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[11895] 千雨の方法【ネギま!オリ設定】
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72
Date: 2009/12/04 02:39
はじめまして。こうやって文章を公開するのは初めてです。
よければ読んで見てください。習作ですので、間違っているところや表現がおかしいところはどんどん指摘してくれると嬉しいです。
追記。10/4移転しました。追加もしねえで移転たあ太え奴と思われるでしょうが、ちょっと幕を書くのにも時間がかかりそうなんで容赦を

※注意
・思いっきり捏造です
・死ぬシーンは書きませんが原作キャラが死んでいたりします
・たまに造語していますが、大半はそれが自分の造語だと気づいていません
・基本的に遅筆です
・のっけからオリキャラが出張りますが、別に主人公ではありません
・チラ裏にロマンを感じていましたが、暖かい声に支えられて移転します。好き勝手な話は書くけどね



[11895] 望遠鏡と同窓会 前
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72
Date: 2009/09/16 09:10

 アンチグラビティーシステムが六つのフィンから青白い光を吹き出し、札幌の上空にセーラー服の少女が浮かび上がった。
 アンチグラビティーシステム。それが開発され、既に三年が経過している。しかしそれはいまだにオーバーテクノロジーであった。科学と魔法の融合学問の第一人者、葉加瀬聡美を始め多くの先進的な学者を抱えるアクバル大学にしてもその歩みは極ゆっくりとしたものだ。それを初めとした超鈴音の遺産には遠く届かない。
 彼女――春野がそれを扱うことができるのも、高い演算能力を誇る杖を有しているからに他ならず、また葉加瀬に直接システムを譲り受けたからこそだった。それでも戦闘機動にはほど遠く、また杖のCPUパワーもかなり割かれるため、忠実な配下たる七部衆も一匹だけが肩に止まっているだけだった。
 つまり、飛んでいる間は何の力もない女子高生でしかない。
 だが彼女はこうやって深夜、空を飛ぶのが頗る好きだった。魔法使いの長い歴史で進化してきた魔法とは違う。冷気は容赦ないし、人目避けもできない。制御には気を使うし、何より超鈴音との力の差をまざまざと見せつけられている気になった。だがそれでもしょっちゅう飛んだ。バカと煙と偉い奴の中でいうならどっちかというと煙に近い。

「ご主人、さむいですー」
 胸ポケットから顔を出す『ねき゛』に彼女は軽いデコピンを舞った。精霊に近いので当然素通りなのだが、小器用に吹き飛ばされるリアクションをとって、顎にへばりつく。

「バカ言うんじゃねーよ。寒いのは私だけだ」
「うー」

 わざとらしくガクガクブルブルと震える電子精霊に溜め息を吐く。最初は個性なくただ従順で五月蝿かった精霊たちにも大分個性が成長していた。とりわけ、リーダー格で最も彼女と接することの多い『ねき゛』は嘘つきで見栄っ張りで自信がないのに自尊心が高いという一番の厄介者でもあった。
 春野は微妙に五月蝿い電子精霊を無視し、札幌の街を遠巻きに見下ろした。眠る気配のないのはススキノだ。時計台は埋没するほど存在感がない。深夜は三時を回り、流石に繁華街以外には人影は数えられる程度だ。基本的に人嫌いな彼女は人数が少ないほど街が好きになる。だが本当に人が居ない秘境は苦手だ。中学時代にトラウマがある。

「ご主人、機影。距離1000時刻30ラジ05ラジ速度50で接近中ですー」

 何度言っても紛らわしい表現をやめようとしないねき゛の首を掴み、ローブ内側のポケットに突っ込むと、街を見下ろす目のまま、その姿を探す。闇夜に紛れ、緑がかった魔力噴出を背負ったバックからしながら、少女がゆるりと近づいてきていた。
 緑の髪に、耳は人工物。洒落っ気はないのにスカートは短く、妙な色気のあるメイド服からは間接に切れ目がある四肢が覗いている。恐ろしいほど整った顔は表情がなく人間離れしていた。

「マスター。そろそろお休みにならないと明日学校に遅刻します」
「ん……そうか。風呂沸かしといてくれたか?」
「はい」

 妙齢の女子高生なりに家事ができる春野だが、大概従者に丸投げしている。大した理由ではない。面倒で際限なく手抜きをするためだ。
 出来た従者だとは、恥ずかしいから言わない。その代わり彼女は頬をカリカリと掻いて、右手に握った杖を軽く握った。

「おいねき゛。降りるぞ」
「はーい」
 ローブ内側を動き回りながらくぐもった声で、答えるねき゛を殴るのを我慢しつつ、杖を振るう。不測の事態に備え、従者が斜め下でバーニアを吹かす。
 そんなヘマはしねーよ、とファーストフライトのことを棚に上げる。海にぼちゃんしたのだった。
 街が平面に変わっていく。住宅街にある高層マンションが彼女の根倉だ。その屋上は人も寄らず、絶好の離陸スポットだった。

「あ、マスター」

 従者が小さく呟いたことも気づかず、彼女はフィンを閉じながらマンションの屋上に着陸した。いや、今日もいいフライトだった。念話ではんへ゜に制御終了を指示して、いつも何かしら声をかけてくるはずの従者がじっと明後日を向いていることに気づく。

「どうした、チャム」
「ご主人ご主人。あっち」
 いつのまにか肩の上に移動してきていたねき゛が指した方向を見て、絶句した。
 多分、彼女と年は似たようなものだろう。丸い眼鏡に灰色のブルゾン。白い望遠鏡を覗きかけた中腰姿勢の男が、ぱかりと口を開けたまま呆然と彼女を見ていた。

「……」

 すぽりと、アンチグラビティーシステムのフィンがローブの下に収まる。
 ぎしぎしと首が軋むのを感じながら、彼女は従者を見た。春野に比べると、従者は大分小さい。チャムと呼ばれる従者はじっと彼女を見上げ。

「殺りますか」
「やれ――いや待て待て殺すなよ!?」

 返事を聞いたか聞いてないか――チャムは背から魔力光を吹き出し、消えていた。
 瞬動。彼女にも把握できない速度で駆け出したチャムが望遠鏡の真横に"出た"。

「え」
「失礼します」

 馬鹿丁寧に軽く会釈し、チャムは左掌を首に軽く当てた。僅かな稲光が男の首筋を照らす。
 男が白目を剥き、倒れ込むところをチャムが支えた。チャムはそのまま男をゆっくり下ろす。

「見られたか?」
「はい。バッチリと」
「ま、大丈夫だろ」

 空から女の子が降ってきた、なんてのを真面目に信じる人間はいない。例え自分の目で見たとしてもだ。よしんば夢見勝ちな中二病患者だったとして、回りに触れ回ってもそれに真面目に取り合う奴がいない。
 春野は残る六匹の電子精霊を呼び出し、周囲に従えながら男に近寄った。

「ったく。ねき゛テメー、ちゃんと索敵しとけっつったろ」
「降下の制御は大変なんですー」
「チャム、お前に至っては絶対わざ、とっ!?」

 吊り気味の目を目一杯見開き、固まる。クール&クレバーが信条の主の珍しい姿をチャムはキョトンと眺め、その視線の先にいる男の顔をまじまじと見た。

「? なにか?」
「宮内……」

 頭を抑え、考え、ガーと吠え、春野はチャムの後頭部を目掛け手を伸ばし、電子精霊の一つを握り締めてぶん投げた。

「クラスメートだこのバカ! おいコラテメー! このポンコツロボが! 茶目っ気で致命的なことしやがってー!」
「ですー!」
「いえ、申し上げたのですがお気づきになられなかった……申し訳ありません巻かないでください巻かないでください」
「ですー!」
「だー! テメー飛んで逃げんなー!」
「ですー!」
「マスター、落ち着いてください。電子精霊を投げないでください」
「ですー!」

 ぶん投げられる電子精霊を一々受け止めるチャムにふかー! と唸り上げ、次に倒れる男を睨み付けると、深々と溜め息をつくとその場に蹲る。
 夢だった、と思うのも見たこともない相手だからこそだ。クラスに行って、空から降ってきた女がいれば何はともかく聞いてみるだろう。それで、まんまと春野は下手な嘘をつかされることになる。

「めんどくせーな、オイ……」

 嘘は嫌いではない。嘘付きっぱなしの人生で、隠し事の方が大抵多い。だがその嘘は隠し事であり、1が0であるとする嘘で1が1でないとする嘘はそれほど経験がない。
 無理、とは思わない。くぐった修羅場の数や質では春野は高校生のレベルではない。些か自信過剰な評価だと自分でも思うが、ただの高校生を相手に駆け引きで尻尾を捕まれるわけがない。
 ただ、尻尾がどこかで人の目に触れているだけで春野にとってはストレスだった。

「どうしますか? なんでしたらハカセに連絡を取って」
「いや、それには及ばない。めんどくせーが、あー、まあ、誤魔化しゃなんとかなるだろ」

 もし、何かを掴まれたら、それはどんな些細なことでも致命的だが。
 春野は立ち上がり、望遠鏡を何とはなしに覗いた。まだ焦点は合っていないらしく、ぼやけた小さな星が遠くに映っているだけだ。常にそこにあるものに執着しなくなったのはいつからだったか。それは春野の自覚している間違いで、彼女は間違っていたが、それを正そうという気はない。



 世界が間違ったのはいつからだったか――。



千雨の方法
前章 望遠鏡と同窓会 前



 宮内努は、本人の認識はどうなのかはともかく、極普通の男だった。
 中肉中背。成績は進学校で上位をキープ。趣味は天体観測で、星の蘊蓄には一家言あるつもり。進路は地元の国立大学を目指している。家族は両親と弟。彼女はおらず、しかし女友達も友人も多い。彼女ができないのは単にいい人扱いされているからだ。極普通であるということに本人もある程度の諦念と共に認識しており、ある種の非日常性に憧れも持っている。
 のだが、何か妙なものに巻き込まれた気がする。宮内は教科書を見る振りをしながらさりげなくクラスメートの後ろ姿を眺めていた。
 最後列に近い宮内からは四つ前。教壇からすぐ真ん前にその姿はある。
 春野サナ。漢字で書くと茶菜。成績優秀、素行不良の問題児。洒落っ気のない眼鏡に野暮ったい大きな三つ編み。しかし隠しきれない美貌は大人っぽく、滅多に見つかるものではない。スタイルも抜群。地味ながら校内一の美人と数えられている。
 しかし、ニヒルな笑みを浮かべ、他人と線を引き、悪い意味でクラスからは浮いている。友人らしい友人どころか会話らしい会話すら稀有な存在。
 またその出自も謎が多い。二年の秋に転校してきたこと、転校初期は成績が低迷していたこと。友人どころか家族すらいることが確認されていない。授業中にパソコンを弄くり、エスケープ、サボりは日常茶飯事。なのに街にも遊び仲間がいるとは聞かない。教師から目をつけられているのに咎められることもない。羅列する謎の数は気味の悪いと思えるほどだ。
 宮内は、そんな彼女の夢を見た。

 天体観測は宮内にとって趣味であり、ライフワークでもある。幼少の折、父にせがんで買ってもらった天体望遠鏡を担いで夜の街を歩く瞬間が何よりも至福のときであり、特に人の光のない場所は人類が残した最後の楽園だとすら思っている。
 昨日、いや今朝は、珍しく街中で観測を済ませることにした。
 高校三年の春。既に宮内は受験勉強を開始している。昨夜も、深夜まで勉強をして、息抜きに観測に出かけたのだった。といってもそれは常のことではなく、聊か深夜のハイテンションが影響していたことは否めない。それでも残った理性で眠気を振り切り、前々から目をつけていた近所の高層マンションに足を運んで、屋上に望遠鏡を置き、どうもそのまま力尽きてしまったらしい。
 目が覚めたとき、既に空は白んでおり、星どころか太陽が見えていた。宮内にとって観測中に意識が途切れることはそれほど稀な話ではない。ぼけっと空を見上げているうちにいつの間にか日が昇っていた、なんてのはよくあることで、そのこと自体嫌いではないし、酷いときになると雪山で寝入っていたこともある。
 だが、今朝は一味違った。朧げな記憶の欠片が脳髄にこびり付いている。

 宮内はじーっと春野の背を眺めた。そこそこある身長の割りに華奢で、でも柔らかそうな背中。素晴らしい容貌とスタイルを持つ彼女とお近づきになりたいと願う男は数知れず、そういった男たちほどではないが宮内も理知的な彼女とじっくり腰を据えて話し合える関係になってみたいと考えたことはある。
 だからか、あんな夢を見たのは。
 宮内は不意に恥ずかしくなって、教科書に顔を埋めて身悶えた。
 少女が空から降ってくるなんてのはラピュタから続く古典的シチュエーションだ。それを、宮内はクラスメートの美少女で夢を見たのだ。屋上に緑色の光を伴って降りてくる女の子。寝入った瞬間のことは覚えていなくても、その一枚だけは写真のように脳裏に張り付いていた。
 丁度その時、チャイムが鳴って宮内はクラス委員の号令に従ってのろのろと立ち上がった。すらりと伸びた春野の背中。うあーと声に出さずに呻いて、宮内は礼のまま顔を上げず机に突っ伏した。

「宮内、お前、何春野のこと視姦してんの?」
「ぶっ! でっ!」

 飛び上がり、その勢いが強すぎて机に下腹部をぶつけて蹲る。苦悶に顔を歪めながら恨みがましげに隣の席の森嶋を睨み付けたが、隣席の小柄な鉄仮面少年は自分は何も悪いことを言っていないとでも言いたげで。

「分が悪い勝負だと思うな。宮内じゃ吊り合わない、というか没個性が相手するような女じゃない。奇跡的に上手くいっても、吊り合ってなきゃ長くは続かないと」
「そんな話はしてない!」

 というか余計なお世話だ。自分の没個性ぶりに聊かのコンプレックスを抱いている宮内が憮然とそう返すと、森嶋は鉄仮面をずらすこともなく僅かに頷き。

「気にすることはない。人類60億と少し。オンリーワンを語るには世界は少し広すぎる」

 泰然とした森嶋の口癖がそれだった。人類60億と少し。宮内は大げさだし、大げさすぎて少し恥ずかしいとも思うのだが、森嶋に気を使う形で本人にそれを忠告したことはない。

「いや、人のこと没個性と呼んでおいてお前な……」
「個性と世界の関係性について語ってやることもできるが、興味ないだろ?」
「そりゃ、聞きたいとは思わないけど」
「大体想像すれば一瞬で導けるようなことを長々とした文に入れ替えただけだが」
「お前の台詞は一文が長いからなあ……」

 誰にでも解っていることを長文にして、一々口に出す悪癖が森嶋にはある。
 森嶋は目の前の宮内ですらどちらを向いているか解らないような身振りで、どうも春野の方を向いたようだった。

「宮内は、春野には興味がないと思ってたけどな?」
「別に……」

 興味がないというわけではなかった。ただ、それを周囲に悟られないようにしていただけだ。

「ちょっと気になっただけだよ」
「へえ。どんなとこが?」
「どんなとこって」

 昨夜見た、空から降りてくる彼女の姿を思い出し、顔を赤くする。それはどちらかと言うと羞恥のためだった。
 目敏いところのある森嶋は宮内の顔色の変化を察し、目を瞬かせた。

「なにか縁でもあったのか? あの春野とお前が?」
「いや、縁ていうか」

 夢で見た程度のことを縁と言ってしまえるなら、世の中には運命の赤い糸がそこら中に転がっていることになるだろう。それを信じ込んだらストーカーと一緒だ。

「ただ夢で見ただけっていうか……」

 しまった、と思うより早く胡乱な眼差しの森嶋が宮内を見下ろしていた。

「いや、待て。違う。ちょっと待て、なんか勘違いしてるぞ」
「お前、痛い奴だな」
「違うって! マジで!」
「何が違うんだ。素直になれ。まだそっちの方が男らしいぞ。いや、クラスメートを夢の中で陵辱しているという時点で人間的にアウトだが」
「してねーよ! するかよ! ただっ……その。やけにリアルな夢だったから、つい」
「リアルか。どんなリアルな感触だったんだ?」
「違うって! 触ってねーし! いや、触ろうとも思わなかったよ! 触ったのは」

 徐々に夢の記憶が戻ってくる。触れたのは、春野じゃない。

「もう一人の女の子に触られた気がするだけ……」

 ぞっとするような冷たい金属の感触。小さな中学生程度の少女。感情のない整った顔立ち。

「そういや、あの子誰だ?」
「なんだ? 春野じゃないのか?」
「いや、春野さんと一緒にいた子なんだけど……」

 夢は自らの記憶から構成される。それには現実も虚構も関係はなく、ただシステマティックに記憶の引き出しから情報を集め、組み合わせ、夢として形作る。その程度の常識は宮内も知っていた。
 となると、宮内に急接近してきたあの少女も記憶のどこからか引っ張りだしてくる必要があり、いや、もちろんその像は複数の記憶を組み合わせたものであり、実在しない人物が夢に出てくることなどザラで。

「なあ、森嶋。まったく見覚えのない人間が夢の中に出てくることってあるのか?」
「……? 意味解らないが、それはモデルもない人物、ということかな? 意外と些細なものをモデルにしていることはあるぞ。芸能人とか、すれ違っただけの相手とか、或いは自分の妄想の登場人物とか。もちろん夢を見てる本人が思い出せないような些細な相手だと、見覚えのない相手だと認識せざるを得ないことはある」
「そうじゃなくて、例えば」

 金属の腕を持つ少女が出てきたりは――。

「するのか?」

 森嶋の目が細められる。森嶋はそっと宮内の耳元に口を寄せると、

「……ちょっと詳しいことが聞きたい。昼に踊り場で」



◆◆◆



「やっぱ、見てるよな。いらん奴に話しやがって……面倒な」
「ご主人、どうしますかー?」
「消すか、こっちが消えるか。畜生……ここに居つくためにどんだけ努力したと思ってんだよ」



◆◆◆



 昼休み。
 弁当を急いでかきこむと、宮内は教室の中に森嶋がいないことを確認してから踊り場に向かった。
 踊り場とは宮内らが通うこの高校の屋上に出る直前、最も人通りのない踊り場の通称だった。所謂不良はこの学校には数少なく、埃だらけでカップルの逢引場所にも適さない。そのため男子達の密談場所として利用されることが多かった。
 森嶋は既に踊り場に積み重ねられている壊れた机の一つに腰掛けていた。

「どんな夢だったか、詳しく聞かせてくれよ」
「いや、夢だからな?」

 大真面目にそう聞かれると、どうも恥ずかしい。自らの恥部を曝け出すようなものだ。宮内は相当戸惑って視線を迷わせたが、森嶋の抗いようのないほど真剣な視線に溜息をつくと、

「昨日、勉強して、二時半くらいに観測しようと思って家を出たんだけど」

 昨夜の顛末を話す間、森嶋の鉄仮面はぴくりともしなかった。それどころか恐いぐらい動きがないので、何度か聞いているか確認したくらいだ。その度に森嶋は僅かな首肯でのみ答え、視線で話の続きを促した。
 ほんの短い話が終わると、森嶋は顎に手を当て、深く頷いた。

「それは、本当に夢か?」
「は?」

 徹頭徹尾のリアリストの口から出てくるはずのない言葉を聞いた気がして、宮内はつい聞き返していた。森嶋は宮内の困惑顔を真っ直ぐ見て、軽く頷いた。

「――いやいやいや、何言ってんだよ。夢だよ夢」
「よく考えても見ろよ宮内。それが夢だという証拠がない」
「春野さんが空飛んでたことが一番の証拠だし、眠かったし」
「寝入った瞬間の記憶はあるらしいな?」
「それは、あれだろ。ちっさい女の子が近寄ってきて、首を掴まれたときに」
「それは夢の話じゃなかったか」
「え……?」

 そういえば、そうだ。あの無表情少女が近づいてきた時に意識は閉じて、次に目が覚めたら朝だった。それは、道理の通らない話しだ。宮内は無表情少女が近づいてくる前に寝ていたはずなのだから。

「いや待てよ森嶋。夢の中でまた眠ることくらいあってもいいじゃん。逆に夢の中で起きる事だってよくあるだろ?」
「まあな。けどおかしな話はもっとある。例えば、いくら鈍感なお前でも無意識のうちに外で寝入るなんてあるか?」
「あるよ。観測趣味な奴なら大抵あると思うぞ。俺なんて夢の中で季節の星じゃなかったから夢だって気づいたことがある」
「しょっちゅう?」
「それは、ないけど」

 流石に深夜に外出するたびに寝てたら風邪っぴきになっているだろう。精々、年に一度くらいだと宮内は答えた。

「それにお前に触れたという少女。それも可笑しな話だ。見覚えはないんだろ?」
「ああ……ていうか、世の中にあんな綺麗な顔した女の子がいるとは思わなかった」
「そうだ。しかも、金属の掌。お前がロボ嗜好だったら別に問題はないが、そんなことはないだろう」
「いや、いるのかよ、そんな奴」
「実は結構いる……のはどうでもいいとして、どう考えてもお前の想像の範疇を超えている。テレビの中ですら見たことのないような美人なんてぱっと想像できるならお前は画家か小説家にでもなるべきだ」
「でもさ、俺が忘れているだけでっていうこともあるだろ?」

 小説なんかじゃ、本人は自覚していないけど記憶喪失で、その失った記憶の部分にその美人の記憶がある……なんて宮内はチラッと考えて、苦笑した。そういうのはもう何年も前に卒業している。
 途端に大真面目な森嶋が可笑しく感じられた。いつも冷静で、高校生らしからぬ見識の広さを持っていた森嶋だが、意外と子供っぽいところもあるらしい。

「まあ、とにかく夢は夢だよ。春野さんは空から落ちてなんて来ないし、ロボ美少女もいない。常識的に考えてみろよ」
「そうだが……しかしここまで偶然が続くと作為的じゃないか」
「じゃあ、こうしようぜ。俺が森嶋なら真面目に取り合ってくれると思って考えた冗談なんだ」
「待て。そうじゃないだろう。ちょっと真面目に取り合うも何もそれが事実だというなら」

 大雑把に首を振って、宮内は笑って見せた。森嶋への認識が変わったが、それでもありえないことはありえないこと。
 この世の中には空を飛ぶ少女も。
 魔法使いも、エスパーもいないのだ。
 それを割り切ることができる程度には、宮内は子供ではなかった。

「そうか……そうだな、お前がそう言うなら」

 森嶋は鉄仮面に未練を残しながら、小さく頷いた。



 翌日。

「いいか、聞いてみるんだぞ。ただし、慎重にだ。こっちが疑っていることは悟られるな。下心満載の大人ぶった男が自分の体目当てに近づいているくらいに思わせるんだ」
「俺のイメージ最低だなあ! それ!」

 てゆーか昨日諦めたんじゃなかったのかよ!
 とは言えずに、宮内はそっと前の方に着席する春野サナの背中を見た。休み時間、彼女は大抵iPODを操作しているか、本を読んでるか、パソコンを弄っているかだ。以前宮内はそれぞれの画面をさりげなく覗いたことがあったが、パソコンは黒字に白い文字をひたすら打っているだけだったし(そもそもWindowsやMacですらなかった)、本は日本語ではなく、iPODに映る曲名はミケーネ・アルファとかで、小窓にはなんだか訳の解らないグラフが流れていた。頗るつきに謎の女である。
 昨日諦めたはずの森嶋がまた気勢を上げている要因は、黒板の右下にあった。
 日直:宮内・春野
 このクラスの日直の決め方に法則性はない。前日のHRに突如担任が発表するのだ。年度始にはその法則性を見定めようと何人かが躍起になったが、どうもどんなに計算しても法則は出てこないらしく、担任教師の数学教師らしからぬ気紛れだと断定された。

「つーか聞けないから! なんて聞くんだよ! 一昨日、君空飛んでなかった? とかすっげー危ない奴じゃん!」
「いややっぱりお前の話には矛盾点がある。一つ二つならともかく三つもだ。俺はそれが夢ではなかったから、で解決できると思っている」
「夢にまで理屈持ち込んでどうすんだよ! てゆーか話聞けよ! なんて聞けっつーんだよ!」
「そうだな、ここは婉曲的に「空飛ぶことに興味ありませんか?」というのはどうだ」
「いや危ない奴だから! ……ああ! バカもう春野さん移動してるじゃないか!」

 次の時間は移動教室で、日直は準備室に早めに行って準備を手伝うことになっている。春野は机で教科書を整えると、宮内を一瞥することもなくさっさと教室を出て行った。宮内も慌てて机の中を漁り、よれよれの教科書を引っ張り出して立ち上がる。

「お前のイメージを犠牲にしてでも聞き出せよ」

 まったく友達甲斐のない鉄仮面森嶋の声に送られ、宮内は教室を飛び出した。その勢いにぎょっとしたのか、春野は立ち止まって宮内の顔を見た。

「ま、待って春野さん! 俺も行くよ」

 きつい目つきの美少女は、息を切らした宮内の顔に目を細めると、「わー、ありがとう」でも「うん、そうだね、一緒に行こう」でもなく。

「当たり前だろ」
 と、冷たく言い放った。

 気まずい。話題の一つも見当たらないまま、宮内は春野に肩を並べたまま俯いていた。
 謎だらけの春野サナの特徴の一つに、そのきつい印象がある。洒落っ気のない丸メガネの奥に隠された目は切れ長で、魅力的だが有り体に言って目つきが悪い。また言葉遣いもどこか皮肉げで冷たく、そもそも事務的なこと以外で人と話しているところを見たことがない。
 ――すまん森嶋。無理だ……。
 一手目から間違ったのだろうか。俺"も"なんて、そりゃそうだよ。言われるよ。行くのが当然なのに、押し付けがましい……。しかしあの冷たい返しはちょっと酷いのでは……。
 そっと宮内は隣の春野の顔を伺い、ドキッとした。目があったのだ。宮内が一瞬硬直すると、春野から極自然に目を逸らした。
 もしかして言いすぎたとか考えてる? と思い、途端に宮内の心が軽くなった。なんとなく、一瞬だけ心が通じ合った気がした。

「……」
「……」

 もしかしたら春野のほうから話しかけてくるかもしれない。心臓の拍子を早めながら、宮内はちらちらと春野を伺った。

「……」
「……」

 当然だが、春野はそれから一切宮内を気にした素振を見せず、それどころか傍らの空気など認識したことはありませんと言わんばかりの態度のまま、二人は準備室に到着した。



「すまん……」
「このヘタレめ」

 化学の時間。最後列の席で隣の森嶋にねちねちと責められながら、宮内は教科書を盾にして実験台に突っ伏した。
 土台、無理な話なのだ。思春期の男にとってちょっと気になる女の子に話しかける所業ほどの苦労は存在しない。ましてや宮内は天体観測が趣味とは言ったものの、翻せば星に逃避し対人関係を簡略化するインナースペース人間だ。天体観測はアウトドアだがそれは水泳選手をインドア人間と言うようなものである。

「いや、先制パンチを喰らわされて、ちょっとなあ」
「男なら女のパンチくらい笑って受け止めろ」
「お前の鉄仮面なら大丈夫だろうけど」

 生憎と宮内は打たれ弱いのだ。人との直接的な争いを避ける現代人の特徴とも言えるな、と社会に責任転嫁しながら、宮内は長い溜息をついた。

「おい? 頑張ってくれよ」
「……よし。俺も男だ。もういっちょ頑張ってみる」
「よく言った。次は授業終わりの片づけだな」
「おう」



「……」
「……」
「……」
「……働けよ」
「へ!? あ! ごめんっ」

 慌てて黒板消しを手に取るが、既に黒板に目立ったものは残っていなかった。当てつけるように春野は大きな溜息をついた。
 いかんいかん、もっとイメージが悪くなってしまったと反省。ずっと春野の横顔を眺めてぼけっとしていたのだ。
 それにしても、美人である。札幌には美人が多いとは言うが、その中でも飛びぬけているのは間違いない。長い睫毛に大きな目。顔には一点の染みもなく、抜けるような白い肌はありがちな表現だが雪のようだ。目つきが悪く、洒落っ気もない地味さだが、転校してきて以来、告白する男がひっきりなしというのは頷ける話だ。
 一貫して断っている裏には、年上の彼氏がいるとか、許婚がいるとか、ヤクザと付き合ってるとか益体もない噂があるが、真実は本人しか知らないだろう。宮内もその類の噂を聴いたことはあったが、どこかアイドルを神聖視するのと同じ感覚で無意識にそれらを否定していた。

「わりーんだけど、そっちの」
「あ、うん」
 解ってるか? 皮肉だぞ? と言わんばかりに鈍く光る春野の目に慌てて教壇の隅に乱雑に置かれた提出プリントの束を纏める。
 その中に、春野本人のプリントを見つけた。特徴のない文字は、書きなれていないように雑だ。雑で尚特徴がないというのは、つまり本当に特徴がないということなのだろう。問いにはちゃんと答えているが、授業の感想を聞く欄は空欄になっていた。

「おい、まだかよ」

 いらいらした口調で急かされ、宮内は大慌てで端を教壇で叩き、春野に手渡そうと手を伸ばした。丁度手を伸ばした春野の指先と指先が掠るように触れ合い、咄嗟に宮内は手を離してしまった。
 ばらばらと湿った化学室のリノリウムの床にプリントが散乱する。宮内は、青くなった。

「ご、ごめんっ! 悪い、すぐ集めるからっ!」

 やばい俺凄いテンパってないかー!? 春野の顔を窺うことも出来ず、すぐさま地面に這い蹲る。ああ、絶対呆れられた!
 春野の溜息。宮内はびくっとした。春野は片膝をつき、プリントを拾い出したのだ。黒タイツに包まれた細い脚線が思ったより目の前にあり、宮内は唾を飲み込んだ。

「あのなあ」
「えっ!?」
 脚を見てたことを咎められるのか、と顔を上げる。春野は宮内をじっと睨んでいた。
 あー、そりゃそうだ! 俺すげえダメな奴!
 内心で世界が終わったような気分になり、何か全てに観念したように宮内はその場に正座した。
 その宮内の挙動を見てから、もう一度溜息。

「別に正座しろなんて言ってねーだろ」

 宮内は春野の顔を見上げ、つい感動してしまった。クラスメートになって丸一年以上がたっているが、そこまでちゃんとした文節を春野が話しているところを見るのが初めてだった。
 それどころかずいと春野は宮内に顔を近づけ、唸るように低い声で怒鳴りつけた。

「何ビビってんのか知んねーけどやる事はやれ!」
「はいっ!」

 ふん、と鼻を鳴らし、春野は宮内が掴んでいた数枚のプリントをぞんざいに奪い取り、立ち上がった。そのまま自分の教科書類と一緒にし、教場をさっさと出て行く。
 いや待て。宮内は慌てて立ち上がり。

「待って春野さん!」

 呼び止めた。だが、さーっと宮内の顔から血の気が引いていき、ついには真っ白な春野の肌よりも白くなった。
 春野は一瞬宮内を見てから、溜息を吐いて、立ち止まった。宮内にとっては立ち止まることが驚天動地だった。いっそ無視してくれていたらよかったのに!
 宮内がどうしようもなくなり、硬直する。呼び止めたはいいが、何を話していいのかわからなくなったのだ。冷静になればまず謝罪しただろうが、この瞬間の宮内にとっては何より春野の関心を惹きたいという心があった。自分は、いつもはここまではダメな奴ではないといいたかったのだ。

「なんだよ」

 何も言い出さない宮内に心底苛ついた表情で春野が言葉を急かすと、宮内は尚混乱の度合いを深め、春野の美人振りとか、噂の数々とか、さっきの脚線とか、怒鳴り声とか、あの夢のこととかを次々に思い出して。

「空飛ぶことに興味ありませんか?」

 空気が凍った。
 凍ったことが宮内にも解り、そこでようやく宮内は自分の取った選択が大間違いなことに気づく。そうじゃない、ここは「ラピュタ見たことありますか?」だったか。
 たっぷりと春野に睨みつけられ、冷や汗が地面に溜まったに違いないと宮内が自覚した瞬間、春野は宮内が何度吐かせたか覚えていないほどの溜息をもう一度零し、

「悪いけど、覚醒剤にも宗教にも空自にも興味ないんだ。他あたってくれ」
 そう言い捨てて、教場を出て行った。

「……」
 宮内はその場に崩れ落ちた。
「俺ってダメな奴だ」



「お前はダメな奴だ」
「人に言われると堪えるなあ!?」

 そのまま評価を改善する機会もなく、前日と同じように昼休みに踊り場で宮内は森嶋と待ち合わせていた。

「おめでとう。これでお前と春野が付き合える確率が3%からマイナスに到達した」
「3%かよ!? つーか確率にマイナスはないだろ!」
「一回死んで、また次の世で再会して、今度こそ付き合える可能性が……やっぱそっちもゼロかな」
「うるせーよ! ちょっとはあるよ! 今から挽回する可能性だってゼロじゃねーよ!」
「そうか? 仕方ない。次の接触を……」
「そもそも趣旨が変わってるよ! 別に俺が春野さんにコクる段取り考えてるわけじゃねーよ! つーか別に好きじゃねーよ!」
「ホントは?」
「ホントはちょっと好きだよ! 嘘ついたゴメンね!」

 いや俺はなんで踊り場で愛を叫んでいるんだと宮内は冷静さを取り戻しつつ、やっぱり脳内には脚線が浮かんでいるのだから思春期である。
 呆れたように顔を揺らし、森嶋は指を一本ピンと立てた。

「次のチャンスは7限だ。体育、教室の鍵を閉めるのは日直の仕事だろう。といってもウチの教室は女子の更衣室だ。俺らが着替える教室の鍵はそっちの日直がする。そこで、お前は春野が鍵を閉めるのを待って、一緒に移動しろ。一人に仕事をさせるのは悪いから、とか適当に言っておけば怪しまれることもない。
 時間的にラストチャンスだ。仕損じるなよ」
「……まだやんのかよ。既に俺の心はぼろぼろなんだけど」
「構わん」
「お前はな?! 俺は構うけどな!?」
「それに春野と喋る生涯ラストチャンスだぞ」
「クラスメートなのにか!? まだ今年半年以上残ってるぞ!?」
「こういう機会でもない限り俺は背中を押してやらないからな」
「ヘタレでごめんね!? 確かにそうだわ!」

 森嶋の鉄仮面ですら呆れているようなので反省する。反省したところで何かのきっかけがなければ生涯話しかけられないのは変わらない。けどそんな幸運を待ち続けてもいいじゃないか。ヒーローも魔法使いも諦めたが、美人と運命的な恋愛があるとは信じている年頃である。

「……つっても、なんて話しかければいいか」
「もう何でもいいだろ。限界までスベったんだ。あとは何言ってもスベる」
「スベるの解っていて挑めと!?」
「しかしそうだな。お前はダメな奴だからな。取っ掛かりくらい用意しといてやらないと直前で逃げ出す可能性が」
「なんでお前にそこまで言われなきゃならんのだ」
「では、こう言え」



 勝負の時である。宮内は自らの頬を叩いて渇を入れた。
 まず、あんな無様な真似はもうしない。
 それに印象も改善する。
 森嶋の頼みの「夢か現実か」は最後でいい。正直、もうあまり興味はない。
 白い体操服にショートパンツ姿の春野が教室から出てくる。生足であるが、それを見るためにここにいるわけではないと、目を逸らす。春野が鍵をかける。春野がそのまま歩いていく。宮内の存在など、気づいてもいないと言いたげで、多分実際気づいていないのだろうと宮内は自覚し、少々どころでない寂寥が胸に去来するが、その後を追った。

「春野さん!」
「……」

 足も止めず春野は振り返り、感情の篭っていない目で宮内を見た。
「えと」
 余りにも感情が篭ってないその眼差しに物怖じしながら、
「一人に仕事させるのは申し訳ないから……」
「あそ」
 興味なさそうに答えて、やはり宮内を認識していないかのように歩いていく。せめて邪険にして欲しいところだが、春野にとって宮内とはその程度なのだろうと宮内自身がわかっていた。
 よし、と宮内は頬の痛みを思い出した。

「春野さん」
「なんだよ」
「俺に何か聞きたいことない?」

 弾かれたように春野が振り返って、宮内はむしろ仰け反らされた。
 「俺に聞きたいことないか?」それが森嶋の用意した話の振り方だった。曰く、話とは大抵疑問の応酬によって構成されるので、無理やりにでも疑問を引っ張り出せば話は続くらしい。正直眉唾、精々「ない」と一言言われ終わりと思っていたのだが、どうもこの反応は森嶋に一本取られたのか。
 ――いや。
「え」

 一瞬だけだったが、化学室で睨み付けられたのなんてただの冗談だったとしか思えないほどの強い眼光。どこか呆然と見開かれたようで、間違いなく宮内を捕らえた。
 その光の強さに、宮内は喜ぶのを通り越して恐れを抱いた。それは何と似ているのか。魚だ。激流の中にあっても、釣り針が刺さろうとも閉じることを知らない空虚な魚の目。
 今のやりとりのどこにスイッチがあったというのか。いや、まさか、これは。
 本能的に思いついたことに、ゾッとする。
 まさか、これがこの少女の素なのでは。

「……そうだな」再び、宮内から興味を失ったように視線が移って行く。「森嶋って奴、どんな奴だ?」

 入れ知恵したのが誰かがバレている。しかし視線が自分に向いていないことにホッとした宮内は顔を引きつらせながら、
「えっと。あの通りの鉄仮面男だけど」
「……まあ、確かに鉄仮面だな」
 おお、宮内は感動した。会話が続いた。ありがとう森嶋。キャッチボールを待たずに歩き出した春野に追いすがる。肩を並べると、春野は嫌そうに首を竦めた。
「えっと、筋金入りのリアリストって言う感じの奴。いや、リアリストっていうか、ロジカリスト? 論理的に説明できないことは一切受け入れないみたいな」
「リアリスト、リアリストね。そりゃ、私とはまったく反対の奴だろーな」
「え? 春野さん、ロマンチストな感じ? へー、意外だね」
「ロマンチスト? はは」

 くだらないことを言うな、とでも言わんばかりの嘲笑。リアリストでもロマンチストでもないならなんなんだろう、と宮内は不思議に思った。「現実」も「理想」も見ていないなら、その人は何を見て生きているのだろうか。
 会話が途切れ、宮内は焦った。森嶋の入れ知恵が上手く作用したのが極短い間だった。しかしそれだけで大分自分の評価はマシになったのではないかと、満足もあった。

「……」
「……」

 無言で靴を履き替えた春野を小走りで追いかけながら、この時間、あの時渇を入れた目的を思い返す。無様な真似はしない。印象を改善する。森嶋の依頼をこなす。森嶋の依頼をこなす?
 顔を歪めた宮内を不思議そうに春野が覗き込んだ。その行動一つだけで、春野の対宮内感情がかなりの改善を見せたことはわかる。今更それを失うようなことを? でも改善できたのは森嶋のおかげで、そこには義理があった。恩もあった。後頭部をぽりぽりと掻き、宮内を覗き込んだのも一瞬で早々に歩き出した春野の後を追う。
 今日の授業は男女混合で、マラソン。校舎の正門から校庭に向かうには校舎と食堂の間の通路を通る必要がある。頭上には渡り廊下を構えた奇妙な閉塞感のある空間。そこで、宮内は春野の背に声をかけた。

「あのさ」
「あ?」

 気だるそうに春野が振り返り、宮内の目を見る。先程の眼光は、今はない。そのことにホッとするが、また地雷を踏むのではないかと考え、僅かに腰が引けてしまう。

「えーと」
「さっさと言えよ。さっきからタメが長すぎんだよ」
「その……あー、昨日、夢を見たんだ」
「あ?」
「いや、夢は夢なんだけど。その、春野さんの夢を見たんだ」
「キメーな。それで?」
 ぐさっ。
「……いや、その話を森嶋にしたら、アイツ、それは夢じゃないんじゃないかって言い出して。そんなわけないっていうか、俺マジ何言ってんのって感じなんだけど。何が言いたいかっていうと、その、一昨日の夜、春野さんと俺会わなかった?」
「……」

 そっと窺うと、どうも地雷というわけではなかったらしい。
 しかし目は冷たい。思わず挫けそうなくらいに冷たくて、宮内は盛大に後悔した。どうも取り戻した評価は丸ごと流されていきそうな勢いだったからだ。

「……悪いことはいわねーから病院行け。あと間違っても夢診断とかすんなよ。テメーに私が出てる夢をフロイト診断されるだけで怖気が走る」
「そこまで言うかなあ?! いや俺もキモいと思うけどさあ!?」
「とにかく、戯言はほどほどにしとけよ。一昨日は……何時にアンタが夢を見たか知らねーけど普通に寝てたっつの」
「……ああ、うん。そうだよね」

 なんというか、春野の目が懸念が一つ消えたという爽快感すら消えうせるような冷たい目で、宮内はがっくりと項垂れた。また間違えた。なんとこの雰囲気、数時間前にもう二度と味わいたくないと思った空気とまったく同じだ。宮内は18年生きて、やっと自分には女性と接するセンスがないことを察した。
 本人に意図はないのだろうが、宮内から見ればまるで早く自分から離れたがっているかのようにさっさと春野は裾を翻し、

「……ハァ」

 宮内は深い溜息をついた。
 やっぱり、評価は最低値を記録することになった。森嶋への恩とか忘れておけばよかった。よく考えればまともに会話が続く以外に春野が宮内への評価を上げるような事柄はないのだ。最低から最低へ評価が移っただけのことか。
 いや、冷静になれ。別に、以前からちょっと気にしていた女の子が夢に出たからその子を昔から好きだったと勘違いしていただけだ。だから失恋じゃない失恋じゃない。へこんでるけど泣くほどじゃないからきっとそうだ。
 いいから、走ってストレスとか忘れようと、宮内が顔を上げたその時。



◆◆◆



 春野がそれに気づいたタイミングは、宮内より早い。三年に及ぶ経験が僅かな空気のぶれから「気配」とも言うべきものを感じ取っていた。
 本人は気配などという非科学的なものを信じてはいない。だからといって「空気の流れが変わって云々」などというトンデモ理論を信じているわけでもない。
 だから、春野は「気配」というものを、論理的筋道を辿って得られた結論であるとし、その論理が理解できないのを速度が余りにも速いために把握しきれないために「勘」としか言い表せないのだと表現している。数学の問題を解き続けると、問題を見た瞬間に答えが解るが、その筋道を克明に言い表せないことがある。「気配」そして「勘」とはそういう類のものだと考えていた。高校生の俄か分析だ。笑うなら笑うがいい。
 春野はだからか、自分の勘を疑わない。一々順序だてて考えることができない瞬間を逃さないためだけに、自分の勘を疑わない癖をつけた。そして、いくつかの論理的思考回路を失いながらもそれによって春野の命は救われている。
 この時も、そういう瞬間の一つだった。そして、その勘を信じたからには出来る限りの論理的手段を以って状況を打開することが自分に課せられた力を持つものとしての義務と思っていた。

「風(ウェン――)」

 その左手の薬指に嵌るギメル・リングが鈍く輝く。



◆◆◆



「え?」

 パリン、とやたらに軽い音を立てて、真上の渡り廊下から無数のガラスが降ってくるのを宮内は見た。見たが、どうできるわけでもなかった。

「う、わぁあっ!?」

 飛びのくことも出来ず、腕で顔を守る。ただ、その瞬間宮内は余裕のない形相で自らの方へ駆けてくる春野の姿を捉えていた。春野は宮内が知らないほどの速度で駆け、腕を空に翳し、来るなという宮内の視線を捕まえながらも無視して。

「――よ(テ)!」

 腕を振るった。
 その瞬間、風が吹き抜けた。いや、吹き抜けたというのは間違いだ。まるで春野と宮内を守るように鋭い風が二人を取り巻いたのだ。鋭い――本当に鋭い風。風の持つ柔らかさや優しさなど飛廉の元に置き去りにしたかのような突き刺すような風が、落下するガラスのほとんどを吹き飛ばした。

「え……」

 何が起きた? 風から免れた小さなガラス粒がいくつか腕に当たるのを感じながら、宮内は自問した。いま、なにが、起きた?
 ガラスが落ちてくることから、その災害から自分がなんとか逃れたことに至るまで、全てに現実感がなく、宮内は呆然と腕を振り切ったままの春野を見た。春野は、歯を食いしばり、上を真っ直ぐに見上げていた。吊られて上を見上げる。角度的に渡り廊下に誰かがいるかは窺えない。

「大丈夫か、宮内」

 一音一音を噛み締めるように、春野が言った。その目は忙しなく宮内の体に何かが起きていないか確かめるように動き、その特徴とも言える落ち着きは完璧に失われている。

「あ……うん……」

 大丈夫かと問われれば、間違いなく大丈夫だ。何一つ怪我はしていない。だが。

「いま、何が……」
「……どうも、悪戯か恨まれてるかは解らないが、ガラスが割られたらしいな。アブねー」
「いや、待ってくれ……そうじゃない……」

 宮内は春野を見つめたまま、必死に頭の中を整理した。それじゃない。俺が聞くべきはそれじゃない。
 春野はばつの悪そうに宮内から目を逸らした。まるで切り取ったようにそこだけ同年代の反応で、笑う気分じゃないのに内心で宮内は春野を笑った。

「なあ、今、春野さん、なにをした?」
「……」
「答えてくれ。何をしたんだ?」

 間違いなく。今、春野は宮内には把握できないことをした。
 宮内は足元を見下ろす。散らばるガラス片。走馬灯のように目に焼きついた降り注ぐガラスの大きな欠片が、全て粉々に割れている。
 それをしたのは。
 春野だ。

「……」
「答えろよ!」

 逸らされていた目が再び宮内の瞳を捉え、今度は宮内が目を逸らす。まただ。魚の目。宮内を人とも思っていない目。それは捉えられるだけで不安に駆られる。自分が世界にとってどれほど価値の比重が軽いかを知らされるようで。
 春野の口が開くが、それを宮内自身が望んでいたかは解らなかった。

「忘れろ」
「……そんなのできるわけないだろ」
「これはアンタのためにだ。出来なくとも忘れることが、今アンタがアンタのために出来るただ一つのことだ」
「どういうことなのか解らない」
「いや……別に私がアンタの心配をする筋合いもなかったな」

 どこか諦めたように春野は言い捨てて、校舎に戻り始めた。

「どこ行く気だよ!」
「気分が削がれた。サボる。残りの日直の仕事、任す。つっても帰りの号令くらいか?」

 ポケットにいれていた教室の鍵を取り出し、春野は宮内に投げた。宮内は慌ててそれを受け止め、
 チャリン。

「待てよ!」
「じゃあな」

 去っていく春野を強く止めることも出来ず、その後姿を見送った。



◆◆◆



「くそっ」

 春野は苛立ち晴らしにエレベーターの壁を蹴っ飛ばした。「契約者執行」はもちろん「戦いの歌」すらない素の蹴りはダイレクトに爪先に痛みを伝え、春野はエレベーターの中に蹲った。苛立ちは紛れるどころか強くなる一方だ。

「落ち着いてー、ご主人ー」
「うるせえ! こんな恥掻いたのは産まれて初めてだ!」

 気遣うねき゛を無下にあしらい、春野は歯軋りする。
 一昨日、夜間遊覧を宮内に目撃されてからというもの、常にケチがついている。しかもその全てがあの宮内によって引き出されたものだ。化学室ではっきりしない宮内に昔の仲間を思い出し、その違いに腹が立って怒鳴りつけてしまったことから始まり、想定していなかった「俺のことで何か聞きたいことない?」という質問に思惑通り動揺してしまったこと。極めつけはガラスの落下。
 完璧に後手に回っている。
 そして何より業腹なのは。

「思わず魔法使っちまったことだよクソっ!」
「あの状況じゃしかたなかったですー」
「いや違うね! はっきりと手はあった! 宮内のクソを見捨てりゃよかったんだよ!」

 ねき゛は現状の能力で対応できなかったことに対して甘い。今もっている能力で対応できないのならそれは仕方ないことだと考える。
 だが春野は違う。能力が足らないことに理由を求め、そこにも原因を追究する。それは当然のことではあったが、しかしそれを実践することには多大なストレスが付き纏う。ありとあらゆる失敗どころか成功をも背負い込む必要があるからだ。

「覚悟が足らなかった! 覚悟だけじゃねー! 魔法なしでアイツを突き飛ばせればよかったんだよ! 無詠唱で戦いの歌を使えればよかった! クソじゃねーか! 私は今まで何してたんだよ!」
「ご主人ー。でもまだ挽回はできますー」
「当然だっつーの! じゃなきゃ私は終わりだ! そういう世界に生きてんだからこういうミスすら致命的だっつーこと解ってたろうが!?」

 ねき゛が、ではない。自分がだ。安易な「風よ(ウェンテ)」。自分に疑念を持つ相手と同道したこと。冷静に考えればあの状況はある種奇跡的なもので、誘導があったとしても春野自身の心がけで回避できたことを誰よりも春野が知っていた。
 そう、覚悟があれば。風を使わずに宮内をただ体で庇うことができたかもしれない。だがそれをする覚悟はなく、宮内を見捨てる覚悟もなく、選んだ手段はただの優柔不断な消去法。
 春野は下唇を噛んだ。
 そういう冷酷さを、パーティーの中で自分が担っていたはずだ。誰にでもできるはずの甘やかすことが出来なかった私が、だからこそ厳しさを担った。
 だが、それが上手く機能しなかったからこその結末だったのではないか――。
 いや、それを完璧に担いきれなかったからこそ。

「すげえむしゃくしゃすんなオイ! 私ってこんな感情的だったか!?」
「ご主人ー」
「ねき゛! 次の潜伏先のピックアップは済んでんだろうな!」
「済んでますー。移動はいつにしますかー?」
「明日だ」

 唇を噛み締め、止まったエレベーターから出て自分の部屋へと向かう。
 札幌は過ごしやすい町だった。ほどよく都会で、程よく田舎で。身を隠すには最適な街だった。関東とも関西とも距離が離れていたことも理由の一つで、関東の支部はあるがその規模はごく小さい。アイヌ系の組織は点在していたものの、一つの民族に保守された分野が主流に多くの点で劣っていることは自明の理だった。旧世界の常識で言えば、民族楽器の奏者とピアノやヴァイオリンの奏者の差だ。演奏する曲も、演奏者の技術にも客観的な大差がついている。それは単純にそれに従事する人の数の差とも言えた。
 札幌の空は、特に好きだったのだが。
 ふと苛立ちを忘れて、春野は歯を食いしばった。
 次は沖縄か、四国か。仙台や福岡では組織の力が強すぎる。ねき゛を初めとした電子精霊に命じてピックアップさせた都市の中から選ぶことになるが、札幌に移住した一年前のラインナップを思い返せば那覇に住めれば上等すぎるくらいだった。

「……チャム。帰ったぞ」

 自分の部屋に入ると、珍しく従者は春野を迎えなかった。奥から慌てて――といっても常に余裕のある動作なのだが、チャムが出てくる。エプロン付きのメイド服姿。メイド服なのは春野の趣味というわけではなかったが、メイド服のデザインは春野の趣味だ。春野はそういったコスチュームにも見た目ではなく、実用性――というか、実際に使えるかを重視する。

「はい。申し訳ありません」
「どうした?」
「これが」

 チャムは、エプロンのポケットから便箋を取り出して、春野に手渡した。紫がかった桃色。女性が使うには色気がありすぎ、男性が使うには少女的な色合い。封にはきちんと×がされている。

「私宛か?」
「はい。先ほど届きました。……表を」

 言われるままに春野は便箋を裏返し、目を見開いた。宮内に内心を探られた時の素の表情ではない。そこから一歩進んだ、素の驚き。
 それは、まさしく驚天動地といえただろう。常に冷静を心がけている春野は激昂すら冷静によって行使するが、この時ばかりは事実、冷静さを失い、手は震え目が泳いだ。

"四葉五月"
"長谷川千雨様江"

「……どういう、ことだよ」
「解りません。が、ハカセかと」
 ああそうだ。それなら有り得る話しだし、それ以外だったら困る。
 ノドに絡みつく唾の――唾なのか解らないほど粘性のある塊を無理やり飲み干し、鞄をチャムに預ける。

「マスター。心拍、血圧上昇。珍しいですが、落ち着いてください」
「……これが落ち着けるかよ」

 今更。
 3-Aが砂漠に作られた砂の城のように崩れてから。
 誰もが間違って。
 何もかもが変わったあの時から。
 もう三年が経っているんだぞ、四葉――。

 千雨は、封の×の字に伸びてもいない爪を差し込んで、一気に開けた。

「マスター。顔色が……せめてお座りになってください」
「……ああ。そう、だな」

 読みたいと思っているのか、思っていないのか。自分でも解っておらず、それでも決断を早めなければという義務を遵守しようとする心でのみふらふらと靴を脱ぐ。
 放っておくと際限なくネガティブになる主を慮ってか、常に明るく清潔なはずの室内はこの日に限ってカーテンは締め切られ、蛍光灯は沈黙している。そのことでチャムに感謝し、千雨はリビングの真ん中に陣取る長いソファーに浅く腰掛けた。千雨が闇を好むのは何も好みの問題ではない。自分が暗く狭い場所で精神を安定させることを知っていたからだ。

「チャム、来いよ」
「しかし」

 自分と距離を置こうとする従者を命令で無理やり呼び寄せる。気を使ったつもりはなく、傍にいてくれた方が安心するというだけの理由だったが、気を使ったという心の動きが皆無かは微妙なところだった。
 そこを、チャム自身は好意的に捉えたようだった。しずしずと千雨の背後に回り、肩越しに手元を覗き込む。

「私は、姉さんとは違いますが」
「でも茶々丸さんの妹だ。多分、双子と言っていいくらいの」

 チャムは――茶々無は、茶々丸のデータを全て受け継ぎ、そして人格コンポーネントや契約を初期化した、茶々丸のまさしく妹と言える存在だ。認識のしようによっては茶々丸自身とも言える。しかし、茶々丸にとっての重要な要素であった「主人」と「先生」を丸ごと失った彼女は、千雨にとってはあくまで「妹」でしかない。
 茶々丸はもういない。それを継ぎ、千雨と共に生きることとなったチャムは、茶々丸とは別人だと。
 そう認識している。
 だが、それでも経験すらそっくりな双子の妹だとも認識している。

 千雨は、無意識に全ての電子精霊を呼び出し、周囲に侍らすことにした。魔法世界で遭難した時、彼らが心の支えになったことを覚えていたのだ。そうして、七匹の電子精霊と一人のガイノイドが見守る中、千雨は震える指でゆっくりと便箋から手紙を取り出した。



『2003年度 麻帆良女子中学3-A同窓会のお知らせ』
日時 7月31日16:00
会場 麻帆良市麻帆良女子中学校舎
会費 0円
幹事 四葉五月(電話番号~)

ご出席
ご欠席
(どちらか○で囲んでください)



「マスター……」
「ご主人ー」

 は――と、喉の奥から無理やり笑い声を捻り出す。それは無理やりだったが、千雨は心底それを喜劇的だと思った。
 全てを知っておきながら、こういうものを送る四葉も。
 これが送られてきた自分も。
 これを受け取った世界中に散らばった『仲間』たちも。
 極めつけの喜劇だ。コメディだ。トラジディを踏みつけ台にしたコメディほど笑えるものはない。

「ははははっ。見ろよ、チャム。……四葉の奴、トチ狂ったみたいだぜ」
「マスター」
「だって、考えてもみろよ。3-A、今、何人残ってると……思ってんやがんだよあの百貫デブっ!」

 千雨が叩きつけた手紙にチャムは咄嗟に手を延ばそうとし、間髪いれず手紙を踏みつけた千雨の足に手を引く。
 千雨は黒タイツに包まれた足で、踏みつけた手紙をぐりぐりと踏みにじった。

「半分だぞオイ! 32人、その内残ってるのが16人だぞ! ハッ! コタローやアーニャも含めてやろうか!? 逃亡中の奴も引いてやるよ14人だ! 14人で同窓会やりたければやれっつーんだよ!」
「……四葉さんは」
「ああ勝手にやりゃいいだろ! テメーらが『あんな人もいたねー』って楽しくやりゃいいだろうが! けど私を巻き込むんじゃねーよ! 知らねーよテメーらを仲間なんて思ったことはねーよ! 知るかよっ! 勝手にしろよっ!」
「マスター。四葉さんはそういう意図でこの手紙を送ったわけでは」
「わかっ、てるよ! 解ってるつもりだよ! クソっ、クソッタレだ! 一番クソッタレなのは……」

 千雨は眼鏡越しに掌で目を押さえ、ソファーに背を預けた。
 チャムが、千雨の体を包み込む。廉価版ではない。しかし、茶々丸より遥かに戦闘に特化させた体は硬く重く、しかし魔力電力ハイブリッド動力の影響かどことなく暖かい。

「クソッタレなのは、四葉に普通の同窓会もさせてやれない私だ」
「マスター……」

 生き残った3-Aのメンバー達にない責任が、千雨にはある。それは千雨が自発的に負ったものだが、客観的に見ても世の中の人間の半分程度は千雨が負うべきものだと判断しただろう。それが自発的だったのは、その半分の中に千雨が入っているというだけの話だった。
 世の中は間違っている。
 しかし、その罪が社会という虚像に押し付けられるのは通らない話で、究極的には社会を構成する人々に平等に振り分けられるべきだ。ただ、その平等の基準が定まらないという理由だけで社会は不安定である。
 だが、その社会が狭い時。コミュニティと言い換えることのできる社会でしかない時、その罪は残酷なまでに構成員に振り分けられ、
 世の中が間違っていた時、その世の中で重要な位置にいた千雨に責任が下されるのも当然のことと言えた。

「……きっついな」

 どれだけ頭が回ろうとも、どれだけ修羅場を潜ろうとも、千雨は三年前まで極普通の生活をしていた少女でしかない。それだけにコミュニティも3-A32人と狭かったが、それでも荷が重い。
 千雨は、三年前、3-Aから仲間を奪い、担任教師を奪った。その償いすらどうとっていいのかも解らないまま、三年を生きてきた。
 ただ雑然と。
 漠然と。
 何も遺さず、
 呼吸だけしてきた。

「きつ……」

 眼鏡を外し、チャムや七部衆に目元を見られないようそのまま腕で隠す。チャムが首筋に顔を埋める。廃熱の関係でチャムの首から上だけはまるで人間のように柔らかい。千雨は余った腕でチャムの頭を肩に抱え込んだ。
 七部衆が千雨の体に縋りつく。

「マスター」
「……」
「泣かないでください」
「ばかやろ」

 千雨は口端だけ歪めて、答えた。

「誰が泣くか」



 私の風は、先生みたく柔らかくないよ。
 先生。



◆◆◆



 長谷川千雨。
 魔法界を絶望に貶めた白き翼の実質的No,3。その首魁ネギ・スプリングフィールドの腹心にしてブレイン。また旧世界出身ながら新世界屈指の電子精霊使い。「オスティア事件」の中核的人物と見られており、事件直後、指名手配(事件以前から指名手配。別件指名手配)。懸賞金は魔法史上二番目の懸賞金200万ドラクマ。情報提供に最大10万ドラクマ。
 当時15歳。非魔法使い。ジャック・ラカン死刑囚と懇意であり、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと旧友という事情により、魔法に高い見識。特に「闇の魔法」についての第一人者。また、麻帆良オーパーツについても見識あり。
 白き翼で唯一旧世界への脱出を成功させた人物。
 その所在は、今だ不明――。



---------
今回の反省。キャラが一定しない。
特に電子精霊のキャラ。
オリキャラはどうでもいいが。
あと俺の嫁を百貫デブとか呼んだやつ誰だ
出来る限り早めに後半あげます



[11895] 望遠鏡と同窓会 後
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72
Date: 2009/09/18 03:04


 何故世界が間違ったのか、千雨は明確な答えを出すことは出来ない。しかし、いつ間違ったのかは、その答えを知っている。
 簡単だ。最初から、全てを間違えていたのだ。千雨がそのことを知る前から、生まれる前から間違い続け、その流れの中で足掻いて失敗した。ただそれだけだ。
 三年と半年前、ただの中学生だった千雨の前に現れた新任の担任教師。
 ネギ・スプリングフィールド。捻じ曲げられ、折り曲げられ、無理やり真っ直ぐに伸ばされた悲劇の魔法使い。その歪さを察したのは31人の中ですら極少数だったろう。神楽坂明日菜、超鈴音、エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル。そして最後に気づいたのが長谷川千雨だった。ネギは間違っていたが、それは彼自身が間違っていたわけではない。世界が間違っていて、その結果生まれたものがネギ・スプリングフィールドでありフェイト・アーウェルンクスだった。彼らは間違えたまま生きて、多くの人に影響を与え続け、結果的に世界の間違いを露にした。

 千雨は、最後の最後までネギの傍にいた。白き翼のNo,3――後にはNo,2であり白き翼そのものであるとまで言われたが、決してその活動に妄信的だったわけではない。かといって積極的に懐疑的なスタンスをとったわけでもなく、結局千雨は傍にいただけだった。
 ネギが迷えば背中を押し、
 悲しめば叱咤し、
 進む時は裾をつまんで、一緒に進んだ。
 だが、それだけだ。目に見えないような小さな成果は空気の中に拡散していき、三年経った今では何も出来なかったという結果だけが残っている。
 超鈴音は、どうして行動することができたのか。
 今でも千雨には解らない。



