晴らすかのように、一時間を超える戦闘の疲れなど存在しないかのように、目の前の敵に向かって突っ込んで行く連中の先頭には、当然のこと猛禽のシンとその黒い三連星が立っていた。
 外力衝剄の変化 点心・連。
 剄を二重に練り続け、一秒の間に五発以上という速い速度で収束した剄弾を撃ち出すという、人間散弾銃と化したシンの攻撃で怯んだところに、黒装束に身を包んだ三人が突撃を行い、まるで机の上のゴミでも片付けるかの様に道を綺麗にして行く様は、相手に同情を覚えてしまう程凄まじい。
 だが、当然のことではあるのだが、こんな攻撃が長続きするはずはない。
 だからこそニーナは、シンの散弾が途切れた瞬間を見計らい雷迅で突っ込む。
 それに続く部下達が第十四小隊の空けた隙間に入り込み、後続部隊が展開するだけの空間を確保する。
 空間の確保が終わったところに、第二陣が入り込み完全に掌握したら第三陣が前線に出てアルフィスを蹴散らし更に前進する。
 この繰り返しで最終的にアルフィスのフラッグを奪取する。
 相手の出方を完全に読んでいたらしいウォリアスの、作戦のお陰とは言え、割と楽な戦いだなと思ったニーナだが、ここで油断して逆転されたのでは全てが水の泡だ。
 気を引き締めて、第二陣が前に出たお陰で休むことが出来た自分の部隊を再編するのだった。
 
 
 
 
 
 目の前に広がる恐るべき光景を認識しつつも、ヴァンゼは全力を尽くしてアルフィス部隊を迎撃し続けていた。
 もちろん、根をふるって敵を薙ぎ払っているわけではない。
 その都度的確と思われる指示を出して部隊を送り込み続けているのだ。
 侵入した敵部隊を迎撃するのはマイアスと同じだが、シンの第十四小隊を接岸部へと回しているために、前回よりも若干戦力が少ないように思える。
 だが、それは勘違いであるはずだ。
 マイアス戦と違い、ツェルニ側は潜入部隊を出していない。
 それはつまり、防衛部隊は前回よりも多いはずだと言うこと。
 であるにもかかわらず、やや押され気味に見えてしまう。
 アルフィスの潜入部隊の実力が高いというのもあるだろうが、ツェルニ側に前回程の必死さが見えないことが最も大きいだろう。
 そう。今回落としたとしてもツェルニが滅びることはない。
 その認識が、全体として僅かではあるのだが、戦力の低下に繋がってしまっているように見える。

「ミンスは敵戦力の排除に成功したか?」
『成功したようですが、小隊の半分が戦闘不能になりました』
「・・・半分か」

 必死さが無いために、同格の相手とやり合った時には結果が顕著に出てしまう。
 マイアス戦ならば、殆ど被害無く勝てたはずだというのに、今回はこの有様である。
 だが、ミンスは最低限の仕事をこなした。
 最低条件が、敵戦力の漸減であったのだから、全体としてみた場合は勝利と言える。
 言えるのだが、素直に評価することは出来ない。

「問題は、こちらと言う事になるか」

 ヴァンゼが陣取るのは、生徒会本塔の正面玄関。
 こここそが、ツェルニの最終防衛ラインだと言える。
 ヴァンゼの後ろにいるのは、手持ちぶさたに佇んでいるレイフォンだけである。
 そう。そのヴァンゼの目の前で恐るべき事態が展開し続けているのだ。
 それはアルフィスが強いと言う事ではない。
 ウォリアスの予測通りの展開となっていることが、とても恐ろしいのだ。
 ウォリアスの言葉を信じるならば、アルフィスには知っている人間がいて、その人物が作戦を立てているはずだから、自分の予測と大きく違うことにはならないだろうと。
 だが、現実はそれどころの話ではなかった。
 予測から殆ど外れることなくアルフィスの最精鋭部隊はツェルニの中央に向かって突き進みつつ、後方や横からの攻撃で戦力をすり減らしている。
 接岸部でニーナの部隊を突き破った時に比べれば、その戦力は三分の二程度まで落ちているだろう。
 ただでさえ、接岸部から中央部までの距離を異動するだけでも消耗するというのに、そこに、常に攻撃を受け続けてしまったのではどんな精鋭だろうと消耗する。
 後ろで手持ちぶさたにしている規格外の武芸者とかでなければ、間違いなく消耗する。
 これはどんな指揮官だろうと理解しているはずの事実だというのに、アルフィス側は気にすることなく一直線に中央を目指してくる。

「いや。違うな」

 前提条件が違った。
 アルフィスの突撃部隊は二層構造になっているのだ。
 被害担当の外苑部隊と、それに守られた本当の攻撃部隊。
 被害担当部隊が、その身を削って防御に専念しつつ攻撃部隊が最後の一撃のために力を蓄えている。
 この状況でも十分に勝算があると判断しているのだろうが、こちらには全く無傷の二個小隊を含めた精鋭が待ち構えているのだ。
 レイフォンやサヴァリスといった規格外の武芸者でなければ、十分に対応することが出来るはずだ。
 ウォリアスの予測と違いがあるとすれば、二層構造になっていたことだけだし、それは十分に許容範囲内だった。

「来るぞ」

 小さく呟いて、指揮下の最終防衛部隊に戦闘準備を指示する。
 ここが突破されてもツェルニが敗北することはないだろうが、武芸科を統べるヴァンゼは敗北する。
 そう。レイフォンを戦わせた瞬間にヴァンゼは敗北するのだ。
 負けることは、許されない。
 
 
 
 
 
 ある意味懐かしい光景と言えるかも知れない物が、目の前で展開されていることには気が付いていた。
 突入部隊の外苑にいる防御専門の武芸者と、その内側で最後の攻撃力を担当する武芸者。
 カウンティアとリヴァースを彷彿とさせる光景だったが、残念なことに実力差がある状況ではあまり意味がない。
 防御担当の武芸者が力尽きた瞬間、攻撃担当の武芸者は殆ど無防備となってしまうからだ。
 だが、この評価は少し酷なのかも知れないとも思っている。
 同程度の実力者しかいないのだったら、十分ではないにせよ、余力を残して最終決戦場まで攻撃部隊を送り届けることが出来ただろう。
 だが、ツェルニ側の攻撃で既に瀕死の状況である突入部隊は既に詰んでしまっている。
 そしてそこに、文字通りツェルニの最強集団が襲いかかるのだ。
 その後ろで半分眠っている、元天剣授受者の活躍の場はないだろう。

「ふむ」

 ゴルネオとそのお嫁さんがまず先制攻撃を仕掛け、瀕死だった防御部隊に止めを刺した。
 間髪入れずに巨大な剣だか銃だかを担いだ武芸者が突入し、攻撃部隊の隊列に大きな穴を開ける。
 隊列を乱されたためだろうが、元々攻撃力重視だったために各個撃破の憂き目にあうのは当然のことだ。
 だが、ただではやられまいとして生き残りの突入部隊は必死の抵抗をしている。
 もしかしたら、アルフィス側の潜入部隊が駆けつけるまでの時間を稼いでいるつもりかも知れないが、そんな物は既に存在していない。
 むしろ、ツェルニ側の防衛部隊が集まりだしている。
 この状況になってしまってはもはや弱い者虐めでしかない。
 相手の手の内を読み切り、必要にして十分な体制を整え、そしてそれを実行して勝利を得る。
 簡単なようでいてそれがどれほど難しいかはサヴァリスとて理解しているつもりだ。
 もし簡単だったのならば、アルシェイラやリンテンスにだって勝つことが出来るはずだという認識ではあるが、一応理解はしているのだ。

「となると、あの武芸者が凄いと言う事になるのかな?」

 疑問系になったのは、あまりにも打つ手に無駄がなさ過ぎたからだ。
 最初から手の内を知っていたかのように全てを整えて、そして実行する専門家に丸投げして勝利してしまった。
 これが異常な事態であることも、やはり理解している。
 そして、アルフィス強襲部隊が全滅した頃合いになってツェルニの勝利を知らせるサイレンが鳴り響いたのだった。
 
 
 
 
 
 凱旋するつもりだった。
 今年行われる武芸大会に全て勝ち、そしてその実績を持って故郷へと凱旋するつもりだった。
 だが、その計画は二戦目にして完全に潰えてしまった。
 第一戦は文句なく勝つことが出来た。
 相手の実力はそれなりに高かった。
 基本的な戦術も問題無かったし、指揮する人間も十分に優秀だったとそう評価できるのだが、それでも勝つことが出来たのは最精鋭による中央突破戦術が正しかったからなのだと、そう確信していた。
 二戦目のツェルニにも同じ手を使って勝つつもりだった。
 だが、蓋を開けてみれば、完璧に手を読まれていたとしか思えない程完璧な敗北に終わった。
 中央突破戦術の要はなんと言っても、最前線を任される最精鋭だが、その後に続く本隊の援護も重要だ。
 本隊が躓いてしまったら最精鋭は敵中に孤立してしまう。
 そして、躓いた本体と再合流することは出来ない。つまりは敵中での孤立。
 孤立してしまったら、いくら優秀だと言っても全方位からの集中攻撃を受けて何時かは全滅する。
 だからこそ、何度か戦い相手の戦力を把握して十分に対応できると判断したはずだった。
 だが、後に続くはずの本隊は接岸部で粉砕され、アルフィスへのツェルニ側本隊の侵入を許してしまった。
 完璧だった。

「何故だ」

 小さく独りごちる。
 疑問ではない。
 あえて言うならば、それは愚痴。
 だが、答えが返ってきた。

「指揮官になったからだよ」
「!!」

 廃残の身を引きずるようにアルフィスへと帰る道すがら、殆ど無傷なツェルニ武芸者の間からその答えはやって来て、そして、ランディー・ハーリスの胸を撃ち貫いた。
 聞き覚えのある声だった。
 他の都市の人間には理解できないだろう程複雑な関係ではあるが、五歳年下の弟の声だった。
 声を頼りに首を回してそして細い眼と適当に首の後ろで縛った黒髪という、五年半前と同じ姿の弟を目視確認した。

「ウォリアス」
「五年半ぶりだね、兄さん」

 勝ち誇るでもなく、ただ事実が淡々とそこに存在しているだけだった。
 そして、この瞬間になってやっと納得が行った。
 今回の敗北は、都市運営シミュレーターで対戦した時に、ウォリアスがよく使った、極端な防御重視の戦術そのものだったと。
 細かいところは幾つも違っているが、全体の流れとして既視感を持っていたが、ウォリアスが大きく関わっているならば納得が行く。
 ウォリアス自身がツェルニに居ると言う事は知っていた。
 だが、今年入ったばかりであり、とうてい武芸大会に大きく関わることが出来ないと、そう結論付けていた。
 それこそが油断だった。
 だが、ウォリアスが言う指揮官になったから負けたという認識を認めることは出来ない。

「僕らは参謀にはなっても良いけれど指揮官にはなるな。じいさんが口が酸っぱくなる程そう言っていたのを忘れたの? それとも、覆したかった?」

 複雑な関係で繋がっている戦略や戦術の師と呼べる祖父を思い出す。
 当然のこと、言われたことは覚えている。
 だが、それでも納得が行かなかった。
 だからこそ、アルフィスで武芸長となり勝利を重ね、そしてレノスに帰り指揮官としてもやって行けるのだと証明したかった。

「戦場全体を見ることと、部隊をきちんと動かすことは全く違うことなんだよ。準備をするのが参謀で実行するのが指揮官。双方出来る人間は極めて希で貴重で僕達にその能力はない」

 いや。五年半前とは明らかに違うところがある。
 明らかにウォリアスの視線には圧力があり、そして、その身に纏う雰囲気は。

「おまえは!! おまえは!!・・・」
「そう」

 身の毛がよだつ恐怖をこの時はっきりと認識した。
 ウォリアスは、既に自分の人生を生きられなくなっているのだと。
 武芸者として決定的に弱者であったために、一族の多くから邪魔者として扱われたウォリアスは、禁断の箱を開けてしまったのだと。

「もう、レノスには帰れない。餞別代わりにもらった」

 気楽そうにそう言っているが、その細い瞳から微かに敵意を感じる。
 それは、比較的優秀だったランディーに対する物なのか、それともレノスに対する物なのか。
 そして、この瞬間になって、やっと負けたことを受け入れることが出来た。
 元々剄脈に問題のあったウォリアスは参謀としての能力を極端に磨いていたが、今は既に人でさえなくなりつつあるのかも知れない。
 こんな化け物と戦ったのだから、負けるのは当然だとそう納得してしまった。

「帰ったらみんなによろしく言っておいて。僕は適当に生きて行くからって」
「・・伝えよう」

 そう声を出したランディーは、精神力を総動員して背筋を伸ばしてアルフィスへの道を歩く。
 負けた責任は武芸長であり、中央突破戦術の考案者であり、更に最精鋭を指揮したランディーが取らなければならないのだ。
 ウォリアスの言うことに納得はしていないが、それでも指揮官として最低限の仕事はしなければならないのだ。
 
 
 
 
 
 目の前で兄弟の邂逅を見送っていたディンだったが、幾つもの疑問が残っているのを確認していた。
 いや。合うべくして合ったのだから邂逅とは言わないだろうか?

「お前の兄だったのか」
「あちらさんは剄脈も大きくて将来有望な武芸者。こちらさんは予算を食いつぶすだけの駄目人間ですけれど」
「・・・。そうか」

 本来優秀な武芸者を外へ出すことは殆どないのだが、レノスなりの事情があるのだろうと当たりを付ける。
 都市を上げて古い資料を漁り尽くすというおかしな習性をもったレノスならば、優秀な武芸者を外に出して情報収集させると言う事くらいはやるだろうとも思えるからだ。
 だが、ほんの僅かに垣間見えたアルフィスの武芸長に対する敵意は恐ろしく鋭利であり、何よりも冷たかった。
 ディン自身よりも年下の少年が発するにはあまりにも洗練されたその敵意は、ある意味ウォリアスという異常者を象徴する物なのかも知れない。
 だからこそ、向けられた相手はそれ以上の会話を拒絶するかのように背筋を伸ばし、立ち去ったのだとも考えられる。
 とは言え、これ以上個人的な事情に踏み込んで良い物かどうかは分からないので、話題を少し変えることとする。
 外見的に全く似ていないところを見ただけでも、かなり複雑な話だろう事は容易に想像できるから。

「まあ、今夜も祝勝会だ。これで二勝したのだし少しだけのんびりするとしよう」
「流石にこの後汚染獣との一戦なんかは起こらないでしょうからね」

 冗談めかしてそう言うウォリアスだが、実はあまり冗談になっていない。
 今年、ツェルニが遭遇した汚染獣の数を考えれば念のための準備はしておいた方が良いだろうとさえ思えるのだ。
 レイフォンが全く消耗していないしサヴァリスもいるのだから、相当の奴とやり合わない限りは大丈夫だと思うが、念のために。
 アルフィス側で戦っていた部隊が三々五々帰ってくるのを眺めつつ、もう一戦くらいして鉱山の予備をもう少し確保しておきたいという欲も出てきたディンだった。
 だが、その前にやることがあるのだ。
 金髪縦ロールの、燃え盛る武芸者が帰ってきたのならば、夜を徹しての宴会を開かなければならないのだ。
 それが少しだけ、ほんの少しだけ心を重くするディンだった。



[14064] 閑話 ヴァーサスその2
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/05/28 22:30


 全ての発端はなんだったのだろうかと考える。
 それは、ある意味レイフォン・アルセイフという個人に由来する物だったのかも知れないし、もしかしたらハイア・ライアという個人に由来する物だったのかも知れない。
 はっきりしたことは言えないが、何か発端と呼べる物があったはずだと言う事は確かだろう。
 そして何よりも、ただ一つ言えることがあるとすれば、全てが偶然であり必然であり、そして成り行きだったのだと言う事だ。
 
 
 
 
 
 このところのレイフォンの朝はたいがいにして早い。
 武芸者としてあるまじき事なのではあるのだが、寝起きが悪いレイフォンとは言え少々の事情があれば早く目が覚めることだってあるのだ。
 いや。ここ何ヶ月かは自分の部屋ではろくに眠れていないと言えるだろう。
 そう。本が見せる悪夢によって安らかな眠りの園から叩き出されるという事情があるためにレイフォンの朝はかなり早い。

「さ、さいあくだ」

 マイアス戦の前にウォリアスが置いていった本は、その殆どが読まれるか電子データ化されレイフォンの部屋から姿を消していた。それは間違いない。
 だが、現実問題として視界を埋め尽くす程の勢いで積み上げられているのは、やはりウォリアスが置いていった本の数々でしかない。
 種明かしは簡単である。
 マイアスとアルフィスに勝利したことにより、ウォリアスの受け取る報酬がうなぎ登りに上昇したために、消費される以上の速度でレイフォンの部屋へと本が運び込まれているのだ。
 そう。悪夢はまだ続いているし、そしてこれから先も終わることを知らないだろう。
 詰まるところレイフォンに安息の日々は訪れないのだ。

「全くその通りだと僕も思うよ」
「ですよねぇ」

 同じく脳と剄脈の区別がつかない元同僚の声に返す。
 最終的にサヴァリスと同居しているという事実が、悪夢を更に深くしていることは認識しているのだが、他の場所で眠らせると恐ろしいことになりそうなので致し方がないのだ。主にナルキの命的な意味で。
 アルフィスとの戦いで何か目覚めたのか、サヴァリスは時々ウォリアスの報酬を読んでいるようだが、その内容をきちんと理解しているかどうかは全く不明だ。と言うか、理解していないと確信している。
 そんな悪夢の巣窟となり果てている自室から這い出すと、ツェルニはまだ暗かった。日が昇っていないのだ。

「しかし。ツェルニは恐ろしい都市だね」
「残念なことに同意しますよ」

 元と現役の天剣授受者を完膚無きまでに敗者の位置へと追いやる恐るべき乗り物や、何か間違っているようにしか思えない事件の数々に連続で見舞われるツェルニは、ある意味グレンダンよりも遙かに恐ろしい都市であると断言できる。
 特に学力やテストと言った意味に置いて、ツェルニは恐るべき都市である。
 それに比べたら、廃貴族の影響を受けたと思われる暴走など可愛い物だった。剄脈さえ使っていれば何とかなるという意味に置いてとてもレイフォン的には楽な事態だったと今頃になって思う。

「それじゃあ、取り敢えずやろうか」
「・・・。やりますか」

 この会話をするのにも慣れたはずだと言うのに、未だに一瞬程何か突発事態が起こってくれないかと願ってしまうレイフォンが確かにいる。
 そう。これから始まるのは技量が落ちないようにするための緩い殺し合いだ。
 一瞬の間に外縁部まで移動し、そして剄を流し込んで錬金鋼を復元する。
 一応、双方が安全設定のかかった錬金鋼を使っているとは言え、天剣授受者の攻撃に安全な物など存在しないという事実の前には、何らの慰めにもならない。
 そして、お互いの間合いの外側からゆっくりと構える。
 まだ夜も明けきらない時間に外縁部でサヴァリスと殺し合おうという事態を憂いていたのは、ほんの一瞬前までの話だ。
 レイフォンを殺すことが出来る武芸者が、必殺の間合いの一歩外側で構えている状況で他の何かを考えている余裕など有りはしないのだ。
 この緩い殺し合いの常として、サヴァリスが先に仕掛けてくる。
 空気を揺らすことさえない加速と共に軽い左の一撃がレイフォンの右肩付近を狙って放たれる。
 それを半歩だけ横にずれることで回避したレイフォンは、身体を沈めてサヴァリスの右足による横薙ぎの一撃を更に回避する。
 一瞬だけ背中が見えた隙に切り上げの一撃を放つが、当然の様に微かに前進して回避された。
 ルールは簡単だ。
 衝剄や化錬剄は使わない。
 活剄は大いに使ってかまわない。
 ご近所迷惑なので騒音を立てる攻撃や防御は行わない。
 以上のルールを踏まえたために、お互いに拳打や斬撃の応酬となるのだが、サヴァリス相手に楽に勝てるはずなど無いことは十分以上に理解している。
 それどころか、今まで一度として決着がついた試しさえない。
 ナルキを交えての殺し合いの時とは、明らかに意味合いが違うのだ。
 つまり、どちらも決定打に欠ける状況であり、続けることこそに意味があると言える。
 だが、今朝に限って突如として変化が訪れた。

「!!」
「おや?」

 レイフォンの斬撃がサヴァリスの頸動脈を薙ぎ払おうと振るわれる一瞬前、サヴァリスの回し蹴りがレイフォンの左脇腹を捉えようとする一瞬前、それは突然にやってきた。
 常人には捉えられない程微かな空気の動きだが、お互い以外は見えていないという程切羽詰まった状況ではない二人には捉えることが出来た。
 一般人ではあり得ない速度と高度で、空中を移動する生物。
 武芸者が活剄を使えば出来るだろうが、至近距離から視線を合わせて、お互いが剄脈の気配を感じていないことを確認した。
 つまりは、武芸者ではない何かが高速で移動していると言う事。
 となれば考えられるのは、養殖科が生み出した謎生物の暗躍。
 別段放って置いても良かったのだが、サヴァリスとの死合を続けるよりは生産的であると判断したレイフォンが刀を引くと、少々残念そうにではあったが相手も活剄を納めてくれた。

「少し気になりますから追いかけてみます」
「仕方が無いね。注意がそちらに行ってしまっては楽しめないから僕も付き合うよ」

 少々不安な展開だが、サヴァリスも一緒に謎の高速移動する生物を追うこととなった。
 そして、実はもう一つ不安な現実と言う物がある。
 それは、こちらに向かってかなりの高速で移動してくる武芸者が居ることだ。ツェルニの小隊員だったとしたらかなり名の売れた人物だろう事が分かる程の速度をもった武芸者だ。
 だが、やって来るのは間違いなくツェルニの武芸者ではない。
 やって来るのはレイフォンにとっても馴染みの深い気配である。
 だが、そのお馴染みさんが合流するまでにはもう暫く時間がかかるだろう。純粋に距離がまだかなりあるからだ。
 だからレイフォンは目的である謎の生物へと注意を向ける。
 注意を向けると言っても、当然、普通の武芸者に出せる速度でしか移動していいない謎の生命体に追いつくのに二秒とかからなかった。
 ある程度距離を置いて、それがなんであるかを観察する。
 まだ日が昇らない闇の中での出来事だとは言え、活剄を使えば昼間と遜色のない視界を確保することが出来るのだが、それでも少し捉えるのに時間がかかった。
 何よりも大きな原因として、その生き物が小さかったと言う事が上げられるだろう。
 そしてすばしっこかった。
 だが、一度捉えてしまえば追い続けることは造作もない。
 徐々に距離を縮めつつ、その生物が何かを抱えていることに気が付いた。

「!!」

 その何かに気を取られた一瞬、謎の生き物の手が動き、レイフォンに向かって何かを放り投げてきた。
 お互いに高速移動中であり、尚かつレイフォンが油断していたために、その何かは見事にレイフォンの顔面にヒット。
 だが、その投げつけられた物体はとても軽く柔らかく、そして何故か不明だったが、とても良い匂いがした。

(メイシェンの匂いじゃないな)

 咄嗟にその考えが浮かぶ程に良い匂いだったと言っておこう。
 だが、視界が塞がれてしまったのは事実だったので、周りの気配を探りつつ慎重に着地をする。
 と、ここで後から接近してきたお馴染みの気配が追いついてきた。
 元サリンバン教導傭兵団の団長であり、同じサイハーデンの継承者であるハイアだ。
 かなり急いできたようだが、全く呼吸を乱していないのは当然のこととして、何故か不明だが、サヴァリスと先に行ってしまった謎の生物ではなくレイフォンのいる場所へと着地をする。
 更に不思議な事実として、ハイアの剄の密度がどんどんと上がり、まるでこれから全力の殺し合いをするような気配へと変わって行く。
 この気配を放って置く程サヴァリスは追跡劇に夢中になっていなかったのか、レイフォンから少し離れた場所へと着地。
 興味津々とレイフォンとハイアを見比べて、そしてとても楽しそうにしているのがその呼吸音だけでも分かる。
 ここに来てやっとのこと、レイフォンは自分の視界を塞いでいる柔らかな何かに手をかけ、そして硬直する。
 良く知っている感触というわけではない。
 だが、全く知らないわけでもない。
 適度な固さを持つカップを備えたそれを人々はこう呼ぶ。
 ブラジャーと。

「え、えっっっと?」

 ゆっくりと手を動かして頭の上に乗り視界を塞いでいたブラジャーをどかす。
 あえて言わせて頂ければ、メイシェンのと同じくらいに大きい。

「ヴォルフシュテイン」
「な、何かなハイア?」

 レイフォンが手にブラジャーを持っていることに何か思うところがあるのか、今まで殺し合うために高められていた剄の密度が、限界を超えてしまったのではないかと思う程に圧縮されて行くのを感じる。
 むしろゆっくりとした動作で剣帯から鋼鉄錬金鋼を抜き取り、そして復元する。
 復元した刀の切っ先は、当然のことレイフォンに向けられ、そして技が放たれる。
 外力衝剄の化錬変化 炎竜巻。
 サイハーデン刀争術、逆捻子の容量で、刀に纏わり付かせた、向きの違う衝剄を化錬変化させ、炎の竜巻として放つ。
 その威力は洒落で済まされる範囲を大きく超えていたために、思わず全力で横へと飛んで炎の一撃を回避する。
 全く意味不明だが、黙って殺されるわけにはいかないのも事実なので、レイフォンも刀を復元して構える。
 すぐに二激目が来ると思っていたのだが、ハイアの視線は何故かレイフォンを捉えてはいない。
 いや。先ほどまでレイフォンがいた辺りに向けられ、こちらを気にする素振りさえない。
 吊られてレイフォンもハイアの見ている辺りを注意深く見る。

「・・・あ」

 そこには、何かが燃えた後のような黒い固まりが落ちているだけだった。
 完全に燃え尽きてしまっている布の部分は仕方が無いとしても、ワイヤーやホックといった金属部分が黒く変色して無残な姿を曝している。
 そう。ハイアの放った技のせいでつい何秒か前まで存在していたブラジャーは、既にこの世に存在を許されなくなっていたのだ。

「ヴォルフシュテイン」
「ぼ、僕のせいじゃないぞ!! 焼き払ったのはお前だからな!!」

 完全に責任逃れであることは承知している。
 だが、逃げるのに夢中で誰の物とも知れない下着にかまっていられなくなっていたのも事実だ。
 いや。誰の物だったかは何となく分かるような気がする。
 ハイアが、誰か分からない女性のブラジャーのためにここまでの闘志を燃やすはずはない。
 サイズ的にも十分に合致する人物を、レイフォンも良く知っている。
 最近は、メイシェンと一緒にお菓子や料理を作ったりしている。
 つまりミュンファ。

「貴様を生かしておいたのがオレッチの間違いさぁ」
「お、落ち着けハイア。少し落ち着いて話そう」
「下着泥棒ごときと話す舌は持ち合わせていないのさぁ」
「まてぃ」

 とても心外なことを言われたが、反論することは出来なかった。
 なぜならば、全力で手加減抜きのハイアの一撃がレイフォンに降り注いだからだ。
 その一撃の凄まじさは、何時ぞやの試合の比ではなかった。
 精神的な状態が悪すぎたために、危うく唐竹割にされそうになったが何とか防御に成功する。
 だが、それだけで終わるはずはない。
 防御したとは言え、精神状態が悪すぎたために一歩だけ後退してしまった。
 それはつまり、ハイアの刀が地面近くまで下がったと言う事。
 峰打ちの要領で壮絶な切り上げが襲いかかる。

「っく!」

 その一撃を何とか横に弾くことで退けたが、レイフォンのその力さえ利用した身体を回転させた横薙ぎの一撃が襲いかかる。
 腕力と遠心力とレイフォンの弾く力を乗せたその一撃は、更に化錬剄の炎まで纏っているという凶暴極まりない物だったが、回転する間の一瞬の時間を与えてもくれた。
 その一瞬を使って精神と身体と、何よりも剄脈の状況を整える。
 ハイアの横薙ぎの一撃の威力と、レイフォン自身の脚力を利用して十メルトル程の距離を開ける。
 服の一部が焦げてしまっているが気にしている余裕など無い。

「金髪眼鏡で巨乳な幼馴染みフェチのハイアちゃん」
「なにさぁ? 巨乳下着フェチなコソ泥のレイフォン君」

 さっきのお返しとばかりに最も嫌がるはずの呼び方をしたのだが、反撃として返ってきたのは更に心外な呼ばれ方だった。
 だが、これではっきりしたこともある。
 ハイアは、ミュンファの下着を盗んだのがレイフォンだと確信している、と。
 思わず心が折れそうになったが、それを何とか立て直す。
 そして、出来うる限り視線も注意もハイアから外さないようにして観戦を決め込んでいる人物を確認する。
 さっきから黙って事の成り行きを見守っている現役の天剣授受者が少しだけ気になったのだが、正直見なければ良かったとそう思う。

「指咥えて見てないで下さいよ」

 そう。観戦を決め込んでいたはずのサヴァリスは、何故かとても羨ましそうな表情で右手の人差し指を咥えていたのだ。
 いや。むしろしゃぶっている。
 子供じゃあるまいしと突っ込みたいところだが、そんな余裕はレイフォンには無い。

「こうしているのがセオリーだと聞いたのだけれど、実にこれは僕の心を表していると思わないかい?」
「思いませんから」

 思わず突っ込んだ瞬間、ハイアの刺突が喉元に迫る。
 仰け反るついでに切り上げることで第二激目が放たれるのを防ぐ。
 だが、やって来たのは蹴りだった。
 体制が崩れた瞬間を見逃さない攻撃は十分に脅威だった。
 レイフォン以外だったら。
 活剄衝剄混合変化 千手閃。
 ハイアの蹴りを二本の腕で受け止めつつ、四本の腕でレイフォン自身の身体を支えつつ、本来の腕で刀を横薙ぎに払い軸足への攻撃を放つ。

「っち!!」

 いくら安全設定が施されているとは言え、武芸者が本気で振るった一撃を食らえばただでは済まないことはハイアも十分に理解しているので、慌てて後方に飛んで距離を稼ぐ。
 追撃を放ちたいところだったが、レイフォンの方も体制を整えなければ満足な技を放てないのも事実だ。
 四本の腕で身体を持ち上げ、軽い跳躍で体制を整える。

「金髪眼鏡で巨乳な幼馴染みフェチにしてはなかなかやるじゃないかハイアちゃん」
「巨乳下着フェチなコソ泥にしてはずいぶんと粘るさレイフォン君」

 お互いに手詰まりに陥る。
 レイフォンが持っているのが天剣だったのならば、あるいは力押しで何とか勝てたのかも知れないが、生憎と全力を出せる状況ではない。
 これで、技量に圧倒的な違いがあるというのだったらまた話は違うのだが、残念なことに剄量以外は天剣授受者として何ら欠点がないハイア相手には愚痴でしかない。
 そして何よりも、お互いが平常心からほど遠いところで刀を交えているとあっては、決定打を送り込めるはずがないのだ。
 最終的には、時間をかけて相手を消耗させることを主眼に置いた長期戦と言う事になるのだが、実はこれにも問題が有るのだ。
 そう。レイフォンは授業に出なければならない。
 ハイアの方はツェルニの学生というわけではないのでこの点とても有利だ。
 なので、相手の精神状態を出来うる限り悪い方向へと持って行くこととする。
 一気に距離を詰めつつ右八相に構えた刀を振り下ろしつつ精神攻撃も放つ。

「やーいやーい。巨乳幼馴染みフェチィ」
「やーいやーい。巨乳下着フェチィ」

 同じ事を考えているハイアとの低レベルなののしり合いに陥ってしまった。
 レイフォンの斬撃を受け流したハイアがお返しとばかりに、右下段からの切り上げが迫る。
 それに対応しつつも、更なる精神攻撃を放つ。

「お前なんか幼馴染みの巨乳で死にかければ良いんだ」
「お前なんか巨乳の下着で天国に行けば良いのさ」

 お互いがお互いの精神力を削ろうとあらん限りの方法で攻撃を仕掛けるが、残念なことに慣れていないために殆ど効果がない。
 いや。自分のやっていることに疑問を持ち始めているという意味では、明らかに自爆技である。
 だが、ここではレイフォンが僅かに有利である。
 そう。レイフォンは下着泥棒ではないのだ。
 断じて下着泥棒ではないのだ。
 大事なことなので二度言うのだ。
 だが、当然のことのの知り合いの最中にも斬撃と打撃の応酬は続いている。
 ナルキだったのならば、一秒間に五回以上は死ねるような攻撃を防御したり受け流したりしつつ同程度の攻撃を放ち、やはり防御されたり受け流されたりすると言う、ある意味本格的な殺し合いに突入しているのは理解しているが、それを止める方法をレイフォンは知らない。
 切り下ろす。切り上げる。薙ぎ払う。突き込む。柄頭での打撃。合間合間に拳や足での攻撃、そして頭突きさえ織り交ぜつつハイアを罵り続ける。

「巨乳幼馴染みが恋しくなっただろうハイアちゃん!!」
「巨乳下着で変態行為をしたくなっただろうレイフォン君!!」

 最終的に、お互いがお互いの精神力と体力と剄を削るという当初の方針から離れることが出来ず、事態は長期化への道を一直線に突き進む。
 このままお互いがボロボロになるまで殺し合わなければならないのだと、レイフォンがそう覚悟した瞬間だった。

『やはり大きい方がよいのですね』
「は」「い」

 突如として良く知っている念威繰者の声が聞こえた瞬間、下から突き上げる衝撃を認識したことによりレイフォンとハイアの戦いは強制的に終了させられたのだった。
 それが、全力を振り絞ったフェリの、念威爆雷の攻撃だと言うことを知ったのは病院のベッドの上でのことだった。
 
 
 
 
 
 ちなみに、養殖科が開発したが放り出してしまい野生化した動物が、大きなカップをもったブラジャーで子守をしていたという事実が判明するのは、レイフォンとハイアが退院した直後のことだった。
 周り中から浴びせられる哀れみの視線がとても痛かった事を含めて、とても納得の行かない騒動はこうして終了するのだった。
 
 
 
 
 
  おまけ。
 
 
 
 
 
 謎の知識の固まりがたむろしている自分の部屋に戻ったレイフォンだったが、当然のこと安眠など出来るはずはなかった。
 悪夢の元凶たるハードカバーの本が山積みされているのでは、安心して眠れないのだ。
 そして当然の様に、真夜中と呼べる時間に目覚めた。
 だがそれは知識の固まりである本によって見せられている悪夢が原因ではない。
 人の動く気配を感じたのだ。
 そう。暫く前まで二人部屋を一人で使えると喜んでいたレイフォンだったが、今は同居人がいるのだ。
 ツェルニで唯一レイフォンと互角に戦えるはずの、現役の天剣授受者サヴァリスである。

「どこへ行くんですか?」
「うん? 起こしてしまったね」

 普通の人間だったら気が付かないだろうが、残念なことに、こんな事もあろうかと緊張していたレイフォンはきちんと反応してしまったのだ。
 そう。ハイアとのあの不毛な戦いの跡、部屋に帰ってきた初日だというのに、サヴァリスのことが気になって眠りが浅くなっていたのだ。
 つくづく不幸である。

「で、どこへ行って何をしようとしていたんですか?」

 窓を開けて、今にも飛び出しそうなサヴァリスに向かって剣呑な声と殺意を向ける。
 当然、そんな事で動揺するような生き物ではないが、レイフォン的にやらないと気が済まなかったのだ。
 そして、ある程度覚悟していたこととは言え、答えはレイフォンのやる気を削ぐのに十分すぎる物だった。

「トリンデン君の下着を盗みに」
「・・・。止めて下さいとお願いしたら止めてくれますか?」
「無理だね」

 平然と答えているサヴァリスはこう考えたのだ。
 メイシェンの下着を盗めばレイフォンが殺しに来るに違いないと。
 ミュンファの下着をレイフォンが盗んだと勘違いしたハイアが全力で襲いかかってきたように、サヴァリスを本気で殺しに来てくれるに違いないと。
 レイフォンから挑んできたのだから、返り討ちにしてしまっても、結果的に殺してしまってもサヴァリスは悪くない。
 そう、アルシェイラに弁明するつもりなのだ。
 目的はあくまでもレイフォンと殺し合うこと。
 そのために手段を選ぶという選択肢はサヴァリスの中にないのだ。
 そこまで分かっているからこそ、レイフォンのやる気は底なし沼に嵌り込んだかのようにどんどんと沈み込んでいってしまうのだ。

「おや? 何故やる気を無くしているんだい? 僕を止めるために全力で殺しに来ると思ったんだけれど」
「僕がそう考えると貴男が思っているから、僕は何もしないことにしたんですよ。襲いかかったらサヴァリスさんの思うつぼでしょう」
「うぅぅん? それはつまらないなぁ」

 レイフォンの行動が思っていたのと違うためにサヴァリスは取り敢えず今日の窃盗行為を諦めたようだ。
 渋々とベッドに戻りつつ、しかしその瞳は諦めると言う事を知らないようにキラキラと耀いていた。
 次はどんな手で来るだろうかという不安と共に、レイフォンは再び浅い眠りへと落ちるのだった。
 不幸はまだまだ続く。
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 てな訳で下着泥棒事件をお送りしました。
 今回、原作と違う展開にしようと決めつけて書き始めてみたところ、何故か浮かんできたのがレイフォンとハイアが低レベルなののしり合いをしつつ殺し合うという物でした。
 最終的にフェリの念威爆雷で片を付けましたが、構想段階ではフォーメッドが事件を解決するまで二人で延々と殺し合うというのもありました。
 どちらの方が良かったのか未だに分かりませんが、取り敢えずフェリの出番が少ないのでこちらを完成させました。
 そうそう。ミュンファの下着を追いかけてハイアがレイフォンに襲いかかるという事態に細かい設定はありません。
 何時の間にかできてしまっているとか言う話ではありません。
 関係は進んでいますから、ある意味独占欲がハイアの暴走の原因だと、そうご理解下さい。
 さて最も大きな問題は、最近サヴァリスさんがどんどん変な方向へと突き進んでいることです。
 目的はレイフォンと殺し合うこと。
 そのためならば変態の汚名さえ喜んで着るという徹底ぶり。
 この先彼はどうなってしまうのでしょうね?
 
 
 
  それと、これは完全に余談ですが。
 ゼンマイ式の懐中時計など買ってしまいました。
 一週間で三十秒くらい進むだけというかなり凄い奴です。
 お値段四万円。
 一日一回はゼンマイを巻かなければならないですが、手間をかけるのが嫌いでない方は是非買ってみて下さい。
 貿易赤字が進んでいる昨今。できれば日本製の奴を。
 以上、余談でした。



[14064] 閑話 渚のエトセトラ
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/07/23 13:53


 何時もの事と言ってしまえばそれまでだが、レイフォンは今どうする事も出来ない状況へと追い込まれていた。
 グレンダンでも似たような事になっていたが、ツェルニに来てからとは決定的に事情が違う。
 グレンダンで追い込まれた場合、それは殆どがレイフォン自身に原因があったのだが、ツェルニでは間違いなく他の人によって決定的に追い込まれてしまっているのだ。
 そう。今回もミィフィによって決定的に追い込まれて、自由を奪われてしまっているのだ。

「あ、あう」

 それはレイフォンの伴侶と呼ぶ事がほぼ決定してしまっているメイシェンについても言える事であり、その巨大な乳房を更に強調するかのように両腕をくっつけている。
 何故か? それは簡単である。
 間接が緩く脱臼しやすいメイシェンが持つにはあまりにも重い、鋼鉄で出来た斧を何とか持ち上げようとしているからである。
 何故、斧など持ち上げようとしているのか? それも簡単である。
 夏期帯に突入したツェルニ上層部は、養殖湖の一部を開放して遊泳する事を許可した。
 そうなると、色々と遊びたい盛りのミィフィが積極的にこれでもかと言うくらいに活動を活発化させた。
 最終的には色々な人と連れだって養殖湖へと遊びに来たのだが、そこでウォリアスが知らなくても良い知識を辺り構わずに触れ回ってしまったのだ。
 最終的にレイフォンは砂浜に首まで埋められて、頭の上に南瓜を乗せられているという現状が出来上がってしまったのだ。

「なんで南瓜なんだよぉぉぉぉ!!」

 全ての疑問はそこへ集約される。
 湖の疑問さえ解決する事が出来れば、きっとレイフォンは安楽な人生を送る事が出来るようになる。そう信じて質問を放ったのだが、反応はさほど芳しい物ではない。

「だって、ねえ?」
「そうよねぇ?」
「だから!! 僕に分かるように説明してよぉぉぉ!!」

 何故かニヤリ笑いを浮かべるミィフィとリーリンの答えになっていない回答を聞きつつ、レイフォンは現状を打開するための方策を考える。
 だが、ウォリアスと違って頭を使う事に慣れていないために、ろくな考えが浮かんでこない。
 その間にもメイシェンの両手を二人掛かりで持ち上げにかかっている。
 真っ白な身体を覆う白い水着は、何故かとても扇情的なように見えて仕方が無い。
 そうでなくても柔らかそうなメイシェンが、更に一段柔らかくなってとても美味しそうだとか考えてしまい、現状を打開する方法は何処かに飛んで行ってしまったようだ。

「あ、あう! あ、あの! なんで南瓜を割るんですか!!」
「うん? ウッチンが言っていたのだよ。遙か昔には、砂浜で西瓜を割るという遊びが定番だったと」
「でもって、西瓜って何かって聞いたら、人の頭くらいの大きさの、瓜科の植物だって言うじゃない」

 ここまではレイフォンも聞いているので、それなりに理解しているつもりだ。
 だが、西瓜なる植物はツェルニには存在していないし、人の頭の上で割るなどと言う危険な行為が昔から行われていたかどうかについては、全くもって知らない。

「瓜科で大きな植物って言ったら、南瓜しか思い浮かばなかったからさ!!」
「もうこれを割るしかないと思ったのよ。レイフォンの頭の上に乗せているのは私達のオリジナルね」
「あ、あう」

 話の流れは分かったが、とても納得が行かない事だけは明記しておこう。
 そしてついに、メイシェンの両手が頭上に高々と振り上げられてしまった。
 その手が未だに握っているのは、当然の事鋼鉄の斧。
 ミィフィとリーリンの手がそっと外され、後は振り下ろされるのを待つだけの斧。
 もはや、レイフォンに今日を生きる権利は存在していないようだ。
 だが、全てはご破算になってしまった。

「あう!!」
「ぬを!」
「おっと!」

 あえて言うのだが、メイシェンの間接は極めつけに緩い。
 段差に躓いただけでも足首の関節が外れるし、ハイアに少し強く引っ張られただけでも、腕の関節が軒並み外れてしまう程だ。
 そんなメイシェンが、かなり重量のある斧を頭上高々と振り上げて、支えを無くしたらどうなるか?
 答えは簡単である。

「ど、どくたー!!」
「サマーズ先生!!」
「あぁぁうぅぅ」

 そう。背中側に向かって肩の関節が外れてしまったのだ。
 これは少しだけ珍しい光景かも知れないと、レイフォンは若干他人事のような感想を持ってしまった。
 普通肩が外れるとなると、前か横に向かって外れるもの、今メイシェンの肩は後ろに向かって外れているのだから。
 だが、残念な事に、ここにはドクター・サマーズはいない。
 何故か今日もシフトが入っているとかで、ツェルニ中央付近にある病院に缶詰になっているそうだ。
 ジンクスからすると、養殖湖畔での仕事であってもおかしくはないのだが、今回は少し事情が違ったようだ。
 以上の事を考慮すれば、ここは武芸者であり、人間の身体について詳しいレイフォンが助けるべきだと考える。
 そのために埋められている現状を何とかしてもらおうと声を出そうとしたところで、余計な邪魔が入ってきてしまった。

「何遊んでいるんだよ?」
「ナッキ!」
「メイシェンが」
「あうあう」
「ああ。はいはい」

 何が有ったかは分からないだろうが、それでも自分が何をすればいいのかはきちんと理解している様子でメイシェンの肩の様子を確認するナルキ。
 流石に幼馴染みだけあって、その動作に迷いは存在せず、暫くするとあっさりと元の状態へと戻してしまった。
 メイシェンには申し訳ないが、レイフォンの助けが要らない状況は少し残念である。砂浜に埋まっているという状況的に。

「それでレイとんは何をされているんだ? 南瓜が無茶苦茶に気になるんだが」
「それは、そのぉ」

 ミィフィとリーリンが少ししどろもどろになりつつ事情を説明する。
 そして全てを認識したナルキが南瓜をどかしてくれた。
 何故か、レイフォンを見る目がとても哀れみに満ちていたが気にしてはいけない。
 そう。南瓜はどかしたのにレイフォンを助け出すという行動を取らない事に比べたら、取るに足らない些細な事柄でさえないだろう。
 だが、実は自体は凄まじい勢いで暴走を続けてしまうのだ。
 そう。何故か潤んだ瞳でレイフォンを見詰めるリーリンとか。
 一瞬前の萎縮した姿など、どこにも存在していない。

「あ、あの、リーリン?」
「う」

 黒くて胸の付近に大胆な切り込みの入った、水着姿の幼馴染みが、何故か身体を折って蹲る。
 この光景には見覚えが有る。
 あれは確か、強情な弟が必死の努力で布団にくるまっていた時だった。
 今回のようにリーリンが何故か呻いて身体を折り、そして蹲った。
 そして起こった事と言えば。

「は、速く僕を解放して!! そうじゃないと恐ろしい事が!!」
「な、なんだいきなり必死になって?」

 突如の事態に混乱したようにメイシェンとミィフィを見るナルキだが、余裕などと言う物はもはや存在していない。
 そう。あれが降臨してしまうのだ。
 月を破壊して、この世に絶望と恐怖を振りまく存在が、レイフォンの上だけに降臨してしまうのだ。

「う、うふふふふふふふふふふ」
「ああ」

 遅かった。
 全ては徒労に終わってしまった。
 恐怖と絶望の大王としてリーリンがレイフォンの上に降臨してしまったのだ。
 身体を起こしたリーリンの瞳は濡れそぼり、あらゆる生命体に対する暴力と破壊の衝動に支配されている。
 その標的は間違いなくレイフォン。

「ああ」

 その吐息はあくまでも甘く、そして限りない熱に浮かれ、そして何よりも欲望にまみれていた。
 もはや止める術などこの世には存在していない。

「ああ・・。色と良い形と良い、大きさと良い。なんて素敵なの」

 気が付けば、あまりの変貌ぶりにナルキに引かれた二人が遠ざかっている。
 無理もない事態である。

「ああ、レイフォン」
「リーリン」
「とても素敵」

 欲望にまみれた瞳はしかとレイフォンを捉え、そして離さない。
 そしてとうとう、その言葉が発せられた。

「レイフォンを蹴る事が出来るなんて、私、生きていて良かった」
「あ、あのねリーリン」
「大丈夫よ。痛いのは最初だけだから。すぐに気持ちよくなるから。レイフォンなら大丈夫よ」

 そう。蹴り飛ばす事にかけてツェルニ最強なのはフェリだろうが、実を言うとリーリンもかなり凄いのだ。
 強情な弟を目の前にしたリーリンは、やはりこんな状況になり、そして散々蹴られてしまったのだ。
 更に救いのない事実として、弟はとても嬉しそうだった。
 リーリンに蹴られるためにこの世に生まれてきたと言わんばかりに、とても嬉しそうだった。
 つまり、レイフォンの未来とは。

「だめぇぇぇぇ!!」

 全てを諦めて新しい自分を発見するかも知れない攻撃の、まさに一瞬前にリーリンの腰に抱きついてその行動を止める人物が現れた。
 肩の関節が全て正しい位置へと復帰したメイシェンだ。
 その表情に余裕はなく、完全に真剣であり、普段からは想像も出来ない程に力強く、リーリンの腰にしがみつく。

