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[13860] 俺と彼女の天下布武 (真剣で私に恋しなさい!+オリ主)
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/04/15 22:35
 
 今作品は「真剣で私に恋しなさい!」の二次創作です。(旧題 第六天…魔王…?)

 内容としては非常に試験的な性格・設定のオリ主が学園内外にてドタバタするお話になります。
 コンセプトは「計算された勘違い」。こういう系統の作品が作者の好みなのですが、どうにもあまり見掛けないので自分で書いてみよう、という無謀な試みの産物です。生温かい目で見守って頂ければ。

※細かい設定、時系列等の齟齬が引っ掛かる方は気になって読み進めない可能性があります。
 尚、設定の独自解釈や登場人物の微妙な性格改変、ご都合主義的展開なども予測されます。ご注意下さい。

 描写・展開が果てしなく厨二心に満ちているのは仕様です(特に一話)。上記と併せてご注意下さい。

 ここまでの諸注意に目を通した上で、それでも読んで下さるという心の広大な方は、本文へどうぞ。お楽しみ頂ければ幸いです。



[13860] オープニング
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/04/17 01:05
「ねートーマー。今日、ウチのクラスに転入生が来るってほんとー?」

「ええ、始業式の後に先生方がそのような内容の立ち話をされていたのを耳に挟みました。男女各一人ずつ、だそうですよ」

「おおー、ふたり。絶賛売出し中の漫才コンビとかだったらいいな。えへへ、楽しみだー」

「おいおい、あんま変な期待するなよ。HRに訪れる現実との落差にガッカリすんのがオチだ。現実はマシュマロみたいに甘くないからな」

「うるさいぞハゲー、上手いこと言ったつもりかー」

 四月七日、新年度における最初の始業式を終えた直後の川神学園2-Sクラスの教室にて、そのような会話が交わされていた。

 担任の教師がまだ姿を見せていないため、教室内は生徒たちによる遠慮のないお喋りで賑わっている。

 葵冬馬、榊原小雪、井上準による三人組もまた、その喧噪を生み出す一端を担っていた。

「けどよ、若。S組の枠はもう埋まってるんじゃなかったか?まさか二人も脱落者が出たって訳じゃねえだろうし」

 疑問の言葉を呈したのは、神々しいまでのスキンヘッドが特徴的な井上準である。
 
 川神学園の一学年は十のクラスに分かれており、S組はその中でも特殊な位置付けにあるクラスだ。

 学内において特に成績が優秀な生徒のみで構成された特別進学クラス。

 いわゆるエリート集団であり、その編入可能人数には定員が設けられているのだ。
 
「そのまさか、ですよ。近頃成績が伸び悩んでいた林田君と前田君……姿が見えないでしょう?」

 眼鏡の似合う整った顔立ちが理知的な雰囲気を醸し出す少年、葵冬馬の言葉に、準は教室を見渡す。

「ん……言われてみればそうだな。席が二つ空いてる。気付かなかったぜ」

「影が薄くて忘れられちゃったんだね、かわいそー。あははっ」

「こらこら、さらっと毒を吐くんじゃありません。で、若。あいつら、“S落ち”なのか?」

「ええ。あくまで自発的なもの、ですが。新学年になるのを切っ掛けに他の組へと移るそうですよ。確かに、彼らの成績を考慮すれば、賢明な判断と言えるかもしれませんね」

 学年総合順位が五十位以下にまで落ち込んだ生徒は、S組の在籍資格を失う。それが俗に言うS落ちである。

 今回の場合、林田と前田は学校側から資格を剥奪された訳ではないが、五十位スレスレの成績ではそれも時間の問題であると観念したのだろう。

 他者の命令で落とされるくらいなら自ら落ちる方を選ぶ。総じてプライドの高いS組生徒らしい選択だった。

「よーするにドロップアウト、人生の負け組、いぇーい♪」

「うーむ、今日はやけにキツいねえ。何か嫌なことでもあったのか?おにーさんに話してみなさいよ」

「やー。僕、べつにイライラなんてしてないもーん。えいえい、ぺしぺし」

「人の頭で遊ぶんじゃありません!」

 日常的にエキセントリック極まりない発言と自由過ぎる行動が目立つ少女は榊原小雪。
 
 見事なまでに肌色な頭部を彼女にはたかれている準に、そんな彼らを微笑ましげな目で見守る冬馬。
 
 葵冬馬、井上準、榊原小雪の三名は、自他ともに認める仲良しグループであった。

「転入生ねぇ……ま、俺としちゃあこれ以上濃い面子が揃わないことを祈るだけだな」

「ふふ、男子であれ女子であれ、好みのタイプだと嬉しいですね。両方だと一番なのですが」

「トーマの悪いクセが出た。僕とジュンはどうなのさー」

「二人は特別ですよ。家族、ですから」

「そうだよねー、えへへ、誰が転入してきても、トーマの家族は僕とジュンだけだもんね」

 柔らかい笑みを浮かべる冬馬に、小雪は無邪気に笑い返す。

 幼い頃から続いてきた、彼らの揺るがない関係は、ある意味では既に完成していると言ってもいい。閉ざされて、完結している。

 例え他人が、世界がどのように劇的な変化を遂げようとも、自分たちの関係が変わることだけは有り得ないと、彼らは無言の内に確信していた。


「おーい、静かにしろお前ら―。転入生を紹介するからさっさと席に座れ」

 ようやく姿を見せた中年の担任教師、宇佐美巨人のやる気の欠けた号令が教室に響く。
 
 問題児、奇人変人が多いと評判の2-Sだが、やはり基本的にはエリート集団である。規律を無視してまで雑談を優先する人間はクラスでも少数派だ。

 そういう訳で、全員が指定の席に落ち着くまでに必要とした時間は驚くほどに少なかった。この辺りは特進クラスの面目躍如と言ったところだろう。

「えー、耳の早い奴はもう知ってるかもしれんが、今回の転入生は二人だ。無理だとは思う、が……頼むから仲良くしてくれよ、お前ら」

 普段以上に精彩の欠けた担任の言葉に、S組の生徒達は一様に首を傾げた。
 
 よく見てみれば、精彩が無いのは言葉だけではない。今しがた幽霊に遭遇でもしたかのように、巨人の顔色は悪かった。

「一体何があったのじゃ、ヒゲ。新学年早々から辛気臭い面を見せおって。高貴なる此方に丁寧かつ迅速に説明するのじゃ」

 2-S総員を代表して、不死川心が無駄に居丈高な疑問の声を上げる。
 
 自身を見つめる生徒達の視線に対し、巨人はがりがりと頭を掻きながら、いかにも気だるそうな調子で答えた。

「あー。残念ながらオジサンは説明する気力が残ってないんでねぇ。という訳で、ここからは生徒同士で好きなだけ交流を深めればいいと思うぞー。それがいい、それに決まったと。んじゃ、転入生の二人、入れー」

 巨人が張り上げた声に呼応し、2-S教室の扉が廊下側から静かに開かれる。
 
 不可解な担任の態度も相まって、生徒達が抱く謎の転入生への関心はいつになく大きく膨れ上がっていた。

 好奇心に満ちた視線が集まる中、“彼ら”は教室へと足を踏み入れる。

 
 ――その瞬間。誰に命令された訳でもなく、教室内のざわめきは消え失せていた。

 
 無言。無音。誰一人として、言葉を発する者はいない。それどころか、呼吸すら止めている生徒が大部分だった。

 彼らを襲ったのは、自身を覆う空気が凍結したかのような、痛いほどに冷たい感覚。

 平和極まりない学校の教室に存在する事自体が不自然な、あまりにも場違いな空気。

 音を立てるな。声を上げるな。呼吸を止めろ。鼓動を止めろ。全力を以て身を隠せ。気取られた時が、最期。

 本能が身体に囁き掛けて、その動きを無理やりに縛り付ける。生き残ろうと、必死に足掻く。

 
 それが俗に“殺気”と呼ばれるものに因る現象だと気付いた者は、クラスで数人のみであった。否、数人“も”居た、と表現する方が適切か。

「ほう」

 九鬼英雄はかつて遭遇した幾多の刺客からは未だ受けた事のない程に鋭利な殺気に、しかし臆する事無く感心と関心を覚え。

「ちッ!」

 忍足あずみは忠誠を以て仕えるべき主の心身を外敵より確実に守護すべく、衣装に仕込んだ必殺の得物の数々へと密かに手を伸ばし。

「ひっ……!?」

 不死川心はその人生において初めて浴びる“本物”の殺気に中てられ、なまじその意味を理解しているが為に身も心も慄きを隠せず。

「……やれやれ」
 
 井上準は平穏無事な日常においては不要なものとして押し隠している、純粋な強者としての一面を表情に覗かせ。

「あははっ」

 榊原小雪はその異質な空気を鮮明に知覚していながらも、その精神の歪さ故にただ笑みを浮かべる。

 
 そして、葵冬馬。

 
 葵冬馬は――――ほんの少しだけ口元を歪めて、笑った。
 

 
 反応は様々ながら、その視線と関心の向かう先は一つ。沈黙の充ちた教室を悠々と闊歩し、教壇に立った転入生の姿だ。
 
 男が一人に女が一人。

 いや、少年が一人に少女が一人、そこに立っている。
 
 その外見的特徴に、さほど特筆すべき所はない。少なくとも和服を着ている訳でも帯刀している訳でもなく、見た限りにおいては至極一般的な制服を着用していた。

 双方とも日本人には一般的な黒髪を、校則に触れる事は有り得ないであろう一般的な髪型に整えている。三百六十度、どの視点から見ても目立つような要素はまるで含んでいない。
 
 ただ、幾ら容姿が普通であれ、身に纏う雰囲気が普通でなければ意味はないのだ。
 
 その観点で言えば、少女はともあれ、少年は果てしなく異常だった。
 
 “その道”を知らぬ者は彼を化物と恐れ、知る者もまた化物と畏れるだろう。
 
 ただ眼前に立たれただけ。ただその瞳に見据えられただけで、身体が石と化すなど、もはや魔物の所業でしかない。


「……初めまして、皆様。この度、ここ川神学園に転入する事となりました、森谷 蘭(もりや らん)と申します。どうかよろしくお願い致します」

 
 凍り付いた沈黙に斬り込むかの如く、まず口火を切ったのは少女だった。

 転入生らしく緊張した様子で早口に言い終えると、礼儀正しく深々と頭を下げる。

 教室に足を踏み入れた時から、常にもう一人の転入生である少年の三歩ほど後ろに陣取っているのが妙と言えば妙だが、その点を除けば至って普通の挨拶と言ってもいいだろう。

「…………………」

 だがしかし、返ってきたのは、シーン、と擬音を付けたくなるほどに完全な沈黙。

 本来ならば歓迎の意を示すために形だけでも打ち鳴らされる筈の拍手も、今回は不発だ。

「あー……えー……」

 いかにも気まずそうな表情を貼り付けながら、少女はお辞儀から顔を上げた。

 勿論、言うまでもなく2-Sの生徒達が礼儀知らずだという訳ではない。この場合、全ての原因は転入生の片割れたる少年が放つ、逃れ様の無いプレッシャーであった。

「あーもう、仕方ねぇな……。おーいお前ら、拍手拍手!そんな風に無視されたら転入生が困っちまうだろうが」

 流石に見かねたのか、いかにも面倒そうな調子で巨人が口を開くと、気付いたようにクラス中からやや事務的な拍手が鳴り響いた。

 今さらと言えば今さらなのだが、それでも何事もなかったかのようにスルーされるよりは何倍も良い。

 蘭と名乗った転入生は、あからさまに安堵したように息を吐いて、小さく笑顔を浮かべた。

「んで、お前さん。これから同じクラスになる連中なんだ、もう少しくらい友好的に接してもいいとオジサンは思うんだけどねぇ」

 溜息交じりの忠告が向かう先は、問題の少年。

 彼は黙したまま、氷の如く冷め切った目で一連の遣り取りを観察していたが、巨人の言葉に初めて口を開いた。

「友好的に?俺は見ず知らずの連中の前では笑えない。そういうお目出度い性格はしていない。それだけの事だが」

 一言一言が重苦しく空気を震わす低い声音は、絶えず相手を恫喝しているような響きを伴っている。子供が聞けば一言目で泣き出すだろう。

 いい年をした中年教師たる巨人はさすがに泣き出す事はなく、額に汗を掻きながらも果敢に言葉を返す。

「オイオイ、何も笑えなんて言ってねぇって。ただ、そう刺々しい攻撃的なオーラを出さなくてもいいだろって話だ。心臓に悪いんだからやめてくれよ、ホントに……」

「刺々しい?攻撃的?……成程。然様か」

 何事か得心がいったのか、少年は軽く頷いた。

 途端、彼の全身から発せられていた殺気と威圧感が見る間に薄れていく。

 彼の登場以降、身が凍るような謎の寒気に襲われ続けていた2-Sの大半の生徒は、ここにきてようやく安堵の溜息を吐くことができた。

 そして彼らは、その立役者たる冴えない担任教師に心中にて感謝の念を贈る。

 生徒達の中ではもはや底辺に近かった宇佐美巨人の評価が一気に上昇した瞬間である。

「ふん。挨拶一つに、こうも加減が必要とはな。自然態で過ごす事も許されんか。何とも面倒な話だ」

「恐れながら主、あなた様の威に抗するなど、並みの者には絶対に為し得ぬ事。特に川神学園のレベルが低いという訳ではないと愚考する次第であります」

「そんな事は分かっている。あの川神鉄心が代表を務めている学園。自明の理よ」

「ははっ!出過ぎた事を申しました、申し訳ございません」

「良い。許す」

「はっ、寛大なる御心に感謝いたします、主」

「うむ。感謝するといい」

 ははー、と平伏しそうな勢いで頭を下げる蘭に、少年は鷹揚に頷く。

―――――また濃い連中が入ってきやがった。
 
 壇上で繰り広げられている、聴いているだけで頭の痛くなりそうな遣り取りを前に、準は呻くように呟いた。
 
 この世に変人認定試験なるものが存在するなら、あの二人は間違いなく余裕でパスするだろう。

 2-Sの総意かどうかはともかく、常識人を自任する彼の感想としてはそれが全てである。もっとも彼自身、周囲からは「濃い変人連中」の立派な構成メンバーとして認識されているという現実があるのだが、それはこの際置いておこう。

「ふむ。あの二人、我とあずみのごとく主従か。面白い!」

「……そうですね、英雄さま」

 余裕の態度で転入生に興味を向ける九鬼英雄と、先程の殺気に中てられたのか、狂犬にも似た眼のギラつきを隠し切れていない忍足あずみ。

 金ぴかスーツとメイド服を制服とし、時代錯誤にも人力車で毎朝登校するこの主従は、2-Sどころか川神学園そのものにおける「濃い連中」の筆頭である。

「あはは、またヘンな人たちが増えるよー。やったねトーマ!」

 天真爛漫、自由奔放に笑い掛ける小雪。

「声が大きいですよ、ユキ。しかし、なるほど、あの二人が……。ふふ、竜兵が言っていたこと、嘘ではなさそうですね」

 壇上の二人を見遣りつつ、涼しげな瞳の奥底に暗い炎をちらつかせる冬馬。
 
 場を支配していた殺気が抑えられた事で、生徒達のざわめきが再び活性化していく。

「おい転入生、つまらん茶番をしておる暇があったらさっさと自己紹介を済ませるのじゃ!HRが終わってしまうではないか。此方が典雅に過ごすための自由時間を無為に使うなどと、そんなことは許せぬわ!」

「いやー不死川。お前、意外と勇気あるね。オジサンびっくりだぜ。あとHRは自由時間じゃないからな、一応言っとくが」

 そんな中、普段通りの調子で壇上に野次を飛ばす心に、2-S一同は尊敬と呆れの入り混じった視線を向けた。

 つい先程までは撒き散らされる殺気に怯えて半泣きになっていた事を思えば、その立ち直りの速さと向こう見ずさは特筆すべき事項と言えるだろう。

「……」

「ひっ」

 少年がそんな心を感情の読めない目で一瞥すると、目が合った途端にびくりと肩を震わせて素早く目を逸らすのはご愛敬。

「ふん」

 すぐに興味を失ったのか、少年は心から無造作に視線を外し、S組の顔触れを威圧するように見渡してから、静かに口を開いた。


「――俺の名は、織田信長」


 名乗りを上げてから、彼は口元に笑みを浮かべる。三日月の如く歪んだ、凄惨な笑顔。

「故あって、本日よりこの学園に籍を置く事になった」

 一度は収めていた筈の殺気と威圧感が再び解放されていた。いや、最初よりもその質量を増している。

 もはやそれらは物理的な圧力を伴って教室を押し潰そうとしていた。窓ガラスがミシミシと軋んでいるように見えるのは決して気のせいではあるまい。

「どうした、ここは笑い処だと思うが?織田信長……、笑えるだろうが、くくく。我慢などせず、存分に笑い転げるといい」

「………………」

 教室は完膚無きまでに静まり返った。

 笑ってはいけない。もしここで笑ったらケツバット、どころか間違いなく殺される。人生がアウトだ。

 エリートクラスの2-S、その程度の未来予測が出来ない程に愚かな人間はいなかった。

 結果、彼らの誰一人として少年の名前には触れることなく、沈黙を選んだのであった。

 その光景をどこか不可解そうな表情で見渡して、少年―――信長は首を傾げた。

「何時もの事ではあるが……ここで笑いの一つも起きないとは、何ともはや摩訶不思議よ」

 若干拗ねているように見えなくもない彼の反応から鑑みるに、もしかしてもしかすると、笑って欲しかったのかもしれない。

 が、流石に死亡のリスクを冒してまで場を和ませようとする猛者はこの場にはいなかった。

「主。私めが愚考するに、皆様は主の威に打たれているものかと存じます。故に彼らには信長様の名を指して笑うなどと畏れ多い行いは到底出来ぬのでございましょう。どうかお察し下さいませ」
 
 蘭は恭しく片膝を床につけて馬鹿丁寧に告げる。2-S一同が揃って微妙な顔を作った。
 
 言っている内容自体は殆ど間違っていないのだが、何かが違う。致命的に違う。決定的にズレている。だがしかし、残念ながらそれを指摘する人間は不在であった。

「ふん、まあ良い。笑わぬなら、殺してしまえホトトギス、だ」

「いや短気過ぎるだろ!2-S皆殺しかよ!」

「間を外した。仕切り直す。……俺の名は、織田信長」

 湧き上がるツッコミ魂を抑えきれずに立ち上がった準を完膚なきまでに無視して、信長が淡々と繰り返した。

「私の名は森谷蘭。本日より2-Sの名に恥じぬよう、励ませて頂きます」

 そんな彼の三歩後ろに静かに佇んで、蘭は先程とは違う、凛とした口調で名乗りを上げる。

「自己紹介、との事だが」
 
 そして信長は、相も変わらず何を考えているのか分からない無表情で、無感動に告げた。


「俺は、眼前の障害物を排するに欠片の躊躇も無い。言っておくべき事があるとすれば、それだけだ」


 
 
 春風に桜の舞い散る四月の初め。
 
 川神学園第二学年特別進学クラス、奇人変人エリート集団2-Sは、飛び切りの奇人変人二名を転入生として迎え入れる事になる。
 
 少年が一人に少女が一人、主従が一組。織田信長と森谷蘭。
 
 彼らの転入が2-S、引いては川神学園に何をもたらすのか、現時点にてそれを知る者はいない。


「織田さんに森谷さん……、双方共にとても魅力的だ。どちらから先に口説くべきか、ふふ、これは嬉しい悲鳴ですね」

「フハハハハ、まずは委員長としてお前たちを歓迎しよう。そして我が名は九鬼英雄!我が新たな領民共よ、その輝かしき栄光の名を胸に刻むがいい!」

「織田信長に、森谷蘭……か。危険だな。英雄さまに危害が及ぶ前に始末しておくべきか……?」

「良いか、高貴な此方と同じクラスにいる以上、無様な振る舞いは許さぬ!お前達が下賤な山猿共とは違う事を期待しておくのじゃ。……ひっ、に、睨むでない」

「わー、信長だ信長だー。でも教科書に載ってる肖像画とあんまり似てない、不思議なんだー」

「待て待て待てユキそれはマズイ!あーどうもスイマセンうちの娘がご迷惑をっ!」

「おいおいお前ら、そういう交流はHRの後でな。ったく、さっきはあんなに大人しかったってのに……ままならないね、ホント」

「ふん。俺が、先刻同様に黙らせてやってもいい」

「お前のやり方はいちいち心臓に悪いからやめてくれ。オジサンはもう歳なんだよ、ちったぁ労わってくれよな」

 
 
 ただでさえ特進組らしからぬ騒がしさで満ちている教室が、益々騒がしくなるだろう。
 
 少なくともそれだけは、担任を含む2-Sクラスの全員が疑いなく予測するところであった。

 
 二〇〇九年、神奈川県川神市にて。私立川神学園の、新たな春が始まる。







 取り敢えず導入部分は終了です。うん、改めてこの部分だけ読むと実にシュールだ。色々と。
 
 この作品の主な方向性が示されてくるのはおそらくきっと次話以降になると思われますので、出来ればそこまでお付き合い頂ければ幸いです。



[13860] 一日目の邂逅
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2012/05/06 02:33
 
 さて。不幸自慢なんて非生産的な真似をするつもりは毛頭ないが、実際のところ俺の生い立ちはかなり悲惨で、十人に話せば十人が同情し、百人に話せば百人が憐憫の情を抱いてくれる……と思う。

 いまいち自信が持てない理由としては、今のところ誰にも語った経験がないからである。墓場まで持っていかなければならない類の物騒な内容が多々含まれている以上、そう易々と打ち明けられたものではない。

 まあ、何にしても面白い話ではないが、しかし必要な話ではある。少しだけ、退屈な自分語りに付き合って頂こう。


――――現在から遡ることおよそ十七年、人口全国第九位を誇る政令指定都市、川神市にて俺は産声を上げた。

 より細かく区分すれば、川神駅の裏側に広がる、全国でも有数の歓楽街であるところの堀之外が俺の出身地だ。

 ちなみに俺の主観で補足を入れるなら、全国でも有数の無法地帯。特にメインストリートの親不孝通りの治安の悪さは平和な日本国内だとは思えないほどのものである。

 そんな訳で、どうにも出身地からして碌でもなかった俺だが、家庭の方も負けてはいない。

 まず、物心が着いた頃には既に父親が見当たらなかった。聞いたところによれば、俺が生まれてすぐに蒸発したらしい。母親がアルコール臭い息を吹き掛けながら、毎晩の如く愚痴っていた姿を何となく覚えている。

 俺達が寝起きしていた安アパートには写真の一枚すらも残っていなかったので、結局俺は父親の顔を知らないまま育った事になるか。まあ、仮に父親なんてものが居たところで俺の人生が変わる事などなかっただろうから、気にしても仕方のないことだ。

 それにしても、思い返せば思い返すほど、本当に碌でもない家庭だった。
 
 主な収入源が水商売だった母親も、スリと万引きで小遣いを稼いでいた俺も。親子揃って碌でなしの極みだ。
 
 だからと言って親子仲が良かったかと言うとそうではなく、むしろ最悪の部類だったと言えるだろう。
 
 母親は俺を蛇蝎のごとく忌み嫌っていたし、また恐れていた。いい歳をした大人が幼児を怖がるなどと、傍目には滑稽にしか思えないかもしれないが、俺は母親を嘲笑う気にはなれない。

 そんな風に扱われても仕方がないと思う要因が、間違いなく俺にはあったのだ。
 

 人間には様々な特徴があり、才能がある。
 
 運動の才能一つ取ってみたところで、その方向性は様々なスポーツ、武道に枝分かれしていく。

 野球の天才サッカーの天才テニスの天才マラソンの天才、剣道の天才柔道の天才弓道の天才。学問に至っては、果たしてどれほどの分野が存在するのか想像も出来ない。この世界は呆れるほどに色彩豊かな才能で満ち溢れている。
 

 ならば、生まれながらにして見る者を怯え竦ませる様な―――“威圧の天才”が生まれたとして、何の不思議があるだろうか。
 

 つまりはそういうこと。厳密に言えばその表現は正しくないのだが、細かい事は置いておこう。
 
 理屈で説明するのは難しいが、とにかく俺は、周囲を恐れさせるオーラを生まれ持った、傍目には物騒極まりない天才くんだった訳で。
 
 実際的には何の力も持たない幼少時代、虐待の憂き目に遇うのは必定だったのである。

 あの頃はよく悪魔だの化物だの、罵声と一緒に酒瓶を投げ付けられたものだ。

 クスリとアルコールにどっぷり漬かった母親による児童虐待に耐える毎日。

 いくら泣き叫んでみた所で隣人は助けてはくれないし、憎しみを込めて睨みつけても、飛んでくる酒瓶の数が増えるだけの話。

 そんな生活が続いている内に、俺の表情筋は役割を放棄するようになっていた訳だ。

 そうして幼年期の終わり頃に完成したのが、完全無欠な無表情である。

 鏡に向かって無理矢理笑顔を作ってみれば、返ってくるのは酷薄に歪んだ表情。初めて見た時、色々な意味で泣きたくなったのを覚えている。

 俺が元々持ち合わせていた才能と相まって、外見から発せられる威圧感はもはや計り知れないレベルに達していた。


 本業のヤーさんをビビらせる小学一年生の、これが誕生秘話である。


 まあ、それが俺のルーツだ。俺という人間を構成する、最も基本的なパーツ。

 それを絶対的な基盤に据えて、現在に至るまでの人生を構築してきた。

 折角、“才能”を生まれ持ったのだから、最大限に利用して生きてやろう。そんな決意に沿った生き方を常に選択してきた。

 そこに相応の苦労と苦悩があった事は間違いないが、だからと言って後悔はしていない。

 幾多の修羅場を潜る中で己の才能を研磨し、最大の武器として振るい続けること十数年。

 俺が発する威圧感は年を経るごとに増していき、意識的に抑えなければ日常生活すら困難なまでに進化している。

 更に、どのように振る舞えば相手を怯え竦ませる事が出来るのか。どのように立ち回れば己の立場を優位へと導けるのか。そういった副次的な学習もまた、ほぼ完了していた。

 ある意味において自らのスタイルを確立したと言ってもいい俺は、更なる進歩を求め、様々な思惑を胸に行動を開始する。



―――二〇〇九年四月七日。


 
 こうして俺こと織田信長は、己の三歩後ろに一人の従者を引き連れて、川神学園への転入を果たしたのであった。






「自己紹介とは罰ゲームと見つけたり」

 
 ホームルーム中、巨人のオッサン―――もとい宇佐美先生より指定された窓際の席にて、俺はブルーな気分に浸っていた。

 思い出すのはつい先ほどの自己紹介である。アレばかりは何度経験しても慣れるという事がない。表情は動かなくとも、羞恥心までが麻痺している訳ではないのだ。

 全く。碌でもない親を持つと、本当に子供は苦労させられる。主にDQNネーム的な意味で。

「心中お察し申し上げます、主」

 やるせない思考に沈んでいた俺に、背後から気遣わしげな声が掛かった。

 子供の頃に知り合って以来、ヒヨコの如くずっと俺の後ろに尾いてきた声音だ。わざわざ振り返って確認するまでもない。

 俺の真後ろの席を陣取る少女は、森谷蘭。おかっぱ頭が妙に似合う十七歳で、色々とややこしい事情があって幼い頃より俺の従者を名乗っていたりする。

 趣味は武道全般と主(俺)の護衛と言う時代錯誤な武士娘で、性格は至って生真面目。何かにつけて暴走する癖あり。

 なにぶん付き合いが長いので、こいつの事は殆ど知り尽くしていると言ってもいいのだが、こいつを表現するのにそこまで詳しい紹介は不要だろう。

 一言で言ってしまえば、変人である。

「しかし!主は、決してかの英雄の名に見劣りなどしないと私めは―――」

「おーい、そこの転入生ズ、HR中の私語は慎めよー」

「も、申し訳ございません!」

 机から身を乗り出して何事か熱く語ろうとしていた蘭は、担任教師の注意ですごすごと座席に縮こまった。

 その様子を見届けた後、何故か俺に視線を向けながら、担任教師は溜息を吐く。

「……しかし、なんでお前らが入ってくるかね、よりによって俺のクラスにさ。特進組の担任なんてただでさえプレッシャー掛かってしんどい仕事だってのに、お前らみたいな問題児まで抱える羽目になって……ツイてないぜ、ホント」

 教壇の上で疲れたように眉間を揉みほぐしながら、宇佐美巨人はぼやいた。
 
 相変わらず覇気の見受けられない態度だ。教師を請け負ったからと言って、教職者に相応しい姿を目指すつもりは特にないらしい。

 どこで会おうとこのオッサンは本当に変わらないな、と俺は半ば感心していた。例によって表情に出る事はないのだが。

「預かり知らん事だ。日頃の行いが祟ったのだろうよ」

「それをお前に言われたらおしまいだぜ、織田。俺の事務所辺りの地域でお前らがどう噂されてるか教えてやりてぇよ」

「う……。宇佐美さんには度々ご迷惑をお掛けして申し訳ございません……」

「あー……、蘭ちゃんは気にしなくていいって。あと宇佐美先生、な。ここ学校だから」

 俺と蘭との扱いの差にあからさまな贔屓が見て取れる。教育現場の歪みを垣間見た気分だ。

「教職者たる人間が女尊男卑とは感心しない。男女は平等であるべきだろう」

「うっせ、俺はフェミニストなんだよ。ま、老若男女関係なく容赦無しのお前には分からんだろーがな」

 失礼な言い分だった。俺だって老人には遠慮するし、基本的に女性に手を上げたりはしない。

 いつだったか、道路の中央でトラックに轢かれかけていた老婆を無償で助けた事もあるくらいだ。助けたと思ったら殺気に中てられて心臓発作を起こしかけていた気もするが、まあ俺の責任ではなかろう。俺は文字通り手も足も出していないのだから。
 
 兎に角、巨人の言葉は真実を指しているとは言い難いのだが、俺としてはそれを指摘するつもりはない。

 むしろ、その逆。

「ふん。確かに理解は出来んな。己以外の人間の価値など、等しく皆無だ」

「はあ……ったく、これだからな。分かっちゃいたがお前の指導には手を焼きそうだぜ。頼むから校内では騒ぎを起こさないでくれよ、責任問われるのは俺なんだからな」

「それこそ、預かり知らん事だ」

 俺はそういった誤解を、助長する。誤解の種を蒔きっぱなしになどせず、積極的に水を与えて成長させる。
 
 老若男女関係なく、容赦無し。素晴らしいではないか。そんな噂が広まってくれれば大いに結構だ。

 俺の危険性がより強く認識されればされるほど、比例して降りかかる火の粉は減る。

 事実として、これまで俺はそうやって自らの障害を排除してきたし、幸いと言うべきか、俺にはそれを成し得るに適した“才能”があった。

 出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない。

 中途半端な危険は駆逐されるが、ある境界を踏み越え、逸脱した危険は忌避の対象と化すことだろう。俺がこれまでの居場所で悉くそう扱われてきたのと同様に。

 この川神学園において俺が目指すべき当面の立ち位置はそこだ。対外的な俺のキャラ作りもまた、その目標への一手である。

「おや。宇佐美先生、あなたはもしかして転入生のお二人と面識があるのですか?」

 これまで俺達の会話に耳を澄ませていた2-Sの生徒の、その一人が疑問の声を上げた。

 浅黒い肌に甘いマスク。線の細い、いかにも女受けしそうな容貌の男子生徒である。

 先刻の自己紹介において、俺の威圧にもほとんど動じていなかったのは記憶に新しい。要注意人物に認定しておこう。

「俺が街で代行業やってるのは知ってるだろ。この二人には偶に仕事の手伝いを依頼する事があるからな、そういう繋がりだよ」

「なるほど、そういうことですか」

 男子生徒は納得したように頷いてみせると、次いでこちらに視線を向けてきた。何やら意味深な目付きである。

 良く分からないが、取り敢えずいつもの習慣で殺気を込めて睨み返しておく。何故か微笑みを返された。意味不明であった。

「えー、S組は基本ほとんど面子が変わらねぇからいまいち実感が無いかもしれんが、お前らは今日から二年生だ。高校生活三年間の中間地点っつーことで色々と弛みがちな時期だが、サボらず無理せず適当にやるように。んじゃ、今日のHRはこれで終了。気を付けて帰れよお前ら」

 締めの言葉を終え、巨人が教室から立ち去ると、途端に2-S教室には賑やかな声が飛び交い始めた。

 俺と蘭が前にいた学校ではHR中だろうと授業中だろうとお構いなしに私語が飛び交っていたので、こういうキッチリした空気の切り替えは新鮮だ。

 さすがは特進組だけあって、見事に優等生の集団である。そういえば、今日から俺もその一員に加わるのか。……どう考えても場違いだな。
 
 当分の間は過ごす事になるであろうクラスの様子を眺めながら、ぼんやりと思索に耽る。
 
 HRが終わっても俺に話しかけてくる生徒はいない。

 転入生というものは大抵囲まれて質問攻めにされるのがセオリーというものだが、流石に現在進行形で周囲を威圧している俺に声を掛けてくる人間は皆無だった。

 好奇心自体は刺激されるのか、遠巻きにチラチラとこちらを窺っている連中はそれなりにいる様子なのだが、やはり接触を試みるまではいかない。先程からこちらを盗み見て、視線が合った途端に慌てて逸らす和服の少女とか。

 ……なぜ和服なのか、というツッコミは無意味な気がするのでやめておこう。もう帰ったようだが、この2-Sには金ぴかスーツとメイド服を着た男女という、もはや理解を超越した生徒もいる訳だし。恐らくは気にしたら負けなのだろう。

 それはともかくとして。

 俺に対する生徒達の反応は、それでいい。むしろ、そうでなくてはいけない。

 確固たる地位を保つために、「織田信長」は何時でも最凶の存在であるべきなのだ。

 下手に気安く声を掛けられて、舐められては困る。


「……ん?」

「やー」

 
 困るのだが、気付いた時には少女が一人、俺の机の前に立っていた。均整のとれた理想のプロポーションを所有する、文句無しの美少女である。
 
 どこかで見た顔だな、と記憶を遡って、例の自己紹介の際に場違いな笑顔を浮かべていた少女を思い出す。眼前でふらふらしている少女の顔と照合。合致。

 そう言えば自己紹介の後、勇敢にも俺の名前をネタにしていた少女が居たような気もする。小首を傾げてこちらを観察している少女の顔と照合。合致。
 
 まあどうせ間違いなく変人なんだろうな、と半ば確信しつつ、取り敢えず殺気を込めて睨みつけておく。
 
 何故か無邪気な笑顔を返された。
 
 本当に何故だ。幾ら紛い物だとは言え、これほどまでに濃密な殺意、まさか気付いていない訳でもないだろうに。

「ボクはね~、榊原小雪って言うのさー。ノブナガはましゅまろ好き?」

 何処からともなくマシュマロの詰まった袋を取り出す謎の少女、小雪。第一印象は不思議ちゃんで決定。

「嫌いではない、な。そして――その呼び名は控えろ。せめて名字の方で呼べ」

「え~。どうして?ボクはノブナガって呼びたいのにー」

「……ふん、まあ良かろう。所詮は些末事よ。勝手にするがいい」

 実際のところ、フルネームで呼ばれさえしなければ大した精神的ダメージはないので、さほど拘るところではなかった。
 
 それに、俺の勘気に触れる事を恐れず、堂々と名前で呼ぶ事ができる人間は非常に数少ない。

 そういう希少な連中くらいには名前で呼ぶ程度の権利は与えてやってもいいだろう。

「うわ~い。お礼にマシュマロをあげようー」

「うむ。苦しゅうない」

 それにしても、俺に対して初対面でここまで馴れ馴れしい態度を取ってきた奴はそうはいないだろうな、と口にマシュマロを放り込みながら思考する。

 常人の神経ならば視界に入る事すらも憚られる、と専らの評判であるところの織田信長なのだが。

 ましてや初対面である。この榊原小雪という少女、些か頭のネジが飛んでいるのだろうか。そう考えれば数々の奇行にも納得がいくのだが、さて。

「おいしい?」

「なかなか。洋もまた、悪くない」

「えっへへん、だったら特別にもう一つ進呈しちゃおうかなぁ。ノブナガ、あーん」
 
 天真爛漫な笑顔で何という無茶振りを。俺のキャラ作り的な意味で論外なのは言うまでもなく、まず素の俺でも難易度が高いぞそれは。
 
 当然の如く、選択肢は拒否以外にあり得ない。

 そう瞬時に判断して、その判断を具体的な形で実行に移そうとした時、俺と小雪の間に凄まじい勢いで何者かが割り込んだ。

「わー、なになにー?」

「ふふ不埒なっ!曲者めっ!不埒な曲者めッ!!ハァハァ、この私がいる限り主に、ハァ、ハァ、て、手は出させませんよ!」

「蘭。何れかと言えばお前が曲者に見えるが」

 果たしてどこからダッシュしてきたのかは判らないが、取り敢えず喋る前に息を整えて欲しい。どことなく身の危険を感じる。

「ノブナガー。この子ハァハァ言ってるよ、ヘンタイさんかなー?」

 どうやら小雪の感想も同じらしかった。好き勝手言われている間に息を整えて、蘭が興奮気味に口を開く。

「私が厠へ赴いている隙を狙うとは何とも卑怯千万!あ、あ、主にあーんする権利があるのは私だけです!」

「然様な権利を与えた記憶はない」

「……ハッ!私は何を口走って」

 暴走状態に陥っていた蘭は、俺の言葉でようやく我に返ったらしい。赤くしたり青くしたり、顔色を面白い程に忙しなく変色させる。

 俺にとってはもはや見慣れた光景だが、初めて見るであろう小雪は「おー」と感嘆の声を上げていた。

「信長様、蘭は武者修行の旅に出ます!探さないでくださいっ!」

 次いで脱兎の如き勢いで教室から飛び出していくのも、予測済み。
 
 2-S生徒の大半は呆気に取られた様子で、そんな蘭の姿を目で追いかけていた。
 
 やれやれ、転入初日にして変人認定を受ける羽目になるとは……哀れな奴だ。

 もっともあいつの清々しいまでの変人っぷりは、過去に知り合った連中の誰もが認めるところなので、遅かれ早かれ同じ結果にはなっていたのだろうが。

 経験上、しばらくすれば勝手に帰ってくるので、放っておくとしよう。いちいち構っていたらキリが無い。

「あははー。やっぱりヘンな人だ」

「否定はしない。お前にそれを言う資格があるかは甚だ疑問だが」

 榊原小雪、こいつも相当な変人だ。或いは蘭の言う通り―――曲者なのかもしれない。
 
 俺が放つ殺気を欠片の動揺も見せずに受け止める。その事実が指し示す意味は、そうそう軽いものではない。
 
 念のため脳内の要注意人物リストに加えておくとしよう。常に用心を怠るべからず、だ。

「あー、ユキ、やっぱまだあの物騒な転入生と一緒にいたか。……仕方ない、俺も男だ。腹を括るとするぜ」

「はは。大袈裟ですね、準は。そう構えなくても大丈夫ですよ」

「いやー、若。アレは相当やばいぜ、正直。とても同じ人間とは思えねぇ。敵に回すのだけは勘弁だな」

「あれほど強い準をしてそこまで言わしめるとは、驚きですね。俄然、彼に興味が湧いてきました」

「やれやれ、若の悪い癖が出ちまったか。藪蛇だったぜチクショウ」

 何かしらのやり取りを交わしながら、人混みと座席の間を縫って、俺の机に向ってくる男が二人。

 先程要注意人物認定したばかりの色黒眼鏡と、いっそ清々しいまでにスキンヘッドな男子生徒。俺の殺気に感付いていたという点で共通している二人だ。

 どう考えても彼らの進路はこちらに向いているので、挨拶代わりに取り敢えず殺気を飛ばしておく。俺と二人との間にいる生徒達がビクリと震えた。

「あれー、ジュンもトーマもどこいってたのさ~。ひとり残されたボクの気持ちを考えたことあるのかー、ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ?」

「ハイハイ済みませんね。ちと野暮用を片付けてきたんだよ。んでお詫びにお土産を持って来たから、それで我慢しときなさい」

 俺の机の前まで到着すると、慣れた調子で小雪をあしらいながら、スキンヘッドの男子生徒は右手に提げていたビニール袋を高々と持ち上げて見せる。

 今しがた購買部にでも行ってきたのか、中には菓子パンを含む結構な量の菓子類が入っていた。そのラインナップにマシュマロの姿を発見して、小雪はみるみる内に上機嫌になった。よほど好きなのだろう。
 
「アンタも好きなのを食べるといい。俺達からのささやかな歓迎の印ってトコだ。ま、ここは一つ遠慮なく」

 スキンヘッドの男子生徒は袋から適当に幾つかのスナック菓子を取り出し、机に並べながら言った。

 小雪が幸せそうにマシュマロを頬張る様子を横目で見ながら、俺はそれらに手を伸ばす。

「あー、自己紹介がまだだったな。俺は井上準。趣味は子供と遊ぶ事だ。よろしく頼むぜ」

「私は葵冬馬。ふふ、この出逢いには運命的なものを感じます。末長くよろしくお願いしますね」

「井上準。葵冬馬。……成程、記憶してやろう」

 スキンヘッドが井上準、イケメン眼鏡が葵冬馬。双方共に外見に個性が溢れているので、間違っても忘れる事はあるまい。

「えー、それで、アンタの事は、その、どう呼べばいいんだ?」

 微妙に言い辛そうな調子で切り出す準。俺の笑うに笑えないDQNネームを気遣っているのだろう。まともな配慮が出来る人間のようだ。少し好印象。

「任せる。姓名を纏めさえしなければ特に拘る心算もない」

「ちなみにボクはねー、ノブナガって呼ぶことに決めたよー。ぱくぱく」

 マシュマロを摘む手を数秒だけ休めて、小雪がおもむろに告げる。

「それでは私もそうさせて頂くとしましょう。よろしいですか?」

「……俺は既に任せる、と言った筈だが。無為に繰り返させるのは感心せぬな」

「はは。これは失礼しました。許してください、“信長”」

「やっぱおっかねぇなオイ……。まあ、これからは同じクラスでやっていくんだ。どうせなら楽しくやろうぜ?」

 言葉と視線に込められた強烈な威圧に動じる様子もなく、冬馬と準は飄々とした調子で受け流してくる。

 ……参ったな。どうにも調子が狂う。

 小雪も含め、彼らの態度や立ち居振る舞いからは、俺に対する恐れというものがまるで感じ取れないのだ。

 決して鈍感な訳ではなく。俺の威圧に気付いていながら、ほとんど意に介していない。

 もっとも、準が俺に向ける目からは多少の警戒心が伺えるが、それとてそこまで本格的なものではなかった。

 自分達の実力に絶対的な自信があるのか、或いは何かしら別の要因が働いているのか。その辺りはまだ分からないが、珍しいケースである事は間違いない。
 
 それにしても転入早々、こうも異質な連中に次々と遭遇するとは流石に想定の外である。俺は私立川神学園というロケーションを少々甘く見ていたのかもしれない。

「そういえば、気になっていたのですが。もう一人の転入生、森谷蘭さんとあなたとは、一体どういった関係なんですか?」

「ああ、それは俺も気になってたな。同時にウチに入ってきたのも偶然じゃないだろ」

「……ふむ」

 冬馬と準の言葉を受けて、俺は考える。

 関係。俺と蘭の関係、ね。難しい質問なのか、どうなのか。
 
 幼馴染、友人、共犯者。

 脳裏にフラッシュバックする記憶と共に、様々な単語が頭を過ったが、それでも結局のところ、最適な表現は初めから決定している訳で。

「主従だ。何年も昔からの。転入前の高校も同じだった」

「主従、ですか。なるほど、英雄とあずみさんをイメージすれば分かり易いですね」

「あのイロモノを主従の代表例にしちまうのはどうかと思うがね、俺は」

「どっちも同じくらいイロモノってことだね~」

「本人の前で危ない発言は禁止!」

 正直、イロモノにイロモノ扱いされたところで特に何も思わないのだが。

 そういえば、だ。話題に上がった事で思い出したが、出奔してからの経過時間を考えればそろそろ蘭が戻って来てもおかしくない――――などと思っている内に、ドタドタと慌ただしい音を立てて周囲の注目を集めながら、2-S教室に駆け込んでくる人影が一つ。

「不肖森谷蘭!只今武者修行の旅より帰還致しました!」

「おー。へんじん が あらわれた!」

 俺の目の前で急ブレーキを掛けて立ち止まると、蘭はそのまま片膝を付いて元気な声を上げる。

「うむ。修行の成果を報告しろ」

「基礎体力の上昇、体脂肪率の低下等、有意義な修行でございました!尚、購買にて昼食を購入して参りました、どうぞお召し上がりください」

「カツサンドにカフェオレ、か。なかなか、悪くない選択。褒めてつかわす」

「ははーっ、勿体なきお言葉、感謝致します!」

 全く、我ながらいいパシリ―――もとい従者を持ったものだ。蘭が恭しく差し出したカツサンドを受け取り、ぱくつきながら、しみじみと思う。

 蘭は紛うことなき変人ではあるが、付き合いが長い分、俺の好みを誰よりも細かく把握しているため、パシリもとい従者としては手放せない人材だ。
 
 緊張に固まりながら冬馬達と挨拶を交わしている蘭の様子を生暖かく見守りながら、俺はぼんやりとそんな事を思考する。

 そして、数分後。俺がカツサンドの最後の一切れを咀嚼している時、蘭が声を掛けてきた。

「主、主。皆様方が、校内の案内を引き受けて下さると仰っておられますが。如何致しましょう」

 まずは口の中に残っているカツサンドを冷たいカフェオレで胃袋へ流し込んでから、俺は冬馬の顔に視線を向ける。眼鏡越しに覗く涼しげな瞳と目が合った。

「俺を連れ歩こうとは。つくづく物好きな連中だな」

 これは本心からの台詞だった。そういう類の誘いを俺に、それも初対面で掛けてくる人間は初めてだったのだ。

「はは、昔からよく言われますよ。ですが実際、学園の勝手を理解しておくに越した事はありません。私が教えて差しあげましょう。手取り足取り……ね。ふふふ」

「言い方はちっと怪しいが、若の案内は見事なもんだぜ。川神学園の内部事情まで丸分かりだ」

「主、情報収集は戦の常道。いずれ川神学園に覇を唱えるための第一歩として必要なものであると存じます」

「ふん。言われるまでもなく、承知している。障害と成り得るモノをここで把握しておくのも悪くはない。必要とあれば直ぐに滅せるようにな。くく」

 俺は小さく笑いながら、つまり対外的には冷酷非情な嗤いを浮かべながら言った。

 転入前にある程度の情報は仕入れているが、やはり現地での調査に及ぶものはあるまい。

 勿論俺は、蘭の妄想通りに学園支配を目論んでいる訳ではない。

 が、自己紹介の際に宣言した通り、あくまで自分が居心地良く過ごすために邪魔となるものは遠慮なく潰していくつもりである。

 最初に学園内の勢力図をしっかり頭に描いておけば、色々と行動を起こしやすくなるだろう。

「決まりですね。それでは、早速行きましょうか。まずはB棟の案内からですね」

「さりげなく物騒なこと言ってると思うんだが、流すのな……。まあ、気にしてても仕方ねぇか。ほらユキ、行くぞ」

「お?おー、みんなで校内探検に出発進行だー」

 そんなこんなで妙な三人組に連れられ、転入一日目を校内見学で過ごした俺と蘭。

 行く先々で生徒と教員諸君に思いっきり怯えられたのは、まあ予想していたしいつも通りの事でもあるので、もはや気にするまでもない。

 何とも平和な一日。叶うことなら、このまま何事も起こらない平穏な学園生活を送りたいものだ。

 校門前にて三人組と別れ、蘭を引き連れて自宅へ続く道を歩きながら、俺はぼんやりと期待を抱いていた。

 だがしかし。こういう場合の俺の望みは往々にして叶わない。現実が非情なものだというのは、遥か昔からのお約束なのだ。


――――俺がその事をまざまざと思い知らされる羽目になったのは、翌日の事である。



『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。見学希望者は第一グラウンドに集合しましょう』

 
 嗚呼、やはり素直に前の高校で番長を続けておくべきだったかもしれない。

 
 無慈悲な校内放送が響く2-S教室にて。

 
 抜き身の刃の如き正真正銘の殺意を剥き出しにこちらを睨みつける、やけにおっかないクラスメートのメイドさんを目の前にして、俺は早くもこの学校に転入した事を後悔し始めていたのだった。

 


 


 次回では、いよいよ主人公の実力(笑)が明かされる予定です。お楽しみに。更新は近々。




[13860] 二日目の決闘、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/10 17:41
 四月八日。目覚まし時計のけたたましいアラーム音にせっつかれ、午前六時十分、ほぼ日の出と同時に起床。

 天井に向かって背伸びをしつつ、ベッドの横にあるテーブルの上に目を遣れば、そこには焼き上がったばかりのトースト及び目玉焼きが温かい湯気を立てている。

 俺の起床時間を完全に計算し尽くして、冷めないようギリギリの時間に朝食を用意する―――もはや匠の技とも言えるその完璧なまでの気配りは、間違っても完璧とは呼んでやれない我が従者、森谷蘭によるものだ。

 あいつは毎朝、鍛練のために俺の一時間以上前には活動を開始する。

 せっかく起きている以上、主の朝食を用意するのは従者として当然の務めです、とは蘭の台詞である。なんともまあ涙ぐましいまでの忠誠心だ。


「御馳走様、だ」


 そんな忠誠心の結晶を低脂肪牛乳でさっさと胃袋に流し込んで、手早く運動着に着替えると、俺は部屋の外へと足を踏み出した。

 老朽化が激しいアパートのギシギシ軋む階段を慎重に降りて、中庭へ。


「お早う御座います、主!主の臣下として恥じぬ己となるべく、蘭は本日も鍛練に励んでおります!」

「良い心掛けだ。励め」

「ははーっ!有難き幸せにございます!」


 尻尾の代わりに鍛練用の木刀をぶんぶんと振って喜びを表現する蘭。朝っぱらからテンションの高い従者である。
 
 俺とその忠実なる従者、森谷蘭は、堀之外の片隅にひっそりと佇むボロアパートに居を構えている。

 いかに主従であるとはいえ年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすのは色々と問題があるので、流石に部屋は別だ。

 基本的な常識やら何やらに欠ける蘭は相部屋を希望していたし、そうした方が経済的に助かるのもまた事実なのだが、部屋の面積の関係上ベッドが二つ以上は入らない現実を考慮すれば、それは却下せざるを得なかった。

 あくまで俺は健全な男子高校生なのである。到底理性なんて曖昧で惰弱極まりないものを信頼できる年齢ではない。
 
 結局のところ、蘭が俺の隣の部屋に陣取ることでひとまず話は落ち着いたのだが。

 それ以降、朝食の用意を含め、掃除洗濯等の家事も蘭が一手に担っている。

 ここまでされると俺としても罪悪感を覚えたり覚えなかったりするのだが、まあ本人が喜んでやっているのだ。黙って世話を焼かれるのが主たる俺の役割だろう、と開き直ってみる。

 俺の住居に関しては、まあそんな感じだ。貧しいながらも、不幸ではない。少なくとも昔の俺には、とても考えられない状況だった。


「さて。時間が惜しい。始めねば」


 一心不乱に木刀の素振りを続ける蘭の横で、俺は適当に身体を動かし始める。

 見ての通り、俺がこうして中庭に降りてきたのは、早朝より鍛練に励む勤勉な従者に檄を飛ばすため―――では勿論なく、俺自身の鍛練のためである。
 
 織田信長の最大の武器はあくまで、見せ掛けの威風と紛い物の殺気による威圧だが、しかし身体を鍛えておいて損をする事はない。

 さすがに片手間程度の鍛錬で蘭のような人外レベルまで成長するのは不可能としても、ある程度の身体能力は必要だろう。

 何せ世界は広いのだ。俺の遭遇する“敵”が、口先と威圧だけで屈伏してくれる相手ばかりとは限らない。

 そういう訳で、一日一時間のトレーニングは俺の日課に組み込まれているのだ。

 そんな自分の心掛けに感謝する瞬間が刻一刻と近付いている事を知る由もなく、俺はいつもと同様に軽く汗を流す程度の鍛練を続けるのであった。


「それでは主、参りましょう。転入早々遅刻などしては、信長様の名に傷が付いてしまいます」

「承知している。往くぞ、蘭」

「ははーっ!私めはどこまでもお供致します!」


 午後七時三十分、蘭に二人分の鞄を持たせて登校開始。

 俺達の住む堀之外から川神学園まではやや距離があるが、徒歩通学が不可能なほどではない。時間に余裕がある限り、俺も蘭も自転車は使わないつもりでいた。

 爺臭いと言われるかもしれないが、事実として朝の散歩は健康維持に貢献してくれるのだ。

 のんびりと周囲を睥睨し、通行人(主に学生)を脅かしながら歩いて行けば、やがて川神学園の正門が姿を現す。

 
――――さて、ここからが本番だ。気合を入れていくとしよう。


 身に纏う威圧感のレベルを校内用のものに切り替えてから、俺は門の内側へと足を踏み入れた。


 
 昨日のスケジュールは始業式とホームルームのみだったので、川神学園にて授業を受けるのは今日が初めてとなる。
 
 そして、ここで驚くべき発見が一つ。

 何と2-Sクラスでは授業中、誰一人、何一つとして私語をしないのだ。居眠りをしている生徒も皆無で、全員が真剣な様子で教師の話に耳を傾け、黙々とノートを取っている。

 新学期が始まったばかりのこの期間、気が緩んでもおかしくはなさそうなものだが……その辺りは流石に特進組と言ったところか。素直に感心した。

 ちなみに授業内容自体は俺にとってはさほど難しいものではなく、真面目に取り組んでさえいれば問題なくついていけそうなレベルだった。

 意外に思われるかもしれないが、俺も蘭も勉強にはそれなりに自信がある。もっとも、そうでもなければ初めからS組の編入試験をパスできる筈もないのだが。
 
 今まで堀之外の底辺私立校で一年を過ごし、まともな授業とは欠片も縁のなかった俺と蘭。

 そんな俺達がいきなりエリート集団の特進組に混じってやっていけるのかと不安に思う事もあったが、この分だと案外どうにかなりそうだ。

 底辺校における学年一位という微妙過ぎる地位に甘んじず、独学で勉強を続けていた甲斐があったというものである。

 そうこうしている内に時間は過ぎて、四限の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。それは校内全ての人間に等しく憩いをもたらす時間、即ち昼休みの到来を意味していた。

 早速、弁当(蘭が朝一で用意した)を鞄から取り出そうとしていた俺に、ふらふらと近寄ってくる人影が一つ。

「やー」

「……またお前か。何の用だ、榊原」

「榊原じゃなくてー、ユキだよーん。名字で呼ばないでって言ったのに、ひどいんだ~」

 予想通りというか何というか、榊原小雪であった。俺に声を掛けるような物好きな人間は限られているので、特定は容易である。

 ちなみに昨日は学校案内でそれなりに行動を共にしたこの少女だが、未だにまるで性格が掴めなかった。

 今こうして言葉を交わしてみても、何を考えているのか判然としない。

 彼女について理解できる事があるとすれば、電波ゆんゆんな不思議ちゃんであると言う事と、マシュマロが大好物であると言う二点のみだ。

 もっとも、前者については初対面の時点で直感的に分かっていたことなので、彼女との接触で俺が得た具体的な知識など、実質的には好物くらいのものだろう。

「おー。この弁当からはものっそいおいしそうな匂いがするよ~」

 小雪は机の上に広げられた俺の弁当箱を、じろじろと覗き込みながら言った。

「よーし、食べちゃえ。ひょいぱく」

「ああああ!?」

 可愛らしいタコさんウィンナーを小雪がおもむろに摘み上げ、口に放り込んだ瞬間、悲鳴のような声が上がった。

 勿論言うまでもないが、俺が発したものではない。発生源は後ろの席に陣取る我が従者、森谷蘭である。

「わ、私が主の為に丹精込めて作ったお弁当になんて事を!そのタコさんウィンナーにどれほどの気持ちが込められているか、貴女に想像が」

「こっちもおいしそ~。ひょいぱく」

「ああっ!主の健康を祈りながら握った梅干しおにぎりがぁっ!お、おのれ榊原小雪、これ以上の狼藉は見過ごせませんよ!」

 がたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、ぷんすか怒りながら小雪に詰め寄る蘭。
 
 蘭は基本的に温和で礼儀正しく、人当たりも良い常識的な人間なのだが、少しでも俺の事が絡むと頭が瞬間沸騰するから困りものだ。

 ぎゃーぎゃーと喧しく言い争う二人(蘭が振り回されているだけだが)の様子を完全に他人事として見物しながら弁当を食していると、見知った顔が近付いてきた。

「あー、どうもユキが迷惑掛けてるみたいだな。悪気はねぇと思うから許してやってくれ」

「ふん。俺はそもそも怒ってなどいない。莫迦な従者が勝手に暴走しているだけの話」

「そう言ってくれると気が楽になるね、マジで。やれやれ、ちっとばっかし自由過ぎるんだよな、ユキは」

 そう言うと、井上準はいかにも苦労人と呼ぶに相応しい表情で溜息を吐いた。
 
 実態がまるで掴めそうにもない小雪とは違って、準の方は割と分かり易い性格をしていると思う。

 面倒見が良く細かい気配りができる常識人で、2-Sにおけるポジションとしては貴重なツッコミ役。

 必然的に奇人変人連中に全力で振り回される事になる、実に気の毒な立場である。

「しかし。榊原小雪ほどではなくとも、お前も度し難い奴だな。わざわざ自分から俺に近寄ってくるとは。お前は俺を警戒していただろう」

「あー、まあな。俺としてはあんたの事は正直おっかねぇと思うが、余計な真似をしてくる相手以外にまでわざわざ危害を加えたりはしない――俺の見た感じ、あんたはそういうタイプの人間だと思うんだよな。見当違いなこと言ってたらスマンね」

「……」

 何も言わず何も表情に出さなかったが、内心で俺はかなり感心していた。

 たった一日の付き合いで、本当に良く見ている。

 無表情と殺気に惑わされ、何年掛けても俺の実態を掴めず右往左往する人間など掃いて捨てるほど居ると言うのに、この男はどうだろう。

 昼行燈然とした普段の態度には似つかわしくない慧眼。一見しては判らない“何か”を隠し持っているような、そんな気がした。

「ふん。見当違いとは言わん。が、的外れではあるな。俺は向こうから仕掛けて来ようが来まいが関係なく、視界に入った障害物は悉く排除せねば気が済まん。そんな人間だ」

「あー。そういや自己紹介の時に言ってたな、そんなこと」

「お前が真実、葵冬馬と榊原小雪を守護したいと願うなら。精々、俺にとっての障害とならんよう振舞う事だな。井上準」

「……御忠告、感謝するぜ。肝に銘じておく」

 シリアスな表情を見せたのは一瞬。準は肩を竦めて、飄々と言葉を返した。
 
 これだけ釘を差しておけば、少なくとも準本人は俺に妙な真似を仕掛けようなどとは考えないだろう。あわよくば、他の好戦的な連中が俺に対して行動を起こそうとした際、そのストッパーになってくれれば御の字である。

「ところで。葵冬馬は如何した?見当たらないが」

「若なら今頃、英雄の奴と一緒に2-Fに行ってる筈だな。野暮用でね」

「英雄?」

「九鬼英雄。うちのクラスに金ぴかのスーツを着てるやけに偉そうな奴、いるだろ?あいつだよ」

「ああ。アレが九鬼財閥の御曹司とやらか」
 
 九鬼英雄。

 従者たる蘭を筆頭に、俺も結構な数の変人と接してきた自信があるが、あそこまで突き抜けたレベルの変人には未だかつてお目に掛かった事はない。

 没個性が推奨される現代日本において、あのような人材が存在している事に奇跡を感じる程だ。

 叶うならば金輪際お近付きにはなりたくないものである。天然記念物とは遠巻きに鑑賞するものであって、決して触れ合うべき存在ではないのだ。

 しばらく準と適当に会話を交わしながら弁当を消化していた俺だが、ガラリと戸が乱暴に開けられる音に、注意を教室の入り口に向ける。


「あーあ……ったく、やれやれだ。一子殿一子殿と、英雄さまもあんな色気の無い小娘のどこがいいのか」

 
 えらく不機嫌そうに毒づきながら教室に入ってきたのは、メイド服を着込んだ目付きの悪い女。

 俺の記憶が正しければ、先程話題に上がった九鬼英雄の従者の筈だ。

 自己紹介の際に俺が出した殺気にほとんど動じなかったどころか、逆に威圧を返してきたので印象に残っている。名前は確か、忍足あずみ、だったか。

「げっ。英雄はまだ2-Fに残ってんのか。まずい、という事は……」

「……あ?何見てんだハゲ。あたいは今、猛烈に虫の居所が悪いんだ。もしかすると、何か食ったら収まるかも知れねぇなー。って訳だ、タマすり潰されたくなかったらさっさと焼きそばパン買ってこいや」

「あぁー、はいはい行くよ行きますよ……。で、あのー、代金は」

「ツケとけハゲ」
 
 ドスの効いた低い声に、猛獣の如くギラついた目。明らかに素人ではなかった。準の腰がこれでもかと言う程に引けているのもまあ無理はない。
 
 天下の九鬼財閥御曹司付きのメイドともなれば、やはり特殊訓練でも受けた精鋭にしか務まらないものなのだろうか。

 そんな呑気な思考を行いながら問題のメイドを観察していると、唐突にその視線が俺を捉えた。猛烈に嫌な予感がしたが、時既に遅し。

 俺が何かしら行動を起こすよりも先に、忍足あずみは窓際に位置する俺の席まで一直線に歩み寄っていた。


「おい、てめぇ。――てめぇだよ、転入生。聞こえてんのなら返事しろボケ」


「……。食事の邪魔だ、用件があるなら手早く済ませるがいい。時間を無駄に使わせるな」


 流石に机の正面に立たれてしまっては無視する訳にもいかず、渋々ながら俺は口を開いた。

 普通に考えれば喧嘩を売られているとしか思えないであろう俺の態度に、案の定あずみは怒りのあまりか頬を引き攣らせる。

 座っている俺を見下ろすように睨み据える彼女の目には、紛れもなく本物の殺気が込められていた。

 幼い頃から幾多もの修羅場を潜り続けてきた俺だからこそ、分かる。


 これは一線を踏み越えた輩の気配。――殺人者の眼だ。


 それも、恐らくは一人二人どころではないだろう。今に至るまでどれほどの地獄を潜ってきたのか、想像も出来ない。そんなレベルの存在であった。


「……ふん」


 だがしかし。織田信長の威信を守る為には、ここで退く訳にはいかないのだ。

 ほぼ初対面であるはずの彼女が何故いきなり敵意剥き出しで突っ掛かって来るのかは知らないが、事情の詮索など所詮は二の次である。

 挨拶には挨拶を。殺意には殺意を返すのが、礼儀というものだろう。

 俺もまた彼女に視線を向けると、練り上げた殺気を容赦なく叩きつける。視線が交錯し、殺気と殺気が衝突し、俺達の周囲の温度が急速に下がっていく。

 俺達のすぐ傍で巻き込まれた準は、あずみとはまた違った意味で頬を引き攣らせていた。

 いつの間にか、水を打ったように教室中が静まり返っており、生徒達は固唾を飲みながら状況を見守っている。

「…………」

 そんな中、蘭が静かに席を立ち、無言のままに俺とあずみとの間に割り込む―――その寸前に、俺は蘭にアイコンタクトを送った。

 手出し無用、という意味である。蘭は僅かに眉をひそめて、いつもの如く俺の三歩後ろに控える。

「何用か、と訊いている。用が無いなら早々に失せろ」

「用事ならあるさ。てめえみたいな化物は、さっさと2-Sから失せろっつってんだ」

「論外だ。故に却下する。さて、用は済んだ筈。疾く去ね、血の匂いで飯が不味くなる。不快だ」

「血の匂いだ?はっ!てめえが言えたセリフかっての。どういうつもりでここに入ってきたのかは知らねぇが……もし英雄さまに指一本でも触れやがったら、原型なんざ残らなくなるまで、あたいが徹底的に潰す。そいつをアタマに叩き込んどけ」

「ふん。潰すだと?誰が、誰を?己を弁えぬ発言は自らの首を締めるぞ」

 うわなんなんですかこのメイドマジおっかねぇんですけど、と内心にて盛大に冷や汗を掻きながら、俺は堂々と余裕に満ちた台詞を吐いてみせた。

 自身の発言に則るならば、今現在自らの首を絞めているのは間違いなく俺の方だろう。

 この忍足あずみというメイドが只者でない事は分かる。が、重要な問題はそこではない。

 それこそ川神鉄心のような人外でもない限り、「個人」を相手にするのはそう難しい話ではないのだ。

 この場合、真に厄介なものは、彼女の背後に存在するであろう九鬼財閥の勢力である。

 「組織」を相手取るとなれば、個人を相手取る場合に比べて、必要となる手間の大きさは凡そ数十倍にも膨れ上がる。

 今回の場合、九鬼財閥の組織としての規模の圧倒的な巨大さを考えると、数千倍が妥当なところか。

 何にせよ、まともに敵対するのは無謀もいいところである。
 
 だがしかし、目の前のメイドさんはやけに好戦的というかなんというか、どこからどう見ても俺を敵として認識している訳だ。
 
 彼女の性格と織田信長という男のキャラクターを考慮すれば、ここから両者の間に友好的な雰囲気を作り出すのは不可能だろう。

 となれば、行き着く先は血で血を洗う闘争。


 さて……果たして俺はどうしたものやら。俺の辞書に後退の二文字は無い。だが、無謀の二文字も同様だ。


 考えろ、考えろ、考えろ。現時点における、俺にとっての最善の選択とは、何だ?



「フハハハハ、英雄の帰還なり!庶民共よ、拍手で迎えろ!」


 
 そんな俺の思考をジェンガの如く派手にぶち壊すハイテンションな叫び声。


「お帰りなさいませっ!英雄様☆」

 
 ぱちぱちぱち、とやけに虚しく鳴り響く一人分の拍手。いつの間にやらメイドさんのキャラが五百四十度ほど方向転換しているのは俺の気の所為だろうか。


「……奴が」

「ああ。あいつが九鬼英雄だ」
 
 
 色々と強烈なインパクトのあまり思わず呟いた俺に、準がどことなく遠い目で相槌を打った。

 一瞬にしてクラス中の視線を一身に集めたその男は、室内に充満した薄ら寒い空気など気に留める様子もなく、堂々と教室に足を踏み入れた。

 悪趣味過ぎてもはや指摘する気さえもどこかへ失せる金色スーツを制服代わりに着用しているこの男が、九鬼財閥の御曹司か。


「……ふん」


 なるほど。成程成程。


 こういうタイプの人間ならば、或いは「あの手段」が使えるかもしれない。

 どうしても賭けの要素が強くなってしまう上、安全性にも欠ける為、可能な限りは用いたくなかった手段なのだが、事ここに至っては仕方があるまい。川神学園を舐めて掛かったツケだと思う事にしよう。

「おや……。何やら様子がおかしいですよ、英雄。私達が居ない間に何事かあったようですね」

 九鬼英雄の後から続いて教室に戻ってきた葵冬馬は怪訝な表情を作る。

 教室をざっと見渡して、窓際の席にて向かい合う俺とあずみの姿を確認すると、「ああ、なるほど」と何やら納得したように頷いた。何故そこで納得するのか、一体何をどんな風に納得したのかが気になる。

「む?どうしたのだ、あずみ。何事か揉めているようだが。部下が抱える問題を解決してやるのも王たる者の務め、遠慮などせず我に話してみるがいい!」

「さすがは英雄さま!王者の鑑でございますねっ☆でも、大丈夫です。問題は何も――――」


「そう。問題は何もない。従者の躾も満足に出来んような主君の器など知れている。であれば、語るだけ無駄と言うものだろう」
 

 朗らかに答え掛けていたあずみの表情が、そのままの形で凍り付く。

 それでも、主の前ではよほど分厚い猫を被っているのか、あくまでにこやかな笑顔は崩さなかった。目は全く笑っていなかったが。

 
 さて。ここからが正念場だ。

 
 俺に真正面から喧嘩を売られた形となった九鬼英雄は、意外にも怒る素振りは見せず、ただ興味深そうな顔で俺を凝視した。

「む、昨日どこぞから転入してきた庶民……確か名は、織田信長だったか?」

「俺の姓名を続けて呼ぶな。それ以外であれば許容しよう」

 割と威圧感を込めて睨みつけたにも関わらず、英雄はまるで動じた様子もない。単なる馬鹿なのか、或いは器が大きいのか。何とも判断し辛いところだ。

「フハハ、この我を前にしてその気迫、やはり面白い!庶民にしては上出来よ、褒めて遣わす」

「俺を見下すな。不愉快だ。己のみが人の上に立つ存在ではないと、知れ」

「なるほど、そう言えばお前は我と同じく、従者を抱える身であったな。もっとも、我と貴様とでは主君としての格に些か差が有り過ぎるであろう。フハハハ、多少は骨があるとは言えど所詮は庶民、選ばれし者である我と競おうなどとは笑止千万!」

 よし来た。俺は内心にてガッツポーズを決める。俺はまさしくこの言葉、この展開を待っていたのだ。

 九鬼英雄が俺の推察通りの人間だとすれば、此処まで来て風向きが変わる事はあるまい。

 俺は口元に冷笑を貼り付けて、嘲るような目を英雄に向けながら言った。

「ふん。ならば。試してみるか?」

「ぬ?」

「口先では何とでも言える。結果と実力が伴わねば、言ノ葉は虚しく宙を舞うのみ。認めさせたければ、証明して見せるがいい」

「分からん奴だ。我がわざわざ証明するまでもなく、そんな事は――――」

「ほう。成程、九鬼の御曹司は敵前逃亡が得意、か。大言壮語の末がその様では、先程の過剰な謙遜の理由も良く解る。確かに俺とお前とでは、“主君としての格に些か差が有り過ぎる”ようだ。くくく」

 小馬鹿にするように笑いながら言い終えた瞬間、英雄の傍に控えるあずみから凄まじいまでの殺気を感知した。

 正直、冗談抜きで肝が冷えたが、まさかいきなり手は出して来ないだろうと自分に言い聞かせて全力で無視する。

 今現在、俺が集中すべき対象はあくまで九鬼英雄である。

 どれほど危険な実力者であろうと、部下であるあずみは所詮、英雄の命令のままに動く手足に過ぎない。命令を下す頭を押さえてしまえば、自由には動けなくなる。

 
 さて、どう出る九鬼英雄。


 庶民風情にここまで挑発されて、王者を自負する程に驕っているお前のプライドは耐えられるのか?


―――――否、そんな筈はない。


「うぬぬ……、こうまで言われては、我としても黙って引き下がる訳にはいかんな」

「その言葉。挑戦を受ける、と解釈するが」

「当然であろう。庶民共に我の王者たる証を改めて示し、そして一子殿に我の勇姿をご覧になって頂く機会でもある!まさしく一石二鳥ではないか、フハハハハ!」

 自分が敗北する事など欠片も考えてはいないのだろう。愉快げに哄笑する英雄の表情に、不安の影というものはまるで見られない。
 
 その底抜けな能天気さに呆れると同時に、少しだけ羨ましいと感じる自分がいる。
 
 この男は、面倒な芝居も億劫な策略も陰鬱な計算もなく、己の心の命ずるがままに生きているのだろう。
 
 それは或いは生まれ落ちた環境の差。それは或いは、生まれ持った才能の差。
 
 地面を這い蹲って必死に生きている人間にとっては、直視に耐えない星光のような男。

 
 だからこそ俺は、全ての打算を抜きにしても、ただこの男には負けたくないと、そう思った。


「まず。参加者はお互いの主従、各二名。それには文句はないな」

「うむ。主従の格差を示す為なのだから、当然そうでなくては始まるまい」

「……確かに。承りました」

「私が英雄さまをお守りするのは当然ですっ☆」
 
 今まで口を挟まず、静かに事の成り行きを見守るようにしていた従者の二人が、それぞれ口を開く。

 蘭は普段の浮付いた調子が掻き消えた、凛とした口調で。あずみは猫を被りまくった不自然に可愛らしい口調で、己の意思を示した。

 それを確認してから、俺は再びルール説明を続ける。


・得物としては、レプリカ武器の使用を許可。

・それぞれの主が相手側の従者から一撃でも攻撃を受けた時点で、その組の敗北と見做す。

・第一グラウンドをバトルフィールドとして利用し、外に出た時点で失格と見做す。


「……以上。即興で考えたルールだが、不満及び疑問点はあるか」

「うむ、我はそれで構わんぞ。どのような条件であろうとも、我が勝利の栄光を手にする運命は初めから定められているのだからな!そうであろう、あずみ!」

「まさにその通りでございます、英雄さまぁぁぁ!はいところで、一つだけ質問いいですかー?」

 いっそ不気味な程、にこやかな表情であずみが手を挙げた。

「主君が相手側の主君に直接、攻撃を仕掛けるのはアリなんでしょうかぁ?」

「無論。但し、決着と認められるのはあくまで何れかの従者が敵方の主に攻撃を命中させた場合のみだ」

「……そーですか、分かりました~☆」

 数秒間、抉る様な視線を俺に向けはしたが、結局あずみは大人しく引き下がった。
 
 大方、俺が英雄に危害を加えようとしないか心配しているのだろう。何せ外面だけを切り取って見れば、織田信長という男は途轍もない危険人物なのだ。

 しかし、それを英雄に言ってみたところで無駄だろう。何せつい先ほど、主君としての格では比較にならないと豪語したばかりなのだ。

 英雄の性格からして、俺との対決を避けようとはするまい。
 
 
 うむ、善哉善哉。ここまでは、万事が俺の計画通りに進んでいる。上手く嵌り過ぎて逆に不気味な程である。


「皆さん。折角の盛り上がりに水を差してしまうようで申し訳ありませんが、あと少しで授業が始まってしまいますよ」

「なーに、その点は心配無用じゃよ」

 冬馬の台詞を受けて、何処からともなく2-S教室の教壇に出現する爺、川神鉄心。

 川神院総代にして川神学園の学長を務める、一言で表現すれば怪物のような爺さんである。

 否、もはや怪物そのものだろう。この爺さんの存在が核以上の脅威として世界に認識され、諸外国への牽制として働いていると言えば、その突き抜けた異常っぷりを理解して頂けるだろうか。

 例えビームを撃とうが瞬間移動をしようが斬魄刀を所持していようが、それが鉄心であれば何ら驚きには値しない。そういう存在である。

「五限は日本史の授業じゃったの?ならば綾小路先生にはワシから話を通しておこう。存分に試合うといいぞい」

「おー。珍しく気が利いてる、そんな学長にはマシュマロをプレゼントだ~、ぱちぱちぱち」

「ほっほ、ぴちぴちの女子に食べさせてもらうマシュマロの味は格別じゃのぉ」



――――さて、これにて役者は揃い、舞台設定は整った。

 

 あとは舞台の開幕を告げる合図を、俺達の手で鳴らすのみ。

 都合のいい事に、その為の礼儀作法は昨日の内に冬馬から教わっていた。


「2-S所属、織田信長。学園の掟に従い、“決闘”を申し込む」

「その従者、森谷蘭。私の意は主と共に」

 
 俺と蘭が各々のワッペンを机の上に重ね合わせる。


「2-Sクラス委員長!九鬼英雄!その挑戦、確かに受け取った!」

「その従者、忍足あずみです☆よろしくお願いしますね!」

 
 そして更に二つが重ねられる事で――――決闘の儀は、ここに成立した。


「フハハハハ、それでは我は早速ウォーミングアップに移るとしよう!獅子は兎を狩るにも全力を尽くすものであるからな!」

「さすがでございます、英雄様ぁぁぁっ!私は少し教室で準備がありますから、どうか英雄様はお先に」

「うむ、では我は一足先にグラウンドへ赴くとしよう。フハハハ、楽しみに待っているぞ、庶民共!」

 俺と蘭に向かって声を掛けると、英雄は高笑いを上げながら無駄に堂々と教室を去っていく。
 
 その姿が完全に自らの視界から消えたのを確認してから、あずみは被っていた猫を脱ぎ捨てた。

「てめえ。黙って聞いてれば、よくも英雄様に好き勝手言ってくれやがったな……。言っとくが、決闘仕掛けてきたのはそっちなんだ。どんな結果になろうと文句は言わせねえぞ」

「無駄な心配を。完全な勝者の口から文句が出る筈もない」

「その減らず口もすぐに叩けなくしてやるよ。あたいを本気で怒らせたこと、全力で後悔させてやる」

『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。内容は武器アリの戦闘。見学希望者は第一グラウンドに集合しましょう』

 校内放送がスピーカーから響く中、あずみは抜き身の刃を思わせる両の目で俺を睨み据える。

「いいか。首を洗って待ってろ、クソガキ」

 準備があるから、と英雄を先に行かせて教室に留まっていたのは、あくまでその一言を告げるための口実だったらしい。

 用は済んだとばかりに背中を向けると、あずみは英雄を追って廊下を駆け去っていく。


「なかなか。侭ならぬものだ」


 全く、どうしてこうなるのやら。

 嫌われるのも憎まれるのも恐れられるのも慣れ切っているが、ここまで純然とした殺意を向けられるとなれば話は別だ。

 そもそもここは治安の良さに定評のある日本国内の教育施設である筈なのだが、そんな場所に殺意やら何やらの血生臭い言葉が登場するのはどういう訳だろうか。全く以て場違いもいい所である。

 所構わず殺気を撒き散らしている俺が言うべき台詞ではないと思うかもしれないが、しかし俺の殺気はあくまでも精巧に似せた紛い物。

 言ってしまえば模造刀やモデルガンと大差ないものだ。忍足あずみのような、幾多の血を吸ったであろう本物の凶刃と同列に扱われても困る。

 ……ああ、凶刃と言えば。流石にこれは、フォローしておかなければマズイだろうな。

「蘭」

「如何致しましたか、主」

 名を呼ばれると、蘭は落ち着き払った澄まし顔で俺の足元に跪く。
 
 十数年の経験から判断して、我が従者のこういう似合いもしない凛々しい表情は、相当に危険な兆候である。

「頭を冷やせ」

「畏れながら、私は冷静です。主」

 俺は黙って視線を蘭の顔から下げ、その手元に移した。
 
 自分では気付いていないようだが、蘭の右手は力の捌け口を求めて自身の机の端を掴んでおり。
 
―――その五本の指が、木製の机に深々と食い込んでいた。

「蘭」

「如何致しましたか、主」

「あの二人は障害物だ。“敵”とは違う。それを失念するな」

「……ははっ、了解致しました。不肖森谷蘭、未熟の身なれども必ずや主を守護してみせます!」

「承知している。往くぞ、蘭」

「ははーっ!私めはどこまでもお供致します!」

 
 教室の戸口に向かって俺が進めば、蘭は静かに三歩後ろをついてくる。わざわざ振り返って確認するまでもない事だ。

 
 これより臨むは妥協を許さぬ決闘。不安要素は多々あれど、退く事だけは不可能だ。

 
 どうかこの苦難を無事に乗り越えられますように、と信じてもいない神に祈ってみたりしながら、俺は決闘場たる第一グラウンドへと足を進めるのであった。



~おまけの三人組~


「今日は、信長に英雄を友人として紹介しようと思っていたのですが……まさかいきなり決闘になるとは予想外です。どうなることやら」

「あははー、トーマ、心配御無用。雨降って血固まるってことわざがあるよ」

「こえーよ!その諺、間違いなく降ったのは血の雨だろ」

「あーめあーめふーれふーれ♪」

「懐かしいはずの童謡が何だか不吉な歌に聞こえてくるぜ」

「ピッチピッチチャップチャップ、らん・らん・るー♪」

「不意討ちで危ないネタは禁止!」






 



 決闘に至るまでの流れに思いのほか文量を使ってしまったので、戦闘シーンは次回に持ち越しとなってしまいました。自分の文章構成能力の欠如を改めて実感する今日この頃。


※前回の更新分に対し感想を下さった方々、本当にありがとうございます。
 
 そして、誠に申し訳ありませんが今作においては、作者による個々の感想への返信は控えさせて下さい。
 
 私は元々が遅筆な上になかなか時間が取れず、短い時間をやりくりしてどうにか書き上げているのが現状。
 
 この上更に感想に対する返信を考え、文章に起すとなれば、更新速度の低下はどうしても免れないものとなってしまいます。

 全ては私の力不足に起因するもので心苦しい限りですが、これは作者が一刻一秒でも早い更新を優先すべきと判断したが故の結論である事をご理解頂ければ幸いです。




[13860] 二日目の決闘、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2009/11/19 02:43
「けっ。何が悲しくて俺様、S組の奴らの内輪揉めなんぞを見物しなけりゃいけねぇんだ」

「またそういうこと言う。S組の転入生の女子がレベル高いらしいから見に行こうって最初に言い出したのはガクトだからね」

「なんだよモロ、お前だって内心じゃ気になってる癖しやがってよ。やれやれ、これだからムッツリスケベは嫌だぜ」

「何でそこまで言われなきゃいけないのさ!……あ、噂をすれば。来たみたいだね」

 現在時刻は午後一時ジャスト。昼休みの終了と第五限の開始を告げるチャイムが川神学園に鳴り響く。

 その音とタイミングを合わせるように、決闘の舞台として指定した第一グラウンドに俺達は足を踏み入れる。

           ざわ……ざわ……

 噂の転入生、織田信長と森谷蘭。

 その姿に、どよめきと共に不特定多数の視線が向けられた。

「おお、見ろ。どうやらヨンパチ情報は正しかったみたいだぜ。顔もスタイルも一級品、ありゃあ確かに結構な上玉だ。チェックしておこう」

「うん、そうだね。……でも、それよりも僕は、男の転入生の方が気になるかな」

「なんだ?モロお前、まさか―――、つ、ついに目覚めちまったのか!?」

「違うよ!無理矢理ヘンな方向に話を持って行くのやめてよね!しかも“ついに”ってどういう意味さ!……僕が言おうとしてるのはその、なんて言うか……」

「まあ、モロの言いたい事は分かる。あの転入生、雰囲気が明らかに普通じゃない。君子危うきに近寄らず、だ。軍師として意見するなら、あまり関わらない方がいいと思う」

「大和の意見に賛成だな、あいつは何だかヤバイって俺の勘が告げてるぜ。ってか見てるだけで普通にコエーもん、あいつ。いったい何者なんだろうな」

「安心して、キャップ。ファミリーのみんなには絶対に手を出させないよ。そして大和の貞操は私が頂く。じゅるり」

「助けてゲンさん!俺を強姦魔から守って!」

「アホか、てめえらの痴話喧嘩に俺を付き合わせんじゃねぇ。……しかし、早速騒ぎを起こしやがったな、信長の野郎。何考えてやがるんだか」

 
 先程の校内放送で決闘の情報を知らされた所為だろう。俺達が到着した時は、既に相当な数の生徒が決闘の見物人としてグラウンドに集まっていた。

 2-Sの生徒は勿論のこと、恐らくは他のクラスや学年が違う生徒達までもが挙って姿を見せている。

 もはやちょっとしたお祭り状態だ。このまま全校集会でも始められそうな勢いであった。


「あわわわわ、す、凄いプレッシャーです。この学園はあんな強そうな方達ばかりなのでしょうか……うぅう~、松風、由紀江は入学したばかりなのに自信がなくなってきました」

『いやいやオラの見た感じ、アレはちょっとまともじゃねぇよ。自信持ってこうぜまゆっち!』

「ねぇ見て。黛さん、また携帯ストラップと喋ってるよ……」

「え、なにそれこわい……」

「なんて禍々しい気迫。間違いなくあの男が二年生のトップね。面白いわ、この川神学園のレベルがどの程度のものか、私のプッレ~ミアムな眼力で見極めてみせる!」


 五限目がもう始まっている時間にも関わらず、この異常なまでの集まりの良さ。川神学園における決闘というイベントが、いかに全校生徒の注目を集めているか分かろうというものだ。決闘者の俺達が転校生である事も関係しているのだろう。

 それにしても、こうも多くの人数に抜けられると、もはや授業が成立しなくなりそうなものであるが、その辺りはどうなっているのだろうか。


「はぁ。あいつ、転入早々騒ぎを起こしやがって。せめて学校の中でくらいは大人しくしていて欲しかったんだけどねぇ。オジサンは悲しいぜ、全く。……ところで梅子先生。どうですか、今晩一緒に食事でも」

「お断りします。予定がありますので。というかその誘いは幾らなんでも脈絡が無さすぎるでしょう、宇佐美先生」

「やれやれ、この巨人が女一人も口説けなくなっちまうとは。年月の流れってのは残酷なもんだ」

「成るほど……、彼が総代の言っていた転入生カ。己の目で確かめルまでは信じられなかったケド、確かに釈迦堂並みに危険な気配を漂わせてるネ。まだ百代よりも一つ年下のハズだというのに、末恐ろしい事だヨ」


 全校生徒というか、教職員の皆様方も決闘に興味津々のご様子だった。これではもはや授業が成立するしない以前の問題である。


 そんな群衆達が作る輪のド真ん中、即ち広大な第一グラウンドの中央にて。

 既にウォーミングアップを終えたのか、堂々と腕を組んで待機している英雄とその従者の姿を確認すると、俺は蘭を従えて二人の元へと向かう。

 直ぐそこに迫る対決の時に、否が応でも高まる緊張と心音、そして静かな興奮。じわじわと脳内麻薬が分泌され、身体に気が漲ってくる。

 こうなると俺はいまいち加減が効かない。日常生活に支障が出ないよう、常に抑え込んでいる殺気が溢れ出してくるのだ。


「ひ、ひぃっ!?」

「ば、バカ、早く下がれ!目を付けられるぞ!」

「でも、あ、足が震えて動かないよぉ~」

「くそ、世話を掛けさせやがる!ほらエミ、掴まれって」

「あ、ありがとうケンジ……」


 そんな状態の俺が近付くと、生徒達は一様に怯えながら慌てて道を空けた。

 モーセの奇跡を再現するかの如く、進行方向を遮っていた人垣が自然と割れていく。その際に何ともラブコメ臭のする腹立たしいやり取りが聴こえたのは気のせいと言うことにしておこう。


 そうして織田信長の為に造られた道を、俺は悠然とした歩調で進む。


「くくく」


 ああ、なんとも気分がいい。俺にしては珍しく、勝手に口元が歪んだ。


 何度経験しても、この瞬間は爽快だ。己という存在が如何に強く畏怖されているのか、全身を以て体感する事が出来る。

 全世界に息づくありとあらゆる生命が、彼らと同様に俺を畏れてくれればいいのだが。そうなれば、俺自身は何も恐れる事無く気ままに生きていけるものを。

 
 そんな下らない夢想を描きながら歩けば、気付いた時にはグラウンドの中央まで辿り着いていた。


「フハハハハ、良くぞ逃げずに来たな庶民よ!その度胸は感嘆に値するぞ。褒めて遣わそう!」

「俺を見下すな、と言った筈だ。お前の愚かしい思い上がりが何時まで続くか見物だな」

 
 馬鹿笑いで出迎える英雄に冷たい語調で言葉を返し、真正面から向かい合う。


「…………」

「…………」

 
 一方、蘭とあずみはそれぞれ無言で睨み合っている。決闘が始まるまでの僅かな間に、互いの実力を見定めようとしているのだろう。対戦相手の情報を事前に多く得れば得るほど、比例して勝機は増す。
 
 あずみの両手には小太刀。九鬼英雄の専属メイドはどうやら二刀流の使い手のようだ。対する蘭の得物は、普段は教室に飾られているレプリカの日本刀である。


「そう言えば、九鬼英雄。お前は武器を所持していない様に見受けられるが?」

「フハハハ、我が鍛え抜かれし黄金の肉体はそのものが既に武器も同然。それに、我の刃はあずみ一人で十分であるからな!」

「ふん、成程。どうやら主義は俺と変わらぬらしい。気に喰わん事だ」

「ぬ、貴様も武器を持っておらんのか?庶民が我と同じ条件で競おうとは不遜である。が、その意気や良し!」 


 一見した限りでは完全な徒手空拳の俺に、英雄はむしろ好感のようなものを抱いたらしい。なかなかに愉快そうなご様子だ。
 
 実際のところを言うなら、制服ズボンのポケットに護身用の匕首(レプリカ)を忍ばせていたりする俺だが、その事をわざわざ教えてやる必要はあるまい。

 それに、この匕首を使用するのはあくまでも最終手段になるだろう。

 不意討ちなどという姑息な手段で勝利を掴んだとしても、織田信長の名に傷が付くだけである。そんな勝ち方に意味は無い。ポケットから取り出さないままで済むなら、それに越した事はなかった。

 逆を言えば、決闘の中で圧倒的且つ絶対的な余裕と実力を見せつける、その目的さえ果たす事が出来るなら勝敗はさほど問題ではないのだ。


「さて、お主達。そろそろ始めても良いかの?」

「ああ。問題はない」

「うむ、我は待ちくたびれたぞ。早く始めるがいい」


 何時の間に現れたのか、俺と英雄の間に立った川神鉄心の問い掛けに、俺と英雄は頷いた。

 
 それを見届けると、鉄心は俺達に向かって頷き返し、静かに息を吸い込んだ。


「―――これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!!」


 張り上げられたその声は老人のそれとは思えぬ力強さを以て、グラウンド全体に伝播した。

 途端に湧き上がる生徒達の歓声に包まれながら、俺と蘭、英雄とあずみは改めて名乗りを上げる。


「ワシが立ち会いのもと、決闘を許可する。勝負がつくまでは何があっても止めぬが、勝敗が決したと判断された後も攻撃を続けようとした場合は、ワシが介入させてもらう。よいな?」

「うむ。承知したぞ」

「元より一撃当てれば片の付くルール。無闇に追討ちを掛ける必要もない」

 
 鉄心の確認に頷いてみせながら、俺はちらりと後ろに控える蘭に目を遣った。

 予想通り、どうにも固い顔をしている。身に纏う雰囲気もいつもより多分に張り詰めていて、触れれば噛み付かれそうな危うい予感を見る者に抱かせた。

 勿論、目前に迫る決闘への緊張もあるのだろうが、それはあくまで原因の一つであって、俺の見立てでは主な理由は別にある。

 やれやれ。先ほど釘を差しておいたとは言え、この分だとやはり覚悟はしておく必要がありそうだ。俺の計算通りに事が進めば、確実に“そうなる”訳だし。

 過去、幾度矯正を試みたところで遂に治る事はなかった我が従者の悪癖を思って嘆息していると、賑わっていた観客のざわめきが静まっていく。


「主、御用意を。どうやら始まるようです」

「心得ている。蘭。己が如何動くべきであるか、判っているな」

「ははーっ!この身を盾と為して主を守護し、この身を刃と為して敵将を討ち果たして御覧に入れます!」

「うむ。苦しゅうない」

 
 さて、ようやく舞台の幕が上がる。

 川神学園における最初の試練。初っ端から容赦なく過酷極まりないが、ここを無事に乗り越えて初めて、俺は本当の意味で学園生活を始める事ができるだろう。

 ならば、精々気張らせてもらうとしようか。表向きは余裕綽々と手を抜いて、その裏側では常に全力全開。それが俺こと織田信長のスタンスである。


 これまで幾度となく繰り返してきたように―――障害物は、排除するのみだ。


「いざ尋常に……」

 
 あずみが小太刀を、蘭が打刀を鞘から抜き放った。各々の構えを取りながら、互いが互いの主君を庇う様に、前方へと踏み出す。


 そして。



「――――はじめぃっ!!!」


 
 決闘の始まりを告げる鉄心の声と同時に、両者の刃が激突し、火花を散らした。





 



 九鬼家メイド長兼九鬼英雄個人のボディーガードを務める忍足あずみは、当然の如く素人ではない。

 あらゆる戦闘術・暗殺術を身体に叩き込み、戦場を渡り歩いては傭兵として幾多の命をその手で刈り取ってきた、云わば殺人のプロである。

 今では前線を離れ、メイドとして平和な日常に順応しているものの、その圧倒的な腕前は未だ衰えていない。

 故にあずみにとって、平和ボケした島国の女子高校生などまるで相手にもならない、筈であった。

「さっさとやられちゃってください☆私には英雄様をあのおっかない男からお守りする義務があるんですよ~」

「左様な事は、私とて同じです!この身を以て盾と為す。そう主に誓った言葉を反故にするなど、絶対に許されません!」

 鍔迫り合いの最中、激しい語調と共に蘭が力を込めると、あずみは舌打ちしながら飛び退さる。

 既に決闘の開始から数分が経過していた。元々は十秒以内には片を付けるつもりでいたあずみにしてみれば、この結果は計算違いも甚だしい。

 刀を正眼に構え、凛とした表情でこちらを見据えるおかっぱ頭の少女―――森谷蘭。

 はっきり言って、その戦闘スタイルに特徴的な所はない。地味、と言ってしまってもいいだろう。

 観衆の目を惹く様な派手さ、華々しさは彼女の剣には存在しなかった。見栄えの良い応用技には目もくれず、ただひたすらに剣術の基礎のみを徹底的に鍛え続けて来た。蘭の振るう剣は、そういう類のものだ。

 あくまで基本に忠実。地味故に堅実。だからこそ、攻略の糸口がまるで見つからなかった。蘭はどのような場合においても無理というものを一切しないため、隙を見せる事も殆ど無いのである。

 下手に斬り掛かれば寸分狂わぬタイミングで正確無比なカウンターが返ってくるし、ならばと敢えて退いてみせ、誘いを掛けてみても決して自分から追ってはこない。

 己の領分を弁えている人間は、己の力量を過信している人間と比べて何倍も厄介な相手となるものだ。森谷蘭には、文字通りの意味で油断も隙もありはしない。

 立ち居振る舞いからして何かしら武道の類を嗜んでいるとは予想していたが、まさかここまでのレベルとは想像の埒外である。

「参りましたね~。正直な話、一秒でも早く英雄様の元へ駆け付けたいんですけど」

 チラリ、と横目で己が敬愛する主人の姿を確認する。視界に映るのは、こちらの様子を見物しながら何事か会話を交わしている、主人ともう一人の男……織田信長の姿。

 二人の主君はまずは従者同士の対決を見届ける事で合意を得たのか、互いに接近しながらも相争う姿勢は見せなかった。その事実にあずみはひとまずは安心を覚える。

 あの男が主人に対して「何か」をやらかしはしないかと、あずみはそれを危惧していた。

 そんな不安を抱かずにはいられない程に、信長という男の纏う雰囲気は危険極まりないものなのだ。かつて戦場という戦場で敵兵の血飛沫を浴びたあずみですらも、あの男が放つ高密度の殺気はかなり堪えた。

 今のところは何も仕掛けてはいないようだが、あまり長時間、信長を主人の傍に放置する訳にもいかない。主人の身に万が一の事が起きる前に、不安の種は取り除いておかねば。

 ……ならば、早々にこの決闘に終止符を打つ必要があるか。

「果たし合いの最中に余所見、更に考え事とは!いい度胸ですねっ!」

 やや苛立った様子で声を荒げながら、蘭が一歩を踏み込みつつ横薙ぎに刀を振るう。

「教科書通りの動きじゃ、防御は出来ても私に攻撃なんてムリムリ!ですよ☆」

 その太刀筋はひたすらに早く鋭く、しかしながらあまりに真っ直ぐ過ぎる。フェイントすら碌に織り交ぜられていない蘭の判り易い動きを事前に予測するなど、百戦錬磨のあずみにとっては容易い事であった。

 あずみは右手の小太刀を蘭の斬撃に重ねて受け流しつつ、同時に左手の小太刀による反撃を繰り出す。

「くっ!」

 首筋を狙ったあずみの一撃必殺の刃は、蘭が咄嗟に上体を後方へ傾げた事で空を斬る。

 しかしそんなやや無理のある避け方は、蘭の体勢を崩させる。彼女が後方へと僅かにたたらを踏んでいるその隙に、あずみはさり気なく立ち位置を移動させていた。

 距離は目測にして五メートルと二十六センチ。充分に、狙い撃てる距離だ。

 目標は、あずみから見た蘭の立ち位置の、その延長線上。角度修正は非の打ち処もなく、完璧。

 予めグラウンドより拾い集め、メイド服のポケットに仕込んでおいた小石の一つを、その手の中にそっと握り締める。

――――従者が相手側の主に一撃入れれば勝ち。

 例えそれがどれほど矮小で非力なものであったとしても、当たれば一撃は一撃である。

 卑怯などとは言わせない。恨むなら、このルールを提案した自分を恨む事だ。

 再び踏み込んできた蘭を先程と同様に片手でいなす。と同時に、残った片手が小太刀を手放して地面に落とすと、即座に握り込んでいた小石を流れるようなサイドスローで投擲した。

 計算上、信長の視界からは、従者の身体が障害物となってその瞬間を捉える事が出来ない筈である。自らに飛来する小石の存在に気付いた瞬間には、手遅れだ。

 更に言うなら、忍足あずみの投擲技術は随一。コントロールには絶対の自信がある。

 
 これで決まりだ。


 己の手を離れた石礫の行方を見守りながら、あずみは半ば勝利を確信していた。









 それは、これ以上ないほどに的確な不意討ち。


 完全な死角より突如として飛来する礫に反応する事など出来ず、為す術もなくその直撃を受ける――――という事はなく。

 俺は軽く首から上を動かすだけの僅かな動作で、恐ろしい事に顔面を狙ったその一撃を回避する。

 風切り音を立てながら、相当な速度で顔のすぐ横を通過する石礫。もし当たっていたら割と洒落にならないダメージを被っていただろう。そう思うと、少し肝が冷えた。

「……あれをこうも簡単に避けますか。冗談じゃないですね、これだから化物は困ります~」

「ふん。斯様な下らぬ小細工が俺に通用すると、本気で思っていたのか。愚昧も過ぎれば嗤うしかないな」

 今の一撃で仕留められる自信があったのか、苦々しげな表情を作るあずみに向かって、俺は嘲笑うように言い放つ。

「申し訳ございません、英雄様ぁ!決着を付けられませんでした」

「いや、あずみよ、お前に落ち度はない。あの奇襲、並の者ならば間違いなく決まっていたであろう」

 あずみ本人と英雄、そして観客達の目には、俺が彼女の完璧な不意討ちを純粋な反射神経と身体能力だけでいとも容易く回避してのけたように映るだろうが、実際のところは勿論違う。

 だからと言って偶然に頼った訳でも助けられた訳でもなく、この結果は云わば、定められた必然であった。


 具体的に種を明かすならば。俺には最初から、あずみの行動が読めていたのである。

 
 お互いの主に対して一撃でも入れれば勝ち、というルールがこの決闘の枠組みに存在している以上、間違いなくあずみはそれを利用しようとすると俺は踏んでいた。

 今まで交わした会話から予想される彼女の性格を考慮すれば、確実にその方法を選択するだろうと。そして、その為の手段として最初に思い付くのは、飛び道具による奇襲である。

 そこまで事前に察知できているなら、後はそう難しい話ではない。

 彼女の一挙一投足に注意を配り続け、不意討ちの条件を満たしたと思われる瞬間に万全の準備で待ち構えておけば、俺の常識的な反射神経でも余裕を持って反応する事が出来る。それだけの話だ。

 不意討ちとはあくまで相手の不意を討たねば成立しないからこその、不意討ちなのである。

 従者が相手側の主に一撃でも当てれば決着―――。
 
 決闘を申し込む際、わざわざ俺がこのルールを提唱した目的の一つが、この一連の流れによって「不意討ちを簡単に回避した」という客観的な事実を作り出す事である。

 その事実によって、誰もが俺の実力を誤解し、過大に捉えてくれるだろう。

 たった一度の回避行動、それも殆どが予定調和であるところの回避で、「織田信長の実力は紛れもない本物」という認識を周囲の者達に植え付けられるのだ。

 その誤った認識は人々の間で俺に対する警戒心を呼び、警戒心はやがて畏怖に通ずる。

 まあ、つまりは、そういう事だった。


 それが目的の一つ目。一つ目とわざわざ表現するからには、当然二つ目がある訳で。


「面倒ですねえ。雰囲気からして只者ではないと思ってましたけど、本当に見た目通りですかぁ。私としては是非とも違ってて欲しかったですね~」

「ふん。……忠告しておいてやる、忍足あずみ。悠長に御喋りしている余裕など。お前には欠片も無い」

「はい?何を言ってるんですか~?」

「俺とは違い、“見た目通り”ではない人間も居る。それだけの話だ」

 
 発言の意を掴めず、僅かに眉を潜めたあずみは―――次の瞬間、表情を凍り付かせた。

 
 否、凍り付いたのは表情だけではない。俺とあずみの間に立つ我が従者、蘭を中心にして、周囲の空気が急激に冷え込んでいく。
 

「……わたしの、あるじに」


 みしり、みしりと。思わず怖気が走るような音が、静まり返ったグラウンドにやけに大きく響いた。

 蘭の手元。両の手で握り締められた模造刀の柄が、悲鳴の如く軋みを上げているのだ。


「わたしの、あるじに、投げましたね。石を、固い石を、角のある石を、あんなに強く、あんなに速く、あるじの、あるじの、あるじの、御顔に向けて」


 地面に向けて俯いたまま、蘭はぶつぶつと呟く。怒りも憎しみもなく、どころか感情そのものをまるで感じさせない無機質な声が、淡々と言葉を紡ぐ。


「当たっていたら、もし当たっていたら、御怪我でもなさっていたら、御顔に御怪我でもなさっていたら、どうするんですか?どうしてくれるんですか?どうすればいいんですか?」


 そして、ユラリと蘭は顔を上げる。地獄より這い上がった幽鬼を思わせるその動作に、観客達の誰かが息を呑んだ。


「あなたは敵です。あなたは敵です。あなたは敵です。あなたは敵です」

 
 眼前のあずみを見つめる蘭の目は、ガラス玉のように虚ろ。

 いつしかその身体からは、禍々しい黒色の気が溢れ出していた。負の感情をそのままこの世に体現したかの如き不吉なオーラは、見る者全てを怯え竦ませる。

 それは蘭の全身のみならず、手に携えた模造刀をも覆い始めていた。

 元は六十センチ程度だった脇差の刃が、凝縮された気によって補強され、従来の二倍以上の刀身を有する黒い大太刀へと変貌を遂げていく。


「っ!ヤバイッ!」


 異常な雰囲気を放つ蘭に呑まれ、硬直していたあずみが、我に返ったように小太刀を構える。


「敵は排除します。敵は排除します……主の“敵”は、老若男女一族郎党一切合切関係なく―――私が、排除します」

 
 そして、一閃。

 もはや俺を含む常人には視認すら難しい剣速で繰り出された、蘭の斬撃。

 長大な大太刀と化した模造刀による横薙ぎは、今までのそれとは比較にならない程の“重さ”を伴っていた。


「なっ……!?」


 そんな一撃を正面から受けた結果。

 あずみの身体は文字通り、比喩表現でも何でもなく、“吹き飛んだ”。

 咄嗟に身体の前で交差させた両の小太刀で受け止める程度の事では衝撃を殺すには足らず、グラウンドからあずみの両足が離れ、空中へと後ろ向きに弾き飛ばされる。

 そのまま数秒間、あずみの身体は宙を舞い、そして重力に従って背中からグラウンドの地面に叩き付けられた。

「ぐぅっ……!」

 衝撃と共に肺から空気が押し出され、あずみが苦しげに呻く。あまりに派手な倒れ方だったためか、珍しく英雄が焦った調子で声を上げた。

「あずみ!無事か!」

「大事ございません、英雄様あぁぁ!」

 しかし、反射的に空中で小太刀を手放して受け身を取ったお陰か、致命的と言える程のダメージは負っていないようで、これにてK.O.と言う訳にはいかなかった。

 あずみは俊敏な動作ですぐ傍に転がっている小太刀を掴みながら跳ね起きると、英雄へと叫び返しつつ、再び蘭の前に立ち塞がる。

 この間、時間にして一秒にも満たない。呆れるほどの早業だった。

「…………」

 そんな彼女に向かって、蘭は無言のままに下段から踏み込みつつ、容赦なく二ノ太刀を振るった。今度は足元から掬い上げるような荒々しい斬り上げ。

 あまりにも長大過ぎる刀身の切っ先がグラウンドを抉り、地面に斬撃の軌跡を刻みながら迫る。

 まともに受けるのは拙いと判断したのか、あずみは蘭が踏み込むと同時に素早く横に跳んでいた。メイド服の裾に掠ったものの、ギリギリのところで太刀筋から逃れる事に成功する。

 が、その程度で蘭が攻撃の手を休める訳もない。外見からは想像出来ない凄まじい膂力を以て大太刀を縦横無尽に振り回し、次々と斬撃を放った。

 最初の一撃にて派手に吹っ飛ばされた事で懲りたのか、あずみはそれらを決して正面から受けようとはせず、専ら驚異的な身の軽さを利用して回避し、二振りの小太刀を用いて巧みに受け流していく。

 その技術の高さは全く以て大したものだと思うが、しかし防戦一方である事には変わりない。最大限の集中力を要する紙一重の回避行動の連続に、明らかにあずみは消耗し始めていた。

「うう……何なんですかぁ、この小娘。お利口さんの優等生かと思ってたら、とんだ狂戦士(バーサーカー)じゃないですか。酷い詐欺です」

 小休止とばかりに一旦動きを止めて、ゆらり、と緩慢な動作で大太刀を構え直した蘭に、あずみが毒づく。

 なるほど、狂戦士とはいい表現だ。どうしようもない“暴走癖”を抱える我が従者の特性を、実に的確に示している。

 主、つまりは俺が絡むと何かにつけて暴走しがちなのは毎度の事だが、中でも取り分け俺に対して向けられる敵意・害意・悪意などに、森谷蘭は過敏な反応を示す。

 ましてや、先程の石礫のように、直接的な攻撃が俺に加えられようものならば―――その結果は説明するまでもない。見ての通りである。

 だからこそ。これが、“二つ目の目的”だ。

 蘭の潜在能力を限界まで引き出す為には、暴走させるのが手っ取り早い。何処ぞの人型汎用決戦兵器だって暴走さえすれば大抵の相手に勝てる訳だし。……それは何か違うか。

 つまり、俺は敢えてあずみに自らを攻撃させる事で、蘭の強化を図ったという訳だった。強化ついでに狂化してしまったが、そこはまあ目を瞑るしかない。どんな場合であれ、力には代償が付きものである。

「確かに、パワーは今までとは比較になりませんね☆でも」

 ……しかし、暴走はあくまで暴走。

 無表情の蘭は一見して冷静沈着だが、間違いなくアレは大部分の理性を失っている。

 それは即ち、通常状態における嫌味なまでの隙の無さ、鉄壁の守りを放棄する事を意味していた。

 紛れもない玄人であるあずみが、その隙を看過する訳がない。

「付け入る隙が出来てありがたいですよ、私としてはっ!」

 あずみは両手の小太刀を同時に、蘭に向けて投擲する。

 不意を突かれたのか、一瞬の硬直を見せた後、蘭は自らへと飛来する小太刀を無造作な動作で斬り払った。

 気で強化された大太刀による凄まじい剣撃に耐え切れず、空中にて真っ二つにへし折れた小太刀の残骸が地面に落下を始める、その瞬間――あずみはがら空きになった蘭の懐へと無手で突っ込んだ。
 
 固めた拳で顎を打ち抜こうとばかりに大きく腕を振りかぶるが、それすらもフェイント。直後、上体の防御のために重心が浮き、疎かになった蘭の足元に、あずみの強烈な足払いが決まった。

 予想もしない衝撃に耐え切れずバランスを崩した蘭は、前向きに地面に倒れ伏す。

「わざわざあなたの相手をする必要もありませんからね~」

 無防備な状態の蘭には目もくれず、あずみはそのまま一瞬たりとも動きを止めずに駆け出した。

 当然の如くその標的は“主”である俺である。武器を失い、同時に蘭との戦闘を継続する手段を失った彼女に、他の選択肢などあろう筈もない。

 姿勢を低くしたまま、一目散に俺の元へと直進するあずみ。その背後で地面から身を起こした蘭は、転倒の衝撃で我に返ったのか、狼狽した表情で俺へと視線を向けた。

「蘭。構わん。往け」

 主の身を守るべく今にもあずみを追って俺の元へ駆け出そうとする蘭に、俺は静かに指示を出した。

 時間が惜しかったので片言のような命令になってしまったが、蘭であれば俺の言いたい事は理解できているだろう。即ち、“俺に構わず無防備な英雄を仕留めろ”である。

 どの道、今更追い掛けたところであずみを止めることが不可能な以上、致し方ない。

 もう二秒も待たずして、彼女は俺を攻撃の射程範囲に収める。蘭がどう足掻いても間に合わないだろう。

「ふん」

 まあ、だからと言って勝負を諦めた訳ではないが。蘭が足掻いても無駄だと言うなら、代わりに俺が足掻いてみせるだけの事だ。従者の尻拭いは主君の役割である。

 幸いにして、全ての条件と準備は既に整っている。

 暴走して隙だらけになった蘭が抜かれる事もまた、事前に予測されていた未来図の一つ。

 事前に予測さえしていれば対策を練ることも、その為の覚悟を決めることも可能になるのだ。

 あと一秒もすれば俺の身体に肉薄するであろうあずみの姿を、確りと視界に捉える。

 全くと言っていいほど気が進まない方法だが。俺の選択できる唯一の手段である以上、文句を言っても仕方がない。

 頭の中にイメージを描く。今回のテーマは“俺が殺意を覚えた瞬間”。

 幼少の頃より体験してきた、忌まわしい記憶の数々が脳裏にフラッシュバックする。


―――その映像の中に、衣服を半ば引き裂かれ、恐怖に泣き叫ぶ幼い少女の姿を見出した時。


 俺が放出する紛い物の殺気に、更なる殺意が上乗せされた。俺自身の保有する、正真正銘の殺意だ。

 そうして絡み合い昇華した殺気を更に凝縮。今までのような広域を巻き込む面ではなく、一箇所を刺し貫く点の形へと。

 眼前に迫るあずみに向けて、俺は極限まで高めた殺気を一切の手加減無く叩き込んだ。


「ぁ……っ!?」


 その様はあたかも、蛇に睨まれた蛙。

 コンセントを引っこ抜かれた電化製品を連想させる唐突さで、あずみの動きがピタリと静止した。

 指先を俺に向って伸ばした、何とも不自然な体勢のまま、石像の如く硬直したあずみ。その顔色は幽霊を見たかのように真っ蒼に変わり、大きく目を見開いている。

「どうしたのだ、あずみ!なぜ動かん!……うぬぬ、おのれ、我の従者に何をした!」

「さてな。俺が少し睨んでやれば、この様だ」

 殺気を拡散させず、一点に凝縮したので、英雄には何が起きたのか分からなかったのだろう。それは観客達も同様だ。突如として不自然に動きを止めたあずみに、訝るようなざわめきが起きている。

 あと十センチ。あずみの指先が俺の身体へと届くには、ただそれだけの距離を詰めれば良い。

 しかし、それは無理な注文でもある。俺が練り上げた最大級の殺気をまともに浴びて、身体が動く筈はない。

 強烈な“死”のイメージに囚われた身体は、意志とは無関係に身動きを拒絶する。そもそも、こうして気絶せずに意識を保っていること自体が既に異常なのだ。

「大体。お前に従者の心配をしている余裕があるのか?俺の従者が、何時までももたついている訳もあるまいに。何故逃げない」

 俺の言葉通り、蘭は命令に従って行動を開始していた。もはや不要と判断したのか、模造刀を放棄して身軽になっている。あと数秒と掛からずして、その手は英雄へと到達するだろう。

 しかし、英雄は一歩もその場から動こうとはせず、堂々と腕を組んで笑い声を上げた。

「フハハハ、馬鹿を言うな!王たる我が背中を見せる筈があるまい。心配せずとも、我はあずみを信じている。何をされたのかは判らんが、この我の従者がおめおめと敵に膝を屈する事など有り得ぬのだからな!」 

 その言葉、その表情に、虚勢の色は欠片も見受けられなかった。という事はつまり、この男は一切の偽りなく、一片の曇りもなく、心底から己が従者を信じ切っているのだろう。

「ふん。何とも、酔狂な」

 根拠もないにも関わらず、この絶対的な自信。それは無謀と傲慢の産物でしかない、と言ってしまっていいハズなのだが。

 
 主君として、一人の従者を抱える身として―――俺は、そういう風に考える事は出来なかった。


「ふぅ……、メイドも、つらい」

 
 その時。囁くような小声が、目の前のあずみの口から発せられた。凍り付いた喉と舌を無理やりに動かして、あずみは言葉を紡ぐ。


 俺に向かって伸ばされた指先が、ピクリと僅かに痙攣した。


「あたいはなぁ。どうあっても、英雄様を敗者にさせる訳には、いかねえんだよっ!!」


 あずみが殺気による拘束に抵抗し、指先をゆっくりと進め始めるのと。


「左様なこと!私とて同様だと、言った筈ですっ!!」


 蘭が英雄に向かって決死のヘッドスライディングを敢行するのは、ほぼ同時の出来事であった。

 
 未だ殺気の影響から脱し切れていないあずみの動きはスローモーションが掛かっているように鈍く、その指先から逃れるのは簡単だ。

 
 一方、英雄の身体能力がいかなるものかは知らないが、馬鹿正直に真っ直ぐな蘭の突進など、軽く横に跳ぶだけで回避は容易だろう。

 
 しかし、俺も英雄も、自らに迫り来る攻撃に対して身動き一つ取らなかった。

 
 決闘そのものに勝利したとしても、その方法が“逃げ”であればまるで意味はない。


 主君としての器の差を競う。それが、この決闘のそもそものお題目だったはず。ならば、ここで選択を誤る訳にはいかないだろう。


 織田信長は己が偽りの威信を守り通す為。九鬼英雄は己の勝利を信じるが故。敢えて動かず、その場に踏み留まる。


 故に――――決着は、次の瞬間であった。





「それまで!!」


 


 決闘の終了を告げる鉄心の声に、グラウンドは静まり返る。
 

 あずみが俺に。蘭が英雄に。互いの従者が互いの主君にその指先を到達させたタイミングは、ほぼ同時。

 
 少なくともギャラリーや俺達の観察力では、それ以上の判定を下す事は不可能である。しかし、武神と呼ばれる鉄心であれば話は別だろう。

 
 故に観客達の誰もが固唾を飲んで、鉄心の次なる一言を待っていた。


 
 そして、数瞬の沈黙を経たのち、川神鉄心は朗々と宣言する。





「――――勝者、なし!この試合、両者引き分けとする!」


 











 戦闘描写に思いのほか手間取ってしまい遅くなりましたが、更新です。ようやく決闘が終わった…もっと短く纏めるつもりだったのになぁ。
 
 感想を下さった皆様に感謝。返信こそ出来ませんが、感想・御意見は参考及び励みにさせて頂いています。では、次の更新で。



[13860] 二日目の決闘、そして
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/10 15:51

 誰もが予想していなかったであろう、まさかの結末。

 “両者引き分け”。

 衝撃的とも言える川神鉄心の決着宣言に、観衆は静まり返った。

 が、それも一瞬の事で、静寂はすぐさま爆発的な歓声に取って代わられる。

 全校生徒の半分に届きそうな数のギャラリーが織り成す大歓声は、その中心に居る俺達の耳朶を心地よく打った。

「くぁー、引き分けとか、そんなのってアリかよぉ!」

「畜生、俺の上食券が……なんてこったい」

 そんな中、歓声に混じってところどころで上がる悲痛な叫び。青空闘技場辺りで良く耳にする種類の悲鳴だった。大方、決闘の結果でトトカルチョでもしていたのだろう。

 多少は気の毒だとは思うが、まあ概ね自業自得だ。他人様の苦労に便乗して気楽に儲けようなどと考えた報いを受けるがいい。

「あ、主……」

 決闘を無事に乗り切った安堵感から脱力し、益体も無い思考に浸っていた俺の前に、蘭が歩み寄ってきた。

 生彩の感じられない顔でふらふらと近付いて来るその姿は、傍目にも危なっかしい。まるで幽鬼であった。

「主に大見得を切った挙句の、此度の結末。面目次第もありません……」

 どんよりと陰鬱なオーラを漂わせながら、蘭は搾り出すような声で言葉を紡ぐ。蘭には別に珍しくも無い事だが、どうやら本気で落ち込んでいる様子だ。

 やはり、“引き分け”という結果はこいつにとって責められて然るべきものだということか。

「この森谷蘭、いかなる罰であれ甘んじて受け入れる所存です。主が腹を召せと仰せになるならば、今すぐにでも」

 何をトチ狂ったのか、どこからともなく抜き身の小刀を取り出す馬鹿従者の姿に、心中にて盛大に溜息をつく。

「蘭」

「……はっ」

「顔を拭け」

「はっ?」

「見苦しい」

 つい先ほど英雄に向かってヘッドスライディングを敢行したばかりの蘭の顔面は、見事なまでに砂に塗れていた。

 更にはそこに流した汗と悔し涙とが交じり合って、お前はどこの甲子園球児だと言いたくなるような有様となっている。少なくとも年頃の女子が観衆の前で見せるべき顔ではない。

「使え。許す」

 ぽかん、としている馬鹿に構わずハンカチを懐から取り出し、無造作に放り投げる。蘭はわたわたと慌しい動きでそれをキャッチし、目を瞬かせた。

「俺の従者を務める以上、衆目に醜態を晒す事は許さん。命も賭けぬ勝負の結末など些事。己が強さは、その姿を以って示せ」

 威厳溢れる雰囲気を醸し出しながら静かな口調で言い放つ。

 傍目には間違いなく馬鹿馬鹿しく思えるだろうが、こいつにはこれくらい芝居がかった諭し方が丁度良かったりするのだ。

 長年主従として付き合っている内に、なんだかんだで俺もこの“主”役がすっかり板についてしまった。実に嘆かわしい事である。

「は……、ははーっ!蘭は愚かでありました……誉れ高き主の従者の肩書きに恥じぬよう!蘭は、蘭は胸を張ります!」

 俺の言葉の何処らへんが琴線に触れたのかは知らないし知りたくもないが、蘭は唐突に平伏しながら感極まったように叫び出す。

「苦しゅうない。が、先ずは顔を拭いてからにしろ。恥を掻かせるな。阿呆が」

「ははっ、それでは失礼致します」

 俺が渡したハンカチで顔を覆うと、ずびびびびー、と何とも力の抜ける音を立てて鼻を啜る蘭。

 特に文句は言うまい。俺としては汚して貰っても一向に構わない。どうせ洗濯は(というか家事全般は)蘭の仕事なのだから。

 取り敢えずこいつへのフォローはまあこんなものでいいだろう。全く、変人の従者を持つと主人は苦労させられる。

 まあ、今回の決闘に関しては蘭にほぼ任せっきりだった訳だし、少しくらい労わってやっても罰は当たらないか。

「ん?」

 ふと背後からの足音を感じて、俺は振り向いた。目に映るは無駄に眩しい金ぴかスーツとメイド服。

 先程までの決闘相手、九鬼英雄と忍足あずみの主従のご登場である。

 はてさて、どういう用件があるのやら。或いはまたしても喧嘩を売ってくる気かもしれない。

 心中では油断無く身構えながら、俺は悠然とした調子で二人に向き直った。

「何用か。決闘は既に終結を見た筈。異議の申し立てならば川神鉄心の所へ行くがいい」

「違いますよぅ、つれないですね~。恐れ多くも英雄さまから、庶民の貴方にお話があるそうですよ。ありがたく聞いて下さいね☆」

 営業用全開のスマイルで爽やかに答えてから、あずみは英雄の後ろに控えるように立つ。

 英雄と俺は僅かな距離を挟んで向かい合った。そして、その周囲を不特定多数のギャラリーが見守るように取り巻く。……この注目度の高さは一体全体どういう訳なのだろうか。

「庶民。……いや、織田信長と言ったか?」

「姓名を纏めて呼ぶな。姓のみか、名のみだ。それ以外は許容しない。先刻も言った筈だが。その頭は飾りか」

 たとえ相手が九鬼財閥の御曹司だろうが全宇宙の創造主だろうが、そこだけは譲れない。

「フハハハ、名前などと細かい事を気にしていては器が知れるぞ、信長よ」

 割と本気の殺気を込めて睨んだのだが、英雄は気にした様子もなく笑う。

 肝が据わっているのか単純に無神経なのかは分からないが、何にしても常識外れな奴だ。幾多の修羅場を潜り抜けてきた荒くれ共をも恐慌状態に陥れる俺の威圧を、こうも容易く受け止めてみせる人間などそうはいない。

 竜兵やら釈迦堂のオッサンやら、あの辺りの救えない変態どもはまた話が別なのだが――いや、あいつらの事を考えるのは止めておこう。

「それで。話とは」

「なに、我は貴様を好敵手として認定することにしたのでな。名を記憶しておこうと思ったのだ。光栄に思うがいい、フハハハハ!」

「…………」

 こいつは何を言っているのだろう。何故そうなる。どうしてそうなった。話の展開が唐突過ぎて付いていけそうもない。

 一人で勝手に馬鹿笑いを上げる英雄に、流石の俺も咄嗟に言葉が出てこなかった。

「む、感動のあまり言葉も出ないようだな。殊勝な心掛けである」

「……馬鹿な寝言は寝てから休み休み言え。何の故あって俺が貴様の好敵手にならねばならん」

「簡単な事よ。我は、貴様もまた人の上に立つべき者であると認めたのだ。互いに競い、争うに足る男だとな。であるならば、ライバルと呼ぶのは当然であろう!」

 少なくとも九鬼英雄の脳内においては当然の理論であるらしかった。俺にはいささか理解の難しい言葉だったが、周囲を取り巻くギャラリーにとってはそうでもなかったようだ。

「あのプライドの塊みたいな英雄がライバル宣言か。珍しい事があるもんだな、若」

「ふふっ、英雄は相変わらずですね。少し妬けてしまいます」

「熱い、熱いわ……これぞ男の友情って感じよねぇ。ヴィヴァ青春」

「創作意欲が湧いてきました。何かこう、ムラッと」

「こーゆう時は、えーと、アッー?」「ちょ、ユキ、それは色々と危ないからやめなさい!」

 個々の内容までは聞き取れないが、概ね好意的な雰囲気のどよめきが上がっている……ような気がする。その割に妙な悪寒を感じるのは何故だろう。

「うむ、そういう訳だ。我が好敵手、信長よ。これはもはや決定事項、取り消しなど効かんぞ」

「…………」


 何だか色々と面倒になってきたので、俺は早々に反論を諦めた。こういうタイプの人間にマトモに対応するのは時間と体力と精神力の無駄遣いというものである。

「……下らん。勝手にするがいい」

「フハハハ、言われるまでもないわ!」

 そういう訳で突き放すような調子で吐き捨ててみたのだが、今更その程度の抵抗でダメージを受けてくれる筈もなく、英雄は満足気に頷いた。

 そして、用件が済んだならさっさと失せろと目線で促す俺を、真正面から見据えてくる。

「我は貴様を超えるためには努力を惜しむつもりは無い。貴様も我の好敵手に相応しくあるために日々の精進を怠るな。今回は叶わなかったが、いずれ必ず改めて雌雄を決する時が来るであろう。その時まで念入りに首を洗っておくといい!」

 そう言い残して、英雄は颯爽と踵を返した。

 後ろにあずみを引き連れて、ギャラリーが作った人垣の間を悠然と歩き去っていく。

 その威風に満ちた後姿は、確かに王を自負するだけのことはあると思わず納得させられるものであった。

「去ったか」

 周囲に悟られない程度に、ふぅ、と小さく息を吐く。九鬼英雄に忍足あずみ、あたかも台風の如く騒がしい主従だった。

 英雄の去り際の台詞からして、これにて永久にお別れという訳にはいかないのだろうが、ひとまず解放されたのは事実だ。一息つきたくもなる。

「御疲れ様でございました、信長様。本日は手製の和菓子を持参しておりますので、よろしければご賞味下さい」

「ん、然様か。ならば疾く教室に戻るとしよう」

「ははーっ」

 蘭の手作り和菓子は俺の大好物の一つである。特に今日の決闘という一大イベントで疲労した頭脳には、あの水羊羹のまろやかな甘みがさぞかし染み渡る事だろう。

 こうなっては居ても立ってもいられない。一刻も早く教室に帰還し、今日という波乱の一日を無事に乗り切った喜びを和菓子の甘さと共に噛み締めなければ。

 そんな思いに駆り立てられるようにして足を踏み出せば、英雄達の時よりも更に大仰にギャラリーが割れ、必要以上に広い道を作った。

 気の所為でなければ、織田信長という男に対する彼らの視線には、恐怖心のみならず畏敬の念のようなものを感じる。

 先程の決闘を通じて俺への評価に何かしらの変動が起きたのかもしれない。その辺りは流石に経過を見てみなければ判別が付かないが、悪い方向への変化でなければ歓迎するとしよう。

 まあ。そんな事は後でいくらでも考えればいい。

 今の俺にとって最も重要な案件は、一刻一秒でも早く教室に辿り着き、蘭の机に保管されているであろう和菓子を味わうことである。邪魔をする者が現れるなら、己が全力を以って排除して見せよう。


 募る想いに身を任せ、今まさに教室へ向かう足を速めようとした、その時であった。



「ちょーっと待ったぁー」

 

 妙に間延びした緊張感の無い声に、俺がピタリと足を止め、観客達がどよめき、背後で蘭が息を呑む。

 この場に居る全員の視線は、俺の前方、まるで進路を塞ぐ様に仁王立ちしている人影に向けられていた。

 美しい闇色の髪を長く伸ばした、抜群のプロポーションを有する文句なしの美少女。

 だらしなくにやけた口元とは裏腹に、猛禽類の如く鋭い目で真っ直ぐにこちらを見据えている、その少女は、この川神学園――否、川神市における最大の有名人であった。

「川神、百代……!」

 蘭は表情を引き攣らせながら、誰一人として知らぬ者の居ない少女の名を呟いた。

「おー、転校生のカワイコちゃんも私を知ってるんだな。いやー有名人は辛いなー困っちゃうなー。よしよし、是非とも後で私といちゃいちゃしよう」

「………っ」

 普段の蘭なら大なり小なりツッコミを入れて然るべきところだが、今は何一つとして言い返せていない。

 完全に相手の、川神百代の圧倒的な存在感に呑まれている証拠だった。

 何をされた訳でもない。ただそこに立っているだけで、にやにやと笑っているだけで、押し潰されそうな重圧を周囲に振り撒いている。

 これが、川神院の産み落とした世界最強の闘士か。こうして実物を目の前で拝むのは初めての経験だが、なるほど。

 正真正銘、怪物だ。

「蘭。下がれ」

「……はっ」

 落ち着け。俺まで呑まれてはいけない。いや、呑まれている事を悟られてはいけない。

 一度でも動揺を悟られてしまえば、織田信長の虚像に亀裂が入ってしまう。他の全てを犠牲にしてでも、それだけは絶対に回避しなければならない事態だ。

「そんなに怖がらないで欲しいんだけどなー。お姉さんの繊細なハートが傷付いちゃうぞ」

「そうも剣呑な眼をしておきながら、良く言えたものだ。鏡を見る事を推奨しよう」

 決して言葉にも表情にも動揺を浮かばせないよう細心の注意を払いながら、俺は織田信長の仮面を被った。

 この川神学園への転入を決めた時点で、川神百代と言う怪物と向き合う覚悟も準備も済ませた。それを今更になって怯え竦んでどうするというのだ。

 現在の事態は、来るべき時が来るべき時に来たに過ぎない。

「或いは、真に気付いていないのか。貴様の眼は、飢えた獣のソレだとな」

「おおっと、いきなりご挨拶だなぁ、転校生」

 感情の読み取り辛い薄ら笑いを浮かべながら、川神百代が俺に声を投げかける。

「ちなみにここで豆知識、私は三年生でお前は二年生だったりするんだ。ちょっと先輩に対する口の利き方がなってないんじゃないかなー。そんな生意気な後輩には誰かが縦社会の厳しさを教えてやらないとダメだよなぁ。だからさ」

 甘ったるい猫撫で声が、ここまで人間の恐怖を煽る物なのだと俺は学習した。

 にぃぃ、と彼女の口元が弧を描いて、背筋が凍るような笑みを形作る。

「戦おう。今すぐここで私が満足するまで存分に。戦おう」

 俺に向かって嬉々とした調子で語り掛ける彼女の声は、これ以上ないほど陽気に弾んでいる。

 仮にこの声音で語られる内容がデートのお誘いであれば、俺はどれだけ救われた事だろう。

 そんな益体も無い考えで現実逃避をしたくなる程度に、状況は切羽詰っていた。

 川神百代。

 その戦闘能力はまさしく驚異的の一言であり、他の追随をまるで許さない。現時点において実力で彼女を抑え込めるのは、祖父である川神鉄心のみと言われている。

 そんな次元が一つも二つも違うような存在を相手に、正面から戦いを挑めばどうなるか。

 その答えはかつて彼女に挑んで散っていった無数の闘士達が身を以って証明してくれていた。

 しかしだからといって、いつもの如く小細工を弄したところで通用するようには思えない。ネズミ用の罠をライオン相手に仕掛けるようなものだろう。

 つまり。俺に残された選択肢は最初から一つしかない。

 いかにして川神百代との“戦闘”を回避するか、だ。

「さっきの決闘な、ゾクゾクしたよ。こんな感覚は久しぶりだ……私とジジイくらいしか気付いてなかっただろうが、最後のアレ、超圧縮した殺気で相手の動きを封じたやつ。あんな芸当、私にも出来ないぞ。そういうのが得意な師範代の釈迦堂さんでも、あそこまでの殺気は出せやしなかったハズなんだ。ははは、何だろうな、本当にワクワクが止まらないんだ。なあ、もっとあるんだろ?勿体ぶらずにお姉さんに見せてみろって、なぁ」

 眼を爛々と光らせて、舌なめずりせんばかりの表情で俺に語り掛ける百代。

 どう考えてもこの流れはマズいな。穏便に解決できる道筋がまるで見えてこない。

「決闘の直後で疲労している。故に全力で戦えない……と言ったら。如何する?」

「あのな、そんな訳あるか。さっき、お前ほとんど何もしてないだろうが。後ろのカワイコちゃんに任せっきりで」

 やや呆れた顔で一蹴されてしまった。ですよねー、と言わざるを得ない。いや、口に出しては言わないが。

 さてどうしたものか、と心中にて思案しつつ、俺はさりげなく百代から視線を外し、その背後のギャラリーからある人物を探していた。

 人間型最終破壊兵器百代に対する唯一のストッパー、川神鉄心。あの怪物爺さんの動向次第で、俺の取るべき対応もまた変わってくる。

 数秒後、発見。少し離れた地点のギャラリーの最前列からこちらを観察している。どうやらまだ様子を見る心積もりらしい。

 例え戦闘が始まってしまったとしても、都合よく助け舟を出してくれるかどうかは微妙な所か。偶然の要素に頼るのは俺の主義に反するので、ここはやはり、自分の力で戦闘を回避するのがベストな選択肢らしい。

 幸いにして、幾つか対策案が無いわけでもない。最適の対応を選ぶ為にも、まずは会話を通じて可能な限り川神百代の性格を分析せねば。

「川神百代」

「お?なんだ、転校生」

「貴様は俺との闘いを望んでいるようだが。俺は違う。両者の合意が無ければ、決闘は成立しない。故に、俺が貴様と拳を交わす必要もない」

「んー、なんだ、私と戦うのが嫌なのか?ははーん、さては怖気づいたな、転校生?男なのに女の子との勝負から逃げちゃうんだー、へー、ふーん」

 なんという分かり易い挑発。こんなものに引っ掛かるのはガキか、頭の足りないDQNくらい……だと笑い飛ばせればいいのだが。

 正直を言えば、俺にとってこの手の挑発は致命的だ。織田信長が織田信長である以上、決して“逃げ”は許されない。例えそれが見え透いた挑発だとしても、相手が天下無双と名高い川神百代だとしても、乗らなければ臆病者の謗りは避けられないだろう。

 なんとも面倒な話だが、しかしこれが俺の選んだ生き方なのだ。今更女々しく愚痴は言うまい。

「俺が貴様から逃げる。怖気づいたから。ふん。面白い発想があるものだな」

「お、違うのか?だったら―――」

「川神百代。俺は現在、最高に苛立っている。貴様の無粋な足止めによって、俺は。かれこれ九分と三十六秒もの間、和菓子を食する瞬間の到来を遅らせている」

「は?」

「理解出来ぬなら噛み砕いて言ってやろう。俺にとって、貴様との勝負には和菓子を犠牲にする程の価値などないと。そういう事だ」

「…………」

 さすがに言葉を失ったのか、百代は何とも形容しがたい表情で沈黙した。
 
 さて、この場面でどういう反応をするか。百代の人格を推し量るいい機会だ。

「……もし」

「ん?」

「もし戦ってくれたら、おねーさんとしては仲見世通りの甘味処で色々とおごってあげるのも吝かじゃないんだけどなー。正直言って出費は痛いが、それもお前と戦うためなら安いものだと割り切ってみせるぞ。私はお前との勝負にそれだけの価値を感じてるんだ。なぁ、それでも、ダメか……?」

「ふん……」

 能面の如き無表情を貫き通している裏側で、俺は吐血しそうな勢いで葛藤していた。

 やばい。

 色々と反則だ。反則過ぎる。そんな風に上目遣いで弱弱しくお願いされて陥落しない男がどれだけいると言うのだろう。

 しかも仲見世通りの甘味処と言えば、万年金欠の俺と蘭では手を出すことすら難しい高級店ばかりではないか……っ!

 どうしてこうもピンポイントに俺の弱点を突いてくるのだ。まさかそれすらも作戦なのか。一目で俺の弱点を見切ったというのか。だとすれば恐るべき怪物だ、川神百代。さすがに世界最強の名声を欲しいままにするだけの事は―――っと違う違う。思考が脱線し過ぎだ。落ち着け。

 そう、例えどんな理由があろうと、俺は川神百代と戦ってはいけない。

 それは、揺らぐ事の無い絶対条件だ。

 幸いにしてと言うべきか、既にゴールに至るまでの道筋は見えた。

 事前に仕入れておいた情報と、こうして直に確認した彼女の人となりを併せて考えれば、俺の取るべき対応は確定したと言っていい。

 たとえそれが、どれほど気が進まない方法だったとしても、俺はやり遂げねばならない。

 生憎と現実は和菓子ほど甘くはないものだ。


「そうか。それ程までに、俺との死合いを望むか。其処まで言われては、俺も応えぬ訳にはいかない、か」

「お。やっと分かってくれたか!こんな美少女にここまで想われて幸せ者だぞお前は。さあさあ、始めよう戦おう。ああ、待ちくたびれた―――」

「ならば断言しておこう」

 百代の浮かれた言葉に被せるようにして、俺はどこまでも冷たく言い放つ。


「俺は、貴様のような半端者と死合うつもりなど、毛頭ないと」

 
 その言葉を告げ終えた瞬間から数秒間、時が止まった。少なくとも俺はそのように体感していた。

 群集のざわめきすらもピタリと止まり、痛いほどの沈黙がグラウンドを支配する。

「半端者……?なあ。それは、もしかしてさ、私に向かって言っているのか?」

 その異様な沈黙を破ったのは、やはり百代だった。

 怒りを無理やり押し殺したような低い声音で、俺に問い掛けている。全身からはドス黒く禍々しい気が溢れ出し、その双眸から放たれる本物の容赦ない殺気が鋭利な刃となって俺に突き刺さる。

 “人間”を怖いと本気で思ったのは、久々の体験だった。

 以前に似たような怪物と対峙した経験が無ければ、こうも完璧に外面を取り繕うことは不可能だっただろう。

 今だけはあんたに感謝してやってもいい、釈迦堂のオッサン。あんたのお陰で耐えられるし、川神百代という怪物を少しは理解できそうだ。

 震え出しそうになる脚を抑え、浮かびそうになる冷や汗を抑え、引けそうになる腰を抑えて、俺は真正面から悠々と百代の怒気を受け止めてみせた。

「なあ、私はそんなに気が長い方じゃないし、善人でもないんだ……私に話をする意思が残ってる内に答えてみろよ。私の何が半端なのか」

 ここで退いては全てが台無しになる。今こそが踏ん張りどころなのだ。

 俺は真っ直ぐに百代の燃えるような目を見つめ返して、用意された言葉を淡々と紡いだ。

「貴様の眼は、獣の眼だ。飢えを癒す為、ひたすら獲物を捜し求める、血走った狂気の瞳。貴様の本質は、疑いなく……闇」

「それがどうした。私だって分かってるよ、そんな事は。自分の衝動がどういうものかは誰よりも理解してる」

「ならば尚の事度し難い。己が何者か自覚がありながら、光にしがみ付いていると言うのか」

「光……ね」

「家族。友人。恋人。貴様は何も捨てていない。捨てて闇に堕ちる覚悟もない。だからと言って、欲望のままに闘う事を止める意思もない。獣と人のどちらにも成り切れず、闇にも光にも染まり切れず。ただ才能に任せてその境界線上に胡坐を掻いている。そんな半端者と、命を賭けて死合うなど御免蒙る。そこに何の価値がある?俺が言っているのは、そういう事だ」

 一息に言い切ると、そこで一旦口を閉ざして、百代の反応を窺う。

「私は……だが……、むぅ……」

 俺の指摘に心当たりがあったのか(まあ無くては困るのだが)百代は何かしら葛藤している様子だった。眉間に皺を寄せて、小さく唸っている。

 ただ、その身に纏う雰囲気からは、怒気と殺気が薄れているように思えた。それだけ俺の言葉に真剣に耳を傾けてくれているのだろう。

 聞く耳持たずに問答無用で攻撃されていたらかなりマズイ状況になっていただろうから、取り敢えずは一安心である。

 よし。この調子なら、一気に言葉を重ねて勢いで押し切ってしまうのが上策だろう。

 俺は唇を軽く舐めて湿らせてから、再び口を開いた。

「勘違いは望まぬ所。故に言っておこう。俺は貴様を誰よりも高く評価している」

「そんな風には聞こえなかったがな。あれ、私の耳がおかしいのか?あれぇー?」

 皮肉が飛ばせるくらいなのだから、怒りは殆ど収まっていると考えてもいいだろう。好都合だ。今ならば、ある程度の理屈が通じる。

「貴様の実力は紛れも無く本物。戦うとなれば、互いに手心を加える余裕など無いだろう」

「ま、私が強いのは当たり前としてだ。お前の方はどうなんだろうなぁ?随分と自信満々だけど、私はお前の実力をぜんっぜん知らないからなー。ほんとーは弱っちかったりするんじゃないのか?」

「下らん事を言うな。貴様が本気でそう思っているなら。わざわざ勝負を挑んだりはしないだろう」

「ま、その通りだけどさあ。あーあ、イジリ甲斐がないなー、うちの舎弟とは大違いだ」

「ふん。それは実に喜ばしい事だ」

 何とも肝の冷える遣り取りである。百代にとっては軽い嫌味程度の認識なのだろうが、俺の精神はガリガリと凄まじい勢いで削られているのだ。正直勘弁して欲しい。

「話を戻すが。俺はあくまで、“現在の中途半端な川神百代”に死合う価値を見出せていないだけの話。如何に中途半端な状態であれ、貴様とやり合って無傷で済むとは思えんのでな」

「それはな。当たり前だろ」

「この五体は、いずれ“未来の完成された川神百代”と死合う日の為にも……損なう訳にはいかない。貴様もまた、半端なままで俺と死合って、五体を損なうのは本意ではあるまい」

 我ながらとんでもない理屈を並べるものだ、と内心馬鹿馬鹿しく思わずにはいられなかったが、しかし思えばリアルトンデモ人間の川神百代を説得するのだ。これくらいネジのぶっ飛んだ理論でも用いなければ到底納得させられないだろう。

 そんな俺の努力の甲斐あってか、ついに百代は降参するように両手を上げて、若干うんざりした様な調子の声を上げた。

「あー、まあお前の言いたいことは大体わかったよ。わかったわかった、はいはい、大人しく諦めるって。……今日のところは」

 何やら不穏な言葉が最後に聞こえたのは気のせいだろうか。

「…………」

「だって、明日になったら気が変わってるかもしれないし」

 それでは困る。校内にて常に百代の影に怯え続ける生活など論外だ。俺の平穏なる学生生活が完全に崩壊するではないか。

 何という事でしょう。俺の魂を込めた説得は無駄に終わってしまったのか。くそっ、川神百代……この悪魔めっ!
            
「まあでも」

 脳内にてケケケと笑うデビル百代を泣きながら罵倒していた俺を、現実に引き戻す声。


「私もお前とは真剣マジで決着を付けたい気はするな。だから、私も今は我慢してやるさ。ただし―――私が真に“完成”したら、その時こそ私と戦うと約束してくれ。と言うか約束しろ。いいな」


「……ふん。言われるまでも、ない事だ」

 内心の動揺を押し殺して鷹揚に頷いて見せると、百代は満足気にニンマリと笑って、絶対だからな、と念を押した。

「よーし、約束も取り付けたし、それじゃ私はそろそろ退散するか。あー、ちなみに私な、後ろのカワイコちゃんにも興味津々だったりするから」

 俺の背後に控える蘭に、ねっとりと熱視線を送る。ビクリ、と蘭は蛇睨みにあった蛙の如く硬直した。

「そういう訳でお二人さん、これからもまたよろしくなー。ばっははーい」

 そんな蘭を見てニヤリと嫌な笑みを浮かべると、百代は颯爽と手を振りながらギャラリーの中へと去っていった。

「やれやれ、だ」

 今の気分を四文字熟語で表現するなら、まさしく台風一過、と言ったところだろう。

 ひとまずはこれにて一件落着。どうやら、当面の危機を回避することには成功したらしい。

 ただし、こんなものは所詮、その場凌ぎの方便に過ぎない。根本的な解決を行っていない以上、そう遠くない将来にこのツケは払うことになりそうである。

 考えるだけで何とも頭の痛くなってくる話だが、まあ、将来の問題は将来の自分が何とかする事だろう。

 少なくとも今、気に病んでも仕方のない事だ。

 そんな事よりも今は、兎にも角にも無性に和菓子を貪りたい気分である。それ以外の事など、思考する気にもなれない。


「蘭」

「は、ははっ。信長様、何用でございましょうか」

「今日の和菓子の品目は」

「はっ。水羊羹と桜餅を用意しております」

「うむ。主の求める物を良く理解している。褒めて遣わす」

「ははーっ、有難き幸せにございます!」

 
 よーし、今日は胸焼けするまで存分に食そう。うんそうしようそうに決まった。わぁい楽しみだなぁ。


 ……疲れた。










 





~おまけの風間ファミリー・放課後にて~








「いやー、軽い暇潰しのつもりで見学に行ったんだけど、色々とスゲーもん見ちまったぜ」

「全くだな。姉さんがキレそうになった時は本気で焦った。あれだけ人がいるところで暴れられたら被害が洒落にならないし」

「もー、お姉さまは関係ない人を巻き込んだりはしないってば!でも、あんなに怒ってるお姉さまは久し振りに見たわ……うぅ、恐かったよぉ」

「よしよーし。ワン子、泣かない泣かない」

「泣いてないわよ!うー、これも全部あの変な転校生のせいよ。今度見かけたらお姉さまの代わりにアタシが成敗してくれるわ!」

「それなんだけどな……ワン子だけじゃない、皆の耳に入れておいた方がいい話がある」

「おお、さすがは我らが軍師、あの美少女転校生の個人情報を早くも入手したか!」

「そんな訳ないでしょ!何だか真面目な話みたいだから邪魔しちゃダメだって、ガクト」

「俺様の小粋なジョークが理解できねぇとは哀れな奴だぜ。で、話ってなんだよ、大和」

「どうも気になったから人脈を使って調べてみた訳だけど……2-Sの例の転入生二人、相当ヤバイ奴らみたいだ。詳しい話はもう少し調べてからにするけど、正直言って触りの部分だけで十二分に危ない感じがする。学校でも可能な限り関わらないようにした方がいいだろうな。特にワン子、間違っても喧嘩売ったりしないように」

「分かってるわよ、もー。人を狂犬みたいに言わないでよ!」

「大丈夫。ワン子はどっちかというと忠犬」

「そ、そう?えへへー、それほどでも」

「犬扱いにも文句を言わない辺りが全力で忠犬だよね……」













 GW中に書いておいたものをひっそりと更新してみます。

 プロットだけで小説が完成すればいいのにと思う今日この頃。時間が欲しいなぁ。

 おまけの風間ファミリーはどの台詞が誰のものかを推測しながら読むと楽しい……可能性が無きにしも非ずかもしれませんね。

 ヒント:まゆっちとクリスは時期的にまだファミリーに加入していません



[13860] 三日目のS組
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/10 15:59
 
 四月九日、金曜日。

 まるで鈍器で殴り合うかのような耳障りな音と、あたかも骨をへし折られたかのような喧しい悲鳴をアラーム代わりに、俺は目を覚ました。

 のっそりと緩慢な動作で上半身を起こして、枕元の目覚まし時計に目を遣る。表示時刻は、午前五時ジャスト。

 なんと言うことだろう、本来の起床予定時間よりも一時間以上も早い。なるほど、道理で寝足りない気分な訳だ。

 しかしそれでいて、わざわざ二度寝するほどの纏まった時間も残っていないときた。全く、何とも中途半端なタイミングで叩き起こしてくれたものである。

 眠い目を擦りつつ、窓の外に映る景色を睨み付ける。

 当然の話だが、時間帯が時間帯だけに、部屋の外はまだまだ薄暗い。

 ベッドの縁に腰掛けたまま朦朧とした意識で思考すること数分、俺は意を決して立ち上がった。

「やれやれ。致し方ない」

 丁度いい機会だと思って、本日はいつもより気合を入れて朝の鍛錬に取り組む事にしよう。

 ひび割れがあちこちに走った鏡の前にて洗顔、歯磨きを済ませ、手櫛で寝癖を抑え付ける。

 次いで蝶番の軋むクローゼットの中から適当な上着を選んで引っ掛け、最後に冷えた麦茶で渇いた喉を潤してから、俺は玄関のドアを開け放った。

 朝方の新鮮な空気を吸い込みながら、間違っても踏み外さないよう慎重に階段を降りて、いつものように中庭へと向かう。

 予想通り、そこでは我が従者が勤勉に木刀の素振りをしている最中であった。

「あ、お早う御座います、主!」

「うむ」

 俺の姿を見つけるや否や、いつものように鍛錬を中止してぱたぱたと駆け寄ってくる蘭に、鷹揚に頷く。

「今日は随分と早いお目覚めですね。あ、すぐに朝食を用意致しますので、少々お待ち頂ければ幸いに存じます」

「うむ。俺は此処で鍛錬を始めるとしよう」

「ははっ、ではこちらまで食膳をお持ち致します。して、和・洋のいずれをご所望でありましょうか」

「和」

「承知致しました!この森谷蘭、主のご期待に沿うべく死力を尽くして朝餉を用意致しますっ!」

 無駄に暑苦しく叫ぶや否や、蘭は鍛錬用の木刀をぽいっと放り投げて、老朽化した階段を嵐の如き勢いで駆け上がっていった。

 刀は武士の魂などと良く言うが、一応は武家の血筋であるハズの蘭の行動を見ている限り、その言葉も眉唾物に思われて仕方がない。

「まあ。木刀は所詮木刀。刀には含まれない、と言う事か」

 地面に無造作に転がっているソレに一瞥をくれてから、俺は強張った筋肉をほぐす為に背伸びをする。

 途端、バキリボキリ、と想像以上に壮絶な音が全身から聞こえてきた。やはり昨日の俺は相当に疲労していたらしい。

 肉体的にはそれほどでもないが、主に精神的な意味での消耗が酷かった。まあ、かの悪名高い川神百代と真正面から対峙して五体満足で生き延びているのだから、この程度の疲労で済んでいるのはむしろ僥倖と言ってもいいのだろうが。

 川神学園への転入。いくら自分で選んだ道とはいえ、あんな怪物の相手は可能な限り御免蒙りたいものだ。

 いつも以上の時間を掛けて体の各部を念入りにマッサージしながら、俺はそんな事をつらつらと思考していた。

「不肖森谷蘭!只今主の朝餉をお持ちいたしました!」

 数分後、ちょうど柔軟体操を終えたそのタイミングで、突風のごとく舞い戻った蘭が俺の眼前にて急停止した。その両手には幾つかの食器を載せたトレイを捧げ持っている。

「今朝の献立は」

「主は和食をご所望と仰せになられましたので、握り飯と味噌汁、漬物の三品を」

「大儀であった。己が鍛錬に戻るがいい」

「ははーっ!主の臣下として恥じぬ己となるべく―――」

 弛まぬ研鑽を重ね鍛錬を繰り返し雨ニモマケズ風ニモマケズ云々。

 もはや定型文と化した蘭の暑苦しい決意表明を適当に聞き流しながら、俺はトレイの上で温かい湯気を立てている味噌汁のお椀に手を伸ばす。

 それにしても。配膳の際にあれだけ激しい動きをしていながら、味噌汁が一滴も零れていないのはどういう理屈なのだろうか。

「……考えた所で、無意味か」

 とっくの昔に人間辞めてる連中に人間の理屈を当てはめる行為自体がナンセンスである。

 ちなみに朝食の味は文句なしであった。我が従者は人格がちょっとじゃ済まない程度にアレだが、掃除洗濯炊事等の家事全般に関しては疑いなく優秀なのだ。

 これが変人でさえなければ嫁の貰い手など幾らでも見つかるのだろうが、天は二物を与えずとは良く言ったものである。

「ああ。掃除と云えば、蘭」

「はっ。何で御座いましょうか、主」

 朝食を終え、蘭と並んで自分の得物を素振りしながら、おもむろに口を開く。

「ゴミは既に出してきたか」

「主の御起床の数分ほど前に済ませておきました!主のご意向を伺うまでは、と思いましたので、ひとまず玄関前に積んでありますが……如何いたしましょうか?」

「少々、訊いて置かねばならん事もある。蘭。案内しろ」

「ははーっ!蘭は確かに承りました!」

 蘭は子犬が尻尾を振るような調子で、実に嬉しそうに血塗れの木刀を振った。

 未だ乾いてはいない誰かの血が、滴となって地面に跳ねる。

 ところどころに出来上がった血溜りと、散乱したナイフやらポン刀やらの刃を誤って踏まないように注意しながら、小規模な戦場跡と化した中庭を横切り、表玄関からアパートの敷地外へ。

 少なくとも昨晩までは確実に存在しなかった、奇怪なオブジェがそこには聳え立っていた。

「二十五。いや、六か」

「ご明察の通りです、主。これほど大掛かりなゴミ出しは久しぶりでございました。まさに大掃除です」

「ふん。日も昇らぬ内からわざわざ骨を折りに来るとは、御苦労な事だ」

 遠目にも分かるほどにズタボロにされ、無造作に積み上げられた二十六の人体をしげしげと眺める。揃いも揃って気絶している真っ最中らしく、呻き声すら上げていなかった。

 どう見ても不自然な方向に折れ曲がった手足が時折ピクピクと痙攣している様が、何とも言えず不気味である。蘭の侵入者に対する容赦のなさ加減が良く窺える情景であった。

 観察を続行。年齢層は十代後半から二十代前半程度、見た限り全員が男のようだ。どうやら哀れな犠牲者の中に女子供は混じっていないようで、少し安心した。

 こういう風にいかにもそれっぽい容姿の典型的雑魚チンピラ連中が相手なら、俺としても余分な同情は抱かずに済む。

 大体。

 よりにもよって“蘭を相手に”“集団で取り囲んで暴行を加えようと”するから、ここまで徹底的に痛めつけられる羽目になるのだ。

 無駄に刺激しなければ、せいぜい腕の一本ほどで済んだだろうに。まさに自業自得、骨折り損のくたびれ儲けという奴である。

「しかし。今回は手間取ったようだな、蘭」

「はっ。各個人の練度は失笑ものでしたが、なにぶん数が多く……面目次第もありません」

「許す。今後の精進に、期待する」

「ははーっ!主の御期待に沿えるよう、蘭は必ずや強くなってご覧に入れます!」

 流石にこれだけの大所帯が相手と来れば、“普段通り”に声も立てさせずに瞬殺して終わり、と言う訳にもいかなかったか。

 二階に位置する俺の部屋まで悲鳴が届くケースは珍しいと思ったが、そういう事情があったなら納得というものだ。

 まあ、それはさておき。爽やかな早朝から気が重いが、俺は俺のすべきことをするとしよう。

「全く。無駄に、手間を掛けさせる」

 俺はオブジェの中から適当な一パーツを選んで引っこ抜き、アスファルトの路面に引き摺り落とした。その際の衝撃と痛みで覚醒したのか、男は「ぎゃっ」と小さく悲鳴を上げながら勢い良く目を開ける。

 焦点の合わない虚ろな視線が少しのあいだ宙を彷徨い、そして無表情で目の前に佇む俺の姿を捉えた瞬間、男の表情はみるみる内に恐怖の色に染まっていった。

「ひっ!て、て、テメエは……、クソッ、お、オレに手ェ出したらどうなるか分かってんだろーなぁ、ああ!?お、オレはあの“黒い稲妻”の一員で―――」

「黙れ。貴様は只、俺の疑問に回答しろ。それ以外の行為を許した覚えは無い」

 なぜ朝一番に叩き起こされた挙句、こんな意外性の欠片も無いテンプレ野郎の相手をせにゃならんのだ。

 盛大にうんざりした気分に襲われながら、俺は威圧のレベルを尋問用のものに調整する。

 面倒極まりないが、こいつから訊き出しておくべき情報が多いのも確かである。

 何せ、実に数週間ぶりに現れた“敵対勢力”の一員だ。

 場合によっては、今週末の俺の行動予定に変更を加える必要も出てくるだろう。

「忠告は一度だ。二度はない。生きながらにして地獄を覗きたくなければ。貴様の有する情報の全て、洗い浚い吐き出して見せろ」

 取り敢えず、HRの刻限に間に合うように手早く吐かせなければ。

 腕時計で現在時刻をさり気なく確認しつつ、俺は誰にも聞こえない小さな溜息を吐いた。

 
 夜討ち朝駆けは、織田信長にとっては割とありふれた日常の一ページである。





 


 そんな慌しい早朝の一幕も気付けば過ぎ去り、俺と蘭は現在、川神学園の正門を潜っていた。

 中央校舎の時計を見上げれば、七時五十五分を指し示している。HRの開始は八時二十分なので、かなり余裕を持って到着できた事になる。

 うむ、頑張って脅した甲斐があったと言うものだ。

「さて。征くぞ、蘭」

「ははーっ、私めはどこまでもお供いたします!」

 そんなこんなでやってきましたB棟二階、2-Sクラス。

 引き戸をガラリと開けて教室内に足を踏み入れた瞬間、ビシリと音を立てて空気が凍り付き、皆の視線が一斉にこちらに集中する。

 冷静に考えるとかなり嫌な反応だが、しかし俺としてはとっくの昔に慣れ切ってしまっているため、もはや何も感じない。期待通りの反応に、むしろ安心感すら覚えるほどだ。

 やれやれと心中で肩を竦めつつ、沈黙した教室を横切って窓際の席へと向かう。

 異変が起きたのは、その時だった。

「お、織田くん、おはよう……ございます」

 一瞬、それが自分に向けられた挨拶だと認識できなかった俺を誰が責められよう。想定外かつ不意討ちにも程がある。

 ざわり、と教室中で小さなざわめきが巻き起こった。

 そんな事態を引き起こした人物は、精々が眼鏡くらいしか特徴のない、顔も名前もまるで記憶していない女子生徒。

 俺が訝しむままに彼女を凝視すると、見る見る内に顔色が青ざめていく。周囲の生徒達は固唾を呑んで状況を見守っている様子だった。

 この場合、最低限の対応だけはしておくべき……なのか?むう、想定外過ぎて咄嗟に正しい判断が浮かばない。どうしたものか。

「……ああ」

 取り敢えず、彼女と目を合わせたまま悠然と頷いてみせた。それだけの動作でも、反応があったのが嬉しかったのか、女子生徒はあからさまに安堵したようにホッと息を吐いた。

「えっと、森谷さんも、おはよう」

 俺の時よりもかなり気楽そうな調子で、今度は蘭に声を掛ける。

「は、はいっ!?あ、お、お早う御座いますっ!」

 やはり蘭にとっても想定外の展開だったのだろう。若干慌てた調子だったが、しかしそれ以上に喜びが勝っている様子だった。

 そして、女子生徒の挨拶を皮切りに、教室のあちこちから遠慮がちな「おはよう」が聞こえてくる。

「わっわっ、何という事でしょう、こんなに沢山の方達に挨拶を頂けるなんて……主、主、蘭は皆さんにご挨拶を返しても宜しいのでしょうか!?」

「許す。好きに振舞え」

「ありがたき幸せにございますっ」

 蘭が喜び勇んで挨拶を返して回る様子を横目に自分の席に腰掛けてから、俺は腕を組んで事態の分析に務め始めた。

 解せぬ。どうにも解せぬぞ。一体全体どういう事態なのだろう、これは。

「おはようございます、信長」

 この三日間で多少聞き慣れてきた柔和な声が、俺の思考を中断させた。

 気付けば、隣の机の上に優雅に腰掛けて、葵冬馬がこちらをにこやかに見ていた。

「ふふ、流石は私の見込んだ人物ですね、信長。こうも早くこのSクラスの方達に認められるとは、驚きを禁じえません」

 どこか嬉しそうに語る冬馬の言葉は、現在進行形で俺の脳内を駆け巡る疑問に、ピンポイントで答えてくれそうなものであった。

「認める?」

「ええ。自分の属するクラスをこういう風に表現するのはくすぐったいものがありますが、この2-Sは紛れもないエリート集団です。各々が自分の能力に自信を持ち、そして相応のプライドを持っている。そんな彼らから自発的に挨拶をされるほどに認められるのは、そう容易いことではないのですよ。かくいう私も、去年は少し苦労しましたからね」

 気障ったらしく眼鏡を持ち上げてみせながら、冬馬は懐かしむように微笑んだ。

 聞いたところによると、冬馬は学年総合順位で不動の一位、全国模試ですら常に十位以内をキープしているらしい。

 つまりは成績優秀者が集うSクラスの中でも特に突き抜けた頭脳を持っており、そのルックスもあって、クラス内とは言わず学園内の誰もが一目置く存在という立場を確保している。

 その葵冬馬が言うのだから、確かな説得力がある。なるほど、そういう事か。

「ならば、切掛けは。昨日の決闘、か」

「おそらくは。あなたは転入して日が浅いので実感が湧かないかもしれませんが、英雄はクラス委員長。云わば、S組の顔です。あなたはその英雄と真正面から勝負し、そしてライバルとして認めさせさえした。……誰にでも出来ることではありません」

「成程、な。ふん、その程度の事で他者を認めるなど、気楽な連中だ。理解に苦しむ」

「その程度、ですか。ふふっ、本当にあなたは面白い人ですね。俄然、興味が湧いてきましたよ」

 悪寒がしたので反射的に殺気を飛ばす。効果はいまひとつのようだ。

 こっち見んな。頼むから嘗め回すような目でこっち見んな。

「おお、ノブナガだー。ちゃお~」

「よ、おはようさん。朝っぱらから若に言い寄られるとは災難だったな……同情するぜ」

 そうこうしている内に騒がしい連中の登場である。何処からともなく現れた榊原小雪と井上準が、俺を囲むようにして適当な机に腰掛けた。

 初日に声を掛けられて以来、どうにもこの陣形がデフォルトとなりつつある気がする。こいつらはなぜ当然のように俺の周囲に集まってくるのだろうか。

 しかも追い払おうと殺気を放ってもまるで動じてくれないので、結果として黙認している風に振舞うしか選択肢がない。どうしたものやら。

「なあ、信長よ。お前の従者はなぜにあんな嬉しそうなんだ?朝の挨拶がそんなにハッピーなイベントだったとは知らなかったぜ」

 蘭の姿を目で追いながら、準が呆れているのか感心しているのか良く分からない口調で言う。

 つられて見れば、我が従者は満面の笑顔で教室中を駆け回っては、無駄に元気な大声で一人一人に挨拶している。

「もー、ジュンはデリカシーがないよねー。そういう事を聞いちゃいけないんだ。ランはねー、おはようを言う友達もいないかわいそうな子だったんだよ」

「デリカシーがないのはどっちでしょうね!全く、何とか言ってやってくれよ、若」

「ユキ、そういう事は思っても口に出してはいけませんよ」

 やんわりと叱っているように見えるが、実際はどこか面白がっている表情の冬馬。今更だが、やはりこいつは割と性格が悪い。

「まあ。小雪の言葉、特に的外れでもないが」

 言いながら小雪に目を向けると、満足気な笑顔を浮かべていた。名字で呼ばれなくなったのが嬉しかったのだろう。

 織田信長のキャラを考慮すれば、あまり馴れ馴れしく接するのは好ましくないのだが、名字で呼ぶ度にいちいち訂正されるのが面倒だったので仕方なく折れた訳だ。

「ん?どういうことだよ」

 首を傾げる準に、俺は説明を重ねる。

「あの莫迦従者に友達が居ない、と言う事だ。少なくとも、学校という環境においては皆無だろうな」

「……それはまた何とも、意外だな。確かに変わってるとは思うけどな、礼儀正しく明るくて、おまけに結構な美人ときたもんだ。友達の一人や二人くらい、簡単に作れそうに見えるぜ」

 本気で理解できない、と言わんばかりの表情をしている準に、俺は頭が痛くなってきた。

 大体は準の言う通りだろう。蘭は本来なら友達作りに苦労するような人間ではない。

 あくまで、俺と―――織田信長という人間と、一緒に居なければの話だが。

 冬馬に小雪に準、それに英雄やあずみのように、俺を恐れずにいられる人間は数少ない。それは別にこれまでの環境が特殊だったという訳ではなく、むしろこのS組の方こそが例外なのだ。どうにも当の本人達にはその自覚がないらしいが。

 馬鹿馬鹿しいほど幸せそうにS組の生徒達と挨拶を交わす蘭の姿を見ていると、何とも複雑な気分に襲われる。

 もしかしたらあいつは、俺と出逢わなかった方が幸せだったのかもしれない、と。


「ノブナガー、それ、違うと思うよ?」

 
 何の前触れもなく、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。絶句しそうになりながら、俺は声の主に視線を向ける。

 
 ウサギを連想させる小雪の紅い瞳が、俺をじっと覗き込んでいた。何もかもを見透かされているような気分にさせられる、落ち着かない目だ。

「ランはね、そこそこボクに似てるから。なんとなく分かるんだよー」

 いや、まさか。本当に見透かされているのか?

 俺の思考と表情はほぼ完全に独立している。よって、思考内容が顔に出た、という事は考えられない。にも関わらず、“織田信長”の仮面で頑強に覆い隠した俺の内面に、この少女は僅かでも踏み込んだと言うのか。

 いや、そんな事は考えるまでもない。理屈ではなく直感が、それを事実だと告げている。

 初対面の時から、曲者かもしれないと思ってはいたが。まさか、その予感がこんな形で的中するとは。世の中本当に分からない。

「……ふん。無様な」

 俺は当惑と動揺とを無理矢理に抑え込み、今度は一切の油断を排除して仮面を被り直した。

 ここまでだ。これ以上、織田信長の内面に踏み入られる事など、あってはならない。

「ホントは、ノブナガもわかってるでしょ?」

 そんな俺の警戒心を知ってか知らずか、ちょこん、と可愛らしく小首を傾げながら小雪が言う。

 何を、とは問い返さない。小雪が俺に伝えようとしているであろう事は、余すことなく伝わった。

 そして、ソレに対して俺の返すべき言葉は、唯一つだ。少なくとも今は、それだけでいい。

「ああ。否定は、しない」

 俺のその回答にどういう感想を抱いたのか、全く以って想像もつかないが、小雪はにまーっと天真爛漫な笑顔を浮かべた。

「うん、だったらいいんじゃないかな。ねー、トーマとジュンもそう思うよね?」

「よね?ってそんな可愛らしく言われても困るぜ、ユキ。俺は完全に置いてきぼりだよ。なあ、若は理解できたか?」

「いいえ、残念ながら。見事に二人だけの世界を作っていましたからね。妬けてしまうくらいでした」

 どっちに妬いたのかとは訊くまい。にこやかな笑顔で「勿論、両方です」と返されるのが目に見えている。わざわざ自分から進んで鳥肌を立てる必要もないだろう。

「下らん話だ。お前達が気に掛ける意味は無い」

「そう言われると嫌でも気になっちまうんだけどな……ちょ、睨むなって、冗談抜きでコエーんだよそれ!分かった分かった」

 それなりに本気を出して殺気を飛ばしてやると、準はスキンヘッドに冷や汗を浮かべながら引き下がった。一方の冬馬だが、最初から望みがないと判断していたのか、特に詮索してこようとはしなかった。賢明な判断である。

 ある程度の馴れ馴れしさは許容するとしても、超えてはならない一線は確かに存在する。是非ともそこだけは見誤らないで欲しいものだ。

「まあ、ユキが不思議なのは今に始まったことではないですし、置いておきましょう。今は、信長と森谷さんがS組の皆に認められた事を喜ぶべき時かと」

「おー、おめでとー。お祝いにましゅまろをあげる」

「正直俺はお前らが羨ましいよ。俺なんて未だに“葵くんのおまけのハゲ”扱いなんだぜ?」

 準があまり笑えない自虐ネタを披露したタイミングで、妙に勢い良く教室のドアが開け放たれる。

 その騒々しさの時点で何となく予想がついていたが、次いで教室に姿を見せたのは金色スーツのクラス委員長及び、お付きの猟犬メイドであった。

「フハハハハ、皆の者おはよう!九鬼英雄である!さあ庶民共、我に挨拶する権利をくれてやったぞ!」

「おはようございます、英雄。ふふっ、今日も元気そうで何よりです」

「おお、我が友トーマ。それに横にいるのは、我が好敵手、信長ではないか。どうした、遠慮なく我に挨拶するがいいぞ」

「ふん。妄言は程々にしておくべきだな」

 元々が賑やかな三人組に英雄とあずみのイロモノ主従が加わり、更には「あの女狐から主をお守りせねば!」などと妙な決意を叫びながら蘭がダッシュで戻ってきたことで、俺の周囲には手の付けられない混沌空間が完成しつつあった。

 もはや俺にはどうしようもない、と諦め掛けた瞬間、黒板上のスピーカーからチャイムが鳴り響き、数秒遅れて担任の宇佐美巨人が教室に姿を見せる。

 巨人は実にだるそうに教卓の前に立つと、相変わらず覇気の感じられない調子で声を上げた。

「はいはい、チャイム鳴ってるの聞こえてるだろーが。お前らさっさと席に着けー。……って葵に井上に榊原、お前らの席そこじゃないだろ」

 三人は現在、窓際に位置する俺と蘭の隣の席を陣取っていた。無論、巨人の指摘する通り、昨日までは別人の席であったことは言うまでもない。

 何を考えているのか、と俺が問い質すよりも先に、冬馬が巨人に答えた。

「ええ、昨日までは確かにそうでした。つい今朝方、席替えを行ったのですよ。クラス委員長の許可は取ってあります。そうですよね、英雄?」

 冬馬が目配せしながら問いかけると、英雄は堂々と頷きながら言葉を繋いだ。

「うむ!我が友トーマの頼みとあれば、聞き届けるのは当然であるからな!」

「それに、辻さん、久保さん、佐々さん。三人とも席替えに同意して下さいましたね?」

 冬馬達に席を乗っ取られた形となる三人だが、その当人からの確認に迷い無く肯定してみせた。

 それだけ葵冬馬という人物に人望があるのか、或いは借りがあるのか。いずれにせよ、学園中で一目置かれる冬馬の能力を垣間見た気分だ。

「と、言う事です。さて、この席替えに何か問題はありますか、宇佐美先生?」

 穏やかに微笑みながら問いかける冬馬。面の皮が厚いとはこういう人間のことを指すのだろうな、と俺は密かに感心していた。

「あー、そうきたか……まあそういう事なら好きにしていいぞー。全く、可愛くない教え子がいたもんだ」

 疲れたようにぼやく。やる気こそ皆無だが、宇佐美巨人は油断のならない切れ者だ。一連の流れが即興で組み立てられた狂言だと気付いているだろう。

 そして、席を奪われた当人達の証言がある以上、それを指摘したところで無意味。なるほど、確かに可愛くないと言われるのも当然か。

「席が替わるよ!やったねトーマ!」

「ま、そういう訳だから。これからよろしくな、お隣さん」

「ふふ。存分に親睦を深めましょう」

 それにしても、こいつらは本当に何なのだろう。ここまで予想の上を突っ走られると、もはやいちいち思い悩むのも馬鹿らしくなってきそうだ。

  織田信長はあくまで孤高の存在。必要以上に他者と馴れ合う事はせず、己の領分を侵すモノは何であれ容赦なく排斥する。

 俺が“夢”を諦めない限りは、そのスタンスを崩すことは絶対に無いだろう。

「ふん……。勝手にするがいい。俺を煩わせるようであれば、排除するだけの話」

 しかしまあ、こういうのもたまには悪くないかもしれない。

 そんな風に考えてしまう俺は、既にS組の連中に毒されているのだろうか。


 ぎゃーぎゃーと朝っぱらから賑やかなS組の喧騒に包まれながら、俺は心中にて小さく苦笑を浮かべていた。














~おまけの???~






「それで、いい加減に調べは上がったのか?最近俺達のシマで調子に乗っている愚かなヨソ者連中のよ」

「ああ、やっと情報が来たよ。調べてた下僕が使えないせいで、随分と時間を食っちまったけどねぇ。“黒い稲妻”ってグループだそうだ」

「ブラックサンダぁ?ぎゃはは、なんだそりゃ駄菓子かよ!面白っ!そいつら最っ高に面白いな、アミ姉ぇ。ネーミングセンスがイカしてるぜ」

「私―、アレけっこう好きだなぁ。値段の割においしくて飽きないよねぇ」

「奴らの名前なんぞどうでもいい……アミ姉、連中は少しは喰い応えがありそうなのか?最近は雑魚の相手ばかりで詰まらん」

「少なくとも活きだけはいいみたいだねぇ。今朝方、連中の一部が例のアパートに殴り込みを掛けたらしいよ。まあ、結果は言うまでも無いだろうさ」

「はァっ!?シンの家にかっ!?なんだそいつら、自殺志願者かよ。それともアミ姉の客みたいなドMの集団か?どっちにしてもウチにゃ理解できねーなー」

「どんな連中だろうが関係ねぇな。俺達の縄張りで好き勝手に暴れやがったんだ……地獄を見せてやらねぇとな?くくくっ」

「けけけ、賛成賛成―。色々と試してみたい技があんだよな。サンドバッグにゃ困らなさそうだぜ」

「フフフ……連中がどんな悲鳴を上げてくれるのか、想像するだけでゾクゾクしてくるねぇ。今から楽しみだよ」

「……」

「……」

「……」

「zzz」

「「「寝るな!」」」








 想像以上に多くの方々から応援メッセージを頂いたので、奮起して書いてみました。こんな駄文に感想を下さって感謝です。

 事情あって時間があまり取れない為、相変わらず更新は不定期になりそうですが、お付き合い頂ければ幸いです。それでは次回の更新で。



[13860] 四日目の騒乱、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/04/17 01:17

「信長様、信長様。どうかお目覚めになってください」

 誰かに―――否、誰かは分かり切っているのだから、そんなまだるっこしい表現はすまい。

 我が従者たる森谷蘭にゆさゆさと身体を揺さぶられて、俺は目を覚ました。

 さて今日は何月何日の何曜日だっただろうか。七割方サボタージュ中の俺の頭脳は、たっぷり五秒ほど思考してからやっと答えを引っ張り出してくれた。

 四月十日、土曜日。

 そう、今日は川神学園への転入を果たしてから初めての休日だった。

「あ、お早う御座います、主!」

 俺が目を開けている事に気付くと、ベッドの傍に立ってこちらを見下ろしながら、蘭はニコニコとやたらに明るい笑顔を浮かべた。

 どうやら料理の途中で起こしに来たらしく、私服に着重ねた純白のエプロンがなんとも家庭的な雰囲気を醸し出している。

 十年来の付き合いの俺にとっては特に目新しくもない格好だが、それでもほんの少しだけ心動かされてしまったのは否定できない。

 これで相手が蘭でさえなければ、溢れ出る新妻オーラに間違いなくノックダウンされていたことだろう。危ないところだった。

 朦朧とした意識の中で益体も無い思考を行いながら、俺は身体を起こして時計を確認する。

「正午を過ぎたか。多少、寝過ぎたな」

 いくら休日とはいえ、平日と起床時間がズレ過ぎている。これはよろしくない。こんな風に昼を過ぎるまで爆睡したのは久しぶりだ。

 まあ今週は転校やら決闘やら川神百代やら、色々と濃い日々が続いたので、知らず疲労が溜まっていたのだろう。

「はっ。畏れながら、これ以上の睡眠は御健康に差し障るやもと愚考し、主にはご起床頂くべく行動致しました。主の許可を得ぬ勝手な振る舞い、お許しください」

「苦しゅうない。主の意を汲み、己が裁量で働いてこそ真の臣と言えよう。褒めて遣わす」

「は、ははーっ!勿体無きお言葉、蘭は果報者にございますっ!」

 半ば寝ている脳味噌が適当に考え出した台詞を、欠伸を噛み殺しながら言ってやると、蘭はえらく感激した面持ちで平伏した。

 こういう時に埃一つないフローリングが役に立つ。と言うか、まさかその為に毎日念入りに掃除しているんじゃなかろうな、こいつは。

 あまり考えたくもない疑惑を抱きながら、体温の残る布団から身体を引き剥がして、洗面所へ向かう。

 頭が冴えてくるまで存分に冷水で顔を洗い、適当に髪型を整えてリビングに戻ると、蘭が狭いテーブルに料理皿を並べているところだった。

「献立は……冷麺か」

 黄金色に輝く麺の上に緑のキュウリと赤のキムチを添え、更にゆで卵や焼豚等の幾つもの食材がトッピングされた、実に色鮮やかな一品である。当然、見た目だけではなく味の方も保障済みだ。 

「それで、蘭」

「ははっ」

「何故、皿が三枚も用意されている」

 俺の眼球が正常に機能しているとすれば、明らかに一枚多い。

 ついでに言うなら、冷えた麦茶の注がれたグラスも一名分余分に用意されている模様である。

「むむ、不覚。主、も、申し訳ございません!蘭はお伝えし忘れておりましたっ」

「何を」

「間もなくお客様がこちらにおいでになるそうです。主にご起床頂いたのは、その事にも関係がございました」

「客?」

 休日の真昼にお客様、ねぇ。生憎と心当たりは一人くらいしかないのだが、さて。

 もしやと思い携帯電話の着信履歴をチェックしてみれば、見事に当たりだった。

 睡眠中の俺が一向に電話に出なかったので、代わりにより確実な蘭の方に連絡を入れたのだろう。蘭は休日も鍛錬のために早朝から活動している事が多いのだ。

 悪い事をしたな、と反省していると、アパートの階段を上る軋んだ音が聞こえてきた。

 次いで、ドアをノックする音が数回。噂をすれば何とやら。どうやら当人のご到着のようだ。

「この“気”は……、間違いありませんね。はい、ただいま!」

 嬉しそうに返事をしながら、蘭が玄関の扉を押し開く。

 予想通りの仏頂面でそこに立っていた幼馴染に向かって、蘭は身近な者にしか見せない満面の笑顔を浮かべた。

「いらっしゃい、タッちゃん!」

「おう。……邪魔するぞ」

「邪魔するなら、帰れ」

「はっ、くだらねぇ。ベタ過ぎてツッコミを入れる気にもなれねぇな」

 そっけなくダメ出しをしながら今まさにリビングに足を踏み入れたこの男こそ。

 我らが幼馴染にして至高のツンデレ。タッちゃんこと源忠勝である。

 忠勝は目つきが鋭く言葉遣いが乱暴で喧嘩っ早い、の三拍子が揃った生粋の不良だが、実際に接してみると意外と親切な部分も多かったりする。

 面倒見もよく、機転が利いて腕っ節も強い。何とも頼りがいのある出来た人間なのだ。

 にも関わらず、その素顔を知る人間はあまりにも数少ない。第一印象で損をするタイプの典型と言えよう。もっとも、本人は他人にどう思われようが全く気にしていないのだが。

「ちっ、このアパートは相変わらずのボロさだな。階段がいつ抜けるかと冷や汗モンだぜ。その割に部屋だけは妙に綺麗ってのが納得いかねぇが」

「ふん、此処は俺の住居、侵されざるべき寝所だ。故に、清純を保つのは当然のこと」

「アホか。家事をことごとく蘭に任せっきりの野郎が威張ってんじゃねえ」

 毒づきながらベッドの縁に腰を下ろして数秒後、忠勝は気難しい表情を浮かべた。

 布団にまだ俺の体温が残っている事に気付いたらしい。

「電話に出ないと思ったら、やっぱり寝てやがったか。ったく、怠惰な生活してやがるぜ。蘭の世話がねぇとまともに生きていけるかどうかも怪しいな」

「その時は、忠勝。お前を新たな世話係に任命するだけの話」

「ええっ!?だ、ダメです!タッちゃん、主の世話をするのは私だけの仕事なんです!取らないで下さいよ~!」

「誰か取るかボケ!こっちから願い下げだ、お前は好きなだけ世話焼いてろ!」

 口を開けば文句と小言ばかりだが、忠勝はどこか楽しそうな様子だった。蘭は言うまでもなく活き活きとしているし、勿論俺も楽しんでいる。

 気心の知れた三人だけの集いなのだ、楽しくない訳があるまい。しかも三人が三人とも事情あって友人が少ない身となれば、尚更である。

 源忠勝と俺達との出会いは、およそ十年程前にまで遡る。

 当時の堀之外で起きた“とある事件”を通じて知り合って以来、俺達は適度に衝突と和解を繰り返しながら友情を育んできた。

 今では紛う事なき親友同士であり、互いに互いの本性を知る数少ない人間の一人となっている。

 織田信長と、森谷蘭と、源忠勝。三者が力を合わせれば、大抵の障害は無理矢理に突破できるだろう。乗り越える、ではない辺りがミソである。

「これは……、冷麺か。もしかしてオレの分まで作ったのか?」

 テーブル上の皿の枚数に目敏く気付いて、忠勝が尋ねる。それに対し、蘭が弾んだ声で答えた。

「はい!電話のとき、昼ご飯がまだだって言ってましたから。それに、久し振りにタッちゃんと一緒に食べたかったですし!」

「お節介なやつだな、ったく。……だがまあ、一応感謝はしといてやる。ありがとよ」

「えへへ、蘭はタッちゃんにお礼を言われてしまいました、主」

「くく。お前も漸く、素直に感謝する事を覚えたか。忠勝」

「勘違いするんじゃねえ、文句を付けながら食うのは食材に失礼だから言ってやったまでだ」

 忠勝の素敵なツンデレっぷりは今日も絶好調だった。これで自覚がないのだから恐れ入る。

 その後、三人で黙々と冷麺を啜る。何年も昔に忠勝が「食事は静かにするもんだ」と主張し始めて以来、俺達は食事中の発言は自重する事にしていた。

 賑やかでなければ皆で食べる意味が無い、と当時の蘭は半べそを掻きながら反対したものだが、そんな蘭も今ではこの静かに流れる時間を気に入っているようだ。

 数分間、ずるずると麺とツユを啜る音だけが部屋に響く。客観的に見るとさぞやシュールな光景だろう。

「ふう。また腕を上げたんじゃねえか、蘭。そこらのラーメン屋なんぞよりよっぽど上等な味だぜ」

 食事を終えて、冷たい麦茶で一服しながら忠勝が口を開いた。

 全く以ってその通りだと思う。スーパーの安売り品とボロアパートの貧弱なキッチン設備でここまでの味を出すのは容易ではなかろう。

 実際、本格的に勉強すればそちらの道でもやっていけるのではと真剣に検討したくなる程に、蘭の料理の才能は突き抜けているように思える。

「えへへ、蘭はタッちゃんに褒められてしまいました、主」

「くく。お前も漸く、素直に賞賛する事を覚えたか。忠勝」

「あのな、信長。てめぇはオレを何だと思ってやがる」

 それは勿論ツンデレですが何か、と言いたいが殴られるのは嫌なので耐える。幼馴染の関係には遠慮も容赦もないのだ。必要以上に刺激するのは得策ではない。

「ああ、そういや……オイ。こいつを取っとけ」

 ぶっきらぼうに言いつつ、忠勝は自分の脇に置いてあった紙袋を差し出してくる。受け取って中身を覗いてみれば、駅前の人気洋菓子店の箱が姿を見せた。

「和菓子の方が好みって事は分かってるがな。別に洋も嫌いって訳じゃねぇだろ」

「わー、これってベーカリー・ラクスティの梱包じゃないですか!あそこってすぐに品切れになるから入手が難しいって噂になってるんですよ。わざわざありがとう、タッちゃん!」

 これで三時のおやつは決定です、と上機嫌にはしゃぐ蘭。

「仕事で依頼人に渡されたのを処理できねぇから厄介払いしただけだ。言っとくが別にお前らの栄養状態を気遣った訳じゃねぇぞ」

 ツンデレ全開な台詞を無自覚に吐きながら、忠勝は俺に向かって僅かに目配せした。

 ……やれやれだ。やはりただ三人で集まって呑気に駄弁りに来た、という訳ではなかったか。まあ何となく予想はしていたのだが、遣る瀬無いものがある。

 この心地良い空気をもう少し楽しんでいたかったのだが、仕方がない。

「蘭。忠勝と話がある。席を外せ」

「え、あ……は、はい、主。蘭は了解致しました……」

 未練たっぷりな様子でちらちらと振り返りながら、しょんぼりと部屋から退出しようとする蘭。

 その哀愁漂う背中につい笑ってしまいそうになるのを堪えて、俺は言葉を続けた。

「但し。三時までには戻れ。舌の肥えた客人を満足させられる茶を淹れるには、従者が要る」

「は……、ははーっ!三時のお茶会を励みに、蘭は己を鍛え上げて参ります!」

 途端に元気を取り戻して、そのままの勢いで部屋の外へと飛び出していく。

 何とも気分の浮き沈みが激しい奴だ。あの立ち直りの早さは見習うべきポイントかもしれない――などと頭の片隅で思考しながら。

 二人だけになった部屋で、俺はベッドの対面にある椅子に腰掛けて、忠勝と向かい合った。

 数秒間の沈黙の後、切り出す。

「それで、忠勝。何用か」

「まずはその面倒くせぇ喋り方をやめろ。誰も聞いちゃいねえし、今は蘭もいねえんだからな」

 ふむ、言われてみればそれもそうだ。唯一の従者が不在なら、主君の存在は必要ない。

 今この場に限っては、俺が“織田信長”を演じる理由は皆無だった。

 その事に思い至った以上、俺としても不要な我慢はすまい。我慢は身体の毒である。

「あー、あー。やれやれ、普通の喋り方をするのも久々な気がするな。何だか“あっち”が板に付き過ぎてて、本来の喋り方に違和感を覚えつつある自分が怖い」

「……相変わらず、蘭とはいつもあんな調子なのか?二人だけの時でも」

「相変わらず。いつだってあいつは従者で、俺は主君だ。おはようからおやすみまで、ずっとな」

 肩を竦めて皮肉っぽく答えると、そうか、と忠勝は少し暗い表情で頷いた。

 幼馴染の忠勝は、俺と蘭の複雑な関係を誰よりも良く理解している。俺達主従を取り巻く厄介な事情を知っている以上、俺の言葉には感じるものがあるだろう。

「色々と言いたい事もあるが……これは結局のところ、てめぇらの問題だからな。オレが口出しするのも違うだろ」

「ああ。そうしてくれると助かる」

 実際、こればかりは誰かにどうこう言われて解決するような問題でもない。

 答えの出ない問答をあれやこれやと続けるよりも、今は優先すべき事があるハズだ。

「それで?その話がしたくてわざわざ蘭を追い払った訳でもないだろう、タツ」

 ちなみにタダカツを略してタツ。蘭の“タッちゃん”も由来は同じである。

 実のところ、最初はカツと呼んでいたのだが、そう呼ぶ度にキレて殴りかかってきたので仕方なくタツで譲歩したという背景があったりする。

 子供の頃の忠勝は今以上に喧嘩っ早かったのだ、という微笑ましいエピソード。

 閑話休題。

「ああ、そっちも気になるっちゃあ気になるが、今のオレが訊きたいのはその事じゃねぇ。信長、てめえ……どういうつもりで、ウチに転入してきやがった」

「……成程、そういうことか。今まで訊かれなかったのが不思議なくらいだな、それは」

 忠勝の鋭い目が据わり、声も低くドスの利いたものへと変化する。ただそれだけで、室内の雰囲気が重苦しいものへと染め上げられていくのを感じた。

 どうやらこの件に関しては、忠勝は真剣らしい。適当に答えたりしては殴られる程度じゃ済まないかもしれないな。心して掛からねばなるまい。

「随分と気にするんだな、タツ。俺が今までどういう風に生きてきたか知らない訳じゃないだろ?何故今更になって文句を付ける?」

「確かにオレはてめえの行動に関しちゃ干渉しなかったさ。ヤバい連中と関わってる事も、二人分の学費を稼ぐ為の手段の事も、それに―――太師高でてめぇらがやらかした事も、な」

 太師高とは、俺と蘭が川神学園への転入前に通っていた県立校の通称である。

「だがな、それを“表側”に持ってくるってんなら話は別だ。てめえと蘭が、太師高でやったのと同じような事をウチの学校でもやるつもりなら、オレはそれを見過ごす訳にはいかねぇんだよ」

 俺の目を真っ直ぐに見据えて語る忠勝の表情からは、悲壮な使命感のようなものが感じられた。こいつのこういう顔を見るのは随分と久し振りな気がする。

「やけに拘るな。母校が大切……ってタイプでもないか、タツは。だったらアレだ、学園内に誰か好きな女でもいるのか?で、俺の魔の手がその娘に伸びるのを心配してるとか」

「……」

 割と冗談のつもりで言った台詞だったのだが、忠勝はなぜか沈黙してしまった。
 
 まさか意図せずして図星を突いてしまったのだろうか。だとしたら何とも申し訳ないことをした。

 そういえば随分と昔に、好きな人がいると聞いた覚えがあったが、もしかするとその恋は未だに現役なのかもしれない。

 いや、きっとそうなのだろう。何だか忠勝にはそういう純情な想いが似合う気がする。

「成程な。そういう事なら、心配するのも道理だろう。川神学園が太師高と同じような状態になったら、好きな娘の青春に拭い難いケチがつくのは間違いない。それが嫌だったと」

「……否定はしねぇ。オレは、あいつには普通の学園生活を送らせてやりたいんだよ。あいつの幸せを見届けるのが、オレの役目だ」

 力強い意志を双眸に込めてこちらを睨む忠勝の姿は、最高に眩しかった。

 常に不機嫌そうなイメージしかない忠勝も、その内面ではちゃんと青春していると言う訳か。

 これで色々と合点がいった。どうにも先程から調子がおかしいと思っていたら、そうかそうか。恋なら仕方が無い。

「くくっ」

「んだよ、笑う事はねぇだろうが。心配しなくても、似合わねぇってのは承知の上だ」

「くくくっ、別にそういうつもりじゃないんだがな。ただ、恋は盲目という言葉を思い出さずにはいられなかっただけだ」

 今の忠勝は完全に目が曇っている。それだけ想い人の事が大切だということなのだろうが、しかし“らしく”ないのも確かである。

「川神学園の学長の名前を思い出してみるべきだな。或いは3-F所属の孫娘の方でもいい。あと、あの体育教師もイイ線いってるか」

 川神鉄心、川神百代、ルー・イー。川神院を代表する世界レベルの強者達。

「なぁ、タツ。俺がその人外どもを“どうにか”して、太師時代のような状況を再現できると……本当にそう思うのか?」

 脳裏に蘇るは愛すべき我が古巣、県立太師高等学校。

 俺と蘭の入学当初、そこにあったのは無秩序な混沌だった。堀之外という街を象徴するかのような、ルール無用の無法地帯。

 品の無い人間達による品の無い争いが日常的に繰り広げられ、それによって学校としての正常な機能が完全に麻痺している状況だ。

 そんな様があまりに見苦しく、腹立たしいものだったので、俺はいっそ自らの手で学校を統治することに決めたのであった。

 もっとも、理由はそれだけではない。この十数年の人生で俺が培ってきた力がどれほどのものなのか。学校と言う一つの社会構造にどれほどの影響を及ぼす事が可能なのか。


―――俺の夢は本当に実現できるのか。


 丁度、何らかの形で試す機会が欲しかったところでもあった。

 見せ掛けの威圧と多少の暴力、更にはそれらによって作り上げてきた裏社会における人脈と噂を最大限に活用して、まずは自身の所属するクラスを掌握。

 危機感を覚えて攻撃を仕掛けてきた他クラスの連中を適度に痛めつけると、お次は先輩方の御登場である。

 そんな風にわらわらと沸いて来る反抗勢力を、手段を問わず叩き潰し、従う者だけを配下に加える。

 一年間を通じてそんな闘争を繰り返し、勝利を重ねている内に、いつしか校内で俺に逆らえる人間は居なくなっていた。教師ですらも例外はない。皆が俺を恐れ、畏敬の念を払って接してきた。

 授業中に騒いでいる連中も、俺が睨めば借りてきた猫の如く大人しくなったし、クラス同士の抗争は俺が出張るだけで瞬時に鎮圧された。

 いつしか恐怖による新たな秩序が生まれ、気付けば俺は、事実上の独裁者として君臨していたのであった。


―――だが。川神学園で同じ事が可能かと言われれば、答えは否。断じて否である。


 まず第一に、トップにあの“武神”が居る時点で論外だ。恐怖による学園支配など目論めば、呼吸する間もなく叩き潰されて終了だろう。

 そして、あの爺さんを除外したとしても尚、障害は多い。

 天下の九鬼財閥の御曹司に、日本三大名家が一つ、不死川家の御息女。本当の意味で敵に回した瞬間、背後に控える巨大な勢力が動き出すような、別の意味で危険な連中もいる。

 そこに加えて言わずと知れた川神百代だ。正直言って難易度が高いなんてものじゃない。

 そんな事は、これまで川神学園の生徒を続けてきた忠勝の方が良く理解しているハズなのだ。

「……ああ、そういうことかよ」

 俺から視線を外すと、忠勝は苛立たしげに頭をガリガリと掻きむしった。いつにも増して不機嫌そうな面だが、その怒りは主に自分自身の迂闊さに向いているようだ。

「ちっ、確かに、頭に血が昇ってたらしい。んな簡単な事にも気付けねえとは情けない限りだぜ。ったく、アホかオレは」

「なに、恋愛は人を狂わせると言うからな。タツも人の子、例外ではなかったってだけの話だろ。気にする事はないさ。何より面白いから俺は許すぞ」

「うぜえぞボケ!……しかしまあ、八つ当たりみてぇな形になっちまったのは確かだ。一応は謝っておく、悪かった」

 忠勝は僅かに表情を和らげて頭を下げた。「デレたか」と無性に言いたくなる衝動をどうにか抑える。今それをやると、ツンに逆戻りを通り越してキレる可能性が高い。

「それにしても、太師か。くく、今となっては懐かしいな。果たして今頃はどうなっている事やら」

 織田信長と云う独裁者が消えた事で、再び混沌の坩堝と化しているのだろうか。それとも誰かが俺の跡を引き継いで秩序を保っているのか。

 まあ、俺にとってあそこは既に通過地点の一つでしかない。後は野となれ山となれだ。

「信長。てめえがウチで無茶をするつもりはねえってのは分かった」

 最初に比べればかなり険の取れた口調で、忠勝が切り出した。

「だが、だったら何が目的だ?わざわざ“あんな手段”で入学金を稼いでまで、ウチに転入しようと思った理由が分からねぇな」

「タツと同じ学校に通いたいって事だよ。言わせんな恥ずかしい」

「だったら言うなアホが!オレも聞きたくなかったぞボケ!ちっ、いいからさっさと話せ」

 場を和ます小粋な冗談はさておき。俺が川神学園への転入を決意した背景には、まあ幾つかの理由がある。
 
 太師高における俺の計画は万事が上手く運んだが、問題が一つだけ生じた。それはすなわち、あまりにも上手く行き過ぎたことである。

 予想に反して最初の一年で概ねの目的を達成してしまった俺は、今後の身の振り方を色々と考えた。

 このまま底辺校の番長を続けるだけで、十代の貴重な三年間を無為に過ごしてしまっていいのか。当然、答えは否だ。良いハズがなかろう。

「タツ。お前も知っての通り、俺こと織田信長には夢がある」

「……どうした、突然。一年や二年の付き合いじゃねえんだ、てめえが難儀な夢を抱えてる事くらいは知ってるよ」

「夢とは坐して叶うのを待っていても仕方が無い。だから俺は何としても前に進まなければならなかった」

 確かに俺は太師高の支配を通じて、自身の成長と実力をある程度、確認することができた。

 しかし、足りない。その程度では全く以って足りないのだ。俺の最終目標地点、すなわち“夢”に届かせるには、何もかもが不足している。

 知識、人脈、経験、学歴。十代を終えるまでには、それら全てを一ランク上のものへと昇華させる必要性があった。

 要するに、川神学園は俺にとっての修行場なのだ。

 川神学園のSクラス、特進組は有力者の子息が多く集う。学生期間の内にどういう形であれ関わっておけば、将来思わぬ形で役に立つかもしれない。

 実力が足りなければ問答無用で落とされる、という厳しいルールも、修行にはかえって好都合だ。元々頭の出来にはそれなりに自信がある。二年間マジメに勉強すれば高偏差値の大学を狙うのも不可能ではないだろう。

 半ば公然と相手に喧嘩を吹っかけられる制度である“決闘システム”と、常に強者との戦闘を求めている川神百代の存在がネックだったが、それも修行の一環と考えれば悪くないものだ。

 それらの試練を乗り越えることで、俺は更に成長できる。胆力演技力思考力判断力行動力、俺にはまだまだ鍛える余地が残っている筈なのだから。

 “織田信長”をより理想的な存在として完成させるために、俺はあえて虎穴に足を踏み入れた。
 
 正直、転入一週間目にして色々と弱音を吐きたくなる現状だが、しかし逃げ出す訳にはいかない。 


 ――全ては、“夢”を叶えるためなのだ。


「……とまあ、大まかな理由としてはそんなところだ。納得してくれたか?」

「ああ。てめえが例の夢に関して、今でも真剣だって事は分かった。そこまで決意が固いってんなら、オレも邪魔をする気はねぇ」

 目を瞑りながら、忠勝はどこか諦めたような調子で呟いた。

 子供の頃、俺が一度だけ語って聞かせた“夢”の内容に、忠勝は少なからず反対したものだ。この態度を見る限り、その意見は未だに変わっていないらしい。

 まあ、それも当然の話か。俺の夢はそれだけ、一般的な人間の感性から“外れて”いる。俺はその程度の事は自覚していた。

「ただな。あまり無茶すんじゃねぇぞ。一昨日、グラウンドでモモ先輩に絡まれた時はどうなるかと思ったぜ。ヒヤヒヤさせんなボケ」

「おおっと、俺を心配してくれるとは。くくっ、タツはやはり優しいな」

「違ぇよ、勘違いすんなボケが。放って置いて昔馴染みが取り返しのつかねぇ事になったら俺の寝覚めが悪くなるからな。それだけだ」

 憮然とした表情で吐き捨てる忠勝。これが照れ隠しだと分からなければ、源忠勝の親友を名乗る資格はない。

 目つきと口は悪くとも友誼に厚く、世話好き。そんな我が幼馴染には是非ともずっと変わらずにいて欲しいものだ。

「……」

「……」

 お互いに言うべき事は言った、という風に、俺も忠勝も口を閉ざした。

 そのまましばらくの間、静かな時間が流れる。気まずさや居心地の悪さは、少しも感じなかった。

「ああ、それと」

 数分後。ふと思い出したような調子で忠勝が声を上げた事で、沈黙は途切れる。 
「仕事絡みで親父から何か話があるらしい。今日の夕方に事務所まで来て欲しい、だとよ」

 忠勝の言う親父とは、何を隠そう川神学園2-Sクラスの担任教師、通称ヒゲこと宇佐美巨人である。名字が違うのは、巨人が孤児院出身の忠勝を養子として引き取ったからだ。

 巨人は堀之外の某所に代行業――いわゆる何でも屋の事務所を構えており、忠勝は日頃からその仕事を手伝っている。依頼内容は様々で、浮気調査やらストーカーの特定やら合コンの人数合わせやら、とにかく節操無く引き受けているらしい。

 あまり表沙汰に出来ないような類の依頼も結構な数をこなしているという事で、宇佐美代行センターと言えば裏社会でもそれなりに名の通った事務所である。

 その巨人からの呼び出し、それも仕事絡みと来れば、用件の内容も大体は予想が付こうと言うものだ。十中八九“裏側”関係だろう。

 
 例のクスリ―――ユートピアの件と言い、最近は“裏側”の騒がしさがやけに目立つ。

 
 ここのところ、あの板垣一家の動きが妙に活発化している事を考えても、俺にはこの川神で何事かが起きようとしているような、そんな予感がしてならないのだ。

「タツ。飯時に行くから夕食を用意して待っていろ、とおっさんに伝えてくれ」

 休日にも関わらず、わざわざこちらから事務所まで足を運ぶのだ。それくらいの見返りはあっても罰は当たるまい。

「ちっ、相変わらずセコい野郎だぜ。まあ親父の女遊びに使われるよりかは食事代に消えた方が幾らかマシかもしれねぇがな。分かった、伝えておく。……オレの用事はこれで終わりだ」

「ふむ、だったらさっさと蘭の奴を呼び戻してやるとするか。そろそろ三時だしな」

 今も中庭で律儀に鍛錬を続けているであろう我が従者を出迎えるべく、玄関のドアを押し開く。

「三時!三時でございますねっ!?蘭はすぐに参ります!参ってお茶をお入れ致します!」
 
 忠勝を交えた久々の茶会をよほど楽しみにしていたのだろう。

 俺がドアを開けた途端、こちらに向かって中庭から叫ぶや否や、あろうことか蘭は直接ジャンプし、一瞬で二階の部屋の前まで飛び上がってきた。

 ああ、やはりこいつも人外なんだなぁ、と実感せざるを得ない光景であった。

「ところで、僭越ながらお聞きしても宜しいでしょうか。先程まで主は何のお話を?」

「何。天下国家に関する諸問題について、思う所を論じていた」

「流石は信長様、談ずるところの壮大さが違います!蘭は感服致しました」

「おいてめぇら、合流早々アホな会話してんじゃねえよ。イライラさせんな」

「あー、酷いです、タッちゃん!そんな意地悪ばかり言ってると愛しの一子ちゃんに嫌われてしまいますよー」

「なっ……!蘭、何でその事を知ってやがるっ!?」

「愛しのと申したか。蘭。詳細を」

「てめぇも食いつくなボケ!ちっ、薮蛇もいいところだぜ……ったく」


 そんな調子で始まったお茶会は、幼馴染のコイバナという最高の話題を肴に、大いに盛り上がったのであった。

 
 ちなみに忠勝の想い人だが、何とあの川神百代の義妹であることが判明した。なんというチャレンジャー、そこに痺れる憧れる。真似はしないがな!







~おまけの風間ファミリー~





「っくしょーい!ううっ、急にくしゃみがぁ」

「花粉症かもしれないな。この季節、症状持ちは辛いだろうし」

「風邪でも引いたんじゃないの?……あ、いや、それはないかな」

「モロの言うとおり。ワン子が風邪を引くわけがない」

「ぐぬぬ、どーいう意味よ!何だかすっごいバカにされてる気がするわ……」

「ワン子はいつも身体を鍛えていて健康的だから、風邪なんて引く理由が無い。ってモロと京は褒めてるんだと思うんだけどねぇ」

「えっ!?そ、そうだったの!?あ、あはは、てっきりバカだから風邪引かない~とか言われてるんだと思って」

「なんという被害妄想。自分が褒められても気付けないとは、さすがの私も同情せざるを得ない」

「うう~。お姉さまぁ」

「おーよしよしワン子、存分に私の胸で泣くといいぞ」

「そういえば大和、例の転入生ズについて何か新情報はないか?オレ、どーにもあいつらのことが気になるんだよなー」

「それなんだけど……太師高の知り合いから聞いた話によると、あの二人、ウチに転入してくる前は、冗談抜きで学校を一つ支配してたらしい。しかも極端な恐怖政治」

「えー、支配ってそんな大袈裟な。ちょっとばかり仕切ってただけでしょ?」

「いやー、そうでもないと思うぞ、モロ。私がこんな風に言うのも何だが、あいつはとんでもない化け物だよ。本当に全校生徒を恐怖で抑え付けていても不思議じゃないな」

「同感。あの殺気、尋常じゃなかった。……正直、人間とは思えない。アレは悪魔」

「その悪魔にウチの学園が狙われてるのかもしれないんだ。注意だけはしておかないと」

「オレ達の学園はオレ達の手で守る!青春学園バトル物って感じだな。おおー、なんだか燃えてきたぜっ!」

「キャップは悩みが無さそうで羨ましいよ、ホント……」






 


 今回は主に説明+次回への繋ぎ的な話でした。あとゲンさんは皆のヒロイン。

 尚、感想で何人かの方から共通の疑問が上がっている様なので、この場を使って回答しておきたいと思います。

Q1.どうして主人公はわざわざ危険が多いと分かっている筈の川神学園に転入したの?
 
 この疑問に関しては、大体は今回で説明された通りです。主人公がドM野郎だという設定は特にありません。

Q2.鍛錬の時間が一日一時間って少なすぎじゃない?

 全く以ってその通りです。が、これに関しても一応はちゃんとした理由を用意してありますので、どうか作中にて明かされるまでお待ちください。プロット上そろそろ判明する予定です。

 今回の事で痛感しましたが、やはり色々な設定を小出しにし過ぎるのは悪い癖ですね。説明不足になってしまっては元も子もありません。反省の材料とさせて頂きます。

 それでは、次回の更新で。



[13860] 四日目の騒乱、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2012/08/23 22:51
「じゃあな、オレは先に事務所に行ってる。あんまり待たせるんじゃねぇぞ」

「ふん。精々、夕食に期待しておこう」

「また後でね、タッちゃん!」

 午後五時。茶会の開始から二時間が経ち、茶菓子とコイバナが尽きる頃である。

 忠勝はおもむろに立ち上がると、ほっとしたような表情でアパートを後にした。

 茶会中、俺と蘭によって延々と続けられる執拗な尋問に、流石に誤魔化し切れないと観念したのか、忠勝はムスッとした顔で色々と吐いてくれた。

 初恋の相手が孤児院時代からの幼馴染であり、その想いは現役である事。

 どうにも自分は彼女にとって家族でしかなく、男として認識されていない節がある事。

 今年度になって同じクラスになれたのは良いが、今更どう距離を縮めるべきなのか分からないんだがどうすれば云々。

 うむ。聞いていると、忠勝はいたって健全な青春を送っているようで何よりだ。

 俺から見た忠勝は少々ストイック過ぎて、正直なところ女というものに興味がないのだと思われても仕方の無い部分があった。その旨を言うと、


「違ぇよ。一子以外の女に興味がねぇだけだ」


 と実に男前な答えを頂けた。十数年もの間、純粋な片想いを貫いている忠勝はさすがというか何というか。是非とも報われて欲しいものだ。

 幸運にも今年はクラスが同じ(2-F)なので、接近のチャンスは幾らでもある。俺も影ながら応援させて貰うとしよう。

「さて。準備が、必要か」

  源忠勝の恋愛事情についての思考を一旦打ち切って、俺は行動を開始した。

  さしあたって俺が考えるべき事項は、今晩にでも降り掛かるであろう厄介事にどう対処するかだ。

「主。宇佐美さんのお話と云うのは、やはり例の件でしょうか」

「十中八九。お前も準備を怠るな。慢心と油断は破滅を招く」

「ははーっ、その御言葉、蘭は確かに心に刻み申し上げました!」

 まあ、蘭が準備しなければならないのは心構えくらいのものだろうが。問題は俺の方だ。

 大抵の事は武力で突破できる蘭と違い、基本スペックが一般人の俺は入念に準備しなければあっさりと足元を掬われる羽目になる。

 まずは服装からか。それに小道具も可能な限りは持ち込みたいところ。状況を推測するに、今日の俺に必要なものは……この辺か。念の為にアレも持参しておこう。

 そんな調子でガサゴソと装備を整えた後、時計が午後六時を回るまで適当に時間を潰してから、俺は蘭を引き連れてアパートを出立した。


 紅い夕日が沈み、夕方と夜の境界が訪れると、日本有数の歓楽街たる堀之外は真の意味での賑わいを見せ始める。

 朝方だろうが昼間だろうが治安が悪いことには変わりないが、しかしそれも夜間の危険さに比べれば生易しいものだ。

 メインストリート、親不孝通り。俺と蘭が今まさに足を踏み入れたこの通りは、ほとんど無法地帯も同然である。

 夜の闇に紛れ、後ろ暗い経歴を持った連中が雑踏を形成し、各々の欲望に従ってありとあらゆる悪を為す。

 ここでは、“力”が全てだ。暴力権力財力知力、なんでもいい。他者を圧倒する何かしらの力を持つ者だけが唯一絶対の正義。弱者には強者の餌となる以外の運命は待ち受けていない。

―――そうだ。だから、気の遠くなるほどの昔、俺は強者になることを選んだ。

 外出用の高級な黒コートを翻し、三歩後ろに忠実なる従者を引き連れて、何も恐れる物はないとばかりに織田信長はネオンで満ち溢れた通りを闊歩する。

「アレは……」「の、信長だ……!」「オイお前、早く道を開けろ!死にてぇのかっ!」

 そんな俺の姿に気付くと、群衆は一様に青褪めた顔で自ら道を空けた。

 堀之外の街、特に親不孝通りに集う類の人種で、俺の顔を知らない者など殆ど居ない。知っていて道を開けない命知らずとなれば、尚更である。

「お、織田さん、久し振りです、この前の件ではお世話になりやした」

 腰を低くして恐る恐る挨拶してくる者には鷹揚に頷き返しながら、歩調を変えずに悠然と足を進める。

 ここにいる連中の大半は、過去に一度は何らかの形で俺に関わっていた。大抵は俺が叩き潰した相手だが、中には先程のように恩を売った奴も多い。

 何にせよ確実に言えるのは、この堀之外において、織田信長は絶対的な強者だという事だ。

―――日々の食事を得る為に行ったスリが露見し、半死半生になるまで叩きのめされた。目つきが気に入らないと腐臭の染み付いたゴミ箱へぶち込まれた。それでもただ生き残るためにひたすらもがき足掻いた、惨めな幼少時代。

 力が欲しい。力があれば。当時の俺は、自身の持つ最大の“武器”をまるで理解していなかった。だから、地面に這い蹲って無様に震えるしかなかったのだ。

 今は違う。今の俺には、力がある。

 あれから十数年の歳月を生き抜く過程で、俺はこの腐った街で現在の地位を築き上げてみせた。

 
 それでも、未だ真の目標地点には遠い。しかし、いつかは必ず実現してみせる。幼心に抱いた、あの果てしない夢を。



「あ、お、織田さん!?」


 感傷に浸っていた俺は、狼狽と恐怖を足して二で割ったような声で現実に引き戻された。

 気付けば、良く見知った集団が俺の目の前に固まっている。懐かしき太師高校時代、つまりは去年までクラスメートだった連中のグループだ。何人かは俺の知らない顔も混じっているが。

「如何にも。久しいな」

 春休み突入寸前の終業式にて、全校生徒を相手に転校を宣言したその日以降、俺は太師高の連中と一度も遭遇していなかったのである。

 それも理由の一つだろうが、今の今まで俺は元クラスメートの存在を完全に失念していた。

「あ、は、はい」「お、お久しぶりっす……」
 
 おずおずと挨拶を返す元同級生共は、明らかに腰が引けていた。まあ当然か。太師時代に俺がしてきた事を考えれば、気安く接するなど自殺行為も同然だ。

「え、何スかセンパイ、この人そんな偉いんスか?チョーワルい人っスかぁ?ほーへー、パネェっスねぇ」

「お、おい!前田、ちょっと黙ってろっ」

 ケバケバしい金髪と耳から大量にぶら下げたピアス。いかにも頭の中身が軽そうなチャラチャラした男が、俺の顔を無遠慮に眺め回す。

 元クラスメートをセンパイと呼んでいるという事は、太師の新入生か。道理で俺が顔を知らない訳だ。

「えー、何スかセンパイ方、ちょっとビビり過ぎじゃないんスか?言いたかねーんですけどォ、ちょーっとダサイっスよ?」

「馬鹿ヤロウが、てめーこの人のこと知らねぇのかよ!“太師の魔王”だぞ!」

 初めて聞いたぞそんな称号。しかも残念なことにネーミングセンスが致命的に欠如している。魔王て。

 どうせならもう少しくらい気の利いた称号にして欲しかった、と思う俺は贅沢なのだろうか。

「はーっ、この人がそーなんスか。でもこの人、アレなんスよね?もうウチから引き上げたんスよね?要するにィ、イモ引いたんじゃないッスか。別にそんな風にヘコヘコする理由なくないっスか?」

「バカ、てめ、なんつー……!あ、す、スイマセン織田さん、コイツ新入りで礼儀を知らなくて……っ」

  見る見るうちに顔を青くして、元クラスメートは無理矢理にでも頭を下げさせようと、前田と呼んだ後輩の後頭部に手を伸ばす。

 が、前田はその手を鬱陶しげに払いのけて、ニヤニヤしながら言葉を続けた。

「えーっと、織田サン?でしたっけ?オレってなんつーかー、下げたくない頭は下げないって決めてるんスよォ。ポリシーってやつ?で、アンタ、“魔王”って呼ばれてるくらいなんスからチョーつええんスよね。実はオレもケンカには自信アリアリっつーか地元じゃ負けなしっつーか?ってワケなんでェ、ちょーっと相手してもらえると嬉しいんスけど」

 言葉の途中から何かを諦めたように天を仰いでいた元クラスメートだが、流石に見過ごせなくなったのか、血相を変えて前田に掴み掛かった。

「アホなこと言ってんじゃねぇよ、てめぇ死にてぇのか!今すぐ謝れ、そうすりゃ――がっ!?」

「センパイ、正直ウザイっスよ。オレ、この人とハナシしてるんスから、邪魔しないでくださいよぉ」

 なるほど。ケンカに自信ありとは、何も口先だけではなかったらしい。

 固めた拳で無防備な腹を殴られた元クラスメートは、一撃で気絶したのか、ピクリともせずアスファルトの上に転がっている。

 改めて観察してみれば、その身体はチャラい外見に似合わず、引き締まった筋肉で覆われていた。

「前田ァ、てめぇ!!」「センパイ殴ってタダで済むと思ってんじゃねぇだろうな!」

「だァ、かァ、らァ。オレはそっちの人と話してるんだっつってんだろォが、貧弱野郎どもがァ!!……で、どうなんスか織田サン、イモ引くってんならそれでもいいッスよぉ?」

 自分を取り囲む元クラスメートの集団を恐ろしい形相で一喝して黙らせると、前田は一転してニヤニヤと笑いながらこちらに問い掛ける。なるほど、そちらが本性と言う訳か。

 対する俺はと言えば、無礼な物言いに怒るよりもまず、その度胸に感心していた。いくらその自信が無知から来るものだとしても、こうも躊躇無く“織田信長”に喧嘩を売る命知らずがいるとは。

 堀之外のチンピラどもは大抵が軽く威圧しただけで膝を屈するのだが、稀にこういう変り種が現れる事がある。

「主――――」

 おっと、従者へのフォローを忘れていた。これだけあからさまに喧嘩を売られているのだ、そろそろ蘭の忍耐ゲージが危険域に達する頃だろう。

「蘭。下がれ」

「……はっ」

 俺の背後で静かな殺気を漲らせていた蘭を控えさせる。

 危ないところだった。あと数秒でも放置していたら、親不孝通りに局所的な血の雨が降っていたかもしれない。

 なにせ今日の蘭が腰に提げているのは、訓練用の木刀などではないのだから。

「ふん。些か、後輩の教育が不足しているようだな」

「す、スイマセンっ!」「今すぐこいつシメますから、どうか俺たちは……!」

「構わん。此処で遭ったのも何かの縁。俺が直々に、矯正してくれよう」

「おお、いいッスねぇ。そうだよなそうだよなぁ、オトコならそうでなくっちゃア」

 俺が戦いの意思を示した途端、前田は心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 話していて何となく予想はついていたが、やはり戦闘狂バトルジャンキーの類か。竜兵や川神百代に近い性質を感じる。ぞっとしない話だった。

「話が決まったところで、場所はどォしましょおかね?」

「時間が惜しい。此処で何の問題もないだろう」

「ストリートファイトっスか、いいッスねェ!でも大丈夫っスかァ?アンタがここでボコにされちまうと大恥かく羽目になると思うんスけど?」

「ふん。御託はいいから早く来るがいい。野犬の躾などに時間を取られたくない」

 舐めるのはいい加減にして貰うとしよう。俺は堀之外における絶対的強者、“織田信長”だ。

 怪物相手ならいざ知らず、同じ土俵に立つ人間を相手に脅威を感じる事など有り得ない。

 ポキポキと両手の骨を鳴らしながら挑発してくる前田を、俺はただ冷たく鼻で笑う。

「……言いやがったなァ……、後悔すんなやオラァァァァっ!!」

  怒りの形相で雄叫びを上げるや否や、前田は右腕を大きく振りかぶって突進してきた。そのまま上から叩き下ろすようなテレフォンパンチを放つ。

 あからさまな喧嘩殺法だ。型も何もあったものではないが、威力だけは相当なものだろう。

 まあしかし、ここは有名なアレだ。

 当たらなければどうということはない!

 半身を軽く傾けるだけの最低限の動作で前田の拳を回避する。

 まさかこうもあっさりと避けられるとは思っていなかったのか、前田は殴りかかった勢いを殺しきれず、前方へとたたらを踏んでいた。

 やや狼狽した表情で焦りながら体勢を立て直し、振り返りざまに顔面を狙った裏拳を繰り出す。咄嗟に首を軽く後ろに倒すと、拳はまたしても虚しく空振った。

「ふん。やはり、所詮はその程度、か」

「っ!ナメんじゃねぇ!こっから本気で行くぞオラァ!!」

 冷め切った表情でさもつまらなさそうに言ってやると、前田は憤怒で顔を赤く染め上げ、再び拳を振り上げた。

 対する俺は心中にてほくそ笑み、回避行動のために悠然と身構える。

 

 そして、数分後。

「ハァ、ハァ、クソッ!なんでだ!なんで当たらねぇんだよォォ!!」
 
 息を切らして怒鳴り声を上げる前田と、汗の一筋すらも流す事無く、余裕綽々とそれを受け止める俺がそこにいた。

 戦闘の展開はある意味で一方的なものだった。ひたすらに前田が攻撃を続け、俺がそれら全てを最低限の動きで避け続ける。

 その様子をダイジェストでお送りしてみると、大体こんな感じだ。


 前田のこうげき!ミス! ダメージをあたえれない
 
 前田はたいあたりをはなった!ミス! ダメージをあたえられない

 前田はまわしげりをはなった!ミス! ダメージをあたえられない

 前田はおたけびをあげた! 信長にはきかなかった
 
 前田のきあいため! 信長はようすをみている
 
 前田のばくれつけん!ミス! ダメージをあたえられない×4

 前田はこしをふかくおとしまっすぐにあいてをついた! ミス!ダメージをあたえられない

 
 注、イメージです。あくまで比喩である。―――そう、俺の憧れたばくれつけんはもっと速いし、せいけんづきはもっと重いのだ。

 なんてどうでもいい俺の妄想はこの際置いておこう。今は一応、真面目な戦闘の最中である。

「ふん。何故当たらない、だと?答えは明瞭。俺に拳を届かせるには、お前は鈍過ぎる」

 実際のところ、むしろ動きが直線的なだけ速度は相当なものがあったのだが、わざわざそれを教えてやる義理はない。

 まあ、一般人の感性からすれば十二分に速いのだろう。だが、残念ながらその程度では俺を補足する事など到底不可能だ。

 あの地獄のような命懸けの特訓を思えば、あまりの落差と楽さに涙が出てきそうにすらなる。

「……このオレが遅い?このオレが、スロォリィ?」

「確かに、そう言った筈だが。言葉も通じんのか?」

「冗談じゃ、ねええええええええええええええっ!!」

 ブォン、と盛大に大気を唸らせながら、拳が顔のすぐ横を通り過ぎる。
 
 いちいち雄叫びを上げるのはこいつの趣味なのだろうか、と悩みながら、俺は全力を込めたであろう顔面狙いのストレートパンチを、その場から一歩も動くことなく、首を捻って回避してみせた。

 その結果を受け入れられなかったのか、愕然とした表情で、前田は力なく呟く。
 
「く、チクショウ、どうなってやがる!オレが、手も足も出せねェだと……!?」

「……もういい。詰まらん。飽きた」

  ここまでやれば、力の差を思い知らせるには十分だろう。宇佐美代行センターでは今頃、忠勝とタダ飯が待っているのだ。こんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。

 日常的に抑えている殺気を開放し、収束させる。

 一昨日の決闘で忍足あずみに対して使用したアレを、少し控え目に威力を調整してから、俺は目の前で呆然としている前田に叩き付けた。

「が、アっ……!?」

 効果は歴然である。石化の魔法でも掛けられたかのように、前田は完全に硬直した。

 あずみの時とは違い、この金縛りが破られる事はないだろう。いかに強力なチンピラであろうと、所詮は一般人の範疇からは出ない。

 プロの軍人や“気”の扱いに習熟した武闘家、或いは板垣一家のような突き抜けた異常者でもない限りは、俺の殺気に抵抗することなど不可能だ。

「なん、だ、なん、だよ、こりゃァ、体が、動かねェ……!」

「ほう。意識を失わず、加えて舌の根が動くか」

 俺は素直に感心していた。さすがは竜兵の同類だけはある。戦闘狂という人種は、総じて殺気に対する耐性が相当に高いらしい。

 まあ幾ら喋れたところで、身体機能が凍っていれば同じことだ。

 相手が抵抗していようが無抵抗だろうが、俺がやるべき事は何一つとして変わらない。

 彫像と化した前田にゆっくりと歩み寄ると、悔しげに歪んだ顔に冷笑を送ると、その後頭部を鷲掴みにし―――手加減を一切省いた力で、顔面から路面に叩き付ける。アスファルトと頭蓋とが衝突する鈍い音が響き、周囲に鮮血が散った。

「ひっ!?」

 あまりにも容赦の無い暴力を目の前で見せつけられ、元クラスメート達が小さく悲鳴を上げた。

 そんな周囲の反応に構わず、俺は黒革のブーツの踵で、路面に倒れ伏す前田の頭部を踏み付ける。

「くく。下げたくもない頭を、下げさせられた気分はどうだ?」

「て、めェ……!」

 まだ反抗する気力が残っていたか。これはあまりよろしくない。体重を更に上乗せして、踵に込める力を増す。額が軽く路面にめり込んだ。

「お、織田さん、ちょっとやり過ぎなんじゃぁ……」

「やり過ぎ。やり過ぎ、だと?」

 サッカーボールを蹴る様な無造作さで前田の後頭部に蹴りを入れると、元クラスメート達が息を呑む。

「新入りが図に乗る要因が、お前達のその温さにあると、何故気付かない」


 僅かな殺気を込めて睨み付ければ、一様に震え上がって黙り込んだ。

 そんな情けない我が元クラスメート達を放置して、俺は足元に転がっている後輩に視線を移した。未だ心は折れていないのか、頭から出血しながらも反抗的な眼でこちらを睨みつけている。

「先輩として、特別に教えてやろう。この堀之外において、暴力は罪ではない。罪は、弱さだ。弱者はその罪を問われ、強者により罰せられる。この様にな」

「ぐぅっ!?」

 淡々と語りながら、今度は腹にブーツの爪先を食い込ませる。くの字に折れ曲がった姿を見下ろしながら、無感情に続ける。

「罪と罰の両者から逃れたければ、強くなる事だ。足掻きもがき這い蹲ってでも、力を手に入れろ。その覚悟が無い者は、この街では生きられない。いずれ強者に喰われ死ぬのみ」

「……っ」

「本来ならお前は、此処で俺と言う強者に喰われて終わる所だが。その度胸に免じ、一度だけ機会をくれてやるとしよう。精々、拾った命を無駄にしない事だ」

 冷たく言い捨てると、俺はコートを翻して、沈黙した前田とクラスメート達に背を向ける。

―――もはやここには用はない。織田信長としての俺は、既にその務めを果たした。

 少し離れた所に佇み、ただ黙して事の推移を見守っていた蘭に、声を掛ける。

「蘭。往くぞ」

「ははっ」

「……待て、待ってくれ!」

 そのまま去ろうとする俺達を、後ろから呼び止める声。

 肩越しに振り返ってみれば、前田が必死の形相で身体を起こし、顔に幾筋も血を流しながらこちらを睨んでいた。

「オレの―――オレの名は、前田啓次ッ!いいか、この名を覚えとけ。ゼッテーにいつか、アンタの居るところに立ってやるからよォ!」

 場違いに活力の漲る雄叫びに、俺は内心にて、呆れ半分感心半分といった気分で苦笑した。

 何ともまあ、元気な事だ。どう考えても、あそこまで自分を痛めつけた相手に対して取るような態度ではない。

「ふん。期待せずに、待つとしよう」

 案外、大物なのかもしれない。少なくとも此処の住人として馴染むのはそう遠い話ではないだろう。

 声にも表情にもそんな感情を滲ませずに吐き捨てて、今度こそ俺はその場を後にした。

「お疲れ様でございました、主」

「ふん。俺は俺の義務を果たしただけだ」

 気遣わしげに声を掛けてくる蘭に素っ気無く返すと、俺は小さく溜息を漏らした。

 勘違いした余所者には誰かが、この街の流儀を教えてやらなければならない。無知に任せて自分が強者だと錯覚し続けていると、そのうち本当に取り返しのつかない事態になる。

 そういう意味では、あの前田という男は運が良かった。もし自分の実力を知らないまま悪名高い板垣一家にでも喧嘩を売っていたら、目も当てられない事になっていただろう。

 天か辰子の二人ならまだしも、長男長女―――竜兵や亜巳が出てきた場合、悲惨の一言では済まない。

 身の程知らずには多少痛めつけてでも身の程を教えてやるのが、本人の為だ。馬鹿な元クラスメート達は気付いていなかったが、俺のやり方などむしろ温いと言われても仕方がない。

「無駄に時間を浪費したな。急ぐぞ、蘭」

「ははーっ!」


 その後は誰にも絡まれる事もなく、無事に親不孝通りを抜ける。

 それから歩き続けること数分、俺と蘭は薄汚れた小規模なビルに到着した。

 このビルの二階に位置する事務所こそが、宇佐美巨人の城。宇佐美代行センターである。

「よう。やっと来たか」

 事務所のドアを叩くと、忠勝が応対に出てきた。その片手に包丁を握っているのは、まあ料理中だったからだろう。むしろそれ以外の可能性など考えたくもない。

「親父が待ってるぜ。ほら、さっさと入れ」

 後ろから包丁で追い立てるように俺と蘭を招き入れると、忠勝はそのまま奥の調理スペースに引っ込んだ。律儀にも忠勝自ら俺との約束を守るつもりらしい。

 素晴らしい友を持ったものだ、などと大袈裟に感激してみながら、俺は所長用の事務机の前まで歩み寄った。

 机を挟んだ向かい側で、代表取締役たる宇佐美巨人はだらしなく背椅子にもたれかかっている。どうやら接客という言葉はこの中年親父の辞書には存在しないらしい。

「さて。来てやったぞ、宇佐美巨人。いや、ヒゲとでも呼ぶべきか?くくく」

「今晩は、宇佐美さん」

「お、こんばんは、蘭ちゃん。若いのに礼儀がしっかりしてるってのはいいねぇ。そこの御主人様にも少しは見習って欲しいぜ、ったく」

「畏れながら、信長様は元来、人の上に立たれるお方。私如きのような従者と同様の礼儀などは全く必要ないのです」

「あ、そ……。蘭ちゃん、その癖さえなけりゃウチの忠勝の嫁に欲しいくらいなんだがな、のわっ!?」

 その瞬間、調理スペースと事務室を遮る暖簾の向こうからお玉が飛来した。巨人の顔をギリギリのところで掠めて壁に衝突し、床に転がる。

 数秒後、両手にトレーを載せた忠勝が暖簾を押しのけて姿を見せた。

「ひでえな忠勝、いい年したオッサンに何しやがる」

「アホなこと言うからだろうが。ったく、ボケ親父が」

 文句を飛ばす巨人に不機嫌に返しながらも、手はてきぱきと動き、手際良く皿をトレーからテーブルに移していく。

 ここで明かされる新事実、忠勝はそのまま主夫が務まりそうな程に家事スキルが高いのだ。

「まずは食え。てめぇらにはこれからすぐに働いて貰うんだからな。しっかり栄養付けとけ」

「……ま、話ってのはそういう事だ。聞きたい事もあるだろうが、今はとりあえずメシにしようぜ。冷めると忠勝がうるせーからな」

「んなもん当たり前だろ。オレの目が黒い内は、食材を粗末にする事は許さねぇ」

 男前な宣言を頂いたところで、俺達は事務所中央のテーブルを囲み、昼間と同じく無言の食事を開始した。

 ちなみに献立は豚カツと味噌汁、そしてホウレン草の胡麻和え。なんと言っても我らが源忠勝の手料理、味は最初から保障されているようなものだ。

「ふぅ。ごちそーさん」

 満足気な様子で食事を終え、空になった食器類を調理スペースの流しの中に放り込み、そして洗い物を全て忠勝に丸投げしてから、宇佐美巨人が口火を切った。

「あー、今回お前らを呼んだのは……、まあいつも通りの用件だ。俺達の仕事の助っ人を頼みたい」

「助っ人か。近頃は、あまり呼ばれなくなっていたが」

「そりゃそうだろ。俺達は代行のプロなんだ、これでもプライドってもんがある。そうそうお前らの手を借りる訳にはいかねーよ」

 言われてみれば当然の話である。過去、俺と蘭は何度か巨人の仕事を手伝った事があるが、それらは合コンの穴埋めやら猫探しやら、そんなチンケな仕事では勿論ない。

 俺と蘭が力を貸したのは、宇佐美代行センターが独力では解決できないと踏んだ、規模の大きな難題ばかりだった。しかも大抵が“裏側”絡みの荒事である。

 という事はつまり。今回もまた、同様なのだろう。

「ま、そういう事だな。これまでと較べてもかなりデカい依頼だ。多分だが、お前さんも無関係じゃない」

「ふん。そう云われれば、予想も付く。大方、“黒い稲妻”を名乗るグループの件だろう」

「やっぱ知ってたか。ああ、その通り。あの連中、少しばかり調子に乗り過ぎててな。人数を頼んで暴れ回って、色々な所から恨みを買ってる。“裏側”と無関係な民間人にもちょっかい掛けてるっつー事で、“正義の鉄槌”を食らわしてやりたいってのが今回の依頼人サマの頼みだ」

「具体的には?」

「一体どこから掴んだ情報かは知らんが……依頼人が言うには、今夜、連中の集会が開かれるらしい。時間と場所を教えるからそこで確実に連中を叩き潰してくれ、と来たもんだ。やれやれ、相手が何十人いるかホントに分かってて言ってるのか疑問だぜ」

 眉間を揉み解しながら、巨人が面倒くさそうにぼやく。

 確かに名が売れているとは言え、宇佐美代行センターの従業員は数えるほどしか居ないし、戦闘要員に至っては巨人と忠勝の二人だけである。そんな所にそんな依頼を持ち込むのは理に適っているとは言いがたい。

「依頼人は、何者だ?何を考えている」

「俺は知らんよ。匿名の依頼だからな。ただ口座に前金が振り込まれてるから、支払いに関しては信用できそうだぜ」

「そんな事は訊いていない」

 匿名ねぇ。あからさまに怪しいが、しかしどういう事なのか。

 俺達が手伝った事で、過去にこの事務所は結構な数の荒事を解決している。

 その実績を考慮した結果、今回の件も達成可能と踏んだ可能性は十分にあるのだが。

 ……取り敢えず、この問題に関しては頭の片隅に留めておくとしよう。思い過ごしならそれでいいし、無駄に悩むのも馬鹿な話だ。

「成程。それで、俺と蘭の力を頼ろうと考えたか」

「ここまで来てノーとは言わないでくれよ、もう依頼は受けちまったんだからな。何なら報酬の取り分はそっち優先でいいぜ」


 無責任に引き受けたお前が全面的に悪い、とよっぽど言ってやりたかったが、まあ勘弁してやるとしよう。

 どちらにせよ、俺としても“敵対勢力”である連中を放置する訳にはいかないのだ。

 前回の尋問では集会に関する情報は引き出せなかったので、まさに今回の巨人の申し出は渡りに船というものであった。

 忠勝と巨人が戦力として加われば、こちらとしても楽に目的を達成できる。そして俺達は相当額の報酬を頂けて、更には宇佐美代行センターに恩を売れる。果たして一石何鳥だろうか。

「ふん。仕方が無い。力を貸してやるとしよう。恩に着るがいい」

 内心ではほくほく顔になりながら、俺はいかにも面倒くさげな調子を装って言った。

 巨人はそんな俺の態度に気付いているのかいないのか、「これで信用を落とさずに済むぜ」と安心したように額の汗を拭っている。

「どうやら話はまとまったらしいな」
 
 その時、暖簾が持ち上げられて、忠勝が事務室に戻ってきた。という事は洗い物を終えた筈なのだが、両手に小鉢を持っているのはどういう訳か。

「ほらよ、食後のデザートだ。言っとくが、別に手伝いを頼んだ礼に作ってやった訳じゃねぇぞ」

 さすがは我らが源忠勝、アフターサービスも万全だった。忠勝にはツンデレ喫茶の店員こそが天職なのではなかろうか。

 そんな事を考えながらタッちゃんお手製の杏仁豆腐をぱくついて、来るべき戦いに備えて英気を養う。

 依頼人からの情報によれば、“黒い稲妻”の集会は川神の重工業地帯、第十三廃工場にて、午後十時より開かれるらしい。


「蘭。覚悟は済んだか」

「ははっ。不肖森谷蘭、命に代えても主の御身を護り抜き、主の敵を討ち砕いてみせます!」

 

 時計が示す現在時刻は午後八時―――決戦の時は、すぐそこまで迫っていた。














~おまけの???~



「どうしたんだい、リュウ。いきなり召集なんて掛けて」

「あと少しで獣拳で五連勝できそうだってのに、着メロで気が散って負けちまったじゃねーか!あ゛ー、思い出すだけでも腹立つ!」

「うう~、まだ眠い……」

「くっくっく、なぁに、すぐに目も覚める。――マロードから新たな指令が来たぞ」

「うはっ、マジか!なんだなんだ、ウチは何すりゃーいいんだ?」

「くく、そう急かすな……喜べ天、お前好みの指令だ。例の“黒い稲妻”のアジトに乗り込んで、原型が残らなくなるまで叩き潰せ、だとよ」

「おおー、そりゃーいいな!暴れ放題じゃん!やっぱイカシてるなぁ、マロードは」

「マロードだからな。当然の事だ」

「つまり、マロードは連中のアジトを突き止めたってことかい?流石だねぇ」

「マロードだからな。それも当然の事だ。くっくっく、あいつはやはり最高だ……!」

「ねえリュウ~。それっていつやればいいの?」

「奴らの集会は今晩の十時。つまりは一時間後だ。今から身体が疼いて仕方がないな」

「そっかぁ。じゃあ、それまで寝ててもいいよね。おやすみ~」

「「「寝るな!」」」










 この話を書いてる時は妙に調子が良く、他の回の数倍のペースで書き上がってしまいました。

 何でだろう、作者的に前田くんが書き易過ぎたのか。

 普段からこの調子が出せれば良いのに、と切実に思う今日この頃です。それでは、次回の更新で。

 



[13860] 四日目の騒乱、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2010/08/10 10:34
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ、オラァッ!!」

 ああ、やっぱストレス解消にはこれが一番だぜ!

 そんな愉快痛快な叫びを心中で上げつつ、息もつかせぬ拳打のラッシュを叩き込み、よろめいた所を顔面への渾身のストレートで締める。

 哀れな犠牲者は血と歯を飛び散らせながら後方に数メートルほど吹っ飛び、薄汚れたコンクリの壁面に衝突した後、ズルズルと力なく崩れ落ちた。

 そんな様子を他人事の様に眺めながら唸り、返り血の滴る拳をゆっくりと引っ込めて、前田啓次はしみじみと一人呟いた。

「オレってさァ、やっぱ強ェんだよな。……まァそれなりにゃ」

 つい今しがたノックアウトした男の他に、啓次の周囲には十数人ほどの同年代の男共が気を失って転がっている。

 連中は揃って、頭に包帯を巻いて集合場所に現れた啓次の姿を嘲笑い、侮辱的な野次を飛ばしたのだ。

 喧嘩っ早さに定評のある啓次の血管がブチ切れたのは当然と言えよう。その必然が生み出したのが、目の前に広がる惨状という訳だ。

「見ろよアイツ、一人であんだけの人数やっちまいやがったぜ……」

「マジかよ、バケモンじゃねぇか」

「おいおい、しかもあいつ怪我してるじゃんよ。ひょっとして俺らのボスより強いんじゃねーの?」

「ギャハハ、バッカ、さすがにそりゃねぇって!」

 どうやら知らずの内に注目を集めていたようで、周囲に集ったギャラリーからは賞賛と畏怖のどよめきが聞こえてくる。

 まあ、さほど広くもない廃工場の中で一対十八の乱闘を演じたのだ。暴力の匂いに目が無いこの連中の注目を浴びるのは当然の話か。
 
 数時間前の自分なら、連中の反応に対して素直に浮かれて調子に乗れたんだがなァ――と啓次は苦い感情と共に思う。

 十八人の男を問答無用で叩き伏せ、地に這い蹲らせた拳。

 それが掠りもしない本物の“バケモノ”が存在することを知ってしまった今となっては、連中の頭の悪い褒め言葉など虚しく感じてしまう。

 つい先刻まで、前田啓次は自分の力に絶対的な自信を持っていた。事実として喧嘩に敗北したことは一度もないし、自身を上回る力の持ち主に出逢った事もなかった。

 わざわざ家を出奔して県外の高校に進学したのは、地元には居ない強者との闘いを求めたからでもある。

「強ェ奴と会えたのはイイけどよォ。あんなケチがつくとはなァ」

 自分の力は何処に行っても通用すると信じ込んでいた。

 世界は広く、自分より強い奴もいるかもしれない。しかし、相手が誰であろうと自分ならば楽しい勝負が出来るに違いないだろう―――この堀之外に越して来た一週間前の時点で、啓次の抱いていた認識はその程度のものだ。

 甘かった。啓次の苦手とするカルーアミルクすら霞んで見える程の、激烈な甘さだった。

 辿り着いた新天地で啓次が遭遇した初めての“強者”は、楽しい勝負どころか、勝負すらもさせてはくれなかった。

 全力で繰り出した自慢の拳は初撃の時点で完全に見切られ、いとも容易く空を切る。お前の拳などわざわざ防ぐ必要すらないと言わんばかりに、相手は終始コートのポケットから両手を出そうとしなかった。

 根本的な実力差を嫌と言うほど思い知らされる、余裕に満ち溢れた態度。今こうして振り返って見ても、初めから勝負として成立していなかったのは明らかだった。

 アレは遊びだ。最初から最後まで、徹頭徹尾これ以上なく完膚なきまでに、遊ばれていた。事実、奴が「飽きた」と口にした後の展開は……正直、思い出したくもない。

「井の中の蛙、かァ。自分じゃ分かんねェもんだな」

 上には上がいる。そのまた上には上がいるのだろう。

 啓次の想像を遥かに超えて、世界は広大だった。あのまま地元でお山の大将を気取っていては何時まで経っても気付けなかったであろう事だ。

 今回の一件で自身のどうしようもない未熟さを自覚できた分、自分は運が良かったのかもしれない。

 血塗れの拳を見つめながら感慨に耽っていると、何やら周囲が騒がしくなってきた。

「あ、アレは……」

「ボスだ、ボスのお出ましだぜ」

「ん?」

 啓次は眉根を寄せた。郡を為すチンピラ連中の間を抜けて、誰かがこちらに向けて歩み寄ってくる。

 その何者かは、カツン、とコンクリの床で高らかに靴音を響かせながら、啓次の目の前で立ち止まった。周辺の床の上で白目を剥いて気絶している男達を冷たく一瞥した後、啓次の顔を下から覗き込むようにしてジロジロと無遠慮に眺める。

「何だか騒がしいと思ったら……はぁ。キミ達、味方同士でなにやってんの?これだから脳味噌まで筋肉で構成されてる連中は困るよ」

「あァ?」

 ああなんだ喧嘩を売られているのかじゃあ取り敢えず泣くまでブン殴っとくか、と殆ど反射的に動きそうになる拳をどうにか抑えて、啓次は状況把握に努める事にした。

 何の遠慮も躊躇も抱かずに殴り飛ばすには、眼前の相手の容姿が問題だ。何と言っても、パッと見た感じでは自分よりも年下の、小柄で線の細い少女である。

 全体的な雰囲気を一言で表すなら、猫っぽい。特徴的な猫目で、その上結構な猫背だ。

 加えてどういう訳だか袖の余りまくったダボダボのコートを羽織っており、ただでさえ小柄な背丈がますます縮んで見える。男の中でも比較的長身の啓次と対峙すると、軽く頭一つ分以上の身長差があった。

「何だテメェはよ」

 どう考えても一度でも見たら忘れられないタイプの人間だが、生憎と見覚えはない。

 そんな啓次の反応に対して、少女は心底呆れたような声を上げた。

「ハァ?何だ……、ってキミ、いかにも脳筋っぽい顔してるけどさ、流石にボクを知らないとか言い出さないよね」

「……クッ」

 鎮まれ、俺の右腕。隙を見ては啓次の理性を無視して動き出しそうになる拳を抑え込む。

 いかに喧嘩っ早い啓次と言えど、女の、しかも子供を相手に拳を振るうような真似はNGだ。男としての美学に反する。

「知らねーな。んで、何か文句でもあるってのかよ、あァ?」

「……。呆れて言葉が出ないな。一応、キミが現在進行形で所属してるグループのリーダーをやってる筈なんだけど」

「あ?リーダー?って事は何だ、テメェが“黒い稲妻ブラックサンダー”のボスなのかよ」

 啓次が不良仲間を通じて“黒い稲妻”を名乗るグループの勧誘を受けたのは、確か三日ほど前の事だったか。

 根無し草の一匹狼を自認する啓次としては、当初は特定の組織に属する気は無かった。

 ただ好きな様に暴れるだけで構わない、束縛は一切しない――と説得されて軽い気分で加入したが、仲間になったつもりなどまるでない。

 そういう背景もあって、啓次にしてみれば自分が“黒い稲妻”の一員であるという意識は底無しに低かった。今回のような集会に参加するのも初めてであるし、当然の如くボスの顔など知る筈もない。

 それに、この貧弱そうな少女を一目見ただけで不良グループのリーダーだと判断するのは難しいだろう。

 まじまじと改めてその場違いな姿を眺める啓次に、少女は不愉快げに鼻を鳴らした。

「何さ、キミも女のリーダーは認めないってクチなの?そういうの、いい加減ウンザリしてるんだけど」

「あー。いーや、そうじゃねェんだがな……」

 いまいち整理し切れていない部分に触れられて、啓次の返答は歯切れの悪いものとなった。

「ふーん、ちょっと驚き。キミみたいなタイプは兎にも角にも、人を外見で判断する場合が多いからね」

 意表を突かれたらしく、少女は少しだけ意外そうな顔だった。実際、数時間前の自分なら間違いなく舐めて掛かっていたであろう事を思えば、文句を付ける気にもなれない。

 武力か知略か。この少女が何を以って粗暴者揃いの不良グループをまとめ上げているのかは判らないが、“何か”がある事だけは間違いないだろう。

 ―――もっとも、それがあのバケモノに対抗出来るほどのモノだとは、到底思えないが。

「ちょうど良かったぜ。アンタがボスだってェなら、ここで言っとくわ」

 だからこそ、啓次は現在こうしてこの場所に立っている。わざわざこの集会に顔を出したのは勿論、ここに屯している連中に対しての仲間意識が芽生えたからなどではないのだ。

「んん?まあいいや。何?」

「入ったばっかでナンだけどよォ。オレ、今日限りでこのグループ抜けっから」

 ちょっとコンビニ行ってくる、と同じ程度に軽いノリで告げる。

 案の定と言うべきか、その言葉に対して眼前の少女が何かしらのリアクションを見せるよりも先に、周囲の取り巻きが喧しく騒ぎ始めた。

「あぁ!?なにフザケた事抜かしてやがんだてめぇ!」

「新入りが調子乗ってんじゃねーぞコラ」

「なになに、“教育”すんの?しちゃう感じぃ?オレも混ぜてくれよ、ぎゃははっ!」

 口々に罵声を上げながら啓次を取り囲む。次いで、騒ぎを聞きつけた廃工場内の連中が次々と集まって来る。

 彼らは裏切り者に対する怒りで表情を歪ませる――などという事もなく、むしろ大部分の連中は獲物を見つけた喜びに高揚し、ニヤニヤと残忍な笑みを浮かべていた。

“黒い稲妻”のメンバーの共通項は一つ。一方的な暴力の捌け口を常に求めていると言う点である。

「けっ、どうやら今度は一対十八どころじゃァ済まねェか」

 黒い稲妻というグループの構成人数など把握していないが、ざっと見ただけでも百人は下るまい。

 まあその程度は最初から覚悟していた事だ。たまには百人組み手と洒落込むのも悪くはない。

 啓次はボキボキと骨を鳴らしながら、獰猛な笑みを浮かべた。その心中に恐怖心などはこれっぽっちもない。ひたすらに湧き上がる心地良い闘志に身を委ねるだけだ。

 どれほど手酷く叩きのめされようが、そうそう簡単に性根が変わる事はない。結局のところ、前田啓次は真性の戦闘狂だった。

「さっさと掛かってこいや、タイマン張る度胸もねェチキン野郎共!後腐れなくぶっ潰してやっからよォ!」

 怒号のような啓次の挑発が廃工場を反響し、空気が張り詰める。

「言ってくれるじゃんよ、ああ!?」

「ぶっ殺し確定!二度とオレらにナメた口効けねーようにしてやるよ」

 一発触発の事態だ。誰かが何かしらの行動を起こせば、そのまま大乱闘に突入することだろう。

 じりじりと包囲網を狭めてくる連中に対し、先手を打って自分から仕掛けようと、啓次が大きく息を吸い込んだ時であった。

「はぁ……あのさ。両方とも、少し待ってくれるとボクとしては嬉しいんだけど」

 今の今まで沈黙を保ってきた猫目の少女、黒い稲妻のトップが口を開く。その声音は酷く気だるげで、彼女が現在の状況を少なからず面倒に感じている事は明白だった。

「ハァ?ボス、ここまで来てそりゃないッスよ―――」

 さながら、餌を目の前にお預けを食らった犬である。連中の中の一人が、あからさまに不満たらたらの様子で少女に食って掛かった。

 否、食って掛かろうとした、と言うべきか。

「はぁ。誰が口答えしていいなんて言ったのかな」

 馴れ馴れしく少女の肩に手を掛けようとした男は、次の瞬間には肋骨のへし折れる嫌な音を引き連れて宙を舞っていた。

 啓次は驚愕に目を見開く。人体一つを高々と宙に浮かせた少女のモーションが、全く視えなかったのだ。

 それが溜め無しで繰り出された前蹴りだった、と認識出来たのは、少女のしなやかな脚が天に向かって伸びているのを確認してからの事だった。

 腹部への一撃で完全に意識を刈り取られたらしく、男は受身を取る事もなく落下。コンクリートの床に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。

「ふん。リーダーのお願い一つ素直に聞けない愚図なんて、ボクのグループには要らないんだよ。……そのくらいの事、他のみんなは分かってるよね?」

 意識を失っている男の頭を容赦なく踏み付けながら、少女は酷薄に目を細めて周囲を見渡した。

 無言。誰も彼もが目を逸らし、彼女と真っ向から視線を合わせようとはしない。些細な理由で仲間が足蹴にされている状況も関わらず、反抗する者は皆無だった。

 小柄で細身の少女一人に、百人を超える不良達が完全に呑まれている。

 啓次はどこか目の覚めるような気分でその光景を眺めていた。
 
 そう、これだ。これこそが本物の“力”だ。

 この少女が持つ力は、有象無象が振るう只の暴力とは一線を画している。まさしく、一線を踏み越えた先の領域に存在していた。

 ただ一撃を放つだけ。ただそれだけで、対峙した相手のみならず、見る者全てにその圧倒的な武の実力を悟らせるソレは、あの男が啓次に対して振るったものと同質だ。

「さてと」

 少女の眠たげな双眸がこちらに向けられ、啓次は素早く身構えた。油断の許される相手ではない事は十二分に承知している。

「やっと落ち着いて話ができるよ。それじゃあ、ゆっくり聞かせて貰おうかな」

「……あァ?」

 しかし、どうやら相手には今のところ争いの意思は無いらしかった。拍子抜け半分、安堵半分といった気分で啓次は力を抜く。
 
 はっきり言って眼前の少女は、今の自分には少しばかり勝ち目の薄い相手だ。

 強者との闘いは望む所だが、それはあくまで“闘い”として成立している場合においてである。戦闘狂だろうが何だろうが、一方的に嬲られて楽しめる道理はない。

「聞くっつってもよ……何を聞きたいってんだ」

「勿論、理由だよ。キミがボクの“黒い稲妻”を抜けたいと思う、その理由さ。リーダーを務めてる身なんだ、グループの何が不満なのか気になるのは当然の話でしょ?」

 そんな風に答える少女の表情は、妙に白々しく、どこか嘘っぽさを感じさせた。少なくとも本心を話している訳ではないのだろう、と啓次は当たりを付ける。

 まあ彼女が内心で何を企んでいようとも、別に自分には関係のない事だ。わざわざ喧嘩を仲裁してまで“それ”を聞きたかったと言うのなら、素直に答えてやるとしよう。元より、特に隠し立てするような大した理由でもない。

「オレぁよ、ちょっと前まで自分こそが最強の男だと思ってたワケだ。だから、どんな無茶だろうが平気でやってこれた」

「んん?ちょっと、ボクは質問に答えて欲しいんだけど」

「まあそう焦んなや。オレぁ頭が良くねェんだ、筋道立てて話すなんざ無理な注文だぜ。まだるっこしい話を聞きたくねェってんなら質問は取り下げな」

「……いいよ。キミの好きな様に話せば?」

「へ、言われなくてもそうするぜ。……んで、オレはある男にブチのめされて、ちったァ自分の力ってもんを計れるようになった。そこでオレは初めて、今までどんだけ危ない綱を渡ってきたか分かってきたのさ。情報屋に改めて話を聞いてみりゃ、堀之外っつー街にゃヤバい奴らがうようよしてやがる。シマを荒らした相手は誰だろうが容赦なくぶっ潰す、そんなイカれた連中がよ」

 啓次の乏しい記憶力ではごく一部の“イカれた連中”の名前程度しか覚えられなかったが、その情報だけでも十分過ぎる。

 堀之外を暴力と享楽で纏め上げる表の支配者、板垣一家。

 絶対的な恐怖を以って秩序を保つ裏の支配者、織田信長。

 いいかお前さん、何があっても絶対にこの連中には逆らうなよ――と情報屋は冷や汗混じりに忠告してきたものだ。既にその片方に喧嘩を売ってしまった後だ、とは流石に言えなかった啓次であった。

「そんでもって、もう一つ大事なことが分かっちまった。ここ最近、その連中の縄張りをあちこち引っ掻き回してる命知らずな連中がいるらしいってな。確か、ブラックなんとかっつー名前のグループだったか?」 

「ふーん。成程ね。それでキミは怖くなっちゃって、巻き添えを食らわない内に尻尾を巻いて逃げ出そうと思ったワケだ。なんとも男らしい事だね」

「あァ……?」

 少女の言葉に、啓次は眉根を寄せる。本来ならば一瞬で血管がブチ切れるような皮肉だったが、今回に限っては戸惑いが激昂を凌駕した。

 どういう訳か、嘲笑うような言葉の内容とは裏腹に、彼女は感心したような表情を浮かべていたのだ。

 その態度にどうしようもない違和感を抱えながら、啓次は言葉を続けた。

「今のオレは自分が最強じゃねェことを嫌ってほど知ってんだ。それに、オレはいつかゼッテーに“あの男”の居る高みまで這い上がるって決めちまったからよ、こんな所で潰されて終わるワケにゃいかねェ」

「何だぁ。ごちゃごちゃ言っても結局はビビってるだけじゃねーか、腰抜け野郎が!」

「ギャハハ、ダッセェ!」

 周囲の連中から野次が上がると、それを皮切りに次々と嘲笑の声が飛び交い始める。瞬く間に悪意に満ちた不快な笑い声が廃工場を埋め尽くした。

「けっ、笑いたけりゃァ好きにしやがれ糞ッ垂れども。いつかオレが最強になった時、オレを笑ったことを存分に後悔させてやっからよォ!」

 啓次が吼えると、連中の下品な笑い声は益々そのボリュームを上げた。

 構いはしない。所詮は負け犬の遠吠えに過ぎないことは誰よりも自分が理解している。

 今はまだ、負け犬でいい。いつの日か、この屈辱と怒りを糧にして、前田啓次は獅子へと大成してみせよう。

「あのさ」

 男達の下卑た笑い声の渦巻く中、少女が気難しい顔で声を掛けてくる。

「ちょっと気になったんだけど。キミの言う“あの男”って、もしか」

 そこまで言ったところで、少女は不自然に言葉を打ち切った。

 訝しがる啓次を余所に、猫に似た目をカッと見開き、見えない何かに怯えるように大きく跳び退って、廃工場の玄関口に当たる鉄扉を注視する。

 その扉が軋んだ音を立てて押し開けられた時、啓次はようやく少女の行動の意味を理解した。

 
 文字通り、身を以って。


「ふん、此処で正解だったらしいな。宇佐美巨人の当てにならん情報も、稀には役に立つ」


 己の身体と共に周囲の空気が瞬時にして凍り付く、異様な感触。それは、啓次にとってはどう足掻いても忘却し得ない感覚だった。

 あれほど喧しかった笑い声も、誰かが一時停止ボタンを押したかのようにピタリと止まっている。

 唐突且つ不自然な静寂に支配された第十三廃工場に、二つの靴音だけが鮮明に響いた。

「主。念の為、先ずは確認を取られるのが宜しいかと存じます。……流石に間違って斬り捨てたとあっては不憫です」

「ふん。斯様な時刻、斯様な場所に屯する連中の身など、預かり知らん事」

 男が一人に女が一人。啓次にとっては決して見間違えようのない二人組―――織田信長とその従者、森谷蘭。

 堀之外における恐怖の象徴として君臨する主従は、何ら気負った様子もなく、埃の積もったコンクリートの上を悠然と闊歩する。

「お、おい、何だテメーらは!」

「俺達のアジトに勝手に踏み入っていいとでも思ってんのかよ、ああっ!?」

 そんな中、異様な雰囲気に呑まれまいと、メンバー数名が怒鳴り声を上げながら侵入者に詰め寄った。
 
 そのあまりに命知らずな姿が数時間前の自分と重なって、啓次は思わず警告の声を上げようと口を開く。

 しかし、それも既に手遅れだった。信長は眼前に立ち塞がる男達を、ゴミでも見るような冷酷な眼で一瞥した。

「頭が高い。控えろ」

 その瞬間、何が起きたのかを正しく理解できた人間は恐らく啓次だけだろう。

 まるで信長の有無を言わせぬ声音に従うかのように、男達の身体が次々と床へ崩れ落ちた。

「な、何アレ……」

 啓次の横で、少女は顔を強張らせ、呆気に取られたように呟く。

 床に倒れ込んだ男達は、誰も彼も口から泡を吹いて気絶している。そんな彼等の身体を踏み付けながら、信長は何事も無かったかの如く歩みを再開した。

 もはや“黒い稲妻”の誰一人として、彼等を妨げようと動く者はいない。あたかも呪いによって物言わぬ石像と化したかのように、口を開くことすら忘れている。

「面倒至極ではあるが、訊いてやるとしよう」

 そして、彼と彼女は廃工場の中央にて足を止めた。

 誰もが彼もが硬直する中、一人の少女だけが全身の毛を逆立てるような調子で警戒心を露にし、姿勢を低くして身構えている。

 その様子を見て何かしらの判断を下したらしく、二人組は少女に注意と視線とを向けた。

「偽証は死と同義と思うがいい。心して答えろ――貴様等は、“黒い稲妻”に相違ないか」

「フーッ、……うん、そうだよ。間違いない。一応名乗っておくよ。ボクはリーダーの明智音子ねねさ」

「認めるか。くく、潔い事だ。同時に、愚かでもある」

「そう言うキミは、かの有名な織田ノブナ……ッ!?」

 言い終えるよりも前に、爆発的に膨れ上がった殺気に貫かれ、啓次も少女も絶句した。恐らくは呼吸すらも止まっていただろう。

「ふん。記憶しておけ。俺の勘気に触れたくなければ。二度と、俺の姓名を、続けて、読むな」

 心臓が凍るような恐怖に支配され、指一本動かす事すら適わない。

 傍で巻き添えを被っているに過ぎない啓次ですらこの有様だ。真正面からその殺気を浴びせ掛けられている少女――ねねにはどれほどの負荷が掛かっているのか、想像すらしたくない。

 今の織田信長が身に纏っている張り詰めた殺気に較べれば、先刻、親不孝通りで浴びせられた殺気など生温くさえ思える。所詮、この男にとっては啓次の相手など、正しく児戯に等しかったと言う事か。何とも笑えない話だった。

「バケモンにも限度があるだろーがよ、クソッ」

 啓次は固まった舌を無理矢理に動かして、小さく毒づいた。その呻きを聞き咎めたのか、欠片の感情も宿さない双眸が啓次を射抜く。

「ほう。くく、これはまた、随分と早い再会だ。さて、貴様がこの連中の同志だとするならば。折角拾った命を早くも無駄にする羽目になるが、如何」

 淡々と語り掛けるその言葉にも、表情にも、怒りや失望と言った感情は見受けられなかった。ただ事実を事実として確認しているだけの、無機質極まりない質問。

 だからこそ、啓次の返答次第では、本当に何の情け容赦もなく命を刈り取られるだろう。こうして強烈な殺気に曝されている現在では、容易に想像できる情景だった。

「オレは、」

「ちょっとちょっと、冗談はやめてよ。コイツはね、ゴミ同然の裏切り者で、これから皆で自分の立場を思い知らせてやろうとしてたんだ。キミ達が見事にいい所で邪魔に入ってくれたけどね」
 
 どうにか口を開きかけた啓次に被せるようにして、ねねが声を張り上げた。信長の冷たい視線が数秒ほどねねを捉え、そして背後に控える従者に向けられる。

「蘭」

「ははっ、承知致しました!蘭は只今を以って、彼を殲滅対象より除外します」

 ……これは、少なくともこの場における身の安全は保障されたと考えていいのだろうか。いまいち状況が掴めないが、雰囲気から察するにそういう事なのだろう。

 主従の遣り取りを見届けながら、啓次は小さく息を吐き出した。

 ふと、小柄な姿が視界に映る。真っ向から織田信長と対峙する猫目の少女。

 ねねの先程の発言は、自分を庇おうとしてのものなのだろうか。何分、彼女に庇われる理由としては全く思い当たる節が無いので、いまいち確信が持てない。

 ねねはグループ“黒い稲妻”のリーダーだ。どう転ぼうが、啓次の様に見逃される事は有り得ないだろう。

 啓次にしてみれば別に彼女を心配する義理はないし、理由もない。仮に心配してみたところで何か現実的な意味がある訳でもない。

 何にせよ、この場における前田啓次の役割は終わったのだろう。望むと望まざるに関わらず、傍観者として状況の推移を見守る事しか出来ない。


「クソッタレがっ」


 何故だか湧き上がる腹立たしい気分に任せて、啓次は自分にしか届かない小声で吐き捨てた。







 

「……それで?堀之外の裏の顔が、こんな辛気臭い所に何の用なのさ。一応言っとくけど、この秘密基地は部外者立ち入り禁止だよ」

 猫っぽい茶色の目を油断なく光らせ、こちらの様子を窺いながら、少女――明智ねねが口を開く。

 “黒い稲妻”のリーダーを名乗った彼女は、会話を交わしている最中も常に全身の筋肉をピンと張り詰めさせ、いつでも行動を起こせるように身構えていた。下手に動けば手痛い反撃を貰う事になるだろう。

 外見は何ともアレだが、一つのグループを仕切るだけの実力は間違いなく感じられた。少なくとも素の俺では手の届かない相手であることは間違いない。

 脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目(肉食)を連想させて止まないこの少女をどう処理するか、今回の依頼はその辺りが鍵になりそうだ。まあ、ともかく様子を見てみるとしよう。

「ふん。辛気臭いのは事実だが、大いに結構。秘密基地から秘密墓地への模様替えも、容易になろうと云う物だ」

「はぁ、何とも物騒なことを仰るね。ボクは思うんだけど、暴力で全てを解決しようとするのは頭の足りない愚か者の考えだよ。人間、もっとクレバーに生きないと」

「だとすれば、貴女方こそ愚者の好例とでも言うべきですね」

 俺の背後に控える蘭が冷たく言い放った。普段の馬鹿っぽさとは結び付かない、抜き身の刃を思わせる鋭い声音。蘭がこういう声を出すのは、大体がキレる一歩手前の時である。

「昨日の朝方、“黒い稲妻”は我が主の住いに刃を携えて討ち入ろうとしました。幸いにしてこの森谷蘭が下手人の全てを斬り捨て、大事無きを得ましたが、場合によっては――我が主に危害が及ぶ可能性とて在ったのです。故に、私は貴女方を許すつもりはありません」

 結局のところ、そういう事だった。蘭がここまで怒りを露にする理由が、俺に関わること以外であった試しがない。本来、右の頬を打たれたら、困った顔で左の頬を差し出すようなお人好しなのだが。

「ふん。聞けば“黒い稲妻”とやら、表裏問わず、各所で見境なく暴れて恨みを買っていると聴くが。然様な事は、俺にとっては至極どうでもいい。問題があるとすれば、只の一度でも織田信長に手を出そうと血迷った事のみ。俺は己に仇為す“敵”は総て排除せねば、気が済まん性質でな。――さて、どうだ。そろそろ覚悟は終えた頃か?」

 冷たく言い放ち、ねねに向けて脅すように一歩を踏み出す。同時に俺はその身に纏う威圧感を更に底上げしていた。

 このレベルの威圧を受けると、ミシミシと音を立てて周囲の空間が歪んでいるような錯覚に陥る……らしい。天の奴が前にそんな事を言っていた気がする。

「くっ!」

 板垣一家お墨付きの殺気を発しながらゆっくりと迫る俺を前にしては、流石に平静を保てなかったらしい。

 ねねは顔を引き攣らせながら、数メートルほどの距離を一気に跳び退って、俺との間合いを広げた。

 予想外に身軽な動作。ほう、と俺は心の中で感心する。少しばかりぎこちないが、殺気に中てられているにしては十二分に俊敏な身体捌きだ。

「ああもう!こうも明瞭に交渉の余地は無いって宣言されちゃあお手上げだよ、全く!」

 彼女はうんざりした様な呻き声を上げてから、未だに凍り付いて呆けている己が部下達をギロリと睨みつける。

「で、キミ達はぁ、さっきから何をボーッと突っ立ってんのさ!和平交渉はもう決裂したんだよ、そんでもって相手さんはこっちを許しちゃくれないって言ってるんだ!やらなきゃやられるだけだってどうして判んないかなぁ!」

 噛み付くような叱咤の叫びが、凍り付いた空気に僅かなヒビを入れた。

 そこを見逃す事なく、ねねは現在の空気を打破せんとばかりに、小柄な身体に似合わない大音声を張り上げる。

「それとも何、キミ達は新しい伝説でも作りたいワケ!?“黒い稲妻”は百対二の勝負にビビって逃げ出した腰抜け集団ですって!言っとくけどボクは嫌だからね、自分が作ったグループが臆病者の代名詞として語り継がれるなんてさ!」

「お、おお……」

「そうだよな、考えてみりゃ相手はたった二人なんだ」

「それに俺達には無敵のボスがいるじゃねぇか!負けるワケがねぇって」

 罵倒混じりの激励は確かな効果を挙げたようで、硬直していたメンバーが次々に金縛りから復帰していく。

 未だに顔色は真っ青で、手足の動きもどうにもぎこちないが、只の石像が“動く石像”になっただけでも劇的な改善と言っていい。

「何つったってここはオレらのアジトなんだ、得物も揃ってる!やれない道理がないぜ」

「裏の顔だか何だか知らねぇが、俺達“黒い稲妻”を舐めんじゃねぇぞッ」

 見る間に大多数のメンバーが復帰し、撒き散らされる殺気へのお返しとばかりに雄叫びを上げ始める。ねねは闘志を取り戻した男達を見渡し、そしてこちらを鋭く睨み据えた。

 やれやれである。統率力が高いのは結構な事だが、この状況でそれを発揮されても誰も得はしないだろうに。

「ふん。中々、上手く煽るものだ。……あのまま逆らわずに幕引きとする事が、最も易しく、優しい道でもあったものを。残酷なものだ」

「……」

 俺の言葉に反論する事もなく、ねねはただ苦々しげに表情を歪めた。その様子を見る限り、自覚はあるのだろう。やはり彼女は、“黒い稲妻”に勝機があると考えてはいない。

 実際、見たところリーダーである明智ねねを除けば、一山幾らでそこらに転がっているような有象無象の集団に過ぎない。“織田信長”の魔手に掛かれば鎧袖一触、瞬く間に壊滅するのは必定―――と、そんな風にねねは考えている事だろう。

 現実的に、この状況下で俺にできる事などほとんど無いのだが、長い年月を掛けて作り上げられた“虚像”にとってはチンピラ百人斬りなど朝飯前もいいところ、なのである。

「オイコラテメ、さっきからゴタゴタとうるっせーんだよ!覚悟決めろやオラァッ!」

 黙り込んだねねの姿に焦れたように、集団の先頭にいた鼻ピアスの不良が雄叫びを上げた。それを切っ掛けに、遂に“黒い稲妻”が動き始める。

 鉄パイプに木刀にメリケンサックにサバイバルナイフ。

 無駄にバリエーションの豊富な凶器をそれぞれの手に握って、五人ほどの男達がやや遠巻きに俺達を取り囲み―――そして、喚声と共に一斉に襲い掛かってくる。

「ふん」

 溜息を吐きたいような気分で、俺はその光景を眺めていた。

 こうなってしまってはもう手遅れだ。

 せめて徒手空拳で俺達に喧嘩を売る男気が彼らにあれば、まだ救われたものを。

「是非もなし」

 俺が呟いたのと、銀閃が迸ったのは、どちらが先だったか。

「え」

 唯一、その瞬間をその目で捉えられたであろうねねが、呆けたような声を上げる。

 数瞬が過ぎ去った後――薄汚れたコンクリートに血の雨が降った。パラパラと生暖かい血飛沫が所構わず降り注ぎ、俺の顔面に不快な感触を残していく。

「ぎぃ、ああああぁぁッ!!」

 何とも形容しがたい絶叫が響き渡る。

 床に転がって苦痛に悶える男達は、揃って切り裂かれた脚から腕から、ドクドクと新鮮な血を垂れ流していた。

 赤く濁った血溜まりが順調にその規模を広め、鼻につく鉄錆の臭いが瞬く間に廃工場に蔓延していく。

「……」

 そして、それらの全てに一切の関心を覚えていないような、そんな冷め切った顔で、森谷蘭は抜き身の愛刀を横薙ぎに振るう。刃に付着した赤い血が払い飛ばされ、ぱたぱたと音を立てながらコンクリートを打つ。

 どうやらそんな我が従者の姿は、観衆達の恐怖心をますます煽ったようである。

「う、うわ、わぁああああああっ!」

 誰かが恐慌に染まった叫びを上げると、途端に場は騒然となった。

「き、斬りやがった!アイツ、ホントに斬りやがったぞっ!」

「い、イカれてやがる……!人殺しがっ」

 口々に喚き立てる。パニック寸前、見事なまでの混乱っぷりだ。リーダーのねねでさえ、表向きは取り乱してこそいないものの、どう見ても顔色が悪い。

 取り敢えず、この反応ではっきりした。どうやら“黒い稲妻”は裏社会に属する類のグループではないらしい。

 彼らの反応は、日常的に出血を目にする事に慣れていない、表側の一般人のそれに他ならない。仮にこれが演技だとしたら表彰ものだろう。

「貴方達がその手に持つ得物を以ってすれば、人を害する事は容易です。そのような物を軽々しく主に振るおうとする愚か者を、刃にて誅するのは、それほどおかしいですか?」

 喧々囂々と騒ぎ立てる群衆に向かって、蘭が平然と問い掛ける。

 あたかも人を斬ることに何の疑問も抱いていないようなその態度は、“黒い稲妻”の面々には無慈悲な殺戮機械の如く映ったことだろう。

「さあ、次は何方ですか。私は主の敵を砕く忠実なる刃なれば、悉く斬り捨て、先祖代々受け継がれし我が太刀の錆としてくれましょう」

 その言葉に、自分が斬り捨てられる姿を嫌でも想像させられたのか、集団に更なる動揺が広がる。

 実際のところを言えば、蘭は初めから手足の腱を正確に狙ったのであって、殺意を持って太刀を振るった訳ではない。見た目こそ多少派手に出血しているものの、それだけだ。よほど対処が悪くない限り、間違っても命に関わるような傷ではない。

 そういう訳で、本来ならば人殺し呼ばわりされるのは筋違いなのだが。

 しかしまあ、わざわざそれを教えてやる必要もないだろう。勝手にこちらの意図を誤解して勝手に恐怖してくれるなら、俺としては願ったり適ったりだ。

「さて。俺を敵に回す、その意味を。貴様らの骨肉に刻んで、理解させてやろうか。傷の痛みに悶える夜、悪夢と共に明瞭に思い出せるように、な」

 他者の血で紅く濡れた顔を冷酷に歪ませながら、俺は“黒い稲妻”の連中に向けて、手加減無しの殺気を放出した。

 十中八九、これでチェックメイトだろう。その為の下準備は既に整っていた。
 
 実際に蘭の手で“斬り捨てられた”仲間の姿を連中の目に焼き付ける事で、俺の有する殺気は具体的な実体を手に入れている。

 “殺されるかもしれない”と“実際に殺される”とでは、その恐怖の度合はまるで異なる。今の連中が俺に対して抱くであろう恐怖心が、当初とは比にならない程に巨大なものであることは間違いない。

 歯向かえば問答無用で斬り捨てられ、血の海に沈められる。そう、あそこに転がっている、五人の仲間のように。 
 
 そんな状況下で心が折れなければ、それは既に不良グループとは言えない。チンピラと呼ばれる人種の持つスペックには、あくまで限界があるのだ。

「うっ」

 元々、動揺に次ぐ動揺で完全に浮き足立っていた彼らは。

 俺の言葉を決定打として、容易く崩れた。

「うわあああ!冗談じゃねぇっ!!」

「チクショウ、こんな所で死んでたまるかよぉっ!」

 俺の殺気を浴びせ掛けられた事で、無残に斬り捨てられ、血の噴水と化す己の姿を幻視したのだろう。彼らは恐怖に染まった情けない悲鳴を上げながら、恥も外聞も無く逃走を始めた。

 殺気とは本来、受け取る者に“死”をイメージさせるもの。故に、“死”という概念と基本的に縁遠い一般人にはかえって効果が薄い場合が多い。

 しかし、具体的な例を、それも自分の目の前で鮮烈に見せ付けられた直後、という条件が付けば――まあ、ご覧の有様である。

「ちょ、ちょっと!こら、キミ達、逃げるなっ」

「無駄だ。死に勝る恐怖はなく。そして恐怖を超越するには、連中は弱過ぎる」

 慌てた調子で喚いているねねに、俺は少し同情しながら声を掛けた。俺と蘭にやられた十人ほどの仲間と、更には殺気に耐えて踏み止まったリーダーをあっさりと置き去りにして逃亡する彼らに、グループの誇りはこれっぽっちも感じられなかった。

 正直、そんな小物連中を放って置いたところで大した害にはならないだろうが、まあ仕事は仕事。手を抜かず、きっちり追い討ちを掛けておくとしよう。

「蘭、手筈通りに。往け」

「はっ」

 廃工場から脱出しようと、入口の扉に向かって一目散に駆けていく“黒い稲妻”の面々。

 蘭は太刀を片手に彼らの二倍近い速度で疾駆すると、追い抜き様に刃を一閃していった。誰かを追い抜く度に血飛沫が舞い、新たに人体が一つ床に転がる。

「やめて、もうやめてよ!どう見たってみんなもう戦意なんて残ってないじゃないか!」

「……」

 正面から必死の形相で吠え掛かってくる少女に、黙って視線を向けた。

 決して恐怖を感じていない訳ではないらしく、顔は青褪め、華奢な身体は小刻みに震えている。それでも、端に涙の浮かんだ目を俺から逸らす事なく、真っ直ぐに睨んできた。

 はてさて、一体何がここまで彼女を駆り立てるのやら、少しばかり引っ掛かるな。あくまで勘でしかないが、単純な情や義侠心とは異なるような気がした。

「ふん。己を見捨てた部下の心配とは、何とも寛容な事だ」

「いいから止めてよ!止めないって言うなら力尽くでも――」

「下らん。格の差を理解できんほど、愚昧でもあるまい。五体を留めぬ屍を晒したいか?」

 姿勢を低くして剣呑な気配を放ち始めたねねを、すかさず収束させた殺気を以って制する。

 忍足あずみというプロの殺人者を拘束し得たほどの威圧。もっとも、あのレベルの殺気を放ち続けるには精神力をガリガリ消費しなければならないので、今回はやや控え目に設定してあるのだが。

「うぅっ……!」

 それでも“表側”の住人には十分過ぎるほどの威力だ。顔色をますます蒼白にして、ねねは頭から爪先まで硬直した。

 暴れ出されたら俺一人の手には負えそうもないので、少なくとも蘭が仕事を終えて戻ってくるまでは、このまま拘束しておくとしよう。

「ひぃぃっ」

「ぎゃああっ!」

 哀れな子羊を追い立てる我が従者は絶好調のようで、ゴールを目指す連中の内、既に十数人ほどが志半ばで斬り捨てられていた。

 されど、たかが十数人。“黒い稲妻”は百人以上もの大人数で構成されているのだ。

 このままでは、残りの大多数の面子は無事に工場外への脱出を果たしてしまう――と思われる所だが、抜かりはない。

「ふん。伏兵は、戦の常道」

 何と言っても工場の玄関口には、二人の腕利き――宇佐美巨人と源忠勝を事前に配置済みである。

 後門の狼に追われ必死に逃げ出してきた羊を狩ろうと、前門では二匹の虎が手ぐすね引いて待ち構えているのだ。残念ながら羊達の群れには、大人しく諦めて餌となって貰う他ない。

「くく。計画通り」

 心中にて会心の笑みを浮かべる。ここまで俺の目論み通りに事が運んだのは久し振りだ。

 何せ今回、俺自身のした事と言えば殺気を放っただけである。それ以外には一切何もしなかったにも関わらず、敵対勢力を完璧に叩き潰し、依頼を完遂する事に成功したのだ。最小の労力で最大の成果を得る――実に素晴らしい。

 用意しておいた小道具も使わずに済んだので、出費もほぼゼロに等しかった。返り血を思いっ切り浴びたコートは流石にクリーニングに出す必要があるだろうが、まあその程度だ。

 明日は稼いだ報酬金で仲見世通りに繰り出して、思う存分高級和菓子を堪能しよう。


――――俺が異変を察知したのは、脳内にて文字通りに甘い夢を描いていた時だった。

 
 突然だが、武の世界における常識の一つ、“気”について講釈させて貰おう。

 この地球上に存在するありとあらゆる生物は、“気”と呼ばれる生命エネルギーを内包している。当然ながら、万物の霊長やら何やらと持てはやされる地球内生命体であるところの人類もまた同様に、この“気”を保有している訳だ。

 その所有量や性質は個人によって様々であり、ある程度武に通じている者はそこを利用して、“気”を探ることで相手の存在を感知し、個人を特定する事が可能なのだ。蘭のような人外連中と較べると悲しいほどに精度は悪いが、大雑把になら俺でも出来る。

 そして、ここで本題だ。俺は廃工場の外に、代行人の親子を配置しておいた筈である。が、現在、鉄の扉の向こう側から感じる“気”は、間違ってもその二人のどちらのものでもない。

 明らかに異質だった。奈落の底の如き禍々しさと、天を突くような雄大さを併せ持つ異様な“気”。

「まさか」

 記憶を探ること数秒、俺がその正体に思い至った瞬間。

「は、早く扉を開けろ!追いつかれちまうっ!」

「ん?ちょっと待て、向こう側に誰かが――」

 とんでもない振動と轟音が廃工場を揺るがせた。

 直後、工場の入口を守る鉄扉が、文字通り“飛んできた”。

 直線状に居た十数名の男達を巻き込みながら常識的に有り得ない速度を保って約五十メートルの距離を飛行し呆然と立ち尽くす俺の身体をギリギリのところで掠めて通過していった―――って何だ、これは。

「何だァ一体、ってうおわああああッ!?」

 後ろを振り返ると、金髪ピアスのチャラ男が巻き込まれて派手に宙を舞っているのが見えた。前田啓次、そこに居たのか。まるで気付かなかった。

 まあ今は空気の存在などを気にしている暇など無い。悪い予感に人知れず身を震わせながら、俺は随分と開放的な姿に成り果てた入口へと目を向ける。

「あのねぇ、たつ。扉を開けろとは言ったけど、向かい側の壁まで蹴り飛ばせと言った覚えはないよ」

「う~ん、加減がムズカしいんだよねぇ……まあいいかぁ。ちゃんと開いたし」
 
 悪い予感は見事なまでに的中した。なるほど、前門で待ち構えていたのは虎ではなく、実は龍だったというオチか。何ともまあ、無駄に良く出来た話だ。

「うはは、まあいいじゃんかアミ姉ぇ。選手入場は派手な方が気分出るぜ!」

「くくくっ。違いない」

 呆気に取られた顔で突っ立っている“黒い稲妻”メンバー達の存在などまるで意に介していないかのように、傍若無人に喋りながら工場に足を踏み入れた四人組。

 揃いも揃って、嫌になるほど良く見知った顔だった。

「うっはー、既に死屍累々じゃん。すっげー、床が血まみれだぜ」

 場違いな無邪気さではしゃぐ三女、板垣天使エンジェル

「ん~、ちょっと匂うなぁ。服に染み込んだらイヤだなぁ」

 場違いな呑気さでぼやく次女、板垣辰子。

「これは結構な惨状だねェ。一体誰がこんなえげつない事をやらかしたのか……なんて、考えるまでもないけどね。フフッ」
 
 場違いな妖艶さで笑う長女、板垣亜巳。

「ああ。この堀之外には、俺たちの獲物を横から掻っ攫うような命知らずはいねぇからな。そんな真似を出来るのはいつだってお前だけだ――なぁ、シン」

 そして長男、板垣竜兵が、俺に向かって獰猛に笑い掛ける。

 そんな状況に対して、俺は怒りやら嘆きやら呆れやらを通り越し、いっそ笑い出したくなるような気分に襲われていた。

「い、板垣一家……!?冗談でしょ……?」

 弱々しく呻いたねねの言葉に、俺は心中にて全力で同意する。

 圧倒的な暴力で堀之外を支配する、悪名高き板垣一家。何というか、場違いだ。場違いにも程がある。何故こんな時間にこんな場所でこんな奴らと遭遇する羽目になるのか。

 偶然の産物?いや、そんな事は有り得ないだろう。あまりにもタイミングが良過ぎ、いや悪過ぎる。誰かの意図が絡んでいるのは間違いない。となると、何者だ?そんな事をして何の益がある?

「ふん」

 色々と考えるべき事は多いようだが、少なくとも一つははっきりしている事があった。

 どうやら“黒い稲妻”との一戦は、ただの前哨戦に過ぎなかったらしい。道理で妙に難易度が低い訳である。

 織田信長にとっては、ここからこそが真の正念場。

 ゆっくりと息を吸い込んで、吐き出す。気付けば、傍には蘭が控えていた。似合わない凛とした表情と、手に携えた血塗れの太刀が何とも頼もしい。


「主」

「問題ない。退屈を紛らわす相手には、悪くないだろう」


 さて。吐き出した強気な言葉とは裏腹に、全く以って気は進まないが、仕方がない。


 誰かさんのお望みのままに、第二ラウンドを始めるとしよう。















「ねートーマ、さっきから何見てるの?」

「ふふっ、見世物ですよ。とても楽しい舞台です」















お久し振りです。一人でも覚えていて頂けたならそれだけで嬉しい。

半端なく更新が遅れてしまい、大変申し訳ありません。

作者のスキルがもっとあれば、と自分の到らなさを嘆くばかりです。定期更新している方を少しは見習わねば……

あと今回、原作キャラが最後しか登場しないという暴挙に出ていますが、こうした構成は恐らく今回が最初で最後です。

二次創作としてあまり良くない書き方だと自覚していますが、今回に関しては今後の展開の為にどうしても必要な話だったので、寛大な心で見逃して頂ければ幸いです。

それにしても、天使エンジェルちゃん真剣マジ天使エンジェル。 それでは次回の更新で。



[13860] 四・五日目の死線、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2012/05/06 02:42
 俺こと織田信長と板垣一家の関係を、一言で説明するのは非常に難しい。

 過去十年に近い腐れ縁を通じて積み上げられ、ゴチャゴチャと複雑に絡まり合った俺達の関係性を、事情を知らない他人に理解させるのは余りにも難易度が高すぎる。というか、はっきり言って無理だろう。

 正直な話、かく云う俺自身すらも、あの一家との複雑怪奇な関係については未だに整理し切れていないのだから。

 そういう訳で、その辺りの事情についてはまたの機会に語るとして。取り敢えず今は、板垣一家のパーソナリティについて軽く触れておこう。

 
 板垣竜兵、板垣亜巳、板垣辰子、板垣天使。

 
 断言してもいいが、この四兄妹の中にマトモな感性の持ち主など一人もいない。揃いも揃って何処かしら神経がイカレている。思考も価値観も常識も、何から何まで外れていて、“裏”の社会の中ですらも異端・危険視されている連中だ。

 にも関わらず、他の有象無象から排斥される事もなく自由気ままに振舞えている辺り、その力がいかに人外じみているか判ろうと言うものである。

 昔はそうでもなかったのだが、現在の堀之外には板垣一家に逆おうとする連中は殆ど居なくなっていた。理由は単純明快、逆らえば文字通りの意味で叩き潰されるからだ。

 まさしく享楽と暴力とをそのまま形にしたような在り様。堀之外という魔窟が産み落とした魔物――そんな表現がこれ以上なくしっくりくる。

 俺とその忠実なる従者であるところの森谷蘭が繰り広げた、明智ねね率いる“黒い稲妻”とのバトル。

 それが俺の完全なる勝利を以って終局を迎えようとしていたまさにその瞬間、それをブチ壊すように突如として乱入してきた連中、板垣一家とは――まあ、そんな奴らである。

「乗り込んでみれば既に祭りの後、と思ったが……どうやらまだ生き残りがいるらしいな」

 板垣一家のド派手な登場に度肝を抜かれたのか、“黒い稲妻”の面々は未だにポカンとした顔を晒して突っ立っている。顔に獣じみた凶相の浮かぶ長身長髪の男、竜兵はニヤリと残忍な笑みを浮かべながら、傲然と彼らを睥睨した。

「フフ、安心したよ。今夜はたっぷり愉しむつもりでわざわざ出向いたってのに、アタシのために鳴き声を上げる豚どもが居ないんじゃつまらないからねェ」

 亜巳は相変わらずの嗜虐趣味全開な目つきで、値踏みするように男達を眺め回していた。生粋のドSの気持ちなど想像したくもないが、SMクラブでの仕事(女王様)だけでは物足りないものなのだろうか。

 ……まあ他人の性癖に口を出すのは賢明ではない。少なくともこちらに目が向くまでは放って置くのが一番だろう。君子危うきに近寄らず、である。

「ウチはウチで新・必殺技!の実験台、募集中なんだよなー。うけけけ、さーて何から試そっかなーっと」

 天の奴はどうせまたゲームの技の真似でも試そうとしているのだろう。ヒーローショーを視る子供のようにワクワクした顔でゴルフクラブを素振りしている。

 何故か本人にとってはこれ以上手に馴染む得物は無いらしく、ゴルフクラブは奴が護身術を始めて以来、愛用し続けている武器だった。

 たまに交換はしているようだが、いつ見てもヘッドの部分に黒い血痕がこびり付いていると言う、何とも恐ろしい凶器である。

「zzz」

 そして残る一人。辰子は先程自分が蹴破った入り口にて仁王立ちしたまま、実に幸せそうな顔で夢の世界へと旅立っていた。

 奇人変人の知り合いは嫌になるほど数多くいるが、流石に敵地のど真ん中で堂々と居眠りできるような図太い神経の持ち主はこいつの他には知らない。マイペースにも程があると言うものだ。

 そんな彼女に亜巳が無言で歩み寄ると、安らかな寝顔に慈愛の眼差しを向けながら、無防備な腹部に容赦なくボディーブローを叩き込んだ。

「おふっ!……ん~?あ、おはよぉアミ姉ぇ。もう朝かぁ」

「残念ながらおはようを言うには半日近く早いねェ。寝惚けてんじゃないよ、まったく」

 何だこいつら――そんな思いで、今現在、“黒い稲妻”の面々の心は一つになっている筈だ。俺だって長年の付き合いで慣れていなければ、同様に混乱するのは間違いない。

 多少たりとも常識のある人間ならば、あまりの得体の知れなさに不条理な恐怖心すら抱く事だろう。実際、板垣一家に注目する彼らの表情は、揃って当惑と不安に満ちていた。

 竜兵はそんな彼らを鼻で笑い、小劇を繰り広げている三姉妹に声を掛けた。

「俺も血が滾って仕方がねぇところだが、今回は暴れる前にやるべき事があるからな。ちっ、腹立たしいがエモノは譲ってやる。遠慮はいらん、俺たちのシマを荒らすってのがどういうことか、愚かな新参どもに教育してやろうじゃねえか」

「おお、珍しく太っ腹だなリュウ!そんじゃ早速ウチから行くぜぇ、ゲーセンで鍛えたウチの北都神拳を見せてやらーっ!」

 ゲームとリアルを混同してしまった感じの色々と危ないセリフを叫びながら、天が愛用のゴルフクラブを振り回して暴れ始める。武器を使っている時点でそれは既に拳法ではないと突っ込みを入れたくなる俺は間違っているのだろうか。

「ひとまずシンへの挨拶は任せたよ、リュウ。ほら、いつまでボケっとしてんだい。アタシ達もさっさと行くよ、辰」

「うぅ~、眠い……」

 次いで亜巳が妖しい笑みを浮かべながら得物の棒を振るい、最後に辰子がフラフラと覚束ない足取りで参戦する。

 そして、人外の人外による人外のための蹂躙の宴が始まりを告げた。

「うぎゃああぁぁっ!!」

「ひぃぃっ!助けてくれえぇええッ!」

 蘭に追い回されていた時点で既に戦意を失っていた“黒い稲妻”の面々が、人外街道まっしぐらな三姉妹を相手に抵抗など出来るはずもない。

 人体が重力を無視して縦横無尽に宙を舞い、殴打と骨折の音響が四方八方から鳴り響く、そんな阿鼻叫喚の地獄絵図が瞬く間に展開された。

 悲鳴が飛び交う危険地帯の中を平然たる顔つきで横切って、こちらへと歩み寄る男が一人。そして、二メートルほどの距離を挟んで俺達は対峙した。

「よお。くっくっく、こんな所で遭うとは奇遇だな」

「奇遇だと?ふん、その言葉の意味を解しているとは思えんな。まあいい、能書きは不要。用があるなら今すぐ言え」

「言わずとも分かっているだろう?血の匂いに満ちた戦場で、俺と、お前が会ったんだぜ。やる事は初めから決まっている……違うか?」

 胸の前で指の骨を鳴らしながら、板垣竜兵は不敵に言い放つ。

 やれやれだ。どうやらこの分だと、戦闘を回避するのは少しばかり難しそうである。

 もしかしたら穏便に解決できるかもしれないと踏んでいたが、やはり希望的観測は宜しくない。世界は俺の望む通りに動いてくれるほど、ご都合主義的には出来ていないのだから。

「リュウさん。主に害を為そうと思うなら、私の刃を浴びる覚悟を致してからに下さい」
 
 俺と竜兵の間に漂う不穏な気配を察知して、蘭が素早く愛刀を鞘より抜き放った。二尺五寸の刃が鋭く光る。こいつが顔見知りの人間に向ける態度にしては珍しく、随分と好戦的だった。

 まあ無理もない、基本的に人を斬った直後の蘭は気が立っているのだ。一度血を見ると、誰彼構わず斬り捨ててしまいたくなります、勿論主は別ですが―――とは蘭の言である。

 何とも物騒極まりない話だが、これは過去のトラウマに起因する蘭の自衛本能のようなものだ。俺には精々、ストッパーとして振舞うことしか出来ない。

「蘭。少し待て。奴とは話がある」

「……ははっ、承知致しました」

 俺の命令を受けると、蘭は表情をぎこちなく強張らせながらも太刀をゆっくりと鞘に収めた。それを確認してから、俺は竜兵に向き直る。

「念の為に問うておくとしよう。先の言葉、俺に対する宣戦布告と捉えるが。相違はないか?」
 
 元々、織田信長と板垣一家は明確な敵対関係にある訳ではない。表の顔と裏の顔、立場としては利害が衝突する事もあるが、実のところ私的な面ではそれなりに付き合いが深かったりする。

 親不孝通りを歩けば結構な頻度で一家の誰かと遭遇するし、そんな時は連れ立って行動する事も珍しくない。少なくとも、会う度会う度に死闘を演じるような険悪な間柄ではないのだ。

「他にナニがある?辰はともかく、俺もアミ姉ぇも天も、いつだってお前との死合いを望んでるぜ……それはガキの頃から変わってねぇ」

 しかし、単なる仲良しな隣人、と言い切れるほど分かり易い関係でもないのもまた、確かだった。だからこそ、この忌々しい現状が出来上がっている。

「ふん。今更になって俺に勝負を挑もうとは、随分と増長したものだ。街の顔と持て囃され、驕ったか?リュウ」

「っ!くくっ、相変わらずイイ殺気だ。肌にビリビリきやがる」

 竜兵は俺の威圧にも動じる事なく、むしろ愉しむように身体を震わせる。少し言葉を交わしただけで既にうんざりし始めている俺を誰が責められようか。

 このどうしようもない戦闘狂にとって、殺気は夏場に浴びるクーラーのように心地良く感じられるらしい。中途半端に殺気を飛ばしてみたところで逆に喜ばせるだけと言う、俺からしてみれば何とも鬱陶しい性質を有している男なのだ。

「参ったな、お前と話してるとますます昂ぶってきたぜ。なあシン、やり合う前に場所を移して、俺の槍を受け入れてみないか?」

「死ぬがよい」

 不気味に頬を染めながら世迷言を抜かす竜兵の股間を全力全開で蹴り上げてやりたくなる衝動に襲われたが、いや待てそれは織田信長のキャラクター的に考えて宜しくない、と理性を以ってどうにか抑える。

 その一方で、全身に浮かんだ鳥肌はなかなか収まってはくれなかった。気分としてはS組の葵冬馬に口説かれた時よりも酷い。つまり死ぬほど胸糞が悪い。

「つれないな……かれこれ十年以上の深い関係なんだ、そう邪険にすることもないだろう」

「深い関係?ふん、訂正が必要だ。不快な関係、だろう」

 ――板垣竜兵十七歳(♂)、好みのタイプはイイ男。少なくとも一年前の時点ではそっちのケはなかった筈なのだが、気付いた時にはいつの間にやら俺を見る目つきが怪しくなっていた。背中を向けた際に寒気がするようになったのもその頃からである。

 どうしてこうなった、と頭を抱えたい気分だ。本人曰く、とある運命の出逢いで考え方が変わっちまった、との事。何とも傍迷惑な運命もあったものだ。
 
 そこまで考えた所で、俺は何とも嫌な予想に思い至ってしまった。板垣一家が正面入口からこの工場内に侵入してきた以上、当然ながらあの二人にも遭遇している筈なのだ。

「……外には見張りを置いてあった筈だが。彼奴らにも、手を出したのか?」

 巨人のオッサンはともかくとして、忠勝は川神学園のイケメン四天王エレガンテ・クアットロの一人に数えられる程のルックスの持ち主である。十分、竜兵好みのイイ男に該当するだろう。

 もしも万が一、大事な幼馴染が無残にも野獣の毒牙に掛けられてしまったのなら。俺は、この命を賭してでも仇を取ってやらねばなるまい。

「ああ、あいつらか。なかなか美味そうだったが、後一歩の所で取り逃しちまった。くっ、思えば何とも惜しい事をしたな」

 竜兵は心の底から悔しそうに顔を歪めた。どうやら我らがタッちゃんの純潔は無事に守り抜かれたようで、全く以って何よりである。

 しかし、安心してばかりはいられない。重要な戦力であるあの親子が撤退した事で、俺と蘭は敵地に取り残された形になる。

 彼らにしてみれば別に見捨てたつもりはなく、“織田信長”の実力を信用しているが故の戦略的撤退なのだろうが……虚像を取り払った俺の素の実力を考えてみると、この状況は相当に厳しいものがある。

 さて、どうしたものやら。

 会話の最中に幾つかのプランを脳内で組み立ててはみたが、果たしてどの手段を選択するのがベストなのか。いまいち判断に困る。自身の置かれた状況をより正確に把握するためにも、まずは情報を引き出す必要がありそうだ。

「下らん前置きは此処までだ。時間が惜しい。お前達が何故、何の為に。この場所に居るのか、いい加減に説明して然るべきだろう」

「くくっ、何を説明すればいいのか分からんな。ヨソ者連中の教育に足を伸ばしたら、偶然お前達と鉢合わせた。それじゃあ駄目なのか?」

 竜兵はニヤリと笑いながら、わざとらしい口調で答える。その様子を見る限り、どうやら初めから誤魔化そうと言うつもりもないらしい。

 殺気を飛ばして催促すると、竜兵は軽く肩を竦めて見せてから、楽しげに言葉を続けた。

「そうだな。俺がここに来て、今こうしてお前と話しているのは――全て、マロードが望んだからだ」

 竜兵が口にしたのは、何処かで聞いた事のある名前だった。マロード。マロード?記憶を探ってみるが、咄嗟には思い浮かばない。

「マロードだって……?ちょっと待ってよ、マロードがキミ達をここに寄越したって言うの!?」

 背後から上がった叫び声が、思考に沈み掛けていた俺を現実世界に引っ張り戻した。首を捻って後ろを見てみれば、驚愕に目を見開いた明智ねねの姿が視界に映る。

 そこで初めて彼女の存在に気付いた竜兵は、眉間に皺を寄せ、凶悪な眼光でねねを睨み据えた。

「おい女、なぜマロードの名前を知ってやがる。てめえは何者だ?」

「ボクは……“黒い稲妻”の、リーダーだよ」

「ブラックサンダー?ああ、俺たちの街で馬鹿をやりやがった件のゴミ連中か。くくっ、つまり、今まさに貴様の部下が壊されている訳だ。それを、こんな所で黙って見ていていいのか?」

 竜兵が顎で指し示す先では、三つの暴力による容赦の無い蹂躙が続いていた。

 辰子が薙ぎ払うような動作で無造作に腕を振るえば、ただそれだけで複数の男達が纏めて吹き飛ばされ、五体を変形させながら宙を舞う。

 その圧倒的な暴虐から逃れようと必死で走る者を、人体の急所を正確に狙って繰り出される亜巳の冷徹な一撃が昏倒させる。

 そうして意識を失い、地面に伏していった者達にも安息が訪れる事はない。倒れた者に対しては、天が嬉々とした顔でゴルフクラブをスイングし、一人一人の頭蓋を打ち抜いて追い討ちを掛けていた。

「酷い有様ですね……」

 裏の世界で幾多の暴力を散々その目に焼き付けてきた我が従者でさえ、そんな呟きが零れ出るのを抑えられなかったらしい。

 “表”側の人間ならば直視することも躊躇われるような、どうしようもなく悲惨な情景が眼前にて繰り広げられている。

「もうダメだよ。もう、手遅れだ。ボクには、彼らを救う事なんてできない」

 しかし、意外にもねねが取り乱すことはなかった。激昂する事も悲嘆する事もなく、ただ疲れ切ったような表情で、淡々と言葉を紡ぐ。

「フン、心が折れたか、つまらん。“黒い稲妻”は残党の一匹も残さず徹底的に叩き潰せ、それがマロードの指令だ。安心するといい、貴様もすぐにあの連中と同様に壊してやる。いや、まずはマロードとの繋がりを吐かせるのが先か?」

「そう……、そうなんだ。この結末が、マロードの望んだモノなんだね。そうかそうか、なるほどね」

 恫喝の言葉が全く耳に入っていないかのように、ねねは俯いてブツブツと呟いている。俺の立ち位置からはその表情を窺う事はできない。

「うん、そうだ、あの時から。ああそう言うこと?最初から、そのつもりで?ふ、ふ、ふふふふ、あははははっ」

 不意に不気味な笑い声を上げ始めたねねの姿が勘に触ったのか、竜兵が青筋を立てて凄みを利かせる。

「貴様、何が可笑しいん――」


「ぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああむかつくムカつくムカツクぅ!胸糞悪い!死ねばいいのに!ここまで舐め腐られた経験は初めてだよ……、マロードォッ!!」


 唐突な怒りの咆哮が廃工場を揺るがせる。


 カッと限界まで見開かれ、ギラギラと燃えるねねの目は、先程までとは打って変わって異様な迫力を有していた。竜兵ですらも、彼女の突然の変貌にたじろいだ様子を見せている。


「ああそうだよ何もかもボクの自業自得さ。だけどそれでこのボクが泣き寝入りすると思われちゃ困るね、絶対に思い知らせてやる!ゼッタイ、絶対にだッ!」


 傍にいる人間が取り乱していると、見ている側はかえって冷静になれるものだ。怒り狂って喚き声を上げるねねの姿に、俺はようやく我に返った。この切迫した状況で思考を停止するとは、何とも不覚である。猛省して然るべき失態だ。

 仕事を放棄していた十数秒を取り戻そうとするかのように、俺のさして高性能でもない頭脳が全力の高速回転を始める。
 

 マロード。そうだ。ようやく思い出した。

 
 何処かで聞いたと思えば、ここのところ堀之外を中心に広がり始めている合法ドラッグ――ユートピアの流通ルートの元締めが、確かそんな風に名乗っていた筈だ。

 勿論のこと偽名であり、その本名はおろか国籍も容姿も年齢も、性別すらも知る者は誰一人としていない謎の売人と専らの評判であった。

 新参が調子に乗って羽目を外さないよう、裏の顔として直接釘を刺してやろう。そんな目的を胸に、俺自ら堀之外のあらゆる情報屋を当たってみたが、それでもその尻尾を掴むまでは至らなかった。

 結局、これまで大した問題は起こしていないので放置していたのだが、まさかここに来てこのような形で障害となろうとは。予想だにしていなかった展開である。

 
 さて。竜兵は何と言っていた?“俺がここに来て、今こうしてお前と話しているのは――全て、マロードが望んだからだ”。

 
 その言葉の意味を察するに、つまり例のマロードとやらが板垣一家に命令を下す立場にあると、そういう事なのだろうか。

 はてさて、それが事実だとするとまた妙なことになる。こいつらは他者の指示に大人しく従うような殊勝な連中ではない。マロードという人物が、板垣一家の手綱を取れるほどの驚異的な統率力を有している、と考えるべきなのか。

 
 そして問題は、ここに来て何やら妙な繋がりが見えてきた少女、明智ねねだ。

 
 言動から推察するに、彼女は以前にマロードと接点を持っている。そして板垣一家がこの場に現れた事で、騙されたか、或いはそれに値する裏切り行為を受けた事を悟った、と。

 
 …………。

 
 成程。あくまで何となくではあるが、全体の構図が浮かび上がってきた。同時にここで俺が選ぶべき道筋もまた見えてくる。思考が一つの方向性を持って固まり掛けてきた、その時。


「なーんかスッゲー怒鳴り声が聞こえた気がしたけど、何だったんだ?マロードがどうこうって言ってたよな」

 
 血に染まったゴルフクラブを片手に歩み寄ってくるのは、鮮やかな橙色の髪をツインテールに束ねた活発そうな顔つきの少女。天こと板垣天使である。

 ちなみに天使と書いてエンジェルと読む。天使と書いてエンジェルと読む。大事なことなので二回言った。

 蛇や竜をイメージして名付けた姉や兄が実にアレな感じに育ったので、せめて彼女だけは天使のような子に育って欲しいという思いからのネーミングだったらしい。

 しかし残念ながら見ての通り、どちらかと言えば悪魔と呼んだ方が適切な感じの性格へと成長を遂げているのが現実である。

 両親の思惑が見事なまでに裏目に出た訳だが、同情なぞ出来る訳もない。自業自得以外の何者でもなかった。

 天は板垣一家の末妹にして、DQNネーム被害者の会におけるナンバー2の地位に就いている。ちなみに会員は俺と天の二名のみである。互いにロクな親を持たない者同士、通じ合うものは多い。主に趣味とか。

 そんな訳で、俺と天は月に何度かの頻度でガチバトルを繰り広げ、時には協力して強敵を打ち倒す。ちなみにゲーセンの話である。アーケードゲーム、特に格ゲーは俺達の共通の趣味なのだ。

 何だかんだあって板垣一家の中では最も俺との親交が深い少女。それが板垣天使である。

 しかし、その彼女もこの状況で遭遇する限りにおいては厄介な“敵”以外の何者でもない。ここで天が家族を敵に回してでも俺に味方してくれるような展開があれば助かるのだが、まあ有り得ない妄想をしても無意味だろう。

「オイオイ、もういいのか?意外に早かったな。一番暴れたがっていたのは確かお前だったハズなんだが」

「だってさぁ、アイツら手ごたえ無さ過ぎでつまんねーのなんのって。最初はリアル北都無双っぽくて楽しかったけど、すぐに飽きちまった。あー、やっぱヌルゲーじゃダメだな」

 竜兵の言葉に肩を竦めて答えると、天はこちらに目を向けた。ニィ、とその口元に三日月のような笑みが形作られる。

「それに何より、スリル満点で激ムズの熱い死合いゲームが目の前にあんだぞ?そっちが気になって楽しめねーっての。つー訳でウチが欲求不満なのはシンのせいだかんな、責任取れよ!」

 なんという嬉しさの欠片も感じられない誘惑。嘆かわしい。昔は悪ガキだった天も今ではすっかり年頃の女の子だと言うのに、どうしてこんな色気のない暴力娘に育ってしまったのだろう。

 ああ名前か、そう、DQNネームが諸悪の根源。天は犠牲になったのだ……思慮の足りないDQN親、その犠牲にな……。

 などと愚にもつかない思考を頭の片隅で行いながら、俺は天の言葉を鼻で笑う。

「ふん。天」

「な、なんだよ……」

 じっと目を見つめながら口を開くと、嫌な予感を覚えたのか、天はたじろいだ様子で後ずさる。

「そこまで言うからには、当然オムツは用意済みという訳か。くく、いつぞやの様にしっき―――」

「わあああああああああぁぁぁっ!昔の話を蒸し返すんじゃねええええええぇぇっ!!」

 俺の必殺の一撃を受けて、天は釜茹で蛸の如く顔を真っ赤にして喚いた。血のたっぷり付着したゴルフクラブをブンブン振り回してさえいなければ微笑ましい姿なのだが。

 若さゆえの過ち、忘れたい過去という物は、大なり小なり誰にでもある。天にとってのソレは常人よりもいささか巨大過ぎた――それだけの話だ。まあ彼女の名誉を守る為にも、これ以上は触れてやるまい。

「あ~、つかれたぁ。もう仕事はおしまいでいいのかなぁ」

「おや、これで終わりかい?呆気ないもんだねェ。はぁ、アタシを満足させられる理想の豚は中々見つかりゃしない。そっちはどうだい、辰?」

「zzz」

「寝るな!」

 俺が天で遊んでいる間に、向こう側の騒がしい乱闘にも片が付いたらしい。亜巳と辰子がいつも通りの遣り取りを交わしながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。

 二人が通り過ぎた現場は、まさしく台風一過、という表現が相応しい惨状と化していた。廃工場の至るところに血痕と得物の残骸と、無数の人体が散らばっている。

 立ち向かった者は勿論、逃げ出そうと試みた者達の誰一人として屋外の空気を吸うことは出来ず、意識を刈り取られて埃塗れの床に転がされていた。

 総勢百数十名の構成員が揃って戦闘不能。実質上、“黒い稲妻”というグループは全滅したと言ってもいい。


「あのさ」


 いや、違う。訂正しよう、まだ“全滅”ではなかった。この場に一人だけ、自らの足で立っている者が居る。

 明智ねね。グループのリーダーである彼女は未だ無傷で、そして決意の炎を宿した瞳で俺を見つめていた。

「一つだけ、頼みたいことがあるんだ。キミがここで板垣一家と闘うなら、どうかお願い。ボクを……使って欲しい」

「ふん。何を突然。己が部下の、仇討ちの心算か?」

「んー、そうだね。それも確かにあるよ。でも、そういうセンチメンタルな理由はどっちかというとオマケだね。ちょおっとメンドーくさい事情があって、ボクは帰る家を無くしちゃったみたいなんだよね。可哀想でしょ?今のボクは、言ってしまえば野良猫同然なんだ。だからさ、冷たい雨風とか、心ないヒト達の暴力から保護してくれる飼い主を急募中ってワケ」

「……」

 なるほど、そういう事か。これまでの振舞いを見ている限り、単純な激情家かと思っていたが、実際はそうでもなかったようだ。

 計算高いタイプの人間でなければ、間違っても今のセリフは出てこない。彼女は自身の置かれた立場を冷静に把握して、何をすべきか考えて行動している。

 ここに到るまで、“黒い稲妻”は見境も分別もなく暴れ過ぎた。俺や板垣一家が出張るまでもなく、いずれは他の組織に潰されて終わっていた事は想像に難くない。このグループは既にそれほど多くの連中を刺激してしまっている。

 つまりリーダーのねねは、例えこの場を上手く切り抜けても、今後も板垣一家を筆頭とする数多くの勢力から付け狙われる羽目になる訳だ。そうなってしまっては満足に日常生活を送ることすら難しくなるだろう。

 しかし、俺の傘下に入る事に成功すれば話は別である。ねねの肩書きが“黒い稲妻の元リーダー”から“織田信長の配下”に変わる事で、裏社会の殆どの連中は手を出すことを躊躇うようになるだろう。これに勝る保身は早々あるまい。

「ボクは、マロードの奴に一泡吹かせてやるって決めたんだ。こんな所でやられるのはゴメンだからね。それにこの状況じゃ、猫の手も借りたいでしょ?」

 その通りだった。彼女のこの申し出は俺にとっても渡りに船。俺と蘭の二人だけで相手をするには、板垣一家という連中は少しばかり手強過ぎる。

 ねねの実力は未知数だが、間違いなく俺よりは頼れる戦力となるだろう。悲しいほど才能に恵まれなかったとは言え、俺も武道を嗜んだ人間だ。眼前の小柄な少女が只者でないことは一目で分かる。

 つまり、この場における織田信長と明智ねねの利害は、完全に一致していた。

「良かろう。その度胸に免じ、口車に乗ってやる。だが」

 殺気を乗せて正面から睨み据える。ねねは身体を震わせ、表情を強張らせたが、屈する事無くこちらを見返した。

「俺は貴様とは違い、無能な部下など要らん。俺に飼って欲しければ――相応の結果を披露して魅せるがいい」

 一言一言にかつてない強烈な重圧を込めて、俺は言葉を紡いだ。

 明智ねねが織田信長を利用するのではない。織田信長が、明智ねねを選別するのだ。俺が俺であるためには、其処の所だけは譲る訳にはいかない。

 恫喝めいた俺の言葉に顔色を青くしながらも、ねねは黙って頷いた。

「おーい、シン!そんなガキっぽいチビ女はほっといて、早くウチとやろうぜぇ」

 先程から退屈そうな顔で俺とねねの会話を聞いていた天だったが、遂に飽きたのか、ゴルフクラブを構えて声を上げる。

 それに対して俺が何かしらのリアクションを取るよりも先に、ねねが反応した。底意地の悪い笑みを浮かべながら、噛み付くように言葉を返す。

「ガキだのチビだの、随分と言ってくれるじゃないか。キミの事は知ってるよ、板垣一家の末の妹。板垣、えーっと、エンジェルちゃん!いやぁユニークなお名前だねぇ、くすくす」

 その瞬間、ブチ、と血管の切れる音がやけに鮮明に聞こえたような気がした。

 子供の頃、DQNネームが原因で散々からかわれてきた天にとって、自分の名前は最大級のコンプレックスだ。そこを揶揄されれば、いとも容易く理性を失ってしまう。

「てんめええぇええええっ!!殺ス、ぜってーブッ殺すッ!!」

 それ故に、挑発としてはこれ以上ない効果を発揮した、と言えよう。悪鬼の形相でゴルフクラブを振りかぶって突進してくる天を前に、ねねは悪戯が成功した子供のように笑う。

 そして、数瞬の溜めを経て地面を蹴り上げ、150cmに満たない体躯を大きく跳躍させた。人外じみた速度で振り抜かれたゴルフクラブの上を、その持ち主の身体ごと飛び越えるように宙を舞う。驚嘆に値する身軽さだった。

「なっ、どこ行きやがった!」

 天の目から見れば、一瞬で相手が視界から喪失したように映るだろう。

 ねねは標的を見失って戸惑っている天の背後に着地し、同時に着地の衝撃を利用して地面に手をつくと、そのまま半ば逆立ちのような体勢での後ろ蹴りを放った。

 見ているこちらの目が回りそうな程にアクロバティックな動作で繰り出された一撃。後頭部を捉えるかと思われた足先は、しかしギリギリのところで虚空を切る。

 天は咄嗟に振り返ると同時に、身体を捻って蹴りの軌道から逃れていた。相変わらずの恐るべき反応速度だ。空中で一回転して逆立ち状態から体勢を立て直しつつ、ねねが舌打ちを落とす。

「初見で避けるかなぁ、アレを。予想通りというか何というか、ぶっ飛んでるね。流石は板垣一家」

「てんめェ、やりやがったな、このォっ!!」

 怒号と共に飛んでくる鋭い反撃の一閃を、ねねは素早い側転で回避し、ゴルフクラブの射程圏外へと距離を取った。

「さてと」

 腰を落とし、だぶついたコートの袖で顔面を防御しながら、左右へとリズムを刻むようなステップを踏む。一度でも見たら忘れ様のない、特徴的な構えだ。

「ボクが無能かそうでないか。存分に見極めてくれるといいよ、“ご主人”」

 タン、タン、と軽快に円を描いて天の周囲を移動しながら、ねねが俺に向けて不敵に言い放った。

「……決めたぜ……コイツはウチがぶっ殺す!シンは譲る、ただしコイツだけはウチの獲物だかんな、邪魔すんじゃねーぞッ!」

 一方の天は、完全に頭に血が上っている様子だった。どう見てもキレてしまっている。興奮剤によるドーピングもなしでここまで熱くなっている天の姿は珍しい。

 それだけ名前をネタにされるのが気に障ったと言う事か。うん、気持ちは非常に良く分かる。もし俺が誰かに同じことをされでもしようものなら、相手の心臓を止められるレベルで殺気を放てる自信がある位だ。

 激怒に顔を赤く染めた天が猛牛の如く突撃すると、そのまま激しい応酬が始まった。

「ちょこまかちょこまかウゼェェェっての!大人しく頭カチ割られて死んじまえっ!!」

「はんっ、ボクの天才的な頭脳をキミみたいなバカがオシャカにしようだなんて、おこがましいと思わないかなっ」

 直撃すれば骨をも砕くゴルフクラブのスイングを紙一重で見切り、舞踏の様な派手な動きで避ける避ける避ける。ねねの戦闘スタイルは回避に特化したものらしく、戦闘が始まってから天の攻撃を一回たりとも“受け”ようとはしなかった。

 実際、恐らくその判断は正解だ。生半可な防御など容易く突き破って粉砕してくるのが人外連中の人外連中たる所以であり、怖いところである。

 少なくとも身体つきを見る限りにおいては、ねねにそれほどの耐久力があるようには思えない。となるとやはり、現在のように小柄な体躯を活かして回避に専念するのがベストなのだろう。

 しかし、ねねも逃げてばかりと言う訳ではなく、時折隙を見てはカウンターの蹴撃を放っていた。

 宙返りと同時に放つ踵落としや、側転後の勢いを利用した回し蹴り。相当に身体が柔らかいのか、常人ならば無茶としか思えない体勢から繰り出されているにも関わらず、彼女の蹴りは驚く程に速く鋭い。

 未だに手を攻撃に使っていない所を見ると、どうやら足技のみを徹底して鍛えてきたようだ。足技のキレという一点を見れば、俺が今まで出会った使い手の中でも最高レベルに位置しているだろう。

 初見殺しと呼ぶに相応しいトリッキーな立ち回りも合わさって、流石の天も苦戦を免れない様子だった。

「おや。雑魚共の相手をしてる内に、何やら勝手に盛り上がってるみたいだねェ」

「おお~。あのコ、天ちゃんと互角だ。すごいなぁ」

 いつの間にか亜巳と辰子が見物に加わっている。これで泣く子も黙る板垣一家、その四人が全員集合した事になる訳だ。戦闘中の天を差し引いても、残るは三人。俺と蘭の二人だけで相手取るには少々厳しいと言わざるを得ない。

 頭数だけで言えばさほどの差はないが、何せ板垣の家は――あの釈迦堂刑部ですら持て余すような、とんでもない化物を飼っているのだから。

「くっくっく、邪魔な雑魚どもの掃除も済んだ事だ……存分にヤろうぜ、シン」

 激戦を繰り広げる天とねねから視線を外し、竜兵はこちらに向き直った。

「あァもう自制が効かねえ。血が昂ぶって仕方がねえんだ、鎮めてくれ俺の猛りをッ!」

 野獣の如く咆哮を上げる竜兵。俺を見つめる眼はギラギラと貪欲に輝いている。色々な意味で怖いからこっちを見ないで欲しい。

 そんな俺の願いは、全く以って予想も付かぬ形で叶うことになった。

「ウォラァァアアアアアアアッ!!」

 突如として俺の後方から野太い叫び声が響き渡り、同時に二メートル四方ほどの板状の物体が飛来する。

 表面の一部分が無残にひしゃげたその鈍色の物体は、ほんの少し前まで廃工場の入口を守っていた鉄扉であった。何とも強烈なデジャヴを感じる光景だ。

「フンッ!」

 “飛来してきた”とは言え、今回は先程のような非常識な速度ではない。

 竜兵は余裕の表情で両手を振り上げ、自分に向かって飛んでくる鉄扉をタイミング良く叩き落した。アスファルトと金属が激しく衝突し、耳障りな音響が周囲に広がった。

「どうやらまだ生き残りがいたみたいだねェ。フフ、活きのいい豚は嫌いじゃないよ」

 亜巳が舐めるような眼差しを向ける先には、大量のピアスを耳からぶら下げた、派手な金髪の男が立っていた。名前は確か、前田啓次だったか。あの鉄扉の直撃を食らってまだ動ける辺り、相当にタフな男である。

「なんだ、貴様は?俺は今、血が煮え滾って気が狂いそうなんだ……邪魔してんじゃねえよ、ああ!?」

「オレはなァ」

 悪鬼そのものの形相で睨み付ける竜兵に怯んだ様子もなく、啓次は静かに呟いた。

「そりゃな、確かに言ったぜ。自分から格上相手にケンカ売るのは止めにするっつったけどよォ。それでもなァ!」

 呟きが徐々にボリュームアップしていき、やがて天を衝くような怒鳴り声になっていく。

 巻き添えで鉄扉の下敷きにされたのがよほどお気に召さなかったらしい。啓次は完全にブチ切れている様子だった。まったく、蘭といいねねといい天といい、どいつもこいつも沸点が低い。キレる若者が問題視されるのも頷ける。

「吹っ掛けられたケンカを買わずにいられるほど、オレァ腑抜けちゃいねェんだよッ!!」

 どうもこの男の怒りの矛先は板垣一家へと向けられているようだ。ズカズカと床を踏み鳴らしながら俺の傍を通り過ぎて、啓次は竜兵に真正面からガンを付けた。

 大柄で筋肉質な両者が睨み合って対峙する光景には、それだけで一種の迫力がある。

 俺の見立てでは扉を吹っ飛ばしたのはまず間違いなく辰子なので、竜兵に食って掛かるのは筋違いもいい所なのだが、まあここは黙って様子を見守るとしよう。

「板垣だったか?てめェは冗談抜きで強ェんだろうな、一目見りゃ分かっちまうぜ」

「フン、見る目はあるらしいな」

 啓次の賞賛の言葉に、竜兵は当然と言わんばかりに鷹揚な調子で答える。

「だがな、逆に言やァ“一目見りゃ分かっちまう程度の強さ”だってコトだ。てめえからは、信長みてーなあの底知れないヤバさは感じねェ。あそこで戦ってる二人みてェに、一線を踏み越えた感じもしねェ。だからよォ」

 猛々しく不敵な笑みを浮かべながら、啓次は堂々と言い放つ。

「てめェから売られたケンカを買っても、それほど無茶をやってる気はしねェなァ!」

 ブチ、とまたしても血管が切れる音が聞こえた気がした。やれやれだ。ここに集まった連中は本当に、どいつもこいつも地雷を踏むのが無駄に上手い。ついでに本人も喧嘩っ早いと来たから困ったものである。

「……おい。タツ姉ぇ、アミ姉ぇ、気が変わった。シンとヤり合う前に、身の程を知らんカスを教育しておかないと気が済みそうもねえ……」

 もはやどう形容していいか困るような表情で、竜兵は力尽くで感情を押し殺したような声を上げる。

 どうやら、俺と蘭は当面の標的から外れたらしい。竜兵特有の獣じみた殺気は、既に眼前の不敵極まりない男へと向けられていた。これは何とも好都合だ。

「まったく、アンタらはすぐに頭に血が上っちまうから困るよ。結局、シンの相手がアタシと辰しか残ってないじゃないか、この単細胞どもが」

 そんな竜兵の姿に、亜巳が呆れ顔で文句を漏らした。

 長女として一家を取り仕切っている亜巳は、基本的にいかなる時でも冷静さを失うことはない。瞬間湯沸し器を擬人化したような性格の竜兵や天と同じ血が流れているのか、常々疑問に思うところである。

 それを言うなら超が付くほどのんびり屋である次女、辰子も浮いているのだが、まあ奴は奴でアレなので何とも言い辛い。

「えぇとぉ。私がシンとやるんだ?う~ん……痛いのはイヤなんだけどなぁ」

「最初からそういう予定だったじゃないのさ、今更何言ってるんだい。ほら、いい加減にシャキっとしな!」

 一喝と共に、亜巳の得物――漆黒に塗られた棒が辰子の後頭部に振り下ろされる。瞬間、まるで金属同士が衝突したような甲高い音が響いた。

「うぅ~、痛い……」

 そんな強烈過ぎる目覚ましに辰子は少し涙目になっていたが、それだけである。一般人が同じことをされれば間違いなく頭蓋にヒビが入っている事だろう。

「ふん。二人も戦力を欠いて、それでも俺から勝ちを得られるとでも思っているのか?」

「そうだねェ……アンタの怖さは言うまでもないとして。真剣持ちの従者が一緒となると、アタシ達だけじゃあ危ないかもしれないね」

「そう思うなら、素直に退いて頂けると嬉しいのですが。私は、主の御友人を斬りたくはありませんから」

 淡々と警告の言葉を紡ぐ蘭の表情は一見すると冷静なものだが、主君としての俺はどうにも危険な予兆を感じ取っていた。

 ―――時間切れ、か?

 こういう状況において、人格的に欠陥だらけの我が従者が人並みの冷静さを保てるハズがないのだ。

 散々人を斬って返り血を浴びた上、絶え間の無い敵意と悪意が“主”を襲い続けているこの現状、いつストレスが限界を突破してもまるで不思議はない。

 暴走はするな、と事前に俺自ら命令しておいたお陰で、危ういながらもここまで理性を保ってはいるが……堤防が決壊するならばそろそろだろう。

「残念ながら、アタシ達にも事情があってねェ。ソイツは無理な注文だよ」

「退いてくれないんですね。そうですか。そうですか。退いてくれないんですね。そうですか」

 亜巳の返答を受けた途端、完全に蘭の表情と目から光が消え失せる。

 その姿に、やはり俺は悪い予感に限って良く当たる、と改めて思い知らされる羽目になった。


「一体どういう訳だか知りませんし知りたくもないんですけど、ここに居る人はみんなみんなみんな私の主を傷付けようとするものですからもう苛々して苛々して苛々して、ああもういっそのこと皆死んでしまえばいいのに、なんて思ってしまうんですよ。皆さんひどいですよ、どうしてよってたかって主の邪魔をするんでしょうか。でも考えてみればみんなバラバラに斬り刻んでしまえば主の“敵”じゃなくなりますよね、そうしたらもう誰も斬らずに済みますし主が不快な思いをなさる事だってないんですから、ああだったら簡単ですねそうするのが一番ですよ。いいですか、警告はしましたからね、私がちゃんと退いて下さいって言ったのに退かないのが悪いんですよ、そうです悪いのは貴方達なんですだから私の刃に斬られて血飛沫と臓物を撒き散らしながら死んでください」


 抑揚の欠けた調子でブツブツと呟きながら、蘭は一息に太刀を鞘より抜き放った。

 
 全身から立ち昇る黒々とした“気”が銀の刀身に纏わりつき、五尺に及ぶ漆黒の大太刀へとその姿を変貌させる。

 
 その気になれば人間を容易に真っ二つに両断出来る狂気的な凶器を構え、禍々しい殺気を放つ蘭。そんな物騒な存在を見過ごせる筈もなく、亜巳と辰子の両名が素早く臨戦態勢を取った。


「相変わらずのイカレた“気”だねェ。忠臣――なんて生温いもんじゃないか」

「んん~……早くウチに帰って寝たいなぁ。シン~、手加減してくれない?」

 
 何とも覇気に欠ける辰子の言葉と共に、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる。

 
 明智ねねと前田啓次が板垣天使と板垣竜兵の二人を引き受け、俺と蘭の主従の相手として残ったのは、板垣亜巳と板垣辰子。一家の中でも図抜けた実力を有する二人を同時に敵に回す羽目になるとは、何ともやり切れない話であった。

 
 狂化した蘭という人外の戦力を有して尚、それが大したアドバンテージにもならない戦い。この笑えないデスマッチを仕組んだのが例の“マロード”だと言うなら、俺は必ずそいつを引き摺り出して然るべき制裁を与えてやる。

 
 その為にはまず、この人外一家の魔手を撥ね退けてやらねばならないが。さて、どうしたものやら。


 まあ、最初に打つ手は決まっている。余裕なんぞ欠片もなく、気を抜けば崩れそうな膝を無理矢理に支えてやっとの事で立っている、そんな弱っちい自分自身を誰も彼もに誤魔化して、余裕綽々に言ってやるのだ。




「ふん。板垣風情が俺に挑もうとは笑止千万―――昔日が力関係を今再び、思い出すがいい」


















ようやく更新できました。感想欄での前田君への言及率の高さに変な笑いが込み上げた作者です。今後も彼の地道な活躍にご期待ください。それでは、次回の更新で。



[13860] 四・五日目の死線、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:f283be69
Date: 2013/02/17 20:24
「うがぁぁぁっ!鬱陶しーんだよテメェ!いい加減に一発くらい喰らいやがれっての!!」

「謹んでお断りさせてもらうよ。ボクに攻撃を当てたきゃ、精々頑張って狙いを付けるコトだね!」

 今にも地団太を踏みそうな勢いで苛々している板垣天使から約二間の距離を取りながら、明智ねねは余裕の表情で言い放つ。

 しかしながらその内心は、表情とは裏腹に焦りに支配されつつあった。

 先の遣り取りからも窺えるように、戦闘開始から既に数分が経過した現在、ねねの身体に一切のダメージはない。危うい場面も多少はあったが、今のところは天使が繰り出す全ての攻撃を回避し続けられている。

 もっとも、これは事前に予想された結果であり、あくまでヒット・アンド・アウェイを主軸に据えたねねの戦闘スタイルを考えれば、むしろそうでなくてはならない。

 天使の振り回す人外の暴力を一撃でも受けてしまえば、徹底的にスピードに特化したこの華奢な肉体では一溜りもないだろう。故に相手のモーションに細心の注意を払い、隙を見せることなく立ち回ってきた。

 そう、それはいい。そこまでは理想的な展開であり、歓迎すべき事態である。

 問題は――対戦相手の板垣天使もまた自分と同様に、欠片のダメージも負っていない、という事だ。

「フゥゥー……、今度はこっちから行くよ!」

 小さく息を吐いてから、ねねは標的に向けて全力で地面を蹴り飛ばした。

 軽いウェイトと鍛え上げた脚力が生み出す瞬発力をフルに活かした短いダッシュ。そこからの跳躍に加え、更に身体の回転の勢いを付随させた強烈な回し蹴り。

「おっと、危ねーな!流水の構えッ!」

 自身の身体能力を最大限に発揮して放たれたねねの渾身の一撃を、天使は身体の前方で斜めに構えたゴルフクラブを用いて、鮮やかに受け流してみせた。

「いってぇ~、ちょっと腕シビれたぜ。ガキみてーにちっせー癖に蹴りは重いってのはムカつくな」

 天使の得物であるゴルフクラブは、攻撃よりもむしろ防御面においてその本領を発揮するらしい。特異な得物を巧みに使いこなして、彼女はねねの繰り出す全ての蹴りを危なげなく捌いてきていた。

 或いは本人の言うように多少の痺れは残っているのかもしれないが、実質的なダメージはゼロに等しいだろう。

「お礼にこれでも食らっときやがれっ!天使のような悪魔の蹴り!」

「くぅっ!」

 全力を込めた一撃の衝撃を流された結果、僅かに体勢を崩していたねねに対して、お返しとばかりに天使の強烈なミドルキックが放たれる。ねねは危ういタイミングのバク転でそれを避けつつ、素早く相手から距離を取った。

「くっそ、チョロチョロ逃げ回りやがって!メンドくせー奴だぜ、ったくよ!」

「こっちの台詞なんだけど。ゴルフクラブなんて武器にしてるギャグキャラに梃子摺るなんて、ホントに屈辱的だよ」

「ギャグじゃねー!ウチの超最強なマーシャルアーツをバカにしてんじゃねーぞコラ」

 再び一定の距離を挟んで、油断なく互いを牽制しながら睨み合う。それは、先程から幾度も繰り返して描かれている構図だった。

 攻めたくても、攻められない。その内心は両者共に変わらないが、しかしその実、勝負の天秤は確実に一方へ――板垣天使へと傾きつつあった。

 ねねは乱れ始めた呼吸を悟られないように整えながら、心中にて湧き上がる焦燥を必死に鎮める。

 肉体的なダメージこそ受けていないものの、予想を超えて長引いた戦闘によって、それ以上に深刻な問題が生じている。即ち、体力の限界が近付いていた。

 明智ねねの戦闘スタイルは、側転や逆立ち、宙返りと言った極めてアクロバティックな動きを主体として組み立てられている。当然のように全体的な体力の消耗が激しく、それ故に長期戦には向かない。

 だが、そもそも長期戦に向いている必要などないのだ。本来、圧倒的な瞬発力を活かしたねねの戦法は速攻を旨としており、数十秒も時間があれば相手を地に沈めるには十分過ぎる筈なのだから。

 かつて彼女のトリッキーかつ俊敏な動作は対峙した相手を悉く翻弄し、当惑の内に葬ってきた。トドメまで多少手間取ったとしても、幾つか技を重ねてやればすぐに対応が追いつかなくなり、一分と保たずに成す術もなく倒れ伏す。原型となる格闘技がマイナーな部類である事もあって、まさしく初見殺しと言うべきものである。

 しかし、現実として板垣天使は今もなお無傷で、自分の前に立ちはだかっている。そこに、ねねはどうにも不吉な違和感を覚えずにはいられなかった。

 思えば最初からおかしい部分はあったのだ。挑発によって冷静さを失っている状態で、更には初見であるにも関わらず、自身の攻撃は紙一重ながらも見切られていた。派手なアクロバットに驚いていたのも最初だけで、以降は惑わされる事もなく落ち着いて対処してくる。

 そんな彼女の異常な対応力の高さは、「板垣一家だから」の一言で済ませてしまっても良いものなのだろうか?

 ねねの脳裏を渦巻く疑問と当惑を見透かしたように、天使は嘲るような表情を浮かべながらおもむろに口を開いた。

「うけけ、オマエさぁ、青空闘技場って知ってっか?」

「……名前は知ってるよ。行った事はないけどね」

 青空闘技場。確かつい最近始動したばかりの施設で、廃工場の敷地を利用して造られたアンダーグラウンドのアリーナ、だったか。

 川神に越して来てから日が浅く、未だに周辺の地理を掴めていないねねにとっては、部下達の口から噂話を小耳に挟んだ程度の存在だ。

 廃工場とは言っても、“黒い稲妻”がアジトとして利用していたこの第十三廃工場とはまた別の場所に位置している。そこでは抜けた天井から青空を覗かせた工場内をリング代わりに、ルール無用の危険極まりないストリートファイトが繰り広げられているらしい。当然の様に試合結果は賭博の対象にされており、金の流れを嗅ぎ付けた柄の悪い連中が挙ってギャラリーとして集う事で大いに盛況しているとの評判だ。

 それにしても、何故ここでそんな話が出てくるのか。その意図が掴めず、ねねは眉を顰めて天使の言葉を待った。

「そんじゃ親切なウチが教えといてやるよ。ウチら一家は全員、あそこの常連でさ。いやぁ、ホント色んな連中がいて楽しいんだよな、気に入らねー奴は後腐れなくブッ潰せるし」

「別に宣伝文句は要らないよ。結局、キミは何が言いたいのさ」

「ヒトの話は最後まで聞こうぜぇ、ちゃーんとヒントは出してやってんだぞ?色んな連中がいる、ってのは超控え目に言ってのハナシだったりして。実のところ、それこそ全国どころじゃねー、全・世・界のバトル大好きな奴らが集まってきちゃうレベルなんだよなぁ」

 全世界、をやたらと強調した天使の言葉に、ねねは彼女の言わんとしている内容を察する。嫌な汗が額を伝った。

「時代はやっぱグローバルコミュニケーションだぜぇ。お、今ウチ超アタマよさそうなこと言ったんじゃね?」

「キミのアタマの出来はとてもよく理解できたから。さっさと本題に入ってくれないかな」

「焦んな焦んな、短気は暢気っつーじゃん」

「言ってたまるか。根本的に矛盾してるじゃないか……はぁ、まあいいや。で?」

 投げ遣りに続きを促すと、天使の顔にニタリと嫌な笑みが広がった。

「ウチがちょい前にやり合った“外人”がさぁ、オマエみてーなヘンテコな動きしてたんだよ。割とメンドーな相手だったからウチにしちゃあ珍しく覚えてたな。んで、気になったから後で師匠に教えてもらったぜ」

「ああ……そう。そういうコト。やっと得心がいったよ、どう足掻いたって納得は出来そうもないけどね」

 苦々しい思いが込み上げてくるのを抑えられず、ねねは唇を噛んだ。

 日本国内においては相当にマイナーなハズの自分の格闘スタイルがこうも早く見切られたのは、既にその使い手と対峙した事があったから。ネタが割れてしまえば何とも下らなく、そして理不尽極まりない理由だった。

 世界的に見ても絶対数の少ないレアなスタイルの格闘家が、近頃オープンしたばかりの青空闘技場に参戦していて、多数の選手を差し置いて偶然にも板垣天使と闘い、選りにも選ってその彼女と自分が今こうして対峙している。

 何者かに仕組まれているとしか思えない程、ねねにとって不都合な流れだった。運が悪い、の一言で済まされては堪ったものではない。何より性質が悪いのは、恨む相手が見付かりそうもない、という点である。

 ギリリと奥歯を噛み締めるねねに勝ち誇った顔を向けて、天使は言い放った。

「“カポエラ”ってんだろ、ソレ。何せウチって天才だかんな、対策はバッチリだぜ。そのレベルじゃもう通じねー。ヒャハハ!残念でしたァ!」

「正確には“カポエィラ”なんだけどね。まあ言っても無駄だろうけど。……ハァァ~、もう。参ったなぁ、ホント」

 カポエィラとは、かつてブラジルの黒人奴隷によって編み出された、ダンスと足技を組み合わせた異色の格闘技である。

 日本にも道場自体は存在するが、それらは舞踊としての一面を前面に押し出しているか、或いは単なるエクササイズの一種として扱っている場合が多く、純粋な戦闘用格闘技としてのカポエィラは日本国内ではまるで浸透していないと言ってもいい。

 それこそねねの様に、本場ブラジルのカポエィリスタを師匠に持つ日本人など数える程しか居ないだろう。

 当然の如く知名度は低く、その技の数々に対する対策等も練られてはいない。だからこその初見殺し、だったのだが……どうやら全ては神の気紛れによって台無しにされてしまったようだ。重い溜息の一つも吐きたくなる。

「何でよりによってこんなタイミングなのさ。今回ばかりは失敗は許されないのに」

 もしもここで実績を上げられなければ、あの男――織田信長はねねを容赦なく切り捨てるだろう。

 切り捨てる、で済めばまだいい。何せ文字通りに斬り捨てる、という可能性は十分以上にあるのだから。

 事前に集めた情報などに頼るまでもなく、彼の人格は一目見れば明らかだ。冷酷非道にして傲岸不遜。例え味方であろうと役に立たなければ無慈悲に始末する事は疑いない。

 惨劇はつい先刻、まだまだ記憶に新しい。血飛沫を上げて倒れ伏す部下達の姿が脳裏にまざまざと蘇る。ねねとしてもアレの二の舞は勘弁願いたいところだった。

「あれだけの大見得を切った手前、やっぱダメでしたー、ってワケにはいかないよね。やれやれ、口は災いの元だよ」

 よしんば命を繋げたところで、だ。このタイミングを逃し、織田信長の庇護下に入る事に失敗しようものなら、自分には川神から撤退する以外の選択肢は残らないのだ。この街の住人が放つであろう追っ手から逃れる為には、最低でも他県へと拠点を移す羽目になるだろう。

 少なくともマロードへの意趣返しを果たすまでは、明智ねねはこの地から去る訳には行かないと言うのに。

 己の前に広がる暗澹たる未来図を思い描いて憂鬱な気分に浸る。そんな彼女の姿を、天使は妙に醒めた目で見ていた。

「あー、なんか飽きたな、相手すんのも面倒になってきちまったぜ。さっさとステージクリアしてシンと遊ぶか。仕方ねえ、そろそろウチも本気出そっと」

「何を言ってるのさ……」

 訝しむねねを余所に、天使は片方の手を無造作にポケットへと突っ込む。

 そして懐からカプセル錠を取り出すと、おもむろに口の中に放り込み、飲み下した。見る間に天使の顔に赤みが差していく。

「くぅぅぅゥゥ、ドーピング完了ぉ!超ぉ絶ぅパワーアァップ!くぁー、こいつはキクぜぇ、ヒャッハハハハハハァッ!!」

「……え」

 ぞっとした。ゆらりと顔を上げて、異常なテンションの笑い声を響かせながらこちらを向いた天使は、不自然に瞳孔が開いている。ビタミン剤を飲む様な気楽さで彼女が今しがた服用したのは、一体全体何のクスリだと言うのか。

 板垣一家は非合法ドラッグの売人とも濃密な繋がりがある――そんな情報が不意に頭を過ぎり、ねねは戦慄に背筋が凍り付くのを感じた。正真正銘のアンダーグラウンドの住人と接触したのは初めての経験だが、ここまでヤバい連中なのか。

 ひとしきり笑い声を上げてから、天使はゴルフクラブをゆっくりと構えた。焦点の合っていない不気味な視線がねねを捉え、そして。

「ウチの名前をネタにしやがった奴に明日はねー、テメェはもうコンテニューできねーんだ、よォ!」

 ねねがその一撃に反応できたのは、ほとんど奇跡と言っても良かった。

「な、速っ……!?」

 絶句する。

 それは爆発的な加速を伴う踏み込み。ただそれだけで、細心の注意を払って保ち続けてきた三メートルの距離は瞬時に詰められ、気付いた時には既にゴルフクラブの射程圏内にまで入り込まれていた。

 そして暴力的に空気を引き裂いて振るわれるアッパースイング。これまでのモノよりも明らかに速く、重く、鋭かった。身体が反射的に回避行動を取ってくれていなければ、棒立ちのまま顎を砕かれていただろう。

 冗談ではなかった。何だこれは。ただでさえ人外じみていた相手が、更に強化されたとでも言うのか。

 しかし、天使の名を冠する悪魔の如き少女は、絶望に打ちひしがれる暇すらも与えてはくれなかった。これまでと同様、とにかく相手から距離を取ろうと試みるねねに対し、間髪を入れずに第二撃が襲い掛かる。

「っ……!」

 駄目だ、余りにも攻撃の繋ぎ目が速過ぎる。今までのような避け方は不可能。どう足掻いてみた所で、このタイミングでは回避が間に合わない。

 逃げられない。ならば―――受け止めるしかない。

「ヒャッハァッ!ゲームオーバーだぜぇ!ザ・エーンド!!」

 勝利を確信した天使の雄叫びを耳にしながら、ねねは体を庇うように両腕をクロスさせ、衝撃に備えてきつく歯を食い縛る。

 そして、鋼鉄の塊が凶悪な速度で空気を引き裂き、小柄な矮躯を強かに打ち抜いた。










「うぉらあああああああああああああああッ!!」

「おおおおおおォあァアアアアアアアアッ!!」

 廃工場の一角に二人の男の野太い咆哮が重なって響き渡る。

 そこで行われているのは、殴り合いだった。

 それ以外に相応しい表現が存在しないと思えるほどに単純で原始的な暴力の応酬。テクニックや駆け引きなど一欠けらもなく、後退も回避すらも完全に度外視した乱打戦。

 本能と湧き上がる衝動に任せてただひたすらに殴り殴られ殴り殴られ殴り殴られ殴り殴られ、派手に飛び散った血飛沫が自分のものか相手のものか、そんな事は些事とばかりに気にも留めず、より重くより鋭くより強い拳を目の前の相手へと叩き込む。それが全てだ。この瞬間、前田啓次と板垣竜兵にとって、それ以外の物事に価値などなかった。

 その姿はまさしく、戦闘狂と呼ぶに相応しい。出自にも経歴にも体格にも性格にも共通する点は少ないが、二人の男は性質の根本的なところで似通っていた。何よりも闘争を求め、血を欲する。そんな飢えた獣同士が遭遇すればどうなるか――その答えが今ここにあった。

「ハハハハハ!いいじゃねぇか、昂ぶってきやがった!もっとだ、もっと俺を愉しませろ!」

「クソが、余裕ぶってんじゃねェ……!そこ動くんじゃねェぞ、そのツラ変形させて元に戻らなくしてやっから、よォ!」

 雄叫びと共に大きく腕を振りかぶり、前田啓次は型も何もない不恰好な、しかし全力を振り絞った一撃を繰り出す。

 そのがむしゃらな拳は確かに竜兵に届き、その顔面を捉えた。が、所詮はそれだけの事でしかなかった。

「く、チクショウがッ!」

「ククク、どうした?わざわざオマエの言う通り、動かずにいてやったんだ。さっさと俺の顔を整形してみろよ、ああ?」

 竜兵はニヤリと獰猛に笑う。さすがに顔面への衝撃で鼻血を垂らしてはいるが、他にダメージらしいダメージは見受けられなかった。間違いなくクリーンヒットだったにも関わらず、まるで通じていない。

 その結果が、現時点における板垣竜兵と前田啓次の戦闘狂としての格の違いを、これ以上なく雄弁に物語っていた。

 啓次を猛獣とするならば、竜兵は云わばヒエラルキーの頂点に君臨する百獣の王だ。弱者は強者に、強者はそれを超える強者によって捕食される。弱肉強食こそが世界の理。

「この俺を相手に良く頑張ったと褒めてやるぜ。シンとヤる前のいい準備運動をさせてくれた礼だ、全力でブチ壊してやろう!」

 それは啓次と同様、型も何も滅茶苦茶な拳だったが、そこに込められた暴力が桁違いだった。

 振り抜かれた竜兵の剛拳が啓次の腹部にめり込むと同時に、びきりばきりごきり、と怖気の走るような音が響いた。

「うぐぁぁっ!!」

 アバラの何本かは折れただろう。激痛と衝撃に啓次は気が遠くなったが、気合を以ってどうにか意識を繋ぎとめる。込み上げる嘔吐感を堪え、ふらつく足を叱咤して立ち続ける。

 膝を屈せずに踏み留まった啓次の姿に、竜兵の表情は愉悦の色を深くした。

「ほう、なかなか頑丈だな、貴様。シン以外の有象無象には何も期待しちゃいなかったが、いい獲物に巡り合えたもんだ!」

「っく、そが。一日の内に何度もダッセェところを見られるなんざ冗談じゃねェ……ぞォッ!!」

 咆哮と共に、お返しとばかりのボディブローを放つが、それを悠然と迎える竜兵は余裕の表情を崩さなかった。

 己の全身を覆う鋼鉄の筋肉が生半可な攻撃では小揺るぎもしない事を、竜兵はよく承知している。実際に啓次の拳は筋肉の鎧に阻まれ、僅かに竜兵の体を揺らしただけの結果に終わった。

「くく、その程度じゃあ俺には届かんな。諦めが肝心だ、雑魚は雑魚らしく這いつくばれ」

「ふざけたこと抜かしてんじゃねェ、誰がてめェ如きに負けるかよ……いいか、オレはなァ、下げたくねェ頭は下げねェって決めてんだ」

「そうかよ、だったら下げたくても下げられないようにしてやる。首の骨をへし折って、な!」
 
 再び竜兵の拳が唸りを上げ、暴力の塊と化して迫る。

 その瞬間、啓次の眼が鋭く光った。

(仕方ねェ)

 油断があったのだろう。何せ眼前の獲物の攻撃が己に決定打を与える事は有り得ない、と分かっているのだから無理もない。

 だが、強者の余裕は驕りと紙一重だ。狩り終えた獲物と侮らず、全力で仕留めに掛かるべきだったのだ。竜兵の対応は、手負いの獣に対するものとしては余りにも無用心だった。

 竜兵が動くと同時に、啓次の拳が伸びた。

 これまでの戦闘の中で最も鋭く速いストレートは真っ直ぐに竜兵へと突き進み、そして竜兵の拳が己に到達するよりも数瞬だけ先に、その顔面を打ち抜く。

「がっ……!?」

 先程の一撃とはまるでレベルの違う衝撃に、竜兵は苦悶の声を上げながら体勢を崩した。脳が揺れた状態で真っ直ぐに立っていられる人間は存在しない。どれほど獣じみていても、板垣竜兵は紛れも無く人間である。

 ぐらり、と身体が傾き――しかしそのまま倒れはしなかった。

「おおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 咆哮。アスファルトの床を砕かんばかりの勢いで踏みしめ、僅かな時間で体勢を立て直す。そして、竜兵は野獣そのもののギラついた目で眼前の獲物を睨み据えた。その口元からは紅い血が一筋、流れている。

「ぐ……貴様、何をしやがった……!今まで、そんなパワーはなかったハズだろうが……!」
 
「あァ?いくらステゴロが好きだっつっても、さすがにクロス・カウンターくらい知ってんだろォがよ」

 例え同じ攻撃でも、事前に心構えが出来ているか否かによって受けるダメージの度合いは大きく変わってくる。警戒している相手には通じない攻撃も、無防備な瞬間を狙えば話は違うのだ。

 そして、“攻撃の瞬間”こそ、人間が最も無防備な姿を晒す瞬間の一つ。多くの場合において攻撃と防御は両立しない。そこを見逃すことなく狙い打つことで、己が拳の破壊力を高める……それが俗にクロス・カウンターと呼ばれる技術の概要だ。

「ちっ、やっぱこんなセコイ真似は性に合わねェぜ、ったくよォ」

 地力では満足にダメージを与えられないならば、技術で補うしかない。獣としての格で負けていると言うならば、勝利を得るためには人の生み出したテクニックを用いる他に無かった。

 それが啓次としては不本意だったのか、その表情には相手に一矢報いた喜びは見受けられない。

「クロス・カウンターだと?……なるほど、ただの雑魚という訳でもなかったか」

 怒りに染まった表情に少しだけ用心の色を浮かべて、改めて竜兵は啓次に向き直る。

 クロス・カウンター。口で説明するのは簡単だが、実践するのは極めて難しい。
 
 リターンは大きいが、当然ながらそれに見合うリスクも存在する。相手の攻撃を確実に見切ることが出来なければ本末転倒、かえって己が受けるダメージが倍増するだけだ。故に高等技術とされ、扱いにはある程度の力量と慎重さが要求される。

「ボクシングにハマってた時期もあったなァ、そういや。ま、周りがザコばっかですぐ飽きちまったんだがな」

 何かを懐かしむような目をしながら吐き捨てる啓次に、竜兵の顔が歪んだ。怒りや憎悪ではなく、猛々しい笑みの形へと。

「く、ははは、はははははは!面白い、面白いぞ貴様!いいぞ、いいじゃねぇか、滾ってきた!なあおい、もっと愉しもうぜ。俺の猛りを鎮めてくれ……!」

「オレはてめェみてーな変態とは関わりたくねェんだがな……」

「おいおい、つれねぇなぁ。同じ雄としてどちらが上か、ハッキリさせたいとは思わないか?」

「はん、てめェと同意見っつーのはムカツクけどよォ」

 両腕を肩幅に構え、肘を脇腹につける。左足を一歩前へ。膝を起点に小刻みなリズムを作る。かつて嫌と言うほど反復したフォームを再現することで、身体に染み付いた闘士の記憶が呼び覚まされていく。

 どうやら獣同士の喰らい合いはここで終わりらしい。

 これより始まるのは、人の技と獣の力の闘争だ。

「そればっかりは間違いねェなァ!」

「ハハハハ!そうだ全力で来い!貴様は素晴らしい獲物だ、俺が喰い尽くしてやろう!」
 
 






 一家の長女にして取り纏め役、板垣亜巳は戦場にあって頭の冷静な部分で分析していた。この状況は冗談抜きで不味い、と。

 鉛を流し込まれたように全身が重い。

 心臓は弾けそうな程に激しく脈を打ち、呼吸が速く、苦しくなる。

 四肢は凍えたように感覚が鈍く、指先が得物を握り締める感触すらも希薄だ。

 ほんの僅かでも気を緩めれば、勝手に身体が震え出す事だろう。亜巳の中に潜む生存本能が、絶え間なく恐怖を訴え警告を鳴らしている。

 目の前の男を敵に回し、正面から対峙すると言う事はつまり、死を直視するに等しい。

 亜巳達の師匠である釈迦堂をして「規格外」と言わしめた殺気は、相も変わらず健在だった。いや、以前よりも更に鋭く怜悧に磨き上げられているか。

 こうして敵対したのは、板垣一家と彼が袂を別ち、異なる道を歩み始めた“あの日”以来だが、このイカれた密度の殺気ばかりは何度浴びても慣れられそうもない。

「ふん。如何した」

 黒のロングコートのポケットに悠々と両手を入れて、構えも取らずに亜巳と向かい合う男――織田信長が、静かに口を開く。

 その身に纏う異質な雰囲気だけであらゆる者を圧し、足元に跪かせる様は、まさしく魔王と呼ぶに相応しい。

「くく、怖気付いたか?顔色が悪いぞ、亜巳」

 嘲る様な声音ですらも、一言一言が周囲の空気を軋ませた。亜巳は知らず溜まっていた唾を飲み下してから、声が震えないよう心掛けながら答える。

「流石にサシでアンタとヤる羽目になるとは想定外でねェ、こっちも参ってるのさ。そもそも、アンタのお相手は辰の役目だったってのに」

 板垣の家に弱者と称されるような輩は一人として存在しないが、しかしそれにしても辰子だけは別格である。

 そこらの不良が百人集まろうが鼻歌交じりで蹴散らせる程度には、竜平は強い。素質の高さに加え、優秀な師を仰ぎ武術を身に付けた天使は軽々とその上を行く。知識や観察眼を含めた総合的な亜巳の実力は天使を凌駕するだろう。

 そして、辰子は姿すらも目視できない程の遥かな高みから、そんな自分達を見下ろしているのだ。

 川神百代に、世界最強と謳われる怪物に並び立てるかもしれない――そう師匠に評された、眠れる龍。

 規格外には規格外を。織田信長と言う異形の相手が務まるとすれば、壁の向こう側に到達した呑気な次女しかいなかったのだが。

「あの従者、真っ先に辰を狙ったねェ。お陰で計算が狂っちまったよ」

 その辰子は現在、ドス黒い気を全身に纏った剣士と激突し、暴風を連想させる無茶苦茶な闘いを繰り広げている。

 織田信長の懐刀として悪名高い少女、森谷蘭。本来の手筈では、彼女の相手を引き受けるのは亜巳の役目だった。

 信長に辰子をぶつけ、亜巳が蘭を抑え込む。相性を考慮すれば、間違いなくそれこそが最も有利に事を運べるであろう組み合わせだ。しかし予想を外れて、その構図は現実のものとはならなかった。

 戦闘の開始と同時に、蘭が辰子に対して有無を言わさぬ猛攻を仕掛け、信長と亜巳の両者から引き離すように誘導したことで、既に戦場は分断されてしまっている。

「やってくれるよ、全く。どう見ても暴走してるってのに、随分と要領良く立ち回るもんじゃないか」

「ふん。彼奴は嘆かわしい程に救いのない莫迦だが。何があろうとも俺への忠義だけは忘れん。例え理性を失っていようとも、己が役割を放棄する事など万に一つも、無い」

 信長は冷め切った表情で亜巳を嘲笑い、少し離れた場所にて戦闘中の己が従者へと視線を移した。

 蘭が黒く染まった巨大な刀身を振り下ろす度にコンクリートの床が陥没し、辰子が手近に落ちている武器を拾っては投擲する度に四方の壁が粉砕される。

 轟音と震動が絶え間なく響き、天井からパラパラと埃が舞い落ちてきた。双方共に人間の域を超えた膂力を惜しげもなく振り回して、廃工場の一角を戦場跡へと模様替えしていく。

 人外同士が繰り広げる、駆け引きを除いた純粋な暴力の応酬。常人が巻き込まれれば数秒と保たずにミンチと化す事だろう。

「それにしても、ねェ」

 そんな常識外れの光景を呆れ半分の目で見遣りながら、亜巳は呟く。

 板垣辰子と森谷蘭。一見すると互角の勝負を演じ、拮抗している様に見える二人の力関係だが、実のところはそうではない。

「アレでもまるで本気を出しちゃいないって言うんだから、我が妹ながら末恐ろしいよ」

 亜巳の見立てでは、辰子は未だ実力の半分も出してはいなかった。あの正真正銘の怪物が完全にリミッターを外して暴れ出そうものなら、“こんなもの”で済む筈もない。

 剣道三倍段、という俗説を嘲笑うように、素手で易々と真剣と渡り合っているその姿ですらも、辰子の有する力の片鱗を示しているに過ぎなかった。

 だからこそ、管理が必要。日常的に亜巳自身が手綱を取り続けらなければならないのだ。

「やっぱり、組み合わせをしくじったのは痛いか。アタシならもっとスムーズにやれるってのにねェ」

 亜巳は唇を噛んで失策を悔やんだ。パワーと引き換えに理性を捨て去った蘭の戦い方は完全にその馬鹿力に頼っており、小細工を弄すれば容易に崩せる類のものだ。普段ならともかく、今の彼女の足元を掬う方法など幾らでも思いつく。

 同系統のパワーファイターである辰子が相手だからこそ互角の勝負として成立しているが、対戦相手が亜巳ならば既に決着は付いている事だろう。当然、亜巳の勝利という形で。

 力に対して馬鹿正直に力で対抗している辰子を、ただ見物しているしかない自分がもどかしかった。

「“本気を出しちゃいない”。“しくじった”。ふん。先程から聞いていれば、随分とまあ、暢気なものだ」

「っ!?」

 凶悪な殺気に満ち満ちた言葉に、一瞬で肌が粟立つ。その声音が耳に届いた瞬間、亜巳の身体は反射的に跳び退り、信長と距離を取っていた。

 全身を駆け巡る冷たい悪寒に耐えながら棒を構える亜巳に向けて、信長は無感動な調子で言葉を続ける。

「持てる手札を全て切る事もなく、弱者らしく策を弄する事も儘ならず。然様な有様で、この俺を相手に勝利を収めようとでも?愚かな。俺の想像を超えて増長していたようだな――板垣」

 信長が無造作に一歩を踏み出す。周囲の空気ごとこちらの存在を圧し潰さんとする威圧感を前に、気付いた時には後退っていた。

 やはり、こいつは桁違いにヤバい。

 眼前の男に恐怖心を抱いている己をはっきりと自覚する。同時に、十全な思慮を巡らせる事無くこの場に赴いた事に対する後悔の念が頭を駆け巡った。

 そもそも、好戦的な性格の持ち主が多い一家の中でも比較的慎重な一面を持つ亜巳は、当初はこうして信長と敵対する気は無かったのだ。

 今回の件に関しては亜巳自身の意思と言うよりも、マロードに唆されて乗り気になってしまった竜兵と天使をフォローするため、長女として仕方なく付き合っている、という面が大きい。

 板垣亜巳は生粋のサディストである。当然ながらその性質は臆病とは程遠く、自分の実力に関しても揺るがぬ自信を持っている。

 しかし、何事にも例外は存在するものだ。師匠であるところの釈迦堂刑部、そして幼少時代からの隣人、織田信長。この両名だけは亜巳にとって別格と言っていい。

「冷静に考えてみれば、何とも馬鹿をやってるもんだ。アンタと一対一でやろうだなんて、冗談にもなりゃしない」

 こんな筈ではなかった。亜巳が従者の足止めを担当し、その間に残りの三人が協力して信長を仕留める――それが本来のプランだったのだが、そんな構図など今や見る影も無く崩れてしまっていた。

“黒い稲妻”のリーダーが天使とやり合えるほどの使い手だとは想定していなかったし、あの何処から沸いたのかも分からない金髪の男に至ってはイレギュラーも良い所である。

 見たところ、天使も竜兵も優勢に勝負を進めてはいる。が、未だ決着には到らないようだ。

 天使はピョンピョンと機敏に動き回る少女を仕留められずにイラついている。一方の竜兵は、殴っても殴っても屈せず、立ち向かってくる男にむしろ喜んでいる様子だった。

 何と言っても自分の弟と妹だ。双方とも放って置けばそのうち勝利するのは疑いないが、あの調子ではカタを付けてこちらの援護に来るにはまだ時間を必要とするだろう。

 実際、これはある意味において最悪の状況だった。最大の切り札、辰子のリミッター解除を実行できない。今このタイミングで辰子を暴走させれば、まず間違いなく――交戦中の弟と妹が巻き込まれてしまう。

 封印を解くならば、一家全員がこの廃工場内からすぐに避難できる状況を作り出してからだ。眠れる災厄を呼び覚ます以上、その前提条件は確実にクリアしなければならない。

 しかし、彼らの方で決着が着くまでの間、自分が生き延びられるか否か判らないのもまた、事実である。

「如何した、辰を“起こさ”ないのか?くく、一声掛ければ、それで済むだろうに」

 そんな亜巳の心中の葛藤を見透かしたように、信長が酷薄に口元を歪めて哂う。

 そう、目の前にこの男が立ち塞がっている限り、条件が満たされるまで亜巳が立ち続けていられる保障など何処にもないのだ。

 戯れのつもりなのか、今はまだ向こうから仕掛けてくる様子は無い。が、一度彼が動き出せば、亜巳はその計り知れない脅威を単身で受け止める羽目になる。

「チィ……」

 舌打ちしつつ、逡巡する。先手を打って自ら勝負を仕掛けるべきなのか、或いは巻き添えを覚悟で辰子を解放するべきなのか。

 いずれを選ぶにせよ、迷っていられる時間はそう長くない。

 考えている間にも信長が悠然たる歩調で、だが確実に距離を詰めてくる。その殺意に満ち溢れた黒いシルエットが迫り来るにつれて、亜巳の心中を焦りが支配していく。心臓は絶え間なく早鐘を打ち続けている。

 どうするどうするどうする。

 焦燥と逡巡と困惑と恐怖とがぐるぐると脳内を駆け巡り、冷静さと思考力を見る間に奪い去っていた。

「ああ!ごめんアミ姉ぇ、避けて~!」

 焦りを滲ませた叫び声と、次いで風を切る音が背後から届いたのは、その時であった。

「なっ!?」

 事態を脳髄が正しく理解していなくても、幸いにして身体は反射的に動いていた。得物の棒が鋭く弧を描いて一回転し、己へ向けて高速で突っ込んできた“何か”を叩き落とす。

 甲高い金属音を立てながら床に転がったモノは、鉄パイプ。一瞬の空白を経て、亜巳は答えを導き出した。

 辰子が蘭に向けて投げ付けた武器が、流れ弾として飛来したのか。間の悪い偶然もあったものだ。


――――偶然?本当にそうなのか?


「愚かなり」


 背後から響く冷徹な声音に、亜巳は自身の犯した致命的な失態に気付いた。

 突然の“攻撃”に意識を取られて、ほんの僅かな時間とは言え、決して目を逸らしてはならない相手の存在を失念していた事に。


「―――らぁぁああっ!!」


 殺気に絡め取られた身体は重く、焦燥と恐怖に縛られた心は平静を保てず。それでも亜巳の肉体は、鍛錬の反復によって芯まで染み付いた棒術を正確に再現してみせた。

 振り返ると同時に放たれるのは、比較的面積が広く狙い易い人体の急所、腎臓を狙って一直線に伸びる高速の突き。

「甘い」

 必殺を誇る亜巳の決死の一撃に対し、信長は表情を変えないまま、その軌道から僅かに身を逸らす事で対処する。

 結果として突き出された棒の切っ先はロングコートの裾を貫いて、彼の脇腹を掠めたのみであった。攻撃の軌道を完全に読み切ってでもいなければ絶対に不可能な、最低限の動作による理想的な回避。

 そのまま伸び切った棒を脇に挟むような形で、信長は滑るような足取りで亜巳の眼前まで距離を詰める。

 懐に入り込まれるまでは、体感にして一瞬の出来事であった。

「停まれ」

 直後、顎先ギリギリのところで寸止めされた拳と、叩き付けられる凄まじい殺気に、亜巳は小さく息を呑んで硬直した。

「くくっ、もっとも……命を惜しまぬならば、望むがままに振舞えば良いが。さて、どうする?」

 互いの息遣いを感じられる程の至近距離で受ける恫喝の言葉は、普段以上の凄惨さを帯びていた。

 欠片の温もりも宿さない信長の瞳が自身の姿を映しているのが良く分かる。その双眸からは何の感情も読み取れず、ただ絶え間なく放たれる殺意だけが彼の意思を雄弁に物語っていた。

 己の咽喉へと突き付けられた拳に視線を移す。織田信長を相手に、この至近距離では回避も防御もあったものではない。指先一本動かそうものなら、即座に“何か”をされるだろう。

 そのまま首の骨をへし折られるのかもしれないし、或いは頸動脈を切り裂かれるのかもしれない。否、そんな生温い事は言わず、首から上が跡形も残さず消し飛ばされたとしても不思議はない。

 何にせよ、物言わぬ死体が一つ出来上がるのは間違いなかった。肌をピリピリと刺激する強烈な殺気が、碌でもない未来図を亜巳に教えてくれる。

 元より頭の回転が速い亜巳である。完全に詰んだ、と悟るまではさして時間を要さなかった。

「やれやれ、だねェ」

 家族には悪いが、板垣一家と織田信長の因縁の死合いはどうやら、またしても自分達の敗北で終わりそうである。

 亜巳は乾いた笑い声を上げながら、得物の棒を床へと投げ捨てた。









「大人しく降参しとくよ。稼ぎ頭がくたばったら、あの馬鹿どもを食わせてやれないからねェ」

 亜巳の口からその言葉を引き出した時、俺が心中でどれほど安堵していたか、余人には想像もつくまい。

 綱渡りのような真似ならばこれまでに何度も行ってきているが、今回の切羽詰ったギリギリっぷりに匹敵するケースはそうそう無かっただろう。何か一つでも条件を満たしていなければ、この未来を掴み取ることは出来なかった。

 そもそも俺と亜巳が一対一で対峙する状況を作り出せていなければ、まずその時点で相当に厳しい。イレギュラー二名の参戦によってこの形に持っていけたが、その幸運が俺に欠けていればどうなっていたことか。考えるのも嫌な仮定だった。

 次に、俺が亜巳の一撃を回避出来た件だが、これには幾つかの理由がある。

 まず第一に、殺気による身体能力の低下。板垣が相手となれば殺気による拘束自体がほぼ不可能だが、身動きを鈍らせる程度の効果は与えられる。先の一撃にしても、まず間違いなく百パーセントの力は発揮できなかっただろう。
 
 第二に、上手く亜巳の持ち味たる冷静さを奪えたこと。これに関しては我が従者のアシストによるものが大きい。俺と亜巳が対峙している間に辰子との位置関係を誘導して、同士討ちを狙ったのだろう。相手が単純な辰子だからこそ通用したとも言えるお粗末な作戦だが、理性のほとんどを投げ出した状態の蘭にしては上出来だ。不意を衝かれて動揺した亜巳の棒術は、殺気による補正を差し引いても、明らかに普段の精彩を欠いていた。

 そして第三にして最大の理由として挙げられるのが、俺が故あって亜巳の棒術を“見慣れている”という事だ。どのような状況でどのような行動に出るのか事前に予測できる、それは俺のようなタイプの人間にとってはあまりにも大きなアドバンテージである。亜巳が常に人体の急所を狙うことは承知していたし、その精度が限りなく正確無比であることも把握している。正確であるからこそ、計算に狂いが出ることはなかった。予測した刺突の軌道から少しばかり身体をずらしてやればそれで済む。

 とまあ、そんな風に様々な理由を積み重ねた結果でもあるが、最終的にはやはり半ば賭けのようなものだった。亜巳のような人外を相手に百パーセントの保障などある訳もない。少しでも読み違えれば串刺しで終わっていた。

 結局のところつまり、俺は幸運に恵まれていたのだろう。

 幸運といえば、亜巳が俺の「フリーズ」に大人しく従ってくれたのもそうだと言える。

 訳あって回避能力には多少の自信がある織田信長だが、肝心の攻撃手段はゼロに等しい。実際のところ、俺のパンチなどせいぜい少し腕っ節の強い一般人程度のレベルである。

 本気で急所を狙えば人間を気絶させるのはそう難しくないが、“気”を扱える人外を気絶させるとなれば火力不足もいいところだ。

 つまり俺はモデルガンにも劣る玩具の銃を突きつけて、白々しく亜巳を恫喝していた訳だ。何ともまあ、我ながら滑稽な姿だと思わずにはいられない。

 とは言えこういう下らないハッタリが通用するのも、俺が長年を掛けて築き上げてきた虚像あっての事だと考えれば、努力を続けた甲斐もあったというものである。

「ふん」

 まあそんな感じで、色々な必然と偶然が折り重なった先に辿り着いた結末として、俺はここにこうして立っている。常勝無敗の魔王、織田信長は幾度の修羅場を越えて健在だった。

 勝ったならば、盛大に勝鬨を上げるとしよう。この迷惑極まりない闘争に幕を引くために。

「ちょっと、乱暴にするんじゃないよ。女の扱い方が分かってないねェ、まったく」

「ふん、黙るがいい。虜囚は虜囚らしくしていろ」

 コートから引っ張り出した手錠で拘束した後、背中を押して自分の前に立たせながら、俺は肺活量の限界まで息を吸い込む。

 辰子は既に気付いているらしくチラチラとこちらの様子を窺っているが、竜兵と天の二人は完全に自分の戦闘に熱中している模様。そんな戦闘狂どもの注意を引きつけるべく、俺は工場の隅々にまで響き渡る大音声を張り上げた。


「敵将、討ち取ったり!――貴様らが長姉の首、惜しいと思うならば、即刻抵抗を止めるがいい、板垣ッ!!」

 
 特に自慢というわけではないが、常人と比べて俺の声音は良く通る。

 容姿や性格と同様に、“声”という要素は指導者のカリスマ性にかなりの影響を与える、と言うのが通説であり、俺はその辺りを考慮して、中学生の頃からヴォイストレーニングで発声を鍛え続けていた。

 本格的に講習を受けた訳ではないのでそう大したものではないが、それでも取り敢えず戦闘狂どもの意識に入り込むことには成功したようで、連中は各々の戦闘を中断してこちらに注意を向けてきた。

「なっ、アミ姉ぇ!?」

 苦笑いしながら両手を挙げて降参のポーズを取る亜巳の姿に、竜兵が愕然と目を見開いた。鼻から口からだらだらと血が流れており、どれだけ派手な殴り合いを繰り広げたのか一目で分かる姿だった。

 しかし、ここまで竜兵に傷を負わせるとは……前田啓次とやら、俺との戦闘では本気を出していなかったのか?金髪ピアスの俺の後輩を目で探すと、竜兵以上にボロボロになりながら壁にもたれ掛っていた。

 あのやられ様だと骨も何本かは折れているだろう。まあ、竜兵を相手に最後まで立っていられただけでも十分、賞賛に値する。

「うぉいシンてめー!人質取るなんて卑怯だぞ!正々堂々勝負しろやコラ!」

「王将を取られちゃってる時点で人質も卑怯も何もないと思うけどね。あーあ、そんな事も分かんなくなっちゃうなんて……クスリって怖いねーホント、うん」

「うっせーぞ性悪ネコ娘!だいたいてめーもてめーだぜ、卑怯な手使いやがってよー!」

「さて、ボクが何かしたかな?ぜんぜん覚えがないんですけどー、言い掛かりはやめてくれないかなぁ。ボク困っちゃうにゃん」

「あぁウゼェウゼェウゼェどいつもこいつも!イライラムカムカするぜぇー!」

「おおこわいこわい」

 こちらの人外二人組は戦闘直後にしては元気過ぎる。ぎゃあぎゃあと喧しいことこの上なかった。竜兵と啓次の消耗ぶりとは比べるのも馬鹿馬鹿しくなる。

 お互い大きなダメージを負った様子もない辺り、どうやら実力はほぼ伯仲していたらしい。あの天と真正面からやり合えるような人材が未だに発掘されることもなく、この界隈に残っていたとは驚きである。

 ふむ。俺の情報収集能力もまだまだ、と言ったところか。

 反省点を頭に刻み込みながら、戦場跡へと視線を移す。森谷蘭は抜き身の刀を手にしたまま、ぼんやりとその場に突っ立っていた。

「蘭」

「主」

 一言呼び掛けると、我が従者はふらふら、と覚束ない足取りで俺の前まで歩み寄ってきた。

 相変わらず身体からは禍々しい気が黒色のオーラとなって立ち昇っており、虚ろな目はこの世の一切を映していないように見える。現世に遺した未練を晴らすべく黄泉より這い出た幽鬼だ、と何も知らない人間に教えたら信じるかもしれない。

「ふん」

 だとすれば、こいつの未練を晴らすのは主たる俺の役目である。

 表情を失くした森谷蘭に向けて、俺はいつも通り、無造作に声を投げ掛けた。

「大儀であった。暫しの、暇を与える」

「…………ははっ。ありがたき、しあわせ……」

 馬鹿正直にその言葉を待っていたのだろう。糸が切れたように蘭は意識を失い、そのまま俺の腕の中へと倒れ込んだ。

 蘭愛用のシャンプーの香りと、血の匂いが鼻腔を満たす。返り血の飛び散った頬は、先程までの無表情が嘘だったかの如く幸せそうに緩んでいた。

 溢れる忠誠心で誤魔化しているが、実際のこいつのメンタルは豆腐並みの脆さだ。人を斬った時点で今夜の活動限界はとっくに超えていただろう。本当に世話の掛かる従者である。

 周囲に悟られないようにそっと一度だけ頭を撫でてやってから、俺は力の抜けた蘭の身体を床に打ち捨てた。弱みになりそうな姿を衆目に晒す訳にはいかない。

「おやおや、酷いことするねェ。その娘、アンタの為に必死に頑張って戦ってたってのにさ」

「ふん、下らんな。然様な感傷に意味は無い。道具を道具として扱わずしてどうする?」

「フフ……アタシも冷血だの人間じゃないだの色々言われてるけど、アンタには負けるね」

 薄く笑いながら妖艶な流し目を送ってくる。前々から思っていたが、何だか亜巳には妙な親近感の込められた目で見られている気がするな……具体的には同類というか、仲間を見るような。

 まあ“織田信長”のキャラクターを考えれば仕方が無いと言えば仕方が無いのだが、微妙な気分だ。

 しかし人質の癖にこの余裕、さすがに尋常の神経ではない。

「ねえ~二人とも~、アミ姉ぇつかまっちゃったし、もうやめようよ~」

 亜巳が俺の手に落ちたことでもともと乏しかった戦意がマイナスにまで落ち込んだらしく、辰子は緊張感のない声で家族に休戦を呼びかけていた。

 まあ実際のところ、亜巳というカードを俺が有している以上、休戦というよりは降伏という形になるだろうが。

「けどよ、マロードの指令は……」

「何言ってんだリュウ、アミ姉ぇがやられちまってもいいのかよ!相手はシンだぞ?付き合い長いからってためらう訳ねーじゃんよ」

「ね~、リュウ~」

 板垣一家は誰にも支配されず拘束されない無法者だが、家族の命が掛かっているとなれば話は別だ。他人がどれだけ傷付こうが死のうが笑い飛ばせるこの連中も、身内には甘い。

 所詮は他人であろうマロードとやらの命令と、大事な大事な家族の命。どちらを優先するかなど考えるまでもないだろう。

「ちっ、そうだな……マロードには悪いが、こればかりは……ん?」

 竜兵が苦虫を噛み潰したような表情で、渋々頷きかけた時だった。場違いに陽気な電子音のメロディが鳴り響き、誰もが一瞬身動きを止める。

 どうも音楽の発生源は竜兵のズボンのポケットらしい――ということはつまり、携帯電話の着信音か。

「……なぁリュウ、ウチの記憶が間違ってなけりゃ、この着メロって確か……」

 天が言い終えるよりも早く、俺が制止するよりも早く、竜兵は携帯を耳元に宛がっていた。

「ああ。分かった」

 そして数秒の後、気難しい表情で俺の方に向き直り、携帯を投げて寄越しながら口を開く。

「――マロードだ。お前と話をしたいんだってよ」

 手元に納まった携帯電話のディスプレイに視線を落とす。表示されている現在時刻は零時零分。

 深夜のマッドパーティーの主催者が、やっと挨拶に現れたか。

 小さく息を吐き出して気分を落ち着けてから、俺は凪いだ海原の如く平静な心で携帯を耳元まで持ち上げた。

 マロードか。奴に言ってやりたい事は幾らでもあるが、取り敢えず最初の一言だけは既に決定済みだ。


「『ようこんにちは、はじめまして。織田信長』」

 
 ありったけの殺意を、君に。


「死ぬがよい」














 覚えていらっしゃる方はお久し振りです。ここしばらくは創作目的でキーボードを叩くことすら稀になっていましたが、まじこいSの情報を見ていると創作意欲がモリッと湧いてきました。
 やはりモチベーション維持のためには原作に対する情熱が必要不可欠なんだなぁと実感した今日この頃。今はまじこいを再プレイしながら改めて色々と妄想もとい構想を練ってます。
 まあ相変わらず筆は遅いですが、まったり待って頂ければ。それでは、次回の更新で。



[13860] 五日目の終宴
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:81888146
Date: 2011/02/06 01:47
「『アハハハ!これはいきなりご挨拶だねー、怖いなー』」

 子供なのか大人なのか老人なのか、男なのか女なのかすら判別のつかない不自然な声音が次々と耳に流れ込んでくる。機械か何かを使って声を変えているのだろう。

 まあ予想はしていたが、わざわざ自分の素性を明かすような真似はしないか。口調自体はどう考えても男のそれだが、フェイクの可能性も高いので判断材料にはなるまい。

「『いやーでも、電話越しなのに背中がゾクゾクするってどういうワケよ。びっくりしちゃったね俺』」

「……」

 遠く離れた相手から殺気が届いた事に驚いたらしいが、何も驚くべきことではない。

 声は“気”を伝える手段として非常に有効だ。例えば川神鉄心ほどの達人ならば、一喝するだけで地を割り、海を割るとも言われている。

 ちなみにピンチに陥った際に俺が饒舌になるのは、言葉に乗せた殺気で精一杯の威嚇を試みているという切実な理由があったりする。

 そして、そういった知識は武に関わるものならば所持していて当然のものだ。つまり先程の反応から見て、奴自身は武力を持っていない可能性が高いと考えられる。

 幾ら計算高い人間でも、こちらまでフェイクと言う事はさすがに無いだろう。

「『無視しないでよー寂しいじゃん。実際さ、俺とこうやって直接話ができる人間ってほとんどいないんだぜ?交流を深めて損はないと思うけどねー』」

「素性も知れん輩と言を交わす程、俺は酔狂ではない」
 
「『あ、うっかり自己紹介を忘れちまってた。一方的にと言っても君の事は良く知ってるからさー、他人とは思えない感じ?君も竜兵辺りから聞いてるだろうし?さくっと名乗っとこうってワケで改めましてぇ、
――俺がマロードだ。まあ末永いお付き合いを頼むよ』」

「ふん。己が姿を晒す事もなく、良く言ったものよ。厚顔極まる」

「『あー顔見せないのはやっぱ印象悪いかなー。でもまあ勘弁してよ。だって俺、君の目の前にいたら――もう今頃は殺されちゃってるでしょ?それはさ、ちょっと困るんだよね』」

「そして板垣の阿呆共に俺の相手をさせて、己は安全圏より高みの見物か。笑止、であるな」

 板垣との戦闘に決着が着いた、このタイミングを狙ったかのように接触してきたということは、大方監視カメラなりを使って一部始終を見ていたのだろう。

 目に付くところには見当たらないが、まあ機械の小型化が進むこの時代。本気で仕込もうと思えばどこにでも仕込める。

 つまるところ俺の今夜の苦労は全て、正しくこいつの為の見世物にされていたという訳だ。なるほど、いい感じに殺意が湧き上がってきた。

「『あははは、キッツイねー。でもさ、普通トップが前線に出たりしないって。俺は頭脳労働が専門だからさ、君みたいに荒事にも出張ったりとかそーいうのはムリムリ。だから俺、結構君のことリスペクトしてたりしちゃったり?文武両道。いいじゃん、憧れちゃうねぇ』」

「……」

 どこまで本気で言っているのかまるで分からない賛辞に、俺は沈黙で応える。

 それにしても――こいつが、“マロード”か。

 こうして言葉を交わしてみた限りでは、とにかく軽薄そうで不愉快な奴だとしか思えないが……

 しかしながら、“ただそれだけ”の人間が誰にも正体を悟られずに堀之外という魔窟で暗躍し、あまつさえあの板垣一家に命令を下せる訳もない。

 俺が自身に織田信長というキャラクター付けを施しているのと同様に、電話越しの何者かもまた“マロード”という仮面を被っている、と考えておいた方がいいだろう。

 経験上、こういうタイプの輩こそ警戒して掛かるべき相手だ。

「『んー。色々と調べて知ってちゃいたけどさー、やっぱとんでもないねー君。まあちょっとしたイレギュラーはあったにせよ、まさか竜兵達がこんな簡単にやられるなんて思ってもみなかったなぁ。俺はこれでも頭脳タイプで売ってるんだけど、自信なくしちゃいそう』」

「解せんな」

 ぺらぺらと中身の薄い言葉を吐き連ねるマロードを遮って、俺は口を開く。

 ああ全く、どうにもこうにも、嫌な感じだ。上手く言葉で表現できそうにもないが、嫌な予感がしてならない。

「貴様が俺の事を真に調べたと云うなら、此度の結果は目に見えていた筈だが?俺と板垣の力関係など改めて競うまでもなく、遥か以前に決している……あの語るに足らん闘争の顛末、この堀之外に住まう者であれば誰しも知っている事だ」

「『あーそれね、もちろん知ってるぜ。でもさあ、それにしたってもう何年も前の話だし?人間って成長するもんだし?今の竜兵とか見てるとさ、普通はリベンジ出来ると思うのが自然っしょ』」

「下らんな。板垣風情がどれほど成長を遂げた所で、俺の歩みを妨げられる筈も無い。人間である以上、俺とて昔日の俺ではない」

「『アハハハ、人間である以上かー。実際、君を見てるとさ、ホントーに人間なのか疑わしいんだよねー。実はさ、悪魔だったりして』」

「生憎だが。与太話に付き合う程、暇ではない」

 マロードの戯言を冷たく切り捨てると、俺は一度電話越しの会話を打ち切って、周囲に注意を向けた。

 件の板垣一家は取り敢えず様子を見るつもりなのか、少し離れた所から大人しくこちらを睨むに留めている。

 果たして暢気なのか薄情なのか、辰子に至っては立ったままうつらうつらと船を漕いでいた。

 が、相手は猛獣も逃げ出す板垣一家。警戒は幾らしてもし足りない位だろう。念の為、連中が余計な真似を仕出かさないよう保険を掛けておくとしよう。

「ぐぅっ!?」

 という訳で、俺はアミを蹴り倒してその頭を踏みつけ、完全に身動きを封じておいてから電話を続けた。

 竜兵達の放つ殺気がちょっとばかり尋常じゃないレベルに膨れ上がっているが、実際にこちらに手出しできない以上恐れる必要はない。

 そう、動物園。動物園にて猛獣の檻の前にいると思えば無問題だ。不用意に手を突っ込みさえしなければ、大丈夫大丈夫。

 自分に言い聞かせて、怯みそうになる心を抑え付ける。

 そんな風に俺が必死の自己暗示を行っていると、携帯から再びマロードの声が響いた。

「『あらら、人質に乱暴しちゃダメっしょ。なんといっても俺の大事な同志なんだからさー、扱いは丁重にしてよ』」

「ふん、俺の捕虜だ。生殺与奪の権は、全て俺の元にある」

「『困るなぁ、そんな態度取られちゃうと――“こっちの人質”も、身の安全は保証できなくなっちゃうかも?』」

 さらり、とまるで何でもないように放たれたその言葉に。

 俺は咄嗟に自制スキルを総動員して声を殺し、表情を殺し、心を殺した。

「……」

 少なくとも表面上に変化は浮かばなかった筈だ。普段の鍛錬の成果が発揮されたと、願いたい。

 ここで俺が僅かでも動揺を見せれば、それはどうしようもなく致命的な隙となる。その大き過ぎる隙を見逃してくれるほど甘い相手ではない。

 嫌と言うほど、実感させられた。

 故に俺はありとあらゆる感情を伺わせない。眉一つ動かさず、声一つ震わせず、あくまで普段通りの冷徹さを貫いて、淡々と言葉を返す。

「成程。それが貴様の用件と云う訳か」

「『あれ、それだけ?もうちょっと何かさ、リアクションしてくれてもいいんじゃないの?せっかく驚かせてやろうと今まで隠してたのに、寂しいじゃん』」

「ふん。その程度は予期していた事態の一つに過ぎん。貴様の言う人質とやらは、先に離脱した二人だろう」

「『そうそう、宇佐美巨人と源忠勝。堀之外じゃあ名の知れた代行人で、君の今回の依頼人。押さえさせてもらっちゃった、アハハハ!』」

 マロードは不愉快な哄笑を上げる。その言葉の内容もあって、真剣で殺意が湧いてきた。

 この野郎、タツを―――駄目だ落ち着け、冷静になれ。

 親友を人質にされた程度のことで熱くなるのは、織田信長のキャラクターじゃあない。そんな綺麗な役回りは正義の熱血ヒーローにでも任せておけば良い。

 ひたすら冷静沈着に思考を巡らせて最適解を導き出す、それが俺のすべき事だ。間違っても激発するな、今は事態を正確に把握しなければ。
 
「それで?」

「『んん?』」

「俺が、“人質”の存在などを。意に介すると本気で思うか?貴様にとって部下は保護すべき対象かもしれんが、俺にとっては違う。足手纏いとなるなら、躊躇いなく切り捨てるのみ」

「『あー、まあそうだろうね。でもさ、俺としちゃそういうドライアイスな性格も織り込み済みなのよ。役立たずの部下なんて余裕で見捨てられる……でもさ、“依頼人”は違うんじゃない?依頼人を守り切れなくて、請け負った依頼をこなせなかったってのは――つまり、“敗ける”ってコトじゃん』」

「……」

「『信長、君さ……敗けるのキライでしょ。それも、かなり半端ないレベルで』」

 妙に確信的なマロードの言葉。思わず舌打ちが漏れ出そうになり、慌てて自分を抑える。

 少しばかり甘く見過ぎていたのかもしれない。

 こうも自信を込めて織田信長を語る事が出来る辺り、どうやらマロードは想像以上に深い所まで首を突っ込んでいるようだ。

 俺の事を調べた、と言っていたが……こいつ、何を何処まで知っている?

「『俺的にはここで亜巳を失うのは痛いし、君も美味しい稼ぎ口を失くすのは不本意だと思うワケよ。って事で今回はさ、引き分け、痛み分けってことでお互い手を打たない?』」
 
 人質交換という訳か。俺自身としては一も二も無く飛びつきたい提案だが……ここで慌ててはならない。

 “織田信長”にとってこの状況はどういうものなのか、客観的に考える必要がある。虚像の威を保つには、常に細心の注意を払い続けなければならないのだ。

 勝ち負け引き分け。利益に損失、外面と内面。

 ……。

 …………。

 ……今回ばかりは仕方がない、か。

 あまりに予想外が積み重なり過ぎて、こうなる可能性に思考が及ばなかった。

 マロードの手前、見栄を張ってはみたが、実際のところ俺もこの事態はまるで想定できていなかったのだ。

 第一、よりによってあの二人が捕らえられるなど、そう簡単に起きて良いことではない。

 源忠勝に宇佐美巨人。忠勝は昔から腕っ節が強く、場慣れもしている。突出した能力こそ無いが総合的な実力は相当なものだ。

 一方、養父の巨人とて決して弱い訳ではない――それどころか、一昔前はこの堀之外で随分と派手に暴れ回り、色々とヤバい事もやらかした経歴を持つ猛者である。

 現在は第一線を退いてはいるものの、その実力は板垣とも真っ向から渡り合えるほどのものだろう。

 普段はくたびれた中年親父にしか見えない上に強者特有の覇気も感じられないが、自分達の身を守る為ならばさすがに本気で力を振るう筈だ。

 そんな親子が二人揃っていて、それでも不覚を取るものだろうか?いまいち信じられないものの、マロードの口ぶりからしてブラフとも思えない。

 第一、確認を取ればすぐに露見するような嘘を吐く理由もないだろう。

 …………。

 まあ、とは言え、何がどうしてそうなったのか、なんとなく予想はついているのだが。

 宇佐美巨人と源忠勝の両名をまとめて叩き伏せられるような馬鹿げた実力の持ち主で、かつアンダーグラウンドの住人。

 誠に残念ながら心当たりがある。板垣一家が登場した時点で、薄々ながら現れるような気はしていた。

 あくまで予感は予感、叶う事なら当たっていて欲しくはなかったのだが、やはり俺の場合は嫌な予感ほど良く的中してしまうものらしい。鬱陶しくも現実は常に厳しい。

 アンニュイな溜息を吐き出したい気分に任せて、俺は内心にて不機嫌全開に呟く。


―――約束が違うじゃねぇかよ、釈迦堂のオッサン。









 釈迦堂刑部は、元川神院師範代である。その肩書きが意味するところは、一言ではまるで語ることが出来ない程度には重い。

 それでも敢えて簡潔に説明するならば、かつてあの川神百代が師と仰いだ男――と言えば、とりあえずその突き抜けっぷりは伝わるだろう。

 あらゆる天才とあらゆる天災で満ち溢れたこの世界において、頂点から数えて十本の指に食い込むであろう実力を有する、正真正銘の怪物だ。
 
 そして釈迦堂という男の最大の特徴は、世界におけるトップクラスの武力を保有した上で、それを振るう事に何ら躊躇いを覚えないところにある。

 相手が気に入らなければ、一般人であろうとお構いなしに暴力を振り回す。

 対戦相手の選手生命を絶ちかねない非情の技でも、勝利を得るためならば迷わず用いる。

 弱いのが悪い、好きに生きたきゃ強くなれ――それが釈迦堂の口癖だった。

 そんな武闘家にあるまじき思想と行動を危険視された結果、総代の鉄心によって川神院を追放されたのが、約十年前の話。

「おーおー、随分とハデにやり合ってたみてぇだな。ヒヒ、血の匂いがぷんぷんしやがる」

 そして現在。三つの勢力が数時間に渡る激闘を繰り広げた第十三廃工場に、釈迦堂刑部は足を踏み入れた。

 工場内には意識を刈り取られた人体が無数に散乱し、同じ数だけ血溜まりが広がっている。

 森谷蘭と板垣辰子の戦闘の煽りを受けて、壁にも床にも罅割れとクレーターが刻まれている。

 一見して何処の戦場跡かと思うようなその惨状を、釈迦堂はむしろ上機嫌な様子で見回した。

「ま、お前らが暴れたってんならこんなモンかね。若者は元気が一番ってな。さぁて――えらく久し振りじゃねぇか、小僧。懐かしいなぁオイ」

「……」

 俺の正面、約五間の距離を置いて、釈迦堂は立ち止まった。
 
 年に似合わず常にヘラヘラ笑った口元も、それだけでは到底誤魔化しきれていない歪んだ凶相も、最後に顔を交わした時とまるで変わらない。

 そして、この殺気。俺のように虚勢を張って捻り出した紛いものとは違う。

 臨戦態勢に入るまでもなく、ただ暢気にそこに突っ立っているだけで対峙する相手の肌を粟立たせるような、禍々しい存在感。

 川神百代もそうだが、こういう規格外の存在と相対した時、俺はいつも己の矮小さに絶望にも似た想いを感じてしまう。

 無論、俺には才能がない、などと思い上がりも甚だしい事は言わない。形はどうあれ、多くの凡人に比べれば俺は明らかに才に恵まれている。少なくとも、血の滲むような、死に物狂いの努力が、辛うじて実を結ぶ程度には。

 しかし、それでも……“彼ら”と同じステージに立ち続けるには、あまりにも非力。存在としての格が違う。そう感じざるを得ないのもまた、事実であった。

 そんな下らない感傷を俺に抱かせる点も、変わっていない。

 唯一つ違和感を覚える部分があるとすれば――それは、両脇に軽々と抱えた二人分の人体くらいのものか。

 四肢が二人分で八本と、頭が二つ。数えて十のパーツがだらりと地面に向けて垂れ下がっている。

「おいおい挨拶もナシかよ。ったくよー、年長者は敬うモンだぜ?せっかく面倒くせぇ手加減までして、五体満足でお届けしてやったってのに」

「師匠、チィーッス!」

「こんばんは~師匠」

「オウ。お前らは無事っぽいな。ま、俺の弟子がそう簡単にやられて貰っても困るか」

 場違いに元気で暢気な二人の弟子、天使と辰子に、釈迦堂は皮肉っぽい表情で言葉を返す。

 そして、少し離れた所で不機嫌そうに腕を組んでいる男、竜兵に視線を移した。

「ヒヒ、お前さんはなかなかヒデー有様だな。誰にやられたのか知らねぇが、素直に俺の教えを受けてりゃ余裕で勝てただろうによ」

「はっ、余計なお世話だ。俺は誰の指図も受けん、もっともマロードは別だがな」
 
 竜兵は苦々しく眉間に皺を寄せながら、口の中に溜まった血と一緒に吐き捨てた。
 
 ステゴロを信条とする竜兵は他の三姉妹とは違い、釈迦堂に武術を習ってはいない。それはこれからも変わることはないだろう。

 釈迦堂はやれやれ、と肩をすくめた。

「あーあ、勿体ないねぇ。俺の見立てじゃお前にゃ間違いなく才能があるんだがな。才能は大事にしなきゃ駄目だぜ?なんつっても世の中、無能な努力家なんて間抜けで可哀相な連中は腐るほどいるんだからよ」

 よっこいしょ、というわざとらしい掛け声と共に、釈迦堂は両脇の荷物を床に転がした。

 この距離から見間違える筈もない。忠勝と巨人だ。両者とも気を失っているのか、ピクリとも動かない。見た感じでは目立った外傷は無さそうだが……。

 本音を言えば傍まで行って自らの手で確認したいところではあるが、そういう訳にもいかない。

 現時点では、彼らの身柄はマロードにとっての大事な交渉カードなのだ。迂闊な動きは禁物である。

 俺が二人の様子を観察していると、釈迦堂はこちらの交渉カード――亜巳に視線を向けた。

「よう、亜巳。慎重なお前が不覚を取るなんざ珍しいじゃねえか」

「……師匠の手を煩わせてしまい、申し訳ありません」

 俺の足元、手錠で拘束された亜巳がいつになく殊勝な言葉を吐く。

 基本的にはどんな相手にも傲岸不遜な態度で接する亜巳も、師に対する敬意はきっちりと持ち合わせている。

「まー仕方ねぇさ。慎重だからこそ突かれる隙、ってのもあるもんだ」

「……?それはどういう……」

「分からねぇか。ヒヒ、やっぱお前は恐ろしい奴だぜ、信長よ」

 心底愉快そうに口元を歪めながら、釈迦堂は全てを見透かしたような目を俺に向ける。

 ……この糞オヤジ、余計な事を言いやがって。

 不愉快な視線と言葉に対し、俺は手加減無しの殺意を放出する事で応えた。

 ビリビリと空気が一瞬で緊張し、震える。至近距離で殺気を浴びた亜巳が大きく息を呑んだ。

 しかし、肝心のターゲットたる釈迦堂は眉一つ動かす事なく、平然たる表情で殺意の奔流を受け止めている。相変わらず、気に喰わない。

「イイ殺気だ、前に会った時よりもすげぇ。本当にお前は天才だと思うぜ。この俺をしてそう思う。さすがは、元・俺の弟子だ」

「下らん昔話をする気はない。それよりも、何故貴様が此処にいる?マロードとやらの下に付いたのか、貴様ほどの男が」

「まあ色々あんだよ、オトナにはよ。それによ、マロードはチンケな密売人たぁ訳が違うぜ?アイツはもっともっと大きな事をしでかせる奴だ。こうやって協力してんのも、言うなれば先行投資ってところか?ヒヒ、そういう意味じゃお前と同じだよ、信長」

「……」

「それに、何となく気が合ったってのもあるな。お前と相容れるかは別として、面白い思想の持ち主だぜ、マロードは。ま、その辺りは本人が直接話したがってるらしいから言わねぇけどな」

 マロード。板垣一家を引き込むのみならず、釈迦堂刑部をしてここまで言わせるか。

 少しばかり洒落にならない求心力だ。何者かは知らないが放置するのは危険すぎる、と改めて認識する。

 ただ、悪いことばかりではない。先の会話の中で、少しは安心できる要素を見出すことが出来た。

 色々な点でグレーゾーンに踏み込んではいるものの、どうやら釈迦堂は俺との“約束”を破る気はないらしい、と言う事だ。

 このオッサンの行動原理を考えればそう簡単に反故にされるとは思わないが、約束の内容が内容だけに神経を遣わざるを得ない。

 我が元・師匠ながら厄介な男だ――と内心で溜息を吐いた時、釈迦堂が再び口を開いた。面白いものを見つけた、と言う風に口元が弧を描いている。

 ……ああ、やはり。無駄だったか。

「ヒヒ……なかなか気配を殺すのが巧いな、お嬢ちゃん」

「っ!」

「俺じゃなけりゃ何が起きてるか分からねえ内に蹴り倒されてたかもしれねぇな。ま、相手が悪かったと思って諦めな。こっちにゃ人質がいるって事を忘れてもらっちゃ困るぜ」

 飄々と語り掛ける先には、跳躍の姿勢を取ったままで硬直した明智音子の姿があった。釈迦堂の背後、数メートルの地点。

 抜き足差し足忍び足、俺と釈迦堂が会話を交わしている間に足音も気配も見事に絶って徐々に忍び寄ってきていたのだが、残念ながら結果は見ての通りだった。

 この化物を相手に不意打ちが通用するとは最初から思っていなかったとはいえ、少しくらい夢を見させて欲しいものだ。

「しかし、俺にゃバレちまったとは言え、これだけ練度の高い隠行ができるっつーことは……ウチの天と互角にやり合ったってのは嬢ちゃんの事か。の割にあんま血の匂いはしないみてーだが、裏の住人って訳じゃねえのか?」

「粗暴で野蛮なキミ達みたいな人種と一緒にしないで欲しいね。生憎と、こんな血生臭い夜は人生で初めてだよ」

「へぇ」

「ボクは清楚で上品でお淑やかで、問題は暴力よりも頭脳を使って解決したい人間なんだ。仮に探偵をやる羽目になったら安楽椅子は必須だね」

 釈迦堂の発する得体の知れない雰囲気に中てられたのか、顔色はいまいち良くなかったが、ねねの元気は未だ残っているようだった。

 もはや隠れている意味もない、とばかりに、中身のないスッカスカな言葉をぺらぺらと吐き出しながら俺の隣まで歩み寄る。

「ゴメンご主人。失敗しちゃった」

「許す。端から期待もしておらぬ故」

「う。それはそれでショックかも……まあいいや。で、“ご主人”に返事してくれたのは、ボクへの合格通知と受け取って良いのかな?」

 小柄なねねは下から見上げるように、しかしふてぶてしい笑みを浮かべて俺を見つめる。

 なかなか大した度胸だ。頭も回るようだし、武の腕前も天との戦闘を見れば一目瞭然。能力的には何の問題もない。

 もっとも、性格面は相当に癖がありそうだが――そういう輩を部下として自在に使いこなせないようなら、俺の夢など決して叶いはすまい。

 それに、と俺はどこか愉快な気分で思った。

 俺はどうやら、このねねという少女が気に入ってしまったらしい。

「ふん。その小賢しさと面の厚さは認めてやろう。
――許す、今日より明智音子を織田信長が臣下と任ずる。精々、励め。己が領分を弁えている内は、飼っていてやろう」

「えーと。ありがたき幸せに御座りまするー、とでも言っておけばいいのかな?まあそういう訳で、これからよろしくお願いするね」

 重々しい俺の声音にも多少は慣れてきたのか、ねねは緊張することもなく軽い調子で頭を下げて軽い調子で答える。

 これが忠義馬鹿の蘭ならば滝の涙を流しながら頓首再拝、平身低頭して顔面を無駄に汚す場面だろうな、と心中にて苦笑する。

 さて実際はどうだっただろうか。足元で間抜け面を晒して寝息を立てている我が従者を見下ろしながら軽く回想していると、携帯電話のアラームが再び鳴り響いた。

 先程と違い、携帯は最初から俺の手中にある。間髪入れずに受信ボタンを押して、耳に押し当てた。

「『よう、さっきぶり。オレだよ、オレ。オレオレ』」

「………………………」

 通話早々に不愉快な音声で不愉快なギャグを聞かされた。どうしようこいつ真剣で殺したい。

 そんな俺の純粋な殺意が伝わったのか伝わっていないのか、マロードはやれやれと言いたげな溜息を吐いた。

「『ツッコミ待ちの寂しさを分かってないねー。まーいいや、それより人質もちゃんと届いたことだし、ここらで幕引きにしない?』」

「ふん。自ら舞台の幕を上げた輩が、随分と勝手な事を言う」

「『アハハハ、そう?俺の考えは逆かなー。自分でセッティングして幕を上げたからこそ、幕を引く権利と義務があると思うけどねー俺は。舞台に限らず主催者ってのはそういうモンっしょ』」

「己が手で舞台を演出しておきながら、己は観客席に座して其処で踊る道化を笑う。趣味の悪い事だ。貴様の何が、此処にいる獣共を惹き付けたのか。それは関知する所ではないが……俺とは相容れんらしいな」

「『あっれー、嫌われちゃったかな?実際に会ったら好きになってもらえる自信あるんだけどなー。アハハ、でもその前に殺されちゃいそうだからムリか。君は嫌いかもしれないけど、俺は君のこと、結構好きだったりするのよ。似た者同士、シンパシー感じちゃったりー、みたいな?』」

「貴様の如き輩と、俺が。似ている、だと?余程俺の勘気に――」

「『君さ、世界のこと憎んでるでしょ。そりゃもう、滅茶苦茶にしてやりたいくらい』」

「…………」

 またしても。またしても、だ。強い確信に満ちたマロードの言葉に、俺は思わず沈黙を選んでいた。

 知ったような口振りで俺の事を語るマロードに腹が立ったのは事実だが、それ以上に、抑え切れない戸惑いが俺の心を支配していた。

 例え心の一欠けらに過ぎずとも。

 真の意味で本音を見抜かれるのは、初めての経験だった。

「『どうして俺がそんな風に自信満々に言えるのか、不思議じゃない?その辺り、君とは色々と話したい事があるんだけど……、うん、今日のところはここまで!
どうせならもっと落ち着ける状況でゆっくり話したいからさ、またの機会を待つとしますか』

「……」

「『楽しみは後に取っておくのが人生の正しい味わい方っていうか?そんな感じじゃん?我慢強い俺ってステキ!抱いて!って自分で自分は抱けないか、人は皆孤独だねー哀しいね、アハハハ!』」

「…………」

 これ以上の会話は無駄か。そう判断し、携帯を耳から離して通話を切ろうとした瞬間。

「あ、ちょっと待って!」

 つい先程、栄えある俺の直臣第二号の座に収まったねねが慌てた調子で制止した。

 そういえばこの少女はマロードとの因縁があるらしかったな、と記憶を呼び返しながら、俺は用済みとなった携帯をねねに投げ渡した。

「せんきゅご主人。さてさてさぁて、なんて文句を付けてやろうかな」

 傍目に分かるほどにも意気込みながら携帯を耳元に持ち上げて、大きく息を吸い込み、

「…………!」

 そのまま無言で固まった。

 数秒間、表情すらも凍り付いたように固まっていたが、氷が溶け出すように徐々に怒りの形相へと変貌していく。

「うがぁあああああムカツクムカツクムカツクゥゥゥゥ!アイツ!ボクが代わるの分かってて通話切りやがった!死ね、死ね死ね死ね不幸に塗れて惨めに死んじゃえ!!」

 清楚さも上品さも淑やかさも一片たりとも見当たらない罵声を喚き散らしながら、ねねは携帯電話こそが諸悪の根源と言わんばかりに思いっきり振りかぶり。
 
 そして、何の慈悲も容赦もない力加減でコンクリートの床に叩き付けた。

 今夜の戦闘では足技にしかお目に掛かっていなかったが、どうやら膂力も人外級だったらしい。哀れにも携帯は粉々に砕け散った。

「おおおおおおおおおおいテメェェ!俺のケータイに何しやがるゴラァ!!」

「どうどう、落ち着けリュウ!いや気持ちはすっげー分かるけどよ、アミ姉ぇが人質になってるからな!?まあこれでも飲んで落ち着けって」

「って興奮剤渡してどうすんだ!……クッ、しょーもないボケなんぞのお陰で少し落ち着いちまった自分が憎いぞ……!」

「う~ん。買い換えたばっかりだったのになぁ。勿体ないなあ……まあいいか。くかー」

「あ、この携帯キミのだったんだ。ゴメンねぇ他意は全然全く完膚なきまでにこれっぽっちもなかったんだけど、ちょっとうっかり落として壊しちゃった。でも謝ったから許してくれるよね?」

「上目遣いで可愛らしく言えば何でも許されると思ってんじゃねぇぞメスガキ……!いいか、あのケータイにはマロードから届いたメールの全てを保存してある!マロードの生声を就寝用と起床用の二パターンに分けて録音してあるし、更には貴重なマロードの生写真もコレクションしていた!それを、それを貴様は……これが許せるか、なあ天!」

「え、あ~……ごめんリュウ。普通に引くわ」

「ZZZ」

 先程までの殺伐とした空気は何処へ行ったのやら、通話の切れ目がシリアスの切れ目、と言わんばかりに混沌空間が展開されていた。

 これが普段の板垣一家だと言ってしまえば、まあそれはその通りなのだが。

 少し前までガチで殺し合っていた相手がこんな連中だと思うと、何と言うか、色々と遣る瀬ない。心なしか周囲に充満している血臭ですらもシュールに思えてきてしまう。

「あの穀潰しども……馬鹿やるよりもアタシを助けるのが先だろうに。帰ったら制裁だねェ」

 手錠で拘束されて尚、亜巳の目は嗜虐的に輝いていた。まだ解放した訳でもないのに、お仕置きメニューの内容を思案して悦に浸っているようだ。

 真のサディストというものはいかなる状況であれドS心を忘れないらしい。ふっ、また下らぬ知識を付けてしまった。

「なァ、アンタ」

「ん?貴様は――何者だ?此処に至るまで俺の眼を掻い潜るとは見事な陰行、褒めてやろう」

「まるっと存在ごと忘れてんじゃねェぞクソが、前田啓次だ!」

「……?」

「本気で不思議そうな顔してんじゃねェ!オレは、あー、そうだ、夕方に親不孝通りでアンタにケンカ売った――」

 俺は必死で頭を捻る。そう言われてみれば、チャラい金髪と大量のピアスには薄っすらと見覚えがあるような気がしてきた。

「ふん、思い出した。俺に手も足も出ず無様に敗北し。竜兵には見るも無残な姿になるまで殴られた雑魚だったな。得心がいったぞ」

「えらく不本意な思い出し方をされた気がするぜ……まァそれは置いといてだ。アンタには一応、礼を言っとこうと思ってよ」

「何だい、シンに殴り倒されて踏みつけられたのがそんなに嬉しかったのかい?
フフ、活きの良さそうな豚じゃないか、アタシにも踏まれてみる?今なら特別にサービスしてやるよ」

「人質のクセに横から出てきて話をややこしくすんじゃねェよ!……それでだ。まあアンタに礼を言うのも筋違いかもしれねェけどよ、オレはまだくたばらずに済んでる」

「……」

「それはつまり、まだまだ上を目指して足掻けるってコトだ。夕方にも言ったが、オレはこんな所で終わるつもりはねェ、必ずアンタと同じステージに立ってやる。だからよォ」

 チャラい外見に似合わず、凛々しいとさえ形容できる表情で真っ直ぐにこちらを見据え、啓次は言葉を続けた。

「忘れんなよ。オレの名前は前田啓次。前田啓次だぞ、絶対に忘れんなよ!絶対だぞ!」

 思わず何かのネタフリかと疑ってしまいそうなほど執拗に念を押しながら、啓次は工場の外へと歩き去っていく。

 全身は隈なくボロボロで足取りはフラフラ、今にも倒れそうな程に危なっかしい姿だったが。

 その背中は間違いなく、勝者の誇りと力強さに満ちていた。

「ヒヒ、青春ってのはイイねぇ。俺にもあんな頃があったぜ」

「それは無いだろう」

 唐突に思い出を捏造し始めた釈迦堂に冷たいツッコミを入れる。

 実際に釈迦堂の青春時代を知っている訳ではないが、この男が主人公の如く熱血している姿など有り得ない。

 こいつは間違いなく高校生の時点で非道な悪役ポジションだっただろう。

 となると主人公は同期の現川神院師範代、ルー・イーか。なるほど、誂えたかのようにピッタリな配役だ。

「青春かぁ。ルーの奴は主人公気質だったけどよ、ありゃ違うな。だってヒロインいねぇし」

 奇しくも似たような事を考えていたのか、釈迦堂が客観的に見て意味不明な呟きを漏らした。

 同類だと思われるのは癪なので、同調はしない。ついでにルー先生に同情はしない。

「んで、ヒロインと言えば……そこで幸せそうにぶっ倒れてる蘭はどうよ。俺の知ってる限りじゃある意味、辰よりヒデェ暴走癖を抱えてたが、ちったぁ改善したのかよ?」

 ヒロインと蘭の繋がりがまるで見えてこない、文脈を徹底的に無視した内容だったが、他でもない元・師匠の質問だ。俺は生真面目にも答えてやる事にした。

「この莫迦従者が倒れている理由。辰との戦闘で“気”を過剰に消費したのが、その一つだ。それで理解出来るだろう」

「なるほど、本格的に重症だわな。向こう十年も治そうと頑張って、それでも治らないってのは、そりゃもうトラウマってレベルじゃねえ。まるで――呪いじゃねえかよ」

「……」

 俺は、足元でむにゃむにゃと何やら寝言を呟いている従者を、黙って見下ろす。

 返り血を浴びた顔はだらしなく緩んで、見ているこちらに伝染しそうな程に幸せそうだ。

 心中ではあれほど人を斬る事を嫌がっている癖に、俺が適当な一言で褒めてやっただけで、こんなにも幸せそうに笑っている。

 どれほど辛くても、それだけで笑えてしまう。

「俺とルーの青春にヒロインがいなかったのはよ、何も俺達がモテないダメンズだったからじゃねえんだぜ。その辺りを踏まえて若人に忠告しといてやるよ。熱血に燃えるも良し、冷血に徹するも良し、ただ、ヒロイン一人救えねぇようなヘタレ主人公にゃなるな」

「……」

「ヒヒ。らしくないこと言っちまったか?まぁでも、ダークな過去を匂わせる今の俺は間違いなくカッチョイイから良しとするぜ」

 釈迦堂はいつも通りの薄ら笑いを貼り付けて言うと、おもむろに人質二名――忠勝と巨人の襟首を掴み、床をスライドさせるようにして、こちらへと放って寄越した。

 身体のツボでも突かれているのか、乱暴に扱われても二人が目を覚ます様子はない。間近で彼らの無事を改めて確認してから、俺は釈迦堂を睨んだ。

「ふん。一方的に人質を解放していいのか?亜巳は未だ、俺の手中にあると云うのに」

「そういう駆け引きは苦手なんだよ、面倒くせえから。大体お前、もうお互い手を引くってマロードと約束してるじゃねえかよ。織田信長には情けも容赦もねえが、約束を守るだけの誇りはある。それくらいは俺にも分かるぜ」

「……」

 全く、マロードといい釈迦堂といい、見透かしたような事ばかり言ってくれる。何より腹立たしいのは、それが何一つ間違っていない点だった。

 正しく真実を突く言葉ほど対処し難いものはない。俺のように虚飾を虚飾で塗り固めた人間にとっては、尚更だ。

 俺は心中にて何度目かの溜息を吐き出すと、コートのポケットから取り出した鍵を使って亜巳を解放してやった。

「あぁやれやれ、やっと自由に動けるよ。こんな窮屈なモンを進んで身に着けて喜んでる豚どもは理解に苦しむねェ、全く」

 一応警戒は怠らなかったが、さすがに今更暴れるつもりはないらしく、亜巳はその場で大きく伸びをしてから、得物を拾って大人しく妹弟達の下へと歩み寄る。

「さーて」

 そして、素敵に妖艶な笑顔と青筋を同時に浮かべながら、愛用の棒をぶん回したのであった。

「アタシを放置して遊んでんじゃないよ、このクソ虫阿呆どもが!!」


 ――と、綺麗にオチが付いたところで。

 宇佐美代行センターによって持ち込まれた“黒い稲妻”討伐依頼に端を発した今夜の宴は、概ねこれにて幕を閉じる。

 実際にはこの後、唐突に勃発した板垣一家のバトルロワイアルを釈迦堂と並んで見物したり。
 
 気を失った男性二人と女性一人分の身体を然るべきところに搬送するために四苦八苦したり。
 
 我が新たなる臣下であるところの明智音子を色々と尋問したり。

 そんな感じの多種多様な後片付けが舞台裏で繰り広げられるのだが、それらの出来事を延々と語ったところで蛇足というものだろう。

 本人の言う通り、実質的にこの舞台の幕を引いたのは間違いなくマロードだが、それを素直に認めてやるのも腹立たしい限りなので、せめてカーテンコールは俺こと織田信長に飾らせて貰おう。


―――今宵の舞台は、これにて閉幕!