 朝日に左手の薬指に嵌めたギメル・リングを透かすように、腕を挙げる。然程広くもないリビングは、ソファーに寝転んだままでも手にフィルタリングされてない朝日が降り注いだ。
 知恵の輪(ギメル)指輪(リング)。細い輪の二重構造になっており、片方は真鍮、片方は黄金で出来ている。一見するとただのアンティークリングだが、二つの輪をずらしてみれば凄まじく細かい魔術刻印が見ることができる。
 この類の魔道具は腰が抜けるほど高価なのだが、早乙女ハルナがどこからか見つけてきて、綾瀬夕映の手に渡り、二人がいなくなった後、行き場をなくして千雨の手に残った。形見を気取るつもりはない。彼女達の形見は、それぞれ行くべきところに行っている。ただこれを使っているのは便利だというそれだけの理由だ。
 千雨が魔法を覚えたのは逃亡中の頃……それも末期。千雨とチャムの他、二人がいるだけで三ヶ月ほど秘境に逃れた時、生活のために片手間に覚えた程度でしかない。才能のほうもネギや夕映を比較するまでもなく乏しかったらしく、今に至っても中級魔法すら使うことができない。魔法世界での生活を送るための生活魔法の他は、防御系魔法を数えられる程度扱えるだけだ。
 金と白、二色の指輪が朝日を飲み込むように鈍く輝く。

「マスター。そろそろ学校の時間です」
「ん……ああ、そうだな」

 そういえば昨日は空を飛び損ねたな、と徹夜で酩酊状態の頭の中に欲求不満が燻る。昨夜のような気分の時こそ空を飛ぶべきではなかったか。今からでも遅くないかもしれない。どうせ今日限りの学校にわざわざ顔を出すこともない――。
 こともないのだ。千雨は未練を振り切り、ソファーから転げ落ちるように立ち上がった。

「チャム。撤収の準備は任す。何時に完了する?」
「方々への連絡がありますから23時までかかる見込みです」
「じゃあいっぺん戻ってくる。あと一人処理してくるから、そっちの準備も頼めるか」
「はい」

 処理、という言葉に篭めた剣呑な雰囲気に千雨自身が可笑しくなった。自分も随分とスレたものだ。
 3-Aの中に受動的に巻き込まれた人間は多かったが、結局は全て自らの意思で巻き込まれた。運動部四人組ですらそうだったのだから、千雨にしたところで他の何かに責任を求めようとは今更考えていない。
 スレたのも、今更旧世界社会に戻れないのも、ここに至って自業自得以外の理由を求めることはない。厳密に言えば、その気力もない。あえて言うなら、ネギ・スプリングフィールドには自分以外の責任を追及する権利があったが、その権利を知ったところで行使する人間ではなかった。

「じゃあ、行ってくる。……他に何かあるか?」
「いえ。ご武運を」
「大袈裟だっつーの」

 馬鹿丁寧に腰を折るチャムに見送られて、千雨は外に出た。

 逃亡生活も長い。こういう転居もよくあることだ。札幌は長かったが、チャム以外の誰かがいた頃――新世界での逃亡生活に至っては四人だけで過ごした三ヶ月が最長だった。酷い時は半日と同じ場所にいられなかったこともある。
 現在、千雨は新世界で蓄えた金と、葉加瀬聡美の援助によって逃亡生活を送っている。厳密に言えば千雨が遠まわしに葉加瀬の研究に協力し、援助と言う形でペイされている。葉加瀬聡美は数少ない3-Aメンバーの成功者であり、またそれぞれに対して好意的なスタンスを崩すことがなかった。生き残っている3-Aメンバーは彼女を介して細い繋がりを維持している。彼女が裏切ればそこまでだが、千雨は葉加瀬に裏切られるくらいなら全てを諦めようと考えていた。

 マンションを出て、すぐに千雨は足を止めた。
「おはよう。やっぱ、ここのマンションだったんだ」
 宮内努が立っていた。眼鏡に、それなりにバランスの取れた体躯。運動経験はなさそうだが体力はありそうだ。千雨はもう何度となく読みこんだパーソナルデータを反射的に右目の前に写した。心拍、体温は昨日よりは落ち着いているようだ。冷えた発汗が見られる。急いでここに来たが、落ち着くくらいの時間はあった、というところだろうと千雨は当たりをつけた。

「よう」
 千雨が返事をしたことに呆気に取られたようで二の句を口篭る宮内を置き去りにして、千雨は学校に向けて歩き出した。慌てて早足で宮内が肩を並べる。
「ま、待ってよ。……やっぱり一昨日……じゃなくて一昨昨日のって夢じゃなくて」
「さあな」
「昨日の奴とか、その……」

 続く自らの失態に苛立っているのか、それとも一々はっきりとしない口振りでしか自分に話しかけることの出来ない宮内にに腹を立てているのか解らない。解らないことが尚更苛立ちを増長させる。

「ちなみに、この待ち伏せは迷惑条例違反で訴えられるからな。通報されたくなきゃ二度と話しかけてくんな」

 うぐ、と呻いて、一旦宮内は足を止め、
「いいの? ……隠し事なんでしょ?」
 言ってから宮内は顔を歪めた。つい口に出た、意に沿わぬ言葉だったのだろう。咄嗟に否定を口に篭らせる気配を漂わせる。しかし、千雨は足を止めると、先んじて言い訳を叩き潰す。

「脅しのつもりか?」
「い、いや……脅しってほどでは」
「かまわねーよ。言ってみたらどうだ? クラスで、家族に、ネットで、「春野サナは不思議な力を持っています」ってな」
「え」

 千雨は、宮内の顔を見た。何も考えていない、腹いっぱい食ってる顔。世の中がなんとかなると思っている顔。たまに思い出したように政策批判することで自分は見識があると考え、それを他人に一方的に喋るだけで自分は社会に貢献してると錯覚している愚か者。
 千雨と同じ、ごく普通の人間だ。
 だからこそ千雨の胸に怒りが宿った。同じ、普通の奴に脅迫されるというこのシチュエーションだけで非常の怒りが冷たく満ちた。普通の奴に、長谷川千雨程度の奴に長谷川千雨がいいようにされるというのだけは許されてはならない。自分が凡人であることは知っているが、自分を守った人たちは凡人でないという、それだけの誇り。
 だから千雨は笑った。にやりと、口元の作り笑い。

「莫迦が一人増えるだけだ」

 長く麻帆良の街で千雨のジレンマとなった、自分の言葉を理解してもらえないということ。自分の常識が周りとは違う。絶対であるはずの常識が脅かされ、少数派に落とされ、苦笑いされ、何一つ信じてもらえない。そこらに転がってる奴がそういう扱いをされた時に思うことを千雨はよく知っている。ざまーみろと作り笑いだけでなく嘲笑う。

「……」
 絶句。扱いやすい奴だ、考える必要すらない。
「考えてもみろ。誰が信じるってんだ? 実際に目撃したテメーが半信半疑だったんだぜ?
 ああ、証拠を引きずり出すって手があんな。例えば、わざと自分の上にガラスを降らせるとかな?」
「っちょ! ちょっと待ってよ! あれは……!」
「知るか。聞いてなかったのかよ。テメーを信じる理由が何処にあるってんだ? 現にテメーは私を脅して情報を引っ張ろうとしてる。騙されたな。私も甘い」
「違うよ! 話聞いてくれ!」
「寄るな。……あとな、テメー足見すぎなんだよマジでキメーから消えろ」

 ぐえっ! と一番強くショックを受けたらしく、呻いて転がった宮内を放って、千雨は歩き始めた。
 自分がイラついているのが心を手で掬うように解った。それをぶつけた宮内はどうでもよかったが、このままだと隙だらけすぎで不味い。しかしそれも仕方ないと思っていた。散々イラついていた所に四葉五月からの手紙。泣きっ面に蜂……弱り目に祟り目といったところだ。
 一晩で動く気力が戻ったことが奇跡みたいなものだ。千雨は悪意には強いが、強い善意には打たれ弱い。一晩中傍にいてくれたチャムと七部衆に感謝しなければならないと思う。口に出して言うのは気恥ずかしいので、何か土産でも買って帰ろう。
 梅雨の中、晴天。雲も薄く、ゆっくりだ。宮内がまだ落ち込んでいるのを確認して、不意に今夜は星が良く見えるだろうと思った。




◆◆◆



 神々の時代――。
 まだ人の間に争いがなかったサトゥルヌスの時代、神と人も仲良く暮らしていた。しかしユピテルが政権を奪うと、人は争うようになり、神々は一人ずつ天に帰っていった。
 最後に残ったのが正義と天文の女神アストライアーだった。
 彼女はそれでも人々に正義を教えていたが、人に絶望し、ついに天に帰り乙女座となった。

「わけなんだ」
「何が言いたいんだ、宮内よ……」

 森嶋の目に呆れだけではなく哀れみまで篭められているのに気づき、宮内は遠くを見た。
「見てみて森嶋ー。俺今レイプ目ー」
「なんか俺が悪かった感じだから謝っておく。ごめん」
「今乙女座がいい季節なんだよなー。今晩は一人で夜空に引きこもろうかなー」
「お前はショックを受けただけで神の領域に至れるとでも言うのか。とにかく、何があったか話せ」

 一瞬、それを話すべきかを宮内は悩んだが、その悩みは長くは続かなかった。朝、オオカミ少年扱いされたことが念頭にあって、またそれも尤もな話だと思ったのだ。まともな人間が「空から降りてきた」だの「腕を振ったら風がガラスを吹き飛ばした」だのを信じるわけがない。
 宮内は感情を意図的に篭めないようにしながら、昨日の顛末、それに今朝のことを続けて話した。大して量のある話でもなく、ほんの五分ほどで終え、森嶋は深く頷いた。

「……なんというか、お前もお前だが、あっちもあっちだな」
「……」

 そう、なのだろうか。宮内は自問した。触れられたくない所に無造作に宮内が触れたから、春野は強い反応を返したのではないだろうか。いくらこちらが彼女のことをまったく知らないといっても、殻に閉じこもっていたところに無理やり手を突っ込んでまさぐって、そこがたまたま弱いところだったら怒られて、それは手を突っ込んだほうに責任はないだろうか。

「それで、お前はどこに落ち込んでいるんだ?」
「え?」
「春野に誤解されて嫌われたことか、それとも魔法がどんなものなのかを知ることができなかったことなのか。どっちだ?」
「え、と」

 誤解されたことに悲しくなり、話を聞いてもらえない悲しさがあって。余計なことをまた言ってしまって。冷たい目で見られることとなった。

「ようはフラれたのが辛いわけだ」
「別にフラれてはいねーよ!」
「亀裂が決定的になったのなら、それはフラれたのと同じだろ」
「それは、それに、それだけじゃなくて……」

 近づいた気がしたのだ。秘密を知って、守ってもらって。昨日は動揺しててあの後何を口走ったかも覚えていないけど、少しだけでも彼女に近づいて、もう少し話す機会ができると思ったのだ。
 だから、朝マンションまで押しかけてしまった。

「なんだ、宮内。お前は」
「……なんだよ」
「青春だな」
「リアル18に青春とか言うなよ……醒めるだろ」

 言われれば言われるだけ恥ずかしくなる言葉だ。同い年のはずの森嶋が妙に保護者の姿勢なことに宮内は顔を赤くし、机に突っ伏した。

「じゃあやることは一つだろ」

 慈悲に溢れた、としか言いようのない……或いは、母性でもいいが、森嶋の声に宮内は腕の中から目だけを上げた。変わらない鉄仮面。しかしその表面には兄貴分的な雰囲気が浮かんでいる気がした。宮内は同い年に年下の仕方ない奴扱いされていることに内心落ち込む。しかし縋るものも他にない。

「ごめんなさいして、お友達になってくださいって言って来い」



◆◆◆



 春野サナは友達もおらず、休み時間に勉強するような優等生でもない。友達がいないのは心底ぼっち気質の素なのだが、休み時間に勉強しないのは単に努力している姿を見られたくない千雨の意地だった。
 千雨は元から勉強することは苦手だった。面倒だとか、色々と口に出して理由を言ったが究極的には勉強することに意義を見出せなかったからだ。中途半端に頭のいい奴は自分で勉強することの無意味さを導き出して、それを盾に取るから厄介だ。同じ理由で勉強をしなかった綾瀬夕映のことを思い出す。そういえば桜咲刹那はどうだったのだろうか。多分素であの点数だったのだろう。三ヶ月ほど四人きりで過ごした内の一人だったが、冷静な顔をして迂闊で天然なずっこけ剣士だった。
 だが進学校でトップを争うほどの成績になったのは、自分の取り柄を一つでも作るためだった。どんなものでもいいから、自分を守る価値がある人間に押し上げる。それは千雨の保身法だった。

 いつものようにiPODを弄るか、本でも読むか。それともプログラムでも組むか、と昼休みのチャイムを聞いた瞬間、春野は目を丸くした。携帯電話が震えていた。これは、葉加瀬聡美からの連絡が入ったことを意味する。チャムとは念話でことは済むからだ。春野に連絡を取ろうとする人間はその二人を除いて他にいない。――チャムを人間と呼ぶかについては議論の余地があったが。
 一度呆れたように鼻を鳴らし、春野は教科書を鞄の中に放り込んで立ち上がった。葉加瀬との連絡を他人に聞かすのは拙い。特に昨日からこっち、聞き耳を立てている宮内は余計な想像をすることだろう。
 忌々しいことだ。何より、一々宮内の動向を気にしている自分が。春野は誰にも聞かれないくらい小さく、舌打ちした。

 踊り場には誰もいない。春野はスカートのポケットから旧いタイプの携帯電話を取り出し、通話を押した。窓は確認しなかったが、葉加瀬聡美の名が書かれていない限り、それが誰かを特定することは出来ないのだ。変わらないだろう。

『四葉さんの招待状は届きましたか? 千雨さん』

 のっけから先制パンチだ。春野は頬を引きつらせた。
「やっぱてめえの仕業か、葉加瀬」
『いやー、あんまり熱心に聞くもんですから、つい。昔はあんなに腰強くなかったんですけどね、四葉さん。3-Aのお母さんの面目躍如ということで許してください』
「テメーのことをなんて罵ってやろうかって考えて昨日は眠れなかったぜオイ」
『それで、どうするんですか?』
「あん?」

 こいつもすっかり腹の探りあいが得意になったな、と思いつつ聞き返す。麻帆良にいた頃はただの友情に篤いマッドサイエンティスト、といった風情だったのだが。色々あったのは居残り組みも同じか。

『参加、不参加はどちらにするんですか?』
「……――」
『千雨さんもすっかりバイオレンスになりましたねー』
「良く解ったな。今、テメーをどれだけ残虐にブチ殺せるかを考えてた所だ」

 新世界にすら名の知られる手配犯の長谷川千雨が、ノコノコとクラス会などに行けるはずがない。ましてそれが行われるのが麻帆良でなら尚更だ。いくつかのプロクシを中継してはいるが、こちらから四葉に返信するすら躊躇われるほどなのだ。少なからず3-Aメンバーはマークされている。下手な接触はそれが剥がれるまでの時間を延長することになりかねない。千雨にも、他にもデメリットだらけ。
 加えて――いや、むしろこちらが主題であるが、千雨はまだクラスメート達に会いに行く決心がついていなかった。裏の事情を心得ていない奴もいるし、ある程度知っている奴もいる。千雨よりどっぷり浸かっている奴もまだ生きている。だが居なくなったクラスメート達の顛末を最も良く知っているのは千雨だった。それを追求されて尚保つと信じられるほど千雨は自分の精神力を信じていない。それを思い出すことも、口にすることもまだ多大な負荷が強いられれる。

『でも、四葉さんが可哀想だと思いません?』

 一々私の勘所を抑えている。連鎖的に次々と葉加瀬への恨みつらみが浮かんできて、千雨は憮然とする。資本家と労働者の関係であるから仕方ないといえばそうなのだが、葉加瀬は感心するくらい千雨はこき使ってくれる。一端のプログラマでありハッカーの一角と言えど、基本はアンダーグラウンドで生きてきた千雨は普通の優秀なプログラマの仕事をこなせと言われても出来ないに決まっているのに。
 ああ、なんで私はこいつに弱みを握られているのだろう。この弱みとはチャムの整備であったり、金であったり、コネであったりする。

「可哀想……というか、私が情けないとは思うが、どうしようもないだろ」

 千雨が我慢すれば、とか無茶すれば、という自助努力を超えた話だ。変装にも限界がある。変装を見破る専門に対して、変装の専門以外の俄仕込みは弱い。
 千雨の返答が予想通りだったか、葉加瀬は意地悪く笑った。

『千雨さん、歴史を変えたいと思いませんか?』
「……待て。テメー」
『その手段が、あるんです』

 歴史を変える。――過去を変えたいと一度も思わなかった人間はいないだろう。
 人は絶対的な大小はあれど、常に後悔をし、昔を振り返り、ある人はそれを糧に成長し、ある人はそれを引きずり続ける。
 そう、例えば。
 千雨とて、過去に戻って選んだ選択肢を変えたいと思ったことは数え切れないほどある。
 だが。

「まさか、それを言うためだけに四葉に余計な期待を持たせたのか」

 千雨がそう思う心を最高潮にする時。それこそが3-Aの仲間達を集めるという四葉五月の招待状だ。
 現在の千雨の根底には後悔がある。間違えた世界を正すことの出来なかったという後悔。誰一人守りたい人を守れなかったという後悔。失われた人にも大切な人がいたという後悔。3-Aメンバーに仲間を再開させてやれなかった後悔。
 後悔があるからこそ千雨は努力を続け、逃げ続け、生き続けている。
 一気に剣呑さを増した千雨の声色を他所に、葉加瀬の言葉は心底明るかった。

『それは誤解ですよ。ただ偶々そういう状況が揃ったってだけで……まあ、確かにそう疑われても仕方のないことですけど』
「正直、今私は超を煽ったのはテメーじゃないかって疑ってるぜ」
『それこそありえません。私は超さんほどの天才ではありませんから』

 宮内努はどれだけ御しやすい相手だったことか。腹芸の上手い奴が上手いと言われるに足る理由は胡散臭い言葉が本当に聞こえることだ。白き翼における交渉の大半を担った千雨だが、葉加瀬は間違いなく厄介な交渉相手に分類されるだろうと思う。だが内心で千雨は葉加瀬の言葉の半分を否定した。
 超鈴音が天才足りえたのは、それは遥か未来のオーバーテクノロジーをただ一人で担っていたからに他ならないと思っていたのだ。それぞれ一つ一つの技術を自らが産み出したと思われていたからこその天才の称であり、内実を明かせばその所業は決して天才のものではないという認識があった。ネギ・スプリングフィールド、神楽坂明日菜を初めとした天才達に並びうる存在ではない。
 だからこそ、千雨の劣等感の矛先であるのだが。

『まあまあ、そう怒らないで話だけでも聞いてみませんか?』
「聞いたら、逃げられないようになっちゃいないだろうな」
『まさか。でも千雨さんが逃げないだろうとは確信してます。だって、3-Aメンバーの想いは私も千雨さんも含めて同じはずですから』

 千雨はどうしようもなく下唇を噛み締めた。「他の3-Aメンバーと想いは同じ」「千雨は逃げない」。それぞれがこれ以上ないほど計算された千雨の心を動かす言葉だった。自分でも認識していることだが、千雨は3-Aメンバーの中で異端の位置にあり、それが是正された立場にいただけその居場所への執着心が強い。
 昔は散々仲間にされたくないと思ったものだが、新世界へ行く時、空港でそれは吹っ切った。代わりに得たのが、仲間の中に心を浸すことへの居心地の良さだった。それは自分が理解されないことへのフラストレーションの裏返しでもあっただろう。
 気丈に応えようとしたが、どうしようもないほど力が篭っていなかったのは、自律心の強い千雨から見てすら仕方ないと思えたかもしれない。

「……言ってみろ」
『カシオペアのことを覚えていますか?』

 忘れるわけがない。千雨が裏の事情に関わることになった切欠の事件だ。

「航時機か」
『ええ。超さんの最大にして最悪の遺産。タイムスリップを可能にする機構のことです』
「三号機まであったっけな。けど二つはネギ先生と超の戦いで壊れて、最後の一つは超が自分の時代に帰るのに使ったはずだろ」
『苦労しましたよ。手元には二つの残骸とブラックボックスを除いた設計図しか残ってなかったんです』
「設計図がなんであんたのとこにあるんだよ。三つとも超の奴が未来から持ち込んだんじゃなかったのか」
『最初から三つ必要だと持ち込まれたんですが、一つ壊れてしまいまして。その修理を依頼されたのが超さんとの馴れ初めなんです』

 やけに素直に情報を見せてくる。そういう細かい事情一つ一つで千雨からやはり細かい情報を引き出すことも可能だろうに。何を考えているのか千雨には検討もつかない。脳みその方向性がまったく違うといっても、やはり葉加瀬と千雨では基礎的な能力に大きな差がある。

「直したってのか」
『はい』
「それで、」口篭ったのは、僅かに胸の内に宿ってしまった光明を必死で押さえつけたからだ。「歴史を変えるっていうのか、テメーは」
『いいえ。……私と千雨さんでです』
 甘美な誘惑。頭の隅に残っている千雨の常識が真偽を確かめようと稼動するが、本能がそれに乗り気になっていない。葉加瀬に騙されるというならそれまで。それに、その希望に縋ることがどれだけ楽か。
 だがそれは許されない。今になってもまだ、千雨は白き翼だ。

「忘れたのかよ葉加瀬。私とあんたは学園祭じゃ敵対してたんだぜ」
『じゃあついでにそれも変えてきてください』
「ザケんな、この狸……私はネギ先生の薫陶を受けてる身だ。ネギ先生が否定した以上、私もそういうエゴを肯定するわけにはいかねーんだ。何考えて私に話してるのか知らねーが、それを許すわけにいくか」

 ――本当にそうか? 言葉の上でだけは強く言っておきながら、千雨の脳裏には渦が巻いていた。救おうと考えているなら、それが何より大切なものであるなら、3-Aだというなら、
(あのガキも許してくれるんじゃないのか)
 多分、許さない――だろう。
 でもその判断は是正すべきと千雨が気づいたネギの間違いであって、千雨はそれこそを正そうとした。もし許されるなら、そうするだろう。
(なら、許されるべきなんじゃないか)

『そのことですが、私は超さんは歴史を変えることに成功したんだと思っています』
「……なんだよそりゃ。葉加瀬、アイツは負けたんだぜ」
『厳密に言えば、歴史は超さんが三年前にいたというその事実だけで変化したはずです。少なくともあの三年の間、麻帆良の人口は超さんがいなかったはずの『別の過去』に比べて一人多かったはずですから』
「ヘ。それくらいで満足してくれるならどうぞご勝手にって話だけどな」
『ですが、超さんはネギくんに大きな影響を与えました』
「……」

 エゴを否定した。一人の願いをエゴでもって否定した。否定したからこそ、ネギ・スプリングフィールドはそれ以後たった一つのエゴも許されなくなってしまった。許さないことを自分に、他人に強いらざるを得なくなった。
 まさかと思うが、たったそれだけのことをするためだけにあんな大掛かりを仕掛けたとでも言うつもりか。

『千雨さんのことですから初期値鋭敏性のことは知ってますよね? カオス理論の』
「そりゃ、知ってるが」
『僅かな値のずれが、時間を経つたびに影響を大きくしていく性質のことですが、もちろん人口の増減の数値一つ程度の値のずれでは――そうですねー、人類が絶滅するまでの時間程度でははほとんど影響がないでしょう』
「待てよ。カオス理論なんてトンでも話を根拠に出されても納得できるわけないだろ」
『いえ、確かに実証不可能が証明されて途絶えた分野ですが、未来を予測するための条件を抽出したという点では有益な分野でした。バタフライ仮説は流石に大袈裟でしたけど』

 バタフライ理論、或いは仮説。一匹の蝶の羽ばたきが或いは台風になりうるという仮説。その本質は気象予測を初めとした未来予測の分野において初期値鋭敏性がどれだけピーキーなものかを示すものだ。

『話を戻します。なら――少なくともそれほど遠くない未来を変えるにはどれくらいの値の変化が必要なのか。現代ではまったく益のない研究ですから計算の取っ掛かりもないんですが、航時機が実用化されてる未来では必要に応じて研究されているんでしょう。
 千雨さんも気づいているでしょう。超さんは与えた影響は微々たるものでしたが、その影響を最も受けたネギ先生が魔法世界に与えた影響の大きさは』

 余りにも甚大だ。その与えた影響の内訳に超が絡んでいることも自明。

『そもそもおかしな話です。過去を変えるならその悲劇に直接当たればいい。子供の頃見たヒーローみたいに。悲劇を止めきれないなら、その原因を直接消せばいい。最近はやりのダークヒーローみたいに。
 でも超さんはそうしませんでした。量子力学に精通してた彼女がカオス理論に触れていないはずもないのに。鋭敏な影響を与えると解りきっている遠い昔を改変したところで未来がどうなるのか解ったものではないはずです』
「待てよ。それは私たちも考えた。だがタイムスリップといっても厳密には超の世界とこの世界は別物だ。つまり、死んだ猫を助けようとして過去に行って猫を助けても、そこには猫が死んだ世界と死ななかった世界が発生するだけだろ」
『それは、千雨さんの勘違いです。つまりはこう考えたのでしょう? 良く似た無数の世界が平行に並んでいて、カシオペアはその横移動をする道具だと。その内一枚を変化させたところで元の世界にはなんの変化もない。カシオペアはそうではありません。あれは平面的な時間の移動を操作する道具なんです。ごく小規模で、しかも莫大な魔力エネルギーが必要とされますけど』
「待て。待て……それにはタイムパラドックスが付きまとうだろ。つまりは不可能ってことだ。タイムパラドックスを回避することが可能とすればそれは、あー、なんていうか、その横移動以外にはありえないはずだ」
『お忘れですか? 超さんが来たのは遥か未来からなんですよ。私たちには発見されていない概念が発見されている世界です。そもそもそれが解っていたらカシオペアをオーバーテクノロジーとは呼びません』
「未来って便利な言葉だなオイ……」
『多分……推測ですらありませんが、それは緻密な計算の元に成り立っているわけではないと思うんです。タイムパラドックスはごく自然に世界に飲み込まれ、調和し、融けていく。それを観測している人以外はそのことに何の疑問も持たない。そこにある矛盾には誰も気づくことはなく、長い時間をかけてそれは世界に馴染んでいく。
 超さんの計略でネギくんたちを七日後の強制認識が発動した世界に飛ばしたことがありますね。その世界は確実に存在したはずですが、存在しません。存在した世界が消失したという矛盾は実際に観測した千雨さんたちにしか把握することができず、やはりそのまま消えてどこかに行ってしまいます』
「それは強制認識が発動した世界を私たちが消去したってことか」
『有り体に言えばそうです。カシオペアは使った瞬間からの進行するはずだった時の流れを遮断し、また新たな流れを作るための機械、と言った方がいいかもしれません。あとは観測者の問題とか、過去は過去として一まとめにされるべきとかそういう話もしたいんですけど、していいですか?』
「いや、大体想像付くからいい。大枠以外の細かい理由は私の本分じゃねーよ」

 というか話が長くなるだろ。
 そうか、と千雨は口元に手を当てた。まずタイムパラドックスがあるからこそ、「今もネギたちのいない強制認識の発動した世界がどこかで進行している」ものだと思っていたが。
 いや、千雨はそもそも超のあの作戦がある種の超の意地によって進行されたものだと考えていた。「自分のところはダメだったが、せめてどこかで救われていて欲しい」という意思を持っていたと勝手に想像していたのだ。大まかなところでは初期鋭敏性が解決できない限り隣の世界を改変することも同じ平面世界の遥か昔に手を入れることも大差はないはずではあるが。

『そういえば千雨さん、こんな思考実験のことを知っていますか? カオス理論の究極的な目的。「運命は存在するのか」』
「いや知らねー」
『ありとあらゆる現象の原理が解明されたとします。超統一理論も実証された世界で、世界の始まりの大爆発――いわゆるビッグバンのエネルギー量が正確に測定されたら。初期値がこの上なく正確に入力されれば、ビッグバンの一秒後に発生する全ての現象は全て網羅される。その一秒後も、二秒後も、三秒後も』
「……」
『延々とこれを続けていくと、いつしか星が発生します。どこにどんな星が生まれるのか解ります。太陽に似た恒星が、地球に似た星が産まれ、生命が、知性が生まれ、その知性すら一秒前の値と法則から逸脱することはありえなく、思考は予測され、そして長谷川千雨が生まれ、超鈴音が生まれる。それはまさに運命です。宇宙上の全ての要素がその運命図に則って動いている。それから外れるには法則の外の存在が必要です。この運命は存在するのか?』
「……」
『もちろん、ただの思考実験であって、人類が残っている間に宇宙全ての法則が明らかになるわけはない。宇宙誕生のきっかけも定かではないのに最初期エネルギー量を計測するなんて不可能です。またそれを計算するには人類が考え付けるスケールでは絶対無理でしょう』
「……」
『当然、答えは誰にでも解ります。そんなものは存在しない。
 ですが、この思考実験はそれ以前の問題なんです。まず一つは、この宇宙はこの宇宙だけで存在しているわけではなく、宇宙に影響を与えている「何か」が存在していること。計算するには要素が足りません。初期値の問題を解決するために要素の数を減らすというのはユニークな考えですが、それなら宇宙以前の無から計算を始めなければ話になりません。
 もう一つは、知的生命体があるものを開発することが予測されるからです』
「タイムマシン」
『そうです。「平行世界説」も「平面世界説」も、どちらだったとしても問題があります。この思考実験の条件では一秒一秒を丹念に計算していくため、未来から何かが来ることを想定できません。結果起きるのは計算機のエラーです』
「……葉加瀬」

 本当に話が長い。千雨はうんざりして溜息をついた。

「本題を言え」
『歴史を変えるなんて、大局的に見たら大したことではない、という話です』
「だがエゴだ。私たちは大局じゃない。宇宙なんて見たこともないし、地面に這い蹲ってギリギリで生きてるだけだ」
『私と千雨さんが悪役になるだけで救えるならそれでもいいと考えられませんか』
「綾瀬が言ってたぜ。あー、カモだったか? 「今あるもので這いずり回るのが私たちに許されたギリギリの正義だ」ってな。いいか、葉加瀬」

 心惹かれたのは確かだ。甘美な誘惑。失ったものを全て取り戻せるなら、その方法が手元にあるなら、それを手放すことこそが悪ではないか。それを選択しなくて、本当によいのか。
 きっと、永遠に後悔するだろう。四葉五月から手紙が届くたびに悩んで、悩んで、その悩みは永劫晴れることはなく、千雨の心に影を落とす。
 だが、それでも。

「それでもやるっていうなら、あんたがそれを正義だと思うなら、私が悪となってあんたを殺してでも止める」

 息するのが苦しくなるほどの言葉。その様子は葉加瀬にも伝わったらしかった。だがスピーカーからは熱のない、乾いた声が響いてきた。

『ネギくんへの義理だけでそれを言ってるとしたら、軽蔑しますよ千雨さん。ネギくんだって結局超さんを止めたのはエゴだったんです』
「……」

 多分、そうだろう。だがもう出してしまった結論だ。歯を食いしばって、千雨は携帯電話を閉じた。
 息をつく。頭の中にジーンとした響きがあった。吐き気をするほどの選択肢の数が脳裏に踊っている。それを一つも選び取れないことは、きっと不幸だ。だが千雨は無理やり飲み干した。
 壁に背を預け、そのままずるずるとリノリウムに座り込む。
 見たことを全て忘れて、それを選べればよかった。だが千雨は多くのものを見てきた。戦いを傍観者の立場から見てきた。意地を、仲間を、世界を守るための戦いを見てきた。葉加瀬の提案は、それを全てなかったことにしろと言っている。新たに生まれたものを、貫き通したものを忘れろといっている。
 チャム。犬上小夏。
 存在を消される奴もいる。もしカシオペアを使ったとして、再び会えるかは解らない。いや、それは似て非なる存在になるだろう。千雨は笑った。散々な生き方をして、まだ世界に執着している自分が滑稽だった。
 けど、そう。
 得たものと、失ったものを比較して、自信を持って得たものを選べたかは解らなかった。


「ちうたま、お仕事終わったス」
「ちうって呼ぶなっつったろ」
 突然懐から飛び出してきたしらたきを鷲掴みにする。なんだか理由はないが、電子精霊を鷲掴みにするのが好きな千雨である。何故かしらたきは嬉しそうな悲鳴を上げ、ぐるぐると手の中で回転する。
 無言で付き合う千雨。両手を擦り合わせるようにしらたきをぐりぐり回す。うれしそうなしらたき。なんだか悔しくなって高速で擦り合わせる千雨。

「うおえっ」
「うおっ! ばっちいなっ!」
「すいやせん、ちょっとデータ出たス」
「テメーはどんだけ柔軟性あるんだよ! 精霊の癖に酔ってんじゃねえていうかデータ吐くのかよ!」

 千雨の指先に茶色い何かをぶちまけたしらたきはぺろぺろとそれを回収し、するりと手の中から抜け出し、千雨の手の上に座って向き合った。
「ご主人、どこに送りましょうか」
「すぐ見たい。眼鏡に写せ」
「うい」
 主人の癖に七部衆のキャラを把握しきれていない千雨だが、しらたきは真面目で使いやすい程度の認識は持っている。……敬語は変だが。
 眼鏡に、情報が投影される。一目で、千雨は唸り声を上げた。

「……近衛かよ」

 どうも、思ったよりずっとピンチらしい。



◆◆◆



「ごめんなさい。友達になってください。……なんか友達になってもらうことにごめんなさいしてるみたいだなあ。ごめんなさい。それと友達になってください。……これじゃあごめんなさいはオマケみたいだしなあ。そもそも春野さんは友達になってくださいといって友達になってくれる人なのだろうか」

 一瞬、本当は友達になってくれる人を待ち続けている不器用な少女、という妄想が宮内の頭を掠めたが、残念ながら思春期の暴走である。

「友達になってください。仲良くしてください? いや、そういうんじゃなくて……ご飯食べに行かない? ……まんまナンパみたいだな。じゃあ、お茶行かない? 行かないだろうなあ。いっそのこと、高級フルコース奢るからご飯行かない? ……そんな金ないし、フレンチ好きかなあ。開き直って、お金あげるから友達になってくれない? ……完璧に援交の誘いだ。そうだ、せっかくなんだから、今夜夜空を一緒に見上げない? ……絶対またキメーって言われるよ……うーん」

 成り行きで秘密を知ってしまったが、まだ宮内は春野サナのことをほとんど知らない。勝手に妄想だけは進行していくのだが、流石にそれを信用するほどのアホではなかった。謝れば許してくれるのかとか、どれくらい怒っているのかとか。それも知らずにとりあえず謝るのは上手くない手ではなかろうか、と宮内は思ったが、流石にそれは逃げ腰すぎだろうと思い直す。
 珍しく教室から消えた春野の姿を探し、踊り場の階段の下を通りかかる。

「そうそう、出来れば謝るのと友達になってもらうってのを同時に言えるようなのを考えて……春野さん! ごめんなさい、仲直りしてくださいっ! ……って、いや、仲直りするほどの仲でも」
「……仲直りするほどの仲でもねーだろ」
「おおうあっ!?」

 丁度、踊り場から下りてきたところの春野が呆れた顔で宮内を見下ろしていた。

「い、いつからそこにっ!?」
「今だが、独り言はフツーに危ない奴にしか見えないからやめとけ」
「いや別に独り言って訳じゃ……」

 いや、そうじゃない。と宮内は被りを振った。思いっきり失態を演じたが、もうそんなのはどうでもいい気分だった。
 宮内は階段の上の春野に向き直って、頭を下げた。

「ごめんなさいっ!」
「ん、なっ……」
「脅迫とか、そういうつもりじゃなかったんだ。その、なんていうか、酷いことをしたことは解ってる。本当にごめんなさい。ただ、その……」
「わ、わかったよ……わかったから頭上げろよ……」
「昨日のことは誰にも話さないから! だから……その、と、友達になってくれないかな!」
「は、ハア!? 友達!? つか、もういいから頭上げろって……注目されてるって」
「い、いや! 別に無理なら無理って言ってくれていいんだ! だからって誰かに言いふらすってわけじゃないし、でも出来れば友達になって……あ、よく考えたらもう森嶋に話しちゃってる……俺は本当にダメな奴だ……」
「わ、わかったわかった。いいから、いい加減頭上げろって……」
「ごめんなさい……森嶋に言っちゃったよ……そうだよ、俺凄い図々しいよな……ごめんなさい……俺死ねって感じ」
「わかったから、タマ上げろっつってんだろが人の話し聞けよテメエはああああああああああああッ!」
「うわああああああああああああ! ごめんなさいいいいいいいいいいっ!?」

 どう考えてもアタマが省略されてタマになったのだが、宮内はヤクザ的な意味でのタマにしか聞こえなかったらしく、華麗に土下座に移行した。春野が躊躇いなくそのアタマに踵を落とす。
 ごきっ、と致命的な音が響いた。遠巻きに見ていたギャラリーが流石に慌てる。
 しかし春野はギャラリーをぎろっと睨みつけると、その細身の体からは想像もできないような膂力で宮内を引きずりながら踊り場に戻っていった。


「恩寵あれ(シット)、治癒(クーラ)」

 頭の痛みがすっと引いていくのを感じ、宮内は確かにそれが魔法なのだと思った。だが、

「……まだちょっと痛いんだけど」
「悪いな、半人前で」
 苦笑した宮内に春野は憮然として、そっと宮内の頭の中に手を伸ばした。宮内の鼓動が高鳴る。昨日から思ってたことだが、春野には妙に無防備なところがある。
「大丈夫だろ、小さいタンコブになってるだけだ」
「え、あ、う、うん」
 目の前に春野の胸元がある。当然、セーラー服に包まれていて実情ははっきりしないのだが、近くにあるというだけで動揺くらいはするものだ。男だもの。
 本当に確認しただけで、春野は宮内から離れて壊れた机の上に腰を下ろした。

「うー」
 春野の呻き声。きょとんとした宮内が春野を窺うと、春野は後頭部をカリカリと掻いて、
「朝は、私も悪かったよ」
 と言った。

「……」
「……」
「……」
「黙るのかよ!? なんか言えよオイ!?」
「いや、びっくりして」

 春野さんて普通に謝れる人だったんだ、と物凄く失礼なことを考えつつ、宮内は春野の顔をまじまじと眺めた。顔が赤い。意外と感情が顔に出てくる人なのだろうか。宮内が自分の顔を観察していることに気づき、春野は慌てて顔を逸らした。

「朝は虫の居所が悪かったんだよ、そこにあんたみたいな脳みそスッカラカンみたいな面した奴が来て舐めたこというから、つい当たったんだ。許せとは言わねーけど悪かったとは思ってるよ」
「え、うん。許すよ」
「……」
「え! 許しちゃダメな感じだった!?」
「いや、あんたがいいならそれでいいんだけど」

 あんまり謝っていない謝罪を素直に受け取られるとそれはそれで気まずくなる……という些か偽悪的な考えを顔に浮かべた春野は気まずそうに顔をずらすと、
「そういや、森嶋に魔法のことを話したって?」
「ああ、うん。まずかったよね……ごめん」
「いや、それはどうでもいい。何て話したんだ?」
「一昨昨日と昨日起きたことをありのまま言っちゃったけど」
「ふーん」
「えっと、あいつにも誰にも言わないように言っておくよ」
「だからそういうのはどうでもいいっつってんだろ。……その話を振ってきたのはあっちの方からじゃなかったか」
「え、良く解ったね。そう。昨日、春野さんから空から落ちてきた話を聞き出せってしつこく嗾けられたよ」

 ふーん、と気のないように言った春野だが、その頬は僅かに弛んでいる。どこか楽しそうで、宮内は嫌な考えが脳裏に浮かんだ。

「……もしかして春野さん、森嶋のことを」
「いや、ねーよ。鉄仮面じゃねーか」
「あはは、そーだよねー。鉄仮面がモテるのは少女マンガだけだよねー」

 それもどうなんだ、と口走る春野。宮内は今の自分の感情を反芻して、顔を赤くした。

「やばい!」
「あん?」
「春野さん……い、一緒に天体観測しませんか。乙女座が綺麗な季節なんです」
「しねーけど、何だよ?」

 やばい。これは、と宮内は思った。もしかして、俺は本気なのではないだろうか。ああ、一世一代の告白をしたあとに自分の気持ちを確認するとか俺はなんて順番間違い男。
 ドゴッと凄まじい音を立てて宮内は額を地面に叩きつけた。

「うわっ!? ……お、おい……?」
「…………」

 一世一代の告白が断られていた。しかも間髪いれず、考慮すらされず。子供の頃から考えていた必殺の口説き文句だったのに。口説きモンク(27)「ヘイお嬢さん。一緒に毘沙門天の加護ぞないかい? アッパーアッパー!」
 待て俺の名前は宮内! 今のは性急過ぎたし脈絡がなさすぎた! きっと告白だとわかっても貰えなかっただけだ。落ち着いて……。宮内はゆっくりと顔を上げた。春野はドン引きしている。

「あ、あのさ、春野さん。俺ら、もうちょっと仲良くなれないかな……」
「なれないだろ。つーかなんだよ」

 ゴッ、と再び額をリノリウムに叩きつける。またドン引きする春野。顔を上げれば宮内は「うわー変なのと関わっちまった」という顔をした春野を見ることが出来たのだが、幸か不幸か多分幸いに見ることはなかった。
 失恋である。多分この上ないくらいはっきりとした。お前と仲良くなる気はない、と言い切られて思春期の男子に一体どんな手段が残されているというのか。ここから持ち直すのが熟練者なのだが、女友達は多くても恋愛らしい恋愛は皆無だった宮内にそういう技術はない。

「……あ、もしかして今私告られたか? あー、あー、悪い。そういうの興味ないんだ。つーかそういうの」

 しかも追い討ち。
 口篭る春野をそっと見上げると、顔を赤くしてどことなく照れている。それだけなら恋愛経験が少ないから解らないんだろう、とかそういう妄想に転化することが出来ただろうが、この二日間散々春野の毒舌に晒された宮内は春野が飲み込んだ言葉を正確に予想できていた。

「キメーんだ……」
「あ! いや待て! そういうわけじゃなくて、気持ちは嬉しいんだけどな……」
 見るからに図星を突かれた、という顔で慌てる春野に、宮内はがっくりと項垂れた。

「わ、悪い……こういうの慣れてなくて、次までにもうちょっと穏便な断り方考えとく」
「いや、次に告ってフラれる相手のこととか俺の知ったこっちゃないから」


「おい……大丈夫か宮内、レイプ目になってるぞ……」
「あははは。あははははは。ちょっとトイレ行って泣いてくるから先教室戻っててよ春野さん」
「……悪かったよ。先戻ってる」

 ふらふらとよたつきながらトイレに入り、妙なものを発見した目で自分を見る男子を無視しつつ、宮内は洗面台に両手をついた。

「はぁーーーー」

 深く長い溜息。何だか一つ一つ無理やり希望を持たせられて、一々破壊されたような気分だった。前情報では恋愛巧者だったはずの春野サナがそうでなかったのが原因なのか、それとも宮内がダメだったのか。多分自分がダメだったのだと思う。なんか、もうちょっと上手くやればよかった。好意だけ伝えてしばらく傍に付きまとうとか、そういう手もあったんじゃなかろうか。あ、それはストーカーか。
 そもそも宮内自身はともかく、春野がそういう感じになっていないことは宮内にすらわかっていたことだ。なのに、つい焦って。

「うわあああああ」

 際限なく気持ちが落ち込んでいく。
 チャイムが鳴った。5限が始まる。森嶋が、もしかしたら春野さんも心配するかもしれない。宮内は沈む茹った麩みたいな気持ちをなんとか両手で抱えて、教室へ行こうと顔を上げた。
「おわっ!」
 鏡に、真後ろに立つ森嶋が映っていた。

「な、んだ。よ。森嶋かよ」
「……酷い顔をしてるな」
「ははは。笑えよ森嶋。この上ないほど無様なフラれ方をした男がお前の前に立っているぜ」
「笑えるか。……なんというか、悪かった。マジで告白するなんて思わなかったんだ」
「お前が謝る必要はないだろうよ。はは。俺が先走りすぎたんだよ。フライングだよ。競艇だったら返還モノだよ。若松競艇全選手フライングだよ」
「あー、その、泣きっ面に蜂というか、実は相談があるんだが」
「ん?」

 宮内は振り返って洗面台に腰を預けた。
 森嶋の鉄仮面を見つめる。

「あ、そういや相談乗ってもらってばっかりで悪かったな。何でも言ってくれよ。俺にできることだったらなんでもするよ」
「無闇にポジティブだな、お前」

 ポジティブ以外の何になれというのか。宮内は遠い目をして、走馬灯のように先ほどの顛末を思い出した。きっとこれは一生高校時代の恥ずかしい思い出として記憶に残ることだろう。

「すまん! またなんか俺言っちゃったみたいだなあ!?」
「いやいいんだ、いいんだ。いいんだよ森嶋。それで、相談てなんだ?」

 言い出しにくそうに森嶋は鉄仮面の奥の目を泳がせて、ゆっくりと口を開いた。その動作の一つ一つに宮内への気遣いが見て取れて、宮内は申し訳なくなった。散々迷惑をかけた俺を気遣ってくれている。宮内は自分にできることならなんでも森嶋のために捧げようとさえ思った。

「その、つい最近から悩んでいることなんだけど、宮内はアストライアーのことをどう思ってる?」
 つい最近も何も、アストライアーの話は宮内が森嶋に今朝した話だ。宮内は少し笑って、
「どうって?」
「なんていうかだな、自分を理解してくれない世界にたった一人残ったアストライアーはどんな気持ちだったんだろうか、と思ってさ」
「どんな気持ちだったか、って? んーと、要領を得ないけど、やっぱ悲しかったんじゃないかな。自分が理解されないって孤独じゃないか? 時々言葉の通じない国に一人だけで放り出される、みたいなこと考えるけどさ、んーと」
「寂しい?」
「いや、自分はいらない、って考えると思うな。孤独で、誰にも伝わらなくて……世界は自分を必要としてないと思う。少なくとも――別にそういう経験があるわけじゃないんだけど、俺はそう思うんだろうな」
「自分はいらない……宮内はそういう状況でもない限り、自分が必要とされていることを感じるのか?」
「そういうわけじゃないけど。別に社会に貢献してるわけでもないし。でも俺がいなくなったら困ることが一つくらいはあると思うんだ。家族が泣くとか、葬式に出るのがメンドイとか。
 地上に残ったアストライアーはそんな些細なことも感じられなかったんじゃないかな。理解してもらえないって、そういうことだろ? 理解するから、ってか理解しようとするから気にするわけで――」

 うおお、と宮内は唸った。そうか、そういうことか。感心した目で森嶋を見つめる。この男は俺より遥かに大人なんだなあ。
 春野サナはたった一人残されたアストライアーなのだ。誰にも理解されず、苦しんでいる。森嶋は宮内にフラれても尚アストライアーを理解するように努めろと勧めている。それは宮内だけのことを考えたら出てこない考えだが、全体の調和としては正しい選択肢なのだ。
 フラれた人間とフった人間は被害者と加害者に例えられる。当事者から見ればそう思えることもある種仕方のないことだ。だが、大きな視点から見れば被害者は加害者を気遣う必要があり、また逆も然り。なぜなら、加害者は被害者の一方的な想いを押し付けられた立場にあるからだ。
 フラれたからといって、宮内は春野の秘密を知ってしまったことに違いはない。宮内は腐らず、投げ遣りになることなく春野を理解しようと努め、またその秘密を決して他に漏らさないことを心に誓うべきである。それが誠意というものなのだ。
 と、感心する宮内を他所に森嶋は顎に手を当て、何か考え込んでいるようだった。

「……? なんだ、なにか悩み事か?」
「ああ。些か、上司の判断に疑問が残っていたんだがな。たかが寂しいと思っているだけの感情程度、気にする必要もないのかと思い直してるところだ」
「あん?」
「ちょっと協力して欲しいことがあるんだが、宮内。手伝ってくれないか」
「ああ。……ん? お前の悩みがさっぱりわからんが」
「それはいいんだ。解決したから。協力してくれることに感謝するよ、宮内」

 宮内は森嶋が何を言っているのかまったく理解できず、その手をずっと見つめていた。不思議なくらいにゆっくりと近づいてくる森嶋の手は宮内の肩に触れて。

「すまないな、宮内」

 ゆっくりと、宮内の意識は消えていった。それは前、機械の少女に気絶させられた時とまるで同じ感覚だったが、終ぞ宮内はそれを自覚することはなかった。
 佳境へ。



◆◆◆



 放課後。
 春野――千雨は、歯噛みした。朝冗談のように自分は甘いと口走ったが、この時心底その通りだと痛感したのだ。
 昼休みの後、結局宮内は帰ってこなかった。それどころか森嶋さえも戻ってこなかった。黒幕が近衛木乃香だったならありえないと思っていたのだが、現場の暴走か。それとも近衛が方針を変えたのか。民間人を巻き込んだらしい。
 魔法世界においてその人が民間人であるかの基準は魔法を知っているかではない。もっと複雑で、単一の項目で判断するようなものではないのだ。だから、と千雨は思い直した。宮内努を民間人――カタギでないと捉えるような基準があってもおかしくはない。ただ近衛がそれを採用することに違和感は付きまとう。やはり現場の暴走だろうか。
 下校、千雨にとってこの札幌の高校で最後の下校途中、下駄箱に手紙が放り込まれていた。宛先は「長谷川千雨様」。差出人は「青銅の騎士」。内容は、果たし状だ。

『貴女のご友人を預かりました。
 23時、野幌森林公園でお待ちします。
 ただしお一人でおいでください』

 青銅の騎士――三年前から協調するようになった関東と関西の間に作られたごく小さな組織、「黒羽」の構成員だ。日本人だが西洋魔術師。何よりの特徴はそのフットワークのよさ。ただ、それほど際立った魔法使いというわけではない、というのは千雨にとっての好意的な情報だった。
 だが問題は「黒羽」だ。そのトップには関東、関西双方にとっての重要人物が就いている。
 かつての「白い翼」の構成員。近衛木乃香。「旧世界の姫」の異名を持ち、旧世界最強とも言われる彼女は新世界の姫と対立し続け、またその勢力を拡大し続けている。「新世界の姫」アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアと並ぶほどの偏執的執着心を以って千雨を追い続けている張本人だった。
 千雨は周囲の生徒がぎょっとするほどの形相で、強い舌打ちをした。
 黒羽に千雨が捕捉されたのは明らかだ。いや、大勢としては半信半疑ではあったのだろう。同窓会の手紙で居場所が発覚するなんて間抜けにも程がある。千雨はそんなミスをするような人間ではないとハンター業界で目されている。
 だが、「青銅の騎士」は春野サナが長谷川千雨だと確信した。そして暴走し、その懸賞金と名誉を独り占めしようと企んだ。筋書きはこんなところだろうか。長谷川千雨の首にかかっている懸賞金と名誉は大抵の組織に所属しているというメリットを遥かに上回る。
 千雨は足早に学校を出て、家へと足を向けた。

「クソ。舐められてるにも程があるっつの」

 宮内を誘拐した。人質にした。つまり千雨がこの二日間付きまとったただのクラスメートをリスク承知で助けるとでも思っているらしい。冗談じゃない。さっさと逃げてやる。ざまーみやがれ。もう準備は済んでるんだ。
 何か勘違いしているらしいな。私はそこまで人道主義じゃねーぞ。リスクとメリットを比べられる白き翼の厳しさ担当だ。

「宮内なんか知らねーよ。むしろ私をイライラさせてくれた礼に苦しんで死ねって感じだっつの」

 宮内のことや追っ手のことなんか考えている場合じゃない。葉加瀬の提案のことで正直、頭は一杯だ。時間が経つにつれて全て見捨ててでも取り戻すべきじゃないかと言う考えが頭に浮かんできて、それを抑えるのが大変なのだ。まずチャムの顔を見なければこの思いは治まらないだろう。今の千雨にとってチャムは守るべき日常の象徴で、彼女を失いたくないと心底思えば葉加瀬の言葉もいくらか晴れるだろう。
 エレベーターに乗り、自分の部屋の階のボタンに拳を叩きつける。

「しかも何だよあの告白は。普通になんなのか解るまで時間がかかったっつーんだよ。舐めんなよ。天然紳士と散々付き合ったんだ。私の男を見る目は並じゃねーぞ」

 あれを基準にしたら一生男と付き合うことはできないのだろうが。
 千雨の男の交友関係は極端に狭い。麻帆良の小学校時代はぼっちだったし、中学に入っても男の知り合いは増えなかったし。逃亡中も誰かと深く知り合ったことはなかった。もう記憶の隅に追いやられた親類を除いたらネギとラカンに小太郎ぐらいのものだ。無論、ネットを介した知り合いならいくらでもいたが。
 ネギにラカンに小太郎。天然紳士と筋肉バカと筋肉バカ。男性観が偏るのも仕方ないだろうと千雨は自分に言い訳して、

「チャム!」

 部屋の扉を開けた。

「お帰りなさい。マスター」
「ああ」

 無表情。綺麗な顔立ち。美的偏差値の異常に高かった3-Aでも際立った美人といえば雪広あやかとエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルだが、密かに千雨は絡繰茶々丸もそこに加わるのではと思っていた。人形のような造詣の整い方に加え、妙な人間ぽさがあって、千雨は彼女の顔立ちが好きだった。
 髪はショートカットで、体も小柄で薄い肉付き。茶々丸の要望で差別化されて千雨のように吊り目がちなチャムだが、やはり茶々丸に良く似ている。関節や耳を完璧に隠して民間人に並べて見せれば十中八九姉妹だと判断するくらいにはよく似ていた。
 そんなチャムがいつものようにメイド服で丁寧に千雨を迎えて、千雨は歯を食いしばった。

「準備は」
「ほぼ済んでます。が、連絡待ちです」
「そうか」

 千雨は鞄を靴の片付いた玄関に落とした。意図せず握力が失われたようで、千雨自身、鞄が落ちたことにすら気づかなかった。ただチャムが不思議そうに重力に引かれた鞄を視線で追う。
 優しかった。

(優しかった)
「優しかった」
「は、マスター?」

 畜生、と思った。
 ネギ・スプリングフィールドは。絡繰茶々丸は。神楽坂明日菜、近衛木乃香、桜咲刹那、宮崎のどか、綾瀬夕映。勿論それだけじゃない。超一派も、運動部四人組も、四天王どもも、チア連中も委員長トリオも。報道コンビも、春日も早乙女も双子もピエロもエヴァンジェリンだって!
 優しかった。優しかったってのは軽い表現で、甘い奴らだった。いい奴らだった。いい奴ら過ぎて千雨は劣等感を感じて、いつしかその甘さに甘えて、その甘さに憧れて。
 優しかったのだ。誰も彼も困っている人を見捨てておけなかった。龍宮やエヴァンジェリンですらそうだったのだ。常識的に考えて奴らは余りにもいい人過ぎて、でもそれは常識よりも心晴れやかなことだった。

(畜生)

 誰も彼もが宮内を見捨てることができないことが簡単に想像できる。千雨は歯を噛み締め、天を仰いだ。
 千雨にとって3-Aは特別だ。あんなに嫌だった非常識だらけのクラスだけが千雨の居場所のような気さえしてくる。嫌いだった。自分が受け入れられないことが。常識が通じないことが。でもいい連中だった。誰か一人が困っていたら全員で悩んだくらいにいい奴らだった。
 千雨はあいつらが好きだ。

 今では失われた。
 同窓会一つまともに開くことができない。神楽坂明日菜は全ての記憶を失い、図書館組は死に絶え、近衛木乃香は決断してしまった。遺された四葉五月はそれでも残ったクラスメート達を集めようと招待状を配り、葉加瀬聡美はクラスメート達を取り戻そうと足掻いている。
 千雨は、不意に中学三年に進級した時の双子の音頭を思い出した。
 ――三年A組、ネギせんせー。
 合唱すればよかった。

 千雨は歯が欠けるほど、強く噛み締めた。くそ、色々ありすぎた、と思う。四葉五月の招待状が、葉加瀬聡美の電話が。チャムの顔が、皆の顔が脳裏をよぎって止まらない。宮内が、宮内は、いい奴だった。あいつらを思い出させるに足るほどいい奴だった。あいつらとは違ってまるで千雨みたいに普通だったが、千雨と違ってあいつらみたいにいい奴だった。
 泣き虫な千雨が、目元に涙を浮かばせる。チャムが心配そうに千雨に近寄る。大人になってしまった千雨が子供の千雨に侵食される。ネギが闇の魔法を会得した時流れた涙がまた涙腺に戻ってくる。
 そんな理不尽なことがあるかよ。
 二十歳にもならないガキが、理不尽に食われて。理不尽に失われる。
 そんな理不尽が許されていいのかよ。
 世の中は理不尽だ。努力したからって報われるなんて嘘だ。人を信じることを善と信じる奴から詐欺師は標的にしていき、争うことを否定する奴から強者は喰らっていく。理不尽すぎる。誰か守ってやればいいのに。
 それは千雨が抱いた、始めての誰のものでもない思いだった。
 あいつらを。
 3-Aの奴らを。
 理不尽に晒された奴らを。奪われた奴らを。
 守る何かがあっても、いいじゃないか。

 それは、唐突に千雨の中に芽生えたものだったが、それこそがこの世界のネギ・スプリングフィールドが遺したもの、そのものだった。

 千雨は、涙が毀れる直前にその雫を手の甲で受け止めた。

「チャム」
「はい。マスター」

 チャムが、縋りつくように千雨の首筋に顔を埋める。

「手伝え」
「御心のままに。マスター」



 午後11時。野幌森林公園。
 風がない。雲もない。澄んだ空気が上空の星空を輝かせている。
 千雨は単身、宮内の姿を探すために公園に足を踏み入れた。木の多い広い公園だ。その姿を探すだけでそれなりの時間がかかるだろう。
 この時間指定がそのことさえ考慮されていなかったとしたら、黒羽に思いっきりバカにした手紙を送ってやろうと思いながら、足を進める。装備はアンチグラビティーシステムのフィン六つに、ギメル・リング。それに七部衆を統率するための杖に原始的な魔力機構のない拳銃が一丁。これは魔力が完璧に封殺された時のための予備であって、五発のリボルバーに三発しか弾が入っていない。弾の調達方法がわからなかったからだ。

(寒いな)

 6月。梅雨の時期でそろそろ夏の気配が感じられると言っても、札幌の夜は寒い。天体観測にブルゾンを着てきていた宮内の姿を思い返し、自分もそれくらいの防寒具を用意してくればよかったと思った。流石に息が白いほどではないが、夏服のセーラー服一枚では肌寒い。一応羽織っているローブは通気性抜群で、防寒具としての意味は何もなかった。何せ夏の新世界で調達したものだ。
 広い公園だからか、明かりは点在している。その合間合間に立てば漆黒に包まれている。また、舗装された道を外れればすぐに暗黒の林の中に入り、月明かりさえ遮られている。
 千雨は人祓いの結界の薄い膜を感じた。完全な球形のその形を確かめれば、それほど広い範囲に張られた結界ではない。中心部は公園のど真ん中だろう。強い魔法使いであればあるほど人祓いの結界は大きくなる傾向にあるが、この感じだとそれほどでもない。まあ、少なくとも千雨より達者な魔法使いであるのは確かだが。
 「青銅の騎士」がこのような暴挙に及ぶのは完璧に千雨の想定外だった。校内で直接的な手段に及ぶと考えたからこそ、朝チャムに始末する、などと物騒なことを言ったわけで、千雨としては転居の準備が完了する23時には全てが終わっていることが望ましかったのだが。だが千雨にとっては自分の想定内で事態が終わることがひどく稀だ。

(宮内)

 灯りの集中する小さな噴水の前に宮内は座り込み、項垂れていた。意識はなさそうだ。その姿を発見したその場で千雨は一度周囲を見回し、暗闇に目を凝らして、諦めて宮内に近づく。
 学ランのまま、外傷はないように見える。まあ民間人を傷つけるとすれば犯罪者である千雨の方で、組織を後ろ盾にしている青銅の騎士が短絡にそういう暴挙に及ぶのはあまりないことだとは思っていたが、千雨はそれでもほっと息をついた。

「春野茶菜、長谷川千雨」

 千雨は周囲を見回した。林に囲まれた石畳の噴水。ここだけが灯りに照らされて、まるでスポットライトのようだった。
 ネットアイドルとして一度は天下をとった千雨だ。引退して久しい今でもこの程度の灯りで動揺はない。

「懸賞金200万ドラクマ。新旧両世界における最強の電子精霊使い。テロ組織白の翼の残党の内片方」
「演出過多だぜ、森嶋。タネは割れてんだよ。大人しく出て来い」
「良く解ったな」

 千雨の認識できないうちに、千雨が通ってきた道の上にその姿はあった。
 小柄な鉄仮面。森嶋がローブを羽織り、片手に細く短い杖を持って立っていた。

「あのなあ」
 千雨が呆れた声で応じたことで、森嶋が心底不思議そうな顔をしたことに千雨は頭を抱えた。どう考えてもこいつは新世界育ちで、旧世界に慣れていない。千雨は呆れたように森嶋の頭を指差した。
「いくら暗示があっても、鉄仮面をした高校生はいねえよ!」
「……?」
「わかれよ!」

 森嶋は、顔が完璧に隠れてしまう鉄の仮面を嵌めている。中世の拷問具のような頭の形に沿った仮面。鉄の鈍い黒一色の顔面から、狭いスリットで目の輝きと口元だけが見えるようになっている。
 それを聞いても不思議そうな顔をする森嶋に、千雨は溜息をついた。

「老婆心だが、新世界出身者に旧世界用の研修を組めって近衛に言っとけ」
「ふん。俺はレイシストではないが、姫に手配犯が意見するなどおこがましいと思うぞ」
「追っかけられてる方がハラハラするんだよ!」
「言っている意味がわからない」
「あー、マジで世の中って理不尽だ」