「離して!! 私は!! 私は!! レイフォンを蹴らなければならないのよ!!」
「あ、あう!! ナッキミィちゃん!!」

 当然、メイシェン一人の力でリーリンが止まるはずもなく、徐々に、しかし確実にレイフォンの頭を射程に収めようとしていた。
 となれば、幼馴染みの援軍を頼むのは当然の事であり、ナルキは即座に、ミィフィは一瞬以上ためらってからリーリンを遠ざけようと努力する。
 そう。三人がかりであり、更にナルキは剄脈を使っていないとは言え武芸者なのだが、それでもリーリンの前進速度は衰えたとは言え健在である。
 どこにこんな馬力があるのかとても不思議だが、事実としてリーリンは接近し続けているのだ。

「ええい! これでどうだ!!」
「きゃっ!」

 業を煮やしたらしいナルキの気合い一閃。
 リーリンの身体が持ち上げられた。
 可愛らしく聞こえる悲鳴を上げて暴れるが、その抵抗は全て空気をかき乱すだけで意味をなさない。
 そのままナルキの肩に担がれたリーリンが連れ去られて行く。
 当然の事として、メイシェンとミィフィもついて行く。
 そして誰もいなくなった。

「くすくすくすくす」

 などと言う事は断じてあり得ない。
 そう。五人で来たわけではないのだ。
 ダルシェナとシャーニッド、それにニーナとフェリ、ついでにディンとウォリアスという面々で遊びに来ていたのだ。
 ダルシェナとディンは何処かへと出かけているし、ニーナはレウを発見してそちらへ合流。
 シャーニッドとウォリアスは何かボードゲームに熱中しているという点でバラバラな有様であるが、一人だけレイフォンのすぐ側にいて騒ぎを見物していた連れがいたのだ。
 もっと言えば、遠巻きにして事の成り行きを見守っている一般大衆もいるのだが、それは除外しても差し支えない。

「フェリ先輩?」
「とても楽しいです」
「そ、そうですか」

 楽しんでもらえた事を喜ぶべきかも知れないが、残念な事にレイフォンは未だに砂浜に埋まっているのだ。
 そして、何故かフェリの手には全長二メルトルになろうかという鋸が握られていたりする現状を見ると、まだこの先一波乱ある事だけは間違いない。
 ひとしきり笑っていたフェリがレイフォンの前と屈み、首のすぐ側へと巨大な鋸を置いた。
 そして、一般大衆へと視線を飛ばし、一人の女性とをロックオン。

「貴女にしましょう」
「わ、わたし!!」
「こちらへどうぞ」

 水色のビキニにその身を包んだ、かなりボリュームのある戦略兵器を装備した女生徒を指名し、手招きするフェリ。
 逆らうという選択肢が存在していないのか、恐る恐るとこちらへやって来た女生徒を、何故かレイフォンの前へとしゃがませる。
 とても視線のやり場に困る光景であるはずだが、レイフォンは喜んでいられない。
 何しろ、首のすぐ横には鋸が置かれているからだ。

「さあ。貴女にノコを挽かせて差し上げましょう」
「うえぇぇぇ?」
「どこの世紀末ですか!!」
「ツェルニの世紀末です」
「そ、それはそうですが」

 確かにツェルニで世紀末かも知れない。
 そんな現実逃避はしかし、一瞬で打ち砕かれた。

「こいつを挽き終わったら次は貴女の胸です」
「むねですか!!」
「うぐわぁ」

 何とかリアクションを避ける。
 何かリアクションをしてしまったら最後、本格的に鋸は挽かれてしまう事が確実だから。
 そして、遠巻きに見物していた一般大衆に動きがあった。
 胸の大きな女性が親しげにしている男性の後ろに隠れ、男性が一歩前に出て女性を守っている。
 中には、親しい、胸の小さな女性の後ろに隠れて火花が散っていたりもしているが、おおむね一般大衆は平常運転だ。
 いや。違う動きもあった。
 ある女生徒がなんとフェリの前へと進み出たのだ。とても見覚えのある男子生徒を道連れにして。

「エド?」
「よ、よう」

 同級生で、色々と巻き込んでしまっている少しぽっちゃりしたエドだ。
 怯えつつも興味津々と言った感じでレイフォンの前へとやって来た。
 だが、それ以上に問題なのは、連れの方である。
 比較的大人しげな外見と、暗く沈み込んでいるように見える表情。スレンダーな身体を地味な水着に包んだその人物は、バンアレン・デイで色々と関わったエーリである。
 確か、フェリの同級生だったはず。

「フフフフフフ。楽しんでいますねフェリさん」
「クスクスクス。とても楽しんでいますエーリさん」

 とても親しげに見事にシンクロする二人。
 最近フェリが少し変わったと思ったが、原因はエーリであったようだと今更ながらに気が付いた。
 だが、事態はレイフォンの事など相変わらずかまってくれない。

「さあエド」
「貴男にノコを挽かせて差し上げましょう」
「ぐえええええ!!」

 レイフォンの目の前に跪いてにっちもさっちも行かなかった女生徒を放り出し、エドがデンと目の前に据えられた。
 今まで、魅惑的な破壊兵器が目の前に存在していたのだが、それはエドの少し弛んだお腹へと代わってしまい、少しだけ残念だとか思っている。
 だが、問題はそこではないのだ。

「え、えど?」
「・・・・・・・・」

 何故か座り込み、鋸の柄を凝視したエドが小さく震えている。
 その表情には明らかな迷いが存在している。
 そう。迷いが存在しているのだ。
 確かに散々巻き込んで恐い思いをさせた事は間違いないが、それでも友達だと思っていたエドの迷いを見てしまったレイフォンの心が悲鳴を上げる。

「うわぁぁっぁああ!!」

 そして、頭を抱えてこの世の終わりを見たような悲鳴を上げつつのたうち回る。
 周りの一般大衆が少し引くくらいには突然の行動で、レイフォンも一瞬びびってしまった。
 そしてひとしきりのたうち回った後、レイフォンをしっかりと見詰め言葉を放つ。

「レイフォン」
「ど、どうしたんだ?」
「俺は迷っているんだ」
「なにに?」

 生唾を飲み込む。
 この後の台詞にこそ、エドの迷いの本体が存在している事が分かったから。

「モテ男を殺せと言う俺と、友達を助けろと言う俺が戦っているんだぁぁぁあ」
「おいぃぃぃぃぃ!!」

 レイフォンがもてるという認識に共感する事は出来ないが、エドが何故迷っているかはおおよそ理解できたと思う。
 だが、事態はレイフォンどころかフェリ達でさえ置き去りにして先に進む。
 そう。その人物が見えてしまったのだ。

「フェリ先輩」
「どうしましたかフォンフォン? もしかして私にノコを挽いて欲しいのですか?」
「違いますから」

 そうだと言った瞬間に、喜び勇んで挽きそうだったので全力の静止をかける。
 そう。そんな事のためにフェリを呼んだのではないのだ。

「これ以上続けると」
「なんでしょうか?」
「ツェルニ的、世紀末救世主が登場してしまうのですが」
「ふ」

 鼻で笑い飛ばすフェリ。
 エーリの方も似たような感じで、レイフォンが何を言って居るのか理解していないようだ。

「くすくすくす。ツェルニに救世主など存在しません」
「ふふふふふふ。あまりの恐怖に世迷い事を言うとは」
「そうですフォンフォン。貴男は心の底から絶望してノコに挽かれなさい」
「ふふふふふ。この世界は地獄そのものです・・ね」

 エーリの方が先に気が付いた。
 次の瞬間、フェリも気が付いた。
 レイフォンの視線が、ある一点を見詰め続けているという事実に。
 そして二人が振り返り、それを認識したはずだ。
 そう。世紀末ルックで決めた何処かの生徒会長が精悍なニヤリ笑いを浮かべるのを。
 これ以上先に進めば、レイフォンの首のすぐ横に置かれたノコは、二人の内、どちらかの頭の上に振り下ろされてしまう事だろう。
 夏期帯に突入したツェルニの養殖湖で起こった事件は、この事実を持ってようやく収集へと向かう事となったのだった。
 
 
 
 
 
 決死の覚悟でグレンダンに潜入し、結局のところ天剣授受者に返り討ちにされたディックは、養殖湖側に生えた大木の枝に身体を預け、治療のために活剄を走らせつつ脂汗を流しつつ、必死にレイフォン達の喜劇を見届けていた。

「お、俺って強欲だからよぉ。こんな面白いものを見過ごすなんて事は出来ねえのさ」

 もはや、こちらも決死の見学となった世紀末的養殖湖事件も終わった事だし、そろそろ本格的に回復作業に専念しなければならない。
 そうでなくても、銃使いの天剣授受者に炭化された部分は、回復にとても時間がかかるだろう。
 その時間を削ってまで見学する価値があったのかと問われたのならば、十分にあったと即答できる。
 被害に有っているのが元天剣授受者とあっては、なおさら全てを見終わらなければ気が済まない。
 強欲のために命を賭けるのはディックとして当然の事。
 満足という言葉は知らないが、それでも回復のために眠るくらいの心の余裕が出来た。
 色々と因縁のあるツェルニではあるのだが、それでもこれほど面白い事になっているとは予想外だった。
 機会があったらまた来ても良いかも知れないと、そう思いつつ、やっとの事で意識が闇に沈み込んでいったのだった。
 
 
 
 
 
おまけ!!
 
 
 
 
 
「邪悪な暗黒神にて、永遠にして超絶な美少女たるロード・オブ・ダークフェリ」
「おお! 貴男は猛禽のシン」
「はっ!! この私めがあのこしゃくな救世主を懲らしめて参りましょう!!」
「なんと頼もしい事よ!! 頼みましたよ猛禽のシン!!」
「お任せ下さい邪悪な暗黒神にて、永遠にして超絶な美少女たるロード・オブ・ダークフェリ」
 
 
「と言う事で救世主カリアン!! 貴様に敗北を味あわせてやろう」
「君に出来るのかね? 猛禽のシン?」
「貴様の拳など蚊に刺された程も効かぬは!!」
「私がその気になったら、筆先一つで君を倒すことだって出来てしまうのだよ?」
「筆先一つだと?」
「予算削ってしまうよ?」
「すんませんでした!! マジ勘弁して下さい!!」
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 権力とお金は強いと言う事ですね。



[14064] 第十話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/12/03 13:57


 養殖湖での悲惨な体験によって、レイフォンは水際がとても苦手になってしまった。
 出来れば一生近寄りたくないと思ってしまうくらいには悲惨な体験だった。
 とは言え、武芸者であるレイフォンが養殖湖に関わるなどという事態はそうそうあるわけでないのも事実。一安心である。
 一安心したが、当然気を抜くことなど出来ようはずもなく、地道に剄の制御という重要課題へと挑むのだ。
 青石錬金鋼の刀を復元し、ゆっくり慎重に剄を流し込み、そして出来うる限り細い衝剄を連続して放つ。
 そう。イメージするのは本物の針。
 出来うる限りにおいて細くしなやかに、そして乱れることなく剄で出来た針を作り出し続ける。
 対象物はとても堅いが恐ろしく脆い。
 ほんの僅かでも気を緩めてしまったらそこで全てが終わりだ。
 ゆっくりと剄で出来た針を動かし、微妙な曲線を描く。
 描くのは人の眉毛。
 眉毛の一本一本を精密に繊細に、そして何よりも写実的に描く。

「暇なんだな」
「話しかけないで」

 レイフォンの部屋に来て恐るべき本の山に果敢に挑んでいたウォリアスが、暇そうに声をかけてくるが、それに応えるだけで僅かな揺らぎが生まれてしまうくらいに繊細な作業なのだ。
 レイフォンがここまで剄の制御に手こずることなど滅多にないのだが、相手が相手である以上しかたがない。
 そう。レイフォンが必死の努力で描いているキャンパスは卵の殻。
 メイシェンとミュンファがお菓子作りに使った卵を拝借して使っているのだが、満足行く作品に仕上げることが出来ていないのだ。
 絵画の世界は奥が深いと言うべきなのか、それともキャンパスに致命的な問題が有るのか、どちらだろうか?
 あるいは、レイフォンが剄を制御する能力がまだ足りていないのだろうか?

「奥が深い」
「お前の暇さ加減がそろそろ限界だな」
「・・・・。朝は忙しいんだよ。サヴァリスさんの相手で」
「そうかい」

 本を読んでいれば満足してしまう怪生物であるウォリアスには理解できないだろうが、レイフォンはレイフォンなりに色々と大変なのである。
 暫く前のように下着泥棒に間違われてしまうことだって有るのだ。
 暇を持てあましているから卵の殻を使って剄の訓練をしているわけではないのだ。

「勉強をするという選択肢は存在していないのか?」
「ウォリアスが熱心だから僕はやらなくても良いかと思って」
「確かに僕はレイフォンの教育に熱心だけれど、それはレイフォンがきちんとやってくれなきゃ意味がないんだけどね」
「・・。努力してみるよ」

 そう言いつつ、卵の殻を削る作業に戻るレイフォンだった。
 サヴァリスが気まぐれを起こしてシャンテとゴルネオで遊んでいる今は、久しぶりに訪れた平穏なのだ。勉強をしたいとは思わない。
 
 
 
 
 
 突き入れられた攻撃を何とか弾きつつ、左手に持った拳銃で零距離射撃を試みようとした瞬間、身体の回転を止めなかったニーナの回し蹴りが側頭部に迫っていることを認識した。
 咄嗟に屈み込み、逃げ遅れた後ろ髪が何本か切り飛ばされるのを感じつつ、横へと高速移動して間合いを開く。
 いや。間合いを開けようとした。
 だが、そんな事をニーナが許してくれるはずもなく、シャーニッドが移動しただけの距離を移動して相変わらず目の前で双鉄鞭を振りかざしている。
 その暴風のような破壊力と速度は今年度が始まった頃に比べて格段に大きく、何よりも鋭さをもって首筋へと迫る。
 本来、これは明らかにシャーニッドが不利な状況だ。
 接近戦専門のニーナと、遠距離からの狙撃が専門のシャーニッドが、相手の呼吸が分かる程の至近距離でそれぞれの武器を振り回している以上、勝ち目など有るはずがないのだ。

「ま、まったぁぁ」

 たまりかねて中止を呼びかける。
 これでもし、シャーニッドがなにやらいかがわしい事をしてしまっていたのがニーナにばれていたのならば、明らかに病院送りとなっただろうが、今回そんな凄惨な地獄絵図は回避され、首筋のすぐ側で鉄鞭は急停止する。
 もう少し日頃の行いに気をつけていれば要らない緊張をする必要はなくなるのだが、それを止めることはシャーニッドの人生が変わることを意味するために断じて出来ない。
 まあ、それは置いておくとしても、乱れきった呼吸を整えつつへたり込んだ状態から元気溌剌なニーナを見上げる。
 アルフィス戦での指揮で何か思うところがあったのか、最近これほど激しい接近戦の訓練はなかったのだが、何かあったのだろうかという疑問と共にニーナを見上げる。

「もう少し粘ってもらわなければ、私の鍛錬にならないだろう」
「レイフォンとやってくれよ。俺は長距離支援担当なんだから」

 普通に考えるのならば、鍛錬と言うからには当然のこと自分よりも強いレイフォンを相手にするはずだ。
 だと言うのに相手に選ばれたのはシャーニッドである。
 そこに何か作為を感じるのは気のせいだろうか?

「レイフォンは今日は使えん。何でも剄の訓練を一日かけてやるんだとか言っていた」
「あ、あいつが一日かけて剄の訓練?」

 レイフォンと言えば、剄の総量は元より、その使い方一つに至るまで規格外の能力を持っている。
 廃都市探索の際に見せつけられた、剄を使わない技量の凄まじさも手伝って、もはや無敵ではないかと思える程のレイフォンが、一日かけて剄の訓練をするなどという事実が恐ろしい。
 明日になったら、どんな技を披露してくれるのか分からないという、芸人に対する期待半分の恐ろしさだが。
 それはさておき、問題は目の前で元気溌剌にしているシャーニッドの隊長さんだ。

「ゴルネオ先輩ならサヴァリスさんとの訓練の最中、シャンテが移動販売のパン屋を追いかけて行方不明となったとかで、第五小隊総出で探している」
「ああ」
「ナルキは都市警の仕事でダルシェナはディンを病院送りにしてしまったとかで付き添っている」
「うう」

 ディンがどんな理由で病院に送り込まれたかは聞いてはいけない。
 もしかしたら武芸者的な理由かも知れないが、普通に考えて男女の仲的な原因であるはずだからだ。
 そんな詮索はどうでも良いとしても、シャーニッドは誰か他の羊を探さなければならない。生け贄として差し出すために。
 だが、ニーナが親しくしていて訓練に付き合ってくれそうな人達は他の用事で忙しいらしい。
 つまりシャーニッドだけ。
 いや。一人だけいる。

「シン隊長は」
「いや。あの人は来ると後が厄介だから」
「同意する」

 ニーナに駄目出しを食らってしまったシンだが、その気持ちは十分に分かる。
 この世に暗黒を振りまくための修行とか言い出されたら、さしものニーナだって引いてしまうだろう。
 特に最近は、あちら側への傾倒が激しくなってしまっているから。
 と言う事で。

「さあシャーニッド。もう一戦しようじゃないか」
「な、なあニーナ?」
「なんだ?」

 いやが上にも張り切りまくるニーナに危機感を覚えたので強制的にその行動を中断させる。
 残念なことに停止させることはおそらく出来ないのだが。

「もしかして、俺をストレスの解消に使ってないか?」
「そんな事はない!!」

 断言しているはずだというのに、何故かそこに迫力はない。声は大きいのだが腹の底に響かない。
 それはつまり。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「そ、そんな事はないぞ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「い、いや。ないと、おもうぞ」

 沈黙で押してみると、突端に勢いが無くなってしまう。
 それはつまり、回転数だけ速くて馬力がないと言う事。

「・・・。実を言うとな」
「なんだ?」
「私は指揮官には向いていないのではないかと、この頃そう考える時もあるのだ」
「・・・。あのなぁ」

 へたり込んでいたシャーニッドだが、その場で更に脱力する。
 よりにもよってニーナからこんな台詞が聞けるとは思いもよらなかった。
 だが、これはある意味ニーナらしいと言えるかも知れない。
 取り敢えず走り出してから考えるという、少し前のニーナの行動パターンからしたら納得の結果である。
 そして、第十七小隊を立ち上げた頃はまさに走り出してから考えるニーナだったのだ。

「アルフィス戦で指揮を執ったのだが」
「シン隊長を指揮下に置いたアレな」

 あのシンを指揮下に置いたのだ。
 去年までのニーナの上司であり、自分の小隊を作りたいと抜けたにもかかわらず暖かく接してくれた、と言う事もあるだろうが、おそらく最近のシンの傾倒ぶりがニーナに負担をかけたのだろう。
 何時何処で何をするか分からないという不安に苛まれたに違いない。

「指揮をしている時よりも、アルフィス武芸者と拳を交えていた時の方が遙かに生きていることを実感できた」
「まて」

 その言い方は、レイフォンの元同僚の変態武芸者と何ら変わらない物のように思えて、慌てて中断させた。
 そして一呼吸して思考を再開させる。
 ニーナは戦闘が好きなのではなく身体を動かすことの方が性に合っているのだ。と、そう結論付ける。
 と言うか、そう結論付けた。

「続きをどうぞ」
「うむ。結論だけ言うと私は指揮官には向いていないのではないかと言う事になるのだが」
「・・・・。成る程。説得力があるな」

 ウォリアスのように極端に知識や思考に重心を置いている武芸者もいるし、レイフォンのように剄や身体を使うことしかできない武芸者もいる。
 そしてニーナは、どちらかと言うと剄と身体を使いたい武芸者だと言うことになる。
 そこを批判するつもりもないしその必要もないと思う。
 失敗はあったが、最低限やるべき事はやって来ているのだから、それで十分だと思うからだ。
 そして何よりも、ニーナはそんな自分を認識して対応しようと足掻いてるのだ。
 とは言え。

「去年の内にそれを認識してくれていれば良かったというのは、欲をかきすぎているのかねぇ?」
「指揮官という物が大変だと言う事に心と身体が気付いたのは、アルフィス戦でのことだったからな」
「だよなぁ」

 良くも悪くも、ウォリアスという変人がやってきたことでニーナは色々と変化を始めているのだと改めて認識する。
 結成してしまった第十七小隊をどうするかとか、この先のことは色々と問題だが、ニーナの変化を見続けることはそれなりに楽しいことのように思う。
 だが、現実という奴はシャーニッドの楽しみを奪ってしまうのだった。

「さてシャーニッド」
「・・・・・・。なあ、ニーナ」
「もう少し付き合ってくれ。せめて他の誰かの時間が出来るまで」
「・・・・・・・・・・。ハンデくれるか?」
「鉄鞭を片方使わないというところでどうだ?」
「それなら何とか」

 最終的にシャーニッドは日暮れまでニーナに付き合うこととなるのだと確信した。
 だが、レイフォンと同じように世の中はシャーニッドを不幸にするために存在するのではないかと、そう疑いたくなる事態がいきなりやってきた。

「もし良かったら」
「え?」
「げ!!」

 とても清々しい声と共に、シャーニッドはすぐ後ろに人の気配を感じた。
 レイフォンはこんな声はしていない。
 そして、何時の間にかすぐ側にいて、声をかけられるまで気が付かないほどの達人である。
 振り返らずともその正体は分かる。
 這い寄る混沌。
 突き進む戦闘狂。
 忍び寄る恐怖。
 もしくは、そこにある絶望。
 あるいは、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンス。

「ゴルの奥さんが食べ物に吊られていなくなってしまってね。僕が探しても良いんだけれど、それじゃあ訓練にならないだろうと思ったんだけれどね。とても暇だったんだよ」

 つまり、シャンテの居場所は分かっているが、探すという行為も修行だと認識したのだろう、サヴァリスは。
 だからこそ、あえて手を出さずに見ているだけだったのだが、それでも暇であることはどうしようもない。

「そんな時に、近くでとても良い感じの剄の流れを感じたので来て、見ていたんだよ」

 いつからという質問をしてはいけない。
 それは恐らく無駄だから。
 問題なのは、シャーニッドが生きて今日を終えることが出来るかどうかだ。

「二人掛かりでなら、僕の退屈を少しは潰してくれると信じているよ。でも手を抜いては駄目だよ? そんな事をしたら、間違って殺してしまいたくなるかも知れないからね」

 それは、間違ってとは言わないが、そんな理屈はこの人外魔境には通用しない。
 通用するのはただ一つ。

「行くぞシャーニッド!! こいつをここで止めなければ我々人類に未来はない!!」
「どんな未来だよ!! むしろ俺達の明日だ!!」

 全身全霊。死力を尽くして満足して頂いて、お帰り頂く。
 それ以外に出来ることなど存在していないのだ。
 地獄が始まった。
 
 
 
 
 
 最近にしては珍しいことだが、これでもかと降り注ぐ日差しを浴びつつリーリンは歩いていた。
 別段外出するなら夜中と決めている訳ではないが、それでも最近は何故か日の当たるところへ出ることが少なくなっていた。単純に授業の都合で夕方になってからしか買い物に出なかっただけだが。
 一緒に歩いているのはメイシェンとミィフィだ。
 一時期メイシェンにどう接して良いか分からなかった時期もあったのだが、その頃はツェルニ中が異常事態だったためにそんな事もあったという程度の認識で終わってしまっていた。
 本来ならばリーリンは自分と向き合ってメイシェンとの接し方を決めなければならないのだろうが、喋る汚染獣が出てきた辺りでそんな事はどうでも良くなってしまった。
 今をきちんと生きることの方がより重要だと、そう考えたからだ。
 それはメイシェンも同じようで、出来うる限り以前の通りに接しようと努力していることが伺える。とてもぎこちないが努力していることは十分に分かるので気が付かないふりをしている。
 実を言うと、それ以上にリーリンは自分が変わってしまっていることに気が付いていた。
 今も、周り中に顔だけの連中が歩き回っているのに、リーリン以外は誰も気が付いていないことなどが象徴的だろう。
 いや。顔だけだから歩き回れないのだが、取り敢えず自立的に移動しているのだ。

「あれって、なんだっけ?」
「どれ?」

 そんな緊迫していれば良いのか悪いのか分からない空気を動かしたのは、当然のことミィフィだ。
 何か恨み節を呟きつつ眼球になって消えて行く顔達から視線を動かし、ミィフィの差している辺りを見詰める。
 そこに見えたのは、タワーリング・インフェルノ。
 まさに聳え立つ地獄。
 隣を歩くメイシェンの鼓動が一気に速く激しくなったのが分かった。
 それはリーリンも同じだ。

「にひひひひひ」

 そしてミィフィは既に全力疾走状態である。
 レイフォンの無様な姿を紙面に載せるための策謀であることは分かっているが、それが分かっていたとしても止まることなど出来るはずはない。
 そう。そこには聳え立つ地獄があるのだ。
 高さ五十メートルはあろうかというその地獄へと、足を向ける。
 いや。その前にやることがある。

「レイとんなら、今日は一日部屋で剄の訓練だって」
「なんて不健康なことを!!」
「そうだよ! 外で遊ばないと駄目だよ!!」

 その前にレイフォンを連れ出さなければならない。
 メイシェンと二人、心を合わせレイフォンを絶叫マシーンへと誘わなければならない事実の前には、口実などどうとでもなる。
 ならばもうやるしかない。
 頷き一つ交わして、レイフォンが訓練しているはずの部屋へと移動するのだった。
 
 
 
 
 
 メイシェンとリーリンをそそのかしてレイフォンを犠牲の羊にしようとしていたのだが、その計画は脆くも崩れ去ってしまった。

「いない?」

 そう。当のレイフォンがいないのだ。
 これでは全ての計画が台無しである。

「さっき、お棺が走っているとか言って出て行った」

 レイフォンの部屋にいたのはグレンダンからの凶暴な使者でもなく、幸せに浸りきっている読書愛好家だった。
 その細い眼を限界まで細くしてハードカバーの本を延々と読み続けている姿は、とても幸せそうに見えるが、とてつもなく不健康に見える。
 それ以上に、お棺が走っているという表現自体に問題が有ると思うのだが、ウォリアスはそんな事は気にしないのだろう。
 レイフォンが逃げるための口実であることは理解しているようだから。
 そして、自分が犠牲の羊になることは全く考慮していないようだから。
 ならば話は簡単である。

「仕方が無い。ウッチンよ」
「うん? 最近出来たタワーリング・インフェルノ?」
「・・・・・。平気な人?」
「愛好家って事はないけれど、割と平気な人」
「っち」

 残念である。
 せめてウォリアスの情けない姿を見たかったのだが、それさえも無理であることがはっきりとしてしまった。
 仕方が無いと目的の一つは諦めることとする。
 そう。目的は二つ。
 二つ目となる目的こそが実は主である。
 何故か不明だが、最近リーリンの様子がおかしいのだ。
 どことなく印象が変わったことは、多くの人が認めるところだろうが、実は他にも変わったところがある。
 時々ではあるのだが、リーリンの視線が険しくなる。それも何故か右目だけ。
 原因はなんだろうかとずっと考えていたのだが、全く思い付かなかった。レイフォン絡みという訳でもなさそうだった。
 そして今日はっきりしたのだが、右目が険しくなる時リーリンは辺りを睨んでいるのだ。
 それはもう、ゴキブリに包囲されていたらこんな顔をするだろうという程に凄まじく嫌悪に満ちた表情で。
 それを認識したからこそミィフィはあの場所で話題を持ち出したのだ。
 せめて、一時しのぎだったとしてもリーリンの注意を見えないゴキブリの大群からそらすために。
 その目論見は成功を収め、ずいぶんと何時ものリーリンに戻っている。

「最近レイフォンの奴付き合い悪いわよね?」
「遊びに行こうって言うと何故か逃げるよね」

 メイシェンとリーリンの会話を聞きつつ思う。
 絶叫マシーンが苦手な人間を散々連れ回しているのだから、苦手に思われるようになるのは当然なのだと。
 思わずレイフォンに同情してしまうが、もしかしたらと想像の翼をはためかせて遙か遠くへと旅立つ。
 絶叫マシーンが原因で、メイシェンとレイフォンが破局に突き進むのではないかと。
 そうなると誰が得をするだろうかとも考える。
 同じ絶叫マシーン愛好家のリーリンではない。
 絶叫マシーンなどという恐怖の大王とは縁もゆかりもない人物であるはずだ。
 そこまで考えた時、両肩に何か暖かい物が触れていることを認識した。
 いや。暖かくない。むしろ冷たい。
 身の毛がよだち背筋が凍り魂が凍てつき、身体が全く言うことを効かない程に冷たい。

「え、えっと?」

 言うことを効かない身体に鞭打ち、そしてミィフィを凍り付かせている何かを探るために首を回す。
 実際には探る必要などないのだ。
 この部屋には四人しかいない。
 だが、それでもそれを見ようとしてしまったのは、ある意味恐い物見たさだったのかも知れない。
 そしてそれは見えた。

「もしかして、私を誘っていたりしますか?」
「一緒に逝こう」
「きっと楽しいよ」

 絶叫マシーン愛好家である二人の少女の手が、自分の肩におかれているという事実を前に何をどうすれば良いのだろうか?
 何かをどうにか出来るはずなど無い。
 迫り来る、恐怖の大王の前に骨までしゃぶり尽くされて、塵さえ残らないだろう。
 それこそがミィフィの運命である。

「逝ってらっしゃい。僕は本を読むので忙しいからね」
「ううっちんよぉぉ」
「明日学校で会おうね」
「うっちぃぃぃぃぃぃん」

 ここに用はないとばかりに、力強く引きずられる自分の身体を認識しつつミィフィはウォリアスに助けを求めたが、なんの役にも立たないことは分かりきっていた。
 そう。ミィフィこそが二人の前へと差し出された生け贄なのだと。
 最近、ウォリアスに関わると自爆することが多いと気が付いたが、既に後の祭りである。
 



[14064] 第十話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/12/10 16:40


 朝食の支度をしながらもリチャードに隙は存在していなかった。
 眠っている時でなければ、武芸者ならば確実に捉えることが出来る。
 時間的な問題が有るとは言え、それは何処のどんな武芸者でも変わりはない。
 であるからして、後ろを振り返ることなく包丁をもった右手をそのままに、左手でホークを二本後ろに向かって投げつける。

「っきゃ!」
「どわ!」

 何時も通りやや可愛らしい悲鳴と、色気が全く存在していない悲鳴を聞いて、安息の日は訪れないのだと理解した。
 だが攻撃はこれで終わりではない。
 避けられた二本のホーク目がけて更に二本を投げる。
 それぞれが先を行くホークに激突して急激に軌道を変化。

「あう!」
「でえ!」

 二人の後頭部へとそれぞれが突き刺さった。
 無駄な技量を身につけたと思わなくもないのだが、これをやらないとリチャードの精神的な平穏が維持できなくなりつつあるのだ。
 つくづく不幸な展開だと思う。
 レイフォンさえいてくれたのならばと何度思ったことか。

「あ、相変わらず凄まじい技量を見せつけてくれるじゃないリチャード。天剣を上げましょうか?」
「武芸者でないのがとても惜しいと思います。剄脈さえ有ったのならば私も天剣に推挙しているところでしょう」
「・・・・。俺を殺したいのか、お前らは?」

 ヴォルフシュテインが空位なのは知っているが、武芸者だったとしても手に入れようとはとうてい思わない地位である。
 よくもまあ、レイフォンはあんな連中と付き合っていられたと感心するような変態どもである。
 遠くから観察していたら面白いかも知れないが、近くで付き合いたいとは絶対に思わない。
 だが、現実としてリチャードは天剣授受者や女王と付き合ってしまっているのだ。

「兄貴さえいてくれたら」

 そう思うことは度々だが、それでも朝食を作る手は全く止めない。
 自動的とさえ言える感覚で作り続けるのだ。
 だが、思わず口をついて出てしまった言葉に反応する人間もいるのだ。

「レイフォンごときがいてもなんの役にも立たないと思うけれど」
「レイフォンはヘタレでしたからね。陛下の襲来を知ったら逃げると思いますよ」
「・・・・・・。だよなぁ」

 いざ戦いとなれば人格が入れ替わったかのような強さを発揮するのだが、それは日常生活で使われることはない。
 あるいは、日常のレイフォンこそが本来のレイフォンであり、戦場に出ている時は本当に人格が入れ替わってしまっているのかも知れない。
 それならば、変態集団の一人として十分に素質があることになる。

「・・・・・・。おやじ。惚けてねえで飯にするぞ」

 だが、あまりにも自分の想像が恐かったために強引に話を横へとずらせる。
 こちらも問題のある養父に向かって話を曲げたのだ。
 話を曲げる先も、やはり問題が有る人物だというのも不幸の一部であるかも知れないが、それでも話を曲げる。

「ああ。今日の天気はどんな塩梅だ?」

 最近めっきりと老け込んでしまったデルクに声をかけるが、何時も通りかなりずれた返事が有っただけだった。
 だが、こんなデルクも道場に立てば今まで通りに教えることが出来るのだから世の中不思議だ。
 いや。あるいは、レイフォンと同じように人格が入れ替わってしまっているのかも知れない。
 ならば、デルクこそがヴォルフシュテインを得るに相応しい武芸者と言うことに。

「・・・・・・・・・・・・・」

 そんな恐怖と共にあるとは言え、リチャードの手は休み無く動き朝食が完成されたのだった。
 
 
 
 
 
 リチャードのところで何時も通りに朝食を摂り、更に午前中一杯ゴロゴロして過ごしたアルシェイラだったが、それでもやるべき仕事という物は確かに存在している。
 暫く前に奥の院に入り込もうとした曲者をバーメリンに退治させた後始末 とか、先日カウンティアとリバースが取り逃がしてしまった老性体に名前を付けなければならないこととか、色々と仕事はあるのだ。
 仕事は確かに存在しているのだ。

「たいくつぅぅぅぅ」
「仕事して下さい」

 愚痴を言った途端に書類仕事をしているカナリスに怒られた。
 その気持ちは分かるのだ。
 何しろ、アルシェイラがするべき仕事を殆どカナリスがやってくれているのだ。リチャードの朝ご飯を食べ終えたら即座に王宮に戻り、書類仕事をしてくれているのだから、いくら感謝してもしたりると言う事はないだろう。
 ないのだが。

「だってぇぇ」
「語尾を伸ばさないで下さい」
「だぁぁってぇぇぇ」
「語尾以外も伸ばさないで下さい」

 人類最強武芸者であるアルシェイラに書類仕事などやれるはずがないのだ。
 サインをするだけの簡単な仕事だったとしても、書類などと言う軟弱な紙で出来た物を持つことは不可能なのだ。
 シフォンケーキを、ホークを使って食べられるが、書類の紙を持つことなど出来ようはずが無いのだ。
 それに疑問もある。
 グレンダンが進路を変えないのだ。
 それはそれで何ら問題無い。
 セルニウムの補給は数ヶ月やらないで済むくらいの備蓄があるし、戦争になったとしても、その辺を歩いている都市ごときに負けるはずはない。
 何ら問題はないのだが、疑問なのである。
 鼻の穴をほじりつつ考えるくらいには疑問なのである。
 そんなアルシェイラを見かねた訳でもないだろうが、書類の決裁を一通り終えたカナリスがなにやら封筒を取り出して差し出してきた。
 一目でどこから来たものかが分かる類の封筒である。

「そうそう。リチャードからこれを預かってきました」
「なになに? もしかして愛の告白? それとも私と結婚したいとか?」
「違います。なにやら手紙のようですが」
「ラブレターね!!」
「三行半かも知れません」

 アルシェイラもカナリスも、自分達の言っていることが間違っていることは理解している。
 なんの変哲もない封筒は、明らかにグレンダンの外から来た物だった。
 幾つもの都市を経由して、遙々ここまでやって来たその封筒からは微かにリーリンの匂いがする。
 もしかしたらリーリンからの愛の告白かも知れないと期待しているが、そうでは無いだろう事も分かっているのだ。
 多少残念ではあるが。
 取り敢えず、いつまで経っても話が進まないのはよろしくないので、受け取って開封し、そして凍り付いた。

「・・・・・。カナリス」
「はい陛下」
「ツェルニまで行ってくるから」
「却下です」
「その間の執務は頼んだ!!」
「リチャードのご飯が二度と食べられませんよ?」
「うごわ!!」

 却下という言葉を無視して執務室を出て行こうとしたアルシェイラだったが、そんな事を許すほどカナリスは甘くなかった。
 しかも、よりにもよって、リチャードのご飯を人質に取るなどと言う卑劣極まりない方法でアルシェイラの行動を妨害してきたのだ。
 いや。ご飯だから人質ではないのだろうか?
 どちらにせよ、カナリスが卑劣で狡猾で更には卑怯であることだけは間違いない。
 だが、そのカナリスを何とか説き伏せなければならないのも事実だ。
 そうでなければ、グレンダンの執務が溜まり続け、最終的に全てアルシェイラの元に返ってくることになってしまうから。
 であるからこそ、何とか事態を動かさなければならない。
 と言う事で、雑誌の切り抜きをひらつかせてカナリスの気を引こうと努力してみる。

「カナリス? これを見ても私の気持ちが分からないと言うつもりか?」
「中身はリチャードに見せてもらいました。昨夜」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。そ、そう」

 手紙の内容もそうだが、昨夜こっそりと逢っていたことに驚いたアルシェイラは、もうツェルニまで行く気力を失っていた。
 人類最強の武芸者とはいえ、所詮人に違いないのだと改めて認識した瞬間だった。

「えっとねカナリス」
「なんでしょうか陛下?」
「気にならない? これ」

 そう言いつつ手に持っている雑誌の切り抜きを示す。
 そこには、精神的にボロボロになっていることが十分に分かるサヴァリスの姿と、そこに至った経緯が事細かに書き連ねられていた。
 表題は、グレンダン恐るるに足らず!!
 誠に残念なことではあるのだが、この雑誌を見ただけで天剣授受者への恐怖や敬意が吹き飛んでしまうことは間違いない。
 これが二年前にアルシェイラの手元にあったのならば、レイフォンは未だに天剣授受者として君臨していたかも知れないと思えてくるから不思議だ。
 だが、今問題になっているのは衰えたとは言えアルシェイラの中で燃え盛っている好奇心の方である。

「興味は引かれます。レイフォンだけならまだしもサヴァリスがそのような姿になったとなれば、天剣授受者の素質が疑われかねません」
「そしつねぇ」

 アルシェイラ自身が任命した以上、その素質には自信がある。
 性格も人格も過去も出身地も関係なく、ただ強さのみを基準として集められたのが天剣授受者である。
 結果的に人格破綻者がとても多くなってしまったが、それはあくまでも結果であって選考基準とは何ら関係ない。
 いや。関係ないはずだ。

「絶叫マシーンなる謎の乗り物がどれほどの物かは分かりかねますが、乗り物ごときで天剣授受者が戦闘不能になるなど言語道断。そう言われてしまった場合の対応を考えておきませんと」
「それは有るわね」

 天剣授受者とは何か? それは汚染獣を駆逐するための武芸者である。
 そして、グレンダンの目的を達成するための戦士達である。
 その、人類最高水準の天剣授受者が二人も絶叫マシーンに挑み敗北したのだ。
 この事実を放っておくことには少しだけ問題が有る。

「ねえねえカナリス?」
「却下です」
「グレンダンにも絶叫マシーンを作って」
「予算がありません」
「武芸者全員を乗せてみたら良いんじゃないかな?」
「一体どれだけの時間がかかると思っているのですか?」
「もしかしたら、ヴォルフシュテインを持つに相応しい奴が見付かるかも」
「絶叫マシーンを基準にしないで下さい。そもそも、グレンダンには作るノウハウがありません」
「う、うぅぅぅむ」

 他のところは力ずくでどうにかなるが、全く未知の乗り物を作ることはとてつもなく難しい。
 出来たとしても、それはツェルニにある物に比べれば遙かに質の悪い物になってしまうだろう。
 だからこそアルシェイラはツェルニに行こうとしていたのだ。
 いや。この考え方を少し修正すれば。

「サヴァリスを代金代わりに絶叫マシーンをツェルニから輸入すれば」
「巨大な建造物らしいですから、輸入するとしたら設計図ですね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 一日近く早く情報を得ていたカナリスは、既にこの結論に達していたのだ。
 であるならば、もっとこう、アルシェイラの希望を叶えるべく行動を起こしてくれていても問題無いのではないかと思うのだが、そう言う展開にはならない。
 これはもしかしたら、アルシェイラの女王としての資質に問題が有るのかも知れないし、カナリスの補佐官としての資質に問題が有るのかも知れない。
 いや。元を辿ればカナリスは確かアルシェイラの影武者だったはずだ。
 影武者である以上、本体の欲望を叶えるために奔走することこそが本分であるはずで。

「ちなみに」
「な、なにかな!!」
「影武者とは身代わりであって自立行動端末ではありませんのであしからず」
「そ、そうですよねぇ」

 完膚無きまでの敗北だった。
 
 
 
 
 
 カナリスに敗北したアルシェイラだったが、当面の仕事を押しつけることには成功したために気晴らしのために町へと出てきていた。
 気晴らしをする必要があったのかという疑問は持ってはいけない。
 いや。頭脳戦で敗北したことで鬱憤が溜まっているから気晴らしに出たと言う事も出来るかも知れないが、それはなんだかとても敗北感を刺激する思考である。
 そんな事を考えていたのは、実は一瞬前までの話である。
 思い返せば、カナリスに仕事を押しつけてから既に数時間が経っている。
 グレンダンは既に夜へと突入して、あちこちにある街頭がほのかな光を路面へと投げかけている、そんな時間になっている。

「!!」

 思わず建物の影に隠れる。
 直線距離にしておおよそ二キルメルトル。
 気まぐれに活剄を使っていなかったら決して見える距離ではなかった。
 小高い丘の上に立っていなければ、活剄を使っても見ることは出来なかっただろう。
 それは、仲睦まじい男女の姿に見えた。
 一緒に歩くと言うには距離が近すぎ、身体が触れるには遠すぎる距離だ。

「どどど、どうしよう」

 女王とあろう者が慌てる。
 アルシェイラ・アルモニスが、建物の影に隠れ気配を殺し、そして思考がまとまらないという恐るべき事態へと叩き落とされた。
 見えたのは、うら若い女性と、若いと言うには後何年か必要な少年の二人だ。
 ぶっちゃけカナリスとリチャードだ。
 ご飯でお世話になっているリチャードと、仕事でお世話になっているカナリスだ。
 この二人がとても仲睦まじい雰囲気で歩いている姿を見つけてしまった。
 明日になったら二人をからかうネタにするなどと言う事まで考えたが、そんな事をしたが最後、美味しい食事と便利な影武者を失うことになりかねない。
 ならばどうするか?