~おまけの川神院~


「ハックショーイ!」

「あれ、ルー師範代。どうしたの?師範代がカゼ引くなんて珍しいね」

「いや、体調管理はバッチリなはずだヨ。これは……誰カがワタシの噂をしてルのかもしれないネ」

「あはは、そんなベタベタな」

「まあそれは無いじゃろ、ルー。お前はわしみたいにモテんからの」

「ワタシは武道一筋デスのでモテなくても結構。カゼを引かなかったなら万事OKネ」

「だからモテないんじゃないか?」

「お、お姉さまぁ!ホントのことをさらっと言っちゃダメだって!」













 マロードの口調がどうにも上手く掴めず、意外なところで苦労した回でした。
 原作だとボイスが入っているのでイメージが掴み易いのですが、それを文章のみで表現するのはなかなか難しい……。
 声優の方々の演じ分けの偉大さを改めて実感しましたとさ。

P.S.今回で話の展開的にも一区切りが付きましたので、次話あたりでチラ裏からその他板に移動しようかと考えています。
 それに併せてタイトルも変更するつもりですので、その他板に見慣れないまじこいSSが増えていたら是非とも覗いてやってください。それでは次回の更新で。



[13860] 祭りの後の日曜日
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:f283be69
Date: 2011/02/07 03:16
「主、主主主主主主あるじあるじあるじあ~る~じぃ~!!」
 
 俺に四月十一日の朝の到来を告げたのは、我が従者のパニクりにパニクった叫び声であった。
 
 次いで襲い掛かってきたのは、脳味噌を前後左右にシェイクされる極悪な感覚。普段ならばゆさゆさと優しいリズムで身体を揺らし、快適な目覚めを提供してくれる蘭の起こし方であるが、仮にその速度が通常の三倍を超えていればどうなるか――答えは明瞭。

 このままでは殺される。今すぐ起きるべきだ。かつて多くの修羅場を掻い潜る中で身に付けた直感に従い、俺は一瞬で意識を覚醒させ、瞼をこじ開ける。

「……っ!?」

 近い。近過ぎる。蘭の見慣れ過ぎて今更なんの感想も湧いてこない顔が、しかしドアップで目の前に迫っていた。常日頃より平常心を保つよう心掛けている俺だが、さすがにこの瞬間はハートのビートが止まらない。

 お互いの吐息がダイレクトに伝わる距離。互いの唇はなんと数センチほどしか離れていないのだ。もしも今この瞬間に地震でも起きようものなら、ズキュゥゥゥゥン、とかいうなんだか良く分からない効果音が盛大に鳴り響くのは疑いなかった。

「あ、お、お早う御座います!信長さま、本日はお日柄も良く!ええと、今すぐ朝餉をご用意―――って、そうじゃありませんっ!」

「!!」

 そんな危機的状況から更に、ズズイ、と顔を前に突き出すというまさしく戦慄の所業をやらかす我が従者に対して、俺は反射的にベッド上にて全力のサイドローリングを敢行していた。

 結果として俺と蘭は互いに色々なものを失わずに済んだ。その代償に俺は布団の簀巻きになりながらアパートのボロ壁に顔面を強打し、無表情で悶える羽目になったのだが。

「あああぁあ、主、主、主!ご無事ですか、信長さまぁ!」

「くく……、我が生涯に一片の悔いなし――」

「信長さま?信長さまああああっ!!」

「……朝っぱらからテンション高いなぁ」

 近所迷惑な悲鳴が木霊する中、至極ごもっともなツッコミが入った。これまでの俺と蘭の主従生活に、絶対的に不足していたもの――常識的なツッコミ。

 いつの間にやら寝巻き姿の小柄な少女、ねねが呆れた顔で部屋の入口に立っていた。朝にはそれほど強くないらしく、薄茶色の目は半ば閉じられ、眠たげに垂れ下がっている。寝起きは全力でテンションが下がるタイプなのだろう、ねねは恐ろしいほど醒めた目で蘭を見遣りながら口を開く。

「あのさ。この辻斬り娘、いつもこんな調子なの?ご主人」

「つ、辻斬ッ!?」

「生憎と、な」

「何ともそれは残念だね。腹心の部下がこんなのじゃあさぞかし苦労したんだろうな……お労わしやマイマスター。でもこれからは頭脳明晰にして容姿端麗、品行方正且つ質実剛健な非の打ち所の無いパーフェクト従者のボクが抜かりなく支えてあげるから安心してね」

「なっ!なっ!なっ!なにを言ってるんですかあなたはっ!そもそも主と私だけのこの住まいに何の権利があって」

「ああキミはもうクビでいいよ、今までご苦労様。短い付き合いだったけど元気でね」

「なっ、なななななななぁ!?主、あるじぃ~!愚かな従者をお助けください主ぃ」

 俺は未来からきた便利すぎるネコ型ロボットか、立場が逆だろ常識的に考えて、などと心中で冴えないツッコミを入れながら、のっそりと布団から身体を起こす。全く、こうも騒がしくては睡眠どころではない。二人して主の安眠を妨げるとは、こいつらには正しい従者としての自覚が足りていないのではなかろうか。

 まあ取り敢えずこの騒ぎのおかげで、寝起きでボケた頭でも大体の状況は理解できた。

 ぎゃあぎゃあと無意味にやかましい蘭はひとまず放置して、俺は洗面所へ向かう。意識がはっきりするまで冷水でじっくり顔を洗い、安さの一点を以ってセレクトした低脂肪牛乳で喉を潤し、無駄に綺麗なトイレで用を足してから再び居間に戻る。

「……」

 するとそこには、磨き上げられたフローリングの隅っこにて体育座りでいじけている我が従者第一号の姿があった。下手人と思われる従者第二号は犯行を隠す気もないのか、無い胸を堂々と張って虚しい勝利に酔っている。

「うぅ、主。蘭は用済みの役立たずで、もはや犬に食わせる価値もない産業廃棄物なのでしょうか」

 上目遣いで哀れっぽく訴えかけてくる蘭は既に涙目であった。完全に心を折られた負け犬の目である。俺が居間から離れた僅か数分の間で、果たしてどれほどの毒舌を浴びせ掛けられたのか。戦慄しながら、仁王立ち+ドヤ顔で勝ち誇るちみっこい少女に視線を移す。

「ネコ。この莫迦を虐めるのは構わんが、俺の眠りを妨げる事は何人たりとも許さん」

「ボクだってご主人に迷惑掛けるつもりなんてなかったよ。そろそろそこのダメ従者が目を覚ますかな、と思ってわざわざ部屋まで挨拶に行っただけなのに、ボクの顔を見るなりいきなり騒ぎ出すんだもん。困っちゃうよ」

「うう。だって、だってぇ」

 心に負ったダメージは想像以上に深刻らしく、蘭には些か幼児退行の症状までもが見受けられた。明智ねね……恐ろしい子!

「ふん。俺の従者を名乗る以上、一を聞いて十を悟る程度の聡明さが欲しいところだがな」

「ううううう、蘭は不甲斐ない従者です……ずびびー」

「元よりお前に然様なものは期待しておらん。俺が求めるのは朝餉の用意である。己が至らなさを嘆く前に為すべき事を為せ。それこそ、俺が一の従者たる者の務めよ」

「……っ!は、ははーっ!」

 “一の従者”を強調して言ってやると、蘭は見る見る内に表情を輝かせた。先程までの陰鬱なオーラは地平線の彼方へと吹き飛び、にへら、と締りのない笑顔が浮かぶ。

 目論見通りの効果とは言え、こうも単純で大丈夫なのだろうかコイツは。色々と心配になってきた。

「蘭は了解致しました!主には最高の朝餉を献上させて頂きますので暫しのご猶予を!」

「うむ」

「……」

 暑苦しく叫びながら勢い良く立ち上がり、疾風の如き俊敏さでキッチンへと駆け込んで行く蘭の姿を、ねねは呆然とした様子で見送っていた。まあ見慣れていない人間ならば当然の反応だろう。何度でも繰り返すが、森谷蘭は紛うことなき真性の変人である。

「ネコ」

 今まさに地球外生命体を目撃した瞬間のように、ポカンと口を開けて突っ立っているねねに、俺は無表情で淡々と声を掛けた。

「従者同士。仲良くせよ」

「どうしてこのタイミングで言うかな!はぁぁ、何だか勢いでブラック企業に入社しちゃった新入社員の気分だよ……」

「くく、なに、ならばまだ遅くはない。四肢を縛って板垣一家に贈呈してやれば、天と亜巳はさぞかし喜ぶだろう」

「アッハハハハやだなぁボクはご主人の忠実な臣下だよ!武蔵坊弁慶も関雲長もボクの純粋無垢な忠義心の前には霞んじゃうと断言しちゃうね。具体的に数値化すると赤穂浪士全員の合計値分くらいにはなるんじゃないかなぁうん」

 空々しく目を泳がせるねねの言葉には、説得力という要素が絶望的に足りていなかった。俺が黙したまま醒めた視線を送ると、額に冷や汗を浮かべて露骨に話題の転換を図る。なんとも小賢しい奴である。

「ところでご主人。昨夜は聞きそびれたんだけど、このアパートって他に誰か住んでないの?朝っぱらからこれだけ騒いでたら文句の一つも来そうなものだけど」

「ふん。入居した頃には結構な数が住んでいたな……数ヶ月と経たぬ内に全員が消えたが。今にして思えば、何とも摩訶不思議よ」

 文句を付けてくる輩が現れる度に殺気を放って黙らせたり、夜討ち朝駆けを仕掛けてくる敵対勢力を殺気全開で追い払ったりしながら平穏無事に暮らしていただけなのだが。

「それを不思議と言い張るのは、世の中の不思議に対して失礼だと思うんだよボクは。まあご主人の存在を抜いたとしても、ボクは出来ればこんなボロアパートで寝起きしたくないけどね。掃除が行き届いてて汚くはないだけマシだけどさ」

 蜘蛛の巣状にヒビの入ったリビングの壁面を嫌そうに見遣りながら、ねねはぼやく。

 昨晩の尋問で聞き出したところによると、意外なことに我が従者二号は結構な名家の出身で、正真正銘のお嬢様らしい。どう考えても不良グループのリーダーとは結び付かない経歴だが、それに関しては実際に裏も取ってあるので、疑う余地の無い事実だ。

 そんな訳で、貧乏暮らしに慣れ切った俺や蘭にとってはまるで気にならないこの老朽化具合も、ねねの肥えた目からしてみれば耐え難いものがあるのだろう。

「が、しかし。分かっているな?」

「はいはい、拒否権やら選択肢なんて上等なモノ、ボクにはございませんよねー。どうせ三月から借りてたマンションはもう割れちゃってるし、あっちじゃ今はまだ物騒でおちおち寝てられやしないよ。少なくとも当分の間は、我慢してここでお世話になるしかないね。う~ん、そうなると身支度品だけでも早いとこ持ち込まないと……他にも小説とか漫画とか……そうなると本棚も……クローゼット……部屋に合わせて小さいサイズのやつを……ホームセンターは……」

 俯いて何やらぶつぶつと呟きながら、ねねは覚束ない足取りで俺の部屋から去っていった。自室(蘭の隣の部屋を無断借用中)へと着替えに戻ったのだろうが、あの様子だとそのまま二度寝へと移行しかねない。

 どうもこれからは蘭の朝の仕事は二倍に増えそうである。主に目覚まし的な意味で。



「主!不肖森谷蘭、全身全霊を込めて朝餉をご用意致しました!どうぞご賞味下さいませ!」

「うむ。苦しゅうない」

 現在時刻は午前十時。朝食の時間としては早いとは言えないが、俺も蘭もねねも揃って昨晩のあれこれで大いに消耗していたのだから仕方が無い。普段ならば日も昇らない内に活動を始める蘭ですら、目を覚ましたのは九時過ぎだったとの事。やはり昨晩の戦闘で“気”を使い過ぎたのが原因だろう。

 それにしても、今日が日曜日で良かった。もしこれが平日なら、織田信長は転入一週間目にして授業をサボった不良学生のレッテルを貼られる所だ。俺の評判が少しばかり悪くなったところで今更ではあるが、しかしだからと言って無駄に“S落ち”の危険性を高める必要もあるまい。

「えーと、ねねさん、でしたっけ。その……どうぞ」

「うん?なんだ、ボクの分も作ってくれたの?」

「私はまだ事情を良く分かっていませんけど。この“家”の食事当番は私ですから。主に認められてここにいる人なら、それが誰であれ、おもてなしするのが私の役目です」

「ふぅん。まあちょうどお腹は減ってたし、食べさせてくれるのは素直にありがたいね」

 クールな口調で返しながらも、ねねはテーブルの上に並べられた品々の観察に余念がない。俺の勘が正しければ、彼女の注意を惹き付けて止まないのは、小皿に鎮座するサバの味噌煮ではなかろうか。いや、我ながら偏見だとは思うが、何と言うかキャラクター的に。

 そして、朝食の時間が始まる。

「ハムッ、ハフハフ――ハフッ!!」

「……」

「……」
 
 食事が始まって数秒が経過した時点で、俺も蘭も思わず箸を止めて沈黙を選択していた。明智ねねという少女の食べっぷりの豪快さには、俺達を否応なく黙らせる何かがあった。

 取り敢えず間違いなく言えるのは、そこにはお嬢様としての品性など欠片も感じられない、と言う事だ。味噌サバにかぶりつき、白米を掻き込み、漬物を噛み砕く。経歴詐称を改めて疑いたくなる姿である。ナイフとフォークは上手に扱えても箸は使えないとでも言い出すのだろうか、この小娘は。

「ぱくぱく、ふーん。むしゃむしゃ、へー。ごっくん、ほー」

「あ、あの……お味はどうですか?タッちゃ……主のご友人と、主には恐れ多くもご好評を頂いていますけど、それ以外の方にはほとんどお出しした事がありませんから、もしお口に合わなかったなら、その」

「素晴らしい。これぞまさしく、ボクの求めていたプリ旨だよ」

「え、プリ……え?」

「サバの味噌煮がプリップリで、箸で持つとトゥルン!と震えて味噌が滴る。それにかぶりついてウマッ!!そんな幸せが―――プリ旨」

「は、はぁ。ありがとうございます」

 箸を置き、神妙な顔で謎の語りを始めたねねに、蘭はかなり微妙な表情で言葉を返した。なんだろうこの人が言ってる意味はぜんぜん分からないけどたぶん褒められているみたいから取り敢えずお礼は言っておこう、という内心がとても良く伝わってくる態度だった。

「うんうん、ご飯はふっくら柔らかホカホカで抜群の炊き上がりだし、この漬物も絶妙に味が染みてて、これだけでご飯三杯はいけるね。いやホントもうウチの料理人に欲しいくらいだよ」

「満足頂けたようで、嬉しいです」

 今度は分かりやすい褒め言葉で安心したのか、蘭はホッとしたように笑顔を浮かべる。

 建前ではなく、本当に嬉しそうな表情だった。昔も今も変わらず交友範囲がとんでもなく狭い蘭は、何と言っても他人に褒められる事に慣れていないのだ。俺にしてみればこいつの家事スキルは誰からも評価されて然るべきものだと思うのだが、当人はいまいち自信を持てないでいるらしい。

 その後もねねは良家の子女にあるまじき健啖家っぷりを存分に発揮し、宣言通りご飯のお代わりを三回要求した上でそれら全てをあっさりと平らげてみせた。俺としては食事中の時間をねねについての説明にあてるつもりでいたのだが、目の前で前触れなく繰り広げられた衝撃映像のお陰でそんな思惑も気付けば忘れ去っていた。

「……ん?」

 そうこうしている内に俺の携帯電話が着信を告げる。

 相手を確認して、数秒ほど通話ボタンを押すべきかどうか真剣に逡巡して、そして結局は電話越しに少しばかり大人気ない罵声を飛ばし合ってから、俺は席を立った。

 意図しない呼び出しにしては良いタイミングだ。所詮は偶然以外の何でもないだろうが、奴にしては珍しく空気を読んだ行動である。

 その意図はいまいち、計りかねているのだが。

「主、どちらへ?」

「誘いがあった。それと……宇佐美巨人に、先の一件の報酬について釘を差しに行く必要があろう」

「ならば私も供を――」

「不要だ。一日の暇を与える。“気”を休めるがいい」

「……ははっ、確かに承りました。明日よりの務めに障らぬよう、蘭は全霊を持って休養を取らせて頂きます!」

「全霊て。気を休めろって聞こえたんだけど、ボクの気の所為なのかなぁ」

「夜には戻る。夕餉の支度をしておけ」

「ははー!行ってらっしゃいませ、蘭は主の御武運をお祈り申し上げております!」

 ねねの醒めたツッコミと蘭の暑苦しい叫びによる見送りを背中に受けながら、クローゼット内の適当なコートを引っ掛けて、俺はさっさとアパートを出立した。

 川神駅へと続く通りを悠然と歩きながら、俺は残してきた二人の従者について思案する。

 昨晩の内に消費した“気”及び精神力の量が相当なもので、回復のためには丸一日の休養を要する――別に嘘ではない。紛れもない事実だ。少なくとも蘭を置いてきた理由の一つは、間違いなくそれだった。

 しかし、この場合においてより優先度、重要度の高い理由があるとすれば、それは。

「まあ、本人の前では話しにくい事もある……か。さて、どう転ぶかね」

 周囲の誰にも聞こえないように口の中で呟いて、俺は待ち合わせ場所へと足を速めた。

 



 


「ふう、ご馳走様。期待してたより遥かに美味しかったよ。やるじゃん」

「お粗末様でした。我が主にご満足頂けるよう毎日研鑽を積んでいますから、その成果が顕れてくれたのかもしれないですね」

「あーはいはい、ご馳走様」

「?どうして二回も……」

「気にしない気にしない。細かい事を気にするのは悪い事じゃあないけどさ、それはあくまで自分の理解が及ぶ範疇に限られるよね、うん。どうせ幾ら考えたって分からないものは永久に分からないんだから、限りある時間をドブに捨てるようなものだよ」

「…??」

「あはは、今まさにキミは時間をドブに捨ててるね。―――まぁそんなことはともかくさ、そろそろボク達は互いに自己紹介の一つくらいしておくべきだと思うんだけど、どうかな」

 そんな遣り取りが最初にあってから――まずは森谷蘭と明智音子が改めて名乗りを交わす。

 そして織田信長がねねを直属の臣下として迎え入れるに到った経緯と、その背景に存在する色々な事情をねねが語った。

 マロードとの因縁。これからの身の振り方。そういった諸々の説明に対し、蘭は一切口を挟まず、ただ静かに耳を傾ける。その間、朝食前の騒ぎ方が嘘だったかのように落ち着いた、しかし何処かしら冷たさを宿した瞳がねねを射抜いていた。

 まるでこれまでの態度こそが演技だったとでも言わんばかりの、雰囲気の変貌。

 やがてねねが全てを語り終えると、蘭は姿勢を正して真っ直ぐに彼女の目を見つめ、淡々とした調子で問い掛ける。

「ねねさん。貴女には、大切なものがありますか?」







「おっせーぞ!待ちくたびれたじゃねーか」

 付近に位置する駅の中でも特に図抜けた敷地面積を有する川神駅、その駅前広場の一角。電話で指定された待ち合わせ場所には既に先客がいた。

 小さな時計塔に背中を預けてこちらを睨んでいるのは、鮮やかな橙色のツインテールが目を惹く少女。やや幼いながらも整った顔立ちとスリムな肢体はどうしても異性を惹き付けるのか、時計塔の傍を通り過ぎる男連中の何割かを振り返らせている。

 やはり外面からは性格の悪さまでは分からないもんだな、と痛いほど実感する瞬間である。

「よっ!半日ぶりってトコか?へへっ」

 先程の不機嫌さはポーズだったのか、俺が歩み寄るとニカッと笑って、屈託ない調子で声を掛けてくる。

「ふん。昨日の今日で俺を呼び出すとは。お前がそこまで度胸のある人間だとは思っていなかったがな、天」

「いやいや、それはウチを甘く見てるぜーシン。クリハンのデータ見てみりゃ分かるぞ、勇気の証が個数カンストしてるもんね」

 俺の殺気混じりの挨拶を軽く受け流してニヤニヤ笑う。そんな少女がまともな感性を持った一般人である訳もなく、板垣一家の末の妹、悪名高き板垣天使とはこいつの事である。

 直接的にやり合った訳ではないとは言え、半日前に殺し合いを演じた相手を平然とデートに誘えるあたり、その精神構造はもはや俺のような凡人が理解できる範囲を超えている。改めて言うまでもなく、異常だ。

「なあ、最初はどこ行く?実はまだ決めてねーんだよなー、ウチとしちゃゲーファンかGAPSの二択なんだけどさ――」

 ……全く以って本当に、理解に苦しむ。幾ら何でも、許容し難い。

「良くも俺の眼前に顔を出せたな、天。それも独り、か」

「……え?」

 俺の発する声音は意図せずとも自然に暗く、冷たくなっていた。街中の明るい賑やかさが瞬く間に遠のいていく。

 天は戸惑ったように人懐っこい笑顔を消して、俺の顔を見つめた。

「単刀直入に訊くが――この俺を、舐めているのか?」

 苦々しく吐き捨てると同時に、日常生活用にセーブしていた殺気を、開放する。ギシリ、と音を立てて空気が歪んだ。本能的に危険を察知しているのか、通行人は悠長に見た目麗しい少女を振り返る事などせず、俺と天の周りを避けるようにして足早に歩き去っていく。駅前公園の巨大な雑踏の中に、ぽっかりと異質な空白地帯が出来上がっていた。

 そんな中で、俺は冷徹な殺気を込めた視線を眼前の相手に浴びせ掛ける。

 対する天は凍えたように身体を震わせながら、どこか怒ったような顔で口を開いた。

「んだよ、ウチはただ……いつもみてーにシンと遊びたかっただけで……、別に舐めるとか舐めねーとか、関係ねーじゃんか」

「関係が無い?ふん、莫迦を言うな。お前は自分の意思で俺に敵対した。生憎、俺は“敵”に容赦するような甘さは持ち合わせていない。昨晩は互いに退いたとは言え、俺と板垣が敵対している事実は消えん。……天。俺が呑気にも集団を離れ、一人現れた“敵”を見逃すと本気で思うなら、それこそが。お前が、俺を舐めている証拠」

「あーもうウゼェな!敵敵敵敵敵って、ウチは別にそんなつもりじゃねーっての!久々にシンと戦ってみたかったから!いつまでも昔みてーに弱っちいウチじゃないって、シンに思い知らせてやりたかっただけで……だから、そんなつもりじゃ」

 言葉の勢いは徐々に萎んでいき、ついには俯いて黙り込んだ。顔色はショックを受けたように青白く、両手をきつく握り込んでいる。

 普段は絶対に見せることのない、まるで傷付いた乙女のような天の姿を見て、俺は唐突に理解した。

 ああ、こいつは本当に分かっていなかったのだ、と。

 俺と、織田信長と敵対する。その行為が保有する意味を正しく知る事なく、故に覚悟を固める事もなく、ただ単純に竜兵やマロードに同調して、普段と同じように気侭に動いただけなのだ。俺に喧嘩を吹っ掛けたのも、天にしてみればいつかのじゃれ合いの延長のようなもの、程度に思っていたのかもしれない。敵対しているという意識が皆無だからこそ、俺の怒りの理由を理解することが出来なかった。

 そして今、俺との関係を自らの手で修復不可能な形まで壊してしまった事に気付いて――その現実にショックを受けている。

 俺から向けられる殺意に傷付き怯え、震えている。

 その事実を悟った瞬間、猛烈な自己嫌悪が俺を襲った。

 俺は何をしている?ただいつも通りに二人で遊びに繰り出す休日を楽しみに、それこそ待ち合わせ時間よりも早く着いて相手を待ってしまうくらい楽しみにしていた、そんなどこにでもいるような少女の在り方を……異常だと、理解できないと切り捨てて、寄せられる好意に対してはあろうことか殺意を向けた。天には恐らく敵意も悪意も、勿論殺意もなかったと言うのに。

 そんな俺の姿こそが、異常者そのものでなくて何だと言うのだろう。先程からの態度は虚像などではなく、俺は本心から言葉を連ねていた。

 あまりにも裏の社会・暴力の世界に染まり過ぎて、俺自身が獣に堕ちようとしていたのか。長年を掛けて創り上げた“織田信長”という強大過ぎる仮面に、本来の俺が乗っ取られる所だった。

 冷酷非道、傲岸不遜、唯我独尊……そんなご大層な属性は、本当の俺には分不相応な代物の筈なのに、何を取り違えていた?

「……」

 戦慄に背筋が凍るような感覚を味わいながら、俺は目の前の少女を見つめた。

 殺気は既に収めているにも関わらず、天は俯いたまま、込み上げてくる何かに耐えるように唇を噛み締めている。

 こういう状況は正直に言って苦手も苦手なのだが、文句を言える立場でもない。無駄にややこしくなってしまった事態を収拾すべく、俺は行動を開始した。

「ふん。泣き虫は何時までも治らんな、天」

「うっせー……誰が泣いてんだ、適当言ってんじゃねー。ウチが泣くのは深夜にホラーゲーやる時とタマネギぶった切る時だけなんだよ」

「くく、初めて会った時の記憶は都合よく抹消されていると見える。亜巳の背後に隠れてベソを掻いていた分際で」

「別に、忘れた訳じゃねーんだけどな……大体よー、ガキの頃なんざ誰でも泣くもんだろ、ノーカンだノーカン」

「全く、現世は惰弱な連中で溢れている。俺は涙を流した記憶など、一つとして無いがな」

「そりゃシンは例外だろーよ。ってかてめーが泣いてるとこ想像したらなんか怖くなってきやがったぜおい。それなんてホラーゲー?」

「ふん。心配するまでもなく、生涯目にする機会はないと断言してやろう」

「………」

 何かを疑うような表情でこちらを窺いながら、天はついに黙り込んだ。俺の態度が示す意味を図りかねているのだろう。先程まで殺気立っていた相手が、何事も無かったかの如く普通に接してきたのだ。当惑は当然か。

「さて、斯様な場所で時間を浪費するは愚行の極み。……往くぞ、天」

 感情を排した声音でさらりと言い放ち、さっさと背中を向けて悠然と歩き出す。

 一歩、二歩、三歩。一秒、二秒、三秒。返事はない。

 肩越しに振り返ってみれば、驚いたように目を丸くしている天の姿が視界に映る。俺と目が合うと、慌ててそっぽを向きながら、拗ねたような調子で口を開いた。

「んだよ、ウチは敵なんだろ。フツー敵とはゲーセンなんて行かないんじゃねーのかよ」

「然り。だが、問題は何も無かろう」

 普段以上に子供っぽく見える天の態度に、内心で笑みを漏らす。

 考えてみれば、この意地っ張りな妹分を相手にこういう甘っちょろい遣り取りを交わすのも、随分と久し振りな気がする。

 不意に脳裏に蘇る子供の頃の情景を懐かしみながら、俺は到って平然とした調子で言葉を投げ返した。

「くく。俺にとっては―――所詮。お前など、敵ではないが故」





「大切なもの?」

「ええ、そう……大切なものです。自らの身を投げ打ってでも守りたいものが。或いはそれ以外の全てを失ってでも捨てたくないものが、何か一つでもありますか?」

「いきなりヘヴィな質問が来るんだね。ほぼ初対面の相手にするような質問じゃないとは思うけど、まあいいや。ボクの一番大切なものは、ボク自身だよ。こればかりは確信を持って言えるね」

「そうですか。素直な方なんですね、貴女は。でも、そんな貴女だからこそ、言わなければなりません」

「やれやれ、一体全体何を言われるのやら。こわいこわい」

「……主の往くは修羅の道。行く先に光明など何一つ見えない、暗闇の旅路です。付き従えば、それはそのまま地獄への道行きとなりましょう」

「……」

「私はそれを恐れません。私の全ては主の為に捧げています。主と共に歩み、主と共に闇へ沈むならば、それは本望。ですが、貴女は違う。……いえ、貴女が何を言おうとも、私と貴女は違います。少なくとも今の時点では、私は貴女を本当の意味での同志と認める訳にはいきません」

「ちょぉーっとあんまりな言い草じゃないかな、それは。ボクの何処に不満があるってのさ」

「あ、いえ、ねねさんに問題があるんじゃなくて、むしろ問題があるとすれば私の方ですね――だからこれは、私の自分勝手な、一方的な通告です」

「通告ね」

「警告、と呼ぶべきかもしれませんね。明智ねねさん。私、森谷蘭は、織田信長が唯一にして忠実なる刃。主の障害を悉く斬り捨て排除するのが、私の使命です。もしも貴女が主の障害となるようであれば、その時は私が貴女を斬り捨てます。此処に到るまで、多くのモノをそうしてきたように。容赦なく、情けもなく」

「昨日までボクの部下だった人たちのように?」

「あの方達は脅威としては力不足。所詮、主の“敵”ではありませんでした。だからこそ、ちょっとした痛みと怪我を負うだけで済んだのです」

「……」

「どうかそれを忘れないで下さい。どうか主の“敵”にならないで下さい。どうか私に貴女を――斬らせないで下さい」







 日曜の午後、その貴重な数時間を二人でゲーセンを巡って存分に浪費したあと、俺は天と別れて一人堀之外の通りを歩いていた。

 夕日が地平線の彼方へと沈み、夜の闇が訪れるまでもう少し。通りの左右の薄汚い建物の群れに、ちらほらとネオンの毒々しい光が灯り始めている。

 堀之外のメイン産業はクスリと風俗だ。そのどちらもこれからの時間帯に盛んな客引きが行われる。俺を煩わせるような命知らずがいるとは思えないが、騒がしいのはあまり好きではない。日が完全に落ちる前に目的地に到着すべく、俺は足を速めた。


「……なるほどな。話を聞く限り、全てはそのマロードって野郎の仕組んだ罠だった訳か」

「“黒い稲妻”を餌にお前らを引きずり出して、板垣の奴らと戦わせる、ね。はぁ、また回りくどいことをしたもんだぜ、ご丁寧に依頼料まで振り込んでよ」

 場所は宇佐美代行センター、事務所。所長用の椅子を限界まで後ろに倒しながら、巨人は呆れたような声を上げた。

 俺はその対面に座り、忠勝はすぐ横の壁に腕を組んでもたれ掛かっている。

 幸い両者ともに大きな怪我やダメージはなかったらしく、今朝には既に復活を果たしていたとの事。極悪無比な釈迦堂のオッサンの事だ、一見して分からないようなえげつない内傷を負わせていたりしていないか心配だったが、この分だと大丈夫だろう。

「しかし分からねぇな。何の為にわざわざそんな真似を?もっと他にやり様はあるだろ」

 難しい表情で忠勝が疑問を呈する。俺は昨晩から思考していた回答を言葉に換えた。

「ふん。状況を指定する為、だろう。常に監視が行き届き、己が望むタイミングでの介入を可能とする戦場。己に都合の良いステージを、奴は作り上げた」

「で、俺達はそこにホイホイ誘い込まれちまった訳かよ。どうにもイヤンな話だなぁオイ」

 こめかみに手を当てながら、疲れたように巨人がぼやいた。普段はしてやられたとしても飄々と流すのがこのオッサンのスタイルだが、しかし今回は結構、参っているらしい。

 それは養子の忠勝も同様で、話している間も終始表情が険しかった。だからこそ、次にこの親子が切り出す内容についても何となく予想はついていた。

「報酬の件だが……折半、と言いたいのは山々なんだが、どうにも今回、俺達は何も出来なかったからな。黒い稲妻の相手も板垣の連中の相手もお前さんと蘭ちゃんに押し付けた挙句、人質なんざになって足を引っ張っちまった。ったく、我ながら情けねぇ限りだぜ」

「こっちにも代行人としてのプライドがあるんだ、こんなザマで金なんて受け取れねえ。代行人が誰かに仕事を丸ごと代行させる、なんて真似が許されるハズがねえ……だから信長、報酬はお前らで受け取れ」

「ふん。殊勝な事だな」

 揃って気難しい顔で言い募る親子を眺めながら、思考する。仮にここで俺が拒否してみたところで、この二人が報酬を懐に入れるようなことは無いだろう。何だかんだで長年の付き合いだ、彼らが自分の仕事に対して誇りを持っている事は知っている。

 結果として俺の懐が潤うならば、無理を言って断る理由もない。故に俺はこの件に関しては口を挟まず、黙って全額を受け取ることにした。

 考えてみれば、そもそもの依頼人の正体がマロードだった以上、この報酬金もまた奴によって振り込まれたものなのだろうが――まあ俺にとってそんな事情はどうでもいい。金は何処から湧こうが金であることに変わりはない。汚かろうが血塗れだろうが関係なく、せいぜい有効に活用させてもらうだけだ。

 それに残念ながら、金の出所などに拘りを持てるほど、俺と蘭の経済事情に余裕はなかった。

 私立川神学園。有名校。当然ながら、学費が安い訳もない。二人分の家賃食費生活費その他諸々。基本的に家計は火の車である。

「しかし、マロードか……どうにもキナくさいな。板垣の連中が絡んでるとなりゃ、単なるクスリの密売人で片付けていい相手じゃねえ」

「ま、お前さんはお前さんで動くだろうが、俺らの方でも調べてみるわ。俺みたいにいい年したオジサンでもよ、やっぱやられっぱなしってのは悔しいもんだぜ」

 珍しくやる気を見せる巨人と、依然として不機嫌そうに眉間に皺を寄せた忠勝。

 両者に見送られて、俺は薄闇色に染まった通りを歩き、帰途に就いた。

 さて、果たして今日の夕餉は何人で囲む事になるだろうな――と残してきた従者共に思いを馳せながら。





「ふふん。ふふふん」

「?どうしたんですか?」

「一つ言わせて貰うけれど、少しキミは調子に乗り易い性格をしてるみたいだね。“斬らせないで下さい”なんてわざわざお願いされるまでもなく、ボクがキミに斬られる事なんて有り得ないさ。例えキミが辻斬り中毒を発症してボクを斬りたくて斬りたくて仕方なくなっても、ボクは余裕で全部避けちゃうもんね」

「……」

「ボクを心配してくれるのはありがたいよ。でもボクを舐めるのは頂けないかな」

「……強い人ですね、貴女は。主がお気に召したのも理解できる気がします。正直に言わせて貰うと、ちょっと、妬けちゃいます」

「ボクとしては割と不本意な立場なんだけどなぁ。――ん?おーい?聞いてる?」

「……?あ、ご、ごめんなさい!私、色々とナマイキな事を!うぅ、いつもそうなんです、主の事になると頭に血が昇っちゃって、自分が自分じゃなくなるみたいで。こんなのっておかしいですよね。気味が悪いですよね。ごめんなさい……」

「確かにね。可笑しいし気味も悪い」

「う、うぅう」

「大いに結構な事だよ。キミみたいな同僚がいると、退屈はしなさそうだし。ボクは何がキライって、退屈よりもキライなものはないね。あれはこの世の害悪だよ」

「え、え?あ、ありがとう……ございます?あ、済みません、そんな風に言って下さった人は初めてで混乱しちゃって」

「そんな訳でさ、キミが何と言おうとボクはここに居座るつもりだから、そのつもりで。キミが刀を振り回してでも泥棒猫を追い払おうってつもりなら、大人しく尻尾を巻いて逃げるけどね」

「いえいえいえ!私はそんなつもりは全然!」

「そうなの?いや~、ボクのキミに対するイメージは辻斬りで定着しちゃってるからさ」

「うぅ……本当の蘭はこれから知ってもらうとして。よろしくお願いしますね、ねねさん。一緒に頑張りましょう!」

「ま、ボクは頑張らないし適当に手を抜くけどねー。これからよろしく、ラン」





 夕日がその姿を隠し、夜の帳がすっかり下りた頃。

 ボロいアパートのボロい自室に戻ってきた俺が目にしたのは、狭っ苦しいキッチンで肩を寄せ合って、ぎゃあぎゃあと喧しく騒ぎ立てながら夕食を用意する二人の姿であった。

 それが良い事か悪い事かの判断は、また後日に先送りするとして。

 取り敢えず、どうやらこれまで以上に賑やかな生活になりそうだ、と俺は思った。










~おまけの織田家~


「あの、主。僭越ながら、お伺いしたき儀が」

「許す。申すが良い」

「ねねさんをネコと呼ぶのは何故の事でしょうか?」

「ふん。何を申すかと思えば。俺の従者でありながら、然様な事も判らぬか」

「も、申し訳ありません信長さま……うぅ、蘭は無知で愚かな臣でございます」

「致し方ない、教えてやるとしよう。蘭、奴の名を正しく思い浮かべてみるがいい」

「?明智音子、です」

「音(ね)+子(こ)ではないか。自明の理よ。得心したか」

「ははー!さすがは我が主、常と変わらず聡明であらせられます!蘭は、蘭は感服致しました!」

「はぁ~。ボク、いつまでここにいればいいんだろう……」












 この度チラシの裏からこちらに引っ越させて頂きました。初見の方は初めまして。
 今回は日常回と言う事で、会話文の割合がかなり多くなりました。後から見直して地の文の少なさに大丈夫かこれ、と不安になったりしましたが、まあこれはこれで雰囲気的に重苦しくせずに済んで悪くない気もします。うーん客観的に自作品を見るのは難しい。
 次回から舞台が学園に戻るという訳で、色々と書きたいキャラを登場させられるのは嬉しいですね。それでは次回の更新で。




[13860] 折れない心、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4775c47
Date: 2011/02/10 15:15
 四月十二日、月曜日。

 転入から約一週間が経過し、堀之外のボロアパートから川神学園への登校にも馴染んできた。それはつまり、通学に要する時間もそろそろ把握が完了したという事であり、そんな訳で俺と蘭の朝は先週と比べて余裕に溢れていた。少しばかり遅めの時間帯にアパートを出立し、悠然たる足取りで歩を進める。

 親不孝通りから川神駅、そして仲見世通りを通過してしばらく歩くと、東京都と神奈川県を挟んで悠々と流れる河川――多馬川の姿が視界に広がる。その河川敷沿いの長閑な風景を眺めながら進む事しばし、次に見えてくるのは対岸へ向けて真っ直ぐに伸びた一際大規模な橋―――多馬大橋である。この橋は歩道と車道を兼ね備え、東京と神奈川の都県境としての役割を果たしている。よって川神学園へ向かう為には必然的に、神奈川在住の学生の多くがこの橋を渡る事になるのだが……クラスメイトの葵冬馬から聞いた所によればこの多馬大橋、近所の住民には妙な異名で呼ばれているそうだ。曰く、川神学園の奇人変人が列を成して歩む魔の通学路。即ち「変態の橋」――と。

「ん?」

「むむ。主、何やら橋の上が騒がしいですね」

 俺と蘭の歩みがその悪名高き変態の橋に差し掛かったタイミングで、事件は起きた。いや、この表現は正確ではないか。実際のところ、俺達が橋の入口に足を踏み入れた時点で既に事件は起きていたのだ。

 多馬大橋の中央付近にて、通学中と思われる川神学園の生徒の群れが何故か足を止め、あたかも歩道を封鎖するかのように人混みを形成している。

 彼らはざわめき声を上げながら揃って前方に目を向けており、その視線の先に足止めの原因があるようだ。人垣が邪魔をして俺の位置からはどうにも様子を窺う事は出来ない。

「ふん。押し通るぞ、蘭」

「ははー!御意にございます、信長さま!」

 一体全体何が起きたのかは知らないが、通学の邪魔をされるのは気に入らない。

 エリートクラス所属の真面目な優等生たる俺に遅刻などという恥を晒させるつもりか低脳どもめ、騒ぐなら騒ぐで場所を考えるべきだなTPOを弁えなければ社会に出てから苦労するぞ全く、などと溜息交じりに思考しながら軽い殺意を発しつつ足を踏み出すと、俺の存在に気付いた生徒達があからさまに怯えつつ道を空けた。中には勢いよく飛び退き過ぎてそのまま多馬川にダイブしている愉快な輩の姿も見受けられたが、ああいう奴は果たして長生きするのだろうか。臆病者ほど長命だと言うが、しかしそこにうっかり属性が追加された場合はその限りでもあるまい――そんな至極どうでもいい事柄に思索を巡らせながら足を進めていると、やがて鬱陶しい人混みを抜けた。

「ぬぬ、何だお前は?この先に行きたいのか?だがしかし、おれの名は“不動”のヤマ!動かざること山の如し!」

「……」

 生徒達が徒歩で渋滞を起こしていた理由が嫌と言うほど理解できた。

 歩道の中心に陣取って周囲を睥睨している筋骨隆々の巨漢が一人、否、一匹でいいか。無駄にデカい、身長二メートルは余裕で超えているだろう。盛り上がった筋肉のお陰で横幅も半端ない。そして褐色の肌を惜しげもなく剥き出しにしたムキムキの上半身が実に目の毒である。

 なるほど、かくも不愉快な物体が道を塞いでいれば思わず足を止めてしまうのも無理はない。こういう類の変質者が頻繁に出没するが故の“変態の橋”なのだろうか。もしそれが事実だとすれば、深く考えるまでもなく嫌過ぎる通学路だった。

「わはは、おれはこの橋が名高き武神・川神百代の通学路だと知っているのだ!奴が来るまで、おれは動かざるごと山の如し!ここを通りたければ――」

「死ぬか?」

「たまには山が動いてもいいよね!」

 もういっそ存在そのものが腹立たしかったので割と本気で殺意を込めて睨むと、変態は冷や汗をダラダラ垂らしながら巨体に似合わぬ機敏なサイドステップを披露してみせた。

 その体捌き一つとっても、有り余る筋肉が決して見かけ倒しのものではなく、相当な鍛錬を積んだ末に得たものだという客観的な事実を窺わせたが……まあしかし俺にとっては欠片も興味のない事だった。この程度の人材ならば、青空闘技場辺りに行けばそれこそ一山幾らで転がっている。

 何はともあれ巨体が塞いでいた歩道が無事に空いたという事で、俺と蘭は悠然と歩みを再開することにした。12ばんどうろ辺りで寝こけている傍迷惑な怪獣を追い払った主人公はまさにこんな気分だっただろう。

「ん?おー、例の転入生二人組じゃないか。狭い日本、そんなに急いでどこへゆく~♪」

 そして全体即死魔法を容赦なく連発してくる凶悪極まりない雑魚敵×4にバックアタックを受けた主人公はまさに、こんな気分だったに違いない。

 朝っぱらからイキイキと活力に満ちた嬉しそうな声を上げて、俺達の背中を後ろから呼び止めたのは、言わずと知れた世界最強、川神学園3-F所属の武神である。

「川神百代か……面倒な」

 正直に言って俺としてはこのまま無視して平和な学園へ向かいたいというのが切実な本音だが、しかしここで下手に挑戦的な態度を取って、喧嘩を売っている(文字通りの意味で)と認識されるのは勘弁願いたいところだ。

 先週の遣り取りにて、今は戦わない、との約束をどうにか取り付けはしたものの、彼女のとんでもない気まぐれさと傍若無人っぷりを良く知っている俺にしてみれば、残念ながらそんな口約束などまるで信用に値しない。

 さてどうしたものか、と対応に悩みながらもとりあえず振り返ってみると、自重しないバディを堂々と突き出しながら歩道の中央に仁王立ちしている百代の姿があった。どいつもこいつも道の中央に居座って人様の邪魔をして楽しいのだろうか。

 彼女の背後のギャラリーからは「キャー!モモせんぱーい」「今日も凛々しくてステキー」などと、主に女子の後輩たちから黄色い歓声が湧いている。どうやら彼女にはファンクラブ的なものが存在しているらしい。

 日本人に生まれた以上はもうちょっと遠慮して謙虚に生きるべきではなかろうか、と次代を担う若者たちの行く末を憂慮していたところ、そんな俺の想いを踏みにじるかの如く、一度は黙らせた筋肉の変態が身の程知らずにも再び自己主張を始めた。

「わははは、この時を待っていたぞ武神・川神百代よ!」

「あーなんだ、私待ちだったのか?こんな場所で誰かと待ち合わせをした覚えはないんだがな。わざとやってるんだか知らないが、お前、さっきから通行のジャマになってるぞ」

「わっははは、承知の上よぉ!おれの名は武田四天王が一人、“不動”のヤマ!動かざること山の如し!川神百代よ、無事に学園へと辿り付きたければこのおれを倒していくがいい!いかに武神と言えど、まさか山を動かす事など出来まいがな!わっはははは」

 この変態の脳内では俺の殺気にビビって素直に道を空けた過去(約十五秒前)は既に無かったことになっているようだった。恐らく頭蓋に詰まった脳味噌まで筋肉で出来ているのだろう、心底から哀れむべき事だ。

 百代も同意見なのか、どこか生温い目で変態を見守りながら、気だるげな調子で口を開いた。

「んん、よーするに挑戦者か。まあそれ自体は歓迎なんだが、ルールは守って貰わないと困るな。私に挑戦するための手段だとしても、周囲の無関係な奴らに迷惑をかけるのはNGだ」

「周りの有象無象など知った事ではないわ。おれはただ、武神と呼ばれた貴様を倒し、己の最強を証明できればそれでよいのだ!」

「そうかそうか、それじゃー遠慮はいらないな。お前がそーいう態度なら、私も変に迷わずにやれるってもんだ」

「さあさあ来るがいい川神百代、動かざること山の―――ごとしっ!?」

 瞬間、空気を切り裂いて閃光が走る。果たして蹴ったのか殴ったのか、それすらも目視できない神速の一撃。それで全てが片付いた。世紀末の断末魔っぽい声を上げると同時に決め台詞を言い切るという無駄に器用な真似をこなしながら、変態は束の間の空中遊泳の旅に出る。そして、十数秒という常識では有り得ない滞空時間を経てからやっと自由落下を始め、巨体に見合った巨大な水柱と着水音を立てて多馬川に沈んでいった。

 一瞬遅れて、「キャー!」という甲高い悲鳴がギャラリーのあちこちから上がる。「モモ先輩カッコイー!」「良く分からないけど無敵っぷりに痺れる憧れるゥー!」等々。勿論、水面に仰向けに浮かんだまま下流へと流され始めた変態を心配している訳ではなく、あくまで百代へと向けられる浮ついた黄色い悲鳴であった。当然といえば当然の話だが、あまりの人気の差に少しばかり可哀相にすら思えてくる。

「なんだ、山の如しなんて言うから期待してたのに、軽い軽い。タンポポの綿毛レベルだ。富士山は絶対にもっと重かったぞ」

 そして、まるで何事も無かったかのようにその場に佇みながら、百代は実につまらなさそうな口調でぼやいた。

 俺が言葉の意味を取り違えていなければ、この先輩は日本最高峰を誇る霊山を動かした経験をお持ちらしい。つまるところ彼女にとって山とは動かざるものではないと言う事か。いやはや、もはや本格的に人間と認めるべきではなさそうなレベルの持ち主である。仮に俺がレベル5だとすれば百代は軽くレベル53万はありそうだ。いや、むしろ無量大数とかその辺りの領域か。

 まあ、と言っても、問題は―――

「やはり私を満足させられる強者なんてそう何人もいるワケがない、か……。あー不完全燃焼だ欲求不満だ、どっかに私と遊んでくれる心優しい後輩はいないかなー」

 例え俺の実際のレベルが「たったの5か、ゴミめ」と言われる程度のものだったとしても、“織田信長”のレベルは川神百代のソレと釣り合っていなければならない。対等、或いは対等以上に渡り合える敵として存在しなければならないのだ。

 言うまでもなく、凄まじく骨の折れる仕事ではあるが――将来的なビジョンを見据えれば、苦労するだけの価値は十二分にあるだろう。「学生時代、世界最強の武神と張り合った」という“事実”が残れば、俺の夢に多大な貢献をしてくれるのは間違いない。

 しかし、具体的にはどうしたものか。露骨にこちらに向けてチラチラと目配せを送ってくる百代にどう対処すべきか、俺は無表情のまま本気で頭を悩ませていた。

「なんだ無視か、織田は相変わらずつれないな。そんなに無愛想だとモテないぞ。……そうだな、じゃあ後ろのカワイコちゃんはどうだ?」

「は、はい!?わわ私ですか!?」

「そうだお前だ、名前は確か……蘭って言うんだよな?ふふふ、私の弟は調べ物が得意なんだ。よってもうすでに転入生情報はバッチリゲット済みなのさ」

「う、うぅう……」

 自分がターゲティングされたのが意外だったのか、蘭はテンパった様子であたふたと慌てまくっていた。先週にグラウンドで会話を交わして以来、蘭の奴はどうも百代に対して結構な苦手意識を抱いているらしい。

 先日の一件の後、「何をどうしたところで私が勝てる未来図が浮かびませんでした」としょんぼりしながら語っていたので、その辺りに苦手意識の一因があるのだろう。どう足掻いても勝てない相手。武を誇りとする人種にはやり辛いものがあるか。

 もっとも俺としてはそんな事よりも、百代が蘭を見つめる際のじっとりねっとり舐めるような熱視線こそが、最大の理由だとは思うのだが。

「ふふふ、さすがに織田ほどではないかもしれないが、お前も相当な腕だろ?あの決闘を見てれば大体の力量は分かる、ウチの院にもお前ほどの使い手は数人といないだろうな」

「あ、お、お褒め頂きありがとうございます。でも私はそんな」

「それに何よりだ……可愛い。ふふっ、可愛いなあ、今すぐお持ち帰りしたいくらいだ。なあ織田、お前の従者、私にくれないか?それはもうじっくり念入りに大事にするぞ」

「ひぃっ」

 実際、今もまさにギラギラした邪な目で蘭の身体を上から下まで眺め回している。対する蘭は全力で怯えてぷるぷる震えながら素早く俺の背後に回り込み、涙目で制服の裾を掴んできた。

 こいつは全く、従者の分際で主君を盾にして隠れようとは……何とも嘆かわしい事だ。

 従者である以前に人間、苦手な相手の一人や二人は居るのが当然かもしれないが、よりによってその対象が織田信長最大の仮想敵でなくてもいいだろうに。

「あ、主ぃ……」

 見捨てられた子犬のような目で俺を見上げる蘭。こんな所でこんな時に何をやっているんだ俺は、と何とも馬鹿馬鹿しい気分に襲われながら、俺は冷めた目を百代に向けた。

「川神百代。お前の非生産的な嗜好に、俺の従者を巻き込むな」

「別にいいだろ、生産性なんて問題じゃない。私と釣り合う男がいないのが悪いんだ。間違ってるのは私じゃない、世界の方だ!」

「如何でも良い。勝手にするが良かろう。俺に関与しない限り、お前の悪趣味な嗜好など元より興味の外よ。……蘭、往くぞ」

「は、ははー!ええ参りましょう主、すぐ参りましょう」

 いつになく早口な蘭の言葉に従う訳でもないが、実際のところ、今はこんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。今日は出立が遅かったので、それほど時間的な余裕がある訳ではないのだ。

 さすがに一回や二回の遅刻でどうこうなるという事でもないだろうが、それも積み重なれば評価に響いてくるだろう。

 塵も積もれば山となる。動かざること山の如し。一度付いたケチは拭う事が出来ないのだ。間に合う状況ならば可能な限りの努力を以って間に合わせるべきである。

 俺は腕時計で現在時刻を確認しながら、ここから川神学園までの道程を脳内に思い浮かべる。そんな俺に、百代は性懲りも無く声を掛けてきた。

「なぁ、織田。本当にちょっとでいいからさ、手合わせしないか?先週、お前に会ってからずっと胸がモヤモヤしてるんだよ。鍛錬していても遊んでいても布団に入っても、気付けばお前が頭に浮かんでくるんだ……あ、言っておくが恋とかじゃないぞ。おねーさんが美人だからってヘンな勘違いはしないように」

「ふん。何やら寝言が聞こえるが、未だ目が覚めていないのか?」

 最後の補足の言葉でギャラリーのあちこちから安堵の溜息が聞こえてきた。

 俺のすぐ真後ろからも周囲と同じような音が聞こえたような気がしないでもないが、まあ取りあえずそこは幻聴と言う事にしておこう。下手に触れると色々と面倒だ。

「まー照れるな拗ねるな。私にここまで想われるなんて幸せ者だぞーお前は、よっ憎いね色男。だからさぁ、少しくらいは私の気持ちに応えてくれてもいいんじゃないか?胸が切なくて苦しくてはち切れそうで狂ってしまいそうだ。これは確かに、“恋とかじゃない”かもしれない――もはや、愛、と言えるかもしれないな?」

 百代が妙に艶めかしい表情で馬鹿げた言葉を言い終えた途端、キャアアアア、と喧しい悲鳴が爆発的な勢いで周囲を埋め尽くす。

 さて先程までのものが黄色い悲鳴だとするなら、この悲鳴は果たしてどう表現すべきだろうか。嫉妬と憎悪で彩られた……ドス黒い悲鳴?いまいちしっくりこないがまぁどうでもいいか。

 俺は、群集にどんな風に思われようが別に構わない。その心中に“恐怖”と“畏敬”の感情が確りと根を張っているなら、それ以外の一切は些事に過ぎない。

 周囲の反応に対して俺は感情も表情も何一つとして動かさず、百代に言葉を返す。

「ふん。成程な。得心した――やはりお前は釈迦堂刑部の弟子だ」

「なっ、お前、釈迦堂さんを知ってるのか!?ちょっと待て、それはどういう」

「蘭。往くぞ」

「ちょ、お前ら」

 さすがに消息不明のかつての師の情報は気に掛かるのか、百代は驚きも露に食いついてきた。

 しかし今の俺はこれ以上の語る言葉を持たない。

 それは高度な戦略的判断に基づく情報の出し惜しみ……などでは全然なく、単純にホームルームの開始時間が迫っているのでゆっくり語っている暇がない――という、ただそれだけの話である。シンプルだが切実な理由だ。

 俺は何やらボケーっとしていた蘭を急かし、何か聞きたそうに食って掛かってくる百代をスルーして、今度こそ振り返らずに“変態の橋”を後にした。












 無事ホームルームに間に合った俺達は、一時間目の数学、二時間目の国語、三時間目の英語を特に波乱もなく乗り切り、現在は昼休み間近の四時間目。

 先週を含めて都合三度目となる歴史の授業を受けている真っ最中なのだが。

「ほほ、マロはまだまだ語り足りぬでおじゃるが、仁明天皇の時代についてはこんなところよ、の。さて次は文徳天皇の代について教えるでおじゃる」

 この歴史教師、平安時代しか教える気がないだろうか。最初の授業の半分で平安時代まで教科書のページが進んだ時にはさすがに唖然とさせられたが、まあ川神鉄心の見込んだ教師だ、何か考えがあるのだろう――とひとまず様子を窺っていた。しかし、それ以降の授業内容はひたすら平安時代に関する講義である。しかも異常に進みが遅い。どう見ても話が脇道に逸れ過ぎていた。結果、明らかに受験に必要のない雑学レベルの知識ばかりが増えていく。

 それでも最初はきっちりノートを取っていたのだが、次第に真面目に聞く気も失せていった。S組の面々もそれは同じらしく、優等生揃いの彼らですらも一様にうんざりした顔を並べている。小雪に至っては既に完全に授業を放り出して、抽象画と思しき何かをノートに書き殴っていた。冬馬は真面目に取り組んでいる振りをしつつ、その実何かしらの内職に励んでいる。熱心に授業を受けているのは、歴史教師(綾野小路家出身)に並ぶ日本三大名家、不死川家のご令嬢くらいのものである。

 白粉を顔面に塗りたくった時代錯誤な外見やら、もはやギャグにしか思えないエセ公家言葉やら、教師として有り得ないキャラの濃さは……まあとりあえず置いておくとしても、授業内容に問題があるのは頂けない。教育者としての務めは果たして欲しいものだ、こちらは苦しい家計から学費を捻り出しているのだから――そんな俺の内心に気付いた訳でもないだろうが、歴史教師は一旦平安語りを止めて、おもむろに俺を指名した。

「織田。麻呂の話を聞いておったかの?」

「ああ」

「では確認を取るでおじゃる、仁明天皇は和風諡号を奉贈された最後の天皇でおじゃるが、その号はなんじゃ?言うてみや!」

「日本根子天璽豊聡慧尊」

「ぬ、正解でおじゃる……確かに聞いておったようじゃの」

 折角正解してやったと言うのに、歴史教師の顔は不本意そうだった。

 どうにも俺は嫌われているらしく、この平安貴族気取りの馬鹿は事あるごとに俺をやり込めようと面倒な質問を吹っ掛けてくる。後ろの席に陣取る我が従者のさりげないサポートが無ければ、どこかで失態を晒していたかもしれない。

「俺からも、質問がある」

「なんじゃ?」

「いつまで平安時代の授業を続ける気なのか、だ」

「ほほ、愚問よの。平安時代こそが至高の文化。麻呂のカリキュラムは平安時代が九、その他の次代は一の割合でおじゃる。そのように覚悟しとく、の」

 駄目だこいつ、早く何とかしないと。口元に扇を当てて笑う歴史教師に絶対零度の視線を送りながら、俺は脳内で計算を巡らせていた。こちらにしてみれば笑って済ませられる問題ではない。俺と蘭は高い学費を払ってまで学校に遊びに来ている訳ではないのだ。俺の不機嫌な内心に応じて殺気が漏れ出たのか、歴史教師は教壇の上でやや顔を引き攣らせながら俺を睨んだ。

「何じゃその目は、麻呂に文句でもあるのかえ?ほ、やはり俗な庶人の出には平安の世の典雅な素晴らしさは分からぬでおじゃるか」

 歴史教師はあからさまに相手を見下したような高慢さを覗かせながら、俺に向けて言葉を続ける。

「どうせそちは戦国時代のような野蛮な時代が好みであろ?何せそちの名は尾張の大うつけと同じ、織田のぶ――――ひぃぃっ!?」

 最後まで言い切れず、歴史教師は教壇の上で白目を剥いてひっくり返った。ドサリ、と勢い良く床に倒れこんで、そのままピクリとも動かなくなる。

「……」

 シーン、と耳に痛い沈黙が2-Sに広がった。しまった、ただでさえイラついていた上、心構えの無い内にNGワードに触れられてついリミッターが振り切れてしまった。

 ほとんど手加減なしの殺気を正面から浴びた歴史教師は、一瞬で気絶してブクブク泡を吹いている。一般人を相手にこのレベルの殺気を放ったのは久々なので、心臓が止まったりしてないか少しばかり心配だ。

「えーい、げしげし(追い討ち)」

「って何やってるんですかこの子は!ほらユキ、気持ちは分かるがそれ一応教師だからな!」

「え、蹴鞠だよ?蹴鞠ってたのしー、平安時代さいこー。ジュンも一緒にやろうよーげしげし」

 けたけた無邪気に笑いながら教師の頭を蹴り回している小雪の姿に、奴を怒らせるのは出来る限り控えよう、と俺は戦慄しながら心に刻む。

 そうこうしている内にガラリと扉が開いて、女教師がS組の教室に飛び込んできた。

「綾野小路先生、大きな音がしましたが何か――先生!?」

 歴史教師とは比べるのも失礼に当たる厳格な雰囲気を持つこの教師、確か名前は小島梅子だったか。

 問題児揃いの2-Fをムチ一本でまとめ上げている敏腕教師で、規則違反に対する厳格な態度から“鬼小島”の異名で恐れられている。

「これは小島先生、丁度良いところに。今まさに人を呼ぼうとしていたところです。いやぁ授業中に突然泡を吹いて倒れられたので、こちらも驚いてしまいましたよ」

 冬馬が白々しく困ったような顔で白々しく困ったような声を上げると、周囲の生徒達が「ホントにな」「びっくりしたよ」と白々しく同調する。歴史教師の人望が足りないのか、冬馬の人望が高いのか。恐らくは両方だろう。

 しかし、そんな彼らの様子に何か嘘くさいものを感じ取ったのか、鬼小島は胡乱げな目を教壇の上に向けた。

「……で、榊原はそこで何をしている?」

 小雪は蹴鞠にも飽きたのか、気絶中の歴史教師の傍でウェイウェイと不思議な踊りを披露していた。マイペースにも程がある。

「ユキは葵紋病院の関係者の養子ですから、医療の心得があるんです。先生が倒れたとき、真っ先に駆け寄って診断してくれたんですよ。心優しい子ですからね」

「そうか……助かったぞ榊原。その心は大事にするといい」

「おー?おー」
 
 嘘を吐く際には何割かの真実を含ませるのがセオリーだが、それを見事に実践した冬馬の言葉に、鬼小島はどうやら納得したらしい。意外と単純なのだろうか。

 ふむ、この情報は今後役に立つかもしれない。脳内メモに記しておこう。

「あとは校医に任せるといい。さて、誰か綾野小路先生を保健室に運んでくれ、私はF組に戻って授業を続けねばならないのでな。そろそろ昼休みも近いが、チャイムが鳴るまでは騒がず自習しているように。まあお前達の事だから心配は要らないだろうが。九鬼、任せてもいいな?」

「うむ。クラス委員長としての務めを果たす程度、我にとっては造作もないことよ」

 特に追求の必要はないと判断したのか、鬼小島は注意事項を述べるだけ述べると、真っ直ぐに背筋を張りながら自分の教室に戻っていった。

 何だろう、宇佐美巨人がS組の面々に低く見られている理由の一端を垣間見た気がする。同じ担任教師という立ち位置で、比較対象がアレでは不満も出るだろう。巨人のオッサンも熱意さえあれば有能な部類だと思うのだが。

 その後、英雄の指示で歴史教師が運ばれていき、平安の世から解放された2-S生徒は思い思いの自習に励む。教師不在の教室だが、決して私語が飛び交うような事はない。教師の目があろうとなかろうと態度を変えない姿勢は素直に好ましいと思えるものだ。古巣の太師校がアレだったから余計にそう思うのかもしれないが。

「ったく。マロの奴も度胸あるんだかないんだか分からんね、自分から喧嘩売っといて勝手にぶっ倒れてたら世話ないぜ」

 スピーカーより流れるチャイムが昼休みの到来を告げる中、俺の右斜め前の席に陣取る準が椅子ごとこちらを向きながら口を開く。

 そこに隣の席の冬馬と小雪、そして後ろの席から蘭が加わり、いつもの陣形での雑談が始まった。

「ふふ、まあ、平安時代の貴族が戦国時代の荒武者の気迫に耐えられる道理はないでしょう。ねぇ信長?」

「黙れ。俺の姓名に触れるなと、何度言えば理解できる?死にたいのか?」

「おや、これは失礼しました。保健室のベッドで午後を過ごすのは嫌ですし、ここは大人しく黙っておきましょうか」

「ふん。賢明な判断だ」

「お二人さん、平和なお昼時になんて物騒な会話してんだ。勘弁してくれよ」

 駄弁っている男子三人を余所に、蘭と小雪が後ろの席で何やら話している。

「あの、小雪さん、それは?」

「テーレッテレー、紙芝居~。新作がねー、もうちょっとで完成だよーん。いぇいいぇい」

「わぁ~!ユキさんはお話を作られるんですか?凄いです、私絵本とか好きなんですけれど自分で書くほうはさっぱりで……尊敬しちゃいます。宜しければ、完成したら見せて頂いてもいいですか?」

「あー森谷よ、悪いことは言わねぇ。やめといた方がいいぜ、お前が想像してるのとは絶対に違うから」

 期待にキラキラと目を輝かせる蘭に、微妙な表情で準が口を挟んだ。更に冬馬が補足を加える。

「何と言ってもユキの紙芝居は前衛的ですからね。エキセントリック過ぎて森谷さんには少し刺激が強いかもしれません」

 誰がどう聞いても紙芝居に対する評価ではなかった。確かに描いている途中の絵を見た限り、メルヘンというよりはメンヘルな雰囲気をひしひしと感じた。

 何にせよ俺の常識的な感性では理解不可能な絵柄だったが、そうなると逆に気になってくるのが人間という生き物の悲しい性である。また後で鑑賞させてもらうとしよう。

「それにしても、マロの奴にも困ったもんだぜ。授業はほぼ平安一色、他の時代は宿題でやれと来たもんだ」

「確かに、あまり目上の方を悪く言いたくはありませんが……少し目に余りますね」

「あの男が教師として相応しいとは、まるで思えん。川神鉄心は何を考えている?」

「ほほほ、分かりきった事なのじゃ!綾野小路家は此方の不死川家と並ぶ高貴なる血筋!教鞭を振るう者として、これ以上に相応しい人選はなかろう。ノブリス・オブリージュという奴じゃ」

「きっと学長がマシュマロ好きだからだねー」

「ははは、ユキの発想は相変わらずユニークですねぇ」

「言われてみれば名前がマロで、しかも白い。うーむ、なんだか納得しちまったぜ」

「此方を無視するでないわー!……ひっ、な、なんじゃその目は」

「煩い。耳元で喚くな」

 どうにも騒がしかったので睨み付けて黙らせる。空気を読まずに居丈高な調子で俺達の会話に加わってきた黒髪団子頭の少女は、不死川心。本人の申告する通り、御三家の一つ、不死川家が息女である。

 平たく言えば先程の歴史教師の同類。さすがにあそこまでエキセントリックな外見ではないものの、常日頃から着物姿で登校しているという時点で、歴史教師と同様“変態の橋”のネーミングに一役買った人物である事は疑いない。

 総じてエリート意識の強いS組の中でも取り分け極端な選民思想に染まった、まあ何とも厄介な奴だった。

「ぬ、ぐぬぬ、なぜ此方がお前などに命令されねばならんのじゃ!ふざけるでないわ!」

 俺の一挙一動に対して明らかにビビりながらも、心の反抗心はまるで消えていない様子。彼女の何が厄介かと言うと、臆病な癖にプライドだけはとんでもなく高いのだ。どこの馬の骨とも知れない俺がこのS組で大きな顔をしている事実が気に入らないらしく、転入以来いつも敵愾心に満ちた目でこちらを睨んでいる。

 と言っても視線を送るだけで、これまで直接声を掛けてくる事はほとんどなかったのだが……どうやら今日は違うらしい。

「俺は喚くな、と言った筈だが。貴様の学習能力は猿並みなのか?」

「なっ!高貴な此方を山猿扱いとは、何様のつもりじゃ!」

「ああ、そもそも前提を誤ったか。猿に人の言葉が通じる筈もない。俺に非があったようだ」

 それこそ猿の如く顔を真っ赤にして噛み付いてくる心の姿を予想していたのだが、彼女は俺の挑発に対し、どういう訳か余裕の表情でニヤリと笑った。自身の優位を確信している者に特有の、不愉快な笑みだった。

「フン、此方は知っておるぞ。お前は貧民の生まれだそうじゃな。そのように卑しい者が不死川家の息女たる此方と対等のつもりで口を利こうなどと、片腹痛いわ」

「……」

「父親は薄汚い逃亡犯、母親は新しい男と雲隠れ。やはり下賎な者共はやることなすこと醜いのぅ?ほほほ、お前もさぞかし恥じておるであろうな。此方に今すぐ非礼を詫びれば、この事は黙っておいてやってもよいぞ?」

 鬼の首を取ったような調子で得意げに言葉を続ける心に対して、俺は特に怒りを覚えるでもなく、むしろ妙に気分が冷めていくのを感じた。

 こうまで知った風な口を利けるという事はつまり、この一週間で俺の出自を調べたという訳か。

 なるほど、不死川家のネットワークを用いればその程度の情報収集は容易いだろう。“表向き”の情報ならば一般人でも普通に調べられる。もっとも、裏側まで踏み込んだ時点で無事では済まないだろうが……それはともかく。

「蘭。控えろ」

「……。ははっ」

 俺は至極冷静に思考を巡らせながら、既にかなりヤバいレベルで殺気立っている蘭を制止する。放置していれば本気で殺しに掛かりかねない程の鬼気を感じた。

「おい不死川よ、それ以上はやめとけ。さすがに聞き流せねぇぞそれは――」

「準。お前もだ。下がっていろ」

 心の罵倒が何かの琴線に触れたのか、静かな怒りを滾らせながら間に割って入ろうとした準は、俺の言葉を受けて戸惑ったように動きを止めた。

 そんな彼に向かって、冬馬が珍しく真面目な顔で首を振る。

「ここは私たちの出る幕ではなさそうですよ、ジュン。見守りましょう」

「若……。そうだな、柄にもなくちっと熱くなっちまったぜ。信長、こんな奴でも一応クラスメートなんだ、ちゃんと加減はしてくれよ?」

「ふん。然様な事、俺の関知する所ではないな」

 普段通りの軽い調子を取り戻した準に無表情で返し、俺は改めて不死川心と対峙する。

 そうか、俺はここまで来たのか。少女の高慢な顔を前にして、不意に感慨が湧き上がってきた。

 かつて世界の底辺の底辺を這い蹲っていた惨めで哀れな薄汚いガキが、今ではかの日本三大名家が一つ、不死川家の令嬢にいかなる形であれ興味を持たれ、警戒の対象とされる存在にまで成り上がった。

 この喜びの深さは他者には決して理解できないだろう。理解されたいとも思わない、その意味は俺だけが知っていればいい。

 それに俺自身、こんな所で終わるつもりはなかった。この地点も所詮、遥か遠き“夢”へのチェックポイントに過ぎないのだから。

「ほほほ、言い返せぬか。自分の卑しさを理解したようじゃのぅ。これからは身の丈に合った態度で過ごすがよいぞ」

 思考に沈んで黙り込んでいた俺の態度をどう勘違いしたのか、心は勝ち誇った顔で胸を張っている。

 この分だと、今になって俺に声を掛けてきたのは、俺の出自に触れる事でアドバンテージを取れると考えたからなのだろう。その滑稽な姿に冷めた目を送りながら、俺は脳内にて打算を巡らせていた。

 現時点において、2-Sクラスの面々で表立って俺に敵意を表しているのは、目の前のこの少女だけだ。他の連中の中にも俺を快く思っていない輩はいるだろうが、それを表に出す度胸もプライドも実力もない以上は気に掛ける必要もあるまい。

 葵冬馬、九鬼英雄、そして不死川心。この三名が2-Sの中心人物であり、俺は既に内二名から認められている。つまり、ここで不死川心の高過ぎる鼻っ柱を叩き折りさえすれば――俺はS組における立場をより確固たるものと出来るだろう。

 しかし、だからと言ってやり過ぎても不味い。不死川家の日本全国に及ぶ勢力、特に政財界に与える影響力は紛れもない本物だ。今はまだ“敵”に回すべき時期ではない。

 憎まれず侮られず、か……中々の難題だが、これもまた修行の一環と考えるとしよう。

 さて、やりますか。幸いにして方策は用意済みだ。俺は密かに気合を入れてから、悠然とした態度で心を正面から睨んだ。

「対等。俺と貴様が対等か。くく」

「な、何がおかしいのじゃ」

「俺は貧しく腐った家に生を受け、そして己が力のみで此処まで辿り着いた。財力の支えも権力の後ろ盾もなく、純然たる実力でな。それに引き換え、先祖の築いた家柄しか依るものも誇るものも持たない小娘が、俺と対等?くく、お笑い種だな。滑稽極まる、誰が貴様を対等の存在などと言った。元より貴様など――俺の眼中には無い」

 あくまで淡々と、無感情に。心底から見下したような視線をお返ししながら言ってやると、心は自分が何を言われたのか咄嗟に理解できなかったのか、ポカンと口を開けて固まった。数秒の後になってから、怒りに顔を赤く染めていく。

「な、んななな……!あ、あろうことか野蛮で粗暴な山猿の分際で!高貴なる血筋の此方を、愚弄しようと言うのか!?」

「事実を事実として述べることを“愚弄”と呼ぶならば、否定する要素はないな」

「な、何じゃと~!おのれおのれおのれおのれおのれ、此方に対する数々の暴言、断じて許せぬ!もはや我慢ならぬわ!」

「ふん。ならば、どうする?」

「決まっておる、お前の下賎な出自を学園中に晒して笑い者にしてくれよう!今更後悔しても遅いのじゃぞ」

「学習能力のみならず、理解力も猿並みか?俺の出自は、自身が何者にも頼らず独力で生き抜き伸し上がった事実の証明。誇りこそすれ、卑下するところなぞ欠片もない。――生まれが貴様の誇りと云うなら、育ちこそが俺の誇りよ」

 何の迷いも衒いもなく、堂々と言い放つ。

 これは彼女に対する挑発であると同時に、紛れもない俺の本音であった。

 勿論、自分の生まれたあのゴミ溜めのような家庭を愛していた訳ではない。惨めな幼少時代を過ごす原因となった生活環境を憎んでいない訳がない。仮に生まれ変われるなら、今度はごくありふれた平凡な家庭で、そこそこ幸せに生きてみたいと願う。

 しかし、それでも俺は、自分の出自を否定するつもりはまるでなかった。誇るべきはどう生まれたかではなく、どう育ったか。それだけの話だ。

 故に不死川心の驕りに満ちた言葉など、俺の胸には何一つ響きはしない。わざわざ殺意を覚えるような価値すら、見出せない。

「ぬ、ぐぅ……!あくまで此方に頭を下げぬ気か!」

「無論。俺に頭を下げさせたければ、力を以って捻じ伏せてみせるがいい。家柄のみが頼りの貴様には、無理な注文だろうがな」

「~っ!」

「くく、言い返せぬか?ならば、これよりは身の丈にあった態度で過ごすが良かろう」

「ぬ、ぐぬぬぬぬぬっ」

 言葉を重ねる度、確実に怒りのボルテージが上昇していくのが手に取るように分かる。己の思う通りの方向に相手を誘導できている確かな手ごたえを感じ、俺は心中にてほくそ笑んだ。

 川神学園への転入に際して川神百代に次ぐレベルで警戒していた存在が、何を隠そう目の前の不死川心という少女である。

 編入先である2-S所属の、不死川家の息女。故に彼女に関する下調べは入念に行っており、そのパーソナリティはかなり詳細に把握していた。

 彼女は比肩する対象が殆どない名家の出身であり、また本人もそれを過剰な程に誇って喧伝して回る事から、ともすればその家柄と高慢な態度だけが印象に残りがちだが――実際に無能な人間かと言えば、それは違う。まるで見当違いと言ってもいい。

 ここ川神学園を構成する基幹となる原理は“競争”。そんな場所のエリートクラスに在籍し続けるには、家柄など無関係に純然たる学力が必要とされる。更に、調べでは柔道において全国区の実力を有しており、学園内でも指折りの武力の持ち主であることは疑いない。

 不死川心は家柄を抜きにして考えても、十分に有能な人間だ。その事実を学園の誰よりも正確に把握している俺が、それでも彼女を無能と見下した態度を取っているのは、当然ながら挑発のためだった。

 彼女は殺気の意味に気付ける程度には聡く、故に“織田信長”には敵わないと心のどこかで認めていたからこそ、これまで俺に直接的な形で喧嘩を売る事を避けていた。負けると分かっている戦いに挑むのは愚者の所業だ。

 しかしながら、俺からしてみれば不戦敗ほど厄介なものはない。実際に勝負して白黒はっきりさせなければ、敗者が自分を敗者だと認める事はないだろう。認めないのをいい事にいつまでも反抗的な態度を取り続けるに違いない。

 幾ら力があった所で、戦おうとしない相手にはどう足掻いても勝てないのだ。そういう意味で、臆病者ほどやり辛い相手はない。

 だからこそ、俺は彼女の逃げ場を封鎖した。思ってもいない言葉で怒りの炎を煽り、俺への恐怖心を焼き尽くすほどの業火へと成長させた。あえて人目が集まる中で挑発を続けることで、膨れ上がったプライドを破裂させるべく刺激した。

 さてどうする不死川心、家柄の高貴さに見合う誇り高さを胸に抱えたお前は、この局面で背中を向けて逃げ出せるか?

「良かろう……!高貴なる此方がお前を実力でボロクソに打ち負かせば、此方は全てにおいてお前に勝っている事になるという訳じゃな?」

「……」

 ついに捉えた。

 待ち望んでいた展開の到来に思わず綻びかける口元を抑えて、俺は冷然とした表情を保ったまま言葉を返す。

「然様。元より不死川家の威光は俺も認める所。認めていないのは――不死川心という個人である故」

「ならば、此方を家柄だけの雑魚と侮ったこと、泣いて後悔するがよいわ!2-S所属、不死川心は学園の掟に則り、お前に決闘を申し込むのじゃ!」

 心の決闘宣言は、瞬く間に教室全体に伝播する。この瞬間よりS組の全生徒が彼女の言動の生き証人となった。

 そう、喧嘩は売ってくれなければ買う事も出来ない。かくも早くこの機会が訪れるとは、望外の僥倖だ。


「くくっ。同じく2-S所属、織田信長。貴様の挑戦、確かに受け取った」


―――わざわざ与えてくれたチャンスを逃す気はない。せいぜい徹底的に“心”を折らせて貰うぞ、不死川の御息女。


 机上に叩きつけるようにして置かれた彼女のワッペンに目を落として、俺は自覚できるほどに邪悪な笑みを浮かべていた。












~おまけの2-S~



「おいおい、真剣で決闘するのかよ……こりゃあ冗談抜きでヤバイんじゃね?不死川の奴」

「まあ決闘となれば学長の介入がありますから、信長も加減はするでしょう。ふふ、クラスメートが心配ですか?」

「あーあ心配だとも。俺は自分のクラスで殺人事件発生なんて真っ平ゴメンだね」

「お墓はやっぱり校門前の桜の木の下がいいかな。あははは、花弁が散る度に思い出しちゃうよーん」

「ユキ、人が不安になってる時に不吉なこと言うのやめてもらえませんかね」

「それにしてもこの状況、英雄の時と随分流れが似ている……。この決闘、英雄はどう思います?」

「結果は見えているな。奴の相手など信長にとっては役不足もいい所であろう。我が好敵手と認めた男よ、庶民如きが敵うハズもあるまい」

「あー、お前的にはむしろ不死川の方が庶民なんだな。御三家を庶民扱いとは、改めて世界の違いを感じるぜ」

「フハハハ、当然よ。大体、庶民共はいつも家柄だの出自だの、下らん思い込みに縛られ過ぎるのだ。親は親、子は子。自明の理であろうに、それしきの事も理解しようとせん。まったく嘆かわしい。……ん?どうした、我が友トーマよ」

「いえ、何でもありませんよ――英雄」












 
 久々に登場のS組の面々。板垣一家も書いていて楽しいですが、やはり自分が一番楽しんで書けるのはS組だと実感しています。しかも今回から本格的に不死川さん家の心ちゃんを書けると言う事で、否が応でもテンション上昇中。かつて心√の呆気なさに肩を落とした自分にとっては、まじこいSでのメインヒロイン昇格はかなり嬉しいニュースでした。この作品の裏テーマはいかに彼女を魅力的に描けるか、だったりするとかしないとか。
 
 これまで感想を頂いた方々に感謝を。返信は出来ませんが、それはもう励みにさせて頂いてます。それでは、次回の更新で。



[13860] 折れない心、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4775c47
Date: 2011/02/13 09:49

『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一体育館で決闘が行われます。対戦者は2-S所属、織田信長と、同じく2-S所属、不死川心。内容は特殊ルールを採用した直接戦闘。見学希望者は第一体育館に集合しましょう。繰り返します……』

――――B棟・2-Fクラス。

「決闘……また例の転入生か。この短期間で二回目とは、よほど血の気が多いのかね」

 全校に鳴り響く校内放送の声にイベントの発生を知り、俄かに浮き足立った空気に包まれる教室の中、直江大和は呟きながら静かに思考を巡らせる。

 様々な場所に張り巡らせた人脈を活用して、例の二人組についてのある程度の情報は掴んだ。もっとも、深入りするのは危ない、と知人の情報屋にストップを掛けられてしまったので、それほど有益な情報は得られなかったが……それでも彼らが川神のアンダーグラウンドにおいて恐ろしい程の勢力を有している事は十二分に把握できた。

「うーん。あの転入生、いかにも危ない感じだったし、やっぱり2-Sでも周りと上手くいってないのかも」

「俺様的にはSの連中に原因がある気がするけどな。あの連中、いつもいつも人を見下しててムカツクからよ。あの転校生にはギャフンと言わせて欲しいもんだぜ」

「ホントホント。特にあの不死川って奴マジ調子乗ってるし、ここらでお灸を据えてもらった方がいいよね~」

「お、お灸……なんかエロいぜ。ハァハァ、オレ見学の前にトイレ行って来る!」
 
 大和は改めて騒がしい教室の様子を見渡す。

 よりにもよってそんな連中が川神学園に現れ、隣のS組で暴れ始めているのだ。生徒達は彼らを“怖い”“ヤバい”などと評価し、遠巻きながら好奇の目で見ているが、果たしてその認識にはどれほどの危機感が伴っているのだろうか。あの二人組が以前の学び舎をどれほど容易く征服し、恐怖を振りかざして支配下に置いていたか知っても、こんな風に能天気な調子で浮かれていられるのだろうか。

 彼らについて少しでも知ってしまった以上は、考えずにはいられなかった。どうしても募る不安は拭えない。

「難しい顔してるね、大和。例の転入生のこと考えてる?」

 決闘の告知に湧くクラスの中で、普段と変わらない冷静さを保った声。気付けば幼馴染の椎名京が大和の顔を覗き込んでいた。

「ちょっとね。情報を持ってる身としては素直に騒げない感じ」

「周囲に流されないクールなところも素敵。抱いて!」

「お友達で。しかし、九鬼に続いて不死川か。これはどう見てもS組の有力者を狙ってるな……まずは2-Sを掌握して基盤を築いた上で、それから外部に手を伸ばす気かね」

 大和は思索を続ける。皆の危機感が不足しているなら尚更、自分がその分まで彼らの動きに目を配っておかなければならない。それが“軍師”を自認する直江大和の役目だ。

 場合によってはこちらから対処に動く必要もあるかもしれない――具体的な方策を脳内に描こうとした大和の思考を、不機嫌そうな声音が遮った。

「オイ直江。念の為に言っとくが、あいつらに関わるのはやめとけ」

「ゲンさん?」

 孤高の一匹狼、源忠勝。学年一の不良として恐れられる男(ツンデレ)が鋭い目付きで大和を見据えて、苦々しげに言葉を続ける。

「あの二人への余計な手出しは控えろ。信長は狡猾で用心深い奴だ。何者かに策を仕掛けられたと気付けば、その裏側で誰が糸を引いてるのか必ず探り出す。手段を選ばず、だ。軍師だか何だか知らねぇが、住んでる世界が違う。お前らの手に負える相手じゃねぇ」

「集めた情報から考えれば、それは何となく理解できるけど……それにしてもゲンさん、例の転入生についてよく知ってるみたいな口振りだね」

「昔馴染みなんでな。だからこそアイツのヤバさは骨身に染みてる」

「なるほど」

 大和は納得と共に頷いた。忠勝の勤め先、宇佐美代行センターの事務所は堀之外に位置している。川神周辺では間違いなく最も治安の悪い区域で、転入生の活動圏と見事に合致していた。忠勝自身、昔から代行人として危ない仕事にも手を出しているらしいので、例の二人とも接点があったのだろう。

「わざわざ自分から喧嘩売らねぇ限り、あの野郎に目を付けられる事もないだろ。もう一回言っとくが、あいつに関わるのはやめとけ。それがお前の為だ」

「あ、やっぱり俺のこと心配してくれたんだ。やっぱりゲンさんは優しいなぁ」

「ちっ、同じ寮に住んでる同級生が行方不明になったりしたら俺の寝覚めが悪いからだ。勘違いしてんじゃねぇ」

 お約束の返事を受けて何となくほっこりした気分になりながら、大和は一旦思索を打ち切った。

 警告の言葉を告げる忠勝の表情はかつてない程に真剣なものだった。つまるところ、それほどまでに危険な相手と言う事なのだろう。武力においては世界最強の姉を唸らせるレベルで、しかも単純な強さのみならず知略も相応に備えている――それが真実とするならば、正しく反則級だ。軽々しく考えるべきではない。

 やはりしばらくは慎重に様子を窺って、情報を集めよう。何かしら策を練るにしてもそれからだ。風間ファミリーの軍師として、軽挙妄動で皆を危険に晒すような真似をしてはならない。あくまでクールにクレバーに行動しなければ。

「大和~!何ボーッとしてんの、置いてくわよ!」

「ワン子。マテ」

「うっ、なぜだか逆らえないこの感じ……でも待たないわ!こんな面白そうな決闘、見逃したらコトよ!」

 まあ今は取りあえず目前の決闘だ。転入生の視察も兼ねて、不死川心の泣き顔でも拝みにいきますか――と鬼畜軍師・直江大和はズレた方向に思考を切り替えた。




―――C棟・女子トイレ前廊下。


「うふふ、タイミング悪く校内放送を聞き逃してしまいましたわ。武蔵さん、どのような内容だったか教えて頂けますこと?」

「決闘よ決闘、それも例の転入生と不死川家のご息女の戦闘形式!織田信長……早くも学年制覇に向けて動いているわね。燃えてきたわ、この超新星・武蔵小杉も負けていられないってもんよ」

「あらあら。暴力はいけませんわ、話し合いで平和に解決するのが一番でしょう?」

「そんな温い考え方じゃこの学園でやっていけないわよ。勝って勝って勝って勝ちまくって、プッレ~ミアムな伝説を築く!くらいの気持ちでいないとね。競争も何もない平凡な三年間なんて、つまらないじゃない」

「うふふ。そうですわね、わたくしも退屈な学園生活は送りたくありませんわ。退屈は心を腐らせる毒ですもの」

「なかなか分かってるじゃない。さーて、センパイ方の戦いを見学に行くわよ。今のうちに視察しておけば、私が二年生を制圧する時に役立ちそうだし」

「取らぬ狸の皮算用」

「え?何か言った?」

「うふふ。いいえ、気のせいでございますよ。さぁ……参りましょう、武蔵さん。少し、楽しくなってきましたわ」











 不死川心が第一体育館に足を踏み入れた時、館内には既に相当な人数の生徒達が集まっていた。決闘スペースを確保するためだろう、四方の壁に沿うようにして人垣を作っている。心が体育館の中央へと歩を進めると、数多の視線が自分に集まるのを感じた。

「けっ、見ろよ。やっと来やがった」「おせーんだよ、悠長に構えやがって」「まぁいーんじゃないのぉ?着付けとか時間掛かりそうだしぃー」「てか決闘でもあの服かよ、戦いを舐めてんじゃね?」「さっすがお金持ちは違うねー」「ボコボコにされちゃえばいいのにねー」「あの転入生なら期待できちゃう感じじゃん?」「アハハ楽しくなりそうな予感」

 ただし、そこに好意的な感情はない。良くて好奇心、それを除いたほぼ全てが嫌悪と侮蔑に満ちた悪意の視線。

 不死川心は、学園中の嫌われ者だった。

(ふん。野蛮な山猿どもめ)

 無遠慮にジロジロと自分を見つめる群衆の目を、心は傲然と睨み返す。2-Sクラスにいる時は多少はマシだが、一歩でも教室を出て校内を歩けば、現在と似たような感情に晒されるのは日常茶飯事だった。今更この程度の悪意に怯むようなことはない。

 ニタニタと不愉快な笑みを浮かべてこちらを見ていた男子生徒と目が合う。慌てたように視線を逸らし、笑みを引っ込めた。

 馬鹿馬鹿しい。大衆に紛れなければ悪口の一つも言えない、下賎極まりない連中。あんな低俗な人間が同級生だと思うと吐き気がする。

(まあよい。猿に構っている暇はないわ)

 湧き上がる胸のむかつきを抑えながら、中央スペースに歩み出る。決闘の相手は既に到着していた。

 2-Sの新顔、織田信長。周囲から向けられる様々な視線などまるで意に介した様子もなく、無表情のまま悠然と佇んでいる。有象無象の矮小な意思などその存在だけで呑み込んでしまいそうな、絶対的な存在感。その姿は見る者の心に否応なく畏怖の念を植え付ける。

 それが何故か今は、腹立たしかった。

「高貴な此方がわざわざ足を運んでやったのじゃ、用意は出来ているのであろうな?」

「ふん。貴様こそ心の準備は出来ているのか?くく、決闘に家柄の貴賎は持ち込めんぞ」

 信長が嘲るように口元を歪めて言い放つ。どこまでも自身を見下したその態度が、本当に腹立たしい。この場所に到着するまでの時間でどうにか抑え込んだ怒りの炎が、再びメラメラと燃え上がり始める。

『一瞬で終わっても余興になるまい。手心を加えてやろう』

 脳裏にリフレインするのは、決闘場所に向かう前に2-S教室で彼女に向けて放たれた、相手への侮りに満ちた余裕の言葉。その言葉の証明として――現在、信長の周囲の床にはカラーテープを用いて小規模な円が描かれていた。半径一メートルほどの狭いサークル。その中心点に立って、信長は心と対峙している。

「両者揃ったの。それでは改めてルール確認じゃが、内容は武器を用いぬ純粋な格闘戦。常と同様、わしが戦闘不能と判断した時点で勝敗を決する。ただし特殊条件として、織田ノブ「織田でいい」……織田は床に描いた円の中から一歩でも出た時点で敗北とみなす。……今更じゃがこのルールで本当に良いのかの?移動を制限される、というのは相当な枷になるのじゃぞ?」

 川神鉄心の念を押すような問いに、心と信長は同時に頷いた。

「当人達の合意があれば、いかなるルールであれ採用する。決闘システムに則れば何ら問題はあるまい?」

「調子に乗って手心を加え、無残に敗れる。これほどの恥はあるまい。確かに腸は煮えくり返るようじゃが、こやつの思い上がりをへし折ってやれば気も晴れようぞ。ほほほ、恥辱と悔しさに歪む表情が今から目に浮かぶようじゃ」

 まあ実際のところ、このルールを提示された時は怒りのあまり頭が真っ白になって、「後悔させてくれるわ!」と売り言葉に買い言葉で条件を呑んだのだが。

 しかし冷静さを取り戻した頭で改めて考えてみても、この展開は心にとって悪いものではない。一時的にプライドを傷つけられる事を我慢さえすれば、何のデメリットもリスクも負うことなくアドバンテージを得られるのだから。

 彼女は織田信長という男を決して甘く見ている訳ではなかった。不死川の名に相応しい実力を身に付ける為、幼少の頃より武道に触れてきたのだ。眼前の男がどれほど危険な“気”を纏っているか、感じ取れないような雑魚ではない。

 しかし、正直な所を言えば、心には信長の実力の底をまるで見通す事が出来なかった。彼女のように武の実力がある程度以上のレベルに達すると、相手がどういったタイプの武道を修めているか、その立ち振る舞いから推測できるものだが―――信長の戦闘スタイルは、まるで予測が付かない。どう頑張ってみてもイメージが浮かばないのだ。

 普段の足運びも重心の移りも全てが不規則で、頭の中で己の知る特定の型に当て嵌めようとする度、呆気なく変動してしまう。もしそれが手の内を隠す目的で意図的に行われているなら、恐ろしく巧妙な手口と言えた。

 相手の実力は未知数。だが、少しでも制限を掛けておけば勝率が上がるのは間違いない。

「まあ本人が納得した上なら良いんじゃがのぉ。ふむ、ギャラリーも集まった頃じゃし、そろそろ仕合を始めようかの」

 鉄心の言葉に頷きを返し、念の為に心は信長から四メートルほど離れた地点まで移動した。

 信長の行動範囲は実質的に周辺一メートル。それ以上動けば即座に問答無用の反則負けである。当然ながら攻撃範囲も相当に狭いものになるだろうが、何せ相手が相手だ。どのような手札を用意しているか判ったものではない。警戒しておいて損は無いだろう。

 彼女が開始時の立ち位置を定めた事を確認してから、鉄心は建物を震わせる大音声を張り上げた。

「―――これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!!」

 一瞬の静けさを経て、大いに湧き上がるギャラリーの歓声。

「両者とも、名乗りを上げるが良い!」

「2-S所属。織田………(溜め)………信長」

「信長さまー!蘭は、蘭は最前列にて主のご武運をお祈り申し上げております!」

「同じく2-S、高貴なる不死川心じゃ。ほほ、此方のように己が名を誇れぬとは哀れなものじゃな?」

「あはは、なんだか地元なのに超アウェーで可哀相だから僕が応援してあげるー」

「うっさいわ!余計なお世話なのじゃ!」

 榊原小雪の悪意があるのかないのか良く分からない声援に怒鳴り返しながら、心は己が対戦相手へと視線を移す。

 決闘直前の緊迫した空気に昂ぶるでも緊張するでもなく、織田信長はあくまで冷然と構えている。

 一目見た時から、その余裕に満ちた態度が気に入らなかった。自らの手でその自信をへし折ってやりたかった。クラスメート達に恐れられながらも、いとも容易く自分の居場所を掴み取った生意気な庶民を、見返してやりたかった。庶民の癖に不死川家の息女を路傍の石のように扱う傍若無人さを、叩き潰してやりたかった。

 何より、庶民の癖にSクラスの誰からも認められるこの男に、自分自身を――認めさせてやりたかった。

(我ながら理解に苦しむのじゃ。だが)

 そうする事で何かが変わると思った。故に、不死川心はここに立っている。

「さて、これが最後の機会じゃ。今すぐ地面に這い蹲って泣いて謝れば許してやっても良いぞ?此方の心は海空の如く寛大じゃからな」

「まさしくその通りだな。くくっ」

「な、何を笑って――」

「今すぐ地面に這い蹲って泣いて謝った程度で許してやれるとは、その寛大さには頭が下がる。俺は然様に寛大にはなれそうもない。故に、貴様に逃亡の機会はもはや無いと知れ」

 ゾクリ、と背筋に氷柱を突っ込まれたような寒気が走った。次いで全身を襲う苛烈な重圧に、一瞬で膝が折れそうになる。肺に取り込む空気にまるで酸素という成分が含まれていないかのように、呼吸が苦しくなる。

 これは、そう、“殺気”だ。レベルが数段違うとは言え、一週間前に信長が転入してきた際にも同じような感覚を味わった覚えがある。故に殺気については武道の師に話を聞き、対処の方法もアドバイスされていた。曰く、「気を強く保つ事、そして決して心を折らない事」。心は信長への敵愾心と怒り、そしてプライドを糧として、自身を縛る肉体を叱咤する。

(高貴なる此方が卑しい貧民風情に膝を屈するなど、有り得んのじゃ!)

 無意識の内に震え出す身体を必死に制御しながら、心は目の前の男を睨みつけた。信長は相変わらず嘲笑うような冷たい表情で、悠然と彼女の様子を眺めている。

 ただし、先程までと決定的に異なる点は……目視を可能とする程のドス黒い“気”が、全身から立ち昇っている所だ。触れるだけで生ける者全てを死に至らしめてしまいそうな、本来ならば生命エネルギーである筈の“気”とは対極に位置する性質を感じさせる、異常なまでの負のオーラ。

(な、なんじゃこれは……)

 これほど禍々しい気を発する者を、心は知らない。彼女が師と仰ぐ武人の全力ですら、この異形にはまるで届かないだろう。粟立つ肌が、速まる鼓動がその事実を教えてくれる。

 怖い。目の前の男の存在が、怖かった。

(今までこやつからこれほどの“気”は感じられなかった――擬態だったか?決闘が始まるまでは隠していた、とでも?此方が闘いから逃げぬように?)

 たらり、と冷や汗が額を伝うのが分かった。

 最初から危険な相手だとは判っていた。判っていたが、その認識は滑稽な程に甘かったのではないか。

 怒りに目が曇り、相手を見誤っていたのではないか。

 この男は本当に、自分の手に負えるような存在なのか。

 彼女の本来の気質、弱気で臆病な部分が、怒りと誇りで押さえつけて来た脆弱さが、ここに来て顔を覗かせる。先程まで全身に滾っていた戦意と自信を、奪い去っていく。

(此方はこやつに、勝てるのか?)

 その弱さを心中から払拭する事も、心中にて消化する事も出来ないまま。

「いざ尋常に―――」

 鉄心による決闘開始の合図が、無慈悲に響き渡る。

「―――はじめぃっ!!」







 そして、決闘の開始から十分が経過した。

 心は動かない。信長は動かない。

 心は動けない。信長は動けない。

―――戦闘は、紛れもなく膠着していた。

「何やってんだ、さっさと始めろよ!」

「なにあれー、あんだけ偉そうなこと言ってビビッちゃってるの?ダッサー」

 全く動きの無い戦闘内容に痺れを切らした観衆が、心に向けて次々と野次を飛ばし始めたのも、既に数分前の出来事。

 しかし、今の彼女には周囲の心無い罵言に反応する余裕など無い。唇をきつく噛み締め、目を見開いて、前方に佇む男――信長の姿を凝視する。

『この線を、死線と思え。此岸と彼岸の境界。徒に踏み入れば、最期よ』

 決闘開始の寸前に信長はそう嘯き、そしてそれ以来、一歩たりともその場を動いていない。特に構えを取るでもなく警戒心を見せるでもなく、ただ普段通りの自然体で円の中心に陣取っている。自ら課した制限によって、彼はこの狭いサークルを踏み出して攻める事は出来ない。故に、相手から攻めて来ない限りは動けない。

(どうすればよいのじゃ……!)

 そして、心もまた、その場を一歩も動かなかった。動けなかった。動いた所で無意味だと言うなら、止まっている他に選択肢などないではないか。

 不死川心は柔道家である。幼少の頃より優秀な師の下で鍛え上げた腕前は、非公式ながらも全国大会で覇を競えるレベルだ、と師に太鼓判を押されている。全体的に武力の高い人材で溢れたこの川神学園でも、武器を用いない純粋な接近戦で心に敵う相手はそう何人も居ないだろう。誰が相手であれ、懐に入り込めさえすれば、十八番の飛び関節で一撃必殺を狙える。

――そう。懐に入り込めさえすれば、だ。織田信長の懐まで接近するには、必然的に彼の用意した“死線”を越えなければならない。

(ダメじゃ。どう足掻いても、あの線を越えた瞬間、此方は……)

 何度も何度も頭の中で試行錯誤を繰り返した。三百六十度、あらゆる角度からあらゆる方法で奴に肉薄する方法をシミュレートした。

 が、その全ての試みはあの“死線”によって阻まれ、無駄な努力に終わっていた。想像の中の自身はあの線を踏み越えた瞬間、何が起きたかも理解できない内に悉く絶命しているのだ。ある者は首をへし折られ、ある者は腸をぶち抜かれ、ある者は脳天をかち割られて。実際にそれらの事象を成し得るような信長の技を見た訳でもないのに、“殺される”という強迫観念だけが肉体と精神を強固に支配している。

 チープなテープで描かれた小さな円が、あたかも絶対不可侵の領域を生み出しているような感覚。仮に現実でシミュレーションと同じ行動を取れば――イメージの己と同じ末路を辿るに違いない、と。そんな錯覚が、彼女の身動きを完全に封じていた。

「ふざけんじゃねーぞお嬢様よぉ、こっちは昼休みを削って見学に来てんだぞ?」

「名家だの何だのって散々威張り倒しといてそのザマなの~?マジ有り得ないんですけど」

 攻め手を見つけられない心に対して、野次が殺到する。殺気の届かない安全圏から見物に興じる生徒達には、心の葛藤も理解できない。ハンデの所為で信長が動けないのを良い事に、戦いを放棄しているようにしか映っていない。

 そしてそれは――普段から彼女を嫌っている生徒達にとって、恰好の攻撃材料であった。

「ま、結局は口だけの雑魚だったってことでFAっしょ。完全にビビっちまってるし」

「あの転入生が怖いのは判るけどさー、だったら最初から決闘なんかすんなって感じ?肩透かし食らっちまったよ」

(静かにするのじゃ山猿どもめ!)
 
 耳を傾ける価値も必要も無い。雑音を意識から締め出しながら、心は実を結ばない試行錯誤を続ける。

 右から左から上から後ろから正面から、走って歩いて跳んで円の中に入り――即座に全てが殺された。
 
 どうすればいい、どうすれば。きつく握り締めた掌はもはや感覚を失っている。歯を食い縛って、消え失せてしまいそうな闘志を繋ぎ止める。

 あの男を倒さないと。庶民の分際で高貴な自分を見下したあの男に思い知らせてやらないと。

「なあアレ、転入生の方も動かないけどさー、なんでわざわざそんなルールにしたんだ?ハンデにしても変じゃね?もしかして……買収とかじゃねーの?」

 その時、不意に頭に入り込んだ声に。

 心は一切の思考を放棄して、呆然と立ち尽くした。

――それは正しく、全てを崩壊させてしまう言葉だった。

「うわ、ありえるかも。不死川家の財力使えばそれくらい余裕そうだしねー。汚いなぁ」

「伝統ある決闘で八百長使うとか最悪だろ、これだから金持ちのお嬢さまは嫌だぜ」

 ふっ、と。今まで己の中に必死で保ってきたモノが、急速に失われていくのを感じる。

(此方は、何をしておるのじゃろう)

 ここで信長に勝って、それでどうなる?どうなると思っていた?

 無知で愚昧で下賎な庶民共が自分の高貴さを、実力を認めて、恭しく頭を下げると思っていたのか?

「なぁそういえばさ、聞いたことあるかよ?不死川が親の七光りでS組に入ったってウワサ」

「あ~知ってる知ってる~。不死川家の権力で学校と取引して成績を捏造したって奴でしょ?セコイよねー」

「おいおいマジかよ、真面目にやってS落ちした奴らは浮かばれねぇな。ちょっと許せないぜ」

「あんな馬鹿っぽい奴がなんでSにいるのかずっと疑問だったんだけど、納得したわ。あーあー、そりゃ家柄にもこだわるわな、それがなきゃ何もできねーんだからよ」

 ただその場に立ち尽くす心の胸に、言葉の槍が突き刺さる。

 気にするな。無視しろ。あの連中は人間じゃない。野蛮な猿だ。所詮は下賎な存在、自分よりも遥かに下等な生物だ。だから気に留める価値もない。全然痛くない。
 
 不死川心の崇高な努力はあんな猿共には汚せない。

 毎日の予習復習も道場での厳しい稽古も礼儀作法の練習も独りで作る影絵も全てが比類なく高貴なもので、低俗な庶民とは何の関係もない所にあるのだ。

 だから痛くない。少しも痛くない。

「ギャハハハ、プルプル震えてやがるぜあいつ、ダッセー!」

「ちょっとーやめなよー、あの子泣いちゃいそうじゃん!アハハ、泣いたらアンタのせいだかんねー」

「ちょ、マジかよ屈強なニイチャンに連行されちまうのかよ。下手な事は言えねぇなあ、おー怖い怖い」

「お金持ちって良いよなぁ、困ったらちょっと泣いてみせるだけでSPが飛んできて守ってくれるんだからよ。ホント羨ましいわー」

 怒り、憎しみ、妬み、侮蔑。ありとあらゆる負の感情が四方八方から降り注ぎ、心に突き刺さる。

 不死川心は、学園中の嫌われ者だった。

 それでも、普段の心なら気にも留めなかった。山猿に品性は期待しておらぬ、それに引き替え此方は……と自身の磨き上げた典雅さを再認識して悦に浸るだけの事であった。

 だが、今の自分は間違いなく高貴でも典雅でもない。自ら庶民に喧嘩を吹っ掛けて、屈辱的な手加減をされて、それでも何も、何一つ出来ずに立ち尽くしている。

 あまりにも無様。不死川の名に泥を塗るような姿を庶民の前に晒している自分が、情けなくて仕方が無かった。

 自身を守る誇りの鎧は砕け、怒りの盾は割れた。故に、言葉の矢は深く深く心に突き刺さる。

「どうせ戦えないんならよー、さっさと失せろよなぁ。時間が勿体ねぇわマジで」

 痛い。

「引っ込みつかなくなってるのかもしれないけどさ、自業自得よねー。同情とかムリムリ」

 それは、思わず泣きたくなるような、容赦なく鋭い痛みだった。

 耳を塞ぎたいのに、もはや耳を塞ぐ気力も湧かない。どこかへ逃げ出したいのに、どこにも逃げ場所はない。

 鼻の奥がツンと熱くなる。

 観客達の飛ばす野次がますます激しくなった。

 視界がぼんやり滲んだ。

 心が――折れそうだった。


「黙れ」
 

 それは、この決闘で初めて、織田信長が口を開いた瞬間だった。
 
 さほど大きく声を張り上げた訳でもないのに、その簡潔な言葉はありとあらゆる野次と罵倒を掻き消して、異様なほど明確な意思を伴って体育館に響き渡る。

 ほんの一瞬の出来事。つい数秒前まで口汚い罵言が飛び交っていた体育館に、痛いほどの静寂が訪れた。

「これは俺と、不死川心の決闘。余人に口を挟む許可を出した覚えはない――控えろ」

 言葉一つ一つに込められた圧倒的な殺意の奔流が観客達を貫き、即座にその顔色を失わせしめる。周囲を睥睨する信長の氷のような目に見据えられた者は、声にならない悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。

「……ふん」

 決闘場に完全な静けさが戻った事を確認すると、信長は心に向き直り、冷め切った目を向ける。その瞳のあまりの温度の無さに、心は思わずびくりと肩を震わせた。

 観客達を黙らせた理由は心に対する気遣いや優しさなどではない、と彼の目はこれ以上なく雄弁に語っている。

「貴様は何をしている。俺に勝つのではなかったのか?不死川心の実力を思い知らせる、と吹いたのは虚言か」

「う、じゃが、此方は」

 もはや決闘を仕掛けた時に胸中に滾っていた自信など、全て失っていた。この底の知れない信長という男を相手に勝利を得る術など何一つ思い浮かばない。ここに到るまでの十数分間、己の持てる全てを絞り尽くしても“死線”を突破する方法を見つけられなかったのだ。今の自分では、織田信長には及ばない。それが揺るがぬ現実なのだろう。
 
 敗北。

 ハンディキャップを背負った相手に手も足も出ず、全校生徒の悪意ある言葉の前に心を折りそうになり、それをあまつさえ敵である男に救われた形となった。貧民と見下し、軽侮していた相手に。誰の目から見てもこれ以上ないと断言出来るほどに明確な、敗北だった。他ならぬ不死川心自身が、誰よりもそれを痛感していた。

「柔道、か」

 悄然と俯いて敗北の味を噛み締める彼女を見遣りながら、信長は唐突に声を上げる。

「は?」

「立ち居振る舞いを見れば瞭然よ。貴様、柔道の心得があろう」

「う、うむ。確かにそうじゃが……」

 ここで誤魔化しても意味はないだろう、と心は素直に頷いた。手の内を一切見せていないこの段階で見破られるとは意外だったが、しかし武道に通じているならば有り得ないという程の話ではない。

 それよりも心は、唐突に話を振られた事に戸惑っていた。相変わらずの無表情を貫くこの男が何を考えているのかまるで分からない。そんな彼女の反応を意に介せず、信長はあくまで淡々と言葉を続ける。

「錬度も相当に高い。一年二年で身に付く物腰ではないな。身体が出来上がる前から、鍛錬を欠かさずに続けたか」

「お、おお。良く分かるものじゃの。高貴なる此方の幼き頃よりの嗜みじゃ」

「ふん、判らぬ道理はない。身体に刻んだ歴史を読み取るだけの話。成程。これだけ鍛錬を積んだなら、相応の実力を有していても不思議はない、か」

「ほほほ、もっと褒めても良いのじゃぞ。此方を讃える権利をくれてやろうっ」

 つい声が弾んでしまった事に気付き、心は慌てて自制した。しかし、胸の奥から込み上げてくる面映ゆい感情に、表情がニヤニヤと綻ぶのを止められない。

 嬉しかったのだ。プライドも意地も軽く凌駕してしまうくらいに、嬉しかった。

 眼前の庶民は猿共とは違う。

 心が日の当たらないところで確かに積み重ねてきた努力と、それによって得た実力を確かに認めてくれた。

 心を全く寄せ付けないほどに圧倒的な力を持っていながら――それでいて彼女の事を無能だと、家柄だけの詰まらない人間だと思っている訳ではないのだ。

 その事実は、先程までの陰鬱な気分を払って余りあるものだった。

 信長が自分に無礼千万な口を利いた事を忘れた訳ではないが、そんな事はもはや気にならない。いつの間にやら怒りもどこかへ消え失せている。まあ別に許してやっても構うまい、と上から目線で考えてしまう程度には、彼女は浮かれていた。

「師は?誰に指導を受けた」

「聞いて驚くがよい、かの高名な“跳関十一段”、青木シンジじゃ!」

「成程。ならば弟子の貴様も当然、飛び関節の使い手と言う訳か」

「にょほほ、その通りよ。此方の高貴なる飛び関節は師にも認められたのじゃ、称えるがよいぞ」

「ふん。対戦相手に自ら手の内を晒す貴様の浅慮さを称えておくとしよう」

「んな、なんじゃとっ!お前、誘導尋問とは卑怯じゃぞ!」

「……」

 こいつは果たしてどこまで本気で言っているのだろうか――信長は露骨な疑惑と不信の目を向けるが、しかし残念ながら百パーセント天然の産物だった。

 心は卑劣な手段で自らの切り札を暴かれた(主観)事に憤慨しながら、キッと信長を睨みつける。

「ふん。少しは見れた顔になったか」

「うむ?」

「今一度、“死線”を見極めてみるがいい。心が死んでいれば、瞼に浮かぶ幻像も自ずから死に向かうものよ」

 信長の言葉の意味はいまいち理解出来ていなかったが、しかしどうせ決闘の最中である。他に為すべき事がある訳でもない。既に敗北を認めていた事もあり、心はいつになく素直に従った。

 改めて精神を集中し、悠然と構える信長の姿を凝視する。

「む、むむ?」

 違う。心は、感じ取った“手応え”の差の大きさに思わず戸惑いの声を上げた。

 何故かは判らないが、妙に身体が軽かった。先程までの如く、気を抜けば即座に押し潰されてしまうような馬鹿げた重圧を今は感じない。明るい未来図が何一つ思い浮かばなかった先刻とは異なり、幾つもの道筋が鮮明なイメージを伴って脳裏に浮かび上がる。

 何故こうも感触が変わったのか、正直その理由は見当もつかないが――

(これならば、行ける!)

 確信を胸に、動き出す。イメージの彼女は信長へと真っ直ぐに疾駆し、正面から“死線”を踏み越え――そのまま足元から掬い上げる様な軌道を描いて信長の懐まで迫る。そして右腕で相手の右袖を、左腕で襟首を捉え、刹那の内に両脚を跳ね上げて首を刈る。一瞬の後には相手の身体を勢い良く体育館の床に叩きつけ、同時に関節を極めていた。

 何度も何度も繰り返した十八番の早業、その様はまさしく一撃必殺。

「決まった――!どうじゃ、華麗なる此方の飛び関節は!」

「幻影だ」

 冷めたツッコミに我に返ると、信長は呆れ返ったような無表情で心を見下ろしていた。

 気付けば一人で床に倒れ込み、空気以外には何もない場所に向かって関節を極めている自分がそこにいた。

「…………おほん」

 まずは咳払い一つ。ゆっくり身を起こし、着物の裾を払い、冷や汗を垂らしながら周囲の様子を窺う。

 審判の鉄心はそっと目を逸らした。忌々しき2-Fの連中は爆笑している。

「きまった!どうじゃ~カレーなるこなたの飛び関節は~」

 モノマネのつもりなのか、榊原小雪が床に転がってジタバタすると、2-Sの面々からも盛大な笑い声が上がった。

 心の顔が恥辱と怒りとその他諸々の要因で真っ赤に染まっていく。

「うぬぬぬ、待つのじゃ庶民共、何か勘違いしておらぬか!?今さっきのアレは此方のシミュレーションがパーフェクト過ぎた結果であってじゃな―――」

 心の必死の釈明は誰の胸にも響かず、代わりとばかりに生徒達の笑い声が体育館に響く。

 しばらく恥辱に打ち震えていた心だったが、やがてギラリと目を光らせて信長を睨み据えた。

「良かろう!先程の動きを実演してみせれば、無知な山猿どもとて此方を賞賛せざるを得まい!覚悟するのじゃっ!!」

 顔を真っ赤にして喚くと、心は迷いも躊躇いもなく即座に床を蹴り飛ばした。その無鉄砲なまでの思い切りの良さは、十数分間も逡巡して動けずにいた少女と同一人物とは到底思えないものだ。

 しかし、実際はその考え無しっぷりこそが不死川心の本来の姿である。先程までの弱気な態度は、慣れない殺気が彼女を狂わせていたに過ぎない。

 真正面から自分へ向けて突撃してくる少女を見遣りながら、信長は人知れず、疲れたような溜息を吐く。

「ふん。何とも、締まらん結末だ」

 駆ける駆ける。身を縛る殺気の恐怖も薄れ、枷から解放された心は自身の思い描く最高の動きで“死線”へと迫る。

 切っ掛けこそは馬鹿馬鹿しいものだったが、余計な雑念の消え失せた彼女は間違いなく自身のポテンシャルを最大まで引き出していた。

“気を強く保つ事、そして決して心を折らない事”。

 皮肉にもその言葉がすっかり脳裏から抜け落ちた今になって、心は師の教えを正しく実践出来ていた。信長の放つ殺気にさして身動きを鈍らせる事も無く、最大速度で突進する。

 そのまま何の妨害もなければ、先のシミュレーション同様、本物の信長に高貴なる飛び関節が炸裂していた事は疑いない。しかし、何事も理想と現実は異なるものだ。“待ち”に徹するに際して、織田信長という男が自身の領域内に罠を用意していない筈もなかった。

(な、身体が動かぬ!?)

 身を低く沈めた姿勢で“死線”を踏み越えた瞬間に心を襲ったのは、凄まじいまでの威圧感。これまで浴びてきた殺気をあたかも凝縮して一点に集中させたかのような、途方も無い密度を有する殺気の渦であった。

 氷の嵐に巻き込まれる感覚。瞬く間に気が遠くなり、冷や汗が噴き出る。それでもどうにか意識だけは繋ぎ止めたが……それ以上の抵抗は不可能だった。

 気の持ちよう、などといった精神論でどうにかなるレベルではない。心には、殺気という概念に対する経験値そのものがまるで足りていなかった。

 完全に想定外の威圧に精神面での対応が間に合わず、指先の一本に到るまで身動きを封じられ、それでも突撃してきた勢いと慣性に任せて、ぐらり、と身体だけが前方へと流れる。

(あ)

 これは終わった、とやけに冷静な気分で状況を分析している自分に気付く。

 そして、カウンター狙いで繰り出された信長の膝蹴りが、無防備な心の額に突き刺さり―――暗転。

「無様な。タックルに膝を合わせられるなぞ。入る時最も留意すべき事を怠るとは……」

 薄れゆく意識の中、最後に認識できた言葉は、織田信長の淡々とした批評であった。











――今回の決闘は……色々と、失敗したな。

 蘭を三歩後ろに引き連れて、目的地へと続く廊下を歩きながら、俺は心中にてひとり反省会を行っていた。議題は言うまでもなく、俺が先刻不死川家の御息女と繰り広げた、実にグダグダな決闘である。

 基本的には計算通りに進んだのだ。不死川心が殺気に慣れていない事を見越して、視覚的に分かり易い“境界線”を用意することで、まずは心理的な拘束を加える。ここでそのまま無謀に突撃してきたならそれでよし、境界線の内部、ごく狭い範囲にのみレベルの違う殺気の渦を張り巡らせておけば、敵の懐まで接近する以外に攻撃手段を持たない柔道家を相手にカウンターを狙うのは容易である。板垣一家のように殺気慣れしている相手にはリスクが大きすぎて使う気にはなれないが、今回のように一般人が相手のケースでは非常に有効な手だ。

 更に、あくまで自分に有利な状況を作るために用意した境界線を、あくまで移動を自ら制限するハンディキャップと見せかける事で余裕を見せ付け挑発とし、相手の怒りを煽り冷静さを奪う。実際、積極的な攻めを何よりも苦手とする俺にとっては、境界線の存在はハンデでも何でもないのだ。むしろ、自ら動かない理由に正当性を持たせられるという意味ではメリットでしかない。
 
 そして、想定していたもう一つのパターン。不死川心が殺気の影響を強く受けて、“境界線”を越えられず、身動きが取れなくなった場合。こうなれば、時間が俺の味方をしてくれる。俺が動かない理由は特殊ルールによって正当化出来るので、必然的に批判は不死川の方に集中するだろう。そこで、何も出来ない無力感に打ちひしがれている彼女に舌鋒による追撃を掛け、高慢な心を完全に叩き折った上で敗北を認めさせる――それが本来の俺のプランだった。
 
 しかし。最大の誤算は、不死川心という少女の嫌われっぷりの凄まじさだった。まさか観客達からあそこまで容赦のない精神攻撃が加えられるとは想定もしていなかったため、当初の予定とは逆に俺が火消し役に回る羽目になってしまったのだ。確かに心を折るのが目的ではあったが、それは織田信長に対する反抗心という意味であって、それ以外の大事な部分まで一緒にへし折ってしまいかねない観客達の罵倒を見過ごす訳にもいかなかった。御息女が精神に傷を負った原因、として不死川家に恨みを買うのは絶対に御免である。
 
 そんな訳で、心を折る事を目的としていた筈の俺がなぜか彼女を罵倒から守り、あまつさえフォローとしてメンタルケアのような真似をする羽目になるという、何とも喜劇じみた顛末を経た後、取り敢えず当初の予定に従いカウンター攻撃を叩き込んで勝利を掴んだ訳だが……何だろう、まるで勝った気がしない。いや、確かに勝利は勝利なのだが、この勝利が俺に対してどういう風に作用するのか予想が付かなかった。計算で動く俺のような人間にとって、こういった状況は落ち着かないものがある。

 まあ、そういった理由もあって――俺は今、保健室を目指している。

 額にカウンターで膝蹴りを叩き込まれてダウンした少女は、担架で保健室に運び込まれていった。俺程度が繰り出す一般人レベルの攻撃に大袈裟だとは思うが、俺の実力を過大評価している周囲の人間からしてみれば、頭蓋骨粉砕の危機にでも見えたのだろう。

 ひとまず決闘を終えた後、俺は教室に戻り、五・六・七時間目の授業を普通に受けて、そして現在の放課後に至る。その間、不死川心が午後の授業に復帰することはなかった――という事で、俺はお見舞いのような真似をする事にした訳だ。本来の織田信長ならば打ち負かした相手など捨て置くのだが、今回は少しばかり計算違いがあった。誤差は修正しておかなければどうしても気に掛かってしまうだろう。

「入るぞ」

 ノックなどというせせこましい真似は織田信長のキャラに似合わない。そんな判断の結果として、俺は前触れも無く保健室の扉をガラリと開いた。

 結論から言うならば、間違いなく失敗だった。

「んな、ななな」

 数時間ぶりに顔を合わせる不死川心は、今まさに着替えの真っ最中であった。

 肝心な部分こそ隠れているが、普段は着物に覆われて見えない肌、シミ一つ無い白磁のような絹肌が大胆に露出している。

 心は固まったまま呆然とこちらを見つめて、そして瞬く間に涙目になっていく。

 ああ畜生こんな漫画みたいなベタベタなシーンによりよってこの織田信長が遭遇するとはやはり計算を違えたのが原因なのだろうか――俺の現実逃避気味な思考は、当然来るべき少女の反応によって断ち切られた。

「にょわぁぁぁ~っ!?」

 その悲鳴はあられもない姿を見られた少女のそれとしてはどうなのだろうか、と思わずツッコミを入れたくなるような間の抜けた声を上げながら、心は見蕩れるほど素早い動きで備品のベッドに逃げ込んで布団の中に潜り込んだ。

「……」

 素早く周囲の様子を窺う。校医は席を外しているのか、保健室内に他の人間の姿はない。四時間目にここに運び込まれた歴史教師はもう復帰したか。

 危なかった。過失とは言え、織田信長が覗きのレッテルを貼られるなどあってはならない。後はどうにか本人を納得させられれば問題は何も――そんな風に打算を巡らせる俺だったが、不意に背筋を走るゾクリとした感覚に思わず振り返る。

「どうなさいましたか?主。主に他意のない事、蘭は承知しております。今回の件は紛れも無く不幸な事故でございました。ですが」

 何やら怖いくらい清清しい笑顔で、蘭はニコリと笑った。

「謝るべきかと。乙女の肌は、安いものではありませんよ?主」

 言葉遣いこそは丁寧だったが、蘭の口調には有無を言わせない何かがあった。

 まあ今回に関しては全面的に俺が悪いだろう。認める他ない。

 俺は心中で溜息一つ落とすと、物言わぬ布団の膨らみに声を掛けた。

「不注意を詫びよう。俺は一旦外に出る故、着替え終えたら呼ぶがいい」

 ぶっきらぼうな調子で言葉を投げると、俺はさっさと廊下に出て扉を後ろ手に閉めた。

 誰がどう見ても謝っているような態度には見えないだろうが、しかし織田信長としてはこれが限界だ。実際、謝罪の言葉など口にするのも久々だった。

 キャラ作りというのもなかなか難儀なものだ、としみじみ思う。

「は、入ってもよいぞ」

 たっぷり五分ほど待ったところでお許しが出る。

 という訳で再び部屋に足を踏み入れると、不死川心はトレードマークの着物姿でベッドに腰掛けていた。なるほど、やけに時間が掛かったのはこの衣装が原因なのだろう――そんな事を考えながら歩み寄る。やはり先程の件が尾を引いているのか、心はその間、少し頬を赤くしながらチラチラと視線を彷徨わせていた。

 どうにも気まずい雰囲気が漂う中、俺は普段の調子を取り戻すべく、意図して冷たい声音を上げる。

「ふん。惨めな敗者の顔を拝みに来てやったぞ。下賎な貧民風情に敗れた気分はどうだ?」

 嘲笑うような語調で、あくまで意地悪く。どことなく緩んでいた場の空気を引き締める。心は開口一番に皮肉を飛ばした俺に、怒るよりもむしろ呆れているようだった。

「……見舞いに来るような殊勝な奴ではないと分かっておったが、腹立たしい奴じゃの。全く、礼儀を知らぬ輩はこれじゃからイヤなのじゃ」

「よりによって貴様が礼儀を語るとは笑止だな、不死川心。貴様の態度の何処を見れば礼儀を感じられる?」

「此方は選民ぞ、高貴なる此方から見れば庶民など猿同然よ。野卑で粗暴で品が無い。猿に礼を尽くす人間はおるまい」

 心は表情を歪め、苦々しい口調で吐き捨てた。単なる嫌悪だけではなく、相当に根深く絡まり合った感情を感じさせる声音。彼女が選民思想に染まり切っているのは不死川家の教育もあるのだろうが、それ以外にも何か原因がありそうだった。

 何にせよ、一回の決闘で惨敗した程度の事では彼女の価値観を変えるには到らなかったようだ。まあ当然と言えば当然、人はそう簡単には変えられない。十数年の長きに渡って培ってきた価値観を崩すのは、並大抵の事では不可能だろう。

 仕方が無い。今回は失敗だが、チャンスは何度でも存在するのだ。彼女の反抗心を折るのはまた次の機会に回すとしよう。俺は気分を切り替えて、普段通り意地の悪い皮肉を飛ばしてやることにした。

「くく。その猿同然の庶民に敗れた以上、即ち貴様は猿以下の存在と言う事か。確かに記憶しておくとしよう、不死川家の息女は猿にも劣るとな」

「馬鹿を言え、何故にそうなるのじゃ?此方がいつ庶民などに敗れたというのじゃ」

 俺の皮肉に怒りで顔を赤くするかと思いきや、心底不思議そうな様子で首を捻る。

 どうにも話の流れが妙だった。状況を整理するため、俺は思考に沈んだ。

「……記憶に障害が出たか?頭部を強打したゆえ、可能性としては有り得るが……」

「うむ?何を訳のわからん事を」

 心はますます首を捻った。訳が分からんのはこっちだ、と怒鳴りたくなる衝動を抑えて、俺は大人しく彼女の言葉の続きを待つ。

「簡単な事よ、此方はお前を選民と認めたのじゃ。故に猿ではない。人間同士で競えば優劣が生じても不思議はあるまい?此方より勝利を得た栄誉、誇るが良いぞ」

 心は偉そうに胸を張りながら、あたかも当然の事を述べているかの如き調子で言い切った。

 これはつまりどういう状況だ?あまりにも展開が唐突で理解が追いつかないが……要するに、彼女個人の価値観自体は何も変わっていないが、決闘を通じて織田信長という人間を認めさせる事には成功した――のか?

 しかしそれにしても、家柄がどうのこうのとあれだけ高らかに言い張っていた彼女が、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。そんな疑問が表情に出た訳でもないだろうが、心がやけに神妙な調子で口を開いた。

「猿に人間が理解できぬのと同様、庶民如きには高貴なる此方を理解する事はできぬ。しかし、お前ならば此方と同じ所に立ち、此方と同じモノを見られると思ったのじゃ。家柄はどうにもならぬが、お前ならば気にならぬ。――此方の友となるのじゃ、織田よ」

「断る」

「にょわっ!?な、何故なのじゃ!」

 間髪入れない俺の返答に、ショックを受けたように涙目になる心。まさか断られるなどとは全く想像もしていなかった人間の反応だった。

 正直に言うとノリで断ってみただけなのだが、まあそれだけでは何なので、無駄に偉そうな態度が気に障ったと言う事にしておこう。

 それにしても、友と来たか。反抗心を叩き折って余計な文句を言えなくするのが当初の目的だったのだが、何とも妙なところに着地したものだ。やはり計算が狂うと着地点もズレてしまう。

――今回に関しては、なかなか悪くない所に辿り着いた訳だが。

「俺に友は居ない。不要よ」

「う、むぅ……そうか……」

 よほど落胆したのか、肩を落として沈み込む。想像以上に深刻なダメージを受けている心の様子に和みながら、俺は淡々と言葉を続けた。

「だが、勝手に俺を友と呼ぶお節介ならば、既に幾人か心当たりがある。一人や二人、増えたところで――今更よ」

「うむ?それは……」

 何も無駄に敵対して刺激する必要などない。不死川家の息女と友誼らしきものを結べたならば、それはそのまま日本三大名家とのコネクションとなる。将来を見据えれば間違いなく、より価値のある結果と言えるだろう。

 そんな打算を胸に秘めながら、俺は不安げな顔でこちらを窺う心に、無愛想に言い放つ。

「ふん。好きにするがいい」

 言葉の意味を悟った瞬間、見る見るうちに心は顔を明るくした。

 まるで友達と呼べる存在が初めて出来たかのように表情を輝かせ、心の底から嬉しそうな満面の笑顔を浮かべる少女の姿に―――普段からそういう顔をしていればあそこまで嫌われる事も無いだろうに勿体ない、と。俺は嘘偽りなく、そう思った。


「と、取り敢えずメアドを交換するのじゃ!こういう時は、えーと、赤外線?を使うのじゃろ?なんじゃその目は、勿論知っておったわ!」


 こうして、計算違いの決闘から始まった織田信長と不死川心の奇妙な付き合いは、当初の予想を遥かに超えて長いものになるのだが――

 
 取り敢えず、彼女に本当に友達が一人も居なかったという事実を俺が知るのは、そう遠い先の話ではなかったとだけ言っておこう。

















 ココロ100%。今回の話を端的に表現するとそうなりますね。他キャラは添え物。
 心の価値観やら行動原理やらに関しては、原作をプレイした限りではいまいち不透明な部分があったので、割と独自に捏造していたりします。ですので、自分の知ってる心と違う!という方には、まあ解釈の違いと思って頂ければ幸いです。
 まじこいSが出ると、彼女に関しても色々と根幹に関わる新設定が明かされそうで怖い今日この頃。それでは、次回の更新で。



[13860] SFシンフォニー、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4775c47
Date: 2011/02/17 22:10
 四月十三日、火曜日。 

 特に何の事件も波乱もなく朝を迎えた俺は、いつもの如く蘭の用意した朝食を胃袋に流し込み、軽めの鍛錬で身体のコンディションを確認し、周囲に舐められない容貌を保つ為に身支度を整え、そして川神学園へ向けて出発―――する前に、自身の二つ隣の部屋へと立ち寄った。

「むにゃむにゃ……もう食べられにゃいぃ」

「……」

 寝室に足を踏み入れた俺を出迎えてくれてたのは、あまりにもベタ過ぎて思わずツッコミを放棄したくなるような寝言であった。そんなモノをだらしなく開けた口から涎と一緒に垂れ流しているのは、誠に遺憾ながら俺にとっての他人ではない。紆余曲折を経て先週の日曜日からこのボロアパートに棲み付き始めた、理知に富み気品に溢れ清楚且つ貞淑な良家の子女(自己申告)にして、織田信長が直臣第二号。愛称ネコこと明智ねねが、ベッドの上にてニヤニヤと頭の緩い笑顔を浮かべながら爆睡中であった。

「鰤……鯖……鮎……えへへへぇ」

 海中遊泳の夢でも見ているのだろうか。見ればこやつ、掛け布団を向かい側の壁にまで蹴り飛ばすという脅威の寝相の悪さを発揮している。こいつは確実に冬場に不注意で風邪を引くタイプだろうな、いやしかし馬鹿だから大丈夫なのか――などと呆れながら思考していると、従者第一号がきびきびとベッドへと歩み寄った。

「ねねさん。ねねさん、朝ですよ。起きてください、ねねさん」

 耳元で囁きながら、ちみっこい身体をゆっさゆっさと揺さぶる。どう見てもその手付きは俺に対するソレよりも乱暴だった。昨日も同様に起こそうとしたのだが、声を掛けて揺すった程度ではまるで反応を得られず、結局諦めて放置する羽目になったので、蘭の奴も今回から情け容赦は捨てる事にしたのだろう。ねねの頭部がガクガクと縦横無尽に跳ね回るが、しかしそれでも一向に目を覚ます様子はない。どう考えてもあれだけ脳をシェイクされれば問答無用で覚醒するものだろうに、一体全体どういう身体構造をしているのだろうか。なかなか興味深かった。

「ああもう、ねねさんだって学生のハズなのに……場所は知らないですけど、このままじゃどう考えても遅刻確定ですよ!ねねさん!」

「すぴー、くかー。むにゃむにゃ」

 先程よりかなりボリュームを上げて声を掛けるも、返ってくるのは腹立たしいほど安らかな寝息のみ。性格故に暴力的な手段に訴える気にはなれなかったのか、蘭は困り果てた顔で立ち尽くした。

 そんな我が従者どもの情けない姿を傍目に、俺は腕時計を確認する。時間的にそれほどの余裕がある訳でもなし、こんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。という訳で、俺は奮闘中の蘭に声を掛けた。

「蘭。往くぞ、莫迦な従者なぞに構っている暇はない」

「う、うぅ……。お言葉ながら、このまま放って行くのはちょっと」

「ふん。それで主が遅刻していては本末転倒よ」

「は、ははっ、承知致しました。まったくもう、帰ったらちゃんとお話ししないと……」

 どことなく黒いオーラを発しながらブツブツと文句を垂れる蘭を引き連れ、部屋を後にする。閉まりゆくドアの隙間から最後に見えたのは、何事も無かったかのように惰眠を貪りながら布団の上で寝返りを打っている馬鹿の姿だった。

 しかしそれにしても、奴は本当に“あの”明智家の御令嬢なのだろうか。一度裏は取ったとは言え、これまでの立ち振る舞いからはまるで信じられない。やはり改めて確認する必要がありそうだ、と割と真剣に思考しながら、俺はアパートを出立した。






 変態の定義とは何だろうか。
 
 一体何を以って人間を変態にカテゴライズすべきなのか。

 どこからどこまでが変態で、どこからどこまでが一般人なのだろうか。

 人力車に乗って登校する金色スーツ着用の九鬼財閥御曹司やら、白粉を顔面に塗りたくって公家のコスプレっぽいものをした歴史教師やらは間違いなくその枠に入るべきだと思うが……、そう、例えば、ロープで結んだタイヤを三つほど後ろに引き摺りながら猛ダッシュしている女子高生がいたとしたら、俺は彼女を変態と呼んでもいいのだろうか。

 多馬大橋、通称変態の橋を渡っている途中で彼女に追い抜かされた直後、俺はそんな事を考えていた。

「ん?」

 ふと既視感のようなものを覚え、俺は首を傾げる。視線の向かう先は前方数十メートル、多馬大橋の終端。ダッシュを終えて休憩中なのか、清清しげな表情で汗を拭きながら、欄干の傍で足を止めている少女。腹の部分にはロープが巻き付けられ、その先は相当重量のありそうなタイヤに繋がっている。朝のトレーニングが一段落、と言った所なのだろう。

 ランニング。鍛錬。努力家。川神学園。……川神。

「ふん。成程な」

「お知り合いですか?主」

「否。一方的に知っているのみ」

 俺の予想が間違っていなければ、間接的とは言えこの織田信長とそれなりに縁のある人物だ。推測を確信へと近付ける為、俺は前方にて休んでいる少女へ向けて足を進める。

 近付くにつれ徐々にはっきりと目に映る、栗色のポニーテールと眩しいブルマが活発な印象を与えるその姿は、事前に集めた情報とも合致していた。これはもはや間違いあるまい。

 川神学園における俺の最大の警戒対象、世界最強たる武神、川神百代―――その妹、川神一子。

 妹とは言っても百代との血の繋がりはなく、義妹である。孤児院出身の彼女が里親を亡くして途方に暮れていた際、百代の意を汲んで川神院が養女として引き取った、という経歴の持ち主だ。当時……あれは確か十年近く前の話だったか、ローカルニュースとして報道された事を覚えている。武道の総本山・川神院が養子を取るということは、ただそれだけで事件として扱われるほどにセンセーショナルな出来事なのだ。

 そして、彼女個人がどういう人物かと言うと。ひたすら明るく素直で、分隔てなく他者に接し、ひたむきで努力家。良くも悪くもアクが強過ぎてともすれば周囲に倦厭されがちな姉とは、正直あまり似ているとは言えない性格である。実際、俺が調べた限りにおいては、彼女は総じて周囲の人間に愛されている様子だった。川神学園においても学年を問わず男子からの人気が高く、姉の存在さえなければ言い寄る男は幾らでもいるだろう、と葵冬馬は語っていた。

 成程。成程成程。この少女が、俺の親友が恋焦がれる、川神一子か。

 常日頃の織田信長ならば一般学生など無視して学園へ向かうところだが、しかし俺は彼女という人間に興味があった。忠勝の件もあるが、それだけではない。忠勝の想いを知るよりも更に以前から俺は川神一子という少女を知り、その存在に結構な興味を抱いていた。だからこそ俺は、足を止めて息を整えている彼女の横を素通りする事はしなかった訳だ。

「くく。精が出るな」

「うわわわ!?」

 おもむろに立ち止まって声を掛けると、彼女はよほど驚いたのか、目を白黒させながら大袈裟に飛び上がった。この調子だと今の今まで俺の存在には気付いていなかったらしい。走って追い抜いた際に間違いなく俺の姿は視界に捉えている筈だが……よほど集中して鍛錬に臨んでいたのか、それともよほどの鈍感なのか。川神の姓を名乗る以上、前者と考えるのが自然か。

「あ、アンタ!2-Sの転入生ね!?」

 少女は素早く俺との距離を取ると、警戒も露にこちらを睨みつける。ぐるる、と威嚇するような唸り声が聞こえた気がした。

「……」

 そんな彼女の様子を観察しながら、俺は思考を巡らせる。誰にでも分け隔てなく接するとは言っても、さすがにその性質は織田信長には適用されなかったようだ。彼女個人にそこまで嫌われるような事をやらかした覚えはないが、しかしまあ学園の一般生徒からしてみれば俺の存在は、例えそこに居るだけでも警戒と恐怖に値するものとなっているのだろう。それでいい。心の底から望む所だ、そうでなくては困る。

「いかにも。もっとも、貴様と顔を合わせた覚えはないが、な。俺の顔も売れたものだ」

「あれだけ派手に決闘を繰り返してたらイヤでも覚えるわ。お姉さまもアンタと戦いたい戦いたいっていつもぼやいてるし」

「お姉さま。……成程、川神百代に義妹がいるとは話に聞いたが、貴様がそうか」

「そうよ、アタシは川神一子!この名前を覚えとくといいわ、今でこそお姉さまはアンタに夢中だけど、いつか私に振り向かせてみせるからね!」

「……」

 禁断の姉妹愛、という言葉が咄嗟に頭に浮かんだ自分をぶん殴ってやりたい。

 ビシィッ!と恐れ知らずにも織田信長に向けて指を差しながら胸を張る少女に、ああこいつはきっと世間で“愛すべき馬鹿”と呼ばれる人種なんだろうなぁと痛感する。ちなみに愛すべきでない馬鹿の例としては、嘆かわしい事に我が従者たる明智ねねが真っ先に挙げられる。未だ数日の付き合いだが、既に奴の可愛げのなさは十二分に思い知らされたものだ。

 と、あんな莫迦従者の事を考えていても仕方が無い。注意を目の前の少女、川神一子に戻す。俺を見る彼女の目にはメラメラと敵愾心の炎が燃えていた。或いはライバル視でもされているのだろうか。いずれにせよ、彼女は俺の事をそれほど恐れている訳ではないようだ。

 その事実に対して俺が抱いた感情は、不快さではなく――むしろその反対。

 面白い。あまりの愉快さに、思わず笑いが込み上げてきた。

「くくっ」

 対外的には嘲笑うような表情にしか見えないであろう俺の顔に、一子はむっとしたように眉を寄せた。

「あ、笑ったわね!うぅ~、確かに今のアタシじゃアンタやお姉さまには届かないけど、アタシは常に進化し続けてるんだから!いつまでも余裕じゃいさせないわよ!」

「ふん。俺や川神百代を超える、か。くく、ソレがその為の手段という訳か?」

 ロープの繋がる先、トレーニング用のタイヤに目を遣りながら言う。これまでよほど使い込まれたのだろう、擦り切れてボロボロの有様だった。

「そう、日々の積み重ねが大事なのよ。諦めずに努力し続ければ道は開ける!ユーオウマイシンってね」

「ユーオウマイシン……勇往邁進、か」

「川神魂ってヤツよ。アタシはいつか川神院の師範代になって、お姉さまと肩を並べてみせる!」

 紡ぐ言葉には一片の疑念も迷いも不安もなく、ただひたすらに前だけを見据えた瞳が眩しく輝いている。それは、心の底から夢を追い求め、その実現を信じている人間の表情だった。遥かに遠い目標へと真っ直ぐに突き進む、愚者の姿だった。

 いつだったか、釈迦堂の口から川神一子について耳にした事がある。曰く、武の才能など殆ど持ち合わせてもいない癖に、川神院の師範代という狭過ぎる門を目標とする、実に愚かな少女がいる、と。天才が一の鍛錬で習得する技に十の鍛錬を費やし、血を吐くような努力に努力を積み重ねて、ようやく彼らの背中に喰らい付いている、そんな哀れな少女。誰の目から見ても届く訳のない夢を追い求め、諦めることなく必死に足掻き続けている。

 その話を聞いた時、俺が顔も知らぬ少女に対して感じた想いは、賞賛でも侮蔑でも憐憫でもなく―――深い共感、ただそれだけだった。

「くくっ」

「むっ、また笑ったわね!人の夢を笑うなんて、アンタやっぱり」

「いや。世は俺にとって、嘲笑うべき事物で満ち溢れているが……俺は、“夢”を笑う事は、ない」

 例えその夢が荒唐無稽で身の程知らずなものであっても、そこに向けて積み重ねた努力を否定するような真似はしない。そんな行為は、俺自身の人生の否定そのものだ。

 俺の真摯な言葉が意外だったのか、一子は驚いたように目をパチクリさせていた。

「そ、そう?でも確かに笑ってたような……すごくイヤな感じで」

「言った筈だが。世は俺にとって、嘲笑う事物で満ち溢れていると。俺が笑わぬのは“夢”のみよ。貴様の存在そのものには、嘲笑うべき点が多過ぎる」

 さて。この川神一子という少女には色々と共感を覚える点があるし、個人的な感情としては決して嫌いではないのだが―――それとこれとは話が別だ。

 俺には俺の夢がある。冷酷非情の支配者・織田信長を演じ続ける為、ここからは情ではなく理で動かせて貰うとしよう。

「な、なんですって~!言わせておけばアンタねぇ!」

「ふん。……思い上がるな、と言っている」

「っ!?」

 会話を円滑に進めるために抑え込んでいた殺気を解き放ち、強烈に周囲を威圧する。突如として増したであろう重圧に一子は息を呑み、凍り付いたように顔を強張らせた。

 川神院の養女と言ってもやはり一般人。殺気にはそれほど慣れていないようだ、と冷静に相手の戦力を分析しながら、俺は恫喝の響きを含ませた言葉を投げ掛ける。

「俺の視界を阻む障害物は悉く滅する。川神一子。貴様の夢が何であれ、俺の“敵”として立ち塞がる心算ならば――その芽は疾く刈り取るのみよ」

「うっ……」

 一子は声にならない呻きを上げて、狼狽したように後ずさる。当然の話だ。相手が武道に通じていればいるほど、俺の姿はより凶悪なものとしてその目に映る。ましてや川神院に起居し、あの川神百代や釈迦堂刑部と生活を共にした彼女ならば――俺の発する気がいかに異質なものであるか、感じ取れない筈は無い。

「己が裁量を弁え、牙を剥く相手を選ぶがいい。夢半ばで倒れるのは本意ではあるまい」

 元々それほど気の強い性格ではないのだろう。じわり、と目の端に涙を浮かべ、明らかに怯えの混じった表情をこちらに向ける。

 そんな彼女に冷たく言い捨てると、俺は固まった彼女を放置して歩き出した。あの様子を見る限りでは、俺と無闇に敵対しないよう釘を刺すことには成功したと考えて良さそうだ。川神の姓を持つ彼女を抑えておけば、或いは背後に控える川神院に対する牽制として作用するかもしれない。

 まあ実際、その辺りに関してはそれほど深く期待してはいないが、しかし本命の“風間ファミリー”に関しては――――

「やいやい待ちやがれ!よくもウチのワン子を泣かせてくれやがったな!」

 打算を巡らせながら立ち去りかけた俺は、背後からの威勢の良い怒鳴り声に思考と足を止めた。

 脳内で考えただけで噂などしていないのだが、現れる時には現れるものか。

「ちょ、キャップ!放っておけばあのまま行ってくれたのに」

「おいおい、そりゃちょいと弱気が過ぎるんじゃねぇか、軍師さんよ?俺様たちの愛すべきペットが泣かされてるんだぜ?」

「今回は僕もガクトに賛成かな。見過ごせないよ、こんなの」

「それに大和。キャップが止めなかったら、私が止めてたよ。ファミリーのみんなに手を出すなら、私が黙ってない」

「み、みんなぁ~」
 
 ……五人。否、川神一子を数に含めれば六人か。ここにきて新たに現れた計算要素に頭を高速回転させて策を練り上げながら、悠然と振り返る。

 少年が四人と少女が一人。こちらを険しい目で見つめる面々の中に、見覚えのある顔はなかった。俺は彼らに冷徹な視線を向けながら、分析を開始する。

 まずは計算高そうな目で注意深く俺を観察している少年、恐らく戦闘能力はほぼ皆無。

 この中では俺に対して最も強く怒りを感じている様子の色白で細身の少年、こちらも同様。

 190cm程の大柄な体躯と強靭そうな筋肉を有する少年、これはまあ見た目通りそこそこ強い。

 他の面子からキャップと呼ばれた、正面から堂々と俺を見据えている少年、強い事は強いがやはり一般人の域を出ない。

 分析完了。取り敢えずこの四人に関しては、さほどの警戒には値しないと考えても良さそうだ。

 となると問題は、残りの一人。

 静かながらも異常な敵意を込めた鋭い目で俺を睨んでいる少女―――これは、文句なしに強い。

 俺ではすぐには測り切れないレベルだ。つまりは蘭や天と同じく、人外クラス。何ともまあ、次から次へと厄介な相手が出てくるものだ。川神学園は人外の宝庫か?

「蘭」

「ははっ、此処に」

 万が一の事態に備え、忠実なる我が従者を呼び出しておく。どこからともなく現れると、蘭は俺の後ろに控えた。

 場合によっては川神一子とは蘭に聞かせたくない類の会話を交わす可能性があったので、先程から少し遠ざけていたのだが……結局は無駄な心配りに終わった訳だ。

 ただ、忍者の如く唐突に現れる事で、始めから気配に気付いていたと思しき少女以外の面々を驚かせる事には成功したらしい。だからどうしたと言われるかもしれないが、心理的に優位に立つ為にはこういった小細工も馬鹿に出来ない。

 俺は改めて彼らを見回した。命知らずにも織田信長を敵に回そうとしている、無知な一般生徒たち。

「ふん」

 面倒な事になったものだ、と俺は心中にて溜息を零す。彼らが本当に真の意味で一般生徒ならば、何も問題は無かったのだが。

 俺の仕入れた情報が正しければ、彼らは“風間ファミリー”と呼ばれる集合体――などと言うと大袈裟な話で、実際はリーダーである風間翔一を中心に集った幼馴染七名の小規模な学生グループである。単にそれだけならば俺の情報網に引っ掛かる事は決して無かっただろうが……
 
 唯一にして最大の問題は、このグループの構成メンバーとしてあの川神百代が存在している事実だ。

 それはつまり、下手に彼らに対して手出しをしようものなら、最強の武神による報復を覚悟しなければならない事を意味している。常に戦いに飢えている百代のことだ、口実を与えれば嬉々として攻撃を仕掛けてくるだろう。それだけは全霊を以って回避しなければならない事態だった。

 要するに、と俺は思考を纏める。この場における俺の勝利条件は、彼らに具体的なダメージを与えることなくさっさと戦意喪失させるか、或いは平和的に話し合って解決するか。その二つに絞られてくる訳だが、この状況から平和的な話し合いに持っていくのは相当に難易度が高そうなので、必然的に取れる手段は一つしか残らない。

 やれやれだ。一子に声を掛けた自分の責任もあるが、朝っぱらからこんな厄介事に遭遇するとは面倒極まりなかった。そもそもこういう状況を未然に防ぐため、一子を脅かしておいたと言うのに、何ともタイミングの悪い。げんなりした気分になりながら、可能な限り早めに片付けるべく行動を開始する。

「俺を呼び止めたな、貴様。当然……この俺の歩みを妨げるに足る、十分な理由があっての所行であろうな?」

 何もわざわざ本気を出す必要はない。相手が一般生徒であれば、手を抜いたところで怯え竦んで凍り付く結末は変わらない――そんな侮りが計算違いを生んだ。

 俺の放った殺気を浴びて、確かに彼らは顔色を失くし、怯んではいたが、しかし誰一人として心を折られた様子はなかった。特にキャップと呼ばれた少年は殆ど恐怖した様子もなく、真っ直ぐに俺の目を見返して、堂々と声を上げた。

「てめーは俺の仲間を泣かせた!それだけで十分すぎる理由だぜ」

 あの川神百代が自分の上に立つリーダーと認めた男、風間翔一。どういう人物なのか、と色々考えていたが、納得した。武力云々ではなく精神性を買われたという訳か。

 確かに、織田信長を相手に一歩も退かずに対峙するその姿からは、人を惹き付けるカリスマ性が感じられる。

「然様か。ふん、その程度の理由で十分とは恐れ入る。貴様らの命は、随分と軽いらしいな」

 ならば、もはや侮りはすまい。先程の反省を活かし、威圧のレベルを戦闘用の状態まで底上げする。ギシリと音を立てて、空気が歪んだ。

 殺気もこの段階になれば、もはや相手の心が折れていようが折れていまいが関係はない。有無を言わさず“死”を脳髄に認識させて身体機能を喪失させる。言ってしまえば、フィジカル面に直接働きかけて身動きを封じるのだ。根性だの仲間への想いだの、そんな少年漫画的な理屈が入り込む余地はない。

「くっそ、動けねぇっ!」

「ちぃっ!何だよコイツは……ムチャクチャじゃねーか」

「くぅ……、姉さんがあそこまで大喜びする理由が、やっと分かった気がするな」

「反則でしょ、こんなの……!」

 リーダーの風間翔一を含めて、少年達は一様に悔しげな表情で彫像と化す。人間である以上、殺気に対する拒絶反応に例外はない。

 故に、その影響を撥ね退けられるのは何時だって人外でしか有り得ないのだ。

「みんなは下がってて。私がやる」

「よせ京、一人でどうにかなる相手じゃない!」

「心配ありがと、大和。でも、みんなでやればどうにかなる?分かってるハズ、この男は化物だって。モモ先輩が認める相手だよ?みんなには悪いけど、足手纏いにしかならない。……大丈夫。たとえ一人でも、何があっても、ファミリーのみんなは私が守ってみせる」

「さっきから一人一人って、誰か忘れてないかしら?アタシだって、このまま皆がやられるのを見てるなんてゴメンよ!助太刀するわ、京!」

 京と呼ばれた少女と、立ち直った川神一子が他の面々を庇うように俺の前に立ち塞がる。両者ともに殺気が効いていない訳ではないが、恐らくは“気”の心得があるのだろう、少年達に比べるといまいち効果が薄い。

 まあそれでも板垣の連中やらプロの軍人やらと並べて考えた場合、効果は雲泥の差であった。明らかに動きが鈍っている。この状態で果たして実力の何割を発揮できる事やら。これだけ相手が弱体化していれば、俺が小細工を弄するまでもなく蘭一人でも十分に事足りるだろう。

「くく。雑魚が群れた所で、詮無き事よ。大魚に呑まれ、糧と成り果てるのみ」

 そんな彼女達を余裕の表情で嘲笑って見せながら、改めて思う。

 この構図はどう考えても俺が悪役じゃあなかろうか、と。

 朝の通学路で都合八人の男女が対峙していれば注目を浴びるのは当然の話で、またしても俺達の周囲にはギャラリーが出来上がりつつあった。彼らの目にこの光景は果たしてどう映っているのか。

「アレって風間ファミリーと、例の転入生二人組?なになに、どうなってるの?今まさに勇者VS魔王って感じ?」

「風間くーん!負けないでー!」

「うおおおお川神さん、そんなヤツぶっ倒しちまって……あ、ごめんなさい」

 やはり周囲から見てもヒールは俺と蘭サイドの模様。それはまあこの程度の悪行は省みるまでもなく常日頃から行っているし、それは織田信長としてこれ以上なく正しい在り方なのだろう。ただ、これ程までに“正義”臭のする人間を相手にした経験は殆ど無かったので、今更ながら何とも妙な感覚に陥ってしまう。堀之外は腐った連中の巣窟なので、必然的に悪を悪で制した経験ならば幾らでもあるのだが。

 悪を以って善を捻じ伏せる……か。

 ――うん、それはそれで中々悪くないものだ。相手が何者であれ俺は我を押し通せるのだ、と世界から証明されたような気分になれる。

「――てめぇら、そこで何やってやがる」

 そして、まあ、悪の親玉の前には必ず正義のヒーローが現れるのがお約束、である。

「ゲンさん!?」

 恐々と遠巻きに様子を見守っていた群衆を掻き分けて姿を現したのは、不機嫌全開な仏頂面を顔面に貼り付けた我が幼馴染――源忠勝であった。

 忠勝は俺達と風間ファミリーの間に割り込むと、両者を交互にギロリと睨んだ後、最後に川神一子に視線を向ける。

「た、タッちゃん……?」

「……ちっ」

 戸惑ったような顔の一子に何か言いたそうな調子だったが、忠勝は結局、無言で視線を逸らし、今度は少年の一人を鋭く睨みながら口を開いた。

「オイ直江てめぇ、折角の忠告を無駄にしやがって……こいつには手を出すなって言ったろうが」

「一応、俺は止めたんだけどね……まあ言い訳はしないよ。だけど、先にワン子にちょっかい掛けてきたのはあちらさんな訳で」

 大和。直江。なるほど、彼が直江大和か。川神百代の舎弟で、風間ファミリーの参謀役――通称“軍師”。道理で油断のならない目付きをしている訳だ。

 グループ内における肩書きと立場からして、武力一辺倒の百代をサポートする役目を負っているのだろう。となれば、他の中途半端に武力の高い面子よりもむしろ警戒すべき人物かもしれない。

 あくまで冷静に分析を続けていると、忠勝の怒りに満ちた目がついにこちらを向いた。

「信長、一子に手ェ出したってのは本当の話か…場合によっちゃタダじゃおかねぇ」

 無理矢理に激情を押し殺したような低い声。忠勝は冗談抜きでキレる一歩手前まで行っている様子だった。やはり恋する少女の事が絡むと冷静ではいられないものらしい。

 全く、本当にらしくない。お前はそうじゃないだろう、タツ。

「下らんな。実に下らん。川神百代本人ならば兎も角、未熟極まる小娘など興味の外よ」

「だったら何だ、一子がてめぇに喧嘩売ったってのか?」

「然様に愚かな事を仕出かさぬよう、警告をくれてやっただけだ。それをそやつらが大袈裟に騒ぎ立てただけの事。俺は路傍の石を蹴るほど暇ではない。まあ――こうして自ら俺の足元に転がってくると云うなら、話は別だがな」

「……ちっ」

 言葉に込められた俺の意図が正しく伝わったのか、忠勝は苦々しげに舌打ちを零してから、「抜け目のねぇ野郎だ」と小さく吐き捨てた。

 そして、

「悪かった」

「た、タッちゃん!?」

 織田信長に向けて詫びの言葉を放ち、更に頭を下げるという行為に出た忠勝の姿に、風間ファミリーからもギャラリーからも大きな動揺が生じた。源忠勝は誰ともつるまず孤高を貫く一匹狼、他人に対して軽々しく下手に出る男ではない。

「同じクラスの連中の不始末だ、頭なら俺が下げる。お前に手出しをしねぇように言い聞かせもする。―――だから、今回の件は水に流してくれ」

 真っ直ぐに俺を見据えて言う忠勝に、思わず口元が歪む。

 これだから親友というものは素晴らしい。俺が何を求めているのか、良く理解している。

「……くく。他人の為に誇りを捨てるか。俺には理解の及ばぬ行為よ」

 やはり相当に衝撃的なシーンだったのだろう、群衆のざわめきは収まらない。「あの源くんが頭を下げるなんて……」「やっぱり只者じゃないぜアイツら」「クラスメートの為にプライドを投げ打つ源くんカッコイイ!」等と、まあ一部ズレてはいるが、概ね生徒達の忠勝に対する評価の高さがそのまま織田信長の評判へと転じていくのが分かる。

 そう、何も毎度毎度戦って相手を下す必要などない。いつメッキが剥がれてもおかしくない、という巨大すぎるリスクを背負ってまで戦闘に拘るのは馬鹿のする事だ。

 今回の忠勝の如く、“織田信長の実力を認める真の実力者”をある程度用意することが出来れば、大抵の無駄な争いは回避できる。周囲に自身を認めさせるとはそういう事だ。いかなる場合であれ、基本的には無条件降伏こそが俺の最も欲するところだった。

「ちょっと待てよゲンさん」

 しかし当然ながら、ここで納得できないのが風間ファミリーである。当事者を差し置いて勝手に話を進めようとする忠勝に、風間翔一が不満顔でストップを掛ける。

「これは俺達の問題だろ、ゲンさんは」

「黙れボケ、これ以上話をややこしくすんなアホ。……ちっ、危機感の欠片もねぇ。もっとしっかり言い聞かせておくんだったぜ」

 ギロリ、と睨み据える忠勝の眼光の鋭さに、翔一は戸惑ったように口を閉ざした。
 
 危険な裏の世界に片足を突っ込んで生きている人間と、平穏無事な表の世界で生きてきた一般人。やはり意識の差は大きいのだろう。

 それでも、忠勝は比較的“表寄り”の人間だ。どちらの常識にも通じているという意味で、表と裏、双方の住人の調停役としてこれ以上に相応しい人材はいない。

「主」

「っ!」

 蘭のアイコンタクトを受けて、俺は周囲に悟られないよう注意しながら息を呑む。

 どうやらのんびりと構えている余裕はなくなったらしい。遅刻がどうのこうのと、そんな程度の低い問題ではない。早急にこの場を離脱しなければ。

 焦りの滲む内心を押し殺し、微妙な空気に包まれている風間ファミリーを冷然と見遣って、俺は退屈そうな声音を放った。

「ふん。興が削がれた。往くぞ、蘭。時間の無駄だ」

「ははっ。参りましょう」

「あーっ!おい逃げんの――モガモガ!」「だから余計なマネすんじゃねえボケが!あいつに口実を与えるなってんだよ!」

 潮時だ。もう一押しが欲しいところだったが、これ以上は不味い。

 騒がしい一般生徒達に悠然と背中を向けて、勝手に急ぎそうになる足を抑え、あくまで勝者の余裕を見せつけながら歩き去る。

 逃げるな、か。全く、無茶を言ってくれるものだ。

 何せ、今一番会いたくない存在―――恐ろしい武神の気配が後方から近付いているんだ、誰だって逃げ出したくもなるだろう。

「ふん。笑えんな」

 危なかった。本気で間一髪のタイミング。今更ながらに冷や汗を流しながら、俺は小さく安堵の吐息を漏らした。

 
 風間翔一。直江大和。川神一子。椎名京。島津岳人。師岡卓也。そして、川神百代。


―――これが、後に様々な感慨と共に思い返す事となる、風間ファミリーとのファーストコンタクトであった。














~おまけの風間ファミリー~


「おー、なんだなんだ、こんな所で集まって。まさか美人のねーちゃんがストリップでもしてたんじゃないだろうな?」

「姉さんの妄想通りだったら俺も嬉かったんだけどね。……例の転入生と、ちょっと」

「何だと、お前ら織田とやりあったのか!?あーいや、そんなワケないか」

「悔しいけどモモ先輩の言う通り。アレがやる気だったら、私達は今頃こんな風に話せてない。……身をもって実感した。あの殺気は人間辞めてるね」

「うぅ、我ながら情けないわ。目の前に立つだけで足が震えちゃった」

「ワン子は良く頑張ったと思うよ。僕なんて怖くて動けもしなかった。男なのに……」

「ったくよー、この俺様がビビっちまうとは屈辱だぜ。まだまだ鍛え方が足りねーって事か。トレーニングメニューを組み直さねぇとな」

「あー、織田な。アイツはなぁ、正直ちょっとお前らの手には負えないと思うぞー。まあ今回お前らが無事で良かった。もし何かされてたら問答無用で叩き潰してやるところだったぞ」

「実際、姉さんなら対抗できるだろうし、俺達もかなり安心できるよ。……ところで我らのリーダーがさっきから一言も喋ってない件について」

「……」

「やっぱりショックだったのかも。男のプライド的な意味で」

「…………ぜ」

「お、何か言ってるね」

「ブツブツ言ってやがるが聞こえねぇな。どれどれ」

「うおおおおおおお、燃えてきたぜっ!!」

「うがぁぁ!?うるせぇよっ!耳元で急に叫ぶんじゃねー!」

「敵は強大、されど意気軒昂!俺は絶対アイツを超えてみせる!ってワケで早速、武者修行の旅に出てくるぜー!」

「ちょ、キャップ学校!今日火曜日だから!」

「金曜には帰るから梅子先生によろしくな~!」

「病気が出ちゃったか。良いのかなぁ、新学期始まったばかりなのに」

「しょーもない。……と言いたいけど私も頑張らないと。部活、か……」

「アタシも気合入れて特訓しないとね。このままじゃ悔しくておちおち寝てらんないわ!」

「ん~……」

「どうしたの姉さん。珍しく難しい顔しちゃって」

「珍しくは余計だな、んん?……いや、ジジイが言ってたのはこういう事か、と思ってな」

「?」

「ま、気にするな。アイツが何だろうが私には関係ない。強ければそれでいいんだ。私を満足させてくれるなら、何だっていい……」













 今回は短め。というか前回にちょっとばかり気合を入れ過ぎただけなのですが。
 この辺りから風間ファミリーの出番も少しずつ増えてきます。これからクリスとまゆっちも増えるし、大所帯で書き分けが大変だ……頑張らないと。
 まあ基本的にはS組中心なんですが、やはり原作主人公組は大事です。
 そういう訳で今回は完全な顔見せ回でした。退屈な展開でごめんなさい。という感じで責められる前に予防線を敷きつつ、それでは次回の更新で。

※一部言い回しを修正しました。ご指摘感謝です>てるてるさん



[13860] SFシンフォニー、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4775c47
Date: 2011/02/19 06:30
 Q.世界から争いが無くならないのは何故?
 A.そこに貧富の格差があるから。

「いやーたまたま家の料理人が作り過ぎてしまったのでな、心の広大な此方は友にお裾分けしてやろうと思ったのじゃ。感謝するがよいぞ!にょほほほ」

 たまたまで重箱一つ分の弁当を作り過ぎてしまうようなボケ料理人はさっさとクビにしろよ、しかも特上鰻重てお前毎日こんな豪勢なモン食ってんじゃねぇだろうな、家の財源どうなってんだってそうかこいつ不死川家のお嬢様だった死ね――という血を吐くような心の声を一切表に出すことなく、俺は全力の無表情で言葉を返した。

「要らん」

「な!何故なのじゃ~!」

 俺が涙を流して受け取るとでも思っていたのか、ガーン、という擬音つきでショックを受けている心。こいつの自信の根拠はどこから来るのだろう。

 場所は川神学園B棟2-S教室、時間は腹の虫の自己主張が最高潮に達する折、昼休み。

 俺と蘭、冬馬と準と小雪の五人は最近では基本的に一グループとして行動するようになってきていたが、昼食は別で取る事にしている。会話を交わす程度ならばともかく、顔を突き合わせて仲良くランチタイム……となるとそれはもはや織田信長のキャラクターを逸脱してしまっているだろう。

 とは言っても元々の席が隣近所なので、現時点でも一緒に食べているのとさして変わらないのだが、“顔を突き合わせて”という部分は重要だ。そうするだけで仲良しレベルが一気にアップしてしまう気がする。あくまで自論だが。

 果たして俺と同じような事を考えたのかは知らないが、心は数分前から無駄に豪華な重箱を二つ提げて、俺の席の近くを所在なさげにウロウロとしていた。どう見てもツッコミどころ満載の姿だったが、人望の無さが災いしたのか、誰かに「どうしたの?」とすら聞いて貰えない彼女を見かねた蘭が俺の袖を引っ張ったのがつい先程の事。

 そして、冒頭の自問自答へと至る訳だ。

「そんな貧相な弁当は庶民にでも食わせておけばよいのじゃ。高貴なる此方の友にはこの最高級鰻重弁当こそが相応しかろう」

 恩を仇で、しかも十割増しで返すような心の偉そうな発言に、基本的に温和な蘭もさすがに表情を引き攣らせた。それはまあわざわざ早起きして用意した自作弁当を貶されれば腹も立つか、と思いながら蘭の顔を横目で見ると、気のせいか何やらじわじわと涙目になっていらっしゃるような……アレはそう、主人に見捨てられた子犬の目だ。早急に対処せねば。

 心中で焦りながら心に向き直り、悠然と言葉を紡ぐ。

「施しを受ける気はない。他者の恵みで食い繋ぐなど家畜同然。俺は人である故」

「むぅ、しかしじゃな、幾ら何でもその弁当は……」

 心は渋い顔で、プラスチック製の安っぽい弁当箱と、華やかな装飾の施された漆塗りの重箱を見比べる。勿論格が違うのは外見だけではなく、中身の品目にしてみたところで値段には数十倍の差があるだろう。

 俺個人としても豪華な食事に惹かれない訳ではないが、しかしそれが人生の全てでもあるまい。ここは我慢のし所である。

「俺は純然たる己が力で掴み取ったもの以外を認めはせん。いずれ独力で不死川家に並ぶ財力を手中に収める日も来よう。その時こそ、胸を張ってお前の眼鏡に適う食事を摂るとしよう。故に……今の俺には、至らぬ従者の用意した“これ”こそが望み得る最高の弁当よ」

 我ながら割と良い事を言ったつもりでいた俺だが、予想に反して我が従者の反応は無かった。妙だ、いつもならば馬鹿みたいに喜び勇んで床に頭を擦り付けでもしそうなものだが。そんな風に考えていた俺はどうしようもなく甘かったのだろう。

「うっ、う、ひぐっ」

「……っ!?」

 驚くべき事に、蘭は元気の良い声を上げる代わりに立ったままポロポロと涙を流していたのだった。

 正直言って思わずキャラが跡形もなく崩れそうになるほど仰天したが、様子を見る限りはどうやら別に悲しんでいる訳ではないらしいと一安心。なるほど、人間は感激の極みに到ると本当に感涙するものなのか。

「あ゛る゛じぃ~、ら゛んはしあわぜものにございまする゛~」

「ふん」

 泣きながら平伏しながら笑いながら喋るな馬鹿め、クラスの連中が何事かと見ているではないか。俺にだって人並みの羞恥心というものがある。ついでに世間体も問題だ。幼馴染で従者とは言え、仮にも女の子を泣かせるような鬼畜野郎と思われでもしたら……織田信長としては別に困らない気はするが、俺の繊細なハートは間違いなく傷付く。

 あ、川神一子を泣かせた時点で手遅れか。……まあ気にするまい。

「見苦しい。さっさと顔を拭け」

「ははーっ、失礼をば。ら゛んは顔を洗ってまい゛りまず……」

 すんすんと鼻を啜りながら教室を去っていく。その様子を見送ってから、やれやれあいつは本当に馬鹿だなと内心で溜息を吐きつつ振り返ると、心は口をポカンと開けて突っ立っていた。日曜日の従者第二号の反応を彷彿とさせる呆然っぷりである。そういえば心はこれまで俺達との関わりが薄かったので、蘭の変人っぷりについても詳しい事は知らなかったのか。

 冬馬・準・小雪の三人組などはもはや完全に慣れた模様で、こちらを一瞥する事すらなく談笑を続けている。連中を見習えとは言わないが、あのスルースキルは賞賛に値するレベルだ。それから十秒ほど経って、ようやく心は我に返ったらしい。

「……はっ!?な、何だったのじゃアレは一体」

「些細な事だ。気に留める価値もない」

「いや、どう考えても些細ではないじゃろう。大丈夫なのかアレは」

「考えるだけ無駄な話よ。それで、先も云った通り、俺は弁当は要らん。恵むなら他の輩にくれてやるが良かろう」

「むぅ……わ、分かったのじゃ……」

 心はしょんぼりと肩を落として自分の席へと戻っていった。両手に提げた重箱弁当がどこか物悲しい。

 口ではああ言ったが、俺とて別に心の機微の分からぬ馬鹿ではない。弁当が余ったなどというベタベタな言い訳をしている辺り、彼女が友達認定した俺と交流する切っ掛けを欲しがってはいるものの、高貴な自分が素直に声を掛けるのも癪だ――とか思っている事くらいは予想できる。それは分かっているが、しかし例え表面的にでもそういう捻くれた態度を取るなら、俺としては素っ気無く返す他ない。相手の意を汲み取って気を遣うなど、織田信長のキャラ的に考えられない事態だ。

 これに関しては、彼女が一日でも早く素直に友情を表現してくれる事を祈っておくとしよう。

「あー、ギャルゲならあれだ、フラグバッキバキに折ったな。BADエンド直行だ」

「お前は何を言っているんだ」

「ま、俺的には不死川はギリギリアウトって所だし興味ねぇけど。イイ線いってるんだが、2-F委員長と比べちまうとどうしても、な」

 だからお前は何を言っているんだ、井上準。

 転入当初こそ周囲に振り回される常識人だと思っていたが、一週間も学園生活を共にすれば嫌でも分かる。

 こいつもまた、立派で大変な変態だった。

 具体的にはロリコンである。先程例に挙げた2-F委員長(見た目小学生)の写真を眺めながらハァハァしているところを俺に目撃されて以来、こいつは俺の前で体裁を取り繕う事を止めた。そして蘭から露骨に避けられるようになった。当人が準のターゲットとなるほどロリィな見た目をしている訳ではないが、我が従者はその辺り、割と潔癖なのだ。

「やれやれ。女心が分かっていませんね、信長。不死川さんも可哀相に」

「ふん、そう思うならお前が慰めにでも行けば良かろう。伊達に四天王などと呼ばれている訳でもあるまい」

「はは、遠慮しておきます。それよりも私は信長に興味があるんですよ。是非もっと親睦を深めましょう」

「寄るな殺すぞ」

 不気味な笑顔で迫る冬馬を殺気混じりの目で追い払う。竜兵といいコイツといい、俺の周囲には何故いちいちアブノーマルな輩ばかりが現れるのか。何かの呪いなのだとしたら金を払ってでも祓って欲しいものだ。

 己の不憫な運命を嘆きながら蘭お手製の安っぽい弁当に箸を伸ばした時であった。

「ノォブナガあぁぁァァァッ!!」

 教室中と言わず校舎中に響き渡りそうな大声で、人様のあまり好きでもない名前を叫びながら、引き戸を破壊せんばかりの勢いで教室に飛び込んできた馬鹿が一人。ここまで騒がしく傍迷惑な男は2-Sはおろか学園中を探してもそうはいまい。

 周囲の視線が集まる中、九鬼英雄は足音も荒々しく俺の机まで歩み寄ると、仁王立ちでこちらを睨み付けた。何だかんだと言ってもさすがに世界の九鬼、並みの一般生徒なら泣き出すほどの眼光と迫力だ。

 問題はそれが何故俺に向けられているか、その点なのだが。

「……」

 我が身を振り返ってみたが、生憎と身に覚えが無い。取り敢えず沈黙を保ったまま様子を見ていると、英雄は息を整えてから喚くように口を開いた。

「信長、キサマ!我が愛しの一子殿を泣かせたという噂は真実か!場合によってはタダではおかんぞっ!」

「――という訳ですので、英雄さまを納得させられなかった場合、どうかお覚悟下さいねっ☆」

 怒りの形相で怒鳴る英雄と、逆に嬉しそうな表情を隠そうともせず小太刀を抜き放つ猟犬メイド・あずみ。

 さて落ち着け、状況を整理しよう。とは言っても考えるまでもないか……自ら解説してくれたように、英雄の激昂の理由は至極シンプルである。愛しの一子殿、と来たものだ。

 川神一子、人気があるとは聞いていたが、俺の狭い人間関係の中ですらも既に二人の男を陥落させているとは恐ろしい少女と言う他ない。この分だと川神学園内ではアイドル扱いなのか?だとすれば、風間ファミリー内における恫喝対象として彼女を選んだのは間違いだったかもしれない。

 敵を作るのは構わないが、敵を作り過ぎるのはあまり良くない事だ。

「うぬぬ、聞いておるのか、信長!」

「騒ぐな。喧しい」

「何だとキサマ!」

 さてどうしたものか。俺が彼女を脅して泣かせたのは紛れもない事実である。実際にその現場に居合わせたのは風間ファミリーと俺と蘭のみだが、その後の一連の流れに関しては多数のギャラリーに目撃されてしまっている。ここで俺が下手に嘘を吐いたとしても誤魔化しきれるものではあるまい。ならばいっそ開き直ってみるのもまた一興、だ。

「ふん。勝手に泣いただけだ。俺の知った事ではない」

「く、やはり真であったか!一子殿は我にとって燦然と輝く太陽の如き方、それをよくも――」

「それで。お前はここで何をしている?太陽に翳りが見えたなら、疾く晴らしに往くのがお前の役目ではないのか」

「ぬ?」

「俺に八つ当たりをしている暇があるとは思えんがな。川神一子に惹かれる者は数多い。小娘の傷心に付け込む輩は幾らでもいそうなものだが、お前はそれを良しとする間抜けか?……くく、九鬼の御曹司は愛する女一人射止められぬ、と噂される日も近いな」

 嘲笑うように意地悪く言ってやると、最悪の事態を予想したのか、英雄の顔色が瞬く間に変わった。

「うぬぬ……!いかん、麗しき一子殿の魅力を思えば考慮して然るべき事態であった!こうしてはおれん、今すぐ2-Fへ赴くぞあずみ!九鬼財閥の総力を挙げて一子殿をお慰めするのだ!」

「了解しました英雄さまっ!今すぐエンターテイメント部門のプロ達に召集を掛けますね」

 居ても立ってもいられなくたったらしく、英雄は怒涛の如き勢いで再び教室から飛び出していった。

 そして、あずみも素早くその後に続いたのだが、彼女が立ち去り際にこちらに向けた目は、何と言うか俺ですら戦慄するほどの“殺る気”に満ち溢れていた気がする。恋敵(?)のために扱き使われる彼女には少しは申し訳ないと思うが、しかし恨むなら英雄の単純さを恨んで欲しい。いや、ここはあえて純情さ、と言っておこうか。

 台風が去ったように静けさが戻り、平穏の尊さを噛み締めながら俺が改めて弁当に箸を伸ばしていると、既に食べ終えたらしい準と小雪が席ごとこちらを向いた。

「いつもながら騒がしいね、お前の周りは。いやぁ同情するぜ」

「吸引力の変わらないただ一つのノブナガ!ギュイーン!」

 お前らも騒がしさを形成する立派な要因なんだがな、と心の底から言い返したくなる二人である。全く、このクラスの連中はどいつもこいつも個性が濃過ぎる。俺のように至極まともな一般人は肩身の狭い限りだ。

 誰か一人でもいい、心の清涼剤となるような素敵な人材は現れてくれないものだろうか。

―――そんな俺の祈りが天に届いたのか、新たな登場人物が2-Sを訪れる。

「失礼致しますわ」

 不意に教室の外から響き渡った、鈴を転がしたような澄んだ声は、クラスメートの注意をやけに強く惹き付けた。

 英雄の時とは打って変わって音も立てずにドアが開き、一人の少女が慎ましやかな挙動で教室へと足を踏み入れる。

「お初にお目に掛かります、先輩方。本当はもっと早くご挨拶に伺うつもりでしたが、恥ずかしながら先日は機を逃してしまいまして」

 少女の印象を一言で表現するなら、そのものズバリお嬢様、である。それも一代二代の成金ではなく、由緒正しい血統の良家で純粋培養された、生粋の姫といった趣。周囲と同じ制服姿でも明確に伝わってくる、生まれと育ちの埋め難い差異。

 高校生にしては小柄だが、ピンと真っ直ぐに張った背筋と、全身から発せられる凛とした雰囲気、そして銀縁眼鏡の奥に光る意思の強そうな双眸が、彼女の体躯の子供っぽさを打ち消している。ふわふわとボリュームのある髪は先端まで手入れが施されており、どこか作り物めいた美しさを演出していた。

「な、な、お、お前はっ!なぜお前がここにおるのじゃ!」

 教室の最後列の席にて、一人黙々と最高級鰻重をつついていた心が、少女の登場に驚いたように泡を食った声を上げる。この反応からすると知り合いなのだろう。
 
 ふむ。不死川の知人でこの佇まい、どこかの有力者の令嬢か?事前に調べた限りでは、今年の入学者リストにそこまで有力な子息は居なかったと思うが……否、“黛”がいたか。高名な剣聖十一段・黛大成の娘が入学している筈。彼女がそうなのか。

「あらあら、お久し振りでございますね、不死川様。懐かしいですわ、こうしてまたお会いできるなんて夢のようです。うふふ、貴女はご両親から伺っていないのですね」

「な、何をじゃ?」

 心はどうやらこの少女を苦手としているらしい。いまいち普段の調子が出ていない様子だ。そんな心を慈しむ様に微笑んでみせながら、少女は言葉を続けた。

「わたくし、今年の四月よりこの川神学園に籍を置いていますの。1-Sクラスですのよ、うふふ、つまり不死川様の後輩という訳ですわ。これからよしなにお願い致します」

「う、うむ……。そうか、お前が後輩か。おお、それはつまり先輩である此方の命令には絶対服従という訳じゃな?」

「うふふ。まあ、相変わらず不死川様のご冗談は面白くていらっしゃいますわ」

 上品な笑顔でエグい事を言うお嬢様だった。毎度の如く調子に乗りかけた心を一瞬でバッサリ切り捨てると、彼女は何故かこちらに向き直る。

 真正面から視線が合って、結果としてより詳細に彼女の全身像を見る事になる訳だが――違和感。初対面の相手の筈なのに、この既視感は一体どうしたことか。

 俺は、この少女に、どこかで……?

「うふふ。学園では、初めまして、ですわね」

 そんな俺の疑問に答えるかの如く、少女は口元を吊り上げた。

 ニヤリと、邪悪で気侭な、お嬢様には全く似つかわしくない笑み。まるで意地の悪いチェシャ猫のような笑顔。

 それはまるで猫のような。

「ふん」

 なるほど、今になれば良く分かる。他の誰と間違えよう筈もない。

 曲がった背筋は真っ直ぐ伸ばして、特徴的な猫目は眼鏡で誤魔化して、ショートの髪型はウィッグで弄って、清楚な声音は意図的に変えて、上品な言葉遣いはキャラ作りで、優雅な物腰は教育の賜物で、怠惰な雰囲気は全てを演じて。

 ものの見事に猫を被っていた訳だ。

「―――第二の直臣、明智ねね。遅ればせながら、只今参上致しましたわ、御主人様」




 
 さて。明智ねねという従者の登場に関しては、俺に蘭という従者がいる事を皆が既に承知している事もあり、クラス内でそれほど大袈裟に騒ぎ立てられる事はなかった。変化と言えば、あの明智家のご令嬢が主人と呼ぶ織田信長とは一体、と畏敬の念を新たにされたくらいのものか。

 ただ、一部の人間に限ってはそれだけでは済まなかった。そしてその一部というのが悉く俺と関係のある人間だった辺りが実に悲しむべき所だと思うのだが、どうだろう。

「なぁ信長よ。俺は一発お前を殴っていいと思う。というか殴らせろ」

「死にたければ好きにすれば良かろう。自殺志願とは感心せんが」

「ご主人さま、だと……?あんな小さくて可愛らしいお嬢さんが恭しく膝をついて、ご主人さま、だと……?それなんてギャルゲ、チクショウ俺と代われ羨まし過ぎて死にそうだ」

「死ねばいいと思います」

 普段は温厚な蘭が致死性の毒を吐いた。準はその言葉でついに力尽きたのか、祈るようなポーズを取ったまま床に倒れ込む。最期の言葉は「神は死んだ」だった。なら祈るなよ、死んだのはてめぇの髪だろうがハゲ、などとイメージを著しく損なうような罵倒は流石に蘭は口にしなかったが、代わりに無言のままゴミを見るような目でノックダウンした準を見て、ゴミを片付けるような見事な手際で壁際まで転がしていった。

「それにしても驚きました。ねねさん、まさか同じ学校だったなんて」

「あらあら、蘭様。御主人様から伺っていなかったのですか?」

「……」

 ご存知だったのですか、と蘭は恨みがましい目を俺に向けた。それはまあ主人なのだから、従者の動向くらいは把握していて当然である。ねねが現在進行形で川神学園1-Sに所属している事は承知していた。もっとも、あそこまで見事に擬態しているとは想定の範囲外だったが。

 数分前、ようやっと涙の跡を洗い流して教室に帰還した蘭は、案の定というかねねの正体に気付かず、しばらく戸惑いを隠せない様子だった。そして勘違いに空回りに暴走と、色々と笑える姿を衆目に晒してくれたのだが、ここで俺がそのエピソードを詳らかに語るのはさすがに気の毒なので割愛しよう。

「どういう訳なのじゃ、織田。なにゆえ明智の小娘がお前を主人呼ばわりしておる?意味が分からんぞ」

 先程から不機嫌顔の心が、食って掛かるような調子で問い掛ける。

「俺の家臣が俺を主と呼ぶ。何も不可思議な点はあるまい」

「そんな事は訊いておらんわ!此方が分からんのは、明智のがお前の下に付いた理由じゃ。“明智”じゃぞ?それはまあ此方の不死川家とは比べるまでもない家柄じゃが、高貴なる血筋には違いないのじゃ。それが御主人様などと……御主人様?――まさか」

「うふふ、不死川様は聡明でいらっしゃいますわ。そう、わたくし明智音子は、御主人様と契りを交わしましたの。――生涯を捧げるという、夫婦の契りを」

 器用に頬を染めてみせながら放り投げた言葉の爆弾に、教室の空気が氷点下にまで落ち込んで、一瞬で凍結した。

 教室の隅で死んでいたハゲが蘇生し、「ロリな女の子と婚約、だと……契りってなんだお兄さんに具体的に教えてみなさいよオルァ」などと呟きながら暗黒のオーラを放出している。

 心は衝撃的事実を叩きつけられたショックでポカンとしており、蘭の顔は見るのが怖いのでスルーして、俺は溜息混じりに莫迦従者二号を睨んだ。

「ネコ。控えろ」

「御主人様、その呼び方はどうかお止しになって下さいませ」

 外ならばともかく、お嬢様の皮を被っている学園内で「ネコ」呼ばわりはさすがに心外だったのだろう。ヒクヒクと顔を引き攣らせるねねだったが、何かを思いついたように再び邪悪な笑みを浮かべる。

 そして、両手の指をもじもじと絡ませながら、拗ねたような調子で甘ったるい猫撫で声を発した。

「恥ずかしいですわ。――二人きりの時だけ、何時ものようにそう呼んで下さいな」

「調子に乗るな」

「うふふふ勿論冗談でございますわ皆さま誤解なさらないようお願い致しますね本当に」

 殺意を込めて睨むと、ねねはダラダラと冷や汗を流しながら薄ら寒い芝居を打ち切った。最初に会った時から思っていたが、こいつはどうにも調子に乗り易くて困る。しかも演技が無駄に上手いのもまた面倒なポイントだ。本性を知らなければ俺もあっさり騙されていたかもしれない。

「本当の所を申し上げますと、御主人様には危うい所を救って頂きまして。それで――」

 S組の面々に改めて事情(捏造済み)を説明しているねねを眺めながら思う。本体そのものの武力が高くSクラスに在籍できる程度の学力を持つ上、明智家の後ろ盾で権力を有し、それでいてこの傍若無人な性格。厄介者にも程がある。

 幸いにして俺の得意技は、伝説ポケモンですら高レベルになるまで習得出来ないほどのスキル、「にらみつける」なので何とか手綱を取れるのだが、一般人からしてみればこいつは本当に手に負えない類の輩なのではなかろうか。

 そういう意味では、こいつを野放しにせず飼っている俺は世の為人の為に貢献しているとまで言って良い気がする。

「可愛いロリータが暴漢に襲われている所に颯爽と現れて助ける……?本当にギャルゲ主人公じゃねぇか信長テメェ。恨むぜ神よ、なぜそこに俺は居合わせなかった?」

「居合わせておったらお前が暴漢になりそうじゃがな、ハゲ」

「やれやれ、分かってないな不死川よ。イエスロリータ・ノータッチ!幼女は慈しむもんだ、手折るもんじゃねぇ。いいか、俺は紳士だ。という訳でどうですか麗しいお嬢さん、俺と一緒に新しく開園した遊園地に行きませんか?」

「あらあらうふふ、口説かれてしまいましたわ。けれどもごめんなさい、わたくし家訓で頭部から太陽光線を放つことのできる方とは遊びに行かないように言い聞かせられていますの、危険ですから」

「ユキ……俺は今ほど俺の髪を綺麗サッパリ剃り落としてくれやがったお前を恨んだ事はないぜ」

「いや明らかにそれ以前の問題じゃろうが」

 ねねを前に普段と比べてイキイキしている準はナチュラルに犯罪臭がした。さしもの心もやや引き気味である。

 改めて思うが、野放しにするのは危険な人間がやけに多い学園もあったものだ。
 
 さて手綱を取るべき幼馴染二名、冬馬と小雪は何をしているのかと目で追えば、教室の端で我関せずとばかりに戯れていた。

「……?」

 そこで、少し違和感を覚える。気まぐれの権化の如き小雪が興味を示さないのは分かるが、冬馬がねねに注意を向けないのは妙な気がする。

 猫被りの賜物とは言え、現在のねねはどう見ても清楚な美少女。否応なく周囲の目を惹く存在だ。美男美女問わずに見境なく目がない冬馬ならば声の一つも掛けそうなものだが。

 まあ、単純に好みではないだけの話なのかもしれないが……引っ掛かるものがある。

「御主人様。わたくしはそろそろお暇させて頂きますわ」

 いまだに聞き慣れない控えめな声音が俺の思索を打ち切った。

 ねねは俺の足元に跪いて、周囲に見えないように邪悪なニヤリ笑いを浮かべながら口を開く。

「引き続き、一年生の方に関しては全てわたくしにお任せを。――それでは、御主人様、皆様方。ごきげんよう」

 綺麗な姿勢で深々とお辞儀を決めると、ねねは背筋をピンと張りながら2-S教室を去っていった。どうやら本人の言う通り、今回は挨拶に来ただけらしい。

「主。ねねさんは一体……」

「ふん。真に食う寝るだけの穀潰しならば、俺の従者を名乗らせる筈も無い」

―――1-S所属、明智ねね。織田信長の指令を受けて、絶賛暗躍中であった。









 そして時は加速し、場面は瞬く間に放課後に移る。

「織田よ、友として高貴なる此方に手を貸す栄誉を与えようぞ!光栄に思うがよいのじゃ」

「……」

「そ、そうか言葉も出ぬほど感激しておるか。殊勝な心がけじゃぞ」

「……」

「た、助けてオダえも~ん!」

「永久に黙らせてやろうか?」

「ひぃっ!調子に乗ってごめんなさいなのじゃ!」

 転入当初の敵対関係が終わっても、態度が尊大な割に臆病な辺りは相変わらずだった。不死川心が馬鹿である事は俺の中ではもはや疑いようのない事実だが、さてこいつは愛すべき馬鹿なのか愛すべきでない馬鹿なのか。なかなか判断の難しいところだ。

 午後のHRの後、どこかへ姿を消していた心が足取りも荒々しく2-S教室に戻ってきたのは、全校生徒が一日七限の教育カリキュラムを終え、下校準備の真っ最中というタイミングであった。基本的に平日の放課後は予定がみっしり詰まっている俺としては、利にならない事柄に時間を取られたくない所である。それでも心の無駄に居丈高な頼みに耳を傾けてやっている俺は、正直に言って賞賛に値するほどの寛大さだと思う。

「さっさと用件を言え莫迦め。俺は暇ではない」

「う、うむ。実はじゃな……Fのサル共が調子に乗っておるのじゃ」

 説明しよう―――この川神学園には、各学年ごとに都合十のクラスが存在する。クラス分けの基準は単純明快、成績だ。試験の結果に従って、好成績の者から順にS~Iに振り分けられる事になる。

 ただし、本人が希望すれば成績に見合わないクラスに在籍する事も可能だ。冬馬が言うには、成績的にSの在籍資格を有しながらも他クラスに残る生徒はそれなりにいるらしい。あくまで実力主義、競争社会を旨とするS組の気風が肌に合わないという人間が多いのは無理もない話である。

 そういった例からも予想できるように、Sクラスは基本的に他クラスとは険悪な関係にあった。

 その中でも2-Sと最も仲が悪いと言えるのが、2-Fである。例の風間ファミリーの面子は、学年の異なる百代を除く全員が揃ってこのクラスに籍を置いていた。この2-F、エリート集団の2-Sとは逆に、学年の問題児達を意図的に一箇所に集めたクラスだとすら噂されている。ただでさえ相性の悪い組み合わせである上、互いの教室が隣同士であることも要因となって、両クラスは事あるごとに反目し合っているそうだ。

「織田がFの川神一子を懲らしめたと聞いたゆえ、此方は奴の情けない泣きっ面を拝みに赴いてやったのじゃ」

 こんな感じで。特に選民街道まっしぐらの心はF組を心底見下し嫌っているので、何かにつけて喧嘩を吹っ掛けているらしい。

 もっとも、風間ファミリーによってやり込められて涙目で逃げ帰るという展開が半ばお約束になっているようだが。お前はどこのバイキン男だ、とツッコミたくなる俺は間違っているだろうか。

「それをあのサル共め、あろうことか数を頼んで高貴なる此方を教室から追い出しおった!この屈辱、断じて許せぬ。そう思うであろう?」

 憤懣やる方ないといった表情で俺の同意を求める心は、どうやら今回もきっちりとお約束に則って敗走してきたらしい。下らない上にどう考えても自業自得であった。どちらが悪いかと言えば間違いなく心の方だし、誰が見てもそう判断するだろう。

「ふん。成程な」
 
 しかし、織田信長にとって善悪の所在など意味を持たない。問題はそこに己の利があるか否かだ。心の持ち込んだ話を切っ掛けとして何を得られるか。俺の頭が打算を巡らせ始める。

「それで。俺の手を借りて、お前は何を為す心算だ」

「無論、復讐よ。下賎な山猿の分際で思い上がったあの連中に、高貴なる鉄槌を下すのじゃ。ほほほ、お前が助力してくれればあのような連中、此方の敵ではないわ」

 つまるところ思いっきり人任せ、虎の威を借る狐という諺のこれ以上ない好例を演じようとしている訳だが、いまいちその辺りは自覚していないらしかった。心は恥じ入った様子もなく実に堂々としている。脳内では憎き2-Fを既に叩きのめした映像でも浮かべているのか、ニヤニヤと頭の緩そうな笑みが口元に浮かんでいた。

 そんな人生そのものが楽しそうなお嬢様はとりあえず放置して、俺は真面目な思考に沈む。

 2-Fか。件の風間ファミリーの拠点であり、自身の属する2-Sの隣人でもある。

 俺がこのクラスに転入してから一週間。決闘を通じて英雄や心等の有力者に認められる事で、クラス内における立場を確固たるものとする事に成功した。S組内部では織田信長に対するこれ以上の反抗はないだろう。最初の関門は突破できたと考えてもいい。ただし、それはあくまで1stステージをクリアしただけに過ぎない事を意味していた。何せ川神学園には十ものクラスが存在し、単純計算で俺は未だその十分の一を制覇した段階でしかない。先はまだまだ長かった。

 勿論、太師校時代ように学園支配を実行する気など端から無いが、だからと言って何もせずにいれば、俺にとって不愉快な動きをする連中も出てくるだろう。元々、“織田信長”は大衆に受け入れられる存在ではない。いついかなる時であれ、社会の中で異端者は迫害される。事前に適度な恐怖の楔を打ち込み、畏敬の鎖で縛っておかなければ、排斥されるのはこちらの方なのだ。

 故に、一時の安息に甘んじてはならない。俺は常に攻めの姿勢を貫く。

 それに、これは他ならぬ不死川心の頼みだ。御三家と直接的に接触し、ましてや恩を売る機会など願っても得られるものでもない。将来を考えるならばここは動くべきタイミングである。都合良く俺の目的にも重なる事だし、彼女の期待に応えてやるのも良いだろう。

「……ふん。良かろう」

「おお、引き受けてくれるか!いやーやはり持つべきものは友じゃの。ほほほ、此方の目に狂いは無かったようじゃ」

 俺の返事がよほど嬉しかったのか、心はパァッと明るい笑顔を浮かべた。

 普段は鼻持ちならない位に高慢で意地悪な癖に、こういう時の表情だけは年不相応に無垢で、見ているこちらとしても何だか調子が狂ってしまう。彼女の求める友情に対し打算を以って返している自分に、否が応でも嫌悪の念が湧き上がった。所詮、下らない感傷でしかないが。

 “夢”を目指し、朽ち果てるまで駆け抜けると決めたあの日から、既に俺の生き方は定まっている。利用出来るものは全て利用し、不要なものは全て切り捨てる。情が邪魔になると言うなら、捨て去る事に躊躇などない。手段を選んでいる余裕など望めない程に、俺の目標は遠いところにある。

 悩んで立ち止まる位なら、一歩でも前に進むべきだろう。川神一子の言葉を借りるなら、勇往邁進、だ。

「くく。2-F……果たしてこの俺の障害と成り得るか。確かめさせて貰うとしよう」

 脳裏に浮かぶのは風間ファミリーの六人、そして我が親友の源忠勝。

 総じてプライドの高いS組の面々は認めないだろうが、話に聞く限りにおいては、2-Fは間違いなく2-Sのライバルと呼ぶべき存在だ。心の言うように、猿と人間ではそもそも勝負が成立しない。優秀な人材を揃えた現2-Sと正面から張り合っているという事実が、そのまま彼等の力量を証明している。

 恐らく一筋縄ではいかないだろう。計も無しに動けば足元を掬われる可能性が高い。まずは軽く当たって様子を見るのが定石か。

「蘭」

「ははっ」

 油断はしない。そして遠慮も容赦もしない。

 表向きは余裕綽々と手を抜いて、その裏側では常に全力全開。いつも通りの織田信長のスタンスで、新たな局面に臨むとしよう。

「ネコに伝えるがいい。――此度の戦、明智音子を一番槍に任ず、とな」









~おまけの風間ファミリー~


「うーん。今朝の一件、何だか学校中に広まってるみたいだね……」

「通学路であれだけ目立ってたんだ、当然だな。あの転入生は注目の的だし、ワン子だって密かに人気あるし。話題性は十分すぎる」

「はっ、この豆柴が人気ねぇ。やっぱり俺様いまいち実感が湧かねぇぜ。九鬼の奴もわざわざあんなモン用意して慰めに来るしよ」

「あ~、アレは凄かったね。学校であんなモノが見れるなんて、さすがは天下の九鬼財閥って感じだよ」

「つまりワン子が誰かに泣かされる度にアレが見れるという衝撃の事実。ふむ、仲介料を取れば中々いい商売になりそうだ……」

「乙女の涙を利用するとは血も涙もない鬼畜っぷり。でもそんな所も素敵!」

「ぐぬぬ、アンタたちぃ……好き勝手言ってるんじゃないわよ、泣かされたなんて不名誉な噂が広まってアタシはナーバナスな気分なんだから!まったく」

「それがどんな気分なのか未熟な俺にはちょっと想像出来ないけど、まあ実際、さっきみたいに色々と寄ってくるし、面倒なのは確かだな」

「ああ、不死川のヤローか。あの織田って奴にボコられてちったぁ凹んでると思ってたんだが、相変わらずだったぜ」

「むしろ何だかいつもより強気だったよね。逃げ出す時も余裕そうだったし。……何だろう、嫌な予感がする」

「今はキャップも不在だし、2-Sの動向には普段以上に注意しておかないと。……さて、何事も無ければいいんだけど」














 ステージ2・開始。
 そんな感じで、今回は色々な繋ぎとなる回でした。
 ハゲがこれまでよりもはっちゃけているのは、まあ信長という人間に慣れたからと思って下さい。
 何だかんだ言っても初対面の相手には素は見せにくいですよね、という話。それでは、次回の更新で。



[13860] SFシンフォニー、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5f73d865
Date: 2011/03/03 14:00

 川神一子の夢は、世界最強に並び立つ事である。

 それは、自分自身が世界最強の力を手に入れたいという事を意味してはいない。ただ、姉と慕う武神・川神百代と対等の存在になりたかった。

 幼少の頃に知り合った時から既に百代の武才は圧倒的で、理不尽なまでに軽々と強者を蹴散らしていくその姿に、一子は常に畏敬と憧憬の目を向けていた。

 やがて里親を亡くし、川神院の養女として彼女の家族となってから、その裏側に潜むモノに気付く。いかなる時でも燦然と輝いてみえた百代の中に巣食っているドス黒い狂気。それは、強者との死闘に餓え、生贄の血を欲する……そんな、凶悪なまでの戦闘衝動だった。

 強過ぎる力に、強過ぎる欲求。いつか我欲のままに破壊を繰り返す修羅に堕ちはしないか。祖父の鉄心や師範代のルーを始めとして、川神院の多くの人間が彼女の性質と、その将来を憂いていた。

 だから、一子は決意したのだ。心の底から尊敬する、大好きな姉が堕ちてしまわないよう、自分が彼女を戦闘衝動という闇から護る盾になろうと。

 百代の戦闘狂としての性質は生れ持ってのもので、その欲求を抑え付ける事は難しいだろう。ならば、彼女の衝動を受け止められる力を手に入れればいい。自分が彼女を満足させ続ける事さえ出来れば、理性と本能の狭間で苦しむ姉の姿を見ずに済むのだ。

 そんな一子の決意は目標となり、そのまま“夢”となった。

 実際、夢物語と言われても仕方のない話ではある。川神百代という存在の非常識さ、突き抜けた異常性を知る人間からしてみれば、一子の決意など子供の戯言でしかないだろう。蟷螂の斧、どころの話ではない。さながら蟻が太陽に挑むようなものだ。誰もが一子を諌め、窘め、或いは蔑み、嘲笑した。

 しかし、一子は諦めなかった。それは決して現実を知らないが故の無謀ではない。自身が百代のような天才ではなく、それどころか秀才にすら届かない、只の凡才である事は良く承知していた。故に埋め難い才能の差を埋めるべく、努力を重ねた。努力で築いた礎の上に努力を積み、努力を重ね、ひたすらに努力を続けた。春夏秋冬昼夜を問わず、日々の鍛錬に常人の数倍の時間を費やし、川神院の師範代をして「無茶」と言わしめるハードな特訓を何百回と繰り返した。

 そして、川神の姓を名乗り始めてから十年。一子の夢は未だに姿すら見えない遠くに在る。

 確かに力は付いた。もはや十年前のように、百代の後ろに隠れて泣いているだけの臆病者ではない。今の一子が得物の薙刀を振るえば、数十人の武装した大人が相手でも容易く蹴散らせるだろう。それは紛れもなく、かつて一子が百代の勇姿を通じて夢見た“武の高み”に違いなかった。

 しかし、敬愛する姉の姿は未だに背中すら見えない。まるで近付いた気などしなかった。宇宙が膨張するのと同様に、川神百代は成長を続けている――そんな祖父の言葉を思い出すと、一子の胸にはどうしても暗い疑念が湧き上がる。努力、努力。百の努力は所詮、百の才能の前では何の役にも立たないのではないだろうか。それは、普段は極力考えないようにして、心の奥底に封じ込めた禁断の疑惑だった。

 勇往邁進。より一層がむしゃらに、ひたすら前だけを見て鍛錬を続けている内に忘れ掛けていたその想いは、とある出会いによって再び一子の心に浮上してきていた。

 新学年の始まりと同時に突如として現れた二人組、織田信長と森谷蘭。

 常にどこか満たされない顔で過ごしていた姉が、表情を輝かせて彼らの事を語る様子を見て、一子は自分でも理解できない感情が胸中を渦巻くのを感じた。それが嫉妬なのか焦燥感なのか疑惑なのか、生来そういったドロドロした感情とは縁遠かった一子には分からない。ただ、自分は姉にこんな顔をさせた事など一度もなかっただろうな、という虚しさだけはハッキリと自覚する事が出来た。

 そして、脳裏に蘇るのは今朝方の遭遇。転入以来、常に騒動の中心に居座り、全校生徒の注目を集めている男――織田信長と、一子は正面から対峙した。圧倒的と形容する他ない威圧感と、絶望的なまでの力量差。数分に満たない邂逅の中で、自分のどうしようもない無力さを十分に思い知らされた。

 川神百代が認める理由、川神鉄心が案じていた理由、ルー・イーが危険視していた理由。直接的に対峙する事で、一子はそれらを身を以って実感し脅威を感じると同時に、改めて己の矮小さを噛み締める事になった。

 「こんなの」が姉の求めるレベルなのだとしたら、今の自分では絶対に届かない。睨まれただけで身体が恐怖に怯え、歯の根が合わなくなるようでは、昔の臆病な自分と何の変わりもないではないか。泣き虫の自分とはお別れしたハズなのに、本物の怪物を前にした途端にこの様だ。

 まだ足りない。まだまだ足りない。鍛錬が、経験が足りない。そう、努力が不足しているのだ。才能の壁を乗り越えられないのは、自分が努力を怠っている所為だ。勇往邁進、勇往邁進。努力を続ければ道は開ける筈なのだから。

(ユーオウマイシン、よ)

 自己暗示のように何度も心中で唱えて、無意識の内にハンドグリップを握る右手に力を込める。ぎしりぎしり。片時も手放さないトレーニング器具が、普段よりも大きな音を立てて軋んだ。

「ワン子、どうかした?」

 聞きなれた幼馴染の声が鼓膜を打って、一子は自分が教室にいる事を思い出した。川神学園2-F、いつの間にやらホームルームは終了し、現在は放課後らしい。生徒達はそれぞれの部活に顔を出すか、或いは帰宅部としての活動を始めようとしている。教室に残っているのは2-Fメンバーの半数ほどだった。

 ぐるりと首を回して周囲を見渡してみれば、風間ファミリーの面々はまだ帰宅準備の途中の模様。それを確認してから、たった今声を掛けてきたファミリーの一員、椎名京に向き直る。

「あはは、何だかボーっとしちゃってたみたい」

「ボーっとしながらも鍛錬を欠かさないのは流石ワン子というしかないけど、ちょっと様子がヘンだったよ。なんというか、鬼気迫る感じ。らしくないね」

 一子を覗き込む京の顔には心配の色が浮かんでいた。自覚はないしいまいち実感も湧かないが、かれこれ十数年の付き合いの彼女が言うのなら、間違いはないのだろう。そんなに気難しい顔をしていたのだろうか。眉根を寄せながら両手で顔を捏ねくり回していると、京はクスクスと控え目な笑い声を漏らした。

「む、何を笑ってるのよ。人様の顔を見て笑うなんて神経疑っちゃうわね」

「別に。安心しただけ。ククク、所詮ワン子はワン子よのう」

「何だか腹立つわね……アンタ達がアタシをどんな目で見ているのか聞き出してやりたいわ」

「何と言う恐れを知らない戦士。本当に聞きたい?後悔しない?」

「あうぅ、やっぱいい。何だか怖いから聞きたくないです……」

 そのまましばらく京と雑談を続けていると、帰宅部の活動準備を終えたらしい風間ファミリーの面々が一子の周りに集まってきた。直江大和と島津岳人と師岡卓也、つまりはファミリーの男衆である。肝心のキャップ・風間翔一は宣言通りに今朝方から武者修行の旅へと出立しており、不在だった。つまるところ、三年生の百代を除けば、現状集まる事の可能なメンバーは全員がここに揃っている訳だ。

「んで、お前ら放課後どうするよ。ちなみに俺様はジムに顔を出そうと思ってる」

「あれ、ガクト。今日ってトレーニングメニューじゃ休みの日だよね」

「そのメニューを組み直しに行こうと思ってよ。ここのところ少し弛んでたから、ガッツリ鍛え直さねぇとな。へへ、今年の夏こそ俺様の究極の肉体美で女を虜にしてやるぜ」

「またそんな事言って。ホントは今朝の事気にしてるんでしょ?」

「いちいち余計なこと言ってんじゃねー。……まあそりゃ、気にすんなって方が無理な話だろうがよ」

 今朝の顛末を思い出しているのか、岳人の顔は苦いものとなった。ファミリーの男衆の中では飛び抜けて精強な肉体を持ち、喧嘩などの荒事においては相当な自信があったからこそ、転入生を相手に何も出来なかった自分が腹立たしいのだろう。一子には想像する事しか出来ないが、今回の一件で男としてのプライドは深く傷付けられたハズだ。

「何も出来なかったのは皆一緒だよ。私だって動けはしたけど、あのままじゃ逆立ちしても勝てなかった。……そういう訳で、部活、復帰しようか本気で迷ってる最中」

「な、なんだってー!?」

 複雑な表情で迷いを口にした京に、ファミリーの面々は揃って驚きの目を向けた。

 彼女は、自身の所属する弓道部では既に幽霊部員と化している。風間ファミリーの外における人間関係を煩わしく思い、極端に厭う、元・苛められっ子の少女。そんな彼女が自発的に部活という外部のコミュニティに参加しようと考えているのだ。それほどまでに例の転入生との遭遇は大きな刺激となったのだろうか。

「私はファミリーのみんなさえいれば他はどうだっていい。だけど、だからこそ、私はあの転入生みたいな脅威からみんなを確実に守れる力が欲しい。正直部活とかは面倒だけど、その為だったら、私は頑張れると思う」

「そうか……京が自分の意思で決めた事なら、俺達は何も言わない。出来る限り応援するだけさ」

「大和、嬉しい。それはつまり結婚を前提にお付き合いしてくれると受け取っても」

「宜しくないんだなこれが。京がファミリーの外にも世間を広げるのは素直に賛成するけど、それとこれとは話が別」

「相変わらずのイケズなんだ。だけどそれでもいい、私は我慢強い女……鳴くまで待とうホトトギス」

 もはや2-F名物と化した恒例の遣り取りを眺めながら、一子は再び物思いに沈んでいた。

(そっか。そうだよね)

 キャップは真っ先に風の如く修行へと飛び出し、ガクトはトレーニング量を考え直し、京はあれほど苦手としていた部活に向けて自ら動き出そうとしている。彼らは皆が自分なりの方法で自分を磨こうと考えているのだ。織田信長という強大な壁の出現に心を揺さぶられ、己の無力に悩んでいるのは誰もが同じ。

(アタシは一人じゃない、ファミリーのみんなが一緒なんだ)

 そう思うだけで、心が軽くなるのを感じた。具体的に問題が解決した訳でもなく、打開策が見えた訳でもない。しかし、子供の頃から共に困難を乗り越えてきたこの仲間達がいれば、先の見えない暗闇も恐れずに進めるような気がした。

「ユーオウマイシンよね、やっぱり」

「いきなりどうしたワン子。これから電波キャラを目指すのは茨の道だぞ」

「隣の2-Sに強力すぎる対抗馬がいるしねぇ」

「まあアレに対抗するにはワン子は色々と足りてないな。具体的には頭とか胸とか」

「うぅ、うっさいわね!ちょっと心の声が漏れちゃっただけじゃない!」

 愛すべき幼馴染どもにはまるで容赦というものが無かった。風間ファミリーにおいては基本的にシリアスな空気は長続きしない。それを長所と捉えるか短所と捉えるかは意見の分かれる所だろうが、お気楽な雰囲気を好む一子としては尊重すべき美点と言える。これで自分が事あるごとにイジられさえしなければ文句はないんだけどなぁ、としみじみ思っている時であった。

 教室の戸がガラリと無造作に開かれ、そして――其処から氷点下の冷気が流れ込んだ。



「っ!」

 その凶悪な“殺気”に対し、真っ先に反応したのは椎名京だった。弓道を主に修めた京は、ファミリー内では二番目に優れた気配探知能力を発揮する。ちなみに一番は言うまでもなく百代である。京は誰よりも早く動き、他の面々を庇うように前に出て、鋭い眼光で闖入者を睨み据えた。

「ふん。ここが件のF組、か。随分と乱雑な事だ。Sの連中と気が合わぬも道理よ」

「主のお気に召されないなら、是非とも蘭にお命じ下さい。私の意地と誇りに賭けて、必ずや塵一つ残さず掃き清めて見せましょう」

 視線の先には今朝方以来の二人組、織田信長と森谷蘭の姿。彼らは京の存在など気にも留めていない様子で、腹立たしいほど悠然とした歩調で2-F教室に足を踏み入れた。

 別段、彼らはこれといって敵意も害意も見せていない。にも関わらず、空気は痛いほどに張り詰め、逃れられない重圧が瞬く間に教室を支配していく。

 相変わらず、無茶苦茶だ。同じ人間だとは到底思えない。背筋を走る怖気に抵抗しながら、京はギリリと歯を食いしばった。

 風間ファミリーを含めて、ほぼ全ての生徒がその得体の知れない雰囲気に呑み込まれている。彼らの傍若無人な歩みを止める人間は現れないかに思われた。

「わ、私たちのクラスに、な、なんのご用ですか。用件がないなら、ど、どうかお引取りください。みんな怖がってます……」

 しかし、そんな凍り付いた空間の中で尚、動く者がいた。

 顔色は真っ青で手足はガクガクと震え、完全に涙目になりながらも、クラスメートを守るべく信長の眼前に立ち塞がる小柄な少女。2-Fクラス委員長の甘粕真与だった。信長は感情の全く篭っていないガラスのような冷たい目を彼女に向けて、口を開く。

「ふん。成程、貴様がこのクラスの委員長。つまりは代表、と言う訳か」

「そ、そうです。お姉さんの言う事を、どうか聞いてください……」

「下らんな。笑うにすら値せん」
 
 必死の懇願に近い真与の言葉を無表情で受け止めて、信長は吐き捨てるように言う。同時に向けられる、冷気に満ちた信長の双眸に、真与はビクリと身体を震わせた。

「F組が俺の障害と成り得るか。推し量る為に足を運んでやったが――もはやその必要も無いと見える。斯様に無力な小娘を代表に据えている連中など、幾ら集まった所で烏合の衆よ。貴様もそう思うだろう?2-F委員長、甘粕真与」

「あ、う、うぅ……」

 言葉の一つ一つに重圧を乗せながら、信長は射殺すような視線を真与に向ける。もはや振り絞った勇気も底を尽いたのか、真与は顔色をますます青褪めさせながら俯くだけだった。時が経てば経つほどに教室を覆う空気は冷気を増し、重苦しい静寂が広がる。

「そこまでにしとけ、信長。テメェは弱ぇ相手を苛めて喜ぶようなクソ野郎じゃなかった筈だろうが」

 そんな息詰まる状況を打ち払うように声を上げたのは、学年一の不良学生、源忠勝。ワン子にとっては風間ファミリーの面々よりも付き合いの長い幼馴染でもある。腕っ節が強く頭が切れて手先が器用で、その割に性格は不器用で周囲から誤解され易いという素敵な個性の持ち主だ。

 忠勝は特に臆した様子もなく、普段どおりの仏頂面のままで信長の眼前まで歩み出ると、「お前は下がってろ」とぶっきらぼうな動作で真与を庇った。

「またしてもお前が出張るか、忠勝。くく、どうやらクラスメートが余程大事と見えるな」

「勘違いすんじゃねぇ。俺は自分の学園生活を邪魔されたくないだけだ。別にこのクラスの連中の為にやってる訳じゃねぇ」

「くく。まあ良い、そういう事にしておいてやるとしよう」
 
 弧を描くような邪悪な笑みを浮かべる信長は、気の所為かどこか愉快そうに見えた。信長と忠勝、二人はどういった関係なのだろう、と京は改めて疑問に思う。

 口も目付きも態度も悪く、代行人というやや暴力的な職を持つ忠勝に、友達と呼べる存在は殆どいない。彼の口から友人の話題が出た事もない。そもそも彼らが知り合いだという事実を京が知ったのはつい今朝のことだった。

 しかし、もしも二人が自分の想像以上に親しい関係だとしたら、この状況も穏便に解決出来るかもしれない――そんな期待を込めて、京は対峙する二人に視線を向ける。

「それで、ウチのクラスに何の用だ?風間達が売った喧嘩ならもうカタが付いた筈だ。俺はわざわざ頭まで下げたんだ、忘れたとは言わせねぇぞ」

「ふん。生憎と取るに足らん有象無象を逐一記憶に留める趣味は無いのでな。その一件にしたところで、今しがた思い出したわ」

「って事はつまり、それ以外の何かがあるって訳か」

「無論。2-Sの不死川心。心当たりがあるだろう?」

 風間ファミリーを、特にワン子を見遣りながら放たれた信長の言葉に、ざわめきと動揺が広がる。

(成程。そういうこと)

 まだまだ記憶に新しい出来事、2-Sの不死川心がワン子目当てに絡みに来たのはつい先程だった。毎度の如く下らない因縁を付けてきた彼女をファミリー総出で追い払う、そこまでは普段と同様の流れだが、今回は2-Sにイレギュラーと成り得る要素が存在した事で、事態はこれまでと異なる展開を見せようとしている。

「救い様の無い莫迦ではあるが、奴とてSの一員には違いない。故に。貴様らが不死川心を侮辱すれば、それはそのままS組の侮辱に。引いては俺に対する侮辱に繋がる。――些か、忍び難き事態よ。そうは思わぬか?蘭」

「ははっ!主のご威光を穢すものは、例え僅かな芽であろうとも躊躇わず摘み取るべきかと存じます」

 奴に大義名分を与えるな。忠勝が何度も繰り返していた言葉を、京は改めて思い出す。大和も確か、「自分からケンカを売るような事はしないように」とワン子に対して口を酸っぱくして言っていた。つまり信長は見る物全て誰彼構わず叩き潰すのではなく、あくまで自分の行動に筋を通し、ある程度の正当性を持たせた上で動くタイプなのだろう。

 思った以上に厄介な相手だ、と京は彼に対する認識を新たにした。無法な暴力にはそれを上回る理不尽な暴力――百代というワイルドカードをぶつければ済むが、この相手にはそういった対処が難しい。あくまで理に則って動く相手を問答無用で叩き潰す事は、学園側が承知しないだろう。

 思考を巡らせる京を余所に、信長と忠勝の対話は続いている。

「S組の連中がどんなふざけた真似をしようが文句を言う事すら許さねぇ。もし俺達の誰かが反抗すれば、テメェと蘭が直々に動いて叩き潰す。――そう言いてぇのか?」

「さて、最初はそのつもりでいたがな。考えを改めた所だ。先も言った通り、俺がこの組に足を運んだのは、2-Fが俺の障害足り得る存在か否か、己が目で見定める為よ。そして、俺の所感によると――貴様らは悉く、取るに足らん。俺の歩みを妨げる障害物には程遠い。興醒め、だ」

 本心からの言葉なのだろう。氷のような声音からは確かに失望の念が感じられた。完全に醒め切った、まさしく無関心そのものの目で教室を見渡す信長に、誰もが押し黙る。風間ファミリーとてそれは例外ではない。

 信長の言葉を認めるのは屈辱以外の何事でもなかったが、しかしここで下手に激昂して口答えすれば、せっかく自ら立ち去りかけている脅威を自ら呼び戻す羽目になる。少なくとも京はそういった冷静な判断の上で沈黙を選んでいるし、他の面々もそれは同じだろう。

 織田信長という男がいかに度外れた怪物であるか身を以って味わった以上、敵対を避けようと考えるのは至極常識的な判断だった。それを臆病だの卑怯だのと非難するのは馬鹿げている。ここは間違いなく沈黙を選ぶのが賢い選択だ。

「ちょっとちょっとアンタ!」

 だから、そんな場違いに威勢のいい声が真横から上がった時、京は特に驚くでもなく、ただ「ああやっぱり」と呆れ混じりに思うだけだった。“賢い選択”なんて上等な理屈、このお馬鹿な幼馴染には通用しない。

「さっきから黙って聞いてれば好き放題言ってくれちゃって、本当失礼しちゃうわ!」

 メラメラと両目に闘志を燃やしながら、ワン子は真っ直ぐに信長を見据える。先程まで抱えていた怯えも迷いも吹っ切れたような、力強く輝く目だった。ひたすら前だけを見て、夢と希望を追い求めるその姿こそが、多くの人間を惹き付けて止まない川神一子の魅力だ。

「ふん。随分と活きの良い雑魚も居たものだな。身の程を知れ、と言った筈だが?またしても醜態を晒したいか、川神一子」

「っ!?」

 強烈な殺気の嵐が吹き荒れて、叩きつけるような激しさを伴いながらワン子を襲う。

 それは余波に巻き込まれただけの京ですら心臓が凍り付くような恐怖に襲われる、無茶苦茶な殺意の奔流だった。果たして直撃を受けたワン子はどうなっているのか――固まった身体を無理矢理に動かして幼馴染の姿を視界に収めた京は、思わず息を呑んだ。

 ワン子は笑っていた。全身から冷や汗を流し、歯をガチガチと打ち鳴らしながら、それでも不敵な笑みを崩さないまま真っ直ぐに信長を見つめている。

「残、念だったわね……アタシは、もう、泣き虫は卒業したんだから。二度と、泣いたりなんてしないわ!」

「……成程」

 苦しげに言葉を紡ぐワン子の姿に何を思ったのか、信長は不意に殺気を緩めた。そして、拘束から解放されて荒い息を吐いているワン子に向かって、淡々と言葉を投げ掛ける。

「興が乗った。問おう。お前を支えるものは何だ、川神一子。足掻き続けても超えられぬ壁を前に膝を屈せず、前へと進む意志。其れを支えるものとは?」

「え?えーっと。アタシはそんな風に小難しい言葉を並べられても分からないけど……一つだけ言える。アタシが立っていられるのは、みんながいてくれるからよ。例え挫けても無理矢理引っ張り起こしてくれる仲間がいるし、どれだけの努力を積み重ねてでも絶対に守りたいと思う家族もいる。その事に気付いたから、アタシはもう泣かないわ」

(ワン子……)

 織田信長を前にして京が自身の無力について思い悩んだように、ワン子もまた思う所があったのだろうか。

 思えば今日一日、彼女にしては珍しくぼんやりと考え込んでいる時が多かった。その時間を通じて、ワン子はワン子なりの答えを見つけ出したのだろう。

 実際問題、彼女の抱える夢の大きさを考えれば、まだまだ答えを出すには性急と言う他ないが、しかし当分の間はその気持ちを忘れないで欲しい、と京は思う。

 そう、仲間は頼る為にいるのだ。風間ファミリーの愛すべきペットがひとり戦っているなら、立ち上がらない道理はない。

「あー、ワン子に先を越されるたぁ情けねぇな俺様。だが、今回ばっかりは豆柴にしては良く言ったと褒めてやるぜ」

「同感。まあここまで俺達風間ファミリーを馬鹿にされて黙ってるってのもちょっとね。どうせキャップがこの場にいたら同じことになってただろうし、仕方ないさ」

「確かに怖いけど、逃げちゃダメだよね。あ、僕ちょっと初号機パイロットの気持ちが分かったかも」

 大和、ガクト、モロ。戦闘力では女性陣の足元にも及ばない男衆は、それでもまるで臆する事なくワン子の傍に立って、信長と正面から向かい合う。

「こうなると私が動かない訳にもいかない訳でして。エアリーディングは大事」

 そして京もまた、躊躇なくそこに加わった。屈辱に耐えてやり過ごせば勝手に去っていく織田信長と言う巨大な嵐に、自ら首を突っ込む。損得勘定で考えれば間違いなく避けるべき行動だが、そんな事はどうでもいい。

 いついかなる場合であれ、ただひたすら仲間のために戦うのが椎名京の生きる意味だ。大事な大事な幼馴染達。風間ファミリーは、京の全てだった。

「という訳で、ワン子には貸し一つだよ。ククク、いずれ肉体で支払ってもらいます」

「み、みんなぁ~」

 先ほどの宣言は早くも過去のものと化したのか、ワン子は早速泣きそうになっていた。

「ったく……てめぇらは俺の忠告をことごとく無視しやがる。ちっ、だからてめぇは放っとけねぇんだよ、一子」

 不機嫌な調子で言う忠勝に、ワン子は心の底から申し訳無さそうな顔で手を合わせた。

「タッちゃん、ゴメン。アタシのこと心配してくれてるのに、勝手な事しちゃって」

「別にお前の心配は……あーくそ、まあいい。こうなったら仕方ねぇ。俺も一応F組の人間だ、手を貸してやるよ。危なっかしくて見てられねぇぜ」

 そうして、六人が織田信長と対峙する。

 川神一子、椎名京、直江大和、島津岳人、師岡卓也、源忠勝。

 一歩も退かない心構えを示す六名を傲然と見渡して、信長は酷薄に口元を歪めた。

「くく。茶番は終わったか?所詮は雑魚が群れた所で大勢が変わる訳でもない……が、俺に歯向かう気骨は確かに備えている。――俺の障害足り得るだけの資格は、ある。で、あるならば、少しばかり話は変わってくるな」

 眼前の面々など放っておいてもまるで脅威にならない、と言わんばかりの余裕の態度で、信長は顎に手を当てて何事か思考している。

 実際、この男はもはや不意打ちなど何の意味もなさないレベルにいるのだろう。例え上手く隙を突けたとしても、次の瞬間には背後に控える従者が立ち塞がる。手の出し様がなかった。

「だが、ここで仮に俺自らが貴様等を一息に捻り潰した所で、何の余興にもならん。天秤の揺れぬ勝負ほど興醒めなものも無い。……ならば、“手足”を用いるが最適、か」

「“手足”だと?」

 忠勝の鋭い疑問の言葉を意に介せず、信長は言葉を続けた。

「ふん、これならば良い余興になりそうだ。ここに宣言しよう――此度の2-Fとの戦、俺は関与しない、とな」

 特に誇張するでもなく淡々と吐き出された言葉の内容に、幾度目かの動揺が京達を襲う。

 その意味するところを理解した瞬間、ワン子は怒りの声を上げていた。

「ちょ、関与しないってどーいうワケよ!アタシ達を馬鹿にしてんの!?」

「貴様等の実力に対する正当な評価の下に判断したまでだ。俺が関わらないのも、あくまで直接の話。間接的には動かせて貰う」

「?つまり……どういうコトよ」

「貴様はもう少し物事に対する理解力を身に付けるべきだな、川神一子。川神院の師範代は武“のみ”で務まる程、易くはない故。……兎も角、要約すればこういう事だ。俺自身は動かず、あくまで自身の有する駒のみを用いて、貴様等を屈服させる、と」

(おやおやまあまあ)

 それは結局のところ、2-Fを馬鹿にしている事には違いないだろうに、と京はその清清しいまでの傲岸不遜っぷりに呆れた。お前達如きを相手に俺が出るまでもない――彼の発言はそう言っているのと実質的に何も変わらない。

 なるほど、この他者を徹底的に見下した態度、まさしくあの憎き2-Sクラスの一員に相応しい。そう思えば、普段はクールな京も俄然燃えてくるものがあった。是が非でもその鼻っ柱を叩き折ってやりたくなる。他の面々も同じような気分なのか、表情に闘志が漲っていた。

 その中でも最もやる気に満ち溢れたワン子が代表して信長を睨みつけ、口を開く。

「そのヨユーの顔、絶対に崩してやるんだから!それじゃ早速―――」

「生憎と俺は忙しい。明日に回せ」

 勢い込んだところを外されて、ワン子は何とも言えない表情で言葉を詰まらせた。

 忠勝達も肩透かしを食らったような顔をしている。ラスボス戦の前口上が終わったのに戦闘が始まらなかったような、そんな感じである。

 相変わらずの無表情で佇む信長に、どこか力の抜けた声でワン子が噛み付く。

「忙しいって、アンタ帰宅部でしょうが。時間ならいくらでも」

「貴様等がどうなのかは知るところではないが、俺が部に属していない理由は主に二つ。興味が無い、時間が無い。貴様等の如く放課後に暇を持て余す為では、断じてない。足りない脳髄に刻んで覚えておくがいい」

「ぐ、ぐぬぬ……なんてコト、ごもっとも過ぎて何も言い返せない……!」

「あたた。帰宅部に正論は耳が痛いよね」

「あ~、お前ら大変だな、まぁこれを機に反省して日頃の行いを改めろってことだ」

「なんで自分は違うみたいな態度なのさ!まんまガクトのことだから!」

 こんな状況でもツッコミを忘れないモロは本当に芸人気質だよね、などと冷静に考えている自分に気付き、京は自分の思考の緊張感の無さに少し呆れた。

 風間ファミリー内でシリアスな雰囲気が長続きしないのはいつもの事だが、強大な脅威を目の前にしても平常運行、と云うのは少しばかりマイペース過ぎはしないだろうか。

「いかにして勝敗を決するか、その手段だが」

 信長は眼前で繰り広げられる寸劇を完全に無視して、淡々と言葉を続けた。

「貴様等に決定権をやろう。ただし、俺からは一つの条件を指定する」

「む、何だか怪しいわね。“実は勝った方が負け!”とかのとんでもない条件だったりしないでしょうね」

「下らん。貴様等を相手に然様に姑息な真似が必要とは思えんな。原則として勝負は一対一の形式にて行う……それだけだ」

(なるほど)

 わざわざ一対多を避けようとするという事はつまり、“手足”とやらの個人の能力が信長ほど怪物じみたものではないか、或いは“手足”にそれほどの数が居ないか。二つの可能性が推測として浮かび上がる。

 信長の言葉に耳を傾けながら、京は既に敵戦力に関する分析を始めていた。もはや戦いが避けられないならば、事前に少しでも多く相手について情報を集めるべきだ。情報収集は戦の常道。ファミリーの“軍師”、大和を横目で伺えば、予想通り静かに思考を巡らせている様子だった。相変わらずクールで頼りになる大和カッコイイ抱いて――場所を弁えず暴走しそうになる思考を取り敢えず脇に置いて、京は信長に注意を戻す。

「主。そろそろお時間です。僭越ながらお急ぎになられた方が宜しいかと存じます」

「ふん、些か時間を潰し過ぎたか。まあ良い、障害を見定めるという目的は達した。蘭。往くぞ」

「ははっ!」

「さて」

 信長は凍てつく眼差しで2-Fの面々を一人ずつ刺し貫きながら、口元を吊り上げた。

「くく。覚えておくがいい、俺は自らの障害を排するに欠片の躊躇もない。慈悲も容赦も期待せん事だ。―――2-F、俺の眼前に膝を屈する用意をゆめゆめ怠るな」

「アンタこそ、首を洗って待ってなさいよ!“手足”とやらを倒したら次はアンタの番よ!」

「それは、楽しみだ」

 ワン子の無鉄砲な勇気に溢れた宣言を鼻で笑って、信長は悠然と踵を返す。僅かな恐れも迷いも感じさせない堂々たる背中に、物静かに従者が付き従う。去り際まで他者を寄せ付けない威風に満ちたその姿は、敵ながらある種の畏敬を覚えずにはいられないものだった。

 唐突に吹き荒れた嵐はかくして過ぎ去り、放課後の2-F教室には普段通りの平穏が戻る。

「あ”~、疲れた……やっぱ無茶苦茶だわ、アイツ……」

 重圧からの解放感を全身で味わうように、皆が大きく吐息を吐いた。結果として特に一戦を交えた訳でもなく、ただ数分間の会話を交わしただけだと言うのに、ファミリーの面々は酷く消耗した様子でぐったりと机に寄り掛かっている。もっとも威勢の良かったワン子ですら、前のめりの体勢で机にへばり付いている有様だ。かく言う京自身、決して無事と言う訳ではない。肉体的なダメージは皆無でも、精神が切実に休息を欲していた。しばらくはまともに動けそうになかった。

「ったく。そんな調子でよくあいつに挑もうなんて考えたモンだ。毎度毎度、無鉄砲過ぎんだよテメェらは」

 一人だけそれほど消耗していない様子の忠勝が、呆れた目で風間ファミリーを見渡す。やはり昔馴染みと言うだけあって、あの男が放つ威圧感にも耐性があるのだろうか。何にせよ、彼という頼もしい戦力が味方についてくれたのは素直にありがたい話だった。

「あぅぅ。いつも心配かけてゴメンね、タッちゃん……」

「別に心配してる訳じゃねぇって何回言わせりゃ気が済むんだボケ。危なっかしくて見てられねぇだけだ」

「ククク。人はそれを心配してると言う」

「ツンデレ属性の世話焼き幼馴染、オプションとして家事万能……ゲンさんが男に生まれたのは神の大いなる采配ミスだと言わざるを得ない」

「てめぇら少し黙りやがれボケ!ちっ、テメェら、仮にとはいえ信長を敵に回したんだ。明日からは覚悟しとけ」

「は~い!」

「ったく、本当に分かってんのか?相変わらず緊張感のねぇ……まあいい、取り敢えず対策会議を開くぞ。てめぇらどうせ暇人なんだろうが、文句は言わせねぇ」

 そんな訳で、四月十三日・火曜日の風間ファミリーの放課後は、忠勝主催の対織田信長特殊ミーティングで過ぎていく。忠勝が情報を持ち込み、大和がそれを吟味・検討し策を練り、ワン子が空気を読まず脳筋発言を放ってはチョップを食らい涙目になって、モロとガクトは例によってボケツッコミで盛り上がって、そして京はハードカバーを片手にそんな彼らを静かに眺める。

(きっと大丈夫)

 幼少の頃から現在に到るまでの十数年、ファミリーが揃えばどんな壁でも乗り越えて来られた。今回の壁は果てが見えない程に巨大だが、京の胸に不安は無い。

 京は分厚い歴史小説で口元を隠しながら、そっと微笑んだ。

(うん。みんながいるから、大丈夫)





 




―――――表/裏―――――









 青空闘技場―――川神重工業地帯の一角に位置する廃工場をリングに繰り広げられる、血と罵声が飛び交う無秩序なストリートファイトの会場である。銃器暗器爆発物、目潰し金的不意打ち場外乱闘、基本的には何でもあり。ルール無用の危険地帯だ。言わずもがなアンダーグラウンドの住人達の巣窟だが、ネットを通じて全国と言わず全世界にまでその名は広まり、強者との死闘を求める戦闘狂が集う地として知られている。

 表側の住人が下手に踏み込めば火傷では済まない混沌のコロッセウムは、同時に織田信長の拠点の一つでもあった。

「オラッ!ふざけんな!死ね死ね死にやがれボケがっ!」

 そんな青空闘技場のエントランスに差し掛かった瞬間、聞きなれた罵声と人体が殴打される破壊音、血飛沫が飛び散る音などが盛大に俺を出迎えた。やれやれ全く来訪早々に不愉快な音を聞かせてくれるものだ、接客精神というものをどう考えているのか知りたい。

 まあ、先客の応対に追われている相手に多くを求めるのも酷な話か。その先客がどうしようもなく手のつけられないクレーマーならば尚更である。下手に顔を出して巻き込まれるのは勘弁願いたいので、ここはしばらく様子を伺うとしよう。

「ど、どうかお許し下さい!この通りお詫びさせて頂きますので何とぞ――!」

「あー?おいおいオッサンよぉ、何でもかんでも謝って済めばケーサツはいらねーんだ、よォ!」

「ぐぎゃああああっ!?」

 べきり、とまたしても骨がへし折れて、血飛沫が舞う。

 被害者の中年男が奏でる苦悶の悲鳴をバックミュージックに、凶器のゴルフクラブをスイングした体勢で佇むのは、悪名高き板垣一家の末娘、天こと板垣天使である。自分の口元に飛んだ血を舐め取ると、ペッと忌々しげに吐き出した。目元が釣り上がり、顔は燃え盛る火炎の如く赤い。端正な顔立ちが悪鬼のそれと化していた。

 あの怒り様は尋常ではないな、闘技場で一戦交えた後だろうし、大方興奮剤か何かでも使ったのだろう――と当たりを付けていると、奥からスーツ姿の若い男が一人、姿を見せる。青空闘技場の粗暴な空気には似合わないビジネスマンの如き風貌は、酷くこの場で浮いていた。

「お客様?一体何事でございましょうか」

 恭しく天に声を掛けながら、男は油断ない目付きで素早く周囲を見渡し、状況を確認している。その蛇のような細い目が、おかしな方向に折れ曲がった身体を血溜りに沈め、苦痛に悲鳴を上げている中年の姿を捉えた。男はその怖気の走る光景を前に、不快なものを見たとでも言いたげに僅かに眉を顰めたが、それ以上の反応は見せなかった。

「あーん?あー、オマエかよ。いやさぁ、このクソボケ野郎がよりによってウチの服にアイス付けやがったワケ。しかもチョコだぜチョコ、茶色いのがベッタリ付いて取れやしねー。あああ腹立つ、折角シンに買って貰った服が台無しじゃねーかよクソが!しかもこのオッサン、ヘーコラ謝るだけで何もしやがらねー。マジふざけんじゃねーぞコラ」

「それは私めの部下が大変な失礼を致しました。到底お許し頂ける事ではありませんが、代表者として改めて謝罪させて頂きます」

「けっ、そこそこ強い奴をボコれてイイ気分だったってのに、コイツの所為でブチ壊しだぜ。うがあああぁぁあ!思い出しただけで腹立つってーの!」

「お客様に粗相をする無能な従業員など、気の晴れるまで殴って頂いて構いません。その愚か者も、骨身に染みるほど反省すれば少しは使い物になるでしょう」

「そーかよ、んじゃー遠慮なくそうさせて貰う、ぜ!」

 天は倒れ伏した中年男に歩み寄ると、無防備な顔面に容赦ないサッカーボールキックを叩き込んだ。その一撃で完全に気を失ったのか、男はピクリとも動かなくなった。それでも怒りは収まらないのか、天は何事か怒鳴り散らしながらゲシゲシと蹴り付けている。

 そんな様子を、スーツ姿の男は作り物の笑顔で眺めていた。今まさに自分の部下が壊されているにも関わらず、少しも感情が動いた様子はない。相変わらずの冷血っぷりである。

「お客様のお召し物ですが……」

 天が暴行を止めて、ある程度は落ち着きを取り戻したと判断してから、男は丁寧な物腰で声を掛ける。

「勿論こちらで賠償させて頂きます。私どもの誠意、どうかお納め下さい」

 どこからともなく取り出した高級そうなスーツケースをおもむろに開くと、男は札束を恭しく差し出した。

 あの厚みから判断すれば十万、と言ったところか。衣装一着の弁償としても割に合わない金額だが、それは悪名高き板垣一家への対応としては正解だった。実際、普段の天ならブツブツと文句を零しつつも引き下がっただろう。そういう意味では男に落ち度はない。

「ああ?金の問題でもねーんだよ、ウチの気が済まねーつってんだ。ケチなシンの奴にこの服選ばせて買わせるのにウチがどんだけ苦労したと思ってんだ、んな端金で片付けられるワケねーだろーが!」

 しかし、今回はどうやら様子が違ったらしい。天がチョコアイスで汚されたと言い張るゴスロリ服(俺にはもはや返り血しか見えない)は、言われてみれば前の誕生日に俺が渋々買ってやったものだ。

 確かに俺が天の奴にプレゼントをするなどというイベントは、十年近い付き合いの中でも数えるほどしかなかったが……哀しいかな、所詮は貧乏人の俺が選んだ服。俺の軽い財布にこそ甚大なダメージを与えたとはいえ、世間的に見ればさほど高価なものでも無いのだから、そこまで大事にして貰っても困る。

「しかし、ではどうすればお許し頂けるでしょうか?」

 この事態は計算外だったのか、男は営業用スマイルをやや引き攣らせている。そんな彼に向かって、天はクスリの効果で焦点の合わない目をギョロリと向けて、ニタァっと獰猛な笑みを浮かべた。

「うけけ、ウチに聞かれても困っちゃうな~。強いて言うなら、そうだな……身体で支払うってのはどうよ。ウチが満足するまでオマエがサンドバッグになってみるとか、なかなか楽しそーな企画じゃねー?」

「お客様。それは……困ります」

 血塗れのゴルフクラブを持ち上げてにじり寄る天に、冷や汗を掻きながら男は少しずつ後ずさった。この危機的状態でも営業用スマイルと丁寧な接客態度を崩さないのは天晴れと言う他ないが、しかし板垣の末妹を相手にそれらが役に立つかと言われれば、残念ながら答えは否である。努力の甲斐なく、男と天の距離は徐々に詰められていく。

 そして、いよいよゴルフクラブの射程圏内に入り、部屋の隅に追いやられて完全に逃げ場が無くなったその時、男がついに切り札を切った。

「お客様―――私に手を出せば、織田様が黙ってはおられませんよ」

「あ?シンがどうしたって?」

「お客様はご存知ないかもしれませんが、青空闘技場の経営を取り仕切るこの私、丹羽大蛇(おろち)。織田様のご愛顧を頂いておりまして。織田様に対して様々な所で便宜を取り計らせて頂いている私にお客様が手を上げられたとなれば、然るべき措置を――」

「あーくそ、ゴチャゴチャとうるっせーんだよ、ウチにも分かり易いように喋りやがれ!もう面倒くせー、ブン殴れば分かるだろ。つー訳でやっちゃいますか、ギャハハハ!」

「は?お、お客様?」

 織田信長の名前さえ出せばどんな荒くれ者でも顔を青くして引き下がる。それが堀之外の街における常識であり、今回も同様に事が運ぶと疑っていなかったのだろう。余裕の表情でぺらぺらと口上を述べていた男、大蛇は今度こそ営業用スマイルを放棄してうろたえていた。

 こいつの失敗は一つ。クスリを決めてハイになった天の理不尽な傍若無人っぷりを甘く見たことである。

 などと冷静に分析している間にも、事態は進んでいる。ゴルフクラブを片手に迫る天を前に、どうにか逃げ道を見つけようとあちこちに視線を飛ばす大蛇。ここで貴重な出資者の頭がカチ割られてしまっても困るし、そろそろ助け舟を出してやるとしよう。

「そこまでにしておけ。天」

「お、織田様っ!?あ、確かにお約束の時間でございましたね、いやぁ良くいらして下さいました本当に」

 俺がエントランスに足を踏み入れると、営業用とは違う心の底から安堵した笑顔で出迎えを受けた。

 俺はこの男がここまで嬉しそうな顔をしている所を初めて見たが、何と言うか、何だろう、不気味極まりなかった。

「ん~、シン?シンかぁ。なあ聞いてくれよ、コイツらがウチの服オシャカにしちまったんだ。せっかくオマエに買って貰ったのにさぁ。許せねー」

 クスリでハイになり過ぎて意識が朦朧としているのか、俺に向けて語り掛ける天はやけにぼんやりした調子だった。それでもひとまず俺の制止の言葉は認識できたらしく、半ば振り上げ掛けていたゴルフクラブは既に地面に向いている。そんな彼女の背後で、大蛇が息を吐きながら胸を撫で下ろしていた。まあ気持ちは分かる。この男のロクでもない素行を考えれば同情は出来ないが。

「ふん。所詮は服一着、騒ぎ立てる程の事でもあるまい」

 というか、その服で青空闘技場に来ている時点で、オシャカも何もあったものではないだろう。返り血で汚れるのはアリでもチョコで汚されるのはアウトなのだろうか。常識的な感性の持ち主である俺にはいまいち理解できないところだった。

「所詮はねーだろ所詮は。ウチと一緒にショッピングしたの忘れたのかよ、服は買えても思い出は買えねーんだぞ。ほら、何だっけ、そう、プライスレスって言うだろ」

「それが無価値、と云う意味ならば同感だな。実益無き物事には価値もまた皆無――だが、然様に下らんものの為に手駒を壊されるのも馬鹿げた話よ。お前が欲するならば、次の機会にでもくれてやろう」

「うおおおマジか!?そんじゃ月末辺りに駅前行こうぜ!いやでもイタ街もアリだな、あ~ワクワクしてきたぜぇ。アイス付けられた時にはマジ最悪だと思ったけど結果オーライってヤツだな、オッサンに感謝感激しちゃう!なあオッサン、って聞こえてねーかヒャハハッ!なあなあシン、ウチは確かに聞いたかんな、約束破るんじゃねーぞ!」

「承知した故、少し黙れ。煩い。俺はこの男と話がある。大人しく控えているがいい」

 クスリの所為か異常なハイテンションで喜んでいる天は取りあえず放置して、ついでに間違いなく圧迫されるであろう家計についても頭から締め出して、俺は大蛇に向き直った。

 いつ見ても爬虫類の如く狡猾な印象を与える青白い顔。顔立ち自体は若いのだが、油断のならない老獪な雰囲気を醸し出している事から、正確な年齢を読み取るのは難しい。百八十を超える身長にきっちりと着こなしたブラックスーツが映えている。細身な四肢からは鍛錬の跡は感じられないが、にも関わらずどこか相手を身構えさせるような危険な雰囲気を備えていた。

 俺はこの丹羽大蛇という男について、語るべき事項をさほど多く持たない。そもそも一切の経歴が不詳で、幾ら探っても全く過去が出てこないのだ。丹羽大蛇、という名前にしてみたところで間違いなく偽名だろう。そういう類の人間は裏社会には掃いて捨てるほど溢れ返っているので、そこは大して気に留める事でもない。現在は青空闘技場のオーナーを務めており、堀之外を取り巻く金の流れに関しては相当に大きな権限を握っている人物だ。

 俺がこの男の内面について知っているのは、金の絡む事に関してはとことん有能で、利益と立身の機会に目敏く、慎重で執念深い性格の持ち主という事だけ。そして、それが判っていれば織田信長にとっては充分だった。

「織田様、先ほどは見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ございません。お話とは?」

「大した用件でもないがな。此度は顔見せに来ただけよ。俺の新しい従者の、な」

「おや。私、織田様の“直臣”は森谷様お一人かと思っていましたが……そういえばお姿が見えませんね。新しい従者。新たな懐刀、でございますか」

「従者を増やさぬのは、俺の眼に適う人材が嘆かわしい程に見当たらぬが故よ。無能を態々己が傍に置くほど、酔狂ではないのでな」

「なるほど、つまりこれからご紹介されるのは、見事織田様の御眼鏡に適った傑物と言う事でございますか。これはこれは、非常に興味深いですね」

「ふん。奴に対して然様に上等な評価は相応しくないが、な。まあ良い――入れ、ネコ」

「は~いは~い」

 仮に戦国時代に同じ事をしようものなら一瞬で首がすっ飛びそうなナメた返事をしながら、のんびりとエントランスに足を踏み入れたのは、言うまでも無く我が従者第二号。明智ねねである。

 かの衝撃のお嬢様ルックは学校内だけと決めているのか、ウィッグを外しメガネも外して、理解に苦しむダボダボのロングコートを羽織っている。背筋はぐにゃりと折れ曲がった猫背で、猫目は気怠そうに半ば閉じられていて、まあつまり、お世辞にも立派な従者と胸を張る事は出来そうにもない有様であった。

「やれやれ。出待ちってのは面倒だね、どうにも退屈でいけないよ。……あーもう、ここも血の匂いがするなぁ。どうしてこう暴力的なのかな、裏のヒト達は」

 ねねは建物の中に入った途端に血塗れの人体を視界に映し、露骨に嫌な顔をして鼻を摘んだ。アンダーグラウンド初心者のねねは未だに暴力の生み出す光景に慣れないらしい。眉を顰めながらぐるりと周囲を見渡して、そして大きく目を見開いた。

「あー!?板垣天使!!」

「ウチの名前を呼ぶんじゃねーッ!……ってオマエ、あん時の性悪ネコ娘!ここで会ったが百年目だ―――オラァッ!」

 間に入って制止する暇も無い。クスリの効能で頭のネジが半分ほど飛んでいる天は、一瞬でキレてゴルフクラブを振りかぶった。唸りを上げて空気を切り裂く殺人スイング。

 ねねは咄嗟の事で反応が遅れたのか、慌てた様子でその場から跳躍した。クラブのヘッドはまさしくギリギリのタイミングでねねの爪先を掠め、虚空を撃ち抜く。

「フゥー、危ない危ない。相変わらずのキレる若者、青春を謳歌してるね天使ちゃん」

「名前で呼ぶんじゃねーっつってんのが聞こえねーのかコラ!局所的に血の雨降らせてやろーか、ああ!?」

 着地しながら憎まれ口を叩くねねに、間髪入れず二撃・三撃目が襲い掛かる。ねねはそれらを、ピョンピョンと機敏に跳ね回って避けていた。

 そんな様子をやや呆れた顔で眺めながら、大蛇が口を開いた。

「彼女が第二の直臣、と言う訳ですか。止めなくても宜しいので?」

「あの莫迦共も本気で殺り合っている訳ではない。所詮は遊びだ。捨て置けば良かろう」

 天の奴も昨日の今日で改めて俺に喧嘩を吹っ掛けるほど馬鹿でもないだろう。あれだけ殺意を込めて釘を刺しても効果がないなら、はっきり言って俺にはお手上げだ。

「アレが遊びですか……いやはや、私のようにひ弱な一般人からしてみれば何とも空恐ろしい話です。しかし成程、あの板垣様と渡り合えるとは、流石に織田様の目に留まっただけの事はありますね。名前を伺っても?」

「明智音子」

「明智、ですか。それはまさか」

「先日、俺と板垣が叩き潰した“黒い稲妻”の首領。そして、あの明智家の息女でもある」

「……なるほど」

 与えられた情報を整理しているのか、大蛇は真面目な顔で顎に手を当てて何事か考え込んでいる。

 常人と比べて頭の回転が速いこの男なら、俺が今回の面会に何を求めているか自分で判断してくれるだろう。言葉を交わす際に面倒な説明の手間が省けるという点では、俺は大蛇を気に入っている。

「織田様。彼女の“顔見せ”はどれ程の範囲で行われましたか?」

「現状では堀之外の内部に留めている。諏訪、神保、土岐、江馬――主立った有力者には声を掛けたが、末端にまで行き届くには暫しの時間を要するだろう」

 お陰で今日の夕方は堀之外の各所を回るだけで潰れてしまった。ねね率いる“黒い稲妻”が各所で見境なく暴れ回っていたお陰で、訪問先にて余計なトラブルも起きた。従者の癖に主の手を煩わせるとは、我ながら随分な厄介者を拾ったものだ。

「承知致しました。ひとまずはその程度の処置でも抑えられるでしょうが、三月から四月に掛けて“黒い稲妻”が動いた範囲を考えれば、少しばかり不安が残りますね。私から川神の各所に根回しをしておきましょう」

「一任する。良きに図らうがいい」

 話が早くて本当に助かる、と俺は内心で呟いていた。姑息で冷酷で残忍で、正直に言ってまるで信用には値しない人間だが、こうして顎で扱き使う分には便利な人材だ。厄介な毒牙を持っているので、足元を掬われる無様を晒さないよう、取り扱いには常に注意が必要なのが玉に瑕だが。

「織田様のご信頼を裏切るような失態は犯しませんよ、私とて命は大事でございますから」

 営業用の胡散臭い笑みを浮かべながらでは説得力に欠けるが、しかし大蛇の言葉は嘘ではないだろう。

 実際、この男に関してはかつての争いの際に散々脅かしておいたので、織田信長に対する恐怖心は誰よりも強い筈だった。もっともそうでもなければ危険過ぎて用いる気になれそうもないのだが。

「本日のご用件は以上でございますか?然様でございましたら、是非とも我らが青空闘技場の観戦にお立ち寄り下さい。勿論のこと特等席をご用意致しますので」

「不要よ。有象無象の低度な潰し合いを見物した所で、得るものはなかろう」

「それは残念です。他ならぬ織田様がご覧になっているとあれば、奮い立つ者も多いでしょうに」

「ふん。俺を興行に利用しようとは大した度胸だな、ヘビ」

「いえいえ滅相もございません。―――それでは、次の機会がございましたら、是非ともお越し下さい。青空闘技場の門は常に開いております。選手として、或いは観客として。最高の舞台を御用意させて頂きますので、信長様には今後ともご愛顧願います」

「さて。それは貴様の働き次第である事、覚えておくがいい」

 深々と頭を下げる大蛇に言い捨てて、背を向けて歩き出す。

 エントランスの入口を塞ぐようにキャッキャウフフとじゃれ合っていた馬鹿二人を睨みつけて止めると、相変わらずテンションが異常な天にちょっとした用件を伝えて、俺とねねは帰路に付いた。
 


 

 さて、通り魔に襲われたり唐突にトラックが突っ込んで来たり、そういった素敵に不幸なアクシデントに遭遇することもなく、至って平穏無事に拠点たるボロアパートに到着した俺は、蘭の用意していた夕食を食べ終え、ギリギリ備え付けてあるシャワーで一日の汗と疲労を洗い流して――そして現在時刻は就寝間際の午後十一時。

 俺は、自室の二つ隣、明智ねねの部屋を訪れていた。

「ネコ。入るぞ」

「んー。ご主人?どうぞ~」

 昨日の心の一件と同様の失態を犯さないよう、俺はねねが返事を返すまできっちりと待ってから扉を開いた。素晴らしき学習能力があるからこそ人間は万物の霊長に成り上がる事が出来たのだ。人類の進歩に深い感慨を抱きながら部屋に足を踏み入れる。

「どうしたのご主人、こんな時間に。うわ、もしかしてこれが噂に聞く夜這いって奴?いやでも、考えてみれば夜伽は従者の義務だったりするのかなぁ。いやぁ参ったな、心の準備が全然出来てないのに。さっきシャワーは浴びたから、実は身体の準備は出来ちゃってたりするんだけどね!」

「煩い黙れ」

 パジャマ姿でベッドの上にだらしなく寝転がって馬鹿げた妄言を垂れ流す我が従者からは、主に対する敬意というものが欠片も感じられなかった。ついでに慎みやら品性やら、良家の子女を名乗るために必要な要素もまた皆無だ。

 一体どういう教育を受ければこんな訳の判らない生物が完成するのだろうか。興味深いところである。

「あ。まだ引越しが完了してないからちょっとばかり散らかってるけど、まあそこは寛大な心で目を瞑って欲しいね」

「……」

 ついでに言うならば部屋の内部も惨憺たるものだった。雑誌に漫画に小説にDVDケース、テレビとノートPCの本体及び各種ケーブル、衣服諸々に開封済みの段ボール。それらが複雑に絡まり合い縺れ合い、カオスの集合体と化して狭い床面積を完全に埋め尽くしている。足の踏み場もない、とはまさにこの事だった。夕食後に色々と物を運び込んでいる姿は目撃していたが、一体何をどうすればこんな悲惨な状態になるのか不思議である。これは断じて「ちょっとばかり散らかってる」で片付けられるレベルではない。ここに蘭を呼んでくればすぐさま鬼気迫る表情で大掃除を開始する事だろう。

「ま、ここに棲むのはボクだしね。ホラ、部屋が狭くて困るのはボクだけで迷惑は掛けないんだから、文句はナシの方向でお願いするよ」

 俺の絶対零度の視線をどう受け取ったのか、ねねは目を泳がせながら何やら言い訳らしきものを始めた。ちなみに人はそれを言い訳ではなく開き直りと呼ぶ。我が従者ながら、本当に色々と嘆かわしい奴だった。

 この魔境の中に座る事が可能なスペースなど有る筈も無く、仕方なく部屋の入口で突っ立ったまま、俺が改めて自分の人物眼に対する拭い難い疑惑と戦っていると、ねねは不意にむっくりと身体を起こす。

 そして、静かに口を開いた。

「ねえ、ご主人」

「如何した」

「話があるんだけど」

 短い言葉を、二言ほど交わしただけ。

 しかし、ただそれだけの遣り取りの間に、ねねが常に垂れ流している気だるげな雰囲気は、既に霧散していた。弛緩した空気は瞬く間に張り詰めたものへと変容していく。

 気付けばねねは寝台の上で佇まいを直し、背筋をピンと張って、凛とした雰囲気を身体の芯から放っていた。

 そうして、決意を固めたような力強い目を、俺に向ける。

「ご主人が何の用もなく、ランを連れずに一人でボクのところに来るとも思えないから、“そういう事”だと思って覚悟を決めるよ。どうせボクとしてもいつまでも誤魔化して沈黙を続ける訳にはいかないし、ここらが潮時だと思うんだ。……そういうことでしょ?たぶん、ボクが言いたい事をご主人はもう判ってる」

「……」

 肯定するでも否定するでもなく、俺はただ無言を返した。

 だが、それはねねにとっては何よりも雄弁な答えだったのだろう。今度こそ完全に迷いを振り切ったように、力強く断定するような口調で、言葉を続ける。

「嘘と演技。昔から猫被りを得意とするボクが、本来ならラン以外は誰も立ち入れないハズのご主人の日常に踏み入って共に過ごした。そうでもないと、一生を費やしても絶対に気付けなかったであろう事。果たして言うべきか言わざるべきか、正直言ってかなり迷ってたんだけど……ボクはそんな面倒なもの、いつまでもウジウジと抱えていたくないから、単純明快一刀両断、即ち快刀乱麻を断つ感じで、さっさと吐き出しちゃうとするよ」


 そして、明智ねねは、全ての核心に触れる言葉を紡いだ。


「ご主人―――織田信長は。とんでもない大嘘吐きだね」















 
 という訳で、次回はネコのターンです。
 ちなみに今回初登場の丹羽さんですが、彼は基本的に裏方なのでネコのように出張ってくる事は無いはず。原作キャラを食うほどの活躍をする予定はないのでご安心下さい。格ゲーをやってる人には一瞬で元ネタが割れてしまう丹羽大蛇さんに関しては、まあそんな感じです。
 メインの三人以外のオリキャラはあくまで控え目の方針で行く予定。それでは、次回の更新で。




[13860] 犬猫ラプソディー、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:8830dc4a
Date: 2011/04/06 14:50
「―――と、まあ。そんな事があったとさ」

 四月十四日、水曜日。昼休みの到来を告げるチャイムが鳴り響く中、直江大和は教壇の前に立って、2-Fの生徒達を相手に説明会を開いていた。その内容は仇敵2-Sの転入生にして大いなる脅威、織田信長に関してのものである。

 昨日の放課後、唐突に2-F教室を訪れた彼は、自分達に対する宣戦布告を行った――と言っても実際に勝負を吹っ掛けたのはワン子の方なのだが、その辺りの細かい事情は取り敢えず無視するとして、とにかく彼と2-Fが交戦状態に入った事は間違いない。だが、大和の自惚れでなければ、信長が敵視している対象は2-Fそのものと言うより、“風間ファミリー”にゲンさんこと源忠勝を加えた六名に限定されているように思える。弱者に興味は無い、という旨の発言を何度も繰り返していた事から、他の面子は文字通り彼の眼中にない可能性が高かった。つまるところ自分達“風間ファミリー”が2-Fの実質的な代表として信長と衝突する、という事態になっているのが現状だ。あの時、信長の凄まじい威圧感に萎縮せずに立ち向かえたのが自分達だけだったとは言え、だからと言って勝手にクラスの代表を名乗っては反発も出るだろう。例え事後承諾になろうとも、クラスメート達に説明だけはしておかなければならない。織田信長と敵対しているという現実への心構えを皆に促す事も必要だ。あの場に居合わせたのは精々がクラスの半数程度で、状況を呑みこめていない者も多い。だからこそ、大和はこうして教壇に立っているのだ。こういう役回りはキャップが務めるのが常なのだが、生憎と現在は県外にて絶賛修行中だった。

「そういう訳で、例の転入生とはしばらく敵同士っていう認識でいて欲しい。本人が直接手を出してくる気はないらしいからそこまで警戒は要らないと思うけど、こっちの教室に顔を出したりはするかもしれないし、取り敢えず心の準備はしといた方がいいと思うよ。実際問題、心臓弱い人とかはシャレにならない。冗談抜きで命に関わるからそのつもりで」

「えー、ナオっち、それはいくらなんでもちょっとオーバーじゃない?居合わせなかったアタシが言うのもなんだけどさー」

 大和の言葉に懐疑的な声を上げたのは、小笠原千花。2-Fのアイドル的な存在で、垢抜けたルックスと気さくで明るい性格から男女問わず人気が高い少女である。校内に顔が広く噂好きで、新しい情報をよく提供してくれるため、大和も彼女とは知人の範疇で友好的に接するように心掛けていた。その甲斐あって、“ナオっち”と渾名で呼ばれる程度には親しい関係を築くことに成功している。

 そんな彼女は昨日の放課後、所用で早々に下校していた為、あの織田信長の襲来に居合わせなかった面子の一人だ。同様の立場に置かれている2-Fメンバーの約半数も、概ね彼女の意見に同意するように頷いている。

 まあ無理もない話だな、と大和は小さく溜息を吐いた。実際に対峙した者でなければ、あの身体が凍る様な異様な感覚を理解することは出来ないだろう。織田信長という転入生は、それほどまでに平穏な日常と乖離した存在だ。

「脳内お花畑なスイーツにゃ分からねぇかもしんねーけどよ、ありゃマジモンだぜ。俺とかちょっと漏らしちまったもんよ」

 織田信長を知る者と、未だ知らない者。両者の間に生じた温度差によって微妙な空気が漂う中、福本育郎、通称ヨンパチがブルリと身体を震わせながら大和の言葉を擁護する。それを聞きながら大和は、あれ、あの時こいつ居たっけな、とナチュラルに酷い事を考えていたりした。思い返してみれば、昨日は教室の隅で縮こまっていたような気もする。

「うわキモッ!やれやれ、なっさけないわねー。男なら“オレが追い返してやる”くらいのコトは言ってみなさいよ。ま、そんなイケメン発言、逆立ちしたってサルにはムリかなー」

 ヨンパチに対して辛辣な言葉を返す千花は、表情から普段の愛想の良さを綺麗に消し去っていた。基本的には誰に対してもフレンドリーに話しかける千花だが、ヨンパチに関しては悪い意味で例外だった。まあ自らを女体カメラマンと称してはばからず、悪びれた様子もなく水着写真やら何やらを撮影しまくっている以上、女子から忌み嫌われたとしても文句は言えないだろう。その貯め込んだ“お宝写真”で男子生徒の留まらない煩悩を満たしてくれる事から、モテない男子生徒グループの間ではある意味崇拝されているらしいが、まあしかし女子とも日常的に会話している大和には縁の無い話であった。

「でもチカちゃん、ホントに怖い人なんですよ。きっとたくさん悪いことしてる人です。うぅ、思い出しただけで泣いちゃいそうです……」

 言葉通りに目をウルウルさせているのは、そのどう見ても小学生な体型から合法ロリとか何とか一部で呼ばれる2-F委員長、甘粕真与。正直に言うと昨日まではお姉さんぶっているだけの気弱な少女だと思っていたが、誰もが萎縮する中、真っ先に信長の前に立ち塞がった姿を見て、大和は彼女に対する評価を改めていた。これからはお飾りではなく本当の意味での委員長として接していくつもりでいる。

「そういえばマヨは身体張って止めようとしたんだよね。さすが委員長の鑑だわ、エラいエラい」

「えっへん。私はこのクラスの委員長でみんなのお姉さんなんですから、このくらいは当然なのです」

 ふふん、と無い胸を張って得意げな様子の彼女の姿は実に微笑ましい。千花はそんな真与に慈愛の目を向けた後、一転して容赦のない冷ややかな視線をヨンパチに送った。 

「それに比べて、まったくサルは何やってるんだか。アンタの事だし、どうせ教室の隅っこでブルブル震えてたんでしょ」

「う、うるせー!俺は死ぬときは絶対に腹上死するって決めてんだ、あんな所で犬死してたまるか!」

「あーヤダヤダ、キモザルがまたキモいこと言ってる。早いところどこかの動物園で引き取ってくれないかなー」

 ぎゃーぎゃーと賑やかに言い争う様子を見ていると、この二人、本当は仲が良いんじゃないかと思えてくる大和だった。実際、互いに馬が合わないとは言っても、事あるごとに喧嘩を繰り返すことができる程度の仲ではあるのだろう。好意の裏返しは嫌悪ではなく無関心、とは良く言ったものだ。

「直江。俺としては、要はその織田とかいう転入生の危険度についてイメージが伝わらないのが問題だと思うがな。ここはRPGのラスボスで例えるならどのキャラクターなのか、それを解説すれば分かり易くなるだろう。ちなみに俺のイメージでは闇の衣を剥ぐ前の某大魔王だな……」

「いや、その理屈はおかしい」

 2-F随一の廃レベルオタク、大串スグルの脳内は今日も今日とて二次元で埋め尽くされているらしかった。まあここでギャルゲを例えに持ち出さなかっただけ今回はマシだったな、と思えてしまうくらいには色々と手遅れな男である。しかし、スグルの言うように、織田信長の危険性を言葉にして伝えるのが難しいのは事実だった。アレばかりは実際に体験してみないことには分かるまい。百聞は一見に如かず、言葉は実に無力だ。

「でもまあ、心配いらないでしょ。相手がどんな奴なのかは知らないけど、こっちには風間ファミリーと源くんがいる訳だし。アタシたちの分までS組の奴らにたっぷり思い知らせてやってよ」

「まあ、お前らで勝てねぇ相手じゃどうせ俺らの手には負えねぇからな。ってかあんなヤツと戦うとか絶対ムリだっての」

 千花とヨンパチの言葉を皮切りに、「ま、確かにな」「クラスの誇りはお前らに託すぜ」などと2-Fの面々からも同意の声が上がる。ここに改めて風間ファミリー+忠勝のパーティはF組の代表として認められた訳だ。大和は眼前に集まった2-Fメンバーに軽く頭を下げてから、頼もしく聞こえるように堂々と口を開いた。

「相手は確かに底知れない強敵だ。だけど、俺たちも舐められっぱなしで終わる気はない。手を抜かずに最善を尽くして勝負するつもりだから、応援よろしく頼むよ、皆」

 言い終えてから大和がぐるりと見渡すと、生徒達からは口々に激励の言葉が飛んでくる。

 それらに手を上げて応えながら、大和は脇に控えていたファミリーの面々の輪に戻った。

「大和おつかれー。みんな納得してくれたみたいで良かった。僕達が勝手にケンカ売ったみたいなものだから、気にしてたんだよね」

「あ、あはは……面目ないわ。何も考えずに突っかかったのアタシだし」

「ま、確かに軽率だったが、お前がそこまで気に病む必要はねぇ。昨日も言ってたが、信長の野郎は自分の障害にならないレベルの相手には興味がねぇからな。このクラスの連中がアイツに余計なちょっかいを掛けたりしねぇ限り、手出しはしてこない筈だ。――それよりも、だ。心配するなら自分の事だろうが、一子。先陣を切るのはお前なんだからな」

 案じるような色を目に浮かばせながら言い聞かせる忠勝に、一子は元気良く伸びをしながら答える。

「分かってるわよ、タッちゃん。……見てなさいよノブナガ、アタシを雑魚だなんて二度と呼べなくしてやるんだから!あ~、今から身体が疼いて仕方ないわ、ちょっと走り込みに行ってこようかしら」

 来るべき勝負の時を前にワン子は興奮を抑えられない様子で、座ったままウズウズと身体を動かしている。大和は頭の上で犬耳がピコピコと動くのを幻視した。

 昨日の放課後を費やして行われた対織田信長特殊ミーティングの成果として、大和達は討議の末に様々な事柄を決定していた。昨日の信長は時間が無かったのかさっさと立ち去ってしまったため、場所や刻限、ルールといった具体的な勝負の内容に関しては、昨日の時点では一切決められていなかったのだ。それらに関する決定権は全てこちらに譲る、と信長は言い残して去っていった。それはつまりどのようなルールを採用したとしても勝利を収める自信がある、という事なのだろう。もはや腹も立たない程に清清しい余裕の態度だが、しかし余裕は慢心と紙一重であり、慢心はそのまま油断へ、油断は即ち隙へと通ずる。織田信長という男の底知れない実力を考慮すれば、その隙を突かない手は無かった。

(それでも勝てるかどうか判らないって言うのは、何とも恐ろしい話だ)

 ファミリー+忠勝の意見を集め、大和は熟慮の末に勝負方法を定めた。状況に応じて様々なパターンを用意してあるが、どう転んでもまず間違いなく先鋒を務めるのはワン子になるだろう。作戦的な意味でも有効な手だし、何よりも本人がそれを熱望していたのが大きい。

「がつがつ!がつがつがつ」

「こらワン子、意地汚い食べ方はおよしなさい。大和からも何か言ってやって」

「まあいいんじゃないか、腹が減っては戦は出来ないし。子供は元気が一番だ」

「大和の教育方針は甘過ぎる。しつけはもっと厳しくしないと。甘やかすのはこの子のためにはならないと思う」

 自前の特製スタミナ弁当を犬食いしているワン子を眺めながら夫婦ちっくな会話を交わしていたところ、唐突に京が両手を頬に添えてイヤンイヤンし始めた。

「…………悪くない。ごっことは言え、本当に悪くない」

「別れよう、京。俺たち、もう終わりなんだよ」

「そんな無駄なリアリティはいらない!」

 激昂して拳で机を叩いている京を丁重にスルーして、大和は教室備え付けの時計に目を遣った。気になる現在時刻は十二時二十分。放課後は多忙な様子だったので、必然的にまとまった時間を確保できるのは昼休みに限定される。九鬼英雄や不死川心との決闘の際も、結果的に五限目に食い込んだとはいえ、アナウンス自体は昼休みに入っていた。

―――つまり、嵐が来るならばそろそろ、だ。

 そんな大和の思考を肯定するかのようなタイミングで、2-F教室の戸が無造作に開かれた。

「フン、相変わらず五月蝿い教室じゃのう。隣まで響いてきて耳障りなことこの上ないのじゃ。全く、山猿どもがキーキーと騒ぎ立ておって」

(おや?)

 しかしながら、姿を見せたのは大和の予想とは異なる人物だった。学園内においてあろうことか和服姿という強烈過ぎる個性の持ち主、見間違えようもない。2-S所属、不死川心だ。高慢で他者を見下す連中の多いS組の中でも、一際レベルの違う選民思想の持ち主で、他クラス……特にF組の生徒を下等な山猿と声高に叫んではばからない。

 そんな訳で、彼女はF組の面々が学園中で最も忌み嫌う相手である。週に一回かは口実を付けてF組の誰かに絡んできては、やり込められて逃げ帰るのが通例だった。現在もまた、この招かれざる客に対して教室中からバッシングの声が上がっていた。

「ちょっとアンタ、勝手に入って来ないでよね。せっかく人が楽しくお弁当を食べてるんだからさ、台無しにしないでくれる?」

「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……」

「ほらクマちゃんもこう言ってんじゃんよー。Sの奴はS組へ帰れっつーハナシ」

 戸を開けた時点で瞬く間に口撃の集中砲火を浴びる不死川だったが、特に堪えた様子もなく平然たる表情で教室に足を踏み入れると、ニタリと嫌らしい笑みを浮かべて生徒達を見渡した。

「にょほほほ、好きなだけ吼えておるがよいわ、下賎な庶民ども。すぐに吠え面を掻かせてくれるのじゃ。お前達が調子に乗っておられるのも所詮は今の内だけ。なあ、そうじゃろう、織田よ」

 勝ち誇ったような表情で問い掛ける不死川の言葉に、戸口の横の廊下から響く返答。

「―――ふん。莫迦なお前にしては珍しく、的を射た台詞だ」

 2-Fの賑やかな喧騒に包まれた昼休みの空気が、極寒の冷気によって瞬時に凍て付いた。

(ちっ、今度は心の準備も出来てたのに……!)

 心中で呻きながら、大和はギリギリと歯を食い縛って悪寒に耐える。この非日常的な空気を味わうのはこれで三度目だが、まるで耐性が付いた気などしなかった。心臓を鷲掴みにされた後にそのまま締め上げられているかのような、自分の意思ではどうしようもない戦慄が身体を襲う。

 どうにか首を回して周囲の様子を窺えば、F組生徒の大半が顔色を失って硬直していた。特に千花を始めとする“未経験組”は、信長の生み出す重圧を前に完全に萎縮している。まあやっぱりこうなるよな、と自分の予想と感性の正しさを確認しながら、大和は信長に向き直った。何せ自分達がこれから立ち向かおうという相手だ、いつまでも怯えていては話にならない。驕り昂ぶったS組の連中にF組の意地を見せ付ける為には、自分達が動かなければならないのだ。

「……」

 信長は何者をも恐れぬ悠然たる足取りで壇上に歩を進め、そこで堂々と腕を組んでF組を睥睨している。無言のままに森谷蘭が影の如く傍に控え、そしてその横で不死川が浮かれた調子の声を上げた。

「ほほほ、見るがよい織田よ。あれほど喧しかった山猿共がことごとく、お前の威光に怯え竦んで黙り込んでおるわ。さすがは高貴なる此方が見込んだ友じゃ、実に愉快痛快よのう」

「ふん、莫迦め。調子に乗っているのはお前も同じだ、心。この俺に頭を垂れず、歯向かおうとしている愚者どもの姿が――お前の目には見えぬか?」

 不愉快な笑顔で愉快げにF組メンバーを見渡す不死川を、信長は無表情でバッサリと斬り捨てた。ぴしり、と不死川の笑顔が固まる。

「な、何じゃと!じゃが、低能な庶民共にそんな気骨がある訳が」

「好き勝手言ってんじゃないわよアンタ!あんまりアタシ達をナメないで欲しいもんだわ」

「残念でした。革命を起こすのはいつだって庶民。ククク、油断してたらあれよあれよとギロチン台」

 F組の中では間違いなく最も高い武力を有する二人、ワン子と京が普段通りの平然たる態度で声を上げる。顔色が若干青褪めてはいるが、恐怖に縛られている様子は無い。己の思っていた通りの反応を得られなかったのがよほど口惜しかったのだろう、不死川は悔しげに顔を歪めて、地団駄を踏まんばかりに憤慨した。

「ぐ、ぐぎぎぎ……生意気なサル共め、何とも腹立たしい事よ!黙らせてやらねば此方の気が済まぬ。さあ織田、奴らに思い知らせてやるのじゃ!」

「調子に乗るな」

「ひぃっ!ナマ言ってごめんなさいなのじゃ!」

 ギロリと睨み付けられ、同時に放たれたドスの利いた一言で涙目になる不死川。2-Sにおけるヒエラルキーが垣間見える光景だった。やはり一昨日の決闘で惨敗した事実が彼らの力関係に色濃く影響しているのだろうか。この分だと信長の2-S内における地位は既にかなり高い所に位置していそうだ――と思考を巡らす大和に対し、不意に信長の視線が向けられた。

(っ、待て焦るな怯えるな、気迫で負けたらアウトだ)

 突如として増大した重圧に押し潰されないように気を張って、大和は身体に鞭を打ちながら信長の顔を正面から見返す。両者の視線が宙にて衝突し、停滞。信長は数秒ほど無表情で大和を見つめてから、おもむろに口を開いた。

「貴様。名は」

「直江大和。詳しいプロフィールも聞きたい?」

「無論、不要だ。……直江大和。現在、貴様がこの2-Fを取り仕切っている。相違ないか」

 なるほど、唐突に声を掛けてきたのは何も単なる気紛れという訳ではなかったらしい。果たして何を根拠に判断したのかは判らないが、信長は現時点の司令塔が大和であると正確に見抜いているからこそ、今になって名を問うてきた訳だ。何だかやり辛いな、と大和は内心でぼやきつつ返答を用意する。

「良く分かるね。我らがリーダーは遠い空の下だから、一時的に俺が仕切らせて貰ってる。これでも一応、“軍師”なんて呼ばれてる身だし」

「ふん、軍師か。軍師とはな。実に大層な肩書きだ。くく、精々その名に恥じない知略と働きを期待させて貰うとしよう」

「そんな所でハードル上げられちゃっても俺としては困るんだけどなぁ。まあ、お手柔らかに頼むよ」

 交渉の際には常に仮面を被り、詭弁を弄する大和にしては珍しく、紛うことなき本心からの台詞だった。この信長という男が全身から発する異常な威圧感は、大和の人生においては全くの未知のものだ。強いて言うならば姉貴分の百代が不機嫌な時は似たようなオーラを発しているが、今回の如く本気の敵意を向けられる訳ではない。このような状況で冷静さを保ったまま対話を続けるのは相当に難易度が高く、骨が折れそうであった。

 しかし、やるしかない。キャップ不在の風間ファミリーを預かっている以上、泣き言は心中で漏らすに留めておこう。大和は人知れず頭を切り替え、気合を入れ直した。

「さて。俺は貴様らに、一日の猶予をくれてやった訳だが。当然、答を用意してきたのだろうな?」

「それはまあ勿論。幸いにして帰宅部の暇人ばかりなもんで、考える時間はたっぷりあったよ」

「して、貴様等の指定する、勝敗を決する法とは」

 皮肉混じりの大和の言葉にも眉一つ動かさず、信長は無表情のままで淡々と続きを促す。説明に移ろうと口を開き掛けた時、信長は不意に手を上げて大和を制した。

「否、順序を違えるべきではない、か。暫し待つが良い、先ずは俺の“手足”の一本を紹介しておくとしよう。奴には俺の代役として貴様等の相手を任じている故、この場にて勝負の方法を耳に入れて然るべきよ」

 “手足”。ずっと頭に引っ掛かっていたキーワードが出た事で、大和は身構えた。昨日の放課後ミーティングではついに正体を割り出せなかった謎の存在。F組の面々の中では最も織田信長を良く知るであろう忠勝も、それらしい心当たりはないと述べていた。或いは常に彼の背後に控えている従者、森谷蘭の事を指しているのかとも考えたが、仮にそうだとすればあのように持って回った言い方をする必要は無いだろう。信長の口振りは明らかにその場に居ない誰かを指していたように思える。

「身の程を知らず俺に挑むと豪語しておきながら、気付く者すら皆無とは笑止千万。これ以上の時を重ねた所で無意味、疾く姿を見せてやるがいい―――ネコ」

「うふふ。承知致しましたわ、御主人様」

「っ!?」

 何の前触れもなくを耳を打ったのは、鈴を転がすような澄んだ声。その発生源は2-F教室の、あろうことかその中央だった。風間ファミリーを始めとしたF組の全員が驚愕と共に視線を向ける先には、あたかも最初からそこに立っていたかのような立ち姿で、悠然と佇む少女の姿。凛と張った背筋に優雅な物腰、どことなくお嬢様っぽい雰囲気を漂わせているが、その口元に浮かべたニヤニヤ笑いは見る者に邪悪な印象を与えた。

「え、あれ!?誰その子、いつからそこに?」

「嘘。少しも気付けないなんて……」

 突然の登場にパニクっているワン子と、ショックを受けたように目を見開いている京。忠勝にガクトにモロ、その他の面子も、今の今までその少女の存在を感じ取られなかった事に動揺している。大和もそれは同様だったが、役柄上、常に冷静であることを自身に課している分、思考はクリアに働いていた。誰よりも早く現在の状況がいかなるものなのか把握して、大和は唇を噛む。

「……してやられた」

 織田信長という強烈な存在感を放つ人間が、壇上という否応なしに目立つ地点に立っていれば、どうしたところで人々の注意はそちらへと向く。風間ファミリーも例外ではない。むしろ、F組全体の代表として信長と対峙しているという意識がある分、他の生徒達よりも深く彼に意識を集中させていた筈だ。気配探知に優れる京やワン子ですら彼女の存在に気付けなかったのは、間違いなくそれが原因だろう。その結果として、少女の突然の出現劇はパフォーマンスとしてこれ以上ない成功を収めていた。実際、京たちの反応を見る限り、僅かとはいえ心理的に呑まれている節がある。勝負の時を目の前にして相手方にアドバンテージを取られてしまった事に、大和は密かに眉を顰めた。

(これがハッタリだけ、ならまだ良いんだけどな)

 だがしかし。とは言っても、だ。例え背後に織田信長の存在そのものによるサポートがあったとしても、F組の誰にも悟られる事無く教室の中央に出現するなど、そもそもにしてよほどの気配遮断スキルの持ち主でもなければ絶対に不可能だ。ワン子はともかく、弓道で鍛えられた京の“目”を掻い潜るなど尋常の業ではない。織田信長が自らの“手足”とまで形容する存在、やはり並みの者ではないということか。

「げぇっ、明智!?お前、いつからそこにおったのじゃ!」

「……」

 何故かF組の面々と一緒になって驚きの声を上げている不死川を、明智と呼ばれた少女は完膚無きまでにシカトした。空気を読まない不死川の天然ボケに、「しょーもない」と京が呆れ顔で呟く。少女は足音を立てずに教壇の前に立つ信長の傍にまで歩み寄ると、F組全体をゆっくりと見渡しながら口を開いた。

「うふふ。初めまして、2-Fの皆様方」

 その姿を現しただけで容易く教室の空気を掌握してみせた少女は、気品溢れる挙措を以って深々と頭を下げて、そして同時に、纏う雰囲気と酷く似つかわしくない、禍々しさに満ちた笑みを浮かべてみせた。

「わたくしは川神学園1-S所属、明智音子。御主人様の直臣にして懐刀が一ツ。―――この度わたくしは、畏れ多くも御主人様に代わって皆様方を地面に這い蹲らせる役目を任ぜられておりますの。うふふふ、先輩方、どうぞよしなに」










『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。対戦者は2-F所属、川神一子と、1-S所属、明智音子。内容は―――』
 
 もはや聞き慣れてきた感のあるアナウンスの音声が学園内に響く中、俺は校門に面したグラウンドの砂を踏みしめて歩いていた。三歩後ろにはいつものように蘭が。右隣には不死川心がニヨニヨとお気楽に笑いながら、左隣には明智ねねが何を考えているのか分からない微妙な表情を浮かべながら付いて来ている。何事か考え込んでいるのか、饒舌なねねにしては不気味な程に口数は少ない。歩を進めつつ、時折立ち止まっては足先で地面を叩いてグラウンドのコンディションを確かめている辺り、やる気は間違いなくあるのだろうが、さて。

「なあ織田、本当の本当に大丈夫なんじゃろうな?此方らS組の威信を賭けた重大な勝負事を、明智の小娘などに任せて」

「ふん。万が一、これで結果を出せぬようなら、それは単に俺の見る目が無かっただけの事よ。もっとも、無用な心配ではあるだろうが、な」

「む、お前は明智の事をえらく信用しておるようじゃのう。此方にはどうにもその根拠が判らんのじゃが」

「判らぬなら大人しく口を閉ざしておく事だ。そうすれば多少は賢く映るであろうよ」

 不審げに表情を曇らせる心に冷たく言い捨てて、俺は眼前に迫る勝負に思いを巡らせる。
 
 徒競走、ただし妨害行為有り。要約すればそれだけ。それが風間ファミリーの軍師、直江大和が提示した勝負方法だった。

 2-F側の代表者は川神一子。なるほど、確かにこの勝負方法であれば、走力と格闘能力を併せ持つ彼女はそのポテンシャルを最大限に発揮できるだろう。妨害行為有り、とわざわざ添えている時点で、単純に走りを競うだけで済ませる気がないのは明白だった。決定権を与えた以上は当然の話だが、やはり抜け目無く自陣営にとって有利なフィールドを選択してきたか。

 これで相手が何も考えていないようなら俺としては逆に対処に困っただろうが、“軍師”直江大和は少なくとも無能ではなさそうで、少し安心した。

「くくっ」

 俺は独り、心中にて笑う。そう、それでいい。今の織田信長に、そして明智ねねに必要不可欠なものは“このステージ”だ。徹頭徹尾、どこからどこを取っても相手側に有利しかもたらさないフィールド。常識的に考えれば圧倒的に不利だと誰もが判ずる立場。―――だからこそ、ここでもぎ取る一勝には大いなる価値が生じるのだ。真に望む物は勝利に非ず、一心不乱の大勝利である。

「おっと来たわね。ふっふっふ、覚悟はいいかしら?アタシはもう準備万端よ!」

 思考を続けながら歩けば、いつの間にか目的地に到着していた。川神一子は第一グラウンドの中央地点に仁王立ちして、闘志に燃え滾る目でこちらを睨みつけている。武装はルールで禁止されているので、得物の薙刀は持っていない。

 彼女の周囲には風間ファミリーの面々や忠勝を始めとして、相当な数のギャラリーが集っていた。新入生のねねはともかくとして、川神一子は学園屈指の有名人だ。決闘への注目度も相応に高いのだろう。

 それに加えて当然の如く2-Fの生徒達は全員が推移を見守っているし、2-Sの連中も物好きなことに約半数ほどが見物に来ていた。英雄などは既に最前列に陣取って応援の構えを取っている。一応この決闘はS組対F組の縮図である筈なのだが、あの男はそんな事は無関係に一子の味方を貫くようだ。まあ俺は人の恋路を邪魔するほど野暮ではないし、特に実害が無いなら放っておくとしよう。奴の恋路の場合、邪魔をすると馬に蹴られる代わりにメイドに斬られそうで真剣で怖い。

 周囲を見渡せば、冬馬、準、小雪の仲良し三人組の姿も見えた。取り敢えずロリハゲがねねを見る視線が危険だな通報すべきか、と本気で検討していると、準は小雪が唐突に繰り出したソバットをハゲ頭に食らって撃沈していた。相も変わらず、時と場所を選ばずフリーダム過ぎる連中である。

「……!」

 そして、それらの人混みの中に、俺の方を見遣りながらニタリと肉食獣の笑みを浮かべる川神百代の姿を発見して、俺は思わず背筋が冷える感覚を覚えた。少なくとも今回の「一対一の決闘」に彼女の出る幕はないので気にする必要もない、と自分に言い聞かせる事でどうにか平静を保つ。

 俺が風間ファミリーとの勝負に代役を立てて自らは動かなかった理由としては、百代の存在が大きかった。織田信長本人VS風間ファミリー、という構図になれば、まず間違いなく彼女が絡んで来るであろう事は簡単に予測できる。逆に言えば俺が裏に引っ込んでいる限りは百代も手出しを控えると踏んでの決断だった。

 川神百代という存在は、まさしく“反則”なのだ。どんな勝負も彼女が出張ってきた時点で意味を失ってしまう。あまりにも相手に対して圧倒的過ぎて、どれほど尊い勝利の価値であれ簡単に無に帰してしまう。百代も長きに渡って最強の名で呼ばれ続けてきた以上、その程度のことは良く理解しているだろう。

 故に、今回に関して言えば流石の彼女も無理矢理に動くような真似は控える筈だ。

「さーて、明智だっけ。アンタがアタシの決闘相手らしいけど、大丈夫?」

「大丈夫、とはどういうことでしょう、川神先輩。わたくしの容姿は心配されるほど脆弱なものに映るのでしょうか?」

「いやいや、それはないわ。全身くまなく相当な錬度で鍛えてるみたいだし、ちょっと見ただけで分かるくらいよ。……ただ、何だか考え事してたみたいだから気になってね」

 ギャラリーの中心で向かい合って言葉を交わす一子とねねは、両者ともに眩く輝くブルマ姿である。勝負方法が徒競走である以上は当然のチョイスなのだが、それにしても少女達の健康的な太ももが日光に晒されて瑞々しく輝く様は何と言うか、実にけしからんね――――俺がそんな阿呆な事を考えている間にも決闘開始の時は刻一刻と近付いている。川神鉄心はあからさまに少女達のブルマへの熱視線を送りながら、心なしか普段より気迫の篭った声を張り上げた。

「これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!両者とも、名乗りを上げるがいいッ!!」

 一瞬の静寂、そして湧き上がる歓声。

「2-F!川神一子よ!相手が後輩だろうと全力全開!アタシは手加減なんてしないからそのつもりでよろしくっ!」

「1-S所属。明智音子でございます。どうぞ宜しくお願い致します」

 場が熱気と喧騒に包まれる中で、一子が朗々と、ねねが粛々と。見事なまでに対照的な名乗りを交わす。

 そして、二人がグラウンドに引かれた白線を目印にスタート地点への移動を開始した時、ねねが一子に声を掛けた。

「川神先輩、一つ、お伺いしても宜しいでしょうか?」

「む?いいわよ、敵同士とはいえ後輩の頼みをムゲにするのは気が引けるしね。ふっふ、このセンパイに何でも言ってみなさい」

「うふふ、それではお言葉に甘えまして。――川神先輩は、“夢”を……どういう風に考えていらっしゃいますの?」

「え?夢?」

「ええ、夢ですわ。決闘間際に問うような事でもないとは分かっていますけれど、わたくし、どうしてもその答をお聞きしたくて」

「うーん、それはまたチューショウ的で難しい質問ね。トレーニングのコツとかなら簡単に答えられるんだけど」

 唐突に繰り出されたねねの質問にどう答えたものか悩んでいるらしく、一子はしばらく難しい表情で唸っていたが、たっぷり十数秒が経ってから、一言一言を自身に確かめるような口調で、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「……そうね、アタシにとって、“夢”は、叶えるもの、ね。見るだけじゃ物足りないし、そんなのつまらないじゃない?どんなに辛くても困難でも、全部を乗り越えて、そうして自分の手で掴み取りたいと思うもの。それが夢ってものだと思う」

「夢は見るものではなく、叶えるもの――ですか。自分の手で、掴み取るもの。うふふ、それはそれは、とても素敵な答ですわね」

「う~ん。どうしていきなりそんな事を聞きたがったのかは知らないけど、アタシの答で満足できた?」

「ええ、それはもう。うふふ、期待通りの答でございました。これでわたくしも、決心が付きました。心置きなく眼前の勝負に臨めるというものですわ」

 先程までの気難しい表情からは一転、ニコリと朗らかに笑って、ねねは砂埃を巻き上げながら足を止めた。彼女の爪先にはスタートラインを示す白線。ねねは数秒ほどその線に視線を落としていたが、何か迷いを振り払うように顔を上げて、ギャラリーの最前列に立つ俺を真っ直ぐに見つめた。視線が交錯し、絡み合う。

 明智ねね。織田信長が第二の直臣。

 彼女の焦げ茶色の瞳が映しているものは一体何なのか。果たして何を想い何を感じ、何を胸に秘めて決闘に挑もうとしているのか。神ならぬ身の俺にはその全てを見通す事など到底出来そうにもなかった。

 昨晩、俺と彼女は数多くの言葉を交わしたが、しかし言葉は所詮言葉に過ぎない。風に舞う葉のように儚く無力なものだ。だから俺はねねの全てを理解できるなどという思い上がった事は言わないし、いつもの様に自分の手で事態をコントロールするつもりもない。

 俺に俺の道があるように、ねねにはねねの道がある。俺に出来ることがあるとすれば、沈黙の内に彼女の選択を見届ける事くらいだろう。元よりそのつもりで、俺はこの場に立っている。

 故に、言葉は無かった。余計な干渉も余分な感傷もなく、明智ねねは何一つ語る事無く織田信長から視線を外し、背中を向けて、ひたすら静かに来るべき合図を待つ。

 
 そして、闘いが。とある少女の人生を大きく大きく変える事になる、そんな決闘が。今ここに、幕を開けた。


「いざ尋常に――――はじめぃっ!!」


















~おまけの風間ファミリー~


「おいおい、いつの間にやら織田の奴とやり合う話になってるだなんて、私の知らない所で随分と楽しそうな事やってるじゃないか大和ぉ。舎弟の分際で姉を仲間外れにするなんて、どこで育て方を間違えたんだろうな、お姉ちゃんは悲しいぞ。この深い深~い悲しみは先週分の借金を帳消しにしてもらうことでしか晴らせそうにないなぁ」

「金で全てを解決するのは人として良くない傾向だと俺は思うんだ姉さん。ここはホラ、姉弟の心温まる触れ合いとかそういう方向で」

「それにモモ先輩、昨日は連絡が取れなかったからね。僕達も一応、全員で順番に電話したんだけど、一度も繋がらなかったよ」

「あ~、昨日はウチにケータイ忘れていった上に軽く遠征してたからなぁ。ちょーっと間が悪かったか。しかし、それならウチで直接顔を合わせたワン子が黙ってたのはどういう訳だろうな?まさか、素直で可愛い我が妹に遅めの反抗期がやってきてしまったのか!」

「ワン子の事だから単純に伝えるのを忘れてた、に一票。代表を任されて浮かれてたし」

「思い返してみれば、確かに昨夜のワン子はやけに張り切って鍛錬していたな。あの時に理由を聞いてみるべきだったか。……ま、そもそも今回の件に関しては、私の出る幕はなさそうだがな」

「一応2-Fと織田の勝負って事になってるから、姉さんが出るのは筋違いではあるかな。ここで大人しくしてくれるのは素直に助かるよ」

「あぁーつまんないなぁ、織田の奴が直接出てくるなら道理を蹴っ飛ばしてでも参戦してたのに。ぶっちゃけもうここのところずっと欲求不満で、そろそろ我慢の限界が来そうな感じなんだ―――っと、そろそろ決闘が始まりそうだな。さーて、可愛い妹の勇姿を最前列で拝みにいこうっと」

「とか言いつつモモ先輩、明らかに例のノブナガをロックオンしてるね」

「おいおい、二人並んだぜ。なんつー人外魔境だ、タフなナイスガイの俺様といえど、何があってもあの空間には近寄らねぇ」

「あそこだけなんか空間が歪んでるんだけど気のせいかな。あ、周りの人達が泡吹いてる」

「―――なぁみんな、俺は今、心の底から思ってるんだ。あの二人が勝負に参加しなくて良かったって」







 

 ずっとネコのターン!と思いきやF組の面子を書いてる内に文字数が嵩んできたので、どうやらそれは次回へ持ち越しです。
 取り敢えず今回を書いてる内に、F組はキャラが濃いわ数が多いわで逐一描写するのがとんでもなく大変だという事実がはっきりしました。クリスとキャップを含めると立ち絵持ちのキャラがまさかの十五人……ぶっちゃけ作者にとっては五十三万と同じ程度に絶望的な数値です。やはりS組が一番だね!と改めて思う今日この頃。それでは、次回の更新で。



[13860] 犬猫ラプソディー、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:1d039d55
Date: 2012/05/06 02:44
「―――猫被り、か。猫被りね。実を言うと、俺には良く分からないんだよ。お前の被っている“猫”の正体が。どうにも曖昧で、捉えられない」

「……」

「さて。本当のお前は果たして何処に居るんだろうな、明智ねね」

 
 胸の内を見透かしたようなその言葉に。

 
 “私”は――――――答を返す事が、出来なかった。

 
 

 首輪を嵌められ、鎖で繋がれて。思えば幼少の頃から、私は誰かに飼われていた。

 私はどちらかと言えば退屈を嫌う活動的なタイプの子供で、部屋の中でひとり人形遊びに興じるよりも、近所の子供達と一緒に泥を被って走り回りたかった。堅苦しい礼儀作法など肩が凝って仕方が無いし、高貴な人達があらあらうふふと交わす“上品”な会話を聞いていると否応なしに眠気が押し寄せてしまう。食事の際は面倒なテーブルマナーなど気にせず好きな物を好きなだけ好きな様に食べたい。早朝の鍛錬などもはや苦行だ――本当は日が高々と昇るまで眠っていたかった。

 しかし、そんな他愛ない我侭が許される事は一つとしてなかった。何故なら、私は由緒正しき名門・明智家の当主の血を引く一人娘だから。日本三大名家には及ばずとも、周辺地域を実質的に支配下に置ける程の権勢を誇る、高貴なる家柄。私はそんな血筋の跡継ぎとして相応しい品性に教養、物腰を周囲から常に求められていた。故に私の望みはことごとく却下され、厳格な両親は自らが思い描く理想の“良家の子女”であることを私に課した。私もそんな周囲の期待に応えようと、自分を押し殺して立派なお嬢様を目標に自らを磨き続けた。これは他者よりも財力・権力を持って生まれた者の義務なんだと自分に言い聞かせて、自由を望む感情を心の奥底に封じ込めていた。この頃の私にはまだ、家族への愛情というものがあったから。

 さて、閉された箱庭の中で退屈な年月が流れ、そして私が九歳の誕生日を迎えた頃の話である。降って湧いたようなニュースが明智家を賑わした。今更になって、私の弟が生まれたのだ。両親やその他の明智家の人間のように、私はそのニュースを素直に喜ぶ事は出来なかった。代々、明智家は男性優位の家系。つまり――弟が生れた以上、跡継ぎとしての明智ねねにはもはや価値がない。となれば、明智家の名を背負うべく我慢と研鑽を重ねてきた自分は一体何なのだろう。私は自身の忍耐と努力が否定されたような気分に陥った。そして事実として、両親を始めとする明智家の人間は、明らかに私よりも弟を優先する姿勢を取り始めていた。これまで私に平身低頭して媚を売ってきた親族達も、態度が明らかに悪くなった。誕生日には山ほど贈られてきたプレゼントも、精々が小山ほどの量まで減った。どうでもいい親族達の変化そのものには何の感慨も抱かなかったが、それを切っ掛けに私は、明智家の堅苦しい屋敷で人生を消費していく毎日に、抑えられない疑問を覚え始めていた。

―――そんな時、事件は起きた。それは間違いなく、私の人生を変えた出会いだった。
 
 明智家の財力に目を付けた馬鹿共に、下校中の私が誘拐の対象として狙われた事が、その出会いの切っ掛けだった。黒服の屈強な男達に身辺警護の付き人が殴り倒され、無力な私が抵抗できないまま見知らぬ車に押し込まれようとしていた時、その人物はピンチに駆けつけるヒーローの如く、颯爽と現れた。

『そんな幼い少女を寄ってたかってどうしヨーって言うんだこのロリコンどもめ!ボクがセーバイしてくれるワ!』

 カタコトっぽい日本語で口上を上げたのは、外国人と一目で分かるネグロイド系の顔立ちの若い女性。彼女は目で追う事すら難しい俊敏さで男達との距離を詰めると、さながら舞うような華麗な体捌きで男達を蹴り飛ばし、抵抗を許さず瞬く間に意識を刈り取っていく。黒服達が揃って地面に倒れ伏すまで、十秒と掛からなかっただろう。まさに疾風の如き早業に、私は気付けば見惚れていた。目の前で繰り広げられた舞踏に興奮していた為か、当時の詳しい事はいまいち覚えていないが、どうやら私は彼女にお礼を述べると同時に住所を聞き出していたらしい。女性は急いでいたらしく、現れた時と同様に素早い動作で去っていった。その後姿、バサバサと風に靡くロングコートが、私の目にはヒーローの纏うマントのように映った。

 そして後日、改めてお礼を言うために私が訪れた住所に佇んでいたのは、小ぢんまりとしたみすぼらしくて薄汚い道場。明智家の保有する豪勢な武道場に慣れた私は、最初はそこが道場であるという事すら上手く理解できなかった程だ。入口に掛けられた木製の看板は自作なのか、辛うじて読み取れるレベルの日本語で『カポエィラ』と記されている。意を決して道場に足を踏み入れると、件の女性が驚いた顔で私を出迎えた。私の顔は覚えていなかったようで、やぁやぁこんなトコロにお客サンなんて珍しいね、キミは入門希望者かナ?と冗談交じりに問い掛ける彼女の言葉に、私は反射的に頷いていた。そんなバカな、とばかりに女性がますます驚いた顔になっている様子に、私は思わず笑ってしまった。

 そういった経緯の末に私は彼女を師匠と仰ぎ、明智家の小うるさい監督の目から抜け出しては道場に通って、カポエィラと呼ばれる特殊な格闘術を習うことになった。コイツはいいとこのお嬢サマには似合わないヨ、やめといた方がイイ、と一度は師事を拒否されたが、私は常ならぬ強情さで彼女が根負けするまで延々と頼み込み、どうにか認めさせた。そこまで必死になった理由はシンプルだ。誘拐犯を薙ぎ倒す彼女の武術を一目見た瞬間から、私はその舞踏の如き奔放な足技に魅了されていたのだ。これしかない、と。明智家で義務的に習っている由緒正しい護身術に対しては少しも感じなかった胸の高鳴りを、私はカポエィラに対して明確に感じていた。そんな私を興味深げに見遣りながら、師匠は楽しそうに語ったものだ。

『ネネ。カポエィラの起源をキミは知ってるかナ?……ボク達のご先祖サマはね、かつて奴隷としてヒドイ扱いを受けていたんだ。今ではそんなコトはないけど、昔はホントに辛イ時代だっタ。いつも手錠と足枷で繋がれて、ムリヤリに働かされて、ファミリーとも会えなかった。―――だから、ご先祖サマは自由を求めた。大空へ羽ばたくタメの、ツバサを求めたんだ。カポエィラがどうしてそのスタイルに踊りの要素を取り入れてイルか、不思議に思った事ハないかナ。それはね、暦としたトレーニングをダンスのレッスンだと見せかけて、監視の目をゴマかすために生れた格闘技だからサ。自由のツバサが育つ前に折られてしまわないように。自由への希望を守ルために、カポエィラは生み出されたんだヨ、ネネ。……だからね、ボクはこう思ってるのサ―――ボクの脚は、自由のツバサ。誰にも縛られず、ボクがボクらしく、自由気侭に生きるためにあるってネ』

 ああそうか、と。師匠の言葉を聴いて、私はとてもすんなり納得していた。私が師匠の披露したカポエィラにあそこまで強く惹かれた理由は、きっとその在り方にあるんだ、と。拘束からの解放、自由を求める精神。明智家の血という呪いで地面に縛られている私は、大空へ向けて飛び立つための翼が欲しかった。きっとその可能性を、カポエィラのアクロバットな挙動に見出していたのだ。

 幸いにして私には才能があったらしい。家で習う護身術の腕前に伸び悩んでいた事が馬鹿らしく思えてくるほどの猛烈なスピードで、私はめきめきと上達していった。その成長速度には師匠も驚きを隠せない様子で、『コレはもうボクが追い抜かれる日もそう遠くはないネ』、と嬉しそうな調子で何度も口にしていた。もっとも、『子供の頃からトレーニングを続けて体が出来上がってたお陰で、今の成長がアルんだ。間違ってもこれまで家で習ってきたことをおろそかに思っちゃアいけないヨ』と真面目な顔で付け足していたが。

 実を言うと師匠の道場には私以外の門下生は一人もいなかったので、常にマンツーマンで指導を受ける事が出来たのは実に幸いだった。道場の経営を考えれば師匠にとっては不幸という他無い事態だが、私にとっては好都合そのものである。師匠は物事を理論立てて説明するのがあまり得意ではないのか、その教え方はどちらかと言えば個人の感覚に頼ったものが多く、一般的な指導者としてはあまり優秀とは言えなかっただろう。しかし、私にとっては彼女以上に相応しい師は何処にもいなかった。過去に明智家で雇ってきた、大層な資格を持つとかいう講師も、誰一人として私をこれほどまでに一つの物事に打ち込ませ、夢中にさせることなど出来なかったのだから。

 そんな調子でカポエィラに熱中する一方、護身術の鍛錬に身が入らなくなった私は、次第に道場で過ごす時間の割合が増えていく。比例するように両親から貰う小言が多くなって、家に居ること自体が疎ましくなっていった。休日は用も無いのに道場を訪れては、小汚い床に師匠と二人して寝転がって、ダラダラと雑談しながら怠惰な午後を過ごすのが習慣となった。互いの誕生日にはプレゼントを贈り合って、その値段の釣り合わなさ具合に大笑いする。だけど、『アァやれやれビンボーは嫌だね、ボクに渡せるのはこんなモンしかないヨ』と恥じ入るように言いながら贈ってくれた師匠愛用のロングコートは、私の掛け替えのない宝物になった。師匠が私の分まで買ってきたジャンクフードなる物体にカルチャーショックを受けたり、逆に彼女を高級レストランに招待してその挙動不審っぷりを楽しんだり、少しばかり調子に乗って師匠に真剣勝負を挑んでコテンパンに叩きのめされたり、その話を肴にまた盛り上がったり、かつて世界を渡り歩いたという師匠の語る波乱万丈な冒険譚に心を躍らせたり。季節が巡り、私が中学校に進学する頃には、薄汚くて狭苦しいボロボロの道場は、私にとってのもう一つの家になっていた。明智の家に生れてからずっと感じていた息苦しさはいつの間にか消え失せていて、私は間違いなく自由を噛み締めていた。師匠と二人で過ごす怠惰で愉快な日常が、このまま続けばいいのにと願う。


―――けれど。楽しかった日々は、唐突に、理不尽な形で終わりを告げた。
 
 
 ある日、私がいつものように訪れた道場からは、人の気配が消え失せていた。明かりも灯っておらず、シィン、と不自然な静寂に包まれている。おかしい。この時間なら、彼女はゴロゴロと寝転がって雑誌か何かを読んでいる筈だ。湧き上がる不安を堪えながら周囲の住人に事情を尋ねると、無関心な態度で、「既に引き払った後だ」と言い渡された。夢中で道場に駆け込む。戸口の鍵は開いていた。

 誰もいない。師匠の姿はどこにもない。元々数少なかった私物も、どこかへと消え失せている。そんな空っぽの道場の真ん中には、ぽつんと一通の手紙が置かれていた。

 それが私に宛てられたのものだという事はすぐに判った。聞いた所によれば彼女の家族は国元に残してきたそうだし、人種の壁もあってさほど親しく付き合っている人間はいない。それに何より、たった一人の弟子である私に彼女が何のメッセージも残さないなんて、そんな馬鹿な話はないのだ。震える手で手紙を開くと、不恰好な日本語でたどたどしく綴られた文面が広がる。要領を得ない無駄話がグダグダと続いてから、一際無様な字体で締めの言葉が記されていた。『たのしかったよ、ネネ。いままでありがと。わすれないで、キミのあしは、いつでもとびたてる。りっぱな、じゆうのツバサだよ』―――精一杯の想いを込めて書かれたであろう別れの手紙を何度も何度も読み返しながら、私は泣いた。

 師匠は手紙の中で引っ越し先については触れていなかったので、街を立ち退いてどこへ去って行ったのかも判らない。或いは母国のブラジルへと帰ったのかもしれなかった。どうやら携帯電話が解約されている様で、連絡も取れなかった。

 そんな師匠の突然すぎる失踪が、明智家が何らかの圧力を掛けた結果だという事は、私には簡単に予想できた。あのように素性も知れない外国人の営む、みすぼらしい道場など、明智家の息女が通うに相応しい場所ではない。醜聞に繋がりかねない芽は摘んでおこう――そんな両親の思惑が手に取るように分かる。それが娘の身を案じる親心の発露ならば、納得はせずとも許す事は出来ただろう。しかし私は、両親の行為から家の名誉を保ちたいという意図しか感じられなかった。私が初めて手に入れた自由と大切な居場所は、明智家の下らない見栄の為に、いとも容易く失われてしまったのだ。許せない。こんな馬鹿な話があってたまるか。その呪うべき日からしばらくの間、私は豪奢な寝台の中で悔しさに涙を流したし、湧き上がる怒りに任せてさっさと家を出てやろうかとも思った。

 しかし結局、私は激発する事は無かった。気を抜けば溢れ出さんとする激情を全て呑み下して、誰に対しても動揺一つ悟らせることなく、文武両道で品行方正な、両親が理想とする優等生を演じ続けた。私が目指す自由を追い求めて行動を起こすには、時期がまだ早い――そう自分に言い聞かせて、ひたすら猫を被って耐え忍んだ。

 そして月日が流れ、中学三年生に進級した十四歳の夏。すなわち高校受験シーズンを迎える頃になって、私は両親に折り目正しく懇願した。明智家の管理下にある地元を離れ、他県の高校で学びたい、と。両親共に少なくない反対の声を上げたが、一人暮らしを体験する事で自立心を養いたい、などともっともらしい理屈を捏ね繰り回して、数週間に渡る説得の末にその首を頷かせる事に成功した。師匠が街から居なくなって以来、私が何かしらの問題を起こす事もなく、大人しく素直な“お嬢様”を続けていたので、両親も安心していたのだろう。我侭の一つくらいは聞いてやろう、という形で彼らの認可を得て、私は晴れて神奈川県川神市の有名私立校、川神学園への入学を果たしたのだった。明智家の庇護と云う名の拘束から逃れて、望み焦がれた“自由”を手中に収めたのだ。その時の溢れんばかりの喜びは今でも忘れられない。

 明智家の財力を用いて借りた高級アパートの一室で、悠々自適の一人暮らし。私の動向を逐一監視しては両親に報告する、鬱陶しい侍女も使用人もいない生活。少なくとも月に数回は様子を伺いに使用人が訪れるとのことだったが、今まで過ごしてきた窮屈な実家を思えば、あたかも鳥篭から放たれて広い世界に飛び出したような気分だった。

 アパートへの引越しがあらかた片付いて、明智家に関わる人間が自らの周囲から引き払うのを待ってから、私は行動を開始した。まず腰まで届きそうなロングヘアをばっさり切り落として、ヘアスタイルを師匠とお揃いのショートに変える。ただそれだけの事で、私は全ての重力から解放されたような素晴らしい感覚に浸る事が出来た。着付けの面倒な和服は脱ぎ捨ててクローゼットに放り込み、代わりに師匠に贈られた大事なロングコートを取り出して、恐る恐る袖を通す。私の小柄な身体とはサイズがまるで合っていなくてブカブカだったが、私はちっとも気にならなかった。むしろ普段の如く帯に身体を締め付けられる窮屈な感覚と比べて、より“自由”を感じられて嬉しくなった。師匠と同じ髪型、同じ服装。師匠の何事にも縛られない気侭な生き様は、いつだって私の憧れだった。形だけでも彼女の真似をすることで、少しでもその在り方に近付けると思ったのだ。

 そうして私は、部屋の鏡に映った自分の姿を改めて眺める。十数年間に渡って周囲に強制され続けてきた“お嬢様”の姿は、どこにも見当たらなかった。

 
 鏡の前に立ち尽くしたまま、私は笑った。笑いながら泣いた。師匠、師匠。私はこれでやっと自由になれそうです。

 
 川神学園への入学を控えた準備期間、すなわち三月中、私はこれまでのように門限に縛られることもなく夜の街を彷徨って、今までの人生では見た事すらない様々な物事に触れた。低俗なものとして両親の許可が下りず、立ち入ることを許されなかった娯楽施設にも楽々と足を踏み入れる事が出来る。十数年のあいだ抑圧され続け、胸の中で膨れ上がった好奇心は留まる事を知らず、私は川神市内のありとあらゆる場所へと足を伸ばしていった。最初はアパートの周辺をぶらつく程度だった行動範囲が、“無法地帯”と名高いその歓楽街に届くまで、そう多くの時間は必要ではなかった。

 堀之外―――暴力と享楽が形を成して行き交い、絶えず混沌を吐き出し続ける魔窟。

 最初はその雰囲気の異質さに戸惑い、人の目を盗むようにして通りを歩いた。しかし徐々に馴染んでくるにつれて、この街に流れる空気は私にとって大いに心地よいものに思えてきた。誰もが何かに縛られることなく奔放で、自分の欲望の赴くままに生きている。それはある意味で私が望んだ在り方と重なった。その日から、私は堀之外の街に夜遅くまで入り浸るようになった。

 非合法に片足を突っ込んでいるようなバーに出入りして、見た事もない風体の客達が交わす様々な会話を立ち聞きするのは楽しかった。そうして板垣一家に織田信長、といった街の有力者に関する情報を集めると同時に、いつしかアルコールの味も覚えた。舐める程度しか飲んでいないにも関わらず二日酔いの頭痛に悩まされて、自分には酒は向いていない、と思い知らされただけの事だったが。

 自由と享楽のみならず、当然ながら夜の街には危険と暴力が付き纏う。そもそもにして私が活動圏としている堀之外という街は日本国内でも屈指の無法地帯らしく、素人目にも明らかに目付きのヤバい人間が闊歩しており、呆れる程に喧嘩っ早い者が多い。しかし、明智家で習った武道と師匠から教わったカポエィラのお陰で、性質の悪い連中に絡まれても場を逃れるのは容易であった。例え屈強な外国人男性が相手でも、師匠直伝の足技が決まれば必ず一撃で勝負は決した。師匠の下で学んでいた頃、『キミは天才だヨ。ボクが保障しよう』と繰り返し褒められたことを思い出す。私は自分が紛れもない強者なのだという事実を、初めて実感していた。

 自由気侭に堀之外を闊歩して、好きな時に食べ遊び喧嘩し、疲れたらベッドに倒れ込んで手足を思いっきり伸ばしながらはしたなく惰眠を貪る。そんな、かつての自分には想像する事も出来ないほどに充実した日々を送っている時、一つの出会いがあった。

『実はさ、ちょっとしたグループを仕切るリーダーを募集中なんだよねー。君なら上手くやれそうなんだけど、どう?俺の仲間になってみない?』

 疑惑の声を上げる私に対して、そいつは自らを『マロード』と名乗った。互いに顔も見えない電話越しに色々と話を交わして、私は性別も年齢も分からないそいつに興味を抱いた。胡散臭くてガキっぽくて怪しさ爆発のマロードだが、その思想と言葉には妙に惹き付けられるものがあった。カリスマ性、とでも言うのだろうか。好奇心に駆られた私はマロードの誘いに乗って、百人ほどの不良を取り纏めるという未知の役柄を演じてみる事にした。かくして私は師匠譲りのコートを颯爽と翻し、不良グループ“黒い稲妻”のボスとして君臨した。もっとも、あくまでそれは表向きの姿で、マロードが私に求めた役割はまた別のものなのだが……まあ所詮、今となってはどうでもいい話ではある。奴が一体何を考えていたのか、もはや興味はない。報いは受けて必ず貰う、それだけだ。

 新鮮な体験の数々を楽しんでいる内に気付けば三月は過ぎ去り、そして桜舞い散る四月七日、私は私立川神学園の門を潜った。短く切った髪をウィッグで誤魔化して、私はまた分厚い猫を被って“お嬢様”に戻る。学園の中では明智家の目が届く可能性が高いので、仕方のない選択だった。万が一にでもこちらでの自分の素行が両親の耳に入って、あの牢獄の如き実家に連れ戻されるような事があれば、自由の味を全身で知った私は今度こそ耐えられないだろう。

 私は怖かった。鎖で繋ぎ止められて、狭い箱庭の中で飼い殺される事を、私は何よりも恐れていた。そのどうしようもない恐怖感が猫被りに磨きを掛けて、学園内の誰よりも理想的な良家の子女を私に演じさせた。私はもう解放された筈なのに、どうしてこんな事をしているのだろう、という抑え難い疑惑の声が心を蝕む。本当に私は解放されたと言えるのだろうか。明智家の庇護が無ければ学校に通う事すらできない、そんな立場は以前と何一つとして変わっていないのに?

 そのように悩みを抱える一方で、放課後になれば私は制服を脱ぎ捨てウィッグを投げ捨て思考を放り捨てて、享楽だけを求めて堀之外の街に繰り出す。学園生活で押し殺された自分の中の奔放さを解き放ち、反動の如く自由の空気を貪り、私は“黒い稲妻”を率いてマロードの言うがままに暴れ回った。そんな私の姿を第三者が見れば、どうしようもなく奇異で歪なものに映った事だと思う。実際、その時の私は自身の二面性に挟まれてストレスを溜め込み、半ば自暴自棄になっていたような気がする。

――今にして思えば、そんな私の歪みを察していたからこそ、マロードは私を利用しようと考えたのだろう。

 ボタンを決定的に掛け違えているような、何処か現実味に欠ける白昼夢にも似た日々は、実にあっけなくに終わりを告げた。忘れもしない、あの日。私の運命を想像もしない方向へと誘うべく、あの主従は現れた。

 織田信長と、その従者、森谷蘭。堀之外の裏の支配者。実質的な勢力をほとんど有していない“個人”であるにも関わらず、その存在は恐怖と畏敬によって人々を縛り上げ、組織を超越した統制を以って街の秩序を保っている。『信長が動くぞ』と脅されれば誰もが震え上がって狼藉を止め、怯え竦んで引き下がる。死に様を自分で選びたいならば間違っても敵に回すな――そんな彼らに関する風評を部下の口から耳にする度、私は半ば鼻で笑って聞き流していた。大袈裟に脚色された噂などに踊らされて、まんまと支配者側のイメージ戦略に乗せられているのが分からないのか、と。そのように織田信長という男の実力を侮って掛かっていたからこそ、マロードから彼の住居を襲撃するよう指示が下りた時も、さほど躊躇わずにその指示を実行に移したのだ。

 しかし結論から言えば、間違っていたのは私の方だった。

 私の予想通りに“黒い稲妻”のアジトに乗り込んできた二人組は、私の予想を遥かに超えて化物だった。堀之外で過ごした一ヶ月の中でついに自分と対等に戦える人間が現れなかった事で、私はやはり増長していたのだろう。自分では慢心を戒めていたつもりでいたが、恐らくは心のどこかで高を括っていた。私はあの師匠も認めた天才なんだ、裏の支配者とやらも物の数じゃあない――と。そんな滑稽な思い上がりは、男の暗く凍えるような瞳に見据えられた瞬間に消し飛んだ。一体どれほど深い闇を歩き、血潮を浴びればこんな凶悪な目が出来上がるのか。堀之外を拠点として多くの裏の住人を観察してきたが、彼は明らかにそこらのチンピラとは格の違う存在だった。立っているステージそのものが違う、と言ってもいい。

 私は文字通り手も足も出ずに敗北を喫し、憎きマロードには手酷い裏切りを食らって切り捨てられ、“黒い稲妻”は完全に崩壊。そして気付けば、何の因果か、明智ねねは織田信長の臣下に収まる事になっていた。裏社会における案内役のマロードに裏切られた以上、織田信長の影響力による庇護が無ければ川神での生活を続ける事すら難しい。そうして私は新たな鎖で繋がれ、またしても願って止まない自由から遠ざかった。傲岸不遜で冷酷無比な飼い主を目の前に、私は明るい未来を見る事は出来そうにもなかった。そもそも恐怖と恫喝で成り立つ主従関係に、忠誠心などある訳もない。面従腹背、猫被り。『ご主人』などと呼んで媚びたりもしたが、いつまでも大人しく従い続けるつもりなど端からなく、機を見て鼻を明かしてやるつもりだった。

 なのに、何故だろう。織田信長。森谷蘭。案内された倒壊寸前のボロアパートで彼らと食卓を囲み、スーパーの特売品であろう安っぽい食材で作られた料理を食べていると、私は不意に師匠と気侭に過ごしていた懐かしい日々を思い出したのだった。老朽化してヒビ割れだらけの部屋は、何だかあの小汚いカポエィラ道場と良く似ていて、冷徹極まりない住人とはまるで似合わぬ温かい雰囲気に包まれていた。

 だからだろうか、『ネコ』などと自分でも気にしていた名前を揶揄され、少しでも口答えすれば殺気混じりに恫喝され、どこから見ても首輪を付けられたこの身には自由など見当たらない筈なのに、私は不思議と悪い気分ではなかった。彼らと居れば少なくとも退屈する事だけは無いだろうし、いまいち頼りにならないもう一人の従者と一緒に飼い猫生活を続けるのも、まあ少しの間ならいいかもしれない――そんな風に思うくらいには、私は新しい生活を気に入り掛けていた。そのまま何事も起きなかったなら、私はダラダラと適当に如才なく織田信長の従者を務めて、そこそこに有能な駒として割と楽しく過ごしていたのかもしれない。

 そう、私の『ご主人』が、この私ですら呆れ返るような、とんでもない大嘘吐きでさえなかったなら。私は何一つとして選ぶ事も決断する事もせず、どこまでも大人しい飼い猫で在り続けたのかもしれなかった。

 だから――彼は。織田信長は、私の人生を変えた二人目の人間だ。

 あの夜、私が彼の本質を追及する言葉を吐いた時。きっとあの瞬間に、私の運命は新たな歯車を回し始めた。


『大嘘吐き、か。――くく、誰よりも自覚はしてるつもりでいたが、第三者から改めて言われると妙に新鮮な気分になるもんだな。ま、俺にそんな事を言うのはタツくらいのものだから、当然と言えば当然か』


 平然と嘯いて、織田信長はニヤリと笑う。先程までの無表情を呆気なく崩して、まるで悪戯が成功した子供のような、不自然極まりない笑顔を浮かべる。

 
 隠し通していた秘密を暴かれた人間としては、その反応は奇妙という他なかったが、しかし“私”はそんな彼の反応を当然のものとして、至極冷静に受け止めていた。自分の推測が正しかった事を再確認し、そして身構える。賽は投げられた。覆水盆に返らず。織田信長という人間の核心に踏み込んだ以上、覚悟は決めておかなければならない。

『随分と簡単に認めるんだね。キミなら幾らでも誤魔化すことはできたと思うんだけど』

『誤魔化す?そんな行為に意味がない事はお前が一番よく分かってるだろうに、良く言うもんだ。……ま、探偵の推理シーンには俺の対応は少しばかり無粋だったか。追い詰められる犯人役として、ここは冴え渡る名推理を静聴させて頂くとしようかね』

 信長は背後の壁に体重を預けながら、私に向かって飄々と言葉を投げ掛ける。本性を露にしても、腹立たしい程の余裕の態度は一切崩さない。化けの皮は既に剥いでやったと言うのに、この得体の知れなさはどういう事か――いや、惑わされるな。彼が私の“同類”だという事は分かっているのだ。ブラフやハッタリの一つや二つ、今更気にしていてもキリがない。

 目まぐるしく脳内を駆け巡る思考を一旦打ち切る。そして、私は興味津々といった様子でこちらを見つめる目を、正面から見返した。

『推理と呼ぶにはあまりにもお粗末なモノだけどね。ボクがキミを嘘吐きだと判じた根拠、その一つ目は、雰囲気の違いさ。このボロっちいアパートの外にいる時、キミは常に張り詰めている。自分は触れれば骨まで切り裂くナイフなんだって自己主張するみたいにね。だけど、ここにいる時は、そんな空気を感じられなかった。このアパートは自分の拠点で、警戒すべき外敵がいないのだから当然の話、とキミは言うかもしれないけど。そうやって多少なりとも外面を“作っている”という事実が存在する時点で、キミが周囲の目を欺き、噂と評判を意図的に操作しているんじゃないか――という疑いに結び付けるには十分だよ』

『ほうほう。それでそれで』

 “追い詰められている犯人役”とは程遠い、実に楽しそうな顔で続きを促す信長に、私は淡々と言葉を続ける。

『第二の根拠は、さっきとは逆に、キミがあまりにも“変わらない”点だ。ボク達と戦った時も、板垣一家と戦った時も、不死川心との決闘でも、今日の堀之外巡りでも――キミの態度はいつも自信満々で余裕綽々だった。敵を目の前にして構えすら取らず、隙だらけの無防備な姿で対峙する程にね。それは自分の実力に対する強烈な自負の表れで、わざわざ本気を出すまでもないという意思表示なんだと、最初は思った。織田信長は最強にして最凶の男、という大層な前評判をあれだけ耳にしていれば、誰だってそう考えるだろうね。だけど、ボクが従者として行動を共にしている間、キミが無防備で隙だらけじゃなかった時なんて一度もなかった。そうなると、これはもう“意識的にそういう姿勢を取っている”と考えるのが自然だ。……なんて言っても、一つ目の根拠の方でキミが嘘吐きだと疑っていたからこそ、そんな風に思えたんだけど。そして、その疑惑を踏まえた上で、キミの戦いの数々を改めて考え直してみると、それらの全てを通してキミが“何もしていない”事に気付いたのさ。建物を壊滅させるような攻撃力も、刃が一切通らないような防御力も、ボクはその片鱗すら目にしていないってね。その異常な威圧感に紛れて疑う事すらできなかったけど、一つ嘘を吐いた人間が二つ嘘を吐かないなんて馬鹿げた話だと思ったから、ね。……だから、ボクはボクなりの予測を立てた。織田信長は圧倒的な高みにいるんじゃなくて、高みにいる相手を自分のステージまで引き摺り落とすタイプ。つまり―――本当はそれほど、強くない。……それらの疑惑を事実だと仮定して考えれば、キミは自分の本性と実力、その双方を偽り隠している事になる。だからボクは言ったのさ。織田信長は、とんでもない大嘘吐きだ、ってね』

 締め括るように言って、私は息を吐き出す。言葉を差し挟まず、興味深げな様子で私の言葉に聞き入っていた信長が、感心したような声を上げた。

『いや、驚いた。ここまで的確に看破されるといっそ痛快だな。もっとも、予想と推測ばかりで肝心の証拠が無いってのは、探偵としては如何なものかと思うがね』

『だから最初に言ったじゃないか、推理と呼ぶにはあまりにお粗末なモノだって。そもそもボクがそういう疑いを持つに至ったのは、キミが自分からヒントを与えてくれたからだし。キミが本気でボクを騙すつもりだったなら、幾らでもやり様はあったハズなんだから』

『それでも、俺としてはここまで早い段階で悟られるとは予想してなかったさ。屋根を同じくしてればその内に気付くとは思ってたが、出会って三日ってのは尋常じゃあない。その事は素直に誇っていいと思うがな』

『そうかなぁ。肝心の証拠が犯人の自白のみ、っていうのは締まらないと思うけどね』

『証拠は証拠。誘導尋問で自白を引き出した、と考えれば万事解決だろう?』

 どこか愉快そうな信長の顔に、相変わらず動揺の色は見当たらない。初めからこちらに自身の本性を気付かせるつもりで振舞っていたのではないか、という私の推測はどうやら正しかったらしい。

 しかしそうなると、分からないのが彼の意図だ。大きな秘密を抱える人間にとって、それが他者に漏れるという事は確実に致命的な意味を持つはずだ。何としても隠し通そうとするのが当然のハズ。わざわざ自分から秘密を露呈させるような真似をする事に、果たしてどういった意味があるのか。

 彼の行動が読めないことに、私は焦っていた。

 私の立ち位置は酷く危ういものだ。織田信長という飼い主の庇護の下にいるからこそ、私はこの川神の地で立ち回る事が出来ている。その主人の秘密を知った事で、私の処遇がどのように変化するのか、まるで想像もつかない。これからの信長の対応次第では、私は自身の居場所を完全に失う羽目になりかねないのだ。

 いや、今後の心配などするまでもなく、果たしてこの場を無事に切り抜けられるものか。可能性は低いだろうが、直接的な暴力に訴えてくるようなら対処を考えなければならない。私は全身の筋肉を緊張させ、いつでも動けるように備えながら、注意深く彼の出方を窺った。

『やれやれ、警戒されてるな。まぁ気持ちは判る、俺もお前の立場なら間違っても安心なんて出来ないだろうさ。しかし、そう構えなくてもいい。今更口封じなんて考えるくらいなら、最初からバレないように振舞うさ。かくいう俺も猫被りには自信があるんでね』

 警戒心を体全体で主張しているであろう私に対して、信長は苦笑しながら言う。そして、不意に笑みを消して真剣な表情で口を開く。

『さて。お前が言う様に、俺は弱い。性格の方も見ての通り、人畜無害な一般人だ。それをお前に明かしたのは――お前が欲しかったからさ、明智ねね』

『…………』
 
 ずざざざざ、と咄嗟にベッドの隅にまで退避した私を責められる者はいないだろう。

 常日頃から口では色々と軽い事も言っている私だが、初めては好きな人にと夢見る乙女なのである。こんな所で純潔を散らすくらいなら、命を散らすまで抵抗する事を選ぶ。

『変質者を見る目で俺を見るのはやめて貰えませんかね?本当の俺は繊細なハートの持ち主なんだから。ロリハゲと一緒にされた日には絶望しかないっての』

 やや顔を引き攣らせながら言って、信長は仕切り直しと言わんばかりに咳を一つ落として、再び切り出す。

『そうだな。俺は、ずっと“手足”が欲しかったんだ。俺の意を汲み、非力な俺に代わって具体的な行動を起こす事の可能な人材。これまでは蘭一人でもどうにか事足りていたが――ここから先は、それでは通用しない。小学校、中学校、高校、大学、そして社会。俺達の世界は年を追う毎に広がっていく。俺は川神学園に来て、その事実を改めて実感させられた。川神百代や川神鉄心は言うに及ばず、2-Sに2-F……俺と同学年の連中ですら呆れるほどにレベルが高い。どいつもこいつも抜きん出た傑物ばかりで、少しでも気を抜けばゲームオーバーだ』

『……』

『故に、俺は改めて欲していた。織田信長の実態を知った上で、俺の臣下として動く、まさに“手足”と呼ぶべき有能な人材を。所謂“直臣”って奴だな。実を言うと、これまでも候補に食い込んだ人間は何人かいるんだ。俺の眼鏡に適って、一度は従者として迎え入れようとした。が、そいつらは蘭の眼鏡には適わなかった。それでお流れ、結局そいつらは俺が本性を明かすまでもなくクビになった。間違いなく有能ではあったんだが、蘭の気には召さなかったらしい。……ここまで言えば察しはついてるだろうが、俺の出す合格判定はあくまで一次試験のもので、難関の二次試験を突破しない事には織田信長の従者としては認められない。そしてその試験官は、俺の第一の従者。森谷蘭だ』

『ランが、ね』

 森谷蘭。織田信長を主と仰ぎ、絶対の忠誠を寄せる、どこか歪な在り方の少女。

 『ねねさん。貴女には、大切なものがありますか?』―――私は日曜日の午後、彼女と二人きりで交わした会話を思い出していた。信長の言葉から考えれば、あの遣り取りこそが蘭の課した試験だったのだろうか。そして、私は自分でも気付かない内に合格判定を貰っていた、と。

 ……さてあの時、私は何を話しただろうか。彼女に気に入られるような答えを返した記憶はないのだが。

『正直に言って、俺は驚いたよ。蘭の奴は“織田信長の従者”という立場を唯一無二のもの、自分だけのものにしたがってると、ずっとそう思っていたからな。新しい候補としてお前を見出しはしたが、蘭は受け入れないだろうと半ば諦めていた。……然るに、現実として森谷蘭は明智ねねを認め、二人目の従者として受け入れた。つまり、蘭を除けば、お前は真の意味で俺の部下に成り得る初めての存在なんだ。――だから、俺はお前に織田信長の正体を晒す決断を下した。後は知っての通り、見ての通りさ』

『……』

 信長の言葉の内容に思考を巡らせたが、そこに嘘が含まれている様には思わなかった。そもそも、ここで私に嘘を吐いたところで意味はないだろう。どうやら本当の事を話していると受け取っても良さそうだ。

 彼の不可解な行動に一通りの説明が付いて、私は少し安堵していた。取り敢えず身の危険はなさそうだ、と心を軽くして、私はやや警戒を解いた。

 次いで心中に生じたのは、疑問だ。先程までよりは幾分か軽くなった口に任せて、私は信長に問い掛けた。

『キミの行動は理解できたけどさ。やっぱり考えてみれば不自然なんだよね。キミが作り上げてきた“織田信長”の虚像は、堀之外の街で多大な影響力を有している。その権威がキミの実力に対する過大評価によって成り立っている以上、キミの抱える秘密はとんでもなく重いモノのハズだ。少なくとも、“手足”を増やしたい、その程度の理由で打ち明けるには重過ぎる秘密だと思うんだけど。リスクがあまりにも大き過ぎる』

『ふむ。その程度の理由、か。くく、そもそもの部分で認識の違いがあるらしいな。まあ当然と言えば当然なんだが。……俺が自分の本性を隠し、実力を偽り。種が割れれば即座に身を滅ぼすような危険を冒してまで、裏社会で伸し上がって来たのは何の為か。考えてみた事はあるか?』

 信長の問い掛けを受けて、私は答えに詰まった。

 彼の在り方は私には理解できないものだった。常に家の都合に縛られ、嫌々ながらお嬢様を演じさせられてきた私と違って、彼は望みさえすれば自由に生きられたハズなのだ。自由気侭に奔放に、楽しく人生を過ごせるハズなのだ。

 にも関わらず、彼は性格も実力も何もかも偽って、私と同様、周囲に嘘を吐きながら生きている。そんな人間の意図など理解出来る訳がない。理解したいとも、思わない。

 返すべき言葉を見つけられず、黙り込んだ私に向かって、信長は宣言するように堂々とその解答を告げた。

『勧誘する以上、これは前提して知っておいて貰わないと困るな。目標、野望……というのは相応しくないか。そうだな、ならばやはりこう表現するとしよう―――俺こと織田信長には、夢がある』

 そうして彼が語った“夢”は、実に荒唐無稽なものだった。十人が聞けば九人が唾を吐きながら馬鹿にして、冗談の通じない一人が警察に通報するような。進路相談の用紙に書いて提出すればもれなく担任のお叱りが入るような、そんな現実離れした異質な“夢”。

 しかし、それを私に向けて語る信長の表情はこれ以上無く真剣で、心の底から本気で言っているのは明白だった。ありとあらゆるモノを切り捨ててでも実現させる、そんな気迫を感じさせる口調で語り終えると、彼は真っ直ぐに私を見据える。

 その抉るようなギラギラした視線を受けて、普段の彼が放つ身も凍るような殺気は不在だと言うのに、私は身体が緊張に強張るのを感じた。虚飾を取り払った素の織田信長を前に、気圧されていた。

 押し潰されるような威圧感とはまた違う、奇妙な圧迫感。気を抜けば瞬時に呑み込まれてしまうであろう異様な雰囲気を発しながら、信長は静かに口を開いた。

『言うまでもなく、俺の夢は果てしなく遠い。蘭の奴と主従で二人三脚、などという生温い考えでは到底辿り着けはしないだろう。自身の手足となる人材は幾ら居ても足りない位だ。だから、俺は嘘偽り無くお前が欲しい。仮に秘密が漏れる可能性が増すというリスクとデメリットを抱え込んだとしても、そんな事は天秤を傾けるに値しない』

『な、何で――ボクなんかを』

『何故って?気に入ったからだよ。廃工場で出会った時からその思いはあったが、数日間を共に過ごして益々気に入った。戦力として十分に使えるし、自分で物事を判断できる程度の頭もある。周囲に対して猫を被れる演技力に、俺を恐れずに接する度胸もまた得難いものだ』

 嫌でも背中がムズ痒くなるような褒め殺しだった。熱心に私を評価する信長は完全な真顔で、真剣にそう思っている事が伝わってくるだけに、尚更対処に困る。そんな私の戸惑いには一切気付かない様子で、彼は言葉を重ねた。

『俺の夢の達成に、お前は疑いなく必要な人材だ。だから何度でも言おう。――俺の真の“手足”となって働いて欲しい』

 あまりにもストレートな誘い文句は、他ならぬ自分が、明智音子という人間が強烈に求められているという事実を、私に対して明確に突きつける。

 私は、心を揺さぶられるモノを感じていた。学園内での私と、学園外での私。彼はその両方の姿を知った上で、その何れかに囚われる事なく、ただ在りのままの私を欲している。

 形はどうあれ、こうまで他者に自身を必要とされたのは初めての経験だった。困惑と混乱が脳裏の大半を占める中、確かに嬉しいと思っている自分がそこにいた。

『働いて欲しい、だってさ。笑っちゃうよ』

 心中の動揺を見透かされないよう、私は彼の熱意に水を差すような憎まれ口を叩く。

『いかにも頼んでるような口振りだけどさ、それってボクに選択権はないんだよね、実際。ここで断ったら板垣一家に突き出されるんだろうし、首尾よく逃げ出したとしても居場所を失うだけの話だし。袋小路に追い詰めてから選択を迫るなんて酷い悪党だね、全く。冷酷非道な俺様キャラを演じてる時の方がまだ良心的だったんじゃない?』

『くく、何を今更。大体、それくらいの悪党でなければあんな“夢”なんて抱く訳がないだろう?俺はただ、お前に自分の飼われ方を選ばせたいだけだ。ただ与えられる餌に満足するか。或いは俺の“夢”に協力し、その能力を存分に揮うか。後者を選ぶなら、少なくとも退屈だけはさせないと保障出来る』

『…………』

 彼の語る夢。それはあまりにも遠大で現実味の無い、まさしく夢物語と云うべき野望だ。彼は私の焦がれた“自由”を捨ててまで、その実現を追い求めて自分の道を歩んでいる。足取りに迷いはなく、未来を見据える瞳に曇りはない。

 翻って、私はどうだろうか。十五年の人生を通じて、私はひたすらに束縛からの解放を願い、自由そのものを夢として生きてきた。師匠のように奔放に生きたいとずっと思い続けてきた。

 川神学園へ入学し、明智家との距離を空けた事で、私の夢は叶ったと言えるのだろうか。好きな時に夜の街に繰り出して遊び回ることが、私が心から望んだ“自由”なのか?

 
 首輪を嵌められ、鎖で繋がれて。思えば幼少の頃から、私は誰かに飼われていた。

 
 だがしかし。もしかすると、それは―――――


『まぁ、別に答を出すのが今である必要はないさ。そう簡単に決めて貰っても困る。俺が望むのはあくまで自発的に力を貸してくれる事であって、無理強いするのは本意じゃない。良心的な悪党を自認してる俺としては、平和的に協力関係を築きたいと思ってる訳だ』

 俯いて物思いに沈んでいる私に、信長は気軽な口調で声を掛ける。

 顔を上げると、彼は何かを企むようにニヤリと口元を歪めて、楽しげに言葉を続けた。

『とは言ってもお互いそう簡単に相手を信用できる性格でもなし、まずは改めて“俺”を知って貰う必要があるか。と言う訳で、存分に話をしようじゃないか。対話こそが人と人を結び付け、信頼関係の礎となるのだよ明智君』


――その夜、私と彼は多くの話をした。

 
 演じてきたキャラクターとは裏腹に彼は相当に饒舌で、こちらの知りたくないようなどうでもいい情報を多分に含んだ様々な話を私に語った。その一方、私も彼に対してはやけに口が軽くなった。彼が私を高く買ってくれているからなのか、それとも嘘吐き同士の共感のようなものなのか、その辺りはいまいち分からない。

 しかし、気付けば私は、誰にも吐き出した事のない悩みを彼に語っていた。明智家の呪縛と、私の夢。一人で抱え込んできた葛藤を口に出して、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。

 深夜を過ぎ、蘭がやけに怖い顔で様子を見に来るまで、私達の対話は続いた。

 
 そして、一夜が明け、日が昇り頂点に達し、時は現在に至る。

 
 決闘直前の熱気に包まれた川神学園第一グラウンドにて。石灰で引かれたホワイトラインを前に佇んで、私はギャラリーに視線を向けた。

 予想通り、彼もまた最前列でこちらを見ていた。視線が交錯し、絡み合う。

 織田信長。明智ねねの“ご主人”。

 あまりにも不可解で不透明だった彼の正体は、昨晩の一件で多くを知る事が出来た。冷酷無情の仮面の中に隠し通している素顔。胸に抱える巨大な夢と、その実現の為に求めるもの。そして、明智ねねが欲しい、と心から願っている事実を知った。

 だから、私は私なりの方法で彼に対する答えを返そう。

 私の追い求める自由。私の夢。決闘相手である川神一子との会話を通して、私は既にある決意を固めていた。

 故に、言葉は無かった。余計な干渉も余分な感傷もなく、明智ねねは何一つ語る事無く織田信長から視線を外し、背中を向けて、ひたすら静かに来るべき合図を待つ。
 
 そして、闘いが。とある少女の人生を大きく大きく変える事になる、そんな決闘が。今ここに、幕を開けた。


「いざ尋常に――――はじめぃっ!!」















~おまけの2-S~


「まったく織田のやつめ、友である此方を蔑ろにしおって。あの性悪な小娘の何が気に入ったのやら。明智如き、所詮は不死川家の威光の前には塵同然。友とするならばより高貴な此方こそが相応しいと云うに、全く理解に苦しむのじゃ」

「お前には分からんだろうがな、不死川よ。男は皆ロリコンなんだぜ。あのミニマムでキュートな!穢れない白雪の如き身体を!自分の手で守ってやりたいと願うのは当然のごふぅっ!?」

「ハゲをいっぴきやっつけた!でもレベルが上がった気がしないなぁ……ハゲはやっぱり経験地くれないハズレモンスターだったのか」

「お手柄ですよ、ユキ。しかし気になっていたんですが、不死川さん。いつの間に信長と友達になったのですか?」

「おお葵君。実はの、先日の決闘の後にあやつから友にして欲しいと頼み込んできたので仕方なく――う、何だか恐い気配を感じるのじゃ……」

「なるほど、大体の所は分かりました。……2-Sをこうも早く掌握しますか――ふふ、やはり面白い男ですね、彼は」

「うぅむ、それにしても、何ゆえ織田の奴はあんな事を頼んできたのやら。我が友ながら訳の判らん奴じゃ、まったく」







 あれ?これってマジ恋二次だよね?と突っ込まれても言い返せない今回の話でした。
 改めて読み返すと原作キャラがおまけにしか登場していないという暴挙。我ながらこれはマズイと思いますが、ネコのバックボーンを早めに明確にしておく機会が欲しかったので今回ばかりはどうかご勘弁願います。次回は後編にしてようやく本番の決闘開始。
 有り難い感想を下さる皆さんに感謝の念を送りつつ、それでは次回の更新で。



[13860] 犬猫ラプソディー、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:eedad4a2
Date: 2012/05/06 02:48
 張り詰めた空気、静かに滾る興奮。そして今、決闘が始まる。

 勝負内容は第一グラウンドの一周をコースとして設定した、妨害有りの徒競走。川神学園の並外れた敷地面積に比例するように、そのグラウンドの規模は他校と比較しても相当に大きいが、しかしたかだか一周を走破する為に必要な時間はそう長いものではない。よって走者はスタミナ切れの問題を気にすることなく、全力疾走で約三百メートルを駆け抜ける事になる。言うまでもなく短期決戦だ。

 故に当然、二人の走者は共に時間を惜しみ、勝負開始の合図と同時、スタンディングスタートを切る―――などという事はなかった。

「せやぁぁっ!」

「フゥッ!!」

 川神鉄心の音声が鳴り響いた瞬間、事前に示し合わせたかのようなタイミングで、川神一子と明智ねねは互いの対戦相手に向かって拳を繰り出していた。打撃音が重なって響き、俺の周囲の観衆達が動揺にざわめきを生じさせる。彼らはねね達がゴール目指して一目散に疾駆する姿を予想していたのだろう。

 俺にしてみれば、この程度の展開は予想出来て然るべきだと思うのだが。わざわざ妨害行為を認める旨のルールを宣言している以上、武力行使は当然の選択だろうに。

「ふん。先ず敵の武力を見極め、力及ばねば得意の足で決着を。力で勝ると判断すればそのまま押し潰す。意図としてはそんな所か。くく、弱者に相応しき小賢しい策よ。そうは思わんか、直江大和」

 前方で始まった決闘風景を眺めながら、自分の背後へ向けて嘲笑うような声を投げ掛ける。

「生憎だけど、軍師に対して小賢しいってのは褒め言葉にしか聞こえないな。場合によっては最初の一撃で不意を討って勝負が決まるのを期待してたけど、まあアンタの“手足”がそこまで甘い訳もないか」

 風間ファミリー及び2-Fの軍師・直江大和は俺の横に並んで立ちながら、飄々と肩を竦めた。その表情はあくまで不敵で、動揺の色は見受けられない。

 まあ、それも当然。彼が張ったのは見抜いたところで手の打ち様がないタイプの策だ。単純な話、明智ねねの能力が、武力及び走力という川神一子の得意分野を凌駕できなければ、ただそれだけで勝敗は決するだろう。シンプル故に対処の難しい作戦である。

「傍目には不公平な勝負かもしれないけど。ルールの決定権をくれたのはそちらさんだし、文句は言いっこなしで」

「……今更、俺が不平不満を零すと?下らんな。如何なる窮地であれ、悉く覆してこその俺の臣下。貴様が然様な余裕風を吹かせられるのも今の内よ」

「ま、こちらとしても一筋縄でいくとは思ってないさ。勝負は始まったばかりだ」

 大和は言葉を終えると、真剣な表情で戦闘の様子に目を凝らし始めた。

 ねねと一子の両者は依然としてスタートラインからは一歩たりとも前進することなく、むしろコースから離れながらの乱打戦に移行していた。二人の間で巻き起こる拳と脚の嵐。武道を修めたものでなければ視界に捉える事すら難しい速度の打撃が惜しげもなく飛び交っている。

 川神一子は武の総本山・川神院の養女。当然、修めている武術が薙刀術のみに留まる訳もない。例え得物を持たず素手で戦う状況であっても、彼女が一般人を遥かに超えた実力を発揮することは事前の下調べで分かっていた。誰よりもそれを知っているからこそ、直江大和はこの作戦を起用したのだろう。

 この策の有益な点としては、何よりも対戦相手次第では“得物”という重大な戦力を奪う事ができる事が挙げられる。言うまでもなく、その結果がもたらすアドバンテージは計り知れない。今回に関しては格闘主体のねねだから助かったが、もし剣術主体の蘭が出ていたなら面倒な事になっていたのは間違いなかった。ねねという“手足”の正体を伏せておいた事がプラスに働いた訳だ。

「互角……か?」

 二人の戦闘を観察しながら、大和は誰に言うでもなく呟いた。残念ハズレ、と俺は心中で返す。

 恐らくは完全な素人であろう大和に比べれば、多少武道を齧った俺は両者の力量差がそれなりに分かる。彼女達は間違っても互角などではない――明智ねねは、川神一子の猛攻を前に、明らかに押されていた。

 そもそもにして生まれ持った体躯が小柄なねねは、純粋な格闘戦には向いていない。対戦相手の川神一子もそれほど身長に恵まれている訳ではないが、それでもねねより十センチは高いだろう。身長は手足の長さに、即ちリーチに直結する重要な要素だ。その差を補う為の得物を用いず、近接距離・真っ向からの乱打戦を挑むとなれば、どうしてもねねの不利は否めない。彼女が有利に立ち回ろうと思うならば、その小柄さを逆手に取ったアクロバットで相手を翻弄する他ないだろう。

 しかし―――明智ねねは、カポエィラを使わない。

 両者共に四肢を余さず用いた打撃戦、当然ながら蹴り自体は用いているが、しかしそれはあの廃工場で見せた軽やかな動きとは程遠いものだ。重点的に鍛えている分だけ拳に比べれば威力は高いが、言い換えればそれだけの事でしかない。カポエィラの足技のような、持ち味のスピードをフルに乗せた“重さ”がまるで足りていなかった。

「どーしたどーしたっ!そんな攻撃じゃアタシには通じないわよっ!」

「くっ……、言ってくれますわねっ」

 結果として、戦闘開始から時を経るにつれ、ねねと一子の受けるダメージ量には明確な差が表れ始める。互いに繰り出す打撃の数はさほど変わらないので一見して互角に映るが、実際に形勢がどちらに傾いているか、武に通じる者の眼には一目瞭然だった。

 二人の蹴りが空中で交差し、拮抗し、一瞬後には同時に飛び退る。そうして生れた乱打戦の僅かな空白に、一子が余裕の表情で威勢よく声を上げた。

「ふー……、一年生にしてはなかなかやるけど、アタシに挑むには早かったようね!」

「ハァ、うふふ、それはあまりにも早計ですわよ、先輩。わたくしはまだまだ健在です。未だ両の脚で立つ敵を目の前に油断するなど、闘士にあるまじき心構えと言わざるを得ませんわ」

「確かにね。戦士に対して失礼な態度だったわ、それは謝る。……遠慮はナシ、全力で行くわよ」

「うふふ。どうぞご随意に。わたくしは、手加減など望みません」

 強がりである事は傍目にも明らかだった。やはり明智家の英才教育の一環として習ってきた護身術では、川神一子には及ばない。現実としてねねの身体にはダメージが蓄積し、今も足元がふらつき掛けている。表情は苦しげで、歯を食い縛りながらどうにか立っているのが分かる。

 しかし、ねねはあくまで自分の本来の戦闘スタイルを表に出そうとしなかった。自分達を見守る観客達の数百の視線を前に、数百の監視の目を前にして、学園外に居る時のような自由奔放な動きを晒す事が出来ずにいた。

『ボクはね、皆の前ではお嬢様でいないとダメなんだ。周囲の人たちの理想になれる、高貴で慎ましやかな、ロシアンブルーみたいなお嬢様。その言いつけを破ったら、ボクはあの家に連れ戻されるかもしれない。退屈で押し潰されるような狭い狭い箱庭に。ボクは……それが怖くて仕方がない』

 昨晩の語らいの中で彼女が零した言葉を、俺は思い出していた。また、そんな彼女に対して、俺が掛けた言葉も。

 やはり言葉は無力だったのだろうか。所詮は仮初めの主人に過ぎない俺の声では、抑圧への恐怖に震える彼女の心には届かなかったのか。

 そんな俺の諦念を後押しするように、事態は更に悪い方向へと動く。

「貰った!」

 左ストレートに合わせた一子の蹴りが、ねねの脇腹を強烈に打ち抜いた。あの打撃の貰い方は不味いな、と嫌な汗を流しながら分析する。位置を考えれば、恐らくレバーにかなりのダメージが入っただろう。

 実際、相当に効いたのか、声にならない呻きを上げて、小柄な身体がぐらりと傾く。それは素人目にも分かる、あまりにも大き過ぎる隙だった。

 そして、武神の妹・川神一子は、その決定的な隙を見逃すほど甘くはない。


「今っ!川神流奥義―――“蠍撃ち”っ!」


 超高速の正拳がねねの腹部に容赦なく突き刺さり―――その身体を吹き飛ばした。











 

「家柄、血筋の呪縛、か。……見ての通り、俺の出自はロクなもんじゃない。それこそ明智家の人間から見ればゴミみたいなものだろうな。それも飛び切り臭う生ゴミの類だ。だから、俺はお前の気持ちが分かるなんて言う気はない。だから同情も出来ないし、具体的な解決策を提示する事も出来ない」

 私が漏らした弱音のような言葉に、彼は至って真面目な顔で返す。

 共感をバッサリと切り捨てるような彼の態度に、私はむしろ安心していた。

「それでいいよ、同情なんてこっちから真っ平さ。それと何処ぞの大佐じゃあるまいし、ボクは人の事をゴミのようだとか言わないよ。全く失礼しちゃうな」

「ああ、別にお前の事は言ってないさ。最近お近付きになった不死川家のご令嬢がいつもそんな調子だからな、思い出しただけだ。……それはともかく、一つ気になっていた事がある。俺の気の所為かもしれないが、お前――嘘を吐いてないか?俺にはお前が、姿を偽っているような気がしてならない」

 彼の発した疑惑の言葉に、私は心臓が跳ねるのを自覚した。そこまで気付いているのか。込み上げる当惑と焦りを無理矢理に押し殺して、私は平静を装って言葉を紡ぐ。

「キミの言いたい事が分からないね。ボクの猫被りの事なら、それは明智家の目の届くところ、学校の中だけの話だよ」

「―――猫被り、か。猫被りね。実を言うと、俺には良く分からないんだよ。お前の被っている“猫”の正体が。どうにも曖昧で、捉えられない」

「……」

「さて。本当のお前は果たして何処に居るんだろうな、明智ねね」

 胸の内を見透かしたかのようなその言葉に、“私”は答を返す事が出来なかった。

 そんな私を意に介さず、彼は淡々と言葉を連ねる。

「学園の中で演じているお嬢様。今こうして俺と話しているお前。俺には判断が付きかねているんだ。どちらと話している時も、俺はお前の本心と向き合っている気がしない。“それ”は本当に、お前なのか?」

「……」

 わたくし。ボク。私。

 “わたくし”は、明智家の令嬢としての明智ねねの姿。抑圧を象徴する仮面。

 “ボク”は、憧れの人、師匠を模倣した明智ねねの姿。自由を象徴する仮面。
 
 そして“私”は――そうだ、私は未だ何も決めていないのだ。何一つ決断せず、中途半端なままで日々を過ごしている。学園の中では明智家の顔色を窺って自分を抑圧し、一度外に出れば“自由”とやらを謳歌する。そして、その何れもが本当の私ではない。どっちつかずに二つの猫を使い分けて、その間に挟まれて無様に苦悩している。

 そう、私が本当に心の底から自由を願い、気侭に生きたいと思うなら、話は単純。明智の家を捨てればいいのだ。そうするだけで私を縛るものは消失し、師匠のように心の赴くままに日々を過ごせるだろう。当然ながら明智家の令嬢という身分を捨てた私は財政的なバックアップを同時に失い、川神学園の学費も支払えず、入学直後に退学となるのだろう。明智家が全国各地に手を回して、私から就職の機会を奪う事も考えなければならない。しかし、あれほど憧れた自由が、求め続けた“夢”が手に入るのだ。その程度の代償が何だと言うのだろうか。

―――分かっている。それでも私が現在の半端な立ち位置を続けているのは、私がそれらを手放す決心が付かないからなのだと。

 私はきっと、不安なのだ。明智家の潤沢な財力に頼って育てられ、経済的に何一つ不自由なく十五年の人生を歩んできた私が、広い世界に一人放り出されて生きていけるのか。常に家の監督下に置かれて両親の言うがままに生き方を決めてきた私が、手に入れた大き過ぎる自由を持て余さずにいられるのか。

 首輪を嵌められ、鎖で繋がれて。思えば幼少の頃から、私は誰かに飼われていた。

 それは、他ならぬ私が、心のどこかで望んでいた事ではなかったか。自由を知らない私は、誰かに鎖で引っ張って貰わなければ、進む事すら出来ないのではないか。

 だからこそ、“私”は“ボク”で“わたくし”なのだろう。自身の在り方すらも定められない私の脆弱さを、彼は見抜いてみせたのだ。

「まあ、答えたくないなら別に構わないさ。所詮は俺が同類だからこそ感じた、些細な違和感だ。答を知らなくても大した問題にはならないだろうからな」

 沈み込んでいた私を気遣うように、彼は殊更軽い調子で言った。

「……話を変えようか。構えなくてもいい、ちょっとしたセールストークだ。俺に飼われる事で得られるメリット諸々について語らせて欲しいんだが、お時間を頂けますかね?」

「ごめんなさい、急いでるんで」

「第一の利点だが、まずは食だな。我が織田家の誇る鉄人・森谷蘭が腕を振るった絶品料理の数々を、何と毎日!それも三食!味わえる。週に一回、景気の良い時には週に二回、蘭お手製の和菓子も付いてくるという豪華なおまけ付きだ。いやこれがまた絶品でね」

 私の言葉を全く気に留めず、彼はぺらぺらと言葉を連ねた。止めたところで無駄なんだろうな、と私は早々に諦めて大人しく聞きに回る事にする。

 そろそろ彼の素の性格は掴めてきた。呆れるほどにマイペースで自己主張が激しい。そして無駄に饒舌だった。普段、被っている猫のお陰で満足に喋ることが出来ない分、こうして舌を動かす事で取り戻そうとしているのだろうか。抑圧と反動。まるで自分を見ているみたいだ、と私は内心でクスリと笑った。

「第二に家事だ。我が織田家の誇る家政婦・森谷蘭がおはようからおやすみまで、お前の生活をサポートしてくれるぞ。朝起こしに来るのは勿論、部屋の掃除に洗濯、破れた服の修繕から膝枕で耳掃除まで何でもござれだ。それはもう、自分がどんどん駄目人間になっていく気分を味わえる事請け合いですよ」

「ダメじゃん」

「それと、第三の利点だ」

 不意に、真摯な眼差しが私を見据えた。ふざけていたかと思えば、すぐに態度が一変する。あたかも秋の天気の如く様相を変える彼の真意は、なかなか捉えられそうになかった。

「織田信長の臣下になると言う事は、織田家の一員に加わる事と同義。つまり、俺にとって家族同然の存在になる事を意味している。俺は両親がご覧の有様で、生まれた時から独りだった。傍目には想像し難いが、蘭の奴もあれで天涯孤独の身だ。そんな訳で俺達は、血縁に頼らない家族として共に生きてきた。雨にも負けず風にも負けず、病める時も健やかなる時も、ってね。―――だから、俺は家族を何よりも大事に思っている」

「……家族」

「そう、家族だ。話は戻るが、さっきお前が言っていた“明智家の呪縛”。俺は同情しないし、具体的な解決策は無い、と他人事の如く切り捨てたが。仮にそれが明智ねね個人ではなく、俺の家族が抱える問題だと言うなら……俺は全力を以ってその悩みを排除するつもりでいる。だから、ねね。色々な思惑やら利害やら本音やら建前やら全部ひっくるめて、単刀直入に訊くが――俺の家族にならないか?」

 彼の目に冗談の色はなく、彼の言葉に欺瞞の影はなかった。

 家族ってなんだろう、と。随分と幼い頃に考えた事があったのを、思い出す。

 私の両親は“私”を愛してはくれなかった。彼らが愛していたのは“わたくし”という仮面で、明智家の名を穢す事無く立派に継いでくれる誰か。怠惰でその割に退屈を嫌う“私”という人間を、むしろ彼らは憎んですらいた。親子なのに。同じ血を引いた家族なのに。

 そうだ、私はずっと家族が欲しかった。

 悩みを何でも相談できて、解決出来ないときは一緒に悩んでくれて、賑やかにお喋りしながらテーブルを囲んで、時には本音をぶつけ合って喧嘩して、互いに許し合って距離を縮めて。そんな、皆が当たり前のように持っているという普通の家族を、心の中ではずっと欲していた。

 かつて多くのものを私に与えてくれた師匠の事を、私は心の中では血の繋がらない姉だと思っていた。だから、彼女が手の届かない何処かへ去っていった時、私が抱いた喪失感は計り知れないものだったのだ。

 そして、あの時から私の胸中には罪悪感が常に居座っていた。私と出会わなければ師匠はあの街を追い出される事もなく、気侭な生活を続けていられたのに、と。

 明智家の権威は、まさしく呪いだ。関わった人間の人生を狂わせて、結果として私の周囲から近しい人間は消え失せる。私は取り残されて、独りになる。

 だけど、ひょっとすると、もしかしたら。

「――キミ達は」

「ん?」

「キミ達は、“私”の前から居なくならない?」

 それは、咄嗟に口をついて出た言葉だった。いつものように打算を巡らせた、理性でコントロールされたものではなく、込み上げる感情と感傷に任せて吐き出した生身の言葉。私は慌てて口を噤んだが、しかし一度発してしまった声を取り消す事は出来ない。私は縮こまるようにして、彼の答えを待った。

「何を言っているのやら。家族を置いて蒸発なんてクソッタレな真似、俺の親父だけで十分だ。立派な反面教師がいるってのに、他ならぬ俺が同じ過ちを犯すとでも思うか?そんな風に思われてるというだけで心外だよ、俺は」

「でも!明智家に関われば、きっとキミ達は今のままじゃあ――」

「明智家だと?ふん、生憎と、高貴なる家柄だの高貴なる血筋だの、そんなものは心の戯言で聞き飽きてるんだよ。俺の抱える“夢”を聞いただろうが、ねね。俺が明智家なんてお山の大将に阻まれて立ち往生するなどと思ってたら大間違いだ。俺の目指す先はチンケな地方の有力者なんて歯牙にも掛けない、遥か頂にある。ここまで言っても分からないなら、もっと簡単明瞭に断言してやる――明智家如き、織田信長の敵じゃあない」

 不遜とも言える程の自信に満ち溢れた彼の言葉は、紛れもない本心だと私には分かった。もし嘘を吐いていれば、同類の私にはすぐにそれと知れる。故に彼の自信に虚飾はないのだろう。自分の実力を過信して思い上がるようなタイプでもない。となれば、彼は至って客観的に状況を把握した上で、先程の言葉を口にしたのか。明智家など敵ではない、と。私を置いていく事はない、と。

 その事実を悟った瞬間、私は自身の中で熱が生じるのを感じた。その温かい熱は胸の辺りからどんどん上昇して、目頭に達して溢れ出しそうになる。私は慌てて彼に背中を向けた。ダメだ、こんなのは私のキャラとは違う。私はもっとクールで、何事も茶化すように見守る傍観者こそが似合うのだから。そんな風に思いながらも、私は自分の口から言葉が勝手に飛び出すのを止める事が出来なかった。

「わ、私の呪いを、解いてくれるの?」

「無論。造作もないな」

「ほ、ホントに、私を――自由に、してくれるの?」

「お前も疑り深い奴だな。俺を信用しろよ、明智ねね。俺は確かに嘘吐きで下種な悪党かもしれないが、そんな奴でも家族は大事にするんだ。いや、そんな奴だからこそ、と言うべきかね。……とにかく、俺から言える事は一つだけだ」

 一旦言葉を切ると、私の肩を掴んで、正面から向き合えるように身体を回転させる。

 そうして彼は、互いの吐息が掛かるような至近距離から私の目を覗き込んだ。

「―――俺を信じろ。頼って、任せてみろ。そうしてくれなけりゃ、俺はお前を家族とも呼べやしないんだからな」

 目と鼻の先の場所から真っ直ぐに向けられた、揺るぎない瞳と声に対して、私は、














「ええっと、確か軍師曰く、“キューソネコカミ、ある程度追い詰めたら下手に追い討ちを掛けずにさっさと走り始めるように”だっけ。このまま置いてくのはちょっと気が引けるけど、勝負は非情なモノ。アタシは手加減せずにゴールまで一直線に駆け抜けるのみ!」

 足音が聞こえる。砂を蹴り上げる音。

 ああそうか、川神一子がようやく徒競走を始めたのか。と言っても現状だと競走ですらないんだけどね――そんな風に自分がまだ思考を巡らせられる事をしっかりと確認してから、私は勢い良く跳ね起きた。どうやら一瞬だけ意識が飛んでいたらしい。全く、余計なタイムロスをしてしまった。

「うぐっ……!」

 立ち上がった瞬間、様々な苦痛がごちゃまぜになって脳を突き刺す。痛い。苦しい。痛い。吐きそうだ。真正面から正拳を叩き込まれた事で、特に臓器へのダメージが洒落にならない。

 敢えて決定的な隙を晒して大技を誘い、インパクトの瞬間に合わせた完璧なタイミングで自ら後方に跳んだにも関わらず、この威力。川神一子、想像以上の力量の持ち主だ。武神の妹という肩書きは伊達ではない、か。

 まあしかし――それも想定の範囲外と云うほどでは、ない。私が今こうして立ち上がっている時点で、私の計算は何一つとして狂っていない。

 先ほどの乱打戦で無数の打撃を浴びた身体は、あちこちが節操無く痛みを訴えている。元々が回避に特化した身体で真正面からやり合うという無茶をやらかしたのだ、当然の結果。

 だが、鍛え上げた自慢の両脚は健在だ。何の問題もなく地を蹴り飛ばして、真っ直ぐ駆け出す事が出来る。ならば、大丈夫だ。何も心配はない。

 グラウンドの一周は約三百メートル。たかだか三百メートルだ。五十メートル走を六回繰り返せば終わってしまう、笑えるほどの短距離。ならば、多少身体にガタが来ている程度の事では勝負に支障を来すまい。

 全力で駆けて、駆け抜ける。それだけだ。

「フゥー……」

 一度だけその場で深呼吸をして、見る見る内に遠ざかっていく対戦相手の背中を見据え、私は地面を蹴った。

 空気を切り裂き砂を巻き上げて、前へ。観客達が何やら歓声を上げているようだが、まるで耳に入ってこなかった。まあ周囲の雑音など、聞こえても仕方ないので構わない。どうでもいい。風切り音だけを引き連れて、駆ける。アドレナリンが分泌されてでもいるのか、全身を苛んでいた痛みはどこかへ消え失せていた。

 嘘のように身体が軽い。風そのものと同化したように、次々と目に映る風景が流れ去っていく。余計なものを全て虚空へ捨て去ってしまったかの如く、足が軽い。走って走って走って、やがて川神一子の背中を視界に捉える。

 彼女も確かに速いが、私はもっと迅い。先程の戦闘で、彼女は有無を言わさず私にトドメを刺しておくべきだったのだ。よりにもよって脚を使った純粋な走力勝負を私に挑むなんて愚かしい。身長差がある分だけ、歩幅の関係で有利だと踏んだのかもしれないが、そんなもの、所詮は誤差の範疇だ。

「っ!」

 私が背後に迫っているのを感じ取ったのだろう、彼女の雰囲気に緊迫感が増し、元々速かった足が更に加速した。

 なんだ、手加減無しとか言っておきながら今までは全力で走っていなかったのか、この嘘吐きめ。嘘吐きは泥棒猫の始まりだって言うのに酷い奴だ。

 川神一子。川神院の師範代を目指して愚直な努力を続ける少女だと、彼は教えてくれた。

 なるほど、幼少の頃から地獄のような鍛錬を自らに課していただけのことはある。凡才などとは到底信じられない実力の持ち主だった。先程の近接戦闘然り、現在の徒競走然りだ。

 加えて、元が天才肌の人間でないだけに自分の力を過信してもいない。少しばかり油断が目立つ部分もあるようだが、それとて全力中の全力を出していないと言うだけで、決して手を抜いている訳でもない。敵に回すとなるとなかなか厄介なタイプの少女のようだ。

 現に私は、全力で走り続けているにも関わらず、彼女との距離を埋められずにいる。かと言って離される事もない、という事は私達の全力は拮抗しているのだろう。

 もはや彼女には僅かな油断もない。振り返って私の姿を確認するようなタイムロスに繋がる真似はせず、ひたすらに前だけを真っ直ぐに見つめて、ゴールテープを目指して駆けている。

 素晴らしい集中力だ――実に素晴らしい。あまりにも好都合で、笑ってしまいそうになる。

 私は地面を蹴り上げながら、不意に空を見上げた。青くて、広い。どこまでも果てしなく続く空。

『ネネ。カポエィラの起源をキミは知ってるかナ?』

 脳裏を過ぎるのは師匠が残してくれた言葉の数々。私に自由の意味を教えてくれた彼女は、この空を何処かで見ているのだろうか。

 私の夢は、自由を手に入れる事だった。両親の監督から逃れて、気侭に振舞う事だった。

 だけど。今は、もう少し欲を出していいんじゃないかな、と、そう思っている。

 彼と出逢って、私が新しく抱いた夢。それは今も世界を渡り歩いているであろう彼女といつかどこかで再会して、本当の自由を手に入れた私の姿を、胸を張って披露すること。

 その夢を叶える為にも――私は、“私”である事を決めた。十六年もの間、逃げ続けてきた選択と向き合い、決断を下した。

 夢は見るものではなく、叶えるもの。自分の手で、掴み取るもの。彼も彼女も、私の問いに対する答えは示し合わせたように同じだった。それならば、そういうものならば、立ち止まってはいられない。

 踏み出す事を恐れるな、心配はいらない。不安はない。私は、もう独りではないのだから。

 答を出そう。

 私は、彼を信じる。

 明智家の呪縛から解き放つと約束してくれた彼を。私を置いていかないと約束してくれた彼を、私は信じる。そう決めた。

 だから―――こんなモノは、もう要らない。邪魔なだけだ。

 私は風を受けて靡くウィッグを無造作に掴んで、勢い良く放り捨てた。バサバサと紛い物の髪が広がって、呆気なく風に流されて飛んでいく。

 これで、私は解放された。ありとあらゆる束縛から、重力から。

 身も心も軽い。今ならきっと、私はどこまでも飛べる。確信を胸に、私は大地を蹴った。

 跳躍。高々と、羽が生えたように高々と、私は果てしない青空へ向けて飛翔する。

『わすれないで、キミのあしは、いつでもとびたてる。りっぱな、じゆうのツバサだよ』

「私の脚は―――自由の翼!誰にも縛られず、私が私らしく、自由気侭に生きるためにある!」

 それはまさしくカポエィラの本領にして真骨頂。跳躍を起点に宙より繰り出される、アクロバティックな蹴撃。

 そのジャンプの瞬発力は地を駆ける速度を凌駕し、どうしても埋まらなかった私と川神一子の距離を、一瞬だけ詰めた。私の脚は、彼女を射程に捉えていた。

「なぁ――っ!?」

 前だけを見て真っ直ぐに駆けていた彼女は、後背の後輩の動向に注意を向けるのが遅れた。

 今回ばかりは勝負に対する高い集中力が仇になったと言える。決闘開始時の接近戦にて、敢えてあの未熟な護身術が全てだと見せかけた事で、私が隠し持つ切り札への警戒が薄れていた事もあるだろう。それでこそ、わざわざ奥義の直撃を受けるフリをしてまで彼女の後ろを取った甲斐があるというものだ。

 背後より急速に迫る気配に、咄嗟に振り返って防御の姿勢を取るが、間に合わない。

 万全の迎撃態勢を整えるよりも先に、私の最高速度と全体重を乗せた脚が彼女の首筋――を僅かに逸れ、その肩口を薙ぎ払った。

「ぐぅっ!」

 地面に踏ん張ろうと堪えたのは一瞬、不安定な姿勢では横合いからの強烈な衝撃を受け止め切れず、彼女は派手に砂埃を巻き上げながらグラウンドを転がる。一回転、二回転、三回転してようやく止まり、苦痛の呻き声を漏らしながら、よろよろと覚束ない足取りで立ち上がる。

「へっへーんだっ」

 手応えはあった。あの様子ではもはや満足には動けないだろう、どうだ見たか私を散々痛めつけてくれた礼はしてやったぞ、と心の中で舌を出しながら、私は足を止める事なく駆け続ける。

 例え決定打を与えたからといって、その場に立ち止まって勝ち誇るほど、私は呑気な性格はしていない。この決闘は“私”の晴れ舞台。そして新たな飼い主、新たな家族に勝利を捧げる為の大事な戦いだ。負けられない理由がある。下らない油断などで足元を掬われるのはゴメンだ。

 鬱陶しいロングヘアが彼方へ消えた事で、身体はますます軽くなった気がする。いよいよ調子を増しながら四つ目のコーナーを曲がり、そして私は最後の直線に差し掛かった。白いゴールテープが前方に見える。目指す勝利まで、あと僅か。

「よーっし!」

 そして、ラストスパートの為に最後の力を振り絞る。

 そんな私の足元から、何の前触れも無く唐突に―――地面が、消失した。








「ふん。落とし穴、か」

「ふぅ、無事に引っ掛かってくれたか。ワン子が逆転された時はどうなる事かと思ったけど、これで一安心って所かな」

 第四コーナーを曲がり終えた直後の地点、地面に腰まで埋まったねねが脱出に四苦八苦している様子を眺めながら、俺は苦虫を噛み潰すような内心を表に出さないよう注意して言葉を紡ぐ。

「成程。事前に第一グラウンドを決闘のフィールドとして指定していた以上、仕掛けを施すは当然、と云う訳か」

「まあね。とは言ってもそう簡単な話じゃなかったけど。無闇やたらと数を設置し過ぎてワン子が引っ掛かったら本末転倒だし、だからと言って少な過ぎても今度は効果を発揮せずに終わる可能性が高い。設置に際しては場所選びも考えなくちゃならなかった。最初から相手にトラップの存在を疑ってこられたら、幾ら巧妙に偽装した落とし穴でも見破られる危険があったからね。だからこその第四コーナー地点だ。勝負の最終盤、ラストの直線まで状況が進めば、周囲をじっくり観察してる余裕も無くなるだろう、と思った訳で。だから正直、明智って子が独走状態で来た時は作戦失敗かと思ってヒヤリとしたんだけど、どうにか思惑通り引っ掛かってくれて助かった」

 満足気な様子で額の汗を拭っている直江大和を、卑怯だの姑息だのと罵る事は出来ない。あくまで勝利を得る為に最善を尽くし、合理的に策を巡らせる。彼はただ、軍師として求められる役割を果たしただけだ。見事にねねを罠に嵌めた手並みは賞賛すべきであっても、間違っても責めるべきものではない。些かイラッと来るのは確かだが。

「ついでに言うとあの落とし穴は特別製で、一度落ちたら復帰のために最低でも一分は掛かる。それだけの時間があれば、今の消耗したワン子でもゴールテープを切るには十分だ」

 落とし穴に嵌ったねねの背後から、川神一子は着実に距離を詰めている。あと十秒もあればねねを追い越して、そして更に十秒あればゴールまで辿り着くだろう。ねねに残された時間はあまりにも短い。

 しかし、俺の胸に焦りは無かった。何せここから見える彼女の顔には、邪悪と形容するのが相応しい、不敵なニヤリ笑いが浮かんでいるのだから。

「くく、やはり貴様等の認識は甘い。その程度の策とも呼べぬ小細工で、俺の“手足”を止められる心算でいるとはな。実に笑える話だ」

「……あの状況じゃ、俺には詰んでるとしか思えないけどね」

「それは貴様が明智ねねを知らぬが故の錯覚よ。武術の特性上、奴の鍛え方は下半身に集中している。それは即ち、本来上半身にも均等に割くべき鍛錬の比重を一方に傾けている事を意味する。言うに及ばず、その錬度は尋常なものではない――貴様が何を以って一分と云う数字を算出したのかは関知する所ではないが。それを奴に当て嵌めるのは、見当違いの的外れであると知るがいい」

 俺の言葉を裏付けるかのような絶妙のタイミングで、ねねの埋まっていた下半身が勢い良く地中から飛び出した。引き抜かれた腰から下の部分は隈なく、砂と何かしらの粘液に塗れている。

「フゥッ!」

 落とし穴から飛び出した勢いをそのままに逆立ちのようなポーズを取ると、ねねは地面に付けた両腕に力を込めて、おもむろに回し蹴りを放った。

 その爪先が狙う先には対戦相手・川神一子。追い抜かされる直前で復帰して不意を討とうとねねは考えたのだろう。しかし、一度目の奇襲で大ダメージを被った事で懲りたのか、一子はねねの一撃を抜かりなく回避し、数間の距離を取って用心深く対峙する。

「はーっ、はーっ……やっと追いついたわ、大和の落とし穴が無かったらアタシの負けだった。でも、こうして捉えたからにはもう逃がさない!覚悟しなさい、一年生!」

「そんな風に右肩庇いながらじゃ説得力がないよ、先輩。もうボロボロでしょ、大人しく寝てればいいのにムリしちゃってさ」

 ねねは一子を嘲笑う様に言い放つ。対する一子は怪訝そうに眉根を寄せて、首を捻った。

「……んん?何だか雰囲気変わったわねアンタ。髪も短くなってるし、どーいうワケなのかしら?」

「まー猫被りはもうおしまいって所かな。私は私、やっとそういう風に決められたからね」

「むむむ、いまいち良く分からないけど……ようやく本気を出す気になったってコトは間違いなさそうね。さっきまでとは気迫が違うわ」

 感心したような一子の言葉に、俺は心中で深く頷いていた。

 人の事を言えないほどに満身創痍でボロボロな姿のねねは、しかし全てを余さず吹っ切ったような晴れやかな表情で悠然と佇んでいる。ウィッグを取り去った彼女のボーイッシュな容姿は、その身に纏う気侭な雰囲気と良く調和していた。しなやかで強靭な四肢は、今までよりも伸びやかな印象を見る者に与える。その脚が繰り出したアクロバティックな跳び蹴りは、俺の目には素晴らしく優雅で奔放なものとして映った。

 こうして彼女が本来の自分を観衆の目に晒す、という事はつまり、明智家の目を恐れるのを止めた――即ち俺を信じて頼ってくれた、と受け取っていいのだろう。ならば主としてその期待と信頼には応えなければなるまい。

 その辺りは兎も角として、十年ほど空白だった織田信長の第二の従者が、そして新しい家族が正式に誕生した訳だ。今夜は蘭に命じて普段よりも豪勢な食事を作らせよう、歓迎パーティーの一つも開いてやらないと――などと思考を巡らせる俺を余所に、彼女達の決闘は続いていた。

「さっきの跳び蹴りは効いたわ……この調子じゃしばらくは肩が上がりそうもないわね。やけに脚を鍛えてるな、とは思ったけど、ここまで強烈だなんて」

「降参宣言なら大歓迎だよ。私も弱ってる相手をいたぶるのは趣味じゃないしね」

「じょーだん!大体アンタだってフラフラじゃないの。何だかんだ言っても、どーせそのコンディションでアタシと戦いたくないだけでしょ」

 ビシィッ、と指を差しながら言う一子に、ねねはいかにも面倒臭そうに溜息を吐いた。

「はぁ、流石にバレバレかぁ。まあ仕方ないか、幾ら私の猫被りが巧くても、到底隠し通せるようなダメージじゃないしね。やれやれ、互いに崖っぷちって訳だ。笑えないね全く。――その辺を踏まえた上で、一つ提案があるんだけど、どうかな」

「まあ聞くだけは聞いてあげるわ。提案って?」

「単純な話さ。互いに余力なんてもう残ってないだろうし、次の一撃で決着を付けよう、って話。このまま泥仕合を繰り広げても観客達を退屈させるだけだし、消耗戦の末にダブルノックダウンで勝者なし、なんてお寒い結末を迎えるのはイヤでしょ?だから、次で最後。泣いても笑っても勝敗の決まる、一発勝負。断るなら、別にそれはそれで構わないけどね」

「――いいわ、乗った。上等よ。アタシも正直そろそろ限界だし、全力でぶつかれる内に終わらせたいしね」

「決まりだね。勝負が決まる頃にはキミは無様に這い蹲って気絶してるだろうから、先に言っておこうかな。いい戦いだった、私もそれなりに楽しかったよ」

「何から何までこっちのセリフね。後輩の癖にナマイキな態度がちょっとアレだけど、アンタは間違いなく強敵(とも)だったわ」

 あまり友好的とは言えない言葉を不敵に笑いながら投げ合うと、両者は構えを取った。

「ふっふ、宣言しよう。キミに私の足技は見切れないね。今度こそ二度と起き上がらないように沈めてあげる」

「お姉さまじゃないけど、ナマイキな後輩にはキョーイクテキシドーって奴が必要よね。覚悟するといいわ!」

 ねねの構えはカポエィラ独特のジンガと呼ばれるステップ。一子の構えは最初と同様、川神流拳法の型。

 二人の間に漂う空気が瞬く間に研ぎ澄まされ、緊張を増していく。観客達の誰もが息を呑み、固唾を呑んで勝負の行く末を見守っている。ざわめきすらも消え失せ、痛いほどの静寂がグラウンドを支配していた。

 そして――合図も何もなく、両者は同時に動いた。

「川神流奥義っ!」

 一子は膝を落とし、重心を低く沈めて、真っ直ぐに迫るねねをギロリと睨み据える。

 そして、ねねが己に向けて突っ込んでくるタイミングに合わせて溜め込んだ力を開放し、必殺の一撃を放った。


「“鳥落とし”ィッ!」


―――そして、一瞬の交錯の後。


 両者のうち片方は地に足を着けて確りと立ち、片方は地に身体を転がして仰向けに倒れていた。

 その構図はそのまま、この場における勝者と敗者を表している。

 すなわち、無い胸を張って仁王立ちしている明智ねねが勝者。何が起きたのか理解できなかったのだろう、地面に倒れ込んで目を白黒させている川神一子が、敗者。

 経緯はどうあれ、結果は誰の目にも明らかだった。

「え、え?あれ、な、何で?」

「必殺ネコパーンチ、なんてね!アハハハ、いやーものの見事に騙されてくれたねぇ。世間にはあんまり知られてないけどさ、カポエィラにも手技ってあるんだよ。ガロ・パンチって言うんだけど、それじゃ分からないよね。足技ばっかり警戒してるからパンチへの注意が疎かになるんだ。色々あって私が足技で勝負を決しに掛かると考えちゃうのは分かるけど、思い込みは良くないねぇ。反省して次の機会に活かすようにした方がいいかな、先輩。あ、ちなみに綺麗に顎に入ったからしばらくは動けないよ。そういう訳で、それじゃーおっ先にぃ~失ぅ~礼ぃ~」

「ちょ、アンタ、え、まっ!」

 物凄く納得いかなさそうな表情で言葉にならない叫びを上げる一子を放置して、ねねはさっさと駆け出した。

 最後の直線、彼女の走力を考えれば踏破するのに十数秒と掛からない道程だ。罠が仕掛けられていないか入念にチェックしながら進んでいるのでその二倍は時間が掛かっていたが、結局あの落とし穴が唯一のトラップだったようで、ねねは何のアクシデントに見舞われる事もなく悠々とゴールテープまで辿り着いて、そして。

「それまで!勝者、明智音子!!」

 空気をビリビリと震わせる川神鉄心の大音声が、勝負の帰結を観客達に改めて知らしめた。

 その意味が浸透するのに数秒を必要として、それから爆発的な歓声がグラウンドを埋め尽くす。

「うおおおお!いい勝負だったぞぉーっ!!」

 ここに集ったギャラリーの多くは一子を応援していたが、しかし逆転に次ぐ逆転劇を繰り広げて辿り着いた決着の瞬間に、誰もが沸き立っていた。例え勝者が知名度の無い一年生であったとしても、彼らの送る歓声がその数を減らす事はない。

「良くやったぞ一年坊ーっ!オレは、オレは今!猛烈に感動している!」

「いやあいいモン見せてもらったよ、気紛れで見に来てホントに良かったなぁ」

「まさか二年生の、それも川神一子に勝つなんて……ああもう!ねねーっ!私のプッレ~ミアムな学園制覇計画に、抜け駆けは許されないんだから!覚えときなさいよーっ!」

 次々と歓声が飛び交う。勝負方法が単なる徒競走ならばこれほどまでに盛り上がる事はなかっただろう。身体が限界を迎えるまで互いの闘志を燃やし、火花を散らして激烈に衝突する。そんなデッドヒートを目の当たりにして、観衆達の興奮と熱狂は留まる事を知らなかった。

「うぬぬぬ、アタシは納得いかないわ……あの状況で騙し討ちとかやらないでしょ、フツー!なーにが“私の足技は見切れないね”よ!」

 やや時間を空けて、よろよろとゴール地点に辿り着いた一子が噛み付く。彼女の至極もっともな文句に、ねねは見ているこちらが腹立たしくなるようなウザい笑みを浮かべた。

「おやおや、負け犬の遠吠えが聴こえるよ?どうせ見切れないと分かってる足技を出すのは可哀相かなーと思ってわざわざ手技に切り替えたのに、まさかこんな風に怒られるなんて……私、悲しくて泣いちゃいそうだにゃー」

「うぬぬ、にゃろー、こぉんの腹黒ネコ娘!よーし、今度は武器アリで勝負するわよ!その犯罪レベルに腹立つ口が利けなくなるまでぶっ倒すわ!」

「可愛い後輩を脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目扱いとはヒドい先輩もいたもんだね全く。それがキミなりのフレンドリーさの表れだって言うなら、そうだな、私はキミを脊椎動物亜門哺乳綱イヌ目扱いする事でそれに応えようと思う。ワン子、ほれほれワン子、ここ掘れワン子」

「ぐるるるっ!」

「フゥゥゥっ!」

 放置しておくと何やらドッグファイトだかキャットファイトだか良く分からない二次的な争いが勃発しそうだったので、俺は早々に止めに入る事にした。

 未だ興奮冷めやらぬギャラリーから抜け出して、ゴール地点で火花を散らして睨み合う二人の下に歩み寄る。

「勝敗は既に決した。ネコ。俺の臣下たる者、大衆の前に恥を晒す真似は慎め」

「あ、ご主人……うん、ゴメン。気を付けるよ」

 憎まれ口の一つでも叩くかと思ったが、ねねはやけに素直に引き下がった。その後も無駄口を叩くことなく、神妙に控えて俺が口を開くのを待っている。その様子に違和感を覚えながらも、俺はねねの向かい側に佇む一子に声を掛けた。

「くく。悔しいか?川神一子。己に圧倒的に有利な舞台をお膳立てされていたにも関わらず、この有様。この結果が雄弁に物語っている――俺と貴様等2-Fを隔ち別つ、絶対的な格の差を、な」

「うぅぅ、確かに今回は負けたけど……純粋な実力勝負ならアタシだって」

「ならばその“純粋な実力勝負”とやらをセッティングしなかった時点で、貴様等は既に失敗している。軍師、直江大和と言ったか。恨むなら奴の無能を恨む事だな」

「なっ!ちょっとアンタ、大和を悪く言うのはやめなさいよね。大和はアタシのために策を練ってくれたんだから!」

「ふん。結果が全てだ。勝利を得られぬ軍師に果たして如何ほどの価値があるか、考え物だがな。まあ良かろう」

 憤慨する一子に冷たく言い捨てて、俺は無言で控えているねねに声を掛けた。

「課題点は残るが、不利な形勢を己が才覚で乗り切った事は賞賛に値する。大儀であった」

「うん。ありがとう、ご主人」

 やはり妙だ。どうにも反応がこいつらしくない。一子との決闘で頭でも打ったのではなかろうな、と割と真剣に考えていると、ねねは唐突にニコリと笑った。それは口元を歪めたニヒルで邪悪な笑いではなく、心の底から自然と浮かんできたような綺麗な微笑みだった。

 不意打ちのような笑顔に俺が思わず言葉を失っている内に、ねねはすばしっこい動作でくるりと俺に背を向けて、観客達の方を向いた。

 すぅぅ、と大きく息を吸い込み、そして小柄な体躯に不釣合いなボリュームの大声を張り上げる。

「―――私、明智ねねは、今ここに宣言するっ!織田信長が“手足”として、私は川神学園・第一学年の全てを掌握し、傘下に収め、主の前に献上してご覧に入れるとっ!異議のある者は私に挑み、力尽くで止めてみせるがいいっ!……私はあらゆる決闘を拒まず、受け入れる――川神学園の生徒諸君の挑戦を、心待ちにしているよ!」

 観衆が静まり返ったのは一瞬で、「調子乗んなよ一年生!」「オレら舐めてんじゃねーぞチビ女!」「いいぞやれやれぇっ」「いやー気骨のある新入生がいて楽しいねぇ」「ねねっ!抜け駆け!禁止!この武蔵小杉を差し置いて目立つなんて許せないわっ」などと怒声やら罵声やら囃し立てる声やら良く分からない声やら、様々な感情が野次に乗って殺到する。

 ねねは涼しい顔で平然とそれらを受け止めて、再びこちらに向き直った。ニヤニヤと笑いながら俺の顔を見て、悪戯っぽく言う。

「ご主人はホントに良い買い物をしたよ。自分でも知らなかったけど、私って、飼い主に対してはそれなりに献身的なタイプだったみたいだ。今ここに明かされる衝撃の事実!だね」

「……」

「ま、こういうのはランの役回りだろうから、今後は適当にやらせて貰うけどねー」

 気恥ずかしかったのか、ねねは少し頬を赤くして、俺から視線を逸らした。

「然様か。答は、見付けられた様だな」

「おかげさまで。猫被りは本日を以って卒業だね。うーん、何ていうか、その、我ながら他のセリフを思いつかないのが恥ずかしいくらいに月並みだけどさ。えっと」
 
 饒舌で口の軽い彼女にしては珍しく、まごつきながら言葉を紡ぐ。

 新たな従者、新たな手足、新たな家族。暗闇の旅路を共に歩む、新たな同志。

 怠惰で我侭、気紛れで自分勝手で、そして誰よりも自由奔放な嘘吐きの少女。


「これからよろしくね、ご主人」


 しかしその時、彼女が浮かべた眩しい笑顔には、嘘や偽りの気配は少しも無かった。


 かくして。明智ねねはこの日を境に、晴れて我が織田家の一員として迎え入れられた。

 
 織田信長、森谷蘭、そして明智ねね。

 
 後に思い返せば、俺の“夢”に至る果てしない道行は――――この瞬間にこそ、真の始まりを告げたと言えるのかもしれなかった。











~おまけの2-F~


「ワン子、お疲れ。残念だったね」

「あうぅ、負けちゃったぁ、Fのみんなに合わせる顔がないわ……。せっかくアタシが有利に戦えるステージを用意してくれたのに」

「何もワン子だけの責任じゃないさ。俺の策が甘かったんだ。相手が悪かったし、運も悪かった。まさかワン子と張り合えるレベルのスピードタイプが出てくるとは想定してなかった……どんな相手にも柔軟に対応出来てこその“策”なのに情けない。要反省だなこれは」

「ワン子も大和も、落ち込むのはまだ早いよ。“先鋒”が負けただけじゃ勝負は決まらないでしょ?」

「モロの言う通り。反省するのはいいけど、後悔してても始まらない。大事なのは次だよ」

「となりゃ、また例の特別対策ミーティングって奴の出番だな、ゲン。……ゲン?おーい、どうしたよ、んな所でボーっと突っ立って」

「あ、あぁ……島津か。いや、何でもねぇ……。ところで一子、身体は大丈夫なのか?あの明智って一年に貰った肩狙いの蹴り、かなり効いてたハズだ」

「う~ん、大丈夫!じゃ、ない、かも……たぶん、今日明日はちょっと使い物にならないと思う。むー、すぐにでもリベンジを申し込みたいのに、もどかしいわ」

「そうなると必然的に次に出る候補からワン子は外れるな。その辺りも含めて色々と考えないと。確かに、落ち込んでる暇は無さそうだ」

「(信長。お前は本当に……、―――ちっ、悪い癖だ。つい余計な事まで考えちまう)」











 という訳で、今回でねねのターンは終了です。
 サブタイトルの割にはネコが主役を張った割りを食ってワン子がいまいち活躍していない気はしますが、彼女の出番はまだまだありますのでここは今後に期待という事でひとつ。
 そろそろ愉快な一年生勢を動かしていけたらいいなぁと願いつつ、それでは次回の更新で。



[13860] 嘘真インタールード
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:e6325f67
Date: 2011/10/10 23:28
「やりおったか、あの愚か者めがァっ!!」

 バキリ、と手の中で漆塗りの盃が無残に砕け、その中を充たしていた芳醇な日本酒が座敷に飛び散った。

 慌てふためきながら片付けに奔走する使用人の姿には目もくれず、明智家当主・明智光安は忌々しげな表情でギリギリと歯を食い縛る。そして、激怒を無理矢理に押し殺した、唸るような低い声を傍に控える侍女に投げ掛けた。

「話は確かなのだな?あの恩知らずが明智の名を穢す醜態を晒した、というのは」

「は、はい。川神学園に潜らせた“眼”からの報告によりますと、お嬢様は御髪を自ら断たれ、決闘に際して異国の武術を用い、更に、その……庶民の如き言葉遣いをなさるようになられた、と」

「……何と言う事だ。やはりあの異人との関わりを許したのが誤りだったか、下賎な庶民などに惑わされおって……!おのれ忌々しき異人め、様子を見る等と生温い事を言わず、早々に我が領地より叩き出しておくべきであった」

 昔から時に強情で反抗的な面を見せていた故、懸念はしていたが……まさかここまで明確な形で明智の名に泥を塗るような真似を仕出かそうとは。娘の愚かな振舞いのお陰で全ての目論見は脆くも崩れ去った。光安は怒りに目を爛々と光らせて、虚空を睨み据える。

 娘、ねねが“領地”の外に当たる川神の地で学ぶ事を許したのは、当人の懇願も多少は関係しているが、最も大きな理由は――日本三大名家との縁を作る為、である。現在、不死川家の息女が生徒として、綾野小路家の長子が教師として。それぞれ川神学園に籍を置いている。入学の暁には両者との好意的な関係を築く様、ねねには言い含めてあった。特に綾野小路の長子とは前々から婚姻の話も上がっていたのだ。日本三大名家の一つと姻戚関係を築く事に成功すれば、明智家の有する権勢は過去の比ではなくなるだろう。いずれは三大名家の座を譲られるほどの家格を手に入れられるかもしれない。これ以上の好機は滅多に得られるものではなかった。

「明智の血を引く娘としての唯一の使い道すらも自ら断ちおって、救い様の無い馬鹿めが」

 そんな光安の夢想は、正しく泡沫の夢と化した訳だ。聞けば娘は大衆の見守る中で恥知らずな姿を晒し、庶民同様に振舞っていると言う。ねねに対する綾野小路家の心象は底辺にまで落ち込んだであろうし、何よりも光安自身が娘の“裏切り”を許容出来なかった。

「そもそも、あやつに仮初めとは言え“自由”などを与えた事が諸悪の根源。やはり目を離さず、手綱を取っておくべきであった。……もはや一刻たりとも野放しには出来ん。即刻退学の手続きを――」

 青筋を立てながら指示を下そうとした時、座敷に慌しく使用人が駆け込んできた。

 息を切らせ、青褪めた顔で泡を食った声を上げる。

「だ、旦那様!お客様がお越しに……!」

「客だと?この時間に然様な約束を取り付けた覚えは無い!何処の馬の骨か知らんが、早々に追い返せ!」

「し、しかし、お越しになられたのは―――」

「ほほほ、随分な言われ様じゃの。高貴なる乃公が自ら出向いたと云うに、その態は些か典雅さに欠けると思わんかの?小僧」

 聞き覚えのある飄々とした声音に光安は思わず言葉を失い、そして視界に映る人物の姿に目を剥いた。

 呆けている光安を気にも留めぬ様子で、小柄な老人がズカズカと無遠慮に座敷に上がり込む。侍女も使用人も、屋敷中の警護係も、誰一人としてその歩みを妨げようとはしない。ただ真っ直ぐに背筋を伸ばし、老人に対して万が一にも失礼に当たらぬよう、直立不動の姿勢で見送るだけだ。

「邪魔しておるぞ。乃公は待たされるのが嫌いなのでな。ほれ、さっさと盃を用意せぬか。気の利かん庶民よの」

「はははははいっ!申し訳ございませんっ!今すぐご用意致します!」

 ジロリと老人に睨まれた使用人は竦み上がり、かつてないほど機敏な動きで座敷から飛び出していった。

 その様子を無関心な調子で見送ってから、老人は光安に向き直る。

「こうして顔を会わせるのは久々かの。あの洟垂れが随分と大きくなったものじゃ、時間の流れとは速いものじゃのう」

「……これは、ご無沙汰しております、浄土翁」

 搾り出すようにして、光安はどうにか言葉を紡いだ。当惑と緊張で、まともな思考が働かない。咄嗟に言葉を返せただけ上出来と言ってもいい有様だ。

 浄土翁――不死川家先代当主、不死川浄土はそんな光安の動揺を見透かしたように意地悪い笑いを浮かべながら、やや甲高い独特の声音を上げる。

「ほほ、そう堅くなる事もあるまいて。何せ乃公は世間話の一つでも、と気紛れに立ち寄っただけなのじゃからのぉ」

「は、はぁ。世間話、でございますか」

 唐突に訪れて何を訳の判らないことを、と普段ならば居丈高に怒鳴り散らす所だが、浄土に対する光安の腰はあくまで低かった。使用人達からプライドの塊とも陰口を叩かれる光安をしてそのような態度を取らざるを得ないだけの理由が、眼前の老人の存在には間違いなく備わっていた。

「ほほ。孫娘の心の事はお主も知っておろう。つい先日、とうとうその心に友人が出来たらしくての、乃公も久方ぶりに浮かれておるのじゃよ。あの娘は昔から、不死川の名を負うが故に孤独に苦しんでおった。人の上に立つ者の高貴なる宿命とは云え、多感な年頃を独りで過ごす孫をただ見守り続けるのはやはり忍びないものだったのじゃ。故に、最近の可愛い孫娘の嬉しそうな顔を見ているだけで、老い先短い老人は幸せでの。今は少しばかりその幸せをお裾分けして回っている最中と云う訳じゃ」

「それは結構な事です。浄土翁ほどのお方を祖父に持った心様は真に恵まれておられます」

「見え透いた世辞は要らぬ、背中が痒くなるわい。……おお。そういえば今しがた偶然、思い出したのじゃがの、お主の所の娘――ねねと云ったかの。その娘の事で、心が何やら云っておったわ。はて、何と云っておったかのぅ……『此方はあやつを気に入っておるのじゃ。学園から居なくなるような事はまさかあるまいが、もし万が一然様な事になろうというならば、不死川の名に掛けて原因を叩き潰してくれる』じゃったか?ほほほ、我が孫ながら逞しく育ってくれて、乃公は嬉しさで一杯じゃよ」

「……」

 孫娘の一言を伝える為だけに、この老人は明智家を訪れたのか。光安は納得すると同時に、その言葉の意味する所に臍を噛む。昔から小賢しさだけは一人前だったあの娘が、何の保証も無く明智家に弓を引くと考えたのが間違いだったか。掌に爪が食い込む程に強く拳を握る光安を楽しげに見遣って、浄土は口を開いた。

「目に入れても痛くない孫娘の望みとあらば、乃公としては何としても叶えてやりたいのじゃよ、明智の。お主には分からぬかもしれんがの。なぁに、所詮は小娘一人。跡を継ぐ男子は居るのじゃ、もはや惜しいものではあるまい。それとも――当主の座を退いた爺の戯言などでは、お主を動かすには足りぬかの?」

 浄土の態度には相手を圧する威光も迫力も無く、あくまで飄々としている。しかし、その言葉に――光安は戦慄した。目の前の小柄な老人の言葉一つ、目配せ一つで、自分は。否、明智家はあっさりと破滅するだろう。

 日本三大名家の有する権勢とは、そういうものだ。“地元の名士”などとは存在からして格が違う。日本全土に深く根を張り巡らせ、その枝葉で覆い尽くす大樹。絶望的なまでに膨れ上がった権力及び財力と、そこから生じる政財界への冗談じみた影響力は、もはや化物と形容する他無い。

 明智家が代々、腐心の下に築き上げてきた高貴なる威信も権勢も、“不死川”を前にしては吹けば飛ぶような頼りないものに過ぎなかった。

「して、返答を聞かせて貰いたいのじゃがな、明智の。隠居の身とは言え暇ではない。高貴なる乃公は明智の若造如きの相手に、貴重な時間を取られたくないのじゃよ」

 それはまさしく、傲慢だった。圧倒的な権勢に裏打ちされた、磐石たる自信と実力の生み出す上位者の倨傲。

 数年前から既に悠々自適の隠居生活に入っているとは言え、不死川家における彼の地位は依然として強大なものだ。ありとあらゆる場所に張り巡らされたコネクションの質と量の双方においては、むしろ現当主をも遥かに凌駕するとまで噂されている。不死川の家柄は怪物的だが、この翁自身がそれにも増して化物じみた能力を有していた。

「わ、私は……」

 結局の所、不死川浄土と云う一個の怪物の問いを前に、明智光安の選ぶべき回答は只の一つしか残されない。

 いついかなる時代であれ、この世の理は弱肉強食。力はより強大な力によって容易く呑み込まれる。

―――即ち。明智ねねを縛り付けていたモノが権力だったとすれば、彼女をその束縛から解放したモノの正体もまた、権力であった。













「くふ、ふふ、ふふふふふ。私が今何を考えてるか分かるかな?ねぇラン」

「い、いえ。残念ながら……」

「それはね、この家の娘になって本気で良かったって事さっ!最高にハイって奴だよ!」

 気持ち悪いくらいにテンションを上げながら、食卓にズラリと並んだ料理皿をギラついた目で眺め回している馬鹿が約一名。

 焼き魚煮魚蒸し魚、刺身にさつま揚げ。蘭が腕を揮った魚料理の数々を前に、織田信長の従者第二号――明智ねねは大層ご満悦の様子であった。しかしまあ改めて思うが、何とも好みの分かり易い奴だ。

 現在時刻は午後七時、ボロアパートの一室、俺の部屋にて。今現在、ねねの歓迎会らしきものが無駄な賑やかさを伴って進行中である。他ならぬ彼女の歓迎会なのだから本人の部屋で行うべきだと最初は思ったのだが、残念ながらねねの部屋の記すも憚られる惨状がそれを許してはくれなかった。

 例え空き巣に荒らされたとしてもあんな風にはなるまい、という感想を万人に抱かせるであろう部屋の状況を目撃した我が従者第一号(家事担当)は、全身をわなわなと震わせて使命感に燃えていたが、ベテラン掃除人・蘭の力を以ってしても一朝一夕で片付く問題ではないとの冷静な判断の結果、掃除は先送りとなった。

 そんな余所には聞かせられない事情があって、俺の部屋が会場に選ばれた訳だ。もはや何も言うまい。

「どうぞ存分に召し上がってくださいね。今晩のパーティーはねねさんが主役なんですから」

「いや勿論存分に召し上がっちゃいますともさ。かくも私の食欲中枢を刺激して止まないお魚さんたちを目の前にお預けだなんてそんな殺生な話はないよ。ああもう前口上も時間の無駄だ、私の使命は温度と鮮度を失わない内に一片でも多くの料理を胃袋へと掻き込むコトに他ならないんだから。という訳で失礼して、いっただっきまーす!」

 言うや否や、ねねの箸が目にも留まらぬ超高速で皿と口の間の往復運動を始める。瞬く間に食事に没頭し始めた彼女を眺めながら、蘭が苦笑していた。

 やれやれだ。乾杯の音頭やら改まった挨拶やら、俺の方ではそれなりに進行に関して色々と考えていたのだが、それらの全ては奴の自重しない食欲によって哀れ闇へと葬られてしまった。

 まあ蘭の言う様に、今回の主役はあくまでねねである訳だし、奴の望む通りにさせてやればいいか。

「主。信長さまもどうぞお召し上がりください。今夜はご満足頂ける自信がありますよ!」

「うむ」

 それよりも、だ。久々の豪勢な食事に舌鼓を打つ事こそが今の俺にとっての最重要事項である。スーパーの特売品のみで作られている普段の質素な食事と違い、今晩の料理は歓迎会に相応しく高級食材の数々を用いたものだ。“黒い稲妻”の一件で相当な依頼料を懐に納められたが故の贅沢だった。貧乏生活がデフォの織田一家、このような機会は望んでもそう得られるものではない。今の内に存分に堪能しておくとしよう。俺は食卓に並んだ皿から鰹の角煮を選び、箸を伸ばす。

「いやぁやっぱり労働の後の食事って言うのは格別だね。何せ私の今日の獅子奮迅の活躍っぷりたるや、それはもう長坂坡の戦いにおける張翼徳、趙子龍にも匹敵する位だし。世が世なら五虎大将軍に任ぜられても何ら不思議はないレベルの功績だよ全く。むしゃむしゃ」

「ふん。僅差の勝利で良くもここまで威張れたものだ。面の皮の厚さだけは確かだな」

「まあまあ、信長様。あのように不利な条件を課せられた中で勝利を掴んだ功は、確かに認められて然るべきものかと存じます」

「お、良い事言うじゃないかラン。ご主人は功臣に対して相応の待遇を以って接するべきだと思うんだよね。魏文長みたいに反骨の相があるとか何とか難癖つけて冷遇しちゃうとロクな事にならないんだから。ばくばく」

「ねねさんは三国志が好きなんですか?よく喩えに使っていますけど」
 
「バイブルさ。私はかの荀文若こそが自分の前世だと本気で信じていた時期があったくらいだよ。うん、それにしてもこの鯖の大根おろし煮は素晴らしいね、言葉の壁を超えて表現するならエクセレントボーノハラーショトレヴィアンハオツィーって感じかな。おおバベルバベル」

 箸を動かし口を動かし、何とも忙しない奴だった。蘭の料理が元々高いテンションに拍車を掛けているのだろう。かくいう俺も口の中に広がる美味に先程から感動気味である。

 やはり良い素材を使えばそれだけ良い料理が出来上がるものか。ここまで見事に食材の質を引き出せるのは蘭だからこそ、という事もあるのだろうが、やはり……何が言いたいかというと、まあ、たまには心の弁当を分けて貰うのもアリかもしれない、とか何とか。

「御馳走さま~。ああ、今ここに断言するよ。私はこのまま死んでも悔いはないね」

 至福の時間が流れるのは実に早いもので、気付けば食卓には綺麗に平らげられた皿が積まれている。食事の直後にも関わらずだらしなくベッドに転がり込みながら、ねねは心底から満足そうな声を上げた。

「お粗末様です。ふふ、ダメですよ。ねねさんにはこれからしっかり働いて貰わないと困りますからね。いいですかねねさん、私たちは偉大なる主の従者の名に恥じぬよう、常に研鑽を重ね、精進を続けるという心意気を胸に務めなければならないのですよ!」

「はーいはい分かってる分かってるよー」

「む、まずはその不誠実な返事の仕方から直さないといけませんね。大体、ねねさんはちょっと自堕落過ぎます。従者たるもの――」

 ねねに向けて何やら先輩風を吹かせている蘭の姿がどうにも新鮮だった。同じ屋根の下で暮らす以上、変に距離を置かれるよりは良いのかもしれないが、しかしまた妙な事になりそうだ。

 蘭にとって親しいと呼べる人間は今のところ忠勝だけだったので、ねねという従者仲間といかなる関係を築いていくのか興味深い。

 その関係は、或いは――蘭の抱える歪みを解消する為のキーとなるかもしれない。二人の喧しい遣り取りを眺めながら、俺はそんな思考を巡らせていた。

 所詮は儚い希望なのかもしれない。しかし、期待する事くらいは許されてもいい筈だ。

「あれ?誰か来たみたいです。えっと、この“気”は……」

 完全に聞き流されている事にも気付かず延々と説教を続けていた蘭がふと首を傾げ、そしてパァッと表情を輝かせた。その嬉しそうな顔を見た時点で、俺は来客の正体を悟っていた。何ともまあ分かり易い事だ。俺が目で促すと、蘭はパタパタと玄関に駆け寄って、ノックの音を待たずに勢いよくドアを押し開く。

「うおっと!危ねぇな。ったく、気が早いんだよ、蘭」

「えへへ、ごめんなさい。いらっしゃい、タッちゃん!」

「ああ。ま、今度からは気を付けろよ。二階から叩き落されたら怪我じゃ済まねぇからな」

 相変わらずの仏頂面でドアの前に佇むのは、つい昨日辺りから自分とは敵対関係にあるらしい十年来の親友である。忠勝は玄関から部屋の中を見遣って、ねねと俺を順繰りに見てから口を開いた。

「連絡もなしに急に来ちまって悪いな。立て込んでるようなら今日の所は帰るが」

「ん?んん~?」

 ねねは胡乱げな目でジロジロと忠勝の顔を覗き込んで、何かを思い出そうとするように小首を傾げる。

「キミ、どっかで見た顔だと思ったら、……ま、いっか。ご主人、私のことは気にしなくていいよ。美味しいお魚さんをたらふく食べられて満足したし、歓迎会は十分さ。あとはむしろ自分の部屋でゴロゴロしてたいかなー」

 何だか私がここに居るのは場違いな気がするし、と拗ねたように口を尖らせる。

「と云う訳だ。遠慮は不要、入るがいい」

「そうかよ、それじゃあ邪魔させて貰う」

「その一方、邪魔しちゃ悪いから大人しく引っ込む私は本当に奥ゆかしくて慎ましやかで、まさしく大和撫子の理想型だね。そんな訳でごゆっくり~」

 妄言を吐きながらそそくさと部屋を出て行ったねねと入れ替わるようにして、忠勝は晩餐の名残、空き皿の並ぶ食卓の前に陣取った。

 そして、慌ててそれらを片付けようとする蘭を手で制し、真面目な顔で言う。

「悪いが蘭は席を外してくれ。こいつと二人で話がしたい」

「え~、そ、そんなぁ。私、学校じゃタッちゃんといつも通りにお喋りできなくて寂しかったんですよ!」

 忠勝は2-Fの一員であり、そして織田信長と表立って事を構えている面子の一人である。森谷蘭は織田信長の懐刀。互いの立場を考えればフレンドリーに接する事など出来る訳もなく、学校では他人のフリをして半ば無視しているのが現状だ。無愛想ながらも優しい幼馴染に懐いている蘭にしてみれば不本意な状況だろう。

 ぷくーっと頬を膨らませて拗ねたように文句を言う蘭に、俺は淡々と言葉を投げ掛けた。

「蘭。客の頼みが聞けぬと申すか」

「っ!は、ははーっ!申し訳御座いません信長さまっ!蘭が愚かでありました。私情を差し挟んで主を煩わせた事、どうかお許し下さい!」

 ちらり、と横目で忠勝の表情を窺う。明確な感情を表には見せなかったが、間違いなく僅かに眉根を寄せたのを見逃す事はなかった。

「許す。忠勝の所用が片付くまでの間、ネコの奴に従者の心得でも説いてやると良かろう」

「ははっ、蘭は了解致しました!私の全霊を以ってねねさんを更正させてご覧に入れます!タッちゃん、また後でお話しましょうね、約束ですよ!」

 返事も待たずに部屋の外へと飛び出していく蘭を見送って、忠勝は溜息を一つ零した。憂いを多分に含んだ、重苦しい溜息だった。

「相変わらずだな……あいつは」

「誠に残念ながら、な。俺も色々と対処を考えちゃいるんだがね……。まあいい、この時期にわざわざ足を伸ばしたんだ、何か用件があるんだろう?早く本題に入ろうじゃないか忠勝。あまり待たせると蘭の奴にまた文句を言われるぞ」

 忠勝の向かい側、ベッドの縁に腰掛けながら、俺は殊更に軽い調子で問い掛ける。普段から殺伐とした世界で生きている分、この幼馴染と話す時くらいは重苦しい空気を取っ払いたかった。

 しかし残念ながらそんな俺の思惑は叶わなかったようで、忠勝は依然として気難しい顔のまま口を開く。

「用件か。色々とあるが……取り敢えず一つ聞かせろ。――あの一年生のことだ」








 源忠勝と織田信長の付き合いは長い。

 未熟で無力な子供だった頃に出会い、衝突と和解を経て友となり、やがて唯一無二の親友となった。成長に伴って信長が従者と共に血生臭い闘争に明け暮れ、その結果として堀之外の街で絶対的な権力を握るようになった現在に至るまで、その関係に何ら変化は無い。

 何れかが悩めば黙って耳を傾け、何れかが躓けば無言の内に手を貸す。二人は常に背中を預け合って、腐った街を生き抜いてきた。

 化物じみた実力と悪魔の如き冷徹さを持つ男として人々に恐れられる信長は、しかし紛れもなく血の通った一個の人間であると、忠勝は知っている。常に心を押し殺して仮面を被っている事も、かつて力を得る為に文字通り血反吐を吐いて異常な密度の修行に明け暮れていた事も。馬鹿げた夢を追い求める事に人生の大部分を費やし、人知れず足掻き続けている事を、誰よりも良く知っている。

 その姿は自身が想いを寄せる少女と被って見えて、だからこそ放っておけなかった。もっとも、目を離すと何を仕出かすか分からない、という悪い意味でも放置は出来なかったのだが。

 信長は何かにつけて思考を巡らせている割に、その行動に関しては無茶無謀としか思えないものが多かった。何かしら隠し事をしているのか、行動の意味そのものが理解出来ない場合も多々ある。傍で見ている忠勝はその度に困惑させられてきたものだ。

―――そしてそれは、現在も同じだった。

 この型破りな幼馴染が何を考えているのか、忠勝には分からない。

 いっそ理解を放棄してしまえば楽になるのかもしれない、と思うこともある。長年を共に過ごした忠勝の目から見ても、織田信長という男はその在り方の根底に歪みを抱える異端者だ。裏社会に片足を突っ込んでいるとは言え、所詮は一般的な感性の持ち主でしかない自分とは、真の意味で意識を共有する事など不可能な話なのかもしれない――そんな風に弱気になり掛けている自分を発見する度に、忠勝は自身の不甲斐なさを叱咤して、黙々と彼の拠点であるボロアパートに足を運び、顔を出した。

――あの大馬鹿野郎の相手なんざ、オレ以外の誰に務まるってんだ?