 特にバウンティ・ハンターは新世界の辺境出身者が多く、魔法さえかけておけば旧世界の民間人なんて楽勝と考えている奴らばかりで困る。たまにそういう類の魔法に強い人種がいるんだと声を大にして言いたい。千雨自身、そんな人種の一人だったから幼少から苦労してきたのだ。

「では始めよう。リーガル・マジック・スキル・エクサション! 光の精霊七人集い来たりて、魔法の射手(サギタ・マギカ)! 連弾(セリエス)・光の七矢(ルーキス)!」
「話無視かよっ! プラクテ・ビギナル魔法の射手(サギタ・マギカ)! 連弾(セリエス)・雷の十一矢(フルグラティオー)!」

 極端に短い杖を構えた森嶋と一瞬宮内の位置を確認した千雨の丁度中間で白と黄色の光がぶつかり合い、弾けた。
 千雨は宮内を放っておいて、噴水の裏側に回った。深夜でも高く上っている噴水の裏側に森嶋の鉄仮面が見える。

「やはり、聞いたとおりだ。七と十一で相殺。魔法力は低いらしいな」
「……テメーは聞いたのと違って常識がねーな。黒羽はまず倫理教育を頭にするって聞いてるんだけどな」
「なに、民間人を平然と巻き込むフリーのハンターよりはよほどマシだろう? 何せ宮内は寝かせてある」
「ハナから巻き込むなって言ってんだよ!」
 千雨は転がるように噴水の影から飛び出て、横の林へと駆けた。


「!」
 森嶋が驚愕する。パン。乾いた音を響かせて、突然自らの自動障壁が展開したからだ。目が落ちた拉げた弾丸を追う。実銃……旧世界の兵器だ。息をするように魔法を使う魔法使いにはまるで意味のない兵器。だがそれに気を取られ、気づいたときには千雨は真っ暗な林の中に駆け込んでいた。
 森嶋は軽い溜息をついた。失望に近い感情だ。数々の鉄火場を乗り越えてきたはずの長谷川千雨が小細工を駆使することで生き残ってきたのだと検討がついたからだ。魔法世界において小細工はそれほどの結果を残さない。圧倒的な才能こそが正義とされる世界だ。

「戦いの歌(カントゥス・ベラークス)」

 それでも栄誉は栄誉で、報奨金は報奨金だ。森嶋は全身に魔力が回るのを確かめてから、千雨を追って林の中に入っていった。


 二日前。宮内に飛んでいる姿を見られた翌日、千雨は登校して度肝を抜かれた。クラスの中に見たことのない鉄仮面男がいたのだ。
 その認識を誤魔化す暗示は強力なものだった。現に宮内などは森嶋を昔からいた親友と認識していたようだった。記憶操作の魔法すら使えない千雨にとっては羨ましい話だ。それはきっと不得手でも魔法の使い手である千雨すら誤魔化すはずの術だったのだろう。
 だが、千雨は3-Aメンバーにすら言っていないことだが、先天的にその類の誤魔化す魔法が利きにくいらしい。だからこそ麻帆良で散々苦しめられたのだが、この数年はその体質に感謝している。この類の稚拙な奇襲は読めるからだ。

「特殊術式「春の野に桜」リミット15無詠唱用発動鍵設定キーワード「電子の女王」大気よ水よ白霧となれこの者に一時の安息を眠りの霧、術式封印」

 体内からごそっと魔力が抜ける感覚。才能がないということはそういうことだ。取れる手段の数も回数も極端に少なくなる。サウザンド・マスターもネギ・スプリングフィールドも小細工を必要としなかったし、ネギを敵に回して小細工でどうにかできるとも思わなかった。天才とはそういうものだ。凡人の努力を無に帰することこそが天才の為すこと。

「っあ!」

 真っ暗闇の中、青白い光を漏らしながら千雨は「戦いの歌」の魔力を踵に集中し、ほぼ真後ろに方向転換した。遥かに多い魔力で以ってすぐそこまで近づいていた森嶋に肉薄する。森嶋は何一つの動揺も見せることなく指揮棒ほどの杖を振り上げた。

「電子の女王(エレクトリカルクイーン)、解放(エーミッタム)」
「風楯(デフレクシオ)」

 霧と風が反発しあい、緑と青の光が混ざり合う。千雨はそのまま森嶋の傍らを駆け抜けた。森嶋はその場に一旦立ち止まったが、溜息をついてまた千雨を追いかけた。

「電子の女王。情報の通りだな」
「テメーこそ風と光使い。通ってる情報のまんまじゃねーか」

 二三の木を挟んで、ぴたりと追ってくる。一気に距離を詰めてこない森嶋に千雨は感謝しつつも腹を立てた。距離を保つことが目的ではあるが、それを詰めてくればフィンでの方位掃射で一気にカタがつくというのに。その時に備えて、七部衆を全てフィンの制御に回してある。

「今日はいい星だな、宮内が乙女座の話をしてた」
「まさか口説いてるわけじゃねーだろーな」
「賞金首を口説く趣味はないなあ?」

 背後から魔力の気配。咄嗟にそこらの幹を駆け上るように宙を舞う。幹に一本の矢が大穴を開けた。森嶋が幹を迂回し速度を全く落とさず方向を変えるのを見て、千雨は舌打ちし、追われるまま駆け出す。フィンを使った攻撃に移行するには距離がありすぎる。

「そういやあんたの仮面、青銅製か? 妙に黒いんだが」
「鉄製だ」
「なんなんだよ青銅の騎士って!」
「鉄より評価がちょっと落ちるんだ」
「シビアだな黒羽の名前の付け方!」

 魔法の射手の詠唱。59矢。千雨は瞬時に迎撃を諦めて残る魔力のほとんどを足に注ぎ込んだ。59矢の射手。迎撃も防御も千雨の魔法では絶対にできやしない。

「ルーキス!」

 だがこれとて森嶋にとっては力量を量る一環でしかないのだろう。全力には程遠く、千雨の限界を見切られ、その底までを一気に曝け出させようとしている。
 噴水が見えた。59矢が放たれる。先行した二三本を木に誘導して撒きながら、転げるように千雨は広場に出た。森嶋が甲高く呻き声を上げて残る矢を反転させる。50以上の光の矢が石畳と泥に爪痕を立てた。
 千雨は前に転がりながら、器用に噴水の縁に足を乗せ、立った。風に縛った後ろ髪が揺れる。

「……宮内がいないな。しまった。そのまま撃てば良かったか。しかし結界で生体反応は検出できるはずだったが、そういえば使い魔は人形だったな」
「人形は遠からずだが、使い魔じゃない。従者だ」

 千雨は契約者カードを取り出した。

「召還(エウォコー・ウォース)・長谷川千雨の従者チャム」

 傍らに魔力の光が渦巻き、そこにチャムが現れる。それで、千雨の魔力は尽きた。魔力欠乏の前兆に足元がふらつくが、踏ん張る。本題はここからだ。

「不思議なものだ。例えどれだけ従者が優秀だろうとも術者がこの程度の魔法使いなら仕留めるのにそれほどの幸運はいらないはずだが、200万ドラクマとは」
「懸賞金は別に能力に対してかけられたわけじゃないからな」
「姫もそれほど注意しろとも言ってなかったが」
「そりゃそーだろ。私は白き翼最弱だ。近衛だったら指の一本で仕留められる」

 ちなみに、冗談ではない。指一本で放つ無詠唱魔法一つで千雨の防御は突き破られ、為すすべなく命を奪われるだろう。しかし近衛木乃香は旧世界最強の魔法使いと言われる存在。そこらの魔法使いと比較するとそこらの魔法使いが可哀想だ。

「なるほど。姫の指一本なら俺は全身全霊を賭けなければなるまいな」
「いや、手加減してくれると助かるな」
「捕縛が命令だが 」
「そりゃ参った」
「大人しく捕まらないか?」
「悪いが、切り札が残ってるんだ。チャム!」
「はい、マスター」
「解放(エーミッタム)!」

 瞬動で距離を詰めたチャムを、白い雷が襲う。連続瞬動で僅かに距離をとりながら雷を掻い潜り、チャムはそのまま体を宙で回し胴回し蹴りを森嶋の杖に見舞う。その瞬間、森嶋の姿が消えた。チャムもそれを追って消える。
 千雨は目を閉じた。一度深呼吸。無理な戦いの歌の行使であちこちが痛む。だが、チャムではプロの魔法使いにタイマンでは勝ちきれない。千雨の魔力が少ないため、チャムの武装は旧世界の兵器が基本となっていて、それが障壁を打ち抜くほどの力を持っていないことに気づくのにそれほどの時間はかからないだろう。
 鼓動が収まらない。これを使うのは久しぶりだ。更にもう一度の深呼吸で千雨は無理やり体を整えた。
 そして、

「コード77948522。呪紋回路解放、封印解除」

 僅かな偏頭痛から始まり、千雨の体を生理痛にも似た激痛が襲う。千雨は呻き声を堪えた。
 超鈴音の遺したものを受け取ったのは葉加瀬聡美だったが、それを受け継いだのは長谷川千雨だった。それは大した理由があったわけではない。葉加瀬聡美に助けを求めた人間の中で、最もそれを必要としていたのが千雨だった。ただそれだけだ。

「ラスト」

 暴れる呪紋回路の制御に七部衆を回しながらも、千雨は昼の葉加瀬の電話のことを思い出した。四葉五月の手紙を思い出した。31人、全員の顔を思い返した。それだけで激痛が不思議と傍観できた。笑う。もしかして、3-Aに一番愛着持ってるのって私じゃないだろうか。いや、全員が全員、自分が一番だと言うかもしれない。

「テイル」

 全身の魔力経路が青白く光り始める。骨が、神経が無理やりこじ開けられるような痛み。いや、葉加瀬に聞いた話では真実無理やりこじ開けているらしい。こじ開け、少しずつ削り、それを魔力として扱うことで魔法を使う技術。狂気の沙汰。だが凡人が天才に追いすがるためには狂気以外の何に縋れと言うのか。

「マイ・マジック・スキル」

 だがこの力に縋った時、千雨はネギを泣かせた。その時にはもうとっくにネギの歪み方に気づいていたはずの千雨なのに、またネギに逃しようのない重荷を背負わせた。それもまた一つの後悔だ。

「マギステル!」

 千雨は血を吐いた。足元をよろめかせ、噴水に足を突っ込む。水が熱を持った足と触れ蒸気を発した。指先の毛細血管が破裂して、十本の指が均等に真っ赤に染まった。
 目を開ける。口の中に溜まった血を飲み干して、千雨は歯を食いしばって空を見上げた。極端な魔力が目にまで周り、望遠鏡のように遠くの星が見えた。綺麗と思わないわけではない。だがやはり千雨にはそれを愛でる趣味が理解できない。回りを見渡せば、星より余程儚いものが溢れているのに、なぜそれを差し置いて空を見上げるのかがわからなかった。

「来れ雷精(ウェニアント・スピーリトゥス)風の精(アエリアーレス・フルグリエンテース)雷を纏いて(クム・フルグラティオーネ)吹きすさべ(フレット・テンペスタース)南洋の嵐(アウストリーナ)」

 ネギより、遥かに優しさのない風を引き絞るように細くする。左の真っ赤に染まった人差し指を照星に見立てて、腕を伸ばし、魔力の渦巻く右手を引いた。
 魔力を使ったガラスのようになった眼球が、連続で瞬動を繰り返すチャムと森嶋を捉えはじめる。右へ、左へ。千雨へ近づこうとする森嶋をチャムが蹴飛ばし、森嶋が放った魔法の射手をチャムが打ち落とす。狙うは、瞬動の「出」。森嶋もそれを解っているのだろう、中々隙を見せない。千雨が執った呪紋回路解放のことは見当がつかなくても、千雨が突如発生させた莫大な魔力のことは気づいているはずだ。
 ふ――と、千雨は笑った。電話では薫陶を受けたとかカッコつけたが、結局千雨は傍観者で、卑怯にしか拠り所のない半端者だ。だから、こういう手を躊躇いなく使うんだろう。
 竜尾返し。
 千雨は水飛沫を巻き上げながら背を向け、そのまま一回転しながら弓を引き絞った。

「解放(エーミッタム)!」
「雷の暴風(ヨウィス・テンペスタース・フルグリエンス)」

 奇しくも同じ魔法。森嶋も渾身の魔法であることは違いない。魔法組織のエリートらしい、素晴らしい威力。千雨が身を削ってすら捻りだした魔力と同等ほどはあったかもしれない。
 だが密度が違った。引き絞り、風をまとめて、槍のようにすらした暴風がぶつかりあうはずの森嶋の風を引き裂きながら仮面の少年の胸を貫いた。千雨はそれを確認してから、森嶋の風に身を任せた。エリートといっても、やはり違う。森嶋の風もまた、千雨のに良く似た鋭い風だった。

「マスターっ!」

 宙を舞い、血を吐きながらも千雨は笑った。何のことはない。自分を嘲笑ったのだった。



◆◆◆



「消えちゃえ」

 葉加瀬聡美は、公園の出口にぞんざいに投げ捨てられていた宮内努に記憶消去の魔法をかけた。長谷川千雨はどうも精神操作系の魔法に嫌悪があるらしく、基本魔法の記憶消去を覚えていないらしいが、魔法薬の手助けがあれば魔法を学んでいない葉加瀬にも簡単に扱える魔法なのだ。
 葉加瀬は機械式魔力センサーを見て、千雨のものと思しき強い魔力が消えたのを確認してから公園に踏み入った。人避けの結界はもう切れている。多分、術者は死んだのだろう。

 戦闘の痕跡はそれほど広い範囲にはなかった。木が抉れ、石畳が幾つも割れているが、本職の魔法使いなら復旧に手間はかからないだろう。尤もこの場にいた唯一の本職の魔法使いの死体は仰向けになって転がっていた。鉄の仮面をつけた少年。目を見開いたままで、仮面のスリットからまだ光を反射している。胸には細い穴が開いていて、背後に夥しい血が翼のように撒き散らされていた。
 葉加瀬は一瞬躊躇ってから少年の仮面に手を伸ばした。耳の横に止め具はあったが、鍵はかかっておらず、逆に外れないのが不思議なほど緩かった。
 森嶋の顔立ちは、小柄な体に合わないほど更に幼かった。葉加瀬の頭に速成人間のことが過る。戦闘型魔法使いとはつまり魔法世界における兵器でもある。時代を象徴するような魔法使いは旧世界における核兵器の扱いと同じだ。古い天才魔法使いが幾人も新世界では凍りつかされ、その数と質で国家間の軍事力争いが起きていることを葉加瀬は知っていた。

 世界は間違っている――。
 その言葉を言い始めたのは、誰だったか。3-Aの誰か。多分今はもういない誰かだったろう。最初にそれを言い出した誰かは、きっとそれが是正されることを望んでいた。だが今は既に諦念と共に吐き出されることの方が多い。今更、それをどうにかしてどうなるという。失われたものは戻ってこないのに。
 後悔に生きているのは何も千雨だけではない。葉加瀬はもちろん、結局唯一血腥い世界に踏み込まなかった四葉五月ですらそうだ。
 世界は間違っている。その間違いを葉加瀬は見出している。葉加瀬が大切だと思った人たちが後悔の中にしか生きれない、という間違いだ。

 千雨は、半壊して水の溢れ出した噴水の近くのベンチで、チャムに膝枕されていた。目元には腕が置かれ、壊れた眼鏡が水に浸っている。

「なんでいるんだよ」
「私の顔を見たいかなーと思いまして」

 千雨は酷く傷ついているようだった。白いセーラー服の胸元は血で赤く染まり、四肢が失われていないことが妙だと思うほどにそこら中がぼろぼろだった。だが声はしっかりと整っている。痩せ我慢だな、と葉加瀬は思った。理由は違うが、ネギと千雨はそういうところでよく似ていた。
 葉加瀬はチャムを挟んで噴水を向いた。水がだらしなく吐き出され続けている。

「お昼の続きを話しましょうか」
「見てわかんねーか。満身創痍だ」
「千雨さんは強情ですから、弱ってる時の方が説得しやすいかと思いまして」
「……チャム。私、寝るから適当に相手しとけ」
「はい、マスター」

 途端に立て始めた千雨の寝息を、葉加瀬はわざとらしいと思った。チャムを見ると、チャムは小さく頷いた。

「千雨さん。私、凄いことを言います」
「……」
「私を守るために。悪になってください」

 千雨の寝息が止まった。そのまま、葉加瀬は空を見上げた。指先で乙女座をなぞる。

「私は星が好きです」
「……」
「でもアストライアーはただのバカ女です。ただ最後に残ったってだけで評価されてる。意地を張るなら張り続ければいいのに。何一つ為せずに結局逃げ帰って。乙女座とか言って気取っちゃって」
「……」
「今、千雨さんのこと皮肉ってます」
「……」
「本当は、誰にも言わずに有無を言わさず歴史を改変しようと思ってました。でも、私じゃ無理なんです。戦う力も、言葉の力もない。それどころか改造カシオペアを動作させる魔力すら捻りだせませんでした。呪紋回路ってあれなんですか。普通に心が挫ける激痛なんですけど、良く我慢できますね」
「……」
「だから、千雨さんの力が必要なんです。お願いします。
 私、この世界が苦しいです。胸が張り裂けそうです。昔の仲間達がいがみ合って、いなくなって。辛いです。辛いんです」
「……」
「千雨さん、世界を救えなんていいません。私を助けてください。そのためだけに悪になってください」
「……」
「……用意してきた説得の文章は以上です」
「台無しだよ、このバカ」

 千雨は腕を下ろした。3-Aが誇る眼鏡トリオの残存二人が視線を合わせる。千雨はチャムの膝の上から葉加瀬の無表情を見上げ、葉加瀬は千雨の裸眼を見下ろした。

「条件がある」
「はい」
「チャムと七部衆も連れていけないなら、この話はなしだ」
「そういうと思って準備してあります。ボディーごとというわけにはいきませんけど」
「もう一つ」
「なんでも」
「何年かかってもいい。コタローと村上をくっつけるのを手伝え。……つーか、あっちのお前に手伝わせる」
「任せてください。これでも女心には精通してるんです」

 物凄く嘘だった。千雨は引きつった笑いをしたが、葉加瀬が真顔なのをみて笑いを引っ込めた。マジで言ってるんじゃなかろうな。
 千雨はチャムに手伝わせて、体を起こした。そのまま空を見上げる。魔力がどこかに行ってしまったからか、星が小さく見えた。だが、空は大きく見えた。

「あーあ、先生に嫌われるだろうな」
「そうですね」
「でも、お前を助けるためっていうなら仕方ないか」
「そうですね」
「体いてー」
「そうでしょうね」
「宮内のこと忘れてた」
「消しておきました」
「消すなよ! 折角逃がしたのに!」
「記憶をです」
「……」
「面白かった?」
「つまんねーよ!」
「私のこと、よろしくお願いします」
「ん……」

 千雨は笑った。作り笑いではない。

「任せろ」

 長谷川千雨が、世界を正す。



--------
というわけで逆行もの。宮内君はもう出てきません
今回の反省
・葉加瀬さん話長い
・千雨のキャラを見直し。もうちょっと女らしい?
・スピードが足りない
・葉加瀬はなんで千雨のこと下の名で呼ぶんだ

この話を書く上での僕のモチベーション
・千雨可愛い
・千雨もっと活躍
・千雨がんばれ
・でもあんま成長すんな



[11895] デイドリーム・ビリーバー 上
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72
Date: 2009/10/01 18:34




「……! 火星探査機か!」

 新世界、コロンビア・ヒルズ。通称カホキア。人のいない夜の草原に、テントが二つ並んでいる。その傍に焚き火を囲む三人の少女の姿があった。
 火星探査機という呼称が、いつから旧世界から新世界へと移動する現金の別称になったのか千雨は知らない。ただ、その多くは火星探査の費用という名目で迂遠な経路を巡って新世界にたどり着く。

「そうだ。火星探査機が現金……純金で輸送されることは知ってるな?」
「あ、聞いたことあるー! メガロメセンブリア銀行が一手に引き受けてるって!」
「いや、まあ……厳密に言やメ銀の外部団体なわけだが、北部が南部に比べて資金に恵まれてる原因がそれってわけだ。だが実際にゲートポールを大量の純金が通ってきているって話はない。火星探査機は存在も疑問視されることも多い」
「そのような不確実な情報を頼るつもりか」
「いや、火星探査機は実在する。さて問題だ桜咲。未曾有の経済打撃を受けたがすぐさま回復した半年前、旧世界で何があった?」
「……えと」
「テメエは新聞くらい読め。佐々木」
「マーズ・エクスプレス・オービタとビーグル2かな?」
「そうだ。どっからかの解りやすいくらいの援助と、まったく同じタイミングのどたばたした計画」
「しかし、それだけでは確定した情報とは」
「ま、アンタの言うとおりだ。確証があるわけじゃない。だが状況証拠で十分だ。色々探ってみたが、メ銀にはどっからか資金が注入されたのは確か。その金額はおよそマーズ・エクスプレス・オービタとビーグル2の計画の85%ってわけだ」

 バカレンジャーが一人にその予備軍二人で顔をつき合わせて、何をカッコつけてんだか。千雨は内心で自嘲しつつ、まだ思案を続ける刹那を見た。

「長谷川。しかし、それが実在したとしてそれを襲うというのは我々の方針から外れるのではないか?」
「いや。まだネタはある。よく考えろ桜咲。半年前、新世界が北部を中心に恐慌に襲われたタイミングを」
「……そうか。その時、ゲートポールは使えなかった」
「そういうこった。メ銀はゲートポールを隠匿してやがる。しかも連合の権力中枢に食い込んでるはずの完全なる世界がそれを気づいてないはずがねえ」
「! 見逃している!? いや」
「ま、普通に考えりゃ秘匿されてるゲートポールなんか奴らの目的には関係ない、ってところなんだがな。それでも、協力関係であるって可能性はゼロじゃねえ。ゼロじゃないなら、私たちには十分だ」
「……」
「……」

 もしかしたらそうかもしれないから、襲っておく。
 いいがかりだとか、詭弁だとか千雨自身そう思うが、逃亡し続けるテロ組織白き翼のNo,3として活動に最も必要なものを失うことなく、二番目に必要とされるものを効率的に得る方法がこれだった。
 刹那は、しばらく考え込んでいた。当然だと千雨は思った。白き翼は常識がないが倫理がある。その中にあって刹那はその両方を兼ね備える人間だ。だが合理的な思考も持ち合わせている。
 刹那は顔を上げた。その目には、一々口に出す必要もない決断が浮かんでいる。だが、その目が千雨の背後で止まり、苦笑する。

「フハ」
「あ」

 千雨は嫌そうに振り返った。二つ並んだテントの片方……彼女が我が侭を言って千雨に調達させた彼女専用テントの上に、小柄な吸血鬼が腕を組んで立っている。闇夜に映える姿なのだが、

「フハハハハハハハハ! いいぞ気に入ったぞその計画! まさに『悪』! 我ら白き翼に相応しいではないか!」
「……聞いてたのかよ、エヴァンジェリン」
「悪いのは天幕の横でべらべら喋っていた貴様だ、長谷川」

 千雨は頭を抱えた。ド派手好きの魔法好き。他のメンバーも含め、特にエヴァンジェリンにだけは聞かれたくない作戦だったのだが。
 メ銀の隠匿したゲートポールを強襲する。非常に地味な情報収集がキモとなる作戦だ。作戦自体も、ヒットして撤退。一撃離脱。エヴァの好まない地味なものになるだろうに。

「それに聞いているのは私だけではないぞ」

 テントの横に飛び降りたエヴァンジェリンの背後、エヴァの天幕から夕映が現れる。

「私は賛成できません千雨さん」
「……」
「それを刹那さんと千雨さんの二人だけでするのは、リスクが大きすぎます」
「あれ、ゆえちゃん私は」
「あんたも、リスクの向こうにメリットがあるとかいう考えの持ち主じゃなかったか、綾瀬」
「ですがリスクは軽減できます。時にメリットとデメリットの力関係を逆転させることもありますが」
「どーしろってんだよ」

 苦笑した千雨に夕映はにこりと笑って返した。

「私もお付き合いしますです。千雨さん」
「おいおい。あんたにゃ先生のお守りを頼もうと思ってたんだけどな」
「『お姉ちゃん』は大変だな? 長谷川」
「はっ! 放任主義の『お母様』のせいでな?」
「なっ!?」

 かっ、とエヴァンジェリンの顔が赤くなる。

「誰があのガキの母親だ!」
「……仕方ねえな。じゃあ、計画は組みなおすぜ」
「ちょーっと待つアル!」
「やかましい出てくるなバカイエロー! こら長谷川こっちを見ろ! まだ私の話が終わっていないぞ!」

 もう一つのテントから文字通り跳び出した古菲はくるくると空中で2回転し、まるで戦隊ヒーローのようなポーズを決めながら千雨の目の前に着地した。

「私だけ除け者はよくないアル!」
「だからうるさいといっておろーが!」

 あーあ、と千雨は気分を害したエヴァが殴りかかる古を見て溜息をついた。結局、全員に聞かれてしまったわけだ。頭をかりかりと掻く。
 一つ間違えば大損のリスク。であるからこそクレバーに動ける人間を抽出したつもりだったのだが。
 千雨の背中に、薄い胸が押し付けられる。

「うわっ」
「千雨ちゃん千雨ちゃん。いいじゃんいいじゃん」
「重いっつーの。どけ佐々木!」

 慣れない一時接触に顔が赤くなるのを感じる。千雨はぶんぶんと上半身を揺らしてまき絵を振り落とそうとするが、まき絵は絡みつくようにして離れない。

「ね、千雨ちゃん。皆で一緒にすればいいじゃん!」
「あ?」

 千雨は肩越しに顔を覗き込んでくるまき絵と目を合わせる。何を言っているか解らなかったのだ。にこにこ笑っているまき絵。

「仲間はずれはダメだよー!」
「……ああ。それなら、最初に話したのは先生だ。けどな、あのクソ真面目なガキが飲み込めるような類でもねーしな」
「貴様が説得すればよかろう」
「……あ?」

 エヴァンジェリンが微笑を浮かべながら千雨を見下ろす。

「貴様は白き翼の参謀なのだろう? リーダーをないがしろにするのは参謀がやってはならない最たるものだ。参謀は提案するだけ。いくら有効な方策だとしても参謀がすべきは提案のみ。決断まで担うことは、No,2の私が許さん」
「テメーでもいいだろうが!」
「最後まで責任を持て」
「グ……」

 千雨は、エヴァンジェリンの視線を逃れ、刹那と夕映の助けを求める。二人は文句はないと言わんばかりに笑っており、古とまき絵に最後の望みを繋ぐが、その顔もニコニコと笑っていた。
 はあ、と溜息。いつの間にやら、ネギの説得やら諌め役なんかは千雨の役どころになっていた。首を不機嫌そうに掻いて、千雨は立ち上がってテントに向かう。

「……ったく。知らねーからな! 説得できなくても!」

 エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル。
 長谷川千雨。
 桜咲刹那。
 古菲。
 綾瀬夕映。
 佐々木まき絵。
 そして、ネギ・スプリングフィールド。
 ――白き翼の最盛期の一幕だった。



◆◆◆



「千雨さん、千雨さん?」

 また夢か。掛け値なしの本気で千雨はそう思った。それとも高度な幻術か。そうだったとしたらトンでもない術者が隠れていたものだ。先天的な精神系魔術に対しての抵抗能力を持つ千雨にすらこれほど精巧な幻術をかける魔法使いの話すら千雨は聞いたことはない。
 だがその夢を見たいと、千雨は何度思ったろう。

「あ……」

 酷く懐かしい光景が、千雨の眼前に広がっている。突然視界の奥行きが広がり、その風に煽られ、千雨はよろめくのを堪えるのに精一杯だった。
 小さなネギ・スプリングフィールドの目が、千雨の眼を覗き込んでいた。至近距離。どちらかが動けば唇を触れ合わせることができるほどの近さ。互いの眼鏡が微かに触れ合う。僅かに鼻腔を擽る不潔な汗の臭いは風呂嫌いの――なのに水浴びは嫌いではないネギが常に纏っていたもので、付き合いは長い千雨にとっては不快なものではなかった。野生や男らしさが排されたネギの人格の上で、それを感じさせる唯一のものだ。だが、その臭いを感じたのも久しぶりで、ネギがこんな近くにいるのも久しぶりだった。
 千雨は思わず顔を赤くする。やばい動揺した、と自覚するもどうしようもなく、ネギの前襟を両手でそっと掴んだ。

「え、ちょっ」

 千雨は息が熱くなるのを自覚しながら、困った顔をしたネギの顔をゆっくりと引き寄せ、その高い鼻頭をそっと甘噛みした。千雨の唇が震えて、ネギの鼻も動揺している。
 困ったものだ。この朴念仁は自分からキスをするときも人からされるときも、困った顔をする。懐かしい気持ちになって。千雨は少し苦笑した。
 そのまま千雨は、――待て、待て。これは。

 ドゴッ。

 襟首を思い切り引き寄せて、ネギの頭を、目の前の机に叩きつけた。

「……」
「……」
「……」
「……」

 きっちり32人分の沈黙。広げられた千雨のノートがネギから出たと思しき赤い液体を吸い取っていく。和泉亜子が目を回してぶっ倒れた。隣席の綾瀬夕映が引きつった顔で自分のノートを持ち上げて赤い液体から逃れる。
 千雨は、周囲を見渡した。息を呑み、唇に僅かについたネギの汗を舐め取る。塩の味。
 夢じゃない。幻覚でもない。夢のような、夢と大差のない現実。
(……やべ)

 前の席には神楽坂明日菜と近衛木乃香が並んで座って、血を流すネギをぎりぎりまで目を見開いて凝視している。血の海に沈んだネギは千雨の記憶にある姿より遥かに幼く――最後に見たネギは、加速された空間における過剰な訓練によって千雨との年の差は二つほどまでに縮まっていた――小さく、華奢で。この頃は本当に頼り甲斐がなくて。そのままでいてくれたら、どれだけ悲劇が訪れるのが遅延されただろう。

「死んだ」

 誰かが、呟いた。本当に近しい人の突然の死に直面したかのような、声色から愛嬌が一欠けらも残されていない真に迫る一言だった。きょろきょろと千雨が見回すと、言ったのは双子の吊り眼の方のようだった。顔色は真っ青で、瞳孔が開ききっている。

「え、待てよ。死んではいないだろ」

 慌てて言い訳して、千雨はネギを見下ろした。
 心臓のすぐ横を石槍でぶち抜かれようとも、腕を吹き飛ばされようと、闇の魔法に侵食されてもラカンに全力でぶっ飛ばされても生きていたネギだ。千雨程度に木に塗装しただけの机に叩きつけられたところで。
 千雨は反射的に人差し指と中指を合わせ、ネギの首筋に当てた。

「……」

 こ、ぽ、と断続的な呼吸音が聞こえ、ネギの顔色が青を超えて紫も超えて赤に染まっていく。脈は薄まり、心臓の動きが徐々に遅くなっていく。
 さーっと千雨から血の気が引いた。
 タイミングが最悪だったとしかいえない。ネギ・スプリングフィールドが自らの戦闘能力に疑問を持ったのは修学旅行の後で、自分が魔法使いであるということに対して慎重になったのが二年の学年末試験の後。この瞬間は丁度その間隙。魔力抜きで身を守る術を知らず、魔力に頼りきるべきでもないとネギが思い直した丁度直後だ。
 勿論、千雨はそんな事情は知らない。千雨が知るネギは徹頭徹尾クラスメートを自分の力で守らないといけないと考えている強いネギの姿だった。千雨は、いやクラスメートのほとんどは弱く頼りないネギの姿を知らない。
 だが、その生命活動がどれだけ微弱かを確認した千雨は、口を半開きにしたまま咄嗟にエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルを見た。千雨と同じく口は半開きで顔色が真っ青。次いで龍宮真名に目を向ける。息をしろ、動揺するな。私以上に命の危機に慣れているはずのあんたが絶望してたら私はどうすりゃいいっつーんだ。

「……」
「……」
「……」

 千雨は、無言でネギをひっくり返し、首を上げ、気道を確保した。全身が弛緩して重い。呼吸はない。心臓に手を当てると、心臓も止まりそうだった。千雨は真っ青な顔で一度クラスを見回し、誰へでもなく深く頷いた。千雨自身が混乱しているのもあった。だが申し訳ないという気持ちも強かったのだ。
 誰ともしれず、息を呑み唾を飲む。
 千雨は大きく息を吸い込み、
 躊躇いなくネギの唇に顔を振り下ろした。

「っぷすー……うおおおおおおお! っぷすー……生き返れえええええええええ!」
「何してんのよ千雨ちゃんー! ちょ、保険委員保健室連れて来てよー!」
「あかんわー。保健室は連れてけーへん……」
「ていうか亜子!? あこー! 目を覚ましてー!」
「あわわわわわわわわっわネギせんせーがキス……それどころじゃないー」
「ええい代わりなさい千雨さん! ネギ先生に! ネギ先生の唇は私のものですわー!」
「あらあら、落ち着いてあやか」ゴッ。
「ちづ姉がいいんちょの鼻の右下に指を突き立てたーっ!?」
「ほほう……千鶴も手練アルが、千雨の判断も大したものアル」
「では拙者が保険室を連れて来るでござる」
「楓ちん、マジでできそうだからアレだよね」
「スクー……! いや、遺影かなー」パシャパシャ。
「っぷすー……起きろ先生っ! っぷすー……私を殺人犯にしてんじゃねー! っぷすー……っていうか何だよこの展開はーっ!」

 混濁。混迷。爆発。


「いやー、死ぬかと思っちゃいました」

 と、教壇の前で平然と言い放ったのはネギ・スプリングフィールドの九歳の姿である。平然と笑ってはいるが、Vゾーンは赤く濡れ、顔は真っ青で目は虚ろだ。鼻には丸めたティッシュが詰め込んであるが、まだ血が滴っている。一旦目を覚ました亜子はそれを見てまた気絶し、今は大河内アキラの膝の上だった。

「ちょっと千雨ちゃん、ちゃんと謝りなさいよ」
「うるせーな……解ってるよ」
「いや、女性にあんなに顔を近づけた僕の配慮が足りませんでした。気にしないでください長谷川さん」
「ぐ……」

 完璧に千雨が悪いことを庇われると、反発とプライドが重なり合うように苛々する。その雰囲気を感じ取ったか雪広あやかが立ち上がりかけるが、千雨の顔を見るやしおしおとその意気は萎れていったようだった。千雨の顔には、必死さの証か、ネギの血が大量に飛び散っている。初代スクリームレベルの大惨事だった。
 あやかは、小さく溜息をついた。

「とにかく、千雨さんに顔を洗いに行って頂いたらいかがでしょう、ネギ先生」
「あ、そーですね。でももうHRも終わりですので、いいんちょさん。号令をお願いします。あと和泉さんを保健室に」
「引き受けましたわ。では起立」

 反射的に――しかしそれは懐かしい反射で、千雨は立ち上がり、小さく頭を下げた。もう何事もなかったようにクラスがざわめく。それはこのクラスだけでなく麻帆良全体がそうなのだが、このクラスはやはりその最たる存在だろう。
 千雨は、それが昔は大嫌いだったことを思い出す。
 ネギが心配した明日菜と木乃香に挟まれ、立ったまま介抱されている。その光景を背後に、千雨は教室を出た。

「いやー、凄かったねちうっち」

 後ろからハルナに掴まる。千雨は瞬時にハルナを睨みつけた。が、振り払おうとはしない。

「別にわざとやったわけじゃねーよ」
「そりゃあねー? うふふふ。キスするために机に叩きつけるなんてそれどんなヤンデレって感じだもんねー」
「キスって、お前。あとヤンデレとかわかんねーよ」嘘だが。
「ありゃ?」

 不適に笑っていたハルナが、不思議そうに首を傾げる。

「ラブ臭が」
「するか!」
「じゃなくて、長谷川さんこんなに喋れる人だったっけ?」
「……」

 千雨は、ハルナを無言で振り払ってトイレへ向かった。
 放課後に入った直後だからか、まだひと気はない。いたらいたで、血だらけの千雨に慄かれただろうから手間が省けた、と思う。そういえば、トイレの場所を忘れていなかったな。
 千雨は洗面台の蛇口を思い切り捻った。手を洗面台の底に押し付ける。冷たい渦巻く水流。久々の感触も思い出す。比較すると、幾分柔らかかった気もする。千雨は、顔を上げて鏡を見た。

「はっ――」

 大して変わっていない。自分の三年も、大して意味はない。少しだけ幼い顔立ち。散々悪いといわれた目つきも、やはりこの頃からのものだ。体は少しは子供っぽいだろう。いや、体への配慮を忘れかけた三年後の方がバランスは取れていなかったかもしれない。
 耳に、喧騒が残っている。
 やばい、と思う間もなく、顔がニヤけた。咄嗟に顔を押さえつけ、水滴を顔に飛び散らせながら眼鏡を外し、体を反らして洗面台に背を預ける。

(すげー、すげーよ葉加瀬。やっぱ天才だなあんた)

 3-A。3-Aだ。ネギ・スプリングフィールドと神楽坂明日菜と近衛木乃香が一緒の空間にいるなんて、決して有り得なかった状況だ。ニヤニヤきめえな私は、と思いながらも千雨は声を出して笑った。

「ははははっ」

 三年後のネギが望んだものが、千雨の、四葉の、葉加瀬の渇望したものがまるでそんな価値は存在しないかのように平然と目の前に存在している。
 正直に言って、それは千雨にとって、三年後手元に残っていたもののどんなものよりも、あの世界だから救われたものより、そして三年後の世界で千雨が大切だったどんなものよりも尊かった。
 成程、超鈴音。お前の気持ちがわかった気がするよ。
 これに比べれば、矜持もプライドもどうでもいい。どれだけ他の不幸な人間に恨まれたところで構うものか。新たに得るものなんて、失ったものを取り戻すことに比べれば取るに足らない。
 だって、笑ってるのだ。
 笑顔を失ったように生きている奴らが、ここでは笑っている。
 ――それは、その人本人ではないのだけど。やはり本人だ。だって同じように考える。同じように笑う。その本人は他ならぬ千雨が全て消し去ったが、それを知るのは千雨だけなのだ。いや、千雨ではない千雨だ。
 ならいいじゃないか。千雨が辛いだけ。たったそれだけの代償で彼女達は、彼女達に似た彼女たちは笑ってくれるのだ。
 千雨は、決めた。
 どんなに辛かろうと、どれだけ長い戦いになろうとも。何度繰り返す羽目になっても。
 あれを、失わない。

 決めたんだから。
 だからか、だけどか。
 千雨は鏡をまた見た。平凡な眼鏡の少女。その顔を手で覆う。

「そんなに、恨みがましそうに見るなよ」



◆◆◆



 それは春の桜のような。
 夏の陽炎のような。
 秋の落ち葉のような。
 冬の雪のような。
 まるで流れ星のように儚げなものだった。



千雨の方法
一章 デイドリーム・ビリーバー 上



「千雨さんはのび太くんの出るアレで、欲しい道具ってなんですか?」

 こいつは、何を言っているのだろうか。何の脈絡もない唐突な葉加瀬を横目で見ながら、千雨はティーカップを傾けた。チャムの配慮でブランデーが足らされている。邪道かもしれないが、そんなん個人の趣味だろ、と千雨は思っている。千雨は、内部の思案を億尾にも出さず平然と応えた。

「独裁スイッチ」
「……」
「……」

 千雨とその傍らのチャム、それに葉加瀬がそれぞれ視線を交わす。葉加瀬は微妙な表情をしている。千雨は溜息をつき、聞き返した。

「あんたは?」
「もしもボックスですね」
「……」
「……」
 千雨も微妙な表情で、二人は顔を突き合わせる。葉加瀬がチャムを見上げた。

「……」
「……」
「私はドラえもんです」
「もー! 千雨さんたら、チャムに気を使わせて!」
「待てオイ! 問答無用で主従関係にヒビ入れんなよ! チャム! 私はあんたのこと道具なんて思ってねーからな! そっちも思う必要はねーんだぞ!?」
「お気遣いありがとうございます、マスター」
「さて本題ですが」
「何がしたいんだよ! つーか問題の時点で悪意が透けて見えてんだよ!」

 しれっと無視した葉加瀬は板についた白衣姿。千雨には視線を向けることすらなくカシオペアに接続したノートパソコン二基と睨めっこしている。大して千雨は8歳ほどの姿に変わっていた。エヴァの幻術薬がまだ千雨の手元にはいくつか残っている。18歳になってしまった千雨は変装するのにも、5歳では足りない。

「カシオペアの動作魔力は、千雨さんの体から引きずり出すとして」
「つーか、それ大丈夫なのかよ。あのネギ先生でも一週間飛ぶのにぶっ倒れたんだぞ」
「もちろん無理です。丸三年と半年ほど……ネギ先生が赴任する頃に戻るとして、今の三倍に出力を上げた呪紋刻印つきの千雨さんがえーと、741人必要ですね」
「はっ。そんな所だろうよ。で? 呪紋刻印の出力を2223倍にでもするか? 爪の一枚くらいは届くかもしれねーな」
「いいところ行ってますね。そこから発想を転換してもらいます。送還する絶対量の大幅な削減。つまり、情報だけをタイムスリップさせます」

 情報をタイムスリップ。その意味を察して千雨は顔を歪めた。

「待てよ、それって」
「はい。移動するのは頭の中身だけです」
「受け皿はどうするんだよ。肉体と違って情報なんてそこにあればいいって話しでもないだろ」
「勿論、私とかそこらへんの魔法生物でもいいですけど、ぶっちゃけストレスとアイデンティティーの崩壊であんまり保たないでしょうね」
「前置きはいい」
「三年前の千雨さんの脳内に書き込まれた情報を、今の千雨さんの情報で上書きします」
「三年前の私に死ね、ってことか」
「そういうことになりますねー」

 平然とした口調。これが偽悪的ならまだ救いはあったろうが、葉加瀬聡美はこれが素なのだから恐れ入る。怒りも恐れもどこかに置き去りにして、千雨は呆れた目で葉加瀬の後姿を見つめた。

「私的には、今の千雨さんが生き残ってくれる方が嬉しいんで」
「そっくりそのまま返してくれようか。私だけが残るっていう私の感情はどこ行くんだよ」
「そのために、チャムをつけます。七部衆もです。
 人間の脳の容量はどれくらいかご存知ですか?」
「確か、80テラだとか聞いたことあるな」
「そこまではないんですが、私たちくらいの年齢だと割と空いてるんで、そこに七部衆とチャムのデータを入れておきます。それをまとめて電子化して、機械処理的に記憶を上書きします。あっちについたら脳を直接操作して取り出してください。大丈夫ですよ、圧縮しておきますから、多分容量オーバーにはなりません。あと上書きとか書き込みとか脳組織が大分ダメージ受けますけど、逆に精一杯無理するだけ時間はかかりません」
「解った。テメーは私を人間だと思ってねえと思ってたが、人間を機械扱いしてるのが本当だろ」

 つまり、手順としてはこういうことだ。
 まず、千雨の脳にチャムの精神・経験のデータと、七部衆のデータを書き込む。
 次に千雨の脳を情報化し、取りだす。
 千雨の呪紋刻印を使って、カシオペアを起動。
 千雨の情報を三年前の千雨に直接上書きする。
 千雨は、そこからチャムと七部衆のデータをどこかに落とす。
 葉加瀬は千雨に振り返り、唇を尖らせた。

「もー。これでも他に方法はないか必死に考えたんですよ。もっと評価してくれてもいいじゃないですか。チャムのデータの解凍は魔力的な手続きですし、危険性もほとんどないんですよ。ちょっと頭の中にストレスがかかって痛いと思いますけど」
 極常識的な反論を千雨は飲み込んだ。
「……つーかよ葉加瀬。これだとこっちに私、残ることにならないか? 呪紋刻印の起動はしなきゃなんないだろ?」
「大丈夫ですよ。外科手術したら呪紋刻印は私が外部から起動できるようにできますから。脳のデータ化以降はもう眠ったまま、起きたら三年前の世界です」
「待て待て。データ化したら脳みそが消えるわけじゃねーだろ」
「それも大丈夫です。情報化でタイムスリップにかかる魔力を大幅削減したといってもやっぱり莫大ですから、呪紋刻印の出力を上げて、千雨さんは骨の一本も残りません」
「大丈夫じゃねーだろがそれは?! 私死ぬんじゃねーか!」
「いやー、哲学は疎いものでしてー。肉体と精神の死とコピーがどこかに生きているなら生きてるほうを優先してもいいんじゃないかなーって」
「軽すぎだろテメー! でけーなリスク!」
「まあ、リスクが大きいのは承知でしょう。それに」
 葉加瀬は振り返って、皮肉気な笑みを浮かべた。
「千雨さんに似た誰かが、私に似た誰かを守るってのも皮肉が利いてて、千雨さんも踏ん切りがつくでしょう?」
「ああ……まあ、そうだな。……けどそれは私の台詞であんたが言ったらダメだろ」
「千雨さんが結局歴史を変えられなかったらこっちで私はたった一人千雨さんをこの手で殺したって後悔を抱えて生きていかなきゃいけないんですから、いいじゃないですか」
「……」

 いや、自分のために死ねって言ってるぞ。しかも二人。それでお前は結局生きてるんじゃねえかよ。
 という罵倒をなんとか飲み込んで、代わりに息を吐き出す。

「いやー、リスク大嫌いだった千雨さんもリスクを飲み込めるようになりましたねー。流石は二代目千の刃」
「その名で呼ぶんじゃねえ!」
「まあまあ、落ち着いてください」
「人の神経逆撫でしといて何言ってんだ……まあいい。それで、三年前に飛べるとしよう。それから私はどうしたらいい」
「ご随意にどうぞ……って言ったら流石に丸投げすぎですね」
「つーかそれは私を殺そうとしてるとしか思えねーよ」
「まあ、私が私であれるのはカシオペアを使う直前までで、それからは千雨さんが変えた未来の私なんですから、私的には結果を待つだけなので。多分認識できないですけど」
「他人事みたいに言ってんじゃねー。方針くらいは出せ。あんたのことだ、最低ラインくらいは計算してんだろ」
「結果論から言えば、まず未来から来たということは隠し切ってください」
「……まあな、元から言うつもりはねえよ」

 それが超一派以外だったら馬鹿にされるだけだろうし、超一派だったらマークされる。共に未来を変えようとする同士、方向性として敵対するのは間違いない。いや、千雨の方針としては積極的な敵対こそが「現在」を変化させる第一条件だった。

「それに、未来から来るという状況だけでその目的は知れたもんだ。超の目的みたいに大掛かりなモンじゃない。私が目指すのはもっと地味で、長い活動だ。隠匿しきってみせるしかねーだろ」
「3-Aのメンバーを舐めないでください。三年前の千雨さんはただの中学生ですが、当時から既にクラスに一流はごろごろいました。ごく僅かな情報でも悟られる可能性があります」
「いや、それは流石にねーだろ。活動の幅も狭まるし、もっとフレキシブルに」
「特に、超さんです。人づての情報を統合して、当たりをつけてくる可能性があります。……というか、私の考えられる限り超さんにバレるのは一種しかたないことですね」
「待て待て。やる前からそれはどうなんだ」
「そのレベルの慎重さが必要ということです。超さんほど慎重な人もいません。あの人は、最後の最後まで全て計算上で事を済ませたのだと思います。或いは、私たちへの感情移入の具合すら計算の内だったかも知れません。自分以外に未来から来た人間がいる、ということも当然想定しているでしょう」
「……」

 それは、千雨の目指す姿そのものだった。
 千雨にはたった一つの未来図を引き、それだけに邁進することはできない。その周囲に張り巡らされたもしもの世界を一つ一つ計算し、リスクを調整しながら大枠を乗り越えていく。それが千雨にできる精一杯のことだ。望んだ最大限の成果が出ないことは当たり前。予定外の事態を出来る限り対応できるように整えておく凡人の所業。その努力の量からすれば、たった一つに進むことのできる人間はまさに天才だと言える。
 千雨は天才に遠く、超もそうだろうと千雨は考えている。だからこそ、最大限の努力をするその姿こそが千雨の目指すものだ。
 いかん、と千雨は頭を振った。どうも超の話を聞くと、天才と凡人の差に執着しがちになる。

「加えて、心配事が一つ」
「なんだよ」
「未来を変えるために来た、とばれた時、その手法を求めた人間が殺到し、周囲は敵だらけになり、千雨さんは孤立します」
「賛同を求める気なんて更々ねーな。昔のお前にも否定されるかと思うと複雑ではあるがな」
「そこで」
「いらねーよ」
「はい?」

 既に葉加瀬からは言い訳を貰っている。葉加瀬が自分のためではなく、ネギのためでなく、葉加瀬のためという悪役を担ってくれなかったら、千雨は過去に行くことはできなかっただろう。未来のためでなく、何かのためでもなくクラスメートのためという名分があるから。
 それだけで頑張れる。
 強がりでなくそう思う。

「十分だろ」
「そうですか」

 一度、葉加瀬は目を伏せた。

「想像以上に辛いと思いますよ。誰も理解してくれないのは」
「チャムがいるだろ」
「そうですね。ではあとは……ネギ先生への対応は、当然千雨さんに任せるとしまして」
「……まあ、いいけどな」
 葉加瀬よりはネギのことに詳しい自信がある。
「最初の方針として――」



◆◆◆



(目立たない。目立たず、そのまま誘導し、できるなら言動すら変えず、未来を読めるようにし、肝心なところを締める)

 初期鋭敏性。僅かな影響が、どうなるか解らない。よかれと思ってしたことが返ってくることが考えられる。そして、一度変わった過去はもう不可変。

(ってヤベー。いきなりやっちまった)

 少なくとも、麻帆良にいた頃千雨がネギを流血させたようなことはなかった。
 まあ、過ぎたことは仕方ない。それに、この程度のことは日常に紛れてしまうだろう。麻帆良にはそういう力があるのを、千雨は知っていた。

(できるなら、新世界に行く話になった時点で魔法に気づいている数を減らす。可能なら、新世界に行く話自体を潰す。……だがこれは無理だな。紅き翼との接触を封殺しなきゃならねー)

 この頃のネギの行動基準は父、ナギ・スプリングフィールドにあるはずだ。そこからエヴァに、京都の近衛詠春に繋がり、麻帆良祭のアルビレオ・イマとの戦いに至る。アルビレオと邂逅すれば、新世界に行くことになるのはいかな知識がある千雨にとて止められないだろう。
 だから、新世界に赴いて、その時点からの全体の動きを統制する。それを第一目標とする。それまでにネギの信頼を得て、片腕となり、そして。

(超。お前を、ネギ先生に倒させるわけにはいかない)

 どんな手を使ってでも、あの破綻の発端となった超とネギの戦いだけは防いで見せる。超の計画をネギに止めさせることだけは出来ない。ネギにエゴを許させる。ネギだけに原因があるわけではないが、それはネギを救うための最低条件だ。いや、ネギも救われていなければ世界が辛いと言った葉加瀬のための。
 そのために、極秘裏に全てを進めてみせる。超を御し、或いはこの手で殺すための戦力を整え、奴に自分をそういう存在だと認識させる前に全てを終わらせて見せる。
 だから。

「どうもすいませんでした、先生」

 どう見てもおざなりな謝罪にもネギは笑顔だった。代わりに目を吊り上げたのが明日菜だ。

「ちょっと千雨ちゃん!」
「まーまー、アスナ。ネギくんがこうゆーとるんやから」
「いえいえ、僕は大丈夫です。千雨さん。こちらこそ配慮が足りませんでした。すいません」
「……ええ、まあ。……じゃあ、帰っていいですか」

 顔がニヤケそうになるのを自制し、千雨は必死に素っ気無く言った。
 不満そうな明日菜の顔を目に焼き付けながら、千雨は教室を出ようとした。その時、ネギが千雨を呼び止める。

「千雨さん」
「……なんですか」
「気をつけて帰ってください」
「はい」

 千雨は、今度こそ教室を出た。まだ残る教室のざわめき。騒いでいるのは運動部四人とチア、それに双子だろうか。さよのことは、あえて考えないようにした。

 校舎の外に出る。すぐ、遠くに世界樹が見えた。春先の甘い風は、学園都市中を駆け巡って様々な匂いが交じり合っている。千雨は思い切り息を吸い込んだ。懐かしい麻帆良の風。まるでネギの風のような麻帆良の風。視界が色鮮やかに見える。
 桜の季節だ。千雨は真っ直ぐ桜通りへと向かった。洒落た石畳。遠くから響く麻帆良の無茶な喧騒。星を愛おしいと思わない千雨がそんな些細なもの全てに感動しているのは、それが儚いものなのだと気づいたからだ。あの夏休み。空港にほんの気紛れに近いもので向かったあの日以来の麻帆良学園都市だ。千雨にとってはファンタジーであったが、リアルな日々の思い出。その頃はまだ世界は笑いに包まれていた。3-Aでただ一人仏頂面だった千雨が言うのだ、一人残さずが笑っていた。だがそれを千雨とネギは永遠に失った。永遠とは連続的に進行していく時間のことであるとすれば、千雨とてそれを取り戻すことは不可能となった。いくらやり直そうとも、あの頃の笑い声を取り戻すのは無理だ。何よりも、千雨が時間を逆行したことで千雨にとって大切だったものも、大切になっただろうものも全て失った。もし取り戻したと錯覚するほど近い結果が出たとしても、それはただの近似でそのものでは決して有り得ない。
 千雨は桜通りのベンチに腰を下ろし、口元を一文字に結んで桜の並木を見上げた。

 真の善人とは、一つの小さな罪で永遠に幸福を失う者である。
 千雨は悪人に近い。満足させる自尊心も貫くようなプライドも持たない、外道。だがそれでも自分が一生幸せになれないことは解っていた。誰かを不幸にした人間はそれを胸に一生抱き、自らが幸せを感じた瞬間に不幸にしたことを思い出し、永遠に幸福を感じることがない――無論、人は忘れる。だがそれこそが人間の倫理の最終形だと千雨は考えている。そういう人間は、自分が幸福を失うことを恐れるからこそ他人に不幸を押し付けることがない。
 千雨の罪はとてつもなく大きい。過去に来る、ということは今を消すことに他ならない。三年後の世界で幸せを掴んでいた人間が、夢見ていた子供が、千雨に消された。罪は善意によって帳消しにされることはないが、もしこの世界で千雨が奇跡を行使し世界の人々が一人残らずかつての世界より幸福であったとしても、既に千雨は罪を犯している。
 14歳の千雨は、少なくとも千雨が殺した。
 だが、14歳の千雨が突然見舞われた不幸を以ってしても、千雨の気持ちは拭えない。

(あーーーー)

 幸せ。信じられないほどの、突然手元に転がり込んできた幸福。それが失われた瞬間全てが破綻するほどの大きさのもの。
 それが千雨の手の中にある。
 少しでも、長く。自分がここにいる理由すら忘却してしまいそうな高揚する心に、身を任せて眼を閉じてしまいたい。
 いつまでも、この夢の中に。

(待て待て。それじゃあ、何のために来たんだか)

 頭を振ると、脳髄に僅かな偏頭痛を感じた。これが葉加瀬の言ったチャムのデータを脳髄に直接書き込んだ代償だろうか。思ったより痛みが軽くて千雨は安心した。呪紋刻印を使用するときよりは遥かにマシだ。
 千雨は合わない焦点をなんとか現実に合わせようと頭を振った。
 ネギへの態度をかつてを思い出しながらのものに変えるのは、きっとストレスが溜まるだろう。だが千雨が極端に態度を変えることに引っかかる人間がいるのなら、そうせざるをえない。ネギへ、かつて3-Aとなった初期の頃の態度を思い出しながら接触するべきだ。既におぼろげな記憶。だがネギに特別な興味を抱くようになったのは麻帆良祭、アルビレオ・イマとの戦いを経てからだという記憶があった。それを頼りに、かつてを踏襲するように繋がりを排する。だが少しずつ前倒ししていく。焦らず、徐々に信頼関係を構築していく必要がある。
 ネギへのことだけじゃない。超に対抗する戦力を整えること。情報収集環境の整備。まず活動資金の調達からやることは山ほどあった。いくら時間があると言っても――。

「…………ん? 待てよオイ」

 思わず思案を口に出しながら、千雨は半目になって口元を吊り上げた。
 何かが、おかしい。いや何かがとかそういうレベルじゃない。
『ネギ先生が赴任するより前に』
 そう葉加瀬は言ったはずだ。手っ取り早い資金調達方法から始まり、前段階の準備。ネギとエヴァンジェリンの争いから修学旅行の段取り。葉加瀬から与えられた行動の指標は年始から指定されていた。いつまでに如何に秘匿しながら準備を進めておくかのタイムテーブル。
 例えば、有馬記念を1-2-8で全財産注ぎ込め。もしくは東京ダービーで――。いや、そんなことはどうでもよく。
 明らかに、ネギ先生がいた。しかも3-Aだった。三年生だ。

(おいおいおい。これはどういうことだよ葉加瀬)

 何せ桜が咲いている。いくら麻帆良といっても正月に桜が咲くわけはない。むしろそういうのを積極的に否定するのこそが麻帆良の風潮ともいえる。

(これは、もしかして浸ってる場合じゃねえな)

 予定がずれたなら、それにあわせた新たな予定を組む必要がある。
 随分と桜を見上げながらぼけっとしていたらしい。千雨はすっかり夜も更けた空を見上げながら立ち上がった。余裕は少しも許されないようだ。まず情報を集めるために部屋に帰ろうとベンチから重い腰を上げた。
 春なりに風は涼しいが、薄着の制服のままでも辛いほどではない。満開の桜ながら散る花びらは多く、浸っている場合ではないと一瞬前に考えたにもかかわらず千雨は眼を細めた。頬に、小さな花びらが当たる。
 千雨は、ライトアップされた桜並木を見上げた。


「25番。長谷川千雨」
「……よお。散歩か? 夜桜にはちょっと早いと思うんだがな」


 葉加瀬の意向か。超のものか。奇跡的な確率を潜り抜けた偶然か。それとも千雨に覆しきれないなにかなのか。
 闇の福音。人形遣い。悪しき音信。童姿の闇の魔王。
 光を飲み込み闇を祓い善意を殺し正義を殺し大儀を殺しあらゆる夢を噛み殺しそれをただ悪意によってのみ行う最高にして最悪最低最強の吸血鬼。
 そして数年後には白き翼の副将。呼ばれる時は唯一つ、「魔王」
 エヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェルが、千雨を見下ろしていた。

 千雨は、凍りついた。どういうことか。いつもなら光のように把握するはずの観察力まともに働かないことに困惑する。

「ふん……察しの悪い女だ。まあ、いい」
「昔っから鈍感でね。それで、一度も喋ったことのない奴に、そんな高いトコから何の用だよ」

 それでも軽口を返し、エヴァンジェリンから視線を外すことなく、千雨は退路を探し、更に懐かしい携帯電話をちらと確認した。
 四月八日――。
 迂闊だった。何も考えてなかった。しかし、これはいくらなんでも私のせいだけじゃないんじゃねーか?
 三年の桜の季節。その頃にエヴァンジェリンさんがクラスメートを襲い始めるから気をつけてください。
(おいおいおい。私も迂闊と言われりゃそーだが、あんた程じゃねーな、葉加瀬)

「私も別に貴様を狙おうとは考えていなかったのだがな。先ほどはヒヤリとさせられた。そうだな、これは八つ当たりだよ。あのボーヤは私以外に殺されてはならないのだとようやく気づかされたのだからな」
「何言ってんのかさっぱりだな。ネギ先生のドタマを机に叩きつけたことの話か?」
「貴様のような奴には想像もできんだろう。気にするな」

 やばい――千雨は、歯噛みした。
 この時代で千雨が守るべきルール。それを破れば千雨の目的が頓挫するほどの極基本的なルールである、自分が未来から来たことを悟られてはならないということ。言葉にすればたった一言だが、それは凄まじい数の条件が派生している。一々文章に書き表すことができないほどだ。
 例えば、長谷川千雨が突然変化しないこと。
 交友関係、行動、発言。その全てを可能な限り三年前の自分のことを思い出しながら踏襲すること。
 だが基本的な行動方針の中にはこんなモノがある。エヴァンジェリンに血を吸われないこと。まず第一目標の代替である大停電その日の絡繰茶々丸の一つ前のボディーの入手が為せなくなるからだ。大停電の日、エヴァンジェリンは血を吸って使徒としたクラスメートを操り、ネギにぶつけている。
 だから、この時、千雨は歯噛みするしかなかった。
 千雨が持つ唯一の力である呪紋刻印を使用することなく、この場を切り抜ける必要があるのだ。いや、使えないのは呪紋刻印だけではない。三年の間に蓄えられた経験の一つ一つも使うことはできない。中学三年になったばかりのただのネットアイドルだけでこの状況を脱する。
 いや、そもそも今となっては呪紋刻印は気軽に使えはしない。たった三回。大事に使わなければ。
 つまりこの場を脱するのは無理だし、もし奇跡的であろうともそれができたらエヴァンジェリンは千雨に目をつけるだろう。奇跡的にここを脱し、記憶操作を自ら受けに行く。方法はそれしかないように思えた。
 だが、それだけの奇跡を望み、それに邁進し、得てしまえるのは天才だけだ。

「あー、あれか? 無口な生徒の秘めた担任教師への想いとかいうやつか? それは悪かったな。別に狙って殺しかけたわけじゃねーし、あんなガキへの人工呼吸をキスだとか思わないから気にすんなよ」
「違うわボケ! 誰があんなガキに懸想するか! そんなのは世界中探しても雪広あやかと宮崎のどかくらいのものだ!」

 いや、意外といる。そんな場合でないと解っていても千雨は明後日を見上げた。結論から言えば、29人。逃亡中もこつこつ数を増やし超鈴音と四葉五月を除いた全員と仮契約した男のことを思い出す。少なくともその三分の一程度はマジだった。

「……長谷川千雨。貴様、そういう奴だったのか。二年は近くにいたはずだったがな」

 どこか呆れたような、感嘆したようなエヴァ。
 げ。
 この時代の千雨がどんな奴だったか、再現できていないのだろう。そういえば、とハルナにも言われたことを思い出す。ようやく基本的な問題に千雨は気づいた。高校三年にもなる散々天王山を潜り抜けてきた女に、ただの厭世的な中学三年生の少女の真似なんてできるはずがない。それが例え昔の自分だとしても。千雨は慌てて口をつぐんだ。
 待てよ、それってすげえ本末転倒じゃねえか。
 初期値鋭敏性。当然だが、その誤差が大きければ大きいほど予測される未来に誤差は生じる。

「なんだか、ジャック・ラカンを髣髴とさせる奴だな……」
「どっ!?」

 どこがだよっ! と怒鳴りつけるのを必死で自制し、千雨は盛大に引きつらせた顔を隠すため俯かせた。頭脳と肉体。理論と感覚。女と男。非戦闘員と戦闘員。ツッコミとボケ。あのチート筋肉と千雨に共通点はほとんどないはずなのに、白き翼の長谷川千雨といえば紅き翼のジャック・ラカンの直弟子とか、生まれ変わりだとか言われてきたのだ。噂が先行して、白き翼を眺め回して筋肉だらけの女を捜そうとしたハンターもいたくらいだった。

 エヴァは千雨を訝しげに見下ろしたが、やれやれと頭を振って、やけにゆっくりと飛び降りた。柔らかな風に撒かれ、マントが揺られる。美しい少女。千雨はオタクなりに未完成の美しさにそれなりの見識があったが、常々エヴァンジェリンは現実にも関わらずその追求された到達地点の一つだと思っていた。
 ああ、綺麗だな。と極自然な心の動きで思う。闇と桜を背負った小さな吸血鬼がただ飛び降りると言うだけで、一瞬未来の全てを忘れてしまうほどにそれは切り抜かれた絵画のような美しさがあった。
 重さを忘れたように、エヴァは千雨のすぐ近くに着地した。

「悪いが――おい」

 それはそれ、これはこれ。千雨は必死の形相でエヴァの着地と同時に走り出していた。
 千雨は何のためでもなく葉加瀬のために過去に行くと決めてから、それは他の理由ででよりもずっと千雨の心にかかるリスクは小さかったものだが、それでも枷をかけた。
 自分のためだったら、或いはネギのためなら、手を抜いたかもしれない。それほどまでに千雨は自分を軽視していたし、ネギを自分に限りなく近い存在だと思っていた。
 だがそれが葉加瀬聡美のためだったら、千雨に怠慢はほんの一欠けらほども許されない。それは数少ない友人への不義理であり、千雨の目的に逆行するものであり、絶対に許されるものではない。また千雨自身にとってもそれはモチベーションを維持する第一の理由にもなった。
 だからこの時千雨は、これを失敗した時どうやって不利益を補填しようか考えながらも、全力を注いでエヴァンジェリンから逃亡することを選択した。

(下策だけどなあ!)