「こ、ここは情報収集をすべきよ!!」

 拳を握り自分に気合いを入れる。
 横を通りかかったおじさんが驚いて仰け反っているが、気にしている暇など無いのだ。
 そして活剄の密度を上げて二キルメルトル先の音を拾う。
 デルボネに頼めば簡単なのだが、何となく自分の力でやってみたくなったのだ。
 普段殆ど使わないから、たまには使わないと錆び付くかも知れないとそんな理由を付けて、活剄の密度を上げる。

「明日の朝食の材料はもう手配済みですか?」
「ああ。明日は学校がないから少し手の込んだ物を造るつもりなんだが、希望とか有るか?」
「そうですね。フレンチトーストなど食べてみたいと思います」
「? 普段食べないのか?」
「一応良家なのでもう少し手の込んだ物が出てきてしまうので」
「天剣授受者って、食事にはあんまり気を遣わないのかと思ってた」
「リンテンスやサヴァリスは気を遣っていませんが、私は違います」

 聞こえてきたのは、とても普通の会話だった。
 いや。喋っている人間は特別だが、内容はとても普通だった。
 この事実が更にアルシェイラを混乱に導く。
 いや。むしろ叩き込む。

「シノーラがもう少し手加減してくれれば、俺の負担は減るんだけれどなぁ」
「あの人の辞書に手加減なんて言葉はありませんからね」
「だよなぁ」

 とても仲睦まじい会話のさなか、アルシェイラのことが話題に上った。
 しかも、双方とも愚痴を言っている。
 この事実をどう処理したらよいか皆目見当がつかない。
 だが、現実は容赦なく突き進み、買い物をした二人がサイハーデンの同情の側へと到着する。

「こ、これは!!」

 ラブシーンである。
 ラブシーン以外あり得ない。
 ラブシーンがなければおかしい。
 ラブシーンがなければこの都市を破壊しよう。
 徐々にヒートアップするアルシェイラのことなどお構いなしに、恐るべき事が起こった。

「では明日の朝参ります」
「ああ。フレンチトーストは楽しみにしていてくれ」
「毎朝楽しみにしていますよ」

 軽い挨拶を交わした二人は。
 何の躊躇いもなく、ラブシーンもなく、それどころか手を振ることさえなく別れてしまった。

「え? あ、あの? おぉぉぉいぃ?」

 アルシェイラの困惑など知らぬげに、いや。実際に知らないのだろうが、二人はあっさりと別れてしまったのだった。
 残ったのは、この中途半端な展開をどう処理して良いか分からずに、八つ当たりでグレンダンを破壊するべきかどうか迷っているアルシェイラのみ。
 もはや、進路を変えないことなどどうでも良くなってしまった。
 それどころか、生きて行く気力が著しく欠乏してしまったような気分だ。
 アルシェイラの周りに集まっていた野次馬を無視して、今夜はやけ酒を飲んで寝ようとふと頭に浮かんだので、都市の破壊を放り出してしまうこととした。
 散々な体験であった。
 
 
 
 
 
 ツェルニの養殖湖、その側にある木の上で惰眠を貪っていたディックだったが、ふと何かの気配を感じて覚醒した。
 それはもしかしなくても、何時もの狼面集の気配であることだけは間違いないが、今のツェルニは大変危険な場所であることを彼らは知らないのだろうかと疑問にも思う。
 ここには現役と元の天剣授受者がいるのだし、ディックの生物兵器だっているのだ。
 それ以外にも、なにやら規格外の生き物が多数居るらしいツェルニにやってくるとは、よほどの物好きであると断言できてしまう。

「それは俺もか?」

 自分の意志で来たわけではないにせよ、結果だけを見れば確かにディックもここにやってきている。
 ならば、このツェルニでこそ何かが起こるとそう考えた方が良いかもしれない。
 この考えに至ったので、ゆっくりと身体を動かしてみると天剣授受者の攻撃で炭化していた足はほぼ完治していた。
 炭化した怪我が寝ているだけで治ってしまう身体というのもどうかと思うが、便利であることに変わりはない。
 それはさておき、狼面集はディックには興味を示さない様子なのは少し有難い。

「いや。何を企んでいやがるんだか」

 ここにはディックの飼い主がいるのだ。
 どうこうされるとは思わないが、それでも少しだけうっとうしい。
 巻き込まれるのが面倒になりつつある今日この頃だが、突如としてそんな思考は吹っ飛んだ。

「!!」

 汚染獣襲来を告げるサイレンが鳴り響いたと思ったのだが、それが間違いであることはすぐに分かった。
 これは都市間戦争。武芸大会の相手が近くにやってきたことを告げるサイレンなのだと。
 だが、これで更に分からなくなった。
 武芸大会に介入してツェルニを敗北させると言う事も出来るかも知れないが、それで何か得をするというわけでもないだろうと思う。
 もしかしたら、ディックの知らないところで狼面集が儲かるのかも知れないとも考える。

「それは許せねえな」

 ディクセリオ・マスケインは強欲である。
 誰かが得をするのならばそれを奪って自分の物にしなければ気が済まない。
 相手が狼面集だったのならば、例え損をしてでもそれを奪わなければ気が済まない。
 この結論に達したディックは、活剄の密度を上げて治りかけの足の治療に専念するのだった。



[14064] 第十話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/12/17 14:04


 ファルニールと言う都市であると言う事は知った。
 過去の戦績は良くも悪くもなく、勝ったり負けたりしつつ今まで生き残ってきたらしい。
 つまり、特色のない都市である。

「さて、どうしましょうか?」
「決まっている。勝つ」
「それはもうそうですけれどね」

 特色がない都市というのが、実は一番厄介である。
 基本的な戦術が確立しているのだったら、それに合わせた反攻作戦を考え、それを破るための方法を幾つか予測し、その予測された状況に対応する戦術を用意する。
 最終的には、今まで考えて検証してきた財産の中から使う戦術を選ぶと言う事になるのだが、そのための指標が殆ど存在していない。
 いや。マイアスの時も同じような状況だったからさほど問題はないのだが、それでもウォリアスは愚痴の一つも言いたくなる。
 前回の武芸大会は楽だった。
 相手がどんな手で来るかが手に取るように分かっていたために、無駄なく戦力を配置して効率よく運用することが出来た。
 ある意味ランディーは鴨だったのだ。

「ああ。楽をするってこう言うことなんだ」
「お前だけ楽をしていたと言う事に気が付くべきだな」
「ごもっともです」

 戦略・戦術研究室にはウォリアスと上司であるディン以外誰もいない。
 誰もいないからこそ愚痴だって言えるのだ。
 だが、非生産的なことをやっていても、それこそ何かを生み出せるわけではない。
 気分を切り替えて基本的なところから考えようとした時、扉をノックしてヴァンゼとゴルネオが入って来た。
 それだけで部屋の空間が一気に小さくなったような感覚を受けるのはしかたのないことだろう。
 話の主題は当然のことファルニールについてだ。
 基本的に先に攻めるか、それとも先に攻めさせるかという選択からとなるが、ウォリアスはどちらかと言うと防御から反撃する方が得意であり、ディンは攻撃の方が好きである。
 そしてここで重要になるのは、どちらかと言うとツェルニ武芸者も防御の方が得意であると言う事だ。
 汚染獣と散々やり合ったために、どうしても守りを固めてから話を始めてしまうのだ。

「と言う事は今回も防御主体から始めた方が良いのか?」
「あまり防御を堅めすぎると思考がどうしても守りに偏ってしまう。汚染獣戦では問題無いだろうが、戦争を考えるとある程度の攻めは必要だろう」

 ヴァンゼとディンの話し合いは順調に進んでいるし、現在鉱山が三つあるツェルニには少しだけ余裕が有る。
 負けられない戦いではないと言い換えても問題無いだろう。

「では、今回は先制攻撃主体で話を進めて行こう」
「そのための戦術プランは既に構築済みだ。どれを使ってもかまわないがお勧めはこれだな」

 そう言いつつ、ディン必殺の戦術プランをヴァンゼに示す。
 これを叩き台に隊長が集まる会議で修正されることになるのだが、実はこれは殆ど有名無実化してしまっている。
 ディンとウォリアスで散々検討して、ゲームが好きな生徒を何人か雇って検証を済ませてしまっているので、殆ど修正できないのだ。
 伊達に都市運営シミュレーターは持ち込んでいないのだ。
 それでも、万が一という事態はあり得る、
 こちらの予想を超える戦術を駆使してくることがあったとしたら、それこそ天才的な参謀が向こうにいると言う事の証明になる。
 正直そこまで責任が持てないと思うのだ。
 と言うか、そんな天才と一度会ってゆっくりと話がしてみたい。

「分かった。今回はこの作戦案を基本とする」

 ウォリアスの蛇足的な思考を余所に、ヴァンゼが基本方針を決めて作戦会議の予備談合は終了したのだった。
 
 
 
 
 
 最終的にメイシェン達の襲撃をかろうじて退けることが出来たレイフォンだったが、その次の日には猛烈なミィフィの攻撃にさらされるという非常事態と遭遇する羽目に陥ってしまった。
 絶叫マシーンの神に捧げられる供物となるか、それとも茶髪猫に付け狙われるかの選択は過酷である。
 だが、それも武芸大会というイベントの前には大したことではないと自らを慰め、対応を考える。
 とは言え、もっぱら考えるのはウォリアス達なのだが。

「で、今回も僕は脇役?」
「そ。汚染獣の襲来とか、汚染獣の襲撃とか、汚染獣が押し寄せてくるとかがない限り、レイフォンの出番はないよ」
「汚染獣ばっかりだね」
「今年のツェルニは汚染獣に愛されているらしいからさ」
「・・・・。嫌な年ってあるんだね」
「まあ、僕は他の危険性を考えているところなんだけれど、取り敢えず今はのんびりしていな」
「他の危険性って?」

 もうすぐ接岸という時間になっても、当然のこととしてウォリアスは既に仕事を終わらせてしまっているし、今回もレイフォンに仕事はない予定なので無駄なお喋りが出来るのだ。
 ニーナやナルキは最前線で手ぐすね引いてその時を待っているし、フェリはやや後方でお菓子など摘みつつスクワットらしきことをしている。
 運動するか食べるかどちらかにした方が良いと思うのだが、とても恐くて言い出せないのだ。
 そんな周りはピリピリしているがレイフォン自身は緩み気味だったのだが、ウォリアスの危険発言はとても気になる。
 その危険は全てレイフォンに向かってくるような気がしているから。

「実はだな」
「う、うん」
「汚染獣はレイフォンを愛しているんじゃないかと、そう疑っているところで」
「・・・。誕生日のプレゼントだと思っているんだけれど」
「プレゼントをくれるって事は、汚染獣の神はレイフォンを愛していると言う事になるな」
「・・・・・・・・・・。その神様ってお供えすれば大人しくなるかな?」
「レイフォンの生首以外受け付けないとか言いだしたらどうするよ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。いや」

 それはそれは恐ろしすぎる懸念を呟かれてしまったレイフォンにしてみれば、完璧に他人事ではない。
 だが、そんな事有るはずがないのだ。

「あり得ないなんてあり得ないのは、僕が既に経験済みだよ。レイフォンの思考で」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 あまりの事実に沈黙を答えとした。
 答えないという答えを返していると言う事も出来るかも知れないが、そんな上品な沈黙ではないのだ。
 もし、ウォリアスの懸念が正しいとしたのならば、レイフォンに選択の余地など存在していないこととなる。
 全力で戦い、汚染獣の神を滅ぼす。
 この決意の中継点にあるのは、何時ぞやのハルペーとか言う喋る汚染獣であり、そのためにはどうしてもアルシェイラのところまで登らなければならない。

「絶望って本当にあるんだね」
「もしかしたら、死にかければ未知なる力に目覚めるかもよ?」
「サヴァリスさんが喜ぶから止めて」
「だよね」

 技量で剄量を補えるのは確かだが、それにも当然限界がある。
 アルシェイラとの間にあるのは、技量の限界を超えた剄量の差であり、それを埋めることは本来不可能のはずだ。
 そう。ナルキに取り憑いた廃貴族とやらの力を借りない限りは、越えられない壁であるはずなのだ。

「もしかして廃貴族って」
「汚染獣の神を滅ぼすために暴走しているのかも知れないって?」
「違うのかな?」
「神とやらがいるんだったら、ね」

 汚染獣の神が本当にいるとしたら、それを倒すことが廃貴族の目的だとしたら、ナルキの剄量が爆発的に跳ね上がってきているのにも頷ける。
 廃都市でレイフォンに取り憑いてくれたら良かったかも知れないと思えるくらいには、欲しい剄脈加速装置だと思う。
 だが、この思考は暫く後でウォリアスにでもやってもらうこととなった。
 武芸大会が始まるサイレンが鳴り響いたから。
 
 
 
 
 
 接岸部でファルニールの武芸者と対峙しているニーナの心は、実は今までに無いくらいに猛っていた。
 中隊規模の部隊を指揮することから解放され、手の中にあるのはレイフォンを除いた第十七小隊と、おまけでついてきている感じもあるナルキだけだ。
 とは言え、念威繰者であるフェリは当然のこと後方に待避させてある。
 そして、ここが最も重要なことなのだが、ニーナの前には味方がいない。

「武人の本懐であるな」
「何処の誰だよお前さんは」

 思わず呟いた一言に突っ込みを入れたのは、最近一緒にいることが多いシャーニッドだ。
 つい最近は、一緒に地獄巡りまでしてくれた。
 ニーナが何かすると、必ず反応をしてくれるという律儀さはもはや尊敬の域に達する程である。
 だが、そのシャーニッドに宿る剄も、ニーナほどではないにせよ猛っている。
 今回のファルニール戦、ニーナ達先陣の役目は兎に角相手に打撃を与えること。
 後続は必ず付いてくるから突撃と攻撃のみを行えと、作戦会議でそう決定された。
 ならばやるべき事はただの一つ。

「兎に角派手に暴れるぞ!!」
「それって、捨て駒って事じゃねえ?」
「そ、そんなことあるはずがないだろう!! きっとない!!」

 想像もしていなかったシャーニッドの突っ込みに動揺するが、そんな弱い自分を押しとどめる。
 今はやらなければならないのだと、そう自分に言い聞かせて剄を練り上げる。
 開戦直後の奇襲こそ必殺の作戦だと、そう確信する。

「・・・。いや。奇襲ではないのか?」
「強襲だろう。どう考えても目の前に敵がいるのに奇襲とかあり得ないだろう」
「あ、ありえないなどありえん」
「そりゃあ。理論的にはありかも知れないけど、実際問題どうなのよ?」
「・・・・・・・・・・・。ない」

 ニーナの手の中には奇襲攻撃など存在していない。
 もしかしたら、ディン達こそが奇襲攻撃を計画していて、自分達は本当に捨て駒なのかも知れない。
 この恐るべき想像が全身を支配しようとしたまさにその瞬間、開戦を告げるサイレンが鳴り響いた。
 ならばもう、考えることなど何もない。

「着いてこい!!」
「へーい」

 気の抜ける返事をしたのはシャーニッドだけだったが、他の二人は聞くまでもない。
 そしてニーナは一歩を踏み出した。
 一歩を踏み出したのならば、後は己を信じて全力の一撃を放つのみ。
 活剄衝剄混合変化 雷迅。
 青い稲妻を引き連れた一撃を放つ。
 鬨の声を上げようとしていたファルニール武芸者の真っ直中へと突っ込む。

(ん? 奇襲になっているのか?)

 こんな展開は予測していなかったのか、最前線部隊がいきなり崩れて数人が吹き飛ばされる。
 ニーナの意図とは少し違ったが、結果が全てだと割り切り雷迅の効果が無くなったところで旋剄を使って後退する。
 すかさずナルキとダルシェナが突撃を敢行。
 崩れていた部隊を混乱へと導く。
 そこへシャーニッドの連続狙撃が炸裂し、完全にファルニールの動きが止まった。
 勝った。
 接岸部の戦闘は間違いなく勝った。
 これを全体の勝利に結びつけるのはヴァンゼやディンの仕事であり、ニーナは兎に角派手に暴れることだと腹を決めて二激目の雷迅を放つ。
 混乱が収拾不能になったことを確認して、占有した場所へと後方部隊を呼ぶ寄せる。
 ここに簡易防御陣を引いて次の一撃で更に前へと進む。
 これこそがニーナ達に任された仕事なのだと言う事を確信しているのだ。
 
 
 
 
 
 ニーナ達の後方に控えていたゴルネオだったが、自分の出番が当分無いことを確認して複雑な気分を味わっていた。
 もちろん崩れるなどとは思っていなかったのだが、これほどまでにあっさりと敵陣を切り崩すとも思っていなかった。
 手こずって欲しいとは思っていないが、活躍の場が無くなったのは少しだけ寂しい。

「ごるごるごるごるごる」
「連呼するんじゃない。それと暴れるのは少し先の話だから少し落ち着いていろ」
「ぶぅぅぅぅぅ」

 ゴルネオ以上に暴れたい年頃のシャンテを押しとどめておくのがかなり面倒になりつつあった。
 シャンテ絡みの問題も複雑な感情を持てあましている原因の一端だろうとも思う。
 オスカーを始めとする小隊メンバーの視線が生暖かいのも、原因の一端だろうと思う。
 いつぞやのロリコン疑惑が晴れていないどころか、知らない間に噂が噂を呼び、ゴルネオはすでに鬼畜だというレッテルさえ貼られてしまっている有様だ。
 そう考えると、ゴルネオが感情を持てあます時には、たいがいにおいてシャンテが絡んでいると言う事となるのだが。

「・・・・・・」

 ここで思考を停止する。
 目の前の戦場へと意識を向ける。
 ニーナの率いる戦闘集団が陣地を構築してファルニール側に橋頭堡を確保した。
 そこまで進んで次の動作に備えるのが定石だろう。
 戦いの方向へと自分を押しやるために、ニーナの部隊との隙間を埋めるために前へと出る。
 今回は防御的な立場で部隊を運用するので、ゴルネオ自身を含めた全員を抑えなければならない。
 実を言うと、ニーナが苦労していた押さえるという行為がどれほど大変な物だったかを今堪能しているのだ。
 シャンテだけではない。
 マイアス戦で味を占めたのか、前回順当に勝ってしまったために出番がなかったためか、オスカーの目の色がなにやら怪しいのだ。
 斬獣刀を肩に担ぎ、とても良い笑顔でゴルネオに湿度の高い視線を向けている。
 そう。また、あれをやる機会が訪れることを期待しているのだ。
 そして、ツェルニが攻撃に出ている以上、今回あれをやる機会は必ずやってくるとオスカーは考えているのだ。
 そのために、全ての準備は整っていると、ゴルネオに視線を飛ばしているのだ。

(ああ、先輩。貴男も変わってしまったのですね)

 ツェルニにレイフォンがやってきて以来、変わらない人間はいないのだとそう思い知ることは多かった。
 サヴァリスでさえおかしな方向に暴走してしまっている。
 普通の武芸者でしかないオスカーならば当然のことかも知れない。

(いや)

 ゴルネオだけは変わらずにいよう。
 そう心に誓ったところで、何時もの重さが肩に掛かっていることを再認識した。

「・・・・・・・・・」
「どうしたんだゴル?」
「いや」

 シャンテは変わっていない。
 おかしな事だが、今年度になってもシャンテは変わらなかった。
 おそらく来年度になっても変わることはないだろう。
 そう考えただけで、心に平穏が訪れたのだった。

「い、いや」

 変わらなさすぎではないだろうかと考える。
 入学直後に会ってからシャンテが何処か変わっただろうかと考える。

「・・・・・・・・・・・・・」
「な、なんだごる? どうしてシャンテをそんな目で見るんだ?」

 変わらないと言う事が良いことなのかどうか、その結論を出すことは今は出来ない。
 もしかしたら、永遠に出来ないかも知れないが、それでもゴルネオは今を生きているのだ。
 今何をやらなければならないのか?
 武芸大会に勝つことだ。
 ツェルニの保有する鉱山は現在三つ。
 ここで負ければ二つになる。
 それは、余裕の減少を意味する。
 それは断じて避けなければならない。

「取り敢えず勝つぞ」
「お、おう」
「任せてもらおう隊長」

 既にやる気満々のオスカーが一歩前へと出る。
 丁度ニーナの部隊が一息つくために防御に回ったところだ。
 ゴルネオの部隊が前へと出ればニーナの休憩はより安全で長いものとなる。
 そのために、ゴルネオはオスカーやシャンテという不安要素を抱えたまま一歩を踏み出す。
 自分の疑問から目を逸らせるためにも。
 
 
 
 
 
 ニーナが休息を取るために守りに移行して十数秒。
 赤毛な生き物が頭上を通過していった。
 文字通り、何の脈絡もなくシャンテが空を飛んで敵陣の真っ直中に放り込まれたのだ。
 ニーナ達全員が呆然としてしまった以上、ファルニール側が凍り付かないわけがない。
 その凍り付いた時間を溶かすため、オスカーが巨大な刀を振りかぶりニーナ達の横を通り過ぎていった。

「可哀想に」

 敵とは言え、同情してしまう。
 シャンテの無謀な突撃と、オスカーの無謀な突貫。
 二つが合わさったらどうなるかが目の前で実証されている。
 シャンテの化錬剄による無差別攻撃が炸裂し、隊列に大きな乱れが出来た。
 その乱れに付け込むようにオスカーの右腕が唸り、巨大な刀が遙か彼方の上空へと消える。
 刀での攻撃を警戒していた連中の視線が、思わず上空へと向かった瞬間、背中に隠していた収束型散弾銃を構えるオスカー。
 巨大な槍と呼ぶに相応しい凶器はしかし、火を噴くことなくオスカーの手に握られ、純粋な打撃武器として猛威を振るうこととなった。
 着地したシャンテの、敏捷な動きで更に陣形を乱されたところに、上空から巨大な刀が落下。
 一人が巻き添えとなって悲鳴を上げる暇もなく絶命。

「い、いや。死んではいないのか?」

 息があると思いたいが、何しろかなりの質量の有る斬獣刀がかなりの高さから落ちてきたのだ。
 そのエネルギーは半端な物ではないだろう。
 軽く黙祷を捧げたニーナは、活剄を走らせ疲労を駆逐する。
 ゴルネオに率いられた主力部隊が横を通り過ぎていったから、おいそれと出番があるとは思わないが、それでも念のために。
 そして理解する。
 ディンの作戦はこのまま確実にツェルニに勝利をもたらすだろうと。
 今回の作戦の要点は接岸部で派手に暴れ、敵の注意を引いておくこと。
 そして、別働隊がファルニールの都市外を大きく迂回し適当なところで上陸。
 奇襲攻撃で攪乱するついでに、接岸部の部隊が強襲。
 これが基本戦術だ。
 もちろん、防御に手を抜くなどと言うことはないし、この作戦が失敗した時のこともきちんと考えられている。
 まあ、普通の力押しでも十分に勝てると思うのだが、念のための作戦はあった方が良いだろう。
 不安要素があるとすれば、奇襲部隊を率いているのがミンスだと言うことだが、それでも、最低限の後方攪乱はしてくれるだろうという確信はある。
 正面からの戦いをやりたがるとは言え、汚染獣戦を生き抜いた猛者ではあるのだ。

「・・・・・・・・・・・・。私も似たような物かも知れないな」
「ミンスの旦那のことか? 良くお誘いに乗らなかったと未だに感心するぜ」
「そ、そうか」

 見透かしたかのようなシャーニッドの返答に思わず心と身体が凍り付く。
 それ程長い付き合いではないのだが、最近シャーニッドが千里眼ではないかと思えてならない時がある。
 それだけ的確にニーナの心情を突いてくるのだ。
 あるいは、ただ単純に出来ているだけだから突けるのかも知れないが。
 そんな事はさておき、ツェルニ側は順調に前進を続けファルニール側は後退を続けている。
 後続部隊がやってきて、U字陣形で半包囲されるのを防ぎつつ更に攻め上る。
 マイアス戦とは正反対の状況になった以上、自分達がやった戦術で返されることを何よりも警戒しているのだ。
 だが、その心配は杞憂であるようだ。
 陣形を整える暇さえ与えられずに、散々に打ちのめされている状況からどう反抗するのかニーナには思い付かない。
 ニーナが思い付かないからと言ってディンやウォリアスが思い付かないと言う事にはならないし、実はこの状況は相手の思うつぼかも知れないとも警戒する。
 だが、それでも現実問題として、目の前で起こっているのはツェルニが前進しファルニールが後退している。
 先に知らされた反攻作戦の一部に、中央突破を許すと見せかけて両翼を高速で通過。
 背面に展開するというのもあるにはあった。
 それをやるには、陣形が乱れすぎているように思うが、それでも僅かに警戒する。
 順調な時に思わぬ落とし穴が待っているのは世の常なのだ。
 そしてその警戒は思わぬところで現実の物となった。

「な、なんだ!!」

 突如としてサイレンが鳴り響いた。
 ミンスが旗を捕ったのかと思ったが、明らかに違う。
 そう。武芸大会を終わらせるサイレンではない。
 ある意味、既に聞き慣れてしまったもう一種類のサイレン。

「汚染獣の襲来だと!!」

 咄嗟に身体が動く。
 活剄を総動員して視力を強化。
 辺りを見回し汚染獣を目視確認する。
 だが、それは全くの無駄だった。

「なんだ!!」

 異常を捉えたのは視覚ではなく聴覚。
 何かとてつもなく堅い物同士が、想像を絶する速度で打ち合わされたような、凄まじい音が辺りを支配した瞬間、耳鳴りだけが聞こえるようになった。
 慌てて視線を飛ばして、その瞬間何が起こったのかを理解した。
 それは、ファルニールに進出していたからこそ認識できたのだと思う。
 そう。ツェルニが傾いていた。
 僅かではあるが、接岸部の両端がずれていることからそれを認識できた。
 これはつまり、先ほどのもの凄い音の正体とは。

「シャーニッド!!」
「あいよ!!」

 活剄を使って聴力を回復させつつシャーニッドに指示を飛ばす。
 明らかにツェルニの脚部に何かがぶつかり移動能力を奪われた。
 ならば、何よりもやるべき事はツェルニに取って返し戦闘態勢を確保することだ。
 同じ結論に達したのか、ゴルネオも身振りで退却を指示している。
 時間を置かずに、散々異常事態を経験し続けたツェルニ武芸者は、殆ど混乱することなく接岸部から引き上げる。
 武芸大会の最中に汚染獣の襲撃などと言う、最低最悪の状況だが、それでも自分のやることはきちんと理解できている証拠だ。
 都市の外側を移動しているミンスの部隊も、全力でツェルニへと帰還しているだろう。
 それに引き替え、ファルニールの武芸者は何が起こったのかを理解できていない様子で、あちこちで混乱しているようだ。
 全ては、実戦を経験したか否かなのだと理解する。
 今年のツェルニは散々異常事態を経験してきたのだから、今回も十分に対応できるだろうとそう考える。
 だが不安は確かに存在している。
 今までの汚染獣戦で、こんな攻撃はなかった。
 幼生体の襲撃は、確かに奇襲だったが、その時はツェルニが移動中だった。
 都市が静止している状況で、何かとてつもなく堅い物が脚部に当たり折られた。
 この事態は全く初めてである。



[14064] 第十話 七頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/12/24 14:04


「毎度恒例となっていて申し訳ないのだけれどね」
「誰に向かって話しているんですか?」
「僕は今、とても幸せに包まれているんだよ」
「僕は絶望に沈み込んでますから」

 隣でこの世の不条理を呪うことしかできないレイフォンを見下ろしつつ、サヴァリスは心の底から生きていることの幸せを感じていた。
 場所はツェルニで最も高い場所。
 すぐ横に都市旗が存在しているそこは、サヴァリスでさえ一瞬ふらつくほどに大きく揺れ、そして未だに水平を回復できていない。
 都市の足に致命的な何かが起こり、移動することも、即座に体勢を立て直すことも出来ないでいるのだ。
 こんな事の出来る汚染獣は、明らかに老性体二期以降。
 もしかしたら、天剣授受者でさえ取り逃がすことがある名付きかも知れない。

「ワクワクが止まらないよ。僕がここに来た時には暴走が収まってしまっていたからね」
「僕は散々戦い続けていて酷い目に合いましたけれどね」
「ああ。話にしか聞いたことのない喋る汚染獣。それと戦えるかも知れないと思うと、もうどうにかなってしまいそうだよ」
「生まれた時からどうにかなってますから」
「はははははははは!! そうなんだ!! 僕は生まれた時からこうなんだよ!!」

 常識を何処かに置き忘れてきてしまったような汚染獣と、心置きなく戦えると思うだけでサヴァリスの生命力は天井知らずに跳ね上がり続ける。
 喋る汚染獣、ハルペーではないにせよ、普通の老性体ごときが足元に及ばないような奴と戦えるのだ。
 もしかしたら、偶然名付きと遭遇したのかも知れない。
 それを考えると、もはや自分を抑えることなど出来はしない。

「さあレイフォン!! 僕達の宴を始めようじゃないか!! このツェルニ全土を焦土と化しても汚染獣を倒そうじゃないか!!」
「外でやりますから、多分」
「それはとてもスリリングな戦いになるね!!」
「ああ。なんで汚染獣はこの世にいるんだろう?」
「僕達を楽しませてくれるために存在してくれているんだよ!!」

 ここまで盛り上がったサヴァリスを祝福するかのように、何か恐ろしく巨大な物体が恐ろしく高速でツェルニのすぐ側へと落下してきた。
 直撃こそしなかったが、それでも都市を振るわせるほどの衝撃を伴ったそれが割れると、中から幼生体の群れが出現する。
 よくもまあ、着弾の衝撃で幼生体が死滅しなかったと感心するが、些細な問題であると切り捨てる。
 そう。準備運動の相手として幼生体を送り込み、その後本体がゆっくりと登場するのだ。
 じらされるという現象を生まれて始めて体験したが、とても喜ばしいと感じている。
 恋愛の最中に多用されるという話は聞いていたが、これ程の高揚感をもたらせるのならば当然だろうと思うのだ。
 もはやサヴァリスは自分を抑えることなど出来はしない。
 問題は、ツェルニが都市外戦装備を貸し出してくれるかどうかなのだが、駄目だったらサリンバン教導傭兵団の物を使えば良いだけのことだ。
 ツェルニにやって来て本当に良かったと、心の底からそう思った。
 グレンダンでは、想像を絶する汚染獣の奇襲を受けるなどという体験は出来はしなかった。
 デルボネに愚痴を言うつもりはないが、それでもサヴァリスはこの状況を心の底から楽しんでいるのだった。
 出来れば、手にしているのが天剣だったら良かったとも思うが、レイフォンは老成二期と天剣抜きで戦い勝っているのだ。
 それと同じ体験が出来るかも知れないと思っただけで、天井知らずに登り続けるサヴァリスの生命力がよりいっそう激しく上昇するのだった。
 
 
 
 
 
 サイレンが鳴り響いた時、当然のことだがリーリンはシェルターに避難していた。
 武芸大会が始まってしまえば、一般人はシェルターにいる以外に方法はないのだが、問題はサイレンが汚染獣襲撃を知らせる物だったからではない。

「あ、あう」
「おおっと!! これはまさかの展開だぁぁぁ!!」
「凹んでるわねレイフォンの奴」

 入学式直後のことだった。
 レイフォンの努力が如何に無駄に終わるかを上げていたことがある。
 その時に、武芸大会で勝っている時に限って汚染獣がやってくると言うのもあった、
 実際に勝っているかどうかは分からないが、負けているとは思えない今のツェルニを考えると、明らかにこれは想定された状況の一つだ。
 ならば、間違いなくレイフォンは何処かでこの世を呪って凹んでいる。
 目に見えるくらいはっきりとそれが分かってしまうのだ。

「ど、どうしよう? レイフォンきっと泣いてる」
「ぐへへへへへ。もはやレイとんには幸福など訪れないのだ」
「それはあり得るわね。このまま行くと無限の戦闘地獄に堕ちるかも」

 冗談で言っているつもりなのだが、それが事実になるかも知れないと思っている自分がいたりもする。
 何せレイフォンは不運に好かれすぎているのだ。
 こんな緊迫感のない会話をしている最中、いきなり都震が起こった。

「あ、あれ?」
「おおっと?」
「なに、これ?」

 三人そろって首をかしげる。
 いや。見える範囲内にいる全員が疑問の表情をしている。
 ツェルニは武芸大会の最中だったはずで、停止していたはずなのだ。
 なのに都震が起こった。
 いや。都震と言うには揺れた時間があまりにも短く、振動そのものもかなり弱かった。
 それはつまり、今までに体験したことのない何かが起こったという事。

「ああ。これは本格的に拙いわね」

 おそらく現状を、リーリンを含めたグレンダン出身者だけが正確に理解しただろう。
 常の攻撃をしてこない汚染獣とはつまり、老性体二期以降の特殊進化した個体だと。
 強力な個体となれば、天剣授受者が複数で挑まなければ倒せないほど恐ろしい存在なのだと。
 だが、ほんの少しだけ安心している。
 ツェルニには今、元と現役の天剣授受者が二人いるのだ。
 二人が力を合わせれば、非常識の固まりと言われる老性体二期以降だとしても、十分な勝算がある。

「・・・・・・・・・・」

 疑問を持った。
 サヴァリスとレイフォンが共に戦うと言う光景を、どうしても想像できないのだ。
 確実に一度以上は二人で戦っているはずだから、想像できても良いはずだというのに、何故か全く浮かんでこない。
 哄笑を放ちつつ率先して戦うサヴァリスと、号泣しながらそれに付き合わされるレイフォンくらい想像できても良さそうなのに、全く浮かんでこない。

「お、おかしいわね」

 何故二人で戦う光景を思い描けないのかという疑問を持ったリーリンだが、それもそれ程長いことではなかった。
 天剣授受者とは、最終的には個人的な戦闘能力を極限まで追求した戦士なのだと。
 共に戦うなどと言う選択肢は、全く最初から存在していないからこそ、リーリンは想像できないのだと。
 想像できないことこそが、天剣授受者として正常なのだと。
 だが、更にここで疑問が湧いてくる。

「グレンダンって、一体何?」

 自分の生まれた土地だというのに、今まで全く考えてこなかったが、グレンダンとは一体どんな都市なのだろうという疑問を持ってしまった。
 そして、この疑問を持った瞬間、リーリンの周りをお面の集団が取り囲んでいることに気が付いた。
 いや。無秩序に並んだお面に取り囲まれていたと表現する方が的確だろう。

「邪魔ね」

 日常の暇な時ならいざ知らず、この忙しい時に現れたお面の集団に殺意を覚える。
 普段はゴキブリを見る程度の視線だったが、今日、今だけは、きっちりと殺意を込めて睨み付けると、何時も通りに金属質な目玉になってそこら中に転がる。
 不思議なことに、この現象を捉えているのはリーリンだけなのだが、それさえ今はどうでも良い。

「・・・・・。えっと」

 そう。不用意に殺意を放出してしまったリーリンから遠ざかろうとしている少女二人に比べたら、どうと言う事のない些細な問題である。
 ここは何とか言い逃れなければならない。

「お、汚染獣って空気読まないわよね。レイフォンの誕生日付近には何時も現れるし、ついでに私の誕生日付近でも現れるし、本当に汚染獣って空気読まないわよね。そう思わない?」
「あ、あう」
「ま、まあ」

 二人からはぱっとした反応は返ってこなかったが、何とかリーリンの殺意が汚染獣に向いていると誤解させることは出来ただろうと思う。
 何時も暮らしている世界が、自分の思っている物とは違うかも知れないと言うおかしな疑問を抱かせずに済んだだろうと思う。
 と言うか、そう思いたい。
 
 
 
 
 
 中央指揮所に積めていたウォリアスだったが、汚染獣の襲撃警報を聞いて、大きな溜息をついてしまった。
 この大会に勝って報酬をもらおうと思っていたのに、それがご破算となってしまったからだ。
 ついでに、レイフォンの運の悪さにもかなり同情してしまっているが、それはある意味仕方がないのだろうと諦めに似た気持ちである。
 いや。やはりそうだったのかと納得さえしている。
 全てはレイフォンがツェルニに来た時に決まってしまったのだと。
 だが、溜息をついて予定が台無しになってしまったことを何時までも愚痴っていることも許されない。
 溜息一つ突いて心と身体を武芸大会から、汚染獣の撃退という実戦へと切り替える。
 既にディンの手配で、錬金科の生徒が総動員され、武芸者の錬金鋼の安全設定を取り外す準備が進んでいるし、都市外指揮者やランドローラーの準備も進んでいる。
 問題は、勝ちつつあった戦場から呼び戻される武芸者の方だ。
 ある意味、格下を相手にしていたのに、いきなり格上の助っ人が出てきたような物だから、心の切り替えが上手く行くかかなり疑問である。

「取り敢えず、情報が欲しいのですが」
「・・・・・・・・・・・・・」

 同じく、中央指揮所に積めていた念威繰者に声をかける。
 銀髪を長く伸ばした超絶な美少女という珍獣はしかし、一切の言葉を放つことなく端子を飛ばし、そして情報をせっせと集めてくれている。
 他意が有るわけではない。
 読む雑誌が無くなったために、ウォリアスが用意しておいたお菓子を食べて眠くなったところに襲撃が起こったために、とてつもなく不機嫌なだけである。
 そして、この状況で不機嫌をぶつけるのは汚染獣でもウォリアスでもなく、何故か常にレイフォンなのだ。
 レイフォンの不幸さ加減への同情がいやが上にも増そうという物だ。
 そして、恐ろしく間が悪いことに、レイフォンがサヴァリスと共に中央指揮所へとやって来てしまった。
 これ以上ないくらいに完璧なタイミングである。
 そして案の定、不機嫌オーラで鎧ったフェリが立ち上がると、無言のままレイフォンへと接近。

「あ、あのフェリ先輩?」
「貴男のせいでしょうか?」
「な、何がでしょうか!!」

 本能的に危険を感じたレイフォンが後ずさるが、それを許さない速度でフェリが前進。
 フェリも、ウォリアスと同じように考え、この汚染獣の襲撃はレイフォンが原因だと、その結論に達したのだろう。
 その奥にあるこの世界の現象について予測しているかは分からないが、今回の、汚染獣の襲撃の原因はレイフォンだと信じているのだ。
 レイフォンこそが、汚染獣に愛されているのだと。
 だからこそ、ことあるごとに襲われるのだと。
 そして既に、蹴りの間合いに捉えていた。
 だが、ここで予想もしない出来事が発生。

「それは困るね」
「邪魔をするつもりですか?」

 有ろう事か、ニコニコと状況を楽しんでいるだけに見えたサヴァリスが、フェリとレイフォンの間に割って入った。
 更に、フェリの八つ当たりを止めようとしてさえいる。
 これはある意味、有ってはならない出来事だと思ったのだが、それもすぐに間違いだと言うことが分かった。

「ここでレイフォンの心が折れてしまったら、一緒に楽しめないからね。汚染獣に滅ぼされることはかまわないけれど、戦えない武芸者に足を引っ張られるのはごめんなんだよ」

 目的は、あくまでも汚染獣と心ゆくまで戦うこと。
 そのための努力ならば全てやるのがサヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスなのだと、改めてそう納得させられた。
 ならば、レイフォンが戦えなくならないように、最大限の努力をするのも納得という物だ。
 そして、目的がはっきりしているのならば、後のことは割とどうでも良いのが世の常である。

「帰ってきたら、いくらでも、それこそ心が折れようと、足の骨が折れようとかまいませんので。いや。トリンデン君がいるから心ならいくらへし折ってくれても良いですよ」
「さ、サヴァリスさん」

 世にも情けない表情でサヴァリスとフェリを見比べる、元天剣授受者。
 にこやかにそれを見詰め返す現天剣授受者と、才色兼備な危険生物。
 もはや、レイフォンの未来は閉ざされたと言って良いだろう。
 心の中で冥福を祈りつつも、ウォリアスはやるべき事をやらなければならない。
 何よりも情報の収集であり、当面の襲撃に対する防衛である。

「それで、一番近くに落ちた奴、中身はなんでしたか?」
「うん? 幼生体だったよ。レイフォンが虐殺してしまって僕はつまらなかったけれどね」
「ああ。成る程」

 レイフォンとサヴァリスの錬金鋼には安全設定が施されていない。
 正確に言うなら、レイフォンが持つ黒鋼錬金鋼には安全設定が施してい有るが、それはあくまでも大会や訓練の時に使う物で、一応持っているだけの飾りとなってしまっている。
 そして、サヴァリスが何かするよりも速く虐殺したとなると、鋼糸を使った遠隔地からの攻撃と言う事となるだろう。

「自分は安全な場所にいて、相手だけ切り刻むとかどんだけサディストなんですか」
「え? あ、あのフェリ先輩?」
「やはりフォンフォンは女の子を虐めて喜ぶ人だったのですね。最低です」
「い、いえ、せんぱい?」

 同じ結論に達したらしいフェリが、足を折る前の準備運動として心を折ろうと遊んでいる。
 まあ、今は良いかとも思う。
 錬金科などの計算を信じるならば、汚染獣本体は恐ろしい遠距離にいるらしいし、飛翔体の中身が幼生体ならばこちらが圧倒的に有利だ。
 相手は戦力の逐次投入をやっていることになるから、こちらはそれぞれ投入された戦力にきちんと対応していればそれでよい。
 問題は、逐次投入される戦力にきちんと対応できるかどうかだが、今のツェルニ武芸者ならばそれ程苦戦することはないだろうとも思う。

「いや。武芸大会からの連戦だから少し不安か」

 体力的な問題は解決することが出来たとしても、精神的な問題はやや面倒になるはずだ。
 出来れば、飛ばしている汚染獣を何とかしてしまいたいが、現在何処にいるかはっきりとは分かっていない。
 こちらも戦力を二手に分けるというのもあまり望ましい方法ではないし、やはり、向こうから来てもらうのを待つ方が良いだろうかと考える。
 あるいは、迎撃地点を少しだけ遠方に伸ばして移動する際の消耗を押さえる。
 だが、実は色々と問題が有るのだ。
 何よりも問題は、ウォリアスが相手の形状や能力を知らないと言うこと。
 レイフォンとサヴァリスが二人掛かりで挑んで、尚かつツェルニに進行される危険性があると言う事。
 前回の老性体戦では、二期になりたてであろうと予測されたために遠方で戦うことを選んだが、今回同じ事をして良いかの判断が出来ないのだ。
 前回の老成二期に比べて、今回の方が明らかに強力らしいことを考えると、出来るだけ遠方で迎撃するべきなのだろうが、強力であるのならば近距離で、ツェルニの質量兵器が使えるところで迎撃すべきだとも考えてしまう。
 もちろん、都市外作業指揮車に搭載された大砲は強力だが、相手がどんな装甲を持っているかが分からない以上、これも迂闊には使えない。
 八方塞がりである。
 だが、汚染獣がいる場所の情報が有れば話は変わってくるはずだ。

「てなわけで、取り敢えずは迎撃に専念かな」

 どうやら相当の遠距離であるらしく、フェリはレイフォンを虐めて暇を潰しつつツェルニ付近の汚染獣についての情報をウォリアスに届けてくれている。
 本来ならヴァンゼ当たりにも知らせる必要があるのだが、残念なことに武芸大会に向かっていた武芸者を実戦へ移動させるために苦労していて、情報を渡せる状況になっていないのだ。
 本格的にツェルニの迎撃態勢が整うまでにはもう暫く時間がかかる。
 
 
 
 
 
 突如、汚染獣が襲来してきたために僅かな混乱はあったが、何とかレイフォン達が稼いでくれた時間を有効に使い、迎撃態勢を整えることが出来た。
 だが、それはあくまでも見た目の話である。
 内面、すなわち武芸者の士気についてはかなりの疑問がある。
 ニーナ個人のことを言えば、何時如何なる時でも、どんな敵とでも戦う心構えは出来ているし、現在もやる気満々ではあるのだが、それはツェルニ武芸者の平均ではない。
 だが、それでも起こってしまっている事態に対応しなければならないのは当然のことであり、それが汚染獣との戦闘となれば、命がけの戦いをやる以外の選択肢など用意されていない。
 機動力を残していたのならば、ファルニールのようにここから逃げるという手もあるのだが、ツェルニにその選択肢は用意されていない。

「都市の足を折るような攻撃というのはな。非常識さえ通用しないのか?」

 愚痴を言いつつも、方々に飛ばされてきた、幼生体の入った贈り物の監視は怠らない。
 全てが一斉に割れて、中身が出てこなかったのは幸運だったと思い、そして戦いのために質量兵器の準備が進むのを見守る。
 士気と体力の低下を懸念した生徒会が、早々にミサイルの使用を決定したのだが、それもあのカプセルが割れてくれなければ使いようがない。
 レイフォンの遠隔攻撃で傷を付けることが出来なかった以上、貴重品であるミサイルを使うことは出来ないのだ。
 と、ここまで考えて、何時ものようにシャーニッドがすぐ側にいないことに気が付いた。

「何処へ行った?」

 いないと不安なのだ。
 ニーナの精神的安定のためにいることを期待しているわけではない。
 側にいないと、何をやっているか分からないために不安になるのだ。
 そして、今回、その懸念はまさに的中してしまうこととなった。

『オッパイは好きかぁぁぁぁ!!』
「な!!」

 突如、これから起こるだろう先の見えない戦いのために張り詰めていた空気をぶち壊す勢いで、シャーニッドの絶叫が当たりに響き渡る。
 しかも、内容があまりにも似つかわしくなかったために、それを聞いていただろう全員が驚いて固まり、そして次の瞬間、視線を飛ばして現状を確認している。
 ニーナも視線を飛ばして、そして発見した。
 少し離れた広場にある、二メートルは有ろうかという簡易櫓を足場に、マイクを持ったシャーニッドを。
 更にその側にいるシンを。

『俺はオッパイが大好きだぁぁぁ!! 無乳が好きだ!! 貧乳が好きだ!! 普通の乳が好きだ!! 巨乳が好きだ!! 爆乳が好きだぁぁぁぁ!!』

 周りの困惑や動揺など知らぬげに、更なる絶叫を放つシャーニッド。
 放送の準備をしていたはずの、櫓の下にいる武芸者だけが何故かとてもノリノリだ。
 と、よく見れば殆どが第十小隊の面々であり、唯一の女生徒も何故かやる気満々である。
 もしかしたら、これがサクラと呼ばれる物かも知れないが、今はそんな事はどうでも良い。

『無乳の娘を見ると、心の底から守って成長を見守りたいと思う!!
 貧乳を気にしている娘を見ると、大きくするためにあらゆる協力をしたくなる!!
 普通の乳の娘を見ると、それだけで今日一日頑張ろうという熱い情熱が湧いてくる!!
 巨乳の娘を見ると、是非とも反復横跳びで揺れる様を見たいと思ってしまう!!
 爆乳の娘を見ると、その大量殺戮破壊兵器で息の根を止められたいと心の底から願ってしまう!!
 だからこそお前達に聞く!! オッパイは好きかぁぁぁぁ!!』
「おおおおおおおお!!!!」

 呆然としていた連中が、シャーニッドの演説を聴いている内に、その心と魂に火が点いてしまったようだ。
 辺りを共感の怒号が支配する。
 ただし男子限定。

『よろしい同志達よ!! ここであえて問おう。女生徒の視線は恐いかぁぁぁ!!』
「おおおお」

 シャーニッドの言葉を聞き、そして辺りを確認したのだろう、男子生徒の多くが気が付いたようだ。
 これ以上ないくらいの蔑みの視線で見られているという事実に。
 その蔑みの視線を前に、盛り上がっていた空気が一瞬にして縮み、残ったのは萎縮した男子生徒だけだった。
 だが、シャーニッドの演説はまだ終わっていなかった。当然のことだろうけれど。

『だが!! だが!!いや!! だからこそ!! あえてもう一度問おう!! 同志達よ!! それでも尚!! オッパイは好きかぁぁぁぁ!!』
「おおおおおおおおおおおお!!」

 萎縮したのも一瞬。
 シャーニッドの絶叫で勢いを盛り返す。
 もはや集団心理や催眠などと言う生やさしい物ではない。
 あえて言うならば、集団洗脳。

『ならば同志達よ!! 汚染獣を倒せ!! その凶暴な牙をへし折れ!! その甲殻を打ち破れ!! その内蔵を引きちぎれ!! あらん限りの暴力を振るい殲滅せよ!! そして明日という希望の光の中で、オッパイを堪能しようではないかぁぁぁ!!』
「おおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 士気高揚完了。
 ただし男子だけ。
 女子はと見れば、もはや見ることも汚らわしいと汚染獣入りのカプセルを見ている者が大半である。
 いや。明日という暗黒の中で男子を殲滅する夢を見ている者もいるかも知れない。
 男子生徒をこの手で八つ裂きにするために、今日汚染獣を撲滅する。
 ある意味で女子の士気高揚も完了したかも知れない。
 この後どうするかという思考を働かせようとしたが、それは後ろからかかった声で中断を余儀なくさせられた。

「女生徒達の士気を上げてみますか?」
「ん?」
「シャーニッド先輩みたいな演説で」
「私の柄じゃない」

 気が付けば、何時の間にかウォリアスがすぐ側に来ていた。
 何時もとはやや違う印象の、細い瞳でこちらを見ている。
 だが、ここまで話が来て理解できたこともある。
 シャーニッドやシンはまさに士気を上げるために演説をしているのだと。
 思い返せば、ツェルニが暴走している最中にカリアンがやった演説も、目的は同じだった。
 あの時は都市民全てに対してであったが、今回は武芸者限定でと言う違いはある。
 いや。まあ、違うところはもっと多いのだろうけれど、それを気にしてはいけない。
 結果的に武芸者の士気は上がり、汚染獣との戦闘に備えることが出来たのだから。

「では本題です」
「レイフォンだろう?」
「汚染獣の情報がまだ集まっていないので、レイフォンは暫く防衛戦力として使えますが、あまり無理はさせないで下さい。サヴァリスさんも肩慣らしとか言っていますけれど、こちらは気分屋なので戦力として計算できないですから」
「この士気を維持できれば大した問題も無く、幼生体くらいなら始末できると思うが」
「幼生体だけだったら。ミサイルも在庫処分するつもりで使いますから、大丈夫だとは思いますが、念のために」
「分かった」

 一連の会話を終えて、ふと疑問に思った。
 何故ウォリアスはニーナに直接伝えに来たのだろうかと。
 だが、すぐにその答えは出た。
 無茶をするからだと。
 ニーナ個人がいくら無茶をしようと、ツェルニの全体から見ればどうと言う事はないが、レイフォンを含めた小隊員を巻き込めば話は違ってくる。
 それをこそウォリアスは止めに来たのだ。

「そもそも、あれが何時割れて何が出てくるか分からないですから、その時々に対応するしかない訳なんですけれどね」
「それは、行き当たりばったりになりやすいな」
「全く、僕の嫌がることをするために汚染獣がいるんじゃないかと思えてきましたよ」

 報酬に吊られて戦略・戦術研究室などと言う物を立ち上げたウォリアスだからこそ、汚染獣の襲撃で全てがご破算になった現状に憤りを覚えているのだろう。
 何時もと違うように感じる視線の意味も、分かろうという物だ。
 軽く手を振りつつ、中央指揮所へと戻って行くウォリアスを眺めつつシャーニッドがやってきたらどうするかについて暫く考えた。
 褒めるなどと言うことは、間違っても出来ないだろうが、問答無用でドツキ倒すというのも違う気がする。
 さてどうするかと考える余裕が、ニーナにもツェルニにもあるのだった。
 この時点では。
 
 
 
 
 
 武芸大会の進行中に汚染獣がやって来るという異常事態を前にして、しかし、ハイアは別段何も感じることはなかった。
 ツェルニならばあり得ると思えるくらいには、この都市は色々と異常事態が多すぎたのだ。

「でさぁ、ミュンファさぁぁ」
「な、何ハイアちゃん?」

 何時も以上におどおどしたミュンファの方へと視線を向けることは、決してやってはならない。
 別段、とても恥ずかしい格好をしているというわけではない。
 いや。ある意味でとても恥ずかしい格好をしている。主にハイアが。
 異常に露出が多いとか、胸付近を強調しすぎているとか、そう言うわけではない。
 ぶっちゃけ、ハイアが送った服を着ているのでとても恥ずかしくて視線を向けることが出来ないのだ。
 下着から靴一式に至るまで、全て送ることはなかっただろうにと、その時の自分を惨殺したい気分で一杯なのである。