 世界に嘘を吐き散らして生きている幼馴染の内心は、決して理解される事はない。誰も理解しようとはしないし、他ならぬ信長自身も理解を望まないだろう。ならばその周囲に一人くらい、どれだけ突き放されようとも懲りずに理解を試みるお節介焼きが居てもいい筈である。

 “親友”とはきっと、そういうものだ。

「あの一年生のこと?はてさて、いまいち質問の意味が判然としないな。即ちそれでは俺としても答え様もない」

 だから、こんな風に何食わぬ顔で白を切る信長を眼光鋭く問い詰めるのは、忠勝にとって別段珍しいイベントという訳でもないのであった。

「まさかそれで誤魔化せるとは思ってねぇだろ。面倒くせぇ、いいからさっさと話せボケ」

「おお怖い怖い、言葉の暴力は止して欲しいもんだ。やれやれ、それで、何が聞きたい?ちなみに名前は明智音子、年齢は十六歳、身長は百四十八センチ、体重及びスリーサイズは未確認だ。或いは主君権限を用いれば訊き出せるかもしれないが、それが原因で後の裏切りフラグが立つのは御免だから勘弁してくれ」

「……」

 忠勝は無言で目を細めた。この男がこんな風に饒舌になるのは、決まって腹に一物抱えている時だ。相手を煙に巻くための話術なのかもしれないが、忠勝にとってはその態とらしい態度こそが疑惑を決定付ける証拠に他ならなかった。

「アホか。んな事はどうでもいい、オレが聞きてぇのはもっと大事な事だ」

「おやおや。スリーサイズよりも大事な情報ときたか……はてさて、何だろうな。それ以上の個人情報を漏らすのは流石のタツが相手でも気が引けるんだが」

「あの明智とかいう一年生は――てめぇにとって“何”なんだ、信長」

 面倒な前置きと駆け引きを切り捨てるように、鋭く問い掛ける。

 それこそが本題。忠勝がここを訪れた理由だった。

 織田信長の従者を名乗る少女、川神学園1-S所属、明智ねね。彼女の登場は、忠勝にとって少なからず衝撃的な出来事だった。つい先程、このアパートで姿を確認した事で、彼女の名乗りが騙りではなく真実であると忠勝は悟り、そして胸中に渦巻く困惑は更に濃度を増す。

 何故何故何故、と答えの出ない自問自答を繰り返すよりは、その答えを握る男を吐かせる方が話は早い。

「くく、例によって抽象的に過ぎる質問だな。然様に曖昧模糊な質問に対して明確な返答を要求するなんて、タツの無茶振りにも磨きが掛ってきたらしい」

「はっ。だったら分かり易く、一つずつ聞いてやるよ。まず、いつ何処でアレを拾ったのか、だ」

「一つと前置きしておきながら早速二つも聞いてくるとは。相変わらず素敵だ、イイ幼馴染を持ったもんだな全く。あー、情報は川神全体に出回ってるから多分察しは付いてると思うが、ねねは例の“黒い稲妻”のリーダーをやってた奴でね。マロードやら板垣の連中やらとのバカ騒ぎのドサクサに紛れて俺の家に転がり込んできた訳だ」

「それで、新しい従者として迎え入れたのか?今まで蘭と二人でやってきたってのに、どういう風の吹き回しだ」

「俺にも色々と思う所があったんだよ。それに何より、ねねは蘭の奴が納得して受け入れた初めての人間だ。その事実がどれ程の重さを持つか。お前なら分かるだろう、タツ」

 真剣な顔で同意を求める信長に対して、忠勝は重々しい頷きを返さざるを得なかった。

「そうか。……蘭が、な」

 森谷蘭。彼女は織田信長の懐刀であると同時に、忠勝にとって掛け替えのない幼馴染の一人だ。真面目で潔癖で、その割におっちょこちょいで間抜けな少女。

 彼女は常に忠実な従者として信長の傍に付き添っていた。さながら影法師の如く、信長の行く先には必ず蘭の姿があった。忠勝が孤児院を出てからこの川神の地で過ごした十年余りにおいて、二人が距離を置いている所など一度も見た試しがない。幼い頃から起居を共にし、片時も離れず同じ学校に通う二人は、その外面だけを見ればもはや家族と呼んでも何ら差し支えはないだろう。

――だが、実際の彼らの関係はどうしようもなく“主従”だった。信長が主君で、蘭が従者。それは二人を繋ぐ全てにおける大前提で、決して覆らない絶対のルール。

 その歪な関係のルーツを忠勝は詳細に把握している訳ではない。

 ただ、かつて堀之外の一角を血に染めた、あの凄惨極まりない事件が全ての発端であることは間違いなかった。残酷な運命が森谷蘭という少女の心を粉々に砕き、そして織田信長という少年がその破片を拾い集めた結果こそが、現在に至るまで続く奇怪な主従関係の始まり――だがしかし、忠勝が知っているのはそこまでだ。

 今でも鮮明に思い出せる。自身の目の届かない所で理不尽に大事なモノを失う、悔恨と恐怖と絶望を綯交ぜにした感覚。二度と味わいたくない、悪夢の如き体験だった。

 そう、気付けば全ては終わっていた。幼馴染の少女は見る影もなく壊れ、幼馴染の少年は少女を壊した世界への復讐を誓う。

 そして忠勝は、突如として変わってしまった二人を前に、呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。

 惨劇の跡、赤い血の海が広がる中で、呆然と。

「一度壊れちまったものはいつまでも元には戻らねぇ、と半ば諦めてたが……思えばそれも馬鹿な話だ。人間は皆、変わるもんだってのに」

 蘭は礼儀の正しさに加えて愛想も良く、一見して周囲に向けて友好的な雰囲気を醸し出してこそいるが、その内に抱える本質は酷く排他的なものだ。“あの日”に全てを失って以来、彼女の目に映る世界は幼馴染三人の狭い輪――ともすれば主従二人の中だけで完結している。そして、そこに異物が入り込む事を強く毛嫌いしていた。決して口には出さずとも、織田信長の従者は自分一人で十分だと、その態度は雄弁に語っていた。

「あいつが何を考えているのか、正直に言って俺には分からない。何年も一緒に暮らしておいて、情けない話だがな。――ただ一つ言えるのは、蘭の中で確実に何かが変わり始めているという事だ。あいつは最近、長年の停滞から抜け出して、再び新しい時を刻もうとしているように思える。俺とお前が待ち望んだ、変化の可能性を見せているんだ。だったら、俺の成すべきは語るまでもなく、その可能性を後押しする事に他ならない。そういう訳で、ねねをこの家に引き入れるのは俺にとって当然の選択だった」
 
 忠勝に語り掛ける信長の声音は深刻な響きを帯びていた。そこに普段の戯言めいた雰囲気は無い。

 それも当然だ。信長は誰よりも長い時間を蘭という少女の傍で過ごし、その直視に耐えない歪みと正面から向き合い続けてきた。心が壊れてしまった幼馴染の姿を間近で見せつけられるのは、果たして如何ほどの苦痛だったか。彼女の事を最も深く慮り、憂いていたのが信長以外の何者だと言うのだろう。

「成程な。“理由”と“目的”は納得できた。……だがな、俺が本当に訊きたいのはそこじゃねぇ」

 忠勝は視線を険しくして、信長を睨んだ。この男が目的の為ならば時に手段を選ばない事は、良く知っている。

「てめぇ――どうやって、あの一年生を“手懐けた”?」

 その鋭い問い掛けに対する信長の返答は、笑顔だった。ニタリと口元を歪めた、邪悪な表情。

「くく、くくく、手懐けた、とは何とも手酷い表現じゃないかタツ。主従の美しい信頼関係に対してそんな表現は無粋と言わざるを得ないな」

「……オレはな、代行業を通じて色々な連中を見てきた。見たくもねぇもんも含めて色々、な。仕事柄、人間観察がほとんど癖みてぇになってんだよ。だからこそ気付けたが、あの一年がてめぇを見る目は、普通じゃねぇ。間違っても出逢って三日やそこらの人間に向けるようなもんじゃねぇんだよ」

 一子との決闘を終えた後、信長に語り掛ける小柄な少女の満面の笑みを目にした時、忠勝の胸を充たしたのは心温まる感情……などではなく、むしろ悪寒にも似た厭な感覚だった。

 一体、僅か数日の関わり合いの中で何をどうすれば、あれほど深い信頼に満ちた瞳を向けられるようになるのだろうか。まるで家族に向けるような、純粋な好意と、強固な仲間意識。本来ならば数年間の歳月を通じて積み上げるような信頼関係が、信長と少女の間では既に完成しているように映った。

 奇跡と呼ぶにはあまりにも空恐ろしく、薄ら寒い。それはむしろ――“異常”と、そう形容すべきだろう。

「狂信、とまでは言わねぇ。精々が軽い依存って所だろうな。だがてめぇらが関わった期間を考えれば、それですら十分に異常だ。……オレが何を言いてぇのか分かるだろ」

「嫌だなタツ、その言い方じゃまるで俺がねねを洗脳したみたいに聞こえるじゃないか。俺にそんな悪趣味なスキルはないし、そこまで外道じゃないさ」

 疑わしげな眼差しを向けると、信長は不意に笑みを消した。

「タツは真っ直ぐだからいまいち想像し難いかもしれないが、嘘吐きってのは総じて孤独なものなんだよ。まあ俺の場合は望んで“織田信長”を演じている訳だから、そもそもにして自業自得なんだがな。――幸いにして俺にはお前たちがいた。狼少年を信じる奇特な連中のお陰で、有難い事に俺は独りじゃあなかった」

 何かを懐かしむように遠くを見つめながら、信長は言葉を続ける。

「しかし、あいつは、ねねは心を許せる相手が正しく一人もいなかったのさ。明智家のお嬢様として生まれ、何不自由ない暮らしをしておきながら、行き着く先が俺みたいな掃き溜め出身者と大差ないってのは中々笑える話だな。……俺とねねは同類だ。寂しい嘘吐き同士のシンパシーって奴かね、俺はあいつが欲して止まないものを知っていたのさ」

「話が見えてきたな。要するにてめぇは、あの一年の心の隙に付け込んで言葉巧みに誑かしたって訳だ」

「その通り。ああ全く以てその通りだな。で?何か問題でもあるのか?」

 悪びれた様子のまるで無い、無邪気な笑顔で問い掛ける。しかし、忠勝を見返す信長の目は少しも笑っていなかった。

 醒め切った冷たい光を宿した双眸が、逃れられぬ圧力を伴って忠勝を射抜いた。

「俺は“手足”が欲しい。あいつは“家族”が欲しい。この一件で、俺達はお互いに欲するものを過不足なく手に入れた。俺は夢へ向かう為に必要不可欠な従者を得て、そしてあいつはこれ以上嘘を吐かずに生きられる居場所を得た。疲弊し切って今にも折れそうだったあいつの心は、紛れもなく救われたんだ。例え俺が投げ掛けた言葉が何から何まで嘘で塗り固められたものであったとしても、その事実は不動のもの。――いいかタツ、俺は、自分のやり方が間違っているとは思わない」

「……」

 有無を言わせぬ語調に、忠勝は沈黙を選ばざるを得なかった。

 信長はギラギラと狂気じみた光を目に宿しながら、熱を帯びた言葉を続ける。

「清く正しい綺麗事だけじゃあどうあっても救えない連中ってのは、何処にでもいる。――正義の味方は蘭の奴を救っちゃくれなかった。俺も板垣の奴らもそうだ、結局は自分の力だけを頼りに生き抜いてきた。騙して脅して殴って斬って、そうやって初めて人間らしい居場所を手に入れられたんだ。正しい行為が必ず正しい結果を生むなんてのは幻想に過ぎない。世界ってのは“そういうもの”だと、俺は嫌と言うほど思い知らされてきた。だから俺は、手段が幾ら汚くとも、結果として目的を達成する事が出来るならば、それは尊ぶべき正解だと考えている。今回の件にしても、俺は理想的な形で目的を果たした事に、これ以上なく満足してるよ。――後悔なんて、ある訳ない」

 一切の迷いや躊躇いを見せることなく、信長は断言する。

 それは、どうしようもなく常人から外れた思考の発露だった。親友に対して忠勝が常日頃から感じている価値観の“食い違い”は気の所為などではない。

 やはり、織田信長という男の精神は、異質だ。

 分かってはいた。あの日、あまりにも荒唐無稽な“夢”を語る姿を目にした瞬間、忠勝は悟ったのだ。この幼馴染は自分とは全く違う方向、違う景色を見ているのだと。

(それでも、オレは……)

 咄嗟に言葉が浮かばず、黙り込んだ忠勝を見て、信長は我に返ったように目を見開いた。

「――なーんてな。くく、これじゃただの逆ギレだ。ま、それっぽい言い訳としてはなかなか上出来だっただろう?」

 呼吸同然の容易さで嘘を吐く信長らしくもない、お粗末な誤魔化し方だった。

 部屋に沈滞する重苦しい空気を無理矢理に払おうとするように、信長は殊更に軽薄な調子で言葉を続ける。

「あー、小難しい話を持ち出す必要なんざ無かったな。いちいち大袈裟に喋りたがるのは俺の悪い癖だよ全く。要するに俺はねねという優良物件を何としても逃がしたくなかった訳で、多少の嘘偽りやら思考誘導やらは已む無しって言うか、まあぶっちゃけそんな感じだ。俺も必死だったんだから、些細な悪事には目を瞑ってくれると嬉しかったり?ほら、親友補正とかその辺で」

 無言のまま静かに瞼を閉ざして、忠勝は小さく息を吐き出した。

 年を経るにつれて自身の理解の及ばない領域に踏み込んでいく親友に対し、自分はどうすべきか。どうしたいのか。

 このまま詰問と糾弾を積み重ねて、それで何かが変わるのか?

(……ここで焦っても仕方ねぇ)

 思考の末に忠勝が選んだのは、保留だった。いかなる答えを出すにせよ、結論を急ぐべきではない。

 ただ、信長が本当の意味で道を踏み外し、正真正銘の外道に堕ちるようなら――何としても自らの手で止める。その覚悟だけは決めておこう。

 目を開く。ベッドに腰掛けてこちらを見つめる幼馴染に、いつも通りの悪態を吐いた。

「ちっ、相変わらずの悪党だな。洗脳まがいのやり口が些細とは恐れ入るぜ」

「だからそんな大層なもんじゃないと言っておろうに。統計上、しつこい男は嫌われるらしいぞ」

「はっ。てめぇに嫌われた所で痛くも痒くもねぇな」

「統計上、と言っただろう?くく、愛しの一子ちゃんに嫌われても同じことが言えるかな」

「うぜぇぞボケ!ったく、蘭の奴もやってくれるぜ。余計な奴に余計な事を漏らしやがって」

「いやぁ、俺にしてみればアレは渾身のファインプレーだったな。親愛なるタッちゃんの恋路とあらば全力で応援するのが筋だと言うのに、危うく気付かずに終わる所だった」

「余計なお世話もいい所だ。てめぇの応援なんざ願い下げだっての」

「そうつれない事を言うものじゃないぞ、タツ。ピンチに颯爽と駆け付けるヒーロー――そんな美味し過ぎるシーンを何度も演出してやったのを忘れたのか?アレで川神一子のお前に対する好感度は鰻昇り間違いなしだ。くくく、ラブネゴシエイターと呼んでくれて構わんよ」

「ベッドの上だからって寝言吐いてんじゃねぇぞボケが。彼女の一人もいねぇ分際で何様のつもりだ、そのザマで人の面倒見ようなんざ百年早ぇんだよ」

「ぐ、正論は耳に痛過ぎる……!統計上、正論ばかり吐く男は嫌われるのだよタツ」

「はっ、随分とてめぇに都合の良い統計があったもんだ」

 罵倒混じりの軽口を叩き合いながら、狂い掛けた距離感を測り直す。互いを傷付けない最適の距離を探る。

 それは、自分達が現在に至るまで何度も繰り返してきた儀式。危うい所で保たれている均衡を崩さない為には、絶対的に必要な行為だった。

 そのまま中身のない雑談に興じること数分、二人の間に漂う空気は普段の平穏を取り戻した。

 少なくとも、表向きは。今はまだ、それでいい。

「そういや、てめぇらがウチのクラス……2-Fに喧嘩売ったのはどういう訳だ?太師校時代と同じ事はしねぇと前に言ってた筈だろうが」

「さて、俺の主観によると喧嘩を売ってきたのはそっちの“風間ファミリー”なんだがな。織田信長は売られた喧嘩を買わずにはいられない困った奴だから、まあ現在の状況は所謂避け様の無い事態って奴だ。侵略の為の侵略ではなく、あくまで防衛の為の侵略なのさ。タツもそれが分かってるから、わざわざ自分からこの一件に関わってきたんだろう?」

「ああ。てめぇも2-Fの連中も、放っておくと無駄に面倒事を起こしそうだからな。目付役が必要だろ」

「やれやれ、信用が無いな。言われなくても俺の方から騒ぎを拡大する気はないってのに。学園側に介入されると少しばかり面倒だからな。川神院の怪物共を敵に回す気はないさ。今回、俺自身が動いていないのがその証拠だ」

「……だろうな」
 
 本人の言う通り、信長が本気で2-Fを潰しに掛っている訳ではない事は分かっていた。そのように捉えるには、信長の一連の行動は色々な意味で消極的に過ぎる。

 今回の場合、忠勝が懸念しているのはむしろ、2-F及び、その面々を代表する風間ファミリーの動向の方だった。忠勝とは違って裏社会に直接的な関わりを持たない彼らは、織田信長という男の危険性をいまいち実感出来ていない節がある。彼らの中で相応の危機感を覚えているのは、信長に関する情報収集を担当した直江大和くらいのものだろう。

 故に、彼らが信長に対し“致命的な刺激”を与えかねない行動を取る前に、誰かがそれを抑えなければならない。校内のイベントには基本的に無関心を貫き、孤高の一匹狼として知られる忠勝が今回の騒動に自ら参加した背景には、そういった思惑があった。

「それなりに骨があるとは言え、“裏”の暴力とは無縁だった連中だ。――間違っても妙な真似はするんじゃねぇぞ、信長」

「くく。やはり想い人は心配か?まあ安心するといい、今日のねねとの決闘で彼女が負ったダメージはそれなりに大きい。俺の見立てじゃあ二・三日の間は戦線復帰出来ないだろうな。つまり、俺達と2-Fとの小さな戦争における彼女の出番はこれで終わりって事だ。これから俺が何をしようが、リタイアした相手にまで害が及ぶ事はないさ。どうだタツ、安心したろう、んん?」

 腹立たしいニヤニヤ顔を殴り飛ばしたくなる衝動をどうにか抑える。ある程度は忠勝の本音を突いているだけに、アホかボケ、と一刀両断に切り捨てることも出来ない。結局、忠勝は吐き捨てるように舌打ちした。

「ちっ、ウゼェ野郎だ。その余裕面がいつまで続くか見物だぜ」

「おや?何やら不穏な台詞だ、聞き捨てならないな」

「予告しといてやる。今日は僅差で負けたが――次は話が違う。明日の次鋒戦、どう足掻いてもてめぇに勝ち目はねぇ」

 水・木・金曜日の三日に渡って行う、一日一本の“三本勝負”。2-F代表チームが織田信長に対して持ちかけた勝負方法だった。

 先鋒たる一子の敗退を受けて開かれた放課後のミーティングの内容と、軍師――直江大和の言葉を思い返しながら、忠勝は揺るがぬ確信を込めた口調で言葉を続ける。

「てめぇがあの一年の他にも“手足”を用意してるってんなら話は別だが……タコじゃねぇんだ、そうポンポンと生えてくるもんでもねぇだろ。今のてめぇの持ち札じゃあ、やり合う前から勝敗は決してる」

「それはまあ何とも、随分な自信だな。しかしタツ、一応の形としては2-F側のお前が、そんな風に情報を漏らして良いのか?俺としてはそれだけの判断材料があれば、そっちが持ちかけるルールやら人選やら、色々と推測を組み立てられるんだが」

「どう足掻いても勝てねぇ、と言っただろ。それはつまり、タネが割れた所で結果は揺るがねぇって事だ。オレがこうして情報を漏らしても、仮に勝負方法をこのまま教えちまったとしても、な。……だから言っておくがな。明日の勝負に次鋒として蘭を出すのはやめとけ」

 忠勝の見立てでは、蘭はほぼ確実に負ける。問題は敗北そのものよりも、その結果として彼女が被るであろうダメージだった。

 フィジカルではなく、メンタル面。彼女の精神は歪故に不安定で、打たれ弱い。かつて一度壊れた心は、常人のそれに較べて遥かに脆い。主の名を背負った勝負での敗北となれば――その精神に少なくない悪影響を与える事は想像に難くなかった。幼馴染として、黙って見過ごせる事態ではない。

「くくく。わざわざのご忠告、痛み入る」

 忠勝の真剣な注進に対し、しかし信長は口元に手を当てて、笑いを堪えるような顔で答えた。

「しかしまあ、言っちゃあ何だが、余計な心配だ。――俺達は負けないさ。そちらさんがどれほど素晴らしい策を用意していようが、織田信長に敗北の二文字は有り得ない」

 それは、心底からの確信に満ちた言葉だった。その声音からは虚勢の色はまるで窺えない。

 いっそ奇異と言う他ないほど自信溢れる宣言に、忠勝は数瞬、返すべき言葉を失った。

「……それは、あいつらを甘く見過ぎだ。てめぇから見れば笑っちまうほど温い奴らかもしれねぇが、ザコとは違うぞ」

「ん?ああ、誤解して貰っちゃ困るが、俺は別に2-Fを、ひいては風間ファミリーの面々を舐めてる訳じゃない。むしろ彼らに関しては、何の背景もない学生グループとは到底思えない能力の持ち主だと感嘆してるくらいだ。単純なポテンシャルで言えばS組のエリート共とも張り合えるかもしれないな。だがしかし、そういう問題じゃないのさ、タツ。そういう問題じゃない。勝者と敗者を隔てるのはそんな下らない事柄じゃあない。そうだな、極端に言えば――織田信長が勝負の申し込みを受諾した段階で、既に大勢は決していた」

「……」

 信長は淡々と言い切ってから、不意にニヤリとからかうような笑みを浮かべた。

「そんな深刻に思い悩みなさんな、タツよ。くく、気にする事は無い。所詮はいつもの大法螺だ、と思ってくれて結構」

 笑顔と言う名のポーカーフェイスに遮られて、その真意は見えない。

 本当に面倒な野郎だ、と毒づく忠勝の内心に気付いているのかいないのか、信長は飄々と話題を切り替えた。

「――ところで話はガラリと変わるが、校内でのねねの評判はどうだ?本人からの報告は受けたんだが、あいつの自己申告は誇張だらけでどうも信用出来ないんでね。第三者の意見を聞いておきたい」

「……評判、か。そう言えば、午後はあの一年の噂で持ち切りだったな」

 校内屈指の実力者として有名な一子を相手に、勝利を収めた無名の一年生。圧倒的に不利なステージで戦いに臨み、一度はボロボロになるまで追い詰められながらも、観客の予想を裏切っての見事な逆転劇――話題性は十分だった。噂になるのも当然の話だ。

 “手足”の一本ですらもこの実力ならば、その上に君臨する織田信長という男はどれ程図抜けた力の持ち主なのか、と生徒達は囁き合う。忠勝が記憶に残る校内の様子を口に出すと、信長は愉快げに口元を吊り上げた。

「くく、ネームバリューってのは偉大だとつくづく思うね。川神一子の実力が確かであればあるほど、校内に遍く知れ渡っていればいるほど、それを打倒してみせた明智ねねの評価は高くなる。そして従者の評価はそのまま、主への評価に転じるものだ。いやぁ、あいつは本当に良い仕事をしてくれたよ。調子に乗りそうだから本人には言わないが」

「随分と敵も作ったようだがな。何をやらかすか分からねぇって意味じゃ、いかにもてめぇの従者らしい一年坊だ」

『川神学園の生徒諸君の挑戦を、心待ちにしているよ!』

 決闘の後に彼女がギャラリーに向けて言い放った、一年生全体に対する不敵な宣戦布告もまた、大きな波紋を呼んでいた。

 上級生の大半は面白半分に見守っているが、真正面から喧嘩を売られた一年生達にとっては笑い事ではない。元より血気盛んな競争好きの多い川神学園、生徒達が黙っている訳もなかった。一子との決闘直後で消耗している今こそ好機、とばかりに勝負を吹っ掛けた輩もいるらしい。もっとも、卑怯者だの恥知らずだのと無駄に豊富な語彙を交えた舌鋒で散々に罵られて周囲の冷たい視線を浴びた挙句、結局は鼻歌交じりに叩きのめされたとの事だが。

 その一件で二の足を踏んだのか、今日のところは次なる挑戦者が現れる事はなかったが、まず間違いなく明日以降もこの騒動は続くだろう。決闘の度に呼び出される羽目になるであろう学長が少し気の毒に思える忠勝だった。

「ったく、学校の中でくらい平和に過ごさせて欲しいもんだ。あの件もどうせてめぇの差し金だろうが」

「心外だな、アレはあいつのアドリブだよ。まあ確かに今後の動きを見越した場合、“この展開”は間違いなく必要だし、俺も同じような事を考えてはいたんだが……どうも我が従者第二号は何事も派手にやるのが好みらしい。退屈は心を腐らせる毒、だったか?くく、何とも扱いに困る従者を持ったもんだ」

 新たな従者について語る信長は、終始どこか楽しそうな調子だった。

 その様子を見る限り、どうやら明智ねねという少女を随分と気に入っているらしい。珍しい事もあるもんだ、と忠勝は意外に思う。

 本人が意識しているのかは判らないが、信長は他者を駒として見る節がある。今回のように“個人”に興味を示す事は稀だった。

 内心の驚きが表情に出ていたのか、信長は頭を掻きながら苦笑する。

「んー、どうもらしくないな。気付けば贔屓目に見てしまう自分が居る。同類相憐れむって奴かね……やけに気に掛かるんだよ。我ながら度し難い感情だな」

「……」

 それはよもや――俗に言う恋という奴では、と喉元まで出掛かった言葉を慌てて飲み下す。

(いやいや、それはねぇだろ)

 基本的に自らの夢に関わる事にしか興味を抱かないこの幼馴染に、色恋事ほど似合わないものはない。

 人の恋愛沙汰には興味津々だが、いざ自分の事となると異常に淡白な男だ。今更になって恋だの愛だの、そんな浮ついた言葉が出てくる訳が……いや、これが初恋だとすれば辻褄が合わない事もない、のだろうか?

「……」

「ん?どうしたタツ、この涼しいのに汗なんざ垂らして。気分でも悪いのか?」

「……いや、何でもねぇ。気にすんな」

 激しい葛藤の末に、忠勝はこの件についての一切合財を頭から追い払う事に決めた。

 君子危うきに近寄らず。藪を突いて蛇を出すのは、御免だった。






 


「今日の今日まで耐えてきましたが、もう我慢の限界です!さぁさぁねねさん、いざ出陣ですよ!敵は多勢ですが、死力を尽くせば必ず駆逐できる筈。今こそ、今こそ部屋の片付けを始めますよ~!」

「ああもう煩いなぁ、人の部屋で騒がないでよね。私は御馳走をたっぷり食べた後で猛烈に動きたくないの。大体さー、食後の有酸素運動は消化不良を誘発するからダメだって教わらなかったのかな?常識だよ常識。英語で言うとコモンセンス」

「う、うぅ、だからって、食べた後にそんな風に寝転がってると牛さんになっちゃうんですよ!」

「あはは、キミは実に馬鹿だな。躾の為の方便をその年で真に受けてるなんて笑っちゃうね。食後に身体を休めるのは消化の手助けになるんだよ。親が死んでも食休み、って言うじゃないか。証明終了、完全論破!だから私はここから動かないし掃除もしないよ~ん」

「うぅ、うううう!うー!」

「何かな?生憎と私は日独英以外の言語は専門外なんだ、その謎言語で意思疎通がしたいならせめてバウリンガルとかを用意してから喋ってよね」
 
「う、うぅ、うぅ。信長さま、蘭は駄目な従者です……ねねさんを更正させるという大命、蘭にはとても果たせそうもありません……うぅぅ」

「ちょ、泣く事はないでしょ!ああもう仕方ないなぁ、掃除すればいいんだね?全く、竹林七賢を名乗っても文句言われないレベルで頭脳明晰な私にこんな肉体労働を課すなんて、ご主人ってばホント鬼畜だよ」

 ぶつくさと文句を垂れながら格闘すること三十分。

 足の踏み場もなかった部屋に、足の踏み場が蘇った。それはまさしく、不毛の大地に緑が芽吹くが如き奇跡。

 普通の人間には小さな一歩だが、ねねにとっては大いなる一歩だった。

 人類初の月面着陸を成し遂げた達成感を胸に、ねねは再び柔らかいベッドに身体を投げ出していた。その横で蘭は苦笑を浮かべながら作業を続けている。

「いやぁやっぱり労働の後の休息って言うのは格別だね。何せ私の掃除中の八面六臂の活躍っぷりたるや、それはもう合肥の戦いにおける張文遠にも匹敵する位だし。世が世なら魏の五将軍に任ぜられても何ら不思議はないレベルの功績だよ全く」

「えっと、まだまだ片付いてませんけど……ひとまずお疲れ様です。それにしてもねねさん、本当に三国志が好きなんですね」

「そりゃあもう。何せ私はかつて、かの賈文和が自分の前世だと信じていたくらいだからね」

「あれ?何だか前と変わってるような」

 不思議そうに首を捻る蘭は無視して、ねねはさっさと言葉を続けた。

「それにしても。それにしても、さ。ランは何も言わないよね」

「何も、って……?」

 片付けの手を止めて当惑したような表情を作る蘭を見遣りながら、ねねは間延びした声を投げ掛ける。

「分かりやすい所で言うならー、私の一人称が変わってる事とかー。それ以外にも、まぁ色々とね。私としてはいつ訊かれるかいつ訊かれるかと構えてたんだけど、なかなかキミが言い出してくれないからさー。こうして自分から切り出してるワケだよ」

「……そうですか」

 静かな言葉を切っ掛けに、すっ、と空気が入れ替わった。

 変貌。

 二度目だ、驚きはない。蘭の穏やかな目が冷たく研ぎ澄まされていく様子を冷静に観察しながら、ねねは勢い良く身体を起こした。ベッドの上に正座して、正面から目線を合わせる。

 一連の動作を見届けてから、蘭は感情を窺わせない淡々とした調子で口を開いた。

「恐らくは貴女が思っている程、私の語るべき事は多くはありません。“私”の役目は、以前の問答で殆ど終わっているようなものですから」

「成程。やっぱりアレが二次試験で、キミが試験官だったんだね。で、役目が終わってるって言うのは?」

「言葉通りの意味ですよ。貴女に関して、“私”の出る幕は最早無いでしょう――ただ、最後に。一つだけ、最終問題を出させて貰います。宜しいですか?」

「宜しくない、と凄く言いたい所だけど、話の流れからして私に拒否権は無さそうだね。なんて言うかさ、ご主人もキミもそういうパターンが好きだよねー。……ああゴメン、どうぞどうぞ。心置きなく訊いちゃってよ。質問の内容は、何となく想像ついてるし」

「――そうですか。それでは、遠慮なく」

 蘭は姿勢を正して真っ直ぐにねねの目を見つめ、僅かに微笑んだ。

 そして、問い掛ける。

「ねねさん。貴女には、大切なものがありますか?」

 自らの身を投げ打ってでも守りたいものが。或いはそれ以外の全てを失ってでも捨てたくないものが、何か一つでもありますか?

 
 明智ねねは不敵にニヤリと笑って、答えを口にした。


「私の一番大切なものは―――」











~おまけのまじこい風キャラ紹介~



「嘘吐きは泥棒の始まりだよ、ご主人」
明智 音子(あけち ねね)

身長      148センチ
3サイズ    77 52 77
血液型     B型
誕生日     2月22日 うお座
一人称     私/わたくし/ボク
あだ名     ネコ ネコ娘
武器      脚(師匠直伝の足技)
職業      織田家家臣 川神学園1-S在籍
家庭      不和 名門・明智家(織田家在住)
好きな食べ物  お魚さん
好きな飲み物  ホットミルク
趣味      食う寝る遊ぶ
特技      猫被り(演技全般)、抜き足差し足忍び足(気配遮断)
大切なもの   自分、ついでにご主人
苦手なもの   アルコール
尊敬する人   師匠

エリートクラス、1-Sに所属する謎多き小娘。
名門・明智家の出身で、性格の方も清楚かつ上品な、まさしく絵に描いたようなお嬢様……
と思いきや、入学二週間目にしてただの猫被りである事が判明した。

本性は気紛れな怠け者。いかにして楽をするか、常にそればかり考えている。
基本的に自分本位な考えの持ち主で、他人の迷惑を考慮に入れずに行動する事が多く、好き勝手な振舞いが目立つ。
自由奔放と言えば聞こえは良いが、周囲にとってはかなりの厄介者。

S組らしく文武両道を地で行く優秀さだが、その能力を正しい方向に使う事は少ない。
実力がある為にプライドも高いが、同時に狡賢く、弱い相手だけを選んで強気に出る。
「立場によって人を見下すタイプ」

謎の転入生・織田信長の従者で、使い勝手のいい手足として割と扱き使われている模様。
信長には“ネコ”とあだ名で呼ばれているが、他の人間にそう呼ばれると怒る。
主人に対して不真面目に接しては睨まれており、従者と言っても忠誠心はやや怪しい。
実家の明智家とは折り合いが悪く、その関係で織田家に居座っているようだ。

どこで覚えたのか、戦闘の際にはカポエィラの華麗な足技の数々を用いて敵を蹴り砕く。
名家の子女の心得として護身術を習得しているが、本人曰くそちらはオマケらしい。
一年生全員に向かって宣戦布告し、大量の敵を作ったが、「全員で来ても勝てる」と自信満々。

猫っぽい、と会う人会う人に言われるのを最近になって気にし始めたらしい。













 と言う訳で、今回は幕間的な話でした。後始末と説明と繋ぎと伏線と。何と言うか色々と情報が錯綜している感のある話ですが、さて何が本当なのか。まあそんな事より二万字も使って肝心の本筋がほとんど進んでいないのはどうなんだって感じですが……これも今後の為に必要な話だと思って頂ければ。

 そして今回最大の問題点、キャラ紹介。公式サイトを参照しながら悪戦苦闘して書き上げましたが、上手くそれっぽい雰囲気が出せたか非常に不安な今日この頃です。ただまあ一度はやってみたかった試みなので、書いてる時は楽しかったですね。だからと言って乱発するのはアレなので、他キャラでもやるかどうかは今のところ未定です。それでは次回の更新で。




[13860] 忠愛セレナーデ、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:577e2530
Date: 2011/04/06 14:48
「――って訳だ。決闘方法、それに場所と時間。確かに伝えたぞ」

 2-Fの伝言役として必要事項を手短に口にすると、忠勝はさっさと踵を返して2-S教室から去っていく。

 その背中を見送りながら、俺は心中で会心の笑みを浮かべた。そんな内心に引っ張られるように、表向きには酷薄な冷笑が漏れる。

「くくっ」

 時は四月十五日、木曜日。織田信長と2-Fの三本勝負も中盤に差し掛かり、来るべき次鋒戦のルールが今しがた告げられた。そして、その内容の殆どは――俺が事前に想定していたものと見事に合致しているのだ。これを笑わずにはいられまい。

 風間ファミリーの有する手札、及び昨日の緒戦の経緯と結果を考えれば、まず間違いなく“そう来る”事は読めていた。作戦担当の軍師・直江大和もこちらに読まれている事を前提としてこのルールを選んできたのだろう。

 その選択は何も間違ってはいない。むしろこれ以上なく正しい戦法だと言える。

 ただ惜しむべき点があるとすれば、それは策を仕掛けた相手が織田信長で、策を仕掛けた場所がこのステージだった事か。本当に、惜しい。

「蘭。心得ているな」

 初日に見事先鋒の任を果たしたのは第二の従者、明智ねね。そして二日目、次鋒を務めるは織田信長の懐刀にして一の従者、森谷蘭に他ならない。

「ははーっ!この森谷蘭、主の大命を必ずや果たしてご覧に入れます!」

 目の前に恭しく膝を付いて、蘭は頭を垂れた。それに対して、俺は「うむ」と簡潔な返答を与えるのみ。

 俺達の間にはそれだけで十分だった。語るべき言葉は昨日の内に交わしておいたので、後は放っておいても俺にとって最適な行動を取ってくれるだろう。

 俺の意を汲む事にかけて、蘭は他の追随を許さない。普段はどうにも間が抜けている癖に、主君の関係する事柄にだけはやたらと頭が回るのだ。

「おや、信長。その様子だと決闘の具体的な内容が決まったようですね」

 俺と蘭が自分の席に戻るなり声を掛けてきたのは、隣席に陣取る川神学園イケメン四天王が一人こと、葵冬馬である。無言で頷きを返すと、冬馬はスピーカー横に設置されている時計を見上げ、訝しげに口を開く。

「ですが、その様子ではまだ決闘を始めるつもりはなさそうですね。急がないと、昼休みの時間はそれほど残ってはいませんよ?五時間目は時間に厳しい小島先生の授業ですし、果たして決闘を許して頂けるかどうか」

「ふん。如何ほどの時を要するか予測が付かぬ故、放課後に行いたい、との事だ」

「なるほど、放課後に。しかし信長はそれで良かったんですか?常に多忙の身だと聞いていますが」

 良いか良くないかと問われれば、勿論のこと良くはなかった。多岐に渡る各種鍛錬、資金の確保、人脈の構築、足場固め。夢の実現に向けて成さねばならない事柄は無数にあるのだ、時間は幾らでも欲しい。

 しかし、それらの切実な内心を表に出すことはなく、冬馬の問いに俺はあくまで不敵な調子で言葉を返した。

「場所、時刻、方法――勝負に関する全ての決定権は2-Fの連中にくれてやっている。彼奴らが望むなら、此度に限り譲歩してくれよう。……雑魚共がこの俺に挑む以上、その程度の手心は加えてやらねば些か興に欠ける。くく、貴様等もそうは思わぬか?」

 クラスメート達を見渡し、口元を歪めながら言い放つ俺の姿は、まさしく傲岸不遜の権化の如く映るだろう。本来の俺の実力を知る人間ならば失笑モノとしか言い様のない滑稽さだが、しかしこの2-Sクラスには既に“織田信長”の圧倒的な力を知らしめてある。

 故に、俺の驕りに満ちた言葉を笑う者も咎める者も現れず、代わりに上がるのは同調の声。

「ふふ、信長が言うと本当に説得力がありますね。惚れ惚れするほど素晴らしい風格です、思わず色々な所が熱くなってしまいましたよ」

 言いながら、思わせぶりな流し目を寄越す冬馬(バイセクシャル)。一瞬で鳥肌が立った。

 反射的に殺気を放ってにらみつけてみたが、残念ながら効果はいまひとつのようだ。

 真の変態には俺の十八番ですらも通用しないとでも言うのだろうか。冗談にしてもぞっとしない話だった。

「フハハハ!流石は我が好敵手、王たる者の在り方を理解している。民衆と共に泥を被るなど断じて王の鑑にあらず!我の如く人の上に立つ者は、その英明さを以って庶民を導いてやらねばならんのだ。そうであろう、あずみよ」

「その通りでございます、英雄さま!いかなる場合でも凡夫はより優れた人間によって率いられるべきですね☆」

 ナチュラルに偉そうな九鬼英雄と忍足あずみの変人主従に続いて、不死川心が意地の悪い笑みを浮かべる。

「愚民どもが僅かな希望に縋り、無様に足掻く姿を高みから眺める。ホホホ、高貴なる此方達にのみ許される典雅な楽しみなのじゃ」

 極度の選民思想に満ち溢れた心の言葉に、反論の声は上がらない。

 むしろ逆だ。2-S教室に漂う空気は彼女に賛同の意を告げている。心のように人前で堂々と公言する事こそないが、元よりS組の生徒達は総じて自身の能力を誇り、大なり小なりF組の面々を見下していた。心や英雄は言うに及ばず、その辺りにあまり拘りの無さそうな冬馬ですらも、時折その内心が態度に透けて見えている。他には……学園一の電波娘、榊原小雪は何を考えているのかまるで判らないので今回は置いておこう。

 そうなるとF組と対等な意識で接しているS組生は、ロリハゲもとい井上準くらいのものか。他の面子と比べて選民意識が薄い準は周囲と同調し切れない様子で、今も微妙な表情で教室を見渡している。

 しかし、準という例外を除けば、2-Sを支配する思想は概ね統一されていた。

 即ち――選ばれたエリートの自分達は、他クラスの者達よりも優れた人間である、と。

 それを愚かな思い上がりと一言で切り捨てるのは簡単だが、その傲慢さには“実力”という確かな根拠がある。生まれ持った才能と環境に依る部分もあるだろう。が、決してそれだけではない。彼らの殆どは、エリートとして相応しい実力を備える為に何かしらの努力を続けている。他クラスの生徒達が呑気に浮かれ騒ぎ遊んでいる間に、S組生は絶えず厳しい競争の中で自分を磨いているのだ。その高い実力とプライドは、紛れもなく自らの手で築き上げたものだった。

 まあ、だからと言って必要以上に他者を見下すのはどうかと思うが――その気持ちは俺にも理解できる。

 自身は碌な努力もしない癖に、S組生が残した結果に対しては妬み僻みの感情を向けてくる、そんな他クラスの生徒達。結果を得る為に多くのものを犠牲にしているS組の面々にしてみればさぞかし不快な存在だろう。当然の流れとしてS組は他クラスを軽んじた態度を取るようになり、元からあった両者の溝は益々深くなっていく。そうして出来上がったのが現在の対立構造――との事だ。

 俺自身がその派閥に組み込まれるつもりはないが、“織田信長”というキャラクターが2-Sメンバーの声望を集めるには何とも都合の良い構図だった。仲間意識を芽生えさせるのに最も手っ取り早い方法は、相手もまた自分の同類なのだと思い込ませる事なのだから。

 S組は他クラスを見下している分、自クラス内での結束力は固い。ただしその絆は友情や親愛と言った類のものではなく、互いの実力を認め合っている、という好敵手としての面が強かった。故に、確かな優秀さを示す事が出来れば何の問題も無く受け入れられる。

 俺の今までの居場所の如く、“力”を恐れるあまり排斥に動こうと考えるような輩は、最初からS組には居なかった。過度に恐れられず、ただ認められる――それは、少なくとも学校という場においては初めての体験だ。勝手の違いに始めは戸惑ったものの、慣れてみれば俺にとって非常に過ごし易い環境である。
 
 冷酷非情の仮面を被ってこそいるが、俺とて木石ではない。小学中学高校と、同年代の連中から蛇蝎の如く忌み嫌われ続ける事実に対して何も感じていなかった訳ではないのだ。絶えず恐怖と暴力で抑え付けていたのでイジメに遭うような事は無かったが、人が寄り付かない事に違いはない。放課後は何処へ遊びに行こうか、と賑やかに盛り上がっている生徒達の輪を眺めていると、時には寂寞の念に駆られる事もあった。自分で選んだ生き方に後悔など欠片も無いとは言え、やはり友に囲まれた普通の学校生活を羨む気持ちは胸のどこかに在ったのだろう。

 エリートクラス・2-Sの一員として送る学校生活は断じて“普通”とは言えないかもしれないが――幼少の頃から俺の求めていた何かがようやく得られるかもしれない、と他愛ない期待の念を抱く自分がいる。

 それに何より……蘭だ。

 後ろの席に目を遣ると、従者第一号は目を瞑ってイメージトレーニングに励んでいた。薄らと汗が滲んでいる所から判断して、脳内シャドーの真っ最中らしい。想像で生み出したプロボクサーやら果ては巨大な蟷螂やらと戦ったりするアレだ。

 蘭曰く、「私のレベルでは実際に傷を負うほどの高度なシャドーは不可能です」との事である。それは逆に言えばレベル次第では可能と言う事で、世の中にアレを実現できる人間が存在するという事実に戦慄したものだ。

 しばらくしてから俺の視線に気付いたのか、蘭はハッと目を見開き、慌てて居住まいを正した。

「も、申し訳ありません!恐れ多くも主をお待たせするとは……従者にあるまじき振る舞い、平にご容赦下さい!して、何用でございましょうか、主?」

「……」

「信長さま?」

「……所用は無い。決闘にて醜態を晒す事の無きよう、存分に励むがいい」

「ははーっ!有り難きお言葉。不肖森谷蘭、身命を賭し、死力を尽くします!」

 決意の炎を瞳に宿して机の上でインスタント平伏を実行する蘭。我が従者の奇行にももはや慣れたのか、周囲の生徒達はその様子を生温い目で見守っている。

「ねートーマ、ランはどうしていつもあんな風にヘコヘコしてるの?社長さんなの?」

「ユキ、社長は別に謝罪する事が仕事という訳ではありませんよ。確かに頭を下げている姿くらいしか報道はされませんが」

「要するに森谷は毎日のように不祥事を起こしてるってことだな。良かったなユキ、その比喩で正解らしいぜ」

「おおーやっぱりかー。あはは、ランっていかにもヘマばっかしてそうな顔してるもんねー」

「うー、そんな顔してません!」

 ぷんすかと怒る蘭のどうにも迫力に欠ける姿に、教室の所々から笑いが起きる。その反応が心外だったのか、蘭はますます頬を膨らませた。
 
――“これ”がこいつの本来あるべき姿なのだろうな。

 その光景を眺めながら、俺は感慨に浸っていた。こんな風に周囲に弄られる事すら、蘭にとっては未知の経験なのだ。 

 小雪には否定されてしまったが、この人懐っこい幼馴染が友達の一人も作る事が出来ずに寂しく過ごしてきたのは、間違いなく俺の責任である。何と言い繕おうがその事実は変わらない。俺の夢に、織田信長の覇道に巻き込んでしまったが故に、あいつはいつでも孤独だった。

 もし本人が聞けば、『誤解なさらぬよう。主と私は一蓮托生です』と似合いもしない凛々しい顔で言うだろう。

 俺が居て忠勝が居て蘭が居る、そんな現状にあいつは満足してしまっている節がある。だが“昔の蘭”を知る俺は、その偏った在り方を素直に良しとする気にはなれない。自分勝手な意見であることは承知した上で、それでも俺はあいつに広い世界を見て欲しいと思っている。だから、この川神学園2-Sクラスへの転入は、蘭の閉鎖的な交友関係を変える大きな切っ掛けになるのではないかと期待していた。

 支配ではなく共存。絶対的な恐怖ではなく強固な仲間意識を以って、2-Sを掌握する。俺は色々な面から判断した結果として、その方針を固めていた。織田信長のキャラクターを考慮すれば馴れ馴れしく接する事は出来ないが、わざわざ進んでクラスメートとの関係を険悪にする気はない。郷に入れば郷に従え、である。環境が変わったなら、俺もまた柔軟に対応を変えねばなるまい。

 2-Sにおける自身の行動方針を改めて確認していると、後方の席から心が寄ってきた。その締まりのない表情を見る限り、何やら上機嫌な様子である。

「織田。お前に頼まれた例の件じゃが、確かに果たしておいたぞ。お前に言われた通りの台詞を、爺様の前でさりげなく十回ほど呟いておいたから間違いはないのじゃ」

「不死川浄土が難聴だという話は聞いた事が無いがな」

 さり気なく、と云う言葉の意味をこいつは理解しているのだろうか。俺の冷たい視線に気付いた様子もなく、心は和服の袖を口元に当てて気取った風に笑う。

「高貴なる此方に掛かればこの程度のミッションはイージーにポッシブルなのじゃ。頼みを快く引き受ける寛大な友を持った事に感謝するが良いぞ織田よ」

「ふん。そもそもにして俺がお前の頼みでF組の連中と事を構えてやっている、その事実を失念するな莫迦め。今回の件は正当な報酬だ」

「ぬ、うぬぬ……他ならぬお前の頼みゆえ、今回は此方も張り切ったのじゃぞ!そこは感涙して此方を崇め奉るのが筋と言うものであろう?」

「くく、何やら寝言が聴こえるな。昼食後に眠気が襲うのは致し方ないとは云え、然様に立ったまま眠るとは器用なものだ。それも不死川家の高貴な嗜みか?」

「誰も寝ておらんわー!」

 いちいちツッコミが喧しい奴だった。ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てる心を適当にあしらっていると、右斜め前の席の準が呆れ顔で口を挟んでくる。

「いやー信長よ、お前不死川にはホント容赦ないのな……。もしかしてアレだ、喧嘩売られた時の事をまだ根に持ってるとか?」

「……」

「んなっ、そうなのか!?う、確かにあの時はお前を認めておらんかった故、色々と無礼な事も言ったのじゃ。しかし、その非礼は既に詫びた筈じゃろう!そ、それともあの程度では足りぬと言うか?ならば改めて、此方は――」

「否。弄り甲斐がある故、つい興が乗ったまでよ」

「謝るのじゃ!誤って謝ろうとした此方に謝るのじゃ!」

 微妙に涙目になりながら怒鳴る心。やはりいちいちツッコミが喧しい奴だった。

 しかも日本語が地味にややこしい、わざとやっているのだとしたら中々侮れないな――とその計り知れぬ才能に感心していると、備え付けのスピーカーから校内放送が鳴り響いた。

『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。対戦者は1-S所属、明智音子と、同じく1-S所属、武蔵小杉。内容は――』

「あ、ねねさん……。本当にお一人で一年生を征圧する気なんですね~、凄い自信です」

 蘭が感心したような声を上げる。ねねの無駄に自信満々な性格は別に褒める点でもないと俺は思うが、控え目な蘭からすればその堂々とした態度が眩しく映るのだろう。

 しかし改めて考えてみれば、ねねは典型的なS組生としての性質を備えている。自分の実力に自信を持ち、それに比例してプライドが高い。1-S所属は伊達ではないと言う事か。

「成程。聞き覚えのある名前だと思いましたが、彼女は森谷さんと同じく信長の従者でしたね。ふふ、昨日の宣戦布告には驚かされました。なかなか面白い後輩です」

 冬馬が意味深な笑顔を浮かべながら言う。どうやらねねに対して何かしらの興味を抱いているらしい。前回、教室まで挨拶に来た際には特に反応していなかったが、一子との決闘で本性を表した姿を見て思う所があったのだろうか。

「一子殿の力量は紛れもない本物。それを破った明智とやらは疑いなく手練よ、他の一年如きでは勝負にもなるまい。わざわざ我が見物に行く価値もなかろう」

 英雄は一年生同士の決闘には興味が無い様子で、席から動こうとはしない。その姿とは対照的に、準は全身から神々しいオーラすら放ちながら静かに立ち上がった。

「当然ながら俺は行くぜ。ロリ+ブルマ、これ以上の至宝が現世に存在するか?いや無い、断じて無いね。あの穢れない太腿を拝む為ならば――俺は地獄にまでも赴いてみせる」

「このハゲ、変態の癖に凄い気迫なのじゃ……。しかし明智の小娘め、庶民に勝った事でどうも調子に乗っておるようじゃの。ここは一度、高貴なる家柄の先輩として灸を据えてやらねばなるまい。織田はどうするのじゃ?」

「一年風情の縄張り争いに興味は無い。――が、“武蔵”の名には些かばかり興味が有る。往くぞ、蘭」

「ははーっ!蘭はどこまでもお供致します!」

 という訳で、俺と蘭、冬馬と準と小雪、ついでに心の総勢六名が決闘の見物に赴く事になった。

 決闘場所たる第一グラウンドを目指し、ぞろぞろと連れ立って廊下を歩く。そして俺は、まさかこんな大所帯と一緒に行動する日が来るとは――と、ちょっとした感動を覚えるのであった。

 ちなみに隣で心が自分と似たような事を考えているような気がしたが、自分がこいつと同レベルだと思うのは癪なので気の所為という事にしておいた。












「それまで!――勝者、明智音子!!」

 朗々と響く川神鉄心の決着宣言を受けて、二人を取り巻くギャラリーが一斉に湧いた。健闘を称える拍手と声援が第一グラウンドを飛び交う。

 その中心にて、決闘を終えた両者が向かい合っていた。二本の足で確りと地面を踏みしめて立っているのは、昨日と比べて相当な余力を残して勝利を収めた我が従者第二号。

 対するは重力を無視した逞しいアホ毛がチャーミングな少女、武蔵小杉である。決め手となった強烈な回し蹴りで脚を刈られたダメージが抜けず、現在は地面に尻餅を着いている。彼女は不機嫌そうなムスッとした顔でねねを見上げて、口を開いた。

「あーあ、負けちゃったか。川神一子に勝ったのは偶然じゃなかった訳ね……。やるわね、プレミアムな武蔵一族最高の逸材と言われた、この武蔵小杉を倒すなんて」

「キミも中々だったよ。昨日、ダメージが抜けない内に挑まれてたら私も危なかったかもしれないね」

 ねねの言う通り、武蔵小杉なる後輩はかなり健闘していた。

 今は未熟だが、俺の見立てでは間違いなく武道の素質はある。才能で言えばそれこそ俺などより格段に上だろう。あと一年も鍛えれば川神学園の人外どもと渡り合えるだけの実力を身に付けられる筈だ。

 小杉は相変わらずムスッとした表情のまま鼻を鳴らし、ふて腐れた調子で言葉を返した。

「見縊らないでよ、私がそんな卑怯な真似をすると思う?正々堂々と真正面から相手を屈服させてこそ、私のプレミアムな実力を皆に認めさせられるワケ。分かる?コソコソと汚い手を使ってたら本末転倒じゃない」

「ま、キミは正面からやった結果として見事に負けた訳だけどね」

「あーもう、言われなくても分かってるっての!やっぱアンタ性格悪いわね……こんなのに二週間も騙されてた自分が憎いわ」

「うふふ、そう仰らないでくださいまし、武蔵さん。そんな風に冷たくされると、わたくし涙が零れてしまいそうですわ」

 よよよ、と胡散臭い泣き真似をしてみせるねねに、小杉が嫌そうな顔で言う。

「改めて聞くと鳥肌が立つ喋りね……。その嘘くさい演技はやめなさいよ、もはや不気味ってレベルよそれ」

「あらそうですか?うふふ。礼儀正しいのが嫌だと言うなら、そうだな、キミの事はこれからムサコッスと呼ぶ事にしよう。溢れんばかりの親しみを込めた素晴らしいネーミングだと思わないかな」

「生憎とそのネタは昔から言われ飽きてるのよ!あくまでそう呼ぶ気なら、私はアンタのクラス内での呼び名をネコで定着させてやるわ。これ以上なく的を射たネーミングだ、ってみんな喜ぶでしょうね」

「……争いは何も生まないよね、うん。クラスメート同士で傷付け合うなんて不毛極まりない事は止めようじゃないか。人類皆兄弟、素晴らしい言葉だ」

 気付けば何やら和解が成立していた。差し伸べられた手をガッシリと握り、そしてねねが小杉を引っ張って助け起こす。

 外面だけを切り取って見れば、決闘を通じて芽生えた美しき友情、のワンシーンと言った所である。

 見守っていたギャラリーからパチパチと盛大な拍手が湧き起こっていたが、最前列で間抜けな会話の一部始終を聞いていた俺は当然ながら感動など出来る訳もなく、ただ脱力するだけであった。

 そんな俺を余所に二人の会話は続いている。小杉はねねの手を握ったまま、何かを決意した表情で口を開いた。

「私は決めたわ。ねね、アンタは今からこの武蔵小杉のライバルよ」

「はぁ」

「私のプッレ~ミアムな計画では、手始めに一年生をかるーく制覇して、それから二年生に挑むつもりでいたわ。だけど考えが甘かったわね、まずはアンタを超えない事には私は上を目指せない。何せ二年にはアンタより遥かに強い、例の“ご主人”もいる事だしね」

「へぇ」

「私はこれからの学園生活で、アンタ以外の一年を片っ端から屈服させる。その中で自分を鍛え直して、そして最後に、アンタに再戦を挑むわ。確実に強くなるための秘策もある。だから――プレミアムな成長を遂げた私に叩きのめされるその時まで、絶対に負けるんじゃないわよ」

「ほぅ。……えっと、うん、そうだね、やっぱり鰤は味噌漬けが至高だよね」

「私の話を聞けーっ!」

 しかしまあ随分と仲の良さそうな二人である。クラスが同じ1-Sと言う事で元々付き合いはあったのだろうが、しかし先程まで本気で殴り合っていたとは思えない気の合い様だ。どこかしら互いの波長が合っているのだろうか。

「はーん、アンタがそういう態度を取るなら仕方ないわね。実力行使で認めさせるのみよ!」

「やれやれ、懲りないねキミも。何度やっても結果は同じだけど、改めて現実を教えてあげようかな!」

 繋いでいた手を振り解いて今まさに第二ラウンドを始めようとしている二人だったが、何処からともなく現れた鉄心が脳天に拳骨を降らして制止する。

「ふぎゃっ!」

「むぎゃっ!」

「喝!決闘はもう終わっておるわ。二人とも、武家の出身ならば潔く振舞わんか!」

 後輩二名に説教中の鉄心を眺めながら、俺は改めてその怪物っぷりを反芻する。いやはや何と言うか、本気で一切の動きが視えなかった。流石はあの最強生物・川神百代の祖父であるだけの事はある。いや、この場合は逆なのか。これでも能力的には全盛期より遥かに衰えていると言うのだから恐ろしい。実際に戦えば文字通りに瞬殺確定だろう。

 しかし、それにしても――

「武蔵小杉、か」

 ねねの馬鹿と揃って仲良く頭を抱え、涙目になっている後輩を見遣り、心中でニヤリと笑う。

 野心にギラついた目に、磨けば光りそうな武の素養。うむ、なかなか悪くない人材だ。

 今年の入学生で事前にマークしていたのはあの剣聖・黛十一段の娘くらいだったが、武蔵家の小娘もこうして見る限りは捨てたものではない。今後の成長次第ではかなり使い物になりそうだ。

 彼女のスカウトに関しても色々と考えておくとしよう――不作不況の現代、青田買いは大事である。

「さて皆さん、そろそろチャイムが鳴りそうです。次は小島先生の授業ですから、急いで教室に戻った方が良さそうですよ」

 にこやかに告げられた冬馬の言葉に、心は顔を青くしてぶるりと身体を震わせた。

「う、鬼小島か。ムチで叩かれる屈辱はもう味わいたくないのじゃ……おい井上、何をしておる。さっさと戻るのじゃ」

「……鞭なんぞ怖くねぇ。俺が怖いのは、少女の汗に濡れた眩しいブルマ姿を見逃す事だ。これを目に焼き付け終えずに戻るくらいなら、俺は甘んじて体罰を受ける方を選ぶぜ」

 覚悟を決めた男の目だった。ついでに言うなら、蘭が準に向けているのは殺る覚悟を決めた目だった。

 不退転の決意を胸にねねを凝視する変態と、その凄惨な末路には関わり合いになりたくないので、俺と心は無言の内に揃って踵を返す。

 しばらくして背後から誰かの悲鳴らしきものが追いついてきたが、俺達は取り敢えず至極丁重にスルーしておいた。

 嗚呼、川神学園は今日も平和である。










 さて。明智ねねと武蔵小杉の決闘を見物した後、居なくなってしまったクラスメートの冥福を皆で祈りつつ、特に何事も無く五・六・七時間目を消化し、そして放課後。

 俺はいつものように蘭を三歩後ろに引き連れて、川神学園の誇る学内施設の一つ――弓道場を訪れていた。

「失礼致します!えっと、こちらに弓道部の責任者の方はいらっしゃいますか?」

 静謐な雰囲気に包まれた弓道場の入口に立ち、蘭が声を張り上げる。

 活動の準備を始めていた部員達の目がこちらを向いて、そして俺の存在に気付くと、一様にギョッとしたように顔を強張らせた。まあ普通に考えればこんな場所に噂の織田信長が足を運ぶ理由など無い訳だし、彼女達にしてみればまさしく晴天の霹靂だろう。

 恨むならばこの場所を決闘のステージに指定した2-Fの面々を恨む事だ――などと思っていると、その部員達の中に見知った顔を発見した。武蔵小杉である。どうやら彼女は弓道部に所属しているらしい。何やら運命というか、因縁めいたものを感じずにはいられない偶然だ。

「あ、キャプテン……!」
 
 そして、蘭の呼び掛けに応じて俺達の前に歩み出てきたのは、凛とした佇まいが印象的な長身の少女だった。侍を思わせる芯の通った雰囲気には、弓道着と黒の長髪が良く似合っている。

 少女は怜悧な目付きで俺と蘭を交互に見遣って、どこか拒絶的な響きを帯びた硬質な声を上げた。

「弓道部主将、矢場弓子で候。顧問の小島先生は只今席を外しておられる故、私が応対させて頂く。して、弓道場に何か御用か?」

 ……ん?何やら声が僅かに震えていた様な。俺の気の所為だろうか。

 覚えた違和感に内心で首を傾げている間に、蘭は彼女に向けて深々と一礼すると、礼儀正しく言葉を紡いだ。

「急な来訪で部活動を妨げてしまい、大変申し訳ありません。これより暫し、決闘の場としてこの弓道場を使用させて頂く事になっているのですが……小島先生からお話は伺っていますか?」

「え、あ……否、聞いておらぬ。直に先生が参られる故、その際に確認を取らせて頂こう」

「判りました。――この度は私事で皆様の貴重なお時間を頂いてしまうこと、心からお詫び申し上げます」

「あ、ああ。これはどうもご丁寧に……で候」
 
 蘭の意外な腰の低さに面食らったのか、弓道部主将、弓子が微妙に調子っ外れた声を上げた。やはり悪名高い織田信長の懐刀となれば、当然の如くその人格も決して善いものではあるまい、と彼女達は想像していたのだろう。心底から申し訳無さそうに謝罪の意を告げる蘭の姿に、弓道部の部員達がざわざわと驚きの声を漏らしている。

「あ、あのー。先輩、少し良いですか?」

 そんな中、恐々とこちらの様子を窺っていた部員達の輪から抜け出し、ややおっかなびっくりな調子で俺の前に立つ少女が一人。

 この強靭さの漲るアホ毛は見間違えようも無い、武蔵小杉である。先輩、とはどうやら蘭ではなく俺の方を指していたらしく、彼女はこちらに視線を向けていた。

 自分から俺に声を掛けられるとは、一年生にしてなかなか大した度胸の持ち主だ。流石は俺の見込んだ人材――と感心していると、小杉は何やら決意の炎を宿した瞳を俺に向けて、口を開いた。

「えーっと、初めまして、織田先輩。私、1-Sの武蔵小杉と言います」

「承知している。ネコとの決闘の様を観ていたが故。それで、何用だ」


「――私を弟子にしてください!」


 瞬間、危うく無表情が崩れそうになった俺を一体誰が責められるだろうか。

 あまりにも唐突な小杉の言葉に、隣に立つ弓子など「は?」と素っ頓狂な声を上げて、ポカンと口を開けた表情で固まっている。弓道部の面々もそれは同じで、全員が見事なまでに凍り付いていた。厳かな静寂に包まれていた弓道場が、違う意味の沈黙に覆い尽くされた瞬間であった。

 そんな周囲の空気を何とも感じていないのか、小杉はどうやら彼女のデフォルトらしきムスッとした不機嫌顔で、じっと俺を見つめている。

「弟子、だと?」

「ええ、弟子です」

 小杉は大真面目な表情で首肯する。俺は思わず威圧用の殺気を放つ事も忘れ、まじまじと彼女の顔を見つめた。小杉もまた俺から視線を逸らす事なく、真っ直ぐな視線を送ってくる。物怖じしないにも程があるだろう、と思いながら無言で見詰め合うこと暫し、何とも奇妙な雰囲気の中で俺は再び口を開いた。

「何故に、俺を師に望む」

「九鬼先輩や不死川先輩との決闘を見物していて、私は確信したんです。織田先輩こそ間違いなく二年生最強の男。そんなプレミアムな先輩の下で武を学べば、私はますます飛躍できると!」

「……」

「それに、ねねは先輩の臣下だと聞いています。川神先輩をも超える強さの秘訣は、その辺りにあるんじゃないかと思いまして」

「成程」

 志望動機を訊き出すという名目で時間を稼ぎながら、俺は高速で思考を巡らせていた。俺にしてみればあまりにも突然の事態で、すぐには思考が追い付きそうにもない。

 考えろ考えろ、今まさに俺のアドリブ力が試されている。ここで武蔵小杉の弟子入りを認めるべきか否か。リスクとリターン、メリットとデメリットは?実現性は?今後の計画への影響は?――考えるべき事はあまりにも多い。ひとまずは熟慮する為の時間が必要である、と判断。

 ならばどうする、この場において必要な対処は一体。ムスッとした表情とキラキラと期待に輝く目がミスマッチな後輩をどう扱うべきか。

 ……結論、取り敢えず誤魔化せ。曖昧に有耶無耶に答を保留しろ。

 俺が小杉をどうにか丸め込むべく口を開き掛けたその時、不意に弓道場の扉が開け放たれ、そして結構な数のギャラリーが次々と道場内に足を踏み入れてきた。

 未だ校内放送で決闘場所の案内はされていない筈なのに何故――と疑問に思うが、そう言えば織田信長と2-Fの三日に渡る決闘は校内で随分と話題を呼んでいるらしいので、押しかけたのは此処で決闘が行われると事前に聞き付けた連中だろう、と咄嗟に思い至る。

「むっ、邪魔が入ったわね……全くもう、あと一押しだったのに」

 それよりも俺にとって大事なことは、このギャラリー達の出現によって武蔵小杉が話を続けるタイミングを完璧に失った、という事実である。

 彼女は口惜しげに観衆達をジロリと睨んでから、やけに力強い目で俺を見据えた。

「今回は引き下がりますけど……私は諦めませんよ、先輩。私のプレミアムな野望を実現するためにも、先輩にはゼッタイに師匠になって貰いますから!」

 一方的に捲し立てると、小杉は俺が口を開く前にそそくさと弓道部員達の輪に戻っていく。

 その後ろ姿を見送りながら、俺は場所を弁えずに笑い出したくなる衝動に襲われていた。

 全く、何という愉快な後輩だろうか、武蔵小杉。織田信長を前にしてあそこまで堂々と己を貫けるとは、もはや不遜を通り越して天晴れである。或いはただの無神経な馬鹿なのかもしれないが、それにしても呆れた度胸だった。面の皮が異常なレベルで厚いねねの奴とはまた違った方向で突き抜けた個性の持ち主だ。

 弟子に取るか否かは別問題として、気に入った。本格的にスカウトを検討するとしよう。

 という訳で早速、脳内にて様々な計画を練り始めた俺だったが、ツカツカと歩み寄ってくる足音に一旦思考を中断する。前方に注意を向ければ、ギャラリーの人波を抜け出してこちらに近付く長身のシルエットが一つ。2-Fの担任教師、通称鬼小島こと小島梅子であった。

 背筋を真っ直ぐに張って歩きながら俺を見据えるその表情は、やや険しい。やはり教師の目から見ても、織田信長という生徒は扱いに苦慮する問題児なのだろう。無理もない話である。

「御苦労だったな、矢場。……織田、此処は神聖な道場だ。その禍々しい殺気は抑えろ、生徒達も怯えている。お前は武道に対する礼儀というものを――」
 
 俺の前に立つや否や、渾名の由来ともなった厳格な説教を始めようとする鬼小島。

「あ、あの……小島先生。彼等は無作法な振舞いは何一つとして行っておらぬで候。責めを負うのは理に適いませぬ」

 そんな彼女を凛とした語調で制したのは、小杉の投下した爆弾の効果でつい先程まで固まっていた弓道部主将、矢場弓子である。

「何、そうなのか?」

 意外そうな顔で改めてこちらを見遣りながら問う鬼小島に、俺は淡々と言葉を紡ぐ。

「ふん。一方的な都合で場を借り受ける以上、礼を失すれば恥を掻くのみよ」

「武の道を志す者として当然の事です。礼無き武は獣の暴力と何ら変わりません。――私は如何なる時であれ、誇り高き武人で在りたいと願っていますので」

 普段の間抜けさを一切感じさせない蘭の堂々たる言葉に、ほう、と鬼小島は感心したような声を上げた。

 いつの間にやら周囲に集まっていたギャラリーにもその凛とした声音は響き渡ったらしく、生徒達の間では感じ入ったざわめきが生じていた。

 織田信長とその従者は単なる暴力の化身に非ず、武道を解し礼儀を尊ぶ者である――そのような認識が新たに広がっていくのが手に取るように判る。

 ふむ。“仕込み”はこの程度で十分だろう、と俺が内心で口元を吊り上げていると、鬼小島の猛禽類を思わせる鋭い目が不意にこちらを向いた。

「教師でありながら先入観に囚われ、確たる根拠も無くお前達を咎めた事は謝ろう。――だが!織田、お前は“目上の者に対する礼儀”という学生として肝心なものを忘れているようだな。武道を語る以前の問題だ、その不遜な態度は見過ごせん!」

 細く鋭い目を吊り上げながら、鬼小島はおもむろに得物の鞭を取り出す。

 だがしかし、俺は織田信長。性癖的には至ってノーマルなので当然ながら痛いのは嫌だし、キャラクターの面子にも関わる。このまま素直に叩かれるのは御免であった。

 という訳で、教育的指導と言う名の体罰が我が身に降り掛かる事態を未然に防ぐため、俺は急いで口を開いた。

「神聖なる弓道場で得物を振るうは無粋。武家の出身でありながら、然様な事も教わらなかったか?教師が生徒を罰するは確かに自由だが、それとて場を弁える必要はあろう」

「む、それは確かに、その通りだが……」

 俺に向けて鞭を振るい掛けていた手を止めて、鬼小島は逡巡している。

 身に纏う雰囲気は切れ者っぽいが、口先だけで丸め込まれるとはやはり単純だな――と俺が策の成果に満足していると、彼女は小さく溜息を吐いて、実に遣る瀬無さそうな調子で言葉を続けた。

「その小賢しい物言い、誰かと思えばウチの直江に似ているな……。言っておくがな、織田。私は何も不問に付した訳ではない。お前には後で教育的指導だ、良いな!」

 パシン!と畳んだ鞭で自分の手の平を叩いて見せながら厳しい語調で言い放つと、鬼小島はキビキビした足取りでギャラリーの方へと去っていった。

 やれやれだ。これで当面の危機は去った。一時凌ぎでしかない以上、また後で体罰の回避方法を考えなければならないが、時間さえあれば有効な策の一つも思い浮かぶだろう。それよりも、今の俺が考えるべき事項は当然、これから始まる決闘の事に他ならない。

「わわ、もうこんなに観客が集まってる。スゴイ注目度ね~」

「ワン子の時よりは全然少ないと思うけど。……弓道場に人が多いと違和感あるね。まあ、射つ事だけに集中すれば関係ないか」

 川神一子と椎名京の二人に続いて、2-Fの面々が次々と道場に足を踏み入れる。

 いよいよ役者が出揃った今、幕上げの時だ。

 迫り来る勝負開始の瞬間を感じ取って、ギャラリーの熱気が早くも盛り上がりを見せている。

――椎名京。

 これから我が一の従者・蘭と対峙する事になる、クールな雰囲気を醸し出す少女の姿を捉える。彼女は既に弓道着に着替えており、自前の弓矢を手に携えていた。

「こういうのは見世物みたいで正直、気が進まないけど……これも愛のため。愛は全てに優先される」

 何やらぶつぶつと呟きながら、彼女は欠片の緊張も窺えない無造作な挙措で射場へと歩み寄り、構えを取った。

 何事か、と観客達の視線が集中する中、六十メートル離れた的場へ向けて弓を引き絞る。

 そして――殆ど狙いを定めた様子もないままに、おもむろに矢を放った。

「ほう」

「お見事です」

 思わず呟きを漏らした俺と蘭の視線の先には、寸分狂わず円の中心点を射抜かれた霞的の姿。

 それは素人が見ても一目で分かる程の、紛れも無い妙技だった。その驚異的な腕前に対して蘭が惜しみない賛辞を送り、数瞬ほど遅れて観衆達が一斉に感嘆の声を上げる。

「おいおいパネェな。初っ端からド真ん中とか……アレってあんな簡単に当てられるもんなのかよ」

「あの速さであの正確さ。椎名先輩、相変わらずプレミアムな腕前ね。私もいつかはあのレベルまで辿り着いて見せるわ!」

「ふむ。やはり頭二つは抜けている、か。これで積極的に部活に顔を出してさえくれれば顧問としては文句の一つも無いのだが……難しいものだな」

「さっすが椎名センパーイ!後で私たちにもご指導お願いしますねー!」

 熱の篭った賞賛が無数に飛び交う中、椎名京は対照的に涼しげな表情で弓を下ろした。誇るでもなく驕るでもなく、この程度のことは出来て当然、と言わんばかりの醒めた態度である。

 何とも小癪。まず間違いなく直江大和の差し金だろうが、中々に憎らしいデモンストレーションだ。

――やはり“弓の椎名”にとってはこの程度の芸当、朝飯前と云う訳か。
 
 一昨日の朝、俺が風間ファミリーと事を構える切っ掛けとなった件の邂逅にて、椎名京の存在は俺の脳裏に強烈に刻み付けられていた。あれほどの実力者が全くの無名である道理はあるまい、と彼女の身辺を調査してみた結果、大当たりである。名字を知った時点で気付かなかった俺も大分間が抜けていた。彼女の存在を見過ごしていた昔の自分を叱ってやりたい気分だ。

 “弓の椎名”。この呼び名の由来は、遠く戦国時代にまで遡る。当時、椎名家の輩出する武士は悉く弓の名手として敵将に恐れられていた。

 椎名の戦場に踏み入るならば、如何に敵の姿が見えずとも気を緩めるべからず。心せよ、彼奴らの目は千里を見通し、彼奴らの矢は万里を駆ける――とまあ、そんな具合だ。

 勿論、大袈裟な脚色の加えられた伝説の類である事は間違いないが、その恐るべき弓術の腕前は事実だったのだろう。実際に椎名家は現代に至るまで、弓の名門と敬われる武家として存続している。ここで改めて言うまでもなく、椎名京はその血筋を引いた娘だった。

 幼少の頃より弓術の英才教育を施されてきた、まさしく血統書付きのエリート弓術士。凡百の者とはその時点でレベルを異にしている。所詮は“表”の学生、などと侮って掛かれば痛い目を見るだろう。

「くくっ」

 まあ、それらの肩書きが、織田信長を相手に勝利を収められるだけの十分な理由足り得るかと言われれば……答は否なのだが。

 弓は弓。いかに優れた使い手が用いようとも、発揮できる力は精々が戦術を左右する程度が限界だ。であるならば――即ち、俺の“敵”ではない。

「蘭」

「はっ」

 短く答えを返す我が従者は、既に身に纏う雰囲気を完全に切り替えていた。

 日常における間抜けで頼りない面はその姿を隠し、代わりに浮かぶのは戦に臨む武士の気迫だ。

 俺は蘭の凛とした立ち姿を悠然と見遣って、ただ一言、声を掛けた。

「遠慮は不要。森谷蘭の“武”を、存分に魅せてやるがいい」

「ははーっ!確かに了解致しました、信長様。――日々磨き上げた我が武、どうか主も御照覧下さい」










~おまけの一年生~



「あれ、ねねじゃない。アンタも見学に来てたのね。やっぱ“ご主人”の事は気になる?」

「そりゃまあ私って一応、従者やってる身だしねぇ。気にしないのは流石に問題アリアリでしょ」

「んん、何だか面白味の無い答えね。私的にはもっとこう、背景にプレミアムなお花が咲く感じに乙女チックな反応を期待してたのに」

「それはそれは。ご期待に沿えなくて申し訳ない限りですわ、ムサコッスさん。そういうキミは何でここに……、って弓道部だったねそう言えば。いまいちキミと弓道のイメージが結び付かないなぁ。似合ってないんじゃないの?」

「余計なお世話って言葉を心の底から贈らせてもらうわ。あとムサコッスゆーな」

「……はぁぁ」

『どーしたよまゆっち、唐突にアンニュイな溜息吐いちまって。オラが相談に乗ってやるから素直にゲロっちまいな』

「見て下さい松風。あのお二人、昼休みには決闘するほど険悪な間柄だったにも関わらず、気付けばもう仲良しに……何と言うコミュニケーションスキルでしょうか。うぅ、羨ましい」

『オイオイ戦いの後に生まれる友情とかちょっちハイレベル過ぎじゃね?オラガクブルしてきたぞ。やべーぞまゆっち、このままじゃ入学直後のスタートダッシュで皆に置いてきぼりにされちまうぜ真剣で』

「あぁ、沢山の友達に囲まれて過ごす理想の高校生活が遠ざかっていきます……やはり私には土台無理な話だったのでしょうか。うぅ、松風。友達が、欲しいです……」

『ユー諦めたらそこで試合終了だYO!今まさにまゆっちのチャレンジ精神が試されてるんだ、行けー行くんだまゆっち、青春18切符をその手に掴めー』

「そ、そうですね!むしろあの二人の間に割って入るくらいの気概が無ければダメな気がしてきました。私はやりますよ松風、まずはお二人の例に倣って皆と拳で語り合います!そうすればきっとお友達になれますね!」

『おおー輝いてる、今最高に輝いてるぜまゆっち。やったれー、まゆっちはやれば出来る子やと証明するんやー』

「ね、ねぇ。黛さんが、またストラップと……」

「私は何も聞いてないし何も見えてないわ。あー決闘どうなるんだろうなー楽しみだなー」












 兎にも角にも、今回はムサコッスをようやく参戦させられたので満足です。
 あの人間味溢れる小物っぷりに惹かれるのは自分だけではないと信じたい。
 まじこいSでは是非ともサブヒロインに昇格して欲しい所ですが、人気投票の結果からして所詮は叶わぬ夢なんでしょうね。
 いつだって数字は非情です。それでは、次回の更新で。

 



[13860] 忠愛セレナーデ、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:577e2530
Date: 2011/03/30 09:38
「私には分からないんです。本当に、分からないんです」

「……」

「主の為ならば私は幾らでも己が身を捨てられます。主の為ならば私は穢され命を奪われても本望です。主の為ならば私は幾らでも他者を害せます。主の為ならば私は幾千でも幾万でも幾億でも斬り捨ててみせましょう。主の為ならば私は幾らでも悪を為し、善を殺します。主の為ならば私は心すら捨てられます。刃を突き立てろと命じられれば、私は主ですら迷わず手に掛けられるでしょう。……主の為ならば、私は全てを捧げられます」

 
 泣き笑いのような顔で、彼女は言った。


「――ならば。ならば私は――主を、愛しているのでしょうか?」












 

 弓道場は、シン――と静まり返っていた。
 
 たん!たん!と、矢が的を射抜くリズミカルな音色のみが、粛々と響いている。
 
 この神聖な静謐を壊すことを恐れるように、観客達は一様に堅く口を閉ざし、僅かなしわぶきすらも漏らさない。昨日、明智ねねと川神一子の繰り広げたデッドヒートに白熱した様とはまるで対極の、張り詰めた静寂が決闘場を覆っている。

 尤も、仮に道場を揺るがす程の爆発音が鳴り響いたとしても、今の“彼女達”の注意を惹き付ける事が出来るかは怪しい。

 無数の観衆の目が見守る中、射場に立つ二人の少女、椎名京と森谷蘭。

 一心不乱に弓を引き、矢を射つ――それだけの動作に彼女達は全ての神経を集中しており、周囲の事など欠片として目にも耳にも入ってはいない様子だった。

「……」

 俺もまた観客達に倣い、沈黙の内に我が従者の姿へと視線を送る。

 蘭はピンと真っ直ぐに背筋を張り、鏃の如く鋭い双眸で自らが射抜くべき対象を見据えた。

 標的は、射場から六十メートル先に設置された、直径五十センチの霞的。

 目を瞑って精神を統一し、小さく吐息を漏らす。そして――蘭はかっと眼を見開いた。

 足踏み。胴作り。弓構え。

 打起こし。引分け。会。

――離れ。

 瞬間、時が止まる。

 限界まで張り詰めた弦が弾かれ、風切り音が鳴り。一瞬遅れて、たん!と小気味良い音色が響く。

 そして、残心。

 正確に的を射抜いた事への喜悦を一切覗わせず、凛とした雰囲気をそのままに佇む。

 その立ち姿に向けて、観客達は言葉にならない静かな吐息に乗せ、感嘆の念を送った。

 いつ見ても文句の付け様が無い。あの馬鹿従者を素直に褒めるのは癪だが、こればかりは俺も手放しで賞賛せざるを得なかった。

 身内の贔屓目を差し引いても、蘭の射法は格調高さと清廉さに充ちている。流水を思わせる美しい挙措に見惚れていれば、気付けば霞的にまた一本、矢が吸い込まれていた。

 ほぅ――と半ば溜息のような感嘆の声を漏らしたのは、何故か俺の隣で見物中の弓道部顧問、鬼小島である。彼女は射場の蘭から目を離さず、囁くように俺へと語り掛けた。

「見事なものだな。腕前もそうだが、何より品がある。あれほどの弓射、既に学生の域を超えているが……何処で教わった?」

「ふん。何処で教わった、か。川神鉄心の膝元、川神学園の教師ですらも其の名を知らぬとなれば、やはり“森谷”の家は終わったも同然の様だな。所詮は没落した武家、世に忘れ去られるは必定か」

 確か親類縁者は一人も居ないと言っていたので、蘭は名実共に森谷家最後の生き残りと言う訳だ。戦国の世から永らく続いてきた系譜も、いざ途絶えてしまえば随分と呆気の無いものである。諸行無常、兵どもが夢の跡。時代の移りを前に、人の営みは何とも儚い。

「……なるほどな。私と同様に武家の出身、と言う事か。そう考えれば多少は納得できるが、しかしあの練度は……。武家とは言っても椎名のように弓で名を馳せた家ではないだろう。現に以前の決闘では太刀を得物として用いていた筈だが」

「己の常識のみで物事を語るべきではないな。然様に狭い視野では後進を導く教職など務まるまい」

「……ああ全くだ。教職者の務めとして、まずはお前を更正させてやらねばな。覚えておけ、後で存分に指導してやろう」

 不気味に微笑みながら仰る彼女の目は、しかしまるで笑っていなかった。控え目に言っても怖い。強烈な眼力だ、一般人ならまず怯まずにはいられないだろう。生徒達が“鬼小島”と呼んで恐れる理由が良く分かる。戦闘能力も人外レベルとなれば、不良学生・織田信長を演じねばならない俺も内心ビクビクものである。

 まあそれはともかくとして、だ。

 世の中には、常軌を逸しているが故に世間に受け入れられず名を馳せられない、道を外れた連中が確実に存在するものだ。蘭の生家である森谷家もまた、その顕著な一例と言えた。何せあの家の両親のイカレっぷりは――いや、余計な事を思い出すのは止そう。色々な意味で胸糞が悪くなりそうだ。

「剣術、弓術、槍術、棒術、杖術、短刀術、手裏剣術、十手術、薙刀術、鎖鎌術、捕手術、含針術、柔術、馬術、水術、抜刀術、隠形術、砲術……森谷の血筋は代々、戦国の世に倣い、武芸十八般の悉くをその子息に対し徹底的に仕込んできた。“武士とはかくあるべし”を家訓に掲げ、未だ幼い己が子にすら躊躇わず過酷な鍛錬を課す、気の違えた完璧主義の蔓延る家よ」

「……馬鹿な。古武術の全てをあの年で、それもあの練度で修めていると言うのか?幾ら家の教育が厳しいとは言っても、有り得ない話だろう」

 信じられない、と疑惑の念を言葉にも表情にも隠さずに告げている鬼小島を、俺は嗤う。少しも笑えやしない、暗澹たる内心を誤魔化すように。

 同じ武家に生まれておきながら、彼女達の境遇には何故こうも埋め難い差があるのだろうか。もし神とやらが実在するならば、その不公平な采配を弾劾せずにはいられない気分だ。

「ふん。“小島”か、由緒正しく真っ当な武家だ。さぞかし厳しく躾けられた事だろう。――然様な了見であるが故に、視野が狭いと言っているのが分からぬか?そのお目出度い頭では俺の言うところの“過酷”の意味に理解は及ぶまい。あの生き地獄の如き有様を知らずに今日までの時を過ごせた幸福に、精々、感謝するがよかろう」

「……」

 とは言っても、蘭は森谷の娘としての“完成”に到っていない為、身に付けた武術も十八般とはいかず、剣術・弓術を始めとする幾つかに留まっている。十年ほど前、それらの基礎を身体に叩き込まれた段階で森谷の家が破滅したので、その後の研鑽については基本的に蘭の独学だった。

 教えを乞う師は既に亡く、満足な設備は元より無い。

 幾ら手を抜かず真面目に励んでも、自主的な鍛錬で伸ばせる能力には限度があった。それこそ忌むべき森谷式教育法でも用いない限り、武芸十八般の全てには到底手は回らない。

 である以上、優先度が低い武術に関しては切り捨てざるを得ず、鍛錬を行わなくなったそれらの武術の腕は年月と共に錆付いていく。今でも実戦でまともに使えるレベルを保っている武術となれば、剣術と弓術と……兎に角、かなり数は限られてくるだろう。

 まあ要するに鬼小島は蘭の能力を相当に過大評価している訳だが、わざわざその勘違いを訂正するような勿体無い事はしない。こういった認識の誤りは、将来的に何らかの役に立つ可能性が高いのだ。仕込んだ罠は多ければ多いほど策に幅が出る。

「……事情は判らんが、森谷が尋常ではない鍛錬を積んでいる事は理解できた」

 数秒ほど黙って何事か考え込んでいた鬼小島が、難しい顔で再び口を開いた。

「しかし――それでも、だ。あの腕を以ってしても、椎名を降せるとは限らんぞ」

「……」

「担任の贔屓目でも何でもなく、椎名は天才だ。私はこれまでの人生で、あれほどの天稟の持ち主を見たことはない。まさに弓の申し子のような奴だよ、あいつは」

 自身の教え子を誇るように言って、鬼小島は射場に目を向けた。俺もその視線を追う。その先では、怜悧な雰囲気を纏う短髪の少女――椎名京が構えを取ろうとしている所であった。

 デモンストレーションの時にも感じたが、彼女の射法はとにかく迅い。

 無造作とも形容できる気軽さで構えを取り、殆ど狙いを定める事もなく――射つ。

「あいつが的を外した所など、一年を通じても数える程しかあるまい。まあ、そもそもの出席率が論外ではあるがな」

 そして、その狙いは恐ろしいほどに正確無比だった。今もまた、彼女の一矢は霞的を違えず射抜いている。

 六十メートルの距離を隔てた、直径二十三センチに満たない円の中心部を、寸分の狂いもなく。

 全く、俺の想像を超えて化物じみた腕前である。戦国の世に名を馳せた椎名流弓術、これほどのものか。

 京自身はその結果に何も思うところはないのか、ケロリとした無表情で佇んでいる。

「森谷の腕は評価されて然るべきだが、しかし相手が悪い。それに――条件もな」

「条件、か」

「お前ならばもう分かっているだろう、織田。“このルール”の下での勝負は、完全に椎名の独壇場だぞ」

 まさしくその通りだった。否定の余地は無い。直江大和が確実に勝ちを取りに来ている以上、それは当然の話である。2-F側にしてみれば、明智ねねに手痛い一敗を喫して後がない状況だ。絶対的な自信を以って臨める、ギャンブル要素を極力排除した純粋な実力勝負を挑むほか選択肢はないだろう。

 何せ先鋒戦にて小細工に頼った結果、敗北の苦い味を噛み締めたばかりである。もし直江大和が失策を反省し、次に活かそうと考えるならば――必然、選ぶのはこの手の戦法だと、俺には先んじて読めていた。ねねが川神一子を負傷させてくれたお陰で相手側のカードが減っていた事も大きな要因だ。この展開、俺の計画と多少のズレはあるが、それとて幾らでも修正の利くレベルでしかない。

―――“制限時間付きの射詰め”。それが今回の決闘方法である。

 “射詰め”は弓道における競射の種類の一つで、主に同得点で決勝に到った者同士が勝負を決する為の方法である。その内容は射主が互いに一矢ずつ射て、外した者から順次失格にしていくというもの。分かり易く表現するならば弓道版PK、と言ったところか。

 先に外した方の負け。この最高にシンプルなルールに加えて、今回の決闘には二十秒の制限時間を設けている。射場に立ってから構えを取り、狙いを定め、矢を放つ――その一連の動作に二十秒を超える時間を掛けてはならない。

 この追加ルールこそが曲者だった。ただでさえ人外の域に達している椎名京の弓術を、更に厄介なモノへとランクアップさせている。

 こういう的確なサポートをさり気なくこなせる辺り、直江大和は疑いなく優秀な参謀役だろう。裏と関わりのない学生の割に、随分と戦法を心得ている。

「“弓の椎名”。まさしく名に恥じぬ腕よ。元より侮りは無かったが、これ程までとはな」

 たん!たん!と――淡々と、二人はひたすら弓を引き、矢を放つ。最初から軌跡を定められているかの如く、それらの全てが的に吸い込まれていく。

 果たしてこれで何十射目だったか。この神聖なる静謐の中、二人の戦いは永久に続くかのような錯覚すら観客達に抱かせた。

 だが――人の営みは儚く、永遠は幻想だ。決着の時は、確実に迫っていた。

「疲労、か。当然の話だな」

 射場から目を離さないまま、鬼小島が呟いた。

 そう、疲労である。流石に弓道部顧問、現状を正確に理解している。

 弓を引き、狙いを定め、射つ。言葉にすればそれだけの動作だが、実際に言葉通りの容易さである訳がない。

 ほんの一瞬でも気を抜けばその時点で敗北が確定する戦いである。一矢を射る度にどれ程の精神を磨り減らしているのか、俺には想像も付かない。加えて単純な話、弓を連続して引く事で腕の筋肉を酷使しており、肉体的な意味の疲労も尋常ではないだろう。

 凛と背筋を張って強烈なプレッシャーを押し返しながら、制限時間のために肉体を休める暇さえ与えられず次なる矢を放ち、再び構え、射つ。

 人間である限り、そんな極限状態に二十分近くも身を置いていれば、心身ともに疲れ果て、精根尽き果てるのが自然である。

 だから――未だに力尽きる事なく、正確な狙いを崩さずに矢を放ち続けている彼女達は、正しく人外と呼ぶべき存在なのだろう。

 だがしかし、分類としては同じ人外であっても、そのカテゴリの中でも必ず何処かで差は生じるものだ。

「ふん。限界、か」

 的に向かって和弓を構える蘭の頬を伝う幾筋もの汗を、俺も鬼小島も見過ごしはしない。

 構えの優美さも弓射の的確さも何一つとして崩れてはいないが、幼馴染として長年を共に過ごしてきた俺に、蘭の必死な痩せ我慢を見抜けない訳もなかった。まず間違いなく疲労が限界に達しつつある。

 翻って、椎名京。彼女は、何も変わらなかった。

 決闘を始めた時と何一つとして変化のない無表情のまま、ただルーチンワークをこなすように淡々と、不気味な程の命中精度で的の中心部を射抜き続けている。流石に少し汗を掻いてはいるようだが、立ち振る舞いは至って涼やかであり、さしたる疲労の色は見受けられない。

「椎名の射法は、森谷と比べて“離れ”までの時間がかなり短い。故に一射ごとに休憩を挟めるが……森谷は制限時間ギリギリだな。あれで良く体力と精神力が保つものだ」

 鬼小島が感心と呆れの入り混じった調子で呟いた。

 彼女の解説の通り、両者の形勢の優劣を決したのは、件の二十秒制限ルールである。椎名京の弓術が異常なレベルで迅さと正確さを両立しているからこそ選べる、これ以上なく有効且つ凶悪な手段だった。昨晩、忠勝が再三に渡って告げていた「勝ち目がない」という言葉、その根拠が良く分かる。

 何せこのルールの中で力を発揮できるのは、彼女と同系統の異能を有する人間に限られるのだ。そんな類稀な才能の持ち主など、全世界を探してみたところで何人も見つかるまい。鬼小島の言葉に則れば、まさしくこのステージは椎名京の独壇場だった。

 いつまでも共に踊る事が許されないならば、ダンスの相方は先にステージを降りる他無い。

「ッ……!」

 ぐらり、と。射場で構えを取ろうとしていた蘭がよろめき、観客達が息を呑んだ。声にならない悲鳴が所々から上がる。

 しかし――蘭は倒れない。両足で確りと床を踏みしめ、渾身の力を振り絞って弦を引く。

 眼を見開き、背筋を真っ直ぐに伸ばし。唇を強く噛み締めながら、射ち放った。

 張り詰めた空気が引き裂かれた次の瞬間、たん!と的を射る音色が響き渡る。ほぅ、と安堵の吐息を漏らしたのは蘭ではなく、むしろ見守っている観客達の方であった。

「……」

 俯いて数語、何事か呟く。再び顔を上げた時、蘭の目には強い意志の光が宿っていた。

 そして――それ以降の森谷蘭の弓射は、もはや壮絶と形容する他ない。誰もが言葉を失い、その姿に目を奪われた。

「……凄まじいものだな」

 鬼小島の漏らした呟きが、観客達の総意だっただろう。

 吐息は荒く、汗は滝の如く流れ、顔色は青褪め、手足は震え、それでも蘭の射法はその凛とした美しさを何一つとして失わなかった。

 足踏み。胴作り。弓構え。打起こし。引分け。会。離れ。残心。疲労に膝を屈せず、射法八節の一つとして疎かにする事はない。

 心身共に限界を超えても尚――否、限界を超えているからこそ、それら全ての挙措に魂が込められていることを明確に感じ取る事が出来る。

 たん!たん!たん!と、休みなく放たれる矢に込められた少女の想いは如何ほどか。

 気付けば、観客達は厳格に保ち続けてきた静寂を自ら破っていた。

 的を射る音色が響く度、歓声が湧き上がり、拍手が湧き起こった。

 織田信長の懐刀、森谷蘭。悪役として在り続ける事を課せられた少女に向けて、人々の惜しみない声援が送られる。既に周囲の音など一切聞こえていない事を知りながら、それでも励ますような拍手が止む事は無かった。

 それは現実味に欠けた、まさに夢のような時間で、故に醒めるのは必然だったのだろう。

「―――?」

「―――。―――」

「――――」

「――――、――――」
 
 射場の上にて蘭と京が何事か会話を交わした様だが、その内容は此処からでは聴き取れなかった。

 蘭は震える脚で構えを取り、震える指先で弦を引く。

 
 そして――矢を放つ事なく、弓を下ろした。

 
 観客達が戸惑いにどよめく中、蘭は静かに振り向いた。その凛々しい双眸が射抜く先は、只一つ。

「信長様。蘭の“武”は、此処までの様です」

 俺の目を真っ直ぐに見つめながら、蘭は物静かに言った。

 それが我が一の従者の判断だと云うならば、俺の返すべき答は最初から決まっている。

「――許す。良きに計らえ」

「ははーっ!有り難き幸せに御座います!」

 弓矢を携えた身なので流石に平伏はせず、蘭は俺に向けて深々と頭を下げた。

 次いで観客達に向き直り、真摯な声音を朗々と張り上げる。

「申し訳ありません。いよいよ、限界の様です。これ以上の仕合を無理に続ければ、私の弓は尊ぶべき“礼”を失するでしょう。然様な無様を晒す事は、弓の道を穢しかねない侮辱と考える所存です。……皆様の有り難き応援、誠に感謝に堪えません。私の武が皆様の御目を僅かなりとも楽しませられたなら、其れを以って私からの返礼として頂ければ幸いです」

 最後に蘭が視線を向けたのは、依然として感情の読めない無表情を保つ少女、椎名京。

「お見事です。貴女が相手ならば、私は恥じる事無く、胸を張って敗北を受け入れましょう。――私の、敗けです」

 言い終えたそのタイミングで、制限時間の二十秒が経過した。

 主審の川神鉄心が大きく息を吸い込み、そして空気を震わす大音声にて決着を告げる。

「それまで!勝者――椎名京!!」

 勝者の名を告げる宣言が、暫し弓道場に反響する。その音が完全に去った後も、数秒の静けさが場に沈滞した。

 やがて、ぱちぱち、と何処からか控え目な拍手が起きる。

 そして、小石を投げ入れられた水面に波紋が広がるように、徐々にその数は増していった。更に数秒が経った後には、観客達が挙って盛大な拍手を打ち鳴らしていた。京の驚異的な腕前への賞賛の声と、蘭の健闘を称える温かい声が飛び交う。

「椎名センパイカッコイイッ!改めて見てもやっぱり半端ない技のキレ!痺れちゃいますッ!」

「椎名はスゲーけど、転入生も良くやったよホントに。俺、何だか感動しちまった。弓道って良いな……」

「つーか二人ともとんでもねーよ、レベル高過ぎだろ常識的に考えて。全部で何十射続いたよ……全国大会でも見れるか分かんねーぞコレ」

 それらの声に対して、京は相変わらずのクールな態度で聞き流し、蘭はいちいち折り目正しく頭を下げている。

 肩を落とし、己の敗北を嘆く“敗者”の姿は其処には無い。ギャラリーの歓声は二人に等しく向けられていた。

 否、どちらかと言えば――観客の好意的な感情は蘭に向いているとすら言える。その妙な流れに気付いたのか、京の勝利に浮かれる2-Fメンバーの中で一人、直江大和の表情だけが険しくなっていた。

「うーん。私、弓道のコトは良く分からないけどさ。森谷さんの方は不利なルールで勝負して、それでも諦めずに限界まで粘ってみせたんでしょ?恰好いいよねーそういうの」

「僕は森谷さんの弓の方が好きだな。いかにも“弓道”って感じがしてさ。椎名さんって技術は本当に凄いんだけど、なんていうか心が感じられないよね~。弓道じゃなくて弓術なんだよ」

「あ、分かる分かる。椎名の奴にはさっきあの人が言ってた“礼”って奴が足りないと前々から想ってたんだよ。全く、ただ勝てばいいってもんじゃないだろうに」

 本来ならば称えられるべき勝者が貶され、打ち捨てられるべき敗者が擁護される。そんな、何とも不可解な空気が急速に弓道場を支配しつつあった。

――全ては、織田信長の目論見通りに。

「くくっ」

 俺は密かに口元を歪めて、嗤った。

 上出来だ。全く以って文句の付け様も無い。蘭は俺の意をこれ以上なく正確に汲み取って、望み得る最高の結果を上げてくれた。

 弓道場に足を踏み入れてから何かにつけて周囲にアピールして回っていた、礼節を尊ぶ蘭の態度は、半分ほどは素だが――残りの半分は、俺の指示で意図的に演じたものだった。

 残念ながらあいつの実態は聖女でも何でもない。そもそも、俺達のような裏側の住人に真っ当な礼節など求める方が間違っている。基本的には礼儀正しくとも、主君の事が絡めば幾らでも非礼になれるのが蘭という従者である。

 さて、俺が何故にそのような指示を出したのか。答は単純明快、観客達の蘭に対する好感度アップが目的である。

「んー、どうせならもう少し対等な条件で勝負して欲しかったよなぁ。なんつーか釈然としないぜ」

「2-Fの奴ら、何だか勝ちに拘り過ぎてるよね。余裕がないって言うか遊び心が足りないって言うか。気持ちで既に負けてる感じ?」

「まあこれはクラスの意地を賭けた決闘なんだ、形振り構わない気持ちも分かる。だが……些か、興醒めな感は否めんな」

 この次鋒戦にて、風間ファミリーは一勝を掴んだ。それは紛れもない事実だが――果たしてその勝利にどれ程の価値があるのか、其処にまで思考を至らせるべきだったのだ。

 椎名京という極めて強力なカードを切り、確実に勝利を収める為のルールで保険を掛けて、まさしく万全の布陣を敷いて臨んだ決闘。

 だからこそ、誰の目から見ても今回の勝負は“勝てて当然”なのだ。

 所詮は順当な結果を収めたに過ぎず、そこに観衆を湧かせるドラマ性は介在しない。最初から答の用意された予定調和の決着に、無責任なギャラリーは価値を見出さないものだ。

 クラス内外を問わず人気のある川神一子と異なり、椎名京の対人関係が非常に閉鎖的である事も少なからず影響している。無愛想な勝者と“礼儀正しい”敗者の何れが大衆に支持されるか――答は見ての通りである。

 そして何より大きいのは、今回の決闘で織田信長の懐刀・森谷蘭が本領を発揮していないという事実を観客達が承知している事だ。転入二日目にて繰り広げた九鬼英雄・忍足あずみの主従との決闘を通じて、蘭の主武装が太刀である事は広く知れ渡っている。

 弓を用いない蘭の高い実力を既に把握しているギャラリーにしてみれば、今回の敗北は別段、あいつへの評価を下げる理由には成り得ないのだ。むしろ、太刀だけが取り柄ではないのか、と蘭に対する評価は上方修正された事だろう。

 そこに加えて俺が鬼小島に吹き込んだ偽情報が効果を表せば、森谷蘭は織田信長が一の従者の肩書きに恥じない格を備える事になる。

 要約すれば。今回の決闘、形としては敗北だが――俺は何一つとして失わずにメリットだけを得た訳だ。

 それが故に、2-Fメンバーにとっては見事なまでに価値無き勝利だろう。昨日の決闘でねねが苦戦の末に掴み取った会心の勝利と並べて見れば、その余りの収穫の少なさに哀れみすら覚える。

 目先の勝利だけに注目して、大衆の風評と言う最も大事な要素を軽視した直江大和の采配ミス――などと、ここでそんな風に彼を責めるのはお門違いだろう。

 2-F側にしてみれば、織田信長という相手は文字通り“挑むべき壁”なのだ。自分達の全力を尽くしても“手足”と対等に渡り合うのがやっとな、まさに化物と形容する他ない最凶の存在。手段を選び、手札を出し惜しんでいられるような相手ではない。加えて先程の決闘の時点では、ねねの奴に喫した一敗のお陰で後が無い状況だった訳だし、風評だの何だのと細かい事を気にしている余裕があったとは思えない。

 所詮は局地的な敗北、広く全体を見通せば何の痛痒も感じない。試合に負けても、勝負に勝つ事が出来れば問題は無いのだ。

 後は明日の大将戦がどう転ぶか、全てはそこに掛かっている。思考を巡らせていたその時、不意にギャラリーがざわめいた。

 蘭である。

 流れ出る汗をぽたぽたと床に滴らせながら、我が従者がやや危うい足取りで歩み寄ってくる。

「信長様」

「蘭」

 俺の眼前に辿り着くと、蘭はおもむろに膝を付いた。未だ整わない呼吸を落ち着けながら、苦しげな言葉を搾り出す。

「此度は偉大なる主の代理を任ぜられておりながら、力及ばず敗北を喫するという不始末。もはやお詫びの言葉すら浮かびません……どうか如何様にも処罰をお与え下さい」

 それは血を吐くような、悔恨に塗れた言葉だった。

 この決闘はそもそもにして敗北を前提とした勝負、半ば狂言のようなものだ。しかし、蘭は己の敗北に対して本気で責任を感じている様子だった。確かに、「勝てるものならば勝ちに往け」とは言ったが、心から勝利を要求した心算はない。

 いや、だからこそ、か。自身が期待されていない事を承知しているが故に、蘭は其処で掴み取る“価値ある勝利”を求めた訳だ。決闘中の一所懸命さは何も演技ではなかった、という事か。

 ……馬鹿な奴め。俺よりも弓に精通するお前が、戦力差を解せない訳もあるまいに。

 まあ結果的にその必死な姿が観客達の心を打ったのだから、良しとしておこう。

 俺は冷然たる無表情を以って、自身の足元で不動を保つ蘭を見下ろした。

「ふん、不要だ。然様に下らぬ感傷に浸る暇があれば、一秒でも多く己を磨くがいい。そして無双の名を遍く四方に知らしめよ。其れが俺の従者たる者の務めだ」

「ははーっ!寛大なる御心に感謝致します。誉れ高き主の従者に相応しい武を得る為、蘭は不惜身命の心意気を以って一層の鍛錬に励みます!蘭の精進をどうかご覧下さい、信長様!」

 先程までの悄然とした雰囲気はどこへやら、蘭は天へと握り拳を突き上げてやる気を表明していた。活力に満ち溢れたその姿を目の当たりにして、観客達がほっとしたような声を上げる。冷酷非情と噂される織田信長は己が臣下の敗北を許さない、ならば彼女はどうなってしまうのか――大方、そんな風に考えていたのだろう。御苦労な事だ。

 ただ冷酷に振舞うだけでは人は付いて来ない。飴と鞭、無慈悲さと寛容さを使い分けてこそ理想の主君。人材を集める為には、織田信長に従う事で得られるメリットをアピールしていかねばならなかった。

「森谷、少しいいか」

「あ、小島先生。はい、大丈夫です。何用でしょうか」

 鬼小島は真面目な顔で蘭をじっと見つめて、淀みなく口を開いた。

「単刀直入に訊こう。弓道部に入部する気はないか?」

「え、え。私が、ですか?」

 想像もしていなかった勧誘なのか、蘭は戸惑ったように目を白黒させた。まあ弓道部顧問としては、学生レベルを超えた腕を持つ人材を放置する方が不自然だろう。鬼小島は両腕を組みながら重々しく頷いた。

「先の決闘、見事な弓射だった。お前がウチに入ってくれれば、それは単純な戦力の補強に留まらず、部員達にとって良い見本と刺激になるだろう。私はそう確信している」

「……」

「お前はまだ部に所属していないと記憶している。他にアテがないなら――」

「申し訳ありません、小島先生」

 穏やかに微笑みながら、蘭は彼女の話を遮った。

「私の任は信長様の従者。いかなる時であれ主の傍に控え、その御身を守護するのが私の生きる意味なのです。お誘いはとても光栄ですが、私は他の道を選ぶ気はありません。私如きの未熟な弓道に目を留めて頂き有難うございます、先生」

 深々と頭を下げる蘭を、鬼小島は目を細めて見つめた。生徒に対する慈愛の込められた眼差しだった。改めて言うまでもなく、俺には向けられた覚えがない類の目である。

「……そうか。お前は自分の道を定めているのだな。その年で、中々できる事ではない。そういうことならば、私は大人しく引き下がるとしよう。無理強いする気はないのでな」

「それに、椎名さんがいらっしゃいますし、私の弓に頼るまでもなく弓道部は安泰でしょう。彼女の腕は既に天下に鳴り響いていても不思議はない程のものでした」

「椎名か。あいつの弓道への姿勢は……いや、愚痴は零さん。部員の意欲を引き出すのも顧問の務め、四の五の言う前に私が確りせねば。邪魔をしたな」

 自らに言い聞かせるように決然と呟いて、鬼小島は2-Fの集団の方へと去っていった。椎名京の方に声を掛けに行ったのだろう。弓道部顧問で2-F担任、ともなれば彼女に対しては色々と思う所がありそうだ。その辺りも後で突っついてみようか、と思惑を巡らせながら、俺は蘭に向き直る。

「決闘を終えた以上、此処に留まるはもはや無意味。往くぞ、蘭」

「ははーっ!参りましょう、主!蘭はどこまでもお供致します!」

 やけに嬉しそうな顔で張り切った声を上げる蘭を引き連れて、俺は弓道場を後にする。

 ……実を言えば。蘭が弓道部に勧誘された時、俺は口を挟むべきか大いに迷っていた。

 部活動というコミュニティーに所属すれば、蘭の閉鎖的な交友関係は大きく広がる事だろう。一方で集団に属するという事は当然、ルールで縛られ、長時間を拘束される事を意味する。これまでのように四六時中俺の傍にくっついている訳にはいかなくなるし、仮にそうなれば織田信長の貴重な手足が満足に機能しなくなるのは間違いない。しかし、その重大なデメリットに目を瞑ってでも、俺は蘭の視界に映る世界を開いてやりたいと、確かに思ったのだ。

 だが――結局は、言い出せなかった。

 主君への忠誠を言葉に紡ぐ蘭の表情は、あまりにも充たされていた。俺が口を挟む余地など、何処にも見当たらない程に。

 織田信長の忠実なる従者というポジションは、もはや蘭の人格とは切っても切り離せないものとなっている。十年という歳月は、一度は砕けた蘭の心が歪な形で在り方を確立するには十分な時間だった。無理矢理に引き剥がそうとしてみた所で、その結果として蘭が救われる事はないだろう。

 俺は、どうするべきなのだろうか。

 あらゆる難題を解決してきた脳髄は、幾ら働かせても答を与えてはくれない。

「あ!信長様、少し宜しいでしょうか」

 蘭が驚いたような声を上げて立ち止まったのは、下校中。夕日に染まる多馬川の河川敷を歩いていた時だった。

 その視線が向かう先には、川辺に座り込んでいる人影が一つ。


「……あれは」


 黄昏色に染まって何処か憂愁を帯びた横顔は、恐るべき腕前で蘭を下した弓術士――椎名京のものであった。


 








~おまけの風間ファミリー~


「ん~?どうした大和ぉ、随分と白けた顔してるじゃないか。せっかくウチの京が織田の奴に文字通り一矢報いたんだ、もっと浮かれてもいいだろうに」

「あ、姉さん。……どうにも嫌な感じがしてね。今回の決闘、確かに勝ちは勝ちなんだけど、いまいち手ごたえがないって言うか。有体に言うと、勝った気がしない」

「おいおい大和、なに妙な事言ってんだ。これ以上ない大勝利だっただろうがよ。ヘンな事言ってると京が泣くぜ」

「ガクトはもうちょっと考えるべきだと思うよ、色々と。僕も大和の言いたい事は分かる。みんな京よりも森谷って奴を褒めてた……訳分からないよ、S組は嫌われてる筈なのに」

「う~ん。アタシは難しい事は分かんないけど、信長のヤツ、部下が負けたってのに全然悔しそうに見えなかったのよね。何か企んでるのかしら」

「……。勝たされた、敢えて勝ちを譲られた……?いや、でも……んん」

「大和。おーい、大和?あーダメだこりゃ、完全に軍師モードに入ってやがるぜ。俺様を無視しやがるとは良い度胸だ」

「ちょっとガクト、邪魔しちゃマズいって。いよいよ明日で勝負が決まるんだから、軍師としては集中して策を練りたいだろうし」

「しかし、森谷蘭か。身のこなしからして剣術だけじゃないとは思ってたが、この分だとまだまだ引き出しがありそうだなぁ。あの一年坊も活きが良くて戦い甲斐がありそうだ。――メインディッシュが当分お預けなら、オードブルの摘み食いというのもアリかな?ふ、ふふふ、あぁ……想像するだけで楽しくなってきたぞ」

「(お姉さま……。今は無理でも、きっといつかアタシが!)」








 という訳で、屁理屈で負けを誤魔化す主人公の巻でした。戦略と戦術と戦闘の違い、と言った所ですね。

 ちなみに弓の腕で大雑把なランク付けをするなら、今作中ではこんな感じになります。

 京>>>蘭>>|人外の壁|>>弓道部主将>>>ムサコッス>>一般部員

 天下五弓は伊達じゃない、という事で京には無双してもらいました。しかし改めて思えば、京は近距離中距離遠距離死角なし、と本当に優秀なパラメータの持ち主ですね。しかも冷静沈着で頭も回る。百代には及ばずとも十分にチートキャラな気がしてきました。

 尚、感想を拝見すると、今作を読んで原作に興味を持ったという方が何人かいらっしゃる様で、心の底から嬉しく思います。元々原作好きが高じてキーボードを叩いているので、皆さんの報告には本気でテンションが上がりました。ちなみに原作未プレイで今作を面白いと思って頂けた方、原作の方が何倍も面白いので是非ともプレイ推奨です。

 感想は作者の原動力、という事を改めて実感しました。これからも是非今作の歩みに付き合ってやって下さい。それでは、次回の更新で。



[13860] 忠愛セレナーデ、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d23357ca
Date: 2011/04/06 15:11

「たっだいま~、空前絶後に眉目秀麗なラブリー女子高生・明智ねねのお帰りだよ!」

「喧しい。そしてここは俺の部屋だ。ネコはネコの棲家へ帰れ」

「あー疲れたぁ。今日も今日とて刻苦勉励、私の生真面目さに溢れた働きっぷりは魯子敬も認めるレベルだと思うね。いやホント」

 茜色の夕日が窓越しに射し込む黄昏時。俺の至極常識的な対応を気にも留めず、ズカズカと無遠慮に上がりこんで来た無礼者が約一名。学生鞄をぽいっと床に放り投げるや否や、無駄に身軽な跳躍で人様のベッドにダイブをかましてくれやがった小柄な少女の正体は、驚くべき事にそして嘆くべき事に、我が第二の直臣である。こいつは自分の立場というものを自覚すべきだと改めて思う。

「あれ?ランが見当たらないね。隣の部屋に居なかったからこっちだと思ってたんだけど」

 ゴロゴロとだらしなくベッドの上を転がっていたねねが首だけをこちらに向けて、怪訝な顔を作った。

「俺だけ先に帰ったのさ。少し訳アリで蘭の奴は別行動中だ。帰るまではもうしばらく掛かると思うぞ」

「むぅ、いつもながら間の悪いセンパイだね全く。頑張った自分へのご褒美を兼ねて、この私がわざわざ寄り道してまで差し入れを買ってきてあげたってのにさ」

「差し入れ?」

「ふふん。これを見ればご主人も私をぞんざいには扱えなくなると断言しておくよ」

 ぶつくさ言いながら学生鞄をもそもそと漁り、ねねが取り出しましたるは薄茶色の紙袋。

 開封すれば瞬く間に甘い香りと温かい湯気が立ち昇り、狭い部屋を充たした。

「じゃじゃーん、仲見世通りの和菓子店で買ってきたタイヤキさんだよん。賢明な私はリサーチ済みなのさ、ご主人って和菓子が好物なんだよね。能臣の名に恥じない私の働きに感謝し、存分に褒めちぎってくれてもいいんだよ?」

「……」

 鯛焼き入りの袋を片手に、ねねは偉そうに胸を張りながら何やら言っている。

 まったく、この従者と来たら……。

 俺はその中身がどれだけ詰まっているか怪しい頭を目掛けて無言で手を伸ばし、その柔らかい猫毛をわしゃりと撫でた。

「にゃっ!?」

「大儀であったぞネコ!くく、くくく、お前を見込んだ俺の目はやはり正しかった様だな!」

 テンション上がってきた。ほかほかと芳しい湯気を上げる鯛焼きを早速手に取り、三百六十度から焼き加減を確かめる。

 うむ、やはり。袋に刷られているであろうマークをわざわざ確認するまでもなく、この見事な職人技は見間違え様もない。仲見世通りの片隅にて数十年、只ひたすらに鯛焼きを売り続けてきたと噂される寡黙な老店主の作であった。俺が寂しい財布をますます軽くしてまで鯛焼きを欲した時、数ある店舗の中から一軒を厳選するとなれば、彼の老人の営む屋台以外に有り得ない。

 そも、俺とあの店の出逢いは喩え様も無く運命的で――と、回想に浸るのは後にしよう。開封後、下手に時間を置けば、折角の鯛焼きが温度を失ってしまう。電子レンジで再加熱後に食すなど以っての外、職人魂に対する限りない冒涜である。万が一にでもそんな事になれば、俺は自分が絶対に許せない。

 という訳で抑えきれない期待と共に鯛焼きの香ばしい生地を口に運ぼうとして、ふと横を見遣れば、何やらねねがぼんやりした顔で自分の髪をぺたぺたと触っていた。

 全く何をやっているのやら、焼き色も香ばしい鯛焼きを目の前についつい恍惚とする気持ちは我が事の如く理解できるが、しかしそうしている内に冷めてしまっては元も子もなかろうに。

「どうしたネコ、遠慮なく食べるといいぞ。心配せずともこの幸福を独り占めするほど俺は貪欲じゃないさ。素晴らしき美味は須らく皆で分かち合うべきなのだよ明智君」

「あ、うん、そりゃまあ勿論頂きますけども。……う~ん。何だかなぁ」

 何やら納得いかないような顔で鯛焼きに手を伸ばし、頭から勢いよく齧り付く。程好く焼き上がった生地がカリッと心地良い音を立てて、ねねの口元が綻んだ。

「あ……おいしい」

 本物の美味は自然と人を笑顔にすると云う。心の底からふわりと浮かんできたようなねねの笑顔を見れば、俺としてもこれ以上は耐えられない。取る物も取り敢えず、俺は彼女に続いて鯛焼きを口に運んだ。

 堅過ぎず柔らか過ぎず、適度に芯の通った理想的な歯応え。香ばしい生地を一息に噛み締めれば、忽ち中から溢れ出すは未だ熱を失わぬこし餡である。芳醇な香りと上品な甘みが口内一杯に広がった。

 嗚呼、至福。

「うむ――素晴らしい。文句の付け様もないな。蘭の奴に食べさせてやれないのが残念だ」

「確かにね。どこで何をやってるのか知らないけど、ランも勿体無いコトをしたよ。むぐむぐ」

「美味也」

「うまー」

 たっぷり一ダースあった鯛焼きは、気付けば十分ほどの時間の内にその姿を消していた。かくも俺達を魅了し虜にするとは、実に恐ろしき魔力である。夕食を控えて膨らんだ腹を手で押さえながら、俺は和菓子の素晴らしさと脅威を改めて実感していた。

「さて、望外の和菓子を食せて休憩も取れた事だ。疾く作業を再開するとしよう」

「ん?そーいやご主人、何やってんのさ」

 机に向かって広げたノートの中身を、ねねは背後から俺の肩に首をちょこんと乗せるようにして覗き込んだ。

「あ、勉強か。何だか意外だなぁ、ご主人もちゃんと学生っぽいコトしてるんだね」

「失敬な奴め……言っておくがな、俺以上に真面目な優等生なんぞ全国を探しても中々見つかるまいよ」

 取り敢えず、勉学に対する姿勢だけは。授業態度だとかその辺りの細かい事は考慮すまい。

「高校に通えるのはどう足掻いたって今の内だけなんだ。やるべき事はやらないとな」

 少しでも“夢”に近付く為には如何なる進路を選ぶべきなのか……今はまだ慎重に見定めている最中だが、何にしても学力を磨ける内に磨いておいて損をする事はないだろう。

 それに、わざわざ将来的な話を持ち出すまでもなく、S組に籍を置き続けるためには来るべき定期試験にて好成績を収めねばならないのだ。学年総合順位が五十位以内――それがエリートクラス・S組の在籍条件の一つである。成績が落ち込めば問答無用で“S落ち”。万が一にでもそんな醜態を晒さないためには、日々の予習復習を欠かすべきではない。

「それに、だ。残念ながら俺には武才が無いからな。必然、智で勝負するしかないのさ。伸び代が僅かでも残っているなら、活かす為の努力を惜しんだりはしない」

 そう、成長の余地があるならば。

 “智”は鍛えられるが、俺の“武”は既に打ち止めだ。幾ら血反吐を吐き散らしながら鍛えたとしても、これ以上実力が伸びる事は有り得ない。その点に関しては天下に名高き川神院、その元・師範代という世界最高峰の武人によるお墨付きだった。

 思い返すだけで身体が拒絶反応を起こしそうな地獄の修行時代、あの慈悲も容赦も欠片も無いオッサンにはそれこそ極限まで絞られたので、「あームダムダ、お前さんの才能じゃどう足掻いてもこの先には往けねぇよ」という投げ遣りな通告は嘘偽りない事実なのだろう。人格面については一切信用出来ないが、武の師匠としての優秀さだけは確かな信用に値する。釈迦堂刑部とはそういう男だ。

「へぇ、ご主人ってば見掛けによらず努力家なんだね。まあ野望のスケールを考えればサボタージュしてる場合じゃないか」

 ねねは俺の肩に頭を乗っけたまま、机の上に積んである参考書をパラパラと捲りながら感心したように言う。

 と言うかこいつは何時までこの体勢を続ける気なのだろうか。小柄な小娘とは言えど人間一匹、流石にそろそろ肩が重くなってきたのだが。

「そういう事だ。という訳でネコ、お前と遊んでいる暇は俺には無い。己が巣へ早々に引っ込むがいい」

「精忠無二をこの世に体現した存在と言っても過言じゃない私に対して、その扱いはちょっと酷いんじゃないかな。私はご主人が頑張ってる横で遊び呆けてられるような薄情な臣下じゃないつもりだよ。幸いにして教科書類はここにあるし、私も一緒に勉学に励むとするよ。くぅぅ、我ながら素晴らしく美しき忠義哉、感動で思わず泣けてくるよ」

 異議を申し立てる間もない。ねねは一方的に捲し立てながら、自前の学生鞄からノートと教科書及び筆記用具類を取り出し手際よく机に並べる。正直な所ただでさえ狭苦しい机上のスペースがますます圧迫されて迷惑極まりなかったが、擦り寄るようにして俺の隣に陣取ったねねの妙に満足気な澄まし顔に、まあ別に構うまいと思い直した。寛容さを養わなければ統率者としての器は得られない。

 という訳で、主従並んでの勉強会が唐突に幕を上げる。普段は無意味に騒がしいねねも集中する時は集中するタイプらしく、一度机に向かえば借りてきた猫のように大人しくなった。真剣な顔で口を噤み、ピンと背筋を張った正座で粛々とノートに向かう姿を見る限り、なるほど確かに良家の出身だと納得させられる。日常的にこの勤勉さの一割でも発揮してくれれば俺としては嬉しいのだが、まあ所詮は叶わぬ望みなのだろう。

 さて、従者の生態観察はこの辺りにしておくべきか。明日の大将戦に備えて策を見直しておきたいし、状況次第ではあるが手回しも必要だ。時間は幾らあっても足りはしない。自分で設定した本日のノルマを早々にこなすべく、俺は参考書を開いた。

 それから暫くの間、カリカリとペンが紙面を滑る音だけが部屋に響く。再び静寂が破られたのは、一時間以上が経ってからだった。

「ねぇご主人」

 集中力が限界を迎えたのか、ぐでん、と背中側のベッドに向かって仰向けに頭を投げ出しながら、ねねは気だるげな調子の声を上げた。

「どうした、もう腹が減ったのか?至高の和菓子をあれほど食しておきながら足りぬと申すか、卑しい従者め」

「まあそろそろ新たなお魚さん成分を胃袋に補充したいのは否定しないけど。考えてみればこうしてご主人と二人っきりで話せる機会って言うのも珍しいからさ、折角だし今しか出来ない質問をしておこうと思ってね」

「確かに蘭と別行動、ってのはなかなかレアなシチュエーションではあるな。で、何だ?」

「これ、ずぅっと気になってたんだけどさ」

 ねねはぐいっと一気に頭を起こして、横合いから俺の顔を覗き込む。

 焦げ茶色の瞳に映る自身の顔を目視できる至近距離で、ねねが探るような眼で問い掛けた。

「ご主人とランって――どういう関係なの?」

 …………。

 ………………。

「……俺と蘭の関係、ね。それは、」

 数瞬の間に用意した返答を口に出すよりも先に、その上から被せるようにしてねねが言葉を続けた。

「ちなみに分かってるとは思うけど、主従だとか家族だとか幼馴染だとか、そういうワザとらしく在り来たりな答えはここじゃ求めちゃいないからね。ご主人も別に鈍感な朴念仁って訳でもないだろうから、私が何を聞きたいのかは誤解しないでしょ?」

「……まあ、少なくとも人並みには聡いつもりだからな。質問の意図は正しく理解しているさ」

 いつかは必ず訊かれるだろうとは思っていた。ねねの性格を考えれば、むしろ今の今までその質問が飛び出してこなかった事が不自然な位だろう。

 織田信長と森谷蘭の関係。

 問われると事前に察知していたからと言って、それに対して明確な回答を用意できるかと言われれば……また別問題なのだが。

「それじゃあ遠慮なく。ぶっちゃけ、二人って付き合ってるの?」

「……。本当に直球だな……しかもストライクゾーンど真ん中という豪胆さ」

 ぶっちゃけ過ぎである。歯に衣着せないというか何というか。相変わらず物怖じしない奴だ、と半ば感心する。

「基本は変化球で攻めるのが柔能制剛をモットーとする私のやり方だけど、こればっかりはストレートじゃないと誤魔化されそうだしね。それで、どうなのさ」

 ずずいっ、とちみっこい身体を寄せながら興味津々な表情で回答を迫る従者第二号。

 これは適当にはぐらかした所で諦めてくれそうにないな、と観念して、俺は溜息混じりに口を開いた。

「お前がどんな答えを期待しているのかは知らないが、俺に言えるのは一つだけだ。そのような事実はございません」

「ふーん。ま、分かってたけどね~」

「くっくっく。そうかそうか」

 この小娘、真剣で一回シメてやらねばならんようだ。

 俺の怒りが有頂天に達する兆候を感じ取ったのか、ねねは慌てた調子で取り繕いを始めた。

「いやいや他意は無いんだよ、そこのところを誤解して貰っちゃ困るねウン。意志伝達の不備は不幸な行き違いを生みかねないから釈明の時間は必須事項だと私は心から思うんだよウン。えっと、何ていうかほら、キミ達二人は恋人同士ってイメージからは縁遠い感じだし?少なくとも私の目の届く所じゃ武士武士した遣り取りばっかりしてるよね。ホントもう時代錯誤も甚だしいって言うか戦国時代でやれって言うか――ああいや言葉の綾でしたごめんなさい怖いから睨むのミニストップ!殺意の波動はノーサンクス!」

 やけにコンビニエンスな許しの乞い方である。誠に残念ながら反省の色は見受けられない。

 やれやれだ。心の広さには自信のある俺だが、この莫迦従者の自重しない傍若無人さにはもはや嘆息する他なかった。

「全く、従者の癖に主君が地味に気にしてる事に触れるとは何事だ。それこそ俺が真に戦国大名ならば無礼討ちは免れない所だぞ」

「一応気にしてたんだ……あ、いや何でもないですハイ。うーん、そうかやっぱり付き合ってないのかぁ。でも、二人ってもう十年単位で一緒に暮らしてるんでしょ?それで何もないって言うのは不自然な気がするんだよね。逆に距離が近過ぎて異性として意識出来ないとか、そういう感じなのかな?」

「そう解釈して頂いて結構。お前には言ったが、俺にとって直臣ってのは家族同然の存在なんだよ。当然ながら蘭の奴もその枠に入る訳だ」

「ふーん。家族、家族かぁ。まあそうだよね、家族の関係に色恋沙汰は持ち込めないよね」

 何事か考え込むようにしばらく目を伏せた後、「だけどさ」とねねは続けた。

「仮にご主人の本音がそうだとしても、ランの方は違うと思うんだ。出逢って四日かそこらの私ですら分かるような事に、ずっと一緒に過ごしてきたご主人が気付いてないハズがないだろうけど――ランはきっと、ご主人の事を“ただの家族”だとは思ってないよ」

――蘭にとっての俺、か。

 幼馴染で主君で共犯者で同志で家族で、そして、


『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』


 ……女々しいな、俺も。未だに思い出を未練たらしく引き摺っているとは、情けない。

 咄嗟に歪みそうになる表情を抑えて、努めて冷静な態度でねねを見遣る。

「そうかもな」

「そうかもな……、って。それだけなの?」

 特に何の感情も込めずに放った返事に、ねねは眉を顰めた。機嫌を悪くしたのか不審を感じているのか、いまいち判別出来ない反応だ。或いは両方なのかもしれない。

 まあ俺にしてみればどちらでも良い事だった。何にせよ、この件に関しては普段の如く饒舌に語る気分にはなれそうもない。

「“それだけ”さ。どう足掻いてもそれだけだ。軽々しく言葉に出来るもんじゃないんでね。無駄口を叩けない以上、俺に言える事なんぞ殆どゼロに等しい訳で」

「……分かったよ。何か話し辛い事情が関わってるなら、詮索はしない。親しき仲にも礼儀は必要だと思うし」

 ねねは神妙な顔で引き下がる姿勢を見せた。ここで無遠慮に踏み込んでくるようなら考え直さねばならない所だったが、やはり距離の取り方を心得ている、か。

 親しさと馴れ馴れしさを履き違えないだけの賢明さを保有するこの小娘ならば、或いは。

 淡い期待を胸に、俺は静かに口を開く。

「いや。そうだな――思えばこれも、丁度良い機会かもしれない。この先、あいつの内面に関わる事でお前の力を借りる可能性は十分に考えられる。だからお前には、早い内に事情を把握しておいて欲しいと言うのが本音だ」

「……事情って?」

 恐る恐る、と言った調子で囁くように問い掛けるねねに、俺は暗い笑みを向けた。

「森谷蘭が織田信長に忠節を尽くす理由さ。その切っ掛けとなった忌々しい事件の顛末も含めて――お前には、全てを話しておこう」
























「こうやってちゃんとお話するのは初めてですね。改めまして、私、森谷蘭と言います。よろしくお願いします、椎名さん!」

「…………」

「えっと、あの」

「……何か用?」

「う、うぅ。ご、ごめんなさい。私なんかにいきなり声を掛けられても、迷惑なだけですよね……」

「……別に」

 心の底から申し訳なさそうな調子で頭を下げてくる少女に対して、椎名京は素っ気無く呟いた。そんなお世辞にも愛想の良いとは言えない態度をどう受け取ったのか、少女はますます萎縮して小さくなっている。その情けない様子に複雑な視線を向けて、京は僅かに目を伏せた。

 別に。そう、別に怒っている訳ではない。ただ、戸惑っているのだ。

 何と言っても椎名京は元・苛められっ子である。対人スキルやらコミュニケーション能力に関連するパラメータは、お世辞にも高いとは言えない。

 容赦ない毒舌と自重しないボケという個性を披露できるのは、気心の知れた幼馴染集団、風間ファミリーの輪の中でこそだ。一度外界に放り出されてしまえば、挨拶の一つも満足に出来ない無愛想な人間に逆戻りしてしまう。京が自身の所属する弓道部に馴染めずほとんど幽霊部員と化している事や、ファミリーの面子以外のクラスメートから孤立している事には、主にその辺りに原因があった。

 現在もまた同じ。人懐っこい子犬を連想させる無邪気さで接してくる彼女の態度に、どう対応していいか分からないだけだった。

 ただまあ、じわじわと涙目になりつつある少女の姿を見る限り、このまま対応を変えなければ少なからず面倒な事になるのは明白である。仕方が無い。京は小さく溜息を吐いて、重い口を開いた。

「……急に声を掛けられたのは驚いたけど、怒ってない。迷惑でもない。そんな風に謝られても、困る」

「う、うぅ。ごめんなさい」

「…………ハァ」

 苦手なタイプだ、と京は思わず溜息を漏らした。これが本当に“あの男”の懐刀と言われる存在なのだろうか、と内心疑わずにはいられない。

 森谷蘭。2-S所属の転入生にして、織田信長の直臣。“手足”の一本にして筆頭。

 京のイメージしていた彼女は、主君の命に忠実に従い、淡々と敵を殲滅する事のみに興味を見出す“道具”――鋭利で冷徹な、即ち抜き身の刃の如き人格の持ち主だった。実際、弓道場にて決闘に臨むまで、彼女は意図的にそういった雰囲気を見る者に感じさせるように振舞っていたように思う。

「あの、私、椎名さんとお話がしたくて。帰り道で偶々見かけたので、こうやって……あの、やっぱりご迷惑でしたか?」

 だがしかし。実態はコレである。少しばかり想像の斜め上を行き過ぎていた。

 決闘中の凛とした振舞いが見る影も無く崩れ去った少女のおどおどした姿に、何だか頭が痛くなってくるような気分の京である。

「何度も言うけど。怒ってないし、それほど迷惑じゃない。……そんな風に謝りすぎるのは、相手にしてみれば心が狭いって言われてるみたいで印象良くないよ」

「あ、ご、ごめ……いえ失礼しました!ご教授ありがとうございます、蘭はまた一つ賢くなりました。もう何があっても謝りませんよ!」

「何やら最低な人間を生み出してしまった予感。この罪は墓場まで持っていこう」

 織田信長の懐刀は想像以上に愉快な個性の持ち主らしい。そこでふと、京は赤の他人と話しているにも関わらず自分がそれほど緊張していない事実に気付いた。ファミリー外の人間と話す時はどうにも普段の調子が出ないのだが、目の前の少女を相手に緊張するのはこれ以上なく馬鹿馬鹿しい行為のような気がするので、その辺りが理由だろうか。

「えっと。隣、宜しいですか?」

 黙って頷くと、蘭はいそいそと隣に腰掛けた。一体何が嬉しいのか、えへへ、と笑う。

 正直、やり辛い。

「今日は、風間ファミリーの皆さんは一緒じゃないんですね」

「ちょっと考え事がしたかったから、一足先に下校中。正直、あのまま弓道場にいたら色々と面倒だったし」

 ああいう人が多い所は好きではない。それに、2-F担任にして弓道部顧問のウメ先生にはしつこく声を掛けられる上、弓道部員達に向けられる多種多様な視線も鬱陶しかった。賞賛するような目、戸惑うような目、責めるような目。それら全てが入り混じった目。何れも等しく京にとっては無価値で、煩わしいだけだった。

「そっちは」

「え?」

「“主”は?私の中ではいつも一緒にいるイメージだけど」

「あ、信長様には先にお帰り頂いています。私事で主をお待たせする訳にはいきませんから」

「そう」

 眼前に横たわる多摩川は、夕日の色を反射して黄昏色に染まっている。京は川面をぼんやりと見つめながら、ぽつりと呟いた。

「多分」

「?」

「皆、あなたに勝って欲しかったんだろうな、って。そう思う」

 決闘の後にギャラリーの間に生じた空気から、京は何となく大衆の意思を感じ取っていた。昔からそういう類の感情を向けられる事には慣れている。望むと望まざるに関わらず、己の心身を護るためには悪意に敏感である事が必要だった。

「良く言われる。私の弓には、“礼”が無いんだって」

 昔から弓の天才と呼ばれてきた京は、大した努力などせずとも華々しい成果を挙げる事ができた。皆が口を酸っぱくして説く“武道に対する礼”とやらを殊更に意識せずとも、ただ無心で弓と向き合えば、自然と結果は表れた。誰よりも迅く、誰よりも正確に。凡人が千の努力を積み重ね、心身を厳しく鍛え上げてようやく至る境地に、京は涼しい顔で立っている。その事実は周囲の人間に拭い難い悪感情を植え付けた。妬み、僻み、嫉み。出る杭は打たれるのが世界の法則だ。

――しかし、京にとってはそんな事は、正しくどうでも良かった。

 悪意の受け手となる京自身がそれらを無関心に片付けるため、事態はいつまでも改善しない。しかし、それが一体何だと言うのだろうか。風間ファミリーの皆は決して自分をそんな不愉快な目で見たりしないし、ありのままの姿を受け入れてくれる。ならば何の問題もない。外部の連中にどう思われようと、京の知った事ではなかった。

「……しょーもない」

 注目されるのが苦手な京が、わざわざ決闘に臨んで勝利したのは、別に“どうでもいい”連中を喜ばせる為ではない。全てはファミリーの力になる為だ。幼馴染の皆が勝利を喜び、祝ってくれた現実に、京はこれ以上なく満足だった。

「――椎名さんは、何の為に弓を取られているのですか?」

 だから、おもむろに口を開いた蘭の質問はやけにピンポイントで、京は咄嗟に思考を覗かれたような不快さを感じたのであった。別段痛い所を突かれた訳でもない筈なのに、思わず返答に棘を含んでしまう。

「……質問の意味が分からない」

「椎名さんの弓は、私では及びも付かない程に洗練されています。それほどの“武”を振るうには、やっぱり理由が必要だと思うんです。“心”と言うか、その、ですから、えっと」

 わたわたと慌てて言葉を選んでいる蘭の姿に、京は小さく息を吐いた。
 
 織田信長は2-F及び風間ファミリーの敵対者で、即ちその手足である蘭もまた立派な敵だ。本来ならばこうして会話を交わしている状況こそ有り得ないし、ましてや互いの内面に立ち入った話をする必然性などない。精神的に万年鎖国を旨とし、絶えず攘夷令を発している京にとっては尚更である。

「……それを聞いてどうするの?」

「あの、その。椎名さんの弓が本当に素晴らしいものだったので、後学の為にもその秘訣をお伺いしたくて。あ、あの、もちろん無理にとは言いません。敵対している相手に話すようなことでもないでしょうし……」

「……」

 しかし。京は、不思議と彼女を拒絶する気になれないでいる自分に気付いた。

 後にして思えば、京は確認したかったのだろう。初対面の時から蘭に対して抱いていた違和感。シンパシーとも言うべき感情の正体。

 似ているようで似ていない。似ていないようで似ている。

 歪な鏡面に映った自分の写し身を見ているような奇妙な感覚――その違和感の正体を掴み、解消する為ならば、ほんの僅かに鎖国を解いてみるのもアリかもしれない。そんな風に思った。

「いいよ、話しても。減るものじゃないし」

「え、わ、本当ですか!?あ、ありがとうございます!」

 まだ話してもいないのに深々とお辞儀している蘭に呆れの目を送りながら、京は口を開いた。

「……私が弓を取る理由は、皆のため。それと、愛のため」

「風間ファミリーの皆さんと、えっと……、愛、ですか?」

「愛。英語で言うとラヴ」

「は、はぁ。ラヴですか」

 面食らったような表情の蘭から目を離し、再び多馬川の流れに視線を向ける。忽ち川面に浮かび上がるは片時も忘れず心に住まう想い人、直江大和の肖像である。

 小学生の時、孤独のまま苛めに耐えていた京を颯爽と救い出してくれた、白馬の王子様。

 彼との出逢いが無ければ、京は自分がどうなっていたのか想像も付かない。風間ファミリーの一員に加わる事も出来ず、執拗な苛めから逃れられる事もなく。そんな運命を辿っていれば、自分は今頃、壊れてしまっていたかもしれなかった。それに何より――幼き頃から常にこの胸を満たしている、燃え滾るような想いを知らずに生きていただろう。それは、考えるだけでも恐ろしい話だった。

 必ず添い遂げると心に決めた想い人の姿を脳裏に浮かべながら、京は歌うように口を開く。

「大和の役に立ちたい。大和に褒めて貰いたい。大和の敵は、一人残さず仕留めたい。そう思うのは、私が大和を心の底から愛しているから。私が弓を取るのは、愛のためだよ」

「じ、情熱的なんですね。そんな風にハッキリと言えちゃうって、凄いと思います」

 蘭は照れたように顔を赤くしながら感心していた。京にしてみれば当然の事を当然のように口に出しているだけなので、何も恥ずかしい事はない。それに――相手が相手だ。気後れする理由はどこにもなかった。普段どおりの涼しい表情で、京は淡々と言葉を返した。

「他人事みたいな言い方はおかしい。あなたも同じハズ」

「……え、え?」

 何を言っているのか分からない、とばかりのきょとんとした表情である。

 何とも白々しい反応だ、と京は思う。誰よりも間近で射場に立つ彼女を見ていたのだ、気付かない道理がない。

 彼女が何の為に、誰の為に弓を取り、弦を引き、矢を放っているのか。

 精神を磨り減らし、肉体を酷使し、自身を限界にまで追い詰めながら戦っているのか。

 他人などの為に人間はあそこまで必死になれやしない――と言うのが京の自論である。他人でも自分でもなく、ただ愛の為であってこそ、人はあらゆる苦難を乗り越えてみせるのだ、と。

 故に京は、森谷蘭という少女から自身と同類の空気を感じ取った。そして決闘の最中、彼女が独り呟いた名を聞けば、その想いが誰に向けられているかは明白であった。

「ククク。私のラブセンサーは誤魔化せない。あなたもまた、私と同じ……愛の為に生きてるね」

「なぁぁっ!?」

 すぐ隣で素っ頓狂な声を上げる蘭は、先程までとは比較にならないレベルで顔を真っ赤にしている。何ともまあ、分かり易い反応である。単純さに掛けてはウチのワン子とも張り合えるのではないだろうか、などとぼんやり思考する京を余所に、蘭は明らかにテンパった調子の喚き声を上げていた。

「ななななッ!何を仰っておられるのか判りかねます!」

「だったら分かり易く言うまで。あなた、好きな人がいるね。具体的に言うと例の“主”」

「……っ!?」

 陸に打ち上げられた魚の如く口をパクパクさせているのは、混乱の余り言葉が浮かばないからだろうか。

 見物していて面白いのでしばらく放って置こうかとも思ったが、下手に時間を与えて否定されるのも面倒なので、京は有無を言わせずさっさと畳み掛ける事にした。

「ここでさっきの質問をお返しさせて貰う。あなたが武を振るうのは、何の為?」

「それは勿論、主の為です!あ、で、ですがそれは、従者として当然の忠義の心であって!ラヴではなくロイヤリティと言うかですね!」

 顔面から蒸気を噴出さんばかりの有様では説得力がまるで足りなかった。どれだけ致命的な鈍感でも、この様子を見れば彼女の本心など一目瞭然である。

 京は幾度目になるか分からない、呆れを多分に含んだ視線を蘭に向けて、その往生際の悪さに小さく溜息した。

「恥ずかしがる理由が分からない。人を愛するのは何も悪い事じゃないのに」

「そ、それはそうかもしれませんが……って違います違います、ラヴ違いますロイヤリティー!」

「へぇ。私には好きな人の名前を言わせておいて、自分はそういう態度取るんだ。それってなんだか、そう……信義にもとるんじゃないかな」

「う、うぅぅうぅ」

 あなたが勝手に口にしたんじゃないですか、と言い返されてしまえばそれまでなのだが、蘭は“信義”という言葉の効果か、苦悩の唸り声を上げて真面目に葛藤していた。いかにもそういう類の言葉に弱そうなタイプだ、との京の分析は正しかったらしい。さて、もう一押しか。

「あなたが周囲に知られたくないなら、絶対に口外しないと誓う。口の堅さには自信アリ。シャコ貝レベルを保障する」

「う、ううう。ホントに誓って頂けますか?」

「嘘だったらどんなペナルティでも受けるよ。針千本呑んでもいい」

「―――な、ならば!どうかこの誓紙にご署名を!」

 叫びながら学生鞄から取り出したるは、“熊野牛王符”。誓約書として用いられる特殊な神札である。厳しい雰囲気を放つそれを胸の前にてバッと広げてみせながら、蘭は大真面目な顔で京に迫った。

 何故そんな時代錯誤な代物を持ち歩いているのかとツッコミたいのは山々だが、迂闊な発言はこの流れに水を差しかねないので我慢する。京は神妙に誓紙を受け取ると、蘭の言葉を口外しない旨に自分の名前を添えて書き記した。

「これでいい?」

「……はっ、確かに。椎名さんの誓約、受け取りました。私も覚悟を決めます!」

 決意の光を瞳に宿す。

 そして蘭は、すうぅ、と大きく息を吸い込んだ。

「私は―――私、森谷蘭はッ!主、信長様をッ!お慕い申し上げておりますッ!!」

 溢れる想いは暑苦しい叫びと化して、夕暮れの河川敷に木霊する。

「…………。…………あ、そうなんだ」

 茹蛸を連想させる顔で盛大な宣言を終えた蘭に、京は微妙な表情で頷きを返した。そんな判り切っている事を、あたかも一世一代の大告白をするような気迫で言われても困る。

 この分だと本人に想いを告げる時はどんな大騒動が勃発するのか、想像するのも恐ろしい。

「はー、はー、……う、ううう、蘭は、蘭は言ってしまいました」

 頬に両手を当てて奥ゆかしく恥らっている蘭に、京は至って平然と言葉を掛ける。

「お疲れ様、と言っておく。この場合はむしろご馳走様、なのかな」

「う、う~、椎名さんは意地悪な人です!」

「これは心外なコトを言う。私なりの祝福なのに。それにしても、普段自分がやってる事とは言え、第三者の視点から客観的に見ると……。………………………」

「ど、どうしてそこで黙り込むんですかぁっ!何か言って下さいよぅっ!」

「冗談だよ。むしろ同士を見つけられて嬉しいかも。堂々と愛を叫べる人間が変人扱いされる現代社会。後悔も反省もしないけど、やっぱり少し肩身は狭かったり」

「椎名さん……これまでお一人で戦って来られたんですね。さぞやお辛かった事でしょう」

 憂愁を感じさせる呟きが心の琴線に触れたのか、蘭は目をウルウルさせながら京の手を両手でガシッと握った。そのままブンブンと手を上下にシェイクされながら、京は淡々と口を開く。

「だけど、喜ばしいニュースが一つ。愛の戦士は私だけじゃなかった。もう何も恐くない」

「あ、愛の戦士ですか?えっと、私がそうなのかはちょっと分からないですけれど」

「嘘だね。あなたからは同類の匂いがする……ターゲットが寝る前に先んじて布団に潜り込んでおいたり、風呂場にて裸で無音待機して嬉し恥ずかしドッキリ☆ハプニングを演出したり、朝起きる前にやっぱり布団に潜り込んでおいたりしてるハズ。そんなあなたは愛の戦士を名乗ってもいい。私が許すよ」

「わわわわ私はそんな不潔な事はしませんっ!い、色仕掛けだなんて、ふふ、不埒な!し、椎名さん、まさかまさかとは思いますがそんなはしたない事を常日頃からっ!?」

 実際はもっと過激な事も色々と実行している京だったが、流石にその内容までは口にしなかった。“この程度”のレベルで泡を食っている蘭が聞けば失神くらいはしかねない。

 という訳で余計な事は言わず、京はニヤリと口の端を持ち上げて笑ってみせる。

「イエス。既成事実さえ作れば大勝利。不潔でも不埒でも構わない、そこに愛があるなら問題なし」

「大有りです!男女七歳にして同衾せず、常識ですよ!大体ですね、主の寝床に這入るなどと畏れ多い事を出来る訳が……あ、主の……うぅ」

 果たして何を想像したのか、蘭は赤面して黙り込んだ。その様子を眺めて、京は重々しく頷く。

「私も最初はそうだった。……ような気がする。だけど、恥ずかしがってたら前には進めない。全ては愛のため。愛は全てに優先される。何故なら私たちは――愛の戦士だから」

「うぅ、私はどうあっても愛の戦士なんですね……」

 あくまでマイペースな京に抵抗は無駄だと諦めたのか、蘭はがっくりと肩を落としている。

「それにしても分からない。人の趣味はそれぞれだけど、どうしてあの“主”にラヴを向けられるのか」

 正直な疑問だった。京の目から見て、蘭の“主”、織田信長という男は途轍もない危険人物である。人間らしい感情など一切窺えない冷酷無比な雰囲気と、自分以外のあらゆる者を塵芥の如く見下した傲岸不遜な態度。加えて、触れる者皆切り裂くナイフ――どころの話ではなく、あたかも迂闊に近寄れば無差別に首を刎ね飛ばす処刑鎌の如き凶悪な空気を醸し出している。全身から発するオーラがあまりにも暗黒寄り過ぎて、一般的な恋愛対象として相応しいとは到底思えない。

 こうして会話を交わした限りは、蘭はどう考えても善人寄りな感性の持ち主である。悪の帝王を地で行く信長に惹かれる動機など見当も付かなかった。

「何か、理由でもあるの?」

 言いながら思い出すのは愛しの彼、直江大和との出逢いである。京が熱烈な恋に落ちた切っ掛けは、大和が身体を張って苛めから助け出してくれた事だが――或いは蘭もまた自分と同じような経緯を辿っているのではないか、そう考えたのだ。

「私が、主を愛する理由……ですか」

 京の零した疑問の言葉を受けて。
 
 蘭はやけに緩慢な動作で首を回し、京に向き直った。

「ふふ、簡単な事ですよ。何せ私は、主の。信長様の忠実なる従者ですから」

 ニコリ、と朗らかな笑顔を浮かべながら、蘭は正面から京を見つめている。

「……っ!?」

――不意に、ゾクリと背筋が冷えた。

 違う。自分を見てなどいない。彼女の視線は眼前の京を通り越して、何処でもない虚空を彷徨っていた。

「私の身も心も全ては主の為に在ります。この身は血肉の一片に至るまで主のもの。この心は喜びも怒りも悲しみも憎しみも、愛も、何一つとして余さず主のもの。だって私は信長様に永久の忠誠を誓った臣下なんですよ?そんな事は当たり前じゃないですか、わざわざ問う必要なんて無いでしょう?おかしなことを訊きますね。おかしな人です。ああ可笑しい。ふふ、ふふふっ」

 その双眸に溢れんばかりの狂気の色が浮かんでいる様に映ったのは、彼女の横顔が夕焼けの血色に染められているが故の錯覚か。

 曇りのない無邪気な笑顔で小首を傾げながら問い掛ける蘭の姿は、えも言わず空恐ろしい感覚を京に植え付ける。

「……」

 得体の知れない化生と対峙しているかのような悪寒。

 突如として雰囲気を変貌させた蘭の異様な迫力に呑み込まれ、京は思わず言葉を失っていた。

「そうです、私は従者で、私は……、…………。……あ、あれ?私、何を……?」

 不意にぱちくりと瞬きをして、蘭は戸惑ったように呟いた。

 瞳に宿るのは困惑と当惑。そこに狂気はない。先程覗かせた異質な雰囲気は、既に霧散している。

「……覚えてないの?」

「えっと、あ、椎名さん……。ごめんなさい!私、何か失礼なことを言ってしまったでしょうか?あの、私、昔から時々こういう事があるんです。自分でも何を考えてるか分からなくなって、意味の分からないことばかり言っちゃって。ですからその、さっきの事はどうかお気になさらないで下さいね!」

 驚かせちゃってごめんなさい、と何度も何度も折り目正しく頭を下げる蘭に、嘘を吐いている様子は無い。

(コレって、まさか)

 京は驚きに目を見開いた。二重人格。そんな有り触れた言葉が咄嗟に頭を過ぎる。

 ジキルとハイド、解離性同一性障害。実例を目にした事は無いが、極端な雰囲気の変貌と局所的な記憶の喪失――京の知識にある症状と見事に当て嵌まっていた。

「…………」

「あ、あの、椎名さん、お気を悪くされましたか?ほ、本当に申し訳ないです、せっかく私なんかのお話に付き合って頂いたのに、こんな見苦しい姿をお見せしてしまって。気味が悪いですよね、こんなの」

 寂しげに笑って見せる蘭に、京が感じたのは――苛立ち。

 何かを諦めてしまったような彼女の弱々しい表情が、何故か無性に気に入らなかった。

「うぅ、私はやっぱり駄目駄目です……これ以上はご迷惑でしょうし、もう失礼しますね……」

「待って」

 哀れみを誘うほどに縮こまり、背中を向けてトボトボと立ち去り掛けた蘭を、京は語気鋭く呼び止めた。

 びくっ、と蘭が大袈裟に飛び上がって、恐る恐るといった調子で振り向く。

「何度も言うけど。別に怒ってないし、迷惑でもない。そんな風に勝手に私の気分を決め付けられる方が、よほど迷惑」

「え、あ、あの、でも」

「大体、情けないだとか駄目駄目だとか言ってるけど。こっちにしてみればそんなの今更過ぎる。期待されてるとか思う方が間違い」

「う、うぅぅ。ごめんなさい……」

 刃で切り付けるような鋭い舌鋒に、蘭は涙目でしょんぼりと肩を落とす。

 その哀愁漂う姿に自身の不器用さを再認識しながら、京は自身への呆れと戸惑いが入り混じった溜息を吐いた。

(私は何をやってるのかな、全く)

 自分もっと他人に対してはクールでドライで、間違ってもこんなお節介なキャラではなかった筈なのだが、どうにも調子が妙だ。ファミリー以外の人間がどうなろうと知った事ではないし、ましてや目の前の少女は紛れもない敵である。本来ならば京が気に掛ける理由など何処にもない。勝手に立ち去るならば、わざわざ呼び止める必要などなかったのに。

(……我ながら良く分からない、けど。まあ、いいか)

 周囲との人付き合いの悪さを改善するように、と大和からは再三に渡って忠告されている訳だし、考えてみれば好都合ではないだろうか。

 京が現在のようにファミリーを除く他人に対して興味を抱き、自ら能動的に関わろうとする事など極めて稀だ。理由が分からずとも、この気紛れはチャンスと捉えるべきだろう。十数年を掛けて培ってきた性格がそう簡単に変わる事はないとは思うが、蘭との関わりは何かしらの切っ掛けになるかもしれない。
 
 そんな風に思考を纏めると、京は改めて蘭を眺めた。

 試合の際には武人としての凛々しい物腰を見せたと思えば、礼儀正しいのか単純に気が弱いのか判断に困る態度で声を掛けてきて、更には何やらエキセントリックな一面も併せ持っている模様。
 
 色々と強烈過ぎる個性の持ち主だが……間違いなく言えるのは、彼女もまた川神学園に相応しい奇人変人の類であるという事だ。
 
 本来ならばファミリーの敵であるという事実を差し引いても関わり合いを持ちたい相手ではない、と思う所だが。
 
 一途な想いを胸に秘め、誰かの為に武を振るう――そんな彼女の在り方を知っているだけで、そう悪くない関係を築けるような。

 そんな気がした。

「もう謝らないんじゃなかったの?有言不実行は感心しない」

「で、でも。私、みっともない姿を」

「……ハァ。忘れたとは言わせないよ。あなたもまた愛の戦士……なら分かるハズ」

「?」

「ラヴの前では全てが些事、多少の挙動不審なんて何でもない」

「え、えええっ、ラヴですかっ!?と言うか私はもう愛の戦士で決定なんですね……」

「あなたは私が初めて出逢った同士、云わばソウルシスター。語るべき事はまだまだある。私の許可を得ずに勝手に逃げるのは禁止行為です」
 
「そうるしすたぁ?」

「愛の戦士として真に目覚めたばかりのあなたは未熟。よって私にはベテランとして後進を導く義務がある」

「え、え?あの、椎名さん、何だか目が怖いですよ……?」

「あなたには特別に私が編み出した情熱的アプローチの数々を伝授してあげる。ありがたく思うといい」

「え、えっとあの、お気持ちは嬉しいですけど、い、色仕掛けとかはちょっと私は遠慮させて――」

「ぬるいっ!」

「ひぇっ!?」

「ぬるいね、ぬる過ぎる。ヌルヌルだよ。イヤらしい。そんな覚悟で愛を語ろうとは笑止。それじゃ私のソウルシスターは務まらないよ」

「いえですから、そうるしすたぁって一体」

「そういう訳なので、大人しく教えを受けるといい。ククク、逃げられるとは思わないことだね」

「う、うぅ。……何卒、お手柔らかにお願いします……」

 黄昏色に染め上げられた多馬川の河川敷にて、邪な恋愛談義に花が咲く。

 帰宅の途に就く学生は二人連れの女子高生達が醸し出す異様なオーラに恐れを成して、丁重に見て見ぬ振りを決め込んだと云う。













「――なるほど。なるほどね。それで、ランは“ああ”なってるんだ。何て言うか、壮絶だなぁ」

 複雑な調子で感想を口にして、ねねはぐてりとベッドに頭を投げ出した。

 俺が思い出したくもない思い出話を淡々と語り終えた、その直後の反応である。

 皹が縦横無尽に走った天井を眺めながら、放心したようにぼんやりと呟く。

「しかしまあ、ランもあれで結構ハードな人生送ってるんだねぇ。人を外見で判断しちゃいけないってのは真理だと思うよ、全くさ」

「ま、蘭の場合、大体は見た通りなんだがな。イカれたパーツが大事な部分に混じり込んでるだけだ。それが全体を狂わせている」

「そういうコトかぁ。いや、色々と納得がいったよ。“忠臣”ね……ランらしいよ、ホント」

 しみじみと言ったきり、ねねは口を閉ざし、そして目を閉ざして眉間に皺を寄せていたが、暫くしてから勢い良く身体を起こした。 

「うん、壊れてるなら修繕が必要だよね。機械だろうと精神だろうと、メンテナンスを欠かしちゃ上手く回らない」

「……」

「わざわざ話してくれたのは、パーフェクトサーヴァントたるこの私を頼ってくれたと判断していいんだよね?だったら任せてよ。この聡明な頭脳をフル稼働させてサポートに回るからさ。それが私を拾ってくれたご主人への恩返しになるなら安いモノだよ、うん」

 ねねは俺の顔を横から覗き込んで、少し恥らったように目を泳がせながら言った。

 忠誠心なんぞあってないような物だと思っていたが、何とも可愛い事を言ってくれる。

 日常的にこの殊勝さの一割でも発揮してくれれば俺としては嬉しいのだが、まぁそれもまた、所詮は叶わぬ望みなのだろう。

「全く、お前は。なぜベストを尽くさないのか」 

「うん?」

 心から漏れ出た俺の呟きの意味を理解できる筈もなく、ねねは怪訝そうに首を傾げていた。

「何でもないさ。言っても詮の無い事だろうよ。……しかし、蘭の奴はまだ帰らないのか。何処で何をしているのやら」

 決闘を終えて弓道場を後にしたのが五時頃で、既にそれから約二時間半が経過している。窓の外では夕日が沈み終え、夜の帳が下りていた。

 俺という足手纏いが横に居ない以上、武においては人外の域に達している蘭が自分の身を守るのは容易なので、その点に関しては心配するだけ無駄なのだが。

 この場合における唯一にして最大の問題は――織田家の家事の悉くを森谷蘭が担当しているという事実である。

「なぁネコ。腹が減ったとは思わないか?」

「いや全くだねご主人。奇遇だなぁ、私も同じことを考えてた所だよ。これぞ別ち難き主従の絆って奴だね!」

「そんなお前に朗報だ。蘭の部屋の冷蔵庫に買い置きの食材が入っている。あとは……分かるな?」

「あははやだなぁご主人。私の出身は明智家のお嬢様なんだよ?包丁なんて危ない光物は握った事もないさ。だけどご主人はあれでしょ、昔から今みたいな極貧生活を送ってきたんでしょ?当然ながら自炊スキルくらい保有してるよね」

「生憎と俺は生まれてこの方、あらゆる意味で台所に立った経験が無い事が自慢でね。お前が従者で主君が俺で。この状況下において誰が夕飯を用意すべきか、賢いお前なら一目瞭然だろう?」

「私が賢く美しいのは否定しないけどさ、世の中には適材適所っていう至言があるんだよ。そこのところをご主人はどう思ってるのかな」

「パーフェクトサーヴァントは決して主君の手を煩わせたりはしない、というのが俺の見解だな。今まさにお前の忠誠が試されているぞネコよ」

「むむむ」

「何がむむむだ」

 俺とねねが臨時料理人の座を押し付けあって不毛な争いを繰り広げている間にも時は過ぎ、腹の虫は増長して騒ぎ立てる。

 かくなる上は二人揃って記念すべき料理人デビューを果たし、揺るがぬ結束の下、食用に耐え得る夕食を作り上げよう――と悲壮な決意を固めていた時、カンカンカン、と階段を駆け上る足音がドアの外から響いてきた。

 この倒壊間近のアパートに棲息している住人は現在、織田一家のみである。

 故に、足音の主が俺達にとってのメシアである事は疑いなかった。

「きた!ランきた!メイン料理人きた!」

 空腹のあまり自慢の脳細胞が残念なことになっているのか、ねねは何やら有頂天な感じで叫びながら玄関へと突撃を敢行していた。

 猛烈な勢いで扉を押し開く。幸いにしてドアの前には未だ辿り着いていなかったらしく、不意打ちのスマッシュで二階から叩き落される事は無かった。

 部屋の入り口が開放されてから数秒後、我が従者第一号が息を切らせながら慌しく玄関に走り込んでくる。 

「はぁ、はぁ、ふ、不肖、森谷蘭!只今帰還致しましたっ!夕餉のご用意が遅れてしまい、主にはお詫びの申し上げようも無くっ!」

「今はそんな事はどうだっていいじゃないかラン、真にキミがご主人の為を思うなら、頭を下げるより一刻も早く料理に取り掛かるべきだと私は思うんだ。って訳でさぁさぁハリー!ハリーハリー!ハリーハリーハリー!」

「そ、その通りですね。ねねさんには教えられてばかりです。よし、お待たせしてしまった分、今日は気合を入れますよ!献立は何をご所望でしょうか、ある……じ……」

 さっそく台所に立って手際よく調理の準備を始めていた蘭だったが、意を伺おうと俺の方を向いた瞬間――硬直した。

 何事か、と問い掛ける間もあらばこそ、見る見る内に蘭の頬は赤みを増してゆき、数秒後には完熟トマトの如き有様へと変貌を遂げる。

「う、うぅ、うぅうう。主、蘭は、蘭は――汚されてしまいました……主に合わせる顔がありませんっ!」

 色々と聞き捨てならない台詞を残しながら、蘭は両手のステンレス鍋とお玉を放り投げて、脱兎の如き勢いで玄関から飛び出していった。

「…………」

 まさか椎名京がそっち系の人間だったとは、調べが足りなかったばかりに俺の従者が毒牙に掛けられるとは不覚、等と多様な思考が脳裏を駆け巡るが、取り敢えず差し当たって言いたい事は一つである。

 ねねが俺の気持ちを代弁するように、開きっ放しの玄関に向かって悲痛な表情で叫んだ。

「待って、待ってよ!キミの力が必要なんだ!このままじゃ私の胃袋が空腹でマッハなんだってば!」

 夜闇に木霊する、魂の叫びに対しての返答はなく。

「椎名さん、私には無理です~!」という謎の泣き言だけが、ボロアパートに虚しい反響を残したのであった。

 
 

 


 



~おまけの風間ファミリー~



「~♪」

「何だか上機嫌だね、京。やっぱり決闘で勝てたのは嬉しかった?」

「ん、それもあるけど。比率としてはソウルシスターが見つかったのが大きいかな」

「何よソウルシスターって。魂の姉妹?私とお姉さまみたいに魂で繋がってる関係かしら」

「似て非なるもの。具体的に言うなら、将来的には大和に襲って貰う方法を一緒に考えてくれそうな存在だったり」

「どこが似てるのよ!まったく失礼しちゃうわ。ホラ大和、黙ってないで何かツッコミなさいよ」

「そうだな――皆に話がある。ちょっといいか?」

「ははは、こいつスルーされてやがるぜ、イデッ!?ワン子テメェやりやがったな!」

「うー、いちいちうっさいのよアンタは!ほっときなさい!」

「おーいお前ら、じゃれ合うのは後にしとけー。私の舎弟が何か真面目な話するっぽいぞ」

「その凛々しい表情……もはや永久保存したいレベルだね。それで、どうしたの?大和」

「明日の大将戦について、ずっと策を考えてたんだけど……生憎、最善と思える“策”は一つしか思い浮かばなかった」

「結構じゃないか弟よ。一つでもベストと思える作戦を立てられたなら万々歳だろ」

「確かにそうなんだけど、これがまた色々と極端な策でね。下手をすると策ですらないと言われても仕方が無いようなものだ。だから、まずは皆の意見を聞いてみたい。俺の提示するこの策が――信長に、通用するかどうか」













 という訳で、今回は織田家のしょーもない恋愛事情について。
 本来の予定では半分ほどの文量でさくっと終わらせる予定の話でしたが、中身の無いダラダラした会話を適当に追加していく内に、気付けば二万字を突破していたという。何とも作者の計画性の無さが露呈するエピソードですね。この反省を次回以降に活かせる人間になりたい。
 次回はいよいよセカンドステージ大詰め、大将戦です。対戦カードは……既に皆さんに予測されていそうで怖いですが、意外性を出せたらいいなぁ。
 基本的に四月中は非常に多忙なため、更新はやや遅れるかもしれません。気長にお待ち頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。
 
>ムジカさん
修正しました、ご指摘ありがとうございます。どうやら色々と調べながら書いている内に混同してしまった様です。

>kurowokaさん
改めて見直すと確かに文の繋がりが妙ですね。修正しました、ご指摘ありがとうございます。



[13860] 殺風コンチェルト、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d23357ca
Date: 2011/04/15 17:34

「あ、主……、信長様。あの、どうかお目覚めに――いえやっぱりでも、う、うぅ……ええい、ままよ!」

 四月十六日、金曜日。ゆさゆさと優しく体を揺すられて、俺が朦朧とした意識の中で朝の到来を認識し、部屋に差し込む清々しい朝の日差しを網膜に感じるべくその両目を開いた時――眼前には蘭の顔が在った。それも生半可な眼前ではない、互いの吐息がダイレクトに唇に触れ合う超絶至近距離である。確か先週辺りにも似たような事があったな、この俺に二度目の奇襲など通用せぬわ思慮の浅い従者め、などと未だ覚醒を果たさない我が脳髄は暢気にも余裕に満ち溢れた思考を見せていたが、すぐにその余裕は跡形も残さず消し飛んだ。何せ覆い被さるようにして間近に迫る蘭の表情は、頬を赤く染め、ウルウルと目を潤ませて、なんというか形容するならばさながら接吻直前の乙女のような感じで――

「っっ!!」

 此処に至ってようやく事態を正確に把握する。同時に形振り構わず全力で後退り、結果としてヘッドボードに後頭部を痛烈に打ち付ける羽目になった。

「~っ!」

 起床を知らせる鐘の音を自分の頭蓋骨を以って高々と打ち鳴らす。素晴らしく効果的な目覚ましだが、この言語を絶する激痛が伴う限り実用性は皆無と言わざるを得ない。下手人の莫迦従者はと言えば、ベッドの上で悶える俺の姿に気付いた様子もなく、真っ赤な顔で何やらぶつぶつと呟いていた。

「う、うぅうう、あ、主……、蘭は、蘭は!う、うう、や、やっぱりこんなの無理ですよ椎名さん~!」

 昨晩の奇行を再現するかの如く、何処かの誰かへと謎の泣き言を叫びながら部屋を飛び出していく。

 バタン!と老朽化した部屋が倒壊しそうな勢いでドアが閉められ、そして後頭部を抱えて転げ回りながら痛みに耐える俺だけが部屋に残された。

「……何だってんだ……まさかとは思うが、あいつは俺を亡き者にするつもりなのか?謀反なの?俺死ぬの?」

 もう少しで頭がパーンと破裂するところだった。それに心臓も、である。並大抵の事では動じない豪胆さを養うべく、幼い頃より絶えず精神修練を積んでいる俺だが、幾ら何でも朝一番中の一番からあんなシチュエーションは反則だろう。色々な意味で衝撃的過ぎる。未だに動悸が収まらない。ジンジンくる後頭部の鈍痛も同様である。

「やれやれ、だ。椎名京に接触する許可を出した自分が恨めしい」

 昨晩、夕飯時を過ぎた頃に帰宅してからというもの、蘭はどうにも様子が妙だった。そわそわと落ち着きなく歩き回り、時折ちらちらと俺の顔を盗み見ては赤面して何処かへとトリップする。タイミングを考えれば原因は間違いなく風間ファミリーの一員・椎名京との対話だろう。一体全体何を吹き込まれたのやら非常に気になる所だが、蘭はいつにない強情さを発揮し、俺の詰問にも頑として口を割らなかった。

 ただでさえ十分に変人認定を受けている我が従者なのだ、これ以上に挙動不審な調子で振舞われては少しばかり洒落にならない。問題は深刻、ならば迅速な解決が要求される局面である。その為にも、まずは。

「起きるか……」

 いつまでもこうして布団に貼り付いている訳にもいかない。という事で俺は名残を惜しみながらも潔く上体を起こし、罅割れの目立つ天井に向けてぐいっと伸びをする。

 残念ながら爽やかな目覚めとは到底言い難かったが、蘭の奇行のお陰で眠気が吹っ飛んだのは確かだ。時計を見れば、現在時刻は予定通りの午前六時。手際はともかくとして、従者の役割はきっちりと果たしていった訳か。テーブルの上には既に朝食が用意されていた。ガーリックトーストと目玉焼きがホカホカと湯気を上げる横に、清涼感溢れるフレッシュサラダが鎮座している。

「ふむ。美味也」

 素行は奇妙でもどうやら料理人としての腕に影響はないらしい、と一安心しながら黙々と朝食を平らげる。最後に最寄のスーパー最安値を誇る低脂肪牛乳をコップ一杯分飲み干してから、俺は本日の活動を開始した。

 アパートの中庭――長年に渡り、蘭の奴が哀れな侵入者を容赦なく葬り去ってきた場所なので、俺は内心で“戦士の墓場” などと呼んでいたりいなかったりするのだが、それはまあ余談だ。とにかく、手早く着替えと洗顔を済ませた俺は部屋を出て、血痕やら何やらが染み付いているその庭へと向かった。

 普段ならば一足先に起きた蘭が鍛錬に励んでいる場所なのだが、現在は姿が見当たらない。大方、今頃は盛大にパニクりながら堀之外の街を爆走している所だろう。昨晩以降は特に酷いとは言え、あの莫迦の暴走癖は何も今に始まった事ではない。実に悲しい事だが、俺は慣れていた。

「さて」

 そろそろ気分を切り替えるとしよう。早朝の清々しい空気を肺一杯に吸い込んで、俺は鍛錬を開始した。

 まずは十分ほどのストレッチで凝り固まった寝起きの筋肉を解し、コンディションを整える。次いで、疲労を蓄積しない程度の軽い運動。幸か不幸かは兎も角として、俺の肉体はもはや成長の余地が残っていないので、主な目的は肉体的な鍛錬ではなく、日々鈍り続けていく“勘”を少しでも取り戻す事になる。元々が乏しいポテンシャルだと言うのに、それを最大限まで引き出す事すら出来ないとなればまさしく悲惨の一言である。継続は力なり。日々の鍛錬は言うまでもなく大事だ。

「まあ、こんな処か」

 だがしかし、今日のメインは“こちら”ではない。運動量を普段の半分程度に留めて、俺はトレーニングの趣向を別方面に切り替えた。

 先程までのように身体を動かす事はなく、じっとその場に佇み、静かに目を閉ざす。

――精神を研ぎ澄ます。雑念を捨てる。心を無に帰す。

 集中し、集中し、集中し、集中し。

 そして、目を見開いた。

 己の内面より引き出すものは、純粋な“殺気”。一切の不純物が含まれない、只管に相手を死に至らしめんとする絶対的に凶悪な意志。

 十年の歳月を通じて留まる事を知らず膨れ上がった邪悪な“気”は、もはや目視すら可能なレベルに達していた。黒々と蠢く闇色のオーラと化して身体から立ち昇る殺気。その異様な威容は、ただそれだけであらゆる者を足元に跪かせる。

 これこそが、武才を生まれ持たなかった俺が見出した、真なる天賦の才能。

 武神ですらも真贋を判別不可能な程に巧緻なイミテーションを創造し、世に比類なき規模の“殺気”として放出する。

 それは見せ掛けの紛い物、つまりはハッタリの威圧のみに特化した、あまりにも偏った才の在り方だった。元・川神院師範代にして俺の元・師匠、釈迦堂のオッサンはかつて、「何だよそりゃ、ほとんど超能力みてーなもんじゃねぇか」と呆れ顔でコメントしていたが……全く以って同意見だ。

 偽者の殺意を紛れもない本物と錯覚させる才能――性質としては、言霊や暗示・催眠術等に似通っているのだろう。なにぶん前例の見当たらない能力らしく、詳しいメカニズムは釈迦堂にも把握出来ていないそうだ。

 ただ、織田信長が一種の“天才”である事は間違いない、との事だった。確かに地獄の鍛錬の結果とは言えど十代の半ばで底を尽いた武才とは異なり、こちらの能力に関しては幾ら鍛えてもまるで底が見えない。殺気の規模は年々膨れ上がり、現在では意識的に抑え込まなければ学校生活すら侭ならないだろう。

 そして、成長するのは規模だけではない。より重要なもの――殺気のコントロールもまた、鍛えれば鍛えるほどその精度を増してゆく。

 俺が今から行おうとしているのは、自身を覆うドス黒い殺意を外部へと放出するに際して、その性質を意のままに変化させる訓練である。

 まずは広域。殺気を可能な限り分散させ、広範囲へと張り巡らせる。不特定多数の群集を纏めて威圧したい場合には必要不可欠なスキルだ。何と言っても汎用性が高いので割と多用している。最終的には数千人規模の大衆を同時に跪かせられる程度の効果範囲を目指しているのだが、其処に至るまでの道程はまだまだ長そうである。

 次いで集中。本来ならば無差別に撒き散らされる殺気に特定の指向性を持たせる。対象を少数に絞り、殺気を収束させた分、広域よりも遥かに強力な威圧が可能で、こちらは対個人の際に重宝するスキル。現時点では相手の有する殺気への耐性次第で効果にバラつきが出てしまっているので、改善の余地アリだ。最終目標は世界最強・川神百代を指一本に至るまで凍り付かせ、身動きを封じられるレベルに達する事だが……何だろう、考えれば考えるほど欠片も望みが無いような気がする。

 それと、この二つ以外にも色々と小技的な手法はあるのだが、まあ大別するとこんなものだ。最初は単純な放出くらいしか出来なかったが、死地に身を置き続ける中で自ずと応用を覚えた。生き残る為には、否応無く覚えざるを得なかった。故に、殺気の用途は当初では考えられないほど多岐に渡る。ただ闇雲に殺気を撒き散らすだけでは威圧の天才を名乗る資格はない。

 しかし、まだ。まだまだ、俺の能力は伸びる。研鑽を積めば積むほど、才は俺に応えてくれる。それは――喩え様もなく素晴らしい事だ。

 広域と集中。両者の切り替えを交互に繰り返し、コントロール精度に磨きを掛ける。

「……やはり、キツいな」

 つぅ、と額に汗が伝うのが分かった。基本的に肉体的な疲労は皆無だが、殺気の放出には相当な精神力の消耗を伴うのだ。俺が運用する殺気の量に比例して、精神が容赦なく削り取られていく。この限界値、すなわち“スタミナ”を上昇させる事もまた、鍛錬の大きな目的だ。

 そんな風に殺気のコントロールを続けること数十分――首筋にひやりとした何かが触れて、俺は咄嗟に息を呑み、全力で跳び退った。

「ふふふ、その様子だとやっぱり気付いてなかったみたいだね。私の美事な気配遮断は相変わらず神域に達してるなぁ。いや全く、私ってば時々自分の才能が恐ろしくて夜も眠れなくなる位だよ。ってワケでおはようご主人!」

 どうやら気付かない内に背後から忍び寄っていたらしい。悪戯成功、と言わんばかりの腹立たしい笑顔で朝の挨拶を掛けてくる我が従者第二号、明智ねねに対し、俺は冷たいジト目を向けた。

「家の敷地内で無駄に気配を消すな莫迦ネコ、すわ敵襲かと思って慌てただろうが。知っての通り、殺気が通じない本物の手練れに襲われたら、俺一人じゃ割とどうにもならないんだからな」

「まぁまぁご主人、そう機嫌を悪くしないでってば。朝の清々しい空気が台無しだよ。それにホラ、朝一番から頑張ってる努力屋のご主人に、益州の張任さんも真っ青な忠臣からの有難い差し入れだよん」

 悪びれずに言いながら、ねねは一リットルペットボトルのスポーツドリンクをこちらに向けて放って寄越した。

 つい先程までは冷蔵庫内に眠っていたのだろう、良く冷えている。なるほど、さっきはコレを俺の首筋に当ててくれやがった訳だ。従者の分際でやってくれる、この恨み晴らさでおくべきか――と心に誓いながら、俺はスポーツドリンクを一気に喉へと流し込んだ。丁度身体が水分を欲していた所だったので、認めるのは癪だが、中々ありがたい差し入れである。

「あ、やっぱり汗掻いてるね。ちょっと待ってて、ひとっ跳びしてタオル取ってくるからさ」

 朗らかに言うや否や、文字通り“ひとっ跳び”してアパートの二階へ軽々と飛び上がる。自室からスポーツタオルを持ち出し、そして当たり前の様に中庭へと跳躍して、スタッと軽快な音を立てながら俺の目の前に華麗に降り立った。一連の動作、時間にして十秒以内の出来事である。

「ん?どうかした?」

「いや……」

 何というか、今更ながら改めて思うが、蘭ともども人外極まりない奴だ。このまま二人と暮らしていると、いつかこの光景が常識だと錯覚してしまいそうで怖い。

「はい、どうぞ。早く拭きなよ、万が一でも風邪なんか引いたら一大事だからね」

「む。そんなお前らしくもない細やかな気遣いで俺を懐柔しようとは小癪な奴め。俺は騙されんぞ」

「何かにつけて人を疑ってかかるのは嘘吐きの悲しいサガだよね~。私の溢れんばかりの忠誠心がスポーツタオルと云う形を取って具現化しているのが分からないなんて、もういっそこれは哀れみにすら値するよ」

 わざわざ言い返すのも馬鹿らしかったので、俺はねねの差し出す忠誠心の結晶とやらを黙って受け取る事にした。

 うん。言われるがままに受け取ったは良いのだが――何故にピンク生地。何故にファンシーなキャラ絵。いやまあ自室から持ち出した以上はほぼ間違いなくねねの私物なので、デザインがやけに女の子女の子しているのは当然と言えなくもないのだろうが、しかし。

「これは……使ってもいいのか?」

「良くなかったら最初から渡さないよ。まぁ、タオルを顔に巻き付けて、たっぷりと染み付いてるであろう私の匂いを肺活量の限界まで吸引するのが“使う”って言葉の指す意味だったなら、さすがに遠慮して貰うけどね」

「俺にそんなフェティシズムはありませんのでどうか安心しやがれ」

「ほっ。いやぁご主人がノーマルな人で心から安心したよ。返事によっては謀反ルートに突入してただろうね。敵は本能に有り!って感じで」

 一文字抜いただけでやけに残念なセリフに成り下がっていた。やはり寺は大事だ、焼き討ちなど以ての外である。

「名前ネタは笑えないから止めろとあれほど。……って言うか真剣で心配してたのか……」

 あまりにもショッキングな事実だった。下手をしなくてもここ最近で一番凹んだかもしれない程のショックだ。

 俺は傍から見てそれほど変態っぽく映るのだろうか、と深刻に苦悩しながら、出来る限り手早く汗を拭いてそそくさとタオルを返却する。妙な疑惑を掛けられるのは御免だった。

「しかしそれにしても、どういう風の吹き回しだ?お前がこんな早朝から活動を開始している所を、俺はかつて見た事がないぞ」

「それはまた奇遇だね、たぶん私自身も見た事ないと思う。おめでとう!ご主人は午前七時以前に活動している私を目撃した世界初の人類だよ。この得がたい栄誉は一生モノの誇りとしてご主人の胸に固く刻み付けられたのであったとさ。めでたしめでたし」

「話を勝手に完結させるな。俺達の会話はまだまだこれからだ」

「いやさ、ホントは私もまだ布団の中でぬくぬくしてたかったんだけど、夢の中でいきなり強烈な金縛りに遭ったもんで、問答無用で目が覚めちゃったんだよ。そりゃもうパジャマの中にブロックアイスを一ダースほど注ぎ込まれたみたいな感じで、眠気なんて一瞬で吹っ飛んじゃった。何だったんだろうね、心霊現象かな?」

「うむ、まず間違いなく霊の仕業だな。俺はここに長年住んでるが、偶にそういう事があるんだ。世にも奇妙な何とやらってな」

「へぇ。不思議な事があるもんだね」

 怪訝な顔で首を傾げるねねから、俺はそっと視線を逸らした。そう、広域に放出した殺気がボロアパートの敷地全体を、ひいてはねねの部屋を巻き込んでいたなんて事は断じて有り得ないのだ。

「ま、でも私としてはちょうど良かったかな。どのみち今日は自主的に早起きする予定だったし。いつもより一時間、いや三十分、……やっぱり十分くらい」

「正直は美徳だと思うが、残念ながら十分じゃ十分とは言えないな。取り敢えずその心意気だけは評価しておこう。しかし、何でまた」

「何故って?それは勿論――」

 一度口を閉ざして、ねねはおもむろに虚空へと前蹴りを繰り出した。しなやかなで強靭な脚が跳ね上がり、凄まじい速力で朝の空気を太刀の如き鋭さで切り裂く。

 そして、静止。
 
 天へ向けて伸び切った足をそのままに、爪先に至るまでピンと張り詰めた姿勢を保ったまま、ねねは言葉を続けた。

「――正念場だからさ。ご主人が始めた2-Fとの小さな戦争、風間ファミリーとの対決。泣いても笑っても今日で決着だ。こんな大事な日に、パーフェクトサーヴァントたる私が朝寝坊なんて間の抜けた真似をする訳がないじゃないか」

「……」

「見たところ、ご主人も気合入れて鍛錬してたみたいだし。だったら従者の私も相応に気合を入れようと思うのが当然でしょ?」

「成程」

 たかだか十分の早起きを“相応”と言い張っている辺りには敢えて触れるまい。重要な事は自覚の有無だ。織田信長の従者として真に力を発揮すべきタイミングを己が目で見極められるか否か。

 そのまま俺の隣でシャドートレーニングを始めたねねは、その点では合格と言えよう。無論、言うまでもなく及第点ギリギリだが。

 そんな訳で、二人並んで鍛錬に励むこと暫し。

「はぁ、はぁ、信長さまっ!先刻は見苦しき様をお見せしてしまい誠に申し訳ございませんっ!」

 暑苦しく叫びながら猛烈な勢いで玄関から駆け込んできたのは、言うまでもなく蘭である。ぎゃりぎゃりぎゃり、と中庭の土を盛大に掘り返しながらブレーキを掛けて減速し、俺の目の前でぴたりと停止すると同時に流れるような動作で平伏する。相変わらずプロの業であった。

「しかし町内一周ランニングを通じて己が精神と向き合った蘭は二度とあのような失態は――ってあれ、ねねさん!?そんな、どうしてここに!ねねさんの居場所は布団の中の筈です!」

「何だか引っ掛かる言い方だね……まあいいや。私だって時には本気を出すのさ。何と言っても今日は決戦の日だからね、気合入れなきゃダメでしょ。従者として」

「ね、ねねさん……!良かったです、従者たる者の心得をついに理解して下さったんですね!う、うぅ、主、蘭はやり遂げました。果てなく過酷な任でしたが、やはり誠心誠意を込めて努めれば報われるものなんですね……蘭はいま、感動で心が打ち震えています」

 本当にポロポロと涙を流している蘭であった。水を差すのは気の毒なので、取り敢えずねねの本気が十分前起床だという残酷な事実は告げずにおいた方が良さそうである。

「信長さまの一の従者として、私も負けてはいられません!よーし、やりますよ!」

 元気よく言いながら、蘭は玄関脇に立て掛けてある木刀を手に取った。主に侵入者の血が染み込んだ結果として赤黒いカラーリングが施された、色々な意味で年季の入った木刀である。剣術の鍛錬から自宅警備、果ては変質者討伐や聞分けの悪い連中の説得に至るまで、蘭はこれを実に幅広く運用している。

『こんな超が付くほどバイオレンスな辻斬り魔を敵に回す所だったなんて、想像するだけでゾッとしないねホント』

 とは、蘭が振り回す血塗れの木刀を初めて目撃した際にねねが漏らした冷や汗混じりのコメントである。

 閑話休題――織田信長と森谷蘭と明智ねね、織田家主従三名。登校時間が訪れるまでの間、各々の鍛錬に励んだ。

 全ては今日行われる大将戦にて、確実な勝利を収めるため。

 従者の言葉を借りるならば、正念場だ。俺はあらゆるパターンに対応すべく策を練り、備えを施した。手抜きも手抜かりも有りはしない。
 
 昨日は一時の勝ちを譲ったが、だからと言って今回も同様に事が運ぶなどと思い上がって貰っては困る。

 只管に勝って勝って勝って勝ち続ける、それだけが織田信長の人生。社会の庇護の下でお気楽に生きてきた表側の学生とは、勝利を求める想いの重さが絶対的に違う。

 2-F。風間ファミリー。決して雑魚では無い、むしろ実力者揃いではあるが、しかし。

「主」

「……時間か」

 蘭に促されて携帯電話を開けば、液晶画面は午前七時三十分を示している。

 HRに間に合うよう到着するにはまだ多少の余裕があるとは言え、通学中に何かしらのアクシデントに見舞われないとも限らない。遅刻のリスクを少しでも減らすためには早めに出立しておくのが確実だ。

 と言う訳で、俺達は早朝鍛錬を切り上げて、各自の部屋に戻って身支度を整える。

 そして数分の後、再びアパートの中庭に集合。

「ん~、何だか朝にこうやって集まるのは斬新な気分だね」

「そう言えばねねさんとは一緒に登校した事がなかったんですよね。アパートが同じで学校も同じなのに……。ねねさん、私と主が出発する時はいつもベッドの中ですけど、その後はどうされているんですか?」

「起きる着替える顔を洗う歯を磨く髪を弄る、そして食べながら全力疾走。それだけさ。シンプルでいいでしょ?」

「あ、あはは、やっぱりとても慌しそうですね。うーん、もう少し早起きすればのんびり出来るのに」

「別にいいじゃないか、結果として遅刻はしてないんだからさ。睡眠時間を取るか穏やかな朝を取るか、そんなコトは私の自由だもんね。それにさ、私が毎朝パンを咥えて通学路をダッシュする事で、曲がり角にて運命の出逢いに遭遇する可能性が生じるかもしれないじゃないか。恋に恋する麗しき乙女として、この事実は見過ごせないでしょ」

「えっと、私は全力疾走中のねねさんと衝突する人のお身体がとても心配です……。そういう意味では確かに見過ごせないですけど」

 馬鹿馬鹿しい会話を繰り広げている二名を放置して、俺は中庭を横切った。

 玄関口で足を止め、空を見上げる。本日は快晴なり。雌雄を決するには好い日と言えよう。

「蘭。ネコ。往くぞ」

「ははーっ!至らぬ身なれども、己が全力を振り絞って本日も仕えさせて頂きます!」

「いただきまーす」

「もう、ねねさん!主に対しそのように不敬な態度、それこそ見過ごせませんよ!むむむ、やっぱり従者としての自覚が未だ足りていないようで――」

「気のせい気のせいメチルアルコール~」

「……往くぞ、と云っている。莫迦共め」

 何とも締まらないことこの上ないが。

 兎にも角にも――織田家、いざ出陣である。

















 

「げっ、来やがった!おいあいつら来やがったぜおいどうするよやべーぞ」

「あーもうサルうっさい!来るのは分かってたんだからいちいち騒がないの!」

「うう……これからゴハン食べるところだったのに。おなかすいたよ~」

「その怒りはアイツにぶつければイイ系~。つかキレたクマちゃんなら案外イケんじゃね?」
 
 時計の針が示す時刻が正午を回る折、すなわち昼休み。蘭とねねを引き連れて2-F教室に足を踏み入れた俺が第一に感じ取ったのは、“空気の違い”だった。

 三日前に様子を見る為に赴いた時、或いは二日前にルール確認の為に訪れた時、総勢四十名の2-Fの内、織田信長という存在に呑み込まれていなかったのは風間ファミリーとごく一部の人間のみであった。その他大勢は俺が放つ殺気の重圧に耐えられず、縮こまって控えている他なかった。

 しかし――今回はどうにも様子が違う。クラスの誰もが、明確な敵愾心を以って俺を迎えている。前回までは怯え竦んでいた生徒達は、一様に敵意と戦意を宿した目を俺に向けていた。代表的な例としては、2-Fクラス委員長の甘粕真与だ。

「わ、私はみんなのお姉さんなのです。私がしっかりしなきゃいけないんです!」

 前回の気弱な態度は鳴りを潜め、彼女は最前列の席にて臆することなくこちらを睨んでいる。これで手足が生まれたての小鹿の如くプルプル震えてさえいなければ、文句なしに勇ましい姿と言えるだろう。

 そんな彼らを傲然と睥睨しながら、やはり昨日の勝利に励まされている部分が大きいようだな、と分析する。俺にしてみれば予定調和の敗北、周囲の目から見てもさほど価値のある勝利には映らないにせよ、当人達にとっては一勝は一勝だ。現在の戦況は一勝一敗、“勝てるかもしれない”と希望を抱き、結果として強気になるのも不思議はない。

「ふん。気に入らん目だ」

 不思議はないが――その感情の動きが俺にとって些か都合が悪いのも、また確かである。織田信長は如何なる場合であれ絶対的な畏怖の対象でなければならない。未だ屈服させていないクラスとは言えども、こうも明確に俺に逆らう態度を取られては困るのだ。反抗心の芽は早めに刈り取っておかねばなるまい。

 栓を少しずつ緩めていくイメージで、漏れ出す殺気の量を増大させていく。

 数秒が経ち、日常生活における限界値ギリギリの殺意が教室を覆い尽くした時、鬱陶しいざわめきは完全に止んでいた。

「――図に乗るな。羽虫も同然の存在如きが、喧しい」
 
 どこか楽観的な色を映していた表情は、殺意に満ちた恫喝を受けて瞬時に凍り付き、漂っていた暢気な雰囲気が砕け散った。

 代わりに広がったのは、息が詰まるような重々しい沈黙である。

「……ったく」

 シン、と張り詰めた静寂が漂う中、不機嫌面で俺の前に歩み出た生徒が一名。例によって忠勝であった。

「いちいち脅かしてんじゃねぇ、てめぇの相手は俺達だろうが。非戦闘員まで巻き込むなボケ」

「くく、呆けているのはどちらだ?俺の眼前に立ち塞がる者ならば、全ては等しく排除すべき障害よ。無力な女子供であれ老人であれ、この俺を敵と定める者は悉く滅し尽くすのみ。其れを恐れるならば、膝を着き頭を垂れ、我が足元に跪くがよかろう」

 あまりに傲岸不遜。嘲笑うように口元を歪めて放たれた台詞に、誰もが言葉を失った。

 が、気圧されて大人しく黙り込むような連中ではない。それを証明するかの如く、川神一子は噛み付くように声を荒げた。

「なにバカなこと言ってんのよ!アタシ達はぜっっったいアンタなんかに屈しないわ!」

「あぁやだやだ、犬っころはキャンキャンと吼え声ばかりうるさくて嫌だね。色々とハンデを貰っても私に勝てなかった癖に。そんな負け犬がご主人をバカ呼ばわりとは頂けないな、尻尾を巻いて大人しくしてたらどうなの?ワン子セ・ン・パ・イ」

 実に憎たらしい表情と口調でねねが嘲笑う。相手を心底から舐め切った態度だった。

 傍で見ているこちらまで腹立たしくなりそうなそれを直接的に向けられた一子の心中は、なんと言うか、察して余りある。

「うぬぬぬ、なんて可愛くない後輩……っ!いーわよいーわよ、その喧嘩買ったわ、今すぐ表に出なさい!縦社会の厳しさを体に叩き込んであげる!」

「どうどう。ワン子、挑発に乗っちゃ駄目。後で存分に殴り合えばいいと思うけど、今は抑えて」

 ブチ切れて激発しかけていた一子を、椎名京が感情の読み取り辛い無表情でクールダウンさせていた。

「……うぅ、分かったわよ。あとで覚えてなさいよ、ネコ娘っ!」

「冷却完了。今だよ、大和」

「よし、任務ご苦労。お陰で話を進められそうだ」

「成功報酬は大和の初めてでいい」

「是非とも末永くお友達でいよう。というかこの状況でボケられる京には正直尊敬の念を覚えざるを得ない」

「大和に褒められた。『このボケがいいね』と君が言ったから、四月十六日はヤマト記念日」

「褒めてないからね!?いやいや京、さすがにもうちょっと緊張感持とうよ!」

 影の薄そうな男子生徒が繰り出したキレのあるツッコミに、俺は心中で深く同意していた。この連中、織田信長を前にしてコントを展開するとはいい度胸――だとかもはやそういうレベルではない。俺の後ろで「椎名さん、ふ、不潔ですっ」などと動揺した声を漏らしている莫迦も含めて、少しばかり気が緩み過ぎだ。

「……不届き」

 更なる締め付けが必要か。そんな思考の下に殺気の放出量を増大させようとしたが、これ以上の威圧は日常レベルを逸脱してしまう事実に気付き、咄嗟にブレーキを掛ける。戦闘に用いるレベルの殺気を学園内で所構わず撒き散らそうものなら、まず間違いなく教師陣の介入を受ける羽目になるだろう。川神鉄心は言うに及ばず、ルー・イー、小島梅子、宇佐美巨人……誰も彼も世界で通用する歴戦の猛者共である。出来る限り相手にはしたくない。

 それに、現時点の放出量でも威圧効果は十分な筈だ。改めて教室を見渡してみれば、殺気に対してそれなりに順応出来ているのは風間ファミリーの面々と忠勝くらいのものだった。他の生徒達は完全に萎縮して沈黙している。それこそ日常における許容限界の殺気を張り巡らせているのだから一般人としては当然の反応なのだが――さて、問題は風間ファミリー。この場違いに呑気な連中である。

 確かに殺気の効力は相手の精神状態に大きく左右される不安定なものだが、しかし幾らなんでもここまで余裕の態度で受け流せるというのは普通ではない。その拠り所は果たして何処に在るのか。彼等の態度から窺える感情は、自信、安心……いや、信頼、か?

「それはともかく。今日が最終戦って事で、ルール確認をしたいと思う次第だけど……んー」

 俺が思考を纏める前に、直江大和がやけに歯切れの悪い調子で口を開いた。俺に向けて語り掛けながらも、ちらちらとスピーカー横の掛け時計をしきりに見遣っている。

「おかしいな……昼休みまでには戻るって言ってた筈なのに」

「電話で確認したのって一時間前だし、何かトラブルに巻き込まれたとか?」

「これまでのパターンから考えると普通に有り得そうで困る。電話も繋がらないし、いよいよ雲行きが怪しいな」

「ったく、毎度毎度フラフラと何やってんだあの野郎は。イライラさせやがる」

 風間ファミリー+忠勝は顔を寄せ合ってスクランブル作戦会議を開いている。漏れ聴こえてくる内容から察するに、現在は人待ちの真っ最中の模様。

 俺がわざわざ自ら足を運んだと言うのに待ち惚けを食らわせるとは何事だ、接客精神の欠片もない愚か者どもには速やかなる制裁が必要だな――と思わず殺気を全力全開で放ちたくなる衝動に駆られたその時、ふと俺の目が窓の外、グラウンド上に一つの人影を捉えた。こちらに向かって疾駆し、見る見る内に距離を詰め、そして次の瞬間。

「とうっ!俺、風と共に参上っ!!」

 何やら威勢よく叫びながら、あろうことかそのまま窓から教室内に飛び込んできた。言葉に違わぬ突風の如き勢いで窓枠を踏み越えて跳躍し、教室の中央付近にバランスを崩す事もなく軽やかに着地する。

「いやー悪い悪い、遅くなっちまった。三日振りだなお前ら、キャップの帰還だぜ!」

 呆れるほどの活力に満ち溢れた声を張り上げたのは、鮮烈な赤色のバンダナを頭に巻き付けた少年。

 あの川神百代を差し置いて風間ファミリーのリーダーを務める男、風間翔一だった。

「ホントーに遅いわよもう、間に合わないかと思ってハラハラしたじゃないのよ!それで、今度は一体全体どんなハプニングに見舞われたの?」

ふぃー、と天井を仰ぎながら額の汗を拭っている彼にタオルを投げ渡しながら、一子が文句を付けた。

「それがさー、多馬川の河川敷で引ったくりの現場に遭遇したもんで、被害者のバアちゃんの代わりに犯人取っ捕まえてやろうと追い掛けてたら見事に学校とは逆方面に行っちまったワケ。とりあえず捕まえて警察に引き渡してから、このままじゃ遅刻だーってコトでここまで全力疾走してきたぜ」

 いやー参った参った、とお気楽な調子で笑う翔一の暢気な姿に、凍て付いていたクラスの空気が一気に弛緩した。

「おいおい、風間のヤツまたやったのかよ。確か前も何かの事件解決して新聞に載ってたよな?」

「お年寄りの方のために頑張って犯人を捕まえるなんて、風間ちゃんは優しいですねー。クラスの誇りですよ!」

「うんうん、さっすが風間クンよねー。やっぱイケメンは人助けの方法からしてイケメンだわ」

「あー濡れるわー、真剣で抱かれてぇ。むしろ食っちまいてぇ」

 先程までの沈黙が嘘であったかのように、様々な声が教室を飛び交っている。比率的に女子の黄色い声が多数を占めているのはまあ、川神学園エレガンテ・クアットロが一人の宿命だろう。

「……ふん」

 2-F生徒達の様子を見る限り、やはり実質的にクラスの中心を担っているのはこの男のようだ。織田信長の存在によって通夜の如く沈み込んでいた雰囲気を、ただ登場するだけで容易く打ち払ってみせるあたり、その人望の厚さが垣間見える。

――成程。大体は、予想通りの存在か。

 となれば、直江大和が選んだであろう“策”にも凡その当りが付こうというものだ。

 事前に想定していたパターンの一つである以上、必然的に俺の取るべき対応も定まってはいるが、さて……どうなる事やら。

「相変わらず波乱の人生送ってるねキャップは……。コナソ君じゃないんだから、そう何回も犯罪の現場に居合わせるとか有り得ないってばフツー」

「お、だったら俺って名探偵の素質あるんじゃないか?冒険もいいけどスリル・ショック・サスペンスってのもそれはそれでいい感じだな!でもどうせなら蝶ネクタイ型変声機とか腕時計型麻酔銃とかキック力増強シューズとか欲しいよなー……よしワン子、九鬼のヤツに頼んで開発して貰おうぜ!風間ファミリーは本日を以って少年探偵団へと生まれ変わる!」

「キャップ、飛ばし過ぎ自由過ぎ。ちょっと自重しようか」

 場の空気を一切読まないフリーダムな振る舞いに、直江大和は呆れ顔でツッコミを入れた。

 キャップこと風間翔一はその言葉で落ち着きを取り戻したのか、ようやくテンションを下げて、2-Fの招かれざる客人――織田家主従の方へと注意を向ける。

「俺不在の三日間、キャップ代理のお勤め御苦労さん、大和。こっからは俺が引き受けるぜ」

「そうしてくれると助かるね、ホントに。正直言うとそろそろキツかった所だ。この人達の相手は色々な意味で疲れる」

「ははっ、軍師・大和ともあろう者が泣き言とは、こりゃなかなか珍しいもんを見たんじゃね?」

 うんざりした調子でぼやく大和を茶化すように言いながら、翔一は他の面々を代表するようにして一歩前に進み出る。殺意を多分に含んだ冷徹な視線を送ると、俺のそれとは対照的な、さながら炎が燃えるような目で真正面から見返してきた。

 凍て付く冷気と燃え盛る熱気。相反する色を宿した瞳が机三つ分の距離を挟んで向かい合う。

 そこで、違和感。具体的に何がどうおかしいとは断定出来ないが、しかし。

 この男……前回の時とは、身に纏う“気配”が異なっているような。気の所為、か?

 僅かな引っ掛かりを解消するべく思考を巡らせる前に、翔一は臆した様子も無く口を開いた。

「話は聞いてるぜ、FとSの代表で風間ファミリーとお前らが勝負してるってな。ったく、リーダー不在の間にそんな一大イベントを進行させるなんてヒドいよなー。お前らだけ楽しそうでズルイぞぅ!」

「ふん、下らんな。仮に貴様が初めから参戦していた所で何が出来た訳でもあるまい、風間翔一。くく、忘れたか?俺を前にして怯え竦み、身動きすら能わず無様に震え上がった事を」

「ああ、確かにそうだな。三日前の俺じゃ皆の足を引っ張るだけだった。それは認めるしかねーな」

 俺の嘲笑を柳に風とばかりに受け流し、翔一は涼しげな顔で言葉を続ける。

「あの時、俺は猛烈に悔しかった。ビビッて動けなかった自分に腹が立ったし、情けねーと思った。けどな、そんな事はどうでもいいって思えるくらいに俺は燃えた!やられっぱなしじゃ男が廃る、絶対にリベンジしてやる!ってな。そんな訳で武者修行に旅立って、そしてあの日の雪辱を晴らすため、俺は帰ってきた!」

 威勢良く言い放ってから、翔一は何事かを確認するようにファミリーの面々に忠勝を加えた六名を順番に見渡した。

 源忠勝、川神一子、椎名京、師岡卓也、島津岳人、そして最後に直江大和。全員が小さく頷いたのを見届けると、満足気にニヤッと笑い、再びこちらに向き直る。

「何せ天下分け目の大将戦なんだ、やっぱリーダー不在じゃ盛り上がりに欠けるだろ?ってな訳で、その辺りを踏まえて今回のルールを指定するぜ」

 そう前置きしてから、ビシィッ、と真っ直ぐに俺を指差す。

 そして――風間翔一は恐れを知らぬ勇者の如く、堂々たる態度で啖呵を切った。


「2-F所属、風間翔一!クラス代表としてお前に決闘を申し込むぜ、信長っ!!」















~おまけの2-S~


「ふむ、信長が2-Fに赴いて数分、あちらでは大将戦のルールが決定している頃でしょうか。今日には決着が付くことになる訳ですが……果たしてどうなることやら」

「フハハハ、心配は不要であるぞ、我が友トーマよ。信長は王たる我が認めた大器の持ち主、間違っても2-Sの名を落とすような結果にはなるまい。我が統べるSの名を背負っての戦いに臨むなど、本来ならば断じて許さぬところだが……奴にならば代理を任せても問題はなかろう。そうであるな、あずみよ!」

「まさしくその通りでございます、英雄さまァァっ!あんなバケモノ――おっといけねぇ、うっかり間違えちゃいました☆あんな反則みたいな存在の相手は、ただの学生さんにはちょっと荷が重いでしょうからね~」

「オイオイ、このチートメイドにまで反則呼ばわりされるってどんだけだよ。で、恐ろしい事にそんなあいつとサシでやり合ったお前的にはどうなのかね、不死川」

「む?決まっておろう、此方は何の心配もしておらんのじゃ。高貴なる此方の朋友が、Fの野蛮なサル共如きに敗れる道理なぞ無いのじゃからな。それに、今更庶民に負けられては此方の名誉にキズが付こうというもの。あやつは決闘で此方を負かしたのじゃぞ」

「あはははは、“きまった!どうじゃ~カレーなるこなたの飛び関節は~”だっけ?僕ちゃんと覚えてるよーん、どうだエラいでしょー」

「わざわざ再現するでないわ~!ぐぬぬ、なんとも拭い難き屈辱よ……思い出すだけで腸が煮えくり返ってきたのじゃ、おのれ織田め」

「いやいやアレはどう考えても自業自得でしょうよ」

「さて……、信長、あなたはこの局面をどのように処理するのか。お手並み拝見といきましょうか」












 という訳で久々のキャップ登場、そして対戦カードは見ての通りとなりました。
 この組み合わせはあまりにも妥当過ぎて、逆に意外性があったのではないかと思います。互いに後のない大将戦にてリーダー同士の対決、は少年漫画的には王道中の王道ですよね。まあキャップはともかく信長がアレなので、友情・努力・勝利が適用される真っ当な勝負になるかは別ですが。

 相変わらず多忙ですが、皆さんの感想をエネルギー源に出来るだけ早く続きを書きたいと思います。それでは、次回の更新で。



[13860] 殺風コンチェルト、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:fbb40ce5
Date: 2011/08/04 10:22
 “島津寮”は、川神学園の抱える学生寮の一つである。その名の通り、川神に多くの土地を保有している島津家が土地と物件を提供することで成立した寮であり、市の実施した大深度掘削によって敷地内に温泉が湧いている事で有名だ。ただし知名度の高さとは対照的に寮としての規模は小さく、一階に三部屋、二階に三部屋の計六部屋。そのうち一つは空き部屋で、現在の居住者は五名である。直江大和、風間翔一、椎名京、源忠勝、黛由紀江――+αとして高性能お手伝いロボのクッキー(開発及び提供・九鬼財閥)。

「つまるところ、此処がこうして俺達の会合場所に選ばれるのは必然であったと言えよう」

 島津寮一階に位置するリビングダイニングキッチンにて、賑やか過ぎるほど賑やかに食卓を囲む面々を見渡しながら、直江大和は誰に言うでもなく呟いた。キャップを除く風間ファミリー六名に忠勝を加えた総勢七人が、今現在テーブルを囲んでいる面子だ。

 このメンバーがこの島津寮で食事を共にするのはそれほど珍しい事ではなく、誰かが個人で処理するには多過ぎる貰い物を貰ったり、或いは百代が川神院から大量の肉をかっぱらってきたり、はたまた生粋の自由人たるリーダーがレアな戦利品を持ち帰ったりした場合には、こうして皆で集まって分かち合うのが慣例となっていた。

 とは言え、今回は特にそうしたイベントに恵まれた訳ではなく、単にミーティングの場所として島津寮に白羽の矢が立っただけの話だ。これまでの会合では放課後の2-F教室を利用していたのだが、今日は同様にはいかなかった。風間ファミリーの一員である椎名京と、かの織田信長の懐刀・森谷蘭が繰り広げた決闘は、先鋒戦とは違って放課後に行われたのだ。決闘の内容自体がそれなりの長時間に及んだ上、決闘後にも色々とゴタゴタがあったため、気付いた時には下校時間が迫るような時間帯となっていた。何せ明日に控えているのは勝敗を分かつ大将戦だ、下校までに時間を限った簡単なミーティングで済ませられる訳もなく、それならば晩飯でも食べながら話そうか、という話の流れになり、そして時は現在に至る。

 四月十五日、木曜日。午後七時半の夕食時。皆でテーブルを囲んでの、実に騒々しい晩餐会が繰り広げられていた。

「ん?大和、何か言った?私に愛を囁くのが恥ずかしいのは分かるけどボリューム上げないと聴こえないよ。でもそんなシャイなところも好き」

「おお、相思相愛じゃないか。良かったな~弟よ」

「姉さんがそう思うんならそうなんだろう。姉さんの中ではな」

「おんやぁ?ここのところ何だかナマイキだなヤマトぉ。これはもっとイジめて欲しいというおねーさんへのサインと受け取った。おっと文句は受け付けないぞ。私がそう思うんならそうなんだ、私ん中ではな。ふっふっふ」

「くっ、不覚にも開き直りの口実を与えてしまった。なんというブーメラン……って、ちょ、俺の肉を根こそぎっ!?」

「私のものは私のもの、お前のものも私のもの。私ん中ではそうなんだから仕方ないだろ?」

 悪魔的な笑顔でジャイアニズムを振りかざす姿が何とも言えず似合っている姉貴分に対し、残念ながら大和に抵抗の術はない。姉貴分と舎弟。二人の力関係は小学生時代の出逢いにて完璧に決定付けられていた。そうでなくとも世界最強にして天下無双の究極生物を相手にどうして逆らえようか。大和に出来ることは、皿の端に僅かに残っていた肉片を口に放り込み、己の不運と一緒に噛み締めるくらいである。

「ふっ。何だかやけに肉がしょっぱいが、麗子さんが塩加減を間違えたんだな、きっとそうさ」

 上を向いて食べよう。ナニカが零れないように。塩っ辛い肉片を咀嚼しながら一人天井を仰ぐ大和の隣では、京がめくるめく妄想世界へとトリップしている最中であった。

「ああっ、大和にこんな公衆の面前で熱烈な告白なんてされたら、もう、もう――おっといけない、これ以上は軽く十八禁をオーバーしてしまう予感。さすがに食事中に口から出すには不適切な発言かも」

「ぎゃー!エロね、何だかエロいこと言うつもりなのね!えーいかくなる上はこうよ、オリジナル奥義・セルフ耳栓!」

 色気のない悲鳴を上げながらワン子は指を両耳に突っ込んで栓をしていた。そして何故か両目をぎゅっと閉じている。果たして精神年齢の低さと関係しているのかは不明だが、ワン子は猥談の類がどうしようもなく苦手なのだ。偶然自室の秘蔵エロ本を発見された時、顔を真っ赤にしながら変態呼ばわりされた事を思い出し、大和は苦笑いを浮かべた。初心というか純粋無垢というかお子様というか……まあ京の如く平気で下ネタを連発するワン子というものも、それはそれであまり想像したくないのだが。

「心外な。私だって時と場合を弁えて発言してるのに。食事時くらいは妄想で留めないとね」

「ほう。カルピス飲む時とか牛乳飲む時とかに毎回添えてるコメントについて何か釈明は?」

「アレはある種の儀式というか、おまじないだね。口にすることでより美味しく感じられる魔法の言葉。よって何も問題はないのであった。具体的には大和の白濁――」

「時と場合を弁えるんじゃねぇのかよ!頼むから妄想で留めてくれ京、切実なお願いだ」

 気付けば何時の間にやら恥じらいという概念を宇宙の彼方へ不法投棄していた幼馴染・京は無意味に手強かった。弁舌に定評のある軍師・直江大和を以ってしても一筋縄でいく相手ではない。その恐るべき下ネタ攻勢に四苦八苦していると、正面に座る常識人な不良(ツンデレ)が呆れたような溜息を落とした。

「ったく……、いいかてめぇら、聞いててメシが不味くなるような発言はくれぐれもするんじゃねぇぞ。そいつは食事への冒涜だからな。本当なら黙って静かに食うのが一番なんだが、まあてめぇらにそこまで要求する気はねぇ」

「あはは、タッちゃんは昔からゴハンのことには厳しかったよね。リクオがブロッコリーをこっそりトイレに流してたのがバレた時、本気で怒ってたのを今でも思い出すわ。“食材をそまつにするヤツはオレがゆるさん!”って二時間くらい説教してたっけ」

 懐かしげに孤児院時代の思い出を語るワン子に、忠勝は決まり悪げに黙って肩を竦めた。その遣り取りに対する大和の感想は一言。

「ねぇゲンさん。ゲンさんってカーチャンみたいだって言われたことない?」

「……うるせぇぞ、オレの事はいいから黙って食べやがれボケ。冷めるだろうが」

 憮然としながらも強くは言い返さず、眉を寄せた様子から見ると、どうやら図星を突かれたらしい。果たして何処の誰に言われたのかは知らないが、やはり誰しも彼に対して抱く感想は同じなのだろう。心中にてうんうんと頷く大和だったが、しかしまさかその“誰か”の正体が、目下のところ2-F最大の仇敵たる男だという驚愕の事実までは知る由もなかった。

「ごちそうさまー。うーん、たっぷり食べたら何だか眠くなってきちゃった……ふわわぁ」

「うんうん、よく遊びよく食べよく眠る、大いに結構。だがなワン子、これからミーティングだってこと忘れてるだろお前。そんな悪い子にはお仕置きが必要だな」

「うぎゃっ!?」

 早くもうつらうつらと船を漕ぎ始めているところを伝家の宝刀・デコピン一発で覚醒させる。ギャーギャーと喧しく噛み付いてくるワン子を適当にあしらいながら、大和は席を立ち、空になった自分の食器を流しに放り込んだ。台所と食卓が直結していると移動の手間が最小限で済むのが便利である。

「さて、と」

 改めて食卓の様子を見るに、既に全員が食事を終えてリラックスムードに入っている。今にして思えば当初の予定である“食べながらミーティング”は完膚なきまでにスルーされていたが、まあそれは想定の範囲内だ。元より片手間の会議で片付けられるような問題だとは誰も思っていないだろう。故に、本格的に思考を巡らせるのはこれからだ。大和は自分の席に再び腰掛けつつ、頭を切り替える。

 最重要とも言えるポジション、作戦立案を担当する2-Fの頭脳役を任されたからには、決して適当な働きは出来ない。一勝一敗の状況で迎える大将戦となれば、双肩に掛かる重圧も推して知るべし、だ。勿論、先鋒戦・次鋒戦の作戦に手を抜いていた訳ではないが、明日の勝敗如何で全てが決する以上、やはり気合の入り方が違うのは仕方のない話だろう。

(信長、か)

 脳裏に浮かぶのは、2-Fの前に立ち塞がった冷厳なる氷壁。あの男と対峙した瞬間を思い返す度に、大和は背筋に走る戦慄を抑えられなかった。同じ人間だとは、ましてや自分と同年代だとは到底思えない程に凶悪な存在感。そして何よりあの眼差し。見下す、の領域を遥かに通り越し、もはや万物を平等に無価値と断じているような醒め切った瞳が自分を捉えると、底無しの空虚に引き摺り込まれるような錯覚を覚えるのだ。あの存在を相手に戦い、勝利を収める――言うまでもなく、それが自分達の目的。だが、深淵より覗き込んでくるかの如き暗い双眸が頭を過ぎる度に、そんな事が出来る筈がないだろう、と弱音を吐きたくなる。アレはバケモノだ、俺達の手に負える存在じゃない、と。

(ホントに勘弁して貰いたいな、全く)

 そもそもにして文字通り住む世界が違う彼が何故よりによって川神学園に転入してきたのか、あまつさえ自分達が目を付けられるような事態に陥ってしまったのか。そこそこに刺激的でそこそこに平穏な、どちらかと言えば至極普通の学生生活を望む大和としては頭の痛い限りな状況だが、しかしまあ嘆いてばかりもいられない。

 あの男と戦うとは言っても、何も実際に同じ土俵に立って殴り合いを演じる訳ではないのだ。相手は世界最強の武力を有する姉貴分を認めさせるレベルの怪物だが、幸いにして今回の勝負ではその暴威を振るう機会は無い。であるならば、必ず付け入る隙はある。故に、大和に課せられた役割は、その“隙”を見出す事に他ならない。今日の次鋒戦を通じて、取っ掛かりらしきものを掴むことには成功していた。どのように戦い、どのように勝つか、その道筋も見えてきている。あとはこの発想を煮詰めて、発展させれば―――

「…………しちゃうわ。ホラ大和、黙ってないで何かツッコみなさいよ」

(ん?)

 隣のワン子に唐突に話を振られた事で、大和は思案に沈んでいた自分に初めて気付いた。顔を上げれば、六名分の視線が自分に集中している。風間ファミリーと、心強い助っ人。織田信長という壁を乗り越えるため、力と知恵を合わせるべく集合した仲間達の姿を見遣って、大和は小さく不敵な笑みを浮かべた。そう、策の大枠は自身の脳内で既に出来上がっている。ならば情報と分析を以ってそれを肉付けし、策として命を吹き込む為にはどうすればいいか?

 答えは簡単、皆を頼ればいい。その為のチームで、その為のミーティングだ。

「そうだな――皆に話がある。ちょっといいか?」

「ははは、こいつスルーされてやがるぜ、イデッ!?ワン子テメェやりやがったな!」

「うー、いちいちうっさいのよアンタは!ほっときなさい!」

 大和が聞いていなかった部分で何かあったのか、ワン子とガクトの二大脳筋が低レベルな争いを繰り広げている。

「おーいお前ら、じゃれ合うのは後にしとけー。私の舎弟が何か真面目な話するっぽいぞ」

「その凛々しい表情……もはや永久保存したいレベルだね。それで、どうしたの?大和」

 京の言葉の前半部分はひとまず聞き流す事にして、大和はゆっくりと口を開いた。

「明日の大将戦について、ずっと策を考えてたんだけど……生憎、最善と思える“策”は一つしか思い浮かばなかった」

「結構じゃないか弟よ。一つでもベストと思える作戦を立てられたなら万々歳だろ」

「確かにそうなんだけど、これがまた色々と極端な策でね。下手をすると策ですらないと言われても仕方が無いようなものだ。だから、まずは皆の意見を聞いてみたい。俺の提示するこの策が――信長に、通用するかどうか」

 そう前置きしてから、大和は思考の末に導き出した“策”を披露する。その内容に対しての反応は、

「はぁ?信長のヤローを勝負に引っ張り出すだぁ?なーにアホなこと言ってんだ大和」

 ガクトによる呆れ混じりの意見が第一声だった。

 まあやっぱりそういう反応になるよなぁ、と予想通りの反応に怒るよりもまず納得していると、続いて京が口を開く。若干目が据わっているのは気のせいではないだろう。

「よりによってガクトにアホ呼ばわりされるとはなんてムゴい仕打ち。これはもはや屈辱で憤死しても許されると思うんだ」

「ちょ、ひどくね?俺様の繊細なハートにヒビが入りそうだぜ」

「ゴリラに繊細なハートがあるなんてメルヘン、私は信じない。だから別に酷くない」

 鏃の如き鋭い語調で容赦の無い毒舌を吐く京に、ガクトは情けなく表情を引き攣らせていた。

「なぁ俺様泣いていいか?むしろ怒るべきなのか?」

「笑えばいいと思うよ。っていうか今のはフツーにガクトが悪いね。僕も大和の言ってる事を理解できた訳じゃないけど、さすがにアホはダメでしょ」

「あー……まあ別に俺は気にしてないから。我ながら突拍子もない事を言ってるって自覚はあるし。さて、どうしてこんな事を言い出したのか、その理由から説明しますかね」

 こんな事。大和が提示した策、すなわち“信長を明日の大将戦に引っ張り出す”――その結論に至った理由だ。

「……なあ、皆。今日の決闘、俺達は勝ったと思うか?」

 大和の静かな問い掛けに、全員が不意を付かれたように沈黙した。そして数秒後、やはりと言うか、真っ先に沈黙を破って口火を切ったのはガクトである。

「オイオイ頼むぜ知力95、軍師の名が泣くぞ。答えるまでもねーよ、誰がどう見たって京の勝ちだったろーが」

「うんうん。大和アンタまさか居眠りしてたんじゃないでしょーね。もしそうだったとしても心配御無用、アタシがこの目でバッチリ見届けたんだから間違いないわよ!」

「まあ落ち着けって武力95ども。俺が言わんとしてるのはそういうことじゃなくてだな」

「……大和、さっきみたいに遠回しに言っても脳筋ズには通じないよ。悲しいかな、それが現実」

「まあ確かに、言い方が悪かったか」

 物憂げに溜息を落とす京の意見に苦笑気味に同意してから、改めて言葉を選ぶ。

「オーケー、確かにワン子とガクトの言う通りだ。今日の決闘の結果は、相手方の降参による京の勝利、それで間違いない。そこに文句を付ける気はないさ。それじゃあ何が問題なのか、ってところだが……そうだな。その辺りを説明する為にまず、“決闘後のギャラリーの反応”に何かしらの違和感を覚えた人は挙手してくれ」

 大和の呼び掛けに対して挙がった手は三つ。京、忠勝、モロの三名である。そして残る三名は――

「え?え?何の話?アタシはべつに何も感じなかったわよ」

「フフン。残念ながら俺様は他クラスの女子に肉体美をアピールするので忙しかったからな。ギャラリーなんぞハナから眼中に無いぜ」

「あ~、私は見学に来た新一年生たちからカワユイ娘っ子を見繕ってたんで、期待されても困るんだなこれが」

「ハッハッハ。期待を裏切らない反応をありがとう」

 流石は風間ファミリーの誇る三大脳筋だ、という喉元から出掛かった正直極まりないコメントをどうにか飲み下しながら、大和は乾いた笑いを上げた。見れば知的な不良(ツンデレ)は頭が痛そうな渋い顔で脳筋ズを眺めている。その気分は我が事のように良く分かるが、しかし比較的頭の回る三人が挙手してくれただけでひとまず良しとしよう。とにかくこれで話を進められる。

「まあ姉さん達は一旦置いておくとして。手を挙げた三人が覚えた違和感っていうのは、具体的にどういうものだったか。ゲンさん、説明よろしく」

「何でオレが……ちっ、まあいい。率直に言うが、2-Fの、つまり椎名の掴んだ勝利はギャラリーに勝利として正しく認められていなかった。そういうことだ」

「え?え?んーと、タッちゃんごめん、全然ワケわかんなかったり」

「手応えがねぇんだよ。確かに椎名は文句の付け様もなく勝ったが、それに対する周囲の評価が普通じゃ考えられねぇ程に低い。それこそ、“勝った意味がなくなっちまう”くらいにな」

「うん。その通り」

 勿論、京の勝利が全くの無意味だったという訳ではない。今回の一勝が無ければ二本先取でそのまま敗北していた訳で、大将戦に持ち込んだという意味では間違いなく重大な役目を果たしたと言える。しかし、敢えてその点を除いて考えてみるとどうなるだろうか。

「ん~、よく分かんねーぜ。京は勝ったんだから、周りの連中が何を言おうが関係なくね?」

「それは風評ってものを軽く見すぎてるな、ガクト。いいか、仮にこのまま俺達が明日の大将戦で勝利を収めたとして、その時に周囲の誰もが俺達の勝ちを認めてくれなかったら……それは実質的な敗北に他ならないんだ」

 2-Fが織田信長を打ち破ったという事実は生徒達が作り出す風評によって覆い隠され、その価値ごと無かったものとされてしまう。結果として、自分達が何の為に戦ったのか、その意味すら失われてしまうのだ。後に残るのは自分達の自己満足のみ。それだけは何としても避けなければならない事態である。

「いやいや何よそれ、おかしいじゃないの!納得いかないわ、どーしてそんな理不尽なコトが起きるってのよ!」

「それをさっきまでずっと考えてたんだけどな。俺が思うに、俺達は信長に対して勝負を申し込んだ時点で失敗していたんだ。今にして考えれば、あまりにも――ハンディキャップを得過ぎた」

 信長本人は勝負には参加せず、代理として自身の“手足”のみを用いる。

 決闘の時刻、場所、ルール、それら全ての決定権を2-F側に与える。

 改めてそれらに思考を及ばせてみれば、前提からしてどうしようもなくアンフェアな決闘だ。間違っても対等な勝負などではありえない。

「これは俺の失策だ。一昨日、信長に勝負を申し込んだ時、俺は奴に呑まれていた。冷静に考えてみれば判る事だったんだ……あんな無茶苦茶なルールじゃあ絶対に勝負なんて成立しない。客観的に見てこちらが絶対的に有利なんだから、ギャラリーにしてみれば勝てて当然。それでいてもしもこちらが負ければ大番狂わせ、不利な条件の中で勝利を掴んだあちらさんの評価は鰻上りだ。つまり、俺達は真っ向から信長に挑んだつもりが、いつの間にかハイリスクローリターンな、まったくもって割に合わない勝負に引きずり込まれてしまったってことなんだよ」

 そして、その責任の大半は自身にある。言い訳のしようもなく、痛恨のミスだ。普段の自分なら絶対にこんな失敗はしない。全ては、あの凶悪な殺意を撒き散らす男と対峙した事が原因だった。押し寄せる恐怖と動揺が大和から冷静な思考力を奪い去り、判断力を鈍らせた。あの時、大和は確かにこのように考えたのだ――“この男と争う以上、この程度のハンデは必要だ”と。信長の押し潰すような威圧感を前に、そんな錯覚を疑いもなく抱いてしまった。信長の脅威を身を以って知った訳でもない無関係な第三者が、ハンディキャップを甘受した2-Fをどのような目で見るか、そこまで思考を及ばせる事が出来なかった。

「成程な。つまりてめぇが言いたいのはこういう事か、直江?明日の大将戦で2-Fが勝とうが負けようが、あの野郎……信長には絶対に勝てない、と」

 しっかりと要点を掴んだ確認に大和が頷いてみせると、忠勝は眉間に皺を寄せながら、何事か納得したように深く頷いた。

「“織田信長が勝負の申し込みを受諾した段階で、既に大勢は決していた”……そういう事だな」

「そう、勝負の前提条件の設定をミスった。だから、この状況からその失態を挽回する手段はただ一つだ。――今からでも信長自身を勝負に引っ張り出す。手足じゃない、本人だ。それを成功させて初めて、俺達は奴と同じ土俵で争えるんだから。……俺の言ってる事、理解できたか、ワン子?」

「えーっと、うぅ、何となくだけど。とにかくノブナガのヤツに高みの見物をさせちゃいけないってコトでしょ?」

「いささか不安が残らないでもない回答だが、まあ概ねその通りだな。皆も俺の言いたい事は分かってくれたと思う」

 京、モロ、忠勝の三名は言うに及ばず、百代とガクトも大和の“策”を理解できたようで、納得の表情で頷いていた。

「ねえ大和。信長本人が出てこないと勝負が成立しない、それは分かったけど。……仮に信長本人が出てきたら、違う意味で勝負が成立しなくなる気がしないでもない」

「あー、それは確かに京の言う通りだな。この中で織田のヤツとまともにやり合えるのは私くらいのもんだ。その辺りはどう考えてるんだ軍師?おっ、いや、みなまで言うな。つまりはアレだ、ついに私の出番がやってきたという事だな!いいなぁいいなぁ、天下分け目の大将戦でアイツと闘えるなんて最高のシチュエーションじゃないか。想像するだけで血が滾ってくるぞ、ふふ、ふふふ」

 よほど信長との戦いに餓えていたらしい。百代は舌なめずりせんばかりの表情で、全身から凶暴な闘気を立ち昇らせていた。戦闘方面での欲求不満とか物騒だから真剣で勘弁して欲しいなぁ、と姉貴分の悪癖に内心で溜息を吐きつつ、大和は再び口を開く。

「何やら早合点して喜んでる姉さんには水を差すようで悪いけど、その案はパスで。2-Fと信長の勝負に、三年の姉さんが出てきたらそれこそアンフェアもいいところだからね。あくまで俺達の力で、直接あの男と決着を付けることに意味があるんだ。という事で今回は最後まで待機でよろしく」

「なんだつまらん。あ~あ、おねーさんシラケちゃったよ。私をぬか喜びさせた罰として今月分の借金チャラな」

「横暴過ぎる……現世に神はいないのか」

「ああ、渡る世間の冷たさに触れて大和が傷付いている。でも心配しないで、傷口は私が執拗なまでに舐めて癒してあげるから。ハァハァ」

「耳元でハァハァしてんじゃねぇ!」

 魔王から逃げ出したところ変態に回り込まれてしまった。どうやら自分に安息の地はないようだ、と諦観と共に天井を仰いでいると、おもむろに忠勝が席を立った。何事かと視線の集まる中、部屋の隅から紙袋を提げて戻ってくる。再び席に着くと、がさごそと袋の中身を取り出して、テーブルの上に並べた。

「これは……和菓子?」

「そろそろデザートにゃいい時間だと思ったんでな。ここらで息抜きでもしとけ。それに糖分を補給しないといい案も出ねぇだろ」

「さすがゲンさん!俺の癒しはゲンさんとヤドカリだけだよ」

「勘違いするんじゃねぇ。グダグダなミーティングなんぞ願い下げだからな。それを防ぐためにも、てめぇらの頭が少しは回るようにしてやりたかっただけだ。……ああ、ちょっと待ってろ。茶を淹れてやる。その方が和菓子の味を引き出せるからな。言っとくがこれは和菓子に対する当然の礼儀で、別にてめぇらの為じゃねぇぞ」

 ぶっきらぼうに言いながら席を立ち、台所へ向かう家庭的な不良(ツンデレ)の背中を見送りながら、風間ファミリーの面々は一様にほっこりした表情を浮かべていた。

「うまっ!うまうまっ!ちょ、これホントにおいしーわよタッちゃん!」

「うん……辛さが致命的に足りてないけど、それ以外は完璧だね。十点!」

「おお、京の十点が出ましたよ奥さん。というか和菓子に辛さという要素を求めるのは絶対に間違ってると思うんだ。うん、それはさておき、冗談抜きに美味いなこれは。むむむ、よもや軍師・直江大和ともあろうこの俺が、手が止まらんとは……っ!」

「別に軍師関係ないよね!うーん、梱包からして店売りじゃないから、手作りかな。ひょっとしてゲンさんが作ったの?」

「いや、俺じゃねぇ。知り合いに和菓子作りが趣味の奴がいてな。そいつと昨日会った時、大量に押し付けられたんだが、到底親父と俺の二人じゃ処理しきれなくなったんで、お裾分けだ……ったく、気合入れて作り過ぎなんだよあの馬鹿は。まあらしいと言えばらしいんだが」

「……ふ~ん」

 その時、京がニヤリと邪悪な笑みを浮かべ、忠勝に意味深な目を向けた。

「ゲンさんの言う“アイツ”って、女の子?」

「ん?ああ」

「へぇ。なるほど、ね」

「どうした京。そんないかにも悪企みしてそうな顔で」

「ククク、いかに未来の配偶者の大和といえどこればっかりは言えないね。ソウルシスターとの絆はそれほどに重いのです」

 気になることは気になるが、どうにも口を割りそうに無かったので、大和は京の態度の理由を問い質すことは早々に諦めた。

 それよりもむしろ、忠勝の口から女子に関する話題が出てきた事が驚きである。それはまあ、別に家に引き篭もっている訳でもない健全な男子高校生である以上、女子の知り合いがいる事など当然なのかもしれないが……何せ態度の悪さと目付きの悪さと口の悪さと素行(職種)の悪さから生粋の不良扱いされ、一部のクラスメートを除く全校生徒に恐れられている忠勝だ。そんな彼に対してお手製の和菓子をプレゼントする女子がいるとなれば、大和の興味を引くには十分だった。

「知り合いの女の子に、“アイツ”ねぇ。随分と親しげに聞こえるんだけど、これはもしかするともしかするんじゃない?」

「あ?何が言いてぇんだ直江」

「つまりはアレだ――ゲンさんに春が来た予感!」

「なにぃっ!?おいマジかよゲン!チクショウてめぇ女に興味ないフリしやがって、やることはやってやがったのかよ。見損なったぜ、てめぇがモロと同類のムッツリ野郎だったなんてよ!」

「ドサクサに紛れて余計なこと言わないでよ!とばっちりもいいところだよね!」

「それでゲンさん、本当の所はどうなんですかね」

「んな訳あるかボケが!ったく、何を言い出すかと思えばくだらねぇ。年中無休で色ボケしてやがるてめぇらと一緒にしてんじゃねえよ」

「え、タッちゃんって好きな人いたの!?ほえー、タッちゃんもアタシの知らないところで青春してるんだなぁ。相手が誰なのかは知らないけど、恋が成就するように祈ってるわ!応援してるから頑張ってね!」

「ぐっ、一子、だからそいつは誤解だって言ってるだろうが……!ちっ、やはり余計なことは言うもんじゃねぇな、口は災いの元だ。毎回毎回懲りねぇなオレも……。オイ、もう休憩は十分だろ。和菓子も切れたところだ、さっさとミーティングを再開するぞ」

 この話題についてはもっと色々と突っ込んで訊きたい気分ではあったが、ギロリとこちらを睨み据える忠勝の眼光に只ならぬ迫力を感じたので、大和はひとまず潔く退いておくことにした。

 常識的で知的で家庭的な忠勝だが、それらの全ては“不良なのに”という前提あってのことだという事実を忘れてはならない。下手に怒らせれば本気で怖いのだ、実際。引き際を見誤るべからず、である。

「さて、話の続きだな。信長を勝負に引っ張り出した後、どうやって対処すればいいのか。それが次なる問題になってくる訳だけど」

「う~ん、僕は戦闘とかはからっきしだからいまいち分からないんだけど。実際問題、信長ってどれくらい強いの?モモ先輩が認めるくらいだからそりゃもうレベルの桁が違うってことは分かるんだけどね。やっぱり具体例を聞かないとイメージし辛いって言うか」

 モロの意見に関しては大和も同感だった。自身もモロと同様に武力というものをまるで持たないため、相手が“とんでもなく強い”ことは分かっても、どの程度、どのように強いのか、具体的な部分は知る術がない。よって、信長の脅威に対する認識はどうしてもアバウトなものになってしまう。

「具体例、か。そうだな、九鬼との決闘じゃあいつ自身は闘わなかったし、不死川とはそもそも勝負になってなかった……考えてみりゃお前らを含めて、学校の連中は誰もあの野郎の戦闘を見てないのか」

「そうなんだよね。ゲンさんは信長と付き合い長いみたいだし、何か具体的な例を挙げられるんじゃない?」

「まあ、“こっち”じゃあの野郎の悪名は散々鳴り響いてやがるからな。物騒な逸話やら悪趣味な伝説やらには事欠かねぇのは確かだ。で……その中から敢えて具体例を選ぶとすれば、相応しいのは一つだろうよ。二年ほど前、まだオレも信長も中学生だった頃の話だが、裏社会ではかなり有名なエピソードだ」

 そう前置きしてから、忠勝は湯飲みに残っていた緑茶を飲み乾して、静かに語り始めた。

「……当時の堀之外はある意味では今以上に混沌とした街だった。絶対的に有力な支配者が不在だった事で、色々な有象無象が常に小競り合いを起こし、街の覇権を握ろうと明に暗に争ってやがったからだ。――そんな時に、急速に頭角を現してきた二つの勢力があった。まあ勢力と言うよりはほとんど“個人”、みてぇなもんだが……その一方が織田信長と森谷蘭の主従だ。そしてもう一方は、板垣一家と呼ばれる四姉弟。織田主従と板垣一家はそれぞれが滅茶苦茶な力で暴れ回って、見る間に堀之外の支配権を掌握していった。逆らう奴をことごとく叩き潰しながら、な。双方がそうして勢力圏を広げていけば、最終的に行き着くところは自明だ」

「堀之外の覇権を掛けた、両者の衝突……って所だろうね」

 大和の呟きに、忠勝は頷いてみせる。

「そういう事だ。どうもあいつらは昔からの顔馴染みだったらしいが、お互いそれだけの理由で道を譲るような生温い連中じゃねぇ。織田信長と森谷蘭、板垣竜兵、板垣亜巳、板垣辰子、板垣天使……当時から揃いも揃って怪物級だった奴らが真正面から衝突した。こうなればほとんど銃火器を使わない戦争みてぇなもんだ。実際、全部が片付いた後で様子を見に行ったら、堀之外の一角が戦場跡さながらの景色になってたのを良く覚えてる。そして、結果は――信長の完勝だった。あの野郎、掠り傷すら負ってなかったな。さすがにゾッとしたぜ」

 忠勝の語る信長の逸話を聞き終えると、ふぅん、と百代は愉しげに口元を吊り上げた。

「まあ織田の奴なら不思議じゃあないな。あいつの纏う“気”はどう考えても釈迦堂さんクラスかそれ以上だ。お前らにも分かり易く言うなら、川神院の師範代並みのレベルは間違いなくある。もしあいつが表立って動けば、武道四天王の顔触れも変わるだろうな。で、どうなんだ、肝心なところを聞いてないぞ。織田とやり合ったその板垣一家っていうのは、どれくらい強いんだ?それが分からないと何とも言えんだろうに」

「信長が板垣一家とやり合ったのはあくまで中学時代の話だ。どれだけ当てになるかは判らねぇが、参考までに言っておく。今のあの連中の強さは―――」

 長男、板垣竜兵。実力的には忠勝やガクトより格上で、裏社会のチンピラを取り仕切る獣達の王。
 長女、板垣亜巳。恐らくは京や一子より格上で、川神学園の教師陣に匹敵するであろう力量の持ち主。
 次女、板垣辰子。実力はほぼ未知数。まともに戦っている姿が滅多に目撃されないが、長女より遥かに強いという目撃談もある。
 三女、板垣天使。忠勝の見立てでは一子と同等の実力だが、実際に戦えば、実戦経験と残虐性の差で彼女に軍配が挙がるだろうとの事。

 忠勝の語った板垣一家の情報を頭の中で整理しつつ、大和は慎重に口を開いた。

「その四人を同時に相手にして、信長は勝利した。しかも掠り傷さえ負っていなかったって事は、順当に考えれば“パーフェクト勝ち”した訳か……」

「まあ実際は四対二、だったとは思うが。あの野郎の傍にはいつだって従者が控えてるからな」

「ふむ。私の見たところ、あの蘭ってカワユイ娘は京以上メイド未満、って感じだったな。潜在能力はもっとありそうな気はしたが、コントロール出来ないんじゃなぁ。自分の力に振り回されてるようじゃまだまだ青い。ま、今のアレだと、四人の内の一人を引き受けるのが精一杯だろうな」

 百代の分析を計算に加えて、大和は思考に沈んだ。

 という事はつまり、信長は板垣一家の三人を同時に相手にして、無傷の勝利を収めた事になる。忠勝の言が正しければ、彼等は一人一人が最低でもワン子と並ぶ実力の持ち主だ。そうなると――信長の有する力量は、限界まで少なく見積もったところで、彼女の三倍以上と考えるのが自然だろう。

「要するに、だ。姉さんが参戦できない以上、俺達が信長に対して真正面から戦闘を挑むのは自殺行為って事だな。風評を考えれば、さすがに一騎討ちのルールまでは変えられないし」

「んん?それじゃーどうするのよヤマト。信長と勝負しないと勝てないのに、勝負しても勝てない……?あうぅ、こんがらがるぅ……何だかアタマが痛くなってきたわ」

「ワン子の頭がオーバーヒートしそうな件は死ぬ程どうでもいいとして。別に真正面からの戦闘に拘る必要なんてないよね。これまでの二戦……ワン子の徒競走に、私の射詰め。どっちも自分達の得意分野で戦ってきたんだから。大将戦も同じように有利なステージを用意すれば、相手が信長でもどうにかなると思う」

「うーん。だけど京、その“ルールを2-F側で決めてもいい”っていうのはやっぱり、客観的に見て大きなハンデだよね。それに頼って勝ったとしても、皆が認めてくれないんじゃない?そうなったら結局、僕達は実質的には勝てないって事ならないかな」

「いやー、そうは言い切れないだろモロロ。確かにこっちでルールを自由に決められるってのは相当なハンデだが、織田の奴が出てこない事に比べたら些細なものだと思うぞ。たとえどんなルールで勝負しようが、織田が直接舞台に出向いてくれば、それだけで十分にギャラリーは納得するんじゃないか?」

「でも―――」

「だったら―――」

「だけどよ―――」

 次々と飛び交う意見を、大和は一歩引いたところから眺めていた。

 状況を打開するための策を編み出そうと各々が真剣に頭を捻り、丁々発止と議論を交わしている。軍師としての自分が提示した“策”をこうも真摯に受け止め、その内実を完成に近付けるために、皆が本気で取り組んでくれている――その事実は、大和にとっては何よりも嬉しいものだった。

 穏やかな心地を僅かな笑みに変えながら、大和は新たな意見を提示すべく、再び思考を巡らせ、口を開いた。


「俺が思うにだけど―――」


 かくして決戦前夜は、これで最後となるであろう対織田信長特殊ミーティングにて過ぎてゆく。


 電話回線越しにキャップこと風間翔一を加えての対策会議は、実に深夜近くまで行われた。

 
 そして。

 
 夜は明け―――四月十六日、金曜日。

「いよいよ、か」

 玄関口で足を止め、空を見上げる。本日は快晴なり。雌雄を決するには好い日と言えよう。

「えー。キャップ不在でいまいち締まらないけど、ここはリーダー代理として俺こと直江大和が一言」

 朝方の新鮮な空気を肺一杯に吸い込んで、大和は声を張り上げる。

「さあ――2-F代表、風間ファミリー!出陣だ!」

『応っ!!』

 清々しいほどに真っ青な空に向かって、皆の声が響き渡った。















「さーてさてさて。いよいよだね、ご主人。いかに面の皮が厚過ぎて我が道を往き過ぎてる感のありまくりなご主人と言えども、そろそろ緊張してきたんじゃない?トイレに行っておくなら今の内だよ」

「ふん。下らん事を抜かすな、ネコ。眼前の塵芥を払うに、何を緊張する必要がある?」

「くふふ、相変わらず人を人とも思わない空前絶後の傲岸不遜っぷり、流石は私のご主人だと感嘆する他ないね。いよっ、川神学園最悪最凶災厄最狂の男、今日もまた最っ高ぉに冷酷無情だよ!ああ無情ぅ、レ・ミゼラボゥ!」

「もう、不敬ですよねねさん。あああ申し訳ございません主、蘭の教導が至らぬばかりにこのような!この森谷蘭、かくなる上は腹を掻き割って信長さまへのお詫びと致しますッ!」

「…………」

 こいつらは少しくらい黙って控えていられないのだろうか。決戦直前で気分が高揚しているのか何だか知らないが、先ほどからテンションが高過ぎて手に負えない。こんなイロモノ連中を従者として連れ回さなければならない俺の気苦労というものを考慮して欲しいものだ。あたかも奇人変人の類を見るような周囲の視線が、容赦なく俺の繊細な心に突き刺さる。

「来たな……、アレが噂の織田一家って奴らか。初めて見たが、ありゃ確かにヤベェな……姿を見ただけで背筋が震えたぜ」

「おいお前ら、ボサっと突っ立ってないでさっさと道を空けろ!目ェ付けられたいのか!機嫌を損ねたら殺されるぞ!」

「ひ、ひぃっ!?」

「ば、バカ、早く下がれ!目を付けられるって言ったろうが!」

「でも、あ、腰が抜けて動けないよぉ~」

「くそ、世話を掛けさせやがる!ほらキョウコ、掴まれって」

「あ、ありがとうカズキ……」

 まず間違いなく蘭とねねが繰り広げる変人空間に恐れを為したのだろう、俺達の進行方向を塞いでいた人垣が大袈裟な勢いで割れて、必要以上に広い通路が瞬く間に出来上がる。途中で聴こえたラブコメらしき腹立たしい遣り取りは即座に脳裏から抹消した。というか、前も同じような事があったのは気のせいだろうか。

 激しい既視感に頭を悩ませながら歩みを進めることしばし、目的地に到達する。

 現在地は――川神学園第一グラウンド、その中心部。俺こと織田信長と、2-F代表チームのリーダー、風間翔一の決闘場所として選ばれたステージだ。昼休みもそろそろ終わろうという時間帯だと言うのに、第一グラウンドは数え切れない程の群集で猛烈に賑わっていた。半ば当事者たる2-F・2-Sの面々は当然として、他クラスの同級生一同、更には上級生に下級生、それに加えて教師陣、果ては警備員から食堂のおばちゃんまでもが見物に押し掛けている始末だ。料理部とやらは商魂逞しく昼食用の弁当の販売を始めているし、決闘を目前にして大半の生徒達はトトカルチョで盛り上がっている。グラウンドを覆う凄まじいまでの熱気は、もはや祭りと形容できるレベルに達していた。九鬼英雄との決闘も不死川心との決闘もギャラリーは相当に多かったが、それも今回に比べれば霞んでしまうだろう。水曜日より始まった2-F代表チームVS織田一家の対戦。その決着を飾る大将戦――いかに全校の注目を集めているか判ろうと云うものだ。

「いよいよですね、信長。コンディションはいかがですか?」

「冬馬か。ふん、然様な質問は無意味よ。この俺が自ら動く以上は、いかなる状態であれ――後れを取る事など、万が一にも有り得はしない」

「ふふ、実に頼もしい言葉です。私も信長の背中ならば安心して見ていられますよ。貴方の雄姿が、それはもう目に焼き付く程の熱烈さで応援していますから、存分に力を揮って下さいね」

 不気味に爽やかな笑顔で言い残すと、冬馬はギャラリーの輪の中へと戻っていった。応援してくれるのは確かに有難いのだが、決闘の間中、奴に熱視線を送られ続けるのかと考えると素直に喜べない。見ているのは本当の本当に背中か?臀部の間違いじゃないのか?

「フハハハ、調子はどうだ!我が好敵手、ノブナガよ!我は常と変わらず壮健である!」

「お前の体調に興味は無い」

 今度は無駄に騒々しい輩の登場である。周囲に充満するお祭りムードに中てられているのか、心なしか普段以上にハイテンションだった。

「貴様ならば言うまでも無く分かっておろうが、この一戦は即ち2-Sの名を背負ったもの。故に、本来であればクラス委員長たる我が果たすべき重責……しかし、今回は貴様に預けるとしよう。王たる我が好敵手と認めた貴様なればこそ、栄光ある我が代理役を任せるに足るというもの!さぁ、見事我の信頼に応えて見せるがいい、ノブナガよ!」

「莫迦め。お前の意図にも興味なぞ無い。俺は、俺の意志で戦に臨むだけよ」

「フハハハ、その意気よ!王たる者の在り方、その身を以って庶民に示してやるがいい!フハハハハッ!」

 醒め切った語調で返した俺の言葉が聞こえているのかいないのか、英雄は普段の三割増しで喧しい高笑いを上げながら、腹立たしいほど颯爽と去っていった。相変わらず規格外にゴーイングマイウェイな奴だ、と呆れながら金ピカの背中を見送っていると、不意にドスの利きまくった低い声音が耳を打った。

「いいかテメェ。もし英雄さまの期待を裏切りでもしたら、あたいが後腐れなくぶっ殺してやるから覚悟しとけ」

「……くく。相変わらずの狂犬だな、忍足あずみ。或いは、“女王蜂”と呼ぶべきか?」

 容赦なく突き刺さる殺気に内心冷や汗を垂らしながら、悠然たる態度で眼前のメイドを見返す。九鬼家従者部隊序列一位にして、かつて“女王蜂”の異名で数多の敵部隊を恐慌に陥れた見敵必殺の傭兵――忍足あずみは、ニタリと凶暴な笑みを浮かべてみせた。

「はっ、その名を“こっち側”の世界で呼ばれるのは久々だな。あたいの事を知ってるってんなら話は早い。毒針で刺し殺されたくなかったら、精々気張るこったな。……英雄さまのライバルともあろう野郎がこんな所で負けるなんざ、あっちゃいけねぇだろ?ま、あたいも形だけは応援してやるさ。――ああ、どうかお待ちください英雄さま~☆」

 俺に浴びせていた、刃物を思わせる鋭利な殺気をあっさり消すと、あずみは飄々と手を振りながら英雄の下へ駆け寄っていった。クラスメートの言葉を借りるなら、とんでもなくおっかない冥途さんもいたものだ。今更ながら、彼女の正体を碌に知らないまま喧嘩を売るという暴挙をやらかした過去の自分が怖い。結果的にはある程度丸く収まったから良かったが、一歩間違えていれば、今頃俺の首から上の部位は永遠に失われていただろう。

 九鬼家従者部隊序列一位、そして“女王蜂”……どちらの肩書きも、聞く者が聞けば震えが止まらなくなるような恐怖の代名詞。即ち人を外れた怪物の証である。

「よう信長。あのバイオレンスメイドに絡まれるとは災難だったな」

「準か」

「同じ被害者として心から同情するぜ。うむ、是非ともそのままスケープゴートになってくれ。俺の平穏のために」

「死ぬがよい」

 何やら菩薩のような表情で俺を拝んでいるが、言っている事は普通に最低だった。思わず殺気を飛ばした俺を責められる者はいまい。

「きゃはは、イケニエだイケニエだ~。これでもうパシらなくていいよ!やったねジュン!やーい、ハーゲハーゲ」

「脈絡なく人の外見的特徴を罵倒しない!そもそも寝てる間に俺の髪剃ったのアンタですから!」

「そんなの関係ないもんねー関係ないもんねー。所詮ハゲはハゲだからハゲなのだ~」

「意味分かんねぇけどなんかすごい傷付くからやめて!」

 こいつら俺の応援に来たんじゃねぇのかよ、だったら一体何しに来やがったんだ、漫才なら余所でやれという俺の無言の抗議を受け取ってくれたのかは知らないが、ハゲもとい井上準は小雪にペチペチ頭をはたかれながらも、ようやっとこちらに向き直った。

「ま、正直言ってお前さんには別に応援なんざ必要ないとは思ったが、ダチだからな。頑張れよ、信長」

「がんばれがんばれノ・ブ・ナ・ガ!いまが本能寺だーっ」

「不吉極まりない応援があったもんだなオイ!あー、信長よ。まぁユキはこんなだが、少なくとも2-Sの奴らは皆お前のこと、応援してるぜ。一応、それだけは言っておきたくてね。……んじゃ、また後でな」

 言うべき事は言った、とばかりにさっさと背を向け、暴れる小雪を引っ張ってギャラリーの中に戻っていく準。その飄々とした背中を見送りながら、俺は心中にて苦笑を浮かべる。

 やれやれ、極悪非道の織田信長ともあろう者が他愛ないものだ。

 かくもシンプルな応援の言葉に、誤魔化しようもなく奮い立ってしまっている自分が居る。

「くくっ」

 ダチだから。ダチ。友、か。俺のこれまでの人生の中で正しく友と呼べる存在は、源忠勝ただ一人だった。ただの一人で十分だと、そう思っていた。互いの心の深奥を打ち明ける事もない、所詮は上っ面だけの人間関係など煩わしいだけだ、と。

 しかし、まあ――味わってみれば、こういうのもなかなか、悪くない。

「おい織田!高貴なる此方が友の為に応援に赴いてやったのじゃ!さあ、欣喜雀躍して迎えるが良いぞ。どうせ誰も応援に来ずにひとり寂しがっておったのであろう?にょほほ、やはり持つべきは友ということじゃのう」

「生憎、間に合っている」

「んな!なんじゃとっ!?ぐぬぬ……何故じゃ、此方の時は誰一人として……!」

 心は憤懣やるかたない様子で、何やら独りブツブツと呟いていた。酷く哀愁を誘う姿だったが、ここはあまり触れずにそっとしておいてやるとしよう。それが人間として持ち合わせるべき最低限の優しさというものだ。しかし、織田信長の排他的なキャラクター性のおかげで、交友関係が割と壊滅的なこの俺にまで同情されるとは、流石の不死川クオリティと言う他ない。

「んー、コホン。ま、まあそんな事はどうでもよいのじゃ。それよりも、先程の校内放送で決闘内容を聞いたが、織田、お前……あんなルールで本当に大丈夫か?いや勿論、お前を信じておらん訳ではないが、しかしアレはあまりにも」

「ふん。何を言い出すかと思えば、下らんな」

「く、下らんとはなんじゃ!よいか、此方はお前を心配してじゃな!」

 怒りに顔を赤くして言い募る心の言い分は、至極もっともなものだった。と言うかむしろ、心を除いた2-Sの連中の如く、全く不安に思わない方がどうかしているのだ。間もなくこのフィールドを舞台として行われる、俺と風間翔一との決闘――そのルールの内実は、傍から見れば紛れもなく異常と形容する他ないものなのだから。そういう意味では、心の反応は正しい。

 だがしかし、だ。

「心配も気遣いも一切は無用。……他ならぬお前が。不死川心が友として選んだ男が、この程度の事で躓く筈もなかろう。違うか、心」

「む、むぅ。それは……、違わないのじゃ……。うむ、そうじゃな!よく考えてみれば、高貴なる此方の友であるお前が、2-Fの野蛮猿に後れを取る道理なぞ無かったのじゃ!何せ此方の目に適った友なのじゃからな。うむうむ」

 やたらと“友”という言葉を強調しながら、ニヨニヨと締まりのない笑顔で何度も頷いているお嬢様。やはり心にとって、友人というものはそれだけ大きな比重を占める存在なのだろう。織田信長というキャラクターは控え目に言っても無愛想で無感情で無表情で、友人として選ぶには絶対に相応しからぬ人物だとしか思えないが、それでも彼女は。不死川心は、俺との友誼を掛け替えのない大切なものと考えている。

 ダチ。友。友誼に友愛に友情。なにぶん“織田信長”にとっては縁の薄い言葉だらけで、それらに対してどう対処すべきか判じかねているのが現状だが――ほんの僅かながら、その答えは見えたかもしれない。

 そのまま浮かれた調子で話し掛けてくる心と適当に会話を交わしていると、不意に周囲を取り巻くギャラリーがざわめき、そして一瞬の後、大きく歓声が湧いた。

「おおお、ついに風間ファミリーの登場だ!盛り上がってきたぜぇっ!」

「相手はあの魔王のような男だが、それでも風間なら……風間ならきっとなんとかしてくれる」

「キャーッ!風間くーん!こっち向いてー!」

「……フン。何事かと思えば、やっと山猿どもの入場か。全く、庶民の分際で高貴なる此方達を待たせるとは厚かましい奴らなのじゃ」

 心が憎々しげに睨み付ける先には、八名分の人影があった。群衆の歓声が飛び交う中、俺の下へと歩を進めてくるのは、現在に至るまで2-Fの名を冠し、織田信長の手足と対峙してきた者達。そして―――これより俺と、雌雄を決する男だ。

 身に纏う気配は風の如く自由奔放で、双眸に宿す気迫は炎の如く燃え盛っていた。

 冷酷無比な暴君に敢然と立ち向かうその姿に、観衆は幼き日に憧れたヒーローを重ねる。


「よっ。来たぜ、大魔王」


―――風間翔一が、織田信長の前に立った。


「…………」

「…………」

 もはや、互いに語るべき言葉はない。

 気付けばギャラリーの賑やかな歓声は消え失せ、静かなざわめきがグラウンドを充たしてゆく。

 今や誰もが息を呑み、固唾を飲んで事態の推移を見守っていた。

 そんな緊迫した空気の中、俺はふと首を動かして、観衆の方へと視線を向ける。

 最初に視界に映るのは、蘭だ。何せ最前列から全力で身を乗り出すようにして応援の体勢を取っているので、言うまでもなく悪目立ちしまくりの有様だった。その後ろではねねの奴が澄まし顔でこちらを見ている。俺と視線が合うと、小賢しい笑みを口元に浮かべてウインクを飛ばしてきた。相も変わらず馬鹿な従者共で、実に恥ずかしい限りである。

 二人の近くには2-Sの生徒達が並んでいた。葵冬馬、井上準、榊原小雪、九鬼英雄、忍足あずみ、不死川心。どいつもこいつも揃いも揃って俺を恐れようとしない、清々しいほどの奇人変人どもだ。あまつさえダチだの友だのと、“織田信長”を一体何だと思っているのか。全く以って理解の及ばない連中で、真面目に考えるのも馬鹿らしくなってくる。

 そこでギャラリーから視線を切って、眼前の決闘相手へと注意を戻す。

 織田信長の圧倒的な実力を学園内に遍く知らしめる為にも、この一戦での勝利を得る必要性は非常に大きい。変人ながらも実力者の多い2-Fを屈服させる事は、他クラスの反抗勢力に対する牽制としての役割を十二分に果たす事になる。戦略的な価値は語るまでもないだろう。

 というような理由がある時点で、俺が全身全霊、全力を振り絞って取り組むには十分過ぎるのだが……どうせなら、ついでにもう一つくらい、些細な理由を追加してやっても罰は当たるまい。

 
 それは例えば――『友人の応援を無駄にしない』なんて理由。

 
 我ながら笑いが込み上げてくるほどに甘っちょろいが、まぁ、そんな和菓子のような甘さも、たまには悪くない。

 
 俺が脳内にて益体もない思考を巡らせている間にも、時計の針は進む。


「さて、双方揃った事じゃ。お主達、そろそろ始めても良いかの?」

「当然だな。オレの方はいつでもいけるぜ!」

「同上、だ」

 
 俺達への意思確認を終えると、川神鉄心は静かに頷いた。そして、


「―――これより、川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!」

 
 張り上げられた力強い声音は、晴れ渡る青空へと吸い込まれていく。 

 
 全てを決する大将戦の火蓋が、今此処に切って落とされようとしていた。











 




 ようやく続きを書けた……ッ!
 時間の都合やら何やらが在ったとはいえ、何とも中途半端な所で長らくお待たせしてしまい、読者の方々には申し訳ない限りです。しかも今回の話では引っ張るだけ引っ張ってストーリーは大して進行していないという。もうそれこそ割腹するくらいしかお詫びの方法が無い気がしてきた作者ですが、何はともあれ続きを投下できて一安心。兎にも角にもVS風間ファミリー編を終わらせない事には作者としても据わりが悪いので、出来るだけ早く後編を仕上げたいものです。
 今まで出番の無かったキャップの活躍は後編をお楽しみに。それでは、次回の更新で。



[13860] 殺風コンチェルト、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:707c677c
Date: 2012/12/16 13:08
「2-F所属、風間翔一!クラス代表としてお前に決闘を申し込むぜ、信長っ!!」

 恐れも迷いも躊躇いも感じさせない、明朗な宣戦の言葉が、教室をしばし反響する。

 その内容を、風間翔一の言葉の指し示す意味を理解し損ねたのか、2-Fの生徒達は誰もが黙り込んだ。が、それも数秒のこと。我に返ったように、彼らは一斉に沈黙を破った。

「おいおい何考えてんだよ風間!おまえアイツのヤバさ分かってねーだろ!せっかく本人が出てこないって言ってんだ、余計なこと言うなって」

「う~ん、いくら風間クンでもアレはちょっと……ねぇ。わざわざ自分から危ない橋を渡らなくてもいいのに。男の子の意地ってヤツ?そういうのアタシには理解できないわ~」

「ぐ、スイーツに同調するのは実に不本意だが……正論だ。ヒーロー気取りで勝ちを棒に振られてはたまらん。いいか、これはクラス全体の問題だと自覚しろよ風間」

「…………」

 クラスメートから次々と投げ掛けられる疑問と非難の声に対し、翔一は何か言い返すでもなく、ただケロリとした涼しい顔で受け止めている。

 その悠々たる立ち姿を冷然と見遣りながら、俺は心中にて盛大な舌打ちを一つ落とした。

――やはり楽には勝たせてくれないか、風間ファミリー。否、直江大和、と言うべきか?

 風間翔一がこの状況下で対戦相手として俺を指名してくるという事はつまり、2-Fお抱えの軍師は気付いたのだろう。俺達の繰り広げる三本勝負の裏側に隠された、真の勝利条件……すなわち、“織田信長本人を勝負の場に引っ張り出す”という大前提に。単純な目先の勝敗に捉われることなく、風評、という戦略的要素を視野に入れて思考することが出来れば、自ずと分かる事だ。それ以外の方法で2-F側が本当の意味での勝利を掴む事は、実質的に不可能に近いのだと。俺の“手足を相手に”“一方的に有利なルールで”戦いに臨む以上、よほどの圧倒的大勝を収めない限り、ギャラリーは2-Fの勝利を正当なものとして認めはしないだろう。

 それは威圧による思考誘導を利用して作り上げた、最初にして最大の罠。2-Fが勝ちを焦るあまり風評に目を向けず、そのまま突撃してくるようならば、問答無用で奈落へと誘う陥穽だ。一度発動すれば、何をせずとも勝利の栄光は勝手に俺の下へと転がり込んで来ていた。だがしかし――直江大和は見抜いた。切っ掛けは恐らく、昨日の次鋒戦。椎名京の勝利に対する観衆の冷めた反応から、彼は罠の存在に思い至ったのだろう。そして、その罠を無効化し得る唯一の手段を見事、突き止めてみせた。明敏な観察力と柔軟な発想力があって初めて可能な芸当と言えよう。……最初から無能ではないと思ってはいたが、出来るならその厄介な有能さは最後まで発揮せずにいて欲しかったものだ。

 こうして看破されてしまった以上は、もはや罠は機能しない。これは、見抜かれてしまった時点で効力を失う類のトラップなのだから。

「ふん」

 仕方が無い――あまり望ましい展開とは言えないが、だからと言って事前に想定していなかった事態ではない。何と言っても、織田信長は能天気な楽天家からは程遠い存在である。最悪の事態を含めた、ありとあらゆるパターンを常に計算に入れた上で策謀を巡らせるのが俺の主義だ。当然、罠に気付かれた場合の対応策くらいは用意している。

 という訳で、俺は周囲に悟られないよう自然さを装いつつ、傍に控える従者へと目配せを送った。それを受けて、明智ねねはニヤリと邪悪に口元を吊り上げる。そして、事前に打ち合わせた通り――相手を限界まで小馬鹿にし切った、絶妙に腹立たしい表情を作りながら、口を開いた。

「んん~?私の聞き違いかなぁ、何やら身の程知らず過ぎて現実と思うのも馬鹿らしいような戯言が聞こえたような気がしたんだけど。……ご主人に挑む?キミが?あははは、やめてよもう!爆笑モノのジョークで私たちの腹筋を破壊しようって作戦なのかな?くふふ、随分と愉快な策を思いつくもんだね、軍師さん」

「生憎と、冗談で言ってるつもりはないよ。俺達は、真剣で信長に挑む気だ」

「ふぅん。へぇ。じゃあ……本気で、言ってるんだ?」

 ねねの口元からヘラヘラした笑みが消え失せ、スゥッ、と特徴的な猫目が酷薄に細められた。怖気が走るほどに冷酷な雰囲気を醸し出しているその表情が、只の“演技”に過ぎないなどとは誰も思うまい。相変わらずの役者っぷりだ。

「場所の指定で地の利を得て、決闘方法を自在に定めて。そんな途方も無いハンディキャップを与えられておきながら、所詮はご主人の数ある“手足”に過ぎない私たち如きを相手に、一進一退の攻防を繰り広げる。そんな語るも無残な無様を晒したキミたちが、おこがましくも直接ご主人に挑もうだなんて妄言を――キミは、本気で、言ってるんだ?」

「ああ、本気も本気だぜ!俺は信長に挑み、そして勝つ!そのために俺はここに帰ってきたんだからな」

 氷のように冷たいねねの言葉に怯んだ様子もなく、翔一は意気軒昂と言い返す。

「ハァ。所詮は単細胞の熱血馬鹿に、これ以上言葉を重ねても無駄かもしれないけどさ――」

「ネコ。もはや、口出しは無用。控えろ」

「…………うん。了解だよ、ご主人」

 静かながらも有無を言わさぬ俺の一言を受けて、ねねは大人しく口を噤んで引き下がった。どれほど巧みに言葉を操ったとしても、風間翔一の意志を曲げる事は不可能だろう。その事実をはっきりと確認できた時点で、従者として明智ねねが果たすべき役割は終了している。ここからは主君であるところの、俺の仕事だ。

「さて、先程より黙して聴いていたが。風間翔一、貴様はどうやら戯れではなく、心底より俺との仕合を望んでいる様だな」

「おうよ、その通り!大将同士、男と男の真剣勝負だ。当然、受けて立つんだよな?」

「ふん。英雄気取りの愚者、か。その思い上がりの滑稽さには敢えて言及する価値もない。そもそもにして、俺は最初に宣言した筈だが?この勝負、俺は動かぬと。である以上、其れは即ち原則。故に貴様らは元より、俺に挑む権利を保有していないと知るがいい」

 あくまで気合に満ちた態度の翔一に対して、俺は醒め切った語調で淡々と言い放つ。この言い分で引き下がってくれれば御の字だが、まあそう事が上手く運ぶ筈もないだろう。諦観半分の気分で相手方の反応を待っていたところ、その予感を後押しするように口を挟んできたのは直江大和である。

「ん~、確かにアンタは三日前にそう言ってたし、確かにそれはみんな聞いていた。ただ俺は思うんだけど、それって別に正式なルールとして明文化されてる訳でもないし、融通は幾らでも効くんじゃないかな?」

「……」

「実際、当事者の2-Fと2-S以外の生徒は、その宣言自体を知らない奴も多いと思う。となると、だ。一勝一敗で迎えるクライマックス、大将戦となれば、みんな期待してるんじゃないかな――織田信長という男が直接出てくるのを。あくまで万が一の仮定なんだけど、こうやって俺達が真正面から挑戦状を叩き付けたにも関わらず、それでもアンタが勝負に出てこなかったとしたら?そうだな、全校生徒は例えばこんな風に思うかもしれない」

 流れるように弁舌を振るう眼前の男に向けて、舌打ちを飛ばしたくなる衝動を堪える。

 やはりそう来るか、直江大和。俺という人間を勝負の舞台に引き摺り出す為には、どういった手段が最も有効なのか。彼は既に、正答に辿り着いていた。それ故に、その舌先から続けて放たれる言葉は、俺にとってはまさしく不可避にして必殺の一撃だった。


「――織田信長は、風間翔一との勝負から“逃げた”んだってね」


 ざわり。大胆不敵な大和の台詞に、どよめきが生じる。

 ……やれやれ。そいつは文句なしに、最高の殺し文句だな、軍師。

 これで、俺の退路は今度こそ、完全に断たれてしまった。本当に……やってくれる。

 あくまで格下の相手として、傲然と見下した態度を取り続けてきた2-Fから、これほどあからさまな挑発を受けたのだ。俺自身の心中は兎も角として、生徒達の間では既に傲岸不遜の代名詞として認識されている“織田信長”が何のリアクションも起こさないのはあまりにも不自然が過ぎるだろう。周囲のイメージするキャラを俺が演じ続ける限り、この手の挑発に乗らない訳にはいかなかった。例え相手の意図がどんなに見え透いたものであっても、俺に選択肢は存在しない。

 …………。

 だが、それがどうしたと言うのだ?

 事前に予測し得る中においての最悪の可能性。それを常に計算に入れているという事は、つまりこの事態すらも俺にとっては想定の範疇でしかない事実を意味している。

 いいだろう。ならば俺は、風間ファミリーが期待しているであろう“織田信長”としての振る舞いを、全霊を以って演じさせて貰うだけの話だ。俺の思い描くシナリオを現実のものとする為に、用意された台本に沿って役柄を演じるとしよう。

「くく、くくく―――良くぞほざいたものだ、下郎」

「……っ!!」

 底冷えするような重々しい声音と、凶悪な殺意の放出を以って、2-Fの叩き付けた挑戦状に対する雄弁な返答とする。凄惨な笑みに口元を歪ませ、禍々しい黒色の“気”を全身より立ち昇らせる俺の姿は、生徒達の目にはあたかも悪鬼羅刹の如く映っただろう。ヒッ、と恐怖のあまり引き攣った声にならない悲鳴が教室の各所から上がった。

「漸く興が乗った。救い難い貴様らの思い上がりを悉く滅殺するには、俺自らが腰を上げねばならん様だな」

「おお?って事はつまり、俺の挑戦を受けるって事だな!」

「ふん、然様。風間翔一……貴様の挑戦、確かに受け取った。無論、もはや撤回は効かん。しかと覚悟を決める事よ」

 冷気に満ちた瞳で睨み付けると、翔一は満足気なニヤリ笑いを返してきた。

 そして、ワッペンを最前列の机に勢い良く叩き付ける。俺もまた、酷薄な笑みを湛えながら、自身のワッペンを其処に重ねて置いた。

 かくして、織田信長と風間翔一、両者の決闘が正式な形で成立する。

「ただし。貴様らの挑戦を理由に筋を曲げる以上、俺の提示する条件を呑んで貰おうか」

「……条件、って言うのは?」

 大和は俺の顔を窺いながら、警戒するような慎重な語調で問い掛ける。

「簡単な話だ――これより行われる大将戦。そのルールの決定権を、俺に寄越せ」

「っ!それは……、うん……まあ、仕方がないかな。確かに、俺達の希望に沿ってアンタに出てきて貰う訳だし、妥当な条件だろうね。ただやっぱり、決定権がこっちにないってのは不安だな……相手がアンタってだけでも充分キツイのに、こっちに不利な対戦ルールまで設定されたら手の打ち様がなくなりそうだ」

「…………」

 何とも白々しい。相手を持ち上げてプライドをくすぐり、己の意図する方向へと思考を誘導しながら、情けないぼやきを装ってさりげなく言質を取ろうと試みる、か。流石は直江大和、なかなかに小賢しい真似をしてくれる。まあ、ここは乗ってやらなければならないか。

「くく、よくぞそこまで思い上がった勘違いが出来たものだ。羽虫風情を相手にこの俺がハンデを望むとでも?俺がルールの決定権を欲するは、より相応しい舞台を用意する為よ。以前にも云ったが、天秤の揺れぬ仕合ほど興醒めなものは無い。――雑魚が身の程を知らず俺と一騎討ちを望むなら、相応の手心を加えてやらねば話になるまい。不服があるか?」

「いんや、特にないぜ」

 傲然たる俺の態度に少しは激昂するかと思いきや、翔一は特に気にした様子も無く、至ってあっけからんとした調子で答えた。むしろ他の面子と共に後ろに控える川神一子の方が今にも噛み付いてきそうな顔で、ぐるる、とこちらに向けて唸っている。そんな彼女の様子には気付かずに、翔一は快活な語調で言葉を続けた。

「だってアレだ、自信満々な相手ほど、負かした時にスカッとするからな!」

「……然様、であるか。くくっ、再確認した。貴様の不遜極まる心根を無惨に叩き折るのは実に愉しそうだ、とな。――さて、折り良く道理に適う案も浮かんだ事だ。疾く仕合に臨み、この取るに足らん諍いに終止符を打つとしよう」

「道理に適う、案?」

「三日前、俺は自身に代わる“手足”を用いて貴様ら2-Fを屈服させると言った。俺の参戦を求めたのは貴様らの方ではあるが、しかし俺は必要を超えて自らの言を違える事は好かん。故に、これこそが大将戦にて加える手心の形式として、最も相応しいと言えよう」

 悠然と言葉を紡ぎながら、俺は翔一の横隣に控える少年――大和に視線を向けた。意図的に表情を隠したポーカーフェイスからは、彼の意図を読み取る事は出来ない。

 さて、どうだ、直江大和。この展開は、果たしてお前の“策”に内包されているのか?

 こちらは次善の策とは云えど、ここに至るまでの全てが計算通りに進行している。であるならば、お前は俺の描いた筋書きに逆らえず、成す術もなく引き込まれてしまったのか?それとも――俺とお前の描いた未来図が、奇しくも綺麗に重なり合ったのか?

 気に掛かる点は幾つもあるが、今はひとまず脇に置こう。集中すべきは、これより対峙する事になる男の存在だ。

 風間翔一の燃え盛る火焔のような双眸に氷の眼差しを重ねて、俺は淡々と宣言した。

「―――此度の決闘、俺は貴様に“手も足も出さない”。其れを以って、勝負の原則とする」










「では最後に、改めて決闘内容の確認を行おうかの。この勝負、風間翔一の攻撃が一度でも織田信長の身体に命中した時点、或いは開始より十五分の制限時間が経過した時点を以って決着とする。更に特殊ルールとして、織田には己が手足を用いた一切の攻撃行為を禁ずる。文字通り手も足も出せぬ、という事じゃ。……つまり勝負の概要としては、制限時間の中で一撃を当てられれば風間の勝ち、最後まで無傷で逃げ切れば織田の勝ち、と云う事じゃな」

 決闘の時を前に、学長・川神鉄心が観衆への説明を兼ねたルール確認を行うと、途端にグラウンドのあちこちでざわめきが生じた。校内放送にて決闘の告知が為された時点で、生徒達に大まかな決闘内容は伝えられていたが、しかし主審の口から告げられたそのルールは、やはり彼らの動揺を改めて誘わずにはいられないものだったのだろう。

 無理もない話だ。“自ら攻撃をしてこない相手に、一撃当てるだけ”。こうして並び立ててみると、有利不利の天秤がどちらに傾くかは自明に思える。

 だが、ギャラリーの抱いている感想はどうあれ、少なくとも決闘の当事者たる少年――風間翔一は、自分が相手に対して優位に立っているとは欠片も考えていない。これだけのハンディキャップを得て尚、容易く勝利を得られるなどとは全く思わない。むしろ逆。かぐや姫の難題に喩えても大袈裟ではないほど、困難極まる闘いになりそうだと。そんな風に予想していた。

 来るべき仕合開始の瞬間を目の前に控え、自然と沸き立つ心を落ち着けようと、大きく深呼吸を一つ。

 翔一は決意と覚悟を込めた双眸を以って、眼前に立つ男を見据える。

 織田信長。何の前触れもなく川神学園に現れた冷酷非道の暴君は、自身が全霊を込めて乗り越えるべき壁だ。三日前に初めてその暴威と対峙した時、翔一は同じ土俵に立つ事すら叶わなかった。風間ファミリーのボスとして相応しい働きを何一つ許されなかった悔しさは、翔一の心をリベンジに駆り立てる理由として十分過ぎる。

「それでは、両者とも名乗りを上げるが良い!!」

「おうよっ!2-F所属、風間翔一だぜ!」

「2-S所属。織田、信長」

 二人が名乗りを上げると、待ちかねたとばかりの熱烈な歓声が湧き起こる。勝負の内容が如何なるものであれ、最終決戦にて両陣営のトップが演じる直接対決となれば、生徒達の熱狂ぶりも無理のない話ではあった。

 歓声が飛び交う中、幾百もの期待と興奮の視線を全身に感じながら、翔一は気付けば笑みを浮かべていた。その不敵とも言うべき表情を、尖刃を思わせる信長の鋭利な視線が射抜く。途端、凄まじいまでの重圧が翔一に伸し掛かるが、それでも依然として口元の笑みは消えない。信長は感情の窺えない無表情で、淡々と口を開いた。

「何が可笑しい」

「ノンノン。可笑しいんじゃないぜ、楽しいんだ。最っ高に楽しくて楽しくて、笑いが止まらねぇな」

「楽しい、だと?」

「ああ楽しいぜ。周りを見てみな、学園全体が観客の一大ステージだ。勇者が魔王に挑むのに、これ以上のシチュエーションがあるか?いいや無い!これで燃えないヤツは男じゃないぜ!」

「……己の器を知らぬ愚者の分際が、勇者を名乗るか。くく、滑稽極まるな」

「お前がどう思おうと勝手だけどな、俺は真剣だぜ。ヒーローは、何があっても負けねぇんだ」

「ふん、下らんな。哂うべき幻想だ。永久に然様な妄言を吐けぬよう、その心身に現実を刻み込んでやろう。忘れ得ぬ恐怖と共に、な」

 冷然たる語調で吐き捨てると、もはや今度こそ語る言葉は尽きたとばかりに踵を返し、信長は所定の位置に向かって悠然と歩を進めた。決闘開始時の両者の距離は、今回の場合は約五メートルと定められている。信長の背中を見遣りながら、翔一は力強く拳を握り締めた。

 戦いを前にして脳裏に蘇るのは、昨夜、電話越しに交わされた会話の一幕。

『いいかキャップ、これまでの言動・行動から分析した信長の性格から考えて、奴は絶対に俺達を舐めて掛かってくる。俺はその余裕を利用しようと思ってるんだ』

『もしルールの決定権を譲れば、信長はまず間違いなく“自分が”不利になる勝負方法を持ち掛けてくると俺は踏んでる。強者の余裕を見せ付けるために、敢えて手を抜く……不死川との決闘を観てればそういう奴だってのは明らかだ。だから、俺は会話の流れを上手く操作して、信長本人を勝負に引き摺りだし、そしてあくまで自然を装いつつ、ルールを奴自身の手で決めさせる。何せ信長の方が自分の意志でわざわざ自分を不利にしてるんだ、俺達2-F側に対するギャラリーの不満も最小限で済むだろう。上手く運べば、風評に関わる問題は一気に解決される――と、これが俺の“策”の全貌な訳だ』

『ただし、問題が一つ。信長の余裕がただの油断や慢心じゃなくて、紛れもない怪物級の実力に裏打ちされてるって点だ。どれだけ不利な条件で枷を付けたところで、そう簡単に勝てるような相手だとは思えない。……だから、結局のところ、俺の策の成否は大将戦の出場者次第なんだ。無責任な話で軍師として申し訳ないけど、現状これ以上の策は無い。それを踏まえた上で俺達は“誰が出場するべきか”話し合って、既に満場一致で結論を出した。あとはキャップの意見を聞くだけだ』

『さて――それじゃ訊くが。2-Fを代表して織田信長を打倒するって大仕事』

『任せても良いか、リーダー?』

 その問いに対する回答は、わざわざ述べるまでもない。

 頭脳役にして軍師・大和は見事に策の下準備を完遂させ、望み得る最上の戦場を整えてくれた。そしてファミリーの皆は風間翔一を信じ、少しも迷わずに勝負の行く末を託してくれた。ならば、その信頼と期待に最高の形で応えるのはリーダーとして当然の務めだろう。

「へへっ、やってやるさ。俺はキャップだからな!」

 勝算はある。覚悟と決意を胸に宿したなら、後はいつも通り。熱く滾る心の命ずるがままに、今という時をひたすらに楽しむだけだ。

 数間の距離を挟んで二人が対峙し、数秒。川神鉄心の齢を思わせぬ大音声が響き渡った。

「いざ尋常に―――」

 勇者の挑戦が、今ここに幕を開ける。

「―――はじめぃっ!!!」

 合図と同時に、翔一の健脚がグラウンドの砂を盛大に蹴り上げた。










 俺は風間翔一という男を決して甘く見ていた訳ではない。

 確かに戦闘能力という点においては、川神百代は言うに及ばず、川神一子や椎名京、或いは島津岳人といった面々にも及ばないだろう。そういう風に調べが上がっていた。

 しかしそれはつまり、武力以外の何かが彼を“ヒーロー”たらしめているという事を意味しているのだ。他ならぬ俺自身が、武力以外の能力を駆使して“魔王”に至ったのと同様に。まさか俺のような種類の人間がそうそう居るとは思わないが、念の為にと警戒を払うのは当然だった。

 故に、対外的には余裕に満ち溢れた態度を取りながらも、油断はしていなかった。そんな自分を、俺は褒め称えてやりたい。

 何故ならば、仮に俺が心底から油断していたとしたら――――

 織田信長は今頃、見るも無様な敗北を喫していただろうから。

「――はじめぃっ!!!」

 決闘開始を告げる鉄心の声と同時に、俺は動いた。まずは制限時間の十五分を正確に測るため、あらかじめポケットに突っ込んでおいた手の中で人知れず携帯を操作し、タイマーを設定。その動作と並行して、五メートル先の決闘相手が動きを見せる前に速やかに拘束すべく、戦闘用レベルの殺気を放出する。三日前に通学路にて顔を合わせた際、完全に彼の身動きを封じた威圧だ――まず間違いなく効果は表れるであろう。

 筈だった。
 
「よーし、いっくぜぇぇっ!!」

「っ!?」

 そんな俺の予測を笑い飛ばすように、風間翔一は“動いた”。周囲五メートルに張り巡らせた殺意の糸をことごとく引き千切りながら、障害物の存在しない平野を駆けるかの如く真っ直ぐに進み――跳躍。全体重を乗せた強烈な跳び膝蹴りが、俺の顔面へと放たれた。

「……っ!」

 間一髪、と形容するのが最も相応しいだろう。予期せぬ攻撃に意表を突かれ、僅かに反応が遅れた。ほとんど反射神経だけで咄嗟に身体を捻り、軸を逸らし――これ以上なくギリギリのタイミングで回避に成功する。結果、翔一は俺のすぐ傍を勢い良く通過して、数メートル先の地面へと砂埃を立てながら着地した。

「くっそ、外しちまったか。あーあ惜しかったぜ、初撃で決めたら最高にクールだと思ったんだけどな~」

 俺の方を振り返りながら、悔しげながらもどこか楽しげな色を湛えた表情で翔一は言う。

「しっかし腹立つ野郎だなお前、わざと紙一重で避けるとか余裕見せつけやがって。俺の蹴りなんていつでも避けられるってワケか?憎い演出してくれるぜ、お陰でますます俺のハートに火が点いちまった。これはもはや誰にも消火できねぇぜ!」

「……貴様」

 心中に渦巻く困惑と動揺が表情に漏れ出ないように振舞うのは、思いの他難しいものだった。何せ、織田信長の誇る唯一無二の武器、“威圧”がまるで通用していないのだ。今現在も一般人が意識を保てないレベルの殺意を場に満たしていると言うのに、眼前の男は身動きを封じる事はおろか、ほとんど動じた様子すら見受けられない。この異様な光景を前にして、普段通りの冷静さを保てというのは無茶な注文だ。

「何故。膝を屈せず、あまつさえ闘える?何故、俺を畏れ、跪かない」

「そりゃ勿論、俺がヒーローだからに決まってんじゃねぇか!さーて十五分しかない時間をムダにはできねぇし……もう一発、いくぜっ!!」

 烈昂の気合を上げて、翔一は再び地を蹴った。

 いつまでも動揺している訳にはいかない。相手に呑まれるな、あくまで揺るがぬ冷徹な思考回路を以って現状を分析しろ。相手の仕草や言動、一挙一動を余す事無く観察し、この不可解な事態に対する解答を導き出せ。

 そうしなければ、俺は敗者に成り下がる。

「強風暴風台風突風旋風烈風疾風怒涛っ!“風”を捉えられるモノなど、この世にありはしないっ!!」

 そうかそうかお前は風だったのか、だったら俺の殺気が通じないのも道理だな――とついつい思考停止したくなる欲求を抑え付けながら、空気を唸らせるローリングソバットを素早いスウェーバックで空振らせる。すかさず焦りを周囲に窺わせないよう悠々たる動作で間合いを取り、俺は限界まで研ぎ澄ませた観察眼を以って翔一を注視した。

 織田信長の殺気は何の理由も無く破られるような代物ではない。どのような状況でも活路を切り開いてきた、蘭と並ぶ俺の刃だ。それが通用しないとなれば、其処には必ず何かしらの論理的根拠が存在している筈。むしろそうでなければならない。

 冷静になれ。俺の殺気がどういうものだったか、改めて整理しろ。鍵は必ず、其処にある筈だ。

 殺気による拘束には、二つのファクターがある。圧倒的な重圧により対象の恐怖心を煽り、敵愾心や反抗心を氷結させる事による精神の拘束。脳に死を強制的に認識させ、対象の肉体に拒絶反応を生じさせる事による肉体の拘束。これらを同時に作用させて初めて、俺の十八番である“威圧”は成立する。つまり、それが通用しないという事は、風間翔一は二方向からのアプローチを何らかの形で撥ね退けている――そういう事だ。

 精神面の拘束に対する抵抗の手段は、まだ予想が付く。こちらは元より、相手の精神状態に大きく左右される不安定なものだ。織田信長に恐れを抱く人間……俺を格上だと認め、畏れている人間に対しては無類の効果を発揮するが、川神百代の如く自身の実力を疑ってもいない者や、板垣竜兵の如く恐怖という感情が麻痺している戦闘狂には殆ど作用しない。故に、風間翔一の精神力を考慮すれば、殺気の影響が小さい事は不思議ではないと言える。

 問題は、肉体面の拘束だ。精神面とは異なり、こちらには個人の性格や意志の力といった計算の難しい要素が関わる余地は無い。徹頭徹尾、全ては理屈で説明付けられる。要は、何らかの形で俺の殺気を中和できる能力を有しているか否か、だ。人外の域に踏み込んだ武人ならば、無意識の内に“氣”を全身に巡らせて拘束に抵抗するだろう。まあ、それも余程のレベルに達していなければ完全に影響を撥ね退けるのは不可能な話で、とにかく容易く為せる事ではない。

 しかし――現在の状況を見る限り、風間翔一はそれを紛れもなく為している、という事になる。いくらメンタルが解放されていても、フィジカルが支配されていては身動きが取れる筈もないのだから。精神と肉体の両者を、殺気の支配から解放しているのだ。

 あまりに不可解。歴然たる事実として、三日前の時点ではただ彫像と化すだけだった一般人の少年に、何故そんな芸当が可能になる?

「……風間翔一、貴様。力を偽っていたか」

「ん?何の話だ?」

 思わず口を衝いて出た俺の問いに、翔一は爪先でトントンと地面を叩きながら首を傾げた。

 その立ち姿を真正面から注視して――そこで俺はようやく気付いた。決闘開始前、2-F教室でこの男が現れた際にも頭の何処かで感じた引っ掛かり。その違和感の、正体。

 風間翔一、この男……本当に。

「惚けるな――以前の邂逅の際とは、まるで別人。今まさに眼前に居ながらにして、背景に溶け込むが如き様相。即ち、身に纏う気配が稀薄に過ぎる」

「おお、さすがにあのモモ先輩が認めた男となりゃ、やっぱ気付くモンなんだな。キャップたるこの俺が三日間も県外で遊んでたと思ったら大間違いだぜ?いいか良く聞け、こいつはお前にリベンジするために積んだ、武者修行の成果ってヤツだ!」

「ふん。“内気功”、か」

「分かってるなら隠したって仕方ねぇな。あの爺さん、なんて言ってたっけ……『死を恐れ、厭うは矮小なる生者の性。樹は恐れず、風は厭わぬ。己が氣を大自然と一体と為せば、自ずと俗世の軛より解き放たれるは必定よ』――とか何とか」

「…………」

「いや~真剣で大変だったな、あの爺さん結構な無茶させるからよ~。ま、おかげでこうしてお前に挑戦できてる訳で、文句なんて言ったらバチが当たっちまうな。って事だ、ヒーローは一度やられてもパワーアップして立ち上がる。そいつを頭に刻み込んで、潔く俺にリベンジされときなっ!

 この男、本当に――“風”になったとでも言うのか。

 殺気による拘束をことごとく撥ね退けながら、疾風の如く俺へと向かってくるその姿に、俺は人知れず呆れ混じりの溜息を吐いた。

 内気功、とはその名の通り、氣を己の内面に作用させる技術全般を指す。体内の氣を操る事で細胞の働きを活性化させ、あらゆる身体機能の強化を行うのが主な運用法だ。川神百代を最強たらしめている技能の一つ、“瞬間回復”などは内気功の一種の究極系と言うべきものである。

 そして、風間翔一が今現在用いている内気功は、恐らくは“己を常に自然体に保つ”という類のもの。外界からの影響を遮断し、自然に溶け込み、常に在るべき姿を維持する。極一部の武人が晩年に至って辿り着く境地だった。それを、この男は――僅か三日間の修行で。いかに優れた師を仰ぎ、過酷な鍛錬を行ったとしても、非常識と言う他無い。

 …………。

 認めなければならないだろう。常識の秤で測れぬ者をして、世の人々は天才と呼ぶのだ。

 織田信長の生まれ持った才能を“誰もを支配する才”だとするならば、すなわち風間翔一は“誰にも支配されない才”の持ち主だった。それだけの話だ。

 正しく、相反する才の在り方。

 互いの矛と盾が拮抗し、力を失うとなれば――勝敗を別つのは、才を排した両者の地力に他ならない。

 ……そうか。成程、そういうことか。

「くくっ」

 中空から繰り出される直線的な跳び蹴り、いわゆるライダーキックから身を躱しつつ、俺は思わず口元を歪めて笑う。

「……分かんねぇな。何が可笑しいんだ?」

「可笑しい?違うな――愉しい、と云うべきか」

 ああ全く、誰かさんの言葉を借りるなら、最っ高に楽しくて楽しくて笑いが止まらない。

 よりによってこのようなシチュエーションで、このような相手と対峙する事になろうとは。

 相手は俺の最大の武器たる威圧を半ば無効化する異能の持ち主。加えて決闘ルールにて自身に課した制限のお陰で、俺自身は手足を用いて反撃することは愚か、防御すらも決して許されない。相手の攻撃をガードした時点で、“一撃”を受けたと判定されるからだ。更に、織田信長の風評を考えれば完全な逃げに徹する事すらも許されない――考えれば考える程、冗談としか思えないような悪条件だ。

 昔の俺ならば、絶対に笑えはしなかっただろう。そう思うと、益々笑みは深くなる。

 想起するのは、懐かしい記憶。

 “才能”という二文字の呪縛に雁字搦めにされていた頃の、青さと苦さに満ちた青汁のような思い出だ。

 俺は余裕と自信を漲らせた悠然たる態度で、不敵に言い放つ。

「――来るがいい、風間翔一。俺と貴様を隔つ壁の高さ……今一度、思い知らせてやろう」

 織田信長を、舐めるな。









『あームダムダ、お前さんの才能じゃどう足掻いてもこの先には往けねぇよ』
 
 
 俺が無慈悲な宣告を受けたのは、元川神院師範代・釈迦堂刑部に師事し始めてから、二年が経とうかという頃だった。

 あのオッサンと俺が出会ったのは、太師中学校への入学を目前に控えた春休み。年齢を重ねる毎に少しずつ世界の広さを知り、威圧の才と口先の詐術だけで万事を乗り越えることは不可能だと悟り始めていた当時の俺は、激しく力に餓えていた。ハリボテのハッタリなどではない、確実に自分自身のものだと自信を持って断言できるような、本物の力に。その頃には既に森谷蘭は壊れ、俺は“夢”を追い求め始めていた。

 そんな折に、釈迦堂は堀之外に――俺の前に現れた。出会いそのものはどこまでいっても偶然の産物でしかなかったが、俺は其処に何らかの運命を見出さずにはいられなかった。思想の危険性故に武道の総本山・川神院を破門された、元師範代。織田信長のような掃き溜め出身者が、師匠として仰ぐにこれ以上の人材がいるだろうか。俺は常人には理解出来ない情熱を以って頼み込み、一言では語り尽くせない壮絶な顛末を経た末に、俺は何とかあの男への弟子入りに成功した。

 とは言っても、初めから川神流の奥義の数々を伝授されるような事には勿論ならない。所詮は武術に殆ど縁の無い人生を送ってきた、発育すらも微妙な十歳そこらの子供だ。技を教わる以前の問題として、まず武術の習得に耐え得るような身体を作り上げる必要があった。故に、それからの俺は――寝食を除く時間のほぼ全てを鍛錬に費やした。鍛錬の時間をまるで苦痛に感じない程の価値を、武術が己に与えてくれるであろう力の中に見出していた。今にして思えば、それは幼稚なコンプレックスの発露だったのだろう。言ってしまえば所詮は張子の虎でしかない“威圧の才”を、当時の俺は恥とすら考えている節があった。俺は偽物の力を本物へと昇華させるべく、地獄の如きトレーニングを自らに課した。

 その成果が表れたのが、約二年後の話。釈迦堂の指示の下、生体力学の理論を基盤に据えて将来の設計図を引いた俺の肉体は、果てしない鍛錬漬けの日々の末に、遂に完成に至った。必要な部位に必要な分だけの良質な筋肉を身に付け、全身の肉体から一切の無駄を省き極限まで力を凝縮した、まさしく戦闘者の見本とでも言うべき身体だ。因縁を吹っ掛けてきた不良達を、紛い物の威圧に頼る事なく己の拳の力のみで軽々と全滅させた時、俺は自分が望み得る最高のコンディションにまで自らを高めたと確信した。そして俺は釈迦堂に“そこから先”の教えを乞おうと願い――残酷な現実を思い知った。

 生まれつき、動体視力も反射神経もそれなり以上のものを持っていた。瞬発力も持続力も同様だ。身体能力に関わる才能という意味では、全ての項目で常人以上のポテンシャルを所持していたと言っていいだろう。そんな人間が死に物狂いで鍛錬を積めば、最強とはいかずとも努力相応の実力を得られる事は間違いないと思われた。だが、生憎と現実はそうならなかった。何故ならば織田信長という人間には、一つ。たった一つだけ、欠落していた才能があったから。

 それは、“氣”の扱いに関する才能。

 武の道を志す人種にとっては、決定的に致命的な欠陥だった。

 織田信長が有するポテンシャルの限界まで鍛え上げた腕力や脚力は、確かに常人の中では頭一つ突き抜けたモノだったが、しかしそれとて数十メートルもの跳躍を成し遂げたり、コンクリートの壁を粉砕するような非常識な芸当は不可能だ。そういった非常識を常識とし、不可能を可能とする者達こそが、釈迦堂刑部を初めとする川神院の武術家達であり、世界各地にちらほらと点在する人外どもである。そして、常人と人外を隔てる絶対的な壁の正体こそが、“氣による身体能力強化”の有無だった。

 氣――それはこの世に存在するあらゆる生命体が内包する、生命エネルギーの総称だ。地域によってはチャクラ、マナ、プラーナ、コスモ、等の様々な呼ばれ方をしているが、それらの全てはほぼ同一の概念を指している。世界に生れ落ちる全ての人間達が何らかの形で自らの内側に秘めておきながら、大多数の者は開花させる機会を得ることなく枯れさせていく神秘の力。人外の域に達した者達の殆どは、意識的に、或いは無意識的に体内の“氣”を活用し、全身に巡らせる事で己の力を高めている。その恩恵は凄まじいもので、有ると無しではそれこそ大人と赤子ほどの差が開きかねない。

 故に。俺がいかに血反吐を吐いて基礎体力を鍛えようが、理想的な形で筋肉を付けようが、武術の技術に関わるセンスを磨こうが……常人を超えたレベルの戦いにおいて大前提となる“氣”を満足に扱えない時点で、武術家として大成する道は閉されたに等しい。その事実を俺にこれ以上なく明晰に理解させたのは、俺よりやや遅れて弟子入りすることになった板垣三姉妹の面々だった。長女の亜巳はまだ良い。自分よりも数歳も年上で、武術の鍛錬に対して真剣に取り組んでいた彼女が自分を超えていくのは、どうにかまだ受け入れられた。だが――それまでの人生において一秒たりとも武道に触れた事のない、何かしらの形で自分を鍛えた訳でもない、俺と同い年の少女である辰子が、いとも容易く自身の背丈を越える大岩を粉砕する様子を目の当たりにして、俺は世界の理不尽さを許容する事が出来なかった。呆然とする俺へと更に追い討ちを掛けたのは、三姉妹の末女、天が発揮した常識外れの武才だった。週に一度の、鼻歌交じりの娯楽のような“修行”をこなすだけで、天は瞬く間に俺の居る場所を抜き去っていった。俺がいかに足掻こうとも決して超えられない、高い高い壁の向こう側へと。自分にとって庇護すべき妹分だと思っていた天が、その実俺如きを歯牙にも掛けない“天才”だと知った時――俺は自身に絶望し、大いに荒れた。現在でも未だに至らない部分だらけの身ではあるが、当時の俺はその精神面において語るも恥と言わざるを得ない未熟さだった。堀之外の街を歩いては、絡んで来る鬱陶しい有象無象にやり場の無い怒りを叩き付けて病院送りにし、自宅ではみっともなく従者に向かって当り散らした。こんな自分では目指す“夢”には届かない、と悲観的に自己完結して、勝手に自暴自棄に陥っていた姿は、さぞかし醜悪な有様だっただろう。改めて思えば、当時の俺は自惚れたガキ以外の何者でもない。

 そんな暗君・織田信長の目を覚まさせたのは、今と変わらず忠臣たる従者・森谷蘭の諫言だった。自身の非才に失望し、暗く濁った目で全てを呪っていた俺に、蘭は似合いもしない凛々しい顔で言ったのだ。

『主の拳に貫けぬものは私が余さず打ち貫きます。主の足に砕けぬものは私が残さず蹴り砕きます。蘭が、信長さまの“手足”となりましょう。ですから――主は、どうか見失わないで下さい。御自身の誇りを。御自身の強さを。蘭は良く知っています。信長さまは、私如きが傍に在る事すら勿体無き程に、素晴らしい才をお持ちなのですから』

 全てを包み込むような穏やかな微笑みと共に言われてしまっては、幾ら未熟なお子様と言えどもウジウジと腑抜けている訳にはいかなかった。俺は躊躇わずにアパートを飛び出して、師匠の下へと真っ直ぐに走った。蘭の言葉で、ようやく気付いたのだ。否、思い出したというべきか。俺という人間がどのような種類の才能の持ち主であったか、改めて自覚した。大岩を砕く?トラックに撥ねられても無傷?そんな世界ビックリ人間じみた技能は、俺には不要だ、と。この時、俺は人外連中への仲間入りをすっぱりと諦めて、心意気を新たに再出発した。

 俺は“氣”の扱いが致命的に苦手だ。恐らくは全ての才能が“殺気”をコントロールする方向に振り分けられているのが原因なのだろう、と釈迦堂のオッサンは分析していた。織田信長の得意とする“威圧”は、恐らくではあるが攻撃的な外気功の一種で、それ故に内気功の領分に属する身体能力の強化や、氣を身体の各部に纏う事で局所的に強度を高める硬気功との相性が悪い。属性としてあまりにも“放出”の系統に特化し過ぎていて、一般的な武術家の如き小器用な使い方が不可能なのだ。それ故に、俺はどう頑張ってもパンチで地面にクレーターを作る事は出来ないし、片手でバズーカの砲弾を受け止める事も出来ない。人外連中の、氣をフル活用した一撃をまともに受ければ即死確定だろう。

 だが――そんな事は別にどうでもいいではないか。無いものねだりは不毛だ、隣の芝はいつだって青く見えるのだから。俺には俺の、俺だけに与えられた天賦の“才能”があるのだ。何をこれ以上求めるというのか?その旨を釈迦堂に述べると、あのオッサンは愉快そうにニヤリと笑ったものだ。

『あぁ、やっとこさそいつに気付きやがったか。“競うな、持ち味を活かせ”、ってなぁイイ言葉だよなぁホント。力だけが闘争の全てじゃねえんだ。仮にも武人が、たかだか攻撃と防御が満足に出来ねぇくらいのことで泣き言言ってちゃ始まらねぇよ。なに、そもそも“攻撃なんざ全部避けちまえば”絶対に負けやしねぇんだ。ま、普通なら逃げてるだけじゃ勝てもしないんだが……小僧の場合、そこはお得意のインチキハッタリ術でカバーできるだろ?何せ俺が認めた“天才”なんだからな。ってなワケで、こっからがお前さんにとっての本当の修行だぜ。覚悟しろよ、小僧。ヒヒ、なんせ川神院で師範代やってた頃から、俺のシゴキは死ぬほどキツイって評判だったからよ。……折角見つけた面白ぇオモチャなんだ、簡単にぶっ壊れてくれんじゃねぇぞ?』

 かくして、それからの一年間、俺は今度こそ真の地獄を味わう事になる。思い出すも恐ろしいあの期間に比べれば、身体作りの為の二年間の修行など、まさしくぬるま湯同然だったとすら言えよう。俺が師匠に頼み込んで付き合って貰った修行は、人外の領域に踏み込んだ派手な大技を教わる事ではなく――釈迦堂刑部という怪物の繰り出す遠慮容赦の無い攻撃の数々をひたすら見切って回避する、そんなシンプルなものだった。勿論、修行内容の地味さと容易さが比例する事はない。釈迦堂は弟子を傷付ける事を躊躇うような生温い武術家ではなかった。結果、何度も何度も直撃を貰って生死の境を彷徨ったし、例えそこまでは行かずとも、一年の間に生傷が絶える事はなかった。あの時期は蘭や忠勝に随分と心配を掛けたものだ。しかし、それだけの苦痛を背負いこむだけの成果は確かにあった。限界まで身体能力を鍛えていた事もあって、俺の成長は目ざましいものがあった。無意味に費やしたと嘆いていた二年間の鍛錬は、疑いなく自身の血肉となっていたのだ。釈迦堂ほどの使い手であれば、織田信長に武才が欠けている事などすぐに分かっただろう。つまり、あの喰えないオッサンは最初から“最も効率的に強くなれる方向”へと俺を正しく導いてくれていた訳だ。師匠としての釈迦堂刑部を俺が心の底から尊敬している理由はそこにある。

 やがて一年近くが経ち、釈迦堂の繰り出す世界屈指の暴力が骨の髄に至るまで徹底的に刻み込まれた時、俺は確実に、格段に強くなっていた。常人の振るう拳を回避する事は、もはや俺にとって呼吸同然に容易いものだった。

 それは生まれ持った才能ではなく、血反吐を吐いて手に入れた俺自身の力。

 未だ人外の壁を超えない者達を相手に上位者の余裕を見せ付けられる程の、自慢の回避能力だ。

 
 結局のところ、半ば自分の中で黒歴史に認定している、色んな意味で痛い過去を引き合いに出してまで俺が何が言いたいかというと、つまり。


 天性のセンスで“氣”を扱っているだけの、鍛錬も碌にしていない一般人高校生の攻撃など―――


「ハァ、ハァ、くそっ、またハズレか。何度目だよ、ったく」

「ふん。この程度の攻勢を以って疾風怒濤、とはな。哂わせてくれる」


―――鋼鉄をも砕く釈迦堂刑部の殺人拳に較べれば、止まって見えるという事である。










「転入生なんかに負けないでぇ!頑張ってーっ、風間くーん!!」

「いけぇ、そこだぁっ!……あ~くそ惜しい、あと少しだってのに!」

 湧き上がるギャラリー達の最前列にて決闘の様子を眺めながら、直江大和は焦りを滲ませた呟きを漏らす。

「マズいな。キャップの攻撃……まるで当たる気配がない」

 視線の先には、今まさに決闘を繰り広げている二人の男の姿。キャップ、風間翔一が突風を思わせる奔放な跳び蹴りを放ち、そして織田信長が余裕綽々とそれを躱す。おまけとばかりに口元には嘲るような笑みを貼り付けて、だ。そんな光景が、先程から幾度も繰り返されている。

 一撃でいい。たったの一撃を当てればそれで決着が付くと言うのに、それが叶わない。翔一の蹴撃は確かに信長を捉えているように映っても、あたかも幻影を打ち抜いているかの如くすり抜ける。健脚を活かしたスピードを自慢とする翔一の俊敏な動きに較べて、信長自身の動きはむしろ緩慢にすら映ると言うのに、まるで初めから運命で定められているかのように、翔一の攻撃が命中する事は無い。

「悪い夢でも見てるみたいな気分だな……川神院の師範代レベルになると、あんな魔法じみた芸当も可能なのか。まあ姉さんなら余裕で再現できるんだろうけど」

「ん?私か?あ~いや、ぶっちゃけ私に織田の真似は無理だと思うぞ」

「え、真剣で?姉さんにも無理って、そんな事があるんだ」

 武の道においては文句なしに世界最強の姉貴分に、まさか不可能があろうとは。まあ確かに考えてみれば、世界最強とは言っても流石に剣術や弓術まで扱える訳ではないし、最強は最強なりに、分野による得手不得手はあるのだろう――と納得しかけた所に、百代のジト目が突き刺さった。

「おい何か失礼な勘違いしてないか舎弟。私が無理だって言ったのはな、織田の動きがあまりにも“普通”だからだ」

「普通、って。俺にはアレが普通だとは全然思えないんだけどね」

「ん~、普通ってのは少し言い方が悪かったか。アイツはな、さっきから“氣”を一切使っていないんだ。使い方を自覚していない人間でも、大抵の奴らは無意識の内に氣を運用してるもんなんだが……織田は今、ほぼ完全に氣を絶っている。まさしく見た目通りの力であの場に立ってる、って事だな。しかしまあ、手足を使わない上に自分から氣まで封じるとは、どんだけプライドが高いんだアイツは」

「んー、じゃあ姉さんが無理って言うのは、氣を完全に消すのがって事?」

「いや、それくらいなら私でも余裕だ。ちょっとは集中しなきゃいけないが、無理って程じゃない。ただ、織田の身体捌きを真似するのは――骨が折れるってレベルじゃないな。アレは、私にも無理だ。いや、私だからこそ、と言うべきなのかもしれないな。ワン子ならそれが分かるんじゃないか?」

「……うん。何となくだけど分かるわ、お姉さま。ノブナガの動き、少しだけアタシに似てる気がする」

 神妙な表情で答えるワン子に、百代は頷いてみせる。

「そうだなワン子、それは勘違いじゃない。お前がそう思ったのは、織田の身体捌きが才能に依るものじゃなく、途轍もない努力と鍛錬の末に磨き上げたであろう、“理”に依るものだからだ。ワザと隙を作って相手の意識を誘導し、自分の意図した箇所へと打ち込ませる技術。相手の技の軌道や速度を読み切る観察眼に、最低限の動作で自らを安全圏に運ぶ足運び。どれもこれもが尋常じゃない練度で極められているからこそ、織田は“氣”を使わずにキャップの攻撃をああも容易く避けることが出来るワケだ」

「努力と、鍛錬かぁ。ってコトは、アタシも頑張ればあれくらいは出来るようになるのね、お姉さま!」

「ああ、その通りだ。たぶん一年か二年、それこそ攻撃や防御を捨てて、ひたすら回避だけを集中して鍛え続ければ、ワン子にも習得できるんじゃないか?まあ他の鍛錬が疎かになるのは間違いないし、バランスを考えれば現実味は薄いけどな。そもそも、何で私に織田の真似が出来ないかと言うと、さっきも言った様に、アレが一切“氣”を使っていないからだ。勿論、私が氣を用いればキャップの攻撃を避けるのは朝飯前だが、それはあくまで強化した身体能力に頼った結果であって、織田のように純粋な技術で躱すのとは意味合いが違う。私は昔からそりゃもう強かったが、だからこそ精密な技術ってものは特に必要なかったからなぁ。あんな器用な真似は専門外なんだ」

 百代の解説を最後まで聞き終えて、大和は納得と共に心中で頷いた。緩慢とすら映る信長の動きを翔一が一向に捉えられないのは、その緩慢さが、あらゆる無駄を削ぎ落とした身体捌きに由来しているからなのだろう。摩訶不思議な魔法などではなく、種も仕掛けもある武術だった訳だ。

「……って呑気に話してる場合かよ!キャップの野郎がこのまま一発も当てられなかったら、いずれはタイムアップで負けちまうじゃねーか!」

「まあ落ち着け武力95。姉さんの話を聞いて焦る気持ちも分かるが、たぶん大丈夫だ。……姉さん、さっきの話を聞く限りにおいて、信長の回避の大枠は計算で成り立ってると解釈できると思うんだけど。どう?」

「ん~、その解釈で正しいんじゃないか?“理”ってのは、簡潔に言うとそういうもんだしな」

「よし、だったら心配無用だ。何せ――」

 軍師・直江大和は不敵な笑みを浮かべながら、決闘の舞台へと視線を戻した。

「――キャップほど計算の通用しない奴を、俺は他に知らないからな」










 風間翔一の速さが、増している。

 俺がそんな洒落にならない事実に気付いたのは、制限時間の十五分も半ばを切ろうかという頃だった。ここに至るまでありとあらゆる攻め手を余裕で躱してきた以上、このままタイムアップまで粘るのはさほど難しい事ではないだろう、と安堵していたタイミングで、翔一のスピードは一ランク上のものへと変化した。

「よーし、やっと身体が慣れてきたぜ。こっからが本番だな!」

 などという何とも素敵な台詞を添えて、だ。

 難しく考えるまでもなく、言葉の意味は明白。つまり、翔一はこれまで俺の殺気による影響を完全に無効化していた訳ではなく、あくまで緩和していたに過ぎなかった。しかし、決闘を通じて俺の殺気をより効率良く拒絶する要領を掴み、それを実践した結果が――“慣れてきた”という事なのだろう。戦闘中に進化を遂げるなどとお前はどこの週刊漫画の主人公だと言いたくなるが、考えてみれば三日間の修行で内気功を習得してしまうようなトンデモ人間だ。それくらいの無茶を可能にしても何も不思議はない。

「そろそろ当てないと絵的にカッコ悪いからな。決めさせて貰うぜ、ノブナガッ!!」

 加速に加速を重ね、疾風へと至りながら俺へと迫る。

 右脚か、左脚か。―――右!

 ブォン、と耳元で唸りを上げて風が吹き抜けた。繰り出された右ハイキックは虚空を打ち抜き、通り過ぎる。

 回避、成功。

「んー、またダメか。だがヒーローは諦めねぇ!俺の勘では次辺りでイケそうな感じはするしな!」

 不味い。確かに成功はしたが、内心冷や汗ものだった。それこそ、勘の通りに次で当てられてもおかしくはない。それほどに切羽詰った状況だ。

 風間翔一の速さが人外の域に踏み込んでいる訳ではない。確かに本来のキレを取り戻したそのスピードには目を見張るものがあるが、あくまで氣を運用していない常人の範疇だ。足捌き、重心の移動、目線の動き、性格に言動までを緻密に分析し、動きを事前に計算して先読みする俺の回避能力を以ってすれば、不可避というほどの速さではない。

 だが――この男、そもそもにして動きが読めなかった。俺の計算が、まるで通じない。

 何せ、あらゆる面で型に嵌らないのだ。コンビネーションの定石も何もかも無視して、ひたすら破天荒な立ち回りで地を駆ける。武術を習っていないという点では街に屯するチンピラ共と大差ないのだが、そこに人並み外れた健脚の生み出す速度が加わると、こうも厄介なモノに変貌するのか。
 
 更にルール上、俺の方から攻撃を加える事が出来ないため、相手は後の心配をすることなく一撃一撃を全力で繰り出す事が出来る。スピード自慢の男が繰り出す、最速の攻撃。しかも軌道を読むのは非常に困難。そんなモノを、このままタイムアップまで躱し続けるのは、恐らく不可能に近いだろう。

 …………。

 ……何も行動を起こさなければ、負けるか。

「ふん。是非も、なし」
 
 繰り返して言うが、俺は風間翔一という男を決して甘く見ていた訳ではない。

 だが、心の何処かに慢心があったのは間違いないだだろう――“切り札を伏せたままでも勝利を収められる”などと、あまりにも傲慢な思い上がりだった。

 慢心は詫びねばなるまい。武人の端くれとしてあるまじき心掛けで決闘に臨んでしまった。

 だが……侮っているのはお前も同じだ、風間翔一。その楽天的な顔を見れば分かる。このまま勝てると、そう思っているだろう?

 お前は確かに天才なのだろうが――この俺が、元川神院師範代を驚嘆せしめた“天才”が、血反吐の海に積み上げてきた十余年の研鑽を、甘く見て貰っては困る。俺が潜り続けてきた数多の死線を、苦難に充ちた地獄の如き歳月を。平穏の内にその天賦の才を埋もれさせてきたお前のような人間に、否定させてたまるものか。

 その存在が織田信長の障害足るものである以上、無用な手加減はしない。俺は、この状況で自身が発揮し得る全力を以って、お前を潰す。

「ふん。詰まらぬ前座は此処までとしよう。所詮は小手調べとは云え、貴様の“力”は確かに見定めた。薫風の如き生温い殺意では、貴様を地に這い蹲らせるには足りぬ様だな」

「おっ、なんだなんだ、やっと本気を出す気になったのか?よーしいいぜ、そうでなくちゃ始まらないよな!」

 殺気による重圧で満ちた空間の中で全力の攻撃を繰り返してきた以上、体力・精神力ともに大きく疲弊しているのは間違いないだろう。にも関わらず、あくまで能天気な態度を崩さない眼前の決闘相手に、俺は演技を排した、心底からの酷薄な笑みを向ける。

「……くくっ。然様に呑気な面を衆目に晒せるのも今が最期となろう。――風間翔一。貴様は事ある毎に自身を、風、と喩えていたな」

 悠々と嘯きながら、俺は準備を開始した。決して悟られぬよう慎重に外面を取り繕いつつ、自らの内へと深く深く沈み込む。

 己が内面より引き出すものは、純粋な殺気。一切の不純物が含まれない、只管に相手を死に至らしめんとする絶対的に凶悪な意志。先程まで周囲に張り巡らせていたものとは密度も質量も比較にならない規模で、強靭極まりない殺意の網を編み上げる。

『アンタさえ生れて来なけりゃアタシらは幸せに暮らせたんだ!死ね、ほら、さっさと死んじまえよ悪魔!……これでもまだくたばらねぇのかい、だったら――』

 脳裏に蘇る忌むべき記憶の数々は、即ち現在に殺意を育む糧だ。

 心に巣食った憎悪と絶望を縫い針に、恐怖と悲哀を糸と成す。

 だが、足りない。非力にも程がある。この程度では何もかも足りない。

 良く思い出せ。もっと鮮明にイメージしろ。要求されるのは、当時の感情がそのまま蘇る程の綿密さだ。

『けっ、生ゴミ同然の薄汚ぇガキが、人様のモン盗ってまで生きてぇとは厚かましいにも程があるぜ。なぁ?てめぇみてぇな糞はここでゴミと一緒にカラスのエサになってるのがお似合いなんだよ。ああ全く、無力ってのはつくづく悲劇だよなぁ!』

 ……この程度か?織田信長が腐臭の染み付いた生涯の中に絶えず抱え込んできた憎悪は。絶望は、悲哀は、恐怖は、赫怒は、失意は、諦念は、嫌悪は、怨恨は。俺の心の内に黒々と蠢く闇色の“殺意”は、この程度のものだったか?

――そんな筈はない。目を逸らさずに、直視しろ。織田信長という男が最も強く忌み嫌い、心の底より忘却を願った血塗れの記憶を。俺の“力”の全てを呼び覚ます為のトリガーは、疑いなくそこに在るのだから。

 引き金を引くのは、実に容易い。その気になれば、ビデオテープを再生するような手軽さで、何時でも何処でも思い出せるだろう。

 何せ、“忘れる”事など絶対に有り得ないのだから。あれから十年近くの年月を経ても、脳裏に焼き付いた記憶は嫌気が差すほどに鮮明で、吐き気を催すほどに生々しいままだ。風化して欲しいと願っても決して叶わず、飽きる事無く俺の脳内を浸食し続けて、いつまでも止まらない。

 逃げるな。厭うな。恐れるな。過去と向き合い続けろ。それが、あいつを救えなかったお前に課せられた義務だろう?織田信長。

 ああ、全く以ってその通り。そんな事はわざわざ言われるまでもないし、逃げるつもりなど端から無い。

 利用出来るものは全て利用すると、そう決めた筈だ。精神的外傷ですら例外なく、俺の力へと転じるべき対象に過ぎない。

 俺は奥歯を強烈に食い縛って、そして――記憶の扉を一気に開け放つ。

 押し込められていたモノが一斉に、堰を切ったように溢れ出した。

 バラバラに引き裂かれた、断片的な記憶の欠片が、蛍の如く乱れ舞う。



『もう、そんなこわい顔しちゃダメです』  『ほらほら、とってもおいしいですよ?食べずギライは悪い子のはじまり、なのです』
         『だいじょうぶですよ。わたし、強いですから』
『知らないんですか?正義はぜったいに勝つんですよ!』   『助けてあげたいっておもっちゃ、ダメですか?』       
『ほら。わたしたち、お揃いですよね。えへへ』
   『二人とも、わたしがゼッタイにまもってみせます!』    『もう、イジワルいわないでくださいよぅ』
      『ケンカりょうせーばい、なのです』   『誰かにおつかえするなら、わたし、』 
 『じゃあ、シンちゃんと、タッちゃん!』  『えへへ、はじめましてっ』
『ふんふふ~ん、やくそくやくそく♪』
  『わたしですか?えっと、わたしは……りっぱな“武士”にならなくちゃ』
『ええとええと、まだまだしょーらいにぜつぼーするには早いのです!』
『だったら、わたしが手伝いますっ』    『おとこのこは分からないのです。みすてりーですね』
    『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』





『ねえ』

『シンちゃん』

『おしえてください』



『わたし、なんのために、うまれたんですか?』







「…………ッ!」



 割れる様な痛みに苛まれる頭の何処かで、カチリ、と硬質な音が響いた。それは記憶のパズルを埋める最後のピースが嵌った音であり、同時に決定的なトリガーが引かれた音でもある。

 日常生活に支障を来さぬ様に施した、殺意のリミッターが外れる。

 己の内へと厳重に封じ込めた“本物の殺気”が、深淵の眠りから目覚める。

 それは俺の体内にてとぐろを巻き、鎌首を擡げて、早く解放しろと耳障りな吼え声を絶えず木霊させていた。

 ああ、何とも、最悪の気分だ。

「…………」

 さて、トラウマを無理矢理に穿り返した影響で頭がズキズキ痛む上、死ぬほど胸糞悪い感情の洪水が現在進行形で心中を渦巻いているが。

 何はともあれ――全ての準備はここに整った。

 残された行程は、未だ俺の内に押し留められ、行き場を求めて荒れ狂う凶獣を、外界へと解き放つのみ。


――――俺は、織田信長は、勝ち続けなければならない。











「何だ、この嫌な感じ……とんでもなく、不吉な予感がする」

 決闘の最中、突如として足を止めた信長の立ち姿を見遣りながら、大和はぽつりと呟いた。

 常にその身体より溢れ出し、周囲を侵し続けていた漆黒の邪気は、今では何故か見る影も無く消失している。

 その得体の知れない静けさが、大和には嵐の前触れのように感じられた。あたかも底の見えない落とし穴を覗き込んだ時のような、不気味な戦慄が肌を粟立てる。観客達も同じ感覚を覚えたのか、歓声は止み、代わりに不安げな囁き声がグラウンドに充ちている。

「何だ?織田の奴の氣が、一点に集中している……、まさか」

 大和の鼓膜が百代の呟きを拾った、次の瞬間だった。

「―――気の弱い者は今すぐ下がれぃっ!!!」

 学長、川神鉄心の語気鋭い大喝がビリビリと空気を震わせ、観客達の心胆にまで響き渡る。

 そしてほぼ同時、警告の意味を生徒達が理解するよりも早く―――






 今こそ衆目に晒すとしよう。世界に無二の威圧の天才・織田信長が弛まぬ鍛錬の末に辿り着いた、一つの到達点。

 世界でただ俺一人が扱えるオリジナルにして、最大規模を誇る“威圧”の奥義を。


「貴様が己を風と謳うならば、俺は其れすらも諸共に滅して魅せよう」


 術者を中心として嵐の如く荒れ狂う恐慌を前に、総ての草花は朽ち、大地は震え、大海は凪ぎ、大気はその息吹を止める。

 その様はまさしく、現世に渦巻くあらゆる混沌を静寂に還す一陣の死に風。

 故に、冠せられた名は―――


「跪け。下郎」


 織田流威圧術奥義――――“殺風しにかぜ”。


 
 そして、万人に恐慌をもたらす禍々しき闇色の旋風が、吹き荒れた。














 
 もうちょっとだけ続くんじゃよ。という事で、決着は次回に持ち越しです。
 ここに来てようやく主人公のスペックが大体は公開されましたが、改めて書いていると普通に超人ですねコレ。しかしそれでもまじこい世界では一般人に分類されてしまうという現実。ちなみに“氣”に関しての設定は独自解釈が多分に含まれていますので、あまり突っ込んでやらないで下さい。それでは、次回の更新で。



[13860] 覚醒ヒロイズム
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:33e0a190
Date: 2011/08/13 03:55
「ひぃィッ!?」

「キャアアアアッ!!」

「あ、うわ、うわあああああああっ」

 縦横無尽に響き渡るは、極限の恐怖で彩られた悲鳴と絶叫。瞬く間に阿鼻叫喚が飛び交い、人々が泡を吹きながら次々と地面に倒れ伏していく。特に最前列に近い位置で観戦していた者達の被害は甚大で、その大半が轟々と唸る漆黒の旋風に巻き込まれ、声すらも上げられず一瞬の内に意識を刈り取られていた。一人、また一人。死屍累々の地獄絵図が、現実というキャンバスに容赦なく塗り立てられていく。

 そんな悪夢としか思えない光景を呆然と眺めていた大和は、ふと最前列に居る筈の自分が、この状況下で何の被害も受けていない事に気付いた。改めて自身の身体を観察してみれば、全身が包み込まれるようにしてぼんやりと温かく発光している。それは大和の近くで観戦していた面々、風間ファミリーを含む2-Fメンバーも同様だった。

「……姉さんか。ありがとう、助かった」

 自分と皆を包んでいるのは、恐らく“氣”による防護壁。武に通じない大和には詳しい原理などは分からないが、これだけの人数を同時に殺意の暴風から護れるとすれば、それはきっと武神と呼ばれる姉貴分以外に居ないだろう。隣に立つ百代に目を向ければ、真剣な表情で両手を前方に突き出し、その掌から力強い生命のオーラを溢れさせている。それらは大和達に向けて吹き付ける黒き風と虚空で衝突し、その暴威を相殺し続けていた。

「なーにこのくらい、お安い御用だ。……と余裕たっぷりに言いたいのは山々なんだが、実を言うとな、結構キツい。いくら私でも、自分ひとりが耐えるならともかく、この怪物規模の殺気から一クラス全員分をカバーし続けるのはちょっとばかり無理がある……!そういう訳だ舎弟、お前は今のうちに2-Fの奴らをさっさと安全圏まで下がらせとけ」

「……了解!皆聞いてくれ、このまま最前列に留まるのは危険だ!姉さんが食い止めてくれてる間に、この黒い風の届かない場所まで下がるんだ!」

 目の前に広がる惨状を現実として受け入れられていないのか、一様にポカンとした表情を浮かべて呆然と立ち尽くしている2-Fのクラスメート達に向かって大声を張り上げながら、大和は周囲の様子を窺った。見れば百代と同様に、祖父の鉄心もまた氣による障壁を張り巡らせて周囲の生徒達を護っている。しかし、何せこの決闘の見物に押し掛けた観客の総人数は実に数百人にも上るのだ。いかに武神の名を冠する川神院総代と言えども易々と全員を庇い切れるものではなく、その守護領域から外れた者達がまた一人、倒木の如くグラウンドの砂上に転がる。

「はは、はははっ、ははははははっ!」

 そのような状況にあって、百代は紅の双眸を爛々と貪欲に輝かせて、熱に浮かされたような調子で哂っていた。楽しそうに。心の底から、愉しそうに。

「織田の奴、只者じゃあないとは思ってたが――正真正銘の怪物だったか。ここまで滅茶苦茶な殺気、私は見たことも聞いたこともないぞ。なんて禍々しさだ、なんて邪悪さだ、なんて力強さだ!はははっ、本当に。本当に、ワクワクさせてくれるなぁ!キャップとの決闘中じゃなければ今すぐにでも仕合を申し込みたいくらいだぞ!」

「……取り敢えず、あの男が化物だって点には、全力で同意するよ。自分と同じ人間にこんな真似が出来るなんて、俺は思いたくない」

 餓えた獣を思わせる百代の哄笑に、カラカラに乾いた喉をどうにか震わせて答えると、大和はこの状況を単独で生み出した魔王、織田信長へと視線を向ける。

 しかし――その冷然たる立ち姿が瞳に映る事はない。先程まで決闘の舞台となっていたグラウンドの中心部は、今や完全な暗黒に支配されていた。留まる事無く吹き荒れる黒い“氣”の嵐によって視界が遮られ、一寸先も見通せない闇が広がっている。その深淵の如き有様を見れば、今もなお観客達を襲い、昏倒させ続けている黒い風が、そこから溢れ出た只の余波でしかない事は一目瞭然だった。

「総代っ!流石にコレは生徒同士の決闘の領分を越えていマス!今すぐ止めなけれバ!」

「ふむ。……この惨状を鑑みるに、それも致し方ないかの。見れば無事だった生徒達の避難も既に完了したようじゃ。ルーよ、退避が間に合わずに巻き込まれた生徒の介抱は任せたぞい。ワシはこれより介入し――」

「おいコラ待てジジイ、なに寝惚けた事言ってるんだ。勝負はまだ終わってないだろーが」

 尚も規格外の殺意を振り撒き続ける信長を止めるべく、その老体に静かな闘氣を滾らせつつあった鉄心の前に、百代が目を鋭く光らせながら立ち塞がった。

「じゃがの、モモ。風間はあの途方も無い殺意が織り成す“嵐”のまさに中心部に居るのじゃぞ。ワシやお前ならばともかく、満足に武術を修めておらぬ者にはとても耐えられる重圧ではなかろう。場合によっては命すらも危ういかもしれん」

 首を左右に振る自身の祖父・鉄心の重々しい言葉を、百代は鼻で笑い飛ばす。

「はっ、勝手に決め付けるなよジジイ。そんなもっともらしいご高説は聞きたくないな。生憎とキャップの事は私たちの方がよーく知ってるんだ。風間ファミリーのリーダーは、そう簡単に負けはしない。お前らも、そう思うだろ?」

「ああ……全くその通りだ姉さん」

 頷きを返して、大和は鉄心と正面から向き合った。百年の時を生きたと噂されるこの老人に小細工や嘘偽りは通じないだろう。故に、普段通りの詭弁はここでは不要だ。ひたすらに真摯な視線を真っ直ぐに送りながら、大和は真心から舌を動かし、言葉を紡ぐ。

「学長。俺も含めて、2-Fの皆はキャップを信じています。ですからどうか俺達に、あいつの戦いを最後まで見届けるチャンスを下さい!」

「アタシからもお願いするわジィちゃん、いや、お願いします学長!アタシ達のキャップは、ゼッタイこんな所で終わる男じゃないんだから!」

 大和と一子が深々と頭を下げると、風間ファミリーの面々、そして2-Fクラスの面々が次々と二人に続いた。孤高の一匹狼、忠勝ですらもそれは例外ではない。手に負えない問題児揃いの2-Fが、今や気持ちを一つにして自分達の代表の戦いを見守ろうとしている。その光景を前に、鉄心は豊かに蓄えた髭を扱きながら、眦を下げた。
 
「やれやれ……仕方がないのぅ。まあ幸いにして倒れた者達も、殺気に中てられて意識を失っただけで、特に実害は無い様じゃ。もっとも、これから暫くは悪夢に魘される事になるじゃろうが……力の及ばなかったワシの不始末という事にしておこうかの。宜しい――川神学園学長の名の下に、決闘の続行を許可する!心ゆくまで、存分に仕合うとええじゃろう」

「総代!ですが、これハあまりにモ……!」

 納得し切れない表情で食い下がるルー先生(現川神院師範代)に、鉄心は厳粛な語調で言葉を重ねる。

「確かに教育者としては生徒の安全を最優先し、止めるのが正しい在り方なのじゃろうな。じゃがルーよ、男と男の誇りを賭けた決闘に第三者が横槍を入れるのは無粋、そうは思わんかの?ワシ自身、一個の武人としてこの勝負の行く末を見届けてみたいのも事実。それにじゃ、ワシが無理に介入しようとすればどうせお前が黙っとらんのじゃろ、モモ」

「ははは、なんだ良く分かってるじゃないかジジイ。何なら止めてくれてもいいんだぞ?今この場で本気のジジイと闘えるなら、それはそれで私としては大歓迎だからなぁ」

「ふぉっふぉっ、齢二十にも満たぬ小娘が言いよるわ。そろそろワシ自らその鼻っ柱を叩き折るのも悪くないかもしれんの」

 世界の頂点に立つ二人の武神が織り成す圧倒的な闘気に、周囲の空気が俄かに震撼する。が、それも僅かな時間で、次の瞬間には両者ともに普段通りの自然体に戻っていた。今は果たして何を優先すべき時なのか、祖父も孫も考える事は同じだったのだろう。

「……キャップ」

 大和は巻き起こる死の嵐の中心部へと視線を向ける。相変わらず深淵の闇が黒々と立ち塞がり、そこに居る筈のリーダーの姿は見えない。グラウンドを埋め尽くす漆黒は、こうして安全圏から遠巻きに眺めているだけで、奈落の底に引き込まれるようなおぞましい感覚を大和に浴びせ掛けてくる。

 あの絶望の渦を生み出す中心核に独り取り残されたキャップは、本当に無事でいられるのか?いくら信長の殺意を前に屈さない力を手に入れたとしても――あの規格外の暴虐を容赦なく叩き付けられて、膝を折らずにいられるのだろうか?

「…………」

 直江大和は、現実主義者だ。真に現代社会を回しているモノの正体が、美しい義理と人情などではなく、薄汚い金と策謀である事を知っている。血の滲むような努力と根性は、生まれ持った才能と地位の前に容易く敗れ去る事を知っている。誰もが憧れるテレビの中のヒーローは、所詮は何処かの誰かが作り上げた虚像でしかない事を――知っている。

 だから、勇者が魔王に必ず勝てるのは、御伽話の中でのみ通用するお約束なのだと。そんな夢も希望もない現実を、大和は知っている。

 だが。

 だが、それでも。

 直江大和にとって、風間翔一は。

「―――姉さん。お願いがあるんだけど、いいかな」

「ん。言ってみろ、弟」

「俺が風間ファミリーの軍師として献策する、この戦で最後の“策”。その成就には、姉さんの協力が必要不可欠なんだ。力を貸してくれ、姉さん」















 



 死んだ。


 何の誤魔化しも嘘偽りもなく――風間翔一は、心の底からそのように錯覚した。

 否、それが錯覚なのかどうかすらも、もはや判らない。己の周囲を埋め尽くすのは一片の光すらも差し込まない闇、闇、闇。圧倒的な大質量で押し潰すかのような、果てしのない暗黒に充ちたこの空間が、伝え聞く死後の世界であったとしても何も不思議はない。

 暗い。冥い。どこまでも昏く、どこまでも冷たい。

 夜の雪山で猛吹雪に見舞われたような、そんな絶望的な気分だった。身体が、凍り付いたように動かない。指先を動かそうと頭で命令を送っても、ピクリとも反応しない。翔一の肉体は今や末端神経の一本に至るまで身動きを拒絶し、あたかも死体の如く硬直している。

 それどころか――全身の感覚そのものが、消失している。自分が五体満足なのか、両手の指は数えて十本在るのか。本当に生きているのか、判断の術が無い。

 息が、出来ない。喘ぐようにして肺に取り込もうと試みる空気は刃の様に冷たく鋭く、そして酸素という元素が欠片も含まれていなかった。瞬く間に欠乏した酸素を求めて脳は必死に命令を送るが、無慈悲にも身体機能は働きを拒絶する。そこで初めて、翔一は自分がそもそも“呼吸”を行っていなかった事実に気付いた。当然だ、肺が自らの仕事を放棄しているのだから、息なんて吸い込める筈がない。

 意識が、朦朧としていく。徐々に形を無くし、明確な意味を失っていく思考の中で、走馬灯の如く蘇る言葉があった。

『死を恐れ、厭うは矮小なる生者の性。樹は恐れず、風は厭わぬ。己が氣を大自然と一体と為せば、自ずと俗世の軛より解き放たれるは必定よ』

 そうだ――内気功。

 魔王の発する凍てつく波動に対抗する為に、とある仙人の指導の下、三日間の過酷な修行を経てどうにか開花に至った、自身の新たな可能性。己の存在を自然の内に溶け込ませ、常に自分自身の在り方を保ち続ける。そんな、魔王の暴威に敢然と立ち向かう為の稀有なる技能を、風間翔一は手に入れたではないか。

 ようやく差し込んだ一筋の希望の光は――しかし、巨大過ぎる絶望の前には儚く無力だった。

 全身に氣を巡らせようとして、気付く。


 何もない。


 翔一の周辺には、己を溶け込ませるべき対象が、自然が、此処には何一つとして存在しない。

 総てが――死んでいた。絶えず世界を渡り歩く自由気侭な“風”ですら、暗黒の空間ではその息吹を止めている。嵐の如く自身の周囲に吹き荒ぶのは、正しくは風ではない。世界そのものへの殺意に充ち溢れ、漆黒と共に災厄を撒き散らすそれは、万物に等しく終焉を運ぶ死神の吐息だ。

 死。死。死。死。

 死神に、包囲されている。逃げ場はない。その処刑鎌から逃れる術は――ない。

 希望の光が何処にも存在しない事実を悟った瞬間、ぴしり、と乾いた音を立てて、強固な意志に罅が入る。あまりにも膨大な絶望が生み出す圧力に包まれて、覚悟と決意の鎧がぎしりぎしりと悲鳴にも似た軋みを上げている。やがて小さな亀裂が走り、その隙間から、深淵の絶望が流れ込む。

 這入り込んだそれらは洪水の如き勢力で翔一を侵食し、その精神を、肉体を蹂躙した。

 立ち向かう事など最初から無謀だったのだと思い知らせるかのような、凶悪無比な殺意が心身を蝕む。

 
 意思が失われる。

 
 意志が喪われる。
 
 
 風間翔一を繋ぎ止めていた想いが、途切れる。


―――ああ、カッコ悪ぃな……。

 
 結局、勇者は魔王には勝てなかった。自分は、ヒーローにはなれなかった。
 
 全身から急激に力が抜けていく。自慢の両脚は自らの体重を支える事すら出来ず、翔一はがくりと膝を付いた。

 闇に呑み込まれる。周囲を埋め尽くす無限の暗闇に、意識が溶けてゆく。


 風間翔一が、消える。




 その瞬間、




――――声が、聴こえた。
 
 














「姉さん。アレから四十人を同時に庇うのが厳しいとして、その約八分の一。五人か六人くらいなら、どう?」

 その一言で、舎弟の言わんとしている“策”の全てを理解したのだろう。大和の問い掛けに対する百代の返答は、思わず見惚れてしまう程に綺麗な、素敵に不敵な笑みだった。

「ふふ、私を誰だと思ってるんだヤマトぉ。私は川神百代だぞ?それくらい余裕だ余裕、何も心配はいらん。おねーさんに任せろ」

「世界最高に頼もしい保証をありがとう。さて、それじゃ……行くぞ、皆」

 何処に、とは言わない。そんな事は、敢えて口にする必要などなかった。

「ああ、行ってこい。風間の野郎にはてめぇらが必要だろうよ」

「あれ、ゲンさんは来てくれないの?これまで一緒に戦ってきた仲間なのに」

「はっ、遠慮しとくぜ。こいつはてめぇら風間ファミリーの戦いだ、俺の出る幕じゃねぇ。それに、これ以上てめぇらに肩入れし過ぎると、後でどっかの主人バカに油汚れも真っ青なしつこさで文句を言われる羽目になりそうだからな」

「?」

「オラ、俺なんざに構ってる暇があったらさっさと行ってきやがれ。グズグズしてる間に勇者様が教会送りになっちまっても知らねぇぞ」

 クールでニヒルな不良(ツンデレ)こと源忠勝と、そんな遣り取りを交わした後――直江大和、川神百代、椎名京、川神一子、島津岳人、師岡卓也。キャップを除く風間ファミリー総勢六名が、迷いの無い足取りで真っ直ぐに歩を進める。

 向かう先には、死と絶望の象徴たる黒の旋風。轟々と唸りを上げ、一向に衰える気配の無い勢力を以て吹き荒れる凶悪な殺気は、嵐の根源に近付いた全ての者へと無差別に降り注ぐ。

 しかし、その程度ならば何ら問題はなかった。世界に名高き武の神がこうして先頭に立っている限り、この世のいかなる存在であれ、風間ファミリーに危害を及ぼす事など不可能なのだから。誰一人として、例えそれが魔王であっても、自分達の歩みを妨げられはしない。

 やがて辿り着くのは、最も決闘場所に近い位置。絶えることなく殺意の余波が押し寄せる波打ち際。生徒達が挙って避難し、当初の賑わいが見る影もない空白地帯と成り果てた、“最前列”だ。

 六人は横一列に並んで、闇を見据える。その先で独り戦っている自分達のリーダーに想いを馳せながら。

―――キャップ。風間翔一。

 幼き日から共に育った、天衣無縫という言葉を全身で体現しているような少年は、いつだって自分達のヒーローだった。どんな時でも気付けば皆の輪の中心にいて、型破りな自由奔放さで皆を強烈に引っ張っていた。

 キャップの切り開く道を進んでいけば、最後には必ず万事が上手く収まった。クラス対抗の運動会でも、秘密基地を賭けた上級生との縄張り争いでも、県外で繰り広げた波乱万丈の大冒険でも、異常に平均レベルの高い町内カラオケ大会でも、ギャンブルでも料理対決でも球技大会でも決闘でも―――あの時も、あの時も。風間ファミリーのリーダーは、誰もが思い付いても実行しないような常識外れの方法を躊躇いなく選択する決断力と、一度決めた事は何があっても実行に移す行動力、それを見事に成功へと結び付ける豪運を以て、常に自らが望むものをその手に掴み取ってきた。『この男についていけば何とかなるんじゃないか』『この男ならきっと何とかしてくれるんじゃないか』……そんな思いを見る者全てに理屈抜きで抱かせる、その太陽にも似た眩しい生き様を、参謀役として隣に立つ大和はいつも羨望の眼差しで見つめていた。自分もあんな風になりたい。あんな風に生きられたら。直江大和にとっての風間翔一は、少年ならば誰もが憧れるヒーローの象徴と言うべき存在だった。それはTVの中でしか活躍できない作り物などとは違って、皆が生きる現実に信じられないような奇跡を魅せてくれる、自分の前に確かな形を持って存在する正真正銘のヒーロー。

 
 直江大和は現実主義者だ。如何ともし難い巨悪を前に、そんなヒーローですらもが成す術なく敗れ去っていく現実を知っている。

 
 そう、時にヒーローは負けるだろう。膝を折り、力尽きて地に倒れ伏すだろう。

 
 しかし。

 
 それでも―――ヒーローは、絶対に諦めない。何度敗れても不屈の意志で悪に挑み続け、そして最後には必ず、勝利を掴むのだ。


 皆の期待と信頼をその身に背負い、仲間達に託された思いをその胸に熱く宿して、彼は再び立ち上がるだろう。


 誰かの声援がその心に響く限りは、何度でも。何度でも。


 だから、直江大和は。

 
 川神百代は、椎名京は、川神一子は、島津岳人は、師岡卓也は。


 進入禁止のラインから前のめりに身を乗り出し、喉も嗄れんばかりの大声で。


 立ち塞がる闇の向こうへと届ける為に、想いを込めてその名を呼ぶ。








―――――そして、






 


 声が、聴こえた。

 確かに、耳に届いた。

 頭に響き、胸に響いた。

 
 それならば――“まだ自分は、生きている”。


「……当たり前じゃねぇか、俺のバッキャロー」

 
 絞り出すような弱々しさではあるが、こうしてちゃんと声も出る。

 凍傷にでも掛ったかのように手足の感覚が希薄だが、確かに其処にある。

 確かに生きている。死んでなどいない。疑う余地なく、風間翔一は未だに健在だ。

 だったら……諦めない。諦められない。諦める事など、出来るハズがない。

 そう、昔からそうだった。妥協という名の諦念を端っから笑い飛ばし、現実と言う名の障壁をことごとく飛び越えて、誰よりも自由な精神でこの世界を駆け回ってきた。そんな自分の生き様を、やっと思い出せた。

『任せても良いか、リーダー?』

 昨晩、誰よりも信を置くファミリーの軍師が発した問い掛けに、果たして何と答えた?

『おうよ、当然だぜ!キャップたるこの俺に任せろ、誰が相手だろうと絶対に負けねぇ。今の内に祝勝会の準備をして待ってろよお前ら!』

 そんな風に胸を張って答えたのではなかったのか。風間ファミリーを束ねるリーダーとして、交わした約束を反故にする事は許されるのか?皆の期待と信頼に応える事無く、悪の親玉に膝を屈するヒーローがどこにいる?

「あいつらが切り拓いた道を、キャップたる俺が無駄にはできねぇ。そうだろ、俺」

 こんな所で蹲っていてどうする。膝が震えても構わない、無様でもいい。立たなければ。

 どれほど呼吸が苦しくとも、身体が言う事を聞かずとも、己の足で立って歩かなければ――前に進まなければ、決してあの男には届かない。

「そうだ……俺は、諦めねぇ。俺が俺である限り、絶対に諦めてたまるかっ!」

 瞳に宿すは決意の炎。心に宿すは覚悟の光。

 譲れない意地と、仲間との約束を力に換えて――ヒーローは、再び立ち上がった。

 顔を真っ直ぐに上げて、恐れも迷いも消え失せた、どこまでも澄んだ瞳で暗闇を見通す。

「行くぜ。勇往邁進、だ」
 
 そして、己に活を入れるべく、口ずさむのは一遍の詩。

 川神魂が余すところなく込められた、翔一の掲げる座右の銘だ。

「光灯る街に背を向け、我が歩むは果て無き荒野」

 たちまち己の闘志が胸中に燃え広がってゆく。冷え切った身体の芯に熱が通う心地良い感覚に身を任せながら、前へ。最初の一歩を、踏み出す。

 ただそれだけの動作で、全身が激しく軋みを上げた。未だほぼ完全に凍り付いたままの肉体を無理矢理に前方へと引っ張った影響か、高山への登頂直後のような途方もない疲労感が身体を苛む。脚は棒も同然に固くなり、気を抜くと一瞬でバランスを崩して転倒してしまいそうだ。それは不味い。歯を強烈に食い縛って、堪える。もう倒れられない。次に倒れたら、恐らく今度こそは立ち上がれないだろうから。

「――奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ」

 全ての希望を覆い隠す暗闇の中、見えもしないゴール地点を追い求めて、迷いの無い足取りで次なる一歩を踏み出す。心肺機能の著しい低下が酸素欠乏症を引き起こしているのか、先程から頭痛が収まらない。僅かに身動きする度に酷い痛みが生じ、脳細胞を貫いた。ガンガンと頭蓋の内側を鎚で叩かれているかの如き壮絶な感覚に、今すぐにでも全てを投げ出して意識を放り捨てたくなる衝動に駆られる。その抑えがたい欲求は、頭痛の規模と比例して絶えず膨らみ続け、翔一の精神を蝕んでいた。心を折り、意思を挫こうという悪意が、蠕動している。

 だが、屈しない。その程度では、この歩みは止められない。

「揺ぎない意志を糧として、闇の旅を進んでいく――!」

 心身を蝕む全ての悪意を強固な意志の力で捩じ伏せて、また一歩、無明の闇を切り拓く。

 勇往邁進。

 それは決して諦めず、ひたすらに前だけを見据えて歩み続ける心。

 その在り方こそが翔一の信条で、誰もが夢見るヒーローの資格だ。

「俺は!」

 困難を物ともせず、いかなる障害をも乗り越えて、ただひたすらに前へ前へと突き進む。

「絶対に!」

 痛々しい程に愚直で、果敢。その姿を形容するに相応しい言葉は、愚者か英雄か。

「―――諦めねぇぞっ!!」

 烈昂の叫びと共に力強い一歩を踏み出した、その時だった。

 不意に吹き抜けた一陣の風が、眼前に渦巻く深淵の闇を払う。

 見る見る内に視界は開けて、美しく澄み渡る青空が頭上に広がっていく。


―――そして、今。


 瞳の中には、勇者が全霊を賭して打倒すべき、魔王の姿が在った。


 自信と余裕を殊更に強調するようなハンドポケットに、己を除く全ての存在を無価値と見下して憚らない、度を超えて冷然たる無表情。決闘の前に対峙した瞬間と比べて何一つ変化の無い傲岸不遜な態度のまま、織田信長は己が巻き起こした嵐の中心部に悠然と佇んでいる。


 ボロボロの身体を引き摺りながら、その眼前に辿り着く。

 
 そして翔一は、愉快げな笑みを口元に湛えて、大胆不敵に言い放った。
 

「よっ。来たぜ、大魔王」








 

 

 何度でも何度でも繰り返して言うが―――俺は風間翔一という男を決して甘く見ていた訳ではない。川神百代が自身の上に立つ事を認めるほどのカリスマ性と、一学生の身には分不相応な戦歴の数々。その行動の殆どが予測不可能で、不確定要素の塊。各種の計算を思考の前提に据えた上で行動を起こす俺のようなタイプの人間にとって、まさしく天敵とでも言うべき存在だった。まさか生まれ持った才能という面から見ても天敵だったとは、流石に想定していなかったが……その点を差し引いても、ある意味では最初から風間ファミリーにおける最大の警戒対象であったとすら言える。故に、俺は現在の自分に引き出せる全力を用いて勝負に臨んだ。織田信長を追い詰めてみせた彼に敬意を表し、最大規模の奥義を以て大将戦の決着を飾ろうと考えた。

 織田流奥義、殺風。俺の辿り着いた“広域威圧”のハイエンド。奥義などと言うと大層なモノに聞こえるが、種を明かしてしまえば単純極まりない代物で、要は自分自身を中心とした、全方位へ向けた殺気の全力放出だ。最低限の制御は行っているとは言え、それは半ば“氣”の暴走に等しい。溢れ出した殺意の奔流は黒の嵐を巻き起こし、周辺一帯を無差別に蹂躙する。その規模は日常用のそれとは比較にならず、勢力の小さい末端部分ですらも、一般人ならば即座に意識を刈り取られるレベルの殺気に充ちている。

 であるならば、中心部近辺を襲う重圧が果たして如何なるものか、想像出来ようものだ。

 風間翔一の強靭な精神力と、内気功による肉体的抵抗力を考えれば、まあ一瞬では終わるまいとは思っていた。保って三十秒、或いは奇跡的に一分程度は保つかもしれない――それが俺の偽らざる見解だった。

 まさか、数分もの長時間に渡って意識を保ち続けるどころか、あまつさえ動く筈の無い肉体を動かして――“嵐の目”まで辿り着くなどとは、欠片たりとも想定してはいなかった。嵐の起点である俺の周辺数メートルにのみ生じる、唯一無二の安全地帯に踏み込まれるなどとは、夢にも。

 有り得ない事だ。しかし、有り得ない筈の事が、覆せぬ現実として。疑いなく、起きている。


「よっ。来たぜ、大魔王」

 
 俺の天敵たる不確定要素の塊が、闘志の炎を双眸に灯して、目の前に立っている。

 顔色は幽霊の如く青白く染まり、息は絶え絶えで、全身の筋肉が痙攣しているのが傍目にも判る――そんな半死半生の有様にも関わらず、大切な何かを誇るように胸を張って、ひたすらに真っ直ぐな眼差しで織田信長を見据えている。

 その透き通った目を見れば一目瞭然だった。風間翔一の心は、折れてなどいない。肉体の方は見るも無残な程にボロボロだが、彼の意志を支える精神の柱は、揺るぎなく健在だ。

 ……ならば。

 ならば、それはつまり、殺気によって封じられた身体機能を、純然たる己の精神力のみでカバーしてのけたとでも言いたいのか?馬鹿を言え、口で言うほど容易い話ではない。肉体の拒絶反応を無視して踏み出す一歩に、どれ程の苦痛が伴うと思っているのだ。

 もしも襲い来る困難の全てを不屈の意志で乗り越えて、想いなどと云う不確かなモノだけを頼りに前へ進む事が出来ると言うなら、それは。

 
 それではまるで―――ヒーローではないか。

 
 戦慄にも似た心地と共に、ポケットの中の指先に抑えられない震えが走るのを自覚した。


「……ふん」


 辛うじて能面のような無表情を保ちながら、俺は“殺風”の発動を解除した。轟々と吹き荒れていた恐慌の嵐は、数秒の時を経て跡形もなく消失する。これ以上の維持は“氣”及び精神力の無駄遣いもいい所だ。空白地帯である“嵐の目”に到達された時点で、既にその役割を果たせなくなっているのだから。

 周囲を覆っていた暗闇が晴れて、清々しい空の青色と、グラウンドの砂色が一気に視界を埋め尽くす。

 そして、俺は口元を吊り上げて、眼前の男を見返した。

「くく、随分と遅かったな。待ち草臥れたぞ、風間翔一」

「ああ、悪ぃな……俺としたことが、もう少しで諦めちまうところだった。今すぐそこまで行くから、ちゃんと、待ってろよ……?」

 絞り出すようにして呟くと、フラフラと誰の目にも危うい足取りで歩を進める。既に肉体的にも精神的にも限界を超えているのだろう。もはや意識すらも曖昧な状態で、それでも燃え滾るような瞳だけは力を失わず、俺の姿を捉えて離さない。

 何故そこまで闘える。何故そこまで強くなれる。何故―――心を支えられる?

 疑問に対する回答は、思いの他すぐに見つかった。

「ふん」

 翔一の肩越しに数十メートル先、俺の視界には彼らの姿がはっきりと映っていた。

「風間ファミリー、か」

 誰も居ない筈だった“最前列”にて、見知った顔の六人が声援を張り上げている。

 上から目線の叱咤激励だったり、罵声やら皮肉混じりの野次だったり、或いはやけに威勢の良い声援だったり無難且つ平凡な応援だったり、それぞれが好き勝手に叫ぶ内容は無駄にバリエーション豊かで、統一性というものはまるで感じない。しかし――それらの全てに間違いなく共通している事項が、只一つだけ、確かに在った。

 ……そうか。成程、そういうことか。

「随分と奇特な連中が揃ったものよ。類が友を、呼んだか」

「ははっ……、結構な褒め言葉だな、そりゃ」

 屈託なく笑いながら踏み出すのは、最後の一歩。

 本来ならば無限にも等しい数メートルの距離を踏破して、遂に彼は辿り着く。

 そして―――

「行くぜ、ノブナガッ!!」

 風間翔一は、固く握り締めた拳を、一息に振り抜いた。

 限界を超えて酷使され、疲労困憊した肉体から繰り出された右ストレートは、悲しい程に鈍い。俺がかつて必死で身に付けた回避技能を用いるまでもなく、目を閉じながらでも軽々と避けられる。例え無力な一般人の子供だったとしても、身を躱す事は容易いだろう。

 だが、避けられない。

 九鬼英雄と繰り広げた決闘の際、忍足あずみの凍て付いた指先から逃れられなかったのと同様に――俺が俺で在り続ける為には、この拳から逃げる訳にはいかない。

 その握り締めた拳に、文字通り心身の全てを振り絞った一撃に、どれほどの魂が込められているか。嫌というほどに理解する事が出来てしまう限り、それは織田信長にとって、紛れもなく不可避の一撃だった。

 故に、訪れるべき決着の時の到来もまた、どう足掻いても避けることは出来ない運命。

 どうせ逃れられないのならば、わざわざ慌てふためいてやるのも莫迦らしい話だ。

 スローモーションが掛かっているかの如く、やけにゆっくりとしたペースで進行する時間の中で、俺は思索を巡らせる。本日のテーマは、果たしてどのような要因が働いた結果としてこの事態は招かれたのか?

 ……などと、本当は考えるまでもないのだが。俺の中で、答えは既に出ているのだから。

 
 川神一子。彼女の勇気ある宣戦布告が、半ば俺に屈服し掛けていた2-Fに殺意を克服させ、戦いへと向かわせた。

 椎名京。彼女の怜悧で正確無比な一矢によって射止められた次鋒戦の勝利が、全てを決する大将戦へと希望を繋いだ。

 直江大和。彼の観察力と発想力が最善の策を織り成し、更には弁舌を以て織田信長を勝負の場に引き摺り出した。

 風間翔一。彼の常識に囚われない風の如き奔放さと破天荒さが俺の計算を上回り、伏せていた切り札を発動させるに至った。

 そして――絶望の闇を越えて届けられた、“仲間”の声援が。向けられた揺るがぬ信頼が、ヒーローの足を前へと進ませた。

 
 仮にこれらのピースの一つでも欠けていたら、決して現在という絵図を描くパズルは完成に至らなかっただろう。風間ファミリー総勢七名が揃って居たからこそ、風間翔一は殺意の前に膝を折らないヒーローと成り得た。何の事はない、俺は初めから一人を相手に戦っていたのではなかったのだ。リーダーである風間翔一を相手取る事は、即ち風間ファミリーという群体そのものと対峙する事と同義なのだから。

 かつて戦国の雄たる毛利元就が遺した、三本の矢の逸話を思えばいい。

 万人の心をへし折る織田信長の殺気も、絆を以て束ねられた七人分の意志が相手となれば、なるほど力及ばぬは道理というもの。

「是非も、なし」

 俺が呟きを漏らすと同時に、時の流れが正常に戻る。

 次の瞬間――渾身の右ストレートが、俺の胸板に突き刺さった。

 それは鈍亀の如き速力からも容易に予想できたように、欠片の威力も有さない無力な拳だったが、同時に何よりも雄弁な拳でもあった。打ち込まれた胸には燃えるような熱が広がり、やがて血肉を徹して心臓にまで伝わる。やれやれだ。こんな一撃を貰ってしまっては、幾ら傲岸不遜がデフォルトの織田信長と言えど、認めない訳にはいかないだろう。

「――見事」

 静かながら、心の底から湧き起った一言に対し、ストレートを打ち抜いた態勢のまま、翔一はニヤリと陽気に笑う。

「へっ、やっとお褒めの言葉を頂けたな。なんだなんだ、やっぱここは、有難き幸せに御座りまするぅー!とか言っとけばいいのか?」

「図に乗るな下郎が」

 ネコの莫迦と同じような反応をしやがって。人様が地味に気にしている事をどいつもこいつも。

「まあ、それはともかくだ。……このケンカ、“俺達の勝ち”って事で良いんだよな?」

 腹立たしいほど澄んだ瞳で、俺の目を覗き込むようにして問い掛けてくる。

 ……わざわざこういう訊き方をしてくる以上、“気付いて”いるのか?直江大和の入れ知恵、ではないだろう。アレが気付いているとは流石に思えない。だとすれば、風間ファミリーの総意としてではなく、やはりこの男が独自に。しかし何故……まさか例の勘、とやらか?ふむ、なるほど、再認識せざるを得ない。心の底から思う。本当に―――厄介な奴だ。

「ふん。好きに解釈すれば良かろう」

「オーケー、そうさせて貰うぜ。いよっし、いざ祝勝会だぁ……って、ありゃ?」

 間の抜けた声を上げたかと思うと、目を白黒させながら、翔一はグラリと身体を傾かせる。もはや自分一人では立ち続ける力すら残されていなかったのか、先程から胸に当てた拳を起点にして俺に体重を預ける事でバランスを保っていたのだが、それさえも限界が来たらしい。

 そのまま膝から崩れ落ちると、グラウンドの地面へと前向きに倒れ伏し、そして沈黙。ピクリとも動かなくなっていた。ここに至るまで異様な生命力と精神力を発揮してきた驚異のビックリ人間・風間翔一だが、今度という今度こそはさすがに気力が尽き果てたのだろう。どうやら完全に意識を失っている様子であった。


「――――それまでッ!!」


 空気を読んでいたのか、ここに至るまで沈黙を保っていた主審・川神鉄心がようやく決着を宣言する。

 誰がどう見ても本来のタイミングからは相当に遅れているのだが、まあ然様に細かい事は気にすまい。その配慮のお陰で、俺も比較的心静かに受け入れられているのだから。


 決定的な敗北、を。


 そう、俺にしてみれば今回の一件は、これ以上なく明確な形での、敗北だ。

 “俺達の勝ち”、か。ああ全くその通りだとも、何一つとして否定する要素はない。2-F及び風間ファミリーの面々を相手取るに当たって、俺は僅かたりとも手を抜いてなどいなかった。

 そもそもにして真剣勝負では常に全力全開をモットーとする俺に、手抜きの三文字は絶対に有り得ない。この大将戦にしてみたところで、威圧の才と回避技能という自身の持ち味をフルに活かして、全力で立ち回った上での結果だ。更には本気で放った奥義ですらも真正面から破られてしまった以上、潔く認めなければ男が廃るだろう。

 であるならば、致し方ない。

 胸中より湧き出ずる苦々しい感情を余すところなく呑み下してみせる事で、織田信長の大器を示すとしよう。


 この“勝負”。紛れもなく―――俺の、負けだ。



「勝者――――」


 


 まあ、尤も。





「――――織田、信長!!」





 “試合”にまで勝たせてやるほど、俺は生温くはないが、な。


















 と言う訳で散々引っ張った信長vsキャップ、これにて決着です。
 もうキャップが主人公でいいんじゃないかな、と書いてる途中で何度思った事やら。
 決着した割に色々とまだ曖昧で引っ掛かる点が残っていますが、その辺りはまた次回。
 おそらく次話でvs風間ファミリー編は完結になります。それでは、次回の更新で。



[13860] 終戦アルフィーネ
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:7810e159
Date: 2011/08/19 08:45
 
―――グラウンドが、爆発した。

 思わずそんな錯覚を抱いてしまうほどに、ギャラリーの織り成す喧騒は圧倒的だった。何せ私立川神学園に所属する生徒の数は、実に総勢千人を越えているのだ。その大多数が揃いも揃って熱狂的な声を張り上げている以上、結果として湧き上がる歓声の規模が爆音に匹敵しても不思議はない。

「うぉおおおおおスッゲェ!お前ら真剣でパネェよ、とんでもねー決闘だったぜ!」

「風間ァーッ!良く頑張った、お前は良く頑張ったぞ!感動したッ!!」

「誰にも文句は言わせねぇ、お前がナンバーワンだ!」

 織田信長と、その眼前に倒れ伏す風間翔一。両者を周囲から幾重にも取り囲む人垣を悠然と見渡しながら、俺は鼓膜を叩く音響の激しさに少し眉を顰めた。四方八方より飛び交う歓声は、やがて万雷の拍手へと移り行き、二人の決闘者へと惜しみなく降り注ぐ。否、むしろ――

『カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!』

 主に観客達の熱狂と興奮が向かう先には、翔一の姿があった。既に総ての力を使い果たし、意識を失って地に倒れ伏している。もはや誰の声も届く状態ではない事は一目瞭然だったが、それでも、観客達の温かい拍手と歓声の嵐が止むことはなかった。

「ふん。ヒーロー、とは良く云ったものだ」

 満足気な笑みを浮かべて気を失っている翔一を見遣りながら、小さく呟く。その生き様を以って大衆の心を打ち、強烈に惹き付ける男。ならば差し詰め、織田信長は正義の味方に成敗されるヒールか。なるほど、あまりにも似合い過ぎていて全く違和感がない。

『カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!』

 全く、見事なまでに次鋒戦の結末を再現したものである。“風評”による勝者と敗者の逆転現象――勿論、今回の場合はあの時と完全に立場が逆なのだが。決闘の形式上においては紛れもない勝者である織田信長と較べて、敗者である筈の風間翔一への評価が尋常ではなく高い。では、何故にそのような状況が出来上がるのか……その答は明確だ。

 湧き上がるギャラリーから視線を外し、グラウンドの一角へと目を向ければ、そこにはまさしく死屍累々と形容すべき光景が広がっている。絶賛気絶中の数十人の生徒達が並んで仰向けに横たわり、幽霊の如く真っ青に染まった顔面を真っ青な空へと向けていた。俺自身が意図した訳でも目撃した訳でもないが、原因は間違いなく俺の放った奥義にあるのだろう。無差別攻撃を目的とした広域威圧の奥義である“殺風”が発動した以上、観客達の一部が余波に巻き込まれていたとしても不思議はない。

 その可能性が在ったにも関わらず、俺が奥義の使用を躊躇わなかったのは、川神鉄心やルー・イーといった川神院トップの面子が現場に待機している以上、よもや生徒達が命に関わる深刻な被害を受けるような事にはなるまい、と判断したが故だ。実際、失神している生徒の総数がたったの数十人で済んでいる事から考えても、彼らが何かしらの対処を行ったのは明白だ。そして今も、体育教師にして川神院師範代のルーが気絶した生徒達を診て回り、一人ずつ外気功による治療を行っている。心臓発作やら何やらの大事になる心配も多少はしていたのだが、こうして武の総本山・川神院が動いている以上、彼らの安否に関しては気に掛けるだけ無駄だろう。

――だが、それはつまり、先程グラウンドを襲ったのは……川神院が動かなければならない程の災厄だった、と云う事だ。

 吹き荒れる殺意の嵐、湧き起こる恐慌の悲鳴、成す術なく倒れゆく人々。そんな日常と乖離した異質な光景を目の前にして、平穏無事な日常に慣れ切った生徒達はいかなる感想を抱くだろうか。容易に想像出来る――圧倒的な脅威に対して彼らが抱く感情は、いつだって大いなる恐れと畏れでしかない。俺が見た目の派手な広域威圧を用いたのは、そういった印象を生徒達の心中へと強烈に植え付ける、という目的が在ったからで、その目論見は間違いなく成功を収めたと言える。

 しかし、そこで大きな計算違いが生じた。即ち、風間翔一が、立ち上がった事だ。

 考えてもみて欲しい。観客達の間で織田信長に対する畏怖と恐怖の念が最高潮に達した、まさにその時……そんな絶望の象徴の如き存在に、臆する事無く敢然と立ち向かう男の姿が目に映ったとしたら、その背中はいかに眩く輝いて見えるだろうか。深い闇の中でこそ、光は一際強く煌いて見えるものだ。

 俺の殺意が強大であればあるほど、生み出された絶望が巨大であればあるほど、それらを打ち破って魅せた風間翔一はより輝ける“ヒーロー”としてギャラリーに評価される。そう、例えその結果が、“時間切れによる敗北”であったとしても――その輝きはまるで失われないものだった。つまりは、そういう事だ。

 時間切れ。

 そう、風間翔一は、間に合わなかった。凍り付いた身体を信じ難い意志の力で動かし、“嵐の目”にまで辿り着いたちょうどその時、無情にも制限時間の十五分は訪れていたのであった。ポケットの中でバイブレーションを響かせる携帯電話がその事実を俺に報せてくれたし、殺風によって生み出された暗黒の外側に居た観客達もまた、校舎に据え付けられている時計の針からそれを悟っていた。

『このケンカ、“俺達の勝ち”って事で良いんだよな?』

 そして、他ならぬ風間翔一本人も、恐らくは気付いていたのだろう。心身共にボロボロの有様になるまで追い詰められ、加えて自身の敗北を既に知った上で、かくも無邪気に、かくも得意げに笑いながら、胸を張って言い放ってみせたのだ。そんな翔一の言葉を否定する術は、俺には無かった。何故ならば……事実として、目の前に広がるこの光景が、何よりも雄弁に物語っているのだから。

―――俺の敗北と、風間ファミリーの勝利を。

「実に、喰えぬ奴よ」

 風間翔一の問い掛けは、つまり彼がこの結果を、観客達の見せるであろう反応をあの時点で予想していた事の証拠に他ならない。風評という要素を考慮に入れた上で――更には、“織田信長もまたそれに気付いている”という事に気付いている、その証拠と言える。何故そこに思考が至ったのかまるで判らないが、まあ恐らくは“勘”とやらなのだろう。まったく、俺の計算を悉く無駄にしてくれやがる野郎だ。

 試合に勝って、勝負に負けた――俺の現状を一言で表現するならば、まさしくそれが相応しい。

『カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!カ・ザ・マ!』

 尚も鳴り止まぬ風間コールの中、俺が敗北の苦い味を存分に噛み締めていると、左右から挟み込むようにして近付いてくる気配が二つ。

「お疲れ様で御座いました、主。大将戦に相応しき御見事な武者振り……蘭は、蘭は心の芯より打ち震えて御座います!」

「ご主人、おつかれ~。いや~、私の想像をブッチぎってトンデモなバトルだったよ。流石はご主人、相変わらず人間辞めちゃってるねぇ。おおこわいこわい」

 溢れ出す尊敬の念に目をキラキラさせている従者第一号と、溢れ出す怠惰の念に口元をヘラヘラさせている従者第二号。相手をするのが果てしなく面倒臭いという点で見事に共通している二人だが、しかし残念ながら両名共に織田信長の直臣にして“手足”である。どう足掻いた所で、俺が俺である限りは否応無く関わらねばならない。何とも世知辛い話だ。

「ふん。斯様な有様では、俺の望む勝利とは程遠いが、な」

「くふふ、ご主人ってば完全に悪役扱いだもんね~。実際問題、勝ったのはご主人なのに、歓声の九割以上を相手さんに持っていかれちゃってる。嗚呼、なんて見事な友情・努力・勝利!いや、この場合は友情・努力・敗北なのかな?まあそれはともかく、やっぱり少年ジャソプ的王道主人公って言うのは皆の憧れなんだってのが凄く実感できるね。あ、でも安心してねご主人、私は『大和丸夢日記』で言えば大和丸より闇丸が好きなタイプだからさ」

「お前の好みは訊いていない」

 ニヤニヤと笑いながら言葉を連ねる莫迦に冷たい一瞥を呉れてやる。ちなみにねねが口にした“大和丸夢日記”は昔から二十三シリーズに渡って続いている人気の時代劇で、同心の大和丸を主人公としたコテコテの勧善懲悪劇である。ねねの好きな闇丸は報酬と引き換えに刃を振るう人斬り、言うまでもなく外道の悪役だ。要するに、間違っても褒め言葉に使う名前ではない。

「あ、あ、それなら私も――ではなく!……大衆が信長さまを如何様な目で見ようとも、蘭は主の誰も及ばぬ大器を深く知っております。その志の高きこと、御心の勇猛なること、決して誰にも劣りは致しません。ですので、何一つとして主がお気になさる必要はないと愚考する所存です」

「……ふん。然様な事は、態々言われるまでもない。望む結果から少々外れたのは事実。だが、その程度で俺が揺るぐ筈もなかろう」

「ははーっ!僭越な物言いで御座いました、思慮の浅い愚臣をどうか御赦し下さいっ!」

 グラウンドの砂に汚れる事など気にも留めず平伏を実行する蘭を見下ろしながら、俺は口元を歪める。

 そうだ、元より俺はヒーローになりたかった訳ではない。大衆の温かい声援を一身に浴びて、日の当たる道を歩みたかった訳ではない。そんなモノは織田信長にとっては不要だ。俺が彼らに求める感情は、総ての混沌を静止させる冷厳な恐怖と畏怖のみ。それらを生み出す為にヒールで在り続ける必要があるとしても、俺は一向に構いはしない。悪役だろうと外道だろうと大魔王だろうと、完璧に演じ切ってみせるだけの話だ。

 それに――声援は、もう充分、受け取っている。

 ねね曰く、『九割以上の声援が風間翔一に向けられている』。という事は……つまり逆を言えば、あくまで全体の一割未満ではあるが、織田信長へと向けられた声援もまた、確かに存在するという事だ。

 ふっ、と心中で笑みを漏らし、俺は悠然たる足取りで背後を振り返る。

 予想通り。風間ファミリーの面々とは反対側に位置する最前列に、奴らは顔を並べていた。無駄に強烈な個性を平常運行で発揮している、救い様のない奇人変人連中。俺を友と呼んだ2-Sクラスの馬鹿共が、笑みを湛えてこちらに歓声を飛ばしている。

 二人の従者と、三十八人のクラスメート。

 それは――孤高の悪役・織田信長が受け取るには、あまりにも温かく、盛大な声援だった。








「フハハハハ!大儀であったぞノブナガッ!!」

「ふん。幾度も言わせるな、九鬼英雄。頭が高い。俺を見下す事は何人たりとも許さん」

 グラウンドの中心でハイテンションな高笑いを上げる九鬼財閥御曹司に、毎度の如く醒め切った目と言葉で返答する。恒例の遣り取りを交わす俺達の周りには、2-Sの主要な面子がわらわらと集ってきていた。

 ふと未だ倒れっ放しの風間翔一の様子を窺えば、風間ファミリーを初めとする2-Fのクラスメート達に囲まれている。その中心で外気功による治療を行っているのは、川神百代か。まあ武神の名を欲しい侭にする彼女に任せておけば、深刻な後遺症が残る心配はあるまい。

 それでいい、下手に傷付けてしまっては彼女の恨みを買う羽目になりかねないからな――と思考を巡らせていたところ、鋭利な殺気が肌を突き刺した。

「おやおやぁ?英雄さまのありがた~いねぎらいのお言葉は、ちゃんと平身低頭して受け取らないとダメですよ☆」

「…………」

 何処からともなく取り出した小太刀を構えるあずみに、俺の傍に控える蘭の纏う気配が、無言の内に鋭く研ぎ澄まされた。やれやれだ。事ある毎に得物を抜き放つ冥土さんの悪癖は言うまでもなく勘弁して欲しいが、蘭も蘭である。基本的にはただの脅しだと判っているのだから、そう毎回物騒なオーラを周囲に振り撒くのは止めて欲しいものだ。俺に向けられた敵意ではないと頭では判ってはいても、やはり心臓に悪い。

「控えよあずみ。確かに我が好敵手と認めた男への言葉としては相応しくなかったのも事実、今後は改めるとしよう。己が過ちを認め、未来への糧と成す。それを為し得て初めて、真なる王を名乗る資格を得られるのだからな!」

「流石でございます、英雄さまぁああッ!英雄様こそ王者の鑑にございますっ!」

 溢れ出す尊敬の念に目をキラキラさせているあずみを眺めながら、俺は何やら強烈なデジャヴに襲われていた。この光景、何処かで見たような気が……何処だ?

「う~ん。何て言うかさ、あのメイドさん、ランにそっくりだよね。いやホント」

 傍でぼそりと呟かれたねねの爆弾発言に、俺はしばし思考ごと硬直した。
 
 …………。

 ……言われてみれば、確かにその通りだ。ありとあらゆる状況下で全てにおいて主人を最優先、敵対者が現れれば脊髄反射で刃を抜き、滑稽なほどオーバーな表現で無闇やたらと主人を持ち上げる。両者の共通項を上げていけばキリがない。これまで思い至らなかったのが不思議な程だ。

 ……いやいや少し待て、という事は何だ?俺と蘭は、第三者の目から見れば、英雄とあずみの主従と大差ないという事なのか?あの存在そのものが奇人変人の象徴とすら言えるイロモノ主従と、同類だと?

 ……………………。

「ご、ご主人がなんか物凄い勢いで暗黒のオーラを放出してる……。な、何があったのかは知らないけど大丈夫だよ!才色兼備にして文武両道、八面玲瓏を地で行くこの私が仕えている限り、ご主人の前途は限りなくShineだからね。あ、これは別に死ねって言ってる訳じゃないからそこんとこ誤解しないようによろしく~」

「……」

 死んだ魚の如く虚ろになっているであろう昏い目で、第二の従者を見遣る。そうだ、今の俺は蘭に加えて、この脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目に属する奇怪な生物を従えている訳で、そうなるとつまり周囲から向けられる奇異の目は、或いは英雄達に対するソレよりも――――いや止めよう、それ以上いけない。俺の魂の宝石が絶望で濁り切ってしまう。

 自分のナニカが崩壊する恐ろしい予感を感じ、無理矢理に危険な思考を打ち切るべく必死になっていると、原因たる英雄が真面目な表情で言葉を掛けてきた。

「此度の決闘、庶民共は風間を一方的に高く評価し、称えている様だが……我に言わせれば見当外れもいい処よ。最後まで己を貫き王たる器を示したお前と、最後まで諦めず屈さず、勇を示した風間、いずれも等しく称えられるべき見事な有様であったと言えよう。軽々しく優劣を付けられるものではないものを……。偏見に捉われ、本質を見失った庶民の下す評価に価値を見出すのは愚かである。故に、王たる我がここに断じておくとしよう――我の代理として、我ら2-Sの代表として、何ら恥じぬ働きであったとな!」

「……」

 僅かたりとも裏表の無い英雄の堂々たる宣言は、俺の捻くれた心にも真っ直ぐに響いた。

 成程、やはり世界の王を自称しているのは伊達ではない。この男の放つ自信に満ち溢れた言葉は、どれほど巧みな話術よりも強く心を打つ。やがてはそのカリスマ性に惹かれて、幾千、幾万、幾億もの人間がこの男に付き従う事になるだろう。自ら王を名乗る必要もなく、万人が王として仰ぐだろう。それは予想ではなく、半ば確信にも似た思いだった。

「くくっ」

 面白い。

 九鬼英雄、お前がいずれ名実共に王となり、世界の覇権を握ると云うのなら。

 その財力、政治力、或いは武力を以って俺の夢の前に立ち塞がると云うのなら。

 お前にとって俺が好敵手であるように――俺にとってのお前もまた、得難い好敵手だ。

「言われるまでもなく、俺の価値は俺自身が理解している。元より、この俺が雑草のざわめきに耳を傾ける道理など無い」

「フハハハハ!確と理解しているようで安心したぞ。尤も、我の好敵手たる者なれば当然であるな」

「然様。漸く、多少は俺を知ってきたと見えるな。英雄」

 僅かに口元を吊り上げて放たれた俺の言葉に、英雄は虚を衝かれた様に目を見開いたが、すぐに驚きから立ち直ると、心の底から愉快げな高笑いを上げながら背を向けて去っていった。続けてあずみが俺に向けて獰猛な笑みを零しつつ一礼し、主人の後を追う。そんな二人の背中を見送っていると、後ろから声を掛けられた。

「ふふ、凄い人でしょう?英雄は」

 冬馬だった。俺と同様に英雄の背中を眺めながら、眩しいモノを見るように目を細めながら言葉を続ける。

「英雄はどんな時でも決してブレない。自分の中に一本、誰にも曲げられない頑固な芯が通っているんでしょうね。いつも真っ直ぐで、少しも迷いがない。自分に正直で、他人に嘘を吐かない……自慢の友人です」

 英雄について語る冬馬の言葉には、抑え切れない憧憬の念が込められていた。決して自分には手が届かず、それでも諦められない理想を口にするような、一言では語り切れぬ様々な感情を内包した言葉。冬馬はふと柔らかく微笑んで、俺へと視線を移した。

「決闘、お疲れ様でした、信長。ゾクゾクするほど素晴らしい戦いでしたよ。ホラ見て下さい、今でも鳥肌が収まりません。どうにも人肌の温もりが恋しいですね……ねぇ信長、もう少し近くに行っても良いですか?」

「寄るな殺すぞ」

 いや真剣で。鳥肌が伝染したたろうが両刀遣い。

「おや、残念です。まあ互いの合意があって初めて愛は成立する訳ですし、ここは大人しく引き下がりましょうか」

「安息の内に己が寿命を迎えたければ、それが正しい判断だな」

「ふふ、相変わらずつれないですね。そんなところも信長の魅力なんですが」

「……」

「考えてみれば、命を賭した愛、というのもイイですね。極限の状況でこそ想いの炎は激しく燃え上がる……全てを灼き尽くす程に。ロマンチックで素敵だと思いませんか?」

「……」

 妖しい目付きで舐めるようにこちらを見る性倒錯者の存在そのものを無視する作業に全力を費やしていると、ありがたい事に援軍が到来した。冬馬の後ろからひょっこりと現れたのは、電波女と青春男……もとい小雪と準である。

「よお信長、お疲れさん。期待通り超エキサイティング!な決闘だったぜ。まぁちっとばかりスリリング過ぎたけどな……」

「大儀であったぞー、えらいえらい。ご褒美にこのマシュマロ~ンをあげるよーん。はいノブナガ、あ~ん」

 こいつは毎度毎度、純真無垢な笑顔と共に平然と爆弾を投下してくるから侮れない。だからそれは難易度が高過ぎると何度言えば……いや、一度も口に出して言った事は無いのだが、それにしても、だ。口元に差し出された小雪の白魚の如き指先にどう対処すべきか頭を悩ませていると、何やら隣の蘭が眉を吊り上げ、唇を真一文字に結んで唸り始めた。

「む、むむむ、おのれ榊原小雪っ!またしても然様にふふ不埒な真似をっ!あ、あ、主にあ~んする権利があるのは―――」

「上目遣いが殺人的にキュートな超絶美少女サーヴァントたる私だけ、だよね~。いやいや全く以てその通り、さっすが~、ラン様は話がわかるッ!という訳でご主人、あ~ん」

 ねねは無駄な素早さを無駄に発揮して小雪の指先からマシュマロを掻っ攫うと、無駄に恥じらったような演技をしながら、無駄な上目遣いでそれを俺の顔前に差し出してくる。公衆の面前で織田信長に何をやらせるつもりなのだろうかこの莫迦は。当然ながらこの場合、スルー以外の対応は有り得ない。ひたすらに冷酷な眼差しで一瞥をくれて、後は完全に無視を決め込む。

「ううぅぅぅ、違います違います、それは蘭の権利です!ねねさんの、ねねさんの泥棒猫っ」

「くふふ、お褒めの言葉をありがとう。お魚さんもお金も権利も略奪するのが私の趣味さ。ほらほらご主人、プリティ且つコケティッシュという二つの要素を見事に併せ持っちゃう美の化身がこうして献身的にご奉仕してるんだから、そんな白けた顔するのはナンセンスだよ」

 駄々っ子の如く涙目で地団駄を踏んでいる蘭を軽々とあしらいながら、ねねは執拗に俺に迫ってくる。やれやれ本当にこいつは、またすぐに調子に乗りやがって、面倒が起きない内にさっさと黙らせるか――と無表情の内側で思考を巡らせていると、不意にゾクリと背筋が冷えた。身体に染み付いたこの邪悪な感覚は……殺気!