 やれやれと呆れたエヴァンジェリンが空を這い、気も魔力も使えないただの中学生を追う。
 魔法――戦いの歌か、気を使えない限り、人間は魔法使いに足の速さで敵わない。それはオリンピックの出場選手ですら敵わない。そして魔法使いの中でもその単純な出力は魔法量に左右される。魔法力の量は努力で増やすことは出来るが、伸び量はごく一部の特権階級から見れば些細なものだ。平均的な魔法使いが魔力を増やすことに半生を費やしたとしても、天才と称される魔法使いには遠く及ばない。それだからこそ、魔力に恵まれた子供はただ天才と呼ばれる。
 エヴァンジェリンは弱点を除いてしまえばありとあらゆる面で人間を遥かに上回る吸血鬼。しかもその最高峰に位置する。例えこの瞬間はその力の大半が封じられていたとしても、その技量は卓越しており、またその来歴から強大な魔法使いに欠如しがちである少ない魔力の効率的な運用にも高い見識を持つ。
 だから、その時のエヴァンジェリンの速度は、凄まじいものだった。

 五歩。飛び込もうと思った横の藪にも届かない内に、千雨の後ろ襟が掴まれた。経験があるといってもそれは誇るほどのものでもない。千雨は演技も忘れて尚、咄嗟に振り返った。
 積んだ。
 嫌味なくらい冷静な千雨の一部分が、このミスを取り戻す方法を計算し始める。どうやってチャムのボディを手に入れるか。葉加瀬を引き込むか。
 だが、まだ積んでいなかった。積んですらいなかった。

「あ、が?」

 エヴァンジェリンは、千雨の首筋には目も向けず、口の中に四本指を突き入れ、千雨の頬肉を鷲づかみにした。きゅっと頬肉が摘まれ、痛みが脂肪に緩和される。
 呆然として千雨はエヴァンジェリンを見下ろした。無表情……いや、つまらない仕事でも押し付けられたか、心底のどうでもよさそうな表情。見慣れていたためか、僅かな愉悦を発見する。
 血を吸うんじゃないのか?

「心配するな」

 頭から、地面に叩きつけられた。泰然とした、慈悲に溢れる聖女のような微笑のまま、エヴァンジェリンは千雨を後頭部から地面に叩きつけた。眼鏡がツルから折れ、どこかに飛んでいく。
 意識を何の躊躇いもなく一瞬手放しかける。千雨には今、自分が何をされたのか理解できなかった。視界が真っ赤になり、石畳に擦り付けられるように叩きつけられたからか、後頭部の髪の毛が血と共に石畳にこびり付く。どういう技法か、頭蓋骨をそのまま衝撃波が貫き、脳髄を直撃したような痛みの響き方だった。

「後で、綺麗に治してやる」
「ひ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 衝撃から遅れて、ようやく目の奥から血が噴出したような痛みが千雨を襲った。背骨が軋むほどに背を反らせ、僅かな冷静とも言えるような部分が気道を全開にする。しかし口の中にエヴァンジェリンの爪が突きたてられ、ホースから漏れ出た血が気道にぶち当たった。
 なんだ? なんだ? なんだ?
 なんだ、これは?
 目尻が千切れるかと思うほど千雨は目を見開き、渾身の力で口腔に侵入しているエヴァの手を子供のように掴んだ。街灯は遥か上。陰になってエヴァンジェリンの顔は見えない。だが真っ赤に染まっている千雨の視界は人を人と認識するような能力も残っていなかった。
 ゆっくりと、エヴァは千雨の頭を持ち上げた。もがき体をうねらせる千雨にはどうしようもない程の強靭で完璧な力。千雨は、絶望の眼差しで子供のように首を振った。

「傷は癒す。記憶も消す。だから、悪いが」
 ほんの僅かにも悪びれず、笑いながらエヴァは言う。
「少々躾けが必要なんだよ、長谷川千雨。刷り込ませて貰う。この類の精神魔法は得意でないし、魔眼は永続的ではないのでな、原始的な方法になるが」
 またエヴァは千雨の後頭部を石畳に叩きつけた。血痕が石に広がる。
「は、がっ!」
「ネギ・スプリングフィールドに手を出すな」
「え、ひ、や」
「ああ、別に同意を求めてるわけじゃない。貴様の意見も、意向もいらないんだよ。それを貴様が明日まで維持することはないのだからな。だから唯一つ。ネギ・スプリングフィールドに対し一切の害意を持つな、ということだけを自分の中枢に刷り込め」
「あ」

 朦朧とする意識の中で、エヴァの金髪の色とその声だけが情報として千雨の中に流れ込んでくる。更にもう一度叩きつけられれば、既に痛みは感じなくなって、眠気にも似た曖昧さが目の前を漂い、胸の中に吐き気を溜め込んでいるだけになった。
 だが、エヴァンジェリンはそれでも躊躇いの気配すら見せなかった。

「思い出すのだぞ? この痛みを、ネギ・スプリングフィールドのことを思うたびに。安心しろ。この私が思い出せるようにアシストしてやるのだからな?」
「がっ! ……がっ! ……がっ、……がっ、……が――…………」
「む? 脆いな。もう寝たか。ジジイに連絡を」

 千雨が反応を返さなくなった――最後にもう一度後頭部を叩きつけ、26回。エヴァンジェリンは千雨の開ききった瞳孔を確認してから、ようやく口腔から指を抜いた。指先には唾液よりも血の方が多い。それを拭うこともなくマントを弄る。

「これ、どこ押すんだ? 茶々丸を連れてくればよかったか」

 取り出した携帯電話をカチャカチャと弄繰り回す。

「くそ。さっぱり解らん。これだからハイテクは」

 エヴァンジェリンは苛立ち紛れに呆れたように、
「面倒な……まったく。あのボーヤはこんな奴にどこで恨みを買ったのやら――」
 あの一瞬、こいつの眼には、隠し切れようもない憎しみが宿った――と。


(――……?)

 そのエヴァンジェリンのぼやくような言葉が、隔絶された千雨の意識の中にするりと入り込んできた。
 憎しみ。……憎しみ。曖昧な千雨の意識がエヴァンジェリンの言葉だけを優先して処理し、停止仕掛けた脳に届ける。脳に届いた情報はそれに反射的な評価を下し、それを否定した。
 先ほど、千雨はネギを物理的に傷つけた。
 だがそれは断じて私怨から生じた行動ではない。それは照れ隠しであり、憐憫であり、哀れみでしかない。そこに憎しみが発生することはありえない。

 そのことを、エヴァが勘違いしていることがどうしようもなく腹が立った。それだけだったが、それだけで千雨は体の機能を無視してまで眼を醒ました。
(誰が誰をって言った?)
 誰が、誰を憎んでいるって? 長谷川千雨が、ネギ・スプリングフィールドを?
 そんなことは有り得ない。有り得ないし、許されない。許してはならない。 逆であれば、まだ許されたろう。千雨はネギに対して負い目がある。何も出来なかったという罪がある。そのことでネギが千雨を責めたとして、千雨はなんの反論も出来ない。
 だが、千雨がネギに恨みを持つなど、ありえない。許せない。許してはならない。そんなことを言う人間を、それがもしかつての仲間とよく似た相手だとしても、許す気はない。
(ふざ、けるな)

 一矢報ようと体を動かそうとするが、脳へのダメージは深刻だ。気管に入った血の塊を吐き出す力もない。エヴァを殴り飛ばしたい。魔法をぶち込みたい。呪紋刻印すら使ってでもその言葉を訂正させなければいけない。なのにそれが出来ないことに千雨は臍を噛む。

(許せない。許せねえ。許せるかよ)
 頭が揺れる。思考はとりとめなく、一秒前のことが脳に残らない。チアノーゼが起こっているのを自覚する。なのに千雨の中に危機感は致命的なまでに欠如していた。エヴァへの無垢な信頼か、それとも?
 暮れた空が目に。桜の香りが鼻に。柔らかな風を全身に感じ、千雨は。

「こらー!」
「チッ!」

 蹴り飛ばされる感覚と、ネギの声を聞きながら、ついに意識を途切れさせた。



 カチリカチリと現実が現実にピントを合わせる。痛みと、余裕のない危機感がダイヤルを無理やり逆に回していく。歪は視界の端に残った。

「あの吸血鬼、忘れてるんじゃねーだろうな」

 やっとの思いで喉から引きずり出した声は、酷く掠れていた。
 何時間気を失っていたのか、或いはホンの僅かだったのか。星が昇った夜空の下、藪に蹴りこまれたままの格好で千雨は目を覚ました。眼鏡はどこかに行ってしまっているし、髪はほどけて血が固めてしまっている。中からも外も激しく痛み、その痛みだけで千雨の顔は歪んだ。

(いてー)

 それでも動く気力を持てたのは、偏に千雨が痛みに耐性を持っていたからに他ならない。激痛を伴う呪紋刻印の使い手だ。痛みを我慢して動き回るのは慣れている。
 だが、それでもどうも致命的な怪我だった。血の量は多すぎで、しかも頭からだ。目の奥だってぐらぐらする。優秀な治療術者がいなければフェータルな怪我だろう。少なくとも表の世界であれば、死ぬか半年はかかる。死ぬ。死ぬのだ。圧倒的な情報優位を得ている千雨でも、弱ければ簡単に死ぬ。

「はっ」

 鼻で笑う。
 間抜けな話だが、死にかけるまで千雨は自分が夢の中の住民だとでも思っていたらしい。
 もう会えないはずの人間。見れなかったはずの風景。そして千雨の体が、千雨のものでなく別の千雨のものだという現実感の薄さ。夢のような世界が目の前にあって、それに手が届く。
 千雨なんて魔法使い一人の気まぐれで簡単に殺されてしまえるのに。
 懐かしいラカンの強さ表を思い返す。ラカンは12000。ネギは800。綾瀬夕映だったら200。魔法学校を出れば100。新世界の民間人は2で、千雨は1だった。そして、今の千雨はその頃の千雨に他ならない。魔法騎士綾瀬夕映に200人がかりでやっと対抗できる程度の存在。
 ぼろぼろになって、漸く千雨は二つのことに気づいた。
 これは夢じゃないこと。
 それから千雨は、今、なんの力もないただの中学生でしかないこと。
 そう。
 千雨は、死ねない。少なくともまだ死ねない。長谷川千雨が死んだ程度の誤差で、未来は変わらない。変わったところで、それは千雨の望む未来にはならない。
 なら悪になる。
 未来を、私が好きに弄ぶ。
 千雨は歯を食い縛って這いずるように藪の中を進み始めた。草が口に入る惨めさを、千雨は笑って飲み込んだ。
 超のように華麗に余裕綽々で未来を変えるなんて、千雨は出来ないし、趣味にも合わない。ある日から千雨が好きなのは、泥を啜って靴を嘗める余裕などない溝鼠のようなヒーローだった。

 かなりの時間をかけて寮について、ようやく壁づたいに立ち上がれた。入り口はまだ明かりがついていたが、ひと気はなかった。食事時だろうか。なんにせよ、好都合だ。今すぐにでも倒れてしまいそうにふらつく意識を堪えさせ、千雨は記憶に古い自分の部屋に向かった。同室のピエロは、普段部屋にいつかなかったことを覚えていた。
 靴を脱ぎ捨てたまま、壁に手をつく。勢いあまって、頭から半身を使って体を支える。

「あ、マズ」

 壁にベットリと血混じりの血が張り付いた。制服の袖で擦ってみるも、汚れは広がるだけだ。茶に混じった赤。妙に色鮮やかな赤色だと思った。

(あー……ま、いいだろ。知るか)

 ぼんやりとした頭が、思考放棄を選択する。そのまま千雨は壁に土と血痕を残しながら明かりのついた廊下を進んだ。
 途中、千雨の部屋まであと少しというところで、並ぶ扉の一つが開いて、柿崎美砂が出てきた。

「あ、長谷川。もうご飯食ってるってひぎゃあああああああっ!?」
 思わず耳を塞ぐ金切声。千雨は顔をしかめた。
「うるせーよ。何だ、ルームメートでも死んでたか」
「いやあんただから! 死にそうなのあんただから!」
 慌てて駆け寄り、柿崎は千雨に手を貸そうとして、ボロボロすぎてどこに貸せばいいのか解らないように手を迷わせた。体を見下ろすと体を庇い、散々石畳に叩きつけた腕にも裂傷が走っている。どこでぶつけたのか足もそこら中が青くなっている。

「え? なに? 何があったの? とにかく、私の部屋でいいから休みなさいよ」
「結構だ。自分の部屋の方が休めるんでな」
「あ……ご、ごめん。でも女部屋だし、誰かいた方が」
「レイプされたわけじゃねー」

 大きなお世話過ぎる。
 疑問を深める柿崎。

「なに? 車にでも轢かれた?」
「いや、ちょっと金髪のムスコンに襲われた。痴情の縺れだ」
「状況が斜め上すぎる!」
「ついでだ。わりーが」
「救急車! 呼ばなきゃ!」
「ああ。だが、呼ぶのはみんなの飯が終わってからだ」
「え? ってちょっと長谷川!」

 あれ。と思うほどスムーズに、千雨の意識は途切れていく。体が前のめりに倒れるのを、柿崎が慌てて抱き寄せ、その重さにつんのめる、

「いいか、全員こっちに戻ってきてから呼べ……よ……」

 全ては千雨の自覚が足らなかったのが原因だ。今、目の前にあるのは全て現実と呼ばれている幻想で、現実を前にして一瞬たりとも気を抜くことは許されないという小学生のころから知っていた原則を忘れた千雨が悪い。
 だが、それでも。
 憎しみ。長谷川千雨がネギ・スプリングフィールドを憎んでいると言ったあの言葉だけは許すことはできない。修正しなければ。修正しなければ千雨はどうなる。それは、それだけは駄目だ。計画を変更してでも許せない。
 覚えとけ、魔王。
 絶対に、私は忘れねー。忘れても思い出してやる――。

 クラスメート達が集まってくる喧騒と、柿崎美砂の自分を支える感触を感じながら、また千雨の意識は途切れた。



◆◆◆



 千雨に躾を施し、茶々丸と共に千雨への躾が吸血行為に見えたらしいネギを泣かし、アスナに追い払われ、自宅で紅茶を一杯楽しみ、その時ようやくエヴァは千雨のことを思い出した。慌ててログハウスを飛び出したのは千雨をさんざん痛め付けて二時間は経った頃だ。すっかり日は沈み、茶々丸の腕に抱えられながら、エヴァはそれでも闇の中に吸血鬼の目を凝らした。

「死んでないだろうな」

 女子供を殺さないというのは虐殺の対象にしなかったことで、女兵士や少年兵は割りとさくっとやっているエヴァだが、千雨は殺すほどではないと思っている。千雨の目にネギへの尋常でない、直接行動に繋がりかねない憎しみを発見したとしても。それを関東魔法協会会長、近衛に報告したところ即時「躾」の命令が下ったので、エヴァの封印をとくキーパーソンであるところのネギを殺しかけてくれた恨みもあり、うれうれと千雨を石畳に叩きつけまくったとしても。それでも決して殺す気だったわけではない。
 若干やりすぎたのも、放置したのもわざとではないのだ。だから、恨むな長谷川。心にもないことを思うという器用なことして、エヴァは無感情に茶々丸に熱源を探らせた。
 上空からの赤外線探知。それが見つからないことに深々と頷くと、死体を回収するために茶々丸に着地を命じる。
 桜通り。夜桜が所々ライトアップされている。だが時間が時間だ。ひと気はない。

「マスター。血痕を発見しました」
「うむ」

 エヴァは魔法で痕跡を消去すると、千雨を蹴り飛ばした方向を見た。吸血ならともかく、ネギに関東魔法協会からの躾を知られるわけにはいかなかったのだ。ネギにとって、魔法とは全肯定すべきものであり、そこになにかしかの疑問を挟むことは許されない。
 ネギ・スプリングフィールドの全ては決定されている。あれほどの血筋と魔力の持ち主は最早世界レベルの宝だ。彼はその心根を曲げることは許されず、ただ高潔で最強の魔法使いとなることを本人は知らされず強いられている。エヴァ自身賛同したことはないが、エヴァ側の利害もあり、エヴァがネギの護衛だということは公然となっている。
 長谷川千雨はそんな中突然現れた要注意人物だった。突然、帰り際の暴行。どこで恨みを買ったか、しかしネギにそういうことをして許されるのはネギ以上の重要人物である数人くらいのものだ。そこで、即断され、エヴァが直々に躾に動いた。極限状態での刷り込み。それは裏の人間でありながら、限りなく表に近い手だった。
 ちなみに躾の手法は単なるエヴァの趣味である。この吸血鬼、マジでドSなのだった。

「マスター、長谷川さんが見当たりませんが」
「ん? なんだ、野性動物にでも食われたか」
「マスター」
「冗談だ」

 エヴァは茂みにわけいって、鼻を鳴らした。吸血鬼の嗅覚は人とは比べ物にならない。狼に変身すれば更にだ。エヴァは点々と続く血の臭いを察し、ニヤリと笑った。

「ほう。やるじゃないか、長谷川千雨。見直したぞ」
「マスター。長谷川さんは……」
「あの状態で逃げたらしい。まあ遠くへは行けまい。さっさとジジイの所に届けて帰るぞ」
「はい」

 茶々丸を従えて、エヴァは血痕を追い歩き出した。茂みの中。人が這いずった後が続いている。

(ほう。やるな)

 素人の子供があれほどの怪我を得てまだここまで動く執念はなんだろうか。エヴァはそれをネギへの恨みへと即座に繋げた。どんな、どれほどのかは解らずとも、エヴァはその負の感情に対しても一定の評価を与える。悪は悪なりに、負から得たものを差別しないという取り柄と誇りがあった。
 そこから五分も経たない場所で、エヴァは立ち止まった。

「マスター」
「なんだ」
「まずいのでは」
「……知らん」

 3-Aの生徒たちが過ごす学生寮の前に、回転灯をぶんぶん回す車が止まっていた。その周囲を血だらけの柿崎美砂を中心として、3-Aメンバーのほとんどが取り巻いている。そのアーチの中を担架に乗せられた長谷川千雨が通っていった。



「なにしちょるんじゃこのうっかり吸血鬼がああああああっ!」
「うおっ!?」
 血管を浮き出させ、思いっきり激昂した近衛近右衛門の口から入れ歯がカシュッと飛び出して、慌ててエヴァンジェリンは仰け反った。しかし外れたはずの上顎にも歯は残っている。エヴァはジト目で近衛を睨み付けた。

「おい、ジジイ」
「いやワシの仕込みとかどうでもええんじゃ! 何てことしてくれるの!? もしかして君アホなの?!」
「誰がアホだ!」
「アホじゃよー! なんでこんなことするんじゃよー。メルディアナと西との問題になるじゃよー」
「やかましい。知るか」
「お、落ち着いてください学園長」

 長谷川千雨は救急車で学園の手のかかった病院に運ばれ、記憶処置が施された。怪我もある程度の外傷を残して、致命的な部分は癒されているはずだ。それらの手続きが終わって、エヴァンジェリンと寮監の瀬流彦が学園長室に呼び出されたのはもう夜明けに近い頃だ。生徒たちの動揺を鎮めるために奔走した瀬流彦は目が充血し、エヴァンジェリンはつまらなそうに欠伸している。また、当然ではあるがネギは呼び出されていない。彼は千雨の体内から記憶操作の魔力が完全になくなった頃に事件を知り、精々千雨を見舞うくらいのことしかできないだろう。

「き、記憶消去すればいいじゃないですか。ちょっと大規模になりますけど、なんでしたら今から僕が」
「バカモン! そんなことができるんじゃったら怒鳴ったりせんわい! あのクラスを普通のクラスと同じにするでない!」
「へあ?」
「貴様は莫迦か。貴様ごときの魔法が近衛木乃香に効くか。それに神楽坂明日菜にも。超やぼーやも弾くだろうしな」
「ですけど、せめて一部だけでも」
「小さなコミュニティで情報の齟齬を起こすことのリスクを魔法学校で習わなかったか莫迦。やるなら段階的な情報操作しかないな」
「いやオヌシが莫迦とか言うでないわ! 誰のせいだと思っとるんじゃ! 横着せんで契約でも束縛でも使えばよかったじゃろ!?」

 3-Aは、エヴァですら完璧に把握してはいないが、学園都市の切り札であり生命線でもある。他のクラスを意識操作するのは容易かったが、3-Aは特殊。魔法が効かないもの、学園内の誰より魔力が高いもの。学園と方向を違えるものなど入り混じり、それをエヴァンジェリンの権威が辛うじてクラスとしての形を保たせている。
 千雨がしたのは、その生命線を直撃するようなことだった。狙ってしたのか、そうではないのかを考えるのは後回しでいい、とエヴァは思った。

「い、いやしかし……調査したところ唯一接触した柿崎さんも長谷川さんから「金髪のムスコン」に襲われたとしか聞いていないようですし、長谷川さんの記憶さえ封じられればさした問題には」
「おい瀬流彦。ムスコンとはなんだ?」
「さあ……生徒の間で流行ってる言葉でしょうか」
「バカモン! 桜通りの吸血鬼はただ通り魔的に生徒を襲っていただけだから見逃しておったのじゃ! 長谷川嬢への教育と吸血鬼が絡められてしもうては本格的に問題が外部に漏れるぢゃろうが!」
「は、はあ」

 よく解ってもいない表情で瀬流彦は曖昧に頷き、エヴァを見た。呆れ返ったような表情でエヴァはそっぽを向いている。

「つまり3-Aの記憶を操作することはできず、クラスの中でそれが周知になった以上、もう外部に漏れるのが止められないということですか」
「……そういうことじゃ。朝倉和美嬢は新聞部所属。明日には号外が学園中に出回るじゃろう。重要人物が集められた3-Aで被害が出たと外部に知られたら外交問題じゃ」
「ハン……この程度の情報操作もできんのが貴様の器なんだよジジイ」
「だからなんで一から十まで自分のせいなのにオヌシ偉そうなの!? コノちゃんびっくりじゃよ!」
 コノちゃん。エヴァンジェリンは呆れを通り越して嫌悪で近衛を睨んだ。「キャラ整えろジジイ」
「ん……んんっ。とにかく、エヴァよ。もう桜通りの吸血鬼は廃業してもらうぞい。こうなったからにはエヴァに責任を」
「あ? ああ。無理だ。今日ぼーやを苛めたからな」
「タイミング悪い! なんとか和解せい!」
 今度は下顎から入れ歯が飛んだ。二重仕込であるが、エヴァはちらりともそちらを見なかった。代わりに、やれやれと嘲笑する。
「本当にタイミングの悪いぼーやだよ。奴が来なければ長谷川千雨の処理もつつがなく終えただろうにな。ハハ、どうもぼーやは私が血を吸ってると思って襲い掛かってきたらしい。そのことを追求してやったら泣き出したがな」
「いやそれ以上に酷いことやっとるというかオヌシ実際吸血鬼じゃろうが!」
「私の活動に関しては許可が取ってあるがな?」
「暗黙の了解を許可とは呼ばん」

 エヴァが生徒を襲うことになった手続きは至極複雑だ。エヴァの事情とネギの事情。それを取り巻く各勢力、派閥の思惑が渦巻いて、それを暗黙の了解の一つで済ませるのは偏に近衛とエヴァの学園内での権力がそれだけ強いことへの証左でもある。エヴァは封印されても尚学園内最大の戦力であり、その抑止力が近衛自身である。
 エヴァはもう話すことはないといわんばかりに肩をすくめ、マントを翻した。瀬流彦がそれを恐れたように見送る。近衛は慌てて立ち上がった。

「話はおわっとらん!」
「躾は貴様の命令だ。ぼーやが襲ってきたのはタイミングこそ悪いが、貴様の思惑通り。それ以上私になんの責任がある」
「待たんかっちゅーちょるんじゃ!」

 エヴァは一瞥もせず部屋を出て行った。近衛はその姿が見えなくなるまで体を硬直させ、それから力なく座り込んで頭を抱えた。エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル。学園都市最強の切り札にして最大の厄介者でもあった。

「ワシ、一人で全部こなすのじゃろーか」
「い、いや。その、お手伝いできることがあれば」
「……いいもん。ワシ、頑張る」

 素直に気持ち悪いと思う瀬流彦。

「し、しかし……その、長谷川さんを襲った犯人と桜通りの吸血鬼が関連付けられるかもわかりませんし」
「いや関連付けん奴がおったら顔を見てみたいわ」
「それに、3-A内で裏の世界を示唆する事実が流布されたわけでも」
「……もう一つ問題があるんじゃよ。長谷川千雨という生徒なんじゃが」
「はい。洗脳効果も出てるようですし、傷もある程度は癒しましたし」
「じゃが記憶は完璧に消せんかった。当事者が情報の齟齬を起こすのは不味いからのう。医療部は金髪の大柄な女に襲われたという改ざんをしたらしいが、その、彼女には特殊な体質があっての。だからあのクラスに入れたんじゃが」
「長谷川さんがですか?」
「うむ。まあ、実際こんだけ関連した情報が流れておったらなあ」

 仕方のないことだろう、と近衛は頷いた。

「まあ、彼女のことは大した問題ではない。どうとでもなろう。
 大きな問題は関西じゃ。婿殿は事情を察するとは思うがの、木乃香を強行的にでも関西に戻そうとする勢力が勢いづくのは間違いないのう」

 頭の痛いことじゃと呟く。

「大した問題ではないというのは?」
「え、聞いちゃう? ワシの支持率が下がっちゃうからあんまり言いたくないんじゃけど」
「せ、生徒に何する気ですか!?」
「えー。だってワシ、学園長以前に関東魔法協会のトップだしー。今なら双方に傷がつく前に事が済むしー。まだ情報足りないけど」
「た、足りないならあんまり長谷川さんに酷いことのないようにしてくださいね? 彼女、問題あるのかもしれないですけど、まだ中学生ですよ?」
「大丈夫じゃよ。いいとこ問題を起こしてもらって出て行ってもらう程度じゃから。このえもん、意外と優しいんじゃよ」

 マジで気持ち悪いと瀬流彦は思ったが、上司なので口にしなかった。



◆◆◆



 ――さて。
 何か忘れている気がする。いや、どうも自分の記憶に信用が置けない。

(なんだ、この感じ)

 長谷川千雨。14歳? 現在ベッドの上で呼吸器を取り付けられて、瀕死の状態である。いや、案外元気なのか? 体は軽く動いた。自立して呼吸もできる気配がある。頭の奥に響くような痛みはあったが、それは何故か問題ではないと解った。

「千雨ちゃん。覚えてる? 三日前ここに運び込まれたのよ」

 白衣の天使。しかしピンクではなく純白に千雨は拘りを持っていた。カラーリラクゼーションなんて糞食らえだ。ナースコスの際は白に拘りを見せ、一定の評価を受ける千雨だった。だが、ピンクのナース服の看護師は中々の美人だ。素直に千雨は羨望した。
 これはいいコスだ。
 美人は何を着ても似合うとかいう言葉があるが、それは真にあらず。メイドや制服などコスの向こうに幅広い個性を備えるならともかく、コスの世界では嵌りのコスが存在する。吊り眼の千雨がロボ耳をつけた場合、想定されるのはマルチではなくセリオだ。
 ナースというのは難しいコスで、美人前提で生々しさが必要とされる。美人プレイヤーのナースコスよりもプロのナースの方が優遇される。
 いや待て私。すげえどうでもいいこと考えてるぞ。

「桜通りで、襲われて、運ばれたの。解る? 解ったら手を握って」

 桜通り。
 桜通りの吸血鬼。
 遠い記憶。ネギ・スプリングフィールドが腹心にして師と邂逅した事件。
 ああ。
 そうだ。
 あっさり。素直に。
 な
 め
 るな。
 千雨はにやりと笑い、手を握り締めた。
 無理やり手で押し固めた木のパズルに指を差し入れ、ばらばらに壊す感触。ただの刻まれた細かい木片となったそれを、順序良く整列させ、木目に合わせ、ジグソーパズルのように元の姿に戻していく。不恰好なパズルがより不恰好なパズルに戻っていく。
 千雨は躊躇いなく呼吸器を外した。看護師がぎょっとするが、その目にはっきり反応と意識があるのを見て仕方ないという顔をした。

「千雨ちゃん。先生を呼んでくるから」

 小さく頷く。体は動くといってもあまり大きくはない。痛みはないがひきつっている。反比例するように意識ははっきりと冴えていった。真っ白な壁の個室に、ピッピと喧しい心臓音。開かれた窓からは春の風と朝日が入ってきている。
 長谷川千雨18歳。三年前に戻ってきて、最初の朝は病院のベッドで過ごすこととなった。


 頭に打撲。腕に裂傷。足にも打撲。他にいくつか間接に痛み。全治二週間とのことだった。意識が長く戻らなかったのも不思議なくらいで、脳にも目立った損傷はないらしい。
 間違いなくそれを遥かに超える痛めつけられ方だったのだ。魔法的な処置がされているのは間違いない。魔法での治療というのは一種医学会の努力を無下にするような反則技だ。その中でも特に高位な医療と時空の術者だった三年後の近衛木乃香などは多くの権力者達御用達。どんな難病や呪い、怪我をも一瞬で癒してしまうと言われたほどだ。

(さすがにいい術者飼ってやがんな)

 その分医療術者は個人の能力に左右されがちで、数多い治療術者も大半が旧世界の医療技術を学んで才能を補填している現実がある。関東魔法協会の息がかかった病院。それが才能型の医療術者によって運営されているのか努力型の術者によって運営されているのかは専門家でもない千雨には解らない。
 ノック音。何も考えずに千雨は入室を許可した。

「こんにちわ」
「…………葉加瀬、か」

 病室に入ってきた少女は、地味なメガネに久しぶりに見た二股のお下げ。体感時間ではほんの少し前に別れたばかりの葉加瀬聡美だった。
 ピリリ、と千雨の脳が痺れる感覚がした。憎しみを覚えたエヴァンジェリンの顔がぱっと脳髄の表面皮を流れていった。

「災難でしたねー」
「ん……ああ。いや、なんであんたが?」
「お見舞いですよ。や、私だけじゃなくてみんなの分の代表なんですけどー」
「別に、そんなに仲良かった覚えないんだけどな」

 そうか。千雨はばれないように目を細めた。何かを探りにきているのだろう。この時代の葉加瀬がどういう立場にあるのかも千雨は知らない。学園祭では超派についていたのは確かだが――茶々丸さんの稼動時期を考えるとエヴァンジェリンとの繋がりや、超自身との関係。超派の探りか?
 だが学園側からも一定の融資を受けて研究しているはず。学園から頼まれたら葉加瀬は断れないはずだ。
 いや、そもそもとして超派としても学園側としても、探りを入れるのが葉加瀬である必要はあり、ない。

「あはは。千雨さん、そもそも仲良い人いないじゃないですかー」
「ナチュラルに傷つけんなよ!」
「付き合いだけは長い私が代表ってことです。私なんかで許してください」 

 麻帆良小等部出身者として、共にエスカレーターで上ってきた知り合いではある。だが実際そんなことを気にしたことはなかった。天才と凡人。その繋がりは希薄だ。前でも結局千雨が葉加瀬と話すようになったのは単身、新世界を脱した後のことだった。それに、時間の長さだけなら小等部出身の明日菜、雪広、椎名もそうだ。下手な嘘。駆け引きをする気はあまりないのだろうか。
 だが、都合がいいと思った。この邂逅がどんな奇跡で、誰かの思惑だったとしても、千雨にとってこのタイミングで葉加瀬と喋ることは奇跡的なまでの都合のよさだ。
 なぜなら、千雨は「葉加瀬」自身から言われている。千雨の方針について――。



◆◆◆



「まず方針として、私をなんとか仲間、或いは共犯者に引き入れてください」

 千雨は首をかしげた。

「あんたをか? 言っちゃ悪いがもっと手軽で強力な駒があると思うんだが」
「解ってます。ですが私はお得ですよ。チャムのボディを横流しできます。それに超さんへのスパイにも使えます」
「それは、まあ、そうだけどな」
「ついでに眼の保養にも!」
「いやそういうのはいい」
 美人と言わざるを得ない葉加瀬聡美だが、3-Aの中では地味だという残酷な事実があったりする。
「何より、ここに私がいるというアドバンテージがありますよ。私にかかれば三年前の私の懐柔なんて簡単ですからねー」

 なるほど。取り込もうと考えていた桜咲刹那を千雨の記憶だけで脅迫するよりは、本人による葉加瀬の懐柔の方が余程簡単でリスクが少ないだろう。一理ある。千雨は曖昧に頷いた。

「けどな、欲しいっつーか必要とされんのは暴力だ。あんたは」
「田中でよろしければ……いや、まあ。製造ラインは超さんに言われたぶんだけで目一杯ではありますけど」
「そうだろ? なんの裏付けもなしに超に近づくのも拙い。あんたは超の腹心だ。私が接近すればするだけで超にいらない疑念を植えつけることになるだろ」
「……それは」

 不承不承頷いた葉加瀬の様子に、千雨はそっと息を吐いた。その千雨の息を感じたのだろう。葉加瀬は毅然とした目つきで千雨を見下ろす。

「ヘタレ」
「もうちょっと柔らかい表現を模索しろよっ! 包め包め!」
「かなり変わる。少ししか変わらない。どっちにしても変わることに変わりはなくて、それはもう私自身ではありません。私であって私でないとかそんな誤魔化し方で満足して貰えるのならそれでもいいですけど、結局要素が変容した私は私に似た誰かです」
「割りきれってか? は、よく言うぜ。私は、あんたを守りに行くって決めたんだぜ」
「割りきってください。割りきって、私によく似た誰かを守ってください。私によく似た誰かがそれを拒否しても」

 千雨は葉加瀬を睨んだ。葉加瀬自身が千雨のしようとしていることを否定したとき、それがただの名目に過ぎなかったとしても千雨が意思を保ち続けられるかは解らなかった。いや、きっと難しいだろう。その名目を失ってしまえば、千雨の行動のすべては単なるエゴに堕ちる。
 千雨の視線を受け流し、葉加瀬はしれっとした表情のままだった。

「まあ、千雨さんの共犯者を共犯者のままで残しておきたい気持ちも解るつもりですけど」

 千雨の顔が引きつった。
「喧嘩でもしたいのかあんた」
「ほんの軽い冗談です。ですけど変えられる今に自分が関わっていないという不条理も汲んでください」
「そっちこそ割り切れ。あんたは認識できないって、あんた自身の理論だろ」
「だからこそです。私は千雨さんの中に残るだけで、あとは何処を探しても残滓すらないんですから、我が侭の一つくらい聞いてください」

 それは我が侭で済む問題だろうか。千雨は少しだけ悩んだ。結局葉加瀬の問題で千雨は過去に行くという名目なのだから、それは我が侭ではなく本分と言えるのかも知れない。名目と言えど、それを守ることで千雨の心は守られる。

「話を続けます。私を引き込み、それを足掛かりに戦力を整えるのが一番手っ取り早いです。整えるべき力やコネの優先順位は後回しにするとして、私を脅迫するネタですが」
「簡単な懐柔って脅迫かよっ」
「ぶっちゃけ、今ではあの頃の柔軟性が羨ましいとは思いますが、それでもただの中学生です。暴力に脆いのは当然。知識欲や研究費用でも割りとコロっといくでしょうねー」
「……まあ、そうだな」
 暴力以外は今も変わっていない気もしたが、どうも自覚はなさそうなので黙っておく。

「ですけど、やはり超さんとか超包子メンバーへの友情が一番でしたね」
 一瞬だけだが、楽しそうに葉加瀬が笑い、千雨ははっとした。

「まあ、それくらいの弱点があれば千雨さんならどうとでもなるでしょうし、あんまり自分の昔の話なんてしたくありませんけど、当時は人を疑うことのない純真な美少女でした」
「あー、まあな……けどな。これは相当恨まれるだろうな、あんたに」
「それくらいいいじゃないですか。それに適度に飴を与えてくれればその内懐きますよ?」

 意図的な関係も、辛いだろうなと千雨は思う。だがそれは、過去に行って形成する全ての人間関係にも言えることだ。千雨のことなど誰も何も知らないが、千雨は様々なことを知りすぎている。どちらを向いてもある程度の作為が介入することは否めなかった。
 圧倒的な知識優位があって平等な関係を形成できるなんて思えない。

(甘過ぎなんだろーけどな)

 なにより、あわよくば以前の関係を取り戻そうと考えている自分自身が。

「それと、もし私を脅迫もとい懐柔出来なかった場合ですが、チャムのボディを千雨さんでも奪取できるチャンスがあります」
「ほー。大学部のロボット研究会からかよ」
 麻帆良のサークルは常識に則り、中等部より高等部が、高等部より大学部のサークルがあらゆる意味で大規模だ。中等部までしか麻帆良におらず、またサークルや部活にも所属していなかった千雨にとって大学部のサークルはブラックボックスに等しい。

「はい。ご存じですよね。春の大停電」
「ああ。確か先生とエヴァンジェリンがやりあった日だったな」
「ロボット研究会のセキュリティは、若気の至りなんですけど全て無人機で賄われています。停電時は特にほとんどの機能が停止することになります。予備電源はセキュリティになんか回しませんしね」
「全てって訳じゃないだろ?」
「そうですが、精々単調なルートを巡回して熱源探知で警報と通報を行うバッテリーロボット位のものですから」
「なるほどな。そこを突くってわけだ」
「そうなりますね。もちろん、停電中に撤退まで全部こなさなきゃいけないんですけど」

 それは言われるまでもない。そういう類の計画にかけて千雨は葉加瀬を遥かに上回る経験を持つ。

「盗むのは?」
「茶々丸のボディの試作二号機がいいと思います。夏休みまでの茶々丸のスペックにかなり近いです。コンセプトが戦闘を優先していなかったためエヴァンジェリンさんの意向であちらにはなりましたが、二号機もかなりの自信作でした。もちろん、今の私が企画したチャムのボディデータを直接あちらの私に組ませるという方法もありますけど」
「それは未来から来たってバレバレだろ」
「そういうことです。もちろんチャムのAIは当時の茶々丸より一歩先にありますから、そちらを見られることは避けてください」
「整備の時にはばれるだろ。私だけじゃボディの整備には手も足も出ねーし」
「レベル別に今の技術レベルのデータは隠しておきます。まだ確認はしてませんが、AIに直接触れられずとも整備は出来るはずです。開示を迫られてもぎりぎりオーバーテクノロジー部分や私の癖が入ってる場所は避けて見せてください」
「ああ。それなら私でもなんとかなるな」

 ハードウェアに関してはまったく疎い千雨だが、電子の女王と呼ばれるだけはあってソフトウェアに関しては専門ではない葉加瀬を上回っている自信があった。3-Aでは絡繰茶々丸と超鈴音以外に劣ることはないだろう。

「あー、ボディを盗むって言うが、それはチャムのAIをインストールしてから逃げるべきだよな。担いでいくわけにもいかねーだろうし。インストールにかかる時間は?」
「チャムのAIも基本的なパッケージはボディにプリインストールされていますから、パッチを当てて記憶人格のコンポーネントを入れるだけになります。千雨さんの七部衆をフル稼働させれば10分かかりませんが、そうでなければ三十分。もし大学部が停電してる状態でボディだけで直接インストールするなら一時間は見込んでください。起動したあとの指標に関してはこちらでチャムに教えておきます。まあ、首尾よく行けば停電が終わるまでに終わるでしょう」
「ボディ側にプロテクトはかかってないのか」
「かかっていますが、エブリタイムのパスとIDがかかっているだけです。暗記してもらえれば結構です」
「但し馬鹿正直にそれを使えば、どこから流出したのか、って話になるな」
「千雨さんならフィッシングでもなんでも盗めるでしょう?」
「時間があればな」

 ハッカーとしての技量にかけてはそれなりの自信を持つ千雨だ。狙ったセキュリティ意識の低い一人のパスを抜く位なら造作もないだろう。それまでに七部衆が呼び出せるようになっていれば心配するだけ無駄だ。麻帆良の電子関係は全て千雨の手の中に落ちることになる。

「あんたを脅迫してボディを提供させたとして、AIが自前な事へはなんと言ったらいい?」
「千雨さんの技量を見せて大学部から盗んだとでも言えばいいでしょう。茶々丸と同じ基礎AIだとしても、ここまで改良されていれば同一だとは思わないでしょうし、心配でしたらスパゲッティにしておきます」
「いや待て。それは私が大変になるだろ!」
「まあ、容量をいたずらに増やして千雨さんの脳に負担をかけるわけにもいきませんし、さっきも言ったでしょう。あの頃の私は純真な疑心を持たない美少女でしたから、適当な嘘でも問題ないです。簡単に確認できるようなのは流石に気づきますけど」
「つっこまねーからな。で、他には何かあるのかよ?」
「千雨さんちょっとエッチ」千雨は思いっきり葉加瀬の額をデコピンした。小さくなってるせいか、葉加瀬は微動だにしない。「停電の後すぐに修学旅行があります。思い返せば修学旅行あたりでネギくんは白き翼の原型を作りました。もし千雨さんがネギくんの信頼を勝ち得ようと考えてるなら修学旅行の時に関係を形成することが一つのターニングポイントになると思います」

 超の計画を邪魔するなら、ネギに関わるのが麻帆良祭からでは遅すぎる。千雨がネギにある種の決定を託される程の信頼関係になったまでの時間は破格なほど短かったが、それは重大な危機を肩を並べて超えた経験があったからだ。
 麻帆良祭までにそこまでの関係になるなら、修学旅行がキモだ。と葉加瀬は言った。

「修学旅行までに、準備は整えておくべき、って事か」
「はい。ネギくんが無視できない、あるいは頼らざるを得ないほどの戦力があることが望ましいです。最低限お金を集めて傭兵でも雇えばいいんじゃないですかね。できれば超さんと契約する前の龍宮さんを捕まえて置くとか。
 まあ、私も修学旅行での顛末はあんまり知らないんですけど」
「おいおい。私もあんま詳しくは知らねーぞ。桜咲の奴、口が重くってな」

 桜咲刹那とネギが仮契約したのがその時のことで、潜在的な関東、関西の小派閥同士の争いだった、ということだけは聞いている。

「それと、これは大事なことですが、記憶の中にあるものを妄信するのは気をつけてください。記憶は変容し、未来も変わります。特に当時の麻帆良、しかも超さんの周囲はかなり敏感な状況にありました。些細な行動で状況が変化します。結局、その場その場で対応することが求められます」
「それは正しくはない表現だな。確かに私にアドバンテージはある。それは結局普通に生きてるより一つ程度情報が多い位のことでしかないが、それはデカいアドバンテージだ」
「問題はそれに引きずられることです。それを念頭に置いておくというだけで、その世界に生きる誰よりも千雨さんは未来を見通せなくなる」
「……まあな」

 だがそれを避けることはできない。千雨はいくら三年前の世界の麻帆良を歩いても、刹那を見れば長くネギの左右を固めた相棒のことを思い出すし、夕映を見れば最後まで一歩先を行かれた白き翼の頭脳のことを思い出す。口先では、理性ではそれが別人だと思っていてもどこかでは間違いなく同一視するだろう。そしてそれを忘れる気はない。この世界を失うのは千雨の紛れもない罪であり、それを全て心に留めておくことだけが千雨に出来ることなのだから。
 葉加瀬が溜息を堪える姿を千雨はじっと見た。益体もない考えではあったが、この世界の葉加瀬は、こうやって千雨への申し訳なさを抱えたままで終わるということが、どうしようもなく勿体なく思えた。
 だから。千雨は笑った。3-Aのように、些細なことが楽しいかのように。

「なあ、葉加瀬」



◆◆◆



 葉加瀬は、3-Aの人間を中学生と侮るなといった。反面、三年前の自分自身を卑下していた。千雨にしてみればいくら中学生と言えども、葉加瀬なんてのは想像の埒外の存在だ。宇宙人の年齢が自分よりいくつか下だったからといって笑う奴はいないだろう。
 葉加瀬の脅迫が第一の行動方針だ。しかしまだ一にも届いてはいない。まず葉加瀬が今、どういう立場でここにいるのか。何を探りに来ているのかを千雨が探らなければならない。気だけ急いたところで――それが正しいことはあるのかもしれないが、失敗することのできない千雨には自分の慣れた、信じる手法を選ぶことしかできない。

(いや、待てよオイ。記憶操作がきちんとかかっているかを探りに来てるんじゃないのか?)

 千雨なら――千雨が自慢とする合理的な常識思考ならば、記憶改ざんをした相手を一々探るような真似は選ばない。藪を突っつくことに他ならない。千雨なら、放っておいて日常の中で探る。部屋に盗聴器を置き、クラスメートを内通させ、徹底的に対象に非日常を意識させない。極普通であると自負する千雨は、自分の考え方が一般的な組織で多く採用されることを良く知っていた。
 態々、探りを入れてくるのは、何を知りたがっているんだ?

「体は大丈夫ですか?」
「不思議なくらい痛みはないな」
「三日も起きなかったのに元気そうで安心しました」
「この分じゃ退院も早いだろ。さっさと外に出たいぜ」

 この三日の遅れが致命的でないことを半ば祈りながら。

「柿崎さんから聞きました。金髪の女性に襲われたんですってね。災難ですねー」
「ああ。今考えたらあれが桜通りの吸血鬼だったのかもな」
「そうなんですか? でも千雨さんみたく襲われたのは千雨さんだけですよ」
「さあな。別件か、私だけ特別扱いか。調べるのは警察だろ。私じゃない」

 まさか。
 千雨の体質は学園側に知られているのか? 初めから。
 ふと手に取ったピースが正解だったように、そうならばこの状況が理解できた。
 じゃあ葉加瀬は千雨に記憶が戻っているかを調べに来た? 確認ではなく、確かな疑念を持って。
 それなら、太刀打ちできない。相手に先手が取られている状況ではどうしようもない。いや、まずはカマをかけるしかないだろう。千雨は知られないように息を呑んだ。

「いや待てよ。金髪の女だったか?」
「そう聞きましたけど」
「……それ、言ったの私か?」
「はい。そう柿崎さんが。柿崎さんのことは覚えてますか?」
「クラスメートの名前を忘れるほどひどい傷じゃないつもりなんだけどな」
「救急車呼んだの、柿崎さんだったんですよ。詳しくは解らないんですけど」
「へえ。それは、ありがたい話だな」

 上手い手ではないが、葉加瀬の経験値の少なさが功を為した。確かに葉加瀬はピクリと反応した。それは、千雨の精神魔法に対する耐性を学園が認識していたということを意味する。
(……マジかよ)
 千雨の体質が学園の知るところだったとしたら、千雨としては複雑だ。長い間その体質には苦しめられた。周囲と自分の認識の乖離に悩まされた。
 学園はその事を知っていたのか。なら何故対応しなかった? 或いは、放逐してくれるだけでその悩みから解放されていたのに。
 しかし、それがあったからこそ3-Aに放り込まれたのだと思うと、やはり複雑だ。

「そういえば、付き合いは長いですけど、千雨さんの眼鏡外した姿、初めて見ましたー」

 となるとここでは記憶が戻っているかを探りに来たと言うことか。千雨なら知らないはず、知っているはずのキーワードを言葉の中に忍ばせ、それに反応するかを見る。キーワードは別にエヴァンジェリンに関係するようなことでなくてもいい。改ざんされた記憶はもう失っている。その中に極自然で、しかも特徴的な言葉を忍ばされれば太刀打ちは出来ない。
 そのキーワードを見つけなければ、面倒なことになるな。
(さて、それは何か)

「……」
「……?」
「……」

 千雨は顔を覆って、ベッドの上に突っ伏した。

「……ち、千雨さん?」
「うるせえ! 大丈夫だなんの問題もない!」

 眼鏡。眼鏡。眼鏡がない。顔が真っ赤になる自覚をする。耳鳴りがする。眼鏡はどこだ。千雨は手探りでベッドサイドを探し、昨夜のことを思い出す。そういえば眼鏡飛んでいった。
 かつてに比べれば遥かに改善したはずだ。余裕がないときだったら気にもしない。だが冷静な時に素顔を見られることには慣れていない。慣れていないどころか、同じテントで何人かと過ごした夜は体を丸めて顔を隠さなければ安心して眠れなかったくらいだ。

(どうしよう。うああああ。どうすんだコレ! 眼鏡――ああ!)

 近くに。手の届くところに眼鏡がある。千雨は突っ伏したまま葉加瀬の方向に手を差し出した。

「葉加瀬」
「は……はい」
「眼鏡寄越せ」
「はい?」

 心底不思議そうな葉加瀬。千雨は当てずっぽうで葉加瀬の顔に手を伸ばした。顎。唇。鼻。ようやく眼鏡に到達する。度の厚そうな洒落っ気ゼロのダサ眼鏡。だが構うものか。千雨は他人の顔が見えないことより他人に素顔を見られる方がよっぽど嫌なのだった。

「え、い、嫌です」

 しっかと葉加瀬が自分の眼鏡の蔓を押さえる。ぐいぐいと千雨はそれを引っ張った。

「いいから。見舞いはこれでいいから」
「いや、フルーツ買ってきましたから」
「いらねえよ! やるよ! むしろ買い足してやるから眼鏡寄越せ!」
「いやですー! 今までの分析結果からすると千雨さん別に視力悪くないですー!」
「悪くねーから眼鏡いるんだよ! 眼鏡っ娘ならそれくらい解れ!」
「解りません! 眼鏡っ娘じゃありません! どんな理屈に生きてるんですか千雨さんー!」
「ならせめて外せ! あんたが見えてないと思い込めばなんとか妥協できる!」

 慌てて葉加瀬が席を立つ。千雨の手は空を切り、千雨は布団を被って顔を隠した。

「……あのー。もしかして、千雨さん。心理学用語のところのペルソナだったりします? 眼鏡」
「…………」
 定義すんな。ユング死ね。
「あー、もう」
 呆れたような葉加瀬の溜息。布団の中に葉加瀬の手が突っ込まれた。カチリと当たる金属の感触。慌しく千雨はそれを自分の眼にかけた。
 顔を布団から出す。視界はぼやけ、珍しい裸眼の葉加瀬の顔すらまともに見えない。

「わ、悪いな。ちょっと借りる」
「いいですよ。研究室か部屋に戻ったらスペアがありますし」
「……やっぱ、違うな」
「はい? それはそうでしょう。千雨さん、視力いいでしょう?」
「まあな」

 葉加瀬聡美が、葉加瀬聡美と違う。あの葉加瀬がもういないという悲しみより、千雨は気が楽になる方が強いのを自覚した。この葉加瀬はもうあの葉加瀬にはならないが、あの葉加瀬よりもずっと辛いことと無縁でいられるようにしてやれる。少なくとも、あの葉加瀬の計算と千雨の努力があれば、そういう結果を捕まえられるはずだ。
 そのために千雨はこの時代にいるのだし、そのためならば全てを投げ出してでもそれを為すべきだ。
 矛盾。
 それに千雨は気づかない振りをした。何より、自分が低俗な人間であると自覚しないために。

「あー」
 仕切りなおし。
「あんたは桜通りの吸血鬼について何か知ってないのか」
「聞いた程度のことでしたら」
「ほお」
「千雨さんこそ昨日のこと、何か覚えてないんですか? 例えば、なんで千雨さんだけこんな重傷にされたのか」

 これか。直球で来られてしまった。開き直って、ある程度のことが露出することは仕方ない。初めから千雨の体質が知られていることを気づいていなかった千雨の落ち度だ。それにそれを知られたところで、未来から来たことまでは悟られないだろう。
 昨日から失敗ばかり。成長してないな私は、と自嘲する。

「ネギ・スプリングフィールドに手を出すな、って言われたな」
「! ……」
「あんたが知ってる情報の中で、桜通りの吸血鬼はウチのクラスの担任教師のストーカーだったりするのかよ?」
「……さあ。私が知ってるのは、聞いた程度のことですから」
「誰にだ?」
「もちろん、この一連の事件を調査している学園側です」

 一問一答。
 事情を知っている千雨にとっては見破り易い話ではあるが、葉加瀬はここに学園側の調査で来ている。しかも、学園側から開示された情報の中でしか口に出せない。
 千雨は苦笑した。葉加瀬。所詮中学生だと侮る要素はない。当然の話でもある。千雨は修羅場の中で三年を生きたが、葉加瀬聡美は産まれて14年も天才だったのだ。

「はは。なあ、葉加瀬」
「笑いどころ、なかったと思いますけど、なんでしょう」
「聡美って呼んでいいか?」
「はい? いや……構いませんけど、どうしました? 正直に言って変ですよ?」

 これも未来から来たことの証拠にされてしまうのだろうかと思いながらも、千雨は笑うしかない。千雨が葉加瀬――聡美を侮るとしたら、それは葉加瀬の成長していない姿だと思うからだろう。あの葉加瀬よりは少なくとも。
 だから違う人間だと認識しなければ。良く似た別人。まだそれほど別人ではないが、別の固体。ただし完璧な別人だと思ってしまえば千雨の目的にも逆行してしまう。そこらへんは匙加減だ。

「変? 元から私はこういう奴だ。知らなかったか?」
「はあ」

 釈然としない顔で頷く葉加瀬……聡美だが、構うものか。千雨は唇を結んで、隠し切れない笑いを堪えた。この聡美が千雨にとって未知の存在だと言うなら、あちらにとっても千雨は未知だ。なにせ、14歳の長谷川千雨は友達の一人も得ぬまま死んでいったのだから。
 さあ、正念場だ。

「えー、では千雨さん。桜通りの吸血鬼がどんな人相だったか覚えてますか?」
「言えないな」

 聡美は意表を突かれた顔をした。

「言えない、ですか? それは覚えているが、言えないということですか」
「さあな。そうかもしれないな」

 ここでエヴァンジェリンと言うのは上手くない。長谷川千雨なら名指ししないだろうし、それを上手く使えばカードの一枚程度の価値はある。
 千雨は、エヴァンジェリンへの復讐の機会と、葉加瀬聡美の隙、できるなら超鈴音の首を求めている。究極的にはある程度の思惑が透けて見える学園長のことは捨て置いて構わない。だが学園側の使者として来ている以上ある程度の開示は諦めざるを得ない。
 一方葉加瀬聡美が求めているものは超派の意向とは関係のない、学園側の秩序を守るための情報に過ぎないはずだと千雨は考えている。千雨の体質についてはどうも察しているらしい。それから千雨が魔法という存在に気づいているか。それはどれだけの範囲で気づいているか。そしてそれを知った千雨はどういう方向性で動くつもりなのか。決して学園側にとって重要ではない問題を穿り反すために聡美は派遣されている程度の話だ。

「じゃあこっちも聞きたいことがある」
「どうぞ」
「あんたは、私が疑問に思っていることが何かを把握してるか?」

 聡美は眉を顰めた。

「随分と難しい質問をしますね」
「そうかよ」
「ですが答えはいいえです。千雨さんの言ったように、私と千雨さんの仲なんてたかが知れてますから、とても千雨さんの中にある疑問の全てを把握できているとは言えません」
「そりゃそうだ。いや、それ以外にないくらいの答えだ」

 聡美の隙を見つけるにはまず千雨の隙を晒す必要がある。剥き身の剣を構えて始めて多くの戦闘理論は始まる。だが一方で千雨は聡美の隙を探そうとしていると悟られてはならない。

「では私の番ですね」
「別に順番とか決めてねーけどな」
「そうでした。すいません。……あ、こんな時間ですね。そろそろ帰りますけど」

 千雨はぎょっとした。早い。魔法について単刀直入に来るか、エヴァンジェリンか。それしか手が残されない状況で、早すぎる。

「千雨さんは」
「……」
 どんな質問であろうとも、情報を開示し、もう一つ質問をごり押しするしかない。
「誰ですか?」

 思考が止まった。

「……」
「……」
「……は?」
「……」

 ありえないことを聞かれた気がする。
(私が誰かだって?)
 血の気が引いているのは間違いない。平時だったら鼻で笑った質問だったが、この状況においてはどうしようもなく決定的なことを想起させた。
 千雨は、長谷川千雨ではない。
 理屈――葉加瀬の理屈から言えば、間違いなく長谷川千雨は千雨の通り過ぎてきた一地点に過ぎず、千雨のその地点と長谷川千雨のその地点においては同一だったが、しかし二つは同じではない。千雨は、長谷川千雨というドットを通り過ぎ、変容した「長谷川千雨」とは違う存在なのだから。
 何を意図した質問なのか、極基本的な疑問が頭の中からすっぽりと抜け落ちて、千雨は混乱した。

「質問の、意図がわからない」

 それも実質的には何の効果もない。単なる時間の先延ばしにしかならなかった。疑問ですらない。千雨自身がそれになんの期待もしていないのは確かだった。だが、誰一人想定していないほどその効果は大きくなった。
 丁度その時、鈍いバイブ音が狭い病室に響いた。
 聡美は白衣の胸ポケットから携帯電話を取り出した。千雨から背を向け、扉に程近い場所で受話ボタンを押すのを千雨はどこか呆然とした面持ちで見つめていた。

「はい、葉加瀬です。……はい。……はい。……はあ。解りました」

 二三言としか言いようのない簡単さで聡美は電話を切り、千雨に向き直った。

「おめでとうございますー。千雨さん。今、退院許可が出ました。
 どうです? ついでですから、外を少し散歩しませんか?」

 拒否する理由が、どんな合理的な思考を以ってしても見つからなかった。
 千雨は、ほんの小さく頷いた。


 頭が混乱している。
 千雨は、次の質問に備えていたのは「病室に入ってきて、何回嘘をついた?」という物だった。それは前の質問と組み合わせることで、どうしても隙が発見される必殺の質問でもあった。隙は、誰でも解るような嘘を見つけることから始まる。揚げ足を取るとは印象が悪いが、それはそれを取れば圧倒的なアドバンテージに化けることを知られているからこその印象の悪さだった。
 だが、それどころではない。
 体感的にはほんの数時間程度しかこの世界にいない千雨が、どこで疑念を持たせただろうと考えるので精一杯だ。
 勿論、幾つも失敗をした。慎重なはずの千雨にとっては致命的なほどの数。気が抜けていたのもあるだろうが、それは一つ一つが逃亡中の時代であったらフェータルだったのは間違いない。だがそれが聡美にあのような言葉を吐かせたと考えるのは行き過ぎだと思った。
 天才なのは間違いない。天才とは凡人の努力を心底笑うものの事を言う。だが、それだからといって凡人が思考放棄をするのは違う。それに天才と言っても凡人が積み重ねてきた100年を軽視することは出来ないはずだ。
 なら、何故。どうやってあの言葉にたどり着いた?