「着替えてきて欲しいのさぁ。もしかしたら戦場になるかも知れないからさぁ」
「う、うん。わかった」

 心持ち残念そうにしつつミュンファが自分の部屋へと戻って行くのを眺めつつ、ハイアにはしかし安息の時間などと言う物は訪れていない。
 解散したはずだというのに、傭兵団の全員がバスに住み着いているという現実と、その全員が興味津々とハイアとミュンファの成り行きを見詰めているという事実の前に、安息などと言う物はやってこないのだ。
 俺達が命がけでミュンファを守るのにとか、団長が最強になれたかも知れないのにとか、そんな小声の会話は聞こえないふりをする。
 今は、異常な方法で攻めて来た汚染獣との戦いに備えなければならないのだ。
 ツェルニが危なくなったら、もちろん逃げ出すつもりではいるのだが、それでも戦闘にならないと楽観することは出来ない。
 ここまで思考が進んだところでしみじみと思う。
 ツェルニとは異常な都市であると。

「まったく、やってられないさぁ」

 愚痴を一つこぼしたハイアは、どうせいるんだったらこき使ってやると心を入れ替え、その辺にたむろしている中年武芸者達に指示を飛ばし始めた。
 何故か、何時の間にかいるイージェだって同じ扱いでよいはずだし。
 逃げるだけだったら、駒に不自由はしない。



[14064] 第十話 八頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2014/12/31 15:37


 汚染獣の警報が鳴り響いて数時間が経った。
 その間、避難し続けている生徒達の間には、それなりに悲観論を呟く者も居たが、それは大声にはならなかった。
 何しろ暴走中は毎日のように汚染獣に襲われていたのに、何とかそれを切り抜けることが出来たという実績が大きいのだ。
 あの時に比べたら、どうと言う事はないと思っている生徒が殆どだろうし、実際問題としてリーリンもそう思っている。
 だが、それでも不安は消えない。
 何しろ、汚染獣とは、まさに常識の通用しない生き物だからだ。
 常識の通用しない武芸者が二人いるとしても、それで互角と言い切ることは出来ない。

「で、何しに来たの?」

 そんな、切羽詰まったらよいのかどうか分からない状況の最中にやってきたのは、細目で読書が大好きな極悪武芸者である。
 その後ろに、食肉加工店を営んでいる武芸者もいる。
 だが、ウォリアスの纏う空気は何時もよりは少しだけ張り詰めているし、細い瞳は鋭い光を発しているようにも見える。
 眼が細すぎるので、光の加減でそう見えるだけかも知れないが。

「メイシェンに用事。汚染獣が見付かったんだけれどかなり遠くてね」
「ああ。あの変な乗り物を使うのね」
「そ。それで、レイフォンがフェリ先輩に心をへし折られてしまってね」
「・・・・・・・・・・・・・・・。なんでこんなときに」

 長距離行軍をするとなると、たいがい使われる都市外指揮車という乗り物がある。
 レイフォンは何度かお世話になったと言っていたが、リーリンは当然のこと乗ったことはない。
 割と乗り心地はよいと言う事だったが、別段乗りたいとも思わない。
 それよりも問題は、ツェルニが危機的状況に陥りかけているというのに、レイフォンの心をへし折って遊んでいる先輩の方だ。
 後にすればよいのにと思うのだが、最悪の場合メイシェンを使えば復活するからとウォリアスも放って置いたのだろう。
 むしろ、フェリのテンションを上げる方が重要だと思ったのかも知れない。
 途中経過がまったく語られていないので、さっぱり事情が分からないが、今の問題はそこではないのだろう。

「あう。汚染獣に襲われたことで攻められたの?」
「いや。普通に、フェリ先輩に虐められたんだけれどね。取り敢えずオスカー先輩に着いて行ってくれるかな?」
「あう」

 納得が行かないところはあるが、レイフォンが使えないのでは話にならない以上、リーリンに選択の余地はない。
 そもそも、メイシェンに用事なのであまり関係ないが。
 取り敢えず、オスカーに連れられて移動するメイシェンを見送りつつ、何故か残ったウォリアスに視線を向ける。
 目的のない行動をとることは多いが、それでもこの状況で暇を持てあましているというわけではないはずだ。
 それなので、話を振ってみる。

「愚痴でも言いたいの?」
「愚痴ねえ。愚痴と言えば愚痴かな。戦略的にしてやられている状況だからね」
「それって、かなり拙いんじゃ?」

 何時ぞやの説明を信じるならば、戦略的な敗北は戦術的に取り返すことは出来ないはずだ。
 だが、それにしてはウォリアスに余裕が有りすぎることに気が付き、そこから答えを出すことが出来た。

「状況戦略だっけ? そっちをしくじったの」
「そ。数十個体ずつ入ったカプセルを散乱されてしまってね。予測される戦場が離れすぎていて相互支援がかなり難しい」
「成る程」
「何時出てくるかも分からないから、こちらが戦力を集中できない」
「お互いに戦力の逐次投入とか言うことになったのね」
「そ。戦術的に何とか挽回できるからまだ良いけれどね」

 外も緊迫すればいいのかどうか分からない状況らしいと、この時に分かった。
 まとめてやって来るのだったら、それこそレイフォンを外へ出すなどと言う事は出来ないが、逐次投入ならばツェルニ武芸者だけでも何とか持ちこたえることが出来るだろう。
 だが、それでも問題はある。
 わざわざ遠出をする理由がないような気がするのだ。
 いや。強力な汚染獣と遠くで戦うというのは、都市の安全を確保するためには必要かも知れない。
 それでも、ウォリアスの口ぶりからするとかなり遠出になるようで、そこまでする理由が分からないのだ。

「遠出って言ってたけれど」
「年度の初めにあった老性体戦くらいの距離。こっちに来るまで待ちたいんだけれど、地形的に汚染獣が今いる場所が一番有利なんだ」
「面倒ねぇ」
「まったく」

 結局、他の選択肢よりはマシなのを選んだと言う事らしい。
 とてもウォリアスらしい行動原理だと思うが、ふと疑問に思った。

「ねえ、ウォリアス?」
「ん?」
「今、時間有る?」
「レイフォンの心の修復には、最低三十分はかかるはずだし、それなりに」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 どんな方法で心を修復するのかとても疑問ではあるが、あえて思考を進めることを止めた。
 とても腹立たしい光景が予想されてしまったから。
 それよりも、今はリーリンの中に浮かんできた疑問を解決することこそが重要なのだと、強引に話を元に戻す。
 微かに殺気が漏れたのか、ミィフィが後ずさったようだが気にしてはいけない。

「ウォリアスって、年齢は幾つなの?」
「肉体年齢は、十五才だよ。いや。あと二日で十六才」
「年下だったんだ」
「お姉ちゃんと呼ぼうか?」
「止めて」

 そう。疑問とはウォリアスの年齢について。
 どう考えても同世代とは思えない言動を連続してやってのけ、感情と理性が対立する時には、一瞬で理性を優先させる。
 いや。優先しないこともあったが、それは全てウォリアスが生きる目的に進むための選択だったと思う。

「そうだね。内緒にしてくれるんだったら」

 その生き方はやはり同年代とはやや違うと思う。
 だからこそ、ここで聞いてみたいと思ったのだが、その視線はしかしミィフィという茶髪猫へと注がれていた。
 公表されることを望まないと、その視線が訴えている。

「む? オフレコにしろと言うのだったらそうするよ。私だって分別くらいはあるから」
「本当に?」
「当たり前だろう!!」

 ウォリアスの念押しに、やや激昂して答えるミィフィ。
 ウォリアスの懸念もミィフィの怒りも分かる気がするので、双方から適度な距離を置いて成り行きを見る。
 火花が散るような視線の応酬は起こらず、ミィフィの一方的な睨みを受け流していたウォリアスが小さく溜息をつく。

「内緒にしてくれるんだったら話すよ。実は結構重大な話なんだけれどね」

 そう言いつつも、あくまでも軽い空気を崩さないウォリアスだが、外見に騙されてはいけない。
 一体どれだけの悪事をその脳が生み出したか、それの一部に関わったリーリンとしては油断など出来はしないのだ。
 そして語られた内容は、あまりにも意外な物だった。

「古文都市レノスは、古い資料を延々と集めることを目的にした都市なんだけれどね。その更に目的。資料を集める目的があったはずなんだ」
「そりゃまあ」

 目的のための手段であることは、ウォリアス自身はっきりとではないにせよ示し続けている。
 ならば、資料を集めることが目的化してしまっているレノスに、本来の目的があると考えるのは必然だろう。

「何代か前の人が、レノスの目的はなんだろうかと疑問に思ったんだけれど、とても人間の寿命の間に結論は出ないことがはっきりしていたんでね、ある機械を作ったんだ」
「どんな?」

 単純な計算機や記憶装置ではないはずだ。
 そんな物は既にいくらでも存在しているのだから、改まって作るという必要はない。

「他人の人生を、夢という形で追体験する機械」
「? え?」
「? ん?」

 疑問の声を上げる。
 それは隣に座るミィフィも同じだった。
 他人の人生を夢で見ることに、どんな意味があるのかが分からない。

「その人の知識と経験を、第三者の視点からじっくりと検証することが出来る。これが出来ると、本人が気が付かない間違いを見つけやすくなるし、そもそも夢の中の出来事とは言え、実際に体験しているのに近いから、学習の時間を極端に短縮できる」
「ああ」
「おお」

 説明を聞いて二人で納得の声を上げる。
 結論に至る経過を詳細に知ることが出来れば、それは大きな判断材料となる。
 その時の心理状況や、持っていた知識や経験、技術を効率的に取得できると言う事は、自分自身を第三者の視点から見ることに限りなく近いだろう。
 夢で見た他人の人生ならば、欠点や弱点を見つけることも簡単だろう。
 いや。それどころではない。
 これは恐るべき力を秘めた機械だと言える。
 たとえばの話だが、レイフォンがこれを使えば学習の時間を驚異的に短縮できるはずだ。
 ツェルニとウォリアスが総掛かりで六年かかるのを、僅か半年でやってしまうことだって、それこそ夢ではない。

「レイフォンには使えないよ」
「え?」
「お?」

 まるで心を読んだかのように、リーリンが真っ先に考えたことを否定するウォリアス。
 まあ、勉強が苦手で成績の悪いレイフォンに使いたいと思うのは当然のことなので、普通に読めるのだろうが。

「夢を見る機械には決定的な欠点があるんだ」
「ど、どんな?」
「二割の確率で拒絶反応を起こして、脳死状態になる」
「・・・・・・」

 たかが二割と言う事は出来ない。
 死亡率二割の伝染病であると考えれば、感染しないに越したことはない。
 更に、使うのがレイフォンとなれば、その危険性は一気に跳ね上がるだろう。
 よほどのことがない限りは、使わない方が良さそうである。

「そして最も恐ろしいのは、実は後遺症なんだ」
「後遺症って?」
「覚えているかな? 僕は僕の人生を生きていないって言ったこと」
「え? うん。ツェルニが暴走している時の話よね」
「そ」

 あの時は何を言っているのかさっぱり分からなかった。
 いや。今だって良く分かっていない。
 だが、今から語られる話こそが理解するための材料であることは分かる。

「僕が今生きている人生も、夢の出来事じゃないかと思ってしまうんだよ」
「・・・え」

 ウォリアスのその言葉を聞いた瞬間、リーリンの背中を冷たい汗が流れた。
 それは、明らかに人と違う現実が見えているリーリンの現状に近いのではないだろうかと。
 もしかしたら、リーリンが気が付かないだけで、本当はこれは夢なのではないだろうかと。

「汚染獣との戦いに出て、腕を食い千切られてその痛みで目覚めたら、何事もなくそこに腕があったりとか」
「そ、それは」
「日常良くある事故で息子を亡くして、その悲しみで目覚めてみたら、自分には息子がいないどころか、その息子の年齢に全然達していないとか」

 人と違う現実を生きているというリーリンの現状と、他人の人生を生きていると勘違いしたウォリアスではかなりの違いがあることが分かった。
 そもそも、ウォリアスにとってそれは過去であり、現在ではない。
 だがはっきりと分かったことがある。
 ウォリアスが夢という形で体験した人生は、かなりの割合で悪夢だったのだと。

「だから、僕が今生きているこの現実も誰かの夢なんじゃないかと思ってしまってね。僕は自分の人生を生きているのか分からないし、自己暗示にもかかりやすいんだ。これが夢かも知れないと思っているんだったら、簡単だよね」

 自分という物があやふやだからこそ、古い資料を集めるという目的のために生きることで、自分を規定しているのかも知れない。
 あるいは、今の人生が誰かの夢ではないことを確認する作業を延々と続けているのかも知れない。

「僕は、合計二百四十年に及ぶ人生を追体験している。どう考えても十五才ではいられないね」

 死亡率二割の危険を冒して、更に後遺症に苦しみつつも現状を生き続けている人間が、目の前にいることに気が付いた。
 だからこそウォリアスは常に冷徹なのだと言う事にも気が付いた。
 ツェルニが暴走している最中、メイシェンについて相談を持ちかけたことがあった。
 その時ウォリアスはこう言ったのだ。
 他の選択肢がないと言うだけで、全力で支持すると。
 カリアンのような傑物でなければ、あるいはカリアンでさえ、そんな決断は出来ないだろう。

「かれこれ二百五十年の経験が、今の僕を支えているわけだね。だから人よりも少しだけ違ったことが出来る」

 リーリンが今体験している、現実が二重に存在するというのとは明らかに違う現状をウォリアスは生きている。
 それは十分に分かった。
 だからこそ、眼の細い少年は異質に映るのだと。

「これはもう、カンニングなんて生やさしい話じゃないことは分かるよね?」
「そりゃあ。教師役の先輩よりも凄いって話になるからね」
「凄いってよりも、圧倒できるよ。やる気になればね」
「ならないんだ」
「そ」

 復活した感じのあるミィフィが、ウォリアスの口止めの理由に行き着いている時リーリンは更に疑問に思った。
 結局、レノスが古い資料を集めて回る理由はなんなのだろうかと。
 いや。それ以上に疑問がある。
 何故、二割の死亡率や後遺症があることを知りつつ、ウォリアスは夢を見る機械を使ったのだろうかと。

「レノスの目的ははっきりしないんだけれどね、グレンダンとの接触している時間が変に長かったんだ」
「うわぁ」

 ふと飛び出した都市名に、思わず変な悲鳴を上げたのはミィフィだ。
 グレンダンに関わってもろくな事が無いと、そう認識しているのだろう。
 その認識はリーリンも共有している。
 よりにもよってグレンダンとの接触時間が長かったなどという話を聞いてしまっては、進むも地獄、退くも地獄であることは間違いない。

「で、ツェルニが暴走している最中にグレンダンが廃貴族の影響を受けているんじゃ無いかって予測はしたよね?」
「レイフォンもそこに辿り着いていた物ね」

 リーリンに向けられた質問であることは分かったので、出来るだけ簡単に答えた。
 どの都市よりも危険でいて、何処の都市よりも安全である、狂った槍殻都市。
 そこにいる間はそれが当然だと思っていた。
 他の都市の、汚染獣との戦闘頻度が低いという話は聞いていたが、それは実感を伴わない単なる情報だった。
 いや。リーリンにとってみれば未だに実感の湧かない情報でしかない。
 今年のツェルニが異常だという話は聞いているし、実際にそうなのだろうけれども、暴走している期間を除いても汚染獣との遭遇確率は結構高い。
 もちろんグレンダンほど驚異的ではないにせよ、今回ので三回遭遇してしまっている。
 しかも、その内二回は老性体という話だから、ある意味グレンダンよりも凄いかも知れない。
 だが、問題はやはりグレンダン。
 廃貴族に取り憑かれ、普通の都市ならば確実に壊滅しているような状況が日常となる異常な都市。

「グレンダンは、ハルペーみたいな強力な汚染獣と戦うために戦力を集め続けていると思うんだけれど、それがいつからか全然分からない」
「ん? それって重要な情報?」
「重要だよ」

 グレンダンはいつから汚染獣を追うように行動しているのか?
 それがそんなに重要な情報であるとはリーリンには思えない。
 だが、相手はウォリアスだった。

「グレンダンという都市は、実は二つあるんだ」
「え?」
「お?」

 都市の名前が二つあってはいけないと言う事はないだろう。
 だが、それが、よりにもよってグレンダンとなれば話は違ってくる。

「一つは、二、三百年前にヨルテムの行き先リストから消えている奴ね」

 全ての放浪バスが出発し、そして帰る都市ヨルテム。
 その行き先リストから消えると言う事は、その時点で、何らかの原因で滅んだと言う事になる。
 そこまでは問題無い。

「もう一つは槍殻都市」

 これは、リーリンが出発するまで存在していた。
 そして、おそらくは今も存在し続けていることだろう。
 そしてリーリンには、この思考の先にある結論が分からない。

「問題なのはね。槍殻都市グレンダンの名前がヨルテムの行き先リストに載ったのは、二、三百年前からなんだよ」
「? え?」
「もしもし?」

 二百五十年という恐るべき人生経験を持ち、自分さえ第三者の視点から見ることも出来るという思考の怪物が放った言葉を、理解できなかった。
 そもそも、無くなった都市のことは分かったとしても、存在する都市がいつからあるかなどは分からないはずだ。

「レノスが集めた情報の中にね、紙媒体で作られた古い行き先リストがあったんだ。過去千年分くらいの奴」
「そ、それって」

 千年と軽く言うが、その情報量は膨大の言葉さえ霞むような量になるはずだ。
 その中からグレンダンという都市の名前を探し出した。
 その情熱というか、執着心に何よりも驚愕してしまう。

「その紙媒体で分かったことが、槍殻都市は比較的新しい都市らしいと言う事なんだけれど・・・」

 言葉が曖昧に終わる。
 結論が出ていないのか、それとも。

「リーリンやレイフォンがやってきたグレンダンは、本来の名前から変わったんじゃ無いかって、今思っているんだ」
「そ、そんな事、あるの?」
「さあ」

 都市の名前が変わるなどという話は聞いたこと無いが、リーリンが知らないだけかも知れないのだ。
 だが、槍殻都市グレンダンが比較的新しい都市だと言うよりは、名前が変わったと言われた方がまだ納得が行く。
 自律型移動都市の製造技術は既に失われているはずなのだ。
 遙か、古の時代に失われたはずの技術が生きていて、槍殻都市が最近作られた。
 それはリーリンの常識からはかけ離れた推論である。
 まあ、現実が二重に存在しているという時点で常識が通用していないのだが、そこは出来るだけ無視することとする。
 いや。そもそも。

「・・・・・・・・・・・。自律型移動都市っていつ頃からあるの?」
「さあ。それを知りたいと思っているんだけれど、古すぎて資料が全然ないんだ」
「当然よねぇ」

 人類が持っている歴史的資料では、それ程遡ることが出来ない。
 いや。そもそも人類史は都市と共に始まったと、そう言えるかも知れない。
 それ程、大崩壊以前の資料は残されていない。
 極々僅かな映像資料や、古代の都市の遺跡が見付かることはあるが、それはかなり希な出来事であるし、紙や電気的な記録が見付かったという話しはないはずだ。
 これはある意味、人類の誕生に関わる内容である。
 リーリンのような、あまり歴史や古いことに興味のない人間でさえ、とても引かれる話だったがそれは唐突に終わりを告げた。

『よろしいでしょうか?』
「はいはい」

 フェリの念威端子が、何時の間にかウォリアスの頭の上に乗っていたのだ。
 何故か少しだけ、笑いの要素が混じる光景である。

『フォンフォンが復活しましたが、よろしければまた心を折りましょうか?』
「無駄な時間とエネルギーをレイフォンと僕らに使わせるだけだから、止めて下さい。作業指揮車に向かいますから」
『了解しました』

 話はこれまでである。
 メイシェンがいるからレイフォンの心くらいはいくらでも修復できるだろうが、時間が無限にあるというわけではないのだ。
 無事に汚染獣を倒せれば、この先五年という時間を得ることが出来る。
 その時間を使って、今の話の続きを聞くことが出来るだろうと、そう自分を納得させる。
 出来れば、ウォリアスにリーリンの現状を話してしまいたいと思っているのだが、それは今は出来ない。

「気をつけて行ってくるのよ」
「ツェルニはきっとナルキ達が守ってくれるからね」
「はいはい」

 あくまでも軽いノリで、ウォリアスの背中がリーリンの視界から消えていった。
 その頭脳は既に汚染獣との死闘へと向けられ、自分の死さえ計算の内に入っているのだろう。
 レイフォンさえ及びも付かない怪物はしかし、普通の人と何ら変わらない歩みで去っていったのだった。



[14064] 第十話 九頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2015/01/07 13:14


 何体目かは既に覚えていないが、それでもニーナは幼生体の正面から突っ込む。
 活剄で強化した脚力と腕力、そしてニーナ自身の体重を乗せた一撃を放ち、幼生体を一瞬だけ怯ませる。

「おおおおお!!」

 雄叫びと共に、一撃目で崩れた体制を回復させつつ、両足を大地に固定し、衝剄を乗せた二撃目を幼生体の横面に向かって放つ。
 活剄衝剄混合変化 振り子連打。
 一撃目から二撃目、更に三撃目へと体制を崩すほどの打撃を、頭を八の字に振ることで連続で途切れることなく放ち続ける。
 普通の武芸者ならば、一撃目の衝撃で吹き飛んでしまってこの技は使えないが、幼生体の質量は十分にニーナの攻撃を受け止めることが出来るからこそ放つことが出来る。
 みるみる内に幼生体の顔面が変形して行き、そして体液を迸らせつつダメージが蓄積して行く。
 だが、当然、この程度で殺せるほど柔な生き物ではない。

「はあ!!」

 全ては、ダルシェナの横腹を目がけた攻撃から目を逸らせるための陽動でしかないのだ。
 活剄衝剄混合変化 牙狼。
 極限まで溜め込んだ剄の本流に身を任せ、幼生体の横腹に向かってダルシェナが突撃する。
 その運動エネルギーの全ては、突撃槍の先端へと集約され、かなりの固さを持つ甲殻を撃ち破る。
 穂先が入ったところで、やはり集約された衝剄を放ちその命を刈り取る。
 ニーナ一人で戦うよりも、確実に速く効率的に幼生体を殲滅することが出来るこの戦い方こそ、ダルシェナが十七小隊に入った事によって生まれた戦法だった。
 小隊対抗戦での成績とは比べることが出来ない成果である。

「次は何処だ?」

 当然、これは単数を相手にするための戦法なので、複数対複数の戦いである現状では支援要員が必要だ。
 ニーナの指揮下に置かれた武芸者は、もっぱら他の幼生体が近付かないように牽制攻撃に集中している。
 そのお陰で、初めての幼生体戦と比べて余裕を持って迎撃することが出来るし、はっきり言ってかなり楽だ。
 まあ、元々の数が違うので比べることが間違いなのかも知れないが、それでもかなり楽に戦えていることは間違いない。

「っは!!」

 そして、もう一つ楽な原因がある。
 ナルキだ。
 そもそも、単独で幼生体を殲滅することが出来る実力を持ったナルキだったのだが、最近はその実力に磨きがかかってきている。
 いや。もっとこう、まるで別人のような破壊力を見せつけている。

「凄いな」
「ああ」

 今、ナルキが始末した幼生体がこの付近最後の個体だったようで、辺りは少しだけほっとした空気に包まれているが、それに同調することはニーナには出来ない。
 なぜならば、ナルキの倒し方がはっきりと異常だからだ。
 旋剄を使い急速に幼生体との距離を詰める。
 その運動エネルギーをそのまま複眼の間に叩きつけ、甲殻を打ち破る。
 更に、刀に纏わり付かせた、向きの違う衝剄を甲殻の内側で解く。
 サイハーデン刀争術 逆捻子 長尺。
 やっていることは以前と変わらない。
 逆捻子を周囲に広げるのではなく、奥へと突き刺していること以外は変わらないはずだが、明らかに結果は別物だ。
 そう。以前は、技の威力は甲殻の中に収まっていた。
 だが、今は違う。
 幼生体の甲殻を中から破壊し、後ろ半分を消し飛ばしているその威力は、ある意味レイフォンと同じ領域に達しつつあるようにさえ思える。
 原因は何か。
 それはニーナにも分かっているつもりだ。
 以前遭遇した廃都市の電子精霊、廃貴族。
 都市を動かすその力が、ナルキの中にある以上、この程度の破壊力は当然なのかも知れない。
 苦しい修行はなんのためだったのだろうかと、そんな疑問が浮かんでしまうが、それを何とか内側だけに留めておく。
 いや。内側だけに留めておける状況が常に存在しているといった方が的確だろう。

「なあナルキちゃん?」
「なんですか先輩?」

 一息ついたナルキの側にシャーニッドが近付いているからだ。
 きっとこいつは何かやる。
 それは既にニーナにとって確信であり、そして、その確信は今回も裏切られることはなかった。

「あれだけ激しく動いているのに、胸揺れないね」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ひぃ!!」

 無言だった。
 なんの前振りもなく、威嚇の一言もなく、それは行われた。
 そう。汚染獣の血で汚れた刀が振り上げられ、そしてシャーニッドの頭の上へと振り下ろされたのだ。
 そんな事をされて生きていられる自信はないらしく、必死の形相で凶刃を両手で挟んで受け止めるシャーニッド。
 縦に二つになっていても良かったのにと、心の何処かで思うニーナと、この展開は予定調和だと知っているニーナがいる。

「結構気にしているんですから。それとセクハラで訴えますよ?」
「ご、ごめんナルキちゃん。お、お願いだから力入れないで。前後に揺するのはもっと止めて」

 更に、切っ先を上下に揺すりつつシャーニッドの防御を削り続けるナルキの瞳は、割と真剣だ。
 だが、流石にこのまま展開することは憚られるために割って入る。
 右手一本で刀を操るナルキの肩にそっと手をおいて、一瞬だけ考える。

「このまま腕を押したら気分はよいだろうか?」
「やってみても良いんじゃないですか? 責任は汚染獣になすりつければ」
「ちょっ!! ま、待ってニーナもナルキちゃんも」

 本気で慌てているシャーニッドを見て溜飲を下げることが出来たのか、ナルキの身体から力が抜ける。
 それを察したのだろうシャーニッドも、半分ほど本気で凶刃の下から逃げ出す。
 ある意味、認めることはとてもいやなのだが、シャーニッドがいるからこそニーナも、おそらくダルシェナもナルキと普通に接することが出来るのだ。

「まあ、良いですけれど。メイシェンとかと比べると著しく劣勢なのは間違いないですから」
「間違いと言えば、比べること自体が間違いだと思うのだが」
「それは確かに」

 話が逸れてしまったが、流れに身を任せることとする。
 実際問題、メイシェンのと比べることはニーナやダルシェナにとっても相当の劣勢であることを再認識されるのだ。
 どうやったら、あんなに大きくなるのだろうかと、疑問に思ってしまうくらいに劣勢である。

「一説によるとだな」
「黙っていて下さい」
「黙っていろ」
「貴様は一生喋るな」

 当然の様にシャーニッドが茶々を入れようとしたのを、三人して撃滅する。
 何を言い出そうとしたかは、おおよそ理解しているつもりだし、シャーニッドの凹み具合からすれば間違いなかっただろう。
 だが、一連の会話でずいぶんと気分が良くなった。
 今度の戦いは変則的な持久戦である。
 押し寄せる敵を延々と刈り続けるというわけではない。
 何時やって来るか分からない敵に対して、延々と待ち続けなければならないのだ。
 実際に戦っている時間はそれ程長くない。
 そもそも、在庫一掃処分の感覚でミサイルを使っている状況なので、武芸者の肉体的な疲労は極めて軽い。
 問題は、戦場がすぐ側にあり続けるという見えない重圧の方である。
 この状況はツェルニの暴走中と似ているが、敵の存在位置の近さが明らかに違う。
 そのために、徐々に、しかし確実にツェルニ武芸者の戦闘力は消耗し続けている。
 その切羽詰まった状況を、ほんの少しでも緩めてくれるシャーニッドに感謝しても良いかも知れない。

「まあ、それでも少し楽になりました」
「うん?」

 同じ精神状態だったのか、ナルキがシャーニッドに軽く頭を下げた。
 だが、こいつをあまり調子付かせると後が厄介だと、そう考えるニーナが割って入ろうとしている。
 だが、それはナルキの一言で急停止させられた。

「廃貴族が」
「!!」

 違った。
 精神状態ではなく、ナルキの中に居続ける廃貴族の問題だった。

「我が身が滅ぼうと汚染獣を滅ぼせと叫んでいるんですよ。それなんで、今までの調子で技を放つと、他の人を巻き込んでしまいそうで」

 理解した。
 前回の幼生体戦と使う技を微妙に変えているのは、横へ広がる技では他の人を巻き込んでしまうと心配したからだと。
 そこまでは想像していなかったのか、シャーニッドも驚いている。
 いや。良く考えれば分かることだった。
 今までとは明らかに違う剄量を持ってしまったのならば、そこには制御という問題が確実に存在するのだと。
 レイフォンのように制御の達人でもない限りは、確実に周りを巻き込んでしまう。
 だからこそ、使う技を限定しなければならなかったのだ。
 これは、この先ナルキにずっと付きまとう問題なのだろう。
 自分の中の、異物との共存という、恐るべき問題だ。

「ま、まあそれは大丈夫だろう。レイフォンもいることだし」
「まあ、レイフォンと戦ったら、私なんか未だに瞬殺されますからね」

 少し話をそらせたナルキを伴い、ハーレイの待つテントへと歩き出す。
 体力と共に、消耗した錬金鋼の手入れをしてもらうために。
 
 
 
 
 
 ダイトメカニックの集うテントは、修羅場だった。

「貴様の頭はどうなっている? 高価な白金錬金鋼を一回の戦闘でへし折っただと? 正気なのか? それともツェルニに被害をもたらしてサディスティックな喜びでも味わっているのか?」
「だからな!! なんでこんな手荒な使い方をするんだよ!! もう少し愛情を持って使えって何億回言ったら分かるんだ!!」
「ええい!! 邪魔だどけ!! お前はそれでも武芸者か!! のたのた歩いている間に死んでこい!!」

 怒号と絶叫が飛び交い、恐ろしい速度で錬金鋼が修復され新調されて行く。
 それはある意味魔法のようであり、あるいはもっと恐ろしい何かのようでもあった。
 そんな中に飛び込まざるおえないナルキは、少しだけ自分の境遇を呪ってしまった。
 まあ、廃貴族とか言う意味不明な物が身体の中にいる以上、常に呪われていると言ってもそんなに間違いではないが。
 そうこうしているうちに、第十七小隊のダイトメカニックであるハーレイの側までやって来たが、ナルキに声をかけてきたのは別の人物だった。

「なんだ猿か」
「・・。相変わらず猿ですか?」
「違うのか?」
「違うと思いたいんですがね」

 入学直後に比べて、明らかに技量も上がっている。
 だがそれは、突き系の技についてのみだと言う事は理解している。
 未だに斬撃と打撃の区別が付かないし、剄の制御について言えば、入学直後よりも後退していると思えてしまうくらいだ。
 キリクの言わんとすることは間違いではない。

「まあ良い。おいハーレイ」
「はいよ」

 ニーナの錬金鋼を見ていたハーレイにいきなり話を振ると、なんの躊躇もなく新しい錬金鋼が放り投げられた。
 だが、それは明らかに今ナルキが使っている物とは性質が違う。
 しかし、見た事がないというわけでもない。

「簡易・複合錬金鋼じゃないですか」
「他の何かに見えるのだったら、貴様は猿以下だ」
「い、いや。そうじゃなくてですね」
「なんだ? 現在、俺達の最高傑作と言える錬金鋼に文句があるのか? 受け止められる剄の総量はまだまだ不満だらけだが、噂に聞く天剣と呼ばれる異常物質には及ばないだろうが、それでも、ツェルニで手に入る錬金鋼としては最良だ」
「い、いや。性能の話ではなくてですね」
「なに? 切れ味に文句を付けるつもりか? それは三億年は早いな」
「私に使いこなせるかという疑問なんですよ。レイフォンのを借りたことはありますけれど、振り回されてしまったんですよ」
「当然だ」

 連続で放たれるキリクの攻撃を何とか捌こうとしたが、結局力業で押し切られてしまった。
 口でキリクに勝てる日が来ることはないだろうと思うのだが、今の問題は別なところにある。

「重すぎることは分かっているが、貴様の虎徹は既に限界を超えている。何時自壊してもおかしくないことくらいは理解しているはずだ」
「そ、それはたしかに」

 剄の総量が上がったために、活剄に回せる量も増えているし、そもそも衝剄の威力は破格の上昇を見せた。
 もはや、普通の錬金鋼では駄目なところまで来てしまっている。
 押さえ気味に使っていると言いつつも、それでも剄を注ぎ込める量が割と低い鋼鉄錬金鋼ではかなり限界だ。
 天剣とは言わないが、簡易・複合錬金鋼は確かに有りがたい。
 有難いのは間違いないのだが。

「丁寧に使え。こいつ一本で普通の錬金鋼が五本は作れるというお値段だ」
「あ、あのぉ」

 そんな高価な武器を使って、それだけの戦果を上げられるか疑問であるし、そもそも使いこなせないと言っているのだが、キリクはあまり聞いてくれないようだ。
 そう。レイフォンのように重い武器を使い続けてきた武芸者と違い、ナルキは自分に合った大きさと重さの武器を使ってきたのだ。
 そこには、重心の移動や振りに対する反応など、一朝一夕では修正できない技術的な差がある。
 だが、キリクは生半可な技術者ではなかった。

「復元して具合を確かめろ。話はそこからだ」
「・・・。分かりました」

 最初からそうだが、どうすることも出来ずに取り敢えず復元する。
 レイフォンの刀が、ほぼ限界の軽量化だと聞いた記憶があるので、あまり期待していなかったのだが、その予測は違っていた。

「あれ?」

 確かに大きい。
 今までナルキが使っていた虎徹に比べて、長さで五センチ程度、幅と厚みもやや大きい。
 だが、思ったほど重さを感じない。
 いや。

「これは、かなりどうかと思いますが」
「やはりそう思うか」

 一瞬気が付かなかったが、この刀にはトリックが隠されていた。
 そう。復元してみると分かるのだが、柄頭の付近に変な重さがあるのだ。
 それはつまり、全体の重量を変えることなく重心位置を手前にすることで、構えた時の感触を誤魔化すという姑息なトリックで。

「振ってみてくれ」

 返事の代わりに、上段からの切り下げをやってみる。
 虎徹と比べると、確かに感じる衝撃は大きいが、使えないと言うほどではない。
 そもそも、ナルキの場合は突き技が主体で切り下ろすなどと言うことはあまりない。
 ならば、多少重くても良いのかも知れないと思わなくもないが。
 続いて突きの形をやってみたが、明らかに感覚が違う。

「突きをやる時に、身体を持って行かれる感じがありますね」
「やはりそうなるか」

 当然のことだが、刀が重い分慣性の法則が強く働いて、身体を引っ張られる感じになる。
 ただこれも少し違う。
 実際に突きをやる時は、何かに激突するので、身体が持って行かれるという感覚はそれ程強く受けない。
 外れた時に身体が流れるのを知っておけば、何とか回復することも出来るかも知れないから、あまり大きな欠点にはならないのかも知れない。
 簡易・複合錬金鋼を使って、実際に戦ってみないと分からないのだが、それ程大きな障害にならないのではないかとも思える。

「一応使ってみますが、虎徹も持って行って良いですよね?」
「ああ。念のために新しいのを作っておいた」

 流石キリクと言うべきか、それともこれはハーレイの方なのか分からないが、真新しい虎徹と共にナルキの剣帯へと収まった。
 なんだかんだ言いつつも、鋼鉄錬金鋼以上に剄を乗せることが出来ることは有難い。
 廃貴族に取り憑かれる切っ掛けになった汚染獣戦で分かったが、やはり剄量が多くて困ることはない。
 レイフォンのように、非常識なほどの剄量ならば話は違ってくるが、ナルキはまだそこまで・・・・・・。

「これが自壊するほどの剄量になったら、どうしたら良いでしょうか?」
「その時は複合錬金鋼だ」
「あ、あれですか?」
「精進しろ。剄量が上がればあれを使いこなすことだって出来るはずだ」
「だと良いんですけれど」

 レイフォンが、どれだけの時間をかけてあれだけの技量を身につけたのかは知らないが、本来ナルキの物ではない力を手にしてしまった以上、それを何とか使いこなす義務があることも事実だ。
 レイフォンとまでは行かないが、周りに被害を出さないような力の使い方を覚えなければならない。
 長い道のりの始まりだった。
 溜息をついて剣帯に納めようとした瞬間、それまで気が付かなかったところに視線が行った。

「あのぉぉぉ?」
「っち。気が付いたのか」

 ナルキの声を聞いたキリクの表情が、普段の五割増しに不機嫌なそれへと変わった。
 だが、これはナルキの責任ではない。
 なぜならば、切っ先が今までの刀と大きく変わってしまっているからだ。

「切っ先三分の一諸刃作りの太刀と言ってな」
「そのまんま」
「突きを主体にしたお前にはこれの方が良いだろうと思ったのだが、普通の刀にも戻せるぞ」

 そう。簡易・複合錬金鋼の切っ先が、明らかに諸刃になっているのだ。
 取り回し自体にそれ程大きな問題はないだろうが・・・・・・・・。

「焔切りは出来ない」
「そんな高等技術使えるのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。使えませんでした」
「ならば問題無い」

 焔切りをやる時には、刀の峯側から刀身を包み込むようにしなければならない。
 この時に手の位置に気をつけないと切ってしまうのだが、切っ先三分の一諸刃作りの太刀ではその危険性が高くなる。
 とは言え、元々ナルキには焔切りが使えないのでさほど問題はない。
 何時かは使えるようになりたいが、今現在使えないので全く問題無い。

「突きを放つ時に便利だと割り切れ。文句があるなら猿から人間になってからにしろ」
「わかりましたぁぁ」

 半分泣きながらキリクの元を猿。
 いや、去る。
 汚染獣よりもキリクとのやりとりの方が消耗したような気になっているが、それでも戦いはまだ続くのだ。



[14064] 第十話 十頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2015/01/14 15:44


 何時も通りの移動指揮車の中で、レイフォンはやや居心地の悪い思いを味わっていた。
 これからやってくる死闘は、実はそれ程重荷だと思っていない。
 前回も今回も、色々と制限はあるが何とかする自信はある。
 では何が問題かというと、当然のことサヴァリスである。

「ああ。こんな楽しいのは生まれて初めてだよ。移動する時は常に一人でだったからね。タイヤを痛めないかとか色々と心配しながらだったから、着くまでの時間がとても面倒だったよ」

 うっとりと頬を染めたサヴァリスが、延々とレイフォンの前に座り続け、そして喋り続けているのだ。
 だが、最も嫌なところと言うのが、実はかなりのところで同意できてしまうというグレンダンでの体験だったりする。
 汚染獣を遠距離で始末することはあまり多くなかったが、何度かは経験している。
 そして、そのたびに戦闘以外のところで細かい苦労があったのも事実なのだ。
 それが大幅に軽減されている現状を喜びたい気持ちは、十分に理解できるのだ。
 だからと言って、延々と喋り続けられて気分の良い物ではない。
 特に、戦闘を間近に控えている状況で、更にサヴァリスとなればなおさらだ。

「本当に、ツェルニに来て良かったよ。レイフォンもそう思うだろう?」
「戦闘と勉強がなければ最高でしたね」
「勉強の方は同意するよ」

 戦うことしか知らない男は気楽で良いとか、一瞬思ってしまった。
 グレンダンで間違わなければ、レイフォンも戦っていれば良いだけの人間でいられたのにと。

「・・・・・・。そうするとメイシェンとは出会えなかったのか」

 メイシェンと出会えなかったならば、きっとレイフォンは一生独身だったに違いない。
 戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、その命が尽きるまで戦い、そして寂しく誰かに看取られることなく孤独な最後を迎えることとなっただろう。
 それは、恐ろしいほどのリアリズムでもってレイフォンに襲いかかってくる未来予想図だ。
 それを回避できたという事実一つで、運が良かったのかも知れないと、そう思うこととする。

「そろそろ寝ておけ。今夜遅くか、明日の明け方に向こうに到着するから」
「無粋だねぇ。こんなワクワクを押し殺して眠れだなんて」

 全体の作戦を考えて、更に今回は事実上の指揮を執ることになったウォリアスの指示が出たが、そんな物でサヴァリスは止まらない。
 だが、レイフォンは違う。
 メイシェンから貰ったお守りに、服の上から触れてベッドへと向かう。
 必ず汚染獣を撃退してツェルニに生きて帰るのだと、そう決意しつつ。
 他の選択肢など存在していないのだ。
 レイフォンという玩具が無くなってつまらなくなったのか、それとも最初から取り敢えず言ってみただけだったのか、後からサヴァリスも着いてくる。
 眠らずに戦いに挑む無謀を知っているから、言ってみただけなのだろう。
 今回の移動指揮車に乗っているのは、操縦や航法を担当する人達と、フェリにウォリアス、そして戦闘要員であるレイフォンとサヴァリス。
 そして、ツェルニから選ばれた活剄に自信のある一般武芸者が十名ほど。
 今は指揮車の屋根の上で発電機を延々と回し続けている。
 活剄に自信があるとは言え、それは一般武芸者での話であり、第五小隊員ほどの発電能力を得られていないのだ。
 そのために、移動中は殆ど休み無く全員が発電機を回し続けなければならない。
 最悪の場合、帰りはレイフォンが発電をすることさえ計画されていると言う、心許なさであるが小隊を動員できなかった以上仕方がない。
 前回の様に第五小隊を動員することが出来なかったのには、当然のこと理由がある。
 今回のツェルニは、戦場が広く分散してしまっていて、あちらもこちらも戦力の逐次投入を余儀なくされている状況で、有効な戦力を減らすことが出来なかったのだ。
 そしてこの事実が、ウォリアスが指揮を執っている現状にも繋がっている。
 そう。中隊指揮官は元より、オスカーさえ連れてくることが出来なかったのだ。
 指揮官という特殊な人材が徹底的に不足していると言えるだろうが、それでもツェルニはまだ恵まれているのだとウォリアスは言う。
 グレンダンだったら、指揮官の必要が基本的になかったために人材が育たなかっただろうと。
 一応デルクは小規模部隊の指揮を執った事は有ったが、それは前線での人員の運用に限った話だった。
 今回のように全体を把握して運営する指揮官となると、ぱっと思い付くことが出来ない。
 いるとすればデルボネかも知れないが、それでもただの一人である。
 ほとほとグレンダンは、個人の戦闘能力を追求した都市だったのだと改めて実感した。
 この結論に達した頃に、ベッドへと潜り込む。
 汚染獣の現在位置からツェルニまで、殆ど平地であり罠を仕掛けられる地質でもない。
 今汚染獣がいる場所こそが、比較的有利に戦いを仕掛けられるとなれば、少々無理をしてでも出向かなければならない。
 ツェルニはなんでこうも不運なのだろうかと思うが、それも少し違うのだろうと言うことは分かっている。
 もし、ファルニールに汚染獣弾が命中していたら、移動能力を奪われた以上戦わなければならない。
 だが、武芸大会の戦いを見る限り、戦えば間違いなく滅んでいた。
 老性体とやり合う前に、幼生体の餌食となっていたことだろう。
 それに比べれば、ツェルニならば幼生体くらいならば自力で駆逐できるし、老性体とも何とかやり合える。
 ツェルニにレイフォンと、そしてサヴァリスがいたからこそ何とかなるのだ。

「・・・・・・? あれ?」

 ならば、ツェルニにレイフォンが来なかったら?
 最初の幼生体さえ退けることが出来ずに滅んでいただろう。
 この意味に置いてツェルニはとても幸運に恵まれている。

「えっっと?」

 では、レイフォンは?
 これはとても疑問である。
 武芸者として考えるならば、定期的に戦闘がある現状は技量が落ちないために好都合だと言えるだろう。
 しかし、一般人になるためにやってきたレイフォン個人にとってはどうだろうか?