「ロリな少女を傍に侍らせて、ご主人様と呼ばせて、あまつさえご奉仕―――だと?信長てめぇ、テメェくぁwせdrftgyふじこlp」

 殺意の波動に目覚めたハゲが其処に居た。轟々と立ち昇る暗黒のオーラは、威圧の天才・織田信長をして怯まずにはいられない程の負の意思に満ち溢れている。それは人間という種族の業の深さを見る者に否応無く思い知らせる、哀しき男の姿だった。その救われぬ魂を救済すべく、蘭は静かに“氣”を全身に巡らせて、無表情のまま手刀を作る。

 だが、幸か不幸かは別として、準に対して冷厳なる断罪の刃が振り下ろされる事は無かった。当事者(?)たるねねが両者の間に割り込んだのだ。

「ん~?センパイ、私に興味津々なのかな?まあ天香国色にも喩えられる私の魅力に取り憑かれるのは健全な男子高校生なら当然なんだけど、一応確認しておこうかな。センパイは私の何処をそんなに気に入ってくれたの?」

「それは勿論、語るまでもなく――全て!その未成熟で幼い身体つき、魅惑の妹ヴォイス、穢れない珠肌!貴女を構成する全ての要素が、俺の!私心なき保護欲を!掻き立てて止まないのです!という訳でどうですかキュートなお嬢さん、今週末にでも一緒に七浜の遊園地に繰り出しませんか?」

「う~ん。折角のお誘いだけど、お断りさせて貰うよ。ごめんね、私、家訓で頭部が電球代わりになる人とは遊びに行かないように言い聞かされてるんだ。危険だから」

「そうかぁ家訓なら仕方ないなウン。家訓だからなぁ。複雑な家庭の事情により引き裂かれるふたり、だがその禁忌を乗り越えることで愛はより強く尊いモノへと昇華し、そして……イイ、実にイイなぁウフフ」

 何かを悟りきった澄んだ目とニヤけた口元が何とも言えずアンバランスで不気味だった。暗黒のオーラが消失したのは良い事だが、しかしこれはこれで果てしなく鬱陶しいものがある。ねねの奴は良く平然と会話のキャッチボールを交わせるものだ。何かコツがあるのだろうか――と世に蔓延る変態どもへの対処策についての真剣な思考を巡らせていると、語調が居丈高過ぎて一瞬で発言者を特定可能な声音が耳を打った。

「何やら気色の悪い声が聞こえると思ったら、やはりお前かハゲ。明智の小娘にちょっかいを掛けると、いずれ東京湾で魚介類の仲間入りを果たす事になるゆえ、気を付ける事じゃな。世間を騒がす変質者を駆除するのも、名家の高貴なる務めなのじゃ」

「変質者じゃねぇ!いいか良く聞け、俺は変態じゃなぁい!仮に変態だとしても―――」

「ロリハゲの事なぞどうでもよいのじゃ」

 ハゲの見苦しい言い訳を即座に一刀両断する心は最高に輝いていた。空気の読めなさでは他者の追随を許さない不死川心だが、逆に言えば、悪い流れを問答無用でぶった切る事も朝飯前という事か。ふむ、少しばかり見直した。その功績に免じて、先程から会話に加わるタイミングを掴めずに俺の周囲をウロウロしていた件については忘れておくとしよう。

「こほんっ」

 心は俺の方に向き直ると、何やらかしこまった風に咳払いを一つ落とした。

「ん、ん。その、なんじゃ。2-Fの庶民共との決闘、片が付いたようじゃな」

「ああ」

「山猿を殊更に持ち上げる庶民共の態度は気に入らぬが、うむ、間違いなくお前の勝ちじゃったな」

「ああ」

 判り切った事実をいちいち確認してくる心に相槌を打ちながら、その不可解な態度を訝しむ。一体何を言いたいのやら、と内心で首を傾げる俺に対して、心は恥じらう様に目を逸らしながら言葉を続けた。

「その……此方の頼みを果たしてくれた事、友として、礼を言うぞ」

 その唇から紡ぎ出されたものは、意外にも素直な感謝の言葉だった。普段から無駄に高圧的な振舞いばかりが目立つ心にそんな殊勝な態度が取れるとはなかなか驚きである。まあ日本三大名家のご令嬢である以上、礼儀作法の類はきっちりと叩き込まれているのが当然で、ならば何も不思議はないのだろうか。

「不要だ。俺は俺の目的に従って戦に臨んだのみよ。礼を言われる筋合いもない」

 実際、2-Fと事を構える発端が心の依頼だったという事自体、俺は言われるまでほとんど忘れ掛けていた。それに、ねねの実家に関する一件で既に報酬は十分過ぎるほど受け取っているのだ。こんな風に改めて感謝の念を示されると、どうにも調子が狂う。結果、素っ気ない態度で言葉を返すと、心は怒るでもなく、晴れやかな笑顔を浮かべた。

「うむ、聡明なる此方は、どうせお前はそう言うじゃろうと思っておったのじゃ。しかし織田よ、これは此方が勝手に感謝しておるだけの話ゆえ、それをお前が受け取ろうと受け取るまいと自由。そして、此方が感謝するもしないもまた自由。ホホホ、そうであろう?」

「……ふん。勝手にすれば良かろう」

「うむ、勝手にするのじゃ。元より此方は高貴なる不死川が息女、誰の指図も受けはせぬぞ」

 調子良く言い放つと、心は胸を張って正面からこちらを見つめる。芯の通った意志を感じさせる黒曜の瞳を見返しながら、心が紛れもなく日本三大名家の令嬢であるという事実を、俺はおそらく初めて明確に実感していた。

 そのまま視線が交錯すること数秒――その中心にひょっこり湧いて出た何者かの頭頂部に、俺も心もギョっと現実に引き戻される。

「あれぇ、不死川センパイ。あっちの失神組の中にいたんじゃなかったっけ?復活したの?」

 突然の闖入者の正体はねねであった。もはや心の前ですらお嬢様の猫を被るつもりは無いらしく、口調は普段通りのままだ。更には先輩後輩の上下関係を超越したタメ口である。色々な意味で衝撃だったのか、心は数秒ほど呆然と固まっていたが、再び咳払いを一つ落として取り繕ってから口を開いた。

「フン、勝手に人を気絶させるでないわ。それはまあ、ほんのちょっぴり危なかったと言えなくもないかもしれんと言うか、軽く意識が飛びかけたのはそこはかとなーく事実じゃが、とにかく高貴なる此方は決してそんな失態は晒さぬ!……というかそれよりも明智、お前どう考えてもキャラ変わり過ぎなのじゃ。先日の決闘以来、言葉遣いといい立ち振る舞いといい、名家の気品というものが欠片も感じられんぞ。まるで卑しい庶民ではないか」

「まあね。生憎とそういう類のしょーもないモノはぜーんぶまとめて犬に食わせちゃったからさ。センパイに言わせれば、私なんてもう庶民同然だろうね」

「ふむ。そうか」

 家柄については人一倍どころか人十倍は口うるさいこいつの事だ、このままネチネチと小姑チックな嫌味が続くのだろう――と思いきや、意外にも心はそれ以上何も言わなかった。何事かを納得したように頷いただけで、その後はじっとねねの顔を眺めている。そんな心らしからぬ反応に戸惑ったのはねねも同じらしく、饒舌な奴にしては珍しく言葉を見つけられない様子だった。

「……何も言わないんだね。私みたいに“名家の義務”を放棄した外れモノは、センパイにとっては許し難い相手なんだと思ってたけど」

「フン、当然ながら気に入らぬわ。貴き家の下に生れる幸福に恵まれておきながら、自ら山猿の群れに混ざろうなどと、此方にはまるで理解出来ぬ」

「……」

「――じゃがな。お前は織田の従者。つまりは、此方の友が己が手足を任じた者ということじゃ。そのお前を侮辱する事は、織田を侮辱するも同じ。延いては織田を友とする此方自身を蔑むも同義、であろう?それゆえ、本来なれば高貴なる者の義務について数刻ほど説いてやるところじゃが、織田の顔に免じて見逃してやるのじゃ。フン、此方の友を主に仰いだ幸運に感謝するが良いぞ」

 心はムスッとした仏頂面で不本意そうに言い放つと、話は終わりとばかりにねねからプイと顔を背けた。実に不死川心らしい言い回しだ、と俺は思わず零れそうになる笑みを噛み殺す。これが余人ならば捻くれた照れ隠しと受け取るところだが、心の場合はほぼ間違いなく一言一句に至るまで本気だから面白い。

 ねねにもそれが判ったのか、呆れ混じりの表情で「あ、そうなんだ……」と拍子抜けしたような声を上げた。その様子を見る限り、心の口撃に対して脳内で色々と反撃の準備をしていたのだろう。無駄に豊富な語彙を活かした皮肉やら罵声やらがスタンバイしていたに違いない。何にせよ、名家出身の二名による聞くに堪えない言い争いが始まらなかったのは実に幸運だと言える。

「さて」

 2-Sの面々の相手をしている内に時間を潰せた事だし、そろそろ頃合だろう。風間翔一を中心に集った2-F生徒達の方に視線を向ければ、案の定、ようやく熱狂から収まり、人が散り始めていた所だった。

 俺が無言の内にそちらへ向けて歩を進めると、未だ残っていた生徒達の人垣が割れて、織田信長とその従者の為に一本の道を作る。森谷蘭と明智ねねを引き連れて、俺は風間ファミリーの下へと真っ直ぐに続く道を進んだ。一歩を踏み出す毎に、グラウンドを覆い尽くしていた熱気は静寂の内に引いてゆき、代わりにギャラリーのざわめき声が場を充たしていく。


 ――そして、幾百の目が見守る中、織田信長と風間ファミリーが、再び対峙する。


「……見ての通り、キャップはまだ気絶中でね。もし起きてたら間違いなくアンタと話をしたがってたと思うけど、ちょっと無理みたいだ」

 依然としてグラウンドに大の字で寝転がっている翔一に目を遣りながら、直江大和は思わず、といった調子で苦笑した。つられるようにして、俺も数メートル先の地面へと目を落とす。川神百代による治療の成果は確かだったようで、死人の如く青褪めていた顔色には温かい血の気が戻り、こうして見る限りは呑気に昼寝をしている様にしか思えなかった。

「ふん。俺に一撃を加える為に己が心身の全てを絞り尽くしていた以上、当然の話だ。最低でも数時間は目が醒めまい」

「まあ正直、数時間で目が覚めるってだけでも俺としては朗報だよ。決闘の様子を観てると、永眠しても不思議じゃない勢いだったし」

「ホントにね。決着が付いてから慌てて駆け寄ってみたら、脈も呼吸もすっごく薄いんだもん。アタシの心臓の方が止まるかと思ったわ」

「寧ろ、その程度で済んでいる事こそが異常であるが、な。その男、余程図太い神経の持ち主と見える」

 偽らざる本音である。広域威圧とは云えど、奥義の名は伊達ではない。直撃を受けた以上、心停止の一つくらいは起こしていても何ら不思議ではなかったのだが、まさか普通に気絶だけで済んでしまうとは。事実は小説よりも奇なり、だ。

 さて、前置きはこの辺りにしておこう。この状況、織田信長の語るべき言葉は別にある。

 本当に大事なのは此処からだ。終わり良ければ全て良し。逆を言えば、最後にしくじれば全てを台無しにしかねないのだから。

 演じるは悪のカリスマ。口元に浮かべるは酷薄な笑み。冷然たる眼差しで周囲を圧しながら、俺はおもむろに口を開いた。

「直江大和。風間翔一が不在の今、再び貴様を2-Fの代表と捉える。問題は?」

「無い、な。もともとそういうポジションだったし、皆も認めてくれる筈だ」

「……で、あるならば、貴様に問おう。―――三日に渡る此度の戦。我が陣営の勝利である事に、異論はあるか?2-F」

 俺の発した静かな問いに、周囲の群衆達のざわめきが増した。直江大和は真剣な表情で数秒ほど沈黙した後、躊躇いを振り切るように、首を縦に振った。

「異論は……ない。先鋒戦と大将戦、この二戦で敗北した以上、言い訳をする気はないさ。この勝負は、確かに――俺達の負けだ」

 迷いの無い大和の敗北宣言に、ギャラリーの騒がしさがいよいよ以って増大する。それらを氷の視線で睨み据えて黙らせてから、俺は淡々と言葉を続けた。

「然様。定められた条件の下にて競い、そして今や勝者と敗者は隔たれた。俺の勝利……2-Fの敗北と云う形で、な」

 感情の無い事実確認の言葉と共に、傲然と周囲を見渡す。風間ファミリーの面々は流石に悔しげな表情を揃えていたが、誰一人として無為な反論をする者は居なかった。今後の風評がどうなろうと、形式上、負けは負けだ。その結果が覆る事はない。そして、事実を事実として受け入れられないほど狭量な者は、幸いにしてこの場には不在だった。

 それでいい。そうでなくては、始まらない。

 2-Sと2-F。俺と風間ファミリーの記念すべき“第一回戦”に、今こそ決着を付けるとしよう。

「此度の戦に、俺は確かな勝利を得た。だが……俺の目論見は、未だ成されていない。格の差を確と思い知らせたにも関わらず――己が足元に跪くべき者達は誰一人として膝を折らず、恐怖と絶望に染まるべき瞳は未だ忌々しき希望に満ち溢れている」

 睥睨するのは、自身の前に立ち並ぶ2-Fの生徒達。

 折れない意志の光を以って臆する事無く織田信長を見返す彼らの、何処に惨めな敗者が居ると云うのか。

「斯様な価値無き勝利を、真実の勝利と認める気は無い。故に。貴様らには、機会を呉れてやる」

「……機会?」

「然様。本来なれば2-Fは敗者の身、勝者たる2-Sへの従属を課する心算であったが――気が変わった。此度に限り、俺は2-Fから手を引くとしよう」

 淡々と放たれた俺の宣言は、喜びよりもまずは衝撃をもたらすものだったらしく、風間ファミリーを含む2-Fの誰もが驚きに目を見開いていた。軍師・直江大和も流石にこの展開は予想していなかったのか、動揺を抑え切れない様子で口を開く。

「手を引く……、俺達にとっては願ってもない話だけど、何でまた」

「……理由は、二つ。一つ、俺の求める勝利は、此度の如く生温いものではない。心の深奥に至るまで絶望を刻み込み、叛逆の意志を根こそぎ刈り取る……欠片の希望も見出せぬ絶対的な力量差を万人に示す事こそが、俺にとっての“勝利”の定義。其れを充たせなかった以上、俺は半端な勝利に甘んじる気は無い。そして二つ―――お前達は、面白い。実に、面白い」

「面白い、って」

「初め、俺はお前達に何一つとして期待してはいなかった。雑魚が如何様に群れ集い、足掻いた所で余興にすらならぬと断じた。だが、結果はどうだ?くくっ、想像を遥かに超えて、お前達は俺を愉しませて魅せた。先鋒戦、次鋒戦。果てはこの俺自身に腰を上げさせ、力の一端を振るわせるに到った。……只の有象無象には間違っても成し得ぬ所業よ。そして何より面白いのは――お前達が悉く、未だ発展途上の身という点だ」

「…………」

「直江大和、川神一子、椎名京、風間翔一」

 今回の勝負の主な功労者に次々と視線を移しながら、謳うように言葉を並べる。

「揃って未熟ではあるが――其れは同時に、伸び代に満ちている証左。時を経れば、その資質に磨きが掛かるは必定であろう。なればこそ、お前達には興味がある。何れ力を増せば――単なる障害物に留まらず、俺の糧となる程の“敵”へと到るやも知れぬ、とな」

「つまり、成長させてから美味しく頂こうって事か。……まるで家畜扱いだな」

「けっ、さすがはS組代表、どこまでもエラソーな野郎だぜ。上から目線も大概にしやがれってんだ」

「うぅー、ホンットにムカツクわね!アタシ達を舐めて掛かるのもいい加減にしなさいよ、ノブナガ!」

 傲岸不遜の象徴・織田信長を体現したような言葉の内容に対し、風間ファミリーは敵愾心に満ちた目を以って返答とした。そんな彼らを嘲笑う様に、俺は冷たく口元を歪める。

「くくっ、敗者が吼えた所で、所詮は負け犬の遠吠えよ。……故に、機会を呉れてやると言っている。俺に再び挑み、己が力を示す機会を、な。但し――」

「っ!?」

 傲然と周囲を睥睨し、空間ごと押し潰すような凶悪な殺意を以って威圧する。突如として増大したであろう心身への重圧に、誰もが表情を硬く強張らせた。周囲の群集は一切の会話を止めてシンと静まり返り、ほとんど呼吸すらも控えている。俄かに静寂の訪れたグラウンドの中心で、俺は言葉を紡いだ。

「心しておけ。俺は僅か一日たりとも歩みを止めぬ。一分一秒の過ぎ去る度に、俺は絶えず己を磨いている。並大抵の研鑽では俺の背中を眼に捉える事すら叶わぬと思え。―――次に相争う時こそ、真実の絶望に充ちた決定的な敗北を与えてやろう。その日まで決着は預ける故、ゆめゆめ精進を怠らぬ事だ。……俺を失望させてくれるな。2-F」

 それは、重々しく空気を震撼させる、強大な圧力に充ちた音響。

 常人ならば満足に首を振る事すらも封じられる程の、容赦なく鋭利な冷気を内包した氷の言霊に、しかし彼らが呑まれる事はなかった。予想と違わず、風間ファミリーは誰一人として屈さない。揺るがぬ強固な意志を以って、織田信長を見返す。

「やってやるさ。次こそは、勝たせて貰う。このまま負けっ放しじゃ軍師の名が泣くんでね」

「珍しく大和が燃えてる……だったら私はそんな大和を全力でバックアップするだけ。それがファミリーの為にもなるなら、まさしく一石二鳥だね」

「よっしゃ、上等だぜ!今回は惜しくも出番が無かったけどな、次こそは風間ファミリーのリーサルウェポンこと俺様・島津岳人が大暴れしてやるから覚悟しときやがれ」

「望むところよ!リベンジの機会をもらえるなんて、こんなにありがたい話はないわ。今度こそアタシの本当の力を見せてやるわよ、覚悟しなさいノブナガ!そして何より、ネコ娘ッ!」

 ビシィッ!と指差された先で、ねねは毎度の如くニヤリと腹立たしい笑みを浮かべる。

「無駄無駄無駄無駄ァ、仮に世界が一巡したってキミは私に勝てやしないさ。そしてそれはキミたち風間ファミリーも同じだね――と私は今の内に予言しておくよ」

 芝居がかった大仰な仕草で空へ両腕を広げながら、ねねは無意味に高いテンションで嘯いた。

「そう、次こそ!キミ達は一人残らず、雁首揃えてご主人の前に跪く事になるのさっ!くふふ……、あははは……、にゃーはっはっはっはっ!」

「なんという堂に入った悪役三段笑い……リアルに見たのは初めてかも」

「ああ、椎名さんが呆れた顔をしておられます……!もうねねさん、僭越にも主を差し置いて目立つなどと、従者にあるまじき畏れ多い振る舞いをするからですよ!」

「いや違うでしょ!呆れるところそこじゃないから!」

「ん?貴様は……何者だ?見覚えの無い面が紛れ込んでいるな」

「師岡卓也だよ!風間ファミリーの!確かに今回特に活躍はしなかったけどさ……何も忘れなくても……」

「ホントにね、闘った相手の顔も覚えてないなんて武人失格もいいトコよ!なんてひどいヤツ、そりゃまあユーレイみたいに存在感薄いし影も薄いけど、モロだって毎日頑張って生きてるんだから!」

「フツーにワン子の方が酷いよ!フォローするならもうちょっと僕を気遣ってくれないかな!」

「はっはっは、まあちっとも役に立たなかったモロじゃ忘れられても仕方ねぇな。なーにまたチャンスはあるんだ、次こそは頑張りゃいいだけだろ?そうすりゃ貧弱ボーイのモロでも俺様みたくナイスガイになれるだろうよ」

「え、何その根拠ない上から目線!?ガクトも活躍皆無だったから!全然僕と同レベルだから!あと間違ってもガクトみたいにはなりたくないから!」

 これが伝説に残る秘技・ツッコミ八連か……実に素晴らしいキレだ。神が宿っているとしか思えない。此処にもまた天才が一人居たとはな、本当に世界は広い――などと馬鹿げた方向へ進もうとする思考を頭の片隅に押しやって、俺は瞬く間に弛緩した空気を引き締めるべく周囲を圧する。僅かに気を抜いた瞬間にコメディ空間を作り上げてしまうのは、もはや風間ファミリーの立派な脅威の一つに数えられるのではなかろうか。自重しない我が従者どもが一因を担っている気がしないでもないが、そこは敢えて考えるまい。本気で頭が痛くなりそうだ。

「さて」

 兎にも角にも、どうにか厳粛さを取り戻した空気の中、俺は直江大和に冷徹な視線を向けた。

「2-Fからはひとたび手を引くが、俺が己の覇道を進む事に変わりはない。俺はこれより、お前達を除く全クラス――即ち残る八のクラスを屈服させ、悉く掌握する。2-A、2-B、2-C、2-D、2-E、2-G、2-H、2-I……俺がそれら全ての征服を終える、その瞬間までが、お前達に残された猶予と思うがいい」

「……成程、ね。文字通り、俺達が最後の砦になるかもしれないってワケか」

「然様。お前達の誇りと魂を完膚無きまでに壊滅させ、絶望の内に己の敗北を認めさせた時――俺は初めて覇者となる。くくっ、――その時を、今から愉しみにしているぞ」

 威厳と余裕、そして遊び心を存分に見せ付けるような、悠然たる口調を心掛けて言い放つと、俺は颯爽と背を向ける。

 賽は投げられた。俺の下した決断が正しいか否か、それは誰にも判らない。今のところはまだ、知る由もない事だ。

 何にせよ、後悔はしない。例えどのような結末が待ち受けていようとも、俺の力が不足していただけのこと。常に自身の成せる最善を尽くし、自身を甘やかさない事を心掛けていれば、少なくとも後悔の念に苛まれる事だけは有り得ないのだから。

 
 そんな風に思考を纏めながら、決闘の舞台たるグラウンドを立ち去るべく足を踏み出した、瞬間。





「―――ちょーっと待ったぁー」





 妙に間延びした緊張感の無い声に、俺がピタリと足を止め、観客達がどよめき、背後で蘭とねねが息を呑む。

 
 脳裏に湧き起こるのは強烈な既視感と、猛烈な悪寒。


 凄まじく嫌な予感がする。頭の中で、ガンガンと狂ったように警鐘を鳴らしている。


「ふふ、楽しそうだなぁ、お前ら。だけどさぁ、さっきから誰かのコトを忘れてるんじゃないか?私一人を仲間ハズレにしようだなんて、本当にいーい度胸じゃあないか。私は生まれつき、誰かに無視されるのが大っ嫌いなんだよ……って事はだ、これはもう喧嘩を売られてると思ってもイイ筈だよなぁ」


 ああ、確かに無視したとも。翔一の傍に座り込んで一言たりとも言葉を発しようとしない不自然さも、餓えた猛獣としか思えないギラついた双眸が放つ強烈な熱視線も、闘気と云う形を取って全身から立ち昇る凶暴な戦闘衝動も。

 どれ一つとして、欠片も関わり合いになりたくない要素の塊だったからな。


「お前と2-Fの決着に関しては分かった。よーく分かった。だからさ――――」


 背後から響く声音は奇妙に明るく弾んでいて、俺の精神を不気味に戦慄させる。


 …………。


 終わり良ければ全て良し。ならば、終わりが最悪の災厄で彩られている場合、果たして“全て”はどうなってしまうのか。


 その回答は残念ながら、そう遠くない未来にて、無慈悲に弾き出されてしまいそうだった。



「次は勿論、“私”との愉しい闘いの番だよな?なぁ―――ノブナガぁッ!!」



















 

 主人公がエクストラステージに突入したようです。当然ながらコンテニュー不可。
 という訳でこれにて風間ファミリー編は終了。そして最強生物・MOMOYO編がスタートするとかしないとか。
 わざわざ感想を下さった皆様に心からの感謝を捧げつつ、それでは次回の更新で。



[13860] 夢幻フィナーレ
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:3c988b27
Date: 2011/08/28 23:23
 

―――私にとって、最強で在る事はあまりにも容易かった。



 思い返してみれば、この世に生まれ落ちたその瞬間から、世界最強の座は約束されていたようなものだった。敏捷性・瞬発力・筋力・柔軟性・持久力・動体視力・平衡感覚・反射神経、そして何よりも身に宿した“氣”の総量……全てが絶対的に圧倒的。現代の武神と謳われる最強の武人、川神鉄心の血は、才は、両親を介して余すところ無く私に受け継がれていた。鍛錬に汗を流すまでもなく、私の力は成長と共に膨れ上がっていった。

 勿論、だからと言って殊更に修行を怠ったつもりはない。武道の総本山・川神院の次世代を担う娘の務めとして、幼い頃から兄弟子達に混じり、厳しい鍛錬の中で毎日を過ごしてきた。同年代の子供達とは比較にならない修練を積んできた自負は、確かにある。しかし……それでも私は、幼心に疑問に思ったものだ。自分の隣で必死の鍛錬に励んでいる三十路の兄弟子の姿を眺めながら、『この人はもうここで何年修行を続けているんだろう?』『どうしてこんなに必死に頑張っているのに』『毎日毎日、私よりも早く起きて、私よりも遅くまで修行してるのに』『この人はどうして――私よりも、弱いんだろう』、と。

 そんな疑問に対する答を何となく理解できたのは、小学校への入学を控えた年齢の時だ。その頃になると、兄弟子達の中で私と満足に組み手が出来る人は一人も居なくなっていた。氣の殆どを抑えて、散々手加減して、それでようやく勝負が成立するかしないか、と言ったところだ。自分の両親ですらも、本気で闘えば打ち負かす事は十分に可能だった。武道家として数十年のキャリアを持つベテランを相手に、両手の指で数えられるような年齢の幼児が、勝ってしまう。それは、決して彼らが弱い訳ではなく――自分が強過ぎるが故に生じてしまった異常なのだと、やっと私は悟った。

 しかし当時、そんな私よりも更に上の力量を有する武道家が身近に居た事は幸いだった。全力を遠慮なくぶつけられる相手が不在だったなら、幼い私は力の捌け口を見失っていただろう。総代のジジイにルー師範代、今は川神院を破門された元師範代の釈迦堂さん。彼らと繰り広げる闘いは、いつも血沸き肉踊る、これ以上無く楽しいモノだった。本物の強者との力を尽くした闘いは何よりも私を充実させてくれた。何度地面に叩き伏せられても気にならないくらい、楽しくて楽しくて仕方が無かった。どんな遊びも決して与えてくれない、心の奥底まで染み渡るような満足感。私は他の何事よりも深く、武の道にのめり込んでいった。ジジイも両親も私が武に深い興味を示した事を喜んだ。自分の後を継いでくれる者が早くも半ば定まったとなれば当然の話だろう。

――何かが狂い始めたのは、今から十年ほど前の事だっただろうか。

 川神院での鍛錬を通じて私の武才は見事に開花し、その実力は既に師範代クラスに達しているとすら噂される程のものになっていた。実際、私の指導を担当していた釈迦堂さんも、苦笑混じりに噂を肯定するような発言を零していたような気がする。周囲の評価がどうであれそんなことは関係ない、楽しい闘いが出来ればそれでいい――私はそう思っていたし、釈迦堂さんも同意してくれた。

 釈迦堂さんは私に似ていた、と思う。他の何よりも愉しい闘いを優先する武人としての在り方は、私にとって強い共感を誘うものだった。その頃から、私はジジイやルー師範代を始めとする川神院の武道家達の教えに反感を抱き始めていた。

『闘争こそが武人の本懐ならば、体得した武を揮うことを愉しんで何が悪いのか』

 武道に精神性を重視する傾向のある川神院の面々は、積極的な闘いを肯定する私の思想を危ぶみ、何かにつけて厳しく咎めてきたが、釈迦堂さんだけは違った。彼は私の考え方に同調してくれたし、私の闘争への想いを理解してくれた。院の掟で基本的には禁じられている、互いに本気の真剣勝負を私が望んだ時も、快く対戦相手を引き受けてくれた。院の中で思想的に孤立していた私が、鬱屈した悩みを相談できるのは釈迦堂さんだけだった。紛れもなく彼は私と同類だった――いや、ある意味では私以上に闘いを求めていたのかもしれない。

 その釈迦堂さんが、ある日、破門された。師範代の地位を剥奪され、院を追放された。

 理由は――武道家としての精神性の欠如。礼を重んじ、清廉な武を掲げる川神院には、彼の抱く過激な思想は相応しくないと判断されたのだ。当人はさほどショックを受けた様子もなく、普段同様の飄々とした調子で去って行ったが、それは当時の私にとっては相当に衝撃的な事件だった。何処かへと消えてゆく釈迦堂さんの背中を見送る皆の冷たい視線が、いずれは自分に向けられるのではないか、と思い悩んだのを覚えている。

 だが、釈迦堂さんが川神院を去った事で新たに生じた問題は、そんな悩みをも容易く押し潰してしまうものだった。その問題とはすなわち、“敵”の不在、だ。全力を発揮して死闘を演じられる好敵手が、気付けば私の周囲には誰一人として居なかった。数多くいる兄弟子達はとうの昔に相手にもならなくなっていた。師範代候補と目されるトップクラスの武道家ですらも例外ではない。まず間違いなく愉しく闘えるであろうジジイもルー師範代も、釈迦堂さんのように真剣勝負の申し込みを受けてはくれなかった。戦いたい、戦いたい闘いたい戦いたい――私の内に根ざした欲求は日に日に勢力を増して、甘美な闘争を求める焼け付くような想いが絶えず理性を焦がした。見かねたジジイが世界的に強者とされる武人達との戦いを幾度もセットアップしてくれたが、しかし残念な事に彼らは悉く、期待ハズレだった。私の全力を受け止めるには、あまりにも脆弱。大抵の相手は、奥義を放つまでもなく初撃で決着が付いてしまう。まるで、充たされない。時には揚羽さん……武道四天王が一人・九鬼揚羽のように、私の求める水準に達した実力の持ち主と出逢う事もあったが、そんな事はごく稀だ。その揚羽さんも高校卒業と同時に九鬼財閥の一員として本格的に活動を始め、武道からは遠ざかってしまっている。それに、私の知る中で最も優れた能力を有する武人の一人である彼女ですらも――正直に言えば、純粋な戦闘能力のレベルは私よりも数段劣る。私が川神流のあらゆる奥義を出し惜しまず、全力中の全力で戦えば、恐らく沈めるに数分と要さないだろう。それは思い上がりでも何でもなく、頂点に立つ武人としての極めて客観的な判断だった。

 加えて、私の武人としての成長は未だに終わってはいない。これから先もその力は伸び続けて、やがては誰の手も届かない領域に辿り着くのだろう。或いはジジイも揚羽さんもルー師範代も釈迦堂さんも、私の闘争本能を満足させられなくなってしまう程に。誰にも脅かされる事のない、唯一絶対の、天下無双の座。それを得る事は武人としてはこれ以上ない程の喜びである筈なのに――私は、酷く虚しい気分だった。

 孤高の王者は、居なくなった敵の代わりに今度は孤独と闘わなければならない。絶対的強者であるが故の、絶対的な孤独。そうなった時、私は自分の内に蠢くこの衝動を、一体どうすれば良いのだろうか。こんなにも狂おしく、闘いを求めていると云うのに。

 そうした将来への漠然とした不安が、常に私の脳裏に巣食っていた。溜まったストレスを闘争で解消しようとしても、全力を発揮するに相応しい相手は一向に現れない。世界のトップレベルと称される武人達が私の何でもない一撃であっさりと倒れ伏す姿を見る度に、却って胸中のモヤモヤは募っていくばかりだった。“世界のトップレベル”の実力が本当にこの程度だと云うのならば……もはや“これ以上”は無いのか、と。私は既に強くなり過ぎていて、真に好敵手と呼ぶべき者などこの世の何処にも存在し得ないのか、と。そこに思考が至る度に、私は腹立たしさと憂鬱の入り混じった暗澹たる気分に襲われた。風間ファミリーの仲間達と気侭に遊んでいる時間だけは自分のサガを忘れられたが、最近ではそれでもいまいち気が紛れなくなってきている。仲間と一緒にバカ騒ぎしている時も、気付けば頭の隅で闘いの事を考えている自分がいた。

 そんな悩みを抱えたまま川神学園にて三度目の春を迎えた時――私は、“見つけた”。

 一学年下の2-Sに転入してきた二人組。両者共に私の食指を動かすに十分だったが――特にその片割れは、極上の獲物と言うべき美臭で忽ち私を魅了した。胸中に積もり積もっていた幾多のフラストレーションなど、一気に吹き飛んでしまった。

 織田信長――それが男の名前。一見しただけで、私はその異常性を正しく認識させられた。全身より絶えず溢れ出ている凶悪な殺気は、釈迦堂さんの纏う気配と同質で、そして釈迦堂さん以上に凄まじい圧力を感じさせるものだった。間違いなく世界屈指の武人であり、川神院の師範代を務めた男をも凌駕する、桁外れにして常識外れの威圧感。なまじ比較対象が身近に居ただけに、その存在の滅茶苦茶さは痛いほどに感じ取る事が出来た。身体の芯がビリビリと痺れるような感覚に、私は武者震いを抑えられなかった。

 これは、強い。強い、などという表現だけでは到底形容し切れないほどに、強い。

 或いは最強の私と同じ舞台で競えるかもしれないほどに――強い!

 ようやく出逢えた好敵手の存在に、私は歓喜した。未だ実力の片鱗すら見せない、全てが謎に包まれた未知の達人との闘いを想像し、脳裏に描くだけで、私は堪らない充足感を覚えた。だが、すぐに充足感は更なる渇きへと形を変えて、私を苛む飢餓感は瞬く間に耐え難い強さへと達する。故に、気紛れで観戦に立ち寄った決闘にてその姿を捉えた後、私がすぐさま仕合を申し入れたのは当然だった。

『俺は、貴様のような半端者と死合うつもりなど、毛頭ない』

 しかし――結果は、拒絶。“精神の未熟さ”が、信長の告げた理由だった。

 それは川神院の皆に口を酸くして言われてきた小言や説教と、ニュアンスとしてはほとんど同じもので、普段の私ならば鬱陶しく思いながら適当に聞き流しているような類のものだった。しかし、いかにも清廉潔白な武人である川神院の面々に言われるならばともかく、傍目にも邪悪な闇の気配を、釈迦堂さんよりも禍々しい殺気を身に纏う男の口から告げられたそんな言葉は、私に少なからず衝撃を与えた。こういう種類の武人からも指摘を受ける程に、私は人間として不安定なのだろうか――そういった戸惑いが胸中に生じたからこそ、私は渋々ながらも信長の言葉に従って、決戦の日を先延ばしにする事にした。少しの間は闘いを我慢して、自分の内面を見詰め直してみるべきなのだと、そう思った。

 だが、生れ持ったサガとはそう容易く抑えきれるような生易しいモノではない。時を経れば経るほど、私の内に蠢く戦闘衝動は勢力を増した。悶々としている内に風間ファミリーと信長の一党が事を構える事となり、ワン子や京が強敵との闘いに身を投じる様子を観ていると、欲求不満の度合いは高まっていく。そして、大将戦にて繰り広げられた一騎討ちにて信長の発した規格外の殺気を目にした瞬間……自制という言葉が消し飛んだ。我慢という二文字が、酷く陳腐で詰まらないものに思えた。ビリビリと肌を突き刺す強烈な殺意を全身に感じながら、私は求め続けてきた死闘の予感に、哄笑を抑えられなくなった。

 そうだ。ファミリーの皆がこんなにも愉しんでいるのに――どうして私だけが仲間ハズレにされて耐え忍ばなければいけないんだ。誰よりも強く、誰より闘いを望んでいる、この私が。そんなのは、不公平だ。理不尽で、在ってはならない事だ。

 いや、そんな事はどうでもいい。もう何もかも、どうでもいい。

 私は……闘いたい。ただ、闘いたいだけなんだ。

 小難しい理屈なんて要らない。胸を焦がすこの想いがあれば、それだけで充分だ。

 だから―――










「次は勿論、“私”との愉しい闘いの番だよな?なぁ―――ノブナガぁッ!!」


 沸き立つような興奮と歓喜に彩られた叫びが、耳の中を反響する。

 
 川神百代―――“川神”の血脈が現代に産み落とした、歴代最強と謳われる武の申し子。


 未だ成人すら迎えない齢であるにも関わらず、既に天下無双の栄誉を欲しい侭にしている武神の名を、知らぬ者などほとんど居ない筈だ。少なくとも何らかの形で武の道に関わった者であれば、間違いなく誰もがその名を強く胸中に刻み込んでいる。いずれ到達すべき目標として、憧憬と共に。或いはいずれ打倒すべき標的として、野心と共に。他ならぬ俺自身もまた、その中の一人だった。

 だがしかし、俺に言わせてみれば……川神百代の保有する怪物じみた力を真に理解している者など世界でもほんの一握りの人間に限られるだろう。“世界最強”という肩書きこそ広く天下に知れ渡っているものの、その言葉が指し示す意味を正しく解釈出来ている者が果たしてどれだけいる事やら。

 所詮、百聞は一見に如かず、である。川神市には世界中より数多の武芸者が訪れ、世界最強の名誉を欲して彼女に闘いを挑み、そして自信と誇りを木っ端微塵に砕かれて悄然と去ってゆく。彼らの大多数はその時になって初めて気付くのだ。川神百代と云う存在を形容するに、言葉など何の意味も持たないのだ、と。実際に対峙し、その暴威に晒された者でなければ、決して彼女の力は判らない。否――例え拳を交えたところで、真に彼女を推し量る事が出来るのは、武の頂点に限りなく近しい屈指の武人のみ。

 それほどまでに、圧倒的。川神百代の力量は、他の人類とは決定的に隔絶した処に位置している。

 俺がその事実を多くの者よりも比較的正確に把握することが出来ていたのは、元・師匠の存在に拠るものが大きかった。かつての川神院師範代、釈迦堂刑部――未だ世界の広さを知らない昔日の織田信長にとって、あの男はまさしく最強の象徴だった。噂伝いに耳にする川神百代の非常識な武勇伝の数々などよりも、自分の眼前で確固たる現実として繰り広げられる凶獣の暴力こそを当時の俺は畏れ敬い、そして大いに憧れたものだ。だからこそ、そんな釈迦堂が修行の合間に零した何気ない台詞は、今でも俺の脳裏に鮮明な形で焼き付いている。

『百代かぁ?あー、アイツはな、俺が破門された時ですら十分アレだったからなぁ。今となっちゃあ間違いなく俺の数倍は強ぇだろうよ、うん。ま、お互い本気で闘り合ったら、ぶっちゃけ何分立ってられるかも分からねぇわ』

 当時の俺にとって、釈迦堂の語る言葉の内容は酷く衝撃的なものだった。自分では仰ぎ見る事すらも叶わない、究極の武と云うべき境地に立っている師匠をして、勝算が無いとまで言わしめる存在。それも川神院総代の鉄心ではなく、自身とほぼ同年代の少女が――?いまいち信じ切れず、半信半疑の内に修行を続けていた俺に、それが紛れもない事実だと教えてくれたのは、板垣辰子の存在だった。彼女の披露する桁外れの武才を目にした時、俺は自身の非才に絶望すると同時に、悟ったのだ。この世界には、凡人の常識如きでは括れない“本物の怪物”と云うモノが確実に存在するのだ、と。

 故に、川神学園への転入に際して、俺が川神百代を最大警戒対象として認識していたのは当然の話であった。何せ――どう足掻いても勝ち目が無い。現時点の織田信長が有する力では、戦闘という領分において彼女を打倒する方法など皆無だ。武力担当の“手足”である蘭をどれほど有効に用いたとしても結果は変わらない。普段ならば如何なる難敵が相手であれ、『信長さまが一の臣の誇りに賭けて、必ずや討ち果たしてご覧に入れます』と一歩も退かない心構えを見せる蘭も、川神百代を一目見た瞬間、たとえ天地が引っ繰り返っても彼女には勝てないでしょう、と早々に諦めていたものだ。戦う前から然様に腰を引くなど武人にあるまじき怯懦ではないか、とそんな風に蘭を責める者がいるなら、それはただ単に川神百代という存在の規格外さを理解していない愚者の証明に他ならない。言うまでもなく勇気と無謀は似て非なるもの、である。

 さて、純粋な戦闘能力に於いては当然ながら話にならず、ならば俺の最大の武器である“威圧”はどうかと言うと……これもまた、全くと言っていい程に通用しない事が既に判明している。九鬼英雄との決闘後に対峙した際、会話と併行して殺気を浴びせる事で実験を行った結果、精神・肉体の両側面からの拘束は、悉くが撥ね退けられて無効化されるという絶望的なデータが入手できてしまった。己が最強である事を自覚している故に心の内に恐怖は無く、その精神に付け入る隙は無い。そして内気功の練度も風間翔一の比ではない故に、肉体を縛る事は実質的に不可能――となれば、通用しないのも当然の話だ。とにかくそういう訳で、今の俺が殺気によって川神百代の身動きを封じる事は実現性が限りなく薄いと言える。

 では、“回避”はどうだろうか。俺が他者に誇れる数少ない戦闘技能の一つ、地獄の特訓で鍛え上げた自慢の回避能力を最大限に駆使すれば、勝てはせずとも負けることは無いのではないか?……そんな風に考えていた時期が、俺にもあった。結論から言えば、論外だ。

 俺の回避技能を構成している各種パーツの中でも最大のものとして、“情報収集”がある。対戦相手の戦闘スタイル・持ち技・思考・性格・癖などのデータを事前に収集し、頭の中に叩き込んで入念に分析する事で、戦闘時における相手の動きを徹底的に計算し、綿密に予測する。それが俺の回避の大前提だ。無論、川神百代は最優先で対策を講じるべき存在であるからして、当然の如く過去の戦闘データは可能な限り集めてある。それらを分析すれば、例えば彼女は『右ストレートで初撃を放つ』という癖、或いは拘りを持っている事が判るのだが――しかしそんな情報が僅かたりとも役に立たない事は、一度彼女と対峙した時点ではっきりと分かってしまった。攻撃が事前に読めたところで、何の意味も無い。何故なら、“例え判っていても避けられない”からだ。目で追う事すら不可能な瞬速の打撃――そんなモノを避けられるほど、俺の反射神経やら動体視力やら身体能力やらは神懸かってはいない。残念ながら、そういう理屈を超越した力業は氣をフル活用する人外の領分だ。氣による身体能力強化を用いず、あくまで突き詰めた“理”による回避を旨とする俺には、容易く音速を突破する彼女の一撃から逃れる術は無い。

 これまでに挙げた要素を考慮に入れた上で、改めて結論を出すとしよう。

―――織田信長は、川神百代に、勝てない。

 それは、水が高きより低きに流れると同様、決して覆せない現実だった。

 こと戦闘という領分に於いては、百代は正しく天下無双と言うべき力を発揮する。知力や観察力といった、俺の保有するあらゆる種類の力を余さず注ぎ込んだ所で、彼女の理不尽に圧倒的な戦闘力の前には全てが無力だろう。いかに頭脳を全力回転させて小賢しい策謀を巡らせても、問答無用の力押しで粉々に打ち砕かれてしまうに違いない。

 彼女と最初に相対した瞬間から理解していた――コレとは戦ってはいけない、と。

 だが、そんな俺の切実な事情は相手にとっては何ら無関係で、だからこそ、現状の如き忌むべきシチュエーションが完成してしまった訳だ。

 わざわざ姿をこの眼で確認するまでもなく、背後から伝わってくるのは総身に怖気を走らせる凶悪な闘気。このまま無視して真っ直ぐ歩き去っていけたなら俺はどれだけ幸せだろうか、と往生際の悪い思考を虚しく巡らせながら、俺は内心の動揺を漏らさない様に細心の注意を払いつつ、振り返った。

「…………」

 一瞬で振り返った事を後悔した。

 川神百代は、これまで遭遇した中では間違いなく最悪に危険な状態だった。餓えた獣を思わせるギラついた双眸は普段同様だが、今回はその度合いが突き抜けている。貪欲に光る紅の目と、全身から禍々しいオーラと変じて滲み出る戦闘衝動。長らくお預けを食らって限界まで腹を空かせた所に血の滴る高級肉を放り込まれた猛獣、そんな表現が相応しい。人間として、武人としての理性が彼女の欲望にブレーキを掛けてくれていなかったら、言葉を交わす間もなく問答無用で襲い掛かられていたに違いない。何とも、ぞっとしない話だ。

 世界最強の暴威を前にして萎縮しそうな心胆を鼓舞すべく、俺は敢えて不敵に口元を歪めた。

 そう、限界ギリギリとは云えど、まだ言葉は通じる。獲物を眼前に興奮し、荒ぶってはいるが、それでも相手は欲望に忠実な獣ではなく、一個の理性ある人間だ。会話の成立する余地は、ある。

 ならば……絶望するのはまだ早い。戦闘に持ち込まれれば希望が皆無だと言うのなら、戦闘というステージそのものを回避してしまえばいいのだから。川神学園への転入を決心し、川神百代と向き合う事を決意した際、収集したのは何も戦闘に関わるデータだけではない。人格・思想・経歴・嗜好に至るまで、そのパーソナリティは力の及ぶ限界まで調査を終えている。それは、まさに“こういう状況”に備えてのものだ。取り違えてはならない――あくまで俺の本分は威圧によるハッタリと、小賢しい口先を活かした話術なのだ。戦闘能力など所詮、織田信長の保有する中では最も劣る“力”の一種に過ぎない。

 攻撃を避けさえすれば負けない、と云うのは真理だろう。しかし、更に突き詰めて云えば――戦闘自体を避けさえすれば、負ける事など有り得ない。それこそが考え得る最上の護身であり、力無き俺の理想とする在り方だ。

 相手が誰であれ、例え天下無双の武神であれ、必ず乗り越えてみせよう。あの日掲げた夢を叶えるため、あの日交わした約束を果たすために――己の全身全霊を賭けて終点まで駆け抜ける。そう誓ったのだから。

 唇の内側を軽く舐めて湿らせる。

 爛々と輝く真紅の瞳を堂々と見返す。

 そして、俺は余裕綽々の態度を以って、悠然と口を開いた。








「ふん。先より処を弁えず獣の気配を漂わせているかと思えば……己を律する心神すら失ったか、川神百代」

 その声音は、あくまで傲岸且つ不敵。私を真正面から射抜く眼差しは氷海の様に冷たく、漆黒の双眸は感情の揺らぎを欠片も思わせない。

 それは、あまりにも“普段通り”の姿だった。現在と同じように、このグラウンドで最初に対峙した時からそうだ。川神百代という、紛れもない世界最強の闘士が発する闘氣を目の前にしても、織田信長は何一つとして揺るがない。私の存在などまるで眼中に無いのだと云わんばかりのその醒めた態度は、私が人生の中で初めて出逢う種類のものだった。己の実力にどれほどの自負を抱いていれば、あのような目が出来るのだろうか。僅かな畏れもなく、恐れもない――何とも生意気で腹立たしいのは確かだが、それ以上に、嬉しい。

 その類を見ない傲岸さと尊大さは全て、来るべき闘いの愉しさを証明しているのだから。

 自然と口元が綻び、高揚した気分のままに弧を描く。

「ははっ!相変わらず先輩への口の利き方がなってないヤツだな。そんな風にナマ言ってばかりなものだから、私は今猛烈に、お前をイジめたくてイジめたくて仕方ないんだ」

「下らん。俺は世の誰一人として敬う気は無い――そも、たかだか己より一年早く生れた、然様な理由で敬意を払わねばならぬなど、馬鹿げた考え方があったものだ。よもや人の価値を定めるのが、重ねた齢の数だとでも?実に、愚か。哂う価値すら見出せぬ程、下らぬ話よ」

「あー、まあその意見には割と同意するが、リアルに実行したらタダの社会不適合者だろソレ。……っていうかさ、そんな事はどーだっていいんだ別に。大事なのは、私が今、お前と闘いたいという、そのシンプルな事実だけなんだよ。なぁ、分かるだろ?分かるよな?」

「ふん。然様、か」

 野性の猛獣でも尻尾を巻いて逃げ出すような、強烈な威圧感を込めた台詞に対しても信長の冷徹な無表情は全く崩れない。何を考えているのかまるで判らない能面のような顔が、淡々とこちらを見返している。その様子を見ていると、私は自分が血の通った人間ではなく、機械仕掛けの人形か何かと対峙しているような錯覚に襲われた。この男――本当に、心というものが在るのだろうか。正真正銘のロボットであるクッキーですら、あれだけ感情豊かに見えると言うのに。

「貴様は。俺との闘いを、望むと?」

 やけにゆっくりとした口調で、信長は復唱した。

「あぁそうだとも。くどいぞお前、さっきから何度もそう言ってるだろうが」

「……其れが心からの言葉だとするならば、貴様は随分と記憶能力に難がある様だな。未だ二週間と経たぬにも関わらず、忘れたか?俺は貴様と死合う気は毛頭無いと、そう言い渡した筈だが」

「そうだったな。さすがに私だってそれくらいは覚えてる」

「最終的に貴様もまた合意したと記憶しているが、な。自身が“完成”に至るまで、俺と拳を交わす事は無い――と」

「あぁ覚えてる覚えてる。確かにそんなコト言ったなぁ。……で、それがどうしたんだ?」

「交わした約を違える心算か?紡いだ言は偽りであったと?――で、あるならば、武神の名が泣こうと云うものだな、川神百代」

「……武神の名、か」

 無機質ながらも何処か弾劾するような響きを帯びた信長の言葉に、私は思わず自虐的な笑みを漏らした。あまりにも突き抜けて最強だった私を、世間がそのように呼び始めたのは何時だったか。別に、望んで呼ばれる様になった訳ではない。自分の好きなように気侭に生きていたら、いつの間にか勝手に“そんな風になっていた”だけだ。何かしらの高尚な努力や高潔な偉業を成し遂げたからじゃない――ただ偶々、私はこの世界の誰よりも恵まれた武才を持ち、誰よりも恵まれた環境の中でそれを磨く機会を得た、それだけの話。

 だから、武神なんて大層な肩書きは、私にとってはそう重要なものじゃない。私が本当に欲して止まないモノは世間からの賞賛なんかじゃない。私の望みはいつだって只一つ。強者との死闘が与えてくれる、あの得も言われぬ充足感だけだ。

「どうだっていい。ああそうさ、どうだっていいんだよそんなコトは。私がその名に相応しくないなら、幾らでも返上してやるさ。今ここでお前と闘えるなら、何て呼ばれようが知ったことじゃない。だから、戦え。勝負しろ。私を、満足させてくれ」

「…………」

 懇願にも近い声に対する返答は、無言、だった。非難でも罵倒でも拒絶でもなく、沈黙。

 信長は何一つとして声を発さず、そして表情を動かす事もない。ただ、私をじっと見据える視線は、更に冷気を増している様に思えた。

「……何も」

「ん?」

「何も判っていないのだな、貴様は。俺が何故、貴様との死合を拒んだか。まるで、理解が及んでいないと見える」

 淡々と紡がれる平坦な声音は、しかしかつてない失望と侮蔑の念を孕んでいるように聴こえて、私は思わず言葉を荒げていた。

「私が何を理解してないんだ――お前が私と戦いたくないのは、怖気付いたからだろうが!私の精神が未熟だの何だのと上から目線でゴチャゴチャ言ってくれたが、結局は自分が怪我をするのが嫌なだけなんだろ?あぁそれも当然だ、本気の私と闘って無事で済む訳がないからなぁ!」

「……」

 またしても、無言。眉一つ動かす事もなく、反論の為に口を開こうとする気配すらない。

 耳に入る罵倒の一切を気に留めていない泰然たる態度を前に、私は、あたかも見下されているかのような不快な気分に陥った。かぁっ、と頭に血が昇っていくのを、自分では止められなかった。煮え滾る激情が闘争本能を煽り立てて、眼前の男を叩き潰せと激しく訴え掛けてくる。煩わしい問答など無用、ただ己の欲望に身を委ねろと、甘く囁き掛けてくる。

 最後に残されたリミッター、理性の枷が弾け飛ぶのはもはや時間の問題と思われた、その時――信長が、静かに口を開いた。

「否定は、しない」

「……何?」

「俺が川神百代との死合を厭う理由。些か的を外してはいるが。見当違いでは、ない」

 言葉の意味を解するに、数秒の時を要した。

 そして、冷水を浴びせ掛けられたかの如く、一度は平静を取り戻した頭が、再び湧き起こった激情に支配されるまで、更に数秒。

 否定はしない、だと?それはつまり、お前は本当の本当に――傷を負う事を恐れて、闘争を避けようとしていると。只の挑発で口にしただけの言葉如きが、お前の真実だったと。そういう事なのか?

「……。……ふざけるな……」

 辛うじて搾り出した声音は、押し込められた怒りで震えていた。

「お前、お前はそれでも、武人か?それほどまでに突き抜けた力を持ちながら、保身なんてちっぽけな、下らない理由で……!武人の真剣な闘いの申し入れを、私のたった一つの願いを、足蹴にするのかお前はッ!」

 それは、侮辱だ。

 私への、ではない。もはやそのような領域の話ではない――織田信長の吐いた台詞は、闘いと、それを生業とする全ての戦士に対する限りない侮辱に他ならない。凡百の者が如何に努力を積んでも得られない程の“力”を有する者が、そんな理由にもならない理由で闘いを放棄しようなどと考える事自体が、決して許されざる罪だ。

 世界の大多数を占める才無き者達が夢見て、必死で己を磨いて、それでも指先すらも届かない高みに平然と立っているお前のような人間が――力を揮わない理由が、ただの我が身可愛さだと?力を隠し、平穏に生きる事を望むならばまだしも……常日頃から己が力を誇示し、弱者を脅かす事を躊躇わないお前が、強者として果たすべき義務すらも放棄しようと云うのか?

 ふざけるな。

 それは、誇り高き武人の在り方じゃない。私が闘いを望んで止まなかったのは、そんなつまらない外道じゃない。

 虚しさと怒りが綯交ぜになった遣る瀬無い感情が溢れ出す。先程までの高揚感は嘘の様に掻き消えて、代わりに憎悪にも似た想いが胸を満たしていた。質を変えた激情に任せて、私は眼前の男を睨み付けた。

「くく。“下らない理由”……成程、其れが貴様の感想か。世界最強の武神は、然様な了見である、か」

「っ!?」

 向けられた烈火の眼光に対し――信長が浮かべたのは、氷刃の哂い。自身の周囲を覆う空気が、急激に冷え込んでいくのを感じた。絶対零度の視線に射抜かれて、背筋に抑え難い悪寒が走る。

 これは、違う。信長が常に身に纏っている純粋な殺意とは、絶対的に性質を異にしている。様々な感情と想念が複雑に絡まり合った、粘つくようなおぞましさを内包したコレは、単なる殺気よりも遥かに混沌としたナニカだ。織田信長という男に抱いていた冷徹で無機質なイメージからは程遠い、人間味に溢れた想いの奔流に呑み込まれて、私は思わず言葉を失っていた。

「貴様に武人失格の烙印を押された所で、俺の価値が揺らぐ事など有り得ぬが……さりとて、殊更に誤解の種を撒く必要もなし。そして何より、気に入らんな」

「……何を言ってる?」

「だが……、ふん、面倒だな。実に面倒極まりない――言葉を以って伝える手間も時間も惜しい。やはり百聞は一見に如かず、か。で、あるならば……致し方あるまい」

 異様な気迫と、意味の判然としない呟き。怒りよりも戸惑いが先行して、私は身動きが取れなかった。

 信長は何事かの結論を出したと思いきや、おもむろに自らの制服へと手を掛けた。そのまま学園指定の白のブレザーを脱ぎ捨てると、それが地面の土に塗れて汚れるよりも先に、背後に控えていた従者が両手を伸ばして恭しく受け止める。

 突然の行動に呆気に取られている私を意に介さず、信長は次いでカッターシャツのボタンを手際良く外し、


――制止する暇もなく、一気に開け広げた。


「なっ……!?」

 
 言葉にならない驚愕の声が漏れたのは、しかし、その突飛な行為そのものが原因ではなかった。

 信長はシャツの下には特に何も着込んでいなかった様で、つまり今現在私の眼に映っているのは、言うまでもなく裸の上半身という事になる。唐突に異性の裸体を見せ付けられれば、驚き慌てるのは当然――などという、年頃の女子らしい浮付いた理由が原因でもない。

 私に言葉を失わせ、ファミリーの皆の顔色を青褪めさせ、ギャラリーに恐怖の悲鳴を上げさせたものは―――“傷”、だった。

 傷。正しくは、傷跡、だ。

 上半身の露出した肌を、縦横無尽に走る無数の傷跡。それも……単一の種類のものではない。切創、裂創、挫創、刺創。大小複数の傷跡が絡まり合い縺れ合い、元となった負傷の原型が判別出来なくなるまでに一体化している。傷、傷、傷傷傷。数える事も放棄したくなるような、途方も無い数の傷。その凄惨な様相を一度でも目にすれば、所詮は既に癒えた傷だ、などと呑気な事は決して言えないだろう。皮膚に刻み込まれた傷跡はあまりにも生々しく、グロテスクですらあった。酷いというより、惨い。そんなモノが―――顔面を除く上半身全体を、隈なく埋め尽くしている。腹も、胸も、背中も、腕に至るまで、露出している身体のパーツの中で完全に無事な部分は一箇所たりとも存在していない。もはや過去に塞がり終えて、流血も見当たらないというのに、それでも、直視に堪え得るものではなかった。

 絶句するのが、当然。恐怖するのも、当然。

 ……何だ。何だ、コレは。

 こんな人体を、私は知らない。こんなイカれた身体は、有り得ない。

 これだけの傷を負って尚、“生き延びている”人間など――居る筈がないだろう。

 一目見れば、分かる。それ単体で十分、致命傷に値するであろうクラスの負傷が、幾つも。幾つも幾つも幾つも、肉体に痛々しい爪痕を残している。例え同時期に負った傷では無いにせよ……いや、だからこそ、異常だ。それは、刻まれた傷の数と同じ回数だけ、死を垣間見ているという事実の証明なのだから。

 一体、どのような人生を送れば、こんなものが完成すると云うのだ。仮に死と隣り合わせの戦場で生まれ育っても、こうはならないだろう。“こうなった”時点で、命を落としているのが普通だ。平然と生き延びて、悠然と立っていられる筈が無い。生命として、歪だ。

 ならば――私の眼前に居る男は。本当に、人間なのか?

「……醜い。そう、思うだろう?」

 信長は、表情を変えないままに、淡々と呟いた。

 その問い掛けが誰に対するものであったとしても、回答は雄弁だった。錯綜する悲鳴と、忌避の視線。武家に生まれ育ち、闘争の中に身を置いてきた私ですら、内より湧き出ずる生理的嫌悪感を抑え切る事が出来なかった。理屈ではなく、本能が、ソレを拒絶していた。

「くくっ。全く以って、その感覚は正しい。否、と答える者が在れば、其奴は異常者か、或いは大嘘吐きの何れかに過ぎん。他ならぬ俺自身、この傷跡を美しいなどと勘違いした事は一度も無い。正視に堪えぬ、おぞましく不快極まる紋様よ」

「……」

「だが――これらは全て、俺の誇りでもある。万人が吐き気を催さずにはいられぬ程に醜悪。だからこそ、自らが征した絶望の深さを実感する事が出来る。身体に残る傷跡の一条一条は、即ち俺が克服した“弱さ”の証。かつて潜り抜けた、数多の死線が残影よ」

 自ら外気に晒した半身に目線を向けながら、信長は胸部に走る一際長大な古傷に指を滑らせた。

「判るか?もはや全ては、“古傷”だ。最後に傷を負ったのは、幾年の昔であったか。己の無力を赦せず、他者の優越を赦せず、強者たる事を選んだのは――果たして、何時の日であったか。……判るか、川神百代。俺は、全てを棄てて底辺から高みへと這い上がった。相応しき代償を払い、万人の届かぬ力を得た。故に」

 俺とお前は、違う。

 吐き捨てるような信長の言葉は、頭を殴打されるような衝撃を私にもたらした。

 違う――確かに、その通りだ。

 例え現在に立っているステージが同じだとしても、其処に至るまでの道程が、あまりにも違う。同じだと主張する事は滑稽以外の何物でもないような、全くの別物だ。私はその事実を、嫌というほど目に焼き付けられた。

 私にとって、最強で在る事はあまりにも容易かった。

 鍛錬には真面目に取り組んだ。武道に多くの時間を費やし、努力もした。だが、結局のところ、それらは所詮、人並みのモノでしかない。ワン子のように常識を遥かに超える修行量をこなしてきた訳ではなく、命懸けの特訓に寿命を削ってきた訳でもない。総合的な鍛錬の量も密度も、院の兄弟子達に劣っていただろう。であるにも関わらず、私は問答無用で文句なしの最強だった。他者の研鑽が虚しく思えるような速度で成長を遂げ、瞬く間に誰も追いつけない領域に辿り着いてしまった。

 早い話、私には才能が有り過ぎたのだ。才が突き抜け過ぎていて、世界の誰とも価値観を共有出来ない。武の頂上から見下ろす景色を、誰とも共有出来ない。高名な武人が生涯を費やして習得したとされる奥義を、一目見ただけで完璧に再現し、あまつさえそれを上回ってしまう――その時に胸を吹き抜ける寂しさにも似た感覚は、私にしか判らない。もしも私と同じ視点で物事を見られる人間がいるならば、それは自身と同種の“天才”だけだろう。

 私が常に自身と同等の好敵手を求めているのは、死闘を欲する本能とは別に、互いを理解できる同類の存在を望んでいるからでもある。だからこそ、この目を以ってしても実力の底が見通せない、織田信長という男の出現は、私にとって限りなく大きな意味を持っていた。

 ――だが、違うのだ。川神百代と織田信長は、決定的に違う。眼前に晒された肉体の壮絶な有様が、全てを物語っている。

 この男が総身に纏う禍々しい殺気の由来が、やっと理解出来た。信長の“氣”が冷厳な死を鮮明にイメージさせるのは、彼がその人生の中で幾多の死を踏み越えてきたから。死を危険な隣人として、しかし呑み込まれる事無く、悉く捻じ伏せて付き従えているから。

 釈迦堂さんも同質の気配の持ち主だが、信長は間違いなくそれすらも凌駕している。その域に達するまで、どれほどの死に目に遭って来たのか、どれほどの死闘を演じてきたのか――もはや私の想像の及ぶところではない。

 それ故に、違う。死闘に餓えている私と、死闘に飽いている信長。その差異は、決して埋められない程に大きかった。

 そして、“違い”は他にも在る。半身を埋め尽くす傷跡に注意を引かれるあまり、最初は意識が及ばなかったが――その肉体は、尋常ではない練度で鍛え抜かれている事が判る。やや細身な身体は、しかし軟弱さとは無縁で、一切の無駄なく極限まで絞り込まれていた。シャープなシルエットに、強靭な肢体。豹を思わせるその身体を完成に到らせるのは、一朝一夕で済む話ではないだろう。厳粛な鍛錬を己に課し、汗水を流し続けた者でなければ、あんな風には出来上がらない。

『織田の身体捌きが才能に依るものじゃなく、途轍もない努力と鍛錬の末に磨き上げたであろう、“理”に依るものだからだ』

 思えば、片鱗は既に見えていたのだ。キャップとの決闘で見せたあの回避技能は――私達の“武”の絶対的な性質の差を、明確に示していた。川神百代の武は才に依るもので、織田信長の武は理に依るもの。無論、そんな風に単純明快な線引きが出来るほど簡単な話ではないが……しかし、大筋としては、それが紛れもない真実なのだろう。

 私にとって、最強で在る事は容易かった。

 では、信長にとってもまた、最強で在る事は容易かったのか?

 そんな筈は無い。本来であれば、“最強で在る事”が簡単な訳など無いのだ。規格外の才能を生れ持った一握りの人間達が、人生を費やし規格外の努力と研鑽を積み上げて、それでも手が届くとは限らない、至高の称号こそが“最強”であるべきなのだろうから。

 私は自分の武に誇りを持っているし、己の強さを卑下するつもりなど無い。ただ、恐るべき執念を以って私の領域まで這い上がってきた男の姿を前にして、当惑せずにはいられなかった。結果としてさしたる苦もなく最強の座を得た私には、己の命を磨り減らして“ここ”に到達する事を求めた信長を理解する事が出来ない。

「なぁ」

 ――だから、訊きたくなった。その身体を、心を突き動かすモノの正体を。

「お前は何故、そこまでして強さを求めたんだ?武人である限り、最終的に目指す先が“最強”だって事は判る。が、それにしても普通じゃないぞ。お前みたいに極限まで自分を追い詰めれば、確かに常識を超えて強くなれるかもしれないが……死んでしまったらお終いだろ。そこで道は途絶えてしまう。お前にとって、“武”とは――何なんだ?」

「……聞きたいか?」

 信長は、私を見た。氷のように凍り付いた、感情の欠落した瞳……では、ない。

「俺にとって、“武”は手段であり、目的だ。力無くして望みは果たせず、望み無くして力を得るは能わぬ」

 むしろソレとは対極の性質を有する瞳が、あたかも溢れ出る想念の炎で灼き尽くすような激しい熱を帯びた視線が、抉る様に私を射抜いた。その眼光の苛烈さに、戸惑う。これはまるで……別人だ。先程まで相対していた人物と同一の存在だとは、到底思えない。織田信長は冷酷非情の暴君で、人間らしい情動の殆どを有さない男ではなかったのか。あまりにも、日頃から抱いていたイメージと食い違っている。

 違う?

 ……否、そうではなく――こちらが、本質か。

 人間として不自然と云うべき機械じみた無機質さこそが、仮面。火炎の如く苛烈な心を己の内へと無理矢理に封じ込め、押し殺している事がその不自然さの由来だとすれば、何も不思議はない。人の手で造り上げたペルソナに熱が通わないのは当然だ。

「俺には、志がある。万難を排して到達すべき目標が、野心が、宿望が、理想がある。血に塗れ死に魅入られてでも――叶えるべき、夢がある」

「……夢」

「然様。俺の総てはその為だけに存在している。身を削り心を削り命を削り、己が往くべき道を往く。其れが、俺の抱える武の在り方だ」

 ギラつく様な意志が煌きを放つ双眸の奥には、不退転の覚悟が鮮明に見て取れた。他者の言葉如きでは、何が在ろうと絶対に曲がる事のない強靭な決意。それを支えているモノの正体こそが――夢、か。

 夢。ゆめ、ユメ。

 その言葉から私が連想したのは、ワン子の事だった。川神院の師範代になる事を“夢”として掲げ、気が遠くなるような努力を積み重ねている、私の可愛い自慢の妹。どんなに辛い鍛錬にも弱音一つ吐かず、笑顔と希望を振り撒いて毎日を全力で生きている姿は、いつだって眩しかった。

 そして、今の信長の目は……夢を語るワン子のソレに、良く似ていた。

 心に根を張る意志と意思は、世界最強の武を以ってしても、決して揺るがせる事は出来ない。

「俺は、夢の達成に己が総てを注ぎ込んでいる。才も時間も、文字通りに総てを、だ。其れが必然となる程に、俺の到るべき目標は遠い処に在る。故に、一刻一秒とて立ち止まっている暇は無い」

「……」

「貴様との死闘を終えた時、無傷で立っていられる保証は何処にも無い。傷を負えば、歩みは鈍くなる。歩みが遅れれば、伴って夢は遠ざかる。……断じて、赦せぬ事よ。判るか?この胸に抱いた大志は、総てに優先する。闘いの愉悦如きよりも、絶対的に価値の在るものだ。俺には譲れぬ意思がある。それを怯懦と謗り、“下らない理由”と蔑むと云うなら、好きにすれば良かろう。武人の名に相応しからぬと思うならば、幾らでも返上してくれる。――それを踏まえた上で、問おう」

 一切の嘘も誤魔化しも許さない、刺し貫くような眼光で私を見据えて、信長は言う。

「貴様には、理由が在るか?俺の道に立ち塞がり、俺の歩みを阻むに足る理由が。俺の、大望を追及する意志に匹敵するだけの意思が――貴様には在るのか?川神百代」

「…………」

 何も、言い返せない。

 信長の言葉が上っ面だけの偽物ならば、気にも留めなかっただろう。戦闘への欲求に歯止めを掛ける事は無く、私は湧き上がる衝動に身を任せる事を躊躇わなかっただろう。だが――私は信長の目を見てしまった。その中に宿る、真っ直ぐで力強い意志と覚悟が紛れもない本物である事を知ってしまった以上、私はもはや身動きが取れない。

 闘争への欲望を満たす。ただそれだけの為に、他者の掲げた志を妨げるなど、断じて私の望む武人の在り方ではなかった。それは、私が私であることを否定する所業だ。闘いを望む心が本物ならば、誇り高き武人で在りたいと願う心もまた、本物。

 私は、自分の心に嘘を吐いて生きるのは御免だ。“誠”の一字こそが、川神百代の掲げる志なのだから。

 認めなければならない。

 今の私には――織田信長との死合いを望む資格が、死合いに臨む必然が、無い。

「意志無き武は、獣の暴力と同義。命を砥石と為して磨き上げた俺の武は、餓えた獣の餌として呉れてやるほど安くはない。俺が云っているのは、最初からそういう事だ」

「……ああ。どうも、そうらしい。何というかこれはアレだな、頭から冷水ぶっかけられた感じの気分だ」

 大将戦の最中から私の心身を闘いへと駆り立てていた、あの沸き立つような歓喜と興奮は、気付けば何処かへと霧散していた。頭を冒していた狂熱が醒めて、心に日常の冷静さが戻って来るのが分かった。青空を仰ぎ、大きく息を吸い込んで、心静かに氣を整える。

 そうして再び前方へと向き直った私を、信長はじっと見つめていた。先程垣間見せた烈しい感情の渦は姿を消しており、今や常と同様に無感情な冷たい目をこちらに向けて、信長は口を開く。

「ふん。その様子を見る限り、漸く理解が及んだ様だな。成程、獣ではなく人であるならば、理を解するは道理よ。――ならば、もはや言葉は要るまい」

 淡々と言い終えると、信長は無造作にカッターシャツを羽織り直し、従者に手渡されたブレザーの袖に腕を通しながら、何の未練も見せずに踵を返した。既に語るべき事は語った。欠片も躊躇いの窺えない背中が、はっきりとそう物語っていた。

 その姿が、遠ざかる。戦々恐々たる面持ちのギャラリーが空けた道を、二人の従者を引き連れて、堂々たる足取りで歩み去ってゆく。

 呼び止める術はない。今となってはその理由も、無い筈だ。例え追い掛けたところで、私は織田信長と闘う事は出来ない。信長と繰り広げる、想像するだけで胸の躍るような愉しい闘争は、他ならぬ私自身の意志で諦めたのだ。私は、己に嘘を吐かない。だから――武神の名に恥じぬよう、潔く在ろう。その背中を、黙して見送ろう。

「はぁ。……儘ならないモンだなぁ」

 そう頭で決めたところで、胸中に渦巻くモヤモヤは少しも晴れない。ようやく届くかと思われた長年の望み、好敵手との血湧き肉踊る闘いが、かくもあっさりと手中からすり抜けていったのだ。いかに自分の意志に従って我慢したとは言っても、湧き上がる虚脱感は抑えられなかった。

 所詮、私の願いが叶う事は無いのだろうか――そう思うと、吐く溜息も重くなる。

 
 予期せぬ声が耳朶を打ったのは、その時であった。


「――ああ。一つ、言い忘れていたが」


 信長はこちらに背を向けたまま、振り返ることすらせず、無愛想に言い放った。


「俺は、“約束”は守る主義だ。其れを失念するな、川神百代」


 ……約束。約束?


 吐き捨てられた二文字の言葉に、記憶の欠片が蘇る。


 同じような場所で同じように向かい合って、交わした会話。




『私もお前とは真剣で決着を付けたい気はするな。だから、私も今は我慢してやるさ。ただし―――私が真に“完成”したら、その時こそ私と戦うと約束してくれ。と言うか約束しろ。いいな』




「ふ、ふふふ」

 
 そうか。

 そうかそうかそういうことか。

 思い出した時には、既に信長の姿はギャラリーの輪を抜けて、グラウンドの外へと去る所だった。腹立たしい程に悠然としたその背中に向けて、私は心底からの哄笑を飛ばす。

「ふふふ、ははっ、はははははっ!ああ、たったいま再認識したぞ。本っ当に生意気な後輩だよ、お前はッ!」

 獣と組み合う気はない。俺と闘いたければ、人になってみろ。

 思えば初めて会話を交わしたあの時から、信長はそんな意味合いの事を云っていたのだ。世界最強の武神たるこの私に対して、何たる不遜。何たる傲岸。そして――何と愉しませてくれる男だろうか。

 面白い。本当に面白い。観客達の好奇の視線を集めている事を自覚しながらも、溢れ出る笑いは一向に収まらなかった。

「―――ジジイ!」

「何じゃモモ、うるさいのう。笑うか喋るかどちらかにせんか」

 先程から傍で私達の遣り取りを聞いていた祖父に、私は獰猛な笑みを向けた。

「はははっ、細かい事を気にするなよ。そんな事より、アレだ。普段から院の皆が散々口うるさく言ってるアレ、精神の修練がどうこうってヤツ。ジジイの指導に従えば、私は本当に抑えられるようになるのか?生まれてこの方ずっと付き合ってきたサガ、この戦闘衝動を。闘いを求める魂の叫びを、本当に鎮められるようになるのか?」

「……」

 すぅっ、とジジイの細目が更に細められ、私の内面を見通そうとするかのように鋭く光った。間違っても老人の放つレベルではない強烈な眼光と気迫を浴びて、しかし私は怯まずにその目を睨み返す。数秒の拮抗を経て、ジジイは神妙な面持ちで、静かに口を開いた。

「……どうやら、本気のようじゃの。ならば、無用な隠し立てはせぬが良かろうて」

「ああ。ハッキリ言ってくれ。誤魔化されても迷惑なだけだ」

「――正直に云うと、難しいじゃろう。お前の中に潜む戦闘への衝動は、その武の資質と同様、まさしく桁外れじゃ。克服するのは並大抵の事では不可能じゃろうな。それでも尚、打ち克とうと欲するならば、必ずや多大な苦痛と困難を乗り越えねばなるまい。己の内面と向き合い、闘い、勝利するのは、目に見える敵を打ち斃すより何倍も難しいのじゃよ。特にモモ、お前のような種類の人間にとってはの」

「ふぅん。要するに、滅茶苦茶しんどいが、やってやれない事はないってコトだな」

 それが訊ければ、十分だ。

 だったら、私は織田信長との闘いを諦める必要などない。私が自身の戦闘衝動をコントロールし、武人としての純粋な意志を以って闘争に臨める様になれば良いだけの話なのだから。その為ならば、私は修練を厭わない。私はゴール地点に何かしらのボーナスがあると俄然、意欲の湧くタイプだ。努力の先に強者との死闘が約束されていると言うならば、何を躊躇う必要があるだろうか。

 将来の闘争を求めて、現在の闘争本能を鎮める。前提からして矛盾しているような気がしないでもないが、それでこそ私らしいと言えるだろう。

「なぁ。ジジイの見立てじゃ、どれくらい時間が掛かると思う?」

「さて、それは何とも言えんの。お前、色々とムチャクチャじゃし」

「なんだ役に立たないな。ボケ老人はそろそろ引退した方がいいんじゃないか?」

「生憎とまだまだワシの後は任せられんのう。――そうじゃな、全てはお前次第じゃが……完全にサガを抑え切るとなれば間違いなく、長く辛い闘いになるじゃろうな。恐らくは、お前のこれまでの人生の中で、最も過酷な試練となるじゃろう」

「……」

 真剣な表情で厳粛に告げると、不意に顔を綻ばせながら言葉を繋ぐ。

「じゃがの、一つだけ言える事は――お前ならば必ず乗り越えてみせるであろう、という事じゃ。ふぉふぉ、何といってもこのワシの孫なのじゃからの。なに、武の頂点たる世界最強を名乗っておる以上、それくらいは出来て当然じゃろうて」

「……はっ、それもそうだ」

 年甲斐もなくウインクなんてふざけたものを飛ばしてくるジジイに、私は不敵に笑い返す。

 もはや視界の内から信長の姿は消えていた。だが、身に纏う膨大な“氣”が、その存在を明確に主張している。喰らえるものならば喰らってみろと、誘っているかのように。

 一切の理性を放り出して齧り付いてしまいたい程に魅力的な獲物だが――良いだろう、今はお預けを食らってやる。

 お前が常に進化を続けるならば、私もまた己を磨かなければ対等ではいられない。だから、今はまだ、我慢の時だ。


「ふふっ……、約束は、守らないとな?」


 いずれ、更なる武の高みに到った暁には――最高の舞台で、最高の闘いを演じよう。

 
 その時まで、命の灯を絶やすなよ、織田信長。

 
 瞳の奥に垣間見た、烈し過ぎて今にも燃え尽きてしまいそうな心は、多くの期待と、一抹の不安を私の心に残していた。

















 





 死ぬかと思った。

 今しがた川神百代との対峙を終え、観客達より一足先に2-S教室へと続く廊下を闊歩している織田信長の、これ以上無く率直な感想である。今更になって、心臓がバクバクと激しく脈打っている。全身から冷や汗が噴き出るタイミングも、遅れに遅れてやって来た。三歩後ろに控えていた蘭が大慌てでタオルを取り出して、甲斐甲斐しく俺の顔を拭っているが、その感触すらも現実のものとはいまいち実感できない。

 闘いに餓えて殺気立った川神百代を相手に平静を装ってハッタリを仕掛ける行為は、それほどまでに俺の精神力を削り取っていた。それこそ風間翔一との決闘より遥かに神経を磨り減らす闘いだったと云えよう。一歩でも間違えれば抵抗も許されず総てが終わっていた事を考えれば、最後まで動揺を漏らさずに演じ切る事が出来たのは奇跡に近い。

――だが、何にせよ、回避成功だ。俺は、未だ負けてはいない。

 暴発寸前の百代をクールダウンさせ、思考停止に陥らせる為に、用意していた切り札を何枚も切る羽目になったが――その程度の代償で希望を繋げたならば、全く以って安いものだ。何せ、川神学園における最大の障害たる最強生物を、一時的にとは言え実質的に無力化するという会心の成果を挙げられたのだから。

 主に利用したのは、織田信長という虚像と、俺という実像の間に生じる、巨大な“ギャップ”。そして何より心理的衝撃度が高かったのは、初めて衆目に晒した“傷跡”だろう。精神に刻まれた心的外傷ですら殺気に換える事で最大限に利用するこの俺が、肉体に刻まれた身体的外傷をハッタリに利用する事を躊躇う理由はない。そのグロテスクな醜悪さは、見る者に例外なくショックを与え、頭を冷やさせるに十分な外観だった筈だ。

 しかし――散々、無力な俺を苛め抜いてくれたあの女に感謝する日が来るとは、人生とは分からないものだ。釈迦堂のオッサンとの修行の中で刻まれた傷跡だけでは、どうしてもインパクトは不足していただろう。“服で隠されて見えない部分”を徹底的に痛め付けてくれたお陰で、俺の肉体は威圧の一環として利用できるだけの凄惨さを備える事が出来た。何一つとして母親らしい事はしてくれなかったが、その点だけは心から感謝しなければなるまい。子に何かを遺す事が親の存在意義だとすれば、あの女は確かにその役割を果たした訳だ。お陰でこうして、川神百代という障害を見事に突破することが出来た。

 もっとも、説得が成功した最大の要因は、恐らく――俺が本音を語ったからだろう。

 生粋の嘘吐きたる明智ねねをして大嘘吐きと言わしめた俺が、心の底より嘘偽らざる想いを語ったからこそ、猛る百代の心を鎮められた。

 本音。本心。

 それは、醜い嫉妬心だった。

 みっともない僻みと、つまらない嫉みだった。

 結局のところ、俺はただ――羨ましかったのだ。川神百代の生まれ持った、規格外と云うべき天性の才能が。

 その才、その力の一割。一部。否、一厘ですらも備わっていたなら、きっと惨めな幼少時代を送ることはなかった。絶望に塗れて、あいつを永遠に失うことはなかった。そして現在、夢を追い求める事は遥かに容易になっていただろう。それが嫌というほど理解出来るだけに、俺は川神百代に対して、完全な筋違いと知りつつも、日頃から絶えず昏い感情を募らせていた。

――そんな才能に恵まれておきながら、お前はなぜ何も成し遂げようとしない?俺にその才が在ったならば、お前の何百倍も有効に活用してやると云うのに。何故、何故、お前が選ばれた?俺はこんなにも力を欲し、必要としているのに!

 馬鹿馬鹿しい程に幼稚な、見当違いの怒りでしかない事は、言われるまでもなく理解している。力を有する者がその力をどう扱うか、それは当人が決める事だ。百代の武才は百代だけのもので、そこに他者が文句を付けるのはどう考えてもナンセンスである。しかし、神ならぬ身の俺には全ての感情を思う様に抑制することは出来なかった。聖人君子でもない俺には、世の中の不条理を完全に呑み込む事は出来なかったのだ。だから――吐き出した。己の内に溜りに溜まった鬱憤を、本人に向けてぶち撒ける事で処理した。勿論、やや婉曲な形を取って、ではあるが、心の底から言いたい事を言った。故に、それらの一言一言に込められた想いは、紛れもない本物だったのだ。

 俺の言葉に対して百代が何を思ったかは想像するしかないが、少なくとも想像は出来る。

 負けず嫌いで唯我独尊な天下無双の武神が、このまま言われっ放しで終わるとは思えない。あらゆる苦難を笑ってしまう程に軽々と乗り越えて、いつの日か再び俺の前に立ち塞がる時が来るのだろう。

 ならば――いよいよ以って、立ち止まってはいられない。俺は、ひたすら前へと歩み続けねば。2-Fとの決着の件もある事だし、まだまだ己を磨く必要がある。風間ファミリーの面々を“未熟”などと評しはしたが、それは俺とて同じ事。否、人間は生きている限り、誰もが未熟なのだ。それは即ち伸び代に満ちている証左で……、だから、俺は絶対に諦めない。

 天才だろうが凡才だろうが知った事か。俺は自身の意志に従って、俺の道を征くだけだ。

「ふん。差し当たっては、様子見、か」

 風間ファミリーとの小さな戦争を終えた事で、色々と動きが生じる事は間違いない。

 真の意味で風間翔一を打ち負かせなかった事や、川神百代との闘いを回避する過程で見せた“弱み”――素の感情の一部を曝け出し、古傷と共に弱者としての過去を晒け出した事で、大衆の抱く織田信長に対する畏怖と恐怖が、些かばかり薄れてしまう可能性が考えられる。そうした気の緩みに乗じて、調子に乗り始める輩も現れるだろう。

 ならば、改めて恐怖と絶望を与えてやらねばなるまい。叛逆の意志を根こそぎへし折り、刈り取ってやるとしよう。今回の一件でヒビの入ってしまった絶対的強者の偶像を補修する為には、少しばかり過激な治療行為が必要だろう。その際、生贄の子羊に選ばれるのは、果たして何処の誰になるのか。

「さて――」

 今回の結末は少しばかり計算と食い違ったが、次こそ同じ過ちは犯さない。失敗を教訓として、俺はどこまでも強くなってみせる。


 俺は僅か一日たりとも歩みを止めない。


 一分一秒の過ぎ去る度に、絶えず己を磨き続ける。


「征くぞ。前途は果てなく、辛苦に満ちているが――怖れず前へと進むのみ。勇往邁進、だ」

「ははーッ!蘭は何時までも何処までも、信長さまのお供を致します!」

「暑っ苦しいなぁ全くもう。そんなに叫ばなくたって、私達はどうしようもなく一蓮托生さ。ちゃーんと付き合ってあげるよ、ご主人」


―――いつか仰ぎ見た夢に到るまで。俺は、決して立ち止まらない。















~おまけの金曜集会~



「よっしゃああっ!いざ祝勝会だぁっ!――って、ありゃ?なんで俺は秘密基地にいるんだ?はっ、まさかこれが噂に聞く夢オチってヤツなのか!?」

「キャップの生存確認。というか気絶復帰直後のテンションとは思えない。頭に異常が出てる可能性は否定できない」

「おいおいそこは否定しとけよ京、俺はこの上なく正常だっつの。失敬なやっちゃな」

「あはは、相変わらずだねキャップは。でも安心したよ、元気そうで」

「おぉっ、目が覚めたのね!えっとね、ノブナガとの決闘が終わった後、倒れたキャップを一旦保健室に移して、放課後になっても目が覚めなかったから、おねーさまがここまで運んでくれたのよ」

「勿論、お姫様抱っこでな。ふふふ、頑張った男の子へのご褒美というヤツだ。大和が嫉妬して大変だったんだぞー」

「罰ゲームに嫉妬とか。どんだけM属性持ちなんですかねその俺と同名のヤマトさんとやらは」

「何を言うか、私のお姫様抱っこは女子には大人気なんだぞ。順番待ちの列が出来るレベルだ」

「ヘェソウナンデスカ。それで、俺の性別って何でしたっけ」

「私は大和が男でも女でも気にしないよ。愛は性別を超越するのだッ」

「人のズボンに手を突っ込むのはやめましょうね、愛でも法律は超越できないからね」

「あー、何だか記憶が曖昧だぜ。信長の野郎に勝利宣言してやったトコまでは覚えてるんだけどなー。で、結果はどうなったんだ?時間切れでルール的には負けちまったけど、イイ感じに“風評”では勝てたんじゃねーか、と俺は思ってるワケだが」

「うんまあそれは確かに。十分に俺の“策”を成功させるに足る戦功だったと思うよ。流石は我らがリーダー、やってくれるな」

「ああ、俺様もあのガッツは認めざるを得ねぇぜ。ただ、結果としてちっと妙な事にはなっちまったが」

「ん?どういう事だ?俺がチョウチョになって飛んでる夢を見てる間に何かあったのか?」

「色々あって、信長の奴と再戦することになった。勿論、これからすぐに、って訳じゃない。他のクラスの征服が終わってから、改めて――って事になるらしい」

「へぇ……いいじゃねぇか、今度こそ“風評”に頼らない、本当の勝利を取りに行けるって事だろ?わざわざチャンスをくれるなんてイイ奴だなアイツ!」

「やっぱキャップもそう思うわよね!あのにっくきネコ娘へのリベンジに向けて、アタシのトレーニング欲は超絶加速中よ!にぎにぎ」

「午後からずっと握りっぱなしだよね、ハンドグリップ。ホントに気合入ってるなぁ」

「んー、成程。そういうことだったら、いざ祝勝会!って感じでもないな。だけど、ちゃんと指令通り準備はしてるみてーだし、何もなしってのは勿体ないよなぁ。――よし、決めたぜ!皆の者、盃を持ていっ!」

「ちなみにこれは川神水(※ノンアルコール)であって酒ではない。念のため」

「飲むと気分が良くなったり体温が上がったりするけど、これは酒ではなく川神水(※ノンアルコール)なので何も問題はないのであった」

「二人とも何言ってんだ?これは川神水(※)だろ?さて、そんじゃ乾杯の音頭といきますか」

「おーいいぞー。やれやれー」

「何だか張り合いねぇなぁ。ま、いいか。――皆の者、三日間の務め御苦労!俺達は力を合わせて、信長の魔の手から自分達のクラスを守り抜いた。だが、俺達の戦いはまだまだこれからだ!脅威は去った訳じゃない、アイツはまた2-Fを狙ってくる。今回は、ほとんど手も足も出なかった……けどな、いつまでも舐められっぱなしじゃ風間ファミリーの名折れだろ?」

「まぁ、確かに。このまま終わるのは癪に障るかな」

「だったら、今度こそファミリーの底力を見せ付けねぇとな。再戦の時までに力を磨いて、アイツを驚かせてやるんだ。川神魂を舐めんじゃねぇ!ってよ。だから、この一杯は反省でも祝勝でもなく、宣誓の一杯にしようぜ」

「センセイ?えっと、ウメ先生にってコト?」

「ツッコまないからね。僕だってツッコミたくないボケはあるんだから」

「んじゃまーそんなワン子はほっといて、いくぜ。――――打倒、織田信長を誓って!乾杯ッ!!」

『カンパーイッ!!』

 

























 信長の野望+風間ファミリーの戦いはまだまだこれからだ!ご愛読ありがとうございました!
 
 ……というのはまあ冗談ですが、ひとまず今回を以って話は一区切りになります。原作で言うところの共通ルートが終了した感じですね。とは言っても時間軸としてはまさにこれから原作時期に入る訳ですが……ここで問題が一つ。言わずもがな、まじこいSの存在です。まず間違いなく新キャラ、新ルート、新設定のオンパレードで、このSSの中でどう扱うべきか測りかねているのが現状。当然ながら大体のプロットは無印の時点で組んだ訳で、下手に取り込もうとすると話が破綻しかねない――そんな悩みが絶賛浮上中です。さてどうすべきか。
 なんて愚痴はともかく、ここまで書き続けられたのはひとえに読者の方々の存在あっての事で、皆様には言葉に尽くせないほど感謝しております。続きを書くのが新作の発売後になるか否かは未だ分かりませんが、どうか引き続き今作をよろしくお願い致します。


>ムジカさん
 ご指摘ありがとうございます。
 そうですね、原作内にて公式の弓道の枠内における競技の描写が殆ど無いため、現実に照らし合わせてどの程度の腕前なのか、判断が付きかねている、というのが実情です。ただ、それ以外の部分での戦闘描写を見る限りにおいては常識の枠内に収まる腕ではない事は間違いないので、その異常性を表現する為に敢えて“通常よりも小さい的を用い、通常よりも遠い的を狙った射詰め”を決闘ルールとして採用しています。なにぶん素人の発想なので、弓道に詳しい方から見れば噴飯モノかもしれませんが、今作中ではそういうものだと思って受け入れて頂けると幸いです。



[13860] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:2b0e36b7
Date: 2011/08/31 17:39
 川神学園には今、戦乱の嵐が吹き荒れている――とは、さる三年生の先輩の呟いた台詞であるそうだ。

 言い回しが無駄に大仰なところを気にしなければ、概ね的を射た表現だと思う。流石は言霊部部長、現状を形容するのに相応しい言葉を拾い上げるのが上手い。確かに今現在、私立川神学園にて巻き起こっている幾多の闘争は、戦乱と呼ぶのが最も適切だろう。

 それに異を唱える人は、一度でいいから今年の四月に入ってから勃発した“決闘”の回数を調べてみると良い。大小併せて実に三十七件――いくら競争を推進する川神学園でも、僅か一月の間にこれほどの回数に及ぶ決闘が頻発した例はほとんど見受けられない。しかも四月がまだ残り一週間を残しており、始業式が四月七日に執り行われた事実を考慮すれば、尚更その異常性は浮き彫りになる。……という旨の事を、我らが担任の先生は愚痴っぽい口調で漏らしていた。

 何やら他人事のように語ってしまったが、何を隠そう私こと、川神学園1-S所属のプレミアムな超新星・武蔵小杉もまた、この“戦乱”の拡大の一端を担っている張本人なのであった。何せ一年生制覇を目標に掲げ、入学一日目から目標を達成すべく活動を始めていたのだから、まさに嵐の先駆けと言っても何も間違いではないだろう。少なくとも三十七件中の六件までは、私の手柄(?)だ。

 あくまでも先駆けであって、嵐の“中心”になれなかったのは私のプライドをいたく傷付ける結果ではあるけれども、しかしまあ今回ばかりは流石に相手が悪い。常に争乱の嵐の中心に存在し、闘いを周囲に振り撒いている男と張り合うのは、流石に今の私には荷が重かった。プレミアムな私の観察眼を以ってすれば、その程度の自己判断は余裕なのだ。

 織田信長――それが、二年生最強にして最凶の男の名である。四月七日の始業式に合わせて2-Sに編入して以来、彼は絶えず全校生徒の話題と注目の的だった。色々な意味で誰もが一目置く九鬼財閥の御曹司との決闘を皮切りに、日本三大名家・不死川家の息女を僅か一撃の下に打ち負かし、そして確実に後々の語り種となるであろう、2-F代表チームとの激烈な三本勝負を繰り広げる。主にこれらの闘いを以って、織田信長は想像を絶する実力と共にその名を全校に知らしめた。川神学園に籍を置いている限り、今や誰一人として彼の名を知らない者は居ないだろう。何せ今現在も、彼は学年制覇(何とも親近感の湧く響き)に向けて動き続けている最中だ。私はもしかすると、生ける伝説の誕生に立ち会えたのかもしれない。

 さて、そうなると俄然、プレミアムな武蔵一族の娘たる私も負けていられないと、いよいよ発奮するべき状況なのだが。

 実を言うと少しばかり、ほんのちょっとだけだが、自信喪失中である。

 川神学園の平均レベルの高さは、ぶっちゃけ私の想像を遥かに超えていた。三年生及び学園そのものの頂点に君臨する武神・川神百代……彼女はまあそもそも私達と同じ人類かどうかも疑わしいので別枠としてもだ。2-Sの不死川心、忍足あずみ、言わずもがなの織田信長に、その従者の森谷蘭。2-Fには武神の妹・川神一子に、弓道部の先輩たる椎名京――ざっと数えただけでもこれほど多くの実力者が、二年生の生徒名簿には名を連ねている。しかもこの面々はあくまで有名処。偶々四月の決闘の中で実力を披露する機会を得た、二年生の中でも一部の生徒に過ぎない。或いは彼女らと同等の武力を有する者も、学年全体にはまだまだ隠れていると考えるべきなのだろう。……そして、私こと武蔵小杉の現在の実力では、先程挙げた先輩達には到底太刀打ち出来ないのが現実だ。

 いやまあ、決闘を観た感じでは不死川センパイだけは私でもどうにかなりそうな気がするが、それにしたところで勝ちを確信できる程ではない。誰だってあんな化物みたいな殺気を垂れ流している男を前にしたら動けなくなって当然だと思うし。彼女に罵声を飛ばしていた観客達は、その辺りがちっとも分かっていないと思う。無責任なギャラリーなど所詮はそんなものなのだろうが、武の知識が無いなら大人しく黙っていればいいのに、とあの時は醒めた頭で思ったものだ。

 閑話休題。幾多の決闘を観戦する中で、立ち塞がる学年の壁の厚さを感じた私は、やはり当初の予定通り、まずは一年生の制覇から始めようと意気込んでいた訳であるが――それすらも、のっけから躓いた。意外過ぎる伏兵が、私の隣に堂々と潜んでいやがったのだ。

 伏兵の名は、明智音子。名家・明智家の令嬢で、私のクラスメートだ。ちなみに1-Sのクラス委員長でもある。

 同じ1-S所属で同じく武家出身、同じく武道に関わる者同士という事もあって、私とねねは入学式の日に知り合って以来、ずっとつるんで行動していた。まだ化けの皮が剥がれていなかったあの頃、彼女はまさしく絵に描いたようなお嬢様で、雰囲気に性格、言動から挙措に到るまで、全てが香り立つような名家の気品に満ち溢れていた。だからこそクラス投票の結果、ねねがプレミアムな私を差し置いて委員長に選ばれた時も、まあコイツになら負けても仕方ないかな、と広い心で大人しく引き下がってやったのだ。

 だがしかし、入学から二週間を経た頃、遂に現した本性は―――

「あー、キミ、えーっと……名前が思い出せないから子分Aでいいや。ねぇ子分A、今日は私、チョコスティックパンとミルクの奏でるまろやかなハーモニーを心ゆくまで楽しみたい気分なんだよ。ってなワケで、三分以内によろしくね」

「あ、子分Aってやっぱ自分ッスか……?でも購買って今から行ったら混みまくりで三分じゃとても――イヤ何でもないッスハイ。あのボス、ところでお代は……」

「え?んん、んんん~?まさかとは思うけれども、キミはもしかしてもしかすると、この私に代金を払わせようだなんて爆笑必至なセリフを吐こうとしているのかな?いやぁそうだとしたら面白過ぎてついうっかり誰かの両脚の付け根を蹴り上げちゃうかもしれないね。でも仮にそんな不幸な事態になっちゃったとしても、それは不用意に人を笑わせたキミが悪いのであって、私に責任は無いと考える次第だよ。さてさて、キミはどう思う?」

「喜んで行かせて頂きまッス!四の五の言ってゴメンなさいッス!」

「やだなぁそんなにビクビクしないでよ、私はただクラスメートと仲良くしたいだけなんだからさ。ねぇ子分A?くふふ、あははははっ」

 コレである。もはや猫を被っていたとかそういう生易しい表現で片付けられるレベルではない気がする豹変っぷりだった。

 時刻は十二時十五分、昼休み。

 明智ねねはちみっこい身体を椅子の上で限界までふんぞり返らせて、ニヤニヤと邪悪極まりない笑みを浮かべながら教室の中央に陣取っている。その周囲では数人の生徒(実を言うと私も名前を覚えていないので子分A、B、C、Dとでもしよう)が一様に卑屈な笑顔を浮かべて、必死のご機嫌取りを行っていた。我侭王女とその下僕たち――そんなイメージが頭を過ぎる中、やれやれコイツらは全く、と溜息を吐きながら、私は今にも走り出そうとしていた子分Aに声を掛けた。

「私はプレミアムに焼きそばパン一択ね。飲み物は気分的にカフェオレってとこかしら」

「あ、別にボスの横暴を止めてくれたりとかそういうのはないんスね武蔵の姐さん……」

「姐さん言うなっつってんでしょうが。さっさと行かないと腎臓に正拳一発追加するわよ」

「イエスマムッ!」

 パシれメロス。子分Aは自分の財布を引っ掴むと、脱兎の如く教室を飛び出していった。思わず目を見張る程のスピードだ。S組所属のエリートの癖に下っ端根性が染み付いているというか……類を見ないレベルで小物な性格といい、パシリの才能をひしひしと感じた。

 うん、何にせよ友達想いのクラスメートを持った私は幸せ者である。周囲の取り巻きBCDが揃って笑顔を引き攣らせているが、理由は分からない。

「おやおやムサコッス、私の大事なトモダチを使いっ走りに使うなんて酷いことするね。使うなら使うで、ちゃんと私の許可を取って貰わないと困るんだけど」

「あーもう煩いわね、それくらい黙って貸しなさいよ。アレは一応私の戦利品でもあるんだから。てかムサコッスゆーなネコ」

「ネコゆーなムサコッス。あーあ、仕方ないなぁ……何と言っても私はもともと真っ青な太平洋も真っ青に染まっちゃうくらい広大な、まさしく聖母の如き慈愛に溢れた心の持ち主だから許してあげるよ。うふふ、それにしても1-Sのトップ2に奪い合われるなんて、子分Aさんったらなんて幸せ者なのでしょうか。ねぇ、貴方達もそうお思いになる事でしょう?」

 ねねが不気味に甘ったるい猫撫で声を上げると、BCDは青褪めた表情でブンブンブンと首を縦に振った。一体全体何をされたのかは知らないが、どうも完全に反抗心を叩き折られているらしい。ほんの少し前まではあれほど血気盛んに食って掛かっていたと言うのに……ねねの奴に決闘で完膚なきまでの惨敗を喫して以来、ずっとこの調子である。

 さて、私が嵐の先駆けで、織田信長が嵐の中心とするならば、明智ねねは今まさに学園を吹き荒れている風そのものと云えるだろう。何せ学園を騒がせた三十七件の決闘の内、実に十三件までがこの腹黒娘の所業であり、しかも決闘の頻度は徐々に上がってきている。これはねねが本性を現すと同時に、一年生全体への宣戦布告などという派手な事をやらかした所為だった。プレミアムな私のように競争意識の強い生徒の集まる川神学園でそんな挑発的な真似をすれば、当然の如く砂糖に群がるアリよろしく挑戦者が殺到する。それはクラスメートであっても例外ではなく、つまるところこの場にいるねねの子分BCDはそういう連中だった。しかも真っ当に挑むのではなく、ねねが負傷中のところを狙ったり、誰から見ても卑怯千万な手段を用いたり、或いはセクハラ紛いの発言で挑発したりと、全く以ってプレミアムではない戦い方をした挙句、それでも一方的に負けているのだから同情の余地はない。こうして下僕扱いされているのも、まあ言ってみれば自業自得であった。パシリ真っ最中の子分Aに関して言えば、少しばかり例外の様だが。

 しかし、それにしても。

「ねぇ子分B。当然、私が任せた仕事はもう終わってるんだよね?1-D内の主要なメンバーのプロフィールと、クラス内部における人間関係についての調査報告、まだ受け取っていないんだけど……どうしたのかな?」

「も、申し訳ありませんボス、それがまだ……、あと一日!一日で終わらせますから、どうか延髄斬りは勘弁して下さいッ!」

「う~ん、……やれやれ、仕方ないなぁ全く。じゃあ特別に一日だけ待ってあげるよ。幾ら愚図の無能とは言っても、キミだって私と同じSクラスの、選ばれた人間なんだからさ。一日あればそれくらいは出来るよね?ああ、ちなみにもし万が一にでもサボタージュしてるんだったら……今すぐ態度を改める事を推奨するよ。私はね、“使えない部下”って奴がとってもキライなんだ。それはもう、今すぐにでもぶっ壊してやりたいくらいに、ね」

「――ッ!」

 コイツ、こういうポジションに慣れ過ぎていやしないか?

 ニコニコと愛想よく笑っている口元とは裏腹な、冷酷さを宿した鋭い目を以って子分達を震え上がらせているねねを観察しながら、私は改めてそう思わざるを得なかった。お上品な性格やら何やらは猫被りの演技だったとしても、ねねが明智家の令嬢であるという事実は変わらないのだ。しかし、今のこの姿は、どう見てもお嬢様というよりは……どこぞの組長の跡取り娘である。姐さん呼ばわりされるなら絶対に私よりもコイツの方が似合っているだろう。見た目は思いっきりお子様だが。

 とまあそんな感じなので、明智音子は1-Sクラスでは今や恐怖の象徴、手の付けられない暴君として君臨している。主に子分BCDの無惨な敗北っぷりとその末路を存分に見せ付けられた事で、傍若無人なねねの振舞いに文句を付けようとする者は誰もいなくなっていた。男子も女子もクラスメートは皆同様、機嫌を損ねないように、目を付けられないように戦々恐々と日々を過ごしている。曲がりなりにも友人という対等な立場でまともに会話を交わしているのは、1-Sでは私くらいのものではないだろうか。

「くふふ、キミ達も子分Aを少しは見習うべきかもね、BCD。担当していた1-Cの情報収集、アレはなんとたったの一日で終わらせたよ。今のところは特に失敗もしてないし、何より購買と教室間の往復タイムがぶっちぎりで早いのは大きなプラスポイントだね。そろそろ名前を覚えてあげても良い頃かな」

 と、そんな風にねねが口元を吊り上げた瞬間、教室のドアが外側から勢いよく開け放たれた。

「うおおおおっ!三分ジャストォッ!間に合いましたよボス、ご所望のチョコスティックパンとミルクのセットッス!」

 ぱたぱたと親分の机に駆け寄りながら、何かをやり遂げた快心の笑顔で戦利品を掲げて見せる子分Aは、最高にパシリだった。パシリとはかくあるべしだと私は思った。いや、私だけではない――きっと1-Sの皆はこの瞬間、心を同じにした事だろう。何故かいつも口に咥えている青々しい笹の葉をピョコピョコと上下させながら、今度はこちらに駆け寄ってくる。

「へっへっへ、ちなみに勿論、武蔵の姐さんご所望の焼きそばパンとカフェオレもバッチリですぜ」

「だから姐さんはやめろっつってんでしょーが。まったく、どいつもこいつも人の名前をまともに呼ぶ事も出来ないとは嘆かわしいわ。いい?いずれ世界に遍く響き渡る私の名前は武蔵小杉!プッレ~ミアムに記憶しなさい!」

「うるさいからちょっと永遠に黙っててくれないかなムサコッス。うん、でも、ちょうど良い機会だね。確かに名前は大事だ。という訳で、子分A。特別にキミの名前を覚えてあげる事にするとしよう。いいパシリっぷりを見せて貰った褒美ってところかな」

「おおっ?真剣ッスか!へっへっへ、これで遂に自分にも立ち絵が貰えるんスね!」

「キミが何を言ってるのかは全然さっぱり判らないけど多分きっと間違いなく絶対にそれは無理だね。で、さっさと言わないと私の気が変わっちゃうけど、良いのかな?」

「駄目ッス!この千載一遇のチャンスを逃すワケにはいかないッス。という訳で、いざ名乗りを!自分の名前は……可児!可児鎌慧(かに かまえ)ッス!」

 よほど子分Aからの脱却が嬉しいのか、目を輝かせながら満面の笑みで名乗りを上げる。一瞬、後ろで尻尾がパタパタ揺れているような幻覚が見えた。

「……。へーカニカマかぁ、随分と美味しそうな名前だねー。うん、面白いと思う、よ?」

「昔から言われ飽きてるッス……その笑うべきなのか分からないって感じの微妙な反応すらも慣れっこッスよ、自分。今でも割と真剣で親を恨んでるッス……。いくらボスでもそればっかりは譲れないッスよ、出来るならどうか他の案をヨロシクッス!」

「やれやれ、何ともまあ我侭な子分だなぁ。仕方ないな、もう少しだけ考えてあげるよ。名前で苦労する気持ちは分からないでもないし。……じゃあ、う~ん―――“カニ”で」

「それはそれで普通にイヤな上に何やらとんでもなくマズイような気が!そこはかとなくどっかの誰かとモロ被りな気がするッス!」

「えーと、じゃあ“カマ”が良いのかな?ちなみにキミがそれを望んだとしても、私の方から断固拒否させて貰うよ。名は体を表すって言うし、もしホントだったら洒落にならないしね」

「望まないッス!カマじゃないッス!このばいんばいんのないすばでぃがボスには見えないんスか!?」

「生憎とナイスバディは見えないね」

 きょにゅーと読んで、虚乳と書く。

 目の前に突き出された、控え目に言って控え目な胸を冷たい目で見ながら、ねねは全力で投げ遣りな調子で口を開いた。

「あーもう面倒くさいなぁ。カニもカマもカニカマも駄目なら無事なパーツがエの一文字しか残ってないじゃないか。もうそれならいっそ長音符でも付けてエーとでも呼ぶしかないね。よし決まった、これからキミのことは子分Aと呼ぶとしよう。うんうん、素敵な渾名が貰えて嬉しいでしょ?」

「嬉しくないッス!一周してるッス!……うぅ、自分はゼッタイ、子供にちゃんとした名前を付けてあげるッス……この哀しみの連鎖は自分の代で断ち切るべきッス」

 哀愁漂う呟きの内容は、全力で同意せざるを得ないものだった。私もまた、親の気分に人生を否応無く歪められた被害者の一人なのだから。大体、小杉って。姓が武蔵だから小杉って。出オチにしかならない駄洒落で一生付き合わなければならない名前を決められる私の気持ちを想像した事があるのだろうか。見ればねねも神妙な顔で物思いに耽っている。そういえばコイツも名前のお陰で“ご主人”に延々とネコ呼ばわりされている様だし、何か思う所があるのだろうか。全く、業が深い。

 私達が揃って暗い顔で沈み込み、1-S教室の中央に魔の三角地帯を形成していると、再び教室の戸が開け放たれた。先程よりも乱暴な開け方だった所為か、教室中の注意が一斉にそちらへと向いた。私とねね、そして子分Aも詮の無い思考をどうにか打ち切って、視線を動かす。

「ギャハハハッ、お邪魔しちゃいますよぉ~っと!」

 ゴリラが戸口に立っていた。

 というのは勿論のこと比喩表現であって、現実はゴリラと見紛うような色黒でデカくて筋骨隆々の女子生徒が立っていた、と形容するのが正しい。流石に本物のゴリラが登校している高校など有り得ないだろう。仮にそんな事が有り得るなら、着ぐるみやロボットと一緒に登校する羽目になってしまってもおかしくない。いかに川神学園に奇人変人の類が多いとはいえ、一応は生徒全員が暦とした人である。うん、多分。

 ゴリラのような女子生徒(もうゴリラでいいや)は戸口からジロジロと1-S教室内を睥睨して、そして中央にふんぞり返って陣取るねねの姿を捉えると、ニタリと獰猛な笑みを浮かべながら机の前へと歩み寄った。更にゴリラの後ろから続けて教室に入ってきたお供らしき二人の女子生徒(猿似)が追従して、ねねを取り囲むように立つ。

 その段階に到って、ようやくねねは動きを見せた。動いたと言っても、いかにも気怠そうな表情でゴリラ達の姿を一瞥しただけだったが。

「大体見れば分かるけどさ、私に何か用かな?ひとまず、私は自分の領地(クラス)に無断で踏み入られるのは非常に遺憾だって事だけは先に伝えておくよ」

「あ?あぁなるほど……ってぇ事はやっぱりテメェが1-S委員長の明智っつーワケ?へっ、色々とオモシレー噂が流れてるからどんなヤツかと思ったけどよ、まるでガキじゃんか。ぎゃはは、こんな貧弱なクソチビが一年シメようとかマジウケルんデスけど!」

 ゴリラが野太い笑い声を教室に響かせると、取り巻き二名も不快な笑い声で唱和する。ふと見れば、一歩引いて様子を見守っていたねねの子分ABCDは全員が揃って天井を仰ぎ、ああこいつら終わったな、と早くも彼女たちの冥福を祈っていた。かくいう私もまあ、同じような気分である。ねねはと言えば、感情の読み取り辛い薄ら笑いを浮かべながらゴリラ一行を見ているが、その目の温度はどう考えても人間に対するモノと言うよりは、屠殺場の豚を見るそれに似通っていた。

「生憎だけどね、私は“S組”っていう選ばれたエリートが集うクラスのリーダーであって、キミ達みたいに下等で無能で無価値な、哀れむべき人種と交わすような言葉なんて持たないんだ。という訳で、用件があるなら手短に頼むよ。チョコスティックパンとミルクの織り成す心地良い旋律が今か今かと私を待ってるんだから、時間をドブに捨てる真似はしたくないんだよね」

「……上ッ等じゃねぇかよクソチビが!真剣で“キレ”ちまったよ……そこまで言うからにはトーゼン受けて立つんだろうなぁ――決闘だゴルァ!」

「はいは~い。ほいっ、とな」

 威嚇するように猛烈な勢いで机にワッペンを叩き付けたゴリラとは対照的に、ねねはいかにもやる気の欠けた掛け声と共に無造作に放り投げる。

 そして、二つの校章が机の上で交差し――両者の温度差はどうあれ、今ここにまた一つ、新たな決闘が成立した。

「で、決闘ルールはどうするのさ。直接戦闘だったらまた学長を呼んでこなきゃだけど、そろそろ決闘自体にストップ掛けられそうでイヤなんだよね。この前呼び出した時も微妙に説教食らっちゃったしさぁ」

「へっ、心配いらねぇっての。アタイがこれから提案するのは戦闘じゃねーからな」

「ほうほう、それはなかなか興味深いね。その見た目でまさかまさかの頭脳戦を仕掛けてくる、っていう奇を衒った展開だったら私もそれなりに燃えてくるものがあるよ、ゴリラの如き外見に内包された精密なる頭脳!いいね、これぞギャップ燃えってヤツだ」

「誰がゴリラだゴルァ!アームレスリングで勝負しろっつってんだアタイはァ!」

 キレ気味の怒鳴り声を受けて、ねねは露骨に白けた顔で、ぐでり、と背もたれに身を預けた。

「あ、うん、腕相撲ね……やっぱ見た目通りの脳筋か。いやぁ、キミって見事なまでに意外性も面白味も皆無だね。そんなので生きてて楽しいの?」

「さっきから黙ってりゃグチャグチャうるっせーんだよてめぇ!何だエリートさんよぉ、まさかアタイにビビっちまってんのか、あぁ?ぎゃははは、別に逃げたきゃぁ逃げてもいいんだぜぇ?」

「あーはいはい、腕相撲でしょ?ルールが決まったならさっさと済ませようよホント。ま、その点で言えば、キミはいい選択をしたね。腕相撲なら勝負に時間を食わないし、学長も呼び出さずに済む。うんうん、キミには分不相応なくらい賢い案だ。さて、早く座りなよ」

 言いながらアイコンタクトを飛ばすと、子分Aが無駄に素早い反応速度で適当な椅子を見繕って、ねねの机の向かい側に設置した。そこに傲然と腰掛けながら、ゴリラはニタリとほくそ笑んでいる。不躾な視線の向かう先には、ブレザーに隠されていても一目で分かる細腕があった。なるほど、ねねの得意とする足技の出る幕の無い、卓上の格闘技というステージでの勝負ならば自分に有利と踏んだのか。姑息というか何と言うか。自分の圧倒的優位を疑ってもいないらしいゴリラの勝ち誇った表情を傍目に眺めながら、私は黙々と焼きそばパンを噛み千切った。うん、美味い。

「審判は自分が務めるッス!合図と同時に始めて下さいッス」

 机を挟んで対峙する二人は黙って頷くと、それぞれの右腕を机上に載せた。ゴリラが脅しつけるようにバキボキと指を鳴らしてみせているが、ねねは完全に無反応だった。先の宣言通り、もはや語る言葉は尽きたという事だろう。そもそもゴリラの方を見てすらいない。そんな相手を見下しきった態度が当然お気に召す筈もなく、ゴリラは怒りを抑えようともせず表情を歪め、ギリギリと歯を軋らせた。

「カクゴしなよボスネコちゃぁん、もし一ヶ月くらい腕が使えなくなっても文句言ってくれんなよお?決闘中の不幸な事故ってヤツだ、ぎゃははっ」

「はいはい、子分A。ハリーハリー」

「了解~ッス。――それでは両者、構えッ!!」

 弛緩した空気を一瞬で引き締める、凛々しい声音を張り上げた子分Aに、教室中から驚きの視線が集まった。クラスの誰もが皆、アレのことはただのパシリだと思っていたのだろう。うん、他でもない私がそうなのだから間違いない。俄かに教室が厳粛な雰囲気に包まれる中、ねねとゴリラは手を組み合った。こうして重ねて比べてみるとサイズの差は明らかで、ねねの手はほとんどゴリラの掌中に覆い隠されるような形になっている。

 さーて何秒で終わるかな、と口の中で紅ショウガを噛み締めながらぼんやり考えていると、

「―――はじめっ!」

「ぎゃあああああああああああっ!?」

 紅ショウガを胃袋へ落とすよりも先に、勝負は終わっていた。

 子分Aが語気鋭く告げた開始の合図と同時、手の甲が凄まじい勢いで机に叩きつけられ、ごきゃり、と猛烈に嫌な音を教室中に響かせる。それはまさしく一瞬の出来事で、周囲のギャラリーを見る限り、何が起きたのか認識できていない者もそこそこいるようだ。全く、仮にも私と同じS組生だろうに、情けない事だ。

 まあ過程が分からずとも、結果は誰の目にも明らかである。無事な左手で右手を抑えながら、床を転がり回って悲鳴を上げながら悶絶しているゴリラと、嗜虐的な笑みを浮かべながら冷然とそれを見下しているねねの姿が、そのまま勝者と敗者の間を隔つ絶対的な壁を示している。

「ごめんねぇ。一ヶ月と言わず二・三ヶ月は腕が使えないかもしれないけど、文句は言わないでね?決闘中の不幸な事故ってヤツなんだからさ。くふふ、あははははっ!」

 激痛に悶え苦しんでいるゴリラを眺めながら存分に愉しげな笑い声を上げると、不意にねねは醒めた表情に戻った。そして、オロオロとゴリラの傍で右往左往している取り巻き二名に冷酷な目を向ける。次は自分か、と悲惨な未来図を頭に描いたのか、二人組は瞬く間に顔色を青褪めさせた。

「身の程知らずの雑魚が無様に這い蹲る姿を観賞するのも、もう飽きちゃった。ギャーギャー喚いて煩いからさっさと片付けてよ」

「ひっ……!」

「どうしたのかな?心優しい私はお友達を一刻も早く保健室にでも連れてってあげなさいって言ってるだけなんだけど。ああ、もしかして保健室の場所がまだ分からないとか?まあまだ入学一月目だし、仕方ないかもね。それじゃ――子分BCD、出番だよ。さぁ皆さん、これよりお客様がお帰りになられますので、丁重にお送りして差し上げて下さいな。うふふふふっ」

 甘ったるい声音の命令を受けて、BCDは普段以上の恐怖に駆られた面持ちで迅速に動いた。ゴリラ一行を取り囲み、追い立てるようにして1-S教室から叩き出す。その様子を口元を吊り上げながら見遣って、ねねは心の底から愉快そうに哄笑した。

「あはははは、畜生は自分の巣に引っ込んでるのがお似合いだよ!下等な獣の分際で私達と対等に口を利こうってだけでも十分すぎるほど図々しいのに、あまつさえ決闘だなんて――思い上がりにも程があるね。全く信じられない愚劣さだ。類人猿が人間の群れに混じってるとしか思えないよ。うふふふ、キミ達もそうは思わない?」

 ねねが教室を見渡しながら問い掛けると、追従するような笑声が一斉に湧き起こった。絶対的権力者たるクラス委員長への恐怖で、自分の意思とは関係なく笑っているのが半分。そして普通に共鳴して笑っているのが半分、といったところか。

 ちなみに私は後者である。これは差別ではなく、区別だ。知恵を用いない人間など、畜生扱いされても文句は言えないだろう。ねねの力量を見定める機会はこれまで幾らでもあったと言うのに、それを確かめる事すらせず決闘を挑むなんて、あまりに馬鹿過ぎて言葉もない。アイツを相手に足技を封じた程度でどうにかなると、そこまで思い上がれる根拠はどこにあるのだろうか。ねねの奴が学園内でどのように認識されているのか、少し調べてみれば分かるだろうに。

――二年生最強は確実で、三年生の川神百代と肩を並べるとすら目されている転入生、織田信長。

 明智音子は、そんな怪物じみた存在の“手足”を任じられている女だ。一年生全体を征圧するという任を受けて、信長の代理として動いている。織田信長が地下世界を支配する大魔王ならば、明智音子は地上世界に派遣された魔王、といった所なのである。1-Sのクラスメートがねねを怖れる理由の半分近くは、背景に悪名高い先輩の存在がある事に由来していた。

 ちなみにねねの具体的な実力はと言えば、二年生のトップクラスとも真正面から張り合えるレベルで、このプレミアムな私ですら勝てなかった程だ。入学当初に比べて私が自信をほんのちょっとだけ失っているのは、まあ主にその所為である。例え二年生には及ばずとも、少なくとも一年生の中では最強だ、という自負を粉々に蹴り砕かれて、最近の私は些かブルー気味なのだ。ライバル認定したねねを除けば全ての決闘で余裕の勝利を収めてはいるのだが、しかし上を目指すならばこのままではいけない。

 やはりここは……私のプレミアム・プランを、何としても実現させなければ。

「――ああ、ところで子分A。全身から溢れ出るあまりの雑魚っぽさのお陰でプロフィールを確認する気も起きなかったけど、さっきの類人猿さんは何処のどなただったのかな?」

 騒がしさの去った教室にて、もそもそとチョコスティックパンを貪りながらねねが訊くと、子分Aはおもむろに制服のポケットから折り畳んだレポート用紙を取り出して、びっしりと書き連ねられた文字を目で追いながら口を開く。

「えーと確か、アレは1-Cの太田って奴ッスねぇ。見た目がアレなんであっちじゃ割と恐がられてたみたいッスよ。トレーニングジムに通うのが日課で、腕力には大層な自信があったみたいッスけど、へっへっへ、ボスに挑むとは命知らずの身の程知らずもいいとこッスね!」

「ふぅん。1-C、1-Cかぁ。……確か“黛”の娘が籍を置いてるのも、1-Cだよね?」

「ああ、有名な剣聖十一段の娘ッスね。1-C所属、黛由紀江。どうも入学式以来、クラスの誰ともつるまずに孤高を貫いているみたいッス。いつでも物凄い気迫で人を周囲に寄せ付けないって評判ッスよ。下手に近付いたら斬られそうだとか。いや~流石は剣聖の娘、有象無象とは馴れ合わないって事なんスかね」

「成程ね。成程。……黛由紀江、かぁ……どう転ぶにしても直接の視察が必要、だろうね。……まあ丁度いいか、これも私の仕事だし。よしっ」

 何やら考え込んでぶつぶつと呟いていたかと思うと、ねねは唐突に勢い良く立ち上がった。あまりの突然さに、対面に座っていた子分Aが「のおおおっ!?」という謎の奇声を発しながらビクッと仰け反ってそのまま椅子から転がり落ちていたが、薄情にもねねはそんな身体を張ったリアクションには一切反応せず、何故か私の方に向き直った。チョコスティックパンを咥えたままの立ち姿がやけにシュールだな、と焼きそばパンを咥えながら私は思う。

 数秒ほど黙々とパンを咀嚼して、嚥下して、パックのミルクで喉を潤すという三段階の行程を踏んでから、ようやくねねは口を開いた。

 ニタァ、と誰の目にも邪悪な形に歪んだ口元は、私に嫌な予感を与えるには十分なものであった。


「――そうだ、1-C、行こう。……ちょーっと付き合ってよ、小杉ちゃん」












 
 という訳で、次回に続きます。幕間なのに前後編とはこれいかに。
 ムサコッスが語り手の割に終始空気ですが、たぶんきっと次回で八面六臂の活躍をするんじゃ……ない、かな……?
 まじこいSに関してですが、色々なご意見ありがとうございました。皆様のご意見を参考に、取り敢えず幕間を書き終えて新章に入る前に結論を出したいと思います。それでは、次回の更新で。



[13860] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4373f8d
Date: 2011/09/03 13:40
 黛由紀江には友達が少ない。

―――というのは実のところ見得と願望の多大に入り混じった誇張表現で、残念ながら現実はもっと非情である。

 言い直そう。

 川神学園1-C所属、黛由紀江には、今日も今日とて友達が皆無であった。

「うん、このだし巻き卵、味が染みてて美味しい。鰤の照り焼きもほどよい甘辛さです」

『おうおう毎朝毎朝人知れず台所に立った成果バッチリじゃねーかよまゆっち。コレ真剣で世界狙えるんじゃねー?』

 もっとも、机の上に弁当箱と並べて置かれた木彫りの馬のマスコットを“友達”としてカウントしてしまって良いならば、また話は別だが。

 由紀江は常に肌身離さず持ち歩いている一心同体の相棒――松風に、自虐的な表情で言葉を返す。

「まあ入魂の弁当も食べてくれる人は世界どころか私一人だけなんですけどねフフフフフ」

『オラがいるじゃねーかまゆっち。オラ小食だから一緒に食べてはやれねーけどいつでも傍にいるんだぜロンリーベイベー』

「うぅ、ありがとうございます松風……私は挫けません。いつか自分以外の誰かの口から“この手作り弁当チョーまいうー!”と言わせてみせます!」

 古来より、人間という生物は未知なるモノを恐れ、敬遠することを生来の習性としてきた。それ故に、黒い馬型の携帯ストラップと腹話術で一人漫才を繰り広げ、正真正銘の日本刀を常に持ち歩いている、武士の如く精悍な顔付きの女子高生――という何とも奇怪珍妙極まりない存在を、1-Cのクラスメートの誰もが戦々恐々の面持ちで遠巻きに見守っていたとしても、それは至極当然の現象であると云えよう。

 しかしいつでも当事者だけはそんな“当然”に気付けないもので、由紀江は未だに自分が周囲に避けられている理由の大半を正確には把握していない。精々、口下手なのが悪いのかなーだとか笑顔を作るのが苦手だからなのかなーだとか、決定的にズレた方向に反省している程度だ。寮の自室で相棒の松風を相手に挨拶やトークの練習をしてみたり、姿見を前に笑顔の練習をしてみたり、はたまた出来る見込みもない友達に備えて手作り弁当を余分に用意してみたり、目的達成の為の涙ぐましい努力自体は欠かしてはいないのだが、それ以前に直すべき部分が色々とあるという歴然の事実に気付いていなかった。そもそもの友人がゼロと言う事で常識に沿った指摘をしてくれる相手もおらず、そんな訳で由紀江の夢見る壮大な“友達百人計画”は、入学以来、未だに一歩も進展していないのが現状である。嗚呼、輝ける未来は何処。

 こうして一人と一匹(?)で過ごす昼休みの時間も、既に二桁を越えている。よもやこのまま三桁の大台に突入するのではなかろうか、と由紀江が笑えないネガティブ思考に囚われ掛けているのも無理からぬ事である。育ちの良さを窺わせる上品な仕草で箸を置いて、どんよりと重苦しい溜息を吐く。

「はぁ。友達、欲しいなぁ……何がいけないんでしょうかね?」

『やっぱガッツじゃねーかなー。猛吹雪にも屈しない北陸娘の熱いハートってヤツをガンガン前面に押し出すべきじゃねーかとオラ思うんだ』

「熱いハートですか……」

 そう言われて思い出すのは、約一週間前の出来事。明智音子と、武蔵小杉――川神学園第一学年の中で最も生徒達の注目を集めている1-S所属の二人組の姿だった。彼女達が繰り広げた決闘の様子は、今でも由紀江の目に焼き付いている。正確には決闘内容そのものではなく、闘いを終えた後に向かい合った二人が交わした、熱く力強い握手。そして、それ以降に所々で見掛けるようになった二人の仲睦まじい姿は、由紀江の心に鮮烈な印象を残した。

―――闘争によって結ばれる絆。そういうモノは、確かに実在するのだ、と。

 そうだ。拳と拳をぶつけ合い、心と心で語り合った結果として育まれたものが、彼女達の友情なのだとしたら。人間関係においてどうしようもなく不器用で、人付き合いのイロハも知らない自分でも、或いは参考にする事が出来るかもしれない。そんな風に考えると、由紀江は“実力を隠し通す”という、入学前に自分の中で固めた決心が揺らぐのを感じた。静かに目を閉じて、己の魂とも言うべき愛刀を収めた布袋を、両手でぎゅっと握り締める。

 “黛”は、武士の家系だ。先祖代々受け継がれてきた由緒正しい武家で、正しく名家と言って良い。実際、地元の加賀では高貴なる家柄として人々から大いに畏敬の念を向けられている。何より黛家当主である由紀江の父は、僅かでも武に関わる者であれば知らぬ者などいないと断言出来る程の、まさに稀代の剣客と云うべき武人であった。“幻の黛十一段”“剣聖”――日本国内に留まらず、世界規模で其の名声は鳴り響いている。

 そして、父の偉大なる才能は、血を受け継ぐ由紀江にも如実に顕れた。両親の温かくも厳格な教育指導の下、見事に剣の資質を開花させた由紀江は、類を見ない早熟さで腕を上げていった。同年代の子供達はおろか、大人の剣客ですら太刀打ち出来ない域に到るまで、さほどの時間は要さなかった。

 だが、だからこそ――周囲の子供達は、気付いてしまったのだろう。黛由紀江という少女が“自分達とは違う”という事に。元々、地元の名士の令嬢という事で近寄り難い存在であった上に、他でもない由紀江自身の能力もまた異質となれば、皆が敬遠するのは当然だったのかもしれない。常にVIP扱いだったので迫害を受けるような事こそなかったが、幾ら望んでも欲しても、友達は一人も出来なかった。小学校でも中学校でも、ずっと孤独に耐え忍んできた。

 だから、変えようと思ったのだ。故郷の北陸を遠く離れれば、名士の令嬢として地元の人々に敬われる事はないだろう。剣聖の娘という肩書きだけは何処までも付いて来るだろうが、偉大な父は間違いなく自身の誇りなので気に留める必要はない。あとは剣士としての並外れた実力を隠しさえすれば、ごくごく普通の女子高生の誕生だ。余計な色眼鏡を通さず、由紀江自身を見てくれる友達も現れるに違いない。もしそうなったら、沢山の心許せる友達に囲まれて、今度こそは光輝く花の学生生活を満喫しよう。

――という希望に満ちた妄想は脆くも打ち砕かれて久しいのだが……だからと言って自暴自棄になっていては仕方がない。隠している実力を安易に表に出せば、元の木阿弥だ。まだ残っている希望すらも完全に息の根を止めてしまう結果になるかもしれない。しかし逆に、1-Sの二人の例に見られるように、培ってきた武を通じて心を通わせる友人を得られるかもしれない。

「あああぁ悩ましい……松風、一体私はどうすれば!?」

『まさに人生の分岐路だコレ。ここでうっかり選択肢ミスっとそのままぼっちEND直行の予感~。考えろ考えろマユガイバー!』

「むむむむむっ」

 虚空を睨みつけて苦悩する由紀江は知らず知らずの内に眉間に皺を寄せ、目を刀刃の如き鋭さで光らせていた。全身より溢れ出る猛烈な気迫に周囲のクラスメート達が怯えて避難を開始していたが、やはり当人はまるで気付いていない。

――1-C教室の戸が、外側から無造作に開かれたのは、そんな折であった。

 はっ、と周囲の生徒達が一斉に息を呑む音によって懊悩から現実へと引き戻されて、つられる様に彼らの視線を追った由紀江は、思わず目を見開く。

 教室の戸口に立っているのは、今まさに脳裏に描いていた二人だった。クラスメートを下僕扱いして傍若無人の限りを尽くしていると噂の悪名高き1-S委員長・明智音子と、そんな彼女と対等に口を利ける唯一の友人と噂される生徒・武蔵小杉。その彼女達に加えてもう一人、何故か笹の葉を口に咥えた長身の女子生徒が、やたらと威張るように胸を張って1-Cの生徒達を威嚇している。こちらは由紀江の知らない人物だ。

「うふふふふ、御機嫌よう、1-Cの愚民ども。お邪魔致しますわ、小汚いところだけどお構いなくゆっくりしていくよ」

 1-Sに君臨する暴君の突然の来訪に当惑し、揃って硬直している1-Cの生徒達を見渡しながら、明智音子は鷹揚に言い放った。その口元に浮かぶ嘲るような冷笑と、細められた双眸に宿る怜悧な光が、非友好的な雰囲気をこれでもかと醸し出していた。どのように対応すべきか計りかねて、クラスの誰もが来訪者から目を逸らし、顔を俯けて黙り込む。自然の内に、シーン、と凍り付くような寒々しい静寂が広がった。

「やいやい愚民ども!こうして我らがボスが直々にお出ましになったってのに、シカトぶっこくたぁイイ度胸ッスね。そんな舐めた態度取って、泣いたり笑ったり出来なくされちゃっても知らないッスよ!ボスに!」

「いやそこは自分でやるべき所でしょ普通は。虎の、いや猫の威を借る狐ってトコ?見事なまでに雑魚っぽさ丸出しね……。なんでアンタがそこまで威張れるのか理解に苦しむわ。カニカマのクセに」

「カニカマ言わないで下さいッス!名前は関係ないッス!つーか万が一ヨソのクラスでそのハイパー不名誉な呼び名が広まっちまったらどう責任取ってくれるんスかムサコッスの姐さん!」

「ムサコッスも姐さんもやめろっつってんでしょーが!ははーん、どうやら子分Aの分際でプッレ~ミアムなこの私に喧嘩売ってるようね。上等じゃない、その喧嘩プレミアムに買ったわ!」

「望むところッス!不肖この可児鎌慧、例え相手が武蔵の姐さんと言えど、ボスの横暴以外の理不尽には断じて屈しない所存ッスよ!」

「――キミ達さぁ、いい加減に黙らないとそろそろ真剣で黙らせるよ?私はわざわざ身内の恥を晒す為に余所のクラスまで出向いたワケじゃないんだからね」

 1-Cの生徒達を置いてけぼりにしてコントじみた騒ぎを始めた二人を殺人的な目付きで睨みつけて一息に黙らせると、ねねは当然の権利を主張するかの如く悠々と教壇に立ち、そこから1-C全体を見下すようにして傲然と睥睨した。

「さて、有象無象と言葉を交わしたところで何も始まらないし、時間の無駄だ。ここはさっさと代表を出して貰おうかな。1-C委員長の、えーっと……名前は何だったかな、子分A?」

「へいへい、ちょいとお待ちを。1-Cの委員長は……っと。あ、そうだそうだ、芹沢進ってヤツッスね。どれどれ、身長172センチ体重60キロ、趣味は読書と音楽鑑賞。好物は豚骨ラーメン。へっへっへ、そんでもって好きな女子は同じ1-Cの―――」

「うわぁあぁっ!やめてくれ、後生だからやめてくれ!てか何で知ってるんだよそんなコト!?」

 ニヤニヤしながらレポート用紙を読み上げる鎌慧を遮るように絶叫しながら、一人の男子生徒が椅子を蹴っ飛ばして立ち上がる。眼鏡以外は取り立てて特徴の無い地味な少年で、由紀江はまだ彼と言葉を交わした事は無かった。もっともそれは大概の生徒が当て嵌まってしまうという悲しい現実はさておき、『真面目そうだから』という適当な理由でクラス委員長に祭り上げられてしまった芹沢少年は、哀れにもその押し付けられた肩書き故に邪悪な悪魔に目を付けられる羽目になったのである。鎌慧は手に携えたレポート用紙を得意げにちらつかせて、にんまりと満面の笑みを浮かべた。

「へっへっへ、自分のプロファイル能力を甘く見て貰っちゃ困るッスよ。この学園に関わる事で、自分に調べられないモノなんてほとんどないッス。“魍魎の宴”なるえっちぃ秘密の会合の存在も、君が毎度毎度ハッスルしてそれに参加しちゃってる煩悩まみれのムッツリ君だって事もバッチリハッキリ知ってるんスよ?」

「わかった!わかったからもうやめてくれ!僕の社会的ライフはもうゼロだから!」

 必死の形相で叫ぶ芹沢少年の姿に、“魍魎の宴”って何だろう、と由紀江は内心首を傾げる。今まさに吊るし上げを食らっているクラス委員長以外にも何人かの男子生徒が顔色を青褪めさせているところを見ると、取り敢えず碌でもない会合の類であることは間違いないのだろうが。

「まあ子分Aはともかく、私はキミなんかの個人情報には欠片も興味無いから安心しなよ、1-C委員長。さて、1-S委員長たるこの私が、わざわざキミ達みたいな低脳連中の巣窟に足を運んだ理由、キミには判るかな?」

 嬉々としてネズミをいたぶる猫を思わせる、嗜虐的な眼差しで芹沢少年を見据えながら、ねねは謳うように問い掛ける。

「そ、そんなコト知らないよ。僕に判る訳ないじゃないか……」

「ふぅぅん?へぇ、そう。まあ、最初から期待はしてなかったけどね。無能に何かを期待するほど理に適わない事は無いんだからさ。――解答が分からないお馬鹿さんなキミの為に、温厚篤実な私が正解を告げてあげるとしようかな。あのね、キミ達のクラスに太田何とかって生徒がいるでしょ?ゴリラみたいな」

「うん、確かに太田さんはウチのクラスだし、言われてみればゴリラにとても似てるけど……それが何か?」

 大人しい顔して結構言いますねこの人、と由紀江は内心で冷や汗を垂らした。クラスメートなので当然だが、太田という女子生徒には覚えがある。鍛えた肉体を周囲に見せびらかし、取り巻きを連れて傍若無人に振舞っていた。なるほど思い返してみれば確かに、記憶に残る姿はゴリラそのものだったかもしれない。

「実はさぁ、さっきそのゴリラ御一行が何の断りも無く1-Sに侵入してきたんだよねぇ。私の神聖な領地に汚い足でズカズカと……それだけでも十二分に許しがたい所業なのにさ、加えてあのゴリラときたら、クラス委員長たるこの私を口汚く侮辱してくれたんだよ。事もあろうに、人様の身体的特徴をあげつらって耳障りな笑い声を上げてくれたんだ。それだけに留まらず、身の程を弁えず私に決闘を申し込んでくる始末さ。やれやれ全く、もはや笑うしかないね。これはもう1-Sへの立派な宣戦布告だと受け取っても仕方ないでしょ?という訳で、私自ら敵地たるこの教室へとこうして足を運んだという事さ。どうだい、私の懇切丁寧な説明で、キミの足りない頭脳でも理解が及んだかな?」

「わ、分かったけど……そんなの、太田さんが勝手にやったことじゃないか!どうしてそれで僕が責められなきゃいけないんだよ!」

 半ば悲鳴の如き1-C委員長の訴えに、ねねは酷薄に目を細めた。心底くだらないモノを見るような、ぞっとするほど醒め切った眼。

「……ハァ。私はキミ達の事を無能だ低脳だとは常々思ってたけど、正直言って想像以上だよ。ねぇ、キミはそれでも1-Cのクラス委員長なの?委員長っていうのはすなわちクラスのリーダー、一群の主なんだよ?クラスメートの行動にある程度の責任を持つのは当然じゃないか。手綱を取れずに放置していたって言うなら尚更ね。ゴリラに関しては私直々に然るべき制裁を与えてやったけどさ、それ以前にこんな事態が起きないよう未然に防ぐのがキミの役割じゃないの?お陰でお宅のゴリラさんは骨折り損のくたびれ儲けだよ――“文字通りに”ね。くふふ、あはははははっ」

 愉快げに哄笑するねねの台詞に、生徒達は不安げな面持ちで教室を見渡した。話題に挙がっている太田の姿が見当たらない事に気付き、1-S教室で彼女の身に降り掛かったであろう災難を想像して、再び顔色を青くする。芹沢少年はますます縮み上がりながら、蚊の鳴く様な弱々しい声で反論を試みていた。

「いや、でも……僕はただ押し付けられただけだし、それにたかがクラス委員長にそんな」

「――まぁ、そもそも私の言ってる事を理解できるような人材の集まったクラスなら、何の覚悟も心構えもない人間をリーダーに据えたりしないか。仕方ないよね、所詮凡俗のキミ達は、選ばれたエリートの私達とは違うんだから。人間誰しも無能である権利を生まれ持ってる訳だし、余計な口出しはやめよう。私がキミ達に言いたいのはね……目的意識のない、掲げるべき志の欠如した無知蒙昧な愚民どもは、黙って私達に従うべきだってコトさッ!」

 教壇の上で大仰に両手を広げて見せながら、明智音子は揚々と嘯いた。胸の前で両腕を組んで、今まで黙したまま話を聴いていた体操服の少女――武蔵小杉が、続けて口を開く。

「私達には野心がある。人の上に立とうって気概がある。そして何より、それを現実に成し得るだけのプッレ~ミアムな“実力”があるワケ。アンタらが何の目的もなく惰性でダラダラ生きてる間に、努力を重ねて身に付けた力が、ね。アンタら如きと同列に見られると、こっちとしてはイイ迷惑なの。わ・か・る?」

 胸中に抱く優越感とプライドを嫌というほど感じさせる語調で、嘲る様に言い放つ。

 そして三人目、可児鎌慧は先程までの小物っぽい雰囲気を欠片も思わせない、凛とした表情で1-Cを見渡した。

「結局、弱肉強食がこの世の理なんスよ。この川神学園に籍を置いてる限り、学生だろうと例外じゃないッス。その考え方に文句を付けるって言うなら、幾らでもある高校の中からわざわざここを選んだのは何故ッスか?“競争”こそがこの学園の基本ルールだってコトくらい、入学前からちゃーんと判ってた筈ッスよ?自分にしてみれば、君達みたいにちっとも自分を磨こうとしない連中の方こそ理解できないッス。ちぃっと気に喰わないんではっきり言わせて貰うッスよ。―――意志が無いなら、逆らうな」

 あたかも白刃で斬り付けるような鋭い言葉が、教室の隅々にまで浸透する。

 それは、紛れもない暴論だった。1-Sの三人が論じた、エリートの傲慢そのものと云える物言いに心底から納得し、同調している者など皆無だろう。大なり小なり、クラスメートの殆どが何かしらの反感を覚えている筈だ。

 しかし――反論の声は、上がらない。委員長を含め、誰もが悄然と顔を俯かせ、押し黙っている。

 理由は、あまりにも単純明快。彼女達が、“強い”からだ。教壇の上に傲然と構えているエリート達が、1-Cクラスの誰よりも優れているから。そこに立っているだけであらゆる反論を封殺出来てしまえるほどの、正真正銘の強者だからだ。下手に逆らえば、クラス委員長の如く、秘匿すべき個人情報を大衆の前で剥き出しにされてしまうかもしれない。或いは帰って来ない太田の如く、圧倒的な暴力の餌食にされてしまうかもしれない――そんな目に見える未来図への恐怖が生徒達の反抗心を抑え付け、各々の身体を椅子に縛り付けているのだ。

 黛由紀江もまた、同じ。膝の上できゅっと両手を握り締めて、ただただ沈黙を守ることしか出来なかった。

 同じく“力”を所有する者として、彼女たちの独善的な思想が正しいとは思わない。しかしだからと言って、ここで立ち上がり、敢然と反論を述べることが何になるのだろう。確かに、由紀江の力――隠し通してきた武力を以ってすれば、彼女達を無理矢理に捻じ伏せて、1-Sへと追い返す事は可能だろう。父より受け継いだ武には確かな自信がある。由紀江の見立てでは、壇上の三人ともが間違いなく平均レベルを越えた武人だ――特に中央に立つ明智音子という少女は、隙の見当たらない立ち振舞いからしても、学生の域に留まらない相当な実力者である事が窺えた。しかし、それすらも凌駕するだけの武を磨き上げてきた自負が、由紀江にはある。或いは彼女たち三人を同時に相手取る事になっても、まず確実に切り抜けられる能力が――ある。

 だが、それを実行に移す事に果たして意味はあるのだろうか。理ではなく武を以って、力尽くで相手の意見を挫き、退けるという行為は、結局のところ彼女達の掲げる思想を肯定しているに等しい。そして何より――ひた隠しに隠してきた“力”を衆目に晒せば、由紀江はまたしても“異物”になってしまうだろう。ただでさえクラス内で孤立してしまっているというのに、この力までも露見してしまったら……きっと、誰も由紀江自身を見てくれる事はなくなる。独りになるのは、もう嫌だ。内より湧き出でる悲痛な心の叫びが、由紀江を強固に引き留めた。

 駄目だ。やはり他のクラスメートに倣って、口を閉ざしてやり過ごそう。

 本当にそれでいいのか、と胸の奥より湧き上がる疑問を押し殺して、そう心を決め掛けた時――視線を感じた。反射的に、顔を上げる。思わず、上げてしまう。

「……あっ」

 その瞬間――明智音子と、目が合った。感じた視線の主は、彼女だった。彼女はニヤニヤと口元に邪悪な笑みを貼り付けて、何かを見透かそうとするかのような鋭い目で、じっと食い入るように由紀江の顔を見つめている。え、あれ、なんで。どうしようもなく想定外の事態に、由紀江の脳内は一瞬にしてパニック状態へと陥った。一度バッチリと合ってしまった視線を逸らす訳にはいかず、真っ直ぐにねねの方へと顔を向けたまま、彫像の如く由紀江は硬直する。結果として生ずるは、一対一の火花を散らす睨み合い。

 奇妙な緊迫感に満ちた時間が数秒ほど続いてから、ねねはようやく視線を逸らした。その事実に安堵の吐息を漏らす間もなく――ねねは1-C生徒達に向けて、新たな爆弾発言を投下したのであった。

「さて、キミ達がこのまま何の反抗もせずに尻尾を伏せて黙っていたなら、1-Cは速やかに私達1-Sの支配下に収まって貰うところだったんだけど……どうやら全員が全員、己の意志を持たない木偶の坊だったって訳でもないみたいだね。やっぱりどれほど枯れ果てた不毛の土地にも人物は居るみたいだ――ねぇ、黛由紀江さん?」

「はぁうっ!?」

 唐突に読み上げられた自分の名前と、一瞬の内に全方位から突き刺さる視線に、思わず突拍子もない奇声が飛び出た。しかし、それも無理からぬ事だろう。何せねねの言葉を受けたクラスメート全員及び1-Sの二人が由紀江の方へと一斉に首を曲げて、多種多様な感情を込めた目を向けているのだ。盛大に混乱した由紀江の表情は、あたかも敵を眼前にした武人の如く精悍に強張り、目付きは抜き身の刃を思わせる様相を帯びてきているのだが、やはり当人は気付かない。

「さすがは剣聖・黛十一段の御息女、そんじょそこらの有象無象とは身に纏う気迫が違うね。そんな風に険しい目で睨んでくるって事は、やっぱりアレかな。座して私達の支配を受け入れる気はないという、無言の意思表示ってヤツ。くふふ、百の弁舌よりも一の眼力を以って雄弁な返答と為す――武士らしくて恰好いいじゃないか。私の領分とは違うけれど、そんな無骨さはキライじゃないよ」

「いえいえいえいえ!?えっとあのこれはそういうのとは違いましてですね」

『エマージェンシーエマージェンシー!超ヤベー予感がプンプンしやがるぜまゆっち!』

 ガタン、と立ち上がって全身のジェスチャーで否定の意を示そうと試みる由紀江であったが、そんな必死の弁明も、ねねは鼻で笑うだけだった。

「あはは、いまさらそんな風に道化を演じてどうしようって言うのかな?もう賽は投げられちゃったんだ。キミが一人の戦士として、不撓不屈の眼差しで私を射抜いたその瞬間に、ね。ここにきてジタバタするのは少しばかり見苦しいよ」

「あぅあぅ、松風、何やら致命的な誤解が発生してしまっています……」

『間違いねーぜ、この娘っ子、百%人の話聞かねータイプだ……ひょっとしてコレ詰んでるんじゃね?』

 由紀江が一心同体の相棒と悲観的な意見を共有している間にも、事態は容赦なく進む。ねねは教壇の上からアクロバティックに跳躍し、軽やかに身を翻して由紀江の目の前へと降り立った。そして、至近距離から顔を覗き込むようにしながら口を開く。

「キミがあくまで屈しないなら、私には1-Sの誇りに賭けてキミを打ち負かす必要性が生じてくる訳だけど――さて、武力に知力、財力に権力、体力に精神力、はたまた統率力なんて分野もあるね。どんな勝負をお望みかな?まあ愚問か、何と言っても世に名高き剣聖の娘なんだから、答えはわざわざ聞くまでもないよね」

「いえあのですから私はそんな」

「それじゃあお相手は1-Sクラス委員長たるこの私が――と言いたい所だけど。あんまりトップばかりが張り切り過ぎて見せ場を独占しちゃうと、組織が上手く回らなくなるんだよね。色々なしがらみの所為で自由気侭に動けなくなるのは統率者の辛い所だよ、全く。ってワケで、出番だよムサコッス~」

 おもむろに振り返りながら声を掛けると、武蔵小杉はムスっと不機嫌そうな顔で腕を組んだ。

「ムサコッスゆーなっての。う~ん、剣聖・黛十一段の娘……ネームバリューはプレミアムに十分。そういう意味では確かに私の相手を務めるに相応しいケドさ」

 小杉はねねに続いて由紀江の傍まで歩み寄ると、ジロジロと無遠慮な視線を寄越した。

「ふむふむふむ。んー、やっぱり何ていうか……いまいち覇気を感じないわねー。プレミアムな私の目から見て、あんまり強そうに見えないわ。“氣”もさっぱりだし。倒しても私の名前に箔が付くって程の大物じゃないみたいだけど」

「ええ、ええその通りです!私なんてまだまだ未熟でッ!貴女方の相手なんてとてもとても」

「うんうん、そうよねー。プレミアムに残念だわ」

 眼前の少女の如く武の嗜みがある者に実力を見抜かれない為に、意図的に“氣”を消すように常日頃から心掛けておいて本当に良かった、と心から安堵する由紀江であったが、ようやく見えた一筋の光明は、しかし続くねねの無慈悲な言葉によって儚く消え去る事になった。

「やれやれだねぇムサコッス、そんなだからキミはムサコッスなんだよ。“氣”の総量なんて、実力の指標の中では一番容易に誤魔化せるモノの一つじゃないか。実際、私だってやろうと思えばほぼ完全に消せるよ。異常に多いって言うならともかく、異常に少ないってのは何の参考にもならないさ。あはは、そんな曖昧なものを当てにしてる時点で武道家としての器が知れちゃうね。迷惑だから私の好敵手を名乗るのやめてくれないかな?」

「む、相変わらず好き放題言ってくれるわね……!いいわ、そこまで言うならやってやろうじゃない。例えアンタがその良く回る口で何を言おうが、私がプレミアムに勝利する結果は揺るがないって事を証明してやるわ!」

 拝啓、父上様。由紀江の友達百人計画はどうやら、入学一ヶ月目にして早くも泡沫の夢と消えそうです。

 るるる、と心中で滂沱の涙を流す由紀江であったが、諦念に支配されかけたその時、ふと新たな考えが首をもたげた。

 何もそこまで悲観的に考える必要はないのではないだろうか。勝負が避けられないとは言っても、それは別に実力を隠し通せなくなる事とイコールではない。戦うだけ戦って無様に敗北してしまえば、己の武力を衆目に晒す必要はないだろう。

 そうだ――戦いの際に自分が全力で手を抜きさえすれば、全ては解決するのでは?

「それです、それですよ松風!快心の一手ここにありです!」

『さっすがまゆっち冴えてんな~。死ぬっくらい手加減するだけでいいとかヤベー、これぞサルでも出来るカンタンなお仕事ってヤツ?』

 まさに天啓の閃きと言うべき発想に、由紀江は相棒と喜びを分かち合う。――目の前に第三者が立っていることを、見事に失念して。

「――ふ、ふふふ、随分と……言ってくれるじゃないの」

「え?」

『あ』

「死ぬくらい手加減?サルでもできる?――プレミアムにトサカに来たわ……。剣聖の娘だか何だか知らないケドさぁ」

 ブツブツと口から漏れ出るは、不気味に平坦な呟き。恐る恐る様子を窺えば、小杉は怒りのあまりかプルプルと小刻みに痙攣していた。これは間違いなく、誰がどう見ても完全に、キレている。

 これまで直接的な接触の無かった由紀江には知る由もない事であったが、武蔵小杉という少女は1-Sの誰よりもエリートとしてのプライドが高く、そして何より……短気だった。故に、公衆の面前で最大級の侮辱を受けたと認識中の現在、彼女の理性が吹き飛んだのは当然の帰結と言えよう。

「――この私をッ!ナめてんじゃないわよッ!!」

 その結果、決闘の申し込みやルール確認といった、段階を踏んだ手続きの一切を無視して――ただ溢れ出る激情に身を委ねて、小杉の体は動いた。一切の躊躇いを排除した武道家の動作は極めて迅速で、もはや誰かが止めに入る余地は無い。

 固めた拳は眼前の目標へ向けて真っ直ぐに突き出され、


「えっ――?」


 武蔵小杉は、宙を舞った。

 ぐるん、と空中で綺麗に一回転して、猛烈な勢いで床に叩き付けられる。

 人体と床のタイルの織り成す衝突音が高らかに響き渡り、そして……静寂。

 痛いほどの沈黙が、教室を支配した。誰もが、言葉を失っていた。

 今しがたダイナミックな空中演舞を披露した小杉は完全に伸びている様子で、床に倒れ伏したままピクリとも動かない。生徒達の視線はそんな彼女を捉えた後、恐る恐るといった調子で徐々に高度を上げて、“投げ”を終えた体勢のままで硬直している少女――由紀江へと向かった。

「………………あ゛」

 そこに到ってようやく、由紀江は自分が何をやらかしたのか、認識が追い付いた。面白い程の勢いで、さぁぁっ、と顔面が青一色に染まってゆく。

 話は単純明快だ。殴り掛かってきた相手の拳を避け、伸び切った腕を掴み、勢いをそのまま利用して投げを決めた。理屈で言えば何も難しい事は無い――問題は、その一連の動作に、由紀江の意思が介在していないという点に尽きる。

 既に色々と一杯一杯でパニック状態にあった由紀江は、思いがけずキレた小杉が繰り出した攻撃に思考が追いつかずに、頭脳がパーフェクトにフリーズしていたのだ。その結果――思考が働かずとも、幼少の頃から鍛え上げ、身体に染み付いた武は反射的に働きを見せ、襲い掛かる暴力に対して見事に自衛の任を果たしたのであった。ただし、武力の隠匿、という由紀江の意思をこれ以上なく無視する形で。

 目を閉ざし耳を塞ぎたいような心地で恐る恐る教室を見渡せば、やはりと言うべきか、ヒソヒソと生徒達が囁きを交し合っている。「オイ見たかよ今の」「やっぱり……」「素人の動きじゃないって」「まーね、剣聖の娘だし」「只者じゃあないとは前から……」周囲から次々と飛び込んでくる声の内容に、由紀江は今すぐ身を翻して教室から逃げ出したい衝動に駆られた。そんな事をしても既に取り返しはつかないという残酷な現実を知りつつも、これ以上この場に存在すること自体が耐え難かった。

「あっちゃあ、これはダメッスねぇ。武蔵の姐さん、見た感じ完全に気絶しちまってるみたいッスよ、ボス」

「んん、どれどれ?」

 絶望に打ち拉がれる由紀江を余所に、ねねは小杉の傍までズカズカと歩み寄ると、力なく横たわる身体をゲシゲシと容赦なく蹴り付けた。

「うん、無駄にプライドの高いコイツが足蹴にされて黙ってるワケないし、どうやら狸寝入りじゃないみたいだね。頭に血が昇り過ぎで受身も取れてなかったみたいだし、まあ無理もないかな。あーあ、やれやれだよ。ヨソのクラスにこのまま放置しておくのもアレだし、保健室にでも放り込んでおくとしようか。という訳で子分A、行ってらっしゃ~い」

「でも、ボスを敵地に一人残していくのは気が引けるッス……相手が相手だけに」

 チラリと由紀江の方に視線を寄越しながら、鎌慧は八の字に眉を下げて言い募る。

「あはは、英明闊達にして才気煥発なこの私に余計な心配は必要ないよ。それでもキミが心優しいリーダーの事がどうしても心配で心配で仕方ないって言うなら、三分で戻ってくれば良いだけの話さ。いつもみたいにね」

「……了解ッス!日々のパシリで鍛え上げた駿足を今こそ発揮する時ッスね!自分はやりますぜ、ボス!」

「あ、ちょ、ちょっと待って下さい!武蔵さんが気を失ってしまった責任は私にある訳ですし、頭を打ったならお身体も心配ですし、あの、その、わ、私も付き添いをッ!」

『オラに任せとけばまさに百人力だぜー。オラの馬力マジパネェからよ。北陸の黒いユニコーンつったらオラの事だし?』

 決死の覚悟で舌を動かしながら、ねねと鎌慧の間に割って入る。言葉通りに責任を感じているのは事実だが、それ以上に由紀江は、この何とも居た堪れない空気から一刻一秒でも早く抜け出す口実が欲しかった。今は間違いなく、その絶好の機会だ。しかしそんな由紀江の目論見は、例によって1-Sの小柄な悪魔によって打ち砕かれる事になる。

「ああ、大丈夫大丈夫、心配は要らないよ。小杉のヤツは例え殺したって死なないくらいに頑丈だし、保健室まで運ぶのも子分A一人で事足りてるからさ。腕力も耐久力も一級であってこそエリートを名乗る資格がある訳で、凡人の尺度で考えてくれなくても問題はないよ」

「いえですが、これは私の気持ちの問題と言うかですね――」

「それにさぁ。私ってば今まさに、キミという存在に興味津々なんだよね。ふふ、くふふ」

 ねねは食い入るような目で由紀江を覗き込みながら、不自然に弾んだ声を上げた。今しがたクラスメートの友人が倒されたばかりだと言うのに、そんな事はどうでもいいと言わんばかりの愉しげな態度で、三日月の如く口元を吊り上げている。

 玩具を拾った子供を思わせる1-S委員長の様子を目の前にして、由紀江は所構わず泣き出したくなるような気分で天井を仰いだ。

 
 拝啓、父上様。由紀江はどうやら、とんでもなく厄介な人に目を付けられてしまったようです。


「うふふ――次は私のお相手をしてくれなきゃ困るじゃないか、まゆっちぃ」











 




 まゆっちには勘違い系王道主人公の素質があると前々から思っていました。
 という訳で、またしても続きます。計画段階では前後編でさくっと終わらせるつもりだったのにどうしてこうなった。計画性ェ……。
 ムサコッスは噛ませ犬という生来の役割を果たした時点で立派な活躍を果たしたと言えるのだ、と主張しながら、それでは次回の更新で。


>瓶さん
 ご指摘ありがとうございます。
 ムサコッスの名前の由来に関しては完全に見落としていました……なるほど、そういう理由だったのか。
 しかしここまで散々DQNネームネタで使ってきてしまったので、今作中では開き直って独自設定でその路線を貫き通したいと思います。仰る通り、統一性も出ますしね。
 それとムサコッスの人を見る目ですが、主に同学年のねねに負けた事で自信を失い、少しだけ謙虚になった結果、僅かながら改善したと捉えて頂けると幸いです。とは言っても所詮は“僅か”なのでまゆっちの実力は見抜けず、ご覧の有様ですが。



[13860] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4373f8d
Date: 2011/09/04 21:22
『未知はいつだって最大の恐怖だ。お前もそうは思わないか?ネコ』

 私こと明智音子の主君、織田信長がそんな言葉を口にしたのは、彼の部屋にて肩を並べながら一緒に勉強に励んでいる時だった。

 普段、彼が集中すべき勉強時間の最中に、しかも自分から率先して私語をする事は滅多に無かったので、私は驚いたものだ。ルーズリーフにペンを走らせる指先を止めて、すぐ隣に座っている信長の顔に疑問の視線を向ける。彼もまたパタンと音を立てて参考書を閉じ、私に向き直った。

 本日の勉強会はこれにて終了、という事なのだろう。

『俺やお前のように計算を行動の前提に置く人間にとって、不確定要素ほど厄介なモノは無い。相手を知っていれば幾らでも事前に対処策を練る事は可能だが、知らなければどうしようもない――何の予備知識もなくぶっつけ本番、ってのは言うまでもなく俺が一番忌み嫌うパターンだな』

『それはまあ、私も同意するけどさ。どうしたの突然?何か電波でも受信しちゃった?』

『相変わらずナチュラルに失敬な奴だなお前は。俺は常に先の事を考えているだけだ。……俺は2-Sにおいて立場を確立し、2-Fとの勝負を通じて“織田信長”の脅威と威信を広く知らしめ、何より川神百代という凶悪過ぎる爆弾を一時的に除外する事に成功した。俺の目論見は概ねが上手く運んでいるが、そういう時こそ足下を掬われ易いってのが経験則だ』

『油断大敵って奴だね。勝って兜の緒を締めよ、とも言う』

『その通り。故に俺は、何か致命的な見落としがないか、改めて色々な事柄に思考を巡らせていた訳だが……結果として浮上してきたキーワードが、“黛”だ』

『黛、か。わざわざ確認するまでもないだろうけど、一応訊いておこうかな。それって只今絶賛1-C在籍中の、剣聖・黛十一段の娘のコトだよね』

『ああ。ネームバリューの割に一切動きを見せない辺りが気になる。織田一家が広げる戦乱にも無反応で、敵なのか味方なのかはたまた中立なのか、それすらも不明瞭ときたものだ。その沈黙が、どうにも不気味で仕方が無い。何せ黛由紀江のパーソナリティ……人格も実力もほぼ未知数だからな。事前に調査は行っているが、地元での黛家の影響力に妨げられて、どうにも不鮮明で要領を得ない情報しか得られなかった』

『で、だから、未知は最大の恐怖、か。それはまあ“剣聖の娘”だなんて中に何が詰まってるかも分からないビックリ箱、放置しておくのは怖いよね。中身をきっちり確認するまでは枕を高くして眠れない、ってワケか。成程成程』

『くくっ、お前はやはり話が早くて助かる。朝も早ければもっと助かるんだがな』

『それは諦めて貰うしかないね。私はきっと午前七時以前には起床できない星の下に生まれたんだよ。因果律の犠牲者なのさ』

『ま、お前のグータラな生活習慣を矯正するのは蘭の役割だから何も言わないさ。人には皆、各々の役割が在る。俺には俺の、蘭には蘭の。そしてお前はお前の役割を果たしてくれれば、それでいい』

『……役割、ね』

『何と言っても俺が見込み、蘭が認めた直臣だ。全ては、お前に一任する。――織田信長が“手足”として、俺の信頼に見事応えてみせろ、明智音子』


―――そんな遣り取りを交わしたのが、つい昨日の話。


 兵は神速を尊ぶ。時は金なり、である。与えられた仕事をただ漫然と達成するだけならば誰にでも出来るだろう。可能な限り迅速に、そして正確に与えられた仕事を達成する事が出来て初めて、“優秀な従者”の肩書きに値する。主君たる織田信長の頭を悩ませる問題を一刻一秒でも早く解決してこそ、彼の信頼に応えたと胸を張って言えるのだ。

 故に、かねてより計画していた1-C侵攻の切っ掛けが向こうから飛び込んできた時、私はそれに乗じる事を即断した。

 その結果が――現在の、この状況。

 C棟屋上の、青空の下に広々と開放された広場にて。私は屋上の片隅に立ち、転落防止用のフェンスに前傾姿勢で体重を預けながら、眼下に広がるグラウンドを見下ろしている。そろそろ昼休みの時間も終わりを迎える頃で、先程までサッカーや野球など思い思いのスポーツに興じていた生徒達の姿も、大体が消え去っていた。未だにしぶとく残って暑苦しい汗を流している面子は、遅刻による内申点の犠牲を恐れない猛者達なのだろう。要領が悪い人達だな、と呆れはするものの、そういう芯の通った馬鹿は嫌いではない。私の生き様とは見事なまでに正反対だが――だからこそ眩しく輝いて見える事も、ある。

「あ、あの、時計が狂ってなければ、あと二分ほどで授業が始まってしまいそうですよ?」

『屋上で授業ブッチとかちょっと古典的過ぎねー?ヤンキー街道突っ走るまゆっちはオラ見たくねーぞ』

「…………」

 背後から聞こえる声は、二つ。気配を探っても私の後ろにはただの一人しか立っていない筈で、そして私が口を開いていないのに何故か会話が成立している、というホラーじみた現象は、さてどう受け止めたものやら。これはもはや“個性”などという便利な言葉で片付けてしまって良い問題ではないような気もするが、まあそれは一旦置いておこう。下手をすると“彼女”があの先輩従者に負けず劣らずの奇人変人であるという事実は、1-C教室で会話を交わした時点で十二分に思い知っていた。彼女の奇態を前に平静を保ち続けるのに、私がどれほどの努力を払った事か。演技力はやはり大事なパラメータだと痛いほど実感した瞬間であった。

 黛由紀江――剣聖・黛十一段の娘。

 1-Cへの侵攻はあくまで、真意を覆う隠れ蓑。私の本当の目的は、彼女だ。

 全ては彼女の“未知”を解き明かし、恐怖を克服する為のものだった。所詮、1-Cは彼女に付属するオマケに過ぎない。彼らのような脆弱な集団の掌握など、私の能力を以ってすれば容易い事なのだから。

 そう、唯一の問題は、剣聖の娘。幾ら学生にしては優秀な諜報能力を有する子分Aの仕事と言えど、相手が相手だ。所詮は他人任せの調査報告だけでは足りない――私自ら動き、謎のベールに包まれた人格と実力を、どうしてもこの目で確かめる必要があった。それほどまでに、黛由紀江の重要度は高い。わざわざお上直々に指令を下してくる程なのだから、一年征圧を任じられた私としては真剣で取り組まなければならない案件なのだ。

 故に私は彼女を注意深く観察し、可能な限り情報を集めるべく努めた。弁舌を以って揺さぶりを掛け、彼女が自ら情報を開示する方向へと誘導した。同年代の中ではそれなりに高い武力を有する武蔵小杉をけしかけて実力を推し量り、何気ない対話を通じて人格と思想を分析した。

 そうして得られた情報を基盤に据えて、適切と思われる対処策を瞬時に構築。結果、このまま1-C教室の中で彼女と相対するのは得策ではないと判断した私は、ひとまず彼女を舌先三寸で丸め込んで、現在地――屋上の広場まで連れて来た。物見高くお節介なギャラリーが1-Cから幾人も着いて来ようとしたが、彼らに関しては軽く“説得”したところ快くお帰り頂けた。屋上で優雅な昼休みを過ごしていた先客達についても同様である。私が脳裏に描いた策を成就させる為には、確実に観衆の目が邪魔になるのだ。今後の為にも、“誰にも窺い知れない、二人きりの時間”が必要不可欠だった。そんな経緯があって――明智音子と黛由紀江は、屋上にて一対一で対峙している訳だ。何故か三人目の声が聴こえるのは、まあ気にしたら負けなのだろう。

 …………。

 彼女の人格に関しては、既に大体の所は掴めた。実力に関しても、上限は見えずとも下限は見えた。であるならば、これから私が為すべきは、“見極め”と“決断”。いずれも私の能力がダイレクトに試される、非常に重要なファクターだ。

――良いだろう、やってやる。私は、明智音子だ。魔王・織田信長の優秀な手足だ。他ならぬ私が、ご主人の足を引っ張ってたまるものか。

 頭脳が普段通りに回転している事を確認し、唇の内側を軽く舐めて湿らせる。

 最後に深呼吸を一回行ってから――私は爽やかな笑顔を形作りつつ、振り返った。











「あはは、いや~ゴメンゴメン。どうしてもキミと二人で話がしてみたかったからさ」

 屈託のない口調で言いながらこちらを振り返った明智音子の表情に、由紀江は心底から驚いた。

 先程まで1-C教室で常に湛えていた邪悪な笑みは影も形もなく消え失せ、代わりに明るく快活な笑顔が浮かんでいる。どこか悪戯っぽい印象を受けはするものの、粘り付くような悪意は少しも感じなかった。

 そのあまりの変貌っぷりに、由紀江が困惑と混乱の嵐に見舞われていると、遂に五限目の開始を告げるチャイムがスピーカーから鳴り響く。ねねは小さく苦笑を浮かべながら、口を開いた。

「あららら、始まっちゃったね。ま、年に何十回とある授業の内、一回くらいサボタージュしても許されるだろうさ。キミはいかにも品行方正って感じだし、普段は真面目に出席してるんでしょ?」

「えと、あ、はい……一応まだ遅刻欠席はゼロだと思います」

「だったら問題は無いね。私も日頃から規律をしっかり守ってるから余裕だよ。何よりエリートS組のクラス委員長って肩書きはそれなりに大きいんだよね~、内申的な意味で。ってなワケで問題解決!くふふ、一時間はゆっくりお話が出来るね、黛さん」

 やけに様になったウインクを飛ばしながら、ねねは楽しげに言い放つ。その言葉の意味を理解するのに、由紀江は数秒ほどを要した。

「あ、お、お話、ですか?」

『え、真剣で?オラてっきり“屋上までツラ貸せやコラ”な展開だとばっかり思ってたぜ』

 遡ること数分。不慮の事故でついうっかり武蔵小杉なる女子生徒を投げ飛ばしてしまった後、1-Sの二人が保健室へと向かうのと同じタイミングで、ねねは由紀江を連れて早々に1-C教室を出た。“人目があるとキミも何かと面倒でしょ?”と囁かれては、嫌でも従わない訳にはいかなかった。実際、クラスメート達の向ける好奇の視線から逃れたかったのは確かなのだから。

 そうして二人が向かった先はC棟の屋上で、到着と同時にねねが漏らした“ここなら余計な邪魔も入らないかな”という呟きを耳にした時、由紀江は闘いを申し込まれる覚悟を決めたのだ。しかし――“お話”?

「んん?ああ、確かに誤解を招くような発言をしちゃったかもね。“お相手をしてくれなきゃ困る”とか何とか。あはは、別にムサコッスの敵討ちをしようとかそんなつもりはこれっぽっちもないから安心しなよ。それに……私はちゃんと身の程ってものを弁えてるからさ。勝算が皆無と分かってる相手に喧嘩を売るほど、私は主人公キャラじゃないからね」

 ニヤリ、と悪戯っぽく笑いながら言うねねに、由紀江はあたふたと手を振りながら弁明を試みる。

「いえいえいえいえ、勝算がないだなんてっ!明智さんほどの武人を相手に、未熟な私如きが――」

「あーダメダメ、それ以上言っちゃうとただの嫌味になっちゃうよ?何せ私は、キミが実力を隠してる事も、その実力が私より格上だって事も既に確信済みなんだからさ。そんな風に完璧なレベルで“氣”を隠せる時点で相当な腕であることは判るし、歩き方一つとっても強者ってのは自然とソレと知れちゃうものだからね。足取りに重心の移りに……ここに着くまでずっと観察してきて、改めて確信したよ。小杉のヤツに掛けた見事な投げ技も併せて考えると、たぶん体術のレベルだけでも私と同等かそれ以上。で、かの有名な“剣聖”の娘さんがまさか剣を用いない筈もないから――武器の使用まで含めた総合的な実力で言えば、私じゃ到底及ばないだろう、ってね。ま、私の目じゃ具体的な力の差までは読み取れないし、あくまでその刀が飾りだってキミが言い張るなら話は別かもしれないけどさ」

 由紀江の携えている布袋にちらりと視線を遣ってから、ねねは確信の光の宿った目で由紀江を見つめた。その惑いの無い真っ直ぐな眼差しを受けて、ああ、これは誤魔化せないな――と、由紀江は観念する。

 元より、由紀江の擬態はお世辞にも完璧と呼べるような代物だった訳ではない。肉体に内包する“氣”を隠匿する事は比較的容易でも、長年の鍛錬の成果で身に付いた各種の身体捌きを覆い隠すことは至難の業だ。鋭敏な観察力を有する武人の目に掛かれば、ある程度の実力が推察されてしまうのは避けられない。実際、三年生の武神・川神百代などは、たまたま廊下で擦れ違った際、一目で由紀江の力を見抜いていた節がある。ましてや1-C教室にて無意識の内に体術を披露してしまった以上、確かな実力者の一人であるねねに見抜かれたのは当然とすら云えよう。完全な一般人を装うのはそれほどに難しい事なのだ。

「ふふ。反論が無いって事は、認めるんだね?」

「あぅあぅ、騙すような事をして申し訳ありません……」

 事情があったとはいえ、彼女を謀っていた事は紛れもない事実だ。

 謝罪の念を込めて深々と頭を下げると、さも可笑しそうな哄笑が耳朶を打った。

「あははは!いやいや黛女史、そんな事で謝る必要はぜんぜん全くこれっぽっちもないよ。ちょーっと些細な嘘を吐いてたくらいで謝らなきゃいけないなら、私なんて今すぐ四方八方に土下座の嵐だね。おおこわいこわい。……私みたいな“嘘吐き”にはさ、キミを責める資格なんて初めからないんだよ」

 朗らかに言い切ったねねの言葉は、由紀江が先程から感じていた違和感の正体と結び付いた。1-C教室で傍若無人に振舞っていた彼女と、今こうして自分と会話を交わしている明るく陽気な彼女。口調こそは同じだが、雰囲気はほとんど別人だ。その理由は――

「教室でも言ったでしょ?色々なしがらみの所為で自由気侭に動けなくなるのは統率者の辛い所だよ――ってね。さっきまでの私の態度や振舞いは、言わば余所行きの仮面なのさ。クセの強い1-Sの連中を纏め上げ、第一学年全体をスムーズに掌握する為に最適だと考えられる性格を、演じているに過ぎないんだ」

「仮面……性格を演じる、ですか」

「そ、だから“嘘吐き”。いや~、ここだけの話、結構疲れるんだよねアレ。私としてはもっとダラダラと怠惰で気侭な学園生活を謳歌したいんだけど、何せ1-Sのリーダーがそんなのだと周囲に示しが付かないからさ。已む無し泣く泣くってワケだよ。という事で、キミにはさっきまでの私を本当の私だと思って欲しくはないんだよね~」

 それはつまり、にゃはは、と気楽に笑っている今のねねこそが、“本当の彼女”という事なのだろうか。

 そう言われてみれば確かに、現在の彼女は全くの自然態のように思える。作り物めいた部分は、由紀江には一切感じられない。となると――先程までの悪意に満ちた言動と行動の数々は、演技だったのか。今自分の前に晒している陽気で屈託のない素顔を押し殺して、敢えて憎まれ役を買って出ているという事なのか。

 もしそうだとするならば、何故?

「あ、あの、明智さん。一年生を掌握すると仰りましたけど……どうしてそんな事を?こうして話している限り、明智さんが自らそれを望むような方だとは、私には思えません」

 口を衝いて出た疑問の言葉に、ねねはポリポリと頬を掻きながら答えた。

「ま、そこで“自ら”なんて言葉が出てくる辺り、たぶん大体の見当は付いてるんだろうとは思うけど。一応確認しておくけど、キミは織田信長って男を知ってるよね?ちなみに炎に消えた歴史上の偉人じゃなくて、この学園の生徒ね」

「は、はい、それは勿論っ」

『いくらまゆっちが横にも縦にも繋がりのねーロンリーウルフとは言っても、それくらいは知ってるんだぜー』

 由紀江の入学と同時に、2-Sへと転入してきた冷酷非道の暴君――それが織田信長だ。入学以来、幾度も決闘の場にて姿を見掛ける機会があったが、その度に由紀江は、彼が発している凶悪な殺意に抑えられない恐怖を覚えたものだ。武の道に深く踏み込んだ由紀江には、信長という男が身に纏う“氣”の異質さを他者よりも明確に感じ取る事が出来る。思い出すのは、彼と一瞬だけ目が合った瞬間に総身を走った、底知れぬ深淵を覗き込んだような恐ろしい感覚。全力を尽くしても、アレにはきっと勝てない、と言うのが現時点における由紀江の武人としての見解だった。

 そんな彼は今現在、川神学園において最も人々の注目を集めている有名人で、由紀江の耳にも彼に関する様々な噂が否応なく入ってきている。

 だから、目の前に立つ小柄な少女が織田信長の側近の一人だという事も、知識として知っていた。

「これはさ、織田信長っていうご主人が私に与えた任務なんだよ。一年生を可及的速やかに征圧し、支配下に置くっていうね。確かに高慢ちきで嫌味ったらしいエリートを演じなければいけないのは面倒だし、なかなか気の滅入る事も多いけどさ、ご主人の命令なら我慢するしかないでしょ?」

「わわ、えっと、あの、それは……」

『仕方ねーか、確かにあのニィチャン真剣でおっかねーもんなー。オラとか口応えしただけで馬刺しにされそうで内心ガクブルだぜ』

「んん?ああ、言われてみればそう捉えるのが普通だよね。だけど残念ながら違うんだよね~。全然そうじゃない。私は別に脅されて嫌々ながら従ってるワケじゃないよ。そもそもご主人は、ただ恐怖で付き従うだけの人間を“手足”に任じたりはしないタイプだから。そうじゃないそうじゃない、私はね――ご主人の為ならどんな面倒事でも容易く耐えられるって、それだけの話なのさ」

 胸を張ってそう言い切るねねの目には、欠片の曇りもなかった。忠義と誇りに充ちた、力強い目。

 その双眸に見据えられた時、由紀江は驚きよりもまず、深い納得の念を覚えた。

――やはり、織田信長という人物は、冷酷無比なだけの魔王ではないのだろうな、と。

 かつてグラウンドの中心で行われた、両雄の対談――川神百代と織田信長という最高峰の武人が交わした会話の様子を、ギャラリーの一人として見物していた由紀江は今でも鮮明に記憶している。その内容は、それまで信長に対して抱いていたイメージを払拭するものだった。確かに傲岸不遜で我が道を往く人間である事には違いないが、しかしその内面は無情という表現とは程遠く、燃え滾るような熱い心と不屈の意志、武人としての誇り高さに充ちていた。臣民を率いる王者としてのカリスマを、間違いなく信長という人物は宿していた。

 あの時、由紀江が垣間見た織田信長の素顔をより深く知っているならば――心酔し、臣下として忠誠を誓っても何ら不思議ではないと思う。常に彼の三歩後ろに控えている二年生の先輩や、由紀江の眼前に立っている、明智音子という少女のように。

「ご主人は私に居場所をくれた。ご主人は、私に自由をくれた。だから、私はこれまで誰も与えてくれなかったモノをくれたあの人に、恩返しをしたいんだよ。その為なら悪人の仮面と汚名を被る事くらい何でもない事さ。……あ、分かってるとは思うけど、これオフレコで頼むよ?こんな殊勝なセリフ、私のキャラじゃないからさ」

「は、はいっ、勿論ですっ」

『まゆっちこう見えて超口固ぇから安心しなよ、秘密は墓場まできっちりトライするぜ』

 微かな恥じらいを湛えた綺麗な微笑みを向けられて、由紀江は思わず顔を赤くしながらあたふたと答える。主君に対しての忠義の念は確かに在るのだろうが、慎ましやかに頬を染めた彼女の表情を見る限り、或いはそれだけではないのかもしれない。何にせよ、様々な強い想念を抱えて今を生きている彼女の事を、由紀江は心の底から羨ましく思った。

 考えてみれば同じ高校一年生だと言うのに、自分には彼女のように心身を突き動かす原動力が何もない。友達が欲しい、という願望はあっても、何一つとして成果を上げられずに日々を虚しく費やしている。どうして自分はこうなのだろう、と由紀江の心は沈んだ。

「なーに景気の悪い顔してるのさ。さぁさぁ、私が恥ずかしい乙女の秘密を打ち明けたんだから、今度はキミの番だよ」

「え、ええ!?あのですが私には乙女の秘密なんてワンダフルなモノは持ち合わせが全く以ってゼロで……ううう」

『未だに友達すらいねーまゆっちになんつー残酷な質問を……間違いねーよ、こいつはとんだ鬼畜ドS女だぜっ』

「あのねぇ。キミの交友関係の悲惨さは嫌というほど良く分かったけどさ、私が訊きたいのはそこじゃないって。――剣聖・黛十一段の娘ともあろうキミが、どうして実力を隠そうなんて思ったのか。その理由、差し支えがなければ、私に聞かせてくれないかな?」

「あ……」

 澄んだ目で問い掛けてくるねねに、不意を衝かれたような気分で由紀江は言葉を詰まらせた。

 理由。どうだろう、それを隠す必要があるのだろうか。

 ……考えてみれば、そんな必要性はないのだ。ねねには既に実力を悟られてしまっている以上、力を隠した理由だけを黙して秘したところで何の意味もないだろう。毒を喰らわば皿まで――というのも何か違う気もするが、どうせなら全て吐き出してしまおう。

 そう腹を括って、由紀江はぽつぽつと語り始めた。北陸の名家・黛の家に生まれ、武道と礼儀作法を厳しく仕込まれたこと。その家柄と並外れた能力が原因で友達が出来ず、孤独な幼少時代を過ごしてきたこと。せめて高校では普通の学生生活を送りたいと願い、勧められたS組の席を自ら辞退して、一般クラスへの在籍を望んだこと。そして、常人の域を超えた力を封じようと決めたこと。

 ねねは終始真面目な表情で、ふむふむと興味深げに相槌を打っていた。

――数分後、由紀江が現在に到るまでの事情の全てを語り終える。ねねの反応は、一言。

「ねぇ。キミ、馬鹿でしょ?」

「はぁうっ!?」

 馬鹿みたいだなぁ私、と自分でも時たま己の行動を虚しく思う事があっただけに、ねねの呆れ混じりの率直なコメントは胸に突き刺さった。

 やっぱりそうですよねホントもう滑稽で馬鹿みたいですよね私フフフフ、と自虐的な呻きを漏らす由紀江を、しかし気付けばねねは驚くほど温かい表情で見遣っていた。

「本当に馬鹿だねぇ。だけど、救い様のない馬鹿じゃなくて……心優しい馬鹿だ。私はね、そういう種類の馬鹿は――キライじゃないよ」

「え……」

「成程ね、成程成程。そうかそうか。ふむ、そういう事情なら、ますます放っておけないかな。……ねぇ、黛由紀江さん」

「は、はいっ!?」

 思わず声が裏返ってしまったのは、こちらを見据えるねねの姿が、常ならぬ気迫に満ちていたからだ。

 1-C教室で感じた邪悪な威圧感とも、つい先程までの気怠げな雰囲気とも異なる、真っ直ぐな凛々しさを全身に湛えながら、ねねはゆっくりと口を開いた。

「1-Sクラス委員長として、私はキミを勧誘する。――今からでもいい、1-Sに来る気はないかな?」

「え、ええぇえ!?あ、あの、それは一体どういう」

「キミは断じて1-Cに居るべき人間じゃない。1-Sこそが、キミの居場所に相応しい。キミの身の上話を聞いた結果として、私はそう判断した」

 断固たる口調は反論を赦さない確信に満ちていて、由紀江は返すべき言葉を見失った。

「キミは、優し過ぎるんだよ。どうしてそこまで徹底的に責任を自分に求める?キミは何も悪くなんてないのに、どうして苦しまなくちゃいけないの?私には、見てられないよ」

 ねねの言葉には、心底からの同情と哀れみが込められていた。

「子供の頃から自由を犠牲にして、友達と気侭に遊ぶ時間を犠牲にして、努力に努力を積み重ねて手に入れた力は、武は、キミの誇りであるハズだよ。なのにどうして、それをコソコソと隠す必要があるのか……私には理解できない」

「えっと、あの、ですからそれは、友達を作るために――」

「自分とは違うから、自分よりも優れているから。そんな下らない理由でキミを遠ざける連中なんかと友達になるために、キミは己の誇りを投げ捨てようって言うのかな?本当の自分を偽って、相手のレベルに合わせて卑屈に歩み寄って……その上、いつか露見するかもしれないと怯えながら、もしもバレたら嫌われるかもしれないと悩みながら、秘密を胸に抱え込んだたままで友情を育もうって?――馬鹿馬鹿しい。キミは、そこまで自分が強いと自惚れているのかな?力じゃない。心が、だよ。キミの選ぼうとしている道は、確かに優しいと言えるモノだけれど。同時に、酷く、険しい。それに耐えられるほど、キミは強いの?悪いけど、私にはそうは思えないね」

 非難でも弾劾でもなく、心から由紀江を案じる、思いやりに満ちた調子のねねの諭しは、強烈に胸を打った。

 確かに、その通りかもしれない――彼女の言葉に納得している自分がいるのも、事実なのだ。思い出すのは、孤独の内に過ごした幼少時代の寂しい記憶だった。同い年で一番足の速い男の子を駆けっこで易々と負かした時、球技大会で常人を越えた動きを披露した時。周囲の子供達が自分に向けた、凍えるような目の冷たさが、まざまざと脳裏に蘇った。優れた者への嫉妬心と、未知なるモノへの恐怖心の入り混じった、あの目。誰よりも頑張って、努力しただけなのに――どうしてそんな目で見られないといけないのだろう。皆に受け入れて貰えない悔しさと不安に、独り枕を濡らした日々を、思い出す。

「人間という生き物にとって、未知はいつだって最大の恐怖なのさ。そして、世の中の大多数の人間は、その恐怖を乗り越えられる強さを持っていないんだ。だからこそ集団の中から異物は排斥される――キミがこれまでそうであったように、ね。……でも、それがただ悪いってワケじゃない。社会の秩序を保つためには、棲み分けはどうしても必要だから。各々の能力に応じた居場所が、人間には必要なんだ。この川神学園におけるSクラスって言うのはね、そういう異物たちに用意された居場所なんだよ。他者より優れた能力を有する者達の、受け皿なんだ。分かるでしょ?」

「……」

「確かにS組の面々は確かにプライドが高いし、他のクラスを見下してる奴も多い。傲慢で嫌な連中に見えるかもしれない――だけどそれは、胸を張って誇るに値するだけの努力をしているからだって事を忘れないで欲しい。逆に言えば、キミみたいに人並み以上に頑張って、人並み以上の実力を持った人間は、Sの皆には大いに歓迎される事だろうね。同志として、仲間として、好敵手として、そして何より、“友達”として。間違っても、力を疎んで排斥したりなんてしない。だから――改めて言おう。キミの居場所は、こっち側だ。自分を無理矢理に押し殺してまで、そっちに留まる必要なんてないんだよ」

 ねねは穏やかに微笑みながら、手を差し伸べた。

 由紀江は妙に現実感の欠けた意識の中で、目の前に広げられた掌をぼんやりと見つめる。ねねの口にした“友達”という二文字だけが、頭の中で何度も反響していた。何年も何年も望み続けて、これまで得る事の叶わなかったものを、遂に手に入れられる。それは、喩え様もなく甘美な誘惑だった。ふらふらと、自然の内に手が伸びそうになって――しかし、由紀江は躊躇する。

 先程の1-C教室での出来事が、脳裏に蘇っていた。由紀江は小さく息を吐き、心を落ち着けてから、ねねの目を真っ直ぐに見返した。

「あの、明智さん。一つだけ、お訊きしてもいいですか?」

「どうぞ。一つと言わず、質問疑問は幾らでも受け付けてるよ」

「ありがとうございます。でしたら――聞かせて下さい。先程、1-Cの皆さんに貴女方が仰っていたこと……あれが、1-Sの総意なんですか?」

――意志が無いなら、逆らうな。弱者は強者に従うのが当然だ。

 そのように傲慢な思想は、由紀江とは相容れない。偉大な父から受け継いだ黛の剣は、断じて弱者を虐げる為のものではない。己の意に沿わぬ者を、力を以って屈服させる為のものではない。もしも1-Sの“選ばれた人間”がその独善的な思想を掲げていると言うなら、由紀江がそこに馴染む事は決して出来ないだろう。そうだとするならば――1-Sは、由紀江の居場所では、ない。

 鋭く、鋭く、刃の如く研ぎ澄まされた目を真っ直ぐに向けながら、ねねの返答を待つ。譲れない意志を込めた目を、決して逸らさず前へと向け続ける。そんな由紀江に対して――ねねは、ニヤリと悪戯っぽく笑ってみせた。

 予想外の態度に戸惑う由紀江を笑顔で見遣りながら、ねねは愉快そうに遠慮の無い笑い声を上げ始める。

「くふふふ、あはははははっ!かしこまった顔で何を言い出すかと思えば!全く、そんなワケないじゃないか。あんな頭の悪い極論、建前に決まってるでしょ?あれだけ理不尽な事を好き放題言われたら、骨のある人間なら反抗心を顔に出すからね。そうしたら、私達が戦って降すべき相手が一目で判別できる。要するに“敵”に成り得る人間を見定めるための方便だよ、アレは。ま、今回の場合、それに引っ掛かったのがキミだった訳だけど……他に何か質問はあるかな?」

「あああの、いえ、ですが――」

『あのムサコッスとかカニカマってヤツら、オラには真剣で言ってるようにしか見えなかったけどなー。アレも演技だったっつーのはさすがに苦しくね?』

「ああ……、まぁあの連中は本心から言ってるだろうね。私が1-Cに連れて行ったの、1-Sの中でも特に攻撃的でプライド高いヤツらだし。適材適所、他クラスに侵攻するには相応しい人選ってものがあるからさ。そりゃまあ、確かにああいう過激な思想の持ち主が何人かウチにいるって事は否定しないよ。だけど、それはあくまで一部であって、間違ってもクラスそのものの総意じゃない。主義主張は人それぞれ、その点じゃ他のクラスと一緒さ。だから当然、1-Sにいるからって、別に第一学年征圧に参加する義務なんてない。実際、今だって直接的に動いてるのは私を含めても数人だけなんだからさ。キミはキミで好きな様に振舞えばいいんだよ。――私達は、力有る者には寛容だ。どんな黛由紀江でも、きっと受け入れるだろう」

 S組委員長としての凛とした態度で、ねねは確信を込めて言い放った。芯の通った力強い言葉に、再び心を揺さぶられる。理に適った説得の内容もそうだが、それ以上に――自身の存在が求められているという事実が、由紀江に大きな衝撃を与えていた。

 友達の一人も満足に作れない不器用な自分に、こんなにも温かい言葉を掛けてくれる人は、肉親を除いて今までいなかった。それなのに、どうして。

「明智さんはどうして、私なんかを誘ってくださるんですか?やっぱり、私が剣聖の娘だからですよね……ってゴメンなさいイジけたこと言って鬱陶しいですよねううぅぅ」

「あはは、落ち着きなよ。私はね、キミの肩書きだとか血筋だとかは別にどうだっていいんだ。家柄の貴賎とか心の底から馬鹿馬鹿しいと思ってるタイプの人間だからね。私はただ、放っておけないと思ってるだけさ。自分を偽って生きる事の辛さは身に染みて知ってるから……どうにも他人事とは思えなかった。キミみたいなバリバリのお人好しが一人ぼっちで過ごすのは見てられないからね、私が居場所を見つけてあげられるならそれに越した事はないと思ったんだ。ご主人が、私にそうしてくれたように」

 それにね、とねねは柔らかく微笑む。

 そして、天使の如く優しい口調で、言った。

「これだけ色々とぶっちゃけたからには当然、私達はもう“友達”なのさ。どうせなら、机を並べて毎日を一緒に過ごしたいって望むのは――そんなにおかしいかな?」












 


 それから――何だかんだと一騒動あった後に、ようやく正常な言語機能及び落ち着きを取り戻した由紀江と、赤外線通信でメールアドレスを交換。互いの呼び名を決めて、九十九神を自称する松風を交えてちょっとした自己紹介をして、週末に一緒に遊ぶ予定を取り付けて。

 弾む内心を隠そうともしないスキップで屋上から去っていく背中を見送って、喜びのあまり注意を怠っているのか、身体から漏れ出している“氣”の位置がどんどん遠ざかっていく事を確認して。

――それから私は、口元に湛えていた温かい微笑を、跡形もなく消し去った。

「……ふぅ」

 醒めた表情で、小さく溜息を吐き出した瞬間、五限目の終了を告げるチャイムが校舎に鳴り響く。きーん、こーん、かーん、こーん。気の抜ける電子音がスピーカーから流れ出る中、私はポケットに手を突っ込んで、再び携帯電話を取り出した。最近電話帳の下僕リストに登録した名前を選び、さっさと通話ボタンを押す。

 特に待つ必要もなく、三コール目で目的の相手に繋がった。

『もっしもーし、ご無事ッスかボス!真剣で心配したッスよ、どっか斬られたりしてないッスか?』

「私を誰だと思っているのかな?機略縦横にして智勇兼備なこの私がそんなヘマをする訳がないじゃないか、子分A」

『いやーさっすがは我らがボス、今日もステキに自信満々ッスねぇ。何にせよ元気な声が聞けて安心したッスよ。それで、御用は何でございやしょう』

「仕事だよ。これ以降はBCDをキミの下に付けるから、今すぐに動いてね。――黛由紀江を孤立させろ。1-Cの中から、完膚なきまでに彼女の居場所を奪え。なに、サルでも出来る簡単なお仕事さ。五限の間に私達が二人きりで話した“秘密の会話”に、1-Cの生徒達は興味津々のハズだからね、美味しい美味しい餌を思う存分、与えてやろうじゃないか。うふふ、諜報活動がキミの十八番なら、流言飛語を飛ばすのも得意分野だろう?」

『……へっへっへ、了解したッスよ。やっぱ怖い人ッスねぇボスは。自分、ボスのパシリで良かったと心から思うッス』

「実行犯は他ならぬキミだって事を忘れないようにね。――具体的な流言の内容は追ってメールで通達するけど、必要があればキミの裁量でアレンジを加えて構わない。BCDをどう使うかもキミに任せよう。うふふ、働き振りに期待してるよ?鎌慧ちゃん」

 言葉を終えると、返事を待たずに通話を切る。フェンスへと身体を預け、空を仰ぐ。

 これでいい。駄目押しとしては、まあこんなものだろう。「少し考えさせて下さい」と申し訳なさそうな調子で返答を保留した由紀江には悪いが、そもそも私は彼女に選択肢なんてものを与える気は初めから無かった。彼女には何としても、私の支配する1-Sへと籍を移して貰わねばならないのだから。

 黛由紀江――彼女は、危険だ。私の観察力を以ってしても実力の底がまるで見通せない上に、厄介な事に人並み以上の正義感も持ち合わせている。精神の高潔さと未知数の武力を併せ持つ彼女を下手に放置すれば、私の一年征服はおろか、ご主人の歩みをも妨げる可能性を秘めていた。それは、それだけは、絶対に許容出来る事ではない。

 故に、力を尽くして彼女を“こちら側”へと引き摺り込む必要があった。正面からまともに闘いを挑んでも勝ち目が無いなら、もっと広い視野での勝利を掴めばいい。無益な戦いでリスクを犯す必要など無い――全ての問題を暴力で解決しようというのは、愚か者の考えだ。1-Sへと引き込み、絶えず私の管理下に置いておけば――彼女が私達に仇為す可能性は未然に防ぐ事が出来る。明智音子という人生初の“友達”に依存させ、その思考を私の望む方向へと上手く誘導する事が出来れば、いずれ味方に付ける事も可能になるだろう。

 …………。

 何にせよ――爆弾処理は、ひとまず第一段階は完了だ。何から何まで、ほとんどがアドリブだった事を思えば、十分に上等な結果と言っていいだろう。全てはこれからとは言え、最初の一歩を順調に踏み出せた成果は大きい。

「……“友達”、か。何ともまあ、チョロいものだよ」

 友達。それが、黛由紀江の手綱を握るためのキーワードだった。ずっと孤独で、心許せる友人を欲していたという彼女。その姿は、心で繋がれる真の家族を欲していたかつての私と重なって――だからこそ、説き伏せるのは容易だった。孤独の辛さも痛みも、私は嫌というほど知っている。由紀江のような種類の人間が求めるものを、私は誰よりも知っているから。

「あはは、ご主人が私を口説き落とした時も、こんな気分だったのかな」

 自虐的に、哂う。

 所詮は、仮面だ。1-Sの悪辣な暴君として振舞っている私も、孤独な少女を慈愛の眼差しで思い遣る私も、等しく猫被りの賜物に過ぎない。“本当の私”などと、嘘八百もいいところだ――私が本当の私でいられる居場所は、何時でもたったの一つなのだから。

 “友達”などという甘美な虚像に騙されているとは夢にも思わず、滂沱の涙まで流して喜んでいる由紀江の姿に、欠片も罪悪感を覚えていないと言うと嘘になる。彼女の純粋さと自身の醜悪さを見比べて、拭えぬ劣等感を覚えていないと言うと嘘になる。

 しかし――そんな事は所詮、些細な感傷に過ぎなかった。私の胸を充たしている、この得も言わぬ達成感と満足感に比べれば、塵芥の価値も無い。

 そうだ。私はきっと、役に立てた。織田信長の手足として、彼の信頼に応える事が出来た。

 だったら――私は汚くてもいい。泥に塗れていても嘘に塗れていても血に塗れていてもいい。醜悪でも劣悪でも極悪でも罪悪でも最悪でも、どんな不名誉な汚名でも一身に引き受けてやる。

 やっと見つけた、大事な大事な家族を護る為なら、私はあらゆるものを切り捨てられる。

 それが私の、たった一つの想い。私を突き動かす、掛け替えのない“意志”。


「……ご主人」
 

 ふと手を伸ばして、自分の髪に触れる。クセのあるネコっ毛が、指に絡みつく。


 力強くも優しい指先の、温かい感覚が、鮮明に蘇った。


「―――また、撫でてくれるかな?」


















~おまけの???~


「いよいよ明日から侍の国の寺小屋に通うのか……。ふふふ、楽しみだな~楽しみだな~」

「クリス、今晩もライン川のように美しい。だが、そろそろ眠っておきなさい。ふふ、転校初日から朝寝坊などしては、精勤な日本人に笑われてしまうぞ?」

「はい父様、分かっています。……父様、これから自分の通う日本の寺小屋には、武士の子息が通うと聞きました。かの名高い謙信公や信長公のようなサムライと、学び舎を共に出来ると」

「うむ、その通りだクリス。川神学園の学長は、私の知る限り最も偉大なサムライの一人。彼の教え子ならば、戦国の英雄にも劣らない者達に違いあるまいよ」

「ふふふ、今から楽しみで仕方ありません、父様。真のサムライ達と肩を並べて勉学に励めるとは、自分は幸せ者です!」

「ああ、サムライの高潔な精神を学ぶ事はクリスにとっても貴重な経験になるだろう。存分に楽しみなさい。ふふ、だが今日はもう眠った方が良いな。ベッドに入ってもすぐには寝付けないかもしれないが、それもまた醍醐味というものだ」

「はい!お休みなさい、父様!――ふふ、ふふふ、楽しみだな~」






 



 という訳で幕間はこれにて完結。正直、ここまで長引くとは想定外でした。
 今回の話は視点が頻繁に切り替わる上に、ネコがナチュラルに嘘吐きなので色々とややこしい事になっていますが、最後のネタ晴らしが真相でした。悪女は褒め言葉です。
 また、感想言及率がかつての前田君並に高かったオリキャラ・カニカマについて紹介しておきます。
 
 可児鎌慧(かに かまえ)。1-S所属、出席番号10番。名前の元ネタは、言わずと知れた戦国の猛将“笹の才蔵”から。愛称子分A。180センチの長身と驚くべき虚乳の持ち主で、ねねと並ぶと対比で互いに悲惨だとか。ねねにカマ呼ばわりされたのは高身長への僻み説が有力。本編では特に触れていないが太眉。特技はパシリ、ついでに諜報。基本的にボスと慕うねねに対しては卑屈な程に従順だが、それは“弱肉強食”を信条としているからであって、自分よりも弱いと判断した者には割と高圧的。要するに小物である。ムサコッスの事は敬っているように見えて実はそうでもない。実力は謎に包まれているが、果たして?

 さて、次からは新章開始という事で、ようやく原作時期突入になります。これから少し家を空けなければならないので、更新は遅れるかもしれませんが、どうか気長にお待ち頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。
 



[13860] 開幕・風雲クリス嬢、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:0273a4f3
Date: 2011/09/18 01:12
 四月二十四日、金曜日。

 月日の流れは驚く程に早いもので、気付けば川神学園への転入から既に半月以上が経っていた。転入以来、波乱に次ぐ波乱の連続で満足に息つく暇すら無かった為か、時間の推移をまるで意識出来なかったが――半月か。改めて考えると、信じ難いものがある。何せ、本当に数多くのイベントが発生したのだ。数ヶ月分の事件を詰め込んだと言っても過言ではない、あまりに密度の濃い日々。多くの出逢いがあり、多くの闘争があり、そして何より、多くの“変化”があった。予期していた事から予期していなかった事も含めて、多岐に渡る様々な変化が。私立川神学園への転入は、計り知れない変革を俺の生活にもたらしている。

 僅か半月で、これだ。ならば――これから先の長い学園生活は、俺の周囲と俺自身に如何なる影響を与えるのだろうか。期待と不安が入り混じった心地が胸中に滲み渡る。人間は誰しも心の奥底で停滞を望み、将来の未知を恐れるもので、それは俺とて例外ではない。しかし、覇道とは常に変革を貫いた先にこそ切り拓かれるのだ。であるならば、織田信長には迷いも躊躇いも不要。只ひたすらに、己の信じた道を歩むのみ。

――さて、今日は果たして何が起きるのやら。

 青空を仰ぎながら思考を巡らせていた俺を、聞き慣れた声が現実に引き戻した。

「主。本日も朝の鍛錬、お疲れ様で御座います!絶えず戦に備え己を磨く心構え、蘭は感服致しましたっ!」

 朝っぱらから寝惚けた叫び声を張り上げながら足元に平伏している珍妙な生物は、森谷蘭。この奇態を前にしては正直あまり認めたくないのだが、こやつはかれこれ十年ほど織田信長の従者を務めている、最古参の側近である。性格の方が何ともアレな事さえ考慮しなければ、家事万能・文武両道・容姿端麗と三拍子揃った優秀な家臣で、俺の剣として、或いは手足として、私生活・戦場を問わず、縦横無尽の活躍を演じてきた。能力の高さだけではなく、織田信長への忠義心の厚さに掛けて右に出る者はいないだろう。俺の懐刀という役割を任せられる一の臣はこいつ以外には有り得ない。そして何よりも重要なポイントとして――和菓子作りが上手い。蘭の作る和菓子は、美味い。揚げ物練り物打ち物蒸し物流し物、何でも御座れで、そのクオリティときたら老舗の銘菓にすら匹敵し、更に――

「信長様、汗をそのままにしておかれては御身体に障ります。どうか蘭にお任せ下さい」

 蘭の言葉を受けて、際限なく膨らむ甘美な和菓子イメージを渋々ながら打ち切り、俺は鷹揚に頷いた。

「うむ。良きに計らえ」

「ははーっ!それでは失礼致します」

 蘭はスポーツタオルを手に携え、いそいそと俺の身体を拭き始める。既に五月も近いこの季節、気温は決して低くはない。朝方とは言え運動をこなせば汗が流れるのは道理である。無駄に洗濯物を増やして蘭の負担を大きくする必要は無いし、アパートの住人は織田主従のみなので誰に気兼ねする必要も無い。故に俺は初めから半裸の状態で鍛錬に臨んでいた。

「……」

 上半身を満遍なく走る醜い傷跡を気にも留めず、甲斐甲斐しく汗を拭っていた蘭だったが、タオルが胸板に差し掛かった辺りで唐突に手を止めた。見れば、何やら惚けたような表情でぼんやりと俺の体を見つめている。

「如何した、蘭」

 相手が家族同然に付き合いの長い従者とはいえ、流石に食い入るような目で裸身を凝視されるのは些か気恥ずかしい。そういった意図を込めて問い掛けると、蘭はハッと我に返ったように目を見開くと、途端に顔を真っ赤に染めて、ブツブツと何事かを呟きながら先程までの三倍以上の速度でタオルを動かし始めた。もはや乾布摩擦の域を通り越している、というかこれは、発火しかねないレベルで熱い――!?

「違います違います、蘭は然様に不潔な事は断じてっ!主の御身体に対して然様に不埒な……ああなんと畏れ多いことをっ」

「蘭、もう良い。控えろ……っ」

 悲鳴を上げなかったのは我ながら賞賛に値すると思う。何とか威厳を取り繕ったまま蘭の暴挙を止める事に成功すると、俺は心中で盛大に安堵の溜息を吐いた。危ない、もう少しで先人宜しく炎へと消えるところだった。汗を拭いていて焼死などと、笑止という他無い。

「う、うぅ、申し訳御座いません信長様……蘭は雑念に惑わされ、主の御身体をお拭きするという大命を果たすこと適いませんでした。かくなる上は不肖森谷蘭、割腹してお詫び致す所存で御座いますっ」

 またしても平伏して妄言を垂れ流している従者一号を前にして、俺は頭痛を堪えながら溜息を吐いた。

 俺の周囲で生じた“変化”の一つ目は、これである。かつて繰り広げた2-Fとの闘いを通じて、蘭は妙な方向へと変化を遂げていた。やたらと異性を意識するようになった、と言うか何というか。まず間違いなく原因は風間ファミリーの一員、椎名京との接触なのだろうが……一体全体何を吹き込まれたのやら。あの日以降も時折二人で話している姿が見受けられたが、その度に蘭の症状(?)は悪化しているような気がする。元々が相当にハイレベルな変人なのだから、これ以上に奇天烈な行動パターンを増やすのは勘弁して欲しいものだ。

 地面に頭を擦り付けんばかりの蘭を口先八丁の適当な言葉で手早く立ち直らせると、俺は携帯電話で現在時刻を確認した。

「……時間、か」

「ええ、七時で御座いますね。ねねさんは……はぁ、やはりまだ寝台の上の様です」

「ふん。あの救えぬ莫迦には、相応の仕置きが必要か」

「うぅ、申し訳御座いません。私の力が及ばぬばかりに、主を煩わせる事に」

 そんな遣り取りを交わしながら目指すのは、ボロアパートの二階に位置する一室である。老朽化が激しく、一歩を踏み出すごとにギシギシと不吉な音を響かせる階段を、戦々恐々たる心持ちで昇る。俺達以外の居住者が何故か軒並み立ち退いてしまった事で、部屋は全て既に選り取り見取りの状況だ。にも関わらず俺達が自室を一階に移さないのは、引越しが面倒だとか、防災対策だとか、アパートが戦場となった際に高所の利を得る為だとか、まあそれらを含めた様々な理由があるのだが……しかしそれらを考慮した上でも、やはり部屋は一階に移すべきだ、この危険極まりない階段を毎日のように何往復もしなければならない現状は早急に改善されるべきだ――と思い続けて早くも数年が経つ今年の春。

「ねねさん、入りますよー」

 今日もまた無事に二階へと辿り着き、最奥の部屋に足を踏み入れると、まず耳に入るのは喧しいアラーム音である。それも一つや二つではない。少なく見積もって五個は設置されている目覚まし時計と、枕元の携帯電話が一斉に起床ベルを鳴り響かせ、何とも耳障りなハーモニーを室内に反響させている。これ程の音の暴力に襲われれば、正常な人間ならば一瞬の内に目を覚ます事は間違いない。

 つまるところ、部屋を埋め尽くす騒音に気付いた様子すらなくベッドの上にて呑気な寝顔を晒し、あまつさえ安らかな寝息を立てている猫っぽい生物は、正常からはおよそかけ離れた人間であるという事だ。

「ねねさん、ねねさん!朝ですよ、七時半ですよーっ」

 手で両耳を抑えながら何やら叫んでいるが、生憎とアラーム音の嵐に邪魔されてほとんど聴こえなかった。むっ、と蘭は眉間に皺を寄せて、足の踏み場も危ういレベルでモノの散乱した部屋を横切り、キビキビした動きで一つ一つ目覚まし時計のスイッチを切っていく。そうしてようやく本来の静けさを取り戻した部屋にて、蘭はベッドに歩み寄り、横たわる小柄な身体をゆっさゆっさと揺さぶった。

「早く起きて準備しないと間に合いませんよ!従者として主と一緒に通学する為にも、ちゃんと起きるって決めたじゃないですか、ねねさん!」

「んむぅ。すぴー」

 パジャマの襟首を掴み、猛烈な勢いで頭をシェイクするという荒業と併行した必死の呼び掛けも、残念ながら深き闇に沈んだ意識を呼び醒ますには到らない。やはりこの生物には常識というものが通用しないらしい。ならば、ここは元川神院師範代すらもが判を押した生粋の“非常識”の出番であろう。

「時間が惜しい。下がれ、蘭」

「ははーっ!不甲斐ない臣に代えて、どうかねねさんの魂を現世に呼び戻してあげて下さい」

 蘭に続いてベッドの傍に立ち、掛け布団を抱き締めて幸せそうな寝顔を晒している馬鹿を見下ろす。少しばかり手荒い手段になるが、まあ自業自得である。何せ今朝にて三日連続で言を違えている事になるのだから、この程度のペナルティは甘んじて受けるべきだろう。

 という訳で、いざ意識を集中。精神を統一し、己の内より“氣”を引き出す。途端に溢れ出す殺気を暴発させないように手綱を取りながら、それらを眼前の一点に凝縮させ――鋭利な殺意の槍と成して、狙い定めた対象のみを無慈悲に貫く。

「ぎにゃっ!?」

 尻尾を踏んづけられた猫以外の何者でもない悲鳴を上げながら、ターゲットは一瞬にして覚醒すると同時に跳ね起き、そのまま飛び上がった。比喩表現などではなく、文字通り天井近くまで浮き上がる豪快な跳躍である。ボスン、と再び布団に落下すると、カッと猫目を見開いて警戒心も露に周囲の様子を窺う。その段階に到って、ようやく目の前に立つ俺と蘭の存在に気付いたらしい。

「あ、あれ、ご主人、ラン?……ああそうか夢か、アレは夢だったんだ……良かったぁ」

 安心したように深い溜息を吐きながら、ぐったりと背中を壁に預ける。見れば、青褪めた顔にはびっしりと冷や汗が浮かんでいた。

「いやさ、私、夢を見てたんだ。ブリにハマチにタイにサンマにサバに……兎に角沢山のお魚さん達に囲まれた海中遊泳のステキな夢さ。そしたら、そしたら、何故かいきなりホオジロザメが現れて、でも私、実はカナヅチで泳げないから逃げられなくて――目の前にあのギラギラした歯がパックリと――うぅうぅ、死ぬかと思った……いやホント、もう駄目だと思ったよ真剣で」

 成程、俺の殺気によって“死のイメージ”が夢に割り込んだ結果と言う事か。お前カナヅチだったのかよ、っていうか泳げない癖に海中遊泳の夢って意味分からねぇ、と突っ込んでやりたいのは山々だが、まあなかなか面白い実験データが取れたので良しとしよう。リアクションもそれなりに面白かったし。

「あはは、災難でしたね。ですけどねねさん、おめでとうございます!今日はちゃんと時間通りに起きられましたよ!」

「え?あ、おお、七時!午前七時じゃないか!くふ、ふふふ、そうか私はやり遂げちゃったんだね。アキレスの如き唯一の弱点を克服した私に敵は無い。嗚呼、遂に、遂に私の天下がやってくるんだね!うふふ、あはは、あーはっはっはっは!」

 寝起きとは思えないハイテンションっぷりを存分に発揮して現在哄笑中のコレが、“変化”の二つ目である。織田信長が第二の直臣、明智音子。長らく空席となっていた二人目の従者にこいつが納まったのは、実を言うとつい最近の話である。家庭の事情と素行不良が原因で行き場所を失ったねねを俺が拾ったのが切っ掛けとなって、色々な経緯を経て本格的に我がボロアパートに棲み付くようになった。性格はまあ、見ての通り――怠惰で能天気、自信家でプライドが高く、自分勝手で我侭で、そして極め付きには類を見ないレベルの嘘吐きという、何と言うか割とどうしようもない輩である。能力の優秀さに疑うべき所はないのだが、やはり性格のアレさがネックだ。……俺の手足は何故そんな連中ばかりなのだろう。“頭”の俺は至極まともな常識人だと言うのに、まったく何とも理不尽な話である。

「いやぁ、勿論あんな酷い悪夢は二度とゴメンだけど、目覚まし効果は抜群だったね。昨夜は布団に入ったの確か深夜二時半くらいだったのに、まさかの起床成功だなんて。驚き桃の木って奴だよ」

「……」

「……」

 成程、どうやらこの馬鹿はそもそも時間通りに起きる意思など皆無のようだ。俺と蘭が揃って冷たい視線を投げ掛けると、ねねは慌てた様子で取り繕いを始めた。

「ああいや、別に遊び呆けていて寝るのが遅くなった訳じゃないんだよ?か、勘違いしないでよね、小説の続きが気になってついつい最後まで読んじゃったり、暇潰しのつもりで始めたゲームについつい熱中しちゃったり、今回は取り敢えずそういうのじゃないんだから!」

「今回、か……」

「あはははやだなぁご主人、今のはいわゆる言葉の綾って奴だよウン。偉大なるご主人はまさか揚げ足取りなんてみみっちい真似はしないよね?いやーさすが心が広い。よっ闊達自在にして寛仁大度の聖人君子!えっと、うん、それじゃ釈明させて貰うけどさ、私がお肌の天敵たる夜更かしなんて暴挙を仕出かしたのは、ずばりメールが原因だよ」

「メール、ですか?」

 きょとん、と首を傾げている蘭に対して、ねねは心底疲れたような表情で枕元の携帯電話を指差しながら、「そ、メール」と返した。

「メールがね……終わらないんだよ。向こうさんテンション上がっちゃってるのか、何回返信してもメールが一向に途切れない。文面からして凄く楽しそうだからさっさと打ち切るのも何だか気が引けちゃってさ、延々と付き合ってたら深夜になっちゃった。だからこれは不可抗力というかアレだよ、熱心な残業の結果ってヤツさ。私は与えられた仕事と役割を果たそうとしただけだもんね」

「ふん。成程な」

 という事はつまり、メールのお相手は件の“黛由紀江”なのだろう。剣聖・黛十一段の息女――彼女への対処については昨日、既にねねから中間報告を受けている。指令を下したのがつい一昨日である事を考えると、驚くべき仕事の早さと言えるだろう。見込んだ俺の目は確かだったようだな、と我が従者の優秀さに感心すると同時に、しかしその手段について少しばかり懸念が生じていた。

「文通を交わすという事は。剣聖の娘と“友達”になった、と言う報告は事実の様だな」

「――うん、勿論さ。私がご主人に嘘を吐くなんてコトがあると思うのかな?」

「ふん。それは、俺がお前に嘘を吐く事と同様に、有り得ぬ事だな」

「……あはは、良くお分かりだね。ご主人には敵わないなぁ、ホント」

 似合いもしない儚げな表情で、ねねは小さく笑った。

 それはつまり、そういう事なのか。

 全く、相変わらず馬鹿な奴だ。小賢しい嘘吐きの癖に、妙な所で正直さを捨て切れていない。やはりこいつと俺は違うのだな、と改めて実感する。人を騙すという行為に対して、もはや欠片も罪悪感を覚えられなくなってしまった俺とは違って――ねねには、人として持ち合わせるべき良心が未だに残されている。偽りの友情を演じる事に後ろめたさを感じていなければ、間違ってもこの様な寂しそうな顔は出来ないのだから。

 それでもこいつはきっと、俺が何も言わなければ自分一人で抱え込むつもりだったのだろう。痛む心を押し隠して、何食わぬ顔を装って猫被りを続けていたのだろう。全ては、俺の為に。

――無理しやがって、馬鹿め。

 やれやれである。ベッドの上へと腕を伸ばし、起きたばかりで寝癖の自己主張が激しいネコっ毛を、乱暴に掻き回す。

「あ……っ、ご、ご主人……?」

「詰まらぬ思慮に時間を割く暇は無い。出立の支度を急ぐがいい――学園への道程、今日こそは俺に付き従うのだろう?ネコ」

 素っ気無く言い捨てて、俺はさっさとねねの部屋から外に出た。その後から続いて、蘭が慌てた様子で飛び出してくる。

「……うーむ」

 自室に戻り、クローゼットから取り出した川神学園の制服に袖を通しながら、俺は今しがたの自分の行動に対して首を捻る。やはり、妙だ。どうにもねねの奴にはついつい対応が甘くなってしまう。あんな風にベタベタした馴れ合いは俺の望む所ではないハズなのだが、何とも良く分からないものだ。本当に、何故だろうか。

「あ、あの、主。主は――」

「ん?」

「僭越ながら主は、その……。……いえ、何でもありません。蘭は身嗜みを整えて参ります……」

 蘭は何やら思い詰めた様な強張った表情で言い捨てると、俺に追求する暇を与えず、隣に位置する自分の部屋へと引っ込んでしまった。その場に数秒ほど立ち尽くし、蘭の言い掛けた言葉の脳内補完を試みる。が、どうにも上手くいかなかった。

 ここ最近、こういう事が多い。現在に到るまでの十年間、俺には蘭の考えている事ならば大抵の事はお見通しだったと言うのに、近頃は分からない。新たな直臣の参入を認めた件と云い、蘭が一体どのような思惑の下で行動しているのか、まるで予測が付かないパターンが増えてきている。その事実に、戸惑いと違和感を覚えずにはいられなかった。

「――違和感?阿呆か」

 クローゼットに備え付けられた姿見に映った自分自身に、吐き捨てる。

 それでいい。それが、当然なのだ。全ての思考と行動を読み通せるなど、人として有り得ざるべき状態だろう。故に現状は間違っても異常事態などではない――長らく異常で在り続けたモノが、ようやく正常に戻ろうとしているのだ。二度と根治する事は無いと信じていた歪みが、在るべき形へと回帰しようとしている。森谷蘭は――かつて喪失した“自己”を、取り戻し掛けている。

 で、あるならば。それなら、もしかすると。


 俺はまた、“あいつ”に、


「如何なさいましたか、信長さま?はっ、まさか御気分が優れないのですか!?大変です、こ、これは天下を遍く震撼させる一大事です!」

 血相を変えて玄関から駆け寄ってくる蘭の騒々しい声で、はっ、と現実に引き戻される。一体どれほどの時間、鏡の前で立ち尽くしていたのか……気付けば先程まで寝巻き姿だったねねも、既に出立の準備を終えた様子で、戸口からひょっこりと顔を覗かせている。本棚の上の置き時計に目を遣れば、何と出立予定時刻を一分ほど超過していた。どうやら夢想に溺れている時間は無さそうだ。俺は全身に力を込めて、際限なく湧き上がる女々しい感傷を無理矢理に頭から振り払う。

「大事無い。多少、物思いが過ぎた」

「然様で御座いましたか。流石は信長様、常に天下国家の計を巡らせる深慮遠謀、蘭如きには欠片も推察すること能いません」

「ふん、当然よ。……無遅刻記録をここで途切れさせるは些か惜しい。往くぞ」

「本当にね、もしご主人の所為でこの私が遅刻するなんて事になったらどう責任を――やめて睨まないで何故にアタマにホオジロザメの歯並びガッ!?」

「ああっ、ねねさんの顔色がディープブルーにっ!」

 常と変わらず喧しい従者二人組を引き連れて階段を降り、アパートの玄関口へ。

 忘れ物の類が無いか改めて全員で互いの姿をチェックしてから、午前七時四十分、出立。

――さて、今日も騒がしい一日になりそうだ。








 織田一家の住むボロアパートは堀之外の一画に位置しており、川神学園とはそれなりに距離がある。故に、通学の際には必然的に幾つかのロケーションを通過する事になる訳で、今現在俺達が歩いている多馬川河川敷もまた、その一つである。個人的には都会の騒がしさから離れた長閑な雰囲気が気に入っている場所なのだが、しかしそのような所にも鬱陶しい喧騒を持ち込む無粋な輩が居るようだ。

 俺の前には今現在、実に数十人もの人だかりが出来ていた。制服を見るに間違いなく、全員が川神学園の生徒達である。朝っぱらから賑やかに集まって何を見物しているのか、と彼らの視線を追えば、そこには見知った立ち姿が在った。川神学園の制服を着た一人の少女が、川岸にてガラの悪い男達に取り囲まれている。その数、十三人。成程、これはいわゆる集団リンチ、という奴だろう。男達が揃いも揃ってバットやメリケンサック等の物騒な得物で武装している点からして、傍目にもバイオレンスな雰囲気が溢れている。

「くくっ」

 確かにこれはなかなか面白い見世物になりそうだ、どうせなら最前列で見物するとしようか。そんな意図を以って人だかりに向けて悠然と足を踏み出すと、俺の存在に気付いたギャラリー達が瞬時に目を見開いて息を呑み、冷や汗を垂らしながら一斉に道を開けた。そう、それでいい。人々が胸に抱く織田信長への畏怖の念を、総身を以って体感できるこの瞬間は、何度経験してもやはり堪らないものがある。込み上げる愉快さに任せて口元を歪めながら人垣の間を悠々と歩く。そしてギャラリーの最前列に立ち、現在進行中のイベントへと見物の目を向けた。

「クス……女だからって手出さないとか思うなよ」

「俺達は“原点回帰”の“本格派”だからよ。誰だろうとソッコー“ぶちのめす”」

「くっくっく、お、お前は通学路で多くの生徒が見てる中、は、敗北していくのだ」

 絶妙に頭の悪そうな連中が絶妙に頭の悪い言葉を女子生徒に投げ掛けている。何とも頭の痛くなるような光景である。他ならぬ女子生徒も俺と同感だったのか、そんな彼らに対して怒るでも呆れるでもなく、ひたすらに面倒そうな気だるい表情で口を開いた。

「あのな、お前ら。私が誰なのか、本当に分かってるのか?」

「分かってんよ。川神百代だべ?俺達の地元、“ちば”まで情報入ってきてるぜぇ!」

「クチャクチャ。だからアイサツに来たワケだよ」

「う、噂ってのは大抵オヒレついてっからさ」

「七浜のチーム、“九尾の犬”を一人で潰したとかさぁ、生意気なガキをボールに見立ててダンクしたとか。いちいち嘘くさいんだよ」

 不良どもの意見に同意するのは癪だが、しかし尤もである。女子生徒――川神百代にまつわる数々のエピソードはあまりにも非常識且つ荒唐無稽なものが多く、大抵が笑える程に現実離れしている。あの釈迦堂刑部を師に仰いだ俺ですらも最初は信じていなかったのだから、所詮は武の世界に関わりを持たない一般人である不良連中が噂を疑うのは無理もない話だ。だから、今こそ俺は彼らにこの至言を贈ろう。

 事実は小説よりも奇なり。

「お、いいなこの石。特別に教えてやろう、私の最近のマイブームは丁度これくらいのサイズの物体で遊ぶ事なんだ。よっ、と」
 
 百代はすぐ傍に転がっていたサッカーボール大の石を片手で持ち上げた。その行動の不可解さは、忍耐力の欠如した不良どもの怒りを煽るには十分だったらしい。

「ハァ?この女、なに意味ワカンネーこと言っちゃってんの?」

「つーか俺達ムシしてんじゃねーぞコラ。ビビってんじゃねーっての」

「ははは、まあ落ち着け。文句を言うのはコレを見てからでも遅くないぞ?」
 
 百代は中指と人差し指の二本だけで巨大な石を挟み込むと、周囲を囲む男達に見せ付けるようにして宙へと持ち上げた。

「――私はな、こうやって遊ぶのが大好きなんだよ」

 怖気の走るような薄ら笑いを浮かべた百代の言葉と同時に、ピシリ、と掲げられた石に罅が入り、それは瞬く間に蜘蛛の巣の如く全体を走って、そして――爆散。木っ端微塵に砕け散り、石の破片が周囲にパラパラと降り注ぐ。そんな、一般常識では凡そ有り得ない光景に、不良どもは絶句していた。

「な、な、なぁっ……!?」

「あー楽しいなぁ。何というかこう、モノを徹底的に破壊する感覚が堪らない。だがまだまだ遊び足りないぞ――うぅむ、どこかに手頃な遊び道具はないものか」

 キョロキョロと周辺を見渡した後、百代はギラつく目で男達に視線を移して、そして口元を大きく歪ませて笑う。

「……なーんだ、あるじゃないか。ひーふーみー、私のマイブームにピッタリなサイズがこんなに沢山!なぁ、お前らの柔らかそうな頭蓋を圧し砕くと、どんな感触がするんだろうな?楽しみだ、ああ実に楽しみだ。ふふ、ははははっ!」

 不良達の頭部を眺め回しながら哄笑する百代の全身からは、黒々とした禍々しい氣が立ち昇っている。その立ち姿はまさしく絶対的な捕食者のソレで、狂気的な凶悪さとおぞましさに満ちていた。間違っても目の前に立ちたくないと思うのは万人に共通した意見だった様で、不良達は顔色を真っ青に染め上げて後ずさった。

「な、なんだよコイツ、やべーよ!」

「こここんなバケモンの相手してられっか!お、オレは抜けるぜ!」

「ああっ、木更津君!?津田沼君も――ちょっと待って、置いてかないでくれーっ」

 その様、まさに蜘蛛の子を散らすが如し。威勢の良い啖呵を切ったのも今は昔、十数人の不良グループは迷わず背中を向けて、全速力で一目散に逃げ去っていった。勿論、川神百代が“その気”ならば敵前逃亡など絶対に許されはしないだろうが、どうやら追い討ちを掛けるつもりは無いようで、百代はその場に悠然と佇んだまま、猛烈なスピードで遠ざかる男達の姿を見送っていた。溢れ出る武神の気迫はもはや露と消え失せ、元の気だるげな表情に戻っている。

「……ハァ。アホくさ。なんでこの私がわざわざこんな面倒な真似をしないといけないんだ、まったく。それもこれもお前の所為だぞ。おい聞いてるのか、信長!」

 気配探知の技術においても世界最高峰を誇る武神は、当然の如くこちらの存在に気付いていたらしく、ギャラリーの最前列に立つ俺の方へズカズカと歩み寄りながら声を上げた。

「ふん、俺の知る所ではない。お前が自らの意思で望んだ事だろう、川神百代」

「おいおい、フルネームは他人行儀だからヤメロってずっと言ってるだろ。私の事は尊敬と愛情を込めてモモ先輩と呼べ」

「寝言は寝て言え。他人行儀も何も、他人だ」

「他人?いやいやそれはないだろ信長ぁ、私達は将来を約束した男女の仲じゃないか」

「誤解を招く言い方は止めろ阿呆め」

 ニヤニヤ笑っている百代の悪意ある発言のお陰で、主に百代ファンで構成されたギャラリーが俺に向けてドス黒い怨嗟の視線を送ってきていた。どうやら百代への愛は織田信長への恐怖をも上回るらしい。何とも理不尽な話ではあるが、しかしこればかりは俺の殺気を以ってしてもどうしようもない気がする。

「とまあ冗談はさておき。お前は後輩なんだから、偉大な先輩に少しくらい敬意を示すべきだと私は思うワケだ」

「年功序列は唾棄すべき思想、俺は然様に言った筈だがな。ましてや僅か一年の差異如き、まるで取るに足らん」

「むぅ。あーなんだこのナマイキな生物は。もう精神修練とか良いから襲っちゃおうかなー」

「お前の辞書に忍耐の二文字は無いのか?」

「冗談だよ冗談。さっきのヤンキー連中だって、軽く脅しただけで実際に手出しはしなかっただろ?私はちゃーんと我慢してるさ」

 陽気に言いながらこちらを見つめる百代の双眸に、以前のような獣じみた欲望の色は見受けられない。絶えず全身から溢れ出していた強烈な戦闘衝動も、出逢った当初に比べると格段に抑えられている。普通に会話を交わしている分には身の危険を感じる事もほとんど無くなっていた。今では血で血を洗う闘争を繰り広げるべき敵同士ではなく、横暴で傍若無人な先輩と生意気で反抗的な後輩――という、以前ならば信じられないほどに平穏無事な関係性に落ち着いている。この人間関係の劇的な変遷が、“変化”の三つ目と言えよう。

「しかし、考えてみればこれで私の禁欲生活も記念すべき一週間目に突入か。うぅむ、こうも闘いと縁が無いのは、やはりどうにも落ち着かないぞ」

 むぅ、と口元をへの字に曲げて唸っている先輩は、風間翔一との決闘を終えた後の対談を経て、どうやら自身のサガを抑え込む決意をしたらしい。あの日以降、百代は闘争への並々ならぬ執着を断ち切るべく、“まずは戦闘行為そのものから遠ざかるように”と祖父の鉄心から厳しく言い付けられているそうで、先程の不良達の一件のように闘いを回避する方向に努力を続けている。あの連中が以前の百代に絡んでいたなら、まず間違いなく戦闘衝動の捌け口にされていた事だろう。ちょっとした恐怖体験を味わう程度で済んだのは実に僥倖と言える。

「あー何だか欲求不満でムラムラしてきたな。……おーっと、おねーさんが美少女だからってエロいこと連想してるんじゃないぞ男の子」

「春の陽気に冒されたか。哀れな」

「まあそう照れるなよ青少年。将来的にこのセクシーダイナマイトバディとくんずほぐれつ出来るかもしれないなんて、全世界の男が血涙を流して羨む幸運だぞ。お前はもっと嬉しそうな顔をするべきだ」

 殊更に身体を見せ付けるように胸を張りながら、百代は何ともオッサン臭いニヤリ笑いを浮かべている。これまではいつ戦闘を吹っ掛けられるかと神経を張り詰めながら接していたのであまり意識する機会が無かったが、こうして改めてそのボディラインを眺めてみると、何と言うか……色々と反則だった。少女の無垢さと大人の色気を併せ持つ顔の造形。桁外れのバストサイズ。長身で均整の取れたプロポーション、すらりと伸びた肢体。何から何まで完璧過ぎて非の打ち処が無い。神の与え賜うた美とはこういうものか。世界最強なのは武力だけではない、と言い張っても、必ずしも身の程知らずの傲慢とは呼べない。成程、川神学園の頂点に君臨する美女と呼ばれている事も納得である。これで中身が猛獣を子犬扱いする傍若無人な最強生物でさえなければ、学園中どころか市中の男共が放っておかなかっただろうに。などと感嘆しながら無表情で鑑賞を続けていると、ゴホンゴホン、と露骨にわざとらしい咳払いの音が背後から響いた。

「あ、主。もう行きましょう、すぐ行きましょう。これでは早々に出立した意味が――」

 早口に捲し立てながらくいくいと制服の裾を引っ張る従者一号。百代はその姿を見た途端、面白い玩具を見つけたと言わんばかりの顔になった。

「うーん、何ともいじらしいじゃないか……カワユイなぁ。よーし、こんな愛想の欠片もないトーヘンボクは放っといて私と火遊びしようじゃないか。それがいい、そうに決まったぞ。ほーら!」

「わひゃぁっ!?」

 百代はおもむろに蘭へと歩み寄ると、抵抗を許さない鮮やかな手際でその身体を勢い良く抱き上げた。左腕を背中に、右腕を膝裏に回して相手の体重を支える……まあいわゆるお姫様抱っこの体勢である。周囲の百代ファン(主に女子生徒)が揃って羨ましそうな顔を並べているのが何とも不気味だった。被害者たる蘭は数秒ほど目を白黒させていたが、事態を把握すると、ジタバタと身体を捩って拘束から逃れようともがき始める。

「お、下ろしてください!じょ、女性同士だなんて興味ありませんからっ!うぅうぅ、どうかお助け下さい主ぃぃ」

 なんと驚くべき事に、主君に助けを求める従者がここにいた。まあ相手が相手なので仕方がない話だし、救出してやりたいのは山々なのだが、取り敢えず無力な俺にはどうしようもない。世界最強の暴君の手から囚われの女を助け出すのは途方も無い困難を伴うのだ。――というかぶっちゃけ無理である。

 早々に従者救出を諦めて傍観モードに入った俺を余所に、蘭は腕の中から逃れようとますます盛大に暴れ出し、百代は頭上にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げていた。

「あれ?こうしてやると娘っ子は喜ぶハズなんだが、おかしいな。抱き方を間違えたかな?」

「おーろーしーてーくーだーさーいーっ!朝方から通学路でこんな、不潔ですーっ!」

「ってこら、ちょ、“氣”まで使って暴れるな!分かった分かった、離してやるから!」

 流石は我が一の臣、俺が手を貸すまでもなく見事に自力の脱出を果たしていた。無事に解放された蘭は涙目で俺の背中の後ろへと駆け込んで、ビクビクしながら制服の裾を摘んだ。どうやら問答無用に最強生物な先輩に対して、本格的に苦手意識を持ってしまった模様である。一方、獲物に逃げられた百代はと言えば、実にやるせなさそうな顔で溜息を吐いていた。

「ただでさえ禁欲中で悶々としてるのに、可愛い女の子漁りで発散する事も満足に出来ないとは、ハード過ぎる試練だ……何だか耐え切れる自信が無くなってきたぞ。ああ、可愛い女子成分が足りない!上玉、上玉はいないかっ」

 何だか以前とは違う方向に危ない人と化している百代からそっと目を逸らして、周囲の様子を窺う。従者たる蘭の危機一髪で思い出したが、先ほどから第二の従者の姿が見当たらない。何処に消えたのやら、と目で姿を探すこと数秒、後方十数メートルのギャラリーの中にて発見。ニヤニヤと腹立たしい笑みを貼り付けてこちらを見ていた。その顔面にグーパンを叩き込んでやりたいという衝動を覚えると同時に、見慣れない姿がねねの隣に立っている事実に気付く。誰だ、と訝ったのは一瞬、手に携えた棒状の布袋を見た時点で正体は特定できた。いかに川神学園が特殊な人材のバーゲンセール状態と言えど、流石に“国”から帯刀許可を得ている女子高生など一人しか居ない。成程、彼女が黛の。剣聖の娘、か。

「ん、何を見てるんだ信長?……おおっ、結構な上玉が二匹も!マーヴェラスッ!」

 ターゲットロックオン。喜びの咆哮と共に、百代の姿がブレる。次の瞬間には、獲物の目の前に立っていた。恐らくは目にも留まらぬ超高速で移動したのだろうが、俺にはテレポーテーションにしか思えなかった。真っ先に被害に遭ったのは、愚かにも自分は安全圏に居ると信じ込んでいた我が従者第二号である。「ぎにゃー!?」と本日二度目の悲鳴を上げて、小柄な身体が抱き上げられた。

「ふはははは、軽い軽いぞ!グラマラスなバディーもいいが、こういうミニマムキュートなのも新鮮で楽しいなぁ。……マズイな、発言に気を付けよう。我ながらちょっとハゲに似てたぞ今の」

「勝手に自省するのは結構だけど、取り敢えず公衆の面前で高い高~いするのはやめくれないかなセンパイ!ああもうどうしてこっちに矛先が向くかなぁ……、ヘルプ、ヘルプミーまゆっち!」

「あわわわわ、私は今、人生で初めて友達に助けを求められています!ままま松風、この果てしなく未知のシチュエーションに私はどう対処すれば!?」

『慌てんな落ち着けまゆっち~、こういう時はアレだ、ホラ深呼吸で気を静めるんだ』

「し、深呼吸ですね!了解しました。すーはー……すーはー……ああ、朝の空気は爽やかで美味しいですね松風」

「うがー!何を呑気にゆっくりしちゃってるのさ!キミ絶対助ける気ないでしょ!」

『いやいやまゆっちは心優しいから友達を見捨てたりはしねーって。か、勘違いしないでよね、別にどう考えても相手が悪いから諦めて時間稼ぎでやり過ごそうなんて思ってないんだから!』

「ツンデレっぽく言えば何でも許されると思ってるその甘ったれた性根を修正してやりたいね!後で覚えてなよ、まゆっちぃぃぃっ」

 ねね達が身を呈して百代の注意を引き付けてくれている間に、俺は早々に通学を再開する事にした。これは蘭が服の裾をくいくいと引っ張って訴えかけてくるからであって、別に賑やかで楽しそうなので邪魔をするのは悪いだろうと気を遣った訳ではない。勘違いするなよ、ネコ――などと内心で呟いてみたりしながら、俺は躊躇い無く従者第二号を切り捨てて歩き始めた。

 という訳で朝一番から無駄に騒がしい川岸を離れ、通学路へと復帰して河川敷を歩く事しばし、次に到着するロケーションは――多馬大橋。神奈川県と東京都の県境としての役割を果たしている大規模な架橋で、通称は“変態の橋”である。その何とも不名誉なネーミングの由来については、一度でも実際に橋を通過してみれば嫌でも理解出来ることだろう。

「おお、織田か。お早うなのじゃ。高貴なる此方に朝の挨拶を返せる幸福を存分に噛み締めるが良いぞ」

 橋に足を踏み入れて数歩進めば、早速、変態一名様とエンカウントした。何の行事も祝い事もない筈の平日に、どういう訳か高級感溢れる鮮やかな和服姿で登校している黒髪団子の女子生徒――その名は不死川心。日本三大名家が一つ、不死川家の御令嬢だ。学園指定の制服の存在に堂々たる喧嘩を売った上での通学が許されている背景には、“彼女の実家が学園に多額の寄付金を提供している”という裏事情が存在している。それを知った時、俺は世に蔓延る全てのブルジョワジーは悉く滅び去ればいいと改めて思ったものだ。しかし、そんな風に個性を全身で主張している不死川心も、実を言うと学園の生徒の中では割と変態レベルは低い方である。コレを見て“まぁまだマシか”という認識を覚えてしまう辺り、川神学園の尋常ならざる魔窟っぷりが良く分かろうというものだった。

「相変わらず不景気な仏頂面をしておるのう。こうして此方の可憐なる麗姿を拝んでおる以上、笑顔の一つも見せるのが道理であろうに」

 冗談や自虐の類ではなく、こいつの場合は心底より本気で言っているから侮れない。発言の内容自体は先程の百代とほぼ同じなのだが、アレはあくまで百代が口にするから様になっているのであって――俺は心の全身を改めて眺める。自画自賛するだけの事はあり、不死川心は疑いなく美少女に分類されるべき容姿の持ち主ではあるのだが、なにぶん今回は比較対象が悪い。あの理想の女性像と云うべき肉体を目に焼き付けた直後では、色々と物足りなく感じてしまうのが現実である。主に胸とか――という偽らざる感想を込めて、俺は無言のまま鼻で笑い飛ばす事で心への返答とする。

「うぬぬ、何だか知らぬが許し難い侮辱を受けた気がしてならんぞ……。おい織田、正直に言うのじゃ。お前、何か不躾な事を考えたであろう」

「ふん、下らんな。然様な被害妄想は、己に対する自信の欠如を証明しているに過ぎん。俺はお前の身体に対し、何も思う所なぞ無い」

「……むう、どうも信が置けぬが……まあ良いわ。此方の気品溢れる魅力は万人が認める所よ。ほほほ、お前が認めようが認めまいが事実は変わらぬのじゃ」

 心は自信満々に薄い胸を張りながら言い放つ。その根拠の無いポジティブシンキングがいっそ羨ましく思えてきた今日この頃である。

 そんな感じで毎日の人生が楽しそうなお嬢様は、俺こと織田信長の友人(?)というポジションだ。ここで疑問符を付けなければならないのは個人的には些か心苦しいのだが、しかし問題が俺自身ではなく周囲の認識にある以上はどうしようもない。と云うのも、周囲の人間は俺と彼女の関係を普通の友人同士だとは捉えていないだろう。恐らくは誰もが“そこ”から一歩踏み込んだ、より深く濃密な関係を勘繰っている――そう、それは例えば。

「おー、ノブナガと金魚のフンだー。やあやあ、おっは~」

 腰巾着。虎の威を借る狐。コバンザメ。エトセトラエトセトラ、多種多様な表現が存在するが、まあ結局のところ、つまりはそういう事だった。主に俺が他クラスの生徒に脅しを掛ける際、その背後で威張り散らしている場面が良く見られるため、然様な認識を受ける羽目になっているらしい。加えて、かつての決闘において公衆の面前にて散々に打ち負かした事で、織田信長>不死川心の力関係が生徒達の間に広く浸透していたことも原因の一つだろう。

 何にせよ、それらの表現が当人にとって不愉快極まりない蔑称であることは間違いない。という訳で、出会い頭の開口一番から無遠慮な毒舌を飛ばしてきた白髪の女子生徒に対し、心が憤慨と恥辱に顔を赤くして怒鳴り返すのは当然の帰結であった。

「だ、誰が金魚のフンじゃっ!良いか、何度も言っておるが此方と織田は対等な友人で――」

「あれ~、僕ココロじゃなくてランのこと言ってるんだよー?なのに反応しちゃうってことは、ひょっとして気にしちゃってる?ねぇ気にしちゃってる~?きゃはははっ」

「ぬ、ぐぬぬぬぬ……、おのれ榊原小雪、何とも腹立たしい奴よ!よいか、此方を侮辱すれば織田が黙っておらんぞ。にょほほ、我が友に掛かればお前も口を閉じざるを得まい!」

「これ以上なく見事に金魚のフンっぽいセリフだなオイ……。ほらユキもその辺でやめとけ、朝一番からクラスメートをいびっちゃいけません」

 やれやれ、といかにも苦労人っぽい表情を湛えながら両者の間に割って入ったのは、陽光を反射する頭部が強烈に眩しい男子生徒。彼は心へのツッコミとフォローを手馴れた調子でこなした後、俺の方へと向き直った。

「よう、お二人さん。ん~、またお前らだけか。残念無念、やっぱねねちゃんは一緒じゃないんだな……ってあの、蘭さん?なんか目が怖いんですけど」

「いえ、ねねさんの名前の呼び方に少なからぬ邪念を感じたもので。準さんの胸の内に心当たりが無いならお気になさらずとも結構ですよ」

「そうか、だったら大丈夫だ。何故ならば、俺の幼女を愛でる純粋な心に、邪念なんてモノは一ミクロンもないと命を賭けて断言できる!」

 通学路にて堂々たる大声でロリコンをカミングアウトする男子高校生がそこにいた。果たしてこの国の将来は大丈夫だろうか、と思わず憂慮せざるを得ない光景である。まあ幸いにして川神学園の醜聞に繋がる事だけはないだろうがな――と、無表情ながら目に殺気を漲らせている蘭を見て一安心。この分だと、警察の世話になる前には潔癖な我が従者が情け容赦なく叩き斬ってくれそうだ。

「ふふ、準はお目当ての人に逢えなくて残念そうですが、その点で言えば私は幸運ですね。意中の人に通学路でたまたま出会えるとは、これはもはや運命と言う他ないでしょう」

「然様か。お前の運命は随分と安い様だな」

 通学路と通学時間の双方が被っていては偶然も何もないものだ。そして“意中の人”が一体誰なのかは知りたくもないが、取り敢えず横で犯罪者予備軍と戯れている蘭という事にしておこう。精神衛生は大事である。

「おやおや、酷いですね。私の愛は決して安売りなんてしていませんよ。これは、そうですね……言うなれば信長特価です。お買い得ですよ?」

「不要だ。例え千金を積まれても御免被る」

「相変わらずのツンツン振りだ。いつかデレが来ると信じて辛抱強く耐え忍ぶとしましょうか。ふふ、健気な私の一面を垣間見て、好感度が数倍に跳ね上がったでしょう?」

「零に何を掛けても数字は動かぬと知るがいい」

 むしろ俺の中ではマイナス方向へと数倍に跳ね上がっただけである。この笑って済まされない性癖さえなければ理知的な常識人と言えるのだが……まさに一つの欠点が全体を台無しにしている好例だろう。川神学園イケメン四天王の一人に数えられる男の、無駄に整ったルックスに目を遣って、心中で溜息を落とす。

 何やら一気に面子が増えて周囲が騒がしくなったが、面倒なので纏めて紹介するとしよう。葵冬馬、両刀遣いなイケメン。井上準、ロリコンなハゲ。榊原小雪、電波なウサギ娘。揃いも揃って変態の名に何ら恥じない強者であった。そして悲しいかな、この三人組はエリートクラスたる2-S所属――つまりは俺のクラスメートである。何処へ行くにも何をするにも常に行動を共にしている事から、2-Sの仲良し幼馴染トリオとして校内では割と有名な三人だった。内面はともかく外面は良く、隙あらば全員が自重しない個性を発揮するため、色々な意味で目立つ連中なのだ。よくもまあこうも濃い面子が集まったものだと常々思う。類は友を呼ぶ、とは正しく真理だろう。

「ええい、今日という今日こそは我慢ならぬ!そこに直れ榊原、不死川の高貴なる威光を思い知らせてくれるのじゃ」

「うわーい、チョウチョだ~。待て待て~」

「無視するでないわー!おのれおのれおのれおのれ、どこまでも此方を馬鹿にしおって、今に見ておれ!」

「だからな森谷、何度も言うが俺にはやましい所なんぞない。これは父性にも等しい穢れ無き保護欲なんだっつーの!そうだ、この今月号の水着特集を見れば森谷にも俺の愛が理解できるハズだ――ウボァッ!?」

「つ、通学路でそんなモノを広げないで下さい!不潔です不潔です!」

「はは、皆さん楽しそうですねぇ、何だか羨ましくなってきました。どうです信長、ここはひとつ、私と一緒にキャッキャウフフしてみませんか?」

「貴様はもう口を開くな莫迦め」

 かくして2-Sを代表する変人メンバー(但し俺を除く)が変態の橋に集い、周囲を省みない喧騒を撒き散らしながら登校を再開する。ここに最高級の変人レベルを誇る2-S委員長及びその従者が居合わせていれば戦慄のフルメンバーだったのだが、幸いにして周囲にあの目立つ姿は見当たらなかった。今でも十二分に賑やかだと言うのに、あいつらまで加わっては確実に収拾が付かなくなる。

――四つ目の“変化”を、敢えて挙げるとするならば。それは、俺の周囲を取り巻くこの光景そのものだと云えるだろう。

 織田信長はその絶対的強者としての在り方から、絶えず畏怖され、恐怖され、敬遠され、排斥されてきた。他者との関わりを持つ事などほぼ皆無に等しく、常に人の輪から外れた孤高の存在で在り続けてきた。故に、曲がりなりにも集団の一員として周囲に溶け込んでいる現状は、俺にとっては人生で初めての体験だ。転入当初からしてみれば完全に想定外の事態で、勝手の違いに戸惑いを覚える場面も多いが――まあ、これはこれで、悪くない。たった一度の学園生活、最初から最後まで一匹狼を貫くのも味気ない話だ。青春物語など間違っても似合わないし柄ではないが、しかし一生に一度くらいはそういう時期があっても良い。望んでも得られない貴重な経験として、有り難く糧にさせて貰うとしよう。

 などと頭の片隅で思考を巡らせながら多馬大橋を渡り終え、歩を進めること数分。目的地たる川神学園の古めかしい木造の校門が姿を見せる。

 私立川神学園――川神市の代表的な学校で、総生徒数は千人を越える。土日は休みでアルバイトは自由、中間試験は存在せず期末試験が勝負となる。とまあ、ここまでは世間一般の高校と大差ない。この学園の最大の特徴は、その異色の校風にある。“決闘システム”を初めとした独自の校則と学校行事の数々……武道の総本山・川神院の総代が学長を務めている学園だけあって、生徒達の競争を推進する為のルールやイベントで溢れているのだ。学長曰く、生徒達が互いに競い合い磨き合う、切磋琢磨こそが川神学園の教育方針なのだとか。そういった校風に惹かれた野心の強い競争好きや、武家出身の実力者が多く集まる事もあって、かなり独特な雰囲気を有する校内模様が形成されている。ちなみに俺こと織田信長もまた、厳しい環境の中で己を磨く事を目的に転入を果たした生徒の一人だった。一筋縄ではいかない曲者揃いの学園で過ごす綱渡りの毎日は、余所では得られない様々な経験と成長を俺にもたらしてくれる。日々是修行也――胸に抱えた夢を叶えるため、あらゆる困難を乗り越えて研鑽を積み続ける。それが俺の選んだ生き方で、誰にも曲げられない鋼の意志だ。

 クラスメートとの平穏な会話に親しむのは良いが、浸り過ぎては堕落に繋がる。厳粛に精神を切り替えていく必要があるだろう。織田信長の心は、常に過酷な戦場に在らねばならない。

「さて」

 今日も一丁、気張っていくとしようか。

 無表情を保ちながら心中で気合を入れ直して、俺は川神学園の荘厳たる校門を潜った。








 俺達がB棟に位置する2-S教室に到着したのは、スピーカーから予鈴の音が鳴り響く直前の八時十分。ホームルームの開始は八時二十分からなので、まだ幾らか時間に余裕があった。何だかんだで努力家の優等生が多い2-Sでは、大抵の生徒がこうした自由時間を活用して予習復習に励んでいる。S組は学園で最も過酷な競争社会、気を抜いて成績を落とせば待ち受けているのは“S落ち”の恐怖である。学年総合成績五十位に設けられたデッドラインを踏み超える事態を避ける為、危険域にいる者は絶えず必死に足掻かなければならないのだ。よって、休憩時間中にクラスメートとの優雅な雑談に興じる事は、己の学力にある程度の自信を有する成績上位者にのみ与えられた特権であると言えよう。そんな訳で、俺と蘭、冬馬と小雪と準の五人は、普段と同じ陣形でダラダラと適度に無意味な会話を交わしていた。

「そういえば、隣の2-Fに転校生が来ると今週頭から噂になっていましたが。信長はその件について何か知っていますか?」

「否。掴んでいるのは、川神市の姉妹都市、リューベックより赴くと云う些細な情報のみよ。有象無象が一匹増えようが、俺には興味が無い故」

「はは、まあ並大抵の人間では信長の興味を惹くのは不可能でしょうね。それにしても、転校生、と言うと今年の初めにあなた達が来た時のことを思い出しますよ。アレは随分と衝撃的な出逢いでした」

「リューベックっつー事はドイツ人だろ。って事はだ、信長の次はヒトラーでも来るのか?はは、大戦が勃発しそうだな……、――げっ、しまった」

「ほう。俺の姓名を揶揄するとは、天晴れな度胸だ。余程、死を望むと見えるな、井上準」

「真剣でスミマセンでしたっ!俺は絶対に死ねない……そう、小さな女の子と一緒に風呂に入るという悲願を達成するまではっ!」

「準さん、カウント壱です。それにですね、独国の独裁者如き、偉大なる主の比類なき威光の前には到底及ぶものではありません!」

「フォローする方向が致命的に間違ってるだろ!というか蘭さん、そのカウントは一体何でしょうか……?途轍もなく不吉な予感しかしないんスけど」

「それは――カウントが規定値に達した時のお楽しみです。フフフ」

「え、なんスかその今までにないイイ笑顔。激しく先行きが不安になってきたんだが……俺、生きて卒業できるよな?」

「くくっ、己がサガを貫いて逝けるならば本望であろう。夢に溺れて死ぬがよい」

「けたけた、お風呂だけにね~。ノブナガに座布団一枚!」

 実にならない馬鹿話をしている間にも時間は過ぎて、現在時刻は八時十五分。

 始業のチャイムまで五分を残したタイミングで教室の戸が開き、くたびれた雰囲気を全身から発しているヒゲ面の中年男が姿を見せた。その正体は脅威のダブリ二十回を実現させた伝説の学園生――では勿論なく、2-Sの担任教師である。“人間学”という川神学園独特の特殊な授業を担当しているこのオッサンは、俺にとっては転入前からの個人的な知り合いだ。宇佐美巨人という妬ましいほど立派な名前の持ち主だが、しかし基本的に名前で呼ばれる事は稀で、大抵の生徒達にはヒゲだのヒゲ先生だのと呼ばれている。親しみを込めていると取るべきか、単純に舐めていると取るべきかは微妙なラインだ。ちなみに担当している2-Sの場合、残念ながら大半の生徒が後者である。俺の知る限りにおいては疑いなく有能な人間なのだから、覇気とやる気を僅かでも面に出せば評価も変わるだろうに、と常々思う。まあそれが出来ないからこそのヒゲなのだろうが。

「ん?今日は面を出すのが少しばかり早いではないか、ヒゲ。折角の典雅な自由時間に貧乏臭い顔を見たくないゆえ、いっそ遅れて来れば良かったものを」

「あのな。お前さん、あんまり大人ナメてるとその内痛い目見るぞ、いや真剣で。ほら、例の転校生が来るって事で、お隣の2-Fは普段より早めにホームルームを始めるワケだ。そうなると小島先生狙いの俺が一緒に付いて来るのも当たり前。ま、そういうこった」

「ホホホ、相変わらず無駄な足掻きをしておるようじゃの。最初から脈など無いと云うに、哀れなものよ」

「うっせ、オトナの恋愛にガキが知ったような口利くんじゃねーっつの。こういうのは地道な積み重ねが大事なんだよ。一見成果が無いように見えても、めげずにアタックを続けてりゃ嫌でも視界に入るもんだ。いいかお前ら、好きでも嫌いでもいい、まずはどうにか相手に興味を持たせないと何も始まらねぇ。アウトオブ眼中ってのが一番マズイ――この言葉を覚えとけば将来役に立つぜ、真剣で。オジサン保障しちゃう」

 何やらオッサンが熱弁しているが、残念ながらクラスの誰もが完全にスルーしていた。しかしそれは、その話の内容が全く興味を惹かない傾聴価値ゼロと云うべき代物だった事だけが原因ではなく――皆の注意力が一斉に、完膚なきまでに別の方向へと吸い寄せられていたからであった。現在、2-Sの全員がとある一点、すなわち教室の窓の外に広がるグラウンドを注視している。勿論、俺も含めて、である。

 さすがに“アレ”の存在を無視できるほど、俺の神経は図太くない。


「―――クリスティアーネ・フリードリヒ!ドイツ・リューベックより推参ッ!この寺子屋で今より世話になる!!」


 校門に面する第一グラウンドの中央にて、良く透る流暢な日本語で高らかに名乗りを上げているのは、流れるような金髪が美しい、ティーンエイジャーの欧州人と思しき少女であった。本人がわざわざ名乗ってくれている通り、その素性は明らかだ。彼女こそが噂の転校生なのだろう。取り敢えず本当にヒトラーではなかった事には安堵したが、しかし名前などよりもよほど重大な問題が彼女には存在している。具体的には、少女の腰から下の部分。

 馬である。

 とは言っても無論、ケンタウロスが現実世界に出没した訳ではない。

 少女は白の毛並みを陽光に煌かせる駿馬に跨って、グラウンドを堂々と闊歩していた。

「ここが今日から自分の学び舎か。……自分の他に馬登校はいないのだろうか?」

 いる訳ねぇだろ、と2-Sの生徒一同が心を一つにした瞬間であった。日本の交通法を如何考えているのか小一時間ほど問い詰めてみたいものだ、と心中で盛大に溜息を吐いていると、校門から新たな登校者が出現する。誰あろう、その正体は未だ教室に姿を見せていなかった2-S委員長、九鬼英雄であった。2-Sはおろか学年に君臨するトップクラスの変人は、今日も今日とて従者のメイドにゴージャスな人力車を曳かせて爆走中である。

「フハハ!転入生が朝から馬で登校とはやるな!」

「おはようございますっ☆」

「それは……ジンリキシャ!さすがはサムライの国だな!」

 クリスティアーネと名乗った転校生の少女は嬉しそうに目を輝かせて、英雄が悠然と腰掛けている装飾過多な人力車を注視している。

「うむ。そして我はヒーロー、九鬼英雄である!」

「自分はクリス!馬上にてご免」

「我が名は九鬼英雄、いずれ世界を統べる者だ!この栄光の印、その目に焼き付けるが良いッ!!」

「おお、まるで遠山!」

 スーツの背中を飾る紋様を見せ付ける英雄に、少女はますます興奮した様子で目をキラキラさせていた。

 そんな少女の姿に、俺は戦慄が身体を走り抜ける感覚を味わった。

 莫迦な、この少女――英雄のテンションについていけるばかりか、会話が正確に咬み合っている、だと……?

 俺はこの世の奇跡を目の当たりにしているのだろうか。俄かには現実として受け入れがたい夢幻の如き光景を前にして、ついつい思考を停止させている間に、少女の姿は白馬と一緒にグラウンドから消えていた。残された蹄の跡を見る限り、そのまま校舎へと入っていったのだろう。

『…………』

 2-S教室を奇妙な沈黙が包み込む。色々な意味で想像を絶する転校生の出現に、誰もが衝撃を隠せていなかった。無理もない話である。俺は人生の中で非常識な連中を数多く見てきたが、あそこまで強烈なインパクトを残す登場などそうそうあったものではない。あの少女、まず間違いなく特上の変人だろう。故に、ショックから立ち直った面々が次に思う事は一つだ。

「あー。……俺らのクラスじゃなくて良かったな」

 準の漏らした切実な呟きに、またしても心を一つにして頷く2-Sメンバーであった。

 その後、どうにもグダグダな雰囲気のまま始まったホームルームにて、俺はひとり思考を巡らせる。

「……ふん。クリスティアーネ・フリードリヒ、か」

 遠目に見ただけではいまいち測り切れなかったが、何処か油断のならない雰囲気を宿していたような気がする。そして何より見逃せないポイントとして、彼女の転入先である2-Fは、あの“風間ファミリー”の根城だ。或いはこれからの学園生活の中で、新たな障害として俺の眼前に立ち塞がる可能性も考えられるだろう。……まあ、その時はその時で、織田信長を育む糧となって貰うだけの話だが。あらゆる困難と障害を乗り越えて経験を積む事で、俺の力は研磨されるのだから。

 
 …………。

 
 ……後になって振り返ってみれば、随分とまあ呑気な事を考えていたものだ。

 神ならぬ身に不透明な未来は見通せない以上、致し方ないとは云え――思えば危機感も心構えも、何もかもが不足していた。過去の自分に警告を送れるものならば、是非ともそうしてやりたいと思う。

 
 ドイツ・リューベックより来襲した転校生、クリスティアーネ・フリードリヒ。

 
 彼女の存在が、只でさえ波乱万丈な織田信長の学園生活に、更なる大波乱を巻き起こす事になるとは――この時の俺には、知る由もなかったのであった。















~おまけの1-S~


「ははーん、見たわ見たわ、私は見たわよ、ネコ」

「藪から棒に何を言い出しちゃってるんだいキミは。春の陽気に脳をやられちゃったのかな?っていうかネコゆーなムサコッス」

「ムサコッスゆーなネコ。――はぁ、もうやめない?このネタで互いを貶し合っても虚しいだけだし。何より不毛だわ」

「まあその点については全面的に同意するとして。話を戻すけど、何を見たって?」

「朝の通学路で、あんたが1-Cの黛由紀江と一緒にいる所を、よ。ふふん、私のプレミアムな目は誤魔化せないわ」

「別に誤魔化そうなんて端から思ってないんだけどね……で、それが何かキミに関係あるのかな?」

「大有りに決まってるわ!黛由紀江には私を保健室送りにしてくれた恨みがあるのよ。あの屈辱は絶対に忘れないわ……。大体、プレミアムな私に危害を加えたって事はつまり、1-Sの敵じゃないの。昨日の今日で何を仲良さげに話しちゃってるわけ?」

「はぁ、キミもやたらと面倒な性格してるよね。危害って言っても、あれは私から見れば正当防衛以外の何物でもないと思うけど。まあそれは別として、私は今、彼女をウチのクラスに勧誘中なんだよ。何せ家柄も能力も申し分ない。このまま程度の低い1-C如きに埋もれさせておくには勿体無い人材だ。将来的には1-Sのホープに成り得る存在なんだから、キミ達も彼女には親しく接してくれないと困るね。みんな分かった?分かったよね?友達の聞分けが悪いと私、悲しくなっちゃうからさ。特に小杉ちゃん、彼女が来たらナンバーツーの地位が危ういからって、間違っても邪険にしちゃダメだよ」

「はん、誰がそんなコト。心配しなくても二度とあんな醜態を晒す気はないわ。いつまでもそんな風に余裕でいられるとは思わないことね――私のプレミアム・プランが本格的に始動すれば、ナンバーワンの座はすぐに私のモノとなる。首を磨いて待っているといいわ!」

「はいはい、三ミリくらいは期待して待っててあげるよ」

「くっ、やっぱプレミアムにイラッと来るわね……高い高~いされて喜んでたお子様の癖に」

「アレが喜んでいた様に見えるって言うならキミの目は節穴以下だね。私の面子に関わる不本意極まりない事態だよ。けど流石に仕方ないでしょ、相手が相手なんだし。あの理不尽の塊みたいなセンパイとマトモに張り合えるのはご主人くらいのものさ。――あ、さっき笑った奴は全員、後で屋上まで来てね。地上三階で好きなだけ“高い高い”を体験させてあげるからさぁ。キミ達がいつまで笑っていられるか見物だよ。ちなみにトップバッターはカニカマで」

「何故ッスか!?自分、ボスを笑うなんて命知らずなマネは死んでもしないッスよ!断固説明を要求するッス!あと自分はカニカマじゃなくて可児鎌――」

「キミの無駄にデカい図体を見てると、何だかあのやりたい放題なセンパイを思い出して苛々するから。ほら、十分な理由でしょ?」

「八つ当たりは良くないってウチのバアちゃんが言ってたッスよ!横暴過ぎるッス~!」







 
 という訳で、新章開始。ようやく正式なクリス登場まで漕ぎ着けました。長かったなぁ。
 今回は顔見せがメインなので文量の割に話が進んでいませんが、次回からはもう少しテンポ良く進めたいと思います。
 それと、既に気付いた方がいるかもしれませんが、百代の不良撃退のイベントについて。これは実のところ原作ではクリスの転入より数日ほど前の出来事(“人間テトリス”と言えば覚えている人も多いかも)なのですが、その辺りは話作りの都合で少しばかり時間軸を弄らせて頂いています。今回以降もこうしたパターンはちらほら見受けられるかもしれませんが、広い心で見逃して頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。



[13860] 開幕・風雲クリス嬢、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:4c655c46
Date: 2011/10/06 19:43
『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドにて決闘が行われます。内容は武器有りの戦闘―――』

 現在時刻は八時二十五分。2-S教室のスピーカーより響いたアナウンスを受けて、生徒達の視線が一斉に俺と蘭の方を向いた。誰も口には出さないが、その呆れと感心の入り混じった目は「またお前らか」と雄弁に語っている。

 まあ実際、ここ最近に俺達が原因となって巻き起こった闘争の数々を思い返してみれば、そのように思われても致し方の無い事ではあった。例え俺自身が動かずとも、第一学年征圧を命じてあるねねの奴は常に活発に行動を続けているので、結局のところ学園で繰り広げられている決闘の大半は織田主従絡みであるのが現実だ。今しがたのアナウンスにしても、心当たりはないがどうせまたねねが暴れているのだろう――と俺自身が納得していた位である。

『――対戦者は2-F所属、川神一子と。えー、同じく2-F所属、クリスティアーネ・フリードリヒ。見学希望者は第一グラウンドに集合して下さい』

 しかし、意外にも俺を含む2-S総員の予想は外れて、挙げられた名前は隣のクラスの二人であった。思いがけない対戦カードを提示され、生徒達は顔を突き合わせてざわめき声を上げる。元より有名人の川神一子の名もさることながら、大多数の生徒達の関心はその対戦相手の方に向けられていた。

 クリスティアーネ・フリードリヒ――ドイツから転入してきたらしい彼女が無駄にインパクトの強い登場を果たしたのは、つい数分前の出来事である。その印象は2-S生徒の頭に否応無く強烈に焼き付いている。そんな彼女が決闘に臨むとなれば、嫌でも興味を抱かざるを得ない。

「おやおや、転入早々に決闘とは穏やかではありませんね。また随分と好戦的な」

「トーマ、きっとヨソの星からやってきた戦闘民族なんだよ。金髪ってことは~、スーパーサヤイ人だね!僕ワクワクしてきたぞ!ねー天さん」

「天さんをハゲの代名詞っぽく扱っちゃいけません!ユキよ、あんまり人様の外見的特徴をネタにしてるとだな、全国の同志諸君から太陽拳を食らう羽目になるぞ。俺含め」

「おー。光が互いのハゲ頭に反射し合ってパワーアップするのか、見たい見たい!あはは、ハ元気玉だね~」

「ハゲのみんな!俺に元気を分けてくれ!って何言わせてんだよチクショウ」

 今日も今日とてこの三人組は仲睦まじい様子だった。中に混じりたいとはどう頑張っても思えないが。

「つーかいくら何でも決闘は早すぎだろオイ。なんだってんだ、あの転入生……挨拶と同時にいきなり喧嘩でも売ったのか?信長でもそこまではしなかったってのに。うん、多分、そうだった、よな……?」

「何を惑っている、準。転入の際、俺は然様に喧嘩を売った記憶は無い。常と変わらず振舞ったのみよ。……出逢って僅か数分では、決闘にまで至る因縁を築くは不可解であろう。対戦相手が川神一子である事を考慮すれば――奴の側からフリードリヒへ仕合を申し込んだと考えるが道理。くく、恐らくは“転入生歓迎の可愛がり”と云った処か」

 武神・川神百代の妹、川神一子。彼女が学園内において姉に負けず劣らずの有名人である理由は、周囲の誰からも好かれる性格と容姿だけではなく、目を付けた相手に片っ端から勝負を挑むという彼女の習慣が大半を占めている。思えば2-Fと織田主従の激突の直接的な切っ掛けとなったのも、そうした彼女の武人としての在り方であった。

「フン、野蛮な犬っコロの考えそうな事じゃな。所詮、気品に欠ける庶民は新入りを遇する礼も知らぬらしい。全く、ああはなりたくないものじゃ」

 侮蔑の念をありありと表情に浮かべながら高慢に吐き捨てた心に対し、2-Sクラス委員長、九鬼英雄は腕を組んで目を瞑ったまま、静かな凄みを込めた声音を発した。

「おい庶民。王者の慈悲にて今回だけは見逃すが、それ以上は口にせぬ方が身の為であるぞ。天上天下の何者であろうが、一子殿を侮辱する事はこの我が許さん。平穏無事な日常においても己を磨く事を怠らず、敗北にも挫けず立合いを積み重ねて経験を糧と成す。その真っ直ぐでひたむきな在り方、まさに万人が範とすべき尊さではないか!」

「生憎、此方に理解できるのはお前の趣味が悪いという事だけじゃな。何を好き好んであのような犬を――ぐえっ!?」

「は~い、次に余計なこと言ったらもれなく首の骨がバッキバキですよ~。くれぐれも気を付けて下さいね☆」

 音も気配も無く背後に立ち、万力の如き握力で首を締め上げている忍足あずみ(職業・冥途)のにこやかな警告に、心は涙目でコクコクと何度も頷いた。アレは怖かろう。幾度も抜き身の鋭利な殺気を叩き付けられた身の俺としては、同情を覚えざるを得ない。これに懲りて心が「口は災いの元」という至言を学習することを願っておくとしよう。日本三大名家とのコネクションとクラスメートを同時に喪うのは非常に哀しむべき事なのだから。

「さて、こうしてはおれん。愛しの一子殿が闘いに臨むならば、我は迸る想いを声援に乗せてお届けせねばなるまい!フハハハ、全速力で決闘場へと赴くぞあずみ!」

「了解いたしました英雄さまぁぁっ!私は先行して特等席をご用意しておきます☆」

 キャピキャピと英雄以外の誰が見ても作った口調で言い終えた途端に、あずみは一瞬にして影も形も残さず教室から姿を消した。いやはや、この川神学園には常識を嘲笑う人外が溢れているが、あのメイドはそんな人外連中の中でも群を抜いて人間離れしている。流石に他の面子より十年ほど歳を食っ――いや余計な事は考えるまい。言うまでもなく口は災いの元だが、この学園では単純に口を閉ざしただけでは安心出来ない。密かな思考すらも時には災いの元となるのだ。改めて考えてみれば実に恐ろしい話である。

「ふふ、相変わらず英雄は川神さん一筋ですね。障害は数多いでしょうが、友人としては是非とも成就させて欲しい恋です」

「くく、彼奴に望みが在る様には思えんがな。意を遂げる未来など、現状では夢物語の如しであろうに」

 通学路にて幾度となく繰り広げられる猛アタックの光景を傍観していれば一目瞭然である。九鬼英雄は川神一子に惹かれているが、同時に九鬼英雄は川神一子に引かれている。端的に言えばそういう事だった。ただでさえ個性が強烈過ぎて傍に近寄らせたくないタイプだというのに、英雄は引く事を知らず常に押しに押しまくっているのだから、距離を置かれても無理もない。押して駄目なら引いてみろ――そんな恋愛通たる冬馬の忠言にも、「王者たる我に後退の二文字は無い!我が恋にあるのはただ前進征圧のみ!」などとネジの外れた戯言をほざいている始末だ。

 いつまでもあの調子が続くならば、残念ながら我が自慢の幼馴染たるタツこと源忠勝には勝てないだろう。何せ同じ孤児院の出身という事で距離の近さは十分、もはや語るまでもなく当人の魅力も十分、まず間違いなく甲斐性も十分。家族同然の関係から脱却し、異性として意識させる事さえ成功すれば、後は自然と仲が発展していく事に疑いはない。

 というか正直に言えば、そうなって欲しいというのが俺の秘かな願いである。英雄は決して悪人ではないし、我が王なりと豪語するだけあって器の大きさと能力の優秀さは本物だ。キャラの濃さにさえ目を瞑れば美点も数多く見えてくるのだが、しかしやはり十年来の親友の恋を応援したくなるのが人情というものであろう。

 昔から、俺はどれほど、忠勝の存在に救われてきたことか。もう一人の幼馴染が“死んだ”時、忠勝が傍に居なければ、織田信長は終わっていたかもしれなかった。俺を現世に繋ぎ止めてくれた恩人でもある親友には、是非とも幸せを掴んで欲しい。

「オイオイ信長、やっぱオジサンのありがたーい話ちゃんと聴いてなかっただろお前。いいか、大事なのは諦めずにアタックを繰り返す事なんだよ。何回飲みの誘いを断られようがな、諦めたらそこで試合終了なんだよ!……あー梅子先生と飲みに行きてぇー。酔っ払って前後不覚になった梅子先生を介抱しながら家まで送りてぇー」

「最悪じゃなこのヒゲ!全く、このような欲望ダダ漏れのケダモノを教師に、しかも選ばれしクラスたる2-Sの担任として据えるとは、学長はどういう了見なのやら。理解に苦しむのじゃ」

 教卓にだらしなくもたれ掛かりながら不純なぼやきを漏らす担任教師・宇佐美巨人に、心は大仰に溜息を吐いて見せた。

「そりゃーアレだ、俺の内に秘められた銀八先生ばりの名教師オーラを見出したんだろうよ。つーか花の女子高生が欲望なんて生々しい言葉使うんじゃねーよ。お前、好きな相手とデートしたいとか思わねーの?手ェ繋いだり一緒に弁当食べたりしていちゃつきたいとか、綺麗な夜景を見下ろしながらキスしたいとか、そーいうピュアピュアな純情も欲望って言っちまうワケ?その辺どうなのよ」

 完全に論点をすり替えた詭弁だったが、心はやはりと言うべきかその辺りには気付いていない様子で、見事に言葉に詰まっていた。

「う、こ、高貴なる此方に釣り合いの取れる男なぞおらぬ故、そんなモノは此方には関係の無い話なのじゃ!」

「へぇ。釣り合いの取れる男、ねぇ。オジサンの老眼でもウチのクラスにいるように見えるんだがな。日頃の態度を見てる限り、それはお前自身も認めてるんじゃねーの?」

 巨人はいかにも意味ありげな笑みを浮かべ、こちらを見遣りながら飄々と言う。心も同様にチラリと俺の方へ視線を寄越したかと思うと、何やら慌てた調子で目を逸らし、キッと眦を吊り上げて巨人を睨み付けた。

「そ、それとこれとは話が別であろう!朋友は朋友、それ以上でも以下でもないのじゃ。無粋な勘繰りをするでないわ!」

「あ~、男女間の友情とか信じちゃうタイプね。ま、そんくらいの年にはありがちな勘違いってヤツだな。ああ若い、若いねぇ」

 大袈裟に溜息を吐いて見せる巨人に心は顔を赤くし、尚も反論の声を上げようとしたが、依然として口元から消えないニヤリ笑いに怯んだかの様に口を噤んだ。そのまま何やら居心地が悪そうに縮こまっている心の姿に、巨人は笑みを益々広げて、半笑いの表情のまま言葉を続ける。

「コイツは余計なお世話かもしれないがな、人生の先輩としてアドバイスするとだ――」

「そろそろ口を閉ざすがいい。これ以上、貴様の下らぬ言に耳を傾ける気にはなれん故」

 いい加減に色々と鬱陶しくなってきたので、ドスを利かせた声音を教壇へと放つ。

 全く、黙って聞いていれば、当人を目の前にして好き放題言ってくれるものだ。織田信長としては無関心に無視の姿勢を貫いても良かったのが、他ならぬ俺自身の感情として、他者との関係性を面白可笑しく話題に挙げられるのは御免だった。少しばかり真剣な殺意を込めた眼光を以って、その意を知らしめる。突如として真冬の如く冷え込んだであろう空気に、巨人は表情を引き攣らせながら口を開いた。

「おー怖っ、……オイオイ、これは生徒とのちょっとしたコミュニケーションだぜ?別に喧嘩売ってる訳じゃねぇんだ、平和な教室に“そっち”の空気を持ち込むのは勘弁してくれよ。ったく、言論の自由はどこにいっちまったんだか」

「ふん。然様なものは、何処にでも在る。但し、自由には常に責任が伴うが、な。己が命を以って代償と為す覚悟が在るならば、“自由”に舌を動かせば良かろう。くくっ」

「はぁやれやれ、生徒が担任を恐喝するとか世も末だぜ……どんな学級崩壊クラスだっつの。学長のスカウトのセリフ曰く、俺の担当するクラスは“曲がりなりにも優等生揃いで手は掛からない”ハズなんだがな。どいつもこいつも曲がり過ぎで原型留めてない上に、トドメによりにもよってお前が転入と来たもんだ。本当に誤算もいいところだぜ、ったく」

 巨人は頭痛を堪えるようにこめかみを抑えながら愚痴る。俺としても共感出来なくはない嘆きだったが、しかし同情する気になれないのは単に人徳の為せる業だろう。忠勝には養父を反面教師として本物のナイスミドルを目指して欲しいものだ。

「ま、とにかく、別にオジサンは生徒の人間関係に口出しする気はないんで安心しろ。お前らは若者同士で存分に青春を謳歌しときゃいいだろうさ。俺には難攻不落の鉄壁要塞を攻略するという重大な使命があるからな、ガキの恋愛ごっこに付き合ってる暇はないの。ってなワケで見てろよお前ら、今日こそ俺の口説きテクを披露してやるから」

「宇佐美さん、どうかご無理だけはなさらないようにして下さいね。宇佐美さんの心が傷付くと、私もタッ……、忠勝さんも悲しいですから」

 他意など欠片も無いであろう、百パーセントの善意と慈愛に満ちた蘭の言葉に、巨人は思わずと言った調子で目頭を押さえた。

「ああ、蘭ちゃんはイイ娘だよホント。でもその優しさが傷口に沁みるんだよなコレが……。それと蘭ちゃん、宇佐美先生、な。ここ学校だから」

 まあヒゲ呼ばわりよか万倍マシだけどな、とやるせなさそうに呟く巨人の背中には中年の悲哀が漂っていた。将来的にこうはなりたくない、という具体的な危機感を教え子たちに抱かせるその姿は、教師としては模範的と言うべきなのかもしれなかった。無論、“ある意味”という前置きが付くのは言うまでもない。

 その時、ふと後方からの視線を感じた。すわ曲者か、とばかりに、軽く首を捻って振り向くと、最後列の席からじぃっとこちらを見つめていた人物の正体は、不死川心であった。俺が気付くという事は当然ながら向こうも気付くという事で、幾つもの席を挟んで目と目が合い、視線が重なり合う。心は何やら気難しげな顔を数秒ほど見せた後、ぷいっ、と俺の目から逃れるように顔を背けた。

「……?」

 理解の及ばない不可解な振舞いに心中で首を捻るものの、答えは杳として知れない。女心と秋の空、とは世間の常識らしいが、まさにその通りであると実感する瞬間だ。

 しかし、“ガキの恋愛ごっこ”、か。恋愛。恋に、愛。

 それは、真剣に考えてみた事すら無い概念だ。他者の事ならばともかく――自身の問題となれば、俺には些かばかり、荷が重い。余計な荷物を背負い込める程の余裕は、今までの俺にはなかった。

 幾ら考えても判然としない事物に時間を費やすのは無益――冬馬がにこやかに話し掛けてきたのを契機に、俺は不毛な思考を打ち切った。


「さて。川神さんと転入生との決闘の件、私たちはどうしたものやら。英雄は今頃、観客席の最前列を陣取っている頃でしょうが……あなたはどうするつもりですか、信長?」

 冬馬の問い掛けを受けて、俺は無表情の内側で思考を巡らせる。とは言っても、その問いに対する回答は、校内アナウンスにて対戦カードを告げられた時点で、既に九割方は決まっていた。

 数瞬を待たず脳内にて最終決定を下すと、俺は悠然と席を立ち、傲然と口を開く。

「些か、興が乗った。いずれ俺の征するFクラスの新顔――どの程度の者か見定めるのも、退屈凌ぎにはなろう」








 



「それまで!!――勝者、クリス!!」

 観戦に来ておいて、良かった。

 このような闘いを見せられては……心の底から、そう思わざるを得ない。

「うおぉぉぉ、凄ぇっ!スゲー試合だった!」

「ぶっちゃけ何が起こったのか分からなかったけど、レベル高いバトルだったぜ!」

 決着に湧くギャラリーの最前列にて、俺は数分前における自身の判断を称えていた。

 俺が2-Fの外国人転入生へと注意を向けていた事に確たる根拠はなく、言うなれば単なる直感に従った判断だったが……勘というものも存外頼りになる。クリスティアーネ・フリードリヒは俺の想像を超えて警戒に値し、注意を払うべき実力者であった。その戦闘スタイルを先んじて観察出来た事は疑いなく貴重な収穫であると言えよう。

 薙刀という得物を携え、ほぼ十全の実力を発揮した川神一子を、彼女は真正面から破った。それも――僅か、二撃の下で。

 牽制に、一撃。決着に、一撃。川神一子の読み違いによる自滅という側面は少なからずあるが、しかしそれにしても、養子とは云え“川神”の娘を下すに、只の二撃を以ってするなど、論じるまでもなく並大抵の武人には不可能な真似事である。

 観衆から投げ掛けられる勝者を称える歓声に驕るでもなく、生真面目な表情で凛と背筋を張って佇むクリスティアーネの手元では、細身の刀身と尖った先端を特徴とする片手剣の刃が、降り注ぐ陽光を反射して煌いている。レイピア――主に中世ヨーロッパにおいて決闘や護身に用いられた刺突剣で、その機能・用途は“突く”という一点に集約されている。そのような武器の在り方からも想像出来るように、彼女が決闘の中で放った二撃は、何の小細工も含まれない、ひたすらに真っ直ぐな突きであった。

「蘭」

「はっ」

「如何見る?」

「只一度の立ち合いを観ただけでは、未だ全貌を推し量るには到りませんが……目を見張るべき手練ですね。まず間違いなく、ここ川神学園の中でも屈指の実力者――討ち斃すのは容易ではないと愚考する所存です」

 武人としての真剣な表情を覗かせながら、蘭は鋭い眼差しを転入生へと向けている。百戦錬磨の戦士たる我が懐刀の観察眼は、俺よりも遥かに多くの情報をこの一戦から読み取った事だろう。故に、その口から語られる言葉は決して無視出来ない重みを伴っている。

「まさに疾風迅雷、或いは電光石火。彼女の剣閃は、生半可な守勢など一瞬を待たずして貫き通すでしょう」

 蘭の評価を大袈裟だと笑い飛ばす事は、俺には出来ない。

 そう、“突き”だ。決闘において転入生が披露し、俺達の胸に警戒心を植え付けたものは――あくまで、只の刺突だった。目を見張るような巧みさは特になく、工夫を凝らした派手さもない。だが、その常軌を逸した“迅さ”は、ただそれだけで凡百の奥義を凌駕する脅威を彼女の一撃に付与していた。

 氣による恩恵こそ得られずとも、釈迦堂刑部の下で過酷な修行を積み、まず間違いなく人並み以上の回避能力を会得した俺ですらも……初見では彼女の刺突を捉える事は出来なかった。勝負を決めた二撃目ではどうにか捕捉出来たとはいえ、それも所詮は微かに視えただけの事だ。いざ回避、となればどう足掻いても身体の反応が追いつかないだろう。躱し切れず、白銀の刃に串刺しにされる無残にして無様な未来がはっきりと見える。

「……」

 あくまで単純な“突き”の速力に話を限定すればの話ではあるが、恐らくはあの怪物一家の長女たる板垣亜巳の棒術をも超えている、か。森谷蘭を唸らせる、圧倒的な攻撃能力。何ともまあ、途方もない人材が現れたものだ。川神学園という人外の巣窟にまたしても新たな人外が加わってしまった。それも有難くない事に、将来的に再び激突する事が決定している2-Fクラスの一員として、である。

「やるわね……アタシ達はアンタを歓迎するわ!」

 一子が敗北の悔しさを吹っ切った清々しい表情で、屈託を窺わせない朗らかな調子の声を掛けると、その一言を皮切りにして、周囲を取り巻く2-Fメンバーからクリスティアーネに対する賞賛の声が次々と上がった。

「強かったんだね!すごいすごい!」

「骨のあるヤツだ」

「カッコ良かったぞー!」

「健闘を称えて拍手ですー。ぱちぱち」

「というワケで、改めてよろしくね!」

 2-Fの面々より投げ掛けられる温かい歓声と、屈託のない一子の言葉を受けて、クリスティアーネは嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ああ!こちらこそ、よろしく頼む!」

 思えば彼女は海を隔てた遠い異国から訪れた転入生の身、人種という壁を超えて周囲に溶け込めるだろうか――と不安を覚えていない筈も無かったのだ。クラスメート達の歓迎の言葉に対して、心の奥底から湧き出たような綺麗な笑顔が何よりの証拠である。かくして少女は2-Fクラスの一員として、希望に満ちた新たな学園生活をスタートさせるのであった……と言ったところか。爽やかな青春風景を冷徹な無表情で眺めながら、俺は醒めた思考を巡らせていた。

 2-Fクラスは、織田信長の眼前に立ち塞がる障害物。故に、彼女が2-Fと親しみ、集団の一人として馴染んでいくと言う事はつまり、イコールで織田信長と敵対する道を選択する事に他ならない。このまま色々な物事が順当に推移すれば、将来的には必ず衝突する事になるだろう。

 否、そうでなくとも、だ。

 そのように細々とした理由付けなど無関係に――恐らく、俺達は拳を交え、刃を交わす。

 何故と問われれば、答えに窮する。万人に筋道立てて説明出来るような明確な根拠も理由も不在なのだから。しかし、それは既に確実な未来図として俺の脳裏に描かれていた。

 そして。

 あたかもその予感を裏付けるかの如く――今まさにクリスティアーネの碧眼が、射抜くような鋭さを以ってこちらへと向けられていた。果たしてどのタイミングで俺の存在を認識したのかは定かではないが……まあそれはどうでもいい。武に通ずる者であれば、遅かれ早かれ織田信長という異常な氣の保有者を意識するのは道理なのだから。

 肝心な事は唯一つ――彼女の、目だ。透き通る湖水を思わせる、西洋人特有の碧眼。

 恐れも畏れもなく、只真っ直ぐに俺を見据える双眸に宿された“色”。それは俺にとって、随分と懐かしいと形容すべきものだった。埋もれた記憶を強烈に刺激せずにはいられない、純粋で清廉な色彩。

 だからこそ、俺は確信を持って断言できる――其処に内包された気質は、織田信長とは相容れない。昔日ならばいざ知らず、今となっては、絶対に。

「くくっ」

 視線が交錯していた時間は僅か数瞬。

 俺は口元を歪めつつ、すぐさま踵を返し、騎士の如き凛々しい立ち姿に背中を向ける。

 今はまだ時期ではないが、来るべき闘争は避けられまい。その事実を明確に認識出来ただけでも、決闘の見物に足を運んだ意義は在った。織田信長にとって最も必要なものは、何時でも事前の準備……即ち情報と覚悟、である。

「所用は充分に果たした。もはや此処に留まるは無意味。往くぞ、蘭」

「ははーっ!信長様の御心のままに!」

 尚も背後から突き刺さる鋭い視線を感じながら、俺は熱気冷めやらぬグラウンドを立ち去った。




















「では、案内をよろしく頼む」

「ああ。俺は直江大和、同じ寮の一階。よろしく。責任持って案内するんで、任せてくれていいよ」

 放課後、それもホームルームを終えた直後の廊下は今まさに帰宅ラッシュの真っ最中で、多くの生徒達が賑やかに喋りながら下駄箱へと向かっている。そして今、2-F教室から二人の生徒が並んで姿を現し、その流れへと合流した。一人は特筆するほどの個性はなく、強いて言えば小賢しいと評される事の多い目付きが特徴的な男子生徒。そしてもう一人は、日本人がしばしば憧れの的として神聖視する金髪碧眼の女子生徒。国際化の進む現代、単に外国人と言うだけならばさほど周囲の注目を集める事は無かっただろうが、生憎と少女は只の外国人ではなかった――2-Fの誰もが一目で認める程の美少女である。ファッション雑誌でモデルを務められる容姿の持ち主たる小笠原千花すらも例外ではないのだから、そのレベルの高さは推して知るべしだ。転入生・外国人・美少女、とこれだけの要素が揃ってしまえば、好奇心旺盛な年頃の学園生達から興味と関心が向けられるのは当然だった。

 そんな少女の名はクリス。本名はクリスティアーネだが、当人がそう呼んで欲しいと希望しているとの事で、2-Fの皆の間での呼び名はクリスで定着していた。そして今現在その隣を歩いている少年は直江大和、彼女と同じく2-Fの所属である。

「大和、か。日本国の異称、“大和”の字……とても良い名だ。それに、大和丸夢日記の主人公と同じ名前だな」

「ああ、俺もそれ見てたよ。面白い時代劇だよね」

「――っ!自分はあのシリーズのDVDを全部持っている!」

 大和の何気ない相槌に対し、クリスは想像以上の食い付きを見せた。よほどこの話題を共有できる相手を望んでいたのか、活き活きと弾むように言葉を連ねる。

「強く、義理堅い。自分はあの時代劇を通じてサムライの素晴らしさを学んだ――武士道の掲げる“義”に自分は憧れたんだ」

 どのような種類の人間を相手にしても円滑に会話を進められるよう、大和は趣味に関して基本的に浅く広く、を心掛けている。本当の意味で拘りを持っていると断言出来るのは、ライフワークたるヤドカリ飼育だけである。故に、大和丸夢日記に関しても熱心なファンと言う訳ではなく、あくまで複数存在するシリーズの一つを見ただけなのだが、それでも振られた話題を拾うには十分だ。まさかドイツ人との交流に役立つとは想定していなかったが、何が幸いするか分からない――と大和が日頃の成果を再確認していると、クリスは不意に心底から嬉しそうな笑顔で言い放った。

「――と言う訳で、自分は大和が大好きなんだ!」

「え!?あ、じ、時代劇のキャラクターの話か」

「――あ!も、もちろんそうだ。ご、誤解を招いてしまった。すまない事をした」

 カァァ、と顔を紅く染めて慌てながら恥らう様子は、普段の凛とした雰囲気とのギャップも相まって、何とも言えず可愛らしかった。廊下を歩く男子生徒達が揃って羨望と怨嗟の視線を送ってくるのも道理である。

 京が近くにいなくて良かった、と大和は秘かに胸を撫で下ろしていた。クリスの不意打ち気味な仕草に思わず心臓が跳ねた事など、あの幼馴染の鋭過ぎる観察眼に掛かれば一瞬で看破されていた事だろう。……まあ、それはともかく。

「そんな事ないよ。むしろ同じ名前で得したな」

 実際、それは嘘偽りない本心だった。おどけるような調子で言う大和に、クリスは朱色の余韻を残した頬を緩めて、穏やかに微笑む。しかしこれは役得だな、と大和は改めて案内役に抜擢された自身の幸運を噛み締める。学園の誰よりも早く美少女転校生とお近付きになれる機会を得られたのだ、ここは健全な男子高校生として喜ばなければむしろ奇妙と言うべきだろう。

――発端は、HRにて放たれた担任の鬼小島こと梅子先生の一言だった。

『あぁちなみに、クリスは島津寮へ入寮する事になっている。お前たちで面倒を見てやれ』

 島津寮は風間ファミリーの一員たるガクトの母親、島津麗子が経営している学生寮で、大和もまた入寮者の一人だった。他の面子としては同じくファミリーの風間翔一、椎名京。次いでクラスメートのゲンさんこと源忠勝。そして最後の一人は一年生の黛由紀江という挙動不審な少女。

 要はこの中の誰かがクリスと一緒に下校し、彼女を寮まで案内する必要があったのだが、翔一と忠勝は折悪くバイトのシフトが入っており、京は近頃になって本格的に部員として復帰を果たした弓道部の活動で時間が取れない。学級どころか学年の異なる一年生に案内させるのも理に適っていないだろう、という事で、放課後は毎日がフリータイムな帰宅部所属・直江大和にお鉢が回ってきた訳だ。

 そのような経緯を経て現在、大和は周囲の様々な念の込められた視線に晒される中、クリスを伴って校内を歩いている。美少女転入生を紹介して欲しいという下心に駆られて親しげに話しかけてくる、知り合いの男子生徒の群れを適当にあしらっていると、クリスは感心顔で口を開いた。

「しかし、大和は友達が多いな。先ほどから何度呼び止められたか……お陰で、転入初日でずいぶんと知人が増えた。ありがとう」

「俺はあんまり関係ないって。クリスが凄く綺麗だから皆お話したいのさ」

「ふふ。大和は父様のようなお世辞を言う」

 互いに話題を切らす事もなく、良い雰囲気で会話を交わしながら校内を一通り案内すると、いよいよ帰宅部の本格的な活動を開始すべく下駄箱に向かう。

 数分を待たずして辿り着いた学園の玄関口にて、大和は思いがけないサプライズに遭遇した。

「あれは、父様?噂をすれば、とは言うが……なぜ」

 首を傾げるクリスの視線の先には、一人の男性の姿があった。学園内において何故か軍の将校服を身に纏い、傍目にも物騒な雰囲気を周囲に発している初老の男――わざわざ言うまでもなく不審者である。下駄箱を利用する生徒達は何事かと目を見張り、得体の知れない男を刺激しないよう息を潜めて靴を交換している。

 そんな扱いもまるで気に留めず、と言うよりもそもそも気付いていない様子でひとり眉間に皺を寄せて佇み、思考に沈んでいた男は、しかしクリスを視界に収めた途端に顔を輝かせた。先程までと比較するといっそ不気味な程に口元が緩み、目尻が垂れ下がっている。そのままの笑顔を保ったまま、男はクリスへと歩み寄った。

「おお、クリス!今日もバルト海のように美しい。どうやら今日の授業は終わった様だね。川神学園の初日はどうだった?」

「はい、父様。クラスの皆も良くしてくれていますし、何も問題はありません!」

 クリスが裏表のない笑顔で朗々と報告すると、不審者改めクリス父は眦を下げて、「それは何よりだ」とにこやかに頷きを返した。

「あの、父様――今日は軍務で忙しいとの事でしたが、何故ここに?」

「ああ……実はこの学園の事で少しばかり気掛かりな件があったのでな、改めて学長と話をしたかったのだよ。軍務の方はスケジュールを前倒しして急ぎ片付けてきた。全力を使ったのは久しぶりだ、お陰で少し疲れてしまったよ」

「くれぐれも無理はしないで下さい、父様。多くの人の上に立つ父様が倒れでもしたら、皆は道を見失って惑ってしまいます。それに、何よりも自分は、父様のお身体が心配なのです……」

「ふふ、天使のように心優しい娘を得た私は、世界の誰も及ばぬ幸せ者だな。なに、心配する事はない。私にはマルギッテ少尉を筆頭に優秀な部下も数多く付いているし、そして私自身もまだまだ現役だ。クリスが立派な将校となるまでは意地でも降りる気は無いよ」

「ならば自分も、父様の期待に応えられるよう精一杯励みます。その為にも日本にいる間に、サムライの誉れ高い武士道精神を学び取ろうかと」

「うむ、流石はクリス、良い心がけだ。これは一年後の成長ぶりが今から楽しみだな、ふふ」

 親子の交わす会話は温かく、終始和やかなものだった。傍で聞いている大和にも二人の仲の良さが存分に伝わってくる。親馬鹿な父親と、親孝行な娘。一歩引いて見れば、実に微笑ましい光景に映るだろう。

 ……本当に、親馬鹿、で済まされるレベルならば、何も問題はなかったのだが。

 実のところ大和は、このクリス父とは朝の通学路、そしてHR中の教室、と既に二度も接触している。故に、彼の性格も、彼の思考回路もある程度は推察出来るようになっていた。そこから予測される今後の展開はと言えば、間違っても歓迎できるものではない。

 その予想を裏付けるかの如く、ふとクリス父の視線と注意の両者が娘から逸らされる。

「ところで、――君は何故、クリスと一緒に下校しようとしていたのかね?娘に近寄る“悪い虫”は軍の総力を挙げて殲滅すると、私は確かに通達した筈だが。何か釈明があるならば急いで言った方が良い……私の引き金は軽いぞ」

 潜り抜けてきた死線の数を伺わせる強烈な眼光が、クリスの隣に立つ大和へと注がれた。

 同時に、否応無く背筋が凍える感覚が身体を襲う。織田信長という悪魔じみた男を相手に交渉に務めた経験を有する大和には、その感覚が何に因るものなのか明晰に理解する事が出来た。どうやらドイツ軍中将殿は今現在、ごく平凡な一般生徒に冗談抜きの殺気を向けているようである。軍人が重度の親馬鹿をこじらせるとこうなる、という貴重なサンプルが目の前にあった。

 ……不条理過ぎるだろ、と大和は心中で盛大に溜息を吐かずにはいられなかった。

「父様。大和は、彼は勝手の分からない自分の為に案内を買って出てくれたのです」

「こちらに越してきたばかりでは色々と戸惑う事もあるかな、と思って親切心で申し出たんですが、う~ん、誤解されちゃったかな……大体、仰る通り、俺は自分から軍を敵に回すほどバカじゃありませんので」

 幸いにして、“こういう人種”との接し方については、信長との対話を通じてある程度のコツは掴んだ。威圧的な相手と言葉を交わす際は、間違ってもその圧力に呑まれてはならない。勿論、怖れずに正面から喧嘩を買えばいい、と言う単純な話ではなく、あくまで心意気の問題だ。精神面において一度でも相手の存在に呑まれてしまった時点で、もはや対等な対話は成立しなくなるのだから。

 大和は丹田に力を入れて、怯みそうになる心を押さえ付けながら、動揺を押し殺した真摯な表情で相手を見返す。そんな大和の態度が意外だったのか、クリス父は興味深げな色を瞳に宿していた。

「ふむ、確かに君は己を弁えているタイプの人間の様だ。それでいて軟弱ではなく、芯も通っている、か。針金を思わせる在り方――将校向きの気質だな。そういった柔軟な要領の良さは嫌いではない」

「高名な中将殿にそう言って頂けるとは、光栄ですね」

「世辞は結構だ。……まあ君ならば、少しばかり娘を預けても問題はないだろう。ただし、クリスがいかに麗しく魅惑的でも、くれぐれも妙な気を起こさないようにしたまえ。君にも家族や友人がいるだろう?」

「ええ、それは勿論。自分で言うのも何ですが、理性には自信があります」

 何せ長年に渡って、毎朝毎夕を問わず、京の過激な色仕掛けに耐え続けてきたのだ。ちょっとやそっとの事では崩れない鉄壁の牙城を築き上げた自負はある。

「ふふ。成程、どうも君とはなかなか有意義な話が出来そうだな。だが、それはまた今度の機会にしよう。今日は少し急ぎなのでね、これで失礼させて貰う。……ああ、折角の機会だ、名前だけでも聞いておこうか」

「直江大和。姓が直江、名が大和です。日本通のあなたに解説は不要でしょうけど」

「大和、か。日本国の異称とは良い名だ。覚えておこう。クリス、くれぐれも気を付けて下校するのだよ。何事かあればすぐに私を呼ぶといい、一個中隊を連れて戦闘機で駆け付けよう」

「ふふ、ありがとうございます。やはり父様は心配性ですね。私とて一人の騎士、我が身を護る程度ならば問題はありません。悪漢や辻斬りが現れれば、大和丸の如く義の下に成敗してくれます!」

 相変わらずの古ぼけた日本観を嬉々として披露しているクリスを愛おしげな眼差しで見遣ってから、クリス父は校舎の中へと去っていった。

「……何というか、凄い人だね」

 色々な意味で。という裏側の意までは汲み取れなかったらしく、大和の感想にクリスはまたしても明るく表情を輝かせた。

「ああ、父様は本当に凄いんだ!軍人としても個人としても目標にするべき人だ。大和は知らないかもしれないが、父様はドイツでは英雄と呼ばれる程の将校で、例えば昔年にはこんな逸話が――」

 クリスは我が事のように胸を張って父親の武勇伝を語り始める。純粋な尊敬の念を感じさせる熱心な語り口には、わざわざ水を差すのも無粋だろう。大和は話半分に聞き流しながら、如才なく適度に相槌を打ってやり過ごした。人間関係を構築するに際して、ある程度のスルースキルは必須である。

 クリスの語りが一旦途切れたタイミングを見計らって、大和は何げない調子で口を挟んだ。

「あ、そういえば。このまま寮まで案内するのもいいけど、折角の機会だから街も案内しようか?新しい友達と遊びに行くにしても、今の内に地理を知っておくと何かと便利だろうし」

「いいのか?それは嬉しい。では遠慮なく、よろしくお願いしよう」

 無事、違和感の無い話題の切り替えに成功。

 運動靴に履き替えて、並んで校舎の外へ。グラウンドにて部活動に励む生徒達の姿を横目に川神学園の正門を潜る。

 その時、クリスはふと眉根を寄せて、何事か考え込むような様子を見せた。

「ん、どうかした?ひょっとして忘れ物とか」

「ああいや、そうじゃないんだ。ただ、父様の言っていた事が引っ掛かってな」

「言っていた事……確か学園内の“気掛かり”について学長と話がある、だったっけ」

「そう。それを聞いて、自分も思い出したんだ。今朝方からずっと気になっていた事を」

 クリスはおもむろに後方を振り返り、校門の向こう側に広がる第一グラウンド――半日前にワン子との決闘を繰り広げた舞台へと鋭い目を向けながら、真剣な調子で言葉を続けた。

「犬との決闘の際に、ギャラリーの最前列にいた男……修羅を思わせる、尋常ならざる鬼気の持ち主だった。なあ大和――アレは、一体、何者なんだ?」

















「さて、無用に時間を費やした。このままではスケジュールに支障を来す。疾く帰宅するぞ、蘭」

「はっ。ねねさんは今頃、1-S教室で待機しているかと存じます。合流しましょう」

 現在地はB棟二階、2-G教室前。現在時刻は放課後。余所のクラスにて本日の所用を果たし終えた俺と蘭は、ようやっと帰宅の途に着こうとしているところであった。

 耳を澄ましてみれば、引き戸の向こう側の2-G教室内は未だに凍り付いたような静寂に包まれており、喧騒の一つも耳には入ってこない。俺は僅かに口元を歪ませて、足早に廊下を歩き始めた。

「くくっ」

 既に仕込みは十分、後は土日明けの月曜日にて収穫を得るだけだ。実りを刈り取るその瞬間が、今から楽しみである。2-Gの生徒には少しばかり気の毒な事になるかもしれないが、もはや織田信長の目を以って生贄として選出されてしまった以上は、大人しく諦めて貰わなければならない。これもまた必要不可欠な犠牲という奴だ。

 2-S内での地盤固めはほぼ万全、2-Fとはひとまずの決着を付けた。ねねに任じた第一学年掌握もいよいよ本格的に始動するとの事で、俺の方も新たな動きを起こす必要があるだろう。現在の平和を甘受し、安穏と過ごし続ける様であれば川神学園に籍を置いた意味がないのだから。絶えず能動的に周囲を圧していかなければ付け上がる連中も出てくる――目標は全学年の掌握、その為にも二年生の十クラスを早々に屈服させねば。全てのクラスが2-Fや2-Sの如き人外魔境ではないのだろうが、それでも先は長い。例の転入生のようなイレギュラーも視野に入れていく事を考えると、容易い道程ではないだろう。

 自らに気合を入れ直しながら、下駄箱を目指して歩を進める。大多数の生徒達は既に帰宅の途に着いたか、或いは各々の部活動に励んでいるかのいずれかで、廊下には人気が殆ど無い。

 威圧すべき相手が居ないのは寂しい事だな、などと頭の片隅で戯れに考えていた丁度その時、下階から靴音が響き、数秒を経て階段から一つの人影が姿を現した。

「……ふむ。これはまた、運が良いのか悪いのか、判じかねる偶然だ」

 その人影は俺と蘭の通行を阻むように廊下の中央に立ち止まり、静かに呟く。

「――何用だ。俺は急いでいる。道を遮るならば、排除するのみだが?」

 普段同様の冷徹な声音を上げながらも、俺は内心の戸惑いを抑えられなかった。

 突如として眼前に出現したのは、黒を基調とする軍服を身に纏った男だった。服の意匠を見る限りにおいては、ドイツ連邦軍の――それも将校のものだ。顔立ちから推察できる齢の頃は恐らく初老の域だが、全身に漲る精悍さと、猛禽の如き鋭さの目付きが“老い”の印象を見事に打ち消している。

 と、こうして挙げた要素だけでも学園内で浮くには十分過ぎるが、しかし……俺を戸惑わせたのは、そのように些細な事ではない。

「成程。学園の何処かから随分と嗅ぎ慣れた“匂い”がしたと感じたのは、気の所為ではなかったようだな。確認のために顔を出したのは正解だったよ」

 流暢な日本語で語り掛けてくるこの男、何故――俺に“殺気”を向けているのだろうか。

 今まで一度も面識すら無いにも関わらず、常人ならば誰しも竦み上がるような正真正銘の殺意を、出会い頭に叩き付けてくる。どう考えても普通ではないシチュエーションだ。

 流石に困惑を抑えきれず、どう対処すべきか判断に迷っている内に、事態は一気に動いた。馬鹿馬鹿しいほど急激に、唐突に。

「良く聞きたまえ。君には、二つの選択肢がある」

 男が軍服の吊紐の先へと手を伸ばすのと、蘭が俺を庇うように前方へと踏み出したのは、同時。

 そして――男が禍々しく黒光りする“銃口”をこちらへ向けるのと、蘭が腰に佩いている模造刀を抜き放つのもまた、全くの同時であった。

 俄かに戦場の如き死地へと変じ果てた廊下に、男の淡々とした言葉が、不気味な鮮明さを伴って反響する。


「このまま校長室へと退学届を提出しに行くか、ドイツ軍の誇る特殊部隊に殲滅されるか。――望む方を選ぶといい」

 








 
 
 
 まじこいSの体験版が公開されたり、いよいよアニメがスタートしたりと、何かと創作意欲を掻き立てられる今日この頃です。特に武士道プランの面々や紋様など、主にS組絡みの新面子は書きたくて仕方がないのですが……残念ながら今作には出せそうにないですね。というのも、武士道プランの開始に際して“街の闇”を一掃する、となると間違いなく信長も対象になる訳で、現時点の彼が九鬼財閥の総戦力と張り合うのは流石に無理ゲー過ぎますので。よって新面子が何かしらの形で登場するにしても、恐らくは今作でメインを張る事はないかと思われます。ご了承下さい。
 原作未プレイの方は是非ともアニメを視ましょう!と宣伝しつつ、それでは次回の更新で。



[13860] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Aパート
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:4c655c46
Date: 2011/10/10 23:17
 学校の廊下を歩いていたら見知らぬドイツ軍将校に出会い頭で拳銃を突き付けられた。

――改めて言葉にすると、何とも不条理極まりないシチュエーションである。B級映画でもここまで突飛な展開はそうそう見当たるまい。

 ……。

 ……落ち着け。いかに全てを投げ出したくなる程に馬鹿げた状況であれ、現実逃避は駄目だ。思考を放棄してはならない。

 まずは事態を正確に認識しなければ。ともすれば取り乱しそうになる頭脳を叱り付けて、精神を鎮める事に全力を尽くす。数秒の後、秘かな努力の甲斐あって動揺の一切が心中から取り払われた事を確認してから、確りと覚悟を決めて、そして俺はようやく眼前の現実と正面から向き合った。

 視界に映るのは鈍い黒色の銃身と、冷酷な表情でそれをこちらへ突き付ける正体不明の男。
 
 言うべき事も言いたい事も色々とあるが――何よりも先んじて解決しておくべき問題は、俺のすぐ傍に在った。重々しく威厳を帯びた声音を以って、目の前に広がる背中へと言葉を投げ掛ける。

「蘭。暫し、待て」

「―――…………。……はっ、承知致しました」

 全身に凶悪な殺気を漲らせ、“敵”に向けて今にも凶刃を振るいかねない様子だった我が従者を、間一髪のタイミングで抑える。

 今の蘭が手にしているのは真剣ではなく、校内における護身用の模造刀だが……氣によるコーティングを施された黒の刀身は、下手な業物など及びもつかない容易さで人体を両断する事だろう。その残虐な破壊性を普段ならば頼もしく思う所だが、今回の場合は些か拙い。問答無用で斬り捨ててしまうには、推察される男の素性があまりにも危険極まりなかった。その辺りの背景を明確にする為にも、まずは情報を引き出さねばならないだろう。

 差し当たっての行動方針を瞬時に脳裏に組み立てると、俺は向けられた銃口の無情な黒孔に竦みそうになる心を抑え付けながら、静かな重圧を込めて言葉を紡ぐ。

「貴様。名乗りを上げる手間すら惜しみ、凶器を振り翳すなど――何者かは知る所ではないが、然様な行いは、己が属する軍勢の誇りを貶める蛮行であると知るがいい」

「ふむ。成程、それは否定出来ないな。思えば少しばかり事を急ぎ過ぎたようだ。ならば改めて名乗らせて貰おう――私はフランク・フリードリヒ、誉れあるドイツ連邦軍にて中将の地位に就いている者だ」

 眼鏡越しにこちらを睨み据える強烈な眼光はそのままに、男は威圧的に名乗りを上げた。

 中将とは、これはまた随分な大物が出てきたものだ。……いや待て、そうではない。

「フランク・フリードリヒ、だと?」

「いかにも」

 仮にその名が騙りでないとするならば、俺は途方も無い人物を目の前にしている事になる。稀代の名将、ドイツ連邦の英雄――かつての世界大戦に彼が参戦していれば、冗談抜きに歴史は変わっていたと評される程の将校だ。多少なりとも軍事に関する知識を齧っていれば、誰しも耳にする名前であった。

「……ふん。成程、な」

 俺が先程から絶え間なく放ち続けている戦闘レベルの殺気を身に浴びて、まるで動じずに涼しげな表情を崩さなかったのも、この男が真に名乗った通りの人物であるならば寧ろ当然だ。同じ戦場畑出身の忍足あずみよりも優れた武人であるか否かは未だ判らないが――少なくとも殺気への耐性と言う点で見れば、間違いなく彼女をも上回っているだろう。何せ、年季が違う。踏んできた場数が違う。戦場というフィールドの中で過ごしてきた期間が、圧倒的に違うのだ。彼ほどの大ベテランになれば、もはや生半可な殺気など空気中に含まれる成分の一つにまで成り下がっていても不思議はない。

 しかし、そのような人物が何故ここに――、と落ち着け落ち着け冷静になれ、少しでもまともに頭を回転させていれば火を見るよりも明らかではないか。例の転入生は果たしてどのように名乗りを上げていたか、思い出してみるがいい。

『――クリスティアーネ・フリードリヒ!ドイツ・リューベックより推参ッ!』

 フリードリヒ。ドイツ。これだけの目に見える符合があれば、解答は導き出されて然るべきだ。

「クリスティアーネ・フリードリヒの、血縁者か」

「その通り、クリスは私の強く賢く美しい、自慢の娘だ。判っているならば話は早いな」

 クリス、とその名を口にする時だけ表情を柔らかくしながら言い放つ。

 さて、これでひとまず目の前の相手の素性は知れたが――しかしそれだけでは出会い頭に拳銃を向けられるという不条理な現象に説明は付かない。続けてこのような暴挙に出た理由を問い掛けるべく言葉を用意していると、重々しい足音を響かせながら、新たな気配が廊下に現れた。それも一人や二人ではない。フランクと同様に黒の軍服を着用した屈強な男達が、合わせて十人。前方と後方に五人ずつ……俺と蘭を挟み込むようにして、やや遠巻きに包囲を形成している。

 それだけでも十分に有難くない事態だというのに、追い討ちを掛けるかの如く、彼らは全員が銃火器で武装していた。正面に立つフランクを含め、実に十一もの銃口が、油断なく俺達に向けられている。周囲を囲む軍人達は揃って無表情で、フランク同様の冷徹な殺意と威圧感を叩き付けてくる。全身を襲う凄まじい圧迫感に押し潰されないよう、俺は小さく息を吐いて心の平静を保ちつつ、口を開いた。

「ふん。大所帯で随分な挨拶だ。貴様の部下共か?」

「その通り――ドイツ軍の誇る精鋭部隊、私直属の部下達だ。全員がホッキョクグマとも素手で張り合える歴戦の猛者だよ。君の返答如何では、彼らの戦地で磨き上げた練度を、身を以って知って貰う事になるだろうな」

 フランクの言葉に誇張は無いだろう。こうして一目見ただけでも、この場に弱卒が一人とて居ない事は分かる。紛れもなくプロの軍人、平穏無事な日本に生まれ育った一般学生の手に負える相手ではない。だが、だからと言って簡単に気圧される訳にはいかないのだ。十一もの銃火器に囲まれた現状も、怒り状態の武神・川神百代と真正面から対峙するよりは万倍マシである。俺は弱気な自身を叱咤激励し、あくまで醒めた無表情を作りながら、物々しい雰囲気を放つ軍人達を見遣った。

「精鋭部隊。歴戦の猛者、か。ふん、然様に大仰な肩書きにて武勇を誇る割には、随分と遠巻きな囲みよ。くく、道具に頼らねば何も出来ぬと、自らの姿を以って証明しているのは如何なる訳だ?」

「軍隊とは何よりも効率を優先する組織でね、戦闘を有利に進めるに最適な陣形を取る事は恥でも何でもないのだよ。アウトレンジからの封殺は基本中の基本だ。それに、私はサムライの近接戦闘能力を軽視してはいない――特に今の彼女には、間違っても自分から近寄ろうと云う気は起きないな」

 フランクは鋭い双眸を細めて、眼前に立ち塞がる我が第一の従者、蘭を見遣っていた。確かに、俺の目から見ても現在の蘭は相当に危険な状態である。傍に寄るモノは何であれ無惨に斬り捨てる剣の鬼、そのような印象を抱かずにはいられない壮絶な気迫だった。

 無理もない話だ――元より森谷蘭は織田信長へと向けられる害意に対し、異常な程に過敏で敏感な性質の持ち主。銃火器という“殺意”を具象化したかの如き代物を主君に向けられて、何の反応も起こさない筈もなかった。先んじて俺が制止したお陰で未だ暴走には至っていないが、しかしこの様子では時間の問題だろう。そう長くは抑えられまい。

「しかし、日本のサムライガールとはこれ程のものか。間合いに一歩でも踏み込めば即座に首が刎ね飛ばされかねないな――実に怖ろしい剣気だ」

「……お褒め頂けるのは光栄ですが、私など未熟の至りです。私が真に有能ならば今頃、あなた方の如く主を脅かす不逞の輩は、悉く鬼籍に入っている事でしょう。この瞬間にも主の“敵”にむざむざと呼吸を許している、自身の不明を恥じるばかりです」

 自身の無力に慙愧の念と強烈な怒りを覚えているらしく、蘭は常ならぬ荒々しい語調で言い放った。刃の切っ先と共に凍て付くような冷気に充ちた双眸を向けられたフランクは、しかし何処か楽しげな様子で不敵な笑みを零す。

「ふっ。謙遜を美徳とし、何をおいても主君への忠誠を誇りとするか。まさに私の思い描いていたサムライそのものだ。武士道の範を示してくれる、クリスにとって得難い友となれたかもしれないものを……こうして敵として出逢ってしまった事が残念でならないよ」

 本当にそう思っているのならば今すぐ物騒な銃火器と一緒に消え去って欲しいものだ、と切実に思う。屈強な軍人達が発する冷徹な殺気と、暴走寸前の蘭が発する凶悪な殺気に挟まれて、先程から生きた心地がしない。

 というかそもそもどういう訳で、俺達は見も知らぬドイツ軍中将に“敵”として認識されているのか、そこをまずは問い質すべきである。

「それで。貴様等は何故、俺を狙う?この身に買った恨みなど数えてすらいないが、異国の軍人に殺意を向けられる覚えはない」

「察しは付いているだろう?君は既に承知している様だが、私の可愛い娘、クリスは今日を以ってこの学園に転入する事になってね。である以上、クリスに害を及ぼす可能性のある学園内の災いの芽は全て摘み取るのが当然だ。そして残念ながら、君はその筆頭として選ばれた人物なのだよ」

「…………」

「故に君には、学園から消えるか、或いはこの世から消えるか。いずれかを選んで貰わねばならないのだよ。納得したかね?」

「…………」

 ……。

 …………。

 …………なん、だと……?

 いやはや、どのような因縁があるのかと身構えていれば……何の事は無い、殆ど完璧な言い掛かりではないか。納得出来る筈がないだろう。親馬鹿が溺愛する娘を心配するのは結構だが、こちらに矛先が向くとなれば話は別だ。大体、“可能性”の段階で排除に踏み切ろうなどと、性急にも程がある。しかもその決断の結果として正真正銘の軍隊が動くと言うのだから、尚更洒落にならない。

「然様、か。それが理由、か」

 親馬鹿に権力を持たせるべからず、である。あまりの理不尽さを前にして盛大に嘆息したくなる気分をどうにか抑え付けながら、俺は確実に呆れの色が滲んでいるであろう醒めた表情で口を開いた。

「……奇怪な話が在ったものだ。未だに貴様の娘と言葉の一つも交わしていない俺を、如何なる基準で選んだのか」

「君は自覚していないのかね?今、こうしてこの場に満ち溢れている殺伐たる空気。このような“殺気”は、本来ならば戦場に特有のもの……平穏な日常には断じて在ってはならないものなのだよ。ましてや子供達の通う学園に平然と存在するなど、許される話ではない。かつて私の部隊に、度重なる戦いの果てに戦場と日常の境界線を見失った男が居た。――結果、奴は所構わず殺意を振り撒き、数多くの悲劇を生んだ。最後にはテロリストとして手配され、私自らが処分する羽目になったよ。……私が何を言いたいか、分かるかね?」

「さて、な」

「一見してそれと判るほどに血塗られた殺気を纏う君のような男は、絶対に看過出来ない危険因子だ、と言う事だよ」

 射殺すような視線を俺へと注ぎながら、フランクは静かに言葉を続けた。

「今朝、クリスの付き添いとして学園を訪れた際、私は僅かな殺気を感じ取った。最初は気の所為かとも思ったが、やはり見過ごせるものではなかった。クリスの身に危険が及ぶ事など、万が一つにもあってはならないからな。だからこそKAWAKAMIに話を通す心算で来たのだが――しかしこうして問題の当人と遭遇した以上、もはや余計な手間は必要あるまい。直談判で片を付けるべきだと、そう思ったのだよ。言うまでもなく、交渉は直接行った方が効率的だからね」

「交渉?くく、笑わせる。恫喝の誤りだろう」

「恫喝を手段とした交渉、だよ。考えてもみたまえ。君は娘が通う学校の何処かに、地雷が仕掛けられていると知ったらどうする?命よりも大切な愛娘を、そんな危険極まりない所に安心して通わせられるハズが無いだろう。少々強引な手段を用いてでも、早々に地雷を撤去しようと考えるのは当然ではないかね」

「ふん。危険が在ると予め理解しているならば、避ける努力を怠らねば済む話よ。目に見える地雷へと自ら突撃する――然様に愚かな娘ならば、俺は要らん。精々、派手に散れば良かろう」

 俺の物言いの何かが気に入らなかったらしく、フランクは眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに目をギラつかせた。

「どうも君には人間らしい情というものが欠けている様だね。所詮、子を持った経験の無い青二才には私の娘を想う心は判らんよ。無用な問答をしてしまったな」

「全く以って、同感だ」

 駄目だ、手に負えない。そもそもにしてまともに話が通じる相手ではなかった。俺とは価値観も思考形態も何もかもが食い違い過ぎていて、文字通りに論外だ。俺がどれ程巧みに言葉を操った所で、この親馬鹿軍人は決して折れないだろう。精神の根底に巣を張った頑固さを取り払うのは、俺の弁舌では不可能だ。

 …………。

 まあ、いい。対話による解決が失敗に終わった所で、特に何も問題は生じない。何の告知もなくいきなり銃口を向けてくるようなイカれた相手だ、元より説得で乗り切るのは望み薄だろうと見込んで、交渉決裂の未来は真っ先に想定していたのだから。このような事態に備えての対策は既に練り終えていたし、実の無い会話の最中に手も打ってある。

 要するに―――

「そうか。あくまで学園を去る気は無いのだな。ならば已むを得まい、残念だが実力を以って排除させて貰うとしよう。恨むならば他でもない、“柔軟さ”を捨てた君自身の愚かさを」

 退屈な“時間稼ぎ”は、この辺で十分だ。


「――Guten Tag, Leutnantsgeneral(こんにちは、中将さん)」


 鈴を転がしたような澄んだ声音で紡がれた、流暢なドイツ語。場違いに愉しげな、あたかも歌うような声を廊下に響かせたのは、この場に居合わせている何者でもなかった。

「なっ――――」

 フランクが驚愕と焦燥を初めて表情に滲ませながら、声音の発生源を向き直ろうと素早く身を翻し掛けた瞬間――廊下に面した空き教室の窓ガラスが、甲高い音響を伴って砕け散る。その光り輝く飛沫の中から一本の白い腕が伸びて、蛙の舌を思わせる俊敏さで獲物の首を絡め取り――恐るべき膂力でその身体を壁際へと引き寄せた。背中がコンクリートの白壁に叩き付けられると同時に、破れた窓から二本目の腕が現れ、今度は蛇の如く首筋に巻き付いて締め上げる。

「かはっ……!?」

「うふふふ、捕まえた!ああ動いちゃダメだよ?私の一顧傾城と形容すべき美貌を是が非でも視界に収めたいっていう気持ちは分かるけど、後ろを振り向こうとするのもNG。人間、いつでも前向きに生きないとね」

「……っ」
 
 苦悶に表情を歪めながら、フランクは一瞬たりとも躊躇う事無く自らの拳銃を床へと放り捨てた。漆黒の銃身が、重々しい音響を伴って廊下を転がった。そうして自由を得た両手を己が首筋へと伸ばし、背後からの拘束から逃れようともがき始める。

「ぐっ、何だ、この腕力は……!」

 しかし―――抵抗は無意味。巻き付けられた細腕による拘束は、見た目に反した強固さで、如何に足掻いた所で僅かたりとも緩まない。フランク・フリードリヒは疑いなく白兵戦においても百戦錬磨の戦士であり、並の膂力による拘束ならば自力で解く事も出来ただろうが……今回の場合は相手が悪かった。

 何せ、襲撃者の正体が“氣”の扱いを習得した人外級の武人とあっては、もはや形勢逆転の望みは皆無と言ってもいい。誰の目から見ても紛う事なき、“詰み”である。

 あまりにも突発的に遂行された奇襲に、彼の部下達は為す術もない様子で硬直している。今まさに中将を襲っている下手人を銃撃しようにも、二人の距離が密着し過ぎているのだ。誤射の可能性を考えれば迂闊に動けないのだろう。

「ほらほら、いい加減に力の差は分かったでしょ?暴れても無駄だって理解したなら、潔く諦めちゃいなよ。あんまり往生際が悪いとこのままポッキリへし折って、人生ジ・エンドにゃん!しちゃうよ?」

 破れた窓ガラスの向こう側、空き教室の中から顔を覗かせながら、明智ねねは底意地の悪い笑顔で言い放った。

「……これは、どういう事だ?この私を含め、全員が……攻撃を受ける瞬間に至るまで、敵の気配を見逃していたとは」

 脱出は不可能と悟ったのか、抵抗の手を止めて、フランクは当惑の呟きを零す。ねねは彼の後ろでにんまりと厭らしい笑みを浮かべながら、嘲る様に言い放った。

「うふふふ、ちょーっとばかり後方不注意なんじゃないかなぁ、中将さん。取り巻きの皆さんも迂闊だね。目の前のご主人とランに気を取られるあまり、周辺の警戒が疎かになってなかったかな?お陰で笑っちゃうくらい簡単に奇襲を掛けられたよ。まぁ、手を伸ばせば届く距離にご主人みたいな悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す魔人が立ってたら、どうしたってそっちに集中したくなるって言うのは良―く分かるけどさ」

「……。つまり、この空き教室内にあらかじめ兵を伏せていたという事か……?いや、私達の遭遇はあくまで偶然の産物、それは有り得まい。ならば一体」

「あはは、何を難しく考えちゃってるのさ。空き教室の入口は一つじゃないんだ――当然、私がこうして破った窓の反対側には、グラウンドに面した窓が存在する。そこから侵入して室内待機、そんでもってタイミングを窺って腕を伸ばせば……アラ不思議、ドイツ軍中将の生け捕り完了!くふふ、天資英邁なこの私に掛かればちょろいお仕事だよ」

「反対側の窓、だと?ここは二階の筈だがね」

「うん。それがどうしたの?かる~くジャンプしたら届く距離じゃないか」

「…………」

 現在の状況は、先程ねねが得意気に披露した通り、木を隠すなら森の中――その格言に倣った結果である。“織田信長の放出する強大にして凶悪な氣”というバックアップが存在する場所であれば、ねねの有する優れた気配遮断スキルは更にワンランク上のものへと進化を遂げる。銃声飛び交う戦場にて小石が転がっても誰一人としてそれと気付かぬと同様、織田信長の殺気を正面から浴びている状況にあって、限界まで隠蔽されたねねの気配を悟るのは至難の業だ。初見の時点でこの主従の合わせ技による奇襲を看破出来る武人など、世界でもトップクラスの強者に限定されるだろう。

 フランク・フリードリヒは将校としての部隊指揮や作戦立案の分野では比類ない優秀さを誇るのかもしれないが、幸いにして武人としての純粋な戦闘能力に於いてはそこまで突出していなかった。まあ当然ながら一般人の域を出ない俺如きよりも遥かに強いが、しかし蘭やねねと比較すれば幾らか下回っているだろう。とは言っても実力の全てを完全に測り切れていた訳ではないので、奇襲が通用するか否かは博打の部分もあったが――無事、作戦成功だ。日頃から“指令”の打ち合わせを密にしておいて助かった。

 俺が常に見た目偉そうなハンドポケットのスタイルを貫いているのは、断じて伊達や酔狂ではない。“プライドが高く、相手のレベルに合わせて自ら力を制限する程の自信家”という織田信長のキャラクター付けによって、対峙する相手に違和感を覚えさせる事無く、“両の手を相手の死角に置き続ける”事を可能にしているのだ。その工夫によって得られるアドバンテージは並々ならぬものがある。携帯電話という文明の利器を最大限に活用すれば、僅かに指先を動かす程度の動作で、多種多様な指示を、それも人知れず従者へと届ける事が出来る。操作の手順に慣れ、ボタンを押す順番を正確に暗記しておきさえすれば、ディスプレイを視界に収める必要すらないのだから、これ以上に手軽で便利なアイテムは無いだろう。

 例えば今回の場合、俺がねねにコールしたのは想定パターンの十七、即ち「気配を絶っての奇襲を実行・トップをねらえ」といった内容の指令だった。かくして指令を受け取ったねねは、あまりにも異質で個人特定の容易な織田信長の“氣”を辿る事で戦闘の行われている地点を把握し、校舎という複雑な地形を活かして敵部隊の視界に入らない様に注意しながら、抜き足差し足忍び足のステルス状態で奇襲に最適なポイントへの到達を果たし……そして現在の状況に至る訳だ。

「…………」

「…………」

 こちらはねねという手駒が敵方のトップをすぐさま葬れる状態にあり、あちらは一斉射による数の暴力によって引き金を弾くだけの動作でカタを付けられる状況。故に両陣営共に、下手な動きは取れない。高まる殺気だけが衝突を繰り返し、火花を散らす。かつてない程に緊迫した空気が広がっていく。

 かくして事態は睨み合いの続く膠着状態へと陥り、廊下を埋め尽くすのは痛いほどの静寂。機を計るべく、誰もが息を殺して沈黙を守っている、空白の時間。その間に、俺は次なるステージへと思考を及ばせていた。

 さて、一方的に狩られる側だった最初に比べると圧倒的に有利な立場を掌中に収めた俺達だが、しかしここで満足し、思考を止めてはならない。未だ問題の全てが解決した訳ではないのだ。と言うよりも今回の場合は、ただ戦闘面における勝利を得ればいいと云う単純な話ではない――最も肝要なのはこれから先の対応である。

「ふむ。確かに目の前の敵に注意を割き過ぎたのは確かだが」

 フランクは慮外の奇襲を被った衝撃から立ち直った様子で、落ち着き払った声を上げた。

「しかし、例えそうだとしても、私のみならず部下達の眼すらもことごとく掻い潜るなど、只者には成し得まい。実に恐るべき隠密能力……成程、これが日本の誇るニンジャの実力か。いや、確か女性の場合はクノイチと呼び分けるのだったな。聞きしに勝るニンジュツ、見事と賞賛する他ない……!」

「いや、忍者でもくのいちでもないから。それ2-Sのメイドさんの専売特許だから」

「サムライとクノイチを従えるトノサマか――流石にKAWAKAMIの名を冠する学園、私の想像を超える武士で溢れているな」

「……あー、なんだか訂正するのも面倒だからノーコメントで。やれやれだ、話を聞かない人は苦手だよ、全く。……さて、それはともかくとして」

 辟易した様子で呟くと、一転、ねねは背筋の凍るような酷薄な笑みを口元に湛えながら、依然として身動きの取れないフランクの部下達に視線を巡らせた。

「キミ達がもうお役御免だってコトは状況見れば判るよね。さあさあ部外者はお帰りの時間だよ。罪も無い生徒達が怯えちゃうと可哀相だからさ、軍属の皆さんは取り敢えずそのおっかない銃火器と一緒にさっさと学園の外まで退去してくれないかな。でないと――うふふ、ついうっかり、私の手元が狂っちゃうかもしれないよ?」

 妖艶さを含んだ猫撫で声で囁きながら、ねねはフランクの首筋にほっそりした指先を滑らせた。仄かな光を纏った五指は、氣を用いた強化が施されている証拠だ。硬気功の技法によって刃物と同等の硬さと鋭さを付与された爪先が、人間の柔皮を易々と切り裂き、滲み出た血液によって真紅の色に染め上げられていく。

「…………っ!」

 上司の首筋から滴り落ちる生温かい鮮血に、部下達は無言ながらも明らかな動揺を示した。ねねの本気を悟ったのだろう。ここで退かなければ或いは中将の命が無いかもしれない――最悪の可能性を各々の脳裏に思い浮かべ、狼狽を面に浮かび上がらせる。そんな彼らの浮き足立った有様に対し、

「うろたえるなァッ!!」

 歴戦の軍人すらも竦み上がらせる威厳を伴って、フランクの怒号が叩き付けられた。部下達をねめつけるギラついた眼光、全身より溢れ出る威圧感、初老に差し掛かった男のそれとは到底思えない。

「ドイツ軍人たる者、敵に自ら付け入る隙を見せるような無様を晒すものではない。余計な雑念を排し、心静かに私の命を待つがいい」

 彼は自身の出血に対して些かも動揺を示す事は無く、至って平然たる表情のままで俺へと語り掛けた。

「さて。良いのかね?中将たる私を害すれば、君達は即座にドイツ軍の精鋭部隊による徹底的な殲滅行為に晒される事になるが。いや、話は単に君達だけの問題に留まらず、家族や友人、そして間違いなく国家そのものを脅かす結果となるだろうな。そういった責任を負うという自覚はあるのかね?一時の感情に任せて長い人生を棒に振るか否か……冷静に考えて答えを出す事だ」

 喉元に刃を突き付けられても、揺らがない。あくまで堂々たる態度を貫いて、捕虜の身とは到底思えない重圧を込めて淡々と宣告する。その恐ろしい程の胆力、疑いなく中将の肩書きに相応しいと云えるだろう。

「……下らぬ」

 しかし――気に入らない。

 前触れもなく唐突に他人様の領域へと押しかけてきておいて、自分勝手且つ傍迷惑な理屈を押し付け、あまつさえ武力と権力を背景にして意に沿わぬ退学を強要するという理不尽な横暴……それらは勿論だが。

 何よりも――その程度の矮小な圧力を以って織田信長を恐喝出来るなどと小賢しく謀っている浅慮が、酷く腹立たしい。その程度の陳腐な恫喝を以って俺の意志を挫けるなどと思い上がっている傲慢が、何処までも許し難い。

「茶番は終わりだ。これ以上の侮りは、赦す事能わぬ」

 募る苛立ちは心中にて燃え盛る赫怒の炎へと変じ、燎原の焔へと化していく。

「権勢を頼み、多勢を頼む匹夫風情が」

 だが、そこで怒りに身を任せて見境なく暴れ回るような事はしない――少なくとも俺のやり方は、そうではない。煮え滾る感情の全てを制御化に置き、心身の内側にて漆黒の殺意へとコンバート。万人を凍えさせる純然たる殺気へと換えて、外界に向けて放出する。

「俺を、舐めるな……ッ!」

 低く唸るような重々しい怒号と同時、空間に歪みが生じる。

 それは、日常における許容限界量を遥かに超越した、“戦術”レベルの威圧だった。

 我慢も遠慮も既に不要。堰を切られ、解き放たれた殺意の奔流は瞬く間に廊下を荒れ狂い、行き場を求めて校舎を浸蝕する。余程の緊急時を除き、学園内における使用を自ら禁じていた、果てしなく本気寄りの殺気――まず間違いなく学園の敷地内に留まっている全ての人間に遍く伝播し、総身を戦慄させた事だろう。

「ぐぅっ、これは――!?」

 であるならば、織田信長の視界に映るような至近距離に立っていた者達が、そのまま無事に立ち続けていられる道理などない。それは戦場を渡り歩いた歴戦の軍人と言えども例外ではなかった。確かに“慣れ”は殺気という概念に対する抵抗力を構成する要素の一つだが、しかしただ慣れているだけでは、織田信長の本気の威圧を打ち消すには足りない。精神面・肉体面の何れかにでも隙があれば、殺意の奔流はその部位を侵入口として容赦なく這入り込み、鋭利な牙で獲物の意識を食い破るのだ。結果、レジストが追い付かなくなった者から順に、一人、また一人と意識を刈り取られてゆく。

 放出の瞬間から十数秒が経過した時点で、廊下に立っている人影は半数以下に落ち込み、更に十数秒が経つと、己の足で床を踏みしめているのは僅か四人となっていた。織田信長、森谷蘭、明智音子、そしてフランク・フリードリヒ。彼の部下達は既に全員が等しく気を失い、廊下に倒れ伏している。強制的に意識を奪われながらも、誰一人として己の得物を手放している者が居ないのは流石と云えよう。

「くくっ……」

 そして、俺は尚も容赦なく殺気を迸らせながら、口元に嘲笑を貼り付けて、この場に残された唯一の威圧対象を冷たく鋭く睨み据える。

「多少は身の程を弁えたか?下郎」

 伸し掛かる重圧と凍て付く冷気の両者に晒されたフランクは、尚も呑み込まれず頑強に意識を保っていたが、しかしその表情には隠し切れない動揺が浮かび上がっていた。死屍累々と廊下に転がる部下達の姿を前に、驚愕と共に口を開く。

「……幾多の戦場を経験してきた我が軍の精鋭を、手足すらも用いずに――!?その気迫、今に至るまで隠していたとでもいうのかっ!」

「ふん。現在の俺はこの川神学園に籍を置く身。如何に窮屈であれ、学生としての領分を守らねばならん。故に脆弱な学生共に合わせる為、己が力に枷を施し、威を抑えつつ日々を過ごしているが――其れに乗じて図に乗るような愚劣な輩が相手となれば、容赦は無用よ」

「容赦、だと……。最初から手加減されていたというのか、我々が!あたかも子供と遊ぶ大人の図の様に、掌で転がされていたと?ふざけるな――そのような現実を、認めろと言うのか!」

 所詮、相手はたかが学生だと侮っていた面も少なからずあったのだろう。フランク・フリードリヒは紛れもないプロの軍人で、それも英雄と呼ばれる程の優れたキャリアを有する将校だ。未だ成人を迎えてすらいない若造を相手に良い様に遊ばれるなど、プライドが許す筈も無い。怒りと屈辱に顔を歪め、歯を軋らせるフランクに、俺は冷然と見下すような視線を送った。

「くくっ、己の言が如何に虚しいものであったか、骨身に沁みて理解が及んだであろう。俺にとっては一国の軍勢如き、所詮はいずれ片付けるべき障害の一つに過ぎぬ。貴様らが捲土重来すると云うならば、俺は将来の手間が省ける慶事を祝うのみよ」

 大法螺もここまで来れば立派なものだと我ながら感心しながら、俺は傲然と言い放つ。

 少なくとも表面的には自信と確信、余裕と覇気に満ち溢れているであろう俺の言葉を受けて、フランクは大きく息を吸い込んで激情を鎮め、額に浮かんだ汗を手で拭ってから、静かに口を開いた。

「……成程、納得したよ。私にしてみれば最も危険な存在であろうと認識していた君が、予想に反して何一つとして動きを見せなかったのは……そもそも動く必要が無かったからという事か。我が軍の誇る精鋭部隊でさえも、自ら手を下す必要すらない――と」

「……くくっ。配下に経験を与える事も、統率者に求められる役割が一つだ」

 是とも否とも答えを明瞭にはせず、あくまで只の一般論を語る事で返答とする。

 実際の所を言えば、俺には彼が思っているような余裕があった訳ではない――先程の如く、場慣れした軍人にすら影響を与えられる規模の殺気を放つとなれば、発動の準備にも相応の手順を要する。それこそ出会い頭に問答無用で一斉射撃を受けていれば、その時点で詰んでいたのだ。音速を超えて飛び交う銃弾の行方に干渉出来るほど、俺は人間を辞めてはいないのだから。

 それに見ての通り、威圧によって部下を一掃出来たとは言っても、肝心の司令官の意識を断つ事は不可能だった。ねねの奇襲で首尾良く仕留められていなかったなら必然的に正攻法で闘う羽目になっていた訳だが、そうなるとここまで余裕の勝利は収められなかっただろう。 

 とまあ、そんな各種の裏事情を正直に暴露する必要もなし、相手の方から勝手に勘違いして過大評価してくれるならばそれに越した事は無い。誤解の種は積極的に撒くものだ、わざわざ回収するなど有り得べからざる愚行である。

「……ふっ」

 俺の小賢しい意図を知る由もないドイツ軍中将殿は、自分の中で何かしらの答えを出したのか、妙に清々しげな表情で小さく笑みを漏らした。

「私とした事が、敵戦力を測り損ねるとはな。多少の無理を推してでも、マルギッテだけは伴ってくるべきだったか……。だが、偵察を軽視したのは立派な敗因の一つ。騎士の誇りに掛けて見苦しい言い訳はするまい。日本が世界に誇る武士と言えども、所詮は学生と少しばかり甘く見過ぎていたようだ――私の、完敗だよ」

 フランクは誤魔化しの無い口調で、潔く自身の敗北を認めた。

 そして、僅かに眉を顰めながら俺を見つめ、感情を窺わせない淡々とした問い掛けを発する。

「さて。それで、君は私をどうするつもりかね?まあ問うまでもなく、日本の合戦における敗将の末路は一つ、か。やれやれ、私も軍人だ、戦地に果てる覚悟は出来ているとは言え、クリスが私の跡を継いでくれるまでは壮健でありたかったものだ」

「……ふん。先も言ったが、俺は学生の立場に縛られる身。本来であれば“敵”は悉く滅するべきではあるが、此処は川神学園の領内。仮にこの場にて貴様の命を奪ってみた所で、不利益を被るのは俺自身に他ならん」

「それは、見逃す、と言う事かね?」

「然様。甚だ不本意ではあるが、な。だが、さりとて不問に付すは論外」

 何せ銃火器で散々脅かされたのだ。疲労と心労に見合う成果の一つも挙げられないとなれば、骨折り損のくたびれ儲けもいい所である。最低限、二度と同じ事態が繰り返されないような形で事後処理を行う事だけは必須だった。

 では、その為に必要な要素とは一体何であろうか?

「此度の闘争に然るべき決着を付ける手段は、元より唯一つ」

 答えは明瞭――調停者の存在、である。

 この場に向けて急速に迫り来る“氣”を感じ取り、俺は悟られない程度に口元を歪めた。これで俺の抱く、とある憶測が正しいという“確証”が得られた事になる。ならば、残すは最後の行程のみ、か。思考を巡らせる間にも気配は接近を続け、慌しい足音が階段を駆け上ってくる。

「一体何事だ!――こ、これは……!?」

 愛用の鞭を手に携え、息を切らせながら登場したのは、厳粛な雰囲気を全身に纏う女性。2-F担任、鬼小島こと小島梅子である。彼女は階段の踊り場に立ち尽くし、驚愕のあまりか目を見開いて硬直していた。

 さて、改めて現在の状況を確認してみよう。廊下には銃火器で武装した軍服姿の男達が死屍累々と転がっており、その中央では蘭が強化した摸造刀を油断なく構え、更にはドイツ軍中将が窓から伸びたねねの腕によって拘束されている。成程、まともな感性の持ち主ならば思わず処理限界を超えてしまっても仕方の無い光景だ。

「フム。どうやら全員、気絶しているだけのようダ。“氣”に中てられたみたいネ」

「あ~あ、はいはい分かってましたよ、どうせまたお前さんの仕業だろーと思ってたさ。……オジサンそろそろ真剣で泣いてもいいよな?」

 鬼小島に数瞬遅れて姿を見せたのは、壮年の男性二名だった。一人は川神院師範代にして川神学園の体育教師、ルー・イー。もう一人は我らが2-S担任、宇佐美巨人である。

 ルーが冷静に軍人達のコンディションを探る横で、巨人は肩を落として疲れ切った溜息を零していた。

「……B棟から弓道場まで届く程の規格外の殺気だ、あらかじめ予想は出来ていたが……やはりお前達か、織田!」

 鬼小島は我に返ると、怒鳴りながらキビキビした早足で俺達の方へと歩み寄ってくる。手元で存在感を主張する鞭と、こちらを鋭く睨み据える厳しい双眸が何とも言えず不吉であった。

「それに、そちらの方は……クリスの父君ではないですか。何故ここに……この惨状は一体、どうした事ですか?」

「ふむ。貴女は確か、2-Fの担任の」

「ええ、ご息女のクラスを受け持っている小島です。それで、一体何が――」

「説明の必要は無い。徒労と云うものだ」

 真面目な顔で事態を把握しようと努めている鬼小島に向けて、醒めた語調で無愛想に言い放つ。途端に飛んでくる強烈な眼光をどうにか意識の外に追いやって無視しながら、俺は虚空に向かって嘯いた。

「わざわざ言われずとも判っているだろう――無粋な覗き見は存分に楽しんだ筈だ。俺の気が変わらぬ内に疾く姿を見せるがいい」

 強烈な威圧感を伴って響き渡る、俺の呼び掛けに対しての返答は無い。

 ただ、一陣の微風が廊下を吹き抜け――次の瞬間には、またしても新たな人影がその場に出現していた。

 豊かな髭を蓄えた、飄々たる雰囲気を漂わせる老人。

 川神学園学長にして川神院総代、武道界の生ける伝説こと川神鉄心のお出ましである。

「それまで!勝者――、……っといかんいかん、これは決闘の作法じゃったの。ワシ間違えちゃった、てへっ」

「死ね」

「ちょ、老人に向かってなんちゅーむごい暴言を吐く奴じゃ。まったく、最近の若者は怖いのう。大体、お前達が毎日のように決闘の立会いにワシを呼び出すのが原因なんじゃから、少しは労わらんか」

「それもまた学長の務めだろう。自らの定めたルール、文句を付けるは詮無き事よ。……さて、もはや長居は無用、随分と時間を無為に費やした。この上、面倒極まる後始末にまで付き合う気は無い。承知しているとは思うが――“借り”は返して貰うぞ、川神鉄心」

 傲然と言い放つと、俺は返事を待たずに踵を返した。学園の最高戦力たる教師勢も、ドイツ軍中将もその場に捨て置いて、一顧だにせず歩を進める。蘭は礼儀正しく深々と教師陣に頭を下げながら、ねねは悪戯っぽい流し目をフランクに向けて送りながら俺の後に続く。

「な、待て!誰が去っても良いと言った、お前には聞きたい事が山ほど」

「構わん。放っておくのじゃ、小島先生。あやつの振舞いは、今回に限りワシが許す」

「しかし、私だけならばまだしも、学長に対してあの態度……あまりにも不遜が過ぎます!前々から感じていましたが、織田には目上を敬う心があまりにも欠けている。教育者として放置する訳にはいきません!」

「まあまあ、いいじゃありませんか梅子先生。大体、あいつは説教如きでどうこう出来るタマじゃないと思いますがね。なんせガキの頃から、俺みたいな大人のありがたい助言にも馬耳東風でしたからねぇ。筋金入りって奴ですよ」

「だからと言って諦めて投げ出してもいいと?大体、奴は2-Sの生徒、宇佐美先生の管轄でしょう。付き合いが長いというならば尚更、甘い顔をせず日頃からもっと厳しい教育的指導を――」

 何やら後ろで一悶着起きている様だが、しかしもはや俺には関係の無い事だ。後は野となれ山となれ。何なら焦土になってくれても一向に構わない。振り返る事も足を止める事もせずひたすらに歩き続けると、やがて彼らの声も届かなくなった。

 それでも立ち止まらず、足早に歩を進める。途中、擦れ違った生徒達が恐慌の悲鳴を上げてへたり込んでいたが、それらにも関心を寄せる事はない。

 そして数分後、川神学園の校門に辿り着くに至って、俺はようやく僅かに歩調を緩めた。

 周囲に人の目が無い事を確認してから、足を止めて、深呼吸で気分を鎮める。

「うーん、なかなかに荒れてるねぇ、ご主人。今のご主人の顔見たらコズミックホラーな邪神も裸足で遁走するんじゃないかなってレベルだよ。おおこわいこわい」

 ここまで黙々と俺の後ろを付いてきていたねねが、普段通りの能天気な調子で口を開いた。その緊張感に欠ける顔面をジロリと睨みつつ、俺は低く押し殺した声を上げる。

「……ネコ。俺が何よりも我慢ならぬ事は何か、判るか?」

「そんなの簡単だよ。イージー過ぎて欠伸が出るね。ずばり、フルネームで呼ばれるコト!正解でしょ」

「違う」

 鬱陶しいドヤ顔で胸を張っているねねの解答を冷たく切り捨てる。いやまあ違うと言うほど違う訳ではないというかそれはそれで最高に我慢ならないのだが、とにかく今回求めている答でないのは確かだ。
 
「えー。じゃあ、食後の楽しみにしていた和菓子を勝手に食べられるコト?」

「違う。それは三日前のお前の所業だろう」

 あの時ばかりは、大好きな魚の餌にしてやろうか、と真剣に思ったものだ。もしも蘭が念の為にと予備分を用意していなければ、今頃俺の手足が一本欠けていたかもしれない――まあその程度には我慢ならない事ではあるが、それもまた求めている答ではない。

 というか分かっていて言っているだろう、と冷酷な視線を向けると、ねねは僅かに顔を引き攣らせながら、神妙な調子で口を開いた。

「ま、おふざけはこの辺にして。――“試されるコト”、だよね。あ~成程ね、それはイライラするのも当然かぁ。ご主人ってば、変なところでプライド高いもんね。人を試すのは構わないけど、自分が試されるのは我慢ならない。くふふ、相変わらずの自己中っぷりだ、世界はご主人を中心に回ってると言っても過言ではないね」

 ニヤニヤと小賢しい笑みを浮かべる従者第二号を黙殺して、俺は歩みを再開した。

 そう、俺の不機嫌の理由はまさに其処にある。“試される”だけでも十分に不快だと言うのに、それに加えて余計な手間を押し付けるとは――川神鉄心、本当に腹立たしいジジイだ。立場の問題なのか武人としての興味なのか教育者としての関心なのか、真実は奴しか知り得ないが……何にせよ、俺にとって傍迷惑である事には違いない。

 私立川神学園というロケーションは、正しく川神鉄心の領域。そしてあの爺自身が、一個の生きる兵器として世界に警戒される程の化物だ。ならば――ドイツ軍の英雄率いる軍人が、殺意に満ちた銃器を手に学園の敷地内に押し入り、そして織田信長と対峙するという異常な状況を、誰よりも先んじて察知していない筈が無かった。全校に影響が及ぶ殺気を運用してまで“呼び出す”必要すらなく、恐らくは最初から全てを観察していたのだろう。

 教師の役割がどういうものか、などと自分勝手に定義するつもりはないが――まず間違いなく言えるのは、教師には生徒の心身を守る義務があるという事だ。相手が危険であればあるほど、その義務を果たすべきである事は言うまでもない。にも関わらず、川神鉄心は織田信長に迫る悪意と害意と殺意とを、手をこまねいて傍観していた。目的は恐らく、織田信長の武力と、そして精神性とを確認する事、といったところか。

 俺としても観られている可能性については最初から考慮していたが、しかし悟っていたところで何が出来ると言う訳でもない。織田信長のキャラクター性を考えれば、敵を前にして早々に助けを乞う訳にもいかないのだから。結局は自力で切り抜ける羽目になってしまった。その結果、あのジジイの目論見は見事に果たされた形になる。まあもっとも、武力に関しては晒すような手札など元より持ち合わせていない以上、試されたのは精神性のみだが――それだけでも“貸し”とするには十分だ。
 
 望む通りに織田信長の行動パターンを探れたのだから、相応の代価を支払うのが当然だろう。

『“借り”は返して貰うぞ、川神鉄心』

 そして今回の場合、俺が望む報酬は最初から決まっている。すなわち“調停”だ。報酬と言うか、どう考えても学長として当然の義務なのだが、少なくともそれだけ果たしてくれれば文句は言わない。手に負えないモンスターペアレンツへの対処は、教職員の永遠の課題にして責務である。

「ふん。何とも、傍迷惑な災難があったものだ」

 貸し借りに関してはそうした形で清算すれば良いが、しかしこうして胸に残された苛立ちはどうにも消化しかねる。やはりこういう時は至高の甘味たる和菓子を食して心を癒すに限るな――と算段を巡らせた所で、先程から蘭の声を聞いていない事に気付いた。

 背後を振り返ってみれば、俺の三歩後ろの定位置にて、何やら暗い顔で悄然と俯いている。

「如何した。蘭」

「信長さま……、あの、蘭は、――いえ、何でもございません……」

「……」

 言葉通りに受け取る輩はよほどの愚か者だろう。依然として暗い表情で答える蘭の声は弱々しく、誰の目にも明らかな程に沈み込んでいた。

 まず間違いなく何事かあったのだろうが、しかし蘭はこれで頑固な奴だ。変人扱いされるほど織田信長に対して献身的な忠臣たる森谷蘭だが、話したくない事に関してはなかなか口を割らない一面も持っている。このような路上で問い詰めてみたところで無意味だろう。

「ならば、道は一つ」

 うむ、何はともあれ、何をおいても重要なものは和菓子だ。和菓子の上品な甘味を噛み締めれば蘭も顔を綻ばせずにはいられまい。善は急げ、との至言も存在する事だし、仲見世通りへと急ぎ足を運ぶとしよう。

 国境を越えたドイツ軍の襲来に最初はどうなる事かと思ったが、どうにかこうにか無事に解決出来た事だ。勝利の後に食す和菓子の美味はひとしおだろう、と俺は積もった鬱憤を忘れて、愉快さに口元を吊り上げる。


 まさか、このフリードリヒ家に関わる騒動が、未だ解決していないどころか――先の一件が更なる波乱の序幕に過ぎなかったのだという、そんな残酷な現実を俺が思い知らされるのは、まだ先の事であった。
















~おまけの弓道部~


「織田信長、相変わらずプレミアムにぶっとんだ“氣”ね。姿も見えないのに、気配だけで肝が縮んだわ……」

「あはは、みんな練習どころじゃなくなっちゃったね、ウメ先生も血相変えて飛び出しちゃったし。だけど椎名さんだけは集中を切らしてないのよね、さすがはウチ一番の有力株」

「……集中力には自信がありますから。というか、周囲の雑音にいちいち集中を途切れさせてるようじゃ弓使いは務まらないんで。正直、笑い事じゃないと思います」

「ちょ、キャプテンに失礼じゃないですかね椎名センパイ!だいたい、いきなり顔を出すようになったクセに上から目線で説教垂れるなんて、プレミアムに失礼な話ですよ」

「あの、武蔵さん、私は気にしてないから、ね?椎名さんがやる気を出してくれたのは嬉しいし、言ってる事だって何も間違ってない。……そうだ、ウメ先生はいないし、折角だから……椎名さん、良かったら私たちに色々と教えてくれないかな?天下五弓の一人にアドバイスを貰えるなんて、願っても得られないチャンスなんだし!」

「……私の弓は実戦重視の弓術で、皆が修めたいのは弓道。あまり深い助言は出来ないけど……それでも良いなら」

「うん、それで十分だよ!ありがとう椎名さん。うわぁ嬉しいなぁ、去年に椎名さんが入部してから、ずっと一緒に部活動したかったの。改めてこれからよろしくね」

「ふっふっふ、すぐに技術を盗んで追い抜いてあげますから、気を抜かないでくださいね?椎名センパイ。プッレ~ミアムな私は弓の道でもトップを目指すんだから!」

「……しょーもない」













 いざ書いてみると想像以上に文量が嵩んだので、やむなく二分割。という訳で異例ながらBパートに続きます。
 毎度の事ながら、感想を下さった皆さんに心から感謝を。これからも気が向いたら一言でも良いので書き込んでやってください。モチベーションの維持にダイレクトに影響します。
 それでは、次回の更新で。



[13860] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Bパート
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:84336b94
Date: 2012/02/09 19:48
 私立川神学園、正門前にて。

「学園内に友人が多い大和ならば、あの男についても何か知っているんじゃないか?もしも知っているなら教えてくれ、どうしても気になるんだ」
 
 真剣な表情で言い募るクリスの問いに対し、大和は心の中で逡巡した。
 
 答えるべきか、答えざるべきか。彼女の言う“あの男”――すなわち2-F及び風間ファミリーの仇敵、織田信長に関する情報を、この異国からの転入生に伝えるべきなのか。数瞬の思考を経て、決断する。ここは自分が説明しておくべきだ、と。
 
 直江大和とクリスティアーネ・フリードリヒは未だ一日に満たない僅かな付き合いだが、しかし人間観察を得意とする大和は、既に彼女の人柄をある程度は把握していた。何事につけても価値観が真っ直ぐで、清廉潔白・正々堂々たる行動を好む。会話の端々に浮かぶ“義”の一字への拘りから考えても、その思想の根底には人並外れた正義感が存在している事は疑いないだろう。と言う事はつまり、だ――2-Sに君臨する織田信長という冷酷な暴君を、他クラスに侵略を行い思うが侭に蹂躙する明確な“悪”の存在を、クリスが容認する可能性は非常に低い。

 紛れもなく敵対関係にあるとはいえど、自分達2-F代表チームの奮闘が功を奏した結果、2-Fと織田信長の間には一種の休戦協定が結ばれている。現時点における彼との実力差を考慮すれば、この状態は実に有難いと言えるだろう。信長一党が宣言通りに他クラスの征服を終えるまでの期間、2-Fの面々は各々の能力を磨く機会を得られるのだから。

 自分以外のクラスメート達が現状をどのように感じているかは推察するしかないが、少なくとも軍師たる大和はこの状況を大いに歓迎している。感情を脇に置いて冷静に客観視すれば、現在の2-Fに勝算が皆無である事実は誰の目にも明らかだった。何せ前回の激突にて、信長陣営は幾多のハンディキャップを抱えた状態で自分達と三戦を闘い、それでも勝利をもぎ取っていったのだ。自他共に認める世界最強・川神百代をして自身と対等と認めさせた男――彼が初めから全力で勝負に臨んでいれば、まず間違いなく戦の趨勢は瞬く間に決していただろう。
 
 故に、暫くは織田信長の侵略の手が伸びないと保障されているこの現状は、是非とも守り通すべきだ。大和はそのような思惑を抱きつつ日々を過ごしていた訳であるが――しかし、ここにきてクリスという計算外のイレギュラーが登場してしまった。今までに交わした会話を通じてその性格を分析してきたが、大和の見立てでは彼女はどうにも“危ない”。下手にその正義感に火を点けてしまうと、猛烈な勢いで火薬庫へと突撃して大惨事を引き起こしかねない気がしてならないのだ。だからこそ信長に関する情報を正直に話すべきか否か、迷いを抱える羽目になっていた。

「……そうだな、俺の知っている事で良ければ」

 逡巡の末に大和が下した決断は、結局、“正直に話す”方であった。
 
 何故ならば、この場で自分が説明を拒んだところでさして意味は無い。織田信長という男は、もはや川神学園では知らぬ者の居ない有名人である。現在も学園制覇へと向けて活動を続けており、その動向は全校生徒の注目の的となっている。要するに、川神学園に籍を置いている限り、彼についての情報は嫌でも耳に入ってくるのである。後日、無責任な噂によって歪められた中途半端な知識を植え付けられるよりは、むしろ自身の手で解説を行い、クリスの意識を己の望む方向に誘導すべきだ――そういった意図の下、大和は語り始めた。
 
 新学年の始まりと同時に現れた二人組。有力者との決闘を通じての2-Sの掌握。2-Fと2-Sの確執、それを切っ掛けとした風間ファミリーと信長一家との小さな戦争。その結末と、信長の学年支配宣言。そして現在の学園を吹き荒れる戦乱。

「……なんという無法!むむ、そのような悪漢が学園にのさばっているとは、許し難いな」

 全てを聴き終えた時、予想通りの不愉快そうな顰め面を見せながら、クリスは険しい口調で呟いた。

「まあそういう訳で、今は2-Fと“彼ら”は停戦状態なんだ。和睦した訳じゃないけど、俺たちのクラスにはしばらく侵攻はしてこないだろうから安心していい」

「そういう問題ではないだろう!だいたい、それは要するに、他のクラスが悪漢によって蹂躙されるのを黙って見ている、という事じゃないのか?義を見てせざるは勇無きなり――真のサムライならば断固、立ち上がるべき場面だ。そんな腑抜けたことを言っていてどうする」

 頑固な芯の通った厳しい声音が投げ掛けられる。やっぱりこうなるよなぁ、と悪い予感が的中してしまった事にげんなりしながら、大和はクリスの勇ましい言葉に頭を振った。

「さっきも説明したけどね、悔しいけど今の俺達じゃ勝算が無いんだ。勝てないと分かっている戦に身を投じるのは勇気じゃなくて只の無謀なワケで。一応2-Fの軍師を務める身としては、そんな玉砕必至の策は却下させて貰う」

「勝敗は兵家の常、戦う前から臆していては勝利を呼び込める道理などないに決まっている!むぅ、大和丸と同じ名前のクセに、その弱腰はいただけないぞ。軟弱な」

 あまりにも歯に衣着せない率直な罵倒に、割と温厚な部類の人間であるところの大和も流石にカチンと来るものを感じた。そもそも今日学園を訪れたばかりで何の事情も知らないような人間が、偉そうに人様の主義と努力を否定するとはどういう了見だ――人脈作りの為に身に付けた愛想笑いが表情から剥がれていく。大和はこれまでと比べれば明らかにぶっきらぼうな口調で、クリスへと醒めた返事を返した。

「いや、俺はアレ、どっちかって言うと闇丸のファンだから」

「闇丸だと?金を貰って人を殺す外道ではないか。あのような悪党のファンなどと……自分には理解しかねるな」

「確かに道理には従わないが、筋は通す。自分なりの信念を持って日陰道を歩く姿、カッコイイと思うよ。って言うか俺的には大和丸の“義”マニアっぷりもどうかと思うけどね。二言目には正義正義って、病的だよ。幾ら何でも頑固過ぎ。闇丸に比べると柔軟さが足りないって常々思ってたね。もっと頭を使えと言いたい」

「な、彼の義を貫き通す天晴れな生き様こそが大和丸夢日記の見所だろう!大和は何も分かっていないぞ。闇丸なんて……」

「大和丸なんて……」

「むむむっ」

「ぬぬぬっ」

 往来にて足を止め、火花を散らして睨み合う二人。

 かくして誰もが羨む美少女留学生との楽しい放課後デートは終わりを告げ、後に残されたのは目を背けたくなるような険悪さに満ちた雰囲気のみであった。

 柔軟で在る事を常に心掛け、己に課している直江大和と、ひたすらに真っ直ぐで在る事を美徳と捉えるクリス――初めから相性は水と油の如く最悪であり、互いに相容れない事は自明の理であったと言えよう。遅かれ早かれこうなる事は定められていた。

 やがて不毛な睨み合いを終えると、大和はクリスに目線を合わせないまま、無愛想に声を掛けた。

「……ウメ先生に任されたし、案内は最後までする」

「……そうか」

 言葉少なに素っ気無い遣り取りを交わすと、二人は歩みを再開した。

 和気藹々とした空気は露と消え、不穏な沈黙を保ったまま、ただ足を前へと動かし続ける。

「おい」

 第三者がその場に居れば胃の痛くなるような雰囲気が数分ほど続いた後、おもむろにクリスが口を開いた。

 数歩分先を早足気味に歩いている大和を呼び止めると、刺々しい調子で声を掛ける。

「少し待て。大事な事を聞き忘れていた」

「……何?」

「名前、だ。件の悪漢の名前を、自分はまだ聞いていないぞ。名前を知らずしては成敗する事も出来ないだろう。それは困る」

「……あー……」

 ピタリ、と大和は足を止めて、意味の判然としない呻き声を上げた。

 無論のこと、名前を告げるのを偶々忘れていた――などという訳ではない。クリスに信長の事を説明する時には、代名詞をフル活用して意図的に名前を伏せていたのだ。何やら日本を勘違いしている節が随所に見受けられるクリスが、“その名”を耳にした時、どのような反応を見せるか……想像が付かなかった事が隠蔽の理由である。

 しかし考えてみれば姓名に関する情報も、必然的に後で誰かに聞かされる事になるのだから、それだけを隠し立てしても大して意味はない。むしろ何処で爆発するか分からない爆弾を放置するよりも、安全圏にて処理しておいた方が賢明だ。

 数秒ほど唸りながら思考を整えると、大和は背後のクリスを振り返り、一世一代の覚悟を決めて“その名”を口にした。

「あー、っと。……奴の名前は、織田信長」

「……ん?すまん、もう一度言ってくれないか?もしかしたら聞き違えただけかもしれない」

「姓が織田、名が信長。フルネーム、織田信長。オーケー?」

「…………え」

 一言一言にアクセントを込めて明確に言ってやると、遂に聞き違いでない事を悟ったのか、クリスは口をポカンと空けて硬直した。

 さて鬼が出るか蛇が出るか、とほとんど爆発に備えるような心地で反応を見守っていたところ――変化は劇的に生じた。

「そ、それは本当か!?」

 パァァ、と表情が光り輝き、頬に興奮の赤みが差し、口元は喜悦に緩んでいる。先程まで不機嫌さをこれ以上なく表現していた仏頂面は、溶けるように消えてなくなっていた。

 そのあまりの変貌振りに呆気に取られている大和に向かって、クリスは無邪気な笑顔で声を弾ませた。

「おおっ、彼がかの高名な信長公だったのか!あの天魔の如き気迫、常人ではないと一目で分かったが、そうかそうか、戦国の英傑ならばそれも当然だな!うわぁ嬉しいなぁ、日本に来てすぐに憧れのサムライの一人に会えるなんて!自分は祖国にいる時、彼をテーマにした戦記を何冊も読んだんだ」

「えっと、あの、クリスさん?」

 大好きな玩具に囲まれた子供のようにはしゃいでいるクリスに、思わず敬語が出てしまう程度に引きながら大和が声を掛ける。

「なんで普通に受け入れちゃってるんですかね?そこはキラキラネームの残酷さを噛み締める場面だと思うんですが……」

「いや~、信長公生存説は真実だったんだな。知っているか大和、没地とされる本能寺では彼の遺体はついぞ見つからなかったんだ。炎の中に果てることなく明智の軍勢から逃れ、生き延びていたという風説はやはり正しかったのか!これは父様にも報告しなければならないな。きっと羨ましがるだろう、ふふふ」

「OH……HEYクリス、今、西暦2009年。織田信長の没年、1582年。オーケー?」

「日本の武人はKIの扱いに滅法長けていると聞く。国技のSUMOUを見ればその技術が神業の域に達しているのは分かるし、現に学長のKAWAKAMIは数十年も昔から年を取っていないそうじゃないか。そういった例があるのだから、歴史に名を残す信長公ほどの英雄ならば、未だ若き日の姿を保っていても不思議はないだろう」

 胸を張って自信満々に断言するクリスに、大和は不覚にも反論の言葉を詰まらせた。SUMOUがどうこうに関してはどうせネット上のコラージュあたりを悪ふざけで見せられて勘違いしているのだろうが、川神院総代の妖怪爺の方は誤魔化し様のない事実である。

 しかしアレはそういう存在だから例外なのだ、と反駁し掛けた所で、いや待てよ冷静に考えてみれば信長(2-S所属)も十分以上に規格外の怪物だった、という現実に思い至る。そうなるとクリスの突拍子もないと思われた説が俄かに現実味を帯びて――、そこまで考えた所で大和は激しく首を左右に振った。何を馬鹿な事を考えてるんだ、しっかりしろ俺。クリスの言葉の持つ妙な説得力に飲み込まれないよう自身を叱咤しながら、出来る限り醒めた調子を装いながら大和は口を開いた。

「いやいや、有り得ない有り得ない、冷静に考えてみるんだクリス、戦国武将だぞ?過去の偉人は過去の偉人だよ。大体、現代社会に溶け込んでる戦国武将とかどんなギャグだよって感じだな」

「う~ん、そうか?……じゃあ百歩譲って、どこぞの研究所が遺伝子から再生した信長公のクローン――だったりはしないだろうか」

「はははっ、SF映画の見過ぎ。そんなぶっとんだ展開、それこそギャグそのものだ。もし現実になったら俺は姉さんに喧嘩売ってみせてもいいね」

「ふっ、そういえばお前はあの川神百代先輩の舎弟なんだったな。ドイツまで聞こえた武神に喧嘩を売るとはなかなか大きく出たものだが、自分は考えを曲げないぞ。きっと信長公は何か深い事情があって身分を偽り、学生として日々を過ごしているに違いない」

 信長が例の仏頂面で「やっておしまいなさい」と従者達に命じている光景が不意に思い浮かんで、大和は不覚にも噴出しそうになった。

「水戸黄門あたりに影響されてるのがバレバレな発言だな……ていうか素性を隠したいなら織田信長とか名乗らないから。これ以上なく目立ちまくりだから」

「むむむ、大和はそうやってすぐに否定ばかりする。面白くないヤツだ」

「現実的、と言って欲しいね。クリスみたいに夢物語ばかり追ってるようじゃ軍師なんて役割は務まらないからな」

「ふっ、軍師軍師と大層な。お前のはただ小賢しいだけなんじゃないのか」

「まあお前がそう思うんならそうなんだろう。――お前ん中ではな」

「むむむっ」

「ぬぬぬっ」

 歴史は繰り返す、とばかりに大和とクリスは再び睨み合う。

 しかし、その空気は先程と比べれば遥かに険の取れたものだった。勿論のこと和やかさからは程遠いが、あわや一発触発と言うほどの危うさを帯びてはいない。

 それも当然――不機嫌そうに口を真一文字に結んで唸るクリスの心中は別として、少なくとも大和の方は、この歯に衣着せない遣り取りを心の何処かで楽しんでいるのだから。

 直江大和の対人関係は、その趣味の在り方と同様に、基本的に浅く広く、を旨としている。真の意味での“友人”は風間ファミリーの仲間達のみに限定され、それ以外の者はほぼ全員が“知人”にカテゴライズされていた。それはすなわち、あくまでギブアンドテイク、利益を求めての打算的な付き合いが交友関係の殆どを占めていると言う事だ。

 常に愛想良く親切で、人付き合いの良い情報通の好青年――それが大和の用意した余所行きの仮面で、だからこそ腹を割って本音で誰かと話す事はごく稀だ。無論、ファミリーの皆は例外だが……彼らを除けば、ありのままの自分でぶつかるような相手は周囲に居なかったのだ。

 だが、クリスティアーネ・フリードリヒは――この融通の利かない真っ直ぐさを全身で主張する転入生は、良くも悪くも大和にとっての“例外”だった。未だ出会って一日と経っていないにも関わらず、大和の用意した笑顔の仮面を粉々に砕いてしまうような人物は、これまでの人生で初めてである。柔と剛、あまりにも対極な在り方は両者を衝突させるのが当然で、互いの価値観を認め合うのは容易ではないだろう。

 しかし、今まさにこの瞬間、大和は偽りなく、彼女と正面から向き合っていた。そのような体験は大和にとって相当に希少なもので、相手の愚かしいまでの頑固さに苛立ちを覚えながらも、ほぼ初対面の人間を相手に己を偽らずに済むという事の新鮮さを噛み締めさせるものだった。

 この先も絶対に気が合う事だけはないだろうが、やはり素の自分で気楽に話せるのは悪くないものだ。

「――おい大和、聞いているのか。おい、無視するな!」

「クリス、声が大きい。知らないのか?日本では往来で言い争うのは何よりもみっともない恥だと思われるんだ。例え周りに人がいなくてもね」

「むむ、そうなのか……知らなかった。人目があろうとなかろうと常に慎み深く、か。確かに日本人らしい美徳だ、自分も見習わねばなるまい。よし、お前の曲がった性根は気に入らんが、ひとまず外での喧嘩は自粛しよう」

 それに何より、実に操縦し易い。意見が食い違う上に口も達者となれば険悪な空気は避けられないだろうが、幸いにしてこのお嬢様は見た目よりも単純らしかった。こうも口先で丸め込むのが容易いと、むしろ苛立ちよりもイジる面白さが上回りそうだ――と大和は心中で意地の悪い笑みを浮かべた。そんな思考を悟れる筈もないクリスは素直に口を噤む。

 かくして口論の火種は取り除かれ、二人は比較的落ち着いた雰囲気で川神市内探索を続行した。

 そして、長閑な多馬川の川辺を歩く事暫し、川神の象徴とも言える武道の総本山、川神院に到着。クリス曰く、どうやら海外では川神院は“伝説の拳法寺、日本の最終兵器”として知られているらしい。

 参拝目的でもない限り門の内側に立ち入るには許可が必要なので、外から荘厳な門構えを眺めるに留まったが、それでも武に通ずる人間であれば奥から溢れてくる“闘気と品格”とやらを感じるらしく、クリスは楽しそうだった。朝の決闘以来、ライバル関係を結んだワン子(川神院在住)と遭遇し、騒々しい遣り取りを交わしてから、二人は次なるスポットへと向かう。
 
「む、何やらあちこちから甘い匂いがするぞ。う~ん、良い香りだなぁ」

「それも当然。ここは仲見世通り、和菓子好きのサンクチュアリって地元で言われてる通りだからね。店先で食べる和菓子が、また美味いんだ」

「和菓子か!素晴らしいな、自分は前から日本の食文化にとても興味があったんだ。それに、雰囲気もいいな。何とも風情のある通りだ……おお、あれはもしかして雑誌に紹介されていた――」

 ずらりと通りの左右に並んだ店舗の数々をキョロキョロと物珍しそうに眺めて、クリスはまたまた顔を輝かせていた。

 飴、餅、金鍔、饅頭、花林糖、羊羹、銅鑼焼き、落雁……この通りにはおよそ和菓子に分類される種類の甘味ならば大抵のものが揃っている。川神の観光名所の一つで、雑誌などにも紹介され、外国人観光客も数多く訪れているスポットなのだ。

「なあ大和、あれは何の店なんだ?」

「ああ、久寿餅だな。職人のお爺さんが良い腕してるって評判の店だ。俺も食べた事あるけど、あれは倍額を払っても惜しくないと思ったね」

「クズモチ……ううむ、知らないな。どのような菓子なのだろうか」

「ぷるんとした独特の食感が魅力だな。それに黒蜜ときなこをたっぷり掛けて食べるんだ。黒砂糖の甘みと、きなこの香ばしさが口の中でほどよく絡み合って――」

 かつて友人と一緒に食べた際の記憶を呼び起こしながら解説すると、返事の代わりに、ごくり、と唾を飲み込む判り易い音がはっきりと聞こえた。恥辱に顔を赤くするクリスをひとしきりからかって遊んだあと、大和はむくれてしまったお嬢様のご機嫌を取るべく、通りに面した店のカウンターへと向かって歩み寄りながら、注文の為に声を上げる。

「すみません、久寿餅二つ!」「久寿餅を二つ、だ」

 大和の張り上げた快活な声に、重々しく空気を震わせる重低音が被せられ、何とも言えない不協和音を奏でた。

「……」

「……」

 つぅ、と嫌な汗が額を伝うのは、必然である。

 聞き覚えのある声、だった。否、どう足掻いても忘れられない声――と言うべきか。

 想定外にも程がある緊急事態の到来に数秒ほど思考ごとフリーズした後、大和はギギギと擬音が付きそうな動作で首を巡らせて、今現在自分の隣に立っている存在へと視線を向ける。
 
 途端――凍て付くような絶対零度の黒い双眸が、無言の重圧を伴って大和を射抜いた。

 その凶悪なまでの存在感、他の誰と見間違える筈も無い。
 
 つい先程まで自分たちの話の種となっていた男――2-Sの暴君こと織田信長との、不意打ち過ぎるエンカウントであった。

「おっとこれは面白い事態だね。引く手数多に客が入るのは勿論非常に喜ばしい事ではあるけれども、しかし残念ながら今日は祖父の体調が思わしくなくてね――久寿餅の作り置きはこの二つがラストなのだよ。本当に済まない、お二方」

 そして、売り子の女性がおもむろに放った不吉極まる一言によって、大和に圧し掛かる重圧は更に膨れ上がる。

 眼前の信長は普段同様に鉄壁の無表情だが、しかしそれでも不機嫌な感情は雄弁に伝わってくる気がした。これは無言の内にお前が譲れと催促しているに違いない、と即座に推察し、持ち前の柔軟さを発揮して身を退こうと決断した瞬間――

「ちなみに第三者として公平な判断をさせて貰うとだね、そちらの少年の方がゼロコンマ二秒ほど早く注文を終えたという客観的事実が存在するよ」

 無造作な仕草で売り子が指差す先には大和の姿が。

 余計な事は言わなくていいから黙っていてくれ、という心の叫びも虚しく、硬直している大和を余所に彼女は機械じみた平坦な口調で言葉を続けた。

「常連客の貴方に優先権をあげたいのは山々だが、特定の客を贔屓した事が祖父に露見したら酷く絞られてしまうからね。ここは潔く退いてくれないか、殿」

「……ふん。言われるまでもない。和菓子を食するに際し、礼を失するような真似を、この俺が。万が一にでも為すと思うのか?サギ」

「無論、そのような事は間違っても思わないとも。罪も無いのに貴方に脅かされるという不幸を背負ったこの可哀想な少年の為に、事情を説明してあげたかっただけだよ」

「然様、か。……力を以って奪い取るは容易だが……同時に、無粋。此処は聖地、然様な振舞いは言語道断よ。安心するがいい、此度は譲ってやる。職人の見事なる業を称え、その妙技に慄きつつ美味を噛み締めるが良かろう――直江大和」

「……どうも」

 かくして、何やら良く分からない内に話が纏まっていた。

 呆然としている内に二人分の久寿餅を載せた紙皿が売り子の女性から手渡され、大和は近くの休憩所にて待機していたクリスの下へとフラフラした足取りで歩み寄る。

 未だ事態に気付いていないのか、クリスは訝しげな表情で戦利品を受け取った。

「む?どうした大和、顔色が悪いぞ」

「あー……いや」

 彼女に信長の存在を伝えるべきか否か逡巡していると、「おーい少年。お代を頂いてないよ」と先程の売り子に呼び掛けられ、慌てて店先へと駆ける事になった。動揺のあまり勘定を忘れるとは軍師・直江大和一代の不覚――と深く恥じ入りながらカウンターまで戻ると、売り子の微笑ましげな視線に迎えられてしまった。

「フフフ、綺麗な彼女さんを一刻一秒でも早く笑顔にしてあげたいという甲斐性は素晴らしいが、生憎とこちらも商売でね。無償でサービスしてあげる訳にはいかないな」

 そう言って、売り子の女性はからかうような笑みを口元に浮かべる。

 先ほどは観察する余裕が欠片も無かったが、こうして改めて眺めてみると、川神学園にもそうはいないであろうレベルの美人であった。すらりと背が高く、整った顔立ちは理知的な雰囲気を窺わせる。腰元まで伸びた女性的な暗灰色の髪とは裏腹に、目付きは鋭く背筋はピンと張っていて、総身に男性的な格好良さを漂わせていた。年は正確には判断が付かないが、落ち着いた物腰から考えると恐らくは年上だろう。大学生辺りだろうか。

「す、済みませんでした、つい慌てて。ただ、彼女とかじゃなくて、ツレです」

「そうなのかね?ふむ、私はどうも男女の機微に疎くてね。年頃の男女が連れ立って歩いていると誰も彼もカップルに見えてしまうという救い難いスイーツ脳なのだよ。そう――和菓子屋だけにね」

 漫画ならばキリッ、という擬音が付くであろう無駄に凛々しい顔で言い放つと、売り子はチラリと横目で大和を覗った。あまりにも淡々とした口調なので分からなかったが、どうやら上手い事を言った(つもりらしい)ことに対する何かしらのリアクションを欲している様子である。ははは、と大和はどうにか捻り出した乾いた愛想笑いで対処した。日々磨き上げた自身の処世術に感謝の念を覚える瞬間だった。

「あの、そろそろ勘定をお願いできますか?ツレを待たせてるんで」

「おっと済まない。彼女としては当然、自分の恋人が異性と親しげに話していたら嫉妬してしまうだろうからね。これは私の配慮が足りなかったな。慙愧の念に耐えないよ」

「いやですから彼女じゃないですって。大体、アレと付き合ったら軍――じゃない、親御さんに殺されかねませんし」

「ふむ?ふむふむ、家庭の事情、身分違いの恋、禁断の愛というヤツか。おぉっと、いやいや無理に話してくれなくても結構だとも。その年頃ならば誰であれ詮索されたくない事情の一つや二つはあるものだ。おお若人よ、汝ら心の赴く侭に青春を謳歌せよ」

 勝手に納得して勝手にうんうんと頷いている女性に、大和は引き攣った笑みを返す事しか出来ない。間違いない、これは完全に自分の中に自分の世界を作ってしまっているタイプだ。何を言ったところでまともに聞いてはくれないだろう。話の通じない相手とは話さないに限る、早々に会話を切り上げて脱出しよう――という判断の下、大和は無言のままに千円札をカウンターへと置いた。

「どうも。久寿餅が二人分で、丁度千円だね」

「え?いや、でも、値段表には割引中って書いてますけど。ほら、一割引」

「む?確かに……、ああ済まない、祖父がまた私の知らない内に売値を弄っていた様だ。自営業なのだから気分次第で値を下げるのは勝手だが、それを売り子に伝えないとはどういう心算なのやら。年だ年だとは常々思っていたが、ついにボケが来たのか?全く、只でさえ和菓子作り以外には何の能も無い駄目人間だと言うのに、ますます介護が大変になるではないか。冗談ではない、冗談ではないぞ」

「はぁ」

「おっと。どうにも詰まらない愚痴を聞かせてしまったね。それで勘定だが、……ふむ、些かばかり待ってくれたまえ少年。……ん、定価が一人頭五百円で……一割引して二を掛けて、最後に千から引くと……、くっ、これは竹取物語に採用されても不思議の無い難題だ。久々に私の頭脳を限界まで酷使する必要がありそうだな」

「俺ひょっとしてからかわれてます?」

 大真面目な表情で懊悩している様子は、冗談なのか本気なのか何とも判り辛い。大和の疑惑の視線に対し、女性は重々しく頭を振った。

「残念ながら真剣なのだよ。私は子供の頃から数学という分野が壊滅的に苦手でね――アラビア数字を頭に思い浮かべるだけで不甲斐ない脳髄が拒絶反応を起こすのだ。お陰で現在に至るまで私がどれ程の苦悩を味わった事か。ああ何とも忌々しい、ピタゴラスなど糞喰らえだ。あのような分野の学問はこの世から根絶すべき害悪だと断言出来るね」

 全世界の数学者に真っ向から喧嘩を売って憚らない暴言である。実に恐るべき人物だった。

「大体、サインがどうのコサインがどうのと下らない。社会に出てから数学の公式が何の役に立つと言うのだね。なぁそうは思わないか少年?」

「エエ、ソウデスネ」

 アンタは病気をこじらせた中学生か、少なくともレジで会計をこなす役には立つだろう、そして四則演算で躓いている時点でそれは数学ではなく算数の領域だ――という魂の底から湧き上がる幾多のツッコミを、大和は自制心を総動員して抑えなければならなかった。

 これがモロならば躊躇わず絶妙のテンポでツッコむんだろうな、などと思っている大和の目の前で、売り子はフェルマーの最終定理に挑む数学者の如き気迫で小学生レベルの計算問題に取り組んでいる。どうやら理知的な雰囲気は見掛け倒しだったらしい。別に騙された訳でもないのだが、何となく詐欺に遭ったような気分の大和であった。

「よし、よしよしよし……うむ、キたぞ。この場合、私は君にこの百円玉一枚を釣銭として渡せば良いのだね。どうだ正解だろう、少年」

 そんな偉そうに胸を張って言われましても、という心の声をそっと胸にしまい込んで、得意の愛想笑いを見事に貫き通したまま、カウンターへと置かれた百円硬貨を財布に収める。何にせよこれでやっと解放される、と大和が安堵の息を吐き出した、その時である。

「――ふん、漸く片付いたか。会計一つに此処まで手間取る輩はお前位のものだな、サギ」

 聴く者の心胆を寒からしめる威圧的な音声は、カウンターの内側から響いたものだった。

 先程から意識しないよう全力を尽くしてはいたが――織田信長は、最初から店内備え付けの椅子に傲然と坐して、冷徹な目で大和達の遣り取りを眺めていた。サギと呼ばれた女性は振り返ると、相変わらずの機械的な調子で、特に怒った様子もなく淡々と言葉を投げ掛ける。

「殿は毎度毎度そう言うがね。壮健な肉体と類稀な才に恵まれたのだ、たかだか計算が不得手な程度、問題とするには値しない。天は二物を与えず、と言うだろう?それに、あまりにも完璧過ぎる女性は却って世の男性に敬遠される傾向があると聞く。私のように欠点が一つくらいあった方が可愛げがあるものなのだよ」

「ほざけ。お前の笑えぬ莫迦さ加減を“可愛げ”の一言で済ませられるのは、余程の阿呆か大物だけだ」

 恐らくは年上であろう相手に対しても、信長の辛辣な舌鋒は容赦が無かった。

 平然と店内に居座っていたり、信長が売り子の名前(?)を知っている辺り、どうやら二人は顔馴染みの様である。傲岸不遜にして冷酷非道、我が道を往く織田信長と和菓子屋の売り子、果たして如何なる繋がりがあるのか。“殿”とは一体……などと関心を惹き付けられる大和だが、しかしわざわざ彼らに自分から関わってまで詮索する気にはなれない。信長は言わずもがな、このサギなる女性も十分に、話しているだけで疲労の蓄積する相手であった。

 能動的に探りを入れないのであれば、これ以上この場に留まるのも不自然だろう――と判断し、今度こそ大和は踵を返した。そして、違和感を覚えさせないギリギリのラインを意識したスローペースな歩調で店から遠ざかる。

「さて、殿。このまま茶を点てながら和菓子談義と洒落込むのは私としては大いに歓迎なのだが、貴方の方は良いのかね?今も昔と変わらず、多忙の身なのだろう?」

「ふん――その筈であったのだがな。些か、想定外の事態が生じた。故に、忌々しくも本来のスケジュールなど既に見る影も無く崩れている。この上少々遅れた所で、今更よ」

「フフフ、その辺りの投げ遣りさは変わらないな。普段にも増して殺気立っているのはその所為かね?まあ何にせよ好都合ではある。私としても親愛なる殿には訊きたい事が幾つもあったのでね。風の噂に聞いているよ、暴君の傍に“新たな直臣”が現れた、と。私がその件について如何に多大な興味を覚えているか、貴方ならば容易に予想出来るだろう?それに当然、ラン君の件も気掛かりである事は言うまでもあるまい。折角の機会だ、殿には色々と聞かせて欲しいものだよ。何せ私は――――」

 残念ながら、二人の話し声を拾えたのはそこまでだった。元より大声で怒鳴りあっている訳でもなし、既に大和の常人並みの可聴領域からは出てしまっている。特に有益な情報は拾えなかったな、と軽く肩を落としながら、クリスが待機中の休憩スペースまで戻る。

「……やけに遅かったな。何か揉め事でも起きたのかと思ったが」

 見れば、クリスは未だに久寿餅に手を付けていない様子だった。律儀にも大和を待っていたらしい。

「あー、いや、何でもない。少し会計に手間取っただけ。って言うかそれ、別に先に食べてても良かったのに」

「バカを言うな。欲望に負けて、自分一人だけ先んじて手をつけるなどと……騎士の誇りに懸けてそのように卑しい振る舞いはできん。というかそれ以前にだ、まだ会計が済んでいない商品を食べる訳にはいかないだろう」

「うっ、それを言われると辛いな……的確な所を突いてくるぜ。クリスの癖に」

「おいちょっと待て、それはどういう意味だ!おい大和」

「まーまー、外で喧嘩、ハズカシイ。オーケー?いいから和菓子を頂こうじゃないか」

「むむ、お前から吹っ掛けてきたんじゃないか……」

 釈然としない様子でぶつくさと呟きながらも、クリスは素直に紙皿とセットの楊枝へと手を伸ばした。

 久寿餅に付属の黒蜜ときなこを適量以上にまぶして、育ちのよさを窺わせる行儀の良い仕草で口へと運ぶ。

「お――美味しい~~!甘い~!」

 途端に、クリスは童女のように歓声を上げながら顔を綻ばせていた。何とも感情が露骨に面に出るヤツだ、とその分かり易さにいっそ感心しながら、大和も久寿餅を口に放り込んだ。

 以前にも何度か食べているのでクリスほどの感動は覚えないが、しかしやはり美味いものは美味い。精神を磨り減らしてまで入手した価値はあったな、と感慨に浸りながら甘味を噛み締める。

「……ん?あれは」

 その時、視界の端に映った人影が一つ。

 仲見世通りの入口付近に佇み、和菓子入りと思しき袋を胸の前に抱えながらぼんやりと空を仰いでいる、黒髪をおかっぱに切り揃えた少女。大和にとっては一応、顔見知りと言える相手であった。

 まあ主君が居るなら従者が近くに居るのは当然か、と納得しつつ、大和は素早く思考を巡らせる。

 織田信長の懐刀、森谷蘭。基本的に彼女は主君とセットで行動しているので、これまで一対一で話す機会は得られなかった。だが、現在は信長が何やら取り込み中の様で、珍しく彼らは別行動中――考えてみればこれは貴重なチャンスと言えるのかもしれない。

 孫子曰く、敵を知り己を知らば百戦危うからず、である。信長の股肱の臣と呼ぶべき彼女のパーソナリティを少しでも把握する為にも、今は行動の時ではないだろうか?

1.声を掛ける
2.無視する
3.そんな事よりクズモチ食べたい!

 ……何やら妙な選択肢が脳裏に浮かんだような気がするがスルースキルを発動。ここはやはり声を掛けるべきだろう。

「ちょっとここで待っててくれ、知り合いに挨拶してくる」

「ああ、行って来い。自分はじっくり和の妙技を味わいながら待っているぞ!」

 ご機嫌なクリスに快くお許しを頂けたところで、大和は休憩所から離れて目標の下へと向かった。

 しかし、森谷蘭――遠目で見ても少なからず憂愁を感じさせる立ち姿だったが、いざ近くに寄ってみると尚更、暗く沈み込んだオーラを全身から発している。これは少し早まったかもしれない、と後悔したが、だからと言ってここまで来ては引き返せない。

 そうこうしている内に相手の方も大和の存在に気付いた様子で、視線の行き先を茜色の空から地上へと戻していた。

「貴方は……2-Fの直江大和さん、ですね。私に何か御用でしょうか?」

「いや、特に用って訳じゃない。前から話してみたかった所に偶々見掛けたから、ね。って言うか俺のこと覚えてたんだ」

 無論、2-F代表チームの一員として何度も顔を合わせてはいるが、どうにも見せ場をことごとく他の面子に持っていかれた感があったので、もしや忘れられているのではないか――とやや不安だった大和である。そんな感情を込めた言葉に対し、蘭は柔らかい微笑みを見せた。

「直江さんはきっとご存知ないでしょうが、信長様は貴方を評価しておられます。主が目を掛けられた方の顔を、私が忘れる事はありませんよ」

「評価――そうなんだ。それは確かに、知らなかったな」

 複雑な感情を込めて、大和は呟いた。前回の戦いの中で主に活躍した面子と言えば、何といっても代表として決闘に臨んだ三名だろう。全員が2-Fの名を落とさない見事な戦いを演じて見せたし、特にキャップこと風間翔一は信長に意地の一撃を叩き込んだ勇者として賞賛されている。役割上、基本的に裏方で働いている大和がギャラリーに評価される事は殆どなかった。

 しかし――敵こそ最大の理解者、と言う訳でもないだろうが、信長は大和の存在をその視界に捉えていた様である。高いプライドと実力を有する彼に評価されている、という事実は、敵からの賞賛であれ嬉しいものだった。

「それに、椎名さんからお名前はかねがね伺っていますから。ふふ」

「ああ、そういえば時々、京と何か話してたっけ。俺が話題になってるのか……普段のノリで暴走して迷惑掛けてないといいんだけど」

「いえいえ、むしろ椎名さんにはお世話になっています。その、色々と、教えて頂いてますし……」

 何故か蘭は奥ゆかしく頬を染めながら、もにょもにょと語末を濁した。どうにも引っ掛かる不審な態度だが、まあ弓の指導でもしてるんだろう、と納得しておくことにする。下手に突っつくと何やら薮蛇になりそうな予感が大いにしていた。その点については触れず、大和は続けて口を開く。

「ところで。ちょっと訊きたい事が、――っ!?」

 ゾクリ、と不意に背筋に冷たいモノが走り、心臓が凍るような思いで反射的に身を翻す。

 自身の有する最大限の素早さで背後を振り返れば、僅か一歩分の至近距離にて、冷酷な視線が大和を射抜いていた。

「あはは、気付かれちゃったか。だけど遅いね、それじゃあぜんぜん遅いよセンパイ。お陰で、“暗殺”って手段で直江大和の首級を挙げるのはとぉってもイージーなミッションだって事が、よ~く分かっちゃったじゃないか」

 にやにやと口元だけは楽しげに笑っているが、大和を見据える双眸に温度はなく、その言葉は乾いた酷薄さに満ちている。

 明智音子――織田信長の二人目の腹心。

 彼女は悠然と大和から離れると、背後の門柱にだらしなくもたれ掛かり、手元の銅鑼焼きに勢い良く齧り付いている。そんな彼女に対し、蘭は窘めるような調子で声を掛けた。

「もう、ねねさん。無闇に気配を消して人を驚かせてはダメですって言ってるじゃないですか。私達の“武”は、悉く偉大なる主へと捧げるべきもの。些細な悪戯の為に在るのでは無いのですから」

「あ~はいはい分かってる分かってる。……ねぇセンパイ、今はご主人の意向でキミたちに“何もしない”でいるけどさ――時期が来たら、もっと気を引き締めなきゃダメだよ?もしも軍師が真っ先に討ち取られちゃったら、その時点で全軍総崩れ間違いなしなんだから。一令を以って人を動かす身なら、常に自分の立場と責任を自覚しなきゃね。うふふふ」

「……ご忠告、どうも。胸に刻んでおくよ」

「あ、ちなみに本題。ランからご主人に関する情報を引き出そうとしてもムダだよ?センパイ的にはうっかり口を滑らせるのを期待してるのかもしれないけどさ、ランはご主人の不利益に働くようなミスだけはしないからね。あはは、残念で~したっ」

 胸の奥を見透かしたような鋭い目で言い放つと、一転、けたけたと屈託のない陽気さで笑う。その得体の知れない不気味さに思わず言葉を失う大和を脇に、彼女はゴクンと音を立てて豪快に銅鑼焼きを嚥下してから、再び飄々と口を開いた。

「そう言えば、センパイは島津寮で暮らしてるんだよね?だったらまゆっちの事をよろしくね~。まゆっち――黛由紀江は、私の大事な大事な“友達”だから、さ。うふふっ」

「友達……ね」

 黛由紀江。今年の四月から新たに入寮してきた、あの挙動不審な一年生――未だにまともな会話が成立した試しがないのでいまいち性格は掴めていないが、彼女もまた織田信長の一党だった、という事なのか?