「いい天気ですね」

 病院から大分離れただろう。頭に包帯を巻いたままの千雨に、聡美は笑いかけた。慈悲に満ちた、未熟者を見るような微笑。その事を本能的に口惜しく思いながら、千雨には何も言えなかった。ほんの少しも情報を与えることが出来ない、と理由付けされたが、それは最低限の頭の回転を持つ人間にありがちな怠惰の理由付けに過ぎず、単に自らの内情を知られることだけが恐かったというのが実情だ。

「千雨さんは魔法って、信じますかー?」

 軽口にしか思えない口調。しかし聡美の瞳は強い意思で鈍い光を帯びている。それは、断じて千雨が思っていたような超鈴音のエゴに依存するだけのものではない。
 「葉加瀬」がそれを言わなかったのは、ただ気恥ずかしかっただけなのだろう。
 それを考えた時、千雨は愕然とした。聡美は今を見据えているのに、千雨は未来の葉加瀬に縋っている。どうしようもなく自分が低俗な人間に思えた。ありえもしない未来に縋って、未来を求める人間ほど滑稽なものはない。それは、長く情報世界という空想に限りなく近い世界に生きてきた千雨にとっては常識以前の法則に近いものだった。

「……」
「話は飛びますけど、人間原理のことを知ってますかー?」
「そりゃ、ある程度は……」
「まあ、哲学の分野ですから私もあまり詳しくはないんですけど、宇宙の形を人間に求める理論のことです。
 常識的に考えれば、そんなことは有り得ないんですよ。惑星の数は無数。その中でたまたま地球で私のような知性が生まれたとしても、それは知覚できるか出来ないかだけの問題であって、断じて他に知性が存在しないという証左にはならない。人間原理なんてのは人間の自信過剰の究極系みたいなものです」

 それを無闇に信じている人間は少ないはずだ。宇宙の形は人間が観測できるためだけにあの形である、などと信じ込むはずはない。何より、人間の大多数は自分が世界に与える影響の小ささを知っている。
 複雑系。歯車が一つ欠けたところで全体はそれを何かで代替し、動き続ける。思想家も政治家も科学者も、働きアリの比率の法則のように誰かがそれを代替し続ける。

「ですが、人間原理は研究すればするほどそれを信じていかざるを得ないようになっていきます。宇宙は、世界は人間が、観測するに足る知性が存在するからこそその形であると信じ込んでしまうんです」
「……カルトだな」
「私もそう思います。進化論的に冷静になれ、って話です。
 ですけど、考えたことはありませんか? 酸素を毒とする生物がいるなら、メタンガスに適合した生物がいてもいいはずだ、と。或いは二酸化炭素で呼吸する生物はいないのか? もちろん、私は生物学の専門ではありません。機械工学、或いは生物工学の専門家と称され、究極的に人の手が関わらず財を生み出すことは可能か、というのを究極目標にする科学者です。生物的に異端の存在は存在を認められない。ですが、異端、究極、極論的なものを想定することによって物理学は進化し続けました。万有引力の法則なんてその典型です。
 なら、生物の分野でもそんなブレイクスルーがあっても異常ではないのではないですか? 例えば、重金属をエネルギーに変えるバクテリアが存在します。考え方によっては人間を食す人間もその範疇に入るかもしれません。生物の適合能力は想像の埒外にあり、ならば何故地球でのみ知性は進化しえたのか?」
「だが、それは自己中心的に過ぎる」

 千雨は、ほとんど惰性的な極基本的な理論で応えた。

「そうですね。人間原理は自己中心の究極論理です。だってこれほどのスケールの理論は中々ありませんよ。宇宙は人間の観測によって成り立っている。マクロ経済や哲学が馬鹿みたいに見えるほどの大きな議論です」
「いい加減にしてくれ。何が言いたいのかはっきりしろよ」
「魔法があれば、全てを解決できると思いませんか?」
「あ?」
「私たちにすら未知のエネルギー要素が一つあれば、人間原理すら全て頷ける。5つの力が6つであれば、それだけで人間原理が真実だと解明できます。事実、魔法とは言われませんでしたがそう主張した人間はいました。世界の整合性がとれないのは、未発見の何かがあるからだと主張した科学者です。私は、それを魔法のことだと捉えました。そして、魔法の存在を認めれば人間原理を解明できると信じています。もちろん、それは私が解明するようなことではないですけど」
「……あんたは私に何を求めてるんだ?」
「もう一つ、人間原理の解明の要因があります」
「タイムマシン」
「察しがいいですね。そうです。世界は人間の観測によって成り立っているという仮説の一番の裏づけが、いつか実現するであろうタイムマシンです。
 宇宙がたった一人の観測者によって左右される。それはまさに人間原理。それも極度の人間原理です。なぜなら、一人の観測者の影響を否定するなら、どんな些細な変化もたった一人の人間が与えてはならないことを意味するからです。タイムマシンは確実に一人の観測者が宇宙というマクロに影響を与え、そしてタイムマシンは既に理論は確立されています。開発されるまでは時間の問題というところまで来ているんです」

 すべてバレている――と千雨の心に恐怖が襲った。バレていなければ、ここでタイムマシンのことを引き合いに出す必然性がない。そうでなければ――そうでなければ、何なのだろうか。
 千雨は聡美のことを知らない。今と未来の乖離を見捨てて聡美ではなく葉加瀬に限りなく近いと想定しても、それは変わらない。また、それに答えを出すことは単なる逃避に思えた。

「問題は、観測者は不変だということです」
「……え?」
「観測……傍観によって世界は変容するが、それを傍観者は認識しているということです」

 千雨のことだと解った。いや、聡美がそれを把握し口に出したかはわからない。

「それは一つ一つの選択の結果ではなく、本質的な傍観。その世界を傍観することによってのみ世界は変容し、エラーを起こし、いつしか夢と大差ない存在へとなります」

 脳が、ほとんどの理解を拒む。それを一つ知ることで自分が低俗だと思ってしまう。理解してしまうことの危険性を、千雨の思考以前のものが何より把握していた。

「千雨さんはどう想いますか?」

 言葉の真意を理解するより前に、聡美の視線を千雨は追ってしまった。
 舞う桜の花びら。河のせせらぎの音。洒落た石畳の向こうに親友と想った絡繰茶々丸の姿と、ネギ・スプリングフィールド、神楽坂明日菜の姿。並び得なかったはずの、だが並んでしまえば誰一人として立ち向かえない姿。その二人と、茶々丸が相対していた。
 契約者執行を受けた明日菜が茶々丸へと向かう。
 その、
 姿を見て、
 千雨は笑いながら、鈍重な体を走らせた。

「は」

 思考は放棄。それが葉加瀬のため、茶々丸のためでないことは千雨自身にも曖昧ながらわかっていた。エゴであり、自分勝手な欲望でしかなく、しかしそれは確実にネギ・スプリングフィールドの意思を継ぐ行動であった。
 明日菜と茶々丸が、互角の攻防を広げる。流石は天才、効率化された魔法使い同士の争いに確実な精度で対抗している。
 詠唱をするネギが駆け寄る千雨に気づいた。だがその意図、事情までは把握していないだろう。それでもネギはハッと何かを察し、

「や、やっぱりダメーッ! 戻れッ!」

 放った精霊たちを呼び戻し、爆発を起こす。
 千雨は二歩たたらを踏んで、前につんのめりながらも足を止めた。呆然と、自らの顔を抑え、聡美の顔を見た。

「千雨さん」

 聡美は無表情だった。
 今、今、千雨は葉加瀬のことを忘れた。忘れて、今、しようとしたことはどうしようもない程の、愉悦。ネギ・スプリングフィールドの邪魔をすることへの愉悦。その薫陶を守ることより、親友を庇うことより、葉加瀬を救うことより。今、千雨は優先した。
 ネギを否定するということへの甘美な誘惑。憎しみ。恨み。エヴァンジェリンの言葉が脳裏に過る。

「笑ってますよ」

 千雨の顔は歪みきっていた。
 意思が、ぐずぐずに崩れていく。



◆◆◆



 それは春の桜のような。
 夏の陽炎のような。
 秋の落ち葉のような。
 冬の雪のような。
 まるで流れ星のように儚げで。

 脆い。


---------
書けば書くほど何が面白いのか解らなくなっていく。
自分で見るのが鬱になるほどごっちゃごちゃ。
次回、主人公フルボッコされます。



[11895] デイドリーム・ビリーバー 下
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72
Date: 2009/12/01 17:50


 頭の中から始まって、体の一つ残らずがぎしぎしと軋んでいる。間接と間接が直接擦れ合って、互いを磨耗させ続けている。それら痛みとは別に、右脳には何かぼんやりした塊が感じられた。
 体の違和感は、いつの間にか耐えられないほど酷くなっていた。

 消灯された後の寮には、既に静謐な空気が漂っている。エントランスの奥に見つけた寮監の瀬流彦をちらりと見たが、千雨は黙礼すらしなかった。その表情に浮かぶ如何にも偽善的な申し訳なさそうな微笑みが、どうしようもなく癇に障ったからだった。
 千雨はなけなしのプライドで顔に笑みを浮かばせ、背筋を伸ばして瀬流彦の視線を横切った。先日千雨が泥と血を擦りつけた壁は、まるで作り直したように真っ白になっていた。魔法は多彩だ。千雨が慣れしたんだ戦闘用魔法など、全体から見れば1%にも満たない数でしかない。そういうカテゴライズ自体、徐々に意味はなくなりつつある。壁の白さが、その魔法の圧倒性を千雨に誇示しているように思えて、あっさりと千雨は笑みを消す。
 僅かな非常灯のみの漆黒の廊下を進む。今度は、柿崎は出てこなかった。そのまま千雨は、およそ三年ぶりに部屋に帰ってきた。

 真っ暗な部屋。手探りで灯りのスイッチを探す。思い出すまでもなく、それはすぐに見つかった。思ったよりもここのことを覚えている。こんな細かいことまで思い出したはずもないのに。
 いや、長谷川千雨の記憶か。 
 脳の書き換え。厳密には海馬の中身だけを入れ替えたことになる。だが経験はそこにだけ蓄積するわけではない。返済する当てのない借り物。遺品。千雨は嘆息して、ふらふらとベッドに向かった。
 ベッドに体を沈め、眼を深く閉じる。目蓋の隙間から入ってくる光。葉加瀬に借りた眼鏡を外し、仰向けになる。残った傷跡がじくじくと痛んだ。

(チャムなら、電気消してくれるんだがな)

 今はいない従者のことを思い出す。いや、大丈夫。取り戻せる。彼女に会うのが楽しみでならない。絡繰茶々丸の双子の妹。絡繰茶々丸が、主でも恋した人でも創造主でもなく、千雨を心配して遺したガイノイド。
 彼女と、桜咲刹那と、ネギと。四人で過ごした三ヶ月間。白き翼の崩壊する寸前のひと時。フラッシュバックのようにその平穏な日々が脳裏に過ぎていって、

 ――つい、昔のことを思い出す。

 世界は間違っている。

 誰も彼も、自説にのみ縋るエゴイストでしかなかった。エゴはエゴによって駆逐され、否定され、飲み干され。強いエゴが残っていった。たった一つの願いは強いエゴに否定され、押し潰され、夢は適うことはなく、願いは叶うことなく、だがそれは当然だった。願いが叶わないのは、当然のことなのだ。叶ってしまった人間の声がでかいだけなんだ。
 フェイト・アーウェルンクスは最強のエゴだった。ゲーデル総督や近衛近右衛門、新世界、旧世界の両姫よりも強いほどのエゴだった。
 ネギ・スプリングフィールドは最弱のエゴだった。なのに、全てのエゴを肯定して受け入れ、存在は最弱のまま肥大だけしていった。
 それが間違っていると、なんど忠告しただろう。世界は間違っているのだと何度言っただろう。
 だがネギは変わらなかった。変われなかった。既にそういう生物だと規定されていた。
 そしてそのまま進み、進化し、化け物と呼ばれ、侮蔑され、恐怖され、憎悪され、裏切られ。

 最後には神になった。

 だから、だから千雨だけはネギに変わらず接していた。必要以上に内面に踏み込まなかった千雨だけが、そういうスタンスを取ることが出来ていた。
 憎悪するはずなどない。あってはならない。誰もから嫌われ、憎まれ、裏切られ、それでも必死に何かを取り戻そうとしていたネギを、千雨だけは憎んではならない。かつて、千雨だけがネギに否定的なスタンスであった頃とは真逆の世界。逆さの城。
 だって、それをしたらネギが余りにも可哀想だった。報われない。頑張ってる人が。些細なものを願う人が。とても分不相応とも言えないほど些細なものしか願っていない人が、報われない。
 だって――。

(気味悪いセンチメンタルだな)

 千雨は笑った。キャラじゃない。深く温い息を吐く。

(疲れてんな)

 思考に取りとめがない。体力に自信はないのだ。千雨は腕を眼の上に置き、意識の中からまどろみを探した。
 意識の中に、黒い塊がある。ステンレスたわしのような隙間だらけの黒い塊。なのに遠近感が効かず前と後ろの判別がつかない。それをどう処理していいのか解らなくなる。愛していいのか、憎めばいいのか。
 いや違う。
 そんなもの、放っておいて、みんなのことを考えなければ。
 辛いことも、悲しいことも。
 胸に抱いたまま。

(何言ってんだ)

(私は、昔からセンチメンタリストなのに)

 頭の中は、まだぐちゃぐちゃだった。ステンレスたわしの先端が延びて、脳髄に絡まり、脳を真っ黒に染めていく。
 葉加瀬への思いが。クラスメートへの願いが。超への恐怖が。ネギへの思慕が絡まりあっている。それらを噛み砕いて、頬袋に詰め込んで、喉に詰まらせて、鼻に逆流させて、眼から血を流して、一つすら消化されることなく。
 でも進んでしまったからには、そんなもので立ち止まることは許されない。
 あの日、千雨が仮面をつけた木乃香の部下と殺しあった日、決断した、あの瞬間の感情を裏切ることは許されない。
 このままじゃ、葉加瀬は救われない。
 幸せになれない。だから千雨は、
 銃でなく、
 剣でなく、
 小柄ですらなく、
 ただ針のように、一つを貫かなければ
 ならない。



 数時間前。麻帆良女子中等部、学園長室。
 ネギと茶々丸のいざこざの後、葉加瀬は千雨をこの部屋に連れて来た。日が暮れかけている時分。学園長室には学園長の他に、葛葉刀子の姿もあった。それが他の誰でもなく葛葉刀子であったのは、千雨に無用の不安を与えないためだろう。

「こうやって話をするのは始めてじゃの、長谷川千雨くん」

 近衛近右衛門。関東魔法協会のトップであり、極東の重鎮。ほぼ敵対関係にあった千雨とてその手腕に疑問を挟む隙間はない。

「うむ。まずは君の疑問を解消することにしよう。これを見てくれんかの」

 『ようこそ魔法の世界へ』。手渡されたパンフレットには、シャープなフォントの下に杖を持つ少女のイラストが描かれている。機能性皆無の巨大な杖とふりふりのコスチューム。十歳に届かない少女の周囲には意味もなく無数の星が浮いている。……酷く性質の悪い冗談だった。
 凄まじく胡散臭いパンフレットを、千雨は軽く捲った。一々腹が立つほど上質な紙で十枚ほどの綴りだろうか。見出しの言葉は『ご存知ですか? 世の中には魔法というものが存在します』

「……」
「いや、フザケとるわけじゃなくて、必要なんじゃよ。こういうの」

 CSR見直せアホ。という罵倒を飲み込んで、それでも一応千雨はパラパラ捲りながら文字列を斜めに見下ろした。魔法とは何か。魔法で何ができるのか。魔法使いたちはどんな風に生活しているのか。新世界について。魔法世界略歴。魔法使いの表社会への貢献。最後のページには簡単な魔法使いの人口が載せてあった。
 目新しい情報はない。驚いてやったほうがいいだろうか、と胡乱な眼差しで近衛を見上げるが、近衛は思いのほか真剣な眼差しで千雨を見ていた。その気迫に、思わず仰け反る。

「ちなみに表表紙のキャラは独立魔法少女キルクちゃんと言って関東魔法協会の公式キャラクターなんじゃがどうじゃろう……いや、冗談じゃからそんなに睨むでない」

 独立って何だ。何から独立してんだ。親か? 社会か? 法か? それとも著作権か。

「ちなみに本当の公式キャラクターは世界樹を象った「せかいくん」……いや待って刀子くん刀抜かんでくれ。冗談、冗談」

 ちゃきと日本刀の鯉口を切った刀子に慌てて言い訳して、こほんと咳払い。近衛は片目だけを上げて千雨を見上げる。

「うむ……まあ、魔法には気づいておるようじゃし、大体の事情は飲み込めているかのう?」

 時間移動を使ったこと――は、聡美が悟っていたとしても学園側に漏らされることはないだろう。そして超が学園側に思った以上に接近していたりしない限りはそれは今後も起こらない。魔法世界にしても時間移動はオーバーテクノロジーなのだ。千雨はその言葉をほぼ言葉通りに解釈することにした。
 言葉に出さず、態度にも出さず。しかし近衛は得たように深く頷いて自らの立派な顎鬚を擦る。

「ここまでは既知のおさらい、といったところかのう。何か質問はあるかね?」
「看護師に話しかけられるまで、記憶が消えてたのは、魔法なんですか」
「ほう! 眼が覚めてすぐ記憶を取り戻したのか。それはまた、凄いのう」

 いくら関係者から全てを隠匿できず、記憶に繋がる情報が世間に残ったままだったといっても、それは感嘆に値する、と近衛は心底感服したように言った。

「……」
「うむ失礼。それは魔法じゃよ。記憶消去の魔法とゆうてな、古くからある魔法である分、使用制限こそ厳しいが多岐に渡っておる。魔法使いにとっては基本的な魔法じゃな」
 使えなくて悪かったな。魔法を使える者が自分は魔法使いであるという自覚をするタイミングを知らない千雨だったが。
「つまり、さっき、学園長が私をレイプしたが、私はそれに気づくことは出来ていないという魔法ですか」
「……」
「……」
「ほっほっほ」

 ネガティブじゃのう? と学園長は絶句した刀子と聡美に話を振り、要領の得ない呻き声しか漏らさない二人に小さく首を傾げてから千雨に視線を戻した。

「まあ、そういう事件もあるのう」
「学園長!」
「隠しても仕方あるまい。魔法の悪用と言えば記憶消去。誰もが知っておるし、気づくじゃろう。その通り。極一部の悪辣な魔法使いは記憶消去を使ってとんでもなく悪辣な真似をしとるのう」
「ずいぶん……素直なんですね。魔法使いは1から100まで善良だとか言われると思いましたけど」
「ほっほ。そんなものよりも、君に魔法使いが人間ではないと思われる方が恐いのじゃよ」

 なんて厄介な交渉相手だ。千雨は舌を巻いた。

「へえ。聞いた限りではどっちかっていうと魔法使いが魔法使いではない奴を人間と思ってないんじゃないか、って思えますけど」
「ずいぶん簡単に魔法の存在について信じるんじゃのう?」
「実際に記憶を消されましたから。目の前でウチの担任教師が絡繰に変なのを撃ってましたし」
「うむ。それくらいの経験をすれば信じるじゃろうて。……お察しの通りじゃ。魔法使いの中にはある種の選民思想というものは存在する。極論として言えば、この都市の中にも君らを見下している人間がおるということじゃ」

 完璧に性格を読まれきっている。しかも、三年前の長谷川千雨ではなく、今近衛の目の前に立っている千雨の性格を。素直でない天邪鬼に、完璧に対応されている。

「しかし、大多数の魔法使いはそうではない。学園長としてはあんまり言いたくないことではあるのじゃが……例えるなら魔法という学科を一つ多く学んだ人間程度に考えて貰えればよい。経済の専門教育を受けた人間が金融で教育を受けていない人間を容易く騙せるように――或いは法律でもそうじゃな。魔法を学んだ人間は、その分野で少しだけ人より進んでおるだけの人間、とでも考えてくれれば結構じゃよ。複数の分野においてエキスパートであれるのはごく一部じゃ。その分だけ人より少しだけ優れていて、どこかで劣っていて、その他の人間を害しないことは個人の倫理が頼み……ほら、どこにでもある話じゃろう?」
「……」

 自分らを扱き下ろして相手と対等だと思わせる技術は、どちらかというと警察が犯罪者に対するための技能だ。心が平常でない、自分と息を合わせる人間を求める犯罪者の求める人間だった。
 いや、私はこの場でそういう扱いをされているのか。

「他に質問はあるかのう?」

 完全な勝利。にも拘らず一切それを表情に出すこともなく、近衛は優しく千雨に問いかけた。敵対すら出来ていない。千雨が背負っているものも、今開示した能力も、それにすら及んでいないと千雨自身わかっている。

「……いえ」
「では本題にはいろうかの」

 なんでもない、日常の瑣末ごとを処理するかのように、近衛は言った。

「実は、君の記憶を消すことが、難しいんじゃよ」
「は?」
 自分でもわざとらしいと思った。だが近衛は気にした素振もない。
「うむ。魔法のことを知った一般人の記憶が強制的に消されることは察しのとおりじゃ。そうやって魔法の秘匿は維持されておる」
「……」
「君にも当然、その処置が施される予定じゃった。無論、反論はあるじゃろう。理不尽とも思うじゃろうが、それでもな」
「記憶は消されるべき」
「そうじゃ。秩序を守るために、小なる犠牲を強いておる。それは悲しい現実かもしれんが、どうしようもない現実じゃ。正義ですらないが、確かに正義なのじゃよ。理解はされんがの」
「……」

 基本的人権。それは究極的に個という人間が尊重されるべきという理念である。しかし弱者の犠牲で強者が守られるという論理は存在し、それは幸福の総量で言えば間違いなく正しい。マイノリティの圧倒的幸福のためにマジョリティに僅かな負担が強いられるというのは、いかな価値基準を照らして見せても否定されるべきものだ。世論では否定されることは稀だったが、それに実が伴うことは少ない。
 マイノリティとして虐げられていた経験が多彩な千雨とて、それは仕方のないことだと解っている。だから、心情的には文句は一欠けらすら見いだせない。
 だが、長谷川千雨はどう思うか、千雨には解らなかった。諦念か、憤慨か。もう既に思い出せもしない。

「それは解りました。で?」
「うむ……君は、どうも記憶消去を初めとした認識阻害など情報処理系の魔法のかかりが悪いらしくての」
「……」

 本当に中学三年の初頭だったとき、それを聞くことが出来ていればどんなに気持ちが楽だったろう。

「感じたことはないかのう。周りと自分の認識の乖離を」
「……」
「あるようじゃの。じゃとしたら申し訳ない。ワシらはそれを把握しておったが、対応するわけにはいかんかったのじゃ」
 憎まれ口を噤んで、本当に申し訳ないという顔をしながらそうとは欠片も思っていなさそうな近衛を強く睨みつける。
「事此処に至っては君に誤魔化すのもナンセンスじゃ。記憶消去は便利すぎて常識的な情報操作のノウハウすらここにはないしのう」

 ナンセンス、ね。便利な言葉だと千雨は思った。消極的否定。曖昧でありながら、何よりもはっきりとしている。

「なんで、私に記憶消去? はかかりにくいんですか」
「どうも、体質としか言いようがないらしいの。記憶消去にかかりにくい体質、というのが稀に存在するんじゃよ。奇病と同じで勘定に入れるのも憚れるほど小さな確率での」
「はあ」
「無論、君は麻帆良以外では自分が異端であることにすら気づかず過ごすこととなったじゃろうて。しかし幸か不幸か麻帆良におった。じゃから、君は異端でしかなくなったのじゃ」
「……」
「どうも、ぼんやりしておるようじゃの。君の話をしているつもりじゃが」
「……初めての情報がぽんぽんと来たもので」

 千雨は近衛の表情を窺うことをあっさり放棄して、刀子の顔を窺った。眼が合う。刀子は千雨から眼を逸らさなかった。鬼眼とすら言われた千雨の気迫も、名の後にしかなかったのか、と今更千雨は深く自覚した。

「それで」
「うむ。君にはいくつかの選択肢が提示されることになろう」
「こっちの葉加瀬に、ネギ先生とウチのクラスの絡繰の喧嘩してる場面に連れて行かれた理由は聞いてないですけど」
「それは偶然じゃよ。そんなことがあの時間、あの場所で起きることなど予想できまいて」

 嘘を吐け。千雨の行動方針を探る思惑が一つ。千雨に魔法認識についてすっ呆けさせないのが一つといったところだろうに。また、この時期のネギは細かく監視されているはずだ。寝室に監視カメラが置いてあったところで千雨は驚かない。

「じゃあ、私が襲われたのはなんなんですかね」
「桜通りの吸血鬼、かの」
「まさか吸血鬼なんてのが実在してるなんて言いませんよね」
「まあ実在しておる。……が、こちら側としても桜通りの吸血鬼については関知しておらんのじゃよ。君がこっ酷い目にあった理由も良く解っておらん。犯人について何か教えてくれると助かるのじゃがのう」
「顔は見てません。ネギ先生についてなんか言ってましたね」
「ふむ」
「手を出すなだとか――」

 元々出す気もありはしないのに。そう考えると理不尽な話――だが理不尽に一々噛み付くのも、若さでしかないか。
(理不尽を振りまく私に、それに憤る資格はないな)
 歯の奥を噛み潰す。意思が、ぼろぼろだと気づく。それを指で摘むたびにぼろぼろと意思が剥がれ落ちていって、最後には何も残りそうにないと思った。

「となると、三日前、君の起こした事件は聞いておるがの。そのことかのう?」
(本当、失敗だった)

 照れ隠し、だった。それではきっと珍しいくらい千雨と長谷川千雨は同じ意思を持てただろう。長谷川千雨だって目を開けたら突然ネギの顔が目の前にあったら照れ隠しに拳を見舞っただろう。それは稀有なほど自然な長谷川千雨の体に宿る意思の行動であって、ならばそこから導かれた展開は長谷川千雨の中に千雨が宿っていなくても起きたことだったろう。

「先生の縁者、ってことですか」
「いや、そうなると本当に桜通りの吸血鬼だったかも怪しいのう。模倣犯の可能性が高い。動機も手口も違いすぎるのう。同じなのは桜通りという場所くらいのものじゃ」
「それを判断するのは、学園長なんですか」
「勿論、キチンと魔法世界でも警察組織は独立しておるよ。ただの素人考えじゃな」

 嘘はついていない。魔法世界には警察組織がある。だが麻帆良は魔法世界ではない。一種の自治地区に近い。その中にはそれに類する機関もあるかもしれないが、少なくともこの件は全て近衛の胸の内で処理されるはずだ。
 いや、千雨の小細工で他組織からの介入は有り得る状況ではあるが。

「それで、ネギ先生に何故あんな真似をしたのか聞いてもよいかの?」
「それは、大した理由じゃないです。突然目の前に――」
 本当に?
 それは、恨みではないのか?
「顔があって、寝ぼけてたから、驚いたんです」
「ほう。それはそれは。ネギ先生も生徒との距離感を掴み損なっているところはあるからの」
「……」
「ふむ」
「はい?」
「ネギくんが教師であることに疑問はないのかね?」
「え?」

 しまった。そのことを失念していたことでなく、反応してしまったことがしまった。それではそのまま疑問を忘れていたことを曝け出しているのと同じだ。千雨は密かに臍を噛み、

「魔法使いなんですね。なら納得するしかないんじゃないですか」
「ふむふむ。まあよいよ」
 いくらでも突っ込めたろうに、近衛は得たように頷く。余裕コキやがって。千雨は歯を剥いた。
「学園長こそ、私が3三日ぶりに眼が覚めたってこと覚えてらっしゃらないようで」
「……おお! いかんいかん。年は取りたくないものじゃ。どうじゃ、椅子にでも……あ、すまん。なかった」
「まるで、私の身体のことを私よりも把握してるみたいな言い方ですねえ?」

 傷つけたのも、中途半端にしか治さなかったことも、全て近衛の掌の上だと気づいていると、千雨は牙を向けた。ほんの僅かな意趣返し。近衛近右衛門ほどの絶大な勢力と政治力を誇る男が中学生一人の、更に小さな傷などに意識を向けるはずはないと解っていてだった。

「うむ。君の身体を治癒させたのはワシじゃし、別段過剰に気遣うほどの怪我を残してもおらん」
「……」

 違うのか。黙りこむ。包帯を巻かれた額を思い出す。
 傷は一生消えないらしい。前髪に隠れる位置ではあるが、それは中学生女子にとってはどれだけ辛い事象であるのか千雨にも解っている。そんな些細なことでも学園は千雨の動揺を誘おうとしている。
 そう思っていたのだが、違うらしい。
 それは整合性だ。些細な辻褄合わせなのだ。千雨の惨状を目撃した柿崎を初めとする3-Aのメンバーの認識と千雨の現状のすり合わせ。
 歯噛みする。ネギ・スプリングフィールドに設定されたタイムスケジュールやエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルと比較すれば千雨の存在が如何に矮小であるかなど解っていたが、その人生すら否定されている。存在の小ささを声を大にして主張されている。
 この場にいることも、近衛にとっては瑣末ごとでしかないのだろう。本気ではない。片手間で雑役で俗事で鴻業の片隅に転がってる埃程度でしかない。全てが空虚に浮かぶこの世界の中で、そのことだけが千雨の中ではっきりと形を感じられる怒りだった。

「ふむ。老婆心ながら忠告させてもらうがの」

 近衛は目線を窓に向けながら、ゆっくり、しっかりとした口調で言った。

「どうも、君は年恰好に合わぬほど精神年齢が高いようじゃ。頭もよう回る。大人の判断にも慣れておるようじゃ。優秀……そうじゃな、優秀な生徒といってもいいじゃろう」
「……」
「じゃが、言葉の端々が所詮子供の浅知恵……という程度にしか思えん」
「……あ?」

 一瞬、脈絡がなさ過ぎて話の行く末を探す。
 ――ふ

「ザケんなああああああっ!」
「ぬおっ!? 瞬間沸騰!?」
「あんたみたいなのに言われる筋合いはねーんだよ! この亀頭アタマジジイが!」
「え、亀頭!? もしかしてワシ生徒たちにそんな風に思われちょるの?!」

 18歳。いくら経験を積もうとも、それは誇るほどのものではない。老練にありとあらゆる方面で敵わないことなど千雨自身が一番知っている。
 だが近衛に今更それをいわれる筋合いもない。
 千雨はスカートを翻し、扉を蹴り開けて怒鳴り上げた。

「キャアアアアアアア! 学園長に犯されるーっ!」
「だあああ! 刀子くん止めて止めて!」
「助けてっ。誰か、助けてええええっ!」
「リアリティのある演技するのやめて?!」

 瞬動。一拍で千雨を背後から羽交い絞めにした刀子は器用に足で扉を閉めつつ、千雨を引きずり倒した。肩をしたたかに打ち、千雨は刀子を睨み上げる。刀子は動揺の一つすらなく、鉄のような無表情で千雨を見下ろしていた。

「君、すごいことするのう……」

 冷や汗を拭う近衛を、千雨は睨み、飲み込みきれない憤りに歯軋りをする。
 自分の、どう努力しても覆いきれない幼稚性は千雨のコンプレックスの中でも強い一つだ。それは根ざした価値観を捨てきれないという物の顕れであり、だがその行動のほとんどの決断は幼児性に依存して行われている。
 それを、よりにもよって。
 千雨はちらりと聡美を見た。

「ああ、刀子くん、もう放してよい。葉加瀬くん、悪いが外で誰か来たら説明してやってくれんかの」
「は、はい」

 聡美は千雨を一瞥し、学園長室を出て行った。
 千雨が刀子から離れ、立ち上がる。威勢もなく、ただ惰性的に近衛を敵視する。
 判断は、その幼稚性から導かれたものだった。

「う、うむ。すまんかった。そんなに怒ると思っておらんかったのじゃ」
「嘘付けよ――嘘、ですね」
「嘘じゃよ」少しも悪びれずに近衛は言った。「少し君を挫いておこうと思っての。真実を突かせてもろうた」

 挫かれた。怒らされた。千雨は俯いて視線を近衛から隠した。嘘や詭弁を使うことなく、ただ真実を突くだけでそれを為した。遥かな天上、雲の合間から投擲された槍の一突きで、千雨の全てを否定してみせた。矛先が自分でなければ、或いはここに聡美さえいなければ神業だと感嘆することもできただろう。
 だがどうしようもない程の焦りと憤りが頭を茹らせている。理性より前にある本能はどうしようもない感情をひねり出させている。

「真実……知ってる。解ってるッつーんですけど」
「うむ。そうじゃろう。自分の幼稚性を認識していないことほど恐ろしい先入観はない。君はきっと、それを自覚していなければならなかった局面をいくつか潜り抜けておるはずじゃ」
「……」
「じゃが、自覚した程度で是正されるようなものではない。ここで定義される幼稚性とは、つまり過剰な集中じゃ。君のここまでの言葉は子供とすれば85点。しかし一人前とすれば40点にも満たん。まともな点をやるには、君はワシのことを見つめすぎた」
「……余裕を持て、本気になるなとでも?」
「子供には言いたくない言葉じゃが、それが真じゃ。本気になることとは、諸刃の剣。それを武器とするには生涯幼稚性と付き合っていく覚悟を必要とされる。そして現代社会においてそれは許されはせん」
「……学園長、あんたはサンタクロースを信じているガキの首根っこを捕まえてお袋に間男が突っ込んでるところを見せ付けるようなジジイだな」
「その偽悪的な例えも感心せんのう。それに、ワシは今、ワシに許される限り最も優しい言葉を使ったつもりじゃったが、伝わらなかったかの」

 解っている。こんな、まるで大人が子供を導くようなことを近衛が千雨に言う必然性がないことくらい、千雨には解っている。それに反抗する言葉は子供の癇癪でしかなく、普遍的な真実ではないが事実であり、子供はいくら言葉と反抗を重ねてもそれに従うのが大人への最短距離であることに違いないだろう。
 だが、反感は理屈を以ってしても消えなかった。

「さて、話を戻すがの。君にはいくつかの選択肢が提示される」
「……」
「無論、この中から選ぶ必要もないが、わかるの?」

 それらだけが学園側の意向であり、それ以外の選択肢において学園のバックアップを受けれるとは思わないこと。と言いたいのだろう。あるいは、物理的に排除されるか。
(クソ。結局完璧に主導を取られてるじゃねーかよ)

「1。君の記憶操作にかかりにくい体質を超える強さで記憶操作の魔法をかけ、完全に魔法に関する情報を消した状態で元の生活に戻る」

 選べない。千雨の体質はそこまで万能ではないし、強くはない。この分だとその性質も学園は把握しているらしい。そこまで強い記憶操作をかけられてしまえばもう二度と魔法について思い出すことはできないだろう。
 いや、そこまで強い魔法をかけられれば、人格に障害が残る可能性が高い。そのことを近衛が言及する気配はなかったが。

「2。最低限の記憶操作をまたかけ、麻帆良学園都市から退去する」

 選べない。最低限であるのならまた魔法に近いキーワード、あるいは矛盾から記憶を復帰できる可能性は高いが、かけられる魔法が実際に最低限である保証がない。この狡猾な老人であるならば、最初の選択肢と同じような強い記憶操作の魔法をかけられる公算が高い。

「3。合計30時間の魔法に関る一般人心得についての講習を受け、学園内の他のクラスに移籍する」

 ……?
 千雨は顔を上げた。

「以上、三つの内から選んでもらうことになろう」
「待て……待ってください。3は、どういう意味ですか」
「言葉通りの意味じゃが?」
「つまり」

 実質的な無罪放免。いや、誰だって3を選ぶだろう。頭の中を弄くられていい気のする人間はいない。
(なんだ、そりゃ。何が狙いだよ)
 だがネギを攻撃しようとする行動を見せた千雨への恩赦にしては、行き過ぎだ。甘い判断と見ることも出来る……いや、甘くない判断ができる人間の方が麻帆良の魔法先生の中には稀有だが、少なくとも近衛近右衛門はそうではない。或いは、それは甘い判断、ではないのか。ただのお目こぼし――千雨など大した生涯/障害ではないということなのか。
 一瞬、怒りをそのままに選択肢を全て打ち壊す、ということが頭に掠める。だがそれは掠めただけで通り過ぎていき、千雨は大きく息を吸い込んだ。

「病み上がりなもんで、頭が回ってません。選択肢だけ貰って帰ることはできませんか」
「うむ。勿論じゃよ。あんまり長くなるのも問題じゃが、友人達との付き合いもあるじゃろうて。ゆっくり考えるがよい」
「どうも」

 思惑を考えるのは後だ。文言の一つ一つを記憶し、時間を作って、ゆっくり思案すれば良い。
 今やるべきことはいくらでもある。予定した時間に戻って来れなかったことや、いきなり三日も眠らされたのは躓かされたという気があったが、それでも麻帆良祭に向けて準備を進めなければいけない。
 ゆっくり、藁でも使うかのように息を吐いて、千雨はおざなりに頭を下げた。

「失礼します」

 近衛は、ゆるりと笑って見せた。

 扉の横には、聡美が立っていた。何か口を開く気配を察した千雨は、それより先に背を向けて歩き出した。聡美が何も言えず口を噤む。
 敵だろう。未だに、たったアレだけの情報で千雨が未来から来たと悟られた理屈はわからないが、同じ今を変えようとする未来人同士が強調できることはありえない。超にとって千雨は敵で、ならば聡美にとっても千雨は敵だ。
 滑稽だと思った。聡美は私を敵だと思っているが、私は聡美を守るためにあの時の流れを潰した。色んなものを捨てた。
 本当に?

(先生を憎んでたから、未来の先生を消すための口実として葉加瀬を使っただけじゃねーのか?)

 角を曲がる。古めかしい麻帆良の階段が見える。
 ――所詮は子供の浅知恵。
 やりどころのない憤り。強く舌打ちして、ところ構わず暴れたくなる自分に気づく。そして、それを実際に千雨はできない。そんな衝動を嫌うのが長谷川千雨だった。そんなことは覚えていた。
 噛み合わない歯を噛み潰す。どうせ、聡美とは拳骨以外の何かで決着をつけることになるだろう。
 強い意志を持たなければ。
 後悔に囚われず、ただ一点だけを見据えなければ。

「けど、まあ」

 今は休ませて欲しい。全身に、精神に疲労が蓄積している。



「なのに眠れねーし」

 自室に帰って、ずいぶんと時間が経った。
 夜が明けた。電気が付きっ放しの自室は、結局窓から入ってくる朝日と電灯が相殺していた。
 よたよたと体を起こす。一晩中目を閉じていただけで、疲れはまるで取れていなかった。皺のついたシャツを脱ぎ捨て、半裸を空気に晒しながら不意に嘆息する。
 昨日、ネギには監視がついているはずだ、と考えた。しかしそれは自分も同じだ。ただし目的は真逆。徹頭徹尾不審者の監視のための盗聴器や監視カメラだ。もう齢18。裸一つを特定多数に見られる程度で動揺するほどのウブではないが、流石に気分は良くない。ただ、とっさに手元にあった聡美の眼鏡をかけることは忘れなかった。
 ストレスのたまることに、千雨はそういった監視機器を捜索することすら許されない。3年後の千雨はそういう類のエキスパートではあったが、この時代の長谷川千雨はそんなわけがない。ネットサーファーの心得程度にそういう知識はあるが、実践経験はなく、またそんな疑いすら持たないだろう。
 いや、実際には3-A全員の寝室にそういうものがあっても可笑しくはない。有線を壁に埋めこまれた監視機器の存在に悟れるのは、3-Aの中にも数はそういないだろう。

 千雨は洗面台に向かって、鏡から顔を逸らしながら眼鏡を外し、額の包帯を解き、蛇口をしっかりと捻った。僅かな油の浮いた顔に叩きつけるように水を浴びる。洗顔フォームを手に取り、少しだけ笑う。三年後も同じブランドの物を使っていた。
 濡れた前髪をかき上げ、つい鏡にも目をやる。額に傷が残っている。桃色に罅割れた痛々しい血の滲む深い傷跡。前髪の付け根に、一文字。私だったら鏡の裏にカメラを仕込む、と思いながらもまじまじとその痕を眺める。これはエヴァンジェリンのやったものではない。逃亡中に枝でざっくりと深く切ったものだった。
 後悔。それが千雨の体だったら大したことは思わなかったろう。道具として自らの相貌を利用することはあったが、まともな女としての幸せなんて期待していない。200万ドラクマと恋愛しようと思う人間はいない。
 だが、この体は、長谷川千雨のものだ。

(ひでー顔だな)

 目を伏せる。傷跡の他にも、目の下に隈と頬にやつれが出ている。顔は浮腫み、鼻の横にはニキビの気配すらあった。
 化粧をしよう。千雨も、長谷川千雨も、この時ばかりは同じ気持ちだろうと思った。こんな顔で登校するのは嫌だ。

 頭しか使えるものがないのに、ぼーっとしている。夢と現実の境が解らなくなるほどだった。疲労と、現実感のなさ。それでも死化粧のような厚いナチュラル・メイクを施し、自分のスペアの眼鏡に替え、真新しい下ろしたてのシャツを羽織ると、千雨はまたベッドに腰を下ろした。
 一晩中、何か思案に耽っていた気がする。探していたまどろみが、その奥にあるような気がしていたからだ。結局見つからなかったが。

 現状を分析すると、勢力は五つに別れる。学園、超、エヴァンジェリン、ネギ、そして千雨。
 学園は秩序型。そして3-Aの中の要人を警護、教育する方針で固まっている。超派との繋がりはどの程度なのだろうか? 超派の葉加瀬を千雨に差し向けたこと。学園長と千雨の会合にも葉加瀬が居合わせたこと。そして何より超派を3-Aに取り込んでいる時点で敵対しきってはいないだろう。情報、技術、人材の交流が少なからずあるはずだ。また千雨が魔法を認識していることは知っており、未来から来たことは知らない。この論拠は未来で時間移動の存在を学園祭まで学園派は認識していなかったことにある。
 だが、方針として千雨を許容していない。ネギを害し、ネギに影響を与えかねない千雨は既に排除される位置にいる。これを覆すのは、相当難しいだろう。

(初っ端から、思いっきりケチつけちまったな)

 目が覚めた瞬間のネギへの攻撃。アレでいきなり厄介な展開に巻き込まれた。反省。

(……知るかよ)

 学園長との会合で提示された選択肢。そして決定的に千雨の分析が済んでいるということ。現代社会において個人の洞察力などは組織に必要とされない。言葉や動作を索引して、心理分析の本が一冊あれば九割方人となりが解る。千雨が自慢するような洞察力など、所謂「機転」程度の物でしかない。
 千雨は安い情報だ。些細な情報が各勢力を簡単に行き来するだろう。肝心の未来に関する情報が超派以外にひた隠しにされるのは、それが超派の切り札だからだ。逆に考えれば、それを逆手にとることもできる。

 一方で超派は、学園派と違い千雨を重要視するだろう。千雨は超の計算を崩す存在であり、その長大な計画における唯一のイレギュラーだ。その互いの望む未来が共存するものだとしても、100年もの長い歴史を改変しようとするのだ。些細な差が決定的な計算違いになる。あるいは、既になっていて超は歯軋りしているかもしれない。超の方針としては、計画の続行。そして最も影響の少ない方法でのイレギュラーの排除といったところか。
 問題は、超派は千雨についてどこまで悟っているのか解らないことだ。何年後の未来から来たのか、長谷川千雨はどこに行ったのか、千雨は誰なのか。そのどれを気づいていて、どれに気づいていないのか、どうやって未来から来たことを知られたかも解らない千雨には想像がつかない。
 それによっては、学園長の提示した選択肢1が、超派によって防がれるかもしれない。長谷川千雨の中に千雨がいるということが解っていなければ、長谷川千雨の中にいる誰かに魔法認識を忘れられることは厄介だ。関連する記憶を根こそぎ消し去る記憶消去は、長谷川千雨の中にいる誰かが長谷川千雨を演じることすらできなくするから。
 影響をできるだけ出したくない超派にとっては、長谷川千雨に大きな変化を持って欲しくはないだろう。まず考えるのは長谷川千雨の中に入っている人格がどういう形で入っているのか。あるいは、別人が長谷川千雨に成り代わっているかを検討する。つまりは長谷川千雨の復帰を試みることだろう。無論、それは不可能であり、最終的には千雨に長谷川千雨を演じることを要求する。

(最悪は……私の脳を開いて、擬似的な人造人格を植えつけることだな)

 そこまでの技術を持っているかはわからない。だが方法としては葉加瀬が時代を跨いで千雨にしたことと同じだ。できると見ておいた方がいいだろう。

 学園派と超派は潜在的な敵対関係にある。千雨の活路はそこにしかない。

 エヴァンジェリンは学園派の子飼いであるが、実質的に自立している。エヴァンジェリンが何を考えているのかまだ情報がない。未来で聞いた話では、エヴァンジェリンの封印を解くためにネギを狙った。そのネギを殺しかけた千雨に対する報復とは言っていたが、実際は学園側の依頼で千雨にネギへの敵意を持たせないよう躾に動いた、と考えるべきだろう。その点で学園派とエヴァンジェリンの利害は一致しているが、エヴァンジェリンはその来歴から自らの意思で生徒を襲うことはできないはずだ。それを考えると、『桜通りの吸血鬼』も学園側の認可があって行われていることになるのだが。
 もしくは、エヴァンジェリンが千雨の考えるより学園側に食い込んでいる? だがエヴァンジェリンの従者、茶々丸は超派だ。両派にある程度接近していて、ある程度の線が引いてあると考えるのが自然だ。
 だが、千雨の『3-Aに桜通りの吸血鬼に襲われ、大怪我を負ったことを見せる』という小細工によってその躾は未遂に終わった。である以上、千雨が再びネギに害意を見せない限りは再び千雨がエヴァンジェリンに襲われることはないだろう。逆に言えばそういうことがまたあれば、確実に今度は命が奪われる。

(今は、エヴァンジェリンは気にする必要がないってのはラッキーだな)

 厄介者のエヴァンジェリン。後衛としては抜群に優秀だったのだが、しかしその奔放な言動に千雨もよく悩まされたものだ。それなりに付き合いはあったが、まだ理解は及んでいない。

 ネギ……は、今は考えることはない。方針も、行動も解りすぎるほど解っている。そもそも派閥としては言い憚られるほど小さい勢力でしかなく、また学園側にその大半を依存している。それに行動そのままが目的であるあの少年について深く考えるのも馬鹿らしい。注意するとすれば、それは千雨自身だ。憎しみかどうかは置いておいて、間違いなくあの少年を前にしたとき千雨は失策を繰り返している。

 今後の方針は、学園側の千雨を排除する方針をやめさせること。そのために超派を上手く使い、学園側の提示した三つの選択肢を学園側が選べないようにすることだ。そうすれば学園側は千雨に対し、妥協するか強行するかの方法しか取れなくなる。強硬手段を使われた際の対応も考えておく必要があるが、まあ十中八九従順な態度を取れば妥協することだろう。
 だが、気になるのは選択肢3だった。『魔法界についての教育を受け、他クラスに移籍すること』。それは妥協の選択だ。3-Aから離れたくない千雨としては受け入れたくはないが、3-Aへの執着を知られたくない千雨には妥協点でもある。クラスが違っても、超の思惑を挫く方法はある。だが、簡単にネギに接触できる場所を学園側が与えるというのはどう考えてもおかしい。
 そのことについては探ってみる必要があるだろう。無為にそれに飛びつくのは不味い。しかし、所詮は封印されたエヴァンジェリンにすら手も足も出ないただの中学生である千雨に対し、どのような思惑を持っているというのか。

(……)

 学園長の、昼行灯とした顔が思い浮かぶ。

(ガキの、浅知恵、か)

 いくら分析しても。考えても。その言葉がどこかに引っかかっている。所詮子供。エヴァンジェリンを除いた今の3-A連中の中では三つばかり年を食ってはいるが、思慮深いなどとはとても言えた年ではない。所詮は18だ。
 見事に、楔を打ち込まれた。

(クソ……年食ったら、もっと深く考えられるものなのかよ)

 白き翼はパーティーとして規格外に若かった。紅き翼はゼクトやガトー、アルビレオと大人が揃っていたが、白き翼にはエヴァンジェリンしかいなかった。参謀役を担っていた千雨と夕映も、その若さを理由にエヴァンジェリンにいくつかの案を潰されていた。
 エヴァを白き翼が失い、事実上千雨と刹那の二人だけとなってからは千雨の中の若さは薄れていたはずだ。だが、どこかで千雨には自信が欠けていた。どれだけ考えたところで、子供の浅知恵でしかない千雨の考えは浅く、穴があるのではないかと思った。自信を裏付ける経験が欠けていた。基礎的な能力にしても、才能に欠ける千雨にはそれを誇ることはできなかった。

(解ってるっつーんだよ。言われなくたって、私の考えにいつでも穴があるなんてことは)

 所詮ガキの浅知恵。ああ、既に自分の分析に自信が持てない。だが許せないのは、それをよりにもよって聡美の前で言われたことだった。
 勿論、打算もある。超に少しでも自分の評価を教えたくなかった。取り分け、傑物近衛近右衛門の人物評なら超も価値を見出しただろう。しかしそれ以上に聡美の前でくらいはカッコつけたかった。聡美と葉加瀬が別の人間だと思っていても、葉加瀬聡美は千雨が過去に来た理由だ。彼女の前で、彼女を助けるという判断をしたことが子供の浅知恵でしかないと否定されることだけは許せなかった。葉加瀬の願いを叶える、という名目で未来を潰し長谷川千雨を潰し過去に来た千雨にとって、聡美の存在は大きかった。

(……)

 息を吐く。僅かなでこぼこのある額を抑える。嫌な汗をかいていそうだ。化粧を流さないかが心配になった。

(学校、行きたくねーな)

 3-Aの連中に会えるのは楽しみだ。会っているだけで楽しくなれる。昔のことを思い出すことができて、それだけで心が浮き立つ。
 だが、超と聡美に会うのは憂鬱が先立った。聡美に敵視されることが辛い。長谷川千雨だと思ってもらえないことが辛い。超には、また余計なことを知られるだろう。どんなに注意深く動いたところで、千雨の事情は漏洩する。葉加瀬の忠告をもっと真面目に聞いておけばよかった。超鈴音がいる限り、未来人が自由に動くことなど絶対にできないのだ。



(ま、それでも来るんだけどな)

 一度溜息。感情よりも、思惑を優先させることにした。なんにせよ超派と接触をしなければならないのは確かだ。
 戸に手を当て、一拍で心臓を整える。不随意筋の癖に心臓は精神状態で簡単に状態を変化させる。スライドドアを、開いた。

「長谷川!?」

 腰掛けていた机から飛び降り、真っ先に駆け寄って来たのは柿崎だった。

「ちょ、大丈夫なの!? 怪我」
「ん、ああ。まーな。大したことはないらしい」
「いやいやいや! ありえないっしょ! あんたの血で私服一枚潰したくらいよ!」
「そりゃ悪かったな。後で学園長に請求しといてくれ」
「……? 学園長に?」

 超は、いた。もうぼちぼちチャイムが鳴りそうな時間だからか、大人しく自席に治まって、周囲と談笑している。千雨に気づいていないはずもないのに、それを歯牙にすらかけていない。一方で聡美は、ばればれの動揺をしている。ちらりと一度、千雨に視線を送って見せたのだ。

「いや、しかしびっくりしたよー。ご飯終わって部屋帰ろうとしたら、美砂が千雨ちゃん抱きかかえてへたりこんでるんだもん」
「ていうか長谷川、この包帯大丈夫なの?」

 柿崎を追って、椎名桜子と釘宮円が寄って来る。額の包帯に手を伸ばす釘宮に苦笑し、

「そりゃ悪かったな柿崎。よく考えりゃ携帯壊れちゃいなかったんだから勝手に救急車呼びゃよかったんだ」
「いや、そんなのはどうでもいいから! マジあんた死にそうだったんだよ!? もう来ても大丈夫なの!?」
「ああ。どっちかっていうと襲われて逃げようとして、勝手にずっこけた方が酷かったからな。間抜けな話だが」

 真っ先に介抱した分印象は強いのだろうか、それでも柿崎は目を細めて千雨の周りをぐるぐると回っている。千雨は放っておいた。いくら探しても、かすり傷程度のものしか見つからないはずだ。麻帆良の医療部は、その程度で3-Aの連中を誤魔化せると踏んだらしかった。
 恐る恐る釘宮が千雨の額に手を伸ばそうとする。それでも手を引っ込めて、まじまじと注視し、次いで目を丸くした。

「あれ、長谷川、メイクしてる?」
「……まあな」
「うわっ。うまっ! ナチュメうまっ」
「そうかよ」

 まあネットアイドルをする関係上、中一からこっちメイクの類には慣れていたのだ。年季がちげーんだよ年季が。と僅かに誇りながら、あんまり言って欲しくはないとも思う。それも超に与えたらどう取られるか解らない情報だからだ。

「でも千雨ちゃん、メイクしてたっけ? ……ていうか、してなかったよね。美砂といんちょと朝倉くらいしかメイクしてるとこ見たことないしなー」
「……まあ、もう二人いるがな」
 ザジ・レイニーディのアレは女子中学生が求めるメイクではないだろうし、那波千鶴のモノに至っては千雨ですら顔を近づけてじーっと見てようやく気づくほどのものだが。
「ちょっと今日は顔色が悪くてな。気使われんのも面倒くさいから化粧したんだよ」
「顔色悪いってやっぱ大丈夫じゃないんじゃない!」
「うおわっ!?」

 しゃがみこんで千雨の膝に残った傷を眺めていた柿崎が、突然ガシッと千雨の足首を掴んだ。よろめきかけ、つい咄嗟に柿崎の頭を掴む。

「やっぱ今日は帰んなって! 絶対治ってないってあんた! てか、あの血の量にしちゃ傷少なくない!? 何処にあんの!?」
「やめろバカスカートめくんな! 頭だよ! 頭の出血だよ!」
「あ、長谷川大人の魅力」
「死ね」

 一瞬たりとも躊躇わず千雨は柿崎の頭皮マッサージを敢行した。
 ぎにゃー。


 しつこい柿崎を振り払い席に戻ると、丁度夕映も席に戻ってきた。夕映は小さく会釈し、一瞬だけ千雨の額の包帯を見上げてみせた。

「おはようございます」
「……ああ。おはよう」
「災難でしたね」
「まあ、な」

 思わず夕映の顔をじっと見てしまう。麻帆良の学生にしては珍しくリアリズムを保っていただけあって、麻帆良にいた頃、千雨は夕映とそれなりに喋る仲だった。しかしそれはそれなり。千雨にとっては精々ザジ・レイニーディと同じ程度の仲だった。
 だが、それでも以前夕映が魔法という存在に関わっていることを知った千雨は驚愕した。自分が最低限信じていたリアリズムが否定された気になった。
 この時点、夕映は魔法の存在を知らない。ネギの従者でもない。ただの中学生だ。

「なんです?」
「いや……そーいや、先生遅いな」
「そういえばそうですね。生真面目なネギ先生ですから、いつもはもっと早いんですけど。それに明日菜さんもいませんし」
「え?」

 クラス内を見回す。確かに神楽坂明日菜に近衛木乃香。桜咲刹那、長瀬楓、エヴァンジェリンに絡繰茶々丸といった人物が見当たらなかった。

「そうだな。……」

 ふと、昨日の顛末を思い返し、千雨は口元を歪ませた。まさかあの自分の魔法の射手で怪我でも負ったんじゃなかろうか。明日菜と木乃香はその看病。刹那は木乃香が学校に来なければ態々登校してきはしない。長瀬は刹那の付き添いか。
 エヴァンジェリンたちは……サボりか、何かあったか。それを千雨には関知しきれないだろう。

「長谷川さん。多少時間があるようなので、長谷川さんが被った災難の顛末を教えてもらえませんか」
「あん?」

 夕映は、思いの外真面目な眼差しで千雨を見ていた。野次馬根性であるとはとても言えない。綾瀬夕映は知識欲で動くことが多々あったが、それを遥かに上回る圧倒的な意思の持ち主だ。千雨は夕映のそういう所を良く知っている。

「なんでだよ」

 だが、千雨はこれ見よがしに機嫌を害したという表情をした。ともすれば悪意すら感じられただろう形相。それでも夕映は少したりとも怯まなかった。

「桜通りの吸血鬼ですが、今までは犯罪でこそありましたが、それでも実質的な被害は微々たるものでした」
「……」
「精々、気絶させられて放置させられる程度。首に少々傷を付けられるようですが、それもほんの一週間ほどで跡形もなくなるようなものです。ですが、長谷川さんに対しては前例を逸しています。三日も昏睡させられたんです」
「……怪我は大したことねーよ。出血は自分でずっこけた時のものだし、目が覚めなかったのもその時打ち所が悪かっただけの話だ。自分の間抜けさを穿り返されるのはあんまいい気分じゃねーよ」
「それは」
「まあ、別段吸血鬼さんを庇う気もねーし。話しても構わないけどな」
「なら、千雨さんだけが逃げ延びたことはどう思われますか」

 おう。と千雨は呻いた。目の付け所を逃さない女だ。やはりこういう頭の回転は魔法に絡んでから得たものではなく、生来の能力なのだろう。千雨は感心を億尾にも出さず、苦笑を浮かべ、

「待てよ。あんたが何しようがあんたの勝手だけどな、危ないことに首突っ込もうとしてるクラスメートを止める権利くらい私にもあると思わないか?」

 夕映は甚だ意外そうな顔をした。
「長谷川さん、私の身を案じるような方だったでしたか」
「……」
「し、失礼。失言でした」
 長谷川千雨って、マジでどんな女だったんだ。三年前の自分でありながら、千雨にはさっぱり解らなくなっている。
 こほんと演技じみた咳払いをして、夕映は、
「見逃せなくなりました」
「あ?」
「佐々木さん、長谷川さんと桜通りの吸血鬼は連続して3-Aを狙っています。そして長谷川さんの今回の被害。その要因は、長谷川さんの対応にあると私は踏んでますが……次は、このクラスの誰かがもっと酷いことをされると予測してもおかしくない事態です」

 不正解。

「……警察に任せておけよ。小説とかドラマじゃ無能扱いされるがな、日本の警察はそれでも世界随一の」
「この街ではその限りではありません」

 ぴしゃりと言いきった夕映の口元には、自信に裏づけされたほくそ笑みが浮かんでいる。

「麻帆良学園都市が他の都市に比べ、異様なくらいに凶悪犯罪の発生率が低いことはご存知だと思います」
「ああ。だけど当然だろ? ここは麻帆良学園法人の支配する都市だ。無職が少ないし、未成年が多い。つまり不幸者が少ないんだ」
「ですが、検挙率は低い」

 千雨の頬が、引きつった。魔法に関わらずにいた時代に、ここまで考えられる人間がどれだけいるのか。

「更に言えば再犯率が低い。計画犯、知能犯の比率に至っては異常とも言えるほど小さいです。犯罪の多くが未然に防がれていると言ってもいいでしょう」
「麻帆良市警が再犯防止に力を入れてるってこったろ」
「いえ。犯罪者が私的制裁を加えられるからこその数字です」
(おお、すげえ)
「デスメガネ伝説をご存知ですね」
「あ、ああ。高畑先生のな」
「高畑先生のなさっていることは立派ですが、国法に合わせてみれば間違いなく私的制裁であり、傷害です。周囲に肯定されている以上、問題になることはありませんが。
 ああいう先生方の活動が積み重なって犯罪発生率が抑制されている、と考えるのが自然です」

 こいつ、よく学園に消されなかったな、と思うほどの的を得た分析だ。だが、肝心な要因が欠けている。

「つまり、この街には警察とは別の自治組織があると考えるのが自然です」

 そうそう。別の自治組織があるという考えに至っていなかったことが欠けていたのだ。十秒前まで。千雨は思いっきり夕映から視線を逸らし、窓の外を見た。
(こいつ、どうすんだよ……)
 千雨なら、別の自治組織なんて中二病的な考えには至らない。他の要因を探る。しかし綾瀬夕映はそっちに行ってしまうのだ。
 千雨の知る限り、押し付けられた情報でなく、自ら魔法の存在にたどり着いたのは3-Aの中でも夕映と千雨だけだ。しかも千雨は精神系魔法にかかりにくく、麻帆良全体に蔓延する一種の認識阻害を弾いていたから仕方ない。夕映はそれすらなく、ただ自分の中の論理だけでたどり着いた人間だ。単純な思慮の深さで言えば、千雨では勝負にならないほどのものを誇る。

「……まあ、いいぜ。あんたの言うそのガキ臭い自治組織があったとしよう」

 露骨な悪態に、流石に夕映は傷ついた顔をする。

「だが、それに任せておけばいい話だろ? 何もあんたが態々桜通りの吸血鬼を穿り返す必要はない」
「信用できません。桜通りの吸血鬼が発生してもう三ヶ月あまり。時間帯、場所、手口という共通項があって、尚連続犯行を食い止められない『自治組織』は、正直言って胡散臭すぎます。自治組織の内部に犯人がいるのかもしれないです」
「……」

 上を見て、下を見て、千雨は夕映に気づかれないよう溜息を吐いた。
 いくら夕映だと言っても、魔法を知らないクラスメートに腹芸を使うのがバカらしくなった。どうせ3-Aは天才揃い。ベクトルは多様だが、それぞれの最盛期を集めれば世界だって二三回は征服できる連中だ。千雨が浅知恵で動くのも限界がある。

「……で?」
「警察も自治組織も期待できないなら、今後の被害を抑えるために自分から動くしかないでしょう。そのためにも、少しでも多くの情報が必要です。
 長谷川さん、あなたは唯一桜通りの吸血鬼から逃げ延びた人です。少しでも犯人に切迫するには、例外である長谷川さんからの情報が必須になります。……お願いできませんか」

 下手に情報を隠すのも、上手い手じゃない。いっそのこと夕映に魔法のことをバラして現状をしっちゃかめっちゃかにしてやろうかとも思うが、それをするなら3-A以外だろう。夕映を自発的にドロドロの裏の世界に浸からせるのも気が引けた。

「あー」

 首の裏をぽりぽりと掻いて、ふと風呂に入り損ねたことを思い出す。この怪我で入るのは難儀だろうが、妙に感じるほど自分の体の不潔が気になった。自然な苦笑を浮かべる。笑顔を作るのは慣れた手続きだった。

「考えすぎ。邪推しすぎだ綾瀬。怪我させられた、逃げられた私が特別なわけじゃない。逆なんだよ。勝手に怪我したから、逃がしてくれたんだよ。私はむしろどっちかっていうと温情的な対応をする吸血鬼だと思うぜ」
「……いや、しかし……」
「勘弁してくれねーか。昨日目が覚めたばっかりでな。記憶も色々曖昧だし、思い出そうとすると頭が痛えんだよ」
「はあ……。そこまで仰られるのでしたら」

 不服そうに夕映は頷き、一度手元に目を落として頭を下げた。

「すいません。気遣いが足りませんでした」
「いや、それはいいが」

 まだ、このことを突っ込むつもりなのだろう。諦めていない気配が目に見て取れる。
 だが、千雨はこれ以上説得する気は起きなかった。いくら夕映でも、学園を敵に回せば手も足も出ない。そして、学園にとっては敵にすら値しない小さな存在に過ぎないのだ。
 千雨の行動の結果だとしても、それは変わらない。肺から小さく息を抜いて、千雨は前を向いた。
 丁度、副担任の源しずなが入ってくるところだった。

「しずなせんせー! ネギせんせーはー!?」

 真っ先に手を上げたのは朝倉和美だった。

「ごめんなさい。今日は休みなの。体調が優れないらしくて」
「えー!」
「大丈夫なのー!?」
「軽い風邪よ。神楽坂さんと近衛さんもすぐ来るらしいから」

 千雨は息を抜いた。
(大したことないのか。怪我じゃなさそうだな)
 大体、ネギの障壁は出力の制御構造が組み込まれた魔法の射手程度で破れるものじゃない。それが例えネギ自身の放ったものだとしてもだ。


 当たり前だが、高校三年が中学三年の問題を突きつけられても簡単だとしか思わない。習ったことでしかなく、それはあくまで復習程度のものだ。

(参ったな)

 超派に正体を悟られようとも、方針は変わらない。問題を与えられて、千雨は調子に乗って頭脳を披露することは許されない。

(授業がすげえつまんねえ)

 高校の授業がどれだけ生徒の興味を引くために特化していたのか。
 高校生になって、中学生の授業を受けて、ほんの一つたりとも得るものがなく、新たな発見の一つもない授業など意識を保つ方が難しいものだと知った。
 昔受けたことがある。程度の授業だったら思い返す意味で楽しめたかもしれないが、高校の授業は完璧に中学の理解を背負っている。感じるものは高校レベルなら当然知っている、程度の内容でしかなかった。

(……眠いな)

 実質的な徹夜明けの影響だろう。柔らかいしずなの声は子守唄にしか聞こえなかった。

(ねむ)

 目蓋が重い。
 誰が傍にいても熟睡できなかったのに、この時ばかりは多くの人に囲まれても眠れる気がした。
 敵がすぐそこにいるのに、眠れる気がした。



(にしても。こんなこと前、あったか?)