「・・・・・・・・・・・・・。寝よう」

 上のベッドに潜り込んだサヴァリスが、五秒で眠ってしまったのを確認したレイフォンは、これ以上の思考を放棄して眠りにつくことを決意した。
 
 
 
 
 
 レイフォンとサヴァリスが眠ったことを確認したウォリアスは、手持ちの札を再確認しつつ戦術を再構築しようとした。
 何しろ今回の奴は、ハルペーを除けば過去最強の個体であると想像できる。
 五百キルメル以上の距離から、幼生体の詰まった巨弾を撃ち出し、自律型移動都市の足を折ってしまったのだ。
 前回の老性体、カマキリもどきに比べて遙かに強力であることは間違いない。
 間違いないが、分かっているのは殆どそれだけである。

「やれやれ」

 老成二期以降は、一個体ごとに特色が違いすぎて、その場にならなければ戦い方が決められないという話は、本当だったようだ。
 出来れば嘘か間違いであって欲しかったのだが、それでも手持ちの札を有効に使えば何とか勝てるはずだ。
 今回の戦闘目的も、ツェルニの存続であり、汚染獣の殲滅ではない。

「とは言え」

 だが、今回に限って言ってしまえば、ほぼ間違いなく殲滅しなければツェルニの存続は望めない。
 移動能力を奪われている現状が、逃走という手段を不可能にしてしまっているからだ。
 折れたツェルニの足は、確かに時間をかければ治るだろうが、移動できるようになるのにどのくらい時間がかかるか分からない。
 深手を負わせた老性体が復活するのが先か、ツェルニの移動が先かと問われて答えが出ない以上、殲滅を目的にする必要がある。
 明日生きるために戦力の温存など出来る状況ではない。
 だからこそ、移動指揮車に搭載された大砲と同時に作られた砲弾は、全て使い切るつもりで用意してきた。
 何時の間にか砲弾の数が増えていたが、そこに言及する人間はいなかった。
 今年の状況を見る限り、何時必要になるか分からなかったから、こっそりと増産されていたのだろうが、攻めることなど出来はしない。
 それら、ツェルニの全財産を活用して勝つことこそが、ウォリアスの義務である。

「僕は観察者でいたかったんだけれどね」

 レノスの影響を受けたためか、ウォリアスが積極的に関与して歴史を作るという考えは殆どない。
 レイフォンの事態が象徴するように、誰かを助けて事態がどう動くかを観察する方が遙かに好きなのである。
 だが、これもおそらく、自分の人生を生きていないために起こる思考なのだろうと思う。
 それでも、もはやウォリアスという人格の一部となってしまっているために切り離すことは出来ない。
 死ぬまで、このまま突っ走るしかないのだと改めて覚悟を決める。
 目前の戦闘開始まで、おおよそ十五時間ほど。
 暇を持て余したフェリが料理の本など読んでいるという恐怖体験をしつつ、やるべき事に思いをはせるのだった。
 
 
 
 
 
 丸一日近い移動の果てに、ランドローラーに乗って一時間ほどの旅を終えた。
 ランドローラーに乗る前に錬金鋼を復元して、何時でも戦闘に入れるようにしてある。

「あれをどうするかだけれど」
「なかなかユニークな姿をしているねぇ」

 目の前の岩山には、巨大としか形容できない汚染獣が居座っている。
 そして、羽根の名残だろう突起が二つ背中から付き出し、おおよそツェルニの方向を向いている。

「出来れば、ツェルニへの攻撃を阻止したいところだけれど」
「僕達だけで遊びたいというその気持ちは共感できるよ」

 問題は、砲弾の外壁が恐ろしく堅いと言う事だ。
 ツェルニの側に着弾した奴は、レイフォンでも切ることが出来なかった。
 いや。時間をかけて集中すればやれただろうが、そんな時間はもらえなかったし、おそらく今ももらえない。

「となると、こちらに集中してもらうことになるのか」
「良いねぇ。僕達三人で愛を語らおうじゃないか」

 ウォリアスの立てた作戦は、何時ものように複数の防御層からなっているのだが、それでも、出来る限りレイフォンとサヴァリスで倒せるに越したことはない。
 まあ、そのための手札も手順も用意されているから結構気が楽だ。
 ゆっくりと削って行き、そして移動指揮車に備わっている大砲も含めた全ての手段を尽くして、目の前の老性体を確実に駆逐する。
 一人ではないのだと改めて確認しつつ、心と身体を戦いへと導く。
 そう、レイフォンは一人ではなかった。
 悪い意味でも。

「見せて貰おうか!! ツェルニの新しい戦術の威力とやらを!!」
「っちょっ!!」

 絶叫を放ったサヴァリスが飛び出し、いきなり老性体の正面から躍りかかった。
 確かに、これならば間違いなくサヴァリスに注意が行くから砲撃はなくなるかも知れないが、危なすぎる賭であることは間違いない。
 いや。賭をするなどという思考がサヴァリスにあるかどうかは別として、今回もとことん遊ぶつもりのようだ。
 その証拠に、剄が恐ろしいほど猛り狂っている。
 天剣無しで老性体と戦えるという、ただ一つの事実だけでこの有様である。
 もしかしたら、名付き並の強さを持っているかも知れない個体を相手に、まったく恐れることがない。

「付き合いきれないんだけれどね」

 そう言いつつ、レイフォンも老性体の死角へと潜り込む。
 鋼糸を伸ばして老性体の下にいる雌性体と、その中にいる幼生体を始末する。
 だが、一瞬だけ遅かった。

「っち!!」

 鋼糸が伸びきる前に老性体の筋肉が躍動。
 おそらく最後の一撃であろう砲弾が放たれる。
 だが、ここで慌てることはない。
 外力衝剄の変化 針剄。
 複合錬金鋼が自壊しない範囲で剄を溜め込み、それを極細の針として撃ち出す。
 狙うのは砲弾の右端ギリギリ。
 当然のこと、いくら凝集しているとは言え、端に当てたところで砲弾自体がどうなるというわけではない。
 むしろ、回転することにエネルギーがとられてさほどの衝撃を与えることさえ出来なかった。
 だが、これで良いのだ。
 攻撃の目的は軌道を僅かにそらすこと。
 最初の段階でほんの僅かでも軌道、いや、弾道がずれれば目標からかなり遠くに着弾する。
 ウォリアスから対応法を事前に聞いていたので、レイフォン自身が思っている通りに攻撃を当てることが出来た。
 効果があったかどうかは今の段階では分からない。

「おおおっとぉぉぉぉ!!」

 レイフォンがツェルニを守ることに血道を上げているというのに、グレンダン最凶の現役天剣授受者はなにやら楽しげな叫びを上げて喜んでいる。
 どうやら、思っても見なかった攻撃を放たれたために、回避行動に専念したのだろう。
 いや。嬉しげに悲鳴を上げている辺りで全然専念はしていないが。

「僕って、よくもまあ天剣授受者なんかやっていたよなぁ」

 思わず愚痴りつつサヴァリスを援護するために老性体の足元へと突撃する。
 狙うのは、当然のこと足の関節部分。
 どんな装甲を施そうと、可動部は確実に他よりも弱くなるのは変わらない事実だ。
 だが、やはり今回の個体は一筋縄ではいかなかった。

「ちぃぃ!!」

 可動部に、綺麗に刃を当てて挽き切ったはずだというのに、思ったほどの効果を得られなかった。
 確実に装甲に傷を入れて、間接の機能を奪ったはずだが、それでも大して効いていないとばかりに巨大な足を振ってレイフォンを蹴り飛ばそうとする。
 慌てて避けつつ、斬撃で出来た隙間に鋼糸をしみこませて傷口を広げる。
 どれほどの効果があるかはまったく分からないが、それでも無駄ではないと確信しつつ、次の攻撃に備えて剄を練りつつ、更に老性体の特色を見極めるために集中する。
 サヴァリスを驚かせたのは、口に生えている牙を飛ばす攻撃だったようだ。
 レイフォンの見ている前でも、定期的にサヴァリスに向かって巨大な牙が飛んで行く。
 一体何本の牙が生えているのだろうかという疑問を抱きつつ、間隔を正確に計る。
 カウンターで老性体の動きを止めて、追い打ちをかける。
 天剣があれば力押しも出来たかも知れないが、生憎と二人ともそんな物は持っていない。
 だからこそ、知恵を使って倒さなければならないのだが、その殆どがウォリアスに頼っているという体たらくである。

「自分で考えられるようになれば良いんだけれど」

 愚痴を言いつつも、積極的に勉強しようとはまったく考えてないレイフォンだったが、それでも老性体が牙を撃ち出す瞬間に衝剄を当てて、姿勢を大きく崩させることに成功する。
 この好機を逃すことなく畳みかける。
 外力衝剄の変化 波紋抜き。
 慎重に刀を老性体の甲殻へと突き刺し、指向性のある爆発をその中で起こす。
 と同時にレイフォン自身は後退して、甲殻の破片を避けつつ追撃の準備をする。
 外力衝剄の変化 流滴。
 ややタイミングをずらせて移動してきたサヴァリスが、レイフォンの開けた穴に更なる追い打ちをかける。
 甲殻を破壊され、筋肉を透過した衝剄が体内で爆発する。
 絶叫と呼ぶことさえ憚られる空気の振動を上げつつ、老性体が向こう側へと倒れ込む。
 ここで追い打ちをかける。

「壊れないでね!!」

 加熱して使えない複合錬金鋼を空中に放り上げ、簡易・複合錬金鋼を復元し、限界ギリギリの剄を注ぎ込んだ技を放つ。
 天剣技 霞楼。
 サヴァリスとほぼ同じ場所へと放つ。
 不可視の衝剄となった斬撃が、老性体の体内へと浸透し、一定の距離を移動したところで閃断の檻を形成し、周りにあるあらゆる物を切り刻む。

「いいね!!」

 叫んだサヴァリスが、煙を上げる手甲を無視し、右足を振り上げて攻撃を放つ。
 ルッケンス流 剛力徹破・咬牙。
 外側からの攻撃と、徹し剄による内側の破壊を行う、ある意味必殺の一撃を放つ。
 空中に放り上げた複合錬金鋼を回収しつつ、一度距離を開ける。
 この四連続の攻撃でどうにかなるとは思っていないが、それでもどの程度の効果があったのかを確認しておきたいのだ。
 天剣があれば、大出力の技を連続で叩き込み、これで終わらせることも出来ただろうが、レイフォンもサヴァリスも錬金鋼の限界を考えながら戦わなければならないのだ。
 これは大きなハンデであることは違いないが、それもこれも織り込み済みだ。

「いやいや。元気だねぇ」
「嬉しそうですね」

 ふらつきつつも起き上がる老性体を目の前にして、サヴァリスはとても嬉しそうに感想を口にし、レイフォンは当然の様に少しだけ疲れた。
 暫く前に戦った老性二期だったら、今の連続攻撃でおおむね結末は見えていただろう。
 完成した複合錬金鋼もそうだが、サヴァリスがいることが大きい。
 だが、生憎と今回の奴は確実に名付き並の強力な老性体だった。
 まだ戦いは続く。
 
 
 
 
 
 丸一日以上続いた幼生体との戦闘も、ほぼ終了した。
 フェリ経由の情報を信じるならば、最後に撃ち出された砲弾はツェルニから二十キロほど離れた場所へと着弾した。
 レイフォンの攻撃で、弾道をずらされた結果だそうだが、それを喜んでいられる状況にナルキはない。

「ええい!!」

 渡されたばかりの簡易・複合錬金鋼を振り上げ、衝剄を纏わせつつ振り下ろす。
 もはやただの鈍器と変わらない使い方になっているが、そうしないと周りの被害が洒落にならないことになってしまうのだ。
 いや。この使い方でも既に洒落になっていないが、他の選択肢という物がない。
 逆捻子・長尺で仕留めるためには、幼生体と建物の隙間が狭すぎるのだ。
 そう。延々と続いた戦闘のために防衛戦に隙間が出来てしまい、幼生体の都市部への侵入を許してしまった。
 だが、その個体数は少なく、ナルキの目の前にいた幼生体が最後だったはずだ。
 まあ、ナルキが暴れたせいであちこちの建物が壊れているが、この程度だったらギリギリ許容範囲内だろうと考える。

「お疲れナルキちゃん」
「手伝うという選択肢はなかったんですか、先輩?」
「援護射撃要らなかったじゃないか」
「そりゃまあ」

 取り敢えず脅威が無くなったので少しだけ息がつけたのだが、そんな時になってからシャーニッドが現れるという始末だ。
 まあ、実際問題として必要ではなかったというのは事実だが、それでも何か行動を起こして欲しいと思うのは贅沢なのだろうか?
 溜息をつきつつ、錬金鋼の状況を確認する。
 本来、刃物として完成されていた物を、最後は鈍器としてしか使わなかったのでかなり心配だったのだ。
 キリク的な意味でだが。

「よし。取り敢えず歪んでない」

 細かい傷があるかどうかは分からないが、肉眼で確認出来る問題はないようだ。
 キリクの小言を貰わなくて良いかも知れないと思っただけで、かなり気が楽になった。
 だが、あまり油断はしていられない。
 着弾した最後の砲弾は距離があるとは言え、そこから間違いなく幼生体が現れるのだ。
 ツェルニ側の戦力もかなり消耗しているし、油断していて良い状況ではない。

「一回中央司令所に戻って、錬金鋼の点検と栄養補給をした方が良いでしょうね」
「だろうね。最後の最後に大物が出てきたらかなりやばいからな」

 嫌な予想を口にするシャーニッドだが、あながち無いとは言えないのが今年のツェルニである。
 中から老性体とか出てきたら、かなり危険である。

「せめて、雄性体の一期とか二期ならまだ何とかなるんですけれどね」
「それくらいなら、今のツェルニでも何とかなるな」

 この一日あまりの戦闘で、ツェルニの戦力はかなり消耗している。
 死人は出ていないが、重傷者が五十人以上出たし、軽傷者を数えれば軽く二百人に達するだろう。
 それでも、ミサイルや爆薬を積極的に使ったからこの程度で済んでいるのだろうと思う。
 その証拠に、戦闘不能になった小隊員はいない。
 だが、一般武芸者も幼生体も、数が多いというのはそれだけ激しい戦闘になると言う事なのだ。

「一気に来なかったことがせめてもの救いですかね」
「そうなったら、レイフォンの鋼糸で虐殺決定だったけどな」
「それは、魅力的ですね」

 フェリとレイフォンがいるのならば、幼生体の二千や三千は虐殺できる。
 頼り切るのは良くないが、使わないというのも考えられない。
 中央指揮所に向かって歩きつつ、怪我人がいないか念のため視線を飛ばしつつ会話を続ける。
 フェリがいないために、索敵や情報収集に支障が出ているのだ。
 そのためも有って、幼生体の発見が遅れ、都市部深くまで入られてしまった。
 レイフォンもそうだが、フェリがツェルニに居たことが幸運以外の何物でもない証拠だろう。
 そしてふと思う。

「なんでツェルニって、幸運と不運がごっちゃになってやって来るんでしょうね?」
「どっちか一つだったら不公平だからだろ?」
「不公平ですか?」
「レイフォンを見てれば分かるじゃないか。メイシェンちゃんとリーリンちゃんとか」
「ああ」

 メイシェンとリーリンに好意を持たれているレイフォンが、幸運ばかり引いていたら、確かに不公平を感じることだろう。
 何処かで見たことのある汚染獣の食欲を刺激する小隊員のように、不運ばかり引く人間だっているのだから、多少の不運は甘受して貰わないと話にならない。
 とは言え。

「ツェルニは誰の嫉妬を買ってるんでしょう?」
「そりゃあ。マイアスとか?」
「ああ」

 マイアスが、ツェルニに対して不公平を感じる気分は分かる。
 何しろ、ナルキ自身が優秀であるはずのロイを二度も蹴倒してしまったのだし、武芸大会でも圧勝してしまったのだ。
 ナルキが都市を救ったことを考えれば、嫉妬されるのは少し違うと思うのだが、ナルキがここにいることを知らなければ納得が行く仮説だ。
 そしてなによりも、全てはレイフォンとウォリアスという異常武芸者がやってきたがためである。
 そう考えて行くと、カリアンやフェリといった人物もツェルニの幸運の一部なのだろう。
 ならば、その幸運と釣り合うための不運もかなり大きな物となって当然ではある。
 納得は出来ないが、話は通る。
 そんなどうでも良いことを考えている間に、中央指揮所へと到着した。
 ここで、最後の戦いに向けた準備をしなければならない。
 あまりにも強大すぎる敵と戦っているレイフォンが帰る場所を守るためにも、自分の命を守るためにも、手抜きは出来ない。



[14064] 第十話 十一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:1d4afd70
Date: 2015/01/21 18:13


 戦闘開始から既に半日が過ぎようとしていた。
 バイザー越しではっきりとは分からないが、日は既に西に傾き、徐々に気温が下がりつつあるような気もするが、それも都市外戦装備に阻まれてはっきりと認識できない。
 久しぶりの老性体戦だとは言え、この程度でどうにかなるような精神と肉体は持っていない。
 むしろ問題は、約六年ぶりに一緒に戦う元同僚の方である。
 腕が落ちているというわけではない。
 いや。天剣を持っていないことを十分に理解しているその戦い方は、グレンダン時代に比べて遙かに洗練されていると言える。
 それどころか、浅いと酷評することさえ出来た刀術での戦い方が、僅か一年半という時間で恐るべき変化を見せている。

「本当に、ツェルニに来て良かったと思いませんかレイフォン!!」
「良かったとは思っていますよ!! こんな事の連続じゃなければね!!」

 思わず絶叫した独り言にきちんと返事がもらえるほどに、戦場はマンネリ化しつつあった。
 確かに強力な老性体ではあるのだが、あまりにも身体の使い方や攻撃の仕方が単調なのだ。
 これならば、よほどゴルネオを弄っていた方が楽しめると言うくらいに、決まり切った攻撃しかしてこない。
 だが、このマンネリ化した戦況が有利かと問われたのならば、明らかに違う。
 おそらく名付きと同程度の力を持った老性体は、いくら削っても底が見えないのだ。
 耐久力に自信があるからこそ、単調な攻めや移動でも問題無いのだろう。
 ある意味、汚染獣という生き物を体現している老性体である。
 もしここに、天剣があれば力押しで始末することは簡単だっただろう。
 だが、この戦場に天剣は存在せず、代わって細目の陰険武芸者がいる。
 その陰険武芸者の指示通りの罠は既に完成している。
 後はそこへ老性体をいびき寄せてしまえばいいのだ。

「そろそろ君と遊ぶのも飽きてきたんだよ!! 陰険武芸者の戦い方というのにも興味がある!!」

 細かく浸透系の技を両手両足から繰り出しつつ絶叫する。
 全てはその強固な甲殻にひびを入れるため。
 移動指揮車に搭載された大砲が強力だとは言え、出来れば内蔵に直接打撃を打ち込みたいという注文に応えるために、先ほどから老性体の腹部に集中的に攻撃をかけている。
 目的が甲殻の破壊なので、細かい攻撃で十分である。
 ある計画に沿って戦うと言うのも、有りだとは思うが、それでもサヴァリス好みではない。
 好みではないが、一度くらい経験しておいても良いかと思っているから付き合っているのだ。
 だが、絶叫したように単調な戦闘に飽きてきてもいる。
 早く決着をつけたい、そう思っているのだ。

『では、そろそろ蹴りを付けるとしますか』
「それはとても賛成だよ!!」

 最後の仕上げに、少しだけ強力な流滴を放つ。
 この一撃で、老性体の腹部甲殻は大きく破壊された。
 そして、徐々に誘導したおかけで目的の場所にもいる。

『爆破!!』

 陰険武芸者の支持の元、フェリの念威爆雷が発動。
 雌性体の死体があり、地面が脆くなっていたところに強力な衝撃が打ち込まれたために、一気に崩落。
 老性体の姿勢が一気に崩れる。
 だが、何とか踏みとどまろうと足掻く。
 天剣技 静一閃。

「落ちろ!!」

 そこに、レイフォンの攻撃が炸裂。
 どうやっているかはまったく分からないが、通常の錬金鋼から放ったとはとても考えられない威力の、驚異的に圧縮した衝剄が老性体の横腹に突き刺さる。
 大地と空を破壊するかのような絶叫を放ちつつ、老性体が奈落の底へと落ちる。
 と同時に、決定的な打撃を受けた甲殻が致命的に破損。

「先に行くよ!!」

 この機会を逃すことなくサヴァリスが動く。
 絶理の一。
 そう呼ばれる存在がある。
 技の名前ではなく、ルッケンスの技を全て修めた者が己の必殺の一撃として選ぶ物だ。
 サヴァリスはこの絶理の一について否定的だった。
 折角多くの技があるのに、決め技を一つに絞ることの意味が分からなかった。
 だが、この認識はツェルニで変わった。
 いや。厳密に言うならばレイフォンを見ていて代わった。
 グレンダン時代、本来の技を封印しつつ戦うその姿は、実は愚かしく思えていたのだが、自分で技を開発し、それを決め手とした戦い方に興味を引かれたのが最初だったと思う。
 ルッケンスの秘奥を全て修めた後に、それを使って戦い、勝利しても何か物足らなかった。
 その物足らなさを引きずってツェルニに到着し、そして理解した。
 この世界には多くの知らない技が存在し、そしてそれぞれに有効な戦い方があるのだと。
 ならば、サヴァリス自身が誰も知らない技を決めてとしても良いのではないかと。
 止めがレイフォンが今使ったおかしな剄技だ。
 レイフォンは現状を受け入れ、そしてそれをひっくり返すことが出来る技を編み出し、そして使いこなして見せた。
 ならばサヴァリスもそれについて行かなければならない。
 そしてその通過点として、自らの必殺の一撃を決めてそれを徹底的に昇華する。
 その先にこそ、サヴァリスが編み出す、本当の絶理の一があると信じて。
 絶理の一 剛力徹破・突。
 限界を超えた剄を左拳に込める。
 その拳を、仰向けに落ちて腹を見せる老性体へと打ち込む。
 衝撃は内部へとひたすらに突き進み、そして身体の深くへと到達し、そこで爆発する。
 流滴に似ているが、その浸透距離も衝撃の広がり方もまったく別な技である。
 だが、打ち終わった瞬間には既に老性体の腹から跳躍していた。
 金属音を上げつつ左の手甲が自壊したのを確認しつつ、ベルトにつけたポーチからスプレーを取り出し、汚染物質が入り込まないように応急処置をする。
 その間に、レイフォンの用意が終わったのか、とてつもなく巨大な刀を身体の後ろ側に隠すように振りかぶり、跳躍する。
 外力衝剄の連弾変化 天剣技 霞楼。
 先ほど老性体を蹴倒した静一閃に比べてさえ遙かに強力な剄の固まりが、老性体の腹に吸い込まれて行く。
 そして、遙か奥深くで閃断の檻が形作られ、その範囲にある全ての物が切り刻まれる。
 それと同時に、レイフォンが持っていた巨大な刀が、まるで砂で出来ているかのように崩れ去った。
 どうやら、反動が錬金鋼に現れるようだが、問題はそこだけではない。
 天剣無しで、どうやってあんな威力の技が使えるのかとても疑問だが、それを詮索している暇はない。
 そう。耳元で小さな電子音が鳴ったからだ。
 レイフォンもそれを認識したのか、都市外戦装備が破れるのではないかと思えるほどの速度で移動。
 二人掛かりで破壊した、まさにその場所に向かって、何かがサヴァリスでさえ認識できない速度で突き刺さる。
 そして、一瞬の静寂。

「おおおっっと!!」

 次にやってきたのは、正体不明の衝撃波だった。
 老性体の、まさに着弾点を中心として、空気を歪めつつ何かがサヴァリス達を薙ぎ倒すためにやってくる。
 その移動速度はあまりにも速く、そして何よりもまんべんなくやってくるために、避けることなど不可能。
 ならば出来ることはただ一つ。

「っは!!」

 気合いと共に、右の拳に剄を込めて衝剄を撃ち出す。
 大きな威力である必要などない。
 だが、出来る限り拡散しなければならない。
 衝剄と、見た事もない衝撃波を共食いさせて、サヴァリス自身が受ける打撃を軽減する。
 その思惑は見事に功を奏し、実際に身体に感じた衝撃は大したことはなかった。
 あくまでも、身体に感じた衝撃は。

「レイフォン?」
「なんですか、サヴァリスさん?」
「何故、僕の後ろにいるんだね?」
「ここが一番安全だと思ったので」
「理解は出来るよ」

 そう。何を思ったのか、レイフォンがサヴァリスの後ろに隠れて、あろう事かなにやら攻撃の準備をしていたのだ。
 この機会にサヴァリスを亡き者にしようとしているのかと、少しだけ期待したが、レイフォンの目的が明らかに違うことも分かっている。
 老性体に止めを刺すつもりなのだ。
 その証拠に、普通の剄技では決して考えられない現象が目の前で起こっている。
 青石錬金鋼の刀の周りに、何層にも渡って剄で出来た覆いのような物が被さっている。
 どうやらこれが手品の種のようだが、それを検索している余裕は、やはり無かった。

「念のために!!」

 サヴァリスから逃げるためばかりではないく、レイフォンが老性体の首付近へと移動する。
 そして、その甲殻の継ぎ目に刀を差し込み、なにやら技を放つ。
 外力衝剄の化錬連弾変化 炎破。
 技を放った次の瞬間には、崩れゆく錬金鋼から手を放して最後に残った黒い刀を復元。
 後のことを考えていないのか、それともこれが最後の好機だと思っているのか。
 だが、指を咥えて見ているのは性に合わない。

「まあ、実際に咥えられないんだけれどね!!」

 叫びつつ剄を練り上げ、両足へと流し込む。
 繰り出す技は、既に決まっている。
 疾風迅雷の形。
 打撃を受けた老性体は暫く動けないだろうから、ゆっくりと技を完成させて、そして大きく開いた傷口へと放つ。
 と同時に、限界を超えた錬金鋼が両足とも自壊。
 ほぼ全力の高速移動で距離を開けつつ、スプレーで両足を応急処置。
 これで、右手以外は使えなくなってしまった。
 右手で移動しつつ、右手で攻撃するというのはかなり面倒なので、出来ればこれで終わって欲しい。
 新しい目標があるのに、ここで終わりというのは少し残念であるからだ。
 出来れば、満足できる敵と戦い、満足できる過程を経て、満足の内に死にたい。
 いや。死にたいのではなく、戦いの中で、最後の一瞬まで戦い抜いて死にたい。
 そのために、老性体との戦いはこれで終わりにしたいのだ。
 そんなサヴァリスは、恐ろしい光景を目の当たりにする。
 先ほど着弾した破壊の跡を目視確認したのだ。
 疾風迅雷の形が、あまり要らないのではないかと思えるほどの大きな傷口が、老性体の腹部に開いている。
 もちろん、サヴァリス達の攻撃も十分に強力だったが、それでも、目の前に存在している破壊の跡は圧倒的だった。

「天剣授受者も、所詮その程度と言う事ですかね?」

 天剣を持ったサヴァリスが全力の攻撃を撃ち込めば、おそらく同じ結果を得ることが出来ただろうが、一般の都市ならば間違いなく重要な攻撃手段となり得る。
 これこそが、かつて人類が世界に君臨することが出来た力の源なのだと、そう実感する。
 アルシェイラだろうと、所詮個人の力には限界がある。
 だが、あの陰険武芸者は集団を使うことでサヴァリスの破壊力を越えようとしているのだ。
 ふと、ここで気が付く。
 アルシェイラや天剣授受者が大きな顔が出来ているのは、人類が自律型移動都市という箱庭で生きているからなのだと。
 豊富な資源を手に入れさえすれば、人類は武芸者を必要としなくなるのだと。

「そうなる前に、死にたいですね。もちろん戦い続けて」

 これからの世の中に思いをはせた瞬間、耳元で小さな電子音が鳴った。
 そしてフェリの声で、老性体の殲滅が確認されたと知らされた。
 天剣無しで、元と現役の天剣授受者を使い、正体不明の砲弾を用意し、全てを準備したことで、驚くほど短時間で名付き並の強さをもった老性体を倒したことになる。
 将来への不安はあるが、それでも指揮官や事前準備の重要さを確認出来た戦いだった。

「所でレイフォン」
「なんですかサヴァリスさん?」

 復元した黒い刀を待機状態へ戻したレイフォンが、移動指揮車へと向けた足を止めて振り返る。
 ここで殺し合おうと言い出すのではないかと、そう不安に思っていることが分かるが、今回の用件はそんな事ではないのだ。

「僕を移動指揮車まで運んでくれないかい? 両足を負傷してしまっているのでね、歩けないんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」

 サヴァリスをここに捨てて行きたいという欲求があることが、都市外戦装備の上からでも十分に分かる。
 もし捨てて行ければ、ナルキやレイフォンの安全が格段に確保されるのだ。
 そうさせるわけには行かない。

「僕を捨ててくんだね。ナルキと同じように」
「・・。それ、ナルキにも言ったんですか?」
「マイアスで言ったよ」
「・・・・・・・。はあ」

 ナルキはサヴァリスを置いて行ってしまったが、レイフォンはそんな事をしないでいてくれたようだ。
 このお人好しさに付け込んで、後で色々と面白いことをしよう。
 将来への不安を打ち消すべく、そう考えたサヴァリスだった。
 
 
 
 
 
 グレンダンの王宮にしつらえられたハンモックに寝転びつつ、アルシェイラは不満一杯だった。

「カナリス」
「はい。陛下」

 視線はおろか、注意さえ向ける気配のない影武者の態度は、最近定番となり果ててしまっている。
 原因はアルシェイラ本人にある以上、当然のことだとは思うのだが、それでもと勘ぐってしまう。
 リチャードと良い関係になったから、アルシェイラのことが気にならなくなり、結果的にカナリスの仕事の能率が上がり、そして、最終的にこの態度になっているのではないかと。
 最近観察を続けているのに、甘い展開になったことが一度もないから違うと思うのだが、妄想することは止められない。

「不満」
「それはよう御座いました」
「リヴァースとカウンティアが逃げられた奴、グレンダンの前にいたんだけれどね」
「では誰かに迎撃させましょう」
「レイフォンとサヴァリスがやってしまったみたい」
「ならば問題有りません」
「あるわよぉぉ」

 事の重大性がまったく理解できていないカナリスに、少しだけ苛立ちを覚える。
 前提条件として、レイフォンもサヴァリスも天剣を持っていない。
 通常の錬金鋼のみで名付きを倒したと言う事になる。
 その異常さを理解しているのかどうか、とても疑問なのであるが、それ以上に問題なことがある。
 そう。レイフォンもサヴァリスもツェルニに居るはずなのだ。
 アルシェイラには、既にツェルニが見えているのだが、カナリスには当然まだ見えていない。
 そう。ツェルニが見えているのだ。

「リーリンに逢う前に、少しだけ良い格好出来ると思ったのに、あのヘタレ汚染獣のせいで計画が台無しよ」
「それは何よりでした」
「・・・・・・・・・・・・・・・。カナリスのイケズ」
「有り難う御座います」

 淡々と書類の決裁を続ける影武者を見詰めつつ、アルシェイラは指を咥えて可愛らしく不満を表しているというのに、反応は相変わらずどうでも良い物ばかりである。
 だが、めげている暇など有りはしない。
 もうすぐリーリンに逢えるのだ。
 その希望だけを胸に、アルシェイラは惰眠を貪るのだった。



[14064] 第十一話 一頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/23 14:54


 老性体との戦いを終えた二人が帰ってきたのを出迎えたウォリアスだったが、心の中はとてつもなく乱れていた。
 別段、レイフォンに負ぶさっているサヴァリスが、なんだかとても良い笑顔なのは気にならない。
 移動指揮車に乗り込んだ途端、脱力しきって軟体動物のように蟠ってしまったレイフォンの事だって、別段気にならない。
 それどころではない事態が、すぐそこまで迫っているからだ。

「点呼省略、発車」

 一日弱の休息では、今回用意した武芸者にはかなり厳しいのは分かっているが、それでもここで時間を潰すという選択肢は存在していない。
 一刻も速くツェルニに帰り着き、そして体制を整える必要があるかも知れないのだ。
 左手と両足を負傷しているサヴァリスの治療をしつつ、ウォリアスはフェリへと視線を向ける。
 なにやら、難しい顔で誰かと会話しているように見えるが、相手はこの車の中にはいない。
 まだフェリにしか認識されていない遠距離にいる人間と、念威を通した無音会話をしているのだろう事は分かる。
 その相手が誰なのかも、実はおおよそ理解しているのだ。

「でだが、悪いかも知れない情報が有るけど、聞くよね?」
「え、えっと。聞きたくないって言ったら?」
「物理の勉強をツェルニに帰るまでやるけど、僕はそっちの方が好みだよ?」
「どんな情報でしょうか?」

 突然ウォリアスが話を振っても、きちんと対応してくれるレイフォンにほんの少しだけ感謝しつつ、最初から拒否は許さない体制を整えていたことは、それとなく匂わせる程度にしておく。
 実際問題、レイフォンにとってもこの情報はかなり重要なのだ。
 いや。もしかしたら、レイフォンにとってこそ重要かも知れない。

「僕らの後ろに都市が迫っている」
「? この、移動指揮車の後ろ?」
「そ。まだフェリ先輩の念威に引っかかる程度の距離だけど、確実にこの車の後を追ってきている」

 それはつまり、その都市はツェルニに向かっていると言う事を意味する。
 移動指揮車自身の移動速度よりは遅いが、身動きの取れないツェルニに逃げるという選択肢は存在していない。
 それはつまり、やって来る都市は一日半程度の時間で接岸することになるだろう。

「その都市が問題でね」

 これが、普通の学園都市だったらあまり問題はなかった。
 ツェルニの状況で戦えるか疑問だが、いざとなったらレイフォンをけしかけるからさほどの問題ではない。
 ウォリアスは敗北するが、ツェルニの敗北よりはまだ気楽だ。
 だが、残念なことに接近中のは、普通の都市ではなかった。

「槍殻都市グレンダンだ」
「「? は?」」

 サヴァリスとレイフォンの間抜けな声を聞きつつ、思わず同情してしまった。
 ウォリアスだって、最初にこの情報に接した時に理解するために時間を必要としたのだ。
 三秒経っても、二人は、今起こっている現実を認識できていないようだ。
 なので、余裕を見せるためにゼリー飲料をすする。
 もちろん、パッケージは確認しているし、舌の上に少量乗せて安全を確認してからだ。
 小さく舌打ちした誰かのことは、気が付かなかったことにする。
 ここで二日意識不明になるわけにはいかないので、用心をしたのだが、舌打ちが本物だったかどうかは疑問だ。
 流石にこの状況で悪ふざけをするとは思えないのだが、それでも用心はしておいて損はない。

「そろそろ現世に復帰して欲しいな。特にサヴァリスさん。貴男を迎えに来たかも知れないんですから」
「・・。ああ。そう言うことなのかな? 僕は戦いを愛していると思っていたんだけれど、戦いの方でも僕を愛していてくれたんだね」
「相思相愛ですね」

 ウォリアスに手当てされつつ、我が身を抱きしめ悶えるサヴァリスの反応に動揺することはない。
 この程度は、予想範囲内の反応なので驚くことも取り乱すこともしない。
 問題なのは、グレンダンが迎えに来たと仮定できる人物が、四人いると言うことだ。
 まあ、ゴルネオを迎えに来たという確率はあまり高くないが、シャンテと込みだったら有るかも知れない。
 だが、それでも、残り三人に比べたら確率的には低いだろう。
 時期的に一番あり得るのがサヴァリスだと言うだけで、レイフォンとリーリンも十分に考えられるのだ。
 特に、暴走事件収束前後から微妙に印象の変わったリーリンを迎えに来たと言われても、あまり驚かないだろうと思っている。

「で、今フェリ先輩が向こうのキュアンティス卿でしたっけ? 念威繰者と連絡を取っているんですが・・・・」

 視線をフェリに向けると、難しい顔は何時の間にか消え、とてもうっとうしそうな表情で驚いていたりするのを発見した。
 まだ、向こうの話が終わっていないと判断することとした。
 巻き込まれたら、とても厄介なことになりそうだから。
 何時までも続けられる現実逃避ではないが、他にやるべき事もあるので、そちらを優先させる。

「で、帰りますよねサヴァリスさん?」
「うん? 奥さんを連れ帰っても良いかい?」
「本人の希望次第ですが、おそらく断られると思います」
「そうだよねぇ。ナルキは僕にはとてもつれないんだよ。どうしたら良いだろうね?」
「知りませんから」

 何故か、サヴァリスと話していると緊迫感が抜け落ちて行く自分を認識しつつ、ナルキのことも色々と問題であることは分かっている。
 今は大人しくしているが、廃貴族が何時、活性化するか分からないし、そうなったらツェルニでは押さえられないだろう事も分かっている。
 ナルキが自分の意志で、グレンダンへ行ってくれることが一番望ましいのだが、そんな事にはならないだろう事も分かっている。
 何しろグレンダンには、サヴァリスを抜いたとしても、天剣授受者が十人もいるのだ。
 一般武芸者が近付きたい場所ではない。

「その事で一つ相談に乗ってくれないでしょうか?」
「はい? グレンダンに行くかどうかですか?」

 突然フェリから話を振られて、対応に困った。
 何についての相談なのか分からないし、デルボネと会話をしているはずだからだ。
 だが、その疑問もすぐに氷解することとなった。

「私に縁談を進めてきてうっとうしいのです」
「ああ」
「グレンダンに来て、子供を作ってはどうかと、先ほどから候補の男性を列挙されていまして、とてもうっとうしいです」

 デルボネと言えば、そろそろ百才になろうかという年齢であるはずだ。
 であるならば、縁談を他人に勧めても何らおかしくない。
 完璧に先入観だが、フェリが辟易するのも納得できるという物だ。
 であるならば、既に相手がいるという偽情報を流すのが最も手っ取り早い。

「適当に誰か相手がいるとか?」
「・・・・・・・。適当な人がいますか?」
「これとか?」
「・・・・・・? え? ぼ、ぼく?」

 我関せずといった雰囲気だったレイフォンへと話を振る。
 二百年以上の人生経験があるかも知れないウォリアスだが、残念なことに恋愛経験は多くないのだ。
 そして、当然のことレイフォンは驚き戸惑い混乱している。
 だが、事態はそんなレイフォンなどお構いなしに突き進む。
 これもある意味当然のことなのだろうと思う。

「私には心に決めたレイフォンという男性がいますので。縁談もグレンダン行きもお断りさせて頂きたいと」

 何故か、今まで無音会話をしてきたというのに、口に出して喋り始めるフェリ。
 その目的は、当然のことレイフォン虐め。
 であるならば、フェリの戦術としては、ツェルニに帰り着くまでデルボネと会話しつつレイフォンを虐めるという暇つぶしの方法を選択するはずだ。
 そしてそれは、即座に現実の物となった。

「はい。トリンデンさんのことは存じ上げておりますが、それでも私の心と身体はレイフォンに奪われてしまっています」

 心は兎も角として、身体は拙いのではないだろうかと思うのだが、かまわずに突き進む。
 なにやらとても嬉しそうなフェリの表情を見る限りにおいて、デルボネは縁談とフェリのグレンダン入りを諦めたのだろう。
 だが、何故か突然両耳を押さえて悶絶する。

「な、なんですか、この意味不明なのに大きさだけは尋常ではない声は? 念威が混信するなんてあり得ません」
「凄い人がいるもんですねぇ。流石グレンダン」

 どんな内容の雑音がフェリを悩ませているのかを考えつつ、ふと何か引っかかることがあるのに気が付いた。
 ウォリアスは以前、こんな感じの雑音に遭遇したことがあったはずだと。
 そしてそれはすぐに思い出された。
 老性体との戦いを終えてツェルニにレイフォンが帰ってきた際、シノーラという人物から届いた手紙だ。
 そこから少しだけ想像の翼を羽ばたかせて、結論に達する。
 手紙の文字が二種類であったことから想像していた答えの中から、今回の現象と照らし合わせるだけなので割と簡単であった。

「ああ。これがグレンダンか」

 想像していた中で、最も下らない結論だったが、それでもまあ良しとした。
 常識という物を何処かに置き忘れてきた都市ならば、ありな結論だと思うから。
 思惑と違った形になったが、ツェルニに帰り着くまで退屈しないだろう事はおおよそ決定した。
 フェリにとって、全然楽しくないだろうが。
 それよりも優先すべきは、ツェルニとグレンダンの接触が何を意味するのかを考察することだ。

「本当に、サヴァリスさんの回収だったら良いんだけれど」

 それならば、問題が一つ片付く。
 ナルキが絡んでいるので、丸く収まるかどうかは分からないが、現状より悪くなると言う事はないはずだ。
 そう。天剣授受者が大挙して留学を希望するとか言う事態にならなければ。
 
 
 
 
 
 その知らせが届いたのは、残り一つのカプセルを迎撃するために戦力の再建が終わった頃のことだった。
 軽傷を負った武芸者は応急手当を負え、錬金鋼はダイトメカニックによって調整、あるいは新品と交換された。
 ミサイルの在庫はまだ残っているし、栄養補給と休養を交代で終えたので戦意も十分だ。
 それでも、この知らせを聞いた時の衝撃は半端な物ではなかった。
 ニーナでさえかなりの衝撃を受けて、一瞬惚けてしまったほどなのだから、身の危険を感じている人物にとってはもはや想像を絶する破壊力であったようだ。
 その証拠に、虚ろな視線で辺りを見回し、簡易・複合錬金鋼を持つ手から力が抜け、切っ先が大地へと接触している。
 そう。衝撃を受けているのは、ニーナの指揮下に入っているナルキである。
 表情が抜け落ち、生気を全く感じさせないその虚ろは全てを諦めているようにも見えるし、全てに悟りを開いた修行僧にも・・・・・見えない。
 どう修正しても、生ける死体以外の何物でもない。

「は、はははははは」

 呼吸する虚ろが、冷たく乾ききった風が吹くように笑う。
 そのあまりの不気味さに、ツェルニの小隊員が恐れ戦き後ずさる。
 思わずニーナも、三センチほど後退してしまったほどに不気味である。

「やはりこの世は地獄。強ければ死に弱ければ食われるんだ」

 意味不明な音の羅列が、暖かいはずの日差しを掻き消し、背筋に悪寒を走らせる。
 そして、ゆっくりとぶら下げられていただけの刀を持ち上げる。
 その刃は自らの首筋へ。

「ああ。私はあの世で幸せになるよメイシェン、ミィフィ」

 絶望という名の笛が吹かれ、死への渇望という旋律が奏でられる。
 そこに光はなく、ただ闇だけが存在していた。

「済まない。私に代わってみんなに謝っておいてくれ」

 躊躇することなく、刀が首筋を切り裂こうとする。
 精神力の全てを投入して、この事態を何とかするべく行動する。
 レイフォンが帰ってくるまで、ツェルニを守ると自分に誓ったのだ。
 それはつまり、レイフォンの親しい人達を守ると言う事。
 ナルキを、自分自身から守るために、必死に声を絞り出す。

「お、落ち着けナルキ!! 死んだら全てが終わりだ!! 生きていれば、きっと良いことだってあるはずだ!!」
「生きていて、何か良いことがありそうですか? この展開で?」
「・え、そ、それは」

 瞬時に切り替えされて言葉に詰まる。
 普通に考えれば、サヴァリスのお嫁さんとしてグレンダンに連れて行かれ、そして血も凍るような恐るべき経験をすることになる。
 どんな経験をするかは分からないが、楽しいことがあるとはどう考えてもないと思う。
 それは最初から分かっていたはずだというのに、後先考えずに突っ走ってしまった。
 ニーナは、相変わらずニーナだったようだ。

「シャーニッドォォォォ」
「はいはい」

 困った時のシャーニッド頼みが最近のトレンドだ。
 この男なら、きっと何とかしてくれる。
 その確信と共に頼ってみたのだが。

「今のグレンダンにいる天剣授受者って、レイフォンがいないから十一人だよな?」
「ええそうですよ。念威繰者が一人いますが、天剣授受者の念威繰者なんて、どんな生き物か解りませんからね」

 何故か持ち出したのが、現在グレンダンにいるだろう天剣授受者の数。
 ナルキの瞳から光が失せ、魂まで暗黒に支配されたことがはっきりと分かった。
 これは駄目かも知れないと、そう思った矢先だった。

「でさあ。あの世って物があるとしてさぁ」
「有ったら良いですけれど、この世じゃなければ何処でも良いですよ」
「その、あの世にいないのかね? お亡くなりになった天剣授受者って?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 徐々に、しかし、確実に、ナルキの周りに暗黒空間が広がって行く。
 そこに一切の光はなく、ただ、何処までも続く暗い世界が広がっていた。
 いや。星の瞬きのような光が見えるような、見えないような。
 七色の乱反射も、見えるような見えないような。
 まあ、それは今はどうでも良い。
 問題なのはナルキの方だ。
 これでとてつもない量の不安が存在していることがはっきりとした。
 この世から退場しても、そこに安楽な生活は存在せず、もしかしたら、今以上の地獄が用意されているかも知れないのだと。
 歴代の天剣授受者が何人いるか分からないが、十人以下と言う事は考えられないだろう。

「ああ。そうだったのか」

 絶望という笛が奏でる、死への渇望と言う旋律の先にあったのは、それでも生温いとばかりに燦然と輝く絶望だった。
 全身から力が抜け、重い刀が大地へと投げ出される。
 へたり込んだナルキを救う方法など、この世に存在していない、そう思われた。

「だが安心しろナルキちゃん。その地獄をぶち壊す方法ならある」
「あるんですか? 死ぬことさえ出来ない地獄から抜け出す方法が?」
「ある!!」

 力強く吠えるシャーニッドには、本当に良い案があるようだ。
 それが分かったのだろう、ナルキの瞳に力が戻り、取り落とした刀を再び手に取り立ち上がる。
 だがしかし、それはもしかしたら聞かない方が良かったのかも知れない。

「天剣授受者を越える強さを手に入れれば良いんだ!!」
「・・・・・・・・・・・・・。ああ。私には絶望がよく似合うんですね」

 無理である。
 天剣授受者と言われて思い付くのは、レイフォンとサヴァリスだが、どちらか片方と戦って勝てる見込みなどこの世に存在していない。
 それはシャーニッドも分かっているはずだ。
 少し前、遊び半分のサヴァリスに満足して頂くのに、どれほどの地獄を見たか、忘れたとは言わないだろう。
 だが、それでもシャーニッドは止まらなかった。

「諦めるなナルキちゃん!! 君は一人じゃない!! この胸の中に味方がいるじゃないか!!」

 そう絶叫したシャーニッドが、勢い良く腕を伸ばして、ナルキの胸を鷲掴みにする。
 ・・・・・・・・・・・・・・・。
 今起こっている現実を認識するのに、一瞬以上の時間が必要だった。
 あろう事か、大衆の面前で、ニーナの小隊員が、女生徒の胸を、鷲掴みにしているのだ。

「・・・・あ。え、えっとな、あのな、だからね?」

 状況を認識できなかったのはシャーニッドも同じようで、鷲掴みにした手をそのままに混乱の坩堝へと墜落してしまっていた。
 そんな目の前の光景とは別に、ニーナのすぐ横で、殺意が爆発寸前までふくれあがる。
 金髪を縦ロールにした、ニーナの小隊員の形をしたそれは、しかし、タコによって静止させられていた。
 タコの命も風前の灯火だと思うのだが、今問題にしなければならないのは、最大の問題であり、発端であり、胸を鷲掴みにされている女生徒である。
 そして、遅ればせながらニーナも理解した。
 ナルキの中には廃貴族という、狂える都市の意志がいることを。
 廃貴族の力を借りることが出来るのだったら、あるいは天剣授受者を越える強さを手に入れることも出来るかも知れない。
 そこにニーナは希望を見いだした。
 そして、シャーニッドも希望を見いだしたのだろう。
 だが、ナルキだけは違った。

「無理ですよ? 廃貴族は確かに凄いですけれど、天剣授受者を相手にするなんて、私が無理ですよ」

 少し言葉が怪しいので、一呼吸おいて考える。
 ついでに、胸を鷲掴みにしたままだったシャーニッドの手を、強引に降ろさせる。
 シャーニッドの手を握りつぶしたい衝動と戦いながらだったが、そこからナルキの言葉を理解することが出来た。

「つまり、剄量は同程度になったとしても、それを操る能力が追いついていないと言う事か?」
「ええそうですよ? 錬金鋼が壊れないようにするだけで手一杯なのに、レイフォンみたいに卵の殻を割らないように絵を描くなんて、とうてい出来ませんからね」

 話には聞いていたし、実際に見てもいるが、卵の殻を使った悪戯書きにどんな意味があるのかは全く分からない。
 技量の凄さは分かるのだが、やる必要性が全く分からない。
 だが、制御の訓練だというナルキの言葉を信じるならば、十分に凄い技術だと表現することは出来るだろう。
 当然のこと、ニーナには出来ないし、ツェルニ武芸者で出来るのはレイフォンだけだろう事は間違いない。

「そこだナルキちゃん!!」

 ニーナに腕を捕まれたままだったシャーニッドが、更に咆哮する。
 その勢いは、一瞬前までの混乱の坩堝にいた時とは偉い違いだ。
 腕ではなく、頭を握りつぶしたら気分が良くなるのではないかと思ったが、話の途中なので延期することとする。

「レイフォンという、人類最強の制御能力を持った武芸者が側にいるんだ。そしてナルキちゃんはそのレイフォンに師事しているんじゃないか!! だったら、レイフォンに近付いて、越えることだって出来るはずだろう!!」

 これも正論であるように思える。
 レイフォンの能力を、例え縮小再生産品だったとしても、身につけることが出来れば希望はある。
 だが、この論理でさえナルキには届かなかった。

「・・。ああ。シャーニッド先輩。貴男は分かっていないんですね、レイフォンの変態さ加減が」
「へ?」

 思っていたのと違う反応だったためだろうが、シャーニッドの勢いがいきなり消失する。
 それはニーナも同じだ。
 レイフォンという人類最強の武芸者に師事しているナルキならば、何時かそれを越えることだって出来るかも知れない。
 ニーナだったらそう考える。
 いや。そう考えて自分を奮い立たせる。
 だが、ナルキの反応は明らかに違った。

「レイフォンに師事して二年近く。強くなれば成る程差が開いて行くような感覚に襲われ続けるんですよ? 凄さを実感できるというとしっくり来ますかね?」

 そう言いつつ、とうとう座り込んで落ち込みが激しくなるナルキ。
 もはや絶望という名の彫刻と言う事さえ憚られる、それは虚無の局地を見た人間の姿だった。
 思い返せば、レイフォンの修行メニューは、ニーナからすれば訳の分からない物が多かった。
 錬金鋼の外に剄を留めておいて大威力の技を使うとか言う、現実味のない技の訓練をやっていたところも知っている。
 普通の武芸者は、錬金鋼が壊れるような剄量を持っていないから、そもそも必要がないのだが、今のナルキには必要だろう。
 だが、それをナルキ本人は体得できていない。
 レイフォンに師事しているにもかかわらずだ。
 それはつまり、師弟の間には想像を絶する技量の差が存在し続けていると言う事である。
 いや。もしかしたら、錯覚ではなく、本当に開き続けているのかも知れない。
 となれば、シャーニッドの、レイフォンに追いつけ追い越せ戦法は、最初から破綻していたことになる。

「・・・・・。え、えっっと、ニーナ?」
「わ、私に振るな!!」

 シャーニッドでも駄目だった。
 こうなったら、もはや頼れるのはカリアンしかいない。
 カリアンの政治力でナルキをツェルニに留めておいて貰う。
 これしかない。
 そう決意したニーナは、手近にいた念威繰者を通して、カリアンと連絡を取るのだった。
 
 
 
 
 
 その身に廃貴族を宿していると思われる少女が、絶望の果てに旅立つ姿を眺めつつ、木の枝で惰眠を貪るのに飽きたディックは、そろそろ動き出そうかと考えていた。
 別段目的があるわけではないが、眠気覚ましに軽い運動がしたくなったのだ。
 そう。戦う相手がそろそろやってくる。