 しかし仮にそうだとして、敢えてその事実をここで自分に告げたのは如何なる意図があっての事なのだろうか――と思考を巡らせる大和を、ねねは虫の生態を観察する様な醒めた目で見遣っている。

「ま、凡夫は凡夫なりに精々頑張って、力の及ぶ限りご主人を満足させてね、センパイ。あんまり期待ハズレだと、おっかない魔王様のご機嫌を損ねちゃうかも知れないよ?くふふ、じゃあね~」

 言いたい事は言った、とばかりに、ねねはひらひらと手を振りながら、悠然と通りの奥へと歩き去っていった。

 現れるのも突然ならば去るのも唐突である。キャップとは違った意味でフリーダムな後輩だ――とそのフットワークの軽さに呆れていると、残された蘭がやや決まり悪げに眉を下げながら、大和に向かって小さく頭を下げた。

「あ、あの、申し訳ありません。例え主に敵対する相手であれ、武人としての礼を失してはいけない、と日頃から言い聞かせてはいるんですが……ご覧の通り、ねねさんはああいう人ですから。お気を悪くされたなら謝ります……」

「いや、気にしてないから大丈夫。むしろいい薬になったよ」

「……お心遣いありがとうございます。それでは、私もそろそろ失礼しますね。……ねねさんの浪費癖は私が何としても抑えないとっ」

 深々と折り目正しく頭を下げると、何やら決意の色を宿した表情で、蘭はねねの後を追ってぱたぱたと駆け去っていった。

 こうして可笑しさと愛嬌を感じさせる後ろ姿を見送っていると、信長の傍に控える殺戮機械の如く冷徹な少女と同一人物だとは到底思えない。実際に言葉を交わしてみれば、愛想も良いし人並み以上に礼儀正しかった。その心根は、少なくとも悪人という形容からは程遠いように大和には思える。

「――噂は噂、か」

 日頃から築き上げてきた大和の人脈は学生の域を超えて広きに渡り、その情報網は危険な裏社会の一端にも及んでいる。そうした筋から、織田主従に関わる様々な情報を手に入れたが……中には裏の取れない無責任な“噂”も数多い。織田信長の懐刀として悪名高い少女に関しても、噂は付き纏う。当然ながら良い噂は皆無で、大和が伝え聞いた内容は全てが物騒な悪行の類だった。

 その中でも、最も大和の興味を惹いた、とある噂。
 
 それは、堀之外の闇へと葬られ、今となっては知る術の失われた、“十年前の惨劇”の真実。

 しかし、直に接して推し量った彼女の人格から考えれば、それも所詮は悪質なデマに過ぎないのだろう。他者の事に関してはどこまでも好き勝手に想像を膨らませるのが人間という生物の性なのだから。

 そもそも。当時、未だ齢十歳に満たない筈の少女が、“自身の両親を惨殺した”など――思えばあまりにも荒唐無稽だ。

 話題とするに好都合なドラマ性はあるのかもしれないが、少なくとも現実的とは言えない。現実主義者を自認する大和としては、そう容易く鵜呑みに出来る話ではなかった。

 そんな事より、と大和は思考を切り替える。根拠の無い妄想話の真偽を真剣に検討するよりも、現実として解決すべき問題は他にあるだろう。

 信長との繋がりが浮き上がってきた島津寮の新入り一年生、黛由紀江。“敵”が自分達のすぐ傍で寝起きしているとなれば、間違っても捨て置く訳にはいかない。そして、悩みの無さそうな無邪気な笑顔で和菓子を頬張っている、もう一人の新入りもまた、看過しがたい重大な問題だ。

「んー、気付いたらだいぶ遅くなったな。クリス、そろそろいいか?寮まで案内しようと思うけど」

「む、アレも食べてみたかったが……まあいい、楽しみは後に取っておこう。これから何度も機会はあるんだ、一気に全てを味わってしまっては勿体無いからな!うん、計画性は大事だ」

 この“義”を信条とする頑固な騎士様の手綱をいかにして握れば良いのか。具体的には、織田信長に対しすぐにでも問答無用の突撃を敢行しそうな彼女を、どう止めるべきなのか。今回は幸いにしてニアミスで済んだが、これから彼らと同じ学園で過ごす以上はいつまでも不確かな幸運に頼る訳にもいかない。

「はぁ。やれやれだ」

 前途は多難だな――と軍師・直江大和は小さく溜息を吐きながら、沈み往く夕日を目指して歩き出した。











 

 さて、直江大和が偶々立ち寄った和菓子屋にて慮外の相手と遭遇していた頃――川神学園の学長室では、二人の男が向かい合っていた。

 来客用のテーブルを挟んでソファーに腰を沈ませているのは、軍服を纏った初老の男性と、見事な髭を蓄えた老翁である。ドイツ連邦軍中将、フランク・フリードリヒ――そして川神学園学長、川神鉄心。双方共に老齢を欠片たりとも思わせない威圧感を総身に宿しており、その眼光は衰えるどころか、経験の重みを伴ってより強烈に研ぎ澄まされている。生半可な武人ならば踏み込む事すら躊躇われるような戦気が、室内に充満していた。

「さて、大体の事情は承知しておるが――幾らなんでも銃器を持ち出すのはやり過ぎじゃろう。もしも実際に学園内で発砲しておったなら、このワシが只では済まさん所じゃ」

 重々しい口調で、鉄心は切り出す。その声音には、紛れもない圧力が込められていた。

 鉄心にしてみれば当然の対応だ。川神学園という鉄心のテリトリー内で好き放題に振舞われるという事は、学園のみならず川神院の威光を蔑ろにされているも同義である。相手が他国の軍隊であろうと、総代として黙って引き下がっている訳にもいかなかった。

 常人ならば泡を吹いて気絶しかねない武神の眼光を正面から受けて、しかしフランク・フリードリヒはあくまで平然たる態度を崩さない。彼は紅茶を注いだティーカップを悠々と傾けてから、静かに鉄心の目を見返しながら口を開いた。

「ああ、考えてみればそうだ。結局は最後まで一発も撃たなかったか――やれやれ、それでは確かに誤解されても無理はないな」

「誤解?どういうことかの」

「なに、いくら私とて、他でもないKAWAKAMIの保護下にある生徒に実弾をお見舞いしようとは思わんよ。私がこの銃の弾倉に込めているのは、暴徒鎮圧用の特殊加工ゴム弾……使い方を誤りさえしなければ、致死性は皆無だ。無論、部下の装備も同様だよ。私の目的はクリスの安全を脅かす危険因子を排除する事だ、命まで奪う気は最初から無い。精々が死ぬほど痛い目を見て貰うつもりだっただけなのだよ。その程度ならば何も問題は無いだろう?」

「その程度て……。ここ学校なんじゃがの、日本の」

 まるで悪びれた様子もないフランクの堂々たる態度に、鉄心は頭痛を堪えるようにこめかみを抑えて目を瞑った。殺しさえしなければ何をしてもいいという発想が既に理解の外である。流石に中将を務める男だけあって、色々な意味で只者ではなかった。

「まあ、仮に我々が実弾を用いていた所で、結果は変わらなかっただろうがね。“彼”の阿修羅を思わせる気迫、まさに規格外と言うべきものだ。私が“全力”を引き出していたとしても、果たして満足な勝負になっていたかは怪しい所だな。流石にKAWAKAMIの膝元、恐ろしい武士がいるものだ」

「あやつを基準に考えられても困るんじゃがのう。幾らなんでもアレは例外じゃよ」

 かつて鉄心が筆頭の弟子として目を掛けた男、釈迦堂刑部。彼の鬼才には度々舌を巻かされてきたものだが――織田信長という生徒は釈迦堂と同質の気配を有し、ある意味では彼をも凌駕している。二十にも満たない若さを以ってそこまでの境地に至る武人など、世界を探した所でそうは見つからないだろう。まさしく、末恐ろしい、と形容するに相応しい若者だった。

「率直に言うが、私は、今でも考えを曲げてはいない。あのような怪物と同じ学び舎にクリスを通わせるのは、あまりにも不安が大きいのだよ。生来、クリスは己の正義感に素直過ぎる部分があってね。彼の如き存在を容認できるかと問われれば、おそらく答えは否だろう」

「……」

「――そう、彼は危険だよ。底知れない力も脅威と捉えるに十分ではあるが、私が何よりも危険だと感じたのは……その内面だ。先の対話の中で、彼は一瞬だけ己の内を晒して見せたが――正直に言うと、私はぞっとしたよ。彼の目は、私など見てはいなかった。眼中に収めているのは、遥か遠方に映る巨大な野望のみ。断言してもいい――地獄の業火の如く燃え盛る彼の“野心”は、いずれ全てを呑み込み、焼き尽くす。例えKAWAKAMIと言えども、手綱を取って御し切れるような生易しい男ではないだろう。貴方ならばその程度は理解していただろうに、何故彼の入学を許したのかね?多くの生徒達の心身を守り、確実な安全を保障するのも、学長たる者の義務ではないのかね」

 射竦めるような視線と共に問い掛けられた言葉は、鉄心にとっては初めて耳にする類のものではない。

 織田信長と森谷蘭の両名を転入生として2-Sに迎え入れる、と鉄心が告知した時、多くの者がフランクと同様の諫言を述べた。彼が以前に籍を置いていた太師高校にてどのような振舞いに及んでいたか、僅かでも知る者ならば当然の反応ではある。圧倒的な恐怖による支配と統制――伝え聞く話を信じるならば、もはや問題児などというレベルではない。受け入れを忌避されるのは必然だったと言えよう。

「……確かに、あやつの野心は本物じゃろうの。ワシとてそれが判らぬほど耄碌してはおらん」

「ならば――」

「じゃがの、ワシは思うのじゃよ。あやつはある意味では――ワシの望む、“模範生”なのではあるまいか、と」

 あたかも自らに言い聞かせるような響きを伴う鉄心の言葉に、フランクは訝しげに眉を上げた。

「模範生……?彼は、そのような評価とは程遠いと思うがね。日本人の価値観は我が祖国とは大いに異なるようだ」

「安心せい、大多数の日本人はお主と同じ意見じゃろう。所詮、これはワシの個人的な価値観に過ぎん。じゃが――そもそもにしてこの学園は、他ならぬワシの思想の下に築かれた。即ち、生徒達が自ら競い合い、切磋琢磨する事こそが学園という環境にて成せる最上の教育。誰もが何かを望み、何かを求めて“闘い”を乗り越える事で、より強く逞しく、成長を果たせる……それがワシの掲げる教育理念じゃ」

 困難に打ち克って望むモノを己が手に掴み取ろうと云う、その意志こそが真に人を成長させる。胸に抱く野望が大きければ大きいほど、他者の上に立ちたいという気概が大きければ大きいほど、より優れた己で在る為の弛まぬ努力を続けられるのだ。

 そうした性質を持つ生徒を積極的に集め、学園という箱庭の内部にて引き合わせる事で互いの競争意識を刺激し、全体の質を向上させる――それが川神鉄心の旨とする運営方針だった。各学年に設置された特設学級、“S組”の在り方は、この学園の中で最も色濃く鉄心の思想を反映していると言えるだろう。決闘システムに代表される各種校則も、生徒達の競争を促進する為に設定したものだ。

――故に、織田信長の在り方は、ある意味で鉄心の理想を体現していると言っても良い。

「あやつには迷いが無い。恐ろしい程に固い信念を抱き、己が道を貫き通さんと努めておる。その道が“正しい”と呼べるモノではなくとも――その覚悟は疑いなく本物じゃ。そうした誇り高い在り方は、周囲の人間を否応なしに感化するものなのじゃよ」

 顕著な例としては、彼と矛を交えた2-Fの生徒達だろう。

 彼らは眼前に立ち塞がる織田信長という“壁”を前に、危機感を掻き立てられ――いずれは乗り越えようと言う意志の下、各々が何かしらの形で努力を始めた。天下五弓の一人に数えられながら弓道と向き合う事を厭っていた椎名の娘は、自らの意思で部活動に復帰し、学園一の自由人たる風間翔一は武術に興味を示し始め、孫娘の一子はいよいよ気焔を上げて日々の修行に励んでいる。その他の面々にも間違いなく、己を磨こうという意識が芽生えている様子だった。

 そして何より――鉄心が思うのは、もう一人の孫娘、百代の事である。

 百代は、変わった。ひたすらに闘いを求め、血に餓えた獣の如く贄を欲していた彼女は今、並々ならぬ決意を以って自らのサガと向き合おうとしている。修羅道に堕ちる将来を危惧し、師として祖父として幾度となく説得を試みても聴く耳を持たなかった百代は、信長という男の在り方に触れた事を切っ掛けに、確実な変化を遂げた。己の内面を見詰め直す事で、自身の誇りの在り処を再確認する――鉄心が後継たる孫娘に最も欲していた“心の強さ”を手に入れようとしているのだ。それがどれ程に大きな一歩であるか、当人はまだ気付いていないだろう。

「超えるべき“壁”として他者の前に立ち塞がる者と、その試練を乗り越えるべく研鑽を積む者。これは紛れもなく切磋琢磨の一つの形と言えるじゃろう。お主の娘、クリスは確かにあやつとは相容れぬかもしれんが――しかし敵として相対し、ぶつかり合う事で得られるものは必ずあるじゃろうて。真に娘を想うならば、掛け替えの無い成長の機会を摘み取るべきではない、とワシは思うがの」

 鉄心の言葉を受けて、フランクは静かに目を瞑った。眉間に皺を寄せ、懊悩の声を漏らす。

「……確かに“彼”の存在はクリスの資質を磨くには都合が良いかもしれないがね。私はどうしようもなく心配なのだよ。もしも愛娘の身に万が一の事があったらと思うと、心安らかに軍務に励む事すら侭ならないのだ。貴方も子を持ち、孫を持つ身ならば、私の懸念を理解出来るだろう?」

「まあ、の。じゃが、お主の場合は少しばかり心配が過ぎておるようじゃ。この学園の中で、あやつがクリスに危害を加える事はあるまい。“決闘”の制度を何の為に敷いたのか、考えてみると良かろう」

 それに、鉄心の見立てでは、信長は外面の凶悪さに反して、極めて理性的な人物だ。

 一般に欠片の人情も有さない冷酷な男と認識されているが、事実は逆であろう――むしろその内面は、溢れ出んばかりの苛烈な感情の渦巻く、類を見ない程の激情家と言える。ただ、あらゆる感情を強靭な理性で抑え付け、その悉くを自らの管理化に置いているが為に、傍目にはあたかも機械人形の如く冷徹な人間として映る――そういった人物であるが故に、無用にルールを逸脱した行為は決して行わないと断言出来た。感情ではなく勘定を行動の指針としている以上、必要を超えて生徒を害するようなやり方は望まないだろう。

「それでも不安があると言うならば……川神院総代たるワシの名に掛けて、全生徒の確実な安全を保障すると改めて誓おうかの。この学園にワシがおる限り、生徒の誰一人として無法な暴力の牙に掛けさせはせん。それとも――武神と呼ばれた身とは云え、衰えたジジイの保障では、安心できぬかの?」

 鉄心は薄く目を開き、威を込めて真摯に語り掛ける。対するフランクは腕組みしたまま黙していたが、やがて決然と口を開いた。

「……余人ならばともかく、KAWAKAMIがそこまで言うのであれば疑う余地はあるまい。これで、私も幾分か安心して娘を預けられそうだ。貴重な時間を割いてまで足を運んだ甲斐があったというものだよ」

 一息に紅茶を飲み乾すと、フランクは軍人らしいキビキビした動作で立ち上がった。

「愛する娘の身を守るためとは言え、学園内で狼藉を働いた無礼は改めて詫びさせて貰おう。誠に、申し訳ない」

「……元はと言えば親の子煩悩から生じた振舞い、徒に騒ぎ立てて世間に波風を立てる事もなかろうて。この一件についてはワシの胸にしまって置こうかの。あやつが納得するかどうかが気掛かりじゃが、まあ過去の遺恨を女々しく引き摺るタイプでもないじゃろ」

「寛大な対応、心より感謝する。――さて、未だ片付けなければならない軍務に追われる身なのでね、そろそろ失礼させて頂こう。くれぐれも、くれぐれもクリスの事を頼んだぞ」

 何度も振り返って執拗に念を押しながら、フランクは部屋から退出していった。

「……やれやれ、じゃ」

 静けさの戻った学長室にて、鉄心は心中の疲労感を吐き出すように盛大な溜息を漏らす。

 嵐が去った、とはまさにこういった時に使うべき言葉なのだろう、としみじみ思いながら、迎賓用の柔らかいソファーに深々と身体を沈めた。

 体罰や決闘といった川神学園独自の制度に的外れな文句を付けてくる保護者、いわゆるモンスターペアレンツの類は日頃から数多い。故にそういった輩の捌き方にも手慣れている鉄心だったが、流石に相手がドイツ軍の英雄ともなれば普段同様の対応が通じる筈もなかった。本当に色々な意味で疲れる相手である。

「ま、何はともあれ一件落着、じゃの」

 信長がクリスに対して鉄心の予想を上回るような暴挙に出ない限り、再びあの親馬鹿がこの学園に襲来する事はないだろう。そう考えれば、この件はもはや解決したも同然である。

 何故ならば、信長が学生の領分を守る心算である事は既に“確認”しているのだから。

 彼は自ら定めた指針を曲げるタイプの人物ではない、と鉄心は見込んでいた。

 空恐ろしいまでの意志と信念を以って自身を完璧に制御している織田信長には、外観ほどの危険性は無い。

「…………」

 故に。

 真にその存在を危ぶむべきは――信長本人ではなく、その従者だ。

 常に主君の傍に控える刀遣いの少女。2-S所属、出席番号32番、森谷蘭。

 つい先程の闘いにて垣間見た彼女の在り方は、酷く歪で、累卵の如く危うい。

「あの“氣”、何とも……嫌な予感がするのう」

 彼女の剣には、鬼が棲んでいる。

 現世への怨嗟と赫怒に嘶く、煉獄の悪鬼が。


「――あの“森谷”の遺児……ならば、剣鬼と成り果てるも、或いは道理やもしれぬの」


 誰も居ない学長室にて、一人の老人が、疲れたように呟いた。
















~おまけのドイツ軍~


「――私だ。現在、手は空いているかね、少尉」

『はい中将、問題ありません。敵地にて征圧任務を遂行中ですが、私の能力を以ってすれば“片手”で十分に事足りますので』

「ふ、流石は少尉、頼もしい事だ。ならばそのまま聞くがいい。君には六月初頭より日本にて特殊任務に就いて貰う事になっていたが……事情が変わった」

『それは命令を撤回する、という意味でしょうか?』

「いや、そうではない。むしろ逆だな――君には本来よりも予定を速め、現在の任務を完了次第、急ぎ来日して貰いたい」

『……お嬢様の身に関わる事、ですね。ならば――Hasen Jagd(野ウサギめ、狩ってやる)!――失礼しました、浅はかにも逃亡を試みる愚か者が視界に入りましたので』

「ふふ、逃げ惑う獲物を前にしては狩人の血が抑えられんか。欧州最強の“猟犬”……この任務を託せるのは君だけだと、私は確信している」

『お褒めに預かり光栄です。――マルギッテ・エーベルバッハ、謹んで了解しました。必ず中将の期待に応えてみせましょう』

「うむ、それでは任務を続行したまえ。――全ては私の可愛いクリスの為に。打てる手は全て打たねばな、ふふふ」













 Aパートと今回の内容を一話分で収めようとしていた作者には間違いなく計画性が致命的に欠如しています。
 という今更過ぎる事実はさておいて。今回は後始末及び繋ぎの回という事で、動きが少なくなっています。必要に迫られて書いた説明的な内容が多いので、退屈に感じられたなら申し訳ありません。話としての重要さと面白さが比例しないのは反省すべき点ですね。
 
 ところで作者的に以前から気になっていたのが、原作未プレイの方に不親切な内容になっていないか、という点。原作からして登場人物が多いにも関わらず、更に幾人ものオリキャラをぶち込むという暴挙に出ているこの作品、読者が登場人物をまず把握し切れていないのではないか、と懸念しています。

 そろそろ人物表でも作った方が良いのだろうか……と検討しつつ、それでは次回の更新で。


・前回、信長が軍人達に放った殺気について

 これについては本文中で説明不足だった感がありますので、軽く補足を。

 奥義の“殺風”が文字通りの制御できる全力、フルパワーの放出である事に対して、前回用いたのは同様の“広域威圧”ながら、比較すると幾らか出力が劣っています。全力の一歩手前、と言った所ですね。判り難い書き方をしてしまい申し訳ありませんでした。



[13860] 天使の土曜日、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:667a1101
Date: 2011/10/22 23:53
 四月二十五日、土曜日。

 私立川神学園は週休二日制を採用しているので、大多数の学生達にとって週末とは待ちに待った安息の時である。半日に渡る教育カリキュラムを五日連続で消化し、フラストレーションを溜め込んだ若き精神を余す所なく解放する瞬間――我慢があるからこそカタルシスは大きい。誰もが授業の束縛から逃れ、各々が望む通りの休日を満喫する。

 そして、それは川神学園に籍を置く生徒の一人であるところの俺こと織田信長も例外ではなく、と言うよりもむしろ学園の生徒の殆どよりも俺の方が週末を待ち望む気持ちは大きいだろう。ただでさえ2-Sというエリートクラスの中にあって真剣な勉学に取り組んでいる上に、学年制覇という目標の過程で頻発するトラブルに度重なる決闘、果てはドイツ軍中将が部隊を率いて襲撃を掛けてくるという素敵過ぎるアクシデントにまで遭遇する始末だ。加えて放課後は己に課した各種鍛錬やノルマの消化に忙しく、まさに息吐く暇すら与えられない毎日を送っているのである。

 という訳で、土曜日及び日曜日は疲弊した精神と肉体を癒し、やがて来るべき最恐の敵――月曜日との苦しく辛い決戦に備える為の貴重な準備期間なのだ。いつぞやの“黒い稲妻”事件の如く急を要する案件が無い場合、この二日間は基本的に自身の自由で使える時間として設定されている。織田信長はサイボーグに非ず、あくまで血の通った一個の人間である。日々の活動で肉体疲労は蓄積し、殺気の運用によって精神は疲弊する。故に適度な休息を挟まなければ身も心も保てない。“夢”に向かって邁進するという事は、無計画に猪突猛進する事と同義ではない――己の限界を知り、身の程を弁えつつ、ベストを尽くす心構えこそが肝要なのだ。

 ……以上が、現在時刻が本来の起床予定時刻より大幅に遅れている事を悟った瞬間の、俺の思考である。

「…………別に寝過ごした事の言い訳とかじゃないんだからね」

 勘違いしないでよね、と自分以外には誰も居ない自室のベッドにて呟きながら、俺は枕元の携帯電話に目を遣った。闇の彼方に沈む俺の意識を深淵の底より呼び戻したのは、先程からしつこくバイブレーションを続けている我が携帯である。手に取ってディスプレイに視線を移してやれば、そこには見知った一字が堂々と自己主張していた。数秒ほどの逡巡を経てから、俺は色々な物を喪失する覚悟を決めて、通話ボタンを押した。

『おっせーぞコラ!ウチがさっきから何回コールしたと思ってんだよ、通話料金もタダじゃねーんだぞ。分かってんのかその辺?まーいいや、とにかくどっか遊びに行こうぜ!』

 途端、電話越しに脳天を直撃するのは、底なしにハイテンションで羨ましいほど活気に溢れる声音である。今まさに覚醒を果たしたばかりの俺には荷の重い相手である事は言うまでもあるまい。

 欠伸交じりの溜息を漏らしたくなる気分を噛み殺しながら、顔を天井に向けた仰向けの体勢のまま、普段の演技に輪を掛けたローテンションにて応対する。

「唐突に何を言っている、天。生憎と然様な予定はスケジュールに組み込まれていない。顔を洗って出直すがいい」

『顔を洗って出直すのはそっちだろ、声とか思いっきり寝起きじゃねーかよ。時間にウルサイ癖に自分は割とルーズだかんなーシンは。つーかスケジュールに組み込まれてないってどーいう事だオイ。ウチは確かに約束取り付けたぞ』

 我が幼馴染にして兄弟弟子にして妹分、天こと板垣天使の自信に満ち溢れた断定口調の言葉に、俺ははてなと携帯片手に首を傾げた。生憎と身に覚えがない。やはり寝起きで記憶が曖昧になっているのだろうか――とぼんやり思考していると、怒った猫を思わせる低い声音が耳朶を震わせた。

『……さてはシンてめー、ウチとの約束忘れてやがったな?月末辺りに新しい服買ってくれるっつってただろ、前に青空闘技場で顔合わせた時。ウチはちゃんと覚えてんぞ……こっちは楽しみに待ってたってのに、誘った側が忘れるとかサイテーだな!シンなんざ馬に蹴られて死んじまえ!』

「用法が違う。――成程、思い返してみれば然様な事を言った記憶があるな」

『テキトーだなおい。あーあ、こんなに可愛い美少女とデートできるってのに、ホンット枯れてるよなぁシンは。人生五十年、まだ老成して賢者になっちまうには早いぜぇ?』

「それも用法が違う。そして昔日の約定を忘れたか、天?“俺とお前だけは互いの名前を弄ばない”――お前から破ると云うなら俺にも考えがあるが」

 DQNネーム被害者の会、たった二人の構成員。俺達は切っても切れない強固な絆で結ばれていると信じていたが、所詮はそれも幻想だったか。全く、この名に冠せられた呪縛は何処までも俺を苦しめずにはいられないらしい――と暗黒的なオーラを惜しみなく放出していると、慌てた調子の声が電話越しに響いた。

『い、いやいや今のは言葉のアヤだって!ウチがシンの名前で遊ぶような命知らずなマネする訳ないだろ。うん、んな事よりさ!どうもマトモに頭働いてねーみたいだから念のために言っとくけど……今日が何の日か覚えてるか?ウチとの約束は別として』

「ん……?」

 今日は――西暦二〇〇九年、四月二十五日、土曜日。休日ではあるが特に祝日と言う訳でもない。川神学園の建校記念日は別日だった筈。ならば知人の誕生日辺りか、と記憶を浚ってみるも、該当件数はゼロ。そもそもにして織田信長は知人の誕生日を祝うほどフレンドリーなキャラクターではない。まあ一部の例外は除いての話だが……その“一部の例外”の誕生日ならば最初から俺が忘れる事は無い。

 さて、他に考えられる可能性は?天がこの文脈で口にした台詞だという事を考慮すれば――遊びに関わる内容で――俺達の間における遊び場と言えば即ち――ゲームセンター。

「……成程、な。思えば今日が稼働日、であったか」

『ピンポーン、大正解ぃ!つーか気付くのおせーよ。ウチはもう準備万端でスタンバってるぜぇ?さっさと顔洗ってメシ食ってから出てこいよ、いつも通りに川神の駅前公園で一時に待ち合わせな!ぜってー遅れんなよ!』

 嵐のように捲し立てたかと思うと、気付けば通話が終わっていた。

 俺は携帯電話をベッドの上に放り投げると、勢いを付けて身体を起こす。据え置きの目覚まし時計に目を遣れば、現在時刻は午前十一時。本来は八時に起きる心算だったのだから、実に三時間の予定超過である。これでは下手を打てばネコの事を笑えなくなってしまいそうだ――などと笑えない思考を巡らせながら洗面所にて顔を洗い、罅割れた鏡を頼りに歯を磨く。適当に身嗜みを整え終えると、次に気になってくるのは己の内より空腹を訴えかけてくる腹の虫共の存在である。

 よって、休日にも関わらず普段同様、中庭で熱心な鍛錬に励んでいるであろう蘭の奴に昼食を無心すべく、自分の部屋から一歩を踏み出す。奇しくも全く同じタイミングで、二つ隣に位置する部屋の扉が開かれた。そして中から顔を突き出したのは、我が第二の従者こと明智ねねである。ぬぅ、とゾンビの如く両腕を突き出して虚空を睨み付けている姿は傍目にも生気と精気に欠けている。やけに可愛らしいピンクのパジャマ姿のままフラフラと廊下を彷徨っている様子を見る限り、或いは夢遊病患者の類だと判断すべきなのかもしれないな――そんな俺の予想を否定するかのように、ねねはこちらの存在を認識していた模様で、欠伸交じりの挨拶を掛けてきた。

「ふわぁぁぁ、おはようご主人。クソみたいな朝だね。ホントもうクソ眠くてやってらんないよ」

 年頃の娘が起き抜けに糞糞連呼するのは色々と駄目だと思うのは俺だけだろうか。というかあれだけ主張していた慎みと品性とやらはどこへ捨ててきた。それは自由がどうこう以前に人間として捨ててはいけないものだろう。従者の将来を憂う俺の想いが伝わっているのかいないのか、ねねはだらしなく大口を開けて無遠慮な大欠伸を漏らしている。

「ふわぁああ、ねむぅ。あ~もう、人付き合いってのも楽じゃあないね。本来のプランなら三時のおやつまでは惰眠を貪るという素敵な休日ライフが約束されてたのにさ、迂闊に遊ぶ約束なんてしちゃったお陰で四時間も早く起きる羽目になっちゃった。折角の休日なのにどうしてこんな苦行に身をやつしているんだろうね私。みんなの方が私に生活リズムを合わせるべきなんだよ全く。って言うか土曜日の朝六時に起床の挨拶って、まゆっちは一体何なのさ。思わず就寝の挨拶を送り返しちゃったじゃないか……」

 独り言なのか俺に話し掛けているのか微妙なラインの調子で、ねねはブツブツと不気味に呟いている。何にせよ迂闊に関わるべき存在ではないと判断し、放置して早々に中庭へと向かう。老朽化階段がギシギシと軋む音の喧しさと耳障りさは保証付きで、中庭にて一心不乱に木刀を振っていた蘭に俺の存在を認識させるには十分だった。蘭はこちらを振り向くと、にこにこと嬉しそうな笑みを零しながら深々と頭を下げる。

「おはようございます、信長さま!束の間の安息にも弛まぬ心身を鍛え上げるべく、蘭は鍛錬に励んでおります!」

「うむ。良き心掛けだ。励め」

「ははーっ!ありがたきお言葉を胸に抱き、蘭は一層の精進に努めます!ところで主、昼食をご所望でしょうか」

「然様。昼過ぎより予定が入った故、急ぎ用意せよ。簡易のもので問題ない」

「はっ、蘭は確かに承りました。最短の時間で最高の昼食を――ここが私の腕の見せ所!願わくは暫しのご猶予を!」

 両手に握っていた赤黒い木刀をぽいっと無造作に放り投げると、蘭は脱兎の如き勢いで階段を駆け上がり、瞬く間に自室へと消えていった。

 どうも期せずして料理人魂に火を点けてしまった模様である。まあ何にせよ、やる気を出してくれて悪い事は無いだろう。これがねね辺りならば見事に空回りして殺人料理を振舞ってくれるという古典的なオチが目に見えているが、熟練料理長たる蘭ならば心配は不要だ。昼食の味が楽しみだな、と期待に胸を膨らませつつ、俺は自室へと引っ込む。

「すぴーくかー。むにゃむにゃ、えへへ~」

「……」

 何故かねねの莫迦が俺のベッドを占拠して図々しく爆睡していた。この時間から二度寝かよ、というか誰かと遊ぶ約束はどうした、それ以前にここは俺の部屋だ――そんな幾多の指摘の代わりに、収束させた殺気を浴びせて無理矢理に叩き起こす。

 そうこうしている内に、蘭が三人分の昼食を載せたトレイを抱えて部屋に足を踏み入れた。実に驚くべき早業である。皿の上にて香ばしい匂いと共にホカホカと湯気を漂わせているのは、パプリカやニンジン、ネギや卵等の具材をふんだんに用いた、見た目にも色彩豊かなヘルシーチャーハンである。未だに寝惚け眼で無防備に擦り寄ってくるねねを洗面所に放り込んで覚醒させてから、俺達は狭い食卓を三人で囲んだ。

「ところで信長さま、午後より予定が在るとの仰せでしたが……」

「然様。例によって天の呼び出しだ」

「え、天ってアレだよね、あのダークエンジェルな娘。あんな野蛮で粗野な暴力娘と遊びに行くの?ハァ、それはまた何て言うか……ご主人って人相も悪ければ女の趣味も悪いんだね」

 何も言うまい。俺はもう大人なのだから。こんな莫迦の戯言にいちいち付き合ってムキになっているようでは、むざむざと精神の未熟を露呈するだけだ。完全に無視を貫いてチャーハンを口へと運んでいると、ねねは勝手にニヤニヤと鬱陶しい笑みを浮かべ始めた。

「あ、でも、もし二人がゴールインしたら究極生物・織田天使の誕生だね。え、エンジェル・織田……!ぷくくくっ――ぎにゃっ!?」

 つい手が出てしまったが、これは怒りに任せた暴力ではなく、鉄拳制裁という手段による教育的指導である。人生の後輩に対する年長者の義務であり、飼い猫に対する飼い主の責務である。そこに俺の私情は一切含まれていないのだ。

「うぅ、こんなにプリチィーでチャーミングな私に手を上げるなんて、ご主人の鬼!悪魔!第六天魔王!織田信長!」

 …………あ?

「ネコ貴様――死ぬか?」

「うわぁぁぁご主人の目が真剣だよっ!ヘルプミー、ヘルプミーラン!」

「ねねさん、先に地獄で待っていて下さいね。時が来たら、共に閻魔相手に地獄の国取りをしましょう」

「薄情者ぉっ!それに私は死んだら天上楽土で好きなだけ食っちゃ寝して過ごすっていう極楽大作戦を構想中なんだ、地獄なんて物騒な場所は死んでもゴメンだよ!生きろ、私は美しいっ!」

 色々と意味の分からない妄言を垂れ流しながら、ねねは無駄に素早いスピードを発揮して部屋から飛び出していった。ちゃっかりチャーハンだけは米粒一つ残さず完食している辺りが何とも小憎らしい。そして食べ終えた後の食器を片付けずに放置していく辺り、後で入念な躾の必要がありそうである。全く、やれやれだ。

「……主。その、主はこれから、天使さんと遊行に赴かれるとの事ですが」

「ん?」

 不意におどおどした様子で声を掛けてきた蘭に、俺はチャーハンを掻き込みながら向き直る。

 ちなみに補足すると、天に対する蘭の呼び方は“エンジェルさん”ではなく“テンシさん”である。最初はそのものズバリ“天さん”と呼んでいたのだが、「それはやめろ真剣でやめろぶっコロスぞ」という天の必死の訴えで却下されることになった。だからと言ってテンシさんもどうなのかと個人的には思ったものの、「エンジェルじゃなけりゃいいんだ。Angelじゃなけりゃ、な……」との切実な呟きを聴いてしまっては、もはや何を言えようか。英語を習ってすらいない天の口から飛び出た流暢な発音に、俺は名付け親の業の深さをまざまざと思い知らされたものだ。

 閑話休題。蘭はレンゲを皿に置いて、眉を八の字に下げて、困ったような表情で俺の顔を見つめている。

「僭越ながら、それはもしや、で、で、でぇと、というものなのではっ」

「……今更、何を言っている?奴とは一年や二年の付き合いではないだろう」

 やけに意気込んだ問い掛けに当然の回答を返すと、蘭は数秒ほど硬直した後、瞬く間に顔を真っ赤に染めた。

「はははいっ然様でございますね!何でもありません!どうかお忘れくださいませ!ら、蘭は引き続き鍛錬に励みますっ」

 あわあわと大慌てで立ち上がり、従者一号は二号に続いて猛ダッシュで室外へと退去する。そこできっちりチャーハンの皿を持っていく辺り、ねねとの忠誠心の差が良く顕れていた。奴が放置していった分まで一緒に片付けているとなれば尚更である。

「……」

 ひとり部屋に残された俺は、チャーハンを黙々と口に運びつつ、先の蘭の奇態について思慮を巡らせる。

 さて、一体全体先程の態度は何を意味しているのか――などと白々しい事を言うつもりはない。俺は少なくとも自分では鈍感からは程遠い感性の持ち主だと自負しているし、人間観察にも結構な自信がある。故に、森谷蘭が織田信長に寄せているであろう感情も、ある程度は推察する事が出来る。とは言っても、あそこまで露骨過ぎる態度を日常的に取られて、それでも気付かない輩はただの愚鈍でしかないだろう。

「変わった、な。あいつ」

 感慨を込めて、呟く。

 蘭が俺に懸想しているのは前々からの事だが、しかし具体的な行動という形でその想いを示す事は珍しかった。だが、ここ最近の蘭はやけに能動的で、積極的だ。その辺りには椎名京の存在が関わっているのだろうが――それ以前の問題として、蘭自身の在り方の変化が、その最大の理由なのだろう。

 変化。停滞からの脱却。新たなるステージへの、飛躍。

 思えば、あの日から十年が経つ。十年経てば、人は変わる。良きにつけ、悪しきにつけ。

 俺も蘭も既に高校二年生……世間的には“大人”として認識され始めるべき年頃だ。少年は男に、少女は女に、様々な葛藤と懊悩を経て脱皮を遂げる。

「モラトリアム、か」

 そう、誰しも変わらずにはいられないのだ。俺も蘭も変わる。ならば、俺達の関係もまた、不変である筈はない。

 皆が各々の問題に何かしらの解答を選択し、その重みを背負って一人前の人間へと成長する。

 
 俺もまた――選ばなければならないのだろう。俺にしか選べない、俺だけの答えを。












 



 目的地たるゲームセンターは川神駅に面した表通りに構えており、加えて徒歩五分と、立地に恵まれた店舗だった。俺も天も基本的に堀之外を根城としているので、普段ならば滅多に足を伸ばさない店なのだが……今回ばかりは是が非でも此処でなければならない理由がある。

「お、時間通りに来たな。うけけ、顔は洗ってきたか?さ、行っこーぜ!」

 駅前広場で先に到着していた天と合流し、揚々たる足取りで賑やかな店内に足を踏み入れた。

「うわ、やっぱ混んでんな~。まー今日ばっかは仕方ねーけどさ」

 天がぼやく通り、店内の混雑はなかなかのものである。土曜日の昼過ぎという時間帯である事も大きく影響しているが、それ以上に、本日から新しく設置された筐体に惹かれて来た客が多いのだろう。かくいう俺と天もそのクチだ。その推量こそが正解だと証明するように、結構な数の客達が数台の筐体の周囲に集まっていた。今まさにプレイしている者、ギャラリーとしてそれを後ろから観戦している者、皆の発する空気が興奮と高揚で程よい熱気に包まれている。天は遠目にそんな彼らの様子を眺めて、不機嫌そうに唇をへの字に曲げた。

「あ~あ、予想はしてたけどさぁ、こりゃしばらくは順番来ねーな……。うざってぇ、ウチは我慢がキライなんだっつの。あ、イイこと思いついたぜ!うけけ、さっさと力づくで退かしてやろっと」

「莫迦め。いつぞやの如く入場禁止を食らいたいのか?大人しくしていろ」

 今にもギャラリー達を蹴散らそうと実力行使に出かねない暴力小娘を、有無を言わさぬ口調で押し留める。流石に今は凶器たるゴルフクラブは持ち歩いていないものの、釈迦堂刑部より伝授された殺人拳は武器など必要としない。放っておくとリアル格闘大会の開催では済まないだろう。ここは普段出入りしている堀之外のゲーセンではないのだ、自重せねばなるまい。至極常識的な観点から放たれた俺の制止の言葉に、天は不本意そうに唇を尖らせている。

「えー、んなこと言ってもよ~。この調子じゃ順番待ってる内に日が暮れちまうじゃん」

 駄々っ子の如く頬を膨らませてふて腐れている天に、俺は不敵に口元を吊り上げて見せた。

「くく、安心するがいい。然様な時間の浪費は俺も望まぬ所……黙って見ていろ、事を成すには言葉も暴力も無用よ」

 言い捨てると、俺はおもむろにギャラリーの方へと歩み寄った。ただし、尋常の歩みではない。一歩一歩に強烈な威圧感を付与し、周辺の空間を遍く押し潰すような重圧を撒き散らしながらの、さながら覇王の歩みである。何を言わずとも群集は自ら道を開き、大いに慌てた様子で三々五々に散っていった。そうして残されたのは、筐体にて今まさにプレイに熱中している者達のみ。しかし彼らもまた、背後数歩の距離から無言のプレッシャーを送れば、「と、トイレに行きたくなってきたな」などと呟きながら自発的に席を立った。かくして、何とも摩訶不思議な事に、二人分の空席が勝手に出来上がったのである。

「おお、さっすがシンだな!相変わらず最高にイカシてるぜぇ」

「くく、何の事か判りかねるな。皆、自発的に席を譲ったのみよ」

「うけけ、そーだよなー、別にウチらが脅したワケでもねーもんな。いやー、順番待ちしてたヤツらがたまたま、一斉にトイレに行きたくなるなんてホンット超ラッキーだぜぇ」

「天佑なれば坐して甘受するが道理。無用な遠慮は却って天に叛くものであろう」

 などと白々しい遣り取りを交わしながら、二台並んだ対戦台に一人ずつ腰掛け、いざプレイ開始。

 本日を以って新たに設置された筐体は、とある対戦型2D格闘ゲームの新作だ。ナンバリングタイトルではなく完全新規の作品だが、同社の過去作の流れを汲むシステムを採用している。情報自体は前々から仕入れていたので、天ともども稼働日を楽しみにしており、そして本日を以ってめでたく解禁と言う訳である。

「ふん。以前と同様のコンボルートは使えぬ、か。聊か補正が掛かり過ぎる」

 過去作の操作に慣れていたとは言え、やはり新作は新作。様々な点で勝手の違いに戸惑いながらも、CPU戦を通じて徐々に感覚を掴んでいく。一方、天の方は既に現れた乱入者を楽しそうに叩きのめしていた。純粋な反射神経にモノを言わせたプレイを得意とする天は、稼動初日で互いにシステムに不慣れな今こそ真価を発揮する。最高難易度時のCPUばりの超反応でカウンターを叩き込んでくる天を前に、対戦相手は為す術なく一方的なストレート負けを喫していた。

 これは俺も早く操作に慣れてコンボを覚えなければ満足に太刀打ち出来ないな――と心中で焦りながら、CPUを相手にトレーニングを続ける。それにしてもいつまで経っても俺の方に対戦者が現れないのはどういう事だ、と訝っていると、不意に隣の天が「うがーっ!」と新手の怪獣っぽい唸り声を上げた。

「ちっくしょー、負けたぁ!コイツ強ぇーな~。よっしゃ、再挑戦だ!今度こそボコにしてやるぜぇ!」

 稼動初日で天を倒すとは相当なやり手と見た。俺は適度にCPUの相手をしながら、横目で隣の画面を伺う。縦横無尽に画面を跳ね回るスピードタイプの1Pキャラ(天)に対し、対戦相手の2Pキャラは無駄を排した最低限の動きで対処している。静かなること林の如し――そんな言葉が脳裏を過ぎった瞬間、2Pキャラは一気に動いた。大技を空振りした1Pキャラの隙を的確に突いて空中に打ち上げると、ジャンプ攻撃からの追撃に次ぐ追撃。その様はまさに、侵略すること火の如し。体力ゲージの実に四割を削り取るエリアルコンボが華麗な空中技にて締め括られた時、天の操るキャラは無情なるK.O.の表示と共に地面に倒れ伏していた。その信じ難い光景を前にして、天は怒りさえも忘れて呆然と立ち尽くしている。

「な、なんだコイツ真剣で強ぇぞ……初日でこれとかありえねぇだろ――って、シン!?」

「くくっ。俺に譲れ、天。これは――随分と、愉しめそうだ」

 未だかつてない強敵の予感に胸が高鳴る。堀之外の街において格ゲー界の覇者と呼ばれた織田信長が、全力を以って臨むに相応しい力量の持ち主と見た。

 俺は湧き上がる不敵な笑みをそのままに天と席を交代すると、筐体に新たなコインを放り込む。たちまちゲームオーバーへのカウントダウン画面は掻き消え、キャラクター選択画面が眼前に広がった。さて、どうすべきか……俺が本来得手とするのは多様な戦法を有するトリッキータイプのキャラだが、しかしその手のキャラは総じて癖が強くテクニカルな操作を要求する上級者向けで、性能を巧く引き出すには慣れによる習熟が必須である。今日初めて触ったばかりとなれば恐らく満足な働きは出来ないだろう。ならばここは大抵のゲームにおいてオーソドックスな性能を有する主人公キャラの出番か。

 数秒の思考を経て決断、選択。対戦デモが流れ、そしていよいよ戦闘開始だ。

「……!流石に、強い……!」

 いざ自身が相手にしてみると、脇で観ているだけでは分からなかった相手の“凄み”を明確に体感する事が出来る。嫌らしい程に隙の無い堅実な立ち回り。そしていざ攻めに転じれば、その攻勢は苛烈の一言だ。しかも恐ろしい事に、相手の動きは時間を経るほどに磨きが掛かっていた。全く同じパーツで作られたコンボは二度と用いられず、一度相手を捉える度に新たなコンボルートを開拓している。明らかに高難易度と一目で分かるシビアなタイミングのコンボを的確に決めてくる手並には、正直に言って舌を巻かざるを得ない。

「おい大丈夫かよシン、メッチャ押されてんじゃねーか」

「くくっ。それでこそ、面白い」

「笑ってる場合かよ。自信満々に代わっといて負けてちゃダセーぞ」

「ふん、案ずるな。俺を誰だと心得ている?」

 相手が強ければ強いほど、勝利への渇望は強く心を焦がす。俺は一層の集中力を以って画面を注視し、レバーを握り締める。織田信長の鍛え上げた観察眼は伊達ではない。徹底的な分析による先読みは、ゲームにも遺憾なく適用されるスキルだ。相手の腕は相当なものだが、その“癖”は徐々に見えてきた。最初こそ一方的に押されていたが、何時までも押されっ放しで終わる道理はない――相手の反撃を先読みし、敢えて隙を晒して誘いを掛け、得た好機は決して逃さずモノにする。1ラウンド、また1ラウンド。手に汗握る一進一退の攻防が続く。そして、熾烈な戦闘の末に互いが2ラウンドを取り、勝負は最終ラウンドへと縺れ込んだ。

「おい観ろって、すっげー勝負してるぜあいつら」

「初日ってレベルじゃねーぞ!あんなコンボあるのか……参考になるぜこりゃ」

「つ、つーか、あの人ってアレじゃね?堀之外の……なんでここに」

 一度は逃げ去ったギャラリーも再び集い始めた様子で、この一戦に幾多の視線が集まっているのを感じる。

 観衆の生み出す熱気に包まれる中、アナウンスと共に最終ラウンドが開始。同時に牽制の一撃を放ってくる相手キャラだが――それは先んじて読めていた。前ジャンプで足払いを飛び越え、空中攻撃で怯ませた隙に着地、未だよろめきモーションが持続している相手キャラに現状知り得る最高火力の地上コンボを叩き込む。きっちりダウン技で締めて、なお気を緩めず起き攻めの為に設置技を繰り出す。しかし、幸先の良いスタートを切れた、と少しばかり油断したのが災いしたのか、起き攻めを見事に抜けた相手に逆襲の四割コンボを決められてしまった。ここまでの勝負は互角、ならば迂闊な動きは厳禁だ。相手も同じ事を考えているのか、慎重に間合いを測りながらじりじりと睨み合う。

「……いざ!」

 そして――激突。互いに決定的な隙は晒さず、掠めた小技によって少しずつ体力ゲージを削り取られていく。数十秒の熾烈な削り合いの末、両者共に大きく体力を減らし、レッドゾーンの危険域に踏み込んでいた。こうなれば次なる一手が全てを決すると云っても過言ではあるまい。どちらが勝利を手にしても不思議は無いクライマックス、ギャラリーは固唾を呑んで激闘の行く末を見守り、俺もまた掌に滲む汗を意識した。

 それにしても、敵ながら見事だ。筐体の向こう側に居る未だ見ぬ敵手に、心からの賞賛の念を送る。実に天晴れな戦い振りだった。ここまで俺を追い詰めたプレイヤーは釈迦堂のオッサン以来だろう。これ程までの強者が相手ならば、俺も“最終奥義”を用いるに惜しくない。

 レバーを固く握り締め、ボタンに添えた指先に精神を行き渡らせ――そして俺は、最強にして最凶の奥義を放つ。

 
 必殺――――リ ア ル 殺 意 の 波 動 !

 
 説明しよう。リアル殺意の波動とは、リアルに殺意の波動を放つ事で筐体越しに対戦相手を威圧し、その指先を数フレームの間だけ凍らせる禁断の必殺技なのだ。ちなみにバレたら待っているのはリアルファイトなので、良い子は真似しちゃ駄目だぞ。


「獲ったァッ!」

 僅か数フレーム(1フレームは60分の1秒)と侮るなかれ、格ゲー熟練者にとって、数フレームの硬直とはすなわち永遠にも等しい。相手キャラに生じた致命的な隙を見逃す事はなく、俺の操るキャラが発生の早い小技を放ち、それを始動とするコンボへの起点と成す。いかに驚異的な腕の持ち主であれ、冷厳なるゲームシステムには逆らえない。元より瀕死状態にあったところにフルコンボを叩き込まれて、耐えられる道理はなかった。次の瞬間――K.O.の表示が画面一杯に広がった。おおおお、とギャラリーの歓声が湧く。

「ふっ」

 液晶に踊るYOU WIN!の文字を傍目に、俺は熱い吐息を吐き出しながら席を立つ。胸中にて踊る昂揚感を鎮め、氷の如き冷静さを取り戻してから、2P側に居るであろう敵手の顔を一目見るべく、対戦台の向こう側へと回り込んだ。

「見事。此処まで俺を愉しませた者は、久々よ」

「……え、あ……」

 2P側の席に腰掛けて呆然とこちらを見ているのは、取り立てて特徴の無い、線の細い貧弱そうな少年だった。驚愕の表情を顔に貼り付けながら、言葉を失って硬直している。俺の心からの賞賛の言葉にも無反応である。殺気や威圧感の類はほとんどを抑え込んでいるというのにこの怯え様は尋常ではない、よほどの臆病者なのだろうか――と考えていると、唐突に少年は大声を上げた。

「えぇぇぇぇっ!何で君がここにいるのさ!っていうかあれ、ひょっとしてさっき僕が対戦したのって……」

「無論、俺だ。言うまでもなかろう」

「えぇー……何その展開。勝てなくて良かった……ゲームで命の危機とかシャレになってないよ」

「ふむ。先程から、何やら俺を知っているような口振りだが。貴様、何者だ」

「しかも忘れられてるし……師岡卓也だよ、2-Fの!風間ファミリーの一人!……やっぱり僕って存在感ないのかな……」

 落ち込んだ様子でぶつぶつ呟いている内気そうな少年を、改めて見遣る。師岡卓也……言われてみれば、そのような名前の男子生徒が居た様な気もするな。色々な意味で濃い風間ファミリーの中でどうにも地味で目立たないので、逆にリーサルウェポン的な存在なのでは、と警戒した時期もあったか。成程、彼の真価は現実世界における武力や智謀に在った訳ではなく――このゲーム界でこそ遺憾なく発揮されるものだったと言う訳だ。流石の俺もそこまでは見抜けなかった。反省の材料とし、まだまだ観察眼を鍛えなければなるまい。その名も確りと記憶しておこう。

「っていうかゲームとかやるんだ、意外だなぁ。しかもやたら上手いし……」

「貴様が俺を如何いう目で見ているかは知らぬが、俺とて人間よ。なれば娯楽に興味を示すは当然――そして遊戯に於いても高みを目指すもまた、当然。その俺の心胆を寒からしめた貴様は、己を誇るに値するであろう」

 実際、これ程の苦戦は久々だった。新システムに不慣れな状態でこの腕ならば、経験を積み研鑽を重ねた末には何処まで到達する事やら。或いは蘭の如く人外の領域に突入するかもしれない。

 基本的に蘭は格ゲーに限らずゲーム全般が笑えるほど不得手だが、“サムライソウルズ”という格ゲーだけは例外で、侍同士の真剣勝負を再現する方面に拘ったこのゲームにおいてのみ、まさしく無双と呼ぶべき脅威の実力を発揮するのだ。忘れもしない、あの忌まわしき戦慄の記憶……どこから攻めても人智を超越した反応速度で一刀の下に斬って捨てられる絶望はそうそう味わえるものではない。気を遣った蘭があからさまに手を抜き始めて以来、あのソフトは棚の奥へと厳重に封印されている。

「え、えっと、あ、……ありがとう」

 照れているのか、卓也は目を逸らして小さく呟いた。いかにも地味で内気な少年、日頃から周囲に褒められた経験が少ないのだろう。そのスキルは十分に自慢できるレベルだと思うのだが――という俺の思考を後押しするかの如く、いつの間にか傍に来ていた天が威勢のいい笑顔で卓也に話し掛けた。

「いやーお前やるなー!シンにゃ勝てなかったけどギリギリだったし、イイ相手みっけたぜぇ」

「え、あ、あぁ、えっと」

 その凶暴無比な内面はともかくして、外面は紛うことなき美少女。そんな天に親しげな調子で声を掛けられてどぎまぎしているらしく、卓也は顔を赤くしてまごついていた。

「さっきは負けちまったけどな、アレがウチの実力と思われても困る。パーチャや獣拳できるかオマエ?」

「うん、まぁ」

「じゃあそっちでウチと戦ってくれ!やっぱ慣れてねーとダメだ、このままじゃ不完全燃焼もいいとこなんだよ。つー訳でほら行こうぜ!」

「え?え、ちょ、ちょっと!」

 気の進まない様子で渋っていた卓也だが、天のマイペースな強引さに負ける形で、3D格ゲー“獣拳”の対戦台へと連行されていった。

 今日は新作の体験を目的に来た筈なのだが……まあ本人が楽しいならばそれでいいのだろう。ゲームセンターという娯楽の場に於いて最も重要な事項は言うまでもなく、如何に楽しむか、なのだから。

「さて」

 という訳で、俺は俺で存分に新作の練習に励むとしよう。キャラクター毎の立ち回りの研究にコンボルートの開拓、コマンド操作の習熟にテクニックの考案、キャラ対策にフレーム検証――やるべき事は目白押しだ。娯楽であっても妥協を許さず手を抜かず、己の為せるベストを尽くす。それが織田信長の掲げる信条の一つである。

 己を磨くと云う意味では、或いはこれも修行の一環と言えなくもないのかもしれないな、などと戯れに思考しながら、俺は筐体に新たなコインを投入した。










「ちっくしょー、結局一回も勝てなかった~!家帰ったら家庭用で特訓だ!今度こそアイツぶっ倒してやる」

「天、お前は直感に頼り過ぎだと何度言えば理解出来る?画面上の闘いの全ては理屈と法則に従っている――即ち戦を制する鍵は情報と分析。猪の如く猛進するのみでは勝利を得られぬは道理だ」

「うっせーな、人をイノシシ扱いしてんじゃねーぞ。シンみてーに小難しいことばっか考えてる奴を力尽くでぶっ倒すのが最っ高にスカッとするんじゃねーか。大体、研究だの対策だの、そこまでして勝って楽しいのかよ?ウチにゃ分かんねー、ゲームなんて気楽に遊ぶモンだろ」

「ふん。俺が望むは戦いに非ず、ただ勝利のみよ。苦闘そのものに価値は無いが、苦闘の末に得た勝利には千金の価値が在る。お前も上を目指したければ気概を持つべきだ」

「……けっ、どうせウチにゃシンと違って“気概”なんてご立派なモンはねーよ。悪うござんしたね」 

 果たして何が琴線に触れたのかは知らないが、どうやら機嫌を損ねてしまった様である。天はふて腐れた顔でスプーンを手に取ると、眼前に鎮座するジャンボサイズのチョコレートパフェに向けて勢い良く突き立てる。生チョコクリームの層の上にふんだんにトッピングされた黄金色のフレークが、数枚纏めてバラバラに砕け散った。

 現在時刻は午後三時をやや回った昼下がり、現在位置はイタリア商店街の一画に店舗を構える、とある喫茶店の二人席。小洒落た雰囲気と可愛らしい室内調度が特徴という、男性一人で踏み込むには多大な勇気と覚悟を要する事は疑いない店の最奥にて、俺と天は丸テーブル越しに向かい合って口汚い罵倒を交わしている。周囲の席でいちゃついていたカップル共は恐れを成したのか、生チョコよりも甘ったるい会話を早々に切り上げて席を立っていた。果たして彼らの目に俺達はどのように映ったのだろうか。まあ少なくとも痴話喧嘩中のカップルには見えなかっただろうな――などと考えながら、良く冷えたアイスカフェオレで喉を潤す。ゲームセンター内に立ち篭める独特の熱気から解放された後の一杯は、何とも言えぬ心地良さを伴って心身に染み渡り、疲労を癒してくれる。

 それこそ、些細な言葉一つですぐに感情的になってしまう、眼前の我が妹分なんぞと比べれば、段違いに。

 膨れっ面でパフェをぱくついている天を見遣って、心中で溜息を一つ落として、そして俺は再び口を開いた。

「如何した。今日は随分と、虫の居所が悪いと見えるが」

「あ?何言ってんだ、ウチは別に」

「ふん、無用な隠し立てはせぬ事だ。天、お前は何時から俺の目を誤魔化せるほど嘘が巧くなった?」

 こちらを見ようとせずに空惚けている天に、鋭く追及の言葉を投げ掛ける。それこそ一年や二年の付き合いではないのだ。板垣天使が自分の感情を偽れるほど器用な性格をしていない事は熟知しているし、胸中に何事か抱えているなら一目で分かるのが当然である。天は元より気紛れで気分屋な側面が多分にあるが、今日は普段にも増して情緒不安定な態度が目立っていた。ゲーセンでストレスを発散した後にも関わらずこの有様、という事は十中八九、何かしら思う所があるのだろう。

 揺ぎ無い確信を込めて真正面から視線を送ると、天は困惑したように俯き、俺から目を逸らした。その悄然とした態度を見る限り、やはり図星だったらしい。

「……別に、シンにムカついてるとかそーいうんじゃねー。ただ、さ」

 ぽつりぽつりと紡がれる言葉は、野放図で能天気な天にしては珍しく、懊悩の色を色濃く宿していた。

「ウチは――ウチは、……あーくっそーダメだ、なんて言ったらいいのか分かんねー!」

 黙って見ていると、天はテーブルの上で頭を抱えて唸っている。大事なことを伝えたいが、しかし致命的なまでに語彙力が足りない――勉学の道を切り捨てた不良娘の悲哀を感じずにはいられない、何とも切ない光景である。

「もう良い、今は訊かん。取り敢えず黙れ」

 店員のお姉さん方から向けられる、好奇心に満ちた生温い視線があまりにも痛過ぎる。畏怖と恐怖を以って注目を集めるのは大いに歓迎するところだが、あたかも珍妙なイロモノを見るかの如き目で晒し者にされるのは御免である。

 あの単細胞の天が乏しい語彙を振り絞ってまで伝えんとしている言葉だ、俺としても気にならない筈はないが……いずれにせよ、その内容はこのような場所で聞くべきものでは無い気がする。これは俺の勘に過ぎないが。

 かくして不機嫌さの原因を追究する事は一旦置き、気を取り直して雑談に戻る。天は気分を切り替えた様子で、傍目には陽気過ぎるほど陽気な、さながら子供がはしゃぐように無邪気な笑顔を見せるようになっていた。怒涛の如き勢いで喋り続ける天に対し、俺が口数少なく相槌を打ち続ける――そんな普段と同様の調子で下らない会話に興じていると、気付けば三十分近くが経過していた。天は既にジャンボチョコパフェを綺麗に平らげ、俺のカフェオレの方も残すはコップの底に転がる氷のみ。

 見る限り店内はさほど混雑していないが、だからと言ってあまり長時間居座るのもマナーに反するだろう。半ば溶けて小さくなったロックアイスを噛み砕き、会計を済ますべく席を立ち掛けた、その時であった。

「な、てめェらは――何でこんな所にいやがる!?」

 ファンシーな店内の雰囲気をブチ壊す野太い声が自分達のすぐ傍から上がる。店中の視線が一瞬にしてその発生源に集中し、当然ながら俺も天も揃ってそちらを向き直った。

 そこに立っていたのは、ボサボサの金髪を伸ばし、大量のピアスをじゃらつかせた、いかにもな容姿のヤンキーであった。雑踏の中でも頭一つ飛び出るであろう相当な大柄で、鍛え上げられた屈強な体躯が尋常ならざる威圧感を醸し出している。目は獣の如くギラギラと輝いており、顔面に浮かぶ相は獰猛な精気に充ちていた。

 あたかも戦国の荒武者を思わせる男が、驚愕の表情を貼り付けてこちらを凝視している――そんな突然の事態を受けて、俺と天は素早く目配せを交わす。二つの視線が交錯したのは僅か一瞬、しかしそれだけの時間があれば、俺達が思いを同じくしている事は分かった。眼前の男へと視線を戻し、同時に口を開く。

「貴様、何者だ」「誰だ、オマエ」

「あァあァ、どォせそうだろうと思ってたよ!言わなきゃ思い出せねェだろォから名乗ってやるぜ――前田啓次だオラァ!覚えてんだろォ?」

「生憎と記憶に無いな。天、お前の知己であろう」

「いやウチこんなザコっぽいヤツ知らねーし。シンの知り合いだろ?」

「てめェらどっちも会ってるだろうガッ!あー、オレはアレだ、親不孝通りでアンタにケンカ売って、イタガキ一家のリュウとかいう奴とやり合った――」

「ふむ?そう言われれば記憶が在るな。俺に攻撃を掠らせる事すら能わず地に這い蹲っていた、身の程知らずの雑魚か」

「ああ、思い出した!キレたリュウの奴にボッコボコにされて死に掛けてたヤローか」

「ムカつく思い出し方してんじゃねェぞ!クソが、てめェらぜってェいつか並べて土下座させてやる……覚悟しときやがれよ……!」

 正体不明のヤンキー改め前田啓次は、憤懣やるかたない様子でブツブツと呟いている。こうして改めて見れば割と特徴的で印象に残る外見の持ち主なのだが、どうにも記憶に残らないのは何故だろうか。実際、言われるまで本気で存在そのものを忘却していた。キャラクターに意外性が無さ過ぎるのが原因なのかもしれない。これは真剣に検討してみる価値がありそうである。

「うけけ、ウチは親切だから教えといてやるけどさ、お前リュウに狙われてんぜぇ?見つけたらヤってやるって言ってたぞ確か」

「へっ、それこそ望む所って奴だろォがよ。あん時にゃこっちも散々ブン殴られて頭にキてるからなァ――来るなら来やがれ、だ。今度こそ白黒ハッキリさせてやるぜ」

 好戦的な笑みを浮かべながら、啓次はパキポキと指を鳴らしている。勇猛果敢で意気軒昂な事は大いに結構だが、しかし恐らくこの男、大きな勘違いをしている。“狙われている”のが命ではなく尻で、竜兵の言う“ヤる”が“殺る”ではなく“犯る”の意だと正しく理解した時、この男は果たして不敵に笑っていられるのだろうか。実に興味深い。

「つーか……てめェら二人、敵同士じゃなかったのかよ?表の顔と裏の顔が、何で仲良くサテンで駄弁ってんだよ」

 怪訝な顔で発せられた啓次の今更な疑問に対し、返答の声はその背後から上がった。

「――やれやれだ、その程度の推察すら満足に出来ないとは嘆かわしいな、前田少年。君の頭蓋に詰まっているのは、実のところ脳味噌に見せ掛けた筋肉なのではないかね?休日の昼下がり、年頃の男女がペアで小洒落た喫茶店にて向かい合う――その関係性が青春真っ盛りの熱々カップル以外の何者だと言うのかね。常識的に考えれば他の解答など有り得ないだろうに」

「お前の頭蓋に詰まっている脳味噌は腐敗していると見えるな、サギ」

「おやおや、それは些か酷いのではないかね、殿。例え照れ隠しの暴言と分かってはいても、敬愛する殿の口からそのように容赦なく罵られては、私の繊細な心が傷付いてしまうぞ。……しかし、昨日に引き続き今日までも、こうして貴方のご尊顔を拝めるとは驚きだ。運命の悪戯に思いを馳せずにはいられないな。いや全く、驚天動地と云うべき偶然があったものだ」

 言葉の内容とは裏腹にその口調は至って平坦なもので、感情の波など窺えない。そんな風に淡々と馬鹿げた妄言を垂れ流しながら隣のテーブルに悠々と陣取ったのは、ダークグレーの長髪と涼やかな切れ長の目が特徴の女――サギ。俺とは以前から色々と因縁のある女なのだが……まさかこのような場所で遭遇するとは、何とも驚きである。

「おいシン、誰だよコイツ。なんでこう、やたら馴れ馴れしい感じなんだ?」

 戸惑いと不満の入り混じった表情で新たな登場人物を見遣りながら、天は声を潜めるでもなく言い放つ。俺が答えるよりも先に、サギが微笑みを湛えながら口を開いた。

「誰だと問われれば答えて差し上げるのが私の流儀。初めまして、私の名は柴田鷺風(ろふう)だ。とは言っても私はこの滑稽なほど仰々しい名が好きになれなくてね――どうかサギと気さくに呼んでくれたまえ。そして私と殿の関係だが、まあ今のところは“切っても切れない関係”、とだけ言っておこうか。一言で説明するには些かばかり難解で、複雑に過ぎるのでね。……おぉっと誤解して貰っては困るな、早合点するものじゃあない。何も君と殿の間に割って入って無粋な邪魔立てを企むような関係でない事は確かだよ。フフフ、邪推は不要だ、ジェラシーに心焦がす必要も無い。安心するといいお嬢さん」

 天に口を挟む隙すら与えず一息に言い放つと、サギは無駄に男前な笑みを浮かべてみせた。

 この女、思い込みの激しさが天然記念物レベルで、しかも基本的に人の話を聞かないという、凄まじいまでの自己完結型人間なのだ。マシンガンの如く機械的に繰り出された言葉の嵐に、さしもの暴れ馬・板垣天使も呆気に取られて怯んでいる。

「あァ?なんだ、殿って……アンタら知り合いなのか?一体どうなってやがんだ……」

 口を挟むタイミングを見失って所在無く立ち尽くしていた啓次が、俺とサギを交互に見比べながら困惑の呟きを漏らした。サギはそんな彼をジロリと一瞥すると、何事か考え込むように眉を顰めて、ひとり首を傾げた。

「むむ?どうにも事態を把握しかねるな。おい前田少年、君は殿と旧知の仲だったのか?」

「旧知っつーか……まァ前にちょっと顔を合わせた事があってよォ。そんだけの縁だ」

「ほぅ、それはそれは。重ね重ね、偶然とは恐ろしいものだ。かくも摩訶不思議な縁が在ろうとはね」

 感嘆しているのか、サギは一人でしきりに頷いている。こうして会話を聞いている限り、サギと啓次は赤の他人と言う訳ではないらしい。考えてみればカップル御用達の喫茶店というロケーションに男一人で入店するなど罰ゲームもいい所な訳で、連れ立って来たと考えるのが自然ではあるが……しかし両者の繋がりが見えない。接点などまるで無さそうな二人が何故――いや待て、記憶が曖昧極まりないが、確か前田啓次という男は。

「成程。お前の後輩に当たる、か」

「ご明察だ、殿。この不良少年は、私の愚鈍なる後輩にして弟子なのだよ」

 サギこと柴田鷺風は、俺の古巣であるところの太師高校に属する三年生である。そして記憶が正しければ、前田啓次は太師高校の一年生。その辺りの繋がりではないかとの推量は正解だった様だ。

 それにしても、弟子、と来たか。こいつとの付き合いも大概長いが、自分の時間を削ってまで後進を導こうとするタイプの性格の持ち主でないのは確かだ。俺の疑問を感じ取ったのか、サギは口元を吊り上げると、飄々と言葉を続けた。

「なに、私とて自分に師匠などというポジションが似合わないのは承知しているがね。可愛い後輩からどうしても弟子にして欲しいと涙ながらに頼み込まれてしまっては、先輩として応えない訳にはいかないだろう?」

「記憶を捏造してんじゃねェよ!屋上で気持ちよく寝てたオレを何の前置きも無くボコった上に、“君が気に入った”とか何とか抜かして無理矢理に弟子入りさせたんだろォが!」

「授業をサボって屋上で寝ているような不良生徒を放置出来ないのは当然だろう?私には全校生徒の模範たる生徒会長として、後輩を指導し、然るべき在り方へと更正させる義務があるのだからね。それに、手加減しているとは云え私の拳に耐えられるほどに丈夫だし、何より何度倒れても立ち上がってくる。その気概と根性は私の、あー、弟子に相応しいと大いに気に入ったのだよ。光栄に思いたまえ。君とて涙を流して喜んでいたではないかね」

「てめェに目ェ付けられた不幸には鬼だって泣きたくなるだろうぜ。つーかそもそも生徒会長様が授業時間中に屋上に来るってのはどういうワケだオイ」

「やれやれ、何を分かり切った事を訊いているのかね?屋上にて温かい陽光を浴び、吹き抜ける春風を受けながら、心地良くシエスタする為に決まっているではないか」

「開き直ってんじゃねェぞ生徒会長!てめェはまず自分を更正させろよ!」

「む、弟子の分際で師匠に口答えとは頂けないな。君はもっと私に対し敬意を払いたまえ。貴重な時間を割いてまで、岩一つ砕けない君の貧弱な武力を鍛えてやっているのだから」

「オレはどうもてめェのストレス解消に利用されてるだけとしか思えねェんがな……まァアレで力が付くってんならオレとしちゃァ歓迎だがよ。オレはもっともっと、強くならねェといけねェからな」

「フフフ……君の餓虎にも似た精神性、私は嫌いではない。力への飽くなき渇望が人を強くする。判っているならば宜しい――私の有難みを確りと理解したなら、形で表して貰わねばな。という訳で、注文だが。日替わりケーキセット、ストロベリーサンデー、アップルパイ、ホットケーキ、エッグトースト、アイスココアを一つずつ頼むよ」

「なァおい、今の時点で嫌な予感しかしねェんだが……会計は当然自腹なんだよな?」

「ハッハッハ、何を馬鹿な。君は自分が何の為にこの場に存在していると心得ているのだ。私の財布としての役割を果たす為、ではなかったのかね?」

「百歩譲って弟子にはなったとしても財布になった覚えはねェよ!つーかアレだよ、そんなバカスカ食ったら太るだろ、やめといた方がいいぜ、な?」

「生憎と私はカロリー計算など煩わしい事はしない主義でね。いちいち下らない計算なんぞしていたら大事は成せないぞ。世の中を動かすものは数字などではないのだ、断じて。要は摂取したカロリーの分まで動けば良いだけの話だろう?幸いにして自立稼動する便利なサンドバッグも手に入れた事だし、後で存分に汗を流すとしよう」

「サンドバッグになった覚えもねェぞ……つーかやっぱそう思ってやがったんじゃねェかてめェ!」

 前田少年の魂の咆哮が店内に響き渡る。普段の苦労が偲ばれる光景だった。

 成程、このマイペースさの権化の如き女が真っ当な師匠を務める訳がないとは思ったが、案の定である。良い様に扱き使われる方もどうかとは思うが、まあ尋常の神経の持ち主ならば、サギの他を顧みない強引さに逆らうのは至難の業か。

 哀れな不良少年に心中で合掌していると、不意に舌打ちの音がすぐ傍で響いた。見れば、不機嫌顔に逆戻りした天が剣呑な目でサギを睨んでいる。忍耐強さとは縁のない天にしていれば、ほとんど蚊帳の外に置かれている現状は気に入らないのだろう。サギはその苛立ちの込められた視線に対し、涼しげな表情を崩さないまま応えた。

「二人きりのデートを邪魔してしまった事については謝罪の言葉も無いが、だからと言ってそう物騒な目で睨むのは勘弁してくれたまえ。悪名高い板垣一家の末娘にそのような烈しい戦気を向けられては、私もついつい奮い立ってしまいそうになるからね」

「……オマエ、ウチのこと知ってんのか?」

「フフフ。殿から常々話を聞いているのだよ。可愛い可愛い妹分で、それこそ目に入れても痛くない、とね」

「なぁっ!?」

 天は素っ頓狂な声を上げて俺の方を見たかと思うと、慌てて顔を隠すように俯いた。下手人たるサギはと言えば、その様子を保護者の如く微笑ましげな表情で見守っている。

 これでも本人的には特にからかっているつもりはなく、純粋に思い込みから出ている態度な辺り、ある意味では愉快犯のネコよりも性質が悪い。俺の下で動く連中はどいつもこいつも、と心中で溜息を吐きつつ、澄まし顔のサギへと冷たい視線を投げ掛ける。

「お前はそろそろ己の妄想と現実に区切りを付けるがいい。或いは黙して舌を動かすな」

「フフフ、殿は相当な意地っ張りだからね。了解だ、私も以降は余計な口を挟むのは止めよう。古今東西、人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまうと相場は決まっているのだから」

「ふん、前言を訂正しよう――お前の頭蓋にはそもそも脳味噌の代わりに餡が詰まっている様だ」

 まさにスイーツ脳である。その割に恋愛という概念を欠片も理解していないので、男女の組み合わせを目にする度にカップル扱いするという面倒な悪癖を持っているのだ。俺と蘭の関係に対しても色々と奇怪千万な勘違いをしているらしく、かつて行動を共にしていた時期、対処には苦慮したものだった。

「まあ殿から話を聞いていた事もあるが、実を言うと、私は以前に君を見掛けた事があってね。今の今まで顔を記憶していたのだよ。それに君とは面識が無いが、君の姉上とは少しばかり“語り合った”仲でね――いや、実に見習うべき点の多い武人だったよ彼女は。自身の未熟を痛感させられてしまったな。驕りは大いなる内患だよ、全く」

 かつての記憶を反芻するかの如く、サギは静かに目を瞑る。

「失礼します。こちら、ご注文の品になります」

 その時、大量の皿を搭載したトレイが到着した。次々とテーブルの上に並べられていくデザート類の数々に、サギは上機嫌に切れ長の目を細め、前田少年は顔色を青くしている。早速とばかりにホットケーキの皿を手元に引き寄せながら、サギはこちらを見遣った。

「さて、私はこれより良く食べ良く殴り良く寝る予定だが――君達には君達のプランがあるだろう?殿、恋人であれ恋人未満であれ、兄妹であれ義兄妹であれ、二人きりで過ごす休日は大事なものに違いあるまい。私なぞに構っている暇があるなら、一秒でも長く互いの絆を深め合うべきだろうと考える次第だ。男は甲斐性だぞ、殿」

 好き放題に言うだけ言うと、眼前のホットケーキから匂い立つ甘い芳香に全ての注意を奪われたかの如く、こちらを一顧だにしない。相変わらず、我が道を行く奴である。俺は数秒程その横顔を眺めてから、伝票を片手に席を立った。

「ふん。どの道、お前のような莫迦に付き合って休日を棒に振る心算は無い。心遣いは無用だ。……往くぞ、天」

「え、あ、ああ――うんっ」

 困惑顔の天を引き連れてレジへと向かおうとした俺を、しかしサギは背後から呼び止めた。

「――ああ、殿。これは昨日も言ったが、身辺には注意した方がいい。私はね、どうにもこの川神の地に、不穏な戦気を感じるのだよ」

「……」

「フフフ、まあ私の気の所為という可能性も否定は出来ないがね。何せ、殿も知っての通り――私の計算は、よく外れる」

 その声音に含まれた“翳り”に、思わず振り返る。

 既にサギはデザートの甘味を噛み締める事に夢中になっている様子で、こちらを見てはいなかった。

――今の所は、それが“答え”と、そういう事か。

 まあ、致し方あるまい。何かを選ばずしては生きられないのは、誰もが同じだ。

 人には、各々の選ぶべき道がある。それらが途上にて交錯するか否かは、俺の意志の及ぶ所ではない。

 侭ならないものだ、と人の縁の難しさを想いつつ、俺は喫茶店を後にした。













「よーっし、こっからが本番だぜぇ!」

 サギが唐突な出現を果たしてからこちら、噛み付くような不機嫌っぷりが続いていた天だったが、複合施設たるイタリア商店街の一角に位置するセレクトショップに到着した途端、元のテンションを取り戻して浮かれている。何ともまあ現金な奴だった。早速、店内に陳列された衣服類の数々をチェックする事に余念がない。

「お、これイイ感じじゃね?なぁなぁ、シンはこれ似合うと思うか!?」

「落ち着け莫迦め。評価が欲しければ、試着して来い」

「ああ、そういやそうだ。んじゃ早速行ってくるぜ!覗くなよ!」

 けたけたと陽気に笑いながら、天は目を付けた洋服を片手に引っ掴むと、嵐のように更衣室へと駆け込んでいった。

 さて、こうなると先は長い。持久戦の覚悟を決めなければ。ありがたくも店内に設置されていた休憩用の椅子に腰掛けながら、このままでは無意味に費やされるであろう待機時間を有効活用すべく、先んじて用意していた文庫本を取り出す。北方氏の歴史物で、蘭に勧められて借りてきたものだ。最初の数ページほどを読み進めた所で、弾んだ足音が近付いてきた。

「どうだよシン、ウチなかなかイケてんじゃ……っておい何読んでんだ、そんなモンよりこっち見た方が一千億万倍くらい、目の保養だぜぇ?」

 文字列から目を離し、正面に視線を向けると、着替えを終えた天がポーズを取ってモデルの真似事をしている。素材が良いだけにそれなり以上に様になっている辺りが癪だった。男性買い物客たちの視線が吸い寄せられるのも無理はない話だが、しかし妹分に色目を使われるのはあまり気分の良いものではない。ちょっとした殺意を込めた目で睨み据えて早々に追い払ってから、俺は改めて天の立ち姿を眺める。

 普段のパンクな服装とは趣を異にする、全体的に飾りの少ないシンプルに纏ったファッション。これはこれで新鮮さがあって悪くないが、微妙に物足りないものを感じるのも確かだ。故に――

「…………。七十点」

「ん~、またビミョーな点数だな。ウチ的には割と自信あったんだけどなぁ。よっしゃ、次こそ百点満点出させてやるぜ!」

「くくっ。精々、足掻いてみせろ」

 気合を入れて新たなファッションを模索している天を尻目に、再び読書に没頭する。

 この“採点式システム”の起源がいつだったかはもはや記憶していないが、とにかく天が新たな服を選ぶ際は、決まってこの制度が採用されている。ルールは至ってシンプルで、天のファッションに俺が百点満点にて点数を付け、見事に最高得点を叩き出した栄誉ある服のみを戦利品として持ち帰るというものだ。さほどファッションに精通している訳でもない俺の審美眼がアテになるとは思えないが、当人が納得しているならば何も言うまい。

 ちなみに過去に一度だけ、このルールは反故にされた事がある。天が冗談のつもりで選んだらしい純白のワンピースに俺が百点満点の評価を付けた時で、最初は天も素直に喜んでいたのだが、俺が不用意に口にした「くく。まるで天使の様だな」という心無いコメントが全てを台無しにした。そこから先は互いの名前を貶し合うだけの不毛な争いが勃発するのみ。DQNネーム被害者の会が結成される前の、ほろ苦い青春の一ページである。照れ隠しの意味もあったとはいえ、特大の地雷を見事なまでに的確に踏み抜いてしまうとは、俺も青かったものだ。

「じゃじゃーん!知ってんぜぇ、これとかシンの好みバッチリだろ!」

「八十五点」

「えー、真剣かよ……まさか意地悪で言ってんじゃねーだろーな?ちくしょー、次だ次!」

 あの忌むべき日より今日に至るまで、百点満点が出た事は一度も無い。今日もまた、天は次々と趣向を変えて多種多様なファッションを披露して見せているが、残念ながら最高でも九十点止まりである。俺の好みが変わらない限り、そして天が清純な白の衣装を選ばない限り、このまま満点は永遠の幻と化すのだろう。

 黙々と読書を続け、時折顔を上げて、ポーズを取っている天に点数を述べるだけの簡易極まる批評を告げる。そんな奇妙な買い物風景が始まってから、かれこれ二時間ほどが経った頃である。

「あ~、今回もダメだったかぁー。ウチのファッションセンスもかなり磨き掛かってると思うんだけどなー」

 西空に浮かぶ夕日が、イタリア商店街の石畳の街路を紅色に染め上げる。鮮やかな夕焼け空の下、商店街の中心に位置する広場にて、天は戦利品を収めた紙袋を片手にぼやいていた。

 袋の中身は本日の最高点、九十五点を獲得した衣装だ。カジュアルな雰囲気が天のエネルギー漲る活発さとマッチしていた点が高評価の理由である。ちなみに当然ながらセレクトショップでの買い物が安く済む訳もなく、俺の個人財産には結構なダメージを与えてくれた。諸事情あって最近は景気が良いとは云え、散財は厳禁。しばらくは衝動に任せた和菓子の買い食いを控えねばなるまい。

「百点――か。くく、無用な意地を張らねばすぐにでも呉れてやるが、な」

「うっせーぞ、余計なコト思い出させてんじゃねー!大体、あんなもんウチには似合わねーんだよ!」

 以前の不毛な諍いを思い出したのか、拗ねたようにそっぽを向いてしまった。天の意見は聞いての通りだが、俺個人としては同意しかねる。何も皮肉や嫌味で百点を付けた訳ではないのだ――と幾ら口を酸くして説いてみたところで信じては貰えないだろう。俺だって「カッコイイ!まるで第六天魔王みたーい!」などと褒められたなら、例え天地が逆転しようともその服を着ようとは思うまい。それ以前に相手を生かしてはおかない。思えばかつての俺は本当に馬鹿な事を仕出かしたものだ、と今更ながらに反省しきりである。

「んー、なぁシン、晩メシどーするよ?何ならウチん家で――あ」

 言い掛けた所で、現在の板垣一家と織田信長の敵対関係を思い出したのか、天は不自然に言葉を切った。あまり触れたくなかった部分だったのだろう、決まり悪げに俺から目を逸らして黙り込んでいる。

 普段はあれほど傍若無人な癖に、妙な所で気が弱いのは相変わらず、か。

 全く。幾つになっても、世話が焼ける。

「……言葉は、見つかったか?」

「えっ?」

「先刻。茶店でお前が言わんとしていた案件、だ。お前の頭の出来が如何に哀れむべきものであれ、数時間の時を経れば、言葉の一つも頭に浮かんだだろう。夕餉の添え物として聴いてやる故、会計はお前が持て」

「……はっ。ケチくせーなぁ、“妹分”に晩メシたかるとか、ひでー兄貴だと思わねー?」

「くくっ、子供扱いは望まぬ所、とお前は常々言っていた筈だがな。俺と対等に話をしたければ、力を身に付ける事よ。“財力”もまた、力の形が一つだ」

「けっ、自分だって言うほど金持ってねークセに、なにエラソーに説教してんだよ。ったく、ホント上から目線が大好きだよなぁシンは」

「ふん。この身がお前達の遥か高みに在ればこそ、自然と万人が眼下に見えるだけの事。好悪など無関係だ」

「へーへー、勝手に言ってやがれっての」

 傲岸不遜に言い放つ俺を呆れたような目で見て、天はおかしそうに笑った。

 月並みも月並みな感想ではあるが、やはりこいつには笑顔が似合う、と改めて思う。十年近い昔、堀之外の街で初めて出逢ったあの時も、俺は確か同じ事を考えた筈だ。

 自分と違って裏表のない、感情を隠そうともしない無邪気な笑顔は、喩え様もなく眩しい。

 だからこそ、俺は―――


「……っ!?」


 その瞬間――空気が、変質した。

 
 全身の皮膚を突き刺す感覚は、凶悪な程に高まり昂ぶった闘気と、殺気。

 
 包み込むように街を照らす、穏やかで優しい夕日が、俄かに鮮血を思わせる毒々しい色合いへと変じたかのような錯覚。

 
 自然の内に身体が震え出しそうになる。逃げろ逃げろと、煩い程に警鐘を鳴らす。

 
 これは――“やばい”。

 
 俺と天は瞬時に全身の筋肉を強張らせ、その慄然たる気配の発生源へと同時に向き直った。



「よォ――楽しそうじゃねぇか。俺も混ぜてくれよ、弟子ども」


 
 それはさながら、野に放たれた黒色の凶獣。

 
 血色の黄昏を背に受け。酷薄に歪んだ笑みを貼り付けて――釈迦堂刑部が、其処に立っていた。
















 
 

 という訳で、次回に続きます。
 書きたい事を詰め込んだら文量が(ry この悪癖はいい加減に改善しないと……
 ちなみに信長の格ゲー好きは、「ゲーム内なら才能が無くても人外連中とも張り合える」という何ともアレな理由から来ていたりします。色々と必死過ぎるのはその所為。
 感想での言及率が高かったマルさんですが、本編内での登場はもう少しだけ先になります。それでは、次回の更新で。




[13860] 天使の土曜日、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:ed16b72e
Date: 2013/11/30 23:55
「ヘイお待ち!豚丼大盛り三丁ッス!」

「よっしゃきたきた、食うぜ食うぜぇっ!」

「まぁそう焦んじゃねぇよ、天。単品とろろをぶっかけてから頂くのが通の食し方ってモンだろーが」

「然様――それは即ち、貴様の教えにおいて最も重要な事よ。天、真の充足を望むならば、己の欲を抑え、逸る心を律し、今暫し神妙に控えるがよかろう」

 其処は堀之外のとある一角。昼夜を問わず様々な人種で賑わう親不孝通りから狭い路地に入り、数分ほど歩いた閑静な地点には、あたかも人目を避けるかの如くひっそりと佇む牛丼チェーン店が存在する。その名は“梅屋”――俺こと織田信長、その妹分たる板垣天使、そして俺達の共通の師匠たる男……釈迦堂刑部の、行きつけの店である。かつての修行時代には、厳しい鍛錬を終えた後に襲い来る空腹を充たすべく、師弟揃って足を運ぶ機会が多かった。

 とは言っても、俺が板垣三姉妹に先立って釈迦堂から一応の“卒業”を通達されてから約二年。それ以降は何だかんだで一度も訪れていないのだから、思えば随分と久し振りの来店ではあった。

「ヘイお待ち、単品とろろ三丁ッス!それと豚汁一丁ッスね。豚丼のお替りは二割引になってるんで是非よろしくッス!」

「ヒヒ、待ってましたよっとぉ。やっぱコレがねぇと始まらねぇよなあ」

「うっしゃー、いっただっきマース!腹がペコちゃんなウチの胃袋はレボリューションだぜぇ!」

「ふん……豚丼と豚汁で豚がダブってしまったか。不覚、であるな」

 という訳で、釈迦堂及び天の二名とこうして一つの食卓を囲むのも随分と久々な話であり、何やら懐かしさを覚えずにはいられない。本陣たる大盛り豚丼の到着から遅れること少し、漸くテーブルに届いた心強い援軍・とろろを豚肉の上へと存分にぶっかけながら、俺は感慨に浸っていた。

 そんな俺の目の前で、天は野生の本能を剥き出しにガツガツと豚丼を掻き込んでおり、一方の釈迦堂のオッサンはと言えば、これまた天に負けず劣らずな、何とも豪快な食べっぷりを披露している。成程この二人、やはり師弟である。文明人たるこの俺は独りで静かで豊かな品性ある食事を好むので例外だが。

 ……しかし、この付け合せのお新香はいつ食しても素晴らしい。漬かり具合も丁度良いし、何より豚尽くしの中で凄く爽やかな存在だ。

「しっかし師匠もシンもさー、なんだっていちいちあんな物騒なんだよ。がつがつ」

「先ずは口内の食物を嚥下しろ。喋るのはそれからだ莫迦め」

 皆のカーチャンこと忠勝がこの場に居たら即座にブチ切れていてもおかしくない暴挙だ。口の周りに付着している米粒は、まあ何となく可愛げが無い事も無いので慈悲の心を以って見逃してやってもいいが、しかし真向かいに座る俺に向かって米粒弾幕を発射するという神をも畏れぬ所業は絶対に見過ごせない。偶数弾でなければ色気の無い間接キスを敢行する羽目になりかねなかった。

「ったくよー」

 俺の切なる願いが心に届いてくれたのか、天は丼を一旦テーブルに置いてから再び口を開いた。

「あん時にゃ殺し合いでも始まるのかと思っちまったぜ。マジで勘弁して欲しいっての」

「悪ィ悪ィ。ちょっとしたおふざけのつもりだったんだがよ、そっちの元・弟子が生意気にも殺気を返してきやがったモンで、つい真剣になっちまったわ」

 特に反省している風もなくヘラヘラと言って、釈迦堂は俺へと視線を向ける。その闇色の瞳は相変わらず暗く淀んで濁っているが、イタリア商店街にて遭遇した時の如く凶悪な殺意に充ちてはいなかった。先程の釈迦堂の様子はどう考えても臨戦態勢だったので、俺もつい本気の殺気を以って応えたのだが……その数分間に渡る壮絶な睨み合いに巻き込まれた天は堪ったものでは無かったらしく、ぐちぐちと今に至るまで文句を零している。例え嫌な事があっても引き摺らず、大抵の場合は十秒で忘却する単細胞の天にしては珍しい態度であった。尤も、その理由は容易に想像出来るが。

「くくっ、昔日のトラウマでも蘇ったか?まあ無理もない話だ、俺と釈迦堂刑部の死合いを不用意に覗いた結果とは云え、よもや中学生にもなってしっき――」

「あぁぁぁぁあ!昔の話を蒸し返すんじゃねーっつってんだろ!?ウチはあれから超絶強くなってんだ、二度とあんな事にはならねー!」

 蒸気を噴出せんばかりに顔を真っ赤にしていては説得力にいまいち欠けるが、しかしこうして元気溌剌と梅屋で豚丼を貪っている現状がある以上、その言葉は事実なのだろう。

 もしも天の殺気耐性が数年前から成長していなかった場合、今頃は盛大に泣き喚きながら街中で暴れ回って、全く以って手が付けられない有様になっていたのは間違いない。どう考えても誰一人として得をしない展開である。今回ばかりは天の図抜けた武の資質に感謝せねばなるまい。

「げっ、もうカラになっちまった。まだまだ食い足りねー、トーゼンお替りだぜっ! モチ大盛りな!」

「毎度あり~ッス! 豚丼大盛りお替り一丁入りましたッスッ!」

「おいおい、確かに奢りたぁ言ったけどよ、大盛り二杯にとろろ付きはちっと豪勢過ぎんだろ。フツーそこは師匠に敬意を払って少しは遠慮するとこだぞ弟子。ったく、育ち盛りのガキの食欲を甘く見ちゃいけねぇな」

「ふん。天の莫迦に人並みの遠慮など求める方が愚昧であろう。――まあ、俺も当然、二杯目を所望するが」

「お前の場合、ちゃっかり豚汁まで付けてやがるからな……厚かましいにも程があるぜ。金にゆとりがねぇと心まで貧しくなっちまうってか?貧乏ってのは恐ろしいねぇ」
 
 そんな調子で騒がしく豚丼を食すこと暫し、心ゆくまで胃袋に肉と米を詰め込んで、俺達は一様に満足の吐息を吐いていた。タダ飯こそが至上の美味、とは如何なる時代でも不変である。

 釈迦堂のオッサンは最後までブツブツと女々しく文句を垂れていたが、実際のところ俺達と違って良い大人な訳で、豚丼数杯程度の奢りで揺らぐような寂しい財布の持ち主ではない。

 よれよれの服といい顎の無精髭といい、見た目は三百六十度死角無しに草臥れたオッサンなのだが、数年前まではかの“内閣調査室”の一員として国家の暗部で随分と稼いでいたらしく、向こう何年間かは特に働かずとも食っていける程度の財力を貯め込んでいるのだ。という訳で、調査室を辞めた現在は気侭に各地をぶらつきながら、気楽な無職生活を満喫しているらしい。何とも羨まけしからぬ話である。俺は妬みで人を殺せるかもしれない。

「……さて」

 欲望を存分に満たし終え、幸せそうに椅子に凭れ掛かっている天を一瞥してから、俺は改めて釈迦堂に向き直った。俺の視線に気付くと、釈迦堂は程好く冷めた麦茶の残りを一気に流し込んで、ニタリと口元を吊り上げつつこちらを見据える。

「何の用も無く俺達の前に姿を見せた訳でもないだろう。いい加減に本題に入ったら如何だ」

「ヒヒ、何言ってやがる。街をぶらついてたら偶々弟子どもを見掛けたんで、気前の良い俺は万年金欠の弟子どもに晩飯を奢ってやろうと思っただけじゃねぇかよ」

「ふん。貴様の如き無精者がイタリア商店街に足を運ぶ理由なぞあるまい。大方、俺と天の“氣”を探って来たのだろう」

「言ってくれるねぇ。俺だってナウなヤングばりにお洒落してナイスミドルを演出したくなる時もあるんだぜ?――ま、確かに今回はそうじゃねぇけどな」

 あっけからんと言い放つと、リラックスするあまり木造テーブルの上に顎を乗せて両腕を投げ出している天へと向き直る。

「ってなワケで、天。こっからは元・弟子とマジメなお話の時間なんで、お前は先に出ときな」

「えー、ま~たウチは除け者かよ。そりゃないぜ師匠、ウチだってそろそろ一人前だろ?いい加減に混ぜてくれてもいいじゃん」

 天は不満げに頬を膨らませてぶーたれている。その言い分を、釈迦堂は容赦なく一笑に付した。

「あのな、師事してたかだか数年のヒヨっ子がなに一丁前に生意気言ってやがる。川神院の連中が一人前と認められるまで何年掛かるか分かってねぇだろ」

「む~」

「ま、俺はあの甘っちょろい奴らと違って、才能のねぇ無能までわざわざ育てる気はねぇけどな。基本、俺が手間隙掛けて育てるのは金の卵だけ――でもって、お前はまだ孵化したばっかの雛ってトコか。要するにだな、今のお前程度じゃまだ半人前以下だっつの」

「うげ、キッツいなぁ」

 気怠げな口調とは裏腹に辛辣な言葉を受けて、天は言葉を詰まらせて凹んでいる。なかなか辛口な批評だが、まあ確かにその通りだろう。天に限らず板垣一家の連中はどいつもこいつも才能の塊だが、塊を研磨して完成した作品とするには相応の時間を要する。現時点で既に人外の域に踏み込んでいる板垣三姉妹だが、それでも未だポテンシャルを完全に引き出せている訳ではあるまい。考えるも恐ろしい話だが、連中はあくまで発展途上の身なのだ。

「そうは言ってもさー師匠、確かシンは中三の時には卒業してただろ?ウチらが弟子入りした時期、シンとあんまり変わんねーのによー」

「そりゃお前、比べる相手が悪ィんだよ。お前と信長じゃー才能に差が有り過ぎんだ。三年やそこらで教える事が殆ど無くなっちまった弟子なんざ、俺の武術家人生でこいつくらいのモンだぜ」

「……はー、改めて聞くとつくづくムチャクチャな話だよなぁ。あの亜巳姉ぇも辰姉ぇもまだ修行中だってのに。……まーでも、シンだもんなー。仕方ねーか」

 妬むでも羨むでも怒るでもなく、もはや何かを悟ったかのようなさっぱりした口調で、天は感想を漏らしていた。どのように荒唐無稽な無茶話でも確たる現実に変えてしまう理不尽な存在、それが天にとっての織田信長なのだろう。

 そして、そんな天の反応を観察しながら、釈迦堂はいかにも面白げなニヤニヤ笑いを浮かべている。いい歳したオッサンが何も知らない純真な少女を弄ぶとは、何とも趣味の悪い事だ。

 先程の釈迦堂は一見して俺の事を絶賛しているような口振りではあったが――その実、何一つとして褒めてなどいないのは明らかだ。確かに俺と天では才能の差が有り過ぎる。無論、それは天の方が圧倒的に絶対的に優れている、という意味で、だ。だからこそ俺は僅か三年の修行の中で自身の限界レベルまで到達し、半ば破門に近い形で修了してしまった。要は武人としての伸び代が絶望的であるが故の強制卒業、という事だ。“氣”に頼らず、純粋な技術を以って人外と渡り合う為の武術も川神流には存在するが、総じてそれらは、習得に要する期間があまりにも長期に渡る。ならば本領たる“威圧の才”に一層の磨きを掛けるべきだ、と判断したところ、「だったら俺に教えられる事は何もねぇわ。自力で頑張りゃいいんじゃね?」との投げ遣りなコメントと共に卒業を言い渡されてしまったのであった。天が脳内でイメージしているであろう規格外の麒麟児っぷりからはおよそ程遠い有様である。夢も希望もあったものではないが、まあ、現実とは得てしてそのようなものだ。

「ま、つーワケで、俺らの話に首突っ込むにはまだ早いってこった。そう長話をする気はねぇから大人しく待っときな。あんま聞き分けが悪ィと自腹切らせるぜ」

「ちぇっ、わっかりまっした~。――おいシン、ウチからも大事な話があんだからさっさと済ませろよ!」

 蚊帳の外に置かれるのも今日で幾度目か、天は予想通りに駄々っ子の如くふて腐れた表情である。憤然と俺達を睨みながら立ち上がると、靴音も荒く入り口の暖簾を潜り、肩を怒らせて店の外へと姿を消した。「またのご来店をお待ちしてるッス!」という体育会系チックに元気溌剌な店員の声が空しく響き、店内には静けさが戻る。元より立地の問題もあって繁盛からは縁遠い店であり、結果として現在の客は俺達だけとなっていた。

 釈迦堂刑部と、織田信長。かつての師弟が一対一で向かい合い、等しく闇に染まった瞳を交錯させる。

「態々天を遠ざけた以上、相応の案件であろうが――ならば此処で語るに相応しいとは思えんな。そも、人払いにしては、随分と半端なものだ」

 織田信長の仮面を脱いだ素の俺と言葉を交わす事が望みなら、残念ながらこのような場所は論外だと言わざるを得ない。俺の素顔は即ち最重要機密事項であるからして、扱いには細心の注意を払わねばならないのだから。壁に耳あり障子に目あり、などという使い古された諺を引っ張り出すまでもなく、正真正銘の目と耳が同じ店内に存在している現状、間違っても素を晒す事は出来なかった。

 ちなみに具体的にその正体を述べるならば、カウンターの向こう側からおっかなびっくりな様子でこちらを窺っている、バイトと思しき少女だ。俺と真正面から視線がかち会うと、ぎょっとしたように表情を引き攣らせた後、卑屈な笑顔を浮かべながらキッチンへと引っ込んでいった。

「ヒヒ、これで人払いは完璧だな」

「ふん、よもや本気で言っている訳でもないだろうが――何にせよ、胸襟を開き言を交わす機会を欲するならば、然るべき舞台を用意する事だな」

「相変わらず用心深いっつーかなんつーか、面倒くせぇ生き方してるな、お前はよ。ま、今回はそこまで突っ込んだ話をする気はねぇし、別にここでも問題ナシだろ」

「だが。天に席を外させる程度には重要な話である、と」

「あー、そいつはアレだ、天は今んとこ、色々と微妙な感じだからよ。その辺は本人に訊けば分かるだろうが、ま、アイツの耳に入れるにゃ都合の悪い話だな。……へへ、天に限らず、アイツら一家全員、聞かせるのはマズイか?要するに今日は、前に顔合わせた時に出来なかった話を改めて、っつーワケよ」

 釈迦堂は感情の読み取り辛い薄ら笑いを浮かべた。さて、俺と釈迦堂が最後に会ったのは、二週間ほど前か。図らずもねねとの出会いの切っ掛けとなった“黒い稲妻”の一件の最終局面にて、前置きもなく唐突に闇から出現したのがこの男であった。あの時は板垣一家が揃い踏みしていた事もあって、完全な表向きの会話しか交わさなかったのだが――今回はその補足にわざわざ赴いてくれたらしい。

 それは……何とも、ありがたい話だ。

 釈迦堂刑部は織田信長の秘密を握る数少ない人間の一人であり、その動向は疑いなく俺の行く末に大きく関わってくる。意思確認の機会は、どうしても必要だった。

「俺に訊きたい事があるなら今の内だぜ?元・弟子の縁に免じて、まぁ答えられる範囲でならマジメに答えてやるからよ」

 釈迦堂もそれを心得ているからこそ、こうしてこの場をセッティングしたのだろう。未熟極まる昔日の俺を暴力的に教え導いたこの男は、或いは世界の誰よりも俺の内実を正しく理解している。俺の望みも俺の願いも俺の夢も、全てを余すところなく認識している。その元・師匠が用意してくれたチャンスであるならば、元・弟子としては存分に利用させて貰わねば逆に失礼というものだ。

 しかし、“訊きたい事”――か。そんなものは幾らでもあるが、その全てに対して律儀に回答してくれるほどこの男はお人好しではない。となれば必然、優先すべき質問事項を選別しなければならないだろう。思考を巡らせ、脳内を一度整理する。

 ……。

 やはり、最初に投げ掛けるべき問いは一つ、か。

 思考を纏め、面を上げる。そして俺は、にやつきながらこちらを眺める釈迦堂の不吉な相貌を、気迫を込めて射抜いた。

「ならば、問おう―――釈迦堂刑部は、俺の“敵”であるか、否か」

 裏も表も無い、駆け引きも引っ掛けも無い、ただひたすらに単純明快な問い掛け。

 それを受けて、釈迦堂はくつくつと笑った。いかにも愉快そうに肩を震わせながら、鷹揚に俺を見返して口を開く。

「……ヒヒ、そいつはイイ質問だ。お前にとって重要なのはまさに“そこ”だわな。確かにそこん所を知るのに、ゴチャゴチャした細かい質問なんざ必要ねぇよな?シンプル・イズ・ベスト、気に入ったぜ。伊達に三年間も俺の弟子やってた訳じゃねぇって事か」

「気味の悪い賞賛は止めろ。俺が求めているのは疑問に対する回答のみだ」

「へへ、そう愛想が悪ィと人生に潤いが無くなっちまうぜ?それとも、焦ってやがんのかねぇ――“マロード”の事で、よ」

「…………」

 懸念の核心に遠慮なく踏み込んだ言葉に、思わず沈黙を選ぶ。そしてその対応は、何よりも雄弁な肯定となっただろう。

 マロード。

 その存在を一言で形容するならば、織田信長の“敵”――それで事足りる。

 眼前にただ在るだけで、手を尽くせば排除は容易な“障害”とは一線を画す、明確な害意を以って牙を剥く“敵”。以前に電話越しの会話を交わした時から、その存在は俺の脳裏に強く刻み込まれていた。真の名前も顔も、性別すらも徹底的に隠匿された謎の存在でありながら……否、謎に包まれているからこそ、強烈な印象を残したと言うべきか。

『君さ、世界のこと憎んでるでしょ。そりゃもう、滅茶苦茶にしてやりたいくらい』

 鮮明に蘇るのは、捨て台詞の如く放たれたあの言葉。不可解なまでの確信に満ちた声音が、耳にこびり付いて離れない。終始人を食ったようなふざけた態度を取っていたマロードの言動など、所詮は下らない戯言の類だと切り捨てるべきなのだろうが――どうにも引っ掛かる。

 それに、そういった抽象的で曖昧な気掛かりを抜きにしても、マロードは現実として危険な存在だ。あの暴れ馬ならぬ暴れ竜とでも言うべき板垣一家の手綱を握り、織田信長と敵対する意思を明確に示している……勿論それだけでも十分に捨て置けないレベルの大問題だが、更なる問題は、未だにその正体が欠片も掴めていない点だった。俺が川神の地に巡らせたあらゆる監視の目と情報網を擦り抜けて、マロードは悠々と暗躍している。あれ以降は目立った動きを見せてはいないものの、俺が“敵”と断じた存在が堀之外の地で呼吸を続けている事実は動かせない。織田信長の威信に懸けて、早々に引き摺り出して叩き潰さねばならないだろう。

 奴の最大の懸念事項は、その求心力。誰にも従わず靡かない板垣の連中をも手懐けた手腕。その得体の知れない人心掌握の術を以って、暴力の化身たる凶獣を己が陣営へと引き入れたという事実だ。俺の眼前に居るこの怪物を思うままに操縦出来ると云うならば、当人も立派な怪物に他ならない。

「要するに、お前はこう聞きてぇ訳だ。俺がマロードの味方なのか、お前の味方なのか。だろ?」

「……然様、だ。釈迦堂刑部の名は、軽くはない。天秤を揺れ動かすには十分過ぎる程の重みを、疑いなく有していると云えよう」

「へへ、そう褒めんじゃねぇよ。本当の事とはいえ照れるじゃねぇか」

 茶化すように言う釈迦堂だが、しかし俺としては笑い事ではない。この男が真の意味で“敵”に回るとなれば、俺は本気で覚悟を決めなければならないのだから。川神院に於いて師範代を務め得た圧倒的な武力は、改めて言うまでもなく脅威そのものだ。幾ら世界最強たる川神百代には及ばないと言っても、それは月輪の質量が日輪に及ばないと言っているようなもので、つまるところ物差しのスケールが違う。地上で無様に足掻く俺にしてみれば、いずれも手の届かない彼方の存在である。少なくとも――今は、まだ。

「で、その質問の答えだがな……“両方の味方”ってのが正直なところだ。マロードの味方であり、同時にお前の味方でもある。ヒヒ、心優しい俺はいつだってみんなの味方、ってな」

「……」

「そう怖い目で睨むんじゃねぇよ。これでも俺は約束通り、マジメに答えてるんだぜ?もっと分かりやすく言うと、俺は“約束”を破っちゃいねぇし、取り敢えずは破る気もねぇって事だ。これでお前には十分味方してる事になるだろ?でもって、マロードは今の俺の雇い主。仕事なら指示には従うし、お前を潰せと言われりゃー情け容赦なく潰しに掛かるだろうよ。そういう意味じゃマロードの味方なんだろうが――ま、最終的にどう受け取るかはお前次第だな」

「……」

 ……そういう事ならば、ひとまずは安心だ。俺にとっての火急の危機は無い。

 俺が誰よりも釈迦堂刑部を敵に回す事を恐れているのは、その反則級の武力だけに因るものではなかった。最大の危惧は、釈迦堂が俺の過去を知り、俺の実力を知り、俺の素顔を知り、俺の夢を知っているという点に尽きる。直臣を除くあらゆる人間に対して徹底的に隠し通してきたこれらの真実を、万が一にでも暴露されるような事態になれば、織田信長は絶体絶命の危機に追いやられる事は間違いないだろう。最悪の場合に備えて挽回の手段は用意しているが、それとて応急処置の域を出るものではない。所詮は焼け石に水、杯水車薪――受けてしまった致命傷を完治させる事は不可能。

 故に、釈迦堂が昔日に俺と交わしたとある約束を反故にするような事があれば、確実に窮地に立たされる羽目になっていたのだが……その心配は今のところ杞憂に終わったようだ。視線を落とし、小さく息を吐き出して、波風の立ち掛けていた心と心臓の動悸を静めながら、俺は釈迦堂に向き直った。

「……成程。ふん、手足は不在、助勢は望めず。俺を討つならば今を越える好機はないが?」

「そこはまぁお察しの通りだな。今は様子見の段階っつー事で、手出ししないように言われてんのさ。実際、マロードのお前への警戒っぷりは相当なもんだぜ?迂闊に仕掛けりゃ呆気なく潰されるのはこっちの方だ――ってよ。ヒヒ、やっぱ戦う力がねぇ人間にしてみればお前みたいな規格外は怖いんだろうよ」

「然様に畏れるならば、元より這い蹲って震えていれば良いものを。危険と脅威を知りつつ、敢えて俺を敵に回す意味……解せんな」

 十年。俺は実に十年の年月を費やして、俺は織田信長の威光を堀之外に浸透させてきた。歯向かう者を悉く討ち滅ぼし、あらゆる反抗の芽を容赦なく摘み取り、その名を拭い得ぬ恐怖と共に刻み込んできた。全ては織田信長への敵対者を根絶する為の所業。それらの成果は確かに表れ、近頃では一種の規律によって治安の保たれた、冷厳な静寂が街を包んでいたと云うのに――新たな“敵”の存在によってまたしても騒乱の種が撒き散らされようとしている。全く以って、忌々しい話だ。

「前にも言っただろ?マロードはそこらのチンケな密売人たぁ訳が違う、ってよ。あいつとお前は似てる。腹の中も心の中も見事に真っ黒っつー意味でな。似た者同士の関係なんざ、同調するか反発するかのどちらかだろうよ。で、マロードにとっちゃ、お前は目障りな邪魔者に他ならねぇのさ」

「ふん。目障りも邪魔者も俺の台詞であるが、な。そして、あのような輩と俺を同類扱いするのは止めろ。不愉快窮まる」

「お前がいま感じている感情は精神的疾患の一種……じゃねぇが、いわゆる同属嫌悪って奴だろうさ。ま、根っこの本質が似てるとは言っても、属性となると話は別――むしろベクトル自体は逆方向か。だからこそ相容れねぇんだろうけどな」

「この期に及んで勿体を付ける必要があるのか?貴様、何が言いたい」

「別に勿体振ってるつもりはねぇよ。板垣の悪ガキどもに、俺。本来なら自分以外の誰かに従おうなんざ夢にも思わねぇ、言ってみれば野生の猛獣だ。だったら――どうして俺達がマロードの下に付こうと思ったか?それは、“お前とは正反対の思想の持ち主だから”なんだよなぁ。ヒヒ、納得しただろ?何せお前、俺や板垣の奴らを含めた、裏の連中の事――」

 反吐が出るほど、嫌いだろ?

 そう言って、釈迦堂は呵呵と笑う。禍々しく歪んだ形相は、万人に嫌悪と恐怖の念を抱かせるだろう。形容するならば、邪悪の申し子たる悪魔の笑顔。

 だが、人の事をとやかく言える立場ではない。何故ならば、俺もまた、眼前の男と同様の笑みを浮かべているであろうから。

「……くくっ」

 そうかそうか、そういう事ならば、納得する他無い。

 改めて思い返してみれば、マロードは板垣一家を呼ぶ際に、“同志”という言葉を用いていた。それはつまりそのままの意味だった、と言う事か。手綱を握るのではなく、放し飼い。危険極まりない猛獣の扱い方としては、確かにそちらの方が適切だろう。実に正しい方法だ。だが、だからこそ。

「……成程、な。得心した。そして……くく、改めて認識したぞ。マロードとやら、紛れも無く、俺の“敵”よ――不倶戴天の匹夫、必ずやこの手で滅してくれよう」

 俄然、殺る気も沸いて来ようというものだ。単なる“敵”ならば処理が煩わしいだけの存在だが、よりにもよって織田信長の眼前にて“そういう思想”を嘯くならば、俺としても喜び勇んで叩き潰したくなる。否、何としても潰さなければならない。徹底的に破砕し圧潰する事で、思想の源から根絶せねばならない。

 混沌の坩堝たる現世に、氷塊の如き絶対的な静寂を。

 騒乱の跋扈する俗世に、煉獄の如き破滅的な終焉を。

 それが、それこそが、俺の夢へと至る正道だ。果てしない高みへの一歩として、マロードには栄誉ある踏み台の役割を果たして貰わねばなるまい。無様に這い蹲らせ、泣いて許しを乞う姿を見下し、嘲笑い、存分に鑑賞するとしよう。

 そんな未来図を脳裏に描けば描く程に、口角が吊り上っていく。湧き上がる衝動のままに、哂う。

 どうにも身体が熱い。昂った気分を鎮める為に、冷水の注がれたコップへと手を伸ばす。ひんやりした心地良さが掌に触れた瞬間、ばきゃり、と呆気ない音を響かせて、掌中のコップが砕け散った。

 飛び散った破片がテーブルに転がり、広がる水溜りの中に埋没していく。

 映画でも観ているかの如く現実感の伴わない光景を、熱に浮かされたような茫洋たる意識で俯瞰する。

 そして――俺の視線の先にて、釈迦堂刑部の暗く澱んだ双眸が、満足気に細められた。







 その少年と初めて出逢った時。総身を駆け巡った戦慄を、釈迦堂刑部は今に至るまで忘れていない。

 恐らくは十代の半ばにも満たないであろう、正真正銘の子供だった。個人差はあれど両親の庇護の下で安穏と日々の糧を得、義務教育の有難みを知る事もなく暢気に毎日を過ごす。日本という平穏無事な国家においては、そんな在り方がスタンダードな年頃だ。それが普通で、自然で、当然。

 故に、その少年を形容するならば、こう述べるのが適切だろう――“異常な不自然だった”、と。

 眼前に現れたのは、正しく殺意の塊というべき存在だった。死という概念が人の形を取っているとしか思えなかった。あたかも自身を取り巻く世界そのものを呪っているような、苛烈な憎悪に満ちた目。絶えず全身より振り撒かれる凶悪な圧力は一流の武人を遥かに凌駕し、並大抵の闘いでは小揺るぎすらしない釈迦堂の精神をして緊迫せしめた。子供らしい雰囲気など、何処を眺めても見当たらない。背丈も顔立ちも年相応で、外見的特徴に取り立てて目立った部分が見受けられないだけに、尚更その異常性は際立っていたと言えよう。

 これは傑物だ。疑いもなく、そう思った。自身もまた幼少の頃より図抜けた武才を発揮し、周囲から鬼子として忌み嫌われていたが、この少年の資質はそんな自分すらも軽々と超えるだろう。ならば、珠玉にも似たそれを磨き上げた果てにはどれ程の化物が誕生するのだろうか――正道を外れた身と言えども一個の武人だ、興味を惹かれない道理は無かった。院に居た頃の弟子、あの川神百代にすら匹敵するやもしれない“最強”の卵。自らの手で育て上げてみたいと、そんな純粋な欲求が頭の端に浮かぶのは当然だった。

 なればこそ、不意に紡がれた、自身を師に望むという少年の言葉――その響きに心を動かされたのもまた、当然の帰結。

 武道に対する思想の食い違いから川神院を追放されたのは、僅か数年前の話だ。堅苦しい院の体制と袂を別ったあの日以降、釈迦堂は一度たりとも門を潜る事を許されていない。剥奪された師範代の地位は、望んだ所で易々と取り戻せるものではなかった。故に、釈迦堂刑部は外れ者だ。もはや天下に名高き川神院の武人では、ない。そして川神流の武術は、門外不出を原則としている。既に何処にも属さない一介の武人である自分が独自に弟子を取り、本山に対し何の断りも無く川神流武術の数々を仕込んだとなれば。その事実が露見したとなれば、まず間違いなく川神院からの容赦ない“制裁”が下されるだろう。そうなれば、今度こそ追放などという生温い罰では済まない。武人の生命たる五体を捥いで二度と闘えぬ体にされるか、或いは生命そのものを断ち切られるか……その程度のリスクは覚悟しなければならないのは確かだ。

『いいぜ。ただし、条件付きだがな』

 故に、試す事にした。眼前の少年が、リスクに釣合うだけのリターンを与えてくれるのか。それほどの覚悟を据えて師を務めるに足る逸材なのか、身を以って確かめた上で判断する事にしたのだ。

『そう構えんじゃねぇよ、話はシンプルだ。実戦形式で、俺から一本取ってみろ。それが出来りゃ合格だ。才能の欠片もねぇヤツに時間費やすだけムダだからな』

 そんな風に言いながらも、実際に少年の実力を疑っていた訳ではなかった。自分を一瞬でも呑むような桁外れの気迫の持ち主だ、若過ぎる程に若いと言えども断じて只者ではないだろう。事実として世界には百代のような規格外の“例外”も居る。この少年もまた、そうした反則存在の一人なのだろう――と。

『……おいおい。こりゃ何の冗談だ?』

 だが、現実は釈迦堂の予測と大きく食い違った。軽い牽制のつもりで繰り出した拳を防ぎもせず、避けもせず捌きもせず、見事なまでに真正面から突き込まれ、胃液を吐き散らしながら地面を転がり回っている少年の姿を見下ろしながら、呆気に取られて立ち尽くす。

 脆弱だった。貧弱だった。あまりにも、弱過ぎた。否、世界最強に迫る暴力に晒された以上、その無様な姿は当然のものなのだろう。ましてや相手は年端もいかぬ少年なのだから、それが正常だ。ただ、釈迦堂が望んでいたモノは詰まらない正常などではなく、現実を笑い飛ばすような異常だ。脳内にて描いていたイメージとは、全く以ってそぐわなかった。幾ら何でも余人に百代のレベルを求めるのは酷かもしれないが、“これ”はそれ以前の問題だ。念の為にその後も何度か拳を振るって様子を見たが、やはり求めていた才能の煌きは欠片も見受けられなかった。よほど場慣れしているのか、同年代の子供達とは比べるべくもない“勘”の鋭さだけは持っている様だが、そんなものは場数を踏めば大抵の武人が自然と身に付ける、所詮は経験の賜物。評価には値しない。何より、釈迦堂が弟子に望むのは目を見張るような資質のみだ。少年からは、肝心のそれらが何一つとして感じられない。地に這い蹲って尚、全身より発される得体の知れない威圧感だけが、凡俗と少年を隔てる唯一の事項だった。

 ハッタリ。見掛け倒し。張子の虎。――そんな言葉の数々が頭に浮かび、悶える少年の襟首を掴んで持ち上げながら、無慈悲に問い質す。苦しげに喘ぎながら返ってきた答えは、それらの思考を肯定するものだった。曰く、威圧のみに特化した歪な才能。故に、紛い物の力を本物に変える為の武術が必要なのだ、と。絞り出すような声で訴える。その必死の懇願を耳にした瞬間、釈迦堂は、醒めた。先程まで胸に湧き上がっていた期待と高揚は、誤魔化せない失望と落胆へと変じて心を冷やしていく。何度も何度もえずきながら言葉を重ねる少年を無造作に払い除けて、冷酷な眼差しを叩き付けた。

『んだよ、金の卵かと思ったら何と驚き、金メッキ塗装だったってか?笑えねぇ冗談だぜ、ったくよ。小僧、よーく覚えときな。俺は選ばれた天才。んで、俺の弟子になれるのも選ばれた天才だけなのよ。雑魚の養殖に興味はねぇんだわ、これが』

『…………』

『悪い事は言わねぇ、大人しく川神院の門を叩いときな。あそこは笑っちまうほど温い連中揃いだからよ、お前みたいな普通君でも死ぬほど頑張りゃ認めてくれるだろうさ。ルーの野郎なんかは喜んで世話を焼きそうだしな。ヒヒ……ま、その悪魔みてぇなナリじゃ受け入れられねぇかもしれねぇが、そん時は自分のクソの役にも立たねぇ“才能”とやらを恨むこった。じゃあな小僧、二度と会う事もねぇだろうが、精々努力して師範代にでも何でもなってくれよ。心優しい俺は日陰から応援してるぜ』

 期待外れの雑魚には、興味も関心も湧かなかった。立ち上がる事すら出来ない様子の少年を嘲笑いながら踵を返し、場を立ち去る。既に才無き哀れな少年の事は思考から締め出され、少し前から自己主張を始めた胃袋に何を放り込むかを思案しながら歩き始めた瞬間――その歩みは早々に妨げられた。踝の辺りを恐ろしいほどの力で握り締める手によって、否応なく停止せざるを得なかった。

『おいおい、こりゃ何のつもりだよ小僧?今なら許してやるから手ぇ放しとけ。大人ってのはよ……怒らせると、コエェぞ?』

 子供に向けるには凶悪過ぎる殺気を込めて睨み据えながら、恫喝の響きを帯びた言葉を放つ。元より、釈迦堂は気の長い種類の性格の持ち主ではない。無用に自分を煩わせる相手に対してまで遠慮や容赦をしてやるほど寛大ではないし、そういった気質故に最終的に院を追放されたとも言える。それ故に、先程の言葉は事実上の最後通告を意味していた。これでも手を放さないようなら、その時は。

 そして――少年の返答は、足首に食い込む五本の指が如実に物語っていた。

 次の瞬間、釈迦堂の爪先が少年の腹部を抉るように突き刺さる。先の試験のような小手調べなどとは訳が違う、相手を壊さんとする意志の込められた凶悪な一撃だ。本気でこそないが、手加減もしていない。常人ならば耳を塞ぎたくなる様な暴力的な音響を引き連れて、その未成熟な身体は呆気なく吹き飛んだ。

『これに懲りたら、ちったぁ引き際を弁えるこった。駄々を捏ねるのはママの前だけにしときな』

 子供に対して容赦ない暴力を振るった事を反省するでもなく、平然たる表情で言い捨てる。地面に倒れ伏してピクリとも動かない少年を一瞥すると、釈迦堂は飄々と背を向けて――

『……今のは割と、真剣だったハズなんだがな』

 背後で動きを見せた気配に、再び足を止める。振り向けば、少年は両の足で立ち上がり、真正面から釈迦堂を見据えていた。勿論、ノーダメージ、などと言う事は有り得ない。所詮は人並み程度の頑強さしか有さない脆弱な少年が、元川神院師範代の繰り出す手加減抜きの蹴りをまともに受けて、無事で居られる道理はなかった。それを証明するかのように、少年の呼吸は末期の吐息の如く苦しげで、激しい苦痛に耐える為か表情は歪んでいる。肋骨が数本イッて、内臓にも相当なダメージってところか、と釈迦堂の中の武人としての意識が冷徹に分析する一方で、それ以外の思考は驚きに彩られていた。受け流した訳でもなく、防いだ訳でもなく、百代の如く瞬間的に再生した訳でもなく――常人ならば意識を保っていられない程のダメージをそのまま被りながら、恐らくは己の意志だけを頼りに苦痛に耐えて立ち上がるという事態。それは、想定していなかったものだった。無力な癖にことごとく自身の予想を裏切る少年に対し、次いで湧き上がるのは感嘆ではなく、苛立ちの念。半死半生の態で立ち続け、生意気にもフラフラと覚束ない足取りで歩み寄ってくる餓鬼を、釈迦堂は暗い目で睨んだ。

『我慢強さは褒めてやるけどよ……いい加減にしつけぇんだよ。さっさと寝てなぁ!』

 幾多の武道家生命を断ち切ってきた拳打が空気を切り裂き、胸骨を撃ち抜き、無慈悲にその体躯を弾き飛ばす。それで終わりだと、確信していた。

 しかし――少年は立ち上がった。

 幽鬼の如く。亡者の如く顔を上げ、悪鬼の如く目を爛々と光らせて、怨霊の如く釈迦堂をじっと見つめながら、血反吐に塗れた言葉を吐き出す。

『力だ。そうだ、これだ、この力だ!俺が欲して止まないものは、弱者を挫くだけのしょぼくれた力じゃあない。己を強者と嘯き弱者を虐げる者に、敗北の屈辱を見舞ってやれるほどの、圧倒的な“力”!く、くく、良いじゃないか、俺は運が良い!はは、手を伸ばせば届く場所に、あれほど、あれほど焦がれた“力”が転がっている……!逃すものか。逃してたまるかよ――ぅ、が、かはっ』

 激しく咳き込むと同時に逆流した血液が排出され、赤い水溜りを足元に形作っていく。しかし当人はそんな事を気に留めてすらいないのか、狂気の色を宿した闇色の瞳で、激情に血走った目で、真っ直ぐに釈迦堂だけを注視し、何かを掴み取ろうとばかりにその指先を伸ばしている。釈迦堂刑部という個人ではなく――その先にて己が手にするであろう“力”を餓狼の如く渇望し、夢想している。それは恐らく、妄執と呼ぶべき想いなのだろう。

『僕は、俺は――二度と!そうだ、踏み躙られないためには、踏み躙るためには、力が必要なんだよっ!』

 既に意識も定かではないのだろう。血を吐き散らしながら叫ぶ言葉は、明晰な意味を成していない。

 しかし、だからこそ――其処に込められた感情は剥き出しの生身で、何よりも雄弁に少年の真情を語っている。この世の全てに対して怨嗟の念を撒き散らしている少年が最も強く憎むモノは、己の無力。弱者故の悲嘆。それは世界には掃いて捨てるほどに溢れていて、悲しいくらいに在り来たりで、そして強者たる釈迦堂の人生には縁の無い事だった。悲嘆も妄執も所詮、醒めた心を動かすには足りない。だが、その悲痛な叫びには、完全に失われていた少年への興味を、僅かに呼び戻す程度の意味はあった。

『……ヒヒ。小僧、俺は長年武人をやってるがよ……お前ほど力に餓えてるヤツは見た事ねぇぞ?お前、何だってそう強くなりてぇんだ』

 それは単なる興味本位からの問い掛けで、本当にそれ以上の意味は無かった。目の前の少年にどのような事情があったところで、過去にどれほどの悲劇を体験してきたところで、それらの事実は釈迦堂にとって何の意味も有さない。人間の善性を嘲笑って憚らない釈迦堂という男が、お涙頂戴のストーリーに心動かされる事は有り得ない。ただ、これだけ必死になる以上は必然として相応の理由がある筈で、その内容は暇潰しに聴く分には面白そうだ、と気紛れを起こしただけ。

 しかし――その些細な気紛れが、少年の、或いは釈迦堂刑部の運命を、大きく変えた。

『あ?何で?く、くく、そんな事、訊くまでもないだろう』

 ぺっ、と口内に溜まった血を吐き出してから、ほとんど前後不覚になっているような奇妙な語調で、少年が紡いだ言葉。

 その一言に込められた計り知れない混沌こそが、どのような訴えよりも確かな力を以って、釈迦堂の心を動かした。

『――“アンタみたいな思い上がった輩を、一人残らず足元に跪かせる為”に決まってるだろうが』




 

「……ヒヒ。最近はすっかり大人しくなっちまったもんだと思ってたが――見当違いだったらしいな。ああ懐かしいねぇ、あの頃と同じ顔をしてやがるぜ、お前。それでこそ……わざわざ面倒な約束に付き合ってやってる甲斐があったってもんだ。そうそう、お前は最初から“そう”だった――そうでなくちゃ面白くねぇよな!」

 テーブル越しに向かい合う、かつての弟子が垣間見せた静かな激発に、釈迦堂の口元は歪んだ三日月を形作る。

 無力な餓鬼には不釣合いな、傲岸で、不遜で、そして名状し難い程の野心と覇気に溢れた宣言を聴いて、面白ぇ、と興味を抱いたのは数年前。あの頃の自暴自棄にも似た狂騒っぷりに比べると、最近の少年――信長は随分と落ち着いているように映る。大人になった、と言うべきなのかもしれない。どうしようもなく未熟で不安定だった精神は年を経るにつれて磐石の様相を見せ、ともすれば暴走に繋がりかねない情動の激しさも理性の下に制御出来るようになっている。釈迦堂としては成長の代償として“牙”が抜け落ちてはいないかと疑っていたのだが、成程、余計な心配りだったらしい。三つ子の魂百まで、と言うのはやや違うだろうが、少なくともその心の根底に巣食う歪みは、果てしない野望に向かってその心身を邁進させる狂気じみた激情は、僅かたりとも失われてはいない。

 それでいい。牙の抜けた猛獣に鑑賞の価値は無く、意思の欠けた人間に未来の可能性は無い。何より、平和を感受し、野心を見失った織田信長など、釈迦堂には興味が無い。故に、わざわざ三年間もの時間を費やして育て上げた弟子の心根が、未だ昔日のまま変わらずにいた事実は大いに歓迎すべきものだ。

 それをこうして確認出来ただけでも、今日の対話の目的は十分に果たせた。豚丼大盛り二杯プラスとろろ×2という太っ腹な奢りの甲斐もあったというものである。

「あ、あの~、何だか凄い音がしたんスけど一体……ってコップがっ!?」

「……くく、どうやら力加減を誤った様だな。不注意で備品を無用に損じた責任は俺にある。賠償ならば――」

「いえいえいえいえどうかお気になさらずッス!自分が不注意で割った事にしておくッスから!」

「ふむ?然様、であるか。くく、貴様、中々見所があるな」

「へ、へへへ。何といってもお客様は神様ッスからね、ええもうこれくらいは当然ッスよ!」

 バイトらしき少女の屈託の無い元気な対応は、一見して模範的な接客精神に満ち溢れているが、よくよく見れば微妙に涙目になっている辺り、下手に文句を付けたりして目を付けられたくないという卑屈な本音が浮き彫りになっている。今の信長が発している普段以上に濃密な殺気を前にしては、まあ無理もない反応なのかもしれない。少女は大慌てで飛散したガラス片を回収し、テーブルに零れた水を拭き取り終えると、そそくさとカウンター奥へと引っ込んでいった。

 その様子を見届けてから、釈迦堂はのんびりした動作で腰を上げて、信長を眼下に見下ろしながら口を開く。

「さーて……んじゃ、俺ぁそろそろ行くわ。お前も訊きたいコト訊けて満足だろ?それに、あんま長引かせると天のヤツに何言われるか分かったもんじゃねぇからな」

「くく、悪名高き釈迦堂刑部ともあろう者が、弟子の機嫌取りに振り回されるとはな。師匠としての威厳とは何だったのか」

「バッカ、弟子だろうが何だろうが女ってのは怖ぇんだぜ?特に天みてぇに青春真っ盛りの年頃の女なんざほとんど爆弾みてぇなもんだ。お前も気を付けろよ、あいつらに理屈は通じねぇ。特にお前、自覚してんのか知らねぇが、色々と気ィ回せてるようで実際のところ相当に無神経だからな……墓穴掘って地雷踏んで爆死してそのまま埋まるんじゃねぇぞ」

「ふん。態々言われるまでもなく、俺は然様な失態は犯さん。余計な世話だ」

「ヒヒ、どうだかねぇ。後ろから女に刺されて、なんつー笑えねぇ死に方だけはしてくれんなよ。師匠やってた俺が恥ずかしいからな」

 おちょくるような釈迦堂の言葉を、信長はもはや答える価値すらないとばかりに黙殺した。人を弄って遊ぶのは大好きな割に、自分が遊ばれる側に回るのは望まない――相変わらず気位の高いヤツだ、と釈迦堂は小さく笑う。傲岸不遜で横暴無比な“織田信長”というキャラクターはあくまで仮面だ、と当人は主張しているものの、実のところ、素の性格とそこまで乖離している訳ではない事を釈迦堂は知っている。信長は基本的に自分勝手で尚且つ他の迷惑を顧みようとしない、多分に自己中心的な性格の持ち主だ。どの程度の自覚があるのかは、未だに判然としないのだが。

 出会いは確か信長が中学に進学する頃で、かれこれ五年ほど前か。思えば、この生意気な少年とも結構な付き合いになる。人前では絶対に崩さないと言う頑なな無表情を、釈迦堂は改めて眺めた。

「しかし……強くなったよなぁ、お前」

 ふと、そんな呟きが漏れる。

 戦闘能力、単純な武力という意味ではなく、一個の人間として総合的に。見違えるほどに、強くなった。ただ喧しく吼えるだけで実際には何も出来なかった餓鬼が、これほどまでに変わるとは。ある意味では釈迦堂が期待した通りの在り方だが、考えてみれば空恐ろしいまでの成長と言って良いだろう。

「本当に強くなったモンだ。正直、すぐにくたばるか挫折するかのどっちかだとばかり思ってたんだがな……まさか、かれこれ五年も保つとは驚きだぜ。今や堀之外の裏の顔、泣く子も殺す恐怖の大魔王だ。実際、コイツは大した化けっぷりだと思うぜ?」

 “威圧の才”などという、一見してハッタリ以外の用途が存在しない異質な才能を除けば、信長はどこまでも凡人だった。あれほどまでに熱望して教えを乞うた武術の領分においては、兄弟弟子である板垣三姉妹の足元にも及ばない。そして話は武力に限らず、人智を超えた天才的な才能など、何一つとして持ち合わせていなかった。それでいて、胸に抱える野望は才に不釣合いな程に巨大で、本来ならばその重みを前に成す術も無く潰れるのが順当な結末だった筈だ。だが、信長は足りない能力の全てを、血反吐を吐くような努力と創意工夫で埋め合わせて、尚も前に進もうと足掻き続けている。その意志を認めたからこそ、釈迦堂は此処に到るまで信長を切り捨てる事はしなかった。“氣”の扱いに関する才能が壊滅的だと知らされた時、それでも諦めずに道を模索し続けた気概は、間違いなく賞賛すべきものだ。努力さえすれば必ず物事を成せる、などという甘い思想を肯定する気は無いが、事実として信長が確かな成長を見せている以上、無碍に全てを否定する必要も無いだろう。故に、釈迦堂刑部は、織田信長を一個の武人として評価している。

 だが。

「ただな――それだけじゃ、足りねぇんだよなぁ。お前はお前なりに真剣で頑張ってんだろうが、届かねぇんじゃ何の意味もねぇよ。それは、お前も分かってんだろ?」

「……」

「さっきも言った通り。義理堅い俺は今んとこ、律儀に約束を守ってるがよ……お前の側で約束を果たしてくれねぇんじゃ、俺の気が変わっちまっても文句は言えねぇよなぁ。散々大見得切った挙句、『やっぱ無理でした』――なんて腑抜けた泣き言抜かしやがったら、冗談抜きでぶっ殺すぜ?」

 にやにやと笑う口元とは裏腹に吐き出された言葉は鋭く、元・弟子を射竦める眼光には獣の殺意が宿っている。並大抵の武人ならばこの時点で呑まれ、身動きすらも侭ならなくなるだろう。だが、信長はこと“殺気”の扱いに掛けては釈迦堂ですらも及ばないプロフェッショナルだ。鉄壁の無表情は小揺るぎすらせず、その内面を読み取る事を許さない。信長はただ煩わしげに小さく溜息を落とすと、醒めた調子で口を開いた。

「ふん。云いたい事は、それだけか?元より、俺は歩みを止める心算など皆無。今は至らずとも、いずれ必ず辿り着く。改めて口にするまでもない事だ」

「ヒヒ。そうかよ、そいつは結構。ま、だったら精々気張るこった。互いの為にも、な」

 曲がりなりにも激励の意を込めた親切な言葉を投げ掛けてやったが、返答は鋼のように冷たい沈黙だった。信長の視線は既に釈迦堂の方を向いてさえいない。随分とまあ嫌われたモンだな、と皮肉げな苦笑を浮かべながら、対話の終了を悟る。

 千円札を三枚ほどテーブルの上へと無造作に放って、「またお越し下さいませッス!」と元気な見送りの言葉を背に受けながら、釈迦堂は梅屋の暖簾を潜った。

「お、師匠!やっと話終わったのか?待ちくたびれたぜぇ。……ってあれ、シンは?」

「あー、あいつはまだ店ン中だ。ちなみに今、ちょっと気ィ立ってるっぽいぞ。告白するなら後日に回すのが正解だな」

「こ、告白だぁ!?いきなり何バカ言ってんだ師匠、ウチとシンはそんなんじゃねーっつの!」

「あ?違うのかよ。大事な話がどうこう言ってたから、こりゃいよいよかと思って期待してたんだがな。何だ、面白くねぇなぁ」

 顔を真っ赤にしてギャーギャーと喚き立てる単細胞の弟子を適当にからかってから、馬に蹴られる前にとばかりに退散。人気の無い裏路地を抜けて、騒々しい街の雑踏へと姿を紛れ込ませる。

 夜の帳が下りた堀之外の街並みは、しかし静寂の闇に包まれる事はなく、ネオンの毒々しいまでに鮮やかな輝きによって活気付いていた。メインストリートたる親不孝通りには今宵もまたあらゆる悪が集い、眩暈がするような混沌を形作る。誰も彼もが己の望むがままの享楽を無秩序に貪り、法を犯し禁忌を破る。

 今しがた擦れ違った者も、その一人だろう。夢見るかの如き虚ろな目で、足取りも危うくフラフラと歩く若者の姿を見送って、釈迦堂は酷薄な笑みを浮かべた。

「ユートピア――ねぇ。そのネーミングはちっとばかり皮肉が効き過ぎだぜ、ったくよ」

 脳裏に浮かぶのは、年に似合わない絶望の闇を抱えた、現在の雇い主。

 “彼”もまた、面白い存在だ。気紛れに手を貸す事に抵抗を覚えない程度には、釈迦堂の関心を惹き付けるだけの魅力を備えている。

「考えてみりゃ――あいつら。同い年で、しかもアレか。すげぇ偶然だなオイ。運命ってヤツなのかねぇ」

 ベクトルこそは別方向でも、同様に怖気の走るような情動を胸に秘めた二人。

 いかなる場合においても似た者同士の行く末は同調か反発か。ならば、激突の時が訪れるのは必然と言うべきなのかもしれない。


「ヒヒ……“祭り”の時は近いぜ、小僧。“意志の力”とやらでどこまで頑張れるか、見せて貰おうじゃねぇか」


 混沌の獣が、闇の中で哂う。

 
 種は秘かに蒔かれつつある。機は静かに熟しつつある。


 川神の地を覆う巨大な戦火は、遠からぬ未来にまで迫りつつあった。














 


 まず最初に、更新が遅れてしまい申し訳ありません。
 ここ最近は殺人的な忙しさが続いており、構想だけが虚しく頭の中に出来上がっていく辛苦の日々でした。具体的にどの程度忙しいかと言うと、発売日に購入したダークソウルを未だに起動できないレベルです。今後については早くとも十二月の半ば辺りまでは落ち着く目処が立たないので、後編の投下も遅れる可能性が高いですが、気長にお待ち頂けると幸いです。
 しかし改めて見直してみると、牛丼屋で延々とオッサンと語り続けるだけの話に需要があるのかという拭い難い疑問が……釈迦堂さんは個人的に好きなキャラなのですが、冷静に考えると花の無さがマッハですね。一応その辺りは後編でフォローされる予定ですのでご勘弁を。それでは、次回の更新で。



[13860] 天使の土曜日、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:ca43bb04
Date: 2011/11/26 12:44
「なんつーか、さ。シンは――変わったよな」

 星の見えない黒一色の夜空を見上げながら、板垣天使は過ぎ去った何かを懐かしむように呟いた。彼女の腰掛けている塗料の剥げたブランコは、感情の波を示すかの如くゆらゆらと前後に揺れて、錆付いた関節部がギシリと軋んだ音を立てる。長年を風雨に晒され色褪せたジャングルジムに体重を預けながら、俺はそんな彼女へと視線を向けた。

 堀之外の混沌渦巻く歓楽街から少しばかり離れた、とある閑静な住宅街の中央付近にその公園は存在している。砂場があって鉄棒があってブランコがあってジャングルジムがあって、そしてそれ以上は何もない、見事なまでに何の変哲も無い小規模な公園だ。昼間は近所に住む子供達の遊び場として機能しているが、既に時刻が午後八時を回っている現在、公園の敷地内に人影は見当たらない。夜の闇が降りた堀之外の街にて子供達が外で遊ぶほど不用心な話もないのだから、まあそれも当然の事だ。かつての俺や蘭のような異常なケースならばともかく、尋常の神経と思い遣りを持ち合わせている親ならば、夜間は子供の外出を禁じているに違いなかった。

 よって、今は俺と天の二人きりである。川神南部の重工業地帯から立ち昇るスモッグに隠されて、夜空の星ですら俺達の対話を覗き見る事は叶わない。何ともロマンチックで結構なシチュエーションだ。休日デートの締め括りとしては、実に相応しい。

「変わった……、か。釈迦堂も、同様の言葉を漏らしていたが」

「うけけ、自分じゃあんまし自覚できねーんだろ、そーいうのって。ウチに言わせりゃ一目瞭然だぜ」

「ふん、然様、であるか。くく、俺に言わせれば、性格が変わったのはお前も大概だろう。出逢った頃は未だ、多少なりとも可愛げの欠片らしきものがあったと記憶しているが――今ではご覧の有様、だ」

「あ?何だそりゃ、まさか今のウチには可愛げがねーとか言う気じゃねーだろーな!」

「然様に聞こえなければ、お前の国語能力が底辺を突き抜けている事実の証明となるな」

「アーアー聞こえねーな~。つーか前々から思ってたんだけどさ、国語とかアレ、あんなモンぜってー将来役に立たねーじゃんよ。クラムボンって何だよ、勝手に死んでろよっつー話だぜ」

「文学への理解が及ばぬならば、殊勝に口を噤むべきだな。言葉を重ねる程に愚昧さを露呈するのみよ」

「へーへー、シンはアタマ良いから何でもかんでも理解できてようござんすね。色々と変わっても、その嫌味ったらしい所だけは変わんねーよな、ったく。あと上から目線な所も、ナチュラルに偉そうな所もか。考えてみりゃガキの時からこんななんだよなぁ……ホントぶっとんでるぜ」

「ふん、凡百の人間如きの物差しを以って俺の器を推し測れるなどと、然様に思い上がる事こそ笑止千万」

「あーはいはい。なんかそーいうムカつく態度にもすっかり慣れちまったなぁ。もう文句を付ける気にもなれやしねー。つっても、他のヤツが同じ様なこと言いやがったらソッコーでブッ殺し確定!だけどな」

 ナチュラルに物騒な発言を放ちつつ、夜気を切り裂いてシャドーボクシングを実行する天。どうにも短気な割に気が弱く泣き虫だった昔と比べると、随分とまあ逞しく育ったものだ。妹分の健やかな成長を嬉しく思うと同時に、どうしてこうなった、と心中で頭を抱えざるを得ない。あの頃は孵って間もない雛鳥の如く、トコトコと無邪気に俺の後ろを付いて歩いてきて可愛かったというのに。釈迦堂刑部に弟子入りし、川神流の武術を習う過程で一般人の域を超えた“力”を手に入れてしまった事が、変化の直接的な原因なのだろうが……あのオッサン、つくづく余計な仕事をしてくれやがる。

 ……まあ何にせよ、過ぎ去った時に囚われていても仕方が無い。どのような形であれ、時間の推移と共に人は変わる。自分の中の時を停めてしまわない限り、絶え間なく変わり続けていく。それが自然の摂理なのだ。天にとって力を得た事は所詮、変化の切っ掛けに過ぎないだろう。万人を置き去りにするほどに奔放で我侭な性格は、板垣天使の持つ本来の気質が成長に従って顕在化してきただけの話で、それ以上でも以下でもあるまい。

「あー、やっぱ“ここ”に来ると昔のコト思い出しちまうな。今でもはっきり覚えてるぜ、リュウの奴、シンにブッ殺されかけて目ェ白黒させてたよな~。ぎゃはは、あん時は焦ったけど、改めて思えば傑作だったなありゃ」

 けたけたと愉快そうに笑いながら、天は視線をぐるりと巡らせて、公園の狭い敷地を見渡す。第三者から見れば、何処にでもあるような寂れた公園の一つとしか映らないだろう。だが――少なくとも俺達にとってはそうではない。この場所は、幼き日の織田信長と板垣一家が初めて顔を合わせた、まさにその現場なのだから。

 懐かしい記憶だ。小学生時代、名前が原因で上級生のガキ大将どもにからかわれていた天を、偶々通り掛かった俺が助けたのが最初の出会い。何と言うか、我ながら実にベタベタである。

 とは言っても、俺は今も昔も義侠心に駆られて苛められっ子を助けるほど高潔な人格の持ち主ではない。無力な少女という弱者を虐げる事で自身を強者と錯覚し、増長して傲慢に笑っている馬鹿共の姿。そして己を取り巻く理不尽に対して自ら抗う事もせず、涙を浮かべてひたすらに耐えている少女の姿。その双方が、酷く俺を苛立たせた。よりによって“この場所”で繰り広げられる見苦しい光景が、我慢ならなかった。

 故に、既に開眼していた“威圧の才”を活用してガキ大将達を恫喝し、恐慌の悲鳴を上げさせながら追い払ったのは、どこまで行っても単なる八つ当たりでしかなかったのだ。結果として少女を助けるような形になったとは云え、そこに博愛的な意思はまるで介在していない。むしろ、心中で煮え滾る苛立ちは八つ当たり程度では収まらず、おっかなびっくりな調子でお礼を言ってきた少女に対してまで牙を剥いた始末だ。

――目障りだ。苛々する。自分の力で足掻け。誰かが助けてくれるなどと思うな。大体、お前のように臆病な輩が居るから、増長する馬鹿が増える。

 無害なスライムの如く涙目でぷるぷると震えている年下の少女を相手に、そんな旨の内容を殺気交じりに説教していた当時の俺は、やはりまともな精神状態ではなかったのだろう。どうしようもなく未熟で、鋭利な刃物を手にした幼い子供のように危なっかしかった。時期が時期だけに仕方の無い部分もあるが、やはり思い返すだけで顔が熱くなる記憶である。

 天もまた俺と同じ場面を回想していたのか、呆れ半分可笑しさ半分、といった表情で口を開いた。

「それにしてもさ、礼を言ってる奴にキレながら説教するか、フツー?しかも初対面だぜ初対面。そりゃリュウの奴が勘違いすんのも無理ねーって」

 返す言葉も無い。よりによって天の馬鹿にやり込められるとは屈辱以外の何物でもないが、こればかりは流石の俺も昔日の自分をフォローし切れなかった。全く、若さ故の過ちとは認めたくないものだ。

 次いで脳裏に蘇るのは、リュウこと板垣竜兵とのファーストコンタクトの記憶。凶悪な殺意を剥き出しに冷たい言葉を投げ掛ける少年と、涙目で怯えている少女――妹を探している最中にそんな現場に居合わせた板垣家長男がその光景をどのように受け取ったか、想像に難くはない。当時から今と負けず劣らず血の気が多く、何より家族想いの竜兵がブチ切れない筈もなく、当然の如く問答無用の戦闘が始まった訳だ。

『クソがっ!てめぇ、誰の妹を泣かせたのか思い知らせてやるぞっ!』

『獣が吼えるな、俺を誰と心得ている……!』

 所詮は小学生同士の喧嘩に戦闘などという表現を用いるのは滑稽に思えるかもしれないが、しかし正真正銘の刃物まで持ち出した本気の闘いに“喧嘩”という字面は少しばかり平和的過ぎる。これもまた語るも憚られる痛々しい過去だが、当時の俺は心の中にナイフを忍ばせるだけでは飽き足らず、実際に刃物を持ち歩いていたのだ。そしてそれを抜く事にも、生物に向けて振るう事にも一切の躊躇いを感じていなかった。子供の時点で図抜けた身体能力を有していた竜兵を相手に俺が有利に渡り合えたのは、何よりもその辺りの意識の差が大きいだろう。己が“敵”と見做したもの全てに対して狂犬の如く噛み付き、手段を選ばず排除しようとするその在り方は、いかに腕っ節が強いとは言えども子供の手に負えるものではなかった。現在でこそ、銃器すらまるで恐れない立派な戦闘狂として暴れ回っている竜兵だが、幾ら何でも小学校に通っている時分で既に命の遣り取りに慣れ親しんでいた訳ではない。かくして織田信長と板垣竜兵の記念すべき初対決は、首筋にナイフを突き付けるという何とも物騒な形で俺の勝利に終わったのであった。

「ホント、あの頃のシンは真剣でキレキレだったよな~。バトルマニアのリュウとかドSのアミ姉ぇに気に入られたのもトーゼンの成り行きってヤツか。うけけ、辰姉ぇだけは『シンは弟オーラが全然無いんだよねぇ』とかぼやいてたけどな」

 さすがに姉妹だけあって、天の声真似はやけに様になっていた。板垣家次女、辰子のぽやぽやした能天気な顔が眼前に浮かんでくるようである。ちなみにその辰子曰く、俺のパーソナリティは奴のタイプではないらしい。可愛げが足りないとか保護欲をそそられないとか、訊いてもいない俺の欠点とやらを不満そうに列挙されて辟易したのを覚えている。そもそも同い年で、しかも俺の方が誕生日は早いのだから、弟オーラも何もあったものでは無いだろうに。唯一の弟がアレなので理想の弟を求めたくなる気持ちは理解できるが、よりにもよって織田信長にそんな要素を求められても困る。

 まあそれはともかく――色々と碌でもない出会いから始まった俺と板垣一家の奇妙な縁は、様々な形へとその姿を変えながら、今に至るまで尚も途切れずに続いている。最初は掃き溜め出身者同士、ちょっとしたシンパシーを感じ、その縁から何となくつるんでいた悪友。中学生時代には共に釈迦堂の下で武の修行を積む兄弟弟子。更にその段階を過ぎると、今度は堀之外の覇権を巡って相争う宿敵となった。二年前に繰り広げられた決戦にて闘争に一応の決着が付いた後には、表の顔と裏の顔という立場にそれぞれが落ち着き、再び悪友としての関係に立ち戻り。そして現在では、マロードという謎の存在を通じて敵対関係へ。改めて考えてみれば何とも忙しない人間関係の変遷である。俗に言う腐れ縁とはこういうものを指すのだろう。

「さて――昔話は此処までとしよう。前置きは十分であろう、天」

 時には昔の話を。それもまた悪くはないが、しかし今日という一日の中で散々引っ張ってきた“話題”が単なる昔話という訳でもあるまい。わざわざこの場所まで俺を連れてきたのだ、何かしら重要な話が用意されていて然るべきである。実にならない雑談で無意味に時間を潰すのも休日の贅沢な使い方の一つなのだろうが、次に顔を合わせる機会がいつになるかも分からない以上、話すべき事は今の内に話しておいて貰わねば困る。

「あー……、今まで時間をもらっといて何だけどさ、結局はまだ頭ん中で言いたい事がまとまってねーって言うか……」

 いかにも話し辛そうな様子で、天は言葉を濁した。良くも悪くも単純明快さが売りのこいつには似つかわしくない態度だ。

「ふん。元よりお前に理路整然とした語り口など期待してはいない。然様な事を気にしている暇があれば早々に吐き出すがいい」

「……やっぱシンはデリカシーってもんがねーよな。こういう時は黙って優しく受け止めるのが男の甲斐性って奴じゃねーのかよ」

 呆れ顔で溜息を一つ落とすと、天はジト目でこちらを睨んだ。そして、何事かを吹っ切るように、しなやかな両脚で思いっ切り地面を蹴り上げる。天の腰掛けているブランコが驚異的な加速を見せながら大きく揺れて、その軌道が描く弧の高度が限界まで達した瞬間、天は勢い良く跳躍した。

「ヒャッホゥッ!」

 細身な肢体と鮮やかな橙色のツインテール、そして朗らかな歓声が闇の中に翻り、優美なシルエットを宙空に描き――数瞬の滞空を経てから、両の足を揃えて見事な着地を決める。そのまま俺の傍まで歩み寄ると、並んでジャングルジムの無機質な冷たさを背中に受けながら、天は再び夜空を仰いだ。

「……」

「……」

 そのまま一分ほど埒の明かない沈黙が続いた。やがて、乗り手を失い、虚しく宙を揺れ動き続けていたブランコが静止する。いよいよ催促の言葉が喉元まで出掛かった段階になって、ようやく天は重い口を開いた。

 夜空を見上げたまま、呟くように吐露された言葉は、静寂の中でやけに大きく響いた。

「なぁ、シン。ウチはさ――このままで、良いのかな?」






 




 『あなたの尊敬する人は誰ですか?』

 小学校の宿題にて、そんなテーマで作文を書くように指示された時、板垣天使は少しも迷う事なく一つの名前を挙げた。即ち、織田信長、と。作文を提出された教師にしてみれば、天使は歴史上の人物の個性をあたかも見知ったかのように書き記す、妄想逞しい変わり者の少女として映った事だろう。

 無論、下手をすると織田信長が戦国時代に活躍した武将であるという一般常識すら危うい、生粋の教科書嫌いたる天使の事だ。歴史上の英雄の人格を考察するような行為など天地が入れ替わっても実行する筈はなく、同姓同名の兄貴分への所感を嬉々として書き綴っていたのが実情である事は言うまでもない。

――のぶながはつよくて、おこるとこわいのにいっつもおこってます。でもときどきちょっとだけやさしいです。それとあたまがよくて、むつかしいほんをたくさんよんでいます。わたしものぶながみたいにつよくなりたいです。でもほんはよめなくてもいいです。

 そんな微笑ましい作文の文面からも読み取れる様に、幼き日の天使にとって、信長という一つ年上の少年は憧れの存在だった。

 それは甘酸っぱい初恋の相手であるとかそういった意味合いではなく、目指すべき背中として。憧憬の対象として。一睨みするだけで六年生のガキ大将を追い払い、喧嘩という分野では自分の知る限り無敵であった兄・竜兵をも一方的に黙らせてしまった少年の姿に、天使は純粋な憧れを抱いたのだ。信長ほどの強さが自分にあれば名前をネタにからかわれる事もないと、そんな風にも思った。喧嘩が強い、頭が良い――作文にも記した褒め言葉は、しかし天使が真に伝えたい信長の“強さ”を正しく表現出来てはいない。

 天使が尊敬し憧れたのは、何もかもを己の望んだ通りに実現させる力だ。信長はいつでも自分の望むままに振る舞い、そしてそれを誰にも咎められない。文句を付ける輩は問答無用で排斥し、余人諸共有無を言わさず黙らせる。全ての事象は彼の掌の上で転がされているように映った。天使はそんな少年の在り方にこそ、どうしようもなく憧れた。少年と同じ様な“強さ”を手に入れたいと、ずっと願っていた。彼との出会いの切っ掛けとなった虐めの問題に関しては、事情を聞いた竜兵が怒りに任せて暴れ回った事で無理矢理に解決していたが、しかし天使はただ家族に守られているだけの無力な自分を良しとする事が出来なかった。『強く在ろうと足掻かなければ、お前は一生弱者のままだ。それで満足ならば、そうやって蹲り、無様に震えていろ』――初めて出会った時、信長に突き付けられた冷酷な台詞が、天使を駆り立てていたのかもしれない。

『ったく、金の卵ってのはどこに埋まってるか分かりゃしねぇな。ヒヒ、これだから人生は面白ぇ。……なぁ嬢ちゃん、カッチョイイ武術に興味ねぇか?』

 時が巡り、やがて釈迦堂刑部という得難い武の師匠を得た事で、天使の望みは叶う。数年に渡る川神流武術の修行を通じて常人を遥かに上回る武才を発揮し、並の武闘家如きを歯牙にも掛けない実力を手に入れたのだ。気に入らない人間、嫌いな人間、邪魔な人間、鬱陶しい人間。そんな連中を力尽くで排除出来るだけの“強さ”。それを得た事は、己の望む通りに振舞う事を許される“強者”へと進化を遂げた事を意味していた。

『弱いのが悪い、好きに生きたきゃ強くなれ』――それが師匠たる釈迦堂の教え。つまるところ、強者は好きに生きる権利を有するという事だ。紛れもない力を手中に収め、有象無象には受け止める事すら適わない暴力を振り翳せるようになった天使は、己を縛ることなく望むがままに振舞う事を覚えた。

 苦手な勉強を避けて学校に通わず、気侭に遊び回る毎日。不愉快な連中が現れれば暴力で叩き潰し、金品を巻き上げて遊びに繰り出す。家に帰れば大好きな家族がいて、裕福ではなくとも確かな温かさがあり、誰にも拘束されない自由がある。そんな日々に不満はなかったし、ずっとその生き方が続いてもいいと思っていた。遠い将来を考えるよりも、そこにある現在を楽しむ方が重要だった。

 しかし――それも既に、過去の話となりつつある。

 傍若無人に、縦横無尽に日々を過ごす中で、ふと漠然とした不安に駆られるようになったのは、果たしていつの事だったか。

 罪悪感にも似た感情。あたかも悪戯を親に見咎められた子供のような、そんな後ろめたさを覚えるようになった時期を正確に把握してはいない。ただ、霧の如き曖昧さで心中を漂っていたそれらの感情を、明晰に自覚したタイミングは明らかだった。

『良くも俺の眼前に顔を出せたな、天』

『単刀直入に訊くが――この俺を、舐めているのか?』

 約二週間前に交わされた、兄貴分との会話。あの時に自身を射抜いた、心底から見下すような色彩を帯びた冷酷な視線が、酷く天使の心を揺さぶった。ひたすらに己の欲望に忠実であろうとする天使の在り方に対し、信長は隠し切れない程の苛立ちを募らせている――以前から薄々と抱いていた予感は、疑いなく正しかったのだと悟った。

 信長という少年は、いつでも天使の憧れだった。誰よりも強く、誰よりも賢く、誰よりも頼りになる自慢の兄貴分。虫の好かない大人達が信長を前にして恐怖し、みっともない悲鳴を上げて助命を乞う姿を見る度に、天使は我が事のように痛快さと嬉しさを噛み締めていた。万人を傍に寄せ付けず、敵には欠片の容赦もない苛烈さで絶望を与える信長だが、必死になってその背中を追おうとしている妹分を拒絶する事はなく、結果として多くの時間を二人は共に過ごした。板垣天使にとっての織田信長は、血の繋がらないもう一人の家族と言っても過言ではなかったのである。

 そして今、その“家族”は天使とまるで違う方向を見て、違う道を歩もうとしている――決して交わる事のない道へと踏み出して、既にその背中は見えない処まで遠ざかろうとしている。信長が時に垣間見せる醒め切った態度が、それらの予感を確かな事実として証明しているように天使には思えた。

 このままでは。このまま何も変わらなければ、きっと自分は家族を失う。どうしようもなく無愛想で上から目線で皮肉屋で、それでも何だかんだで辛い時には傍に居てくれた掛け替えの無い兄貴分は、姿を消してしまうだろう。

 それが嫌だった。それが怖かった。いつも不安で、その事を考えるだけで苛々して仕方がなかった。

 しかし、だからと言ってどうすればいいのか。天使は常に一人の少年の背中を追って、その在り方を真似ようと努めてきた少女だ。強者として我侭気侭に振舞ってきたのは、かつて信長や師匠に説かれた弱肉強食の摂理に従った結果だ。一体自分の何が悪いのか、理解出来なかった。兄貴分が自分に向ける、失望と諦観の入り混じったような視線の理由が分からなかった。

 そう、分からなかったから――直接、問う事にしたのだ。元々、天使は自分の頭の出来には早々に見切りを付けている。何事かを理論立てて証明する事など到底不可能だと、とっくの昔に悟っていた。自分に分からない事は、自分よりも賢い兄貴分に訊けば良い。これまでも、そうすれば大抵の疑問に対する答えは得られた。ならば今回も同じ。天使の頭を執拗に悩ませ続ける難問の解答は、きっと信長が知っている。

 そうした経緯を背景に、天使は一つの問いを発したのである。

「なぁ、シン。ウチはさ――このままで、良いのかな?」

 不適切な質問には不適切な解答しか与えられない。いつかどこかで信長の口から聞かされた言葉を思い返して、天使は乏しい語彙を振り絞って“適切な質問”を考えた。下手の考え休むに似たり――まあ結局はこれ以上なくシンプルな問い掛けしか用意出来なかったが、それ故にその簡素な質問こそが、天使の真情を雄弁に表していると言える。

 そして、今ここに紡がれた言葉に対する、信長の反応は。

「……くく、然様か。く、くくくっ」

 くつくつと肩を震わせながらの、無遠慮な笑声だった。天使にしてみれば頭脳を限界まで酷使し、様々な思慮の末にようやく辿り着いた、真剣で真面目な質問である。笑止とばかりに笑い飛ばされるなど、言うまでもなく心外極まりない対応だ。

 なに笑ってんだてめーブッ殺すぞ、と一瞬の内に頭が沸騰しそうになって――違和感に気付く。

「くく、ははは!悪くない!否、むしろ良い。良い質問だ。其れは……実に良い質問だな、天。く、くくっ」

 信長が持ち前の悪魔的な凶相に貼り付けているのは、挑発的な嘲笑でも、侮蔑的な冷笑でもない。ひたすらに内より湧き上がる愉快さだけを感じさせる、悪意なき哄笑だった。皮肉げに吊り上げられた口元は普段と大差ないが、全身から発される雰囲気が普段とはまるで別物だ。いっそ不気味と言って差し支えないレベルの変貌である。思わず顔を引き攣らせ、数歩ほど距離を取ってしまった天使に罪は無いだろう。

「や、やべー……シンがイカレちまった。ウチがアタマ使ったりするからこんな事に」

 尚も笑い続けている信長の姿に戦慄しながら、天使は己の過ちを嘆くように夜空を仰いだ。もう二度とムズカシイこと考えたりしねーからいつもの無愛想な兄貴分を返してくれ――見えない星に向かって真摯な祈りを捧げる天使を、未だに笑い混じりの声が現実に引き戻す。

「勝手に俺を狂人扱いするな莫迦め。俺とて人間、情は在る。可笑しければ笑うは道理だ」

「いやまあそりゃそうだけどよ……。それにしたって爆笑するタイミングが意味わかんねーぞ真剣で。どの辺が笑い所だったのかウチにも分かるように説明しやがれっつーの」

 こんな風に心底から飾らずに笑ってみせる信長を目撃したのは、実のところこれが初めての経験と言う訳ではない。長い付き合いの中でも数える程の僅かな回数とは言え、“朗らかに笑う織田信長”という一種のホラーじみた光景を目撃した事はある。そういう時の信長は、決まって天使には認識出来ない何かしらの理由ですこぶる上機嫌だった。笑いに関する信長の感性が他人とは凡そ掛け離れているのか、それらの理由を天使が理解出来た事は一度も無いのだが……どうやら今回も同様のパターンらしい。

 半眼でじっとりと睨む視線を気に留めた様子もなく、信長は悠然と天使を見遣りながら、愉しげな調子で口を開く。

「くく、些細な事だ。気に留める必要は無い――少なくとも、お前を嘲る意図は皆無よ。むしろ逆、と云うべきか」

「あ?何だよ、ハッキリしねーな。わざと面倒くせー言い方してウチを混乱させよーったってそうはいかねーぞ」

「ふん、お前の如き単細胞を言葉にて弄った所で詮無き事よ。手応えも無ければ面白味も不在だ。娯楽として成立する筈もない」

 今度こそ普段通りの腹立たしい嘲笑を浴びせ掛けてから。

 不意に、信長は笑みを消した。

「さて、天。お前の問いに対する、答えだが」

「っ!」

 重々しい口調で切り出された信長の言葉に、天使の心臓が跳ねた。

 反射的に身を強張らせ、息を潜めて続きを待つ。

「――それは、俺の口から告げるべき事ではない。否、他者に答を求めるべきではない、と云うべきか。自身がどう在るべきか。それはお前が自身の頭で考え、悩み、解答を導き出すべき命題だ」

 だが――返って来た答は、求めていたものとは大いに異なっていた。

 実質的に回等を放棄し、冷たく突き放しているとしか思えない信長の言葉に、天使は拗ねたように唇を尖らせる。

「ちぇっ、んだよ……自分で考えても分かんねーから、こうやって訊いてんじゃねーか。それともまたイヤミかよ。どうせウチはシンみてーにアタマ良くねーんだから、自分と同じ基準で考えんなっつーの」

「ふん。己を弁えるのは良いが、徒に卑下するのは感心せんな。賢人であれ愚者であれ、他者である限りお前の問いには答えられん。――俺にお前の在り方を決める事は適わず、其れを真に決定付けられる者は、この世に只一人。即ち板垣天使のみ。お前がお前自身の確固たる意思を以って定めた道こそが、唯一の答に他ならぬ。……故に、俺の出番があるとすれば、些細な助言者の役柄に限られるな」

「ん、んんん?要するに、答えは言わねーけどアドバイスはくれるってコトか?」

「然様」

 鷹揚に頷いてみせる。だったら最初からそう言えばいいだろ、と不満顔を向ける天使を気にも留めず、信長は静かに、厳かに言葉を続けた。

「――意志を、欠くな」

 たったの一言。それだけだった。

 過剰に淡々とした、感情を無理矢理に抑え込んだような声音で語られたそれはあまりに抽象的で、助言としての態を成していない。先程からの態度といい、元より真面目に答える気がないのではないか、と自称助言者に疑惑の目を向けた天使は――思わず言葉を見失った。

 漆黒の双眸を以って真っ直ぐに天使を射抜く信長は、明らかに尋常の様子ではなかった。殺意によって醸し出される無機質な冷厳さとは一線を画した、得体の知れない圧迫感を全身より沸き立たせながら、突き刺すかのような鋭い語調で言葉を紡ぐ。

「いかなる道を選ぶにせよ、其処には確固たる意志が不可欠。己の意志を喪い、漫然と糧を喰らい、無為に時を費やし、無価値な生を積み上げる人間を、俺は生者とは認めん。生きながらにして死の運命を辿る、屍人。他者に害を及ぼす事無く、ただ独り無為に死に続けるのであればまだ良い。憐れみを覚えこそすれ、憎む道理はない。だが――」

 ぞくり、と。天使は、全身が総毛立つのをはっきりと自覚した。

 信長の目には、粘り付く様な負の想念が渦巻いていた。黒々と不吉に蠢くそれは、誰の目にも明らかな憎悪の念。

「死して尚、臆面も無く他者を糧とし、貪り喰らう輩は……俺の“敵”だ。悉く現世より払うべき塵。一片たりとも残さず滅すべき芥。強者で在る事に溺れ、踏み躙られる弱者の痛みを失念し、掲げるべき志すら持たぬ分際で己の悪業を誇り世に蔓延る畜生共を、俺は赦せぬ」

 溢れ出る憎悪にギラつく視線が、逃れ様のない圧力と共に天使を貫いていた。途端、総身を駆け巡る悪寒に、天使は身を震わせる。

 “これ”は他の誰でもない――板垣天使という個人に向けられた憎悪だと、悟っていた。将来に明確なビジョンを持たず、躊躇うことなく暴力を振りかざし、強者としての立場を疑いもなく享受してきた自分への、断罪の言葉なのだと。

 だが、それを理解出来たところで、どうすればいいのか皆目見当も付かなかった。今までの付き合いの中で、こんな風に信長の口から生々しい悪意を叩き付けられた経験は無い。堀之外の覇権を巡って一時的に対立していた際に彼から向けられたのは、あくまで冷たく乾いた無機質な“殺意”。それ以上でも以下でもなかったのだから。

「ウチはっ……!」

 天使にも言い分はある。そんな風に思われていたなんて知らなかった、今更になって非難するならどうして今まで何も言ってくれなかったんだ――そんな風に喚き散らしたい衝動に駆られる。が、結局、言葉は喉元で突っ掛かったかのように止まるだけだった。ただただ青褪めた唇を強く噛み締め、震える拳を握り締めて、為す術もなく立ち尽くす。悄然と俯いた天使の頭上から、刃の如き声音が尚も容赦なく降り注いだ。

「俺は“悪”を憎むに非ず。闇の中を棲家とし、闇の中を往く人生を否定する気はない。正道より外れ、禁忌を破り、罪悪を犯し、それでも譲れぬ意志を灯火に。地獄の道行きを歩む覚悟を定めた者であるならば、それもまた一個の在り方として認められよう。俺が許容出来ぬのは――裏の社会を“逃げ場”と捉えている輩だ。法の網の届かぬ暗闇を、下衆な我欲を満たす為の餌場と勘違いしている阿呆は、まさに吐き気を催す程に醜悪。意志の欠けた悪よりも劣る概念が、此の世に在るとは思えんな。――故に」

 ふっ、と。不意に掻き消えた重圧に違和を感じ、天使は顔を上げた。

 信長の眼には、既に責めるような色は無かった。ただ、巌の如く揺るがない真摯さがあるだけだ。信徒に道を説く神父さながらの厳かな雰囲気で、静かに言葉を続ける。

「今一度、言う。意志を欠くな、天。正道であれ外道であれ、己が貫く道に意志を欠く事だけはするな。己を持たず流され続けた先には、救い難い空虚があるのみだ。お前の描く未来が善であれ悪であれ、干渉する気は無い。お前の道はお前だけのものだ。だが――自分を持たぬ死人には、堕ちるな。俺の口から云える事があるとすれば、それだけよ」

 そう言って、信長は口を閉ざした。既に助言は終わりだと言いたげに、瞼を閉して背後のジャングルジムに寄り掛かる。

 一方の天使は、未だ収拾の術すら見えない混乱の渦中にあった。以前より薄々と勘付いていた事だが、やはり信長の抱く思想は、天使の在り方をこれ以上無く明確に否定している。今のお前は死人だと。生きる価値のない劣悪だと断言しているのだ。幼い頃からその大きな背中に憧れ、理想像として心酔してきた兄貴分が、である。唐突に突き付けられた現実を前に、一体何を以って応えるべきなのか。
 
 変われ、と信長は言う。確固たる意志を胸に生きろ、と。そうでなければ、俺の敵に他ならない、と。しかし――

「そんなこと……いきなり言われても、分かんねーよ!」

 天使には、癇癪を起こした駄々っ子のように怒鳴り散らす事しか出来なかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、冷静さなど望むべくもない。

「ウチはシンとは違う。先の事なんてこれっぽっちも見えねーし、将来にコレって決めた目的なんて一つもねー。ウチはアミ姉ぇと辰姉ぇとリュウとシンがいて、この先ずっと適当に楽しくやれてりゃそれでいいんだ!“意志”なんてご大層なモン、どこでどうやって見つけたらいいのかぜんっぜん分かんねーんだよッ!」

 それは、天使の偽らざる本音だった。誰に向けられたものかも判然としない怒声が、静寂を引き裂いて響き渡る。

 織田信長という少年が何かしらの大望を胸に抱き、いかなる時でも遥か遠くを見つめながら生きている事に、天使は気付いていた。生死の境を彷徨う事も厭わない、異常と形容する他無い密度で武術の鍛錬を積んでいたのも、全ては己の目的を果たす為なのだろう。成程、確かに信長があらゆる分野において超人的な能力を発揮する背景には、狂人じみた強靭な“意志”があるに違いない。それは素直に賞賛すべきものだと思っているし、その類を見ない行動力を尊敬しているのも事実。

 だが――“それ”を自分に求められたところで、天使は応える術を知らない。彼のように己の往くべき道を見据え、自身の掲げる目標だけを念頭に置いて邁進できる人間など、果たしてこの現代社会にどれほど居ると言うのだろうか。だから天使には、お前みたいになれる訳ねーだろ、と泣き出したいような気分で叫ぶしかない。

 自暴自棄にも似た天使の言葉に対して、しかし信長の見せた反応は意外なものだった。

「くくっ」

「な、なに笑ってんだよ……」

 信長の表情に浮かぶのは天使が想像していたような失望や侮蔑の色ではなく、我が意を得たりとばかりの不敵な笑み。半ば嘲るような、半ば面白がるような。日頃から見慣れた表情を思いがけないタイミングで向けられて、天使は戸惑いながら口を噤む。

「お前は相変わらず何かを勘違いしている様だな。莫迦は莫迦に相応しい単純さで物事を捉えれば良いものを」

「……なに言ってんだてめー、意味わかんねーっつの」

「何という事も無い。――態々探すまでもなく、既に答は出ている。何故、気付かない?」

 あたかも小学生用の算数問題を解説するかのような口調で、あっさりと信長は言い放った。

「板垣の救い難い莫迦共と、俺と、お前。“全員が揃って気楽に過ごす未来”こそ、お前の抱く望みなのだろう?ならば――其れを実現させんとする志こそが、お前の“意志”に他ならぬ。違うか」

「違うか、って……えっと」

 奇妙な確信に満ちた信長の問い掛けに、天使は言葉を詰まらせた。

「いや、違うだろ。何つーか、シンが言ってるのはもっとデカい事じゃねーのか?将来はプロ野球選手になりたいです、とか、看護婦になりたいです、みてーな。適当に楽しくやりたいってのはただの気分で、“意志”とはまた違うっつーか。それってもっとこう……あぁぁぁあ、自分でも何言ってんのか分からなくなってきたっ」

 頭を抱えて懊悩している天使を見遣って、信長は呆れ混じりの溜息を落とした。教師が出来の悪い教え子を諭すような口調で、信長は言う。

「勘違いするなと言った筈だがな。善悪の所在も、野心の大小も関係は無い。人が己の意志を以って選択する道に貴賎は無い。些細な平穏を望むも、世界の変革を望むも同じ事だ。故に、重要な事項は意志の有無に他ならぬ。そしてお前には、意志が在る」

「皆と適当に楽しく生きたいって思ってるのがソレだってか?えー、そりゃ幾らなんでもスケール小せぇっつーか……って、なんでウチが自分で自分にダメ出しなんてしなきゃいけねーんだフザけんな!大体よー、シンはそれでいいのか?ウチが学校行かずにフラフラしてんのが気に入らねーんじゃなかったのかよ」

「ふん。勘違いするな、と何度言わせれば気が済むのやら。俺は、お前が住所不定無職に成り下がろうが裏の世界に身を沈めようが、文句を付ける気など更々無い。そもそもにして社会における立ち位置など無関係だと先程から述べている筈なのだがな。そして何より――意志のスケールが小さい、とは見当違いも甚だしい。お前の望みは、充分に“デカい事”だ。“ご大層な意志”と呼ぶに欠片の不足もない」

「……どういう意味だよ、そりゃ」

「マロードなどという鼠輩に唆された結果かは知らぬが、お前を除く板垣の連中は俺と相対する道を選んだ。即ち、俺の“敵”よ。そして、己の眼前に立ち塞がる障害は悉く排除する――それが俺の意志。なれば、お前の望みは遠からず破綻する事になろう。断ち切られる定めの縁を繋ぎ留めるは、決して容易い所業ではない、と俺は思うが?」

「……っ」

 特に感情を込めることなく淡々と放たれた信長の言葉に、天使は表情を強張らせた。その内容は、出来る限り考えないように努めていた現実を、改めて天使の眼前に突き付けるものだった。

 出逢ってから現在に至るまでの約十年。織田信長と板垣一家は幾度かに渡って衝突を繰り返してきたが、それでも決定的な形で両者の縁が途切れる事は無かった。だから、天使は心の何処かで安心していたのだ。多少の諍いがあろうとも、それはちょっとした仲違いの範疇。闘争に決着が付きさえすれば何だかんだで元の鞘に収まるに違いない、と。何せ十年近い付き合いの幼馴染で、立場こそ異なれど一緒になって堀之外で暴れ回った仲なのだ。どこまで行っても致命的な決裂は有り得ないと、そんな風に根拠のない確信を抱いていた。あの日――正真正銘の殺意と共に、冷酷な言葉を叩き付けられるまでは。

『関係が無い?ふん、莫迦を言うな。お前は自分の意思で俺に敵対した。生憎、俺は“敵”に容赦するような甘さは持ち合わせていない。昨晩は互いに退いたとは言え、俺と板垣が敵対している事実は消えん。……天。俺が呑気にも集団を離れ、一人現れた“敵”を見逃すと本気で思うなら、それこそが。お前が、俺を舐めている証拠』

 あの時の信長の眼は、紛れもなく本気だった。彼が“敵”と定めた相手にのみ向ける、一片の感情すら窺わせない醒め切った無表情。それを目の当たりにさせられた瞬間、初めて天使は自分達一家の置かれた立場を悟った。今回の一件は、これまでのようなじゃれあいにも似た“遊び”では済まないのだと、身を以って気付かされたのだ。そして先程の対話の中で、信長が胸に秘め続けていた価値観と、滾る様な憎悪を知った。もはや――見ぬ振りをして馴れ合っていられる時期は過ぎ去ったのだと、嫌でも悟らざるを得なかった。

「元より、俺の思想とお前達の在り方は相容れるものではなかった。いずれは雌雄を決さねばならぬ事に疑いはなかった――故に、この現状は当然の帰結。来るべき時の訪れに過ぎない。俺は、板垣を潰すだろう。背後に潜むマロード諸共、容赦も呵責もなく叩き潰す。……お前は、其れを良しとするのか?」

「そんなの……そんなの、イヤに決まってんじゃねーか!」

 静かな問いに、間髪入れず叫び返す。迷うまでもない、当然の答えだった。

 家族は大切だ。無関係な連中が何万人死滅しても何も思わないが、家族をたった一人でも欠く事には到底耐えられない。そして――目の前の兄貴分も、天使にとっては家族同然の存在なのだ。どちらも大切で、絶対に喪いたくないものだった。その両者が本気で、命の奪り合いという形で真っ向から衝突すれば、どう足掻いても全員が無事では居られないだろう。そんな結末を天使は認める事が出来ない。甘んじて受け入れられる筈もない。

 だが、覆せない現実として、既に賽は投げられてしまったのだ。兄たる板垣竜兵のマロードへの尋常ならざる心酔具合を、天使は良く承知している。今更自分が何を言ったところで、兄は決して止まりはしないだろう。二人の姉には竜兵のようなマロード本人への強固な忠誠心は無い様子だったが、しかし弟が望む限りは躊躇いなく力を貸すに違いない。彼女達にとって最も優先すべき存在は、血を分けた家族に他ならないのだから。二人にとっても信長は少なからぬ縁のある幼馴染だが、あくまでも“家族”とは別枠として考えているだろう。そこが天使との決定的な差異。竜兵が止まらない限り、二人の姉も止まる事はない。

 結果として、まず間違いなく遠からぬ未来にて織田信長と板垣一家は血塗れの闘争を演じる事になる。天使のささやかな望みは、其処で儚く潰えるのだ。その無情な現実に思い至って、天使は愕然と立ち尽くす。事態は取り返しの付かない段階に達していたと言うのに、何故今まで気付かなかったのか――やるせなさに打ち拉がれ、苦悩に顔を歪める天使へと、重々しい声が投げ掛けられた。

「厭ならば、抗え。確たる意志を以って理不尽と闘い、己の望まぬ現実を変えてみろ。其れこそが“強さ”だ」

「……」

「意に沿わぬ相手を屈服させる事を目的に振るわれる力は、真なる強さとは程遠い。その意味では、お前はこの場所で出逢った瞬間から何一つとして“変わっていない”。俺を苛立たせる、直視に耐えぬ脆弱さに満ちた小娘だ。……お前は俺に問うたな。“自分はこのままで良いのか”、と。ならば逆に問おう――お前は、このままで良いのか、天」

 肺腑まで抉り貫くような烈火の眼差しが天使を射抜く。口調こそ静かだが、その声音は中途半端な回答を赦さない重圧を帯びていた。

 考えるまでもない。答えは、否だ。このままで、良い訳がない。しかし――

「だからって、どうすりゃいいんだよ。もしウチが戦うなって言ったって、リュウの奴は止まらねーぞ。シンだって、止めてくれねーんだろ。だったら、どうしようもねーじゃんか……」

「先にも言ったが――其れは、他者に答を求めるべき問題ではない。お前自身が解答を導き出すべき命題だ。お前にとっては幸いな事に、今暫くの猶予はある。悩み、考え、己の真に欲する所を見詰め直す事だ。さすれば自ずと意志は定まり、道は見えよう。状況に流されるな。自分の意志で自分の道を定めろ。それが、大人に成るという事だ」

 大人になれ、天。いつまでも、雛鳥のままでは居られないのだから。

 感情を殺した様な声音で締め括ると、信長は背を向ける。彼の眼差しが何処を見据えているのか、天使には判らない。

 幼い頃から憧れ続けた、大きな背中。眼前にある筈のそれが、今はやけに遠く感じられて――天使はほとんど無意識の内に、言葉を発していた。






「なぁ、シン。シンはさ――どこかに、行っちまうのか?」

 背後から耳に届いた問い掛けは弱々しく、まるで途方に暮れた迷子の様だった。

 確たる根拠があっての問いではないだろう。恐らくは、単なる勘だ。我が妹分はお世辞にも賢いとは形容し難い頭脳の持ち主だが、野生じみた直観力は見るべき部分がある。普段とは異なる俺の言動と雰囲気から、“何か”を嗅ぎ取ったとしても不思議は無い。

 そう、正解だ。紛れもなく、正解だった。

 この川神の地における最終目標を達した時――俺は消えるだろう。それは俺の中で遥か以前に定められた決定事項。

 迷いはなく、惑いもない。俺の取るに足らぬ命の全ては夢に捧げると、そう決めたのだ。いかなる困難が立ち塞がろうとも、万難を排して己の敷いた道を往く。

 それが俺の掲げる、唯一無二の“意志”なのだから。

 さて。しかし、どう答えたものか。数秒の逡巡の末、俺は後ろを振り返らずに口を開いた。

「……この地にて為すべき事は、未だ数多い。仮に去るとしても、当分は先の話だ。然様に不景気な声を上げるのは止めろ、泣き虫が」

「うるせー、誰も泣いてねーっつーの!こっち見えてもねークセに勝手なこと言ってんじゃねーぞ!」

 間髪入れずに飛んできた噛み付くような声に、思わず苦笑する。子供扱いが嫌いなのは相変わらず、か。

 子供と、大人。その境界を定義付けるもの。

 絶えず過ぎ行く時の流れに身を置き続ける限り、誰しもが変わらずにはいられない。

 ならば、この我侭な妹分はどのような解答を選択し、どのような変化を遂げるのか。それは予想するしかないが、どう転んだとしても己を持たない雛鳥のままで居続けるよりは良い。天が多少なりとも自分の在り方と向き合う様になった事は、心底から祝うべき慶事だった。

 ああ、本当に良かった。そして同時に、何とも言えず――好都合。

 そんな風に考えられる時点で、俺は救い様のない悪党なのだろう。少なくとも、他者に対して偉そうに人生を説く権利など欠片も持ち合わせていない程度には、道を外れている。だが、それでも。例え人間失格の烙印を押されようとも、俺は俺の意志を貫くだけだ。

 不必要な感傷を心中から締め出し、揺るがぬ仮面を確りと被ってから、俺は振り返った。

「……さて、天。お前の相談とやらは、それが総ての様だな。ふん、終わってみれば、随分と無為に時間を費やしたものだ」

「けっ、そりゃこっちのセリフだぜ。ぜんっぜん問題解決してねーどころか逆に悩みが増えちまった。あ~面倒くせー、ウチにゃ頭脳労働は荷が重いっつーの。ほらアレだ、適材適所?って言葉をもっと大事にしようぜ」

 陰鬱さを感じさせないさっぱりした口調で、天は軽口を叩いた。表情を見るまでもなく、先程までの深刻な調子が早くも薄れてきているのが分かる。無論、天の抱える問題はそう簡単に解決するようなものではなく、心中にて消化するだけでも容易くはあるまい。未だ先程の対話で見出した事の全てを呑み込めた訳ではないだろうが、ひとまず際限ない懊悩は脇に置く事にしたらしい。この辺りの切り替えの速さは、果たして褒めていいのやら。

「それに、明日は明日の風が吹くって言うだろ。なんつーか今日はもうダメだ、これ以上思考コマンドを選んだら知恵熱で死んじまう」

「くく、お前には上等過ぎる死因だな」

 まあ四六時中、延々とシリアスに思い悩む姿などいまいち似合わないし、天の場合はそれくらいの気楽さで事に臨むのが正解なのだろう。もっとも、そのまま問題を忘却の彼方にブン投げてしまいさえしなければ、だが。

 天のハイレベルな単細胞っぷりを知っている身としては、不安を覚えざるを得ないのが何とも言えず悲しい。

「あ~、色々とアタマ使ったら何だかストレス溜まっちまったぜぇ。せっかくゲーセンでそこそこ発散したっつーのに台無しじゃねーかオイ。思いっ切り身体動さないとぜってー夜寝れねーぞコレ。ってな訳でシン!場所も丁度いいし、今からいっちょ組み手しようぜ!」

「断る」

 俺に死ねと申すか。

 えーいいじゃんヤろうぜー、などと不満そうに頬を膨らませてぶーたれている天を、スルースキル総動員でやり過ごす。

 まあ実際のところ、得物のゴルフクラブとドーピング抜きの天ならばギリギリで捌けない事もないと言えなくもないかもしれない程度の自信はあるが、いずれにせよ冷や汗モノである事に違いはない。妹分の気晴らしの為だけに命懸けの綱渡りを敢行する度量は、残念ながら俺には無かった。

「……んん?なんか知らねー氣を感じるぜぇ。こっちに近付いてるみたいだな」

 それに、実に都合の良い事にlストレス解消役の適任者は自然と湧いて出てきてくれたようである。俺は天に、というと何とも紛らわしいが、とにかく運命的な何かに愛されているのかもしれない。

「はーはっはっはっは!オレ、風と共に見参!」

 どこぞの風間ファミリーのリーダーとダダ被りな登場台詞と共に出現し、夜の公園にてハイテンションな高笑いを響かせる黒ずくめの男が一名。言うまでもなく不審者以外の何者でもない。両手に携えている二振りの短刀が本物ならば、ついでに銃刀法違反も罪状に追加だ。

「山が動いた。ならばこの風も動かねばなるまい!」

 俺と天の白けた視線に気付いているのかいないのか、男は自己陶酔の激しいポージングを決めながら高らかに名乗りを上げた。

「我が名は武田四天王が一人、疾風のフウ!疾きこと風の如し!ようやく見つけたぞ、織田ノブナ――」

「……」

「は、はっはっは!ようやく見つけたぞ!魔王・信長!そして板垣エンジェ――」

「あぁ?」

「……ま、魔王信長と板垣一家の末娘よ!貴様らの悪逆非道な振る舞い、例えお館様がお許しになられても我々四天王が許しはしない!オレの小太刀は疾風の刃!疾きこと風の如し!その首、貰い受けるぞっ!」

 冷や汗をダラダラと垂らしながらも、見事に最後まで台詞を言い切った根性は賞賛に値すると思う。

 が、凶器を持って板垣天使の前に立ち、殺気を以って織田信長を脅かした以上、その運命の行く末に救済など有り得よう筈もない。

「くく、天。よもや得物が無ければ戦えぬ、などと泣き言を漏らしはすまいな」

「あ?バカ言ってんじゃねーぞ。ウチには無敵の北都神拳があんだぜ、噛ませの五車星とか素手でも瞬殺確定に決まってんだろ。ぎゃはははっ、覚悟しろよなオマエ。ウチ今、スーパーデラックスイライラしてんだ。このムカつきをちょっとでも発散するためにも、原型留めねーレベルでブッ壊してやるぜぇ!」

 よほど暴れたかったのか、獰猛な破壊衝動を隠そうともせず、天は口元を吊り上げる。

 男の哀れっぽい絶叫が夜の住宅街に響き渡ったのは、時間にして僅か数十秒後。結果、周辺住民にそれなりの騒音被害を与える事になったが、まあ所詮は些細な出来事である。

 かくして、我が妹分との楽しい休日デートは、鮮血の結末を以って綺麗に締め括られたのであった。

















~おまけの三人組(?)~


「ねねちゃん、今日は色々と案内して頂いてありがとうございます。由紀江はこの年にして初めて、女子高生の遊びの何たるかを知った心地です!」

『おうおう、大儀だったぜネコっち~。遊びっぷりがワイルド過ぎて友達付き合い初心者のまゆっちはヘトヘトだけどな~』

「ままま松風!?私なんかを遊びに誘って下さったねねさんになんて失礼な事を!あうあう、すみませんすみません!この通り松風に代わって私がお詫びしますから何とぞお許しをっ」

『悪いのは嘘を吐けないオラの正直さだ、まゆっちに罪はねぇ……許してやんなよネコっち、S組のボスとしての器が知れるぜ?』

「あはは、何て言うかさ……私はキミよりもイイ性格した人間はちょっと知らないよ、まゆっち。ん~、それにしても、もうこんな時間かぁ。何だか久々に羽を伸ばして遊んだ気がするね。全く、ご主人はもっと寛大な心を以って私に自由時間を与えるべきなんだよね~。御恩と奉公、労働にはいつだって正当な報酬が伴うべきだよ。私の有能且つ勤勉な素晴らしき働きっぷりを考慮すれば、年中無休ならぬ年中有給でも問題ないくらいなのにさ。ね、まゆっちもそう思うでしょ?」

「そ、それは私にはちょっと何ともコメントし難いですけど……ねねちゃんの自由時間が増えると私も嬉しいです、こうやって一緒に遊べる時間も増えますし――っていえあの私は良くてもねねちゃんは嫌ですよね私みたいに面白味の皆無な人間と居ても全然楽しくないというかもはやご迷惑なレベルだったりうぅぅぅっ」

「…………。……ふふ、これっぽっちも迷惑なんかじゃないから安心しなよ。――ありがと、まゆっち」





 

 





 南斗五車星=噛ませ集団というのはあくまで天使の認識であって、作者の見解とは無関係なので悪しからず。ええ無関係ですとも。
 それはともかく、今回は実質的な本編登場キャラが僅か二名という異色の話で、内容も多分に特殊なものでした。
 色々と意図的にぼかしている部分があるので、結果として話の流れが掴みにくくなってしまっていると思いますが、いずれ全貌が明らかになる――予定ですのでその時までお待ち頂ければ幸いです。そもそもこうやって補足を入れなければならない時点で力量不足なんだろうなぁ、と自分の文才の乏しさを嘆く今日この頃。それでは、次回の更新で。



[13860] ターニング・ポイント
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:6f0798e0
Date: 2011/12/03 09:56
 “威圧の才”――贋物の殺意を織り成し、総身に纏う事で常軌を逸した威圧感を己に付与する才能。

 川神院元師範代をして異常と言わしめたこの規格外のスキルは、現代の武神と謳われる川神百代すら欺き、その威を以って歴戦の軍人達の精神をも強制的に叩き折る、織田信長の最強の武器だ。内より溢れ出し黒々と立ち昇る殺気は、ただ在るだけで絶対強者の存在を他者に知らしめる。

 勿論、先に述べた俺の威圧能力は最初の段階から人外の域に達していた訳ではなかった。確かに才能自体は生れ持った天賦のものだが、いかなる宝玉も研磨しなければ河原の石と変わりはない。十年に及ぶ苦難の年月の中で絶えず鍛え上げ磨き上げてきたからこそ、人並みを外れた現在の力がある。

 そして俺は、まだまだ現状に満足してはいなかった。この才は、俺に与えられた唯一の才能は、未だ多くの伸び代に満ちている筈なのだから。俺には、何となくそれが分かる。理屈ではなく直感で、自身に眠る可能性を感じ取る事が出来る。

 故に――俺の為すべきは、更なる鍛錬。珠玉の才に更なる研磨を加え、更なる輝きを与えねばならない。

「―――――」

 己への没入に必要なものは、心身のリラックス。そして安定した精神を適度に緊迫させる、鋭い緊張感。

 自身の体内へと遍く意識を張り巡らせ、血潮の流れを、心臓の脈動を、筋肉の収縮を、頭頂部から爪先に至るまで漏らす事なく感じ取り――肉体の内側を絶えず循環する波動、即ちエネルギーの存在を見出す。それは氷塊の如く冷厳な、生命を断ち切らんとする悪意が形を成したかの如き異形の“氣”。全身を充たすそれらの存在を強く認識する事に成功すれば、次の段階だ。柄杓を手に井戸から水を汲み取るイメージで、己の欲する量の氣を測り、掬い上げる。それらを強靭な理性の下に収束させ、様々な形へと調整し、そして望み通りの規模・形態で外界へと向けて解き放つ。

 多くの局面において俺が体外に放出している殺気は、大凡がこのようなメカニズムの下で生み出されている。これらの作業を一瞬たりとも絶やさずに実行し続ける事で、織田信長は常に周囲を強烈に威圧し得ているのだ。慣れない内は一定時間の放出でガス欠を起こしていたが、今となっては二十四時間体勢で殺気を運用していてもさほどの負担は感じない。戦闘レベルの威圧や奥義を用いない限りは、何日であろうと余裕で保つ事だろう。昔日と比べれば、確かな手応えを実感させてくれる成長だ。

 だが、問題は持続力ではない。それもまた必要な能力の一つではあるが――俺が切実に求めているのは、瞬発力だ。戦闘という緊急事態において真に必要となるのは、悠長な長距離走の能力に非ず。一瞬を以って勝敗を左右する、短距離走の能力なのだから。

 深く息を吸い込み、体内にて循環させる。瞼を閉し、気分を鎮め、意識を研ぎ澄ます。

「――いざ」

 小さな呟きが、始動の鍵。己の内に眠る数多の“氣”を呼び起こし、一気に引き出す。それは戦闘レベルすらも超越した、ひたすらに膨大な殺気の塊だ。そして、本来ならばそのまま外界へと解き放たれる筈のそれらを――今回は、己が内に繋ぎ止める。固く歯を食い縛り、脂汗を流しながら、持てる理性を総動員して制御化に置く。嵐の如く渦巻いている漆黒の殺意は、僅か一瞬でも意識を逸らせば容易く俺の制御を離れ、行き場を求めて暴走する事だろう。それは、周辺数百メートルを薙ぎ払う殺意の大嵐、即ち広域威圧の奥義たる“殺風”の発動を意味している。

 それでは意味がない。俺の目的は、その領域よりも一歩、踏み込んだ場所に在る。

 解放を求めて荒れ狂い、四方八方に向けて飛び出さんと咆哮する黒の獣を全力で抑え付け、少しずつ、少しずつ、精密なる注意と共に圧縮する。天を衝く程に膨大な殺意を、そのままある一点に凝縮しようと最後の行程を試みた瞬間――限界が訪れた。

「――っ!!」

 暴発。自身の内へと留め置く事に失敗した莫大な量の殺気が、俺を中心に広がる黒の波動と化して周囲一帯を埋め尽くした。咄嗟の内にセーフティを発動させて氣の半分以上を封じたので、流石に“殺風”のように大規模な嵐とはならなかったが、自身を中心とした五十メートル圏内を薙ぎ払うには充分過ぎる威力だ。俺の現在位置が住居たるボロアパートの中庭である以上、少なくともアパート全域を巻き込んでしまったのは間違いないだろう。自室に居るであろう我が従者達には悪い事をしてしまったな、と荒い呼吸を整えながら考えて、そして芳しくない結果に大きく溜息を吐いた。

「また失敗、か……俺もまだまだ未熟、という事だな。やれやれだ、全く」

 憎らしい程に晴れ渡った早朝の青空を仰ぎながら、独り遣る瀬無い呟きを漏らす。

『ただな――それだけじゃ、足りねぇんだよなぁ。お前はお前なりに真剣で頑張ってんだろうが、届かねぇんじゃ何の意味もねぇよ』

 どうしても脳裏を過ぎるのは、つい昨日に告げられた元・師匠の容赦ない言葉だ。

――ああ、分かってるさ。そんな事は嫌と言うほど分かってる。結果を出せなきゃ、意味なんてない。

 目的を果たす為の一心不乱の努力は、確かに崇高だ。だが……現実として成果を伴わない努力に、徒労と如何ほどの差があるだろうか。そういったシビアな考え方がある意味において正しい事もまた、認めねばならない。

「相変わらずスパルタンな師匠だよ、アンタは……。これっぽっちも俺を甘やかしちゃくれない」

 弟子時代に少しくらいは媚を売っておくべきだったか、とぼやく。

 だが、然様に泣き言を言ってばかりもいられない。ただでさえ果たすのは困難極まる“約束”なのだ。時間の許す限り精進を積み重ねておかねば、後々になって猛烈に悔やむ羽目になるのは疑いなかった。殺気は俺の有する唯一にして最大の刃、常に研ぎ澄ませておかねば。備えあれば憂いなし。備えなければ未来なし、だ。

 首に掛けたスポーツタオルを手に取り、ガシガシと豪快に裸の上半身を拭う。大規模な殺気の制御に多大な集中力を費やし続けた結果、全身から滝の如く汗が噴き出していた。そろそろ水分を補給しないとな、と湿ったタオルを片手に考えた時、やけに慌しい音を立ててアパート二階のドアが開いた。

「うわぁぁぁ、マズイマズイ!遅刻遅刻~っ!」

 素っ頓狂な声を上げながら階段を駆け下りているのは、織田信長が第二の従者こと明智ねねである。よほど急いで飛び出してきたのか、突っ込み所満載の姿だった。ボタンを二つほど掛け違えたカッターシャツに、何一つ恥じる事はないとばかりに堂々と屹立する寝癖、そして何故か口には食べ掛けのパンを咥えている。そんな珍妙極まる怪生物は猛烈な勢いで中庭に到達し、俺の傍を一直線に横切って、鉄砲玉の如くアパートの外へと飛び出していった。

「…………何だ、今のは」

 些かばかり俺の処理限界を超える展開だ。思わずその場で数秒ほどフリーズしている内に、ドタバタと慌しい足音を引き連れて正門からアパートに駆け込んでくる人影が一つ。誰あろう、今しがた何処かを目指して走り去ったばかりのねねであった。

「ん、んん?んんんん?」

 ねねは依然としてパンを口に咥えたまま、中庭に突っ立っている俺をじぃっと見つめ、眉間に皺を寄せて何やら思案している。しかし改めてその小柄な全身図を眺めてみると、まさに違和感の塊である。私立川神学園の制服を着込み、通学用の鞄を肩に引っ掛けたその姿は、登校中の女子高生以外の何者でもない。

 そのまま奇妙な睨み合いが何秒か続いた後、ねねは何か衝撃的な事実を悟ったかのような愕然とした調子で、目と口をくわっと開いた。食べかけのパンがぽろりと地面に零れ落ちるのも構わず、大きく仰け反りながら叫ぶ。

「なるほど――SUNDAYじゃないか!」

「…………。…………莫迦か、お前は」

 もしくはアホか。呆れの段階を通り越した憐れみの目を向けると、ねねは数瞬ほど硬直した後、「ふええ、もうお嫁にいけないよぉぉっ」などと謎の奇声を発しながら全速力で自室へと駆け去っていった。小賢しくもネタを重ねてミスを誤魔化そうとしていたようだが……僅かながら紅く染まった頬を隠し切れていない辺り、割と本気で恥ずかしかったに違いない。異常なレベルで面の皮が厚いあやつにしては珍しい失態である。うむ、なかなか面白いものを見られた。休日にも怠けず鍛錬に勤しみ巧夫を積んでいた俺への、武神からの粋なプレゼントと言ったところか。……“武神”と言うと某KAWAKAMIの化物共を思い出してややアレな気分だが。

「成程、やはりあいつの弱点は朝という事か。くく、弄り方が見えてきたな」

 という訳で。四月二十六日、日曜日。そして川神学園は週休二日制を採用している。つまりはそういう事だった。

 苦笑しながら携帯の液晶をチェックすると、現在時刻は八時十分。仮に平日であれば朝寝坊もいいところな時間だ。ねねの脚力を以ってしてもHRには間に合うまい。あの滑稽な慌てっぷりも納得である。まあ殺気の暴発で慮外の時間に叩き起こしてしまったのは他ならぬ俺なので、失態を指差して笑うのも気が引ける。見なかった事にしてやるとしよう。

「さて」

 そろそろ朝食も用意されている頃合だろうし、この辺で一旦休憩にするか。

 自室に戻って新しいタオルを引っ張り出し、改めて汗に濡れた身体を拭く。次いで冷蔵庫から清涼飲料水を引っ張り出して喉を潤す。そうこうしている内に、蘭が朝食を載せたトレイを抱えて姿を見せた。

「早朝よりの鍛錬、お疲れ様で御座います!偉大なる主の支えとなるべく、不肖森谷蘭、誠心誠意を込めて朝食をご用意致しました。どうかご賞味下さい!」

 活き活きした調子で言うと、蘭は眩しい位に純粋な笑顔をこちらに向けた。赤白ストライプのエプロン姿が何とも言えず家庭的で温かな雰囲気を醸し出しており、何と言うかまあ、なかなか悪くない。

 などと通算数百回目になるであろう感想を抱きながら、作り立ての朝食を貪る。殺気の運用には色々とエネルギーを消耗するのでカロリーの補給は必須だ。蘭はにこにこと嬉しそうな顔で俺の食事風景を見守っていたが、ふと思い出したように声を上げる。

「そういえば、主。朝食の準備中に部屋の外からねねさんの叫び声が聴こえたのですが……もしかして起床されているのでしょうか?もしそうならねねさんの分の朝食もご用意した方が」

「ふん、無用であろう。あの莫迦が何の所用もなく活動を続けるとは思えぬ」

 実際、奴はすぐさま自室へと引っ込んでいった訳で、まず間違いなく二度寝コースまっしぐらだろう。むしろあのまま奴が活動を始めるようなら逆に脳の異常を疑って掛からねばなるまい。偽者の可能性も考えられる。蘭も同意見だったのか、仕方なさそうに苦笑していた。

「ねねさんの事はさておき……信長様、本日のご予定はどのように?」

「ヘビには昨夜の内に話を通してある故、奴より改めて連絡が入るまでは暫し待機だ。その間、俺は自身の鍛錬に徹するとしよう」

「はっ、承知致しました。ならば僭越ながら私、森谷蘭も鍛錬にお供させて頂きます!覇者たる主の従者として恥じぬ己となるべく蘭は――」

 またも始まったお決まりの宣誓を適当に聞き流しつつ、朝食を胃袋に放り込む。

 片付けやら何やらを終えた後、今度は蘭を引き連れて中庭へ。気力の充実した心身を以って、俺は心意気も新たに鍛錬を開始した。





「ふむ、どうにも侭ならないな……別視点からのアプローチを試みるべきか」

 四時間後。昼休憩のために再び自室へと向かいながら、俺は独り反省会を行っていた。結局、奥義レベルの殺気の精密なコントロールは朝から一度も成功していない。状況を打開する為の取っ掛かりすらも未だ見えてはいない。簡易の結界を張れる蘭が傍で抑え込んでくれたので周囲を巻き込むような暴発はせずに済んだが、やはりこのままでは駄目だ、と心に焦りを滲ませる。

 確かに奥義“殺風”は並の武人程度の相手ならば問答無用で膝を折らせられる圧力を生み出せる上、見た目が派手で視覚的な威圧効果が高いという得難い利点もある。しかし、所詮は広域威圧に特化した対多数用の奥義――殺気の密度という点ではまだまだ甘く、川神百代を筆頭とした本物の人外にはほとんど通用しないだろう。格下を相手に無双の力を発揮出来る事は重要だが、真の実力者に効果を与えられなければ有難みは薄い。故に俺としては、一点集中に特化した新たな奥義を何としても開発せねばならないのだ。

「ま、とは言っても、一朝一夕で習得出来る訳もなし。気楽に行くとしようかね」

 募る焦燥感を打ち消す為に敢えて呑気に呟き、俺は心中の懊悩を打ち切った。午後からは気分を切り替えて蘭と組み手でもしてみるのも良いかもしれない。メインウェポンたる威圧能力を磨くのは大事だが、そちらに比重を置くあまり、折角身に付けた体術を錆付かせるのも勿体無い話だ。板垣亜巳とのギリギリな一騎打ちの如く、体術のお陰で命拾いするケースも少なくはないのだから。天とは違って格下相手の手加減を心得ている蘭ならば、氣を満足に扱えない俺にとっても良い訓練相手になる。
 
 午後の計画を思案しながら歩いていると、気付けば自室の扉は目の前にあった。掃除マニアの蘭によって執拗なまでに磨き上げられ、常に銀色の輝きを反射するドアノブに指先を伸ばしかけた時、そういえばネコの馬鹿野郎はまだ寝ているのだろうか、と思い至り手を止める。時は既に正午を回っており、日は高々と昇っている――いかに休日とは言え、さすがに正午を超えての爆睡を許しては本人の為になるまい。極端に生活リズムが狂えば体調を崩し易くなる訳で、結果として従者の仕事に支障が出るかもしれないのだ。

 善は急げ、である。即刻叩き起こして午後の訓練に参加させるべく、俺は自室の二部屋隣に位置するねねの部屋へと向かった。

「――あらあら、可笑しな事を仰いますね。これは決して明智の家名を貶める提案などではございませんわよ、お父様」

 思いがけずもドアの向こう側から漏れ聞こえてきた声音に、思わず足を止める。

 ここ最近、当人がふざけてネタにする時以外には耳にする機会もなくなっていた、香り立つような気品に満ちた声。それは日頃の怠惰さと能天気さを置き去りにした、“猫被り”の賜物だった。

「綾野小路。不死川。そして九鬼。学園内における彼の者達の特異な装いは只の道楽ではなく、自らと凡俗の庶民達との隔たりを目に見える形で証明し、自身の高貴たる事を周囲に知らしめる為のものなのです。つまりは、財力と権威を絶えずその身に纏っているも同然。ならば、由緒正しき名家たる明智の息女がその風に倣うに、何の不思議が、何の不都合が在るでしょうか?うふふ、むしろ現状の如く群集に埋没した衣裳のまま通い続ける様であれば、明智の名を辱めはしないかと。わたくしはそれが気掛かりでなりませんの」

 扉を隔てた向こう側にて、ねねは鈴の声音に乗せて流れるような弁舌を振るっている。確かな知性と品性を感じさせる言葉の数々は、同時に聞く者の背筋を寒からしめる程の怜悧さを帯びていた。

「うふふ、まあお気を鎮められてくださいませ。わたくしの些細な願いを叶える程度、偉大なお父様ならば容易で御座いましょう?それに――わたくしが名家に相応しき衣裳に身を包まぬ事が、不死川様はお気に召さない御様子なのです。ええ、ええ。まあ……脅しだなどと人聞きの悪い事を仰るのは止めて下さいませ。わたくしはいつでも明智の栄華を望み、落日の憂き目を見る事無きよう、忠言を差し上げているだけでございます。……うふふ、ご理解頂けたようで何よりですわ。流石はお父様、一族の棟梁たる貴方がその柔軟さを喪わずお持ちになる限り、明智の家は疑いなく安泰でございましょう。わたくしも枕を高くして眠れるというものです。それでは――御機嫌よう、お父様」

 肉親に向けるような温かみを一切感じさせない声音で言い捨てると、場に沈黙が降りた。まさか明智家当主が美濃の地から遥々こんなボロアパートに押し掛けてきた訳でもあるまいし、対話の相手は電話回線の向こう側に居たのだろう。という訳で、父親との通話を終えた我が第二の従者が次に取る行動は、当然――

「やれやれ、いたいけな少女の秘め事を盗み聞きとは感心しないね、ご主人。まあ氣を隠してる訳でもない以上は確信犯なんだろうけど。あ、この“確信犯”の使い方って間違ってるんだっけ?」

「さて、どうかね。従者の動向を常に知っておく事は主君の務めだと俺は信じているからな。そういう意味では、あながちその表現も間違いと言う訳ではないだろうさ」

 内側から扉を押し開けながら飄々と小首を傾げるねねに、特に悪びれる事も無く答える。本当に隠し立てしたいならば俺の気配を感じた瞬間に何かしらの対処を取っている筈で、それが無かったという事はつまり、聞かれても特に問題ないという意思表示である。その証拠に、堂々たる態度の盗み聞き犯を前にねねは気分を害した様子はなく、むしろ愉快そうにクスクスと笑っていた。

「あはは、ご主人は相変わらずだね。ところで部屋の前に来てたって事は、私に何か用なのかな?――まあまあ立ち話も何だし、どうぞ入りなよ。前とは違って足の踏み場くらいはあるからさ」

 いや起こしに来ただけなんだが、という俺の言葉を聞いているのかいないのか、ねねはさっさと自室に引っ込んでしまった。仕方なしに後を追い、部屋に足を踏み入れる。

 途端、二週間前に比べて随分とファンシーでメルヘンチックな部屋模様が俺を迎えてくれた。ねねはS寄り(色々な意味で)な性格に似合わず可愛いらしいモノが随分好きな様で、部屋のそこらに配置された結構な数のぬいぐるみが狭い部屋面積を圧迫している。床の上には例によって小説やら漫画やらDVDケースやらが積み重なって乱雑に散らばっており、その私生活のだらしなさを存分に主張していた。少女漫画が多くの比率を占める本棚は整理整頓が満足に為されておらず所々に穴空きが生じているし、勉強机に視線を遣れば、筆記用具と解き掛けの問題集がそのまま放置されていた。

 何ともまあ、予想通りの有様である。我が家の潔癖掃除人・蘭が定期的に掃除しているお陰で汚さとは無縁だが、もしも本当に一人暮らしでもしようものなら、この世に新たなゴミ屋敷が誕生しても不思議はない。呆れの視線を四方に巡らせる俺を気に留めた様子もなく、部屋の主は薄桃色のシーツに肢体を投げ出している。未だにパジャマ姿から着替えていない辺り、これからまた寝るつもりではなかろうな――ベッドの縁に腰掛けながら勘繰っていると、ねねは天井を見つめながら口を開いた。

「前から言ってた例の件でちょっと、ね。勿論のこと首尾は上々、交渉は無事成功さ。うふふ、流石は私。武力・知力のみに留まらず、交渉力の分野においても堂々たる一級品!さぁさご主人、遠慮なく私の多才っぷりを褒め称えてくれていいんだよ?」

 普段通りのヘラヘラと能天気な口調。だが、そこに含まれた翳りは――見落とし様のない程に明らかなものだった。

 ……無理もない話、か。口では色々と言っているが、そうそう簡単に割り切れるような問題でもあるまい。

「成程、な。……家族と話していた訳か。それはまた、水を差して悪かったな」

 俺の言葉を受けて、ねねはおもむろに身体を起こした。もぞもぞと隣にまでにじり寄ると、至近距離から俺の瞳を覗き込みながら、感情を押し殺した表情で、淡々と告げる。

「違うねご主人――“家族だった人”、だよ。親子水入らず、なんて諺は今となっちゃもはや成立しないんだから、謝って貰う必要なんてないさ」

「……そう、か」

「そうさ。私の家はここで。私の家族は、ご主人とランだけなんだ。……あのヒトさ、開口一番に何て言ったと思う?“帰って来い。お前には使い道がある。今ならばまだ許してやる”、だってさ。笑っちゃうよね。結局、あのヒトにとって私は道具で、どこまで行っても道具以外の何物でもなかったんだ。お笑い種さ。ホント、笑っちゃうよ」

「……」

 くつくつと無理に笑ってみせる横顔が、痛々しかった。掛けるべき言葉を見つけられず、ただ隣に座る小柄な少女の頭へと、己の掌を乗せる。

 途端に、衝撃。後ろから両腕を回し背中に身体を密着させる形で、抱きつかれた――その認識が追い付いたのは、ねねの息吹を首筋に感じてからだった。甘い匂いが鼻腔を充たし、熱を帯びた囁き声が耳朶を震わせる。

「ねぇ、ご主人。ご主人はいなくならないよね?みんなが私から離れていっても、ご主人は。ご主人だけは、私と一緒にいてくれるよね?」

 震える囁きは儚く、年端もいかぬ童女が独りの寝床に怯えるような弱々しさを思わせた。

 血を分けた肉親に愛されない痛みを、俺は嫌と言う程に知っている。幼子が無条件の信頼を向ける相手であり、最大の庇護者たるべき肉親。そんな存在にすらも疎まれ、虐げられた人間は――誰も信じられなくなる。猜疑心を以ってこの世の全てを誤認し、敵愾心を以って敵視する他に道はない。

『僕に情けを掛けてどうしようって言うんだ?恩を売ろうって?それとも感謝されたいのか?何にしても、自己満足のために僕を利用するな。虫唾が走るんだよ』

 結果として形作られる人格は、決して人に心を開かず、他者の善意を信じず、それでいて自らは臆面もなく虚言を並べ立てる、救い難い嘘吐き。それがかつての俺で、そして精神の根幹に焼き付いた負の性質は今に至っても消え失せていなかった。

 だからこそ、分かる。どうしようもなく分かってしまうのだ。絆を、繋がりを、家族を欲して已まないねねの切実な想いは、我が事のように理解出来る。ヒトは独りでは生きていけない。誰にも頼らず、誰とも繋がらず独りで生きられる人間は、真の意味で人の域を外れた存在だ。俺も、そしてねねも、そこまでは強くなれない。虚勢を張って嘘を吐いて強がってはいても、所詮は大事なモノの欠けた弱い人間でしかない。故に――甘いと蔑まれても、情けないと謗られても、俺達は互いを求めて寄り添う他ないのだ。

「――当然だ。約束しただろう?俺はお前の傍から居なくなったりはしない。俺の命ある限り、お前が自ら俺の下から離れる道を選ばない限り」

「……えへへ。そっか」

 ぎゅっ、と俺の身体を包む腕に力が込められた。ねねが年下の少女だと言う事実を改めて思い起こさせる、細く華奢な腕。柔らかい身体が背中に触れ、密着し、ねねの体温と心臓の動悸をダイレクトに伝える。

「まあ、お前は莫迦だが優秀な従者だ。例え請われても、例え壊れても――そう易々と手放す気はないがな。くく、これからも存分に扱き使ってやるから覚悟しておくといい」

「……あはは。やれやれ、ブラック企業みたいだなぁホントに。理不尽に従者を冷遇し過ぎるとストライキに繋がる訳で、ご主人はもっと私を丁重に厚遇すべきだと思うんだよ。魏文長みたいな末路は断固として御免被るね」

「そうだな、午後の鍛錬に付き合う――とこの場で宣誓するなら待遇アップを考えてやらん事もないぞ」

「ごめんねご主人、心の底からホンットに残念だけど午後からは超大事な用事が入っちゃってるんだ。何と言っても凄く集中力を必要とする精密作業だから、その間は絶対に部屋を覗かないでね。絶対だよ。覗いたら鶴になって山の方に飛んでっちゃうかも」

「そいつはまた斬新なサボリの口実だな……鶴の恩返しならぬ猫の恩返しか。むしろ恩を仇で返されてる気もするが」

「いやいや、御恩には奉公。鎌倉幕府から続く信頼関係の約束事を蔑ろになんてしないよ。私の忠誠心はいつでも天元突破してるのさ。私が信じる私を信じてよ、ご主人」

 一人で言って、一人でからからと笑っている。そのいかにも普段通りなノリと頭の軽さを見る限り、ひとまず調子を取り戻したと思っても良さそうだ。尚もぺらぺらと無駄な饒舌さで振るわれるねねの熱弁を適当に聞き流しながら、俺は心中で安堵の息を吐いた。

 日常的に図々しく無神経な振舞いが多く見られるねねだが、それらに内包された本質は決して見た目通りではない。他者の感情に対して人並み以上に敏感で、そして年相応に繊細な精神の持ち主だ。そんな少女が親元を飛び出すという一大決心を固めたのは僅か半月、日常の平静さを取り戻すにはいかにも早い。実際、先程のように情緒不安定な態度を垣間見せたのも初めての事ではなかった。

 厄介な話ではあるが、これは俺が責任を持ってフォローすべき問題だ。互いの望みが一致した結果とは言え、実質的にねねを家族から引き離したのは他ならぬ俺なのだから。例え仮初めでもこんな悪党を家族と呼んでくれるならば、俺も果たすべき役割を果たそう。それが従者を抱える主としての責務と云う物だ。ねねが安心して甘えられる相手を欲しているならば、ある程度までは応えてやる事に抵抗はない。

 ――などと真面目な思考に沈んでいると、不意にくすぐったい感覚が上半身を襲った。何事かと現実世界に意識を引き戻せば、ねねのほっそりした指先が何故か俺の腹筋を滑っている。楽しそうな弾んだ声音が耳朶を打ったのは、その直後である。

「いやぁ、こうして改めて触ってみるとアレだね。ご主人ってば結構ムキムキだね」

「おいやめろ触るな莫迦め。花の女子高生たるもの、少しは恥じらいを持つべきだお前は」

 鍛錬の直後にそのまま足を運んだので、現在の俺は半裸の状態である。冷静に考えてみると、ベッドの上にて半裸の男にパジャマ姿で抱きついている女子高生、という絵図はどうにもいかがわしいモノを連想させずにはいられない。果たしてその辺りを自覚しているのかいないのか、ねねは気に留めた様子もなく、筋肉の感触を確かめるようにペタペタと上半身を撫で回しながら、感心したような声を上げた。

「うんうん、実際、相当な引き締まり加減だよコレ。うふふ、服着てるとそこまで目立たないけど……脱ぐと凄いんだね。いわゆる細マッチョって奴かな。うん、イイ身体してると思うよ」

「……こいつは全く……。まあ自慢じゃないが、修行時代にかなり無茶な鍛え方をしたからな、筋肉の質と量に関しちゃ割と自信はある。伊達にあの世は見てねぇぜって事だ」

「くふふ、ご主人ってば結構自信家だよね。これで見掛けと同じくらい強かったら完璧だったのに」

「お前という奴はまた人様が気にしている事をズバズバと……!言っておくがな、俺は別に弱くないぞ。人間を辞めていないだけだ」

 実際、誇張でも何でもなく、氣に頼らない純粋な身体能力ならば同年代の大多数を圧倒出来るポテンシャルは有しているだろう。竜兵のような人外に半歩ほど足を踏み入れたレベルの相手なら、まだギリギリの所でどうにか対抗は可能だ。それ以上の相手となると、特化した回避能力を活かして必死に逃げ回る事しか出来ないが。

「やれやれ、言外に私を化け物扱いするのはやめてくれないかな。ほら、私ってば自他共に認める麗らかな乙女な訳だし、そういう風に言われると傷付いちゃうのは当然じゃないか。レディーに対する礼儀がなってないね、ご主人はもう少しデリカシーという概念を学習すべきだと思うよ」

 ごもっともな正論ではあるのだが、この馬鹿の口から言われると妙に腹が立つ。ここは徹底抗戦が必要な場面だ、と全霊の毒舌を以って反論しようとした時――小さく息を呑むような奇妙な声音が、俺のすぐ後ろで響いた。声の発生源は改めて言うまでもないだろう。僅かに首を回してねねの顔を窺うと、表情には隠し切れない驚きと戸惑いの色が浮かんでいる。その理由、或いは原因を掴み損ねて、俺もまた戸惑った。

「……?どうかしたか、ネコ」

「いや……、いや、何でもないよ、ご主人。持病のしゃっくり病が出ちゃってね。ヒック!大変だ、ヒック」

 あまりにもお粗末過ぎる誤魔化し方に思わず追求する気力も萎えかけたが、しかし先程の顔を見せられて疑問を持たずにいられるほど俺のスルースキルは高くはない。ヒックヒックとうるさいねねを黙らせる為にも、尚も問い質すべく口を開き掛けた瞬間――空気を読まない携帯の着信音が部屋に鳴り響いた。ポケットから引っ張り出して液晶を確認すれば、そこには“大蛇”の二文字。天辺りならば黙って放置していたのだが、相手が奴となればそうもいかない。ねねの不審な態度への追求はひとまず断念して、俺は通話ボタンを押した。

「俺だ。如何した、ヘビ」

『これはこれは織田様。いえ、昨晩に御連絡を頂きました例の件につきまして、凡その裏が取れましたので。どうも“彼ら”の本拠地は県外に在るようですが、“遠征軍”と称する一部の人員が堀之外のとある廃ビルを拠点に活動している様でございますね。その正確な位置及び相手方の保有戦力が大まかながら掴めましたので、こうしてご連絡を』

「然様であるか。ふん、所詮は雑魚の群れ――それ以上の分析は無用であろう。直接、其の身に問い質せば済む話よ。報告、大儀であった」

『勿体無きお言葉、ありがたく頂戴致します。詳細な情報に関しましては文面にてお知らせ致しますのでご確認下さい。それでは、織田様の御武運、そして織田様を敵に回した愚物への冥福を――この丹羽大蛇、陰ながら祈っております』

 礼儀正しくも血の通わない冷酷さを漂わせる声を最後に残して、大蛇との通話は途切れた。

 ふむ。夕方までは鍛錬に時間を割こうと思っていたが、どうやら予定を改める必要がありそうだ。いやはや流石は狡猾さに定評のある丹羽大蛇、俺の予想を超えて仕事が速い。通話の直後に送信されてきたメールに目を通せば、俺が欲していた情報の大部分は網羅されている模様だった。これで――狩りを始められる。

「むむむ。ご主人、何だか普段にも増して悪い顔してるなぁ。今度はどんなえげつない悪巧みの真っ最中なの?」

「くく、生憎と悪巧みと言うほど込み入ったものじゃあない。話は至ってシンプル……俺の“敵”を、滅しに征くだけだ」

 腹が減っては戦は出来ぬ。ひとまずは蘭お手製の昼食を胃袋に掻き込んでから、いざ出陣としよう。

 午後からは大事なシエスタの用事が云々などと文句を垂れ始めたねねを無視しながら、俺は口角を吊り上げた。










「――で、私は大いなる葛藤の末に泣く泣く布団とお別れして断腸の想いで旅立った訳だけど。それはそれとして……どうしてここに、キレてる十代な暴力小娘がいるのかな」

「あぁ?んだよネコ娘、文句でもあんのか?ウチは売られた喧嘩を買っただけだっつーの。襲われたのはウチとシンなんだぜ、その時点でブッ殺し確定に決まってんじゃねーか。つーかオマエ確かウチと同い年だろ?だったら小娘呼ばわりされる筋合いねーし。ぎゃはは、んな事も分からねーとかバッカじゃねーの?バーカバーカ」

「…………、馬鹿に馬鹿扱いされるのがこんなに腹立たしい事だなんて……!周公瑾みたく憤死しちゃえるレベルの屈辱だよっ!」

「ね、ねねさんどうか落ち着いて下さいっ!敵陣は既に目前、仲違いしている場合ではありませんよ!うぅぅう、私の監督が行き届かないばかりに……申し訳ございません主ぃ」

 現在時刻は和菓子と緑茶の恋しい午後三時。現在位置は親不孝通りの片隅に位置する、とある廃ビル付近の歩道。そして現在この場に顔を並べている面子は、まず俺こと織田信長。その従者たる森谷蘭及び明智音子。エキストラとして板垣一家の末娘、板垣天使。総勢四名である。

 基本的に部外者である筈の天がこの場に居合わせている理由は、まあ本人が説明した通りだ。“武田四天王”を名乗る珍妙な武道家に突然の襲撃を受けたのはつい昨夜の出来事。俺は自身に牙を剥いた相手を許してやるほど温厚ではないし、天は心ゆくまで暴れられる絶好の機会を見逃すほど寛容ではない。例の襲撃者の背後に何かしらの組織の存在がある事実を知った(尋問で聞き出した)以上、俺達が動くのは当然だった。

 もっとも、どうにも我が第二の従者は天の奴と馬が合わない様で、ご覧の有様である。廃工場にて初めて顔を合わせた際に殺し合いを演じて以来、会う度会う度にこの調子だ。争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない――そんな言葉を思い出さずにはいられない光景を前に、俺は心中で盛大な溜息を吐いた。性格的には割と似ているのだから仲良くして欲しいものだ、という俺の願いも虚しく、二人は路肩で並んで歩きながら睨み合い、喧しい言い争いを続けている。

「大体、妹分だか何だか知らないけどさ、所詮は一つ屋根の下で暮らしてもいないんじゃ、家族(笑)と言う他ないよねぇ。何と言っても私とご主人は“同棲”しちゃってるんだから、キミ如きとは最初から勝負にすらなってないのは確定的に明らかなのさ!」

 謎のドヤ顔で勝ち誇るねねの言葉に反応して顔を赤くしたのは天ではなく、何故か蘭の方だった。

「ど、どどど同棲だなんて!部屋は別なんですから同棲とは言いません!大体ですね、あ、主に対してそのような畏れ多い事を……不埒な!ふ、不潔ですよねねさんっ」

「落ち着け莫迦め」

 ……何だろう、最近の蘭は潔癖と言うより、単に色々と妄想逞しいだけになってきているような気がする。恐るべきは椎名京の影響力、即ち椎名菌の感染力――いや、冗談でもこの喩え方はやめておこう。登校中に狙撃されてデッドエンドを迎える未来が見えた。

「あー腕が鳴るぜぇ、今日も朝からたっぷり悩んでストレス溜まってっからな~、超暴れねーと真剣で収まりつかねーぞウチは」

 殺る気満々に言い放つ言葉に嘘偽りがない証拠として、今日の天は愛用のゴルフクラブを収めたケースを肩に提げている。ひとたび抜き放てば、周囲に血の雨を降らせるまで止まる事はないだろう。何とも物騒で恐ろしい凶器だが、こうして味方に付ければ大いに頼もしく思えてくるから不思議なものだ。これから始まる闘争の予感に好戦的な笑みを浮かべている天へと、俺は声を掛けた。

「くく。流石に一家総出で連れ立っては来なかった様だな、天」

「ったりめーだろ、今顔合わせたらどう考えてもブラッディ・サンデイまっしぐらじゃねーか。冗談じゃねーぞ、ウチだってそれくらいは想像出来るっての。それに、人数増えるとウチの取り分が減っちまうだろ?せっかくの楽しい虐殺ゲームなんだ、あんまりさっさと終わっちまっても面白くねーからな。けけっ」

 鼻歌でも唄い始めそうな上機嫌さである。自業自得とは言え、獲物として選ばれてしまった連中には今から同情を覚えずにはいられない。

 程々に物騒で険悪な雰囲気を集団で醸し出し、擦れ違う街の住人達に怯えた顔をさせながら歩を進めること暫し、今回の目的地たる廃ビル――敵の拠点となっているらしい建造物の入り口へと到着。

「さて。征くぞ、お前達」

「ははーっ!我が刃と誇りに懸けて、主の敵を討ち滅ぼしてご覧に入れます!」

「ちょーっと気の毒だけど仕方ないよねぇ。うふふ、闇討ちなんて素敵に汚い方法で私のご主人を狙ったコト……存分に後悔して貰おうかな」

「ヒャッハァっ!汚物は撲殺だ~!」

 覇者たる織田信長の歩みに、姑息な策も小賢しい細工も無用。

 総ての惑いを排した傲岸たる足取りにて、堂々と。俺達は真正面から敵陣へと踏み込んだ。





「ククク……ようこそ。そろそろ来ると思っていましたよ」

 かくして廃ビルの内部へと侵入した瞬間、一つの人影が視界に入った。

 吹き抜けのエントランスホールの最奥、二階へと続く階段を塞ぐようにして立っているのは、黒縁眼鏡を掛けた痩身の少女。両手の先には黒金色のガントレットと一体化した鋭利な鉤爪を装着している。眼鏡越しに覗く目付き、そして歪んだ口元の双方からは性格の陰険さが窺えた。

「アナタ方がここにいると言う事は、フウがやられたようですね。ククク、奴は我ら武田四天王の中でも最弱……最速を謳いながら闇討ち一つ満足にこなせないとは家中の面汚しです。まあ想定の範囲内ではありますが、仮にも“風”の一字を背負う身ならば少しは意地を見せて欲しかったものですねぇ」

「下らぬ長広舌に興味は無い。所詮は取るに足らぬ匹夫とは言え、仮にも“敵”――名を訊いておいてやろう。俺の気が変わらぬ内に、疾く名乗りを上げるがいい」

「ククク、宜しい。ならば己の首級を挙げる者の名、記憶に刻み付けるといいでしょう。我が名はリン!武田四天王が一人、無音のリン!静かなること林のごとし!」

 少なくとも本人だけは格好良いと信じているのであろう謎の決めポーズと同時に謎の決め台詞を放つ少女。わざわざ突っ込みを入れる事すら億劫になる姿だった。露骨に白けた表情を並べる俺達に気付いた様子もなく、リンと名乗った少女は自己陶酔の激しい表情で言葉を続けた。

「――そして!今こそお出でなさい、武田の誇る“無音”の影達よ!」

 朗々たる号令がホールに響き渡ると同時に、突如として幾つもの気配が周囲に出現した。天井より降り立つ者、柱の陰より姿を見せる者、今しがた俺達が踏み込んだビルの入り口より現れる者。総勢三十名ほどのシルエットが包囲を形成するようにして立ち並んでいる。全員が黒の覆面で顔を隠し、黒装束で身を包んでおり、そしてそれぞれの手には例外なく白刃が握られていた。

 判別の付かない無個性な影達が呼吸音一つ漏らす事なく、無機質な殺意を迸らせる光景は、一般人ならば怯え竦まずにはいられない異様な迫力に満ちている。

「ククク、いかがですか私の静寂なる部下達は。全員が影としての厳しい修練を積んだ、必殺の暗殺部隊――見事なものでしょう?完璧な待ち伏せ、そして包囲奇襲!まさに静かなること林のごとし!ククク、もはや逃げ場はありません、大人しく観念なさい。跪いて命乞いをすれば、まあ慈悲の心で首だけは繋いであげますから」

 よほど部下の練度と布陣を信用しているのか、既に勝利を確信している様子だった。意地の悪い表情で降伏を勧める少女に対し、感情が表に出ないよう努めながら言葉を返す。

「――戯れに、問おう。貴様等は、何ゆえに俺の首を所望する?」

「ククク、そのような事、アナタが知ってどうすると言うのです。アナタはただ我らに討ち斃され、御館様の踏み台となれば良いのですよ!」

「然様、で、あるか。ならばもはや問うまい――後は自ら語らせるとしよう。絶望と恐慌の内に、な」

「……何をゴチャゴチャと!降伏の意思が無いならば、首級を挙げるまで!やりなさい、皆殺しです!」

 鼠一匹をも逃さぬ包囲網を敷いたにも関わらず、一向に焦りを見せない相手の様子に苛立ったのだろう。怒声にも似た荒々しい号令と共に、葦の如く寡黙に控えていた影達が一斉に動いた。

 恐るべき迅速さで最短距離を疾駆し、白刃を煌かせて獲物へと向かう。

 その躊躇いのない冷徹な凶刃が振り翳され、暗殺対象を無慈悲に葬り去らんと銀色の軌跡を描いた瞬間――“それ”は起こった。

「なぁっ――!?」

 素っ頓狂な悲鳴を上げる少女の眼前では、常識ある一般人ならば己の目を疑わずにはいられない、非常識な光景が繰り広げられていた。

 “蹴り”によって人間が悲鳴を上げながら高々と宙を舞い、目にも留まらぬ疾さで振るわれる黒刃が影達の持つ白刃を玩具の如く数本纏めて砕き折り、場違いなゴルフクラブのスイングに巻き込まれた者達が窓を突き破って吹き飛んでいく。

 それらは紛れもなく一瞬の内に起きた出来事で、後には無惨な姿で埃塗れの床に倒れ伏した数人の影達と、痛々しい沈黙のみが残された。第一陣に続いて波状攻撃を仕掛ける筈だったであろう他の影達は、動揺も露に立ち止まり、攻撃を躊躇っている。

「くぅ~、ナイスショットォ!ぎゃはは、どーせゴルフやんならボールはやっぱ人間じゃねーとな!」

「やれやれ、相変わらず野蛮だなぁ。嘆かわしい程に人間性の歪みを感じるよ。民族的には同じ日本人の筈なのに、どうしてこう気品ってものが欠如してるんだろうね。私なんてもう、隣人愛に苛まれるあまり心が痛くて痛くて仕方ないよ。嗚呼、人間同士で傷付け合うだなんて、これ以上の悲劇があるだろうか!」

「あ?意味分かんねーことグダグダ言ってんじゃねーっての。けどなんかムカついたから後でブッ殺し決定な、覚えとけよクソネコ娘!」

 誰も彼もが恐怖に呑まれて沈黙する中で、不自然に賑やかな二人が異様な不気味さを醸し出していた。

 そして、気圧されたかのように硬直し、身動きを取れずにいる影達に向かって、黒刀の切っ先と共に静かな殺意が向けられる。

「――お覚悟を。主の“敵”を悉く誅するが私の任。刃には刃の報いを。血には血の応酬を。天下万人を縛る宿業……逃れる術は、ありません」

 昂ぶるでも激するでもなく、ひたすらに感情を押し殺し、淡々と紡がれた宣言。その声音の帯びる冷酷さと、身から立ち昇る不吉な凶気を感じ取ったのか、誰もが無言の内に身を震わせて後退った。

「くくっ。鼠捕りを以って獅子を捕えんとは、随分と酔狂なものよ」

 己の理解を超えた存在を前に、静かな恐慌に支配されつつある敵軍を見遣って、哂う。

「誤解が在った様だな。何れが狩人で、何れが獲物か。“逃げ場が無い”のは何れか。観念するのは、跪き命を乞うのは何れであるか――今こそ、承知したであろう」

 楔から解き放たれ、瞬く間に膨れ上がった殺気の渦を前に、統率者の少女は顔色を青褪めさせる。

 自分達が何者を、いかなる怪物を相手にしているのか悟ったとしても、もはや手遅れだ。

 この程度の障害に躓いている暇など無ければ、道理も無い。俺の歩みを妨げるには、全く以って力不足。

「容赦は無用。誰に憚る事も無い。己が心の命ずる侭に――喰らい尽くせ」

 これ以上の時間を費やす価値は、無い。俺の無情な言葉を合図に、語るに尽くせぬ蹂躙が始まった。







『武田一家、でございますか。ふむ……私の記憶が正しければ、山梨県――かつての甲斐国に拠点を置く一家だったかと。確か一ヶ月ほど前に発生した大規模な抗争にて、総長の武田太郎が命を落としたと聞き及んでおります。現在は跡目争いと外部との抗争が重なり、大いに荒れている様子ですが――ああ、もしや例の“武田四天王”と何か関連性が?』

「然様。問えば、俺の首を点数稼ぎに用いる心算であった、と。くく、救えぬ愚物は何処にでも居るものよ」

 悪徳の巣窟たる都として有名な堀之外。その獣の地を裏から支配している暴君・織田信長の名は県外にまで鳴り響いているらしい。勿論、裏の社会に限っての知名度だろうが、それでも広く名が知れ渡るのは結構な事だ。己の名に箔を付ける為に俺を狙う輩が続出するであろう事は少なからず面倒だが、まあその程度は有名税と割り切らねばなるまい。“敵”の候補となる者達が自分から顔を出してくれるのは、手間が減ってある意味ありがたい話だった。特に今回の一件のようなパターンは、俺の目論見に利用できる。

 築き上げられた屍の山の中心に傲然と佇み、近い将来のプランを脳内で練っていると、恨めしげな唸り声が聴こえてきた。見れば、天に叩きのめされてボロボロな有様の眼鏡少女がふらつきながらも果敢に立ち上がり、強烈な眼光でこちらを睨み付けていた。なかなか見上げた根性である。

「うぅぅ~、ち、調子に乗るんじゃありませんよ!口惜しくもこのリンとフウは僅差で敗れましたが、国元には未だ“火”と“山”の二字が控えているのです!彼らは純粋な戦闘力に掛けては我々を凌ぐ……ククク、今回と同様に運ぶとは思わない事ですねぇ……!アナタの運命は決まっています、我々四天王に叩き潰され、我らが御家再興の礎となるのですよ!ククク、アハハ……ハーハッ――」

「えい」

「ぐっはぁ!お、御館さまぁ……無念っ」

 清清しい笑顔のねねに容赦なく蹴り飛ばされた少女は、ギリギリと歯軋りしながら壮絶な表情で気絶した。しかし彼女の受難はそれで終わらない。ねねは「爪の先一ミクロンくらいだけどびっみょ~にキャラ被ってて鬱陶しいんだよキミはさ」などと理不尽な文句を零しながら、げしげしと背中を踏み付けて追い討ちを掛けていた。一体どの辺りが……ああ、“そういう事”か。納得はしたが、やはりそれは理不尽だろうネコよ。

 と思いながらも黙って見物していると、「何が僅差だパーフェクト負けしたクセに調子コイてんじゃねーぞコラ」と怒鳴り散らしながら天が暴行に加わった。先の戦闘において約十名の手練と彼らのリーダーたる少女を仕留めるという縦横無尽の大暴れっぷりを披露した天だが、どうやら未だに暴れ足りない模様。倒れて尚鞭打たれる死人には気の毒な事だ――まあわざわざ止める気も無いのだが。

 仲睦まじく共通の獲物をいたぶっている二匹の猫を見遣りながら、俺は再び通話中の携帯電話に注意を戻した。

「ヘビ。指令だ。件の武田一家の内情。戦力。地理。抗争の情勢。全てを調査し、報告しろ」

『承知致しました――織田様の令とあらば、微力を尽くしましょう。しかし……隣県とは言え、いよいよ外征でございますか。ふふ、流石は我らが楽園の覇王。貴方様に付き従ったのは、紛れもなく正解でございました』

「ふん。お前の賢しさは嫌いではないが、些か言に飾りが過ぎるな。下らぬ世辞を弄する暇があれば、一刻も早く調査に移るが良かろう」

『仰せのままに。この丹羽大蛇、己に与えられた任はいかなるモノであれ完璧に遂行せねば気が済まない性質でございまして。必ずや御期待にはお応え出来るかと自負致しております。では、後ほど』

 自信を窺わせる余裕の言葉を最後に残して、大蛇は通話を切った。俺に対しては常に腰が低いのでつい失念しそうになるが、奴は奴で謙虚さとは程遠い種類の人間だ。傲岸で狡猾で、自分以外の何者をも信じない毒蛇。

 ネコはネコだし、サギはアレだし、ツルはアホだ――能力と人格を併せ持つ配下というものは何故こうも俺の前に現れないのか、神の采配を恨まずにはいられない気分である。

 哀れな鼠を仲良く虐めていたのも一瞬、またしてもぎゃーぎゃーと喧しい口喧嘩を始めているねねと天の二人組を見遣って、溜息を一つ。

 少なくともあの連中に比べれば謙虚な分だけ従者第一号はまだマシか、と視線を巡らせてその姿を探す。

「……蘭?」

 エントランスの隅にてその姿を見出した蘭は、茫とした様子で佇んでいた。既に眼前の敵を討ち果たし、任を終えた銀の愛刀を未だ鞘に収める事すらしていない。ぽたりぽたりと抜き身の刃の切っ先から血が滴り落ち、コンクリートが剥出しの床に跳ねる。

 その表情には傍目にも色濃い懊悩の色が焼き付いており、俺の呼び掛けにも気付いていない様子だった。織田信長の忠臣で在る事を誰よりも強く己に課している蘭が、他ならぬ主君の声を聞き逃すとは――これは、尋常の事態ではない。

「如何した。蘭」

「――!あ、主!?も、申し訳御座いません、お呼びでしょうか。私にご用命があれば、何なりとお申し付けを――」

 大いに慌てながら納刀し、狼狽も露にかしこまる蘭の目を正面から見据え、問い掛ける。

「命ずるべき旨は無い。只、問うべき儀があるのみよ。お前は、何を然様に苦悩している?」

「っ、いえ、蘭には悩みなど……、畏れながら、仮に悩みが在ったとしても、所詮は愚臣の詰まらぬ小事に御座います。かかる些末事にて王たる主を煩わせるなど言語道断。どうかお気になさらぬようお願い申し上げます」

 そう言って、似合いもしない凛とした態度で蘭は頭を下げる。

 ここまで頑なに回答を拒むと言う事は、どうやらよほど面倒な問題を抱え込んでいるらしい。一昨日のドイツ軍襲撃の前後から何事か思い悩んでいたのは一目瞭然だったが、これはいよいよ以って見過ごせない。どうにか対策を講じねばならないだろうが――さてどうしたものか。

「……まあ、良かろう。もはや鼠共の駆除も終えた事だ、この場に留まるは無意味。凱旋だ、蘭」

「ははっ!」

 兎に角、こんな辛気臭い廃ビルで頭を悩ませていても仕方がない。

 死屍累々と散らばった影達を一瞥してから、蘭を三歩後ろに引き連れてエントランスの玄関へと向かう。

「――けっ、ウチとシンはガキの頃からの付き合いなんだよ。ぽっと出のパンピーのクセしやがってデカい面してんじゃねーぞコラ」

「ふぅやれやれ、判ってないねぇ。人間関係は付き合いの長さが全てじゃないんだよ、天使ちゃん。真の絆っていうのは一目見た瞬間に築かれる事だってままあるんだ。キミみたいに上っ面だけの腐れ縁を誇っちゃうなんて、私にしてみれば滑稽以外の何物でもないね。思わず哀れみさえ覚えちゃうレベルだよ」

 入り口近辺で尚も繰り広げられている、ねねと天の低レベルな口喧嘩はますますヒートアップの様相を見せ、いつリアルファイトの火蓋が切って落とされても不思議ではない一発触発の雰囲気だった。興奮剤を服用している訳でもないのに天の顔面は怒りで真っ赤に染まっているし、ねねの方も表面上は余裕綽々のクールな態度を取り繕っているが、よくよく見れば青筋が浮かんでおり、内面の苛立ちをまるで抑え切れていないのが判る。どうもこの二人、本気の本気で相性が悪いらしい。

「あぁぁぁぁぁあウッゼェッ!ヒャア我慢できねぇ、死刑だ!てめーはウチを怒らせた、真剣で再起不能になるまでブッ潰す!ミンチにして人肉缶詰にして犬のエサにしてやるぜぇっ!」

「なにそれこわい、私は遠慮しておくよ。まぁこれ以上我慢出来ないって言うのは全面的に同意だけどね。キミの下品で野蛮な罵声を聞かされるのは文化人の私的には耐え難い苦痛なんだよ全く。いい機会だし、そろそろ決着を付けようじゃないか。――って訳でご主人、私にはこの妹キャラ気取りの脳筋娘を叩き潰すっていう前世からの使命があるから、蘭と二人で先に帰っててよ。必ず追いつくから、のんびり話でもしながら、ね」

 何処となく死亡フラグの匂いを漂わせる台詞を吐きながら、ねねは俺に向けてウインクを飛ばした。

 これはまさか俺達に気を遣い、演技で意図的に天を怒らせてまで口実を作ったのか――と思わず少し感動を覚えそうになったが、しかしゴルフクラブを構えた天と向かい合って威嚇の唸り声を上げている姿には一片たりとも嘘偽りの気配は無さそうである。

 流石にアレが演技であるとは考え難いので、まあ所詮は偶然の一致なのだろう。

「ウオオオ行くぜエエエ!」

「さあ来いエンジェル!――天使の暴力が私に届くと信じて……!」

「うがぁぁ、名前で呼ぶんじゃねー!」

 何にせよ、用意されたシチュエーションを無駄にするべきではない、か。

 相変わらず翳を湛えた表情で控えている蘭をちらりと見遣ってから、俺は玄関の扉を押し開いた。








 夕暮れに照らされて淡い橙色に染め上げられた堀之外の街を、蘭と二人で連れ立って歩く。

 堀之外の大部分を構成する歓楽街のメインストリート、親不孝通りを抜けて住宅街区域に入り、その片隅に構えるボロアパートを目指す。これまでに幾度も幾度も繰り返してきた、変わらない日常の道程だ。ただそう在る事が当然であるかのように、森谷蘭は無言の内に織田信長の三歩後ろに付き従って、静かに歩を進めている。

「……さて」

 沈黙を破る呟きと共に俺が足を止めたのは、目的地たるアパートへの到着を数分後に控えた地点の街路。歓楽街の喧騒から離れた住宅街には、違和感を覚える程に人影が疎らだ。そんな中、二人組の子供達が仲睦まじげに戯れ合い、はしゃぎながら俺達の傍を通り過ぎて、すぐ近くの公園へと駆け込んでいった。彼らの小さな背中を見送ってから、俺はおもむろに振り返った。

「先程は天の目もあった故、敢えて追及は控えたが。此処ならば不都合も無い。話せ、蘭」

「……畏れながら。先にも申し上げました通り、私如きの矮小な苦衷にて主を煩わせるなど言語道断で御座います。どうか、お忘れくださいませ」

 見事なまでに予想通りの頑固な返事である。表情を硬くしてこちらを見返す蘭に対し、俺は予め準備しておいた口上を持ち出す事にした。

「莫迦め。森谷蘭は俺の懐刀にして股肱の臣。即ち己が“手足”も同義よ。お前が惑えば刃は曇り、手足の働きは鈍ろう。なればこそ、事は既にお前個人の問題に留まるものに非ず――俺の進退に直結するは明白だ。であるにも関わらず、お前は其れを、矮小な些末事と断じる心算か?」

「それは――、……はっ、仰せの通り。蘭が愚かで御座いました。主の為に捧げた身でありながら、忠なる臣としての自覚が不足しておりました。面目次第も御座いません」

 蘭はいたく恥じ入った様子で、深々と頭を下げて謝罪の意を示した。

 そして、そのまま顔を上げる事無く、懺悔の如く懊悩に塗れた言葉を零す。

「……何故、私はかくも愚昧なのでしょうか。信長様、蘭は何故、かくも蒙昧なのでしょうか。蘭は己の無力を、無知を、無能を、嘆かずには居られません。憂いずには居られません。疑わずには居られません――私は果たして、信長様のお役に立てているのでしょうか?」

 苦渋の表情で吐き出されたその一言こそが、蘭を悩ませていた疑念なのだろう。

 最近の状況から考えれば、まあ凡そはそんな所だろうとは思っていたが……やはり“それ”か。複雑な心境を面に出す事なく、冷徹な無表情を保って我が第一の従者を見遣る。蘭は悄然と俯いたまま、苦しげに言葉を続けた。

「九鬼さんとの決闘に於いては、自らの本領たる太刀を用いておきながら、忍足さんを満足に足止めする事すら適わず、みすみすと主へその手を届かせる事を許し。川神先輩という真の強者を前にして、成す術も無く己の非力を痛感させられ。辰子さんとの死合に於いては、全霊を以って臨んでも相手の本気を引き出す事すら適わず。椎名さんとの決闘に於いては弓術の腕にて完膚無き敗退を喫し。そして先の独軍の襲撃に際しては、主の御身を護りつつ主の敵を討ち果たす、刃として当然の働きすら果たせず。顧みれば、私は……主に対して、何の御役にも立てておりません。このような有様で、何の面目あって主の懐刀を名乗れましょうか」

『主に大見得を切った挙句の、此度の結末。面目次第もありません』
『何をどうしたところで私が勝てる未来図が浮かびませんでした……』
『もはやお詫びの言葉すら浮かびません……どうか如何様にも処罰をお与え下さい』

 川神学園への転入以来、蘭が零してきた数々の言葉が脳裏に蘇る。

 主君への忠誠を何よりも優先し、主君に勝利を捧げる事を無上の喜びとする蘭は、しかし一度として満足な白星を上げる事が出来ていない。少なくとも本人はそう思っているだろう。その事実がどれ程の重さを伴って蘭を苦しめるか。巨大な自責の念を背負わせるか、想像に難くない。

 そして――恐らくは、“それだけ”ではないだろう。

 俺の憶測を肯定するかのように、蘭の懺悔は続く。

「然様に不甲斐なき私に較べて、彼女は。ねねさんは、とても優秀な従者です。武力のみならず、多彩な方面に才能を有しているねねさんは、愚直に剣を振るう事しか出来ない私などよりも遥かに広い分野で主のお力となる事が出来るでしょう。それに、今にして思えば――二年前の闘争にて誰よりも多大な功績を以って主を支えたのは蘭ではなく、サギさんでした。今も昔も私は、主より第一の臣という誉れを頂戴しておきながら、その誉れに見合うだけの功を立てられておりません。……故に私は、己の非力を嘆かずにはいられないのです、信長様」

「……成程。其れが、お前の内に巣食う懊悩の正体か」

 俺に合わせる顔が無いとでも感じているのか、蘭は俯いたまま顔を上げようとしない。自信という要素を丸ごと置き忘れてきたような哀れっぽい姿に、心中で小さく溜息を落とす。明智音子という“異物”を家中に迎え入れた事による弊害は、必ず何処かで生じるであろうと感じていた。

 そもそもにして蘭がかつてサギやツルといった“従者候補”を拒絶してきたのは、恐らく蘭自身が無意識の内にこのような事態を恐れていたが故だろう。昔日より、“織田信長の一の従者”という立場こそが蘭にとっての全てだったのだから。
 
 だが――蘭は今、変ろうとしている。こうして思い悩みながらも、ねねという第二の従者を受け入れた事こそが、その証拠。操り人形の如き歪な在り方から脱却し、己の意志を以って物事を考え、行動しようとしている。絶えず足掻き苦悩し、最善の道を模索する“人間”へと、立ち戻りつつある。

 それ自体は大いに歓迎すべき事だが、悩みに押し潰されていては本末転倒だ。些か気恥ずかしくとも、ここは俺自らの手でフォローを入れてやらねばなるまい。

「ふん。相変わらずの莫迦だな、お前は。俺の言を正しく受け止めていれば、然様な勘違いは起こり得ぬものを」

 冷然たる口調でいかにも呆れた風に言ってやると、蘭は目を白黒させながら狼狽えていた。

「え、あの、主……?勘違いとは、一体」

「今一度考えるがいい。俺がお前を自身の股肱と形容した、その意味を。手足として果たすべき任とは、何だ?それは――俺の意を汲み、俺の望む通りの働きを為す事に他ならぬ」

「はっ、承知しております。ですが蘭には主の御期待に添えるだけの能が……」

「莫迦め。其れを、勘違いだと云っている。そもそもにして、お前が俺の期待に応えられていないなどと――見当違いも良い処だ。蘭」

 静かな呼び掛けに、蘭が弾かれたように顔を上げる。
 
 戸惑いに揺れる眼を逃さぬ様に真っ直ぐ射抜きながら、俺は言葉を紡いだ。

「俺は誰よりもお前を知っている。お前の能力の至らぬ処も、及ばぬ処も知り尽くしている。故に、お前に期待する成果は常に、俺という頭脳の想定し得る最善の結果だ。そしてお前は――完全な勝利こそ得られずとも、俺の望む働きは確実に為してきた。お前の有する能力を限界まで費やさねば成し遂げられぬと想定した任も、過たず果たしてきた。その意味では、お前は俺の期待を裏切った事など一度として無い。判るか?」

「……あ……」

「手足は己が身体の一部。頭脳と肉体は一心同体だ。単独では如何に足掻いても成し得ぬ働きを、相互に補う事で現実と成す。故に、如何に力が在った処で、己の意に従わぬならば。然様な手足など、欠片の価値も無い。……お前は、誰よりも長く俺の傍に在り、誰よりも深く俺の意に通じ、その刃を以って俺に不足した能力を埋め合わせられる、唯一の臣だ。ひとたびこの身体に馴染んだ手足は、もはや替えなど効く筈もなかろう」

 かつて、俺が自身の非才に打ちのめされ、絶望した時。森谷蘭の姿が傍に在ったからこそ、俺は再び立ち上がる事が出来た。

『主の拳に貫けぬものは私が余さず打ち貫きます。主の足に砕けぬものは私が残さず蹴り砕きます。蘭が、信長さまの“手足”となりましょう』

 忠誠と至誠を体現したかのような力強い言葉が、俺の中で儚く消え掛けていた志の焔を激しく燃え上がらせた。

 だからこそ、俺にとっての、森谷蘭は。

「だからこそお前は――お前の代わりは、誰にも任せられぬ。断じて、他の誰にも務められぬ。織田信長が一の臣は、お前を置いて他に無い。――ふん、この程度の事は、云われるまでもなく理解しているものだと思っていたがな。俺に無用な言葉を費やさせた、自身の不明をこそ恥じるがいい」

 こんな風に信頼の念をストレートに告げるなどと、絶対に織田信長のキャラクターではない。それに俺自身、出来ればこういう小っ恥ずかしい事を言わされるのは勘弁願いたいところだった。全く、理解力の乏しい従者を持つと主君は大変である。

 今すぐ頭を抱えてこの場から逃げ出したいような気分で夕焼け空を仰いでいると、目の前から聞こえてきたのは案の定、感極まった嗚咽の声。

「う、ひぐ、あ、有り難き幸せに御座います……っ!の、信長さま、蘭は、蘭は、うぅぅぅう」

「……いちいち泣くな莫迦め。云っておくが、手放しで褒めた訳ではない。お前が未熟である事実は何ら変わらぬ。頭脳たる俺の躍進と、手足たるお前の成長が釣り合わねば、いずれ両者のバランスは破綻するだろう。馴染んだ手足も、仮に腐敗する様であれば切り捨てねばなるまい。お前が俺の一の臣で在り続ける事を望むならば、ゆめゆめ日々の精進を怠らぬ事だ。その為にも……まずは涙を止めろ。然様な軟弱な有様こそ、己の格を落とすものと知るがいい」

「う、うぅ、も、もうじわげございません……ひぐっ、蘭は、蘭は!ひぐっ、主の勿体無きお言葉に応え、偉大なる主の臣として相応しく在るためにも、蘭はもう泣ぎまぜん!」

 ずぴぴー、とポケットティッシュで盛大に鼻をかみながら、蘭は宣誓した。こいつらしいと言えばらしいが、何とも締まらない光景だ。

 だが――これでいい。

 蘭はきっと、強くなるだろう。己の無力を嘆く想いこそが、人を駆り立てる。望まぬ現実を変える為、己が望みを現実に変える為、揺るがぬ意志を以って努力を積み上げる。それこそが俺の定義する強さの在り方だ。

 これまでの蘭には俺への絶対的な忠誠は在っても、己自身の意志が希薄だった。森谷蘭の成り立ちを考えれば当然の事ではあるが、俺にとっては決して歓迎できる在り方ではなかった。

 しかし、蘭は変わった。かつて俺が変わったように、蘭もまた一個の人間として己の道を歩み出そうとしている。

 その事実が俺には、喩え様もなく、


「―――信長さま」


 巡る思考を打ち切ったのは、眼前から発された蘭の静かな声。

 ふと気付けば。紅い夕日の下に佇んで、蘭はじっと俺を見つめていた。

「蘭は……今こそ。今こそ、信長さまに……お伝えしたき儀が、ございます」

 ありったけの勇気を振り絞ったかのような、緊張に掠れた声音だった。

 降り注ぐ黄昏の色彩に染め上げられたか、頬には鮮やかな朱が差している。震える吐息は熱く、こちらを真っ直ぐに見つめる眼差しは潤んでいた。

 日常の間抜けさとも戦場の凛々しさとも異なる、未だ見た事のない蘭の姿を前に、俺は跳ね上がった心臓の動悸を自覚する。

「……」

 そう、か。

 いずれは、と胸の内に覚悟してはいたが――いよいよ、その時が。

 自慢でもなければ自惚れでもないが、俺は決して他者の感情の動きに対して鈍感な人間ではない。故に、これより告げられるであろう蘭の言葉は、容易く予想できる。

 十年間に及ぶ苦難の日々を共に生き抜いてきた少女。寄り添い支え合って共に暮らしてきた、掛け替えのない家族。此の世の誰にも取って替れない、最優の従者。それが俺にとっての森谷蘭で、その事実は誰にも否定出来ない、不動のものだ。

 そして。脳裏を過ぎるのは、遥か昔に喪われ、今も尚鮮烈に焼き付いた、“あいつ”の笑顔。

 俺は。

「信長さま。蘭は」

 俺は――そう、俺は。

「…………」

 腹は括った。答は、既に定めた。

 鼓動を抑え、心静かに目を閉して、告げられる少女の言葉を待つ。

 ……。

 …………。

 ……?

 しかし、必然として続くべき言葉は、幾ら待っても紡がれる事はなかった。

 俄かに心中に湧き起こる疑問を速やかに解消すべく、目を開く。

 蘭は、依然として其処に立っていた。よもや直前になって勇気が尽きたのかとも思ったが、その割には様子が妙だ。

 蘭の目は、眼前の俺の姿を捉えてはいないようだった。茫然と立ち尽くし、焦点の合わない瞳を宙に彷徨わせている。

「――――あ、れ?」

 呆けたような呟きを唇から漏らしたかと思えば、蘭は唐突にふらふらと歩き始めた。

 己の周囲に存在する全てのものを現実として認識していないような、さながら夢遊病者の如き足取りで、硬直する俺の傍を擦り抜け、何処かを目指して歩を進める。

「……蘭っ!」

 咄嗟に呼び掛けた鋭い声にも、蘭は全く反応を示さない。

 あまりにも危うげな足取りに、こうなれば力尽くでも取り押さえるべきか――と全身の筋肉を緊張させた時。

 不意に、蘭は足を止めた。

 その事に安堵しながら、彫像の如く静止した蘭の下へと駆け寄る。

 そして、立ち尽くす蘭が、身じろぎもせずに見つめているモノを視界に捉え――絶句した。

 
 其処は、公園だった。

 砂場があって鉄棒があってブランコがあってジャングルジムがあって、そしてそれ以上は何もない、見事なまでに何の変哲も無い小規模な公園だ。

 その敷地内の砂場にて、先程見掛けた二人の子供が戯れている。恐らくは小学生であろう年頃の少年と少女が夕焼け空の下で楽しげに言葉を交わしている、そんな光景を――蘭は、茫然と見つめている。

 
 まるで、懐かしむように。望郷の念に浸るように。

 過ぎ去った時を悼むかのように、目を細めて。


『誰かにおつかえするなら、わたし――』


――まさか。


 総身を、戦慄が走り抜けた。

 先程までなどとは比較にならない激しさで、心臓が動悸を刻み始める。

 カラカラと喉が渇き、汗が際限なく噴き出す。

 襲い来る眩暈を堪えながら、紅く染まった横顔に視線を向ける。


――まさか、お前は。


「……のぶなが、さま」


 そして、蘭は。

 夢見るような、虚ろな眼差しで俺を見つめて。

 その問いを、発した。





「わたし、どうして――“ここ”を、知っているんでしょう?」





 





 

 それが、始まりの合図。

 
 歪んだ歯車が、軋みを上げて廻り始める。

 














 

 

 と言う訳で、文字通りの『転換点』。今回を以って第二部の序章が終了、と言ったところでしょうか。ここ数話は準備段階的な意味合いが強く、結果としてどうにも話のテンポが悪くなってしまった感がありましたが、次回以降は物語が加速し始める予定です。
 ちなみに今回はパロネタの数が過去最多だった気がしますが、皆様は幾つ気付けたでしょうか?それでは、次回の更新で。



[13860] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:4e009bec
Date: 2012/01/16 20:45
 
 永遠と云う概念は、凡そ此の世界には存在し得ない。

 時空の中にて万物は流転し、いずれ避け得ぬ終焉へと至る。

 この残酷な世界に囚われる存在であれば、一つたりとも例外はない。

 ならば、壊れた少女の壊れた願いもまた、いつか終わりの刻を迎えるのだろう。


――長い一日が、始まる。















「あー、突然だがお知らせだ。今日からこのクラスに新しい転入生が来る事になった」

 “その一日”の本格的な始まりを俺に告げたのは、我らが担任教師・宇佐美巨人が不意に放った一言であった。

 四月二十七日、月曜日。そろそろ朝のHRも終わりに差し掛かろうかというタイミングでの発言である。どうにも未だに眠気の抜け切らない顔を並べていた2-Sの生徒達が、突如として降って湧いた一大ニュースを前に一瞬で覚醒を果たしたのは何ら不自然ではなく、むしろ当然の反応と言えよう。

「おお~ビッグ・イベント!今度はどんなのが来るのかな~、わくわく」

「つーか転入生って、また随分といきなりな話だなオイ。なぁ、若は何か聞いてたか?」

「いえ、この件に関しては私も初耳です。こういう時は事前に何かしらの通知があるハズなのですが……おかしいですね。何か事情があるのでしょうか」

「フハハ、何でも良いではないか我が友トーマよ。我が栄光の領地に新たな民草が根を下ろすのは喜ばしい話である!してティーチャー宇佐美、無論その者はS組に相応しき実力の持ち主なのであろうな」

「うむ、気になるゆえ、勿体振らずさっさと此方達に紹介せい。ヒゲの分際で焦らすとは生意気なのじゃ」

「あーはいはい、一旦落ち着けお前ら。これから紹介するから静かにしろ」

 先程までの気怠い雰囲気は何処へやら、俄かに活気付き騒然となった教室の様子を、巨人はいかにも億劫そうな面持ちで見渡した。

 このオッサンが帰宅中のリーマンよろしく草臥れているのはいつもの事だが、改めて見れば、今朝は普段の三割増で表情に疲労感が滲み出ているように思える。その精気の欠けた顔を眺めていると、どうにもふつふつと嫌な予感が湧き上がってきた。何やら途方もなく厄介な面倒事に巻き込まれるような気がしてならない。所詮は論理的根拠の存在しない只の勘なのだが、しかし残念ながら俺の勘は割と良く当たる。自分にとってマイナスな物事に対しては特に、だ。

 転入生の出現という思いがけないイベントの到来にクラスメート達が揃って浮き足立つ中、俺は座席の上でひとり身構えていた。

「それじゃー転入生、入っていいぞ」

 教室のざわめきが収まるまで待った後、巨人が廊下に向けて投げ遣りな声を掛ける。

 そして、外で待機していたのであろう件の人物が扉を開き、好奇の視線が集中する中、教室内へと足を踏み入れた。気性の傲岸さを窺わせる堂々とした歩調で壇上に立ち、鋭い眼差しでクラス全体を見渡しながら、正体不明の転入生は静かに口を開く。

「マルギッテ・エーベルバッハです」

 それだけ言うと、転入生は口を閉ざし、値踏みするように周囲の反応を見守る。

「…………」

 そして、異様な沈黙が数秒ほど流れた。誰も彼もが言葉を失い、困惑を顔に貼り付けている。転入生の挨拶そのものに問題があった訳ではない。飾りのない第一声は愛想にこそ欠けるものの、取り立てて奇抜という程のものではなかった。何せ2-Sはかの九鬼英雄を委員長として戴くクラスだ――生徒達の有する変人耐性は他クラスの比ではなく、現れたのが並大抵のイロモノならば動じる事すらない。

 ならば今現在、何故に俺を含めた2-Sの面々が揃って言葉を失っているかと問われれば……答は明瞭。

 つまるところ、その存在が常識を足蹴して憚らぬ、並外れたイロモノであるからに他ならない。

 まず第一に、名前からも予想出来る通りに外国人であるという点――だが、これはまあ問題ないだろう。腰元まで伸びた、燃え盛る火炎のような赤髪や、日本人離れした長身とスタイルが否応無く目を惹くのは確かだが、同じく外国人であるクリスティアーネ・フリードリヒの転入がつい先日である事もあって、容姿に関してはさほどの目新しさを覚える部分はないと言っていい。

 だが。物々しい黒の軍服をその長身に纏い、威圧的な眼帯で片の紅瞳を覆い隠し、極め付けには猛犬も尻尾を巻いて逃げ出しそうな獰猛極まる雰囲気を絶え間なく全身から発している点については、どう言葉を取り繕っても擁護不可能である。特に学校というロケーションには場違い過ぎる軍服が致命的だった。これでイロモノ認定されなければむしろ奇跡だろう。

「彼女はドイツから来た留学生でな。F組のほら、この間来た留学生……そうだクリス。彼女の関係者でもあるらしい」

「よろしくお願いする。質問があれば答えてやってもいい」

「あー、何つーか、つかぬ事をお聞きしますが。ひょっとして軍の人っすか……?」

「ああ。栄えあるドイツ連邦軍にて少尉を任ぜられている。敬いなさい」

 クラス全体の疑問を代表して恐る恐る問い掛けを発した井上準に対し、マルギッテは何でもないかのようなあっさりした調子で答える。あ、そっすか、と顔を引き攣らせる準に続いて、元気良く手を上げたのは小雪である。

「はいは~い!その服は許可もらったの?」

「軍から川神学園へ多額の寄付金が出ている。よって制服は規定のものでなくて構わない。いつでも有事に備えるためと理解しなさい」

 “有事”――か。まあ、そうだろうとも。

 身に纏うオーラが誤魔化しようのない本物なので最初から判り切っていた事だが、やはり物騒な軍装はコスプレと言う訳ではないらしい。そして今まさに、その事実を改めて証明するかのような遣り取りが、俺の目の前で行われていた。

「さて――情報として事前に知らされていたとはいえ、こうして実際に合見えてみると、何とも奇妙な気分だ。まさかこのような場所で再会するとはな、“女王蜂”」

 マルギッテの不敵な笑みと視線が向かう先には、英雄の傍に控える暴力メイドの姿があった。九鬼家従者部隊第一位にして、戦場にて死の象徴として恐れられた傭兵――忍足あずみは、にこやかな笑顔の仮面の奥底に、隠し切れない獰猛な本性を滲ませながら応える。

「中東以来ですか。運命の悪戯ですね、“猟犬”」

 かつて戦地で幾度となく出会ったのであろう二人。彼女達が言葉を交わす度に、血と鉄の匂いで教室が充たされていくような錯覚に囚われる。彼女達が何気なく口にした“女王蜂”と“猟犬”の呼び名は、それほどまでに血と恐怖に塗れているのだ。

――マルギッテ・エーベルバッハ。

 武の世界に通じ、更に軍事方面に幾らかの関心を持つ人間ならば、その名を知らぬ者は稀有だろう。幼少の頃から軍人としての高等教育を受けた生粋のエリートで、並外れた優秀さ故に驚くべき若さで戦場に降り立ち、幾多の戦功と屍の山を積み上げた戦闘機械。軍の“狩猟部隊”に所属し、その磨き上げられた牙爪にて己が獲物を冷徹に狩り殺す姿から、“猟犬”の呼び名で恐れられる、少なくとも欧州最強は確実と謳われる戦士だ。二十そこらという年齢で将校の地位を得ている事実こそが、彼女の突出した実力を証明している。

 そして彼女は――かのドイツ軍の英雄、フランク・フリードリヒ直属の部下でもある。

 ……やはり嫌な予感というものは良く当たるものだ、俺は無表情のまま天井を仰ぎ、遥か彼方の天上にいるらしい神とやらを盛大に呪った。

 世界の戦場を棲家とする血塗れの猛犬が何の理由もなく、平穏無事な日本国内の学園に、それもこの2-Sに転入してくる訳もなし。まず間違いなくあの親バカ中将より何かしらの任務を与えられている筈であって、そして誠に遺憾な事に、俺はその知りたくもない任務内容を推察出来てしまう。

 ましてや、戦場での顔馴染みたる忍足あずみとの対話を切り上げたマルギッテの視線が、今度は俺の方へと向けられているとなれば、もはや疑う余地はなかった。致し方ない――俺は腹を括ると、冷たい殺意の仮面を被り直して、その獰猛な眼光を正面から受け止めた。

「……中将殿は“一目見れば否応なく分かるだろう”と仰っていたが……ふっ、なるほど。確かに、これは間違えようもない。日本という島国は些か平和に過ぎて退屈だと思っていたが。こうして任地に赴いてみれば、あたかも銃声鳴り止まぬ紛争地にでも居るかのようだ」

 ニタリ、とマルギッテの口元が歪んだ。織田信長の生み出す殺気と真正面から向き合っている現状が愉しくて仕方がない、と言わんばかりの、好戦的な肉食獣の笑みだった。本当に心の底から鬱陶しい事に、俺にとっては割と見慣れた類の表情だ。この女、竜兵や川神百代と同様、戦闘狂の気配を漂わせている。優秀な軍人と言うからには冷静な人物だと思いたかったが、この顔を見る限りは望み薄だろう。

――あの耄碌ジジイ、一体どういう調停をしやがったんだ?

 思わず心中で毒を吐いてしまった俺を誰が責められようか。本当に全く、冗談ではない。

「優秀な私にミスは有り得ないとは言え、やはり確認は必要。答えなさい――お前が、“織田信長”か」

「…………。……事情を知らぬ転入生の身である故に、一度目は赦す。だが二度は無い。脳髄に刻んで確と記憶しておけ。俺の姓名を、続けて、呼ぶな……!」

 心の奥底から湧いてきた殺意を叩き付けると、マルギッテは僅かに右目を見開いて、そして口元の歪みをますます大きくした。

「なるほど、中将殿のお言葉の意味が良く分かる。これほどの獲物――命令が無ければ、自分を抑えられる自信がない。サガというものは難儀なものです」

 ……やはり、こういう反応か。牽制レベルの殺気程度で本職の軍人が怯え竦んで従ってくれるなどとは欠片も思ってはいなかったが、マルギッテの場合はそれ以前の問題だ。威圧に対して恐怖するどころか、強者との邂逅を純粋に喜んでいるようにしか見えない。精神的に優位に立つ事すらも許してはくれない、か。ならば、別方向からのアプローチを試みてみるとしよう。

「ふん。フランク・フリードリヒの差し金か。大方、貴様の任務は、対象との交戦を禁じた上での監視、と言った所だろう?娘の子守り程度の雑事の為に態々“猟犬”を送り込むとは、奴の親莫迦振りはいよいよ以って度し難い。くく、貴様には同情を禁じ得ぬな」

「……話が早いのは面倒が無くて良い。ただし誤解がある。真に優秀な軍人は私情とは無縁。与えられる任務の内容に拘らず、不満など決して覚えはしない。同情される謂れは無いと知りなさい」

「ふん。で、あるか」

 それはまあ何とも結構、まさに軍人の鑑だ。猟犬は飼い主に忠実でなければ務まらない、と言う事か。

 兎にも角にも――今の遣り取りで色々と分かった事がある。とは言っても、俺の碌でもない予想がおおむね正しかったというだけの話だが。先週末のドイツ軍襲撃の一件。学長たる川神鉄心の仲裁で事が全て解決した、と安心していたところにこれだ。俺はもはや教職者を信じまい。

「私の任務は監視。基本的に交戦は禁じられているが……緊急時の交戦許可は得ている。こちらから手出しをする事は無いが、お前がお嬢様に危害を加えようとした場合、話は別だ。命乞いの暇すら与えずその喉元に喰らい付き、命脈を噛み千切ってやる。心しなさい」

「くく、過保護な事だ。生憎、俺は温室育ちの小娘如きに拘るほど暇ではない。精々、徒労を嘆くが良かろう」

 先程のお返しとばかりに叩き付けられる強烈な殺気を、醒めた冷笑と共に受け流す。相手に交戦の意志が無い事を確認できた以上、わざわざ自分から煽る必要はない。勿論、だからと言って指を咥えて放置する訳にはいかないが、仮に何かしらの対処を行うにしても、まずしばらくは様子を見てからだ。仕掛けるには時期尚早、現時点では未だ色々と情報が不足していた。

「あー、信長よ。ちょっといいか?何つーか、話を聞いてると、何だかお前がドイツ軍にマークされてる危険人物みたいに思えるんだが……いや、さすがに無い、よな?」

 俺とマルギッテとの刺々しい会話を黙って見守っていた準が、冷や汗混じりに訊いてくる。己の内の常識と必死に闘っているのだろう、気持ちは痛いほどに良く分かる。俺もまさかこの段階で自分が国際的要注意人物として認定されるとは、流石に想像していなかった。しかし現実は紛れもない現実であり、敢えて偽る事に意味はない。

「準。お前の良く光る頭は飾りか?先の会話に対し、其れ以外の如何なる解釈を下せると云うのか」

「えぇー……マジっすか。そこは否定して欲しかったぜ……クラスメートとして。つーかそれじゃアレか、つまりあの噂も本当って事になるのか?学園を襲撃したドイツ軍の特殊部隊を軽く捻って撃退したっていう」

 盛大に顔面を引き攣らせている準の問いに、おや、と俺は内心首を傾げた。放課後の人気の無い校舎内での出来事だったので、あの一件については教員くらいしか知らないものだと思っていたが、噂になっているという事は目撃者が居たのか。まあ武装した軍人があれだけの大所帯で押し掛ければ嫌でも目立つし、最終的には俺も自重せずに戦術レベルの殺気を放出した訳で、冷静に考えてみれば“何も無かった”で済ますのは不可能だろう。

 何はともあれ、噂となって広まっているならばそれも良し。尾ひれ背びれの付いた噂は現実を超えて大仰になるかもしれないが、俺にとって何ら不都合は無い。それらの荒唐無稽な噂を現実へとすり替えられるだけの“説得力”――築き上げた織田信長の虚像は、それを確実に有している。どれほど大袈裟な噂話にもリアリティを与えられるだけの“凄み”を、生徒達の心に認識として植え付けている。故に、ありとあらゆる噂話は俺の糧と成り得るのだ。今回の一件もまた、織田信長の威信を高める為の一手段として、存分に利用させて貰うとしよう。

「ふむ、然様な事もあったか。生憎と詰まらぬ些事を何時までも記憶に留め置く趣味は無い。が、其れが事実であるとして、何を驚く?精々が一国の軍勢如きを以って俺を阻め得る道理が無いのは明白よ。違うか、英雄」

「フハハハ、無論、我が好敵手なれば当然よ!世界に冠たる九鬼財閥の後継者たる我と競わんとするならば、その程度の苦境は一笑の下に乗り越えられねば話になるまい」

 気持ち良い程の確信に満ちた口調で、英雄は堂々と言い切った。それは紛れもなく俺が期待していたリアクションではあるが……相変わらず、この男は滅茶苦茶だ。思考のスケールが巨大に過ぎて、大法螺を吹いてようやく張り合うのがやっと、という有様である。もはやツッコむのも疲れた、と言いたげな呆れ顔で俺と英雄を見比べている準の方がよほど、人種的には俺と近い。

「なぁユキよ、ひょっとして俺の感性が間違ってるのか?こいつらについていける気が全くしねぇんだが……俺と同い年だよなあの二人」

「ふっふーふ、準はちっちぇえもんね。まーまー、しょせんハゲは心もハゲな小市民だし仕方ないのさ~。ましゅまろ食べて元気出しなよ~」

「ああチクショウお前に聞いた俺が悪かったよ!いただきます!」

 ヤケクソ気味にマシュマロを口に詰め込んでいる準を余所に、葵冬馬とマルギッテとの間で“転入生への一問一答”が行われていた。曰く、

――大切なものは? ―――当然、自分だ。
――尊敬する人は? ―――自分だ。これも当然だな。
――あなたの主張は? ―――自分は正しい。自分こそが絶対正義。

「素晴らしい。まさにSクラスに相応しい人材ですね」

 全く以って同意である。ここまで突き抜けているといっそ清々しい。不遜・尊大・傲岸・横柄はS組生徒の基本ステータスだが、この転入生は新入りながら全体の平均値を軽く突破しているようであった。冬馬が寸評を添えて満足げに口を閉じると、今度は英雄が傲然と腕を組みながら声を発した。

「トーマよ、問題は実力であろう。いかに大口を叩こうとも、実際の力が伴わなければ道化に過ぎぬゆえな」

「……ふっ」

 マルギッテは英雄の言葉を一笑に付し、抗弁する価値すらないとばかりに冷笑を浮かべた。その不敵な態度は、自分の能力に絶対的な信頼を寄せているが故の余裕の表れなのだろう。そんな彼女に代わって、巨人が疲れ気味な調子で口を開く。

「あー、マルギッテの実力は抜群だぞ。このクラスでも三指に入るだろうな。ってなワケでお前ら、きっちり気を引き締めろよ」

 三指に入る、か。それは武人としてなのか、或いは学生としてなのか……敢えてどちらとも口にしなかったところを見ると、双方共に、と考えるべきなのだろう。巨人の言葉は間違いなく生徒達に対し“S落ち”の危険を警告しているものだった。

 一部の例外を除けばS組の定員は常に四十名。新入りを迎えるという事はつまり、必然的に誰かが脱落するという事だ。今回の転入はよほど急に捻じ込まれた話だったのか、例外として“四十一人目”の存在が許されている様だが、恐らくはそれもあくまで一時的なものだろう。次の学力考査にて誰かが弾かれる事になるのは疑いなかった。何とも世知辛い話ではあるが、これもエリートクラスたるS組の宿命というものだ。クラスメート全員が同志であり、好敵手――だからこそ互いの実力を認め合い、対等な友として結束を深める事が出来る。

 それ故に、この2-Sの一員として認められる為には、確かな実力を示す事が何よりも必要とされるのだ。織田信長が九鬼英雄や不死川心との決闘を通じて自身の地位を確立したように、マルギッテ・エーベルバッハもまた動かねばならない。それは、S組の新入りに例外なく課せられる試練であった。

「面白いのじゃ。マルギッテとやら、それほど強いと言うなら、実演にて此方達に証明してみせい」

「ウム、我もあずみの異名を知る貴様に興味がある。あずみよ、戦地での顔馴染みならばお前が相手を務めるがいい。久々に小太刀の舞が見たい」

「承知致しました英雄さまぁぁぁっ!さぁて、まさか勝負から逃げたりはしないですよね、“猟犬”?」

「……戯言を。私に逃走は有り得ないと思いなさい。逃げ惑う野ウサギを追い詰める狩猟者こそが、私の本分。それを存分に思い出させてやる必要がありそうだ、“女王蜂”」

 そして、S組の誰よりもエリートらしいエリートたるマルギッテが課せられた試練に背を向ける筈もなく。それから僅か数分の後には、校庭にて火花を散らし、激しく切り結ぶ二人の武人の姿が見られた。授業開始時間も近いので観客達が集まってくる事はなかったが、代わりに各教室の窓からは数え切れない程の好奇の目が覗いている。

 戦場でのライバルであったと思しき二人の実力は伯仲している様子で、その素人目にもハイレベルな戦闘は開始から五分と十数秒を経た頃、引き分けという形で幕を下ろす事になる。といっても双方共にまるで底は見せず、今回の仕合ではその計り知れない実力の一端を示したに過ぎない。目的は決着を付ける事ではなく、あくまでマルギッテの能力を周囲に知らしめる事だったのだろう。川神学園でも上位に位置する実力者の忍足あずみを相手に一歩も譲らず、互角以上に闘いを運んでみせた姿は、デモンストレーションとして十全の効果を発揮したと言える。

「相変わらず、苛烈な攻めですねっ☆毎度ながら、捌くのには苦労させられます」

「そちらの技の多さには畏れ入る。戦場を離れても腕は鈍っていないようだ。安心した」

 二人は最初から互いの力量を認め合っているようで、交わす言葉と刃からは武人同士としての確かな絆が感じられた。S組内階級では事実上トップクラスのあずみに認められており、更に優秀な学力・戦闘力を有している――となれば、2-Sの面々に認められる条件としては十分だ。

「ふふ、素晴らしい能力をお持ちだ。凛として美しく、何とも言えず魅力的ですね。困りました、胸の高まりを抑えられません。恋は前触れもなく吹き抜ける春風に似ている――私はまた新たな恋を見つけてしまったようです。……ああ、心配しないで下さい。信長への想いは特別な“愛”ですから、妬く必要はありませんよ?」

「焼く必要はありそうだが、な。貴様は疾く、闇の炎に抱かれて消えろ」

「はー、しかし大したもんだな。信長主従に続いて、また凄ぇ転入生が来たぞ。今度は軍人か……やれやれ、一体どこへ向かってるんだかね、ウチのクラスは」

「ま、まぁあれぐらいなら此方の勝ちじゃな。……な、なんじゃ織田、そんな目で此方を見るでない!言いたい事があるなら男らしくはっきり言うのじゃ!」

「死ね。身の程を弁えろ。思い上がるな雑魚が」

「はっきり言い過ぎなのじゃ!うわ~ん!」

「きゃははっ、ノブナガがココロ泣かしちゃった~。せ~んせいに言ってやろう~」

「小学生か!というか泣いてないのじゃ!」

「ふぅ、なんて騒々しいクラスだ……まさか私の想定を上回るとは。祖国の士官学校が懐かしい」

 何はともあれ、マルギッテ・エーベルバッハはかくして堂々たる実力を見せ付け、2-Sの新たな有力メンバーとして迎え入れられた。グラウンドでの決闘見物を終え、今まさに開始の時を告げんとしている一時間目の授業を受講すべく教室へと向かう道程にて、俺は真剣な思考に沈む。ほぼ完全に想定外のこの事態、いかなる形で収拾を付けるべきか。他の状況と併せて、考えるべき事は数多い。

 それにしても、本当に次から次へと面倒な厄介事が降り掛かる学園である。もはや何かしらの組織的な嫌がらせを疑いたくなるレベルだ。己を磨く修行場所としては相応しいのかもしれないが、物事には限度があるだろう。このまま慮外のトラブルが続くようであれば、ストレスがマッハで俺の頭が頭痛で痛い。

 ……まあ、幸いにして、勿論これは不幸中の幸いという意味だが、少なくとも今回は時間の猶予がある。マルギッテの行動原理を考えれば、2-F所属の“お嬢様”ことクリスティアーネ・フリードリヒへの手出しを控えさえすれば火急の危機は無い筈だ。かかる内に熟考を重ね、慎重に手段を突き詰めていけば、最上の対策も自ずと見つかるだろう。

「ふん。俺の歩みを阻むには、足りぬな」

 自身を励ますように口内で呟いて、俺は果てしなく続きそうな思索を打ち切る。

――残念ながら、俺が自身の見通しの甘さを呪う事になるのは、それほど先の話ではなかった。











『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。対戦者は2-S所属、織田信長と――』

「んむぅ?ごしゅじん……?」

 不意にスピーカーから響き始めた校内放送。その声が読み上げた名前をしばし頭の中で反芻して、数秒の後にそれが自分の主人の名前だという事に思い至り、そこでようやく私は心地良い微睡に沈んでいた意識を覚醒させた。突っ伏していた机から顔を上げ、目を擦りながらスピーカー横の掛け時計を見遣れば、現在時刻は昼休み真っ盛りの十二時半。昼食を胃袋に詰め込む事で満腹中枢が刺激された結果として襲い来る猛烈な眠気の攻勢に抗えず、やむなく無条件降伏を選んだのは果たして何分前だったか。

「ふあぁぁ。ん~、んんんん」

 椅子に座ったまま両腕を挙げて上体を伸ばし、身体の奥底から湧き出でてきた欠伸を零す。

 そうしている内に、無意味に図体の大きいシルエットが私の傍に歩み寄ってきた。歩く度に口元でピョコピョコと鬱陶しく揺れる笹の葉の存在も併せて考えると、わざわざ顔を見るまでもなく相手を特定出来る。

「あ、お目覚めみたいッスね、ボス。けどここに居てもいいんスか?どうもボスのボス……あー、大ボスがこれから決闘するみたいッスけど」

「けっとうぅ?……ああそう、決闘ね。それは大変だなぁ。…………って、決闘!?」

 頭の中に掛かっていた靄が一気に晴れて、瞬く間に思考がクリアになった。微睡の中で微かに聞こえた校内放送はそういう事だったか。

 何にせよ、主人が決闘に臨もうとしている時に寝過ごすという醜態を晒さずに済んだのは運が良かった。一度でもそんな失態を犯そうものなら、小姑の如く口うるさい先輩従者に延々と説教を食らう羽目になってしまう。自由を愛し夜更かしを日常茶飯事とするこの私、生活習慣の改善を強制されるのは勘弁願いたいところだ。

「それで子分A、決闘場所は?」

「第一グラウンドッスね。そしてそして!お待ちかねの自分の名前は――」

「あはは、大丈夫大丈夫、博覧強記な私がまさか可愛い部下の名前を忘れる訳がないじゃないか。カニカマなんて衝撃的な名前、忘れるヤツの気が知れないね」

 ぜんぜん大丈夫じゃないッス!と哀れっぽく喚き立てる子分Aを放置して、私は自席から腰を上げた。アナウンスが入ったのはつい先程なので、よもや今すぐに決闘が始まるような事はないだろうが、だからと言ってあまりのんびりしている訳にもいかない。ただでさえ“寄り道”が必要なのだから、無用なタイムロスは避けるべき場面だ。

 軽い屈伸運動で凝り固まった筋肉を解きほぐしてから、私は1-S教室をぐるりと見渡した。探し人はといえば、先程までの私と同様に、腕枕で机に突っ伏して怠惰な午睡を貪っている。

「おーい、小杉ちゃん。武蔵小杉ちゃん。……ムサコッス」

「ムサコッスゆーなっつってんでしょーが!プッレ~ミアムな組技の餌食になりたいワケ!?」

「おお、一瞬で起きるとは予想以上の効果だね。まあキミの目覚し要らずで便利な体質についてはホントどうでもいいとして、そんな事より小杉ちゃん。さぁさ、いざ決闘見物と洒落込もうじゃないか。上手くすれば、あー、ホラ、ご主人こと織田信長のプレミアムな技を盗めるかもしれないよ?」

「行く!行くに決まってるじゃない!このプレミアムチャンスを逃すワケにはいかないわ!」

 私のプレミアムな説得がハートをキャッチしたらしく、勢い良く立ち上がりながら喧しい雄叫びを上げる1-S副委員長、ムサコッスこと武蔵小杉。覚醒後僅か数秒の癖に恐ろしいテンションの高さだった。演技全般(物真似含む)には相当な自信がある私でも、こればかりはちょっと真似できる気がしない。

 年中無休で無意味な騒々しさを発揮しているクラスメートに呆れた目を向けていると、彼女は何やら不気味にブツブツと呟いて自分に気合を入れてから、意気揚々と私の元へ歩み寄った。そして、眉を顰めながら私の身体を上から下まで眺めて、訝しげに口を開く。

「ねね。朝から気になってたんだけどさ、何その服装?改造制服にしちゃプレミアムに前衛的過ぎない?」

「制服に見えないのは当然だね。これ、私服だし。いわゆるお気に入りの一着って奴だよ」

 そう、私にとっては大切な思い出の詰まった愛着の一品だ。首から下をすっぽりと覆うロングコート。かつて尊敬する師匠が愛用し、そして私に遺してくれた唯一の形あるモノ。普段は学校の外で好んで着用しているそれを、今日の私は校内にて翻している。小杉が違和感を覚えたのは当然だった。何やら自分の学生鞄に手を突っ込んで中身をガサゴソと弄っていた子分Aが、小首を傾げながら口を開いた。

「う~ん、自分の見る限り、服のサイズが合ってないんじゃないッスか?どう見てもすんごいブカブカッスよ」

「ほうほう、小学生並のチビの分際で一丁前に大人用のロングコートなんて着てる私は背伸びしてるお子様にしか見えなくて微笑ましいって?キミ、ちょぉぉぉっと私より背が高いくらいで調子に乗っちゃってるんじゃないかな。シメるよ?キュッてシメるよ?」

「ひぃぃ、自分そんなコト思ってないッスよ~!スピニングバードキックの実験台はもう勘弁ッス!」

 そうか、アレはそんなに嫌だったのか。まあ私も決して鬼ではないし、部下を労わる事の大切さは良く分かっているつもりだ。この反省を活かし、今度からは完成度八割の百裂脚にしておこう。これまで以上に打たれ強さが鍛えられて、子分Aも喜んでくれるに違いない。

「しかしまぁ、そのボロッボロのコートがお気に入り、ねぇ。はっ、アンタってイヤミなくらい何でも出来る万能タイプだと思ってたけど、少なくとも服のセンスは最悪みたいね。あのプッレ~ミアムな明智家のお嬢様とは思えないわ。つーか良く先生に注意受けなかったわねソレ」

「学園には話を通してあるからね。仮に私が肩パッドとジャギヘルメットを着用していても文句は言われない筈だよ」

「いや流石にそれは苦情が来るでしょ常識的に考えて……マロとかリアルに泡吹いて気絶しそうね。あー、考えてみれば不死川とか九鬼とか、あの辺のセンパイはかなりフリーダムな服装だったわ。金色スーツとかメイド服とか和服とか。明智家の財力があればそういうゴリ押しも出来るってコトかぁ。金持ちはお得よねー」

「くふふ、良く言うよ。さすがに不死川家と比べるのはアレだけど、お宅の武蔵家だって十分な名家じゃないか。それこそキミが望めばいつだって年中ブルマで過ごせるようになると思うよ?欲望に生きてる男子達は大歓迎だろうし、何より学長が間違いなく食い付くね。キミも幸せみんなも幸せ、ハッピー尽くしで素晴らしいじゃないか。Nice Bloomers.」

「なんで私がブルマ履きたくて仕方ない変態みたいになってるワケ!?言っとくけどアレはいつ決闘になっても闘い易いように持ち歩いてるだけで――」

「うんうん。分かってる分かってる、何も言わなくていいよ、私はちゃんと分かってるから。それよりさ、いつまでもこんなところで遊んでたら決闘が始まっちゃうし、急ごうじゃないか小杉ちゃん」

 このまま実にならない馬鹿話をしていては見物に間に合わなくなってしまう。という訳で、私は未だに何か言いたそうな表情の小杉と子分Aの両名を無理矢理に引き連れて、早足で根城たる1-S教室を後にした。そのまま脇目も振らず真っ直ぐに決闘場所の第一グラウンドへ向かう――かと言うとそうではなく、その前に大事な寄り道をしなくてはならない。私は一階の下駄箱へと向かうよりも先に、1-Sの三つ隣に位置する教室、すなわち1-Cへと足を運んだ。訝しむ二人を一足先に第一グラウンドへと向かわせてから、私は戸口へと向かう。

「やっほ~、お邪魔するよ。本来なら賓客待遇を要求するところだけど、今日は急ぎだから別にいいや」

 開きっ放しの扉から無造作に足を踏み入れながら声を掛けると、一瞬で教室内の時が停まった。よもや幽波紋でも発現したのではないかと疑いたくなる沈黙が数秒ほど続いてから、泡を食ったような情けない声が音を取り戻す。誰かと思えば、いつぞやの地味眼鏡な1-C委員長(名前は忘れた)である。

「き、君は……うわぁああもう、どうしてまた来るんだよぉ!今度は僕達、何もしてないだろ!?」

 絶望的な表情で嘆きの声を上げると、1-C委員長は教室の隅へと目を遣った。その視線の先では、腕を包帯で固めたゴリラ(名前は忘れた)が、巨大な図体を小さくしてぷるぷると震えている。以前に痛め付けてやった事がよほど堪えたらしい。そんな彼らを嘲笑うように、私は口元を酷薄に吊り上げた。

「あはは、心配しなくても、キミ達みたいな凡愚に用事なんてこれっぽっちもないから安心しなよ、1-C委員長。私は友達を誘いに来ただけさ。――ねぇまゆっち、私達はこれからご主人の決闘を見学に行くんだけど、一緒に来ない?」

「あ、ねねちゃん……」

 1-Cの生徒達に対しては冷酷な侮蔑の眼差しを贈り。一転、奥の座席に居る“お目当て”には親しみを込めた温かい微笑みを贈る。それを受けた少女――黛由紀江は表情を明るく輝かせた。途端、教室中の生徒達の視線が一斉に突き刺さり、肩身が狭そうに椅子の上で縮こまる。無理もない話だ。何せ、周囲の生徒達が彼女を見る目は、少なからぬ悪意で濁っていた。“敵であるS組と馴れ合っている裏切り者”、彼ら彼女らの表情はそのような敵愾心に満ちた感情を雄弁に物語っている。成程、どうやら子分Aの仕事は着実に成果を挙げているらしい。醒めた頭で冷徹に思考しながら、私は親しげな笑みを崩さないまま言葉を続ける。

「ほらほらまゆっち、何をのんびりしちゃってるのさ。急がないと始まっちゃうよ?……まあ、まゆっちが私なんかと行きたくないって言うなら、大人しく引き上げるけど、さ。そうか、そうだよね、考えてみればS組の私に誘われても迷惑なだけかな。あはは、ゴメンねまゆっち。私とした事が、考えが足りなかったみたいだよ」

 わざとらしくない程度に未練の色を宿した、優しくも儚く寂しげな微笑を形作ってみせながら、私は殊勝に踵を返す。そのまま足を止める事無く廊下へと出て、先にグラウンドにて待機しているであろう二人と合流するべく歩き始めたタイミングで――私は背後に、人の気配を感じた。自然と吊り上る口元を悟られないように前を向いたまま、私は脳内で書き上げた“台本”を諳んじる。

「……駄目だよ、まゆっち。1-Cのヒト達は、キミが私と一緒にいるのが気に入らないみたいだ。私は、キミに迷惑を掛けたくない。私のせいでキミがあんな風に居た堪れない思いをするのは、嫌なんだ。キミは何も悪い事なんてしてないのに、ただ私と一緒にいるってだけで、汚れた色眼鏡で見られてしまう。まゆっちは……私なんかとは比べ物にならない、とっても優しい娘なのにさ」

 自虐的に吐き出された言葉に対し、廊下に佇む由紀江は悲しげな表情で、しかし芯の通った揺ぎ無い返答を口にする。

「ねねちゃん、いいんです。周囲の目を気にして、大切な友達と一緒にいられないなんて……やっぱり、嫌ですから」

「……まゆっち」

 彼女は、悪意に負けて安易な逃げ道を求めてきた訳ではない。私を追って教室を飛び出す事によって1-Cにおける自分の立場がますます悪くなる事を承知した上で、明智音子の傍に居る事を“選んだ”のだ。自分自身の孤独を埋める為ではなく――恐らくは、私を傷付けない為に。拒絶される痛みを知っているが故に、同じ痛みを他者に与えたくないと、そう願っているのだろう。真正面から向けられる、相手を慮る優しさに満ちた穏やかな眼差しは、私の憶測こそが真実だと告げている。

 ……あまりに高潔で、眩い。私のようなどうしようもなくどうしようもない嘘吐きが正面から直視するには、その在り方はあまりにも――

「……。ふふ、まゆっちは、強いなぁ。強いし、優しい。どうしてキミに友達が出来なかったのか、正直言って私には全然分からないよ」

「い、いえいえいえ、私なんてそんな大層なものじゃっ!?」

『オラが思うにこの謙虚さがまゆっちの人気の秘訣だよな、バリバリ真似してもいいんだぜネコっち』

「……ゴメン、前言撤回。理由は一目瞭然だったね」

「あうあう……」

「ふふ、ふふふふ、あはははっ」

 それは、普段同様の空虚な演技とは異なる、心の底からふわりと込み上げた感情の発露。湧き上がる可笑しさは、自然の内に抑え切れない笑い声となって溢れ出た。

 私は、こんな風に笑えたのか。

 顔を真っ赤に染めて縮こまっている由紀江の手を握り、突然の事に目を丸くして固まっている彼女を強引に引っ張って、私は駆け出す。

「わ、わわわわっ、ね、ねねちゃん、なにゆえ私達は盗んだバイクで走り出すかの如き様相を呈しながら廊下を全力疾走してるんでしょうかっ!?」

「十五の昼だもの、たまにはそんなコトもあるさ!まぁホントのところを言うと遅刻したらご主人に全殺しされかねないっていう切実な理由があるんだけどねっ!」

 けたけたと陽気に笑いながら風を切り、驚きと狼狽を顔に貼り付けて振り返る生徒達を次々に追い越して、私は走った。

 繋いだ手と手は、私が全力で疾駆しても解ける事はない。

 温かく、柔らかな掌の、その心地良さを手放したくない……そんな風に思っているのは、私と彼女の、一体どちらなのだろうか。

―――私は、キミを、どうしたいんだろう。

 口の中で小さく小さく呟かれた言葉は、流れ往く風景に溶けて、誰の耳にも届く事なく消えていった。








~おまけの風間ファミリー~


「しっかしよー、まーた2-Sに戦力が増強されちまったな。しかもマジモンの軍人だぜ、軍人?こっちは信長のヤローだけで十分キツイってのに、真剣でやってらんねーっつーの」

「ガクトがそう言いたくなるのも分かるけど、まあそこまで心配する事はないんじゃないか?ウチ(2-F)のクリスと知り合いみたいだし、いざとなれば交渉でどうにかできるさ」

「む、何を腑抜けた事を言ってるんだ大和。自分とマルさんは確かに姉妹同然の仲だが、いざ勝負となれば互いに手を抜いたりはしないぞ。正々堂々、真っ向から全力で刃を交えるだけだ。……まったく、やはりお前は駄目だな、ダメダメだ。騎士道精神の何たるかをまるで分かってない」

「生憎と日本育ちなもんで、騎士道には詳しくないんだよ。それに、俺はクラスの為を思って、より勝率の高い手段を選んでるだけだ。俺に言わせれば、個人のちっぽけなプライドに拘って勝機を逃すなんて馬鹿らしいね」

「むむむ、おい大和!ちっぽけなプライドとはなんだ、騎士道をバカにしてるのか!だいたい大和、お前は――」

「……うーん。ねぇガクト、僕の気のせいかもしれないけど、あの二人、何だかちょっといい感じじゃない?ほら、大和があれだけムキになるって珍しいし」

「言われてみりゃ確かに……なんつーか、“仲良く喧嘩してる”って感じだな。あー、あいつら見てると何だか俺様イラッとしてきた。大和のヤロー抜け駆けしやがって」

「ホントにね。金髪碧眼ツンデレなんて判り易い属性で私の伴侶を誘惑するなんて……許せないんだッ!」

「んー、俺は恋とかそーゆーのは良く分かんねぇけどさ、クリスの事は割と気に入ってるぜ?オモシレーじゃんアイツ」

「まあキャップから見たらそうなのかもしれないけど、だからってファミリーに誘うのは話が別でしょ――って、まあ、今はこの話題はやめた方がいいね。僕の意見はまた後で」

「オーケー、それじゃ放課後、適当な時間に秘密基地で集合だ。前の集会の続きはその時にしようぜ。……お、校内放送か?昼休み真っ最中のこの時間に、って事は、さてはまたまた決闘だな」

「決闘かぁ、最近ホントに多いよね~。連日のバトルラッシュにアタシのハートは超エキサイティンッ!ってトコね!今度はどんな対戦カードなんだろ、わくわく」







ようやくマルさん登場まで漕ぎ着けられました。何はともあれ、これで原作のS組メンバーが全員揃ったかと思うと少し感慨深いですね。まあSでは更に武士道プランの面々が追加される訳ですが、それはそれという事で。
今回は諸々の都合で若干短めですが、これ以上場面を追加するとキリがなくなるのでご容赦を。
毎回ありがたい感想・ご意見を下さる皆様に感謝の念を捧げつつ、それでは次回の更新で。





[13860] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:de2b0499
Date: 2012/02/08 00:53
『なあネコ。本当に今更ながら、俺という人間は救い難い悪党だ。嘘吐きの外道で、死後の裁定じゃどう足掻いても地獄行き間違いなし。そこは自覚している』

『うん』

『いつかは積み重ねてきた嘘の重さに潰されて、地獄へ真っ逆さまに落ちるかもしれない。もしその時が来たら、お前はどうする?』

『勿論、ご主人の後を追うよ。一人で地獄巡りっていうのは退屈でしょ?純情可憐で純真無垢な私が傍にいれば、地獄も天国も同じ事さ』

『くく、嬉しい事を言ってくれるな。主君冥利に尽きるというもんだ。――でも、嘘だろ?』

『嘘だよ。嘘も嘘、狼少年もびっくりな大嘘さ。……うふふ、ホントはね――』


 








 私のご主人こと織田信長がこれより決闘を繰り広げる予定の第一グラウンドには、既に幾多の先客が押し掛けていた。さすがに風間ファミリーのボス、風間翔一との決戦の時の如く、ほぼ全校生徒に迫るという驚異的な人数が集合している訳ではないものの、それでも個人に寄せられるものとしては破格な注目度である事には変わりない。或いはいずれ来るべき彼の自クラスへの侵攻に備えて、今の内に少しでもその手の内を探ろうと考えている連中も居るのだろう。情報を制する者こそが戦を制する――もっとも、類を見ないレベルで大嘘吐きなご主人の戦いから、正確な情報を手に入れる事はほぼ不可能だろうが。徒労に終わるとも知らず、御苦労な事だ。

 何はともあれ、私は混み合うギャラリーをざっと見渡し、その中に先行したクラスメート二名を発見。事前に指定したポジションをきっちりと押さえている事を確認して、ニヤリと笑う。

「よしよし、イイ場所が取れてるね。ほら行こまゆっち、何をまごまごしてるのさ」

「ええっ!?えーっと、あの、ねねちゃん、そうは言ってもですね……ま、松風っ!」

『あのさネコっち、あの二人って確かさー、S組でも特に尖がってる肉食系じゃね?誰もが認める草食系女子のまゆっちがノコノコ顔出したらアレだ、~サバンナの過酷な生態系~とかテロップ入る予感』

「あはは、気持ちは分からないでもないけど、きっと心配御無用だよ。論より証拠、案ずるより産むが易し。んでもって善は急げ、さ。まぁ行ってみればキミにも分かるって」

 未だにあうあうと唸りながら躊躇している由紀江の手を強引に引っ張って、私は二人の下へと向かった。

「やっほ、お待たせ~」

「ん?ああ、やっと来たみたいね。ねね、アンタの言った通りにしてあげたわよ感謝しなさい……って」

 毎度の如くムスッと無愛想な表情で出迎えた小杉は、私の隣で小さくなっている由紀江に気付くと、露骨に眉を顰めた。

「“黛”の……ははーん、わざわざ1-Cに寄ったのはそういう事だったワケね。ま、どうせそんなトコだろうと思ってたけど」

 ジロリと胡乱げな視線を寄越す小杉に、由紀江はますます縮こまりながら頭を下げる。

「あ、あの。武蔵さん、私、この前は大変失礼なことをっ」

「全くよね~、公衆の面前で馬鹿にされるわ投げ飛ばされて気絶するわ、ホントもう私のプレミアムなプライドはズタズタよ。当分は忘れられない屈辱ね。ここで会ったが百年目――と、言いたいところだけど。……まあいいわ、取り敢えずは勘弁してあげようじゃない」

 俯いたまま小杉の非難を受け止めようとしていた由紀江は、え、と驚いたように顔を上げた。対する小杉は相変わらずの仏頂面で、不機嫌そうに言葉を続ける。

「考えてみれば先にケンカ吹っ掛けたのはこっちだし、それで返り討ちに遭ったからっていつまでもグチグチ言ってるようじゃ、プッレ~ミアムな武蔵一族の沽券に関わるし。……言っとくけど、別に許したワケじゃないから。いつか私がもっとプレミアムに進化を遂げたら、その時こそ皆の前でアンタを叩きのめして借りを返すわ!せいぜい首を洗って待っておくコトね」

 そっぽを向いて鼻を鳴らしながら、ぶっきらぼうに言い放つ小杉。武蔵小杉は基本的に馬鹿でエリート意識ばかりが高く、加えて人を見る目がない愚物ではあるが、一度実力を認めた相手に対しては相応に寛容な態度を見せるタイプの人間だ。気質としてはS組生徒の典型と言ってもいいだろう。しかし、そんな小杉の対応がよほど意外だったのか、目を丸くして硬直している由紀江に、私は悪戯っぽく笑いかけてみせた。

「ね、心配は要らなかったでしょ?前にも言ったじゃないか、“私たちは力有る者には寛容だ”ってさ。ちなみに念の為に確認しておくけど、キミも文句はないよね、子分A」

「へ、自分ッスか?そりゃあもう勿論ッス、自分より“強い”相手に従うのは自分的には当然の事ッスし、ボスのご友人って事なら尚更、敬って敬って敬い倒すのが当然ッス。もうどんなにボロックソな扱いをされたところで甘んじて受け入れちまう覚悟ッスよ!これからは敬意を込めてまゆっちの姐さんと呼ばせて頂くッス!あ、自己紹介がまだッスよね。自分の名前は可児かま――」

「えー、と。ってワケだからよろしくしてやってね、まゆっち。二人とも友達と言うには色々とアレな感じだけど、まあ根はそこまで悪い連中でもないからさ。たぶん」

「は、ははははいっ!」

 “友達”という単語に何かを感じたのか、緊張にカチコチと固まった表情ながら、二人を見る由紀江の目は輝いていた。出会いの形はどうあれ、そして相手の性格はどうあれ、念願の友達が新たに増えるかもしれないという時点で、由紀江にとっては絶対的に大きな意味を持つのだろう。鬼気迫る、と形容してもさほど的外れではない気迫と共に、彼女は深々と頭を下げた。

「ふ、不束者ではありますが、よろしくお願い致しますっ!武蔵さん、カニカマさんっ」

「ダウトォッ!カニでもカマでもカニカマでもないッス!そんな渾名が定着しちまった日には真剣で泣いちゃうッスよ自分!断固撤回を要求するッス!キシャァァァッ!」

「あうあうあう!?」

『一歩目で地雷踏み抜くとか不束者ってレベルじゃねーぞまゆっち!泣けるで!』

 大いに慌てながら平謝りに謝っている由紀江と、ここぞとばかりに図に乗って上体を反らしながら謝罪を受けている子分A。そして、「あの腹話術、挑発用じゃなかったんだ……」と顔を引き攣らせている小杉の三人を順番に見遣って、私は静かに目を細める。

 何はともあれ、面通しは片付いた。我がクラスメート達はお世辞にも素晴らしい友人と言える種類の人間ではないが、同時に黛由紀江は“友達”を選り好みする種類の人間ではない。私が懸念していたのはむしろ1-S側の面々が彼女を受け入れない、という事態だったのだが、そこは事前の根回しが役に立ったようだ。小杉も子分Aもそこそこ好意的に由紀江と接する姿勢を見せている。よほどの下手を打たなければ、時を重ねる内に自然と適応するだろう。そうなれば、黛由紀江と1-Sとの結び付きはますます強固なものとなる。

 一年生最大の不確定要素。ひとたび鞘から抜かれれば留め得ぬ暴威。その存在を律する為の鎖は、一つでも多い方が良い。

「あーっ!アンタはっ!」

 だからこそ――聞き覚えのある元気溌剌とした声が自身の傍で上がった時、私は勝手に吊り上る口元を周囲に悟られないよう、猫を被り直さなければならなかった訳だ。すなわちその笑みを嫌味ったらしい嘲笑へと変質させながら、私は声の出所へと振り返った。

「やあやあワン子センパイ、今日も相変わらず××××だね。××××が×××××じゃなかったら××××だよ。やっぱり××××が××××なの?」

「ぐ、ぐぬぬ、こ、このネコ娘はいつもいつも……!センパイは敬うべし、ってジョーシキをアンタの主人は教えてくれなかったのかしらね!」

「生憎と暑っ苦しい体育会系のノリは苦手はなんだよねぇ、ほら私ってばどの角度から見ても気品溢れてて奥ゆかしい文化系だからさ。センパイこそ、すぐにそうやってキャンキャン吠え掛かるお下品な癖はどうにかならないのかな?くふふ、どうせ飼い主の躾け方が悪いんだろうけどね」

「む、アタシはともかく大和を悪く言うのは許せないっ!やっぱりここはセンパイの威厳を見せつけてやらないとダメね!ぐるるるるっ」

 自分が飼い犬呼ばわりされる事は構わないが、飼い主への悪口は看過出来ないらしい。大した忠犬っぷりだ、といっそ感心しながら、こちらに向けて威嚇の唸り声を上げている先輩を眺める。

 川神学園2-F所属、風間ファミリーの一員にして川神百代の義妹、川神一子。直接的に知り合ったのは以前の決闘の前後で、私達はその日以降、顔を合わせる度に小競り合いを起こす程に密接な関係を築いてきた。大抵の場合、向こうから突っ掛かってきたところに私が反撃を加える形だ。精々が小学校高学年程度の思考回路の持ち主を相手に我ながら大人気ない態度だとは思うが、どうにもあの能天気な顔を見ていると自分を抑えられなくなってしまう。恐らく遺伝子レベルで相性が悪いのだろう。全く以って困ったものではあるが、こればかりは先天的に定められた不可避の運命であり、決して私に非は無いのだ。

 と言う訳で、今回もまた自重を自重する事にして、迎撃再開といこう。

「あぁやれやれ、そんな風に時と場合を弁えずに噛み付こうとするから駄犬扱いされてるって、どうして分からないかな?まあどうせ何度やっても私が勝つだろうから勝負してあげてもいいけど、残念ながら今は駄目だね。私にはご主人の決闘を見届けるっていう大事な大事な使命があるんだからさ」

「むむ、腹は立つけど……まあ確かに今はあっちを観戦する方が先決かも。いつかノブナガにアタシを認めさせるためにも、相手の研究は怠らないわ!ふふーん、ただトレーニングに励むだけが修行じゃないってコトよ。銃剣日ってヤツね!」

「……。えーと……“智勇兼備”?」

「そうそれ!って訳で、アタシはノブナガの動きをばっちりチェックしちゃうけど、それって部下としては困るんじゃない?止めたいなら止めてくれてもいいわよ!」

「ハハッ。お気遣いはとってもありがたいけど、全く以って無駄な心配だね。そして無駄な努力でもある。センパイ程度の力量の武人が幾ら目を皿にして見張ってたところで、ご主人の武を暴くコトなんて到底出来っこないんだからさ。結局、“壁”の向こうを覗き込めるのは、あっち側の領域に辿り着いちゃった化物だけだよ」

 と意地悪に言ってはみたものの、実際は世界に点在するマスタークラスの実力者ですら、織田信長の実力の底を正確に測る事は出来ないのだが。何せ深淵へと続く底無し沼にカモフラージュされた水溜りだ、誰であれ直接足を突っ込んでみない事には判断の術がないだろう。そして、世の中の一般的な武人は、実力を見通せない相手=格上という認識を抱く場合が多い。我がご主人は凶悪なオーラのみならず、その在り方そのもので相対する者を幻惑しているのだ。かくいう私自身も最初はものの見事に騙されていた訳で、つまりは警戒心の強い慎重な人間であるほど欺かれてしまう――考えてみれば何とも性質の悪い詐欺だった。

「う~ん。それにしても、せっかく急いで来たっていうのに、まーだ決闘は始まらないのかな。これじゃ焦って校舎内Bダッシュを敢行した私が馬鹿みたいじゃないか全く」

 世界レベルの怪物達をも容易く騙しかねない件の詐欺師は、既に観客達の織り成す輪の中心で悠々とスタンバイしている。間近に控えた決闘に対する緊張も気負いも窺えない、絶対的な余裕と自信を総身から滲ませた悠然たる立ち姿。有象無象とは存在の格が異なる、万人の頂に立つべき王者――表向きにはそんな威風堂々たるオーラを振り撒いているその裏では、絶えず必死に頭脳をフル回転させて小賢しい策謀を練っているのだろう。そう考えると、思わずふと笑みが零れてしまいそうになる。川神学園の誰もが――あの武神ですらもが一目置く男。その奥に隠された本当の姿を知っているのは、私達だけ。彼が心を開き、自身の秘密を打ち明けたのは、世界で私達だけなんだ、と。何というか、クールでクレバーな私らしくもない幼稚な優越感だとは自覚しているが、まあ他ならぬ“家族”の事だ。少しばかり感情の制御が甘くなっても仕方がない。

「お、やっと対戦相手の入場みたいッスよ。あの織田先輩をお待たせするたぁイイ度胸ッスよねぇホント」

 感心したような子分Aの顔が向く先を目で追えば、グラウンドの中心を目指して群集の間を歩く一つのシルエットが視界に入った。成程、ようやくか。心中で呟きを落とすと、敵愾心も露にこちらを睨み付けている先輩へと向き直る。そして、どこまでも嫌味ったらしい笑顔を貼り付けながら言葉を投げ掛けた。

「ま、どう足掻いても無駄な努力である事は変らないけど、精一杯頑張って探ってみるといいんじゃないかな。くふふ、そっちの飼い主さんにもよろしく伝えておいてね、ワン子セ・ン・パ・イ。じゃ~ね~」

 呑気な声の向かう先は、目の前で向かい合う川神一子の、その背後――観戦に訪れた2-Fの面々。直江大和、風間翔一、源忠勝、椎名京。島津寮在住の四名の注意が間違いなく自分の方に惹き付けられている事を確認してから、私は飄然と踵を返し、彼らの隣に屯している集団の方へと戻った。すなわち、普段の面子に“黛由紀江を加えた”1-Sメンバーの下へと。

「はぁやれやれ。毎度毎度どうして突っ掛かってくるかな、あのセンパイは。うーん、やっぱりライバル視されちゃってるのかな?」

「こ、これが噂に聞く、強敵と書いて友と読む関係……憧れます。うぅ、そのコミュニケーションスキルが心の底から羨ましいです」

『友達作りの秘訣ってヤツをまゆっちにそっと囁いてやっても――バチは、当たらねーんだぜ?』

「いやいや、キミは色々と夢見過ぎだよまゆっち。アレは私にとって不倶戴天の仇敵、宇宙が一巡しても友情なんて芽生える余地はないって。……ま、それはともかくとして」

 改めて、グラウンドの中央へと視線を向ける。そこでは、既に二人の決闘者が向かい合って対峙していた。相変わらず尻尾を巻いて逃げ出したくなるような威圧感を撒き散らしている我がご主人。そしてもう一人は―――

「……今更だけど、誰なのかなぁ?」

 どうにも見覚えのない人物だった。学園指定の制服をだらしなく着崩した、精悍な顔立ちの男子生徒。平均よりも身長が高く、顔の造りも悪くない。客観的に見てなかなかのイケメンではあるが、ヘラヘラと笑った口元が拭えぬ軽薄さを醸し出しているので個人的にはナシだ。という至極どうでもいい評価は脇に置くとして。さて、どちら様だろうか。

「あー、あれは確か、2-Gの先輩ッスねぇ。資料があった筈なんでちょいとお待ちをッス」

 子分Aは肌身離さず持ち歩いている分厚いレポート用紙の束を取り出すと、猛烈な勢いでページを捲り始めた。川神学園全校生徒のプライバシーを詰め込んであるとの触れ込みの、ある意味凄まじい危険物だ。あっという間に目的のページを探し当てると、子分Aは実に活き活きとした表情でその内容を読み上げ始めた。

「2-Gクラス出席番号26番、蜂須賀栄斗。成績とか趣味とか好物とかきっちりばっちりデータ揃ってるッスけど、ボス――」

「興味ないね。必要事項だけさっくり伝えてくれれば結構だよ」

「……。そッスか……」

 よほど調べ上げた個人情報を披露したくて堪らなかったらしい。子分Aはいかにも残念そうな様子でがっくりと肩を落としたが、気を取り直して再び紙面に目を落とす。

「今タイムリーに必要なデータと言えば、やっぱ武術関連ッスから……えーどれどれ、武術経験は……一応は空手部に所属してるッスけど、やる気は皆無。要するに幽霊部員ッスね。まぁでも家が武士の家系ッスから、実際に戦えば主将より強いんじゃないかって評価を受けてるッス。今の2-Gを実質的に仕切ってるのはこの人ッスね。素行が相当悪いって事で、クラスの中では怖がられてるみたいッス」

「ふむふむ、成程ね。他に何か有益な情報は?」

「んー、役に立つかは微妙な情報ッスけど。どうもこの先輩、入学以来2-Fの風間先輩をライバル視してるみたいッスねぇ。実際に何度か決闘も吹っ掛けてるんスけど、今のところ全敗。まあ直接戦闘形式じゃなかったみたいなんで、結果はそれほどアテにならないかもしれないッス」

「へぇ?あの人間台風なセンパイがライバル、ねぇ。それはまた何とも」

 風間ファミリーのリーダー、風間翔一。恐怖の帝王・織田信長の侵攻を水際で食い止めた男として、ここ最近で急激に校内の評価を上げている先輩だ。ご主人もまた、「大した奴だ……やはり天才か……」などと真顔で漏らしていた辺り、彼の事は高く評価しているのだろう。元々がエレガンテ・クアットロの一員という事で女子人気は非常に高かったのだが、例の決闘にて見せた気骨は男子生徒の胸をも打った様で、現在では男女問わず多くの生徒に支持される人気者である。

 だがしかし、人気者の宿命として、妬み嫉みの目からはどう足掻いても逃れられない。彼の破天荒で華々しい活躍は人の注目を惹き付ける分、どうしても敵を作らずにはいられないのだ。恐らくは蜂須賀某という件の先輩もまた、そういった“敵”の一人なのだろう。

「さて、両者揃ったの。それではルールを確認するぞい。勝負内容は武器を用いぬ格闘戦、両者共にハンデの類は特になし。つまりは見事なまでの真っ向勝負じゃの」

 学長・川神鉄心が口にした確認の言葉を受けて、ギャラリーが騒然とざわめきを見せた。当然の反応だ――“あの”織田信長を相手に真正面から勝負を挑むという事が何を意味しているのか、観衆の大多数は理解しているだろう。奥義・殺風……ハッタリの威圧だと理解している私ですらも思わず背筋が凍り付くような、絶望と恐慌の嵐。風間翔一との決闘を通じて、その規格外の暴威は否応無く彼らの目に焼き付けられた筈なのだから。

「オイオイ、幾ら何でも無茶だろそりゃ」
「無茶しやがって……」
「あの風間でもハンデ付きで一矢報いるのが限界だったのに、ガチ勝負なんてどう考えても無謀だぜ」

 その証拠に、決闘者へと投げ掛ける言葉の方向性は誰もが同じ。要するに「やめとけ」というシンプルかつ的確な忠告だった。それらの声は確かに蜂須賀の耳に届いた様だが、しかし残念ながら心にまでは届いていないらしく、依然としてふてぶてしい態度を崩さないまま、臆した様子も無くご主人を睨み付けている。

「けっ、うるっせぇ連中だぜ。風間が何だってんだ、どいつもこいつも少しばかり運が良いだけの素人を持ち上げやがって。俺が本気でやりゃーあんなヒョロっちい優男、瞬殺なんだよ。あの野郎に出来て俺に出来ない道理はねぇんだ……」

「……」

 苦々しげに吐き捨てる蜂須賀を、ご主人の空恐ろしいまでに醒め切った目が見つめていた。例の如く能面と見紛う無表情からは一切の感情を読み取れない。

「オイ、信長さんよ。てめぇも俺と風間の野郎を一緒にすんじゃねぇぞ?俺はあいつとは違う、余計なハンデなんざなしに叩き潰してやるぜ。転入生の分際で俺らを仕切ろうなんてふざけた事は、二度とほざけねぇようにしてやるよ」

「……くく、元より貴様と風間翔一を同列に並べる心算など皆無よ。貴様と奴の差異は、自明だ」

「へっ、分かってんじゃねーか。俺は昔から武道を仕込まれてんだ、フラフラ遊び回ってただけの素人とは鍛え方が違う。全力で掛かって来いよ、瞬殺されちまうとみっともねぇぜ?」

 傲然と言い放つ蜂須賀に対し、ご主人は無言で応えた。やはり彼が何を考えているのかは判らないが、まあ大体のところは想像できる。そして同時に、この決闘の“意義”についても大凡の予想が付いた。成程、事前に私への通達が来なかったのはそういう事だったのか。

 蜂須賀とやらのあの態度――間違いなく、ご主人を軽く見ている。有体に言って、舐めている。一体全体どのような思考回路を以ってその認識に至ったのか、是非とも頭蓋を割り開いて確認してみたいところだ。私が物騒な妄想に浸っていると、子分Aが挑戦者に対する感想を漏らした。

「いやぁ、身の程を知らないヒトっていうのは傍から見てると恐ろしいモンッスねぇ。自分もそこそこ腕に覚えがあるッスけど、あの先輩を相手にガチ戦闘を挑むとか想像だけでも勘弁ッスよ。くわばらくわばらッス」

「何だかやけに実感こもってるねぇ子分A。キミってご主人と直接の面識あったっけ?」

「あー、実はつい先日、バイト先で予想外のホラー体験を――あ、やっぱやめとくッス、思い出しただけで心臓が痛くなってきたッス……」

 何やら勝手に顔を青褪めさせている子分Aの姿に、首を傾げる。確か彼女は梅屋でバイトをしている筈で、そこで何事かイベントがあったのだろう。まあさして重要な事でもなし、わざわざ追求する必要もないか。そんな風に考えている私の横で、小杉が呆れ顔で蜂須賀を見遣りながら口を開いた。

「相手とのプレミアムな実力差も見極められないってのは哀れよね~。ま、痛い目見ても自業自得ねアレじゃ」

「え、よりによってキミがそれ言っちゃうんだ。それとも自虐ネタなのかな?あははは、何にせよ噴飯モノだよね~。まゆっちもそう思わない?」

「ふ、不意打ちで途方もないキラーパスがこちらにっ!?」

『ネコっち……恐ろしい子!ホンマS組委員長は現代のマルキ・ド・サドやで……』

 初対面の時は見事なまでにドン引きしたものだが、一緒にいる内にこの珍妙な一人芝居にも段々と耐性が付いてきた。というか、弄って遊ぶとこれ以上なく楽しいという事に気付いてからは、積極的にネタにさせて貰っている。由紀江がいじられ役の立場に回った方が、プライドの高い1-S連中の受けがいいという打算も絡んでいるが、その辺りの事情を度外視しても美味しいキャラだった。勿論、前提として超弩級の変人である事には間違いないが。

 そんな訳で由紀江を適当にからかっていると、何時の間にか決闘が始まろうとしていた。両者は数間の距離を置いて対峙し、無言の内に緊迫した空気を生み出している。グラウンドを覆う雰囲気が張り詰めていくに従って、観衆達の織り成す喧騒も徐々に静まり、やがては厳粛な沈黙が決闘場に降りた。そのタイミングを見計らっていたかのように、川神鉄心が音声を張り上げる。

「――これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!両者とも、名乗りを上げるが良い!」

「2-G所属、蜂須賀栄斗だッ!てめえをブッ倒せば、阿呆な連中にも誰が“本物”なのか理解出来るだろうさ。へっ、俺は実際に闘いもしねえ内からビビって震えてる臆病者とは違うぜ」

「2-S所属、織田信長。……成程、貴様を“選んだ”のは、やはり正解だった様だ」

 邪悪に弧を描く口元から、おもむろに告げられた言葉。その意味するところを計りかねたのか、蜂須賀栄斗は不可解そうに眉を顰める。しかし、詮索の時間は与えられない。決闘の開始を宣言すべく、主審たる学長の咽喉は既に震わされていた。

「いざ尋常に、はじめぃっ!!」

 



――正直なところを言うと、私は少しばかり心配していた。外聞の問題もあって面に出す訳にはいかなかったが、一対一の純粋な格闘対決という形式はどうしても不安を誘う。ご主人こと織田信長は断じて評判通りの絶対強者などではなく、あくまで一般人レベルの身体能力しか有さない脆弱な武人だ。これまでの決闘の如く、ルールを利用した搦め手を用いるでもなく、ただ単純に正面から相争うなどというシチュエーションは彼の本領からは程遠い。故に、いまいち実力の判明していない相手との衝突の中で、何かしら不慮の事態が生じはしないか――そんな風に一抹の不安を感じていたのは否定出来ない。

 まあ結果を見れば、所詮、それも杞憂に過ぎなかった訳だが。

 今まさに繰り広げられている決闘風景を眺めながら、私は小さく安堵の吐息を漏らした。

 端的に言えば、風間翔一との対決の焼き直しだ。蜂須賀某の繰り出す拳打と蹴撃の全てを逸らし、躱す。何の焦りも気負いもなく、ルーチンワークをこなすかのように淡々と。あらかじめ攻撃の順序を打ち合わせているのでは、との錯覚を観客達に抱かせる程に、その立ち回りには澱みがない。

「う~ん。遊んでるね、ご主人」

 そもそもあの程度の実力の相手ならば、わざわざ攻撃を避ける必要すらないのだ。開始と同時に集中威圧で身動きを封じるなり、意識を刈り取るなりしてしまえばそれで済む。所詮は常人でしかない風間翔一がそれらの重圧を撥ね退けて“闘い”の段階まで進めたのは、あくまで彼の特殊性に依るものだ。肉体と精神の双方で突出した能力を持つ人間に非ざる限りは、軍人ですらも問答無用で縛り上げる殺意の拘束に抗う術などない。そして先程から観察していても、今回の対戦相手たる蜂須賀は精々が強力な不良レベルの武人だった。であるにも関わらず、未だに決闘が決闘として成立している理由は明白。ご主人が、全力で手を抜いているからに他ならないだろう。

 まあ当然か――彼の目論見を考えれば、実を刈り取るのはまだ早い。

「何度見てもあの身のこなしは凄いですね……、あそこまで無駄のない、綺麗な立ち回りはなかなか見られないと思います。氣も使わずに、よくあそこまで」

「ふふん、やっぱり私のプレミアムな目標に相応しい実力ね。あの誰をも寄せ付けない絶対の余裕……あれこそ私の理想形!いつかはあの域まで辿り着いてみせるわ」

「ま、ご主人ってばここに至るまで散々地獄の鍛錬を積んできたみたいだし、あれくらいは序の口さ」

 極限まで研ぎ澄まされた観察力と反射神経、動体視力、そして何より人生の中で培ってきた直感によって織り成されるのは、常人の限界を踏み越えた回避能力。微細な筋肉の運動から相手の予備動作を読み取り、攻撃の描く軌道を瞬時に計算し、最低限の動作のみで身を躱す――口で説明するのは簡単だが、それを実現するのにいかほどの訓練を要した事か。ましてや、武神は言うに及ばず、私にすらも遥かに劣る、凡夫と言うべき武才を以ってその技術を習得するのは、文字通り命懸けの修行を必要としたに違いない。彼の能力は、ひとえに執念と熱意の結晶であった。それを他者の口から、ましてや剣聖の娘から手放しに賞賛されたとあっては、ついつい私の頬が緩むのも無理はない。いかなる形であれ、身内が褒められるのは嬉しいものだ。少し浮き上がった気分に任せて、舌が勝手に動いた。

「っていうかぶっちゃけあの程度、ご主人にとってはお遊戯みたいなものなんだよ?あの人が本気で動いたら想像を絶する衝撃波で川神市が消し飛ぶし、ましてそれが相手と激突したら地球がヤバイ。ご主人の喧嘩で地球がヤバイ」

「……冗談、ッスよね?」

 冷や汗を垂らしながら恐る恐る尋ねてくる子分Aに、清々しい笑顔で答える。

「うふふふ、さあてどうだろうね。残念ながら私はまだその場面を見た事ないから、嘘かホントかは私にも分からない。正直に言って、あの驚天動地なご主人の本気なんて見たいとも思わないけど。パンドラの箱は金庫に入れて海底にでも沈めておくのが一番さ」

「…………」

 決闘中のご主人へと視線を向けながら、皆は揃って神妙な顔で黙り込んだ。この場にいる全員が私の言葉を荒唐無稽な冗談として一笑の下に笑い飛ばせないのは、事実として隕石を召還したり、それを宇宙空間を貫く気功波で消滅させたりする常識外の怪物が実在しているからだろう。そうでなければ嘘吐きを自認する私と言えども、冗談でもここまでの大法螺は吹けない。ただの妄想家扱いされるのがオチだ。

 さて、私が健気にも些細な嘘を吐いて“織田信長”の虚像を浸透させる作業に励んでいる間にも、グラウンド上では二人による決闘が進行している。見れば、蜂須賀の仕掛けた都合二十三回目のラッシュが、悉く掠りもせずに終了したところであった。全力で拳を繰り出し続けた結果、肩で息をしている蜂須賀と、余計な動作を省いた回避に徹した結果、汗の一つも掻いていない我がご主人。その対比一つ取ってしても、両者の間に隔たる格の差は誰の目にも明らかだった。しかし、そもそもにしてその現実を認められるような柔軟さを持ち合わせている人間ならば正面からの決闘を挑んだりはしないワケで。蜂須賀は苦々しげに表情を歪めて、眼前のご主人へと罵声を浴びせた。

「――くそ、てめえ、さっきからちょこまかと逃げ回りやがってッ!それだけしか出来ねえのかよヘタレが、男なら真っ向から闘いやがれ!それともなんだ、怖えのか?え、俺が怖えのかって訊いてんだよクソ野郎ッ!」

 自分の攻撃が欠片も命中しないのは相手が逃げに徹しているからであって、特に決定的な実力差がある訳ではない。正面から殴り合えば間違いなく勝てる――虚勢や挑発の類ではなく、蜂須賀は心の底からそんな風に信じている様子だった。その思考が地味に真実を掠っているのは面白いところだが、それはさておき。織田信長としてはこの侮りの念に満ちた罵倒を黙って見過ごす訳にもいかないだろう。ならば、そろそろ行動の時、か。

「……成程。くく、然様である、か。成程、な。漸く、得心がいったぞ」

「あぁん?いきなり何言ってんだてめえ!御託はいいからさっさと掛かって――」

「く、くくくくっ、ははははははははっ!!」

 不意にその喉元から漏れ出た哄笑に、グラウンドが一瞬にして凍り付いた。“それ”は笑い声と形容するにはあまりにもおぞましい、まさしく悪魔の嗤い。ぞわぞわと背筋を這い上がる怖気に、観客達が息を呑み、身を震わせた。本能的な恐怖を煽る笑声が暫し決闘場に響き渡り、そして墓場を思わせる静寂が訪れる。誰もが怯え竦む中、ご主人は酷薄に口元を歪めながら、朗々と声を発した。

「――俺は漸く、答を得た」

 先程の哄笑が嘘だったかのような無表情で、無感情に言葉を続ける。

「予ねてより、俺には一つの疑問が在った。何故に、俺に挑み、俺の歩みを阻まんとする輩が絶えぬのか。万人を跪かせる威を示し、力を示して尚――俺に歯向かう有象無象は消え失せぬのか。そして、その問いに対する答を、俺は今まさに得た」

 絶対零度の視線が射抜く先は、己が決闘相手たる蜂須賀栄斗。気迫に呑まれ、彫像の如く硬直している彼を醒めた目で見遣りながら、ご主人は淡々と言を紡ぐ。

「俺は、自らを基準に物事を考えるべきではなかった。塵芥には塵芥の、無能には無能の価値観が在るという可能性を、俺は失念していた。己が身へと厄災が降り掛からねばその恐怖を理解できぬ程に、蒙昧且つ愚昧な輩が存在するという自明の事実に、俺は思い至らなかった。――是は、大いなる失態よ。だが、過失を教訓とし、己が糧と換えてこその覇道。故に、俺の為すべきは、唯にして一つ」

 悠然と言い放つと同時に、ご主人は動きを見せた。常にポケットに隠されていた両手が、陽光の下に晒される。ただそれだけの動作に対し、しかし観客達の間では大きな動揺の波が生じた。何せ、これまで繰り広げてきた幾多の決闘の中で、彼が自らの“手”を用いた事は一度もない。四肢の内の二つまでもを封じながら、彼は悠々と勝利をもぎ取ってきた。すなわち、ハンドポケットは絶対強者たる織田信長の在り方を体現した、余裕と遊び心の象徴だったのだ。

 その封印が今、解かれた。果たして何事が起きるのか、とギャラリーが固唾を飲んで状況を見守る中、ご主人は自由を得た両腕を左右に広げ、不敵に言い放つ。

「遊戯では物足りぬと云うならば。恐怖と絶望が足りぬと云うならば――良かろう、手ずから心身に刻むまで。さぁ、来るがいい。貴様の望む通り、心ゆくまで仕合ってやろう。くく、如何した?よもや自ら俺との闘争を望みながら、逃げる心算か?」

「っ……ざっけんじゃねえぞ!誰が逃げるか、俺を誰だと思ってやがる!たかだか手を使ったくらいで、俺に勝てるハズがねえんだよッ!」

 自らの内に芽生えた恐怖心を無理矢理に振り払おうとするかの如く咆哮すると、蜂須賀はご主人へ向けて真っ直ぐに突撃した。迅速な踏み込みと共に繰り出されるのは、顔面を狙った強烈な上段突き。一般人が相手ならば致命の一撃となり得る破壊的な拳打。空気を切り裂いて自身へと迫る拳の軌跡を、ご主人は冷徹な眼差しで追い、そして――事も無げに、“掴んだ”。五指が手首を締め上げ、正拳の勢いを瞬時に殺し切る。結果、顔面の手前で寸止めされる形で、拳は完全に静止した。

「論ずるに足りん。評価対象外、だ。この程度の拳速を以って俺の身に届かせようとは、片腹痛い」

「てめ、離しやがれ――がぁぁあああっ!?」

 蜂須賀が狼狽を顔に貼り付けながら振り払おうと試みた瞬間、苦悶の悲鳴が上がる。握り締められた手首が、メキリメキリと猛烈に嫌な音を立てていた。アレはさぞかし痛いだろう。さて、以前の人間力測定で出たご主人の握力は一体全体何キロだったかな、と記憶を掘り返していると、鈍い打撃音と共に悲鳴が止んだ。見れば、蜂須賀はお返しとばかりに拳を水月に突き込まれ、幾度も咳き込みながら膝を付いて悶えていた。犯人たるご主人はと言えば、追い討ちを掛けるでもなく、ただ胸の前で両腕を組み、傲然とその姿を見下ろしている。

「ふん。些か、刺激が強過ぎたか?これでも力の及ぶ限りの手加減は施してやった筈だがな。潰さぬよう蟻を踏むのは、力の加減が難しいものよ」

 淡々と口にする言葉には怒りもなく、愉悦もない。己が為すべき事柄を機械的に消化しているだけ――そんな印象を植え付ける姿は、人間離れした不気味さを総身に湛えている。

「ぐ、ぅ、舐めんじゃねえぞ、ラッキーパンチが入ったくらいで浮かれてんじゃねえよ低脳が!」

「くくっ、元気良く吼えるものだ。やはり躾が必要、か」

 言うや否や、欠片の躊躇も無く次なる一打が撃ち込まれた。肝臓を抉られた蜂須賀は、先程とは種類の異なる激痛に襲われている事だろう。よろめきながら防御の姿勢を取ろうとするも、続けて放たれた三打目はそれすらも許さない。鏃の如き拳は不完全なガードを容易く素通りし、正確無比に腎臓へと突き込まれた。続け様に神経を苛む苦痛に耐えかねて、苦悶の色で彩られた絶叫が迸る。

「あちゃー、あれは痛いだろうなぁ。ご愁傷様だねホント」

 実にえげつない。観戦しているこちらが思わず眉を顰めたくなる程に暴力的な光景だ。人体急所のみをピンポイントで狙った連撃――それらは一貫して、相手の打倒ではなく、苦痛を与える事を主な目的としている。無慈悲な冷徹さで行われた一連の動作には、まるで容赦というものが見受けられなかった。これは技術がどうこうと言うよりも、他者を痛めつける行為に手馴れている、と言うべきだろう。

 それにしても、見事なまでに一方的だった。相手の蜂須賀という先輩が格別に弱い訳ではない。私の見立てでは、学年ベスト16辺りには食い込んでも不思議はない程度に、彼の戦闘技能は優れている。単純な武力で競うならば、ライバル視しているという風間翔一よりも確実に上を行くだろう。彼にとっての不幸は、彼が武人として一線を踏み越えた強さに到達できていない事に他ならなかった。私のご主人もまた同様に一線を越えられない武人ではあるが、しかし彼は“踏み越えた相手”と張り合う為、限られた才能を限界まで磨き上げ、無理矢理にでも形にした男だ。握力に腕力に脚力……あらゆるパラメータは既に学生の域を軽く凌駕している。仮に氣の使用を禁止とする戦闘ルールが適用された場合、純粋な身体能力で彼と満足に渡り合える武人は多くはないだろう。そうした基本能力の高さに加えて、何よりご主人は実戦というものに馴れている。勝利への道筋を探り当てる、いわゆる勝負勘とでも言うべきものが常人以上に発達しており、試合運びの巧さが素人離れしているのだ。「ガキの頃からの経験の賜物だ」と本人は苦笑混じりに語っていたが、果たしてどれほど殺伐とした幼少時代を送っていたのやら。彼は過去の自分について多くを語らなかったが、想像するだけで憂鬱な気分になれそうだった。

 兎にも角にも、両者の実力差はもはや明白。私の目から見ても、或いは観衆の目から見ても――蜂須賀栄斗に勝機は存在しない。

「がはっ、ぐぅっ、やりやがったな畜生……!調子に乗るなよ、今すぐぶっ殺してやるッ」

 しかし、当人の闘志の炎は未だに絶えていない様子で、憎悪を込めた眼差しでご主人を睨み据えている。この段階に至っても彼我の力量差を認められない程に愚昧なのか、或いは悟っていながらもプライドが邪魔をして退けずにいるのか。果たしてどちらが真実なのかは推察する事しか出来ないが、間違いなく言える事がある――何れが真実であったにせよ、それは私のご主人が希望し、予見した通りの反応に過ぎない。蜂須賀を見遣るご主人は常と変らず、鉄壁の無表情。しかし私の脳裏には、「してやったり」とほくそ笑んでいるあくどい顔が鮮明に浮かんでいた。

「……未だに心は折れぬ、か。名誉と誇りに目が眩み、存在しない勝機を追い求める。実に、実に忌むべき悲劇よ。斯様な直視に耐えぬ因果は、根元より断ち切らねばなるまい?くくっ」

「な、何意味分からねえこと言ってやがる……!」

「意を解する必要はない。貴様は、只一つの事実を知っていればそれで良い」

 傲岸不遜に告げ終えた途端、俄かにグラウンドの空気が震撼した。

 肌に突き刺さる寒気の出所は――ご主人の、右手。内より漏れ出したドス黒い瘴気が霧状のオーラと化して纏わり付き、指先から肘に至るまでの部位を覆い隠している。不吉を具現化したかのような禍々しい有様は、まさしく悪魔の右腕と形容するに相応しい。その異様な光景を前にしては流石に竦まずにはいられなかったのか、蜂須賀は顔色を青くして狼狽えていた。

「くふふ、これはいよいよ、本格的にセンパイの冥福をお祈りしなくちゃね。AMEN」

「おおお、アレッスか!?遂にアレを使っちまうんスか!」

「え?キミ、ご主人が何してるか分かるの?」

「当然ッスよ!間違いないッス――アレは奥義・暗黒吸魂輪掌破の構えッ!そうッスよねボス!」

「残念だけど邪気眼を持ってない私にはワケが分からないよ」

 そんな唐突に思春期特有の病を発症されても私としては対処に困る。

 ……まあ実のところを言えば、敬愛すべき我がご主人のネーミングセンスもまた、些かばかりアレだったりするのだが。流石に子分Aのソレほど突き抜けてはいないが、“殺風”だの“蛇眼”だの、何と言うかこう、中途半端に病気が治り切っていない感じが逆に痛々しいと思うのは私だけではない筈だ。

 ちなみにこれを言うとご主人は真剣で沈みそうなので口には出さない。まったく、我ながら涙ぐましいほどの忠誠心である。天使の如き慈愛と寛容さを兼ね備えるという素晴らしい従者を持った幸福に感謝して欲しい。

「な、なんだよ……そりゃ……!?」

 私の呑気な思考とは裏腹に、蜂須賀の方はかなり切羽詰っている模様だった。目に見える程の瘴気を腕に纏うというビジュアル的な衝撃に加えて、現在のご主人は、今に至るまで意図的に抑え込んでいた威圧感を一気に開放している――当然、その身に降り注ぐ重圧はこれまでの比ではない。本来の威を発揮した“織田信長”を前に、少し腕が立つ程度の一般生徒が平然と立っていられる筈もなかった。焦燥と恐怖を滲ませた表情で後ずさる蜂須賀に、重々しく冷酷な声音が突きつけられる。

「ふん――何時から、俺が本気で勝負に臨んでいると錯覚していた?生死の懸からぬ“決闘”など、所詮は座興。戯れに過ぎん。であるにも関わらず、其処に勝機を見出し思い上がる有象無象のなんと多い事よ。増長した学生風情の遊戯に何時までも付き合う気はない。……故に。此処で、終止符を打つ」

 空間を軋ませる重圧と共に、ご主人が一歩を踏み出す。その右腕に纏う“氣”は禍々しさを増し、凶悪な死臭を漂わせている。傍目にも分かる程の特大の危険を眼前にしている以上、体面やプライドに拘っている場合ではなくなったのだろう。大いに慌てた様子の蜂須賀が、恐らくは降参の意を示そうと口を開きかけて――そのまま固まった。蛇に睨まれた蛙の如く、殺意に満ちた眼光を正面から浴びせられ、舌の動きに至るまでを完全に封じられている。

 視線を媒介に圧縮した殺気を叩き付け、一種の暗示と氣の相乗効果によって心身の自由を奪い取る。蛇眼、と名付けられた威圧術で、対個人の際に真価を発揮する技だ。多大な集中力を要し、精神力の消費が激しく、更に対象と目を合わせなければ発動が不可能というデメリットの多い威圧術だが、それ故に威圧効果の高さは折り紙付きだ。私自身、初めてこれを受けた時には文字通り手も足も出なかった。いかに相手に合わせて加減をしているとは言え、氣の扱えない一般生徒に克服できる筈もなく、蜂須賀は真っ青な顔で硬直したまま、表情に絶望を浮かばせる。その様子を見遣りながら、ご主人は傲然と口を開いた。

「知らなかったのか……?大魔王からは、逃げられない」

 降参など、許される筈もない。死刑宣告にも似た冷酷な言葉と共に、ご主人は更なる一歩を踏み出した。

 身動きの出来ない蜂須賀の眼前まで悠然と距離を詰め、そして。

「貴様の道は一つ。俺の覇道に捧げられる、贄となれ」

 黒に染まった右手が蜂須賀の首筋を鷲掴みにし、強靭な膂力を以って宙へと吊るし上げる。何事が起きるのか、と観客達が息を呑んだ瞬間――

「嗚呼嗚呼嗚呼アアアアアアアアアあアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 絶叫が、響き渡った。

 いかなる剛の者であれ心胆を揺さぶられずにはいられない、極限の恐慌に染め上げられた悲鳴。喉が嗄れんばかりに叫び続ける蜂須賀の身体には、首筋を掴む右手を伝って漆黒の邪気が纏わりつき、あたかも生物のように蠢きながら浸食している。白目を剥き、全身を痙攣させ、それでも意識を失う事すら許されず、おぞましい瘴気に心身を蹂躙され続ける――そんな、あまりにも非情且つ凄惨な光景をまざまざと見せつけられ、ギャラリーの中から小さな悲鳴が幾つも湧き起こった。私と一緒に観戦している1-Sの面々も、戦慄に身を強張らせ、一様に顔色を悪くしながら唾を呑み込んでいる。

「あ、悪魔だ……人間じゃねぇ……」

「こんな、こ、これが人間のやることかよぉぉ!」

「……魔王の再臨、か。私達は未だ、その脅威を測り損ねていたのかもしれんな」

 死の鷲掴みデス・グラスプ

 対象の体内へと殺気の奔流を流し込み、内側から心身を掻き回す威圧術だ。相手を深刻な恐慌状態に陥れると同時に、経絡を巡る氣の流れを乱し、あわよくば断絶させる事で肉体面を掌握する――間違っても食らいたくないと心から思わせる技だった。内気功によるレジストという対抗手段を持たない相手にはまさしく一撃必殺を誇り、また威圧の効力を自在に調整可能、生かすも殺すも意識を保ったまま苦しめるも術者の意のままという、規格外の凶悪さだ。その発動条件は、自身の掌を直接、相手の身体に密着させる事。――これらの性質からも容易に想像出来るように、この技は捕虜、或いは格下の相手に対する拷問・尋問に特化している。「是非もなし」と溜息を吐いてみせつつ、その実ノリノリで敵対者を甚振るご主人の姿を私はこれまでに何度も見た事があった。演技とか無関係に素の彼は絶対にドSだと思う。その証拠に、哀れな犠牲者の絶叫と苦悶の表情を至近距離で鑑賞する彼の口元には、薄らと嗜虐的な笑みが浮かんでいる。

「――それまでッ!勝者、織田信長!」

 蜂須賀は未だに意識を保ってこそいるが、もはや戦闘を継続できる状態ではないのは誰の目にも明らかだ。何よりそれ以前の問題として、単純に惨たらしい光景を生徒達の前に晒すのが忍びなかったのだろう。焦燥に駆られたような声音で学長が決着を宣言し、そして同時に背筋の凍るような絶叫が止んだ。

「ふん。相も変わらず、斯様な生温さを以って“決闘”とは嗤わせる。が、規則は規則。この身は学生なれば、従わねばなるまい」

 監視するような鋭い目で自身を射抜く川神院総代に対して、実に詰まらなさそうな口調で言い放つと、ご主人は右腕から吊り下がり、ダラリと弛緩した身体を無造作に放り投げた。砂埃を上げて地面に転がった蜂須賀が立ち上がる気配はない。絶望的な恐怖の余韻を示すかのように、ビクビクと小刻みな痙攣を続けるのみだ。体育教師のルーが焦った様子で駆け寄り、氣を用いた治療を開始する。

「さて」

 自身の生み出した犠牲者への関心を欠片も窺わせない無表情で、ご主人は未だ戦慄に怯え竦んでいる観衆へと向き直った。押し殺したかのように重苦しく、それでいて不思議と心の奥底まで浸透する声音で、朗々と言葉を紡ぐ。

「此度の遊戯を以って、俺は俺という存在を“敵”に回す意味を、貴様等に示した。生半可な志と塵芥の如き力量を頼みに俺を斃さんと試みる愚昧さを、自ずから悟る機会を呉れてやった。その上で――今一度、告げるとしよう」

 言霊に込められた圧力は一言ごとに勢力を増し、空気を張り詰めさせていく。

「俺を無用に煩わせるな。身の程を弁えぬ蛮勇は、己が身を滅ぼすと知れ」

 冷酷に放たれた言葉は、鋼鉄の楔と化して聴衆達の心へと打ち込まれた。それらは脳裏に焼き付いた哀れな犠牲者の末路と相俟って、叛逆の気力を根本から削ぎ落とすには十分だった。本来ならば平穏な学園にて遭遇する筈のない、死臭に満ちた暴威を前に、ギャラリーは完全に萎縮し、静まり返っている。

「くふふっ。絶好調だね、ご主人」

 少しばかり脅しが効き過ぎている感もあるが、何にせよデモンストレーションとしては申し分ない成果だろう。ならば、今回の決闘における目標は問題なく達成されたと言っていい。毎度ながら、彼の有する、“自身の望んだ状況を実現させる”能力には脱帽する。

 目標。それはすなわち、織田信長の威信を増強する事。その恐怖をより深く、より広くに浸透させる事。

 「犠牲が足りない」――それは、前々からご主人が口癖のように漏らしていた言葉だ。その意味は、彼自らがこれまでに臨んできた決闘において、実質的な被害を受けた“犠牲者”が居ないという事実を指している。決闘ルールという制限を考えれば過剰なダメージを生徒に負わせられないのは当然なのだが、だからこそ生徒達は織田信長への反抗に際して具体的な危機感を覚えにくい。いかに圧倒的な実力を見せ付けたとしても、敗北にペナルティが伴わないとなれば、挑戦者が完全に絶える事はないだろう。故に、生贄が必要だった。未だに織田信長への反抗心を示す一人を徹底的に痛め付ける事で、敗北に付き纏う傷の深さを生徒達に認識させなければならなかった。

 ご主人曰く、『俺一人で問題なく対処できて、尚且つ叩き潰しても後顧の憂いがない、それでいて意欲旺盛に吠え掛かってくる、理想的な“噛ませ犬”はいないものか』――そして結果的に白羽の矢が立ったのが、蜂須賀栄斗という男だったのだろう。つまるところ、彼は犠牲になったのだ。平和呆けした学生たちに織田信長の脅威と恐怖を改めて知らしめる儀式の、その犠牲に。

 あの光景を見せ付けられて尚、逆らおうなどと考えられるのは、よほどの馬鹿か真の強者のどちらかだろうな、と観客達の様子を窺いながら思案していると、不意に冷たい静寂が破られた。私のすぐ近くで観戦していた、2-Fの集団から騒々しい声が上がっている。見れば、どうやらクラスメート同士での口論が起きているらしかった。

「だから、勝算もないのに挑んでも仕方ないだろ!お前は自分が2-Fの一員だっていう自覚を持って――」

「ええい、止めるな大和!そんな理屈など関係あるか!自分は騎士として、あのような無法は絶対に見過ごせないぞっ!」

「いいから落ち着けって、もっと冷静に――ちょ、待てクリスっ!……あの馬鹿っ」

 何事かと首を伸ばして観察する間もなく、言い争いは打ち切られていた。

 そして、観客達の人垣を猛烈な勢いで掻き分け、弾丸の如くグラウンドの中心部へと躍り出たシルエットが一つ。

 透き通るような碧眼を義憤に燃え上がらせ、絢爛たる金髪を颯爽と翻しながら、暴君の眼前に敢然と立ち塞がる。

「あれは……、中将殿の大事な大事な宝物じゃないか」

 暴虐の魔王に挑む聖騎士の名は、クリスティアーネ・フリードリヒ。その身を案じてドイツ軍中将が特殊部隊を引き連れて学園に乗り込んでくるという、奇妙奇天烈な脅威度を背景に有する人物だ。また、当人の武力もまず確実に学年内でトップクラスを誇るという、総合的に判断して相当な危険人物と言える。

 さてさて、これは私も傍観を決め込んでいる訳にはいかないだろう。もう一本の“手足”の状態を考えれば、私こそが抜け目なくご主人をサポートしてあげなければ。なんだかんだと日頃から偉そうなご主人だが、結局は私が世話を焼かなければやっていけないのだ。やれやれである。

「おい、お前ッ!」

「…………」

 そのご主人はと言えば、突然の闖入者の出現に動じた様子もなく、どこまでも冷徹な目付きで眼前の少女を観察している。

 彼は武力という分野でこそ私達に大きく劣るが、手練手管を以って場の流れを操作する能力に掛けては他の追随を許さない。そういう意味では、今すぐに私が介入する必要性はないだろう。

 外面の印象からすると、フリードリヒ家のお嬢様はさほど頭が回るようにも見えないし、彼一人に任せておいても、労する事無く場を自身に有利な状況へと持っていける筈だ。何せ、いかなる状況であれ、ご主人は焦りや恐怖などの余計な感情に囚われてペースを乱す事はない。

 そう、それこそ相手がご主人の地雷をピンポイントかつ全力で踏み抜きでもしない限りは――


「お前のような不敬者は、このクリスティアーネ・フリードリヒが義の下に成敗してくれる!――僭越にも織田信長公の名を騙る、恥知らずなニセモノめっ!」














~おまけの板垣家~


「オイ、こいつはっ!?……なぁアミ姉ぇ、どう思う?」

「……ああ、間違いないねェ。久々だろうが何だろうが、嫌でも分かっちまうよ」

「うぅ~ん、目が覚めちゃったなぁ。ねぇ天ちゃん、これってやっぱりアレだよね~」

「ああ……、どこのドイツがやらかしやがったのかは知んねーけど、これはぜってーにアレだ。ウチが言うんだから間違いねーぜ」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「「「「――シンが、キレてる……」」」」












 貴重な信長の(本当の意味での)無双シーンでした。モブに対してだけは徹底的に強い主人公です。
 まじこいSをオールクリアしての感想は……色々有り過ぎるので省略しますが、とにかく新キャラ勢を書きたくなる内容でしたね。特に与一のキャラは個人的にクリティカルでした。色んな意味で。ちなみに、少なくとも当分の間は今作の中でSのネタバレに触れる予定はありませんので、未プレイの方もネタバレを気にせず読んで頂いて大丈夫です。それでは、次回の更新で。



[13860] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:cd3b0c4e
Date: 2012/02/10 19:28
 クリスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の魔王を除かなければならぬと決意した。

 クリスには空気が読めぬ。クリスは、独逸の騎士である。剣を持ち、義を胸に暮らして来た。なればこそ邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。






――少しばかり、時を遡る。






『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。対戦者は2-S所属、織田信長と、2-G所属、蜂須賀栄斗。対戦内容は武器なしの格闘。見学希望者は第一グラウンドに集合しましょう。繰り返します……』

「おおっ、信長公が決闘に臨まれるのか!これは是非とも観戦に赴かなければならないな!ん~、ワクワクしてきた、やっぱり日本に来て良かったなぁ~」

 2-F所属の外国人留学生、クリスティアーネ・フリードリヒは現在、喜色満面の笑みを浮かべて感激していた。

 クリスは生粋のドイツ人だが、尊敬する父親の影響を幼い頃から受け続けていた事もあって、第二の故郷と公言して憚らない程に日本という国を愛している。当然の如く日本語は現地人顔負けなレベルの達者さで、日本文化についても深く精通していた。憧れのあまり奇妙なフィルターが掛かっている部分も少なからず見受けられるとは言え、知識量では生半可な日本人を軽く上回っている程だ。それらの日本に関する文化の中でも、クリスが最も気に入っているものこそ――“武士”そして“武士道”だった。西欧に受け継がれる騎士と対を成す、東洋のサムライ。友人から借りた時代劇のDVDにて、その鮮烈さと厳粛さを兼ね備えた生き様を初めて目にした時から、クリスの心にはいつでも武士なる者への憧憬が根を張っていた。父親に頼み込んで、古今東西のあらゆる時代劇のフィルムを取り寄せ、それらを鑑賞し尽くすと、今度は日本語の勉強を兼ねて歴史小説に手を出した。その中でもクリスが好んだのは、戦国の世を縦横無尽に駆け抜けた幾多の武士達の物語。織田、上杉、武田、直江、真田、島津、石田、今川、橘、豊臣、徳川――綺羅星の如き群雄の華々しい活躍の数々は、クリスの胸に遥か日本国への想いを育むに十分なものだった。

 時代は移り行き、現代は既に戦国の世から幾世紀。しかし日本の地には武士の血脈を受け継ぐ人々が今も尚、その在り方を体現しているのだろう。そう考えると、クリスは居ても立ってもいられなくなった。そして、故郷・リューベックの姉妹都市たる川神の学園への留学――懇願の末にそれを父に認められてからは、お気に入りの戦国武将の名前を付けたぬいぐるみを抱き締め、高鳴る胸を抑えながら、転入の日を心待ちにしたものだ。

 そうして遂にやってきた日本。留学先は、武士の末裔が集うとされる川神の地。

 文明の発達に伴い、街並みや文化の形は変遷を見せてこそいるが、人々の心には武士の魂が変わらず根付いているのだろう――学友たちに囲まれながらその在り方をこれから学べるのだと思えば、浮き立つ心を留める術はなかった。クリスが愛する様々な日本文化にも密接に触れ合えるし、武士の末裔達と切磋琢磨する事で己の武に磨きを掛ける事も出来る。クリスにとって、日本はまさしく思い描いていた通りの楽園だった。これからの学園生活に希望の念は膨らむばかりであったが、そんなクリスを更に喜ばせる情報が級友の口からもたらされる。

『奴の名前は、織田信長』

 織田信長。

 織田信長。

 織田信長、である。

 クリスが愛読していた歴史小説の中でもトップクラスの出演率を誇る、まさに日本の戦国時代を代表する英傑だ。クリスが個人として尊敬してやまない“武士”の一人――学級こそ違えど、そんな大英雄が同じ学び舎に通っているという望外の知らせは、クリスの心を大いに湧き立たせた。

 もっとも、それを教えてくれた2-Fの級友、直江大和は色々と真っ当な理屈を添えてクリスの見解を否定していたのだが、舞い上がった人間に言葉は正しく届かない。普通の人間ならば同姓同名の別人と考えて然るべき場面だが、しかし日本をこよなく愛するドイツ人、クリスティアーネ・フリードリヒの感性は確実に常人とはズレている。思い込んだらどこまでも一直線、それがクリスという少女の性質だった。憧れの武士と会った時、どんな言葉を交わそうか――と、クリスの脳内は期待と興奮で満ち溢れていた。

 そんなタイミングで教室に鳴り響いたのが、先程の校内放送である。歴史に名を轟かせる武士の戦振りを間近で見られるとなれば、喜び勇まない筈もない。ウキウキと弾んだ表情を隠そうともせずに意気揚々と立ち上がったクリスだったが、その時、あたかも昂ぶった感情に水を差すような醒めた声がすぐ横合いから掛けられた。件の級友、直江大和である。

「あー、クリス。昼休みの時間もそれほど残ってないし、行かない方がいいんじゃないか?」

「何を言ってるんだ大和、三十分もあれば十分に事足りる。皆も当然、観戦に行くんだろう?」

 問い掛けながら教室内を見渡すと、観戦に対して消極的な態度を示しているのは大和一人だけの様で、既に席を立とうとしているクラスメートも多かった。その中の一人、明るい栗色のポニーテールが特徴の川神一子が威勢の良い声で答える。

「モチロン、アタシは観戦希望よ!打倒・ノブナガのためにも、今の内に相手のコトを研究しておかないとね」

「かの名高き信長公を倒す?お前がか?フッ、姉の百代殿ならばともかく、犬には荷が重いんじゃないのか」

「むむ、そんなコトはない、って言いたいけど……ちょっと否定できないかも。だけどそれは今のアタシの話!鍛錬と精進を頑張って続ければ、いつかきっと届くと信じてる。勇往邁進の心が大事なのよ!」

 胸を張って宣言するかの如く快活に言い放つ一子。その迷いのない真っ直ぐな情熱は周囲にも伝播する。自身の心に熱が宿るのを感じたクリスは、純粋な感動と共に深く頷いた。

「“勇往邁進”、か……いい言葉だな。それを貫き通さんとする覚悟も天晴れだ。馬鹿にしてすまなかった、犬。その志、自分は応援するぞ!」

「う、たはは、何だか素直に褒められると照れるわね。そ、それじゃあ今すぐグラウンドに出発よ!急がないと決闘が始まっちゃうかも」

「む、それは大事だな。よし、いざ出陣だ、皆!ほら大和も一緒に来るんだ」

「ああ分かった分かった、今行きますよお嬢様。……こうなったらもう、行くしかないさ」

 放っておいたら何をやらかすか分からないし、という大和の切実な皮肉は、既に決闘場へと心の飛んでいるクリスの耳には入らなかった。かくして、クリスと一子を中心とした2-Fメンバーの半数以上が挙ってグラウンドへの移動を開始する。

 目的地を目指して校舎の廊下を歩き、下駄箱で靴を履き替えている間にも、クリスの胸は抑えられぬ期待感に膨らんでいった。英傑の武勇をこの目で見、己の糧とする事ができる――願ってもない幸運だ。織田信長という英雄の人物像はそれを描く作品によって多種多様であり、クリスの中でもこれといった形で明確に定まっている訳ではなかった。しかし、一世を風靡した武士の棟梁であるならば、クリスの学ばんとしている武士道精神の範をこれ以上ない形で示してくれるのは疑いない。強きを挫き弱きを助け、勇猛果敢でありながら仁義と礼節の心を忘れない、そんな“武士”の心を。

 だが――現実はどこまでもクリスの理想とは食い違っていた。

「貴様の道は一つ。俺の覇道に捧げられる、贄となれ」

 暴虐。決闘場にて繰り広げられた光景を言葉にて形容するならば、その一言で事足りた。

 総身に漲る“氣”の、その誤魔化しようのない図抜けた邪悪さと同様に、その振る舞いもまた邪悪そのものであった。凶悪なまでの武勇を振り翳し、誰に憚る事もなく冷酷非情に弱者を踏み躙るその姿は、クリスの思い描く英雄像とはあまりにも乖離していた。

 茫然とした心地のまま決着の時を眺めていたクリスだったが、暴虐の犠牲となり、見るも無惨な姿に成り果てた対戦相手を、信長がゴミでも扱うかのように投げ捨てた瞬間――受けた衝撃の全ては瞬く間に燃え上がる赫怒の炎へと変換された。仁義だけでは飽き足らず、礼にすらも唾を吐くとは!気が付いた時には、クラスメートの制止も何もかも振り切って、決闘場へと飛び出していた。

「おい、お前ッ!」

 込み上げる義憤は、鋭刃の如き怒号と化してグラウンドに響き渡る。もはやクリスは“その男”を自身の憧れた英雄とは認識していない。

――大和は正しかった。そうだとも、こんな外道が、信長公本人であるハズがない。

「お前のような不敬者は、このクリスティアーネ・フリードリヒが義の下に成敗してくれる!――僭越にも織田信長公の名を騙る、恥知らずなニセモノめっ!」

 眼前の暴挙を見過ごせぬ正義感と共にクリスの怒りを煽った感情は、「騙された」という巨大な失望感だった。そう、本物の織田信長でない以上、この男は英雄の名を騙る卑劣な偽者に他ならないのだ。そのような輩の詐術にまんまと惑わされていた自分が恥ずかしい。そういった種類の感情が絡まりあって、クリスをして痛烈な弾劾の言葉を吐かせた。

 この時、ヒートアップするクリスの頭の中に僅かでも冷静さという要素が残っていたならば、或いは別の視点から客観的に物事を考える事が出来たのかもしれない。すなわち、男が“織田信長”という姓名を自ら望んで名乗っているとは限らない、という歴然の事実に。

 だが、ありもしないIfを語ってみたところで意味はない。いかに足掻いても覆水は盆に返らず、吐いた唾は呑めないのだから。この致命的な擦れ違いは両者にとっての災厄を呼び寄せる事になる。それはもはや避け得ぬ、絶対の運命であった。


「――――くくっ」


 始まりは、小さな笑い声だった。

 それが眼前の男、信長が発したものだと気付くのに、クリスは数瞬の時を要した。自身の怒りを叩き付ける様な弾劾の言葉を投げ掛けた以上、よもや「笑う」という反応が返ってくるとは想定していなかったのだ。クリスはその予想外の対応を、侮られている、と受け取った。油を注がれた火はいよいよ勢力を増し、心を焼き尽くす激情に任せて次なる言葉を発しようとした、その時。


「くくくくくくくッ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」


 世界が凍り付いた。

 哄笑が鳴り響く。蹂躙するように、空間を埋め尽くす。

 震撼する。空気が、空間が、身体の芯が、心が。

――なんだ?どうして、自分は――震えている?

 信長はただ、笑っているだけだ。心底からの感情を剥き出しにして、誰に憚る事もなく、遠慮のない笑声を響かせている、ただそれだけの筈なのに……何故、これほどの戦慄が心身を駆け巡るのか。確かに彼がこのように哄笑する理由がない以上、その行為を不可解かつ不気味に感じるのは当然かもしれない。だが、違う。そうではない。“これ”は断じて、そのように平穏無事な理屈で済ませるべき問題ではない。

 右手で顔面を覆いながら、信長は尚も笑い続けている。空気を震わせる声音が鼓膜を叩く度に、呼応するように身体が自然と震え始める。総身をおぞましい悪寒が走り抜け、肌が粟立ち、冷や汗が絶え間なく噴出してくる。ガチガチと五月蝿いほどに歯が打ち鳴らされ、足腰を支える力が抜け落ちていく。

 怖い。怖い。……怖い?そうか、自分は――怖がっているのか。

 自身を襲う感情の正体に気付いた途端、堰を切ったように“恐怖”が溢れ出した。先刻まで心中を埋め尽くしていた義憤の炎は、圧倒的な質量の危機意識に押し潰され、掻き消されていく。肉体に刷り込まれた生存本能に従って、頭脳が必死に警鐘を鳴らしている。今すぐに何もかもを投げ捨てて逃げろ。そうしなければ死ぬぞ、と。

 そして――クリスの予感を現実のものへと変えるべく、禍々しき“死”が形を得て、此の世に具現化する。ふつり、と不自然な唐突さで笑い声が止み、信長は自らの顔面を覆い隠していた手を降ろした。灼熱の殺意に満ちた漆黒の瞳を露にし、彼が唇より紡ぐのは、これ以上なく簡素な呪詛の言霊。

 即ち、

「――――死ね」

 深く果てない呪怨の闇が、拡がる。

 それは正しく、殺気だった。一切の不純物が含まれない、只管に相手を死に至らしめんとする絶対的に凶悪な意志。クリスティアーネ・フリードリヒが今生において目にした事のない、どころか実在を想定した事すらない――冥界の瘴気にも似た暗黒の“氣”。宿主の器より溢れ出した死色の濁流が、怒涛の如き勢力を以って現世を浸蝕していく。生命の息吹の総てを拒絶するかのように、信長を中心とした空間の悉くを塗り潰していく。

「っ、まずいっ」

 逃れようにも、満足に身体が動かない。いかなる訳か、爛々と狂気的な殺意に輝く信長の眼を目の当たりにした瞬間から、芯から凍て付いたように全身の自由が利かなくなっていた。今の状態では、どう足掻いても離脱は間に合わないだろう。このままあの奔流に呑み込まれれば、自分はどうなるのか。

 クリスは軍人の家系の出ではあるが、過保護気味な父親の教育方針もあって、戦地へ赴いた経験はない。命を懸けた決闘に臨んだ経験も、暗殺者の魔手に晒された経験もない。内気功を習得した優秀な武人でありながら、“殺気”に対する精神的な耐性は無きに等しかった。凄まじい威圧感を引き連れて音も無く自身へと迫る闇の浸蝕を前に、クリスの思考が絶望で埋め尽くされた、その時であった。

「――お嬢様ァッ!!」

 眼前に躍り出た影が一つ。迫り来る闇へと向けて両腕を大きく広げ、背後にクリスを庇う体勢で仁王立ちしているのは――マルギッテ・エーベルバッハ。幼い頃から共に育った、誰よりも頼れる姉代わりの女性。その彼女が今、不退転の決意を眼に宿しながら、絶望の闇に敢然と立ち向かっている。クリスが凛々しい守護者の背中に声を掛ける暇もなく、殺気の波濤が押し寄せた。

「ハァァァァッ!!」

 烈昂の気合と共に、マルギッテが闇を受け止める。全身から轟々と立ち昇る火焔の如き闘気が殺気と衝突し、その浸蝕の勢いを抑え込んだ。凄まじい規模を誇る氣と氣の激突によって周囲の空気がビリビリと震撼する中、クリスは大きく目を見開いた。

「マルさんっ!」

 マルギッテが――押されている。歯軋りの音がクリスの元まで届く程の必死さで食い止めているが、凶悪無比な殺意の奔流を前に、少しずつ押し込まれている。未だ呑み込まれてはいないものの、このままでは長くは保たないだろう。そして、その敗因は、他ならぬクリス自身にある。恐らくマルギッテほどの傑出した武人ならば、殺気に耐える事は可能なのだろうが――現在の彼女は背後に控えるクリスをも庇おうとする事で、本来よりも巨大な負担を受けているのだ。彼女の口から漏れ出た苦しげな呻き声が耳に届き、クリスは悲鳴のように叫ぶ。

「ダメだマルさん、逃げるんだっ!このままじゃマルさんが!」

「……お嬢様の命令でも、く、そればかりは承服できません!あらゆる脅威からお嬢様をお守りする事こそが、私が此処にいる意味ッ!死神が相手であろうと――絶対に、引けるものかッ!」

 一歩も譲らぬ信念を込めて、マルギッテが咆哮する。クリスに対しては滅多に見せる事のない烈しい口調が、そのまま彼女の余裕の無さを雄弁に語っていた。

 なんだ、これは。

 徐々に蝕まれつつある闘氣の防壁を見遣りながら、クリスは強く、強く唇を噛み締める。日頃より騎士を名乗っておきながら、この様はなんだ?人々を災厄から護るべき騎士が、自身の大切な人を盾にして、ただ震えながら護られているだけでいいのか?

―――否。断じて、否ッ!!

 際限なく込み上げる悔しさは、クリスの心中にて、不甲斐ない己への怒りへと転じる。口の中に鉄の味が広がった時、恐慌に支配された肉体に、熱が灯った。

 未だクリスには知る由もなかったが、それは人間ならば誰しも心に抱く、“死”という概念に対する根源的な恐怖を、純粋な意志力を以って自力で克服した瞬間だった。精神の拘束が解かれれば、自然の内に肉体は活性化する。心身に気力が充実し、凍て付いた身体機能が急速に戻ってくる温かい感覚を、クリスは自覚した。――これならば、いける。

 クリスは眼前の背中へと歩み寄ると、闘氣の放出によって灼けるような熱を帯びた肉体に、後ろから抱き付くようにして腕を回した。

「お、お嬢様っ!?」

 突然の事態に戸惑ったのか、マルギッテは狼狽の声を上げながら首だけで振り向いた。火焔の如き紅色の瞳と、湖水の如き碧色の瞳が交錯する。クリスは揺るがぬ信念と意志を込めて、その言葉を紡いだ。

「――自分は、騎士なんだ!もう守られるだけのお嬢様じゃない。自分にも、マルさんを守らせてくれ!」

「クリスお嬢様……。ふふっ、ならば遠慮なく、力をお借りしましょう!」

 マルギッテは不敵に笑い、その身より更なる闘氣を迸らせた。そして、クリスもまた体内で練った氣を巡らせ、自身とマルギッテの身体をカバーする。紅と碧、各々の気性を体現した性質の闘氣が絡まり合い、寄り添うようにして美しい氣の膜を織り成す。

 凶悪な勢力を以って浸蝕を続けていた闇色の氣は、二人掛かりで展開された氣の防護壁によって、遂にその進行を阻まれた。

「ハァァァッ!」

「はぁぁぁぁっ!」

 結果として生じるのは、押し返す程の余力は無いが、辛うじて凌ぎ続ける事は不可能ではない――そんな拮抗状態。

 だが、この危うい均衡も、いつまで保つのか。全力で氣を放出して殺気をレジストしながらも、クリスの脳裏には一抹の不安が過ぎる。眼前を埋め尽くす闇色の氣は尽きる気配が無く、もはや視界全体が暗黒に塗り潰されている状態だ。二人の力を合わせる事で今はどうにか対抗出来ているが、生身の人間である以上、クリスとマルギッテの保有する氣は当然の如く有限である。この調子で放出を続けていれば、遠くない未来に限界まで消費し尽してしまう。深淵を思わせる氣の外観と同様、その保有量が底無しの無尽蔵であれば――遅かれ早かれ呑み込まれるという未来は変わらない。

 果てしなく続く殺気の攻勢を前に、胸に抱いた危惧が現実味を帯び始めた、その時――場違いに陽気な声音が、頭上から降り注いだ。

「ははっ、良く耐えたな二人とも!よーし、ジジイ、いけるな?」

「当たり前じゃ、誰に向かって物を言っとるんかのぅこやつは。ルーよ、そちらは片付いたかの?」

「ええ総代、生徒達の避難は無事に完了しましタ!君たち、良く頑張ったネ!ここからはワタシ達が引き受けるヨ」

 流星の如く暗闇を切り裂いて地に降り立ったのは、規格外の氣を纏う三筋の光条。川神鉄心、川神百代、ルー・イー。武道の総本山たる川神院の頂点に君臨する、紛れもなく世界最高峰の武人達。その気になれば一国を容易に攻め滅ぼせるであろうマスタークラスの三人組は、眼前を埋め尽くす深淵の闇へと向けて同時に両の掌を突き出した。厳粛さと力強さを思わせる青白い光芒が一挙に収束し――力が顕現する。


『川神流極技――“天陣”!』


 それは天高く聳え立つ、規格外の大結界。

 眩いばかりの蒼の煌きは、見た目の優雅さからは想像し難い強度を以って、暗黒の侵入を拒絶する。クリスとマルギッテが協力して織り成したものとは比較にならない、呆れるほどに圧倒的なその堅固さは、もはや城砦に喩えるべきだろう。清浄なる蒼の壁面に汚濁の黒が衝突する度、烈しい光の明滅が眼を灼いた。結界の維持の為に氣を放出しつつ、川神百代が愉しそうに笑う。

「はははっ、織田の奴、“あれ”でもまだ本気じゃなかったのか!本当に底が見えないなぁ……どれだけ引き出しを隠し持ってるのやら。あ~、闘いたい、闘いたい闘いたいぞ!なぁジジイ、ほんのちょっぴり位ならやり合っても別に――」

「良うないわアホ!まったく、お前という奴は本当に我慢弱いのう。少しは一子の勤勉さを見習わんか」

「あーうるっさいなぁ、ほんの冗談だよ、冗談!まったく、美少女の小粋なジョークにマジ説教とか。頭の固いジジイはこれだから」

「モモヨの場合はどうにも冗談に聞こえないのが困りものだネ……。ほらほら、ブーたれてないで結界の維持に集中スル!この中で一番若いんだから、モモヨがしっかりしてくれないと困るヨ」

「ルー師範代も見た目十分若いでしょうに。……それに、信長のヤツはどーせ、無駄な事はしないタイプなんで――ああ、やっぱりか」

 百代が言葉を終える前に、事態は動いていた。

 結界の外を隙間なく覆い尽くしていた闇が、急激に霧散していく。晴れ渡る青空が姿を見せ、雲間から降り注ぐ陽光がクリスの冷え切った身体を芯から温めた。あたかも、今まさに恐ろしい悪夢から醒めたかのような心地だった。十秒と経たない内にあらゆる暗黒は視界から消失し、残されたのは闇の根源たる一人の男の姿。

 これほどの暴威を振るった直後であると云うのに、織田信長は普段と変わらぬ平静そのものの顔付きで、静かな無言のまま百代達を眺めている。武神とそれに次ぐ実力者を眼前にして尚、超然とした余裕すらも窺わせるその態度は、もはやクリスの理解の範疇を超えるものだった。同じ人間と相対しているとは、まるで思えない。こういった規格外の存在こそ、真に人外と呼ばれるべき者なのだろう。

――だが、そんな事は、義の前には無関係だ。

 どれほどの怪物であれ、恐怖を以って騎士の心を折る事は出来ない。クリスは総身に活力を漲らせ、凛たる眼差しで信長を射抜く。

「幾ら何でも殺気だけで川神院トップ3の“天陣”は抜けやしない――無理に張り合うだけ徒労だ。まーお前なら当然、そう判断するだろうな。お前はおねーさん的には苛めたくなるくらいムカつく自信家だが、別に馬鹿ってワケじゃないし」

「…………」

 尚も、無言。そして無表情。

 何一つとして目に見える形での反応を示さない信長に対して、しかし百代は気分を害した風もなく、ニヤリと笑みを貼り付けて、親しげな調子で問い掛けた。

「――で。こんだけ暴れれば、さすがに気は済んだんじゃないか?信長」










 

 

 我を忘れる、という言葉がある。俺こと織田信長が、心の底から忌み嫌う言葉だ。

 それはつまり、自己を喪失すると云う事。人生の中で培ってきた人格を見失い、思考力・判断力を強制的に放棄させられるなど、想像するだけで震えが走る恐ろしさではないか。特に俺のように慎重な立ち回りを常に求められる立場の人間の場合、たった一つの判断ミスで積み上げてきたモノが一気に崩れ去りかねないのだ。感情に流されるべからず――俺という人間が常に胸に刻み付けている心掛けである。訓戒として心に刻むだけではなく、現実的な手段として、俺は昔から己の感情を制御する訓練を積んで来た。演技を交えた駆け引きを行う際、状況の変化にいちいち動揺していては柔軟な対応など不可能だ。怒りも哀しみも呑み込んで、精神状態はいつでもフラットでなければならない。

 ならないのだが。たまに、本当にたまにではあるが、俺には致命的なまでに“我を忘れて”しまうタイミングが存在する。勿論、そのような不本意な事態を避けるための努力は日頃から欠かしていない。会う人間の殆どには“その旨”を強烈な殺気と共に警告しているし、大抵の場合はそれだけで決定的な失態は回避できた。俺が最後に本気で自分を見失ったのは、既に幾年も昔の話だ。織田信長の威信が強大になるにつれて、命知らずな誰かが“その旨”をネタにする可能性も低くなっていく訳で、このまま行けば、一生“我を忘れる”事はあるまい――そんな風に安堵していたのが、果たして天のお気に召さなかったのか。

 四月二十七日、月曜日。昼休み。

 俺はものの見事に我を忘れ――そして我に返ったその時には、世にも恐ろしい光景が俺の眼前に広がっていたのである。

「――で。こんだけ暴れれば、さすがに気は済んだんじゃないか?信長」

 フランクな調子で問い掛けてくるのは、言わずと知れた最強生物・川神百代。その右隣には全世界に名を轟かせる武神・川神鉄心。左隣には釈迦堂のオッサンに並ぶ実力者にして武神の右腕、ルー・イー。更にその三人の背後には、殺人的な目付きでこちらを睨み据えている赤髪の軍人。ドイツの猟犬、マルギッテ・エーベルバッハ。更に更にその傍には、この面子の中では幾らかレベルが落ちるものの、学生としては破格の武力を有する転入生、クリスティアーネ・フリードリヒ。

「…………」

 思わず沈黙を選びたくもなろうというものだ。何だこの面子は、これから世界征服でも始める気なのだろうか。攻め込まれる対象は何処の国かは知らないが、こんな核弾頭レベルの戦力と衝突させられるとは哀れなものだ。本当に何処の誰かは知らないが、冥福を祈るとしよう。AMEN。

「流石にこれ以上は見過ごせぬのう。学園の生徒達は皆、人様から預かった子息。万に一つも傷付けさせる訳にはいかん。ましてやクリスの場合、わざわざ口頭で釘を刺されておるのじゃからの」

「キミは自分が何をしたのか分かっているのカ?この前の決闘の時といい、無差別に生徒達を巻き込んデ――あの“氣”は危険ダ、皆を狂わせル!間違ってもこんな一般人の多い場所で使っていいものじゃないヨ!」

「…………」

 ……どうやら呑気な現実逃避をしている場合ではないらしい。心の底から気が進まないが、この残酷な現実をまずは受け止め、現状を把握しなければ。僅かに視線を走らせ、周囲の状況を素早く確認する。

 俺が“我を忘れる”前には結構な数の生徒達が周囲を取り囲んでいた筈なのだが、現在ではその囲みが随分と遠巻きになっている。前回の風間翔一の決闘の時とは異なり、気絶して倒れ伏している生徒の姿は見当たらない。

「成程、な」

 先程のルー・イーの発言――川神院の怪物達が俺の前に揃い踏みしている事実。そして何より、全身を襲う強烈な疲労感と倦怠感が、俺に空白の記憶を埋め合わせる為のヒントを与えてくれる。

「まあ、アレがお前の地雷だって事はなんとなーく分かってたが、それにしてもここまでやるか普通?私達が全員で防ぎに掛かってなかったら真剣でヤバかったぞ。そこの外人コンビが自力で持ち堪えられるレベルの持ち主じゃなかったら、どっかに手が回らなくなってたかもな」

 百代がチラリと背後を振り返りながら言う。その視線を追うと、マルギッテの射殺すような眼光と、クリスティアーネの澄んだ双眸がこちらを真っ直ぐに見返していた。

 ……ああ、事の発端を今になってようやく思い出した。思い出したついでに再び意識がフェードアウトしそうになったが、自制心を総動員して持ち堪える。落ち着け落ち着け、織田信長はクールでクレバーで、そして何より心の広い男だ。小娘の戯言を真に受けてキレるなんて大人気無い事はしない。うむ、まずは深呼吸してゆっくり呼吸を整えてあいつ殺そ――違う、素数を数えて心を落ち着けながらあいつ殺そ――違う。本気で落ち着け、俺。

「……ふん」

 良し。概ね、状況は理解した。空白の記憶は、経験と推測で埋め合わせた。ならば――次は未来を考えるとしよう。

 俺の計算からは著しくズレてしまったが、不幸中の幸いにして、取り返しのつかないレベルの致命傷は受けていない。まだまだ、絶望して全てを放り投げるには程遠い。この程度の窮地、何度も何度も潜り抜けてきた筈だ。真の意味で何も無かったあの頃の俺とは違う。昔日の悔恨を胸に研鑽を重ね、手札を増やし続けてきた。そうだ――俺なら、やれる。

 腹を括り、肝を据えたならば、後は脳細胞を働かせ、舌先三寸を動かすだけだ。俺は小さく呼気を吐き出すと、悠然たる無表情で口を開いた。

「然様な泣き言がお前の口から漏れるとはな、川神百代。俺自らが手を下した訳でもなく、只気迫を以って威を示したのみ。何を無用に騒ぎ立てる?この俺が態々、学園なぞの温いルールに従い、何者にも傷を付けぬよう振舞っているにも関わらず――お前達は、俺を弾劾する心算か?」

「いやいや、殺気もあそこまで行くと単なる気迫じゃ済まないからな。“気で呑まれる”ってのがどういう状態か、お前なら分かってるだろ?耐性のない連中の場合、ショック死ってのは普通に有り得るんだ。特にさっきのアレなんか、本来なら大量に死人が出ていてもちっとも不思議じゃないぞ」

「だが、現実として死者はおろか負傷者すらも出なかった。何となれば――この川神学園には、川神鉄心とルー・イー。そして何より、お前が居る。川神百代」

「お、なんだなんだ、随分と買ってくれてるじゃないか。お前ってヤツは自分以外の人間は誰も彼も見下してるもんだと思ってたが」

「ふん、以前にも言った筈だがな。俺はお前を誰よりも高く評価している、と。その川神百代が居る以上、俺が貧弱な凡夫共に気を遣う必要性など皆無だ。故に、俺はお前の実力に信を置いた上で、規律に抵触しない振舞いを選んだまでよ。其処に何の不都合が、不合理が在る?」

「ん~……そう聞くと別に大した問題は起こしてないような気がしてきたぞ。ウンウン、私がいる以上、学園の平和は約束されてるしな。ご機嫌なおねーさんは鼻歌なんか歌っちゃったりして、~♪~♪」

「モモお前嬉しそうじゃのう……」

 川神百代・攻略完了。ふっ、チョロいな。この織田信長、伊達にストーカー顔負けの緻密さでMOMOYOの人格データを徹底分析してはいない。彼女が武力に見合わぬ単細胞で助かった。武神級の武力に相応以上の智謀まで併せ持つような反則パラメータ持ちならば少なからず手こずるだろうが、まあ天は二物を与えず、だ。よもやそんな完璧超人にはお目に掛かる機会もあるまい。

「ゴホン、織田よ。お主の言い分は分かったがの。じゃがしかし、いくらワシらがおるからといって、学園内でしょっちゅうあんな殺気を撒き散らされては堪ったもんじゃないわい。当事者だけならまだしも、無関係の生徒を巻き込むのは感心できんの」

「ふん、成程。其れはつまり、愚昧な連中の学習能力に期待した俺が莫迦だった、と。つまりはそういう事か?風間翔一との決闘にて、“確実に安全な観客席”など存在せぬ、と俺は実例を以って示してやった筈だが。好奇心は猫をも殺す――物見高い群集どもが観戦に集うのは連中の勝手であるが、其処に些かの危険が伴う事実を連中が承知している以上、仮に巻き込まれようが自己責任と云うものだ。多少の代償を支払う事を恐れるならば、最初から大人しく教室の窓からでも覗いて居れば良い。元より、俺が武を魅せる観客は、価値在る強者のみで十分よ。――この学園の生徒共は揃いも揃って、然様な危機管理すらも侭ならぬ程に愚昧なのか?」

「む、むぅ。確かに決闘の観戦は基本的に自己責任で行うよう規則に定めてはおるが……、しかし今回の場合、また話は別じゃろう。お主とクリスティアーネは決闘していた訳でもないのに、いきなりとんでもない殺気を開放しようとするもんじゃから慌てたわい。ワシが見ておった限り、クリスティアーネの発言がよほど気に障ったようじゃが、それにしても問答無用であそこまでするのはどうかと思うがの」

「価値観の相違、だな。人には誰しも譲れぬ意志が在り、退けぬ一線が在る。その域内を見ず知らずの小娘に遠慮なく踏み荒らされて黙っていられるほど、俺は腑抜けではない。川神鉄心、貴様は川神院の誇りを踏み躙られて、それでも仏の如く笑っていられるのか?――同じ事だ。手を出さず、警告のみで済ませてやった寛容さを称えられこそすれ、然様に責められる謂れはない」

 “織田信長”。この忌むべき名前は、俺にとっての戒めだ。救い様のない弱者だった昔日の自身を忘却しないよう、俺は常にこの名を掲げて生きている。だが、いかに象徴としての役割を果たしていても、反吐が出るほどに嫌いな名である事に変わりはない。無神経に触れられれば平静を保てないのも仕方がないのである。

 ……まあ、ここまで暴走による被害が深刻になってくると、「仕方がない」で済ませるべきではない、か。何かしらの対処策を早急に考案せねばなるまい。

「……キミの力は圧倒的ダと思うヨ。それこそモモヨと較べても遜色ナイくらいにネ。キミが力を身に付けるタメにどれ程のクンフーを積んダのか、ワタシには良く分かル。デモ、だからこそ!だからこそ、その力をそんな風な形で振り翳しちゃアいけナイ!キミの誇るべき“武”は、暴力で他人を押さえつける為に鍛え上げた訳じゃないハズだヨ!」

「……」

 川神院師範代、ルー・イーの熱情に満ちた叱咤を受けて、俺は心中で秘かに苦笑いを浮かべた。

 ああ、あんたの言ってる事は正論だよ。全く以って正しい。だけどな。

――“正しさ”で万人が救われるなら、俺達の世界はこんな風にはなっちゃいないんだ。

 ……力を持つ連中が皆、ルー・イーのように高潔な人格の持ち主だったなら、或いは俺も、蘭も。

「ふん」

 無用な方向へと思考が逸れている事を自覚し、小さな吐息と共に軌道修正。

 少なくとも今は、然様な下らない雑念に囚われている場合ではない。益にならない思考を放棄し、表向きを取り繕う為の仮面を被り直す。

「貴様の武に対する解釈は兎も角――“護身”として武を揮う事が、糾弾されるほどの邪悪であるとは思えぬがな。この学園の中で、俺は自ら他者に攻撃を仕掛けた記憶は無い。何時如何なる場合であれ、降り掛かる火の粉を払ったのみだ。それも相手を壊さぬよう、加減に加減を重ね、手心を加えた上で、な。……此処までの忍耐を俺に強いておきながら、今度は手前勝手な非暴力主義でも押し付ける心算か?ふん、俺はルー・イーを稀代の武人と認識していたが、見込み違いだったやもしれぬな」

 まあ実際には色々とグレーゾーンに踏み込んでいるのだが、それでも真っ黒と言うほどに明確な嘘は吐いていない。2-Fクラスへの侵攻には不死川心の仇討ちという名目があったし、その他のクラスにも侵攻宣言こそしたものの、実際に自分から攻め入った訳ではない。危機感を抱いたり功名心に逸ったりした連中が自分から俺に決闘を申し込み、そして勝手に返り討ちに遭っただけの話。

 無論、言うまでもなく屁理屈だ。絶対的にどうしようもなく屁理屈だが――しかしそれでも、理屈は理屈。最低限の筋は通っている。そして頭の固い武人と云う生物は得てして、相手の言い分に一筋の理でも通っていれば途端に身動きが取れなくなるものだ。ネコや直江大和のような柔軟さがあれば容易に反論が可能だろうが、良くも悪くも武道に生きる男、ルー・イーには難しかろう。そんな俺の目論見の通り、彼は適切な言葉を見つけられなかったらしく、渋い表情で唸っている。

「む、ゥ、しかし――」

「要領の得ぬ説教ならば後の機会にして欲しいものだな。……どうやら、俺に物申したい輩が未だ残っているらしい。くくっ、彼奴らを何時までも待たせておくのは、教師として如何なものだろうな」

 俺の視線が向かう先には、赤髪と金髪の鮮烈なコントラスト。ルーは俺の意図に気付くと、渋面をそのままに引き下がった。

 さて、ここからが本番だ。今回における川神院の面々は、あくまでゲストに過ぎない。俺が真に本腰を入れて対処せねばならないのは――この火種だらけのドイツ人コンビ。背景に控える巨大な権力と軍事力、そして個人の傑出した武勇。総合的に考えて、転入以来に相手にした敵手の中でもトップクラスに厄介な二人だ。間違っても油断など出来る筈もない。

 本番を前にして気を引き締め直している内に、件の二人はこちらに歩み寄ってきていた。警戒しているのか、俺の立ち位置とは3メートルほどの距離を置いて立ち止まり、じっとこちらの様子を窺う。クリスティアーネの正義感に満ちた綺麗な瞳が俺を見据える横で、獰猛な戦意に満ちたマルギッテの眼が監視するように俺の一挙一動を追っている。そんな何とも落ち着き難い状態で、俺達の対話は始まった。威圧的な声音で口火を切ったのは、我がクラスメート――マルギッテ・エーベルバッハ。

「……警告した筈だ、ノブナガ。お嬢様に危害が及ぶような事があれば、私が必ずその喉笛を噛み千切る、と。ただの脅しで済むなどと思わない方がいい。我ら狩猟部隊の本分は、血煙に塗れた“狩り”にこそあると心得なさい」

「ふん。狂犬が、飼い主に従順で在ろうとするあまり、己の頭で物事を判じる術すらも喪ったか?俺はその“お嬢様”とやらの口舌より受けた許し難き侮辱を、些細な懲罰で赦すと決めた。故に、その肌に一筋の傷すらも負わせてはいない。斯様に温情在る処置すらも、貴様の目には“危害”と映るのか?些か、度し難いな。くくっ、それほどまでに小娘が大事ならば、早々に故国へ帰り、己が箱庭の中で丁重に囲ってやるがよかろう」

 その方が確実に互いに迷惑を掛けずに済む。些細な諍いの度にドイツ軍が押し掛けてくるような学園は願い下げだ。親馬鹿の都合で振り回される特殊部隊の面々も負担が減って大助かりだろう。そんな誰もが笑って、誰もが望む最高なハッピーエンドって奴を、俺は待ち焦がれている――いや真剣で。

「マルさん、自分の事を気に掛けてくれるのは嬉しい。でも、今は自分にこの男と話をさせてくれないか?」

「……はい。お嬢様がそう仰るなら。ただし、警護のため、傍に控えさせて頂きますが」

「勿論だ。うん、マルさんが護ってくれていると思うと、自分も安心して話ができるな!」

 朗らかな笑顔を向けるクリスに、マルギッテは柔らかに微笑みながら「光栄です」と答えた。主従のような、姉妹のような。いずれであったにせよ、強固な信頼関係が窺える遣り取りだ。張り詰めた空気が途切れたのは一瞬、クリスはこちらに向き直ると、一転して峻烈な眼光で俺を射抜く。

「まずは、先程の事。話を聞いている限り、どうやら自分はお前にとって、随分と失礼な事を言ってしまったらしいな。お前は織田信長公じゃないが、織田信長公のニセモノでもない。たまたま織田信長公と同姓同名の、織田信長という珍しい名を持つ生徒なんだな?」

「……。……然様」

 こいつまさか俺を怒らせる為にワザと言ってんじゃねぇだろうな、と嫌でも湧き上がる疑念。もしそうだとしたら途轍もなく狡猾な策士だ。そんな思考と同時に、吹けば飛びそうな自制心に必死にしがみ付いて、遠ざかり始めた意識を瀬戸際で繋ぎ止める。どうにか自制出来たのは、相手が素で言っている事が本当は一目で分かったからだ。天然を相手に本気で向き合っていたら絶対にこちらの精神が保たない。適度に流しながら対処していくとしよう。

「そうか、ならば改めて非礼を詫びよう。人が気にしている事に触れるのは良くない。それくらいは自分も分かっているぞ」

「ご立派です。お嬢様(慈愛の目)」

 この二人は俺のスルー力検定でもしたいのだろうか。俺の冷たい視線に気付いた様子もなく、クリスが言葉を続ける。

「自分は、詫びるべき非礼は詫びる。だが――それとこれとは、話が別だ!」

 碧眼の内に煌くのは、義憤の炎。クリスは突き刺すような鋭い目付きで、真っ直ぐに俺の眼を見つめていた。

「先の決闘の中で、お前の悪行、自分は確かにこの目で見届けたぞ。しかも級友から聞いた話によれば、お前はその武を用いて生徒達を脅し、この学び舎を支配しようと企んでいるそうではないか。そのような無法、暴虐、断じて見過ごせるものか!もしもお前のような悪漢を見逃すと云うならば、自分が騎士として掲げる義は廃れてしまう」

「……ふん。で、あるならば、貴様は如何する?」

 一応の形として訊いてはみたが、しかし態々問うまでもなく答えは判り切っていた。数日前、このグラウンドにて初めて互いの視線を通わせた瞬間から、遅かれ早かれこの時が来る事は予想出来ていたのだから。俺は静かな心地でクリスの碧眼を見返し、続く言葉を待った。

「無論、そんな事は決まっている!我が白刃は悪業の輩を裁く為にある。義の名の下に、いざ成敗してくれる!――2-F所属、クリスティアーネ・フリードリヒ!川神学園の掟に則り、お前に決闘を申し込むッ!!」

 通りの良い明朗快活な声と共に、ワッペンが地面へと放り投げられる。真っ直ぐで力強い、堂々たる宣戦布告だった。織田信長の叩き付ける強大な殺意を前にして臆する事無く、彼女はひたすらに己の信じる正義を貫き通さんと剣を取る。

 本当に――吐き気を催すほどに凛々しく、美しい。

 彼女の如く精神に一本の芯が通った人間は、時に信じられない程の強靭さを見せるものだ。掛け値なしの俺の全力……ある意味では“殺風”の勢力をも凌駕する殺意を浴びせられたであろうにも関わらず、彼女はその脅威と恐怖を乗り越えて、怪物退治に挑む騎士の如き勇敢さで、俺の前に立つ。

――参ったな。“今の俺”では、到底敵いそうにない。

 純粋な力量云々ではなく。正直に言えば、今の俺は、こうして立っているだけでも限界を突破してしまいそうな程に追い詰められているのだ。

 “我を忘れていた”間の俺はどうやら、怒り狂うあまり滅茶苦茶な殺気の運用をしたらしい。無意識の内にリミッターを解除した俺は、継続力もコントロールも一切考慮しない、文字通り全力全開の暴走という形で殺気を放出していたのだろう。結果、威圧効果の瞬間的な火力は“殺風”をも超えていたかもしれないが、お陰で精神力が完全なガス欠状態だ。もはや常時展開している小規模な威圧を継続する程度の余力しか、俺には残されていない。“殺風”はおろか、“蛇眼”も“死の鷲掴み”も“氷陣”も発動不可能。精神力の消耗に伴い、集中力も反射神経も大いに鈍っているので、生命線たる回避行動も満足に行えないのが現状だ。

 まさしく手足を捥がれたかの如き惨状。だが……焦る必要は無い。幸いな事に、自身には成し得ぬ仕事を託せる“手足”が、俺には居る。従者第一号の状態を考えれば、ここはやはり第二号の出番だろう。

 遠巻きに俺達を囲む観客の中に紛れて、虎視眈々と登場のタイミングを窺っているであろう二人目の直臣に指示を出すべく、俺がポケットの中に忍ばせた指先を動かそうと試みた、その瞬間だった。


「――お待ちを。その決闘の相手、僭越ながら、私に務めさせて頂きましょう」

「―――ッ!?」

 
 不意に響き渡った静かな声音に、クリスとマルギッテの両者が驚愕に眼を見開く。否――彼女達だけではない。恐らくは、俺も。ほぼ確実に、何かしらの反応が面に漏れ出ていた事だろう。織田信長の強固な仮面が一瞬とはいえ剥がれ落ちる程の驚愕と、衝撃。

 声の主は、蘭。森谷蘭、だ。織田信長の一の従者にして、懐刀。俺の幼馴染で、共犯者。地獄の旅の、道連れ。

 長年を共に生き抜いた一蓮托生のパートナー。顔を見忘れる事など、有り得ない。しかし――それでも。それでも、疑問に思わずにはいられない。これは本当に、“森谷蘭”なのか、と。

「お初に御目に掛かります。私は、畏れ多くも信長様の従者を務めさせて頂いている、森谷蘭と申します」

 容姿そのものに何かしらの変化があった訳ではない。爪先から頭頂部に至るまで、何処を眺めても普段通りの蘭だ。しかし、その身に纏う雰囲気は、まるで――幽鬼のそれだった。青褪めた顔色に、虚ろな双眸。異常にまでに稀薄な存在感と、欠落した生命の息吹。妄執だけで肉体という器を操っているかのような、不気味な空虚さを総身に漂わせている。

 確かに昨日の一件以来、蘭の調子が普段通りでなかったのは事実だが、しかし間違ってもこのような有様ではなかった。どこか心此処に在らず、といった様子でぼんやりしていた程度のもので、ここまで異常な様相を呈してはいなかった筈なのだ。

「……知っているかもしれないが、自分はクリスティアーネ・フリードリヒ。それで、決闘の相手を務める、とはどういう意味なんだ?自分は信長公、じゃない、ノブナガの悪辣な振舞いを見過ごせなかったからこそ、決闘を申し込んでいるんだ。お前と刃を交える理由はないんじゃないか」

「貴女には無くとも、私にはあるのですよ、フリードリヒさん。私は信長様の忠実なる臣下なれば、その御身をお守りするのが使命。故に、貴女が主に刃を向けると云うならば、まずは私と刃を交わして頂かなくてはなりません。――蘭の忠義に懸けて、主の“敵”は悉く、討ち果たしてご覧に入れます」

 違和感はそれだけではない。“忠”の一字が人の形を取ったと形容しても過言ではない、忠実無二の従者たる蘭が――俺の命令もなしに、完全な独断で動いているという矛盾。確かにこの場面においては、満足に動けない俺の代わりに手足たる蘭が動く、という構図は何ら不自然ではない。だが前提として、何の合図も打ち合わせもなく、蘭が自身の判断で自主的な行動を起こす事は有り得ない筈なのだ。

 その表情から思考を読み取ろうと試みるも、空虚を掴もうとしているかの如く、手応えがまるでない。考えが読めない。心を見通せない。それは人間として至極正しい在り方で――だからこそ、不可解。

 …………。

 そもそも――蘭は、何時から其処にいた?