 いや、千雨がいることで歴史は変わりつつある。その余波か。或いは古い記憶を忘れているだけなのか。
 千雨は、その疑問をすぐに忘れてしまった。



千雨の方法
第一章 デイドリーム・ビリーバー 下



「待て……長谷川」

 何の面白みもない緑の香り。摺り足で擦った靴の裏が緑に染まるのを感じながら、千雨は順足。射程に桜咲刹那の矮躯を収めると中指を立てた前拳を見舞った。まるで梟のように動くもの全てを捉える瞳が、葉や草のざわめき、風の流れと共に自分の拳を捌く刹那の手首を捉えていた。

 勘や本能の存在を嫌々ながら受け入れた千雨だったが、それでもこの状況においては頭の回転を早め、論理を追求することだけが刹那に肉薄する手段だった。外は内へ。そのクソ真面目な心根に違わず、その本懐とも言え内を曝け出す手段でもある剣を握る時を除けば、嫌味なほど教科書的な対応に終始するのが桜咲刹那だ。
 身内の虚を突くことの無意味さを頭のどこかで考えながら、千雨はそれでも迷わずほぼ諸手のタイミングで空いた左手で刹那の長く白い髪を捕まえた。刹那は、嫌そうな顔をして、体を捻った。

「止まれ長谷川!」

 肘に打ち上げの刹那の掌底。受ければ力を逃す間すらなく間接が逆を向くだろう。しかし予想はついた。千雨は手首を巻き込み、体を寄せながら丁度肘間接で掌底を受け止めた。それでも神経が引きつるほどの痛みに肘が撓み、肩が上がる。

「ッ!」

 いや、いかな技法か。千雨の知らない術理がそこにはあったのか、手首から先、筋肉が弛緩し、するりと刹那の髪が零れ落ちていった。
(マズっ)
 正中線ががら空きになっている。慌てて両腕を引き寄せ、頭を下ろすが間に合わない。そっと、優しく刹那の掌が千雨の鳩尾に添えられた。
 千雨の顔から、血の気が引く。一瞬の間。千雨が身構えするための刹那の手加減。だが、衝撃に手加減はなかった。内を向いた刹那の前足が、ぬかるんだ水際の地面に沈む。

「がっ……は!」
「あ! すまん!」

 背中まで突き抜けるような衝撃に千雨の体は軽々と浮き、弾き飛ばされた。刹那から程近い草地に一度背を打ち、勢いのまま一度天を見てまた地を見、水切りのように跳ねながら湖に沈没する。

(……)

 透明度の高い、透き通った水。新世界の水は旧世界とは大分違う。旧世界の自然界の水よりも、蒸留水の方が近い。底に向けて沈みながら、千雨は必死に霞みそうになる眼を擦った。着衣のまま。底は深い。光を屈折する水面は徐々に遠ざかっている。
 千雨は、必死でもがき始めた。桜咲刹那。多くの戦場と苦楽を共にした戦友であるが、そのうっかりした天然ぶりはいまいち信頼に足りていないのだった。

「す、すまない! 長谷川、大丈夫か!」
「ゲホッ、ゲホッ……」

 深い湖でもがいて慌てて立ち泳ぎをしながら、激しく咳き込む。肺から水を吐いて、遠くなってしまった刹那を睨みつける。

「ってえ、なこのクソバカ! 手加減しろよ! 水、弾いたのなんて、産まれて初めてだっつーの!」
「スマン! いや……ちょ、て、手伝ってくれ長谷川! お、大物が……」
「……」

 刹那は、釣竿に向き直り、涙目になりながら必死に水を割るような大魚と格闘していた。

「……」

 ぶくぶく、と気泡を出しながら、千雨は眼を逸らしながら湖に沈む。眼を剥いて、刹那が悲鳴を上げた。

「おい? 長谷川、ちょっとタモ取ってくれ! 竿折れる! 長谷川? 長谷川ァー!」

 今日の火星は天気がいい。昼下がりのアエリア地方の森の中。植物に囲まれているのに乾いているという極めて特徴的な気候の中、極小の湖の湖畔に作った掘っ立て小屋。雄大な自然の中にありながら、極端な閉鎖空間にあって、長谷川千雨と桜咲刹那はえらく伸び伸びとした生活を送っている。
 千雨は少しばかり湖の水を飲み込みながら、ばしゃばしゃと格闘音を響かせる刹那を尻目に空を向いた。火星特有の指先で摘めそうなくらい薄い雲が足早に流れていった。

「え、嘘や。ちょ、ウチが、こんな魚に、負けるなんて、ちょ。待、っきゃあああああ!」

 ぼっちゃーん。
 知るか。


「魚がかかったからって人の事ぶっ飛ばすかよフツー」
「悪かったと言ってるだろう!? だが晩御飯のおかずがだな……!」
「つーか三人であんなデカい魚は食えねーよ! 持ってくる仕掛けがでけーんだよ!」
「が、頑張る! ろ、ロマンなんだ! あの主にはもう三回もエサを取られていて! いいだろう!?」
「ロマンかよ?!」

 桜咲刹那。三ヶ月に及ぶ狩猟生活のおかげか、近頃生来の野生の血を呼び起こしている気配が見て取れる。頑張るじゃねーよ。

「長谷川だって棒ダラは飽きたと言ってたろう……」
 この逃亡生活における主食は、以前大量に買い集めた乾燥鱈であり、それを一々チャムが戻して調理している。塩漬けの鱈はいくらでもアレンジのメニューがあったが、それでもやはり飽きが来ている。
「いや、飽きたけどよ、んな贅沢できるような立場でもねーだろ」
「せ、先生にももっと栄養を!」
「なら魚以外にしろよ?! つーかただの趣味じゃねえか!」
「も、元が鳥だから漁には適正があるんだ」
「自分で言うなよ?! 開きなおってんじゃねーよ! つーか多分あんたは蟲ばっか食ってる小鳥だよ!」
「誰が小鳥だ!? 啄ばむぞ!」
「テメーは近衛と袂を分かった辺りからキャラ弾けすぎてんだよ!」
「……」

 涙目である。

「……お嬢様のことは言わんといて」
「なんかすまん」

 メンタル弱ええ。
 二人は、湖の畔に場所を移していた。林間の湖だが、掘っ立て小屋から湖の間にはテニスコートくらいなら入りそうなスペースがある。丁度掘っ立て小屋からは木が影にある位置の小さな草むらの禿げた場所に、石で囲っただけの竈があった。今は刹那の陰陽術で小さな種火が燃え広がろうとしている。気温は春先なのだが、池ポチャして濡れたままで掘っ立て小屋に帰るのはマズイ。チャム――千雨の従者は、そういうところに煩いのだ。

「あー、くそ。びっちゃびちゃ」
「脱いでも構わないぞ。見ないでいるから」
「あんたも脱げ。シャツが透けてて眼のやり場に困る」
「え?! うわっ!? み、見るな長谷川っ!」
「面倒くせえなあ?! もう見飽きてるくらい見てるっつーの!」

 オスティアで3-Aが分解してこっち、ほぼ常に行動を共にしてきた仲だ。同じ釜の飯を食べたどころか内臓の色まで見た仲(比喩ではない)だというのに。
 顔を真っ赤にして背を向けながらTシャツを脱ぐ刹那をジト目で眺めて、溜息。千雨も刹那とお揃いのTシャツを脱ぎ捨てた。流石にショートパンツまで下ろす気にはならなかった。

「そういや、どうだ? ……私、ちょっとは強くなってるか?」
「成長は、自分が一番実感できるものだぞ」
「あ、そうか? 私、結構やるようになったと自分で」
「すまない。出来る限り傷つけない伝え方を考えたつもりだったのだが」
「すげえ傷つくわ! 実力不足だけじゃなくて自信過剰で二重で傷ついたわ! 最悪だ!」

 肩まで伸びた刹那の白髪を睨みながら、くわっと千雨は歯を剥いた。桜咲刹那。中学三年からさして伸びてない小柄な身長と華奢な千雨に増して細い腕と肩に似合わぬ剣腕の持ち主である。髪が伸び、白くなり、瞳は赤く染まり、あと一部がそれなりに成長した以外は刹那の外見は以前とそう変わっていない。懐かしいサイドポニーは滅多に見ることはなく、大概無造作なロングヘアーだった。
 まあ、成長していないのは千雨も似たようなものだ。年相応の丸みを帯びたくらいのもので、後は首の後ろで縛っていた髪を上げ、ポニーテールにするようになったか。それなりの期間続けている戦闘訓練や逃亡生活も体に肉を付けることはなく、体重はむしろ減ったくらいだ。

「落ち着け長谷川。お前は成長している。だが、決してプロに対応できるほどのものではない、という程度でしかないということだ」
「……じゃあ、意味ないじゃねーか」
「いや、私は感心してるぞ。もう少し早く始めていればそれなりのモノになっただろう」
「もう少し、ね。……いつのまにやら新しく積み上げるような年じゃなくなっちまったな」
「まあな。今までで積み上げてきたものをどうにかして生きるような年になってしまったし、そういう世界だからな。お前も三歳くらいから始めていれば最低限くらいのモノにはなっていただろうに」
「早いな! ていうかムリだな! 三歳からで最低限かよ?! つーか悪いけど子供できても三歳ぐらいのころから剣やらせたりしねーわ!」
「懐かしいな……よく滝から落とされたものだった。三条の滝とか」
「神鳴流半端じゃねえな!?」
「いや、里の人に嫌われてたからな、私」
「さらっと重いんだよテメーは?! 聞きたくなかったわ! つーかよく生きてたよお前!」

 因みに、3-Aメンバーの中で『闇の魔法』に才能を示した人間はそれほどおらず、しかしネギ、千雨、刹那とこの場の三人は全員闇の魔法に見事な適正があったりする。本家本元、エヴァンジェリンのお墨付きだった。

「まあ、実際一次性徴期から武術を学んでいるというのは圧倒的なアドバンテージだからな」
「気とか魔法があってもかよ? そりゃ、体の成長は早くしたほうがいいだろうけどよ」
「戦闘に対する勘の形成が圧倒的に違うからな。そういった第六感は幼い頃の方が遥かに形成速度が速い。むしろ体や技術は論理的に考えられるようになってからのほうが効率がいいことも多い」
「勘の形成、ねえ」
「そんな胡散臭そうに言うな。魔法使いの戦いは『魔女の鉄槌』から完璧に定型化されているんだ。ウォーロックを除けば相性が最大要因で、力も早さも技術もそれほどの差は出ない。重要なのは戦闘に関する勘だ」
「ま、言いたいことは解るぜ。報われてる努力の理由付けが勘、ってわけだろ。たまーに天才様方はそれをひっくり返してくれるみたいだけどな」
「穿つな……しかし、最低限素人相手には余裕を持てるようになったはずだ。それだけでもやる意味があるとは思わないか?」
「まあな。ストレス解消とダイエットにも最適だしな。これであんたにぶっ飛ばされて水没さえしなきゃ文句はねーよ」
「すまなかった」

 ド真剣な声色であらぬ方向に頭を下げた刹那にたじろぎ、千雨は思い切り顔を引きつらせた。謝罪において肝は頭を下げることではなく、こっちを見ることだと思うのだが。
 因みに、この桜咲刹那。ここまでにおいてふざけている部分は一切ない。その言動の全てはかつての主、近衛木乃香が乗り移ったかのような天然である。代わりに木乃香の方はそういう部分がなりを潜めているのだが。

「ううむ。やはり瞬動を……いや、というかやはり魔法の訓練をしたほうが効率がいい気が」
「ち。スタートが遅くなったら凡人にはそれだけ、ってことかよ」
「才能に拘るのはやめろ長谷川。選択肢を狭めるぞ」
「そうは言うがな」

 木陰に立てかけてある枝を折り、竈に放り込む。

「大河内や鳴滝の話し聞いてれば愚痴りたくもなるぜ」
「私も先生や明日菜さんを見て、そう思ったものだ」
「あんたがそう思うなら、私から見りゃ遥か天上の話だ」
「世界でただ一人の、情報のウォーロックが何を言う。千の刃の後を行くと言われるほどの女が」
「だから似てねーだろ?! なんで私をあのおっさんと絡めたがんだよ?!」
「いや、切羽詰ると気合と物量と力づくでどうにかしてしまうところが」
「……そ、それはだな……いや、私は力じゃないしだな……」
「それに比べて私は長の後継者として恥じることなく誇りを持ち」

 ネギはナギ。エヴァはゼクト。夕映はアル。刹那は詠春。古菲はガトー。まき絵がタカミチ。そして千雨がラカンと、白き翼のメンバーは紅き翼にそれぞれ対応して比較されることが多々あった。一部ミスマッチ。とりわけ古菲と千雨の位置は逆じゃなかろうかと常々考えている千雨である。

「長からお借りした夕凪のこの刃紋にかけて剣に命を……あれ? 夕凪ない」
「ベッドの横に置き去りだったよ! 珍しく素手だなと思ってたらド忘れかよ?!」
「しまっ……いや違う! こ、これはお前に対する信頼の証というか! うん!」

 どうだ、と言わんばかりにほくそ笑む刹那にイラっとした千雨は、竈に枝を突っ込んで真っ赤に焼けた炭を刹那の真っ白な背中に飛ばした。体を捻り、倒れこむようにして刹那は避ける。

「アブなっ!? 何をする?!」
「このうっかり侍が」
「だ、誰がうっかりしている! これはついだな」
「それがうっかりって言うんだよ! あーもううっかりってゲシュタルト崩壊し始めてるっつの!」
「う、うう! く、口では敵わんさ! 私は剣士だからな!」
「言っとくが、神鳴流の現役ウォーロックの中で、一番口弱いのあんただからな」

 いや、ゲーデル、近衛詠春、月詠と比較対象が悪い気もするが。青山姉妹の妹は聞いたところによると似たようなレベルらしいが。

「……おかしいな。私、こんなアホキャラだったか……?」
「いや、素で成績悪かったろ、あんた。あとやっぱ近衛に捨てられた辺りから」
「おおおおお嬢様のことは言うなあっ! あと捨てられてへんわ! 喧嘩別れや意見の相違やネギ先生がほっとけんかったんや長谷川のアホ!」
「……さて。そろそろ乾いたろ。チャムが飯作ってる。戻ろうぜ」
「無視すな!」



◆◆◆



「千雨ちゃん!」

 びっくりして飛び起きた。なのにそれすらも夢に近い覚醒でしかないと千雨は思った。全てが曖昧で、それが現実でないと言われた所で疑問を持つ余地はない。
 眼の機能か目蓋が開く速度か、視界は漣のようにゆっくりと広がっていった。
 いつのまに眼鏡を外していたのか、誰かの顔を確認するより前に眼鏡をかけ、千雨は眼鏡の下の眉間を揉んだ。世界が曖昧を続けているのが過去に来てからなのか、エヴァンジェリンに痛めつけられてからなのかが思い出せない。なのにそれのどちらでもいいような気がした。

(他人事みたいだな)
 眠気が冴えない頭だからか、本能に近い想いが脳裏に走る。
(この世界は、私のものじゃないからか)
 想像もしなかった考えではあるが、少なくとも人は誰もがこの世界は自分の世界である、という独占欲を持っているのかもしれない。それを失った時、世界への執着を丸ごと失う。

「千雨ちゃん。起きた?」
「……神楽坂か。なんか用かよ」

 いつ登校してきていたのか。いや今は何時間目なのか。
 付き合いは長いが、中学に入ってからまともに喋ったこともないだろうに、神楽坂明日菜が千雨の前に立っていた。そのことくらい自覚しているのだろう。明日菜はどこか居心地悪そうにしている。
(神楽坂……ね)

「えっと、昨日のことなんだけど」

 あくまで声を潜めているが、こんなところで出す話じゃない。咄嗟に千雨は明日菜を睨みつけ、立ち上がった。
「河岸変えるぞ」
「え、ああ。うん」
「行くぞ」

 休み時間だろうか。中途半端なざわめきが教室内に残っている。教室を出る直前、時計を確認する振りをして中を確めた。
 エヴァンジェリンの姿は見当たらなかった。相も変わらず、超は千雨に見向くことさえしなかった。

 人気のない場所を探して、結局立ち入り禁止の屋上手前の踊り場にたどり着いた。ここまで掃除が行き届いている。積み上げられた机の奥まで埃の気配がないのを見て、千雨は顔を歪めた。まるで新世界のようだ。極度に発達した科学は魔法と見分けがつかないとは有名な言葉だが、極度に発達した魔法は更にその上を行く。新世界の、特に大都市において埃やゴミは全て魔法で強制的に分解されている。
 千雨は何とはなしに適当な机の上に腰掛けた。丁度、少しだけ明日菜を見下ろす形になる。

「あんなとこでああいう話すんなよ」
 明日菜は顔を顰めた。
「ごめん」
「いや……」


 神楽坂明日菜――いや、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア。黄昏の姫御子。灰燼。完全なる世界。鉄血。呼ぶ名は数多あったが、最も有名なのは新世界の姫という呼び名だった、不世出の独裁者にして新世界最強の立派な魔法使い。三年後の世界においては、その圧倒的な戦闘能力によってサウザンドマスターと並び伝説となった女。
 今から二年後。新世界の小国を、ある一人の少女が簒奪する。少女は老王を誑かし、毒婦となり、王を殺し、国を奪い、しかしその手段とは結び付けられぬ柔らかな手段で国を統治し始めた。
 弱者を守り、強きを挫き、――歯を食い縛って。完全なる世界と黒羽。二つの組織が魔法使いたちを支配しようとしていた世界で、まるでそこだけ御伽噺のような優しい世界で、少女王は歯を食い縛りながらもめでたしめでたしを目指していた。
 少女王には、少ないながらも仲間もいた。「心神喪失」「神速」「奴隷騎士」「兎の足」。それに「哲学者」。国は、小さくも未来が見えていた。間違った世界の中で、唯一つだけ間違っていなかった。少女王は、長い時間をかけてでも、小さな物を守ろうとしたのだろう。民はいつしか少女王を好きになり、人が集まり、笑顔が増えていった。
 それは、一太刀で、消えた。

 ナグル・ファル級と呼ばれた飛行戦艦の艦首からの、一撃。
 完全なる世界として「不正な手段で権威と歴史ある王座を簒奪した犯罪者の断罪のため」進軍したアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアの抜きざまの一太刀で、国は、民は、楽園になるかもしれなかった国は消滅した。少女王は、国人の中では最後まで生き延びたらしい。しかし、最後は投降し、首を落とされた。
 アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアの伝説。御伽噺の終焉。英雄譚の始まり。その全てを、千雨は逃げ落ちた「神速」から克明に聞いた。新世界最強のウォーロック。そして史上最強と呼ばれた立派な魔法使い近衛木乃香すら退けた伝説の姫君の伝説。
 ――その話を聞いている間だけ、千雨は夢心地から逃れることができた。
 千雨は、その救うと決めた人間の中にアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアを入れていない。


 調子が狂う。明日菜は3-Aの中で一番繋がりの薄い仲だ。新世界で栞に成り代わられてから、明日菜のこの人格は消去されてしまっていた。千雨はむしろあの感情のほとんどを失っていた完全なる世界の盟主、新世界の姫としてのアスナの方がよく知っている。それとて言葉を交わしたのは数えられるほどだが。

「それでさ、千雨ちゃん。き、昨日のアレ、見ちゃった……?」

 溜息をつく。本当に明日菜とネギは学園内で籠に入れられて育てられている。台所の火事すら、知る術は与えられていない。

「……まあ、見たっちゃ見たな」
「いやっ! 違うの! あれは違うんだって! 魔法とかじゃなくて!」
「だから魔法だろ」
「な、なぜそれをっ!」
「……いや……」
 テメーの口からぽろぽろ零れ落ちてるだろうが!
 という当然の指摘を飲み込む。態々話を迂遠にすることもあるまい。

「私も訳有りって奴だからな」
「え?」
 明日菜は理解が及んでいないようだった。構わず、捲くし立てる。
「だから、あんたらが気にするようなことじゃねーんだ。誰かから何か言われたか?」
「ううん」
「ならペナルティもねーだろ。安心してろ。迷惑はかけやしない」

 それだけは嘘じゃなかった。学園は秩序を守ることを第一方針とするが、長い眼でのことだ。千雨一人に魔法をばらした程度のことでネギにペナルティは与えない。与えたとして、それは躾と呼ばれる程度のことでしかない。ましてや明日菜に対しては。

「えっと、よくわかんないけど、千雨ちゃんも魔法のこと知ってて、だから大丈夫ってこと?」
「それでいい。ところで話は変わるが、今日、先生はどうしたんだ、神楽坂」
「へ」

 明日菜は、眼を丸くして立ち尽くした。
 内心の苛立ちを隠すのに必死になる。その怒りがどこから来てるものなのか解らない。或いは――ガキの浅知恵――に未だ縋りついている自分へのものだったか。だがその矛先は明らかに目の前の明日菜に向いていることだけは自覚できていた。

「……まさか、昨日のあれで怪我したのか」
「いや、そうじゃなくて。何て言うか」
 行方不明になって、学園長に探してもらっている。いなくなったのは昨日夕刻。
「……」
「……」
「行方不明だあ?」
「よ、よくわかんないのよ。エヴァちゃんと茶々丸さんの話してたら突然飛び出しちゃって」
「ああ」

 千雨のイメージならエヴァンジェリン襲撃の算段といったところだが、この時代のネギはそこまで割り切っていないだろう。いや、吹っ切っていない頃のネギのことを千雨はよく知らない。知っているのは遠巻きに眺めて知れる程度のことだけだ。
 もしかして、逃げたのか?
 およそネギに似つかわしくない行動、とも思えるが、それもまた近衛近右衛門の定めたネギの教育過程の一環だろう。その千雨の認識は、一度ネギが逃げて、それをネギが粛した後から作られたものだ。この行動で、ネギは立派な魔法使いとして必要とされる逃げてはならないという行動方針が植えつけられることになる――。
 と、不意に自分の失敗に気づき頭を抱えたくなる。だが、明日菜の何一つ悟っていない顔に、口元を歪めた。

「……」(やば……くないのか)
「……? どうかしたの?」
 エヴァンジェリンの話をしてなかったのに流してしまった。
(気づけよ。……いや、気づかなくていいが)
 イメージの乖離が酷い。冷静にして冷酷な新世界の姫だったら確実に突っ込んできたろうに。基礎的なコンポーネントは共通である新世界の姫と明日菜のその差が、明日菜の怠慢に思えて千雨は理不尽にも腹を立てた。
 随分と、余裕があるな。

「それでさ、千雨ちゃん。エヴァンジェリンさんの話なんだけど」
「あん?」
「エヴァンジェリンさん、ホントにその……ネギのこと殺す気なのかな」
「……は?」

 これは演技。眠らずにいた昨晩の内に未来から引っ張り込んだ情報と様々な事情を統合し事態を大よそ予測してはいる。結論はそんなことはありえない、だが、それを明日菜に言うことは許されていない。

「待て。事情をそこまでは知らねーんだよ。まずエヴァンジェリンとあんたらの間に何があったかを話せ」
「え、あ。そ、そっか。えっとね」

 そこから明日菜が切々と話し出したのは、千雨も知らないエヴァンジェリンとネギの戦いの顛末だった。
 ――考えるに、エヴァンジェリンは遊んでいる。詳しく聞いて、千雨はそう判断した。
 エヴァンジェリンは、基本的には手段を苛烈なものに限る癖がある。より悪辣に。より辛辣に。まるで自分を悪という枠の中に嵌めこむように。
 仮にネギが子供、しかも知己の息子であると心にブレーキがかかってもエヴァンジェリンなら、圧倒的な勝利を収めることができる。この時代の……魔法戦のノウハウどころか、自分の生きてる世界のドロドロすらまともに認識できていないネギを相手にするなら、封印状態ですら余裕を持って可能だ。
 だから、きっとそれ以前。子供であるからこそ、遊ばざるを得ないのだろう。基本的にはある程度のラインを超えた魔法使いにしては規格外に甘いエヴァンジェリンだ。そのプライドにかけて本気になることは許されない。
 それに、エヴァンジェリンのナギ・スプリングフィールドへの執着を知っている。その繋がりといえる封印と、ネギと言う存在。双方をエヴァンジェリンは捨てきれないだろう。基本的には甘く、情に厚い魔法使いだ。

(そうは思うが、実際ここでこいつに言うのは拙いか)

 きっとネギは今、初めて恐怖を感じている。吸血鬼に狙われる恐怖。最強クラスの魔法使いに襲われる恐怖。そして自らの命の値段が安いと思う恐怖。
 それは全て学園とエヴァンジェリンの狙った思惑だ。阻害することは千雨が学園派とエヴァンジェリンに敵対することを単純に意味している。
 決して事実に即した思いではないが、事実をネギが与えられることはない。立派な魔法使いは自分を重要視してはならないからだ。立派な魔法使いとなり、無私で戦争に借り出される以外の生き方は、ネギに用意されていない。

「知るか」

 だから、それが千雨に許されている答えだった。奇しくも学園側の失策であり千雨の活路となったエヴァンジェリンによる千雨への躾の手法。それが今度は千雨にとっての柵になっていた。ネギへ、明日菜へ余計なことを喋れば、より苛烈な手段での躾が待っている。それに対抗する手段もない。

「そんなこと言わないでよ。一緒に考えてくれてもいいじゃない」
「あー、あんたの心のつっかえになってんのは、私が桜通りの吸血鬼に襲われたって話だろ」
(あ、やっちまった)
 どこに監視があるか知らないが、また失敗した。千雨の口からエヴァンジェリンの名前を出さなくてはならなくなった。
 バカらしい話だ。自分の身を守るためだといっても、エヴァンジェリンはともかく学園側を庇っている状況がバカらしい。千雨はイライラしながら後頭部を乱雑にかいた。

「……私は、単に打ち所が悪かっただけだよ。別にエヴァンジェリンが殺意を持って私を襲ったわけじゃねーんだ。知ったこっちゃないが、エヴァンジェリンだって殺す気はないんじゃないか」
「うーん」
 不満足そうな明日菜。この嘘をつくのは何度目だろうと千雨は思った。
「でも、あれでしょ? エヴァンジェリンさんは有名な犯罪者だって」
「さあ……その話は知らねーけど」
「え? そうなの? カモの話じゃ有名らしいけど」
「カモって誰だ……ってさっき話にあったオコジョのことか。……いや、私は魔法のことは知っちゃいるが、本当に魔法のことを知ってるだけなんだよ。連中の風俗なんてまったくだ」

 また、不満そうな明日菜に千雨は小さく舌打ちした。素直に騙されてりゃいいものを。百戦錬磨の近衛近右衛門や聡美にならともかく、所詮年相応程の人造精神が与えられているだけの明日菜すら騙しきれないことに腹が立つ。
 ガキの浅知恵――その裏づけがされているようだ。

「ネギが逃げちゃったのもさ、多分エヴァンジェリンさんが本気だと思ったからじゃって」
「……」
(私のせいか……)
 責任転嫁の矛先すらない、千雨のトチ狂った行動一つでの悪影響。最悪の気分だ。これから起きる千雨の知らない出来事の全ての責任は千雨にあり、千雨が長谷川千雨だったら起きなかった悲劇なのか。

「……だから、知るかよ。私はエヴァンジェリンと喋ったことすらねーんだ。ましてやネギ先生ともあんたとも仲良かった覚えすらない。私の知らないところで勝手にやってくれ」

 苛立ち任せに吐いた言葉が、妙に長谷川千雨の言いそうなことだと思って千雨は口元に笑みを浮かべた。それは明日菜からすれば嘲笑にしか見えなかったろう。見るからに気分を害したようで、明日菜は体を強張らせた。

「そんなこと、言わないでよ」
「なあ、どうして欲しいんだよ」
「どうして欲しいって」
「エヴァンジェリンなんかに大したことはできやしないっては言えるぜ。逆に常軌を逸したキチガイだって言うこともできる。けど私の立ち位置じゃ、どっちなのか知らないとしか言いようがないんだ」
「それは、でも、それがどっちかじゃないと」

 千雨は野生染みた笑みを浮かべた。明日菜の勘所の抑え方も、また一種野生の臭いを感じさせるものだったが、それは理性を持って否定することができる。

(ああ、そっか。この頃の、信頼関係なんてこんなもんだったのか)

 ネギ・スプリングフィールドは、気にしない。善悪で人を判断しない。煮滾った砂糖水。或いは、程よい温度の硫酸。善も悪も飲み込む。それは器の大きさであると誤解されるが、それもまた違う。凝縮し、揮発させ、飲み干すことで容量は一定を保たせている。おかげでネギの底にはヘドロが溜まっているのだが、それもまた『立派な魔法使い』には必要なことだった。

(――バカ女が)

 隔意。ざまーみろ。千雨は、自分が明日菜に対して抱いている感情の表皮を破り捨てた。
 この時、まだ、明日菜はネギを知らないのだ。その本質を。願いを。屈辱と嫉妬をひっくり返してやった快感。それは地面を掘って卓袱台をひっくり返すようなものだったが、それは千雨の自尊心をいたく満足させた。

「そうだな」

 笑み。堪える。鉄仮面でも被ったように見えるだろう。

「ならいっそ、こう考えるのはどうだ? マジになって恥ずかしいくらいのお遊びだ。あんたは、バカにされてる」
「はあ!?」
「よく考えてもみろよ。あんなガキ、殺すのなんて簡単だ。人質とればいい。精神追い詰めりゃいい。授業中にせんせー質問あるんですけどーとか言って胸にナイフ刺せば終わりだ」
「……」
 明日菜は口を半開きにして身体を凍りつかせた。場にそぐわないことを言っていると自覚していても千雨の口は止まらない。

「んなことはバカでもガキでも簡単にできんだ。やらないってことはバカにされてんだよ」
「そんなの!」
「本気を出す気もねーんだよ必要も価値もねーんだよテメーに」
「ふざけないでよ! 本気で聞いてるのに!」

 千雨は自分を尊大に見せるように腕を組み、ひとしきり笑った。本気。その単語に腹が立ち、それ以上に笑えた。

「本気、ねえ。くだらねー本気だな」
「なんですって!」
「あんた、本気になって、何してんだ? 相談? やることが私に相談することかよ」
「仕方ないじゃない! あんたしかいないんだから! あんたしかいなくてあんたがいるんだからやったのが悪いの!?」
「バカか。それがくだらねーっつってんだよ。探せばいいじゃねーかよ。頼りになる高畑センセーにでも縋り付きゃいいだろ。自分の怠慢を理由に胸張って恥ずかしくねーか?」
「別にそんなつもりじゃっ! ……帰る! あんたなんかに相談するんじゃなかった!」
「ハハッ! いいね。帰る! だってよ。エヴァンジェリンにネギ先生が殺された後も帰る! か? そりゃいいぜ。楽しそうな人生だ」

 流石に、明日菜は顔を真っ赤にして足を止めた。何も考えずに口からまろび出る挑発に引っかかったことが楽しくて仕方がない。一言一句計算しなくていいことが、久しぶりのことだった。

「千雨ちゃん、あんたおかしいわよ」
 うるせえよ。
「エヴァンジェリンさんは、もう二年もクラスメートなのよ!? なのに、何でそんなこと言えるのよ!」
 明日菜の激昂に、露骨に千雨はうざったそうに顔をしかめる。

「だから友達じゃないからだろ。あんたこそ語れるくらいエヴァンジェリンのこと知ってるのかよ」
「それは! 違うけど!」
「小坊のころからクラスメートだった私の何を、あんたは知ってんだよ?」
「……そんなの」
「あー、解った。テメーが何が言いたいのかが解った。おい、神楽坂」

 千雨は机の脚に踏ん張り、明日菜の襟元を掴んで互いの額が思い切りぶつかるほどに引き寄せた。明日菜は短く悲鳴を上げる。

「いったっ……何よ!」
「ザケてんなよ」
「何がよ!」
「みんな仲良く、皆幸せ元通り変わらない日常が続くハッピーエンドなんてのは、テメーの脳内だけで完結させてろよ」
「な、何よ……」
「本気でエヴァンジェリンが先生殺そうとしてるなら、通報すりゃいいだろ。遠くに逃げりゃいいだろ。助け求めて這い蹲ってエヴァンジェリンの足舐めて許してくださいっつえばいいだろ!」
「そんなことできるわけないじゃないっ!」
「本気ならできるだろう?!」

 もう自分が建前で話しているのか、嘘をついているのか、本心を吐露しているのかわからない。明日菜は千雨を振り払い、歯軋りした。歯の擦れる音が、千雨にも届いた。
 ただ渦巻くような憤りが吐き出せる愉悦に、千雨の顔は歪みきる。これは八つ当たりだった。八つ当たり――最近聞いたキーワードだ。エヴァンジェリン。あの吸血鬼も、千雨に八つ当たりをした。自分より惰弱で脆弱な千雨を、フラストレーションの捌け口にした。それが免罪符にもなった。

「本気なんて言うな。あんたは本気なんかじゃねーよ。そんなこともできないあんたに、本気なんて言う資格はねーんだよ」
 憤怒の表情の明日菜が、ぎこちなく平手を振り上げた。その不自然な挙動に千雨はニヤニヤと笑う。どれだけ手を伸ばしても届かなかったものが、あちらから近づいてきたようなものだ。

「守られて殺せよ、お姫様」

 あ。
 地雷踏んだ。
 目に見えて、明日菜の顔色が変わる。あの姫のように、表情が足元に落ちて消える。親指を巻き込んだ拳が、雷の速度で落ちてきた。

「っ!」

 なんとか差し込んだ腕ごと弾き飛ばされる。机の上から千雨は転げ落ち、無様に四肢で地面を捉えた。ガードした腕が真っ赤に染まり、動かすのが億劫になる痛みを訴える。

「ふざけ――」
 ゾクリと、背筋に恐怖が駆け上る。
「――んなあっ!」

 体から先行。体に引きつけられた明日菜の拳は、跳ねるように横に逃れた千雨の痕跡を穿ち、リノリウムの破片を散らばせた。小さな欠片が、千雨の額に巻かれた包帯を切り裂いた。だが、それはむしろ千雨の中の恐怖を拭い去った。アスナ――新世界の姫なら、今の一合で千雨の全身を消滅させていただろう。
 転がるように壁に寄って、壁に背を押し付けながら這い上がり、千雨はニヤニヤと笑った。
 勝てる。いや、素人だ。勝てなきゃ可笑しい。桜咲刹那のお墨付きで、今の千雨は素人相手なら余裕を持てる。

「っら立つ!」

 明日菜は、咆哮するように怒鳴った。

「何なのよあんた! 私を怒らせるようなことばっかり!」
「っハ」

 腕が熱を持っている。皹くらいは入ったかもしれない。だが、それがどれほどのものか。アスナと同じ顔をした女を前にして、如何に小さなものか。暗い淀んだ愉悦が何をも上回って、千雨の顔を歪ませる。

「気にくわねーんだよ。自分は不幸だけど頑張ってる健気ですっつー顔したあんたが昔から気に食わなかったんだよっ!」
「解ったみたいに偉そうに! あんたこそ私のことなんて知らないのに!」
「知りたくもねーよ!」

 背の壁を蹴って踏み込む。明日菜の不恰好な身構え方。掌底を顔面に。素晴らしい反応を明日菜は示し、千雨の手首を下から掬い取り、そのまま体をくの字に折り曲げた。腹筋の割れ目。臍には千雨の体ごと親指が押し付けられていた。

「いぎっ……!」
「痛いか、バカ女」

 片腕を明日菜に捕らわれ、片手を明日菜の臍に当てたまま肩から千雨は明日菜にぶつかった。明日菜なら堪えるのは難しくなかったろう。しかし内臓を抉られるような痛みから逃れようと、明日菜の体は反射的に後逸した。それでも殊更強く掴まれた片腕を引かれ、千雨も明日菜に圧し掛かるように倒れこんだ。

「なんなの……訳わかんない! 最悪……なんなのよ!」
「そうかよ? 気があわねえな。こっちはようやく訳解ってすっきりしてるところだ」

 キスできるような至近距離にあって、千雨は勢いよく明日菜の鼻頭に眼鏡のブリッジを叩きつけた。

「いっ……!」
「イラついてたのも解る。当然だ。これは私のものじゃねーが、あれは私のものだったんだ。それがただの代替でしかなくっても、それでもプライドの一つくらいは許されるだろう?」
「わけわかんないこと……言うな!」

 自分の体を大きく揺さぶり、明日菜は千雨を体の上から落とすと、間髪いれず掴みかかる。しかし反射的に上半身を仰け反らせた。千雨の指が、明日菜の両目を狙っていた。それをスウェイするが、その隙に千雨が明日菜の下腹部に膝を打ち込み、明日菜は喉から競り来る吐瀉物を必死で飲み込んだ。千雨は、明日菜から二歩ほど離れ、立ち上がった。

「ゲホッ! うえっ」
「はは。あんたみたいのにビビッてたのかよ。考え直すかなァ!?」
「煩い……危ないわね! 目!」
「大人げなくて悪いな。本気も出せない奴に、目え突いて悪かったな!」
「そんな本気いらないわよっ」
「なら一生安穏と過ごしてりゃいいじゃねえかお姫様っ!」
「ホント……! 訳わかんないっ! なのに腹立つっ……!」

 猪のように馬鹿の一つ覚え。また飛び掛ろうとした明日菜の機先を制し、千雨の爪先は明日菜の口元を蹴り上げた。明日菜は仰け反り、千雨は笑った。勝てると確信した。笑えた。電子の女王如きが、新世界の姫を打倒するなど誰一人として信じはしないだろう。

(桜咲)

 身体能力は明日菜の方が遥かに上だろう。才能も遥か上を行くし、その身には魔法無効化と消滅というレアスキルも宿っている。例えば、互いに魔法を知ってからだったら千雨は逆立ちしても明日菜に敵わない。才能は凡人を容易く打倒する。千雨が重ねた経験は、天才を前にすれば簡単に打ち砕かれる。だが、その天才ですら、まだ千雨の経験に届いていない。

(桜咲)

 更に一歩踏み込み、千雨は平手で思い切り明日菜の頬を張った。パーンと景気のいい音が響き、明日菜の目から一瞬で感情が消えた。一撃で明日菜の顔には痛々しい紅葉が残った。

「い、た」
(桜咲ィっ!)

 きっと、これだけでも歴に残る。まだ魔法も碌に知らなかった頃であるが、新世界の姫を打ち負かした人間として歴史が書き込む。そしてそれは、電子の女王のネームヴァリューを超えるだろう。新世界の姫は、それほど絶大な名だ。同じような理由で雪広あやかも反「完全なる世界」勢力で有力者の地位を勝ち得たほどだ。
 八つ当たりでも、無為でも。それだけで千雨は過去に戻ってきた価値があったと思うほどに。千雨はもう一度平手を振りかぶる。明日菜は痛みを堪えるように硬く目を閉じて。

 ――千雨のその経験を、一太刀をもって全て否定して見せた。


「あ、ご、ごめん!」

 ――いま、何が起きた?
 首根っこつかまれて冷水に突っ込まれたようだった。頭蓋骨と脳髄の隙間に氷の板を突っ込まれたように頭が冷えた。後頭部から地に押し付けられ、腕は極められ、足の指一つまで完璧に捕らえられていた。誰が見ても、千雨の負けだという状況で、千雨の血相はようやく変わった。
 平手を振り下ろした瞬間、明日菜の瞳は鈍く輝き、それからは一瞬だった。

「グっ」

 リノリウムに押し付けられる頭の痛さだけではなく、腕も耐え切れないほどの痛みで、千雨の顔は真っ赤に染まった。身に入っていない謝罪の台詞はどう考えても反射的なものでしかないのに、千雨には明日菜の顔が焦燥と後悔に彩られているようにしか見えなかった。
 明日菜は、明日菜は――ほぼ同時に、三つの動作をしてのけた。片手は腕を捻り、片手は喉を押さえ、体が千雨の体を押し倒した。その中のたった一つにすら千雨は対応することはできなかった。
 速さはあった。未来においても千雨が会得しえない速さ。力もあった。抗いようのない。だがなにより、その瞳の色に千雨が恐怖したのが原因だった。体が、どうしようもなく凍りついたのだ。死ぬという経験したことのない状況に陥れられることが、どうしようもないくらいに恐かった。

「……」

 首を強く抑えられ、苦しみながら千雨の意識は遠くなりかけた。

(ゴメン、桜咲)

 意味などない。そう言われた。当然とは言える。努力も才能もない千雨には、空虚な経験しかない。努力はしたが、それは誇るほどのものでもない。才能なしに努力で伸し上がった桜咲刹那を前にして、誇れるわけがない。それを経験と言い換えて、しかしそれすらも無駄だった。憎い憎い明日菜にも届かなかった。
 ああ、そうだ。私は神楽坂が嫌いだった。ただそれだけで千雨は首に張り付いた明日菜の手首を掴み、歯を剥いて声にもならず唸った。

「……っ」

 明日菜が首から手を離し、千雨は怒鳴ろうとした。だが酸素が足りず、一度咳き込み、ようやく明日菜を睨みつける余裕が出た。

「……放せよ。放せッ!」

 明日菜はばつが悪そうに千雨の腕を解放した。じわりと、血流が戻ってくる感覚を覚え、千雨はリノリウムに倒れこんだまま硬く眼を瞑った。歯が内唇を貫通し、喉奥に鉄を送り込む。

「ご、ごめん」
「……」

 明日菜は何一つ悪くはない。だが人を傷つけることは慣れていないのだろう。そこだけ、ぽかりと穴を開けたように人間らしいと思った。魔法使いには治療魔法があり、苦痛を遮断する魔法も存在しているだけあって痛みや怪我に対し興味が薄い。さっきまでの気迫から一転、泣きだしそうな気配を漂わせ、千雨を気遣う明日菜に、どうしても千雨は視線を向けることができなかった。

(こんなものも、許されねーのか)

 眼鏡の奥の水晶の奥に暖かい水が溜まる。天才に挑んだのが愚かだった、と言えばそりゃそうだ。身の程知らずの自意識過剰。それでも脳裏に刹那にしごかれた日々が浮かび、それが無駄だったのだと思わずにはいられなかった。

「大丈夫? ……ごめん。でも」

 千雨はムリに涙を嚥下しながら、明日菜に背を向けてのろのろと体を起こした。経験と知識に体が追いついていない。痛みとは別の部分で息が荒く、体は火照っている。役にも立たたない経験だが。

「でも、やっぱり――」
「さっさと、授業行けよ」

 声が震えていないかは、自信が持てなかった。悔しさと惨めさが混ざり合って、どこかにあった苛立ちと怒りを大きなぐるぐるとした塊に変えていた。飲み込めない、喉に詰まって閊えて吐き出したい塊。なのにそれは理屈ですっぽりと胸の中に納まって、嵌って、指を突っ込んで掻きだすこともできない。
 明日菜は、一瞬口篭った。逡巡し、戸惑い、情報を整理し、飲み込み、解釈した。優柔不断からは遠いところにある、という稀有で重宝される性質の持ち主だ。それらはどんな思慮深い人間よりも早く、ほんの一瞬であった。スカートを翻し、階段に足を下ろす。

「正しくないかもしれないけど」

 遠ざかりながら、はっきりと明日菜の声は聞こえた。


「私は、一番いい終わり方を探すのが、間違いだとは、絶対思わない」


 千雨は顔を歪ませるだけで、答えることはできなかった。口は僅かに開きかけたが、言葉は見つからず、唇が震えただけだった。明日菜は畳みかけようと喉元まで言葉をせり上がらせたが、それを飲み込み、そのまま階段を下っていった。

 気圧で重い扉を、体全体で押し開ける。腹が立つ晴天が広がって、千雨は溜息を吐いた。背中から前へ早く流れていく立体的な雲。だだっ広い屋上にポツリと立った出入り口を風が迂回し、左右から切りつけるような風が千雨の体を叩いた。
 一歩、二歩前に進み、そのまま千雨は前のめりに倒れた。反射的に受身を取るが、そのままの勢いで額を地面に叩きつける。ぞんざいな治療だったのか、傷口は簡単に開き、一気に包帯を真っ赤に染め上げ、血滴を零して前髪を濡らした。


「あーあ」


 痛みが、自傷的な行為が、どうも他人を無為に傷つけているような罪悪感を感じさせる。心が体についてこないちぐはぐなのに、心だけは剥き出しになって容易く斬りつけられるような。
(幻肢痛……の、マイナーバージョン、みたいな)
 何がみたいなだ。


「あー、あ、あ、あ」


 お前は間違っていない。間違いなく間違ってない。反論できないくらい間違ってないよ、神楽坂明日菜。新世界のありとあらゆる場所で見ることのできた女の顔を持ち、忘れてしまうくらい前に消されてしまった人格を持った女は、疑いようのないくらい間違ってないことを千雨に叩きつけた。
 妥協して、妥協して最後に得られる結論が、本当に最初に求めたものなのか保証はどこにもないのだから。
 たった一つ、それを助けてくれる経験もご丁寧に否定してくれちゃって。


「うあ、あああ、あ」


 所詮は子供同士の喧嘩。得るものはなかったが、失ったものもない。前向きに考えれば、明日菜に負けた。だからなんだ、というだけの話だ。
 無視しろ。忘れろ。否定されたことも、自分の心も。意志薄弱も、忘れていい。図星を突かれたように泣きたくなるなよ。所詮、何も知らない籠の中の鳥。


「あ、あ、あー、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁっ!」


(ダメだろ、これは。ああ、どうも)

 ずるり、と血痕を残しながら、体をひっくり返す。晴天に腹が立つ。空に腹が立つ。その爽やかさが癪に障る。全てが、自分を責めているようで、無用の反感を抱く。
 思い返せば、不変のものを嫌う千雨が、一番不変だった。変わりたくても変われなかった。それに誇りを持てとも言われたが、たった一人停滞している自分のどこを誇れというのか。

「泣きてー」

 一番泣きたいのは、明日菜にぼこぼこに負けたことでも、自分が重ねた経験がクソ程の役にも立たないと知らされたことでも、自分に意思がないことでもない。
 多分、きっと。
 長谷川千雨が、ネギ・スプリングフィールドに憎しみを抱いているとしたら。
 それは、薄暗い復讐ですらない。
 つまらない、有り触れた、痴情の縺れに他ならないと、気づかされたからだった。
 気持ちが沈んでいく。立派なお題目を掲げた自分が、どこまでいってもただの女でしかないと思い知らされるようで。

(うわあ、マジで最悪だ。悪い葉加瀬。もう遅いけど、あんたのこと利用しただけだった)

 目を閉じる。そこら中痛む体が光点になっている。
 せかいが、つらいから、たすけてください。

(来るんじゃ……)



「――うるさい女だ。人が寝てるところで。他に行けバカモノ」

 上から――空からの声。予想もしなかったが、千雨はまんじりともしなかった。度胸が据わっているわけではない。

「……エヴァンジェリン」

 襲い掛かられて以来の声だったが、妙に懐かしく、数年ぶりにその声を聞いたような気分に陥った。前の世界にしても、白き翼から副リーダーたる吸血鬼が失われたのは、魔法世界で過ごした日々の中でもかなり後期だったはずなのだが。
 散々痛めつけられても、自分の中にあるエヴァンジェリンへの感情が微かすら動いていないことに、安堵する。千雨は極端に仲間意識が強く、3-Aの中でも後期白き翼に属していた連中に対しては特に裏切る気持ちは起きないだろう。

「人が寝てる傍でごちゃごちゃと」
「お耳がいいようでちゅね吸血鬼ちゃまは」
「ノスフェラトゥの耳を屑みたいな非魔法使いの鼓膜と一緒にするな。さっさと失せろ長谷川。また殺されたいのか」

 顔も見せず、給水タンクの脇の陰になっているスペースで横にでもなっているのだろう。人をバカにした態度だったが、決してエヴァンジェリンは人を馬鹿にしているわけではない。興味がないだけだ。
(ま、600年も生きてりゃ人間にも飽きるだろうな)

「ああ、そういえば、貴様、長谷川ではないらしいな」
 少したりとも勿体つけずに、エヴァンジェリンは脈絡もなく言った。
「どうでもいいがな」

 動揺すらしない自分に悲しむべきか。エヴァンジェリンに伝わっていることが想定内だった分だけ千雨の反応は少なく済んだ。
(……バレてたから、強めにボコられたのか。いや、それはないな)
 強めですら、なかったろう。エヴァンジェリンにとっては軽くだったはずだ。現に五体満足で、何かしらの認識を強制されたわけでもない。千雨がやったら多分、まず指くらい切り落としてるし。

「……そうだな。私は長谷川千雨じゃねえ」
「面倒な話だな侵入者。見ててやるから自分で死ね」
「それは勘弁願いたいな。……つーかそりゃ魅了の魔眼の話か。自殺させられんのかよ」
「目的はなんだ? ぼーやの命ではあるまい。その素養の調査でもしにきたか? 陰陽寮あたりか、教会か、ウェールズという線もあるな」
「さあな」
(牡丹餅的だが、私の中身の特定まではされてねーのか。流石に、そこまでされてたら手も足も出なかったが)

 状況的に、どこかの後ろ盾のない千雨の立場は極端に不安定だ。超派の最重要事項である時航機が絡んでいる、という一点だけで辛うじて保たれているに過ぎない。それでも学園は片っ端から長谷川千雨に成り代わることのできる人間をピックアップしてるだろう。

「侵入の手際は見事なものだが、どうも素人臭い奴だ。いいとこ、一山いくらで雇われたフリーの情報屋といったところか」
「はいはい正解正解」
「雇い主は誰だ」
「土御門だよ」
「ハ。いいぞ。少しはマシな受け答えだ。いい綱渡りの仕方だ」

 超は、エヴァンジェリンが千雨を殺してしまうのを警戒しているだろう。学園もそうだ。この麻帆良女子中等部には多くの陰謀と謀略が渦巻いているが、エヴァンジェリンの専行を止める明確な力は存在しない。
 今、エヴァンジェリンが気紛れのように千雨を殺す。その抑止力はどこにもない。それはただ、エヴァンジェリンの機嫌と誇りとかいう他人にはどこにあるのかもわからないようなものだけが止めることができていた。
 だが、千雨はいくらエヴァンジェリンの機嫌を損ねるような嘘を重ねたとしても、自分が殺されないと言う確信を持つことができていた。
 エヴァンジェリンは――千雨ごときに、本気にならない。

「だが気に食わんな。まるで用意されたような私の興味を引くための台詞だ、それは」
 このへそ曲がりが。
「んなこたどうでもいいだろ。それより、いいのか? 可愛い可愛い先生が行方不明らしいぜ?」
「学園を舐めてるのか貴様」
「ああ、そう……」

 予想通り、監視がついているのだろう。護衛を兼任しているかはわからないが、状況から見て長瀬楓がそのチームの一員なのは間違いないと見当はついていた。もしかしたら超派もそのチームに関わっているかもしれない。
(神楽坂には、ついてないだろうな)
 貼り付ければ重要人物だと喧伝するようなものだ。近くに木乃香とネギがいるのも明日菜のための隠れ蓑の意味が強い。ネギ、明日菜、木乃香、エヴァンジェリン。3-Aの中でも、この四人の価値は特に大きい。後の世ではそれに比肩する人間も出てくるが、この時間では超ですら問題視されるのは学園内だけだ。

「……」
「……」

 沈黙に千雨は焦った。もう、私から本当に興味を失ってしまったのか。自分が何をしているのかが曖昧の中にあるのに、慌てて口を開こうとする。それを、鋭いエヴァンジェリンの声が制した。

「正解じゃないかもしれないけど、間違ってないか。気に食わん舐めた台詞だ」
「……」
 本当に耳がいい。千雨は小さく毒づいた。まるで母のように慈悲が篭められたエヴァンジェリンの声色。この時点で既に明日菜に情は移っている。それは、最初から最後までサウザンドマスターを基点とした情でしかなかったが。

「……誤魔化しで逃避だろ。0と100に明確な差があるように、1と99にも明確な差があるじゃねーか」
「貴様と神楽坂明日菜を一緒にするな。10と90には差がないとでも言うつもりか」
「ハ」
 千雨は歪んだフレームを指先で摘み、力づくで元の形に戻した。疲労した金属が白く曇った。
「おいおい。随分だな。それは流石に理不尽な人物評価だぜ? あの神楽坂が、90? そりゃいい。楽しい世の中になるな」
「ああ。貴様は間違っているからな」
「あ?」
「貴様如きに、正しいものが選べるとでも思ったか?」
「……それは罵倒っていうんだぜ、エヴァンジェリンちゃん。換言してもいい。子供のワルクチだ。気に食わない、敵だって理由で身に覚えのない罵倒を受け入れる謂れはねーんだけどな」
「ああ、そうか。謝罪しよう。貴様が特別というわけではない。人間の分際で幾万通りからある選択肢の中のたった一つの正解を選べるという驕りだ」

 こいつ。
 この600年生きた吸血鬼は、どこを見ているのだろう。
 600年――魔女の鉄槌。魔女に与える鉄槌と呼ばれた魔法使い殺しの指南書の決定版が生まれたのが1500年。その七十年前には蟻塚が発表されている。人と魔法使いが争い、人が勝利を収めた戦争。魔法が、魔女が否定され、最後にはなかったことにされたほどの遠い過去。
 この吸血鬼は、その時代に産まれ、生きた。数え切れないほどの人と妖を殺し、いつしか孤高となった伝説の吸血鬼。幾多の英傑を殺し、追われ、迫害され、捕らえられ、それでも生き延びた悪の魔法使い。
 そして、600年を生きて、人に飽き、空虚に生きた吸血鬼はサウザンドマスターに会った。

 ナギ・スプリングフィールドのことを深く考えたことがあったわけではない。だが、600年の歴史の重みを超えて、人を知り、見限り、飽きた少女に恋をさせる男がどんなものなのか、と考えたことはあった。

(……正しくない、か)

 正直言って、決して強い決心を以て過去に来ようと決めたわけではなかった。ただ、それを否定しきれなかったのと、自分が何もできないまま終わる、という焦りが、葉花瀬の誘惑に乗って、言葉となり、決断の形を似ただけのことだ。
 結局のところ、千雨は誰でもよかった。31人――もう半分も残っていなかったが、その誰にこの時間遡行を提案されたところで、多少挨拶程度に否定しておいて、最後には頷いた。葉加瀬が、世界のことを、好きになれるようにする。その目的は、そのまま自分を目的語1に置き換えても通ったのだ。

 現実逃避。とありきたりな言葉で言い表せるだろう。壮大な現実逃避。前を見ずに後ろを見てしまった現実逃避。

「正しい選択など、選べると思う方が道理に合わん」
「ハ。そうかい。そうかよ。だがな、エヴァンジェリン。それは神の視点てやつだぜ。地べたで這い蹲ってる人間達にはそれが間違っていないだとか、正しくないなんてのはどうでもいい。恐々選んで、後は結果がくっついてくるだけだ」
「ガキ」

 エヴァンジェリンがどれだけ大人か知っているが、それでもこの幼い声の持ち主にガキと言われるのは若干納得がいかない。

「ボキャ貧だな、あんたも、学園長も。ガキをガキって言うしかねーのか」
「貴様はただ大人、ただ年上だという理由で反抗する子供のまま育ったのだな」
「話は終わってなかったな。神楽坂なら正解を選べるって? 冗談だろ」
「ふん……人の短い生の中でただの一つでも正解を選べる人間をなんと呼ぶか知らないのか?」

 エヴァンジェリンは、楽しそうに言った。

「英雄と呼ぶんだよ」


 畜生。
 神楽坂明日菜のことが、嫌いだ。
 新世界の姫でも、あの消されてしまった白き翼の初代副リーダーでもなく。
 今、この世界にいるあの神楽坂明日菜が嫌いだ。


「ついでに、一つ忠告だ」

 エヴァンジェリンが立ち上がる気配がした。

「これは罵倒ではない。私も、ジジィも若者を想っての言葉だ。この程度を罵倒と思うなよ? 本当の罵倒に触れたとき堪えるぞ。貴様を憎む者の力を、舐めん方がいいな?」

 千雨が長谷川千雨でないとしても、エヴァンジェリンにとっては大した意味はないのだろう。それどころか千雨が誰であったとしても大して気にはならないのか。
(クソ……どいつもこいつも、手抜きやがって)

「ついでに聞いておくぜ。私のどこが間違ってるっつーんだ?」
「解らないのか?」
「解らないね」
「いや一目で解る。貴様がそれを選んだのが間違いだと言っているんだ」
 それ。過去に来たことだ。
「悪いがその類の自問はもう済ませててな」
「済んでいない。済んでいてそれを選ぶのは天才と英雄だけだ」
「……」

 浅知恵――千雨は、深く考えられるがそれほど深いわけではなく、逆に裾野は狭い。それは年と共に広がるものだろう。それを自覚する千雨は、常に自分の視野が狭いのではという強迫観念に襲われている。
 何に気づいていないのだろう。
 学園長に言われた時は反感が先にたっていたが、エヴァンジェリンに言われるなら納得できた。

「……なんで間違ってるって言い切れんだよ」
「世界について考えたことはあるか? 或いは、人間原理でもいい」
「世界は間違っている」

 反射的に返した言葉に、エヴァンジェリンは少しだけ笑った。

「なんだ、それは。ガキの犯罪者か。だが、まあまあだ。一面だが捉えている」
「聡美に講釈されたな。人間原理」
「人間にしか知性がないと信じたようなネーミングだが、それに似たものを長く生きてるだけで感じることがある」

 世界は人間の認識によって存続している。それは千雨が考えても暴力的だが、千雨だって子供の頃は自分が死ねば世界は終わるのではないかと考えたことがあった。

「世界はシステムに統治されている――ということを考えたことはないか?」
「システム?」
「悪は正義に断たれる。例えばそれは、規定されている。……貴様も悪だろう?」

 千雨は眉を顰めた。悪を標榜する人間にはそれほど心当たりがない。その中でも正義に処断された悪といわれれば、思い当たるのはただの一人だ。

「どうもあんたも学園長のジジィも観念的な話が好きだな」
「ガキでも即物的なことくらい自明だろう? それに、もう一つ」
「……」
「お手軽な救済など、有り得ない」
「あ?」
「それは一々言い出すまでもない当然のことと思わないか?」
「……へー。生きてる運命論者なんか初めて見たぜ」
「不死者の王に対して生きてるとは、中々言うじゃないか」

 お手軽な救済というのは、間違いなく時間移動したことを言っているだろう。背負ったリスクのことを思えばお手軽と言われるのは心外だが、その手段はその他の方法に比べれば確かにお手軽だろう。
 ふと、なぜ超の時代に悲劇があるのか不思議に思う。
 時間移動がポピュラーな問題解決の手段となれば、全ての悲劇は救済されるのではないだろうか。そこには不幸はなく、だからこそ遠い過去へ来る人間はいないはずなのだ。

「運命という論理が否定されて、既に数世紀だな。――しかし、運命は確かにそこにあるのだ、長谷川千雨に似た者。否定されるべきは、運命に抗うということだけだ」
「運命の赤い糸? それとも神の定めしサダメとでも?」
「それは何の力もありはしないさ。そこにあるだけで周囲に何一つ及ぼすことはない。それもまた世界のシステム。貴様がもし世界が間違っていると言うなら、それはシステムに喧嘩を売る無為な行為だ」
「システムに抗うのが意味ないってか?」
「ブタをファイブカードより上の役だと言って納得する博徒がいるとでも?」
「それは、まあ、腹立つな。納得できないと言うだろうな」
「場の誰一人。主張した人間すら納得できない理屈に身を任すのは、それこそ天才か英雄だけだ。あとは、ガキだな」
「私はガキって散々言われたんだが?」
「なら貴様はガキの取り柄すら捨てた半端者のガキだ。一番始末に負えないタイプだな」

 ガキの取り柄とは言うが、そんなものが本当に存在するのだろうか。
 大人になったことのない千雨にとって、それは未知の領域だった。常にプラスの方向に向かう成長の過程で、子供が大人になるときは何かを失わなければいけない、というのは道理がないと思えたし、理解も追いつかなかった。
 世の中には大人になりたくないと言う子供がいる。
 その事実は大人になる過程で何かを失わなければならない証左であったが、千雨にとってはそれは、ただ気づかなかったモノを大人になったら直視させられるだけにしか思えなかった。

「善悪も、法も正義も置き去りにして、そのシステムに抗うのは愚かで、間違っている。お手軽で、簡単に手が届く手法を選んだその時点で、貴様は間違っていて、その願いが成就することはない」
「はっきり言えよ、エヴァンジェリン。あんた、私が気に食わないんだろう?」
「解ってるじゃないか。そうだ。私は一から十まで貴様が気に食わなくて仕方がない。だから貴様が間違っているということを言い訳にして、この私が貴様の願いを叶えさせてなどやらない」

 それは嫉妬じゃねえのか、とは口にできなかった。

「私が、あんたに嫌われるようなことをしたかよ?」
「ああ。不愉快だ。自分は不幸だけど頑張ってる健気ですという顔をした貴様が気に食わない。偉そうな顔を引っさげて、足りない脳みそを以って私より上だと考えている貴様が気に食わない。何より自分が幸福を掴めると少しでも思っていることが気に食わん」
「あ? ……ザケんなよ。誰がそんなこと言った? 別に私は」

 顔をゆがめる。葉加瀬のためと言ったところで、その語感の胡散臭さは鼻について仕方ないだろう。

「解るさ」
「フザケてんなよ吸血鬼。テメーら化物と違って人間は」
「貴様は、それを選んだのは自分が幸せになるためだ」
「違う――話聞けよ!」
「自己の幸福のために悪を行使した。それだけで貴様を私は悪とは呼ばない。貴様はただの下衆で外道だ」
「戯け事コくなよ! ふざけやがって、あんただってそうだろう!?」
「貴様、悪の癖に。悪党を標榜するくせに。自分が幸せになれると思っているだろう」
「そ、んなの――うるせえよ! 死んで黙れよクソ吸血鬼!」
「悪には、悪に相応しい道がある。悪にも許される最後がある。それは悪に与えられた誇りであり、それだけが救済であるべきだ。
 貴様は、道を外れているんだよ外道。悪であり、幸福など、悪にすら許容される道理ではない。悪を行使し、自らが幸福を手に入れる方法などないし、もしあったとしても私が許さない。世の中のあらゆる悪が許さない」
「……」
「神楽坂明日菜に言ったな。誰もが笑って元通りのハッピーエンドなど有り得ない。その通りだ。貴様にハッピーエンドは存在しない。私が与えてなどやらない」

 胸から脳天にかけて、泡立ち濁った渦が巻く。

「微笑みに囲まれ、花を抱き、緩やかに目を閉じる――そんな結末、私が許さない。貴様が幸せを悪を以て求めるというなら、この悪たるエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルが悪に相応しい結末を貴様に教えてやろう」

 心臓が、四方に跳ね回る。道理と理屈が、十字架の形をとって心臓に突き刺さり、心臓が痛みに堪え、逃れようと身を激しく捩っている。
 千雨は、無意識に後ずさり、扉に背を押し当てた。
 悪で、幸福。それは理不尽だ。千雨があれほど嫌った理不尽だ。善すら不幸を負う世の中で、悪が幸福を纏うことなど、なにより千雨が拒んでいたじゃないか。悪の道。千雨が好きだった、ネギが許容したエヴァンジェリンの悪。それは、エヴァンジェリンが絶対に報われないことを知っていたからだったろうか。
 霧のような、べたつく冷たい汗が全身に張り付いている。胃が無理な形に収縮し、空っぽの胃が破裂しそうに苦しくなる。

「ほら、見ろ」

 楽しそうに、エヴァンジェリンは言った。

「貴様には、何も為せやしない」
「っ!」

 エヴァンジェリンの視線に背を向け、転げるように校舎の中に入る。

「……気持ち、ワルい」
 宣戦布告――いやそれですらない。一方的な虐殺宣告。だがそれは理不尽ではない。理が通っている。
 何より、タチが悪いのはそれが正しいと思えたことだ。善行ですら報われないこの世界で、悪が報われることなど尚更ありえてはならない。それくらいの余裕があるなら善人を、いい奴を救えよ世界。

「吐きそ……」
 胸元から熱いものが競りあがってくるのを感じ、千雨は目元に涙を溜めて堪えた。
「間違ってんのかよ」
 間違う。間違う。それを規定してるのは誰だ? 世界が間違っているといったかつてのクラスメートは、何を基準としてそれを口にした? 世界と同じように、千雨は間違っているのか? 誰か教えろよ。
 それが、単純に千雨が自分のために悪を行使した、という間違いなら、千雨は自分でそれを飲み込むことができたろう。今更外道と下衆と呼ばれることなど気にしない。慣れてしまっていた。
(これか?)
 学園長が千雨を崩すために言ったのは、このことか?
(これが、浅知恵で先走ったってことかよ?)
 踏み出して、崖を飛び降りて。やっぱ間違いだったと言ってどうすればいい? そこから選択肢はあるのか?