「彼奴らも気合い入れてやって来るつもりか?」

 そんな気配がする。
 狼面集には、おそらく実体と呼べる物はない。
 だからこそ、条件がそろえば何処へでも現れる。
 まるきりゴキブリのような連中だが、だからこそ眠気覚ましには丁度良い。
 ここにはディックを番犬と呼ぶいけ好かない女もいることだし、少しだけやる気も出てきた。
 だが、当面は汚染獣の仕舞われているカプセルの方に注意を向けておく。
 絶望の果てへと旅立った褐色の武芸者を覚醒させるのは、もしかしたら汚染獣かも知れないから。

「いや。あの状況じゃあ汚染獣と戦うのも無理かもしれねえ」

 この世に留まっても、あの世に旅立っても、天剣授受者との縁は切れないという危険性が高まった少女は、全てにおいて無気力になり果ててしまっているかも知れない。
 廃貴族という力があったとしても、それを使う武芸者が無気力ではおそらく意味がない。
 あるいは、廃貴族に操られる人形となり果てるか。
 ここまで考えて、ふと思う。

「無気力になっているんだったら、あれを俺の物に出来るかもしレねえ」

 少女がでは無い。
 廃貴族である。
 もしディックが廃貴族を奪うことに成功すれば、あの少女は天剣授受者との縁を切ることが出来るし、廃貴族にとっても使ってくれる人間と一緒にいる方がよいだろう。
 ディックの強欲が、珍しく問題を解決する方向へと働いているように見える。

「こいつは珍しい」

 本人でさえ感心するほどの珍しさである。
 となれば話は簡単である。
 無限の絶望へと旅立った少女が、無気力に事態に流されてさえくれれば、全てが丸く収まる。

「と言うわけだから、汚染獣を見つけても何もするんじゃねえぞ」

 他力本願的に強欲を発動させたディックは、いるはずのない神に祈ることとした。
 無駄だとしても、金はかからないので気にしない。
 



[14064] 第十一話 二頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/23 14:54


 それは何時もの光景だった。
 いや。恐ろしく何時も通りの光景だったはずだ。

「何考えてんのよあのヘタレは!! 顔は悪くないけれど武芸しかできない武芸莫迦の分際で!! リーちゃんの好意を独り占めした上に、巨乳で従順そうな現地妻まで作って!! 更に何? 優秀な優秀な、超優秀な念威繰者の愛人までいるって!! 巫山戯てんの? もしかして巨乳には飽きたから貧乳が欲しくなったとか言うつもり? それともやっぱり巨乳なの? その念威繰者も巨乳なの? もしかして死にたいの? それとも殺して欲しいの? いいえ!! 私が殺してやるわ!! むしろあいつを殺して私が成り代わってやるわ!! そうすれば私の野望は成就されるし、女の子達もあのヘタレの毒牙にかからずに済むわ!!」

 更にヒートアップして、ムキィィィと言葉にならなくなる。
 そんな訳の分からないことを絶叫しつつ、猛烈な勢いで昼食を掻き込んでいる何処かの女王陛下を眺めつつ、夕食のメニューを考えることが日常となっている我が身を、ほんの少しだけ不思議だと認識していた。
 そう。これだけならば全くもって日常の出来事であるはずだった。
 焼き魚と味噌汁、漬け物に野菜の煮物、炊いた米という昼食が片付き、女王陛下が更になにやら絶叫しつつ羨ましがっているのを眺めつつ、リチャードは首を捻って現状を確認する。
 まず視界に飛び込んでくるのは、髪も髭も真っ白になった好々爺である。
 その隣には、カイゼル髭を蓄えた厳格そうな中年もいる。
 女王陛下そっくりな女性は、まあ、何時ものことだから良いとして。
 黒髪をサイドポニーにした、同年代の少女が、何故かリチャードの隣で緑茶をすすっていたりもする。
 そして、最も異様な物を視界に納めることとなる。
 それは、移動式の完全介護対応のベッドだった。
 当然そのベッドの中には、齢百になろうかと言われているグレンダン最高の念威繰者が横たわり、他の連中とは一線を画する速度で、昼食を租借している最中だ。
 夕食までに食べ終わるのか疑問なほど、ゆっくりと召し上がっている。
 眠りながら食事をしている女性を介護している若い男性は、既に食事を終わらせているのか、彼の分は用意しなくて良いと言われた。
 王族と天剣授受者で狭さを感じるのは、当然のことサイハーデンの道場に併設された居住区画、その食堂である。
 そして、そしてデルクを視界に納める。
 驚いたことに、割と平静を保っていた。
 昔なじみのティグリスがいるために、何とか意識を繋ぐことが出来ているのだと思うが、それがいつまで持つかリチャードには分からない。
 だからこそ、取り敢えず関係なさそうな、あるいは軽い会話で済みそうな話題を口にすることとした。

「で、ですねクラリーベル様?」
「わたくしのことはクララとお呼び下さい。昼食をご馳走になっていますから」
「ではクララ」

 そんな名前の風邪薬があったのではなかったかと、一瞬だけ思ったが深くは考えない。
 考えるべき事は別にあるのだし、現実は直視しなければならない。
 いや。直視したくないからこその行動である。

「なんでこんな大勢が家で食事をしているんでしょうかね?」

 これが最も問題であると、そう結論付けているわけではない。
 これは前振りに過ぎない。
 本命はこの後である。

「それは簡単ですわ」
「理由とは?」
「焼き魚です」
「は?」

 本命ではない話題だったが、それでもリチャードの想像を絶する返答に一瞬以上凍り付く。
 焼き魚など、何処のご家庭でも作って食べているはずだと思うのだが、もしかしたら王族は違うのかも知れない。
 もしかしたら、王族の言う焼き魚とは想像を絶するほど奥深く、そして複雑な方法で形作られる料理かも知れない。
 だが、リチャードの発想は的外れであったことが視覚情報から明らかになった。

「・・・・・・・・・・・・」

 そう。焼き魚と言われて、思わずクラリーベルの皿に視線を飛ばしてみたのだが、そこには僅かな残骸が残っているだけだった。
 魚自体はカナリスがもってきた。
 変に量が多いなとは思ったのだが、武芸者がいるのだから問題無いかと軽く考えて調理をした。
 魚焼きコンロだけでは足りなかったので、倉庫の奥から引っ張り出した七輪まで使って焼いた。
 そして、焼き終わって気が付いたら、王族と天剣授受者に食堂を占拠されていた。
 もちろん、接近には気が付いていた。
 超高速移動をしていたというわけではなく、普通に歩いてきていたのだが、アルシェイラの剄の気配に惑わされ、他の三人とデルボネの接近を至近距離になるまで察知することが出来なかった。
 魚の量が多いのもこれで説明が付いたが、だからと言って納得できるという話では無いし、魚の丸焼きを作ったはずだというのに、クラリーベルの皿の上に、頭も骨も皮も残さずに、小さな残骸しか残らないというのも納得が行かない。

「家で焼き魚を食べますと、身以外を食べると怒られますので」
「・・・。誰に?」
「ばあやにですわ」
「・・・。成る程」

 しつけ云々を言うのだったらティグリスが五月蠅いのかと思ったのだが、よく見れば好々爺の皿にも魚の小さな残骸しか残っていない。
 しつけは他の誰か、おそらく、ばあやが担当しているのだろう事が分かった。
 その結論に達した直後、恐るべき想像に狩られてカルヴァーンに視線を向けてみれば、こちらは普通に身だけを綺麗により分けて、骨も頭も残った状態である。
 皮が好きな人もいるので、そこは気にしないこととするが、それでも、少し安心してしまった。

「わたくしは、焼き魚を骨の髄まで愛しておりますの」
「焼き魚と結婚しますか?」
「それは無理ですわね。夫となったその夜にわたくしに食べられてしまいますから。それこそ骨まで」
「ですよねぇ」

 おほほほ。
 上品にそう笑うクラリーベルは可愛らしいと思うのだが、生憎と王族であるので要注意だ。
 中身はアルシェイラ並かも知れない。
 と、ここまでやって来たところで前座は終わりだ。
 本題へと視線を向けて、そして、左手でクラリーベルの前に置かれていた使用済みの箸を持ち上げる。
 右手で、自分の箸も持ち上げる。
 サイハーデンの修行のお陰で、左手で厚焼き卵が食べられるようになったリチャードにとって、両手で箸を操ることなど造作もない。
 準備が整ったので、立ち上がり、冷蔵庫の方へと足を向ける。
 そう。冷蔵庫を開けて、取って置きの羊羹を引っ張り出しているアルシェイラに向かって。

「え? あ、あのリチャード?」

 ただ立って歩いているだけだというのに、アルシェイラが恐れ戦いて、羊羹を抱えつつ後ずさる。
 冷蔵庫の扉を開けたまま、羊羹をもったまま。
 二つの事実を前に、リチャードは歩みを進める。

「なあ、アルシェイラさん?」
「な、なんでしょうか?」

 そっと冷蔵庫の扉を閉めつつ、羊羹をもったままの女王へと進む足は止めない。
 両手に持った箸の調子を確認するために、開閉作業を繰り返しつつ。

「その羊羹なんだがな?」
「は、はひ?」
「どうするつもりなのかと気になって気になって、箸で眼球をつまみ出せるだろうかとか言う下らない疑問を持っちまってるんだ」
「ひぃ?」

 左右に持った箸で、同時に二つの眼球をつまみ出せるだろうかと、そんな事を考えている。
 大事そうに抱えた羊羹を、更に守るようにするアルシェイラの眼球をだ。
 己の眼球よりも羊羹が大事だというのならば仕方がない。
 その望みを叶えてやろうと、前へと進む。

「その羊羹、お茶の時間に出そうかと思っていたんだけれどな。大勢になったんでまたの機会にとか考えていたんだ」

 そう。予定よりも四人多いためにお茶菓子に用意しておいた羊羹が、物理的に足らなくなってしまったのだ。
 であるならば、今日のところは安めの焼き菓子でお茶を濁しておいて、然るべき時に羊羹を出そうというのはおかしな考えではないはずだ。
 であるのにもかかわらず、昼食が終わった直後に、独り占めしようとしているかに見えるアルシェイラが出現した。
 もう、制裁するしかない。

「その羊羹、どうするんだ?」
「え、えっと、あ、あのね、うんとね」

 要領を得ない答えしか返ってこない。
 有罪確定である。
 壁際まで後ずさったアルシェイラの前に立ちはだかり、そして箸をゆっくりと差し出す。

「ど、どうぞお納め下さい」
「・・・・・・・・」

 その、指し出した箸に向かって献上される羊羹。
 思わずそのまま受け取ってしまった。
 今まで感じたことのない重さを箸で感じつつ、これをどうするか一瞬だけ考える。
 アルシェイラが出してしまった以上、このまま冷蔵庫へ仕舞い込むことは憚られる。
 と言う事で、仕方なくまな板のところへ箸で支えたまま持って行く。
 予定が全て狂ってしまったが、仕方がない。
 包丁を取り出し、薄く切り分ける。
 ついでに、少し濃いめに淹れたお茶の容易も同時進行する。

「ひっく、うっく。でぃぐじい、りちゃーどがこあかったよぉぉ」
「おお。よしよし」

 などと言う会話が背中越しに聞こえるが気にしてはいけない。
 グレンダンの女王に泣くほど怖がられているが気にしない。
 そんなに恐くねえやと思うが、突っ込んで考えない。
 今は何よりも、羊羹を切り分けつつお茶の用意をすることに専念する。
 その作業中にもかかわらず、熱い視線が背中に突き刺さっていることは認識している。
 最低四対の視線だ。
 もしかしたら五対かも知れない。
 これはかなり拙いことになったかも知れないと、羊羹の激情が去った頭で考える。
 そして、大きめの急須二つで淹れたお茶と、予定よりも薄く切ることになった羊羹を盆にのせ、振り返り、当然展開されている光景を向き合う。

「あのな」

 ティグリスとカルヴァーン、カナリスの視線が痛い。
 クラリーベルの視線が熱い。
 デルボネの視線は、こちらを見ているのかどうか分からない。
 だが、自分のまいた種である以上刈り取らなければならないのだ。

「リチャード殿」
「まってください」
「もし宜しかったら」
「勘違いです」
「王宮に出仕して頂けないだろうか?」
「俺を殺したいんですか?」

 代表したカルヴァーンの、恐ろしい提案を出来うる限りやんわりと断る。
 王宮に出仕と言っても、事務仕事をやらせるというわけではない。
 アルシェイラのしつけ役としての仕事が待っているのだ。
 そんな仕事をさせられた暁には、三日以内にストレスで死ねる。
 しかも、三人の視線は明らかに縋り付いてきている。
 ティグリスの胸で泣いているアルシェイラなど、恐怖の視線でリチャードを見上げてきている。
 勘違いも甚だしい。
 リチャードは、ただ単に、羊羹のことで怒っただけなのだ。
 食べ物の恨みは恐ろしいと言うだけでしかない。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 そして、唯一違う意味合いで見詰めるクラリーベルへと視線を向ける。
 おかしな圧力を感じ取ったからである。

「・・・・・?」

 何故か剄脈が躍動的になり、手には錬金鋼など握りしめている。
 まだ復元していないのは、せめてもの救いだろうか?
 その光景を認識して、リチャードはクラリーベルに問いを発する。

「クラリーベル様?」
「わたくしのことはクララとお呼び下さい。陛下をあれほど追い詰められるリチャード様を、わたくしは尊敬申し上げております」
「待って下さい!!」

 様が付き、更に尊敬されてしまっているというのに、何故これほど嬉しくないのだろうかと自問する。
 サヴァリスと同じ類の生き物であるらしいと、風の噂に聞いた。
 さっきも、中身はアルシェイラ並かも知れないと疑った。
 噂も予測も、少し違った。
 この子も駄目な人なのだと言う事は間違いないが、他の連中とは一味違う。
 違ったからと言って嬉しくはない。

「そ、そもそも俺は一般人ですから」
「かまいません。わたくしにとって強者こそが全て。剄脈という増幅器官がない状況にもかかわらず、陛下を追い詰められる実力は、もはやこの世の物とは思えません」
「い、いやですね」
「その通りですな」
「い?」

 突如割って入ってきたカルヴァーンの声で心も身体も凍り付く。
 そこには、既に何かを確信した人物特有の、他の誰かを説得するのに必要な自信がみなぎっていた。
 とても嫌な予感しかしない。

「剄脈があるが故に、我らでは陛下をお諫めすることが叶わなかった。ならば、剄脈のない一般人に頼るべきであった物を、我らは一般人の実力をあまりにも過小評価しすぎていた」
「ま、まって」

 既に話が進んでしまっているが、何とか停止させるために努力をする。
 確かに、剄脈がない一般人相手では、いくらアルシェイラだとは言え好き勝手出来ないはずだ。
 ならば、暴虐の限りを尽くすことに歯止めがかかるかも知れない。
 その可能性はあるとリチャードだって思う。
 だが、だがである。
 その役目を、よりにもよってリチャードがと言うのは話が違う。
 更にこのまま進めば、クラリーベルの相手もしなければならない。
 確実に、二四時間以内に死ぬ。
 生き残ることこそサイハーデンの最終目標である。
 と言う事で、現在の伝承者であるデルクに、一縷の望みをかけた視線を送ろうとしたのだが。

「おやじ」

 四人の内、誰かの剄脈が、一瞬だけ猛烈に活発になった。
 そして出現したのは、完璧に意識を刈り取られたデルクが床に伸びているという光景だった。
 犯人を特定することは、おそらく出来ない。
 強烈な剄脈の持ち主が五人も近くにいるため、リチャードには誰の剄脈が活発になったか判断できなかった。
 アルシェイラとクラリーベル以外の三人は、リチャードなど及びも付かない達人揃いである。
 彼らの予備動作を見切ることなど不可能であり、事が終わった後で痕跡を探すこともやはり出来ない。
 つまり、万事休す。

「ああ。兄貴さえいてくれたのなら」

 いたからと言ってどうと言う事はないのかも知れないが、それでも愚痴を言うことくらいは出来るはずだ。
 それだけでもリチャードの心は、もう少しだけ明るくなっていただろう。
 そして本当の目的がすっかりどうでも良い物になっている事実にも気が付いていた。
 そう。アルシェイラの言動からツェルニが近付いているらしいことが分かった。
 ならば、それに備える必要がある。
 リーリンに託した伝言は伝わっているだろうが、それだけではレイフォンはまだ止まったままかも知れない。
 そんな事態になった時の対応を考えつつ、アルシェイラにレイフォンについて少し聞いてみたかったのだ。
 あれはまだグレンダンに帰ってくることは出来ないのだろうかと。
 だが、それらは全てどうでも良い事となってしまった。
 今のリチャードの心情的には、既に吹けば飛ぶような問題なのである。
 何故こうも、みんながみんなでリチャードに負担をかけることばかりするのだろうかと、少しだけこの世を呪ってしまった。
 
 
 
 
 
 それはやって来るべくしてやって来た。
 ニーナがカリアンとの話し合いを終えて、ナルキをこの先どうしようかと考え始めた頃合いになり、とうとう汚染獣を詰めたカプセルが割れたのだ。
 最後の一つであり、こちらの戦力回復がほぼ終わった状態ならば、それ程の脅威ではないと思われたが現実はそれ程甘くなかった。

「取って置きというところだろうか?」
「冷蔵庫で羊羹でも冷やしておいたのかね?」

 おもわずの呟きに答えるのは、当然のことシャーニッド。
 あまりにも平和であり、日常的な情景ではあったが、ある意味近いのかも知れない。
 最後の最後に放たれ、レイフォンが軌道を大きく狂わせてくれたカプセルから現れたのは、雄性体の一期とおぼしき汚染獣が十五体ほど。
 この戦力とやり合うことは出来る。
 勝つ自信もある。
 質量兵器の残りを使えば楽勝だとは言わないが、それでもかなり優勢に戦い勝つ自信はある。

「ふ、ふふふふふふふふふふ」

 ニーナ達武芸者と汚染獣の間に、不気味に笑うナルキさえ居なければ、十分に勝てると断言できる。
 ナルキを強制的にこちらに引きずってきて、戦場を確保すればいいことは誰でも分かっている。
 分かっているが、誰もそれをやろうとしない。
 正確を期すならば出来ない。
 ナルキの纏う空気があまりにも黒すぎて、ニーナでさえ近寄ることが出来ていないのだ。
 だが、時間はあまり残されていない。
 距離があるとは言え、飛び立った汚染獣の移動速度は速く、すぐにでも剄羅砲での迎撃が始まってしまうはずだから。
 砲撃で撃墜した汚染獣が、偶然ナルキの上に落ちると言う事を考えると、どうしても攻撃の手が弛んでしまう。
 これから先、間違いなく地獄へと行く者に鞭打つことなど出来はしないのだ。
 迷っていられる時間はないが、それでもなんとか解決法を探さなければならない。

「な、なるき?」

 であるならば、少しでも知っているニーナが何とかすべきであると自分を追い詰め、おっかなびっくり声をかけながら近付く。
 こちらに向かって噛み付いてくるとは思いたくないが、何が有るか分からないのが人生だそうなので、用心に用心を重ねる。
 だが、そんなニーナの思惑など知らぬげに、ゆっくりとナルキが立ち上がる。
 その動作に力強さは感じられず、いや。それどころか魂の存在さえ危うい動作で、現実味のない動きで立ち上がる。
 ニーナからは背中しか見えないが、その視線の先に汚染獣がいることだけは間違いない。
 他に存在するのは、ただツェルニの外縁部と汚染された世界だけ。
 もしかしたら、汚染された世界をこそ、ナルキは見ているのかも知れない。
 どんな目的があるかは分からないが。

「お前達のせいだ」

 凍れる絶望から虚無の刃が迸った。
 それは同時に、ナルキという鞘が取り払われた瞬間でもあった。
 刃の向かう先には汚染獣。
 止めることは誰にも出来はしないだろう。
 まだ距離があるにもかかわらず、一歩前へと踏み出された足は、すぐに二歩目へと繋がる。
 エアフィルターの向こう側へ向かい、刀が持ち上がり、技が放たれる。
 サイハーデン刀争術 逆捻子・長尺。
 幼生体を消し飛ばした技はしかし、更なる強化を見せ、百メルトルは離れている雄性体を直撃。
 甲殻もろとも細切れにしてしまった。
 だがここまでだった。

「っち!」

 小さく舌打ちしたナルキが、割と慌てて刀を投げ捨てる。
 次の瞬間には、剄の過剰供給に耐えられなかった錬金鋼が爆発。
 ナルキ自身は、少しだけ横に移動して爆発の破片から身を守りつつ、虎徹を復元。
 だが、復元した直後赤熱化を起こして使い物とならなくなった。
 ナルキ自身にもどうすることも出来ないほど、身体の中で剄が暴れ回っているのだ。
 そして、残されたのは鋼糸用の紅玉錬金鋼ただ一つ。
 更に悪いことに、時間が無い。
 空中を高速移動してきた雄性体は、既にナルキの目の前まで迫っているのだ。
 ニーナが、慌てて砲撃命令を出そうとした、まさにその瞬間、ナルキの姿が掻き消える。
 サイハーデン刀争術 蝕壊。
 次に現れたのは、飛行する雄性体の背中だった。
 エアフィルターを通り抜けた雄性体の身体に、一瞬だけ触れる。
 触れた汚染獣を足場として、次の瞬間には他の雄性体へと移動。
 次々と一瞬だけその甲殻に触れて行くという動作を繰り返す。
 それだけで十分だった。
 結果として残ったのは、頭部だけを破壊され力なく大地へと落ちる雄性体の群れ。
 武器破壊の技を力の限り強く撃ち出したと、そう表現することは出来るかも知れないが、それはあまりにも異常な光景だとニーナには思えた。
 以前レイフォンが言っていたことを思い出す。
 倒すだけだったら、雄性体十体程度は余裕だと。
 目の前でナルキがそれをやっただけのことではあるのだが、この事実を前に、ニーナの背筋には戦慄が走っているのだった。
 あまりにも容易に事を成し遂げてしまったから。
 元の場所に立ったナルキは、しかし、達成したという充足感があるようにはとうてい思えない。
 むしろ、物足りなさを感じることが出来る空気を纏っている。
 この事実は、即座にナルキが一線を越えてしまったことを物語ってしまっている。
 それは、ナルキ自身にとっておそらく最悪の事実なのだろうと、そう思うがどうすることも出来ない。
 そして、目の前にいる後輩がもし、破壊衝動に取り憑かれたとしたならば、今のツェルニにそれを止めることが出来る戦力が存在していない事実が、ニーナの背筋に戦慄を走らせるのだった。

「ふ、ふふふふふふふふふふ」

 低く呟くような笑い声が聞こえる。
 それは後輩の姿をした魔物から発せられている。
 その声が聞こえないはずの距離にいる武芸者さえ、武器を構える。
 それはニーナも同じだ。

「地獄はこんなもんじゃない!!」

 絶叫を放ったナルキが、こちらを向く。
 最速且つ最大の剄をニーナは練ろうとして、急停止。

「この程度は平和な戯れだぁぁぁ!!」

 ナルキ・ゲルニは泣いていた。
 それはもう、滂沱となって涙がこぼれ落ちるほどに。

「わたしの、わたしのじんせいをかえせぇぇぇぇ!!」

 放たれるのは、絶望を受け入れて尚希望に縋る魂の叫び。
 廃貴族によって、地獄へと誘われてしまった少女の声はしかし、虚しく汚染された大地に消えて行くだけであった。



[14064] 第十一話 三頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/23 14:55


 魂の絶叫を聞いたディックは、ほんの少しだけ自分の甘さを後悔していた。
 もっと早くに褐色の武芸者をぶっ倒して廃貴族を奪い去っておけば良かったと。
 そうすればこの事態は避けることが出来たはずだと。
 だがもう遅い。
 廃貴族は完全に彼女と融合してしまい、もはや引き剥がすことは至難の業である。
 出来るのは、グレンダンに眠る存在のみ。

「強欲が人のためになると思った俺が甘かったって事か」

 強欲は、ただひたすらに我が身と心を満たすためにこそ存在している。
 いや。我が心と身体を満たそうと足掻くことこそが強欲であるべきだ。
 他人のことなど考えてしまった時点で、それは強欲ではあり得ない。
 強欲ではあり得ない物をその身に宿した時点で、ディクセリオ・マスケインという個性は存在できない。
 それを忘れてしまったために廃貴族を奪い損ねた。
 起こってしまったことは既にどうすることも出来ないが、この次があったのならば確実にディックはディックとして強欲のままに突き進む。
 それを確信することが出来たことで良しとする。
 そして、この後起こることに備えなければならない。
 どんな事があっても、ディックは己の目的を達成し欲望を満たすために。
 
 
 
 
 
 ほぼ丸一日かかって帰って来たツェルニを満たしていた空気は、かなり混沌としていたと、そう表現することしかできない。
 注意して探らなくてもナルキの様子が切羽詰まっているし、カリアンやニーナの状況もあまり違わないのだ。
 想像通りに、グレンダンが接近中だと言う情報はあちこちに混乱をまき散らしていたようだ。
 かくいうウォリアスも平静を装いつつ、割と色々なことを考えている。
 折角帰ってきたのだから、しっかりとした食事を摂って、少し眠りたいとか、色々。
 だが、それでもやるべき事から逃れることなど出来ない。
 場所は生徒会棟の地下にひっそりと存在している、戦略・戦術研究室。

「ああ。取り敢えずグレンダン出身者を集めて、対策会議など開いてみているんですが、どうなんでしょう、この会議に意味って有ると思います?」
「おそらくあるまい」

 試しに放ったウォリアスの質問に即答したのは、第五小隊長のゴルネオである。
 サヴァリスとレイフォンはこんな会議では最初から使い物にならないので、実質的にリュホウとゴルネオ、そしてリーリンから話を聞く以外にないのだが、それが全くもって無意味であると断定された。
 しかしこれは当然である。
 グレンダンという都市が自らの意志でツェルニに接近しているはずなのだから、そこに人間の意志は存在していない。
 であるならば、電子精霊が何を求めてツェルニに接触しようとしているかを人間が推測しなければならないのだが、それはかなり難易度の高い仕事である。
 人間からすれば永遠とも思える寿命を持ち、おそらく何らかの方法で接触をとり続けている電子精霊の思考を読むなど、人間には出来ないと断言してもそれ程おかしくない。
 であるならば、次善の方策としてグレンダンに住む人達の考えを予測し、それに対応する必要が出てくる。

「えっと。私なんかがいて何か役に立つのかな?」
「立つと思うよ」

 戦闘態勢はまだ続いているが、何とかリーリンだけはシェルターから連れ出すことが出来た。
 まあ、サヴァリスとレイフォンが居るここよりも安全な場所など、ツェルニには存在していないから問題はないのだろう。
 そして何よりも重要な情報源であるリーリンをのけ者にすることは、ウォリアスには出来ない相談である。

「で、王宮はこの機会をどう使うと思う?」
「え、えっと。なんで私に聞くの? 王宮絡みだったらレイフォンかサヴァリスさんの方が良くない?」

 いきなり切り込んでしまったためだろうが、リーリンの反応が明らかに鈍い。
 グレンダンからの手紙をレイフォンが読んだ時の反応から予測するに、リーリンは王宮のと言うよりも、女王と個人的に親しいはずなのである。

「シノーラさんはどう考えると思うと、聞き直そうか?」
「ええ、っと、やっぱり気が付くよね?」
「気が付くよ」

 話を少し進めると、渋々と言った感じでシノーラというか女王と接点があることを認めるリーリン。
 あの当時は知らなかったかも知れないが、今はきちんとその正体を理解していることがこれではっきりとした。
 とは言え、ここからが更に問題である。
 女王と面識がある、あるいは交流があるとは言え、それだけかも知れないのだ。

「で、何か心当たりはある?」
「・・・・・。あるとしたら、私を迎えに来たんだと思うけれど」
「・・・・・・・・・・。レイフォンでもサヴァリスさんでもなく、リーリンを?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・たぶん」

 嫌々認めたというわけではない。
 そこには、ある種の決意のような物があった。
 それが、どの様な決意なのかまでは分からないが、存在することだけは認識した。
 だが、決意の存在を理解しつつも状況が分からず混乱している人物も当然のこと存在する。
 レイフォンである。

「あ、あのぉぉ? 何でリーリンを迎えに来るんでしょうか? サヴァリスさんなら当然だと思うんだけれど」

 これは当然の疑問であるが、それに答えることはおそらくリーリン本人にも出来ないだろう。
 過程が見えずに答えだけが存在している状況だろう。
 人はこれを直感や思いつきと言うが、必ず外れる物でもないし、当たる物でもない。
 だが、リーリンはそう考えていることだけは間違いなく、そしてある意味潮時であるとも思っているようだ。
 メイシェンとレイフォンの関係のこともそうだろうし、もしかしたら、グレンダンに残してきた何かのことも考えているかも知れない。
 どちらにせよ、リーリンがそうしたいというのだったら、それを止める権利は誰にもない。
 問題はむしろ、この接触がこの先どんな事態を引き起こすかだ。
 そして、ウォリアス自身がどう行動するかで。

「まあ、本当にリーリンを迎えに来たかは接岸した時に確認すればいい話だけれど、他の人も帰りますか? グレンダンへ?」

 リュホウとゴルネオに話を振る。
 サヴァリスは立場上、帰らないという選択肢の方がないので質問をする必要がない。
 だが、そんなウォリアスのことなどお構いなしにサヴァリスが発言してしまうのも、世の常なのかも知れない。

「奥さんを連れて帰っては駄目だろうか?」
「ナルキは精神的に不安定ですから、今はその話しはしない方が良いでしょう」
「僕と別れる辛さを紛らわせるために、全力で愛し合ってくれないだろうか?」
「レイフォンで我慢して下さい」
「まあ、それはそれで楽しそうだね」

 嫌そうな顔をするレイフォンの事は無視して、リュホウへと視線を向ける。
 ハイアやサリンバン教導傭兵団のことを考えると、一度グレンダンへ帰った方が良いだろうと思うのだが。

「そうだな。一度故郷に立ち寄ってみるのも一興かも知れぬ」

 あくまでもグレンダンに住み着くという話にならないようだ。
 いや。そもそも立ち寄ると認識しているのだから、これはもう意地でも帰らないかも知れない。
 それはそれで、外の世界を見たいと旅立った人間としては首尾一貫している。
 そして視線をゴルネオに向けるが、こちらはサヴァリスと違った意味で答えは決まっているようだ。

「俺はここを卒業したい」

 これでリーリンとリュホウ、サヴァリスがグレンダンへ帰ることが決まった。
 ここでふと思う。

「お前はどうするよ?」
「ぼく? 僕は追放処分の身なんだからグレンダンへは帰れないよ」

 いきなり話を振ったせいだろうが、一瞬ほどの時差があって、そして明確な答えが返ってきた。
 行けないと言わなかったところを見ると、僅かなりとは言えグレンダンへの思い入れがあるのだろう。
 だが、それは当面満たされることがない。
 レイフォンの起こした不祥事はまだ新しすぎて、人々は忘れていないだろう。
 ならば、まだレイフォンはグレンダンへ帰ることは出来ないし、おそらく立ち寄っただけでも色々と面倒なこととなるだろう。
 だがと考える。
 どうしてもレイフォンがグレンダンにいる必要に迫られたらと。
 すぐに二つだけ妙案と呼べない物を思いつけた。むしろこじつけと暴走的な方法であるが、手立てがないわけでは無い。
 そんな思考をしている間に、会議は大した成果もなく進展し、そして大した成果もなく終わった。
 それぞれがそれぞれの仕事をするために荷物の置いてある部屋へと向かうのを眺めつつ、ウォリアスは少しだけ考える。
 ウォリアスはどうすべきなのだろうかと。
 もしかしたらと考える。
 グレンダンとツェルニが接触するこの瞬間に、レノス出身のウォリアスが居合わせたことに何か意味があるのだろうかと。
 この世界が異常であるらしいことは間違いない以上、疑ってかかっておいた方が良いだろう。
 では、具体的にどうするかを考える。
 答えは割とすぐに出てきた。
 その答えを実行するためにウォリアスも自分の部屋へと向かうのだった。
 
 
 
 
 
 グレンダン出身者を集めた会議が、大した成果もなく終了して一時間ほど。
 槍殻都市グレンダンが接岸するまで、残り数時間。
 この微妙な時間を狙っていたかのようにそれは現れた。

「もう一度報告してくれないかね? 何か誤解をしているかも知れないからね」
『はい』

 報告が来たのは、第一小隊の念威繰者からだった。
 グレンダン接近という非常事態に対応するために、シェルター内の指揮所と呼べる場所に生徒会の面々が集まっている。
 ヴァンゼだけは念のために武芸者を指揮できるように、この場にいないが、それはこの際あまり問題ではない。
 問題なのは、もたらされた報告の方だ。
 音声からだけでも動揺が滲み出ているが、それは全くもって仕方のないことだとカリアンも思う。

『汚染獣が空から降ってきました。そして、それ以外の正体不明の生物と戦っている模様です』
「ふむ」

 汚染獣がどこからやってくるかは知らないが、断じて空から降ってくるような物でないことだけは確かだった。
 それは確かな事実として人類全体の共通認識だった。
 もしかしたらグレンダンは違うかも知れないが、他の都市ではおおよそそのはずであった。
 であるというのに、ツェルニでは違ってしまっている。

「映像をこちらへ回せるかね?」
『はい』

 帰還したばかりのフェリは現在休息中であり、すぐに使うことは出来ない。
 本来ならば、ツェルニが移動できるようになるまで警戒態勢を維持すべきだったが、汚染獣の接近にだけ気をつけていれば問題無いはずだったので、フェリは休ませた。
 まさか、空から降ってくるなどとは想像もしていなかったのだ。

「これが、汚染獣なのかね?」

 五メルトルほどの身長と、首を省略したような、人型の生き物らしい何かがそこには映し出されていた。
 そして、それだけではない。
 全長一メルトルほどの円筒形をした何かが、空から降ってきた汚染獣と戦っている。
 双方が無数と呼べるほどの数であり、お互いに攻撃し合ってすぐに決着は付かないように思える。
 そして恐ろしいことに、カリアンは円筒形の生き物らしき存在に心当たりがあった。
 同じ映像を見た錬金科科長も、カリアンと同意見のようだ。

「会長。これはもしかして」
「ああ。守護獸だろうね」

 汚染獣の襲来に備え、武芸者以外の戦力を用意するという名目で開発が始まった、守護獸。
 それはしかし、とうの昔に中止になった計画だったはずだ。
 でなければ、レイフォンが入学してきた直後の幼生体戦で使っていた。
 それはつまり、ツェルニには存在していないはずの戦力であり、今、この瞬間に動き出しているはずのない存在であった。
 だが、都市には人間の知らない場所などいくらでもある。

「いや。あれだけの生物を培養し続けるためには巨大な施設と莫大なエネルギーが」
「・・・。あそこならば。あれに変化が?」
「・・・・・。見に行く必要があるね」

 遙か昔にあった、エネルギーシステムの事故。
 その結果生まれたあの施設ならば人に知られることなく、守護獸を維持し続けることが出来るかも知れない。
 行って確認しなければならない。

「しかし、外は戦闘の真っ最中ですが?」
「幸いなことにレイフォン君達が」

 いるから護衛に事欠くことはないだろうし、汚染獣の殲滅はもうすぐ接岸するグレンダンが請け負ってくれた。
 楽勝だとカリアンがそう考えるのを待っていたかのように、その報告はやって来た。
 生徒会役員が集まる部屋の扉が破壊され、その報告は暴風となってやって来た。

「大変です!! サヴァリスさんとナルキ、ついでにレイフォンが外に出てしまいました!!」
「んな!!」

 報告に来たのはニーナだった。
 その顔から血の気が引いて、今にも倒れそうになっている。
 全力疾走してきたのか、肩で息をしていることから考えて、その場面を目撃してしまい、取り敢えずカリアンに報告しに来たと言ったところだろう。
 いや。もしかしたらレイフォンに頼まれたのかも知れないが、後を追わなかったという事実で、今年度のニーナの成長を実感できたが、当然のこと問題はそこではない。
 よりにもよって、この状況下で主戦力二人が使えなくなってしまったのだ。

「ああ」
『現在、汚染獣を駆逐しつつ高速移動中。おおよその位置しか捉えることが出来ません』

 質問を発する前に、第一小隊の念威繰者が答えてくれたが、これをどう解釈して次の行動を選択するかが重要だ。
 今フェリは使えない。
 ツェルニに帰り着くまで、延々となにやら念威の混信に付き合わされたとかで寝込んでしまっているのだ。
 であるならば、使える戦力を最大限有効に使うしかない。

「ニーナ」
「はい」

 察しているわけではないだろうが、それでも呼吸を整えたニーナは割と普通の状態に戻りつつあるように見える。
 異常事態に慣れてしまっている、現在のツェルニの成果かも知れないが、それを喜ぶ気にはなれない。
 念威繰者を通して、ヴァンゼに連絡を取り、使えそうな精鋭を集めて貰うこととした。
 その精鋭に護衛して貰い、あの場所に行き事態を確認する。
 それ以外の選択肢は、カリアンの頭には浮かばなかったからだ。
 
 
 
 
 
 自分を抑えることが出来なかった。
 グレンダンが近付いているという極限の状況であるにもかかわらず、汚染獣が空から、しかも大量と表現することしかできないほどの数で降ってきたのだ。
 ナルキの心はもう限界を超えてしまった。

「ははははははははははははは!! こんな物は地獄でもなんでもない!! ただの殺戮だぁぁぁ!!」

 掌を汚染獣に当て、軽く剄を流すだけで面白いように破壊できる軟弱な敵を殲滅しつつ、涙を流しつつ、ナルキは戦場を求めて疾走する。
 自分が何物なのかにも、この先起こる事態にも悩まされることなく、ただ戦っているだけで良いこの時間こそが救いだと信じて。

「ふははははははははははは!! そうだよナルキ!! この程度では戦いとも言えないよ!! 単なる遊びでしかないんだよ!!」

 隣を疾走するサヴァリスの叫声を聞き流しつつ、更なる敵を求めて全力で走る。
 唯一無事な足を器用に使い、ナルキと同じ速度で疾走しつつ、いや。むしろ跳躍しつつ、汚染獣の胸を蹴る瞬間に剄を流し、次の汚染獣へと跳躍を繰り返すのだ。
 殆ど地面や木に足を付けることなく、片足だけで移動と攻撃を同時進行させているのだ。
 レイフォンについても言えることだが、どれだけの技量を持っているのか気が遠くなるほどだ。
 そんな事を一瞬だけ考えたが、その時間さえも惜しいと身体を動かし汚染獣を殲滅する。
 身体の中から沸き上がる、無限とも思える力に突き動かされ、周りの全てを破壊するだけのために、走る。
 そうしていないと、本格的に自分を見失ってしまいそうだから。
 少し後ろを付いてきているレイフォンは、良い迷惑だろうが、それは我慢して貰うしかない。

「うわぁぁぁん」

 泣き言を言いつつ、どうにかこうにか調達が間に合った青石錬金鋼を鋼糸にして、ナルキの死角を補ってくれている。
 いくら感謝してもしたり無いのだが、今そんな事をしている余裕などナルキにはないのだ。
 錬金鋼がないために効率は悪いし、汚染獣は多いし、何よりも慣れない剄の使い方が祟って、身体の動きが鈍くなってきているような気がするからだ。
 これ以上気にすることが増えてしまえば、きっと動けなくなるから、レイフォンへの感謝や礼は後回しにしてしまうこととする。

「良かったら、これを使いなさいな」
「はい?」

 そんな極限の状況の最中、いきなり誰かが横に現れ、更に何か手渡されたので反射的に受け取ってしまう。
 その後になって、誰かいるのだろうかと視線を飛ばしてみたが、そこには誰もいなかった。
 振り返ってみてみれば、レイフォンがやや怯えた表情で辺りを見回している。
 つい先ほど、ナルキの側に誰かがいたことだけは確かだが、それはレイフォンに気付かれることなく現れ、レイフォンが何かするよりも早く用事を済ませ、レイフォンが追うことさえ出来ない逃走をやってのけたのだ。
 もはや人間業ではあり得ない。
 人間では無い生き物に気付かれることも阻止することも、追うことさえ許さない存在をどう表現したらよいのかさえ、ナルキには分からない。
 だが、手に持ったそれは確かに存在し続けている。
 酷く手に馴染んだ感触だった。
 右手にすっぽりと収まるそれは、基礎状態の錬金鋼としか思えない。
 試しに剄を流して復元してみる。

「レストレーション」

 一瞬の光を放ちナルキの手の中に現れたのは、間違いなく鋼鉄錬金鋼。
 ファルニール戦の前に渡された、簡易・複合錬金鋼ではない。
 それ以前から持っていた虎徹だ。
 しかも、廃貴族が暴走中の現在、明らかに通常ではあり得ない剄量を発揮し続けているナルキが持っていても、何ら変化を起こさないという脅威の虎徹。
 これをなんに使うべきかと一瞬ほど考える。
 そして、ふつふつと殺意が沸き上がってくる。
 サイハーデン刀争術 逆捻子・長尺。

「っは!!」

 少し前を走るサヴァリスを巻き込む射線で、汚染獣の群れへと技を放つ。
 普通の錬金鋼なら、技を発動することさえ出来ないはずなのに、全く問題無く一直線に伸びる破壊の本流が、汚染獣と周りの建物を細切れにして行く。

「うを!!」

 やや慌てた叫びと共に、まだ完治していない足を酷使したサヴァリスが跳躍する。
 一緒に粉みじんになれば世の中が少しだけ平和になった物をと、ほんの少し残念に思う。
 特にナルキの周りは平和になったのにと、残念に思う。

「ああ。素晴らしいよナルキ!! 傷が完治していない僕を殺そうとするその愛!! 確かに受け取ったよ!!」
「なら、大人しく私に殺されて下さい!!」
「それは駄目だよナルキ!! ナルキ。君はまだ未熟!! 未熟者に殺されたのでは僕が楽しくないからね!!」
「ええい!!」

 剄を十分に乗せることが出来る錬金鋼を持ち、ナルキ自身は殆ど完璧な状態であるにもかかわらず、片足しか使うことが出来ない天剣授受者を、それも錬金鋼を持っていない武芸者を殺すことさえ出来ない。
 シャーニッドには語ったが、どれほど絶望的な技量差があるかを考えただけで、身動きできなくなりそうだ。
 身動きできなくなることを避けるために、ナルキは汚染獣と建物、そして何よりもサヴァリスに攻撃を撃ち込み続ける。
 まぐれ当たりでも良いから、かすり傷一つでも良いからとひたすらに。
 
 
 
 
 
 いきなり天剣を持ったレイフォンの破壊力に比肩できるような技を繰り出したナルキを見送りつつ、辺りの音や空気の流れに細心の注意を払うことは止められなかった。
 あまりにもいきなりすぎたのだ。
 全力とはいかないが、それでもかなりの速度で疾走を続ける武芸者の側に、なんの音も気配もなくその人物は現れた。
 そして、混乱気味のナルキに天剣とおぼしき錬金鋼を渡した。
 最後の止めに、瞬きをしたわけでもないのにいきなり、ナルキの側に現れた人物が消えた。
 記憶に残っているのは、長い黒髪をたなびかせた後ろ姿だけ。
 これで神経質になるなと言うのは無理である。
 レイフォンが、ナルキを追いかけるだけで身動きできないのを良いことに、目の前では想像を絶する破壊と殺戮が繰り返されている。
 まあ、殺戮の方は汚染獣だけだから問題無いが、破壊の方はかなり問題が有る。
 ツェルニの建物が、見る見るうちに粉みじんとなり吹き飛ばされて行くのだ。
 修復とか復興とかを考えると、レイフォンにはなんの責任もないのにかなり気が重くなる。

『ああ、レイフォン君?』
「会長?」

 神経質に周りの状況を探り続けるレイフォンの元に、第一小隊の念威繰者の端子が近付き、そこからカリアンの声が聞こえてきた。
 フェリの端子でないのが少し残念ではあるが、責任者の出現は歓迎である。
 どう行動したら良いのか分からない時には、とてつもなく嬉しい出来事だ。

『現状を説明できるかね?』
「無理です」

 すぐ側で見ていたにもかかわらず、何が起こったのかさっぱり分からない。
 異常な事態が進行中であると言う事と、その中に埋没する程度の、些細な問題であると言う事だけは理解しているが、それだけである。
 もしかしたら、グレンダンがやってきたからこそ、この事態が出現したのかも知れないとさえ思ってしまうくらいには、事態を理解していない。

『出来ればなんだがね、ゲルニ君を止めてくれないかな?』
「無理です」

 無理である。
 レイフォンが今持っているのが天剣だったなら、ヴォルフシュテインが手元にあったのならば、話は全く違ったのだろうが、生憎と通常の錬金鋼でしかない以上、殺さずにナルキを止める自信は全く無い。
 ヴォルフシュテインさえ手元にあれば。
 こんな事を思ったのは初めてではないだろうかとさえ思えるほどに、レイフォンは今無力だ。

「ああ。結局僕は天剣授受者なのか」

 ヴォルフシュテインは剥奪された。
 持ち続けることが出来なかった。
 それでも良いと思っていた。
 だが、今、レイフォンはヴォルフシュテインを必要としてしまっている。
 情けないことに、持ち続けることが出来なかった過去の栄光に縋ろうとしている。
 天剣を持たなければどうしようもない武芸者こそが、天剣授受者となる。
 異常者の中の異常者。
 人外の中の人外。
 異端者の中の異端者。
 自らの戦い方を自らが見つけることしかできない武芸者こそが、天剣授受者。

「ああ。僕はやはり、天剣授受者なのか」

 全てに納得した。
 グレンダンに生きたことも、武芸者となったことも、汚染獣と戦い続けたことも、ヨルテムに流れ、ツェルニに流れ着いたことも。
 レイフォン・アルセイフという武芸者の人生、その全てに納得してしまった。
 戦いから遠ざかることなど出来ないのだと、そう諦めそうになる。
 だが、諦めきることは出来ない。
 メイシェンが待っていてくれるから。

「それでも、今だけでも、ヴォルフシュテインが欲しい」

 ナルキを止める間だけで良いから。
 そして、唐突に気が付く。

「え?」

 レイフォンが持っている、青石錬金鋼であるはずの物が、何か違う存在になっていることを。
 恐る恐ると視線を向ける。
 サヴァリスを追いかけつつ破壊の限りを尽くすナルキから、離れすぎない距離を維持する努力を一時的に放棄して。
 蒼銀に耀く鋼の糸はしかし、そこに存在していなかった。
 それは、五年もの間慣れ親しんだ白銀に耀く鋼の糸へと姿を変え、天剣授受者としても多い剄量を受けても変わることなく、レイフォンの意志に従い破壊を押さえるために働き続けている。

「レストレーション01」

 試しに、本当にただ単に試すつもりで、鋼糸から刀へと形状を変えてみる。
 現れたのは、鋼鉄錬金鋼と全く変わらない形状と重さ、そして特性を持った至高の刀だった。
 全力で剄を込めても何ら変化をすることなく、そこに存在を続けている。
 気配自体はヴォルフシュテインだが、こんな設定を作った記憶はない。
 あり得ないことが二つ起こっている現実を前に、一瞬だけ思考が止まる。

「いや。考えるのはウォリアスに任せよう」

 所詮レイフォンは身体を使う武芸者でしかないのだと、今だけは割り切る。
 そして、少し離れた場所で汚染獣と建物を破壊しつつ、サヴァリスを殺そうと躍起になっているナルキを視界に納める。
 今は、ナルキを止めることを最優先に考えよう。
 そう決意した。