 俺とて拙いながらも気配探知の術は心得ているし、何より慣れ親しんだ蘭の気配は眼を瞑っていても容易に探り当てる事が出来る。であるにも関わらず、こうして肉声を発する瞬間に至るまで、俺は蘭の存在に欠片も気付かなかった。まるで何事も無かったかのように、俺の三歩後ろの定位置に平然と控えている忠実なる我が従者は、今まで何処に居たというのか。

「おおっ、忠義!そうか、ランはサムライなんだな!主君として選んだのがあの悪党と言うのは自分にはちょっと理解し難いが、まあそこは重要じゃない。遂に本当の“武士”と剣を交えられる――そう思うだけで自分は、まさに血湧き肉踊る気分だ!」

「……では、承諾と受け取っても宜しいですね。ならば、2-S所属、森谷蘭。偉大なる主の代理として、決闘の申し込みを受諾します」

 蘭が自らのワッペンを静かに投擲し、クリスの放り投げたそれと交差するように重ねる。それは、決闘の成立を万人に知らしめる儀式。

 淡々と。驚く程に呆気なく、事態が進行していく。別に誤った方向に進んでいる訳ではない――蘭の行動は、間違いなく“正しい”。俺が脳裏に描いた最適解を、そのままの形で実行に移しているに過ぎない。そして、正しいが故に、下手に口を差し挟んで流れを阻害する事も出来なかった。

 いかに蘭の行動が計算外のものであったとは云え、織田信長に実質的な不利益をもたらす訳でもない以上は、こんな風に殊更に騒ぎ立てるべきではないのかもしれない。が、しかし。

「……お待ちください、お嬢様ッ!私にもクリスお嬢様をお守りするという使命があります。ですから、ここは私が――」

 蘭の発する得体の知れない雰囲気を感じ、曖昧な不安に駆られているのは俺だけではなかったらしい。マルギッテは険しい表情で歩み出ると、諌めるような口調で声を上げる。

「ん、何を言ってるんだマルさん?これは他ならぬ自分が義を貫くための決闘なんだ、マルさんに任せるのは流石に筋が通っていないだろう。それに、もう既に決闘の儀は成されたんだ。賽が投げられた以上、今になって取り消そうというのは、騎士としていかがなものだろうか」

「しかしっ、お嬢様!」

「それに――さっきも言ったじゃないか、マルさん。自分はもう守られているだけのお嬢様じゃないんだ。自ら率先して義を示す事すら出来ない人間が、人の上に立つフリードリヒの家門を継ぐ事など出来るものか。私は偉大な父様の後継者として相応しい自分になるためにも、ここで退く訳にはいかないんだ!」

 明瞭に言い切るクリスの返答は、梃子でも動かせない頑固さを思わせた。フリードリヒ家のお嬢様は、一度こうと決めたら徹底的に前へ前へと突き進むタイプらしい。どう足掻いても説得は不可能だと悟ったのか、マルギッテはクリスから視線を逸らし、威嚇するような獰猛な眼光で蘭を睨み据える。軍人としての経験か、或いは猟犬としての本能が、何かしらの危険を蘭から感じ取ったのだろう。

 具体的な証拠が存在せずとも、長年を掛けて培ってきた“勘”こそが真実を教えてくれる事例はさほど珍しくない。俺もまたマルギッテと同様に、正体不明の不吉な危機感を覚えていた。すなわち、今の森谷蘭を放置すれば――何かが。何か、誰かにとって、良からぬ事が起きるだろう、と。

「…………」

 ならば、どうする。精神力を消費し尽くした俺は実質的な戦力としてはもはや使い物にならず、下手に決闘に首を突っ込んでも足手纏いにしかならない。弁舌を以って場を誘導するのは俺の得意分野ではあるが、しかしこの状況からクリスの頑固な意志を曲げさせるには材料が足りない。命令によって蘭を下がらせたとしても、場を取り繕う手段がない。故に、俺自身の手では状況を変えられない――それならば。

「そういうコトなら私が出れば一発解決!じゃっじゃ~ん、ご主人の心のお供、明智音子の参上だよん」

 もう一本の手足を用いて、己の意に沿う状況を作り上げるだけだ。

 能天気で陽気な声と共に、サイズの合わないロングコートを颯爽と翻し、ねねが俺の傍に現れる。ギャラリーの中に居たねねは俺達の会話の具体的な内容を聴き取る事は出来なかっただろうが、しかしこの見た目アホっぽい猫娘は常人以上に頭が回る。物事を委細漏らさず観察し、織田信長を取り巻く状況から判断した結果として、俺が何を望んでいるのか、何も言わずとも理解できる筈だ。

 ねねは理知を湛えた静かな眼差しでクリスとマルギッテ、そして蘭の姿を見渡し、最後に俺の方に向き直ると、ニヤリと不敵に口元を吊り上げた。

――合点承知、任せといてよご主人。

「黙って見てれば私を除け者にしてワイワイと、ちょぉーっと酷いんじゃないかな皆さん。ご主人の従者はランだけじゃないんだよ?クリス先輩、でいいのかな。くふふ、キミがご主人に喧嘩を売るのは自由だけど、そういう話ならまずは私を通して貰わなきゃ困るね」

「ん?ん?いまいち話が見えないが……お前もノブナガの家臣、という事なのか?」

 唐突なねねの出現に混乱しているらしく、クリスはクエスチョンマークを頭上に浮かべながら問う。

「そそ。頭脳明晰にして一騎当千、綽約多姿にして雲中白鶴。誰もが羨むパーフェクトサーヴァント、その名は明智音子!よろしくねセンパイ。んでもって、パーフェクトな私は当然ながら忠誠心もパーフェクトなワケで、ご主人に楯突こうって人間を見逃したりは出来ないんだよね」

「ん~、つまりお前もまた、忠義によって主君を守るサムライと言うコトだな!ならばノブナガに挑む前にお前も突破しなければいけないのだろうが……ひとまず今はダメだ、自分には先約があるんだ。また後で存分に仕合おうじゃないか」

「いやいや、そんなつれないコトを言わないで欲しいなぁ、センパイ。私だってご主人の為に闘いたくて仕方ないんだからさ。嗚呼、このやり場の見当たらぬ忠誠心を如何せん!うふふ、それにさ――そっちのおっかない軍人さんも、ちょうど私と同じ考えみたいだよ?」

 悪戯っぽい笑みを湛えながら、ねねはマルギッテを顎で指した。クリスが釣られるようにして彼女へと視線を向けると、マルギッテは真面目な表情で深々と頷いて見せる。

「だからさ。こんなのはどうかな?」

 そう前置きしてから、ねねが提案したのは――タッグマッチ。蘭&ねね、クリス&マルギッテのコンビによる決闘だった。この提案に対し、騎士たる者は自分一人の力で道を切り開かないと云々、と最初は難色を示していたクリスだったが、ねねの思考を引っ掻き回すような小賢しい弁舌と、何よりマルギッテの強い要望に折れる形で渋々ながら承諾する事になる。もう一方の当事者たる蘭は終始、無言だった。何を考えているのか、或いは何も考えていないのか、それすらも俺には判らない。
 
 …………。
 
 何はともあれ、ねねは俺の望んだ通りの仕事をしてくれた。正確にはこれからより一層働いて貰う事になるのだが、こうしてタッグマッチ形式の決闘をセットアップする事に成功しただけでも十分な功績と云えよう。次なる問題は勝算だが――マルギッテとクリスは紛れもなく世界で通用するレベルの強者であり、それに引き換え、こちらの持ち札である蘭は不安定性の塊と化している。つまり必然として、戦の趨勢はねねの働き次第という事になるだろう。その小柄な身体に掛かる責任は大きい。果たして、どう転ぶか。

「――これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!両者とも、名乗りを上げるが良い!」

 暫くの時を経て、川神鉄心の号が、清々しい青天へ届かんばかりに響き渡る。“織田信長当人が決闘に参加しない”と云う事でひとまずは安全だと判断したのか、遠方まで避難していた生徒達は再び賑やかなギャラリーを形成している。その集団へと新たに校舎から見物に訪れた面々が加わり、現在では全校生徒の半数を超えるであろう観客がグラウンドに集っていた。悪名高き織田信長の手足と、外国からの転入生の二人組――いずれの要素も、物見高い学生達を引き寄せるには十分な話題性を持っているのは言うまでもない。

「2-S所属、森谷蘭。私の刃は主が為に。いざ尋常に、お手合わせ願います」

「1-S所属、明智音子だよん。くふふ、久々に手応えのある闘いが出来そうだね」

「2-F所属、クリスティアーネ・フリードリヒ!ノブナガの野望を砕くためにも、自分は必ず勝つ!」

「2-S所属、マルギッテ・エーベルバッハだ。……“猟犬”の誇りに懸けて、お嬢様には指一本触れさせません」

 幾百の眼が見守る先では、四人の女子生徒が対峙していた。手には各々の得物を力強く握り締め、譲れない想いを闘志に換えて、鍛え上げてきた武を以って戦に臨まんとしている。弱卒は居ない。この場に立っているのは、一線を踏み越えた武人のみ。学生の域を遥かに通り過ぎた激闘の予感に、観客達の醸し出す興奮と熱気の渦は勢力を増すばかりだ。

「…………」

 俺はギャラリーの最前列にて、2-Sの面々と共に彼女達の様子を観察していた。否、正確には、蘭の姿だけを、じっと目で追っていた。礼儀正しく品のある挙措で対戦相手と向かい合う姿は、一見して日頃より見慣れた蘭と何も変わらない。しかし――


『わたし、どうして――“ここ”を、知っているんでしょう?』


 嫌でも脳裏を過ぎるのは、あの言葉。黄昏色に染まる公園で、蘭が垣間見せた異変の兆候。

 一体、何が始まろうとしているのか。或いは――何が、終わろうとしているのか。

 不吉な予感。俺の胸中を覆う暗雲とは無関係に、時間は進む。決闘者達は名乗りを終え、観客達の熱狂は加速する。

 
 そして今、川神鉄心の大音声が、死闘の幕開けを告げた。


「いざ尋常に――はじめぃっ!!」
















 



 

 購入二年目のPS3が天に召されました。まじこいRの購入を検討していただけにこれは辛い……これを機に新型に変えるべきなのか。
 という個人的事情はさておいて、後編をお送りいたしました。暴走中の信長の殺気は、DQで言うところのマダンテだと思って頂けると分かり易いかと思います。一時的にマルギッテとクリスを封殺出来る程の瞬間火力を誇る代わり、これ以上なく燃費が最悪という、正常に頭が働いている状態なら間違っても使用しないような技です。リスキー過ぎて。
 KYじゃないクリスはクリスじゃない、と改めて思う今日この頃。それでは、次回の更新で。



[13860] 鬼哭の剣、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:4af32fda
Date: 2012/02/15 01:46
『わたしは貴女であなたは私。さあ――共に、往きましょう?』







 







 燃え盛るような闘気が空気を伝い、容赦ない苛烈さで肌を灼く。その一方で背筋には冷たい汗が伝い、緊張に全身の筋肉が強張るのを自覚する。

 仮に野生動物が心というものを持ち合わせているならば、肉食獣の狩場に迷い込んだ草食獣が抱く感情とは恐らくこのような感じなのだろう。つまりは、生きた心地がしない。

「まったく。今更ながら、とんでもない貧乏籤を引かされた気がするね。嫌になっちゃうよホント。この闘いが終わったら私、待遇向上のストライキを起こすんだ……」

 必要以上に張り詰めた精神の糸を解すべく、殊更に軽い調子で溜息混じりのぼやきを吐き出す。勿論、いくら嘆いてみたところで目の前の現実が変わる事など有り得ないワケで、要するにこれは単なる愚痴だ。愚痴ほど生産性に欠け、加えて鬱陶しいものはない――とは世間一般の認識であるが、私の場合、舌を動かすという行為によって精神の安定を図っているという側面があるので、一概に無意味とは言い切れない。

「お喋りは終わりか?ふっ、ならば覚悟を決める事です。白旗を揚げる猶予をやったと言うのに、愚かと言う他ない」

 そんな私の戯言であわよくば気勢が削がれてくれればいい、という秘かな目論見も虚しく、肌を突き刺す鋭利な闘気は増加の一途を辿るばかりであった。やれやれ、と小さく首を振って、私は眼前に立つ戦士を見遣る。

 兵器の鉄を思わせる黒一色の軍服に、飛散する鮮血を連想させる赤の長髪。あたかも軍隊と云う名の武力を象徴しているかのような立ち姿は、周囲一体を覆う程の戦気と殺気を帯びて、いよいよその存在の纏うイメージを一個兵器たらしめている。平穏な日本国に生まれ、戦争という概念に関わる事無く人生を過ごしてきた私ですら、“これ”を前にしているだけで、硝煙と血煙の織り成す戦場風景を幻視させられる。

 ドイツ連邦軍特務部隊隊長、マルギッテ・エーベルバッハ少尉。通称“猟犬”――世界の戦場で死神の如く畏れられる最凶の軍用犬。それが、私こと明智ねねが今現在、暗澹たる気分と共に対峙している相手だ。その肩書きと前評判に恥じないだけの技量と実力は初見の時点で十分に窺い知る事が出来たのだが、しかし“それ”とて彼女の全力とは程遠いものなのだと、私は既に思い知らされていた。決闘開始の直前、彼女が自身の左眼を覆う黒の眼帯を剥ぎ取った瞬間、全身より放つ闘気の総量が跳ね上がったのである。加えて言うなら、眼帯の下より覗かせた真紅の瞳は獰猛な戦意で爛々と輝いており、その機能に何の障害も負っていない事は明白だった。つまり彼女の隻眼とは即ち、自らに課した枷、ハンディキャップの類でしかなかったのだろう。何とも、思わず泣けてくるほどに素敵な話だった。

「何だかなぁ。眼帯取ってパワーアップとか笑っちゃうくらいにお約束な展開だけどさ、こうしてリアルでやられると真剣で堪ったモンじゃあないね。仮に相手への精神的ダメージを狙っての作戦だとしたら、とっても優秀だよその手法。私が保証しちゃうね」

「ふっ、本来ならばお前のような仔ウサギには、わざわざ全力を用いるまでもないと知りなさい。だが、現在は非常事態。一刻一秒でも早く自身の任を全うし、クリスお嬢様の身をお守りする事に専念しなければなりません。優れた人類である私の本気を体感できる幸運に感謝し……そして、殊勝に狩られるといいッ!!」

 満足に覚悟を決める暇も無い。マルギッテの軍靴がグラウンドの砂を蹴り上げ、同時にその姿がブレる。まずい、と頭が警鐘を鳴らすよりも先に、本能が身体を突き動かしていた。マルギッテの初動とほぼ同時に、私は後方へと跳び退る。そして、

「Hasen――Jagd!」

 爆音が轟いた。

 まるでダイナマイトでも炸裂したかのような衝撃。グラウンドを襲う激震と同時に、巻き上げられた多量の砂埃が宙を舞い、土塊が音を立てて降り注ぐ。

「……あははっ。……ハァ……冗談キツイなぁ、もう」

 濛々と立ち込める砂煙が晴れ、視界がクリーンになった時――私の背筋を走り抜けたのは、抑え様の無い戦慄。つい一秒前まで私が立っていた地点には、一つの小規模なクレーターが出来上がっていた。一瞬の内にそれを作り上げたのは、飛来した小隕石の欠片などではなく、人間の手による打撃だ。人外の域に到達した武人のみが振るい得る、一般常識を遥かに超越した膂力の産物だった。マルギッテは地面の凹部分にめり込んだ己の得物をゆっくりと引き抜くと、ニヤリと口元を歪めてこちらを見遣った。まるで追い詰めるべき獲物の活きの良さを喜ぶかのような、どこまでも獰猛な捕食者の笑み。

「ふっ、よく避けたものだ。褒めてあげましょう、光栄に思いなさい。野ウサギは野ウサギでも、逃げ足だけは確かな様だ」

 マルギッテは両手に携えた得物――トンファーをクルクルと器用に回転させながら、悠々と嘯く。自身の絶対強者たる事実を確信している者に特有の、余裕に満ち溢れた態度だった。余人ならば傲慢と謗られても不思議はないその姿勢に、しかし果たして誰が文句を付けられるだろうか。

 彼女は強い。恐らくは私が人生の中で相対した武人達の中でも、一番。例え私が誰より尊敬する師匠でも、正攻法で闘えば、彼女には及ばないだろう。紛れもなく世界有数の闘士――未だ鳥篭から解き放たれたばかりの雛鳥に過ぎない私が競うには、少しばかり荷が重い相手と言わざるを得ない。

「逃げ惑う獲物を追い詰め、自らの手で狩るのは、他の何事よりも血の躍る娯楽ですが……今回ばかりは、狩りを愉しむ気はない。無用に甚振らず、一息に沈めてあげましょう。大人しく覚悟を決めるといい」

 自身の実力に絶対の信頼を置くマルギッテは、最初から私の事など眼中にないのだろう。彼女の双眸は敵として相対する私ではなく、隣り合うもう一つの戦場へと向けられていた。森谷蘭とクリスティアーネ・フリードリヒが繰り広げる剣撃――刃と刃の奏でる音色は私達の元まで届いており、その勝負の経過を知らせてくれる。

 不意打ち上等騙し討ち万歳、夜討ち朝駆け奇襲戦法大好物という、我ながら派手に性格ひん曲がった私であるが、それでも武人としてのプライドはある。尊敬する師匠の下に学び、鍛と練を以って積み上げてきた自身の武には少なからず誇りを抱いているし、それをかくも堂々と見下されるのは気に入らない。それはもう弱味を握って社会的に破滅させてやりたい程度には気に入らないが、しかし同時にマルギッテがあちらの闘いへの気配りを優先したくなる気持ちも理解できる。それほどまでに、今の彼女――私の先輩従者たる森谷蘭は、異常な状態にあった。

『フリードリヒさんは私が引き受けます。ねねさんはエーベルバッハさんの足止めを。打倒を望まずとも、撹乱にて少々の時間を稼いで頂ければ、その間に私が自身の敵手を仕留め、加勢に向かえるでしょう』

 脳裏に蘇るのは、決闘前のブリーフィングでの蘭の様子だ。その語り口に淀みはなく、頼もしさを覚える程に冷静沈着だった。ただ――其処には決定的に、“感情”という要素が欠けていた。普段の頭に花が咲いているような馬鹿っぽさも、困ったような笑顔の温かさも無い。全てを置き去りにした空虚さだけが冷たく横たわる、能面のような無表情。私はかつて、“それ”と似た表情を幾度か目撃した事がある。

『ねねさん。貴女には、大切なものがありますか?』

 ご主人の傘下に収まる際、私は蘭にそんな問い掛けをされた。その時に彼女が垣間見せた雰囲気の変貌は、現在の彼女の状態と少なからず似通っている。確かに似通っているが――全くの同じ、ではない。あの時よりも更に、蘭の纏う空気は破滅的な虚無へと近付いているように思えてならない。

 ご主人の口から聞かされた話の内容と併せて、現在の事態に対する推測を組み立てるとするならば。恐らく、蘭は。

 …………。

 何にせよ、今の蘭を放置しておくのは危険だ。ご主人もまた同様に判断したからこそ、私に決闘への介入を望んだ。仮に蘭が私達の予想を超える“何か”をやらかそうとした際に、それを抑えられる人員が不可欠だったのだ。である以上、織田信長の手足として、果たすべき役割はしっかりと果たさなければならないだろう。彼の信頼を裏切って失望されるのは絶対に嫌だ。彼は嘘吐きで自分勝手な私の本性を知って、それでも何ら躊躇うことなく、私を信じると言ってくれた。優秀な従者だと、大切な家族だと言ってくれた。だから私は、どんな犠牲を払ってでも、その期待には必ず応えてみせる。

 その為にも――私は負ける訳にはいかない。マルギッテ・エーベルバッハと云う目の前の壁がどれほど高いものであれ、必ず乗り越えてやる。

「さ~って、と。理由は十分、気合も十分。ホントは泥臭いのは嫌だし面倒なのも御免だけど……ここは一丁、本気でやろうかな」

 相方たる蘭からは回避に専念して時間を稼ぐように言われているが、生憎とそういうワケにはいかないのだ。私とご主人の目的を果たす為に必要な要素は、時間稼ぎの対極、すなわち早期決着なのだから。狙いは敵手たるマルギッテと同じく、一刻一秒でも早く目の前の相手を排除し、パートナーのフォローに向かう事。ならば、小賢しく逃げ回るという手段は却下せざるを得ない。そして、私とマルギッテの実力差を考慮すれば、真正面からの戦闘では勝機は薄いだろう。ならば―――

 ……よし、一通りの思考は纏った。行動指針も、目的実現の為の手段も明確に定まった以上、後は行動に移すだけ。勿論、言うまでもなくそれが一番の大仕事なのだが。

 余計な雑念を全て振り払い、神経を研ぎ澄まして戦に臨む。静かな覚悟と共に、私は牙を剥いた。

「窮鼠猫を噛む、ってね。私的には鼠をイジめる猫ポジションの方が全然しっくり来るんだけど、いいさ、たまにはネズミ役も悪くない。さぁさ――頑張って捕まえてごらんよ、猟犬さん!」










 二分。

 それは、クリスティアーネ・フリードリヒと森谷蘭の両者が相対してから経過した時間だ。

 数度の激突と剣戟を経て―――戦線は現在、膠着状態にあった。

 両者の間合いは、約四メートル。クリスは己が得物たるレイピアを構え、瞬きすらも惜しいとばかりに、相対する敵手の姿を碧眼に映し込んでいる。全身の筋肉は張り詰め、僅かな隙を見出せば即座に飛び出す事が可能だ。弾丸の如く突き進み、瞬時に勝負を決する刺突へと繋げられる。その為の下準備は、既に出来ている。

 だが――引き金は、未だ引かれない。勝機を見出すに足るだけの“隙”が、眼前の敵手には無い。

 青眼に構えられた二尺五寸の刃が、冷厳な煌きを帯びてクリスの心身を圧する。この痛い程に緊迫した空気の中では、呼吸すらも躊躇われた。滲む汗が頬を伝い、滴となって顎より落ちる。ぽたぽたと絶え間なく滴り落ちる水分を、グラウンドの砂が貪欲に飲み込んでいく。

 クリスは掌に滲む汗を自覚し、滑りを防ぐ為にレイピアの柄を握り直した。相手の全身を注意深く観察しながら、静かな、しかし心からの感嘆の声を上げる。

「――強いな。さすがはサムライだ。迂闊に踏み込めば斬られる。それが、嫌というほど良く分かる」

 基本的にクリスはその気性の示す通り、攻め手を得意とする武人だ。レイピアという得物を選んだのも、“貫き通す”という一点に意義を集約されたその在り方が、自身の性格と合致していると感じたが故であった。突撃し、突破する。そのシンプルなスタイルこそが、クリスにとっての必勝法。

 だが、今回の相手には、それが通用しない。無謀な突貫を試みれば――確実に反撃の一閃にて斬って捨てられる。決闘開始直後に繰り広げた数度の交錯において、クリスはその事実を痛感していた。蘭という武人の剣は、迅い。太刀筋に派手な飾りがなく、ひたすらに実直で、それ故に凡百の武人を遥かに置き去りにした剣速を以って大気を斬り裂く。クリスが“突き”の鍛錬を幾千幾万と繰り返し、自身の最大の武器と成したのと同様に、恐らくは蘭もまた、果てしない鍛錬を積み重ねて“一閃”を得るに至ったのだろう。

 武の性質の似通った二人。振るう得物の種類を除き、明瞭に異なる点があるとすれば――クリスが攻めを得意とするのとは対称的に、蘭は守りこそを得手とする武人であるらしい、という所だ。彼女は自分から積極的に攻め掛かる事をしない。ひたすら冷徹な眼差しでクリスの一挙一動を追い、その癖を読み取る事に集中している。地に根を張ったように動かず、あくまで冷静沈着たる姿勢で太刀をクリスに向ける姿は、万人の侵入を拒む鉄壁の城砦を思わせた。生半可な防御であれば、得意の突撃によって問答無用で打ち砕く自信がある。だが、蘭の間合いの内側へと無策のままに突っ込めば、まず間違いなく痛打を浴びる羽目になるだろう。一瞬で勝負を決められても何ら不思議ではない。そう判断したが故にクリスは攻めあぐね、蘭はカウンターを虎視眈々と狙っている。そうして生じたのが、現在の息詰まるような膠着状態であった。

「やはり、日本に来て良かった。自分と同年代にここまでの使い手がいるとは、故国に居たままでは知る事も出来なかった。本当に、世界は広いな」

 実際、日本を訪れるまで、クリスは自分の実力に少なからぬ自信を持っていたのだ。ドイツの学友達にクリスに及ぶ腕の持ち主は誰一人としていなかったし、フェンシング競技の大会で優勝を飾るのもさほど難しい事ではなかった。身近な人間で「及ばない」と思わされたのは姉代わりのマルギッテだけで、彼女の精強な部下達も、少なくとも訓練形式の戦闘においては誰一人として、クリスに土を付けられなかった。そうした事情もあって、川神学園における“最強”――は不可能だとしても、それに次ぐ程度の実力は有しているだろう、とクリスは自負していた。

 だが、実態はどうだ。武士の集う学園だけあって、全体のレベルが凄まじく高い。世界的に有名な川神百代は言うに及ばず、無名ながらも優れた実力を有する武人が数多く在籍している。織田信長を名乗る――いや、織田信長というあの男子生徒はその筆頭と言えるだろう。人格や思想はさておきその能力は、確実に世界に名を轟かせる武人のソレだと一目で判別する事が出来た。他に例を挙げるならば、同じ2-Fの川神一子も、クリスと実力的には決定的な差がある訳ではなかった。前回の決闘では白星を得たが、気を抜けばいつ追いつかれても不思議ではない。

 そして、刃を携え眼前に立ち塞がる森谷蘭という少女もまた、紛れもない強者だ。彼女が武に対して真摯に向き合ってきた事は、その真っ直ぐな太刀筋からも窺える。それだけに――クリスには、分からない。

「ラン、だったな。お前の腕前は本当に見事だと、そう思う。だが……どうしてお前は、その武を義の為に振るおうとしないんだ!あんな悪党に忠節を尽くし、走狗となって働いてどうする?剣が泣くというものだぞ」

 織田信長という男の振舞いは、クリスにとって到底容認できるものではなかった。クラスメートから伝え聞いた話だけでも十分以上に極悪非道だと言うのに、あのように暴虐を振り翳す現場を実際に目撃した以上、もはや一秒たりとも捨て置く事など出来はしない。だからこそクリスはこうして剣を取り、信長に手袋を叩き付けたのだ。力を以って弱者を蹂躙する輩は、明確な“悪”。そしてあらゆる武は、許されざる悪を断ち、弱者を救う為に在るべきだ――それがクリスの思考だった。

 だからこそ、“悪”に忠誠を誓い刃を振るう少女の、その価値観を理解出来ない。或いは納得出来ない、と言うべきかもしれない。それ故に投げ掛けた疑問の言葉に対して、

「…………」

 蘭は沈黙で応えた。剣先を真っ直ぐにクリスへと向けたまま、眉一つ動かす事無く、静寂の内に凛と構えを取り続けている。あたかも存在そのものが一本の刃と化したかの如き錯覚を見る者に抱かせる立ち姿は、クリスの思い描いていた“サムライ”の姿と重なるものだった。その事実が、更にクリスを戸惑わせる。武士とは、武士道とは、断固として悪とは相容れぬものでなければならないのだ。

「お前は間違っている。暴力で人々を虐げ、苦しめる輩に、剣を握る資格はない!悪の手先であり続けるなら、お前の名もまた悪名として世に広まるだろう。武士の末裔ならば、家名に傷を付ける事は“考”すらも蔑ろにする行いじゃないか。お前は両親や先祖の名に泥を塗って平気なのか?」

「……」

「今は好き放題に振舞えていても、いつかは惨めな末路を迎える事になるぞ。悪は義の前に滅び去ると決まっているんだからな。正義は勝つんだ、必ずな!」

 尚も、沈黙。蘭は欠片の感情も覗かせない無表情で、冷徹にクリスを見据えている。そもそもクリスの言葉が耳に届いているのか、それすらも判然としない程に徹底した無反応だった。これでは会話の成立する余地はない、とクリスが見切りを付けようとした時――蘭の唇が僅かに動きを見せた。聞き取れない小声で、何かを呟いている様子だった。その声量は徐々に増してゆき、クリスに言葉の内容を伝え始める。

「――して、どうして、どうして、貴女を見ていると、どうしてこんなに落ち着かないのでしょうか。どうして、こんな、こんな、心がざわめいて、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い――どうして」

「っ!?」

 途端に、冷たい感覚が背筋を滑り落ちた。譫言のような呟きの不気味さと、そして何より――蘭の表情が、クリスの胸中に拭い難い戦慄を走らせた。

 其処には、何も無かった。空っぽの虚無だけが、顔面に貼り付いていた。瞳はクリスの方向を向いているが、この世に在るモノを何一つとして映していない。現世に息づく生者であるとは到底思えない程に、彼女の纏う雰囲気は異様だった。怒りも悲しみも希望も絶望も意志も思想も絶無の、真っ黒な伽藍洞。己の理解を超えた“化生”を前に、クリスは恐怖を覚える。信長に叩き付けられた殺意による、根源的な恐怖とは種を異にする――薄気味悪さと嫌悪感の混在した生理的な恐怖が、心身を縛り付けた。

 そして。

「どうして、どうしてなのか、分かりません。でも、ですが、ああ、嗚呼、関係、そう、関係ない。何も関係なんてないんです。だって、何故なら私は、私は――」

 空虚な瞳の奥に、一欠片の感情が宿る。その事実が指し示す意味に気付いた者は、誰も居なかった。












「――くっ、ちょこまかと……!往生際の悪い野ウサギだ、観念して狩られなさい!」

「全力でお断りするよ!はぁ、ここで倒れたら、はぁ、世にもおっかないご主人にめくるめくお仕置きされちゃうからね!」

 決闘の開始から、三分と四十秒。マルギッテ・エーベルバッハが本格的な攻勢に出始めてから約三分――私は未だに健在だった。掠り傷の一つすらもこの身には負っていない。だからと言って私が余裕で相手を圧倒しているかというと、勿論そういうワケでもなく。現状を端的に説明するならば、既に私は限界ギリギリまで追い詰められていた。

 マルギッテの繰り出す攻撃は、最初に地面を砕いた一撃からも窺える様に、凄まじいまでの“重さ”を誇る。それでいてパワータイプ特有の鈍重さは欠片もなく、雌豹を思わせる俊敏かつ柔軟な身体捌きによるスピードを兼ね備え、更にトンファーという使用武器の特性を考慮すれば、恐らくはディフェンスにも長じていると考えるのが自然だろう。流石に世界に名を売る武人だけあって、紛れもない“本物”だ。間違いなく、格上。私が彼女の苛烈極まる猛攻を前にここまで倒れずにいられたのは――“回避に専念している”からに他ならなかった。攻撃も反撃も防御も、ついでに体面も外聞も一切考えない、まさしくネズミの如き必死さで狩人の猛追から逃げ回ってきたからこそ、今の所は敗北の運命から逃れられている。つまるところ、今の私は、当初の蘭との打ち合わせに沿う形で闘いに臨んでいると言えるだろう。

「はぁ、はぁ、……くぅ、かの貂蝉女史も顔負けなレベルでエレガントな私が、こんなみっともない姿を衆目に晒すなんて屈辱的だね。ああもう、これで1-Sの顔の威厳はガタ落ちだよ全く!」

「ふっ、無用な心配です。どうせすぐに、今よりも惨めな姿を晒す事になる。確かにお前の逃げ足は見事だ。だが、優秀な私にいつまでも通用する道理はないと知りなさい」

「…………」

 大いに反論してやりたいところだが、残念ながらそれは不可能だ。マルギッテの言葉は正鵠を射ていた。文字通りの全身全霊を費やした紙一重の回避行動は、恐ろしいペースで私の体力を奪っていく。人間が全力で動き続けられる時間が限られている以上、いつまでもこんな綱渡りを続けられるワケがない。加えて、マルギッテは歴戦の闘士――鍛え抜かれた観察眼は、私の一挙一動から様々な情報を常に読み取っている。その証拠として、間違いなく彼女の攻めは三分前の時点と較べて、より的確に私を捕捉しつつあった。今の所は掠る程度の被害で済んでいるが、完全に捕捉されるまでにさほどの時間は掛かるまい。つまるところ、時間が過ぎれば過ぎる程に、私は着実に追い詰められていくという事だ。

 否、現状を鑑みれば、既に追い詰められた、と形容するのが正しいのだろう。次の攻勢をこれまで同様に無傷で捌き切る自信は、私には無い。そしてマルギッテの圧倒的な攻撃力と私の脆弱な防御力から考えて、まず間違いなく一撃でも被弾した時点で私の敗北は確定する。まさしく袋の鼠と表現するに相応しい、果てしなく絶望的な事態だった。百人中の百人がそう判断し、明智音子の敗北を断言するだろう。己の勝利を確信し、優越の色を隠そうともせず表情に出しているマルギッテと同様に。

―――だからこそ。私のような“弱者”は、其処に一片の勝機を見出し得るのだ。

 さあ、死中に活を求めてみるとしよう。“逃げ”はここまで。既に打ち終えた布石を活用して――盤面を引っ繰り返す時だ。

 私はニヤリと口元を吊り上げて、絶対強者を称する紅の狩人に視線を合わせる。訝しむようにその眉が顰められた瞬間、私は大地を蹴り上げた。後ろへ、ではなく。狩人の待ち受ける、前方へと。

「なっ……!?」

 想定していなかった事態なのか、マルギッテの口からは驚愕の声が漏れた。まあ当然だ、これまで逃げの一点張りだった相手が、一転して真っ直ぐに突貫してくれば誰でも驚くだろう。意表を衝かれた事による戸惑いが一瞬の隙を生む。第一の布石が正常に機能した事を確認しながら、彼女との間に隔たる四メートルの距離を一気に詰める。この時点で衝撃から立ち直ったマルギッテは、トンファーを油断なく構えて迎撃の姿勢を取っていた。馬鹿正直に突っ込めばカウンターを叩き込まれてKOだろう。ならばどうする?

「とうっ!」

 近寄らなければ良いだけの話だ。私は正面1メートルの地点でブレーキを掛け――同時に右足の爪先を足元の地面へと蹴り込んだ。グラウンドの砂が猛烈な勢いで巻き上がり、黄土色の砂塵がマルギッテの視界を奪う。

「っ!目晦ましか、こんなもので――!」

 勿論、この程度の小細工が百戦錬磨の軍人に通用するとは思っていない。故に、これはあくまで第一手。私は砂を蹴り上げた時点で、間髪を入れず“自身の衣服”に手を掛けていた。あらかじめフロントボタンを全て開けておき、軽く羽織っているだけの状態にあったロングコートは、脱ぎ捨てるのに僅か一秒と要さない。その一秒を稼ぐ為の砂煙だ。

 ごめん師匠、せっかくのプレゼント、ちょっと乱暴に扱っちゃうけど許してね。

 心中にてコートの贈り主に謝罪しながら、私はそれを――投擲した。バサリと宙に翻ったロングコートは、マルギッテの視界から私の姿を完全に覆い隠す。これが、第二手。マルギッテの漏らした僅かな動揺を感じ取りながら、私は最後の1メートルを踏み込んだ。その踏み込んだ左足を軸とし――勢いを乗せた全力の上段蹴りを布越しの相手へと叩き込む。速度も重さも申し分ない、痛烈な蹴撃。

 これで勝負を決められなければ、その時は。
 
「――――ッ!!」

 振り抜いた右脚が捉えたのは、硬質な感触。

 肉の感触ではない。骨、でもない。

 違う、これは、もっと非生物的な――

「っ!嘘っ!?」

 トンファーで、受け止められた。その事実に気付くまでは一瞬。

 果たしていかなる理屈がそれを可能にするのかは判らないが、完全な死角から繰り出された、軌道すらも視界に映らない筈の、私の本気の蹴りを――マルギッテは己が得物で防いで見せたのだ。

 その信じ難い現実を受け入れる為に、更に一瞬。

 そして、それだけの時間があれば、名高きドイツの猟犬が反撃に転じるには十分過ぎた。

「Hasen――Jagd!!」

 烈昂の気合と共に、マルギッテが動く。咆哮の如きその声音は、勝利の確信に充ちていた。

 その根拠は明白。私は――踏み込み過ぎたのだ。此処は既に猟犬の間合い。捕殺空間の内側だ。全力のハイキックを打ち終えた直後の私が体勢を立て直し、マルギッテの射程から逃れるよりも――振り抜かれた彼女の旋昆が私の体躯を打ち据えるタイミングの方が遥かに速い。

 もはやどう足掻いても回避は不可能。脆弱な防御力故に、受け止める事も不可能。完全に、“詰み”だ。先の一撃で仕留められなかった時点で、私の敗北は決定していた。


――と。マルギッテはどうせ、そんな風に考えているのだろう。


 だが、残念ながら私のターンはまだ終了していない。私の打った最初にして最後の布石は、未だに温存されているのだから。

 視界を塞ぐロングコートを剥ぎ取りながら、マルギッテの振るった右腕がその手に握るトンファーと共に迫る。正面からまともに受ければ骨を粉砕されかねない破壊の鉄槌を前に、私は回避行動を――“取らなかった”。

 むしろ、その逆。一歩たりとも動く事無く、グラウンドの砂をしっかりと踏みしめて、顔の前で己が両腕を交差させる。それは紛れもない、防御の姿勢。虚しい抵抗で、惨めな悪足掻きだ。落下するコートの向こう側から覗いたマルギッテの口元が、その行為の愚かさを嘲笑うように歪み――そして、凍り付いた。

「な、それはっ――!?」

 直後、甲高く澄んだ音が鳴り響く。あたかもハンマーで鉄を叩いたかのような“金属音”が、時を停める。

「あははっ、“かかった”!」

 耳を打つ心地良い音色に、私は快心の笑みを漏らした。

 音の出所は、私の両腕だった。トンファーの一撃を真っ向から受け止めた“鋼鉄の腕”が、陽光を反射して鈍い煌きを放っている。それは世界最先端の技術の粋を結集して作成された最新式強化股肱――などというトンデモな代物では勿論ない。その正体は、指先から前腕部に至るまでの肌を隈なく覆う、“鋼鉄製の篭手”だった。人体保護の役割を有する強固な防具は、必倒を期したマルギッテの打撃を確かに受け止め、その衝撃のもたらす破壊力を大幅に削いだ。結果、必殺の一撃によって私の骨肉は砕かれる事無く――“その場での反撃を可能にする”。一度や二度の奇襲では実力差を埋めるに足りないと云うならば、更に重ねに重ねてとことん不意を討つまでだ。

「――貰ったよッ!!」

 この状況下における反撃を全く想定しておらず、更に勝利を確信して気を緩めた直後のマルギッテにとって、この一撃は――これ以上の出来栄えを望めない程に完璧な、最高に私好みの奇襲となるハズだ。そんな私の予想は違う事無く現実となる。すなわち、全身全霊を振り絞って繰り出した前蹴りがマルギッテの無防備な腹部を深く穿り、鈍い打撃音と共にその身体を後方へと弾き飛ばした。

「がはっ!――ぐ、うっ」

「……。……倒れない、か。流石に現役軍人さんは呆れる位に頑丈だね。やんなっちゃうよホントにさ」

 私の最高の一撃を以って内臓をまともに打ち抜いたにも関わらず、マルギッテは倒れなかった。膝を折る事すらなく、軍靴で強烈に地を踏みしめ、ギリギリと歯を食い縛って苦痛に耐えながら、怖気の走るような烈しい目で私を睨み据えている。その壮絶な気迫を前にしては、迂闊な追い討ちなど掛けられるハズもなかった。下手に間合いに踏み込もうものならば、未だ手放さないトンファーが弧を描いて襲い掛かってくる事だろう。

 なに、焦る事はない。いかに彼女の肉体が頑丈と云えども、先の一撃の手応えは確かだった。まず間違いなく、深刻なダメージを与えられた筈だ。それこそ川神百代の“瞬間回復”のような反則技を用いない限り、すぐさま癒えるような負傷ではない。既に盤面は引っ繰り返された。惨めで哀れなネズミの役回りはもう十分に堪能した事だし、ここからは対等な“闘い”の局面だ。

「ぐぅ……、やってくれるな、野ウサギめ……!ひたすら無様に逃げ回っていたのは、演技か。言動も服装も何から何まで、私の眼を欺くための罠だったとはな。随分と周到な事だ。その狡猾さには頭が下がる」

「いやあそれほどでも。キミって真剣で強いからさ、さすがに私も“本気”でやらなきゃいけなかったんだよ。弱者が強者に挑むなら、それ相応のやり方ってものがあるワケさ。形振り構ってる場合じゃない、ってね。何なら卑怯だって罵ってくれても構わないんだよ?それって私には割と嬉しい褒め言葉だからさ」

「ふっ、戦場に身を置く者にとって、“卑怯”などという言葉に何の意味もない。死ねば名誉も誇りも塵と消える。わざわざ文句を付ける謂れはないと知りなさい。――それにそもそも、そんな詰まらない負け惜しみを吐く必要などない。最後に勝利を掴むのは、この私に決まっているのだから」

 未だ力を失わない言葉と同時に、湧き立つ闘気が赤熱のオーラとなって立ち昇る。依然として戦意旺盛なマルギッテの姿に、私の口からは自然と重い溜息が漏れた。手負いの猟犬を相手にするのは可能な限り避けたかったので、是非とも一撃で沈めておきたかったのだが……まあ言っても詮の無い事だ。軽く頭を振って未練を振り払うと、私は両手を覆うガントレットの“機能”を解放した。

 折り畳まれて内部に収納されていた鉄爪が飛び出し、片方の篭手につき五本、合計して十本の爪が展開された。黒金色の篭手と一体化した鉤爪は、私の流し込んだ氣を帯びて仄かな紅色の光芒を放ち始める。

「――暗器、とはな。成程、それがお前の本来のスタイルと言う訳か」

「ま、そういう事だよ。これ、学園じゃまだまだ奥の手として取って置く心算だったんだけどね……まあ使わなきゃどうにもならなさそうだし、こればっかりは仕方ないよね。切るべきタイミングに切らないんじゃ切り札の意味なんてないんだからさ」

 ご主人が勝手に“猫の手”とか何とか呼んでいるこの特別製の篭手は、私の戦闘力を補助する為に作られた、攻防一体の武装だ。今の私に不足している能力――それは本体の防御力と、素手の攻撃力。スピードに特化したこの体躯が非常に打たれ弱いのは言わずもがな、攻撃面においても問題を抱えている。脚力を集中的に鍛えてきた弊害として、私の腕力は少しばかり未発達だ。脚と較べればリーチも短く、仮に届いたとしても強敵を相手に致命打を与えるには到らない。それらの問題を同時に解消できる武装こそがこの篭手である。オーダーメイドの一品で、可能な限り頑強さを保ちながらの軽量化を施してあるため、持ち味のスピードを大きく阻害する事はない。無論、鋼鉄製である以上、多少の影響が出るのは避けられないが――装着によって得られる利点の方が遥かに多いのだから、そこには眼を瞑るべきだろう。

 骨を蹴り砕く自慢の両脚と、肉を斬り裂く十本の爪。四肢をフルに活用した打撃と斬撃のコンビネーションで相手を葬り去る――それこそが、師匠のカポエィラに独自のアレンジを加えて編み出した、私の私による私の為の戦闘スタイル。いずれは学園内でも披露する時が来るとは思っていたが、まさか“初日”でお披露目とは驚きだ。

 ……ああ、一つ重要なメリットを挙げ忘れていた。この武装の外せない利点としては――衣服の中に仕込むのが容易である、という事。先程マルギッテが口にしたように、暗器としての運用が可能なのだ。長身の師匠から譲り受けた、サイズの合わないブカブカのロングコートは、内側に何かを隠し持つには最適の衣裳と言えるだろう。私が学園外での活動の際、常にあの古びたコートを普段着に選択していたのは、単にお気に入りの一品であるという理由だけではなく、戦闘面における実用性も考慮しての事だった。初見の相手の場合、言動や立ち回りと併せる事で大抵の相手の不意を討つ事ができる。

 それ故にこうして公衆の面前で用いるのは避けたかったのだが、まあ過ぎた事は仕方がない。考えるべきは未来だ。切り札を切ったからには、何としても目的を果たさなければ割に合うまい。

 私は両爪を軽く振って調子を確認すると、マルギッテを見据えながら口を開く。

「――猟犬さん、キミは強敵だ。私の人生の中では今のところ、最大のね。だから、私は全力でキミに挑む。あらゆる手段を尽くして抗って見せる。手負いだろうと何だろうと容赦はしないし、油断もしない。くふふ、あんまり私を舐めてる様だと、そのまま噛み殺しちゃうよ?」

「ふっ、耳が痛いな。確かに侮りが過ぎた様です。所詮は未熟な仔ウサギだと甘く見ていたが、既に牙は生え揃っていたと云う事か。良いでしょう――ならば、此処からは狩りではなく、対等な決闘。そう心得なさい、明智音子!」

 轟!と唸りを上げて、闘氣の風が巻き起こる。張り詰める空気が肌を刺し、身に伸し掛かる重圧が一気に勢力を増した。マルギッテの気迫には些かの衰えもなく、傷を負って尚、戦意は昂ぶるばかりだ。加えて、こちらを見据える紅の双眸からは、決闘開始当初の驕りと油断の色が消え失せている。文字通り、油断も隙もありはしない。こんな凶悪極まりない猛獣を相手にしなければならないとは、本当に貧乏籤もいい所だ。小さく溜息を吐いて、総ての神経を研ぎ澄ましつつ、私は慎重に構えを取る。

 私の見立てでは、先の一撃でマルギッテの被ったダメージはかなり大きい。あれほど深く爪先が臓腑に突き刺さった以上、そうそう長く全力で闘い続ける事は出来ないだろう。そしてそれは、他ならぬ私も同様だ。三分間に渡る回避行動と先程の奇襲によって、私の体力は底を尽き掛けている。猟犬に通用するレベルでのスピードを発揮出来る時間は限られていた。

 故に――どう転んでも、決着の時は近い。

 これより繰り広げられる交錯にて勝利を掴んだ方だけが、自身のパートナーの加勢に赴ける。それは、タッグマッチにおける実質上の決着を意味していた。二人を同時に相手取れるほど、両タッグの個人能力に決定的な格差は無いのだから。つまるところ、ここが私達にとっての踏ん張り所と言うワケだ。

 呼吸を整え、心身を充たす気力が全細胞を巡る感覚に浸る。そして、

「あ、一つ言い忘れてたよ。私はね、忠犬でも猟犬でもシェパードでもマルチーズでも、とにかく“犬”って生き物が大大大ッキライなんだ。見かけたら問答無用で蹴っ飛ばしてやりたくなるくらいにね。そういう訳だから――精々覚悟を決めなよ、軍人さん!」

 自身を奮い立たせる叫びと共に、両手の鉤爪を閃かせる。グラウンドの砂を蹴り上げて駆け出すべく、脚の筋肉に氣を巡らせる。

 
 そして、

 
 私達は――“それ”に気付いた。












 
 その瞬間、“何が起きた”のか、クリスには理解出来なかった。

 過程を認識する事無く、結果だけが動かせない現実としてその場に残る。

―――気付けば、レイピアの刃が、衝撃と共に半ばからへし折れていた。

 天高く弾き飛ばされた白刃が空中でくるくると回転し、数秒の滞空を経てグラウンドに突き刺さる。

 …………。

 ……何だ?何が起きた?
 
 決闘の最中、蘭が突如として鞘に太刀を収めた――その場面までは認識出来ていた。だが、それがどうして、この現状に繋がると云うのか。一瞬の内に間合いを詰められ、武器を破壊された。恐らくはそうなのだろう。しかし、問題は方法だ。一体いかなる魔技を以ってすれば、そんな芸当が可能になる?

「関係ない。関係ない関係ない、考えなくていい、だって私は、私は」

 混乱の渦中にあったクリスの意識を、不可解な呟きが現実に引き戻した。

 手を伸ばせば届く至近距離に、蘭は立っていた。抜き身の刃を手に携え、虚ろな眼を彼方へ向けながら、ぶつぶつと不明瞭な声音を漏らしている。一見して隙だらけなその姿を前に、反射的にクリスの身体が動きそうになったが――蘭の放つ得体の知れない空気が、突貫を押し留めた。今の彼女へと手を出す事が何を意味するのか、無意識の内に本能が警告を発していたのかもしれない。

 何にせよ、こうして武器を失ってしまった以上、戦闘の続行は難しいだろう。相手の太刀は健在で、対するクリスは無手だ。両者の力量によほどの差が無い限り、勝敗は既に決していると判断すべき状況。

 決着の過程を知る事すら出来なかったのは悔しいし釈然としないが、それは自分が未熟だったからなのだろう。潔く己の敗北を認められるか否かで、武人としての器は試される。無念を心の奥に押し込んで、素直な賞賛の言葉を吐こうと口を開き掛けた瞬間。

 クリスは、その異変に気付いた。


「――さないと」


 ゆらり、と。蘭の視線が、首ごとクリスに向き直った。

 手には刃。未だ鞘に収められない白刃は、いつしか深淵の漆黒に彩られ。

 空虚だった双眸には、溢れ出るほどの“殺意”が充たされていた。


「え?」

 
 そして、

 少女の姿を象った化生が、

 唇より狂気を吐き出す。


「――殺さないと。殺さないと殺さないと殺す殺さなきゃ。殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ――――」



[13860] 鬼哭の剣、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:720494a8
Date: 2012/02/26 21:38
「殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ――」


 おぞましい狂気に満ちた呪詛が、蹂躙するように頭蓋の内側を犯し尽くす。

 眼前に立つ“それ”を形容するのに、いかなる言葉を選ぶべきなのか、クリスには判らない。

 だが――その存在の意味は。かの化生が自身に何をもたらす存在であるのか、クリスは違う所なく理解していた。理屈でもなく、経験でもなく、遺伝子に刻み込まれた生存本能が、過去最大の音量を以って警告を発しているが故に。

 不意に、譫言の如き呪詛が途切れた。それは異変の終わりではなく、真なる始まりを告げる合図。

 少女の唇が、異様な程の静かさで、どこまでも無情な言葉を紡いだ。

「わたしのために、死んでください」

 躊躇いなど何処にも見受けられない、あたかもそうする事こそが自然であるかのような気軽さで、闇色の太刀が振り上げられた。クリスはその現実感の伴わない光景を、茫然と見上げる。あの刃がこれより振り下ろされるであろう対象は、自分。それはつまり――何を、意味する?

 死。

 答はあまりにも単純明快。そう、疑い様もなく、誤魔化し様もない。死だ。

 学生同士の決闘である以上、当然ながら用いられる得物は殺傷性を排したレプリカではあるが――そんな事実は何の慰めにもならない。禍々しい黒の“氣”で余すところなくコーティングを施された刃の切れ味は、まず間違いなく生半可な真剣の其れよりも遥かに鋭利で、無慈悲だった。一度振るわれれば、いとも容易く肉を切り裂き、骨を断ち切り、命を斬り捨てるだろう。そして、その告死の刃を受け止める為の剣は、既にクリスの手元にはない。

「ぁ――」

 掠れた声が漏れ出る。身体は動かない。未だに現実感も恐怖心も湧き起こっては来ないが――眼前に在る“死”に呑まれ、あらゆる感覚が麻痺していた。脳天から肉体を断割され、臓器を零しながら血の噴水と化す己の姿を幻視する。その映像は夢幻ではなく、現実として数瞬後に訪れるであろう未来。

 其れを証明するかのように、少女の頭上にて黒刃が閃き。

 そして――


「お嬢様ッ!!」


 紅の守護者が、非情な死の運命を打ち払った。








 私とマルギッテが“それ”に気付いたのは、怖気が走るような尋常ならざる狂気が決闘場を覆い尽くした時だった。その発生源は、もう一つの戦場。クリスティアーネ・フリードリヒと森谷蘭が刃を交わしている筈の地点。否応無く肌を粟立たせる殺気が私達の元に届いた瞬間――マルギッテは驚くべき迅速さを以って動き始めていた。眼前の敵手である私にはもはや目もくれず、守るべき少女の下へと全速力で疾駆する。死の飛び交う戦場で培った直感が彼女に教えたのかもしれない。もはや一刻の猶予もならない、と。

 そしてその選択は、紛れもなく正解だった。マルギッテが数歩を駆けた時点で、殺意の源は――蘭は、刃を振り上げていた。武器を失い、抵抗の術を失ったクリスに向けて、欠片の躊躇もなく。その剣は、決闘に終止符を打つ事を目的にはしていない。ただ只管に眼前の少女の命脈を断ち切る為だけに、今の蘭は動いている。私にはそれが判った。マルギッテも私と同様に、いや、私以上に事態の深刻さを理解していた筈だ。鬼気迫る表情で地を蹴る彼女の姿は、焦燥と、何より喪失への恐怖に満ちていた。

「お嬢様ッ!!」

 だからこそ――彼女は間に合ったのだろう。意志は時に、限界を超えて人の潜在能力を引き出す。必死の叫びと共に地を蹴ったマルギッテは、間一髪のタイミングで凶刃の軌跡に割り込む事に成功した。上段から真っ向に振り下ろされた黒の大太刀が、標的を庇う様に立ち塞がった旋棍と衝突し、烈しく火花を散らす。顔の上でクロスさせたトンファーは落雷の如き刃を受け止め、その暴威を押し留めていた。

「マルさん!」

 恐らくは姉貴分に寄せる強固な信頼の念から、クリスの顔が安堵に彩られた。世界に名を轟かせる猟犬の護りは、誰であれ易々と突破できるものではない。故に彼女が駆け付けたからには、もはや危険はない――そのような思考が面に出ており、強張った全身から緊張の色が抜け落ちる様子が見て取れた。

 だが。

 クリスの目には、自らを護るべく敢然と馳せ参じたマルギッテの背中はこの上なく頼もしい守護騎士のそれとして映ったのだろうが――私の立ち居地からは、彼女の顔が見えていた。苦渋に歪み、強烈に歯を食い縛って堪えている、余裕とは掛け離れた必死の形相。

「ぐ、ぅぅ――!」

 その所以は一目瞭然だった。彼女の足元に目を向ければ、そこでは軍靴の踵が地面に深々とめり込み、じりじりと砂を抉り続けている。頭上にて刃を押し留めている両腕は震え、徐々にその高度を下げ始めている。それは、マルギッテ・エーベルバッハの膂力を以ってしても、斬撃の重圧を抑え切れていない証拠だった。先程までの闘いを通じてその膂力の凄まじさを身を以って体感してきただけに、眼前の光景がいかに異常なものであるか良く分かる。

 ご主人の口から語られた情報や、私自身が目撃した場面から、森谷蘭という少女が驚異的な潜在能力を有している事は把握していた。理性を代償に“暴走”という形で自身の能力を引き出し、戦力として運用してきた事も。だが現在の彼女はどう見ても、それとは様子が異なっている。普段の暴走時のように全身から膨大な氣を垂れ流しておらず、そして何より眼に湛える狂気の質がまるで違っていた。嵐の如き荒々しさなど欠片も見受けられない、凪いだ海面にも似た平静さ。それでいて刃に込められた殺意はかつてない程に鋭利で、肉体の内側を巡る氣の量は暴走時の比ではない。端的に言えば、今の蘭は自身の潜在能力を引き出した上で、振り回される事無く制御下に置いているのだ。故に氣の運用に常のような無駄がない。凝縮された殺意と氣が絡まり合った結果、どれほどのパワーを生み出すのか――それは、マルギッテの窮状が雄弁に物語っていた。

 ましてや現在の彼女は私との決闘で少なからずダメージを被っている状態だ。このまま真正面から怪物級の膂力と針張っていては、いかな彼女でも力尽くで押し切られ、叩き斬られる他に未来はないだろう。そんな想像したくもない事態を未然に防ぐべく、私が動こうとした時だった。

「――らあぁぁぁぁああああッ!!」

 獣の雄叫びにも似た気合と共に、マルギッテの纏う闘氣が更に跳ね上がる。恐らくは残された力の総てを振り絞っているのだろう。最大限に強化された彼女の膂力は瞬間的に蘭のそれと拮抗し――凌駕した。乾いた音響と共に黒の太刀が撥ね退けられ、その勢いで蘭の身体は数歩分ほど後ろに押し遣られる。マルギッテは荒い呼吸を吐きながら蘭を睨み据え、背後の護衛対象へと鋭い言葉を投げ掛けた。

「お嬢様っ!今の内に退避を――、っ!?」

 しかし、最後まで言葉を紡ぐ時間は与えられなかった。休む暇すらなく眼前に迫る殺意の刃に、マルギッテの顔が強張る。後退させられた数歩の距離を文字通りの一瞬で詰めて、蘭は無言のままに再び太刀を振り翳していた。常軌を逸した瞬速の踏み込みから振るわれるのは、右薙の一閃。尤も、あくまで姿勢から斬撃の種類を判断しただけで、私の眼では太刀筋を目で追う事すら不可能だった。それほどに、迅い。

「くっ!」

 だからこそ、苦しげに顔を歪めながらもそれを見事に受け止めて見せたマルギッテの技量は流石だと云えるが――そこが、限界。一撃目を凌ぐ為に余力を使い果たした彼女に、先程と同等以上の剣速を有する蘭の二撃目を抑え切れる道理はなかった。全身を支えていた両足が地面を離れると同時に、マルギッテは斬撃に引っ張られるような形で左方向へと吹き飛ばされる。彼女の身体は数瞬の滞空を経て地面に叩き付けられ、更に砂塵を巻き上げながら十数メートルもの距離を凄まじい速度でバウンドしながら転がって、ようやく止まった。

「…………」

 そして、自身が排除したマルギッテの方には目もくれず、蘭は狂気に爛々と光る目をクリスへと向ける。二人の間を隔てる障害はもはや存在しない。彼方へと弾き飛ばされたマルギッテは既によろめきながら立ち上がっていたが、しかし間に合わない。再び二人の間に立ち塞がるには距離が離れ過ぎていた。このまま蘭の凶行を阻む者が現れなければ、川神学園第一グラウンドの中央にて真昼の惨劇が幕を開けかねない状況だった。

 という訳で――ここは、私の出番だろう。蘭がクリスとの距離を詰めてしまう前に、私は速やかに彼女達の間に割って入った。

「ストップ、そこまでだよランッ!」

 そう、これ以上は駄目だ。殺人と云う粗暴な行為に対して私が少なからず忌避感を抱いているのは確かだが、時と場合によっては制止する気もなかった。必要とあらば、躊躇い無く自らの手でそれを実行する心構えすらある。しかし、今はその時でも場合でもなければ必要でもない。むしろ行為に及ぶタイミングとしては、凡そ考え得る限り最悪の部類だ。何せこの場には、日本の国家権力などよりも遥かに恐ろしい者達が居合わせているのだから。本来ならば一度でも“殺しに掛かった”時点でアウトと判断すべきだが――“彼ら”が実力行使に出ていない今ならばまだ、総合的な被害は最小限に食い止められる。「主を侮辱された」「決闘の空気に中てられて頭に血が昇った」――そうした言い訳で、辛うじて体裁を取り繕う事は可能だ。幸いにして未だ死者は不在で、誰も怪我すら負ってはいない。この時点で私が蘭を抑えられさえすれば、後は私とご主人の手でいかようにでも事態を収束させられる筈だ。

 一瞬だけ視線を蘭から逸らし、決闘場を囲むギャラリーを素早く観察する。案の定、彼らは蘭が見せた突然の変貌とその凶行を前に、蜂の巣を突いたかの如く騒然となっていた。そして、不安と恐怖と好奇心の入り混じった目をこちらへ向ける群衆の中に混在する、強烈な闘氣。アレを行使させてはいけない。その行為は――間違いなく、災禍を呼び寄せるだろう。現状確認を終えると同時に、私は思考を纏めた。この場において私が何を為すべきなのか、目標の設定も完了した。ならば此処からは、最善の未来を手中に収める為に精一杯足掻くだけだ。

 私は唾を呑み、緊張でカラカラに乾いた喉を潤してから、可能な限り軽い調子を心掛けて声を上げる。

「いや、ランがイライラするのはホント良く分かるけどさ。今回はちょっとはっちゃけ過ぎだね。あんまり私を脅かさないで欲しいだけどなぁ。心臓に悪いよ全く」

「…………」

 最初に私の制止の言葉が掛けられてから、蘭は身動きを止めていた。数歩分の距離にて立ち止まり、刃を片手に提げながら、じっと私を見詰めている。何を考えているのかは判らない。彼女の瞳はやはり空虚で、寒気が走るほど人間味に欠けている。その姿は、従者仲間として、家族として、日常を共に過ごしている私ですらも……いや、普段の彼女の温和さと感情の豊かさを知る私だからこそ、その変貌は拭い難い恐怖を心に植え付けるものだった。大丈夫だ、今の蘭の瞳からは、少なくともあの凶悪な“殺意”は消失している――思わず怯みそうになる心を叱咤し、震えそうになる体を抑え付けて、私は言葉を続けた。

「ほらほら、冷静に状況を俯瞰してみなよ、ラン。一人は武器を吹っ飛ばされて戦闘続行は不可能だし、もう一人だって私のお手柄で手負いなんだ。今の猟犬さんなら、二人掛かりで叩けば封殺できる。要するに、この闘いはもう勝利を掴んだも同然なのさ。わざわざ追い討ち掛けて反則負けなんてオチは誰も望んじゃいないよ。そんな勿体無いお化けが出そうな真似されちゃ、明智音子一世一代の頑張りの意味だって跡形もなく消し飛んじゃうじゃないか。私的にそれはちょぉーっと我慢ならないね」

「…………」

 どうにか取り繕った饒舌さで語り掛ける私の声に対して、蘭はあくまでも無反応だった。視線は何処ともつかぬ虚空を彷徨っており、青褪めた顔に生気が宿る事はない。私の声が明確な意味を成して耳に届いているのかどうか、それすらも外観からは判別出来なかった。このまま動かずにいてくれるなら助かるのだが、手に携えた刃を鞘に収める気配もない以上、間違っても安心など出来る筈もない。

 ……。

 ……やはり蘭の意識に働き掛けるには、その忠誠心に訴え掛けるのが一番か。

 私は頭の中で即座に意に沿った文言を組み立て、言葉を紡ぎ出すべく唇舌を動かした。

「大体さ、ランがあのお嬢様を真っ二つにする事なんて、“ご主人は望んじゃいない”よ。むしろ大迷惑を被るだけなんじゃないかな?学園にいられなくなっちゃうし、ドイツ軍の皆さんから徹底的に追われる羽目になっちゃうし。まさしく百害あって一利ナシって奴さ。ランの気は晴れるかもしれないけど、さすがにメリットとデメリットで天秤が吊り合わないってば。ランが本当に“ご主人の忠臣”だって言うならさ、私情に囚われずにちゃんと広い視野で物事を――」

「――――い」

 僅かに。至近距離で注視していた私でなければ気付かない程に小さく、蘭の唇が動いた。反射的に口を閉ざし、息を呑みながら言葉の続きを待つ。

 そして――直後、蘭の瞳に宿った色を正面から直視した瞬間、私は悟った。

「やめてください」
 
 自分の失敗を。

 森谷蘭という少女が抱える闇の、底知れない深さを。

「――主を語らないでください、知ったような口を利かないでくださいッ!主は、主を、信長さまを、誰よりも私が主のことを知っているんです。私が、私が私が私だけが!私だけが信長さまの、主と一緒に!いつまでもお傍に、私が、ああああイヤ、嫌、嫌イヤ嫌です、そんなのは、そんなのは――盗らないで、これ以上奪わないで奪わないで奪わないで主を奪わないで、ダメ、駄目、殺さなきゃ、嗚呼、殺さなきゃ殺さなきゃ、だって――殺さなきゃダメなんですから私は殺さなきゃ、奪われる前に、奪わなきゃ。だから、だからだからだからッ!」

 一瞬にして、銀の刀身が黒に染め上げられた。汚濁の黒。狂気と殺意と憎悪と悲哀と――恐怖の色が入り混じった、光射さぬ深淵の色彩。

『蘭の奴は、魔物を飼っている。この世の誰にも祓えない、最悪のバケモノだ』

 かつてご主人が漏らした言葉の意味を、私は正しく理解出来ていなかったのかもしれない。体験の伴わない知識からは、真の危機感は生じ得ない故に。ならば、この結末は、私への報いなのか。

 躊躇いもなく、慈悲もなく。只、禍々しい殺意が黒刃を象って、天へと翳された。

「――“敵”はみんな、殺さなきゃ」

 降り掛かる死の運命から、私が自力で逃れる術は無い。回避も防御も、間に合わない。私の言葉では、蘭の魔物を律する事は出来ない。無力感が精神を支配し、意志を挫く。

――ごめん、ご主人。私は、パーフェクトな従者にはなれなかったみたいだ。

 諦観と絶望を込めて心中で呟いた瞬間、

 蘭は、踏み潰された・・・・・・









 いつか噂に聞いた事があった。曰く、武神・川神鉄心の誇る奥義の内実は、“神を降ろす”ものだ、と。

 それだけを抜き出して聞けば、何を馬鹿なと笑い飛ばすのが正常な人間の反応だろう。だが、その形容は端的ながらもこれ以上なく的確に特徴を捉えていると云える。

 今になって、俺はその事実を納得の念と共に受け入れていた。

「顕現の参――“毘沙門天”ッ!!」

 それはまさに、神の似姿だった。清浄なる蒼の闘氣によって織り成されるは、十二天の一尊。雄々しき威容に見惚れる暇すらなく、全ては始まり、終わっていた。天を衝くかの如き巨体にて現世に顕現した軍神の御足が、振り翳した凶刃ごと、その担い手を叩き潰した。あたかも赦されざる罪人へと裁きの鉄槌を下すかのように。大地を震撼させる途轍もない衝撃と、俄かに巻き上がる砂塵の量が、その一撃に内包された威力の凄まじさを物語っていた。

「……」

 爆発的に膨れ上がった川神鉄心の氣が毘沙門天の似姿を形作り、その力を以って地を穿つ。その間に経過した時間は、比喩表現でも何でもなく、文字通りの“一瞬”だった。武人としては凡俗の域を出ない俺の目には、あらゆる動作が全くの同時に行われたようにしか映らない。一連の動作にしても、眼前に在る結果から遡って過程を想像しただけの事だ。かつて武の頂に立った男の業の全てを、俺如きが窺い知れる道理はない。ましてや――其れを制止し、阻害する事など、幾ら望んでも不可能だった。

 だが、それでも。

 例え不可能だと判っていても、俺は、止めなければならなかった。

 誰もが不幸へと転がり堕ちるであろう“この事態”だけは、何としても避けなければならなかったと云うのに。

「おおお、何したのか分かんねーけどすっげぇ!さすがは川神院のトップだぜ。何にせよ、これでもう安心だな」

「やれやれね。いきなり斬り掛かるんだもん、びっくりして心臓止まるかと思ったわ」

「なぁ、あれ絶対殺る気満々だったよな……?やっぱヤベェ奴だったのかよ。学長が止めなきゃどうなってたのやら」

 眼前で繰り広げられた一連の騒動に対し、ギャラリーの反応はあくまで呑気なものだった。周囲を取り巻く彼らの大半は、刺激的なショーを間近で見物出来た、と云った程度の認識しか抱いていないのだろう。興奮と好奇の色に染まった生徒達の声音が好き勝手に飛び交い、グラウンドを喧騒で充たしていく。もはや危険をもたらす存在は取り除かれたのだから、何も心配する事はない――そんな安堵感に裏打ちされた陽気さが急速に広まりつつあった。彼らの意識の中においては、事態は既に収束していた。

 それが絶対的な誤りである事実に気付いている人間が、少なくとも三人、この場には居る。

 一人は、俺。もう一人は、ねね。そして最後の一人は――川神鉄心だ。

 かの老翁は奥義を放ち終えた直後から今に至るまで、一瞬たりとも峻烈な闘氣を収めてはいなかった。鋭い眼差しは依然として奥義の着弾地点へと向けられ、視界を遮るように舞い上がった砂塵の奥を見据えている。果たして彼が何を感じ取ったのかは判らない。が、間違いなく言える事があるとすれば……その警戒は、紛れもない正解だと云う事だ。

 何故ならば、未だ。何も、何一つとして終わってなどいないのだから。

――学園に居る全ての人間がそれを思い知らされる事になったのは、次の瞬間だった。


「嗚呼嗚呼ああああアアアアアアアアアアアアアぁぁぁァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああ亜アアアアアアアあぁぁあぁあアアアアアアアアアアアアアアアああぁぁァアアアアぁアアアアアアアアアア嗚呼アアアアアアアアあああああああアアアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼嗚呼ああああアアアアアアアアァァァアアアアアア嗚呼アアアアぁアアアアあアアアアアアアアアあああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああアアアアアアアアアああアアアアアアアアアあアアアアアアアアアああああアアアアアアアアアあアアアアアアアアアああああああああぁあああああああああああああああぁああ嗚呼アアアアアアアアアッ―――!!」


 長い、長い絶叫が轟く。

 脳髄を犯す様な狂気を載せて、彼方へと響き渡る。

 その声音は――何かが、致命的に壊れていた。狂気じみている、などという生易しいものではない。これは既に、狂気“そのもの”だ。ただ聴いているだけで正気を奪われかねない、呪怨に充ちた亡者の悲鳴。そんな破滅的な音響によって、群集の織り成す喧騒は一瞬の内に沈黙に取って代わられた。あらゆる歓談の声は掻き消され、墓場のような冷たい静寂が降りる。皆が恐怖に眼を見開き、おぞましい叫びの発生源へと視線を集める。

 グラウンドの中心を覆っていた砂塵は既に消失していた。晴れた視界に否応なく映り込むのは、森谷蘭の姿形を象った“何か”。ソレは、川神鉄心の奥義によって擂鉢上に抉れた地面の中心に佇んでいた。その足元には粉々に砕け散った模造刀の破片が散乱している。手に握っていた得物の壊滅的な様相から判断して、本人もまた確実に奥義の直撃を受けた筈であるにも関わらず――ソレは、平然と立ち上がっている。武の極地に辿り着いた怪物の、至高の一撃に耐え得る存在とは、果たして何であるのか。

 ……だが。或いは、当然と云うべきなのかもしれない。妄執と狂気に身を委ねた化生に対して、殺意なき攻撃など意味を為さない。仮に四肢の全てを捥いだ所で、息吹と鼓動が永久に停止しない限り、鋭利な犬歯を以って首筋を噛み千切りに来るだろう。アレは、そういう存在だ。精神も肉体も、総ての要素が“殺す”為だけに集約された在り方。森谷の妄執と業が産み落とした呪い子は、産声にも似た咆哮に載せて、狂った殺意を撒き散らす。

 大気を振るわせる声音だけではなく、その容姿もまた、今や悪鬼同然だった。命の終焉を否応なく予感させる、死臭に満ちた穢れが総身に絡み付いている。膨れ上がった殺意はもはや肉体と云う器に留め得る規模を超越し、内より溢れ出した漆黒の邪気が汚泥の如く外界を汚染する。肌を粟立てる凶悪な冷気と、絶望的な威圧感。それは――“織田信長”が身に纏う殺気と、何処までも似通っている。

 …………。

 ……否、そうではない。そのような形容は、正確とは云えない。

 何故ならば、あのおぞましい化生こそが……俺にとっての“オリジナル”なのだから。

 織田信長の殺気は、紛い物だ。武神の目を欺ける程の精巧さにて偽造されたイミテーション。

――すなわち、森谷蘭の。その身に棲まう魔物を模倣した結果として編み出された、模造品に過ぎない。

 かつてこの眼と肉体と脳髄に刻み付まれた最凶最悪の“殺気”を再現する事で、俺の威圧術はこの領域まで到達したのだ。

 そう。

 俺は、コレを知っている。狂気に身を浸すのではなく――狂気そのものと成り果てた森谷蘭の姿を、俺は過去に見知っている。忘れ得ぬ悔恨と共に、脳裏に焼き付けられている。

 だからこそ、俺は止めなければならなかった。武力と云う名の暴力による抑圧が、蘭の獣を呼び覚ますトリガーと成り得る事実を誰よりも承知している俺は、いかなる無理を推してでも、川神鉄心の行為を制止しなければならなかった。それを成し得なかった結果が、眼前の悪夢。森谷蘭は“敵”を屠る一振りの凶刃へと変じ、血に飢えた狂乱の咆哮を天地に轟かせている。目には理性も感情もない。只殺気と狂気と鬼気を以って万物を斬り捨てる、地獄の悪鬼が其処に居た。忠実なる従者の変わり果てた姿を、俺は茫然と見詰める。

 俺は。蘭は。また、繰り返すのか。

 血塗れの因縁と呪縛からは、決して逃れられないとでも言うのか。積み上げてきた努力も、乗り越えてきた苦難も、支え合って生きてきた歳月すらも。何の意味も為さず、俺達の全てが呆気なく無に帰す。あの忌々しい呪いの所為で、断ち切られて終わる。それが、そんなモノが、俺達に用意された結末だと?

――認められる、筈がない。

 胸の奥から込み上げた想いは、煮え滾るような怒りだった。

 心中にて荒れ狂う激情を抑える術は無い。灼熱に染まる思考が、身体を突き動かす。

 険しい表情で油断なく様子を窺っている川神鉄心よりも、自失の態で地面に座り込んでいる明智音子よりも、距離を置いて呆然と蘭を見遣るクリスとマルギッテよりも早く。この場に居合わせた何者よりも先んじて、俺は動いた。

 殺意の渦巻く決闘場へと踏み込み、冷え切った空気を限界まで肺に取り込んで――


「蘭ッ!!!」


 万感の思いを込めて、その名を呼んだ。

 グラウンドの隅々まで響き渡る大音声は、木霊する悪魔の絶叫を掻き消し――その根源へと到達する。

 途端、胸を掻き乱す狂乱の叫びが、ふつり、と止んだ。青褪めた顔がこちらを向き、殺意の消え失せた双眸が俺を捉える。

 そして――“蘭”が、大きく目を見開き。

 恐る恐る、囁くように。しかし聴き間違えようのない鮮明さを以って、“俺”の名を、呼んだ。



「――――シン、ちゃん?」

























――――それから。俺は此処へ、帰って来た。

『これでついに信長さまも一城のあるじでございますね!蘭は、蘭は感動で心が打ち震えておりますっ!』

 織田信長とその従者が、血塗れの闘いの末に辿り着いた安息の地。今にも倒壊しそうなボロアパートの全体像を入口から眺めながら、不意に蘇った当時の情景を懐かしむ。数秒を経てから、俺は門の外側で塀に凭れ掛かって待機していた小柄な少女に視線を向けた。ねねは壁から背を離し、無言のまま俺の方に向き直る。物言いたげな眼でこちらをじっと見詰める視線を黙殺して、俺は言葉少なに問い掛けた。

「進展はあったか?ネコ」

「……ん。さっき例のメイドさんから伝令が来たよ。部隊の召集が完了したから、いつでも展開出来るってさ」

「ふむ。流石に世界に名高き従者部隊、と言った所だな。随分と対応が早い」

 それは大いに結構な事だが、しかし状況が状況だ。外部の人間に頼り切る訳にもいかない。俺の方でも可能な限りの根回しは済ませたし、打てるだけの手は既に打ち終えた。ならば、後は一刻一秒でも早く行動へと移らなければならないだろう。“狩人”は、何時までも悠長に待ってくれるほど生温くはない。

 足早に歩を進めようとした瞬間、不意に強い抵抗を感じた。手を引っ張られている、と気付いたのは一瞬の後。振り返れば案の定、ねねが後ろから腕を伸ばし、俺の右手を握り締めていた。理由を俺が問い掛けるよりも先に、ねねの唇が動く。

「ねぇご主人。私は何処までだって付いていくよ。例え何があっても、私はご主人から離れない。一緒に地獄に堕ちてあげたっていい」

「……」

「ご主人が望むなら、私はもっともっと強くなって理想の従者になってあげる。だから、だからさ――」

 俺は無言でねねの頭に手を載せて、その先に続くであろう言葉を遮った。不安に身を震わせ、今にも泣き出しそうな表情で自身を見上げている少女に、掛けるべき言葉が見つからなかった。今の俺が口を開けば、どう取り繕っても嘘になる。賢い嘘吐きのねねに対して、苦し紛れの虚言が通じる筈もないだろう。然様に愚鈍でないからこそ、彼女はこうして苦悩しているのだから。

 優しい嘘で誤魔化せないなら、残酷な現実と向き合う他に道はない。結局、俺は何も言わなかった。黙したまま幾度か頭を撫でてから、そっと握られた手を解く。抵抗は無かった。柔らかな掌の温もりが離れると、俺はそのまま顧みる事無く歩を進めた。

 出迎えはない。そもそもにして、このアパートには久しく俺達以外の住人が居ないのだから当然だ。織田信長の根城に生者の気配は無く、シンと完全に静まり返っている。僅かな寂寞の念を抱きながら門を潜り、敷地内へと足を踏み入れる。門と建物の間に広がる狭い中庭は、織田主従の鍛錬場だ。威圧術のトレーニングに励む俺の隣で、蘭は来る日も来る日も一心不乱に剣を振っていた。全ては己が武を以って主君の身を守護する為に。森谷蘭という少女は、一切の努力を厭わなかった。

『信長さまっ!蘭は必ずや、天下無双の勇名を轟かせ、主に相応しき従者となってご覧に入れます!』

「……」

 ほんの少しだけ足を止めてから、俺は中庭を横切った。喧しく軋みを上げる階段を慎重に昇り、俺が目指すのは蘭の部屋。当然のように施錠されていたが、本人から預かっている合鍵を用いて解錠。磨き上げられたドアノブを回し、扉を開く。

 蘭の部屋の内装は、几帳面で潔癖症な住人の性格を反映して、完璧なまでに整理整頓が行き届いていた。とは言え部屋の雰囲気は無機質な冷たさとは無縁で、其処かしこに見受けられる家事の痕跡が、生活感に溢れた家庭的な温かさを醸し出している。きっちりと折り畳まれた三人分の洗濯物が視界に入った。

『えへへ、偉大なあるじのお世話をさせて頂けるなんて、蘭は天下一の果報者でございますっ』

「……」

 軽く頭を振って幻像を払い、部屋の奥へと向かう。

 目的の代物は、ベッドの脇に在った。壁際に設置された刀掛け台の上に鎮座しているのは、鮮やかな朱鞘に収められた一振りの日本刀。持ち主によって入念な手入れが為され、埃一つ積もっていないそれを手に取り、鞘ごと台から持ち上げる。

 重い。

 外観の華美さからは想像出来ない、両腕に伸し掛かるこの重みこそ、“真剣”の証なのだろう。命を断ち切る、ただその為に造り出された殺しの道具。刀が武士の魂だと云うならば、この重さは当然だ。二尺五寸の刃が肉を断ち、骨を断つ。血を散らせ、命を散らす。其れを確りと受け止めなければ、真剣を手に握る資格はない。

「――蘭」

 独り、その名を呟く。返事はない。常に織田信長の三歩後ろに控える忠臣で、いつでも俺の傍から離れなかった人懐っこい幼馴染。人生の半分以上の時間を共に過ごしたパートナーは、何処にも居ない。住人の居ない部屋の冷徹な静けさが、その事実を改めて実感させてくれる。そして何より――いかなる言葉よりも雄弁に、俺の覚悟を後押ししてくれる。

 森谷蘭を巡る因果は、もはや俺とあいつの二人だけでは完結し得ない。この川神の地を舞台に、幾多の思惑が動き出そうとしている。皆が各々の信念を動機とし、目的を理由として、意志に従い刃を振るうのだろう。意志と刃が交錯する先に在るものは只一つ。それはもはや留め得ない流れだ。しかし――

「他の、誰でもない。俺だ。俺が、必ず」

 胸の高さに刀を掲げ、一息に抜き放った。朱鞘から解き放たれた銀色の刃が、薄暗がりの中で鈍い煌きを放つ。

 それは誓約。決然たる意志を以って、胸中に渦巻く惑いを斬り捨てる為の儀式。

「――俺が必ず、始末を付ける」

 静かな誓いの言葉を聞き届けるのは、非情の白刃のみ。

 鏡の如き刀身の中から、鬼気に満ちた双眸が俺を見返していた。




 さあ、血戦を始めよう。

 
 そして――この呪われた因縁に、相応しき決着を。


 












 
 




 今回は普段と較べてやけに短いですが、話の区切りを考えての事ですのでご勘弁を。
 話の内容的に色々と説明不足な部分は、恐らく次回以降に補足が入るかと思われます。つまり現時点で「ワケが分からないよ」という感想の方は至って正常です。ご安心ください。それでは、次回の更新で。



[13860] 愚者と魔物と狩人と、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:0552110a
Date: 2012/03/04 12:02

 川神学園、第二茶道室。

 流石に文武両道を掲げる川神学園だけあって基本的な室内設備は整っているが、茶道部の部員数の関係で現在は使用されておらず、実質上の空き教室と化している。つまりは特に厳重な管理が為されていないため、出入りに鍵の類は不要だ。まあ勿論のこと学内設備の一部である以上、空き教室とはいえ確り施錠はされているのだが――あろうことか2-Sのヒゲ教師こと宇佐美巨人が教室を私物化し、憩いの場として頻繁に利用している事が原因で、扉が開放されている状態は珍しくない。だからこそ俺は、未だ放課後でもない授業時間の最中に、こうして室内への侵入を果たせたのであった。

 床に敷かれた草色の畳に座し、将棋盤と向かい合う。どうにも茶道室というロケーションに対して場違いな感が否めないこの代物は、ほぼ間違いなく巨人のオッサンが持ち込んだ私物なのだろう。だらける事に関しては他の追随を許さないあの中年オヤジは、学園という聖域においてもその怠惰さを自重する気は皆無らしい。自分達の担任がご覧の有様であると云う事態は実に嘆かわしいが、まあ所有物たる将棋盤に罪は無い。ここは是非とも有効活用させて貰うべきだ、などと取り留めの無い思考を巡らせながら、俺は駒を動かした。

 盤の向こうに指し手は居ない。詰将棋だ。最善手を模索し、一手のミスもない完璧な道筋を見出す作業は、思考能力を養う鍛錬の一環となる。そして当然の如く、鍛錬である以上は真剣に取り組まなければ意味が無い。盤上の戦局へとあらゆる集中力を注ぎ込む事が出来ないのなら、最初から畳に転がって寝ていた方がまだ幾らかマシというものだ。

「寝るか……」

 と言う訳で、どうにも先程から集中に欠けている残念な俺はその通りにした。すなわち指先の歩兵を適当に盤上へと投げ出し、同時に床へ向けて身体を投げ出す。そして拒絶するかの如き畳の固い感触に独り顔をしかめ、即座に身を起こす羽目になった。なるほど、茶道室は茶道に励む場であって、断じて昼寝に勤しむ場ではない。幾ら注意力が散漫になっていても不貞寝に逃げる事は許されないようだ。俺は再び将棋盤の前に座り、しかし盤上に視線を向ける事はせず、黙して瞼を閉した。

「……」

 静かだ。駒が盤を叩く素朴な音色が止むと、俄かに室内は厳粛な静寂に包まれた。誰の声音も聞こえない。遠くグラウンドから伝わる喧騒だけが、言葉としての意味を為さない雑音として微かに響くだけだ。現在は授業時間の真っ最中であるため、校舎内で賑やかに談笑する生徒達の姿は見受けられない。そしてこの第二茶道室は授業に使用する各教室とは少し離れているので、教鞭を振るう先生方の有難い声も届かない。本当に、静かだ。同じ敷地内に千を超える人間が存在しているなどとは到底思えない程に。此処には俺しかいない。俺の思考を煩わせるものは何一つとして存在しない。

――成程、これは確かに穴場だ。巨人のオッサン、目敏さを無駄に活かしてやがる。

 ちなみにこの場所についての情報は、我が第二の従者、明智ねね個人の有する情報網から拾ったものだ。あの猫っぽい生物の怠惰さも相当なレベルなので、存分にだらけられるスポットを日頃から模索していたのだろう。サボるために全力を尽くすという奇天烈な生態系についてはいずれ力尽くでも修正しなければなるまいが、まあ今回に関してはその弛んだ性根が役立ったので良しとしよう。うむ、俺という男は実に寛大な主君だ。我ながら自身の器の大きさには感嘆せざるを得ない。

 鬱陶しい騒音に煩わされないで済むのも得難い利点だが、何より雰囲気がいい。草色の畳、鮮やかな花の描かれた掛け軸、折り畳まれた屏風、障子窓越しに射し込む柔らかな陽光。空き教室のままに放置しておくには贅沢過ぎる風雅さだ。物品の性質として“洋”よりも“和”を好む俺にとって、この室内は何とも安らげる空間だった。是非とも茶を点てて、上品な甘さの和菓子を堪能したくなる。仲見世通りの喧騒に包まれながら気侭に食べ歩くのも悪くはないが、やはり和の静寂の中に心身を落ち着けながら、礼と共に食すのが最上だろう。それが、あいつお手製の和菓子ならばもはや言う事は――


『信長さま、信長さま!今回は自信作です、森谷蘭一世一代の大傑作ですっ!是非ともご賞味ください!』


「……全く。結局、行き着く先は一緒なのか。笑う他ないな、これは」

 織田信長ともあろう者が、己が望み通りに思考を逸らす事さえ侭ならないとは。何とも、滑稽な程に、無様だ。何も笑えはしないと言うのに、昏い嗤いが自然と込み上げる。些細な現実逃避すらも満足に実行不可能と成り果てる位に、俺は参っているらしい。思考は一向に纏まらず、心は乱れたまま収まらない。独りになれば少しは落ち着けるかと思ったのだが、認識が甘かったか。

 自嘲的な気分に浸りながら、携帯の時刻表示を見遣る。現在時刻は、一時二十分。

 つまり、三十分だ。森谷蘭の変貌の瞬間から、未だその程度の時間しか経過していない。僅か四半刻という取るに足らない時間が過ぎ去っただけで――俺を取り巻く世界は、こんなにも変わってしまった。否、変わったのは世界ではなく、認識の方か。まあどちらでもいい。人は所詮、己が主観で物事を判断する生き物だ。

「さて。どうしたものか」

 勿論、空き教室に引き篭もって懊悩しながら唸っているだけでは何も解決はしない。現実の問題を解決出来るのは、具体性を伴った行動のみだ。将棋盤に向き合って無為に時間を費やすよりも先に、最低限の対応は行っている。ただ、そちらにしても向こうからの報告があるまでは事態が進行しないので、結果として現在の俺には実行に移せる有意義な行動が存在しない。本当に、どうしたものか。

「……ん?」

 不意に、静寂を破る異音が耳を打つ。室外に伸びる廊下を反響し、障子を突き抜けて教室へと飛び込んできたのは、誰かの足音だった。それだけの情報では正体を特定するには至らないが、或いはこの教室を目指しているのかもしれない。時間帯を考えれば、可能性は十分にある。

 徐々に近付いてくる気配に備えて、俺は咄嗟に崩していた姿勢を正した。相手が何者であれ、俺は冷酷非情の暴君たる織田信長。無作法に胡坐を掻いてだらけているというアレな場面を目撃されようものなら、腐心して築き上げた威厳に傷が付きかねない。全てを知る人間からみみっちい気配りだと笑い飛ばされそうだが、しかしこうした地道なイメージ作りは人心掌握の観点から見ても意外と重要な意味を持つものだ。そう、別に見栄を張っている訳ではない。

 作法に則った完璧な正座の姿勢を整え終え、改めて畳の固さ加減を自身の両膝にて体感し、せめて座布団を敷いておくべきだったな、と膝へのダメージを憂慮し始めたタイミングで、入口の障子戸が引かれる。戸口から姿を見せたのは、良く見知った顔だった。来訪者の鋭い目がこちらへと向けられ、ぶっきらぼうな声音が口から放たれる。

「邪魔するぞ」

「邪魔するなら、帰れ」

「はっ、生憎と下らねぇボケを聞く気分じゃねぇな」

「全く以って同感だ。ま、これは性分だから諦めてくれ。どんな時だろうと無駄口を叩いてないとやってられないのさ、俺って人間は」

「ああ――それだけ無駄口が叩けるなら、まだ大丈夫だな。思ったよか余裕そうで何よりだ」

 無愛想な口調に確かな安堵の念を滲ませながら、源忠勝は後手に障子戸を閉めた。上履きを脱いで畳に上がると、将棋盤を挟んで俺と向かい合う位置へ乱暴に胡坐を掻く。礼儀作法など知った事かと言わんばかりの豪快な態度である。ここまで突き抜ければいっそ男らしいと褒めるべきなのかもしれない。これは是非とも見習うべきだ。という事で俺は早速、パーフェクトな正座を崩した。心なしか呆れ顔の忠勝はこの際スルーである。

「しかし、良く俺の居場所が分かったな。ここを利用するのは今回が初めての筈なんだが。ふむ、これはやはり離れていても二人を結ぶ友情パゥワーのお陰に違いない」

「んな訳あるかボケ!鳥肌が立つぜ気色悪い。てめぇは目立つんだよ。これだけ気配が濃けりゃ誰でも探せるだろ」

 まあ特に意識して気配を絶っていた訳でもなし、慣れていれば判別は容易か。納得して頷いていると、視線を感じた。忠勝は気難しげな顔で、探るように俺を窺いながら口を開く。

「……今日は、例の面倒な喋り方はしねぇんだな」

「あー、気分じゃない。なんて理由で済ましていい問題でもないのは誰よりも俺が承知してるが、やはり気分じゃないんだ。この状況でお前に対してまで仮面を被らなきゃならないなんざ、気が滅入って仕方がない」

 例え周囲一帯に人の気配が無かったとしても、絶対の安全が保証されている訳ではない。壁に耳あり障子に目あり――危険を完全に排除したければ、常に演技を続けるべきである事は分かっている。だが、今は。今だけは、完璧を追及する効率主義とは無縁で在りたかった。無言の内に俺の心境を汲み取ってくれたのだろう、忠勝はそれ以上何も言わなかった。

「……で、だ。この茶道室が精神と時の部屋っぽい何かじゃない限り、今はまだ授業時間中の筈なんだがな。ここは清く正しい学生が訪れるべき場所ではないぞ、タツよ」

「そりゃ嫌味のつもりかよ。はっ、どうせ俺は不良扱いされてんだ、今更授業サボったくらいで評判落ちたりはしねぇ。というか2-Fの連中にしてみりゃ、サボりなんざいちいち騒ぐほどのモンじゃねぇよ。これで担任が梅センセーじゃなけりゃ、あいつら好き放題やってそうだ」

「ふむ?そうなのか。それは大いなるカルチャーギャップだな。くく、そんな調子じゃ2-Sの連中と馬が合わないのも当然か。何せあいつら、遅刻者が授業中に教室の扉を開けようものなら一斉に白い目を向けやがるからな……。繊細な俺は恐ろしくて無断欠席なんかとてもとても」

「現在進行形でサボってやがる野郎がよく言えたもんだぜ。分かり切ってた事だが、やっぱてめぇの性格は到底、エリートとは程遠いな」

「おやおや、酷いなタツ。それは言い掛かりと云うものだ。俺は学長の呼び出しに応じて泣く泣く授業を抜け出した訳で、別に無断でサボってる訳じゃあない。俺としてもこの状況は不本意でならないのだよ。ああそうとも、綾野小路先生の素晴らしき日本史の授業を受けられないのは実に残念でならないね」

「ああ、Sはマロの授業か。なら仕方ねぇな、ありゃ時間をドブに捨ててるようなモンだ。教室に戻りたくない気分が良く分かるぜ」

「だろ?」

 ……。

 何とも、他愛もない会話だ。

 それは何の変哲もない、少し不真面目な学生同士が交わす有り触れた会話だった。学校という場にて交わされる事に何の違和感もない、中身の欠けた軽い言葉の応酬。無価値で下らないが故に掛け替えのない、日常の象徴。

 だと云うのに――

 それが酷く、気持ち悪い。

 あらゆる言の葉は不気味な程に浮き上がり、看過し得ない強烈な違和感を心に植え付けてくる。

 やはり、世界は変わったのだ。既に日常は非日常へと切り替わった。だからこそ俺達は、こんなにも。

「なぁ、タツ。奇妙なものだと思わないか?」

「……」

「あれから、三十分。たったの三十分だ。蘭の奴が“ああ”なってから、まだそれだけの時間しか経ってない。だってのに――川神学園は平穏そのものだ。何事も無かったかのように授業が再開されて、誰も彼もが平然と机に向かっている。退屈な授業が早く終わればいいと思いながら、ぼんやりと何も考えずにノートを取っている。そういう奴らが大半なんだ。これは中々、笑える話じゃないか」

 確かに、実質的な被害は出なかった。マルギッテ・エーベルバッハの奮闘と川神鉄心の介入によって、結果的に誰かが怪我を負う事すらなく、至って平穏の内に事態は収束した。少なくとも学園の大部分の人間は、“収束した”と、そのように解釈し認識しているのだろう。校舎内にて常と変わらず繰り広げられる日常風景こそが、それを事実として証明している。

 他人事なのだ。森谷蘭の尋常ならざる変貌にしても、“織田信長”の撒き散らす殺意にしても――具体的な形で害が伴わない限り、生徒達は真の意味での恐怖を覚えない。あらゆる災厄は己の身にだけは絶対に降り掛からないと、そんな根拠のない錯覚を抱いて日々を過ごすのが、所謂“普通の”日本人の常なのだから。

 彼らの胸には危機感など欠片もない。嵐の如き感情の渦が今まさに俺の心中を掻き乱している事など、想像すらしていない。授業が終わったら友人との話の種にして盛り上がってやろう――今回の事変に対するギャラリーの反応は、まあその程度のものだろう。まるで、噛み合わない。ちぐはぐだ。間に横たわる温度差が酷過ぎて、あたかも傍に居ながらにして地球の反対側に居るかのような気分だった。そんな拭い難い違和感と居心地の悪さの両者から逃れたかったと云うのも、俺がこうして人の寄り付かない第二茶道室に留まっている理由の一つだった。

「……確かに、言いたい事は分かる。俺も、似たような事を思ったからな。あのまま普段通りに呑気な面で授業に顔出すくらいなら、ここでてめぇの下らねぇボケでも聞かされてる方がまだマシだ」

 顔を顰めながら吐き捨てるように言って、だけどな、と忠勝は言葉を続けた。

「それは仕方ねぇ事だろうが。現状、事情を知ってるのは俺とお前だけだからな。他の奴らにしてみれば、蘭の奴の行動の意味なんざ理解できる筈もねぇ。どうも“一部の連中”は気配だけでコトのヤバさを嗅ぎ取ってる様だが……そいつらはまあ例外だろ。少なくとも普通の奴らにとっては、蘭のアレは自分の日常を崩すほどの大それたイベントじゃなかった。ただ単に、それだけの話だ」

「……だな」

 そう、それだけ。全く以って何から何まで忠勝の言う通り、それだけの話に過ぎない。

 織田信長と森谷蘭の因縁を知る人間は、あまりにも数少ない。現場に居合わせた当事者となれば尚更だ。俺と忠勝と、そして居なくなった筈の“蘭”だけが、それを記憶している人間だった。他には――あの宇佐美巨人も多少は関わってこそいるが、事の核心にまで踏み込んではいない。だからこそ、俺達以外の誰にも理解出来ないのだ。俺が些細な思考すらも侭ならない程に心を揺さぶられている、その理由を。

『シン、ちゃん?』

 あいつが。蘭が、俺を。織田信長を、あの渾名で呼ぶ事が、何を意味しているのか。それすらも、皆は把握していないのだ。である以上、俺と彼らの認識に少なからぬ齟齬が生じるのは当然。噛み合わない食い違いは在るべき必然でしかない。俺は軽く首を振って、脳髄に纏わりつく不快感を払った。

「いついかなる場合であれ、人の目に映る世界ってのは個々の主観に左右される。そんな事は百も承知だが、こうも露骨に見せ付けられると流石に嫌になるって話だ。……ま、ただの愚痴だな。これも含めて、例の無駄口の一環だよ。付き合わせて悪いとは思うが、生憎とこのクソッタレな気分を共有できる相手がお前しかいないんだ。そこはほら、タツ持ち前のオカン級の寛大さで勘弁してくれると助かる」

「誰がオカンだボケ。ったく、てめぇといい直江といい、俺を何だと思ってやがるんだか」

 憮然とした表情で毒づいてみせる忠勝だが、俺の詰まらない愚痴に対しては文句を口にする事はなかった。やはり、川神学園の誰よりも付き合いの長い忠勝には分かっているのだろう。現在の俺が、いかに追い詰められているのか。どれほどの葛藤と懊悩が思考を圧迫しているのか、察している筈だ。

 何せ、幼馴染なのだから。あいつとの記憶を共有する、たった一人の幼馴染。

「――いや。今では、二人・・、だったか」

「……」

「なあタツ。例えば、お前があいつの立場だったとして。お前は、この状況で何を思う?」

「……さあな。到底、俺には想像出来ねぇ。正直に言えば、想像したくもねぇな。ただ、あいつの顔を見れば――大体の所は分かる。嫌でも分かっちまう」

 遣る瀬無さに顔を歪めながら、忠勝は苦々しげに吐き捨てた。その脳裏には恐らく、俺と同じ映像が浮かんでいるのだろう。

 グラウンドにて俺の呼び掛けに応えた蘭が、直後に見せた表情。

 それは――“絶望”、だった。

 狂気から醒め、同時に長年の眠りから目覚めた蘭は、果たして何を想ったのだろうか。十年と云う途方もない歳月と、眼前に横たわる現実と。双方の重みを同時に背負える程、蘭は強い人間ではない。あいつにそんな強さが在ったなら、そもそもにして俺達の歪んだ主従関係は生じ得なかった。その弱さが故に、俺はあのように異常な形でしか蘭を繋ぎ止められなかったのだ。

 楔から解き放たれた蘭は、何を想い何を望むのだろう。己の信じていた世界が虚構に満ちている事を悟ってしまった時、あいつは何を願うのか。それはもはや、余人の推測の及ぶ所ではない。そして本人に直接問い掛ける機会すら、俺には与えられなかった。只の一言を投げ掛ける暇すら与えず――あいつは。

 ……。

 森谷蘭の姿は、既に学園の何処にもない。マルギッテ・エーベルバッハ及びクリスティアーネ・フリードリヒのコンビを相手に繰り広げた熾烈な決闘の果てに、蘭は姿を消した。数百に及ぶ観衆の目に囲まれた中、忽然と。前触れもなく巻き起こった砂嵐に視界を遮られている内に、何処かへと消え失せていた。具体的な手段は判らない。幾ら意表を衝いたとしても、あの場に居合わせていた川神院の怪物達の眼からかくも容易く逃れ得る方法など、所詮は並以下の武人に過ぎない俺の推察の及ぶ域ではなかった。マルギッテという世界有数のパワーファイターを力尽くでぶっ飛ばした・・・・・・剣撃といい、どう考えてもあの時の蘭の立ち回りは、これまでの闘いの中で発揮してきたスペックを超越している。

 俺の知らない、森谷蘭。“未知”は――いつだって、最大の恐怖だ。

「ああ畜生、何とも情けない話だな。指を差して存分に笑ってくれていい。俺はな、タツ。俺は、今のあいつと向き合うのが、怖いのさ」

「お前……」

「理屈じゃあない。頭の中じゃ、ご立派な正解はもうとっくの昔に導き出されてるんだ。それこそこの命題に関しては、ガキの頃から何百回も何千回も何万回も、延々とシミュレーションを繰り返してきたんだからな。だが、それでも……俺はあいつに、どの面下げて合えば良いのか。どんな言葉を選んで語るべきなのか。いざこうなってみると、何が正解なのかなんてちっとも判りはしない。お笑いだよ。俺の覚悟なんざ、所詮は机上の空論に過ぎなかったってワケだ」

『人を救うのも世界を救うのも、“計算”なんて詰まらないモノではないのだよ、殿』

 かつての従者の口からいつかどこかで語られた言葉が、不意に脳裏を過ぎった。ああ、奴は馬鹿だ。擁護のしようもなく、頭蓋の中身はお花畑の苗床だ。腐った脳味噌はさぞかし良い養分になっている事だろう。しかし――余計なモノを取り払った純粋極まりない馬鹿だからこそ、その主観が捉える世界は真理に近いのかもしれない。

 望みのままに、か。本当に、お前のように生きるにはどうすればいいんだろうな、サギ。

「……成程な。だからてめぇはここにいるってワケだ」

 俺の吐露に何を思ったのか、平坦な口調からは窺い知れない。激昂や非難の色を見せない静かな眼差しで、忠勝はこちらを見詰めていた。

「くく、お察しの通り。今の俺は、引き篭もって震えてるだけの救い難い臆病者だ。今すぐにでも学園を飛び出して蘭を追うべき場面だと云うのに、足が動かない。叶うならばこのまま動かずにいたいとすら願っているのさ。それが暴君・織田信長の驚くべき実態だ。どうだ、軽蔑しただろう?」

「……てめぇは、」

 一瞬、言葉に詰まったように声が途切れる。

 忠勝の表情が示している感情は、怒りと侮蔑――ではなく、純粋な呆れだった。「ったく」という溜息混じりの嘆声と共に、不機嫌なジト目がこちらを向いた。

「どれだけ無駄口が好きなんだ、てめぇは。それとも何だ、口車で俺を怒らせてぇのか?だとしたら残念だったな。生憎と、俺はそこまで馬鹿じゃねぇ」

「……」

「お前が悲劇のヒーロー気取ってウダウダ落ち込むほど殊勝な奴だったら、俺は最初から苦労してねぇんだよボケ。俺の知ってる信長って野郎は、サメみてぇな男だ。いつでも前に進み続けて、貪欲に餌を喰らい続けずにはいられねぇ。この状況でてめぇが“何もしない”なんて事は、どう考えても有り得ねぇだろうが」

 揺るがない確信の込められた言葉だった。信頼、とはまた違う。源忠勝は只単純に、織田信長という人間を知っているだけだ。長年の付き合いの友に対して戦闘能力は誤魔化せても、精神の在り方までは誤魔化す事は出来ない。仮に真実とは異なっていたとしても――他ならぬ忠勝の主観が俺の事をそのような形で認識しているならば、俺は自身の意地と誇りに懸けて、それを裏切る訳にはいかないのだ。だから俺は、“その言葉”こそを聞きたかった。

「くくっ」

 真っ直ぐにこちらを見据える眼差しに、俺は口元を吊り上げて応える。

「流石に俺の事を良く分かってるじゃないか、マイディアフレンド。二人の友情に乾杯だな」

「勘違いしてんじゃねぇ。こっちはてめぇの無茶ばかりやらかす厄介な性格には散々振り回されてんだよ。嫌ってほど思い知らされた、そんだけだ。――で、無駄口はそろそろ十分か?」

「ああ、お陰で良い気晴らしになった。最後までお付き合い頂き感謝の極みだ。……さて、ここからは建設的な話をしようか」

 居住まいを正し、口調を改めながら、俺は忠勝に向き直った。この一件に動揺しているのは何も俺だけではない。忠勝も同様に、湧き上がる焦燥感に精神を削っている最中の筈だ。全身に湛える雰囲気からも、一秒でも早く蘭の捜索に飛び出したいと思っているのが分かる。それでも忠勝は逸る心を抑えて、俺の意見を求めるべく足を止めてくれた。惜しい筈の時間を俺の戯言の相手として費やしてくれた。ならば――その信頼を無駄にする事は出来ない。

「単刀直入に言おう。もう少し待ってくれ、タツ。蘭の所へ向かう前に、確認すべき事項がある」

「……その口振りだと、蘭の行き先にも心当たりがありそうだな。それだけじゃなさそうだが」

「ああ、それだけじゃない。どころか、見渡す限り問題だらけだ。真剣で頭が痛くなる。こんな状況じゃ、俺でなくとも現実逃避したくなるってもんだ」

 仮に俺の懸念が全て正しいとすれば、現状は“厄介”どころの話ではない。危険と危険が手と手を繋いでラインダンスを踊っているような状態だ。無思慮に動けば取り返しの付かない事態を招きかねなかった。一刻を争うかもしれない状況であるからこそ、焦りは禁物。思考と感情を切り離し、あくまでも冷徹に最善手を模索せねばならない。

「今こうしている間にも、事態を正確に把握する為に配下を動かしている。少なくとも連中からの報告が入るまでは、俺もお前も迂闊に動くべきじゃあない。何せ、場合によっては――堀之外が戦場と化す程度に素敵な未来も想定しなきゃならないからな。慎重に行動するに越した事はないだろう」

「戦場、か。二年前を思い出すぜ。ぞっとしねぇ話だ」

「ああ、全く以って碌でもない話だよ。まぁ、それを俺が言うのもアレだがな。くくっ」

「……とにかく、事情は判った。お前が未だに動かねぇ理由も、な」

 瞼を閉し、眉間に皺を寄せて思案に沈むこと数秒。忠勝は静かに目を開くと、おもむろに立ち上がった。

「だったら、ただ座って待つ必要はねぇな。俺は俺で今の内に準備を済ませる。お前の方で状況が判り次第、こっちに連絡を入れてくれりゃいい」

「くく、授業に戻るという選択肢はないのか?流石は学年一の不良生徒、悪の華だな」

「うるせぇぞボケ。ま、どうせ五限は例の“人間学”だ。オヤジの人生講座なんざ、いつでも聴けるんだよ」

 ぶっきらぼうに言うと、そのまま戸口へと向かう。外界との境目たる障子戸に手を掛けた時、不意に忠勝は肩越しに振り返った。研ぎ澄まされた真剣にも似た双眸を以って俺を射抜きながら、強固な意志を滲ませた声音で言葉を紡ぐ。

「信長。俺には、お前のような“力”はねぇ。鶴の一声で動く配下もいなけりゃ、人間辞めた連中に対抗できる武力も持ち合わせてねぇ。正直、助っ人にしても力不足だろうよ。そいつは自覚してる」

「……」

「だがな――それでも。無力だろうが何だろうが、蚊帳の内側で足掻ける分、あの時と較べりゃ上等だ。……俺に出来る事があるなら、遠慮せずに押し付けろ。俺の負担なんざ気にする必要はねぇ。言いたい事は、それだけだ」

「……」

 忠勝の真摯な言葉に込められた、計り知れない想念を噛み締めている間に、茶道室の戸は外側から閉されていた。忠勝の影が一瞬だけ障子に映り、そして消える。足音と気配が遠ざかり、やがて静寂が戻った。

 誰も居ない部屋に独り佇み、小さく吐息を漏らす。

「追求はなし、か。優しいねぇ、タツは。女だったらまず間違いなく惚れてるところだ」

 俺の気持ちを過不足なく汲み取ってくれるという意味では、忠勝は織田信長にとって最大の理解者と言えるのかもしれない。そう――俺は未だに迷っている。辿るべき道筋を見出せずにいる。それが判っているからこそ、忠勝は俺を気遣ったのだろう。

 幸いにして、暫しの猶予は残されている。迷い悩み逡巡する時間は、まだ。

 ならば、考えろ。考えろ考えろ。己の意志すら見定められない人間が、前へ進める筈も無いのだから。



「――ん?」

 不意に周囲を覆う静寂が掻き乱されたのを感じ、俺は目を開いた。

 忠勝が去ってから、どの程度の時間が経ったのか。己の内に篭って際限のない問答に没頭していると、時間の感覚がまるで掴めなくなる。思考中にチャイムが鳴った様な気もするが、いまいち記憶が定かではない。連絡が入る予定の携帯も今は沈黙を保ったままだ。故に、深く沈んでいた俺の意識を現実に引き戻したのは、廊下から響く何者かの足音だった。

「……誰だ?」

 忠勝が戻ってきたのかとも思ったが、それにしては何処となく気配が妙だ。足取りに自信がないと言うか、踏み出す一歩一歩に迷いを感じさせる。そんな緩慢な歩みは案の定、戸口の外側で止まった。障子越しに映るシルエットを見れば、その正体は火を見るよりも明らかだ。

 学園内で着物を着用しているトチ狂った女子生徒など、俺の知る限り一人しかいない。むしろそれ以上は要らない。

 一向に開く気配のない障子戸を見遣って小さく溜息を落とすと、俺は威厳を込めて声を上げた。

「――入るならば疾く入れ。所用が無ければ早々に去るがいい。其処に居られると、目障りだ」

「め、目障りとはなんじゃ!高貴なる此方に向かってなんと無礼千万な……ええい、入れば良いのであろう、入れば!」

 何故かぷんすかぷんと立腹しながら、足取りも荒く室内に侵入してきたのは、見慣れた顔のクラスメート。

 日本三大名家の高貴なる息女にして川神学園随一の嫌われ者、不死川心であった。














 2-Sとは即ち、選ばれた人間のみが籍を置く事を許されるエリートクラスだ。ただ単純な学力に留まらず、多種多様な分野において優秀さを認められた人間でなければ、S組の一員たる資格はない――それが2-Sに属する生徒達の共通認識であり、故に誰もが自身を磨く事を怠らない。いかに普段はふざけているように見える人間でも、スイッチの切り替え方は常識として例外なく心得ている。故にS組においては、授業中は絶えず張り詰めた雰囲気が教室を充たし、競争意識の生み出す厳粛な空気の中で皆が真剣に勉学に取り組む。ましてや、かの悪名高い隣人たる2-Fの如く、授業中に私語が飛び交う事など絶対に有り得ない。そうした緊張感こそが己の練度を保つ為に必要なものだと2-Sの生徒は認識している。故に彼らにとって“授業に身が入らない”などという状況は論外であり、唾棄すべきものなのだ。

 しかし――

「これらが俗に三大歌集と呼ばれるものでおじゃる。常識ゆえ改めて触れるまでもないが、の。その典雅な成り立ちは――」

 2-Sクラス出席番号26番、不死川心は今現在、授業内容に対して全く集中できていなかった。歴史教師の独特過ぎる声音は右から左に素通りし、気付けば頭の中には何一つとして情報が残っていない。結果、心に出来るのは、黒板に板書された文面を漫然とノートに書き写す事だけだった。これでは日頃から見下している他クラスの連中と何も変わらない、と情けない気分で教室を見渡せば、大体の面々が、多かれ少なかれ心と似たような状態である。元々、綾野小路麻呂の担当する歴史の授業自体が退屈極まりないものとして生徒達に認識されている事実も関係しているが、しかし現在に限って言えば、彼らの集中力を奪っている主な原因は別の所にあった。

 心はシャーペンを机に置いて、斜め前の空席へと視線を向ける。本来ならばそこにあるべき絶大な存在感は、今は不在だ。クラスの誰よりも強烈に教室の空気を締め付けていた男が、居ない。日頃から彼を苦手としていた歴史教師はむしろ嬉しそうな様子で、水を得た魚の如く意気揚々と教鞭を振るっているが、残念ながらそのテンションは生徒達のそれと反比例している。

 そして、教室に生じている空席は一つではない。今の2-Sには、実に三名ものクラスメートが欠けている。

 一人は、森谷蘭。彼女は決闘の最中に凄絶な狂気と殺意を撒き散らし、そのまま学園から姿を消した。砕け散った模造刀だけを残し、忽然と。以後、行方は杳として知れない。恐らく今頃は学園側が対処に動いているのだろうが、その辺りの事情は生徒達には知らされていなかった。

 二人目は、織田信長。第一の従者が出奔した後、彼は他の生徒とは異なり、そのまま午後の授業に出席する事はなかった。深刻な表情の川神鉄心と共に校舎へと向かっていた事から考えると、学長室で何かしらの話し合いに臨む事になったのだろう。それから未だ、教室には戻ってきていない。

 そして最後の一人は、マルギッテ・エーベルバッハだ。今朝から転入生として2-Sに所属する事になった異色の新入り。彼女もまた、件の決闘の後から教室に姿を見せていない。が、特に彼女との関わりがない心にとっては、さほど気に掛けるべき事ではなかった。

 やはり問題は、信長と蘭の主従。
 
 否、更に突き詰めて言えば、心が真に気にしているのは只一人。すなわち、織田信長の事だけである。

 先程から幾度となく心の脳裏に蘇るのは、彼がグラウンドにて見せた様子だった。具体的な差異を述べる事は難しいが――心の目には、あの時の信長は常日頃とは異なる様相を呈しているように思えた。その事がやけに引っ掛かる。何故それほどまでに引っ掛かるのか、という事自体も同時に気になって、碌に思考が働かない。結果として全くと言って良い程に勉強が捗らず、心はこの数十分ほど、落ち着かない気分で机に向き合っていた。

「――ぬ?もうこんな時間とは驚きよの。ほほ、平安の世の素晴らしさを語っておるとつい時間を忘れるでおじゃる」

 よって、スピーカーから授業時間の終了を知らせるチャイムが鳴り響いた時、心が盛大に溜息を吐き出したのも無理からぬ事である。歴史教師が満足気な表情で教室から去ると、心はすぐさま廊下へと飛び出した。

 結局、五限の内に信長が戻ってくる事はなかったが――学長室での用事が既に済んでいるのは判っている。彼の強烈な気配は、授業半ばの時点で別の場所へと移動していた。その特徴的な“氣”を辿れば、現在の居場所を掴む事は難しくない。ましてや、今の信長の気配は、普段以上の濃密さを有しているのだから。廊下の中央で立ち止まりながら数秒ほど逡巡して周囲の顰蹙を買った後、心は足早に歩を進め始めた。



「む。ここか……」

 第二茶道室、と堅苦しく墨書されたプレートを見上げて、心は不審げに眉を顰めて呟いた。色々とお察しな理由で入部こそしなかったものの、高貴なる不死川家の息女に相応しい典雅な部活動として、心は茶道部の存在に着目していた。その関係で、現在はここが空き教室と化している事も把握している。何故そんな場所に居るのか、と訝しみながら、入口の障子戸に手を伸ばし――そこで固まった。

 原因は、茶道室の内側より溢れ出る鬼気である。織田信長が其処に居る何よりの証左は、同時に万人を戦慄させる雰囲気を醸し出していた。あたかも自分がこれから地獄の蓋を開こうとしているかのような感覚に襲われ、心は思わず怯んだ。そもそも冷静に考えてみれば、信長と顔を合わせて自分がどうしたいのか、それすらも分かっていないのだ。やはりここは引き返すべきそうすべき――と心の思考が後ろ向きに全力疾走し始めた時、伏魔殿の主が発した重苦しい声音が空気を震わせた。

「――入るならば疾く入れ。所用が無ければ早々に去るがいい。其処に居られると、目障りだ」

 室内から掛けられた声はどこまでも横柄で、愛想の欠片もない。子供が聞けば一言目で泣き出しそうだ。至って普段通りの調子に、心は少しばかり安堵の念を覚え、同時にそれを遥かに上回る怒りが込み上げてくるのを感じた。人が折角気に掛けてやっていると言うのに、この傍若無人な態度は何事か。湧き起こった腹立たしさによって胸中の躊躇いが一挙に押し流され、心は勢いよく障子戸を引き開けた。

「め、目障りとはなんじゃ!高貴なる此方に向かってなんと無礼千万な……ええい、入れば良いのであろう、入れば!」

 憤然と文句を零しながら、室内へと足を踏み入れる。信長は部屋の奥にて畳に坐し、無言で心を見返していた。その姿勢は、礼儀作法に精通する心の眼から見ても非の打ち処が見当たらない程に洗練されている。室内を充たす静謐と、総身に纏う峻厳な雰囲気は禅修行を積む僧を思わせ、心は自身の精神が怒りの炎ごと萎縮していくのを自覚した。思わず戸口で足を止めた心に向けて、信長が再び口を開く。

「一人で立ち話でもするつもりか?中途半端な振舞いは不死川の家名を貶めるだけだ。近う寄れ、莫迦め」

「む、言われずともそうするのじゃ!此方に命令するでないわ!」

 いちいち心の勘に障る信長の物言いに、怒りの炎は瞬く間に再燃した。ずんずんと大股で傍まで歩み寄ると、将棋盤を挟んだ向かい側に腰を下ろす。眼前の男に対抗するように理想的な正座を整えて、心は正面から信長を睨み付けた。

「……それで。何用だ」

「ふん、それはじゃな――」

 無愛想な問い掛けに胸を張って答えんが為に口を開き、そして心は言葉に詰まった。

 何用か、と問われても、果たして何と答えるべきなのか。元より、明確な形で所用があった訳ではないのだ。かと言って、“理由はないけど顔が見たくなったので何となく”――などという甘ったるい返答が許されるような浮いた関係でもなければ、そんな恥ずかしい台詞を臆面もなく吐けるような性格でもない。

「そ、そんな事よりじゃな、明智の奴はどうしたのじゃ?姿が見当たらぬが」

「……」

 進退窮まった心が打ち出した渾身の打開策、それは話題転換。自然さは投げ捨てるものと言わんばかりの、芸術的な無理矢理さだった。

 もはや突っ込むのも面倒だと思ったのかは定かではないが、信長は数秒ほど沈黙した後、淡々と返答を口にした。

「奴は奴で動いている。坐して待つのは性に合わぬらしい」

「そ、そうか。あやつは無駄に活動的じゃからの。大体、なんなのじゃあの粗末な衣裳は。家名を蔑ろにするにも程があろう。一度、先輩として名家の心得を説いてやらねばなるまい」

「然様か。勝手にするがいい」

「う、うむ。勝手にするのじゃ。これは高貴なる血を身に宿す者の義務じゃからの」

「……」

「……」

「……それで。何用だ」

 微塵の容赦もない信長の問いに、心は今度こそ心中で頭を抱えた。人間の能力は主に才能と、積み重ねた経験によって決定される。対人能力もまた然りだ。人生の中で周囲とまともなコミュニケーションを取って来なかった弊害が、目に見えて表れていた。ダラダラと盛大に冷や汗を掻きながら言葉を探す心の姿に、流石に哀れみを覚えずにはいられなかったのか、信長は溜息混じりに口を開いた。

「心。お前に用件を伝える心算が無いならば、先ずは俺から問うべき事項が在る」

「お、おお、何でも訊くが良いぞ。此方の智謀を以って、いかな難題にでも華麗なる回答を示してくれよう!にょほほ、由緒正しき不死川の娘たるもの、智勇兼備でなくては務まらぬのじゃ」

 渡りに船とばかりの勢いで助け舟に飛び乗る心を醒めた目で見遣って、信長が淡々と言葉を続ける。

「――マルギッテ・エーベルバッハ。彼奴は未だ、教室に居るか?」

「む、あやつか?いや、決闘の後から教室には戻っておらぬぞ。まったく、初日からサボタージュとは面の皮の厚い新入りじゃ。2-Sの規律を保つ為にも、図に乗らぬ内にお前自ら締めてやった方が良いのではないか?」

「ふん、考えておこう。――然様か。成程、な」

 心の回答から何を見出したのか、信長は将棋盤に目を落とし、何事か沈思している。

 その顔に貼り付いているのは普段同様の無表情で、外面としては何処から見ても常態だ。しかし――不死川心は、其処に見逃せない違和感を覚えた。またか、と己の中に生じた違和を訝しむ。

 決闘場において森谷蘭が出奔した直後。川神鉄心と連れ立って校舎へと向かう信長の、その横顔を目にした際にも、心は今と同じ感覚に襲われたのだ。それを延々と引き摺って、結局はこうして当人の元にまで来てしまった。

 何故だろうか。信長は、変わらない。まるで普段と変わらない筈なのに、何故。


「織田。お前……、迷っておるのか・・・・・・・?」


 確信があった訳ではない。それが正解であるという根拠も、不在だ。何となく、頭の中に浮かび上がった曖昧な思い付きを、気付けば口にしていた。

 そして、半ば無意識の内に自分が口走った内容を一瞬の後に自覚して、心はぎょっと目を見開く。

「あっ、いや、我ながら馬鹿げた事を口にしたのじゃ。ん、んん、ごほん、さっきのは此方の高貴なるジョークゆえ、ゆめゆめ真面目に受け取るでないぞ」

 信長が反応を見せるよりも前に、慌てて己の言を打ち消す。織田信長という人間の矜持の高さを考えれば、侮辱された、と受け取られても何ら不思議はない内容だ。所詮は論理的根拠の存在しない適当な発言などで、無駄に不興を買うのは歓迎出来ない。

 それに実際、冷静に考えてみると、なんと荒唐無稽な推察であろうか。どう考えたとしても、この織田信長という男に“迷い”などという脆弱さが関わる余地はあるまい。いかなる時でも自己に絶対の信を置き、自身の歩む道こそが正解だと断じて憚らない。迷わず、惑わず、躊躇わず。何者に対しても傲岸不遜に己の信念を貫き通すのが、織田信長の在り方。であるならば、自身の直感が正しいと判ずる理由は無い。

「ふん。――心」

「む?」

 故に、次の瞬間。信長が口にした言葉は、何処までも心の意表を衝くものだった。

「お前の目も、存外、節穴ではないらしいな。くくっ……、図々しくも俺の友を名乗るだけの事はある」

「ん、んんん?ど、どういう事なのじゃ。此方には意味が分からんぞ」

「単純な話だ。然様――お前の言は、正しい。俺は迷っている。惑い、逡巡している。紛れもない真実よ。尤も、お前に其れが判るとは、考えていなかったがな」

 どこか愉快さを感じさせる雰囲気を湛えながら、信長は口元を歪めて見せた。一体何を考えているのか――その発言の意味も意図も、心には理解出来ない。と云うよりも、あまりの意外さに、咄嗟に思考が追いつかなかったのだ。

 あらゆる“強さ”だけを掻き集めて形作られたかのような男が、迷いという明確な“弱さ”の要素を内包している。その事実もそうだが、何より心は、信長がそうした弱さの存在を自ら認める事など絶対に有り得ないと思っていた。何せ信長という男は、いかなる形であっても他者からの侮りを決して赦さない、まさにプライドの塊と形容すべき性格の持ち主なのだから。

 しかし――目の前の現実は、心の予想と大きな食い違いを見せている。盛大な混乱に見舞われている心を静かに見遣りながら、信長は続けて口を開いた。

「如何した、何を然様に戸惑う?俺が迷い惑い躊躇い悩むは、然程に意外な事か?」

「……まあ、それは勿論、意外に決まっておるじゃろう。何というか……お前という男は、そんな“無駄”に煩わされて足を止める事はないと思っておったのじゃ。実際、お前が何かに迷っている所なぞ此方は一度とて見た事がないぞ」

 心の知り得る限り、信長は常に清々しいまでの果断即決を実践していた。人の上に立つ人間とはかくあるべきなのだろう、と心はその揺ぎ無い姿勢に対して感嘆の念すら抱いていたのだ。案外、今も虚言でからかわれている真っ最中なのではないか、と疑惑の目を向ける心に、信長は肩を竦めて見せた。

「無駄。無駄、か。ふん、成程。どうやら、俺とお前の認識には大いに相違が在るらしい。――心、お前は何かを誤解している」

「誤解?」

「然様。迷いも、惑いも。躊躇いも、悩みも。それらの概念から逃れられる人間など、此の世には存在しない。仮にそれらと無縁で居られたとしても――其れは“強さ”の証明では有り得ない。無思慮と果断は、無謀と即決は、断じて同義に非ず。真の“強さ”とは常に、“弱さ”を克服した先に在るものだ。故に、俺は何時でも迷っている。絶えず惑いの内に身を置き、己を取り巻く万事に悩んでいる」

 いつになく饒舌に語りながら、信長は己の拳を膝から浮かせ、顔の前で握り締めた。

「迷いの末に導き出した道なればこそ、俺の歩みに迷いは介在し得ない。未来に惑わぬ為に、現在を惑う。其れこそが、万人を従える王者の在るべき姿よ。迷いと惑いを置き去りに未来を語るなど、逃避と何も変わらぬ。其れは、惨めな敗者の在り方だ。――俺は逃げる気は無い。何が在ろうと、逃げ出しはしない」
 
 熱に浮かされたような声音は、自身に言い聞かせるが如き響きを帯びていた。何処かを見据える双眸は爛々と輝き、度を越えて強烈に握り締めた拳の中では、食い込んだ爪が肉を破っている。ぽたりぽたりと音を立てて、紅い血が草色の畳へと滴っていた。

 怖気の走るような鬼気に満ちた、あたかも悪鬼羅刹の如き壮絶な気迫を前にして、心は背筋を震わせる。ひっ、と、意図せずして小さな悲鳴が喉から漏れた。

「っ!」

 心の表情に走る怯えに気付いたのか、信長は僅かに目を見開いた。拳を膝へと下ろし、昂ぶった精神を鎮めるかのように瞼を閉ざす。数秒を経てその目が再び開かれた時、身に纏う鬼気は既に霧散していた。凶悪な気配から解放され、ほっと安堵の吐息をついている心を見詰めながら、信長は静かな口調で仕切り直す。

「……とは云え、だ。何時までも霧中を彷徨い、一向に答を見出せぬならば、迷いとは即ち弱さと同義であろう。故に、お前の認識も一概に只の誤解と言い切れる訳ではない。なればこそ、俺は自身の迷いを面に出さぬ。無闇に“弱み”を晒せば、仮に其れが誤解であろうと、無用な侮りを招く切っ掛けとなる」

「うむ?じゃが、その割にはお前、此方にあっさりと“迷い”を打ち明けたのう」

 しかも心が否定しようとしたタイミングに、わざわざ自分から切り出す形で。周囲に弱みを見せるべきではないと考えているのならば、信長の行動は言動に対し明確な矛盾を抱えている。一体どういう事なのか、と頭を悩ませる心だったが――天啓の如く閃いた答えに、パァッと表情を輝かせた。

「うむうむ、何も言わずともよいぞ。何といっても此方はお前の友じゃからな、胸の内を晒す事に障りを感じぬは当然よ。にょほほ、苦しゅうないのじゃ。もっと此方に思いの丈を曝け出すがよい」

「ふん。勘違いするな阿呆め。お前如きを“敵”として捉え警戒の対象と見做す程、俺は酔狂ではない。取るに足らぬと断じた。只それだけの話だ」

「な、なんじゃと~!?うぬぬ、高貴なる此方と金蘭の契りを結ぶ栄誉を与えようと言うに、お前という男は……!」

「不要だ。金を積まれても拒否する」

「フン、然様に曲がった性根ゆえ、どうせ此方の他には友人などおらんのじゃろう?ホホ、唯一の友誼を失って孤独に苦しむ無様な姿が目に浮かぶようなのじゃ。ほれ、そのような未来を想像するだけで、此方と仲良くしたいと素直に言ってみたくなるであろう」

「お前は未来に孤独死するよりも、此処で俺に殺されておいた方が良いかもしれぬな……」

「ナチュラルに怖い事言うのはやめるのじゃ!というか高貴な此方は孤独死などせぬわ!」

 ウサギは寂しさで死ぬと話に聞くが、人間は衣食住が事足りていれば死ぬ事はない。不死川家の財力が背景に在る限り、基本的に心の生命は安泰である。勿論、心にとっては何の慰めにもならない事実だが。

「ん、ゴホン。それはともかくとして、じゃ。――お前の“迷い”とはやはり、あの従者の事か?」

「……」

 心の問いに対し、信長は無言で応えた。その沈黙は恐らく、肯定を示しているのだろう。まあそうじゃろうな――と心は複雑な気分で納得した。この状況で信長を惑わせるものがあるとすれば、それは突如として不可解な凶行に走ったかの従者の存在に他ならないだろう。

 織田信長の懐刀、森谷蘭。実のところ心は、彼女について多くを知らない。心自身が彼女の事を“信長の付属品”程度にしか認識していなかった上、蘭の方もどこか周囲とは一線を引いている節があった為、結果としてこれまで交流らしい交流がなかったのだ。

 だが、こうしてその存在が表に出てくると、今まで特に気にも留めなかった部分が疑問点として引っ掛かってくる。かつて決闘を申し込むよりも以前に、弱味を握るべく素性を調査した結果として判明した事だが、信長はほぼ間違いなく庶民の出だ。つまり、不死川や九鬼の如く、従者を抱える事が自然であるというような出自ではない。にも関わらず――森谷蘭は織田信長を唯一無二の主君と定め、忠節を尽くしている。彼女がいかに主を慕い、敬愛しているか。例え交流が無くとも、同じ2-Sに属している限り、その忠誠心の厚さを窺い知る機会には事欠かない。

 何故、そこまで。いかなる由縁を以って、彼女の常軌を逸した献身は成り立ったのか。思えば、心は何も知らない。森谷蘭の事だけではなく――信長の事も、殆ど何も知らないままだ。巌の如く畳に坐し、感情を窺わせない眼差しを盤上に注いでいる男を、心は改めて眺めた。

 不死川心は、織田信長を、友人だと思っている。不死川の名が有する力に臆する事も無く、さりとて媚び諂う事も無く。ただ不死川心という個人を認め、正当に評価してくれた、掛け替えのない唯一の友だと。何事に於いても“家柄”というフィルターを通して物事を判断せずにはいられない心が、何の拘りもなくありのままに接する事が出来る相手。そういう意味では間違いなく、他の人間とは一線を画す特別な存在だと言えるだろう。

 だからこそ心は、知りたいと思った。より深く、より広く――至極稀にしか表に出ない信長の内面に、この手で触れてみたい、と。

「……織田。お前が何事かに悩んでおるなら、此方は友として力を貸そう。お前は矜持が高いゆえ、他者に頼る事を良しとせぬのは知っておるが、話を聞く程度であれば問題はなかろう?」

 友誼とは、友情とは、ただ傍に居るだけで深まっていくほど容易なものではない。ましてや信長の如く他人を寄せ付けない男に対しては、自分から積極的に踏み込んでいかなければ距離を縮める事は出来ないだろう。人生で初めての友人の存在を通じて、心は人間関係の築き方に関するノウハウを学習し始めていた。かくして一歩を踏み込んだ心に対し、しかし信長は、嘲るかの如く口元を歪めた。

「――言うに事欠いて、俺の相談相手になろう、とは。随分と大きく出た物だな、心。この俺をして悩ませる程の難題を、お前に解決出来るとでも云う心算か?」

「フン、そんな事は誰も言っておらぬわ。此方は名家に相応しく聡明じゃが、全能の賢者ではない。容易く道を示せるなどと思い上がってはおらんのじゃ。しかし、少なくとも、お前の事情を知らねば此方には何も出来ぬであろうが。助言はおろか、友に対し相応しき激励を飛ばす事も適わぬ。それは、何とも言えず歯痒い」

「……」

「それにアレじゃ、悩みというものは一人で抱え込んでおっても碌な事にはなるまい。高貴なる此方が寛大な心で受け止めてやるゆえ、ここはひとつ存分に吐き出すとよいぞ。にょほほ、此方を友に得た事はまこと幸運であったの、織田よ」

 上から目線で得意気に言うと、心は薄い胸を張って呑気に笑う。

 信長は数秒ほど黙したまま、じっと心の顔を見詰め――そして、ふっ、と口元を緩めた。彼を見慣れている人間でなければ決して気付かない程に微かな変化ではあるが、それは間違いなく、穏やかな微笑であった。残念な事に、悦に浸ってホホホと笑う作業に忙しかった心は見事に見逃していたのだが。

「くく、成程。お前はどうやら――俺が考えていたよりも、面白い人間だった様だな。心」

「な、なんじゃその反応は!また此方を馬鹿にしておるじゃろお前!」

「ふん。さてな」

「うぬぬ……」

 あからさまに小馬鹿にしたような信長の態度に、心は身体をわなわなと震わせて唸り声を上げる。

 何ともまあ、この性格の悪さは如何ともしがたい。信長が外面ほど無感情な男ではないという事については薄々悟ってきていたが、しかし“コレ”よりは醒めた無感情の方が幾らかマシかもしれなかった。少なくとも感情が無ければ、虐めと紙一重の弄りを愉しんだりはするまい。人権を無視するレベルで容赦なく弄りに掛かってくるような有難くない輩は榊原小雪だけで十分だ。やはり友人の選択を誤ったか――と思わずにはいられない心である。そんな憤懣やるかたない内心を汲み取る気は特に無いらしく、信長は至ってマイペースに言葉を続けた。

「さて。お前が何を期待しているのかは俺の知る所ではないが。少なくとも俺は、此処でお前に事情を語る気はない」

「む、何故じゃ。よもや此方を信じられぬとでも言うのか?」

「然様。と、言いたい所ではあるが、然にあらず、だ。そもそもにして、この一件は――他者に語るべきものではない。万が一にも有り得ぬが、仮に俺とお前が管鮑の交わりを結んだ友であったとしても、其れは変わらぬ。是は我が家中の問題だ。易々と事情を語るにはあまりにも障りが多い。解るか、心」

「……つまり結局は、此方には何も教えぬという事ではないか。フン、折角の此方の申し出を無碍にするとは贅沢な男よ」

 もうお前など知らん、と心はそっぽを向いて唇を尖らせる。どのような形であれ、心はこの誇り高い友人に頼って欲しかったのだ。そんな失望感と、高貴な自分がわざわざ歩み寄ってやっているのに、という意識の根幹に根ざしたプライドとが絡まり合って、心の胸中に屈折した感情を生じさせる。

 つまるところ、心は拗ねていた。

 つーん、と明後日の方向に視線を向ける心に何処か生暖かい目線を向けながら、信長は鼻を鳴らす。

「ふん、相変わらず勘違いの甚だしい奴だ。大方、お前は己が俺に助力出来ていないとでも思っているのであろろうが、其れは的外れというものよ。覚えておけ、心。お前が傍に居るだけで、俺は助けられているのだとな」

「――んなっ!?」

 あまりにも唐突に飛び出した衝撃発言に、心は一瞬で怒りを忘れて信長へと視線を戻した。途端、真剣な眼差しに正面から射竦められる。かつてない程に真摯な色を湛えた双眸を目の前にして、心は見る間に顔面へと血液が集まっていくのを自覚した。俄かに心臓の動悸が跳ね上がり、眩暈に襲われる中、心は大慌てで現状を把握しようと努める。二人きりの密室にて紡がれた真情。このシチュエーションはまるで少女漫画とやらで見た――

『あ~、男女間の友情とか信じちゃうタイプね。ま、そんくらいの年にはありがちな勘違いってヤツだな』

「~~っ」

 不意に脳裏に蘇ったのは、2-S担任を務める不良中年の台詞である。

 つい最近まで友達居ない暦イコール年齢を地で行っていた不死川心、当然ながら恋愛経験など皆無だ。そもそもの前提としていかなる感情を恋と呼ぶのか、その辺りの基本的な概念すらも理解していない。好きな相手と一緒に居ると胸がドキドキする、と伝え聞いた時――そういえば信長の傍で過ごしているとそんな感じになったような、成程これが恋というものか、と感慨深さと共に納得していたりもした。尤もその件に関しては、単に信長の発する威圧感を受けて緊張していただけという落ちが付いたのだが。日常的に吊り橋効果を発動させるとは恐ろしい奴よ、と心は戦慄したものだ。

 閑話休題。

 問題は、目の前の現状である。信長の事は、まあ嫌いではない。意地の悪さを除けば、それなりに憎からず思っているのも事実だ。いやいやしかしあまりにも展開が急過ぎる、そういうのはもっと段階を踏んでじゃな、と脳内で暴走する思考に目を回している心へと向けて、信長の真剣な声音が放たれた。

「――然様。頭を悩ませると云う行為には、少なからず疲労を伴う。思考の渦に沈めば、精神の消耗は避けられぬ。故に、お前の存在は実に都合が良い。全く、何とも折り良く訪れてくれたものだ」

「……んん?」

 どうにも怪しくなってきた雲行きに、心は眉を顰めて信長を見遣った。

 そして、遂に気付く。その表情が、サディスティックな悦びで歪んでいる事に。

「くく、くくくっ、お前という人間を虐げるのは、実に愉しい。鬱屈した気分を晴らすには最適の娯楽よ。心配せずともお前は充分に役立っている――流石に俺の友を自称するだけの事はあるな。いや、心の底から感嘆に値するぞ」

「~っ!お、お、お前という奴はぁ~!此方は玩具かっ!というか自称とはなんじゃ自称とはっ!?」

 大真面目な調子で吐き出された色々と最悪な台詞に、心が怒りの咆哮を上げたのは当然の成り行きである。猛然と食って掛かる不死川家令嬢を悠々とあしらう信長の顔はいたく楽しげだったが、怒りと屈辱で目の前を真っ赤に染めている心は気付かない。或いはもう少し心が対人関係の経験を積んでいれば、“照れ隠し”という一つの感情表現の可能性に思い至っていたのかもしれないが、しかしそれは言っても詮のない事であった。

 心が平静を取り戻し、同時に第二茶道室が静穏を取り戻したのは、数分後の事である。

「フン、此方をさんっざん弄んでさぞ満足したであろうな。まったく、お前の事など心配した此方が馬鹿だったのじゃ」

「然様、お前が莫迦だった。それだけの話だ。くく、漸く気付いたか」

「いちいちお前はむかつく奴じゃの!付き合っておられぬわ。此方はもう戻るぞ、そろそろ六限の授業が始まるゆえな」

「ふん、勝手にするがいい。気晴らしも済んだ故、お前なぞにもう用は――」

 畳から腰を上げた心に向けて信長が憎まれ口を叩き掛けた時、不意に異音が生じた。

 信長の懐を発生源として鳴り響いているのは、携帯のバイブレーション。

「……っ!」

 その瞬間、見逃しようもない明確さを以って、空気が変質した。

 信長の纏う雰囲気は一挙に張り詰め、呼吸を妨げる程の鋭利な緊張感が室内に充満する。心が息を呑んで見守る中、信長は氷のような無表情でゆっくりと携帯を取り出し、耳元に運んだ。

「……。……成程、やはり――動いたか」

 淡々と紡がれる言葉には、血が通っていなかった。滾る憎悪を強いて押し殺したかのような、不自然なまでの冷徹さを帯びた重苦しい声音で、信長は電話越しの相手と対話を続ける。心は立ち尽くしたまま、あたかも別世界の出来事を観るような心地でその様子を見詰めていた。

「――否、その必要は無い。但し、備えは怠るな。……然様、可能性としては起こり得る。その場合の指示は、追って下す。引き続き、監視を続けろ」

 冷酷な声で下した指示が、会話の終了を告げる合図であったらしい。

 信長は携帯を畳んで懐に戻すと、そのまま立ち上がった。

「心。教室に戻るのであれば、教師に伝えておけ。俺は所用の為に早退する、とな」

 惑わず、迷わず。心を真っ直ぐに射抜く信長の目からは、既に逡巡は跡形も残さず消え失せていた。其処に宿っているのは、苛烈な激情と強固な信念の色。弱さを乗り越え強さへと至った証が、闇色の瞳に煌いている。自身の見定めた道を誰にも憚らず突き進む、心が見慣れた男の姿がそこにあった。

「お前……」

 結局、心は彼の抱えた事情を知る事は叶わなかった。理由も、目的も何一つとして判らない。だが、彼はきっと誰にも譲れぬ何かを賭けて、己の戦場に赴くのだろう。それだけは、心にもはっきりと解った。ならば――クラスメートとして、朋友として、自身の為すべき事は只一つだ。

「フン、お前が何処で何をしようが知った事ではないが……まあ一応、由緒正しき不死川の息女たる此方が武運を祈っておいてやるのじゃ。くれぐれも、此方の友という高貴な肩書きに恥じる真似だけはしてくれるでないぞ、信長・・

「――くく、莫迦め。下らぬ気遣いは無用だ。俺を誰だと心得ている?」

 傍若無人に嘯くその姿は、まさに傲岸不遜の権化。

 川神学園に属する人間ならば例外なく思い描くであろう、暴君・織田信長の顕現だった。

「記憶しておくがいい、不死川心。俺の往く道に、挫折の二字は無い」

 不敵な返答を最後に残すと、信長はもはや心を一顧だにせず去っていった。

 踏み出した足取りに躊躇いはない。結局、何を思い悩んでいたのかも知らないが、その命題が何であれ、信長の中で答は既に出されたのだろう。

 その行程に果たして自分が貢献したのか否か、実際の所は判らないが――まあこうして友の出立を見送る事が出来たのだから、ここに来た意味は確かに在った。その事にだけは、間違いはない。

「はぁ……」

 第二茶道室に独り残された心は、暫く先程の遣り取りを反芻してから、大きな溜息を落とした。

「全く。進級以来、初めての遅刻じゃの……。織田の奴め、この貸しは高く付くぞ」

 恨めしげな呟きを聞く者はいない。

 見上げたスピーカーより無情に鳴り渡るチャイムの音が、授業開始の合図を告げていた。

















「なぁ、若。本当に、良いのか?」

「……少なくとも、“善く”はないのでしょうね。そしてそれこそが、私の為すべき事だ。そうでしょう、準?」

「正直気が進まない――って言っても、止める気はないんだろ?だったら着いてくまでさ、どこまでもな」

「僕も僕も~!地獄だって、三人で落ちれば楽しいに決まってるもんね?置いてけぼりはイヤだよ~」

「ふふ、ありがとうございます、二人とも。……さて、それでは――“悪”を為すと、しましょうか」




 













 今更ですが、主人公はツンデレです。自覚が無い辺りも含めて割と典型的なタイプで、実を言うとゲンさんをどうこう言える人種ではありません。類友です。
 今回は話の舞台がだらけ部部室という事もあってダラダラした会話に終始しましたが、次回からは話が動く予定です。それでは、次回の更新で。
 
 そういえば、遂に人気投票の結果が出ましたね。毎日欠かさず投票していた身としては結果に対して色々と感想はあったのですが、まさかの橘さんが六位のインパクトに全て持っていかれました。よもやたったあれだけの出番でメインヒロイン以上の票を集めるとは恐るべし。思っていたよりもアニメ効果は大きいのだろうか。ただ正直彼女に関してはアニメとゲームで割と別人な気も(ry   



[13860] 愚者と魔物と狩人と、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:4a3db374
Date: 2013/10/20 01:32
 神奈川県川神市川神区、堀之外町。

 日本国内でも最大に近い規模を有する歓楽街であり、絶えず退廃と享楽が入り混じり蔓延する混沌の魔窟。その実態は、歪な在り方故に社会に受け入れられず、また自らも社会を受け入れられない、所謂人間失格の烙印を押された輩の吹き溜まりだ。

 昼夜を問わず年中無休で魑魅魍魎の跋扈するこの街には、一本の線として構造の中核を為す通りが存在する。メインストリート、親不孝通り――呼び名の由来は語るまでもないだろう。敢えて言葉を加えるとすれば、この通りにて日常的に雑踏を形成する無法者達は、“親不孝”などという生易しい言葉で済ませられる程に良心的な連中では断じてない、と言う事か。モラルとマナーに唾を吐き散らして憚らない、人を人とも思わぬ外道の類こそが、堀之外の住人としてはむしろ一般的な存在だった。

 そして現在、その親不孝通りの一画にて、奇妙な異変が生じていた。遠慮の欠片もなく吐き捨てられたガムやらタバコの吸い殻やら、そういった類の生々しい汚濁の染み付いた街路の片隅。本来ならば絶え間なく雑踏が生じて然るべき歩道に、不自然な空白地帯が発生している。

「くく、くくくく」

 空白の中心には、一人の男が立っていた。乱雑に伸ばされた黒の長髪と、鍛え上げられた屈強な肉体が目を惹く、恐らくは二十に届くかどうかといった年齢の若者だ。あろうことか、男は歩道の中央にて傲然と足を止め、携帯電話の液晶へと視線を落として、傍若無人に笑い声を洩らしている。言うまでもなく、男の行為は歩行者の通行を堂々と邪魔するものだった。

 しかし――誰一人として、その振舞いを咎める者は居ない。どころか、歩行者達は一様に足を止めて、男の傍を通り抜ける事すら忌避している様子だった。血の気が多く日頃から喧嘩の理由を探し歩いているような粗暴の輩ですら、あたかも主人に「待て」を言いつけられた忠犬の如く畏まって、神妙に硬直している。

 そんな傍目には異様としか形容出来ない光景は、しかし当事者としてその場に居合わせた人々にとっては在るべき必然でしかなかっただろう。確かに礼儀を知らない若造がマナーに唾を吐きかけたならば、暴力にて矯正させるのが堀之外のルールではある。だが――血に飢えた猛獣が歩道の中心に居座っていたならば、それに触れて肉を食い千切られるリスクを避けるのは人として当然の選択だろう。

「くくく、はははっ!ハハハハハハハハハハハハァッ!!」

 威圧的な凶相に歓喜の念を滲ませ、全身を瞬く間に充たした抑え切れぬ昂揚に任せて、男は誰に憚る事もなく天地へと咆哮する。明らかな暴虐の意志に溢れた音響が街を駆け巡り、住人達の息吹を数瞬ほど停止させた。

 男の名は、板垣竜兵。策略も謀略も介在しない、只管に純粋な暴力のみを以て堀之外に君臨する、野獣達の王。正しく、猛獣と呼ぶに相応しい存在だった。竜兵はひとしきり歓喜の笑声を上げてから、愉快げな笑みを湛えたまま携帯電話をポケットに突っ込んだ。

「くくっ、やはりマロードは最高だ。アイツは俺のヤリてぇことを理解してる」

 アイツとの出逢いはやはり運命だったらしい、と頭の中で都合数十回目になる再確認を行うと、竜兵は何事も無かったかのように歩みを再開した。先程の連絡によって足の向かう先は変わったが、差し当たっての進路に変更はない。恐れを成したように道を空ける歩行者を傲然と睥睨し、気を抜けば勝手にスキップでも始めそうになる気分を抑え付けながら、竜兵は上機嫌に歩を進める。

――板垣竜兵は、誰の目にも明らかに、歓喜していた。

 心中の喜悦と昂揚が惜し気もなく表情に顕れており、獰猛極まりない好戦的な笑顔を形作っている。そこに在るのは来るべき闘争への確かな予感と、弾けるような期待。戦闘狂と称される人種に特有の、獣じみた野性の相貌である。

「くく……、あぁ、待ち切れねぇ。待ち切れねぇぞ、シン……!」

 狂熱に浮かされたかのような表情で、竜兵は想い人の名を呟く。

 シン。信長。織田信長。板垣竜兵の幼馴染であり、超える事を心より欲した唯一の“雄”。

 昔年の出逢いにて一方的な敗北を喫して以来、竜兵の胸中には常に彼の存在があった。幼少の折から己の力を信奉し、振り翳す事で周囲を従え続けてきた竜兵は、やがて妹の問題を巡って信長と対峙し、そして生涯で初めての決定的な敗北を体験した。同年代はおろか年長の雄達の中においても最高位の格付けを為され続けてきた竜兵は、格上の獣の出現に巨大な衝撃を受ける。それが現在にまで至る、信長という男への執着の始まりだった。

 闘いたい。闘って闘って闘って、そしてあの森羅万象を冷然と見下すかのような闇色の双眸に、自身の存在を刻み込んでやりたい。

 信長は、強い。竜兵は自身が強者であると断じ、己の実力に絶対的な自信を抱いているが、しかし同時に誰より信長の力を認めてもいる。あれはモノが違う、と。決定的に異質な、悪魔の如き武力。それは竜兵の姉妹達と同様、或いは彼女達よりも遥かに深い領域――壁を越え、人外の域へと至った存在の証。信長という男は、かの釈迦堂刑部に近しい種類の怪物なのだと、そのように認識し理解している。

 だが、それでいて尚、竜兵の闘争心が衰える事はまるで無かった。むしろ胸中にて燃え盛り煮え滾り心を焦がす熱情は、信長を知れば知るほどに勢力を増していった。小中時代の他愛ないじゃれ合いや、二年前のような予定調和の仕合い如きでは物足りない。互いの肉を破り、骨を砕き、血潮を浴びせ合う――魂の総てを曝け出す“死合い”、それこそが竜兵の望みだった。死力を尽くして喰らい合った末、最後に立っていた者こそが、真に王者として君臨するべき雄。相応しいのは誰か……其れを、証明したい。長年に渡って有耶無耶に誤魔化されてきた問題に、今こそ明確な解答を与えてやりたい。

 勝算など無くてもいい。称賛など無くてもいい。

 板垣竜兵が胸に抱える想いはいつでも、飽くなき死闘への欲求でしかなかった。その常軌を逸した熱烈なる情動は、或いはある種の恋愛感情と呼んでも差し支えはないのかもしれない。少なくとも今この瞬間、竜兵は一人の男の事を想い焦がれていた。鼻歌交じりに親不孝通りを闊歩するその足取りは、あたかもデートの待ち合わせ場所に向かう乙女の如く浮付いている。知らせてやれば姉妹達も喜ぶだろう、と思えば、ますます足取りは軽くなった。何せ織田信長と板垣一家は幼き頃より、家族ぐるみの付き合いを続けてきたのだ。血みどろの死闘によって雌雄を決したいと熱望しているのは、誰もが同じの筈。

「マロードには感謝しねぇとな」

 わざわざデートのセッティングを行ってくれたのは、竜兵のもう一人の想い人である。先程のマロードからの連絡によって、竜兵はまたとない好機の到来を知る事が出来た。彼の指示に従えば――まず間違いなく、信長は動くだろう。一切の加減なく、一切の容赦なく、魂が震えるような真の殺意を引き連れて、竜兵の前に現れるだろう。その時にこそ、竜兵の切望はこれ以上ない形で果たされるのだ。終わりに待っているのが喜悦であれ破滅であれ、最終的に得られるモノの価値は何一つとして揺るがない。ならば、何を悩む事があるだろうか。この身を駆り立てる欲望に素直に従い続ければ、それだけで世界は楽園だ。内より際限なく湧き上がる昂揚の念に、竜兵はぶるりと身を震わせた。

「あァくそ、興奮が収まらねぇぞ……このままじゃ本番まで我慢できねぇ。仕方ない、少し発散するか」

 呟いたそのタイミングで、竜兵の眼前を一人の人間が通り過ぎた。やや童顔で不健康な顔色の若者。有り余る反骨心に任せて授業をサボタージュし、真昼間から街に繰り出す不良学生の典型といった風情の平凡な少年の姿を、竜兵は数秒ほど舐め回すように見つめた。そして、怖気の走るような捕食者の笑みを浮かべ、大股に少年へと歩み寄る。獣の気配を感じた少年が顔を強張らせた時には、既に手遅れだった。

「お前でいい。少し俺の気晴らしに突き合って貰うぞ」

「ひっ!?な、何だよアンタ――」

「くくく、そう怯えるなよ。まあ話はそこの路地裏でしようぜ。なに、無駄に暴れなけりゃすぐに終わらせてやるさ」

 事態の危険性を悟った少年が駆け出すよりも先に、竜兵の剛腕が恐ろしいまでの膂力でその肩を抱いていた。必死の抵抗を試みても身体は動かず、悲鳴を上げて周囲に助けを乞うたところで救いの手は差し伸べられない。天にも人にも見放された哀れな少年は、瞬く間に陽光の届かぬ路地裏へと引き摺り込まれていった。

 そして、時を経ずして暗闇に木霊する悲痛な叫びもまた、単なる環境音の一つとして街の喧騒へと呑み込まれていく。

 弱肉強食――強者が喰らい、弱者が喰らわれる。原初のルールに従って織り成されるのは、自由で残酷な混沌の風景。魔窟の住人にとって、天国と地獄は常に表裏一体だった。











――どうにも、気に入らない町だ。

 眼下に広がる雑然とした街並みを一望しながら、女は正直な感想を口の中で呟いた。

 堀之外町、親不孝通りを構成するパーツの一つ、廃棄されて久しいとあるビルディングの屋上。薄汚れたコンクリートの床を踏みしめ、冷たい無表情で佇んでいるのは、一人の女だった。紅の長髪と白い肌のコントラストが否応なく人目を惹く、年若い外国人女性。整った顔立ちに加えてスレンダーな肢体、更には豊かなバストの持ち主――となれば、是非ともお近付きになりたいと欲する男性は枚挙に暇がないだろう。もっとも、実際に彼女と対峙した時点で、そのような下心が微塵も残さず消し飛ぶ事になるのは確実だった。髪と同じ紅の色が火焔を連想させる苛烈な双眸と、豹にも似た肢体を覆う漆黒の軍服が、属する“世界”の違いを何よりも雄弁に思い知らせる。

 ドイツ連邦軍特殊部隊所属、マルギッテ・エーベルバッハ少尉。“猟犬”の呼び名で戦場に名を馳せる武人が、戦意と軍装に身を包み、己が得物を携えて佇んでいる。その事実が意味するところは只一つ――即ち、紛れもない戦火が間近に迫っているという事だった。

 事実、マルギッテがこの場所に足を運んだのは、自身の駆ける“戦場”を少しでも詳細に把握する為だった。周囲一帯の地図は既に頭に叩き込んであるが、最も信頼出来るのは自らの耳目で見聞した情報に他ならない。故に先程からマルギッテは鋭く細めた隻眼を炯々と光らせ、周辺地形の確認に努めていた訳だ。その作業も今しがた完了し、そして不意に浮かび上がってきた所感こそが、口を衝いて出た“気に入らない”の一言であった。

 この町を覆う空気は、どうしようもなく淀んでいる。喧騒に満ちてはいても、活気が不在だ。擦れ違う誰も彼もが救えない下衆の目をしている。爽やかな春風すら、この町を吹き抜けた途端に不快な生温さを運んでくるような錯覚を覚えた。平和さと豊かさでは有数の水準を誇る先進国の日本であるにも関わらず――この土地に蔓延する饐えた空気は、かつて任務にて訪れたスラム街の情景を想起させる。理性と規律の枷を取り払えば、ただそれだけで人間は獣へと成り下がるのだと、そんな教訓を忘れ得ぬ記憶と共にマルギッテに植え付けた情景を。それがどうしようもなく不愉快で、気に入らない。

 そして何よりもマルギッテを苛立たせているのは、こうして自身の眼前に存在するだけで不快な毒々しい町並みが、あろうことか私立川神学園の目と鼻の先の地点に位置しているという事実であった。命を賭して心身を守護すべき“お嬢様”がこの腐臭に溢れた魔窟と関わりを持つような事は、断じて在ってはならない。彼女に降り掛かる直接的な身の危険は、自身を含めた軍事力によって力尽くで排除出来るとしても――姿なき悪意から形なき心を守る事は難しいだろう。或いは堀之外と云う区域の在り方に触れる事そのものが、彼女の純粋無垢な精神に悪影響を与えかねない。これは何としても対処を講じねばならないだろうな、とマルギッテは心に刻み付けた。

「……川神、か」

 上官たる中将より緊急の任を請け、碌な事前調査の時間も得られないままに訪れた異国の地。

 来日してから実質的に未だ一日と経っていないにも関わらず、マルギッテはこの地で既に幾多もの想定外に遭遇していた。堀之外と云う危険区域の存在は、それらの中の一つに過ぎない。任務遂行の効率を考慮した結果、本日より学生の一人として通う事になった川神学園――その敷地内にて起きた各種の出来事は、未だ記憶に新しい。生々しく、鮮烈に、焼き付いている。

 監視対象たる織田信長とのファーストコンタクトに、戦友とも言うべき“女王蜂”との再会。規格外の暴威を露にした信長との衝突に、新鋭の武人たる明智音子との決闘。

 そして――森谷蘭の、凶行。

「……」

 否応なく脳裏に蘇る苦々しい情景に、ぎりり、とマルギッテは歯を軋らせた。自身を縛る眼帯の枷を解き、正真正銘の全力を以て闘いに臨んだにも関わらず、不覚を取ったのだ。独力では“お嬢様”の身を護り通す事すら適わず、無造作な一太刀を以て土と屈辱に塗れさせられた。なんという無様か――マルギッテは己の不甲斐なさに憤る。与えられた任を全うせずして、栄誉ある将校服をその身に纏う資格などあるものか、と。元より少なからず短気で激しやすい性格の持ち主なのだ。表面上こそは一見して冷静沈着に映るが、マルギッテの内心は抑え難い烈火の怒りで荒れ狂っていた。

 一方で、彼女の内面に独立して存在する冷徹な部分、職業軍人としての凍て付いた理性は、感情に揺るがされる事無く思索を行っている。その内容は、新たに下された任務について。即ち、件の剣鬼に関する情報の整理だ。

 織田信長の従者、刀遣いの少女、森谷蘭。決闘の前から危うい雰囲気を醸し出していたが――闘いの最中に曝け出した本性は、想像を遥かに超えて危険極まりないものだった。長年を戦場で過ごしてきたマルギッテですら戦慄を禁じ得ない程に、少女の中に潜む魔物は兇悪な存在だったのだ。伽藍堂の空虚な器へと殺意と狂気だけを流し込んだかのようなソレは、あたかも醜悪な殺人人形。夢も希望もなく、意志も理念も善悪もなく、只々眼前の生命を滅殺する為だけに、壊れるまで動き続ける魔物モンスター

 そしてマルギッテ・エーベルバッハは、そういった存在・・・・・・・を、知っている。

 新兵時代、十代の頃に赴いたとある紛争地域にて、自らの属する狩猟部隊の意義に従って一つのテログループを殲滅した際の事だった。当時から傑出した武力を誇っていたマルギッテの活躍によって追い詰められたテロリスト達は、最後の足掻きとばかりに最低最悪の“切り札”を戦線に投入する。それは、思い返すだけで胸糞の悪くなるような非道の末に戦闘機械として“調整”された、年端もいかぬ少年少女の集団。サイズの合わない凶器を携えて襲い来る彼らの空虚な目と、終えるにはあまりにも幼い命の数々を自らの手で断ち切った感触を、マルギッテは今でも忘れられずにいる。欲望が人を獣に堕とし、狂気が人を魔物に変じさせる無惨な光景を――忘れられずにいる。

 森谷蘭の変貌を目の当たりにした時、マルギッテは総身を走る慄然とした感覚を味わうと同時に、脳髄に染み付いた忌わしい記憶をまざまざと思い起こす事となった。道具として使い捨てられたあの哀れな子供達と、眼前で刃を振り翳す年若い少女の在り方が、どうしようもなく重なって見えたのだ。勿論、かつて吐き気を催しながら已むなく手に掛けた彼らは、あれ程までに常軌を逸した力を備えてはいなかったが。

 マルギッテは闘争を愉しまずにはいられない戦闘狂としての己を自覚しており、決して別つ事の出来ないサガとして受け入れていた。強者が視界に入るだけで血が滾り、意識しない内に全身の筋肉が戦闘態勢へとシフトしそうになる。優れた者を己が手で叩き潰す事で、自身の比類なき優秀さを再確認したくて堪らなくなる。学園にて川神百代や織田信長といった規格外の武人を目にした瞬間、湧き上がる昂揚を抑えるのに苦労したものだった。

 そんなマルギッテですら――あの虚ろな少女、森谷蘭と“闘いたい”とは、まるで思えなかった。確かに、彼女は強い。疑いを差し挟む余地もなく、強者の条件を満たしていると言えるだろう。しかし、血は湧かず肉は踊らない。むしろ逆だ。一秒でも長く少女と相対すればするほどに、比例して心身が冷え切っていく様な薄ら寒い感覚に襲われていた。それは果たして少女の有り様が忌むべき記憶を喚起するからなのか、或いは度を過ぎた脅威を前に武人の本能が警告を発しているからなのか。何れであったにせよ、彼女の危険性は凄まじい。

 そう。だからこそ、このまま野放しには出来ない。何よりも優先すべき“お嬢様”の平穏を護る為にも……危険因子は、総て排除しなければならない。例えその行いが、護られる当人の望みに反していたとしても、だ。

『自分は、騎士なんだ!もう守られるだけのお嬢様じゃない!』

 気高い心と誇り高い魂を持つ彼女は、マルギッテがこれから為す事を喜びはしないだろう。経緯を知る事があれば、余計な世話だと憤るかもしれない。姉として慕ってくれる事も、騎士として頼ってくれる事ももはや望めなくなるのかもしれない。そういった悲観的な思考が脳裏に浮かび上がった瞬間――マルギッテは強く瞼を閉ざし、軍人としての冷徹な判断の下に、一切の想念を心奥へと封じ込めた。

「……」

 より確実な任務の達成の為には、余計な感傷など障害としか成り得ない。課せられた役割を完璧に遂行する為にこそ、あらゆる思考能力は費やされるべきだ。模範的な軍人であると云う事は、我を殺す事と同義。目的を果たす為に情を捨て、殺意と共に刃を振るう戦闘機械たるべきは、むしろ己の方なのだから。

疑惑も不要。葛藤も不要。

「忘れるな。私は、“猟犬”だ」

 厳かな叱咤の声と共に、心に渦巻く雑念を、機能を阻害するノイズを払う。数秒の黙想を経て、マルギッテは目を見開いた。

 焔にも似た紅瞳の内には、氷にも似た冷酷さの他には如何なる感情も窺えない。晴天の下に広がる褪せた灰色の街並みへと今一度視線を向けてから、狩人は鉄火の気配を纏い、冷然と踵を返す。

――狩りを、始めよう。

 誰に向けるともなく紡がれた言葉は、軍靴がコンクリートを打ち鳴らす硬質な音色を引き連れて、やけに冷たく空気を震わせた。

 









 屋上へと続く扉を開け放った途端に、爽やかな春風が肌を撫でた。何気なく見上げた空は俺の心中とは裏腹に暗雲の見当たらぬ快晴で、天上から降り注ぐ穏やかな陽光が何とも心地良い。平時であればこのまま備え付けのベンチに寝転がって昼寝と洒落込みたくなる所だ。

「ふむ。思えば、足を伸ばした事は無かったか」
 
 入口からぐるりと周囲を見渡して、一人呟く。入学数週間目にして初めて訪れる私立川神学園の屋上は、中々どうして素敵な空間だった。不足なく設置された休憩用の青ベンチや、百貨店に良く見られる動物を象った乗り物の存在から考えても、元より憩いの場として利用される事を想定した設計が為されているのだろう。花壇には色彩豊かな花々が咲き乱れており、人工的な殺風景さを感じさせない工夫が施されている事が分かる。この場所が生徒達の間で人気スポットとして扱われているのも納得であった。そして――成程、いかにも我が第二の直臣が好みそうな場所でもある。

「さて。しかし、姿が見えないな」

 屋上なう、との簡潔窮まる連絡をつい先程に寄越してきた筈なのだが、こうして見る限りは周辺一帯に人影そのものが無い。つい今しがた六限の授業が始まったところなので、生徒達の姿が見受けられないのは当然だが――しかし奴にとってそんな事は無関係の筈である。

「……」

 数秒ほど思考を巡らせ、次いで視線を周囲に巡らせる。

 さて、猫という生物はその警戒心の強さから高所を好むと云う。更に加えて述べるなら、連中は周囲からの攻撃の危険性を少しでも減らすために、狭く暗い場所へと潜り込む習性を有している筈だ。これらの諸要素を考慮した上で、事前知識も踏まえて奴の居場所を推察するのであれば――成程、あそこか。正解は恐らく、この川神学園の敷地内に於いて最も高所に位置する地点。すなわち、屋上に設置された高置水槽の上へと視線を向ける。

 無駄に手間を掛けさせてくれるものだ。俺は小さく溜息を吐いてから、そこへと到るべく梯子を昇り始めた。その最上段から身を乗り出して、貯水槽の内側を覗き込む。案の定、俺の読みは正しかったらしく、問題のターゲットは其処に居た。

「あーらら、見つかっちゃったかぁ。隠れ家としてはイイ線いってると思ってたんだけどなぁ。こんな風にあっさり辿り着けちゃうんじゃ、ちょっと考えを改めなきゃかもね。反省反省」

 適度に狭く、適度に暗く、そして外側からは確実に視界に入らないデッドスペースに、明智音子はちんまい身体を柔軟に丸めて潜り込んでいた。そんないかにもネコ科チックな姿勢のまま上目遣いでこちらを見上げて、悪戯っぽくニシシと笑う。

「お前が主に反省するべき点は別にあるだろうが莫迦め。わざわざ主君をこんな辺鄙な場所まで登らせるとは何事か」

「まーまー、お堅い事は言いっこなしだよ。それにほら、いい気分転換になったんじゃないかな?ほら、ご主人って何だか高い所好きそうだしさ」

「ほう。俺は今まさに、従者に喧嘩を売られている真っ最中と認識するべきなのか?くく、成程成程、いい度胸じゃあないかネコよ」

「あーいやいやそれは誤解だよ、早合点しないでってば。他意はないんだ、ただ天上天下唯我独尊!って感じのご主人の性格を考えると、学園全体を見下ろせるこの場所が気に入るかなと思っただけさ」

「それはそれで心外だな……言っとくが普段のアレはあくまでキャラ作りの結果だ。本来の俺とは何の関係もないぞ」

「うん?うーん。ま、そういう事にしておこうかな」

 何やら意味深な含み笑いを浮かべながら、ねねは軽薄な調子で言葉を続けた。

「でもアレだね、こうも容易く居場所を突き止められるって事は、それだけご主人が私の事を良く分かってるって証拠だよ。私達はいつも以心伝心ってね。うんうん、素晴らしき主従の絆だ。口を開けば毎回ツンツンしてるけど、実はご主人ってば私のこと大好きなツンデレ男子だもんね、仕方ないね」

「はっ、何をほざくかこの莫迦は。事もあろうにこの俺がツンデレだと?そんな訳がなかろうが。全く、何を的外れな妄言を垂れ流してるんだかな。お門違いもいいところだ、馬鹿馬鹿しい。勘違いするなよネコ」

 ツンデレとは即ち源忠勝の肩書きである。幼少の折から既に完膚なきまでに完成し尽くされたツンとデレの絶妙なる黄金比、あれこそが唯一無二の“本物”なのだ。かの究極的絶対存在を眼前に人生を過ごしてきたこの俺が――どうしておこがましくもツンデレを名乗れようか、いや名乗れはしない。

「くふふ。私、ご主人のそういうところは結構好きだよ。客観的な自己診断ってホントに難しいもんね。うん――やっぱり、私とご主人は似た者同士だ」

 くすくす、と可笑しそうな声を漏らしながら、ねねは身体を起こした。そのまま貯水槽の縁に足を掛けると、一瞬の躊躇いもなく跳躍する。小柄な身体が青天の下に翻り、数秒の滞空を経てから、眼下に広がる屋上へと華麗に降り立った。下からこちらを見上げて、ねねは破顔しながら愉快げに口を開く。

「さぁさ、そんな所で突っ立ってないで早く降りて来なよ、ご主人。You can fly、だよ」

「無駄な流暢さを発揮してくれたところを悪いが、生憎とI cannot fly、と返させて貰おう。残念ながら俺には翼が生えてないのさ。色々な意味で軽々しくは飛べないな」

 此処から屋上との距離、目算にして約十メートル以上。例え人並み以上に身体を鍛えているとは言っても、何の意味もなく勇気を試す気にはなれそうもない高度だった。と言う訳で俺は大いなる文明の利器たる梯子を伝って一歩ずつ高度を下げ、安全の内に屋上へと降り立った。

 俺がそうこうしている間に、ねねは場所を移していた。屋上を囲うように張り巡らされた転落防止用のフェンスへと前屈みに凭れ掛かって、遠くの景色を見遣っている。こちらに背を向けているので、顔は見えない。本当に景色を見ているのか、俺には判らない。ただ――その背中は、何時にも増して、小さかった。

「……」

 ああ、全く以って仰る通り、俺とお前は滑稽な程に似た者同士だ。辛さを誤魔化そうと無駄口を叩き、苦し紛れの嘘を吐く。そうする他に、心身を焦がす痛みに耐える方法を知らない。それは、あらゆる懊悩を独りで抱え込み続けてきた人間が必然として到る、どうしようもない悪癖だ。何よりも性質が悪いのは、自身の対応を悪癖の類だと明晰に自覚しながらも、己の意志の下ではまるで改められない事だろう。意識の根本に染み付いた在り方は、無様に歪みながらも、憎らしい程の強固さを以って定着している。それは誤魔化しようもなく逃れ得ない事実だ。

 だが――だからこそ・・・・・、俺は、お前に。

「うん。やっぱりそうだ。案の定。ご主人ってば、もう覚悟完了、しちゃったみたいだね」

「……ねね」

「目は口ほどに物を言う、ってのは正しく真理だね。多分、今のご主人の顔を見たら、私じゃなくてもある程度は分かるんじゃないかな。くふふ、自分の眼がおっかないくらいにギラギラしちゃってるの、ご主人は自覚してる?」

「してるさ。少なくともそう錯覚する事ができる程度には、自覚している」

「だろうね。……やれやれ、相も変わらず果断即決もいいところだよ。ホントにもう、参ったなぁ」

 参ったよ、と自嘲的に繰り返して、ねねは力ない笑声を漏らしながら肩を震わせた。こちらを振り向かないまま、殊更に陽気な口調で言葉を続ける。

「ま、何たったって私のご主人だもんね。一時間もあれば答えを出すには充分過ぎる、か。いつまでもグダグダ悩んでウジウジ落ち込んでるなんて、全然これっぽっちも似合わないよね。うんうん、それでこそマイマスターだ。いよっ、男の鑑だよ御大将!天下取りも夢じゃないね!」

「前々から思っていたが、何かにつけて地雷原でチキンレースするのはお互いの為に止めるべきだな……。まあ、それはともかくとして――お前の目は正しい。お前の言う通り、俺は既に決断を下した。五里霧中は過去の話、俺にはもはや惑いはない」

 何と言っても、よりにもよってかのお気楽能天気なタカビーお嬢様にまで激励されてしまったのだ。流石に延々と迷い続けている訳にもいかないだろう。その件を抜きにして考えても、事態は急を要する。いずれにせよ、悠長に思索を続けていられるような時間は俺には与えられていないのだった。故にこの決断は、俺にしてみれば何ら特別なものではなく――所詮は在るべき必然でしかない。しかし、少なくとも我が従者とってはそうではなかったのだろう。ねねは小さく溜息を吐いて、ぽつりと呟いた。

「やっぱさ。ご主人は、強いね」

「そうか?」

「強いよ。羨ましいを通り越して妬ましい位にね。だってご主人、諦めてる訳でも誤魔化してる訳でも投げ出してる訳でも逃げ出してる訳でもなくて……割り切ってる、でしょ?そんなの、どう考えたって弱っちい人間には出来っこないさ。ましてや――ランの事なんだ。何年も何年もずっと一緒に暮らしてきた家族のこと。そんなシリアスな問題を前に、こんなに早く明瞭な答が出せるなんて、私だったら到底無理だろうね。だからやっぱり、ご主人は強いんだよ」

「ふむ。成程、そういう考え方もあるか」

 まあ個人的な見解を述べさせて貰うならば……“これ”は強さなどという概念とは何処までも程遠いのだが。しかし、俺はねねの言葉を肯定せずとも、否定もしなかった。どう足掻いたところで、真実は主観の数だけ存在するものだ。仮に全ての人間が同一の認識を共有できるなら、この世界はさぞかし平和だっただろう。それに他ならぬ俺自身、自己を冷静に客観視出来ているなどと思い上がってはいない。

 俺はねねの傍へと歩み寄り、小柄なシルエットと並ぶようにしてフェンスに背中を預けながら、おもむろに口を開いた。

「学長――川神鉄心と、話を付けた」

「……」

 決闘の直後、学長室にて交わされた遣り取りを反芻しながら、淡々と言葉を続ける。

「一日。それが俺に与えられた猶予だ。今日という日を終えれば、この一件には学園が、いや、川神院が介入してくる。そうなればもはや事態は収拾が付かなくなるだろうな。正直な所、俺には未来が視えない。何が起きるのかまるで予測不可能だ。いやはや全く、実に恐ろしい話だな」

「未知は最大の恐怖、だもんね。でもご主人、一日も待って貰えるなんて破格の待遇じゃないか。一日って事は二十四時間だよ?この事態と川神院の性質を考えれば、今すぐに動き始めても何ら不思議はないハズなのに。どんなあくどい詐術を使ったのさ」

 今回の一件、結果だけを抜き出して見れば、傷害事件、ですらない。誰一人として傷を負ってはいないのだから。しかし――マルギッテの挺身が無ければ、クリスは確実に脳天から両断されていた。川神鉄心の介入が無ければ、間違いなく明智ねねの首は胴体から離れていた。闘いの内に身を置く武人の目から見れば明白な、誤魔化しようもない灼熱の“殺意”が蘭の剣には宿っていたのだ。そして普通ならば、自らの管轄内でそのような振舞いに及んだ生徒を、川神院が看過する道理などない。

 そう、普通ならば。それはそのまま、現状の異常さを如実に示している。

「詐術とは心外な物言いだな。俺はただ、少しばかり真面目に、真剣な話をしただけだ」

 やはりと言うべきか、川神鉄心は“森谷”の名を知っていた。その狂気的な在り方と業の深さを、ある程度の領域まで知識として保有していた。もしあの翁にそれらの事前知識が無ければ、今頃は話が随分と拗れていたのは疑いない。唯一この点に限っては、相手が武の化身たる川神院総代で良かった、と自身の幸運に感謝すべきだろう。

「一日。一日、か」

 真剣な顔で思案しながら噛み締めるように呟いたねねに、俺は重々しい頷きを返した。

「そう、たったの一日だ。――だから俺は、迷ってなどいられない。誰が何と言おうが、決着は俺自身の手で付ける。最初から、それだけは心の中で定めていた。武神だろうが何だろうが、無関係な連中に余計な横槍を入れさせてたまるものかよ」

 それは遥かな昔日にて、自身に課した誓約。いわば決定事項だ。果たさぬなどと言う事は有り得ない。だからこそ、織田信長は躊躇い惑い躓き悩み逡巡しながらも、立ち止まる事だけは赦されない。この身を縛り上げこの心を駆り立てる想念に従って、俺は道を定めた。即ち――

森谷蘭をどうにかする●●●●●●●●●●のは、俺だけの役目だ。誰かに譲る気は毛頭ない。ただ、それだけの事さ」

 森谷蘭の狂乱に対して何かしらの責を負うべき人間が居るとすれば、それはこの俺に他ならないのだから。返り血であれ己の血であれ、浴びるのは俺一人で充分だった。どの道もう既に、この両手は清々しい程に血塗れだ。今更、汚す事を厭う理由は無い。

「だからな、お前は―――」

「はいは~いミニストップ。今からご主人が言おうとしてるコト、当ててみせよっか」

 奇妙に朗らかな声が、俺の言葉を遮った。彼方の景色を眺めていたねねがこちらに向き直り、覗き込むようにして俺を見つめる。その表情は、どこか苦笑しているように見えた。

「『これは俺の戦だ。無理を推してまでお前が関わる必要はない。ふん、言っておくが別に色々と悩んでそうなお前を心配してる訳じゃないから勘違いするなよ、本調子じゃない奴に足を引っ張られても迷惑だからな』」

 …………。

「……似てないな」

「と言われてもねぇ。ご主人の深淵から響くテラーヴォイスなんて麗らかな乙女たる私には逆立ちしても真似できないってば。と言うかさ、別にモノマネしてる訳じゃないんだから声なんてどうでもいいよ。私としては、ご主人になりきって考え出した内容の方にコメントして欲しいね」

「はっ、そっちに関しても感想は同じだ、全く以って似てない。お前の俺への理解度はそんなものか?」
 
 確かに“織田信長”のキャラは時と場合によってその手の発言をするが、それはあくまで必要性に駆られた演技の結果だ。素の俺がそんなツンデレの典型の如きセリフを吐く訳がないだろうに、何を勘違いしているのだろうかこやつは。

 生憎と俺は、そこまで甘くもなければ優しくもない。平然とした顔で何もかもを背負い、抱え込めるような、そんなご大層な人間である筈は、ない。

「俺が言いたかったのはな、ネコ。“退くも進むも自らの意志で決めろ”――ただそれだけさ。俺は何も強制しない。俺は何も推奨しない。判断の一切合財をお前の意思に委ね、任せる」

「任せる……」

「好きにしろ。お前が望んだ“自由”ってのは、そういう事だろう?」

「……あはは。容赦ないなぁ、ご主人」

 俺の投げ掛けた言葉に対し、ねねは仕方無さそうに笑って見せた。

 自由とは、誰にも強制されないこと。即ち、誰も、強制してくれないこと。

 他者の判断に身を任せるのではなく、常に自らの意志で道を切り拓いていく。先の見えない暗闇へと、自分自身の勇気を標に一歩を踏み出す。他者に支配される事がどうしようもなく安易で甘美だからこそ、他者に支配される事を全霊で拒み続ける。反逆と独立――それが自由と云う言葉の本質だと、俺は考えている。そして恐らくは、眼前の少女もまた、同様だろう。

「それで、どうする?答えを待っていられる時間は、あまり残されちゃあいないぞ」

「待ったなし?」

「待ったなしだ」

「じゃあ、行くよ。私はご主人と一緒に行く。ご主人の、お供をする」

 即答だった。特別に気負った様子も窺わせず、殊更に軽い調子で返答を発したねねに、そうか、と頷く。

 簡潔極まりない返事の裏側で、ねねが何事かを思い悩んでいたのは間違いない。従者の心理状態を正しく把握する為にも、その思考の過程は知っておくべきだったのかもしれないが――俺は敢えてねねを問い質す事はしなかった。訊かずとも大体の所は推察できる以上、言わぬが花。知らぬが仏、と云うものだ。

「……」

 暫しの沈黙を払うかのような風が屋上を吹き抜け、穏やかに髪を揺らす。ねねは数瞬ほど眼を瞑って何事か考えていたが、おもむろに目を開いて、にへら、と不真面目な笑みを零した。

「って言うかそもそも前提として、私が行かないっていう選択肢が存在しないよね」

「ん?」

「だぁ~って、ご主人ってば肉体的に弱っち過ぎなんだもん。こう言っちゃ何だけど、任せてらんないよ。気合と根性で万事がどうにかなるほど世の中ご都合主義じゃないんだからさ。どれだけメンタル強いって言ってもさ、肝心の身体がスペランカー先生レベルじゃお話になんないよねー」

「おい」

 いくら自覚している事とはいえ、泣き所は泣き所。痛いものは痛いのだ。俺の繊細な心を悪戯に傷付けてどうしようと言うのか。全力のジト目で遺憾の意を表明する俺を気にした様子もなく、ねねはからからと笑う。

「それに加えてだよ――今のご主人、本調子からは程遠いじゃないか。例のゲルマン騎士娘が余計なことしてくれちゃったお陰でさ。ぶっちゃけ、客観的に見た限りじゃ詰んじゃってるんだよ。お手上げ侍ってヤツ。これで心配するなってのはちょっと無理な相談じゃないかな?」

「……ああ、確かに。それは、当然の懸念だな」

 未だ全身に伸し掛かる疲労感と倦怠感を改めて噛み締めながら、俺は苦笑した。ここ一時間ほどを思索と静養に割いていたため、“氣”と精神力の双方共に多少は回復しているが……やはり万全とは言い難い。これから臨む局面の困難さを思えば、何とも頼りない有様だ。例え“小道具”を使って補ったところで、どうしても不安は残るだろう。

「ってなワケで黄公覆ばりに有能なこの私がかっちりサポートしてあげるから、大船に乗ったつもりでいてモウマンタイだよ」

「どうにも火攻めで焼沈しそうな大船だな……赤壁的な意味で」

「東南の風にご注意ください、だね。さもなくば一気に焼沈しちゃって意気消沈、なんちゃって~」

「俺は時々お前を箱に詰め込んで観測を放棄したくなるよ。――まあ、それはともかくとして、だ」

 織田信長の第二の直臣、明智音子。いかに馬鹿げていてもいかに巫山戯ていても、その能力の優秀さは保証付きだ。実際に己が手足として活用してきた以上、もはや疑う余地などある筈もない。俺はねねを真正面から見据えて、心底からの言葉を紡いだ。

「お前が居れば心強い。頼りにしてるぞ、ねね・・

「……。……はぁぁ、ご主人はさ。なんというか、卑怯だよね」

 乱世の奸雄も目じゃないくらいに外道で卑劣極まりない鬼畜生だよまったくもう、などと謎の悪態をひとしきり吐いてから、ねねは空を仰いで嘆息した。いまいち意味が判然としない上に、冷静に考えると不敬極まりないリアクションである。ここは主君兼先輩兼飼い主として叱ってやるのが正しい対応なのだろうか、と思考していたところ、ねねは諦めたような顔でもう一つ溜息を落として、ベンチにごろりと寝転がった。

「う~ん。なんかもう色々と面倒になってきたし、お日様は温かいし、春風が気持ちいいし。私、このまま寝てていいかなぁ?」

「ここからプールに放り込んで欲しければ好きにすればいいと思うぞ」

「それは凶悪な殺人予告だよご主人。何といっても私は水深一メートルのプールで溺れられる特殊技能の持ち主なんだから」

「むしろその方法を教えて欲しくなるな……」

「実はね、私の夢は――素潜りでお魚さんを捕まえるコトなんだ」

「人の夢を笑わないのが俺のモットーではあるがな……。とりあえず恩師との再会はどうした」

「夢ってものは幾つあってもいいと私は思うんだ。夢溢れる人生、素晴らしいじゃないか」

「いや、一つに絞らなければそれだけ実現の可能性が低くなるだろうが。常識的に考えて」

「やれやれ、“常識”だってさ。ヤダヤダ、ま~た詰まらないこと言っちゃって。つくづくご主人って夢の無い男だねぇ」

「ハハハこやつめ」

 上手いこと言ったつもりか貴様。

 というか、冷静に考えれば、こんな風に普段同様のグダグダした会話を交わしている場合ではない。悠長な思索に充てる時間は既に終わりを迎え、今は即ち行動の時なのだ。先ほどの大蛇の報告内容を考慮すれば、さほどの猶予は残されていない。無粋な連中に“横取り”されるよりも先に、俺自身がターゲットの下へと赴かなければならないのだから。未だ残された最後の根回しは電話一本で済ませられるものでもなし、そちらに充てる時間も考慮しなければなるまい。

「と言う訳だ、ネコ。気分転換が終わったなら、さっさと――」

「おっと、またまたミニストップだよん、ご主人。お客さまだ」

「……何?」

「気配が二つほど、現在進行形でこっちに来てる。猫を被り直すなら今の内だよ~」

 寝転がったまま放たれた、腹立たしいほどに呑気なねねの忠言を受けて、俺は素早く居住まいを正した。完璧な無表情の仮面を被り、総身に凶悪な圧迫感を漂わせ、屋上内の空気を震撼せしめ、そして無言のまま傍のベンチを下から蹴り上げ、未だに横になっていた莫迦従者を起立させる。

 授業真っ最中のこのタイミングで屋上を訪れるという事は、まず間違いなく俺への来客だろう。無関係な不良学生が迷い込む事も有り得なくはないが、まあ今回は無視していい程度の可能性だ。となると、さて、果たして何者なのか。

 数秒後に屋上のドアが豪快に押し開かれる事で、俺はその答えを知った。

「フハハハ、やはりここにいたか!流石に気配探知はお手のものであるな、あずみよ」

「お褒めに預かり光栄でございます英雄さまぁぁあああっ!」

 無駄に喧しい遣り取りを交わしながら屋上広場に足を踏み入れたのは、金色スーツにメイド服という、もはや名を出すまでもなく個人を特定可能な男女二人組。このイロモノ主従の突き抜けたハイテンションにはもはや慣れたものだが、しかしシリアスな会話を交わしている場面にまでこうして乱入されてみると、やはり何と言うか微妙な気分である。そんな俺の心境を汲み取ってくれた訳でもないだろうが、こちらに歩み寄ってくる男――九鬼英雄の表情は、常日頃と比べて幾らか真剣な色を宿しているように思えた。さて、その意味をいかに解釈すべきなのか。

 数秒の後、屋上の中央付近にて、向かい合う。明け透けに過ぎて逆に感情を読み取れない、そんな双眸を冷たく見返して、俺は嘲るように口元を歪めた。

「何用だ?散歩なら他を当たるが良かろう。見ての通り、此処には先約がある」

「知れた事を。我はお前に用があるのだ、ノブナガよ」

「くく。学年の範となるべきSクラスの委員長が、態々授業を抜け出す程の所用か」

「フハハ、自惚れるでないわ!そんな訳はあるまい。世界の九鬼たる我はこれより極東会議へ出席せねばならんのだ。ゆえに早退して支部へ足を伸ばす前に、こうして立ち寄っただけよ」

「ふん。然様か」

 九鬼財閥の御曹司は既に政界進出の一歩を踏み出しているらしい。成程、かの有名な“怪物”こと九鬼帝は後継者の育成に手を抜くつもりはないようである。何とも言えず野心を擽られる話ではあるが、まあそれはそれとして――予想通りと言うか何と言うか、やはり俺に何かしらの用件があるらしい。

 しかし、このタイミングでの“所用”、か。それはまあ、何とも。無言のままにその内容を勘繰っていると、「あずみ」と英雄は短く己が従者の名を呼んだ。声に応え、英雄の後ろに慎ましく控えていたメイドが動きを見せる。

「こんにちはっ!いいお天気ですね☆」

「……」

 戦慄の朗らかさで声を発しながら俺の前へと歩み出た忍足あずみは、ニコリと不気味な笑顔を浮かべてこちらを凝視している。本人としては愛想を取り繕っているつもりなのかもしれないが、俺にしてみれば肉食獣の威嚇の表情にしか見えず空恐ろしい。

 まさか蘭不在の隙を狙って暗殺を試みる気じゃなかろうな、とつい殺気を放出しながら身構えていると、あずみは「さてさて」と前置きを入れてから、笑顔のままに言葉を続けた。

「九鬼従者部隊序列一位、忍足あずみ――英雄さまの命により、あなたに助太刀させて頂きますっ☆」












 まず最初に。気付けば更新がとんでもなく遅れてしまっていた事をお詫びさせて頂きます。ここ最近、とにかく時間が取れなかったり軽くスランプ入ってたりで中々思うように続きを書けませんでした。と言っても現状では特に事態が改善した訳ではないのですが、少なくとも話のキリの良い所までは可能な限り早く書き進めたいと思います。目標は読者の皆さんに前話のあらすじを記憶しておいて頂ける程度の更新速度。

 また、感想欄を拝見した所、信長主従の年齢設定についてご尤もな突っ込みが入っていた件について。
 これは原作が原作と言う事で、登場人物全員十八歳以上だしまあ取り敢えず主人公も十八歳にしとくかー、くらいの適当過ぎる考えで作者が年齢を設定してしまった事が原因です。今になって冷静に考えるとそれは幾ら何でもあんまりなので、作品全体を見直し、年齢について触れている部分を以下の設定で逐一修正する事にしました。

 信長 …… 十七歳。四月生まれ。
 蘭 …… 十七歳。四月生まれ。
 ネコ …… 十五歳。二月生まれ。

 しかし改めて読み返すと、ネコが話によって十五歳だったり十六歳だったり、とにかく色々と(主に作者の脳が)不安定だったという嫌な現実に気付かされますね。或いはまだ修正し切れていない部分もあるかもしれないので、もし気付いた方がいらっしゃったら報告頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。



[13860] 愚者と魔物と狩人と、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:bce377bc
Date: 2012/08/19 23:17
「あー、クソ面倒くせぇな……。メイドってのも楽な仕事じゃねえよなぁホント」

 川神学園2-Sクラス所属、すなわち俺のクラスメートたる女子高生こと忍足あずみは、迷わず背中を向けて全力ダッシュで遁走したくなる程度に不機嫌な調子で、忌々しげなぼやきを漏らした。

 そんな彼女の姿勢と言えば、ベンチの背もたれに深々と体重を預け、クロスした脚の上で傲然と腕を組み、猛禽も真っ青な鋭い目付きで虚空を睨み付けるという、実に貫禄に満ちたもので――それでいて見る者に何の違和感も抱かせない辺りが忍足あずみという人物の個性を雄弁に物語っている。メイド服という反則的に強烈なアイテムですらも、彼女の凶悪極まりない本性を何一つとして誤魔化せていない。気を抜けばついつい“姐御”と呼んでしまいそうだ。

 さて、冗談抜きで戦場帰りの傭兵たる“女王蜂”が被った猫を脱ぎ捨て、かくも堂々と獰猛な素顔を晒している時点で自明の事だが、現在この場に彼女の主人の姿はない。「フハハ、世界が我を呼んでいるのだ!」などと紙一重なセリフを吐きながら颯爽と去っていったゴールデンな背中を思い返して、俺は内心で溜息を吐いた。果たして奴が何を考えているのか、或いは何を考えていないのかは知らないが、何とも物騒な爆弾を置き土産に残していってくれたものである。

「いやぁ、それにしても見事な猫被りっぷりだね。私も演技には自信あるけどさ、主人に合わせてあんなぶっ飛んだテンションを維持し続けちゃってる人にはちょっと敵わないよ。くふふ、亀の甲より年の功ってヤツ?流石に年季入ってるとレベルが違うね!」

 眼前に爆弾が放置されているだけで十分に穏やかではない事態だと言うのに、更に嬉々として導火線に点火を試みる莫迦従者が居合わせている現状、心労は加速の一途を辿るばかりだった。宙を向いていた殺人的な目付きがギロリと動く様子を傍から眺めて、俺は再び溜息を一つ落とす。

「あぁ?何か言ったかゴラ、生皮剥いで三味線の素材になりてぇなら今すぐ叶えてやんぞネコ娘」

「きゃる~ん☆ 助けてご主人さま、ねねをおっかない鬼ババがイジメるんですぅ~」

 瞬間、あずみの目が据わり、手がブレた。無言のままに目にも留まらぬ速度で懐へと両手を突っ込んだかと思うと、同時にねねが跳び上がり、驚くべき勢いで貯水槽の上へと遁走していく。清楚なメイド衣裳の内側に仕込まれているであろう物騒な代物の数々を思えば、実に賢明な判断であったと言えよう。相変わらず要領の良さを無駄遣いして憚らぬ輩だった。獲物を取り逃がしたあずみは盛大な舌打ちを一つ飛ばしながら懐から手を引き抜くと、苛立ちを紛らわすかのように俺を睨み付けた。

「ったく、普段どんな躾してりゃあぁなるんだよ。あのガキ、傭兵時代の部下だったら下手しなくても銃殺モンだ。飼い主ならしっかり監督しろや」

「ふん。余人の被る迷惑なぞ俺の知る所ではない」

 というか実のところ、奴の傍若無人な行動を監督するのは無理だ、と最近は些か諦め気味である。放し飼いにしておかなければこちらの神経が保たない。正直、やり口の是非は別として、アレを鎖で縛り付けて大人しくさせていたという一点においては、明智家の監督っぷりには敬意を表するところだった。

「尤も。己が本分を忘れ、身の程を弁えず俺に牙を剥くならば、万死を以って誅するのみだがな」

「……あー、納得したわ。やっぱお前ら主従だよ。ペットは飼い主に似るらしいからな……十中八九、お前の自己中が感染ったんだろうなありゃ」

 あずみは呆れ顔で言って、気だるげに空を仰いで、うんざりした調子で再び口を開いた。

「真剣でやってらんねぇ……、こちとらお前みてーな弄り甲斐のねークソガキに愛想振り撒くだけでも十分だるいってのに、よりにもよってそんな奴の指揮下で動け、と来たもんだからな。やれやれ、英雄様も酷な事を仰るもんだ」

 やってらんねぇ、とあずみは繰り返す。心の底から本気で嫌がっている事が、文字通り嫌と言うほど伝わってくるリアクションである。

「くく、随分と嫌われたものだ。生憎、この身がお前の害となった記憶は無いのだがな」

 転入から今日に至るまで特に好感度を稼ぐようなイベントも無かったが、逆もまた然りだ。基本的に俺と彼女は校内において必要以上の接触を持たず、相応の距離を保ち続けてきたので、その関係性は至ってドライなものだった。熱くも寒くもなく、乾いている。良くも悪くも互いの内情に踏み込まない事で、不毛な会話と不要な敵意の両者を排斥した間柄。とまあ俺の主観としてはそんな風に捉えていた為、ここまで一方的に忌み嫌われているとは少しばかり予想外だったのだ。

「……やっぱ無自覚かよ。ちっ、尚更ムカついてきやがったぜ」

 あずみはそんな俺を横目で睨みながら何やら聞き捨てならないセリフを呟いて、やってらんねぇ、とまたしてもぼやいた。都合三度目となるとこれはもはや只事ではない。鬼が出るか蛇が出るか、と緊急警報を発令しながら心中で身構えていると、あずみの凶悪な眼光がこちらを射抜いた。

「だからお前は自己中だっつてんだ。自分が所構わず撒き散らしてる迷惑の事もちったぁ考えろっての。アタイがお前の所為でどんだけ毎日の仕事量増やされてるか――少し考えりゃ判るだろ、ああ?」

「さてな」

「だったら教えてやる。英雄様専属の従者ってのはな、いつだって完璧さが求められてんだよ。万が一、なんて言葉の存在を許してる時点でもう失格だ。そういうワケで、ただでさえ毎日毎日気ィ張って、わざわざガキどもに混じってまでボディーガードの役目をこなしてるってのに……お前みたいな油断も隙もない、ついでに得体も知れない化物がクラスメートだ?ったく、冗談じゃねえっての。割と平穏無事でお気楽なハズだった学園内の仕事がとんだ重労働に早変わりだ。てめーきっちり責任取って焼酎でも差し入れろや。刻むぞタコスが」

 怨嗟の念すら込められた視線からは、同時に彼女の日頃の苦労のほどが窺えた。実際、話に聞く九鬼従者部隊の内情を踏まえて考えてみれば、その双肩に掛かっているであろうプレッシャーの巨大さは並々ならぬものがある。忍足あずみ、“暫定”序列第一位――世代交代完了後の従者部隊を担う若手達の筆頭となれば、僅かなミスすらもが叱責の的とされるのはむしろ当然なのだろう。鬼姑の如く目を光らせている九鬼の古株達、揃いも揃って怪物じみた御老人の面々を脳裏に浮かべると、途端に彼女への同情の念が湧き起こってくる。

 そんな所に他でもない俺の存在が更なる負担を強いているという事実に、思わず頭の一つも下げて詫びたくもなるが、しかしキャラクターの外面を考えるとそういう訳にもいかない。“下手に出る”は織田信長にとって最も縁遠いワードなのだ。よって誠に嘆かわしく心苦しく遺憾な事だが、結局のところ我が身に許される返答は、上から目線で嘲笑うかのような皮肉、という心象最悪なものでしかないのである。

「ふん。それは随分と御苦労な事だ――尤も、哂うべき徒労であるがな。九鬼の御曹司とは云え、未だ世に出ぬ半人前。敢えて排するに足る理由も無い。奴自ら俺の障害となる愚を犯さぬ限り、興味の外よ」

「例えお前の了見がそうだったとしても、だ。現実として英雄様の身体に届き得る脅威がすぐ傍に存在してる以上、あたいは一秒だって気を緩めるワケにはいかねえんだよ。理屈なんざ抜きで、な。従者ってのはそういうモンだ。少なくともお前は、そいつを承知してるだろ」

「……」

「普段は虫一匹殺せねえような呑気面晒してる癖して、あたいが“主”の近くに居る時だけは人間一匹くらい容易く斬っちまいそうに殺気立ってる、そんな忠誠心の塊みてえなバカを懐に抱え込んでるからには――あたいの言ってる事も、ある程度は理解るだろうよ」

 ぶっきらぼうに投げ掛けられた言葉を受けて、不意に幾つもの映像が脳裏に蘇った。文字通りに身命を賭して、織田信長を護るべく務めてきた、あたかも忠誠の二字を体現したかのような従者の背中。女子らしい遊びになど一瞥も呉れず、ただ主君の為に身の回りの世話を焼き、武技を磨き、ひたすらに敵を斬り捨てる。そんな自分の在り方に何一つ疑問を差し挟む事も無く、ただそれを“当然”として――森谷蘭は織田信長の従者で在り続けた。そう、蘭ならばまず間違いなく、忍足あずみと同じ事を言うのだろう。溢れ出んばかりの忠誠心を満面に顕して、心からの確信と共に誓いの言葉を紡ぎ出すに違いない。何故ならば、森谷蘭は何時だって、何処までも、織田信長の忠臣なのだから。

 物思いの内に沈黙を貫く俺を一瞥して、あずみはプロフェッショナルらしい機敏な動作でベンチから身体を起こした。そのまま立ち上がり、顰め面で空を仰ぐと、校舎内に繋がる扉へとおもむろに歩き出す。そして真鍮のドアノブを握ったところで、あずみは肩越しにこちらを振り返った。

「話の続きは場所を移して、だ。どうにも、雲行きが怪しくなってきやがった」

 面白くもなさそうに言いながら扉を開け放つあずみを見遣り、俺は頭上に広がる空を見上げる。先刻までの清々しい快晴が嘘であったかの如く、今まさに薄暗い灰色の雲が天を覆い尽くそうとしていた。立ち込める暗雲の内に遠い雷鳴すらも孕み始めたその様相に、これより訪れる嵐の時を告げているのではなかろうか、という所感を抱く。殊更にそんな風に感じるのは、先刻から心身の深奥より湧き上がって止まないこの情動故か。

「蒼天已死 曇天當立、なんてね。くふふふ、大賢良師って呼んで畏れ敬っちゃっていいんだよ?」

 胸中に滾る熱を噛み締めたまさにその瞬間、妄言を吐き散らしながら貯水槽の上から降ってきたネコの姿に、思わず脱力する。人の熱意に水を差すタイミングだけは無駄に心得ているな、と白けた半眼で莫迦従者を見遣りながら、俺はあずみを追って屋上を後にするのであった。




「面倒はゴメンだ、先に言っておく。――今回の一件に関しちゃ九割方、必要な情報は仕入れが済んで、揃ってる。つまりお前は、残りの一割をこっちに寄越せばそれでいいって訳だ」

「ふん……、“必要な情報”か。成程、九鬼の諜報力、情報網を以ってすれば妥当な所であろう」

「ま、あたいにとっちゃ満足できる結果じゃねえけどな。一割を頼っちまった時点で論外だ。お前に借りを作る羽目になった、その時点でな」

「“借り”。借り、とはな。忍足あずみ――やはりお前は俺を正しく理解している。恐らくはこの学園の誰よりも、だ」

「はっ、こちとらケツの青いヒヨッコどもとは年季が違うんだ。どうしようもなく汚いモンってのは嫌でも見りゃ分かっちまうんだよ」

「くくっ、然様か」

 強烈な毒を込めて吐き出した皮肉をまるで意に介した様子もなく、信長は酷薄に口元を歪めて哂う。そんな彼との間に約一人分の距離を空けて、校舎内の狭い板張り廊下を並んで歩きながら、忍足あずみは改めて痛感していた。やはり自分はコイツが苦手だ、と。初対面の際に抱いた印象が覆る事はなく、むしろ日を追うごとに苦手意識は募るばかりである。

 魔王だの覇王だの死神だの魔神だの、およそセンスの迷子な呼び名で川神学園全校生徒の畏怖を一身に集める男――織田信長。その身に宿した氣の総量、そして積み上げた武技の冴えは計り知れず、熟練の戦闘者たるあずみの眼を以ってしても、真の実力を窺い知る事は出来ない。学園内においてあれだけ派手に立ち回り、その圧倒的な力を大衆に魅せ付けておきながら……依然として、全貌が視えないのだ。信長を喩えるならば、闇、の一字が相応しいだろう。あらゆる光の届かぬ深淵の如く、暗く、深く、底知れない。その重苦しい不気味さが強烈な圧迫感を伴って、あずみの鋭敏な神経を刺激する。

 今もそうだ。悠然たる足取りで隣を歩く信長を横目で見ながら、あずみは無意識の緊張を認識し、意図して全身から無用な力みを抜いた。

 突き従うかのように信長の後ろを歩くのは“女王蜂”のプライドが許さず、さりとて信長に背中を向けるのは、骨髄まで染み付いた戦闘者としての意識が許さない。結果、こうして横並びという“対等”な位置関係を保ちながら歩を進めている訳だが……だからと言って気楽に構えていられる筈も無かった。僅かでも気を緩めれば、傍らの闇に呑み込まれる――そんな強迫観念に、あずみは絶えず苛まれていた。織田信長と空間を同じくしている以上、あずみはどう足掻いても戦闘者として在り続けなければならない。自然と足音は掻き消え、感覚は研ぎ澄まされ、全身を闘氣が駆け巡り、両の眼は相手の挙動の内に隙を探り出さんと鋭さを増す。そうして磨き上げられた観察眼で探れば探る程、横たわる闇の深さへの絶望が増してゆくのだ。

 忍足あずみが知る無数の闘士の中で、最も敵に回したくない相手は誰か、と問われれば、まず間違いなく挙がる名前は一つ。即ち、“ヒューム・ヘルシング”だろう。九鬼従者部隊、序列零番。永久欠番・唯一無二の零の数字を冠し、九鬼の至宝と謳われる怪物である。

 かつてヒュームと初めて相対した時、あずみは逃れ様の無い絶望を感じた。自分如きが付け入り得る“隙”など、何処にもない。攻め掛かった次の瞬間、千刃と化した蹴撃によって全身が切り裂かれるイメージが、恐ろしいほどの鮮明さを伴って脳裏に浮かんだ。勝てない、と思い知るには十分だった。

 対し、織田信長という男には……“隙”が、ある。文字通りに一分の隙も窺えない老執事の立ち姿と比較するまでもなく、下手をすれば凡百の武闘家にまで劣るのではないかと感じる程に、信長は常に隙を晒していた。女王蜂の名で恐れられた刺客・忍足あずみが傍にいる現在ですらも、それは変わらない。冷徹な横顔からはいかなる情動も読み取れないが、その悠然たる足の運びを見る限り、欠片の気負いも緊張も、信長には無縁の様であった。驕慢。油断。否、余裕――なのだろう。如何なる相手であれ、如何なる状況であれ、自身が何者かに遅れを取る事など有り得ぬという強烈な自負が、一目で判る隙を生み出している。討てるものならば討ってみるがいい、と、己に叛逆する無謀な挑戦者を嘲笑うかのように。そのあまりに無防備な姿は却って途轍もなく巨大な圧力を生み出す事になり、それ故に誰しもが、堂々たる隙に乗じる事への躊躇いを覚えずにはいられない。

 もしもヒューム・ヘルシングに触れれば、瞬く間に鋭刃にて刻まれるだろう。一方、この指先が織田信長にひとたび触れれば――そのまま果てない暗黒へと呑み込まれ、深淵の底へと引き摺り込まれるのではないか。その内側に抱えた昏い闇に喰らい尽くされるのではないか。信長と対する時、あずみはそんな錯覚を覚えるのが常であった。背筋を犯す冷気を感じ、総身に戦慄が走る度に、あずみは不甲斐なくも恐怖を覚えた己に憤慨し、そして怒りを糧にして毅然たる態度を貫いてきた。いかに相手が規格外の存在であれ、威圧に膝を屈する事など、女王蜂の、序列一位の矜持が許さなかった。

 だが、正真正銘の怪物を前に己のプライドを守り通すには、少しばかり無理を重ねなければならないのも事実だ。その億劫さと煩雑さと苛立たしさとが綯交ぜとなった結果、忍足あずみは日頃より、織田信長を苦手としている。今回の一件にしても、心底から敬愛する主の命でなければ、わざわざ関わりを持つ気は更々なかった。ストレスの所為か何やら痛み出した頭の片隅に、主人たる九鬼英雄の言葉が蘇った。

『我は2-S委員長。すなわち2-Sの王である!ならば領民クラスメートを慈しみ、其の責は我が身に担う。フハハハ、それが我に相応しき王道というものであろう、あずみよ!』

 当然であるかの如く真っ直ぐに言い切って、そして英雄は誰に憚る事も無く、高々と哄笑を響かせたのだった。

 相変わらず大きな人だ、とあずみは思う。九鬼英雄は、“天下万民のために”――そんな青臭い台詞を何ら恥じる事無く、堂々と胸を張って口に出来る人間だ。その性質がどれほど稀少で、尊ぶべき輝かしいものであるか、地獄を生き抜いてきたあずみは深い所で理解している。清も濁も善も悪も一切を問わず、総てを自らの懐に収め得る器量。まさしく大器、という形容が相応しい。あずみと初めて出逢った時と変わらぬままに、英雄は自身の信じる王道を歩み続けている。

 ……。

 しかし、と、あずみは眉を顰めた。

 しかし、今回は。今回の一件は、果たして、九鬼英雄の輝かしい王道に害を為しはしないか。

 仮に、天下万民を受け入れる器へと、何者にも決して消化出来ない、致死の猛毒が注ぎ込まれたならば?

「……」

 あずみの所感では、森谷蘭と云う名の劇毒は恐らく、稀代の大器を以ってしても容れ所に窮するだろう。それ程までに、アレのおぞましさは突き抜けている。誰よりも先んじて決闘にて太刀を合わせ、その身に潜む狂気と凶氣の片鱗を感じ取っていたが、まさかあそこまで醜悪なものを抱え込んでいたとは見抜けなかった。あれはもはやヒトの域を逸脱した、魔物だ。忠義と殺意に狂った怪物としか、表現の仕様がない。

 汚濁も、悪徳をも自身の内へと収め得る器は、しかし人を外れた魔物を同様に迎え得るのか。所詮は一家臣に過ぎず、王の身に非ざる忍足あずみには、考えても答えの出ない問いなのかもしれない。そして、それとは別に、あずみの脳裏には一つの格言が浮かび上がっていた。

 すなわち、毒を以って毒を制す、と。

 魔物の棲家が闇の中ならば――全てを呑み込む底無しの暗黒こそが、その器に相応しいのではないか。

「……ま、何にしろ、あたいはあたいの役割を果たすだけだ。これっぽっちも気は進まねえが、これも英雄様の為っつー事で、手抜きはナシでやらねぇとな」

「ふん。相も変わらず、見上げた忠誠心よ。否、或いは忠のみにあらず、か?」

「うふふ、やっぱ惚れた弱みってヤツなのかな?まあ年齢差はゴニョゴニョだけど世間的にはぜんぜん許容範囲内だし、こりゃもうアレだね。乗るしかない、このビッグウェ……玉の輿に!」

「てめえはどっから湧いてきたんだよ。プールに沈められてぇかコラ」

 屋上広場から階段を降り、校舎内の廊下を歩く事暫し、現在地は学園の正面玄関に面した下駄箱前。この場所に至るまでの途上にて、既にあずみが求めていた“一割”の内実は訊き終えていた。後は手に入れた情報に基づき、然るべき行動を開始するのみである。ともかくこれでこの色々と鬱陶しい主従から解放される、と小さく息を吐き出した時だった。信長の存在によって否応無しに研ぎ澄まされていたあずみの感覚が、下駄箱の裏側に潜む微かな気配を捉えたのは。

「……そんなお粗末な隠行であたいの目を誤魔化せると思ってんのか?コソコソせずにさっさと出て来いや」

 気配を消した上での潜入・諜報はまさしくあずみの十八番だが、だからこそ逆に盗み聞かれるのは不快なものだった。唐突に恫喝めいた鋭い声を張り上げたあずみに驚いた様子もない辺り、織田主従も“曲者”の存在には気付いていたらしい。そして三対の瞳が一点に向けて注がれる中、気配の持ち主がおもむろに姿を見せる。或いは単に出るタイミングを窺っていただけなのか、呆気ないほどの潔さだった。

「……」

「ああ、覚えのある気配だと思ったら――お前かよ」

 いまいち感情の読み取れない人形のような無表情に、特徴的な紺青色のショートヘア。2-Fクラスの椎名京で間違いない。知り合いと言うほどの関わりがある少女ではないが、一年以上も教室を隣にしていれば、顔を見知るのは当然だ。その齢で既にあずみが認めるに足る実力の持ち主となれば、尚更である。

 現在が授業時間中である事を考えれば、偶然の遭遇という線はまず有り得ない。ここが下駄箱というロケーションである以上、学園から早退しようとする“誰か”を待ち伏せていたと考えるのが自然だろう。そしてその対象があずみではなく信長であろう事は、自身の隣を真っ直ぐに射抜く鏃の如き眼差しが物語っている。それを確認してから、あずみは突然の闖入者から視線を外し、傲然と佇む信長へと向き直った。

「ガキ共の青春劇場に首を突っ込む趣味はないからな、こっちはこっちで勝手に動かせて貰うぜ。文句はねぇよな?」

「ふん。何度言わせる?その振舞いが俺の妨げとならねば、有象無象の動向なぞ如何でも良い事だ」

 信長は表情を変えないまま、まるで無関心な調子で答えた。相変わらずクソ生意気で可愛げの欠片もないガキだ、と辟易しながら背中を向け、そして振り向かないまま口を開く。

「英雄様の配慮を、無為にするんじゃねえぞ――織田」

 静かに言い捨てて、そのままあずみは屋外へと歩み出る。わざわざ返答を聞く気は無かった。

 椎名京。織田信長に、明智音子。これから彼らが何を語ろうとしているのか、そんな事に関心を持つ気はない。自分とは関わりの無い事だと、始めから割り切っている。忍足あずみは大人で、プロで、そして何より、九鬼英雄の従者だった。自身に与えられた役割を果たし、主の希望を叶える事に全霊を尽くす。為すべきはそれ以上でも以下でもなく、ましてや“それ以外”の事柄に割くべきエネルギーなど皆無だ。

 そう、あの決闘の後、九鬼の情報網を用いて収拾を試みてきた織田主従の情報の数々が、いかに血塗れで陰惨な内容であったとしても。お人好しで無邪気で礼儀正しい少女を、血に飢えた剣鬼へと変じせしめる程の“闇”が、その過去に横たわっている事実を嗅ぎ取ったとしても。そこに自分が首を突っ込むのは御法度だと、そうあずみは考えていた。場違いで、筋違い。従者という立場を同じくするクラスメートの暴走に対し、感情面での動揺が全く無いとは言わないが、しかし人には相応しい役所というものがある。それを冷静に見定めた上で、あずみは従者としての任に徹する心算だった。

 そこまで考えたところで脳裏を過ぎったのは、撒き散らされる血にも似た紅の長髪だった。桜並木の中でふと足を止め、暗鬱な曇天を仰ぐ。本来ならば再び出遭う筈もなかった戦場の昔馴染みは、何の因果か今現在、川神の空の下に居るのだ。この地の何処かで爛々と隻眼を光らせて、牙爪を研いでいる。主の命に従って、獲物の四肢を引き千切り、喉笛を食い破る為に。

「お前はどうなんだ――猟犬?」

 誰の耳にも届かぬよう口の中で紡いだ問い掛けに、返事などある訳も無い。

 一瞬だけ嘲るように唇を曲げてから、あずみは己の懐を探った。幾多の暗器と小道具を忍ばせたメイド衣裳の中から取り出したのは、何処か威圧的な雰囲気を漂わせる造形の、無骨な黒塗りの通信機。あずみは右手に握るそれを数瞬だけ見詰めた後、おもむろに口元へと運んだ。

「招集だ。李、それにステイシーも一緒だな?……ああ、話はもう通ってる――」











 

「ちっ、本格的に降ってきてやがる。うざってェ……」

 広告が大量に貼り付けられたゲームセンターの自動ドアが開き、同時に塞がれていた視界が開ける。途端に目の前に広がったのは、ほんの一時間ほど前の快晴とは似て似付かぬ黒々とした曇天と、そこから地上へ轟々と降りしきる大雨だった。無数の雨粒が薄汚いアスファルトに向けて叩き付けるような勢いで落下し、すぐさまその穢れを含んで濁った水溜りを形作る。

「天気予報なんざアテにするもんじゃねェなァ、ったくよォ」

 そんな気が滅入るような様相を心底うんざりした表情で眺めながら、前田啓次はぼやいた。このまま屋外へと踏み出す事を躊躇するには十分な悪天候である。せめて傘でも手元に持っていればまた話は別だったのが、生憎と目的のものは下宿の玄関脇に突き立っている。結局、啓次は数秒の逡巡を経てから、近場のコンビニエンスストアまでの全力ダッシュを選択した。わざわざ金を払ってまでの現地調達は大変気に食わないが、流石にビニール傘の助けが無ければ移動もままならない、と判断した結果である。

「せっかくあのクソ師匠の無理難題に付き合わされずに済んだと思ったらコレかよ。ツイてねェぜ」

 僅か数十メートル先のコンビニへの移動ですっかり全身が濡れ鼠と化し、ワックスで固めたセットも見事に崩された啓次は、不機嫌そのものの調子でぶつくさと文句を零した。いかにも迷惑そうな面を向けてくる店員へとガンを飛ばしつつ、一律五百円のビニール傘を乱暴に掴み、足音も荒くレジへと向かう。

 監視役気取りの生徒会長が不在だったのを良い事に、午後の授業の一切を放り投げて街へ遊びに繰り出した啓次であったが、どうやらそれが完全に裏目に出たらしい、と認めざるを得なかった。

 大体、こんな日に限って休んでやがるあの女が悪いぜ、と啓次は心中で八つ当たり気味に毒づく。普段ならば、『先輩で師匠で生徒会長たる私が退屈窮まる勉学に励んでいる時、後輩で弟子で一般生徒たる前田少年風情がのうのうと自由を謳歌し満喫している――そんなおぞましくもおこがましい現実が許されると思うのかね?いいや許されない。例え神が許そうともこの柴田鷺風が決して許しはしないとも。いざ、仲良く二宮金次郎に倣おうではないか我が弟子よ』などという無意味に長ったらしい口上を捲し立てながら、脱走を図った啓次を力尽くで教室へと連行していくのが、太師高校に君臨する現生徒会長・柴田鷺風の近頃の日課である。

 何も知らない部外者がこう聞くと、身体を張って不良生徒の更正に努める勤勉で精力的な生徒会長、といったイメージが浮かぶのだろうが、無論のこと実像が大いに異なっている事を啓次は知っている。何故ならば現生徒会長自身が、少なくとも数回に一回という結構な頻度で授業をサボタージュしているのだ。具体的には入学時から数学の授業を全て自主休講中(現在三年目)という、不良生徒揃いの太師校の中でも筋金入りの猛者であった。『私がこの分野を学ぶ課程で唯一感銘を受けたのは、人並みに奢れや、という名言だけだよ』と宣言して憚らない程の数字嫌い――であるにも関わらず、校内におけるその立ち位置たるや堂々の全校生徒代表・生徒会長である。

 啓次はそういった諸々に対し、もはや何も言うまい、と既に色々と突っ込みを放棄していた。理不尽の塊のような存在に真っ向から立ち向かうのは徒労というものだ。

 ちなみにそんな彼女は学業に励む(?)傍ら、和菓子屋を営む祖父の手伝いをしているらしく、偶に学校自体を休む事があるようだった。今日一日、弟子と言う名目にて都合の良い下僕扱い真っ最中の啓次に絡んでこなかったのもそれが理由なのだろう。そして啓次はこれ幸いとばかりに学校を抜け出し、久方ぶりの自由な午後を満喫していたのだった。気紛れに立ち寄ったゲームセンターでまたしても板垣天使と遭遇し、格ゲー対決で鼻を明かしてやろうと息巻いたところパーフェクト三タテを食らって盛大に馬鹿にされる等の些細なアクシデントはあったものの、概ねサボりの味を存分に楽しんでいた啓次だったが――ふと気付いてみればこうして外は大雨に見舞われており、しかも一向に晴れる気配は窺えない始末だ。気侭な午後も台無しである。

「仕方ねェな。さっさと帰ってシャドーでもすっか」

 ここ最近、理不尽な師匠に理不尽な特訓を受けている所為か、少しばかり地力が伸びた様に感じている。柴田鷺風ことサギの課す修行もどきは悉くが無茶苦茶だったが、その無茶振りを死に物狂いでこなしている内に、いつの間にやら相応に鍛えられていたらしい。尤も、サギ本人は確実に『面白いから』という理由だけで啓次を虐待しているのであって、そこに武の師匠としての深い意図など全くありはしないのだろうが。啓次にとってはどちらでも良い事だった。結果として強くなれるのならば、過程や手段に拘るつもりは無い。どの道、自分で修行を選ぶような生温い考えでは、いつまで足掻いてもあの男には届かない。認めるのは本当に癪だが――前田啓次が絶対的な目標として掲げる孤高の魔王、織田信長には。

「へっ、散々一匹狼で鳴らしてたこのオレがまさか、“センパイに憧れる”なんてなァ。まるで他愛ねェガキじゃねェかよオイ」

 だが、それも悪くない、と啓次は思う。この堀之外にて織田信長と出遭ってから、啓次の毎日はかつてない程に充実していた。仰ぐべき目標の姿が近くにある事が、しばらく惰眠を貪っていた啓次の魂を突き動かし始めたのだ。サギなる理不尽女に振り回される日々は疲労困憊の連続だが、同時に感じる自身の確かな成長が、あらゆる疲労を相殺する特効薬となっていた。

『オレの名は、前田啓次ッ!いいか、この名を覚えとけ。ゼッテーにいつか、アンタの居るところに立ってやるからよォ!』

 何処までも孤高な漆黒の背中に吼えた台詞を、啓次は忘れてはいない。それは紛れもなく魂の叫びだった。今も尚、身体の内側から噴き上がり、心身を駆り立てる無限大の熱情。そのエネルギーに敢えて名前を付けるならば、“夢”の一字が相応しいのかもしれない。当人には全く以ってそのような意識は無いのだが。

「まあ、雨ん中うろついても仕方ねェ。久々にジムでじっくり鍛えんのも悪くねェかもな」

 啓次は天候に引っ張られるような鬱々とした気分を切り替えて、前向きに予定をセッティングし直した。コンビニの入口で安っぽい造りのビニール傘を広げ、相変わらず怒涛の勢いで降り注ぐ雨粒を辛うじて頭上で防ぎながら、自動ドアの外側へと踏み出した――その時であった。

「……ん?ありゃァ……」

 啓次の目が、一つの人影を捉えた。道の中央付近をゆらりゆらりと蛇行しながら、危うげな足取りで歩くシルエット。昼間から酔い潰れている自堕落な連中など堀之外では珍しくもないので、最初はそういった類の輩かと思った。だが、ほんの少しでも注目してみれば、そうでない事は一目瞭然である。何せ――

「確か、信長の野郎に従ってた……ラン、ってヤツ、か?」

 その人影は、啓次にとっては見知った顔だった。実際に顔を合わせたのは数時間程度だが、主人の敵対者へと情け容赦なく凶刃を振るう少女の姿は、未だ鮮明な形で記憶に焼き付いている。

 森谷蘭。

 信長の懐刀と称され、堀之外の住人達の間では恐怖の対象とされている少女は――しかし現在、明らかに尋常な様子ではなかった。彼女の身を包む、白を基調とした川神学園の指定制服は全身が隈なく土で汚れ、至る所が破れている。更に傘も差さずに雨の中を歩き続けてきたのか、頭から泥水に塗れたような有様だった。貼り付いた濡髪に隠れて表情は窺えないが、顔色は死人と見紛うほどに青褪めており、今にも顔面から路上に倒れ込みそうに見える程、その足取りは危ういものだ。

――まさかられたのか、と反射的に胸糞の悪い想像が浮かんだが、しかし冷静に考えれば有り得ない話だ、とすぐさま打ち消す。こちらもまた認めるのが癪な話ではあるが、彼女の実力はまず間違いなく啓次のそれよりも遥かに格上なのだから。堀之外の住人は欲望に忠実な獣そのものだが、人の域を外れた武人を毒牙に掛けられるほど強靭な牙の持ち主が居るとも思えない。今の彼女はあの夜のように刀を佩いてはいない様だが、それを踏まえて考えたとしても、だ。

「意味分かんねェぞ、何だってんだ……?」

 状況は全く掴めないが、何にせよ蘭の様子がおかしい事だけは間違いなかった。かつて見た時とは似ても似つかない程に、今の彼女は追い詰められている様に見えた。そして面倒な事に前田啓次は、そんな痛ましい姿の少女を眼前にしても尚、冷徹に無関心を貫けるタイプの人間ではないのだった。

「なァオイ。アンタ、こんなトコで何やってんだ?」

 別段、親交がある訳でもない。立場としてはむしろ敵対者に分類される身だ。しかし、それでも――啓次は、彼女に声を掛けた。ビニール傘で豪雨の猛攻を食い止めながら、道の中央をふらふらと彷徨う人影に向けて歩み寄る。残り十メートル。反応はない。残り七メートル。反応はない。そして残り三メートルの距離まで近付いた瞬間、蘭は初めて反応を示した。常に俯いていた顔が上がり、ゆっくりと、不自然な程に緩慢な速度で、啓次へと向き直る。

「――ッ!?」

 “ソレ”を一目見た瞬間、啓次の身体は戦慄によって余さず硬直した。蒼褪めた少女の貌、貼りついた黒髪の隙間から覗くのは――欠片の輝きも宿さないガラスの眼球と、全てが抜け落ちてしまったような、抜け殻の能面。絶えず肌を強烈に打ち据える雨粒も、恐らく認識すらしていない。彼女は茫然と啓次を見遣っているが、その実、虚ろな瞳には何一つとして映してはいないのではないか。まるで此の世の住人ではないかのように、まるで生きる事を諦めてしまったかのように、少女の様相は死滅を感じさせるものだった。

 まずい。マズイマズイマズイ。これはダメだ。絶対にこれはゼッタイに――“ヤバイ”!

 瞬く間に体温が奪い尽くされたかのように、啓次は肉体の芯から凍えていた。幽鬼じみた少女を門として、黄泉の風が吹き込んできたような感覚だった。ガチガチと歯を打ち鳴らす耳障りな音が響いた時、初めて、啓次は自分が恐怖している事実に否応なく気付く。

 これは、理屈ではない。織田信長の冷徹な眼光に射竦められたあの時と同様、肉体の奥底に根ざした本能が怯えている。アレに関わるな、アレに近付くな、“あちら側”に引き摺り込まれるぞ、と狂ったように警鐘を打ち鳴らしているのが分かる。しかしその一方で、肉体の金縛りが解ける事はなかった。この少女の眼前に棒立ちで佇むなど、もはや自殺同然の振舞いだと察しているにも関わらず、鍛え上げた筋肉は持ち主を裏切り、命令に対しピクリとも反応を示さない。

 必死に肉体の主導権を取り戻そうと足掻く啓次を、少女の魔眼じみた無機質な双眸が冷酷に見つめていた。そして、血色の失せた唇が、微かに動いた。

「―――」

 囁くような弱々しい掠れ声は、路面を叩く豪雨に呑み込まれ、啓次へと言葉の内容を伝えない。ただ、変化は如実だった。あたかも少女の囁きが魔法を解くキーワードだったかのように、全身を襲う寒気が一気に薄れていた。停まっていた心臓が再び動き出した様な温かさと安心感が五体を駆け巡る中、啓次は訝しげな視線を少女へと送る。

 次の瞬間――その頬を流れ落ちる二筋の涙と、克明に浮かぶ“恐怖”の表情に、思わず瞠目した。少女は何かに怯えるように両腕を掻き抱き、歯を鳴らしながら震えている。一瞬前までは死神にすら見えた少女の姿が、酷く弱々しく、小さく映った。放置すれば、冷たい雨に晒されながら獣の街を彷徨い続けるであろう彼女の様子は、啓次を別の意味でその場へと縫い付けた。

 心昂ぶる闘争に無類の価値を見出す一方、“こういうもの”を捨て置けないという一面が、前田啓次にはあった。所詮は無関係な他人だろうが、しかもコイツはどう考えてもマトモじゃねェぞ、と幾ら自分に言い聞かせてみても、どうにも巧く割り切れない。そんな少年らしい不器用さは、或いは人に優しさと称される、尊ぶべき美点なのだろう。

 故に、その“美点”こそが少年にとっての災禍を呼び込んでしまったのは、皮肉という他ない。

 啓次がこの場で取るべき行動は、一つだった。拘束が緩んだ瞬間、全力全霊を以って森谷蘭の前から逃げ出す事だけが、唯一にして最良の選択肢だったのだ。或いは彼女が必死に絞り出した忠告の内容を啓次が認識していれば、結果は変わったかもしれない。だが、“逃げて”という懇願にも近い少女のメッセージが届く事はなく、ただ啓次はカルーアミルクに負けず劣らずな自分の甘ったるさに辟易としたような顰め面を作りながら、ゆっくりとした足取りで、少女との距離を更に縮めていく。

 三メートルから、ニメートル。

 少女の瞳から、再び感情の色が抜け落ちる。絶望が虚無に塗り替えられていく様子に、啓次は未だ気付かない。

 ニメートルから、一メートル。

「……」

 決まり悪げな仏頂面のまま、啓次は無言でビニール傘を持ち上げ、些か乱暴に少女の方へと突き出した。

 その、直後。

「――――」
 
 ざくり、と。絶え間ない雨音に混じって、肉を斬り断つ生々しい音が響く。

 一瞬の空白を経て、少年の手から真新しいビニール傘が零れ落ち、紅く濁った水溜りの中へと転がった。













 学園での諸々の会合、そして少々の寄り道を経た後、俺が拠点たるアパートに舞い戻って最後の“準備”を完了し、再び門の外へと足を踏み出した時、川神市を覆う天候はますます悪化の一途を辿っていた。見渡す限りに敷き詰められた暗雲が陽光を完全に遮断しており、四月の日中とは思えない程に薄暗い。ザァザァと尽きる様子もなく降り続ける大雨と相まって、視界が酷く悪かった。果たしてこの予期せぬ嵐が俺にとって吉と出るか凶と出るか、いまいち読めない所だ。容赦なく口の中に流れ込んでくる水滴に顔を顰めながら、俺は正門脇の塀へと目を遣った。

「こちらは万事、片付いた。待たせたな、ネコ」

「全くだよ。私みたいな雨嫌いで世界を狙えるミラクルプリチィーガールをこんな悪天候の中で放置プレイしようって言うんだから、ご主人の血も涙もないサディスト野郎っぷりもここに極まれりって感じだね。何と言ってもかの軍神・関雲長だって水責めであっぷあっぷしちゃったんだから、いわんや斯くもか弱き娘々をや!あな恐ろしや、美人薄命ってホント残酷な言葉だよね。私思わず泣けてきちゃったよ」

「そいつは奇遇だな、俺も思わず泣けてきた所だ」

 事態の深刻さに反比例して立ち振舞いのテンションを上げる――明智音子がそういう性分の持ち主である事は十分に理解しているが、しかし少しの間くらいシリアスを維持出来ないのだろうかこやつは。つい先程までのしおらしさなど、もはや次元の彼方であった。もっとも、いつまでも心が定まらないのならば、本人の意思に関係なく問答無用で置いていく心積もりだったのだから、まぁこれもある意味では望ましい態度と考えるべきなのかもしれないが。

「ああ、アパートに用事って言うから多分そうだろうとは思ってたけどさ。やっぱりソレ、持って行くんだね」

 ねねの興味深げな視線の向かう先は、俺が腰に佩いている一本の日本刀だった。色彩鮮やかな朱鞘に収められているのは、蘭愛用・ニ尺五寸の太刀。黒金の鍔を軽く打ち鳴らしてみせながら、俺はニヤリと口元を歪めた。

「うむ、我ながら中々に新鮮な気分だな。どうだネコ、似合ってるか?」

「くふふ、バッチリだね。少なくともそうやって納刀してる分には、結構サマになってると思うよ」

「ならばよし。これより俺は天下の剣豪って訳だ」

「うーん、是非ともまゆっちに披露して何かリアクションさせたいなぁ。とっても面白いものが見れそうな気がするよ」

 まゆ……?一瞬首を捻るが、ああ、件の黛十一段の御息女か、と思い至る。未だ直接顔を合わせた事は無いが、ねねの雑談九割の報告を聞いている限りは、随分と愉快な人格の持ち主のようだった。俺としてはそんな事よりも彼女の実力の方を推し測って欲しいものだが、そちらはどうにも難航しているらしい。まあ今のところ別段、織田信長への敵対心を見せている様子は無いので、殊更に急ぎ調査する必要性がないのも事実ではある、が……。

「おっと。脱線注意、だな」

 そこまで考えたところで、俺は際限なく広がっていきそうな思索の網を意識して押し留めた。今は脳細胞の一片すらも不要な思考に消費すべきではないだろう。普段と同様、先の先に思いを巡らせるのは、この一戦に決着を付けてからでいい。思索の対象とすべきは、これより数時間以内に起きるであろう事象の数々のみだ。何せ俺が臨もうとしているステージには、まず間違いなく途轍もない大嵐が待ち受けている。“祭り”に参加するであろう面子を考えれば、何事が起ころうとも不思議はない。あらゆる事態が予測されるし、それら無数のパターンに伴ってあらゆる対応策が要求されるのは必定だった。その煩雑さと難度の高さは推して知るべし、というものだろう。

――だが、それがどうした?

 渦巻く混迷を前にして、俺が惑う事はない。何故ならば、此度の舞台の主役は俺と彼女の二人だけ――他の登場人物は所詮、物語を彩る脇役に過ぎないと確信しているが故に。周囲を取り巻く有象無象が行き交わせる意志に流され、無様に右往左往する気は毛頭無かった。達成すべき勝利条件は最初から一つ。俺はただ、俺の意志を、常に身体の奥底で煮え滾り心を焦がす想念を貫き通せばそれでいい。

「なあネコよ、お前はどう思う?大した力も無い癖に粋がって、意地を張って、必死に強がってる……俺は愚か者だと思うか?」

「う~ん、どうなんだろうねぇ。私が思うに、ご主人は愚か者って言うかさ、あれだよ。いわゆる、雑魚」

「ザコ……」

 自分で切り出しておいて何だが、返って来たのは愚者と呼ばれるよりも数倍キツイ一言だった。実のところ割と泣きそうだった。恐るべき言葉の刃に貫かれて慄き呻いている俺に、ねねは悪戯っぽい笑みと共に言葉を続ける。

「雑魚は雑魚でも骨のある雑魚ってヤツだね。歯応えしっかり、カルシウムたっぷりって感じで、私好みの味だよん」

「ただし身が少ない割に小骨が多く鬱陶しい、と続く訳だ。くくっ、なるほど、中々に良い喩えじゃないか」

「ところがどっこい、それだけじゃなかったりするのさ。雑魚はね、ご存知の通り、使い様によっては大魚を釣り上げる事だって出来るんだよ。ってワケで、願わくは今日の晩ごはんは大魚のフルコースがいいなぁと私は可愛らしくおねだりしちゃったり」

「いつもと同じように、か」

「そそ。日常チャメシゴトって感じで、さ」

「……やれやれ。最初から判っていた事だが……、改めて、我侭な従者を持ったもんだと実感させられるな」

「くふふ、欲張りと我侭は美少女の特権だからね。これでも私、ご主人を頼れる男と見込んだ上で甘えてるんだから――甲斐性見せてくれると、嬉しいな」

「仰せのままに。餌役以外に存在価値の無いザコはザコなりに全力でやらせて頂きますよ、お嬢様」

「あはは、根に持ってるねぇ、ご主人」

 ねねはクスクスと可笑しそうに笑った後、気恥ずかしそうに薄く頬を染めて、ありがとう、と小さく呟いた。俺は無言で手を伸ばし、クリーム色の髪をくしゃりと無造作に掻き回す。無意識の内に己の口元が緩んでいる事に気付き、礼を言うべきはむしろ俺の方だな、と心中で呟いた。

「さて。往くか」

「うん」

 最後に少しだけ、そんな短い遣り取りを交わすと、それ以上は何も語る事無く、俺達はアパートを出立した。

 吹き荒れる嵐を掻き分け、黙々と歩を進める最中、ふと俺の脳裏に一遍の詩が蘇る。

『光灯る街に背を向け、我が歩むは果て無き荒野
 奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ
 揺るぎない意志を糧として、闇の旅を進んでいく』

 初めて耳にしたその瞬間に、幾多の想念を俺の中に刻み込んだ文言だった。所詮は文字の羅列に過ぎない筈の詩が、これ程までに確かな“力”を有しているものか、と感嘆した事を覚えている。今もまた、同じだ。声として発さず、ただ頭の中で謳い上げるだけで、自然と心身に活力が漲っていくような心地だった。

 そう、この世に縋るべき奇跡は無い。辿るべき標も無い。そんな事は百も承知で、昔日の俺は自身の生き方を定めたのだ。先の見えない闇の只中に放り込まれたからと云って、今更、怯え竦んだりはしない。俺と云う人間が真に恐怖するものがあるとすれば、それは己の掲げた意志が折れる事のみ。

 元より俺は逃げ出す気も投げ出す気も毛頭無い。この身に背負った責は、必ず果たす。

 だから、待っていろ、蘭。

 俺が俺で在る限り――織田信長はお前から、逃げない。



 

 斯くして。

 愚者と魔物と狩人は、刃を携え舞台へ上がる。














 


 気付けば前回の投稿から三ヶ月。またしても更新が遅れてしまい申し訳ない限りです。
 加えてここ数話は本番前の準備段階的な意味合いが大きいとは言え、読者の方々にとってはどうにも起伏のない退屈な話が続いてしまった事かと思います。色々と掘り下げようとするあまりテンポを削いでは元も子もない、と自分の未熟さを痛感するところです。
 が、次回からは“本番”らしく、ようやく話に相応の動きが出始めるかと思われますので、宜しければこれからも拙作にお付き合い頂ければ幸いです。それでは、次回の更新で。



[13860] 堀之外合戦、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:140f6e9e
Date: 2012/08/23 23:19
「おやおや、コイツは驚いたねェ。随分とまあ……酷い有様じゃないか」

 死人と見紛うばかりの青褪めた顔で天を仰ぎながら、茫然自失の態で立ち尽くす少女。監視役を命じた奴隷の一人から報告を受け、得物を携えて現場に赴いた亜巳が最初に目にしたのは、そんな予期せぬ光景だった。

 事前に亜巳が想定していた少女の姿は、殺意に身を委ね、狂気を振り撒く悪鬼のそれである。かの少女が自身の妹と似通った“暴走癖”を抱えている事を知っているが故に、当然ながら今回の一件もその延長上だろう、と判じていたのだ。森谷蘭が正気を喪った――と云う話をマロードから聞かされた時も、別段驚く事もなかった。蘭との付き合いは浅いながらも、決して短いものではない。その在り方が明らかな歪みを内包している事は、観察力に長じた亜巳は良く承知していた。であるならば、何かの弾みでネジが外れた時、内に潜んでいたモノが溢れ出しても不思議は無いだろう、と。

 だからこそ、意外だった。こうしてこの目に捉えて見れば、その姿は血に飢えた魔物とはどこまでも程遠い。凍えているのか、或いは怯えているのか。小刻みに身を震わせながら雨粒に打たれ続ける蘭は、今にも虚空へ溶け消えてしまいそうな儚さを総身に漂わせていた。織田信長の懐刀、魔王の右腕として悪名を轟かせる少女の、あまりにも弱々しい立ち姿。思わず足を止め、遠目に様子を窺う亜巳の傍で、獰猛な笑い声が上がった。

「くっくっく、丁度イイじゃねえか、アミ姉ぇ。弱ってやがるなら好都合だ。“餌”が楽に確保できるに越した事はねぇからな」

「ま、確かにそうだねェ」

 いつになく上機嫌な竜兵の言葉に、亜巳は頷いた。森谷蘭は標的ではあるが、所詮は大魚を釣り上げる為の餌に過ぎない。この後に控えている“本命”の事を思えば、氣と体力の消耗は最低限に抑えておきたいところだ。見境なく暴れられるよりは当然、無抵抗でいてくれた方がありがたい。

「それに……なかなか甚振り甲斐がありそうだし、アタシとしちゃこれはこれで悪くない。あんな風に自分が不幸のどん底にいると思ってそうな人間を、それよりも深い絶望に蹴落としてやる――フフフ、いいねェ。想像するだけでゾクゾクするじゃないか」

「おお、相変わらずアミ姉ぇは怖ぇなぁ。俺にはそんな残酷な事は到底、出来そうにもないぜ」

 大仰に身震いしながら言う内容とは裏腹に、竜兵の口元はニヤニヤと笑っていた。肉食獣の如くギラついた目で標的を見遣ってから、「なぁ、お前ら」と竜兵は声を張り上げながら振り向く。そこには数十人の男達が、雑然と群れを成して控えていた。一様に並外れた屈強な体格を有し、獣じみた凶悪な雰囲気を身に纏う彼らは、全員が竜兵子飼いの部下である。竜兵は獰猛な笑みを浮かべたまま男達を見渡し、再び口を開いた。

「ドSのアミ姉ぇと違って、俺達は優しいからな。死にそうな面してる女がいたら――身体を張って“慰めて”やらねぇと気が済まねぇ。そうじゃねぇか?」

 それは、飢えた獣に飼い主が餌を放り投げてやるかのような、そんな調子の声だった。先程から好色な視線を隠そうともせず少女へと送り続けていた男達が、リーダーの言葉の意味を取り違える事はない。途端に下卑た歓声が湧き起こった。

「オレ アイツ キニイッタ。オレ オカス サイショ」

「おいおいルディ、間違えんなよ。オレらはあくまで傷心のJKを慰めてやるだけなんだぜ。ぎゃははっ、オレら超イイヒトじゃん?」

「けけけっ、ちげーねぇな!あ、ちなみにリュウさんは最初じゃなくてよろしいんで?」

「ああ?何が悲しくて雌なんぞに触らねぇといけねえんだ、考えるだけで鳥肌が立つぜ。お前らで勝手にやってろ」

「へへへ、そうこなくっちゃなぁ。さすがリュウさんは話が分かるぜ」

 男達は揃いも揃って、目の前のご馳走に舌舐めずりせんばかりの有様である。この大雨の中に呼び出された当初は誰も彼もが不満たらたらの様子だったというのに、何ともまあ現金なものだ、と亜巳は白けた顔で獣の群れを見遣っていた。

「しかし単純な豚どもだねェ。コイツら、自分が手を出そうとしてる相手が誰なのか分かってんのかい?」

「まったくだ、理解に苦しむぜ。女の抱き心地なんぞ所詮、男の足元にも及ばねえだろうによ」

「いや、アタシはそういう事言ってんじゃないんだけどねェ……。まあ豚の思考回路は別にどうでもいいか」

 どうせ一人の例外もなく、下半身だけで物事を考えているような連中だ。わざわざ気にするだけ無駄というものだろう。亜巳は欲望と興奮に鼻息を荒げている男達から視線を逸らし、代わりに自身の隣へと向けた。

「zzz」

 そこには当然のように能天気な寝顔を晒す妹の姿がある。立ったまま、更にはこの大雨に打たれながら、という条件を重ねても、板垣辰子の突き抜けたマイペースを崩す事は叶わないらしい。普段同様に緊張感の欠片もない寝顔に溜息を一つ落としてから、亜巳は拳を握り込んだ。

「ったく、少しでも目を離すとこれだよ。おーい辰!さっさと起きな、出番――だ!」

「おふっ!……んうぅ~、アミ姉ぇ……?」

「お、レベル1程度の威力で目が覚めたのは久々じゃないか。流石の辰と言えども、熟睡は出来なかったみたいだねェ」

「うぅ~、びしょびしょだよ。お風呂入りたいなぁ」

 未だ寝惚け眼で欠伸を漏らしてこそいるが、取り敢えず眠りから呼び起こす事には成功したようだ。これにて準備は万端――亜巳は双眸を鋭く細め、感触を確かめるように得物の棒を虚空にて一振りすると、竜兵へと向き直った。

「リュウ」

「ああ。くくっ、それじゃあ、始めるとするか。……おいお前ら、まだズボンは下げるなよ。食い千切られるのがオチだろうからな」

「そういうアンタも油断するんじゃないよ。アタシにしたところで、“アレ”の底はまだ見えちゃいないんだから」

 どうにも浮付いている竜兵に釘を差しつつ、亜巳は再び蘭の方を見遣った。まだ多少の距離があるとは言え、既に互いの顔を目視できる程度には接近している。にも関わらず、彼女は現在に至るまで何の反応も示していない。竜兵の部下達が上げる下品な笑声は間違いなく耳に届いている筈だが、彼らの存在にも全く気付いていない様子だった。明らかな、異常。しかし、だからと言って手を引く訳にもいかない。マロードも竜兵も、この程度の事で止まりはしないだろう。そもそも――止まるようならば、“こんな事”は最初から実行する筈もなかった。

 やるしかない。

 亜巳は肝を括ると、手元の棒を握り締め、一分の隙も窺わせぬ慎重な足取りで蘭へと歩を進めた。その右隣に竜兵が、左隣にはフラフラと緊張感の無い足取りで辰子が。竜兵の取り巻き達は、やや距離を空けながらゾロゾロと三人の背中を追う。

 結局――十数秒の時を経て、亜巳達が自身の前方僅か数メートルにまで迫るに至っても、蘭が何かしらの反応を見せる事はなかった。最初に見た時から変化のない蒼白な顔を天に向けたまま、亜巳達を一顧だにしない。ただ、こうして距離を詰めた事で、亜巳は幾つか新たな事実を発見した。白い頬を伝う涙と、両手を禍々しく染め上げ白地の制服に無数の斑点を残す赤黒い色彩。そしてその唇から絶えず紡がれ続けている、意味の判然としない微かな呟き。

 咄嗟に浮かんだのは、精神崩壊、の四字であった。何が起きたのかは判らないが……これはどう見ても、壊れている。少なくとも、こうして亜巳達が間合いに踏み込んでも尚動こうとしない時点で、彼女が戦闘者としての自己を見失っているのは間違いなかった。

「うっわ、近くで見たらボロボロじゃん?血ィ付いてるし、もしかしてオレら先越されたんじゃねー?」

「バーカありゃどう見ても返り血だろうが。大方、弾みで誰か殺っちまったんだろうよ。さすが噂のバラバラ死体量産機、おっかないねぇ。くわばらくわばら」

「オレ モウ ガマン デキナイ。ハヤク ヤラセロ」

 獲物が弱っていると知れば、俄然活気付くのが野獣たちの性である。込み上げる衝動に身を任せ、無思慮に獲物へと群がろうとする取り巻き達を、竜兵が強烈な眼光の一睨みで制した。途端、主人に「待て」を言いつけられた犬を思わせる素直さで、男達は鎮まっている。基本的に自分の欲望以外には決して従わない野獣達も、暴力を以って彼らに君臨する竜兵に対しては従順だった。

 調子の良い豚共だ、と頭の片隅で呆れながらも、亜巳の注意は依然として眼前の少女に向けられている。相手がこの有様とはいえ、決して気を抜くつもりは無い。亜巳は警戒心も露に油断なく棒を構えながら、更に一歩、にじり寄るようにして蘭との距離を縮めた。

「こんな所で会うなんて奇遇だねェ、ラン。可哀相に、えらく参っちまってるみたいだが……フフフ、シンに捨てられでもしたのかい?」

「…………」

 声を掛けながらも、亜巳は反応を期待していなかったのだが――意外にも、蘭はビクリと身体を震わせて応えた。武器を携えた人間が近付いても無反応だったが、どうやら言葉が届かない訳ではないようだ。ニタリ、と自身の口元が三日月を描くのを自覚する。亜巳は愉悦に呑まれて迂闊に隙を見せない様に心掛けながらも、嬲るような声音で言葉を続けた。

「何と言っても、シンの奴はアタシと張るくらいのサディストだからねェ。自分の力も碌に制御出来ない役立たずは情け容赦なく切り捨てられるってワケかい?何年も何年も、あんなに甲斐甲斐しく尽くしてきたってのに、その末路がこのザマとはね。哀れなモンだ」

「あ、ぁ、ぁああ」

 何物よりも鋭く冷たい言葉の刃は、いつでも無慈悲に心を傷付け、抉り、切り刻む。虚ろな目は未だに亜巳を捉えてはいないが、その悪意に満ちた声は確実に心へと這入り込んでいるようだった。見開いた目から涙を零し、悲鳴のような嗚咽を漏らす少女の姿に、亜巳の嗜虐心は否が応でも昂ぶった。抑えようも無い愉悦の笑みを湛えながら、ルージュの引かれた艶かしい唇が新たな刃を紡ぎ出す。

「シンにしてみれば、アンタは所詮、その程度の価値しかなかったって事さ。人生を捧げて必死に仕えてきても、イカれた殺人鬼に救いなんて与えられやしない。結局のところ、行き着く先はこんなものさ。フフフ、アンタさぁ――何の為に生まれてきたんだい・・・・・・・・・・・・・?」

「――――ぁ」

 瞬間、耳を打ったのは、心に罅が走る音。それは亜巳にとっては聞き慣れた、しかし何度聴いても甘美な音色だった。

 亜巳の言葉が、辛うじて膝を支えていた僅かな力すらも打ち砕いたかのように、蘭は地面に崩れ落ちた。認めたくない現実を拒絶するかのように、血塗れの両手で頭を抱え込んで、悲哀に満ちた慟哭を上げる。正常な感性の持ち主ならば思わず耳を塞ぎ、眼を逸らしたくなるような、悲愴そのものの姿だった。しかし、亜巳は恍惚とした笑みすら浮かべて少女を見下ろし、その精神が軋みを上げる音響に酔っている。亜巳の心には生温い同情心などない。ただ、いかにしてこの哀れな獲物を効果的に追い込むか、それだけが専らの関心事であった。

「くっくっく、毎度ながら容赦ねぇなぁ、アミ姉ぇは。一応は幼馴染だってのによ」

「はっ、何を寝惚けた事言ってるんだい、リュウ?こんなものはまだまだ序の口さ。言葉で責めるだけじゃあ物足りない……身も心も蹂躙し尽くして、魂が絞り出す絶叫を聞いた時、ようやくアタシは充たされるんだからねェ」

「やれやれ、物騒な趣味してるぜ、ホントによ。だが……くくっ、そういう事ならささやかなお手伝いが出来そうじゃねぇか。なあ、お前ら!」

 竜兵が部下達に声を張り上げた途端、野生じみた歓喜の咆哮が木霊する。雨音を容易に掻き消して余りある喧しさに、思わず亜巳は顔を顰めた。

 よほど餌に食らいつく瞬間を待ちかねていたのか、彼らは呆れるほどの勢いで蘭へと殺到し、幾重にも取り囲む。餓狼の表情でその肢体を舐めるように眺めながらも、数に任せてすぐにでも襲い掛かろうとしないのは、彼女の肉体に一見して解るほど大きなダメージが見受けられないからだろう。森谷蘭の悪名は卓越した武力と共に鳴り響いているし、過去、実際に彼女の剣によって痛い目を見た輩も男達の中には少なからず混じっている。心中に植え付けられた警戒心と恐怖心が、ここに来て僅かな躊躇いを生んでいた。

「ナニ ビビッテンダ。オレハ ヤルゼ」

 だが、所詮は欲望に忠実な獣。込み上げる衝動の勢力が彼らの乏しい理性を上回るのに、さほど時間は掛からなかった。男達の中でも飛び抜けて屈強な体躯と、群を抜いて凶悪な面相を有する外国人男性――周囲からルディと呼ばれている男が、少女を囲む獣の群れから抜け出ると、無造作な手付きでズボンのベルトに手を掛けた。

 押し留められてきた興奮と熱気は今や完全に解き放たれ、最高潮に達しようとしている。こうなってしまえば、例え獣王たる竜兵が指示したところで、もはや獣達の勢いが止まる事は無いだろう。加えて、蘭は抵抗の意志すらも喪っているのか、猛る男達の輪の中に座り込んだまま、未だ身動き一つしなかった。であるならば、彼女の辿るべき運命は既に定まったに等しい。弱者は強者に喰い散らかされる――それがこの街の住人に共通する、唯一絶対のルールなのだから。

 我先にと、粗暴な指先が群がるように獲物へと伸ばされる。

 この人数だと終わるまでは相当な時間を食いそうだと判断し、街路脇の家屋の屋根で風雨を避けるべく、亜巳は踵を返した。


「何を、している?」


 一瞬にして全てが凍て付いたのは、まさにその時だった。

 天を衝くような怒声ではない。地を揺るがすような喚声ではない。どこまでも静かで、欠片の感情すらも載らない、淡々とした声音。

 鳴り渡る雨音の中に儚く消え失せても何ら不思議のない――そんな一言は、しかしこの場に居合わせた全ての人間の心胆を震撼させ、あらゆる活動を瞬時に停止せしめた。餌に群がる野獣達も、その王も。ただの一声を前に身動きを止め、一点へと視線を集めた。

 いつの間にか其処に居た。そう形容する他無いほどに、何の前触れも無く。しかし、ひとたび気付いてしまえば、断じて眼を離せない存在感を伴って、男は嵐の中に佇んでいた。闇を呑み込んだかの如き漆黒のコートを身に纏い、黒革のブーツで傲然と地を踏み付けて、何者をも寄らせない冷厳な眼光にて周囲を睥睨するのは、未だ年若い一人の青年。その正体を知らぬ者は、この場には一人として居なかった。

 川神周辺域に網を広げる裏社会の監視者であり、あらゆる組織への多大な影響力を有する“一個人”。通称。堀之外の裏の支配者、闇の風紀委員――魔王・織田信長。

 闇の世界に遍く悪名を轟かす男が現れたという、ただそれだけの事実に、場が、呑まれる。各々の心中に巣食った織田信長の、あまりにも圧倒的な存在感を前に、誰もが前後を忘れる。表の支配者・板垣一家の長女たる亜巳ですらも、それは例外ではなかった。害意を以って森谷蘭に接触する以上、遅かれ早かれ信長が姿を見せる事など十二分に承知していたにも関わらず、いざそのシルエットを見出した現在、自然の内に身体が強張るのを抑えられなかった。緊張、高揚、恐怖。心中にて渦巻く幾つもの感情を噛み締めて、亜巳は己が得物を強く握り締める。

「……何をしている、と。俺は然様に問うた筈だ。よもや、答を返さぬと云う事はあるまい」

 漂う静寂を切り裂くかの如き鋭い語調で、信長は言葉を続ける。板垣一家、そして配下の獣達という明確な“敵”を眼前に置きながら、その瞳はそれらを捉えてすらいない。注意を割く価値すら無いと云わんばかりの、徹底した無関心。織田信長の視線は、言葉は、全てがただ一人の少女へと向けられていた。

「ふん。従者の分際で俺を煩わせるとは、随分と偉くなったものだな――蘭」

 信長が語り掛けた相手が、自分達が取り囲んでいる少女であると認識した瞬間、男達は弾かれたように蘭の傍から飛び退いた。恐らく当人達にも理由は判っていないだろうが……その反応は正解だ、と亜巳は思う。信長と、蘭。今の二人を下手に妨げれば、命は無い。そんな漠然とした予感があった。

「今一度、問うてやろう。蘭、お前は何をしている?斯様な、語るに足らぬ屑共に屈し、其の身を喰らわせる事なぞ――俺は赦した覚えは無いが」

「ぁ、ぁ…、ある、じ……」

 重々しい信長の声を受け、初めて蘭が明確な言葉を紡いだ。涙に濡れ、掠れ震えた弱々しい声音は、怯えと不安の感情に満ちている。自らの主君へ向ける目には、縋るような色と深い恐怖の色が入り混じっていた。

 対する信長は表情を変えず、無言のままで従者を見返している。対峙する彼らの様相は、嵐に荒れ狂う波浪と、小揺るぎもせずそれを受け止める巌を思わせた。静と動。静寂と混沌。相反する二つの性質が両者の間で絡み合い、時が止まったかのような停滞を場に生み出す。

「蘭」

 数秒の後、停滞を破ったのは、信長の静的な声音であり、其れに対する蘭の動的な反応であった。主に自身の名を呼ばれる事が耐え難い恐怖であるかのように、ビクリと全身を震わせたかと思うと――蘭は、監視の意図を込めて様子を窺っていた亜巳が、思わず面食らう程に猛烈な勢いで立ち上がった。彼女の相貌に浮かぶのは、狼に追われる羊にも似た、恐るべき何かに突き動かされる者特有の必死さ。発作の如き突然さで動き出した獲物に対し、周囲の獣達が何かしらの反応を示す暇すら与えず、蘭は次なる行動に移っていた。

 すなわち、逃走。

 先程までの弱々しさが演技であったかのように、鋭く疾い転進であった。蘭は一瞬たりとも迷う事無く、織田信長の立ち塞がる前方とは逆方向――後ろへ向かって疾走する。未だ理解の追いつかない獣達の群れへと真正面から突っ込み、数十人の人垣の全てを掻い潜って、数秒と経たぬ内に突破した。そうなれば、もはや彼女の疾走を妨げる障害物は存在しない。

 一拍を置いて、獲物が掌から零れ落ちたという事実を悟った瞬間、男達の怒声が飛び交った。

「畜生、逃がすんじゃねぇ!あのガキはボロボロだ、追えば簡単に仕留められるぜ!」

 後ほんの少し。そんなギリギリのタイミングでお預けを喰らっていた獣は、極上の獲物を取り逃がすという事態を決して受け止められない。信長の存在すら脳裏から消え失せ、激昂に猛り狂う。今にも思い思いに蘭を追い始めかねない獣達を律したのは、やはり獣王の咆哮であった。

「誰が追えと言ったんだ、勝手に動くんじゃねえぞ馬鹿どもがァッ!この場でケツにぶち込まれてぇかッ!」

 大地を揺るがす竜兵の怒声を叩き付けられ、浮き足立っていた部下達は瞬く間に統率を取り戻した。見る間に彼方へと遠ざかっていく少女の背中を未練たらしく見遣りはしても、実際にその場から駆け出そうとする者は居ない。彼らの間において、竜兵の命令は絶対だった。

「アイツの事はもはや放っておけ。役目を終えた“餌”に用はねぇからな。そんな事よりも、だ」

 取り巻き達に向ける威圧的な表情とは一転、竜兵は笑みを浮かべる。猛々しく、心の底から嬉しそうで、そして何よりも――念願の玩具を買い与えられた子供のような、無邪気極まりない笑顔。獣の王と恐れられる凶相には全く似合わぬ、純粋無垢な表情の向かう先は、いつでも一人の男だった。

「ハハハ――待ち侘びたぞ!良く来てくれたなぁ、シンッ!!」

 大仰に両腕を広げてみせながら、竜兵は歓喜の吼え声を上げた。

 板垣一家と最も縁の深い幼馴染にして、相容れぬ宿敵。全霊を以って越えるべき壁。

 シン――織田信長は、眉一つ動かす事無く、竜兵の咆哮を受け止めた。その表情には、如何なる感情も宿っていない。己の従者が蹂躙されようとしていた事実すら、鋼鉄の心を動かすには足りないのか。相変わらず人間離れした男だ、と亜巳は心中で呟いた。この状況にあって尚、自分達を見据える目に怒りの色が欠片も見受けられない事が、これほど不条理且つ不気味なものと感じるとは。気圧されつつある自身を叱咤すべく、亜巳は唇を噛み締めた。

 判らないものは、怖い。それは人間という生物にとっては本能とも言える、当たり前の感情だ。自他共に認める生粋のサディスト・板垣亜巳ですらも、本能に縛られずにはいられない。それ故に、信長の底知れなさ、尋常ならざる“判らなさ”は、常に恐怖と化して亜巳の心を脅かしていた。釈迦堂刑部という稀代の武人に師事し、万人の届かぬ力を身に付ければ付けるほど、しかし亜巳の内に巣食う信長の幻影は巨大になっていく。だからこそ、亜巳は強いて諌める事をしなかったのだ。闘争を以って織田信長との因縁に決着を付けるという――弟の願望を。それこそが、己の内で際限なく膨らみ続ける信長の影を打ち払う唯一の方法であると、亜巳は悟っていた。

 そして今、賽は投げられた。否――数刻前、マロードの言に従い、森谷蘭を餌として利用する計画に賛同の意を示した時点で、既に運命は決していたのだろう。もはや引き返す道はない。ならば……泣く子も黙らす板垣一家の取り纏め役、板垣亜巳に相応しい在り方は一つだ。

 亜巳は竜兵の隣まで歩み出ると、艶然とした笑みを含んだ表情で信長と対峙した。胸中の緊張をおくびにも出さない余裕の言葉が、唇より紡がれる。

「それにしても惜しかったねェ。アンタがもう少し遅れて来てくれりゃ、最高のイベントを見せてやれたのにさ。あの可哀相な娘が完全にブッ壊れる瞬間をアンタと一緒に鑑賞しようと思ってたのに、残念だよ。フフ、さぞかしイイ声で鳴いてくれただろうにねェ」

「…………」

 聞く者の神経を逆撫でする亜巳の挑発にも、信長の感情は揺らいだ様子を見せない。ただ、酷く詰まらない存在を観る目で、僅かに亜巳へと醒めた視線を寄越しただけだった。憎悪も殺意も介在しない、路傍の石に向けるような目。思わず絶句する亜巳とは対照的に、竜兵は愉しげな笑みを絶やさないまま、上機嫌に口を開く。

「くっくっく、そうだ、そうだったな。ガキの頃、初めて会った時からお前はそうだった。どんな状況でも顔色一つ変えねぇ。付け入る隙――“弱さ”なんて邪魔くせぇモノを一つだって持ってねぇからだ」

 大切な宝物を語るような、愛おしげにすら聴こえる口調で、竜兵は信長を評する。その声音は徐々に興奮の色を帯び始め、やがて熱情に満ちた咆哮と化して轟いた。

「そうだシン、お前は最強だ。俺が認める、最強の雄だ!だから俺はなぁ、お前とヤり合いたくて仕方ねぇんだ……血が滾って、心が躍って、もう自分でも抑えが効かねぇんだよ!」

「…………」

「分かるだろ?俺は今、暴発しちまいそうなくらい昂ぶってんだ。……さぁ、今日こそ白黒付けようじゃねぇか!立場も後先も関係ねえ。余計な事なんざ何も考えなくていい、ただの楽しい殺し合い・・・・・・・・・だ。どちらかがくたばるまで、存分に噛み合おうぜ――なぁ、シンッ!!」

 竜兵は常軌を逸した熱情を全身より迸らせ、満面の笑みと共に吠え立てる。果たしてその胸中をどれ程の歓喜が駆け巡っているのか、身内の亜巳ですらも想像が及ばなかった。弟が抱く信長への執着は、生まれ持った戦闘狂としての性質と結び付き、もはや当人の意志では制御不可能な域に達している。竜兵が信長との“試合”ではなく“死合”を熱望するようになったのは、何時の頃からだったか。

 何にせよ、これだけは確信できる――いかなる手段を用いて説いた所で、竜兵が止まる事は有り得ない。つまるところそれが、慎重な亜巳をして織田信長との闘争を決意せしめた、最大の要因だったのだ。

「言いたい事は、それだけか」

 愛の告白にも似た熱烈さで想いをぶち撒けた竜兵とは、まるで対称的。信長の返答は怖気が走る程に冷たく、醒め切っていた。

「初めに、言っておく」

 過剰に淡々とした語調で前置きしてから、信長は無機質な目で竜兵を見据える。

「俺は貴様等の目的に興味は無い。動機、思想、意志。貴様等の総てが、関心を寄せるに値せぬ。貴様等の語る言に耳を傾ける心算も、価値を見出す心算も無い。俺は――貴様等と云う存在に、興味が無い。故に、俺が貴様等に告げるべき儀が在るとすれば、其れは唯一つ」

 一瞬の沈黙。そして、



「目障りだ。消えろ」



 吐き出された彼の台詞は、酷く端的で、簡潔なものだった。

 だが、信長の目が、表情が、醸し出す雰囲気が――何よりも雄弁に、彼の意を語っている。

 それは、ぞっとする程に冷たく乾き切った、“無関心”。蔑むでも、見下すでもない、徹底的な無感情。信長は眼前に立ち塞がる板垣一家の存在に、一片の価値すらも認めてはいなかった。事実、かつて対峙する度に肌を突き刺してきた刃の如き殺意を、今の亜巳は殆ど感じていない。それはつまり、織田信長にとって板垣一家は敵対するに値しない存在だと、そう宣言されているに等しい。

 まずい、と亜巳は反射的に思った。自身のプライドが少なからず傷付けられた事も問題だが――最も問題なのは、弟の事だ。信長という男へと恋慕にも似た執着を抱き続け、遂に積年の想いを遂げられると昂揚していた竜兵にとって、“これ”はいかなる拒絶をも越えた残酷そのものの対応と言える。

「シ、ン――てめぇ……ッ」

 亜巳が予想した通り、竜兵は既に我を失う一歩手前の様相だった。はち切れんばかりの歓喜の念と来るべき闘争への期待感、そしてそれが裏切られた事による失望感は、その総てが一瞬にして燃え盛る憤怒へと転じたのだろう。地獄の鬼すら遠く及ばぬであろう程に兇暴な形相を浮かべ、竜兵は爛々と光る眼で信長を睨み据えている。

 余人ならば恐怖で卒倒しかねない竜兵の眼光を、信長は些かも動じる事無く静かに受け止めて、極めて無感動な調子で口を開いた。

「消えろ、と言ったのが聴こえなかったか?生憎、俺には済ませねばならぬ所用が在り、貴様等と戯れている暇は無い。疾く道を開けるが良い、板垣」

「そんな台詞でっ、俺が素直に引き下がると思ってんのか、あぁ……!?舐めてんじゃねぇぞ、てめぇっ!!」

「ふん。然様か」

 怒髪天を衝く、といった風情で激昂する竜兵と較べ、信長の態度はあくまで冷めていた。嘲る様に鼻を鳴らすと――おもむろに自身の腰元へと手を伸ばす。その指が辿り着く先には、黒に統一された衣裳の中に在って異彩を放つ、鮮やかな朱。

「あれは……、あの娘の刀じゃないか。何で、シンが」

 血飛沫を連想させる不吉な色合いには見覚えがあった。生死を懸けた戦場において幾多の血を吸った、森谷蘭の愛刀。

それが今、何の故あってか、彼女の主の手に握られている。どういう事なのか、と戸惑う亜巳には目も呉れぬままに、信長は鞘から刀身をゆっくりと引き抜いた。白銀の刃が、身を晒す。亜巳の頭に一条の閃きが走ったのはその時であった。

「まさか。それが、アンタの」

 思わず驚愕の言葉が口を衝いて出てしまったのも、無理はない事だった。亜巳の考えが正しければ――目の前の光景は、恐ろしいほどに重大な意味合いを有しているのだから。

 織田信長という男の全貌は闇に包まれている。特に彼の戦闘能力に関しては、“ひたすらに凄まじいものだ”と云う共通認識こそあれど、誰一人としてその底を確かめた者は居ない。或いは――信長の全力を目にした者は悉く、命を以って代価を支払わされたのかもしれなかった。真実はまさしく闇の中だが、とにかく重要な事は、板垣亜巳が未だに織田信長の本気を体験していないという、その一点に尽きる。現時点において亜巳は彼の戦闘スタイルすら把握出来ていないのだ。故に――信長が本来、太刀と云う得物を用いる事で真に力を発揮するタイプの武人である、という一つの可能性を、亜巳は決して否定できない。

 ヒトが蟻を潰すのに、武器などそもそも不要。もしも信長が過去、亜巳達“程度”を相手に刃を振るうまでもないと、自ら武装を封じ、敢えて徒手にて闘いに臨んできたのだとしたら?

 憶測を事実として決定付ける根拠は何処にもなく、未だ闇に覆われた真相は解き明かされない。だが、遠からず知る事になるのだろう。抜き放った太刀を無造作に提げて、悠然と虚空に白刃を泳がせる男の姿を見つめながら、亜巳は掌に滲む汗を自覚する。

「さて」

 信長は感覚を確かめるように太刀を一振りすると、竜兵とその取り巻き達の方へと一歩を踏み出した。気負った様子もない、午後の散歩に興じているような余裕すら感じる一歩。ただそれだけで忽ち、男達の間に動揺の波が走るのが分かった。

 いかに獣じみた連中であるとは言え、堀之外の住人であるならば、信長の脅威は身に沁みて理解している。最凶と畏れられる怪物が曰く付きの凶刃を手に歩み寄ってくるという状況は、恐怖に値するだろう。怒りに顔を歪める竜兵が傍に居なければ逃げ散っても不思議はない程度に、彼らは浮き足立っていた。

 だが、男達の惰弱を嘲笑える程に、亜巳とて余裕ではない。現在の信長は以前に相対した際に感じた、圧し潰すような殺気を身に纏ってはいない。しかし、目に見える解り易い圧力の代わりに、得体の知れない不気味さによる圧迫感を、益々増しているように感じた。

「へェ……、そんなモノまで持ち出しちまって、随分と真剣マジみたいじゃないさ、シン」

 このまま黙っていては、呑まれる。そんな不安感に苛まれる意識が、亜巳の舌先を動かした。

「フフ、女の為に本気を出すなんて、なんとまあ可愛らしい所があるじゃないか。あのイカれた小娘がそんなに大事かい?今までさんざん便利な道具扱いしてきておいて、今更――」

「黙れ。貴様が俺の臣を語るな」

 静かながら、有無を言わせぬ迫力を帯びた一言だった。沈黙が場に充ち、雨音だけが響き続ける。

「“あれ”は俺の所有物モノだ。その血も肉も骨も。魂魄の一片に至るまで、総ての所有権は俺の下に在る。奴を犯し、壊し、殺す……斯くの如き所業を赦されるは、天上天下に唯一人、この俺のみ。板垣亜巳――主たる者の在り方を解せぬ輩が、賢しげに囀るな」

「……っ!」

 一切の反論を赦さない苛烈さに溢れた言を叩き付けられ、亜巳は後に続くべき言葉を詰まらせる。

 仮に言霊と云うものが実在するならば、それはきっとこういうものを指すのだろう、と亜巳は思った。信長の口から吐き出される言葉の全てが凄まじい重圧を伴って、次々と頭上から伸し掛かってくるような感覚。

 気を緩めれば自然と頭を垂れてしまいそうになる自分がもどかしく、そして何より、己をしてそのような心地を呼び起こさせる男の存在が、心の底から恐ろしい。

 圧倒されていたのは、亜巳だけではなかった。獣達もまた、本能にて眼前の“威”を察知し、凍り付いたように硬直している。信長は沈黙する亜巳から視線を逸らし、昏く染まった双眸で男達を睥睨した。


「貴様等が如き鼠輩の分際に、俺の膝元を侵せる道理なぞ無いと知るがいい。今暫しの生を欲するならば、己の分を弁え――早々に去ね、下郎ッ!!」


 偶然か、或いは天意か。

 心胆に響くような大喝が轟くと同時――俄かに黒雲を切り裂いた雷が天より降り注ぎ、轟音と共に大地を震撼させた。

 誰もが、瞠目する。眩いばかりの稲光を背負い、白刃を煌かせて嵐の内に佇む超然たる立ち姿は、あたかも地上に降臨した天魔の如く。神々しいまでの威光に打たれ、この世のものとは思えぬ恐怖に煽られては、獣とて怯え畏れずにはいられない。

「ヒィッ!!や、やっぱり奴はバケモンだ、人間じゃねぇっ!悪魔だ……、奴は悪魔だったんだっ」

「こ、こんなの、付き合ってられるかよ!オレは抜けるぜ、後はてめぇらで勝手にやってくれよリュウさんっ!」

「オレ アクマ コワイ!オレ ニゲル サイショ!WOOOOOO!」

 蜘蛛の子を散らすかのように瞬く間に逃げ去っていく男達を、引き留める術など無かった。雨の中、思い思いの方向へと消える背中を、亜巳は唇を噛みながら見送る。

 元より男達は“本命”を釣り上げる為だけに用意した人数だ、消えたところで戦力的な影響は殆ど無い。歯噛みする程に亜巳を悔しがらせたのは――先の一瞬、信長の発した超自然的な雰囲気を前に、自分までもが完全に呑まれてしまった事だった。他者を手玉に取り蹂躙する、無慈悲な女王である筈の、板垣亜巳が。

「ふん。俺は貴様等に、消えろ、と言った。理解の及ばぬ愚物を案じ、去ね、とも告げてやった。さて、次なる言葉は不要であろう」

 場に残されたのは、僅か四人。未だ魔王の前に立ち塞がっているのは、亜巳、竜兵、そして――辰子だった。

 信長は醒めた表情のまま三人を見渡し、おもむろに太刀を持ち上げた。鋭く光る切っ先が、真っ直ぐに三人へと向けられる。未だ十数歩の距離を隔てていると言うのに、あたかも喉元に刃を突き付けられているかのように感じるのは、ひとえにその太刀の担い手が織田信長であるという意識故だろう。

 緊張感に口内をひりつかせながら、ふと隣の様子を窺った亜巳は、唖然とした。

「ZZZ」

 辰子である。板垣家最強を誇る亜巳の妹は、見間違え様もなく――寝ていた。器用にも立ったままの状態で、頭だけがうつらうつらと舟を漕いでいる。かの織田信長に刃を向けられている最中であるにも関わらず、安らかな寝顔には欠片の緊張感も見当たらなかった。

 有り得ない、と亜巳は混乱した。確かに辰子は有り得ない程に呑気で、有り得ない程に寝るのが好きで、有り得ない程に何処でも寝付けるという特技の持ち主だが、しかし同時に紛れもなく一個の武人でもあるのだ。信長という規格外の怪物が戦闘態勢を取っている目の前で眠りこけるなど、殺してくれと自ら懇願しているようなものではないか。

 ……いや、そもそも。辰子は、いつから。

「成程。最も間が抜けて見える輩こそ、真に己を知る者と云う事か。実に皮肉なものよ」

「なっ――そいつは、どういう意味だい」

「ふん、意味など無い。敵を知り、己を知る事こそ戦の要。勝機の見出せぬ戦に臨む程、其奴は愚かではない……それだけの話であろう」

 淡々と語る信長の言葉を、そんな馬鹿な、と一笑に伏す事は出来なかった。幸せそうな寝顔を横目で見遣って、亜巳は逡巡する。

 亜巳自身も含め、とにかく好戦的な性格の持ち主が多い。それが板垣一家の特徴だが、唯一、次女の辰子だけは例外だった。内に抱える兇暴な“竜”の存在を考えなければ、辰子は常に温和で、無益な争い事を嫌う。実際、今回の信長との闘争についても、辰子が乗り気でいるようには見えなかった。闘争を求めた訳ではなく、自分が戦わない事で家族が傷付くのはイヤだ、というただそれだけの理由で辰子はこの場にいるのだろう。

 ならば、もしも辰子が、自身が不戦の意を示す事で闘いを避けられると判断し、敢えてこのような態度を取っているのだとしたら?それはまさしく、今しがた信長の語った言葉と合致するのではないか。

 亜巳は複雑な気分で、妹の能天気な寝顔を眺めた。辰子は論理的に物事を考えて、計算尽くで態度を変えられるような種類の人間ではない。しかし、本能的な部分で家族が傷付かない道を導き出し、直感に従って現在のように振舞っている可能性は十分に考えられる。つまり――信長との闘いを避ける事こそが辰子の、愛すべき妹の望みなのだろうか。

 だとしたら――。

 もう一人の妹の、今にも泣き出しそうな悲痛な表情が、亜巳の脳裏を過ぎる。

 だとしたら、自分達が本当に選ぶべき道は――


「くくく、くははははははっ!!!」

 
 沈みゆく亜巳の思考を途絶えさせたのは、猛々しい笑声だった。

 先程まで憤怒に身を震わせていた筈の竜兵が、笑っている。眼をギラつかせ、口元を歪ませて、食い入るように信長を見つめる。

 亜巳そんな弟の姿に、どこか危険な雰囲気を感じ取った。

「敵を知り己を知るだと?なんだそりゃ、バカバカしい。相手を選んで喧嘩売るのが上等ってか?そんなクソみてえな考え、オレは認めねえぞ。なぁシンよぉ」

「……」

「ああ、お前は昔から強かったなぁ。初めて会った時、俺は震えたもんだぜ。俺より強ぇ雄がいる。ずっとずっと強ぇ雄がいる。そうだ……サシでやりゃあ、俺はお前に勝てねえだろうよ。アミ姉ぇやタツ姉ぇでも届かねえんだ、俺の手が届く訳ねえのは嫌でも分かる。んな事ァ分かってんだ、でもよぉっ!」

 かっと目を見開いて、竜兵は吼える。乙女のような一途さで、胸中の想いを訴え掛ける。

「関係ねぇんだよっ!俺はお前と闘いてえんだ。遊びたいんじゃねえ、相手になろうがなるまいがどうだっていい、ただ互いに全力でっ、魂削って喰らい合って、この想いに決着を付けてぇだけだ!なのに、その目だ。お前はいつもいつもいつもいつもいつもォ、“その目”で俺を見やがる。ふざけんな、ふざけんなよ、俺を見ろ、俺という雄と向かい合ってみろ!俺は死なんざ恐れちゃいねぇ、お前がどんな化物だろうがビビって尻尾巻いたりはしねぇ!だからシン、俺は――俺と――」

「黙れ」

 やや支離滅裂の様相を呈してきた竜兵の叫びは、氷の如く冷徹な言葉に遮られた。

「言った筈だ。俺は貴様等の語る言に耳を傾ける心算も、価値を見出す心算も無い。独り言ならば余所で吐き出せ。耳障りだ」

 信長が虚無の相貌で紡ぎ出した言葉は、手にした刃よりも尚、何処までも冷たかった。

 欠片の容赦も含まれない氷の台詞に刺し貫かれ、竜兵の顔色が蒼白に染まる。今度の今度こそ、激情が真に限界を超えた事を示すサインだと、長い付き合いの亜巳は知っていた。こうして全身を覆う強靭な筋肉が小刻みに痙攣し始めた以上、もはやどう足掻いても戦闘突入は避けられない、と言う事も。

 亜巳は小さく息を吐き出すと、掌の汗を服で拭い、得物を握り直した。

「……」

 数間の距離を隔てて構えを取る亜巳の姿に何を思ったか、信長は僅かに目を細める。

 そして、おもむろに抜き身の太刀を翳し――横薙ぎに振るった。無論、亜巳達と信長の立ち位置は、ニ尺五寸の刃の間合いから遥かに遠い。何の意味も有さない不可解な動きに、眉を顰めて訝った瞬間だった。

「―――!?」

 ぞくり、と凄まじい勢いで亜巳の肌が粟立つ。実戦の中で鍛え上げた武人としての直感が、警報を鳴らしていた。

 ほぼ同時に、亜巳は一つの“氣”を察知する。

 巨大で雄大で強大で、そして何よりも荒々しい気配。総てを砕き、穿ち貫くイメージの具現。

 その発生源が“上空”だと悟った瞬間、亜巳の喉からは絶叫が迸っていた。


「リュウゥゥゥッ!避けなァッ!!」


 自分一人ならば問題は無い。辰子も既に目を開き、迫り来る危険に対し反応しようとしている。だが、弟は――竜兵の自力では、退避が間に合わない。刹那の思考で結論を導き出すと、亜巳は僅かな迷いも無く身体を動かした。

 竜兵の服を引っ掴み、外観からは想像できない膂力を以って投げ飛ばす。百八十センチ超の巨躯が宙を舞った瞬間に、亜巳は全力で路面を蹴り付けた。

 
 衝撃は直後。

 
 天空より降り注いだ暴虐が、大地を抉り穿つ。落雷にも劣らない轟音が鳴り渡り、そして落雷をも超える破壊の力が、一瞬前まで竜兵が立っていたアスファルトの路面を割り砕いた。その地点を中心に、水面に波紋が広がるかの如く、破壊のエネルギーが広がっていき――数瞬を経て、爆砕。粉々に砕け散ったコンクリート片が渦を巻きながら天に舞い上がり、そして雨粒と入り混じって地面へと降り注ぐ。


「く、一体何が――」


 顔を顰めながら身体を起こした亜巳は、眼前の路面の変わり果てた様相を見、驚愕に目を見開いた。

 
 そこには、一つのクレーターが出来上がっていた。ただし、天体衝突によって出来上がるモノとは明らかに異なる。その形状は綺麗な円錐状であり、穴の内側はヤスリを掛けられたかのように滑らか――この時点で、どう考えても自然の手によるものではない事が判る。ならば、果たして何者の手によるものか?

 答は、一目瞭然だった。


「ふむ。今のは思わず自画自賛したくなる程に美しい一撃だったのだが……流石は板垣、素晴らしい反応をする。しかしアレだ、殿に対してあれだけ自信満々に豪語しておきながらまさか仕留め損なうとは汗顔の至りだね。命中精度……否、今回の場合は気配の消し方に問題があったのか。ふむ、この反省を糧にしなければなるまい。失敗を失敗と認め失敗を失敗で終わらせず失敗から学び失敗を己の成長に繋げてこその人類なのだから」

 
 先程までには何処にも居なかった人間がクレーターの中心にて立ち上がり、ブツブツと独り言を吐き出している。

 それだけの情報で、下手人の特定は容易だった。ならば、次にすべき確認は――

「リュウ、辰っ!二人ともくたばっちゃいないだろうねェ!」

「な、何とかな。助かったぜ、アミ姉ぇ……」

「私もだいじょうぶだよ~」

 間髪入れずに返って来た返事と、視界に入った二人の無事な姿に、亜巳は安堵の吐息を漏らした。手放さずにいた棒を構えると、突然の襲撃者へと再び鋭い視線を向けて――初めて気付くその風体の奇抜さに、唖然とした。

 腰まで届くダークグレーの長髪の、長身の女。そこまでは普通だ。問題は、顔の上半分を覆い隠す、装飾過多の仮装用マスク。そしてそのパーツと何処までもミスマッチな、さながら老舗の和菓子屋の売り子服を連想するような和の装束。

 何だコイツは、と呆気に取られる亜巳の様子に気付いたのか、ようやく襲撃者は独り言を止め、亜巳に向けて仰々しい礼をしてみせた。

「これはこれは私とした事が、挨拶が遅れて申し訳ない。事情あって本名は名乗れないので不躾ながら通り名の方で名乗らせて頂くよ。ごほん――ある時は愛の使者、ある時は愛のネゴシエイター、はたまたある時は貴方を想う愛の鞭。愛のために槍を取り、愛のために敵を討つ。愛・戦士ことサギ仮面、ここに参上。しゃらん、しゃららん、しゃらららーん。――愛のままに、我侭に。私は君だけを傷付けたい――」

「………………」

 取り敢えずどの部分から突っ込めばいいのか亜巳は迷って、そしてわざわざ相手をしてやる義理が無い事に思い至った。

 あくまで冷静に無視を貫こうと必死に試みる亜巳の横で、辰子が場違いにのんびりとした声を上げる。

「あー、サギ仮面ちゃんだー。やっほー、元気だった~?」

「ご覧の通りだとも。タッツーも壮健そうで何よりだ。フフフ、お陰で挽肉にし損ねてしまったがね」

「って知り合いかよタツ姉ぇ!?」

「えっとねぇ、たしかぁ、二年くらい前にお友達になったんだよ~」

 友達は選ぶようにしっかりと教育をしておくべきだった、と今後の教育方針を考え直す事を頭に刻み込んでから、亜巳は素早く思考を切り替えた。

 今はイカれた相手に付き合っているような場合ではない。外見と言動こそふざけているが、一瞬の内にあれだけの破壊をしてのけた仮面の女は見過ごせない“敵”であり、そして――ありとあらゆる注意力を費やして対峙すべき相手が、この場には居合わせているのだから。

 ほんの僅かな間でも視線を切ってしまった事を悔やみながら、亜巳は周囲に素早く視線を巡らせる。目的の人物は、労せずして再び視界に捉えられた。亜巳が見たのは――自分達に“背中を向けて”、悠々と歩き去っていく織田信長の姿。その段階に至って、ようやく亜巳は彼の意図に思い至る。

「ちぃっ、やられた……っ!」

 派手な破壊と、奇抜な衣裳、そして全く以って意味の判らない言動。全ては板垣一家の目を一点に惹き付け、ペースを乱し、その隙を衝いた突破を容易にする為の陽動に過ぎなかったのだろう。

 遠ざかる背を追撃する為、すぐさま駆け出そうと動いた亜巳の前に、当然の如くサギ仮面と名乗る女が立ち塞がった。

「おっと。オフェンスは言うに及ばずディフェンスにまで定評のある多才な私としては、そう易々と此処を通す訳にはいかないな。ましてや我が殿へと通じる道ならば、命に代えても死守するのが臣の務め。フフフ、人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまっても文句は言えないし損害賠償は請求できないと、私の中の法は告げているのだ。よって一切合切容赦はしないので悪しからず」

「アンタ……見ない顔だけど、シンの部下かい?」

「フフフ、可笑しな事を言うな。見ない顔も何も顔は見えないだろうに。おっと失礼、例え腰を折ろうとも骨を折ろうともフラグを折ろうとも、ひとたび受けた質問には極力答えて差し上げるのが私の流儀」 

 内容の割に抑揚の乏しい調子で淡々と言い終えると、女は自ら作り上げたクレーターへと腕を突っ込み、そこから巨大な“何か”を引っ張り出した。亜巳の身長を軽く超える程に長大なサイズを誇るソレは、形状こそ奇妙だが、どうやら槍の一種の様に見受けられた。路面に不自然な風穴を空けたのは、まず間違いなくこの得物による一撃なのだろう。相当な重量のありそうな大槍を、女は片手で軽々と地面に突き立て、静かに言葉を続けた。

「改めて名乗り直そうか。――織田信長が“客将”、サギ仮面こと私がお相手仕る。いざ、尋常に立ち合い願おう」

 女が口上を言い放った途端――蒼色に迸る荒々しい氣の渦が、さながら龍の如くその全身に纏わり付いた。それは先程、亜巳が上空に感知した巨大な氣と同質のもの。

 かなり、出来る。

 相手がこのレベルの武人ともなれば、相対しただけである程度の実力は推察出来る。恐らくは自分と同格か、或いは更に上、と亜巳は見積もった。無論、勝負は単純な氣の保有量でのみ決まるものではないが、それを差し引いても――眼前の女からは、底知れない何かを感じていた。

 亜巳の冷静沈着な判断能力は一瞬で情報を解析し、状況を分析し、相応しい対応策を導き出す。

「アタシがコイツを抑える!リュウ、辰、アンタらはシンを――」

 早口に指示を飛ばし掛けた瞬間、二度目の感覚が亜巳を襲った。ぞわり、と全身の肌が粟立つ感覚。刹那、凄まじい速力で手元の棒が回転し、背中にまで迫っていた凶刃を弾き落とした。キィン、という冷徹な金属音が耳に残響する中、無闇に愉しそうな笑声が響いた。

「あはは、私もしくじっちゃったよ。この大雨で視界が悪い分、奇襲の難易度も相応に下がってる筈なのに……我ながら不甲斐ないったらありゃしないね。でもまあ相手が相手だし、ご主人もめくるめくお仕置きタイムに突入しちゃったりはしないよね。うんうん、きっとそうさ。ポジティブに行こうポジティブに、上を向いて歩こう」

「アンタは……、いつぞや天とやり合ってた小娘か。見ないと思ったら、シンの小間使いでもやらされてたのかい?」

 嵐の中、新たに現れたのは、丈の合わないローブで全身を包み込んだ小柄な少女。今しがた亜巳の命を狙った紅の鉤爪をぶらぶらさせながら、少女はニヤリと不敵に笑って見せた。

「いやぁその通り。ご主人ってば意地悪だしサディストだし人使いは荒いしでさ、ホントに私の苦労ったら独りで蜀漢を背負ってた諸葛孔明もかくやって感じだよ。賃金値上げを要求し続けること数週間、よくよく考えたら私ってばそもそも賃金なんてビタ一文貰ってないことに気付いちゃってさ。嘘、私の待遇、悪すぎ……?とか何とかショック受けることしきりな今日この頃だったり。うん、改めて考えるとホント酷い話だ。――でもさ」

 へらへらとした軽い態度から一転、ぎらりと、少女の猫を思わせる目が暗く光った。

 其処に宿る感情は、憎悪と、殺意。

「私は気に入ってた。好きだったんだ、今の生活が。私がいて、ご主人がいて、ランがいる毎日が……大好きだったんだよ。だからさ、私、キミ達のこと、結構――殺したいって思ってるんだよね」

 言葉に込められた想いに誇張は無く、紛れもない本物だったのだろう。吐き捨てるように言い放つや否や、少女は両腕の鉤爪を煌かせ、肉を抉り命を刈り取る為の一閃を躊躇なく繰り出す。亜巳は己の得物で斬撃を受け止め、返す一撃で小柄な身体を押し戻しながら、呼気鋭く声を発した。

「辰、“起きて”いいよ!そっちのふざけた仮面女をぶっ潰してやりなっ!リュウ、アンタは――」

「ああ亜巳姉ぇ、言われるまでもねえぜ、当然、シンを追うに決まっている!あいつは絶対に俺が喰うと、ガキの頃から決めてたんだよぉっ!!」

「何を寝言ほざいてるんだい、アンタ一人じゃ犬死するだけだよ!」

 鉤爪少女と斬り結びながら鋭い制止の声を飛ばす亜巳に、竜兵は無言で狂気じみた笑みを向けた。

 命を賭けて挑んだ末に果てるならば本望だ――弟がそのような刹那的な思考に至っている事が手に取るように分かり、亜巳は戦慄する。

 骨の数本くらいはへし追ってでも止めるべきか、と真剣に悩んだ時だった。

「全くだ。てめぇなんざが相手じゃ、あの野郎にとっちゃ役不足もいいところだぜ」

「あァ!?何だてめぇは……」

 またしても、新たな人物の登場だった。しかも、まず間違いなく敵だ。剃刀の如く鋭い目で竜兵を睨み据えているのは、亜巳にとっては何処となく見覚えのある年若い少年。少々記憶を探り、あの夜の“人質”だ、と思い至る。

 いまいち記憶が定かではないが、確か彼は特筆する程の戦闘力を有していなかった筈だ。ならば竜兵の気晴らし相手にはもってこいだろう、と亜巳はむしろこの増援の出現に感謝したい思いだった。

「俺はシンとヤりに来てるんだ、ザコはお呼びじゃねぇんだよ!喰い殺すぞ、カスが……!」

「ザコ、か。はっ、確かにそうかもしれねぇな」

 吼え猛る竜兵を前に、少年は自嘲的に呟いた。数秒ほど瞼を閉し、遠い昔に過ぎ去った何かを思い出しているかのように佇む。渇望と憤怒に狂った獣王の恫喝を耳に入れてすらいないのか、彼は小揺るぎさえする様子はない。

 そして――彼が再び目を開いた時、その中には強い信念と覚悟、決意の光が宿っていた。

「ザコでも、抗える。流れに身を任せて、いつの間にか取り返しのつかない所まで流される――そんなクソッタレな結末は、二度と御免だ」

「あぁ、何言ってやがる!?どけ、失せろカスがッ!シンが、シンが行っちまうだろうがよぉぉおおおッ!!」

「あいつらは、オレの……オレの、大事な、幼馴染だ。てめえみたいなケダモノに、一人だってくれてやる訳にはいかねぇんだよ!」

 響き渡るは獣の咆哮と、人の願い。

 二つの想いが肉体を突き動かし、互いの譲れぬモノを懸けて拳と拳が交錯する。



 斯くして――――
 

 

 第一死合・柴田鷺風 対 板垣辰子。

 
 第二死合・明智音子 対 板垣亜巳。

 
 第三死合・源 忠勝 対 板垣竜兵。






――――堀之外合戦、開幕。












 と言う訳で、ようやく本番スタートです。どう考えても準備を引き伸ばし過ぎですね……今後は出来る限り内容を絞って書くように心掛けたいと思います。無駄な文を書いているつもりもありませんが、やはり文章のスリム化は大事です。

 本日のヤンデレ枠:リュウちゃん ツンデレ枠:タッちゃん  でお送りしました。それでは次回の更新で。


>ありすさん

ご指摘ありがとうございます。当時の自分がどういったつもりで書いていたのか、もはや記憶の彼方ですが、仰る通り些か不自然さを感じる描写ですね。違和感の出ないように修正しておきたいと思います。作者的には今後ともこういったご指摘を頂けると非常に助かりますね。



[13860] 堀之外合戦、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:20ee6220
Date: 2012/08/26 18:10
「……ん~」

 昼休みの決闘を終えて以降、クリスティアーネ・フリードリヒは何処か上の空だった。

 ぼんやりと物思いに浸っている間に五限の終業ベルが鳴り、やがて六限の歴史の授業が始まっても、いまいち身が入らない。後三条天皇が延久の荘園整理礼を発布し記録荘園券契所を設置した事など、日本人ならば五歳児でも知っている常識であろうと言うのに、教師より質問された際、クリスはその旨を即答出来なかったのだ。

 これは由々しき事態だ、とどうにか気分を切り替えようと試みるも、いまいち効果は顕れない。

 幾度となく脳裏に蘇るのは、つい先刻に刃を交わした少女の姿だった。一刀の下にクリスの得物を叩き折り、そしてクリスへと紛う事なき殺意を向けた剣士、森谷蘭。

 自分が悪かった、とは思わない。そもそもクリスは自分が心から正しいと信じた言葉しか口にはしないし、日頃の立ち居振舞いもそう在るべく心掛けている。

 しかし、もしも自分の言葉が、あそこまでに歪んだ殺意を生み出す程の“傷”に知らず触れてしまったのだとしたら。その無配慮が切っ掛けとなって、彼女の心を負の方向へと暴走させてしまったのだとしたら――それでも尚、本当に自分が正しいと、胸を張って己の正義を誇れるのだろうか。

 自分を見るクラスメートの目の、何処か白けたような冷たさもまた、クリスの悩みに拍車を掛けていた。織田信長という“悪”を見過ごす事に耐えられず、クリスは直江大和の制止を無視して彼に挑み掛かった。その行為が疑いない正義だと信じたが故に、悪に迎合する大和の言を退ける事に躊躇いは無かった。

 だが、こうして奇妙な形で決闘を終え、改めて冷静に自身を振り返ってみれば、その在り方の正しさには一抹の疑問が残る。2-Fの皆とて、決して織田信長を許容している訳ではない。にも関わらず自分一人だけが、決着の時を預けると言う彼らの意見を否定し、後先を考えず眼前の悪に挑み掛かったのは、単なる我侭と何が違うのか。


――マルさんと、話がしたいな。


 本日を以って隣のクラスに籍を置く事になった姉代わりの女性、マルギッテ。クリスが誰かに悩みを相談する場合、多くの場合は彼女が選ばれた。彼女はクリスの知るどんな女性よりも聡明で、クリスよりも遥かに多くの物事を知っている。今回の場合、自分が何を問いたいのかも漠然としているが、それでも彼女ならばクリスの疑念に何かしらの解答を与えてくれる違いない。

 授業が終わったら、彼女の所へ行こう。そんな風に小さな決心を固め、ひとまず悩みを頭から締め出して授業に集中し始めた頃――唐突に2-F教室の扉が開かれた。単調な授業の最中に響き渡った突然の物音に、大半の生徒達は一斉に戸口へと視線を向けた。

「椎名!遅刻でおじゃる!麻呂は何の連絡も聞いておらぬぞよ、どういう事か説明するでおじゃ!」

 歴史教師の張り上げる甲高い叱声を聴いているのかいないのか、紺青色の髪の少女、椎名京は少し青褪めた無表情で入口に立ち尽くし、2-F教室全体を見渡した。そして――次の瞬間、クリスの方へ視線を向けたかと思うと、廊下側の自分の席ではなく、窓際に位置するクリスの席へと一直線に歩み寄る。

 予想外の行動に誰もが唖然と見守る中、彼女はやや緊張に強張った表情で、早口に言葉を紡いだ。


「大事な話がある。今すぐ、私と一緒に来て」

 













 堀之外町の面積の大半を占める歓楽街。その雑然とした毒々しい街並みを暫く南西へと向かうと、やがて賃貸マンションと一般家屋の立ち並ぶ区域へと辿り着く。悪名高い歓楽街と隣り合っているが故か、何処かしら煤けた、陰鬱な雰囲気を漂わせる住宅街。現在、マルギッテ・エーベルバッハはその入口に立っていた。獣の巣窟と、人の住処――両者を隔てる境界線上に、彫像の如く微動だにせず、雨に身を打たれている。

 こういう時は予期せぬ豪雨もありがたいものだ、とマルギッテは思った。尽きる事無く天空から降りしきる雨粒は、闘争の予感に昂ぶり、内より湧き起こる熱に火照った身体を、程好く冷ましてくれる。

 焼け付いた銃身をそのままにトリガーを引き続ければ、暴発は必然だ。“いかなる時であれ己を冷徹に保つ術を学べば、君は最高峰の戦闘者となれるだろう”――かつて上官から受けた訓戒が、ふと脳裏に蘇った。

「……来たか」

 絶えず研ぎ澄まされ、機械に匹敵する精密さのレーダーと化して周囲を探っていたマルギッテの神経が、前方――歓楽街方面より自身へと接近する気配を捉えた。マルギッテは静かに閉していた双眸を開き、紅蓮の眼を露にする。

 自らの力をセーブする為、常に隻眼を封じている黒の眼帯は、既に取り払われていた。此処は戦場だ。命を賭して牙を剥き合う場に、“手加減”と云う概念は無用。其れが許されるとするならば、あらゆる強弱、戦場の理をも超越し、武の極地へと至った真の怪物のみだろう。

――さて、ならばこの男は、どうなのか。


「くくっ、斯様な悪天の下にて“狩り”とは、独軍の誇る狩猟部隊とやらは相当な物好きの集団らしい。任務御苦労、とでも労ってやろうか?マルギッテ・エーベルバッハ」

 
 自身の行く先に一人待ち構えていた“猟犬”の存在に驚いた様子もなく、学園の教室にて初めて言葉を交わした時と同様の、不敵な嘲笑を向けてくる男。川神学園2-Sに編入したマルギッテのクラスメート――織田信長は、如何ほどの境地に達しているのか。

 この男は戦場に在って、何の変化も無い様に見受けられた。身に纏う雰囲気に緊張や気負いの色は無い。あたかも平穏な学園の教室に居るかのように、表情一つ変えぬ平然たる態度。かつてここまで“読めない”男に出遭った事があったか、とマルギッテは自問した。加えて性質の悪い事に――自分とは違い、相手の方はどうやら此方の事情を良く知っているらしい。

「……成程。こちらの動きは筒抜け、と言う事ですか。随分と厳重に網を張り巡らせているようだ」

「元よりこの街には余所者を快く思わぬ輩も多い。其れが遠慮を知らぬ無礼者なれば、尚更な。態々俺が命ずるまでもなく、数多の監視の目が貴様らを捉えていた」

「招かれざる客、か――道理で、不快な視線が纏わり付く」

 この街に踏み込んだ時から感じていた粘着質な気持ち悪さは、住人達から漂う腐敗の臭いだけが原因ではなかったらしい。日本という国そのものを些か神聖視している中将はさほど気に留めていなかった様だが、やはりこの川神という土地には、紛う事無き“闇”が在る。光の射さぬ暗黒の中で蠢く者達が居る。そして――氷の瞳で闇を見通し、睥睨し、恐怖を以って君臨する事で統制を保つ魔王こそ、眼前の男なのだ。

「さて。貴様が独り此処に居ると云う事は……足止め、或いは時間稼ぎ、か。くく、部下の狩りを妨げぬ為に命を捨てるとは、いや隊長の鑑だな」

「……」

 全てを見透かしたような信長の嘲笑に、マルギッテは沈黙した。漆黒に塗り潰されたこの男の双眸は、果たして何処まで見通しているのか。

 規格外の力に溺れ、無思慮に暴れ回るだけの愚物ならば良かった。眼前の敵に猪突猛進するだけの獣ならば、幾らでも対処の術はある。だが――織田信長の真に厄介な所は、戦場に於ける情報の有用性を正しく理解し、それを戦術規模で活かす術を有している点だ。自分自身の武力を冷徹に把握した上で、その脅威を自らの戦術に組み込んでくる。自分の力を有効に用いる術を知っているのだ。敵に回した際、最も対処に悩む種類の敵手だった。

「塵芥が徒党を組んだ所で、俺を煩わせる事すら能わぬ。案ずるな、貴様の判断は正しい。犠牲を最小限に止めるは、一軍を率いる者の責務よ」

 能力的にある一定のラインを超えた武人でない限り、信長にとってその存在は零に等しい。彼の発する凶悪な圧力に耐えられない者は、そもそも“闘い”と云うステージに立つ事すら出来ない――上官より与えられた情報と、そして何より自身がこの眼で目撃した暴威を鑑みて、そのようにマルギッテは判断した。そして自身の率いる狩猟部隊の中でも、信長とまともに“闘う”段階まで進めるのは自分一人のみだ、とも。

 だからこそ、マルギッテは“狩場”への経路に陣取り、部下が任務を完遂させるまで、独り魔王の襲撃を防ぎ切る心算でいたのだが――それらの思惑は、信長には全て見通されている様だった。その事実に何とも言えないやり辛さを感じながら、マルギッテは呑まれる事に抗おうとする様に、信長へと強い力を込めた視線を向ける。

「黙っていれば随分と、好き放題に言ってくれるものだな、ノブナガ。足止め?時間稼ぎ?最小限の犠牲? ふっ、過ぎた傲慢は滑稽に映ると知りなさい。その驕りと油断に満ちた心根を叩き砕く為に、私は此処にいる」

「然様か。……貴様の下らぬ了見を、一つだけ訂正してやろう。俺の方寸には、慢心も油断も無い。これは――“余裕”と云うものだ。記憶したか?猟犬」

 あくまで悠然と、あたかも当然の理を述べるかのような口振りで、信長は嘯く。

 余裕。成程、少なくとも当人にとっては疑いなく、その表現こそが相応しいのだろう。この期に及んで戦闘態勢を取ろうとする様子が欠片も見えない事や、そもそも以前の如く容赦なく肌を突き刺す鋭利な殺意を放つ事すらしていない事実が、織田信長の精神の在り方を雄弁に物語っている。この男にとって、戦場とは――戯れに足を運ぶべき遊び場も同然なのだ、と。

 絶大なる実力に裏打ちされた、絶対的な自信。それが根拠のない思い上がりと断ずる事が出来たなら、どれほど楽であったか。眼前の男の怪物じみた武力を感じ取れてしまうが故に尚更、マルギッテの心中には腹立たしさが募る。

「……これほど舐められたのは、久し振りだ」

 ギシリ、と手元のトンファーが軋みを上げる。元よりマルギッテは少なからず激し易い性格の持ち主だ。無意識の内に、怒気に呼応するような灼熱の闘氣が噴き上がり、周囲の雨粒を蒸発させた。勢いに任せて暴走しないよう自らを抑え付けながら、マルギッテは猛禽の瞳で信長を睨み据える。

「お前は自分の能力を信じているのだろうが――しかし、私達の目的はあくまで、森谷蘭の確保。お前が余裕に浸っている間にも、優秀な私の部下達が標的を追い立てていると知りなさい。手負いの野ウサギ一匹仕留められない程、狩猟部隊の練度は低くない」

「ふん。貴様等の勝利条件を思えば、俺に猶予は無い、か。成程、道理だ」

 マルギッテの言葉に重々しく同意して見せながらも、信長の立ち振舞いに焦燥の色は見受けられない。一刻を争う状況に自らが置かれていると認識しているにも関わらず、何一つとして具体的な動きを見せない信長に、マルギッテは戸惑った。眼前の障害を突破すべく、すぐにでも仕掛けてくるものだと厳重に身構えていたが――予想に反し、信長は依然として戦意の類を露にしない。

 轟々と滾る闘志の行き場を見失い、如何に動くべきか進退に迷うマルギッテを、冷たい双眸が射抜く。信長は構えを取ろうとすらしないまま、冷然と言葉を続けた。

「狙うはただ一点、標的のみ。然様な、語るまでもない“道理”に対し、俺が何の手も打たぬと思ったか?」

「……何?」

「理解が及ばぬならば、言葉を改めてやろう。――舐めているのは貴様だ、エーベルバッハ」

「―――っ!!」

 傲然と放たれた言葉の意味を解するよりも先に、身体が反応した。

 刹那、マルギッテの優れた察知能力が感じ取ったのは、極限まで細く鋭く研ぎ澄まされた、針の如き殺意。間髪を入れず背後から迫り来る“何か”を、振り向き様に繰り出したトンファーの一撃で迎え撃つ。

 投擲武器によるものと思しき攻撃は相当に疾いが、軽い。飛来物は目にも留まらぬ旋棍の一閃にて容易く薙ぎ払われ、弾き飛ばされた。

「っ、これは……」

 一瞬を経て、マルギッテは路面へと叩き落した投擲物の正体を悟る。

 特殊な形状を有する、両刃の短刀――“苦無”と呼ばれるその得物の使い手には、心当たりがあった。


「ちっ、あわよくば一刺しで終わりにしたかったんだがな。流石にお前相手じゃそうもいかねーか、猟犬」


 次いで空気を震わせたのは、マルギッテが予想した通りの声音だった。

 忍足あずみ――何の因果かクラスメートの間柄となった戦地の顔馴染みが、“標的”が居る筈の住宅街方面から姿を現す。何度見ても違和感の拭えないメイド服の裾を翻し、あずみは音も無くマルギッテへと歩み寄った。両手の十指の間には、既に数本の新たな苦無が挟み込まれている。隙を窺わせない立ち振舞いと併せて考えれば、彼女が戦闘態勢に入っている事は明らかだった。

 マルギッテは咄嗟に跳び退って彼女との距離を開け、全身の筋肉を緊張させながらトンファーを構える。

「女王蜂……、なぜお前がここに」

 マルギッテの疑問には答えず、あずみは視線を余所へと向けた。突然の乱入者の存在に動じた様子も無く、無言のままに泰然と佇む男――織田信長へと鋭い視線を向けて、仏頂面で口を開く。

「ドイツ軍御一行様はあたい達が引き受けてやるよ。織田、お前はさっさと“あいつ”を何とかしとけ。それが英雄様の望みなんだからな」

「ふん――彼奴の思惑なぞ知る所ではない。有象無象の雑多な意志に関わらず、俺は自身の為、自身の手で己が目的を果たすのみ。……が、思えば、従者が主君に誇るべき功を全て奪うも酷と云うものよ。機を供してやる故、過たず己が任を果たすが良かろう」

「はっ、相変わらず可愛くねえ野郎だぜ。このまま南西に直進だ、そこで姿を確認した。とっとと行きやがれ」

 ぶっきらぼうなあずみの催促に無言で応え、信長は静かに動き始めた。あずみへの対処のの為にマルギッテが空けた住宅街への道を、殊更に急ぐでもない悠々たる足取りで歩み出す。

 勿論、その行動を呆然と見過ごすマルギッテではない。すぐさま信長の眼前に立ち塞がるべく地を蹴ろうとしたが――再び風雨を切り裂いて飛来した苦無を防ぐ為には、否応なく動作を中断せざるを得なかった。

「おっと、あたいが相手をするって言っただろ?ここは付き合って貰うぜ、猟犬」

 女王蜂――忍足あずみ。戦場における好敵手として、彼女の優れた実力は良く知っている。単純な膂力では自身に劣るものの、それを補って余りある突出したスピード、豊富な実戦経験により培われた判断能力、そして深く熟達した技術。武人としての総合的な戦闘能力は決してマルギッテを下回るものではなかった。

 そんな彼女を後背に置いた状態で信長を追うのは、まず不可能と言って差し支えない。結果、マルギッテに許される行動は、住宅街へと消え行く漆黒の背中を為す術なく見送る事のみだった。自身の失態に込み上げる怒りを歯軋りにて堪えながら、あずみを睨み据える。

「……女王蜂。お前がこの場に居るという事は、つまり……九鬼の“従者部隊”が動いたと」

「ま、そーいうこった。今頃、あっちでお前の部下と仲良くドンパチやってる頃だな」

 感情を見せずに淡々と答えるあずみに、手元のトンファーから響く軋みが更に勢力を増した。

 彼女の言が真実ならば、狩猟部隊の“狩り”が滞りなく遂行される可能性は低いと言えるだろう。九鬼従者部隊――千人の精鋭から成る彼らの能力は一定ではなく、序列によって多大な差が出る。だがこうして序列一位の忍足あずみが出張ってきている以上、それ以外の面子が取るに足らぬ末端の人員だけと言う事はあるまい。

 自身の率いる狩猟部隊もまた、並の武人を寄せ付けぬ精鋭揃いではあるが――九鬼財閥が世界規模で人材を掻き集めて結成された従者部隊の、その上位に列せられる強者達が相手となれば、容易に勝利を掴む事は出来ないと考えるべきだろう。

 だとすれば。このままでは、任務を果たせない。誇り高きドイツ軍人として、在ってはならない事だ。瞬く間に理性を飲み込みかねない怒涛の激情を抑え付けながら、マルギッテは努めて平静に言葉を紡ぐ。

「何故、織田信長に手を貸す?今回の件、敢えて九鬼が介入する理由は無い筈だ」

「あー。正直、あたいもそう思うよ。所詮、一クラスメートの問題だ。わざわざ従者部隊を動かして、ましてや独軍と事を構えてまで……首を突っ込むだけの理由なんて無い。心からそう思う。――だけどな」

「……」

「“目の前で泣いている領民クラスメートを放っておけない”――英雄様にとっては、“理由”なんてそれだけで十分なんだろうよ。そして、英雄様がそう望んでるってだけで、あたい達が動く理由には十分過ぎる。簡単な話だろ?」

 そう言って、あずみは誇らしげにニヤリと笑った。表情に顕れているのは、主君に仕える従者としての、眩いばかりに真っ直ぐな忠誠心。それはマルギッテが軍人として、己の属する組織に対し抱いている忠誠心とは、また種類を異にしているものなのだろう。

「後は、強いて言うなら……あたい個人が、お前に訊きたい事があったってのもあるな」

「私に?」

「ああ。何もしなくてもてめぇで勝手に追い詰められてるガキを、よってたかって追い掛け回すオトナってのは、一体全体どんな気分なんだ――ってな」

 あずみの表情から笑みが掻き消え、手にした刃よりも鋭い目が冷酷に細められた。途端、氷を差し込まれたかのように、背中に寒気が走る。

 それは、マルギッテが努めて自らの思考から除外し続けてきた感傷を、無理矢理に引き摺り出すかのような台詞だった。

「さっき、遠目に見てきたけどな……あいつ、今にも自殺しちまいそーな位に酷い有様だったぞ。“お嬢様”から危険を遠ざけるってのは、あんな弱々しいガキに問答無用で追い討ち掛けてまでやらなきゃいけねえ事か?どうにも、あたいには理解できねえな」

「……私は軍人。任務に私情を差し挟む事は無い。それが命令であれば、従うのみです」

「その命令が下されたのは、お前が上に決闘の顛末を報告したからだろ?大事なお嬢様を護り損ねて苛立ってたのは分かるけどな、他にやり様は無かったのか?“娘が殺されかけた”なんて聞いたら、あの親バカ中将が暴走するのは判り切ってたろうに」

 敬愛する上官を貶す言葉に、咄嗟に反論が口を衝いて出そうになったが、堪える。事実、マルギッテに指令を下すフランク・フリードリヒは、日頃の冷徹さを完全に失っていた。愛娘へ危害を及ぼすあらゆる可能性を片っ端から抹消しなければ収まらない程に、その怒りは凄まじいものだった。それ故に――マルギッテの諫言は一切が聞き届けられなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のだ。

「私では、ない」

 ぽつり、とマルギッテの唇から零れ落ちた呟きに、あずみは訝しげに眉を顰めた。

「私は、中将にありのままを報告する気は無かった」

 あずみの言う通り、愛娘が危うく首から上を飛ばされる所だったと聞けば、中将は問答無用で、手段を選ばず下手人を排除しようと動くだろう。それが十分に予測出来ていたからこそ、マルギッテは正直な報告を躊躇った。

 過保護も更に行き過ぎれば、却って護るべき対象の心を傷付けてしまう。妹とも想う“お嬢様”の為にも、今暫く様子を見ようと考えたのだ。

「ですが、数分と経たない内に、私以外の誰かが中将へと事の顛末を報告した。私の部下ではない――恐らくはあの決闘を目撃していた人間の誰かが、中将を焚き付けた」

 敬愛する上官の口から烈火の如き苛烈さで真実を問い詰められれば、軍人たるマルギッテは虚偽を貫き通す事は出来なかった。その後、中将から直々に下された命令を拒む事もまた適わず――マルギッテは川神に待機していた狩猟部隊を召集し、狩人の衣裳に身を包んで、嵐の中、“狩り”に赴いたのだった。

「なるほどな。そいつは多分――利用されたんだろうよ」

 黙したままマルギッテの話に耳を傾けていたあずみが、苦々しげに吐き捨てた。

「利用?一体、何者が」

「さっきまで蘭の動きを追ってたなら承知してるだろうが、この街には、織田の野郎を排除しようと躍起になってる連中が居る。敵の敵は味方――そいつらにしてみれば、狩猟部隊っつー勢力が織田の敵に回ってた方が色々と動き易くなるのは当然だ。実際、あの決闘の結果は連中にとって渡りに船だっただろうな。何せタレコミ一本で軍の特務精鋭部隊が動いてくれるんだから、こんなお手軽な増援はないぜ」

「……そういう、事か」

 闇の支配者たる織田信長への叛逆者。恐らくその一員が、何らかの形で川神学園に潜り込んでいるのだろう。そしてあの日集った観客達の一人として決闘を観戦し、経過の全てを見届けた。娘を溺愛するフランク・フリードリヒの性格を何処かで嗅ぎ付け、その性質を利用して狩猟部隊を動かす事を計画した。それが真実だとするならば――自分は顔も見えぬ輩の策謀に完全に踊らされる形で、この不本意な任務に従事させられている事になる。怒りに震え出したマルギッテの手の中で、トンファーの上げる悲鳴が最高潮に達した。

 ……だが。

 噛み締めた唇が破れたのか、鉄錆の味が口の中に広がる中、マルギッテは強く念じる。

 だが、それでも、と。

「それでも――私は、軍人です。いかなる形であれ、与えられた任務は遂行しなければならない」

 例え自身の行いに正義が無いと知っていても、例え自身の大切な人に恨まれようとも。あらゆる思想と感情を度外視し、冷徹に自らの役割を果たす事が出来ないならば――軍人を名乗る資格はない。マルギッテ・エーベルバッハ少尉の在り方に、余計な感傷は無用だ。

「女王蜂。これよりお前を倒し、標的を追う。容赦は有り得ないと、心得なさい」

 静かな宣言と同時、マルギッテの全身から闘氣の焔が噴き出し、赤熱のオーラと化して空気を歪ませる。燃え上がるような気迫とは裏腹に、眼前の敵を見据える紅の双眸は凍えるような冷酷な光を帯びていた。世界各地の戦場で“猟犬”と恐れられた戦闘機械の現出に、あずみはやれやれと首を振りながら口を開く。

「あたいも今じゃ従者の身だ、お前の考え方もある程度は分かる。だがまあ、英雄様の為にも、あたいが退いてやる訳にはいかねえからな」

「そうですか」

「互いに退けねえ以上、どっちかが道を譲るしかない訳だ。だったら、久々に――本気で闘るとするか、猟犬!」

 言葉を終えると同時に、あずみの手がブレた。同時に投擲された六本の苦無を両手の旋棍が瞬時に打ち払い、甲高い金属音が雨中に浸透する。

 それが、開戦の合図。一呼吸の間に間合いを詰め、咆哮と共に猛然と躍り掛かるマルギッテを、何時抜いたとも知れぬあずみの小太刀が迎え撃つ。斬り突き払い、攻め防ぎ躱す。並の武人ならば視界にも捉えられない連撃の応酬が瞬く間に繰り広げられ、幾多の技が互いの命脈を断たんと行き交う。

 
 この瞬間、二人はまさしく、閃刃舞い散る戦場に立っていた。



 
 第四死合・忍足あずみ 対 マルギッテ・エーベルバッハ―――開戦。











 



 拝啓、総じて莫迦だったりアレだったりする従者の皆様。

 お前達の心優しく偉大な主君は今、戦場にいます。

「…………」

 こんな風に言うと大袈裟に誇張された比喩表現の類だと受け取られがちだが、別にそんな事は無い。むしろ比喩表現であって欲しかったと心の底から願うくらいである。此処は真剣で冗談抜きの、嫌と言う程に正真正銘、徹頭徹尾本物極まりない――戦場なのだ。

 現在地は堀之外町南西部に位置する住宅街。俺が起居するボロアパートからさほど離れていない地点にて今まさに、激しい銃撃戦が行われていた。住宅街らしい閑静さなど何処へやら、絶え間ない発砲音と爆発音、そして悲鳴と呻き声で周囲は埋め尽くされている。この様相を戦場と言わず、何と言えば良いのか。

 住宅街の玄関口にてマルギッテ・エーベルバッハを突破してから数分後、徐々に聴こえ始めた物騒極まりない音響に嫌な予感を募らせつつも、覚悟を決めて南西へと進み続けた結果、目の前に現れたのがこの地獄の如き光景である。思わず足を止めて呆然としてしまった俺を誰が責められようか。

「くっそが、ファックにしぶとい連中だぜッ!……んん?なんだオマエ、ウチの連中じゃねえな?」

 黒服に身を包んだ屈強な軍人達――ドイツ連邦軍の狩猟部隊隊員に向けて、実に活き活きした表情で二挺拳銃をぶっ放していたメイドさんが、数歩分後ろに佇む俺に気付いて振り返った。

 ちなみにその間もトリガーを引く指先は休めない。取り敢えず銃を撃つ時は前を見るべきではなかろうか、という人間として至極真っ当な突っ込みを飲み込んで、俺は無言で欧米系と思しき金髪ツインのメイドを見返した。

 碧色の瞳がジロジロと俺の顔を数秒ほど観察し、そして口元が獰猛な弧を描く。

 瞬間、猛烈に嫌な予感が俺を襲った。

「アタシには見覚えがない。つまり敵って事でFAだな!ブッ殺しとくか」

 言うや否や、目にも留まらぬ早業で右手の拳銃が俺の眉間に向けられ、

 そのまま引き金が――

「待ちなさいステイシー。話を聞いていなかったのですか?彼を援護するのが私達の役目です」

「ん?ああ、そういやそんな感じのファックに面倒クセー話だったな。頭から吹っ飛んでたぜ」

 頭が吹っ飛びそうになったのは俺の方だがな、と喉元まで出掛かった皮肉をどうにか堪える。

 それにしても危なかった。何処からともなく現れた、クールな雰囲気の東洋系黒髪メイドが止めてくれなければ、冗談抜きでデッドエンド直行だった。額を伝う冷や汗が雨のお陰でバレない幸運に感謝しつつ、俺は鉄壁の無表情を装って二人を見遣る。

「でもよ李、あずみの奴から聞いてた話だと、もっとファックにヤベェ印象だったぜ。それこそヒュームのジジイと同レベルのバケモンとか何とかさ。こいつそこまで大したオーラ出してねえし、アタシに分からなくても仕方ねえって」

「雰囲気以外にも外見的特徴は通達されていましたよ、ステイシー。まあ、確かに少々、イメージと食い違いがあるのは確かですが」

 落ち着き払った口調で言って、李と呼ばれたメイドは訝しげに俺を眺める。

 なるほど、確かに現在の俺は無用な氣の消耗を抑える為、身に纏う殺気の総量を大幅に減らしている。既に織田信長の強大な虚像が心中に棲み付いている人間ならば、この状態で過ごしていても勝手に様々な思考を巡らせ、都合の良い解釈をしてくれるのだが――このメイド達のように実質的な初対面の人間にしてみれば、“現在の俺”こそが織田信長の全てなのだ。その辺りの認識の齟齬のお陰で、驚くほどに呆気なく射殺される所だった。この大いなる失敗の経験は必ず次に活かすとして、取り敢えずはこの場を凌ぎ切る事を考えなければなるまい。

「九鬼従者部隊、か」

「はい、序列十六位の李です。あなたがノブナガで間違いありませんね?」

「ああ。相違無い」

「アタシは序列十五位、ステイシーだ。何故かアンタのファミリーネームは教えられなかったんだよな、どーしてだか知ってるか?」

「…………」

 ちなみに戦闘中である。今も尚、嵐の中を無数の弾丸が飛び交い、そこかしこで小規模な爆発が生じ、或いは格闘戦にて二つの影が揉み合う混戦状態だ。そんな中に在って、呑気な自己紹介に加えて興味津々と質問まで投げ掛けてくるという、恐ろしいまでの余裕っぷりだった。九鬼従者部隊の上位に名を連ねる精鋭にとってはこれが正常なのだろうか、と戦慄を覚えずにはいられない。俺も彼女達に合わせて表面上は平静を保っているが、いつ流れ弾が脳天を直撃しないかと内心ヒヤヒヤものである。

「で、ノブナガだっけ?このファックな状況、どーするよ。“猟犬”のヤツはいねーけど、アイツらかなり粘りやがるぜ。アタシらでも突破にゃしばらく掛かりそうだ」

「……突破に関しては、あなたが到着すれば何も問題はないだろう、と聞いています。一体どういう事でしょうか?」

 ステイシーと李の言葉を受けて、俺は自分の置かれている状況を把握する。同時に今後辿るべき道筋と、それに伴う幾多のメリットとデメリットがはっきりと脳内に浮かび上がった。

 やはり今日の俺は調子が良い、と自身の処理能力の好調を確かめながら、俺はすぐさま発すべき言葉を選出し、口を開く。

「ふん。元よりお前達が如き有象無象の助力に期待する程、俺は惰弱ではない。黙して観ているが良かろう」

 嘲笑うような調子で言い放つと、俺はおもむろに前方へと一歩を踏み出した。ステイシーと李のメイド二人組が慌てた様子で制止を試みるが、構わずに突き進む。

「ちょっ、そっちは制圧終わってねーぞ!ファック、幾ら仕事だろーと自殺志願者に付き合わされるのはゴメンだってーの!」

 無論、俺はステイシーの言う様に自棄になった訳ではない。

 確かにこの混戦状態の中を真っ直ぐに突っ切って無事でいられる可能性は、皆無とは言わずとも絶望的に低いだろう。だがそれは、何の備えもなく無防備に戦場へと突撃した場合だ。幸いにして――俺にはあらゆる銃撃と爆撃から身を護る為の手段がある。

 一歩。二歩。

 “それ”の発動が完了したのは、三歩目を踏み込んだ時だった。

 どろりと内より溢れ出した漆黒の氣が、俺の身体を中心に渦を巻く。数瞬の間、とぐろを巻くような形で俺の周辺に留まっていた殺気は、俺が大地に新たな一歩を刻むと同時に、雨に濡れたアスファルトを浸蝕するかのようにして、一気に周囲へと拡散を開始する。

「――沈め」

 その瞬間、あらゆる音が静寂に呑み込まれた。耳を劈く発砲音も爆発音も、悲鳴も怒声も、一切が纏めて彼方へ消え失せる。理由は単純――それらの物音を生み出す人間が全て、硬直しているからだ。九鬼従者部隊のメイド姿も狩猟部隊の黒服姿も区別なく、その場に居合わせた総勢数十名の全員が、物言わぬ彫像と化していた。

 彼ら彼女らの足元には、闇。踝の辺りまでが漆黒の闇に沈み込み、見通せぬ黒色に覆い尽くされ、その姿を隠していた。上空から見れば、墨汁で出来たプールに足を突っ込んでいる様に映るかもしれない。

 住宅街に戦場を形作っていた誰もが足元に広がる暗黒に身動きを絡め取られ、各々の武器を握ったままピタリと停止している。傍目には間違いなく異様に映るであろう光景を見遣りながら、俺は悠々と彼らの間を闊歩し、真っ直ぐ進んでいった。

 織田流威圧術・黒水――任意の範囲に所謂“殺気の水溜まり”を形成し、其れに接触した者に束縛を加える、広域威圧術の一種だ。奥義である殺風と較べれば威圧効果は低く、効果範囲も劣り、更には上空に逃れる事で回避が可能、と性能的な欠陥が多いが、しかしこの技には殺風に勝る大きなメリットが二つ程ある。

 一つは、氣の消費量が比較的少量で済む点。クリスティアーネ・フリードリヒとの一件で無駄に消耗し、氣の残存量が心許ない俺にとって、このコストの軽さはかなり重要だ。

 そしてもう一つは――発動に伴っての移動が可能、という点。殺風は膨大な殺気を扱う為に、まず最初に自身の現在地を“嵐の目”として設定しなければならない都合上、発動中は自身もほぼ身動きが取れないのだが、その点、この“黒水”は一度発動させてしまえば任意で移動が可能である。

 無論、集中力を欠かせば誰かが“動き出して”しまうので油断は禁物だが、基本的には足元に広がる闇へと新たな殺気を注ぎ込み続ける作業を怠らなければ問題は無い。

 所詮この技は人外レベルの武人には全く通用しないし、“それなりに殺気への耐性がある”程度の人間が相手でも意識を奪う事すら難しいと言う、些か使い所に窮する威力だ。だがしかし、今回のパターンに限ってはこれ以上に相応しい威圧術は存在しない。敵は全体的に精鋭だが、マルギッテや忍足あずみの如く突出した実力者が不在で、しかも俺の目的が殲滅ではなく突破に置かれている以上、無理に敵を気絶させる必要もない。あくまで俺が戦場の真ん中を突っ切り終えるまでの間、銃弾が飛んでこなければそれで良いのだから。

 一面に広がる漆黒の絨毯を踏みしめて歩き続け、やがて誰にも妨害される事無くその範囲限界に辿り着いた事を確認してから、俺はおもむろに振り返り、屹立する彫像達に向けて滔々と音声を発した。

「さて――任務御苦労、走狗共。後は狗同士、好きなだけ、望むがままに喰らい合うが良かろう」

 静寂の戻った住宅街に俺の声が反響すると同時、黒水の発動を解除する。

 当然、殺気から解放されて身動きが取れるようになれば、狩猟部隊の連中は俺を追ってくるだろうが、そこはあの二人組を始めとする九鬼従者部隊の面々が確り抑えてくれるだろう。仮に取り逃がして追ってきたとしても、一人二人ならば返り討ちにする程度の自信はある。

「往くか」

 呟いた直後、背後から再び発砲音と爆発音が響き始める。

 己の通った道が戦場へと瞬く間に立ち返っていくのを感じながら、俺は振り返らずに歩を進めた。



「……あずみの言ってた意味がやっと分かったぜ。最ッ高にファックでロックなクレイジー野郎だな、ありゃ……ピクニックみたく戦場を歩きやがった。ん?どうしたよ李」

「それが……何と言うか、先ほどのアレで何かが掴めた気がします。次回開催の世界死んだふり大会では優勝を狙えるかもしれません」

「ああ、お前なら出来るだろうよ、ここで本物の死体になっちまわなけりゃな!これからも元気に死体のフリがしたいなら悩んでないでさっさと手伝いやがれ!」

「死体のフリがしたい……、ぷっ、戦場で笑わせるのはやめて下さいステイシー」

「ファーック!良ーく分かったよ。てめーも大概にクレイジーだぜ、李!」


 
 魔王が立ち去った後も、各々が自身に課せられた役割を果たすまで、戦場に終わりは訪れない。


 
 第五死合・九鬼従者部隊 対 狩猟部隊―――継続中。










「くそ。流石にキツい、な」

 九鬼従者部隊と狩猟部隊、二つの勢力が争う危険地帯を無事に突破してから数分――未だ響く銃声を遠くに聞きながら、俺は住宅街の歩道を緩慢な動作で歩いていた。

 人の目が無い場所では威を取り繕う必要もないので、必死に走ってでも蘭を追うべきと思われるかもしれないが……残念ながら体力面の問題で、そんな余裕は無い。氣の消耗は即ち、肉体全体へと深刻な負担を及ぼす。これまでは身に纏う殺気すらも限界まで節約する事で誤魔化してきたが、先程の“黒水”の発動が決定的だった。あれで体内に残されていた氣の大部分を使い果たしてしまったのか、どうにも身体が重くて仕方無いのが現状だ。軍人の一人二人なら倒せると豪語したばかりで何だが、この分ではそれも怪しいものだった。

「だが――あと少し。あと少し、だ」

 周囲に漏れないよう小声で自身を叱咤し、全身を苛む疲労に屈しそうになる惰弱な肉体に檄を飛ばす。板垣一家、マルギッテ、狩猟部隊――数多の強力な障害を突破して此処まで辿り着いたのだ。たかだか疲労程度のものに屈して全てを無為にするなど、断じて在ってはならない事だろう。

「何と言っても。今の俺は、絶好調なんだからな」

 俺は自身に言い聞かせると、無理矢理に口元を歪め、笑みを浮かべた。

 実際、氣の過剰消費に起因する肉体の不調を別にすれば、今日の俺はすこぶる調子が良い。運が向いている、と言うか、波が来ている、と言うか。特にあの、あたかも計ったかのようなタイミングでの落雷には心底仰天したものだ。あの場に居合わせた面子の中で最も驚いていた人間がいるとすれば、それは間違いなく俺だろう。

 もう少しで仰天のあまり太刀を取り落として全てを台無しにする所だった事を考えれば、或いはアレは天が俺を試したのかもしれないな、などと戯れに思う。

 それに、あの件を除いても――俺の纏う殺気が常よりも弱々しい事が良い方に作用して辰子が起きなかったり、足りない威厳を補うために初めて持ち出した“小道具”の存在に亜巳が見事に動揺してくれたり、隠行が些か不得手なサギが悪天候のお陰で奇襲の直前まで気取られる事なく気配を隠せていたり、忍足あずみがマルギッテの下に到着するまでの時間を会話で巧く稼げたり。他にも色々だ。

 勿論、前提として俺の仕込みと工夫が在る事は言うまでもないが、それでも様々な幸運が俺に味方してくれなければ、決してここまでは到達出来なかっただろう。

 ただし、然るべき代償として、もはや持ち札の殆どは使い切った。
 
 織田信長の客将、柴田鷺風――今回の戦に際して俺が用意した最大最強のワイルドカードも、既に手元には無い。板垣辰子という規格外の怪物を抑え得る手札を他に持たない俺には、あれ以上に最適な札の切り所は無かったとは思うが……やはりあの絶大な戦力を失ったのは辛い所だ。まあ奴の置かれた立場の微妙さを考えれば、この舞台に引っ張り出せただけでも大戦果と思うべきか。

 ツルの奴が居ればもう少し作戦の幅も広がったかもしれないが、現時点で国内に居るかも分からない輩の事をとやかく言っても仕方が無い。

「やれやれ。愛と勇気だけが友達、か」

 自嘲しながら、重い足を引き摺るようにして一歩を進めた時、俺のお粗末な気配探知能力が一つの氣を捉えた。

 俺の良く見知った気配が、すぐ近くに居る。だが残念ながら――それは我が第一の臣のものではない。俺は一瞬だけ足を止めて、荒れ狂う曇天を仰いだ。

 そうか、お前がここで出てくるのか。

「…………」

 それから一分と歩かない内に、先程の気配の持ち主は姿を現した。俺がその存在を感じたのと同様に、あちらもまた俺の気配を感じ取っていたのだろう。じっと食い入るような目でこちらを見つめる表情に、驚きの感情は見受けられなかった。


「くく。雨の中で待ち人とは、酔狂だな」


 嵐の中に独り佇むのは、華奢な少女のシルエット。

 明るい橙のツインテールと、鈍く光るゴルフクラブが地面に向けて垂れ下がっている。

 デートの待ち合わせの際と同じ様に、街灯に背中を預けて、彼女は立っていた。


「おせーぞ。待ちくたびれたじゃねーか、シン」


 疲労困憊の我が眼前に立ち塞がるは、悪名轟く板垣一家、最後の一人――板垣天使。

 
 さてどうしたものかな、と、俺は嘆息した。



 
 

 第六死合・織田信長 対 板垣天使―――開戦。














 
 

 
 
 
 
 キリの良い所で終わらせたかったので、今回は前回よりもやや短めになりました。
 ちなみに登場回全てに言える事ですが、マルさんの独特な丁寧語の再現には割と苦労させられています。あれは一体どういう基準で使い分けているのだろうか…。これでも割と四苦八苦していますが、それでも読者の皆様が違和感を覚えてしまったならどうかご勘弁を。直後登場のステイシー&李のコンビが妙に書き易く感じたのは間違いなくマルさんの所為です。
 前回までに感想を下さった皆様に最大限の感謝を。それでは次回の更新で。
 



[13860] 堀之外合戦、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:a61c57b6
Date: 2012/11/13 21:13
 
 弱者が強者との闘いに臨む際に最も重要となる行為は、“観る”事だ。

 目を凝らし、精神を研ぎ澄ませて、対峙する相手の総てを観察する。得物や構えから戦闘スタイルを考察し、筋肉の収縮具合や微かな息遣いから肉体のコンディションを推察し、更には身に纏う雰囲気や言動から精神状態を把握して、それらの情報を以って自らのアドバンテージへと変換する。膂力と頭脳、口先八丁と小細工。己の持つありとあらゆる能力を惜しみなく注ぎ込んで初めて、闘いが成立するのだ。弱者と強者を隔てる巨大な溝を埋める為には、形振り構ってなどいられない。まずは目を限界まで見開いて、油断も遠慮もなく、驕らず騒がず只々全力で敵の全体像を見据える事。それが弱者の心得というものだ。

――以上が、俺こと織田信長が常日頃より胸に刻んでいる信条の一つだ。ちなみに俺の信条は百八まであるのだが、それに触れるのは後の機会にしよう。

 兎にも角にも。

 俺と云う人間に与えられた才能には限界があり、その限られたスペックの中で最善の立ち回りを追求すれば、最終的に行き着くべきはこの結論しかなかった。基礎能力が決定的に劣っているならば、いかなる手段を講じてでも差を埋め合わせなければならない。そうしなければ――競争に敗れた弱者として、強者に喰い散らかされるだけだ。その結末が我慢ならないからこそ、俺は死力を尽くして“勝ち”を求める。故に現在に至るまで、織田信長と敗北の二字は無縁で在り続けてきた。

 負けられない。負けたくない。俺は、常に勝利者で在りたい。諦観と妥協に支配された惨めな敗北者には、二度と戻りたくない。

 だから俺は、此処でも。この局面においても、織田信長は絶対に――負ける訳にはいかないのだ。

「ふん、如何した。氣が乱れているぞ、天」

「……うるせーぞ。いつ誰がゴシドーゴベンタツを頼んだよ」

 現在の俺が打ち破るべき障害は、板垣天使。俺の幼馴染であり、弟弟子であり、妹分と呼ぶべき存在だ。無論、弟弟子かつ妹分とは言っても、その戦闘能力が俺に劣っているという事はなく――むしろ単純な身体能力という分野に関しては、天の側に圧倒的なアドバンテージがある。人並み外れた総量の氣を身に宿し、未熟ながらも気功を習得した武人を前にしては、俺程度の肉体など無力な子供と大差が無い。何とも苦々しく忌々しい話だが、それは決して避けては通れない現実だ。

 ならば、確りと受け止めた上で撥ね退けてみせよう。俺の才、俺の鍛錬、俺の頭脳、俺の経験。己が培ってきた全てを余す所なく用い、弱者が勝者と成り得る事実を実例として示して魅せよう。それこそが、俺の為すべき闘いの形なのだから。

 己の内にて氣を循環させ、練り上げた漆黒の暴威を外界に解き放つ。爽快感すら覚える程に、今の俺はすこぶる調子が良い。黒々と立ち昇る殺気は目視を容易にし、溢れ出た余波だけで周囲一帯の息吹を悉く静止させた。滔々たる殺意の奔流に中てられ、動揺の色を隠しきれていない妹分に向かって、俺は足取りも重々しく一歩を踏み出す。


――そして。


「くくっ。俺を脅かすには、未だ修練が足りぬ様だな」

「う、ぁ……」

 数瞬の交錯を終えた時には、既に勝者と敗者は別たれていた。禍々しい漆黒のオーラに覆われた掌にて首筋を鷲掴みにされ、小柄な身体を軽々と宙へと吊るし上げられた板垣天使は、経絡を侵す殺気によって肉体の主導権を奪われ、もはや硬直した四肢を満足に動かす事すら叶わない。青褪めた顔色と、恐慌に泳ぐ双眸。第三者が客観的に判断すれば、誰もが織田信長の勝利と断ずる光景だろう。

 そう、俺が内気功によるレジストを突破する為に現在進行中で全力の殺気を注ぎ続けている事実など、外部からは理解のしようが無いのだ。実際的に天の意識を完全に断ち切る手段を俺が持ち合わせていない以上――このまま時間が過ぎる事で、遠からず俺の氣が底を突くのは必然だった。そうなれば問答無用でゲームオーバーなのだ、という織田信長の切羽詰った事情を観測者が知らなければ、その者にとってこの光景は紛れもない“決着”として処理される。

 ならばよし、だ。だとすれば俺は文句なしに、この場において設定された勝利条件を満たしているのだから。

 なぁ、そうだろう?

 何とも忌々しき我が師匠――川神院元師範代、釈迦堂刑部。

「よーしそこまでだお前ら。つーか“お前の勝ち”でいいから離してやれよ、可哀相じゃねぇか」

 良し、間違いなく言質は取った。心の中にてニヤリと会心の笑みを浮かべながら、俺は無造作に天の拘束を解いた。ぎゃっ、と何とも色気に欠ける悲鳴を上げながら地面に尻餅をついた我が妹分は、上目遣いにて恨めしげな視線を送ってきたが、その目尻に涙が浮かんでいては迫力も何もあったものではない。

「勝負有り、か。まあ最初から予想の付いてた結果とはいえ、相変わらずシンは圧倒的だねェ。最近じゃ天もかなり使えるようになってきてるってのに、文字通りの瞬殺ときたもんだ。とんでもないよ、全く」

「くく、当然だぜ亜巳姉ぇ。何と言ってもシンだからな。俺が認める最強の雄が、たかだか天程度に手こずる訳がねぇぜ」

「んだとリュウてめぇチョーシ乗りやがってっ!ウチはシンに負けたんだ、なにてめーが威張ってんだボキャー!」

「も~、ケンカはダメだよ~、天ちゃん。リュウも~、今のは謝った方がいいんじゃないかなぁ」

 少し離れた場所で俺と天の“模擬戦”を観戦していた板垣一家の面々がわらわらと集まってきた事で、一気に場が無秩序な賑やかさに包まれた。
 
 現在地は川神市郊外のとある山麓に位置する、釈迦堂刑部個人所有の鍛錬場。と大袈裟に言ってはみたものの、実際のところは見渡す限りの青空と豊かな緑林が広がっているだけの空間だ。トレーニング器具の類すら何処にも見当たらず、そもそも鍛錬場として整備されている様子すらなかった。そんな訳で俺は、釈迦堂が偶々発見した適当な広場を鍛錬場と言い張って私物化しているのではないか、と常々疑っている。ちなみに釈迦堂曰く、人の手が入っていない環境における武の鍛錬は大自然との合一という極めて重要なファクターと密接に関与し武道家としての健全な心身の成長に効果が望めるとか望めないとか――まあその辺りは完全にいつもの吹かしだと理解しているので、誰も馬鹿正直に真に受けたりはしないが。とにかく、釈迦堂がたった四人の弟子に稽古を付ける際は主にこの場所を利用しているのが現状だ。

 織田信長。そして板垣亜巳、板垣辰子、板垣天使。
 
 亜巳と辰子の二人は天と同じく俺の兄弟弟子だが、板垣一家の中で唯一、長男の竜兵だけは釈迦堂に師事していなかった。が、家族(と何故か俺)の動向が気になるらしく、修行の場自体には頻繁に顔を出すので、この面子が揃う事はさして珍しくない。今日は偶々所用で席を外しているが、我が従者たる森谷蘭が居合わせていればフルメンバーである。釈迦堂、辰子、亜巳、天、竜兵、織田信長と森谷蘭。傍から見ればとんでもなく凶悪な怪物集団だろう。実際、ミスター張子の虎こと俺を除けば全員が世界レベルの才能の塊だ。現時点では未熟でも、数年後にはあの川神院に匹敵する武力集団が誕生しても不思議はない。そう考えると、或いは俺は途轍もない伝説の現場に居合わせているのかもしれなかった。

「それにしても、師匠」

 清々しく晴れ渡る蒼天を見上げながら一人感慨に耽っていた俺を、訝しげな亜巳の声が現実に引き戻した。

「なんでまたいきなり模擬戦を?シンと天じゃあ確かめるまでもなく結果は見えていたのでは?」

「あー。ま、出来の悪い弟子が出来の悪いなりにどれだけやれる様になったか確かめたくなったワケよ。わざわざこの俺が手間隙掛けてるってのに、いつまでも伸びないんじゃあお話にならねぇからな。ヒヒ、結果はまあ、ご覧の通りだわな」

 くつくつと邪悪に笑う釈迦堂の言葉に、天は居心地が悪そうに項垂れていた。話の流れからして、自分の敗北が責められていると思い込んでいるのだろう。敢えてそういう風に天の思考を誘導する辺りに釈迦堂と云う男の底意地の悪さを改めて痛感しながら、俺は小さく溜息を零した。

 改めて解説するまでもない事だが、釈迦堂の言う“出来の悪い弟子”とはすなわち、天ではなく俺の事を指している。中学に入る頃に弟子入りしてから約三年、弟子入りの経緯も含めて散々に手間を掛けさせてきた自覚はあるので、俺としても迂闊に反論出来ないのが困りものだ。せめて俺に僅かでも気功の才能があれば――と、無益な思考は止めておこう。その件に関しては一年前に散々懊悩して、自分なりの答を出した筈だ。今更蒸し返した所で虚しくなるだけだろう。というかあの時には色々とアレな感じの――くそ、また暴れ出しやがった!鎮まれ俺の古傷よ!

 不意に蘇った黒歴史に無表情の裏側で悶え苦しんでいる俺を余所に、釈迦堂達の会話は続いている。

「にしても天お前、幾らなんでももうちっと粘れっての。今回は模擬戦だったけどよ、少しは信長と真剣で殺り合う時の事も想定してみたらどうよ?このままじゃお前、問答無用で戦力外通告食らっちまうぜ。最終決戦の時のクロコダインのおっさんみてぇな扱いされたくないだろ?」

 まあ俺はあのおっさん結構好きなんだけどよ、と釈迦堂は皮肉げに口元を歪める。一方の天は何やら納得いかない様子で、拗ねたように頬を膨らませていた。

「むー、確かに今回はヘタ打っちまったけどさー。でも師匠、そこは気にしたって仕方なくね?実際、ウチがシンと本気で殺り合うなんてどう考えても有り得ねーし。なぁシン?」

「……」

 己の考えに欠片の疑問も抱いていない、確信に満ちた妹分の問い掛けに――俺は一瞬、答に窮した。

 俺が“織田信長”で在る限り。板垣が“板垣”で在る限り。その行き着く先は、遅かれ早かれ。

「うーん。そうだねぇ、天ちゃんはシンのこと、だ~い好きだもんね~」

「フフ、色を知る年って奴かねェ。ま、昔っから心配になるくらいベッタリだったし、考えてみれば当然の成り行きさね」

 辰子が普段通りの寝惚けた調子で寝惚けた台詞を吐くと、亜巳がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて便乗する。全く女という生き物は、何でもかんでも恋愛事と結び付けなければ気が済まないらしい。――だが、望まない話題を違和感無く転換するには、悪くない切っ掛けだ。思わぬ方向から飛んできた野次に対して俺が然るべき反応を返すよりも前に、天が顔を真っ赤に染めて姉達に噛み付いた。

「う、ウチは別にそんなんじゃねーっ!シンはアレだ、兄貴みてーなモンだっつの!ウチはずっと頼れる兄貴ってヤツが欲しかったんだ、勝手にヘンな想像してんじゃねーぞ!」

「おいおい、欲しかったってオマエなぁ。正真正銘本物の頼れる兄貴が目の前にいるだろうがよ。俺は悲しいぞ天」

「けっ、そーゆーセリフは兄貴らしいコトの一つでもしてみせてから吐きやがれってんだ。ウチは忘れねーぞ、おとといの晩メシの唐揚げの恨み……、あぁあ思い出したらあん時のムカムカが蘇ってきやがったぜぇっ!あー殺ス今殺ス、あの世でウチに詫び続けろリュウゥッ!」

「うぉおっ!?危ねぇだろうが!真剣で洒落になってねぇぞてめぇ!」

 食い物の恨みは恐ろしい。人数倍は食い意地の張っている天の恨みとなれば尚更である。天の振り回すゴルフクラブから必死で逃げ惑う竜兵という何とも心温まる光景を眺めていると、おもむろに亜巳が隣に立った。仲睦まじくじゃれ合っている弟と妹を見遣りながら、呟くように口を開く。

「シン、これはあくまで仮の話だけどねェ。もしも、アタシ達がアンタの“敵”に回ったら――」

「……」

「……いや、何でもないさ。アタシらしくもなかった」

 自嘲するように独り呟いて、亜巳は紡ぎ掛けた言葉を飲み込んだ。自分の中で何かを整理しているのか、数秒ほど沈黙する。そして、ふと天達から視線を切ると、こちらを覗き込みながら言葉を続けた。

「シン。アンタは天のこと、嫌いなのかい?」

「ふん。そも、俺は不愉快な輩が傍に寄る事を赦さぬ。無用な問いと云うものだな、亜巳」

「フフ……、それじゃアタシの事も不快ってワケじゃあないのかねェ。これだけ傍に寄っても文句を言われてないってのはつまり、そういう事なんだろう?」

 妙に蠱惑的な表情で言うや否や、おもむろに亜巳は手馴れた調子で腕を絡めてきた。鼻腔を満たす香水の妖艶な匂いと、はっきりと腕に感じられる柔らかい感触――何とも煩悩を煽り立てて仕方ないそれらの感覚を鋼の自制心で封殺し、俺は完全無欠の無表情を保ちつつ、醒め切った目を亜巳へ向ける事に成功。日々の精神鍛錬の成果を何よりも明確に実感した瞬間であった。

「うわ~、なんだか楽しそうだねぇ。私もやるよ~」

 亜巳の攻勢を凌いだ事で油断した瞬間、思いがけず第二の刺客が襲い来る。ぽわぽわと何を考えているのか分からない笑顔で駆け寄ってくると、辰子は俺に反応する暇すら与えず、飼い主にじゃれつく大型犬を思わせる動作で残った左腕に絡み付いてきた。必然として二の腕に押し付けられるのは、中学生にして亜巳のソレすらも凌駕する、心底より戦慄すべき戦術兵器。包み込むような柔らかさの中に心地良くも甘やかな弾力を兼ね備えた其の感触は、一流の職人が精魂込めて練り上げた極上の大福を連想させてやまない。

 
 春の日の 蒼穹望む 双丘よ ――織田信長

 
 ……待て落ち着け、混乱の余り駄洒落紛いの一句を詠んでいる場合ではないぞ俺。

「おおう、両手に花かよ。ヒューヒュー、モテる男は辛いねぇ。ヒヒ、蘭の奴が見たらどう思うだろうな?」

 安全な外野から鬱陶しいコメントを飛ばしてくるボンクラ師匠に抗議してやりたいのは山々だったが、生憎とそんな余裕は無かった。姉妹による胸囲――ではなく脅威のコンビネーション、大ボリュームによる左右からの胸撃――ではなく挟撃という規格外の暴虐に晒されて、既に割と一杯一杯である。頭がフットーしそうな状態なのだ。

 心頭滅却、無念無想、大悟徹底、明鏡止水。己の発揮し得る全身全霊を尽くし、波浪の如き精神をフラットに保つ。涙ぐましい努力を人知れず続けた末、俺は完全無欠の無表情と、絶対零度の眼差しを保ち続けた。遂に自身の尊厳を護り抜いたのだ。

「何の真似だ?貴様等」

「やれやれ、そんな冷たい目で見るんじゃないよ、つれないねェ。アタシは男どもを手玉に取る手管に関しちゃプロフェッショナルのつもりだったけど、こうも反応が悪いと流石に自信失くしちまいそうだ。それとも中学生じゃオトナの魅力って奴を理解するには早いのかねェ?」

「ふん、下らんな。気が済んだなら疾く離れるがいい。其の振舞いが未だ戯れで済む内に、な」

 頼むから離れて下さい健全な男子中学生の純情を白昼堂々弄ぶのはやめて、という心中の悲鳴を余す所なく殺気に変換して放つと、亜巳は何とも無念そうな顔で解放してくれた。辰子は辰子で、「もうちょっと柔らかい方が好みだなぁ」との謎の寸評を添えつつのんびりと身体を離す。相変わらず行動原理が読めない奴だが――まあ何にせよ、嵐は過ぎ去った。俺は耐え切ったのだ。

 内心で盛大に安堵の息を吐いている俺の横で、亜巳は何やら面白いものを見つけたように悪戯っぽく口元を歪ませた。その視線の先には――ゴルフクラブを片手に剣呑な表情でこちらを睨む天の姿。ああ畜生、最初からこれが狙いだったか悪女め、と心中にて嘆息する。

「あ、アミ姉ぇ、それにタツ姉ぇまで何やってんだ!」

「おや。何を怒ってるのさ、天?アタシ達がシンを誘惑しようと勝手じゃないか。さすがのアタシも可愛い妹から男を寝取るってのは気が引けるけど、所詮は“兄貴”だってんなら別に構わないと思ってねェ。それとも、何か文句でもあるのかい?フフフッ」

 それにしてもこの女王様、ノリノリである。底意地の悪さ丸出しな揶揄に対し、天は見事な茹蛸状態で何やら噛み付いている様子だったが、既に精神的疲労の著しい俺としてはこれ以上関わり合いになるのは御免なので、放置して早々に退避。あくまでも絶対的無関心の態度を貫きつつ姦しい騒ぎに背中を向けると、今度はニヤニヤと無性に腹の立つ種類の笑みを浮かべた釈迦堂に出迎えられた。甚だ不快である。

「何だ」

「ヒヒ、そう怖い顔すんなって。いや、俺は改めて感心してんのさ。お前って男の面の皮の厚さによ」

「……」

「それとも、自分では案外気付いてないのかねぇ?そうでもなきゃ、天の奴があんまりにも報われ――」

「――それ以上、場を弁えず余計な口を利くな。約束を失念したか?」

 即座に集中威圧術、“蛇眼”を発動させ、全霊の殺気を眼光に載せて叩き込む。熟練の武人ですら縛り上げる殺意の拘束を、しかし釈迦堂は表情一つ変えず、呼吸同然の容易さで軽々とレジストしてみせた。

 分かってはいるのだ。今の俺風情がどう足掻いた所で、この規格外の怪物に一矢を報いる事すら叶わない。そんな事は元より承知しているが――いかに承知していたからと言って、心を焦がす苛立ちが収まる訳ではなかった。胸中に満ちる苦々しい敗北感。この男の前に在っては、未だ俺は無力な敗北者でしかないのだ。その耐え難い事実が、どす黒い感情の奔流へと変じて絶えず俺の内側を渦巻いている。行き場を失った想念の濁流が、轟々と唸りを上げて吠え立てている。

 そうだ。俺はいつだってアンタを。

 俺の知る誰よりも傲岸な、釈迦堂刑部と云う稀代の武人を――

「“惨めったらしく地面に這い蹲らせたい”んだよなぁ?ヒヒ、楽しみに待ってるぜ、坊主。何たってお前は、俺が拾いたくなる位に最高で最悪な――“天才”なんだからよ」

「……」

「ああ、それとこいつは、なかなか言うタイミングが無かったんだけどよ。何で急に天の奴と模擬戦やらせたかっつーとだな……これはさっき言ったまんま、お前の成長具合を改めて確認したかった訳だ。この三年間でお前がどこまで至ったのか、師匠としちゃあ実戦データに基づいて把握しねぇとダメだろ?」

「……然様か。ふん、何にせよ、俺にしてみれば良い迷惑だがな」

 何の前置きも無くいきなり「お前ら闘ってみろ」と言い渡された俺の気持ちに少しは配慮して欲しいものである。命懸けの綱渡りに臨むには、それなりに心の準備というものが必要なのだから。結果的に事が上手く運んだとはいえ、結果オーライで全てを許容できるほど俺の心は広大ではないのだ。色々と暗い感情を載せて睨む俺を意に介した様子も無く、釈迦堂はヘラヘラと薄笑いを浮かべて言葉を続けた。

「いや、見事なもんだったぜ。非の打ち所がねぇ。パーペキだ。俺が口出しする事は何もねぇな」

「……何が言いたい」

 この男が俺をこんな風に手放しで褒める時は、大抵の場合、裏に碌でもない思惑を隠している。これまでの付き合いにて培った経験に基づいて警戒態勢を取る俺に対し、釈迦堂は愉快そうに口元を吊り上げた。

「あぁ、変に勿体振るのも面倒くせえからさっさと結論言っちまうわ」

 そう前置きして、似合いもしない真面目な表情を一瞬だけ見せると。

 一拍の間を置いてから、釈迦堂は驚くほどにあっけからんと、その言葉を紡いだ。


「信長。お前――俺の弟子、今日で卒業な」



 


 ――それは、現在から遡ること約二年前の話。未だ俺と板垣が道を違える事無く、隣り合う道を共に歩いていた頃の出来事だ。

 そして、釈迦堂刑部の弟子という肩書きの頭に“元”が付いたその日から、三ヶ月の後。

 堀之外のあらゆる事物を根こそぎ巻き込みながら、織田信長と板垣一家は最初の衝突の時を迎える事になる。森谷蘭の奮迅、丹羽大蛇の暗躍、柴田鷺風の懊悩――到底一言では語り尽くせない様々な要因が複雑に絡み合って働いた結果、俺が独り目論見を果たす形で事態は収束へと向かったが――ひとたび決定的に顕れた歪みは、いかに取り繕ったところで誤魔化せるものではなく。

 そして今、歪みは悲鳴の如く軋みを上げつつその規模を深め、遂に限界点へと到達した。

 であるならば、俺達の道が重なる事は、もはや無い。

 双つの道が交わる時があるならば、それは――刃を交わし、血肉を散らす、凄惨な闘争の瞬間なのだろう。

 
 それは予感ではなく、確信だった。


















 弱者が強者との闘いに臨む際に最も重要となる行為は、“観る”事だ。

 目を凝らし、精神を研ぎ澄ませて、対峙する相手の総てを観察する。得物や構えから戦闘スタイルを考察し、筋肉の収縮具合や微かな息遣いから肉体のコンディションを推察し、更には身に纏う雰囲気や言動から精神状態を把握して、それらの情報を以って自らのアドバンテージへと変換する。膂力と頭脳、口先八丁と小細工。己の持つありとあらゆる能力を惜しみなく注ぎ込んで初めて、闘いが成立するのだ。弱者と強者を隔てる巨大な溝を埋める為には、形振り構ってなどいられない。まずは目を限界まで見開いて、油断も遠慮もなく、驕らず騒がず只々全力で敵の全体像を見据える事。それが弱者の心得というものだ。

――以上が、絶対強者と巷で名高い我がご主人・織田信長が、常日頃から主張してやまない言である。

 そして私は今現在、そんな些か実感の込められ過ぎた言葉に倣う形で、眼前の敵手と相対していた。

「フフ……、どうした、責めてこないのかい?焦らされるのは嫌いなんだけどねェ」

「本職の女王様に言われちゃうと説得力半端ないなぁ。何せ私ってばそちらさんと違って、初めてで緊張しちゃってる清純派の乙女なんだから、ちょっとした不手際は勘弁してくれると助かるね」

 立ち塞がるのは板垣一家の長姉、板垣亜巳。巳の字を冠する名の通り、こちらを捉える冷酷な双眸は、獲物を品定めする爬虫類を思わせる。否、実際のところ――彼女にしてみれば、私は一方的に喰らうべき獲物に過ぎないのだろう。

 この短期間の内にそんな不愉快な事実を認めざるを得ない程に、板垣亜巳は強かった。身体能力も氣の総量も気功の練度も、あらゆるステータスが私を上回っている。更に厄介な事に、単純な武力の高さに加えて、踏んできた場数も生半可なものでは無いらしい。“観れ”ば観るほど、佇まいに隙が無かった。一見して余裕を感じさせる傲岸な立ち振舞いの裏側で、温度の無い冷め切った眼が私の一挙一動を追い続けている。こういった手合いは大抵の場合、どこぞのAngelのような脳筋馬鹿よりも遥かに厄介だ。

「……」

「……」

 そして、蛮勇よりも慎重さを重視する人間同士が対峙すれば、膠着状態が生じるのは必然だった。最初の奇襲を防がれて以降、私達は互いの様子見に徹し、未だまともに闘っていない。ひりつくような緊張感だけが際限なく場に沈滞していく。集中力を切らさないよう心掛けつつ、私は意図して余裕の態度を演出してみせた。

「そっちこそ、そんな風にのんびり構えちゃってていいのかな?キミ達的にはご主人とランが合流しちゃったら大失態なんじゃないの?ここで足止め食らってる場合じゃないと思うんだけど」

「急いては事を仕損じる。生憎とアタシは脊髄反射で突っ込む単細胞の弟妹どもと違って、頭で考えてから動いてるのさ。……それにそもそも、アタシが焦る必要なんてない。シンの方にも、ちゃんと手は回ってる筈だからねェ」

 やはり、憎らしい程に冷静だ。揺さぶりを意図したこちらの発言にも、まるで乗ってくる気配が無い。これは口先で隙を作るのは難しいかもしれない、と半ば見切りを付けながらも、私の舌先は用意された言葉を吐き出し続ける。

「ふーん、マロードの采配ってヤツかな?随分と信じちゃってるんだね、あの根性捻くれた性格サイアク軽薄ヤローをさ。経験者として忠告させてもらうけど、裏切られる前にアイツとは手を切っちゃうべきだよ」

「はっ、アンタがマロードに切り捨てられたのは、“弱い”からさ。アタシ達は違う――アタシ達一家は、強い。軽く睨んだだけで誰もが跪いて靴を舐める、誰にも虐げられない“強者”なんだからねェ」

 傲然と放たれた声音に込められているのは、弱肉強食を理とする過酷な獣の世界で生き抜いてきた者の、自負と誇り。

『連中と俺は合わせ鏡みたいなもんだ。だから、あいつらの考えている事は理解出来る。無論、許容は――出来ないがな』
 
 亜巳の言葉を聴いて初めて、私はご主人が口にしていた台詞の意味を真に理解した。

「そうか。だからキミ達は、ご主人が邪魔なんだね」

「……どういう意味だい」

「簡単な事さ。織田信長と云う絶対強者の前では、板垣一家ですらもが例外なく、誤魔化しようもなく、“弱者”に成り下がるから。だからキミ達はご主人の事が目障りで仕方が無いんだ。つまり――キミ達は、自分が弱者だって現実を認める事すら出来ない、可哀相なヒト達だったんだね。あはは、なんだ傑作じゃないか!こんな滑稽なお話は探したってそうそう見つからないよ!」

 半ば挑発で、半ば本気で。私は大いに嘲笑の声を上げた。

 織田信長は弱い。常人の到達出来る限界まで鍛え上げた肉体など、内気功によって強化された身体能力の前ではいかほどの役にも立たない。私達のような武人が呼吸同然にこなすあらゆる動作が、彼にとっては絶望的に巨大な壁となって立ち塞がる。哀れな程に脆弱極まりない存在だ。

 しかし、彼は――私のご主人は己が弱者である事を受け入れた上で、強者と渡り合う術を模索し続けてきた。気の遠くなるような努力と無茶を積み重ね、無数の手段を捜し求め続けて、その果てに今日を手に入れてきたのだ。そして今も尚、己の非力を承知の上で、先の見えない闇を切り拓こうと足掻いている。そんな彼の、悲愴とも形容すべき背中を見送ったばかりの私にとっては――こうして相対する板垣一家のどうしようもない矮小さがあまりに滑稽で、そして何とも言えず腹立たしい。

「……はっ、下らないねェ」

 盛大な嘲弄を受けて激昂するかとの予想に反し、亜巳は依然として冷静だった。むしろ感情の薄い醒めた目でこちらを見遣って、淡々と言葉を返す。

「元々、アンタみたいな小娘に理解できるハズもない話さね。アタシ達がシンの奴と、織田信長と何年付き合ってきたと思ってんだい?“こっち側”に首突っ込んだばかりのヒヨッコが、知った風に囀ってんじゃないよ。アタシ達とシンの因縁ってヤツは、そう簡単明瞭なものじゃないのさ」

 静かに言い放つと、亜巳は眼前の虚空に向けて己が得物を振るう。漆黒に塗られた鋼鉄の六尺棒が、ぶぉん、という唸りと共に風雨を切り裂き、そしてピタリと一瞬で静止した。その無慈悲に輝く切っ先は真っ直ぐに私へと向けられている。紫のルージュで彩られた艶かしい唇が、ニィ、と酷薄に歪んだ。先程の彼女の言葉に込められた意図を悠長に探っている暇は、無さそうだった。

「さて、ヌルいお喋りはここら辺で終わりにしようかねェ。これだけ時間があれば、アンタにもそろそろ理解出来た頃だろう?」

「理解……って、何を」

「それは勿論――アンタがアタシの足元にも及ばない“弱者”だって現実をさ!」

 躍動。鎌首をもたげた蛇が獲物に喰らいつく様な唐突さで、亜巳の六尺棒が伸びた。数間の間合いを一呼吸の内に貫き通す、凄まじい打突。人体急所を抉り取らんと突き出された容赦無い一撃は、並大抵の武人ならば何の抵抗も叶わず串刺しにされるであろう程に疾く、鋭い。他者よりも回避能力に秀でた私ですら、辛うじて突きの軌跡から身を躱すのが精一杯だった。事前にご主人から彼女に関する情報を仕入れていなかったら、文字通りに瞬殺されていたかもしれない。

 だが、避けた。決殺の一撃を、確かに凌いだ。ならば今は、反撃に移る最大の好機!

『最も大事な事は、観察。そして次に、意識の空白を衝く事だ。真正面からの殴り合いで勝機が見込めないなら、ひたすらに相手の予想を裏切り死角を狙い裏を掻く必要がある。実際、俺はその方法で幾つか危難を乗り越えてきた。例えばあれは二年前の話だがな――』

 割と鬱陶しいドヤ顔で過去の武勇伝を語り始めたご主人の姿が、ふと脳裏を過ぎる。彼の口から語られる話は些か装飾過多で大袈裟で胡散臭くて、果たしてどこまで信用すべきか判らないものが多いが、しかし幾多の死線を掻い潜る中で培われた彼の戦闘に対する見解には、参考にすべき部分が実に多い。特に回避を戦闘の主軸に置いているという点において、ご主人と私の戦闘スタイルは良く似通っている。だからこそ私はこの数週間、ご主人が実戦にて身に付けてきた無数の戦法を吸収し、可能な限り自らの闘い方に反映させるよう努めてきた。

 その一つを活かすべき場面が、今この瞬間だ。

『俺のお勧めを挙げるならば、そうだな。“初撃をカウンターで返して決着”、なんてのは理想だろうよ』

 頼みとする鋭い観察眼を以って私を格下だと断じ、一撃で勝負を決する心算で繰り出した打突。無論、余程の馬鹿か突き抜けた自信家でもない限り、躱される可能性も計算に入れてはいるだろう。だが――まさか、“何の躊躇いもなくそのまま突っ込んでくる”とまでは想定していまい。

『常識的に考えて、慎重な人間はそんな無茶をしないだろう?“だからこそ”、無茶をするべきなのさ。絶対的な力量差を引っ繰り返すには、常識をぶっちぎる勇気が必要不可欠。それが俺の持論だ』

 板垣亜巳の死角を衝くために必要なのは、臆病さと紙一重の慎重さを捨て去る覚悟。蛮勇と紙一重の勇気こそが、現状を打破する。刹那の思考の内に腹を括り終えると、私は自慢の脚に力を込めて、前のめりに路面を蹴り出した。

「なっ!?」

 かくして、初撃の突きを紙一重で避けた直後、私は間髪入れずに突撃を敢行したのだった。伸び切った六尺棒をレール代わりに鉤爪を走らせつつ、特化した瞬発力を以って対処の暇を与えず懐へと這入り込む。驚愕に目を見開いた亜巳の反応に、私は不意を討つ事に成功したと確信した。

 この好機を逃せば勝機は薄い。此処で確実に葬り去る。

 気功で強化した紅の鉤爪を横薙ぎ滑らせ、そのまま振り抜いて刃先を心臓へと突き立てるべく、指先に力を込めた瞬間――不意に、無数の幻覚が目まぐるしく脳内を駆け巡った。肉を穿つ音響。噎せ返るような血臭。血潮に塗れる自己の姿。誰かの命を、奪う感触。背筋を這い回るおぞましい怖気と共に、決殺の斬撃が、ほんの僅かに鈍る。

 曇った殺意が生み出したのは、空白の一瞬。

 そして、その僅かなタイムラグは――板垣亜巳の眼前にて晒すには、致命的なものだった。


「やっぱりアンタは喰われる側だったみたいだねェ?子猫ちゃん」


 嘲弄の声が私の耳に届いたのは、脇腹を襲った痛烈な衝撃と、どちらが先だったのか。

 遅れて込み上げてきた、灼けるような激痛を知覚する頃には既に、私は雨に濡れた路上に倒れ伏していた。状況から判断する限り、鉤爪が身体へと到達する直前に棒で薙ぎ払われ、受身も取れないままに吹き飛ばされて数メートルほど地面を転がったのだろう。ほぼ零距離からの咄嗟の反撃では大した力も込められなかっただろうに、この身に負ったダメージは甚大だ。被弾の瞬間、私が氣の大半を攻撃に回していた事を差し引いても――規格外と云う他無い破壊力。

「く、ぅうう」

 所詮は牽制の一発を貰っただけだ。痛みはあるが、どうやら骨折にまでは到っていない。まだ、闘える。まだまだ、諦めるには早過ぎる。そう必死に自分に言い聞かせて、火に炙られるような脇腹の激痛を堪えながら、辛うじて身を起こす――事は、叶わなかった。顔を上げた瞬間、突き抜けるような激しい衝撃が頭蓋を揺らし、瞼の中で火花が散る。次いで抗い難い強烈な力が後頭部を圧し、顔面を路上へと叩き付けた。口内に広がる鉄錆の味と同時に、ハイヒールの硬質な踵で頭を踏み付けられているのだ、と自身の現状を認識したのは、一瞬後の事だった。

「あれだけペラペラと喋繰ってた割には、呆気ない終わりだねェ。ま、弱い犬ほど良く吼えるモンだ」

 頭上から投げ掛けられる嘲弄の声音は、降り注ぐ雨粒と共に冷たく心身に染み入り、私を掻き回す。文字通りに踏み躙られる屈辱感と、そして何より、あまりにも不甲斐ない自分自身への腹立たしさが、無意識の内に歯を軋らせた。

「なんで、私は……ッ!」

 何故、躊躇った?

 板垣亜巳と云う、未だ私の手に余る強敵を打倒するには、あの一瞬は最初で最後の、そしてこれ以上ないと言える程の勝機だった筈だ。例え結果として他者の命を奪う事になろうとも――その程度の“覚悟”は、この場所に立つ以前から決めていた。独りで全てを抱え込んで、従者すらも置き去りにして闇の中へと踏み出そうとしていたご主人に、何処までも付き従うと決意したその時から。大切な“家族”を護る為ならば、喜んで血に塗れようと誓ったあの日から。私は、もはや惑う事など無い筈だったのに。

「はっ、やっぱりそうだ。アンタ、何か勘違いしてるねェ」

 不意に降り掛かったのは、明らかな侮蔑に彩られた言葉。

「アタシにしてみりゃ珍しくもないんだよ。ご立派な理由で大層に飾り付けて、ついでにご立派な“覚悟”とやらで後押しすれば、ただそれだけでヒトを殺せる――なんて思い込んでる的外れな連中はさ。まったく、馬鹿馬鹿しくて物も言えやしない」

「……」

「人間を壊すのに必要なのは、意志だの覚悟だの、そんな小難しいモンじゃない。要はねェ、単なる“慣れ”さ。痛いのは初めだけ、何度もヤッてる内に感覚が麻痺しちまって、痛みも感じなくなる。こっち側に住んでる奴は大抵がそういう連中さね。碌に血の味も知らないネンネとは、そもそも立ってるステージが違うワケだ。解るかい?ハナっから場違いなんだよ、アンタは」

 悪意に満ちた声音と共に、ヒールの踵が頭蓋を抉るように後頭部を踏み躙る。しかし、物理的な重圧よりも尚強く私を押し潰したのは、冷たく投げ掛けられた言葉の“重さ”だった。川神の闇を己が棲家としてきた板垣亜巳の言は、その荒んだ人生を載せたかのような重みを伴っている。

「最初の不意討ち、アレは見事なモンだったねェ。このアタシとした事が、間近に寄られるまで気付かなかったとは驚きだよ。だってのに――そこまで上手く運んでたってのに、アンタはアタシに手傷の一つも負わせられなかったんだ。理由は簡単、自分でも気付かない内に、アンタはビビっちまってたワケさ」

 悠々と紡がれる亜巳の言葉に対して、私には反論の術は無かった。

 結局、私は何も判ってはいなかったのだ。賢しげに知恵を働かせ、想像の中で好き勝手に映像を作り上げ、それであたかも自分がご主人達の人生に寄り添ったような気分になっていた。自身の願いの為に手を血で汚すと云う事の、本当の意味。そこに伴う痛みの程を理解してもいない癖に。
 
 私は――本当の意味で脆弱な小娘に過ぎない私には、彼の傍を歩く資格なんて無かったのだろうか。

「は、面白い程に無様だねェ。そんなザマで良くあのシンに使って貰えたモンさね」

 頭上より降り注ぐどこまでも嗜虐的な声音が、冷えた心に容赦なく突き刺さる。本当の責め苦は、真の絶望はこれから始まるのだと、思い知らせるかのように。

「フフ、生意気な小娘がこうやって泥と屈辱に塗れて震える姿を眺めるのも乙なモンだろうが……やっぱりそれだけじゃ物足りない。折角の機会だ、気持ち良くヤるための方法って奴をアタシがカラダで教えてやろうじゃないか。――昇天しちまうくらい強烈なヤり方で、ねェ」

 





 









 眼前の男を形容するのに相応しい表現があるとするならば、それは疑いなく“猛獣”の一語に尽きるだろう、と源忠勝は乱れた呼吸を整えながら思索する。人間らしい理性や技術とは無縁の、どこまでも純粋で圧倒的な、暴力の権化。荒ぶる激情のままに見境なく凶悪な膂力を振り回す様は、自分と人種や年齢を同じくする存在だとは到底思えない。

「壊してやる……壊してやるぞ。俺とシンの神聖な闘いを邪魔しやがるカスは、骨の一片まで粉々に砕いてやる……!」

 狂暴な本性を剥き出しに、血走った目でこちらを睨み据える男――板垣竜兵。咆哮と共に彼が振り翳す力任せの暴力には、フェイントやコンビネーションといった技巧は殆ど織り交ぜられない。武の歴史の中でヒトが編み出してきた技術を全て放棄した、ひたすらに原始的な暴力こそがこの男の戦闘スタイルだ。人並み外れた強靭な肉体とネジの外れた理性を併せ持てば、それはもはや人の形を象った野獣に等しい。

「ちっ……」

 獣性に満ちた気迫を前に気圧されている己を自覚し、忠勝は小さく舌打ちを漏らした。

 源忠勝という少年は、自分の凡庸さを理解している。川神一子、森谷蘭、そして織田信長。常人の域を超越した武人を幼馴染に持っている以上、一般的な同年代よりも多少腕っ節が強い程度で思い上がる事など出来る筈も無かった。日々の代行の仕事を通じて荒事には慣れ親しんでいたが、しかし所詮、その経験が通用する場面には限界がある事を忠勝は悟っていた。街の不良の喧嘩を仲裁する程度なら問題はない。だが――堀之外に君臨する怪物を退治するには、己の存在は非力に過ぎる、と。

「ウォラアアッ!!」

 思考に浸る間も無く、竜兵の豪腕が破壊的な唸りを上げて迫る。忠勝は冷静に拳の軌道を見極め、素早く身を躱した。フォームも何も無い力任せの拳打を空振った結果として、必然、竜兵の身体は無様に泳ぎ、素人目にも明らかな隙が生じる。獲物を狙う鷹の如く忠勝の眼が鋭利な光を放ち――次の瞬間には、竜兵のがら空きの脇腹に渾身の肘打ちが叩き込まれていた。

「……っ!」

 会心の一撃。だが、忠勝の表情に余裕の色は欠片も無かった。むしろ隠し切れない焦燥を顔に滲ませながら、追い立てられるように跳び退って距離を取る。相手への追撃など最初から考えてもいないような、ヒット&アウェイと呼ぶにも消極的に過ぎる忠勝の立ち回りには、当然ながら理由が在った。

「くっ」

「……」

「く、クククッ、ハハハハハッ!オイ、さっきからペチペチと、一体何だそりゃあ?キサマ、まさかそれで攻撃してるつもりか?笑わせるなよカス野郎、貧弱にも程が有るぜ」

 打撃を受けたばかりの脇腹をまるで気に留める素振りすら見せず、竜兵は不敵に忠勝を嘲笑う。この様子じゃあ痩せ我慢って訳でも無さそうだな、と忠勝は眉を顰めた。実際、肘への感触からしても、まともにダメージが通ったという実感が湧かない。強固な筋肉の鎧に阻まれて、打撃の威力の大部分が削がれてしまっている。戦闘開始から現在に至るまで数度に渡って拳を叩き込んだが、その全てが同じ結果に終わっていた。

 原因は明白だ。戦闘技能が云々ではなく――そもそもの基礎能力に差が有り過ぎるのだ。現在の状況を喩えるなら、あたかも生身の人間が徒手にて猛獣に挑むようなものだった。常人には決して覆せない、絶対的な身体能力の格差。唯一その差を埋め得る可能性である“氣”も、源忠勝は満足に扱う術を持たない。故に幾ら巧く隙を衝いた所で忠勝の攻撃は通らず、そして逆に一撃でも貰えば致命的なダメージを被る事になりかねない。このまま真正面から闘えば、恐らくは絶望的な未来しか望めないだろう。

「ちっ……、どうしたもんだかな」

 辛うじて勝算が見込めるとするならば、ゲリラ戦。正面衝突を避け、慎重に退きながら地形と環境を上手く利用し、弱点を探り隙を窺い続ければ、或いは打倒のチャンスが訪れるかもしれない。彼我の戦力差が明確である以上、それこそが利口な選択なのだろう。だが――

 忠勝は己の背後へと意識を向ける。嵐吹き荒ぶ親不孝通りの、雨粒のカーテンの向こう側へと独り消え去った親友の背中が鮮明に蘇った。

『俺は俺の責任を果たしに行く。だから、お前は“俺達”の背中を守ってくれ。そうすれば――』

「はっ。迷う事なんざ、何も無かったか」

 小さく呟いて、忠勝は不敵な笑みを零した。

 そう、自分の持ち場は、此処だ。板垣竜兵という獣をこの場所から一歩も動かさない事こそ、源忠勝の使命。いかに無謀で愚かしい選択だと理解していても、此処から退く訳にはいかない。

 不退転の決意を胸にその場に踏み止まり、忠勝は臆する事無く眼前の敵手へと視線を向ける。竜兵は苛立ちの色を隠さない狂猛な眼光で忠勝を睨み、唸るように声を上げた。

「時間の無駄だってのが分からねぇか?キサマ程度じゃあどう足掻いても俺には勝てねぇ。俺ぁゴミカスには興味ねぇんだ、見逃してやるからさっさと失せろ……!こうしてる間にもシンが遠くへ行っちまうじゃねぇかよクソがッ!!」

「そいつは焦り過ぎだろうよ。あの野郎、腹立つ位に悠々と歩いて行ったからな。ったく毎度ながら、何を平然と余裕風吹かしてやがんだボケが。見栄張るのもいい加減にしやがれ」

「ああ……?何を言ってやがる」

 傍目にも苛立ちを深めた様子で凄む竜兵には答えず、忠勝は無言で構えを取った。わざわざ言葉に表すまでもない。その身を以って竜兵の眼前に立ち塞がる姿こそが、忠勝の意志を雄弁に物語っていた。今度こそ苛立ちが最高潮に達したのか、竜兵の額に青筋が走り、爛々と輝く眼には兇暴な殺意が膨れ上がっていく。猛々しい雄叫びと同時に剛拳を振り翳し、凄まじい気迫を引き連れて忠勝へと躍り掛かったのは、一瞬後の事であった。

「ブチ壊れろおォッ!!」

 力任せに繰り出された豪快なテレフォンパンチに対し、忠勝は冷静に身を躱す事で対処する。掠めた豪腕が耳元で唸りを上げる異様な音響に、抑え難い寒気が背筋へと這い上がる。勢いに任せている分だけ拳の軌道が直線的で読み易いのが唯一の救いだった。直撃を受ければどれほどのダメージを被るか、想像するだに恐ろしい破壊力ではあるが――逆に言えば、クリーンヒットさえしなければ少なくとも瞬殺される事は無い。次々と放たれる拳打のラッシュを辛うじて凌ぎながら、忠勝は絶えず頭を回転させていた。

 ――しかし、このままでは間違いなくジリ貧だ。永遠に時間を稼げるような余裕がある訳では無い。野獣の如く精力に満ち溢れた板垣竜兵の体力が尽きるよりも、忠勝のスタミナが底を突く方が確実に早いだろう。故に、この息詰まり行き詰った状況を切り開くためには、“攻め”が必要だ。自分の身体が万全の状態である内に、未だ望み得る最高の一撃を繰り出せる状態である内に、動かなければならない。

 闘いの最中に決断を下した忠勝は、竜兵の苛烈な猛攻を必死にやり過ごしつつ機会を窺う。満足に呼吸すらも許されない嵐の如き攻勢に晒され続け、やがて息が上がり、降り注ぐ雨粒の冷たさに混じって滲み出た汗が額を伝い始める。そして、絶好の好機が訪れたのは、そんな折だった。

「しつけぇんだよ、カスがッ!!」

 竜兵にしてみれば一刻一秒でも早く信長を追いたいという状況での、この足止めだ。込み上げる焦燥と憤怒の念は元々乏しい理性を更に奪い去っているに違いない。加えて板垣竜兵は源忠勝を完全な格下と断じ、取るに足らぬ雑魚と侮っている。その傲慢さが、いよいよ彼の打撃に粗雑さと単調さを生み出していた。竜兵は我武者羅に拳を振り上げ、眼前を飛び回る鬱陶しい小蝿を叩き潰すべく、荒ぶる激情のままに振り抜く。――それこそが忠勝の待ち望んだ行為だとは、遂に気付かないままに。

 破壊の鉄槌と化して自身へと迫る剛拳を冷静に見据え、その軌道が顔面を真っ直ぐに狙っている事を認識すると同時に、忠勝は素早く身を沈めながら前へと踏み込んだ。竜兵の豪腕が頭上を通り過ぎる隙を利用して懐へと這入り込み、右の拳を固く握り締める。

 刹那、目線を上へと向ければ、驚愕に見開かれた瞳と視線が交錯した。だが、今更反応したところで手遅れだ。次の瞬間、真下から身体ごと跳ね上げるように繰り出された全力のアッパーカットが、竜兵の顎を完璧に捉えた。

「がっ――!?」

 改めて説明するまでもなく、“顎”は最も有名な人体急所の一つだ。特に顎先へのダメージはダイレクトに頭蓋へ伝わり、脳震盪を引き起こす。板垣竜兵がいかに獣じみた身体能力の持ち主であれ、身体構造そのものは忠勝と同じ人間のそれである。ならば、脳が揺らされてノーダメージなどと言う事は有り得ない。加えて言うなら先のアッパーは、一撃必倒を意図し、後先を考えず文字通りの全力で繰り出した、源忠勝のポテンシャルに望み得る最高の拳打だった。よもや急所に捻じ込まれて立っていられる道理は無い。

 強かに顎を打ち抜いた拳に確かな手応えを感じながら、勝利の二字をはっきりと意識した瞬間――忠勝は、凍り付いたように固まった。

「……今のは痛かったぜ……?頭がクラクラするじゃねえか、ええオイ」

 顎へと向けて伸び切った腕を、竜兵の五指が鷲掴みにしていた。今まさに脳震盪を起こしている人間にはまず引き出し得ない、絶望的な膂力が万力の如く手首を締め付ける。

 思わず苦痛に歪んだ忠勝の顔を見下ろしながら、竜兵は血臭が薫る様に凄惨な笑みを浮かべた。

「おいおい、何だよそのツラは。まさかてめぇ、今ので倒せると思ってたのか?この俺を?」

 押し殺したような声音と共に、手首を束縛する握力が益々強くなった。ギシリ、と骨肉が軋みを上げる音が響く。竜兵は指先に込める力を緩めないままに、至近距離から忠勝を睨み据えた。

「――“板垣”を舐めるなよ。てめぇらカス如きには俺達は止められねぇ。仮に力尽くで俺を組み伏せられるオスがいるとしたら、それはシンだけなんだからなぁ」

 徐々に陶酔の色を帯びていく竜兵の様子に、脳震盪による意識の混濁は見受けられない。口内から垂れる一筋の血の滴だけが、僅かなダメージの証だった。その事実に、板垣竜兵の怪物じみた異常性を目の前に、忠勝は改めて戦慄を禁じ得なかった。渾身の一手すら無意味と成り果てる程に、目の前の存在は“違う”のだ。陶然とした表情で猛りの咆哮を上げるこの獣は、もはや痛みすらも感じていないのだろう。

「そうだ、いつだってそうだ、あいつとの闘争だけが俺を充たしてくれる!あいつは俺の運命だ!それをだ……何も知らねぇ有象無象が出しゃばって、俺とシンの邪魔をしてんじゃねぇよッ!!」

「くっ!」

 激昂の怒声が轟き、竜兵の眼が一気に危険な光を帯びる。ざわり、と背筋を走る寒気に危機感を煽られ、離脱を試みる忠勝だったが――いかに振り解こうともがいた所で、右手首の拘束は僅かたりとも緩む気配を見せなかった。咄嗟に繰り出した顔面狙いの左は予め読まれていたのか、顔の目前で容易く受け止められ、そのまま掌で包み込むように押さえられる。両腕を封じられ、完全に身動きの取れなくなった忠勝を正面から見遣って、竜兵は歯を剥き出しに凶悪な笑顔を浮かべた。

「お返しだ。ここは一つ固さで勝負と行こうじゃねぇか、なぁ!」

 獰猛な叫びと共に至近距離から繰り出されるのは、己の頭部を兵器と為して振るわれる暴力の形――ヘッドバッド。機動力を奪われた忠勝に、その暴威を避ける術は無かった。一瞬の後に逃れ様もなく襲い来る衝撃と、額が割れる感触。破壊的な震動が頭蓋を揺るがし、目蓋の奥で火花が踊り狂う。あたかも灼熱のハンマーで殴打されたかのような感覚に、視界が赤一色に染め上げられた。

「ぐ、ぅっ」

 瞬く間に眩暈が頭を埋め尽くし、正常な平衡感覚が喪われ、膝から力が抜け落ちる。激痛と混迷の内に、意識すらも徐々に霞掛かっていく。戦闘継続どころか、満足に立ち続けている事すら覚束ない有様だ。脳震盪――確認するまでもなく理解が及ぶほどに甚大で、致命的なダメージだった。


――だが、それでも。


『そうすれば――それだけで、俺は安心して無茶をやれるんだ。くく、“俺達”はいつもそうだっただろう、タツ?』

「それでも……、倒れる訳には、いかねぇんだよ」

 それは、自然と喉元から飛び出した呟きだった。無意識の声に励まされるように、遠ざかる意識を現実に繋ぎ止め、ふらつく脚を無理矢理に叱咤して、忠勝は踏み止まる。相変わらず、視界は不自然に紅い。割けた額からどくどくと溢れ出る血を乱暴に拭って、真っ直ぐに顔を上げる。追い詰められて尚、刃の如く鋭利な光を放つ忠勝の双眸に何を思ったか、竜兵の顔には微かな戸惑いが浮かんでいた。思わず、といった様子で動きを止めた竜兵に向かって、忠勝は不自然な程に静かな声を投げ掛ける。

「何も知らねぇのも、出しゃばってるのも、てめえの方だろうが」

「あぁ……?」

「全部、こっちの台詞だぜ。あの野郎が十年越しの重荷を清算しようとしてるんだ、邪魔は許さねぇ」

 織田信長と森谷蘭。幼馴染として二人の傍に在り続けた忠勝は知っている。信長という少年が、蘭という少女の心を護る為に支払った代償の大きさを。自身を偽り冷酷無情の仮面を被りながら、その裏側でどれ程の激情を燃やし続けてきたのかを。幾年も幾年も自身の傷と向き合い続ける覚悟、そこに伴う苦痛がいかばかりのものであったか、余人の想像が及ぶ事はないだろう。信長と蘭の二人は十年と云う気の遠くなるような歳月を、一歩ずつ、一歩ずつ積み重ね続けてきた。そして今、ようやく大事な“何か”に手が届いたばかりなのだ。その成果を土足で踏み躙るような振舞いだけは、絶対に許容出来ない。あの二人の未来にいかなる結末が待っていたとしても、其処に余計な第三者が関与してはならない。

「闘争だの運命だの、そんな独り善がりの下らねぇ理由で――あいつの道を妨げさせるかよ」

 だからこそ、此処を通す訳にはいかない。例え無謀だと謗られようとも、この場を譲る訳にはいかない。

――源忠勝は織田信長の、“親友”なのだから。

 あくまでも不退転。絶望的な力量差を見せ付けられ、意識を保つのがやっとの状態に追い込まれながらも、忠勝の気迫は些かの衰えも見せなかった。

「……あぁそうかよ。で、遺言は終わりか?」

 滑稽なほど非力な癖に頑として道を譲らず眼前に立ち塞がり、意味の判らない世迷言を並べ立てる鬱陶しい“邪魔者”は、総身を焦がす怒りの炎を煽り立てるには十分過ぎる存在だったのだろう。竜兵は表情を凶悪に歪ませると、ばきりと荒々しく音を立てて指を鳴らした。

「カスの割には頑丈らしいが、まあ次こそは徹底的に、どう足掻いても立ち上がれねぇ身体にしてやるだけの話だ。俺達に――板垣に楯突いたてめぇの愚かさを後悔させてやる。身の程を弁えずに俺とシンの間に割り込んだ罪を、そのカラダで清算しやがれぇッ!!」

 空気を震撼させる雄叫びと同時、轟、と怖気の走る様な唸りを上げて竜兵の拳が振りかぶられた。

 対する忠勝はあくまで焦らず、冷静を保ちながら、ぐにゃりと歪んだ視界にその軌道を確りと捉え――そして、震える脚の感覚に、己の身体がもはや望み通りに動かない現実を悟った。当然だ、脳が揺らされた状態で普段同様の身体能力を発揮できる“人間”は居ないのだから。

「ちっ」

 抑え切れない苛立ちと共に、忠勝は眼前の男を見据える。粗暴な本能に身を委ね、自身の欲望のままに他者を蹂躙する獣。所詮、力無き人間がいかに大切な想いを胸に掲げても、純粋で強大な力には及ばないのか。強者が弱者を喰らい支配する事こそ、この世の理だというのか。

 それは、それでは――あまりにも。

「オォラアアアッ!!」

 祈りも願い誓いも、弱者の想いの総てを纏めて打ち砕かんと、暴力の塊が迫る。

 忠勝は強く、血が滲むほど強く、唇を噛み締めた。




 






 
 雨が、降り続いている。ざぁざぁと激しい音を立てて薄汚れた路面を叩き、競うように次々と弾け飛ぶ。

 無限の如く果てしのない音響を何処か遠くに聴きながら、俺達は静かに向かい合っていた。織田信長と、板垣天使。互いに言葉を発する事もなく、ただ互いの瞳から何かを読み取ろうとするように、視線を交錯させる。

――強くなったな、こいつ。

 掛け値なしに、そう思った。天――得物を携え眼前に立ち塞がる我が妹分の立ち姿は、今まで共に過ごしてきた幾多の時間の中で、最も大きなものとして映った。そのように感じさせるのは、彼女の目。燦然と輝くような強い“意志”の光が宿った瞳は、意志を放棄した死人のそれとは全く異なる。これは、自分自身の頭で思索し、自分自身の想いに導かれて行動する者の目だ。

「くくっ」

 自制が利かず、ついつい笑みが込み上げた。俺の悪い癖だ。どうにも、望外の喜びというものに俺は弱い。ふと気が付けば、仮面の奥に押し込めた素の感情が面に顕れてしまう。思えばこんな事は、今までにも幾度かあった。

『なぁ、シン。ウチはさ――このままで、良いのかな?』
 
 そしてその度に、板垣天使という妹分は少しずつ、しかし確かな成長を遂げてきたのだ。出逢った頃は家族や兄貴分に頼るばかりだった泣き虫の虐められっ子が、気付けばこれ程までに強く、大きくなっていた。単純な武力だけではなく、人間として何よりも必要なもの――すなわち、依って立つ己自身の“意志”を見出した。その事実が、俺は素直に嬉しかった。

「答は、出せた様だな」

 口を衝いて出たのは、自分でも驚くほどに穏やかな声音だった。天は小さく目を見開くと、真っ直ぐに俺を見返して、確りと頷いた。

――そうか。ならば、よし。

 人が自身の意志によって定めた道であるならば、正道であれ外道であれ、俺は否定しない。天は迷っただろう。織田信長と板垣一家という相容れぬ存在の狭間に立たされて、思い通りに運ばない現実に苦悩した事だろう。その葛藤の中、揺るがぬ確信と共に導き出した天の結論がいかなるものであったとしても、俺はそれを自身の全霊にて受け止めなければならない。それが、俺の兄貴分としての最後の役目だ。

――ならば、言葉は不要か。

 ただひたすらに己の観察力を総動員し、天を“観”る。

 不意に蘇ったのは、今や懐かしい二年前の情景だった。忘れもしない釈迦堂刑部の“抜き打ち卒業試験”にて、俺は板垣天使を一方的に降した実績を有している。天はあの頃から既に単純なスペックで言えば俺を遥かに上回る規格外の武人ではあったが、逆に言えばそれだけだった。容易く読み切れる程に拙い攻撃パターン、殺気に抗う為の気功の練度の低さ、実戦経験の不足による精神面の脆さ、といった実に数多くの“隙”を抱えていたのだ。無論、だからといって余裕など欠片もない勝負である事は間違いなかったが、しかし勝算を見出す道筋そのものに窮する事はなかった。

 ならば現在は、どうか。

 分析の結果、俺の頭脳が弾き出した答は、二年前と正反対だった。つまり――勝算がまるで見出せない。

 あの頃とは、何もかもが違う。元々の才能に多大な差があった天と俺の基礎能力の値は、二年間の時を経て、絶望的な程に隔てられていた。更に、実戦を繰り返し経験した事で武術が洗練され、現在では釈迦堂に伝授された川神流の技の数々を自在に使いこなすまでに至っている。そして最も大きな変化は、やはり精神面だろう。貫き徹すべき意志を胸に抱いた人間の精神というものは、呆れるほどに強靭だ。一切の揺るぎなくこちらを見据える橙の双眸から判ずる限り、天は既に腹を括っている。となると、以前のように俺の得意とする小賢しい揺さぶりに踊らされてくれるとは思えない。単純に殺気による拘束の効き目が弱まる上に、言葉を駆使した思考誘導も難しいとなれば、いかにも状況は厳しいと判断せざるを得なかった。

 ただでさえそのような難敵であると言うのに――現在の俺は、決して絶好調とは言えない状態だ。否、包み隠さずに言ってしまえば、コンディションは最悪に近い。此処に至るまでの消耗のお陰で碌な殺気は運用出来ず、氣の過剰消費に因る疲労によって普段同様の運動能力は発揮出来ず、命綱の演算速度も反応速度も鈍っている。結果、細心の注意力と対処能力を前提とする俺の回避技能が、見事なまでに機能不全を起こしていた。元々が乏しい俺の実力の、更に七割を引き出せれば御の字といった所だろうか。並の武道家クラスを相手にするならばともかく、今の天を真っ向から相手取るにはどう考えても心許ないものがある。俺を取り巻くありとあらゆる情報が織田信長の不利を訴え、この場での闘争を無茶無謀と判じていた。至極客観的に事態を俯瞰する醒めた理性は、口煩く即時撤退を勧告している。

――だが、それがどうした?

 関係ない。所詮、そんな事は関係ないのだ。有利も不利も可能も不可能も、俺の進退を左右するものではない。

 何故ならこの身には、背負うべき責任がある。眼前の妹分、そしてその先に居る不出来な従者と真正面から向き合い、俺という存在が生み出してしまった歪みの全てを受け止める義務がある。己の過去を清算する事を恐れ、尤もらしい言い訳を重ねて其処から逃げ出してしまえば、俺は俺で在る事を保てなくなるだろう。拠るべき意志を喪う事は、死と同義。それは俺にとって、何よりも耐え難い恐怖だった。

 故に、逃げない。今、この街の何処かで、それぞれの想いを背負って闘っている者達に報いる為にも、行く手を阻む壁は全て乗り越えてみせる。そんな意地を貫徹する為に、俺は強者たる事を望んだのだから。

「……」

 数多の思索が目まぐるしく駆け巡り、数時間分にも感じられた俺達の対峙は、実際には僅か数秒の事だっただろう。何処か穏やかさすら漂っていた場の雰囲気が、俄かに緊迫する。刃の如く冷え切った厳粛な空気が全身を包み、余計な雑念を消し飛ばす。瞬く間に安息の地より戦場に立ち戻る感覚。

「―――ッ!」

 あくまで無言のままに鋭い吐息を一つ零して、天が動いた。双眸がぎらりと攻撃的な眼光を放ち――躍動。野生的な奔放さで灰色の路面を蹴り上げ、撃ち出された一個の弾丸と化して標的を狙う。橙のツインテールと共に後方へ流れるクラブが一筋の銀閃を描き、破壊の意志を伴って風雨を引き裂く。

 呆れるまでの超高速で展開する眼前の情景を、俺は限界まで研ぎ澄まされた集中力によってスローモーションを再生するように捉えていた。氣を併用した踏み込みによる爆発的な加速と、そこから瞬間速度を載せて繰り出される一閃。打ち筋に曇りなく、欠片の迷いも介在しない。それは掛け値なしに、かつて俺が目にした中で最高の一撃だった。

 やれやれだ――これは参った。

 偉そうに兄貴分を名乗れるのも、これまでかもしれない。


『ウチさ、いつかぜったい、シンみたいにつよくなるよっ!』


 刹那、微かな寂寞の感情が胸中を吹き抜ける。常に天の心の中にて憧れで在り続けた“織田信長”は、或いは既に役割を終えたのだろうか。

 ……。

 俺は今、果たしてどんな表情を浮かべているのか。自覚の及ばないままに、ただ一言、静かな呟きが漏れる。


「是非も、なし」


 そして。

 
 銀の閃光が降りしきる雨粒を儚く散らし――とある一つの迷妄に、終止符を打った。












 






 ク……クロコダイ~~ン!(挨拶)
 つい最近、機会あってダイ大を全巻読み返しました。何と言うか、名作はいつ読んでも名作なんだな、と改めて実感させてくれる漫画ですね。ロト紋も拍子抜けな冥王と異魔神最終形態さえ何とかしてくれれば……、とまあスクエニ板に行けと言われそうなのでひとまずこの辺で。
 ちなみにみなとの新作(辻堂さん)をプレイ済みの方がいたら是非とも評価を聞きたいです。気にはなっているのですが手を出すべきか現在考え中。まじこい世界観やキャラの新情報が多く出ているようならSS書きとして見過ごせないのですが、さてどうしたものか。
 何はともあれ、それでは次回の更新で。
 



[13860] バーニング・ラヴ、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:3fa74a6c
Date: 2012/12/16 22:17
「ふむ。私としてはだね、君に対して一つ質問をしてみたいと思う所存なのだが」

「何さ。かの虞美人も気後れして帳に引っ込んじゃうこの美貌の秘訣なら――」

「君は殿の事が好きなのかね、明智君?」

「にゃっ!?」

 得意の口先で煙に巻いてやろうと軽い気持ちで備えていたところに飛んできたのは、何ぞ計らん、恐ろしいまでに剛速球のストレートであった。しかも完璧な不意討ちときたものである。智謀百出にして良知良能、機転に富み英知に溢れたこの私が、思わずキャッチし損ねてしまったのも道理というものだろう。全く以って危険球もいいところだ。

「にゃっ、では残念ながら回答として適切とは言えないな。それとも何だ、単に私が知らないだけで、最近の女子高生の間ではその奇妙奇天烈な発声が意思表示の手段として罷り通っていたりするのかね?もしそうなら済まないね、私はどうにも昔から世間の流行というものに疎いのだよ。とはいえ私も花の女子高生、近頃は努めて興味を持つようにしているのだが、なかなかどうしてこれが侭ならないものだ。クラスメートとのコミュニケーションを通じて若者文化を学習しようと試みると、何故か皆一目散に逃げ出してしまってね。やれやれまったく度し難い。いくら過去にちょっとばかりヤンチャをしていたからとは言え、現在の私が良識の塊と形容すべき人格の所有者である事実は変わらないと云うのに。過去を顧みるばかりで目の前の現実に眼を向けようとしないのは人間の悪癖だよ」

 口を挟む暇すら与えず一息に言い終えたかと思うと、思い出したかのように余計な一言を付け加える。

「――で、どうなのかね明智君、君は殿にメロメロ☆フォーリンラブなのかな?ん?」

「ああぁああもうストップ!ちゃんと答えるからとりあえずボリューム抑えてよ!本人に聴こえちゃうじゃないか!」

 話題の中心人物が今まさに目と鼻の先を歩いている状況で、その質問はどう考えても危険極まりないだろう、常識的に考えて。

 『忠告しておくが、くれぐれも奴を俺達の常識で測ろうとするなよネコ。無駄に疲れるだけだからな』――我がご主人こと織田信長の実感に満ち溢れた台詞が、今更のように思い出された。成程成程、これ以上ないほどに納得だ。

 げんなりとした気分を存分に味わいながら、私は自身の隣を悠々と歩く人物を見遣った。彼女の名は柴田鷺風、自称サギ。和装に仮装用マスクというトチ狂ったファッションセンスを披露し、得物を収納していると思しき二メートル以上の長大な布袋を担いで堂々たる足取りで街中を突き進む姿は、川神学園に巣食う変態どもと比較しても何ら見劣りするところがない。挙句の果てに“サギ仮面”などと自らを名乗って恥じ入る様子もない弩級の変人は、腹立たしい程に悠然と嘯いた。

「フフフ、そう狼狽える事もないさ。何せ私の見立てでは、今の殿は只管に前しか見ていない。私達の百花繚乱男子禁制ガールズトークなんて最初から意識の外に締め出していると考えて然るべきだよ。そうではないかね明智君」

「いやまあ、それは……、確かにそうかもしれないけどさ」

 口を開けば胡乱で頓珍漢な発言ばかりの癖に、妙なところで的を射ているのがまた腹立たしい。

 実際、私達のやや前方を歩く我がご主人は現在、周囲の様子など一切関知していないだろう。この先に待ち受けるであろう様々な事態を想定し、その過程で生じ得る無数の可能性を多角的に検証し、脳内に詰め込んだ幾多の情報を基に対応策を組み上げる――そんな気の遠くなるような作業に没頭している筈だ。それを証明するかのように、彼の黒尽くめの背中からは、鬼気迫る、と形容する他無い異様な雰囲気が漂っていた。

 日々のトレーニングに教科書の予習復習、和菓子漁りから格ゲー対決に至るまで、自身を取り巻くあらゆる物事に対し全力を費やして真剣で取り組むのがご主人の特徴だが、それにつけても今回は気合の入り方が違う。それも当然――織田信長にとっては正しく、今が天王山。決して失敗を許されない重大なミッションに臨まんとしているのだ。開幕の時がすぐそこまで迫っているこの局面で、益にもならない雑音をわざわざ気に留めたりするまい。

 故に、このサギなる人物の見解は確かに正しいと言えるのだが……だからと言って、幾ら何でも。無言の催促とばかりにじぃっとこちらを見つめる奇怪なデザインの仮面を呆れの目で見返して、私は嘆息を一つ落とした。いかに洞察力を働かせても思考回路が見通せそうにないこの手の人種は、どうにも苦手なのだ。

「って言うか、何でセンパイは今ここでそんなコト聞きたいのさ。ホントに状況判ってるの?空気読み人知らずなの?」

「無論、現在がシリアスシーンの真っ只中である事は重々承知しているとも。だがしかし私としては、こうしてピチピチの現役女子高生が二人並んでいるにも関わらず辛気くさく真面目くさった話に終始するというのは甚だ愚かしい事ではないかと思わざるを得ないのだよ。女子高生と言えばコイバナ、コイバナと言えば女子高生。私は至極普遍的な常識に則って現状に相応しい話題を提供したまでの話だよ。――で、願わくばそろそろ答えを聞かせて欲しいのだがね」

 私としては言外に回答を拒否したつもりだったのだが、残念ながらそんな風に迂遠な方法ではこの怪人物の追及は止められないらしい。こちらの顔面を押し潰さんばかりの勢いでぐいぐい迫ってくる仮面を両手で押し退けて、またしても溜息を一つ。昔は主従だったなら何とかしてくれないかなぁ、と半ば無駄を悟りつつも前方のご主人へと視線を送る。

 ……ご主人。織田信長、か。

 こうしてその背中を眺めていると、先程の不躾な質問の所為で改めて意識せざるを得なかった。本当のところ自分が、彼という人間を、どう思っているのか。

 ……。

 うん。私が思うに、彼と言う人間は欠点だらけだ。自己中心的で自意識過剰で自分語りが大好きで、どんな形であれ己が人に見下される事を善しとしない、とんでもなく負けず嫌いの俺様気質。そんな派手に捻じくれた性根に加えて、常日頃から必要があろうとなかろうと呼吸同然に嘘を吐き、何やかんやと理屈を付けて自分を正当化する術に長けている詭弁家ときたものだ。人をからかうのは好きな癖に、いざ自分が人にからかわれると全力で反撃に掛かる。意地も悪ければ性格も悪い。冷静に考えずとも絶対に友達には欲しくないタイプだった。仮に彼が本性を曝け出したまま学校生活を送っていたとしたら、私とてお近付きになりたくないと思った事だろう。

 他にも……ツッコミは厳しいし、素直にお礼の一つも言えないし、ちょっと引くくらい和菓子に煩いし、夜更かしして映画鑑賞しているだけで壁ドンしてくるし、朝は朝で布団をかっぱぐという陰湿極まりない嫌がらせをしてくるし、無闇やたらと説教臭いし、高二にもなって結構な邪気眼持ちだし。エトセトラエトセトラ、こうやって本格的に欠点を数え上げればキリがない。

 でも、だけど――そんな、どうしようもなくどうしようもない、私のご主人だけれど。

『俺を信じろ。頼って、任せてみろ』

 信念を宿した双眸が時折垣間見せる、燃えるような情動の眼差しに、醒め切って凍り付いていた心が溶かされるように感じた。

『約束しただろう?俺はお前の傍から居なくなったりはしない』

 鍛え上げられた広く逞しい背中に身を預けると、それだけで言い知れぬ安心感に包まれて、絶えず心を苛む孤独を忘れられた。

『くくくっ、大儀であったぞネコ!』

 満足気な笑顔と一緒に頭を乱暴に掻き回されると、丁重にセットした髪型が崩れる事も気にならないくらい、掌の温もりが心地良かった。ずっと虚ろで空しかった心の隙間が、孤独と疎外感で彩られていた空虚な過去が、掛け替えのない大切な想いで満たされていくような――それは夢のような充実感に溢れた、とても幸福な感覚。

 本当は臆病な上に主体性が無くて、その割に疑り深く、我侭で嘘吐き。そんな、どうしようもなくどうしようもない明智音子という人間の全てを、彼の前では素直に曝け出す事ができた。美濃の名家たる明智の令嬢ではなく、ねねという一人の少女として、現在いまの幸せを噛み締める事ができた。

 ……。

 私こと明智音子は常日頃から、魏の謀士こと賈文和を心の師とし、感情に左右されない冷徹な理性をこそ重んじている。その私がこんな――実体の無い曖昧な感傷に塗れた思考を是としてしまっている時点で、もはや誤魔化しようはないのかもしれない。どれほど欺瞞を重ねてきた大嘘吐きであろうと、自分の心に嘘は吐けないのだから。

 
 そう、きっと。

 
 きっと私は、どうしようもなく――彼に、恋をしているのだろう。


「さてさて君が一体全体いかなる破廉恥な妄想に耽っているのかは好き勝手に想像して楽しむ他無いが、出来ればそういう●●●●顔をするのは独りの時に限った方が良いと忠告させて貰おうかな。可憐な花とは散りゆく瞬間こそ美しいもの……つい襲いたくなってしまっても何ら不思議はないからね」

「え、なにそれこわい」

 最初から言動が(というか全てが、だが)怪しいとは思っていたが、まさかリリーな性癖の持ち主なのか。必要以上に距離を詰めてくる仮面が別の意味で危険性を帯びているように思えてきたので、私は全力で退避した。諦めたのか知らないが、幸いにしてそれ以上追ってくる事はなく、サギはそのままのペースで歩きながら飄々と肩を竦めてみせる。

「やれやれ、一応断っておくが私は同性愛者でもなければ少女趣味でもないよ。勿論愛の形は人それぞれであり世界にはいかなる愛であれ受容されて然るべきだと常々考えてはいるものの、私自身は至って一般的な感性を有する平凡で健全な女子高生だと胸を張って断言出来るね。いいかね、私は普通に男が好きだ。私は男好きなのだよ明智君」

「それはそれで普通に距離置きたくなる発言なんだけど」

「フフフ、まあいいさ。回答は既に貰ったのだからね。私はよく殿から鈍感だの節穴だのKYだのと謂れ無き誹謗中傷を受けるが――幾ら何でもあんな表情を間近で見せられて尚、何も察しないほど愚鈍ではないのだよ。まあ、あまり深く追求するのは野暮というものかな。私は引き際を心得ている佳い女と巷で評判なのだ」

「……お気遣いどうも。意外とまともな配慮が出来るんだね、ちょっとだけ見直したよ」

「で、Aまでは進展したのかね?いやいや同棲しているのだからAとは言わずB……否、もはやそんな生半可な境地を超越したすらも視野に入れねばならないか?ううむ、これは何とも知的好奇心が刺激されて止まないな。悩ましい、悩ましいぞ」

 悩ましいのはその頭蓋の中身だ。無駄に真剣な調子で謎の考察に励んでいるセンパイを丁重にスルーして、私は歩調を速めた。

「……ふむ。未だに出ないとは。まったく何処で何をしているやら。何にしても、私からの着信をガン無視とはいい度胸じゃあないか。どうしてくれようか馬鹿弟子め」

 知的好奇心(笑)を満たす為にしつこく追ってくるかと思ったが、ちらりと振り返ってみれば今度は携帯電話を片手に何やらぶつくさ呟いている。アクションといいリアクションといい“間”が独特に過ぎて、つくづく先の読めない人物だった。

 数秒ほど携帯の液晶に視線を落とした後、おもむろに彼女は顔を上げた。意図せずして、視線と視線が虚空で交錯する。私が自身の失敗を悟った時には、弾むような足取りで再び距離を詰めてられてしまっていた。不覚である。

「やあお待たせして済まないね明智君」

「一ミクロンも待ってないからお構いなくセンパイ。って言うかいい加減黙ってあっち行ってくれないかなぁ。どうせ私は何も答える気ないんだからさ」

「む、それは困るな。それは実に困る。私としては君にどうしても訊いておきたい事項があと一つだけあるのだが」

「はぁ……、じゃあ次がラスト・クエスチョンふしぎ発見!ってコトでよろしく。ちなみに質問によっては断固回答拒否させてもらうからそのつもりで」

 恋だの愛だのとそういったモノは、独り自分の胸の内にしまい込んでおくならともかく、他人から無遠慮に詮索されるのは真っ平御免だった。

 と言う訳で、またしてもデリカシーの欠けた質問が飛んでくるようなら師匠直伝のボッシュート(※ボ、と空気を唸らせながら頭部を粉砕する上段蹴り)を叩き込んでやるつもりでいた私だったが、幸か不幸かその目論見は不発に終わった。サギがこれまでになく真面目な語調で口にした質問は、私の想定していなかった種類のものだった。

「――私が闘う、理由?」

「うむ。君という人間が此度の闘争に身を投じる動機を、私は知りたいのだよ。……これより刃を交える敵手は正真正銘、血に塗れた“裏”の住人だ。陽光の下にて平穏に暮らす一般人とは元来無縁である筈の存在。私と違って暴力の匂いを纏わない君のような少女が、自ら望んでそんな連中との闘争に赴く以上、其処には何かしらの“意志”が在って然るべきだろう?私は、その内実を把握しておきたい。――無論、回答を強要はしないが、叶うならば答えて欲しいと願う所存だ」

「…………」

 ふざけた仮面の所為で相変わらず表情は窺えないが、しかしその声音は疑いなく真剣さに満ちたものだった。ならば彼女にとって、先程の質問は本当に重要な事なのだろう。その雰囲気から蔑ろにしがたい何かを感じ取って、私は思考を改めながら彼女を見遣る。

 この柴田鷺風という風変わりなセンパイとは、余計な雑念を取り払って本気で向き合わなければならない――何故か、そう思ったのだ。

「……理由。理由、か」

 私が、明智音子が闘う理由。己の未熟を悟りつつ、敵の脅威を知りつつ、それでも命懸けの闘争に身を投じる動機。言外に参戦を思い留まらせようとしていたご主人の意に反してでも、私がこうして戦場へと赴かなければならなかった理由。わざわざ胸の内を浚って見出すまでもなく、答えは判り切っていた。

「私には、責任があるから」

「責任?」

「……ランを、追い詰めちゃった責任さ。今の事態を招いた原因の一端を、私は間違いなく担いでるんだ」

 正確には――私の存在そのものが、森谷蘭という少女の精神を掻き乱し、少なからず心の均衡を喪わせた。勿論、彼女が暴走に至った根本的な理由自体は別のところに在るが、しかし私がトリガーの一つとして機能してしまったのは確実だろう。ひたすらに“織田信長の従者で在ること”を精神の拠り所としてきたランは、自身の領域に這入りこんで来た私という存在を、いかに受け止めていたのか。

『主がお気に召したのも理解できる気がします。正直に言わせて貰うと、ちょっと、妬けちゃいます』

 思い返してみれば――初めて出遭った時から、ランの内面は揺らいでいたのかもしれない。私という新たな“手足”がご主人の手足として活躍を重ね、彼との精神的な距離を縮めていくに従って、彼女は自身の存在意義を疑い始め、己が居場所を脅かされる事への不安を募らせていった。だからこそ――ランはあの時、私を殺そうとした●●●●●●●●●●●●●●●のだろう。もしも学長の介入が無ければ、きっと私はあのまま無惨に斬られていた。欠片の容赦も無く叩き付けられた漆黒の殺意は、紛れもない本物だったから。全身を駆け巡った怖気が鮮明に蘇って、私は身震いする。普段の温和な笑顔の名残が掻き消えた冷酷な双眸は、拭い得ぬ恐怖を私の心身に刻み込んでいた。

 それでも。どんなに怖くても、見ない振りをして逃げ出したら、私は二度とランと向き合えなくなる。

「私は責任を取らなくちゃいけない。私という小石が生み出した波紋を、収めなくちゃいけないんだ。ランの為にも、ご主人の為にも、私自身の為にもね」

「ふむ。だがその件については、他ならぬ殿が――」

「うん、それは分かってる。ご主人が私を従者にスカウトしたのは、まさしくその“波紋”を求めた事も理由の一つなんだって。……だけどやっぱりそんなコトは無関係に、私は闘わなきゃいけないと思う。少なくとも私が現れなければ、ご主人とランがこんな最悪の状況で再会するコトだけは無かったんだからさ」

「……贖罪か。成程、それが君の理由、君の“意志”という訳だね。責任感に罪悪感に義務感。ふむ――」

 私の回答にどのような感想を抱いたのか、サギは軽く首を捻って、何事か考え込んでいる様子だった。

 数秒の沈黙を経て再び口を開いた彼女の言葉を遮ったのは、研ぎ澄まされた刃物の如く鋭利な声音。

「――接敵まで僅かだ。ネコ。サギ。お前達は手筈通り、気配を絶ち所定の位置に付け」

 歩みは止める事なく、後ろを振り向く事さえしないまま。一切の感情の色を窺わせない、無機質な語調でご主人が指示を飛ばす。

「サギ。お前の隠行は些か粗末に過ぎる。不用意に距離を詰めれば、彼奴らに気取られよう」

「ふむ、了解したよ。何せ私は殿と違って、慎ましく氣を抑えるという繊細な行為がどうにも苦手で仕方が無いからね。フフフ、“昔”に較べればこれでも格段に抑えが効く様になったのだから寛大な心で勘弁願いたいな」

 特に悪びれた様子もなく飄々と答えると、サギはこちらに向き直った。

「――さて、大変名残惜しくはあるが時間切れならば致し方なし。話の続きはこの面倒極まりない事態が片付いてからにしようではないか明智君。私としては君と語りたい事柄がまだまだまだまだ、それこそ山ほど残っているのだよ」

「はぁ、AだのBだの言わないならお喋りに付き合うくらい構わないけどさ。……んー、それにしても何ていうか、センパイってば、さっきから私に興味津々って感じだよね。何か理由でもあるの?」

 ご主人の口からその存在は知らされていたとは言え、実際にこうして顔を合わせたのは今日が初めての筈だ。かつての従者と現在の従者、という線での繋がりは確かに在るが、こうも激しく興味を抱かれる理由としては些か弱いだろう。彼女の私に対する態度には、間違いなく何かしらの拘りを感じられた。

「ああやはり違和を感じさせてしまったか。我ながら少しばかり積極的に過ぎたと自覚はしていたのだが、なかなか己を抑えるのは難しいものだ。――ふむ、実のところ一言で纏めるのが覚束ない程度に様々な理由があるのだが、敢えて最も相応しい答を挙げるならば、そうだな」

 淡々とした前置きを経て、サギは答を口にする。

 悪趣味な仮面に隠れて表情など窺えないにも関わらず、私には何故か、彼女が微笑んでいるように思えた。


「――君の事が羨ましいから、かもしれないな」












 


 誰かが意識を司るスイッチを押したかのように、前田啓次の覚醒は唐突だった。

「――、オレは……、どうなってんだこりゃァ」

 状況を飲み込めないままに呟きながら、ひとまず啓次は身体を起こした。

 ぼんやりと霧が掛かったような頭を上げて、周囲を見渡す。

「外……?」

 少なくとも昼寝の最中にベッドから転落して目が醒めた――と言う訳ではなさそうだった。啓次の視界に広がるのは薄暗く薄汚れた、狭苦しく陰気な空間。堀之外の街並みを形作る雑居ビルの狭間に細々と点在する路地裏だった。その壁に寄り掛かって、自分は今まで意識を失っていたらしい。現在地を把握した事で、ようやく頭がまともに回転を始め、曖昧にぼやけていた記憶が一気に蘇っていく。

「そうだ……確かオレは」

 森谷蘭。織田信長の従者である少女の尋常ならざる様子を見掛けて、ほんの気紛れで声を掛けて――

 不意に走った鋭い痛みに、啓次は顔を顰めた。そう、思い出してきた。あの瞬間に啓次を襲ったのは、不吉な漆黒に彩られた手刀。備えてもいなかった啓次に身を躱す術がある筈もなく、迫る凶刃がビニール傘を両断して――衝撃、そして暗転。その後の記憶は無い。思えば白昼夢でも見ていた様に奇妙な出来事だったが、啓次の胸板を一文字に走った傷がシャツに鮮血を滲ませ、ズキズキと確かな痛みを訴えている以上、あれは紛れもない現実だったのだろう。

「だがまァ、大した傷じゃねェな」

 特に焦りもなく裂傷の具合を確認して、啓次は軽い口調で一人呟いた。実際、皮膚の表面を軽く切り裂かれただけだ。少々派手に出血があっても、決して慌てるほど深刻な負傷ではない。昔から喧嘩に明け暮れ、大抵の怪我や痛みには耐性のある啓次にとって、こんなものは所詮、掠り傷の範疇だった。適当に包帯巻いてりゃ勝手に治んだろ、と気楽に自己完結して早々に意識から締め出す。


「ったく、しかし何だったんだありゃァ。新手の強盗かァ?」

 雨に打たれる捨て犬のような弱々しさを装って油断を誘い、迂闊に近寄ったところを襲って金品を奪う。なるほど堀之外という無法地帯ではいかにも現実味のある推測だが、しかし冷静に考えてみればそんな筈は無い。下手人の森谷蘭という少女は何の小細工を施す必要もなく、啓次より遥かに強いのだから。例え真正面からの闘いであろうと、武器を用いず啓次を気絶させる事など容易いだろう。

 そんな啓次の推測を証明するかのように、懐をまさぐってみたところ財布とその心許ない中身は健在だった。やはり物盗りではない。それに――意識が途絶える最後の瞬間に垣間見えた、あの少女の悲愴な表情を思えば、己には窺い知れない何かしらの事情がある事は疑いなかった。

 そもそも単なる辻斬りが目的ならば、滅多に人目に付かないこの路地裏まで、気絶した啓次を運ぶ理由がない。もしも意識を失ったまま表通りに放置されていれば、恐らくは身包み剥がされるだけでは済まなかったであろう事を思うと、蘭という少女が己を気遣った事はほぼ間違いないだろう。自分の手で襲っておきながら、同時に被害者の安否を気遣う。一体どのような意図があって、彼女は矛盾した振舞いに及んだのか。

「……ちっ、何考えてんだ。オレにゃ関係ねェだろォがよ」

 元々、碌に話した事もない他人だ。わざわざ気に懸けるのは馬鹿らしい。大体、自分があそこで中途半端な甘っちょろさを発揮してしまったからこそ、あんな災難に遭う羽目になったのだ。襲われた理由を納得したいのならば、次に街中に鉢合わせた時にでも軽く問い詰めてやればいいだけの話ではないか。

「あー、やめだやめ。面倒くせェ」

 ぶんぶんと自慢の金髪を振って無用な思考を頭から追い払うと、啓次は天を見上げた。ビルとビルの合間から覗く切り取られた空は、啓次が気絶する前と同様、真っ黒な暗雲に覆われている。この絶え間なく周囲から響く雨音から判断しても、嵐は依然として続いている様だ。天候の所為で時間経過が計りにくいが、一体どの程度の間、自分は気絶していたのか――啓次は無事だった携帯電話を引っ張り出して、液晶を覗き込み、そして「げっ」という奇声を漏らしつつ盛大に顔を引き攣らせた。

 啓次を狼狽させたのは画面中央に映る時刻表示ではない。意識を失っていた時間はさほどでもなかったらしく、ゲームセンターを出てから未だ一時間と経っていなかった。それは問題ないが――いや紛れもなくそれが原因なので問題がない訳ではないが――兎にも角にも啓次が戦慄の視線を向けるのは、大量の電話着信を知らせるメッセージウィンドウである。憂鬱な気分で携帯を操作し、恐る恐る着信履歴を確認する。案の定、画面を埋め尽くしていたのは一つの名前であった。

「間が悪ィにも程があんだろォがよ……真剣で勘弁しろってんだ」

 いっそこのまま気付かない振りをしてやり過ごしてやろうか、という誘惑が頭を過ぎるものの、所詮それが虚しい現実逃避にしかならない事は心の奥底で既に悟っていた。

 現在の苦難を一時的に逃れたところで、そのツケは近い将来に恐ろしい利息を伴って支払わされる。あの女の辞書に自重の二字が存在しない事は、過去の忌まわしき経験から嫌と言うほど学習済みだった。ならば早々に眼前の現実を受け止める事で、被害を最小限に留める努力をすべきだろう。

 と言う訳で、啓次は盛大に陰鬱な溜息を吐き、数秒ほど決定ボタンの上で指を彷徨わせてから、コールを開始した。

「あー、もしもし?」

『やあ前田少年。私はとても豊かな包容力を持ち合わせた佳い女と評判だからね、申し開きがあるなら聞いてあげようじゃないか』

「いやオレもワザと出なかったワケじゃなくてだな、実はアレだ、通り魔に襲われて電話出れなかっただけで」

『ハッハッハ、火に油を注ぐ作業は楽しいかね前田少年。稚拙な嘘と言うものは吐かれている側の怒りを倍増させる。ワタシがそんな子供騙しの戯言に踊らされるとでも思うか愚物め』

 これ以上なく正直に答えたところ、何故か露骨に声のトーンが低くなっていた。今までの付き合いから判断して、これはかなり危険な兆候である。昂ぶっているというか、荒ぶっているというか、何にせよどう考えても碌な状態ではない。啓次は盛大に冷や汗を流しながら、取り繕うように言葉を続けた。

「まあ過ぎた事をとやかく言っても始まらねェだろ?な?んな事より、オレに何か用事あったんじゃねェのか?」

『ふむ。まあ良い。――そう、君に用がある。ただし生憎と、誰かのお陰で悠長に事情を説明している時間は無くなってしまった。故に余計な解説は飛ばして一言で用件を伝えるとしよう。今すぐ私の所まで来い、前田少年』

「今すぐ?」

『今すぐだ』

「つっても、アンタの居場所が判んねェんだが」

『私の氣を辿って来い。これからすぐに一暴れする予定なので、君のお粗末な探知能力でも位置は特定出来るだろうよ』

「この嵐の中をかよ。なんつーか気ィ進まねェなオイ」

『黙れ殺すぞ』

「…………」

 成程、このらしくもない台詞の直截さと簡潔さ、どうやら相当にお怒りのご様子である。一瞬、電話の向こう側に鬼が見えた。二度と余計な無駄口は叩くまい、と迂闊な自身へと厳重に言い聞かせる。

『まったく嘆かわしい事だ。最近の若者は最低限のルールすら遵守出来ないのかね?先輩が来いと言えば万難を排して疾駆するのが後輩としての責務だろうに。これがゆとり教育の弊害という奴か』

 そんな啓次の様子を知ってか知らずか、電話相手は至って無頓着且つ傍若無人に言葉を続ける。異様に平坦で抑揚の少ない機械じみた声音を聞く限り、少なくとも表面上は普段の調子を取り戻しているようだった。

『それに言っておくがこれは他ならぬ君の為でもあるのだぞ、前田君。何となればあくまでも君の願いを斟酌したが故の差配なのだから。師の有難い配慮に涙を流して感謝感激される覚えはあっても、ついうっかり携帯を握り潰したくなるような不平不満を投げ掛けられる筋合いはないよ』

「俺のためだァ?アンタがか?」

 頭の中で反響させてみればみるほど、それはどこまでも胡散臭い字面だった。

 何せ電話の向こう側にいる己が師匠には、そんな風に心温まる行為が全く以って似合わない。奴隷を弟子と、虐待を修行と履き違えて辞書登録しているとしか思えない天然鬼畜系女子、それが柴田鷺風のパーソナリティである。つい啓次が疑惑に満ちた声を上げてしまったのも無理からぬ事だった。
 
『ふむ。ひとまず君の私に対する認識については後でたっぷりじっくり問い質すとして』

 途轍もなく不吉なセリフをさらりと口にしながら、淡々と言葉を続ける。

『私の粋な計らいを知れば、いかに愚鈍で恩知らずな君とて私を拝み倒したくなること請け合いだ。頓首再拝の準備は済ませたかね?』

「相変わらずオーバーだなアンタ……。オレは仮に一億貰ってもそこまでは感謝しねェぞ」

 といっても、そもそも啓次は金銭に対してさしたる執着が無いのだが。むしろ、この世界には啓次の心を激しく動かすような事物が殆ど存在しない。金も女も娯楽も、啓次の心を満たすものではなかった。幼少の頃から啓次は常に退屈で退屈で退屈で、だからこそ唯一興味を見出せる“闘争”を求めて数多の喧嘩を繰り返してきたのだ。

 故に――そんな啓次が心から誰かに感謝するタイミングがあるとすれば、それは。

『板垣竜兵。聞き覚えある名だろう?』

「っ!?」

『フフフ、愛しの彼とのリベンジマッチの場を設けてやったぞ。さぁさぁ、さぁさぁさぁ、幾ら君が無気力な若者代表であろうとこれで些かばかりのやる気が出たんじゃないかね?前田啓次――未だ眠れる未完の若獅子よ』
















 雨粒と共に恐るべき勢いで天空から落下してくる“それ”に気付いたのは、私と彼女のどちらが先だっただろうか。

 何にせよ、私達の対処は共通して迅速だった。一瞬の躊躇が命取りに繋がる事は、自分達の上空を覆う“氣”の質量の膨大さからして疑う余地が無かったのだ。

「ちっ――!」

 落雷の如き様相を以って降り注いできた破壊のエネルギーに対して、板垣亜巳は素早く右方向へ跳躍する事で回避し、同時に彼女のハイヒールの踵がもたらしていた後頭部への圧力が消失した事で、私は行動の自由を得る。

「うわぁぁぁぁっ!?」

 その瞬間、私は思わず悲鳴を上げながら全力で左方向へと地面を転がっていた。悠長に身体を起こしているような時間の猶予は無かった。死に物狂いの回避行動がぎりぎりのところで功を奏し、辛うじて攻撃の軌跡から逃れる事に成功。唐突に来襲した蒼色の暴力は、顔面から僅か数十センチだけズレた地点へと着弾し、衝撃の余波で私の身体を派手に吹き飛ばした。

「~~っ!」

 ゴロゴロと無様に濡れた路面を転がった後、あちこちが痛みを訴える肉体を酷使し、全身泥だらけになりながら立ち上がった私が目にしたもの。それは大地に穿たれた円錐状のクレーターと、その中心に堂々と仁王立ちしている、見知った人影であった。

「ふむ。ふ~む。うん、こうして見た限り大した怪我は無さそうだね。いやあ無事で良かったよ明智君」

「もう一歩で死ぬトコだったんだけど!私ごと敵を葬ろうっていう犠牲ありきの鬼畜戦術かと思ったんだけど!」

「やれやれ。危機一髪で錯乱しているのか?全く以って何を言っているのか解らないな。君は死なないぞ、私が護るもの」

「キミに殺されかけたんだってば!」

 相変わらず、頭痛を覚えずにはいられない会話の噛み合わなさである。絶体絶命の危機を救われたのは事実だが、しかしもう少しマシな救出法は採用出来なかったのだろうか。傍迷惑な助力ついでに場の雰囲気を一瞬で粉砕してくれた理不尽なセンパイに、私は思わず溜息を吐いた。

「……で、センパイ。さっきから気になってたんだけど……何なのさ、その奇妙奇天烈なイロモノ武器は」

 理不尽と言えば、まずはそこに突っ込まざるを得なかった。クレーターの中心に突き刺さった彼女の得物はなんというか、色々とツッコミ所に満ち溢れている。

「フフフ。やはりこいつに着目したか、然もありなん然もありなん。例え矢尽き刀折れようとも、ひとたび受けた質問には極力答えて差し上げるのが私の流儀――勿論教授して進ぜようではないか」

 よほど触れて欲しかったポイントなのか、サギは意気揚々と自前の得物を虚空に掲げてみせる。そうする事で、私はこの珍妙極まりない武装の全体像をより詳細に把握する事が出来た。一目で様々なギミックが仕込まれていると判る、重量感に溢れた大槍。

 尤も、一応は大槍と形容してはみたが、その形状は武士が用いた和槍ではなく、ヨーロッパにおける騎兵の武器として有名な“ランス”のそれに近い。細長い円錐という独特の形状に、ヴァンプレイトと呼ばれる笠状の特殊な鍔。馬上での使用を前提とした、全長ニメートルを超える暗灰色の鋼塊は、ただそれだけで圧倒的な威圧感を有しているが――殊更に異様なのは、全体に渡って双龍が交差するように絡み付く螺旋状の刃と、その内部にて轟々と獰猛な唸りを上げるエンジン音であった。

 私の脳内に蓄えられた語彙の中で、ソレを端的に形容するならば、相応しい表現は一つしか思い付かない。

――すなわち、ドリル。

 完膚なきまでに、これ以上ない程どうしようもなく、それはどこまでいってもドリルでしかなかった。

「唸れ唸れ剛壮なる我が愛槍・羅閃ラセン!フフフ、魂魄を載せた一撃は天元を突破し、いかなる頑強な障壁もただ撃ち貫くのみ。全ては偉大なる愛の名の下に――ん?うむ、うむうむ。判るよ明智君、心揺さぶられるあまり言葉が見つからないのだろう?何せ永遠不滅の浪漫が目の前に顕現しているのだからね。そんな風に感動に満ちた熱視線を送りたくなる気持ちは我が事のように理解出来るとも」

「いや別に全然」

「何を隠そう私には機械弄りが大層得意な大親友が居てね、こいつはオーダーメイドの特注品なのだよ。西日本在住という事で顔を合わせる機会は無いだろうが、思えば彼女は何処となく君と似ているかもしれないな。ああ、ちなみに“羅閃”は私の命名した魂の愛称であり、こいつの正式名称は螺旋槍と言う。所有者の氣を流し込む事で起動し、更には螺旋力――もとい所有者の気合に比例して出力が上昇するという私得仕様を搭載した素敵過ぎる逸品だ。どうだ話を聞いているだけでワクワクしては来ないかね?でも駄目だ、これはあげないぞ」

「いらないよ」

 得意気に言いながらこちらに見せびらかすかのように螺旋槍とやらを掲げ、エンジン音と共にドリル部分をギュンギュン回転させる。仮面の向こう側ではこれ以上無く見事なドヤ顔を浮かべている事だろう。総じてとんでもない鬱陶しさだった。状況が状況でなければ、問答無用で蹴りを叩き込んで黙らせていたに違いない。これはご主人が愚痴を零したくなるのも無理はないな――と納得していた、その時。

「……何で、アンタが助太刀に来られる?まさか、“起きてる”状態の辰を倒してきたってのかい?」

 唐突極まりないサギの出現以降、注意深くこちらとの距離を保って様子見に徹していた板垣亜巳が、僅かな緊張を湛えながら口を開いた。それは――私も気に掛かっていた疑問である。亜巳の問い掛けに対し、サギはやれやれとばかりに肩を竦めてみせた。

「私としては是非ともそう在りたかったのだがね。戦闘中に偶々少女虐待の現場が視界に入ったもので、すわ一大事とばかりに大至急駆け付けただけだよ。何せタッツーの戦闘力は真剣で規格外だ。一応の足止めはしておいたが、それもいつまで保つか――」

 言葉の途中で特大の危険を察知し、サギと私は同時にその場を跳び退いた。

 直後、空気をぶち抜くような音響と巨大な破砕音が重なって響き渡る。一瞬前まで私達が立っていた地点……凄まじい破壊の力で深く穿たれた路面の中心には、根元から引き抜かれたと思しき電柱が、丸ごと斜めに突き刺さっていた。その非常識な光景が意味する事は一つ。“彼女”は、総重量二トンにも及ぶコンクリート柱を、あたかも投げ槍でも扱うかのような気軽さで投擲してきたのだ。

「……ッ!」

 悪夢か冗談の類としか思えない現実を眼前にして背筋を冷やした時、その存在はゆっくりと嵐の中に姿を現した。世界を震撼させるような途轍もない暴威を全身から無造作に垂れ流しつつ、一歩ごとに大地を踏み砕くような足取りで迫り来る。見開かれた瞳は爛々と輝き、明確な破壊の意志を宿してこちらを睥睨していた。

 ただ其処に居るだけで問答無用で身体が大地に縫い付けられるような、およそ人間のものとは思えない“存在の圧力”は――さながら、人の形を取った龍のそれだ。無差別に、無慈悲に破壊を振り撒く、災厄の権化。


――これが、板垣辰子。全ての枷から解き放たれた、板垣最強の怪物。


 駄目だ。これは駄目だ。これは――あまりにも、レベルが、違う。

 マルギッテ・エーベルバッハや板垣亜巳といった格上の強者を相手にした時ですら覚えなかった、どうしようもなく絶対的な絶望感が私の心を覆っていた。これは、初めて“織田信長”と遭遇した時に覚えた感覚と同じモノだ。いかなる小細工も、純粋で圧倒的な力の前では意味を為さない。いかに力を尽くして足掻いたところで、勝利に至るビジョンがまるで見出せない。ましてや、絶好の機会を二度も手中に置きながら板垣亜巳を討つ事すら叶わなかった私が、この化物を相手に何を為せると言うのか。

『ハナっから場違いなんだよ、アンタは』

 決定的な侮蔑に満ちた言葉に対しても、何一つとして反論が叶わなかった私如きに、一体何が出来る?