「オエァッ! ゲホッ! ゲホッ!」

 胃が食道に入ってくるような感覚を受けながら、胃液を明日菜の拳の跡に吐き出す。それは血かと思うほど熱く、千雨は踞りながら目尻の涙と汗を混じり合わせた。

「っくしょう……畜生! あそこまで、言うことねーだろッ!」

 怒りは、どれだけ選択しても大きくならず、逆に情けなさで泣きたくて仕方なかった。
 ああ、ダメだ。折れた。目的が、願いが、いとも簡単にへし折られた。神楽坂明日菜とエヴァンジェリン。たった二人に否定されただけで折れた。千雨に正義はなく、悪であり、間違っていて、許されない。

「どーしろっ、つーんだよ、葉加瀬……」

 預かった名目では足りない。葉加瀬もまた悪であり、その願いも悪を以て幸せを掴もうとしたことに他ならない。
 千雨も、葉加瀬も幸せを掴むことなど有り得ない。千雨は葉加瀬を幸せにすることなんてしてはいけない。

(あんたも、気づいてなかったのか? それとも、私が気づいてもやれると思ったのか?)

 それは、見込み違いだ。もう千雨は目の前に幸福が転がっていても掴めない。掴もうと思えない。そこまで割りきれないし、割り切った奴を許したりしない。それができるほど、千雨は人間を逸脱出来ていない。
 悪は、報われない。罪はあがなわれない。誰かを不幸にして、笑う奴を許してはいけない。そんな暇があるなら、

(もっと報われない人に、報いを)

 それは、道理であり、千雨の願いでもあった。
 千雨は、遠ざかる意識に身を任せ、リノリウムに転がった。
 もうなにもできない。エヴァンジェリンの言うとおり。
 チャムの顔が、見たかった。



 せかいが、つらいから、たすけてください。
 もう、それを口が裂けても言えない。それと気づかず口に出していた千雨は、ただの厚顔無恥だった。



◆◆◆



「なあ、葉加瀬。ちょっと、外出ようぜ」
「未成年略取で事情聴取されろと」
「どんな展開だよ? 普通に姉妹くらいに見えるっつの」
「いや、まったく似てませんし」

 それでも、葉加瀬聡美は嬉しそうに顔を綻ばせ白衣をベッドの上に脱ぎ捨てた。

「デートですね? おめかししなきゃなー」
「んな趣味はねえよ」
「流石バツイチ!」
「してねえよ! 離婚以前に結婚してねえよ!」
「ああ、千雨さん処女なのにバツイチ……」
「ぶち殺すわ。あんたのこと」
「ジョークです」


 廃ビルを出る。麻帆良パークハイアット。三年前までは麻帆良屈指の高級ホテルで、千雨には縁遠かったが、当時から葉加瀬はよく使っていたらしい。しかし今ではただの荒廃し、黒ずんだビルでしかない。千雨たちが今、住み着いているのは二階の一室だったが、憧れたこともある最上階のスイートルーム周辺はガラス化し鋭利な刃物で切り落としたように抉れていた。

「うお、さみいな」

 千雨は体を震わせた。あちらこちらが荒廃しきった麻帆良の街は、どうも風の通り方も随分と変わってしまったらしく、切り裂くような冷たい風が廃ビル郡の壁を崩そうとしていた。
 半年前。
 皮肉ながら長谷川千雨が新世界を脱出したことによって後顧の憂いを断つこととなり、名実共に新世界の姫となった女は、旧世界の麻帆良を訪れた。完全なる世界と黒羽。世界屈指の魔法使い組織のトップ会談が、かつて二人が住んでいたこの麻帆良の街で行われた。

「どこ行きましょうか?」

 言葉通りおめかしした――何故か眼鏡をコンタクトにし、髪を下ろしてそれこそ何故かゴスロリ風の衣装に身を包んだ葉加瀬が千雨を後ろから抱きかかえながら尋ねた。ミニスカで、生地も薄い。ダッフルコートを纏った千雨よりも寒さは一入だろう。千雨の子供の姿は幻術ではあったが、流石は魔王の作った幻術薬か、体温も子供なりの高さだった。

「あー、どうすっかな」
「チャムはどこでしょうね?」
「商店街だろ。私たちもとりあえずそっちだな」

 千雨は葉加瀬の腕からするりと抜けて、軽い足取りで積もり重なった瓦礫の上に立った。
 木乃香とアスナの会談で何が起きたのか、結局千雨ですら知り得ていない。細かいやりとりは勿論、どれほどの被害が出たのかもわかっていない。ただ知ってるのは結果だけ。麻帆良学園都市はゴーストタウン化せざるを得ず、アスナが木乃香を退けたということだけだ。
 千雨は少しだけ高い瓦礫の上から、ぐるりと通りを見回した。人どころか生き物の気配すらない街には、色彩が欠けているように思えた。他の街がこう荒廃しても同じような感想は受けなかっただろう。千雨の中で麻帆良の街は、やたらとカラフルだった。
 千雨は何も言わず商店街の方へ歩き始めた葉加瀬の背を追った。

「……」
「……」

 元々、それほど仲がよかったわけではない。葉加瀬も千雨も自分の世界があるタイプだったから、悪くもよくもないというのが正確だったろう。二人の間にあるのは、3-Aの仲間という空虚な、しかし強靭な繋がりだけだ。

(気、使いすぎだな、私)

 似合わないことをするものではない。葉加瀬との沈黙はそれほど気まずいものではないし、葉加瀬もそれを痛苦と思っていないだろうが、気を使った方が何か言わなきゃいけないのは当たり前であった。

「そういえば近衛さんが私の命狙ってるらしいですよ」
「すげえ話さらっとすんなよ!?」
「いや、千雨さんとか、朝倉さんとの繋がりがバレてるみたいで」
「……」

 千雨は新旧両世界において危険視される存在で、高額懸賞金が完全なる世界からだけでなく複数の組織から出されている。持っている能力、コネ、情報全てがトップクラスで危険なのだ。千雨の電賊技能は卓越しているし、昨今の新世界の電子化事情を考えると単なる戦争のコマ……核兵器扱いされる立派な魔法使いよりも危険度は高いといわれたこともあった。

「……これが終わったら、さっさと身を隠せよ。和泉か、なんならいんちょでも頼れば」
「やだな。千雨さんがあっちに行ったら、それで歴史は変わっちゃうんですから、身を隠す必要なんてないですよ」
「失敗したらどうすんだよ。交通事故とかで死ぬかもしんねーだろ」
「あー、そこらへんのパラドックスどうなるんでしょうね。考えてみなきゃなー」
「バカ! こっちはマジで言ってんだよ!」
「ま、その時は過去を繰り返してきた千雨さんが颯爽と現れて私を助けてください」

 アホか……と口に出せず千雨は前を行く葉加瀬の頭をただ睨みつけた。
 本気で言っていることがわかった。



◆◆◆



 そういえば、病院で起きてから何も食べてない、と気づいたのは、あのまま学校をエスケープし、桜通りのベンチに腰を落ち着けてすぐのことだった。いや、それ以前にこの時代に来てから何かを口にしていない。血とか吐瀉物とか悪態だったら出したんだが。

「なんか、食わなきゃな……」

 食欲はない。だが長い逃亡生活のせいか、食えるときに食っておかなければという念は強くあった。腹は空腹を通り越してもう一度空腹の波が来て今三度の小康状態だったが、どうも物欲、名誉欲以外の欲が薄い千雨にとっては大したことではなかった。
 それでも理屈で行動を飲み込めないほど、今千雨は気だるかった。
 考えることが多すぎる。多すぎて、頭が痛いくらいだ。学園長や超のこと。聡美と葉加瀬のこと。明日菜、エヴァンジェリン、ネギ。それに自分にまつわることがたくさん。間違っていた。ここにいるのは、間違いなのか。
 どれから考えればいいのか、それぞれ一つ一つを当たればそれなりの結果が出せるだろうとは思いつつも、それが導く答えが想像するだけでも重くて億劫だ。やるべきこともやれないならせめてやれることをやろうとは思ったが、それすらもやる気力がなかった。

(……)

 小さく息を吐く。嫌ってはいたが、こんなときは明日菜の即断即決が羨ましかった。彼女なら、立場が逆でも千雨を恨んだり、まして嫌ったりしなかったろう。
 いままで、何一つできなかった奴が、突然こんなことできるはずがない。

(ダメかもな、もう……)

 折れる。ティッシュの先を丸めた紙縒りが、まだ突っ立っているのは単に慣性があるからに過ぎない気がした。元から上から引っ張られなければ直立することも叶わなかったのだ。

(何が針だ)

 無様な話だ。気づいていなかった事実を叩きつけられただけでこのザマだ。

「クソ。くそっ」

 勢いをつけて、立ち上がる。鼻頭を指先で引っかくと、固まった血がべりと剥がれた。
(それでも飯、食いにいかなきゃな)
 懐かしい麻帆良の食事処はそれはそれで楽しみだったのだが、もうそんな気も残っていなかった。体を弄って、嘆息する。財布を入れていた鞄は学校に置き去りだった。
(部屋に戻るか)
 寮監に見つかったらそれで面倒だが、ここにずっといても仕方ない。金を稼ぐ手段の一つもないし、培ったサバイバル技能をこの街で使っても奇異の目で見られるだけだろう。
「あー」
 部屋に戻ったら、適当になにか食えばいい。常に食料や消耗品を備蓄する悪癖がこの頃からあったはずだった。引きこもり適正が高いともいえる。
 寮に足先を向けて、いつぞいや這って進んだ道でも行くかと気紛れに考えて、

「長谷川さん?」

 ネギ・スプリングフィールドがそこにいた。


「……」
「……」
「……」
「……」

 ベンチに並んで座って、一時間ほど沈黙が進行していた。千雨は水と血で濡れたハンカチを手の中で揉みながら、口をへの字に曲げていた。
 ネギがハンカチを濡らしてきて、それで傷口を拭って。ぼろぼろで血だらけの包帯を外して。それをゴミ箱に捨てて、それから沈黙。中座する気にもなれず、千雨は黙り込んでいた。それどころか段々腹を立てていた。事情を聞くくらいしてもいいだろ。
 そっと、ネギを窺う。どこかぼんやりと中空を眺めている。エヴァンジェリンのことでも考えているのだろうか。(いや、そもそも私もなんで学校いなかったんだとか聞いた方がいいのか?)貧乏揺すりはいつの間にかネギも気づくくらいに強くなっていた。

「……」
「……」
「……」
「……」
「わんっ!」
「うわああっ!?」

 ベンチから飛び上がったネギを尻目に千雨は赤面した。わんはなかった。わんはねーな。
 目を白黒させながらネギは定まらない足腰でふらふらとベンチに戻り、慣れた愛想笑いを浮かべた。

「え、えっと……長谷川さん。怪我は大丈夫ですか」
「あ、ああ……こけたのが……ああ、もういいか。エヴァンジェリンも殺す気はなかったし、学園長が手配して怪我治してくれたよ」
「……」
「これは、ちょっと。自傷行為だ」

 笑いながら額を指差すと、ネギの愛想笑いは隠れ、泣き出しそうに歪む。ああ、卑怯な台詞だ。先生が否定できないようなのを選んでいる。

「その……すいませんでした。お見舞いもできず」
「いや、いいよ……どうせ、寝てたし」
「いえ、それだけじゃなくて。その、千雨さんのことがあった夜。僕もあの場所にいたんです」
「あ、ああ……それこそ気にするなよ。元々の原因は私にあったんだしな」
「え?」
「ネギ先生をイジめたのが気に食わなかったんだってよ」

 ネギの血相が変わった。

「イジめ……え、でも……まさか、あんな些細なことで!?」
「いや……ああ。ま、そうだが。実際死ぬかと思ったろ?」
「でもあれくらい……!」

 明日菜は許される。明日菜なら許される。しかし重要度の低い千雨だったら、様子見より遥かに追い出す方が手っ取り早い。躾は、むしろ温情ある対応だった。悔しさすら覚えない。

「あれくらい、って思うのも先生くらいのものなんだろ。ギャグじゃ済まされねーんだよ」
「僕は気にしてません!」
「落ち着けって。……ぶっちゃけ、私もちょっとそう思ってたんだけどな。それどころの話じゃなかったんだろうよ」

 ネギは、自分の重要性を自覚しきれていない。いや、それもまた立派な魔法使いとして必要なことであった。利己的な人間を、立派な魔法使いとは呼ばない。この利己とは単純な意味ではない。大勢を見て、それでも尚自分の命を優先することは許されないのだ。目的がある千雨ですら、今後ネギが為すことを考えれば自分と比較するまでもなくネギの命を優先すべきだと思っているほどにその命の価値は高いというのに。

「あーあ……」
「……すみません。僕のせいで」
「いや、だから」
(わかってたのにな。こういう反応返すって)
 自責――。

 不意に、本当になんの脈絡もなく千雨は無理やりネギの唇を奪ってやろうかと思った。狙いは無論、パクティオーだった。
 電子の女王の杖。力の王笏を手に入れ、極端に簡略化され圧縮されて脳に閉じ込めた七部衆をロードしようかと思ったのだ。アーティファクトは仮契約するまで何が出るかわからないのだが、それでも千雨にはまたあの杖を引き当てる自信はあった。
 七部衆がいれば、チャムほどでなくても気分が変えられるだろう。真面目な相談ごとには向かないし、人の感情もそれほど解さない連中だ。それでも見ているだけで気分は和むし、何より千雨の命と一蓮托生の連中。彼らがここにいるだけで千雨の理由にはなった。

(でも、やっぱ、なんかムリだ)

「長谷川さん?」

 じっと見ていたのに気づいていたのだろう。じっと声を潜めてネギが声をかけてきた。千雨は悟られないように口からそっと重い息を抜いた。

(長谷川さん、な)
 千雨さん、千雨さんと声変わりを迎えたばかりの男の声が頭の中を過った。いつから呼ばれ方が変わったかを千雨は覚えていない。本当にそれはいつのまにか、親しげに呼ぶようになっていた。
 だが、いまここで姓で呼ばれることが引っかかっているわけではない。
(この期に及んでなあ。……ホントに、八つ当たりだったな)
 肺がバーベルで潰されたように重い。
(私は、このネギ先生の長谷川千雨じゃねーのに)

「大丈夫、ですか」
「ん……ああ。悪いな。ちょっと、考え事だ」
「そうですか……その」
「ああ」
「えっと……僕、今日サボっちゃったんですけど。その、長瀬さんとずっと一緒にいたんです」
「……」

 長瀬楓。直接聞いたわけではなかったが、その手腕と情の深さからネギ・スプリングフィールドの護衛と監視を任されている。と千雨が想定している少女だった。
(逃げて、長瀬が確保したか)
 下手な人間に接触されるよりはマシと考えたのだろう。今、この場にもどこかで潜んでいるかもしれない。それを知る術を千雨は持たなかったが。

「僕、悩んでることがあって。それで、話を聞いてもらっただけなんですけどすっきりして……ですから、って、あああ! は、長谷川さん! この前の見ちゃいました?!」
「ああ。見た見た。魔法だろ。知ってるから気にすんな」
「あ、そ、そうで……ええ!? し、知ってるって……」
「あー……ああ?」

 どういう筋書きになっているのか。したらいいのかという点がずっぽり抜け落ちていることにようやく気づく。学園長はなんと言っていたか。三つの選択肢が頭の中に巻き戻って。

「あ」
「え、え?」
(ああああ。マジか。ガキの浅知恵って言われても仕方ねーじゃねーか。あの選択肢三は、こういうことか。うわ。察し悪いな、我ながら。
 ネギ先生に洗いざらいぶちまけたら、あんな選択肢なんて簡単に潰せるんだ。あれは、私への選択肢じゃねえ。ネギ先生への選択肢だ。ああ、クソ。ここで言うの前提じゃねえか)

「……学園長に、釘刺された。魔法のことは口外すんなってよ」
「学園長に!? ですけど」
「記憶消す魔法が効きにくいから、消すのは諦めるってよ」
「え! そ、そうなんですか?」
「ああ。らしいな」

 ここで主観を思い切り混ぜてやってネギに話してやるのも学園への意趣返しになったろうが、ネギをその程度の私怨に巻き込むのも気が引ける。千雨は言葉を切って、今度こそネギにも聞こえるほど溜息をついた。髪を払い、ベンチの裏に垂らしながら空を仰ぐ。晴天。乾いた爽やかな風。桜通りには満開の桜が散り始めていた。

(桜か)

 日本人にとっては、儚さの象徴でもあったろう。日本人としての自覚も誇りもあると言えない千雨だが、それでも桜を目にすると感慨深い。空と違うそんな刹那さが気に入ってもいた。
 背をベンチに預けながら、ネギの視線を感じる。お仕事でやってるのにお仕事で済まないのがネギで、人物を明日菜やネリネより余程知っている自信が千雨にはあった。横に並んで、戦場すら潜り抜けた仲だ。3-Aの中で、明日菜とは別の意味でネギと刹那。それにまだ見てもいない絡繰茶々丸を特別視している自覚がある。その中でもやはり、ネギは違う。

「弱音とか、慣れねーな。多分、二度とやらねえだろうけど」
「……はい」
「答えは聞きたくねーから、何も言うなよ」
「はい」

 自分勝手だな。自嘲する。言えば、ネギが背負い込むことくらい知っているのに。だがネギに自分の過去を背負わせるということには否定できない魅力があった。

「好きな男がいたんだよ」
「……え!? え。えっ?!」
「黙ってろ」
「……は、はい」
「……いや、黙ってろっつーほどの事情があるわけでもないんだが。あー、まあ。だからそういう話なんだけどな」

 最初から最後まで、結局その程度の話でしかなかったろう。心情の吐露とか格好付けたところで、千雨の中にはその程度の話しかない。
 バカらしいとも思う。18歳の仮面女子高生一人のそんな理由だけで、消された世界は納得いかないだろう。世界が間違っていたとしても、それより遥かに千雨は間違っている。

「最初は、そういうんじゃなかったんだよ。いや、っつーかむしろ嫌いだったくらいだな。勝手に人の事巻き込んで、無理やり強いやがって。スッゲー腹立ってた。あいつも、あいつらも大嫌いだった」
「……」
「元から、人付き合いなんて上手くねーし。回りにも冷めてた。何がそんなに楽しいんだ。何がそんなに笑えるんだ。そんな疑問に付き合ってやんのも疲れてたんだよ。だから、傍観してて。興味なんか持たないようにしてた。
 そんな私の世界を、そいつは無理やり自分の側に引っ張り込みやがった」
「……」
「正直、腹立って仕方なかったけど。内向的な自分にも飽き飽きしてたからな。結局私は自分からそっちに行くことに決めちまった。ガキみたいだろ? 問題の所存がわかってたのに、目を逸らしてよ」
「……」

 いや、中学生なんだからガキでよかったんだ。それを変に大人ぶるから逆にガキっぽくなって。

「まあ、まだそいつのことは嫌いだったよ。……いや、苦手くらいだな。結局それは正しかったけど、首根っこつかまれて別の方向向かされたんだから、恨んでもいたかもな。
 けど、ある時からそれは変わった。そいつは半身とすら呼べたお姉ちゃんとばらばらになって」

 それが始まり。この時間を跨いだ長谷川千雨のエゴの始まり。あるところにおじいさんおばあさんがいましたのような、始まり。

「私が、お姉ちゃんの役を肩代わりするようになった」

 何か、男女の話があったわけではない。千雨は最初から最後までネギとの関係性を変えることはなかった。長い戦場と宿を共にした戦友でありながら、刹那とネギのように肩を並べることも背を合わせる事もなく、千雨はネギのお姉ちゃんを遣り通した。
 傍から見れば、さぞや気持ち悪い関係だったろう。いい年して、全力で姉弟ごっこだ。千雨は口端を上げた。

「ま。楽ではあったんだがな。私はあいつの面倒を見てりゃよかったんだ。あいつとさく……あいつが勝手に前に進んでるのを適当に襟首引っ張ってりゃよかった。その役が、あいつのお姉ちゃんの代替品だったとしても、それなりに私は満足してた。元々恋人になるとか体の関係持つとか、そういう欲求もねえし。
 お姉ちゃんは、私に向いてた役所だったんだよ。あいつがどっかから適当な女連れてきても、ケツぶっ叩いて適当に酒飲んで管巻いて。それくらいだったろうな」

(過去のあいつに告白してる気分になってきた。未来のコイツでも、まあ、話は通るか)

「でも、今は違う。本当のお姉ちゃんが、いる」
「……え?」
「それが、すげえイヤだ。腹が立つし、理不尽だと思う。そこは私だろっ! てぶち撒けてやってもいいと思うくらいだ。だけど、あいつにとってはそっちのが自然だ。だって、あいつは本当のお姉ちゃんを探して旅してたんだ。あいつは」
「……」
「あいつは、本当のお姉ちゃんが一緒じゃないと、幸せになんかなれないんだ」

 血を吐くように千雨は言って、目を閉じた。耳が熱いが心は冷えている。心情を吐露するということが、体を火照らせて心を冷めさせた。それは、地獄まで持って行こうと思っていた想いだったのだ。
 ネギ・スプリングフィールドを、長谷川千雨が恨んでいるとしたら。
 極点。
 痴情の縺れ。
 ただその一言で表せる程度のことでしかなかった。

「勝手に嫉妬して。突っかかって。エヴァンジェリンに言われたとおりだ。間違っている。何もできやしない。ああ、その通りだ。そりゃそうだ。私の願いと私のやりたいことには随分と開きがある。何も為さないことが、たった一つの私の願いを叶える方法だ。
 笑えるぜ。エヴァンジェリン、あんたは確かに闇の福音だよ、魔王。私は、私が幸せになりたくてそうしたんだから」

 絡まりあった黒い塊を一つ一つ解して行って。
 中から出てきたのは腐ったオレンジだ。

「……話は終わりだ。悪いな、押し付ける」
「……」

 顔を見たわけではないが、ゆっくり頭を振るのが解った。千雨は立ち上がって、寮に足を向けた。脳髄が、冷酷に暴走している。暖めればいいやら冷やせばいいやらわからない。

「長谷川さん」
「……」
「悪いことをした人は、幸せになってはいけないと思いますか」
「……そりゃ、」

 天才か? このガキは。いや、天才か。

「そうだ。私も、エヴァンジェリンも、あんたも。死んでもそれを掴んじゃダメだ」
「……でも。僕は長谷川さんが幸せであることを願います」
「……」

 空虚さを感じて、千雨は返す言葉を思いつかなかった。

 桜通りを北上。三年後、ゴーストタウン化した麻帆良の中でも桜通りは被害は酷かった。晴明に至ったとすら言われる木乃香の呼んだ大蛇が這いずり回ったらしかった。いや、それだけではない。木乃香だけでなくアスナの痕跡もまた、かつての自分が過ごした場所を重点的に壊していた。
 どうしたい?
 言えなかった言葉を、言う機会を得たいだけ。
 眼鏡の裏に、自分の瞳が見えた気がした。
 千雨は立ち止まって、舞い落ちる桜の花びらを指先で摘み取った。

「チャム……」

「チャムを起こして、未来に帰ろう」

 茶番は、収縮していく。



◆◆◆



 葉加瀬聡美が、その時、その場所にいたのは偶然ではなかった。ほんの数時間前に親友にして派閥の長、超鈴音に言われて来たのだった。

「……」

 年に一度の、大停電の日。それでも大学内部は予備電力が過剰なくらいにある。流石に実験を進めることはできなかったが、いくらかの端末位は立ち上げられたろう。だが聡美はそんな気分でもなかった。外では、エヴァンジェリンがネギと戦い始めようとしているはずだ。
 エヴァンジェリンは友達だ。ネギは担任。どちらも傷ついて欲しくないと聡美は願っていた。だがエヴァンジェリンは想像を絶する手練だ。方針を変えれば吸血鬼の身でも立派な魔法使いと呼ばれることはできるだろう。尤も、あのエヴァンジェリンが誰かの説得に屈する姿など想像もできないが、ネギを危険な目にあわせることもなく事態を収めるのは難しくもないだろう。

「暇だなー」

 麻帆良大学。下手すれば聡美が中学校よりも入り浸っている研究棟の一角は、学園長が手を回して聡美専用のものとしている。実質的には超と聡美の共同研究室。それは学園側としてオーバーテクノロジーの漏洩を防ぐためで、学園も超のテクノロジーを疑ってかかっていることは聡美にもわかっていた。
 研究室は、今聡美一人きり。茶々丸のスペアボディが壁際に三体立っているだけで、それどころか電気すら消えていた。何をするでもないし、点ける必要もないという聡美の子供っぽい合理性だった。

(何しに、ここにいるんだろう)

 3-A内にいれば、思考が読みきれないことはよくあることで、それでも超鈴音は特別だった。基礎的な能力が劣っているとは思わないのに、超は聡美のずっと前を歩いている。それは未来から来たというアドバンテージではない。何か別の圧倒的な差だと思った。
 だから、超に研究室に行けと言われた時もそれほど考えず従った。能力も方針も置き去りにして、超は親友だ。自分に何か危険が及ぶような類の話でもないだろう。
 それでも暇は暇。携帯ゲーム機をハッキングしたもので遊ぶか、とも思ったがエヴァンジェリンとネギの身に起きる争いを考えればそれも不謹慎な気がした。どう展開したところで、それは殺し合いだ。

(でも、暇は暇だ)

 元々さっぱりしたものがある性格だからか、研究者としての素養か。無事かを祈り続けるような人間でもない。聡美は椅子の上で背中を伸ばして、そのまま整理された台の上に突っ伏した。その時、真っ暗な研究室に声が響いた。

「おわっ。人いんのかよっ!」
「えっ!?」

 慌て、飛び起きる。どんな方法か。術理か。或いは魔法だったか、扉も開けずに少女の影がドアの内側に立っていた。それが長谷川千雨のシルエットであることが、すぐにわかった。
 ガシャン。パイプ椅子を引っ掛けて倒しながら聡美は慌てて立ち上がった。

「ち、千雨さん――」

 長谷川千雨。最早千雨と呼ぶ価値のない中身でありながら、それ以外に呼び名がないことに聡美は顔を顰めた。その名で呼ばれることが図々しいと思えた。

「聡美か。……参ったな。なんでこんなとこにいるんだよ」
「参ったなじゃ……ないですよ。これじゃあ、不法侵入です。そもそも、警備ロボは」
「ああクソ。こんなこと言ってなかったじゃねえかあのバカ……」

 どうしようと、聡美は慌てて暗闇の中に視線を迷わせる。少し前、茶々丸の装備をここで試作していた頃ならともかく、現在は大半が借りた工場でラインに乗っている。試作品の一つすらないだろう。
 発見された側と発見した側なのに、この場でマズいのは圧倒的に聡美の方だった。長谷川千雨に常に貼り付けられた虫型情報システムによればこの長谷川千雨は明らかにいくつかの場数を潜っているプロで、一方で聡美は脳みそ以外は極平凡。運動能力にいたっては平均を大きく割るほどだ。聡美は、この長谷川千雨の暴力に抗う術を持たない。まして、この長谷川千雨は魔法使いの可能性もあった。

「何しに来たんですか」

 精一杯の虚勢を張って毅然とした声を上げても、千雨は申し訳なさそうに笑うだけだった。

「泥棒……泥棒だな」
「……ここには、あなたが欲しがるようなものはありませんよ」
「落ち着けよ。あんたに何もしはしねー。あー、いや、するんだが、暴力は使わない。でも、外部に連絡取るようなら、流石にやるかもな」
「……」

 泥棒。……カシオペア。それはすぐさま結びついた。航時機カシオペア。超の診断マニュアルが正しければ、この長谷川千雨は間違いなく未来の人間。そして道理として超と時代を共にする人間。いや、詳しくは聞いていないが航時機が開発されれば、その時代に時が流れることはないだろう。1000の時を以って開発される技術が今あり、そしてその1000年後の技術も今ある。技術は飽和し、歴史は同期する。だから長谷川千雨と超鈴音は同じ世界から来た、と考えるのが正しいだろう。

「……目的は」
「情報」
「嘘ですね」
「マジだ」

 否定はしてみたが情報もありえるだろう。様々な計略と誘導で長谷川千雨は超に対して完璧に後手に回っている。エヴァンジェリンに襲わせたのも、その場から逃げることができるようネギが登場する時間を調節したのも、学園長との会話やエヴァンジェリンの会話も明日菜との会話も。全て超の誘導によるものだった。その全てを千雨が悟っていると思っているわけではないが。
 聡美が千雨の立場にいるなら、超のことが気になって仕方ない。何せ彼女にとっても超の存在はイレギュラーに違いないのだから。

(あれ? ……そういえば、この人どこで超さんのこと)
「超派、ね」
「!」
「バカ真面目に一番目立つ奴がそうだとは思っちゃいなかったが、履歴の作り方でも教授してやろうか?」
「……」

 3-Aの中で経歴不明など珍しいことではない。だが超派の中枢では超鈴音ただ一人が経歴不詳だった。
(迂闊すぎです、超さん)

「しかし、参ったな。私も引き下がるわけには行かないんだよ。ニッチもサッチも行かない状況でな、今日を逃したら拙い」
「脅しですか? ……言いましたよね。ここにあなたの欲する情報なんて」

 といいながら、聡美は背後の柱に設置された緊急ボタンを見た。研究データが吹っ飛ぶのは取り返しのつかないことであるが、超と同じ時代の人間に見られるよりは余程マシだ。

「あるぜ。あんたの頭の中にな」
「……ずいぶんですね。私がいなかったら、どうなってたんでしょう」
「さあ。忘れたよ。どうでもいいこと覚えてるほどリソースに余裕がないんだ」
「大体! あなたには学園が監視をつけてたはずじゃ!」
「撒けるさ。奴ら、本気じゃねえからな」

 それはそうだ。既に一角の危険人物として認識した超派と違い、所詮は魔法使いですらない子供。最悪でもどこかのスパイ程度でしかないのだから。この街で日常と化しているそういった防諜はマニュアライズされていて、素人の聡美ですら穴を簡単に見つけられた。

「……何が望みですか」

 腹を括るしかない。聡美は唇を噛みながら千雨を睨みつけた。何、自分の頭の中を覗きたいなら覗いて見ればいい。絶対に口を割らないし、また記憶を掘り返す類の魔法も防御する手段が備えてある。そう言いつつも千雨の狙いがカシオペアや端末の中にあったとしたら、惜しいが非常ボタンを押そう。

「ま、とりあえず座っていいか?」
「……その前に、電気を点けてください。椅子がどこにあるかもわからない。スイッチはあなたの後ろに」
「んなことしたら誰か来るかもしれねーだろ。それに、その必要はねえよ」

 千雨はカーテンのかかった窓に近寄った。電動のベネシャンブラインドなのだが、千雨はそれを力づくで引きちぎった。下にブラスチックが落ちて音を立て、月明かりが千雨を照らす。そこで、聡美はようやくいつも縛っているはずの千雨の髪が解かれていることに気づいた。
 髪が揺れる。身にまとう雰囲気すら、よくよく見れば違った。それを何と呼べばいいのか、大まかに言えば殺気とすら言えるだろう。どちらにせよ本当の長谷川千雨とは縁遠いものだった。

(千雨さんじゃ、ない)

「星明りで十分だ」

(この人は、本当に、千雨さんじゃないんだ)

 未来人の勝手な行いで、消えてしまったクラスメートのことを想って、聡美は涙を流した。


「お、いいもんあるじゃねーか」

 そう言って千雨が手に取ったのは、超のデスクに放置されていた新品のトランプだった。それを手にぴったりと星明りの届いた研究室中央の台の横のパイプ椅子に腰を下ろした。向かい合わせの聡美に軽く笑いかける。
「……」
「トランプでもしようぜ、聡美」
「……」
「そんな睨むなよ。ゲームだよゲーム。別にいいだろ?」
「帰ってくれませんか」
「お……おいおい。なんで泣いてんだよ」
「腹が立って仕方ないからです、千雨さん」
「……あんたもかよ。私、ヒトの腹立てすぎじゃねーか?」

 聡美は俯き、拳を強く握った。

「イヤです。私はあなたとゲームはしないし、何かを話す気もありません」
「……そうか? そうでもないと思うがな」
「なんと言われても」
「あんたが未来で完成させる論文の全文が、私の脳みそには刻まれている」

 顔を振り上げて千雨を見た。千雨は憎たらしいまでに微笑んでいる。
 それは、この上なく的確に聡美の中心を打ち抜いた。ああ、それは欲しい。それは何よりも欲しい。理解すら及ばない未来の論文なら、プライドを以って否定できたが、それがいつか聡美が完成させるものだとしたら是が非でも欲しい。
 それがこの時手の中にあれば、未来にはどれほどのものが作り上げられるか。超だったら逆立ちしてもくれはしないものが、すぐ目の前にある状況に聡美の頬は釣りあがらざるを得ない。だが、

「それでも」
「賭けろよ聡美。交換するわけじゃない。私は超のことを聞くが、あんたは論文を聞けばいい。リスクに見合ったペイはあると保障するぜ。何せ、前後五十年を代表する名論だ」
「……本当に、あなたの頭の中にあるという保障は」
「序文」
「……すいませんでした。信じます。でも、超さんを裏切ることになります。それに」

 超は度量がある。それを自分の力で得た限りは非難することはないだろう。だが、もし負けた時。超の情報が聡美の口から漏れたとき、超を裏切ることになる。加えてなにより、長谷川千雨を3-Aから奪った人間と会話していることがどうしようもなく癪に障った。
 しかし千雨は快活に笑ってみせた。それもまた自分の内心を一切鑑みられていないようで、聡美は腹が立った。

「とりあえず、やるゲームが何かを聞いてもいいだろ?」
「……」
「もちろん、私が勝つ自信はあるがな、あんたが勝つ可能性も低くはねえよ」
「ゲームは」
「1/4ブラックジャック」


 ブラックジャック。
 カードを一枚ずつ引き合い、21を目指すポーカーに並ぶポピュラーなカードゲームである。そして胴元が圧倒的に有利であるはずのギャンブルの世界において、唯一と言っていいほど期待値が1を上回る可能性のあるギャンブルでもあった。

「これを13枚で行う」
「13。マーク一つでするということですか」
「ああ。シャッフルは毎回。カットをディーラーじゃない方が一回。公平にしなきゃな」

 自分の作ったルールに巻き込んで、何を公平と。
 だが、と聡美には思い直す余地がある。1/4ブラックジャック。それは勝負勘より、計算能力の必要とされるものである。確率論がものを言う。そして単純な計算能力においては葉加瀬は誰をも上回っている自信があった。

「……わかりました。ですが初めてのゲームです。試しにやらせてみてください」
「ああ、わかった」

 ……?
 妙なことに気づく。
 聡美には、千雨の中にあったはずの強烈な目的意識が見当たらなかった。学園長との会談で見せたあの強烈なものが、そこにはないように感じられた。
(まるで、別人みたいだ)

 真新しいカードケースの包装を破り、千雨は裏返しもせず山から上の13枚を浚った。注意深く手にとって確認したが、コンビニでも売ってそうなただの安物だった。ハート、クローバー、ダイヤがAからきちんと並んでいる。

「注意深いな」
「当然です。お遊びでも、リスクはありますから」

 千雨は、顔をしかめた。

「あんたも、本気じゃないのか」
「何かの冗談ですか?」
 本気。冗談ではない。こんな女に本気になることは、全てのプライドを賭けてでも許せない。何より。苛立たしげに、千雨は舌打ちした。
「チ」
「さあ、早くシャッフルを」

 毛虫を奥歯で噛んだような顔をして、千雨はカードの上を右手に、下を左手にパーフェクトシャッフル。ぴたりと互い違いになり、一番上は右手。全く同じことをもう一度。また互い違いになる。

「カットは」
「四枚目でお願いします」
 しかめっ面で、千雨は上の四枚を下に回した。山を二人の間に置き、聡美に一枚。千雨に一枚。表返ししながらもう一枚ずつ。

「サレンダー。それにバーストとブラックジャックについて聞いてませんね」
「そうだな。七回先取くらいで終わりにすりゃいいだろ。あんまり降りてもつまんないし、三サレンダーで一敗。ダブルダウンかけたら一枚追加で勝負。でもダブルダウンの後にも相手はサレンダーできることにするか」
「ベットは?」
「勝敗だ。両方ダブルダウンで、最大四勝できるって感じか」
「それは……まあ、いいです。ブラックジャックとバーストは」
「ナチュラル21も二勝でいいだろ」
「はい……とりあえず、やってみましょうか」

 まさか。聡美は困惑した。まさかと思うが、この人は私のこともロクに調べずにこんな勝負を挑んだのだろうか。論文のことを予め調べてこの時代に来たというなら、そんなことはないはずと思うのだが。
 こんなゲーム。私が負けるはすがないのに。
(だって、私は既に全てのカードが解っているのに)
 余りに簡単すぎて、些か呆然とした。
 パーフェクトシャッフル。それはシャッフルとは名ばかり。互い違いにカードを整列させるに過ぎない。
 最初、スペードはこう並んでいる。一番上から、

A 2 3 4 5 6 7 8 9 10 J Q K

 これを真ん中で右と左に分けると、奇数なので二つに場合分けされ、

右A 2 3 4 5 6
左7 8 9 10 J Q K
もしくは
右A 2 3 4 5 6 7
左8 9 10 J Q K

 これを右からパーフェクトシャッフルすると。
7 8 A 9 2 10 3 J 4 Q 5 K 6
もしくは
A 8 2 9 3 10 4 J 5 Q 6 K 7
 になる。しかしここで最初の右六枚だと最後に右が二枚重なることとなり、それはなかった。綺麗なパーフェクトシャッフルだったのだから。つまり右手に七枚を最初にとったことになる。
 同様の処理をもう一度行い、
A J 8 5 2 Q 9 6 3 K 10 7 4
 それに四枚カット。下に入れただけなので。
2 Q 9 6 3 K 10 7 4 A J 8 5
 が、この場の山の順になる。それを裏付けるように、表になっているのは聡美の9と千雨の6だった。手元のカードをひっくり返すと、2。

(これじゃあ、負けるはずがない)

 聡美はパーフェクトシャッフルをしない。というか不器用なのでできないが、千雨がそれをするかぎり千雨がディーラーの時は勝ちを得られる。それでなくとも圧倒的有利だ。前のゲームで使われた札を暗記し、その位置を覚えさえすればカットの調整で負けることは絶対にない。
 何が狙いなのか、いや、本当になにも知らないのではないか? 或いは、イカサマの仕込があるのか。

「一枚、ください」

 千雨はテーブルを滑らせてカードを寄越した。
 3。合わせて14だが、次はキングが待っている。千雨の手は16。千雨が引かなければ負けだ。

「ヒットだ」
 本当に? 本当に、何も知らないのか。ばか正直な考えで、聡美の計算能力に勝てるとでも思っているのか。
「もう一ヒット」
 千雨はカードを寄越し、聡美はロクに確認もせず。
「スタンド」
「スタンド」

 26対24。揃って無様なバースト。つまらないゲームになりそうだ、と聡美は思った。

「て、感じだな。これで七勝先取」
「なるほどー。運よりも駆け引きって感じのゲームですね」
「いいか? これで。なんだったらもっと普通なのを」

 一度大きく息を吸い、背を丸めて聡美は目を閉じた。この暗さでは、自分が目を閉じたことすらわからないだろう。
「……あなたが負けたら、すぐに帰るという保障が欲しいです」
「それはあんただって同じだろ?」

 道理の上ではそうだが、自分の背後関係を棚に上げてよく言うものだ。学園と超が背後にいる聡美と、経歴の定かでない未来人のどこが同じだというのか。
 それでも聡美は頷くしかない。この場では、千雨は気紛れ一つで聡美を制することができるのだから。

「大体、なんですかゲームって。別にあなたなら」
「屈しないだろ? あんたをぶん殴ってもさ」
「……」
「あんたの得意分野で勝負してやろうってんだ。いいじゃねえか」
「私を屈させるのが、狙いですか」
「そうなるな。ちょっと最近プライドけちょんけちょんだからな、ここらで一発持ち直しとくかなと思ってな」

 舐めるな。だがどことなく聡美は笑いたくなる気持ちになった。狙ってるんじゃないかと思うくらい迂闊で、頭の悪い問答だ。何かあると喧伝してるようなものじゃないか。それに、躊躇いなく憎ませてくれる。上手い悪だ、と聡美は一種感心した。あのエヴァンジェリンよりも自分を憎ませることには長があるかもしれない。

(超さん、すいません。リスクを背負います)
 もし負けたら……そう思う。だがデメリットの大きさと発生確率を掛け合わせたものとメリットの大きさと発生確率を掛け合わせたものを比較すれば、圧倒的にメリットのが大きい。無論、ここまで千雨の考えどおりに動きすぎているという自覚はあったが、それでも尚負けない自信があった。
 こういう競技において、計算能力と記憶力の卓越したプレイヤーは一種、最初からイカサマのようなものだ。13枚程度、しかもマークは一種類なら、聡美は一目で覚えられる。それは千雨にはできないだろう。そしてそれがあれば、どんなイカサマも結果を捕まえられる。手法は大した問題ではない。それが見破れなくとも、結果さえ捕まえれば逆算しきれる。

(友達、危険に晒してなにしてるんだって思うけど)

 目を、開く。星明りに照らされた千雨の整った顔立ちが目に入った。それは神秘的でどこまでも美しかったが、きっと長谷川千雨の笑顔はもっと可愛かった。見たことなかったけど。

(この余裕ぶった女の鼻、明かしてやる)

「そうですか」
「で、いいのか? ゲームに乗ってよ」
「ええ。ただしルールは追加させてください。フェイスダウンでお願いします」
「解った」

 間髪いれず千雨は答えて、場に出た七枚のカードを回収し、まとめ、デッキに戻した。その順番も克明に聡美は覚えた。

(なにか仕込んでくるなら、後半。前半でイカサマして疑われたら、勝負自体反故にしてしまえばいい)

 他にも、千雨がイカサマをするというなら方法はいくつか考えられる。シャッフル。ディール。カット。全てにおいてその隙はあるといっていいだろう。聡美はギャンブルには慣れておらず、またその手法にも詳しくはない。
 ダブルダウンをかけたら、勝負の回数が減る。分析のデータは多ければ多い方がいい。あちらが賭けたときはサレンダー。サレンダー三回で一敗という緩いルールだ。少しでも見つければ積極的に下りればいい。
 ふと、聡美は笑いたくなった。この街で、魔法使いに関係ある人間が二人揃ってカードゲームに命運を託すこの状況が、どうしようもなく笑える状況だった。

 千雨は、予想通りパーフェクトシャッフルを二回繰り返した。この時点で並びは10 J 7 K 3 8 4 6 9 5 A Q 2。ナチュラル21は望めない位置にあるので、狙うならカット1枚でJ Kを得るか、三枚カットのK 8。

(でも一枚は、流石にワザとらしい。イカサマをいきなりしてくることはないとしても、私が並びを把握していることを知られるのは上手くない)

「三枚でお願いします」
「ああ」
 じっと手元を見つめたが、千雨の手の動きにはなんの違和感も得られない。今更、部屋が暗いままなのは明らかな不利だと思った。星明りだけでは細かなところまでは追いきれない。三枚を切って、千雨は交互にカードを寄越した。



<1/4ブラックジャック・ルール>
・スペード13枚のみを使い21を目指すブラックジャック。
・ディーラーは交互。シャッフルは自由だが、プレイヤーはカット枚数を指定する権利がある。カードはフェイスダウン(裏側にして相手に見せない)。
・勝負(スタンド)、引く(ヒット)、降りる(サレンダー)の他に二倍賭けでもう一枚引く(変則ダブルダウン)あり。ダブルダウンは双方がその権利を有し、掛け金は最大四倍になる。ただし、ダブルダウンの宣告後、スタンドしていたとしても宣告を受けた側はサレンダーの権利を有する。
・サレンダーは三回で一敗と数える。1/3敗と表記。サレンダーの宣言はスタンドを宣言した後でも可とする。
・Aと10(10 J Q K)の組み合わせをナチュラル21と呼び、二勝とする。Aは一枚しか存在しないので、ナチュラル21が出た時点で勝負が決定する。
・バーストに報告義務はなく、両方がスタンドした時点で開示する。しかしバーストしてからヒット、サレンダーすることはできない。



 ――第一戦(0・0)

「……スタンドします」
「ヒット」

 K 8。千雨の手の中には、3 4だろう。スタンドした聡美に対して、躊躇なく千雨はデッキから一枚引いた。
 3 4 6。13。これが普通のブラックジャックならもう1ヒットするのにそれほど躊躇わない数だろう。ここからが勝負だ、と聡美は思った。

 千雨から見れば、デッキに残る数字はA 2 5 7 8 9 10 J Q K。9以上であればバースト。しかし聡美が二枚でスタンドしたということ。そして先の一戦で14でヒットした聡美の判断を解っているだろう。そもそも、バーストの出にくいシステムだ。かなり高めに見込んでいる。
 実際の聡美の手は18。しかし自分の手の中に小さい数字が集まっている以上、千雨は20は見込まなければならない。20に到達するには、7か8を引く必要がある。もしくは2 5の両方と、Aもか。分の悪い賭けだ。聡美だったらサレンダー。だがもし千雨が甘い見通しの持ち主で、聡美の手を15、17と踏んでいたら話は別だ。勝率は一気に50%にまで駆け上がる。だがそれはどう考えても愚か者の決断。

 ちら、と聡美は千雨の表情を窺った。流石にポーカーフェイスを保っているが、その判断の遅さだけでも決断を悩んでいるのが解った。
 この状況で勝負してくるなら、それは余程のギャンブル中毒かただの脳みそが足りていないだけだ。何故か聡美は、無意識に降りろ、と願った。この女がただのバカであって欲しくないと思ったのだ。
 そして千雨は、随分と長い時間考えて。

「ダブルダウン」

 と、言った。

「……ダブルダウン、ですか?」
「ああ」

 一瞬、聡美は呆然とした。二倍賭け。この状況では絶対にありえない選択肢だ。耐え切れないほどの怒りが沸き立ち、だがそれを無理やり腹の中に押さえつけた。
 イカサマだ。
 それ以外には有り得ない。この女、最初っからそういうつもりでこんな茶番に私を突き合わせたのだ。暴力では情報を引き出せないと踏んで、この状況に無理やり持ち込んだのだ。
 千雨はじっと聡美の顔を眺めた。

(……どんな手を使うか知りたい。でも二敗は重い)

 イカサマを暴露させられれば、この勝負はなしにできる。だが、そのために二敗を無条件で渡すのは拙いと思った。それに、どうも頭の片隅に欲求が浮かんで仕方ない。イカサマを暴露することなく見破り、そのまま勝てば、何より得がたいものが手に入る。
 二敗。ではない。イカサマのために賭けるのは一敗でいいだろう。次のディーラーは聡美だ。そこでイカサマを使わせれば手段は大分特定できるし、一敗でイカサマの情報が得られるなら二敗よりも安い買い物だ。
 ここでサレンダーするのが正解だろう。二敗と1/3敗。六倍の差がある。イカサマを仕込んでいると解っただけで、1/3敗の価値はあった。

「そうですか。なら、私はサレンダーします」
「そうか」

 千雨は何の気なしにカードをオープンにした。並ぶ数字は3 4 6。ここまでは計算どおり。となると、ドローで何かするつもりだったか。聡美は体を伸ばし、千雨のカードをかき集めて自分のカードと合わせ、デッキに重ねた。

「いや、しかしなあ、聡美」
「……はい」
「随分と、簡単に降りるんだな」
 嘲笑うようにこの女――!
 燃え上がるような目で千雨を睨み、聡美はデッキをまとめた。


 ――第二戦(0・1/3)

 ばら撒くこと二回。いくらなんでもカードを追いきれなくなるほどの不器用さを発揮して、聡美はうんざりした気分になりながらもカードを切り終えた。構うか。ここでカードを半分も特定できればどうせ次は相手のパーフェクトシャッフルだ。
 まあ、いい。特定できずともダブルダウンさえなければ勝率50%で一敗の勝負だ。普通のブラックジャックと考えればいい。

「カットは」
「じゃ、七枚だな」

 じゃあとはなんだ。じゃあとは。まるで並びを知ってるようではないか。猜疑心の塊になっている自覚がありながら、聡美は七枚目から上を下に回し、デッキを中央に置いた。千雨から交互に二枚ずつ。デッキには、一度も千雨は触っていない。何か仕込むとしたらドローする時だが。
 3 7。悪くはない手だ。Aがくればブラックジャックだし、8以上でもそれなり。半分以上の確率でいい手になれる。あとは千雨の反応次第。
 千雨はひょいと、カードをあけた。聡美は、思わず立ち上がった。

「悪いな、ブラックジャックだ」
「……」

 A 10。ナチュラル21は二敗……そんな取り決めをしたことを思い出す。何てバカな。ダブルダウンの危険性ばかり考えていたが、実際に危険なのはこのナチュラル21だ。サレンダーできるダブルダウンとは違い、これは問答無用で試合の時間を縮める。
 イカサマ……。

(いや、本当に出た可能性も……)

 デッキの枚数に対して場に出てるカードの割合が極端に大きいこのゲームにおいて、それほど珍しい確率ではない。20ゲームやればどちらかには必ず一度は来るだろう。それが、この時だったと考えれば疑うことはない。
 だが、何の収穫もなしに2敗した。あと五敗しかできないのに七勝しなければならないという状況は飲み込むのに苦労する。やはり何かあるのではないか。

(すり替え……?)

 元は超のデスクから取ったカードといっても、その場面を見たわけではない。
 千雨の服装は学生服の冬服。ゆったりとした袖にカードの一枚くらい仕込ませることは簡単だろう。それにパームという手法もある。手の内に隠されたらこの暗さではどうしようもなかった。

(けど、それなら)
「すいませんけど、デッキをちょっと裏返してもいいですか?」
「あん? ああ……構わないけど」

 少し躊躇ったのは、やはり何かあるのか。聡美はデッキに残る九枚を一枚一枚確認した。
(ない……)
 流石にそんな簡単にはいかないとは解っていても落胆はした。デッキをシャッフルしたのは聡美自身だ。もし手札をすり替えたのなら、Aがデッキに残って然るべきだったが。
(いや……待って。さっきのゲームですり替えたとしたら)
 予め、デッキからAを抜いておけば?
 それでも、ムリか。聡美は臍を噛んだ。どうしても矛盾は出る。

(本当にただ出ただけ……? いや、カットで合わせた。……相手も並びを解っている? 眼鏡とカードに細工がしてある?)

「おい。いい加減にしろよ聡美。いくらなんでもしつこいぜ」
「……すいませんでした」

 苦し紛れに聡美はデッキのカードを全て暗記し、自分でカードをまとめてから千雨に渡した。


 ――三戦目(0・2 1/3)

 並びは、7 10 J 9 A 4 Q 2 K 3 6 5 8。
 二敗……重い。ナチュラル21が出せる状況だったら、疑われる可能性も忘れてそれを選んでいただろう。だが不運にも配列はあまりよくはない。勿論、勝つのは簡単だが、二勝というアドバンテージを持った千雨がイカサマを振ってくる可能性も低いと思った。

(……落ち着け。大丈夫。なら、普通に一勝取ればいいじゃないか)

 一差なら、大分落ち着けるだろう。ダブルダウンかナチュラル21で簡単に取り戻せる差だった。聡美は下唇を噛み締め、六枚のカットを要求した。変わらず、まず聡美から千雨はカードを配った。
 聡美はQ K。
 千雨は2 3。聡美がスタンドを宣言すると、千雨はすぐさまヒットした。これで、11。
(もう一回ヒットして、16。大丈夫。勝てる。でももし手札が違えば、イカサマが読める)

「……ダブルダウン」
「え……え!?」

 また、この場でダブルダウン。ありえないほどの強気ではないか? だから、聡美は一回でストップしているのだ。11。バーストの心配こそないし、最も数の多い10が取れればいいと考えているのかもしれないが、デッキの残りを想定すればとても聡美には真似できない勝負だ。まして、ナチュラル21で稼いだアドバンテージを帳消しにするようなことを。
(まさか、またイカサマ!?)
 勝つ確信があって、その選択をしている。そう考えれば筋は通った。いや、それこそイカサマを破り一気に優位に立ちたい聡美の望む場面だったのだが。
(……ダメだ。四敗は、絶対にできない。まだ一勝もしてないのに)

「サレンダー」血を吐くような気分で、聡美は言った。
「そうかい」

 ポーカーフェイスのまま、ぞんざいに千雨はカードを投げ出した。やはり2 5 6。まだイカサマはしてもいない。
 大丈夫だ。サレンダーは三回しなければ一敗にならない。負け数は2 2/3ではあるが、実質的に2も同然だ。
 聡美はカードを手が震えるのを堪えながら、集めようと身を乗り出し、ふと場のカードの数に気づいた。

「待ってください」
「あ?」
「待って……待ってください! 何でですか? ダブルダウンしたでしょ? なんで引かずに終わってるんですか!? おかしいじゃないですか!」
「いや、あんた降りたじゃねーか……」
「そんなの関係ないでしょう!? だって、引いてから、私がサレンダーしてもいいでしょ!? ここに、一枚足りないですよ!」
「あん? ……んー」

 困ったように唸って、耳の後ろを指先でかりかりと掻くと、千雨はデッキに手を伸ばし、その一番上のカードを捲った。
 5。
 祈るような気持ちで、聡美はその表面を指で撫でた。だが、何一つおかしいところのない、ただのカードだった。

「おわっ。こえーな。完璧負けてたんじゃねーかよ」
「……」

 聡美は、笑いたくなった。それはそうだ。ゲームが終わって、ドローして。その時に何かするわけないじゃないか。一緒に、泣きたくもなった。


 ――第四戦(0・2 2/3)

「ねえ、もしかして。ギャンブラーとかじゃ、ないですよね」
「碌にやったことはねーな。兎の足っつー滅茶苦茶なギャンブラーが近所にいやがって、あいつを見てりゃギャンブルなんてやりたくもなくなる」
「……ならなんで」
「さあ。あんたと交友を深めるには、やっぱゲームじゃないかなと思ってな?」
「大嘘つき」

 返す言葉はない、と言わんばかりに千雨はニヤニヤと笑いながら台に肘をつき、指先でカードを要求して見せた。
 カードを配りながら、聡美はどうにかしてこの勝負をなかったことにすることを考えるのに必死だった。イカサマを見つけるのも、いい。それを口上にして有耶無耶にすればいい。それとも、他の手段があるだろうか。暴れたら、なかったことにできるだろうか。いや、すぐさま取り押さえられてしまうだけだろう。外部への連絡を――目の前にいるのに、それを許すわけがない。この暗さでは携帯電話など開いただけでばれるだろう。ならせめて外に。
(トイレとか言って)
 そのまま逃げればいい。ついてきたなら、個室に篭って超に助けを求めればいい。
 ……超?
(超さん、なんで大学部に行けって言ったんですか)

 いくら超でも、神ではない。この展開の全てが予想できていたとは思えない。だが思えば、このカードは元は超のものだ。少なくとも千雨がここにいることを予想していたのは間違いないだろう。

(どうしたらいいんですか、超さん。私なら、勝てるって言うんですか?)