[14064] 第十一話 四頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/23 14:55


「ほらほらこっちだよぉ」
「はははははは!! まてまて」

 台詞だけ聞いていると水辺で戯れるカップルのようにも思えるが、やっているのは、そんな甘い展開の話では無い。
 かすっただけでも細切れになるような衝剄の暴風が吹き荒れ、それを無傷で回避しつつ、汚染獣の殲滅を進めているという極限の殲滅戦である。
 方やグレンダンの誇る狂戦士であり、方やツェルニの不運な武芸者である。
 まあ、それだけならば別段問題はない。
 ディックにとっては所詮他人事なのでどうなってもかまわない。

「楽しそうじゃない」
「なあ」

 黒衣の美少女が苦しそうな息を隠しつつ喋るのを聞きつつ、ディックは少しだけ心配になっていた。
 天剣に似た錬金鋼を、自分自身がすり切れて力尽きかけている状況にもかかわらず、ナルキに渡したことについてだ。
 本来ディックの飼い主はこんな事をする人物ではなかったはずだ。
 だがここは、学園都市ツェルニ。
 天剣授受者さえも凌駕する化け物が跳梁跋扈し、そして全ての人が変わって行く場所。
 ここに長い間いたせいで、徐々に、しかし確実にディックの飼い主であるニルフィリアが変わっていったと言う事は、十分に考えられる。
 であるならば、ディックは覚悟を決めなければならない。
 ツェルニ的な人生を楽しむか、それとも、ご主人様に振り回されて胃の痛みに耐える人生、どちらかを。

「・・・。いや違うだろう!!」

 一人絶叫する。
 槍衾を征くと決めた以上、違う意味の苦労など背負い込みたくない。
 それ以上に、もっとこう、シリアスな展開であるべきだ。

「黙りなさい犬」
「い、いぬ、と言うか番犬だけどな」

 だが、ディックの周りは彼自身の覚悟を認めてくれない。
 特に飼い主であるニルフィリアは、断じて認めないつもりのようだ。
 もしかしたら、決して認めないぞと決意を固くしてしまっているのかも知れない。
 ツェルニならばあり得る。
 何しろここは、グレンダンの誇る天剣授受者でさえ変わって行く場所なのだ。
 駄目な方向に。
 そんな思考などどうでも良いと言わんばかりに、何か巨大な質量同士が激突する音と、大地を揺るがす衝撃を感じた。

「影に引かれて本体が来たようね。うふふふ。楽しみ」
「・・・・・」

 あえて一言だけ言えることがあるとすれば、これだけだ。
 駄目だこりゃ。
 
 
 
 
 
 疾走する。
 猛り狂う廃貴族の力に振り回されないように、それでいて力が弱まりすぎないように制御下に置き続ける。
 放つは逆捻子・長尺。
 他の技など知らないかのように、ただそれだけを放ち続ける。
 目の前で、片足を駆使して器用に破壊の範囲から逃げ続ける天剣授受者を、木っ端微塵にするために。

「ほぉら。こっちこっち」
「まてまてまて」

 何度も技を放ち、その度に建物と汚染獣は粉砕できているというのに、サヴァリスだけは全く無傷でナルキの手から零れ落ちてしまっている。
 とても楽しそうなその姿を見るだけで、殺意がいやが上にも迸りそうになるのを必死に押さえる。
 廃貴族に操られて、汚染獣のみを殲滅してしまっては意味がないから。
 だが、突然にこの無限の追いかけっこが中断された。

「え?」

 全力で放ち続ける逆捻子の、その破壊の本流が一瞬で掻き消される。
 そして目の前に現れたのは、何時にもまして凛々しい表情の、そして見た事もない白銀に耀く刀を持ったレイフォン。
 その一閃だけで、ナルキが放ち破壊の限りを尽くしてきた攻撃は、完璧に無効化されてしまったのだと知ったのは、レイフォンの手が伸びてきて右手に重なった後だった。
 そして、それを理解した瞬間、今まで猛り狂っていた廃貴族も、ナルキの中で噴出を続けた殺意も収まってしまった。

「れ、れいふぉん?」
「帰ろう、ナルキ。まだナルキは間に合うから」
「ど、どこに?」

 何処にと言う質問を放ちはした物の、答えが具体的な場所ではないことは理解していた。
 あえて言うならば、平常運転のツェルニに帰ろうとレイフォンは言って居るのだ。
 そして、ここでやっと気が付く。
 廃貴族を押さえつけていると思っていたのに、周りを見れば恐ろしいまでに破壊し尽くされた町並みが視界に飛び込んでくる。
 当然、破壊の殆どはナルキがやった物だ。
 ここまで考えた時、レイフォンが刀を気楽に振り抜いた。
 天剣技 霞楼。
 今まで見たこともないような広範囲にわたる衝剄の檻が形成され、周りに近寄ってきていた汚染獣を塵へと返して行く。
 その破壊力は、ナルキの逆捻子など話にもならないほど強烈であり、そして恐ろしいことに、周りの建物にはかすり傷一つつけていない。
 レイフォンならば出来ると確信していたが、流石に目の前でやられると技量差に人格が崩壊しそうになる。
 ついでのように、サヴァリスが空中へと逃げているのも確認出来た。
 あまりにも効果範囲が広範囲に及んだために、上に逃げる以外の選択肢が無くなってしまったのだと気が付く。

「良いね良いねレイフォン!! それは間違いなく天剣!! 僕を殺す決意を固めたのかい? それとも、ああ、なんてことだい。ヴォルフシュテインに選ばれたんだね」
「どうもそう言うことらしいですけれど、僕にはどうでも良いことです。今、僕の手元にヴォルフシュテインがあって殺すべき汚染獣がいる。それだけで十分でしょう。後のことは後で考えますよ」
「そうだよレイフォン!! そうでなければつまらないよ!!」

 何故か喜びに浸るサヴァリス。
 最悪の展開として、サヴァリスの手元にもクォルラフィンがやってくるのかと身構えたが、そんな事はないようだ。
 それは、残念そうなサヴァリスの表情からも十分に分かる。

「どうやら僕はクォルラフィンには選ばれていないようだね。天剣失格かな?」
「サヴァリスさんが選ばれる必要なんてあるんですか?」
「うん?」

 サヴァリスの落胆とは関係なく、レイフォンはとても冷静に現状を認識しているようだ。
 その瞳はあくまでも平静で波立つことなく、まるで揺れることのない湖面のようだ。

「サヴァリスさんが天剣を選んだのでしょう?」
「ああ。そう言うことか」
「選んだのが貴方なら、クォルラフィンの意志なんて関係ないでしょう」
「言われて見ればそうだったよ!! じゃあ、さっさと帰って天剣を取ってくるから、心ゆくまでぼくところし・・・・」

 軽快に言葉の銃弾を放ち続けていたサヴァリスが一転、急速にやる気を失ったかのように全身から力が抜ける。
 視線はグレンダンの方向を向いていたのだが、それがレイフォンへと向く。
 まるで十歳も歳を取ったような瞳で、レイフォンを見つめる。
 あまりに急激な変化だったためにナルキは現状の認識に失敗したが、レイフォンはきちんと認識して、そして対応してのけた。

「同じ天剣授受者ですから、女王が止めるのじゃないかと」
「・・。だよねぇ。陛下はその辺融通が利かない物ねぇ」

 そう言いつつ、視線がグレンダンへと戻る。
 釣られてナルキもグレンダンの、正確にはその中央に聳え立つ王宮らしき場所へと視線を向ける。
 活剄で視力を強化すれば、絶世の美女がこちらに向かって指を突きつけているところだった。

「・・・・・」

 話を総合すると、あれがグレンダンの女王と言う事になる。
 話し通りならば、サヴァリスを瞬き一つで返り討ちにした正真正銘の化け物と言う事に。

「なあ、あの隣にいるのって?」

 こちらに指を突きつけている、絶世の美女の隣に、そっくりな女性が立っているのが見える。
 この事態に困惑しているのか、やや挙動がおかしいところを除けば、瓜二つと言ったところだろう。
 双子の姉妹だったのならば、全人類にとっての災いになること請け合いである。

「カナリスさんですよ。陛下の、なんというか、身代わり?」
「むしろ揉め事処理の専門家ですかねぇ?」
「・・・。なるほど」

 名前は知っているし、事情もおおよそ聞いている。
 天剣授受者の一人でアルシェイラの影武者で、更に、執務を押しつけられている苦労人だとか。
 だが、実はもう一人視界に入っているのだ。

「じゃあ、同い年くらいの男の子がいるんだけれど。望遠鏡覗いて手振ってるの」
「あれは、えっと」

 答えようとしたレイフォンが止まる。
 知っている人物なのだろうが、何故王宮などにいるのかが分からないのか、それとも人違いだと思っているのか。
 だが、それもサヴァリスの話を聞くまでのことだった。

「リチャードだね。僕が知らない間に出世したんだね」

 リチャード。
 やはり話だけは知っている。
 レイフォンの弟で、ちょっとした特殊能力を持っているが、常識と良識の持ち主だとか。
 そうなると、どうして王宮などにいるのかが分からなくなる。
 何か、恐るべき事情があることだけは理解できるが、それが何なのかは知りたくない。
 だが、当然のことナルキの希望など叶えられないのだ。

『少々事情がありましてね。リチャードさんには陛下のしつけ役をお願いしておりますの』
「デルボネ様?」
『はいはい。お久しぶりですねレイフォンさん』

 突如として、蝶の形をした念威端子がすぐ側に来ていることを認識した。
 フェリの場合は、何となく分かる時があるのだが、この念威端子の持ち主は全く気が付かなかった。
 ナルキの精神的な状態が悪いせいもあるだろうが、最大の原因は当然のこと、持ち主が天剣授受者だという事実以外にあり得ない。
 そして、ナルキのことにはあまり興味がないのか綺麗に無視してくれた。
 これはとても有りがたい。
 だが、次に起こったのは想像を絶する現実だった。
 レイフォンの周りをフワフワと飛んでいた念威端子が、いきなり頬へと張り付く。
 それはもう、なんだか見ているこっちが恥ずかしくなるような空気を纏い、人前でメイシェンがレイフォンの頬に口付けするほどの何かを秘めつつ。

「あ、あの、デルボネ様?」

 こんな展開など想像もしていなかったのだろう、レイフォンが大いに戸惑っている。
 だが、これだけでは済まなかった。

『生徒会長さん。もし宜しければ今からグレンダンの優秀な念威繰者を十人ばかり、ツェルニに留学させたいのですがいかがでしょうか? いえいえ。深い意味などありはしませんし、もちろん試験を受けさせますので』

 会話の内容がこちらに聞こえているのは、当然デルボネがそうしようと思っているからに他ならないのだが、目的がさっぱり分からない。
 天剣授受者としての何かがそうさせているという、そんな危険な匂いはしていないと思う。
 だが、他の何か、想像を絶する危険な香りがしているような気がするのだ。

『レイフォンさん?』
「はい?」

 会話が一段落したのだろう、デルボネの注意がレイフォンへと向く。
 相変わらず念威端子は、レイフォンの頬へと張り付いたままである。

『もし宜しければ、わたくしの曾孫を何人か孕ませて頂けないでしょうか?』
「・・・? はい?」
『子供の面倒を見ろとか言うつもりはありません。孕ませたらそのままグレンダンへ送り返して頂ければそれで結構ですので』
「あ、あのぉぉ?」

 戸惑い続けるレイフォンから視線を外し、サヴァリスへと向ける。
 何が起こっているのか、説明してくれないかと思ったのだ。
 よりにもよってサヴァリスに説明を求める日が来るとは思っていなかったが、それでも、この現実離れした展開の前では些細な事柄でしかない。
 だが、頼みの綱であるサヴァリスも、事情を認識できていないのか呆然とした表情をしているだけだった。

『グレンダンにいらっしゃった頃とはずいぶん変わられたのですね。とても凛々しくおなりですよ』
「そ、そうですか?」
『はい。今のお顔をグレンダン時代になさっておられたのならば、わたくしの曾孫との縁談を進めましたのにと思いましたの』
「は、はあ」
『ですが、今からでも遅くはないことに気が付きましたの。グレンダンに帰ることは無理かも知れませんが、子供に咎は及びません物ね』
「ど、どうでしょうか?」

 困惑していたレイフォンが困り果てている。
 この展開で困らない人間は恐らく極少数だろう。
 何しろサヴァリスでさえ困っているのだから。

『もちろんトリンデンさんとロスさんのことは存じておりますが、いえ。存じておりますからこそ曾孫を孕ませて頂けるのではないかと考えましたの』
「え、えっと?」

 デルボネの縁談話を断るために、フェリがレイフォンの愛人であるというような話をしたことは知っている。
 フェリ自身がメイシェンの前でとても楽しそうに話していた。
 当然、そんな甲斐性があるはずもないのだが、取り敢えず取り乱し気味のメイシェンを堪能したかっただけのようだった。
 満足したのか、ひとしきりメイシェンを虐めてから冗談だと種明かしをして、そして糸が切れた人形のようにその場で眠ってしまった。
 フェリも何か、決定的に間違った方向へと突き進んでしまっていることを確認したが、今、問題としなければならないのはデルボネの計画の方だ。
 こちらは確実に実行するつもりなのだから、危険度は半端ではない。

『天剣授受者ならば、強い武芸者の遺伝子を後世に残すのはもはや義務と思いますの』
「え、えっと、あの」
『ですからねレイフォンさん。私の曾孫を十人ほど孕ませるのはレイフォンさんに課せられた義務だと言う事ですの』
「い、いえ、あの、その」

 そもそも話をするのが苦手なレイフォンであるが、今、戦っているのは、熟練の縁談愛好家であり、そして何よりも天剣授受者の念威繰者である。
 勝ち目など最初から無いのだが、それでもなんとか抵抗を続ける。
 恐らくレイフォンを支えているのは、メイシェンを悲しませたくないというささやかな思い。
 いつまで続けられるか分からないが、それでもレイフォンはまだ戦っている。
 だが、ある意味他人事だったのはここまでだった。

「え?」

 ふと気が付くと、ナルキの頬にも何かが張り付いていた。
 恐る恐ると手を伸ばして、それがなんであるかを確認する。
 蝶のような形をした金属のように思える。

『ところでゲルニさんでしたわよね?』
「は、はひ?」

 当然の様に、そこからデルボネの声が聞こえたのだが、それでも尚、思わず声が裏返る。
 思わずレイフォンの方に視線を向けてみるが、未だにデルボネの攻勢を受け止め続けているところだった。
 つまり、デルボネは二つの会話を同時進行することが出来る。
 流石は、天剣授受者だと、思わず感心したのはしかし一瞬だった。

『もし宜しければ、貴方もわたくしの玄孫(げんそん、孫の孫)を産んでみては頂けませんでしょうか?』
「うえ」

 この展開は、ある意味予想していたのだが、それでもいざ現実の物となると少なくない衝撃に襲われる。
 そもそも玄孫などと言う単語を聞いたのは生まれて初めてだったので、話の展開をおっていなかったら、恐らく理解できなかっただろう。
 つくづく、グレンダンとは恐ろしい都市なのだと痛感させられた。
 
 
 
 
 
 このままでは駄目だ。
 何時か必ずデルボネの攻撃を支えきれなくなり、そしてなし崩し的に大量の子供の父親になってしまう。
 その未来が予測できたからこそ、レイフォンは必死に頭を使い、そして一つだけこの窮地を脱する方法を思い付くことが出来た。

「デルボネ様!!」
『はいはい』

 少々強引に話を断ち切る。
 そうしなければ、レイフォンの未来に安息はないのだから。
 少しだけ視線をずらせ、ナルキの方を見るが、当然の様にこちらはまだデルボネの攻撃が続いている。
 相変わらず規格外の念威繰者であることを確認した後、言葉を送り出す。

「取っ替え引っ替え女性を孕ませたりしたのならば、僕の世間体が大きく失われてしまいます」
『あらあら? 世間体なんて言葉よくご存じでしたね。ヨルテムでの一年はさぞ充実した物だったのでしょうね』
「それはもう」

 一瞬だけ、グレンダンを出てからの日々が脳裏を駆け抜ける。
 色々なことがあった。
 だが、その思い出に浸っている余裕はレイフォンには無い。

「ですので、僕は平穏を維持するためにもデルボネ様の提案には応じることが出来ません」
『それならば大丈夫ですわ。優秀な武芸者の子孫ならば何処の都市でも欲しいはずですわ。レイフォンさんくらいならば多少の便宜を図るのはむしろ当然のことと思いますのよ』
「い、いえですね」

 あっさりと返された。
 これ以上ないくらいに自然に。
 そして、デルボネの主張はある意味正しいのだ。
 この汚染された世界にとって、武芸者はどうしても必要な存在であり、しかも、天剣授受者になるような強者ならば何処の都市も、喉から手が出るほどに欲しいだろう。
 デルボネの認識には間違いがない。
 だがしかし、レイフォンには最後の一手があるのだ。

「ですが、ここは学園都市ですので、あまり公序良俗に背く行為をしていると退学という憂き目にあいかねません」

 これならばデルボネの攻勢を退けることが出来る。
 学園都市である以上、ここを卒業しなければならず、そうなれば、学園都市なりの事情という物が存在するのだ。
 そして何よりも重要なことなのだが、レイフォンはツェルニを卒業したいのだ。
 武芸を止めて生計を立てるためにここに来たが、その望みは最初から間違っていたので捨ててしまったが、それでもレイフォンはこのツェルニを卒業したいのだ。
 この気持ちは、今のところ確固として存在し続けている。
 だからこそ、女性を取っ替え引っ替え孕ませるなどと言う行為は慎まなければならない。
 メイシェンを悲しませたくないという気持ちと共に、レイフォンを支える意志の源である。

『あらあら。そうでしたわね。ここは学園都市。普通の都市とは少しだけ違うのでしたわね』

 普通の都市との違いを認識したデルボネの攻勢が止まる。
 それはナルキの方も同じ状態のようで、少しだけ肩から力が抜けている。
 だが、この程度の抵抗などで諦めるほどデルボネは柔ではなかった。

『でしたら、ヨルテムに帰られた頃を見計らいまして』
「うわぁぁぁぁん」

 どうあっても諦めることはしないようであった。
 頭を抱えて座り込むナルキを見れば、きっとヨルテムに帰った時には、既に事が進んでいることを覚悟したのだろう事が分かる。
 レイフォンも覚悟を決めるしかないのだろう。
 それでも、出来うる限り浮気はしないぞと心に誓うのであった。

『そうそうレイフォンさん』
「はい?」

 と、ここに来ていきなりデルボネの口調が変わった。
 今までの世間話のそれではない。
 あえて言うならば、これから戦いが始まるのだとそう宣言する時の物だった。
 そして、それは全くもって正しかったのだ。

『ルイメイさんから伝言です。遊んでないで戦え』
「遊んでないで戦え」

 伝言と言いつつ、声が届く距離に巨漢を誇るルイメイが佇んでいた。
 もしかしたら、一応デルボネに遠慮したのかも知れないが、問題はそこではない。
 天剣が手元に飛んできたことからこちらのごたごたですっかり忘れていたのだが、ただ今現在は紛れもない戦闘中だったのだ。
 この辺の汚染獣は全てナルキが駆逐してしまったので、すっかりと気がゆるんでいたのだ。
 グレンダン時代では考えられないことだが、ここはツェルニ。何処のどんな人だろうと変わって行くことが出来る学園都市なのだ。
 そう。サヴァリスでさえ変わってしまうのだ。

「おやおやルイメイさんじゃないですか。お久しぶりですねぇ」
「・・・。一瞬お前だと分からなかったぞサヴァリス」
「それは何よりです。学園都市というところが僕の心と身体に合っているのでしょうねぇ」
「・・・。俺の子供は絶対にここには来させねえからな」
「それは残念ですねぇ。とても良い都市ですよ」
「何処がだ!!」

 最後には戦声の突っ込みが放たれた。
 だが、話の展開上レイフォンにはやらなければならないことがある。
 ルシャ絡みのことはもうどうすることも出来ないと分かっているが、それでも、嫌がらせくらいはやっておかないと気が済まないのだ。
 なので一計を案じる。

「お兄様」
「!!」

 一瞬だった。
 一瞬だけルイメイの動きが止まる。
 その一瞬を逃すことなくレイフォンは横へと移動する。
 そして、横へと移動した僅かに百分の一秒以下の時間差で、鉄球が通り過ぎていった。

「てめえ!! ぶっ殺す!!」
「お止め下さいお兄様」
「ぬわぁぁぁ!!」

 言葉にならない絶叫を放ちつつ、引き戻された鉄球が再び振るわれようとしたが、それは止められた。
 トロイアットの破壊光線が降り注ぐという形で。
 いきなりのことで、少々では済まない被害がルイメイにもたらされたが、レイフォンはあまり気にしない。

「旦那さぁ。レイフォンの家族に手を出すからそうなるんだぜ? 出すんだったら殺されるくらいの覚悟はもってないと駄目だって事だぜ」

 格好つけつつそんな事をのたまうトロイアットには、全く悪びれた様子がない。
 流石と言うべきなのだろうが、全くもって共感できない。
 問題はそこではないからだ。

「・・・・」

 少々では済まない、虫の息のルイメイが何か訴えているので、用心しつつ接近し活剄の密度を少し上げる。
 そして拾った言葉は、正直聞かなければ良かったと思える内容だった。

「ルシャはいい女なんだぞ」
「そんな事は知っている。ルシャ姉さんだからね」
「意見の一致を見るとは思わなかった」
「僕もだよ」

 一致を見たからと言って嬉しいわけではないのだが、当面問題はそこではないはずなので視線をトロイアットに向ける。
 ルイメイを死なない程度に殺してしまったのだから、この後どうするかくらいは考えているだろうと思って。

「お前手伝え」
「僕が?」
「ツェルニがこれ以上破壊されるのを、指を咥えて見ているんだったらかまわんが」
「・・・・。やるしかないのか」

 ルイメイの惨状にはレイフォンも大きく関わってしまっているというのもあるが、事がツェルニの安全に関わることだけに選択の余地はない。
 と言う事でデルボネの端子に視線を向ける。
 向けたのは、ナルキの頬に張り付いている奴で、もう一つは未だにレイフォンの頬に張り付いたままだ。

「デルボネ様?」
『はいはい。陛下の許可はおりましたよ』

 成り行きで仕事をすることの多いアルシェイラだけに、この程度の異常事態ごときは平気なのだろう。
 その神経の太さを少しは見習いたい物だと思うが、そんな事が出来ないことは十分に理解している。
 と言う事でナルキにも声をかける。

「わ、私って必要なのか?」
「手数は多い方が楽だからね。建物壊さないように注意するんだよ」
「あ、ああ。それで、この人は?」

 指し示す先にいるのは、当然のことルイメイ。
 こんがりと焦げ目が付いているので、自力移動は少々困難だろうと思うが良い手があるのだ。
 視線をサヴァリスに向ける。

「致し方ないねぇ。クォルラフィンを取りに行きたいからついでに持って行くよ」

 そう言うと、渋々と言った感じでルイメイを担ぎグレンダンへと向かう。
 これで、当面の危機は去ったとそう判断して良いだろう。
 レイフォンのもナルキのも。



[14064] 第十一話 五頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/23 14:55


 実を言うと、いきなりの展開でアルシェイラも混乱していたのであった。
 いきなりヴォルフシュテインが消失したかと思うと、何処にでもある青石錬金鋼が出現したりしたので、おおいに混乱してしまっていたのだ。
 だが、それを完璧と言って良い制御能力で表に出さずに済ませたのは幸いであった。
 汚染獣殲滅は、トロイアットとレイフォン、そして褐色の武芸者がやっているので問題無いだろうと判断する。
 天剣二人と、廃貴族付き一人でこの程度、始末が出来ないなどとは考えられないから、問題無い。

「さて。リーちゃん迎えに行きましょう!!」

 ここで意識を切り替える。
 愛しのリーリンを迎えにツェルニに乗り込むのだ。
 グレンダンが、どうしてツェルニと接触したかは知らないが、機会は最大限に使わなければ気が済まないのだ。
 と言う事で飛び出そうとしたアルシェイラだったが、気が付くと袖を捕まれていた。

「なんでグレンダンが姉貴を迎えに来たんだよ? 兄貴じゃねえのか?」
「レイフォンじゃないわよ。だって、ヴォルフシュテインがレイフォンを選んだのはついさっきだし」

 アルシェイラにこんな事が出来るのは、グレンダン広しと言えどリチャードただ一人。
 と言う事で、念のためにレイフォンではないと言う事を主張する。
 本当のところ、誰を、あるいは何を迎えに来たのかは分からない。
 そもそも、この行動がグレンダンの意志かさえ怪しいのだ。
 であるならば、どんな理屈でも成立してしまう。
 成立してしまうからこそ、アルシェイラは自分にとって都合の良い結論に飛びついたのだ。

「姉貴って、一体何なんだ? 普通の女の子だよな?」
「普通? いいえ! それは違うわ!! あの胸!! あれが普通なんてあり得ないわ!!」

 力説する。
 自分の行動を正当化するために、そして何よりも欲望を満たすために。
 だがここでふと、もう少し多めに欲望を満たしたいと欲が出た。
 いや。欲望には限界がないから当然の思考であり路線であり、何よりも行動なのだ。

「ついでにレイフォンの現地妻、あの驚異的な胸もぉ!!」

 更なる力説をしようとしたところで、何故か先制攻撃を食らった。
 リチャードの拳が、軽くだがアルシェイラの頭に振り下ろされてしまったのだ。
 活剄でも使っていれば十分に見切ることが出来たはずだが、平常の状態ではリチャードの技の方が遙かに有効なのである。
 最強の武芸者と言いつつ、実は技に関しては大したことがないと言う事を実感したアルシェイラだが、主張を止めるつもりはない。

「あの胸!! 小動物的に怯えるあの子の胸を揉まないなんて事は、この女王アルシェイラの沽券に関わるわ!! それはとりもなおさずグレンダンの品位の問題でも有るのよ!!」
「へいへいそうですか」

 折角の力説だというのにあっさりと流された。
 先ほどの拳はなんだったのだろうかとか考えるし、不満を覚えているが、そんな物に動揺するようにはリチャードは出来ていない。
 全くこの世はままならない物だ。
 なので取って置きの情報を開示してリチャードを驚愕させることにした。

「うふふふふ。良いことを教えてあげるわ!! なんと!! 何を隠そうリーリンは王族なのよ!!」
「はいはい。それはすごいですね」
「・・・。あ、あのねリチャード?」

 折角の取って置きの情報だったというのに、完璧にリチャードは流してしまっている。
 いやまあ、アルシェイラが巫山戯すぎてしまったので真面目に聞いてくれないのだから、因果応報と言うべきなのは理解しているが、それでも不満を覚えてしまう。
 と言う事で、助け船を出せとカナリスに視線を送る。

「事実として、リーリンさんの遺伝子を調べてみたところ、ユートノール家の先代当主、ヘルダーと一致しまして」
「・・・・・・・・・・・・。冗談じゃないのか?」
「私は冗談は嫌いです」
「・・・・・。なんで孤児院なんかにいるんだよ?」
「それには、幾つか極秘事項がありまして、今はお話しできません」

 当然と言えば当然のことだが、カナリスの話はあっさりと信じるリチャード。
 とても激しい憤りを覚えるが、身から出た錆なので仕方がない。
 それよりも、今は前向きに事を進めるべきであると確信しているのだ。

「と言う事で、リーちゃんを迎えに出発!!」

 今度は袖を捕まれて止められることはなかった。
 カナリスにお姫様抱っこされたリチャードも一緒だが、それはある意味仕方のないことだ。
 いざという時にアルシェイラを止める人間が必要だと、天剣全員に思われているから。
 
 
 
 
 
 カリアンの我が儘に付き合わされて、やらなくて良い護衛などと言う仕事に駆り出されたあげく、結局汚染獣との遭遇戦に巻き込まれてしまった。
 更に間の悪いことにフェリは現在戦闘不能状態とかで、現状の迷子という現実と戦っている有様である。
 だが、身の回りでおかしな事が起こっている。
 もはや逃げる事さえ出来ないと思われるほどに、汚染獣に囲まれた次の瞬間、やたらに躍動的な剄の気配に包まれたかと思っていたら、見る見るうちに汚染獣が輪切りになってしまったのだ。
 こんな事が出来る武芸者を、イージェは二人しか知らない。
 ツェルニ最悪の武芸者として知らぬ者がいないレイフォンと、グレンダンの天剣授受者リンテンスだ。
 イージェの周りで猛威を振るっている鋼糸がどちらの物だろうかという、下らない疑問は最初から考えなかった。
 汚染獣が殲滅されて、イージェ自身には傷一つ付かないのだからそれで問題無いのだ。
 と言う事で、剄息を整えつつ何とはなしに歩き、そしてそれと遭遇した。

「よう兄弟。俺にも煙草くれ」
「ああ」

 やたらめったらに不機嫌そうな、ボロボロのコートを着たボサボサ頭の武芸者と、絶世の美女らしき生き物にお姫様抱っこされたリーリンにだ。
 ここで問題としなければならないのは、ボサボサ頭の男、恐らくリンテンスが煙草を吸っているという所だ。
 イージェの煙草は、戦闘中に何処かへ飛ばしてしまった。
 ただし、常に持ち歩いている映像記憶装置は死守した。
 そして、ここからが最も重要なところなのだが、戦闘が一段落しているのならば、何よりもまず煙草を手に入れて一服するべきである。
 その後に気が向いたら、リーリンのこととかを考えればそれで問題無い。
 絶世の美女らしき生き物がなんだかご満悦な事だし、気が向くことは殆どないだろうと確信しつつ、空中を漂ってきた煙草を咥える。
 ご丁寧に、咥えたら火まで点けてくれた。

「わりいな。ここの連中は煙草の効能も知らねぇ餓鬼ばかりでな」
「学園都市だが、腹立たしいことだ」
「全くだ。レイフォンに勧めたんだが、結局吸わなかったしな」
「ふん。45,360,000秒過ぎてもあの莫迦は莫迦のままか」
「・・・・・・・・・・・」

 いきなり聞いたことのない数字が出てきたのでリアクションにしくじったが、あまり気にしなくて良いのだろうと思う。
 何しろ相手は変態武芸者集団最強を唄われる、リンテンス・サーヴォレイド・ハーデンなのだから。

「さて」

 口の端で煙草を保持したまま、煙を肺にゆっくりと送り込みつつ、それこそ必死の思いで守り通した映像記憶装置を取り出す。
 向ける先は、絶世の美女らしき生き物にお姫様抱っこされているリーリン。
 恐らくグレンダン女王だろう、計測機器が振り切れてしまいそうな剄量を無視して、録画スイッチを押し込む。

「っちょ!! な、なにとってるんですか!!」
「いやな。他にすることなくなったみたいだし」
「そう言う問題ですか!!」
「そう言う問題だと思うぞ?」

 グレンダンなどと言う異常都市がやってきたのだから、イージェが活躍するような場面はもう無いと思って間違いない。
 ならば、せめて暇つぶしのネタを探さなければ骨折り損という物だ。

「ああん。流石ツェルニ!! この私!! 女王であるこの私を録りたいだなんて!! 嫌々だけれど褒めてあげるわ!!」
「お前なんかいらねえよ。リーリンの方が絵になる」
「んんなぁぁ!!」

 そうなのだ。
 絶世の美女らしき生き物である女王は、完璧すぎて絵的につまらないのだ。
 それならば、羞恥に染まるリーリンの方がよっぽど面白い。
 と言う事で、主にリーリンに焦点を当てる。
 そもそも、絶世の美女なんて怪生物はイージェの好みからは外れるのだ。
 この辺もレイフォンと似ているのかも知れないと思うが、今はどうでも良いことだ。
 硬直したアルシェイラの手を逃れて、リーリンが地面に降り立ったことだし、どうでも良いことだ。

「な、なぜ? 何故この私をみんなで無視するの?」
「お前が横暴だからだ」
「世界はこの私を中心に回るべきだというのに、何故それが分からないの?」
「お前が傲慢だからだ」

 短くなった煙草を吐き捨て、新たな煙草を口に銜えたリンテンスが、なにやら呟いている怪生物と会話をしているが、そんな物はイージェにはどうでも良いことなのだ。
 恐い顔してこちらを見ているリーリンに比べれば、些細でさえない問題である。
 具体的には、記録素子を没収されないかが心配なのだ。
 
 
 
 
 
 変に規格統一された汚染獣をほぼ駆逐し終わったレイフォンは、デルボネに導かれるまま歩き、そしてそれを見つけた。

「渡しなさい!!」
「やぁだぁよぉぉん」
「渡せと言っているの!!」
「へへん」

 子供の喧嘩さながらに映像記憶装置を奪おうとするリーリンと、背伸びをして高いところにそれを避難させているイージェである。
 この二人が絡んでいるところはとても珍しいと思うのだが、問題は他の所にも幾つか転がっている。

「ええそうよ。この私のために世界はあるのよ」
「どんなせかいだ」
「女王であるこの私以外に、世界を支配する事なんて出来はしないのよ」
「だからどんな世界だ」
「ふふふふふふ。私こそが世界の中心。人類で最も注目されるべき存在なのよ」
「何処の世界の、何処の人類だ」

 蹲り、地面に延々と円を描きつつ何か呟き続けるアルシェイラと、一々それに付き合っているように見えつつ煙草を吹かすことにしか興味がないリンテンスとか。
 全くもって意味不明であるが、取り敢えずレイフォンには関わり合いのないことなので一安心である。
 汚染獣は片が付いているので、一安心したついでに一息入れようと煙茶を咥えたところで、いきなりの事態に遭遇した。
 殺意にも似た敵意を感じた瞬間、首の周りに冷たい何かを感じたのだ。
 それは既にレイフォンを完璧に捉え、逃げる事はおろか抵抗することさえ出来そうにない。
 人はこの冷たい感触を絶望というのかも知れないが、レイフォンは少し違う名前をつけることが出来る。

「リンテンスさん?」
「なんだ?」

 先ほどまで煙草を吹かすこと以外に何も興味がなかったリンテンスの瞳は、今は鋭く研ぎ澄まされレイフォンに向けられている。
 そして、少しだけ首の周りの冷たい感触に熱が宿る。
 それは殺意かも知れないし、敵意かも知れないし、もしかしたら、ただの警告かも知れない。
 そう。リンテンスの視線は正確にはレイフォンを捉えていない。
 レイフォンが咥えている煙茶に向けられているのだ。
 それはつまり、このまま一息つこうとしたらレイフォンの首と共に、煙茶が細切れになると言う事を意味している。
 もしかしたら、煙茶を普通の煙草と一緒に考えて酷い目に合ったことがあるのかも知れない。
 一度くらいならあり得る。
 レイフォンがそんな仮説を立てている最中、煙草が一本だけ空中を漂ってやって来る。
 であるならば、レイフォンが取れる選択肢は二つ。
 いや。ただの一つ。

「こ、これもらって良いですか?」
「やる」

 煙茶を口から放し、箱の中へと戻し、そしてレイフォンの前に鋼糸によって運ばれてきた煙草を咥える。
 他の選択肢など存在していない。
 そして、咥えた直後鋼糸によって火が点けられた。
 吸えと言う意思表示以外の何物でもない。
 当然のこと、逆らえるはずもないので、細心の注意を払いつつゆっくりと煙を肺の中へと導く。
 今まで経験したことのない苦味を中心とする刺激で、咳き込んでしまう。
 涙が出るほど咳き込んだが、煙草を手放すという事は出来ない。
 リンテンスの鋼糸が首に幾重にも巻き付いているから。

「ちょっ!! レイフォン!!」

 リーリンの恐い声が聞こえるが、リンテンスの鋼糸に比べると緊急性は高くないので、あえて無視する。
 だって、鋼糸に細切れにされてしまったらリーリンの小言も聞くことが出来ないのだもの。
 だからこそレイフォンは、必死の思いで咳を鎮めて煙草の煙を肺に送り込む。
 だが、レイフォンの努力など認めるわけには行かないとばかりに、世界が勝手に動いてしまうのも事実。

「ぬお!!」
「え?」

 いきなりだった。
 いや。こうなることは予測しておいて然るべきだった。
 いやいや。誰がこんな事を予測できるだろう?
 あろう事か、リーリンがリンテンスに蹴りを入れるなどと言う事態を、何処の誰が予測することが出来ただろう?
 少なくともレイフォンにはできなかったし、リンテンス本人にも出来なかった。
 もっと言えば、にやつきつつ映像記録装置を死守していたイージェも、なにやらこの世界から退場していたアルシェイラでさえ予測することが出来なかった。
 であるならば、誰も予測できなくて当然であったとレイフォンは断言する。

「なにを?」
「未成年に喫煙を強要しないで下さい!!」
「あ、ああ」

 あまりの事態に、リンテンスでさえ言われるがままレイフォンの煙草を粉砕してしまったのだ。
 この展開を予測することなど、誰にも出来なかったに違いない。
 だが、これで救われたのも事実だ。
 煙草など吸いなれなかったために、いい加減限界だったのだ。
 恐い顔でレイフォンの前に立ちはだかるリーリンに感謝して良いかもしれない。
 そう考えたのも一瞬。
 いきなり目の前が暗くなった。
 これは、ニコチンが全身に回ったために起こる身体現象に違いないと思考を進めつつ、丁度良いところにあった何かに縋り付いて倒れるのを防ぐ。
 更に活剄を使って新陳代謝を活発にして、ニコチンを早急に解毒する。

「?」

 何かがおかしいことに気が付いたのは、大きく剄息を繰り返している最中だった。
 レイフォンが縋り付いている何かが、細かく震えているのだ。
 フルフルと。
 更に、猛烈な勢いで温度が上がって行く。
 いや。それどころではない。
 あつらえたかのように、両手の中にすっぽりと収まり、とても柔らかくて良い匂いがして、更に顔を両方から圧迫する、心をとろかせるような・・・・・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そっと、力が抜けていた両足を踏ん張り、縋り付いていた何かからほんの少しだけ身体を離す。
 もっと縋り付いていたいという本能を、何とか理性と知性で押さえ込みつつだ。
 そして、細心の注意を払いつつ何時の間にか閉じていた瞼を上げる。
 目の前には、なにやら人が着る服のような物が見えるような気がする。
 そして、一縷の望みを託した視線を上げて行く。
 むしろ絶望と共に、恐る恐ると視線を上に上げて行く。

「あ、あのね、リーリン?」

 ピントが合わないほどの近距離に見えるのは、羞恥と怒りで真っ赤に染まる幼馴染みの顔だった。
 つまりレイフォンが、縋り付いて、更に大きく深呼吸していた何かとは。

「あ、あのねリーリン。これには色々と事情がっ!!」

 突如、下から衝撃が来た。
 その衝撃は戦闘衣を貫通し、レイフォンの、いや、男性の最も弱いところへと襲いかかる。
 息が詰まり全身の筋肉が硬直し、全ての行動が完全に停止する。
 そして、それは発せられた。

「死ね!!」

 二発目の衝撃を感じたところで、幸運なことに意識が吹き飛んだ。



[14064] 第十一話 六頁目
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/23 14:56


 グヘヘヘと心の中で笑いつつ、イージェはある作業を終了させた。
 そして心底思う。
 ツェルニに来て本当に良かったと。
 汚染獣との戦闘が殆どないという学園都市に来たために、汚染獣戦での稼ぎが少なくなるかと思いきや、他の都市と比べると遙かに高い確率で遭遇し続けた。
 教官としての報酬と対汚染獣戦に参加した報酬で、当分遊んで暮らせるだろう程には稼げた。
 だが、それでさえ付録でしかない。
 そんじょそこらでは決してお目にかかれないラブコメを、結構な頻度で目撃して記録を取ることが出来た。
 これは今までに経験したことのない程の、完璧に黒字だ。
 男性ならば理解できる激痛にのたうつ前に、意識を手放したレイフォンに対して、蹴りを放ち続けていたリーリンだが、そもそも肉体派ではなかったために息が切れで身動き取れなくなってしまった。
 蹴られまくったレイフォンは死んだかも知れないが、それでも男としては幸せだっただろうと確信している。
 何しろ、あのリーリンの胸に飛び込むことが出来たのだ。
 これで未練があるなどと言う事は考えられない。

「レイフォンの奴!! 確かに胸を揉んだら殺すとは書いたわ!! でも、でも、胸に顔を埋めてスウハアするとか何よ!! やっぱり巫山戯てるの? それとも殺して欲しいの? この私に殺して欲しくてやっているの!!」

 絶世の美女と呼ばれる怪生物が何か叫んで羨ましがっているのだから、未練などあるはずはないのだ。
 だがしかし、傍観を決め込めたのはここまでだった。
 レイフォンを殺し尽くしたリーリンの視線が、イージェへと向けられる。
 厳密に言うと、イージェがもったままの映像記憶装置へと。
 既に分かりきったことだった。

「イージェ?」
「おう?」

 声をかけつつリーリンが近付く。
 その歩みは疲労に震えているが、それでもまだ必殺の一撃を放つ力は残っているだろう。
 いや。怒りと羞恥と、その他諸々の感情が、必殺の一撃を放つ力をリーリンに与えているに違いない。
 そして、すぐ前までやって来たリーリンの手が伸びてくる。

「渡しなさい」
「ええええ?」

 何をと聞く必要はない。
 先ほどのラブコメ限界突破映像を納めた、映像記憶素子をよこせと言っているのだ。
 それ以外には考えられない。
 何かあるとは思わなかったが、まさかの展開を期待して録画は続けていたのは間違いない。
 そして、確実に先ほどの映像は記憶素子に記録されている。
 リーリンが奪い去りたいと思う気持ちも理解できる。
 だがしかし、イージェだって老後の楽しみを奪われたくはないのだ。
 それなので、若干後ずさって抵抗の意思を表明する。

「リンテンス様」
「なんだ?」

 つい先ほど蹴られてからこちら、リンテンスから受ける威圧感がずいぶんと小さくなったことに気が付く。
 実は、この手の女の子が苦手なのかも知れないと思うが、問題はそこではない。

「イージェを死なない程度のバラバラにして下さい」
「待った!!」

 予想通りの命令がリーリンから発せられたところで、抵抗を諦めることにした。
 死ぬことさえ覚悟しているが、避けられるのだったらあえて突っ込むべきではないのだ。
 と言う事で、映像記憶装置から記憶素子を取り出してリーリンに向かって差し出す。
 それを怪しげに見詰めるリーリン。
 本物かどうか疑っているのだろう。

「確認しても良いけどよぉ。どうする?」
「・・・・・・・・・・・・」

 フルフルと身体が震えつつ、赤みが引きつつあった顔が落ち着きを無くす。
 どんな状況だったか、外から見せつけられるのが嫌なのだろう事は疑いの余地がない。
 このくらいは十分に理解できるのだが、生憎とそんな気を遣う人間ばかりではなかった。

「こ、ここはこの私!! 女王アルシェイラが確認してあげるわ!!」
「止めて下さい!!」

 鼻息を荒くした怪生物の介入を、一撃で切って捨てたリーリンの手が伸びてきて、記憶素子を奪い取る。
 後で確認するのか、それともこのまま捨ててしまうのかは分からないが、取り敢えずイージェを解体するという計画は中止になったようで一安心だ。
 それはそれとして。

「しかし、美味しい奴」
「・・・・」

 小さく呟いた一言を拾ったらしいリンテンスが、とても複雑な表情をしている。
 もしかしたら、キャラの都合上リーリンの胸に埋もれたいなどとは言えないが羨ましいのかも知れない。
 と同時に、男である以上、あれを食らいたくはないのだろう事が分かる。
 イージェだって食らいたくない。
 と、そんな事をやっているところにもう一人現れた。

「・・・・・・・・・。ああ」

 シェルターの天井が破壊されたところから、軽く身を捻り地表部に現れたのはツェルニ最弱にして最強の武芸者、細目魔神。
 大型のリュックを背負ったその姿は、授業に出るために近道をしているのとさほど変わらない気軽さだった。
 そして、僅かに嬉しそうな表情で死にかけているレイフォンを見詰める事二秒。
 的確に何が有ったかを予測したその視線が、リーリンを捉える。
 慰めるでもなく、批難するでもなく、その視線には何故か慈愛が含まれているような気がした。
 そしてそれは、恐らく間違いではないのだ。

「帰るんだね」
「・・。うん。私は多分グレンダンで必要とされているから」
「そ」

 素っ気なく響くその短い言葉とは裏腹に、視線には相変わらず慈愛が含まれていた。
 そして、その視線がイージェへと流れ素通りし、リンテンスの上で止まる。

「リンテンス・サーヴォレイド・ハーデン」

 驚くべき事に、あるいは予想通りに、母都市をただの一人で敗者の位置へと叩き落とし、ウォリアス自身の放浪の切っ掛けを作った人物に向ける視線は、尊敬の光で満ちあふれていた。

「う」

 すぐに動きを再開した視線が、絶世の美女という怪生物の上へと差し掛かる。
 だが、その視線に暖かみは存在せず、驚くべき速度でアルシェイラを解体しているようにしか見えなかった。
 その視線の威力は、厚顔不遜の女王を一瞬とは言えたじろがせるほどの威力を秘めていた。
 リーリンは何故か、怪生物に哀れみの視線を送っているところを見ると、ウォリアスがどんな行動をするか予測しているのだろう。
 実は、イージェだっておおよそ見当が付いている。

「アルシェイラ・アルモニスとお呼びしますか? それともシノーラ・アレイスラ?」

 その声にも全く暖かみは存在せず、むしろ言葉を放っている間にも温度は失われて行く。
 お前のことなど知りたくはないが、話の展開上聞いてやると言わんばかりの勢いだ。
 そして、そんな物に負けるようではグレンダンの女王など勤まらないとばかりに、怪生物が虚勢を張る。

「あら!! このわたしのうつくしさはじんるいにしれわたっているのね!!」

 最初の一声が発せられた次の瞬間には、ウォリアスの興味は完璧に失われていた。
 それを察知した怪生物の言葉が、虚しく響き渡る。
 あまりにも無残な話だったので、イージェでさえ思わず同情してしまった。
 ツェルニに来たばかりに酷い目に合っているなと。

「それでなんだけれど」
「うん?」

 怪生物の背骨を木っ端微塵に打ち砕いたツェルニ史上最強の生物は、再び暖かみを取り戻した視線でリーリンを捕らえる。
 そして、その視線は何故かレイフォンの屍へと向けられた。

「グレンダンに必要なのは、リーリンだけ? いや。多分レイフォンも必要なんじゃないかな?」
「そんな事はないわ!!」

 ウォリアスが何を言っているかを理解したリーリンがいきなり激昂し、そして渾身の力で否定する。
 そこに普段の落ち着きは存在せず、ただただ、感情の流れに流されるだけのようだ。

「グレンダンが迎えに来るのだったら、候補は四人だと言ったよね?」
「言ったけれど、レイフォンは違うわ!!」
「違わないよ。天剣がレイフォンを選んだ」
「そ、それは」

 暖かみを失わない声と共に、それでも冷徹なウォリアスの言葉がリーリンを追い詰める。
 我が儘な妹を諭す兄なのかも知れないし、もしかしたら、父親かも知れない。
 ツェルニ史上最強生物であるウォリアスならば、どちらでも勤まるだろうと確信している。

「グレンダンが、どんな目的で天剣授受者を集めているか知らないけれど、それでもレイフォンが必要だと天剣が、あるいは他の何かが考えたのは間違いないよ。残念だけれどね」

 現象からその裏を読むことを趣味としているらしいウォリアスの前に、感情に流されたリーリンでは太刀打ちできない。
 熱血なだけが取り柄のニーナが連戦連敗しているのと、基本的に何ら変わらない。
 だが、それでもニーナとリーリンに対するウォリアスの態度は明らかに違った。
 ゆっくりとリーリンに近付き、そして背負っていたリュックをそっと差し出す。