 足りない。力も覚悟も、何もかもが足りなかった。

 自身の無力が、どこまでも腹立たしい。惰弱で脆弱な己への失望と怒りで震える肩に、不意にサギの手が置かれた。

「ふむ。こうなれば選択肢は一つ――即ちこの場は私が引き受けるとしようか。と言う訳で君は速やかに殿の後を追いたまえ、明智君」

 何でもないように淡々と紡がれた言葉の意味を理解し損ねて、私は一瞬、呆然と立ち尽くした。

「む、言葉の意味が伝わらなかったのかね?ならば致し方なし、少年漫画風に言い直すとしよう。ここは私に任せて先に行け!とね。ふむ、この言い回しからはどう工夫したところで死亡フラグの香りが漂うが、まあしかしそんな曖昧な代物は強靭・無敵・最強の我が羅閃にて粉々に打ち砕いてやれば済む話だ」

「何を……、今は冗談言ってる状況じゃないでしょ?それとも、まさかセンパイ一人でこの二人を相手に出来るとでも――」

「“意志”とは即ち“エネルギー”である。果たして何時からだったかな、私がそんな信念を抱くようになったのは」

 私の声が端から耳に届いていないかのように、サギはおもむろに謳うような調子で言葉を紡いだ。

「マイナスの意志はマイナスのエネルギーに。プラスの意志はプラスのエネルギーに変ずる。オカルトと決め付けて掛かる輩も居るが、それは大いなる誤りなのだよ。故に悲哀や絶望の念は容易く人の力を喪わせるが、逆に数多のプラスを内包した意志は、無限の力を生み出す源泉と成り得るのだ。なればこそ、人はいついかなる時であれ、前を見据えて歩まなければならない。未来の希望を信じて闘わなければならない」

 淡々と呟きながら、サギは螺旋槍を虚空に翳す。

 その切っ先の向かう先には、板垣辰子の姿が在った。人の身で立ち向かうにはあまりにも絶望的な威圧感を引き連れて、彼女は徐々に距離を詰めてくる。否応無く緊迫に張り詰めていく空気の中、ギュルン、とエンジンが唸りを上げて、螺旋の刃が猛烈な勢いで回転を開始した。

「上から目線で偉そうな事を言ってしまって誠に済まないが、君の掲げた“理由”は相応しくないのだよ。命を懸けた闘争に身を投じるには相応しくない。人が己を顧みず闘うに相応しい理由が在るとするならば――それは愛の為に他ならないのだから。分かるだろう?愛は人を救うし、愛は世界を救う。誰かを想い慈しみ愛する心は、果て無きプラスのエネルギーへと変ずるが故に。そしてプラスのエネルギーは即ち前進の力。行く手に立ち塞がる総てを貫き徹し、望んだ明日をその手に掴まんとする力――!」

 これまで一貫して平坦な調子を崩さなかったサギの無感情な声音が、徐々に熱を帯びていくのが分かった。その内なる精神の昂ぶりに比例するように、螺旋槍の回転の速度が高まっていく。

 一方で、身体から溢れ出た蒼碧の氣が螺旋を描いて刃へと纏わり付いていた。際限なく勢力を増すエンジン音と共に、激しい蒼の光芒が周囲を満たしていく。


「辰!警戒しなッ!」


 何処までも膨れ上がる“氣”に危険を感じ取ったのか、亜巳は顔に焦りの色を滲ませながら語気鋭く警告を発する。その直後、


「螺旋の回転が織り成す無双の突進力、一身にて受け止めてみせるがいいッ!」


 目を灼くような爆発的な閃光を帯びて、螺旋槍が空間を穿ち貫いた。


「――――――!!」


 槍の切っ先より放出された莫大な“氣”は、巨大な螺旋を形作りながら蒼色の波濤と化し、瞬く間に辰子の姿を呑み込み――それでも止まる事無く、行く手に在る全てを無差別に巻き込みながら直進する。

 荒々しく渦を巻く氣の嵐に接触したアスファルトの路面が、信号機が、ガードレールが、鋼鉄製の自動車ですらも、削岩機が触れたかのように次々と抉り取られていった。

 数秒の後、数十メートルに渡る長大な破壊の爪痕を残して漸く、氣の波濤は消失する。


「…………」


 もはや絶句する他無かった。凄まじいまでの超大規模破壊。これ程までに出鱈目な威力を有する外気功を、私は他に知らない。

 破壊の痕から濛々と立ち込める土煙を呆然と眺めていた私に、身体の芯を穿つような鋭い叫びが投げ掛けられた。


「――さあ往け、明智音子!手前の誇るべき戦場は此処には無い!織田信長の従者を名乗るならば――見事、己が愛を貫いてみせろッ!!」


「……っ」

 
 それが何故なのかは、分からない。

 
 分からないが――気付いた時には、弾かれたように、脚が地面を蹴っていた。尤もらしい理屈に言い包められた訳ではなく、サギという女が思いがけず発した怒涛の如き激情が、目に見えない大きなエネルギーと変じて強烈に私の背中を押したような感覚。

 胸中より込み上げる衝動に突き動かされるようにして、私は前のめりに嵐の中へと駆け出していた。板垣亜巳が咄嗟に繰り出した六尺棒の一撃を掻い潜り、舞い上がる粉塵の中を突っ切って、脇目も振らず疾駆する。


「殿を――信長●●を、頼んだよ」


 背後から静かに響いた呟きは、果たして空耳や幻聴の類だったのか。

 判ずる術も無いままに、しかし私の肉体はそれが最善の選択だと確信しているかのような我武者羅な速度を以って、“彼”の元へとひた走る。

 
 小難しい理屈ではなく。小賢しい計算ではなく。

 
 彼に惹かれ始めたその日から、心の内にて静かに燃え続けてきたこの想いを貫き通す。きっと、ただそれだけのために。


















 

 近年では例を見ない程の猛りに満ちた現在の板垣竜兵にとって、名すら知らぬ眼前の少年の存在は、“蝿”だった。

 餌として喰らう価値も見出せない非力な雑魚の分際で、鬱陶しく飛び回って己を煩わせる。普段の竜兵ならばさほど気に留める事も無く、強者の余裕を見せ付けながら破壊衝動の捌け口にするだけの話。叩き潰した時の爽快感さえあれば、笑って許せるような存在だ。

 しかし、今は。一秒が過ぎ去る度に至上の雄が遠ざかっていく現状においては――しぶとく立ち回って己に無為な時間を費やさせる羽虫は、煮え滾るような憎悪の対象ですらあった。

「オォラアアアッ!!」

 だが、そんな苛立ちもこれで遂に終わる。自身の拳が一撃の下に少年の顔面を粉砕する未来を確信し、竜兵が心中にて歓喜の咆哮を上げた瞬間――不意に、予期せぬ衝撃が右肩を打った。

 反射的に視線を向ければ、何者かが投擲したであろう拳大の石が、地面へと落下していく。それは竜兵の頑強な肉体に有効打を与える程では無かったが、振り抜いた拳の軌道を、標的たる少年の顔面から僅かにズラすには十分な衝撃だった。結果、必殺を期した一撃は空を切り、その間に少年は脚をふらつかせながらも素早く竜兵から距離を取る。

 ――またしても、仕留め損なったのだ。

「あー、パッと見ヤバそうだったもんでつい手ェ出しちまったが、ひょっとして余計な世話だったか?ガチのタイマンを邪魔しちまったってんなら謝るぜ」

 石礫で竜兵を妨害した男は、若干気まずそうな表情で口を開いた。

 野放図に広がった金色の長髪と引き締まった体躯は、竜兵にとって見覚えのあるものだった。数週間前の闘争にて拳を交えた無名の男――確か名は、前田啓次。思いがけない乱入者の出現に動きを止める竜兵達を見遣って、啓次は言葉を続けた。

「何せオレはコトの経緯なんざなにも聞かされちゃいねェ。どういう事情があってアンタらが今ここで闘り合ってんのか、オレは知らねェ。つーかぶっちゃけ興味もねェんだがな。だからよォ、取り敢えずだ、そっちのボロボロのアンタに一つだけ訊いとくぜ」

 啓次がボリボリと頭を掻きながら無造作に語り掛ける先には、額から血を流す少年の姿があった。

「この喧嘩、オレが引き受けて構わねェか?オレはな、そこのいけ好かねェクソ野郎に用があんだよ。どうせアンタ、そのザマじゃしばらくは闘えねェんだろ?結構危ねェぞ、そのケガ。痩せ我慢せずに休んどくべきだろうよ」

「……」

 少年は無言のまま、相手の意図を探るように慎重な目で啓次を見遣った。

 是とも否とも返さない態度を前に、しかし啓次はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

「沈黙は了解と受け取ったぜ。取り消しは効かねェ。ま、つーか最初から止まる気なんざねェんだがな」

 一方的に言いながら、啓次は遠慮も躊躇も無い足取りで少年の傍へと歩み寄ると、おもむろにその肩を軽く押した。ただそれだけの動作で、少年はバランスを崩し、呻き声を上げて地面に膝を着く。

「ほら見ろ。やっぱ限界なんじゃねェか」

 呆れた様に言って、啓次は少年と立ち位置を入れ替える形で竜兵と対峙した。

 貪欲な戦意を全身に湛え、溢れ出る闘争本能を隠す気も無いその様子は、織田信長との闘争を切望する板垣竜兵の姿と似通っている。似通っているが故に――竜兵の怒りを煽り立てた。

「さァて、あの日の続きと行こうじゃねェか板垣竜兵。まずはてめェをぶっ倒さねェ事には、信長の野郎には永遠に届かねェからなァ!」

 其処に加えて、啓次が不意に口にした名前は、竜兵の冷静さを消失させるには十分なものだった。憤怒に血走った目が獣の眼光を孕み、凄絶な猛気に満ちた咆哮が響き渡る。

「――貴様如きが気安くシンの名前を口にしてんじゃねえぞゴミカスがッ!!あいつは俺の、俺だけの運命だッ!」

「なんだ、てめェもあの野郎と闘いてェのかよ?だったらハナシは簡単じゃねェか。オレとてめェで闘り合って、最後に立ってた一人だけが信長に挑める。そういう事だろ?分かり易くていいねェ、ケンカっつーのはやっぱシンプルが一番だぜ」

 空気を震撼させる竜兵の怒号に対し、啓次は怯んだ様子すら見せずヘラヘラと笑う。余裕すら漂わせた態度に、残された僅かな忍耐力が完全に消し飛んだ。もはや言葉を発する事すらなく、竜兵は獣じみた咆哮と共に巨躯を躍らせ、眼前の男へと殴り掛かった。

 拳に載せるのは純粋なる暴虐の意志のみ。普段の如く、闘いを愉しむ気など欠片も無かった。

 所詮、この前田啓次という男も、あの“蝿”と変わらない。前回の闘争においては小手先の技術で多少食い下がってきたものの、そんなものは結局のところ、全ては“格下”であるが故の虚しい抵抗に過ぎない。弱者が強者を前にいかに足掻いた所で、絶対的な力量の差は決して覆せないのだから。

 故に、絶対強者たる竜兵の為すべきは一つ。鬱陶しく飛び回る羽虫を叩き潰すように、圧倒的な力を以って一息に終わらせる事だけだ。前回のように闘争の愉悦に任せて遊んだりはせず、手加減抜きの全力を叩き付ける。

 ただそれだけで、まず間違いなくカタは付く――その筈だった。

「がはっ――!?」

 気付いた時には、頬に拳がめり込んで●●●●●いた。

 強烈な衝撃が顔面を突き抜け、口内にて歯がへし折れる。込み上げる激痛を信じられないような思いで噛み締めながら、竜兵はたたらを踏んだ。

 クロス・カウンター――それはまさしく、前回の闘争にて前田啓次が披露した“小細工”の再現だった。ストレートにストレートを合わせ、多大なリスクと引き換えに最高火力を叩き出す戦闘技術。

「て、めえ……、何を、俺に何をしやがったァッ!?」

 だが、“そんな事”は有り得ない。有ってはならないのだ。

 板垣竜兵の誇る全力の剛拳は、ありとあらゆる技術を力尽くで粉砕する。格下の羽虫程度が、竜兵のストレートに対処出来る筈が――ましてや攻撃に乗じてカウンターを決めるような余裕がある筈など無い。

 口内に溜まった血と折れた歯を纏めて荒々しく吐き出しながら、竜兵は血走った目で敵手を睨み据えた。小刻みにファイティングステップを踏みながら、啓次は怪訝そうに眉を顰める。

「何してんだ、はこっちのセリフだぜ。そんな腰の入ってねェフラフラしたパンチでオレと闘ろうってのは、流石に無謀を通り越して自殺行為だろうがよ。こちとら元ボクサー、パンチングの専門家だぜ。さっきのパンチ程度なら腐るほど捌いてきたんだよ。さっさと本気で来やがれ、オレを舐めんじゃねェぞクソ野郎」

「……な、に?」

「ん?手ェ抜いてたワケじゃねェのか?っつー事は、だ……」

 啓次の目が光り、注意深く検分するように竜兵の全身を観察する。数秒の空白を経て――呆れと感心が入り混じったような、微妙な表情が面に浮かんだ。

「は、なるほどな、道理で妙に芯が入ってねェと思ったぜ。てめェ、随分といいパンチ貰ってんじゃねェか」

「貴様、何を言ってやがる……!」

「あァ?鼓膜イッちまってんのか?顎に一発、綺麗なのを喰らっただろ、って言ってんだよ。てめェじゃ気付いちゃいねェのかも知れねェが、アタマへのダメージってのは思ったよか響くもんだぜ?真っ直ぐにパンチも打てなくなる●●●●●●●●●●●●●●●くらいになァ」

「……っ!!」

 まさか。

 届いていた――と、言うのか。

 己に供せられるべき糧に過ぎない“弱者”の拳が、強者たるこの身を揺るがしたと言うのか。

 竜兵は眼を見開いて、己が“蝿”と断じた少年に視線を向けた。力なく大地に片膝を付き、辛うじて意識を保っているような状態でありながら――その双眸だけは、未だ力を失っていなかった。

 額から流れ落ちる鮮血の間から、強固な意志を宿した瞳が竜兵を見据えている。絶対にお前には屈しないと、無言の内に宣戦するかのように。

「手負いだからフェアじゃねェ、なんてヌルい事は言わねェよなァ。ケンカにルールなんざねェんだからよ。まァ、どうしてもってんなら手加減してやってもいいんだぜ?」

「――雑魚の分際で俺を見下してんじゃねぇぇえ!この程度で俺が斃れるかよっ、俺は、この俺がシン以外のオスに劣るなんざ、ある筈がねぇんだッ!!」

 強者の誇りを踏み躙られた屈辱に猛り狂いながら、竜兵は己の肉体を叱咤するかのように、轟音と共に足元の大地を踏み砕いた。

 勝つ。勝って勝って勝って勝ち続けて、敗者を喰らう。十七年の人生を、そうやって生きてきた。そんな生き方に、疑問など欠片も無かった。闇の中を棲家とする以上、弱肉強食こそが絶対の摂理だった。己を護るのは己の力のみ。それが叶わないなら、惨めたらしく喰われるのは当然だ。

 自分は間違っていない。間違ってなどいる筈が無い。

 板垣竜兵は“強者”だ。弱者を嬲り、喰らう側の存在なのだ。絶対に、そうでなくてはならない。


「く、くく、ハハハハハァッ!!」


 全身を焼き尽くす様なありとあらゆる激情の末に――竜兵は、笑った。
 
 そう、笑顔こそが強者の証であり、捕食者に相応しい表情だ。ならば笑わなければならない。いつもの如く高らかに哄笑しながら、愉悦の内に弱者の骨肉を噛み砕こう。

 頬の筋肉が引き攣り、額の血管が浮き出、だらだらと口から赤黒い血が流れ落ちても尚、欠けた歯を剥き出しに板垣竜兵は笑う。


「――全てだ!俺の邪魔をしやがるクソどもはどいつもこいつもッ!何もかも全て、喰い散らかしてやるぞッ!!」


 吹き荒ぶ嵐の中、凄絶な面貌を天へと向けて、獣の王が狂気の咆哮を轟かせた。















「まさか、シンがこんな切り札を隠し持ってたとはねェ。流石のマロードもこいつは想定外だろうさ」

 自身の眼前に広がる惨憺たる光景……一直線に破壊し尽くされた街並と、一撃の下にそれを成し遂げた武人の双方を見遣りながら、亜巳は内心の驚愕を押し殺す事に苦慮していた。

 冗談抜きに地形を変えてしまう程の外気功。それもここまで突き抜けた大破壊となると、二年前の闘争にて信長が放った、かの戦慄すべき恐怖の一撃の他には、およそ匹敵するものが思い浮かばない。

「まったく、とんだイレギュラーが出てきたもんだよ。だが――」

 独特な形状の大槍を虚空へと突き出したままの体勢で硬直し、僅かな動きも見せない女の姿に、亜巳は唇を吊り上げた。

「あれだけの瞬間火力を得る為には、代償として相応のコストを支払う必要がある。高威力の技は代わりに燃費が悪いと相場が決まってるのさ。さあて、さっきの一撃で、オマエはどれくらいの氣を消耗したのかねェ?一割?三割?それとも……フフ、既にすっからかんだったりするんじゃないのかい?」

「…………」

「何やら恰好付けて威勢の良い啖呵を切ってたみたいだけどねェ……残念ながらここでゲームオーバーさ。ほら、感覚を研ぎ澄ませてみなよ。とびきりの絶望ってヤツを味わえるだろうさ」

 仮面女が作り出した破壊痕から生じ、周囲一帯を覆い隠していた大量の粉塵が、突如生じた轟風によって一瞬にして吹き払われる。そして、その中からゆらりと姿を現したのは、先程の一撃にて破壊の奔流に呑み込まれた筈の板垣家次女、板垣辰子。

 身に纏っていた衣服は総じて見るも無惨なボロ布と化していたが――その破けた衣の隙間から覗く素肌は、掠り傷一つすら負ってはいなかった。あれほどの破壊のエネルギーに巻き込まれながらにして、完全な無傷。

「まったく。いくら効かないとは言っても、モロに直撃食らってどうするんだい。師匠に知られたらどやされるよ、辰」

 第三者が観れば間違いなく驚嘆に値するであろう事実に対し、亜巳の胸に驚きは無い。

 亜巳にとって、板垣辰子という妹は最初から“そういう存在”なのだ。生まれ持った規格外の“氣”によって保護される辰子の肉体硬度は、鋼鉄の鎧をも遥かに凌駕する。心得として多少の警戒はあっても、心底からの心配など元より不要なのだ。住まう次元の異なる存在を、自分達の矮小な物差しで測ってどうなると言うのか。

 天を衝くような氣を立ち昇らせ、悠然と歩を進める辰子から視線を外し、亜巳は眼前の敵手に嗜虐的な笑みを向けた。

「ご覧の通りさ。アンタ如きが全力を費やしたところで、辰にキズ一つ付けられやしない。愛がどうのなんて甘っちょろい信念は、残酷な現実の前じゃクソみたいなもんなのさ。フフ、そのダサい仮面の所為で顔を拝めないのが残念だよ。絶望に歪んだ表情はさぞかし――」

「ヒトという生き物は個人差こそあれど、誰もが多かれ少なかれ二面性を有しているものだ。そしてごく稀に、その二面がそれぞれ独立した個性として分離してしまうケースが存在する。タッツー然り、ラン君然りだ。そうした性質の持ち主達は、己の中にナニカを“飼っている”と形容するのが相応しい。私は常々そう考えてきた」

 嬲るような亜巳の台詞を完全に無視する形で、仮面女は唐突に沈黙を破り、謎の独白を始めた。或いは初めから亜巳の話など聞いてすらいないのかもしれなかった。ゆっくりと迫り来る辰子の存在に気を留める様子もなく、彼女はぶつぶつと呟いている。

 そんな傍目にも只ならぬ様子に、亜巳は言い知れぬ違和感を抱いていた。こいつは……何かがおかしい、と。

「うむ、そう、あれは確か二年前の事だな。戦場にて板垣辰子という武人と初めて語り合った時、私は大いに感銘を受けたものだ。まさしく目が醒める様な思いを味わったよ。タッツーは普段、自身の意識に制限を掛ける事で、制御出来ない己が一面……内に棲まう“龍”を自身の深奥へと完全に封じ込める事に成功している。それは、当時の私にとって目から鱗だった。己の気性を抑え付けるに際し、そんな手段が存在するとは想像すらしていなかったのだからね。己がいかに未熟であったか痛いほど思い知らされた一戦だったと言えよう。だが同時に私は、大いなる一歩を進んだのだ。あの闘いを経て、私は遂に私の中の“鬼”を寝かしつける方法を学習した」

「……?」

 そこで、亜巳は己が覚えた違和感の正体に気付いた。

 仮面女が身に纏っている氣が、徐々にその性質を変化させている。蒼天を連想させる青の中に――女の身体よりじわりと湧き出してきた不吉なドス黒い赤色の氣が混じり、くすんだ滅紫の色彩を新たに生み出していく。少しずつ青と赤の融合が進むにつれて、不気味な禍々しさを孕んだ空気が場を満たしてゆく。

「簡単な話だったのだよ。無益な思考を止めれば、ただそれで良かった。複雑な思慮は無用だったのだ。私が己を無理矢理に抑圧する事無く、心の底から望む事を望む様に振舞っていれば、それだけで奴は満足して眠っていてくれるのだから。生れてこの方、私と周囲を散々に振り回し続けてきた厄介者も、もはや敢えて私が起こそうとしなければ滅多な事では起きやしない。全く随分と大人しくなってくれたものだ。しかし誠に遺憾極まりない事ながら、どうやら再び出番が訪れてしまった模様だがね」

 今となっては、女の放っていた元来の氣――清浄な蒼色は何処にも見受けられなかった。身体を覆い尽くした紫色の氣は留まる事無くその勢力を増し、尚も次から次へと溢れ出す。先程の外気功にて大量の氣を消耗した筈であるにも関わらず、惜し気もなく垂れ流されるオーラはまるで尽きる様子を見せない。

 やがて、絶え間なく吹き上がる気迫に押されるように暗灰色の長髪が浮き上がり、天へと逆立ち始めた。次いで、ぴしり、という微かな音を響かせながら、顔面を覆う仮面に一筋の亀裂が入る。

「今の私はあくまで客将。本来、ここまで深く手を貸す予定は無かったのだが……まあこれは親愛なる殿のみならず可愛い後輩の“愛”を護る為でもある。お得意様限定、出血大サービスという事にしておこうじゃないか。フフフ、一体全体誰が出血するのかは、蓋を開けてのお楽しみだがね」

 内側から溢れ出る氣を抑えられなくなったのか、遂に仮面の全体に無数の罅割れが走り――完全に砕け散った。

 ぱらぱらと破片が地に落ちて、その内側に秘されていた素顔を外気に晒す。


「愛・戦士ことサギ仮面の血湧き肉踊る大冒険活劇はこれまで。これより先は、このワタシ――」


 際限なく噴出する主の氣に呼応するかのように、その手に握られた得物が不吉な唸りを上げて鳴動する。

 先程までの茫洋とした雰囲気は欠片も残さず掻き消え、入れ替わるようにして面に顕れるのは、兇暴な闘志に満ちた悪鬼の相。

 滾る戦意に暗い灰色の双眸を炯々と光らせ、抑え切れない愉悦の念に口元を大きく歪ませて、女は哂った。


「かつて織田信長と死線を踊った、“鬼柴田”が相手となってやる。――くれぐれも、此処を抜けるなぞと戯けた夢を見るなよ?匹夫ども」





 





 第七死合・前田啓次 対 板垣竜兵。

 
 第八死合・柴田鷺風 対 板垣辰子、板垣亜巳。


 
 堀之外合戦――続幕。





















 

 
 




 最後まで主人公がほぼ影も形も見えないという妙な回でした。後編ではちゃんと出ますのでご安心ください。
 サギご自慢の武装についていまいちイメージし辛い方は、三国無双6のスネークもとい鄧艾の武器を見れば一発でピンと来るかと思います。見事なまでにロマンです。
 それと辻堂さんに関してですが、皆様の意見を参照する限り、どうやら急いでプレイする必要も無さそうなので、取り敢えずしばらく保留にしておこうと思います。情報提供頂き誠にありがとうございました。それでは、次回の更新で。



[13860] バーニング・ラヴ、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:33079cb2
Date: 2012/12/16 22:10
「――は?リュウ、オマエ……、本気で言ってんのか?」


 何の予兆も前触れもなく、あまりにも唐突に訪れた現実。それは天使にとってまさしく、晴天の霹靂であった。

 ――事の発端は、十数分ほど前。先週の土曜日に稼動した新作格闘ゲームにおいて何とか兄貴分の信長に一泡吹かせてやる事を目標に掲げ、真昼間から堀之外のゲームセンターに入り浸って腕を磨いていた天使は、兄の竜兵からメールで突然の呼び出しを受ける。気付けば派手に荒れ始めていた悪天候に辟易としながら家に戻れば、狭い居間には既に一家全員が揃っていた。竜兵と、二人の姉。そして、一体何事なのかと首を傾げて訝しむ天使に向かって竜兵が嬉々とした語調で告げた内容は、天使が欠片も想像していなかったものだった。

 曰く。マロードの情報によれば信長の片腕、森谷蘭は現在、まともな戦力としては使い物にならない状態らしく、常と較べて遥かに捕捉が容易である事。支配者としての立場や矜持を考えれば、一の臣下として名高い蘭を餌として用いる事で、まず間違いなく信長自らが動くであろう事。マロードの暗躍によって、現在に限り独軍という強大な戦力を利用できる事。それらの諸要素を考慮すれば――この堀之外に君臨する魔王・織田信長を完全に排斥する機は今を置いて他にないと、マロードが決断を下した事。

 昂揚と陶酔で頬を染めながら語る竜兵とは逆に、天使の表情は話が進むにつれて険しくなっていった。頭を働かせるのが人並み以上に苦手な天使ではあったが、それでも竜兵の言葉が意味するところは理解できる。マロードのプランが現実のものとなった時、どのような事態が訪れるのか――想像するのは容易だった。

「んな事したら、シンはゼッテーにウチらを許さねーぞ。今度こそゲームじゃ済まねー、真剣で殺し合いになっちまうじゃねーか!」

「良く分かってるじゃねぇか。そうだ、今までみてぇなヌルい喧嘩とはワケが違う、正真正銘、命懸けの戦争の始まりだ!ようやく、ようやくシンと俺たち板垣が雌雄を決する時が来た……!くくく、今日は最高の日だなぁ!オマエもそう思うだろう、天!」

「――っ」

 心の底から嬉しそうな笑顔で同意を求める竜兵に、天使は絶句する他なかった。悪夢じみた現実を前に、思考が真っ白になって、まともに頭が働かない。この状況で自分がどう振舞えばいいのか、まるで判らなかった。呆然とその場に座り込んでいる天使をちらりと見遣って、亜巳が落ち着いた態度で口を開く。

「なるほどねェ。マロードにしてみりゃ、今こそ最初で最後の絶好のチャンス、って訳か。で、リュウ。そのマロードの作戦の中で、アタシらは一体何をすればいいんだい?」

「くく、言うまでもないぜ亜巳姉ぇ。シンと踊るのが俺達以外の有象無象であっていいワケがねぇんだからな」

「つまり主人から離れて暴走してる従者をとっ捕まえて、出張ってきたシンとヤり合う――それがアタシらの役目か。ふぅん……それならリュウ、折角だしアンタの部下も有効活用すべきじゃないのかい?」

「アイツらをかぁ?だけどよアミ姉ぇ、あのザコどもじゃあシンの前に立ってる事も出来ねぇと思うぜ」

「最初から戦力として期待しちゃいないさ。ただ、頭数は多い方が人目を惹くだろう?餌ってのは目立つ方が大魚を釣り上げ易いからねェ」

「ああ、確かにそりゃ名案だ。くく、アイツらも溜まってるだろうからな、偶には褒美をくれてやるか。善は急げだ、俺はさっそく召集を掛けてくるぜ。また連絡を入れるから、それまでにアミ姉ぇ達は適当に準備しといてくれよ」

 言うや否や、竜兵は上機嫌に鼻歌を歌いながら弾むような足取りで居間から去っていった。

 その場に残された三人は、食事時に毎度勃発する兄妹喧嘩の所為で傷が縦横に走る食卓を囲んで座り、そのまましばらく思い思いに沈黙していたが、やがて亜巳が静かに口火を切る。

「やれやれだねェ。前々からいつかこうなるとは思っちゃいたが、こうも話が唐突だと流石のアタシも驚きだよ。アンタはどうなんだい、天?」

「……ウチは」

「……。……ったく、何て顔してるんだい。アタシらがシンとやり合うなんざ、何も今に始まった事じゃあないってのに」

 苦笑しながら軽い調子で言う亜巳に、天使は思わず睨むような目を向けて、込み上げる激情のままに叫んでいた。

「だからって、今度の“これ”はゼンゼン話が別だろっ!マロードの言う通りにしちまったら、もう二度と取り返しがつかねーんだ!シンか、ウチらか、どう転んでもどっちかが死んじまうんだぞ!?だってのになんで、そんな風に――いまさら“決着”なんて付けずに、今までみたいにやっていけばいいじゃねーかよっ!」

 自分よりも遥かに賢明で思慮深い姉ならば、闘争の先にどのような事態が待ち受けているか、判り切っている筈なのに。それとも――自分とは違い、彼女にとって織田信長との繋がりとは何ら価値を見出すに足るものではないのか。マロードの指令一つで容易く切り捨ててしまえるような、脆弱な縁でしかないと言うのだろうか。板垣一家にとって、信長は誰よりも長い年月を共に過ごしてきた隣人であり、幼馴染だと言うのに。

「天。少し落ち着いて、アタシの話を聞きな」

 駄々っ子を窘めるような落ち着いた口調で、亜巳は静かに天使を制した。

「いいかい、天。いくら喚いてもジタバタ足掻いても、どのみちアタシ達とシンの衝突は避けられやしないのさ。片方がくたばるまで噛み合うしかない。そういう因縁なんだ。アタシ達は最初から、そういう風にしかなれない●●●●●●●●●●●●歪な関係なんだからねェ」

「な、なんでそんなこと、」

「天、本当はアンタも分かってるんじゃないのかい?アイツが“アタシ達みたいなの”を――心底嫌ってるって事はさ」

 殊更に感情を載せず、至って淡々と吐き出された亜巳の言葉に、天使は打ちのめされたような気分になった。

『俺が許容出来ぬのは――裏の社会を“逃げ場”と捉えている輩だ』

 脳裏を過ぎる記憶は、つい先日に信長が曝け出した憎悪の念。天使はあの時、当人の口から真意を聞かされる事で、信長という兄貴分の心中に在り続けてきた苛烈な激情を初めて悟った。しかし、経験豊富で洞察力にも秀でた亜巳は、天使よりも相当に早い段階から……或いは初めから、織田信長の意志の在り処に気付いていたのではないか。

「勿論、アタシ達の性格やら何やら、全部根こそぎ気に食わないって訳じゃあないだろうさ。もしそうだとしたら、十年近くも付き合いが続く筈がないんだからね。ただアイツは、裏の住人が好き勝手に、自由気侭に暴れ回る――そんな当たり前の光景が赦せないんだろうねェ。理由なんざ知らないが、ずっとそういう目をしてたよ、シンは」

「……」

「その証拠に、シンは今まさに、闇の中に新しい規律ってヤツを浸透させようとしてる。裏社会の何もかもを自分が定めたルールでガチガチに縛り上げて、違反した奴には自らが制裁を下す。そうやって一度恐怖を覚え込まされた連中は、滅多な事じゃルールに逆らおうとは思えなくなるってワケさ。アイツの渾名、“風紀委員”ってのはなかなか上手いこと言ったモンだよ、実際」

 堀之外の街において信長がどのような立場に在るのか、天使は改めて思いを巡らせる。“信長が来るぞ”の一言で誰もが震え上がるのは――“実際に視られている”という自覚が意識の根底にあればこそだ。あらゆる場所に張り巡らされた信長の監視の目は、常に闇の中を睨み据え、街の動向を実質的に支配している。その事実に反発し、信長の首を挙げんと叛旗を翻した者は、悉くが無惨に叩き潰されてきた。恐怖が恐怖を呼び、獣達は無言の内に息を潜め、静寂が闇を充たす。ここ最近、街中での大規模な組織間抗争が行われていないのは、監視者たる信長が殺意と共にそれを禁じているからだ――そんな風説を、今更のように思い出した。

「だけどねェ、そんな息苦しくて窮屈極まりない、娑婆と監獄の区別が付かないクソッタレな環境にぶち込まれて大人しくしてろってのは、アタシ達みたいな根っからのアウトローにゃどだい無理な相談さ。誰に指図される事もなく、好きな事を好きなようにやるってのが、アタシ達の生き方なんだからねェ。――だから、相容れない。魔王サマがあくまで徹底した支配を押し付けてくる限り、アタシ達はアイツと同じ天を戴けやしない。恐怖政治を布く独裁者から自由を勝ち取る為には、善良な市民が立ち上がって闘わなきゃならないって訳さ。そしてシンはシンで、自分に歯向かう輩は問答無用で皆殺し、って男だ。となりゃ、これはもう、行き付く先なんて端っから一つしかないだろう?」

「け、……けどっ!前に闘って負けた時、シンはウチらを殺さなかっただろ。この街の表をウチらが仕切って、シンは裏から仕切る。そういう役割分担が必要なんだ、って。これからもそうやっていけば、別に殺し合いなんて」

「あんな生温い処置で済んだのは、二年前の時点ではまだ、シンの地盤が固まってなかったからさ」

 必死に言い募る天使の言葉を、亜巳のあくまで冷静な声音が無慈悲に否定する。

「あの時点じゃアタシ達とシンの覇権争いにカタが付いただけで、トップの座を虎視眈々と狙ってる反抗的な連中は腐るほど居た。そいつらを手っ取り早く降して掌握するためには、“板垣一家”の持つ戦力と知名度を利用するのが一番効率の良い方法だったんだ。だけど二年経った今となっちゃ、もはやそれすら必要としない程にシンの影響力は大きくなってる。これが何を意味するか分かるかい、天?」

 言わんとする事は何となく理解は出来ても、認めたくなかった。回答を拒否するように俯いて黙り込む天使に対し、昏い笑みを浮かべながら亜巳は答を突き付ける。

「織田信長にとって、板垣一家の存在は既に用済みになりつつあるのさ。そう遠くない未来に、“表”と“裏”の区別なんざなく、たった一人の支配者としてアイツがこの街の全てを掌握する。――要は時間の問題なんだよ、天。だったら、どうせ殺り合う羽目になるのなら、こちらから先手を打って仕掛けるのは悪い選択じゃあない。シンを出し抜ける絶好の機会が向こうから転がり込んで来たなら、利用するのは当然さね。それが今のアタシ達が置かれてる状況で、もう留めようのない流れってヤツなんだ」

「……」

「ずっと前から、覚悟してた事さ。アタシはもう腹を括ってる。だから、殊更に慌てたり迷ったりする事もない。現状は所詮、来るべき時が来ただけの話なんだからねェ。それに、大体――リュウを放っとく訳にもいかないだろう?」

 苦笑混じりの亜巳の言葉に、はっと顔を上げる。

 そう、信長との死闘に執着する竜兵は、決して講和や恭順の道を選ばない。日頃から公言して憚らない己の願望を果たすため、周囲の情勢など顧みず信長へと闘いを挑むだろう。その果てに待ち受けているのは、確実な死。少なくとも当人にとっては悲願を遂げた上での幸福な最期かもしれないが、傍目には自殺と変わらない行為だ。

 大切な家族の一人を無為な死から遠ざける事こそを最優先事項とするのは、板垣一家の棟梁たる亜巳にとって当然の結論。例え古い幼馴染と血塗れの闘争を演じる未来が待っていたとしても――板垣亜巳が選択と決断を躊躇う事は無い。それは、天使も最初から承知していた事だった。

「うん。リュウちゃんは弱いのにすぐ無茶するからねぇ、私たちが守ってあげなきゃダメなんだよ~」

 眠るがごとく黙然と二人の話を聴いていた辰子が、普段と変わらない呑気さで、しかし明確な意思を以って、自身の立ち位置を示した。即ち、優先すべきは弟の無事に他ならない、と。亜巳はそんな辰子に軽く頷いてみせた後、天使の目を正面から覗き込んだ。

「分かったかい、天?アタシらは自分の生き方を貫くためにも、リュウの馬鹿をむざむざ犬死にさせないためにも、シンとの因縁にケリを付けると決めてるんだ。……今更どんな説得材料を持ってきたところで、アタシらの意志を曲げるのは難しいだろうさ」

 諭すように語る亜巳は、その言葉に偽り無く、覚悟を決めている事が一目で窺えた。頑として揺るがない意志を姉の態度に認め、天使は自身の訴えが決して功を奏さないであろう現実を悟る。自分が何も考えず自由気侭に振舞っている傍で、姉達は遥かな以前から信長の意志の在り処を理性的に見定め、同時に己が意志の在り処を定めていたのだ。感情に任せた稚拙な訴えで止める事など、初めから適う筈も無かった。

「…………」

 亜巳が口を閉ざし、続けて紡ぐべき言葉を見失った天使が力無く項垂れると、居間に二度目の沈黙が漂った。掛け時計の秒針がカチコチと時を刻む音だけが、やけに鮮明に響く。

 大好きな家族と兄貴分が殺し合う最悪の未来。自分がどう足掻いても、それはもはや避けられないものなのか。

 無力感に打ちひしがれ、泣き出したいような気分で俯いていた天使は――不意に己の頭上へと載せられた掌の感触に、目をぱちくりさせた。

「あ、アミ姉ぇ……?」

 全く以って思いも寄らない姉の行動に、天使は落ち込んだ気分も忘れて茫然と呟く。呆れと困惑の入り混じった様な微妙な表情を浮かべながら、亜巳はぽんぽんと軽く天使の頭を叩いて、そしてこれみよがしに大きな溜息を吐いた。

「しっかりしな、天。アタシらの意志はさっき言った通りだけどねェ――それはあくまでアタシらのものでしかないんだ。そこを履き違えんじゃないよ」

「え?」

「アタシ達は“板垣”だ。好きな事を好きなように、やりたい事をやりたいようにやるのがアタシらのモットーだろ。特に天、アンタみたいな筋金入りの単細胞がごちゃごちゃ悩んでどうなるってんだい?アンタは変に小難しく考えず、素直に自分がやりたい事を真剣でやってればそれでいいんだよ」

 叱責するような内容とは裏腹に、亜巳の声音は酷く優しかった。次いで、辰子が大らかな笑顔を湛えながら、のんびりとした穏やかな語調で言葉を続ける。

「天ちゃんがどんな道を選んでもね、私たちは家族なんだよ。それだけは忘れないでほしいなあ」

「……アタシ達に言える事はこれだけさ。アンタもそろそろガキって年じゃないんだ、いつまでも甘ったれてないで少しは自立ってモンを覚えるべきだからねェ。さ、あとは自分の心と相談して答を出しな」

 ばしん、と最後に勢い良く頭頂部をはたいてから、「ほら辰、行くよ」と亜巳はきびきびした動作で立ち上がった。呼び止める暇も与えず、壁に立掛けていた得物の六尺棒を掴むとそのまま足早に居間から立ち去っていく。辰子の方はあくまでマイペースを崩さず、その場でゆっくりと伸びをした後、「じゃあねぇ」とにこやかに手を振りながら亜巳の後を追っていった。

 廊下の向こう側で玄関の扉が開いて、閉まる音。

 皆が居なくなった家の中で、天使はひとり呟く。

「――ウチの、やりたいコト」

 床の上に胡坐を掻いた体勢のまま、天使は姉達の言葉を幾度も幾度も反芻する。『状況に流されるな。自分の意志で自分の道を定めろ。それが、大人に成るという事だ』――かつて兄貴分に突き付けられた言葉が、先程の姉達の声と重なって胸中に響いていた。

 やりたいこと。やるべきこと。やらなければならないこと。

 自分にできること。――自分にしか、できないこと。

「ウチは……」

 天使の瞳に、微かな光明が灯る。

 未だ答は見出せずとも、そこに至る道筋が見えたような、そんな気がしていた。

 

















 頭上を覆う天は暗雲の内に雷鳴を轟かせ、彼方の地上からは銃声と爆音が絶え間無く響き渡る。幾多の猛者達が発する氣が街並の至る処から立ち昇り、吹き荒ぶ風と共に轟然と渦を巻く。

 そして今、闘争と云う名の大嵐に包まれた堀之外の街路を、一人の男が歩いていた。鋭く昏い目付きで虚空を睨み、素人目にも危険な気配を撒き散らしつつ雨中を進むのは、和装を纏った壮年の男。顔面に刻まれた凄絶な傷跡と、腰元に一本の真剣を佩いたその立ち姿から、武に関わる人種であろう事は容易く推察出来る。そして事実、その通りであった。男――齋藤龍光は光の射さぬ裏社会を棲家とし、人斬りを生業とする闇の剣客である。双眸をギラリと残虐に輝かせながら、龍光は不意に小さな呟きを漏らした。

「織田、信長……森谷、蘭」

 唇から零れた声音には、怖気の走るような呪詛の念が充ちていた。二つの名が胸中に染み渡るにつれて、龍光の眼には凶猛な殺気が宿っていく。

――そう、彼奴らが。彼奴らが全てを奪ったのだ。

 遡ることおよそ二年。堀之外に拠点を置くとある犯罪組織の用心棒を務め、凶剣を振るっていた龍光は、年若くして裏社会の覇権を握った悪名高き主従と刃を交え、そして奮戦の末に敗北する。不覚の代償として喪ったものはあまりにも大きかった。雇い主たる組織は壊滅し、主と仰いだ男はただ命を長らえるだけの廃人と化し、闇の剣客として恐れられてきた龍光の評価は瞬く間に地に堕ちた。そして何より――剣士の生命たる利き腕を、付け根より斬り落とされた怨恨は、決して消える事は無い。中身の失せた和装の袖が視界に入る度に、既に塞がった傷が痛みを訴え、龍光の胸に激烈な怒りと憎しみを蘇らせる。

――今こそ、復讐の時ぞ。

 敗北者として川神を追われ、暗い憎悪と屈辱を抱えながら雌伏の時を過ごしていた龍光に、待ち望んだ機の到来が知らされたのは、僅か数時間前の事であった。織田主従の内乱と、その隙を衝いた板垣の挙兵。情報提供者のマロードなる者の素性や思想に興味は無かった。龍光の目的はあくまで織田主従の首級を挙げ、血の祝杯を上げる事だ。例え都合良く利用された結果であろうと、失った己が矜持を一刀を以って取り戻せるならば構いはしない。龍光の決断は速かった。激闘の果てに根元より折れた愛刀の代わりに、その筋より新たに手に入れた妖刀を佩いて隠れ家を立ち、そして今、二年振りに、再びかつての古巣たる堀之外の地を踏んだ。

 今まさに各地で衝突している氣の数々を感じ取れば、戦場及び戦力が分散している事は明らかだが――元より龍光の狙うべき首はただ二つ。己の拠って立つ全てを無造作に蹂躙した魔王・織田信長と、禍々しい剣閃を以って己が片腕を断ち切った剣鬼・森谷の娘。故に龍光の足が目指す方向は、板垣一家の陣を突破した織田主従が向かった先とされる住宅街であった。迫る雪辱の時を前に否応無く昂ぶる戦意を抑えつつ、嵐の中を歩んでいた龍光は――不意に足を止める。

「…………五人、か」

 龍光が立ち止まったのは、己へと迫る気配を感じ取ったが故である。呟きの直後、違わず五ツの人影が脇道より現れ、龍光へと歩み寄ってきた。いずれも威圧的な黒服を屈強な体躯に纏った強面の男達が四、そして男達の中心には痩身長躯の貧弱そうな男が一。指揮官と思しき一は数間の距離を挟んで立ち止まると、興味深げに龍光の顔を覗き込んで、妙に丁寧な口調で言葉を紡いだ。

「私めの記憶が確かであれば――今は亡き“黒狼”が用心棒、齋藤龍光様と窺いますが、相違はございませんでしょうか?」

「ふん。其れを知る貴様は、織田の小僧の狗か」

 戦火が堀之外の全域を覆う以上、此処は既に紛う事無き戦地である。いつ何処で敵と遭遇しても不思議は無い。織田信長の手勢は決して“直臣”たる森谷の剣鬼のみではないのだから。戦意を総身に滾らせながらぎょろりと眼前の男達を睨む龍光に対し、中央の男は困ったような笑みを湛えながら口を開いた。

「おや、私をお忘れですか?この丹羽大蛇、以前には黒狼の皆様にも様々な便宜を取り計らわせて頂いたものでして、実のところ齋藤様とは取引の場で幾度かお会いした事も――」

「かっ。意地汚く利を貪る禿鷲が如き商人風情、儂がいちいち記憶しておろうてか。貴様なぞ知らぬわ」

 体躯に精気無く、武の心得があるようにも見えず、加えてこれと云って特徴の見当たらない無個性な顔立ち。剣に生きる龍光がわざわざ記憶に留めている道理が無かった。にべもなく吐き捨てた龍光の返答に別段気分を害した様子もなく、大蛇と名乗った男は胡散臭い丁重さで言葉を続ける。

「実を申しますと私、現在は織田様の臣下として働いておりまして。主命を果たすべく奔走している最中なのですよ」

「木っ端の分際で、儂の邪魔立てをしようてか」

「ええ、有体に申し上げれば。現在、この堀之外には織田様のお言葉により厳戒令が布かれておりまして――乱に乗じて織田様の“敵”と成り得る存在は全て、鼠一匹に至るまで監視下に置かれていると考えて頂いて結構です。中でも齋藤様は比較的重要度の高く設定された監視対象でございまして、先刻街に立ち入ったその瞬間から動向を把握させて頂いております。古来より“復讐”ほど判り易い動機はございませんからね。生憎と私めには些か理解しかねる感情ですが、まァ動きが読み易くなるのは大変結構な事でございますとも」

「……その物言い――貴様……、薄汚い“影”の鼠輩かァッ!!」

 飄々と語る大蛇に対し、龍光の憤激に満ちた怒号が轟いた。眼前の男を睨み据える目に宿った殺意と憎悪の凄まじさたるや、これまでの比ではない。俄かに血生臭さを帯びた危険な空気を感じ取り、取り巻きの黒服達が剣呑な表情で臨戦態勢を取る。

「儂は決して忘却せぬぞ。貴様等が――貴様等の如き下賎の輩が、我らを死へ追い遣った事をな……!」

 二年前、十代の半ばにして頭角を現した織田信長は、板垣一家との頂上決戦を経て堀之外に君臨する。其処までは良かった。強者こそが頂点に立つに相応しい――それが裏社会の暗黙のルールなのだから。だが、織田信長という魔王のもたらした新たな支配体系は、裏の住人達の凄まじい反発を招いた。“影”と呼ばれる子飼いの諜報員を用いた監視ネットワークの構築、及び、圧倒的な暴力による制裁を主体とした恐怖政治。やがて魔王への恐怖心から密告と裏切りが蔓延し始めると、猥雑ながら自由な活気で溢れていた街の空気は徐々に失われ、代わりに息詰まるような冷たい静寂が闇の中を覆い尽くしていった。かつて龍光が身を寄せていた“黒狼”の首領であった男は、自身の愛する堀之外を魔王の支配から解放する為に立ち上がり――そして無惨に、徹底的に、壊し尽くされた。恐るべき残虐性と冷徹な理性を兼ね備えた信長と云う少年は、全てを喪った男にも一切の慈悲を与えず、あろう事か他の反抗勢力に対する見せしめの為に晒し者としたのだ。まさしく、悪魔の所業。自身の誇りのみならず、主とも認めた男の生き様をも無情に踏み躙られた怨念は、一時たりとも鎮まる事無く、黒々と蠢く殺意と変じて龍光の内を渦巻いている。

 そして、その恨みは、直接手を下した主従のみならず――織田信長の支配体系の根幹を担った“影”の者共にも向けられていた。陰で姑息に暗躍し、強者に媚を売ってお零れに預かろうとするその直視に耐えぬ浅ましさを、龍光は蛇蝎の如く忌み嫌い、そして憎悪していた。或いは真正面から闘いを挑み、力及ばず敗北を喫した織田主従に対してよりも、戦の場にすら出てこない“影”に対する憎しみの方が深いとすら云える。龍光は汚らわしいものを見る目で眼前の男達を一瞥し、唾を吐き掛けるように口を開いた。

「狗と呼ぶ事すら憚られる鼠賊どもよ。儂の前に薄汚い姿を晒し、何を為す心算だ?よもや、儂の歩みを阻めるなぞと笑止な夢を見てはおらぬであろうな」

「そう仰る貴方様こそ、夢を見るのはお止めになるべきなのでは?この四人は、いずれも私の主催する青空闘技場にて見出された腕利きの武人です。以前と違い五体すら満足に揃わない齋藤様では、例え一対一でも勝機が薄いと申し上げざるを得ませんね。かつては裏に悪名を轟かせた“撫で斬り”齋藤も、既に一介の敗北者に過ぎないのでございますよ」

 相手を見下した表情を隠そうともせず、余裕の態度で大蛇は嘯くと、パチリと宙で指を鳴らした。それが合図だったのか、黒服の男達が一斉に龍光を取り囲むように動き始める。いずれの足運びにも確かな武の気配があり、単なる見掛け倒しの雑魚で無い事は疑いなかった。

 だが――所詮、“それだけ”だ。雑魚に非ねば強者。齋藤龍光を前に、そんな暴論は罷り通らない。

「ぬるいわ、蟲けらが」

 顎。額。腎臓。頚椎。

 各々に一撃、それで事足りた。龍光の隻腕は鞭と変じ、流れるような打撃で瞬く間に四人の男を昏倒させていた。

「なぁっ……!?」

 常人の目には捉える事すら適わない早業を前に、大蛇は眼を剥いて驚愕の声を上げる。

 森谷の凶剣を受けて利き腕を失い、失意の内に川神を追われてから約二年――龍光は復讐を誓い、血の滲むような鍛錬を己に課してきた。腕を失う前より格段に手数は減ったが、代わりに一閃の疾さには益々磨きが掛かっていた。名は地に堕ちたかもしれないが、再び返り咲く為の実力までは失ってはいないのだ。信長当人でも森谷の娘でもない、名も知らぬ有象無象を片付けるに手間取る龍光ではなかった。

「ば、馬鹿なっ、い、一瞬で!?な、何をしたのですか、何も見えな――」

「おい」

「ひ、ひぃっ!こ、殺さないで!情報、情報なら幾らでも差し上げますから……っ」

 龍光の見立て通り、“影”を仕切る当人の戦闘力は無きに等しいのだろう。戦力と頼んだ取り巻きが倒された途端に顔色を蒼白に染め、主君への忠義も忘れ涙ながらに命を乞う姿は、あまりに無様。このような下衆の小物に追い詰められ、己が属した組織が瓦解に至ったのかと思えば、もはや怒りよりも虚しさが先立った。あれほど苛烈に煮え滾っていた殺意すら、虚空へと雲散霧消していく。

 必死に卑屈な笑みを浮かべて尚も言葉を続けようとする大蛇を、龍光は一睨みで制した。もはや聞くに堪えぬ、と。

「安心せい、斬りはせん。この妖刀に吸わせる最初の血潮は、織田の小僧か森谷の小娘のそれと、然様に定めておったのだ。貴様ら鼠輩の腐った血で彩られるなぞ、刀が哭こうと云うものよ」

「あ、ありがとうございます!ありがとうございますっ……!」

 繰り返し卑屈な感謝の言葉を吐きながら拝んでくる姿のどうしようもない惨めさに呆れながら、龍光はゆらりと無造作に大蛇へと歩み寄った。

 殺さないとは言ったが、“殺さない”と“壊さない”は断じて同義ではない。仮にも忌々しき“影”に属する人間を捕えた以上、織田信長に関する全ての情報を洗い浚い吐き出させる心算だった。いかなる手段を用いても、である。

 時間を掛けずに手早く情報を吐かせる拷問法の候補を幾つか脳裏に浮かべた瞬間、不意に大蛇が顔を上げた。

 顔面に貼り付いているのは――怖気が走る程に、酷薄な笑顔。

 戦地にて培われてきた龍光の第六感が危険を察知した時には、もはや手遅れだった。

「いやぁ、本当にありがとうございます●●●●●●●●●●●●●、齋藤様」

 ずぶり、と。皮膚が破れ、肉が貫かれる感触。

 己が脇腹に生えた銀色の刃の鈍い輝きを、龍光は呆然と眺めた。

「こうも見事に油断して頂けたこと、まったく感謝に堪えませんよ」
 
 標的へと突き刺さったシースナイフの柄から手を離し、密着した身体を悠々と離しながら、丹羽大蛇はにんまりと満足気に哂う。龍光は灼けるような激痛を精神力で堪えながら、抜刀すべく腰元の鞘へと手を伸ばすが――急激に全身の力が抜け落ち、体重を支え切れずがくりとその場に膝を着いた。

「ああ、相当に強力な麻痺毒を刀身に塗ってありますから、当分は動けませんよ。それに、無理にジタバタと足掻かない方が宜しいのでは?一応急所は外してありますが、下手に動けば内蔵が抉れてあっさり逝く羽目になりかねないですからね。私としてもそれは少々困るのですよ。さほど答には期待していないとはいえ、貴方様には訊きたい事がございますから」

「――ぐ、ぐぅっ」

 何をした。何をされた。――答は明白、刺されたのだ。油断の隙を衝かれ、一瞬の内に毒牙を突き立てられたのだ。神経を侵す毒に抗う術は無く、もはや指一本を満足に動かす事すら適わない。剣客たる齋藤龍光が、一度たりとも剣を抜かぬ内に、敗北する。滑稽な程に馬鹿馬鹿しく、断じて有ってはならない現実が目の前に広がっていた。

「き、貴様、何故だ!それ程の腕を持ちながら、何故、最初から尋常に闘おうとしなかった!?」

 油断はあった。不意を衝かれたのも事実。だが――ただそれだけの事で、懐までの接近を許し、刀を抜く暇すら得られず無様に致命の一撃を受けるなど、齋藤龍光と云う熟練の武人にとっては有り得ない事態だった。

 驚嘆すべきは、獲物に喰らい付く蛇の如き、刺突の疾さ。初動を目で追い切れない程に爆発的な加速を可能とするのは、己と同様、氣を習得した武人のみであろう。ならば――眼前の男は確かな力を持ちながら、敢えてあのように脆弱な小物を装い、無様な醜態を演じていたという事だ。その腕を以ってすれば正面から果たし合う事も可能だったにも関わらず。

 ――何故か。傷みを堪えながら問い掛けた龍光に対し、大蛇は貼り付けたような薄ら寒い笑みを絶やさないまま、当然のように答えた。

「勿論、“その方が楽だから”に決まっているではありませんか。私は武人でも何でもないので、奇妙な誇りとやらに拘って勝機を減らすような事はしないだけです。尋常に勝負?冗談ではありませんよ。リスクを最小限に抑えつつ最大限のリターンを得る。私の中ではそれが万事における鉄則でございますから。考えても見て下さいよ、ナイフ一本で刀と正面から斬り合うなんてナンセンスにも程があるでしょう?ちっとも合理的ではありません」

「……貴様ァ……ッ!!」

 騙し討ちと云う卑怯窮まる手段で勝利を手中に収めた事に罪悪感を覚えるでもなく、むしろ清々しげな笑顔すら浮かべて嘯く大蛇を、龍光は殺人的な目付きで睨み据えた。

 部下を捨石に用いて油断を誘い、命乞いを装った上で毒の一刺し――その戦法には己が武に対する矜持も、相対する敵手に対する礼も無い。一心に復讐を想って積み重ねてきた二年間の研鑽は、このような外道の下衆な振舞いによって無為に終わると云うのか。何一つとして為さぬ内に、織田信長の姿を視界に捉える事すら適わぬ内に、斃れ果てる。それは受け入れるにはあまりにもおぞましく、しかし決して覆せない残酷な現実だった。

「さて、先にも申し上げました通り、私は主命を果たすべく奔走している最中なのですよ。貴方様お一人にいつまでも時間を差し上げる訳には参りません。手早く話を進めるとしましょう」

「……」

「マロードとかいう叛逆者が声を掛けたのは、齋藤様お一人ではないでしょう?貴方様のような“復讐者”を含めて、織田様の排斥を望む武人を選出し、戦力として招集した筈です。私はその全貌を把握しておきたいのですよ。自分の仕事量がどの程度なのか正確に知っておかなければ、おちおち休みも取れませんからね」

「かっ、儂とて然様な事は預かり知らぬわ。そも、かの鬼畜の骨肉を砕き血を啜らんと心より願う者なぞ、掃いて捨てる程おろう。いちいち心当たりを挙げていけば切りがなかろうて」

 龍光がマロードに求めたのは最低限の情報だけだ。元より誰かと連携して挑む気など無かったので、そもそも己以外の何者が争乱に関わっていようが興味は無い。あらかじめ予測していた答だったのか、大蛇は特に落胆した様子も見せず、ただやれやれとばかりに軽く肩を竦めた。

「成程、やはりご存知ありませんか。実は先程から数人程に同様の質問をさせて頂いたのですが、どうも横の繋がりが希薄なのか、誰も此度の争乱の参加者を正確に把握していないのですよ。こちらとしては終わりの見えない駆除作業を延々と続けている様で中々に気が滅入ります。マロードと言う頭を抑えれば一網打尽なのでしょうが、一向に尻尾を掴ませませんし。……“有象無象の処理に俺を煩わせるな”とのご命令ではありますが、しかし“影”の人員が無限に居る訳でもなし、どうしても対処は間に合わないかもしれませんねぇ。まったく、面倒な役職を仰せ付かったものですよ」

 独り言の如くぶつぶつと呟いている。大蛇はもはや眼前に蹲る龍光の存在には、半ば興味を失っている様だった。

「まあ、貴方様程度の刺客が幾千人徒党を組んで襲ったところで、あのお方がどうにかなるとは思えませんが。もしその程度で斃れてくれる様な甘い人なら、とうの昔に私が殺して●●●●●いますし。……ああ、ちなみに今のはオフレコでお願いしますよ?私は貴方様のような負け犬じみた末路は御免被りたいですから。この私、誇り高き武人こと齋藤様ならば密告などという“薄汚い”真似はなさらないと信じていますよ」

 明確な悪意と侮蔑に表情を歪ませて、大蛇は冷たく嘲笑う。龍光は、身動きの侭ならぬ己が肉体を呪った。眼前の下衆に呼吸を許している現状が我慢ならず、歯を軋らせる。――斯様な輩の跋扈する世なぞ赦せぬ、胸中を渦巻く激情がそう吠え立てる。

「ふむ。この調子では、彼らもしばらく使い物になりそうにないですし」

 だが所詮、力を伴わぬ想念は、いかに猛っても虚しく響くのみ。敗者の弁に耳が傾けられる事は無い。大蛇はもはや龍光を一顧だにせず、地に倒れ伏した四人の部下達の頭を容赦なく蹴り飛ばして状態を確認している。全員が完全に意識を刈り取られている事を確かめて、大蛇は辟易したように肩を竦めた。

「やはりこのままでは人手が足りませんね。――何処かの誰かが都合よく、手を貸してくれると助かるのですが」

 誰にともなく呟いて、大蛇は何の未練も見せず踵を返した。路面に昏倒している部下達の事も、膝を着いたまま身動きの取れぬ龍光の事も、等しく意識を向ける価値すら無しとばかりに冷たく打ち捨てて、熱を宿さぬ毒蛇は次なる獲物を求めて嵐の中へ去ってゆく。

「無念……ッ!」

 斯くして、齋藤龍光の復讐は頓挫。敗北者の無念をうねりの中に呑み込んで、闘争は規模を拡大していく。

 ――魔王の戦に、未だ終着点は見えない。




















――或いはこれが、“織田信長”の最期か。

 俺の目は対象を“観る”事で瞬間的に幾多の情報を得る事で、擬似的な未来視すら可能とする。故に、数間の先にて天の足が大地を蹴った瞬間には、俺はその一撃を躱せない事を悟っていた。現在のコンディションで対応出来る疾さではない、と。致命傷を辛うじて避けられれば僥倖。そして仮に命を長らえたとしても――絶対強者たる織田信長の虚像は粉々に砕け散る。

 それは俺が昔日より常に懸念してきた事態であり、本来ならば断じて在ってはならない事態でもあるが、しかし最悪の事態とは常に想定されて然るべきもの。希望的観測の上にのみ成り立つ気楽な計算など、俺の主義ではない。故に、俺の思考は既に先の段階へと進んでいた。

 即ち天の攻撃を避け切れぬ事を前提とし、“その後”のリカバリーに焦点を当てた思索である。予め用意された複数のプランを取捨選択し、或いは組み合わせて、最適と考えられる振舞いを導き出す。人はやはり極限状態に在ってこそ能力を最大限に発揮するものなのか、我ながら恐るべき勢いで思考が組み立てられていった。

 恐らく、現実に流れた時間で云えば、ほんの一瞬。そう、天が俺との距離を詰め、掬い上げるような軌道で逆袈裟に銀閃を奔らせながら――俺の傍を通り過ぎるまでは●●●●●●●●●●●●、まさしく刹那の出来事であった。

 ……。

 …………。

 ………………“通り過ぎる”?

「――この超重要なタイミングでウチらの邪魔してんじゃねーぞ真剣で死ねコラァッ!!」

「ぐぎゃあああっ!?」

 思考ごと停止している間に背後から響き渡るのは、骨を粉砕する凶悪な打撃音と、激昂に猛る天の怒鳴り声である。

「……」

 ……待て、待て待て少し落ち着け俺。俺は誰だ――織田信長だ。織田信長はうろたえない。少々ばかり未来視が誤っていたとしても、俺は焦らない。例え己の認識に決定的な誤解が在ったとしても、その程度の事で冷静さを失ったりはしないのだ。

 あくまで理性的に、そう、まずは事態を把握しなければなるまい。全く以って普段同様の働きを示す脳細胞に満足しながら、俺は悠然たる動作にて後ろを振り返った。

「せっかくウチがちょっとイイコト言おうとしてたってのに台無しじゃねーかボキャー!空気っつー字読めるんかチクショーテメエッ!」

「ひぎゃっ、ぐぎゃ、もうやめ、ぎゃああっ」

 余裕を漂わせながら振り向いた俺の眼前に広がっていたのは、非行少女によるオヤジ狩りの悲惨極まりない現場だった。怒り状態の我が妹分が自慢のゴルフクラブで滅多打ちにしているのは、地面に蹲りながら両腕で必死に頭を庇っている東アジア系の中年男性。

 そこで、俺の目敏い観察眼がある事実に気付いた。天の容赦ない暴力によって顔面が手酷く変形させられている影響で些か判別に苦労するが、横に転がっている朱塗りの三節棍と併せて記憶を辿れば、この男には見覚えがある。名は確か王飛雲、一年ほど前に我がボロアパートへ夜討ちを掛けてきた中国武術家だった筈。結果的に俺の安眠を妨げた事が蘭の怒りに触れ、木刀による無双乱舞で全身の骨を叩き折られた気の毒な輩だった。よもやあの重症で再起してくるとは驚きである。まあ、その結果が現在の光景だと言うのはあまりにも哀れだが――大方性懲りも無く俺の命を狙っていたのだろうから、よく考えれば同情には値しない。

 しかし……この手の輩が俺の下まで到達しているという事は、やはり“影”の面々だけでは対処が追いつかなかったか。

 まあ、それも当然の話かもしれない。決して“影”の指揮を一任している男、丹羽大蛇の怠慢が原因ではないだろう。板垣一家という最大勢力が立ち上がり、同時に独軍特殊部隊の介入というイレギュラーが生じた現在の状況は、監視の目を逃れて潜伏していた反乱因子が蜂起するには絶好の機。仮にマロードが織田信長の殺気に耐え得る有力な武人だけを戦力として選出したとしても、その総数は恐らく数十名を下るまい。限られた人員だけで全ての敵の動向を把握し、処理するのは至難と云えよう。そもそも彼らの本業は戦闘行為ではなく、あくまでも影働きたる諜報活動なのだから。

「オイコラてめーなに黙ってんだ、いい年してちゃんとゴメンナサイも言えねーんか!」

「その辺にしておけ。天」

「止めんじゃねー、シン!だってコイツ――」

「既に意識が無い。喚くだけ時間の無駄というものだ莫迦め」

 俺の思考を余所に一向に止まる気配のない暴行を、冷静沈着な説得にてひとまず鎮める。

 何はともあれ――差し当たって俺が向き合うべき相手は、この恐ろしくキレ易い妹分だ。事態の推移や倒れている男の素性、天の発言などから推察すれば、現在の状況はおおよその所を把握できる。

 俺と天が対峙を始めたその直後、王飛雲は俺の首級を挙げるべく背後から迫ってきていたのだろう。眼前の天に対してあらゆる注意力を集中していた俺は彼の接近に気付かず、一方の天は俺との対話に割り込む邪魔者の存在に怒り、癇癪玉が破裂するままに勢い良く飛び出して、俺如きの目では追えない素晴らしい一撃を以って叩き潰した、と。事のあらましを簡潔に纏めればこんな所か。

 あの一瞬の内に色々と覚悟を決めた事や対策を講じた事を思えば、何とも馬鹿馬鹿しく拍子抜けな顛末ではあるが――しかし未だ事態が終息を迎えた訳ではない。早とちりで誤解してしまった件については一旦忘却の彼方に追い遣るとして、今度こそ正しく見極めなければならないだろう。

 板垣天使という少女の、“意志”の在り処。天が何を思い、何を目的として織田信長の眼前に立ったのかを、俺は知らなければならない。

「天。お前は真に、現状を解しているか」

 敵か、味方か。判ずる術を持たぬままに歩み寄るほど迂闊ではない。依然として数間の距離を保ちながら、俺は静かに問い掛ける。

「あ?分かってるに決まってんだろ。いったいウチを何だと思ってんだよシンは」

「先刻。俺と板垣の、最後の闘争の幕が上がった。戦端を開いたのは、他ならぬお前達だ」

「……分かってるって言ってんじゃねーか。もうこの流れは止めらんねー、そういうコトなんだろ」

 表情に浮かぶやり切れない感情を見る限り、さすがに今がどのような局面であるかは理解しているらしい。まあほんの数日前、まさに“その事”について語ったばかりなのだから、理解が及ぶのは当然か。

 だが、その上で――現在の状況と自身の置かれた立場を正確に解した上で、自ら望んで織田信長の前に立つ。ならば、それはつまり。

「ふん。己の“意志”は確かに見出せた様だな、天」

 少なくともそれだけは、俺の思い込みや勘違いの類ではなかったという事か。達人の常識を逸脱した動きには容易く惑わされる俺の眼ではあるが、双眸に宿る力強い意志の光を見紛う事は無いと信じられる。

 先程は天がその意志を言葉に換えて紡ぎ出す前に無粋な邪魔が入ったが――既に障害は取り払われた。

 ならば、今こそ問うとしよう。莫迦だが真っ直ぐな我が妹分が、葛藤の果てに辿り着いた答を。

 俺が厳かに口を開こうとした時、あたかも機先を制すように天が動いた。びしぃっ、と人差し指を俺に突きつけて、堂々と胸を張りながらこちらを見据える。

「――シン!ウチは、オマエに取り引きってヤツを申し込むぜっ!」

 トリヒキ。取り引き。……取引?

 いかなる時も感情最優先の単細胞たる天とは全く以って結び付かない単語に、数瞬ほど正しい認識が遅れる。俺が言葉を見失っている間に、天は活き活きとした調子で言葉を続けた。

「ウチは、ウチがこれからシンに手を貸す!その代わりシンは、アミ姉ぇとタツ姉ぇとリュウのヤツを見逃す!いわゆるアレだ、コーカンジョーケンってヤツだ」

「……成程」

 ふむ、そう来たか。想定していたよりも“まとも”な天の答に少々の驚きを覚えながら、俺は慎重に思慮を巡らせる。

 感情に任せて無闇やたらと吼え立てるのではなく、現実性の高い利と理の両者を以って織田信長の意を翻させる。――狙いは悪くない。眼の付け処としては百点満点をくれてやりたい位だ。

 だが同時に、甘い。取引と云うものは、前提として天秤が釣り合わなければ成り立たないものである。俺は心を平坦に保つよう努めながら、意識して冷徹な声音を天に投げ掛けた。

「天、お前には理解が足りぬ。板垣亜巳。板垣辰子。板垣竜兵。彼奴らは此度の乱における主たる叛逆者であり、俺の直臣に手を出した。何れも万死に値する罪業よ。其れを赦す事が容易く叶うなぞと、何故お前は然様に考えられる?」

「だからそれは、ウチがこれから――」

「態々お前の手を借りねば俺がこの事態を打破出来ぬと、本気で思うのか?随分と軽く見られたものだな。自身の助勢に如何程の価値が在るか、正しく見定めてから物を言うべきであろう」

 勿論、虚勢もいいところである。今の俺のコンディションは察しの通りだ。仮に天がこの場に居合わせていなかったら、先程の王飛雲に討ち取られていても何ら不思議は無かった。また、彼の如くこの先に俺を襲うであろう刺客に対して、俺には殆ど備えが無い。切るべき手札の大半は使い果たし、満足に身を支えるのは意志力のみという惨憺たる状況。板垣天使という人外級の戦力の助勢は喉から手が出るほどに欲しいのが本音である。

 だが、虚飾と欺瞞に慣れ親しんだこの口は多くの場合、赤裸々な本音を語る為のものではない。未だ天の心中に織田信長の虚像が息づいていると判った限り、俺はその威信を保つ為の努力を続けなければならないのだ。故に――天の持ち掛けた取引は、“俺”に対しては有効でも、“織田信長”に対しては適当なものとは言えなかった。

「え、えっと、あー。いや、そーじゃなくて……」

 あくまで冷徹に突き放す俺の態度に対して、天は何やら奇妙な反応を示した。気まずげに俺から目を逸らし、いまいち要領の得ない曖昧な言葉を口から漏らす。

 焦っている?いや、これは、照れている……のか?

 何にせよ想定していなかった種類のリアクションに戸惑っていると、天は顔を赤く染めながらしばらく逡巡した後、自棄になったような調子で大声を張り上げた。

「ずっと!これからずっと●●●●●●●、ウチが力を貸すって言ってんだ!」

「……」

「な、何だよ……。なんと驚き、このウチが“じゅーしゃ”になってやるっって言ってんだぞ?もっとこう、なんていうか、と、とにかく何かあんだろ!黙ってんじゃねーぞっ!」

「……ふむ」

 そう言われましても。さて、いかなるリアクションが求められているのやら。

 確かに驚いた事は驚いたが、それは主に怒鳴り散らすような伝え方に対してであって、言葉の内容自体はまあ想定の範囲内だと言える。期間を限定せず、長期的、或いは恒久的な戦力として織田信長に己の武力を貸与する。板垣一家の免罪と天秤を釣り合わせようと考えるならば、妥当な選択だろう。実に合理的で良い事だ。だがその旨を取引材料として切り出すだけならば、あたかも一世一代の大告白をするような気合溜めは不要だろうに。

『――いや、俺は改めて感心してんのさ。お前って男の面の皮の厚さによ』

 …………。

 まあ、良い。この場において何よりも重要な事は、織田信長と板垣一家の因縁に関して、天が示して見せた“答”と向き合う事。余計な思考は纏めて脇に置くべきだろう。自身の胸中に在る感情の一切を封じ込めて、普段と同様、冷徹な理性に意識の主導権を委ねる。

 そうして、俺は天を見遣った。未だ表情に羞恥の色を残しながらも、天は正面から真っ直ぐに俺の眼を見返した。

 これこそが己の辿り着いた答だと、己の掲げるべき意志だと、誇るかのように。

「――ふん、成程な。お前の考えは判った。だが、俺の問いは変わらぬ。お前は己の価値が板垣全ての命に匹敵すると、然様に思うか?智に昏く、心技体の何れに於いても未熟な小娘に過ぎず、自身の歩むべき道にすら迷うお前を従者に迎え、俺に如何程の利が在る?」

「うげっ、ひでー言われようだな、ウチの繊細なハートにヒビ入ったらどう責任取ってくれんだよ。……でも、ま、割とホントのことだし。しょうがねーか」

「ふん。認めるのか?直視に耐えぬ己が脆弱さを」

「おぅよ。無ッ茶苦茶ムカつくけど、この際認めてやんぜ。認めて、受け入れて――そんでもって乗り越える。今のウチじゃアミ姉ぇ達の命に釣り合わねーってんなら、いつかぜってーに釣り合うウチになってやる!今この時にウチを従者にしといて良かった、未来のシンにそう思わせてやる!それがウチの答で、ウチの意志ってヤツだ」

「……例え首を取らぬとしても、かくも明確な形で俺に牙を剥いた以上、連中を川神の地に留め置く訳にはいかぬ。即ち、お前が俺の傍に在ると云うならば、其れは彼奴らへの裏切りと、離別を意味する。総てを承知して尚、お前は己が意志を貫けるのか、天」

「けっ、ウチらを舐めんじゃねーぞ。どれだけ離れても、たとえ敵味方に別れたって、ウチらは家族なんだっつの。ぜんぶ覚悟して、やりたいコトをやりたいようにやるために、ウチはここに来てんだ。――それでもまだ、何か文句あんのかよ、シン?」

 いかなる揺さぶりを以ってしても不惑不動の、確たる芯の通った意志を明るい橙の双眸に載せて、天は俺を見つめた。

 文句だと?……否。文句など、在る筈も無い。

 ――完璧だ。此処が戦場でさえ無ければ今すぐ仮面を剥ぎ取って、誰に憚る事も無く哄笑を響かせたい程に、完璧な答え。

 幼い頃から俺や姉に依存し、何一つとして自分の考えを持とうとせず、我欲だけを膨らませ続ける姿に、幾度と無く危機感を抱いた。いずれ袂を別つ運命ならばと、先んじて冷たく突き放す事を考慮する度に、己の後ろを付いて回る無邪気な姿に躊躇を覚えた。

 だが――そんな板垣天使は、もはや俺の記憶の中にしか存在しなくなったのだろう。幼少の頃より十年近くの年月を傍で見守り続けてきた兄貴分として、其れは何よりも喜ばしい成長の証。否応無く湧き立つ心中を理性にて抑え付けても、紡ぎ出す言葉に微かな感情が滲み出るのを止める事は出来そうになかった。

「ふん。お前にしては随分と上出来な答だな、天。あたかも亜巳や辰子辺りに入れ知恵を受けたかのようだ」

「な、何のコトか分かんねーなー?あんまヒトを疑ってばっかだと老けるぜシン!」

「ふん、まあ答に至る過程なぞ如何でも良い。肝要な事は、今此処に在る意志の形。喜べ――お前を認めてやろう、天。其の意志に免じ、取引に応じてやる」

「――うっしゃあ!いちいち上から目線ってのが超絶イラっとくるけど、確かに聞いたぜぇウチは!」

 天は喜色を満面に表し、ぴょんぴょんと飛び上がって交渉成功を祝した。

 本当に俺の選択は正しかったのか――胸中に生じた自問に対し、俺は確信を以って、是、と答える。

 確かに妹分の心からの願いに応えてやりたいという感情が在ったのは事実だが、実際問題、板垣天使ほどの優れた武人を自身の戦力として数えられるメリットは計り知れない。将来性まで含めて考慮すれば、織田信長の主義を幾らか曲げてでも引き込む価値は十分にある。情と理の双方が互いを排斥する事無く結託して背中を押すならば、敢えて否定する理由は無いだろう。

 ……。

 ……さて、そろそろ思考を切り替えよう。平穏無事な日常の中ならばいざ知らず、現在は抜き差しならぬ非日常。一つの問題が一定の解決を見たならば、間髪を入れず次なる問題へと取り掛からねばならないのだ。現状に思いを巡らせ、俺の辿るべき最善の道筋を模索する。

 そして数秒の沈思の後、天の興奮が鎮まってきたタイミングを見計らって、俺は空気を引き締めるべく、強い重圧を込めつつ声を発した。

「――天。俺の臣下として果たすべき、最初の任を与える」

「ヘイヘーイ、ウチにお任せだぜ。何たって今のウチはやる気バリバリだかんな、超頼りになるぜぇ?」

「ふん、精々期待しておくとしよう。お前の任は――」

 言葉を切ったのは、こちらに迫る気配を感じ取ったが故である。王飛雲の時と同様の失敗を犯さない為に周囲へと意識を割いていたからこそ、明らかな害意の接近に気付く事が出来た。

 俺が睨み据える先、曲がり角から姿を現したのは、巨大な戦斧を携えた隻眼の大男。全身の傷跡が醸し出す歴戦の雰囲気と、全身の毛穴から噴き出すマグマの如き殺気には、やはり覚えがある。甘利熊山――約一年前に俺が解体した、とある暴力団の若頭を張っていた男で、組長含む幹部が一網打尽にされる中でただ一人、“影”の執拗な追跡から逃げ果せてみせた実力者だ。それ以降は行方不明となっていたが、返り咲きと復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのだろう。残された隻眼が、殺意と昂揚に爛々と輝きながらこちらを見据えていた。

 やれやれだ。処理の間に合わなかった大蛇を責める気は無いが、それにしても面倒な事である。

――まあ、降りかかる火の粉を払うに打ってつけの人材が、此処に居る訳だが。

「天。お前の任は、羽虫に等しき有象無象を此処から先へ一歩たりとも踏み込ませぬ事と心得よ。恐怖と絶望を徹底的に刻み込み、愚かしい反抗心を根底より砕け。其れが、俺の臣たる武人に求められる戦の形だ。良いか」

「合点承知だぜぇ!へへ、アタマ使わなくていいなら余裕だなこりゃ。要は思いっきり暴れりゃいいんだろ?な、シン」

「くく、然様。存分に舞い踊り、おぞましき屍の山を築け。戦場で俺の名を聞けばそれだけで臓腑を吐いて死ぬように、な」

 重々しい声音で言い残して、俺は背中を向けた。些かたりとも焦りを窺わせない、悠々たる歩調でその場を離れる。

 完膚なきまでに存在を無視され、置き去りにされる形となった甘利熊山の猛々しい怒声が雨中に響くが、俺は一顧だにせずそのまま足を進めた。負け犬どもの吠え立てる手前勝手な復讐心に付き合ってやる義理なぞ無ければ、そのような暇も無い。

 俺には、急がねばならない訳があるのだ。逸る心を抑えようとしても、歩調は自然と速まる。

 望みは一つ――僅か一刻一秒でも速く、あいつの元へ。










「……近い」

 天と別れてから、数分と経たぬ頃であった。

 慣れ親しんだ森谷蘭の気配は、今や目と鼻の先の距離に在る。俺は遂に、辿り着いた。

 確信と共に、俺は足を止めた。眼前に広がる光景を網膜に映し込んで、一度、目を瞑る。

 ――ああ、やはり。ここにいるんだな、お前は。

 其処は、公園だった。砂場があって鉄棒があってブランコがあってジャングルジムがあって、そしてそれ以上は何もない、見事なまでに何の変哲も無い小規模な公園だ。住宅街の中央付近に位置するこの場所は、周辺一帯地域に住む子供達が遊び場として利用している。――かつての俺達と、同じように。

 変わらない風景。変わらない世界。ただ俺独りが、酷く変わった。


「…………」


 そして、蘭はあたかも思い出の中から抜け出してきたかの如き佇まいで、其処に居た。鎖が錆付き、塗料が剥げたブランコに腰掛けて、じっと嵐の空を見上げている。

 泥と血に塗れた白の制服。血の気が失せて青褪めた顔。虚無の渦巻く漆黒の瞳。

 世界の何もかもに疲れ果てたかのような風情で、微動すらせず天上を眺めていた蘭は、不意に俺へと視線を移した。


「ああ」


 もはや、蘭は俺の前から逃げ出そうとはしなかった。

 ただ、観念したように。総てを諦めたように、儚い微笑みを浮かべて、蘭は言葉を紡ぐ。


「――ひさしぶりですね、シンちゃん」


 十年越しの再会を告げる挨拶は、どこまでも弱々しく、嵐の中に掻き消えた。


 壊れた時計の針は動き出し、新たな時を刻み始める。


 行き着く果ては――未だ窺い知れぬ暗闇の中であった。

 





 













 次回から現在の章の根幹部分、信長と蘭の過去に話が移ります。が、頂いた感想を拝見する限り、引っ張り過ぎ……なんでしょうね、やっぱり。プロットの段階で予め挿入するタイミングはここと決めていたのですが、そこに到達する前に読者の方を飽きさせてしまうような構成は物語として論外です。本当に自分の至らなさを痛感するばかりですね。絶賛猛省中でございます。
 ちなみに今回、何人か新しくオリキャラが登場しましたが、基本的にモブですので名前を覚えて頂く必要はありません。当初はそもそも全員が名無しでしたが、多少は個性を設定した方がいいかな、と思い立って現在の形に変更された次第です。
 毎回の如く、ありがたい感想を下さった皆様に感謝を。創作意欲の糧や反省の材料として最大限活かさせて頂きますので、宜しければこれからも忌憚無いご意見・ご感想をお願いします。それでは、次回の更新で。



[13860] 黒刃のキセキ、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:e5436719
Date: 2013/02/17 20:21
 ――僕は、何のために生まれてきたんだろう。






 

 世に蔓延るは、弱肉強食の摂理。一つのありふれた光景が、そこに在った。

 既に日も暮れ終え、薄闇が街並みを覆う時間となれば、此処周辺に住所を持つ子供達の大半は既に屋外での遊びを切り上げ帰宅の途に就いている頃だ。いかに歓楽街と一定の距離を置いた住宅街とはいっても、やはり護身の術を有さない者が夜間に外出するという行為は少なからず危険を伴う。神奈川県川神市川神区、堀之外町。日本国内有数の歓楽街として知られるこの地は、同時に数多のアウトローが集い幾多の犯罪組織が跋扈する“掃き溜め”でもある。治安は、およそ考え得る限り最悪の部類と言えよう。

 故に、常日頃ならばこの時間帯。市街地の一画に子供達のささやかな遊び場として設置された市立公園というロケーションには、人気が失せているのが自然だったが――現状は、少しばかり日常とのズレが生じている。小さな公園の敷地内には今現在、大小併せて三つの人影があった。大人が二人に、子供が一人。それが親子連れの和やかな団欒風景でない事は、わざわざ覗き込んで様子を窺うまでもなく判っただろう。住宅街の閑静さを無遠慮に破る暴力的な殴打の音響は、眼を瞑っていようと無関係に鼓膜を震わせる。空気を伝播する暴力の粗野な匂いは、否応なく鼻腔を充たす。

私刑リンチ

 年端もいかぬ少年に対し、大の男が二人掛かりで容赦ない暴行を加える行為を言葉にて形容するならば、その一語で事足りるだろう。殴り倒し、腹部に爪先を突き込み、悶え転げる頭を踵で地面に縫い付ける。飽きれば頭を蹴り飛ばし、覚束ない足取りで立ち上がった瞬間を狙って再び殴り倒す。子供が玩具を使って無邪気な遊びに興じるように。延々と――玩具が壊れるまで、遊戯は続く。男達の表情は疑い様も無く、弱者を一方的に甚振る喜悦に酔っていた。罪悪感など欠片も覚えず、己の強者たる事実を愉しんでいた。

「……」
 
 一方、その存在を玩具と貶められて弄ばれる少年は、あらゆる意味で彼らとは対照的だった。少年の表情にはいかなる感情の色も浮かんではいない。苦悶に歪む事も無ければ、恐怖を湛える事も無い。今まさに自分を襲う無慈悲な暴力に対して、僅かな呻き声すら漏らしていなかった。未だ十も超えていないであろう幼い容貌にはあまりにも不似合いな、能面の如き無表情。青褪めた顔色と、暗く濁り淀んだ双眸と相俟って、少年の様相は悪魔じみた異様な雰囲気を醸し出していた。

 そう、それは――街中にて偶々擦れ違った暴力団構成員の胸中に、一瞬にして明確な恐怖の念を植え付けてしまう程の、常軌を逸した禍々しさ。その存在は、他ならぬ恐怖を商売道具として扱う男達にとって、断じて許容できるものではなかっただろう。だからこそ、この現場は成立に到ったのだ。

「けっ、聞いてた通り、薄気味悪ィガキだな。顔色も変えやがらねぇ。こちとらイラついてんだ、さっさと泣き喚いて謝りやがれってんだ、よぉ!」

「おい、きっちり加減はしておけ。やり過ぎて殺しちまったら後の処理が面倒だ。若頭も、流石にそこまでは許可してないんだからな」

「へへ、言われなくても分かってんよぉ。大体だ、そう簡単に殺っちまったら面白くねーだろ?せっかくアニキが都合してくれたサンドバッグなんだ、大切に使わねぇとバチが当たるぜ」

「く、全くだな。こればかりはなかなか代用が効かん。丁重に扱ってやらないと、なぁ」

 尚も暴行の手を休める事無く、男達は楽しげに会話を交わす。足元に這い蹲る少年の心情など斟酌せず、一方通行の暴力がもたらす甘美さに酔い痴れる。例え少年が纏う継ぎ接ぎだらけの衣服の下、血色の悪い肌の至る所が、既に青痣や火傷痕、細かな裂傷で埋め尽くされている事実――少年が日常的な虐待に晒され続けている現実を知ったとしても、男達が止まる事は無かっただろう。彼らの判断基準はあくまで、己の獣欲が充たされるか否か。蹂躙される弱者の事情など、強者には何ら関係のない事なのだから。

「……」

 少年は泣かない。叫ばない。無言で、無表情で、光の失せた瞳に無限の闇だけを映し込んで、土の味と血の味を噛み締める。忘却を拒むかのように、屈辱と憎悪を己が魂魄に刻み込む。決して消える事の無い漆黒の殺意を胸中に育む。悲鳴と苦悶を押し殺した心は、曇りなく迷いなく純粋に、世界の何もかもを呪っていた。

 ―――それが、“織田信長”の、始まりの記憶。







※※※






 俺という人間の幼少時代における家庭環境を語るに際して、欠かせないものが四つほどある。酒と、薬物と、貧困と、暴力だ。これらの内の二つ以上が這入りこんできた時点で、大半の家庭は呆気なく崩壊を始めるものだが――ならば、それら全てが堂々と徒党を組んで蔓延っている家庭が、いかに醜悪で悲劇的な様相を呈してくるか、多少の想像力を備えた人間であれば思い描くのは容易だろう。つまるところ、そんな何とも判り易く劣悪極まりない環境の中で、俺は腐臭に塗れた幼少期を過ごしていた訳だ。

『アンタさえ生れて来なけりゃアタシらは幸せに暮らせたんだ!死ね、ほら、さっさと死んじまえよ悪魔ッ!』

 耳孔から入り込んで脳味噌を掻き回すような、ヒステリックで支離滅裂な喚き声は、今になっても不意に脳内で再生される。物心付いた時、実の母親から投げ掛けられた最初の言葉が“それ”だった。酒に溺れる度、クスリを決めて躁状態になる度、あの女はその罵倒を幾度も幾度も口にした。果たしてそれがどういう意味を持つ言葉であったのか、詳しい事を俺は知らない。本人に問うても返答代わりの打擲が飛んでくるだけだった。俺が言語を解し始めた頃には、既に家庭内に父親の姿は無かったので、恐らくはその辺りの顛末が関係しているのだろうが――まあ、今となっては知る由もない事だ。別段、知りたいとも思わない。重要な事はただ一つ、俺が血を分けた唯一の肉親に蛇蝎の如く忌み嫌われ、殺意とも見紛うような黒々とした憎しみを向けられていたという事実だけだ。

 だが、本当に幼い頃、未だ母の愛情を信じられていた頃の無邪気な俺は、必死に言葉の意味を理解しようと努めていた。考えて考えて考えて、そして幾ら思考を重ねても何ら意味が無い事を悟るに至って、遂に考える事を止めた。性格に欠点があるならば、立ち振舞いに不備があるならば修正すればいい。しかし、存在そのものを根本的に否定されてしまったなら、未だ人生を知らない幼子に果たして何が出来ると言うのだろうか。何も、出来はしない。いかなる努力も無意味で無価値だ。

 致命的なまでに愛情の欠落した母子関係と、著しく貧窮した経済状況――そんな家庭環境を考えれば、児童虐待が発生するのはむしろ自然な成り行きだったと言うべきなのだろう。当時の俺は、毎日のように一方的な暴力に晒されていた。無論、片手の指で数えられる年齢の子供に抵抗の術などある筈もない。泣き叫んで周囲に助けを求めても、堀之外の住人は冷酷な無関心を貫いた。一年が経つ頃には、声も上げず表情も変えず、ただ黙々と痛みに耐えて、日々エスカレートしていく虐待をやり過ごす事に慣れ切った、死んだ魚よりも酷い眼をした幼児が出来上がっていた。希望が更なる絶望の呼び水に過ぎないと悟ってしまえば、最初から全てを諦めていた方が楽だった。

 だが、今にして思えば――その時点では、絶望はまだまだ生温かったのだ。俺にとっての本当の地獄が始まったのは、あの忌まわしき男が俺の前に現れた、その瞬間だったのだから。

『よぉう、お前がノブナガか? まあ仲良くやろうや。何つっても、これからは家族同然の付き合いになるんだからなぁ』

 新田利臣――朝比奈組若頭。裏社会に悪名を轟かせ、堀之外の街において最も恐れられる悪党の一人である男が、織田信長の人生に土足で踏み入ってきたのは、俺が小学校に通い始めた時分だった。

 朝比奈組は、当時、堀之外の街に本拠を構えていたとある暴力団の名称だ。売春の斡旋、違法薬物の取引、銃火器の密輸、闇金融の経営等を主要な活動内容とする。構成員の総数は、末端の人員まで含めれば数千人にも及ぶと言われていた。川神のアンダーグラウンドにおける最有力候補の一角と目されており、活動範囲に比してかなり規模の巨大な組織だった。団としての歴史は比較的若く、発足は戦後間もない二十世紀半ば。三代目組長・朝比奈貴大の下で日々勢力を拡大させていた。少なくとも堀之外周辺域の住人である限り、連中の影響力を意識せず日々の生活を送る事が難しかったのは誰もが同じだが――特に俺にとって、その存在はまさに悪夢の象徴とも言うべきものだった。

 ……。

 当時、俺の母は朝比奈組傘下の風俗店に勤めており、その縁から、トラブル仲介の為に店を訪れた新田に見初められる事になった。二人の間にどのような言葉と感情の遣り取りがあったのか、俺は知らない。知りたいとも思わない。ただ覆せない現実として、母親はヤクザの情婦に成り下がり、やがて新田は俺の起居するアパートにまで足を運ぶようになる。必然として、織田信長と新田利臣は初めて顔を合わせる事になり――その瞬間を以って、俺は無間地獄へと突き落とされた。

『――ああ、良い目だ。腐ったドブよりも断然淀んでやがるぜ。俺は昔っから、そういう目を見るのが堪らなく好きなんだよなぁ。何ていうかな、こいつとは違って自分はちゃんと生きてるんだ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●、って感じがしてよ。きひ、きひひっ』

 他人の不幸こそが最高の“ツマミ”だと公言して憚らない。それが新田という男の性格だった。単にそれだけならばただの露悪趣味で片付く話だが――新田の真に忌むべき性質は、自らの手で不幸をプロデュースする事を欠片も躊躇わない歪んだ熱心さにある。ありとあらゆる手を尽くして他者の心身を徹底的に追い詰め、破滅に至る過程に喜びを見出す。そしてどうやら、俺は初めて出会った瞬間から、奴のお気に入りだった。貧困に喘ぎ、孤独に震え、日常的な虐待に悶え苦しむ程度の不幸では、どうやら新田にはまだまだ物足りなかったらしい。新田は朝比奈組若頭という自らの立場と権限を活用して、織田信長という個人の“指名手配”を実行した。総勢数千に及ぶ組の構成員に向けて、いわゆる“躾”を承認し奨励したのだ。理由も判らないままに周囲に忌み嫌われる生来の性質と相俟って、俺の存在が態の良い暴力の捌け口と成り果てるまでさほどの時間は要さなかった。家庭内における日常的な虐待と、街中での突発的な暴行。終わりの見えない暴虐に絶えず追い立てられ続ける、悪夢の日々へと俺は突き落とされた。僅かな安息すら何処にも見当出せない絶望の中で、未成熟な精神は荒廃していった。――自分の呼吸が続いている事を、苦痛に感じる程に。生命力の強い身体に生れついていなければ、精神よりも先に肉体が限界を迎えていた事だろう。

 家庭と同じくして、学校という環境もまた、俺の心身を救済するものではなかった。クラスメート達は皆一様に俺を恐れ、存在そのものを無視しようと努めていた。今にして思えばそれは、俺の生まれ持った稀有な性質に因るものだったが、未だ自分の才能に対して無自覚だった当時の俺にしてみれば、確たる理由もなく皆に疎まれているとしか受け止め様がなかった。そして身体・頭脳の双方においてなまじ平均以上の能力を生まれ持っていたが為に、自分の方からクラスメートに歩み寄ろうと努力する事もなく、交わる価値の無い低能め、と死んだ魚の眼で他人を見下し、孤高を気取ってプライドを保とうと必死になった。そんな態度が周囲の反感を招かない筈もない。結果、同級生との溝はますます深まり、上級生には生意気な下級生として目を付けられ、数人掛かりのリンチを幾度も受ける羽目に陥った。校内で心を許せる相手など何処にもいなかったし、探そうとすら考えなかった。

――いや、違う。確か一度だけ、希望らしきものを垣間見た事はあったか。

『子供を守るのが大人の役目なんだ。遠慮せずに先生を頼っていいんだぞ、織田』

 若者らしい溌剌とした活力と知性的なユーモア、子供達への思い遣りと相応の厳格さを兼ね備えた、理想的な教師だった。無自覚の内に殺意を振り撒いて、絶えず周囲を威圧し続けていた俺に自ら声を掛けたという一点を見ても、かなり出来た人格の持ち主だったのだろう。

 ……。

 担任教師として指導に当たる内、俺の様子から児童虐待の影を見出した彼は、義憤からか、或いは教育者としての使命感からか、俺に手を差し伸べた。誰に対しても心を堅く閉して決して開かなかった俺も、彼の誠実な人柄に触れる内に、ほんの僅かながら、確かな希望を見出していたように思う。だが――織田信長の身辺を取り巻く問題、己が打倒すべき“敵”の正体を知った途端、彼は背中を向けて逃げ出したのだった。一縷の希望を掴もうと縋るように伸ばした指先は、空しく宙を掴んだ。

 彼の行動を、殊更に責めようとは思わなかった。実際、何の後ろ楯も持たない無力な一教師が義憤に燃えて奮闘したところで、手に負えるような相手ではないのだから。当時の堀之外に於いて、朝比奈組の勢力は絶大なものだった。勝算もなく抗ったところで、実りある一つの人生が無為に潰えるだけの結果に終わっただろう。その現実をまともに理解している以上、たかだか教え子一人の為に己の人生を捨てられる訳がない。リスクとリターンを秤に掛けた結果ならば、それは至極常識的と言える選択だった。

 ただその一件が、俺の人間不信をより強固で、深刻なものへと発展させる決め手となった事は間違いない。何もかもに失望した俺が、己の精神と外界を切り離し、自分の内面へと完全に閉じ篭もるようになるまで、そう多くの時間を必要とはしなかった。誰も信じず、誰とも繋がらず。希望を抱かず、ただ無気力に世の中を拗ねて、可哀相な自分を哀れみながら絶望に浸り続ける。そんな有様に成り果てた人間は、果たして生きていると言えるのだろうか。心臓が鼓動を刻み、呼吸が続いているだけで――精神的には、死人と何も変わらない。俺は、そう思う。

 一体、自分は何の為に生まれてきたのか。

 底無し沼の如き際限のない思索に沈みながら、陰鬱な自問自答を幾度となく繰り返した。いつでも、答は一つだった。

『生れてきた事が既に、間違いだった』

 世界の誰にも愛されず、望まれない人間に、存在価値などある筈が無い――そう結論付けて、それでも自ら命を断つほどの気力を持つ事も出来ず、緩やかに魂が死滅していくような日々を惰性で生き続けていた。或いは、死に続けていた、と言うべきなのかもしれない。

 そして――あいつが俺の人生に現れたのは、そんな時だった。

 頑固一徹で融通が利かず、思い込みが激しく人の意見をまともに聞かない。頭に馬鹿が付くほど正直で、どれほど見え見えの嘘にも簡単に騙される。考えなしの無茶無謀を平気で繰り返し、呆れるほどのバイタリティを発揮して周囲の人間を振り回す。自分勝手で傍迷惑で――しかし疑いなく、誰よりも純粋で真っ直ぐな魂の持ち主。

 あいつとの出遭いは、未だ何一つとして色褪せる事なく、鮮明な映像を伴って脳裡に焼き付いている。

 
 俺の人生が本当の意味で始まりを告げたのは――きっと、あの夜だったのだから。

 










※※※







 運が悪かった。きっとそうなのだろう――と、僕はへばりつく汚泥のような諦観と共に思考した。

 実際、いかに考えを巡らせても、特筆するほどのミスは犯していない。強いて挙げるなら、夜の帳が降りようとしている折、碌でもない輩が活発に動いている時間帯に外出していた事自体が迂闊と云えるのかもしれないが、しかしそうは言っても、間違いなく今回の外出は必要だった。もしも何の成果も上げる事無く帰宅すれば、早くとも翌日の昼頃までの長時間に渡り、空腹に耐え続けなければならないのだから。家に帰ればテーブルには温かい夕食が用意されている――そんな失笑モノの夢想を抱ける程に楽観的ではない。可能な限り手早く“日課”を片付けて帰宅しようと考えた判断に間違いはなかった筈だ。

 よって、住宅街の中央区付近に位置する自宅まであと僅かという地点でたまたま二人組の男と擦れ違った事も、連中が毎度の如く目付きが気に入らないと定番の難癖を付けてきた事も、そして連中がよりにもよってかの朝比奈組に属する輩だった事も、“織田信長”という個人の特徴と名前を知っていた事も、手頃なサンドバッグでストレス解消を図ろうと思い立つ程度には暇と残虐性を持て余していた事も。全ては巡り合わせが悪かったとしか言い様がない。運命ならば、それはもはやどうしようもない事だ。

――いや、そうじゃないな。そもそもの話、僕にどうにかできること●●●●●●●●●●●なんて、何もないのだから。

「けっ、縮こまってんじゃねえぞガキが。男ならビビってねえで立ち向かったらどうよ腰抜け」

 お前がそれを言うのか、馬鹿馬鹿しい。気付いていないとでも思うのか? 擦れ違ったあの時、お前が僕に怯えていた事に。僕みたいな餓鬼を相手に恐怖を感じた自分が許せないからこそ、お前はこうやって憂さを晴らさずにはいられないんだろう。勝手に怯えて、勝手に怒って、自分勝手に八つ当たり。屑の思考回路は、僕には理解できない。

「抵抗してくれた方が俺としちゃあ面白いんだがな。意気地もねぇ、反応もねぇじゃ甚振り甲斐もないぜ。あー冷めるわー」

 だったらさっさと消えてくれ。僕はお前らみたいなチンピラを満足させるための道具じゃない。それに、抵抗してくれた方が面白い? くだらない見栄を張るな。お前らはどうせ、他者に対して優位に立ちたいだけなんだろう。裏社会の中ですら上位者に尻尾を巻くしかない負け犬だから、確実に自分よりも弱いと思える相手を見下して安心したいんだろう。自分が社会の底辺を這い蹲るゴミだと認めたくないから、誰かより上等な何者かだと勘違いしてちっぽけなプライドを守りたいから、こんな不毛な真似をしているんだろう。何が面白いだ、お笑い種もいいところ。ほんの僅かでも自分に危害が及ぶと分かったら、今度はみっともなく怒り狂うだけの癖に。

 僕の周りにいるのはそんな連中ばかりだ。世の中は、生きる価値も見当たらないゴミで溢れている。

 ゴミ。ゴミか。

――なら、僕は。ゴミの山に埋もれて腐臭に慣れ親しんだこの僕は、果たして何なのだろうか。

「そういえばお前、知ってるか?この餓鬼の名前」

「あ?知る訳ねぇーだろんなモン」

――ああ、今度はそれか。蹴っても殴っても反応しないなら、言葉で泣かせてみようって? 本当に御苦労な事だ。無抵抗の子供を泣かせる事に躍起になるなんて、この方たちはどこまでご立派な大人なのだろうか。何とも素晴らしい事に、この街にはこいつらと大差ないレベルの大人が腐るほど溢れかえっている。どいつもこいつもワンパターンで同じ様に頭が悪い。だから、僕は連中が次にどんな反応をするのかも予測済みだ。

「――“織田信長”、だ、そうだ」

「ちょ、お前それマジかよっ!?ひゃは、ひゃはははっ、やべぇ、それ反則! ちょっとオモシロ過ぎんだろ! ここ最近に聞いたジョークじゃ一番ウケるんですけど!」

「くく、名前負けもここまで来るといっそ哀れだな。腰抜けには勿体無さ過ぎる名前だ。この体たらくじゃあ親も泣いているだろうさ」

 馬鹿が、何を見当違いな事を。あの女が泣いてたまるものか。アレがこの場に居合わせたところで、せいぜい笑い転げて涙を流すのが関の山だろう。両親が一体何を考えて出生届の名前欄を埋めたのか、知らないし知りたくもない。ただ間違いなく言えるのは、あの女が僕の名前に対して何一つ責任など負う気が無いという事だけだ。所詮、血が繋がっているだけの他人。僕があいつを母親と思っていないように、あいつは僕を息子だと思っていない。僕が路傍で血反吐を吐いて野垂れ死んだと聞けば、あの売女はきっと諸手を挙げて喜ぶだろう。

 それにしても――織田信長。織田信長、織田信長! ああ全く笑える冗談だとも。最上級の皮肉だ。もしも僕が“こんな風”になると判った上で名付けたのなら、その底知れない悪意にはいっそ感服するしかない。毒の利き過ぎたブラックジョーク。死にそうなくらいに。死んでしまいたいくらいに。

「しっかしこのガキ、本当に何も反応しやがらねぇな。おらおら、さっさと土下座して謝ってみろよ。オニーサンも鬼畜じゃねーからよぉ、誠意込めてゴメンナサイって言えれば許してやんぜ?」

 見え透いた嘘を吐くな、低脳。お前等みたいな連中の考える事は分かっているんだ。何十回も繰り返せば、痛みと共に体に刻み込まれれば、どんな馬鹿でも記憶する。お前達はいつもそうだ。どれだけ泣き叫んでも。地に額を擦り付けて謝っても、心を焼き切りながら哀れみを乞うても、お前達はやめない癖に。ますます調子付いて、自分の優位を確信して、耳障りな笑い声を上げながら僕を痛め付けるだけの癖に。

 だから、僕は泣かない。涙なんてもう流し尽くした。僕は謝らない。心を削ってまで謝るべき理由なんて何処にも見当たらないから。悲鳴なんて間違っても上げてやるものか。いまさらお前達程度の中途半端な暴力で悶えるほど生温い環境で生きてはいない。お前達みたいな浅ましい輩が喜んで喰らいつくような餌など、何一つとしてくれてはやらない。それが、それだけが、僕に残された抵抗の手段だ。理不尽と闘う為の力が無いならば。せめて精神だけでも、屈する事無く、果敢に。それが僕の矜持だ。

「……」

――果敢?矜持?それこそお笑い種だろう。お前はただ、諦めてるだけじゃないか。

 うるさい。

――お前はただ、這い蹲ってやり過ごす事しか出来ないだけだろう。現実を見ろよ。心の中で何を偉そうに吼え立ててみたところで、お前は所詮、惨めったらしい負け犬さ。

 うるさい。うるさいうるさいうるさいっ!

 そんな事は。

 そんな事は―――、分かってる。

「ひゃひゃ。なぁノブナガ君よ。つまらねぇ意地張らずにいい加減、思いっきり泣き喚いてみろよ、なぁ」

「……」

「そーすりゃさぁ。もしかすっと、心優しい正義のヒーローが助けにきてくれるかもしれねえぞぉ?」

 げらげらと品性と知性に欠けた笑い声が頭上から降り掛かる。僕は、思わず心中で失笑した。

――ヒーロー。強きを挫き弱きを助ける正義の味方。

 ああ、そういう概念が存在するという事は知っている。現実には何ら関わりのない虚構として、イメージの中にだけ存在を許された幻想。僕にとっては本当に、ただそれだけのものでしかないが。真に実在すると信用させたいのなら――今に至るまで、僕が助けを求めた時に一度でも駆け付けてみせれば良かったのだ。何度でも何度でも何度でも何度でも、“弱きを助ける”チャンスはあった筈なのだから。

――ヒーローは居ない。正義が勝つなんてのは大嘘だ。いつだって世界は残酷で、人は汚い。

 そう悟ってから、僕は助けを求める事を止めた。ありもしない希望に縋ってみたところで、待っているのは永遠の如く延々と続く絶望だけ。夢を見せるだけ見せて、現実という地獄に突き落とされる人間の気持ちなんて何一つ考慮していない。無責任で、罪深い輩。それがヒーローとやらの実体だ。

 否定したいなら、行動してみせろ。今すぐ此処に現れて、偉そうに掲げる正義とやらを行ってみせろ。

 もしも、お前ヒーローが本当に居るのなら――僕を、助けてみせろよ。

 絶望と諦観に彩られた呪詛を世界へと吐いた、その時だった。


「こらーっ!なにやってるんですかっ!」


 街に降りた薄闇を切り裂いて、不意に響き渡ったのは――

 幼さに不釣合いな凛々しさと鋭さを宿した、白刃の如き声音。


「義をみてせざるは勇なきなり! わたしが通りかかったからには、悪しきしょぎょうはだんじて見過ごしませんよ!」

「……あ?何だ、この餓鬼……」

「はやくその子からはなれなさいっ!」
 
 思いがけず繰り出された場違いな台詞と、前触れも無く現れた闖入者。その存在に戸惑いを隠せない様子で、男達は遠慮容赦の無い暴行を中断した。僕は顔面を庇っていた腕を下ろし、砂埃に汚れた顔を上げる。そして、“その少女”の姿を視界に捉え――大きく目を見開いて、絶句と共に硬直した。

 眩しい。

 第一印象はその一言に尽きた。何が、とは言わず、まさしく、何もかもが。人形と見紛うばかりの白磁の肌も、薄闇に在って尚美しい鴉の濡れ羽色の髪も、真っ直ぐな意志の煌く黒耀の瞳も。彼女を構成するあらゆる要素が、汚泥に塗れた己とは縁遠い“綺麗なもの”で形作られているような。尊く貴く侵し難い神聖なものであるかのような、それは抑えがたい畏怖の感情。

――何だ?僕は、何を考えている?

 電流の如く脳裏を駆け巡った、あたかも雷に打たれたように激烈な衝撃は、その訪れと同様、唐突に過ぎ去った。呆けて数瞬ほど意識を飛ばしていた自分に気付き、目の前の現実へと意識を引き戻す。

 外見や雰囲気から筋者と一目で判る男二人を目の前にして一切の恐れを窺わせず、少女は凛と背筋を張って佇んでいた。顔立ちや背丈から推測するに、年頃は僕とそう変わらない。つまりは小学校の、それも低学年。そんな幼い女子が恐怖ではなく怒りに眼を輝かせ、悪漢に立ち向かう武士の如き堂々たる態度で暴力団員と相対している眼前の光景は、眩暈すら覚える程に非現実的なものだった。少女が小柄な体躯に背負っている無骨な木刀の存在もまた、その感覚に拍車を掛けている。少女の外観が抱えるちぐはぐさは、初見の衝撃が過ぎ去ってしまえば、いっそ滑稽にすら映った。

 そんな僕の感想は、遺憾な事に、頭上の男達のものとさほど食い違う事は無かったらしい。困惑から立ち直った二人組は、今やニヤニヤと下劣な笑みを浮かべて少女を見遣っていた。

「おやおや、これは可愛らしい嬢ちゃんだな。道にでも迷ったのかい?へへ、何ならオニイサン達が送ってあげようかぁ?」

「人の道に迷っているのはあなたたちです!自分のおこないが恥ずかしくないんですか!?」

 一喝が轟き、凛たる音声が薄闇に包まれた公園を伝播する。少女の怒声は、到底幼子のそれとは思えぬ気迫に満ちており、思わず身が竦む程に苛烈だった。爛々と輝く瞳の奥底にある感情は、一片の曇りも見当たらない純粋な正義感と、何処までも清廉さに充ちた義憤。男達は思ってもいなかったであろう反撃に数瞬ほど言葉を失い、そしてすぐに、気圧された自分を誤魔化すようにヘラヘラと余裕の態度を取り繕った。

「あんね?嬢ちゃん、何か勘違いしちゃってるみてーだけどね、コレはちゃーんとした躾なの。手癖が悪いっつー評判のワルガキをわざわざ矯正してやってんのよ。本当は俺らも心が痛くて痛くてたまんねーんだが、少年の将来を思い遣って心を鬼にしてるワケだ。いわゆる愛の鞭ってヤツ。つっても、お嬢ちゃんにはちょーっとムズカシイ話だったかね?」

「……」

「悪い事をしたら叱られる。アタリマエの事っしょ?俺らはね、前途ある少年が二度と盗みなんて非行を働かねーようにっつー願いを込めて――」

「――たとえ、どんな理由があったとしても」

 男が嘯く白々しい言葉を、静かな声音が有無を言わせず断ち切る。

 男達を見据える双眸に刃の鋭さを湛えながら、少女は儚げな外貌に見合わぬ大喝を轟かせた。

「力にて弱者を虐げる者はこころなき邪悪!森谷の剣は義を護る刃、めのまえの悪を許しはしません!!」

「――ッ、このガキ、優しくしてやりゃ調子付きやがって!てめぇも躾けて欲しいってんなら――」

 元より、所詮は上辺だけの余裕と忍耐。気迫に満ちた一喝を受けた男は、乏しい理性をかなぐり捨てて獣の本性を剥き出しにする。今にも少女に掴み掛かろうとしていた男を制止したのは意外な事に、二人組の片割れだった。

「待て!この小娘……、“森谷”と言ったぞ」

「あァん!?だから何だってんだ。邪魔してんじゃ――」

「落ち着け。頭を冷やして思い出してみろ。いいか、この小娘は、森谷を名乗ったんだ●●●●●●●●●。その意味を良く考えろ」

「……、モリヤってーとまさか、あの森谷●●●●かよ……?いやいや、んなバカな」

「確か、一人娘がいると聞いた。それに、この噛み付き方といい背中の得物といい――いかにもそれらしいと思わないか?」

「……マジかよ。おいおい、面倒くせー事になったな。どうすんだこれ」

 困惑した様子で顔を見合わせている男達を見上げ、僕は内心首を傾げた。少女の言動と立ち振舞いは想像を超えたものだったが、それよりも不可解に映ったのはむしろ男達の反応の方だった。所詮は下っ端の小物とは言え、仮にも一大組織の勢力をバックに有する筋者二人が、僕と同年代の少女を相手取る事に対し、明らかな躊躇の色を見せている。どう考えても異常な光景だった。

――森谷。それが、キーワードか。

 聞いた事は無いが、或いは有力者の家名なのかもしれない。いかに末端の構成員とはいえ、堀之外の裏社会における最大勢力の一つである朝比奈の人間をこうも動揺させる名前。十中八九、相当な力を持っている筈だ。もしかすると正義のヒーロー集団とやらかもしれないな、と皮肉交じりに思考する。人知れずこの世の悪と戦う正義の味方たち。なんとも夢があって素晴らしい話だ。

「相手が相手だ。俺達だけの判断で勝手をやる訳にもいかんだろうな」

「だけどよぉ、クソガキに舐められたままで済ませるってのはねぇだろ。組の面子ってモンが――」

「冷静に考えてみろ。こんな毛も生えていないガキどもを相手に、俺達が無駄なリスクを負う必要があると思うか?」

「……ちっ。胸糞悪ぃ、が、仕方ねぇな。いくらなんでも森谷はヤベェ」

 正体は判らないが、少なくとも朝比奈の連中にとって、少女が口にした名はよほどの脅威であるらしい。二人組の意見が統一されるまでに殆ど時間は要さなかった。とはいえ二人組の片割れ、野卑な粗暴さを全面に漂わせた男はプライドをいたく傷付けられた様子で、屈辱と怒りに燃える目で少女を睨み付ける。

「けっ!せいぜいイカれ野郎の両親に感謝しとくんだな、クソガキが」

「わたし、父上と母上への恩をわすれたことはありませんよ?“考”をないがしろにしては武士しっかくなのです」

 ドスを利かせた男の捨て台詞に対して、少女は毅然たる態度でどこかズレた答を返す。男は苛立たしげに舌打ちを落とし、そして最後のストレス解消とばかりに足元の“玩具”――つまり僕の横腹を蹴り飛ばしてから踵を返した。喉へとせりあがる嘔吐感との必死の格闘に辛うじて勝利を収め、痛みを堪えながら顔を上げた頃には、二人組の背中は公園の外へと消え去っていた。

「……」

「……」

 そして、僕と、正体不明の少女だけが、静寂の戻った公園に残される。沈黙の漂う中、僕はひとまず身体を起こす事にした。じっとこちらを見つめる少女の視線を意図的に無視しながら、座り込んだまま自分の状態を確認する。暴力の余韻は全身を襲う痛みという形で残っているが、特別な処置が必要になるようなダメージは見受けられない。骨折の類は皆無で、どうやら歯も折れてはいない。精々、口内の切り傷が少々と、擦過傷及び打撲痕が数箇所に残る程度。要するに、“いつもの事”だ。最も処置が面倒なのは破れた衣服の修繕だな、と冷めた頭で考え始めたところで、遂に沈黙が破られた。

「あの。えっと、だいじょうぶですか?」

「……別に。僕はこれくらい、慣れてる」

 突き放すように発したつもりの声は、意図に反して酷く嗄れて、弱々しいものだった。そこで僕は、自分が“言葉”を口にしたのが随分と久し振りだった事を思い出した。考えてみれば当然だ。言語というツールを用いて会話を交わすべき相手が、自分の周りには誰一人として居ないのだから。自虐的な考えに浸っている僕に、少女は白い頬を紅潮させながら言い募った。

「でも、こんなにケガしてるじゃないですか!やせがまんはダメですよっ」

「……うるさいな。お前、医者なのか?僕は自己管理が得意なんだよ。僕の事は僕が一番分かるんだ」

――そうだ。結局、僕の事は僕にしか分からない。

 ひんやりと冷たい土の上に座したまま、無気力に少女を見上げた。薄闇に浮かび上がるのは、大和撫子という言葉を全身で体現したかのような、さながら日本人形を思わせる立ち姿。恐らく自分とさして年齢の違わないであろうこの少女は、あたかもヒーローの如く颯爽と現れ、最初から最後まで敢然たる態度を貫いて悪者を追い払ってみせた。それに較べて、僕はどうだ? 痛みを堪え、屈辱に耐え、悲鳴を押し殺して嵐が過ぎ去るのをただ待つ事しか出来なかった、無力な敗北者だ。連中のような社会の寄生虫に対してすら抵抗を許されず、為すがままに蹂躙されるしかない、屑以下の存在だ。

――だから。

「余計な心配に意味は無いし、同情の押し付けは迷惑なだけだ。そんな事は、誰も頼んじゃいない」

 だから――これ以上、僕を、惨めにさせるな。

 汚れ一つ無い清潔な身形。濁り一つ無い清純な双眸。何よりも、臆する事無く理不尽に抗える勇気と、それを単なる無謀で終わらせないだけの力。少女の総てが、住まう世界の違いを実感させる。直視に堪えない程に眩いからこそ、その輝きに触れる度に、自分がいかに取るに足らない存在であるか、逃れ得ない現実を突き付けられる。それは精神を鑢で削り取られるような、恐ろしいまでの苦痛だ。既に慣れ親しんだ肉体への暴力には耐えられても、内から心を焼く痛みに抗う術は無い。

「連中を追い払ってくれた事には感謝する。けど、もう僕には関わらない方がいい。それがお互いの為だ」

 感情を載せずに淡々と言って、僕は立ち上がった。未だ鈍痛の抜けない肉体が軋みと共に悲鳴を上げるが、全て黙殺する。例えどれほどの無茶を重ねる事になっても、この少女の傍に居続ける苦痛よりはマシだ――そんな痛切な感情が身体を鞭打った。

「まってくださいっ!まだお話は、」

「あいにく、話す事なんて何もない。もう一度言うぞ――僕に、関わるな」

 明確な拒絶の意志を言葉に載せ、視線に込めて真正面から叩き付ける。少女は一瞬だけビクリと震え、華奢な体を強張らせて、驚いたように目を見開いた。そんな予想通りの反応に昏い満足感を覚えながら、心中にて自虐的な呟きを漏らす。

――ほら。所詮、こんなものさ。

 これだけだ。身辺から人を遠ざけるには、ただこれだけでいい。他者との縁を断ち切るのは、こんなにも容易い。当然だ――この織田信長という“人間以下の何か”は、最初からそういう風に出来ているのだから。忌まれ、疎まれ、嫌われ、憎まれ、恐れられ、拒絶され、排斥される。それが自然な在り方なのだ。何も不思議は無い。摂理に抗っても仕方が無い。諦める他に、道は無い。

――どうせ。僕は所詮、こんなものだ。

 名も知らぬ異界の少女に背中を向けて、僕は足早に公園の敷地外へと出た。そのまま歩調を緩める事無く、どころかますますペースを上げながら、自宅を目指して街路を突き進む。気付けば早足は駆け足となり、やがて脇目も振らない全力疾走に変じた。何かから逃げ惑うように、灰色の街並みを駆け抜ける。内から鳴り響く鼓動の激しさに追い立てられるように、酸素を求めて喘ぎながら無理矢理に走り続ける。当然の如く数分後に力尽き、息も絶え絶えに路傍へとしゃがみ込むまで、無思慮な疾走は終わらなかった。

「……、……ちくしょう」

 微かな、誰の耳にも届かない程に微かな震え声が、血の滲んだ唇から零れる。何がこうも心を掻き乱すのか、理由は分からない。ただ、何故か、途轍もなく、悔しかった。

 ……。

 ……だが。

 こんな心地の悪さに苛まされるのも、これが最後だ。そもそもが偶然の邂逅、もう二度と顔を合わせる事もないだろう。たとえ再び出遭うことがあったとしても――縁を既に断ち切った以上、関わり合う事は有り得ない。だから、結局は今までと同じ。僕は誰にも影響せず、誰にも影響されない。


――僕の世界には、僕一人が居るだけだ。これまでも、これからも。いつまでも、どこまでも。








※※※




――ところがどっこい、である。昔日の俺が抱いた稚拙な未来予想を痛快なまでの見事さで裏切って、森谷蘭は思いのほか早い段階で再び織田信長の人生に関わってくる事になる。

 俺達が俗に言う“運命的な再会”とやらを果たしたのは、互いの名前も知らないまま夜の公園で別れた、まさにその翌日の事だった。

『ほんじつからこのクラスでおせわになる、森谷蘭ともうします!どうぞよろしくお願いしますっ!』

 見事な達筆で黒板に名前を書き記し、活力の迸るような挨拶の声を張り上げる少女の姿を目の前に、あの瞬間ばかりは俺の頑なな無表情も思わず崩壊していたに違いない。それは見間違えようもなく、つい昨晩に遭遇した謎の少女と同一人物だった。転校生という訳ではなく、“一身上の都合”今まで休学しており、本日から復帰する事になった――といった旨の説明を呆然と聞き流している内に、少女の席はあろうことか俺の隣に決定していたのだった。

『昨日はわたしがちょっとびっくりしてるうちに行っちゃいましたけど、ちゃんとまた会えて良かったです!わたしたち、おなじ学校で、しかもクラスメートだったんですね。またまたびっくりです』

『きちんと学校にかようのは今日がはじめてで、まだともだちもぜんぜんいなくて。というわけで、えと、その、ふつつかものですがよろしくお願いしますっ』

 少女――蘭は、何の屈託もなく、朗らかな調子で俺に話し掛けてきた。恐怖や嫌悪といった負の感情を欠片も窺わせない無邪気な態度に、俺は大いに戸惑ったものだ。同年代の子供達はおろか、大人ですら無差別に怯え竦ませる織田信長にとって、蘭の示した友好的な態度はむしろ異常なものとして映った。その態度がつい昨晩、明確な拒絶を叩きつけたばかりの相手のものとなれば尚更だった。

 まあ、今になって振り返ってみれば、蘭が俺を恐れなかったのは当然の話である。当時の俺は己の才を自覚しておらず、従って現在のような氣のコントロールを習得していない。故に、常に周囲へと殺気を垂れ流している状態であり、それこそが万人に忌避される原因となっていたのだ。しかし、蘭は一般人とは異なり、幼少の頃から内気功を習得し、殺気への物理的な抵抗力を備えていた。故に、未だ磨かれぬ原石に過ぎなかった無意識の威圧程度では、蘭には何の影響も与える事は適わなかった訳だ。

 だがしかし、未熟極まりない昔日の俺にそんな事情が理解できる筈もない。欠片も想定もしていなかった事態を前にひたすら惑うばかりだった。偉そうに孤高を気取ってはいても、所詮は人付き合いの仕方も何一つとして知らず、見下すか疑うか、いずれかの目線でしか相手を捉えることの出来ない、派手に性根のひん曲がったクソガキ――恥を偲んで明言すれば、当時の俺はそんな可愛げの行方不明な子供だったのだ。自分の事ながら、あそこまで屈折した性格の持ち主というものは他に知らない。どうしようもなく自虐的で、コンプレックスの塊である反面、奇妙な程にプライドだけが肥大化している。そんな歪み切った人格を遺憾なく発揮して、ニコニコと元気溌剌に語り掛けてくる蘭に対し、ただひたすらに拒絶的な態度を貫いた。理由は色々とあったように思うが、根本的な要因はおそらく、森谷蘭という少女を一目見たその瞬間から胸に抱いていた、強烈な劣等感だったのだろう。“眩しい”、と、確か俺はそんな風に感じていた筈だ。その眩さに接すれば接するほど、己の惨めさもまた克明に照らし出される事になる。それを俺は何よりも恐れていた。だからこそ、俺は焦燥の内に蘭を遠ざけようと考えたのだ。

 しかし、蘭は俺がいくら邪険に扱ったところで、全く堪えた様子もなく、毎日のように俺に話し掛けた。理解に苦しむ行動としか言い様がなかった。他に話す相手がいないという事なら納得も出来るが、現実は違った。夏の向日葵のように明るく朗らかで、それでいて礼儀正しく、誰彼となくクラスメートの世話を焼いて回る蘭は、瞬く間にクラスの中心人物となっていた。そんな姿がますます俺の劣等感を刺激し、より一層蘭への態度を頑なにさせる事になったのだが、当の本人は気に留める様子もなく、至って相変わらずの無邪気さで俺に接し続けた。それは、蘭なりの正義感の表れだったのだろう。蘭の行動基準はいつも、己の“義”に根ざしていた。強きを挫き弱きを助く――おそらくはそれが、蘭にとって最も重要な価値観だった。故に、目の前で苦しんでいる“弱者”を見過ごせない。故に、織田信長という“弱者”を見過ごす事が出来なかった。蘭にしてみれば、理由などそれだけで十分だったに違いない。

 蘭は俺の身辺を取り巻く事情について殆ど知らなかったが、夜の公園で朝比奈の連中と言葉を交わした事で、少なくとも幾つかの断片的な情報を把握していた。例えば、俺が日常的に窃盗を繰り返して糊口をしのいでいる事実を、蘭は知っていたのだ。だからと言ってその事について蘭が俺を殊更に糾弾する事は無かったが、ただ、悲しげに眉を下げて、静かに問い掛けてきた事を良く覚えている。

『ただわたしは、お話を聞きたいんです。わからないから、知りたいんです。あなたはどうして、ひとのものを盗んだりするんですか?……そんなことをしても、みんなが不幸になるだけなのに』

 そして、その問いを、俺は冷笑と共に黙殺した。

――どうせ、お前みたいな“お嬢様”には理解できないさ。

 芯を通した様に真っ直ぐ伸びた背筋と、年齢にそぐわない丁寧な口調。蘭の日頃の立ち振舞いは、確かな気品を感じさせるものだった。クラスメート達の幼稚な有様と見比べればその差は一目瞭然だ。生まれた時から厳格な教育を受け続けていなければ身に付かないであろう物腰。その割に垣間見せる妙にズレた行動や世間知らずな言動から考えて、どこぞの名家の箱入り娘といったところか。家名を聞いただけで朝比奈のゴロツキが引き下がった事を思えば、有力な武家の息女なのかもしれない。何にせよ――貧困の意味を身体で実感するような生活とは無縁なのだろう。だからこそ、そんな台詞●●●●●を口にする事ができるのだ。一晩の飢えを凌ぐため、カラスに混じって外食店の残飯を漁り、人目に怯えながら盗みを働く事の惨めさを知らない人間に、元より理解など適う筈が無い。――と、俺は昏い嫉妬心を胸に抱きながら、そんな風に考えた筈だ。織田信長にとって、森谷蘭の全ては憧憬の対象であると同時に、抑え難い憎悪の対象でもあった。温かく裕福な家庭に生まれ育ち、仲の良いクラスメート達の笑顔に囲まれ、常に活力に溢れて生命の輝きを放つ少女。どうして自分はあんな風になれなかったのか、と独り世の不公平を呪っていた。

『えへへ、蘭おてせいの“さくらもち”です!ついさいきん、母上につくりかたを教わったばかりなんですよ。えんりょはいりませんよ、わたしたち、おともだちなんですから。さぁ、どうぞめしあがれ!』

『……なんのつもりだよ、お前』

 だからこそ、蘭の取った行動は、結果的に俺の神経をこれ以上無く逆撫でする事になった。俺が窃盗を繰り返す背景に家庭の貧窮具合を見たのであろう蘭は、ある日の昼休み、おもむろに一つの可愛らしいプラスチックケースを差し出してきた。なるほど、それは確かに、実にシンプルで判り易い解決法であった。実際問題、腹が膨れさえすれば、リスクを犯して物を盗む必要など無い。この世からは悪行が一つ減り、惨めな少年の荒み切った心も救われて万事解決、皆が幸せで目出度し目出度しと言う訳だ。蘭のそれは疑い様も無く純粋な善意から出た振舞いで、本来ならば咎められるような行為ではない。しかし、少なくとも当時の俺にとっては、蘭の振舞いはどこまでも腹立たしいものであった。

『僕に情けを掛けてどうしようって言うんだ?恩を売ろうって?それとも感謝されたいのか?何にしても、自己満足のために僕を利用するな。虫唾が走るんだよ』

――哀れまれた●●●●●

 それこそが、俺にとって最も耐え難い事実だった。いかなる暴力よりも痛烈に心を引き裂く、残酷な仕打ちとしか受け止められなかった。

『何が、友達だ。初めから対等だとも思っていない癖に、笑わせる』

 織田信長という少年は、誰も彼もを嘲笑い、見下し、拒絶する一方で――その実、誰よりも強く、“友達”というものを欲していた。他者から愛された記憶を一つとして有さないが故に、無意識の中、心で繋がれる誰かを求めていた。だから、自分を恐れようともせず何度となく語り掛けてくる蘭については、邪険に扱いながらも、心の何処かで何かを期待していた。だから、だからこそ、他ならぬ蘭から向けられた善意を“哀れみ”や“施し”と解釈して、激しい怒りと失望を覚えた。仮に自分が己以外の何者かに世界を開くとすれば、それは互いに対等な友であって欲しいと、そう願っていたが故に。酷く独り善がりで、自分勝手で、傍から見れば滑稽でしかない意地だが――俺は、昔の自分を嘲笑う気にはなれない。

 それほどまでに、孤独だったのだ。何もかもを疑って掛からずにはいられなくなる程に、俺は他者に虐げられ続けてきた。裏切られる事を恐れるからこそ、確かな保証が欲しかった。予め己の定めた理想を相手に求めずにはいられなかった。

『僕を出汁にして“正しいこと”をするのは、さぞかし気持ちが良い事だろうな。……お前も朝比奈のゴミ連中と同じだ。上から目線で見下して、好き放題に自分のエゴを押し付ける。冗談じゃない。ふざけるなよ。僕は――僕は、お前達●●●の手前勝手な欲望を満たすための道具じゃないっ!』

 気付けば、込み上げる激情のままに怒鳴り散らしていた。自分の感情を面に出したのは実に数年振りで、あそこまで激発したのは或いは人生で初めてだったかもしれない。同時に発動したであろう“威圧”の影響で、一瞬にして教室中の喧騒が途絶え空気が凍り付いた。クラスメート達の向ける恐怖の視線が突き刺さる中、俺は射殺すように凶猛な視線を蘭へと向けていた。今度こそ、俺は完全な形で蘭を拒絶し、縁を断ち切るつもりだった。

 しかし、蘭は。顔色一つ変えることなく俺の激情を受け止めて、ただ一言、窘めるように言った。

『もう、そんなこわい顔しちゃダメです』

 弟の悪戯を見咎める姉のような表情で、蘭は静かに俺を見返した。その目の中には恐怖も忌避も嫌悪も、憐憫の色も見当たらない。黒曜の瞳の奥底で、純粋無垢な善意だけが眩く煌いていた。

『ほらほら、とってもおいしいですよ?食べずギライは悪い子のはじまり、なのです』

 何事も無かったかのような笑顔で尚も語り掛けてくる蘭に対して、当時の俺が何を思ったか。正直な所を言えば、良く覚えていない。正体の判らない動揺と混乱に見舞われ、無我夢中で教室から飛び出して蘭の眼前から一目散に逃げ去った、その顛末だけは朧げに記憶している。

 何故そんな行動に走ったのかと具体的に問われれば答えに窮するが、強いて明確な理由を探すならば、森谷蘭という少女のどこまでも真っ直ぐな眼差しを目にして、羞恥にも似た居た堪れなさを感じずにはいられなかったのだろう。その結果、俺は午後一杯教室に戻る事が適わず、記念すべき人生初の授業サボタージュを体験する事になった訳だ。

『今日のできはわれながら“さいこうけっさく”と自負しているのです!ほっぺたが落ちるくらいおいしいことうけあいなのです!』

『むむむ、今日もダメですか。……そういえば、おとこのこはみんな意地っぱりではずかしがり屋さんだって母上に教わりました。なるほど、つまりこういうことなんですね。蘭はまたひとつおとなの階段をのぼりました!』

 しかしまあ、クラスメートである以上はそうそういつまでも逃げ回れる筈もない。その後も蘭は毎日のように手作り和菓子を持ち込んで、屈託のない笑顔で俺へと押し付けた。無視しても睨んでも皮肉を投げ掛けても、一向に堪えた様子もなく、恐ろしい程の根気強さを発揮して俺と向き合い続けた。傍目には奇妙奇天烈で、変わり映えのしない光景が昼休みの恒例行事になってきた頃――とある出来事が起きた。

 切っ掛けは些細な偶然。“日課”を終えた後、帰宅の最中に蘭の後ろ姿を見掛けた俺は、ちょっとした好奇心からその後を尾ける事にした。かの忌々しい朝比奈組に対して少なからず影響力を有すると推測される“森谷”とはいかなる家なのか、知識を仕入れておいて損は無いだろう、と思い立ったのだ。毎日毎日手作り和菓子なぞという贅沢品を娘に持たせられるような家庭だ、さぞかし裕福に違いない――あの腐れた我が家と違って。そんな僻みっぽい予測は、しかしほどなくして粉々に砕け散る事になった。

 廃屋――と、それ以外に形容の術が見当たらない、風雨に晒されボロボロに朽ち果てた家屋。住宅街の片隅にひっそりと佇む、一見して無人としか思えない程に荒廃した小さな一軒家が、森谷蘭の住居だった。念のためにと確認した表札には、見事な達筆で間違いなく“森谷”の二文字が記されていた。驚愕と混乱に見舞われたままその場を立ち去り、寝床たる押入れの中で眠れない一晩を過ごし、そして翌日、俺は蘭に家の事を問い質した。蘭は特に動揺したような素振りもなく、むしろ俺の方から話し掛けられた事が嬉しいのか、にこにこと笑顔を浮かべながら語り始めた。曰く、武家たる森谷家の棟梁として食い扶持を稼いでいた父親が、数年前に突如として重い病に倒れた事。生まれつき身体の弱かった母親は夫の看病と家事を両立する事が限界で、到底働きに出られる状態ではない事。それが原因で、現在では日々の三食すら侭ならない程に貧窮した生活を送っている事。一切の悲愴さを窺わせない朗らかな調子で、蘭は自身の逼迫した家庭事情を打ち明けたのだった。

『武士は食わねど高楊枝。それが森谷の家の家訓がひとつ、なのです』

 恥じ入った様子も無く、蘭は澄まし顔で言ったものだ。昔日の俺が外面の印象から蘭を“お嬢様”だと誤解したのは、どうやらその時代錯誤な家訓とやらのお陰だったらしい。つまるところ、俺はそんな実体のないものに対して妬み嫉みを抱き、挙句の果てには見下されただの何だのと勝手に憤慨していた訳だ。馬鹿馬鹿しいほどに滑稽で、愚かしい。毒気を抜かれて思わず黙り込んでいた俺に向けて、蘭は真面目な表情で言った。

『おなかがへっては戦はできません。わたし、それをよくしっているんです。だから――』

 これを食べて元気になってください。そうしたらきっと、たたかえるようになりますから。

 俺の眼を真正面から覗き込んで、蘭は励ますようにその言葉を紡いだ。それは決して哀れみや同情の込められた言などではなく、むしろ叱咤激励に近い類のものなのだと、その時になって初めて気付いた。身の上の不幸を言い訳にして立ち止まっているんじゃない、と、強烈に背中を叩かれたような心地。

 織田信長はいつでも他者からの哀れみを嫌い、拒絶してきた。全ては自らのちっぽけなプライドを守り通すために。だがその実、誰よりも自分を哀れんでいたのは、自分自身に他ならなかっただろう。自分は結局のところ、自己憐憫に浸る事で眼前の現実から逃げ出していた弱虫に過ぎなかったのだ、とようやく思い至った。それは、堅く心を覆い尽くしていた頑強な殻が、僅かながらとはいえ確かに破れた瞬間であり、俺にとっては大き過ぎるほどに大きな一歩だった。

 俺は改めて……否、おそらくは初めて、森谷蘭という少女に真正面から向き合った。斜に構えることなく、上から見下ろすのでも下から見上げるのでもなく、ただ正面から真っ直ぐにその在り方を見つめた。そうすれば、自ずと理解が及んだ。小難しく考える必要など何一つない――こいつはそういう奴●●●●●なのだと。呆れるほどに善人で、信じられないほどのお人好し。それでいいではないか。肩肘を張っていちいち疑って掛かる事こそ馬鹿馬鹿しい。そんな風に、思えた。

『ふん、仕方ないな。……ただし、言っておくが感謝を求めるなよ。食用に耐え得る味だという保障なんてどこにもない危険物をわざわざ試食してやるんだから、むしろ僕が感謝して欲しいくらいだ』

 そんな憎まれ口を叩きながら、蘭の手から和菓子入りの容器をひったくるように受け取った。輝きを放つような満面の笑みで見守る蘭の視線を強いて意識の外に締め出しつつ、不恰好な形の桜餅を無造作に口に放り込んで、噛み締める。俺が人生の中で初めて食した和菓子は、甘さと塩辛さが混在した奇妙な味だったが――それが果たして蘭の未熟が招いた調理ミスであったかどうかについては、まあ、ノーコメントという事にしておこう。

 何はともあれ、そうした七面倒で迂遠な顛末を経て、織田信長にはようやく一人の友人が出来た訳だ。相変わらずクラスメート達からは遠巻きにされていたが、これまでのように邪険に扱われなくなったのがよほど嬉しかったのか、蘭はますます高い頻度で俺に話し掛けてくるようになった。記憶が正しければ、互いの呼び方が定まったのはこのタイミングだった筈だ。

『いいか、何度も言わせるな。僕は自分の名前が本気で嫌いなんだ。呼ばれるだけで苛々して仕方ない』

『えー、でもでも、もったいないですよ。とっっってもすばらしい名前じゃないですか! ねがってもえられませんよっ!』

『ふん。所詮は他人事だからそんな事が言えるんだよ。お前だって自分の姓名が和泉式部だとか北条政子だったら嫌がる癖に、よくも抜け抜けと』

『わたしはべつにイヤじゃないですけど……。うーん、じゃあ、えーっと。信、しん、シン……そうだ、シンちゃん!これからはシンちゃんってよびますね!』
 
『――シン、か。僕の存在そのものが、罪。くく、なるほど、言い得て妙じゃないか。お前にしては悪くないネーミングセンスだ』

『?? えっと、ちょっとなにいってるかわからないです……』

『ふん、お前には理解出来ないだろうさ。それでいい。お前は僕と違って、光に生きるべき人間なんだろうからな』

『???』

 ……不覚にも最大級に痛々しい記憶を掘り起こしてしまったが、まあその辺は小学生ならばギリギリセーフだと言う事にして。若さ故の過ちを除いて考えても、当時の俺は皮肉屋で底意地の悪い、厭味ったらしいばかりで可愛げない子供だったように思うのだが、蘭は他のクラスメートと過ごす時間よりも俺との時間を優先していた。クラスの中心にいた蘭は、昼食の際は色々なグループを日替わりで巡っていたのだが、まともに会話を交わすようになってからは決まって俺の所に来るようになった。それでも特にクラス内で浮いたり孤立するような事態にならなかったのは、ひとえに人徳の為せる業というものだろう。

 初めて自分以外の誰かと時間を共有する中で、俺は思っていたよりも遥かに饒舌な自分を発見した。これまで行き場を見付けられず、脳内にて堰き止められていた幾千幾万もの言葉が、怒涛の如く一斉に溢れ出してくるような感覚。“会話”という行為そのものが楽しくて仕方がなかった。そして蘭は、そんな俺の話し相手を務めるに申し分のない人間だったと言えよう。同年代の誰よりも聡明で理解力に優れており、また義務教育に加えて両親から独自に教えを受けているという事で、幅広い分野に知識を有していた。共通点として特に歴史を好むという一致もあって、話題の種は尽きる事無く、気の向くままに延々と語り合っているだけで、時間は瞬く間に過ぎ去った。所謂、馬が合ったという奴なのだろう。

 兎にも角にも、俺と蘭が二人で過ごす時間は日を経る毎に長くなっていった。武家の娘である蘭は、基本的に放課後は武術の鍛錬に明け暮れているとの事で、当初は行動を共にするのは校内に居る間に限定されていたが、蘭得意の押しの強い誘いもあって、やがて平日の夜や休日の空いた時間を使って校外でも顔を合わせるようになった。待ち合わせ場所はいつも同じで、俺達が初めて出会った小さな公園。無駄に格好付けたポーズでジャングルジムに背中を預ける俺と、ブランコに腰掛けて楽しげに身体を揺らす蘭……そんなお決まりの構図で、俺達は色々な話をした。最近読んだ小説の話や、学校の宿題や試験に関する年相応の話から、和菓子作りの技術、世界各国の武術、古今東西の合戦に関する薀蓄といったおよそ子供らしくない話題まで。

 流石に十年以上も過去の事となると、話題に挙げた事柄の全てを記憶してはいないが――ただ一つだけ、細部に至るまで明晰に思い起こす事が適う会話があった。出会いから一ヶ月ほどが経った頃に、蘭の口から何気なく零れ出た話題。それはあくまで日常の延長にある、他愛も無い会話だ。故に俺は別段重く受け止めず、特別な感慨を抱くこともなかった。そう――少なくともその時点では、何も。










※※※







「将来の、夢?」

「はい! シンちゃんには何か、夢ってないんですか? おとなになってから就きたい仕事とか、なしとげたい目標とか!」

「……ふん。夢、ね」

 茜色の空の下、蘭はいつものようにブランコに腰掛けて、両足を交互にぶらつかせながら、ワクワクと期待に満ちた表情で返事を待っている。夕日に染め上げられた能天気な横顔をちらりと見遣って、僕は蘭の唐突な問いに対して思いを馳せた。

 夢。将来への希望・願望という意味における“夢”なるものを、僕は生まれてこの方、一度たりとも見た事がない。何故ならば、前途に見出すべき希望など何一つとして存在しなかったからだ。どこまでいっても、僕の人生は絶望の連続でしかない。ずっと、そう思っていた。夢も希望も無く、ただ惰性で延々と続いていくだけの人生こそ、僕という人間以下うまれそこないに用意された運命なのだと、諦めていた。

 しかし――

「?? どうしたんですか、シンちゃん?」

「いや、お前は相変わらず呑気な面をしていると思ってね。悩みが無さそうで何とも羨ましい限りだ」

「むぅ、なんだかぶじょくされている気がしてならないのです」

 ぷくーっとハムスターさながらに頬を膨らませた間抜けな顔に失笑を向けながら、目の前の存在について考える。このどうしようもないお節介焼きのお人好しと出会った事実は、こうして幾度となく共有している時間は、僕にとっての絶望なのだろうか?

 ……それは、違う。違うと断言できる。蘭が傍に居る事には、些かの苦痛も不快も伴わない。とうの昔に慣れ親しんだ暴力も憎悪も、この時間には存在しない。むしろ、僕にとっては信じ難い事に、平穏、安息と呼んで差し支えの無いものが、此処には確かにある。そういうもの●●●●●●を、僕という人間は感じる事が出来る。それは、驚くほどに新鮮な発見だった。

 ならば。もし本当に絶望以外のものが許されるのならば、僕は、“夢”を見てもいいのかもしれない。かつて真剣に考えようと試みた事すら無い、遥か未来に在る希望というものに、思いを巡らせてもいいのかもしれない。朝比奈の連中に、新田という男の鎖に縛られている限り、実現に至る可能性が限りなくゼロに近いのだとしても――戯れに“夢を見る”だけならば、許される筈だ。その程度なら、こんな僕にも。

「イジワルせずにおしえてくださいよぅ。わたし、シンちゃんのこと、もっと知りたいんです。ほらほら、はやくはやく」

「ああもう煩いな。毎度毎度、黙して待つという発想がお前には無いのか? 今考えているんだよ」

 膨らませた頬をそのままに迫る蘭を黙らせてから、思索に沈む。とは言っても、将来のヴィジョンなどそうそう簡単に浮かぶものでもなかった。別段、将来の職に繋げたいと願うほど熱中して取り組んでいる事柄も無い。それに、そもそも。

「……冷静に考えてみれば、僕がまともな職に就けるわけ無いじゃないか。人事担当を怯えさせて、一次面接で落とされるのがオチだ。はっ、お笑いだね」

 何をせずとも自動的に周囲を恐慌に陥らせるというこの呪いじみた性質が、成長に従って消えてくれる保障など何処にもない。というかむしろ、年を経るにつれてますます悪化していくような確信めいた予感があった。やはり僕の未来に待ち受けているのは絶望だけだというのだろうか。死にたくなってきた。

「ええとええと、まだまだしょーらいにぜつぼーするには早いのです!おとなになるころにはきっと、シンちゃんだけの天職が見つかりますから!」

 わたわたと慌てながら拙いフォローに入る蘭。そんなものが慰めに値する訳もなく、僕は鼻を鳴らした。

「天職ねぇ。映画俳優にでもなって悪役ヴィランを演じれば様になるかもしれないな。いっそハリウッドに売り込んでみようか?ふん、素晴らしいね。何とも最高のアイデアじゃないか」

 肩を竦めながら皮肉を飛ばしてやると、蘭は言葉の意味が解らなかったらしく、「びらん?」と小首を傾げている。やれやれだ、僕の小粋なトークに付いて来られないとはまだまだ精進が足りない。仕方がない、ここは僕が色々と教えてやるとしよう、と脳内にて今後のプランを固めながら、僕は言葉を続けた。

「別に僕の事はどうだっていいだろう。お前の方こそ、何か夢でもあるんじゃないのか?」

 そうでもなければわざわざ話題を振ってきたりはしないだろう。そんな僕の予測は正しかったようで、蘭は我が意を得たりとばかりに胸を張って、即座に答えた。

「わたしですか? わたしは――りっぱな“武士”にならなくちゃ」

 それは、奇妙な程の確信に満ちた台詞だった。浮付いた憧れや曖昧な理想などではなく、あたかも決まりきった事実を口にするかのような。鉄芯の如く頑強な決意を窺わせる宣言と共に、真っ直ぐ彼方を見据える蘭の目は、天上に向けて燃え上がる焔にも似た意志の煌きに満ち溢れていた。

「ふん……武士、ね。それはまた何とも。平成生まれの女子が掲げる夢とは信じ難いな」

「むむ、そんなことはありませんよ! むかしのように歴史のおもて舞台に立つきかいが減っただけで、武士はまだほろびてはいないのです!」

「ああもう解ったからいちいち怒鳴るな喧しい。現代でも武士の血筋が途絶えてないなんて事は、ここら一帯に住んでる人間なら誰でも知ってるよ」

 この川神という土地には、かの武神・川神鉄心を輩出した川神を筆頭に、遥か戦国の世から存続してきたと言われる武家が数多く集っている。詳しい所までは把握していないが、有名無名を問わず数え上げれば、その総数は相当なものになるだろう。よって、蘭のように幼くして武を嗜んでいる人間は、実のところそこまで奇異というか稀少な存在でもないのだが――こうも明確に“武士”なるものを将来の目標に挙げる少女となれば、中々お目に掛かる機会はない筈だ。というか、そもそも、だ。

「武士になりたいとは言ってもな……。それを口にするには、まず武士という言葉の定義から始める必要があるんじゃないのか」

 言わずもがな、身分としての士族は戦後には完全に廃止されており、そして現代社会に“武士”などと称される職業・立場は僕の知る限り存在しない。いかに武士の家系が存続しているからと言って、正真正銘の武士そのものが二本差しで街を闊歩している訳ではないのだ。強いて挙げるならば、剣聖と讃えられ、国から帯刀を正式に認可された唯一の剣術家、黛大成。個人的にはその存在に“現代の武士”というイメージに合致するものを感じるが……ならば蘭の目標もまた、そういったところにあるのだろうか。

「――君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」

 僕の疑問に対して返されたのは、あたかも祝詞を唱えるような厳粛な語調。それでいて、そっと胸元で抱き締めるような柔らかさを含んだ声音で、静かに眼を閉したまま言葉を諳んじる。普段の能天気さとは懸け離れた雰囲気に気圧されている内に、蘭はゆっくりと目を開き、凪いだ海面のような穏やかさを湛えた微笑みを僕へと向けた。

「武士で在ること。それを証立てるものは身分や血筋じゃなくて、生き様そのものなんです」

「……生き様」

「わたしはずっと、そんな生き様を父上と母上の背中に見ながら育ってきました。お二人こそ、正真正銘、ほんとうの“武士”だと。そう、わたしは思っています。わたしはいつか、その背中に追いつきたい。武士道を歩みつづけて、その先にいるお二人とならべるようになりたい。それが目標なんです。ずっとずっと見続けてきた、たったひとつの夢なんですっ」

 キラキラと瞳を輝かせながら語る蘭の顔には、一片の翳りも見当たらなかった。穢れの無い純粋な熱意を以って、心底から自身の“夢”を追い求めているのだろう。僕には到底、理解の及ばない姿勢だった。どこか居心地の悪さにも似た感覚を覚えながら、言葉を捻り出す。

「……ふぅん。早い話、親に憧れてるって事か。お前、よほど両親を尊敬してるんだな」

「はいっ! 父上も母上も、とぉーってもりっぱなお方ですから! シンちゃんは、ご両親みたいになりたいって思ったことはないんですか?」

「――……、さあ……、どうだろうな」

 返答を曖昧に濁さずにはいられない、僕にとっては少なからぬ苦々しさを伴う蘭の質問だった。森谷蘭は未だ、織田信長の家庭を取り巻く事情を知らない。家族を置き去りに蒸発した薄情な父親の事も、アルコールとクスリに溺れて虐待を繰り返す母親の事も、家庭に這入りこんで来た嗜虐趣味のケダモノの事も、僕は何一つとして蘭に伝えてはいなかった。わざわざ自分から口にしたくなるような事柄でもなし、それに何より――蘭の性格を考慮すれば、正直に事情を打ち明けた所で事態が好転するとは思えない。むしろ最悪の事態を招く可能性が高かった。だから、これからもきっと、話す事はないだろう。幸いにして蘭は人の言う事を疑おうともしない、根っからのお人好しだ。僕が本気で隠し通そうと努める限りは、そう容易く勘付かれる事は有り得ない筈だった。

「それにしても……武士になりたい、ね。つまりお前はその為に、毎日毎日、飽きもせず武術の鍛錬に時間と労力を費やしている訳だ」

「そのとおりなのです! わたしはまだまだみじゅくですから、鍛錬にさく時間はいくらあってもたりません。こうやってシンちゃんとおしゃべりしているときと、学校でお勉強しているときのほかは、蘭はずっと修行修行のまいにちなのです」

「それはご苦労様だな。だが、考えてもみるといい。片やお前が汗水流して修行を積んでいる間に、クラスの連中は自由気侭に遊び回ってるんだ。……あいつらが羨ましいと思うことはないのか?」

「ありません」

 神速の抜刀術に喩えられそうな即答だった。蘭はじっとこちらを見つめてから、不意に生真面目な表情を崩し、ほにゃりと緩い笑顔を浮かべると、弾むような調子で言葉を続ける。

「父上も母上も、稽古のときはとっても厳しい方たちですし、修行には苦しくて辛いこともたくさんありますけど。それでもわたし、毎日がすごくじゅーじつしてます。夢に向かってすすんでいれば、なんだってがまんできるんです! いつか、シンちゃんにも分かるようになりますよ。ぜったいにかなえたいとおもう夢ができたら、きっと」

「……ふん。生憎、僕はそんな風に暑苦しく熱血してるような人生は御免だな。目の前の現実を顧みずに夢見心地で生きられるほど、お目出度い性格はしてないんでね」

 何事かに対して全身全霊を以って取り組み、必死の姿勢で泥臭い努力を積み重ねる。そんな不撓不屈の活力に満ちた生き方を選ぶ自分の姿が、僕には全く想像できなかった。熱意や気力といった類の、夢を見続ける為に必要不可欠なエネルギー――いわゆる熱量が、僕という人間には絶対的に不足している。その点で、蘭のような種類の人間とは根本的な部分で異なっているのだ。それ故に、僕が蘭の在り方に共感する日は訪れないだろう。

 ……。

 やはり、駄目だ。未来について語るのは気が進まない。長らく絶望だけを映し込んできた僕の瞳には、未だ何も見出せない。

「――ところで。そんな事よりも、だ」

 幸いにして、話題を切り替えるに都合のいい材料は見付けていた。違和感を覚えさせないよう何気ない口調を装って、会話の流れを誘導する。

「さっきのお前の話で、一つ気になった事がある。お前の言う武士の生き様とやらについてだ」

「??」

「『君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす』。仮にお前が馬鹿正直にこの文言全てを体現するつもりだとしたら、必然として一つの問題が出てくるだろう?」

「問題、ですか?」

「ああ。頭の、『君に忠』、の部分だが……前提として誰かに仕えていなければ、忠義も何もあったものじゃあないだろう? だとすれば、お前が理想の武士で在るためには、仕えるべき“主君”とやらの存在が必要になるんじゃないのか――ふとそう思った訳だ。実際、その辺りはどうするつもりなんだ?」

「もちろん、いつかはわたしもふさわしいひとを主君にえらんで、おつかえすることになります。まだまだ先のことですけど、蘭はそのときにそなえて日々精進しているのです!」

「……ふぅん。主君を選ぶ、か。当然と言えば当然だが、仕えられれば誰でも良いって訳じゃないんだな」

「もちろんです! 忠節を尽くすべき真のあるじにめぐりあってこそ、武士のほんかいをはたせるというもの。これはわたしにとって、だれをお婿さんにするかとおなじくらいにじゅうだいな選択なのです。まさにしかつもんだい、わがじんせいの天王山なのですよシンちゃんっ!」

 語っている内に何やら妙なスイッチが入ってしまったらしい。相変わらず無駄に喧しい奴だ、と冷めた視線を送る僕に気付いた様子もなく、蘭は握り拳を振り回す勢いで言葉を続けた。

「ちなみにこくはくすると、わたしのりそうはずばり、『織田信長公』なのですっ!」

「……おい。それは僕への厭味なのか?皮肉か?喧嘩を売っているのか?」

「む、ちがいますよぅ。シンちゃんじゃあるまいし、わたし、そんなイジワルはしませんっ」

 蘭はいかにも心外そうな調子で言って、いまいち迫力に欠ける半眼でこちらを睨み返してきた。どう考えても色々な意味で心外なのは僕の方だったが、ぐっと反論を抑える。こんな風に意固地になった蘭と言い争うのは時間と労力の無駄でしかないと、僕はこれまでの付き合いの中で存分に思い知らされていた。

「それにしても……僕への嫌がらせじゃなく本気で言っているなら、意外だな。お前みたいな“義”マニアの理想の主君像が、かの自称・第六天魔王とは」

 為政者としても武将としても破格の実績を残し、歴史にその名を刻み込んだ英雄。戦国の乱世にて覇を争った無数の武士達の中において傑出した才覚と実力の持ち主である事は疑いない。が、同時に他の何者よりも強く残虐非道のイメージが付いて回る人物でもある。実際の人物像がどうだったにせよ、かの英雄が生涯の中で苛烈と言う他無い処断を幾度も下し、少なからぬ人間を殺戮した事は歴史が物語っているのだ。こと戦国史という分野においては僕より遥かに造詣が深い蘭ならば、その辺りを把握していない筈が無い。

『たとえ、どんな理由があったとしても――力にて弱者を虐げる者はこころなき邪悪!』

 夜の公園にて、朝比奈の二人組に啖呵を切る蘭の姿を思い出す。眼前の悪事、特に弱者に対する暴虐の類を厳しく見咎める蘭の倫理観を考えれば、魔王とすら呼ばれる奸雄を憧憬の対象とする事には、些かの違和感を覚えずにはいられなかった。

「……“天下”を」

「ん?」

「たしかに信長公は、非情のふるまいがおおく伝えられていますけど。ホントは、ただだれよりもまっすぐに“天下”をみていた方なんじゃないか、って。わたし、そうおもうんです。えっと、えっと、なんていうか、ちょっとうまくいえないんですけど、うーんと」

「……戦乱の世を戦い抜く中で、眼前の進退のみに囚われる事無く、あくまで天下という大局を見据えた上で己が行動の指針を定めていた。だからその所業の善悪は凡人の物差しで容易く測れるものじゃないし、測るべきじゃない――お前が言おうとしてるのはそんなところか?」

「わっ、わっ、す、すごいですシンちゃんっ! まさに一をきいて十をしる、黒田如水さながらですっ」

「ふん、この程度の洞察でいちいちはしゃぐな。世の中に溢れかえってる低脳どもと違って、僕はまともに脳細胞を働かせてるだけだ。少し想像すればお前の単純な頭の中身くらいは分かるんだよ」

「おおー……さすがシンちゃん、太原雪斎もだつぼーまちがいなしの智謀なのです。蘭は、蘭はかんぷくしましたっ」

 尊敬の眼差しを向けるのは一向に構わないが、いちいち引っ掛からずにはいられないその喩えはどうにかならないものか。当人は間違いなく無自覚で言っているのであろう辺りがなおさら腹立たしい。そんな僕の微妙な気分には当然のように気付かないまま、蘭は楽しげに言葉を続けた。

「“真の武士たるもの、眼前の小義のみに囚われることなく、大義の為に刃を振るいなさい”――父上はいつもそうおっしゃっているのです。信長公はきっと、天下統一という大義のために、一生をかけてたたかいつづけた方で……、だれかにおつかえするなら、わたし、そういう人がいいなって」

「……」

「ひとりではかかえきれないくらい大きな夢をもって、いっしょうけんめい毎日を生きている人――そんな人のお役にたって、すぐそばでささえられたら、それはきっとしあわせなことなのですっ!」

「……夢。夢、か」

 だったら――どうしたところで、僕には務まらないな。

 キラキラと顔を輝かせながら語る蘭を見遣りながら、心の中で呟いた。僕には夢なんてものはない。夢を叶えるどころか、見る事すら叶わない。そうだ、最初から判っていた事だ。僕とこいつは、織田信長と森谷蘭は、住んでいる世界が違う。いつかは必ず――異なる道を往く。

 ……。

 ……まあ。そんな事は所詮、僕には関係のない事だ。遠い未来に蘭が何処の誰に仕えようが、誰を伴侶に選ぼうが、別に、僕の知った事じゃあない。

「ふん、何にせよ、お前みたいな単純馬鹿を従者にしなくちゃならない奴が哀れだな。苦労を背負い込む羽目になるのが判り切ってる。僕なら頼まれたって御免だ」

「むぅ。いつもいつも、どうしてそんなふうにイジワルばっかりいうんですかっ! わたしだって、シンちゃんには頼んだりしませんよーだっ! ……って、えっと、シンちゃん、どうしたんですか?」

「……うるさい、何でもない、お前には関係ないっ」

「む、そんなこわい顔しちゃダメです! まったくもう、シンちゃんはしょうがないですねー。だからみんなにわかってもらえないんですよ? シンちゃんはたしかにイジワルですけど、ホントはすてきなところもいっぱいあるんだって!」

「~っ、余計なお世話だ!」

「あ、シンちゃん、どこへいくんですか!? むむ、これは……かけっこで勝負ということですね! よーし、これも修行のいっかん、ぜんりょくでおあいてしますよ! いざじんじょうにっ!」










※※※





 

 ――ところで。当時の俺達の交友内容が、小学生らしからぬトークに花を咲かせる事ばかりだったかと言うと、実はそうでもない。俺が基本的に運動よりも静かな環境での思索や読書などを好んだ一方、蘭は恐ろしく精力的且つ活動的なタイプの人間だった。その行動力たるや、渋る俺の襟首を引っ掴んで市内を引っ張り回すほどのパワフルさに溢れており、必然として俺もまた蘭に合わせて活発に動き回る羽目になった訳だ。

 ちなみに蘭が学校での勉強や家での鍛錬の合間に街を走り回って、主に何をしていたかと言うと――ざっくり言ってしまえば、成敗すべき“悪”を探していた。持ち前の正義感と使命感を燃やして、鍛錬用の木刀を佩いて治安維持の真似事をするのが蘭の日課だった。公園で朝比奈組の連中からリンチを受けている俺を発見した時も、その日課の途中であったそうだ。とはいえ、無法者の巣窟たる歓楽街への立ち入りは両親から固く禁じられているとの事で、主な活動範囲は住宅街とその近辺に限定されていた。そうなると、都合よく蘭の目に留まるような悪行と言えば、民家の塀に落書きして遊ぶ悪ガキだったり、精々真っ昼間から泥酔したチンピラ同士のストリートファイトだったりと、大抵の場合はほとんど徒労に近い結果に終わっていたが、蘭はいつでも実に充実した表情で活き活きとパトロールに励んでいた。幼くして自分の目標とする在り方を明確に定めていた蘭にとっては、行いの過程全てが有意義なものであり、時間を無為に費やしたと苦に感じる道理など無かったのだろう。他ならぬ俺もまた、何のかんのと文句を垂れ流しつつも、蘭の強引さに振り回される日々を嫌ってはいなかった。そして、俺と蘭がもう一人の幼馴染――タツこと源忠勝と出会ったのも、その市内パトロールの最中の事であった。

『おまえらには関係ねぇだろ。オレのジャマをするんじゃねえ』

 ファーストインプレッションは、まあ割と最悪の部類だった。例によって俺は殺気を垂れ流し状態にしていたし、忠勝は忠勝で初対面の相手には誤解を招き易いタイプの外見と性格の持ち主だ。今でこそ笑い話だが、蘭の強引な仲裁がなければ確実に取っ組み合いの喧嘩になっていた事だろう。

 ……。

 当時、孤児院出身の忠勝は。里親に引き取られて川神に越して来た直後であり、色々な面で余裕がない時期だった。見知らぬ土地、見知らぬ環境で見知らぬ人間と共に新たな生活を送るというだけでも、未成熟な精神は相当なストレスを感じるものだ。更に忠勝の場合、孤児という境遇から生じる様々な負荷が、小さな双肩に伸し掛かっていた。養父……宇佐美巨人との関係も現在とは違ってぎこちないもので、引き取って貰った恩義に報いなければならないという強迫観念が忠勝の心を絶えず圧していた。才能を見込まれて引き取られた以上、何としても期待に応えなければならない――そんな思い込みが忠勝を追い詰め、らしくもない無茶な行動に走らせたのだろう。

 俺と蘭が堀之外の街中にて初めて目撃した源忠勝の姿は、注意深く物陰に身を隠しながら一人の男を尾け回している最中という、何とも不審極まりないものだった。そんないかにも怪しげな行為が蘭に見咎められない筈もなく、詰問という些か非友好的な形で俺達は初接触を果たす事になった訳である。案の定一悶着起きそうになったが、その時点では取り敢えず蘭の押しの強い説得(物理)で平和が保たれた。そうして事情を訊いたところ、忠勝は今と変わらぬ鋭い眼光で尾行対象の男を睨んで、自分に言い聞かせるように言った。

『オレがこの手で捕まえる。そうできゃ意味がねぇ』

 忠勝が追っているのは、この数週間だけで何件ものスリの容疑を掛けられている男との事だった。しかし、よほどの凄腕なのか、いずれのケースも証拠不十分で立件は不可能。泣き寝入りは我慢ならないので何としても証拠を掴んで欲しい、手段は問わない――という旨の依頼が被害者の一人から宇佐美代行センターへと持ち込まれたのだという。無論、いかに巨人のオッサンが駄目な大人の見本と言われても致し方のない人物とはいえ、流石に小学生の養子に犯罪者を追わせるような真似をする訳もない。依頼の内容を耳にした忠勝は、養父や事務所の人員には無断で独自に動いていたのだった。自分一人で依頼を完遂する事が出来れば、代行人としての才能の証明になる。そう考えた末の行動だった……と、これはだいぶ後になってから忠勝の口から聞いた話だ。出会った時点ではただ、スリの現場を押さえるために張り込んでいた、という事情を簡潔に説明されただけだった。そして、街の風紀委員を自称する蘭が持ち前の正義感を発揮するには、それだけの情報で十分だった。

『だったら、わたしが手伝いますっ! シンちゃんだっていますし、おおぶねにのったつもりでいてくださいね!』

『おい僕はまだ何も――』

『シンちゃんはとってもすごいんですよ! 山本勘助や直江兼続にもまけない“ぐんし”なのです。きっとめからうろこがおちるような妙案をだしてくれますっ』

『……いや。そういう問題じゃなくてだな、この件はオレが自分の力で――』

 目を爛々と輝かせて協力を申し出る蘭に対し、忠勝は断固として拒絶の姿勢を貫こうとしたものの、最終的には蘭の頑なさに折れる形で首を縦に振った。そうした顛末を経て、織田信長、森谷蘭、源忠勝による自称特別捜査隊が結成される事になる。お子様三人組の協力による地道な張り込みと尾行の日々は約一週間ほど続き、最後には蘭自らが囮となって男の犯行を誘い、懐に向けて伸びた腕を森谷式柔術で極めて正義の鉄槌を下すというオペレーション・パンドラ(命名及び立案・織田信長)にて決着した。内気功を用いた森谷式アームロックの効果は絶大で、男の張り上げた絶叫の悲痛さたるや、「それ以上いけない」と忠勝が真剣マジで止めに入るレベルだった。何とも懐かしい記憶である。

『ったく、おまえらはやり方がムチャすぎるんだよ。見てるこっちの方がハラハラしやがる。……だがまあ、礼は言っておくぜ。ありがとよ』

 そう、俺が記念すべき忠勝の初デレを目撃したのもあの時だった。それが切っ掛けだったのか否かはさておき、無事に依頼を完遂し、つるむ理由が特に無くなった後も、俺達は何となく三人で集まる事が多くなった。通っている学校こそ違ったが、忠勝は俺達よりも馬の合う同級生というものが見つからなかったらしく、放課後になると結構な頻度で例の公園に顔を出した。天真爛漫な明るさで俺達の間を取り持っていた蘭が鍛錬で不在の時は、必然的に二人きりの空間が出来上がる訳で、そうなると忽ち不穏な空気が漂い始める事も珍しくなかったが、不思議と俺達の関係に決定的な亀裂が走る事は無かった。むしろ小さな諍いを繰り返し、幾度も意見を衝突させる度に、互いの性格と価値観を理解する事で少しずつ距離を近付けていった。ふと気付いた時には、俺達は何の屈託もなく自然に会話を交わせるような関係を築いていた。蘭は俺達の関係性の変化を我が事のように喜んで、にこにこと嬉しそうに笑顔を零していたものだ。時が経ち、季節が移り変わると共に、俺達は数多くの出来事を共有し、絆を深めていった。武力担当の蘭、知略担当の俺、優れた胆力と冷静な判断力でストッパーを務める忠勝。主に蘭が原因となって首を突っ込む羽目になった幾つものトラブルを、俺達は各々の能力を結集する事で突破した。三位一体――そんな形容が相応しいと思える程に、俺達のチームワークは抜群だった。

 森谷蘭と源忠勝。二人の得難い友と出逢った事で、間違いなく俺の人生は劇的な変化を遂げたと云える。無論、現実としては、貧窮した生活も腐敗した家庭も依然として変わる事はなく、空腹は尚も絶えず心身を蝕み、母親による虐待は続いていたが――言い換えれば、それはただ、それだけの事だった。“森谷”の娘である蘭と行動を共にする事で、朝比奈組の構成員に絡まれる機会は確実に減った。自らの心を切り刻んで糧に換えるような窃盗行為も、蘭との出逢いを機に一切を止めた。見知らぬ他人から金品を掠め取る代わりに、多馬川の河川敷で手製の釣竿を垂らし、食用に耐え得る野草を探し歩いて飢えを凌ぐ。そんな過酷なサバイバル生活の中で、蘭が週に一回だけ公園に持参する手作り和菓子は、喩え様もないほどに美味だった。これまでに数多の職人が研鑽の末に完成させた、至高の芸術品とも云うべき和菓子の数々を食し続けてきた俺だが、記憶に残るあの味に勝るものは未だ嘗て存在しない。きっと、これから先も見つかりはしないのだろう。

 ……。

 生きている事が楽しいと、生まれて初めてそう思えた。どれほど飢えに苛まされても、口汚い罵倒を受けても、理不尽な苦痛を押し付けられても、二人の事を思い浮かべるだけであらゆる辛苦に耐える事が出来た。笑顔の蘭と、仏頂面の忠勝。己独りしか居なかった筈の“織田信長の世界”には、いつの間にか二人が住むようになっていた。永遠に絶望が続くと根拠も無く信じ込んでいた人生に、確かな希望が在る事を知った。自分は幸せになれるのだ●●●●●●●●●●●と信じられる、ただそれだけの事が、俺にとっては奇跡にも等しかった。

 だからこそ、俺は。

 親友達と共に過ごす掛け替えのない日常が崩れ去る事を恐れ、いつまでも手放したくないと願い。変化の可能性を拒み、充たされた今をそのままに保とうと、心の何処かで停滞を望んだ。

 その純真な願いこそが、その無垢な望みこそが、己の背負う十字架なのだと悟る事も無く。

 すぐ其処にまで迫っていた、絶望的な悲劇の足音に、最後の最後まで気付く事も無く。


 あの懐かしき日々の中、俺達はまだ――幸せでいられた。

























 こんな小学生が実在したら嫌だなぁと思いながら書き始めた過去話。終了までは2~3話程度を予定しています。あまり冗長に過ぎると真剣で原作何処行った状態になってしまうので、可能な限りコンパクトに、が過去編の第一目標です。前編の時点で一話辺りの字数が過去最多な辺りについては、まあ気にせず逝きましょう。
 A-1、特にあずみルートの完成度が想像以上で色々と妄想が捗る今日この頃。それでは次回の更新で。



[13860] 黒刃のキセキ、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:62b53581
Date: 2013/02/22 00:54
――醒めない夢など、何処にも無い。










 

 蘭の様子がおかしい。僕と忠勝が本格的にその認識を共有し始めたのは、夏休みも中盤に差し掛かろうかという頃だった。

「信長。お前は、どう思う?」

「……」

 場所は例によっていつもの公園、時はそろそろ太陽の昇り切ろうかという頃合。地上の穢れを焼き尽くさんとばかりに容赦なく照り付ける日光の猛威から逃れるべく、僕と忠勝は外周に植えられた公園樹の木陰に避難して、根元に座り込み幹に背中を預けながら、この場には居ないもう一人の幼馴染について話し合っていた。ここ最近――特に学校が夏休みに入ってから、蘭の立ち振る舞いから覚える違和感は見逃しようがないほど明確なものとなってきている。断じて、坐して捨て置ける問題ではなかった。

『ほら。わたしたち、お揃いですよね。えへへっ』
『ふんふふ~ん、やくそくやくそく♪』

 僕の知る限りにおいて、森谷蘭ほど笑顔の多い人間はいない。欺瞞に満ちた作り笑顔などではなく、心の底から生じた純粋な感情を表情に載せて、蘭は天真爛漫に笑顔を振り撒く。僕のように思慮深く沈着な性質の持ち主にとって、その眩いばかりの明るさは時に鬱陶しさを覚えるほどだ。

 しかし――近頃、蘭の笑顔は、“翳り”を含み始めた。これまでに一度も見た事の無いような、暗く沈み込んだ表情を見せるようになった。本人は必死に隠し通そうと普段通りの態度を装ったが、壊滅的に嘘偽りの類が不得手な蘭如きに、僕と忠勝の観察眼を誤魔化せる道理はない。当然のように僕達は追及したが、蘭は『なんでもありませんっ』の一点張りで頑として認めようとしなかった。そうして日が過ぎていくにつれて、蘭の纏う雰囲気はますます暗くなり、この前に集合した時に至っては殆ど笑顔を見せていない有様だ。僕達の知らない何かが蘭を追い詰めているのは、もはや間違いなかった。

「単なる修行疲れ、ってセンは考えられねぇか?」

「……どうだろうな。僕にはあの自己研鑽マニアの体力馬鹿が、肉体的な疲労やダメージを苦にしてあんな風になるとは思えない。しかし……夏休みに入ってからのあいつのトチ狂ったスケジュールを考えれば、可能性はあるかもしれないが」

 小学生の夏休みという膨大な時間のほぼ総てを、蘭は武術の修練に費やしている。真の武士たるもの、武芸十八般が悉くを修得すべし――それが森谷という武家における指導方針の一環らしく、その所為か蘭が修行に充てる時間は常日頃から異常なものがあったが、しかしこの夏休みの蘭の生活はそれに輪を掛けて常軌を逸している。休暇中であるにも関わらず、蘭が待ち合わせ場所の公園に顔を出すのは週に一度か二度で、それも大抵は日が地平線の彼方に沈み終えた後だ。蘭曰く、『森谷の娘として非常に重要な段階の鍛錬に入った』らしい。僕と忠勝は蘭が夢に向ける情熱の強さと信念の固さを知っていたし、本人が望んでいる以上は余計な口を挟むまい、と決めてはいたのだが――こうも露骨な形で蘭に異変が生じてくると、流石に手を拱いて放置している訳にはいかない。

「学校での心当たりはねえのか? そっちで起きた事に関しちゃオレには知りようがねぇからな」

「生憎、思い当たる節は何一つとして無い。あいつに関して言えばイジメなどそもそも不可能だし、成績にも交友関係にも何ら問題は見当たらない。それに、あいつの調子が狂い始めたのは夏休みに入ってからだ。学校は関係ないだろう」

「と、なると……やっぱり“家”絡みってセンが強いか。信長、……たしか前に言ってたよな? あいつのオヤジは――」

「そう、か。数年前から重病に冒されている――だったな」

 かつて一度だけ訪れた、廃屋と見紛うばかりの粗末な住居を思い出す。大黒柱たる父親が病に倒れた事で収入を失い、貧窮した生活を送る事になったのだ、と確か蘭は言っていた筈だ。

 蘭は心の底から両親を尊敬していた。こちらが辟易とするくらいの頻度で両親の話をしたがったし、武士道とやらについて語る際には必ずと言っていいほど引き合いに出した。孤児の忠勝や、崩壊した家庭に生まれ育った僕にはいまいち理解の及ばない感情ではあるが、蘭が自分の両親を愛している事は傍目にも疑い様がなかった。

 だとすれば。仮に、敬愛する父親の容態が悪化し、命を脅かすような状態にまで症状が進行しつつあるのだとしたら、どうだ? 目の前で敬愛する父親の命の灯が燃え尽きようとしている時、果たして蘭はどのような態度を示すだろうか。取り乱し、沈み込み、少しずつ笑顔を失っていったとしても何ら不思議ではない――そうは考えられないだろうか。沈痛な表情で忠勝が口にした推測は、相当に説得力のある考えのように思えた。

「たとえそれが正解だとしても、オレたちには何もできねぇ」

 自分の無力さを叱責するように、忠勝は苦々しげな顔で吐き捨てた。その言葉を否定する術は、僕には無い。僕も忠勝も、実質的には何の力も持たない小学生だ。いかに頭脳が優れていても腕っ節に自信があっても、そんなものが役に立つ領域の話ではない。重病の患者を癒せるような医療スキルなどないし、経済的には世の平均値にすらまるで届かず、僕に至っては自身の面倒を見るだけで精一杯だ。そんな有様で友人の家族を救済し得ると思い上がるほど、僕も忠勝もお目出たい考えの持ち主ではなかった。生憎と僕達は夢想家からは程遠いリアリストだ。そうでなければ、蘭の甘ったるい理想主義とはバランスが取れやしない。

「……何にせよ、憶測で物事を語っていても仕方がない。まずは事実を確かめる。話はそれからだろう」

「どうする気だ? 蘭はいつ顔を出すかも分からねぇぞ。訊いたところで、素直に答えるかどうか」

「だろうな。だからただ坐して待つんじゃなく、こちらから動くべきだと僕は思う」

 忠勝に言葉を返しながら、僕は蘭の顔を思い浮かべた。あの感情と行動が直結した単純馬鹿なら、こういう時は絶対に黙って待っているような事はしない。無思慮に無計画に無鉄砲に飛び出し、大騒動の末に何やかんやで最上の成果を掴み取って、零れ落ちるような会心の笑顔を僕達に見せるのだ。

「ふん。あいつの無茶無謀に付き合っている内に、いつのまにか毒されていたのかもしれないな」

 忠勝の訝しげな眼差しを受け止めつつ、僕はおもむろに腰を上げて木陰から出る。

 降り注ぐ日差しと蝉の大合唱を全身に浴びながら、透き通るような蒼天を見上げて、僕は言葉を続けた。

「いいか、タツ。僕達はこれから――あいつの家に行って、直接。僕達自身の目で、事実を確かめるんだ」










 僕が最後に森谷家を見たのは一年近く前の事で、訪れたのもその時の一度きりだったが、別段道に迷うような事はなかった。記憶力と空間認識能力には自信がある。炎天下、忠勝と共に堀之外の煤けた住宅街を歩くこと十数分、僕達は何の問題もなく目的地へと辿り着いた。幽霊屋敷を連想せずにはいられない、朽ち果てた木造の一軒家。その有様は、以前見た時と変わらず、いや、以前にも増して建築物としての劣化が進んでいるように見受けられた。僕と忠勝は無言でアイコンタクトを交わしてから、慎重な足取りで玄関へと歩み寄ろうとして――扉の向こう側で動く人影に気付いて咄嗟に足を止め、近くの電柱の陰に素早く身を隠した。

「……」

 息を殺して待つ内に戸口から現れたのは、一人の少女。日光に映える白のワンピースに、律儀に切り揃えられた黒髪。見飽きるほどに見慣れた姿であるにも関わらず、それが僕達の良く知る幼馴染と同一人物だと気付くまでには、数瞬の時間が必要となった。

 それほどまでに、蘭の様子は異様だった。奇妙に血の気が失せた顔にはいかなる表情も浮かんでおらず、茫洋とした瞳はこの世の何も映し出してはいないように見えた。小柄な身体に背負っているのは、パトロールの際に持ち歩いている無骨な木刀ではなく、細身で流麗な輪郭を有する朱鞘。僕は未だ真剣というものをこの目で見た事は無いが、それが模造刀の類でない事は直感的に理解できた。血で染め上げたような鮮やかな色彩の中に、言葉に形容できない不吉さ、禍々しさを感じ取っていた。

「………………」

 蘭は僕達の存在に気付いた様子はなく、どこか覚束ない足取りで、僕達が隠れている電柱とは逆の方向へと歩き始めた。そんな蘭の背中を電柱の陰から見送った後、僕と忠勝はもう一度、無言のままに目配せを交し合い、そして互いの考えが一致している事を確認する。すなわち、あのような状態の蘭をこのまま放っておく訳にはいかない、という事だ。その気にさえなればいつでも可能な森谷家の調査を優先して、心神を喪失している可能性のある蘭から眼を離す気にはなれない。

 僕達は一言の相談すら必要とせず、全くの同時に蘭の後を追うべく動き始めた。幼くして武の鍛錬を積んでいる蘭は気配に敏感であり、気付かれずに一定の距離を保つのは難しいのではないかと懸念したが、先ほど垣間見た異様な状態に救われたか、後を尾けるのは驚くほど容易かった。やがて住宅街を南西方面に抜けると、目の前には鬱蒼と生い茂る雑木林が広がっていた。蘭は一瞬たりとも足を止める事無く、ゆらゆらと頼りない足取りで木立の中へと踏み入っていった。数十メートルほど後方からその様子を窺いつつ、忠勝が僕に声を掛ける。

「信長……、あいつがどこに行こうとしてるか、心当たりはあるか?」

「……いや。ただ、真剣あんなものを持ち出してる以上、修行とやらの一環だと考えるのが自然だとは思う」

 こんな場所で人目を避けるようにして、しかも正真正銘の日本刀と思しき得物を用いて臨む修行――然様に得体の知れない行為を“自然”と形容してもいいのなら、ではあるが。僕と疑念を同じくしていたのか、忠勝は険しい表情で前方の木立を睨み付けながら、低い声でぽつりと呟いた。

「それはそうかもしれねぇが――オレはなにか、イヤな予感がする。あいつをこのまま放っておくのはマズイような……そんな気がして仕方ねぇ」

「それは、同感だ。だったらどうする、タツ?」

「はっ、言うまでもねえ。分かりきったことをいちいち聞いてんじゃねえぞボケが」

「ふん、全くその通りだな。――じゃあ、行くか」

「ああ。行くぞ」

 短い遣り取りを交わし、蘭の姿が消えていった雑木林へと踏み入る。整備された林道は見当たらなかったが、不自然に折れた草花や土に残る足跡など、痕跡を辿る事は難しくなかった。夏の盛りを迎えたこの時期、繁茂した緑林が天上から降り注ぐ日光のほとんどを遮っており、真昼間であるにも関わらず林の中は薄暗かった。外側から見た限りさほど規模の大きな林でもなかったので、まさか遭難の危険は無いだろうが――そうした具体的な危機感を抜きにしても、僕は言い知れない焦燥を抱かずにはいられなかった。林に踏み入ったその瞬間から、何処か背筋が粟立つような感覚が絶えず付き纏っていた。理由は分からないが、この先に進んではいけない、と自分の中の何かが訴え掛けているようだった。

 だが、そんな根拠の無い曖昧模糊な感覚に囚われて引き返す訳にもいかない。僕と忠勝は押し潰されるような沈黙に耐えながら、蘭の足跡を追う。林の中は奇妙な静寂に包まれており、不自然な程に鳥獣の鳴き声が聴こえず、外ではあれほど煩かった蝉の合唱も、一切が途絶えている。僕達の足音だけが嫌に大きく響き渡り、薄暗い木立の中に吸い込まれるようにして消えていく。何とも言えず不気味だった。

「…………?」

 その時、ふと、足音以外の物音が前方から聴こえた。思わず二人して足を止め、耳を澄まし――そして再び響き渡った“その音”に、戦慄と共に硬直する。一瞬にして心臓が氷結するような感覚に襲われながら、僕は隣の忠勝を見た。忠勝もまた、緊迫した面持ちで僕を見ていた。互いに隠し切れない動揺を視線に載せながら、身動ぎも適わず見詰め合う。数秒の後、恐る恐るといった風情で、忠勝が口を開いた。

「……信長。今のは」

「ああ。僕の耳が正常に機能しているなら――」

 “悲鳴”、だった。

 ただし、人間の、ではない。声質から判断すれば、恐らくは動物のものだろう、が――そんな事実は何の慰めにもならなかった。

 先程の悲鳴は、僕達の心身を凍て付かせた声音は……紛れもなく、命が途絶える瞬間のそれ。

 断末魔だった。

 あまりにも生々しく鼓膜を打ち震わせた肉声に、本能的な恐怖を呼び起こされずにはいられない。自然と足が震え出し、歯が打ち鳴らされるのを、自らの意思で止める事は出来なかった。

 しかし、逃げ出す訳にはいかない。僕は唇を噛み締めて、睨み付ける様に前方を見据えた。この先で忌まわしい何かが起きている。それはきっと間違いない。そして、だからこそ●●●●●、僕は進まなければならない。何事が起きているのか確かめなければならない。何故なら――そこには、蘭がいるからだ。あのどうしようもなく危なっかしい幼馴染がもしも、肌を粟立たせるような忌むべき“何か”に巻き込まれているのだとしたら、それを放って逃げ出すことは、僕には出来ない。

『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』

 僕は、あいつに救われた。自分でも救い様が無いと信じていた僕の事を、あいつは底知れない善意を以って救い上げて見せた。だから、僕は己の全霊を注ぎ込んで、あいつを救わなければならない。こんな所で恐怖に怯え竦んで立ち止まっている場合では――ない!

 震える体を無理矢理に動かして、僕は前へと一歩を踏み出した。ほんの僅かな間を置いて、隣の忠勝もまた決然と動き始めた。激しく動悸を弾ませながら、慎重な足取りで足跡を辿り続ける。やがて、前方の木立の隙間から明るい光が見えた。林を抜けた……訳ではなく、どうやら林の中に開けた場所が存在しているらしい。奇妙な閉塞感に精神を圧迫されていた僕と忠勝は、ほっと安堵の吐息をつきながら、木立の合間を縫って陽光の下へと身を晒す。

 そして、

 僕達は――“それ”を見た。
 


 視界を埋め尽くす血と肉。広場を埋め尽くす血と肉。

 見渡す限りに敷き詰められた赤黒い絨毯に、肉塊の置物。

 首、首、首。生首。

 どんよりと濁った無数の眼。ばらばらに散らばった手脚。壊れた玩具。

 死。

 噎せ返るような、死の香り。



「…………………………………………………ぁ………………?」
 


 絶叫の代わりに喉下から漏れ出たのは、無様に引き攣った、声とも呼べない掠れた音。

 これは、なんだ? 僕が見ているこの光景は、本当に現実なのか?

 悪趣味なスプラッター映画を鑑賞しているかのような感覚だった。リアリティがまるで感じられない。だって、こんなのは、おかしい。こんなコトが現実であるハズがない。僕はきっと悪夢に魘されているだけで、目が醒めれば全ては綺麗さっぱり消え去ってしまうのだろう。そうでなければならない。そうでなければ――蘭は。蘭は。……蘭は?

 蘭は、広場の中心に居た。

 清純な白のワンピースを真っ赤に染めて、うつ伏せの姿勢で倒れている。すぐ傍には、禍々しい朱色に塗れた銀の刃と――解体された無数の肉塊。かつては生物だったモノの成れの果て。肉体を構成するあらゆるパーツを斬り刻まれた、屍とすら形容しがたい何か。それはかつて犬であった何か。それはかつて猫であった何か。それはかつて鳥であった何か。数え切れないほどの“何か”に囲まれて、冗談のような死臭に包まれて、森谷蘭は眠り姫の如く其処に居た。

「ら、ん」

 そう、だ。

 安否を、確かめなければならない。あんなに血塗れになって倒れている以上、少なからぬ怪我を負っているに違いない。駆け寄って無事を確かめなければ。縮こまっている場合じゃない。大丈夫、僕に危害を加えるものなど何もない。所詮、死んだ畜生に何が出来ると言うんだ。まさか首だけで噛み付いてくるとでも言うのか、馬鹿馬鹿しい。そう、怯える必要なんて何もない。僕は、行かなければ。あいつの下へ。

 ……だと、云うのに。足が、動かない。地面に縫い付けられたかの如く、固まって微動だにしない。

 いや。むしろ、僕は、今。

 少しずつ後ろへ下がっているんじゃあ、ないのか。

 これは、気の所為か? ああ、気の所為に違いない。僕がこの場から逃げ出す道理など、森谷蘭から逃げ出す道理などありはしないのだから。

――本当に、そうか?

 囁き声が聞こえる。

――誤魔化すなよ。理由なら、目の前にあるじゃないか。そうだろう?

 言われるがままに、僕は、前を見た。目の前を見た。理由を探した。

 そして、撒き散らされた血肉の中に、僕は見出した。もはやこれ以上、眼を逸らす事は不可能だった。

 それは、蘭への。

 僕の知らない“森谷蘭”と云う存在への、恐怖。理解を超えた殺戮者に対する、抑え様の無い恐怖の感情に他ならないのだと。

 己の身を竦ませ、或いは逃走へと駆り立てているモノの正体を、認識し、咀嚼し、苦味と共に噛み締めた――その瞬間だった。
 

「君達は、蘭のお友達かい?」


 声は、背後から。

 心臓を鷲掴みにされるような心地で、僕は硬直した。


「やれやれ、相変わらず基本的な注意力に欠けた子だ。あれほど気を付けるようにと言い含めたのに」


 声の主は、身動きも出来ずにいた僕の傍を通り過ぎ、そのまま死臭に充ちた広場へと足を踏み入れた。何の躊躇いも戸惑いも見受けられない、無造作な足取り。

 そうして陽光の下に姿を晒したのは、黒の和服を纏った痩身の男だった。異様に青白い肌、痩せ細った四肢、そして落ち窪んだ頬。不吉な黒装束と相俟って、その姿は死神のそれを思わせる。男は周囲一帯に散乱した肉片と血痕に怯えるでもなく、むしろ興味深げな様子でそれらを眺め回していた。あたかも美術館にて名画を鑑賞しているかのような目付きで、おぞましい情景を織り成す全てに一通り視線を巡らせてから、最後に広場の中心へと視線を移す。

 夥しい量の“返り血”に塗れて地に倒れ伏す少女――蘭を一瞥し、男は静かに口を開いた。

「椿。蘭を家まで運んであげてくれないか」

 誰に向かって言っているのか、と訝る間もなく、瞬きの合間に新たな人影が広場に現れていた。男とは対照的に華やかな朱色の和服を身に着けた、艶やかな黒髪の女性。その肌色は隣に立つ男と負けず劣らず青白かったが、男とは違い、それが逆に女の儚げな美貌を引き立てる役割を果たしていた。

「はっ。承りました」

 椿、と呼ばれた女は粛々とした語調で男に答えると、美麗な着物が汚れる事に僅かな躊躇いの色も見せる事無く、血で汚れた蘭の肢体を抱き上げた。蘭は完全に意識を失っている様で、堅く瞼を閉したまま動く気配が無かった。

 触れれば折れてしまいそうな、白樺の枝の如く華奢な腕からは到底想像の及ばない、力強い膂力で蘭の身体を抱き上げたまま、女は目を細めて、慈しむような優しい眼差しをその顔へと向けている。

 母性を感じさせる振舞いと、蘭との一致を所々に感じさせる容姿、そして現在の状況を併せて考えれば、その正体は自ずと予想が付いた。

「……」

 女の視線が不意に上がり、切れ長の怜悧な双眸がこちらを見据える。感情の窺えない静かな目は、何かを見定めようとするように僕を見つめていたが――数秒と経たない内に視線は外され、女は無言のままに背を向けた。意識の無い蘭を優しく腕に抱いて、薄暗い木立の中へと消えていく。

 追わなければならない、という焦りは不思議と湧いて来なかった。少なくとも今は、彼女に蘭を預けておくのが最善であるような、そんな予感があった。

「さてと。君達の事は、蘭から聞いているよ。どうやら、蘭は良い友を得る事が出来たようだね。とても喜ばしい事だ」

 女の姿が完全に見えなくなった後、不吉な面貌の男はこちらに向き直ると、和やかな調子で口を開いた。敵意も悪意も含まれない、春風を思わせるような穏やかさ。しかし、広場に漂う強烈な死臭の中に在っては、男の語調はどう考えても場違いで、むしろ不気味さを助長するものでしかなかった。

「……アンタが、蘭のオヤジさんか?」

 この広場に辿り着いて以来、初めて声を発したのは、忠勝だった。眼前に広がる光景の悲惨さに顔色を真っ青に染め上げながらも、忠勝は鋭い目で真っ直ぐに男を見据えていた。どんな事態に遭っても己を見失わず、自分の為すべき事を為す――そういう金剛不壊の胆力が、源忠勝には備わっている。混乱、動揺、恐怖。一切の感情を押し込めて自己を律してみせた幼馴染の姿は、僕を奮い立たせるには十分だった。

 そうだ、いつまでも戸惑っていてどうする? 知らなければならない事が、僕にはある筈だ。或いは今こそ、知るべき事を知る為の最高の好機かもしれないと言うのに、間抜けに呆然と佇んでいる場合か。

「そうだよ、私の名は森谷成定。蘭は私の自慢の娘さ」

 不健康な顔色とは裏腹に朗らかな調子で答えて、男――成定はにこやかに言葉を続けた。

「君達は普段から蘭と仲良くしてくれているそうで、感謝しているよ。既に聞いているかもしれないけれど、妻は生まれつき身体が弱いし、私も何年か前から患ってしまっている。鍛錬の時間くらいしか、蘭に構ってあげる余裕がなくてね。寂しい思いをさせてはいないか、と常々心配していたんだ。だから、君達が蘭の傍にいてくれて本当に良かった。蘭はね、家ではいつも君達の話をしているんだよ」

「……」

「椿――ああ、妻の事だけど、妻もああ見えて君達には深く感謝しているんだ。昔から愛想のない奴でね、誤解され易いけれど、実はあれで誰よりも子煩悩なのさ。まあそういう私も、あまり人の事は言えないんだけどね」

 照れ臭そうに頭を掻きながら、成定は微笑んだ。語る言葉の内容に嘘偽りの気配はなく、娘の事を心から大切に思っている事が分かる。その姿から垣間見える人物像は、どこにでもいるような、娘に甘い父親のそれだった。平凡で、普通で、ありふれていて――だからこそ、屍の山の中で平然と紡がれる言葉は、語り手の底知れない異常さを浮き彫りにする。

 何かがおかしい。何処かが、狂っている。

 僕はその事実をはっきりと頭に刻み込んだ上で、いつしかカラカラに乾き切っていた口内を唾で潤してから、舌を動かした。

「だったら、その子煩悩な父親とやらに訊きたい」

「ん? 構わないよ、何でも訊くといい」

「こんな風に動物を虐殺して解体するという、自慢の娘の“趣味”について……アンタは父親として、どう思ってるんだ?」

「いやいや。何か勘違いしているようだけど、“これ”は別に蘭の趣味じゃないよ。親として、私は娘をそんな風には思って欲しくないな。私の愛娘は断じて、命を弄ぶ行為に喜びを見出すような“邪悪”じゃない。今時珍しいくらいに優しい子だからね、むしろそれで難儀しているくらいさ。夏休みが始まった頃は特に酷かった。何せ一匹も“殺す”事が出来ずに、せっかく捕まえてきた贄を逃がしてしまう始末だったんだ。最近は慣れのお陰かだいぶマシになってはきたけれど、それでも一度に続けて殺せる数には限界があるみたいで、そのラインを踏み超えるとあんな風に倒れてしまうのさ。まったく、困ったものだよ」

「…………」

「…………」

 僕と忠勝は目配せを交し合って、同時に頷いた。

 間違いない。これで完全に確信が持てた。蘭の様子がおかしくなった原因は――間違いなく、この男だ。蘭の変調に父親が関わっているかもしれない、という予測は的中していたが、しかしよりにもよってこのような形で。あまりにも不愉快な真実を前にして、腰の横で握った拳に力が入るのを自覚した。

 つまり、蘭に“これ”をやらせたのは――この胸が悪くなる狂気的な地獄絵図を描かせたのは、他ならぬ眼前の男。

 ……そうだ、冷静に考えてみれば当たり前だ。あの蘭が自分の意志でかくも残酷な所業を実行するとは思えない。夏休みが始まってからこの方、日に日に蘭の顔から朗らかな笑顔が消え失せていったのは、惨たらしい虐殺を実の父親に強要され続けてきた事が原因だったのだ。僕と思いを同じくしていたのか、忠勝は理解と怒りの色を同時に宿した双眸で、眼光鋭く成定を睨み付けた。

「『森谷の娘として非常に重要な段階の鍛錬に入った』。これが、そうだってのか……?」

「おや、蘭から聞いたのかい? ああ、その通りだよ。だからこれは趣味などではなく、暦とした修行さ。我々森谷の一族にとっては大変重要な、避けては通れない試練の一つなんだ。本来ならばもっと心身が成熟してから進むべき段階なんだけれど、なにぶん、私はこの有様だろう? あまり悠長にしていると、師として伝えるべき事を伝え終える前に迎えが来てしまう。それにだね、またしても子煩悩と笑われてしまいそうだけれど――はっきり言って、蘭は天才だ。我々森谷の歴史の中でも類を見ない、素晴らしき天稟の持ち主なんだ。志もとても強い。例え辛い想いをしても、蘭なら十分に乗り越えられると私は判断したんだよ」

 訊いてもいない事を饒舌に語る男だった。だが、情報を引き出し易いのはありがたい事だ。何を聞いたところで、僕達の気分が良くなるような種類の答えは返って来ないのだろうが――それでも、耳を塞ぐ事は許されない。僕達は、今こそ知らなければならないのだろう。絶えず頭の何処かで疑惑を感じながらも、意識してこれまで踏み込まないように努めてきた、“森谷”という武家の闇に覆われた内情を。

『……ちっ。胸糞悪ぃ、が、仕方ねぇな。いくらなんでも森谷はヤベェ』

 裏社会にて絶大な権勢を誇る朝比奈組という組織の一員が、森谷の名を聞いただけで狼狽し引き下がった、その理由。或いはそれは、僕が漠然と脳裡に描いていた空想などよりも、遥かに凄絶で狂気に満ちたものなのかもしれない。背筋に走る冷たい戦慄を堪えながら、僕は再び口を開いた。

「“これ”が修行だと言うなら、そこに何の意味があるんだ? 野生動物を一方的に惨殺する事で、蘭は自分の何を鍛えられるんだ」

「無論、“心”さ。ふむ、どうやら君は、自分で答が分かっている事を問う癖がある様だね」

「……」

「生あるものを殺すという事。刃を以って命を斬るという事。その意味を、その重さを知らぬままに、武士を名乗る事など決して許されぬ。血潮を浴び、屍肉に塗れずして真剣を佩くなど笑止千万。武士道を往く者こそ、死に最も近き修羅であると心得よ」

 これまでの穏やかさなど欠片も窺えない、圧倒的な厳粛さに満ちた声音。言葉を終えると共に、成定は鋭い眼光で周囲を見渡した。ばらばらに引き裂かれた死体の山と、その周囲を流れる血の河。立ち昇る死の匂いに包まれながら、成定は僕と忠勝の顔を見遣って、静かに声を発した。

「君達は――“悪”とは何だと思う?」

 何の脈絡もない、唐突な問いだった。少なくとも、僕にはそうとしか思えない。元より回答を求めてはいなかったらしく、成定は押し黙る僕達に向けて言葉を続けた。

「この世に明確な善悪の線引きは無い――世界の何もかも見透かしたような顔で、そんな戯言を堂々と嘯く輩は幾らでも居る。しかし私はそうは思わない。確かに悪は存在する。邪悪と断ずべき概念が、人の世には間違いなく在る。私は、森谷は、それを知っている」

 噛み締めるように言い終えると同時に、成定の纏う雰囲気が明らかな変貌を遂げるのが分かった。好人物然とした和やかさは表情から掻き消え、口元からは笑みが抜け落ちた。衰え痩せ細った顔の中で、虚空を睨む双眸だけが恐ろしいまでの精気を帯びていた。

「悪とは即ち、人の内に棲む獣。心の中に巣食う獣性を律する事能わず、己の良心すらも食い尽くされてしまった時、その者は人面獣心の鬼畜に成り果てる。自己の為に他者を喰い物にする事を躊躇わず、己の欲望のままに盗み、奪い、犯し、壊し、殺す。その醜悪なる有様を悪と呼ばずして何と呼ぼうか。――戦乱の時代が終わり、泰平の世が訪れても、それは“悪”の根絶を意味してはいない。乱世においては獣の本性を晒し堂々と人を喰らっていた輩が、図々しくも人の皮を被り直して社会に這入り込んだだけだ。時が現代に至っても、その在り方は何一つとして変わってはいない。平穏無事と信じられている現代社会の裏側で、悪に虐げられ、悲憤の血涙を流している善人のなんと多き事か。法の網の届かない暗闇に隠れ潜み、誰にも裁かれる事無く悠々と跳梁跋扈する悪党の、なんと多き事か!」

 血を吐くような叫びだった。あたかも踏み躙られる人々の悲嘆と憤慨と憎悪を一身にて代弁しているかのような、呪詛にも似た慟哭と共に、成定は天を仰ぐ。激情のあまりに湧き出でた一筋の涙が、痛々しく痩せこけた頬を伝い、血と肉片に塗れた土へと零れ落ちた。そのままの体勢で、成定はぽつりと呟くように言葉を続ける。

「……悪の存在を赦してはならない。悪は根絶やしにせねばならない。その根源を断ち切らねばならない。だが――その為にはどうすればいい? 眼前に現れた邪悪を幾人斬り捨てた所で、新たな悪は際限なく生まれ落ちる。人の心に獣が棲まい続ける限り、この世の悪が絶える事は決して無い。ならばどうする? ――こうするのだ●●●●●●ッ!」

 僕も、忠勝も、反応すら出来なかった。気付いた時には、地面に転がっていた筈の白銀の刃の切っ先が、僕の眼前へと移動していた。

 それを認識した瞬間――全身が総毛立ち、呼吸が止まった。或いは、心臓すらも停まっていたかもしれない。そう錯覚するほどに凄まじい冷気が、脳天から爪先に至るまでを一挙に駆け巡り、凍て付かせた。氷の彫像と化したように、身体が動かない。思考すらも、一切が凍り付いていた。何も判らない。ただ――怖い。怖くて怖くて堪らない。心中を充たすのは、ひたすらに圧倒的で絶対的な、凄まじいまでの恐怖感。猛り狂う本能の叫び。生殺与奪の権利を他者に掌握されている事実を全身の細胞が理解する。視線は眼前に擬された白刃へと吸い寄せられる。無情な刃の先端が、ほんの僅かに動かされただけで、僕は死ぬ。何の猶予もなく、情緒もなく、余韻もなく、ただただ滑稽なほどの呆気なさで――生命が、終わる。

「判るかい? 今、君の目の前にあるもの。それが、“死”というものだ。そして、君が感じている恐怖こそが、鍵だ。人心に棲まう獣を縛る鎖。遍く悪を断ち切る救世の刃に他ならないんだよ」

 授業中の教師のような調子で言って、成定は腕を下ろした。血塗れの凶刃が地面に向けられ、切っ先から朱の滴が垂れ落ちる。冷気からの解放。込み上げる安堵感と同時に一気に全身から力が抜けて、気付けば僕は地面に膝を着いていた。未だ残る強烈な悪寒に、身体は小刻みに震えている。そんな僕の様子を満足気に眺めながら、成定は再び口を開いた。

「生物にとっての最大の恐怖とは、即ち生命活動の停止に他ならない。それは遺伝子に刻み込まれた本能だ。正常な人間にはどう足掻いても克服し得ない、絶対のルールなんだよ。だからこそ、純粋さを窮めた究極の“死の恐怖”だけが、心に巣食う獣を律する手綱と成り得る。あらゆる欲望を――人の心に渦巻くあらゆる混沌を凍て付かせ、静止させる事を可能とする。……森谷の剣は、遥かな戦国の世にて、殺意を以って善を護り、殺意を以って悪を制す為に創始された。いつの日か、ありとあらゆる獣を斬り伏せ、この世の悪を根本より滅し得る、絶対的な“殺意”を完成へと至らしめる為に、森谷の血族はその理念と術理を継承してきた。屍山血河を踏み越え、代を重ねる度に殺法を昇華させてきた。その末にいるのが私達で、そしてその果てに辿り着くであろう最初の“森谷”こそが、私の娘なんだ」

「……」

「私達は、殺す。善良なる人々を護る為に殺す。救いの無い悪党に正義を知らしめる為に殺す。人々の意識に死の恐怖を刻み付ける為に殺す。人の心から獣が消え去るまで、あらゆる悪に死の報いを与え続ける。それが武士の生き様を受け継ぐ私達の使命であり、誇るべき志なのだから!」

 天へと宣言するように、森谷成定は空を仰いで吼え立てる。落ち窪んだ眼窩の奥に暗く燃えるのは、亡者の怨念にも似た執念の炎。

 異様な気迫に呑み込まれ、一言たりとも発せずにいた僕と忠勝へと、成定は緩慢な動作で向き直った。

「……狂っている、とでも言いたげな顔だね。隠す事は無いさ、そういう反応には慣れているよ。けれど、考えてみて欲しい。君達は本当に、一度として疑問に思った事はないのか? 偉大な先達が苦心と研鑽を積み重ね、人々を護る剣たらんという願いの下に創始した数多の武術が、単なる護身術や、果ては観衆を沸かせる見世物にまで成り下がったこの時代を。世の為人の為に振るうべき刃を茶間に飾って手に取ろうともしない、武士の本分を忘れ去った不甲斐なき末裔達の姿を。黛大成、という男を知っているかな? 私に言わせれば、あのどうしようもない馬鹿者はその筆頭だよ。……何が剣聖、何が人間国宝だ! そも、刀剣とは何の為にある。武とは何の為にある。――決まっている、殺す為だ。力なき民に代わり、暴虐を振り翳す邪悪の命脈を一刀にて断ち切る為だ。その本質を見失い、見せ掛けだけの安寧に身を浸し、邪悪よりの救済を乞う民草の悲痛なる叫びに耳を塞ぐような輩に、武士を名乗る資格などあるものかッ! ――ぐ、かはっ」

 激昂の怒声を轟かせた直後、成定は不意に咳き込みながら手で口を押さえた。赤黒い血が指の隙間から溢れ出て、黒縮緬の和服に無数の斑点を描き出す。突然の吐血に驚き固まる僕達とは対照的に、成定は苦しげながらも焦った様子を見せず、慣れた手付きで懐から手拭いを取り出し、口の周りの血を拭き取った。手拭いを丁寧に折り畳んで懐に戻すと、再び僕達へと視線を向ける。気付けば先程までの鬼気迫るような雰囲気は霧消し、表情は凪いだ海面のような静穏さを取り戻していた。

「ああ、見苦しいところを見せてしまったね。驚かせて済まない。だいぶガタが来ているようでね、近頃では珍しくもない。本来なら絶対安静、起き上がる事すらアウトだと医師には言われているんだけれど、養生したところでどのみち長くは保たないだろうし、だったら蘭の修行を優先すべきだと思ってね。残された僅かな時間くらい、可愛い娘と少しでも一緒に居たいと考えても仕方ないだろう?」

「……治らない、のか」

 顔面に浮かぶ死相から予め想像は付いていた事だが、本人の口から語られるその事実は、想像を絶する程に重かった。僕はまだ、人の死に触れた事がない。苦痛や絶望には慣れ切っているが、死という事象がもたらす諸々を僕は体験していない。思わず口を衝いて出た問い掛けに、成定は穏やかに答える。

「残念ながらね、見込みはないそうだ。この夏が終わるまで命を繋ぐことが出来れば奇跡だと、そう宣告されてしまったよ」

「蘭は、それを知っているのか?」

「いや、蘭にはまだ伝えていない。優しい子だ、知れば必ずや心を乱すだろう。最も大事な修練に臨んでいるこの時期に、それは望ましくない。蘭には私などに気を取られる事無く、眼前の修行にこそ集中して欲しい。……私は、不甲斐ない親だ。地位も財産も、形あるものは何一つ、愛する娘に遺してやる事が出来なかった。だからこそ、私に遺せるものは余す所なく全てを遺してやりたいんだ。貧しい食事にも文句一つ言わず、“立派な武士になりたい”と、“父上や母上のようになりたい”と笑顔で言ってくれたあの子のために、私は、森谷成定という武人が生涯にて培ってきた総てを伝えてやりたいんだよ」

「…………」

 森谷成定が培ってきた、総て。それが――“これ”だと言うのか。

 僕は、足元へと視線を落とした。積み重ねられ、撒き散らされた無数の死体。吐き気を催さずにはいられない眼前の光景こそが、蘭の残した殺意の軌跡。“森谷”の血族が伝えてきた妄執の具現。殺戮の果てに正義を為さんと云う、独善に満ちた狂気の理想。おぞましく、禍々しく、忌まわしい。

 だが、それでも。

『はいっ! 父上も母上も、とぉーってもりっぱなお方ですから』

 きっと、森谷蘭の家庭には、“愛”がある。蘭は両親を敬愛し、両親もまた、蘭に偽りのない愛情を注いでいる。僕と同様、暴力によって理不尽に虐げられ、意に沿わない行為を強制させられていた訳ではない。思えば、空腹に耐えながら厳しい鍛錬に明け暮れる過酷な生活の中にあって、蘭はいつでも幸せそうだった。それは、何物にも侵されない本当の愛が傍にあったから。家族の想いが日々を逞しく生きる活力を与えていたから。

――だとすれば。“これ”が蘭にとっての不幸だと断言する権利が、僕にはあるのか? 家族の愛情というものを欠片も知らず生まれ育った僕のような人間に、正真正銘の愛情で結び付いた家族の何を推し量り、何を判断できると言うんだ?

 僕には、分からない。何が正しいのか。僕が今、蘭のために為すべきことが何なのか。

『武士で在ること。それを証立てるものは身分や血筋じゃなくて、生き様そのものなんです』

 目を輝かせて語る蘭の言葉が、脳裡に蘇った。

――蘭。お前が本当に目指していたのは、こういうもの●●●●●●だったのか?

「さて。君達が知りたいと思うであろう事は、これで全て話したつもりだよ」

 成定は穏やかな微笑みを湛えたまま、優しげな目で僕と忠勝を見遣っていた。

「さあ、早く家へと戻りなさい。今更ではあるけれど、この死臭に充ちた光景は、とてもじゃないが精神衛生に良い影響を与えるとは言えないからね。血の匂いが染み付かない内に平穏無事な日常へと戻るべきだ。蘭もきっと、そう望む事だろう」

 静かに言い終えると、成定は足元の血溜まりに沈んでいた朱鞘を拾い上げ、抜き身の刃をその中へと納めた。僕達に背中を向けて、小さな咳を繰り返しながら広場の外へ向けて歩き去っていく。

 幽鬼を思わせるその背中が木立の中に消え去ろうかという時、不意に成定は足を止めて、そのまま振り返らずにこちらへと言葉を投げ掛けた。

「……無理強いは、しないけれど。森谷という武家の在り方を知った以上、平穏の中に暮らす人々がそれを忌避するのは当然の事かもしれないけれど。叶うならば、君達にはこれからも、蘭の友達でいてあげて欲しい。私の代わりに、あの子の心を支え、行く末を見守ってあげて欲しい。理解者になれとは言わない、ただ傍にいてくれるだけでいい。そうすればきっと――あの子は折れることなく、己の道を歩いていける筈だ」

 自身の死を見据えながら紡がれた、痛切な想念を最後に言い残して、今度こそ成定の姿は見えなくなった。

 影も形も、足音も、気配すらもが一瞬で掻き消え、後には僕達だけが残される。

「……」

「……」

 しばらく、僕も忠勝も口を開かなかった。先程までの出来事が、どこか現実のものとは信じられないような、そんな感覚があった。

 だが――視界を埋め尽くす数え切れない程の死骸と、空気に充満した噎せ返る様な血臭が、嫌という程のリアリティを伴って僕達に現実を知らしめてくる。

 そう、これが現実だ。

 僕達が向き合わなければならない、

 森谷蘭の――真実。

 

 








 



 それから。“修行場”を後にした僕達は、住宅街の入口まで戻ってくると、そこで一旦別れた。僕は川神駅付近の市立図書館へ、忠勝は親不孝通りの宇佐美代行センターへと個別に向かう。取り敢えずはそれぞれの取れる手段で“森谷”についてより情報を得るべきだ、との判断だった。

 忠勝の養父、宇佐美巨人は裏社会の事情に通じており、森谷の家についても何かを知っている可能性がある、と忠勝は語ったが、少なくとも僕に関して言えば、本気で調査に臨むつもりで図書館を訪れた訳ではなかった。森谷の家について僕達が知るべき事柄の多くは、棟梁たる森谷成定の口から語られており、それ以上に詳細な情報が書物から得られるとは思えない。ただ僕は、独りで思考を整理する時間が欲しかった。

 或いは忠勝はそれを見越した上で別行動を提案したのかもしれないな――と、書棚の狭間で武家に関する文献を流し読みしながら、ふと思い至る。態度や言葉遣いの悪さとは裏腹に、忠勝はそうした他者への気遣いの仕方が上手い人間だ。世話を焼きながらも相手に押し付けがましさを感じさせない忠勝の振舞いには、僕も常々感心させられるところだった。とにかく何が何でも真っ向勝負でなければ気が済まず、他人の心情などお構いなしに全力で善意を押し付けてくるどこぞのお人好しにも少しは見習って欲しいものだ。

『わたしですか? わたしは――りっぱな“武士”にならなくちゃ』

 蘭。森谷蘭。織田信長の初めての友人。

 この夏休みが始まってから、蘭は確実に追い詰められていた。原因は言うまでもなく、つい先刻に目撃した地獄絵図。目的が修行であれ何であれ、蘭の行為が一方的な虐殺である事は誤魔化しようのない事実だ。つまり蘭は、己が最も嫌うところの、“力を以って弱者を虐げる”という行為の極地を、毎日の如く実行していた事になる。笑顔が曇り、消え失せるのは当然の帰結だろう。例え蘭のように強い正義感の持ち主でなくとも、尋常な神経の持ち主なら、あんな惨たらしい殺戮を続けていれば心を病むのが自然だ。蘭は文字通り、心を切り刻むような想いで“修行”に臨んでいたに違いない。それも、恐らくは――自らの意志で。

 ……。

 僕は、どうすればいいのか。いや、そもそもこれは、“どうにかしなければならない”類の問題なのか? 確かに森谷という一族の信条は、理念は、社会的に認められるものではないだろう。殺人という手段で世の悪を根絶する――狂気的としか言い様が無い発想だ。それは理想ではなく、妄想の類でしかない。未来永劫、世間に受け入れられる可能性など皆無。それは間違いないと断言できる。

 しかし、だからなんだ●●●●●●

 倫理観に則って、或いは法に照らし合わせて、その罪を見咎める事に何の意味があるというのか。僕は、森谷の定義する所の“悪”とやらに散々虐げられている立場の人間だ。強きを挫き弱きを助く正義の味方の実態が、血に塗れた殺人者であったところで、殊更にそれを弾劾する必要を感じない。僕は博愛主義者でもないし、万人の命が等しく貴いものだとは欠片も思っていない。“死ぬべき人間”というものは確実に存在するのだと、僕はこれまでの人生の中で嫌というほど思い知らされてきた。臆面も無く人間社会に寄生し、法の光の届かない闇の中で醜く蠢く連中――徒党を組んで強者を気取り、弱者から搾取する事で生命を謳歌する、人間の屑。朝比奈組という忌まわしい悪党どもを一人残らず根絶やしにしてくれるというなら、いっそ頓首再拝して崇め奉っても一向に構わない。

 もしも蘭が森谷の業を継いで、血塗れの士道を往くと決めたならば、僕は強いてそれを止めようとは思わないだろう。僕は、蘭が己の“夢”に対していかに真剣であったか十分に承知している。例えその夢がどれほど荒唐無稽で、狂い果てた妄念の残骸に過ぎないのだとしても。蘭が自らの意志でその道を貫き通すと決めたのならば、僕はそれを否定しない。否定する理由が、僕の中には存在しない。

――あいつと、話をしないと。

 今の僕に為すべき事があるとすれば、それは蘭の意志を確かめる事だろう。もしも蘭の本心が、死に魅入られた森谷の業を拒絶しているのならば、僕達の手で何としても解放してやらなければならない。蘭の心が押し潰される前に、救い出してやらなければならない。

 しかし、もしも。蘭が確固たる意志の下、“森谷”の使命を継ぐと心に決めていたなら――その時は、僕達の出る幕ではない。余計な口を挟まず、ただ黙って傷付いた精神を支えよう。それでいいではないか。そう、どれほど血に汚れていても、罪に塗れていても、蘭は蘭だ。五月蝿いくらいに賑やかな、お節介焼きの単純馬鹿だ。だから、例え蘭が何者であったとしても、何者に成ったとしても、僕達の関係は変わらない。織田信長と、森谷蘭と、源忠勝と。今まで通り、三人で騒がしい日常を過ごす事が出来る。いつまでも変わる事無く、共に未来へと歩いていく事が出来る。僕は、それを疑ってはいなかった。

――本当に?

 何処からともなく、囁き声が聴こえる。

 頭の中で耳障りに反響するその声を――僕は、黙殺した。

「……」

 何にせよ、まずは蘭の本心を訊き出さない限りは話にならない。僕は手元の資料をさっさと元の書棚へと返却して、図書館を出た。冷房の効いた館内から足を踏み出した途端、容赦の無い熱気が身体を包み込む。西空では既に紅い夕日が沈もうとしていた。太陽の熱の名残を帯びたアスファルトを踏みしめて、堀之外の住宅街を歩く。向かう先はいつもの公園だ。特に時間を指定した待ち合わせはしていないが、忠勝が新たな情報を伝えるために待機しているかもしれないし――数日振りに、蘭が顔を出しているかもしれない。

 そう言えば、僕達が後を尾けていた事を蘭は知っているのだろうか。おそらく尾行自体は最後まで気取られていなかっただろうが、意識を失った後の顛末を両親の口から聞かされている可能性は十分に考えられる。そうなると、蘭が僕達に対してどういう態度に出るか些か予想が付かない。その辺りの対応策も事前に考慮しておくべきだな、と様々な事柄に思考を巡らせながら歩いていると、気付いた時には目的地に辿り着いていた。

 黄昏色に染まる公園の周囲は、静寂に包まれている。話し声や遊具の物音が聞こえてこないという事は、どうやら先客はいないらしい。少し拍子抜けしながら、外周に植えられた樹を迂回し、通い慣れた公園の敷地に足を踏み入れ。

――驚愕と共に、立ち尽くした。

「お、ようやく本日のゲストのおでましかい。きひひっ、待ってたぜ、ノブナガよぉ」

「…………っ!?」

 粘り付く様な悪意に満ちた声。それは、僕がこの世で最も嫌いな声だった。

 声の主は――鍛え上げられた屈強な体躯を悪趣味な白スーツで包み、白髪混じりの灰髪をオールバックに撫で付けた、中年の男。危険と暴力の匂いを身に纏わせ、悠々と煙草を吹かしながらブランコに腰掛けているのは、その度外れた残虐さと有能さを何者よりも恐れられ、若干三十代の半ばにして朝比奈組の若頭を張る男――新田利臣だった。織田信長にとっての絶望を象徴する最悪の存在が、ニタリと不吉な笑みを口元に湛えながら、僕を見据えている。

「おーおー、その顔。驚きのあまり言葉も出ねぇってなァ感じだな。なかなかいい具合にサプライズを提供してやれたようで俺としても嬉しいぜ。何つっても人生にゃぁ刺激が必要だからな、退屈と馴れ合いを始めちまったら人間腐ってくばかりってなもんよ。ってな訳で、俺はいつでも刺激を探し求めてんのよ。刺激的な不幸、刺激的な絶望ってヤツをな。きひひっ」

 言葉が、何一つとして耳に入ってこなかった。僕の心は、嵐のような混乱と動揺に見舞われていた。

 何故だ。

 何故、この男がここにいる。よりにもよってこの場所に、どうして当たり前のような顔をして居座っているんだ。意味が分からない。理解が及ばない。ここは、僕の居場所だ。僕達の場所だ。絶対に、お前のような輩が居るべき場所じゃない。居てならない場所なんだ。なのに、なのに、何故。

「ったく、とびっきりの“お楽しみ”が待ってんだから、あんま焦らしてくれんなよノブナガぁ。もうちょいで諦めて帰っちまうとこだったじゃねぇか。ま、結果的にゃ、ちゃーんとこうやってお越し頂けたワケだ、グチグチ言うのはやめとくかね。そんなコトよりもよ、ノブナガぁ」

 馴れ馴れしい調子で僕の名を呼ぶと、新田は不意に立ち上がった。大股でこちらへと歩み寄り、乱暴な手付きで僕の右腕を掴む。万力のような握力にて情け容赦なく手首を締め上げられる激痛に、思わず苦悶の呻き声が漏れた。絶望的な膂力にひとたび捕われては、振り解こうと足掻く事すら許されない。

「……っ!」

 ……いや、それ以前の問題、だ。依然として僕の手首を鷲掴みにしたまま、新田は満足気に口元を歪めた。

「よーしよし良い子だぁ。ここで聞き分けなしに暴れられでもした日にゃ、お前アレだ、また一から教育課程をやり直しだぜ。ま、そうなったらそうなったで俺としちゃあ楽しみが増えるんで全然構やしねえんだが、取り敢えず今はダメだ。生憎、今は“躾”に時間使ってる場合じゃねえんだよなぁ」

「……」

 この身は最初から、あらゆる抵抗を放棄していた。逆らえば逆らうほどに肉体を襲う苦痛は膨れ上がるのだという、骨髄に至るまで深く深く刻み込まれた教訓が、抵抗の無意味さを頭脳へと訴え掛けていた。心を殺して屈辱に耐え、歯を食い縛って激痛を堪え、ひたすらに耐え忍ぶ――ヘドロの如く意識の根幹に染み付いた無力感が、それ以外の選択を僕に許そうとしなかった。

 諦観。

 それこそが、織田信長に掛けられた呪いの名だ。蘭と出会い、忠勝と出会い、世界に希望を見る事が出来るようになった今でも、僕はその呪縛から逃れられてはいない。解決の術を見出せない困難に直面した時、決まって僕は囁き声を耳にする。仕方が無い。どうにもならない。だから諦めてしまえ――と。その醒めた声音を聴く度に、僕の心からは急速に“熱”が失われ、昏い世界へと引き摺り戻される。絶望に浸り、悲観に沈むだけの生ける屍でしかなかった頃の僕へと、立ち戻されてしまう。

「さーて、そいじゃ行こうぜノブナガぁ。きひ、そう固くなんじゃねえよ。ただ、そうさな――ちょいとイイとこに連れてやってやるだけだって」

 親しげに僕の肩を抱きながら、新田は告げる。その歪な喜悦に満ちた表情を目の当たりにした瞬間、恐ろしい勢いで心が冷えていくのが分かった。織田信長の不幸はいつでも、新田利臣の幸福に比例している。この先にどのような展開があるにせよ、新田がこういう顔を覗かせた以上、僕に待ち受けている運命は暗黒に彩られているのだろう。瞬く間に心中を覆い尽くす絶望的な心地に処する手段は、ただ一つ。いつものように精神を外界と切り離して、僕は新田の剛力に引かれるがままに、歩き始め――

「おい。そこで、何してやがる」

 切り付けるような鋭さを伴って響き渡る、聞き慣れた“現実”の声音に、はっと顔を上げる。

「誘拐にしちゃ堂々としすぎだな。嫌でも目に付いちまう」

 世界に意識を引き戻せば、源忠勝がそこに居た。公園の出口を塞ぐように立ち尽くしている。鷹を思わせる目が炯々と光を放ち、僕と、その腕を掴む新田を見据えていた。

 恐らくは事務所での所用を済ませた後、僕と同様にこの公園へと向かったのだろう。しかし何もこのタイミングで――と、僕は改めて己の不幸を呪わずにはいられなかった。助けが来た、などと無邪気に喜ぶ事が出来るほど、僕は呑気でも楽観的でもなかった。この場合、事態はより悪い方向へと転がったとしか言い様が無い。

「誘拐たぁ人聞きが悪いねぇ。いいかぁ坊主、血は繋がっちゃいないがな、俺は“こいつ”のオヤジ代わりみてぇなもんだ。だからよ、ちょいと親子の絆を深めようと一緒に遊んでたワケよ。親子水入らずに水を差しちゃあお前、そりゃやっちゃいけねえ無粋ってなもんだろ。その辺の空気読めねえとよ、真剣で大人になってから苦労するぞ? なぁノブナガよ、お前もそう思うだろぉ?」

 欠片の動揺もなく、新田は気の良さそうな笑顔で悠々と忠勝を見返しながら、僕の腕を掴む指に力を込めた。苦痛による催促、無言の脅迫。だが、そんなものが無かったとしても、最初から僕の取るべき行動は変わらなかった。

「……タツ、大丈夫だ。別に危険や問題がある訳じゃない。お前が気にする必要はないんだ」

 これから僕がどれほど無慈悲で過酷な仕打ちを受けるのだとしても、それは僕一人の問題だ。いつものように耐えてやり過ごせばそれで済む。だが――僕の不幸に忠勝を巻き込む事だけは、絶対に許されない。絶望の末にようやく見出した希望が、僕に付き纏う汚濁によって穢されるのは、耐えられない。そんな事になれば、僕達はきっと、今までと同じ●●●●●●では居られなくなる。それは僕にとって、いかなる苦痛よりも耐え難い恐怖だった。

「ざけんな。信長、てめえ……オレが、何も気付いてねえとでも思ってたのか」

 しかし、忠勝は僕の言葉を一刀の下に斬り捨てた。双眸には見紛い様もない怒りの炎が宿っている。ただし、その激情が向かう先は僕ではなく。

「お前は平気な顔で嘘を吐きやがるし、オレも信じたくはなかったがな。一年近くも付き合ってりゃ、嫌でも分かっちまうんだよ。お前がどっかの誰かに、それこそ毎日のように――胸糞悪ぃ仕打ちを受けてるって事はな」

「……っ!!」

 やはり、隠し通せては、いなかったのか。

 僅かに残った理性がそうさせるのか、虐待の露見を避けるため、あの女はいつでも衣服に隠されて見えない箇所を集中的に痛め付けてきた。故に、人目を惹き易い火傷痕や青痣、切創の類は、殆どが胴体に集中している。だからこそ、僕は曲がりなりにも虐待の事実を蘭や忠勝に隠し遂せてきたつもりだったのだが……人の言う事を疑おうともしない蘭はともかく、人並み以上に勘の鋭い忠勝を欺き続けるのは不可能だったらしい。

「勘付いたのは最近だが――確信を持ったのは、今だ。お前に“そんな顔”をさせてる奴が、まともな訳がねえ。……黙って見すごせってのは無理な相談だろう、がっ!」

 制止する暇すら無かった。胸中を充たす憤りを吐き出すように怒声を轟かせて、弾丸の如く忠勝は動いた。固く、固く握り締められた拳を振り翳しながら、荒々しく地面を蹴り出す。これまでに一度も見た事がないような激しい怒りを面に表して、猛烈な勢いで新田へと躍り掛かった。

「タツ、やめ――」

 必死の叫びを絞り出すよりも先に、鈍い殴打の音が響き、苦悶の呻きが場を充たす。

「ったく、最近のガキは喧嘩っ早いねぇ。きひひ、親に碌な“躾”を受けてこなかったのが丸分かりだぜ」

 一瞬の交錯を終えた時、地に崩れ落ちていたのは、忠勝だった。恐らくは、自分が何をされたのかすらも分からなかっただろう。少なくとも僕の眼には、新田の動きを捉える事は適わなかった。腕が僅かにブレたと見えた瞬間には、忠勝の腹部へと固められた拳がめり込んでいた。

「か、は、――」

 新田の足元に力無く膝を着いた忠勝は、顔を歪め、ひゅーひゅーと苦しげな呼吸を繰り返している。意識を失っていた方が遥かに楽であろう苦しみの中で、しかし忠勝の目は依然として光を失わず、眦に湛えた怒りをそのままに、強く眼前の男を睨み付けていた。不屈の意志を滾らせる忠勝の姿を見下ろして、新田はニタリと笑う。獲物を前に舌舐めずりする肉食獣を思わせる、不吉な笑みだった。

「いやぁノブナガよ、いいオトモダチ持ってんなぁお前。感動したぜ真剣で、涙がちょちょ切れそうだぜ。美しき友情って素晴らしいと俺はつくづく思う訳よ。今日という日は特にだな、そう思うぜ。そんでもって、俺はそのついでに思っちまう訳だ。そういうもんが修復不可能な感じで派手にぶっ壊れちまった時……一体全体俺は、どんな絶望を拝めるのか、ってな」

「……っ!」

 歪んだ愉悦を露にした声音に、慄然とする。このままでは、忠勝が――僕の、所為で。

「まあ焦んなよノブナガぁ。この肝っ玉の据わった坊主には何もしやしねぇさ。俺はこの世のお楽しみを一度に食い潰しちまうほど我慢弱くねぇよ。こんな美味そうなご馳走を、パーティーの添え物にしちまうのは勿体ねえからなぁ。きひ、きひひっ」

 不愉快な笑い声をひとしきり上げると、新田は何事も無かったかのような調子で歩き始めた。烈火の眼差しを向ける忠勝を捨て置いて、僕の腕を掴んだまま傍若無人に足を進める。未だ地獄の苦しみの中にある忠勝に、それを制止する手段はない。立ち上がる事も、声を上げる事すらも出来ず、ただ怒りと焦燥に駆られた表情をこちらへと向けている。

 しかし――必死の形相を作る忠勝とは逆に、僕の胸には安堵感があった。

 少なくともこの場において、忠勝がこれ以上の暴虐に晒される事はない。新田利臣という凶悪な獣に対する反抗の代償が、あの程度の苦痛で済んだのは望外の幸運と言うべきだった。

 ……源忠勝は織田信長の為に、あれ程までに激しく怒りを露にして、強大な敵へと果敢に挑み掛かってくれた。僕にとっては、その事実だけで十分だ。それだけで僕は、どれほど理不尽な暴虐であろうと乗り越えられる。だから――心配するな、タツ。

「……」

 僕が連行されていった先は、公園のすぐ外側を通る街路脇に予め停車されていた、黒塗りの高級セダン。低所得の世帯が密集しているこの地区においては、その威圧的な存在感は酷く浮いていた。状況を整理する暇すらなく、後部座席へと有無を言わさず押し込まれる。

「おうお前ら、待たせてすまねぇなぁ。やっと待ち人が来やがったぜ」

 新田が僕の隣に続けて乗り込んだ時、車内には既に二名の人間が居た。運転席に一人、助手席に一人。いずれもアルマーニの黒スーツにサングラス、という如何にも威圧的な風体をしており、その素性は一目で知れる。スキンヘッドの運転手がルームミラー越しに新田と僕を見遣って、やや困惑気味に口を開いた。

「こんな場所で待ち人たぁ誰かと思いやしたが、そのガキですかい若頭。連れて行くんで?」

「そりゃそうだろお前、でなきゃ何のためにいい歳こいてブランコ漕ぎながら待ってたんだっつの。言っとくが童心に帰りてぇとかそんな理由じゃねえぞオイ」

「はぁ、あっしもそいつは承知してますがねぇ。しかしまぁ、何でまた」

「そりゃあアレだ、こいつにゃ立ち会いの権利ってモンがあるからなぁ。いや、権利っつーかむしろ義務かねぇ? きひひっ、ま、んなこたぁどうだっていいんだがよ。とにかくさっさと出せや、ウダウダ喋っててパーティーに間に合わなくなった日にゃ、お前アレだ、東京湾へご招待だぜ?」

 ニヤニヤと不真面目に笑ってこそいるが、新田にしてみれば単なる脅しや冗談で済ませる気はないのだろう。それが分かっているのか、運転手は心持ち青褪めた顔でアクセルを踏み込んだ。スモークガラス越しに褪せた色彩の街並みが流れ始める。新田は座席に悠然と背を預けながら、上機嫌な調子で口を開いた。

「なぁ、ノブナガよ。こいつはさっきの話の続きなんだがな」

「……」

「アレだ、人生にゃ刺激が必要って話だよ。で、俺の場合、そいつは他人の不幸やら絶望やらってな訳だ。クソみてえな人生のどん底で這いずり回ってる連中を眺めてねえと、どうにも落ち着かねえんだよなぁ。きひひ、そういう意味じゃノブナガ、お前は本当に最高だったぜ? お前ほどイイ目をした奴は他にゃいなかった。運命の出逢いに感謝ってなもんだ。つーかぶっちゃけるとよ、俺ぁあの馬鹿女よりはよっぽど、お前の方が気に入ってたくらいなんだぜ」

「……」

 窓の外を、紅い風景が流れていく。車は住宅街を抜けて、南へ向かおうとしているらしかった。

「でもよぉ、どうにも最近は駄目なんだよな。お前の目、死に切れてねえんだよ。生きてるってほど輝いちゃいねえ癖に、みっともなく何かにしがみついて息を保ってやがる。それじゃ駄目だ、そんな中途半端に浮き上がってこられちゃ見てて面白くねぇ。――っつー訳で、だ。お前にはもっかいどん底まで落ちてもらおうかと、まあそう思い立った訳だ」

 ガタン、と車体が跳ねた。石か何かを踏んだのかもしれない。運転手の男が叱責を恐れる目でルームミラー越しの視線を新田に向けたが、新田は取り合う様子もなく、僕を見ていた。怖気の走るような満面の笑みを浮かべて――僕を、見ていた。

「楽しみだなぁノブナガ。ああ、楽しみで仕方ねえよ。これからお前がどんな顔を見せてくれるのかと思うと、俺は笑いが止まらねえよぉっ! きひひ、きひひひひっ!」

 おぞましい悪意の哄笑が、車内に満ちる。

 不意に僕は、自分の身体が震えている事に気付いた。これまでどれ程の暴力を受けても反応一つ示さずにいられた肉体が、怯えている。――いや、身体ではない。迫り来る絶望の巨大さを感じ取り、正体の判らない恐怖に震えているのは……僕の、心。

 なんだ? 僕は、何を予感している?

 一体何を思い浮かべた? 此処に至るまでの新田の言動から、いかなる未来図を思い描いた?

「……着きやしたぜ、若頭」

「おう、ご苦労さん。場所間違ってねぇだろうな? もしミスってやがったら、どっかその辺で消波ブロック背負ってダイビングさせちまうぜ、ん? おう、大丈夫みてえだな。んじゃ……さぁーて坊主、いよいよお待ちかね、楽しい楽しいパーティーの会場にご到着だ」

 無理矢理に押し出されるようにして車外へ降り立つと、生温い潮風が肌を撫でた。濛々と立ち込める薄灰色のスモッグに視界が限定されているが、恐らくは近場に海があるのだろう。眼前の光景から推測すれば、現在地は川神市南端に位置する重工業地帯の何処かで――新田達の目的地は、僕の目の前に佇む、打ち棄てられ錆付いた廃工場。紅く夕日に染め上げられた外観が、嫌でも不吉な予感を誘った。入口付近には、僕達が乗ってきたセダンの他にも数台の車が駐車されている。

 新田は再び僕の腕を掴むと、眼前の工場へ向けて歩き始めた。入口の傍には組の構成員と思しき黒服が二人立っており、新田の姿を視界に収めると、同時に顔を強張らせて深々と頭を下げた。新田は鷹揚な態度でそれに応えると、二人の横を通り過ぎ、無造作な足取りで先へと進む。僕もまた新田の腕に引き摺られるようにして、工場へと足を踏み入れた。

「……」

 廃棄されてから相当の年数が経過しているらしく、工場の内部はかつての面影を何処にも見出せない程に荒れ果てていた。撤去されないままの瓦礫や廃材が床に散乱し、天井の所々で錆びた鉄骨が剥き出しになっている。作業用のテーブルの上には原型を留めていない工具が転がり、降り積もった埃が層を成している。

 そして――そして、そして――、

 そして……それだけだ。此処には、空々しい荒廃だけがある。他のものは何も無い。

 注視に値するような何物も、この場には存在しない。


――本当に?


 またしても、声が聴こえる。

 恐ろしいほどに醒め切った囁き声が、頭の中で反響する。


――嘘を吐くな。本当は、気付いているんだろう?


 淡々とした疑惑の声は、何時まで経っても鳴り止まず。


――いい加減に認めろよ。今更、誤魔化せるとでも思ってるのか?
 

 追及の声は幾重にも折り重なって、脳内を掻き回す。


――お前は最初から、“それ”しか見ていない癖に。


 吐き捨てるように言い残して、正体不明の声は消えた。

 
 途端、頭痛にも似た奇妙な感覚が同時に消えて、視界がクリアになる。

 靄の掛かっていた様な曖昧な思考が晴れ渡る。頭脳が常の如く明晰に働き始める。


 そうして、僕は。

 
 眼前の現実と、向かい合う。



「ら、ん」



 意識を失い、手錠に戒められ、柱に括り付けられた、掛け替えの無い親友の姿を。

 
 いかに眼を逸らしても、決して逃がしてはくれない無慈悲な現実として、認識する。

 
 そして、僕は悟った。

 
 今まさにこの瞬間、幸福な夢が終わりを告げて――最悪の悪夢が、幕を開けた事を。











 




 次話にて過去編は完結。
 過去編、特に次話は原作の雰囲気とは掛け離れた陰惨な話で、読者の皆様が求めている内容とは食い違っているかもしれませんが……この章は物語の根幹を担う重要な部分でもありますので、宜しければ最後までお付き合い頂ければ幸いです。それでは次回の更新で。



[13860] 黒刃のキセキ、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:18011795
Date: 2013/03/04 21:37
※今回の話には残酷な表現・グロテスクな描写等が含まれています。
 上記の内容が極度に苦手な方は閲覧を控えるか、ご注意の上でお進み下さい。
















――それは、全てが終わった後に織田信長が知る事となった、真実の一欠片。

 元来、“森谷”という武家の世間における知名度は、著しく低いものであった。平穏無事を謳歌する表社会は言うに及ばず、魑魅魍魎の跋扈する裏社会においてもそれは同様である。武界に深く通じた極々一部の人間のみが僅かにその実態を知識として保有している程度で、大多数の人間は存在を知る事すらなかった。戦国の世より続く数少ない武家の系譜として見れば、その存在感の薄さはいっそ奇異とすら言える。が、道理ではあった。殺人による善の追及という陰惨且つ狂気的な理念を掲げる彼らは、その箍が外れた理念と行動原理故に社会の表舞台に立つ事が適わない。また、森谷の血族は誰もが己の定義する“悪”を憎悪し根絶を願っていたが、だからと言って悪と見做した相手――例えば犯罪者やその温床たる犯罪組織――を悉く誅殺するような振舞いには及ばなかった。例え本心ではそれを望んでいたのだとしても、少なくとも現実として行動に移す事はさほど多くなかった筈だ。彼らは基本的に、眼前の悪を斬る事よりもむしろ、血族の受け継いできた森谷の剣、殺法の昇華にこそ全霊を費やしていた。それこそが最終的により多くの善を為し、悪を滅する事に繋がるのだと信じて、人目の届かない闇の中で密やかに剣理を磨き、継承し続けていた。だからこそ森谷の名は広く知れる事もなく、近年ではもはや人々の記憶から忘却されつつあったのだろう。まあ、これらはあくまでも俺個人が調べ得た情報より類推した、推測の一つに過ぎないが。

 だが――ある時、一つの事件を契機に、森谷の名は巨大な衝撃と共に裏社会に広く鳴り渡る事になる。恐怖と忌避の代名詞、血に飢えた狂気の処刑人の悪名として。そしてその惨劇は、森谷成定と、森谷椿……即ち他ならぬ蘭の両親が引き起こしたものだった。なにぶん“生き残り”が皆無であるため事件の詳細が不明で、噂レベルの不確かな証言しか残されていないのだが、どうやら蘭の両親は、著名な指定暴力団同士の組織間抗争に刃を引っ提げて武力介入したらしい。そしていかなる顛末を経たのかは不明だが、最終的には両組織の主だった幹部が軒並み非業の死を遂げ、統制を失った組織はほどなく醜い内部分裂を経て解体された。当時、蘭の両親が実際に何を為したのか、またその行動の背景にどのような動機や事情が存在していたのか――もはや知る術は失われている。故に真実はまさしく闇の中だが、まあ重要な点はそこではないので置いておくとしよう。

 この場合における問題は、その一件を切っ掛けに“森谷”の名と行状が裏社会において多大な関心を集めるようになった事だった。無論、己の悪行に覚えのある輩の大半は、正義の刃を標榜する彼らと関わり合いを持つ事を恐れ、決して傍に寄らないよう努めていた。だがその一方で、いかなる悪党も震え上がらせると云う森谷夫妻の首に価値を見出し、功名心に駆られる者も少なからず現れるようになった。黛大成、かの“剣聖”の称号になぞらえ“剣鬼”と忌まれる森谷の剣士を討ち取れば、自らの力を証明し誇示する事が出来る、と。裏の社会においては「力が全て」という意識が大多数の人間の根底に流れているため、そうした手段で名を上げようとする輩は枚挙に暇がないのだ。かくいう俺自身、“織田信長”を始めてから、一体どれほどの数の刺客に性懲りもなく襲われた事か。もはや数えるのも諦めたくなる程度の頻度で、俺は自らに降り掛かる火の粉を払ってきた。

 そして当時――つまり現在から遡ること約十年。件の悪名高き“森谷”が魍魎の坩堝たる堀之外の街に居を構えている、という情報は裏社会に通じた者にとっては周知の事実であり、強い野心を持つ者は爪牙を磨き虎視眈々とその首級を狙っていた。例の公園にて俺と蘭が初めて顔を合わせたのは、丁度そんな時期であり。俺達は、自分達が薄氷の上で踊っている事実をまるで自覚していなかった。無邪気で楽しく賑やかな日々が、救いの無い破滅と隣り合わせであった事など欠片も知らずにいた。

 或いは昔日の俺にそれを悟る事が出来ていれば、未来を変える事は可能だったのだろうか。IFを夢想するほど虚しい行為もないという前提を承知した上で、俺は今でも考える事がある。生々しい悪夢に魘されて跳ね起きる度、または夢に見る光景に懐かしい記憶を呼び覚まされる度、ベッドの上に黙然と座り込んで、朝日が訪れるまで無為な思索に時間を費やす事がある。

 過酷ながらも幸福だった幼少時代と、それがどこまでも無惨に崩壊したあの日の事を、痛みと共に想起する。それは果たして自傷行為なのかそれとも自慰行為なのか、俺には判断が付かない。或いはどちらも意味合いとしては同じ事なのかもしれない。いずれであったとしても――俺の脳裡から昔日の記憶が消え去る事は永遠に無いのだろう。それだけは、間違いないと断言出来る。

 過去は全ての現在いまを決定付ける。思想、人格、力、地位、立場、生き様。そして――未来に抱く“夢”でさえも。

 …………。

 まあ、何にしても。

 面白い話ではないが、しかし必要な話ではある。

 もう少し。もう少しだけ――退屈な自分語りに、付き合って頂こう。














※※※











 力なく項垂れた顔は不吉なまでに青白く、固く瞑られた瞼は開く気配が無い。後ろ手に掛けられた鈍色の無骨な手錠と、そこから伸びた二本のチェーンが、背後の鉄柱に小柄な躯体を縛り付けている。僅か数歩分の前方に在るのは、誰の眼にも明らかな形で拘束された幼馴染の姿。

「――蘭ッ!!」

 眼前の光景を現実として認識した瞬間、僕は前後も後先も忘れて叫んでいた。突き上げる衝動に駆られるままに、蘭の傍へと駆け寄ろうとして――腕を掴み留める凶悪な圧力に、身動きを制される。その力には欠片の加減も容赦もなく、僕は一歩たりとも進む事は出来なかった。

「おぅおぅ、必死だねえノブナガ君。つーかお前、そんな切羽詰った声も出せるんだなあ。これぞ美しき友情の賜物ってヤツかね? それとも少年時代の淡い恋心かぁ? きひっ、ま、どっちでも構やしねえさ。いいねえいいねえ、それでこそ楽しめるってなもんだ。わざわざご招待した甲斐があったぜ」

「黙れっ! 蘭に何をしたっ!?」

「おぉおお、ようやく口を利いてくれたなぁ! もしかしなくてもアレだ、自分から話し掛けてくれるのは初めてじゃねえのか? きひひ、こりゃ今日は記念日に認定するべきだな。そうそう、親子ってなぁしっかり対話しなきゃいけねえもんだ。誰も信じてこなかった孤独な少年が遂に心を開く――ああ何とも感動的な瞬間じゃねえかよ、ええ? 俺ぁ涙脆いんだ、あんま泣かせるんじゃねえや」

「…………っ!」

「睨むな睨むな。お前、ただでさえ目付き悪ぃんだからよ、もうちょい愛想良くしろよな。んな調子じゃあガールフレンドの一人も出来やしねえぜ? オヤジとしちゃあ心配で心配で仕方ねえよ。きひ、それともこのお嬢ちゃん以外はハナっからアウトオブ眼中ってか? まあ気持ちは分かるぜ、何せ別嬪さんだもんなぁ。さぞかし高値で“売れる”んだろうなぁ。……おぉっとついうっかり口が滑っちまった、こいつは他人様にゃあおいそれと聞かせられねえ企業秘密だってのに。失敗失敗」

 明確な悪意に口元を歪めながら、新田はわざとらしく嘯いた。不吉の匂いを無造作に漂わせ、そのまま言葉を続ける。

「で、何だっけ? えー、あーそうだ、俺がお嬢ちゃんに何をしたって? おいおい人聞きの悪い言い方は止してくれよノブナガぁ、それじゃまるで俺が良からぬ悪戯でもしたみてぇじゃねえかよ。せっかくちょっとした親心でお節介を焼いてやったってのによぉ」

「……お節介だと?」

「おうよ。俺の意見としちゃだなぁ、友達ってのはアレだ、お互いに隠し事なんぞをしてちゃ駄目だと思うワケよ。腹に一物抱えたままじゃぁいつまで経っても真の友情は成り立たねぇってな。だからよ、俺はお前らの関係がもっともっと深まるように、お前が必死こいて隠してる“本当の事”ってヤツを嬢ちゃんに教えてやったのさ。しかも丁寧に映像実況解説付きでなぁ。俺が撮った傑作ホームビデオ、嬢ちゃんは随分と楽しんでくれてたぜえ? マアなんてステキな家族団欒なんでしょう、ってな! きひひ、きひひひっ!」

「――ッ!!」

 ならば。ならば蘭は、“あれ”を見たのか。新田利臣という男の残虐な嗜好が形として具現化したような、あの忌まわしい映像を。腐ったドブ川の底、淀み切った絶望の只中に在る僕の姿を、もしもその目で見てしまったと言うのなら……正義感の塊で、他者の痛みに敏感なあいつは、何を思う? 何を考え、何を行う? それは、改めて思考するまでもなく、判り切った事だ。

――だとすれば。蘭が、囚われの身となって此処に居るのは。

「まぁ実際の所を言えば、嬢ちゃん、ぎゃーぎゃー騒いでたなぁ。こんなのは酷いだとか許せないだとか、ヨソん家の教育方針にえらい剣幕で文句を付けてくるもんだからよ、仕方なく俺ぁ大人の対応をしてやったワケよ。“正々堂々勝負して俺に勝てたら嬢ちゃんの好きなようにしていいぜ”――ってな。そしたら一も二もなく喜び勇んで挑んできたぜ、さすがは武家の娘さんだよなぁ。きひひっ、ま、結果はご覧の有様だけどよ」

 義憤に駆られた蘭が、新田に挑みかかる光景は容易に想像出来る。そう、蘭ならば間違いなくそうするだろう。そこに疑問は無い。

 しかし――

 僕は蘭を改めて見遣った。意識を失い戒められたその姿は、疑い様もなく蘭の敗北を示している、が。

 ……確かに、新田利臣という男は、強い。過去に何かしらの武術を修めており、常人を遠く寄せ付けない実力者として周囲に畏怖されている、暴力のプロフェッショナルだ。十歳にも届かない子供と相対して勝利する事など、赤子の手を捻るよりも容易いだろう。今の僕がこうして、欠片の身動きすら許されず拘束されているのが好例だ。

 だが――蘭は、僕とは違う。普通の子供とは次元が違う。蘭は幼いながらも、常識を超越した身体能力と剣才を併せ持つ、驚異的な戦闘能力の持ち主だ。自分の二倍近い体躯の暴漢を無手にて一瞬で叩き伏せる光景も、僕は幾度と無く目にしてきた。まるで住処としている世界そのものが違うかのような、異質で、圧倒的な強さ。例え新田がどれほど危険な獣であったとしても、真正面からの戦闘で傷一つ負わずに蘭を制圧し得るとは、僕には思えなかった。

 ……となれば、凡そ考え得る可能性は一つしかない。新田の腐れた思考回路をトレースするという行為はそれだけで反吐が出る程に不快だが、しかしその甲斐あって、疑問に対する回答は容易に導き出せた。

「……“正々堂々”、ね……」

「ん~? 何か言いたそうな顔してやがるなぁ。けどよ、俺は何一つ嘘なんざ吐いてねえんだぜ? 一対一の真剣な決闘で白黒付けようとしたさ、俺はな。ただよぉ、たまたま落ち着きのねえ部下どもが外野で喧嘩をおっ始めて、たまたま流れ弾が嬢ちゃん目掛けて飛んでいっちまったってのは、こりゃあ誰がどう見ても不可抗力以外の何物でもねえよなぁ? 要するに悪ぃのは俺じゃなく、嬢ちゃんの運勢だったってワケだ。んでもってアレだ、勝負は時の運、運も実力の内ってな。実力で勝負が決まったってんなら、誰からも文句は出ねぇだろうさ。嬢ちゃんも何も言わなかったしな。つっても腹ぶん殴られて気ィ失ってちゃあ文句なんざ言えねえか、きひひっ!」

 臆面も無く言い放って、新田は心の底から愉快そうに笑う。誇るが如く堂々と己の腐り果てた性根を晒す浅ましい姿に、今更、驚く事は何も無い。初めて顔を合わせた瞬間から何も変わらず、新田利臣とはそういう男だ。悪党ですらもが躊躇う一線を鼻歌混じりに踏み越える、真性の下衆であり、本物の外道。

 ……。

 少なくともこれで、蘭が遅れを取った理由には納得が行った。もしも最初から集団で囲み、数の暴力で討ち取ろうと新田が目論んだなら、蘭は独力で切り抜ける事が出来ただろう。何十人で徒党を組もうが、銃器で武装していようが、相手が並の使い手ならば蘭は何ら問題にしない。ただ――蘭に弱点があるとすれば、それは度を越えて純粋で真っ直ぐ過ぎる性格だろう。例え敵対する者の言葉であれ、相手の言をそのままに信じ込んで疑おうとも思わない、行き過ぎた素直さ。だからこそ、蘭は不覚を取った。自分が正々堂々の決闘に臨んでいると心の底から信じていたからこそ――不意討ちの可能性を度外視し、結果、慮外の一撃を被った。相手の善性を信じたが故に、裏切りに倒れる事になったのだ。

 忌むべきは、新田という男の何処までも救い様の無い下劣さだった。蘭の善性を利用し卑劣な手段で勝利を手にしておきながら、欠片の後ろめたさも抱かない。つくづく吐き気を催さずにはいられない、汚れ切った品性。

「……何の為に、そこまでして蘭を捕まえる必要あったんだ」

 怒りと侮蔑と憎悪の感情を噛み殺しながら、薄笑いを刻む不快な顔へと問い掛ける。しかし同時に、僕の心中には回答を聞くのが怖いという思いがあった。蘭がこうして虜囚の憂き目に遭ったのは、僕の所為だ。僕が自身の置かれた環境の事を隠し続けてさえいなければ、少なくとも僕の目の届かない場所で蘭が突っ走る事はなかった。だから、“原因”は僕。そして――

「“お楽しみ”とやらの為か? 僕を絶望させる、ただそれだけのために、わざわざ蘭を拉致したのか」

 そして、もしも“理由”までもが僕の存在に起因しているのだとしたら。織田信長を取り巻く奈落の如き不幸と絶望に、蘭を巻き込んでしまったのだとしたら。僕は一体、どうすればいい――?

「きひひ。その辺はアレだよ、いわゆる趣味と実益を兼ねて、ってなモンだ。このイカしたシチュエーションの中でとびっきり刺激的な不幸と絶望を楽しむ、それは俺の趣味。んでもって実益の方は……まあすぐ分かるだろうよ。いちいち説明するのも面倒くせえ。ま、アレだ。あくまでもお前と嬢ちゃんはゲストで、パーティーの主賓は別にいる、とだけ言っとくかねぇ」

「主賓……?」

 続けて問い質そうと口を開き掛けた、その時だった。

「シン、ちゃん……? あ、れ、わたし……」

「っ、蘭!」

 いつの間にか意識を取り戻していた蘭が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。自分の置かれている状況を未だ理解していないようで、ぼんやりとした視線を周囲に巡らせて――はっと、目を見開く。蘭の視線が向かう先には、ニヤニヤと不愉快に笑う新田の顔があった。そこでようやく記憶が繋がったのだろう。蘭は弾かれたように動き出そうとしたが、鉄柱に繋がれた手錠の鎖がそれを許さなかった。相当に頑丈な造りになっているようで、常識外れの蘭の膂力を以ってしても、力尽くで戒めを破る事は不可能らしい。幾度も必死にもがいた末、無意味を悟ったのか、蘭は青褪めた表情で周囲を見渡した。

 廃工場の内部には、新田と僕に続いて数十人もの男達が足を踏み入れている。威圧的な風貌や危険な雰囲気からして、大多数、もしくは全員が朝比奈組の構成員だろう。男達は僕達の周りに無造作な囲いを作って、嘲りと哀れみが入り混じったような表情をこちらへと向けていた。

 子供らしからぬ落ち着いた、それでいて素早い目線の配りで迅速に状況確認を終えると、蘭は僕に向き直った。蘭は単純だが、決して頭の回転が遅い訳ではない。自らが得た様々な情報を統合して、現在の状況を正しく把握する事は難しくないだろう。眉を八の字に下げた、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見遣る蘭に、果たして僕はどのような表情を返していたのか。自分でも、判らなかった。

「ごめんなさい、シンちゃん。わたし……負けちゃいました。かならず助けるって、決めたのに」

「……どうしてだよ」

 ぽつりと、呟きが漏れる。腹の底で煮え滾る、憤りにも似た遣り切れない感情に任せて、自然の内に言葉が零れ出る。

「どうして……、どうしてお前はいつも無茶ばかりするんだ。後先も考えずに、突っ走って。朝比奈組の勢力がどれほど強大なものか、お前だって知ってるだろう! 例えお前が一騎当千の武人だろうと、無理なものは無理なんだ。どうしようもないんだよ。抗っても仕方が無い。無意味なんだ。だからお前は、僕の事なんて放っておくべきだったのにッ!」

 一度溢れ出すと、止まらなかった。憤懣、悔恨、そして諦念。己の内に渦巻く無数の想念が絡まり合った、正体不明の激情が舌先を衝き動かす。

「そうだ、ただ僕が黙って耐えていればそれで済んだんだ! それだけで僕達は今まで通りに過ごせた。僕一人が汚れるだけで、お前達は汚い世界に触れずに光の下で生きていられた! 元々僕は“ああいうの”には慣れてるんだ。こんな風にお前やタツを巻き込むくらいなら、僕は」

「――シンちゃんは」

 どこまでも優しい、それでいて凛とした声音が、包み込むように僕の言葉を受け止めた。

「わたしのおともだちです。とってもたいせつな、とってもだいすきなおともだちです」

「……っ」

「シンちゃん、泣いてました」

 自分の方が泣きそうな顔をして、蘭は心の底から悲しそうに言う。

「何、を。僕は、泣いてなんか」

「泣いてました。シンちゃんはうそが上手で、わたしはどんかんだから、今まできづいてあげられなかったけど。悪い人たちにたくさんひどい事されて、シンちゃんは泣いてました。たとえ涙がでてなくたって、わたしにはわかるんです。ずっとシンちゃんをみてきたから、わかるんです」

 涙を流さず、声一つ上げず、表情一つ変えず。それでも心は、泣いている。

「わたしはシンちゃんが泣いていたら、なにがあっても助けます。どんなにむちゃだって言われても、むぼうだって怒られても、わたしはシンちゃんを助けます。どうしてもこうしてもなくて、そうするべきだからそうするんです●●●●●●●●●●●●●●●●! それはぜったいにぜったいですっ」

「……」

 理屈も理論も損得も無関係に、ただ己の為すべきことを為す。己の意志に従って、貫き通す。

 ああ、そうだった。だから僕は、信念を以って掲げるべき意志を何一つとして持たない僕は、一目見たその時から――お前が。

「おともだちが苦しんでると知ったいじょう、だまって見ないふりなんてできません! 義を見てせざるは勇なきなり、なのです!」

「……お前、」

 
 ぱちぱちぱち。

 
 場違いな拍手が不意に鳴り響き、続くべき僕の言葉を遮った。

 ニヤニヤと笑いながら僕と蘭の遣り取りを傍観していた新田は、拍手を止めると、大袈裟な身振りと共に口を開く。


「おうおう、美しき青春の一ページだねえ。見てるこっちまでもれなく若返っちまいそうな気分だ。いや、イイもん見せて貰ったぜ。スイカ食う前に塩舐める奴っているだろ? 今の俺ぁ大体そんな感じだ。落差っつーか緩急っつーか? 幸福あってこその不幸っつーか、希望は絶望のスパイスっつーか? まあとにかく、その辺の工夫がお楽しみを味わう為の醍醐味ってヤツなのよ。で、今までは基本、塩舐めつつの準備期間だったワケだが――そろそろ下拵えは終わりにしようじゃねえの。本命も到着した事だしな」

 
 新田が無造作に言い放つのと、蘭が驚きに眼を見張るのは同時だった。蘭の視線が向かう先、背後へと無理矢理に首を捻らせる。視界に映り込むのは、黒と赤のコントラスト。


「――父上! 母上!」


 蘭の叫びに頼るまでもなく、来訪者の正体は明らかだった。おいそれと忘れられるような外観の持ち主ではない。痩せ細った身体に黒の和装を纏う、不吉な風貌の男。白雪のような肌を鮮烈な朱の着物で隠した、儚げな風貌の女。森谷成定と森谷椿の両名が、静かな佇まいで廃工場の入口に立っていた。それに気付いた途端、工場内に動揺のざわめきが巻き起こる。男達の誰もが、忌避と嫌悪、恐怖、或いは畏敬の念を込めた目で二人を注視していた。俄かに場の空気が塗り替えられる中、新田だけが平然たる態度で口を開く。

「おう、お前。俺の代わりにこいつ抑えときな。俺ぁこれからは嬢ちゃんの世話をしなきゃなんねえからな」

 新田は近くに控えていた黒服の一人を呼び付け、僕の腕を持ち上げて見せながら命令する。男は畏まった様子で頷いて、羽交い絞めで有無を言わせず僕の身体を拘束した。それを確認してから、新田は僕から離れて、上機嫌な足取りで数歩の距離を歩く。柱に繋ぎ留められた蘭の傍に立ち、そしてようやく、蘭の両親の方へと向き直った。恐らくは自らの口で“主賓”と称した、二人の男女へと。

「きひっ、まあそんな所で突っ立ってねえで、どうぞ中に入りなよ。洒落にならねえレベルで汚ぇパーティー会場だけどよ、ま、そこは堪忍してくれや。いわゆる“後腐れのねえ場所”ってのは中々これが見つからねぇもんでね」

「…………」

 数秒ほどその場に立ち尽くし、細めた両目で射る様に新田を見つめた後、成定は音を立てない静かな足取りで工場内部に足を踏み入れた。その三歩後ろを、妻の椿が粛々と付き従う。僕達の周囲を囲んでいた男達は、二人の眼前に立つ事を恐れるように機敏な動作で道を開けた。その対応を笑う気にはなれない。特に、森谷成定が纏う雰囲気は、昼間に会話を交わした折とは別物だった。鬼気、とでも言うのだろうか。鋭く研ぎ澄まされ、苛烈な意志を宿した眼差し。面相に浮かぶ死の気配と、腰に佩いた禍々しい太刀の存在もあって、鋭刃の如き気配を全身より発している。触れるどころか寄る者全てを無惨に斬り捨てる凶刃。そんなイメージを見る者に植え付ける立ち姿だった。

 不吉な予感を抱かずにいられなかったのは新田も同様だったらしく、成定の立ち位置が己と数メートルの地点まで近付いたタイミングで、動きを見せた。すなわち――懐から取り出したポケットナイフの刃を蘭の首筋に突き付けるという、卑劣な意図を明瞭に知らしめる形で。

「さーて、その辺で止まってくれねえと困るねえ。ただでさえ汚ぇパーティー会場がますます派手に汚れる事になっちまうぜ、え? 主賓のアンタらがそれでも構わねぇってんなら、まあこっちとしちゃ文句を付ける気もねえけどよ」

「…………」

 成定は無言のまま、娘の命を脅かす刃を見つめ――足を止めた。椿もまた同様に立ち止まり、夫の背後に控える。成定は悦に入った新田の顔には目も呉れる事無く、数間先に戒められた己の娘だけを真正面から見据えて、口を開いた。

「これは一体どういうことかな、蘭」

 その声音は激するでもなく、殊更に責め立てるような色もない。纏う空気の鋭利さとは裏腹の、穏やかな問い掛けだった。

「申し訳ありません、父上……。むざむざと敵にあざむかれ、不覚を取ってしまいました。せっかく父上と母上に教えをうけておきながら、蘭のちからがおよばないばかりに――」

「私はそういう事を訊いているんじゃないんだよ、蘭」

 やんわりと、しかし有無を言わさぬ圧力を伴った声が、悄然と述べられつつあった蘭の弁を遮る。

「私が知りたいのはね――どうして殺さなかったのか●●●●●●●●●●●●、その一点だけなんだ」

「っ!!」

 さぁっ、と、目に見える勢いで蘭の顔が蒼白に染まった。明らかな怯えと恐れを含んだ目が、僕を窺うようにちらりと向けられる。その仕草の意味するところに、僕は気付いた。森谷という武家の内情、血に塗れた真実に僕が触れた事を、恐らく蘭は未だに知らないのだ。娘の様子にも無頓着に、成定は穏やかな調子を崩さないまま言葉を続けた。

「私は君の才能を正しく理解しているつもりだよ。君は、脈々と受け継がれてきた森谷一族の血を最も色濃くその身に宿した、殺人刀の申し子。君が真に殺意を以って刃を振るえば、世にその剣閃を留められる者などそうは居ない。“壁”を超えてもいない有象無象を相手に遅れを取る事など有り得ないんだ。例え卑劣な策に嵌められたとしても、そんな些事が君の膨大な殺意を妨げる事はない。森谷蘭の剣才とは、そういうものなのだから。――故に、もう一度問うとしよう。蘭、どうして殺さなかったんだい? “悪”に情け容赦は無用と、悲劇の連鎖を断ち切るには死の粛清が必要なのだと、私は教えた筈だろう?」

「…………わたし、は」

 あくまでも優しげな父の問いに、蘭は肩を打ち震わせ、言葉を詰まらせた。色を失った唇を戦慄かせながら、何かを否定するように力なく頭を振る。

 ――ああ、やはりそうなのか。

 その瞬間、唐突な理解が降りた。蘭は、命を奪うと云う行為を無条件に受け入れている訳ではない。森谷一族の狂気的な理念に心底から賛同し、その独善的な在り方を“理想の武士”として捉えている訳ではない。蘭がかつて“夢”を語った時の眼の輝きは、紛れもなく本物だった。故に、蘭が森谷の理想を自らの夢として追求しているのならば、こんな思い詰めた顔を見せる筈がないのだ。

 そう、最初から判っていた事だ――蘭は断じて、人を殺せるような人間ではない、と。

 禍々しい血の化粧など、“甘ちゃん”の森谷蘭にはどう足掻いても似合わない。僕はそれを、誰よりも承知している筈じゃあなかったのか。

「あー、殺すとか殺さないとか、おっそろしく平和で微笑ましい親子の会話に口を挟んで悪いんだがよ。そろそろこっちにも構ってくれねえとヒマを持て余しちまうぜ。あんまりにもヒマ過ぎてついつい刺激が欲しくなっちまう。例えばホラ、ちょっと手元を動かしたくなったり、な。大事な娘さんが前衛的な噴水っぽい何かになっちまうのは困るだろ? せっかく名高い“剣鬼”サマにお目に掛かれたんだ、お喋りしてみたいと思うのが人情ってモンだぜ。そこんとこ理解してくれよ、旦那」

「……生憎だが、見ての通り病の身でね。獣との相互理解に費やせるような気力と体力は残されていないんだ」

 娘に向けるそれとは違い、新田を見遣る成定の双眸はどこまでも冷え切っていた。

「きひひ、つれない事言うなよ。アレだ、ここんとこ、容態は安定してるんだろぉ? ちょっとは付き合ってもバチは当たらねえと思うぜ」

「不躾ながら、君に医の心得があるようには見えないが。私はもはや立っているだけで精一杯の有様さ」

「いやいや、そりゃあ俺は赤血球と白血球の違いだって碌に分かりゃしねえけどよ、この見立てにゃあたぶん間違いはねえぜ。きひ、何せアンタの主治医に直接聞いたんだからな、まあよっぽどのヤブじゃなけりゃあ当たってんだろ。喋れなくなるまでには“もうちょっと”だけ猶予があるって見立てはよぉ。きひひっ」

「……そうか。古くからの友人だったのだけれど、ね。彼もまた悪に屈したか。残念な、事だ」

 強いて感情を抑え付けた声音で呟くと、成定は天を仰いだ。蘭は、訝しげな表情で二人の対話を聞いている。『蘭にはまだ伝えていない。優しい子だ、知れば必ずや心を乱すだろう』――数時間前、成定が僕達に告げた言葉を思い出す。蘭はまだ、成定の残り僅かな余命については何も知らないのだ。

「ところで旦那。アンタ、さっきから俺達のことを何も訊こうとすらしねえけどよ。いいのかい? お前達は何者だ! だとか、一体何が目的なんだ! だとか、その辺のお決まりの質問をしてくれねえとこっちも寂しいんだがな」

「期待に沿えず申し訳ないが、目的は自ずと予測が付く。これまで斬り捨ててきた多くの獣共と同様、私達の細首が所望なのだろう? それに、君達の事は以前から知っているからね。朝比奈組――そしてその若頭・新田利臣。いつかは斬らねばならぬ、と心に刻んでいた名だ」

「おお、こえぇーなぁ。おっかなくて小便漏らしちまいそうだ。そんなに殺気立たないでくれよ。俺はよ、自分に素直な生き方ってヤツを心掛けてるだけの、真っ直ぐな心を忘れねぇ純粋な大人なんだぜ? 」

 刃の如き眼差しを飄々と受け止めて、新田はニタリと笑いながら嘯く。完全に開き直り、己の悪業を恥じ入る様子も無く平然と曝け出す新田の態度に、成定は表情を変える事はかったが、その喉から発される声音は一段と低く、重苦しいものになった。

「……その下衆な心根を。醜悪窮まる我欲を充たす為に、今までどれほどの人々を踏み躙ってきた? どれほどの生き血を啜ってきたのだ? ――私には分かる。君は疑いなく、私の知る限りにおいて最も悪しき者の一人だ。断じてこの世に在ってはならない邪悪だ。捨て置けば、必ずや世に幾多の悲劇を生み続けるだろう。故に、君は斬られねばならない。義の下、刃によって裁かれねばならない。冷厳なる死を以って、己が罪科を償わねばならない。それが果たされぬならば、この世はまさしく悪鬼の跳梁する地獄と化そう」

 煮え滾る憎悪を無理矢理に押し固めたような、静かながらも凄絶な圧力に満ちた断罪の言葉。死の気配を漂わせた重篤の病人であるにも関わらず――森谷成定という男は、誰もが気圧されずにはいられない峻烈な気迫を発していた。

「きひ、きひひっ」

 しかし、然様に度外れた圧力を正面から受けて尚、新田は欠片も怯んだ様子を見せなかった。それは常人の域を超えた胆力の成せる業か、或いは常軌を逸した歪な精神性故か。新田はただ、くつくつと愉快げに笑い声を漏らしながら、茶化すような余裕の表情で成定を見返した。

「悪を滅ぼす正義の味方、カッコイイねぇ。痺れッちまうぜ全くよぉ。だけどよ、そういう決め台詞ってのはアレだ、勝ちパターン入った時に言ってなんぼじゃねえのかい、旦那? 負け犬がいくら正義なんてご大層なモンを喚いたって、そりゃあ遠吠えってヤツにしか聞こえねえんだなコレが。それともなんだい、実は一発逆転の秘策でもあるってのか? この誰がどう見ても詰んじまってる状況を一手で覆せるようなご都合主義が、アンタにゃ味方しちまってるのかい? ええ?」

 蘭の首筋に突き付けたナイフをこれ見よがしに上下させながら、新田は嬲るような口調で言い放つ。成定は苦渋に表情を歪めつつも、沈黙を以ってそれに応えた。無言の睨み合いを数秒ほど続けた末に、成定が口を開こうとした瞬間――

「父上っ! まどわされないでくださいっ!」

 悲愴な叫び声が、沈黙を引き裂いた。蘭は白い首筋を冷やし頚動脈を圧する刃の恐怖に屈する事無く、必死の表情で声を上げる。

「わたしが悪いんです。わたしが父上と母上のご忠言に耳をかたむけなかったから、こんなことになってしまったんです。ですから、わたしのことはいいですから――シンちゃんを! シンちゃんを、たすけてあげてください! 森谷の剣は義を護る刃。“真の武士たるもの、眼前の小義のみに囚われることなく、大義の為に刃を振るいなさい”と、蘭は、父上にそうおそわったのです! どうか武士として、わたしがあこがれたほんとうの武士として、あやまたず大義をはたしてください、父上っ!!」

 響き渡るのは、どこまでも悲痛で、どこまでも果敢な、幼くも凛たる音声。

――それは、いかほどの覚悟から生じた叫びだっただろう。

 僕には、分かる。どうしようもなく分かってしまう。義の為に己が命を捧げようと訴える蘭の言葉が、紛れもない本心からのものである事を。蘭は本気で、自らを犠牲に皆を救おうと考えている。命と引き換えに父を救い、母を救い、そして――僕を、救おうとしている。今度こそ、忌まわしき朝比奈組の呪縛から織田信長を解き放とうと。

 蘭は、死を恐れていない訳ではない。死を恐れていない、訳などない。蘭は未だ十歳にもなっていないのだ。数多の死地を潜り抜けてきた戦士でもなければ、かつての僕の如く世界の全てに絶望した厭世家でもない。輝くような夢と希望を胸に抱いて日々を懸命に生きる、子供なのだ。

「……ッ」

 であるにも関わらず――蘭は、眼前に迫る死の恐怖に顔を青白く染め、双眸に涙を浮かべながら、それでも声を震わせる事無く、気丈に前を向いていた。我が身を顧みず己の信じた義を貫く、真なる武士で在りたいという想い。そして何より、自分以外の人間へと惜しみなく向けられる善意が、慈愛と優しさが、死の恐怖をも凌駕する強固な信念となって蘭の心を支えているのだろう。このような状況に在っても、森谷蘭はどこまでも森谷蘭だった。初めて出会った時から何も変わらない、日輪のように眩しく輝く、穢れなき純白の光そのものだった。

――本来なら、僕は。“馬鹿な事を言うな”と、“お前を犠牲にして生き残ったところで何の意味もないんだ”と、そう必死に己の心情を訴えるべきだったのかもしれない。しかし、蘭の気高い覚悟を目の前にして、感動にも似た心地に打たれ、発すべき言葉を見失っていた。殉教者を思わせる蘭の姿に侵し難い神聖さを見出したのは僕一人だけでは無かったのか、刹那の間、誰もが声を漏らそうとはしなかった。

「いやいや……かぁっこイイねぇ。親子揃ってカッコイイぜ、感動的だよなぁホント。きひ、きひひっ」

 だが、所詮はそれも、一瞬の事だった。へばりつくような粘性の悪意に彩られた声音が、いとも容易く場の空気を汚染する。人の善性を嘲笑って憚らず、踏み躙って一顧すらしない悪魔が、此処には居合わせていた。新田は蘭の耳元に顔を寄せて、囁くように言葉を続けた。

「だけどよ、ダメダメだぜ、お嬢ちゃん。そいつはいけねぇ。そういう展開は、期待するだけ無駄無駄ってもんだ。嬢ちゃんの四倍ほど人生経験豊富な俺が教えてやるけどよ、“正義の味方”って奴はな……結局、殺せやしねぇんだよ。嬢ちゃんみてえに健気なイイコちゃんごと俺をぶった斬るような景気の良い真似、どう頑張ったって出来やしねぇのさ。大事な大事な愛娘だってんなら尚更だぁな。俺ぁ今までヒーロー気取りの生温い連中を腐るほど見てきたがよ、“こういう状況”に追い込んでやった途端、どいつもこいつも笑えるくらい簡単に命を投げ捨てやがったぜ? きひひ、随分と軽い命してやがるよなぁ。きっと命は大切なモンなんだって親に教わらなかったんだろうぜ。――っつー訳だ、ムチャ言ってパパとママを困らせんのはその辺にしとこうや、なぁ嬢ちゃん」

 表面上は優しげな調子を装いながらも、その声音には隠し切れない獣性が漏れ出ていた。凄絶な笑顔でナイフをちらつかせるその態度は、恫喝以外の何物でもない。無情な刃の先端が僅かに喰い込み、皮膚を切り裂く。白い首筋を流れ落ちる鮮血の感触に身を震わせつつも、蘭は真っ直ぐに前を向いていた。自身の覚悟を届けるべき相手――森谷成定を、強固な意志を宿した双眸で見つめていた。

「蘭。私は、嬉しい」

 娘の眼差しを静かに受け止めて、成定は不意に呟く。口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

「君が、それほどまでの覚悟で士道と向き合ってくれている事実が、私は嬉しい。自らを顧みる事無く大義を果たさんとする武士の心を違わず解し、己の身命を以って武士道を貫かんとする。それは私達の掲げる理想と、寸分違わぬ姿勢だよ。……大きくなったね、蘭。君は立派に成長し、森谷の娘として何一つ恥じない心胆を己の方寸に育て上げてくれた。その事実が、私には何よりも嬉しいんだ。父として、師として、私は君の事を誇りに思う」

「父上……」

「蘭。私の可愛い娘。森谷の血と宿業を受け継ぐ者よ。君が謳い上げたその覚悟に、偽りは無いか? 自らを棄てて大義を果たす――その果てに待つ過酷な結末を受け入れられるか? 襲い来るありとあらゆる災禍を一身にて受け止め、信義を抱いて誇り高く果てる事が出来るか?」

 どこまでも静謐で、そして厳粛な問い掛け。

 蘭は、暫し目を瞑り――そして、静かに目を開いて、花の咲くような笑顔で答えた。

「――はいっ! わたしは……蘭は、父上と母上の娘ですからっ!」

 一転の曇りもない、澄んだ湖水よりも清らかな声。その返答が自らの死を決定付けるものだと知った上で尚、森谷蘭の紡ぐ言葉は純粋な清廉さを失わなかった。

「馬鹿、な」

 だが、その事実は、僕にとっては残酷な結果をもたらすものでしかない。このまま状況が推移してしまえば、蘭は他ならぬ父親の手で命を散らす事になる。森谷成定という男にはきっと、そんな非情窮まる所業を躊躇わず実行し得るだけの、揺るがぬ覚悟と信念がある。何より――蘭との対話を終えた成定の目には、もはや迷いの色が欠片も見受けられなかった。廃工場に踏み入って以来、絶えず身に纏っていた、鋭刃を思わせる雰囲気すら雲散霧消し、どこか穏やかな、しかし確たる意志を宿した双眸で、静かに己の娘を見据えていた。

――このままでは、蘭が、死ぬ。

 何かを、言わなければ。この口は何の為にある。この頭脳は何の為にあるんだ。お前は知略担当で、世の中に溢れている低脳達とは比較にならない智謀の持ち主じゃなかったのか、織田信長。ここで蘭の意を翻させられないようなら、何の意味もないじゃないか。考えろ。考えるんだ。どのように声を上げれば、どのように訴え掛ければ、この事態を打破できる? 感情に任せて闇雲に喚き散らすんじゃない、確かな説得力を以って場の流れを変えられる何かを、早く、早く、見つけなければ。早く――何をしてるんだ、もしも見つけられなかったら――蘭は、蘭はッ!

「椿」

 幾千の思考が目まぐるしく僕の脳内を行き交う最中、成定は静かに妻の名を呼んだ。影法師の如く、無言のままに三歩後ろに佇んでいた女が、音一つ立てる事無く前へと歩み出る。森谷椿は夫の隣に立って、感情の窺えない眼差しで娘を見つめる。

 その些細な動作を皮切りに、一気に場の空気が緊迫に包まれた。周囲を囲む黒服達は一斉に拳銃を構え、銃口の照準を森谷夫妻の心臓へと定める。それ以上はほんの僅かな動作ですらも許さないとばかりの、冷たい殺意が場を充たす。

 そして、それらの一切を気に留めた様子すら無く、成定は噛み締めるような想念を一語の内に込めて、再び妻の名を口にした。


「椿」

「はっ」


 際限なく高まりゆく緊張感。撃鉄が下ろされ、引き金に掛けられた黒服達の指先がゆっくりと動き始める。

 
 凍て付くように冷厳な時間の中で――森谷成定は、“その言葉”を、口にした。



「――自害しなさい」



「はっ。承りました」


 

 え―――という呆けた声を漏らしたのは、果たして誰だったのか。

 僕か、蘭か、新田か。或いはこの場に居合わせた全ての人間か。

 何にせよ――それらの内の誰一人として反応する暇すら与えられず、全ては始まり、終わった。


 まずは、音。僕が己の五感を以って、最初に知覚したもの。

 それは、皮膚を破り、肉を貫き、臓物を抉り、骨を削り、血を撒き散らす、音。僕がかつて一度も耳にした事のない、戦慄と恐慌に彩られた忌まわしき音響。

 次いで、匂い。吐き気を催さずにはいられない、鼻腔を充たすおぞましい臭気。不定形の触手に脳髄を犯されるような感覚に、眩暈する。
 
 そして、最後に、映像。

 僕の視覚が、眼前の光景を網膜に映し込んだ。


「……………………………………………」


 女は。森谷椿は、感情を示さない無表情をそのままに、黙然と冷然と、其処に立っていた。

 何処からともなく取り出した小太刀の刃を己の腹部に突き立てて、止め処なく溢れ出る血潮に朱色の着物を赤黒く染め上げながら――幽霊の如く青褪めた顔を娘へと向けながら、ただ静かに。

 何処までも静かに、佇んでいた。


「…………………はは、うえ?」


 眼球が零れ落ちそうなほどに大きく目を見開いて、蘭が呟いた。か細く儚い声音は、眼前の現実を確りと受け止めた末に吐かれたものではなく。ただ、そこにある光景が不可思議でたまらないと云った様な、純粋無垢な愕きに充たされていた。


「等活地獄の底の底にて。椿は、一足先にお待ち申し上げております――兄上●●


 色素の薄い唇の端から鮮やかな紅の筋を流しながら、椿は己の傍に立つ伴侶へと厳かに告げる。そして、未だ茫然としている自らの娘を真っ直ぐに見つめ――初めて、冷徹な無表情を、崩した。能面の如き白皙のかんばせに、鮮やかな花がそっと咲くように、優しい笑みが零れた。


「例え地獄の業火に焼かれ、この魂が滅し果てても。母は永久に、貴女を愛しています」

 
 どこまでも慈愛に満ちた柔らかな微笑みを湛えながら。

 椿は朱色に彩られた唇を動かし、別れの言葉を紡いだ。


「さようなら、蘭。わたしの可愛い娘」


 そして――

 白刃が閃き、血汐の飛沫が高く高く舞い上がる。

 朱の花弁を儚く散らして、百合の花が落ち、白樺の枝が崩折れる。

 
「ははうえ?」


 地に墜ちて、動かない。力を失い、命を喪い。

 ひとたび散れば、もはや二度とは――咲き誇らない。


「…………うそ。うそ、ですよね。そんな、そんなこと。ははうえ。ははうえ、ははうえ、ははうえっ」


 認めまいと。目の前に在る現実を否定しようと、幾度も幾度も頭を振りながら。唇を慄き震わせながら、蘭は母の名を呼び続ける。あたかも母親の温もりを求める赤子のように、無垢な声音で。

 そうすれば、鮮血の海に溺れた母が返事をしてくれると信じているかのように、何度も何度も呼び続ける。


「椿は死んだ」


――森谷椿の命脈を断ち切った白刃より、尚も鋭く。

 
 どこまでも冷え切った非情の声音が、現実を告げた。


「私の愛する妻は死んだ。では、何が彼女を殺したのか分かるかい、蘭」


 妻の血に汚れた刃を携えたまま、森谷成定は落ち窪んだ目から一筋の涙を流して、淡々と問い掛ける。


「ちち、うえ? なにを、いってるんですか? ははうえは、母上は、母上はっ」

「蘭。目を逸らしてはいけない。目を背けてはいけない。椿を見なさい。君の母を、その死を、臆する事無く見つめなさい。それが、君の責務だ」


 あくまでも静かな声音だったが――その言葉に込められた凄絶な想念は、有無を言わせぬ圧力を伴っていた。

 蘭はびくりと身を震わせて、そして、云われるがままに、見た。

 血と臓物に塗れて倒れ伏し、首から上が存在しない己が母の“死体”を、見開いた眼に捉えた。

 がくがくと、身体が震え出す。顔から全ての血の気が失せる。

 喉から――悲痛な絶叫が迸る。


「いやああああああああああああっ!! ははうえ、ははうえぇえっ!!」

「蘭。落ち着きなさい。君がすべき事は、感情に任せて泣き喚く事ではない」

「あああああ、あああああああっ! いや、いや、いやです、母上、母上、母上――」

「――いい加減にしないかッ!!」


 殺意にも似た冷酷な気勢を帯びて轟く成定の大喝が、一瞬にして蘭の慟哭を掻き消した。

 おそらくはかつて目にした事すらないであろう父の剣幕に、蘭は涙を溜めた目を驚愕と恐怖で見開き、青褪めた顔をそのままに硬直する。成定は温かみを宿さない冷徹な目で娘を見遣って、厳かに言葉を続けた。

「椿は死んだ。それは、何故か。――蘭、君が殺さなかったから●●●●●●●●だ」

「―――――――――」

「死に臨む君の迷いが、椿を殺した。君が悪を斬らなかったばかりに、椿が死んだ。……人は時に、刃を握ることなく他者を害してしまう事があるんだよ、蘭。それは罪だ。それこそが罪だ。決して許されざる罪なんだ。血で己の手を汚す事を厭い、悪の存在に眼を瞑る者もまた、結果として見知らぬ誰かの禍を招く“悪”なのだ。心しなさい、蘭。獣に善き心を喰らい尽くされた者には、いかなる善意も届きはしない。ありとあらゆる慈悲と温情は裏切られ、悪業の贄とされるのみだ。故に、殺す。殺さなければならないのだ。殺し殺し殺し殺し殺し殺し尽くした末に初めて、私たちは善なる人々の笑顔を護り抜けるのだッ! う、ぐぅ、か、がはっ」

 喉奥より込み上げるどす黒い血が、びちゃびちゃと音を立てて滝の如く地面に落ちる。文字通りに血反吐を吐き散らしながら、男は叫ぶ。信念を、妄執を、狂気を、己が血を分けた娘へと余す所無く注ぎ込まんとばかりに、命そのものを削りながら一心不乱に語り続ける。

「蘭。眼を逸らしてはいけない。椿の遺してくれた尊き“死”から、君は学ばなければならない。森谷の血と使命を受け継ぐ武士であるならば、ありとあらゆる死を糧に己が殺意を育まねばならない。一身にて死と云うものと対するに、余計な感傷は不要であると心得なさい。そう、そうだ――殺意の妨げとなる不純物は、取り除かなくてはならないんだよ」

 譫言のように呟くと、成定は枯れ木のような手で太刀の柄を握り、それを天に向けた。狂気じみた異様な雰囲気を纏う男の行動を、誰一人として妨げようとしなかった。蘭は声を出す事も能わず、ただただ深い怯えの色を宿した眼差しで、父の不可解な行動を見守っていた。

 成定は刃を虚空に翳し、その切っ先をじっと見つめる。

 妻の血糊に塗れた刃を、色の失せた瞳で数秒ほど眺め――おもむろに蘭へと視線を移す。


「蘭。誰よりも心優しい私の娘よ。その目に、その心に、確と刻み付けなさい。私の遺す、最期の訓戒を」

「父、上――?」

 
 恐怖と不安、困惑に彩られた蘭の声に応える事無く。

 成定は、淡々と。あくまでも淡々と。

 あたかもそれが当然の動作であるかのような気軽さで、太刀を持ち上げ。


「いらないんだよ」


 己の左肩へと向けて――

 血塗れの白刃を、落とした。


「優しさはいらない」


 ざくり、ぼとり。

 そんな滑稽な音を立てて、枯れ木にも似た細長い棒切れが、呆気なく地面へと転がり落ちた。

 紅い紅い噴水が吹き上がり、雨のように降り注ぐ。ひっ、と、誰かが、引き攣った悲鳴を上げた。

 蘭は――父を見ていた。ナニカの欠けた父親の姿を黒曜の眼に映し込んで、身動ぎすらしない。

 人形のように、蘭は、動かない。


「慈悲はいらない」


 ざくり、どさり。

 小気味の良い音と共に、棒切れが二つ、並んだ。片脚で器用にバランスを取って立ちながら、男は淡々と言葉を続ける。

 蘭は、動かない。


「哀しみはいらない」


 ざくり、どさり。

 身長が半分近くまで縮んでしまった男は、娘を見上げた。三本の棒切れから流れ出た赤黒い水溜りに芋虫のような身体を沈めながら、男は右手の刃を自分の顔面へと向ける。

 蘭は、動かない。


「憐れみはいらない」


 ぐじゅり、ぼとり。

 コロコロと、てらてらと紅く白く光る小さな球が一つ、棒切れの横に転がった。

 蘭は、動かない。


「愛はいらない」


 ぐじゅり、ぼとり。

 二つ目の玉が転がって、今度は水溜りの中へと沈んで、真っ赤に染まった。

 蘭は、動かない。


「ああ、そうだとも。何もいらないんだ。森谷の剣に求められるのはただ一念、一心不乱の殺意のみ。不純なき絶対なる凶気。遍く獣を律し得る救世の刃。君の中には――それが在る。森谷の一族が受け継いできた殺法の全ては、その血の中で眠りに就いている。怖れるな、血の叫びを。其れは幾千もの血族が遺した義憤の猛り。屍山血河を踏み越えた果てに、此の世の悪を滅さんと願った人々の祈り。正義を為すために必要なものは、全てが其処に在るのだ。だから、蘭。君が死の先を往き、世に真の安寧をもたらさんと望む者であるならば――己を解き放て。純然たる殺意に身を委ね、殺戮の果てに人々を護れ。私達の死を背負い、私達に代わって大義を果たしてくれ。君ならそれが出来る筈だ。何故なら君は、私と椿の、自慢の娘なのだから。森谷の血族が悠久の時を超えて待ち望んだ、純なる殺意の申し子なのだからッ!」

 双つの真っ黒な伽藍堂から紅い涙を流しながら、噴水のように成り果てた男は口からも紅いなにかを吐き出して、びちゃびちゃと床を濡らした。

 蘭は、その一部始終を見ていた。瞬きも忘れ、目をいっぱいに見開いて、食い入るように見つめていた。人形のように身動きも声も忘れたまま、男の姿を網膜に映し込んでいた。


「嗚呼――」


 男は、天を仰ぎ。右手の刃を、喉首に添えた。

 蘭は――――

 蘭は、最後まで、動かなかった。


「どうかすべての善き人々が、笑顔で在りますように」


 ざくり。ごとり。

 二つの小さな球の横に、一際大きく、歪な形の球が転がる。

 重い音と共に、朱塗りの達磨が後ろ向きに倒れる。紅い噴水は、天を衝かんばかりに勢力を増す。

 
 それで、終わり。


「………………………………………ちちうえ?」

 
 そうして――男は、死んだ。

 誰の目にも明らかな事実として。男は絶命した。

 自ら断ち切った四肢の断面から血潮を吹き上げ、万人を戦慄させる狂気を撒き散らしながら。

 妻の亡骸の傍に己を重ねるように、自ら切り刻んだ五体をばら撒いて。

 成すべき全てを成し遂げたと言わんばかりの満ち足りた笑みを口元に貼り付けて。

――――森谷成定は、あらゆる人間の想像が及ぶ限りの悲惨さに塗れて、非業の死を遂げた。


「父上?」


 蘭は、目の前の光景を見ていた。禍々しい血の海に沈む、かつては愛する両親であったモノを、ぼんやりと見ていた。それが何を意味しているのか理解出来ないかのように、茫然と眺めていた。迷子の幼子が親の名を呼ぶような、不安と戸惑いに満ちた囁き声が唇から零れ落ちる。


「父上? 母上?」


 返事は無い。当然だ、屍は何も語らない。魂と云う緒が途絶えてしまえば、それはもはや血と骨と臓物と肉塊の寄せ集めに過ぎない。いかなる意志も宿る事は無く、娘の声に応える事など適いはしない。それが森谷蘭の眼前に突き付けられた現実。目を逸らす事すら許されないままに、網膜と精神に焼き付けられ刻み付けられた、残酷過ぎるリアル。

『はいっ! 父上も母上も、とぉーってもりっぱなお方ですから!』

 森谷成定と森谷椿は死んだ。森谷蘭が憧憬し、敬愛した両親は、あまりにも惨たらしく横死した。

 その事実が、徐々に広がる血溜まりと共にひしひしと押し寄せる。蘭の見開かれた双眸に、絶望的な理解の色が宿り始める。

 そう、蘭は初めて会った時からずっと、どうしようもないくらいに不器用で、嘘を吐けない性格だった。それはおそらく、自分自身に対しても同じ。だから――いつまでも自らの認識を偽り続ける事は出来なかったのだろう。例え眼前の現実がどれほど過酷なものであったとしても、心を引き裂くようなおぞましい苦痛を伴うものであったとしても。蘭は総てを真っ向から、正面から受け止めずにはいられない。未だ十歳にも満たない少女にとって、それは果たして、いかほどの不幸だっただろうか。


「あ、あぁぁぁあ」


 喉奥から漏れ出た嗚咽が、悲痛な絶叫へと変じるまでは、数秒と要さなかった。


「いやあぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!! 」


 絶望と悲哀に彩られた慟哭が、凍り付いた空間を反響する。

 人形のように整った顔立ちを絶望に歪ませて、溢れ出る大粒の涙を止め処なく零し、美しい黒髪を振り乱しながら、半狂乱の悲鳴を上げ続ける。戒めに抗わんと手錠を柱に叩き付け、縋るような悲哀に満ちた声で父を、母を呼び続けるその姿は、まさしく悲愴そのものだった。尋常な神経の持ち主であれば例外なく直視に堪えない、凄惨を窮めた悲劇だった。もしも今の蘭を指差して笑える人間がいるとするならば、その者はヒトではないのだろう。欠片の情愛も心に宿さず、我欲のままに血を啜り絶望を喰らう、人面獣心の鬼畜。


「きひっ。きひ、きひひひひっ」

 
 そう――だから。

 その男はきっと、ヒトに非ざるものだった。

 凄惨な死と少女の悲哀を目の当たりにし、誰もが僅かな身動きすらも躊躇う中で、その男だけが誰に憚る事もなく、笑っていた。新田利臣は、明確な喜悦の色に顔を歪ませて、無邪気な子供のように手を叩いてはしゃぎながら、腹の底から哄笑していた。


「きひ、きひひ、きひゃひゃひゃひゃっ! 最ッ高ッ!! サイコーじゃねえかよてめえら! とびっきりの不幸を、すンばらしい絶望を置き土産にして逝っちまいやがったッ!いいねぇいいねぇ、これだよこれ、俺ぁ“こういうモン”が見たかったんだよぉ! ほらほらもっともっと泣き喚けや嬢ちゃん、もっともっともっともっとだぁッ! そうすりゃオヤジさんもオフクロさんもあの世で喜んでくれるだろうぜ、きひゃひゃひゃひゃひゃひゃァっ!!」


 慟哭と重なって響き渡る笑声には、僅かな後ろめたさすらも伺えない。嬉しくて嬉しくて仕方が無いと、愉しくて愉しくて堪え切れないと、全身を喜悦に打ち震わせながら抱腹絶倒している男が、自分と同じ人間だとは僕には思えなかった。怖気が走る程におぞましく、忌まわしい、畜生にも劣る心の在り方――それこそは森谷の血族が憎悪する、此の世に在ってはならない“邪悪”なのだと、僕は身を以って知った。


――何故。どうしてお前は、笑えるんだ?


 新田の悪意に塗れた下劣な笑い声は、暫く止む事が無かった。

 止める者は誰もいない。他者の不幸を吸い上げて肥太る事を生業とする朝比奈組の構成員ですらも、今の新田の狂態に対しては恐怖と忌避の感情を隠し切れていなかった。黒服達は自らの目の前に広がる、血と肉と臓物で描かれた赤黒い地獄絵図と、少女の嘆きをバックミュージックに尚も爆笑を続ける若頭の姿を交互に見比べて、自分達が何をすべきかも判ずる事が出来ない様子で固まっていた。

「あぁぁあ、やべえなぁ、ノッてきちまったぜ。昔っからの悪ぃ癖でよ、俺ぁ美味いモンを一口でも齧っちまうと、ついつい我慢できなくなっちまうんだよなあ。きひ、なぁ、もっとだ、もっと食わせてくれよ。どこまでいっても救い様のねぇ、どん底の絶望ってヤツを俺に見せてくれよぉ。――きひひひ、ああそうだ、まだまだあるじゃねぇかよ。不幸の種なんざ幾らでもそこらに転がってんじゃねえかよ。足りねぇなら用意してやりゃいいだけじゃねえかよぉ! やっぱ俺って冴えてんなあ。真剣で自分が恐ろしくなるぜ」

 新田は悦楽に口元を歪めながら、泣き叫ぶ蘭の姿を暫し眺めた。

 そして、爛々と光る獣の眼差しで周囲の黒服達を見渡す。一様に緊張と恐怖の色を面に表しながら、黒服達は新田の一挙一動を注視する。嘗め回す様にゆっくりと視線を巡らせた後――新田は、にんまりと満面の笑みを浮かべて、言った。


「おぅ、てめぇら。このガキ、ヤッちまえ」


 ――――――。

 
 思考が、白く染まった。


――何、を。この男は、今、何を言った?


「おいおいてめぇら、ボケッとしてんなよ? まさか分からねぇアホはいねえだろうがよ、殺せってんじゃねぇぞ。ガキがどうやって産まれんのかも知らなさそーなこのお嬢ちゃんに、オトナの階段、十段飛ばしで昇らせてやれっつってんのよ。揃いも揃ってシカトたぁ笑えねえじゃねぇか、ったくよぉ」

「わ、若頭……、そうは言っても、こいつ、本当にガキですぜ。へへ、お気遣いは嬉しいんすけどねぇ、そんなペドの変態野郎はあっしらの中には――ぐぎゃっ!?」

 冗談混じりの調子で諫言を口にしかけていたスキンヘッドの黒服は、次の瞬間には歯と血を撒き散らしながら宙を舞った。目にも留まらない速度で繰り出された剛拳が、欠片の容赦も無く男の顔面を砕いていた。新田は拳からポタポタと血を垂らしながら、兇悪な目付きで倒れ込んだ男を睨み据える。

「いつ俺がてめぇらの性癖なんぞ訊きたいっつったんだ、あぁ? いいか、こいつは俺のお楽しみなんだよ。てめぇらの粗末なナニがおっ勃つかどうかなんざ知った事かっつーの。……ま、確かに? 貧相な体付きを見た感じじゃ十中八九、ブチ込んだが最後、一生ガキも産めねぇカラダになるだろうし、そうなりゃぁお得意さんの変態野郎的にゃあ“商品価値”も下がっちまうがよぉ? それがどうしたってんだ。たかだか小娘一匹が売り物にならねぇ程度の損失が、俺の大事なお楽しみよか重要なことだってぇのかい? え、どうなんだよ?」

 顔面の中央が惨たらしく陥没し、血の泡を吹き白目を剥いている男に、答えられる道理も無い。新田もまた男に答を要求してはいなかった。周囲を取り巻く己の部下達こそ、恫喝の対象であった。己の披露した荒々しい暴力の前に誰もが萎縮し、恐怖の内に沈黙している事を確認すると、新田は満足気に笑った。

「きひひ、“目の前”で可愛い娘が立派なオトナになるんだ、ご両親も感涙モンだろうぜ。それによぉ」

 牽制すべき脅威が死に絶えた今となっては、もはや人質など無用、という事なのだろう。新田は悠々たる歩調で戒められた蘭の傍から離れ、こちらに歩み寄ると、粘りつく様な笑みを湛えたまま僕を見下ろした。

「――よう、今の今まで放置プレイ食らわしちまって悪ぃなあ、ノブナガぁ。こっからはちゃーんと混ぜてやっから心配ご無用だぜ。おおそうだ、何なら最初はお前にヤらせてやるのもイイな。きひ、こいつは役得だぞぉ、こんな上玉の処女とヤれる機会なんざ願ったってそうそうねぇだろうからな。しかも相手はアレだ、幼馴染の美少女だぜ? 世のモテねえ男子諸君が泣いて羨むシチュエーションじゃねえか。どうよオイ、最ッ高だろぉ? そんな景気の悪ぃ顔してねぇで笑ってみろや、なぁ」

 こいつは、さっきから、何を言っているんだ。

 理解が及ばない。頭が、新田の吐き散らす言葉を意味ある文章として理解する事を拒んでいる。そうだ、“そんなこと”がある筈が無いのだから。僕は蘭を見た。そこにあるのは、敬愛する両親の死の一部始終を見届け、絶望と悲嘆に駆られて慟哭を続ける少女の痛ましい姿。“これ”でもまだ飽き足りる事無く、更に無情な暴虐を与えようと云う考えなど、間違っても生じる筈が無い。自分と同じ人間が、そんな鬼畜にも劣る所業を発想する事など、ある筈が無い。そんなおぞましい事は――在ってはならない。

「きひひっ、俺のナイスアイディアはお気に召さねえか? だったら仕方ねえなぁ――てめぇら、もういいぜ。始めっちまいな」

「……若頭は、その、参加されないんで?」

「ああ? 当たりめえだろうが、俺が小便くせえガキなんぞに欲情する訳ねぇーだろ。こういうのはなぁ、観客席から眺めて楽しむモンなんだよ。おら、さっさと始めねえとアレだ、てめぇら、役立たずのナニを去勢する羽目になっちまうぜ?」

「………………」

 在ってはならない筈の事が、僕の目の前で、起きようとしている。

 新田の威圧的な催促に押されるようにして、数人の男達が、蘭を取り囲んでいた。涙に濡れた蘭の瞳が、力無くそれらを捉える。両親の死がもたらした衝撃から、未だ立ち直れた筈は無い。自らを囲う男達を見遣る蘭の眼差しは何処か茫洋としており、現実を正しく認識しているようには思えなかった。
 
 だが。粗暴な指先が自らへと向けて伸ばされ、肉体を隠す衣服が力任せに荒々しく引き裂かれ。穢れの無い白磁の肌が空気に触れる段階に至っては――悲嘆の海に深く沈んだ意識であろうと、身に迫る暴虐を悟らずにはいられない。

 幽霊の如く青褪めた蘭の顔に、恐怖の色が宿る。自らを襲うであろう暴力の意味を真に理解していなくとも、何かおぞましい事が始まろうとしている事を、眼前の男達の様子から察したのか。

「いや……、いやっ、やめて、やめてぇっ」

 蘭の唇から漏れ出たのは、哀れみを誘われずにはいられない程に怯え切った、弱々しい悲鳴。凛たる態度で敢然と悪に立ち向かおうとした少女の姿は、もはや何処にも見受けられなかった。森谷蘭の心を支え、強く在らしめていた大切な何かは、両親の残酷な死によって根本から折れてしまっていた。蘭は首を左右に激しく振って、身を戒める手錠の拘束を破ろうと闇雲に細腕を振り回して、恐怖に強張った顔に涙を伝わせながら、己を取り巻く男達へと訴える。これ以上、奪わないで――と、哀願する。

「きひひ、いいねえいいねえ、やっぱそうでなくちゃいけねえよ。ぶっ壊れた人形が相手じゃあちょいと物足りねえ。改めて実感するぜ、とっておきの不幸と絶望ってのは、いつだって“ナマ”の涙と悲鳴に塗れてなくちゃいけねえんだなぁ」

 而して、無意味。蘭がようやく見せた年相応の“弱さ”は、倫理に唾棄する獣にとっては無上の好餌でしかなかった。舌舐めずりせんばかりの喜悦の表情で、新田利臣は嘯く。視線の先では、不幸と絶望をテーマに吐き気を催す悲劇が演じられようとしている。

 そして――僕は、それを、見ている事しか出来ない。屈強な男達の膂力に抑え付けられてしまっている以上、蘭の下に駆け寄る事すら適わない。凍える程に冷たい感覚が、心を、どこまでも昏く染め上げていく。

 それは、無力。圧倒的な無力感。

 胸中を駆け巡るあらゆる想念を容易く圧し潰してしまう程の――絶望的な、諦観。


――仕方が無いじゃないか。


 囁き声が、聴こえる。


――何の力もないお前に、何が出来るって言うんだ?


 そうだ。僕には何も出来ない。僕は所詮、何者にも成れない塵屑以下の存在なんだから。


――相手は強者だ。どうしようもない程に強者なんだ。抗う事に、意味はないんだ。


 そうだ。朝比奈組という組織の有する勢力がどれほどのものか、冷静に考えてみれば分かるだろう。新田という男一人にすら敵わない僕が、どうやって裏社会の一端を牛耳る連中と闘えると言うのか。抗えば抗うだけ徒に傷が増えるだけ。所詮は無駄な足掻きだ。その行為に意味なんて無い。それは、単なる無謀に過ぎない。


――昔から世界はそういうもので、これからも変わらない。善も悪も関係ない。弱者は強者に喰らわれる。世界は、そういう風に出来上がっているんだ。


 そうだ。現に、あれほど善を謳った森谷成定も、結局は悪に屈して死を選ばざるを得なかったじゃないか。正義は勝つ? とんだ戯言だ。いつだって、勝つのは強者だ。そして弱者は、恣に蹂躙されるだけ。何故なら、弱いから。暴虐に抗う術を持たないから。頭を抱えて、心を殺して、耐え忍ぶしかない。


――だから、仕方が無い。


 そうだ。


――僕が虐げられ続けてきたのは、仕方が無い事だ。


 そうだ。


――蘭の両親が死んだのは、仕方が無い事だ。


 ……そう、だ。


――蘭が泣いているのは、仕方が無い事だ。


 ………………。


――蘭が泣いている●●●●●●●のは、仕方が無い事だ。

 
 …………………。

 ……………。

 ……おい。

 おい、待てよ。

 何だよ、それは。

 それは、おかしいんじゃあ、ないのか。

 理由なんて、良く分からないけれど。どうしてそう思うのかなんて、知った事じゃないけれど。

 僕は、決して。何があろうと、絶対に。それだけは。

 
 それだけは……認めちゃあいけないんじゃ、ないのか?


『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』


 思い出す。蘭の笑顔を、想起する。これまでに隣で目にしてきた、何百何千という蘭の笑顔が、鮮明に蘇る。

 そうだ、蘭はいつも笑っていた。朗らかに、健やかに。鮮やかに、賑やかに。穏やかに、和やかに。いつでも幸せそうに笑っていて、そんな明るい笑顔は傍に居る僕にも幸せを分け与えてくれるようで。傍で眺めているだけで、どんな絶望にも立ち向かえるような気がして。だから僕は、その笑顔を絶対に喪いたくないと、そう思ったんじゃなかったか。

 だと云うのに。蘭は今、泣いている。僕の目の前で、あんなにも悲しそうに、あんなにも辛そうに、泣いているじゃないか。僕はその事実に対して、尤もらしい理屈を捏ね繰り回した末に、“仕方が無い”と訳知り顔で納得できるのか? 道理やら合理やら、そんな観念に囚われて、何をするでもなく全てを諦めて己の無力に打ち拉がれる、そんな僕自身を許容できるのか?


――わたしはシンちゃんが泣いていたら、なにがあっても助けます。


――どんなにむちゃだって言われても、むぼうだって怒られても、わたしはシンちゃんを助けます。


 僕は。――そうだ、僕は。


 …………。

 ……。


 もう、いいだろう。もうこれ以上、誤魔化すな。自分に嘘を吐くのはやめろ。確りと目を開けて世界を見ろ。心を開いて、世界を感じろ。


 さあ。お前は今、何を見て、何を感じている?



「…………………」



 僕は、眼前の光景を見る。今まで一度も僕が見たことのない、蘭の泣き顔。悲哀と恐怖と絶望に染まった表情。いつでも太陽のように眩しかった蘭に、僕がようやく見出した掛け替えの無い希望に、こんな顔をさせたのは誰だ? 知れたこと、新田利臣だ。朝比奈の連中だ。世に蔓延る蛆虫以下の悪党どもだ。


――許せない。


 おかしいではないか。何故、こんな事が、罷り通る? 蘭はただ、誰よりも善良だっただけだ。呆れるほどに優しく、純粋で、お人好しだっただけだ。義憤に拠って悪に立ち向かい、友を救おうとしただけの幼い少女が――何故、我欲のままに生きる畜生の贄に供されねばならない? こんな光景は絶対に、間違っている。在ってはならない。正されて然るべき、歪みだ。


――悔しい。


 どうして、僕は生まれてこの方、理由も無く虐げられなければならなかったんだ? どうして餓えた獣共の餌に供されなくてはならなかったんだ? 因には果が、罪には相応しき罰が与えられると云うなら、僕は、蘭は、どんな罪悪を犯したと言うんだ? どうして、明らかな罪に塗れた連中が裁かれる事も無く充足し、僕達ばかりが不幸と絶望を甘受しなければならないんだ? ……おかしい。間違っている。何もかもが、絶対的に間違っている。僕も、世界も。何もかもが。

 そうだ。何もかもを諦めて、全てに絶望しなければならない道理が、何処にある? この世の理不尽を唯々諾々と受け入れて、抗う事もせずひたすら死に続ける人生に、何の価値がある?


――憎い。


 それがあたかも全ての罪を流す免罪符であるかのように、弱肉強食の理とやらを自分勝手に振り翳し、暴力を以って弱者を踏み躙る者達が憎い。悪行の報いを受ける事もなく、我が世の春を謳歌し傍若無人に哄笑する者達が憎い。織田信長の人生に絶望をもたらした者達が――憎い。

 思えば。この憎悪は、この疑惑は、この怨恨は、この赫怒は、いつでも僕の胸の中に在った。諦念と云う名の呪いによって心の深奥へと押し込められたそれらは、どす黒い混沌と化して絶えず渦巻いていた。見ない振りをして忘却の淵に沈めようとしていただけで――溶岩の如き数多の想念は、常に僕の傍に在ったのだ。

 ならば今こそ、この魂を幾重にも縛り付けていた鎖を壊し、絶望の内に封じられていた激情を解き放とう。層を成して積み上げられた汚泥の如き記憶から、己が真情を汲み上げよう。

 
 そう、本当は。僕はいつでも、願っていた筈だ。

 
 一方通行の暴虐に酔い痴れる下衆を。他者の不幸を喰い散らかして生きる畜生を。

 
 もしも叶うのであれば、殺してやりたい●●●●●●●と。果てしなく煮え滾る激情の内に、幾度も幾度も吠え立てていた筈だ――!


「―――――――」


 不可視の枷が外れる感覚は、その自覚と同時に訪れた。

 己の内部のどこか深い所で、得体の知れない“何か”が目覚める。禍々しい冷気に満ちた、混沌とした何かが、僕の体の内側を所構わず這い回る。喩えるなら、それはさながら黒の大蛇。深い眠りに就いていた蛇が鎌首をもたげ、鋭利な牙を剥き出しにするような、兇悪で獰猛な感覚が全身を充たす。

 ……“これ”が何であるかは、分からない。しかし、そんな事はどうでもよかった。自分が何をどうすればいいのか、不思議と自然の内に理解が及ぶ。ならばそれでいい。そう、僕はただ、解き放てばいいのだ。織田信長の世界の中で荒れ狂っていた漆黒の意志を、ただ外界へと向ければいい。それが、抗うということ。理不尽に立ち向かうということなのだと。僕には何故か、それが分かる。

 正体不明の確信に導かれるままに、僕は大きく息を吸い込んで。

 そして、肉体を充たす兇猛な気勢と共に、全身全霊を以って吐き出した。




「――蘭から、離れろォッ!!!」

 



 轟、と。

 空気が唸りを上げ、廃工場内の淀みを払うかの如く黒い風が吹き抜ける。そんな錯覚を、僕は抱いた。

 否、或いは錯覚などではなく、紛れもない現実の映像であったのかもしれない。それを確認する術は僕には無いが――少なくとも、僕の叫びが周囲に尋常でない影響を及ぼしたのは間違いなかった。一瞬が過ぎ去った後には、何もかもが、凍て付くように静止していた。蘭に暴虐の牙を向けていた男達も、銃器を手に周囲を取り囲む黒服達も、一様に石像の如く硬直している。恐慌の色を宿した視線だけが、一斉に僕へと突き刺さっていた。僕の身体を後ろから抑え付けていた男が、一呼吸の間を置いてどさりと崩れ落ちる。

 どのような力が働いた結果として男の意識が喪われたのかは知らないし、そんな事はどうでもいい。僕にとって重要な事は、これでようやく身動きが取れるという事だ。つまり――あいつの傍に、行く事ができるという事だ。生々しい造形の彫像が立ち並ぶ奇怪な空間を、僕は歩く。静寂が充ちた廃工場に足音を響かせながら、囚われの姫の下へ、歩き出す。


「シン、ちゃん?」


――ああ、もう少しだけ待ってろよ、蘭。


 頭でっかちの意気地なしで、口先ばかりで何の力もない僕だけど。

 それでも僕は――お前を、救いたいんだ。あの夜、お前が僕を、救ってくれたように。


「オイ」


 縄張りを侵された野犬の唸り声を思わせる、獰猛な意思の宿った声。

 白の獣が、眼前に立ち塞がる。時が凍て付いたような空間の中で、僕とその男だけが動いていた。


何してんだ●●●●●、ノブナガぁ。笑えねえぞ? こいつはちょっと、笑えねえなぁ」

 
 低い声音の告げる通り、新田の目はもはや笑っていなかった。絶えず口元に湛えている嘘臭い優しげな笑みすらも、綺麗に掻き消えている。兇悪な本性を剥き出しにした鬼のような形相で、射殺すような視線を僕に向けている。それは織田信長にとっての、絶対強者の肖像。底無しの恐怖と絶望の象徴。

 だが。今の僕にとっては、何ら怖いものではなかった。


――こんな奴。所詮は弱者を甚振るしか能の無い、三下じゃないか。


 自分の身に少しでも危害が及ぶ可能性が生じると、忽ち激昂し、逆上し、余裕を見失う。自分よりも強い相手が現れれば、卑劣な策を講じて姑息に立ち回る事しか出来ない。悪役ヴィランとしては三流以下の、塵屑同然のチンピラだ。何故、こんな取るに足らない輩に怯え竦んで屈しなければならないんだ? こんな畜生にむざむざ僕の大事な幼馴染を呉れてやらねばならない道理が、何処にある?


「どけよ。蘭が、泣いてるんだ。お前に構ってる暇はない」


 僕は――生まれて初めて、新田の顔を真正面から睨み付けた。抑え切れない憤怒と狼狽に歪んだ顔は、何とも言えず矮小で、滑稽だった。害意に充たされた眼光で見据えられても、心には小波ほどの動揺も生じない。欠片の恐怖も、僕の胸には存在しない。


「……、てめえ、なんだ、なんだよその目は……ッ! クソみてえな目で俺を見やがって、生まれ損ないのガキの分際で――」

「どけと言ってるだろう。僕は、あいつを守るんだ」


 お前の事なんてどうだっていい。ただ、前へ進むだけだ。

 そのまま傍を通り過ぎようとして――瞼の内側で火花が散った。灼熱の痛みが神経を駆け巡り、歯が数本まとめてへし折れる厭な感覚。蘭の悲鳴が聴こえたような気がした。或いは気のせいかもしれない。豆腐のように脳味噌が揺れているのか、知覚が酷く曖昧だ。

 痛い。辛い。苦しい。

 ……だからなんだ? そんな事は、関係ない。

 無理も無茶も無謀も関係ない。僕はただ、そうするべきだからそうするだけだ●●●●●●●●●●●●●●●●

 いつのまにか埃塗れの床に倒れ伏していた身体を、引き起こす。怖じる事無くしっかりと頭を上げて、真っ直ぐに前を向く。僕は、もう二度と俯かないと決めたのだ。何があろうと理不尽に抗い続けると自らに断じたのだ。だから、この程度の暴虐で、僕は止められない。口内に溜まっていた血と歯の塊を吐き出して、一歩でも、前へ。

 再び、衝撃。

 今度は、腹だった。ハンマーのような鉄拳が肺腑を抉り、酸素という酸素が喉奥から血と一緒に噴出する。足から力が抜け落ち、崩れ落ちる。だが屈しない。膝だけで上半身を持ち上げて――三度の衝撃。かつてない程に床が近い。血と埃の入り混じった酷い匂いを吸い込む。硬く冷たい革靴の踵に、後頭部を踏み付けられていた。

「あぁぁぁ、ダメだダメだダメだ、そいつは駄目だぜお前。“そういう目”は我慢ならねえんだよ俺はぁ。吐き気がしやがる、胸がムカムカしてしょうがねえ。あァもう駄目だ、素敵な不幸と絶望を寄越しちゃくれねえってんなら、お前――もう終わりだぜ、ノブナガ」

 下衆で下劣で醜悪な、僕がこの世で一番嫌いな声音が、頭上から降り注ぐ。霞む目を動かす。ちらりと視界の端に映ったのは、無慈悲な白光を煌かせる刃。先程まで蘭の首筋に突き付けていた無骨なナイフを片手に握って、新田は僕を見下ろしていた。目に宿るのは殺意。一切の余裕と愉悦を排した、どこか必死さすら窺える表情で、新田は僕を睨んでいる。


――シンちゃんっ! シンちゃんっ!!


 朦朧とした意識の中、蘭の声を聴いた。必死に僕の名を呼ぶ、悲痛な叫び声。

 これじゃあ、立場が逆だ、な。クールでクレバーな、僕らしくもない。無茶をやらかすお前を引き留めるのが、僕の役どころだった、筈なのに。

 ……だけど、仕方ないだろう? 僕は、お前が穢されることだけは、許せなかったんだ。お前の馬鹿っぽい能天気な笑顔だけは、何があっても守りたかったんだ。何故なら――初めて出逢ったその瞬間から、森谷蘭は、織田信長にとっての希望そのものだったんだから。光を失い、絶望に塗れて、あの暗い暗い世界で呼吸を続けるのは、僕には耐えられない。例え無茶無謀だと頭で分かっていても、抗わずにはいられなかった。だから、そんな顔をするなよ。僕の××な森谷蘭は、いつでも眩しく笑っていた筈だろう?

「……ッ」

 諦めないと決めたのに。諦めたくなんてないのに――視界が霞む。意識が混濁する。己を取り巻く何もかもが遠ざかっていく。脳味噌を掻き回される様な不快極まりない感覚が、全身の力を奪い去る。暴虐に抗い続ける為の力を、僕から容赦なく取り上げていく。

 
 僅かな身動きすらも適わない僕の頭上で、新田が、ナイフを振り上げる。

 
 その、刹那――

 
 
 雨が、降った。





「……………?」


 
 いや、それはおかしい。

 
 僕の記憶が正しければ、川神を覆う夏の夕空は雲の一つも見当たらない快晴で、しかもここは屋内だ。確かに天井は朽ち果てて所々に穴が空いてはいるが、幾ら何でもこんな――こんな沢山の雨粒が降り込む訳が無い。

 何せ今の僕と来たら、頭からずぶ濡れの、まさに濡れ鼠状態なのだから。

 それに、なんだ? この雨、随分と生温い。生理的嫌悪感を催す、どうにも不快な生温さだ。ああ、気持ち悪い。今にも胃液が逆流しそうな気分。この場で多馬川にダイブ出来たらどれほど良い事か。


「―――――ッ!―――――!」


「―――――――!――――――――――――!」


「――――!――――――――」


 煩い。何をそんなに騒いでいるんだ。大の大人が揃いも揃って鬱陶しい。そんなみっともない有様だから、お前達は真っ当な人間として社会に適合出来なかったんだよ。畜生みたいに所構わず鳴き叫ぶのはやめろ、一応は僕と同じ人類種に属する生物なんだろう? こっちまで同類だと思われたら迷惑じゃないか。

 ……。

 ……あれ。どうしてか、身体が、動く。後頭部には未だ変わらず革靴の硬質な感触があるというのに、そこから伸し掛かる重さが随分と減っている。忌々しい新田利臣、僕の顔面が床にめり込む勢いで踵に体重を掛けるのはもうやめたのか? そいつはありがたい。だったらまた起き上がって、蘭のところへ行ける。

 強烈な眩暈を堪えながら、ふらふらと立ち上がる。

 白い布に包まれた一本の棒切れと、その先端に引っ掛かった革靴が、ごとりと音を立てて僕の足元に転がり落ちた。


 …………。


「…………………………?」

 
 待てよ、おかしいぞ。何かがおかしい。

 この光景は、何かが、決定的に、おかしい。

 僕の視界は。どうしてこんなに●●●●●●●●紅いんだ●●●●

 誰かが世界というパレットに赤の絵の具を節操なくぶち撒けたような風景。酷いセンスだ。いまどき五歳児だってこんな悪趣味な絵は描かないだろうに。どこもかしこも見境無く、真っ赤に染まってしまっている。赤、紅、朱、丹、緋、茜に蘇芳。何もかもが赤い。夕日の色より、尚も紅い。

 
 そして、紅い世界の中心に、黒点。

 
 あらゆる色彩を虚無の内に呑み込んでしまう、純粋極まりない“黒”が、其処に居た。


――さなきゃ。


 囁き声が、聴こえる。それは、今まで度々僕の内側から響いていた鬱陶しい声音とは別のもの。それはそうだ、僕を縛り付ける呪いはもはや破れた。だから当然の帰結として、その声は、織田信長という一個存在より生じたものでは有り得ない。だからそれは――僕ではなく、眼前の存在が発したものだ。数間ほど離れた場所に佇んでいる、見慣れたシルエット。


「……………蘭?」


 間違いなかった。この一年間、見飽きるほどに見てきた姿を見誤る事はない。

 なんだお前、平然と立ちやがって。自力で手錠が外せるなら最初からそうしろよ、お陰で僕はらしくもない無茶をしてボロボロに



「―――――――――――――――――」



――――違う。


 蘭じゃない。蘭じゃない。


 否、


 人間じゃない●●●●●●


 直感する。僕の目の前に居るのは――もっと恐ろしく、もっと忌まわしく、もっとおぞましい何かだと。


―――ろさなきゃ。


 ソレと、目が合った。


「          」


 そして――

 
 ただそれだけで、僕は死んだ。

 
 臓物を撒き散らし血飛沫を上げ肉体を千切りにされ脳漿を垂れ流し目玉を抉り取られ耳鼻を削ぎ落とされ四肢を切断され達磨の如く成り果てた末に首を刎ねられて。ばらばらの肉片と化して血の海へと散らばり、呆気なく僕は絶命した。


「ぁ、」


 ……勿論、死人は思考しない。一つの肉体に宿る命が唯一のものである限り、己の死に様を客観視する事は適わない。故にそれは紛れもなく幻視であり錯覚。だが――断じて単なる妄想でないのも、事実。それは未来視だ。一瞬後か一秒後か一分後か、いずれにせよ遠からぬ未来にて己に待ち受ける確実な死の瞬間を、僕は先んじて垣間見たに過ぎない。そんな確信が、絶望に塗れた確信が胸に在った。明晰に過ぎる死の予感を抱きながら、僕は眼を見開いてソレを見る。あたかも魅入られてしまったかのように。無意識の内に視線は吸い寄せられ、完全に固定されている。逸らすことは、許されない。

 ソレは、蘭の姿をしていた。僕の知る森谷蘭という少女を象っていた。無惨に引き裂かれた衣服から覗く白雪の肌を、鮮やかな朱の化粧で彩り。その肉体から際限なく溢れ出る漆黒の“靄”が全身に纏わり付いて、未成熟な裸身を覆い隠している。破滅的な禍々しさと幻想的な神々しさが相争う事無く混在した、現世のものとは思えない立ち姿。幽界より彷徨い出てきたかのような雰囲気を帯びたその存在は、思わず息を呑むほどに美しく――而して何よりもただ、恐ろしかった。空虚だけを映し込んだ硝子球の如き双眸がこちらに向けられるだけで、耐え難い戦慄と悪寒が総身を駆け巡る。只一つの感情だけが、僕の心神を根底から支配する。

 恐怖。

 意識を充たすのは恐怖、恐怖、恐怖。圧倒的な恐怖。絶対的な恐怖。生命の根源より生ずる原始の恐怖。


――死の恐怖。


 膝が、がくがくと笑っていた。否、脚だけで済む筈は無い。僕の肉体を構成するありとあらゆる部位が無様に震えている。細胞の一片一片が蠕動し恐慌を訴えている。僕の命そのものが、怯え竦んでいる。怖い。怖い。怖い? 否、怖い、などという次元の話ではなかった。これこそが本当の恐怖だと言うのなら、今まで僕が定義していた恐怖は、惨めなまでに矮小なものに成り下がってしまう。冷え切った手で心臓を鷲掴みにされる感触。身体が氷の彫像と化す感覚。そう、僕は――遥かに“優しい”とはいえ、これに類似したものを、過去に見知っていた筈だ。

『今、君の目の前にあるもの。それが、“死”というものだ』

 想起するのは、喉首に迫る無情の白刃。血に塗れた凶器。生あるものを殺戮する為の道具。以前とは姿形を大きく変えているものの、“それ”は今もまた、僕の目の前にあった。森谷蘭の姿を象った何かが携えているのは、細身の白刃とは掛け離れた黒の大太刀だが――目を凝らして観察すれば、刀身と見えた箇所は溢れ出た“靄”が集って形成された、実体なき刃である事が分かる。それらの中核を為す様にして、白銀の刃は確かに其処に在った。

 そして。

 噎せ返る様な血の匂いを、生き苦しい程の死の気配を漂わせた凶刃が、いま。ゆっくりとした動作で、僕へと向けられる。


 何の為に?


 問うまでもなく、回答は目の前に。


「ころさなきゃ」


 僕の眼前に立つ蘭の似姿。その存在そのものが、答だ。絶対的な決定力を伴って突き付けられた宣告だ。

 ――ああ、これから僕は死ぬのだろう。全身を斬り刻まれて、死体とすら呼べないモノにまで解体されて、血の海にばら撒かれるのだろう。人としての原型を留めない肉片に成り果てて、誰とも知れない他人の肉片と混じり合うのだろう。あの男達と同じ様に●●●●●●●●●
 
 
 そして、

 
 紅く染まった世界、どこまでも赤く染め上げられた世界の中で、

 
 何の猶予もなく、情緒もなく、余韻もなく、

 
 ただただ滑稽なほどの呆気なさで、

 
 僕は、斬られた。










「シンちゃん?」








 ―――幻視。錯覚。


 それと悟ったのは、聞き慣れた声音が耳朶を打ってから、数瞬を経てのこと。

 刃は、静止している。僕の首筋を斬り裂き胴体と頭部を別れさせる寸前に、皮膚を僅かに裂いた段階で。

 そして、目と鼻の先の地点には、幽霊の如く蒼白な顔。

 驚愕と恐怖を貼り付けた表情で、血染めの少女が僕を凝視していた。


「ら、」


 それは――紛れもなく、蘭だった。得体の知れない化生ではなく、死を装束として纏う魔物でもなく、僕の良く知る森谷蘭の姿だった。先程までとは見違えるような人間味を宿した眼は、蘭が正気へと立ち戻った事を示している。忽ちの内に禍々しい黒の靄が雲散霧消し、その刀身を露にした白銀の太刀が、乾いた音を引き連れて床へと転がる。


「あ……ぁ……、わた、し……わたし、なにを」

 
 べったりと紅く濡れた自らの両掌へと視線を落として、譫言のように蘭が呻く。


「わたし、シンちゃんをたすけたくて、それで、それで、それで――」


 茫洋と呟きながら、蘭は青褪めた顔を上げ――必然として、“それら”を視界に収めた。


 死。死。そして死。


 地獄絵図と云う形容すら生温い、凄惨を窮めた残酷な死の乱舞。

 
 其処に在るのは、人としての尊厳を根こそぎ奪い去られた無数の屍。自らの手で徹底的に断割し斬り刻んだ、肉塊と肉片の集積場。完膚なきまでの非情さを以って繰り広げられた、“大量虐殺”の痕跡。

 死の充満するこの空間に、僕達以外の生存者は存在しない。立ち向かった者も、逃げ出そうとした者も、命を乞うた者も。老いも若きも強者も弱者も。全てを平等に分け隔てなく、欠片の慈悲も容赦もなく、森谷蘭は黒の一刀を以って殺し尽くした。残虐に、残酷に、冷酷に、冷徹に。純然にして膨大な殺意を以って、執拗なまでに滅殺した。既に命の絶えた死骸ですらも、ばらばらに引き裂いた。恐らくは、何があっても生き残らないように●●●●●●●●●●●●●●●、と云う何処までも徹底した果て無き殺意の下に。

 もはや阿鼻叫喚は血風惨禍と共に過ぎ去り、狂気と凶気のもたらす殺戮の後に残るのは、死のもたらす冷厳な静寂のみ。


「――ぁぁあ」


 己の所業を、思い出したのか。或いは自覚したのか。虚無だけを映し込んでいた黒曜の瞳が、瞬く間に絶望的な昏さと共に濁りを帯びていく。

 そんな蘭を目の前にして――僕は。



 僕は、何も言えなかった。



 或いは、『連中を殺さなければ僕達は死ぬよりも悲惨な目に遭っていた。だから仕方が無いんだ』と。『こいつらは生きる価値なんて見当たらない“悪”だ。お前は正しい事をしたんだ』と、そんな風に言えば良かったのだろうか。自慢の舌先三寸を活かして、尤もらしい理由を並べ立ててその行いを正当化すれば、蘭の心は救われただろうか。

――否。誰かに影響を及ぼせるほどの意味を伴って響くには、僕の言葉は軽過ぎる。

 蘭の目の前に在る現実――死という概念の保有する圧倒的な“重さ”を前にしては、口先だけのお為ごかしなど紙屑にも劣る。

 一度でも死んだ者は、決して生き返る事はない。いかなる手段を講じても、いかなる奇跡に縋っても。だからこそ、死は重い。誰に習うでもなく、小学生にもなれば誰もが知っている、当然のこと。常識以前の問題として自然の内に備えるべき倫理。

 その“当然”が、“倫理”が今、冷酷無情の拷問具と化して森谷蘭の精神を苛烈に責め立てている。深く潜行し過ぎた潜水艦のように、海水の如き死の洪水に全周囲を取り囲まれて、心と云う名の装甲は巨大な重圧に襲われている。逃げ場は何処にもない。そして、ひとたび亀裂が入れば、器へと流れ込むのは怒涛の如き絶望。

 
 軋む。軋む。軋む。

 
 心が軋む音が、聴こえる。


「ああ、あぁぁあ、ぁあああ――」

 
 声にならない悲鳴を漏らし、死人の如く血の気の失せた唇を戦慄かせて、蘭はふらふらと歩き出した。覚束ない足取りで一歩を歩く毎に、湿った音が耳障りに響く。数十人分の人体から流れ出た血液が、肉片混じりの血溜まりをあらゆる場所に作り出していた。びちゃり、びちゃり、と血の海の中を彷徨っていた蘭が、不意に足を止める。


「――――ぁ」

 
 その視線が向かう先にあるのは、もはや人間としての原型を殆ど留めていない、両親であったもの。自らの手で斬り刻んでばら撒いた赤黒い肉片の数々を、蘭は呆然とした面持ちで眺め――不意に天を仰ぎ、口の中で数語、呟いた。それは血に塗れた自らの所業への懺悔だったのか、或いは斯かる運命を自らに課した神仏への呪詛だったのか。知る術は、僕には無い。

 ぴしり、ぴしりと。耳を塞ぎたくなるような音響と共に、掛け替えのないモノが罅割れてゆく。


「―――ねえ、シンちゃん」


 抑揚の欠けた、異様なまでに平坦な声音を発しながら、蘭は怖気が走るような緩慢さで振り返る。

 あらゆる表情が欠け落ちた能面のような顔が、こちらを向いた。


「おしえてください」


 感情を忘れてしまったような無表情をそのままに、一筋の涙が、白い頬を伝い落ちる。

 
 そして、戦慄く唇が、昏い絶望に彩られた言葉を紡ぎ出した。


「わたし、なんのために、うまれたんですか?」


 酷く純粋無垢で、だからこそ悲惨で救いが無い。

 そんな問い掛けを最期に残して――蘭の身体が、崩れ落ちる。

 
 それはきっと、どこまでも致命的な崩壊。ひとのココロが砕け散る音を、僕は確かに聴いた。


「らん」


 あたかも父と母の温もりに縋り付くように、二人の“残骸”へと倒れ込んで。

 
 朱色の天蓋に身を横たえて、森谷蘭は眠り姫の如く其処に居る。

 
 目醒める事の無い眠りに就いて、悪夢の如き現実から逃れ。

 
 絶望と不幸の這入り込めない、幸福な夢を見る。




――それが結末。それが終点。





 彼女が、次に目を開けたとき。

 
 僕が己の全てを投げ打ってでも救いたいと願った少女は。

 
 僕が、生まれて初めて好きになったひとは――世界の何処にも、いなかった。

 


 










 





 








 これにて過去編は一旦終了になります。実際には絶対に描写しなければならない場面があと一幕ほど残っているのですが、そこは次回以降と言う事で。何はともあれ、原作の緩い空気を全力で放り投げたエピソードに最後まで付き合って下さった読者の方々には、心から感謝致します。
 そろそろ気楽な学園ラブコメを書きたいなぁなどと切実に思いつつ、それでは次回の更新で。

追記:シーンさん、ご指摘頂きありがとうございます。無事修正完了致しました。



[13860] いつか終わる夢、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:96ca244e
Date: 2013/10/24 00:30
――あなたは、だれですか。

 
 幾度も幾度も華奢な肩を揺すって、馴れ親しんだその名を喉が枯れるまで必死に呼び続けて、漸く返って来たのは――路傍の石を観るかのように無感動な視線と、残酷なまでに温度の欠落した声音の羅列。その瞬間、自分の中の“何か”が致命的なまでに崩壊する音を、聴いた。

 千々に切り裂かれ、粉々に砕け散って、跡形も残さず虚空へと消え去ってしまった、何か。

 それは、例えば……そう、精神の平穏。魂の安息。そんな風に呼ばれている諸々を、人生の過程、或いは結末において手中に収めるために、絶対的な条件として挙げられる類のものだったに違いあるまい。真っ当な人間として生まれ損なってしまった異形の怪物が、それでも一縷の希望に縋るようにして、無自覚の内に儚く護り通してきた最終防衛ライン。そういったモノが、悲しい程の呆気なさで終わりを告げたあの時の事を、覚えている。

 斯くして獣は眠りから覚め、鎖から解き放たれた。それ以来、避けるべくもない必然として、この胸中には決して絶える事の無い巨大な嵐が吹き荒れている。眼前に立つ全てを根こそぎ破壊し尽くし、行く手に広がる大地を悉く平らげてしまおうという、凶猛な意志に満ちた力のうねり。押し留める術は手中になく、またその理由もない。その焦熱地獄にも似た心象風景こそ、己の在るべき姿だと心の底より確信しているが故に。

 終わりがあれば、始まりがある。喪失の先に掲げた決意は、今もこの胸を焦がしている。己が意志を貫き通せと、餓狼の如く吼え叫び続けている。

 故に、立ち止まらない。僕/俺は、織田信長は、歩き続けなければならない。光灯る街へと背を向け、暗闇の荒野を踏み越えて――いつか、夢の果てへと辿り着くために。何を犠牲にしてでも、冷酷に切り捨ててでも、全てを振り払って前へと進まなければならない。

 
 だから。

 
 だから俺は、お前を――







 
 








 源忠勝の知る限り、織田信長という様々な意味で風変わりな幼馴染は、恐ろしいほどに屈折した性格の持ち主だった。この世のあらゆる物事を醒めた眼差しで見下し、鼻で嗤い、その口元はいつでもシニカルに歪んでいる。無意味に気取り屋で、斜に構えていて、僅かでも取り乱している所を他人に見せるのはプライドが許さないのか、余程の事が起きない限りは自分の感情を露にしようとしない。子供らしい可愛げを母胎に置き忘れてきたとしか思えない程に捻くれ切った性格には、幾度となく辟易とさせられたものだが、そのどうしようもなさがこいつの個性なのだ、と忠勝は半ば諦めながら受け入れていたのだ。

 だからこそ、今この瞬間。

 自分の眼前に居るのが、己の良く見知った幼馴染と同一人物だと、容易に信じる事は出来なかった。


「――――――!!!」


 正しく、獣の咆哮であった。他に、形容の術がない。それは言語という手段を以って外面を装飾し、取り繕う事を完全に放棄した、どこまでも単純明快な内面の発露だ。人間の発するものとは到底思えないような、原始的で野生的な声音。血走った眼は溢れる涙を通して虚空を睨み据え、既に赤く染まった爪でがりがりと頭皮を掻き毟り、食い縛った歯の狭間から血を垂れ流しながら、少年は言葉にならない絶叫を発していた。理性を排した叫びに込められているのは、憎悪と悲哀と憤怒と絶望とが渾然一体となった、黒々とした粘性の、泥塊にも似た感情の奔流――あまりにも膨大過ぎる“感情”の波は、もはや一種の暴力と化して忠勝の身に叩き付けられた。圧倒的な情念に呑み込まれ、無意識の内に身体が強張る。精神とは無関係な所で肉体が怯え竦んでしまったかのように、僅かな身動きすらままならない。現実感の欠如した、異様と形容する他ない未知の感覚。

 ……いや、違う。

 正確に言えば、源忠勝は“この感覚”を知っている。既知のものとして、記憶している。堀之外の街中で初めて出逢ったその時に織田信長という少年から感じた強烈な圧迫感と、今この瞬間に忠勝を襲う感覚は似通っている。しかしその規模が、桁違いに凶悪だった。多くの時間を共に過ごし、その内面をより深く知るにつれて、もはや意識する事も稀となっていた正体不明の圧力。それが現在、恐ろしい程の勢力を以って空間を蹂躙していた。その発生源たる幼馴染の姿は、あたかも絶大な力を振り翳して荒れ狂う巨獣のように映る。矮小な人の身では近寄るだけで踏み潰されてしまうだろう――意志とは無関係に、肉体が畏怖にも似た恐怖感を抱いている様だった。だからこそ、狂気に駆られたかのような痛々しい様子を目の前にしても、暫くの間、忠勝には信長の傍へと駆け寄る事すら適わなかったのだ。

「……っ!!」

 だが、唸り声と共に固めた拳を振り上げ、骨ごと砕けてしまえとばかりに眼前の石壁へ向けて躊躇無く叩き付け始めた姿を前にした瞬間、忠勝を戒めていた見えない鎖は驚くほど容易く解けた。身を縛っていた畏怖も恐怖もいずこかへと霧散し、忠勝はただただ無我夢中で信長へと飛び掛り、言葉にならない怒声を上げながら、渾身の力で両の手首を掴んで拘束する。

「――タツ、か」

 予想に反して、抵抗は無かった。両者共に体勢を動かさないまま沈黙の数秒が流れ、痛々しく破れた手の甲の傷口から、ぽたりぽたりとアスファルトの床へ血の滴が垂れ落ちる。あたかもその血が己の頭へと逆流したかのように、忠勝の胸中にはやり切れない怒りが込み上げていた。

「なに、やってんだ、ボケがッ!」

「……」

「お前の、お前の気持ちが分かる、なんて、オレは言わねえよッ! だけどな、」

「――自分で自分を痛め付けても仕方が無い。ああ、分かってるさ」

 先程まで見境なく撒き散らしていた激情が嘘であったかの様に、平坦な声音だった。そのままの調子で、「もう大丈夫だ。離してくれ」と告げる。こちらを見遣る黒の双眸に間違いなく理性の色が戻っている事を確かめてから、忠勝はゆっくりと手首の拘束を解いた。再び自傷に走らないか注意深く見張りを続ける中、信長は傷だらけの両手へと視線を落としながら、呟くように口を開いた。

「だが、こうやって吐き出して●●●●●いないと、すぐにでも気が狂いそうなんだよ、タツ。いや、あるいは、気が狂った結果がこのザマなのかもしれないな」

 酷く自嘲的な声音だった。誰の眼にも明らかな侮蔑の念に唇を歪めて、信長は静かに言葉を続ける。

「僕は、自分の事を理性的な人間だと思っていた。この世の何もかもに対して殆ど心が動かないのは、感受性とやらが乏しいからなんだと信じていた。――だが、そうじゃなかったんだな。僕はただ、我慢していただけだったんだ。意識の根底にまで染み付いた負け犬根性に従って、自分でも気付かない内に、ひたすら諦め続けていただけだったのさ。自分の意志を無理矢理に押し殺し、抑え付けて、それでクールなニヒリストを気取っていた。全く、笑える程に無様な話だ。なぁ、お前もそうは思わないか、タツ」

「……」

「それで、それでだ。救い難い大馬鹿野郎がようやっと覚悟を決めて、我慢を止めて、自分の感情を解放してみた結果、どうなったと思う? 答えは一目瞭然――抑えられないんだ。感情をコントロールできない。処理が間に合わない。完全に持て余して、消化不良を起こしている。だから、どうにかして発散する必要があった。つまるところさっきのは、僕の中で最も持て余していて、最も手軽に表現し易い種類の感情を思うさまぶち撒けている最中だった訳だ」

 周囲に飛び散った赤黒い痕跡と、暴力性に満ちた先程の狂態。それらを見れば、信長の言わんとする感情の正体は明らかだった。

「――憎い」

 ぽつり、と、血の滲む唇から零れ落ちた一言には、怖気の走る程の情念が込められていた。聴いているだけで肌が粟立つような、深く、昏く、重苦しい感情の発露。自分に向けられている訳ではないと知っていても尚、忠勝の身体には抑え切れない震えが走った。

「憎いんだよ、タツ。あいつをあんな風に仕立て上げた全てが憎くて憎くて堪らない。他人を散々苦しめた挙句に自分は苦しむ間もなくバラバラになった畜生も、ふざけた置き土産を残して勝手に逝ったイカレ親も、今もこの街に我が物顔でのさばっている屑共も。そして何より、何よりだ――僕自身の存在そのものこそ、殺してやりたい程に憎い。その衝動にだけは、どう足掻いても耐えられそうになかった。それで、気が付いたらこの有様だ」

 事もなさげな調子で血塗れの両手をひらひらと翳して見せながら、信長は痛みを――恐らくは肉体とは全く無関係なところに走った痛みを堪えるように、表情を歪めた。

「勿論、僕一人の責任だなんて自惚れる気はないし、そもそも僕一人の力で何が出来た訳でもないかもしれない。だが、だとしてもそれは、“何もしようとしなかった”事への言い訳にはならないんだ。僕は、闘うべきだった。もっと早く、自分の意志で理不尽に立ち向かうべきだった。そうしていれば――僕は、こうも惨めな想いをせずに済んだ筈なのに」

「……今は、余計なことは考えるな」

 喉奥から無理矢理に絞り出すような言葉しか、掛ける事が出来なかった。いかなる慰めも叱責も、今の信長の心に届くとは思えなかった。その程度の機微を悟れないほど、源忠勝は鈍感な少年ではない。それが幸であるか不幸であるかは、誰にも判らない事だろうが。

「ほら、手ぇ出せ。手当てしてやるから、じっとしてろ」

 食料品と同時に簡易ながら応急セットを持ち込んでいたのは不幸中の幸いだった。背負ったサックを埃塗れの床に下ろし、中身を取り出しながら、こうも早く活躍の場が来るとは思ってなかった、と忠勝はやり切れない感情を苦味と共に噛み締めた。ボトルの飲料水を傾けて傷口を洗浄し、消毒を済ませてから清潔な包帯を巻き付ける。代行業に必要な基礎技能の一つとして養父に手習いを受けていた事もあって、年齢とは不釣合いに見事な手際だった。黙々と処置を終えると、次いでサックの中から200mlペットボトルを二つ取り出し、片方を信長に向けて放り投げる。

「これは?」

「飲めよ。ノド、乾いてんだろ。ほぼ丸一日、何も飲んじゃいねえだろうしな」

 信長は無表情で手元の清涼飲料水を数秒ほど見つめてから、ゆっくりとキャップを外し、そして一気に臓腑へと流し込んだ。それは喉の乾きを潤すためと言うよりは、今も身体を焦がし続けている激情を、ほんの僅かでも冷まそうと足掻いているように思える飲み方だった。そんな信長の行動については敢えて触れることなく、忠勝は無言のままサックを漁って、目当てのものを引っ張り出す。

「メシも調達してきた。つっても主にオヤジが放置して賞味期限切らしかけてたコンビニ弁当だがな」

「ああ、それは結構。願ってもないご馳走じゃないか。いつぞやの殺人鍋に比べれば天上の美味もいいところだ」

「……アレか。これからメシってタイミングで嫌なもん思い出させてんじゃねえよボケが」

 川神周辺域に自生する謎の野草(名称不明)のごった煮。サバイバル生活の初期、三人で囲んだ鍋の壮絶な味を忘れない。文字通りの意味で苦い思い出を揃って回想しつつ、黙々と眼前の弁当を平らげる。凡そのコンビニ弁当の例に漏れず、品質はともかくボリュームだけはそこそこ保障されているものだったが、しかし完食には数分と要さなかった。なるほど、人間の適応能力とは大したものだ、と忠勝は皮肉気味に思う。胃袋の中身を洗い浚い大地へと還元せしめる、あの紅い紅い地獄絵図を目の当たりにしてから、未だ一日程度の時間しか経っていない筈であるにも関わらず、我が食欲のなんと旺盛な事か。二度と見たくないとすら感じた肉片という物体をこうして噛み締めていても特に吐き気を催さない辺り、自分達は常人よりも神経が図太く出来ているのかもしれない。

 或いは――既に感覚というものが麻痺して、機能不全を起こしてしまっているのか。きっと、そうなのだろう。

「タツ。外の様子は、どうだった?」

 短い食事を終えてから数分が経った頃、おもむろに沈黙を破った信長の問いに対し、忠勝は反射的に窓の方を見遣っていた。つられるようにして、信長もまたそちらへと視線を向ける。朽ち果てた窓枠の向こう側に一望出来るのは、血のように禍々しい夕焼けが紅く照らし出す、堀之外の猥雑な街並み。一様に面相を険しくし、鬼気迫る雰囲気すら漂わせて薄汚い街路を駆け回っていた男達の姿を瞼の裏側に浮かべながら、忠勝は問いに答えた。

「大方、お前の予想通りだ。あいつら、お前らのことを血眼になって探し回ってやがる。もちろん、封鎖も同時進行で、だ。この街からはアリ一匹逃がさねえ、って勢いだな」

「……ふん。まあ、そうだろうさ。あの“精肉工場”で細切れに加工された組員の一人、新田利臣という男は朝比奈組の若頭だ。あんな屑でも、あんな屑だからこそか? 組の中では相応の声望もあった。連中にしてみれば、何としても下手人を探し出して復讐を果たさない事には、“メンツ”が立たない。他勢力に舐められない為にも、速やかな“落とし前”が必要になる訳だ」

 直後、ギリギリと、烈しい歯軋りの音が響く。表向きは冷静な分析を口にしながらも、信長の内心は凄まじいまでの憤怒にて煮え滾っている様だった。壮絶な激情を両目に宿しつつ、信長は力尽くで押し殺したような声音で現状を整理している。

「そして追われる側の僕達には、逃げ場が存在しない。川神からの脱出を画策しようにも、行く宛てが無い。そもそも“ここから移動できない”以上、まず堀之外からの脱出すら不可能だ。この風光明媚で快適至極な素晴らしき隠れ家に引き篭もっていたところで、稼げる時間は高が知れているだろう。連中が易々と報復を諦めでもしない限り、遠からずここに調査の手が伸びるのは間違いない。更に言えば、僕達の側には武力抵抗の手段無し。そうなれば、どうなる? ――悪名高い“森谷”とやらの娘で、生贄として格好の対象であるところのあいつは、一体全体どんな目に遭わされると言うんだ? ああ畜生、想像するだけで楽しくなってくるじゃないか」

 愉快げな笑顔とは徹底的に程遠い、溢れ出す淀んだ憎悪で歪み切った顔を窓の外へと向けて、信長は唸るような語調で言葉を続けた。

「欲求に忠実なだけの畜生共が寄り集まって組織を名乗り、厚かましくも仁義を語り、あまつさえ人間がましく体面を取り繕う――そんな馬鹿馬鹿しい茶番劇のために、あいつはまだこれ以上、追い立てられなければならないのか? あれほど多くのモノを搾り取って奪い尽くしてもまだ、飽き足らないとでも? ふざけるな。ふざけるなよ。そんな糞以下の理不尽に、今のあいつを晒させてたまるか」

「……信長。あいつの様子は、どうなんだ」

 思わず口にしてから、訊くべきではなかったのかもしれない、と忠勝は咄嗟に思った。相当に情緒が不安定になっているらしい信長の口から“それ”を答えさせるのは、誰にとっても不幸な事態を招くのではないか、と。だが、そうした忠勝の危惧は特に必要のないものだったらしく、信長はぴくりと眉を動かす以上の目立った反応は見せなかった。

「相変わらずだ。相変わらず――いや、或いは、より悪化したと言うべきかもしれないな。最初は、本当に最初だけは、少なくとも“会話”が成立していた事を思えば」

「そう、か」

「暴れ出したり逃げ出したり、そういう不愉快なトラブルと無縁でいられるのが唯一の救いだ。何せあれから一歩たりとも動いていないんだから間違いない。あの調子じゃあ数日としない内に、身体に積もり積もった埃を払う作業に追われる羽目になりそうだな。思うに、電池切れのラジコンを擬人化すればあんな感じになるんだろうよ、きっと」

 冗談めかした口調で言って、普段同様に皮肉げな笑みを浮かべようとして、そしてそれがなかなか上手くいかない様子だった。既に恐ろしい苦痛に充たされている顔面に笑みを湛えるのは並大抵の努力では不可能だろう。結局、信長は唇を真一文字に結んで、埃舞う廊下の隅に位置する扉へと視線を向けた。信長の言葉通りならば、その先の一室に彼女は今も居るのだろう。三人組の欠かさざるべき一人、誰よりも無邪気で感情豊かな幼馴染。

 誰よりも無邪気で感情豊か“だった”、幼馴染。

「……あいつはきっと、強い人間じゃなかった。少なくとも、僕が確たる根拠もなく信じ込んでいた程には。そういう事なんだろうな」

 呟くような信長の言葉に、忠勝は答えなかった。答えを求められていない事が分かっていて、そして何を言うべきかも分からない以上、口を噤む他に道はない。重苦しい数分の沈黙が過ぎた後、忠勝は壁に預けていた上体を起こして、シャツの背中に付いた埃と汚れを払いながら、信長へと向き直った。

「もう一度、周囲の様子を窺ってくる。お前は、あいつを見ていてやれ」

「……タツ」

「なんだよ」

「朝比奈の連中が鼻息荒げて追っているのは、僕とあいつだけだ。お前の顔は割れていないし、存在そのものに気付いてもいないだろう。だから、お前は――」

「オイ、信長。念の為に言っとくがな、もしくだらねぇ事を抜かしやがったら、真剣マジで容赦しねえぞ」

「……」

「ケガ人だろうが関係ねぇ、顔面を全力でぶん殴ってやる。自分を痛め付けるのが楽しいってんなら、さぞかし本望だろうよ。……で、なんだ? 何か言いてえんじゃなかったのか?」

「――、なに、折角顔が割れてないのだから、不審な動きをして連中に怪しまれるな、という旨の忠告をしようと思っただけだ。生憎と僕はマゾヒストじゃあないんだ、いくらストレス発散の為だとしても、これ以上の負傷は御免被るさ」

「はっ、信じといてやるよ。今度バカな真似をやらかしやがったら手当てなんざしてやらねえからな。せいぜい自愛しやがれよ、ボケが」

 ぶっきらぼうに言い放つと、返事を待たずに背を向ける。


「     」


 ともすれば聞き取り損なっても何ら不思議のない、辛うじて喉奥から絞り出したように微かな声が耳を打ったのは、廊下の突き当たりを曲がり終えた時だった。忠勝は一瞬だけ足を止め、小さく口元を緩ませて、そのまま振り返ることなく歩を進めた。

 あの天邪鬼がどんな顔でその台詞を口にしたのか、この目で見られなかったのは残念だ、と少しばかりの口惜しさを抱えながら。









 いつの間にか、雨が降り始めていたらしい。ついでに強風も伴っているらしく、横合いから吹き付けられた雨粒が弾丸と化して、皹割れた窓ガラスを叩き砕かんとばかりに乱打している。絶え間なく響き渡るその騒音が切っ掛けになったのかは分からないが、とにかく僕はふと眼を覚ました。未だ茫漠とした意識の中、今の今まで自分が軽い睡眠状態に在ったことを自覚する。僕の意志としては、少なくとも忠勝が戻ってくるまでの間は睡魔に意識を委ねるつもりなどなかったのだが、どうやら先に肉体が限界を迎えたらしかった。まぁあれから一睡もせずに過ごしていたのだから、当然の結果と言うべきなのかもしれない。生憎の悪天候のお陰で時間経過の認識が難しいが、おそらく意識を飛ばしてからまだ一時間と経ってはいないだろう。僕はコンクリートの固く冷たい壁に寄り掛かっていた上体を、勢いを付けて起こした。途端、強烈な激痛が稲妻の如く身体の各所を巡り、脳の神経が灼ける。

 よし。これで、目が覚めた。

 適度な休憩と、未だ鋭く走り続ける程好い痛み。実に良い塩梅だ。これであと数時間ほどは睡眠を取らずに活動を維持できる事だろう。尚も物欲しげに休息を訴える自らの肉体に喝を入れ終えると、僕は立ち上がって、明かり一つ無い陰気な室内を見渡した。不覚にも気を失う前と何ら変わらない、牢獄じみた殺風景な部屋。薄暗い室内には調度など何一つとして見当たらず、ただ無骨なコンクリートの床と壁と天井が剥き出しになった灰一色の空間が広がっている。元々は何の用途に使われていた部屋であったのか、それを窺い知るに足る手掛かりすらどこにも存在しない。

 数年以上も昔に廃棄されたとあるビルディングの、五階部分に位置する一室だった。住宅街の南西部、僕達が前々からいわゆる“秘密基地”なるものを設置しようと企んでいたロケーションだ。九割九分の稚気と一分の浪漫に従って立案されたその計画が実行に移される事はついになかったが、しかし僕達がこの廃ビルの存在に前もって着目していたのは幸いだった。お陰で現在、こうしてなかなか優れた隠れ家として利用する事が出来ている。例によって無駄な行動力に溢れた幼馴染が言い出した、いかにもお子様っぽい幼稚な思い付きも、たまには物の役に立つようだ。

「…………起きてるか?」

 対面の壁に向かって声を投げ掛けるも、返事は無かった。まさかと慌てて視線を巡らせたところ、焦るまでもなく、目的の人物は同じ部屋の中に居た。先程までの僕と同じ様に両脚を床に投げ出して座り込み、壁に凭れ掛かって、じっと宙を見つめている。石膏像の如き不動の姿を確認して、僕はほっと安堵の息を吐いた。万が一にでも、意識を失っている内に何処かへ行かれでもしたら大事だ。

――何処かへ行かれでもしたら、か。

 失笑する。それは、我ながら随分と馬鹿げた思考だった。馬鹿馬鹿し過ぎて面白くもない。

 僕はしつこく痛みを訴える身体を引き摺って、向かい側に居る“彼女”へと歩み寄った。薄闇に浮かび上がる少女の容貌を数秒ほど眺めてから、傍に腰を下ろす。二人並んで、壁に背を預ける形となった。沈黙が流れ、単調な雨音だけが飽きる事無く響き続ける。僕は何も言わなかったし、彼女も何も言わなかった。いや、その表現は正確ではない。それではあたかも僕達が自由意志に従って沈黙を選択しているかのような誤解を招いてしまいかねない。全く以ってそうではなく――そもそも、僕達の間に会話というコミュニケーションが成立し得る道理が、ここには存在しないのだった。

 例え僕が何を話そうとも、

 蘭がそれに応える事はないのだから。

「覚えてるか? 夏休みが始まる前、お前がいきなり言い出した、秘密基地の計画」

「………………」

「案の定、論外だったな。こんな酷い環境じゃとても寝泊まりできたものじゃあない。僕は居心地の悪い住居ってものには慣れてるが、それでも御免被るね。普通の人間なら三日で気が狂うだろうよ。ふん、だから僕は最初から反対だったんだ。妄想逞しいのは結構な事だがな、現実的な想像力が伴わなければただの夢見がちな阿呆と何も変わらないだろう。あくまでも自分が馬鹿じゃないと言い張るんだったら、いい加減に学習したらどうなんだ」

「………………」

 僕の言葉に対して、蘭は一切の反応を示さない。間抜けに頬を膨らませて立腹する事も、弾ける様な笑顔を零す事もない。曇ったガラスの瞳は眼前の僕を映さず、ひたすらに遠い何処かを見つめている。今の僕には見えない何かを、僕には共有できない灰色の世界を、飽きもせずに延々と。

「…………何だよ」

 蘭の癖に、生意気だな。乾き切った喉から無理矢理に絞り出した呟きにも、答えは返ってこない。だが、落胆は無用というもの。最初から、判り切っていた事なのだから。

 ここにいる森谷蘭は、抜け殻だ。

 空虚。空っぽで、虚ろ。

 本来そこに在るべきものが見当たらない、ということ。

「…………………………………………………………」

 人形のように白く細い躯体と、黒耀の双眸はそのままだと言うのに、あれほどまでに眩かった生命力の輝きも、“意志”の煌きも、もはや何処にも窺えない。己の知る誰よりも感情豊かだった幼馴染の、痛々しく変わり果てた姿は、悲愴を通り越して無惨ですらあった。

 時が経つにつれて心の奥底へと浸透してくる、現実感。その無慈悲な冷ややかさに、身震いする。

「蘭」

 名を呼んでも、応えてはくれない。どれほど小粋なジョークを飛ばしても、蘭は笑わない。どれほど意地の悪い皮肉を飛ばしても、蘭は怒らない。

 森谷蘭の世界に、僕はもう居ない。

「……」

 あの殺戮現場で意識を失い、そして数時間の時を経て、この隠れ家の一室で再び瞼を上げた時――既に蘭の心は、壊れていた。

 喪ったものは、殆どの記憶と感情。僕の知る森谷蘭の人格を構成していた要素は、まるで最初から無かったかのように、酷くあっさりと、蘭の中から消え去っていた。後に残されたのは、肉体と、言語等を含む最低限の記憶と、極限まで希薄化した感情の残骸だ。

 一体何が蘭の心をここまで破壊してしまったのか、僕には判らない。両親の死か、自身が行った殺戮か、或いは――心当たりは幾らでもあるにせよ、僕が蘭の精神構造を完璧に理解してでもいない限り、明確な原因を断ずる事は不可能だ。そもそも、原因などというものを躍起になって追及したところで、大した意義が有るとは思えなかった。ただ一つ言える事があるとすれば、稀有な程に心根が真っ直ぐであるという事はつまり、破壊的な衝撃に際して柔軟に曲がる事もまた適わないという事。故に、脆い。そしてひとたび折れてしまえば――元の形を取り戻す事は、二度と。

『わたし、なんのために、うまれたんですか?』

 断末魔のように残した言葉と、現在の無気力な様子から判断すれば、蘭は恐らく、全てに絶望している。己の生に対して何一つ意義を見出していない。だからこそ、肉体面に何らダメージを負っていないにも関わらず、彫像の如く不動を保っているのだ。食物や飲料水の類にも全くの無反応だった。或いは空腹が限界に達すれば何かしらの反応を見せるかもしれないが、望みは薄いだろう。最終的には無理矢理にでも摂取させるしかないのかもしれない。緩やかな自殺を黙って看過するのは御免だ。

「何の為に生まれたのか、か。はっ、まさかお前の口から、そんな台詞を聞く羽目になるとはな」

 それは、かつての僕が絶えず自身に向かって問い掛けていた命題だった。終わる事の無い理不尽に晒され続けた子供が絶望の末に抱え込んだ、独り善がりな思い込み。それが下らない勘違いの産物に過ぎないのだと、弾ける様な笑顔と活力とを以って強引に気付かせてみせた、そのお前が――今や僕以下の“死に様”を晒しているなんて、随分と笑えない話じゃないか。なあ、蘭。

「僕はお前を、助けられないのか? お前は僕を、助けてくれたのに」

 無様な問い掛けに対しても、返って来るのは冷ややかな沈黙のみ。当然だ、僕は蘭の眼中に無い。昏く濁った絶望の底へと深く深く沈んだ精神を、無理矢理に、問答無用に光差す地上へと引っ張り上げられるような“力”。それがかつての蘭にあって、今の僕に無いものだった。

「――畜生ッ」

 僕は、弱い。あまりにも今更な、自覚だった。

 そして自覚がもたらしたものは、自身の不甲斐なさに対する巨大な怒り。否、今までの感覚からすれば、巨大過ぎる●●●●●怒り。瞬間的に湧き上がる激昂を、理性を総動員する事で咄嗟に抑え付ける。代償は、口の中に広がった鉄錆の不快な味だった。

「……ふぅ」

 内に篭った熱を排出するように、深く息を吐き出す。まあ、この程度で済んだならば問題はない。もし外傷が増えていたら忠勝の鉄拳が飛んできそうなので、負傷を口内に留めたのは我ながら良い判断だった。だが、次こそは理性的な判断を下せる自信が無い。包帯の巻かれた両手に走る、疼きと痛みとを強く意識する。

 場所を、移そう。この部屋にいる限り、何が切っ掛けで感情が暴走するか判ったものではない。

 重い腰を起こし、出口へと向かう。辛うじて原型を保っているドアを開いた所で、振り返った。蘭の視線は欠片も動く事無く、相も変わらず空疎に虚空を射抜いている。その青褪めた横顔を数秒ほど眺めて、不意に湧き起こり掛けた感傷を強いて抑え込みながら、僕は廊下へと出た。


 

 足の向いた先は、屋上だった。ここならば、埃塗れのビル屋内よりは幾分かマシな空気を吸える。とは言え、しばらくは乾燥機という文明の利器の世話になる事も出来ないと思えば、替えもない服を雨に濡らすのは避けたい。いや、忠勝に頼んで着替えを持ち込んで貰えばいいのか、と思考しながら、適当に屋根のある場所を選んで腰掛けた。何をするでもなく、ぼんやりと、曇天を見上げる。

「…………これから、どうしよう」

 無意識の内に口を衝いて出たのは、途方に暮れた迷子のような言葉。それは随分と幼稚なものとして響いた。自分が一気に馬鹿になったように思えてくる。しかし、今後の展望が見えないという意味で、間違いなく僕の心情を最も的確に表現している台詞だった。

 数千にも及ぶという朝比奈組の構成員達がこの場所を嗅ぎ付ける時は、そう遠くないだろう。或いは今この瞬間に踏み込んできたとしても何ら不思議はない。そして、その現実性を伴った未来に対して、僕達には備えが存在しないのだ。刻一刻と迫り来る危機に相対する手段を、今の僕達は有さない。

 蘭が健在なら、何も恐れる必要は無かった。あの常識外れとしか言い様の無い武力を以ってすれば、数ばかりの有象無象など鎧袖一触――とはいかないにせよ、抗戦する事は十分に可能だった筈だ。しかし現実として、今の蘭は生への執着を完全に失った、人形と大差ない状態であり、戦力として数える事は出来ない。むしろ僕達がその無防備な体を守らなければならないという意味で、戦力的にはマイナス要因ですらある。

 ならば、僕と忠勝の二人で、戦いを挑むか?

 論外だ。新田利臣という頭の一つを潰したとは言え、相手は暴力を生業としてきた裏の住人で、大人で、銃器を所持している、数千規模の人員を投入可能な犯罪組織。戦力比がいかほどのものか、試算するのも馬鹿馬鹿しい。例え命を犠牲にしてでも一矢報いてやりたいという衝動が無いでもないが、それはあくまでも事が僕一人で済む場合なら、の話だ。そんな自殺同然の暴挙に蘭と忠勝を巻き込む訳にはいかない。

 ならば、逃げるか? この腐った街を離れて、朝比奈の連中の眼が届かない、どこか遠くへ。

 ……所詮、儚い夢想だろう。忠勝に語ったように、そもそもこのビルからの脱出すら現実的ではない。そして、幸運の上に幸運が積み重なって川神からの脱出が成功したと仮定しても、“その先”のビジョンが存在しない。見知らぬ土地で一人生きていくだけでも見通しが立たないと言うのに、死人同然の蘭をどうにかして養わなければならないとなれば、先には絶望しか見出せなかった。それに、例え何処へ逃れたとしても、僕は常に朝比奈組の目に怯え続ける羽目になるだろう。あの忌々しい“躾”のお陰で、僕の面貌は組員達に知れ渡っている。連中の規模を考えれば、僕に安息の地など存在しないも同然だった。

 ならばどうする。これ以上の理不尽を、蹂躙を許さない為には、どうすればいい。

「力が、あれば」

 詮の無い事だと理解していても、思わずにはいられなかった。蘭のような、かの高名な川神院に属する武人のような、個を以って郡を圧倒する突き抜けた武力。それが僕に備わっていれば、立ち塞がる全てを蹴散らして己の意志を貫き通してみせるものを。しかし生憎と、現実として僕の持ち得る武力は、あの殺戮現場から拾ってきたサバイバルナイフ一本のみだ。朝比奈の組員からの鹵獲品でお仲間の喉首を掻き切ってやるという思い付きには少し心が惹かれるが、実際のところ、僕のような素人が振り回したところで満足に闘えるものではないだろう。

 力、力、力。所詮この世は弱肉強食。力が無ければ、生き抜けない。ああ、それは、なんて下らない――

「……?」

 不意に屋上に響き渡った、雨音以外の物音に、僕は苦々しい自嘲に塗れた思考を打ち切った。

「……猫か」

 一体どこから這入り込んだものか、全身の毛を濡らした、大柄な野良猫が近くに居た。僕の存在を気に留めた様子もなく、僕と同じ屋根の下にどっかりと座り込んでいる。やたら堂々とした物腰から判断して、元々、この廃ビルをねぐらとしていたボス猫の類なのかもしれない。恐れるものなど何一つないとばかりに傲然と坐し、僕の事を無視したまま我が物顔で空を仰いでいるその姿が、無性に腹立たしかった。被害妄想にも程があると頭では判っていても、その一挙一動が、何も為せない僕の無力さを嘲笑っているように思えてならなかった。

「おい、こっちを見ろよ。畜生の分際で、人間様を舐め腐ってるんじゃあない」

 毒づいてみたところで、素知らぬ顔。追い討ちを掛けるかのように大欠伸まで漏らす始末だ。自業自得とは言え、屈辱だった。今度は言葉ではなく、心中に募る苛立ち――半ば以上は自分に対してのものだったが――を込めて、尊大不遜な猫の姿を睨み付ける。

「――――!?」

 その瞬間、だった。

 自分の中で、何かしらの“力”の流れが働いたのを、自覚する。同時に、これまで泰然たる態度を保っていた猫が、劇的な反応を示していた。切羽詰った甲高い悲鳴を上げて、尻尾の毛を驚くほどに逆立てながら、雨に濡れる事も厭わず屋根の下から飛び出すと、脇目も振らず凄まじい速度で遁走していく。その姿を呆然と見送りながら、僕は今しがた自分の内側で起きた出来事を反芻していた。

「今のは、あの時と同じ……?」

『――蘭から、離れろォッ!!!』

 あの時はひたすらに無我夢中だったので、周辺の記憶が酷く曖昧だが――そうだ、確かに、“こういう事”があった。先程と同じ様な感覚、“力”の作用が間違いなく在った。心を焼き尽くさんばかりに昂ぶった己の感情を、肉体の内側を循環する“熱”、何かしらのエネルギーに載せて外界へと吐き出す――そんな具体的な行程までも、今の僕は頭の中で明確に再現出来る。

「…………」

 発現のタイミングから考えても、この正体不明の能力らしきものは、僕を苛んでいる、“感情を持て余している状態”と何かしらの関係性があるのだろう。しかしまあ、今はその辺りはどうでもいい。重要な事は能力の由来ではなく、それを運用する事で実際に何を為せるのか、その一点に尽きる。

 まず、先程のケースを参考にしてみよう。あの無駄に態度の大きい野良猫に対し、僕は“力”を行使した。結果、猫は疑いなく恐怖に駆られた様子で逃げ去っていった。そしてもう一つのケースでは、僕は周囲を取り巻く朝比奈組の構成員に対して“力”を行使し、そして……記憶が確かではないが、新田以外の連中の身動きを封じたように思う。この二つの事例から読み取れる“力”の性質とは、何だ?

「……“威圧”、か」

 蛇に睨まれた蛙の如く。鷹の前の雀の如く。相対する者を萎縮させ、時に逃散せしめ、時に身体機能を凍らせる。どういう訳か僕に備わっているのは、そうした性質の“力”なのではないか。はっきりとした判断を下すにはあまりにもサンプルケースが不足しているが――僕には、それこそが唯一無二の正解だという確信があった。由来が分からずとも、自分の“力”だ。いかなるものなのかは、理論を超えたところで感覚的に理解出来る。そして、同時に悟った。これまでの人生の中で、僕が理由も無く周囲に忌まれ続けていたのは、僅かに顕在化していたこの力の片鱗が原因だったのだ、と。

「……く、くくく、何だ、それ。くくく、はははははっ」

 理解が及んだ瞬間、狂ったように笑いが込み上げてきて、止まらなかった。なんだ、こんなもの●●●●●のために、僕は苦しみ続けてきたのか。母親に憎まれ、クラスメートに疎まれ、畜生共に目を付けられ、その引き換えに得た“力”が――威圧、ときたものだ。凄んで脅して、それでお終い。実質的には何の力も与えてはくれていないのだから、僕自身は無力で脆弱な子供のままだ。そんな人間の“威圧”が、一体何の役に立つというのか? せいぜい、ハッタリでもかまして自分を本来より大きく演出してみせるといった詐術くらいしか、使い道が見当たらない。それすらも、僕の事を知らない人間にしか通用しないのだから、朝比奈組の連中に対しては殆ど無力で、


――あなたは、だれですか。


「…………待て、よ」


 それは、つまり。逆に言えば、僕の事を知らない人間●●●●●●●●●●なら。織田信長という一個存在のパーソナリティを未だ記憶していない人間であるなら。僕は――自分を偽る事が出来る。脆弱で無力な僕以外の存在を、演じる事が出来る。そういう事では、ないのか?

『わたしのりそうはずばり、“織田信長公”なのですっ!』

 いつしか、喉がカラカラに渇いていた。脳裡に浮かんだ閃きを切っ掛けに、凄まじい勢いでロジックが組み立てられていく。パズルのピースを一つ一つ嵌め込んでいくように、思考の全体像を徐々に浮かび上がらせていく。

『だれかにおつかえするなら、わたし、そういう人がいいなって』

 加速していく思考に伴って、記憶の欠片が次々と再生される。森谷蘭と交わしてきた幾千幾万もの言ノ葉が、凄まじい勢いで通り過ぎてゆく。あの公園で、二人。飽きもせずに語り合った無数の物事が、情景すらも鮮やかに伴いながら蘇る。

『わたしですか? わたしは――りっぱな“武士”にならなくちゃ』

 そうだ。あの日、茜色の空の下で、僕達は“夢”を語った。夢を見れない少年と、夢見がちな少女が交わした、どこかちぐはぐで滑稽な対話。夢を見る為にはエネルギーが必要だ――そんな風に、かつて僕は思った。ならば、逆説的に考えれば……夢を見ている限り●●●●●●●●そこにはエネルギーが存在する●●●●●●●●●●●●●●。そういう事には、ならないだろうか?


「……………」


 動悸が、速まる。呼吸すらもが、侭ならず。それでも頭脳だけは、かつてない程に冴え渡っていた。


 “それ”を成し得る為に必要な事項を、冷徹に演算する。

 “それ”を成し得る為に必要な犠牲を、冷徹に演算する。

 “それ”を成し得た暁に掴み取る成果を、果てしない昂揚と共に、演算する。


「そうだ。……このまま、何もしない事を。流されるままに畜生どもの贄になる道を選ぶくらいなら」


 この身を襲う理不尽に抗い、己の意志を貫き通す。それこそが、ヒトがヒトとして生きている証。そうではないか?