「レノスが集めて、僕が選んで持ってきた対汚染獣戦の戦術データと、その他に広範囲破壊兵器の資料。必要はないと思うけれど持って行って」

 と、いきなり意味不明なことを言い出した。
 よりにもよって、グレンダンに広範囲破壊兵器などと言う手間暇かかる物を売りつけようとしているのだ。
 いや。金は取っていないけれど。

「どうして?」

 同じ疑問に達したリーリンの視線が、リュックとウォリアスの間を往復する。
 イージェの視線だって往復する。
 普通に考えたら必要ないと思うから。

「その他にも、化学やら数学やら思想やらの基本情報が大量に入っているから、邪魔になっても持って行って欲しい」
「化学に数学?」
「そ」

 とうとう意味不明の局地を突破してしまったのか、常人には分からないことを喋るウォリアス。
 ふと気になってリンテンスに視線を向けてみたが、こちらは我関せずと煙草を吹かしているだけだった。
 イージェも見習うべきかも知れない。

「何が起ころうとしているかは分からないけれど、人類がこれを生み出すために使った時間は莫大な物だから。念のために一番安全な所に予備を残しておきたい」
「予備?」
「そ。予備。使わないんだったら売ってくれても良いよ」

 ふと、ここで欲が出た。
 あれだけの情報ならば、たたき売っても一財産になると。
 もちろん、そんな恐ろしいことは出来ないけれど。
 リーリンにあれを食らって生きている自信がないから。

「情報記憶素子は貰って行くけど、レイフォンは駄目よ。メイが悲しむから」
「それを言われると心苦しいけれど、グレンダンに立ち寄る必要がレイフォンにもあるんだよ」
「無いわよ」
「むしろ一度帰る必要と言うべきかな?」

 ウォリアスの提案を一部受け入れるふりをしつつ、是が非でもレイフォンを持って帰ることを拒むリーリン。
 どんな気持ちなのかはイージェには分からないが、何かよほど強い感情が働いていることだけは間違いない。
 それが愛情なのか、それとも哀れみなのか。

「レイフォンは、孤児院を最後に見た時のことを限りなく明確に覚えているんだよ」
「それが何?」

 ウォリアスの視線がリーリンから逸れて、レイフォンの死体へと注がれる。
 その視線はしかし、リーリンに向けられていた異常に暖かい何かで満たされていた。
 一体どんな人生を送ってきたら、こんな視線が出来るのか疑問に思えるほどだ。

「確認してみたけれど、レイフォンは物心が付いた時からの記憶が全部欠けることなくそろってる」
「・・・・? え?」
「極々たまにいるんだよ。完全記憶とでも言うのかな? レイフォンの場合は興味がある事柄に関してのみ働くみたいだけれどね」

 とてももったいないと、咄嗟に考えてしまった。
 その能力があれば、記憶系のテストはほぼ完璧に出来るはずだというのに、全く役に立ってないのだ。
 受験勉強を控えた学生ならば、喉から手が出るほど欲しい能力を持っているのに、使わないなど、もったいないことだ。

「レイフォンが?」
「そ。レイフォンは頭が悪いんじゃなくて、その能力の殆どを身体と剄を制御することに使ってしまっているんだよ。後は、思い出を記憶することにね」

 実にレイフォンらしいとそう思う。
 だが、その能力とグレンダンに立ち寄る必要があることになんの関係があるのか、それが分からない。
 だが、それはすぐにウォリアスが教えてくれた。

「レイフォンは見たくないから戦場に出たと言っていたけれど、それだけは断じて違う。レイフォンは見届けたいんだよ。家族が家を出て行く姿をね」
「え?」
「この莫迦はね、自分が家を出ることを全く考えていなかったんだ。だからお別れを言わないで来てしまった。それはきっと後々になって問題になるから、一度帰ってきちんとしておきたい」

 そんな事あるのだろうかと考えてみて思い出した。
 幼生体戦直後の雑魚寝部屋で、ウォリアスがやたらとレイフォンの事に対して怒っていたことを。
 あの時は確か、リュホウとの別れをデルクが覚えているという話から、レイフォンが孤児院を最後に見た時を明確に覚えているという話になったはずだ。
 それを聞いて予測を立てて確認をしたのだろう事は分かる。
 実にウォリアスという人間らしい行動だ。

「だからね、レイフォンは一度グレンダンに帰ってきちんと決着をつけないといけないし、多分孤児院の方でも同じなんじゃないかな? いきなり何の前触れも無く、いなくなったんだから」
「それは・・。弟とか妹はそう思うかも知れないけど」

 リーリンも、レイフォン以外の人間の話になると少し状況を冷静に見ることが出来るようになるようだ。
 そして、これははっきり言ってウォリアスの罠にはまったのだと断言できる事態だ。
 どんなに強固な防壁だろうと、一カ所が崩れてしまえばとても脆くなる。
 いや。強固であればあるほど脆くなる。

「天剣授受者に返り咲くかは兎も角として、孤児院には必要だと思うよ。お互いがお別れを言うくらいの時間はね」
「そ、そのくらいだったら、陛下もそれなりの対応をしてくれるんじゃないかな?」

 ここに来てやっとの事で視線を怪生物へと送るが、それはあまりにも無残な姿を捉えるに留まってしまった。
 イージェとウォリアスで散々虐めたせいだと思うのだが、グレンダン女王であるはずの人物はすっかりと意気消沈してしまい、近くに落ちていた石ころに向かって自分の偉大さを延々と呟くだけの存在となり果てていた。
 なんと言うことだろうかと、一瞬だけ過去の自分を殴り倒したい衝動に駆られてみた物の、すぐに気が変わった。
 あまりにも打たれ弱すぎるのだと、そう考えたのだ。
 精神的な強さと肉体的な強さは、全くもって関係が無いのだと改めて認識した瞬間であった。

「え、えっと、うんと、あの」

 イージェの感想は兎も角として、是非とも女王との話し合いをしなければならないリーリンはその場で対応に困る。
 このまま無断で連れ帰って良い物かどうか分からないのだろうが、こればかりは怪生物が復活してくれないことにはどうしようもない。
 だが、世の中はリーリンに対しては割と親切に出来ているようだ。

「へ、陛下どうなさいましたか!!」

 比較的ゆっくりした速度で近付いてきていた、天剣授受者の一人が声をかけたのだ。
 その速度はあまりにも遅く、イージェでさえ息を切らせることなく普通に追いつける程度だった。
 だが、その理由はすぐに分かった。
 一般人らしい少年を一人、その天剣授受者が抱えていたからだ。
 速度が遅かったと言っても、それは武芸者基準での話であり、一般人らしい少年にはかなりきつかっただろう事が、呼吸が完全にみだれていることからも理解できる。

「あ、あにきぃ。なんでそうやってあねきをおこらせんだよぉ」

 その乱れた呼吸の合間を縫い、リーリンとレイフォンに向かって声をかける。
 どうやら二人の知り合いらしいと言うか、同じ孤児院の出身者だろう事までは予測できる。
 いや。デルクの所で何度か見ていることを思い出した。
 確か、家事担当だったはずだ。
 名前は確か。

「リチャード? なんでそんな事に?」

 思い出す前にリーリンが教えてくれたので苦労が少しだけ少なくなったことに、かなりの安堵を覚えた。
 安直な生き方を続けるつもりはないが、買ってまで苦労をしたいわけではないのだ。

「色々ありまして、リチャードさんには陛下のしつけ役をお願いしている次第でして」
「しつけ!!」

 驚き固まるリーリンだが、イージェに至っては完全に固まってしまい、声を発することさえ出来ない有様だ。
 そして、恐る恐ると視線をしつけの対象へと向けてみる。
 状況は何も変わっていなかった。

「取り敢えずレイフォンを持って帰って、後ほど陛下が正気を取り戻したら裁可を仰ぐと言う事でいかがでしょうか?」
「そ、それで良いんでしょうか?」
「恐らくそれで宜しいかと」

 後からやって来た天剣授受者、恐らく顔を知らないからカナリスがそう返答をする。
 当面それ以外に選択肢は存在していないかと、誰もがそう考えていた時に、それは起こった。

「起きろ」
「はいぃぃ!!」

 何か衝撃を与えたというわけではない。
 ただ、優しいとは言えない声でリチャードがアルシェイラに命じただけなのだ。
 ただそれだけで、今まであちらの世界へと旅立っていた怪生物が覚醒を果たした。
 これ以上に驚くべき事は、先ほどリーリンがリンテンスを蹴り飛ばしたことぐらいしか思いつけない。
 一体何が有ったというのだろうかと、思わずカナリスやリンテンスへと視線を飛ばしてみたが、あまりの事態に驚愕していることだけを認識できた。
 だが、その疑問はすぐに解決する。

「起きました!! だからわさびは止めて!! 辛子も唐辛子も胡椒も止めて!!」

 惰眠を貪っている怪生物に手を焼いたリチャードが、刺激の強い香辛料で優しく起こして差し上げたらしいことがはっきり分かった。
 グレンダンの女王、人類最強の武芸者と言われている怪生物とは言え、単なる主夫には全く歯が立たないことがはっきりとした瞬間であった。
 イージェも気をつけようと、心の底から決心した瞬間でもあった。

「宜しい」
「は、はいぃぃ」

 そして思う。
 どうしてこうも駄目人間ばかりが集まるのだろうかと。
 いや。これはきっと話が違う。
 駄目人間こそがこの世界を動かしているのだ。
 そして、今この瞬間に限れば、ツェルニこそ世界の中心である。
 であるならば、駄目人間が集まってきても何ら不思議ではない。
 この結論に達したイージェは少しだけ優越感を得ていた。
 俺はここまで駄目人間では無いと。
 なぜならば、すっかり話の外側におかれているから。
 そして映像記憶装置を確認する。
 先ほどレイフォンがリーリンの胸に飛び込んだ瞬間の映像は、記憶素子と記録装置に分散して保存されていたのだ。
 つまりリーリンの手にあるのは複製でしかない。
 記録装置内の情報を後で取り出せば老後は安泰である。
 心の奥底でほくそ笑むイージェであった。
 
 
 
 
 
 取り敢えずアルシェイラを叩き起こしたリチャードだったが、その内心は複雑だった。
 確かに以前、掃除をしている最中であるにもかかわらずリビングで惰眠を貪っているアルシェイラに腹を立てて、その鼻先にわさびを塗ったことはあった。
 その時、今まで聞いたことの無いような悲鳴を上げて暴れ回ったのは確かだ。
 そのお陰でリビングは被害を受けたが、それ以来掃除をしている最中に惰眠を貪ることはなくなったので何とか黒字だった。
 だが思うのだ。
 わさびごときでそんなに恐れるなと。
 仮にもグレンダン最強の、おそらくは人類最強の武芸者であるはずの女王が、たかだかわさびごときでこうも恐れ戦くとは想像もしなかった。
 実際問題として、孤児院にいる弟や妹たちはこの程度では全く静にならない。
 それどころか、鼻がつんとしたとか涙が出たとか騒がしさが増すのだ。
 何故か最近、食べ物絡みで人類最強の女王がへこたれすぎているように思う。
 羊羹の時もそうだが、リチャードはただ己の不満を形として表しているだけなのだ。
 そこまでリチャード自身を含めて恐れる必要はないのにと思う。
 そして視線をアルシェイラに向ければ、リーリンがなにやら説得を行っている。
 この決断に関わらないようにするために、他の人間に視線を向けて、そして大きく溜息をついた。

「あにき」

 飛ばした視線の先では、何処から持ってきたか全く不明だが棺桶が鎮座していた。
 そしてその鎮座した、巨大な箱の中へと、レイフォンが安置されようとしている。
 作業をやっているのは暫く前にサイハーデンの巡礼でやって来たイージェと、ツェルニの学生らしい細目で長髪の少年。
 レイフォン絡みでこの特徴を持っているのは、ウォリアスという極悪非道の武芸者だけ。
 つまり、極悪非道が限界を突破してしまい、まだ死んでいない人間を棺桶に入れて埋葬しようと、そう画策しているのだろう事が分かる。
 何処までも不幸な奴だと、哀れみと憐憫の感情を覚えたリチャードだが、レイフォンを安置する作業に手を貸すこととした。
 他に何かすることがあるわけではなかったし、レイフォンの手紙が本当ならばきっとこの行為にも何か意味があるはずだから。
 どんな意味があるかは分からないが。

「よう兄弟。お前もレイフォンをぶち殺したくなったか?」
「いや。そう言う訳じゃないけれど、他にすることもないし」

 何故何時もイージェは兄弟と呼びかけてくるのかは置いておいて、視線をウォリアスへと向ける。
 ヴォルフシュテインを胸に置き、ほぼ安置作業が終わったところでだ。
 後は蓋を閉めるだけである。

「生きたままグレンダンに帰るのは無理かも知れないけれど、死体だったらさほど大事にはならないと思ってね」
「な、成る程」

 思いもよらない方法を思い付き、そしてそれを即座に実行してしまっていることがはっきりと分かった。
 いや。もしかしたら、埋葬のためにグレンダン入りするという計画は既に立案されて実行の時を待つだけだったのかも知れない。
 十分にあり得る。
 ヴォルフシュテインを胸においているところを見ると、本格的に火葬するつもりはないのだろう事も分かる。
 恐ろしくも、それなりに筋の通った考えだ。

「こいつ、このまま火葬したら気分が良くないかしら?」
「・・・・。陛下。そんなにむねにぃ!!」

 アルシェイラの呟きに思わず反応したリチャードの後頭部に、リーリンの拳が振り下ろされた。
 絶対に触れてはいけないと、その拳が物語っている。
 まあ、不用意に反応してしまったリチャードにも問題はある。
 これからは気をつけようと考えつつ、棺桶の蓋をそっと閉める。
 釘を打ちたそうなアルシェイラを牽制しつつ話を少し進める。
 追放処分が解かれたというわけではないのだ。

「グレンダンが動き出した後になって、本当は生きていましたって事にするのは良いが、バスが来たら即座に追放のやり直しだろう?」
「それは無い」
「な、なんで?」

 だが、ウォリアスはその心配がないと断言した。
 その断言はあまりにもはっきりしていたので、アルシェイラでさえ仰け反ったほどだ。
 もちろんリチャードは驚きすぎて固まっている。

「あと五十週間はグレンダンにいられるよ」
「なんでそんなに?」

 一年は五十二週間と一日だ。
 であるならば、レイフォンは一年近くもグレンダンにいられることになる。
 この思考の途中に、気になる単語があった。

「ん? 一年?」
「そ。この莫迦は、一年の猶予があるのにすぐに出ちゃったからね。残りの時間ぐらいグレンダンにいられるでしょう」

 理論的に合っているようでいて、実は全く的外れだと思うのはリチャードの考えすぎだろうか?
 だが、ウォリアスは更に動き続ける。
 いや。こちらの方こそが本命だというような確信を持った動きで立ち上がり、リーリンに向かって何かを差し出した。

「な、なに?」
「これ貸すって」
「え?」

 リーリンに手渡されたのは、端的に言って首輪と鎖だった。
 合成樹脂製の首輪と、銀製に見える細やかな鎖である。
 何に使うのかさっぱり分からなかったのは、グレンダン組だけであった。

「ぶははははははははははは」

 それを見た次の瞬間、イージェが堪える素振りも見せずに全力で笑い転げ、リーリンはあまりの事態に茫然自失という状況だ。
 提案したウォリアスでさえ、堪えるのだけで精一杯と言った感じである。
 これは是非とも解説して欲しい。

「猶予の手が使えないんだったら、最終手段としてフォンフォンを使う」
「つ、つかっていいの?」
「他の方法が思い付かない」
「か、かんがえた? ちゃんと?」
「もちろん。百分の一秒くらい」
「・・・・・・・」

 とうとうリーリンの動きが完全に止まった。
 あまりにも酷い展開であることだけは確実だが、それさえ事態の一部でしかなかった。

『フォンフォンと一緒に返してくればそれでかまいませんので、存分に使って下さい』
「い、いやですね」
『選別だと思って頂いてかまいません。私のことはどうかお気になさらないで下さい。フォンフォンがいない間、寂しくて泣いてしまうかも知れませんが、きっと耐えて見せます』
「あ、あのですねフェリ先輩」

 どこからか飛んできた念威端子から、少女の声が聞こえてきた辺りで、とうとうイージェが笑いすぎて死にかけた。
 それだけではなく、ウォリアスでさえニヤニヤ笑いを堪えきれなくなったようで、軽く棺桶を叩いて感情を表現している。
 事態は全く意味不明である。
 だが、何か恐るべき事が起こっていることだけは理解していた。

「ああ。出来れば説明して欲しいんだが」
「あ、後で説明するから、今は駄目」

 とうとうリーリンが先延ばしを選択するほどには、事は異常であると認識した。
 ならば、当分関わらない方が良いのだろう事がはっきりすると言う物だ。

「兎に角、これを運び込んでしまえば後はどうにでもなるから」

 話はこれまでとばかりにウォリアスが閉めにかかる。
 そして、恐らくそれが正しいのだろうと言うことは理解できている。
 そして、ここに来てアルシェイラへと視線を向ける。
 レイフォンを本当にグレンダンに運び込んで良いのだろうかと。
 この決断にリチャードが関わってはいけない。
 それはきっと、私事で公的な権力を使うことに繋がるから。
 だが、やはりアルシェイラは大雑把であり、更に退屈しのぎで揉め事を引き起こすのが大好きであった。

「まあ、色々楽しいことになりそうだし、リーちゃんが良いんだったら良いんじゃない? ただししばらくは内緒にするけどね」

 極めて無責任なお言葉が発せられた。
 いや。取り敢えず内緒にすると言う辺りに責任感を感じることが出来るのだろうか?
 そして気が付けば、棺桶が空中を浮遊していたりする。
 既にリンテンスが運搬を開始しているようだ。
 ならばもうリチャードにすることはない。

「できればね」
「あ?」
「次の天剣が見付かったら、早めに返却してもらえると嬉しい。レイフォンを必要としている人がここにもいるから」
「出来うる限り早く返却するよ」

 次の天剣が見付かるまで。
 それが何時のことなのかリチャードには分からない。
 減ることはあっても増えることがないとさえ思っている。
 天剣授受者とは、そう言う生き物なのだ。
 だが、それでもリチャードはその権限がないにもかかわらず、言わずにはいられなかった。
 レイフォンを待っている人がツェルニに居ると理解しているから。
 
 
 
 
 こうしてレイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフはグレンダンの天剣授受者として、こっそりと復活を遂げた。
 当面は戦闘時以外、殆ど王宮から出ることなく過ごす予定だったのだが、復活直後に襲来したドゥリンダナ戦において、その存在が大きく知られることとなってしまった。
 だが、グレンダンの人達は同姓同名の別人であるとそう確信することとなる。
 顔も良く似ているが別人であると頑なに信じるようになる。
 何故それ程までに頑なになったのか、都市外の誰もそれを知ることは出来なかった。
 
 
 
 
 
  おまけ。

「そう言えば、てっきりグレンダンに行ってレイフォンを倒して天剣を我が手にとか言うと思っていたんだけれど」
「天剣なんてもう興味ないさぁ」
「うん? それはなぜ?」
「オレッチは、あそこまで駄目人間になれないさぁ」
「そ?」
「それにさぁ」
「うん?」
「ミュンファが、脱臼垂れ目女に同情しちまってさぁ。おいてくのも寝覚めが悪いから面倒見るさぁ」
「そ」

 こうして、ツェルニはイージェとハイアという教官を得ることとなり、武芸者の地獄は更なる激化を辿る事となったのであった。
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
と言うようなわけでして、復活の時十一話目をお送りしました。
来週エピローグを上げますが、恐らくそれで最後となります。長い間お付き合い頂きまして、有り難う御座いました。
ちなみに、フェリファンの方は来週のエピローグ最後までがんばってお読みください。途中でへこたれないようにお願いします。

このシリーズ、実は原作へのアンチテーゼとして始めました。レイフォンを初めとする天剣授受者たちがひどい目に合い続けるのは、この辺に原因があります。
いや。このシリーズで非道い目に合わなかったのは主要登場人物ではウォリアスのみと言う凄惨な内容となってしまいました。
メイシェンがヒロインになったのは、単に俺の好みだったのですが、最終話あたりまで行くとこちらもアンチテーゼとなっていますね。

そうそうもう一つ。
約一年ほどかかって書き上げた話ですが、本来の俺の執筆速度からするとこれはかかりすぎです。
それには理由があります。
まず第一に、柿ながら聞いているのが、RCサクセションになったこと。忌野清志郎のよれているんだかよれていないんだかの声を聞いていたら、自然と執筆速度が遅くなりました。
二つ目。二頁目の洋館騒動で、駄目人間エネルギーを使い果たし、最重点に時間がかかってしまったこと。
そして、これが最大の原因ですが、ブログを始めてしまったこと。一週間で6キロバイト前後書いているせいか、全然こちらが進みませんでした。
等々有りまして、この年末の忙しい時期に更新と相成りました。
いかがだったでしょうか?





[14064] エピローグなど
Name: 粒子案◆a2a463f2 ID:ec6509b1
Date: 2015/12/30 21:36


 色々あったらしい。
 らしいというのは、アルフレッド・マーローが一般人であり、事が起こっている最中はシェルターに避難していたために現実感が乏しいからだ。
 母都市の武芸者には、大した被害は出なかったようだが、それでも都市が傷付いていたために復旧が結構大変だった。
 こちらはアルフレッドも参加したために、きちんと実感がこもっている。
 だが、ある意味お祭り騒ぎも収束した。
 今はもう、母都市も殆ど傷が癒えて平常運転に戻っている。
 それを確認したからこそ、学園都市へと留学するという贅沢が許されたのだと思う。
 受験から出発までの慌ただしさは、もはやお祭りの後始末の再来かと思うほどだったが、それも既に過去の出来事となっている。
 アルフレッドは放浪バスに乗り込み、そして目的の学園都市へと到着しているのだ。
 留学先は、学園都市ツェルニ。
 色々あった時に中心的な何かをやったとかやらなかったとかで、何となく不安な気持ちも有るのだが、それでもものは試しと留学を決めた。
 放浪バスから降り立ち、大きくツェルニの空気を吸い込む。
 母都市と比べると、何かはっきりとした違いを感じるが、それが何かはまだ分からない。
 偶然放浪バスの隣に座っていた、焦げ茶色の髪と紫色の瞳をした、恐らく武芸者らしい少年もツェルニの大地を踏みしめ、そして大きく空気を吸い込んでいる。
 その腰には剣帯が巻かれ、そして白銀に耀く錬金鋼が差し込まれている。
 殆ど例外なく、こんな装備を身につけているのは武芸者である。
 身体を動かすことが本業と言える武芸者が、いくら余裕が有るとは言え、密閉された放浪バスから解放されたのだ。
 やるべき事は一つしかないだろう。
 いや。放浪バスから解放された人ならば、誰でも同じようなことをするだろうと確信している。
 だが、焦げ茶色の髪をした武芸者は少しだけ違った。

「ツェルニよぉぉ!! 僕は帰って来たぁぁ!!」
「うぉ!」

 大きく吸い込んだ空気を全て絞り出すかのような勢いで、いきなり叫んだのだ。
 しかも、学園都市に帰ってきたとそう絶叫したのだ。
 思わず仰け反って、距離を取ってしまった。
 この人には関わっては駄目なのだと、本能がささやいているから。
 その身体から迸る熱は恐ろしいほどの高温であり、それ以上に、開放感と呼ぶ以上の何かを迸らせている。
 そんな人に近付きたくないというのは、誰だって共感してくれることだろうと思う。
 だが、アルフレッドが認識している現実はそれだけではないのだ。

「お帰りレイフォン」
「ひぅ」

 黒髪を首の後ろで束ねた細目の、おそらくツェルニの武芸科の制服を着た少年が、絶叫を放った少年の後ろに忽然と現れたのも認識していたのだ。
 そして、レイフォンと呼ばれた少年から迸り出ていた高温が一気に吹き飛ぶ。
 代わりに辺りを支配したのは、今まで体験したことの無いほどの冷気。
 後ろからそっと、レイフォンの肩に手をおいただけだというのに、その細目の少年は一瞬にしてレイフォンの動きを完璧に止めてしまった。
 むしろ、レイフォンを支配したとそう表現できるかも知れない。
 呼吸さえ許可がないと許さないと、そう体現しているかのように、レイフォンの呼吸が止まる。

「ああ。この時を待っていたよ」
「う、うぉりあす?」
「覚えていてくれたんだねレイフォン。さあ。僕と苦悶式試験勉強術を極めようじゃないか」

 細目の武芸者、ウォリアスの単語一つ一つがレイフォンを追い詰めて行く。
 それはまるで、名探偵に犯罪の細かいところを指摘されて追い詰められて行く犯人のようでさえある。
 違うのは、出てきた単語。
 苦悶式試験勉強術。
 そんな術を身につけたいとはアルフレッドは思わないし、殆どの人間も同様だろう。
 当然の様にレイフォンも出来るだけ遠慮したいようだが、現実はあまりにも容赦がなかった。

「もしかして、拷問式試験勉強術の方がお好みかい? 残念だけれどそれはまだ僕の方が体得していないんだよ」
「い、いやね、ウォリアスぅぅ!!」

 これ以上何か言わせる必要を感じなかったのか、ウォリアスがレイフォンを持ち上げて頭の上へと持って行く。
 流石武芸者だとそう表現して良いのかも知れないが、それはあまりにも恐ろしい現実として映った。
 レイフォンの顔色が、既に死人のそれに変わり果てているから。
 だが、人とは最後の最後まで足掻くことを止めない生き物であるらしい。

「ま、待ってウォリアス。僕は、僕はメイに逢わなければならないんだよ。そうしないと本当の意味で帰って来たことにならないから」
「ああ。そうだったね。一年にも及ぶ不実を詫びて関係を修復しないと死んでも死にきれない物ね」
「そ、そうなんだよぉぉ」

 気が付いているのかどうか怪しい会話であることは間違いない。
 ウォリアスははっきりとレイフォンを勉強で殺すと宣言しているのだが、動揺しているためだろうかまったく気がついていないようだ。
 だが、ウォリアスは常識を越えて親切な、あるいは残酷な人物だった。

「メイシェンとの再会が終わって、元通りになったら」
「う、うん?」
「獄門式試験勉強術を一緒に体得しよう」
「ちょ!! ちょっと待ってウォリアスゥゥゥゥ!!」

 絶望の絶叫を残してウォリアスに運び去られるレイフォンを見送る。
 絶対にあれに関わってはいけないのだと、そう確信しつつ。
 
 
 
 
 
 ここは学園都市ツェルニ。
 狂おしき何かによって人々が変わって行くところ。
 
 
 
 
 
 自律型移動都市の時代が終わってかなりの時間が流れた。
 都市で人を生かしていた微生物の多くが、汚染物質が無くなった世界に広がったことで、人類の生存できる領域は格段に広がった。
 それは良いことなのだが、人間とは争わずにはいられない生き物であることをニーナは噛みしめつつ目的の場所へと向かって歩く。
 生存権が広がったことによって、武芸者の役割は対汚染獣戦から、ほぼ純粋な対人戦闘へと移ったが、重要度はさほど変わっていない。
 そこには、幾つもの利権などが絡んでいるから、変わりようがない。
 だが、極希にだが対人以外の戦闘も存在する。
 かつての汚染獣とは比較にならないほど、脅威度としては低いが、それはあくまでも武芸者が遭遇した場合の話である。
 一般人が出会ってしまったらほぼ間違いなく生きては帰れない。
 その異形の者達との戦闘を専門に行う組織に所属するニーナは、今回の事態が過去に例を見ない物であることを確認して、そしてある場所へと向かうことを決意した。
 出来れば向かいたくはないが、多くの人の命に関わることだけに手持ちの札を使わないという選択肢は出来なかったのだ。
 向かうべき場所は、元ヨルテムのあった辺りに作られた都市だ。
 そう。そこでお菓子屋をやっている、かつての部下の力を借りるべくニーナは向かっている。
 とは言え、幾つもの問題が存在し続けている。
 そもそもレイフォンは戦いの場から離れているはずで、錆び付いた武芸者を戦場に連れ出して良い物かどうかがまず一つ目。
 メイシェンを悲しませたくないからと戦いの場から遠ざかっているにもかかわらず、引き戻して良い物かが二つ目。
 レイフォン自身はお菓子屋の店主をやっているが、それでも旧ヨルテム関連の政府に登録されている武芸者であることが三つ目。
 どれか一つだったとしても、あまり好ましくないのだが、三つもそろってしまっているというのはかなり厳しい。
 だが、それでも、ニーナはレイフォンの力を頼らなければならない。
 だが、事態はそんな覚悟とは無関係に進む物のようだ。
 これは、ツェルニに居た頃から何も変わっていない、この世界の法則のようでさえある。

「レイフォン?」
「はい?」

 ふと横道から出てきたのは、ツェルニ在学中と何ら変わらない元部下の、そしてニーナが知る限りほぼ最強の武芸者の姿だった。
 だが、違和感を感じてもいた。
 なんだかこう、記憶にあるレイフォンよりも柔らかいような気がするのだ。
 その身に纏った空気や、物腰だけではなく、その身体付きから皮膚の感触まで、何故かとても柔らかいようなそんな印象を受ける。
 その違和感に囚われている間に、レイフォンの方は体勢を立て直してこちらを少しの間観察し、そして言葉を放つ。

「えっと。もしかしてニーナ・アントークさんですか?」
「あ? ああ。私はニーナだが、レイフォンではないのか?」
「違いますよ」

 微かに頬笑みつつ否定された。
 この頬笑み一つとっても、明らかにレイフォンではない。
 微かに頷きつつこちらを観察していた人物が、ふと視線をニーナが向かうつもりだった方向へと向く。

「こちらです」
「・・・。済まないが、事情が飲み込めないのだが」
「それは、着いたら分かりますから、付いてきて下さい」

 そう言うと、それ以上の質問を許さずに歩き出すレイフォンに似た人物。
 こうなってしまってはニーナに選択肢は存在しない。
 目の前を歩く人物を追いかけつつ、甘い香りを認識していた。
 これは、お菓子の匂いだろうかと考えるが、少しだけ甘さの質が違うような気がしている。
 それがなんだったかを考えつつ、観察する。
 目の前を歩くのは、間違いなく武芸者である。
 身のこなしは柔らかいが、隙らしい隙は存在せず、滑らかに道を歩く。
 常に剄息を行い、よくよく観察しなければ分からないほど隠されているが、張り詰めた緊張感も持ち合わせている。
 実際に戦ってみないと分からないが、相当に腕が立つだろう事が分かった。
 と、そこまで観察したところで、その人物が歩くのを止め、とても可愛らしい建物の扉へと向かう。
 それは、まるで童話の世界から抜け出してきたかのような佇まいであり、何よりも濃厚なお菓子の香りに支配されていた。
 ここが、レイフォンの店なのだろう事は分かるが、凄まじい違和感を覚えるのも事実。
 いや。メイシェンのことを思い出してみれば、これは当然なのかも知れないとも考えられる。
 つまり、この店はレイフォンのと言うよりはメイシェンのと言う事になる。
 納得が出来る現象だ。
 そんなどうでも良いことを考えている間に、その人物は扉を開けて、迷うことなく店の中へと入って行く。
 それに続いたニーナは、あまりにも衝撃的な物を見たために硬直して、身動きはおろか呼吸さえ止まってしまった。
 内開きの扉だったので、閉めるために三歩だけ店内に入ったところで、それを見つけてしまったからだ。
 店内は明るかった。
 大きな窓から降り注ぐ日差しで、適度に明るかった。
 レジスターのあるカウンターと、商品の陳列棚、そして買った商品をそこで食べるためのテーブル。
 そして、奥に向かう扉が二つ。
 厨房と化粧室だろう事は分かる。
 ご丁寧に、コーヒーや紅茶まで完備しているようで、店内はそれらの豊かな香りで支配されていた。
 そして、店の中の客は一人だけだった。
 銀髪を長く伸ばして、水色の瞳をした四十代とおぼしき小太りな女性。
 念威繰者らしく、腰に剣帯を巻き無表情に大量のお菓子を目の前に並べて、それを駆逐するという作業を行っている。
 そう。念威繰者である。
 武芸者でないことは一目瞭然だった。
 なぜなら、ニーナはこの特色を備えた念威繰者を、ただ一人だけ知っているから見間違えるはずがない。

「お帰りなさい」
「ただいま。お客さん連れてきました」
「見れば分かります」

 無表情な客が無表情に答えを返し、無表情な視線がニーナを捉える。
 思わず一歩だけ後ずさる。
 圧力を感じたというわけではない。
 そんな物はツェルニ在学中に散々浴びてきたから、今更臆することはない。
 そう。目の前の念威繰者が四十代でなければ何ら問題無い。
 いや。四十代だったとしても問題はなかっただろう。
 小太りという特色がなければ、きっとニーナは久しぶりに会った念威繰者に挨拶を返すことが出来たはずだ。

「久しぶりですね隊長。お元気そうで何よりです」

 そう言いつつケーキを口に運ぶ念威繰者。
 相当に気に入っているのだろう事は、その体格を見るだけで十分に理解できる。
 いや。在学中から執着していた以上当然の結果なのかも知れないが、驚愕して動けないことに変わりはない。
 そして、もはや衝撃に打ちひしがれているのも限界である。
 何とか、口だけでも動かそうと努力する。

「フェリ。ずいぶんと、その」

 どう続けるべきかで硬直した。
 ほんの少し前に会ったレウに外見のことを言ったら散々怒られた記憶が蘇る。
 同じ事をフェリに言ってしまったら、一体どれだけのことが返ってくるか分からない。
 だから硬直する。

「ちなみにこちらは、チェルシー・トリンデン。シェンシェンとフォンフォンの娘さんです」
「あははははは。それ本当にツェルニでやってたんですか」
「当然です。輝かしい私の珍獣コレクションでした」
「ははははははは。じゃあ、私もいずれは珍獣の仲間入りを?」
「シーシーと呼んで差し上げても宜しいですが、いかがいたしますか?」
「えっと。ご遠慮申し上げたいかなと思っている始末ですが」
「そうですか。それはとても残念です」

 ニーナが硬直している間に、何かとんでもない会話が剛速球で侵攻してしまっている。
 何かすることが出来ないという、恐るべき剛速球だ。
 だが一つだけ確信していた。
 外見のことで何か言わなくて本当に良かったと。

「フォンフォンを呼びますか? どうせそれが目的でしょう」
「あ? ああ。出来れば穏便に呼び出してもらいたいのだが」
「問題有りません」

 そう言いつつ、何故かテーブルの上に乗っていた銀の鈴を鳴らす。
 とても澄んだ軽やかな音を聞いていると、執事を呼ぶ女主人のようにさえ見えるが、ここはしかしお菓子屋さんなのだ。
 高級でもなく、どちらかと言うと大衆向けのお菓子屋さんなのだ。
 そのお菓子屋さんでこの展開。
 思わずもう一歩後ずさってしまった。
 だが、後退もここまでにしなければならない。
 そもそも後退という言葉は、ニーナには相応しくない。
 当然のこと、後退という行動も相応しくない。
 だからニーナは、足を踏ん張りレイフォンが現れるはずの扉を睨み付ける。
 無駄だった。

「な、なに?」

 もう一歩後ずさる。
 そして、背中に扉の感触を認識した。
 内開きの扉なので、もはやこれ以上下がることは出来ない。
 絶体絶命である。

「どうしましたかフェリ先輩? って? 隊長?」

 そう声をかけてきたのは、明らかにニーナの知るレイフォンではなかった。
 焦げ茶色の髪と紫色の瞳、中肉中背でありながら鍛え抜かれたしなやかな筋肉。
 ツェルニ時代にオスカーが着ていたような調理人専用の白衣を隙無く着こなすその人物は、明らかにレイフォンだった。
 だがしかし、知っているレイフォンではなかった。
 簡単に言ってしまえば、四十代になっていた。
 加齢による皮膚のたるみや小じわがその顔に刻まれ、ツェルニを卒業してからの年月がどれほど長かったかを物語っている。
 殆ど二十代中盤で老化が止まってしまっているニーナとは、明らかに違う時間を生きてきたのだとそう実感できる。

「変わりがないようで何よりです」
「お、おまえがいうか?」
「僕は、歳を取ることを選んだだけですよ」
「そ、そうなのか?」
「はい。メイと一緒に歳を取りたかったので」

 朗らかに笑うレイフォンからは、三十年近く前に始めて会った時の線の細さは感じられない。
 汚染獣との戦いからは身を引いたはずだが、それでも社会で生きている大人の風格を漂わせている。
 そしてニーナは、自分の中に不思議な感情が生まれていることに気が付いた。
 折角遊びに出掛けようとみんなと約束したのに、気が付いたら先に行かれてしまったような、そんな一種の寂しさだ。
 無論、ニーナだって色々あった。
 だが、活剄で老化速度を遅くしているために、どうしても若造だと思われてしまう。
 そのせいで何度か交渉が難航したこともあった。
 それを自覚しつつも、今のような寂しさを感じることがなかったのは、昔から知っている人達の加齢を目の当たりにしなかったからだろう。
 思わず目の前が暗くなったが、その直後現れた人物を見て全てが混乱の中に放り込まれた。

「隊長さん?」
「め、めいしぇんか!!」

 ニーナが卒業する時に、最後に見たメイシェンと比べるとややふくよかになっただけの、明らかに四十代ではない女性が扉を抜けたところに佇んでいたのだ。
 普通に見ると、三十代前半に見える。
 これはおかしい。
 レイフォンが二十代に見えて、メイシェンが四十代に見えることは予想していたが、逆転現象が起こるなどとは全く考えていなかったのだ。
 だからこそ混乱する。
 十代の少女がレイフォンで、三十代のメイシェンと結婚して四十代のレイフォンに養われていると、そう表現できるかも知れない。
 それ程までにニーナは混乱していた。

「女性は若々しい方が良いに決まっていますし、本人が気をつけていますから」
「そ、そう言う問題なのか?」
「気をつけていれば、ある程度維持できるようですよ。武芸者ほどじゃないですけれど」
「そ、そうか」

 女性の、若さを維持するための努力がどれほど凄まじいのか、実際の所ニーナは知らない。
 活剄を使うという裏技が常態化してしまっているからだ。
 チェルシーと呼ばれた二人の娘が笑い転げているところを見ると、今のニーナの反応は珍しくないのだろう。
 それどころか、フェリでさえ机を叩いて楽しんでいることを表現している。
 ここは、ツェルニ以上の魔都だと言うことだけは、はっきりした。
 だが、何時までも混乱したり驚いたりしている暇はない。
 ニーナにはやるべき事があるのだ。
 そもそもここに来た目的を達成するために、口を開こうとしたまさにその瞬間、再びニーナとは無関係に事態が進む。

「チェルシー。降ろして下さい」
「はぁい」

 ニヤリと笑ったフェリの指示が飛び、まだ笑い足りないらしいチェルシーがフェリの後ろへと回り込む。
 いや。この後もう一笑いするぞと準備していると、そう表現できるだろう。
 そして、そのチェルシーの右手が席を立ったフェリの背中へと伸びる。
 そして、何かを摘んで一気に引き下ろす。

「ちょ!!」

 あえて言おう。
 今は昼間であり、大きな窓を通して外から丸見えなのだと。
 この条件でありながら、服のファスナーを堂々と降ろすという少女としても女性としてもあるまじき行いに、思わず静止の声を上げようとしたが、全ては無駄だった。

「・・・・・・・・・」

 ファスナーが降ろされ、フェリの着ている物が背中側から割れるように前へと向かってずり落ちる。
 いや。小太りだとそう表現できる贅肉を伴って前へと雪崩を打って崩壊する。
 現れたのは、最後に見た時と殆ど何も変わっていない細身の肢体。
 落ち着いた感じの服もしっかりと着ている。
 それはつまり、今までの外見は追加装甲のような物で。

「少々お待ち下さい」

 そう言いつつ、四十代で細身のフェリが化粧室へと消える。
 何が起こったか分からないのはニーナだけのようで、チェルシーは全力全開で笑い転げ、メイシェンは気の毒そうにしつつも顔を背けて笑い、レイフォンでさえ困ったように頬を掻きつつ頬笑んでいる。
 全てはニーナを驚かせるために用意されていたのだと、そう確信したが、まだ終わっていなかった。

「お待たせしました」
「っな!!」

 化粧室から出てきたのは、細身で二十代のフェリ・ロス。
 ニヤリと笑うその表情も、肌の色つやもツェルニを卒業する際に見たまま、全く変わっていないようにしか見えない。
 そしてニーナは、背中が扉に押しつけられていることを認識した。
 これほどの驚きを覚えたのは、生まれて始めてかも知れない。
 だからこそ恐怖を感じる。
 始めての体験という物が恐ろしいことを、久しぶりに感じた瞬間だった。

「特殊メイクで、四十代で小太りな女性を演じていました」
「そ、そうか」
「はい。太りにくい上に歳を取らないとなると、ご近所の奥様方が発する、嫉妬のこもった視線が」
「ああ」

 いくらフェリでも、嫉妬の視線の集中砲火を浴びていたのでは居心地が悪いのだろう。
 あるいは、嫉妬だけならばよいが、何か悪意を持った行動を起こされることを心配したのかも知れない。
 だが、この予測さえも全くもって的外れだった。

「あまりにも気持ちよすぎまして」
「・・・・・・・・・・・・・」
「この世が我が物だと勘違いしたら、お菓子の供給に問題が有るかも知れませんので」

 とうとう沈黙した。
 ツェルニでのフェリはここまでではなかったと思うのだが、何処かで何かが変わってしまったとしか思えない。
 もしかしたら、ヨルテムという都市国家が全ての元凶かも知れない。
 そして、視線を彷徨わせれば、もはや息も出来ないほどに笑っている十代の少女と、とうとうカウンターの影に隠れてしまった三十代前半に見える女性と、そして、表情をどうやって作って良いか分からない四十代の男性がいた。
 そしてニーナは、全ての感情が凍り付いてしまっていた。

「ああ。それでなんだが」

 凍り付いてしまったからこそ来訪の目的を告げる決心が付いた。
 そうでなければ、幸せそうなレイフォンを戦場に連れて行くことを切り出せたか、甚だ疑問だ。
 だが、このニーナの行動さえ無意味だった。

「良いですよ」
「い、いや。話を聞いてから返事が欲しいのだが」
「僕の力が必要なのでしょう? 他の人では恐らく駄目なのでしょう? ならば、それだけで十分ですよ」

 そう言いつつ調理師用の白衣を脱ぐ。
 その下から現れたのは、瑞々しいとは言えないが、十分に強者の貫禄を兼ね備えた鍛え抜かれた肉体だった。
 そして何よりも、あの戦いの後も持ち続けている天剣が刺さった剣帯を巻いている。

「平和は自分の力で守る物だと、僕はそう思いますから」
「・・。そうか」

 自分の大切な物のために戦うその姿勢は、あの頃と全く変わっていない。
 いや。血の繋がった家族を持った今の方が遙かに強いのだろう。
 それくらいは、まだ戦っている姿を見ていない今でも判る。

「チェルシー。お母さん達を守るんだよ」
「ま、まかせてぇ」

 娘にそう声をかける姿一つとっても、年相応の風格を持っていた。
 残念なことと言えば、未だに笑い転げているために、あまり絵にはならないことだろうか。

「では、私もお供しましょう。私も今の幸せを逃したくはありませんので協力させて頂きます」
「そ、そうか」

 そう言えばと思い出す。
 レイフォンの居場所は割とすぐに探し当てることが出来たのだが、フェリはここに来るまで見つけることが出来なかった。
 それはつまり、フェリが情報を操作していたと言う事になるのではないだろうか?
 この短い時間を経験してしまったために、否定することは出来ない。
 だが、フェリの参戦はとても心強い。
 ニーナもそうだが、レイフォンも戦闘速度に達してしまったら、普通の念威繰者の捜査範囲をすぐに飛び出してしまうから。
 笑いすぎて呼吸が乱れている上に、笑いすぎでなのか、それともレイフォンが戦場に行くために心配で流した物なのか、涙を流すメイシェンに軽い口付けをするとこちらに歩いてくる。
 やはり、ニーナが知らないところで時間は流れていたようだ。
 だがこれで、レイフォンとフェリというこれ以上はないだろう援軍を得たことで、多くの人の命を守れるだろうという光明を見いだした。
 二人を伴って店を出た。
 必ずここに返すと心の中で誓いつつ。
 
 
 だが、ここからが地獄だった。
 子供が三人で、一男二女で、武芸者は末っ子のチェルシーだけだとか。
 チェルシーにサイハーデンを伝えてしまったので、駄目人間にならないか心配だとか。
 長男はレイフォンと違って頭が良いとか、長女は何故か警察官になってしまって心配だとか。
 二十年に及ぶ、ニーナの知らないレイフォンの歴史を語られてしまったのだ。
 そして思い出した。
 ウォリアスから聞いたことをだ。
 レイフォンは思いで記憶に関しては、ほぼ完全だと。
 そして考える。
 早く問題を解決してレイフォンをメイシェン達の元へと返さなければ、ニーナの安眠はないと。
 こうして、何時も以上にやる気になったニーナは恐るべき手際で全ての手配を終わらせるのであった。
 
 
 
 
 
  後書きに代えて。
 さて、ここまで読んでいるフェリファンの方はいるのでしょうか?

 それはさておき。
 原作が完結するまでは、レヴァンティン戦まで書くつもりだったのですが、流石にそこまで書き続ける気力はなさそうだと言う事に気が付きここで終わりとさせて頂きます。
 実際は、この後のことも色々と考えていたんですが世に送り出すことは適いそうもありません。

 さて、最後と言う事で少し長めに色々と書きたいと思います。

 まずレイフォン。
 書き始めた直後、三話目の辺りから歳を取らせることは決めていました。
 ただ、その度合いについては原作完結辺りまで決めていなかったのですが、最終的には一般人並に歳を取らせることとしました。
 メイシェンが若いのは良いんです。女性だし。

 フェリについて。
 最後の着ぐるみネタは、当然フェリの詩から。
 最初は完璧に着ぐるみの予定でしたが、二重に衝撃を用意する方が良かろうと思いこの展開となりました。

 リーリンについて。
 実を言うと、レイフォンに煙草を吸わせなかったのは胸に顔を埋めさせるため。
 そして、その被害者は当然のことリーリン。
 俺の話は、多くの人が不幸になることで進むようです。

 ニーナについて。
 散々酷い目に合い続けていて尚、最後の最後にも酷い目に合ってもらいました。
 ちなみに言うと、この話を書き出した頃にはあまり好きではないキャラでしたが、今はそれ程の拒絶反応は持っていません。(原作の設定で納得しているというわけではないですが)

 オリキャラのウォリアスについて。
 最初の頃はレイフォンの支援要員として登場させたのですが、何時の間にか主役を食ってしまうこともしばしば。
 これは完璧に計算違いでしたね。

 イージェについて。
 何処かの後書きでも書きましたが、早く出し過ぎたせいでツェルニに染まってしまいました。
 恐らく死ぬまでツェルニで教官をやっていることでしょう。

 ヨルテム三人衆について。
 後日談にはメイシェンしか出てきていませんが、みんな何とか無事に生き残っています。
 ナルキは、恐らく歳を取れない生き物となってしまっていることでしょうが。

 最後に、チェルシーについて。
 後日談については、チェルシーを主役にすることも考えたのですが、そうすると中途半端にお色気キャラになりそうだったので短めに切りました。


 さて。本当に最後に。
 レイフォンに歳を取らせることは早い段階から決まっていました。
 それはある映画の影響が大きいでしょう。
 それは、松本零士原作のさよなら銀河鉄道999 アンドロメダ最終着駅。
 この映画の最後でハーロックの放った台詞がこの結末を俺に書かせたと言って良いでしょう。
 良い作品ですので、是非一度ご覧下さい。

 公開から幾星霜の間お付き合い頂きまして有り難う御座いました。
 レギオスを原作とする話はもう書かないと思いますが、また何時か何処かでお会いできたら嬉しく思います。


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