 だとすれば――何を迷う。何を躊躇う。いかなる苦難も試練も、この足を留め得るものではないだろうに。

 命を賭して、駆け抜けろ。“何の為に生まれたのか”、その答えを、既に僕は知っているのだから。


「――闘ってやる。勝ち取ってやる。敗者で在り続けるのは、これまでだ」
 



 

 一つの決意を己に固く誓ったその夜、僕は夢を見た。

 夢の内容は、蘭と出逢い、忠勝と出逢い、三人で共に過ごした、騒がしくも輝きに満ちた日々の記憶。奇跡のように温かく、揺り篭のように心地良い思い出の中を、僕は揺蕩っていた。それは、織田信長という少年が生まれて初めて得た日溜まり。シャボン玉のように儚く、それ故に美しい一瞬のメモリア。

 何故そんな夢を見たのか、僕には考えるまでもなく明晰に理解できた。それは一種の暗示であり、同時に決意の顕れでもある。理解が及んだからこそ、僕は迷う事無く瞼を上げる事を選んだ。鮮やかで優しい夢の風景は瞬く間に溶け去って、代わりに視界に映るのは、冷酷非情な現実の景色。しかし、もはや胸中に名残惜しさは無かった。訣別の時は既に越え、立ち向かうべきは眼前の試練だ。

 周辺の視察と物資補給の任を終えて廃ビルに戻ってきた忠勝に、僕は声を掛けた。


「忠勝。僕は、決めたよ」


 これより先の未来、僕が世界の何もかもに嘘を吐いて生きるとしても、この得難い幼馴染に対してだけは、真実を告げておかなければならないと思った。

 僕の決意、僕の選択、僕の“夢”。例え全てを包み隠さず話す事は出来ずとも、それでも互いを無二の友だと心の底から信じられるように。決意を込めて、己の選択を告げる。


「僕は――“魔王”に、なろうと思う」

 



 

 

 僕は昔から、自分の名前というものが大嫌いだった。織田信長。真っ当に義務教育を受けた日本人なら誰もが知っている、戦国時代の雄。血の繋がりがある訳でもなく、単に同姓だからという悪ふざけのような理由で名前を付けた両親の浅薄さからして、名に対する嫌悪感を掻き立てた。定期的に強要される自己紹介というイベントの度に、反吐の出るような思いを幾度も味わってきたものだ。

 だが、吐き気を催す嫌悪の念が本格的に身を焦がす憎悪へと移り変わったのは、初めての友人と夢について語り合ったあの日だったのだろう。胸中に芽生えたのは、森谷蘭の理想の主君足り得る織田信長という“英雄”に対する、狂おしい程の劣等感。それほど烈しい感情が自分の中に存在していた事実に、僕は驚いた。

 つまるところ、僕は蘭という初の友人に、認められたかったのだ。誰にも見下され、蔑まれ、虐げられて生きてきた少年のちっぽけなプライドとささやかな願いは、しかし欠片の悪意も含まれない蘭の言葉によって踏み躙られた。何せ、相手はかの名高き織田信長だ。押しも押されぬ日本史上有数の英雄だ。救いの手を差し伸べられる側の、惨めで無力な餓鬼なぞとは比較するのもおこがましい。恥を知るがいい、同姓同名を名乗る価値がお前なぞにあるものかよ。そんな、諦観と歪んだ嫉妬心に満ちた絶望的な感情が憎悪へと転じるまでに、さしたる時間は要さなかった。


――ああ、僕はお前が嫌いだよ、“織田信長”。本当に、本当に嫌いだ。そして同時に……心の底より、感謝の念を捧げよう。


 もしも僕が畏れ多くもその名を戴いていなければ、こんな発想は最初から浮かびすらしなかっただろう。


――僕では蘭を救えない。誰かを絶望の底から掬い上げるような“力”は、僕には無い。


 だから、必要とされているのは、“英雄”だ。

 天下国家を語るに相応しい大器。天魔の如き威厳に満ちた、強烈な統率力の所有者。その生き様を以って人々を惹き付け、付き従う者達に壮大な夢を見せる――英雄。


――故に僕は、英雄を騙り、天下を語ろう。



「ふん……、酷い顔だな。見るに堪えぬ。意思も無く、意志も無い。まさしく、死人も同然よ。そのまま朽ち果てるも、お前の自由ではあるが――些か、惜しい」


 冷酷非情の仮面を被り、威厳の衣を身に纏い、大志を抱いて覇道を歩む、“魔王”で在ろう。


「どの道捨てる命であれば、寄越せ。無為に消えゆくその命、有為に使ってやろう。生きる意味が判らぬならば、手ずから与えてやる」


 例え下らない模倣に過ぎずとも、浅はかな詐術に過ぎずとも、夢の欠片を束ね合わせ、砕けた心を繋ぎ止めるには足りるはず。


「“忠”を、尽くせ。この身に付き従い、我が覇道を見届けるがいい。其れこそは、現世のいかなる名誉も遠く及ばぬ、最上の誉れと心得よ」


 気が狂わんばかりの屈辱を堪え、借り物の威風に甘んじて――僕は、“織田信長”を演じてみせる。

 その果てに、“僕”の存在が塗り潰されて、あいつの中から永久に消え失せてしまったとしても。僕は、躊躇う事無く歩み続ける。

 それが僕の選んだ道で、僕の見出した夢のカタチなのだから。


「ふん。知らぬと云うならば、頭蓋にでも刻んで記憶するがいい。永劫、史上に残る名よ」


 そうして僕は、一つの嘘を吐く。

 もう一度、二人の出逢いを始めるために。

 もう一度、共に未来へと走り出すために。

 それが心咎めても――本気の嘘なら、後悔はしない。



「“俺”の名は、織田信長――いずれ、天下布武を成す男だ」


 










※※※※※










 斯くして。様々な思慮と衝動と覚悟の末に“僕”が“俺”へと一人称を改め、織田信長の仮面を被って以降の足取りついては――まあ、あまり詳らかに語る気はない。潤いもなくさしたるドラマ性もない、どこまでも殺伐とした闘争の記憶を片っ端から掘り起こしたところで、改めて得られる物は特に無いだろう。正直に言って、回想に楽しみを見出せる種類の記憶でもない。煤けたコンクリートジャングルを舞台に、果てのないゲリラ戦を繰り広げた……端的に言ってしまえば、ただそれだけで済む話だ。

 森谷蘭という強大な戦力が手札に存在していると云っても、さすがに川神の闇に巣食う大規模暴力団を真正面から相手取るのは不可能だった。依然として戦力差は絶望的。だが、ひとたび“織田信長”を名乗った以上、敗北は決して許されなかった。故に、当時の俺は死に物狂いで戦略を練り、戦術を駆使し、戦闘に臨んだ。複数の隠れ家を転々としながら、ありとあらゆる策謀を巡らせて朝比奈組の裏を掻き、不意を衝き、喉首を掻き切った。我ながら口にするのも憚られるような残虐極まりない策も、それが有効と判断すれば躊躇わず実行に移した。今日、堀之外の住人達が抱く“織田信長”への恐怖心の大半は、恐らくあの時期の俺の行いに根ざしているだろう。余裕の無さはそのまま、容赦の無さに直結した。生き残る為に、勝ち残る為に、当時の俺は冗談抜きで必死だったのだ。同年代の子供達が鉛筆を手に計算問題へと向かっている時、俺はサバイバルナイフを手に刺客へと立ち向かっていた。彼らが友人達との鬼ごっこに夢中で興じている時、俺は黒服達とのリアル鬼ごっこに無我夢中で狂奔していた。潜り抜けた死線はおよそ数え切れず、身体に新たな傷跡を刻まない日は殆ど無く。それでも、ひたすら終わりの見えない闘争に身を投じ続けた。絶望的な戦局を前に、俺が心を折る事なく気力を保ち続けられた背景には、我らがタッちゃんこと源忠勝のサポートが存在していた事は言うまでもない。

 闘って、闘って、闘って――数年間もの間、日の差さない暗闇の中で血みどろの生存競争に明け暮れた果てに、いずれが勝利を掴んだのか。それは、現在の堀之外の風景が証明している。俺達は、勝利した。肉体に無数の傷を負い、精神の限界まで追い詰められながらも、辛うじて己の居場所を勝ち取ったのだ。

 俺が例のボロアパートを根城に据えたのも、その頃の事だった。数年に及ぶゲリラ戦の所為で一箇所に留まって滞在するという習慣がすっかり抜け落ちていたので、最初は何かと戸惑ったものだ。自分に帰るべき“家”があるという違和感は、今でも時折、ふと脳裡に浮かび上がる。まあ、それでも人は環境に適応する生き物で、四六時中襲撃を警戒せずに済むという奇跡的に平穏な生活を過ごしていく内に、俺も蘭も徐々に在り方を変えていった。当時の自分は尖り過ぎたナイフを通り越して狂犬じみていた、と回想するところの俺は言うまでもなくノーベル平和賞候補筆頭の聖人レベルまで丸くなったし、“主”の命令に対して殆ど機械的に従う忠誠心の権化でしかなかった蘭は、蕾が花開くように、少しずつ人間らしい感情を取り戻していった。共に暮らす中で蘭が初めて笑顔を見せた瞬間には、暴走し掛けた感情を抑えるのに大変難儀した事を覚えている。勿論、織田信長の威信に懸けて無様な醜態を晒すようなマネはしなかったと断言しておくが。

 そうして――十年。あの忘れ難い喪失の日から、いつしか十年が経っていた。

 幾多の闘いを乗り越え、幾多の出逢いを経て、俺は此処に立っている。昔日の誓いに違う事無く、織田信長は未だ敗北を知らず、万人を見下ろす絶対強者で在り続けている。

 脇目も振らず、前だけを見据えて駆け抜けてきた。遥か彼方の夢を目指して、あらゆる研鑽を積み重ね、数え切れない程の死線を潜り抜けてきた。

 そして、今。


「…………」

「…………」


 俺の目の前には、蘭が居る。十年前に喪った筈の全てを取り戻し、“織田信長”の真実を知った森谷蘭が、静謐な微笑みを湛えてそこに居る。古錆びたブランコに腰掛けて、黒の瞳をこちらに向ける姿は、まさしく昔日の情景を現在に再現しているかのようだった。だからだろうか、気付けば俺は、すぐ傍のジャングルジムに背中を預けた体勢で、蘭を見返していた。背中に感じる冷え切った金属の感触すらもが懐古の情を誘う。そう、あの頃は良く、こうやって二人、日の暮れた公園にて語り合っていたものだ。

 沈黙が、続く。轟々と風の吹き荒ぶ音響を間に挟んで、俺と蘭は向かい合う。

――何て、遠い。

 十年前と何一つ変わらない筈の二人の距離が、今は。あたかも彼岸と此岸に別たれてしまったかのように、果てしなく遠いものに思える。

 この瞬間に備えて予め用意していた幾千幾万の言葉も、全てが荒れ狂う嵐の中に虚しく消え失せて、蘭の下には決して届かない――内に渦巻く無数の言霊を実際に声に出して解き放つまでもなく、俺にはそれが分かる。分かってしまうからこそ、俺に選び得るのは沈黙だけだった。語らなければならない事は幾らでもある筈だと云うのに、あらゆる声音は喉下にて堰き止められてしまう。故に――必然として、静寂を破ったのは俺ではなく、蘭の声だった。

「幸福な夢を、見ていました」

 今にも雨中に溶け消えてしまいそうな、儚い微笑みを口元に湛えたまま、蘭は謳うように言葉を紡いだ。

「何も見ず、何も聞かず、何も知らず――私一人だけが、幸福だったんです」

「……蘭」

「ですが、もう夢はおしまい。私は、思い出してしまったから」

 夢はいつか終わるもの。目覚めてしまったなら、現実に追い付かれてしまったなら、もはや続きを見る事は叶わない。

「シンちゃんの手で、終わらせて下さい。それだけが、私の願いです」

 淡い微笑みを湛えて俺の目をじっと見つめたまま、蘭はゆっくりと立ち上がった。乗り手を喪ったブランコが静かに揺れて、キィキィと悲しげな金属音を響かせる。蘭は俺から数歩と離れていない所まで歩み寄り、そして――表情を改めると同時に、その場に坐した。誰しもが見惚れずにはいられないであろう、完璧な挙措で組まれた正座。ぬかるんだ泥土に汚れる不快感も、膝下に小石が突き刺さる痛みも、何一つとして他者には窺わせない凛たる顔付きで、蘭は双眸を炯炯と光らせながら俺を見上げる。

「もしもこの私に、未だ武士を名乗る事が赦されるのであれば。どうか、最期の情けをお与えください」

「……」

「そう、代々我が家系に伝わるその太刀こそ、呪わしき因果を断ち切るに相応しい。態々のご配慮、誠にありがたく存じます」

 蘭の真っ直ぐな視線が向かう先には、俺が腰に提げている無銘の太刀。斬り捨てた者達の血を啜り続けた果てに朱に染まった鞘と、幾千の骨肉を断って尚、刃毀れ一つ見当たらない銀色の刃――破局の日、廃工場に広がる血の海に打ち棄てた筈の太刀は、朝比奈組との死闘の最中、当然のように蘭の手元へと戻ってきた。世に妖刀と云うものが実在するのであれば、この太刀こそがそれなのだろう。血を吸う為に、舞い戻ったのだ。必ずやそれを為してくれるであろう、己に相応しき持ち主の下へと。

「蘭」

 見下ろす白の制服は、死に装束とも見紛うばかり。血の気が失せて青褪めた容貌と、透けるように白い肌は――無惨に散った少女の母と、恐ろしい程に似通っていた。

「俺のこの手に、何を望む」

 愚問と知りつつも、問い掛ける。

 そも、刃とは、何の為に在るか? 斬り裂き、断ち切り、殺す為。それ以上でも、以下でもない。

 故に。誰よりも強く“武士”で在る事を切望した森谷蘭という少女が、非情の刃に掛ける願いとは、即ち。


「不肖、森谷蘭。――介錯の儀、願い奉ります」














 





 はい。男鴉天狗、申し開きは致しません。大変更新が遅れたこと、伏してお詫び致します。
 と言う訳で、果たして何ヶ月ぶりやら、続きを投下させて頂きました。そして編集前に感想板を覗いたところ、何やら書き込んだ覚えのない削除予告がありまして仰天した次第です。ええ、なにぶんこうした事態に遭遇したのは初めてなのでいまいち勝手が分かりませんが、取り敢えずこうして更新可能な時点で当然ながら管理パスは把握している訳で、まあいわゆる成り済ましといふものですね。作者としましては、例え更新が遅れたとしても作品を削除する気は更々ありませんので、その辺りはどうかご安心を。
 さて、長々と続いたこの章もそろそろクライマックス。何はともあれ織田主従の一件に決着を付けない事には作者的にもえらく収まりが悪いので、最低限そこまでは漕ぎ付けられるよう鋭意努力させて頂きます。原作キャラの出番が回を追う毎に減っているのが何ともアレですが、こんな作品で宜しければ最後までお付き合い頂ければ幸いです。それでは、次回の更新で。



[13860] いつか終わる夢、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:910bfa0c
Date: 2013/10/22 21:13

「森谷の血は、“呪い”です。遥か戦国の世から現代までの永きを掛けて、我が一族が一心不乱に紡ぎ上げてきた、死を呼ぶ呪詛。そして私は、その結実。生まれながらに一族の業を身に宿した、おぞましい呪い子――それが森谷蘭という存在の正体なんです」

「呪い、か」

「尤も、父上と母上は、それを“祝福”と信じていたようでしたが。志半ばに斃れた血族の祈りと願いを一身に宿した、祝うべき子だと。自分達の代に森谷の悲願たる“殺意の申し子”を産み落とす事が出来たのは、とても素晴らしく誇らしい事だと。幼い私を抱き上げながら、父上はそう仰っていました。その時の私は、ただ尊敬する父上の期待に応えられた事が嬉しくて――ですが今なら、分かります。父上が満面の笑みと共に見ていたのは、私の才。私の中に眠っていた“森谷”という名の怪物なのだ、と」

「……」

「それが少しだけ、寂しいです。他の誰でもない“私自身”が両親に愛されていたと、心の底から信じられない事が……ほんの、少しだけ」

 悲しげな笑みを僅かに湛えながら、蘭は呟く。しかし寂寞の念を面に覗かせたのは一瞬で、蘭はあらゆる感情を強いて抑え付ける様に、表情を凛々しく引き締めた。白洲に引き立てられ裁きの時を待つ罪人の如く神妙な有様で、蘭は懺悔にも似た告白を続ける。

「森谷という武家の目的。一族がその存在を懸けて追い求めてきた悲願を、ご存知ですか?」

「……ああ。大体の所は、十年前に聞かされた。お前の父親から直に、な」

 曰く、“殺意”と云う名の鎖を以って人の心の獣を律する。あらゆる悪を根絶し、弱き人々を救済する。それが、森谷成定という狂人が語った森谷一族の理念。到底、易々と忘れられるような記憶ではなかった。客観的に判断して、狂気の沙汰としか形容の術が無いであろう、血塗れの妄執。

「勿論、最初の“森谷”たる創始者の武人とて、己の理念に現実味が欠けている事は承知していたでしょう。故に、その理念を現実のものとする為に、遠い祖先はある手段を選択しました。それは――すなわち、現世のあらゆる生命に対して絶対的な脅威と成り得る、世に比類なき“究極の殺意”を生み出すこと」

 ……究極の、殺意。蘭が淡々と口にしたその言葉は、否応無く一つの記憶を呼び覚ました。それは、俺という人間の根幹部分に刻み込まれた“恐怖”そのものだ。十年前の廃工場で遭遇した、赤と黒の化生。森谷蘭という少女の姿を象った――殺戮の権化。

「……っ」

 情けなくも、回想するだけで全身が無様に震え出しそうになっていた。身体の芯が凍り付くような感覚をどうにかやり過ごしながら、尚も続く蘭の告白に耳を傾ける。

「自身の生涯を費やしても理想に届かないと悟った祖先は、己が悲願を次代へと託しました。親から子へ、子から孫へ。より色濃く血を受け継いだ者が当主となり、そして――同様に選別された“血族”と婚姻を結び、子を成す。二人が愛し合っていなくとも、二人が実の兄妹であろうとも、一切の例外無く。より純度の高い血を、殺意を、確実に子孫へと継承するために。そうした一族の営みは数百年に渡って密やかに続けられ……現代に至るまで、一度として途絶える事はありませんでした」

「…………」

 ならば、あの時に聴いた、最期の言葉は。

『椿は、一足先にお待ち申し上げております――兄上』

 やはり、そういう●●●●意味だったと言う事か。およそそんな所だろうと事前に想定してはいたものの、それでも胸糞の悪さは抑えられそうもない。あたかも優れた競走馬を作り上げるような感覚で、平然とヒトの血統を管理し、目的に沿って操作する。狂気の成せる所業と言う他無かった。

「その末に、私が生まれました。一族が受け継いできた血と殺意を歴代の誰よりも色濃く宿した――“人工的な殺人鬼”が、生まれてしまいました」

「……殺人鬼、ね。だが、俺と出逢った頃のお前は、そうじゃなかった。理性を持ち、会話が成立する、“人間”だった筈だ」

「……確かに、この世に生まれ落ちたその瞬間から、“そう”だった訳ではありません。私が小さな手に刀剣を握れる年齢になっても、“森谷”の血の大部分は未だ眠ったままでした。……或いは、無意識の内に押さえ込もうとしていたのかもしれません。自分の中の“それ”が目覚める事が何を意味するのか、魂が感じ取っていたのかもしれません。ですが、いずれにせよ無意味な抵抗でした。とある夏の始め、父上は私の血を活性化させるべく、私にある種の“修練”を課しました。そして、そして――その直後に起きた大きな一つの事件がトリガーとなって、私は、」

 幽鬼の如く青褪めた顔が、痛々しく強張ってゆく。それでも、何かしらの使命感からか、蘭は口を噤む事をしなかった。むしろ己の怯懦を咎めるように強く唇を噛み締めて、絞り出すように言葉を続ける。

「私は、三十七名の人間を、惨殺しました。無慈悲に、徹底的に。原型を留めない肉片と化すまで、斬り刻んだのです」

「……」

「そのおぞましき振舞いに、私の意志は介在していませんでした。私の肉体を動かしていたのは、数百年という歳月の中で練り上げられ、もはや一個人の手には負えない程の巨大さまで膨れ上がった“殺意”。あの時の私は、血に乗っ取られ、狂気に駆られて殺戮を繰り広げた私は――“森谷”と云う名の怪物に過ぎませんでした」

 鮮明に蘇るのは、血と肉と死が乱舞する地獄絵図と、その渦中にて踊る漆黒の怪物。

『ころさなきゃ』

 蘭の言うトリガーとは、俺が新田の振るうナイフによって命の危機に晒された瞬間を指しているのだろう。あの時、蘭は俺を助けたいと願い、身体を戒める鎖から脱するための力を切実に求めた。その願いに応えたのは、神の奇跡でも正義のヒーローでもなく――蘭の中にて眠りに就いていた、凶悪無比の怪物だった。斯くして一つの血が目覚め、数多の血が撒き散らされた訳だ。恐らくは、その直前に起きた、両親の死という悲劇もまた、覚醒の切っ掛けとなったのだろう。こうして真相を知った上で森谷成定の言動及び行動を振り返ってみれば――あの男は、その結果を見越した上で、蘭の精神を揺さぶるため、敢えて自らの肉体を斬り刻むという狂気的な振る舞いに及んだように思える。

『……私は、不甲斐ない親だ。地位も財産も、形あるものは何一つ、愛する娘に遺してやる事が出来なかった。だからこそ、私に遺せるものは余す所なく全てを遺してやりたいんだ。貧しい食事にも文句一つ言わず、“立派な武士になりたい”と、“父上や母上のようになりたい”と笑顔で言ってくれたあの子のために、私は、森谷成定という武人が生涯にて培ってきた総てを伝えてやりたいんだよ』

 かつて、慈愛の表情で紡がれた言葉は――少なくとも当人にとっては、紛れもない本物だったのだろう。蘭の中に眠る“究極の殺意バケモノ”を呼び覚ます事こそが、森谷成定が愛娘へと遺す最後のプレゼント。そして自らの妻に自害を命じ、惨たらしく己の四肢を切り落とし、両の目を抉りながら紡いだ今際の言葉こそ、彼が武人として娘に伝えるべき総てであった。

 ……。

 ……要は、価値観の違い、なのだろう。人の目に映る世界は、各々の主観によってその在り方を自在に変える。狂気の世界に生きる人間にとっては、狂気こそが紛れもない正常なのだ。故に正気の世界に生きる俺の目からはありとあらゆる手順が狂って見えながらも、動かぬ真実として、彼が娘に注ぐ愛に偽りは無かった。森谷一家の絆について、断言出来る程に多くを知っている訳ではないが――きっと、そういう事だったのだろう。

「そして、全ての“敵”を斬り捨て、漸く正気を取り戻した私は――絶望しました。律する事の能わない怪物が自分の中に棲んでいる事実。誰よりも深く敬愛していた両親を、自分の無思慮な行動が死に追い遣った事実。ただただ災厄を振り撒き、周囲を破滅させ、大好きな人達を殺す事しか出来ない自分に、生まれてきた意味は無い。そんな、弱い心で受け止めるには巨大過ぎる数多の絶望から自らを守るために、私の脳が無意識の内に選んだのは、“忘却”、でした。心に刻まれた爪痕を苛む耐え難い激痛を消し去るため、そして目覚めてしまった怪物を再び自身の奥底に封じるため。私は、全てを。ありとあらゆる記憶を、忘却の彼方に追い遣りました」

「……」

 あらゆる記憶。両親との思い出も、俺や忠勝との記憶も、残酷な現実も――全てから目を背けてでも、ヒトとしての己を保つ。その結果が、あの廃人に限りなく近い蘭の姿だったのだろう。

「そこから先は、ご存知の事かと思います。血が目覚める以前と同様、“殺意”の大部分を内に封じたまま、私は十年間の年月を過ごしてきました。そして今――私は、此処に居ます。全ての記憶を取り戻す事で同時に血の封印が解けた、人工の殺人鬼として。森谷一族の妄執が作り上げた、殺意の結晶として。それが、私にお話し出来る、森谷蘭の全てです」

 殊更に感情を排した声音で淡々と締め括って、蘭は唇を結んだ。

 ……成程、途方も無い話だ。戦国の世から現代に至るまでの膨大な年月と、その中で数百数千に及ぶ血族達が育み、受け継いできた想い。祈り、願い。人の身で推し量るにはあまりにも巨大な歴史の重みを、生まれながらに背負わされた宿命の子――それが森谷蘭という少女の正体だった、と。

 何ともまあ、滑稽な程に大仰で、現実味というものが不足した、それこそ法螺話と謗られても仕方の無いような蘭の告白を――しかしどうして、疑えるだろうか。胸中を駆け巡る想念を必死に押し殺して、細い肩を震わせながら懸命に語る言葉に、疑義を差し挟む余地などない。全く以ってありはしない、が。

「……全て、ね。そんな事はないだろうに」

「……」

 そう、蘭の語った内容は紛れもなく真実なのだろう。但し、致命的に言葉が不足した、という前置きが必要だ。兎にも角にも説明不足にも程がある。ただそれだけの情報では――断を下すには、到らない。携えた刃を鞘より放ち、白い首筋へと向けて振り下ろすには、未だ俺の側に動機が不足している。故にこそ、俺は蘭の傍に立ったまま、続けて口を開いた。

「お前の話の一切合財を、余すところなく真実だと仮定したとして。お前の中に眠っていた“血”とやらが目覚めてしまったとして。狂気に駆られて意思とは無関係に殺戮を振り撒く殺人鬼と化してしまったのだとして――ならば、今ここで俺と話している“お前”は、何だ? 俺の目が悪いのか、随分としょぼくれた顔をした“人間”が一匹、居るだけに見えるがな」

「……件の殺人鬼は、もはや私という個人とは切り離された、一個の人格に等しいものです。二十四時間、常に表に出ている訳ではありません。ですが、何かしらの切っ掛けがあれば――今すぐにでも、活動を開始するでしょう。そうなってしまえば、周囲の生あるもの全てを殺し尽くすまで、止まりません。辛うじて抑え込めたとしても、長くは保たないかと。今の私は、云わばいつ爆発しても不思議は無い爆弾も同然なのです。証左として私は、あと一歩のところで“彼女達”を斬り捨ててしまう所でした。そのおぞましき姿のほどは、ご覧になっていた筈です」

 クリスティアーネ・フリードリヒ。マルギッテ・エーベルバッハ。そして、明智音子。直前に第三者による妨害が入らなければ、まず間違いなく殺意の凶刃に引き裂かれていたであろう彼女達の事を、蘭は言っているのだろう。俺を見遣る眼差しに力を込めながら、蘭は言葉を続けた。

「もはや私は、天下に、人の世に何ら益する所ない凶刃と成り果てました。呼吸が一つ続く事で、罪も無い人々を脅かしているも同然の、災禍そのものと蔑むべき存在なのです。根絶すべき“悪”と言うならば、私の存在こそがその呼称に相応しい。故に、私は速やかなる死をこそ願います。尊き平穏を無為に脅かしながらの生存を、私は望みません。――どうか、死を。果断なる一刀を以って、命脈と共にこの身を苛む呪いを断ち切って頂けますよう、森谷蘭、伏して願い申し上げます」

 切々たる感情を込めて俺へと訴えながら、蘭は平伏する。泥土に額を擦り付けながら、断頭の一閃を懇願する。人生の中で幾度も幾度も見た森谷蘭の平伏姿の中で、これほど強く心に訴え掛けてくるものはかつて無かっただろう。その事実がひたすらやり切れず、苦々しく、そして――何よりも、腹立たしい。

「蘭。お前……」

「……はっ」

「俺を馬鹿にしているのか?」

「はっ?」

 弾かれたように泥まみれの顔を上げる。ポカンと開いた口と相俟って、何とも言えない間抜け面だった。今に至るまで必死で保ち続けてきたのであろう凛々しい態度も、これで台無しである。

 全く、柄にもない腹芸を無理に続けようとするからこうして無様を晒すのだ。お前のように性根から馬鹿正直な人間がどれほど頑張って嘘を吐いたところで、俺のような嘘吐きの目を欺く事など不可能に決まっているだろうに。

「なるほど、なるほど。これまでのやたら長ったらしい自分語りを要約すると、だ。つまるところ自分の存在が人々の安全を脅かすから、今すぐ問答無用で首を刎ねて欲しい、と。お前はそう言いたい訳だな?」

 身体を屈め、真正面から顔を覗き込みながら訊いてやると、蘭は気圧されたように首を竦めながら頷いた。

「は、はい。先にも申し上げた通り、私が生きている限り誰かが犠牲に――」

「だったら。お前は何故、俺を待っていたんだ」

「――っ」

「世の為、人の為。ああ、大層ご立派な信念だ。拍手の一つでも贈ってやるよ。……で? だったら何故、まだお前は生きているんだ? 自分で自分の命を絶つ方法なんざ幾らでもある。今のご時世なら、特にな。誰にも迷惑を掛ける事無く、そして武士らしく死にたかったという拘りならば、自刃でもすれば済む話だ」

「――、それは、介しゃ――」

「まさか介錯が無ければ腹が切れないとでも? いやいや、俺の知る森谷蘭ならば、よもやそんな腑抜けた事は言わないだろうさ。自分なら、例えどれほどの苦痛を伴おうが見事掻っ捌いてみせる――いつだったか、歴史小説片手にそう息巻いていたのを俺は知っているからな」

「……う、うぅ」

「何だ、もう反論は終わりか? 呆気ないにも程があるな。今までやり合ってきた議論相手の中でぶっちぎりの最弱間違いなしだ。せっかく用意していた言弾コトダマも、大量に余ってしまった。もう少しくらい難易度を上げてくれても良かったんだぞ、蘭」

「……、…………………………………………ふ、ふふっ」

 
 遂に堪え切れなくなったように、蘭は不意に真面目くさった表情を崩した。

 喉の奥から小さく笑い声を零しながら身体を起こして、俺の顔を見上げる。口元には、日向に咲く蒲公英を思わせる、柔らかい笑みが浮かんでいた。


「――シンちゃんは、本当に変わらないですね。すごく逞しくなって、喋り方も変わったけれど、目に見えないところはみんな、昔とおんなじ。とっても賢くて、とってもイジワルです」


 無闇やたらと堅苦しかった言葉遣いも同時に崩れて、あたかも十年前にタイムスリップしたかのような錯覚を抱かせる。幾多の言葉を既に交わしたと言えども、忘れ難い幼馴染たる森谷蘭と本当の意味で再会を果たす事が出来たのは、まさしく今この瞬間なのだと俺は悟った。

「ふん。やっと分相応な喋り方をするようになったじゃないか、蘭。やはりお前の残念極まりない知能レベルを考えれば、それくらい馬鹿っぽい感じの方が相応しいな」

「むぅ、馬鹿じゃありません! 私、成績ではシンちゃんとそれほど差はない筈ですよ!」

「学校の成績なんざで人間の知的能力を判断してる辺り、いかにも思考の浅さを露呈してるな。いいか蘭、馬鹿ってのは馬鹿だから馬鹿なんだ。そこに真っ当な理屈及び成績簿の関与する余地は一片たりとも存在しない。それは真理であり、何者を以ってしても覆し難い現実なのさ。素直に自分というものを受け入れてやれ、自己否定は何も生み出さないんだからな。己の中の受け入れ難い部分と真摯に向かい合い、承認する事から全ては始まるんだ」

「な、なるほど……。って騙されません、騙されませんよっ! ホントにもう、シンちゃんは相変わらず油断も隙もありませんっ」

 ぷんすかと頬を膨らませながら立腹している姿は、幼い頃ならともかく、高校二年生にもなった少女のそれとしては些かばかり残念過ぎた。感情に任せて俺のさりげない助言を完全に聞き流してしまっている辺り、漂う残念さは十割増しだ。まあ、こいつには少しばかり難しすぎたか。反省し、次の機会に活かすとしよう。学習能力こそ人類種の獲得した最大の武器なのだから。

「……ふふ。やっぱり、変わらない。シンちゃんは昔から智慧が深くて、機転が利いて、口が巧くて……黒田如水や太原雪斎みたい、って言うといつも不機嫌そうな顔をしてましたけど、私、ホントに心の底から褒めてたんですよ。この人はきっと将来、私なんかよりもずっとずっと大きな事を成し遂げるんだろうな、って、そんな風に思ってました。私には見えないような景色を高いところから広く見渡して、どんな時でも自分が損をしないよう上手に立ち回って、どんな道でも躓かずに歩いていける人なんだって」

「……」

「だから、だからこそ――私は、赦せないんです。シンちゃんから全ての可能性を奪ってしまった、私自身が」

 蘭は居住まいを正して、俺を見た。漆黒の瞳には、溢れ出んばかりの後悔と苦悩が渦巻いていた。

「あの時、私が逃げ出しさえしなければ。絶望に打ちひしがれて、自分の血と向き合う事を恐れて、全てを忘れ去ってしまいさえしなければ、シンちゃんが“魔王”を演じる事もなかった。私のせいで、シンちゃんは闘って、傷だらけになりながら闘い続けて――私はそれを、ずっと見てきました」

 あっという間に涙が溢れて、青白い頬を伝っていく。それでも蘭は俺から眼を逸らす事無く、涙声になりながら言葉を紡いだ。

「知ってるんです。私は誰よりも知ってるんですっ! シンちゃんはいつも必死でした。平気だ、俺を侮るな、って強がりながら、いつだって必死に闘ってました。何年も何年も、ずっと、ずっと、弱音の一つも吐かずに。何度も何度も死んじゃいそうな大怪我をして、それなのに、“平気だ”って。“お前の主君がこの程度で斃れると思うか?”って!」

 そう、俺は“織田信長”として、強く在らなければならなかった。英雄の名を騙り、覇者たる人格を演じてみせた以上、何事が起ころうと、弱々しい背中を従者の目に触れさせる訳にはいかなかった。森谷蘭という少女が胸中に抱く虚像を砕かない為に、俺は絶えず心を砕き続けていた。

「そして今だって、シンちゃんは闘ってます。“魔王”なんて呼ばれて、皆に恐れられて――ぜんぶ、私のせいで。なのに、自分の弱さがシンちゃんに無理をさせていた事にも気付かずに――私、幸せでした。幸せだったんです。“私の主は素晴らしい御人だ、こんな大器に仕えられる私は果報者だ”って! 何も知らないままに、何も見ようとしないままに、ただ盲目的に忠義を尽くして満足していたんです」

「……」

「記憶を失っていた事なんて、言い訳になりません。私は自分の醜さに、犯した罪に耐えられない。この手でシンちゃんを光の差さない修羅道に引き摺り込んでおきながら、自分では主の後を忠実に付き従っていたつもりでいたなんて――なんて、醜悪。断じて、赦されない罪悪です。だからこそ、私は、自決を選ぶより、シンちゃんの手で決着を付けて欲しかったんです」

 静かな口調で言い終えると同時、蘭は縋るように両腕を伸ばし、弱々しい力で俺の肩を掴んだ。これまでよりも格段に近い距離で、俺達の視線が交錯する。蘭は留まることのない大粒の涙を流しながら、切実な感情を悲鳴のような叫びに載せて、俺へと訴え掛けた。


「私は、私はっ、シンちゃんに纏わり付く呪いです! もうこれ以上、シンちゃんの人生を狂わせる事には耐えられないっ! だから、だから、どうか断ち切ってください! シンちゃんを縛り付ける私の存在を――この呪われた命ごと、永遠とわにッ!!」


 哀切に満ちた嘆願の叫びが、嵐を切り裂いて響き渡る。

 それは、森谷蘭という少女の心の底から絞り出された真なる想い。一切の建前と虚飾を取り払った、本心の叫びだ。ただ、申し訳ないと。自分が許せないと。他の誰でもなく、ただ俺一人へと向けられた、どこまでも純粋な懺悔。その贖罪の為ならば、自らの命を捨てる事に躊躇いは無いと、蘭は告げる。


――そうか。それが、お前の本音か、蘭。


 森谷蘭が昔日の記憶を取り戻しているという確信を抱いた瞬間から、ずっと考え続けてきた。この不出来な脳細胞を全力で酷使して、幾度となく自らに問い続けてきた。蘭は今、何を考えているだろうか。何を想い、何を願いながら冷たい雨に打たれているのだろうか、と。結局、こうして本人の口から聞き出すまで、答えを出す事は出来なかった。だから――俺は、この刀を。血の匂いが薫る不吉な太刀を態々佩いて、此処まで来たのだ。蘭の告げる“答”次第では、白銀の刃を血で彩る覚悟を決めて。二度とは癒えないであろう心の傷を、新たにこの胸へと刻み付ける覚悟を決めて。


――蘭。それがお前の“答”だと云うならば。


 俺はお前に、言わなければならない事がある。

 悲愴な覚悟と決意を宿した双眸を、真っ向から見返して、俺はゆっくりと口を開いた。


「いいか。俺達共通の親愛なる友こと源忠勝にあやかって、俺から一つ、言わせて貰う」


 ああ、畜生。やはりお前は途方も無い大馬鹿野郎だ、蘭。

 予め用意していた幾千幾万の言弾コトダマの中でも、この台詞だけは使う気が更々無かったというのに。

 心の中で盛大に毒づく。そして、不思議そうにこちらを見返してくる間抜け面に向かって、俺は言い放った。


「――勘違いするなよ●●●●●●●、蘭」


「……え?」

 またしてもポカンとした間抜け面を晒しながら、蘭は心底から不思議そうに小首を傾げた。

「かん、ちがい……?」

 鸚鵡返しに呟く蘭は、一体何を言っているのか分からない、とその表情で雄弁に語っている。

 案の定と言うべき反応に、俺は胸中に渦巻く色々な感情を込めて、大きく溜息を吐き出した。果たして今の俺の心境をどのように説明すれば良いのだろうか。口舌には人並み以上の自信を持っている俺だが、しかし今回ばかりは上手く言葉に出して表現できる気がしない。それでも強いて言うならば、毛玉の如く絡まり合った幾つもの想念が、同時進行で胸にせり上がってきているような――まあやはり面倒なので恐ろしく端的に言ってしまおう。つまりは複雑な気分、という事だ。

「お前は俺の事を変わらない、と評したが。そっくりそのまま返させてもらうぞ、蘭。……お前という奴は、本当の本当に、変わっちゃいないんだな。喜べばいいのか呆れればいいのか、俺にはいまいち判断が付かないが」

「えっと……、シンちゃん、何を……?」

「その思い込みの激しさと、融通の効かなさ。他人を疑わず――この世の誰もが自分と同じように善人だと、頑なに信じている所。ああ、全てが嫌になるくらい同じだ。さっきの会話で、俺は確信したよ」

 三つ子の魂百まで、という諺の真実味をこれほどまでに強く実感したのは初めてだ。

 理解が追いつかない様子で戸惑った表情を向けてくる蘭を、苛立ちと共に見返す。

「蘭。お前が何を思い込もうとお前の勝手だが――お前の勝手な思い込みを前提に話を進めようとするのはやめろ。最初から相手との認識が噛み合っていないんじゃ、それは会話以前の問題だ」

「思い込み、って、何が……」

「分からないか? 分からないんだろうな。お前はそういう奴だ。だったらもうこの際、はっきり言ってやるよ、蘭」

 ああ、これだから察しが悪い輩の相手はやってられない。お前がいつまで経っても自分で気付かないから、こんな胸糞悪い言葉を俺がわざわざ口にする羽目になるんだ。込み上げる感情を視線に載せて、厳しい声音と共に鋭く睨み据える。たじろいた様に顔を引く蘭に向けて、俺は“その一言”を撃ち放った。


「――悲劇のヒロイン気取ってんじゃねぇよ、この脳内花畑の大馬鹿野郎が」

「…………え?」


 よほど予想外の一言だったのだろう。蘭の表情が凍り付いて、そのまま動かなくなる。

 自分でも自覚できる程に冷たい目で蘭を見据えて、俺は尚も言葉を続けた。

「さっきから黙って聞いていれば、自分の都合で脚色された妄想を好き勝手に撒き散らしやがって」

「もう、そう?」

「ああそうさ。お前が言いたいのはつまりこういう事だろう? とある少年が一人の少女を救う為に己の全てを投げ出し、日の当たる道に敢えて背を向け、良心を押し殺して冷酷非情の魔王を演じ、己が意に沿わない悪行の数々に心を痛めながらも、襲い掛かるあらゆる困難を少女への想いだけで乗り越えて地獄の日々を駆け抜けてきた――と。誰にも知られない所で紡がれる、美しい自己犠牲の物語。悲しい英雄譚。それこそお前が脳裡に思い描いたシナリオだ。違うか?」

「だって……だって、そうじゃないですか! シンちゃんはずっと、私のせいで――」

「勘違いするなと、何度言わせる気だ? 俺という人間はな、お前が思っているほど善良でもなければ、主人公気質でもないんだ。大層な仮面を被って演じるまでもなく、俺の本質はどうしようもなく悪党なんだよ。“自己犠牲”がテーマのお涙頂戴なストーリーなんざ、俺の管轄外もいいところだ。……いいか蘭、全てにおける大前提として、これだけはハッキリと断言させて貰う」

「……何を」

「俺はいつでも、俺自身の為に行動している。俺の世界は二十四時間年中無休で、俺を中心に回っている。これは自虐でも偽悪でも何でもなく、極めて客観的な自己分析だ」

 故に、森谷蘭が盛大に綴ってみせた物語は、根底からして破綻している。それも当然、最も重要な部分である主人公の性格を取り違えているのだから、正しい脚本を作り上げる事など不可能だ。そんなザマでは――執筆の末に出来上がる物語のジャンルすら違ってしまう。

 そう、俺の物語は、勇壮な英雄譚でもお涙頂戴のトラデジーでもない。その主題はあくまでも怨恨塗れの復讐譚であり、鮮血が彩るピカレスクだ。無論、それは役者として嫌々ながらに演じている訳ではなく。俺自らが監督し、自分の意志に拠って紡ぎ上げているストーリーラインに他ならない。

「なあ、蘭。俺が常日頃から口癖のように語り、目標として掲げてきた“夢”を、今のお前はどう思う? 全ては俺が万人のイメージする“織田信長”らしく振舞う為の方便に過ぎなかったと、本気でそう思うのか? ――まさか、そんな事はないだろう」

 いかに森谷蘭という少女が頑なに性善説を信奉していたとしても、これほど多くの時間を共に過ごしてきた人間の本質に気付かない道理はないのだから。蘭は確かに単純で騙され易い馬鹿だが、しかしそれは愚昧である事と同義ではない。本当は、心の何処かで気付いていた筈なのだ。自身を取り巻く現実が、己の思い描いた物語ほど美しいものではないという事実に。

「……シンちゃんが何を言いたいのか、私には、分かりません」

 それでも、困惑を貼り付けた表情で物問いたげにこちらを窺うのは、真実から眼を逸らそうという無意識が働いた結果なのか。

「そう、か」

 だとすれば。俺が次に発する言葉は疑いなく、一つの境界線を敷くものとなるだろう。夢想と現実とを冷徹に区切り、あらゆる虚飾を無理矢理に剥ぎ取る、決定的な一手。それを放つには、いかなる死闘に臨むよりも遥かに重大な覚悟を要する。今すぐ蘭に背を向けて、この場から逃げ出してしまいたいという衝動に駆られるが――現在に至るまでに積み重ねてきた全てに懸けて、然様な振る舞いは許されない。

「なら、俺はお前に、言わなければならない」

 さあ、ありったけの勇気を振り絞って、最初の一歩を踏み出せ。

 誤って記され続けてきた“織田信長”の物語を白紙に戻し、誰のものでもない、俺と彼女の物語を、始める為に。


「俺は――お前を利用したんだ●●●●●●●●●、蘭」


「十年前、無力な子供だった俺が朝比奈組の暴虐に抗い、自分の居場所を勝ち取る為には、“力”が必要だった。故に俺は記憶を喪った森谷蘭に“織田信長”として接触し――そして見事、忠実にして強力無比な“駒”を一つ、掌中に収める事に成功した。脆弱なこの身を守護する刃のお陰で、俺はあの地獄の日々を生き永らえた」

「だが、単に生き残るだけでは飽き足らない。何せ俺が求めるものは平穏無事な日常ではなく、闘争と勝利、その先に在る征服と支配だ。その為には、問答無用に敵対者を排除し得る武力が必要不可欠だった。全ての才を威圧という特殊技能に吸い取られ、氣を纏う術を持たない弱者たる俺だが、しかし案ずる必要は無い。常に俺の手足として勤勉に働き、非情の刃として敵を討つ“忠臣”が、俺の手元には居たからな。いつだって実に有能で得難い駒だったよ、お前は」

 
 俺が口にしている言は、鼻持ちならない自虐でも自慰に等しい偽悪でもなく――紛れもない、真実を語るものだ。そこには何一つとして、嘘偽りの類は含まれていなかった。


「俺は自分が生き残る為に、自分の野望を実現させる為に、自らの意志で“織田信長”を演じる事を選択し、結果としてお前を利用した。何も知らない、真っ白な状態のお前に忠誠心を植え付け、思うがままに動く手足として利用しながら、この十年間を過ごしてきた」

 エゴに塗れた真相の暴露を受けて、蘭は依然として沈黙を守っていた。

 その表情には、在って然るべき怒りも悲しみも戸惑いもない。じっとこちらを見遣る双眸は、ひたすらに純粋な真摯さに充たされていた。傍目には場違いに映るであろう蘭の静謐な態度を前にして、ああ、やはりこいつは肝心要のところでは聡い人間なのだな、と再認識しながら、俺は言葉を重ねた。

「それが、真実。いや、正しくは――」

「真実の一側面、ですね」

 俺の言葉を最後まで聞き終える事無く、蘭は一足先に結論を指摘した。そしてそれが可能であるという事はつまり、当然の如く、蘭は俺の言わんとする所に気付いていると言う事だ。

 その事実を証明するように、蘭は生真面目な表情のまま、静かに、淀みの無い口調で言葉を続けた。

「シンちゃんは二兎を追い、二兎を仕留めた。一石を以って二鳥を落とした。そういう事、なんですよね?」

「――その通りだ」

 森谷蘭という掛け替えのない幼馴染をこの手で救いたいという願い。どこまでも生き延びて、畜生共の暴虐に抗い、驕り昂ぶった連中を一人残らず足元に跪かせてやりたいという願い。そのいずれもが等しく、俺という我欲に塗れた人間の中に在る真実だ。誰の為でもない――“俺自身の為に”、俺は織田信長の仮面を被り、困難に充ちた日々を歩み続けてきた。誰に強制された訳でもなく、背中を押された訳でもなく。暗闇の荒野へ最初の一歩を踏み出したのは、あくまでも俺自身の意志に拠るものだ。

「だから、お前の言うところの“自己犠牲”とやらは、俺には全く以って当て嵌まらない。何故なら、結局のところ、俺が過去に実行してきたありとあらゆる行動は、全て俺自身へと利益が還元される事を意図したものだからだ。お前の言っている事は的外れもいいところなんだよ。手前勝手な視点から哀れまれ、同情されると腹が立って仕方がない。他ならぬ自分の意志で選び取り、自分の意志で歩いてきた道に――女々しい後悔など、伴う筈も無いだろうに。いいか、もう自分でも分かってる事だとは思うが、それでもだ。これから俺の言う事を確り聞いて、頭蓋の裏側にでも刻み付けておけ」

 双眸に力を込めて、蘭と視線を合わせる。

 大きく息を吸い込み、心からの想念を込めて、俺は言葉を放った。


「勘違いするなよ、蘭。お前は俺の人生を狂わせてなんかいない。お前は、俺にとっての呪いなんかじゃない。だから、俺は何があろうと、誰に命令されようと、お前を――殺してやったりはしない」


 むしろ、逆だ。独り悲劇のヒロイン気分に浸ったまま美しく散ろうなどというふざけた了見は、断固として阻止させて貰おう。然様に下らない理由で命を散らせてやってもいいと認められるほど、俺の中を占める森谷蘭のウェイトは軽くない。故に俺は悪党らしい身勝手さと傲慢さを以って、この莫迦な幼馴染が莫迦な真似をしでかさないよう、相応しい振舞いを選ぶだけだ。


「…………」


 俺の宣言を受けて、蘭はしばらく俯いたまま無言を保っていた。

 やがて顔を上げ、どこか諦めたような、どこか清々としたような、そんな種類の笑顔を浮かべると、大切なものを両掌でそっと優しく包み込むような、酷く柔らかい声音で言葉を紡ぐ。


「……シンちゃんは、やっぱりシンちゃんなんですね。ホントにイジワルで、ホントのホントに――優しいひと」

「…………」


 この場合蘭の立場から考えれば、最も楽に、最も綺麗に終われるであろう選択肢を選ばせて貰えていないのだから、最適な表現としては“自分勝手な人”或いは“容赦ない人”辺りが候補として挙がる筈なのだが。それを言うに事欠いて、“優しい”とはどういう事だろうか。全く以って意味が分からなかった。やはり蘭の感覚というものは少なからず常人のそれとズレているに違いない。

 ……。

 まあ、いまいち理解の及ばない蘭の思考回路についてはこの際、脇に置こう。今この瞬間に重要な事は、長きに渡って俺と蘭の間に横たわっていた巨大な障害――すなわち勘違いと思い込みによる認識の食い違いが消失したという事実、それに尽きるだろう。蘭の認識の中にて、“織田信長”の虚像は既に取り払われ、些か偏った“俺”の人物像は修正された。そして同時に蘭の心中からは、俺に対する筋違いな罪悪感から生じた引け目が失われた筈。過去に誤って積み重ねられてきた数々の問題が解消された以上、後は現在の問題へと全力で立ち向かうのみだ。

 そうだ――今この瞬間こそは、余分なプラスもマイナスも介在しない、“ゼロ”なのだ。俺と蘭が長い長い回り道の末にようやく辿り着いた、全ての始まりとなるスタートライン。先程まで間違いなく俺達の間に存在していた絶望的な距離は、既に見る影も無く縮まっている。手を伸ばせば触れ合えるし、言葉を交わす事も出来る。心を以って訴えれば、心を打つ事すら可能だろう。

 故に。俺にとって真の正念場とは、ここからだ。この嵐吹き荒ぶ戦場の只中に在って俺の成し遂げるべき戦略目標は、最初から一つ。すなわち、森谷蘭をどうにかする●●●●●●●●●●こと。何ともアバウトな戦略目標だ、とあの生意気盛りの従者第二号には明に暗に色々と当てこすられたものだが、そこは何と言っても百戦錬磨の織田信長、高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処する事であらゆる事態を乗り切る心積もりであった。行き当たりばったりなぞと抜かす輩にはありったけの殺気をプレゼントしてやる。


「さて、と」


 それではいざ、前言に従い――機に臨み、変に応じてみるとしようか。現在の蘭が如何なる境遇にあり、如何なる精神状態にあるのか、対話を通じて実に多くの事項を把握することが出来た。

 既に俺の腹中には無数の言葉が渦巻き、そのどれもこれもが、次は自分を使え、と競り合うようにして訴えている。胸中には沸々と滾る想念が満ち溢れ、今にも爆発しそうな程に湧き立っている。それらが生み出す抗い難い衝動に背中を押されるようにして、俺は口を開いた。

「お前の悪癖から来る馬鹿馬鹿しい勘違いは無事に解けた訳だが。――まだ、死にたい気分は変わらないか? 蘭」

「……。確かに、これまでのシンちゃんの人生に対して自責の念を抱く必要がない、って事は分かりました。……ですけど、“これから”はまた別の話です。実際のところ、状況は何も変わっていません。私が何を思っても、私の中から“森谷”の血が消えてなくなる訳じゃないんですから」

 儚げに微笑みながら、蘭は諦観に充ちた言葉を紡ぐ。

「さっきシンちゃんに言った事は、ぜんぶ、本当の事です。私は、触れるものを皆傷付けることしか出来ない刃に成り果ててまで、命を永らえたくはありません。大切な人と手を繋いで、温もりを感じる事も出来ないままに独りで生きていくなんて――私には、耐えられないんです。私は、弱い人間だから」

「……」

「シンちゃんが終わらせてくれないなら、私は、自分で幕を引こうと思います。これ以上、誰かを傷付けてしまわない内に。これ以上、無辜の人々の血を浴びてしまわない内に」

 そう言って、蘭は視線を落とし、白地の制服の各所に浮かび上がる赤黒い斑模様を見遣った。罪悪感と諦念に潤む眼差しから判断すれば、それは蘭自身の負傷から生じた汚れではなく――返り血、なのだろう。

「幸いにして、川神学園から脱走して以降、私はまだ誰も“殺し”てはいません。辛うじて、本当に辛うじてですが、致命的な段階に至る前に血を抑えられてきました。ですけど、それが適わなくなるのも時間の問題。私、分かるんです。私の中に居るもう一人の自分が、少しずつ、力を増している事が。きっとそう遠くない未来に、“私”は“彼女”に塗り潰されてしまう。血に餓えて死を撒き散らすだけの怪物に、成り果ててしまう。だから――そうなる前に、私は己が身を貫こうと決めました。現世に在るべきではない悪鬼、森谷の亡霊を道連れに」

「……自刃、か。考えは、変わらないんだな」

「どうしようも、ないことですから。仕方が無いと、己が運命を受け入れます。……勝手な言葉かもしれませんけど、私、嬉しかったです。シンちゃんが、こうして駆け付けてくれて。独り地獄への旅路に向かう前に、もう一度、ここでこうしてシンちゃんとお話できて。シンちゃんのお陰で――私は、笑って逝けると思います」

 自らを縛る全ての頚木から解き放たれたように、清々しい表情を浮かべて見せながら、蘭は淀みなく言い放った。

 潔い、と人は言うのだろう。或いは武家の出身者であれば、その覚悟よ天晴れ、汝こそ武士の鑑、武門の誉れよ――とでも讃えるのかもしれない。武士道とは死ぬ事と見つけたり。死すべき時が訪れたならば、無様に生き足掻く事無く死を選ぶ。成程、立派な在り方だ。喝采の一つでも贈るべき、まさしく武士の生き様だ。


――だが、残念だったな、蘭。


 生憎と俺は、そんな結末を認めない。美しき死別を認めない。然様な悲劇の一幕は、俺の物語には二度と必要のないものだ。そう何度も何度も悲劇ばかりが繰り返されては、観客達にも飽きが来る。シェイクスピアもアイスキュロスも、俺の趣味とは程遠い。

 どれほど惨めに地を這い蹲ってでも、生きる。生きて生きて生き抜いて、闘って闘って闘い抜いて、その果てに望んだ全てをこの手に収める。それが俺の信念だ。武士に非ざる俺が、特殊な血統も受け継ぐべき使命も持たずして生まれ落ちた薄汚い餓鬼が、幼き頃より胸中で育んできた餓狼の如き想念だ。


――故に。俺は俺の主義に従って、力の限り、足掻かせて貰う。


 軽く唇の裏側を舐めて、湿らせる。それは、一つのスイッチだ。俺が本気で弁舌を振るうべきだと判断を下した際、半ば意識とは無関係に行われる儀式のようなもの。その瞬間を切っ掛けにして、熱い感覚が一気に心身へと満ち渡る。この時を待っていたとばかりに、全身の細胞が沸き立っている。

 
 さあ、今こそ、織田信長と森谷蘭の物語を。


――俺と彼女の天下布武ピカレスク・ロマンを、開演しはじめよう。



「蘭……、俺は今、怒っている。具体的にはどの程度の怒りかと言えば、そうだな。一歩間違うとすぐさま理性のタガが吹き飛んで殺気が暴発しそうな位に、ってな訳だが、さてさてお前にはそれが何故だか分かるか?」

「え、え……? あの、えっと」

 突然の詰問に面食らったのか、蘭は眼を白黒させている。悠長に答えを待ってやる気など皆無だったので、俺は畳み掛けるようにしてさっさと言葉を継いだ。

「理由は主に二つ。一つ、俺がこの世で嫌いな言葉ランキングトップ3に入る言葉を、お前が考えなしに口にしやがったからだ。“仕方が無い”“どうしようもない”――ああ、反吐が出るほど気に入らない言葉だよ。物事に対して最大限の努力を尽くし、ありとあらゆる手段を模索し、万策尽きた末の妥協として吐かれた言ならまだいいさ。俺もわざわざ目くじらを立てたりはしない。と言うより、そういう意味でなら俺自身も嫌気が差すほどに使わされた言葉だ」

 人間の有する能力に限界が設けられている以上、万事において何処かで折り合いを付けなくてはならないのは当然だ。しかし――

「だがな、お前の言う“仕方ない”は、諦めの産物だ。眼前の困難に対して満足に立ち向かう事もせず、ろくすっぽ試してもいない内から勝手に自分で自分の限界を決め付けて膝を折っている、救い難い腑抜けの戯言だ。潔いなどと褒めてやるかよ、そいつはもはや敵前逃亡だ。士道不覚悟で切腹ものだ」

 ちなみに鬼の副長こと土方歳三は俺の尊敬する人物の一人だ。別段ポエマーを目指すつもりは無いが。

「そんな……、私は、」

「そして二つ目。俺としてはこちらが何よりも腹立たしい」

 上がりかけた反論の声を抑え付ける様に低い声音を重ね、俺は真っ直ぐに蘭を見る。抉るように、射抜くように。色濃い困惑の映る瞳を見据えながら、静かに言葉を継いだ。

「お前、さっきから。どうして俺に――“助けて”と、そう言わないんだ」

「――っ」

「自分一人では手に負えない。成程、そうかもしれないな。しかし何故、それだけで諦める? お前は確かに莫迦で間抜けだが、全ての物事を自分一人で解決すべきだ、なぞと思い上がるほど愚かな人間じゃあない筈だがな。足りない力は、他者の手を借りて埋め合わせればいい。“介錯”とかいう時代錯誤で馬鹿げた真似事を殊勝な態度で願い奉るよりも先に、お前は俺に頼むべき事があった。そうじゃないのか、蘭」

「……それ、は」

 淡々と紡がれた糾弾に対して、蘭は言葉に詰まったように沈黙し、悄然と俯いた。

 そして、数秒の時を経て再び顔を上げた蘭は、悲痛に眉を歪めて、目元に涙を湛えながら、震える唇を開く。駄々っ子のような必死さに彩られた叫びが、公園に響き渡った。


「そんな、そんなのっ! これは、この呪いは、私が背負うべき宿命なんです! 生き残った最後の“森谷”である私が、独りで決着を付けなくちゃいけない問題なんですっ! そこにシンちゃんを巻き込んで、迷惑を掛けたくなかったから! “夢”に向かっていつでも一所懸命なシンちゃんに、これ以上の重荷を背負わせたくなんてなかったから、だから私はっ」

「――馬鹿野郎が」

 ああ、そうだろうさ。お前はどこまで行ってもそういう奴だ。他人を慮ってばかりの癖に、自分の行動が他者に及ぼす影響を碌に理解していない。自分の存在が他者にとってどれほどの価値を見出されるべきものか、恐ろしい程に無自覚だ。だから平気で無茶をするし、自分を犠牲にする事を厭わない。それは美徳の一つかもしれないが――少なくとも、俺にとっては、手放しで称えられるものではなかった。

「十年前にお前が記憶を喪った時、俺がどれほどの絶望と自己嫌悪に見舞われたか、少しは想像してみろ。お前は俺に二度までも、“あんな想い”を味合わせるつもりなのか?」

 想起するのは、一個人が負うには膨大に過ぎる感情が体内で暴れ回る、気が狂わんばかりの感覚。もしも忠勝が傍に居てくれなければ、俺は身を焦がす激情に耐えかねて、自分の頭蓋すらも打ち砕いていたかもしれない。この十年間を通じ、いかに己の精神を靭く鍛え上げてきたとしても……同じ体験は、二度と御免だ。

「迷惑だの、重荷だのと――いい加減、お前の勝手な価値観を俺に押し付けるのはやめろ。お前を喪う事に比べれば、“そんなもの”は瑣末事にも程がある。どれほど傍迷惑で重大極まりない問題を持ち込んでみた所で、俺の中の天秤は一ミリだって傾かないだろうさ」

「……どう、して」

「俺はな、お前が思っているよりは遥かに強欲な男なんだよ。欲しいと思ったものは必ず手に入れるし、手に入れたものが掌から零れ落ちる事には我慢ならない。降り掛かる理不尽にむざむざ屈して諦めるなんて事は、絶対にしない。それが俺の信念だからな」

 理不尽によって無造作に蹂躙された昔日の俺が、煮え滾るような憎悪と共に胸に抱いたのは――自らを虐げた全ての事物に対する復讐心。それは意志を持たず他者を貪り喰らう畜生共、そして憎むべきあらゆる理不尽を内包した忌々しい世界そのものに対する、巨大な憤怒の念だ。天を焦がして絶えず燃え盛る地獄の炎は、いつでも俺の内に在る。

「だから、俺はお前を殺さないし、見殺しにしない。宿命? 呪い? はっ、心の底から糞喰らえ、だな。自らを犠牲にしてでも道連れにするだと? 莫迦も休み休み言え。たかが大昔の狂人が見た夢の、しかもその残骸風情に過ぎないものが、今を生きるお前の価値とほんの僅かでも釣り合うものか。――いいか、宣言してやる。何があろうと一回切りしか言わないから、良く聞けよ」

「――っ!?」

 
 華奢な両肩を掴んで、顔を寄せた。互いの吐息を感じ、互いの瞳の中に自分の姿を見る。二人を隔てるものが間に何一つとして存在しない、限りなく近い距離。

 この身を駆り立て続けてきた想念の総てを視線と言葉の両者に載せて、俺はどこまでも明朗に、俺の“意志”を示した。


「俺は俺の全存在を懸けて、お前を俺のものにする●●●●●●●●●●。――もう、何処にも行くな。俺の傍に居ろ、蘭」


 ―――――。

 ―――。


「………………………」


 静寂。沈黙。十秒ほどの時間が過ぎ去っても、蘭からは何のリアクションも無かった。見れば、蘭は両目を一杯に見開き唇を半開きにした、まさしく呆然といった面持ちで固まっている。

「…………」

 俺はひとまず彫像じみて微動だにしない両肩から手を離し、再び数歩分の距離を取った。特に意味も無くジャングルジムに背中を預けて目を閉じると、深呼吸を一つ。ドクドクとやたらに煩い動悸を無理矢理に鎮めて、俺は次に発するべき言葉を脳内にて整理する。

 確りしろ、思春期のお子様よろしく感情に流されて好機を棒に振るつもりか、と秘かに自身を叱咤激励しつつ、気合を入れて目を見開く。尚も硬直を続けている蘭に向かって、俺は続くべき言葉を投げ掛けた。

「まあ勿論、言うまでもないだろうが。お前を俺の手元に置き続けようと考えるなら、立ち塞がる障害は数多い。“森谷”の怪物とやらを抑制する為の手立てを講じるのは勿論のこと、それ以外にも、お前が決闘中に首を落とし損なった例の金髪お嬢様の件で、独軍とは何かしらの交渉が必要になるだろう。戦闘か、説得か、はたまた取引か。手段はどうあれ、交渉相手があの親馬鹿中将殿じゃ、恐ろしく骨が折れる事だけは間違いないだろうな」

「……」

「それに、川神学園の敷地内で起こした不祥事である以上、今後も学園生として籍を置き続ける為には川神院との交渉が必要不可欠だ……が、まあこれに関しては大丈夫だろう。その件については、此処に来る前に川神鉄心と直接話して、一定の解決を見ている。まあ、流石に全くのお咎めなしとは行かないだろうから、何かしらのペナルティを受ける覚悟は必要になるがな」

「……」

「ああ、そして当然ながら、今現在俺達が堀之外全域を巻き込んで臨んでいる闘争を、勝利という形で決着させる事。これが全ての前提条件になる訳だ。……なんと、いざこうして整理してみれば、まさしく見渡す限り問題だらけだな。なるほどお前がさっさと死の安息に逃げ込みたくなる気持ちも分からなくはない。実際、大人しくお前を諦めた場合と比較して、俺の双肩に途轍もない負担が伸し掛かるのは誤魔化しようの無い事実だ。――良いだろう、それなら俺は、眼前の厳しい現実を余すところなく承知した上で、それでも一欠片の迷いも差し挟む事無く、お前にこう言おうじゃないか」

 
 腹の中で長きに渡って温められ、今か今かと出番を待っているのは、十年前には口にすることの適わなかった、一つの言葉。

 僅か一言に過ぎない“それ”を言い損ねてしまったが為に、俺は果たしてどれほどの苦痛と屈辱と後悔とを甘受する事になっただろうか。

 あの日、血涙と共に自らの無力を認め、プライドを捨ててでも英雄を騙る事を選んだ瞬間、俺と蘭は決定的に擦れ違ったのだ。擦れ違ったまま、ボタンを掛け違えたまま、織田信長と森谷蘭は十年間の歳月を共に過ごしてきた。それはいかなる拷問をも超える苦痛に満ちた、酷く辛い時間だった。俺ではなく、“織田信長”へと向けられる純真な忠誠心は、いつでも鋭利な刃へと変じて俺の心を切り刻んでいた。自業自得であるが故に尚更、その痛みは性質の悪いものとして俺を苛んだ。

 ……俺は、“織田信長”の如く、万人の認める英雄などではない。むしろその実態は、湖上の白鳥が如く水面下で必死に足掻き藻掻いて、やっとの思いで威厳に満ちた魔王の体裁を取り繕っている、道化の類に過ぎない。誰よりも俺自身が、嫌というほど自覚している。

 だが、それでも――俺は、一歩一歩、積み上げてきた。血みどろの死闘の中でも何気ない日常の中でも、一分一秒が過ぎ去る度に、絶対強者の虚像の内側に潜む自分自身を磨き続けてきたのだ。遥か彼方の“夢”へと至るため、そして同時に―― “君だけの英雄ヒーローになるために”。 敢えて俺の趣味とは掛け離れた小ッ恥ずかしい言い回しを使って形容するならば、まあ、そういう事だ。その忍耐、その努力、その研鑽、その精進の全てが、身と心と命とを削り取って育んできた可能性の種子が、漸く実を結ぶ時が訪れた。

 さあ、今こそ。苦々しく付き纏う過去と、現在まで引き摺ってきた因縁に、然るべき決着を与えよう。

 
 万感の想いを込めて――俺は、十年越しの啖呵を切る。


「――俺に任せろ●●●●●


 お前の身辺を取り巻く幾つもの問題は、遍くこの手で取り払おう。

 今の俺ならきっと、不可能ではない。畏れ多くも同姓同名な英雄サマの御力を借りることなく、俺自身が培ってきた力を以ってお前に手を差し伸べられる。


「あの夜に、この場所で。お前が俺を助けてくれたように」


 だから、今度こそ。遠い少年の日に抱いた、ちっぽけなプライド塗れのつまらない意地を、この現在に貫かせてもらうとしよう。


「今度は俺に、お前を助けさせてくれ――蘭」

 
 この胸に掲げる夢はいつでも、少女の眩い笑顔と共に在ったのだから。










 





 


 





 

 ずっと信長のターン(口先)。作者の脳内では某論破ゲーのノンストップ議論BGMがループ再生されていたとかいないとか。という事で、一話丸ごとオリキャラ同士の会話文という暴挙をしでかしてしまった事実に冷や汗を掻きながら、恐る恐る続きを投稿させて頂きました。二度とこんな真似はしないとネコの過去話の際にも言ってしまった手前、信憑性は欠片もないでしょうが、真剣マジで二度とこんな真似はしないのでご勘弁下さい……。ちなみに次回以降はちゃんと原作キャラが動きます。
 織田主従の歪な関係性や信長の色々と屈折した内面に関してはこれまでのストーリーの中で可能な限り詳細に描き出してきたつもりでいますが、やはり客観的に自作品を観るというのは難しい事(オリキャラが絡むと特に)なので、もし話の内容に少しでも理解し難い部分があったなら是非ともご指摘お願いします。何といっても、読者を置き去りに作者だけが独り理解している自己満足の物語ほどお寒いものはありません。作品と共にSS書きとしての成長を遂げる為にも、鴉天狗は忌憚ない指摘・批判・批評・その他ご意見等をいつでもお待ちしています。あ、勿論普通の感想もウェルカムですよ。作者のモチベーション維持の為にも、気が向いたなら気軽に書き込んでやって下さい。それでは、次回の更新で。



[13860] 俺と彼女の天下布武、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:b03aba84
Date: 2013/11/22 13:18
 気付いた時、少女は暗闇の中に居た。

 華奢で小柄な身体を覆うように取り囲むのは、一片の光も差し込まない暗黒。ひたすらに暗く、冷たい、深海の如き静寂の世界に、少女は独りで座り込んでいた。時間の感覚など最初から意識の内には存在せず、一体どれほどの時をそうして過ごしているのかも、判然としない。

 しかしそんな死の世界に在って、少女の心には悲哀の念も寂寞感も無かった。怒りも憎しみも喜びも、何一つとして感じてはいなかった。膝を抱えて座る少女の内面を埋め尽くしていたのは、虚無。そして、“己の存在には価値が無い”という、圧倒的なまでの諦念に充ちた確信のみ。理由すらも思い出せないままに、少女は自身の生そのものに対して絶望していた。誰の声も耳に届かず、誰の姿も瞳に映らない暗闇に深く沈み、このまま溶け消えていく事こそが自分に相応しい運命なのだと、明確な要因も無く信じ切っていた。

 そう、だからこそ――

「ふん……、酷い顔だな。見るに堪えぬ。意思も無く、意志も無い。まさしく、死人も同然よ」

 もはや己へと届く筈の無い“他者の声”を耳にした時、少女の心は純真無垢な愕きで充たされた。

「そのまま朽ち果てるも、お前の自由ではあるが――些か、惜しい』

 響くその声音はどこまでも力強く、滾る様な“熱”を帯びたもの。ただ耳を傾けているだけで、少女は己の冷え切った肉体に温もりが通っていくのを感じた。絶対的な“力”に自身の心身が包み込まれる、どこか怖気にも似た安心感。

「どの道捨てる命であれば、寄越せ。無為に消えゆくその命、有為に使ってやろう」

 そして、気付けば――少女の眼前には、一人の少年が立っていた。一度でも視界に入ればもはや二度と目を離せないような、圧倒的と云う他無い存在感を身に纏い、傲然たる態度で少女の世界に踏み入ってきたのは、少女とさして齢の変わらぬであろう黒髪の少年。何処かで遭ったような気もすれば、全くの初対面であるような気もする。灼熱地獄の如く轟々と燃え盛る情念を内に宿した黒の双眸は、ただそれだけで周囲を埋め尽くす闇を払う程の煌きを放ちながら、真っ直ぐに少女の姿を射抜いていた。

――ああ、このひとは、わたしにはないものを、もっている。

 それは一体、何だっただろうか。そう、それは確か、“意志”と呼ばれる類のもの。ヒトがヒトとして生きる為に必要な“熱”であり、前へと進む為に不可欠のエネルギー。いつかどこかで少女が喪ってしまった、掛け替えのないもの。だからこそなのか、少女は目の前の異質な少年に対して、魅入られるような心地を覚えた。あたかも昏い海底から見上げた遥かな海面に踊る陽光のように――その存在のなんと眩しく、なんと遠い事か。その時、既に限りなく薄れ果てていた少女の感情が、形を曖昧なままに蘇りつつあった。

「生きる意味が判らぬならば、手ずから与えてやる。――“忠”を、尽くせ」

――“忠”。わたしの、いきる、いみ?

『君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす』

 喪われた記憶の一欠片が、少女の胸に正体の知れぬ想念を喚起する。

――そう、わたしは、りっぱな“ぶし”に、ならなくちゃ。

 而して武士に在るべき“仁”も“義”も“考”も、あたかも泡沫の夢の如くして、儚く失せて消え果てた。もはや二度とは取り戻せないと、何故か自分は知っている。ならば……せめて、未だ残された“忠”の一字を貫く事で、夢の残骸をこの手に掴もう。それが、それだけが、この胸の空虚を埋め得る唯一の――

 少女の瞳に、微かな意志の火が灯る。深淵の闇に閉されていた世界が、光芒を帯びて広がっていく。

「この身に付き従い、我が覇道を見届けるがいい。其れこそは、現世のいかなる名誉も遠く及ばぬ、最上の誉れと心得よ」

――忠を、尽くす。とてもまぶしい、このひとに。

 少女にとって、それは至極自然な事に思えた。何の忌避感も抵抗感もなく、唯一の正解として受け入れられる。無価値な自分に生まれてきた意味があるとすれば、それは価値ある者に忠誠を尽くし、“夢”を支える事で初めて達せられるのだと、少女の胸には一つの確信が宿った。故に少女は、自らの意志で口を開き、少年へと問いを発する。何よりも先んじて己が知るべき事を、知る為に。

「ふん。知らぬと云うならば、頭蓋にでも刻んで記憶するがいい。永劫、史上に残る名よ」

 己への自負と絶対の自信を漲らせた表情が、ほんの一瞬だけ、痛々しく歪んだように見えた。が、所詮は自分の気の所為だと、少女は断ずる。自分とは違い、輝くような未来への意志に充ちた眼前の少年が、“泣きそうな顔”を浮かべる道理など何処にも無いのだから。その事実の証明の如く、少年は弱さなど欠片も窺えぬ傲岸不遜さを以って、あたかも世界へと宣告するかのように――朗々と、己が名を告げる。


「俺の名は、織田信長――いずれ、天下布武を成す男だ」


 それが、森谷蘭の始まりの記憶。

 魔王・織田信長が一の臣にして懐刀、並ぶ者なき“忠臣”たる少女の、誕生の瞬間だった。



















 暴嵐を引き連れて堀之外の街を覆い尽くす、時ならぬ戦乱に臨むに際して、男には二つの誤算があった。

「ヒャッハー! スーパー☆懺悔ターイムだぜぇッ!」

 一つ、図抜けた実力と好戦的且つ残虐な性格を以って裏の住人に恐れられる板垣一家の末娘、板垣天使が敵に回るという事態。決して味方と恃める相手だと思っていた訳ではないが、冷酷なる魔王・織田信長という共通の大敵が居る以上、よもや自分の前に障害として立ち塞がる事はないだろう――と男は想定していたのだ。しかし現実は、今まさに男が直面している事態が、嘲笑うような無情さを以って知らしめてくれる。

「地獄の底で閻魔サマに土下座してきやがれぇッ!」

 そして二つ目の誤算――それは即ち、板垣天使の実力だ。無論、侮っていた訳ではない。相手は若干十五歳程度の小娘とは言え、数年以上も前から数々の悪評と共に武名を鳴り響かせている常識外れの存在である。“殺し”のプロフェッショナルを自認する男の胸中に無用の油断はなく、紛れも無い全身全霊を以って相手を討ち滅ぼす心算で居た。

「う、ぐ、馬鹿なっ! この私が、こうも一方的に……っ!」

 だが、いざ戦闘が始まってみれば、天使の発揮する戦闘能力は男の想定を軽々と超えており――互いの得物を数合と打ち合わせない内から、男は防戦一方に追い遣られていた。怒涛の如く繰り出される連撃の一撃一撃が、想像よりも疾く、鋭く、重い。僅かな継ぎ目も見当たらない猛攻を前にして、反撃に転じるどころか満足な防御行動すらも侭ならない。噂に伝え聞くよりも数段上の、まさしく圧倒的と形容する他ない“暴力”を前に、男の心は殆ど折れ掛けていた。

「けっけっけ。貧弱貧弱ゥ、カルシウム足りてねぇんじゃねーの? 」

 一撃の下にへし折られた片腕を庇いながら辛うじて立っている男を見遣って、天使は愉しげに笑う。野生の猛獣の如く犬歯を剥き出しにした獰猛窮まる笑顔こそ、絶対強者の証明であった。対峙する男の心を埋め尽くすのは、どうしようもない絶望感。いずれが捕食者であるのか、明晰に理解してしまったが故の耐え難い恐怖。顔面を蒼白に染め上げる男を見据えながら、天使はケタケタと陽気な笑い声を漏らした。

「ざーんねんでした。ラスボスんとこに着く前に、てめーはここでゲームオーバーだ。そんじょそこらのヌルゲーと一緒にすんなよ? ウチとの死合いゲームに負けたヤローはアレだ、コンテ不可、リトライ不可、そんでもってセーブデータまで強制リセット。ってかぶっちゃけソフトごとオシャカ? ま、そういうコトで一つよろしくぅ」

「ひ、た、助け――」

「また遊ぼうぜーオニィサン。つっても来世でまた会えたらのハナシだけどな、ギャハハハッ!!」

――魔王と忌まれる男に付き従うは、やはり、非道の悪魔に他ならなかったか。

 恐慌に陥った男が最後に目にしたものは、誰もが怖気を覚えずにはいられないであろう、世にも恐ろしい悪意の哄笑を放つ少女の姿。絶望に暮れる暇すら与えられないままに、破壊的な衝撃が頭蓋ごと脳髄を揺るがし――魔王・織田信長への叛逆を夢見た一人の男の意識を、無慈悲に暗闇へと葬り去った。





「YABEEE、ウチTUEEEE! 無双シリーズ出演待ったなしじゃねーかコレ」
 
 今しがた自らが打倒した武道家の後頭部を容赦なく踏み付け、更に踵へと力を込めて顔面をアスファルトの路面へと徐々にめり込ませながら、板垣天使は晴れ晴れとした快心の笑顔を浮かべていた。頬に跳ねた返り血を拭こうともせず、満足気に上気した顔でぐるりと周囲を見渡す。

「ノーコンで四連勝、すっげークールな戦績スコアじゃん。クッソ気難しいシンの奴もコイツを見りゃーウチを認めんじゃね? うけけ、こりゃイイ点数稼ぎのミッションだぜぇ」

 上機嫌に独り言を漏らす天使の周囲には、既に四名もの武人が血塗れの姿で倒れ伏している。情報に無関心な天使は与り知らない事だったが、彼ら全員が裏社会では相当に名の売れた実力者であった。ある者は織田信長への復讐心に駆られ、ある者は魔王打倒の名誉を欲し。各々の覚悟と野心を胸に嵐へと自ら踏み入った猛者達は――その全てが、天使の名を冠する悪魔の如き少女の凶悪な爪牙に掛かり、等しく報われない末路を辿る事となった。凶暴性に満ちた天使の猛撃を受けて斃れ、更に敗北後の安息すら許さない無慈悲な追撃を受けた彼らは、武人としては既に再起不能と断じられる状態にまで壊されていた。

「~♪♪」

 自らの振るう暴力によって血の海を作り上げ、自ら破壊した人体に囲まれながら鼻唄を歌っている少女は、しかしその行為に対して僅かな疑問も、罪悪感すらも抱いてはいない。天使にしてみればただ単純に、己へと降り掛かる火の粉を払い、後の禍根を絶っただけの話だ。そしてそんな思考の在り方こそが、裏社会を棲家とする人間としては一般的なものだった。

「しっかし真剣マジでメチャクチャ絶好調だなー、ウチ。クスリも使ってねーのに。これはアレか、シンが口酸っぱくして言ってた“意志”ってヤツのおかげなんか?」

 ヘッド部分が赤黒く染め上げられたクラブを無造作に振り回しながら、天使は自身の好調に対して首を捻る。板垣天使は怪物揃いと評される板垣一家の例に漏れず、図抜けた素養と戦闘能力の持ち主ではあるが――“どうもムラっ気があり過ぎてお話にならねぇ”、と師である釈迦堂刑部に評されているように、実戦においては安定性に欠けるところが多分にあった。気分が乗りさえすれば無類の爆発力を発揮するが、反面、気分次第では絶好調時の半分程度の力しか振るえない。その弱点を克服するために、天使は強敵を相手取る際には“クスリ”こと向精神薬の類を服用するという手段を用いてきた。興奮剤の効力によって強制的に己の精神を昂揚させ、半ば無理矢理に自身のポテンシャルを引き出すスタイルを取ってきたのだ。

「むー……」
 
 しかし、先程繰り広げた四連戦では勝手が違った。その過程で天使は手持ちのクスリを一錠たりとも使っていないにも関わらず、服用時と同等か、或いはそれ以上の実力を遺憾なく発揮して対戦相手を叩き潰したのだ。明晰に思考が働き、肉体には力が漲り、武技はかつてないほどに冴え渡り――そして何より天使を驚かせたのは、戦闘行動を終えた後に胸の中に残る、充足感。自分が確かに為すべき事を為したのだという実感。小遣い目当ての通り魔的な暴行や、鬱憤晴らしのストリートファイトでは決して得られなかった満足感が、確かに心を充たしている。

「……うん、やっぱそうだ。ウチがやりたいコトってのは、コイツで間違いねーってワケだ。へへっ」

 自分がこうして体得した武を揮い、織田信長の配下として功績を積み上げる事が、自身への評価に、延いては家族の命を救う事に繋がる。そこに空虚さや不愉快な後ろめたさが忍び込む事はない。信長の為に力を尽して闘っていれば、あの自他共に厳しい偏屈な兄貴分の隣を、何ら気後れする事無く胸を張って歩く事ができるのだ。川神重工業地帯を覆うスモッグの如く絶えず眼前に漂っていた靄が晴れ渡り、一気に明るい世界が広がってゆくような気分に、天使は一種の感動を覚えながら浮かれていた。

――体が軽い……、こんな幸せな気持ちで戦うなんて初めてだ。もう何も恐くねぇ――!

「よーし、殺ぁってやるぜぇ! ここで大量にスコア稼いで、シンの奴を驚かせてやろっと。 虐殺王に、ウチはなる! ――っと、さっそく次の挑戦者かよ。おいおいしかも団体サマじゃねーか、シンの奴どんだけ恨み買ってんだってハナシだぜ……ま、いっか。うけけ、んな事より入れ食い入れ食い~♪」

 舌舐めずりして次なる獲物を待ち構える天使の前に現れたのは、中華風の衣裳を身に纏った三人組の男達だった。体格も得物も見事なまでにバラバラだったが、全員が赤い布を頭に被っているという一点で共通している。男達は道路の中央に立ち塞がる天使の姿に気付くと、戸惑ったように足を止めて、一様に怪訝な表情を作りながら顔を見合わせた。結局、悪名高い板垣一家の末娘が血塗れの凶器を携えて自分達の眼前に陣取っている理由を判じかねたのか、中央のリーダーと思しき髭面の男が三人を代表して歩み出る。クラブヘッドでコツコツと路面を軽く叩きながら、天使は自分に向けて近付いてくる男へと陽気な笑顔で声を掛けた。

「や、ウチ的にゃこれっぽっちも興味ねーんだけど、有名なヤツならスコアの足しになるし、いちおー聞いといてやんぜ。てめーら、どちらさんデスカー?」

「オウ、良くぞ聞いてくれたな! 神州紅巾党が首領三兄弟、人呼んで“流し一飜★ぶらざぁず”たぁ俺達の事よ!」

「あっそ、知らねーや。んじゃー死んどけ」

「――ぬおおっ!?」

 男が自己紹介を終えるや否や、何の前置きもなく無造作に繰り出された殺人スイングが、男の顔面スレスレを掠り、無駄に豊かな髭の一部を力尽くでもぎ取って雨中に散らす。男は泡を食った様子で仰け反り、盛大に足を滑らせて地面を転がっていた。

「へー、やるじゃん。ウチ的にゃ開幕デストローイ狙ってたのにスカッちまったぜ。ゲージ勿体ねー」

 が、いかに無様に見えたとしても、天使という人外級の武人が放った不意打ち気味の一撃を躱してみせたのは大したものだった。しかし、それも考えてみれば当然の事なのかもしれない、と天使は思う。最凶の魔王と名高い織田信長に自らの意思で挑まんとしている時点で、少なからず腕に自信を持つ実力者である事は疑いないのだから。こりゃふざけたノリに油断してると足元すくわれっかもしんねーぞ――と、珍しく天使は自分を戒めた。断じて失敗は許されないという使命感が、自分でも気付かないところで天使の意識を引き締め、以前には望むべくもなかった慎重さ、冷静な判断力といった恩恵をもたらしていた。

「だ、大丈夫っすか、タンヤオの兄貴!」

「あ、あたりめぇよ。俺っちならあんなモン、目ぇ瞑ってでも避けれらぁ。だが不意打ちたぁ卑劣なマネをしやがる、一体全体何の手違いだか知らねぇが、もう許さねえ! ピンフー、イーペイ、やっちめえな!」

 鋼鉄製の大槌を携えた巨漢と、鋭利に光る抜き身の倭刀を提げた隻眼の男が、髭面の男の号令を受けて動き出す。息の合ったコンビネーションを発揮して迫る二人の男を前に、天使は動じる事無くクラブを身体の前で構えた。肉食科の猛獣じみてギラギラと光る双眸は一層の輝きを放ち、瞬きもせず二人組の動きを視界の内に捉え続けている。そして、緊迫の一瞬が過ぎ去り――大気を引き裂く唸りと共に三つの得物が交錯し、直後、爆発にも似た衝撃の嵐が巻き起こった。それは、常人の域から外れた武人同士の衝突が引き起こす現象。その意味するところは、すなわち実力の拮抗だ。天使と二人組は得物の交錯点より生じた衝撃の煽りを受け、全くの同時に後方と吹き飛ばされていた。

「か~、手ぇ痺れるぅ~! ってーなチクショー。ちぇ、いかにもザコっぽいキャラデザのクセしやがって、リュウよかヨユーでつえーぞこいつら」

 身軽な体捌きで雨に塗れた路面へと美しい着地を決めながら、天使はぶつくさと悪態を吐く。

 しかし、この場において真に戦慄を覚えていたのが誰かと言うならば、それは間違いなく神州紅巾党を名乗る男達の方だった。内功を習得した腕利きの武人が二人同時に掛かって、それで漸く互角の力。しかも二人組の片割れは膂力に特化したパワーファイターなのだ。噂に名高い板垣一家の実力、侮るべからず――そう認識を新たにしたのか、髭面の男は背中に負っていた得物、重さ八十二斤にも及ぼうかという長大な青龍偃月刀を手に取った。ぎょろりと眼球を動かし、着地失敗して地面に転がっている二人組を怒鳴り付ける。

「オイ何モタモタしてんだ、さっさと立ちやがれ! いいかおめぇーら、フォーメーション天・地・人だ!」

「あーん? なんでウチが混じってんだ? 言っとくけどウチはやらねーぞオッサン」

「誰も頼んじゃいねぇぇよ! ただ食らってぶったまげな、かつて梁山泊で紅い三連星とも呼ばれた俺達の必倒必殺コンビネーション、名付けて――噴射噴流撃ッ! いくぜぇ、ピンフー! イーペイ!」

「応よっ!」

「了解なんだな!」

 威勢の良い号令を受けて、二人組が猛然と動き出す。大槌と倭刀、各々の得物を構えたまま、天使へと再度の突貫を試みる。油断なくクラブを構えて迎撃の態勢を取る天使に向かって、まずはピンフーと呼ばれた巨漢が大槌を振り被り――荒々しく叩き付けた。ただし標的は天使本人ではなく、その数歩手前の路面だ。激しい轟音と共に大地が揺れ、砕け散った路面の残骸である無数の石片が礫となって天使を襲う。

「ち、うっぜえな!」

 礫そのものには殺傷力は欠片もないが、目晦ましとしての役割を果たすには十分だった。天使が腕を翳して両目をカバーしている隙を衝き、イーペイと呼ばれた隻眼の男が倭刀を鋭く閃かせつつ肉薄する。腰を低く構えた独特の姿勢から流れるように繰り出された胴薙ぎの斬撃を、しかし天使はクラブのシャフト部分で見事に受け止めてみせた。眼を礫より庇う左腕はそのままに、咄嗟に自由の利く右腕のみを振るう事で迫り来る白刃を迎え撃ったのだ。驚異的な反射神経と動体視力、何より動物的直感を持ち合わせる天使だからこそ可能な、芸術的とも言える護身だった。

「な、何っ!?」

「うけけ、ざ~んねん! 今のウチに不可能はねーんだよッ!」

 驚愕と動揺、そして武人としての畏敬の念を露に目を見開いた隻眼の男を突き放すべく、そのまま腹部を狙って前蹴りを叩き込もうと踵に力を込めた時――つい数瞬前に発動したばかりの直感が、更なる鮮烈さを伴って再び働いた。一瞬にも満たない時間の中で、天使の鋭い視線が素早く地上を走る。そして、自分の眼前に“不自然な影”が存在している事実を気取ると同時に、弾かれたように視線を上げ――上空数メートルの地点を飛翔する、一つの人影を視界に捉えた。長大な青龍偃月刀を振り上げ、不吉に煌く刃を以って一刀の下に両断するべく、今まさに眼下の天使へと向けて己が得物を振り下ろさんとしている、三人目●●●。その正体は言うまでもなく、三人組のリーダーである髭面の男だった。

「ヤベッ――」

 巨漢の目潰しも、隻眼の一閃も、全てはこの状況を作り出すための布石。髭面の男は二人組に突撃の指令を下した後、自らもまた駆け出していた。但し、天使から見て死角となる、巨漢の背後に身を潜めつつ。そして天使が隻眼の男の繰り出した一閃へと対処している隙を衝き、巨漢の身体を踏み台に利用する事で跳躍。斯くして男は、三人が鍛錬の果てに練り上げたコンビネーションを活用し、本来ならば地上戦には有り得ない筈の、“上空からの奇襲攻撃”というシチュエーションを成立させてみせたのだ。

 ――という旨の戦闘理論を、当然ながら天使は欠片も理解してはいない。どのような駆け引きを経て現在の状況が形成されたのかなど、全く以って把握していない。ただ、今この瞬間、自分が相当な窮地に立たされている事実だけは、瞬間的に察知した。自身の上空から襲い来る刃は即ち、重力を味方とし、男の全重量を余す所無く載せた渾身の斬撃。全力を振り絞って受け止めれば一撃を防ぐ事自体は可能かもしれないが、そうなれば眼前の隻眼がすかさず倭刀を振るい、上空への対処に追われて無防備になった天使の身体を、あたかも据え物斬りの如き容易さで斬り裂くだろう。ならばと防御を捨てて回避行動を選択しようにも、青龍偃月刀という得物が有する圧倒的なリーチがそれを許さない。長大な刃の攻撃範囲から離脱するには、既に時間が足りなかった。

「天・誅ゥゥゥゥ!!」

 勝利の確信を込めた雄叫びと同時、龍紋の刻まれた巨大な刃が濃密な殺意を載せて打ち下ろされる。

 ああ、こりゃ腕の一本は捨てなきゃ死ぬな、と天使が醒めた諦観と共に血生臭い覚悟を決めた――その瞬間だった。


「――まったく。暴れ回るだけが取り得の脳筋のクセして、“戦闘”で遅れ取ってどうすんのさ」


「ぬぁにっ!?」

 睨むように上空を見据えていた天使の瞳に、四人目●●●のシルエットが映り込む。羽が生えているかのような軽やかさで宙を踊る小柄な影が、髭面の男の真横に突如として出現し――躍動。唸りを上げて伸びる脚が鞭の様にしなり、仰天の只中にある男の横っ面をまともに捉え――欠片の容赦も無い威力を以って蹴り飛ばした。

「ぐぼぁぁぁああっ!?」

「「あ、アニキィィィッ!!」」

 鈍い打撃音と同時に白い歯と赤い血とを空中へと盛大に撒き散らしながら、見事な錐揉み回転を披露しつつ、男は街路の右手に位置する民家の生垣へと頭から突っ込んだ。その下手人たる人影は、愛用の青龍偃月刀と共に生垣の茂みに突き刺さって前衛的なオブジェと化した男に一瞥も呉れる事無く、軽やかに身体を捻りつつ地面へと降り立つ。丈の合わないロングコートをヒーローマントの如く強風に靡かせ、鮮血にも似て紅い両の鉤爪を稲光に照らしながら、少女は嘲弄じみた笑みを湛えて其処に立っていた。

「あーあ、キミ達の粗野で野蛮なお楽しみの邪魔をしないように、わざわざ気配を殺して丁重にスルーして差し上げようと人知れず頑張ってたのにさぁ。あんまりにも危なっかしくて見てらんないものだからついつい手を――おっとこの場合は脚を、かな?――出しちゃったよ。私としては翼をもがれて地に堕ちた天使ちゃんっていうのも中々愉快痛快な見世物になるかと思ったんだけど、まあそこはホラ、私ってば劉玄徳も真っ青なレベルで柔和温順且つ仁の心に溢れた女の子だしね。まあ何はともあれそんなこんなで、やあまた会ったね板垣天使。くふふ、近頃ご機嫌いかがかな?」

「な、てめ、ネコ娘っ!? なんでこんなトコに――!」

 旧知の間柄であり、同時に犬猿の仲でもある少女――ネコ娘こと明智音子の唐突極まりない出現を受けて、天使は驚愕に数秒ほど硬直した。そうして生じた隙を活かして、ピンフー・イーペイの二人組は哀れなほどに顔を青褪めさせながら“アニキ”の元へと駆け寄っていく。そのいずれに対しても蔑むような冷たい目線を向けて、ねねは呆れ返った表情で肩を竦めた。

「やれやれ、こんな状況で呑気に醜い仲間割れなんて起こしちゃってまあ。キミ達堀之外の住人ってのはどこまで民度と程度が低いのかなぁ。せっかく知能レベルが近しい野蛮人同士なんだから、素直に手と手を繋いで仲良くしてたらどうなのさ? ま、そういう文明人らしい発想が出来ないからこその蛮人なんだろうから、言うだけ無駄だとは思うけどね~」

「出てきていきなり何だオマエ喧嘩売ってんのかゴラァ! よーしテメーここで会ったが百年目だ、今日という今日こそブッ殺――ってああダメだダメだ」

 相変わらずの厭味ったらしい態度に堪らず頭が瞬間沸騰しそうになるが、天使はかつてない自制心を発揮する事で辛うじて理性を保つ事に成功した。そう、ねねという少女がいかに腹立たしく鬱陶しく自身と断じて相容れない存在であったとしても、それでも彼女は織田信長の配下であり直臣である。怒りに任せて手を出してしまっては、自分が何の為にこの場に留まっているのかすら分からなくなってしまう――そう自分へと必死に言い聞かせると、天使は敵愾心に満ちた目をギロリと動かして、涼しい顔で佇んでいるねねを睨んだ。さてコイツにどうやって事情を説明したものか、と頭を振り絞って思い悩んでいると、ねねはいかにも気だるそうな半眼で天使を見て、溜息混じりの声を発した。

「あーあー、別に説明してくれなくても結構だよ。生憎とキミとは悲しいくらいに頭の出来が違うからさ、状況判断くらい自力で行えるんだ。って言うかキミの貧弱な語彙力で情報を伝えられた日には却って混乱を来しそうだしね。私の要求としては、うん、三秒ほど黙っててくれたらそれでいいよ」

 投げ遣りな調子で言い放つや否や、ねねは思考の海に潜るように目を瞑る。そして宣言通り、きっかり三秒後に瞼を上げた。焦茶色の瞳を鋭く光らせながら、口を開く。

「えーっと。要点だけ整理すると、こうだね。この先にご主人が居て、キミはその防衛役センチネルを任じられてて、このヒト達みたいな有象無象をご主人の下まで到達させないように此処を守っている。という事で、不本意ながらキミは私の味方にカウントされるってワケだ。うん、となるとやっぱり見捨てちゃわないで正解だったね。さすがは私、実にナイスでクールな判断能力。それでいて楊貴妃も敗北感のあまりついつい首を括っちゃうレベルの美少女だって言うんだから、私ってばホント罪な女だよね。――まあ一番罪深いのは言うまでもなくご主人なワケだけど。私と蘭を両手に花、っていう世の男性諸君が血涙流して羨む贅沢でも満足しないで、挙句の果てにこんな未開の地の蛮族みたいな暴力娘まで節操無く家臣団に引き入れようって言うんだからさ」

「……な、なんでそこまで色々分かんだよ……? エスパーかよオマエ」

 感心すると言うよりは殆ど呆れ返ったような眼差しで、天使はねねを見遣った。彼女は間違いなく今此処に辿り着いたばかりの筈であるにも関わらず、瞬く間に天使の置かれた立場を洞察してみせたのだ。頭脳労働を全力で苦手とするタイプの天使にしてみれば、それはもはや超能力の類としか思えなかった。

「ま、そこはほら、脳味噌の容積とその稼働率、後はご主人への理解度の差ってところだね。……はぁあ、そうだよ、どぉぉぉぉぉぉせ“こういう事”になってるだろうと思ってたさ。あのヒトってばホントにもう、女の敵にも程があるね。まさしく鬼畜外道の人非人、地獄の底から来た奴輩! って感じだよ、何せ主人公に必須の鈍感スキルも突発性難聴スキルも持ち合わせちゃいないクセに、何食わぬ顔でえげつない真似をやらかしちゃうんだから」

 現状の何かが気に入らないのか、ねねは傍目にも不機嫌そうな顔でぶつくさと呟いている。愚痴めいた言葉を聞かされている側である天使の心中にもまた、苛立ちが募っていた。眼前の少女の、いかにも自分はお前よりも信長の事を分かっているのだと言わんばかりの態度が、天使にとっては大いに気に入らなかったのだ。なるほど“家臣”としては少しばかり先輩に当たるのかもしれないが、兄妹同然の間柄として共に過ごしてきた時間で言えば自分の方が圧倒的に上だ――そんな嫉妬とも独占欲ともつかない感情が沸々と湧き上がり、天使の心許ない理性を危うく焦がし始めた時だった。

「うぉおおお、紅天まさに立つべし! 俺っちは死なねぇ! 全世界を俺達“流し一飜★ぶらざぁず”のファンで埋め尽くすまではッ!」

「「あ、アニキィィィッ!!」」

「つまりは不死ってコトだよね。なんという無駄な厄介さ」

 二人組の必死の救助活動によって生垣から引っこ抜かれた髭面の男は、鼻血をだらだらと垂らした酷い有様ながらも、未だ闘志を喪ってはいないらしかった。意気軒昂と咆え猛る男を醒めた目で見遣って、ねねは重苦しい溜息を零す。

「首の骨をへし折るつもりで蹴ったのに、頑丈なヒトだなぁ。……いや、あのドS女の言う通り、単に私が中途半端なだけか。あーあ、我ながらなっさけないよ、ホント」

 自嘲的な調子で呟きを漏らしてから、ねねは雑念を振り払おうとするかのように首を振った。各々の得物を構えて用心深く天使達の様子を窺っている三人組に鋭い視線を走らせつつ、再び口を開く。

「さーて。こうなっちゃ仕方がない、共同戦線と行こうじゃないか。異論はないよね、天使ちゃん?」

「あーん? なんでウチがテメーなんかとコンビ組まなきゃいけねーんだよ。冗談じゃねー」

「その台詞、そっくりそのままお返しするよ。私だってキミなんかと一緒に野蛮な闘争に臨むくらいなら、一刻も早くご主人のところに駆け付けたいさ。けど、ここでキミが倒れでもしたらその時点で守りが崩れて、ご主人の下までお客さんが直通で次々にやってきちゃうでしょ? だからこの場所は、私達が最優先で死守しなきゃいけない最終防衛ラインなのさ。キミはそれを、キミの個人的な感情ごときで危うくするつもりなの? 言っておくけど、ケダモノみたく好き放題に暴れ回ってるだけじゃご主人の従者は務まらないよ。――で、それを踏まえた上で訊かせて貰うけど。キミはどうするつもりなのかな、板垣天使」

 淡々と告げるねねの口元からは、もはや先程までの嘲笑は拭い去られていた。唇を結び、冷徹でありながら同時に真摯な眼光を双眸に宿して、じっと天使を見つめている。彼女は今、織田信長の臣下たる自覚と資格とを問おうとしているのだと、天使は悟る。ならば、返すべき答は初めから一つしかなかった。

「……けっ、足引っ張んじゃねーぞネコ娘。何つっても今のウチは絶好調だかんな、置いてけぼりを食らっても文句は受け付けねーぜぇ?」

「ハァ、危機一髪の所を私に助けて貰っておいて良くそこまで格好付けられるもんだね。ひょっとして一種の自虐系ギャグ? それともアレかな、キミの鳥頭じゃ三十秒以上前のエピソード記憶は保てないのかな? その全力で刹那に生きてるライフスタイル、私には真似できないなぁ。くふふ、ある意味羨ましいよ」

「あ゛ぁぁぁあ゛、なんだコイツ真剣マジUZEEEE! いちいちイヤミ言わねーと死ぬ病気なんかオマエはよっ! グダグダ言ってねーで素直に手ぇ貸しやがれってんだボキャー!」

「そう怒鳴らないでよ、キミってばいちいち煩いなぁ。やれやれ、呉越同舟ってまさしくこういう時に使うべき言葉なんだろうね。せめて合肥三将に肖りたいところだけど、相方がコレじゃ儚い望みだよねー」

「あ? ナニ意味ワカンネーこと言ってんだ? 日本人なら日本語で喋りやがれってーの!」

「ああもうこれだよ、知的水準が違い過ぎて意思疎通からして無理難題さ!西施レベルでか弱い私にこんな負担を押し付けるなんて、やっぱりご主人は真性の鬼畜に違いないね!」

「……おいてめぇら、さっきから俺達を無視して盛り上がってんじゃ――」

「うるっせえ黙ってろ!」「うるさいな黙っててよ!」

「お、おう……」

 口を挟もうとした髭面の男が、鬼気すら漂わせた二人の迫力に押されて仰け反る。が、すぐに気後れよりも屈辱の感情の方が勝ったのか、男は髭から覗く赤ら顔をますます真っ赤に染め上げながら、青龍偃月刀の石突で路面を叩き付け、猛々しい怒声を放った。

「おうおうおう、ケツの青い小娘どもに舐められて黙ってられっかよ! おめーら、気合入れやがれ! さっさとこのガキどもをぶッ倒して先に進むぜ。魔王なんぞと呼ばれて図に乗った若造のそッ首落として、そいつを肴に桃園で酒宴でも開こうじゃねーか、ええ!?」

 得物を宙に翳して気勢を上げている三人組は、髭面の男の言葉に反応して二人の少女が同時にピクリと眉を上げ、爛々と光る目を自分達へと向けている事に気付かなかった。目だけが欠片も笑っていない、どこまでも寒々しい笑顔を湛えながら、ねねが奇妙に陽気な声音を発する。

「ねえ天使ちゃん。私さ、感情に行動を左右されてちゃ従者失格、って言ったよね。アレ、取り消すよ。やっぱさ、時と場合によるよね、そういうのって。私とした事がちょっと視野狭窄に陥ってたかも。こういうお馬鹿さん達にご主人を舐められないためにも、やるべき時はやっちゃわないとねー」

「おーよネコ娘。ウチ的にゃさっきまでてめーをブン殴りたくて仕方なかったけどよ、気ィ変わったぜ。あんな感じでクソ調子乗ったコト抜かしてる連中は、ウチらできっちりブッ潰してやんねーとなぁ?」

 募り募った苛立ちを叩き付ける対象を改めて見出した事で、天使の声はいっそ明るく弾んでいた。ニタリと残虐に歪んだ口元で三日月を描きながら、滾る様な闘志と敵意に充ちた瞳にて“敵”を見据える。天使とねねの両者はそれぞれの得物を携え、もはや合違う事無く、二人並んで男達と向かい合った。

「ヒャハッ、こっから先の土は踏ませねー、つーかむしろ土に還らせてやんよっ! ウチの新生・北都神拳で昇天しやがれぇ!」

「さあ、速攻で片付けてご主人と合流だ。今の私は割とヒートアップしてるからさ、馬に蹴られて轢死したくなかったらさっさと退いた方が身の為だよ!」

「粋がるんじゃねぇぇよ小娘どもが! 紅天の世を築くため、俺達は負けられねぇ! 行くぞおめーらァ!」

 怒号と同時に五つの氣が渦を巻き、小規模な嵐を引き起こす。吹き荒れる戦乱の最中にて、激しく鳴り渡る剣戟の音と共に、新たな闘争の幕が上がる。

 
 第九死合・板垣天使&明智音子 対 反織田信長勢力。


 堀之外合戦――尚も続幕。














 駆ける。駆ける。放たれた一条の嚆矢の如く風雨を切り裂き、毒々しいネオンの色彩を抱いた灰色の街並みを疾駆する。流麗に煌く金髪を吹き付ける逆風に靡かせ、湖水の碧眼に烈しい炎を燃やしながら、クリスティアーネ・フリードリヒは脇目も振らず真っ直ぐに、堀之外の歓楽街を駆け抜ける。

『頼るべきKAWAKAMIが対処に動かないと決した以上、私が動くのは当然だろう。これはお前を守るための措置なのだ、クリス』

 今も尚、胸の内を反響するのは、自身が誰よりも敬愛する父、フランク・フリードリヒの言葉。電話越しに耳にした父の声音は、かつてクリスが一度として聞いた事が無い程に冷たく、そして乾いていた。

『私がマルギッテ少尉と狩猟部隊に与えた極秘任務について何故知っているのか、それは問うまい。だが、これは既に決定事項だ。いかに愛する娘の頼みであっても、撤回する訳にはいかないな』

 自分との決闘の最中に突如として豹変し、そしてそのまま川神学園から姿を消した刀遣いの少女、森谷蘭。彼女の存在を排除するべく、マルギッテ・エーベルバッハ率いる狩猟部隊が川神の地に展開しつつある――その情報がもはや疑い様もない事実であると確認し、激昂と共に命令を取り下げるよう訴え掛けるクリスに対して、フランクの見せた対応はにべもないものだった。どんな我侭でも笑顔で聞き入れてくれる筈の父が見せた、思いがけない強硬な態度。受話器を手に狼狽するクリスへと、フランクは強いて感情を殺した声音で、淡々と言葉を続けた。

『――人は死ぬのだ、クリス。“死”という名の見えない怪物は、何処にでも潜んでいる。四十七年の人生の中で、私はそれを嫌と言うほどに思い知らされてきた。ならば私は、目に見える危険全てを徹底的に刈り取ることで、大切な者を少しでも死の恐怖から遠ざけるまでだよ。クリス……一度でも命の危機に晒されたのなら、お前にも分かる筈だ。“死”がいかに無慈悲で、理不尽なものなのか。そこには物語に描かれるように劇的なドラマは存在しない。善きも悪しきも、老いも若きも、強きも弱きも、美しきも醜きも。死は等しく万人に降り掛かり、いとも呆気なく人生を終わらせてしまう。メメント・モリ死を想え――私はそれを絶えずこの胸へ刻んできた』

 二十年を越える年月を戦場にて過ごした男の言葉には、特別な話術を弄するまでもなく反駁の声を封じ得る、“重さ”が伴っていた。何を言えばいいのか分からず、俯いて黙り込んだクリスに対し、フランクはその声音に初めて感情を滲ませた。

『これはエゴだ。軍の英雄ではなく、娘を愛する一人の父親の、どうしようもないエゴなのだよ、クリス。喪ってから悔やむ事の虚しさに、私はもう疲れてしまった。故に、私はいかなる手段を用いてでも、お前を守ろう。もはや一欠片の悪意も、敵意も、そして“殺意”も、大切なお前の身に届かせるつもりはない。……馬鹿な男だと蔑んでくれても構わんよ、それでお前を守れるならば安いものだ。だから、どうか聞き分けてくれないか、クリス。私はただ――お前を、私が手にした掛け替えの無い宝を、喪いたくないだけなのだ』

 ひたすらに娘を想い、どこまでも強くその身を案じて止まない、哀切の念すら込められた父の訴えは、未だに頭の中で鳴り響いているように感じる。結局、クリスには父を説得するという当初の目的を果たす事は適わなかった。むしろ結果としては、熱く燃え盛っていた心情に思わぬ形で水を差された事になる。クリスにとってフランク・フリードリヒは尊敬すべき軍人であり、心の底から愛する父親だ。その言葉を無碍に扱うには、クリスは些か純粋過ぎた。

――それでも。それでも、自分は!

 クリスは今、こうして駆けている。敬愛する父の懇願を悉く無視し、その言い付けに真っ向から背いて、嵐吹き荒ぶ川神の暗部を疾走している。

 懊悩が無かった訳ではない。心身を刻むような葛藤は当然のように付き纏った。クリスティアーネ・フリードリヒという少女は、父の意に背いた事など、かつて一度として無かったのだ。何せ父の言は全てが正しく、従っていれば何も問題は生じない。少なくともクリス自身には●●●●●●●●●●●●、一切の苦しみは降り掛からない。クリスが送ってきた人生とは、常にそういうものだった。そこに僅かな疑問すらも差し挟む事無く、およそ十七年の歳月を思うがままに過ごしてきた。父の敷いたレールが己の価値観と相反する事は、一度として無かったが故に。

 だが。自身の信条と、父の心情――両者が相容れる事の無い場面が訪れてしまった時、クリスは初めて一つの重大な選択を迫られる事になる。すなわち、自らの信じる道を歩むか……或いは、父の敷いたレールの上を歩むか。実に分かり易く、同時に酷く決断の難しい二択の間で、クリスは揺れ動き――そして、選んだ。選んだ結果として、クリスは嵐の街を独り駆けている。譲れない信念の灯火に導かれ、行動の先に己の掲げる“義”を貫き徹す為に。

――それでも自分は、騎士なんだ!

 軍事力という反則的な“力”を行使してでも守りたいと願う程に、己の事を大切に想っていてくれる父には、幾ら感謝しても足りない。だが、だからと言ってその行為を賞賛する事も、看過する事も到底出来はしなかった。自身の意に沿わぬ者を力によって排除するという振舞いは、クリスの信ずる“義”の道から大きく外れている。それではあの魔王と称され生徒達に恐れられる邪悪な男と――クリスが刃を手に真っ向から否定した“悪”と、何も変わらない。むしろ、独軍特殊部隊という“群”の暴力を以って“個”を追い立て狩ろうと言うならば、その行為が含む卑劣さの分だけ、より性質が悪い所業だとすら言えるだろう。騎士道の何たるかを教えてくれた姉代わりの女性が然様な任務で血を浴びる事は、クリスにとって耐え難い。ましてや、それが他ならぬ自分のために流される血となれば尚更だった。そして、父もまた同様だ。我が身の安全を保障するため……然様に勝手な理由で敬愛する父の手と誇りを汚させてはならない。言葉で止められないならば、身を以って止めるしかない――!

 斯くしてクリスは一つの決意の下に行動を起こした。父の想いを裏切ってでも、己の信念を貫く道を選んだ。そしてひとたび選択を済ませたならば、もはや迷いも躊躇いも心を曇らせる事は無い。それがクリスティアーネ・フリードリヒという少女の、誇り高い独逸騎士の在り方だった。

――彼女●●には、感謝しないといけないな。

 いまいち考えの読めない不可思議なクラスメートの怜悧な横顔が、ふと脳裡を過ぎる。彼女がマルギッテと狩猟部隊の動きについて情報を与えてくれなければ、事態の全てはクリスの関知しないところで推移し、そのまま終わっていただろう。自分は何一つ知らないままにお膳立てされた“平穏”を甘受し、礎とされたものを土足で踏み付けて立っている事実に気付かないまま、今までと同様に“正義を行ってやる”と無邪気に息巻いていただろう。それは想像するだけでも寒々しく、そして十二分に有り得たであろう未来図だった。

『ソウルシスターを助けるのに、理由はいらないワケで』

 どうして自分に“それ”を教えてくれたのか、というクリスの問いに対する、少女の答えであった。言葉の意味が分からず首を傾げるクリスに向けて、少女は淡々とした調子で続けた。

『まあ、敵に塩を贈ってみるのもアリかな、と。……でも考えてみれば、体良く利用されたような気がしないでもないね。あの魔王サマ、あれで結構な策士タイプみたいだし』

 智慧を持つ怪物は怖いね、とまたしてもいまいち意味の分からない呟きを漏らす。そして疑問符を浮かべるクリスの物問いたげな視線をクールに流して、少女はマイペースに場を立ち去ってしまうのであった。最後まで何を考えているのか判然としなかったが、何にせよ助けられた事は間違いない。この一件が終わったら改めて礼を言おう、とクリスは心に決めていた。


「……“見つけた”。間違いない、これは――マルさんの氣だ!」


 今に至るまで一時も休む事無く駆け続けてきたクリスは、歓楽街南西部の一画にておもむろに足を止め、林立する雑居ビルの向かい側へと鋭い視線を向けた。此処は既に戦場だ。街の各所であまりにも数多くの人間が入り乱れて闘争を繰り広げている為か、風雨と共に“氣”すらもが混沌の嵐と化して竜巻のように渦巻き、特定個人の座標を突き止める事を酷く困難なものとしていた。元より氣を用いた精密な位置調査の類を苦手とするクリスにとっては尚更である。だがそれでも、ある程度の距離まで近付きさえすれば、慣れ親しんだマルギッテの氣を探り当てる事は不可能ではない。耳を澄ましてみれば、雨粒の乱舞と唸る暴風、稲妻の轟く音に入り混じって、銃声と爆音、喚声と怒声の織り成す暴力的な音響が、さほど遠くない通りから絶え間なく聴こえてきていた。猟犬の呼び名を持つ生粋の戦闘者たる彼女は間違いなく、その渦の中心に居るのだろう。

「……しかし、なんという壮絶な戦いだ。こうして空気に触れるだけで肌が粟立つなど、初めての経験だな。流石はサムライの国の合戦……街中が武士もののふ達の発する鬼気で充ちているようだ」

 闘争は既に幕を開け、戦火は拡大の一途を辿るばかり。これほどまでに大規模な戦闘が繰り広げられているという事は、もはや森谷蘭という少女を巡る問題は単に狩猟部隊だけが関わるような種類のものではなくなっているのだろう。確かな実力者であるクリスを超え、世界レベルの強者であるマルギッテをも凌駕する、まさしく規格外と云うべき“氣”が幾つも同時に存在し、各所で烈しく衝突を続けている事実こそ、この戦場の内包する計り知れない異常性を証明していた。今もまた自身を襲い続けている、全身を取り巻く空気が無数の針と化して肌へと突き刺さるような感覚は、クラスメートより受けた冷静沈着な忠告を脳裏に蘇らせる。

『きっと、魔王サマ――ノブナガが、動くよ。学園の外じゃ、校則も校長も守ってくれない。もし首を突っ込む気なら、覚悟はしておいた方がいいと思う』

「……ああ、危険は承知の上だとも。自分はそれでも、立ち止まらない。真に恐れるべきは傷を負う事ではなく、“義”を損なう事だ。胸に掲げた信念の剣が、折れる事なんだ」

 身を灼く混沌の坩堝に飛び込む覚悟など、ひとたび駆け出したその瞬間から既に決めている。

 クリスの煌く碧眼が、精神の在り方をそのまま体現したかのように真っ直ぐな双眸が、渦巻く闇を射抜いて彼方を見通す。手に携えたレイピアを強く握り締め、大きく息を吸い込んで――クリスは再び、走り始めた。

 駆ける。駆ける。放たれた一条の嚆矢の如く風雨を切り裂き、毒々しいネオンの色彩を抱いた灰色の街並みを疾駆する。流麗に煌く金髪を吹き付ける逆風に靡かせ、湖水の碧眼に烈しい炎を燃やしながら、クリスティアーネ・フリードリヒは脇目も振らず真っ直ぐに、堀之外の歓楽街を駆け抜ける。


――白騎士参上まで、あと僅か。

















「……シンちゃん。わたし、嬉しいです。ホントに、ホントに、嬉しいんです」

 
 零れ落ちる言葉は紛れもなく、歓喜の念を告げるもの。

 だが、白皙の顔が笑みを湛える事はない。戦慄く唇から紡ぎ出される声音は喜びではなく、哀しみに打ち震えていた。


「……蘭?」


 その事実を悟った瞬間、胸を充たしていた昂揚の念が一気に抜け落ち、上昇していた体温が冷えていく。激しく脈打っていた心臓は、冷えた手で鷲掴みにされたかの様な強引さを以って、普段の調子にまで引き戻されていた。

「シンちゃんはイジワルで、嘘吐きですけど――さっき私に言ってくれた言葉は、ぜんぶホントの事だって、伝わりました。意地っ張りで素直じゃないシンちゃんが、真正面から私に向き合ってくれてるんだ、って。それがとても、言葉で言い表せないくらい、嬉しい。嬉しい、のに」

 蘭は、泣いていた。途方に暮れた迷子のような表情で、弱々しく肩を震わせながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「それなのに私は、シンちゃんに応えられない。私の心が、私の想いが――私には、分からないから」

「……どういう、意味だ?」

「――“忠義”」 

 蘭が力なく呟いた一言。ただそれだけで、俺は全てを悟った。鉄槌で頭を殴打されたような衝撃と共に、言葉を失う。

「全てが、その一念に呑み込まれているんです。胸に在るこの想いが、何処に属しているものなのか、私には判別が付かない。死ぬなと、生きろと言われれば、それがどれほど罪深い事なのか分かっていても、私は無条件で頷いてしまいそうになる。でも、それが何故なのか……私には、答えられません。“主”の命だからなのか、シンちゃんが心の底から紡ぎ出してくれた大切な言葉だからなのか――そんな事さえ、私には判断できない。私にはもう、自分の心が、分からない」
 
 それは事前に可能性の一つとして想定され、強く懸念されていた事態。

 そう、森谷蘭を縛る呪いとは、先天的な“殺意”だけではない。継承された殺意と共にその心を縛り付ける、忌まわしき呪いの名は――“忠義”。他ならぬ俺が、過去に俺自身の手で施した、後天的な呪いだ。白紙の心を染め上げて、魂の根幹に刻み込まれた、一心不乱の忠誠心。例え昔日の記憶が蘇ったとしても、現在に至るまでに積み重ねられた記憶が、培われてきた人格が、その心の在り方が過去のそれに上書きされる訳ではない。一度心中に生じた歪み“だけ”が都合よくリセットされるような事は、有り得ない。

 十年。十年、だ。思えば気の遠くなるような年月を、森谷蘭は織田信長の忠実な従者で在り続けてきた。その価値観の根底には常に主君への絶対的な忠義があり、判断基準はいつでも主君の存在を中心に据えたものだった。ならば……その胸に宿る“感情”ですらも、或いは。

「私には分からないんです。本当に、分からないんです」

「……」

「主の為ならば私は幾らでも己が身を捨てられます。主の為ならば私は穢され命を奪われても本望です。主の為ならば私は幾らでも他者を害せます。主の為ならば私は幾千でも幾万でも幾億でも斬り捨ててみせましょう。主の為ならば私は幾らでも悪を為し、善を殺します。主の為ならば私は心すら捨てられます。刃を突き立てろと命じられれば、私は主ですら迷わず手に掛けられるでしょう。……主の為ならば、私は全てを捧げられます」

 泣き笑いのような顔で、彼女は言った。


「――ならば。ならば私は――あなたを、愛しているのでしょうか?」


 心の在り処を捜すように自身の胸を抑え、救いを求めるように問い掛ける表情は、まさしく悲痛そのもの。

「……」

 自分の心が、分からない。自身の拠って立つべき“意志”が、紛う事なき自分の心から生じたものなのか、由来の判別が付かない。それは――果たしてどれほどの不安と恐怖を伴う事実だろうか。俺には、もはや想像が及ばない。植え付けられた忠誠心は心の中枢に根を張り、歳月を経るにつれて肥大化し、あらゆる感情を内包する程の妄念へと変化を遂げた。ならば、それは既に、森谷の“殺意”とすら比肩し得る怪物バケモノだ。

「私はもう、昔のように純粋じゃありません。心も身体も、歪みに歪んで正常な在り方から掛け離れてしまった。ヒトとして、どうしようもなく壊れ果てているんです、私は。そんな存在は――シンちゃんの傍には、相応しくない。シンちゃんの傍には、居られない」

 かつて、森谷蘭の精神が死の瀬戸際に在った時。俺は砕けた心を繋ぎ止める為の楔として、“忠”の一字を利用した。武士で在りたいという蘭の願いを忘却の底から呼び起こし、生への意志をその器に宿す為には、どうしても必要な事だった。だが、その楔が今、巨大な縛鎖へと変じて蘭の心を縛り付けているのだ。精神と肉体の両者を拘束する、二重の呪縛。それはまるで、“森谷”と俺の共同作業だ。皮肉としか言い様のない、無情な現実だった。

「蘭……、」

 乾いた喉から声を絞り出し、言葉を投げ掛けようとして、躓く。

――俺は一体、何を言えばいい?

 蘭の精神に忠誠の種を撒き、育て上げる事で自由意志を奪ったのは、他ならぬ俺自身の咎だ。その俺が、“お前の心はお前だけのものだ”なぞという戯言を、どの面下げて口に出来ると言うのだ? 所詮は論理的根拠も存在しない定型文的な激励が、蘭の何を救済する? 否、いかに弁舌を尽して巧妙な説得を行ったとしても――それが俺の口から発される限り、ただその一点のみの理由で、受け手である蘭は素直に受け止められないだろう。完全な当事者であり、女心を深く解する術もない俺が何を言った所で、蘭の心を打つような説得力など生じようもない。あらゆる説得は虚しく空回りするだけの結果に終わるだろう。故に、俺には眼前の少女へと掛けるべき言葉を、何一つとして見出す事が出来ない。

「…………」

「…………」

 酷く重苦しい静寂が、場に沈滞する。

 あと一歩。ここまで辿り着いていながら、残るほんの僅かな距離を埋める事能わず、俺の伸ばした手は蘭を捉え損なったのだろうか。尚も全霊で頭脳を回転させながらも、具体的な方策が浮かぶ事はなく、心には焼け付くような焦燥だけが募り続ける。

――言葉での説得が不可能なら……行動に、移すか?

 不意に脳裡で囁かれた言葉に、心臓が跳ねる。一度は冷えた身体に血が巡り、体温が再び急上昇を開始する。

 そういう●●●●強引なやり口は全く以ってスマートではないし、俺の趣味とは掛け離れている。だが、蘭のようなタイプには時として非常に有効な手段である事は間違いないだろう。そして、それを実行する為の心得は、備えている。

「……」

 例えその先に、十年前の焼き直しのような結果が待っていようとも……俺がその手段を選択する事で、不安定に揺れ動く蘭の心を定める事が出来るなら。今にも消え失せそうに儚い姿を、或いは永久に俺の傍に留め置く事が適うのなら。それならば、俺はいかなる非道も躊躇う事無く――


「――や、まったく。私ってば毎度毎度登場タイミングが神懸かり過ぎて、何やら出待ちを疑われちゃいそうな予感すらするよ。いやぁ天に愛されてる少女ってのはまさしく私のコトだよね~。あ、天とは言ってもあの蛮族天使エンジェリック・バーバリアンとは全く以って無関係だからそこんところ勘違いしないようによろしく!」


 陰鬱な空気を無理矢理に払い退けるような、場違いに陽気な声音が公園に響き渡る。それは聴き間違える筈も無い、織田信長が第二の側近……明智ねねの声。俺と蘭は弾かれたように首を巡らせ、声の発生源へと同時に視線を向け――そして同時に、絶句した。

「やあ、我ながらお見苦しい姿で失礼するよ、二人とも。でもまあコレはいわゆる奮闘の末の名誉の負傷ってヤツだからさ、寛大な心で見逃してくれると嬉しいかも」

 公園の入口に佇んで雨に打たれる小柄な姿は――誰の目にも明らかな程に、ズタボロ●●●●だった。

 師から貰った大事な贈り物だというロングコートは各所が無惨に裂け、もはや元の色を判別出来ない程に汚れ果てている。両手を覆う武装である自慢の鉤爪は一本も残らず根元からへし折れて、不恰好な篭手に成り果てていた。そしてねね自身の肉体もまた、相当なダメージを負っている事が一目で分かった。額の傷から未だ溢れ出る血によって、片目は既に閉されている。裂けた衣服の隙間から覗く肌には、生々しい打撲痕と裂傷。泥と血と細かな傷に塗れた肢体は、幾度も幾度も固い地面を転がった証左だろう。

「……」

 身体に残る死闘の痕跡を隠そうともしないままに、ねねはじっと俺達を見ている。吹き付ける強風に今にも飛ばされそうな儚さを総身に湛えながら、それでも双眸に強烈な意志を宿して、倒れる事無く立ち続けている。未だ自分には成し遂げるべき使命があるのだと、その壮絶な立ち姿は雄弁に語っていた。

「ねね、さん……?」

「ん、数時間ぶりだね、ラン。また会えて、嬉しいよ」

 透明な笑みで応えるねねに対し、蘭は感情の堤防が決壊したかのように、くしゃりと顔を歪めた。

「――っ! ねねさん、ひどいケガをッ! それに、わたし、私は、ねねさんに――」

「はーいミニストップ。別に謝られる筋合いはないし謝って欲しい訳でもないから、そういう面倒なのはオールカットで。どーしても謝りたくて仕方が無いって言うなら後で幾らでも土下座してくれていいし、このケガについても今すぐ死んじゃったりはしないからさ、今は落ち着いて私の話を聞いてくれないかな? もうあんまり、時間も残されちゃいないと思うしね」

 ねねは謳うような調子で言葉を重ねて、蘭の感情的な叫びを封じた。そして、俺と蘭の顔を交互に見遣る。俺は、声を上げる事はしなかった。気を抜けば胸の奥から溢れ出てしまいそうな幾多の言葉を強いて押し留め、ただ強い意志の込められた焦げ茶の瞳をじっと見詰める。ねねは微かな笑みを口元に浮かべながら、俺へと頷いてみせた。

――合点承知。私にお任せだよ、ご主人。

 声には出さないそんな言葉を、俺は確かに聴いた。

――ああ、お前はいつでも有能で頼れる従者だったさ。任せたぞ、ネコ。

 俺の無言のメッセージは、視線を介して我が従者第二号に届いただろうか? ……ニィッと満足げに吊り上った小生意気な口元が、きっとどうやらその答えなのだろう。ねねは俺から視線を切ると、真っ直ぐに蘭を見つめ、語り掛けるように口を開いた。

「ねぇ、ラン。いきなり自分語りなんて始めちゃうとすごく痛い系女子みたいでアレなんだけど、その辺はもう覚悟を決めた上で言うよ。ん、コホン。……私さ、ずっと“家族”ってヤツが欲しかったんだよね」

「家族……」

「そ、ファミリー。血の繋がりなんて関係ない。ただありのままの私を受け入れてくれて、一緒にゴハン食べて、笑い合ってケンカして。みんなが当たり前に持ち合わせてるっていう家族が、欲しくて欲しくてたまらなかった。だからさ、ご主人とランに出会って、一緒に暮らして……それがホントに嬉しかったんだ。ランにとっては何でもない日常だったのかもしれないけど、私にとっては毎日が宝物みたいだった。過ごした時間は短くても、ぜんぶがぜんぶ、大切な思い出なんだ。何一つ、私は忘れない。何億円積まれたところで、この記憶を売り払う気は更々ないね」

 まぁそれって明智家の資産的には大した額じゃないんだけどねー、と照れ隠しのように言い繕いながら、ねねは笑う。日頃から良く見せるシニカルな笑みとは、明白に種類の異なるものだった。何一つとして棘の見当たらない、綿花のように柔らかな微笑に載せて、ねねは言葉を紡いだ。

「何たって大切な“家族”のコトなんだ。たぶんキミが思ってるよりも遥かに、私はランのコトを知ってるつもりだよ。だからこそ言わせて貰うけど――いつだって笑ったり泣いたりで騒がしいキミは、どうしようもなく“人間”だったさ。そりゃ変なところもあったのは認めるよ? 何かにつけて主がどうの主がこうのと喧しかったのは事実だね。だけど、絶対に“それだけ”がランの全てじゃなかったよ。私は知ってる。ちゃーんと、憶えてる。絶対に、主君に忠誠を尽くすだけのお人形さんなんかじゃなかった。所々でエキセントリックなだけで、基本的には至ってフツーの女の子。じっちゃんの名に懸けて断言するね。キミは、壊れてなんかいないって」

 神妙な声音から一転、悪戯っぽい笑みを浮かべて、ねねはからかうような調子で弁舌を振るう。

「……とまあ色々恥ずかしいコトをシリアスに語っておいて何だけど、ランにとっちゃそんなこと●●●●●は割とどうだっていいんだろうね? いやいや隠さなくてもいいさ。気持ちは分かるというか何というか、私だって恋に恋する女の子なんだから、ホントに重要なコトが何なのかはちゃーんと理解してるってば。要はまあ、ランは自分の気持ちに自信が持てないって話でしょ? 自分では忠誠心と恋愛感情の区別が付かなくて、それが苦しくて苦しくて仕方が無い。いやあお察しするよ、さぞかし大変だろうね。そしてそんなキミにはこの言葉を贈ろう。――“鏡見て出直せ。話はそれからだ”」

「……え?」

 想定外の毒舌が飛んできた事で目を見開いている蘭に対し、ねねはやれやれと首を振り、溜息を吐き出して呆れの念を盛大にアピールしてみせる。

「ぶっちゃけこんなの真面目に解説するのも馬鹿馬鹿しくてやってらんないんだけど、まあ致し方なし、だよね。ランったらホント律儀って言うか融通が利かないって言うかむしろもうただの馬鹿って言うか、放置してたらいつまで経っても自己解決しそうにないし。……えっとねぇ、これは第三者としての至極客観的な意見なんだけど。キミはアレなんだよ。二十四時間年中無休、三百六十度全方位死角なしに――どう見ても恋する女の子です、本当にありがとうございました。QED」

 怒涛の如く叩き付けられる言葉のラッシュに、蘭は言い返す事も忘れてポカンとしている。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるねねの姿は、どこかネズミを甚振るネコを連想させた。

「否定したいならさ、ご主人と話す度にいちいち頬を染めるな目を潤ませるなー! ってなもんだよ全くさ。はっきり言ってこの期に及んでキミの感情を分かってないのなんて、他ならぬキミ自身だけなんだよ? ご主人だってズバリ自分に関わる事だから言葉に困ってただけで、ランの気持ち自体は把握してるに決まってるじゃん。キミはそれくらい分かり易い人間なんだって自覚しなよ。周りから見ればホンッッットに議論の余地なく一目瞭然なの。……そうだね、それで納得出来ないって言うなら、具体的なエピソードを挙げてみようか? ホラ、つい昨日の事なんだけどさ。私と半裸のご主人がベッドの上で絡まり合ってる時――」

「……」

「そんな目で見ないでよご主人。少なくともランの視点では“そういう風”に見えたんじゃないかなって話さ。うん、角度の問題でご主人は気付かなかったみたいだけど、実を言うとあの現場、ランがドアの外から目撃してたんだよ。ご丁寧に気配まで消してね。勿論、実際のところ、私とご主人はちょっとばかりマジメなお話をしてただけなんだけど……、その時のランの顔たるやどう見てもアレだね、男を寝取られた女って言うか、まさしく旦那の浮気現場を押さえた女房。忠誠心? いやぁないない。あれは見間違えようもなく、嫉妬に燃える女の目だったね。正直言っていつ闇討ちされるかと気が気じゃなかったよ」

 おおこわいこわい、と大袈裟に身体を震わせて見せると、ねねは蘭に何を言わせる隙も与えまいとばかりに、早口で言葉を継いだ。

「それにさ、聞いた話だと、今までランが面接で容赦なくお祈りしてきた“手足”候補――みんな、女のヒトだったみたいじゃないか。あのサギとかいうトチ狂ったセンパイもそうだし、後はお鶴さん? っていう私の知らないヒトだとか。なんだかんだ理由はあるんだろうけど、結局のトコロ、本音はご主人を取られたくなかったんじゃないの~? モチのロン、“従者”じゃなくて“女”として、ね」

 ちなみに捕捉を入れると、ねねが言及した“お鶴さん”とは即ち、滝川鶴羽ツルハ――以前に織田信長の従者らしき役職を務めたような気がしないでもない、今頃はオホーツク海辺りを流氷に混じって漂流していそうなナマモノである。何処からどう考えても恋愛という概念とは全く縁の無い輩なのだが……その辺りを指摘して話の流れを阻害するのも何なので、大人しく口を噤んでおく。

「もちろん、“それは違うよ”って頑なに言い張られちゃったらそれでおしまいなんだけど。私はランとは別の人間だから、理詰めでキミの感情を特定する事は不可能だ。そういう意味では、突き詰めて言えばこの議論自体が無駄なのかもしれない」

 そう、結局の所、証明など出来る筈がないのだ。人間の心理とは、万事がロジックで説明出来るほど単純明快なものではない。例えどれほど高尚で真っ当な理屈を用意し、幾千の言葉を費やしたところで、それだけでは決して蘭を納得させられはしないだろう。だからこそ、俺は殊勝に口を閉ざし――明智ねねは、尚も口を開くのだ。

 どこか切なげな色を瞳に宿しながら、それでも陽気な笑顔を絶やすことなく、自身の想いを森谷蘭の心へと届けるべく言を重ねる。

「だけどさ。理屈じゃなく、私には分かる。分かっちゃうんだよ。ご主人の事を想う気持ちが……ホント、イヤになっちゃうくらいに、ね」

「ねね、さん」

「――大丈夫、胸を張っていいんだよ。ランは、ちゃーんと恋をしてる。ご主人の事を、歪みなくまっすぐに、愛してるんだ」

 それはねね本人の口にした言葉通り、“理屈”ではなかった。ただ、圧倒的な“実感”と、それに伴う巨大な説得力だけが、その言葉には込められていた。話し手が俺ではどう足掻いても得られなかったであろう説得力を見事に補って、ねねの言葉は雨中に響き渡る。聞き手たる蘭がどのように受け取り、噛み締めたのか、それは分からない。俯き隠れた顔から表情を窺う事は不可能だ。

「……もう、これ以上は何も言わないよ。私がキミの背中を押してあげられる言葉は、ホントにこれで打ち止めだから。主に私の心情的に、ちょーっとばかり限界だしね。あと体力的に、それとたぶん時間的にも●●●●●●●●、そろそろマズイ。天使ちゃんは予想以上に頑張ってくれてるみたいだけど、さすがに相手が悪過ぎるしね」

 飄々と言い放つと、未だ沈黙を保っている蘭から視線を逸らして、ねねは俺を見た。血と泥に塗れた顔面には、嫌と言う程に見慣れたニヤリ笑いが張り付いている。

「さーてさてさて、ランと違ってご主人には言うべき事は特に……あ、そうだ、自分を正当化しつつオオカミになる好機を邪魔しちゃってごめんね~。悪気はあったけど謝ったから許してくれるよね?」

「おい。おい」

「くふふ、お小言なら後で聞くよ。うん、今はちょっと……、休みたい、かな」

 弱々しい呟きを漏らすや否や、あたかも頭上から身体を操っていた糸が切れたかのように、ねねはガクリと膝を着いた。傍目にも必死の力で上半身を支えながら、真っ直ぐな視線を俺へと向ける。胸中を駆け巡る想念を押し殺して、俺は静かに声を掛けた。

「ああ、今の内にゆっくり休んでおけ。お前にはまた後で、大事な仕事をして貰わなきゃならないからな」

「……うん」

 頷く。そして、数秒ほど、真摯な色を宿した瞳が俺の姿を見据え……不意に、ニコリと笑った。


「信じてるよ、ご主人」


 心の底から絞り出したような、全幅の信頼を最後に示して――小柄な身体が、崩れ落ちる。これまで辛うじて心身を支えていた力の全てが抜け落ちたような風情で、前のめりに倒れ伏す。そしてそのまま、ピクリとも動かなくなった。温度を喪って青褪めた肌を泥土と血に塗れさせながら雨の中に横たわる姿は、遠目には戦場に斃れた死体のようにも映るだろう。今にも死神ヴァルキュリアが降り立ち、少女の魂をヴァルハラへと連れ去ってしまいそうな。そんな不吉な予感が、否応無く脳裡を過ぎる。

 だが。俺も、蘭も、ねねの傍へと駆け寄る事は出来なかった。それどころか――不可視の針で影を縫い止められたかの如く、その場から一歩たりとも動く事が出来ずにいた。怪物の腹に呑み込まれてしまったかのような凄まじい圧迫感に中てられて、身体の自由すらもが侭ならない。降り頻る雨粒とは別に、冷え切った汗が戦慄に粟立つ肌を流れ落ちていくのを自覚する。

 怪物的な圧力。度外れた危険。災厄じみた、存在感。

 凶悪な獣性と暴力性に充ちた“この気配”を、俺は知っている。


「――また後で、ねえ。ヒヒ、“後”なんて贅沢なモンが果たしてお前にあるのか、そこはちょっとばっかし疑問だよなぁ」


 自身を取り巻く風雨すらをも怯え竦ませる様な、禍々しい“氣”の渦を身に纏った男が一人――今、嵐の街を踏み越えて、公園の敷地へと。俺達の眼前へと、その姿を現す。


「そこの嬢ちゃんも天の奴もよーく頑張ったけどよ。ま、“壁”を越えられねぇ限りは時間稼ぎが関の山、だわな。そもそも最初から無理ゲーな訳で、あんま責めてやるんじゃねえぞ? ヒヒ、さーて、それじゃ――」


 此度の戦乱における、最大にして最凶のジョーカー。その名は――川神院元師範代・釈迦堂刑部。

 俺が全霊を以って乗り越えねばならない最後の“壁”が、絶望的な暴威と共に立ち塞がる。


「約束を、果たしてもらいに来たぜ――信長」
















 





 ネコのフラグが立っていなければ本作はR-18板に移動していた可能性が微レ存……?
 という訳で、長かった第二部もようやく最終局面突入です。盛り上げていけたらいいなあ(願望)
 原作だと父親に反抗するまでの間に段階を踏んで成長していったクリスですが、今作では中将がいきなり暴挙に出たので彼女の方も色々とすっ飛ばして突っ走っている感じですね。走れクリス。
 前回は多くの感想を頂きありがとうございます。充填された燃料を活用して馬車馬の如く続きを書き上げたいと思いますので、宜しければ引き続き燃料を補給してやってください。それでは、次回の更新で。



[13860] 俺と彼女の天下布武、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:a52f217d
Date: 2013/11/02 06:07
「“壁”?」

「オウ。ま、比喩だわな。人間と、いわゆる“人外”の間に横たわってる一種の境界線を指して、武の世界じゃそういう風に呼ぶワケよ」

「人間と人外、ね。俺からしてみれば、板垣の連中もアンタも等しく人外なんだが……つまりはそのカテゴリの中にも越えられない一線があるって訳か。その区切りの名前が、壁」

「流石に理解が早いじゃねえかよ。ま、そういうこった。“壁”を越えた武人――俗に言う“壁越え”だな。コイツは俺を含めて、世界に十人いるかどうかってレベルの“例外”だ。壁を越える前と越えた後じゃ、闘いのステージ、闘いの常識そのものが違う。よって壁越えに対抗出来るのは壁越えだけ、ってな」

「なるほど……。で、その“壁越え”に認定される為の具体的な条件は何なんだ?」

「条件……っつうか、その辺りに明確な線引きのルールはねえよ。割とアバウトなもんだ。単に他の壁越えに対抗出来るだけの力量を持ってる時点で、そいつもまた壁越えだって証明にはなるがな。RPGみたく単純明快に、一定以上のパラメータでジョブチェンジ、っつー訳にもいかねぇだろ。――ああ、今の喩えで思い出したんだが、壁越えにも種類って奴があってだな」

「種類?」

「一つ目の例は、ズバリ俺。闘いに必要な大体のステータスが満遍なく突き抜けた領域に達してる、ま、いわゆる“普通の”壁越えだ。さっき言った世界に十人云々はこのタイプだな。それともう一つの種類が、一つのステータスだけが壁越えの域に到達してるパターンだ。脚力だけ、或いは腕力だけ、はたまた体力だけ、ってな感じによ。そういう特殊な連中は、総合力じゃ“普通の”壁越え連中の足元にも及ばねえが――」

「例え一部の能力だけでも壁を越えているのは事実。であるならば、戦い方次第では本物の人外にも対抗出来る。つまり同じステージで闘う段階まで進める、という事か」

「口で言うほど簡単な話じゃねえけどな。例え一項目だろうが、壁越え級の呼び名に要求される能力は生半可なモンじゃねぇ。限られた天才中の天才の、そのまた極々一部だけが辛うじて辿り着ける領域だ。ま、俺レベルの超・天才にしてみりゃ、テキトーやってる内に気付いたら到達してた段階に過ぎねぇんだがな」

「アンタは今この瞬間も汗水流して鍛錬に励んでる全世界の武道家に謝罪すべきだな、真剣マジで。……まったく、一体どういう神の気紛れで俺はこんな誰得体質に生まれ付いたんだろうな。折角の“氣”が、宝の持ち腐れもいいところだ」

「ヒヒ、そう腐るんじゃねぇよ。俺は今まで色んな才能を見てきたけどよ、“威圧”なんてレアスキルは一度たりとも見たことねぇぜ? それだけで十分すげぇじゃねえか。ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別ななんとやら、ってな」

「ふん、気休めにもならないな。ナンバーワンにならなくてもいいなら最初から苦労はしない。俺が目指してるのは――頂点だ。腑抜けた妥協の末に吐かれたそんな言い訳なんざ、何の役にも立たないんだよ。天下を志す男に必要な心構えは……不撓不屈。ただ、それだけだ」

 煮え滾る溶岩にも似た想念と共に吐き捨てると、少年は仰向けに寝転がった体勢のまま、夜空へと手を伸ばす。あたかも頭上に広がる満天の星空を自らの掌中に包み込もうとするかのような、そのどこまでも傲岸且つ不遜な仕草に、釈迦堂刑部は自らの口元に笑みが浮かぶのを自覚した。恐れを知らない若さを微笑ましく思っているのか、或いは身の程知らずな弟子への嘲弄なのか、それは自分でもいまいち判別が付かないのだが。

 この織田信長という少年は、思えば三年前に出逢った時からそうだった。のべつまくなしに吐き散らす言は天下国家を語る気宇壮大なもので、その割に実力の方は全く伴っていないのだ。抱える才の特異性については釈迦堂ですらも目を見張るものがあるが――それが戦闘力に直結するかと言えば、答えはNOである。実際、信長はこの三年間、他の兄弟弟子達の誰よりも必死の修練を積み続けているにも関わらず、武人としての純粋な実力はぶっちぎりの最下位だ。それでも尚、こうして地を這い蹲りながら、幾度も幾度も瀕死の重傷を負いながら、諦める事無く足掻き続けている。愚かと言えば愚か。滑稽と言えば滑稽。だが、だからこそ――織田信長という少年は今日この日まで、釈迦堂刑部の一番弟子たり得たのだ。

「……」

 信長本人の達ての願いを受けて、主に回避技能を鍛える為の過酷窮まる特殊訓練を釈迦堂が開始してから、既に半年が経過していた。その間、信長は釈迦堂の繰り出す容赦無い暴力を躱し損ねた結果として、幾度かは確実に死の淵を覗き込んでいる。首尾良く直撃を避け続ける事に成功した日でも、“掠り傷”からの出血だけで包帯が赤く染まる始末だった。そのような地獄の日々を送り続けているにも関わらず――信長の心は、折れない。その精神は、例え死が眼前に迫っていても恐怖に支配される様子がない。いかに甚大な肉体的苦痛を受けても、精神的には全くダメージを受けた様子を見せない。修行再開が可能となる程度にまで怪我が癒えたと判断すれば、何の躊躇いもなく、平然たる顔付きで釈迦堂に続行を要求してくる。

 努力、根性、不屈。然様に陳腐な賞賛で済ませていい問題ではなく――それはもはや、“異常”だった。凡そ人間に発揮し得る精神力の限界を、明らかに超越している。それはあたかも、肉体に精神が宿っているのではなく、精神こそが主体となって肉体を支配しているような在り方。

 その姿は、かつて釈迦堂が立てたとある推測の正しさを、これ以上ない形で証明していた。

 即ち、織田信長の正体。それは――感情の怪物●●●●●である、と。

 激情家という形容で表現し得る領域をも遥かに超えた存在。まさしく怪物的と云うべき膨大な“感情”の嵐を絶えず心中に抱える、異形じみた精神構造の持ち主。その異常性は、肉体という器から溢れ出した想念を、自身の保有する氣に載せて吐き出す――即ち外気功と云う形で放出する事で、“威圧”などという一種の超能力じみた理不尽な現象を引き起こす事すら可能としている。信長はいかなる手段を用いてか、その過程にて贋物の“殺気”を生成した上で外界へと解き放っている様だが――少なくともその“原材料”となるものは、信長本人の保有する氣と、人間の域を超えて巨大に過ぎる想念に他ならない。

 思い返せば、信長の昏い双眸の奥底から垣間見えるのはいつでも、天上天下の全てを焼き尽くすような憎悪と、森羅万象を吞み込まんばかりの野心だった。もしも他者が信長という少年の心象風景を覗き見る事が出来るなら、其処にはきっと正真正銘の地獄が広がっているのだろう。その狂気的と言うべき性質が生まれ持ってのものなのか、或いは何かしらの切っ掛けを経てそんな風に成り果てたのか、釈迦堂は詳細を把握していない。話を聞く限りにおいては、他ならぬ信長自身もその辺りの自覚は曖昧らしかったが、“そんな事は別にどうでもいい”と言うのが二人の共通意見だった。徒に過去を遡ってみたところで、現在における自身の在り方が変わる訳ではないのだから。

 ともあれ、釈迦堂が信長を弟子に選んだのは、そうした半ば狂人じみている精神の形ゆえだった。煌くような武才を持たず、氣を纏えぬ肉体は脆弱の一言。しかしその身を駆り立てる“意志”の烈しさは、かつて目にした誰よりも突き抜けている。そんな、まさしく自身とは真逆の在り方にこそ、釈迦堂は興味を見出したのだ。

「よっこらしょ、っとぉ」

 足元に広がる草地へと腰を下ろし、そのまま仰向けに寝転がる。すぐ隣では、信長が飽きもせずに夜空へと腕を突き上げていた。その姿をちらりと横目で見遣って、釈迦堂はニヤリと口元を歪め、意地の悪い調子で声を掛けた。

「そんな必死に手ェ伸ばしてどうしたよ、信長。ヒヒ、掴まえたい星でも頭上に光ってんのか?」

「ああ、そうだな。自分がいつまでも天上の存在だと、何の努力もせずともその輝きは永久不滅だと心の底から信じ切って疑いもしない――闇の中でそんな風に思い上がっている凶星を、いつの日かこの手で地べたに引き摺り下ろしてやると、改めて自分に誓ってたところだ」

「ヒヒ、そうかよ。まぁそうギラギラすんじゃねえって、お星サマは逃げやしねぇさ。それよりもお前の場合、まずは自分がくたばらねえように気を付けるこったな。夜空を見ながら歩くってのはロマンチックで楽しいだろうが、それで足元の小石に躓いてちゃつまらねえだろ?」

「……見上げたくもなる、さ。辰の姿はとっくに見えない。亜巳の背中もいつの間にか遥か遠くに消え果てて、妹分の天にすらも呆気なく追い抜かされる始末だ。俺には俺の才があると頭で理解してても、こうして生々しい現実を見せ付けられるとキツイものがある。本当に、侭ならない」

「あー、真剣で才能ねぇもんなぁ。大変だよなぁお前さんも。……で、どうすんだ。諦めるか? 約束も何もかも放っぽり出して、尻尾巻いて逃げてみるか?」

「ふん、いちいち無駄な問答をさせないで欲しいもんだ。俺がどういう人間なのかは重々承知しているだろう? ああ、ちなみにもしそれが発破を掛けてるつもりなんだとしたら、アンタはとんでもなく不器用な男だとしか言い様が無いな。そういう言葉を使った駆け引きは自分の適性ってものを確かめた上で、相手を選んでから実行に移す事を切にお勧めするよ。聴いてるこっちが居た堪れない気分になる」

「……たった今確信したぜ。お前やっぱ、最ッ高に可愛くねぇ弟子だわ」

 弟子の性根の捻くれ具合を再確認して、釈迦堂は思わずと言った風に苦笑する。まさに心の底から湧き出た苦笑いだった。秋の夜風が心地良く肌を撫でる中、二人並んだまま星空の天蓋を黙って見上げる。それから暫し、沈黙が続いた。草むらの中から響くコオロギの涼しげな声音だけが静寂に彩を添える。まさか特訓の疲労に負けてそのまま寝ちまったんじゃねぇだろうな、と釈迦堂が隣を覗き込もうとしたちょうどその時、信長が再び口を開いた。

「そう言えば、一つ質問があるんだが」

「んだよ。女の趣味なら前にも話しただろ? 四十代の色っぽい熟女で、尚且つ人妻ならベストだ」

「ん、オッサン今何か言ったか? あまりにもどうでも良すぎて刹那で忘れてしまった」

「ひでぇなオイ。まあお前がこういう話題に乗ってこないのは知ってるけどよ……で、硬派なお前さんは俺に何を聞きてえのよ」

「今日、アンタが嬉々として見せびらかしてくれた例の飛び道具についてだ。名前は……確か、“ファン――”」

「“リング”だバカヤロウ。俺オリジナルのカッチョイイ必殺技なんだから間違えんじゃねーよ」

「まあそれもどうでもいいとして。俺が気になったのは、アレの運用法だ。ぶっちゃけた話、ひたすら距離を取って相手の間合いの外からアレをぶっぱしてるだけで無敵じゃないのか? アンタ、必殺ゲージもとい“氣”の総量なんざ無尽蔵に近いんだろう」

「あのな。いくらある程度はぶっぱし放題っつっても、必殺技にゃもれなく硬直ってモンが付いて来るだろ? 適当に撃って外した隙に懐まで入り込まれでもしたらその時点で反撃確定じゃねえか。下手すりゃカウンターヒットからのピヨりで十割貰う羽目になっちまう。雑魚散らしにゃイイ戦法だけどよ、同じ壁越えの連中にゃまず通じねえわな」

「キャンセルで隙消しとか出来ないのか? こう、G×Gの浪漫キャンセル的なノリで」

「できねーよ。人体構造と物理法則をなんだと思ってんだお前、最近噂のゲーム脳ってヤツか? リアルであんなイカれた挙動してみろ、一瞬で筋肉が断裂して骨が飛び出るぜ。それこそ百代みてぇな反則技――瞬間回復スキルの持ち主でもなけりゃ、どう頑張っても再現は無理だわな」

「なんだ面白くないな。川神院元師範代が聞いて呆れる。その程度の事も出来ないんじゃ師匠として失笑モノじゃないか」

「お前な、そんなに今ここでシッショーさせられてぇのか? 確かに紙装甲のお前にゃお似合いだけどよ」

「遠慮しとくよ。リアルにアンタのコンボ喰らったら確実に十割どころじゃ済まないしな。オーバーキルもいいとこだ」

「なに、トレモだから死にゃしねえよ。死ぬほど痛え目を見るだけだ」

「どっちにしろ勘弁願おう。俺はマゾヒストじゃないからな。そういうのは亜巳の顧客の連中にでも振舞ってやればいい」

「ヒヒ。俺の修行に付いて来れてる時点で、お前さんもマゾの資質十分だと思うがな」

「一万歩譲ってそうだとしても、文字通りの意味で昇天しそうなSMプレイはお断りだ」

 満天の星空が明るく照らし出す鍛錬場にて、釈迦堂刑部と織田信長は気の抜けた会話を交わす。その情景は、どこか噛み合っていないながらも、概ね馬の合った師弟の楽しげな歓談として第三者の目には映るだろう。

 しかし――軽妙な口調で気安い言葉を通わせながらも、それが所詮は取り繕われた表面上の平和に過ぎない事実を、釈迦堂刑部は良く承知していた。当然、信長もまた同じだろう。全ての前提として、両者の関係性はどうしようもなく歪な礎の上に築かれている。その根底に流れる真の感情は、友好の二字からは遥かに遠い種類のものでしかない。薄皮一枚を捲ってしまえば、其処に在るのは黒々とした想念の坩堝だ。

 軽薄な笑みの裏側で、釈迦堂は絶えず来るべき日を夢想する。

 異常な精神と異質な才を有する眼前の少年は、死と隣り合わせの研鑽の末に果たして何処に辿り着くのか。

 絶えずその心身を衝き動かす強靭な“意志の力”なるものは、彼方の星を掴み墜とすに至るものか。

 全ての答えが明らかとなる日が訪れるその時を、釈迦堂刑部は獣じみた渇望を胸に待ち侘びていた。

 
 そして。

 
 中秋の名月が夜空に輝くその日から、約二年半の時を経て――激突の日は、訪れる。







 
※※※





 我が元・師匠たる釈迦堂刑部という男の出現に際して、俺の胸中に大きな精神的動揺が生じる事はなかった。闘いに飢えた川神百代が遂に限界を迎え、突如として牙を剥いてきたあの瞬間の心臓が停まりかねない戦慄に比べれば、いっそ平静そのものであったと言ってもいいだろう。

 無論、それは両者の脅威度の差を示すものではない。片や世界最強と称される武神、片や武の総本山にて師範代を務めた凶獣――改めて言うまでもなく、共に武界の頂点付近に君臨する怪物だ。ならば何を以って両者に対する俺の反応が別たれたかと言えば、それは即ち“覚悟”の有無である。

 半ば突発的な事態であった川神百代との対峙とは違い、釈迦堂刑部が敵として俺の眼前に立ち塞がる事は最初から承知していた。平穏無事な日々に倦み、血生臭い闘争に昏い目を輝かせる凶獣が、これほどまでに大規模な戦場に現れない道理などありはしない。例えその立場がマロードの協力者というものでなかったとしても、この男は必ずや暴力の匂いを嗅ぎ付けて姿を見せていた事だろう。

 いかに驚異的な脅威との遭遇であれ、事前にそれを察知していたならば、動揺は最低限に抑えられる。まあ当然ながら実際の危険度は些かも変わらないのだが、少なくとも見苦しく取り乱すような事態を避けられるのは大きい。と言う訳で――俺はこうして至って冷静沈着な表情を保ったまま、比較的静穏な精神状態を以って、数日振りとなる元・師匠との邂逅を迎える事に成功した訳だ。

「ふん。この悪天候の中、わざわざ御苦労様だな。恐らくは大雨洪水警報も出てる事だろうし、大人しく梅屋辺りに引き篭もってくれていれば助かったんだが」

「んー、俺的にゃ一日中パチスロの新台でも打っときたかったんだけどよ、お呼びが掛かっちまったら仕方ねぇ。普段フラフラしてる分、偶にはお仕事しねぇとなぁ」

「アンタの中に例え一握りでも勤労意欲という概念が存在してるとは思わなかったよ。てっきりこの先一生無職を貫く気だとばかり」

「ま、報酬が金ならやる気は出ねぇさ。けどよ――待望の“舞台”が整ったってんなら、流石の俺も雨にも負けず風にも負けず頑張っちゃうんだなコレが。ヒヒ、いいねぇ、年甲斐もなくハチャメチャが押し寄せてきやがるぜ」

 心の底から愉しげに言って、釈迦堂はくつくつと哂う。凄まじく強靭に鍛え上げられた黒鋼の如き肉体と、獲物を狙う猛獣の鋭く細められた昏い双眸、そしてドス黒いオーラと化して全身から立ち昇る、凶悪な闘気。武を知らぬ常人が見た所で、その存在の保有する異常なまでの脅威度は一目で窺える事だろう。否応無しに全身を走る悪寒をやり過ごす事に苦慮しつつ、俺は口を開いた。

「――なるほどね。今度という今度こそ、見逃しちゃくれないって訳だ」

「ヒヒ、お前のそういう察しの良さは気に入ってるぜ、俺は。そうその通り、今度こそアウトだ。このしっちゃかめっちゃかな状況見りゃ馬鹿でも分かるが、マロードは今まさに勝負に打って出てる。様子見だの何だのと生温い事は言わず、今日の内に魔王・織田信長を潰して堀之外を掌握する心算なワケだ。って事は当然、俺にお鉢が回ってくるんだよなぁ」

「まあ、そうだろうさ。“織田信長”を相手取るのにアンタという戦力を遊ばせておくようなら、それはよほどの愚物か大物かのどちらかだろうよ」

「ま、アイツはそういう破天荒なタイプじゃないわな。やり方としちゃあむしろお前と似てるか? っつー事で、雇い主から直々に“確実に潰せ”と念を押されちまった以上、俺としてもお前らを見逃してやるワケにもいかねえのよ。いや、かつての師弟で殺し合いとは、何とも心が痛む悲劇だよなぁ。運命ってのは時に残酷なもんだ」

 そんな風に嘯きながらも、口元に浮かぶ歪んだ笑みをまるで隠そうともしない辺り、この男は変わらない。その性根は五年前に出逢った時と何ら変わらず、驕り昂ぶった獣のそれだ。己の力に溺れ、才に胡坐を掻き、どこまでも傲岸不遜に弱者を蹂躙し、足蹴にして一顧すらしないその在り方――ああ、全く以って忌々しく、心の底から気に入らない。
 
 ……。

 俺の個人的な感情はさておくとしても、もはや眼前の怪物との衝突が避けられない事は明白だった。釈迦堂から発せられる禍々しい雰囲気が、押し潰すような闘気と共にその事実を鮮明に教えてくれる。そして、事態がそのように推移するとなれば、まず間違いなく――

「――太刀を。私が、シンちゃんを護ります」

 案の定と言うべきか。見事なまでに予測した通りの台詞だった。蘭はよろよろと力無い足取りで立ち上がると、間断なく叩き付けられる暴力的な闘気から俺を庇う様に、釈迦堂の前へと歩み出ようとしている。

 己が得物を催促するようにこちらへと伸ばされた白い細腕を見つめながら、俺は淡々と口を開いた。

「誤魔化さず正直に答えろよ、蘭。この期に及んで、稚拙な嘘偽りは一切通用しないと思え。……今のお前が刃を抜いて死闘に臨めば、どうなる? 平静を保っている状態でさえ徐々に封印が解けつつあると言うなら、もし剣を振るうような真似をしでかした日には、“血”の浸食が一気に進行する――そうじゃないのか?」

「……。……きっと、そうなると思います。特に、シンちゃんの手にある其の太刀は、“森谷”の業と幾多の血潮に塗れた妖刀。ひとたび抜き放てば、私の人格は内に在る殺意に塗り潰されて、無差別に殺戮を振り撒く“森谷”に成り果てるでしょう」

「そうか。そうだろうな」

「ですから、シンちゃんは今すぐねねさんを連れて此処から離れてください。出来る限り、遠くへ。そうでなければ――きっと私は、二人を殺してしまう。また、私のせいで、大切な人たちを喪ってしまう。そんなの、わたしには耐えられませんっ!」

「………ハァ」

 恐ろしく悲壮な表情で言い放ち、今にも泣き出しそうに眉を下げている蘭をじっと見遣って、そして俺は盛大に溜息を落とした。常日頃から慣れ親しんだ演技の類ではなく、心の奥底から湧き出てきたような、我ながらまさに会心の溜息であった。

 その主成分は、眼前の幼馴染のどうしようもない物分りの悪さへの呆れと、自分の業というものを再確認させられたが故の憂鬱。思いっ切り曇天を仰ぎたくなる気分を堪えて、俺は力なく首を左右に振るだけに留めた。

「――やれやれだ。一体全体、俺はどこまで信用が無いんだろうな。人生の中で嘘ばかり吐き続けてきたツケが回ってきたってところか? まさしくオオカミ少年の悲哀って奴を今の俺は味わってる最中だ」

「シンちゃん……?」

 蘭は物問いたげな目で俺の顔を覗き込んでくる。その双眸を真正面から見返すと、俺は語気を強めて言い放った。

「確かに言った筈だぞ、蘭。俺に任せろ、と。まさかその俺が、身も心もボロボロのお前に困難を押し付けて、負け犬の如く逃げ出す事を是とするとでも思ってるのか? いいから素直に俺を頼ってみろ、蘭。折角の晴れ舞台、織田信長一世一代の大勝負なんだ。――少しは恰好付けさせてくれても、罰は当たらないだろう?」

「……でも、でもっ、相手は釈迦堂さんです! シンちゃんひとりの力でどうにかなる相手じゃありませんっ!」

 全く以って、ぐうの音も出ない程の正論だった。絶大な存在感を湛えて眼前に佇む男は、世界にてトップクラスの戦闘能力を誇る正真正銘の怪物。あの川神百代とすら“闘い”を成立させられる規格外の存在だ。並の武芸者を寄せ付けない蘭の実力を以ってしても殆ど勝機を見出せないであろう相手に、まさに“並の武芸者”レベルの戦闘力しか有さない織田信長が単身で挑むとなれば、それは客観的に見て自殺行為に他ならないだろう。

 だが、それでも、だ。俺はニヤリと不敵な笑みを口元に湛える事で、蘭の至極真っ当な諫言への返答とした。

「ふん、思えば丁度いい機会だな。俺としてもいい加減、舌先三寸だけに頼ってお前を説得しようって発想には無理があると思い始めていたところだ。具体的な行動と実績を以って、十年前のような口先だけの軟弱坊やを卒業したと証明するのも悪くない。そうすれば莫迦みたいに頑固なお前も流石に認めざるを得ないだろうさ。一瞬でも俺を疑った事を心の底から誠心誠意謝罪させてやるから、お前は土下座の準備でもして大人しく待ってる事だな」

 傍目には自信満々の、余裕すら窺えるであろう声音で威勢良く言い放って、俺は蘭の腕を掴み、軽く力を込めて後方へと引き戻す。

 半分は、虚勢。しかし残る半分は、紛れもない俺の本心だ。五年前の出逢いの瞬間から、釈迦堂刑部という男に対する拭えぬ敗北感は、いつでも俺の心中にこびり付いていた。決して相容れない人生観の持ち主でありながら、未熟な身ではいかなる術を以ってしても一矢報いる事すら叶わない存在。激しい敵意と殺意を剥き出しにしたところで歯牙にも掛けられない、そんな覆し様の無い絶対的な力関係に、どれほどの無念と屈辱を抱え続けてきた事か。忌々しく在り続けた積年の想念に今こそ幕を引けると思えば、沸々と滾る様な闘志が自然の内に全身を駆け巡った。

 無論、相手は世界の頂点に限りなく近い規格外の武人である。絶対的な勝利の確信など、元よりこの胸には存在しない。在るのはただ、自身の行動が間違っていないという心の底からの確信だけだ。誰かさんの言に倣えば、そうするべきだからそうする●●●●●●●●●●●●●――ただ、それだけの話。

 未だ逡巡を残した表情の蘭を半ば強引に己の背中へと回し、前へと向けて一歩を踏み出す。面白い見世物を見た、とでも言わんばかりの愉快げな笑みを貼り付けて、釈迦堂は俺を見遣っていた。

「ヒヒ、なかなかイイ青春風景を見せて貰ったぜ。けどよ、なーんかキャラ違くねぇかお前? まるでアレだ、週刊少年ジャソプの王道主人公じゃねえか」

「なに、いつぞやのアンタのご忠告を参考にしてみたまでさ」

『熱血に燃えるも良し、冷血に徹するも良し、ただ、ヒロイン一人救えねぇようなヘタレ主人公にゃなるな』

 ……この期に及んで、ヒロインとは一体誰か、などという下らない韜晦は鬱陶しいだけだろう。今、俺の背後には己が身命を賭して護るべき少女が居る。この肝心極まりない場面で主人公がヘタレるような、捻くれた脚本を描くつもりなど俺には更々無い。生まれてこの方、延々と邪道ばかりの物語を歩み続けてきた俺ではあるが、今この瞬間だけは真っ直ぐで清々しい王道というものを貫いてみせよう。

「ヒヒ――どうもこりゃ本気らしいな。だがよ、信長。友情と努力さえあればどんな相手にでも勝利できるってのは漫画ん中の話だぜ? うっかり現実と混同しちまえばお寒い事になるだけだ。実際、お前、どうやってこの俺に立ち向かうつもりだよ。実は超腕利きの剣豪で、その剣を抜けば素手の十倍の力が発揮できるとか、そういう三流以下のオチでも用意されてんのか?」

「ふん、まさか。そもそもアンタを相手に十倍程度の力じゃどうにもならないだろうさ。まあ、思えばコイツの役割はもう終わってる訳で、いつまでも似合わない代物を提げてる必要は無いな」

 何せもう憶えたし●●●●●●思い出した●●●●●。手放しても“再現”に支障は無いだろう。そして実際に振るう機会が無い以上、もはや持っていたところで徒に身軽さを損なうだけだ。回避能力が俺の命綱である以上、それは歓迎できる事態ではない。俺は朱鞘ごとベルトに挟んだ太刀を手に取って、それを足元の地面に捨て置いた。

「さて」

 先ほど釈迦堂が指摘した通り、現状が果てしなく絶望的である事は間違いない。何せこれまで潜り抜けてきた幾多の苦境とは違い、敵手と相対するのは“織田信長”ではなく“俺”なのだ。苦心して作り上げた虚像を戦術に利用出来ない以上、当然ながら口舌を用いたハッタリは一切が通用しない。切るべき手札は此処に至るまでの間に全て使い果たし、もはや援軍は期待出来ない。ならば必然として、最後に残されるのは……俺自身の、力。

 とは言っても、真正面から殴り合って気合と根性でどうにかなる相手ならば最初から苦労はしない訳で。故に頼るべきは膂力ではなく、俺という個人が有する唯一にして最大の武器。すなわち、“殺気”だ。何かに付けて無い無い尽くしの俺が一縷の希望を見出せるとするなら、それはやはりこの身に備わった天賦の異才に他ならないだろう。その為にも、先ず俺が為すべき事は――

「三分だ。三分だけ、時間をくれ。それだけあれば――俺は必ず、アンタを満足させてみせよう」

 宙に三本指を立てて見せながら、淀みの無い口調で断言する。

 何かしらの確信に充ちているように聴こえるであろう俺の言葉に対し、釈迦堂はピクリと眉を上げ、皮肉げに口を開いた。

「三分、ねぇ……たったそんだけの時間で何が出来るのか疑問だぜ。三分間待ってやる、とか死亡フラグくせえ台詞を言わせたいだけじゃねえのかお前。カップ麺ぶっ掛けて目潰しでもしようってか?」

「それは待ってみれば分かる事さ。それとも何だ、もしや警戒してるのか? 天下に名高い川神院元師範代、自称最凶の釈迦堂刑部ともあろう者が、たったそれだけの時間を与えた結果、散々見下してきた筈の小僧に足元掬われるかもしれない、と? くく、知らなかったよ。意外と小心者なんだな、アンタは」

「――安い挑発だ。ヒヒ、運が良かったなぁ、信長。俺は、安い挑発には乗るようにしてんだよ」

 釈迦堂の返答は、恐ろしい程の凄絶さを漂わせた禍々しい笑みだった。

「いいぜ。五年間待ったんだ、今さら三分ばかり延びた所で構やしねぇさ。見せてみろよ、信長――お前の全力。お前の意志って奴をよぉ」

「……」

 いかにも楽しげな調子で言い放つ釈迦堂に沈黙を返し、目論見通りに運べた事実に安堵する。

――ああ、アンタならそう言うと思ったよ。

 いつでも余裕綽々で、俺の事など歯牙にも掛けてないアンタなら。絶対に自身が脅かされる事はないと、己が才と力を心から信奉しているアンタなら。俺がひたすらに憎悪し嫌悪する釈迦堂刑部と云う獣であれば、必ずや俺に機会を与えてくれると、信じていた。

 その鼻持ちならない余裕が命取りになるのだと、思い知らせてやる。いつまでも勝者では居られないという現実を、噛み締めさせてやる。

 さあ、気合を入れろ。

 遥かな天上にて傲岸不遜に瞬く凶星を――今こそ、この手で引き摺り墜とす時だ。


「さーて、そんじゃカウントダウン開始だ。ヒヒ、ボサッとすんなよ、信長」


 わざわざ言われるまでもない。黄金よりも貴重な時間を一秒たりとも浪費しない様、俺は既に行動に移っていた。

 即ち、第一の行程――“殺気”の生成だ。目標値は、奥義・“殺風”の発動に必要となる分と同等の量。しかしこの作業は、第一段階にして既に過酷窮まりないものでもある。現在の俺のコンディションは最悪に近く、度重なる殺気の放出が祟った結果、運用可能な“氣”が殆ど体内に残されていない。この状態から大規模威圧と同等の殺気を生成するなど無茶無謀も良い所だと、普段の俺なら嘲笑うだろう。

 だが――それでも、やるしかない。白を黒と言い張ってでも、やらねばならないのだ。無理を通して道理を蹴っ飛ばしてでも、俺は成し遂げなければならない。望む未来を切り拓く為には、断じてこんな所で躓いている場合ではないのだから。思考しろ、思考しろ。この事態を打開するために俺が為すべき事は、何だ?


「……」


 氣とは即ち、生命力。生物が生命活動を維持する為に必要不可欠なエネルギー。つまるところ、命在る限り、其処には必ず氣が存在している事になる訳だ。……で、あるならば。


――この先何年分の寿命が縮もうが構わない。だから……出し惜しみは無しにしろよ、俺の体ッ!


 一年の命を僅か一分の力に換えてでも、体内に残留する氣の総てを絞り出すまでだ。どの道、今この瞬間に抗う為の力を得られないようであれば、長々と生き永らえる意味など無い。文字通りの意味で生命そのものを削ってでも、俺は自身の意志を貫き通して見せようではないか。


「ぐ、うぅぅぅ……っ!」


 忽ち襲い来るのは、全身から余さず体温が抜け落ちていくような感覚。怖気の走る冷気が指先から徐々に移動し、血と肉と骨と内臓とを次々と凍て付かせながら心臓にまで迫り来る。歯を食い縛り、唇を噛み破りながらおぞましい感覚に耐え続けて十数秒が経った頃――不意に、仄かな温かさが身体の中心へと宿った。厳冬にて焚き火を囲うような心地良さが全身を走り抜け、冷え切っていた肉体に活力が満ちる。


――良し。これで、下準備は完了だ。


 無論、所詮は荒業で無理矢理に捻り出した“氣”、そう長く保つ類のものではないだろう。この身を充たす温もりが儚く消えてしまわない内に、疾く次の段階へと進まねばならない。

 一呼吸の拍を置いてから、精神集中へと移行する。


「―――――」

 
 全身を循環する氣の存在を意識し、汲み取り、同様に俺の内を渦巻く想念と掛け合わせる事で、それらを遍く“殺気”へと変換。その行程を繰り返すこと数十秒、いつしか俺の体内を巡る氣は総てが贋物の殺意へと在り方を変えていた。後はこれらを一斉に体外へと放出し、最低限の制御を行う事で吹き荒れる黒き嵐を形成すれば、広域威圧の奥義・“殺風”の完成だ。

 ……が、それでは、意味が無い。釈迦堂刑部という規格外を相手にしては、俺が研鑽の末に到った渾身の奥義ですらもが通用しない。常識を超越した質と量を兼ね備えた氣の防護によって難なく防ぎ止められ、春風も同然に受け流されるだけだ。

 故に、俺がこの膨大なる殺気を以って形成すべきは“面”ではなく、“点”。一切の無駄を省いてあらゆる力を特定の一点に集中させ、その凝縮された力によって堅固な氣の防壁を突破する。即ち――“集中威圧”の奥義こそ、この場で求められる業である。

 そして、それは……今現在に到るまで、織田信長が一度たりとも到達し得なかった領域だ。


『また失敗、か……俺もまだまだ未熟、という事だな。やれやれだ、全く』


 構想が頭に浮かんだその瞬間から、必須となるであろう“氣”の精緻なコントロール技術を毎日のように磨き続けても、一向に到る事の適わなかった未知なる位階。幾度試行錯誤を繰り返しても、膨れ上がった殺気は術者の制御を離れ、敢え無く暴発してしまう。

 練習中に為し得なかった業が、実戦中に突如として実現可能になるなどと言う馬鹿げた事態は、現実には殆ど起こり得ない。故に、今この場での奥義の発現は絶望的だ――と、論理的に物事を考えるのであれば、然様に結論付けるのが道理というものなのだろう。

 だが。だが、違う。そうではないのだ。むしろ、今この場、今この瞬間だからこそ●●●●●、俺は奥義の成就に希望を見出せる。未踏の領域に一歩を踏み出せるのだと、確信が胸に宿る。

 何故ならば――制御を離れ、好き放題に荒れ狂う殺気とは、俺自身が手綱を取り損なった、感情と云う名の獣。記憶すらも定かではない遥か昔日から俺の内に巣食い続ける、狂猛極まりない怪物バケモノだ。そして件の獣を御する為の鎖とは即ち、俺という個人の理性、“意志の力”に他ならない。

 今までは、咆え猛る獣を抑え得る程の力を持つ事は出来なかった。そう、俺独りでは●●●●●、獣に打ち克てる程の強靭な意志を己の内に練り上げる事は不可能だった。


 だが――


『くれぐれも、此方の友という高貴な肩書きに恥じる真似だけはしてくれるでないぞ、信長』

 不死川心の、不器用な応援が。

『英雄様の配慮を、無為にするんじゃねえぞ――織田』

 忍足あずみの、遠回しな激励が。

『彼女を助けられるのは、きっとあなただけ。愛の力は、奇跡だって起こすよ』

 椎名京の、確信に充ちた期待が。

『さぁ、さっさとアイツを迎えに行って来やがれ。全部片付いたら、また茶飲み話に付き合ってやるよ』

 源忠勝の、決して揺るがぬ友情が。

『信じてるよ、ご主人』

 明智音子の、曇りなき信頼が。

 縁を結んだ幾多の者達の示してみせた想念が、今の俺の胸中には在る。彼ら彼女らの想いを一身に背負って、俺はこの場に立っている。

 そして、何より――


『俺に、任せろ』


 この身の後ろには、蘭が居る。

 二度と喪わないと己に誓い、必ず護ると正面から告げた少女が、息を呑み、目を凝らして俺の背中を見守っている。


――ああ、今なら俺にも良く分かる。お前●●も、こういう気分だったんだろう?


 瞼の裏側に蘇るのは、ひたすら果敢に莫大な殺意へと立ち向かった一人の少年の姿。誰かの想いをその身に背負い、自分自身の誇りに懸けて、己の限界すらも踏み越え、不可能を可能にして魅せる。それは誰もが夢見るヒーローの在り方で、とうの昔にヒールで在り続ける事を選択した織田信長にはまるで似合わないのかもしれない。

 だが――今、この瞬間だけは。仮面を脱ぎ捨て、あらゆる虚飾を剥ぎ取って、一人の少女を颯爽と救うヒーローで在りたいと、ただ一心にそう願う。


――譲れない意地があるんだよ、男の子おれたちには。なあ、風間翔一。


 そうだ。そもそも、己の中に棲まう獣すら満足に躾けられない人間が、現世に溢れた獣を調伏し得る道理などないではないか。

 ならば俺は“威圧の天才”の名に懸けて、一個の武人としての誇りに懸けて、己の内に在る地獄を悉く征圧し、冷厳なる意志の下に総ての殺意を支配しよう。

 深く固く瞼を閉し、強く鋭く精神を研ぎ澄まし、己が内面へと潜行する。

 
 さあ、いざ尋常に勝負といこうか、獣。

 
 お前に克って、俺は往く。


――未だ見知らぬ、“壁”の向こうへ。

 












 釈迦堂刑部は、自身の異端者たる現実を理解している。世の人々が揃いも揃ってありがたがっている、平穏無事な日常というものを凡そ愛する事が出来ず、死と隣り合わせの緊張感に充ちた闘争の中にこそ生の意味を見出す。世の人々が手を差し伸べるべき対象と見做している“弱者”というものが、ただただ喰らうべき餌としか映らない。まあたぶん何かの手違いで生まれてくる世界を間違ったんだろうよ、と自身の出生にまつわる不吉なエピソードを顧みて、釈迦堂はひとり納得していた。その事実をさしたる葛藤もないまま受け入れた上で、誰に憚る事もなく自身の価値観に沿った生き方を選択してきたのだ。眼前に立ち塞がる有象無象を、全て力尽くで排除しながら。

 そんな自分と、信長という少年の生き方に共通点を見出したかと言えば――別段、そういう訳ではない。むしろ、逆だ。釈迦堂は“怪物”と称される程の戦闘センスを生まれ持った本物の天才で、泥臭い努力とは無縁の強者であり、無秩序の生み出す混沌を好んでいた。才の欠如を血が滲むような努力で埋め合わせている弱者であり、秩序なき混沌を心底から忌み嫌う信長とは、性質としては何から何まで正反対だった。

『――“アンタみたいな思い上がった輩を、一人残らず足元に跪かせる為”に決まってるだろうが』

 そう、だからこそ。ありとあらゆるパーツが鏡写しの如く真逆であるからこそ。織田信長は、釈迦堂刑部にとっての――“天敵”と、成り得る存在なのだ。

 故に、面白いと思った。自らの手で育ててみようと気紛れを起こした。全ての始まりとなった出逢いの日に、一つの約束を交わしつつ。

『ヒヒ、良くもまあ吹かしやがったもんだ。吐いた唾を飲ませてやるほど、俺は優しくねえぞ』

『いいぜ、お前を鍛えてやるよ、小僧。その代わり、約束しろ――お前はいつか必ず、俺の所まで這い上がって来い。俺の生き地獄シゴキを耐え抜いて、自分の台詞に責任取ってみせやがれ。どんだけ汚い手を使おうが構やしねえ、とにかく俺を愉しませてみせろ。その時までは、お前のワケ分からんハッタリについては黙っててやるからよ』

『何せ超天才たるこの俺がわざわざ手間隙掛けるんだ――半端は、許さねえぜ?』

 恐喝にも似た宣言に違う事無く、釈迦堂が信長に課した修行内容は過酷を極めるものだった。釈迦堂は傑出した武人としての観察眼を以って、信長という少年の有する能力の限界を的確に見極めた上で、その限界ギリギリの成果を常に求めた。耐え切れず壊れたならばそれまでだと冷酷に割り切って、死と隣り合わせの鍛錬すら躊躇わず課した。一年が経ち、二年が経ち、やがて三年の歳月が経っても――信長は、壊れなかった。あらゆる苦難と困難を意志の力で乗り越えて、一個の人間として着実に成長を遂げてきた。

 
 そして、今。

 
 織田信長は、釈迦堂刑部の眼前に立っている。自身の望んだ“天敵”として、疑い様も無い一つの完成へと至りながら。


「……………………」


 精神統一の為か深く瞼を閉し、吹き荒れる嵐の中に小揺るぎもせず立ち続ける大樹の如きその姿は、釈迦堂が思わず驚きの念を覚える程に大きなものとして映る。文字通りに血反吐を吐きながら必死の形相で弟子入りを申し込んできたあの日、織田信長という少年は紛れもない弱者だった。約五年の歳月が過ぎ去った今でも、その身が有する武力そのものはさして変化していない。

 だが――それでも。眼前に居るこの男は、疑い様もなく、強者だ。全人生を懸けて培ってきた強大な“力”を以って闘争に臨む、誇り高き一個の武人だ。


「――――――ッ!!」


 よもや人の身で制御など適う筈も無い、際限なく膨れ上がった極大の“殺気”が――しかし同時に、疑い様も無く明確な指向性を以って、とある一点へと収束していく。本来ならばそのまま拡散し、荒れ狂う嵐と化して周辺を薙ぎ払う筈の黒い氣が、不可視の引力に引き寄せられるようにして、渦を巻きながら“集中”していく。それらが細かな蠕動を伴いながら徐々に寄り集まり、やがて術者の意志に導かれるように一つの形を取り始めた時――不意に、釈迦堂は悟った。


――コイツは、届く。


 この、殺気。広域威圧の奥義たる“殺風”をも凌駕する、まさしく織田信長が行使し得る全霊の殺意が、一箇所に集められ極限まで圧縮される。その結果として、遠からず確かな完成に至るであろう“この力”は……まず間違いなく、川神院元師範代たる釈迦堂刑部をも脅かす。


『壁越えに対抗出来るのは壁越えだけ、ってな』


 数年前のとある月夜に弟子へと投げ掛けた言葉が、頭を過ぎった。

 そう。この身に、壁を越えた武人に僅かたりとも実際的な脅威を感じさせる――その事実が指し示す意味は、ただの一つしかない。


「……へへへ。お前、やっぱ最高だぜ、信長」


 織田信長という少年はいつでも己の予想を裏切り、そして期待に応えてみせる。胸の奥底より湧き上がる愉快さに、痛快さに、釈迦堂の凶相にはいつしか満面の笑みが浮かんでいた。いっそ手を打ち鳴らして哄笑してやりたいような心地の中、不意にかつて袂を別った懐かしい面々の顔が脳裡を過ぎる。


――よう、ジジイ、ルー。それと、揃いも揃って俺を叩き出す事に賛同しやがった堅物の門下生ども。

 
 思想の危険性が問題だと、人格が指導者として不適切だと、教導内容が徒に過激だと。幾多の理由を挙げ連ねて、かつて川神院は釈迦堂刑部を追放した。別段、その過去に対しては恨みも憎しみも抱いてはいない。そもそもにして、場違いだったのだ。鮫が淡水に棲むことが出来ないように、釈迦堂には最初から川神院の“清浄な”空気が肌に合わなかった。総代の鉄心から直々に誘われなければ、一生の内に足を踏み入れる事もなかっただろう。故に破門の一件は、元より野に住まうべき獣が放逐されてようやく本来の居場所へと立ち帰った、ただそれだけの話。所詮、釈迦堂の異質にして強靭な精神を揺るがすに足る出来事ではない。

 だが――追放に際し、師としての在り方をも否定された、その事実。それは、自分では気にも留めない程の小さなしこりとなって、釈迦堂の胸に引っ掛り続けていたのかもしれない。


――イイ子ちゃんのお前らの温っちいやり方で、コイツをここまで育てられたかよ?


 ひたすら力に飢え、力を欲し、命を削る事を厭わず頂を目指した愚かな少年の願いに、応えられたのか? 自らが常人を超えた才を持つが故の余裕から、闘争に鼻持ちならない精神論を持ち込み、手段を問わず敵を捻じ伏せる為の暴力を野蛮だと忌避する川神院の武人達。そんな彼らには、例え卑怯卑劣に塗れ悪辣な策謀の限りを尽してでも他者の上に立ちたいという、虐げられた弱者の魂の絶叫を――少年の心を焦がす狂おしい渇望を斟酌してやる事が出来たか? 少年が望んだ“死に物狂い”の修行を受け入れ、 文字通りの死の際まで容赦なく追い詰める事で、その身に眠る資質を限界まで引き出してやる事は出来たのか?


――俺は育てたぜ。道端で野垂れ死ぬ筈だった薄汚い小僧をこのステージまで引き上げたのは、ご立派な武の総本山とやらじゃねぇ。お前らが邪魔者扱いで厄介払いした、この俺だ。


「――っと。オイオイちょい待てよ俺」


 そこまで考えた所で、ふと正気に立ち返る。そして、先程からの意趣返しじみた自分の思考に呆れた。全く以って、らしくない。一体何を言っているのか、これではまるで――


「“織田信長は俺が育てた”、ってか? ヒヒ、なんだ。こいつはお笑いじゃねえかよ」


 弟子の成長を自慢したい師匠。そんな人間臭い感情が自分にもあったとは驚きだ、と釈迦堂は愉快げに口元を歪める。

 ああそういや、あのクソ生意気な弟子は、遂に一度も俺の事を師匠とは呼ばなかったな――と、益体のない思考を巡らせながら、数間の距離を隔てて佇む弟子を見遣った。


「……とんでもねぇな、オイ」


 驚嘆に値すべき信長の業は、自らが告げた三分の制限時間を待たずして、既に最終段階へと至っている様子だった。

 恐ろしい程の密度に至るまで圧縮・凝縮を施された純黒色の禍々しい氣が、尚も解き放たれる事無くその場に留まり続けている。

 明確な形を成して視界に映り込む“ソレ”は、今や九割方が完成に至っている様に見受けられた。そして一割の未完成部分を残しているにも関わらず、既にその存在を主張して已まない凶悪無比な冷気は、稀代の武人たる釈迦堂刑部をして肌を粟立てさせるに十分な威容を誇っている。
 
 総身を走り抜けるは、抑え難い戦慄。そして同時に胸に宿るは、一つの確信。

 それは、即ち――
  

こちら側●●●●へようこそ、だ。ヒヒ、心の底から歓迎するぜ、信長」


 釈迦堂刑部の一番弟子は、遂に。

 今この瞬間――“壁越え”の域に到ったのだ、と。
















 そうして俺は、瞼を開く。

 視覚に頼るまでもなく、奥義の成就を確信しつつ――それでも、己の業の全てを見届ける為に、視線を右手の先へと向ける。

 脳裡に描いたイメージと寸分違わず、手に携えるは一振りの剣。およそ五尺にも及ぶ長大な刃を有する、抜き身の大太刀。

 それは、柄頭も目貫も鍔も刃も、総てが“黒”で出来ていた。どこまでも純粋で、どこまでも禍々しい、現世の色彩とは俄かに信じ難い程の全き漆黒。その正体は――“殺気”だ。一切の不純物が含まれない、只管に相手を死に至らしめんとする絶対的に凶悪な意志。黒の暴嵐は総てが余さず一点へと凝縮され、一振りの刃へと姿形を変えて此処に在る。


『純粋さを窮めた究極の“死の恐怖”だけが、心に巣食う獣を律する手綱と成り得る。あらゆる欲望を――人の心に渦巻くあらゆる混沌を凍て付かせ、静止させる事を可能とする』


 発想の切っ掛けは、とある狂人の謳い上げた妄執だった。その言から手掛かりを得、かつて紅の風景の中で目撃した、少女の身に棲む怪物を模倣。あの邂逅にて魂の深奥にまで刻み込まれた“殺意”を、より完成系に近い形で現世に再現したものこそが、この手に握られ虚空に翳された純黒の大太刀だ。長大な外観とは裏腹に、重量は欠片も感じない。それも当然――この太刀に、実体なるものは存在しないのだから。そしてそれ故に、当然、物理的な殺傷能力は欠片も有していなかった。全霊を以って振るった所で、肉も骨も、皮一枚すら切り裂けはしないだろう。

 だが、それは道理。この太刀はシンを斬らず、シンを斬る。魂の深奥に刻まれた、シンを斬る。

 ただその為だけに創始され、行使されるべき無形の刃。

 其れは天下にただ独り、織田信長だけが創始し得る一刀にして、織田信長だけが行使し得る術理。恐らくは人類史上、空前にして絶後の、蜃気楼の如き夢幻の一太刀。斯くなる剣理を指して――世の人々は、“魔剣”と呼ぶ。

 憤怒、悲嘆、憎悪。信念、決意、覚悟。そして、殺意。俺の内に渦巻く混沌を、焦熱地獄の如く燃え盛る感情を以って鋳造され、氷結地獄の如く凍て付いた理性を以って鍛造された漆黒の太刀は、即ち俺の意志を抱いた魂そのもの。幼き頃から胸に抱き続けた、“夢”の具現だ。

 故に……未だ無銘のこの太刀に、未だ無名のこの業に。覇道を拓く黒の剣閃に、手ずから号を与えるとなれば――相応しきは、まさしく一つ。


……即ち、魔剣。

 



―――我流魔剣・天下布武。


 




「さあ。今こそ“約束”を、果たす時だ」


 釈迦堂刑部。其の計り知れぬ傲慢さを侮蔑しながら、其の底知れぬ強靭さを羨望した。

 胸にはいつでも、誰憚る事もなく万物を見下す絶対強者の姿に対する、抑え切れない憧憬が在った。

 師弟として過ごした三年の中で、不動不惑の靭き背中から、俺はどれほど多くを学び取っただろうか。


「俺は、アンタを超える。アンタという“壁”を乗り越えて、望む未来を掴み取って見せる」


 俺にとっての釈迦堂刑部は、決して相容れない獣の筆頭であると同時に、掛け替えの無い恩師でもある。

 故にこれは怨返しであり、恩返し。

 研ぎ上げたこの刃と、磨き上げたこの業を以って。ありったけの憎悪と、ありったけの感謝を渾身の一刀に込めて――織田信長の全霊を、捧げよう。
 


「いざ尋常に、勝負だ――“師匠”ォッ!!」













 最終死合――織田信長 対 釈迦堂刑部。


 堀之外合戦、最後の一幕が、今、上がる。










 




















 信長「うーむ、『混沌征す暴嵐の剣ストームブリンガー』の方が……いや、横文字は流石に中二が過ぎるな」
 そんな秘かな葛藤が本編の裏であったとかなかったとか。どう足掻いても中二、それが今作なのです。
 何はともあれ、魔剣の話をしよう――と言う訳で、魔剣です。剣術と全く無関係な時点でこれ魔剣とは言えねーよ! というご尤も過ぎる突っ込みは覚悟の上です。ただひたすらに“我流魔剣”という四文字を使いたかっただけなんです。我流魔剣、なんと胸躍る響き。装甲悪鬼もう一周しようかな……
 ちなみに感想欄を拝見する限り想像以上にサブタイトルへの反響が大きかった様ですが、これに関しては回答しようとすると多少のネタバレを含んでしまいますので、大変申し訳ありませんがひとまずノーコメントとさせて下さい。それでは、次回の更新で。



[13860] 俺と彼女の天下布武、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:64943e53
Date: 2013/11/09 22:51
 
 黒く、黒く。降り注ぐ雨粒も吹き付ける強風も、あらゆる事象を無明の闇の中へと呑み込んで、刃はただ厳然と其処に在る。

 その有様に荒れ狂う嵐の如き激しさは伴わず、むしろ冷徹な静謐にこそ充たされていた。大気を震わせ大地を揺るがすような暴威は、何処にも存在しない。

 だが――而してこの身を襲う、戦慄。忌むべき悪寒と、圧迫感。一切の物理的干渉を行わないままに、ただ眼前に在るだけで全身の皮膚を粟立たせる、常軌を逸した禍々しさ。


――そうだ。そいつが、“壁越え”ってヤツだ。


 弟子の紡ぎ上げた凄絶なる業を目の当たりにして、釈迦堂は哂う。常識外れにして桁外れ。ヒトとしての枠を踏み越えた、規格外。然様に称され世の武人から畏怖される領域に、この殺意は疑い様もなく踏み込んでいる。

 そう、“これ”は、殺気だ。凄まじいまでの高密度に凝縮された殺意の結晶。まさしく窮極の呼び名に相応しい、徹頭徹尾が純然たる殺意のみで構成された異色の外気功。薄紙一枚ですらも切り裂けないであろう黒刃は、しかし生命在る全ての存在にとって計り知れない脅威をもたらすだろう。あらゆる過程を省略して一閃の下に“死の恐怖”を見舞いに来るものだと、そんな予感があった。稀代の武人である釈迦堂刑部ですら、もしも真正面から刃を受ければ、まず無事に立ち続ける事は適うまい。


――だが……それだけじゃ、届かねえぞ?


 なるほど、殺意の具現たる黒の大太刀は、あらゆる護りを貫き徹す無双の矛に相違ないだろう。幾多の武人達にとっては絶望的な高さで立ち塞がる“壁”を乗り越え、この身に脅威を感じさせる域に至ってみせたのはまさに見事と言う他無い。

 だが、力を行使し得る事と、それを敵手へと届かせ得る事は、全く以て別の話だ。特化した一能のみが壁を越えた織田信長と、あらゆる戦闘能力が壁を越えている釈迦堂刑部との間には、依然として絶対的な実力の隔絶が存在する。釈迦堂が既に黒刃の有する危険性を認識し承知している以上、むざむざとその牙に掛けられる道理があろうか。態々背を向けて安全圏まで逃げ出すまでもなく――何ら対処の術に窮する事はない。

 かと言って、敢えて刃を受けるような接待仕合じみた真似など論外。そこまでの御膳立てを良しとするほど、釈迦堂は生温い武術家ではない。他ならぬ信長自身も、よもや然様に甘い期待は抱いていないだろう。


――まだだ。まだ、何かあるんだろ?


 釈迦堂は或いは世界の誰よりも、織田信長という少年の性情を知り抜いている。信長は、熱烈な夢想家ロマンチストとしての側面と、冷徹な現実主義者リアリストとしての側面を併せ持つ男だ。噴火寸前の活火山にも似た心情の裏で、絶えず永久凍土の如く冷え切った理性が策謀を巡らせている。そうした種類の人間が、ただ闇雲に“力”を振り回して一か八かの勝負に打って出る、などという事はまず考えられない。信長が行動を起こすならば、その背景には、例え一欠片に過ぎずとも、何かしらの勝算が用意されている筈。


――見せてみろよ、お前の全力。掛け値無しの全霊を、俺の前に曝け出してみせろ。


 己の弟子が過酷な人生を通じて培ってきた、ありとあらゆる力を絞り出させた上で――万全を期して、迎え撃つ。それこそが釈迦堂刑部という男の望みであった。極上の好餌を目の前にした猛獣の如く、釈迦堂の昏い双眸は爛々と光を帯びる。その視線の向かう先は当然、数間の距離を挟んで対峙する弟子の姿だ。禍々しい威圧感に満ちた大太刀をゆらめかせ、蒼褪めた顔に決然たる意志の煌きを宿した少年。


 嵐の荒ぶ虚空にて、互いの視線が交錯する。


 永遠にも似た一瞬の停滞が過ぎ去り、そして――信長が、動いた。


「っ!」


 右手に携える大太刀はそのままに、空いた左手を驚くべき迅速さでポケットへと突き入れ、衣服の内側に潜めた“何か”を取り出す。

 無論、いかに迅速に為された動作とは云え、それは常人の物差しで測ったもの。釈迦堂刑部との対峙の最中に晒す隙としてはあまりにも大きい。その一瞬を衝いて彼我の距離を詰め、何をさせる暇も与えず急所へと拳を突き入れ五体を破壊し尽くす事は、決して不可能ではなかった。


「……」


 だが、釈迦堂は敢えて、その道を選ばない。釈迦堂の最優先とする目的は勝利という結果ではなく、闘争の過程を心ゆくまで愉しむ事だ。道具を使うならば使えばいい。小細工を施すならば施せばいい。それもまた信長という弟子が研鑽を繰り返し一歩一歩積み上げてきた“力”の一種だと、釈迦堂は知っている。ならば遍く全てを引き摺り出した上で、それらを悉く喰らい咀嚼し味わい尽すまで。絶対強者としての自負と余裕は、依然として何ら揺るがない。


――さぁて、何をしやがる気だ?


 期待と昂揚に胸を躍らせながら、釈迦堂は目を鋭く細めて信長を注視する。ポケットから取り出された掌大の“何か”は黒い布に包まれており、その正体は判らない。まず間違いなく、悟らせないよう意図して偽装を施しているのだろう。

 逆に言うならば、そこまでして隠匿しなければならないような“何か”を、信長は軽く手の中に握り締め、小さく息を吐くと同時に、それを――投擲した。


「っ!」


 速度は、遅い。

 アンダースローで上向きに放り投げられたそれは、くるくると回転しながら悠然と宙を舞う。

 釈迦堂は、緩やかな放物線を描きつつ自身へと向かう黒塊を見据えた。

 さて、手榴弾等の直接的な暴力装置か、或いは閃光弾や煙幕等の五感を奪う類の代物か。いずれであったにせよ、壁を越えたこの身にとってはさしたる脅威と成り得ないが、しかし油断は禁物だ。釈迦堂刑部の実力を誰よりも強く心身に刻み込んでいるのは、眼前の敵手に他ならない。ならば必然として、己の予想の及ばない“何か”が秘められている。

 確信を胸に、いよいよ研ぎ澄まされた五感を以て、迫る黒塊と信長の一挙一動を同時に捉え――――



 衝撃は、“背後から”襲い掛かった。



「――な、」

 
 意識の死角を衝かれた事実に、喉奥から漏れるのは驚愕の声音。

 不意に釈迦堂の身を襲ったのは、強靭な肉体を揺るがすような荒々しい暴力ではない。むしろ羽の様に軽く、撫ぜる様に優しげな態を装いつつ、“それ”は流れるような鮮やかさで釈迦堂の脚部に絡み付いてきた。その動作は、己の全身を縄へと変じて獲物を捕捉した蛇を思わせる。ならば、“それ”が次に為すべきは当然の如く、獲物に対する強烈な締め付け。鋼塊にも優越する釈迦堂の肢体を砕き折るには到底到らないが――その動作を阻害するには十分な力にて、脚部への拘束を施す。


「にゃははっ、猫ならぬ狸寝入り大作戦、大・成・功ッ!」


 我が身へ降り掛かった異変の元凶を確かめるべく視線を落とすのと、鈴を転がしたように楽しげな声音が耳を打つのは、殆どタイミングを同じにしていた。

 一刹那にも満たない時間の中、悪戯っぽく輝く焦茶の瞳と目が合う。血の気が失せて蒼白な顔には、しかし見間違え様も無く、“してやったり”と満面で主張するような会心の笑みが浮かんでいた。


『ああ、今の内にゆっくり休んでおけ。お前にはまた後で、大事な仕事をして貰わなきゃならないからな』


 また後で●●●●大事な仕事を●●●●●●●

 激闘の末に力尽きて倒れゆくと見えた従者へと信長が投げ掛けた言葉が、稲妻の如く釈迦堂の脳裡に蘇る。

 あれは、この後の難局を乗り越えて見せるという一種の決意表明、見事忠勇を尽した従者を安んじて眠らせる為の口舌などではなく――まさしく文字通りの意味だったのだ。あの時点で既に、信長の闘いは始まっていた。己に残された手札から戦場へと罠を伏せ、発動の機を常に窺っていた。それが見事功を奏した結果が、この背面からの奇襲攻撃。


――気付けなかった? まさか、この俺が、か?


 確かに、一見して意識を喪っているとしか思えなかった小柄な少女の存在を、釈迦堂が残存戦力として数えていなかったのは間違いない。“壁越え”という偉業を達成してみせた弟子に気を取られ、“それ以外”を忘却の彼方に追い遣っていたのは事実。だが、その前提があって尚、釈迦堂の気配探知能力を以ってすれば、斯様に不意を討たれる事など有り得ない筈だった。

『ヒヒ……なかなか気配を殺すのが巧いな、お嬢ちゃん』

 現に以前の遭遇の際、釈迦堂は少女の試みた奇襲を難無く看破している。いかに少女の隠行が見事なものであれ、こうも易々と己に気取られず接近する事など不可能である筈。何かしらの外因が働かなければ、現在のような事態は決して、


――ああ、そうだ。んな事は、考えるまでもねえわな。

 
 そこまで考えたところで、何ら労する事無く正答に辿り着く。小賢しい手練手管を以って不可能を可能へと化かしてみせる奇術師のような輩は、今まさに己が眼前に居るではないか。先程からの一連の流れを振り返れば、その意図するところは明白だった。

 即ち、“ミスディレクション”。主にマジックショーなどで用いられる、基礎にして必須の技能だ。視覚、聴覚等の五感を誘導する事で、相手の意識を己の望む方向へと向けさせるテクニック。信長は正体不明の投擲物を以って釈迦堂の注意を真正面の一点に集め――背面に潜む“本命”の動きから意識を逸らさせた。通常ならば存在し得ない“死角”を無理矢理に作り出し、其処を従者に衝かせたのだ。その事実を証明するように、信長が放り投げた謎の物体は、遂に何一つ異変を生じさせないまま地面へと転がっていた。

 結果を見れば、信長の目論見は見事なまでに上手く運んだと言えよう。釈迦堂は奇襲への対応に失敗し、渾身の力で絡みつく少女の手足によって下半身を拘束されている。

 だが、例え氣を扱い膂力を強化し得る武人とは言え、所詮は越えられぬ“壁”を間に挟んだ力関係。練度の差は明白であり、数秒と要さず力任せに振り解く事は可能だろう。

 そして――だからこそ、その貴重に過ぎる“数秒”を最大限に活用すべく、信長が迅速な動きを見せるのは当然の帰結だった。


「―――――ッ」


 己が従者の奇襲成功を見届けると同時に、信長は渾身の力を以って地を蹴り上げていた。数間の距離を隔てた釈迦堂へと真っ直ぐに疾駆しつつ、漆黒の大太刀を両手で握る。決然たる意志によって煌々と輝く双眸は、この一閃にて必ず仕留めると自身に誓っている様だった。

 事実、これ以上の好機などもはや二度と訪れはしないだろう。脚を抑えられた釈迦堂に太刀筋から逃れる術は無く、また同時に最大の脅威だったであろう踏み込みからのカウンターも封じられている。五尺にも及ぶ長大な刃がリーチの優越に直結する以上、釈迦堂が身動きを取れない限り、信長は相手の間合いの外から一方的な攻撃を加え得る。そして一撃さえ命中させられれば、壁越えの殺気の産物たる黒刃は釈迦堂に致命打を与えるだろう。


――ああ、そうだ。ヒヒ、それでこそ“お前”だよなぁ。


 いざ尋常に勝負、と堂々たる啖呵を切っておきながら、舌の根も乾かない内の不意討ち。それも最初から二人掛かりを前提として組み上げられた戦法に則って、である。或いは武人にあるまじき卑怯卑劣だと蔑み憤るべき場面なのかもしれないが、しかし釈迦堂の胸中に込み上げるのは全くの正逆に位置する感情だった。それでこそ●●●●●、と。手段を問わず、汚名を厭わず、ただ勝利への一念を胸に全力全霊を以って闘争に臨む。地を這い蹲って足掻き藻掻き、遥か天上に輝く星へと必死に手を伸ばす。そんな在り方こそ――釈迦堂刑部が天敵と据えるに相応しい。

 幾多の想念が錯綜し、無限と思える程に引き伸ばされた時間の中、徐々に二人の距離が詰められていく。


――だがよ。判ってんのか、信長? お星サマってのはいつだって、簡単に墜とせやしねえから憧れの的なんだよ。


 瞠目すべき成長を遂げた弟子を前に、一切の加減、遠慮容赦は無用のものと、釈迦堂は心に定めた。

 この紛れも無い窮地に臨んで、釈迦堂は本能に従う獣としての己を封じ、理性を主とする武人としての本領を呼び覚ます。それは即ち、合理。驕りも油断も全てを捨て去り、無法なる力を恃まず理に従う。現状を打開する為に、最適と思われる行動を常に選択する――そういう事だ。

 ……。

 このままでは回避は不可能。さりとて脚を抑える少女への対処を優先すれば、その隙を衝かれるは必定。迎撃こそが然るべき対応だが、其れを為すためには間合いが課題となる。素手と大太刀、保有するリーチの格差は比較するまでもない。ならば――仮にそれらの問題を一挙に解決し得る手法が存在するとすれば、それは何か?

 ……答えは明瞭。届かぬならば、届ければいい。常人には為せぬ業を以って、状況の不利を覆してやればいい。遍く世を支配する詰まらぬ常識を引っ繰り返す事こそ、壁を越えた武人の本領だ。

 結論――奥義には●●●●奥義を●●●●。それこそが、現状における最適解。

 釈迦堂は時間にすれば一瞬にも満たない思考の中で状況を分析し、判断を下す。そしてその瞬間には既に、肉体は思考に則して然るべき行動を起こしていた。

 体内に滾る無数の氣が鳴動し、急速な活性化と共に全身を巡る。前方へと真っ直ぐに突き出される両腕は、筋肉の膨張に伴い黒鋼の砲塔と化す。撃ち放たれるべき砲弾は即ち、体内にて渦を巻きながら練り上げられた凶猛なる氣。発射の衝撃を支える砲台は、釈迦堂刑部の強靭無比なる肉体そのもの。数瞬の時を要さずして、どこまでも破壊的な迎撃の準備が、滞りなく整えられる。


「行けよォ――」


 釈迦堂が誇る外気功の我流奥義に、“踏み込み”というプロセスは不要。例え自らが一歩たりとも動けずとも、彼我の距離など関係なく、その一撃は瞬きの間にあらゆる存在を穿ち貫く。常人の反応速度ならば目で追う事すら適わぬ速力にて、氣の保護を受けない人体ならば十回滅殺しても釣りが来る威力にて、狙い定める対象に無慈悲な終焉を運ぶ。織田信長の歪な外気功とは根本的に質の異なる、正真正銘の死を、絶対的な破滅を敵手へともたらす凶弾。

 その名は――


「“リング”ッ!!」

 
 両の掌より溢れ出す氣がチャクラムにも似た形状を取りつつ収束、凝縮された破壊のエネルギーへと変換された後……轟音と共に、発射。

 世界を震撼させる凶獣の奥義が、曇りなき殺意を引き連れ、哀れな獲物を顎にて喰い千切るべく飛翔する。


「――――」


 その、一瞬。擬似的に時すら停め得る釈迦堂の超人的な動体視力が、眼前に捉えたもの。


 それは――笑み。


 信長は、笑っていた。それはまるで、つい先程目にしたばかりの――そう、今も己の全力を振り絞ってこの脚に獅噛しがみついている、小柄な少女が浮かべてみせた会心の笑顔と同種の、まるでしてやったり●●●●●●とでも言わんばかりの表情。

 
 …………。

 
 例えばの、話だ。

 一人の人間が此処に居るとしよう。氣の扱い方などまるで知らず、武の心得すら欠片もない、まさしく正真正銘の一般人だ。そんな人間に対し、とある狙撃主がスコープ付きライフルの銃口を向け、実弾を装填した上でトリガーを引いた場合、“彼”が死の運命から逃れる事は可能だろうか?


――結論から言えば、可能だ。


 では、それは何故なのか。スナイパーの腕前が論外で命中しなかった? 否、紛れもなく百発百中の凄腕で、狙いは疑い様もなく正確だった。不慮の事故で銃が暴発した? 否、日頃のメンテナンスは完璧で、あらゆる機構は至極好調に動作していた。“彼”が命の危機に瀕した事で覚醒を果たし、秘めたる第六感を以って回避に成功した? 否、然様なご都合主義など有り得ない、と躍起になって否定するまでもなく、そもそも彼には眠れる資質など僅かたりとも存在していなかった。

 ならば、何故。彼は必殺を期した凶弾の脅威から逃れ、生き永らえる事が出来たのか。

 解答は単純明快――知っていたから●●●●●●●だ。彼は自身が狙撃されるという事実を先んじて知り、狙撃主の位置とその腕前を知り、殺意と共に銃爪が引かれるタイミングを完全な形で知っていた。それ故に、超人的な反射神経も動体視力も、身体能力すら必要とする事無く、ただ銃弾の辿るであろう軌道から身体を逸らすだけで良かった。ただそれだけの単純な理屈で――傍目には奇跡とも思える“回避”は、在るべき必然として成立し得る。

 そう、だからこそ。

 
 本来ならば反応すら出来ない筈の“リング”を完全に見切り、その軌道から身を躱し。

 
 危うくも己の傍を通り過ぎる告死の氣弾に一瞥も呉れる事すらなく、真っ直ぐに地を蹴って前進し。

 
 直後に背後で生じた氣の爆発に何ら動じる事無く、禍々しき純黒の刀刃を大上段に振り上げ。

 
 どこまでも強固な意志を宿した双眸を以って、一番弟子たる織田信長が此方を見据えているのは――奇跡と云う名の神の御業などでは断じてなく……脆弱なる人間が戦慄すべき執念によって血塗れの努力を積み重ねたが故に、成るべくして成った必然であるのだと。その一瞬に、釈迦堂は悟る。


――ああ、そうだよな。真剣マジで頑張ってたもんなぁ、お前。

 
 織田信長という少年には、武人として大成するには足りないものが多過ぎた。凡百の武術家を目指すならばともかく、壁越えの人外達と並び競って頂点の座を争うとなれば、その欠陥は致命的だった。生半可な努力では到底埋め合わせられない程の大穴。それを僅かでも補う為、死を覚悟で鍛え上げたステータスこそが、回避能力。その基盤は身体能力に非ず――“観察”こそが、それを支える真髄だ。
 
 そして、その為に必須となる数々の能力を強引に磨いたのは、他ならぬ釈迦堂自身である。常に死を親しい隣人として続けられた、一年間に渡る過酷な修行。その中で信長は自らの力を高めると同時に、釈迦堂という武人に関するあらゆる事項を観察し尽していた筈だ。いずれ越えると宣言した以上、思慮の限りを尽して打倒の術を絶えず模索し続けていたに違いない。

 特訓中には辛うじて回避が可能となる様に手加減していたとは言え、信長は先程の技――“リング”も幾度か目にしている。それらの経験に基づいて、氣の流れや筋肉の動きといった予備動作から、発動に到るまでのタイムラグ、氣弾として撃ち放たれてから着弾までに描く軌道……総てを余さず脳内に叩き込み、幾度も幾度も、それこそ気の遠くなるような回数のシミュレーションを繰り返した果てに、たった一度きりの回避行動を全霊で練り上げたのだろう。いずれ必ず来る事が約束されていた、決戦の時に備えて。


――掌の上、って訳かよ。本当に可愛くねえ弟子がいたもんだぜ、ったく。


 ならば当然、そもそもにしてこの状況自体が、恐らくは信長の想定した通りのもの。信長は最初から釈迦堂に“リング”を使用させ、それを自らが回避する事を前提として戦術を組み立てていた。脚を封じ、リーチで優越し――釈迦堂が自らの判断の下に奥義を用いるよう思考を誘導し、そう在るべく周到に場の状況を整えていたのだ。対峙から現在に到るまでの一連の流れは、あらゆる事象が信長の脳内で紡がれたシナリオに従って推移している。そして恐らくは……まさに“今この瞬間”も、それは変わらない。


『必殺技にゃもれなく硬直ってモンが付いて来るだろ? 適当に撃って外した隙に懐まで入り込まれでもしたらその時点で反撃確定じゃねえか』

『キャンセルで隙消しとか出来ないのか? こう、G×Gの浪漫キャンセル的なノリで』

『できねーよ。人体構造と物理法則をなんだと思ってんだお前、最近噂のゲーム脳って奴か?』


 思えば、釈迦堂が雑談として処理していたあの何気ない会話も、信長にとっては戦に備えた情報収集の一環だったのだ。天上に坐す師に対する弟子の挑戦は、遥か以前から既に始まっていた。

 そう、“リング”は確かに強力な外気功だが、断じて万能無敵の必殺技などではない。ひとたび撃ち放てば、その強烈な反動は釈迦堂の強靭な肉体にすら数瞬の硬直を強いる。故に、もしもこれほどの近距離で標的を捉え損なうような事があれば、それは即ち……反撃の一閃を被らざるを得ない事を、意味している。


――ヒヒ。参ったな、こりゃ。


 純然たる実力にはまさに天地の差がありながら、最初から最後まで翻弄され、掌の上で踊らされていた――その驚くべき事実に些かの苦渋を飲むと同時、それに倍する感嘆と賞賛の念を抱く。もはや釈迦堂の手中には、一切の選択肢が存在しない。回避は不可能、防御は無意味。迎撃の機は既に喪われた。事此処に到っては、覚悟を決して未知の脅威を受け止める他に道は無い。


――本当、大したもんだぜ、お前。


 何処か場違いな穏やかさすら感じる心地の中、釈迦堂は氣を全身に充溢させ、来るべき殺気に抗するべく備える。

 時を経ずして、天へと翳された黒の大太刀が、烈昂の気迫と共に振り下ろされた。

 上段から繰り出されるは、左袈裟の一閃。風雨を断裂させつつ落下する黒刃が、やがて釈迦堂の右肩に食い込み――


「が、ァッ!?」


 無意識の内に喉奥から漏れたのは、獣じみた呻き声。

 寸刻前の悟ったように静穏な心境など――然様に呑気極まりない“余裕”など、正しく一瞬の内に欠片も残さず霧散していた。“これ”の保有する甚大な脅威に心身を晒されては、師としての体裁を取り繕う事など適う筈も無い。精神とは無関係な部分で、肉体に刻まれた本能が其れを釈迦堂に赦さなかった。

 実体無き黒刃による斬撃がもたらす衝撃は、想像を絶するものであった。斬り裂いていく。断ち割っていく。皮でも肉でも骨でもなく、生命の根源の部分に存在する何かを。この刃は無情な冷徹さを以って、殺そうとしている●●●●●●●●。寒気と怖気が綯交ぜとなったおぞましい感覚が刃の裂いた“傷口”から広がり、神経を伝って全身を侵す。肉体に宿る本能が、最大限の勢力でアラートを鳴らし続けていた。絶対にこれの侵入を看過してはならない、これは釈迦堂刑部という一個存在に致命的な破壊をもたらす、と。


「ギィ、ガァアアッ!」


 自然の内に人語の態を為さぬ叫びを上げながら、文字通り死に物狂いの内気功を以って殺気の蹂躙に抵抗する。徐々に押し込まれつつある黒刃を一刻一秒でも早く己が体外へと弾き出すべく、必死の想いでひたすらに足掻く。武人としての矜持など、もはや脳裡に浮かびすらしなかった。世に在る筈も無かった脅威を前に巨大な恐慌に駆られ、吼え猛り、狂躁しているのは――ヒトではなく、一個の獣。ただ遺伝子に刻み込まれた生存本能に従い、釈迦堂は無我夢中の内に己の定めた限界すらも踏み越えて、莫大な氣を体内に生じさせる。規格外の武人が身命を賭して練り上げた氣の勢力は、魂を斬り裂かんとする黒刃を押し留め――


「おおォォオオオオオオオオオオオッ!!!」


 獣の咆哮と共に爆発的に膨れ上がった氣は、身に突き立てられた殺意の牙すらも超越した。尚も留まらず肉体から溢れ出した氣が衝撃波と変じて、周囲を薙ぎ払い――脚部に纏わり付いていた小柄な少女を一瞬の内に公園の敷地外まで吹き飛ばす。
 
 そして眼前の少年もまた、釈迦堂の眼前に立ち続ける事は不可能だった。敵手を睨み据える双眸は未だ不屈の色を宿していたが、精神論で物理的な衝撃に耐えられる道理は無い。全身へと叩き付けられる暴虐の波濤に抗う事は適わず、足裏が地面から浮き上がり、枯葉の如く宙を舞う。


「――――――」

 
 やがて荒れ狂う氣は収束し、あたかも総てが死に絶えたような静寂が落ちる。

 
 幾多の想念を通わせた、僅か数秒間の交錯を経て、尚も立っているのは唯一人。


――闘争の権化たる凶獣は未だ、斃れない。








 






 

 昔から、土の味が嫌いだった。

 とは言っても、よほどの好事家を除けば好きだと言う人間も居ないだろうが――いや、それ以前の問題として、わざわざ好悪を区別する程に土の味というものを知っている人間が現代日本にどれほど居るのか?

 ……まあ、余人はともあれ、だ。少なくとも俺は、幾度も幾度も無理矢理に地面に這い蹲らされ噛み締めさせられた屈辱の味を、一度たりとも忘却した事は無かった。未来永劫同じモノは味わうまいと心に決め、その事を一つの目標に設定しつつ人生を過ごしてきた訳だが……誠に遺憾ながら、どうやらその点に関しては目標成就ならず、と言ったところらしい。


「………………ぅ」


 口の中には、忌々しくも懐かしき土の味。正確には泥の味と言うべきなのだろうが、まあ両者の差異を事細かに語っても仕方が無い。いずれにしても最悪の味には変わりなかった。

 ああ、兎に角、酷い気分だ。

 被害を蒙っているのは口内だけではなく、全身がぬかるんだ泥土に塗れて汚れ切っているのが分かる。衝撃の所為でいまいち前後の記憶が曖昧だが、どうやら数秒の間に幾度も地面を転げ回った結果らしい。いい年をした男子高校生が公園で泥遊びとは、お世辞にも微笑ましいで済ませられる光景ではないだろうに。然るべき国家機関への通報・連行という笑えない事態を避ける為にも、一刻も早く立ち上がらなければ。

 ……。

 立てよ。さっさと立て。呑気に寝転がってる場合じゃあ、ないだろう。

 碌に脳髄からの指令に応えようとしないサボタージュ気味の筋肉を叱咤激励して、うつ伏せの体勢から身を起こす。ただそれだけの動作で力尽きでもしたかの様に、全身へと強烈な疲労感と倦怠感が襲い掛かった。氣の枯渇によって体温が喪われているのか、爪先から頭頂に到るまでのあらゆる箇所が凍える様に寒い。ほんの僅かでも気を緩めれば、途端に視界へと白い靄が掛かり始める。

 何をせずとも急速に薄れゆく意識を、しかしそのまま霧散させる訳にはいかない。渾身の力で瞼をこじ開け、重石を持ち上げるような気合と共に視線を上げる。俺が今この瞬間に見据えるべき唯一のものを、視界へと捉える為に。


――ああ、畜生。アンタを相手に一撃で片を付けようなんて、やはり考えが甘かったか。

 
 案の定だ。俺の越えねばならない真の壁は、依然として健在だった。数間の先にて両の脚で地面を踏みしめ、未だ倒れ伏す事無く立ち続けている。

 ならば――俺もまた、立ち上がるのが道理だろう。一方的に見上げ、見下される忌々しい関係に終止符を打つと、そう決めたのだから。


「ぐ、ギィ……ッ」

 
 動かぬ手足に力を込めようと試みれば、奇怪な音が咽喉から漏れ出た。構いはしない。もはや恥も外聞も知った事か。例えみっともなく小水を垂れ流してでも、立ち上がれ。その一事こそが、万事に優先する。

『わたしはシンちゃんが泣いていたら、なにがあっても助けます』

 守る。

『どんなにむちゃだって言われても、むぼうだって怒られても、わたしはシンちゃんを助けます』

 今度こそ、守る。

『どうしてもこうしてもなくて、そうするべきだからそうするんです! それはぜったいにぜったいですっ』

 必ずこの手で守り抜くと、誓った。その約束は絶対だ。絶対に、絶対だ。

 反故にする位なら――否、何があろうと反故になどしない。今更、惰弱な諦観なぞに俺の精神を折らせて堪るものか。

 だから、立て。後の一生を立ち上がれずに過ごすとしても、今、此処で膝を屈して座り込む事だけは決して許さない。例え世界中の人々が寛容の笑顔と共にそれを許したとしても、俺だけは断じて己の挫折を認めない。


「―――ッ!」
 

 ……良し、そうだ、それでいい。やはり不可能などではない。まだ俺は、立てる。己を取り巻く理不尽へと立ち向かえる。

 そうして漸く人並みに視点が高くなった事で、我が師匠のご尊顔が良く拝めるようになった。死人の如く青褪めた顔色で、心臓の鼓動を確かめる様に胸を抑え、大きく息を切らしている。俺の奥義をレジストする為によほど甚大な氣を消耗したのか、傍目にも苦しげな表情を浮かべたその姿は――既に遥か高みに坐す天上人のそれではない。

 届いたのだ。己の全霊を賭して伸ばしたこの指先は、確かにその身へと届いていたのだ。凶星は地に墜ち、あれ程の禍々しさを誇った輝きは今や弱々しく明滅を繰り返している。


――“半端は許さねえ”、だったな。ならば、お望み通り……決着を、付けようじゃないか。


 一太刀にて斃せないならば、どうする? ……対処法は、笑える程に単純明快だ。即ち、もう一太刀を浴びせるまで。それでも斃れないなら、更なる一太刀を加えればいい。幾度でも幾度でも幾度でも幾度でも、眼前の凶獣が地面に這い蹲るまで、ひたすらに殺意の刃を突き立て続けてやる。

 先程の衝撃波で吹き飛ばされたのか、周囲にねねの姿は見当たらないが――いや、この期に及んであの有能な直臣を戦術的に頼る事はすまい。あいつは限界まで消耗した肉体に鞭打って、もう十分以上に働いてくれた。此処から先は、主君たる俺が果たすべき仕事だ。



「が、ァ、ァァアアッ!!」


 再度の魔剣形成の為に氣を絞り出そうと試みれば、忽ちヒトのものとは思えぬ咆哮が喉から迸る。

 それは生命維持の危機に瀕した肉体の発する危険信号と同義の絶叫だと知っていたが、俺は頓着しなかった。かつてない程に過酷な闘いとなる事は百も承知で、覚悟の上。俺のような欠陥だらけの武人が、釈迦堂刑部と云う本物の人外を相手に、何の代償もなく勝利を得られるようなご都合主義は元より期待していない。

 相手が先程の一太刀から立ち直らぬ内に勝負を決さなければ、もはや二度と俺に勝機は訪れないだろう。故に、脆弱な肉体が漏らす惰弱な泣き言なぞに付き合ってやる暇は無い。

 ……いつでも、そう。世界は無情で冷酷だ。零を幾ら積み重ねても、数字が零から動く事は無い。そして必要不可欠な一を得る為に求められるものは、万人に対して平等ではない。

 だが、どれほどの苦痛を伴っても、どれほどの努力を要しても、一歩ずつであれ確かに前へと進めるのであれば、いずれ必ず那由他の果てへも辿り着けるだろう。

 故に、諦めない。

 故に、闘う。

 命を燃やし尽くしてでも、あらゆる理不尽に抗い抜いて見せよう。


――さあ、修行時代以来の久々に、地獄を覗いてくるとしようか。


 今一度、死告の魔剣をこの手に握るべく、決死の覚悟で氣の生成を続行し――




「――――――」




 不意に訪れたのは、酷く優しい感触。温かく、柔らかく、安らぎに充ちた感覚が、冷え切った肉体を慈しむ様に包み込んでいく。


 抱擁。


 背後からこの身を抱き留めているのが何者なのか、首を巡らせて確かめるまでもない。常に誰よりも俺の近くに在ったこの気配とこの温度を、余人と取り違う事など有り得ないのだから。


「……離せ、蘭」


 たったそれだけの言を紡ぐのに、想像を絶する力を要した。それでも喉から漏れ出たのは、無様な程に弱々しい掠れ声でしかない。少しでも距離を置けば、嵐に掻き消されてしまう事だろう。だが、俺の背中に華奢な身体を預けている蘭に対し、自らの意を届けるには十分だった。


「離せ。これは、俺の闘いだ」

「ダメです、離しません。これ以上は、限界です。シンちゃんの体が、保ちません」

「それを決めるのは、お前じゃない。俺はまだ、止まれない」

「シンちゃんは、十分に頑張りました。たくさんたくさん、頑張ったんです」

「……ああ、頑張ったさ。だから、何だ? “良く頑張ったで賞”でも授与してくれるのか? 生憎と、そんなものに価値を見出せるほど、俺は目出度い人間じゃない」


 然様な慰めの言葉を掛けてもらう為に、血反吐を吐いて積み重ねてきた訳ではない。

 俺が臨んできた闘いは、俺が臨んでいる闘いは、お前に下らない自己犠牲の決心を固めさせる為のものでは、断じてない。

 お前が俺を許しても、俺が俺を許さない。


「これ以上、無駄な努力をするなよ。俺を諦めさせる、なんて事は早々に諦めるべきだ。何を言おうと、俺は、お前と一緒に――」

「――ええ、一緒に。一緒に、生きるんです」


 ぎゅっ、と。俺の身体を抱き締める両腕に、力が込められた。燃えるような熱を帯びた声音が、耳元で囁かれる。


「私も、生きたい。シンちゃんの傍で笑って、一緒に未来へ歩いていきたい」

「……蘭?」

「一緒に生きたいから――、一緒に、闘うんです。痛みも苦しみも、もう二度と、シンちゃん一人に背負わせたりしない」


 それは久しく耳にする事の適わなかった、力強さに充ちた蘭の声音だった。遠い昔日、俺が一目で憧憬の念を抱いた少女と同じ、どこまでも純粋で、真っ直ぐに胸へと響く声。


「シンちゃんの背中が、教えてくれました。ずっとずっと忘れてしまっていた、“立ち向かう”ことの意味を、思い出させてくれたんです。そして、私は、やっと見出せました。私が何のために生まれてきたのか●●●●●●●●●●●●●、答に到る事が出来ました」


 噛み締めるような想念と共に言葉を終えると、蘭はそっと抱擁を解き、俺の隣へと歩み出た。

 いつの間に拾い上げていたものか、腰には呪わしくも鮮やかな件の朱鞘を帯びている。ひとたび抜けば、殺戮を撒き散らす血染めの凶刃。撫ぜるような仕草で鯉口へと五指を滑らせながら、蘭は決然たる口調にて言葉を続けた。


「だから、終わりに向かうためじゃなく。新しい始まりを迎えるために、私は自分の業と向き合おうと決めました。自分の血から逃げずに立ち向かおうと、決めたんです。……シンちゃんは、それを止めますか?」


 煌くような意志の焔を黒耀の双眸に灯して、蘭はじっと俺を見据えている。問い掛けの体を取ってこそいるが、揺ぎなく据わったその眼差しは、例え何を言われても止まる気が無いと雄弁に語っていた。

 ……ああ、そうだ。頑固一徹で融通が利かず、思い込みが激しく人の意見をまともに聞かない。自分勝手で傍迷惑で――しかし疑いなく、誰よりも純粋で真っ直ぐな魂の持ち主。随分と離れていた所為で半ば忘れ掛けていたが、森谷蘭とは元よりそういう人間だった。我の強さで言うならば、俺など可愛いものだ。


「ふん」


 止められない。今の俺では肉体的にも精神的にも、蘭を制止する事は不可能だろう。だが俺は、それが悪い事だとは思わなかった。

 もはや蘭の瞳には、悲壮な諦観の色も自暴自棄の色も見当たらない。ありとあらゆる艱難辛苦を己の意志で乗り越えようという、呆れる程に力強い覚悟の光だけが充ちている。弱々しく座り込んで涙を流すだけがお仕事の“悲劇のヒロイン”は、どうやら既に廃業したらしい。ならば、俺如きが一体全体何を憂う必要があるだろうか。


―――ああ、悪くないじゃないか。全く以って、悪くない。


 自然の内に口元へと浮かび上がろうとする笑みを堪えながら、応える。


「望む通りにすればいい。お前の無鉄砲な無茶無謀に付き合うのは、俺の宿命なんだろうさ」


 ぶっきらぼうに言ってやると、忽ちの内に花のような笑顔が咲いた。


「一つだけ、お願いがあります」

「何だ?」

「……手を。手を握っていて、くれませんか? どうしようもなく弱い私でも、シンちゃんが傍に居ると感じられれば……それだけで、強く在れると思うから」


 ああ、何だ。その程度なら、お安い御用。

 神経が麻痺しているかのように巧く操れない腕をどうにか動かし、手と手を重ねる。恐る恐る絡めてきた細い指を、精一杯の力で握り締める。触れ合った掌を通じて互いの血が絶え間なく行き交っているような、不可思議な一体感があった。今の俺は、蘭の胸を打ち鳴らす鼓動すらも鮮明に感じている。恐らくは蘭の側でも、それは同じなのだろう。


「シンちゃん」


 空いた片手で太刀の柄を握りながら、蘭が口を開く。


「何だ」


 俺の相槌から一拍を置いて、朱鞘が静かに滑り落ちる。鋭利に光る白銀の刃が身を晒す。


 その、刹那。


 蘭はかつて見た中でも最高に眩しい、太陽すらも翳って見えるような満面の笑顔で、言った。



「――あなたを、心から、愛しています」


 
 




 








 黒い海の底へと、潜っていく。自身の臨む不可思議な感覚を敢えて言葉にて形容するならば、相応しい表現は他に無いだろう。

 己が周囲を取り巻くその色は、世に氾濫するあらゆる汚濁と悲劇を覆い隠し、傷に塗れた心を優しく包み込んでくれる夜闇の黒――では、ない。むしろ性質としては真逆の、決して他と交じり合うまいと云う排斥の念に満ちた、白刃の如く冷たい黒色。

 矮小な個人の意志など瞬く間に呑み込み、溶解させてしまうであろう“黒”の正体を、森谷蘭は知っている。殺せ殺せ殺せ殺せと囁き訴え呻き唱えて吼え叫ぶ“彼ら”が何者であるか、知っている。それは数百年の永きに渡って森谷の血族が子々孫々に託してきた意志――即ち殺意の集合体だった。幾千もの血族が屍山血河と共に築き上げた妄念。救い無き世に救いの光明を求める祈りであり、純なる願い。

 独りの身には背負いきれぬ膨大な想念の渦の只中に在って、未だ自意識が途絶える事は無かった。だが、何ら不思議はない――今この瞬間、森谷蘭は“独り”ではないのだから。

 掌には、決して消えない温もりが在る。繋いだ手と手を通じて、魂と魂もまた繋がっている。幾億の闇に呑み込まれ、心身が儚く溶け消えようとも、其処には必ず残るであろう“熱”が在る。ならば、何を恐れる必要があるだろうか。この胸に宿る想いは、万の血族が遺した殺意であろうと掻き消せはしない。

 ひとたび気付いてしまえば、それは本当に簡単な事だった。自分の想いが分からない、と涙を流して苦悩した事実がまるで嘘であったかのように、導き出された答は明瞭であった。絶望的な高さにて立ち塞がる壁を前にも決して諦めず、文字通りに命を賭して困難へと立ち向かい続ける誇り高き背中。もはや力の残っていない肉体を引き摺って闘い続ける姿を、瞳に映した時――あらゆる理屈を越え、いかなる言葉も意味を為さない心の深奥にて、森谷蘭は己の想いを明晰に自覚した。


――ああ、わたしは、このひとを……どうしようもなく、愛している。


 ただただ、愛おしい。喪いたくない。一緒に居たい。抱き締めたい。心も体も包み込んで、護りたい。

 つい先程までは胸中に在った疑念も懊悩も逡巡も、激しく心を充たす一念にて押し流された。総ての感情はたった一つの想いへと包括されて、どこまでも純粋に煌いている。もはやこの身を縛り妨げるような“弱さ”は何処にもない。力強く脈打つ心より送り出されて肉体を巡る血は燃え滾るように熱く、冷たい雨に凍えていた心身は今やかつてない活力に溢れていた。

 故に、立ち向かえる。弱い心では向き合えなかった己の業と、今こそ正面から対峙が適う。

 心身を蝕み乗っ取ろうとする漆黒の闇を、胸に宿った灯火で掻き分け払い除けて、より深奥へと沈み続けると――やがて殺意の根源たる“海底”に、辿り着く。


「…………………………」

 
 独りの少女が、其処/底に居た。

 十歳にも満たないであろう幼い少女が、光の差さない闇の中、膝を抱えて座り込んでいる。

 少女は血塗れだった。紛う事なき死に塗れていた。少女の周囲にあたかも遊び終えた玩具のような有様で乱雑に散らばっているのは、原型を留めぬ程の無惨さで切り刻まれた無数の死体。猫の死体があった。犬の死体があった。数え切れない、ヒトの死体があった。そして少女の傍には、良く見知った顔が二つ。森谷蘭が敬愛して已まなかった両親の、生首だった。己の撒き散らした血と死によって化粧された、赤と黒の化生。

 ああ、なんておぞましい。まさしく魔物だ。忌むべき怪物、世に在るべきではない悪鬼。誰もが少女をそう判じ、適うならば存在すら忘却の彼方へと追い遣りたいと願う事だろう。だから――かつて、自分はそうした●●●●。目を逸らし、背中を向けて、じっとこちらを覗き込んでいる恐ろしい少女から逃げ出した。己の正義を疑いもなく信じていた無垢な少女は、他ならぬ自らこそが世の人々に憎まれるべき災厄に他ならないという現実に、耐えられなかった。脆弱な心を護るため、いつでもすぐ傍に居た少女に見ぬ振りをして、頑なに向き合う事を避け続けていた。

 だが――今、こうして真正面からその姿を見れば、全てが分かる。

 こちらを見返す幼い少女の双眸に、邪悪は無かった。纏わり付くような粘性の悪意も、世界に対する狂気的な呪詛の念も無かった。冷酷無情の悪鬼でも、残忍非道の魔物でもなく……ただそこには、何も知らない無邪気な子供の瞳が在るだけだった。


「そう、ですよね。あなたは、ただ……」


 嘆息のように漏れ出た呟きに、幼い少女はきょとんと首を傾げた。

 そんな少女と目線を合わせる為に腰を屈めて、柔らかく微笑みながら、言葉を投げ掛ける。


「あなたは、守りたかったんですよね。大切なものを、守りたかったんですよね。……その為の手段を、他に知らなかっただけで」


 現世の物事を何も知らない少女は、しかし“殺す”事だけは誰よりも良く知っていた。森谷一族の受け継いできた殺意と殺法だけが、無垢な少女の有する力であり、行動原理だった。だからこそ――少女が目覚めてからの十年間、森谷蘭が大切なものを護りたいと願った時、少女はいつでもそれに応えた。忠誠を尽くすべき“主”が何者かに傷付けられそうになれば、少女はこの心の奥底から助力をしてくれていた。

 森谷蘭は、眼前の少女を形作る“血”を想う。自らが“呪い”と断じて忌避した血族達の願いを想う。

 この業を創めた遠い先祖は、それを受け継いできた一族は、そして今尚愛する父と母は――悪鬼の如く血に飢え、我欲のままに殺戮を繰り返す為に殺意を求め殺法を練り上げたのか? 己の望まぬ世界の在り方を呪い、そこに息づく生命達の仇敵たらんと欲するが故に血潮に塗れて闘ってきたのか?

 違う。

『どうかすべての善き人々が、笑顔で在りますように』

 彼らは、彼女らは――守りたかったのだ。世の平穏を、人々の笑顔を、悪しきものから守りたい。その一心を以って、己が信念を支えに刃を振るったのだ。世の人々はその在り方を疎むだろう。忌むべき狂気に冒された悪鬼と恐れ憎むだろう。それは決して誤った見解などではなく、どう足掻いても覆し様のない真実の一部だ。

 だが……森谷一族最後の末裔である自分が、その信念に込められた祈りと願いを正しく理解しようとしなければ、彼らの切たる想念の全ては真の意味で、単なる狂人の戯言と成り果ててしまう。

『いいかい、蘭。森谷の剣は、この世の悪を絶ち、義を護る剣。殺す為に殺すのではなく、殺意を以って大切なものを護り通す為に在るんだ。……うーん、まだ君には難しかったかな? 大丈夫、もっともっと大きくなれば、いつかきっと理解できるさ。何と言っても君は私達の、自慢の娘なんだから』

 遥か彼方に埋もれた幼き日の記憶が、不意に蘇る。

 十年前、自らの責によって横死を遂げた両親。彼らはきっと、自分に生きて欲しかったのだ。自分達の娘ならば“血”と向き合い、殺意に呑まれず剣を握れると信じ、臆する事無く笑って逝ったのだ。それは間違いなく狂気に塗れた思考の発露ではあったが――同時に、疑いなき愛の証明でもあった。

 ならば、応えよう。志半ばに斃れた幾千の血族と両親の想いに、今こそ応えよう。

 殺意は在る。森谷蘭の傍に在る。その現実を正しく認識し――承認しよう。否定と拒絶が無意味であるなら、肯定と受容を以って迎え入れよう。それこそが森谷の剣士としての“完成”へと到る為に必要不可欠で、最も重要な行程に他ならないのだと、悟りを得たが故に。


「ごめんなさい。ずっとずっと、こんなところに閉じ込めて、見ない振りを続けてきて。あなたはいつでも、私のすぐ傍にいたのに」


 穏やかな微笑みを湛えつつ、血塗れの少女へと語り掛ける。自分と同じ漆黒の双眸が、じっとこちらを見返していた。

 全く、傍から見れば単純明快な事であるほどに、自分ではなかなか気付けない。それが森谷蘭の抱えるどうしようもないサガなのだろうな、と呆れ混じりに思考しながら、想いを込めて言葉を紡ぐ。


「わたしは貴女で、あなたは私」


 決然たる言葉と共に、闇の底に座り込む少女へと、手を差し伸べる。

 十年間、目を逸らし続けてきた少女の瞳を真正面から見据えて、真っ直ぐに――告げる。


「さあ――共に、往きましょう?」


 一瞬の空白。

 そして少女は、無邪気に破顔して――嬉しそうな笑顔のまま、差し伸べた手を、掴んだ。


 急速に意識が浮上したのは、その直後。

 少女との邂逅は、現実に於いては一秒にも満たない時間だったのだろう。己の深奥へと潜る前と、状況は何一つとして変わっていない。左手には無限の力を与えてくれる温もりが。そして、黒の海底にて幼い少女の手を握った右手には――降り注ぐ雨粒を散らして冷たく冴え渡る、一振りの白刃が在った。朱塗りの鞘は地に落ちて、抜き身の刃を制するものは己のみ。それでも、不安はもはや無い。

 一瞬だけ瞼を閉して息を吐き、傍でこちらを見守る少年に向けて声を発する。


「シンちゃん」

「……もう、いいんだな?」

「はい。ホントを言えば、いつまでも繋いでいたいですけど……刀刃を片手で扱えるほど、私は器用になれませんから」

「くく、そうだろうさ。お前ほど不器用な人間なんて、川神中を探した所でそうは居ないだろうからな」

「むぅ。否定はしませんけど……、そんな風に不器用な女の子は、キライですか?」

「……いいや。割とストライクゾーン、ド真ん中だ」

「ふふっ。ホントにシンちゃんは、口が巧いんですから。……でも、今回は、騙されてあげます」

 
 名残を惜しみながら、絡めた指を解き、重なり合っていた双つの掌をそっと離す。

 繋いだ手と手が解けても、魂を結ぶ繋がりは消えない。胸を充たす温もりは残っている。ならば、先程までと何ら違わず、恐れる事は何も無い。


「釈迦堂さん。無粋を承知で、申し上げますが――今この瞬間より、貴方の相手は私と、然様にお心得戴きますよう」


 刃の切っ先と共に向けられた宣戦の言葉を受けて、釈迦堂刑部は青褪めた唇を歪めながら愉快げに笑う。


「ヒヒ、構やしねえよ。そういう●●●●お約束を派手に叩き潰してこそ、悪党やってる甲斐があるってモンだ。言っとくけどよ、俺は縁結びの噛ませ犬なんつーアホらしい役回りで終わってやる気はねえからな。最後まで陳腐な王道物語って奴を貫きてえなら――せいぜい気張りやがれよ、若造ども」


 楽しげな言葉を吐くと同時、屈強な体躯より吹き上がる闘氣は依然として禍々しく、そして万人を寄せ付けぬ力強さに満ちている。

 むべなるかな、一刀を携え向かう敵手は、川神院元師範代・釈迦堂刑部――壁の向こうに坐す凶獣は、かつて森谷蘭の繰り出す全力の剣閃を鼻唄混じりに捌き得た怪物だ。いかに消耗し憔悴し衰弱しているとは言え、その圧倒的な実力差は易々と埋まるものではない。


「――いざ」


 故に。昔日の己を超克し、望む未来を切り拓く為に――森谷蘭は、己の殺意を解放する。

 釈迦堂の纏うそれをも霞ませる程に禍々しい漆黒の氣が内より溢れ出し、外界を浸蝕し始める。両手に握る白銀の刃が瞬く間に黒く染まり、二回りは長大な大太刀へと姿を変える。手にした得物だけではなく、異形の氣は肢体の全てに纏わり付き、闇の中へと呑み込まんとばかりに覆い尽していく。

 そして――それらの行程を、明瞭な自意識の下に、俯瞰する。

 この身に宿る膨大なる殺意の渦は荒れ狂う波浪にも似て、理性による制御は及ばず、半ば意識を手放し流れに身を委ねる他に道は無い。事実、自らの意志でこの絶大な“力”のうねりを使いこなし得た経験は一度として無かった。

 だが、今ならば。自身の内に在る殺意を承認し、我が身の一部として受け入れた今ならば。燃え滾るような熱を伴いながら胸中を充たす想念によって、不可能は可能へと変じる。即ち、獣の暴虐ではなく人の剣理を以って、全身を駆け巡る莫大な力を行使し得るだろう。

 無論、未だ殺意の制御そのものに習熟していない以上、満足に意識を保ち得るのは僅かな時間に限られよう。故に――勝敗を決するは、一太刀。次なる一閃に、己の培ってきた全てを込める。


「…………」


 真正面から敵手と向き合い、刃を中段に構える。何の変哲も無い、剣術の基礎たる正眼の構え。

 だが、それで良い。問題は何も無い。この立ち合いに、巧緻を凝らした奇想天外の魔剣は不要。

 思えば物心付いた頃から、来る日も来る日も剣を振り続けてきた。雨の日も、雪の日も。日の昇る前から起床し、ひたすら地道な素振りを重ねてきた。万難を排して“主”を守護する刀となるべく己に課してきた、一心不乱の鍛錬。それらの全てが己を裏切らぬと心底から信じ、研鑽の果てに築き上げた最高の“一閃”を見舞うまで。


―――シンちゃん。私の、守るべきひと。


 斯くして少女は生死を別つ死線の際に、一途な心で少年を想う。

 常にこの胸の裡に住まい続けてきた彼は、いかなる時も歩みを止めず前へ前へと進み続ける。不屈の意志と滾る熱情を力に換えて、進むべき道を切り拓いてゆく。きっとこの先も、負傷を恐れず、苦痛を厭わず、絶望すらも己が器に呑み込んで、躊躇う事無く覇道を邁進するのだろう。


――ならば私は、一身を以ってその身を支え、明日へと羽撃たく翼に成ろう。
 

――あなたの掲げる眩しき“夢”に絶えず寄り添い、遥かな未来へ共に翔ぼう。



「――――――」
 


 瞬きの合間に、踏み込みが大地を粉砕し、太刀筋が大気を斬裂する。

 
 数間の距離が有する意味を消失せしめ、殺意の黒刃は音すらも置き去りに奔り抜ける。



――其は、複雑怪奇の魔剣に非ず。偏に一人を想い続ける乙女の一念が織り成す、何処までも愚直な壱の太刀。

 

 即ち“愛”の一字にて殺意を征し、刹那の狭間に“壁”をも越えて閃く一刀は、







―――比翼之剣・天下布武。












 

 弐の太刀は、要らなかった。

















 




 




























 勝因:愛。
 字面で見ると何やら読者の皆様から石を投げられそうですが、事実なのでどうしようもないという現実。
 と言う訳で、色々と勘繰っていた方が多そうなサブタイトルは割とそのままの意味でした。信長と蘭の関係に関しては一段落付いても、他に色々と決着を付けるべき事が残っていますので、物語全体としての最終回はまだ先になります。もうちょっとだけ続くんじゃよ、的な。
 今回、釈迦堂さんという反則級の強キャラをオリキャラが打倒するというアレな展開を書く以上、戦闘描写に相応の説得力が伴わなければ目も当てられない事になりそうだったので、色々と解説を挟んで補完を試みていますが……結果的に文章が冗長に感じられたなら申し訳ありません。スピード感と説得力の二つを上手く両立出来る人は本当に凄いと心底思う今日この頃です。精進あるのみ。
 まだ物語は続きますが、兎にも角にもこの一つのチェックポイントまで漕ぎ付けられたのは、ひとえに読者の皆様の有難い支えあっての事。宜しければ今後も、今作の鈍い歩みに付き合って頂ければ嬉しく思います。それでは、次回の更新で。



[13860] アフター・ザ・フェスティバル、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:ad73c226
Date: 2013/11/23 15:59
 
「ちっ……、覚悟してたコトとは言え、キッツいなこりゃ」


 九鬼従者部隊序列一位にして九鬼家嫡男専属の万能メイド・忍足あずみは焦っていた。じりじりと迫る火炎の包囲網に追い立てられるような焦燥に胸中を焦がしながら、己の在るべき戦場を舞い踊る。

 死線を渡る事は即ち、綱渡りの連続と同義。闘争の渦中に在って心の均衡を喪えば、眼下に広がる死と云う名の奈落に呑み込まれるのみ。幾多の戦地を生き抜いてきた熟練の武人たるあずみがその真理を心得ていない筈もなく、心中の焦りは面には顕れない。仮に心理状態が戦闘行動に直接的な影響を及ぼすとしても、それはあくまでごく僅かなものに留まる。観察者が並の武人であれば、例え目を皿にして全身を余す所なく眺めたところで、あずみの立ち回りに何ら変化を見出す事は適わないだろう。一分の隙すら窺わせない冷然たる立ち姿を前に、絶望と共に己が未熟を噛み締めるだけの話だ。

 だが――あずみにとっての不幸は、眼前の敵手が凡百の武人とは比較にならない本物の強者であるという事実。獰猛に輝く紅の双眸は“獲物”の晒す僅かな隙をも見逃さず、そうして見出した一瞬を衝いて喉首を噛み千切りに来る。躊躇いも戸惑いも無く、慈悲も容赦も無い、勇猛果敢でありながら何処か機械じみた冷徹さに充ちた狩猟行為。

 紅の長髪を嵐の中に翻し、女豹にも似た強靭な肢体を躍らせて、独軍が世界に誇る“猟犬”が、今この瞬間にも狙い定めた首筋へ牙を突き立てんと襲来する。


「Hasen――Jagd!」


 獰猛な跳躍から繰り出されるのは、破壊的な闘気を纏ったトンファーの一撃。パンツァーファウストより撃ち放たれる成形炸薬弾頭の炸裂にも匹敵するであろう暴力の猛追から、あずみは危ういタイミングで身を躱した。

 後一歩のところで獲物を捉え損なった緋色の“砲撃”は、代わりに直線上に存在していた民家の石壁へと着弾し、一瞬の内にそれらを悉く瓦礫へと変じせしめる。恐るべき破壊と同時に生じた巨大な轟音と震動がビリビリと空気を伝播し、吹き付ける雨粒と共に身体の表面を激しく叩いた。


「――っ!」


 まさに間一髪。ぞわりと戦慄に皮膚が粟立つ不愉快な感覚を些かの安堵と共に噛み締めながら、あずみは攻撃後に生じた数瞬の猶予を最大限に活かすべく、メイド衣装の内側に常備した小道具の一つを引っ張り出していた。立ち昇る粉塵の中から猛々しい紅の眼光が自身を射抜くと同時、迅速な手並みにて球状の弾を足元の路面へと叩き付ける。


「煙幕か……小賢しい。そんな小細工で、私の目から逃れられるとでも?」


 当然、思っちゃいねえさ――胸中で苦々しく呟きを返しながら、あずみは足元から湧き起る煙に姿を隠しつつ駆け出し、そのまま最寄りの電柱を垂直に駆け上がる●●●●●●●●。数秒を要さず天辺に辿り着くと、即座に視覚・聴覚を主とする五感を最大限に研ぎ澄まし、眼下の風景から次々と情報を読み取り始める。その為の煙幕であり目晦まし……戦況を正しく把握する為の僅かな時間さえ稼げればそれで良かった。

 無論、確かめるべきは“自分の戦況”などではなく――己の周囲で今この瞬間にも繰り広げられている、幾多の闘争の行方。即ち九鬼従者部隊と狩猟部隊、二つの勢力が堀之外の市街地に描く戦場を俯瞰する事こそ、あずみの狙いだった。爆音と銃声、怒声と喚声が絶えず飛び交う中から、あずみの鋭敏な聴覚は集音マイクの如き精度を発揮し、雑音を省いた戦場の声音を拾い集める。


「突破だ! 九鬼の連中に構うな、突破にさえ成功すればそれでいい! 我々の任務は“標的”を仕留める事だ、サバイバルゲームよろしく連中と戯れる事ではないぞ!」

「そうは言っても、コイツら揃いも揃って相当に練度が高い……簡単には抜けないってば。くっそぅ、お姉さま――じゃない、隊長さえ加わって下さればこんな布陣、すぐにでも食い破って見せるのに!」

「ええい、泣き言を漏らすな鬱陶しい! 我らが隊長はあの忌々しい“女王蜂”の駆除作業にご多忙だ! くそ、麗しき御姉様のダンスパートナーを独占とは相変わらず目障りな輩め、薹が立った年増アラサーの分際でッ」


 びきり、と音を立てて額に青筋が浮き上がるが、プロ意識やら何やらを総動員して黙殺。かなり危ういところで冷静さを保ちながら情報収集を続行する。


「ファーック! あずみのヤロー、たった一人を相手にいつまでチンタラやってんだ! 序列一位サマサマが聞いて呆れるってなもんだぜ、なぁ李?」

「ステイシー、相手はあの“猟犬”です。いくらあずみでも易々と墜とせる敵手ではないでしょう。……あ、それと本人が盗み聞きしてますよ、この会話」

「うへぇ、ジャパニーズNINJAってヤツは相変わらずヘンタイ的に地獄耳だぜ……。おーいあずみィ、そっちはまだ片付かねぇのかよ? いい加減このファッキンゲルマンどもにヘッドショット決めたくて指先がウズウズしてきたんだけどよー」

『んなマネしやがったら後で秘孔突いて支部の屋上から落下死させてやるからな。オイ李、そのバカちゃんと抑えとけよ』

「うお、こいつ脳内に直接……!? じゃねえ、つ、通信機で返事しやがった……」


 手元の通信機と地上の両方から響く泡を食ったような声に、憤懣と憂鬱の念を込めた溜息を盛大に吐き出してから、あずみは鋭く目を細めた。


「ちっ、ヤベェな……このままじゃ」


 常人を遥かに超えた鷹の視力で地上を見下ろし、忌々しげな舌打ちを一つ。別段、戦況として従者部隊が劣勢だと判断した訳ではない。確かに、今回の緊急召集に応えられたのは川神南部・大扇島の極東支部に詰めていた面子に限られており、零から十番までの怪物じみた老執事達は軒並み不在、加えて二桁台の上位ナンバーの殆どは世界各地に散っているとは云え……それでも、九鬼財閥の誇る従者部隊千名の中に弱卒は居ない。序列一位たるあずみが最大の脅威であるマルギッテ・エーバルバッハを抑えている限り、独軍の特務精鋭部隊が相手であれ、互角に渡り合う事は十分に可能であろう。

 そんなあずみの予測を裏切らず、眼下に映る両勢力の実力は概ね拮抗し、結果として互いに一歩も退かない激戦が尚も続いている。こうして戦場の様相を見渡す限り、決着は未だ遠いだろう。

 それは不味い。それは――甚だ、不味いのだ。


「この調子で泥沼の戦いに縺れ込んじまったら、死人が出ちまう●●●●●●●。さて、どうすっかな……」


 あずみの懸念、焦燥の因は其処にあった。自身の、或いは味方の、戦友の死を恐れている――訳ではない。従者部隊の戦闘班に属する者であるならば一人の例外もなく、主の為、九鬼の為、戦場に散る覚悟は済ませている。胸中に感傷はあれど、降り掛かる死を恐れて戦場での立ち回りを左右する事など有り得ない。故に、現筆頭従者を任ぜられる忍足あずみにとって、恐怖とは死ではなく、“主命に背く事”に他ならなかった。


『よいなあずみ。くれぐれも、一人たりとも死なせるでないぞ。敵も味方も、誰一人として、だ。……我とて、これが酷な命である事は分かっている。だが、我が最も信頼するお前ならば必ずや我の期待に応え、過たず任を果たせると見込んでの事。頼んだぞ、あずみよ!』


 敬愛する主君から全幅の信頼を示され、自身では果たせぬ役割を代わりにと託されたのだ。ならば己の全霊を以って主命を果たすべく努めるのが当然であろう。それに……そうした心情的な面を除いて考えたとしても、だ。此処で自分がしくじれば一体どうなるか、想像が及ばない程に愚鈍ではない。

 あずみの主君たる九鬼英雄は、今や全世界の中心に坐す帝王とすら畏れられる“怪物”・九鬼帝の後継者であり、疑いなく次の時代を担うであろう王者。そのような立場にある人物が、単なる温情のみを以って、“戦場での殺生を禁ずる”などと云う一種ナンセンスな命令を下す道理は無かった。

 つまりは……“政治的配慮”。酷く億劫な響きを伴う五文字は、王者の道に絶えず付き纏う命題だ。

 死とは虚無の広がる奈落にも似て、絶望的な断絶を以って人々の意を隔てながら、関係を凍て付かせる。九鬼従者部隊と狩猟部隊との抗争が、大なり小なり九鬼財閥と独国の関係を冷え込ませる事は疑いないが――そこに死という要素が這入り込んでしまえば、もはや両者の間に走る亀裂は決定的なものとなるだろう。一国家との関係悪化は、九鬼財閥の推し進める世界戦略に少なからぬ影響を及ぼす。言うまでもなく、悪い方向へ、だ。財閥の発展に何ら寄与しない、云わば英雄個人の“我侭”によって九鬼の保有戦力たる従者部隊が動く以上、犠牲者をゼロに抑える事は最低条件と言っても良かった。

 最悪の場合は所謂“緊急措置”によって無理矢理に全てを揉み消す事も不可能ではないだろうが……どう転んだところで、この件における失態が英雄の立場に陰を落とす結果へ繋がる事は間違いない。そして骨の髄まで九鬼英雄の従者で在る事を望む忍足あずみは、己の失敗が主君の輝かしい王道を穢すような事態など、断じて認める訳にはいかないのだ。

 無論、己を除く従者部隊の面々もその程度の背景は承知しており、敵手たる狩猟部隊にしても無闇に死者を出すまいという思惑はこちらと同じだろうが――しかし互いの目的を懸けて全力で衝突する以上、戦場に絶対的な安全の保障など有り得ない。互いが互いの殲滅ではなく制圧を目標に置き、致命傷を避けるよう努めながら闘っているとしても、戦闘が激化し長引けば長引く程に、疲労とダメージが蓄積し集中力が鈍りゆく程に、“不慮の事故”が発生する可能性は高まっていく。

 何の偶然か、両勢力のパワーバランスが絶妙に均衡している事が災いしていた。こうなれば、序列上位ナンバーの召集が適わなかった事がつくづく悔やまれる。未だ例のプラン●●●●●が本格始動してもいないこの時期に、貴重な人材を極東支部に固める必要性など無いとは言え……もし壁越えクラスの老執事達の一人でも参戦していれば、自分がこうも苦労を背負い込む必要は無かっただろうに。普段はネチネチあれこれと苛めやがるクセしやがって肝心な時に役に立たねえ、とあずみは心中で盛大に毒づいた。


「ああクソ、織田の野郎もだ。少しくらい手ぇ貸しやがれってんだ、誰のせいであたいが汗水垂らして走り回る羽目になってると思ってんだタコスが」


 ステイシーと李から受けた呆れ混じりの報告によれば、あの可愛げの欠片も無いクラスメートはこの激戦区を文字通りに素通り●●●していったらしい。自分以外の者達がどれほどの死闘を繰り広げていようが、信長にしてみれば本気で関心が無いのだろう。

 信長の行動は戦略的に考えれば全く以って正しい判断に沿ってはいるのだが、しかし多少なりとも狩猟部隊の戦力を削りつつ突破する位の親切心を期待――する方が間違っているんだろうな畜生、とあずみは思考の半ばで苦々しく唇を歪めた。思えば自分本位という概念が衣を纏って歩いているようなあの男に、然様な甘ったるいものを期待する事こそ愚かしさの極みであった。


「ったく、あたいも本当疲れてんな。……っと、時間切れ、か!」


 電柱の天辺部分、あずみの足裏を載せるだけで精一杯の狭い足場が、激しい震動を引き連れて大きく揺れる。眼下に視線を遣れば、鋼鉄の破壊槌と化して叩き付けられたアーミーブーツが足場の根元部分を粉砕し、健気に天へと伸びる石柱を無慈悲にへし折っていく最中であった。

 あずみは一瞬後にも訪れるであろう足場の倒壊と崩落を待たず、僅かな躊躇もなく濡れたアスファルトの路面へと飛び降りると、重力を嘲笑うような軽快さで難無く着地。数間の距離を保ちつつ、再び地上にてマルギッテと対峙する。


「……」

「……」


 路上を埋めていた煙幕は風雨によって既に吹き払われ、二人の視線を遮るものは何も無い。

 あずみは皮肉げに口元を吊り上げ、全身に弾けんばかりの闘志を滾らせた眼前の好敵手へと声を投げ掛けた。


「相変わらずいちいち荒っぽいやり方だな、猟犬。他人様の国なんだ、ちっとは市街の景観に配慮しようって気はねぇのかよ」

「無い。私は軍人だ。軍と云うユーザーが目的に沿って運用する銃であり砲、それ以上でも以下でもない。――破壊を厭う“兵器”が何処に在る、女王蜂」

「はん、そいつは何ともご立派な心構えで。って事は当然、森谷蘭エモノの首を諦める気は更々ねぇってワケだ」

「無論。回答の必要すら感じません」

「ま、確かにこいつは愚問だろうな。……けどよ、お前なら分かるだろ、猟犬? このままあたいらが退かずにやり合い続けりゃ、どう考えても碌な事にならねぇって事は」


 マルギッテ・エーベルバッハは闘争に悦びを見出す戦闘狂の気があり、少なからず激し易い性格の持ち主ではあるが、かと言って眼前の戦闘のみに囚われるほどその視野は狭くない。

 士官学校を主席で卒業後、若干二十歳にして将校位に就き、国内最精鋭の呼び名高い特務部隊の隊長に抜擢される程の、生粋のエリート軍人にして卓抜した実力者。図抜けた戦闘能力のみならず、頭脳面に於いても一流以上の能力を有している事は言うまでもない。そして然様なプロフィールの持ち主が、九鬼財閥の私兵と独軍特務部隊、両者の軍事衝突が招き寄せる事態の深刻さを理解出来ない筈が無かった。


「…………」


 しかし――そうした諸々を訴え掛けるあずみの言葉を受けて、マルギッテが揺らぐ様子は欠片も無かった。先刻までと何ら変わらず、紅蓮の双眸に宿る焔は凍えるような冷たさで燃え盛っている。氷塊の中に猛る激昂を封じ込めた鋭利な眼差しにてあずみを射抜きながら、マルギッテは静かに言葉を紡いだ。


「この期に及んでの問答は、無用でしょう。私は栄えあるドイツ軍人の誇りに懸けて、己に課せられた任務を完遂するのみです。いかに口舌を振るい言葉を尽そうと、私の意志を曲げる事は不可能と知りなさい」


 厳粛に吐かれた言葉から窺える想念は鋼鉄じみて冷たく、固い。号令さえ下れば直ちに砲火を吐き出す兵器の趣だ。

 つまるところ、止まる心算は欠片も無いという明白な意思表示であった。


「ったく……仕方ねぇな」


 元よりあずみとしても、さほどの期待を抱きながら制止を呼び掛けた訳でもない。一日二日の付き合いならばともかく、出会いからの数年間を通じてマルギッテの人間性は概ね把握済みだ。結局のところ眼前の戦闘機械をこの手で停止させようと望むのであれば、その手段は元より一つ。即ち、力尽くで捻じ伏せるしか方法は無いのだと、あずみは良く良く承知していた。

 ちゃりん、という軽快な金属音と同時、あずみの十指の狭間に八本のクナイが姿を現す。鈍く光る黒塗りの刃が僅かでも皮膚を裂けば、麻痺性の毒が速やかに神経を侵し肉体を彫像へと変えるだろう。“女王蜂”の忌み名の由来ともなった非情の凶器を携え、忍足あずみは冷徹に敵手を屠る一個の戦闘者へと立ち戻った。対するマルギッテもまた、体内における氣の循環と同時に得物のトンファーを構え、必要が予期される部位の筋肉を張り詰めさせる事で、次なる衝突の準備を終える。

 両者の闘気が鋭利な視線を介して虚空で鍔迫り合いを続け、周辺一体の空気がひりつくような緊張感で充たされてゆく。急激に膨張していく闘争の気配が臨界点に達し、二人の武人が今まさに再度の衝突を迎えようとした――その時だった。


「な……、そ、そんな馬鹿なッ!?」


 緊迫した空気を無視して響き渡るのは、誰の目にも明らかな狼狽に彩られた叫び声。

 発したのは誰あろう、マルギッテ・エーベルバッハその人であった。紅の双眸を驚愕に見開き、眼前の敵手に致命的な隙を晒している自覚も無い様子で、ただ呆然と立ち尽くしている。

 あずみの策謀によるものではない――むしろ、あまりにも唐突に生じた巨大過ぎる隙を前に却って呼吸を外され、あずみには咄嗟の身動きが適わなかった。


「いや、しかし、私が間違える筈が無い。この“氣”は確実にお嬢様の……だが、何故だ、何故」


 心中を駆け巡る動揺を隠そうともしない様子で、マルギッテは濃厚な戸惑いの色を表情全体に浮かべながらぶつぶつと呟いている。世界各地で“猟犬”と恐れられる鉄血の狩猟者がこれほどまでにうろたえている場面を、かつてあずみは一度たりとも目にした経験が無かった。

 誘い……、にしてはあからさまに過ぎ、真に迫り過ぎている。そもそも、マルギッテはその手の腹芸を用いた搦め手をこなせるタイプの武人ではない。


――どうなってやがんだ?


 兎にも角にも迅速に事態を把握するべく、あずみはこれまで以上の精度で神経を研ぎ澄まし……そして猛烈な速度で此方へと接近してくる、見知った気配の存在を察知する事で、マルギッテが漏らした驚愕の呟きの意味を悟った。

 なるほど――本来ならば居る筈の無い自身の“護衛対象”が銃火飛び交う激戦地に紛れ込んでいるとなれば、その動揺は当然だ。

 だがしかし、その到来を先んじて察したところで、何らかの具体的なアクションを起こす暇は与えられなかった。件の気配は見る見る内に距離を縮め、数秒の時を経ずして、一人の少女がまさに弾丸の如く風雨を裂きつつ戦場の只中に飛び込んでくる。白地の学生服に映える絢爛な金髪を踊らせ、美しい碧眼を己が熱情に眩く輝かせながら、少女は紅潮した頬を窄めて大きく息を吸い込み、



「――クリスティアーネ・フリードリヒ、推参ッ!!」



 一人の少女が腹の底から放った清澄にして明朗な声音が、戦場を飛び交うあらゆる音響を貫き徹して、嵐の街へと響き渡る。

 その一瞬――誰もが、身動きを止めた。九鬼従者部隊も狩猟部隊も、等しく総員が闘争の手を休め、堂々たる名乗りを聞き届けていた。それは恐らく少女の有する一つの資質、ある種のカリスマの発露だったのだろう。煌くような存在感の出現に、戦場に在る数十の耳目は瞬く間に一人の少女へと惹き寄せられ、自然の内に戦いが一時停止していた。

 そして、少女……クリスは名乗りを終えた後も疾駆を続け、対峙するあずみとマルギッテの間に猛然と割り込み、そこで漸く足を止める。信念を宿した湖水の双眸が向けられる先は――顔面に驚愕を貼り付けて硬直している独軍少尉、マルギッテ・エーベルバッハ。


「お……、お嬢様っ!? このような場所に何故、ここは危険です、どうか今すぐに退避を――」

「マルさん」


 先の名乗りとは一転して、静かな声音だった。だがその静けさに込められた計り知れぬ想念の重さは、慌しく言葉を継ごうとしたマルギッテの口を噤ませるには十分なもの。

 未だ戸惑いが消えないままに黙り込んだマルギッテを真摯な面持ちで真っ直ぐに見据えながら、クリスはゆっくりと唇を動かした。


「自分は、マルさんが大好きだ」

「……クリス、お嬢様?」

「マルさんは、自分の知っている誰よりも強くて頼りになって、どんな時でも我が身を顧みずに自分を護ってくれた。運動も勉強も料理も掃除も何だってできるし、自分がどんな質問をしたってすぐに答えられるくらい色んな事を知っている。自分はそんなマルさんを、心から尊敬しているんだ。例え血は繋がっていなくとも、世界中に誇れる自慢の姉だと思っている」

「……」

「――だが、それでも。それでも、自分は決めたんだ」


 片手に携えるレイピアの刃が静かに持ち上げられ、白銀に輝く切っ先が一点を指す。曇りの無い刃が向けられた先は、マルギッテの心臓であった。大きく見開かれた紅の双眸を、決然たる碧の眼差しで射抜いて、クリスは一片の惑いも窺えない明朗さで言葉を続ける。


「いかなる時も“義”の一字を貫いてこその騎士。そして――今回の父様の行いに、そしてマルさん達の行いに、自分は義を見出せない! “強きを挫き弱きを助ける”、それが自分の掲げる騎士道で、自分の信じる武士道なんだ。だから、例え大好きなマルさんと闘う事になっても、自分はこの暴挙を止めてみせる!」


 凛として響き渡る宣戦の言葉は、何処までも明瞭に少女の意志を周囲へと知らしめる。自らの身命を賭して護るべき少女に他ならぬ自分が剣を向けられているという事実を前にして、マルギッテはこれまで以上に狼狽し、喉より発するべき声すら見失っているかのような状態だった。そんな彼女の有様にも頓着する事無く、クリスは相貌に不惑の信念を宿したまま、尚も口を動かす。


「ディートリンデ曹長」


 その唇が静かに紡いだのは、一つの人名。狩猟部隊の構成員の一人を呼んだと思しきクリスの声に、しかし応える者は居ない。ただ誰もが口を閉ざし、息を殺して少女を見詰め、結果として奇妙な静寂が場を支配する。

 クリスは数秒ほど目を瞑ったまま返答を待っていた様子だったが、遂に己の望むものが得られないと悟ったのか、不機嫌そうに眉を顰め――不意にその双眸をかっと見開いた。


「ディートリンデ・ハーケンベルグ曹長ッ!!」


 未だ成人を迎えない少女の声音とは到底思えない程の気迫に満ちた、それはまさに雷喝であった。百戦錬磨の猛者達が揃ってビクリと身を竦ませ、そして遅れること一拍、「は、はいぃっ!!」と軍服を纏った金髪の女性が素っ頓狂な声を上げて点呼に応える。クリスは燃え滾るような熱を宿した瞳を彼女へと向け、そしてまたしても峻烈な声を張り上げた。


「ドロテア軍曹ッ!」

「ハッ!!」


 殆ど反射的にであろう、名を呼ばれた長身の隊員は命じられるでもなく、返事と共に敬礼の姿勢を取っていた。


「ガブリエーレ軍曹ッ! ヘルルーガ軍曹ッ!」

「「はっ!」」


 二人からの返事を受け取った後、尚もクリスは凛々しい声音を響かせ、場に居合わせた部隊員一人一人の名を次々と呼ばわっていく。直属の上司たる独軍中将ことフランク・フリードリヒの愛娘とは言え、軍に籍を置いている訳でもなく、従って何の強制力も有さない筈である小娘の呼び掛けに、しかし背筋を張って応えない者は誰一人として居なかった。身分や階級といった権威などとは無関係に、聴く者を否応無しに従わせる絶対的な何かが、少女の声には備わっていた。

 やがて全部隊員の名を呼び終え、総員の視線が自身へと向けられた事を確かめるように周囲を見渡すと、クリスは白銀に煌くレイピアを高々と天へ掲げ、朗々と叫んだ。


「皆、心して聞け! ここから先へと進まんと欲する者は、正々堂々、自分を……クリスティアーネ・フリードリヒを踏み越えて往くといい! 自分の掲げる義の剣、折れるものならば折ってみろッ! さあどうした、掛かってこい――自分は逃げも隠れもしないぞ!」


 誇り高き白騎士の宣戦が、一直線に聴く者全ての胸を貫きながら市街地を奔り抜ける。清々しくも苛烈な闘志を真正面から叩き付けられた狩猟部隊の面々は、隊長のマルギッテを筆頭に、揃いも揃って天空から降り注ぐ稲妻にでも打たれたかのような風情でうろたえるばかりだった。

 相対する九鬼従者部隊の存在そのものを忘れ去っているのか、二人のメイドが堂々と眼前を横切ってあずみの傍まで歩み寄っても、それを敢えて阻害しようとする者も居ない。二人組の片割れこと序列十五位、ステイシー・コナーは感心顔でクリスの後ろ姿を見遣って、高らかに口笛を吹いてみせる。


「ヒュー、こりゃまた随分なロックンロール・ガールじゃねーか。見ろよ、あの猟犬がタジタジだぜ」

「あずみ、どうしますか? この隙を衝いて速やかに動けば、制圧は比較的容易かと思いますが」

「……いや。正直、もうその必要もねぇだろうよ」


 序列十六位、李静初リー・ジンチューのあくまで冷静な提案に対し、あずみは首を横に振った。想像もしなかったであろう少女の登場と予想を超えた行動を前にして、狩猟部隊全体が完全に浮き足立っている。もはや先程まで場を充たしていた、所謂“戦気”とでも形容すべきものは見事なまでに途絶え果てていた。そして、一旦こう●●なってしまえば、事態はなし崩し的に収束へと向かうものなのだと、長年の経験からあずみは悟っていた。


「やれやれ。無闇やたらにしんどいミッションだったが……これでどうにか、胸張って英雄様と顔を会わせられそうだ」


 双肩に重苦しく伸し掛かっていた甚大なプレッシャーが漸く取り除かれた事を実感しつつ、あずみは疲労感に満ちた盛大な溜息を吐き出す。

 兎にも角にも、これで九鬼従者部隊は課せられた役割を全うした事になる。後はあの怪物じみたクラスメートが上手く事を運んでいるかどうかだが――まあ其処をわざわざ心配する必要は無いだろう、とあずみは投げ遣りに判断を下した。底知れぬ戦闘能力と狡猾な智恵、そして何より呆れるほどに頑強な鋼の心魂を備えた織田信長と云う男のこと、普段通りの平然たる表情で無造作に万難を排し、傍若無人に己の意図を遂げてみせるに違いない。

 友好感情の度合いは別としても、それは紛れもなく、忍足あずみが織田信長というクラスメートに向ける、一種の信頼ではあった。


「それにしても……“クリスお嬢様”、ね。単なる箱入りだと思ってたが、やるもんだ」


 親馬鹿中将殿の大袈裟な娘自慢は、あながち全てが事実無根という訳でもなかったらしい。

 その温室育ちらしからぬ烈しい立ち振舞いから窺えるのは、一挙一動を以って人心を掌握し、一声の下に一軍を手足の如く使いこなす、並外れた統率者としての才。芯を通した様に真っ直ぐ伸びた少女の背中を見遣って、少なからぬ感嘆と共に彼女への評価を改めながら――あずみはふと、空を仰いだ。


「……雨、上がったな」


 吹き荒れる風が止み、轟き唸る雷が去り。黒々とした暗雲の切れ間から、柔らかな光明が降り注ぐ。

 あずみは目を細めて天を見上げ、遠からず訪れるであろう波乱の決着を予感した。
 

 
 
 斯くして此処に、一つの戦線が終結へ向かう。

 
 九鬼従者部隊 対 狩猟部隊――クリスティアーネ・フリードリヒの介入により、決着付かず。


















「…………」


 雲間から射し込む紅い光芒が、薄闇に順応した瞳孔に眩しく映る。

 川神を見舞った時ならぬ悪天の所為でいまいち時間感覚が曖昧だったが、いつの間にか黄昏時が訪れていたらしい。荒々しい嵐を孕んだ暗雲が流れ去った後の空には、穏やかな色彩の夕日が静かに佇み、手の届かぬ遥か彼方から自分を見下ろしている。


「俺ァ――敗けたのか」


 仰向けの姿勢で泥土の上に倒れ込んだまま、釈迦堂刑部は茫然たる調子で呟いた。


「ああ。アンタは敗けた。俺が、勝ったんだ」


 紅い日差しを遮って、一人の少年が釈迦堂の視界に映り込む。地に斃れ伏した自分のすぐ傍に立ち、冷気と熱気とが不可思議に同居した漆黒の瞳でこちらを見下ろしているのは、最弱であり最強である己が弟子――織田信長。

 一人は倒れ、一人は尚も立っている。それは勝者と敗者の然るべき在り方を明瞭に示す、あまりにも分かり易い構図だった。逃れ様の無い巨大な実感が、瞬く間に心中を覆い尽くしていく。己の敗北という信じ難い現実を、釈迦堂は今この瞬間にこそ明晰に認識した。殆ど自分でも意識しない内に、引き攣れたような笑い声が喉奥から漏れる。


「ヒヒッ、……オイオイ、真剣マジかよ」

真剣マジだ。俺お得意の嘘偽りが欠片も含まれない、徹頭徹尾が本物極まりないリアル。誰もが嗤う夢物語は、目出度く現実と相成った。……五年越しの“約束”はようやく、果たされた訳だ」

「……三人がかりで、だけどな。ついノリと勢いで誤魔化されちまってたが、今になって冷静に考えてみればありゃヒデェ話じゃねぇか? 若者が数の暴力でオヤジ狩りたぁ日曜朝の戦隊連中もびっくりだぜ」

「ふん。ネコと蘭は直臣で、直臣は俺の“手足”。つまりは紛う事無き俺が保有する“力”の一種だ。俺は文字通りの全力を費やしてアンタに挑み、そうしてこの結果を掴み取った訳で、的外れな文句を受け付ける気はないな」

「ヒヒ、モノは言いようだよなぁ、ホントによ。つっても……ま、今回に限っちゃ、あながち詭弁ってワケでもねぇか」


 一片の気後れもなく言い切ってみせた堂々たる信長の態度に、釈迦堂は苦笑する。『どんだけ汚い手を使おうが構やしねえ、とにかく俺を愉しませてみせろ』――なるほど確かに、かつて然様な言質を与えたのは他ならぬ自分自身だ。信長はその言に則って、“約束”を果たす為に全霊を尽くしたに過ぎない。

 釈迦堂としても、本気で闘争の顛末に不平不満を抱き、文句を吐き掛けている訳ではなかった。素直に認めてやるのが癪だという、詰まらない意地の産物。

 本心では既に、認めているのだ。師としての己は既に、信長という弟子に越えられたのだという事実を。


「……蘭。ねねの奴を介抱してやってくれ。何処かその辺で伸びているだろうからな」

「……」


 おもむろに投げ掛けられた言葉を受けて、しかし名を呼ばれた少女はすぐには動かなかった。凪いだ海原のように深く穏やかな色合いを湛えた眼差しが、数秒の時間を掛けて信長と釈迦堂の姿を交互に見遣り――そして、ニコリと微笑んだ。そのままの笑顔で了承の頷きを落とすと、二人に背を向け、公園の敷地外へと小走りで去っていく。

 首を曲げてその背中を見送りながら、釈迦堂は皮肉げに口元を歪めた。


「ヒヒ。良いのかよ、信長」

「何がだ?」

「いくら何でも無防備過ぎやしねぇか、って言ってんだよ。確かに、お前のトンデモ奥義のせいで氣の大部分が持っていかれちまったし、蘭のヤツに遠慮なくぶった斬られた傷は正直かなり痛ェけどな、それでも俺ァ天下の川神院元師範代――手負いだろうが何だろうが、お前一人を捻るくらいは造作も無いんだぜ」

「……ふん。何を言うかと思えば、下らないな。俺は自分が用心深い人種だと自負しているが、そこまで病的に心配性でも神経質でもないんだよ。杞憂に囚われて大山鳴動、なんてしょーもない事にはならないさ。どう足掻いた所で、アンタにはそんな事は出来ないんだからな」

「へへ、そいつはまた……、らしくもなく随分と自信満々じゃねえかよ、信長。言っとくがな、もしこの一勝で図に乗ってやがんなら――」

「釈迦堂刑部は血も涙も無い残虐非道の悪党だが、誇りある武人だ。それくらいの事は、俺にも分かるさ」

「―――」

「勝負は終わった。決着は付いた。闘争の結末は、既に示されたんだ。だったら――無粋な一幕を付け足してその闘いを自ら穢すような真似、アンタには出来やしない。……俺の言は的を外しているか? “師匠”」


 問い掛けの態を取りつつも、その言には間違いなく、揺るがぬ確信が込められていた。僅かな疑義すら差し挟まない、心底からの信を載せて、織田信長はどこまでも傲然と釈迦堂刑部の性情を断定する。


――ああ、畜生。ぐうの音●●●●も出やしねぇ。


 まさしく、完敗であった。言葉の駆け引きや心理戦といった分野では遠く及ばない事などとうに知っていたが、こうも見事にやり込められてしまえば、もはや悪足掻こうと云う気力も失せる。

 釈迦堂はただ頭上の茜空を仰ぎ、くつくつと喉を鳴らして笑った。

 湿り気の名残を帯びた緩やかな風と共に、暫しの沈黙が流れる。不意に込み上げた笑いの発作が収まった後、釈迦堂は再び皮肉っぽい笑みを顔に貼り付けながら、見慣れた仏頂面で自身を見下ろしている信長の顔を仰ぎ見た。


「……で。どうすんだ、信長」

「相手とまともな意思疎通をしようと云う気があるのなら、最低限、主語と述語と目的語とを明確に示した上で喋って欲しいもんだ。生憎な話、俺とアンタはツーカーの間柄でも何でもないんだからな。むしろ常時ATフィールド全開だ」

 
 いかに逞しく成長を遂げたところで、やはり可愛げという要素は行方不明であった。むしろどう考えても悪化の一途を辿っていた。

 釈迦堂は黙殺という賢明なる手段を以って棘だらけの皮肉をやり過ごし、何事も無かったかのような口調で言葉を継ぐ。


「トドメを刺さねぇのかっつー話よ。念の為に言っとくが、今ここで俺を見逃した所で、週刊バトル漫画よろしく改心して後の仲間フラグが立ったりはしねぇぞ。俺は俺、悪党は悪党。お前の大嫌いな“獣”とやら――それもとびっきり危険な獣を一匹、むざむざ野放しにするだけだ。お前的にゃ、それで構わねぇのか?」

「……ああ、“それ”か」


 己の獣性を剥き出しにした表情で邪悪に哂ってみせる釈迦堂に対し、信長はどこか醒めた、酷くつまらなさそうな調子で相槌を打った。


「俺は無駄って奴がどうにも嫌いで、可能な限り人生から排除したいと常々思っている。だとすれば、そもそもの選択権が手元に無い事項についてあれこれと思い悩むのは馬鹿らしい、そうじゃないか? 何と言っても……“それ”を決めるのは俺じゃなく、アンタなんだからな」

「……」

「経験上、手負いの獣の怖さと厄介さは良く知ってる。必要以上に欲を出した挙句に相討ち覚悟の反撃喰らってダブルK.O、なんてお寒い展開は勘弁願いたいからな。まあ勿論、敗北の屈辱に耐えられないからきっちり息の根止めて欲しい、とアンタが仰せなら希望を叶えるに吝かじゃないが。俺は謙虚で礼節を知る理想的な弟子だから、師匠の意志は尊重させて貰うさ」

「……へへ、そうだな……死にたくは、ねぇな。死んでやる訳にゃ、いかねぇな」


 何を考えるまでもなく、自然の内に湧き出てきた言葉だった。

 そう、未だ自分は、死の終焉を望まない。

 自身の望んだ闘争の末に果てるのであれば満足だと、常日頃からそんな風に思っていた。或いは万一、不肖の弟子が見事己を打倒してみせた暁には、この首を挙げさせる事で武勇に報いてやろうと考えた事もある。だが、実際にこうして“その時”を迎えてしまえば――心中に在るのは、未練●●の二字。敗れて尚燃え盛る、闘争への飽くなき欲求だ。

 織田信長。何かに付けて奇怪千万なこの弟子は、語るにも足りぬ至弱より始まり、研鑽の果てに壁越えと云う一つの高みへと到達し、己が宣言に違う事無くこの身を地に這い蹲らせた。自身とは決して相容れぬであろう価値観を胸に抱き、凍て付いた氷の眼差しで闇の世界を睥睨する“天敵”は――而して未だ、完成には到っていないのだ。成長過程であり、発展途上。故にこそ、胸に新たな夢想を宿さずには居られない。故にこそ、釈迦堂刑部は己のサガに従って、生を渇望せずには居られない。


「あー、やっぱダメだわ。俺ァどうも自分で思ってたよか、生き意地が汚ぇらしいぜ」

「……ふん。だったら、さっさと尻尾を巻いて逃げればいいだろう。年中暇人・住所不定無職ことフーテンの釈迦さんと違って、俺は人生の大体の局面において色々と忙しいんだ。いつまでもアンタ一人の相手はしてられないんだよ」

「冷ッてぇなあオイ、お前はドライアイスかっつの。オッサンに優しくしねぇ若者はロクな目に遭わねぇんだぞ、ったくよ」


 相変わらず冷淡極まりない弟子の態度にぶつくさと文句を垂れながら、釈迦堂はむくりと身体を起こした。

 森谷蘭の渾身の一刀がこの身に刻んだ傷は、並大抵の武人ならば確実に致命傷となるであろう深さだが――世界に一握りの壁越えの武人であれば、内気功で傷口を塞ぎつつ体細胞を活性化させるという力業で命を繋ぐ事は不可能ではない。かつての弟子たる百代の“瞬間回復”には練度に於いて遠く及ばないにせよ、釈迦堂とて同系統の技術は習得している。

 無論のこと、これ以上の戦闘を行おうものなら落命は免れないだろうが、ひとまず立って歩く分には不自由しない。釈迦堂は背中に張り付いた泥土の感触に辟易としつつ、傍に立つ少年へと声を掛ける。


「なぁ、信長」

「まだ何かあるのか?」

 
 露骨に面倒そうな調子で相槌を打つ信長に対し、釈迦堂は低めた声音で、静かな問い掛けを発した。


「お前は、強くなるんだよな? こんな所●●●●で満足して立ち止まらずに、まだまだ先の領域を求めるんだよなぁ?」

「無論だ。アンタとの“約束”は所詮、一つのチェックポイントに過ぎない。足を止めるには些かばかり、早過ぎるだろうよ」

「だったら――さしあたって次は、正真正銘の一対一サシで俺に勝つ事でも目標にしときな。俺はそのつもりで“錆”を落としてくるからよ……お前が今この瞬間に噛み締めてる勝利の味を忘れたくなけりゃ、これまで以上に気張って自分磨きを続けるこったな」

「……」

 
 努力だの、修行だの。そうした泥臭い類のものは全く以って、天才武術家たる釈迦堂刑部の柄ではないが……しかし己が求める闘争に臨む為には、きっとそういうもの●●●●●●が必要なのだと、今はそう思う。

 無慈悲にして過酷なる武界に於いては、天性の才凛こそが万事に優越し圧倒する――釈迦堂の掲げてきた信条は既に、眼前の弟子の存在によって打ち砕かれた。弱者の足掻きが強者を脅かし得る事実を、織田信長は実例を以って証明してみせた。

 だとすれば、だ。己が絶対強者足り得ない現実を思い知らされてしまったからには、これまでの如く自身の武才に胡坐を掻き続けている訳にはいかないだろう。信長がこの先も不断の歩みと共に力を積み上げるならば、己もまた茫然と座り込んでは居られない。

 立つのだ。立って、歩くのだ。釈迦堂は一つの敗北を契機とし、一つの決心を胸に掲げる。

 そして信長は、感情の取捨選択に失敗した様に至極微妙な表情を浮かべて、師の宣言に応えた。


「……それはまた、何とも。将来的にアンタがこれ以上強くなって立ち塞がると来れば、生半可な気合の入れ方じゃあ簡単に詰みそうだな。と言うか幾ら何でもハードモードが過ぎるんじゃないか、オッサン? むしろハードを通り越して狂気ルナティックの域だぞそれは」

「ヒヒ、マゾゲー大好きなお前にしてみりゃ、気分が引き締まって丁度イイだろ? 身体を張って弟子の燃え尽き症候群を予防しつつ将来に向けてモチベーションを維持させる――我ながらナイスなアイディアだぜ。やっぱ俺って理想の師匠だよなぁ」

「何と言うか、溜息しか出ないな……。全く――」

 
 そんなアンタの無茶苦茶に付き合い切れるのは、世界広しと云えど俺くらいのもんだろうよ。

 
 実に仕方が無さそうな苦笑を唇の端に浮かべて、信長は言った。

 
 そうかよ――と釈迦堂もまた小さく笑って返し、その遣り取りを最後に背を向ける。

 
 心胆の深奥までをも射抜かんとする強烈な視線を尚も背中に感じながら、悠々たる歩調で公園から出て街路を歩く。


「……さーて、と」


 身体を前方へと運ぶ足は止めないままに、くたびれたズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

 釈迦堂にはいまいち使い道の見出せない機能を大量に搭載した最新機種は、“雇い主”から預かった代物だ。電話帳に登録された数少ない名前の一つを選択し、発信。ニコールと待たない内に、目当ての相手に繋がった。


「――よぉ、マロードの大将」


 実態はどうあれ一応は雇い主と被雇用者の間柄だ、報告義務を放棄するのは宜しくない。

 のんびりと街路を進みながら、電話の向こうに居る相手へと陽気な調子で言葉を続ける。


「わりぃ、敗けちまったわ。元・師匠としちゃ勝てると踏んでたんだけどよ……いやぁ、信長の野郎、俺の想像以上にアレな感じになってやがった。蘭の方も、組し易いかと思えばどん底から一気に復活、挙句に何やら見てるこっちが恥ずかしい感じに覚醒しちまうわで、ホント散々だぜ」

『―――――。―――――?』

「あー、どうにかな。何とか離脱には成功したっちゃしたが、戦力には数えねぇでくれよ? こちとらヘタに運動すりゃ、速攻でモツが零れ落ちちまう程度にはステキなコンディションだからよ」

『――。―――、―――――』

「オウ。済まねぇな大将、地獄の底まで付き合ってやれなくてよ。お互い命があったらまた雇ってくれよ、大将なら格安で手ェ貸してやるぜ。……まあ尤も、お前さんにその気があれば、だけどな」

『――――、―――』

「……ヒヒ。じゃあな、大将。短ぇ付き合いだったが、楽しかったぜ」


 飄々と、あくまで陽気な調子で別れを告げて、通話を終了。次いで掌の中の携帯電話を、そのままぐしゃりと握り潰す。ブラックホールにも喩えられそうな人外の握力によって圧縮され、もはやスクラップとも呼べない不可解な物体と化した鉄塊を道端の側溝に放り捨てて、釈迦堂は一顧すらせず歩を進めた。

 そして直後、折り良いタイミングで、眼前に“目当て”の光景が現れる。


「……あー」


 その場に立ち止まり、微妙な表情で数秒ほど逡巡してから、釈迦堂は行動を起こした。周辺の路面に血溜まりを形成しつつ転がっているのは、多種多様な武器の残骸、そして惨たらしく破壊された無数の人体。織田信長の首級を狙った腕利きの武術家だったもの●●●●●が沢山と、“それ以外”が一体だ。

 その例外的な一体を探し当てると、立てた中指を腹部の一点へと無造作に突き込む。忽ち、「うぎゃあっ!?」と色気の欠片も感じられない叫びを上げながら、目当ての人物は気絶状態からの覚醒を果たした。


「あ、あれ? ウチは、あれ?」

「よう、天。んなズブ濡れの格好のまま外で寝てると風邪引くぜ? ん、いや、考えてみりゃバカだから問題ねえのか。しまった、こりゃ我ながら余計な世話だったな」

「し、シショーッ!?」


 目を真ん丸にして仰天の声を上げているのは、釈迦堂の弟子が一人、板垣一家の末娘こと板垣天使である。

 釈迦堂は仰向けに倒れ込んでいる少女の顔を覗き込み、真上から意地悪い笑みを降らした。


「オウ。ちなみに暴れてもムダだぜ、ツボ突いたからしばらくは指一本動かせやしねぇ。普段ならともかく、今の俺じゃお前の相手するだけでも割としんどいからよ……ま、ちょっとの間は大人しくしてな」


 迎撃体勢を取る為か、咄嗟に跳ね起きようと四苦八苦している様子の天使に声を掛ける。

 結局、どう足掻いても肉体の自由は得られないと判断したのか、天使は不満げな表情で釈迦堂を見上げ――そしてまじまじとその全身を見渡して、両の瞳に理解の色を宿した。次いで口元がニタリと邪悪な弧を描き、目元が傍目にも楽しげな笑いを湛える。


「うけけ、師匠、シンにやられっちまったんだろ。そのケガ、かなーりヤベーんじゃねーの? へへ、ウチをぶっ倒してラスボス突入した結果がそれだぜ、ザマーみやがれってんだ!」

「お前な、そのリアクションは薄情過ぎんだろ……。少しは心配しろよ、割と真剣マジで生死の境を彷徨ってんだぞ俺」


 状況を解するにつれて見る見る内に上機嫌になっていく弟子の顔に、師弟の絆とは一体何だったのかと思わざるを得ない釈迦堂である。


「えー。だってどーせくたばんねーだろ、師匠だし。テキトーにメシ食って寝てりゃ治ってそうじゃん。……え、師匠、ひょっとしてホントに死ぬんか?」


 ガーン、と今更ながらに衝撃を受けている様子の天使に、釈迦堂は苦笑しつつ首を左右に振った。


「いやまあ無茶しなけりゃ死にゃしねぇよ、俺もこの若さでお陀仏する気はねぇからな。……あー、ま、それはともかく、わざわざお前を叩き起こしたのはアレだ、一応挨拶しとこうと思ったワケよ」

「んー? アイサツ? ……おはようございマース?」

「律儀に挨拶返してる辺りは褒めてやりてぇが、違ぇよ馬鹿。ほら、お前アレだろ、こっから先は信長の下で扱き使われる予定なんだろ? んでもって俺の方は川神からさっさと脱出しねぇと色々マズイ訳で、要するに当分の間はお別れって事だ。まあ一応は師匠やってんだ、挨拶も無しに消えちまうのもどうかと思ってよ」

「あー……、そっかぁ。ウチ、アミ姉ぇともタツ姉ぇともリュウとも、それに師匠とも、当分は会えねーんだな……」


 織田家に付くと云う自分の選択が招いた現実に改めて思いを馳せたのか、しゅん、と元気を失くしている。

 悄然と視線を伏せた弟子に対し、何か励ましの言葉を掛けてやろうかと思ったものの、不慣れが災いしてなかなか気の利いた台詞が思い浮かばず、釈迦堂はただ要領を得ない唸り声と共にがりがりと頭を掻くだけであった。

 そうこうしている内に、不意に天使は明るい両目を輝かせ、活力に溢れた声音を響かせる。


「あーやめだやめ、ウダウダ考えてても仕方ねー! ウチが気合入れりゃー済むハナシだっての! うっしゃ、こうなりゃバリバリ活躍してソッコーでみんなこの街に戻って来れるようにしてやんぜぇ! 師匠、またこっちに戻って来れたらそん時ゃウチのおかげだから、豚丼百杯くらい奢ってくれよな!」

「……オウ。存分にサービスしてやろうじゃねぇか。ヒヒ、梅屋のとろろ付き豚丼大盛り、ついで豚汁もセットで付けてやるぜ」

「おお、流石はシショー、太っ腹だぜぇ! よーし、メシのためならウチ死ぬ気で頑張っちゃうもんね!」

「へへへ。ま、頑張れよ、天。――んじゃ、達者でな」

「師匠もくたばんじゃねーぞ! 奢りの約束破ったら地獄まで追い掛けてサーチ&デストローイしてやっからな!」

 
 最後まで湿り気の感じられないハイテンションな弟子の台詞を背中に受け、釈迦堂は笑みを噛み殺しながら歩き出す。


――ったく。俺の弟子ってヤツはどいつもこいつも、どうしてこうも無駄に逞しいのかねぇ。


 全く以って、心配の甲斐も有りはしない。いやそもそも心配など欠片もしてはいないがまあ何にせよ弟子の成長は歓迎すべき事だろう、と些か投げ遣りに自己完結つつ、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、嵐の去った灰色の街並みを闊歩する。


「さーて、残りの弟子どもと合流するとしますか。……あいつら、まさかくたばっちゃいねぇだろうな」


 決定的な敗北を味わい屈辱と共に泥土に塗れ、命に関わる重傷すら負わされた上での不本意な撤退。であるにも関わらず――去り行く孤影に敗者特有の悲壮な陰は付き纏わない。むしろ豪雨に濡れた路面を踏みしめる足取りは弾む様に軽く、万人を強烈に圧する凶相は常日頃よりも上機嫌な形で歪んでいる。


「おもしろきこともなき世をおもしろく――ヒヒ、悪くねえ。クソ生意気な若人どものおかげで、俺の人生、まだまだ愉しめそうじゃねぇかよ」


 愉快げな呟き一つ落として、鼻唄交じりにまた一歩。

 
 稀代の武人にして野に棲む気侭な獣、釈迦堂刑部の道行きは、あくまで飄然たるものであった。




















 本来なら後編と合わせて一話構成の予定だったのですが、そうすると四万字を突破しそうな勢いなのでやむなく分割。次回に続きます。見立ての倍にまで文量が膨れ上がる悪癖はどうにかならないものか……
 と言う訳で、今回はサブタイ通りの後始末回でした。身体張って助けたヒロインと愛を語らずオッサンと武を語る主人公、たまげたなぁ……二人は同類、はっきりわかんだね。いまいちマロードの影が薄いのは仕様というか何というか、彼の出番はむしろこれからですので、どうか今後の活躍に御期待下さい。
 毎度ながら有り難い感想を下さった皆様に感謝を。寄せられた疑問点等については、出来る限り今後の話の中で解消していけるよう努めたいと思います。それでは、次回の更新で。



[13860] アフター・ザ・フェスティバル、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:a973550a
Date: 2013/11/26 00:50
「……なんだ、こりゃ。怪獣大決戦の跡地かァ?」

 自身の眼前に広がる凄惨極まりない光景を半ば呆然と眺めながら、前田啓次は脳裡に浮かんだ率直な感想を口から漏らす。

 台風一過、などという生易しい表現では到底追い付かない。仮に特大サイズのハリケーンが直撃してもここまで酷い様相は呈さないだろう。堀之外町・歓楽街区域のメインストリート、通称親不孝通りの一角が、比喩表現でも何でもなく――壊滅●●していた。クレーターじみた巨大な陥没が到る所に見受けられるアスファルトの路面には、地割れによって奈落へと通じる裂け目が各所に生じ、天へ向けて聳え立っていた電信柱や街路樹の類は根こそぎへし折られて地に倒れ込み、ストリートを挟んで林立する左右のビルは軒並み倒壊を終えて、今や粉塵を撒き散らす大量の瓦礫と化している。災害じみた破壊の規模の割に何処からも火の手が上がっていないのは、折り良く降り注いでいた豪雨に片っ端から鎮火されたからなのだろう。もしもその奇跡にも似た幸運が欠けていれば、今頃は文字通りの地獄絵図が出来上がっていた事は想像に難くない。

「おいおい……いくら何でも、こりゃねェぜ。ムチャクチャやり過ぎだろ、あの鬼女」

 これはひどい、と思わず声に出して呟かずにはいられない惨状であった。何よりもナンセンス且つ笑えないのは、目の前の景観が天災による破壊ではなく、“人災”がもたらしたものだと云う点である。規格外の武力の所有者が遠慮を知らず暴れ回り、望むがままに衝突を繰り返した結果が、戦場跡と言うにも生温いこの“被災地”。

 さほど遠くない街路からひっきりなしに響いていた轟音と、延々と続く地震の如き足元の揺れ具合からして、件の鬼畜系生徒会長様が大規模な激戦を繰り広げているであろう事は予感していたが……しかし、まさかここまで常識外れな光景を拝む羽目になるとは。

 啓次はひとまず気を確り保つ為、ぶんぶんと勢い良く頭を振った。シャワーの直後さながら雨に濡れた金の長髪から無数の水滴が虚空に跳ねる。

「……」

 改めて眼前の光景へと視線を向ければ、この災害を演出した張本人の姿が抉れた街路の只中に見つかった。愛用の珍妙な大槍を無造作に罅割れた地面に転がし、その傍へと大の字に寝転がって頭上の夕空を眺めている一人の女。

 或いは最初から接近には気付いていたのか、柴田鷺風はふと思い立ったように啓次へと視線を寄越し、何処か大型肉食獣の起床を連想せずにはいられない、ゆったりとした動作で姿勢を起こした。腰元まで伸びた艶髪と同色の、ダークグレーの双眸が正面から啓次を捉え――ギラリと不吉な輝きを帯びる。その瞬間、啓次は今すぐ背中を向けて猛ダッシュで逃走すべきか本気で悩んだが、どうせ手遅れだと早々に諦めた。所詮、一度でも目が合ってしまった時点で運命は決しているのだ。無駄な抵抗は徒に被害を増やすだけである。

「やあやあ前田少年、ご機嫌いかがかな? ちなみに私はと言えばだね、かつて例を見ない程の素ン晴らしい爽快感に浸っている真っ最中なのだよ。おお、快なり快なり、人生の愉しみは此処に在り、だ」

 傍目には全身に少なからぬダメージを負っているように見えるのだが、彼女特有の理解に苦しむテンションは至って普段通りであった。剛壮な鋼鉄の大槍を担いでのっしのっしと雄々しく歩み寄ってくる姿に、そういやこの女、ガッコじゃ瓶割りならぬ“ビル割り柴田”とか呼ばれて恐れられてたっけな――と些か現実逃避気味に思考しながら、啓次は精一杯の話術を以って戦略的撤退を試みる。

「あー、そうかよ、だったらアレだ、そいつは邪魔しちゃ悪いよな? オレはとっとと消えるんで、その最高にハイな気分とやらはどうか一人でゆっくり堪能してくれや」

「いやいやこの大いなる喜びを個人が独占するなどと、然様に欲深く罪深い振舞いは天地神明に誓ってしないともさ。是非とも地球上の全人類が共有し分かち合うべき福音だ。何となれば、今日と云う時は即ち一つの“愛”が見事、完全勝利を収めた記念すべき日と相成ったのだからね。おお礼賛せよ喝采せよ、此処に愛の保有する全能性がまたしても証明されたのだ。やはり私の信条は間違ってなどいない、燃え滾る愛バーニング・ラヴは遍く人を救い世界を救う! 一人の愛・戦士としてこれほど嬉しい事が他にあるだろうかいやありはしない。さあさあ前田少年、諸手を上げて歓喜し給え。私と共に愛の勝利を祝そうではないか」

「悪ィけど宗教にはこれっぽっちも興味ねェんだよな……どうも胡散臭くて信用出来やしねェ」

「む? 何やら無知蒙昧にして愚鈍窮まる君は根本的な部分を誤解している様だが、私が信じているのは人間の人間による人間の為の人間臭い感情、即ち人の愛●●●であって、神の愛アガペーなる胡乱な概念ではないよ。むしろ神は百三十年ほど前にドイツ辺りでポックリお亡くなりになったと言うのが私の見解だ。他人の信仰を否定する気は無いが、少なくとも私自身は偶像を崇める気にはなれないね。そも、私の定義する愛とは普遍的なものではなく、大なり小なり偏執的な性質を帯びたものなのだから。誰をも等しく愛していると云う事は、誰一人として愛していない事と同義だろう?」

「お、おう……」

 せやな、と謎の関西弁が脊髄反射的に漏れた。つまりは日頃有効活用されない啓次の頭脳が己の役割を放棄した証拠である。そんな啓次の様子には一向に無頓着な調子で、自称愛の伝道師こと柴田鷺風の滔々たる語り口は止まらない。

「人の世に在る希望も絶望も、総ては人の切なる想いが紡ぎ上げるものであるべきだ――それでこそ人生は面白い。おもしろきこともなき世をおもしろく、高杉殿はまこと佳い句を遺したものだ。そう、だからこそ、私はかくも嬉しいのだよ。まぁ尤もこれは君には理解が難しい感情かもしれないがね。親愛なる殿の知遇を得た人間でなければ、この喜びの意味を共有するのは些か難易度が高いだろう。タッキーが例によって絶賛行方不明中である事が悔やまれてならないな」

 タッキーて誰だよ、とわざわざ無用の突っ込みを入れる愚は犯さず、啓次は曖昧に頷きつつ相槌を打つだけに留めた。外宇宙までぶっ飛んだ思考回路の持ち主たる先輩への対処としてはそれが最も適切なのだと、啓次は度重なる失敗の末に学習しつつあった。

「あーいや全く、今回の一件に関しちゃオレは完璧に置いてけぼりだぜ。結局のところ何がどうしてどうなったのか、何も判りゃしねェ」

 説明もなく唐突に襲われて気を喪い、説明もなく唐突に呼び出されて闘い、説明もなく唐突に去っていく敵手を為す術も無く見送った。それが今回の騒動における前田啓次が軌跡の全てである。遂に最後まで何一つ事情を知る機会を得ずして、堀之外全域を巻き込んだ争乱は決着を見てしまったらしい。

 自分より先に板垣竜兵と闘っていた精悍な顔立ちの少年からは、何となく事情を訊き出せそうな気がしていたが……その彼も、眼前の敵が消えると同時に、多大なダメージを負った肉体に鞭打って急ぎ足で何処かへ去ってしまった。よって啓次はこの期に及んでも、さっぱり状況を把握出来ていないのである。

「まァ別にそこまで知りてェって訳でもないけどよォ。……ただアレだ、どういう事情があったにせよ、またしてもあの野郎と決着付け損なっちまったってのは気に入らねェな。中途半端もいいトコだぜ」

 悪名高き板垣一家の長男、板垣竜兵。今度こそ、この拳で打倒してやろうと心に期して臨んだ闘いは、例の如く唐突な乱入者の出現によって問答無用で中断させられてしまった。板垣一家の長女と次女の二人組が闘争の場に現れるや否や、啓次には目も呉れず竜兵を拉致●●していったのだ。意気込んで固めた拳は叩き付けるべき対象を見失い、全く以って不完全燃焼のまま闘争は終結を迎えた。啓次にとっては概ねそれだけが今回の一件における不満であり、甚だ不本意な点である。

「まあそう腐るものではない、男ならばすっぱり諦めて切り替えたまえよ前田少年。自陣営の敗北と云う形で戦の趨勢が定まったならば速やかに撤退を選択するは道理、ならば“時間内”に意中の相手と白黒付けられなかった君の落ち度だ。うむ、いやいやしかし板垣亜巳の潔い退き際、敵ながら天晴れだったね。流石は一家の棟梁、武力においてはタッツーに及ばないが、己の役割というものを過たず心得ている。あまりにも逃げっぷりが鮮やかなもので追撃の隙すら見付けられなかったよ。いやはやまったく残念無念」

「どうもオレの目には呑気に寝転がって休んでたように見えたんだがな……。あの二人組がオレをスルーしてくれたから命拾いしたけどよォ、こっちに来た時は生きた心地がしなかったぜ。仮にも師匠名乗ってんだから、少しは弟子の身を案じて動いてくれねェかもんかね」

「君の力を信じていた(棒)」

「堂々と嘘吐いてんじゃねェよ! 吐くなら吐くでせめて信憑性持たせる努力くらいはしろよ!」

「ぶっちゃけ動くのが面倒だった(迫真)」

「知りたくもねェ事実だぜ畜生! どォせそんな事だろォと思ってたけどよ!」

「前田少年。君は元気だなぁ。そのフレッシュな活力は心からの羨望に値するよ」

 何故か本気の面持ちで感心されてしまった。欠片たりとも嬉しくはなかった。

 げんなりしている啓次を余所に、愛称サギこと柴田鷺風は、ガシャリと重い金属音を響かせながら愛槍を宙に掲げて、あたかも勝鬨を上げるような朗々たる声音を張り上げた。

「さーて、いざ凱旋と洒落込もうではないか。我らは勝利者故に、その権利が有りまた義務が有る。勿論のこと今すぐにでも殿に拝謁して愛の勝利を言祝ぎたいのは山々なのだが、このタイミングだとお邪魔虫と成り果てるのは必定なので控えるとしようかな。フフフ、何せ私は愛天使の化身であるからして、その辺の機微という奴はバッチリ心得ているのだよ。どうだ見直したか前田少年」

「あーそうだなもんのすげー恐れ入ったぜ脱帽だ。……で、それは結構なんだが、何でアンタはオレの肩に腕回してんスかねェ」

「ん? 下僕たる君はこれから疲労困憊の私を負ぶってくれるのだろう?」

「だろう? って何を根拠にナチュラルに信じちまってんだよ! 百歩譲って弟子にはなっても下僕になった覚えはねぇよ! 冗談じゃねェぜ、オレはアッシー中に圧死なんて色々な意味で笑えねェ死に方はゴメンだからな」

「んんん? おやおや私の聞き間違えかな? そうだとも、女性の体重に言及しあまつさえ貶すなどいうデリカシーを解さぬゴミクズにも劣る所業を、まさか私の可愛い後輩が実行する筈がない。はてさて実際の答えはどうなのかな、前田少年。ちなみに返答次第では漏れなくダストシュートにボッシュートされる未来が待っていると思うので心して答えろよ、ああ?」

「誰も体重のコトは言ってねェから落ち着いてくれ頼む!」

 順調に相貌へと浮かび上がりつつある鬼面にどうにか退散願うべく、啓次は割と必死に言葉を続けた。戦闘狂の気を持つ啓次ではあるが、怒れる鬼神の手によってミンチにされる未来は歓迎できるものではない。

「オレが言ってんのはドリルだドリル、アンタご自慢のそのクソデケェ武器! 一体全体何キロあんだよソレ……」

「やれやれ、何だそんな事か。粗暴な見た目の割にどうにも心配性だな君は、もしやギャップ萌えといふものを狙っているのか? 何にせよ、男なら細かい数字を気にするものじゃあない。いちいち小賢しい計算などせずとも、気合と根性と愛さえあれば世の中案外どうにかなるものだ。まあ、世にも素晴らしき我が羅閃のデータについてどうしても知りたいと言うなら答えて差し上げるが、うむ、総重量は……確か一トンには届かない筈だ、多分。だから君は安心して、豊穣なる果実の弾力を背中に感じる幸福を噛み締めるといいと思うよ」

「安心出来る要素が何一つねェ…… たぶんってなんだよアバウト過ぎんだろうが。真剣マジで勘弁して欲しいぜ、色々と……」
 

 見る影もなく崩壊した灰色の街並みに、啓次の疲れ切った呟きが虚しく吸い込まれる。

 人災の呼び名こそが相応しい“竜”と“鬼”は既に去り、容易くは拭えぬ巨大な惨禍の爪痕を残しながらも、堀之外町を覆う暴嵐は通り過ぎた。

 騒乱に満ちた合戦を終えて訪れた束の間の静寂を賑やかに破り、一組の男女が凸凹だらけの街路を歩く。

 どこまでも噛み合わない師弟コンビは、普段の調子を崩さないままに瓦礫の山を踏みしめて、至極マイペースな遣り取りを交わしつつ戦場を後にする。


「実際にやってみれば存外、ホラこう、火事場の馬鹿力的なポテンシャルを発揮するかもしれないだろう? フフフ……男は度胸、何でも試してみるものだよ。と言う訳で思い切りよくレッツトライだ、そーれっ☆」

「おい馬鹿やめろ手ェ離すんじゃねェよ! ソレこっちに倒すなよ、絶対倒すなよ、絶対――ウボァアアアッ!!」


 つまるところ、柴田鷺風と共に居る限り、前田啓次の受難が終わる事は無いのであった。
























 悪名高き板垣一家の長男・板垣竜兵が束の間の昏睡から意識を呼び覚ました時、最初に知覚したのは不自然な浮遊感と不規則な揺れであった。

 まるで誰かに身体ごと担がれて運ばれているような――曖昧にぼやけた思考が、薄らと現状を認識する。そして次の瞬間、脳髄に電撃が走った。竜兵はかっと両目を見開くと同時、喉から咆哮を発していた。

「ぉおおおッ! 離せ、離しやがれッ!!」

「うわわ、急に暴れないでよ~。びっくりしたなぁもう。アミ姉ぇ、リュウ起きちゃったけど、どうしよっか」

「言うまでもないだろうさ。そのまましっかり抑えときな、辰。口から内臓吐き出さない程度になら締め上げても構やしないよ」

「うん、わかった。リュウ行くよ~、ぎゅう~っ」

 独特のぽわわんとした掛け声と同時、竜兵の胴体に巻きついた辰子の腕に“軽く”力が込められる。忽ちの内に襲い来る、めきりめきりと肉体が軋みを上げつつ圧壊されてゆく凶悪な感覚に、竜兵はもはや暴れるどころではなく息を詰まらせた。

 肩の上で苦悶の形相を浮かべて藻掻いている弟の有様に気付いているのかいないのか、辰子は少し不満げな様子で唇を尖らせている。

「う~ん、やっぱりリュウはぁ、ゴツゴツしてて抱き心地が良くないんだよねえ。ちょっと筋肉が付きすぎてるのがダメなのかなぁ」

「かは、ぐ、そんな分析はどうでもいい! さっきから何処に向かってんだ二人とも、戦場はこっちじゃねえぞ!」

 むしろ、全くの逆方向だ。流れゆく見知った風景から現在地を判断し、足の向かう方角から目的地を推測するに、亜巳と辰子の二人はどう考えても戦地たる堀之外町から遠ざかろうという意図の下に移動を続けている。

「おい、どういう事だよアミ姉ぇ! タツ姉ぇ!」

 口角泡を飛ばして叫ぶ竜兵に対して返ってきたのは、いつでも冷静沈着な長姉・亜巳の醒めた言葉だった。

「全く……いちいち喚き散らすんじゃないよ、リュウ。敵を引き寄せちまうじゃないか。アタシ達が何のために暗い・臭い・汚いの三拍子揃った裏路地なんぞを退路にしてると思ってんのかねェ」

 堀之外の街は板垣一家の狩り場であり遊び場、その全域が庭も同然だ。一帯の区域については、日光の射さない裏路地の入り組んだ構造までも完璧に把握している。どうやら亜巳はその知識を活かし、極力人目に付かない経路を選びつつ進んでいる様子だった。カツン、と硬質な音を響かせながら、薄暗く薄汚れた狭い路地をヒールの踵で踏みしめて、亜巳が淡々と口を継いだ。

「それに――せっかく首尾よくここまで逃げてきたんだ、わざわざ元来た道を戻ってどうしようってんだい? この切羽詰まった状況で無駄足踏むなんざ、アタシはゴメンだねェ」

「どうするもこうするもねえ、まだ決着は付いてねぇだろうが! 俺はまだシンの奴と一度もヤり合ってすらねえんだ、尻尾巻くには早過ぎるぞ! 俺は、俺はまだまだ闘えるッ!」

「……さーて、そいつも怪しいもんだ。見た感じ結構なボロボロ具合じゃないか、オマエ」

「オイオイ冗談キツいぜアミ姉ぇ、俺達は“板垣”なんだ。こんなクソ下らねえ掠り傷ごときがダメージになんぞなるものかよ。なぁ……、アミ姉ぇもタツ姉ぇも闘えるだろ? なら負け犬みてえに逃げ出す必要なんざ何処にもねえ、そうじゃねえかよ!? だってのに何であんな――」

 あんな真似●●●●●を、と竜兵は怒りの形相で吠え猛る。織田信長へと続く道に立ち塞がる有象無象を蹴散らすべく竜兵が拳を振るっていた所へ、二人の姉が駈け付けるや否や、何を言うでもなく問答無用で鳩尾にボディーブローを叩き込み――そこで記憶は途切れているが、この現状を見れば姉達の意図は明白だ。

「流石にちょいとやり口が乱暴だったのは認めるよ。けどまぁ仕方無いだろ? 普通に声掛けたところで、頭に血が昇っちまったオマエが聞分けよく引き下がってくれるなんてアタシには思えなかったのさ。 例えその撤退命令が、愛しのマロードからの指令だったとしても……ねェ?」

「……マロード、アイツが……!?」

「ああ、少しばかり前に戦況報告があったんだよ。……確かにオマエの言う通り、アタシ達にはまだ多少なりとも余力がある。だけどねェ、それ以外●●●●の戦線が文字通りに総崩れじゃあ、もうどうしようもない。気付けば闘ってるのはアタシ達一家だけ、戦場のド真ん中で孤立無援状態ってのは笑えない状況だよ。マロードの呼び掛けに応じてゴキブリみたく湧いて出てきた有象無象どもはともかく、あの師匠までもがシンにやられちまったのが決定的だねェ。ったく、最初から分かっちゃいたが、つくづく化物だよあの男は」

「……そいつはシンなら驚くまでもねえ事だが……待てよアミ姉ぇ、“俺達一家だけ”、だと? そう言やさっきから姿が見えねえが、アイツは――天の奴は、どうしたんだ」

 急速に冷えた頭を巡らせて周囲を見渡すも、人数倍は賑やかな妹の姿は何処にも見当たらない。

 訝しげに眉を顰めている竜兵を見遣り、亜巳はどこか意地悪げな調子で、ルージュを引いた唇を歪める。

「なに、天の事なら心配は要らないさ。たぶん今頃はシンの奴と懇ろにやってる頃だろうからねェ」

「な……、まさか一人でシンと闘り合ってんのか!? クソが、抜け駆けの上にムチャ過ぎるだろうが! だったら余計にこうしちゃいられねえぞ、俺一人でも天の助太刀に――」

 妹の危機を予感し、顔色を変えながら藻掻き始めた竜兵を、姉の面白がっているような声音が押し留めた。

「落ち着きなリュウ。さっきのは別に言葉遊びじゃなく、そのまんまの意味さ。要するにアレだ、天はシンの側に付いたって事さね。オマエが颯爽と駆け付けてみた所で飛んで火に入る夏の虫、二人掛かりでボコられるのがオチだろうねェ」

「んなっ、天アイツ裏切りやがったのかよ!? よりによってこの大事な聖戦で、ふざけた真似しやがって……!」

「こら~リュウ~。リュウだって自分のワガママに家族を付き合わせてるんだから~、そんな風に怒ったりしちゃダメなんだからねぇ。天ちゃんの好きにさせてあげようよ~」

「ま、やりたいことをやりたいようにやるのがアタシらの流儀だ。甘ったれた洟垂れの天も、ようやく自分なりの目的意識だの生き甲斐だのってヤツを見つけられたんだろうさ。やれやれ、何に付けても手が掛かって仕方ないお馬鹿な妹だったってのに、いざこうなっちまうと何やら寂しいモンだねェ。……とにかくそういう訳だから、オマエもアイツの事でグチグチ言うのはやめな。兄貴が妹の門出を祝ってやらなくてどうするってのさ」

「……ぐ、そりゃまあ俺も、そこまで本気で怒っちゃいねえけどよぉ」

 頭の上がらない二人の姉から口々に窘められて、竜兵は満面に噴き上がり掛けていた怒気を渋々引っ込める。

 何と言っても家族ぐるみで十年近い付き合いを続けてきたのだ。妹の天使が長らく織田信長を兄貴分と慕い、刷り込みを受けた雛鳥のような調子で孤高の背中を追い掛け回してきた事は良く知っている。

 まさか、家族と離れてでも傍に居たいと願うほどに信長への執着が強いとは思っていなかったが……まあその点に関しては、執着の意味合いこそ異なれど、自分が抱く感情も同じ様なものだ。そう考えれば、天使の下した決断はそこまで意外という程のものでもない。

「まあ、アイツが望んだ結果だってんなら、それはそれで別に構やしねえ。……が、そういう事なら本物の兄貴に一言くらい言っとけって話だぜ、ったくよぉ」

「おぉ~、リュウが珍しく大人の態度だぁ、えらいえらい。ご褒美あげちゃおうっと、ぎゅう~っ」

「ぐがぁあああッ!? ぎ、ギブ! ギブだタツ姉ぇ!」

「え、Giveもっと? ホラ辰、リクエスト入ったよ。リュウがもっと強くして欲しいんだとさ」

「ギブアップっつってんだよッ! 殺す気満々かよアミ姉ぇっ!?」

 喚きながら必死に背中をタップする事しばし、熊すら容易く縊り殺せそうなベアハッグから解放される。

 まさしく九死に一生を得た思いで荒い息を吐いている竜兵を、どう見ても嗜虐的な色を帯びた目付きで見遣りながら、亜巳が口を開いた。

「ともあれ、これで事情は分かっただろ? 機が去っちまったなら、後は逃げるが勝ちさね。言っとくが、ここに来て玉砕覚悟の大暴れなんざアタシは付き合わないし認めないよ、リュウ。むざむざ家族を犬死させないのがアタシの、一家の棟梁の役目なんだからねェ」

「……ぐ、で、でもよぉ!」

「デモもストも聞く耳持たないねェ。……そもそもの話、オマエも気付いてるんだろ? 今回の戦で、アタシ達はシンの“敵”にすらなれなかった。板垣一家の誰一人として、まるでアイツの眼中には無かったのさ。ましてやウチで最弱のオマエがノコノコ戻ったところで、シンの奴に相手にされるハズもない。大方、陰気臭い“影”のネズミ連中辺りをけしかけられて終わりだろうさ。いや――ここは天をぶつけて忠誠の試金石にするってのが一番ありそうなセンか。アイツもアタシと同じく根っからのサディストだしねェ」

「――ッ!」

『目障りだ。消えろ』

 脳裡を過ぎるのは、醒め切った無表情にて吐き捨てられた言葉。あの瞬間に心中を駆け巡った屈辱と憤怒の念がまざまざと蘇り、竜兵は奥歯を軋らせながら獣の唸り声を上げる。辰子の非常識な膂力でがっちりと抱え込まれていなければ、即座に見境なく暴れ出していた事だろう。

「くそ、チクショウが、だったら俺はどうすりゃいいってんだよ!!」

「どうもこうも無いだろうさ。今回は諦めて次の機会を待つ、他にどんな選択肢があるってんだい?」

「“次”だと? 例のカーニバルの計画もこれで台無しになっちまったんだぞ、次の機会なんざ一体いつ来るってんだ! ……それによぉ」

 際限なく湧き上がる激昂に猛っていた竜兵の声音が、不意に暗い翳りを帯びて落ち込んだ。

「例え次に暴れるチャンスが来たとしてもだ……そもそも俺は、シンに見てもらえる●●●●●●のか? なあ、アミ姉ぇ」

「……それは」

 竜兵の零した弱々しい問い掛けに、これまで淀みない舌鋒で弟を諌めてきた亜巳が、初めて言葉を詰まらせた。

「憎まれるのも嫌われるのも構やしねえ、むしろアイツが俺を“敵”として特別視してくれるってんなら本望だ。けどよぉ、あの時みてえにハナっから無視されちまったら、俺はどうすりゃいいんだ? この先もずっと、このシャレにならねえ“飢え”を抱えたまま生きてかなきゃならねえのか? 目の前に見えてるご馳走に喰らい付く事も出来ずに、指咥えて一生過ごせってのか? なんだそりゃあ、ふざけんなよ、冗談じゃねえぞ……生き地獄にも程があるだろうがッ!」

「――そりゃお前、世の中ってのは元々そういうモンだろ。ヒヒ、今更なに寝惚けた事言ってやがんだか」

 心中の巨大な懊悩を訴える竜兵の絶叫に応えたのは、二人の姉達のいずれでもなかった。

 路地の前方から音も気配も無く現れた謎の人影に、亜巳と辰子は咄嗟に足を止める。亜巳は警戒する様に切れ長の目を鋭く細め――眼前に立つその姿を瞳に映した途端、大きく見開いた。

「し、師匠っ!?」

 夜闇に棲まう魔物の如く、暗がりに溶け込む様にしてその凶悪な存在感を潜めつつ佇んでいる男の名は、釈迦堂刑部。板垣三姉妹に武術を仕込んだ師匠であり――情報によれば、この戦の中で織田信長に敗北を喫した人物でもある。

 そして、それが誤報でも何でもない事実であることは、鍛え上げられた屈強な上体を斜めに走る凄惨な“傷”が、雄弁に思い知らせてくれた。痛みを感じていないのか、或いは強靭な意志力で苦痛を抑え込んでいるのか。流石に顔色こそ酷く青褪めてはいるものの、釈迦堂の表情は平然たるものだった。

「オウ。あー、見た感じお前らは無事だったらしいな。相当デケェ氣の持ち主とやり合ってたみてぇだが、ま、大したケガもねぇようで何よりだ。なんせ俺の方はご覧の有様だからな……俺への愛で斬ってねえから、冗談抜きで痛ぇんだわコレが」

「それは、刀傷……となるとやっぱり、シンの“アレ”は只の飾りじゃなかったってワケか。――っと、それはともかく、大丈夫ですか師匠? 動くのも辛いようなら辰に運ばせますが」

「あ、師匠も乗ってく~? 右がリュウでぇ、左が師匠。片腕だけどがっちり抱えて行くから、落としちゃったりはしないと思うよ~」

「いやいや気持ちはありがてぇが遠慮しとくわ。この怪我でお前のホールド喰らったら軽く昇天できそうだからな。……それよりもよぉ、話は聞かせてもらったぜ」

 すかさず懐へと抱え込もうと伸ばされる辰子の腕から素早く身を躱しつつ、釈迦堂はゆらりと竜兵に向き直った。唇を歪めて、嘲笑うような口調で言葉を続ける。

「よぉリュウ、俺がこれまで散々言ってきたじゃねえかよ。弱いのが悪い、好きに生きたきゃ強くなれってな。基本、ご馳走にありつけるのは力を持ってる奴の特権で、弱ぇ奴はお零れに預かって細々と生きてくしかねぇのさ。んでまあ今のお前さんはアレだ、信長と喰い合うにゃ力不足もいいところの、残念な“弱者”なんだよなぁ」

 弱肉強食。皮肉げな笑みを含みつつ釈迦堂が説いているのは、竜兵が常日頃から信奉している普遍の真理そのものだ。

 板垣竜兵は生まれ付いての強者として、目に映る何もかもを好き放題に食い散らかしつつこれまでの人生を過ごしてきた。であるならば――ひとたびその立場が“弱者”の側に回った際、己が望むものを手に掴めなくなる事は、まさしく道理。何の不思議も無い、当然の帰結だ。

「俺が、弱者……? 喰われる側の、人間? ……だから、シンとはヤり合えねえってのか……?」

「ヒヒ、おっそろしくシンプルな話だろ? お前さんにとっちゃ何とも都合の良い事に、なぁ。何せ問題が単純ってこたぁ、解決法も単純って事だ。要するに――」

「強くなればいい。誰も彼もを笑いながら喰い散らかせる、正真正銘の強者になればいい……!」

「ま、そういう事になるわな。ただし生半可な強さじゃお話にならねぇ。信長の奴が無視したくても無視出来ねえ、そんなレベルの突き抜けた力を身に付けねぇと駄目だ。となると、普通ならどうしようもねえんだが……リュウお前、相当運に恵まれてるらしいな」

「……?」

「流石に俺や辰ほどじゃねえが、お前の才能も相当なモンだ。つまり強くなろうと思えば強くなれる●●●●●●●●●●●●●●側の人間っつー訳よ。ヒヒ、お前が喰われる側で終わりたくねぇってんなら、チャンスを用意してやってもいいぜ」

「チャンス、だと? 俺はアンタの教えを受ける気は――」

「別に今更になって武術を教えようって訳じゃねえ、ステゴロがお前の信条だってのは分かってるからよ。お前はただアレだ、俺に付いてくるだけでいい。実を言うとよ、俺が近々“肩慣らし”に行こうと思ってる場所、世界でも極々一部の武術家だけが修行地として利用してる、いわゆる秘境の類なんだが……お前さんの素質なら、そこで何ヶ月か過ごすだけで、武術なんぞ齧るまでもなく一気に強さを引き出せるだろうよ。おっそろしく過酷な環境の中で、それだけの期間を無事に生き延びられたら、っつー超絶厳しい条件付きだが。まあ、ぶっちゃけ殆ど自殺行為だわな」

「…………」

「つっても、別にコイツは今すぐ決める必要もねぇ事だ。どうせこの傷の療養期間中は俺も碌に動けやしねえし、お前の方で腹が決まり次第――」

「いや、悩むまでもねえ。俺はアンタに付いていくぜ」

 一旦話を打ち切ろうとする釈迦堂の言を遮り、竜兵は欠片の逡巡も差し挟む事無く即答した。

 踏み躙られる弱者としての生を甘んじて受け入れ、手の届かぬ御馳走を遠巻きに眺めて嘆息する人生など論外だ。ならば、いかに過酷であろうと、いかに生命を危険に晒そうと、板垣竜兵は強者で在り続ける為に足掻く道を選ぶ。食物連鎖の最上位に君臨する獣の王と成る為であれば、眼前に待ち受けるあらゆる苦難を乗り越え、総ての障害を打ち砕いてみせよう。

 前途に確かな光明が見えたなら、其処を目指して猛進するのみだ。俄かに湧き上がってきた活力に野獣の如く双眸をギラつかせ、竜兵は猛々しく晴れやかな笑みを満面に浮かべた。

「ああそうだ決まってるじゃねえか、シンとヤり合う事こそが俺の生き甲斐だ! だったら命なぞ惜しくはねえ、アイツと対等の雄になる為ならそんなモンは幾らでも賭けてやる! ……アミ姉ぇもタツ姉ぇも止めないでくれよ、俺はもう決めたんだからな」

「はっ、気を回さなくても別に止めやしないさ。さっきも言っただろう? アタシらのモットーは、」

「“好きなことを好きなように、やりたいことをやりたいように”、か。……ははっ、そうだな、思い返してみりゃ俺達はいつでもそうだったぜ」

「これまではそういう生き方してても何だかんだ、全員が家を離れずに済んでたけどねェ、まあそんな時期ってのは都合よくいつまでも続くモンじゃない。何も出来なかったガキが一丁前に一人で立てるようになれば、こういうコトになるのは必然だろうさ」

「う~ん。家族みんなで一緒に暮らせないのは寂しいけど、やっぱりなにか大切なモノを見つけちゃったら、道が分かれるのも仕方ないのかなぁ」

 家族と離れてでも己が目的に邁進しようとする弟を、亜巳と辰子は引き留めない。

 しかしそれは一家の絆の脆弱さを示すものではなく――むしろ逆だ。例え各々の歩む道が分かたれたとしても、決して家族の繋がりが途絶える事だけは有り得ないと確信しているが故の、放任。

 それこそが、“板垣”と云う自由気侭な悪党一家の在り方であった。

「と言うか良く考えると、天もリュウも“想い人”はシンの奴じゃないか。全く、奇縁と言うか悪縁と言うか……辰、頼むからオマエだけは、シンの事を“弟”呼ばわりして暴走しないでおくれよ」

「ん~。でもアミ姉ぇ、もし天ちゃんとシンがくっついたら、シンは私たちの弟になるんだよねぇ」

「……。……確かに、言われてみればそうだ。その発想は無かったよ。アタシにしてみれば元々シンは半分弟みたいなモンだし、そこまで違和感も無いと言えば無いが……やっぱり想像すると妙な気分だ。ま、お子様の天と偏屈なシンの組み合わせじゃ、当分そんな未来は実現しそうにないけどねェ。あの二人がヤってるところなんざちっとも想像出来やしない」

「ん? アミ姉ぇ、誰と誰がヤってるって? 言っとくけどよ、シンとヤり合うのは俺だぞ。これだけは誰にも譲らねえ」

「……リュウ。念のために忠告しとくけどねェ、修行先で性欲持て余して師匠襲ったりするんじゃないよ」

「あー、そん時は後腐れなくブッ殺して大自然に還しとくから安心しろ。俺としてもこの歳で処女散らす気はねえからよ」

「フン、失敬な、男なら誰でもいいと思われちゃ困る。俺だって掘るケツは選ぶぜ。そうだ、いっそシンとヤり合うまで禁欲生活でもしてみるか? 我慢して溜め込めば溜め込むほど、本番の時に最高の快楽が味わえそうじゃねえか。くく――ああ、夢が広がるぜ。待っていろよシン、俺は必ず、お前に相応しい雄になって戻ってくるぞッ!」

「いいねぇ、その意気だぜ。……そうそう、どうせならトコトン難易度上げてやらねえとなぁ。ヒヒ、弟子想いの師匠を持った幸運に感謝しろよ? 信長ぁ」


 ……斯くして。

 数年間の長きに渡り、類稀なる暴力性を以って川神の闇に君臨してきた強大なる獣の一群――混沌の支配者・板垣一家は、この日を境に堀之外の街から姿を消す。

 かつての縄張りから追い立てられる敗者の身であれ、猛獣達の誰憚る事なき傍若無人な足取りと、何処までも自由気侭な騒々しさは、遂に最後の最後まで失われる事は無かった。


















「……まったく、何とも賑やかなことですねえ。自分達が敗軍の将だという自覚が、果たして彼らにはあるのでしょうか? まあ、その理解に苦しむ気楽さのお陰で追跡が容易になっているのですから、勿論文句などありはしませんが」

 場違いに喧しい遣り取りを交わしながら悠々と去っていく四人組へと、些かの距離を隔てた後方地点から呆れの眼差しを送りつつ、男は誰にともなく呟いた。痩身長躯の肉体をブラックスーツで包んだ、どこか不吉な相貌の男――名は丹羽大蛇。否、丹羽大蛇と名乗っている●●●●●●●●●●●男は、二年前の堀之外で巻き起こったとある騒乱を切っ掛けに織田家の幕下に加わった。川神裏社会における金銭の流れの調整役を担うと同時に、信長傘下の諜報集団である“影”の指揮を任じられており、現在もまた、主君の指令に従って己の任務を果たしている最中であった。

「――織田様、標的を確認致しました。進路から判断するに、堀之外町より裏路地を抜けて港町方面への離脱を図っている模様です。如何されますか?」

『捨て置け』

 欠片の感情すら載らない淡々とした声音が、重々しい響きを伴いながら耳元の携帯電話より流れ出る。

『後方にて指揮を執るべきお前自らが追跡を試みている。即ち、彼奴らを相手に追撃を為し得る残存戦力はお前の手元に無い――違うか』

「はい、畏れながら……各地で一斉蜂起した反乱分子の鎮圧に際し、“影”の実働部隊は既に大半が倒れました。実質的に戦力としては壊滅状態です。近隣地区の有力者に包囲形成を呼び掛けたとしても、相手が彼らでは足止めすら不可能でしょう」

『ふん、当然だ。板垣の家は、所詮は仮初めに過ぎずとも、この堀之外に於いて支配者で在り続けた強者。彼奴らが退路を拓くに徹したとなれば、易々と首を挙げる事が能わぬは道理よ。であるならば、新たなる支配体制を早急に構築せねばならぬ今、駒を徒に損なう必要は無かろう』

「……宜しいのですか? 仰せの通り、板垣一家の力は脅威そのもの。このまま取り逃がし野に潜伏させては、再び何かしらの機を得て織田様に牙を剥かないとも限りませんが」

『然様な愚挙を赦さぬが“影”の、そしてお前の任だ。そして――仮に獣共が懲りもせず俺の眼前に姿を見せたとなれば、其の時こそ真に、手ずから息吹を停めてくれよう。脈打つ心臓を引き摺り出し、一片に至るまで握り潰してくれよう。俺の統べる闇に意志なき獣の棲まう余地は無いと、遍く天下に知らしめる為の贄として役立ててやるのみだ。くく、くくくくッ』

 耳孔から這入り込む凄絶な哂い声に、大蛇は抑え難い戦慄によって己の肌が泡立つのを自覚した。そして同時に、電話越しの会話で助かった、と今この瞬間に主君の傍に居ない己の幸運に感謝する。

 魔王・織田信長が時折露にする汚泥の如き“憎悪”は、あたかも総ての光明を貪欲に呑み込む暗黒そのものだ。度外れて巨大に過ぎる邪悪な想念を前にして、脆弱な自我であれば押し潰されずに立ち続ける事すら不可能だろう。力に任せた単純な武威とは全く以って異質の、怪物的な心魂の在り方が織り成す不可避の圧力。世の何者にもまつろわぬ毒蛇として独り過酷な闇の世界を生き抜いてきた丹羽大蛇が、恐怖し、畏敬し、屈服した所以がそこにある。

『ヘビ』

「はっ」

『今日を以って、堀之外が統一は成った』

「ええ、まさに。最大勢力であった板垣一家が除かれ、その挙兵に乗じた潜在的な反乱因子もまた取り除かれました。ならば残るは語るに足りぬ烏合の衆、いかに不満を胸に抱き乱を起こしたとしても、所詮は支配体制を揺るがすに到る存在ではありません。川神の闇における貴方様の権威は、もはや何人の暗躍も効を奏さぬ程に磐石なものとなりましょう」

『然様――漸く、闇中に静寂が落ち、混沌が排され在るべき秩序が構築される。獣の巣窟は、人の住処に立ち戻る。そして其れが速やかに成されるか否かは、お前の働き次第。確と肝に銘じる事だ』

「承知しておりますとも。この丹羽大蛇、全霊を以って織田様の望まれる景観を整えさせて頂く所存です」

『で、あるか。ならば次の任を与えよう――板垣一家が動向の追跡は無用。此度の合戦による住人の動揺を鎮め、何れが勝利者であるか、市中の有力者に遍く知らしめよ。他には……ああ、乱に乗じて俺の首を挙げんと欲した愚物の“処理”も必要か。 速やかに全員の身柄を抑え、纏めて捕縛しておけ』

「拘束……となると、処分はなさらないのですか? 傘下へと取り込むには、些か織田様への敵愾心が強固過ぎるように見受けられましたが」

『くく、然様に処断を急ぐ必要はあるまい。人間で在る限り、いかなる愚昧の輩にも“使い道”は存在する。刷新された秩序を敷くに際し、俺の意を示すのであれば――いっそ目の前で血の雨の一つでも降らしてやった方が、衆愚も理解が易かろう?』

「ああなるほど、それは確かに大変有効な手でございますね。承知致しました、早速そのように手配を。……それでは、失礼致します」

 息詰まるような緊迫感に充ちた通話を終えると、大蛇は傍の石壁に背中を預け、深く大きく息を吐き出した。いついかなる場合であれ、規格外の主君との対話は精神力に多大な消耗を強いる。常人の域を超えた胆力を自負する大蛇であっても、双肩に伸し掛かる重石が如き精神的疲労からは逃れられない。

 それでも大蛇は可能な限りの迅速さを以って己の任を果たすべく、未だ意識を保っている数少ない部下へと指令を飛ばす為に再び携帯電話を持ち上げ――ふと思い立って指を止め、空を仰いだ。薄汚れたビルの谷間で切り取られた空。時ならぬ大嵐が去った後、今度は夕闇の迫る茜色の空。遥か頭上より堀之外全域を見下ろす天空を細い目で見返して、大蛇は口元を酷薄に歪めた。

「成立以来の数十年間、誰もが成し得なかった魔境●●の統一。あぁ、私はやはり間違っていなかった。あの人ならば、いずれ。いずれ必ず――“天下”に手が届く。世に変革をもたらし、歴史に名を刻む事すらも」

 英雄や救世主として、ではない。己が意を以って万物を征する“覇者”として――織田信長という男は、新たな歴史の一ページを創生し得る存在だ。平和に飽いた現代日本に於いてはあまりにも稀少な、一身にて天下を揺るがす覇王と成り得る資質を宿した人間だ。であるならば、或いは今この瞬間すらもが後世に語り継がれる伝説の一幕。それは何とも愉快痛快で素晴らしい話ではないか、と大蛇は笑う。

「私を失望させないで下さいよ? ……いえ、まずは私の方こそ、失望させる訳には参りませんね。くくくっ」

 満足な成果を示す事が適わなくなれば、信長は自分を容赦なく切り捨てるだろう。自他に対しておよそ妥協というものを赦さない、恐ろしいまでの峻烈さ――それこそが織田信長を覇者たらしめている性質の一つ。大蛇が日頃から信長の主君としての器を計っていると同様に、信長もまた常に大蛇を試している。

「ええ、課せられた役割は果たしますとも。貴方様の行く末を最期まで見届けられないのは、さぞかし無念でしょうからねぇ」

 何処までも冷え切った双眸に確かな“熱”を宿らせたのは一瞬、暗い眼差しの向かう先を汚濁に塗れた地上へと引き戻して、丹羽大蛇は携帯の通話ボタンに青白い指先を滑らせた。

 織田信長の冷酷なる暴威と、“影”の暗躍によって完全な支配体制が築き上げられた暁には、川神全域の裏社会は一個人の掌中に収められる事になる。

 ならば其の先には、果たして如何なる未来が待ち受けているのか。深淵の闇を歩む魔王の覇道は、如何なる軌跡を地上に描くのか。現時点にて、それを知る者は居ない。

 だが――煤けた街並みを紅く染め上げる血色の夕日は、地平線の彼方へとその身を徐々に沈めながらも、遠からず堀之外に訪れるであろう未来の様相を、端的に暗示している風でもあった。
















「……ふぅ」

 我が家中にて恐らくは最も油断ならぬ謀臣こと丹羽大蛇との通話を終え、無用の長物と化した黒塗りの携帯電話を耳から引き剥がし、在るべき収納場所へと突っ込みながら溜息一つ。その間にも絶えず頭脳を全力で回転させ、差し当たって出しておかなければならない指示を軒並み出し終えたと云う事実を数回ほど脳内で反芻し、そして少なくとも暫くの間は休息を取っても問題ないのだという絶対的な確信を得た瞬間――いっそ笑えるほど急速な勢いで、全身から力が抜け落ちた。

「……っ」

 度重なる激戦を潜り抜けた代償として、“氣”の欠乏度合いが洒落にならないレベルに達していた。今の今まで辛うじて立ち続けていられたのは、為すべき仕事が残っている以上、未だ倒れる訳にはいかないという張り詰めた使命感がギリギリのところで肉体を支えていたからであって……僅かでも精神の糸が緩めば、崩れ落ちるのは必然だ。自重を支える脚の感覚が消え失せ、ガクリと膝を着いた直後、ぬかるんだ公園の地面へと顔から前のめりに倒れ込み――

「お疲れ様でした、シンちゃん」

 柔らかい声音と同時に、前方から優しく抱き留められる。己の存在の総てを以って相手を包み込もうとするような、寛容と慈愛の念に満ちた温もり。肉体だけでなく、その深奥に隠れた心魂までもが安らぎの中に抱かれている……そんな感覚は、果たして俺のセンチメンタリズムが生み出した単なる錯覚なのだろうか。

「今はもう、無理して気を張らなくてもいいんですよ。あなたは、私が護ります」

「……そう言うお前もかなり無理してるだろう、蘭。あの桁外れの“殺意”をコントロールする為に、少なからず消耗してる筈だ」

「ふふ、それにしたってシンちゃんほどじゃないです。それに……シンちゃんを護るためなら、私はきっと、幾らだって強くなれますから。心配御無用、なのです」

 二の句を継がせない確信を込めながら言い切って、蘭は微笑んだ……のだろうと思う。蘭が前方に回り込んで俺の身体を受け止めた関係で、現状はまさしく真正面から抱き合うような形になっている。よって角度の問題で、己の肩に乗った顔を窺う術は無いのだ。

 まあわざわざ見るまでもなく、その頭に花が咲いたようなお目出度い表情は容易に脳裏に浮かび上がったのだが。

「そうか」

「そうです」

「…………」

「…………」

 ……………。

 ……。

 ……いや、何だ、この空気は。場に漂う雰囲気は至極平穏なもので息詰まるような険悪さは欠片も無いし、知り合って二日目辺りのクラスメートよろしく沈黙が辛く感じられるような間柄でもないのだが……どうにも居心地が宜しくないと言うか、据わりが悪いと言うか、居ても立ってもいられないと言うか。蘭自身は俺に何を要求するでもなく、ただ安らぎを与えようとばかりに俺を優しく抱き締めているだけだと言うのに、この何かをしなければならない●●●●●●●●●●●●という謎の使命感と言うか焦燥感は一体、


――あなたを、心から、愛しています。


 …………ああ、そうだ。そうだった。

 よりにもよってあんな、ストライクゾーン中央を貫く剛速球のストレートでダイレクトアタックを食らってしまったばかりなのだ、全くのノーリアクションを貫けるような人間など居る筈も無い。仮に居るとすれば、それは世間的に“女の敵”とか呼ばれる唾棄すべき人種に他ならないだろう。

 然るに俺は至極真っ当な感性を備えた健全極まりない男子高校生な訳で、今しがた熱烈に愛を告白した幼馴染の少女と抱き合って互いの体温を感じドクドクと高鳴る心臓の鼓動に耳を傾けていると不意に耳朶をくすぐる吐息は艶やかに熱く胸に感じる柔らかい感触に否応無く意識が吸い寄せられ――


「ぶえーっくしょぉーいっ!!」


 不意に響き渡った、不自然なまでに豪快過ぎるクシャミの音が、異次元へと旅立ち掛けていた意識を強引に現実へと引き戻した。

「あれれー? 風邪引いちゃったのかなームズムズして我慢できなかったよ! それに較べてどこかの誰かさん達はすっっっっっっごく暖かそうで羨ましいなー。妬ましいなーいっそもう爆発しないかなー」

「ね、ねねさんっ!?」

 蘭は大慌てで密着していた身体を引き剥がし、何やら黒々とした念の込められた禍々しい声の主へと振り向いた。頬を含む顔面全体が熟し過ぎたトマトの如く紅色に染まっている。今の今まで顔が見えなかったので判らなかったが、聖母じみた態度で俺を抱き締めている間も、どうやら全力で照れてはいたらしい。

「あれぇ、そんなに慌ててどうしたのかなラン。どうぞ遠慮なくラブ注入を続けちゃいなよ、私は止めないからさ。肌寒さに独り寂しく身を震わせながら、せめて燃え上がる愛の炎っていう焚き火の傍でなけなしの暖を取るとするよ。ほらほら雨に打たれて冷え切った私の身体がアツアツな熱を欲して震えてるよ、さあさあどうぞ存分にユーバーニンしちゃいなYO!」

 我が第二の直臣こと明智ねねが、何故か錆だらけのジャングルジムによじ登り、残念なテンションで残念な妄言をヤケクソ気味に喚き散らしている。

 対釈迦堂刑部戦にて氣の衝撃波に吹き飛ばされた際、或いは盛大に頭を打ってしまったのかもしれない。実に悲しむべき損失だ、救い様の無い莫迦ではあったが有能な家臣だったと云うのに。

「は・や・く! は・や・く!」

「う、うぅ……」

 いよいよお子様めいてきた莫迦従者の煽りを真に受けて、耳の付け根まで真っ赤に染めながら俯く蘭。

 一方の俺はひとまず地面にどっかりと胡坐を掻いて、世界からあらゆる貧困と戦争を根絶し恒久的平和を実現する為にはどうすればよいのか具体的な方策について思いを馳せていた。取り留めの無い思考の末に「ラブ&ピースだよ、殿」とドヤ顔でのたまうサギの顔が思い浮かんだが刹那で棄却。

 大体そんな感じの回り道を経てから、俺はネコ娘の暴走を止めるべく、然るべき行動を開始した。

「もういいぞ、ネコ。その辺で十分だ」

「え、な、何がかな?」

「油断大敵、勝って兜の緒を締めよ……そう、確かにそいつは俺が常に心に留め置くべき諺だった。俺達はこの合戦における戦略目標は無事に達成した訳だが、未だ全ての問題が解決したとは到底言い難い状況。ならばまだまだ気を緩めるには早いと、お前はそんな至極もっともな警告をしてくれているんだな。恥を偲び道化を演じてまで主君を諌めんとするその姿、まさに臣下の鑑だ。うむうむ、俺は感動したぞネコ!」

「…………………いやぁ参った流石はご主人、ビックリするほどご明察だね! まあ看破されちゃったなら仕方ないなぁ。そうそう、そうだよ、私ってばまさにそういう事が言いたかったのさウン。かの曹孟徳だってうっかり鄒氏に溺れちゃったばかりに色々と大事なモノを喪っちゃったワケで、やっぱり常在戦場の心意気って大事だと思うんだウン。ね、まあ何はともあれそう言うワケだからさ、ランもその辺気を付けて欲しいかなーと思っちゃったりするお年頃なんだよねウン」

「ね、ねねさん……、ただ意味もなくイジワルを言ってるだけだと思ってしまったのは私の浅慮だったのですね……っ! ああ、深い意図を察する事も出来なかった未熟な蘭をどうか許して下さい!」

 感激と慙愧の念に身を打ち震わせながら深々と頭を下げる蘭。その後頭部を盛大に引き攣った表情で見下ろしているねね。そしてそれらを横合いから傍観しつつ、やっぱり嘘は良くないよな嘘は、などとしみじみ思っている俺。

 ああ、この何とも言えない莫迦莫迦しさ。

 つい昨日までの我が家中に在った日常の空気が、何やら途方もなく懐かしいような心地だ。


「……くふふっ、あはははっ」


 堪え切れないように笑い始めたのは、ねねだった。目の端に涙の粒を浮かべながら、晴れやかな笑声を響かせる。


「良かった。うん、ホントに良かった。私の居場所、私の大事な“家”は、ちゃーんとここにあるんだ」

「ねねさん……」

「――おかえり、ラン。振り返ってみれば短い家出だったけどさ、わたし、ものっすごく心配したんだからね。も、もう、こんなコトは、しちゃダメなんだからねッ」

「……はい。ただいま、ねねさん。ごめんなさい。そして――ありがとう」

「~っ」


 目を見据えながら真っ直ぐに告げられたその一言で、とうとう感情の堤防が決壊したらしい。

 忽ちの内にぐしゃぐしゃと歪んだ顔を隠すようにして、ねねは勢い良く蘭の胸へと飛び込む。深く穏やかな微笑みを湛えて小柄な身体を受け止め、両の腕で慈しむ様に抱き締める蘭の姿は、姉のようにも、母のようにも映った。

 茜色に染まる公園に、嘘吐きな少女が一心に紡ぐ真実の哭声が響き渡る。

 際限なく零れ落ちる大粒の涙は、小さな肩に背負い込んできた想いの雪解けなのだろうか。俺は暫し瞼を閉ざして、孤独に怯える幼い少女の魂に寄り添った。

 涙が止まり、震えが収まるまではそうしていてやろう――と、そんな己の意志をも同時に確かめながら。











「……と言う訳で。例の暴力メイドからの連絡によれば、実質的にドイツ軍の狩猟部隊を止めたのは例の騎士様、クリスティアーネ・フリードリヒらしい。詳しい所までは教えちゃくれなかったが、何やら身体を張って連中を説得したとか何とか。ともあれ肝心な点として、物騒な軍隊の皆様は既に撤退したそうだ」

「フリードリヒさんが……。ああ、わたし、思えば彼女にも酷い事を……っ! 正々堂々立ち合って下さった相手に、あんな非礼を――」

「ああもういちいち自分を責めるな鬱陶しい、申し訳ないと思うなら本人に直接謝れば済む話だ。過ぎた事でグダグダと落ち込むのは、許しを乞うた後でも十分だろうよ」

「でも……、あんな狼藉を働いてしまった以上、私はもう学園には戻れません……フリードリヒさんに謝る機会だって」

「だからな、その辺りは全部俺に任せろと言っておろうに。この一時間だけで決め台詞を何回言わせる気なんだお前は? “裏”のあれこれが一通り片付いたら、次は川神鉄心との交渉に赴く。舌先三寸を使ったネゴシエーションなら俺の土俵だ、釈迦堂のオッサンと真剣勝負ガチバトルなんてふざけた難易度設定に較べればイージーモードにも程がある。悪い結果にはさせやしないさ。無用な心配はするな……良いからお前は、黙って俺に付いて来い」

「――――はい」

 どうしようもなく頑固一徹な蘭のこと、性懲りも無く反論の一つでも飛んでくるかと思いきや、返って来たのは素直過ぎる程に素直な声音。

 意外に思って正面から顔を見遣れば、思いがけず熱い眼差しが俺を見返した。漆黒の双眸は潤みを帯びて、白皙の両頬は赤みを帯びて。慎ましやかに恥らいながらも、濡れた視線に載せて切々と己の想いを訴え掛ける立ち姿は、まさに大和撫子と云う形容が相応しい。

 
 不意に重なった双つの視線は虚空で絡み合い、瞳の奥に映る互いの姿が徐々に大きく――


「げほ、げほごほげほっ! 折れた肺がアバラにっ! うう、ご主人、私はもうダメかもしれないよ……っ」

「一体どういう状況なんだそれは」


 いつの間にか調子を取り戻していた従者第二号による脈絡の皆無な新作ボケが唐突に披露され、瞬間的に場の空気がブチ壊される。

 夢見心地の表情で少しずつ顔の距離を詰めてきていた蘭がハッと我に返り、両頬を手で押さえながらプルプル震えてその場に蹲っていた。

 何と言うか、俺も出来れば同じリアクションを取りたい気分である。男としての沽券に関わるので実行はしないが。


「……まあ、頃合ではある、か。いい感じに休憩も出来た事だし、山積みの厄介事を片付けに動くべきだろうな」


 尚も猛烈な疲労感と倦怠感を訴える肉体に鞭打って、立ち上がる。

 今回の闘争は既に織田信長の勝利と云う形で決着が付いたが、それでめでたくハッピーエンドとは相成らぬのが現実の辛い所だ。闘争を終えれば、今度は億劫千万な戦後処理が待ち受けているのである。

 数刻の内に勢力図が大きく変動した川神裏社会の掌握――ある程度までは大蛇の手腕に任せていても問題は生じないだろうが、だからと言って流石に全ての事案を丸投げする訳にもいかない。俺はあの危険極まりない毒蛇にそこまでの信を置ける程に豪胆ではなかった。

 それに加えて、問題の根源的解決を望む為にも、色々な意味で厄介な独軍中将殿とはなるだけ早く何らかの形で接触せねばなるまいし、川神鉄心含む川神院との交渉も今日中に済ませておきたい。そしてもう一つの問題●●●●●●●もまた、手を拱いて看過するには些か重大過ぎよう。

「やれやれ、過密スケジュールにも程があるだろうよ。月曜日からこれじゃあ流石に心が折れそうだ……」

 苦しいです評価してください、と異世界へとメッセージを飛ばしたくなる気分に駆られながら、どうにも緩んでいる精神に喝を入れ直す。

 公園の入り口へと近付いてくる人影に俺が気付いたのは、丁度その時だった。

 蘭もまた同時にその間違え様の無い気配を感じ取ったのか、弾かれた様にそちらへと首を向ける。


「…………」


 程なくして、人影は俺達の居る公園へと辿り着いた。

 孤高の狼を思わせる、野生的でありながら理知的な雰囲気。精悍に整った顔立ちと、猛禽にも似た鋭利な目付き。

 忘れ難い大切な過去を俺達と共有する唯一の幼馴染――源忠勝が、傍目にもボロボロの身体を引き摺り、ふらつく足を懸命に支えながら、其処に立っていた。

「――タッちゃん!!」

 歓声とも悲鳴とも付かない声を張り上げて、蘭は無我夢中の様子で忠勝へと駆け寄った。

「……蘭」

「タッちゃん、ひどいケガです! たくさんお話したいことはありますけど、まずは急いで手当てしないとッ」

「いや、いい。今は、いいんだ」

「え? た、タッちゃん……?」

「――オラ、とにかく手を離しやがれ。そうベタベタ触るんじゃねえ。大袈裟に騒がなくても、オレは死なねぇよ。さっさとくたばるには、まだこの世に心残りが多過ぎるからな」

 心配の念を満面に浮かべて触診する蘭を、乱暴な言葉とは裏腹な優しい手付きで振り解き。

 忠勝は覚束ない足取りながらも、迷いの無い一歩を踏み出した。

 そうして――織田信長と源忠勝は、幼き日の記憶を刻んだこの場所で、数歩の距離を挟んで向かい合う。


「……」

「……」


 どこまでも静かに相対する俺達の間に、言葉の応酬は無かった。言葉などという不純物は、元より必要無かった。相手の瞳を真正面から見詰める視線に、余す所なき総ての意が込められている。であるならば、想いを正しく共有するには、目と目を合わせれば十分だ。

 どちらからともなく腕を持ち上げ――次の瞬間、二つの掌が空中にて擦れ違う事無く交錯する。

 そうして重なる俺達の手が高らかに打ち鳴らしたのは、心中に在るあらゆる想念を僅か一挙に込めた、会心のハイタッチ。

 遠い過去に築いた幾多の想い出を一瞬で駆け抜け飛び越えて、乾いた音色が現在の公園に響き渡る。

 その音響の意味する所は即ち、昔日より続いた呪わしき因縁の決着を告げる、誇りに充ちた勝利宣言。


 それはまさしく――揃って泥塗れの俺達が挙げるに相応しい、百万語にも勝る無言の勝鬨であった。

 
 



―――堀之外合戦、これにて終幕。































 チャイルドパレス――川神重工業地帯の入口に聳え立つ大アミューズメント施設、直訳にて“子供たちの宮殿”。その名に反して何処か言い知れぬ禍々しさを漂わせた無骨な外観は、しかし今秋のオープンを見込んでいる以上は未だ建造途中のそれであり、本来であれば建物内部に人影が存在している筈など無い。

「……これにて幕引き、ですか。終えてみれば、何とも、呆気ない」

 しかし今、鉄骨造りの大宮殿の最上階、煌く様に壮麗な内装の施された大劇場の舞台上に、一つのシルエットが疑いなく存在していた。降り注ぐ照明の光を浴びて立ち尽くしているのは、私立川神学園の制服を纏った男子生徒。

 虚しい空白で充たされた眼前の観客席へと両腕を広げ、睨む様に天井中央のシャンデリアを見詰めているその姿は、楽団を導き一曲の演奏を終えた名指揮者か――或いは観客が不在の劇場にて独り最後まで踊り続けた、滑稽な道化か。

「ははっ」

 葵冬馬は、男女問わず万人を魅了する端正な顔立ちを醜悪に歪めて、嗤った。己をも含めた世界の全てを嘲弄するような、そんな笑い方だった。

 ありとあらゆる役者は既に舞台から去り、最後に残されたのは演出家たる一人の少年。混沌を愛する獣達に“マロード”と呼ばれ慕われた年若き扇動家は、もはや何をするでもなく其処に居る。

 この場で唯一命を有する存在が、あたかも美しき彫像の如く身動きを取らなければ、必然として物音の一つも響かない。広々とした大ホールは今や、あたかも一種の別世界と化したかの如く、完全な静寂で充たされていた。


「――若ッ!!」


 だが、騒乱に満ちた人の世に在る限り、その静けさもまた永遠では有り得ない。

 上手側舞台袖の大扉が慌しく押し開けられ、新たな人影が舞台上へと駆け込んで来る。ああ、計算通り●●●●だな、と頭の片隅で思考しつつ、冬馬は天井に向けていた視線をゆっくりと下ろし、誰よりも見慣れた幼馴染の一人へと向き直った。

「……ああ、準。丁度いいタイミングでした。つい先ほど、終わりましたよ」

「………」

 この壮大な“秘密基地”まで全力で駆けて来たのか、井上準は傍目にも疲労した様子で、大きく息を乱している。川神学園の白地の制服は、降り注いだ雨と噴き出た汗の双方に濡れていた。

 ステージの上で足を止め、呼吸を整えている準を見遣りながら、冬馬は常と変わらない涼しげな声音を投げ掛ける。

「今はもう祭りの後。いえ、それとも後の祭り、なんでしょうか。いずれであったにせよ、幕引きは訪れました」

「それは、つまり――」

「敗北ですよ、準。私達にとって有利な形で動く筈だった独軍特務部隊は、九鬼従者部隊の参戦によって足止めを受けた挙句に成果を挙げず撤退。広範囲に呼び掛けて蜂起を促した武人達は、板垣天使の離反もあって全滅。主戦力の板垣一家は全員が信長の家臣団を突破出来ず、そして――ジョーカーたる釈迦堂さんすらも、信長本人によって敗北を喫したそうです。敵軍は一角たりとも崩せず、自軍は総崩れ……この絶望的な状況で勝機を見出し劣勢を覆せる様なら、私は間違いなく稀代の大軍師になれるでしょうね」

 感情の色が一向に滲まない、どこまでも淡々とした戦況報告だった。敗者に在って然るべき負の想念の気配は何処にも見当たらない。

 緊張に強張った顔で敗報を聴き終えた準は、冬馬の不自然な態度に疑念を抱くよりも、まず安堵したように表情を和らげていた。

「そうか……。俺達は、負けたんだな」

「完敗、ですね。私は信長を少しも侮ってはいませんでしたが、それでもまだまだ見積もりが甘かったようです。……本物●●ですよ、彼は。従者絡みの精神的動揺の隙に乗じる心算でしたが、どうやらそんな小細工が通じる相手ではありませんでした」

「……なぁ、若。だったら、もうやめようぜ、こんな事。この負けは、悪事から足を洗うには良い機会だ。一世一代の賭けに負けて“マロード”の影響力が綺麗さっぱり消えちまった以上、今まで開拓したユートピアの流通ルートだってすぐに潰される。もう“カーニバル”の実現は不可能だ。これ以上裏でセコイ真似を続けたって、あいつに、信長に勝てるとは……俺には、思えない」

「……」

「若――」

「ふ、ふふ、ははははっ」

 苦痛を堪える様な表情から絞り出された準の訴えを受けて、葵冬馬は肩を震わせながら笑った。それは本来在るべき形のように、楽しさや喜びと云った希望的ポジティブな感情を表現する為のものではなく――むしろその正対に位置する、どこまでも破滅的ネガティブな性質を帯びた、底無し沼の如く昏い昏い笑声。

「準は大袈裟ですね。たかだか一敗を喫した程度で、何を弱気な事を。この一戦で、私達の手足、つまり動員可能戦力は大きく損なわれた……それは認めましょう。しかし、マロードと云う頭脳は未だ健在。織田信長がいかに強大な武勇を誇ろうと、私の存在にまで辿り着けない限り真の決着には到らない。違いますか? ――そう、観念する必要なんて何一つ無いんですよ。幾度芽を摘み取られようと、私が生きている限り、新たに混沌の種を蒔く事はできる。何と言っても私は、“悪”のエリートで在るべきなのですから」

「……若」

 その瞬間、準がいかなる想念を噛み殺し、いかなる表情を湛えていたのか。伏せられた眼差しに宿るのは諦念か、悔恨か――冬馬はその目で確かめようとすらしなかった。暗い濁りに充たされた双眸は、既に傍に立つ準の姿を捉えてはいない。苛烈な憎悪を以って睨み据えるようなその視線は虚空を貫き、宮殿の天井を貫き、遥か彼方の天へ、或いはその眼下に広がる世界そのものへと揺ぎ無く向けられていた。

「……ユキを、迎えに行って来る。アイツ、外で野良猫見つけて、追っかけ回して遊んでるからな」

「はは、こんな時でもユキはマイペースですね。ええ、お願いします。私は、今後の悪企みに備えて情報を整理しなければ」

 あくまでも涼やかな冬馬の声に、準は沈黙のままに頷きを返して、力なく肩を落としながら大劇場を去っていく。

 劇場入口の重々しい大扉が開いて、閉じて――ホールの中には、再び一人が残される。

「…………」

 生の息吹が消え失せた冷ややかな空気を吸い込んで、冬馬は両目を静かに閉ざした。


「準。ユキ」


 静寂の落ちた舞台の上で、独り。葵冬馬の唇が紡ぐのは、いつでも共に在った幼馴染の名。

 そしてそれきり、言葉は絶えた。微かな呟きに込められた想念の形を知っているのは、未だこの世にただ一人。


――稀人マロードの目に映る世界を。閉ざした瞼の裏に見る夢を、誰もが知らない。



















 












 後始末回で大きく更新間隔を空けてしまうのは宜しくないと判断し、いつになく連投気味に投下。
 感想欄での釈迦堂さんの人気っぷりには驚きと納得が半々といった気分ですが、そんな釈迦堂さんは残念ながら板垣一家ともども今回を以って一旦退場と言うことで、今後しばらくは出番が無いかと思われます。こ、これはあくまでもストーリー展開の都合であって、別に他のキャラがオッサンに食われるからとかそんな理由じゃないんだからね! 勘違いしないでよね!
 ……まあそれはともかく、今回にて合戦は終了。次回からは久々に学園に舞台が戻ります。某トラブル漫画ばりのラブコメ展開が始まるかどうかは別として、延々続く殺伐とした雰囲気からようやく解放されそうで一番ホッとしているのは間違いなく作者。リアルの都合もあって少しばかり更新は遅れるかもしれませんが、読者の皆様には寛大な心でお待ち頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。



[13860] 川神の空に
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:a737ecc6
Date: 2013/11/30 20:23
 四月二十八日、火曜日。

 ふと気が付いたら朝だった。泥の様に眠った、という自覚すら無い。就寝と起床との間に全くタイムラグを実感できなかった。体感的に言えば、自室のベッドに倒れ込んだ次の瞬間には朝の日差しを瞼越しに感じているのだ。一欠片の夢にも立ち入る隙を与えない、一種の昏睡にも似た睡眠。そんな随分と久方ぶりの体験と共に、俺の一日は始まった。

「……」

 まあ前後不覚に爆睡してしまったのも無理はない事か、と未だ靄の掛かった意識の中でつらつらと思考する。何と言っても昨日という日は、俺にとって恐ろしく長大で恐ろしく濃密な、まさに激動と云うにも生温いような一日であった。“猟犬”ことマルギッテ・エーベルバッハの転入から始まり、一体幾つのイベントを立て続けに消化した事やら。メインイベントたる堀之外での合戦を終えた後も、既に疲労困憊の肉体を酷使して各種の戦後処理に奔走しなければならなかったのだから、夢すら見ない眠りっぷりも当然と言えば当然である。

 まあ、益体も無い回想は此処までにしよう。新しい朝が来たなら、それは即ち希望の朝である。今日は疑いなく昨日の延長線上にあるが、だからと言って贅肉じみて余分なものを引き摺っていく必要は無い。そろそろ精神のスイッチを切り替えて、過去に浸らず未来を創造するべき頃合だろう。そんな決意を心中で固め、纏わり付くような眠気を頭から締め出しつつ両の瞼をこじ開けて――

 目の前には蘭の顔があった。

「―――」

「あ、お目覚めですね。ふふ、おはようございます、シンちゃん」

「…………成程、ここまでが夢か。やれやれ全く、最近の夢落ちは手が込んでいて面倒だな」

 我が幼馴染にして一の臣こと森谷蘭が、よもや俺の布団の中に潜り込んで添い寝している訳がなかろうに。灰色の脳細胞は一瞬の内に現状に対する分析を終え、然るべき対応を弾き出した。つまるところこの奇妙奇天烈な夢から脱出するには、夢の中でもう一度眠れば良いのだ。と言う訳で俺は迷い無く両目を瞑り、体温の残る掛け布団を被った。

「ああ、ダメですダメです、二度寝なんかしたら遅刻しちゃいますよっ」

 慌てたような声と同時に身体がゆさゆさと優しく揺すられる。その度に何やら怖いほどに柔らかい感触と心地よい温もりが肉体に密着してくる事もあって、忌々しい事に睡眠妨害としての効果は抜群であった。

 もしも“これ”が俺の無意識下の願望やら妄想やらが膨張を重ね炸裂し夢に顕れた結果なのだとしたら、織田信長という男は間違いなくどうしようもない破廉恥漢であり色情魔であり駄目人間である。少しばかり精神鍛錬に充てる時間を増やすべきなのかもしれない、と脳内嫁ならぬ脳内蘭を全力で無視しつつ真剣な思考に沈みつつあった時である。

「……こ、これは、主にご起床頂くため、遅刻を防ぐため。うん、“全力を尽くしても届かないなら妥協してもいい”ってシンちゃんも言ってました。これだけ頑張ってもぜんぜん起きてくれないんだったら……そう、これはいわゆる緊急措置、なのですっ」

 何の因果か同じ布団の中に居る俺には、脳内蘭がぶつぶつと漏らすどうにも不吉な呟きが良く聴こえた。途轍もなく嫌な予感に駆られ、咄嗟に夢からの脱出を中断して両目を開く。今にも触れ合う寸前の位置まで接近しつつあった蘭の唇を見れば、その判断が間違っていなかったと知るには十分だった。

 蜜花の如く甘やかな少女の芳香に充たされたベッドの上で、かつてない至近距離で目と目が合う。

「……蘭。これから一つ大事な質問をするから、心して答えろよ」

「はい」

 ほぅ、と切なげな吐息を零し、潤んだ眼差しを俺の顔に注ぎながら答える蘭を全力で意識から除外しつつ、掠れた声で言葉を継ぐ。

「これは夢か?」

「はい、蘭はまるでステキな夢を見ているかのような心地です……、ああでもまさか、シンちゃんも同じように思っていてくれたなんて、蘭は、蘭は」

「やっぱりかァッ!!」

「ひゃあっ!?」

 単なるピンク妄想にしてはリアリティが有り過ぎると思ったんだよ畜生。

 何はともあれ掛け布団を吹き飛ばす勢いで跳ね起きて、ベッドの上に胡坐を掻く。未だ横になったまま頬を赤く染めている現実の幼馴染をジロリと見下ろし、胸中を駆け巡る無数の想念を一旦脇に置きながら、俺は努めて冷静な口調で当然の問いを発した。

「何をしてるんだ、お前は」

「添い寝ですよ?」

 きょとん、と首を傾げながら答える蘭。何を当然のことを訊いているのか、とでも言わんばかりである。凄まじい勢いで込み上げてきた頭痛をどうにかこうにか堪えながら、尚も尋問続行。

「……男女七歳にして同衾せず、とか何とか言ってなかったか?」

 常日頃からあれだけ主張していた潔癖キャラはどうしたんだお前は。

 俺の疑問に対して、蘭はもぞもぞと布団の上に身体を起こし、わざわざ正座を組んで決然たる眼差しをこちらへ向けながら、どこか誇らしげに胸を張り、自慢げな表情で答えた。

「そうるしすたぁ曰く、“愛さえあればオールオッケー。恥じらいなんて後からついてくる”、なのです!」

「待て。色々と待て」

 あのアマ蘭の莫迦さ加減を良い事に何を吹き込んでやがる、というか影響を受けたにしてもはっちゃけ過ぎだろうキャラが崩壊してんじゃねぇか、と内心で盛大に叫びつつ、俺は全力で動揺を押し殺し、速やかに状況を把握するべく蘭を見遣った。

 無駄に凛々しく正座を組んで微笑んでいる蘭は、既に川神学園指定の白の制服を着込んでいた。となると布団の中に潜り込んだのは朝方、それもつい先程の事なのだろう。その証明として、テーブルの上には温かい湯気を上げる蘭お手製の朝食が用意されている。白米、味噌汁、鰆の塩焼き、白菜の漬物、それに関西圏で近頃話題らしい松永納豆。健康的な和膳のメニューを一通り見渡してから、再びその料理人へと視線を戻す。

「……」

「……」

 結果として成立するのは、朝一番からベッドの上にて向かい合って見詰め合う男女の図。

 何だこの予想外にも程があるシチュエーションは、と頭を抱えて転がり回ってそしてそのまま二度寝したくなる欲求を抑え付けながら、再び口を開こうとした――その瞬間である。

「ねーご主人、ランがどこ行ったか知らない? 起き抜けのホットミルクを作って欲しいんだけど、部屋にも中庭にも見当たらなくって……さ……」

「……………………」

「……………………」

「あ、ねねさん、おはようございます! 今すぐ用意しますね、ちょっとだけ待ってて下さい」

 液体窒素をぶち撒けたかの如く瞬間凍結した部屋の中で、蘭だけが普段どおりの呑気さで動いていた。そそくさとベッドから降りてぱたぱたとキッチンに向かうと、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、コンロに火を付けて――その時になってようやく、戸口でパーフェクトにフリーズしていた我が第二の直臣は再起動を果たす。ギギギギと蝶番が軋む音がしそうな動きで首を巡らせ、俺と蘭を交互に見遣って、そしてくわっと猫目を見開いた。

「不覚、明智音子一生の不覚だよ! もし薄っすい壁の向こうから不埒なギシアンが聞こえてきたら即座に壁ドンで妨害する用意しながらwktkしつつ一晩を過ごしてたのに!」

「おい」

「え、いやいや一体全体どれだけハイレベルなサイレントプレイに励んでたのさ二人とも! 毛布、拉致監禁調教に大☆活☆躍な毛布先生の出番だったりするの!? やっぱりアレって防音性能バッチリなの!?」

「待て。色々と待て」

 どう考えても良家の子女の口から出るべきではないNGワードのバーゲンセールであった。耳年増、などという愛嬌のある形容で済ませていいレベルを超えている。

 まだしもの救いは、肝心の蘭がねねの色々アウトな台詞の意味を理解し損ねている様子で、きょとんと首を傾げている事であった。真面目一徹な性格からして当然の話だが、蘭はその手の知識には恐ろしく疎いのだ。……このまま椎名京を放置すれば、今後どうなるかは分かったものではないが。

「……? “ぎしあん”って一体……? えっと、こしあんの間違い、じゃないですよね」

「そりゃもうアレだよ、こしあんの百倍甘ったるくあんあん言いながらご主人のホットミルクをもう一つのお口で飲み乾して――ああいや何でもない何でもない、わたしホットミルクが早く飲みたいにゃー」

 割と真剣マジで殺気混じりに睨み付けると、ねねは目を泳がせながら、オヤジ臭く下劣極まりないネタの披露を中断した。白々しく口笛など吹き始めた様子からして、どうやら本気で妙な誤解をしている訳ではない様だった。まあ莫迦の癖に頭は無駄に回るネコ娘のこと、ベタな勘違いに陥るほど単純ではないのだろうが……その明察具合をよりにもよって朝一番の下ネタに利用するとは許されざる暴挙である。成程成程、ここは一家の棟梁として、教育的指導と云う名の入念な躾が必要な場面らしい。

「おおっと! のんびりしてたら遅刻しちゃうしまずは着替えて来ようかなっ!」

 水責めを筆頭に各種のお仕置きメニューを脳裏に描いていると、持ち前の危機察知能力を発揮したのか、未だパジャマ姿のねねは慌ただしく部屋から飛び出していった。

 ふ、今は逃げるといいさ。だがひとたび閻魔帳に書き留めた以上、お前の悪行は必ずや償って貰うぞ覚悟しろよネコ――と心に誓いながら、俺はベッドの縁に腰掛けた。

 起床後数分と経たない内にこの疲労感、俺は間違いなく長生きは出来まい。

「はぁ……」

 爽やかな春の早朝にはおよそ似つかわしくない、どんよりと重苦しい溜息を吐き出しながら、黙々と食卓に向かう。気分は暗鬱でも、常と変わらず朝食は美味かった。蘭の腕も良いが、それよりも初めて食した松永納豆の質が思った以上に高い。程よい粘りと程よい甘み、それ単品で裕に白米一膳は平らげられそうである。今のところ西日本にしか流通していないらしく、今回食卓に並んだのは家臣の一人たるサギを通じて偶然手に入れる機会があったからだが、叶うならば定期的に購入したいものだ。

「~♪~♪」

 先程から、ご機嫌な鼻唄が狭苦しい自室に響いていた。台所に立った蘭が、“大和丸夢日記”新シリーズのメインテーマを諳んじながら、手際よくねねの分の朝食を用意している。そのやけに渋いメロディーラインに暫く耳を傾けてから、俺は口を開いた。

「蘭」

 声を掛けて、そして続く言葉に一瞬だけ躓いて――それから俺は、頭の中で選択した言葉を何気ない調子で紡ぐ。

「ご馳走様だ。美味かった」

「……はい。お口に合ったなら、嬉しいです」

 蘭は包丁を握る手を止め、柔らかく微笑んだ。

 極端に畏まる事も、もちろん平伏する事もない。ただ沁み入るような温かい笑顔を以って、蘭は俺の言に応える。

 何でもない遣り取りだ。――何の虚飾もない、真実の遣り取りだ。

 俺は俺で、蘭は蘭。そんな当たり前の事を、距離を、関係性を、俺達はようやく取り戻した。もはや何ら嘘偽りを差し挟む事無く、正面から俺達は向き合う事が出来る。その事実を強く噛み締めつつ、俺は蘭を見遣った。

「それにしても……」

 家庭的な花柄エプロンの下に覗くのは、そろそろ馴染んだ川神学園の制服。制服とはつまり、生徒が生徒としての立場を主張しつつ己が学び舎に通う為に存在する、一種の身分証明である。まぁあの学園、特にSクラスの貴人ならぬ奇人どもに限っては少なからず例外が居る訳だが……とにかく制服を身に纏っている事が、学園生として籍を置いている事実を端的に示す事は間違いない。

 何が言いたいかと言えば、要するに――

「入学一ヶ月と保たずに退学、なんて笑えない事態にならなくて良かったな。蘭」

「ええ、ホントに。これもみんな、シンちゃんのお陰です」

「いや……、無用に謙遜する趣味はないが、今回に関して言うなら、俺はさほどの働きをしちゃいないさ。お前の誠心誠意って奴が通じた結果だろうよ。その手の暑苦しい精神論が冷静な理屈よりも優先して罷り通るのは川神院の気風ならでは、ってところだろうが」

 武の総本山・川神院――実質的には殆ど川神学園学長たる川神鉄心個人との交渉において、俺達は望ましい成果を掴む事に成功していた。

 それに際して俺の弁舌が効を奏した部分が全く無い訳でもないのだろうが、決め手となったのはやはり、蘭が鉄心に対して己の意志を明確に示し、決して揺るがぬ己の心魂の在り方を示してみせた事だろう。

 自分なりの方法で“森谷”の血塗られた業を乗り越え、拭えぬ過去を受け入れ背負いながらも未来へ進まんとする姿勢を前に、かつて武神と呼ばれた老翁が何を想ったのかは推し量るしかないが――鉄心が重々しく告げた蘭への処罰は、まさしく破格と言って良い程に軽いものだった。

 即ち、とある一つのペナルティ……というか条件を受け入れさえすれば、退学も、停学処分すらも無し。川神院師範代にしては至極生真面目で常識的な体育教師、ルー・イー辺りは色々な意味で●●●●●●反対しそうなものだったが、意外にもすんなりと受け入れていた。蘭の日頃の礼儀正しい態度が関係しているのだろうか。少なくとも仮に俺が蘭の立場であれば、ああまで容易に首を縦に振っていたかは怪しい所である。

 ……まあ結果として無事に学園生活を続行出来る以上、文句もないのだが。そもそも教師に好かれて依怙贔屓の対象とされるなど、“織田信長”のパーソナリティとは程遠いだろう。勿論、俺が仮面を被らず素を披露する事さえ出来たなら、瞬く間に皆から愛される人気者になる未来は疑いないが……実演してみせられないのが全く以って残念でならない。

「とにかく、シンちゃんと離れずに済んで一安心ですけど、……ふふ、これからは気を付けなきゃダメですね」

「ん?」

「今は大丈夫ですけど、間違って外で“シンちゃん”なんて呼んじゃったら大変です。慣れるまではちょっと注意が必要かもしれません」

「……ああ、そうだな。くれぐれも心を砕けよ、昔からお前のうっかり属性は馬鹿にならないからな。と言うかだ、私生活的に考えてもその呼び方はどうなんだ? 十年前ならいざ知らず、高ニだぞ俺達」

「む。何年経ったって、シンちゃんはシンちゃんですよう。それを言うならタッちゃんだってタッちゃんじゃないですか」

「だからそもそもその点からして問題視してるんだが……あーいやいい、俺が悪かった」

 何故か涙目になりつつある幼馴染(高校二年生)。こんな些細な事案に拘って泣かせるのは御免である。

「何と呼ばれようが戦術的優位性に対して直ちに影響はない。人前でなければ好きに呼べばいいさ」

 途端にパァッと顔が明るくなる。記憶があろうとなかろうと、この単純さと極端さは特に変わらないらしい。

「シンちゃん」

「何だ?」

「ふふ、呼んでみただけです♪」

「……こうしている間にもネコのホットミルクが刻一刻と冷めつつあるぞ」

「あぁっ!? ら、蘭は急ぎねねさんの部屋に朝餉を運んできますっ」

 慌てた調子で言うや否や、蘭は朝食を載せたトレイを両手にドタドタと部屋を去っていった。
 
 全く、朝一番から落ち着きのない輩である。クール&クレバーの体現者たる俺という見本の傍で十年間も過ごしておきながらここまで知的成長が見受けられないとは逆に驚きに値する――と呆れ混じりに思考しながら、出立に向けて手早く身支度を整える。

 昨日の疲労を癒す為に少しばかり遅めに起床時間を定めていたので、あまり悠長に構えている時間は無い。制服に袖を通し、寝癖を抑え付け、最後に洗面所の鏡を一睨みして、他者を圧する凶悪な眼光に衰えが無い事をチェック。うむ、今日も今日とて絶好調である。

「……さて」

 出立準備を滞りなく完了し、後は中庭に出て二人と合流しつつアパートを後にするのみ。

 学生鞄に必要な教科書類が詰め込まれている事をもう一度確認し、ベッド脇の棚上に設置された時計に目を向ける。時間的には未だ五分ほどの余裕があった。

 俺は数秒の思索の末に、その僅かな数分間を更なる思索に充てる事に決めた。ベッドに腰掛け、学生鞄を床に置いて、瞼を閉ざす。

 迷う事無く選択したテーマは――織田信長と森谷蘭の関係について。

「……告白、ね。愛の告白。恋愛。恋に、愛」

 こうして声に出して並び立ててみると、それらの語群は何とも言えぬほどむず痒く、地に足が着いていないどころか、気を抜けば遥か星の海へまで浮き上がってしまいそうな響きを帯びていた。無二の親友こと源忠勝の不器用な恋愛模様を傍観して楽しんでいた俺だが……いざ当事者となってしまえば、これが中々に笑い事では済まないものだ。断じて適当に茶化して弄べるようなものでも、曖昧に濁して誤魔化せるようなものでもない。

『あなたを、心から、愛しています』

 ましてや既に蘭が自身の想いを明確な形に出して伝えた以上、俺とて何かしらの回答を用意しなければならないのは当然だ。それもなるだけ早急に。

 自分の都合よりも他者を慮る事を優先する性格から考えて、例えこのまま回答を保留して変わらぬ日常を送り続けたところで、蘭が俺に答を催促するような事は無いだろうが――その配慮に延々と甘える事を好しとするほど厚顔無恥な人間には、どうにも俺はなれそうもなかった。

 何となれば、それは逃避だ。変化を厭い、困難と直面する事を怖れる惰弱な精神の発露だ。即ち、俺が自らに対して最も忌避する類の行為に他ならなかった。

 故に。遠からず、答を出さねばならない。森谷蘭と云う少女が心の深奥から紡ぎ出した純なる想念に相応しい、決して惑わぬ確たる意志にて応えねばならない。今この瞬間に然るべき回答を用意できなかったとしても、せめてその自覚だけは強く心に刻み込んでおこう。

「そして――もう一つ●●●●、か」

 脳裡に浮かぶのは先と同じく俺達の関係性についてだが、しかし今度の“それ”は浮付いた恋愛感情とは全く別の位相に在る問題だ。

 もっと奥深く、より根源的な部分。

 織田信長と森谷蘭の今後の在り方そのものを決定的な形で定めるであろう、一つの命題。

 共に未来へと進む為には絶対に避けては通れない其れについての諸々を、未だ俺達は語っていない。俺も、そして恐らくは蘭も、語らなければならない事は重々承知しているが、如何せん時間的猶予と心理的余裕と云うものが些かばかり不足していた。

 ただ、例えそうでなくとも、この問題に関しては……或いは今暫し、様子を見た方がいいのかもしれないが。

 …………。

 ……。

「そろそろ時間、だな」

 真剣な思索に沈んでいた五分間は、体感的には酷く短い。

 瞼を上げて、ベッドから立ち上がる。学生鞄を引っ掴み、扉を開いて屋外へ。

 考えるべき事も為すべき事も依然として数多いが、何はともあれ――新たな一日を、始めよう。








 昨日の昼間から夕方に掛けて川神市を通過した大嵐の、その荒々しい爪痕を優しく拭い去ろうとしているかのように、本日の多馬川河川敷を吹き抜ける春風は至極和やかだった。緩く肌を撫でる風は適度に涼しく、薄い雲間から控え目に射し込む日差しは穏やかな温暖さを地表へと注いでいる。晩春に差し掛かりつつある川神市は、一般的な日本人にとっては総じて快適と云えるであろう気候に恵まれていた。

 そんな好天の下、朝方の清々しい空気を存分に肺腑へと取り込みながら、俺は普段同様に蘭を三歩後ろに従えて、学園へと続く多馬川沿いの通学路を闊歩している。

 ちなみに、何かにつけて騒動の種となりがちな第二の直臣は不在だ。「いいもんいいもん、私はまゆっちと百合の花咲き乱れる楽園を築いちゃうから別に寂しくないもんねー」とか何とか、理解したくもない妄言を吐き散らした末に別行動を取っていた。

 まぁそうしてやさぐれた風を装いつつも、実際のところは件の剣聖の娘・黛由紀江を自陣営へと引き込むための活動の一環なのだろう。その事案に関しては彼女と同じ一年生と云う枠に属するねねに一任してあるので、俺としても下手に横合いから手を出す心算は無かった。

 うむ、それはそれで構わないとして、さて問題は俺達の側である。

「……蘭」

「はっ」

「気の所為には非ず、か」

「ははっ。昨日の私の所業が忌まれているのかとも思いましたが……“それ”とはまた異なる様です」

 打ち合わせ通り主従としての態を取りつつ会話を交わしている俺達だが、しかしそんな心遣いが果たして必要だったかどうかは疑問である。何故なら、俺達の周囲数十メートルにはおよそ人影というものが見当たらないのだ。戦々恐々とした面持ちを浮かべた学生達から遠巻きにされつつの登校には慣れ切っていたが、幾ら何でもここまで極端なものではなかった筈。

 蘭と二人して首を捻りながら、やけに喧騒の遠い通学路を歩くこと暫し、やがて悪名高き変態の橋こと多馬大橋に到着する。背後から遠慮を知らない賑やかな喧騒が近付いてきたのもその時だった。“織田信長”の暴威を殊更に恐れず、あまつさえこれほど近くまで遠慮なく寄って来るような面子は限りなく限られているので、わざわざ振り返って確かめるまでもなく、喧騒の正体は自ずと知れた。

「ノーブりんっ♪」

「……」

「む、これは駄目か。じゃあ……ノブノブ? オダッチ?」

「……」

「むむむ、私が寝る前に頑張って考えた愛称をスルーとは相変わらずドSな後輩め。やっぱりこれしかないか――おーい“織田信長”!」

「…………(殺気)」

「おおう。お前結構分かり易いな……」

 出会い頭に鬱陶しい絡み方をしてきた声の主へと振り返る。

 身に纏う気配の濃密さが圧倒的過ぎて他の誰と間違え様も無い、そんな最強生物まっしぐらな先輩であるところの武神・川神百代の堂々たる立ち姿が其処に在った。

 更にそのやや後方地点では、風間ファミリーの面々がぞろぞろと列を成して騒がしく登校中である。どうやら百代は幼馴染集団をひとり抜け出して、俺達へと声を掛けに来たらしい。

「いよーう信長、今度はまたド派手にやったモンだなぁ。出来ればおねーさんも混ざって遊びたかったぞ」

「さて、何の事やら。生憎と身に覚えが無いな」

「惚けるなよな~コイツぅ。昨日の夕方、堀之外町辺りで起きてたとんでもない“氣”の嵐、あれお前が一枚咬んでる……っていうかぶっちゃけ中心だろ? それにホラ、いわゆる客観的な証拠ってヤツもあるぞ」

 百代はニヤニヤと愉快げに笑いながら手元の携帯電話を数秒ほど弄った後、それをこちらへと無造作に放って寄越した。

 空中でキャッチして液晶画面に目を向けると、そこには一つの画像が映し出されている。

「……」

 無惨に破壊され尽くした街並みの一画。見る影も無く瓦礫の山と化した無数の建造物と、見渡す限りが抉られ砕かれ隆起し陥没した路面。血色の夕日が禍々しい色彩にて染め上げる風景は、何処までも凄絶な闘争の跡地だ。

 そして――絶大なる存在感を伴いながら破壊の中心に立つ、黒尽くめの男が一人。罅割れた路面を無慈悲に踏み躙るような傲然たる立ち姿で、全くの無感動な氷の面持ちとガラスの瞳を以って暴虐の爪痕を睥睨している。

 例え画質の荒い画像の中であっても、その総身に纏わり付く邪悪且つ不吉な気配は隠しようもないもの。そして俺は、この悪魔とも見紛う相貌の男を知っている――!

 そう、それは……つい今朝方、自宅にて鏡の世界の内に見出した、忘れ得ぬ顔であった。

 
 というかどう見ても俺だった。


「いわゆる学園の裏サイトってヤツをファミリーのモロロがチェックしててな、どうも誰かがこの“戦場跡”を激写した画像を上げたらしいぞ。で、そいつが結構な勢いで拡散して、ウチの学園生どもの間じゃただいまちょっとしたお祭り騒ぎになってるワケだ」

 無言で液晶に視線を向けている俺を流し目で見遣りながら、百代は何やら得意気に解説する。

 匿名掲示板のスレッドに貼られた先の画像はどうやら相当に反響を呼んだらしく、表示された書き込みの時間から判断して、それに対する住人達のレスポンスが凄まじい勢いで行われていた模様。

 時刻表示は深夜だと言うのに揃いも揃って御苦労な事だ、と内心で呟きながら適当に画面をスクロールさせ、掲示板上で沸き立つ反応の一部分を抜粋してざっと眺める。


―――――――――――――――――――――――――――――――――

109:是非も名無し
 なんだNOBUNAGAか……
110:是非も名無し
 ちょwww魔王様はっちゃけすぎですよwwwwww   

 え コラだよな……?
111:是非も名無し
 ところがどっこい……コラじゃありません……! 現実です……! これが現実……!
112:是非も名無し
 これマジだよ 駅側から親不孝通り覗いたら一発で分かる 
 とりあえず神奈川県警仕事しろ
113:是非も名無し
 あれ分類的に人間じゃなくてもう災害なんで……災害への対処は自衛隊の管轄なんで……(震え声)
114:是非も名無し
 つかスペツナズ的なドイツ軍の特殊部隊が一蹴されてる時点でもうね 
 出張ったところで国家権力(笑)な結果にしかならないだろjk
115:是非も名無し
 こうなったら我らが人型汎用決戦兵器・MOMOYOにご登場願うしかないな
116:是非も名無し
 おいやめろ武神v.s.魔王とか周囲の被害がシャレにならん
 リアルに川神市が地図から消えるぞ……
117:是非も名無し
 もうだめだぁ……おしまいだぁ……
118:是非も名無し
 まーあのお二方は今んとこ停戦協定結んでるんですけどね 
 むしろスケール的に安保理条約? 誰か例のコピペはよ
119:是非も名無し
 >>118 
 どうせならと思って新しく追加してみた

~全盛期のNOBUNAGA伝説~

・3戦につき5勝は当たり前、3戦につき8勝も
・決闘場に立つだけで対戦相手が泣いて謝った、心臓発作を起こす相手も
・完封勝利でも納得いかなければ勝利宣言せずに帰った
・あまりにヤバすぎるから牽制でも死亡フラグ扱い
・その牽制もすぐさまサーチ&デストロイ
・対戦相手を一睨みしただけで武器がひとりでに場外まで飛んでいく
・決闘しない休日でも2勝
・自分の撃った気功弾を自分でキャッチしてレーザービームで投げ返す
・自己紹介でブリザードが起きたことは有名
・決闘開始1秒で決着なんてザラ、0秒を切ることも
・侵攻ストップしようとしたEクラスの勇者とそれを観客席で応援しようとしたクラスメート数名を立ち合った歴史教師ともども失禁させた
・グッとガッツポーズしただけで5人くらい昏倒した
・NOBUNAGAがストリートを歩くと周囲の建物が自然倒壊した←NEW!

 なお現在進行形で全盛期のもよう
120:是非も名無し
 ネタに見えるだろ? 結構な割合で実話なんだぜ……これ……
121:是非も名無し
 しかしまさかMOMOYO武勇伝に次ぐ新たな伝説コピペが作られる日が来ようとは
 つくづくとんでもない時代に生まれちまったもんだ
122:是非も名無し
 まさに世紀末
 いやむしろ戦国時代か? なんつってな
123:是非も名無し
 >>122
 無茶しやがって……
124:完全で瀟洒なミラクル娘娘
 >>122
 |Д゚)<…このスレは織田家随一のプリチィーガールに監視されていますにゃん
125:是非も名無し
 まーたお前か猫娘
126:是非も名無し
 さっさと寝ろ猫娘
127:是非も名無し
 夜更かしすんなや猫娘
128:是非も名無し
 朝寝坊に気を付けろよ猫娘
129:完全で瀟洒なミラクル娘娘
 >>125
 >>126
 >>127
 >>128
 我輩はネコではない 



 
 タチである


130:是非も名無し
 ちょwwwシャレのつもりだろうがシャレになってねえww
131:是非も名無し
 唐突なカミングアウトキマシタワー
132:是非も名無し
 チクショウ名家のお嬢様なるものに抱いてた美しき幻想を返せ猫被り娘!
 ……さらば俺の淡い初恋よorz
133:是非も名無し
 幻想も何もアレだ
 去年の時点で某三大名家の某御息女とかいう色々残念な前例があっただろ……
134:是非も名無し
 >>133
 だがあれはあれで微笑ましいと言うか可愛いと思えるようになってきた今日この頃
 ふとした仕草がいちいち幼くてイイよな……なんかこう父性愛を刺激する感じが
135:是非も名無し
 >>134
 同志よ
136:是非も名無し
 >>134
 特定した
137:是非も名無し
 >>134
 ハゲ乙
138:完全で瀟洒なミラクル娘娘
 >>132
 げにwwwwげきをこなんめりwwwいとわろしwwww( ´∀`)つ□まあ涙拭けにゃん
 >>134
 >>135
 このロリコンどもめ!
 
――――――――――――――――――――――――――


 ……以下も延々とカオスに賑わいながらレスが伸びているが、最後まで目を通そうとすると気力が保ちそうにないので早々に切り上げた。

「……………」

 何がと言わず全体的に酷いが、うむ、取り敢えず、従者第二号は後で確実にシメる。なに堂々と固定ハンドルで出没してやがんだあの莫迦は――と頭痛を堪えて必死の無表情を作りながら、俺は携帯電話をMOMOYO、いや百代へと投げ返した。

「成程、な。嗤える程に呑気極まる学園生共が、今朝に至って斯様なまでに畏れを顕にする理由……得心がいった」

「ま、そういう訳だ。アレが本当は爆発事故●●●●とやらじゃないコトは大体の奴らが了解してるんだよなぁ。当然、私も例外じゃないぞ」

「然様か。くく、まぁ、想像は各人の自由だ」

 嘲るような笑いにいかにもな含みを持たせつつ、鷹揚に頷いてみせる。

 改めて言うまでもない事だが、画像に映る例の惨状は俺の仕業ではない。自力であんな特撮映画じみた真似事が出来るようなら苦労はしない。全ては板垣辰子と柴田鷺風、二人の度外れた狂戦士バーサーカーが枷を取り払って衝突を続けた結果である。

 対戦の組み合わせといい、非常識な破壊の規模といい、それに対する外野のリアクションといい、まさしく二年前の焼き直しだった。そう、焼き直しだからこそ――其処から得られるものが似通うのは必然だ。

 つまるところ、“織田信長”の威信を補強する為の材料としては大変都合が宜しい。こうして望んだ結果が得られたならば、所用も無いのにわざわざ戦場跡に留まって闘争の当事者を装うという、些かセコい振舞いに及んだ甲斐もあったというものだ。

「で、で、肝心のお相手は誰だったんだ? エベレスト級にプライド高いお前がここまで出し惜しみせずに闘ったって事は、少なくとも壁越えクラスは確定だろ」

 ほくそ笑む俺の内心を余所に、百代は傍目にもワクワクした様子で、期待に満ちた眼差しをこちらに向けている。

「ふん、問うまでもなく見当は付いているだろう。ならば無用に言葉を費やす気は無い。お前の思う其れこそが正解だ、とだけ言ってやる」

「ははっ、なるほどな。何せ物凄い数量の氣がぐちゃぐちゃに混ざり合ってたモンだから、流石の私でもいまいち確信が持てなかったが……そのリアクションでいよいよ分かったぞ。信長お前――釈迦堂さんと闘り合ってたな?」

 百代の口からその名が出る事に驚きは無い。そして別段、否定する理由も無かった。淡々と頷きを返す。

「然様」

「あーやっぱりかぁ。勝敗は……、まあ言うに及ばず、なんだろうな。しかも見た感じほぼ無傷ときたもんだ。何と言うか、お前はホンット、いちいち私を滾らせるヤツだな。ははっ」

 物騒に哂いながら闘気を放出するのはやめてください死んでしまいます。

 百代の闘争本能を必要以上に煽るのは控えようと、俺は心に刻んだ。

「思えばもう十年ほど会ってないのか……懐かしいなぁ。おーい後輩、釈迦堂さんまだ生きてるのか? 普通ならあの人がそうそう簡単にくたばるとは思わないが、対戦相手がお前じゃちょっとなあ」

「ふん、さてな。首を獲っておらぬ以上は与り知らぬ事だ。負け犬風情の生死になぞ、元より興味も無い」

「んー、じゃーまあ生きてるか、釈迦堂さんだし。……しかしアレだ、とっくに追放されてるとは言え、ウチで師範代やってた武人がそんな風に言われちゃ黙ってられないな。いくらお前でも楽に勝てる相手じゃなかっただろ? 例えばホラ、釈迦堂さんオリジナルの“リング”とか、アレかなり厄介で強力な技だぞ」

「下らんな――いかな凶弾であれ、当たらなければ如何という事もあるまい。ひとたび読み切られれば、無用の隙を晒すのみよ」

「うーん、そういうやり方もあるのか……。私の場合はとにかく真正面から突っ切って攻略したっけなぁ。ガードした両腕が付け根から吹っ飛びかけたのを覚えてるぞ。はは、あれは愉しい闘いだった」

 なにそれこわい。俺が綿密な計算と多大な幸運の上にようやく攻略した奥義を、清々しい程の脳筋戦法で普通に突破してしまえる辺り、つくづく瞬間回復という技能は反則的だ。まあスキル云々以前に単純な肉体のスペックの時点で雲泥どころではない差がある訳だが。
 
 それから暫し、噛み合っているようで実際はまるで噛み合っていない、本来ならば武界の頂点に立つ最強格同士が繰り広げるような異次元な話題で盛り上がって――尤もやたらとテンションを上げているのは百代一人だが――いると、不意に背後から視線を感じた。

「……」

 蘭である。八の字に眉を下げ、切なげな眼差しをじっとこちらへ注いでいる。

 自己を強く主張して訴え掛けるような種類の視線ではなくとも、その内心を窺い知るには十分な想いが双眸に溢れ出ていた。

 まず間違いなく本人は意識していないのだろうが、傍から見れば到底平静を保っているようには見えない。

 その証拠に、百代はおもむろに蘭へと視線を向けて、肉食獣よろしくギラリと目を輝かせた。

「うぅむ……イイなぁ。その慎ましく健気なジェラシー、やはり燃えてくるものがあるぞ。略奪愛は後味悪くて趣味じゃないが、ついつい一夜の過ちを犯したくなってしまう」

 いつぞやの如く邪念に満ちた視線を向けられても、蘭は動じなかった。

 涙目で震えながら俺の制服の裾を摘んでいた以前の対応が嘘だったかのように、平静な態度で百代を見返している。

「お、逃げないイコールOKサインと受け取ったッ! じゃあさっそくお姫様抱っこで学園まで――おお?」

 目で追い切れぬ、恐ろしいまでの迅速さで実行された武神の抱擁を、しかし蘭は回避していた。色々な意味で意外だったのか、驚いたように固まっている百代に向けて、蘭は静かに口を開く。

「申し訳ありません、川神先輩。蘭がこの身を抱いて欲しいと願うお方は天上天下にただ一人。心魂に誓って定めた以上、もはや何人の指先であれ、徒に触れさせる訳には参りません」

 穏やかに微笑みながらも、紡ぐ言葉には断固たる意志が込められている。

 ぱちくりと呆然たる瞬き一つ落として、それから百代はニヤニヤといかにも愉快そうな笑顔を湛えつつ俺へと向き直った。

「おいおい信長、かるーいスキンシップもお断りなレベルで操立てるってどんだけ想われてるんだお前。つーか何やらかしたんだお前」

「……」

 どうコメントしろと言うのか。

 鉄壁の無表情で徹底無視を貫き通していると、百代は不意に鋭く細めた目付きで蘭の全身を眺め回して、先程までとは明らかに種類を異にする獰猛な笑みを浮かべた。

「それにだ――今、避けたな●●●●? 全力ではないにしても、私の動きを確実に見切って反応出来たって事は……そうか、やっと宝の持ち腐れをやめたってワケだ。ホントにお前ら主従は私を退屈させないな。今から将来が楽しみでならないぞ、はははははっ!」

 両腕を組んで傲然と仁王立ちし、マントの如く羽織った制服を吹き上がる闘気に靡かせ、天を仰ぎつつ高らかな哄笑を響かせる百代の姿は、何と言うか普通に魔王じみていた。

 ラスボス系女子、という一つの単語が脳裡に浮かぶ。見事なまでに何の違和感も無い響きであった。実際問題、少なくとも俺にとってはラスボス同然の存在である事は間違いない。

「ま、そういうワケで。“これからよろしく”だな、蘭」

「はい、お世話になります。不束者ではありますが、どうぞ宜しくお願い致します、先輩」

 蘭は挙措を正して深々と頭を下げる。対する百代は何やらオヤジ臭い表情で感じ入っていた。

「おおう……いちいち私のツボを突いてくるとは侮れんオナゴだ。ふふふ、そうだ焦る事はない、ゆっくりじっくりねっとり親交を深めような~」

 結局最後は邪念塗れの締まらない台詞で締めると、百代はふらりと俺達から離れ、後方の幼馴染集団へと合流する。

 会話のキャッチボールだけで甚大な精神的疲労をもたらしてくれるとは、何とも傍迷惑な先輩が身近に居たものだ――やれやれと心中で溜息を零しながら、背後の騒がしさを尻目に悠然と橋を渡る。

 誰のものか一瞬で判る程に快活な声音が橋上一帯に響き渡ったのは、その時であった。

「みーんなーっ! おっはよーっ!」

 天真爛漫、元気溌剌。聴く側にまでもれなく活力を分け与えるような明るい挨拶を大声で叫びながら、風間ファミリーの一員にして川神学園のマスコットこと川神一子が橋の後方より急速接近中である。

 例によってブルマで、例によってタイヤを引いていた。そろそろ見慣れてきた姿なので特に驚きはないが――いや、それは単に異常を異常と判ずる大切な感覚が麻痺しただけなのではなかろうか、と深刻な疑義を自らに呈している内に、彼女はファミリーの面子と何やら一言二言交わして、そして何故かそのままこちらへ駆け寄ってきた。重量感のあるタイヤをずるずると引き摺りながら、小走りで俺の横に並ぶ。

「おはよっ、ノブナガ!」

「何用だ。川神一子」

「あうぅ。びっくりするくらいフツーに挨拶ガン無視されたわ……」

 当然である。その際限なくシャイニングなテンションに合わせて爽やかな挨拶など返そうものならキャラ崩壊もいいところだ。そもそも互いに挨拶を交わすほど友好的な間柄ではなかった筈だが。

 一子は何やら微妙に凹んでいたが、「ま、いっか!」とすぐさま立ち直る。まさに万人が見習うべき切り替えの早さだった。

「それで、えっと……ありがとね、ノブナガ!」

「ああ――精々感謝する事だ。さて、所用が済んだなら失せろ」

「理由すら訊いてくれないっ!?」

 全力で出鼻を挫かれた様子で、ガーン、と硬直している。こちらとしても予想外の台詞を受けてつい反射的に普段通りの憎まれ口を叩いてしまった結果なのだが、その事を俺が後悔する暇もなく、「ま、いっか!」と再度の復活を果たしていた。何だコイツは精神的に不死身か、と人知れず戦慄している俺の顔を横合いから覗き込んで、一子は屈託なく言葉を続けた。

「最近ね、お姉さまが辛そうな顔をしなくなったの。だからちゃんとお礼言っておかなきゃ、って思って」

「――其れは、彼奴に巣食う“獣”の話か」

「え、え? け、ケモノ?」

 どうやら簡単な比喩表現の読解ですら彼女にとっては些か難易度が高かったらしい。うむ、どうも天を相手にしているつもりで話すべきだったようだ。目を白黒させてうろたえている一子へと、言葉を改めて問い掛ける。

「川神百代の気質、闘争本能についての話かと訊いている」

「あ、そうそれだわ! お姉さま、最近はずっと活き活きしてるの。ジィちゃんの言いつけで誰とも闘えずにいるのに、ぜんぜん辛そうな顔をしないのよー」

「ふん。それにしては、随分な頻度で愚痴と文句を零している様に見えたがな」

「あはは、それはまぁお姉さまだから。でもそれだって、前みたいに本気で言ってるワケじゃなくて……ちゃんと割り切って、冗談で言ってる。ホントに辛かったら、きっとそんな風には言えないわ」

「以前と比して、闘争との縁は尚も遠ざかった。彼奴は其れを、真に耐え難き苦痛とは感じていないと?」

「うん――きっとね、自分で選んだ道だからなんだと思う。誰かに無理強いされたワケじゃなくて、自分が納得して決めた事だから、どんなに辛くても苦しくても、笑って受け入れられるの」

 アタシがそうだから分かるんだ――明るい口調で言って、遥かな彼方の夢へと一途に向かい続ける少女は、朗らかに顔を綻ばせる。現実の過酷さと向き合う中で噛み締めてきたであろう幾多の想念を内に宿した言葉は、確かな想いを伝えて俺の胸に沁みた。ついつい、俺もそうだ●●●●●、と心からの相槌を打ちたい衝動に駆られる。

 だが、俺は“織田信長”だ。然様な感傷に浸って弱みを曝け出すような無様は許されない。感情の宿らない氷の瞳を欠片も揺るがせないままに、冷徹な無言を保ちつつ眼前の少女を見詰める。

「だからね、お礼なの。お姉さまの“希望”になってくれてありがとうって!」

 一切の隔意を取り払った純粋な笑顔を満面に浮かべて、一子は嘘偽りなき感謝の言葉を繰り返した。

 ……なるほど、源忠勝が、九鬼英雄が惹かれた理由が良く分かった。この裏表のない無垢な明るさ、汚泥の如き感情の楔に囚われない、どこまでも真っ直ぐな精神の在り方こそが、川神一子という少女の備える真の魅力なのだろう。この世界に存在する薄汚く醜悪な闇を良く知る人間であればあるほど、彼女の日溜まりの様な笑顔には救いの光を見出すに違いない。ちょうど昔日の俺が、何処かの誰かに対して同様のものを感じたように。

「――でもねノブナガ、これだけはハッキリさせとくわ!」

 ビシッ、と無礼にもこちらを指差しながら薄い胸を反らす一子。どうやら飼い主の躾がなっていない様である。遺憾の意を表明したい。

「お姉さまの“一番”の座は、今のところは預けておくだけなんだから! もっともっと強くなって、いつか必ずアタシがその座を奪ってみせる! 今のうちに覚悟しておくことね!」

「くく、然様か。吼えるだけであれば犬にも出来る――精々、負け犬の遠吠えで終わらぬよう努める事だ」

「モチロンそのつもり! よーし、さっそくトレーニング再開よっ!」

 言うや否や、ユー・オー・マイ・シン、と元気な掛け声を張り上げながら前方へと駆け去っていく。

 ズルズルと地を這いながら後を追うタイヤがどことなくシュールではあったが、総じて心地良い夏風のような爽快さを胸へ残していく、そんな川神一子の後ろ姿だった。

「よう、ノブナガ! ウチのワン子となに話してたんだ?」

 どうやら今朝の俺は風間ファミリーの人気者らしい。

 瞬く間に遠ざかるマスコットと入れ替わりに寄って来たのは、キャップこと風間翔一である。学生鞄を誰かに押し付けてきたのか、両手を首の後ろで組んだ気侭な体勢で俺の横を歩いていた。

 春の陽気に脳髄まで冒されたが如く気楽千万な横顔を冷たく見遣って、無感動な声を投げ掛ける。

「お前には何ら関わりのない事だ、風間翔一」

「えーいいんじゃんか教えてくれよぅ。つれないコト言うなよなー、拳を交えた相手は強敵と書いて友と呼ぶ! それが男同士の繋がりってヤツだ!」

 自由と言うか無邪気と言うか、とにかく全体的にノリが子供っぽい。実に鬱陶しいテンションであった。殺気で追い払えれば楽なのだが、生憎と無駄に抵抗力が高い輩なのでそれも不可能ときたものだ。

 こうなれば口舌で言い包めて早々にご退散願おう、と方針を固めつつ、口元に嘲笑を貼り付ける。

「くく、笑わせる。狭間に天地の距離を隔てた者同士、友誼が成立すると思うか? 群衆がいかに讃えようと、お前の無力は何ら変わらぬ。健常なる生と勝者たる道を欲するならば、絶えず己を戒め――同時に研鑽を怠らぬ事だ。万日を超えて積み上げれば、或いは真に俺の影を踏む事も叶うであろうよ」

「うへぇ、そりゃー気の長い話だ。でもま、ワン子とか見てっと、やっぱ武道ってのは、そーゆー地道な努力を続けるのが大事なんだってことは分かるぜ」

「ふん、当然だ。生まれ持った素養のみで高みに立つ者も稀に居るが、お前や川神一子は違う。才無き輩が確たる目的も意志も伴わず、漫然と鍛錬を重ねた所で何処にも辿り着けぬ。武を志すならば、強く期すものを己が方寸に備える事だな」

「んー、けど俺の夢は冒険家一択なんだよなー。……お、そうだ! ヤバい秘境とか冒険する時に備えて本格的に鍛えとくのもアリかっ!? いよーし俄然燃えてきたぜ! 格闘王に俺はなるっ!」

「喧しい。疾く山奥にでも篭ってから喚け莫迦めが」

 奔放に話し掛けてくる風間翔一を適当にあしらうという面倒極まりない作業に俺が追われている間にも、後ろを歩く風間ファミリーの面々は賑やかに言葉を交わしている。そして、いつの間にやら従者第一号がその中に混じり、件の椎名京と何やら談笑していた。

 もはや俺にとっては嫌な予感しか覚えない魔の組み合わせだが、だからと言ってわざわざ声を掛けて止める訳にもいかないというジレンマ。果たして俺の心労はどこまで積み重なるのだろうか。

「しっかしよー、良くあの暗黒大魔王に自分から話し掛けようって気になるよな。毎度のことだが、俺様にゃキャップの頭ん中がこれっぽっちも理解できねーぜ」

「あはは、確かに。……でもガクト、信長だって、まるっきり話が通じない相手ってワケでもないんじゃないかな」

「ああ? そりゃどういう事だよモロ」

「自分が認めた相手には敬意を払う……かどうかは微妙だけど、少なくとも無下に扱ったりはしないタイプなんだと思う。この前の決闘でキャップの事は認めてるみたいだし、ヘンに刺激したりしない限りは大丈夫だと思うよ」

「認めた相手、ねえ……どーも無茶苦茶ハードル高そうだが、だからこそ燃えるのが男ってモンだよな。いよし、キャップのヤローに負けてられねぇ、俺様だっていつか認めさせてやるぜ! この鍛え上げられた素晴らしき肉体美をな!」

「アピールポイントそこなの!? ……うん、でも、僕も何か頑張ろうかな。褒められるの、何だか嬉しかったし……」

「仄かなBLオーラを感知したんだッ! モロ×ノブ……いや性格的にノブ×モロが鉄板だね。悪くない」

「悪いよ! 唐突になに言ってんのさ! 京の腐り切ったフィルター通して僕を見るのやめてよね!」

「モロノブ……菱川師宣? 江戸時代の浮世絵師……でも、なぜここでその名前が出るんでしょう。あ、そうだ! 直江さん、皆さんに“軍師”と呼ばれる直江さんならきっとご存知ですよね?」

「!? また急に難易度の高いフリを……ここは軍師らしい柔軟さで適材適所、と。京、任せた」

「任された。私のソウルシスターたる者、そろそろ“この道”も知っていかなきゃ、だね。ククク、まずはオーソドックスな友情モノから徐々に慣らして―――」

「おいおい京、せっかくのめんこいオナゴを腐界に引き摺り込むのはやめろよなー。同性愛なんて生産性皆無で不毛なだけだぞ」

「日常的に女の子漁りしてる姉さんが言うかな……最近は特に、戦闘禁止令の関係で見境無くなってきてるし」

 何やら背後で邪な企みが着々と進行している気がしてならなかったが、しつこく絡んでくる風間翔一への対処に追われてそちらには干渉出来ず。ようやく無事に追い払った頃には既に多馬大橋も渡り終え、通学路も大詰め。我らが学び舎・私立川神学園の厳しい正門が前方に姿を見せていた。

「……あれは」

 そして、同時に視界に映り込むのは――金と赤の、嫌でも目を惹く鮮やかなコントラスト。

 俺の背後に控えていた蘭が、小さく息を呑む音が聴こえた。相手側でもこちらの存在に気付いたらしく、面に抑え切れない動揺が表れている。

 両者の心中を窺い知る機会を得ないまま、彼我の距離は徐々に詰められていき――必然として、俺達は学園の正門前にて対峙する事となる。

 
 クリスティアーネ・フリードリヒと、マルギッテ・エーベルバッハ。


 俺達の学園生活を再開するに際し、然るべき決着を避けては通れない二人の異邦人が、眼前に立っていた。



















~おまけの板垣一家~


「さーて。首尾よく逃げてきたはいいが――今頃、天のヤツはどうしてるんだかねェ。どうも不安だよ」

「まあアイツ、というか俺達全員、家事はからっきしだからな……料理も掃除も洗濯もタツ姉ぇ頼りだ」

「ZZZ」

「ヒヒ、別に心配いらねぇだろ。お前ら一家はムダに生命力強いからな、いざとなりゃ野草でも食ってサバイバル生活でやっていけるんじゃねえか?」

「……ま、師匠の言う通り、どうにでもなるか。最悪シンのところに転がり込むって手もある訳だしねェ」

「で、肝心の俺たちはどうすんだよアミ姉ぇ。目的地決めずに延々ブラつくのもダルいぞ」

「ああ、川神市からは脱出したし、この辺で師匠の療養先を見つけて腰を落ち着けないとねェ」

「ん~、のんびりするんだったら湘南の湾岸地域がいいなぁ。潮の匂いを嗅ぎながらお昼寝するんだ~」

「コイツ休む話になったら急に起きやがったな……。湘南ねぇ、んじゃいっちょ江ノ島の辺りで隠れ家作ってみっか? へへ、悪ぃなお前ら、俺のヘマに付き合わせちまってよ」

「いえ、師匠にはここまで強くして頂いた大恩がありますから。放っぽり出して消えるほどアタシ達は恩知らずじゃありませんよ」

「……そうだよな、“弟子”ってフツーそういうモンだよなぁ。 アイツにも少しはお前さんの謙虚さを見習って欲しいぜ、ったく」












 雰囲気も改め新章スタート、と見せかけて、実のところまだ第二部はしつこく続行中だったり。
 ひたすら重い展開が続いて胃もたれした方も多いと思いますので、今回は極力ライトな内容を心掛けて話を作りました。シリアス? ストーリー進行? 全て次回以降に丸投げでいいんじゃないですかね(ゲス顔) ……とは言っても、地味に話の中で後の展開への布石は打っていたりするのですが。
 何はともあれ、様々なご指摘・ご感想、誠にありがとうございます。しっかりと目を通して活動の糧にさせて頂いておりますので、気が向けば今後も書き込んでやってください。それでは、次回の更新で。


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