 なんとか順番を覚えていようと努力はしたが、やはりただでさえ不器用なのに手先が震え、結局三度もばら撒いて、努力は無駄になった。カードを配り、手にして今度こそ聡美は泣きそうになった。
 2 3。
 二枚引かなければまともな役にならず、しかし二枚引いたところでバーストもありうる。対して千雨は、あっさりとスタンドした。

(落ち着いて……さっきも考えた。最低、20を見込んでいないといけないって。でも、上の方の数は二枚減っていて。とりあえず、一枚は)
「ヒ、ット」

 嘘だろう。引いたのは7。状況的に一番悪い手だ。12。残る手はA 4 5 6 8 9 10 J Q K。10を引けばバーストする。だが引かざるをえない。

(もし、相手の手が8 9だったら)
 バーストが50%。A 4 5 6を引いても、勝てるのは5 6が出たときだけ。A 4のどちらかを引いたとしてももう一度アタックする気にはなれないだろう。
(サレンダー。一敗は一敗だけど、またサレンダーできるようになる。いや、でも待て! 相手が20なら、バーストする確率はずっと低い)
 希望的観測。そう思わざるを得ない。せめて引き分けに持ち込みたい。だがその道は随分と棘が生えている気がしてならない。

(あれ。……待って。そういえば)

 聡美は、不意に気づいた。このゲーム、千雨は一回もデッキに触らない。ディーラーは聡美で、ヒットすることなくスタンドした。
 この状況において、イカサマをする余地はない。千雨の手は、根っからその運任せの手札でしかないはずだ。

(じゃあ、勝てる可能性のある……ゲームだ)
 イカサマをされたら、勝ち目はない。どんな勝てると思っていてもひっくり返される。だが、この状況。このゲームだけはその法則から逃れられる。それは、光明に感じられた。とりあえず一勝。そうだ。よく考えればたかが二敗。ここで一勝すればすぐ手が届くじゃないか。

「ヒット」

 バーストの危険性すら忘れ、聡美はカードを引いた。それでも、流石に心臓は震えた。6。18の手だ。バーストではないが、あまり強くもない。だがイカサマがないなら、千雨が弱い手である可能性も十分ある。
(落ち着け。落ち着け。ここで……もし負けても、サレンダーしたときと同じ負け数だ。それに、ここで勝てば)
 届く。この、余裕こいた女の心臓に、槍が届く。

 息が荒い。だが、突然目が覚まされたような気分だった。落ち着けと祈る気持ちも、表面が融け始めたように滑らかだった。
 その時、不意に千雨が口を開いた。

「なあ、聡美」
「……はい」
「なんかちょっと可哀想になってきた」

 舐めたことを、頬杖をついて自分の手を見ながら、千雨は言った。

「イカサマなんてしてねえし、しねーよ。つーかよ、あんた空回りすぎだよ」


 嘘だ。
 嘘だ。
 嘘だ。
 震える声で、泣きそうになって、聡美は言った。
「サ、レン、ダー」
 千雨はカードを投げた。Aと4。――15だった。
「嘘つき」


 ――第五戦(0・3)

(認める)
 台に突っ伏して目を閉じたくなる気持ちを必死で押し殺して、聡美はパーフェクトシャッフルを追った。
(迂闊で、自信過剰で、莫迦なのは、私だ。友達を危険に晒して、利己的な知識欲に引っ張られて、怒りを鵜呑みにして。ごめんなさい。ごめん、なさい、超さん)
 事ここに来て、認めるしかないのは解っていたが、それでも目は逸らしたかった。だが、そんな気持ちと関係ない領域で、この長谷川千雨の姿をした人間は、聡美の計算能力など遥かに超えた心理の部分で、聡美を遥かに上回っている。

(そうだ。……考えてもみればいい。この、パーフェクトシャッフル。随分と慣れた手つきで、熟練者を想起させる。でも、別にカード捌きを他に見せたわけじゃない。これくらい器用な人なら一晩あったら会得できるだろう)

(いや、それに冷静に考えてシャッフルなんてリフルと、オーバーハンドかヒンズーを組み合わせてやるものだ。……私は不器用だからヒンズーしかできないけど。でも、これみよがしにオープンハンドのリフルシャッフルで、しかもパーフェクトだけなんて、私に計算してって言ってるようなものだ。或いは、それもイカサマの伏線かとも思った。でも、違う)

(イカサマをしないという伏線だったんだ)

(最初のダブルダウン。それに三ゲーム目もそうだ。ダブルダウンを出された時点で、私は降りるしかないと思わされた。イカサマがあるなら、二敗は惜しいと思った。違う。手がよくないから、勝負したくなかったんだ。だからダブルダウンと言った。私が降りるのを見越して)

(私のことを碌に知らずなんて冗談じゃない。気持ち悪いくらい、私の性格を見抜いてる。猜疑心を利用された。私がカードの並びを計算できることも気づいているだろう)

(そもそも、最初に考えたじゃないか。イカサマを使うなら最後。つまり、最後の最後にイカサマを使って、パターンを崩すことで勝ち逃げする。イカサマをしない伏線だったと私が気づくのも計算のうち。逆に言えば、私が勝ちそうな時はそれを使うことはない。例えば、私がある程度のカードの所在を掴んでいる、相手ディーラーの時。さっき気づいたように、私がディーラーの時も、イカサマをするタイミングさえ消してしまえば勝ちは計算できる)

(イカサマがないとするなら、明らかに私の方が有利だ。きっと……確信ではないけど、私のようにカードの位置を一々考えてはいないはずだ。追えて、数枚。それも私ほどは精度は高くないはず。三敗は忘れろ。……勝ちを取り戻す)

「オイ聡美。カットどうすんだよ」
「……」
 判明してる並びは、6 4 * 7 * * A * 3 * * 2 *。10 J Q Kの全てが解らず、残るも5 8 9と大き目のものが揃っている。できるなら、四枚をカットしてAと、できれば10が欲しい。そうすればナチュラル21。二勝分だ。仮に5でも3を引けば、19と高い手。悪くはない。
 だが――。

(これ、12枚カットしたら)

 聡美には、* 4。千雨には6 *。何が来ても、互いにヒットするだろう。そして、聡美は決して悪い手ではない。もしかしたら最初に十が来れば、ヒットするカードは7。ブラックジャックだ。それでも四枚カットしたときのナチュラル21の魅力には敵わない。
 だが。

(もしかして、これは、ダブルダウンしてくるかもしれない)

 千雨が、もし、最初に10を引いたら。16。仮にヒットしたところで、救われるのは5のみ。残りはバーストだ。今までの千雨なら、間違いなくダブルダウンしてくる。もしかしたら8を引いても、ダブルダウンを選択するかもしれない。千雨にとってダブルダウンは、場を逃れるためのリスクゼロの手段だ。それどころか相手のサレンダーを稼げるのだ。積極的にダブルダウンが行われる確率は低くない。聡美ですらブラフと解っていても、どこかにイカサマの疑いを持つのだ。サレンダーしないのは恐いだろう。

(でも、私の手が21になるのがわかっていたら?)

 聡美も、ダブルダウンを行う。宣言後はサレンダーできない。千雨にとっては後の祭りということだ。そして聡美は7を引く。まず最初に10を引くことが前提ではあったが、そうでなかったのならサレンダーすればいいだけの話だ。

(四勝)

 たった1ゲームで、四勝。リスクは、得られるかもしれないナチュラル21の放棄とサレンダー一回分。それは、笑ってしまうくらい魅力的な話に思えた。

(落ち着け。考えろ……見落としは、どこかにあるか?)
 ない。少なくとも見つからない
「おい、聡美。カット」
「……12枚で、お願いします」
「12!? 多いな……」

 やれやれと首を傾げて、千雨は一番下のカードを一番上にし、デッキを中央に置こうとして、身を乗り出して手を差し出した聡美を見上げた。

「……なんだよ」
「私が配ります。……いや、そもそもこのシステム。カットはプレイヤーがやるべきものでした。でも、まあ、今はいいです。配るのくらい、私がやります」
「……あア? あんた、いくらなんでも」
「ダメなんですか」

 なら勝負を反故にしてもいい、という意思を篭めて言えば、千雨は首を小さく振り、溜息と共にデッキを聡美に手渡した。

「何もしねーつったのに」
「一応、です」

 悟られるな、と神にすら祈りながら、聡美はデッキを台の中央に置いた。僅か13枚の薄いデッキ。出来る限り、最大限自然に見えるように自分からカードを配り、ゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろす。
 二枚のカードが、まだ伏せられている。千雨を覗けば、その表情はポーカーフェイス。10を引いてしまえば、全ては台無しだ。それがまず賭けの一つ。それに、もう一つ。
 来い。

(来い)

 来い。

(来いっ!)

 一枚目は、4。そしてもう一枚は。
 J。
 思わず、台の下で足を踏ん張った。小躍りするのを堪えたのだ。賭けに一つ勝った。14。次は7だ。勝った。間違いなく勝った。そして、もう一つの賭け。もしダブルダウンをかけてこなくても、少なくとも一勝。いや、サレンダーされたところで勝利の気分は揺るがないだろう。傷一つつけられなかったこの女に、一矢報いるのは間違いないのだから。それでも、四勝の魅力の前に全ては霞んだ。
 勝てる。
 千雨の顔を見ると、そのポーカーフェイスも解体できる気がした。渋面、無表情なのにそう見えた。どうしようもなく弛む頬を見せまいとカードで顔を隠し、その時、小さく千雨が呟いた。

「ダブルダウン」
「っ!」

 笑いを堪えられるものか。勝ちが決まったわけではない。まだまだこれから。この女はまだ何か隠しているだろう。最後にはイカサマも披露するだろう。
 だが、散々やりたい放題やられた後で、一気にひっくり返してやるのは溜飲が下がるだろう。この女の済ました顔が歪むのを考えるだけで、笑いは堪えられない。

「ダブルダウン!」

 千雨が目を丸くして、聡美を見た。ザマあみろ。これで四勝だ。聡美はデッキの上から勢いよく一枚とって、
 ――笑顔を凍りつかせた。

 千雨が、散らばったデッキの一番上のカードをゆっくりと捲った。K。手の中のカードは、5 6。
「ブラックジャックだ、聡美」
「え……? なんですか、これ……」
 聡美の手の中から、カードが零れ落ちた。4 J そして9。23。

「え、なんで……嘘?」
「嘘じゃない」
「どうして。……そんな、だって」
 千雨は嘆息し、一度天井を仰いだ。

「これで、七勝。……あんたの負けだよ。聡美」

「どうして……イカサマじゃ、ないですか?! ありえない……いつ、どうやって。私の手札を!? だって……嘘だ……嘘です……」
 千雨がゆっくりと腰を下ろすのを、どこか遠いもののように感じながら聡美は見ていた。だらりと聡美の手が力を失い、頭の中は白いぱちぱちしたもので覆われた。
「……どうして、しないはずなのに……イカサマなんて……最後じゃないと。私が、ダブルダウンするかなんて……どうして。数え間違い……計算違い……カードを回収するときに見誤った!? でも。そんなの」
「聡美」


 ――(0・7)

「あんたの負けだ」
「嘘です! こんなの……イカサマじゃないですかっ! 無効です! そんなのっ!」
「何を以って、イカサマだっつってんだよ? カードの数も枚数も変わってない。まさか、あんたの記憶と違うからイカサマだなんて言うつもりか?」
「それは……っ!」

 間違いない。カードの順番を入れ替えられた。それは間違いない。シャッフルのときか、それともカットの時か。だが、本人すらそれが何か知らないで、カードの順番を変えただけ。それはシャッフルといえばシャッフルだったし、カットの一環と言われればそれまでだ。聡美が、勝手に勘違いしてただけ。
 聡美の顔が青ざめる。それは解っていた。だからこそ、イカサマは最後に持ってくると踏んでいたのだ。一回だけ、聡美の計算を逸脱してくるとわかっていたのだ。

「座れよ、聡美」
「……」
 首を振って、聡美は後ずさった。超鈴音が、親友にして理解者がどれほどの覚悟とリスクを背負ってこの時代にいるかを、聡美は誰よりもよく知っていた。
 裏切れない。自分の莫迦な行動のせいで、彼女の目的が押し潰されることなど、絶対にありえてはならない。
「座れって。座れ!」
「嫌です! 話せない!」

 そうだ。話せない。どんな自業自得だとしても、それで超に迷惑をかけることだけは、ダメだ。あの優しい未来人を、その思いを挫けさせるのだけは。
(ごめんなさい。莫迦な真似しました。……責任の取り方は、心得てます)
 聡美は、躊躇わなかった。窓に駆け寄り、下に落ちたプラスチックのブラインドを踏みつけ、窓を開け、縁に腰掛けた。

「ごめんなさい……」
「いいいっ!? っちょ、ちょ待てっ! わ、解った解った待てっ!」
「……」
 五階。痛みはないことを聡美は知っていた。そこだけは妙な合理性をもってして、聡美はゆっくりと後ろに倒れた。

「ま、待ったーッ!」

 その瞬間、突撃してきた千雨が聡美の腰にぶつかりながら抱きとめた。無理やり引っ張ったせいで聡美は後頭部を窓枠にぶつけ尻も床にぶつけて涙目になったが、それは研究室の内側だった。

「いったっ……! 放して下さいっ! くっ!」

 魔法でもかけられると思ったのか、極基本的な魔法封じ……術者の口に手を突っ込むという手段に出た聡美の手を避け、後ずさり、千雨は両手を上げた。

「待った! 待て! もう聞かねえよ! 超はどうでもいい! だから落ち着け!」
「信じられる要素が……!」
「よ、よしネタバレだ! 私今杖持ってねえから魔法使えない! よしいい子だ。いいから窓から離れろ! な!? そ、そうだそれにあんたにここで死なれたらマズイだろ!? な! 利害一致するだろ!?」
「……ふざけないでください……情報が欲しいと言って侵入してきた人が今更何を!」
「いや……あークソ。どいつもこいつも面倒くせえし重てえ。……人の事言えないがな」

 吐き捨てるようにそう呟き、千雨は親指で背後を指した。

「情報はどうでもいい。……私が勝ったんだ。あれ一体寄越せと言いたかった」

 聡美は、その指す先を訝しげに見た。部屋の片隅に並んでいる三つの人影。それらは全て大きさは違うが、顔立ちや雰囲気。そして物言わぬ人形でしかないということは同じだった。

「茶々丸のボディを……ですか?」
「ああ。安いもんだろ。あんたの命とか、超の情報に比べりゃ」
「それは……」

 まあ、実際の値段としてはそれこそ天文的なレベルなわけだが、確かにそうは思えた。超を裏切ることよりは、聡美にとっては遥かに安上がりに思える。

「二号機がいいな。茶々丸さんの姉」
「……言っておきますが、AIはインストールされてませんよ」
「知ってる。ボディだけでいいぜ?」
「それだけじゃありません。それは、確かに、負けたのは確かですし。欲しいというならあげますけど、メンテナンスまでする義理はありませんし。そもそもあのボディは茶々丸の三号機とはコンセプトが違って電子戦使用で魔法使いの戦闘には向きませんし」
「……それは知らなかったな。カブってんな。……が、かまわねえよ。未来人舐めんな。メンテ位自分でなんとかする」
「……」

 負けたのは確か。しかも一矢報いることすらなく。それは聡美の気分を落ち込ませたが、超を裏切らずに済むというなら随分と気は楽だった。茶々丸のボディも惜しいが、それでも研究価値はそれほどない。
 それに。
 聡美は、ずるずると立ち上がって、一度振り返った。停電で明かりのない麻帆良の街が見下ろせた。
「おい!」
「わかりました」
「……」

 また、聡美は泣きたくなった。
 必死だった。きっと、長谷川千雨がしただろうように。
 この女は、必死で聡美が死ぬのを止めた。

「二号機を、あげます」

 千雨の、ほっとした安堵の溜息が聞こえた。


 千雨が窓を閉め、鍵までかけて。ようやく部屋に電気が点いた。
「電源チェック、動体チェック終わりました。グリーンです。どうぞ、持って行ってください」
 端末に流れる情報を眺めながら険のある声で聡美が言うと、千雨は呆れたように笑った。

「何キロあると思ってんだよ。持ち歩けるか」
「……AIは提供しないと言いましたけど」
 茶々丸二号機は、三対の内の真ん中。左右二体、それに茶々丸本体と比べて小柄だった。肩ほどの髪に、目は少し吊り気味。そして戦闘は本当に度外視しているのだ。体の触感が茶々丸よりも人間に近い。それでもいくらかの人造臭さは拭えていないが、装甲がないというだけでロボットというイメージは大分薄れている。
「どうするんですか」

 茶々丸のAIは膨大な容量だ。DVD程度の記憶媒体じゃとても持ち歩ける量にならない。そして千雨はどう見ても鞄の一つも持たない制服姿でしかなく、どこかから持ってきたAIを組み込む気ならネットを経由するしかない。だが、当然研究室はスタンドアロンになっている。
 もしそうする気なら、思い切り莫迦にしてやろうと聡美は思った。

「あ、端末貸してくれ。あと、魔力系のデバイスあるか? 直接術者から読み取れる奴。ついでに魔法の発動基もあるといいな。子供用の奴とかでいいから」
「……注文、多いですね」
「ついでにこの端末、言語何使える? デコーダは?」
「……」
 魔法界でポピュラーな言語と、人間界の言語の名を挙げると、気をよくしたようで千雨は地面に座り込み、楽しそうにキーボードを叩き始めた。
 何を組む気なのか。そもそも今からプログラミングしていつ終わる気なのかも気になったが、聡美は超のデスクの上を探した。どうせあるだろう。すぐに見つかった。千雨の注文したとおりの魔力系デバイスと、子供用の杖だった。

(……超さん、ちょっと恐いです)
「おい、まだか?」
「はい。見つかりました。って」

 よしよし、とUSBにデバイスを繋げ、もう一度キーボードを叩き、千雨は眼帯型の魔力情報抽出デバイスを左目に装着した。目を吸盤のようなものがすっぽりと覆い隠すような形になっており、これは先端以上に魔力の伝達効率のいい眼球を使うためのものだった。

「もう、プログラム終わったんですか?」
「いや、デバッグがまだだ」
「早い……ですね」
「簡単な奴だからな。データの解凍とAIの基礎データへの移動だけだし」
「それでも」
「ラッキー。バグなし。……よし。とりあえず一回」

 千雨は、子供用の小さな杖を握り締めた。

「プラクテ・ビギ・ナル。アーカイブ『test-1』解放」
 ガクッと、ボディの前で座る千雨の頭が揺れた。すぐさま端末には情報が踊った。「テスト成功」のテキストがクルクルと踊っている。
「結構衝撃あるな。つーか転送早っ」
「な」

 聡美には、千雨が何をしているのかが見当ついた。ついてほしくもなかったが、解った。脳に電子データを圧縮して放り込んである。脳髄を記憶媒体代わり。HD扱いするという手を使ったのだ。

「何て真似を……! 危険なのが解らないんですか!」
「いや、解ってるけど。あんたに言われたかないな」
「はい!? こんな非人道的なこと、しませんし、させません! ……まさか、生体の脳にAIを書き込むなんて! 脳組織にどれだけダメージが行くと思っているんですか!?」
「魔力処理だからそれほどでもねえよ。ちょっと離れてろ。今度はデカいデータだからな。エグいぜ」
「千雨さっ……!」

 千雨ではない。長谷川千雨ではない。それを思い出して、聡美はようやく千雨から離れた。心配する義理もない。だが、苦悶の表情で聡美はぎゅっと自分の手を握り締めた。
 千雨が、大きく息を吸った。胡坐をかき、頭を体の内に巻き込むようにして、ノートを脇に避け、体の中心で杖を握り締めた。
「フゥー」
 一拍。
「プラクテ・ビギ・ナル。アーカイブ連番『T-TA』解放(エーミッタム)」

 一瞬、目を焼くような強烈な魔力光が研究室内を覆った。千雨の上半身が、崩れる。咄嗟に聡美は千雨に駆け寄って、その上半身を支えたその時、人間の発する音とも思えない凄まじい悲鳴が響いた。

「あああああああああああああぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁああああああああああああああああああああああああああああぁぁああああああああああああああああああっ!」
「千雨さん! 千雨さん!」
「つっ……ああああ。あー」
「大丈夫ですか!? ああ、もう。何てことを!」
「いてー。……マジ痛いな、これ。でもすっきりしたー」
「何がスッキリですか!」

 今の一瞬で、10テラを越える情報が転送された。だがそんな機能はヒトの脳には備わっていない。無茶の負担は、行き場をなくしそのまま脳にダメージとして残るだろう。ほとんど無意識の内に、聡美は千雨の体の反射を確かめた。言語、視野、記憶。どこに障害が発生するか検討もつかない。少なくとも奇跡的に体の反射に影響はないようだった。それとも、余程考えたシステムが未来にはあるのだろうか。

(いや、そんなはずない。こんな危険なこと、超さんがしてるの見たことがない)

「あー、エラー出てねえな。良かった。それだけは心配でな」

 呟いて、ふと気づいたように千雨と聡美の目が合った。聡美は、睨みつけてから千雨の体から離れた。そのまま背を向け、窓へと近寄る。千雨の心配したような目が、自分を追っているのがわかった。

「インストールには……ま、一時間はかかるか。どっかのCPU使えないか?」
「予め言ってくれれば……」
「仕方ないな。さて。一時間暇になったわけだが」

 冗談じゃない。窓に手を置いたまま、聡美は思った。こんな狂人と一時間も一緒なんてぞっとしない。超が背負ったリスクを聞いたときは素直に超に同情し、尊敬したが、この女の負ったリスクは逆に気持ちが悪いと思えるようなものだ。感情が否定した。
 まだ、自分を気にしている。気づかれないようにそっとだが、視線が自分の背を向いていることを聡美は気づいた。腹立ち紛れに、聡美は窓の鍵に手を伸ばした。慌てて千雨が立ち上がる気配がした。すぐさま、手を離す。そのまま、強化ガラスに拳をたたきつけた。びくともしないが、研究室にまでその振動が伝わるようだった。

「一つ、聞いてもいいですか」
「嘘つきでよければ」

 散々嘘つき呼ばわりしたのは聡美だが、そういう返しは子供っぽいと思った。

「長谷川……千雨さん。どうしたんですか」
「……」

 聞きたいことは伝わったろう。なのに口篭った気配に、聡美は唇を噛み締め、目を硬く閉じた。

「殺した」

 その答えを予想してはいたが、到底飲み込めるようなものではなかった。
 この女が必死に聡美の飛び降りを止めようとした顔と、脳髄から電子データを引きずり出したときの苦悶の表情が脳裏にフラッシュバックする。顔だけはそっくりな女。なのに中身は。中身も。

「なぜ」
「必要だったから」
「なんの」
「私の目的に」
「目的っ、何の目的ですか!」
「……」
「千雨さんを殺して……それで、なんですか。何するんですか! 千雨さんが死んだ理由はなんなんです?!」
「泣くなよ。何で泣くんだよ」
「泣きますよ! だって千雨さんが殺されたんですよ!? あなたに!」
「だから、なんだよ! 友達だったってか!? そいつはご愁傷様だ! だが保障してやるぜ! 長谷川千雨はあんたのことを友達だなんて思っちゃいなかったね!」
「解ってますよ! 知ってます。友達だなんて思われてると思わないし、思ったこともないけど! でも、クラスメートだったんですよ!? 小学校の頃から、ずっと!」
「……それは、けどな」
「けど!? けどなんですか。千雨さんに殺されていい理由があったんですか?! あなたなんかに理不尽に命を奪われる理由があったんですか!?」
「……――ああ、あったよ。あの女はトンだクソ女だったから殺したんだよ! 喜べよ葉加瀬、トンだクソ野郎が世界から一人消えたんだ!」
「なんですか。何でそんなこというんですか! よく知らないですよ! 千雨さんのこと、よく知らないですけど! でも、覚えてるんですよっ! いつも冷めてて、クールで、大人びてて。一歩引いてて誘ってもついてこない! でも、どうしようもなくなった時は嫌そうだけど付き合ってくれて……覚えてるんですよっ!」
「うるせえよ! 知るかよもう遅せーよ知った事かよ!」
「なんで、千雨さんの真似するんですか! やめてください! 殺しといてっ、千雨さんみたいにっ!」

 涙も、泣き顔も隠そうともしない聡美から千雨は顔を逸らした。聡美のしゃくり上げる声から、耳も隠したかったかもしれない。
 嫌だった。聡美は、嫌だった。千雨が憎ませてくれないのが嫌だった。憎たらしい顔して、偉そうでわかったようなことを言って、なのに長谷川千雨みたいなのが嫌だった。

「千雨さんじゃないんでしょう……千雨さんじゃないじゃないですか。なら誰なんですかあなた……なんで千雨さんみたいなんですか」
「……長谷川千雨じゃねえ。それだけは確かだよ」
「ならやめてください……千雨さんみたくしなければいいじゃないですか」

 知るか、と千雨は毒づいた。長谷川千雨がどんな奴かもわからないのに、とも。
 しばし、そこから沈黙が過ぎた。それ以上の反論を千雨が持たなかったのかもしれないし、或いは涙を流す聡美にかける言葉がなかったのかもしれない。
 沈黙を破る役目を担ったのは、聡美だった。涙声で、なのに毅然と言った。

「いつか、観測者の話をしましたね。歴史の傍観者。タイムスリッパーの話」
「……」
「あなたに言っても、釈迦に説法ですけど。一応言っておきます。タイムスリッパーが歴史を変える。直接的に自分の母親を殺す。或いは、遠因を作って先祖が死んでしまう。なのに航時機を使った本人はそこに存在する。この極単純なタイムパラドクスはどう処理されると思いますか?」
「……」
「もちろん、ご存知ですよね。観測者は独立している。変わることはない。ただ歴史は変わる。その時点で、観測者は未来に戻ってもいなかったことにされているんです。存在が初めからなかったように、確かにそこに生きているのに、その全ては失われるんです」
「……」
「超さんが背負っているのはそういうリスクです。あれほど望んだ幸せな未来の中に、自分は存在しないというリスク」
「……」
「私には、この二つだけです。千雨さんが殺されたことと、超さんが背負ったもの。たった二つですが、十分です」
「……」
「あなたが、脳に負担をかけ、千雨さんを殺してまで何を為したいのか知りません。ですが、それを私はこの二つだけで否定してみせます。
 勝負してください。もう一度、1/4ブラックジャックで。そして私が勝ったら、あなたが誰で、何を背負っているのかを話してもらいます。その上で、あなたを、あなたの理由を、全て完膚なきまでに否定します!」

「は、ハハ。だからヤだったんだよ。あんたに会うのは。なんだよ。そんなに否定したいのかよ。挫かせたいのかよ、私を。
 ……いいぜ。いいぜ、葉加瀬。否定しろよ、葉加瀬。私が今生きてる理由の全てを否定して、見事私を壊して見せろよ葉加瀬ェっ!」


 ――第六戦(0・0)

 パーフェクトシャッフルの瞬間、聡美が目を閉じるとすぐさま千雨はヒンズーシャッフルに切り替えた。やはりか、その手付きは聡美よりはずっとましではあったが、どうにもぎこちなさは残っていた。

「曖昧だったルールを決めさせてもらいます」
「……宣言とカット」
「……っ。はい。カットはプレイヤー側が。宣言は自分の手番に行うこと」

 言い当てられたことが、まだ千雨の余裕だと感じられて聡美は腰を浮かしかけた。だが、それこそがあの屈辱の四敗の要因だった。
 あの場、先に札を引く聡美こそがダブルダウンを宣言する場であった。それを先んじたのが千雨。それは聡美の思惑通りで望んだものだったが、それこそが千雨の計略。まんまと聡美はダブルダウンを宣言させられた。
 イカサマにしたって、先にダブルダウンを連呼したのも仕込んでいるのはドローのとき、と思い込まされたのが最後で7を引けなかった遠因だ。仕込んだのはシャッフルではない。カットのとき。カットの枚数を聡美に決めさせたところで、それを千雨がしている時点でそれはなんのイカサマの防止にもなっていない。

「なら私も条件を出させてもらう。……私が勝ったら、私のものになれ。超を裏切ってもらう。自責の念で死ぬことすら許しはしないぜ? 友達を裏切り続けて、苦しめ」
「……わかりました」

 この再戦も、やはり千雨に心理掌握されているからだろうか。最初からこの再戦こそが千雨の狙いだったら、お笑いだ。だが、構うものかと聡美は思った。それがどうした。

「ほら、カットだ」
「はい」
 デッキを受け取って、七枚目で聡美はカットした。中央に戻し、千雨からカードを配る。二枚。カードを起こした。7 9。16。千雨はヒット。正直、分の悪い賭け。デッキの下の数字が既に集中しているような気がした。
 それでも、もう折れない。聡美は思った。私はもう折れない。
 どれだけ負けても、この女には。

「折れてやるもんですか!」

 ヒット。5。聡美はガッツポーズした。


 ――第七戦(1・0)

「悪い、ブラックジャックだ」

 一瞬、呆然とした。二戦目のナチュラル21の焼き直し。何故、自分の手に来ないのかと嘆きたい気分になったし、勝利の余韻も一瞬ですっ飛ばされた。
 だが、それ以上に腹が立って、聡美は歯を食い縛った。

「何が……悪いですか」
「……あ?」

 千雨は、何を言われているか把握しかねているようだった。聡美は歯を食い縛ったまま、千雨を睨み、立ち上がった。

「いい加減にしてください」
「ア? 何がだよ」
「いい加減、本気になってください」
「はアっ!?」

 千雨もまた、強い視線を返した。鬼眼。敵意の塊。普段なら、それだけで聡美は慄くほどの恐ろしい目の光の強さ。だが、それが一つも気にならなかった。千雨の視線など、だからなんだと思った。

「本気だあ? ザケんな葉加瀬。そんなの、あんたに言われたくねえよ」
「なら悪いとか言ってんじゃないですよっ!」
「それはっ。……言葉の綾だ」
「嘘つき! なんで嘘つくんですか……いい加減にしてくださいよ! 私を見て……あなたの敵は、あなたの目の前にいるんですよ!」
「だからっ、本気だっつってんだろう!? それはこっちの台詞だ! どいつもこいつも余裕だの大人だの。こっちにそんな余裕なんざあるわけねーだろ!?」
「なら、なんで遠く見てるんですか。目の前も見ずに、遠く見てるんですか! ふざけてるのはそっちの方です。本気、本気って。一番本気じゃないのは、あなたでしょう!?」



◆◆◆



 ふざけんな。口の中で呟く。ふざけんな。私は、こんなに本気なのに。
 自分の意が介されない苦しさ。その評価の理不尽。認識の乖離。怒りは最早血管を沸騰させ、なのに捌け口がなくて傷口を探している。悔しさのあまり目尻に涙が浮かんだが、それを処理する方法の一つも千雨には思い浮かばなかった。

「ザケンな。本気も出せねえのは、テメーらだろ……私を見もしねえのは、テメーらだろ」
「ならあなたは私を見てるんですか!?」
「それ、はっ!」
「本気で見てくださいよ。命を賭けたんです。本気で向き合ってくださいよっ!」


 ――第八戦(1・2)

 もう手は尽きている。あの最後の四勝をもぎとる戦略だけを千雨は組み立てて来たのだ。残るはただの千雨の運だけしかない。千雨はカードを開いた。10 J。

「私の向こうに何を見てるのか知りません。知らないけど、目の前にいる私に本気にもなれない人に私は、絶対に負けませんから!」
「ふざけっ……! 言ってろよ莫迦! それで、勝てるなら、世の中なんてもっと良くなってるんだ!」

 本気で、必死で生きた連中すら報われない世の中なのに。いい奴が。頑張ってきた奴も報われないのに。それが報われるような世界を、千雨がどれだけ欲しただろうか。誰もがどれだけ欲したのだろうか。

「そう言って、本気にならないんだ……その程度のこと、免罪符にして目を逸らしてるんだ……!」
「煩い! 何がわかる! 天才だのおだてられて、何不自由なく生きてきた女が何をわかったようなこと言ってんだよ!」
「解ったようなこといって、何も解ってないのはそっちじゃないですか! そんな口に出しただけのような理屈に縋って、本気も出さないで生きてきた人が!」
「もう言うなよ! 本気だよ! 本気で、私はそうだったんだよ! 何でそんなこと言うんだよ! どうすりゃ良かったんだよ!?」
「こうです……これが、莫迦で迂闊で自信過剰な私にできる、最大限の本気です」

 聡美の手はQ K。
 カードを回収することなく、聡美が歯を食い縛るのが千雨にも見えた。エナメルが軋み、もしかしたら歯茎から血さえ流して、聡美はデッキの一番上を開いた。
 A。

「っけんな! そんなの、本気なんかじゃねえ。ただの蛮勇で無謀だ!」
「でも、私の勝ちです! これが、私の本気です!」


 ――第九戦(2・2)
 ――第十戦(3・2)
 ――第十一戦(4・2)
 ――第十二戦(5・2)

「よしっ!」

 四連敗。呆然として千雨はカードを落とした。磐石の条件が、何度も覆されている。12からの、既に二枚は10が出てる状況でのバースト。運がない、と断ずることもできなかったわけではない。嫌いな考え方ではあるが、ツキ、流れがあっちに行っていると言えることもできた。

(それだけか?)

 学園長の、明日菜の、エヴァンジェリンの。そしてネギの虚像が光で結ばれていき、最後に聡美を象った。息が荒い。鳩尾にあった腐ったオレンジが、ついに口から落ちてきそうだ。
 聡美がじっと自分の目を見ている。修羅場を潜りぬけ、ようやく得た目の強さが、まったく通用しない。それとも、弱くなっているのか。それどころか聡美の目に気圧されてすらいた。恐い。エヴァンジェリンに襲われたときより、明日菜が膂力を発揮した時より、ずっと恐い。

「本当は、超さんのことで散々詰ってやろうと思ってました。超さんは間違っているのに、どれだけ間違っていても構わないと思っているのか、とか。超さんが悪なのに、どれだけ優しさを保っているのか、とか。
 でも、やめます。それは、あなたに届かないんでしょう」

 聡美はカードを集め、デッキにすると千雨に渡してきた。千雨はそれを惰性的にシャッフルしようとして、一度床にばら撒いた。今となっては聡美よりも余程不器用だったろう。

「頭の中はぐちゃぐちゃで、言いたいことばかりで。でも、何を言ってもあなたには届かないのかもしれない。ちくちく針で突いても、痛いけど、だから何って思います。あなたには届いていないんだと思います。
 私は、何を言えばあなたに届きますか? 何を言えば、あなたの心をスレッジハンマーでぐちゃっとできますか?」
「クソ女……なんで、そんなことするんだよ……」
「何を言えばいいんだろう。何を言えば、あなたの残りの一生をずっと不幸にできるんだろう。論理性が滑落した今の私の脳みそでも、あと少しでそれに手が届く気がする」

 震える手で、千雨はカードを配った。17と、18。

「これでリーチです。……そろそろ、終わりましょう」


 ――第十三戦(6・2)

「なんでだ……なんで勝てねえんだよ?!」

 本気で戦って、だからどうなることなんてない。そんなこと解っていたはずなのに、千雨は今まで対した人々が自分に対し本気でないことに腹を立てていた。手段を区切り、千雨に手心を加えた明日菜に噛み付いた。千雨すら見ないエヴァンジェリンに苛立った。
 解ってる。本気で、だからなんだ。それが通じるのはごく一部の世界だけだ。本気の素人は手を抜いた玄人に勝てない。まして、本気であってもそれが何かになるわけでもない。

「私が、本気だからです」
「ちげえだろ?! 運が良かっただけだろ!?」
「本気になれもしない人が何か為せるなんて本当に思ってるんですか?!」

 辛い。
 いつの間にか間違っていた自分を直視させられるのが辛くて、それを聡美に言われるのが何より辛かった。
 胸が裂けて、叫び声がどこかに飛んでいきそうだった。
 辛いことがあった。それは、千雨にだけじゃない。何処を見ても、世の中は不幸ばかりで、報われるべき人が報われない世界が今も続いている。結局、千雨はそれをどうにかしたかったのだ。世界をどうにかしたいなんて、大それたことではない。近くにいた、報われなかった人たちが救われれば、それでよかったのだ。

「だって、世の中は辛いじゃねーか」

 辛いことばかりで。友達は死んで、戦友は裏切って。好きな人と又会うことは敵わず、悪名を負って何かを守ろうとした人は民衆に嬲り殺され。幸せになるべき人はなれなくて。人のいい人間が不幸にされて、狡くて悪い奴らばっかり金と友達を持っている。
 千雨は、三年の旅を続けて、最後にそれを知った。だから、せめて3-Aの奴らだけでもと、願ってしまった。それを気づかせたのは、葉加瀬聡美だった。いい奴らだったのだ。たった一人を除いて。
 エヴァンジェリンも、超も、聡美も。悪だった。刹那や木乃香、ハルナも悪を使った。
 千雨の大嫌いな明日菜は、底抜けの善人だった。嫌味なくらいに突き抜けた善人だった。
 それでも、奴らはいい奴らだった。思い返せば、ほんの僅かな間の繋がり。でも、いくらでも思い出せる思い出。笑うバカども。でもバカなのはいいことだ。
 最初から最後まで、薄汚いままで終わったのは、千雨だけだった。

「辛いから、逃げるんですか」
「逃げてない……ただ負けただけだ」
「さあ、最後のカットです」

 デッキを渡してくる聡美を、自信過剰だと詰る気にもなれなかった。最後にしたいと、千雨も思ったのだ。こんなことは、最後にしよう。
 心を針が貫いていた。エヴァンジェリンの言ったとおりだ。エヴァンジェリンの言葉なんて、罵倒でもなんでもない。自分を強く憎む人間といるのがこんなに辛いことだなんて、千雨は思いもしなかった。
 長谷川千雨を殺したことを、責められたのは初めてだった。友達でもなんでもない、ただのクラスメートの葉加瀬聡美の言葉が、心を突き刺していた。いや、千雨が千雨だからこんなに痛むのだろうか。長谷川千雨は、聡美が自分のことを覚えているなんて思っても見なかっただろう。
 千雨は、カットして、デッキからカードを機械的に配った。それを確認すらせず、聡美がカードを表返した。ナチュラル21のことが脳裏に過ったが、そうではなかった。10とKの20。

「スタンドです」
「……」

 のろのろと、千雨は手札を見た。7 8。15で、咄嗟に一枚ドローする。
 5。

「……」

 生き延びた。だがそれを自分でも望んでいるのかは微妙なところだ。早く楽になりたい。チャムの助けを得て、未来に帰る。もう既に歴史は変わってしまったが、それでもまだ大して変わってはいないだろう。もしタイムパラドクスが起きていても、自分の居場所がいないことなどこの世界も大して変わらないだろう。
 半ば惰性的に、千雨はカードを裏返した。聡美がその数字をじっと見つめる。そして、カードをかき集めようとする千雨の手首を掴んだ。

「……なんだよ」
「わかった。解りました。あなたに、なんて言えば届くのかが、解りました」

 届く。まだ届いていないとでも思ったのか。それは勘違いだ。既に十分すぎるほど否定された。だが、どうしようもないくらい強い目をした聡美から、千雨は顔も逸らすことができない。

「がんばってください」
「……は?」
「がんばりなさい……がんばればいい。がんばれっ。がんばれっ!」
「ふざ……けんなよっ。がんばってないとでも、思ってんのかよっ!」
「多分そうです。解ってます、多分そうなんでしょう。がんばってるんでしょうね。でも、それでも、がんばればいいじゃないですか!」
「がんばって、それでどうにかならないから!」
「それでも! いつか、がんばって、何かになるかもしれないでしょう!? がんばらないから、千雨さんを殺して……なのにそんなに中途半端で!」

 聡美の目から涙が零れ落ちる。自分を消し飛ばすほど、それは正しく、美しくて。いつの間にか、千雨は自分の歯の根が噛みあわないことに気づいた。

「せめてっ! がんばりなさいよ! 歯を食いしばって、がんばってよ――」

 その時、遠く、随分と遠くにあるように思えた端末がピープ音を発した。千雨は、咄嗟にそちらに目をやった。インストール完了。それと共に動画が突然再生され始めた。声が重なる。

『「長谷川千雨っ!」』



◆◆◆



「ばーか。そういうのは私じゃねえだろ。先生とか、近衛に言えよ」
「いや木乃香さんに狙われてるんで、木乃香さんが助けに来るのは変じゃないですかねー」
「そういや、ウチのクラス出身の2.5人組の正義の味方がいたろ。ならあいつらだ」
「いえいえ。是非千雨さんにお願いしたいですねー」

 千雨は、眉根を曲げて少し先を行く葉加瀬を見上げた。
 千雨はいくつかの切り札を持っている。電子精霊群。くみ上げたプログラムの数々。チャム。最低限の攻撃魔法と体術。それに超の遺産であるアンチグラヴィティーシステムと、切り札である呪紋刻印。
 しかし、それだけだ。圧倒的な戦闘能力を誇り、追随を許さない時代を代表するウォーロック達には遠く及ばない。呪紋刻印を酷使したところで、颯爽と木乃香から葉加瀬を守ることなんてできはしない。
 千雨は少し笑った。かつて、一瞬でも木乃香やアスナを倒そうと目論んだ日々のことを思い出したのだ。無駄な努力だったが。

「……やっぱ、ムリだな。なんとか、強そうな奴連れてきてやるから、それまで我慢してろ」
「あ、言い忘れてました。呪紋刻印、もう使わないでくださいね」
「ああ……あ!?」
「いや、カシオペアの魔力のために魂が滅茶苦茶磨耗しますから、もう使わないほうがいいですよー。肉体より前に魂が擦り切れますし」
「ちょ……お前ふざけんなよ!? これないと私、そこらへんの農民兵にも負けるんだぜ?」
「やー……他に手段ないんですから。まあ、いいじゃないですか」
「軽っ! え、マジか!? どうにかなんねーのか!? あっちで刻印打ち直してもダメなのかよ?」
「いや、それはないです。魂から魔力引っ張り上げてるんですから。体も傷つきますけど、それは副次的なものですし」

 いくつか葉加瀬は思案して、指折って何かを数えた。

「んー。じゃあ、三回までオッケーです。寿命はアレですけど、少なくともこの時代くらいまでは生き延びれるだろうし。三回ってなんかウルトラマンみたいでカッコよくないですか?」
「いやそれオッケーとはいわねえだろ。あとウルトラマンは三分な」
「ただし、四回使ったら肉体と精神だけ残って、魂が原型止めませんねー。魂だけが壊れた症例ってあんまりないんで、是非私の前で壊れてください。実にいい値段で売り飛ばせ」

 スパン! とどこからか取り出したハリセンで飛び上がりながら千雨は葉加瀬の後頭部を殴った。

「冗談ですよー。もー。痛いなー」
「あんたアホだよな」
「もう! こんな人類の叡智に対してアホとは! 千雨さんたらお茶目さん!」
「殺す」
「あー嘘です嘘です! 冗談ですってー」
「とにかく。なら尚更だ。私に期待すんなよ」
「ええ。……いや、それでも期待すると思います」
「だから」

 葉加瀬は振り向いて、千雨に笑いかけた。

「結構、私、千雨さんのこと買ってるんです」



◆◆◆



『昔の私のこと、イジめてますかー?』

 するりと、手から力が抜けて千雨の手が聡美の中から零れ落ちた。
 小さな端末。今の今まで茶々丸のボディへのインストール進捗状況が映されていた液晶画面には、今は動画が再生されていた。
 自分の眉間が凍りつくのを聡美は感じる。遠い位置にある小さな液晶。劣化した自分の視力。なのにやたらと画質がいいせいか、そこに映っているのが誰なのかが聡美にすら一瞬でわかった。
 聡美は、千雨の顔を窺った。その表情はやはり、驚愕に染まっている。

「まさか」



◆◆◆



『あんまりイジめちゃダメですよー。メンタル弱いんですからねー。千雨さん並のヘタレ……すいません、言い過ぎました。千雨さんほどでは』

 余計なお世話だ。

『……あれ? ツッコミがないですよ。どうしたんですか。はい、どうぞ! ……って、本当にイジめてなかったり、ツッコミ入れてたら恥ずかしいからここらへんでやめておきますね。 あ、注釈を入れておくと、この映像は千雨さんが爆睡してる隙に撮影してます。計画始動の一時間前です。これから、この映像をチャムのAIに仕込んで、千雨さんの抽出して電子化した記憶と一緒にして、カシオペアにかけることになります。ほらー』

 録画される視点が持ち上がり、背後のチェアに横たわる千雨の顔に接近した。

『可愛い寝顔ですねー。目を閉じてる限り、あんまり恐くないですねー。でも実はいきなり目が開いて掴みかかってくるんじゃないかって思ってたりしますけど。ほーらうにうにー。はっはー。ザマーミロー。気軽に殺そうとしやがってー』

 顎から頬肉を引っ張ったり、目尻を弄ったりして、一頻り笑うと葉加瀬はまたビデオカメラを元の位置に戻した。

『まず二つ謝っておきます。一つは千雨さんに言った時間には遡行させませんでした。あっはっは! 残念でした。競馬を当てるーとか言ってましたけど、ご破算です。計画も一から組みなおしてください。手伝えませんけどね!
 あ、でも理由はあるんですよ? 下手にネギ先生が神楽坂さんに懐いてない頃に行っちゃったら、どうせ千雨さんネギ先生に構っちゃって、お姉ちゃんのポジションになっちゃうでしょう? そうすると多分歴史を変えるモチベーションが続かないと思いまして。
 絶対怒ると思って、最後まで言いませんでした。言い逃げー』

 何一つ悪びれることはなく、葉加瀬は笑いながら手を伸ばしてばしばしと千雨の足を叩く。

『もう一つ』葉加瀬の顔が、一瞬で引き締まった。『こんな方法しか用意できなくて、ごめんなさい。あなたを殺して、ごめんなさい。あなたに押し付けて、ごめんなさい。あなたを選んで、ごめんなさい』
 一転、葉加瀬の顔に笑みが戻った。
『本当は、もっといい手を考えてたんですけど、千雨さんも見つかっちゃったし。私も狙われちゃいましたし。ついでに千雨さんを説得する時の切り札の四葉さんが招待状送りたいって言うんで、どう考えても最後の機会だと思って突っ走っちゃいました。
 んー。今更ですけど、もっと早くカシオペアの分析をしておけばよかったと後悔してます。あんな論文書いてる暇があったらなーって。だから、ごめんなさい、千雨さん』

 葉加瀬は、拳で眉間を押さえた。目が見えなくなる。長い付き合いだからか、泣いているのかと思った。だが拳を離しても目は赤くなっていなかった。それでも唇は震えていた。

『これだけです。言い逃げですけど、悪いけど私の遺言を抱えて生きてってください。
 おっと! 紛らわしいこと言いましたね。別に実は不治の病が……とか、千雨さんの踏ん切りをつかせるために自殺を……なんてわけじゃないです。単なる歴史が変わることへの話です。ま、どっちにしてももう私は私じゃないでしょうし。だから遺言て言っただけです。いや、ホントですよ!? ホント……ホントなんです!』

 逆に胡散くせえよ。だがこのビデオの最後に自殺でもしてみろ。私は一生立ち直れねえぞ。千雨は苦笑し、頬を袖で拭った。熱かった。

『あと、最後にもう一つ』

『どうせ、ぐだぐだと悩んでると思います。だから何か手助けを、と考えてたのに「チャムだけで十分だ」とかカッコつけちゃって。もー、何に悩んでるかは大体想像つきますが、外れてたら恥ずかしいから特定しないで、包括的な助言を一つ』

 葉加瀬はない胸をワザとらしく張って、

『私の尊敬する人の言葉ですが。まだそちらの世界にはない言葉のはずです。だから、あなただけの言葉です。
「デカイ悩みなら吹っ切るな。胸に抱えて進め」
 ……って、いやー! 恥ずかしいですね。言った人中二病ですねー! いや、リアルに中学三年だったんですけど』

 茶化しながら、その顔は真面目だった。

『……世の中、辛いですね』

『努力したら幸せになれるなんて嘘っぱちだし、いいことしても返ってこないし、善人が幸せになれることもない』

『ほっといたら不幸になるし、友達はいなくなるし。裏切られるし。せっかく頑張って掴んだ幸せは気紛れでなくなるし。なのに悪いことしてる奴ばっかが友達いて、お金持ってて。俺は幸せだぞーって顔してるんだから』

『ホント、辛いですね! 思いませんか? なんでこんなことになるんだろうって。思いましたよね。だから、私に同調してくれたんですもんね。報われないことが嫌で。それでもがんばって……でもがんばることさえできない人がいて。千雨さんも、そうですよ。卑下することないです。同じです。必死にやってきて、報われなかった人です。もうがんばることさえできない人です』

『酷いことを……しました。言います。私のために、悪になってくださいと言いました。誤魔化しでしたね。はっきり言います。
 まだ、がんばってください。悩んだままでも、それでも、がんばって』

 もう誤魔化しようのない涙が、頬を伝った。それも一筋では終わらなかった。このいつのまにか一粒零れればそれで十分だった涙が、間断なく流れ落ちた。
「っ!」
 千雨は掌で顔を隠した。歯がかみ合わないのを、食い縛って堪えた。なのに人間の中枢が痙攣を止めず、体を丸めて抱え込もうとする。

『フレーフレーちっさっめ。がんばれ千雨。がんば……って千雨さん。フレー……ガンバレよ長谷川千雨っ! 立ってっ、戦えっ千雨さんっ! 報われないかもしれないけどっ! 誰も見てないかも知れないけどっ! 私は見れないけどっ! でもがんばれ千雨っ!』
「う、あぁっ」
『……終わり、ますっ! さよう、ならっ! じゃあ後チャム頼みましたっ!』

 動画が停止する。黒駒が続く。

「くっ……あっ! ぐ、ひぐっ」

 ひどい、女だ。
 千雨が、望んでいることを知っていたのに。報われたいって。頑張っても報われないんじゃないかって思ってたのを知ってたのに。
 それでも、がんばれって。

「みるなっ!」

 涙と鼻水で化粧はぐちゃぐちゃになって、背はみっともなく丸めて、壁に額を押し付けて。体は震え、意思などなくて。エゴイストで、きっと今世界で一番惨めで。

「私の顔をっ! 見る、なっ!」

 ごめん。
 殺してごめん。
 否定してごめん。
 ごめんなさい。
 好きになって、
 ごめん。

「私が隠します、マスター」

 かつてより柔らかく、仄かに感じさせる暖かさはそのままの機械の少女は、千雨を背中から抱きしめた。千雨よりも小さな体だったが、今の千雨はそれよりも小さく感じられただろう。

「マスターが見られたくないなら、私がマスターの体を隠します」
「チャ、ム」
「機械の、脆いただの従者ですが、マスターの後をついていくことくらいはできます。辛い時は慰めます。姉がマスターを心配したように。ハカセがマスターに託したように。ですから、その……」

 ――がんばる。
 千雨は歯を食い縛って、涙を乱暴に袖で拭い、チャムの腕を離れて台に戻った。
 化粧は流れ、袖で拭ったせいで顔はぐちゃぐちゃ。人に見せられるものではなかったろう。なのに眼鏡だけは意地でも外さなかったために涙の痕がくっきり残っている。
 だが、気にしなかった。聡美の動揺すら手に取るように解り、そもそもの脳の冷え方が手に取るように解った。
 千雨が手を伸ばし、デッキの一番上を捲る。――5。

「……あーあ。負けちまった」

 もう一度掌で頬を持ち上げるように拭い、千雨は脇目も振らず研究室を出た。

「待ってください!」

 千雨は振り返らなかったが、チャムのバカ丁寧な声が聞こえた。

「またお会いしましょう。ハカセ」
「……っ!」


 屋上には鍵も掛かっておらず、簡単に出られた。何か研究に使うのか、それとも憩いの場かなにかか、随分と綺麗にされていて雑草どころか水垢のついたタイルの一つすら見つからない。周囲は背の高いフェンスで囲われていた。だがその中に一箇所だけ大きな穴が開いている。千雨は躊躇うことなくそれを潜り、身投げするかのように縁に立った。聡美の研究室の一つ上だ。そこから見える光景は大して変わらなかった。
 大停電の日。いつも満ちているはずの人工の光は殆ど消えうせ、星明りが手元すらはっきりさせるほどに強い夜。千雨は大きく息を吸った。

「悪いな、起きて早々」
「いえ」

 慣れた従者然とした物腰で、チャムが背後で跪く。千雨は制服のポケットに入っていたゴムで、手早く頭の上で髪をポニーに纏め上げた。

「あー」
「はい」
「頭冷えた。すげえテンパってたんだな、私」
「マスターは三年を誇りますが、逆に三年前はただの中学生でした」
「言い訳になるかあ? それ」
「なりません。ヘタレ……」
「いやうるせえよ」

 一辺も意思をぶれさせないような奴が化物なのだ。ヘタレというほどでは。
「……いや、もしかして私ヘタレなのか?」
「桜咲さんは徐々にアホになっていかれましたがマスターは徐々にヘタレて……」
「余計なお世話だ! つーかもうわかんねーよ! ヘタレの定義ってなんだよ!?」
「ツッコミが……調子が戻ってきたようですね」
「んなもんで調子量んな!」

 千雨は空を仰いだ。あー、と呻いて、背中を伸ばす。ごきごきと頚椎の音がした。

「ものっ凄い臭いこと言うから、記録すんなよ」
「はい。ネタフリですね」
「違えっつーの! マジで撮んなよ!? いいな?」
「はい。わかりました」

 ホントに解ったのだろうか。こいつは、その姉もだがこういうとき思い切った茶目っ気を発揮することがある。ジト目で背後を睨むが、少したりとも揺れない無表情に溜息をつく。

「星に願いをとか、冗談じゃねーけど」
「……」
「がんばる、私」
「……マスター」
「……あんだ」
「本当に臭いです」
「だからうるせえよ!? だから先に言ったろ!?」
「顔の温度が上昇していますが冷却しましょうか」
「う・る・せー! 癖だよポンコツ! 知ってんだろ?!」

 クソ。折角の極め台詞が茶化されてしまったと、顔を真っ赤にして千雨は小さく愚痴った。戦場経験があるからかよく聞いた臭い台詞を、一度くらい言ってみたかったのだ。
 千雨はもう一度溜息をつき、後頭部をかりかりと指で引っ掻いた。
 まア、なんだかんだ言って確かにスッキリはしたが。それにチャムも取り戻せたが。結局悩みはどれ一つ解決していないし最初に目的とした聡美を口説き落とすこともできなかったわけで。問題が山済みなのは変わっていない。

「だが……ま、八つ当たりだな。チャム!」
「はい。没入します」
「相手は茶々丸さんだ。油断すんなよ」
「私とマスターの組んだ攻性プログラムが三年前の姉さんに負けるはずはありません」
「……ま、まあいいや。気をつけろ」
「はい。無線を捕まえました。お気をつけてマスター。――没入開始します」

 跪いたまま、チャムの瞳から光が消えた。ネットワーク空間への介入能力をチャム始め茶々丸のボディはアーティファクトなしで所持している。千雨、チャム、七部衆。その全てが揃って初めて情報のウォーロックと呼ばれる存在に到達するが、チャム一人がそれに当たっても常人では為しえないレベルの処理が可能だ。
 千雨はチャムがネットに入ったのを確認して、口元に笑みを忍ばせた。

「八つ当たり……まあ、あっちも八つ当たりだったんだし。神楽坂にはあとで謝りゃいいだろ。
 ハァ。
 横槍入れるとかあいつブチ切れるだろなあ。先生も……嫌がるだろうし。
 それに葉加瀬。悪いけどがんばるって、ちょっと語感が趣味にあわねえや。悪いけど――」

 少したりとも本心でないことを口ずさんで、ただの照れ隠しであることを確認しながら、千雨は。

「コード77948522」



◆◆◆



「今日はよくやったよボーヤ。一人で来たのは無謀だったがな……」
「う……いや……」

 実際、エヴァンジェリンが思った以上にネギは使えたし、やれた。広域結界の端に追い込んでの捕縛。そしてその瞬間に最大火力での追撃。その火力の強さを鑑みればエヴァンジェリンですら危険。茶々丸が控え、ネギの攻撃を逸らし結界を解除しなければ負けはせずともダメージを食らったのは間違いないだろう。
 見ようによっては苛烈で卑劣。しかしエヴァンジェリンはそれに満足していた。どこかで監視しているだろう――そしてエヴァンジェリンが全力を出していることに慌てているだろう近衛近右衛門も満足したはず。人格を求められるが、戦闘においては冷酷さを求められるのが立派な魔法使いという奴だ。

 立派な魔法使い――。
 魔法使いの子供は、皆立派な魔法使いになりたいと言い出す。それはある種の宗教と同じ倫理教育と同じで、そこには絶対に至れないが望まずにはいられないといった類のものだ。
 極限的に、100%の子供は立派な魔法使いになれない。立派な魔法使いとは魔法使いの規範である以上に、英雄であり極端に強力な戦闘力を持つ魔法使いであるからだ。一人で一軍に比する武力を持ち、英雄譚の持ち主。端的に言えば、それは西洋魔法使いである必要性すらない。ジャック・ラカンや近衛詠春など魔法使いでない立派な魔法使いも存在する。必要なのは、戦闘能力とそれを裏付ける人間性。そしてストーリー。立派な魔法使いとは、実際にはそういう類のものであった。
 一般に、実際に立派な魔法使いに会うと立派な魔法使いは違う、と言われる。才能の有無ではない。ネギや近衛木乃香のように生まれたときから立派な魔法使いになるのが確定している人間もいれば、高畑・T・タカミチのように天才に恵まれないながら周囲に引っ張られそこに到達した人間もいる。麻帆良学園都市においては、他に二人。近衛近右衛門とエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルがその領域にある。

 エヴァンジェリンとしては、ネギに立派な魔法使いになることをそれほど望んでいない。だがそれ以外の道がないことも知っていた。国も組織も立派な魔法使いを一人でも多く求める。その枠に囚われたネギがそれを外れる方法はあまりない。どちらにせよ、順調に成長している。

(やはり、あいつの影響か)

 長谷川千雨。
 超と葉加瀬は長谷川千雨ではないと言っていたが、エヴァンジェリンから見ればどう見ても長谷川千雨のままだ。そうでないように偽装していたつもりなのだろうが、所詮は子供の浅知恵。エヴァンジェリンや学園長が見れば一発で看破できた。厳密には長谷川千雨だ。だが長谷川千雨でないと言い張る気持ちもわかるのだが。
 学園長が偉そうに胸を張ってエヴァンジェリンに見せ付けた長谷川千雨とネギの会話の記録を思い出す。エヴァンジェリンから見れば色々と足りない小娘に過ぎないが、建前と偉ぶった態度だけは大したものだ。そしてエヴァンジェリンから見ればそれだけでも十分評価に値した。二三弄くり回せばいいプライドを持った悪になるだろう。

(できるなら、ボーヤと徹底的にぶつけてみたいものだ)

 が、面倒くさいのでしない。もし巡り巡ってそういう機会があれば楽しいだろうという程度でしかない。

「マスター!」

 思案をそこそこで切り上げ、歯をネギの首筋に向けたその時冷静な茶々丸の切り裂くような声にエヴァンジェリンは緩慢に顔を上げた。

「なんだ」
「電気系メンテナンスを統括しているマザーがハッキングを受けています。これは……メンテナンス工程を省略して、復旧までの時間を短縮させようとしているようです」
「……よく解らんが、ジジィが動いたか?」
「いえ。第三者のようです。このままいくと、すぐにでも結界が復旧しかねませんが、どうしますか」
「どうにかできるか、茶々丸」
「はい。いえ……既に省略された分はどうしようもありませんが、復旧を最大限に遅らせることはできます」
「よし、やれ。こっちは私一人で十分だ」

 すぐさま電脳空間に没入した茶々丸を他所に、エヴァンジェリンは自分の中の勘に笑いを堪えた。
 長谷川千雨だ。
 あのままなら何もできずに終わっていただろうし、望むならエヴァンジェリン直々に終焉を齎してやることも考えたが、(吹っ切ったか、壁を越えたか、或いは堕ちたか。まあ、いい。あのままよりはどれだろうがずっとマシだ)

「コラーーッ! 待ちなさいーーっ!」
「フン、来たか。神楽坂明日菜」

 次から次へと。エヴァンジェリンは駆け寄ってきた明日菜に向けて、ネギを蹴り飛ばした。勢いを殺し、明日菜はネギを抱きとめる。
 その瞬間、そちらを見ることすらなくエヴァンジェリンは迫った魔法の射手・雷を片手で握りつぶした。一瞬、明日菜とネギがその轟音に驚いて動きを止める。

「ふん……ロングレンジの貫通弾。スナイパーか……いや!」

 間髪いれず、次の魔法の射手がエヴァンジェリンに襲い掛かった。今度は手どころか障壁の展開すら間に合わず、エヴァンジェリンの肩に直撃した。エヴァンジェリンは軽く肩を振り払うだけだったが、目を丸くする。

「早い……何だこれは!? 早い魔法の射手だと!? 莫迦なものを……」

 一瞬で脳裏に魔法を解析する。ただ早いだけの魔法の射手。それは弾速を極端に高めただけで、速度に威力を負わない魔法においては何の意味もないだろう。むしろそんなものを研究開発したことが驚きだ。早いだけの魔法など他にあったし、そんなものよりも威力を高めた方が遥かに有用だ。

「フハ」

 だが、無駄は無駄だけにエヴァンジェリンの想像を超えている。エヴァンジェリンは魔法の射手の狙撃点を睨むと共に、ネギと明日菜を手の動きだけで牽制した。

「フハハハハハハハ! いいだろう、まとめてかかって来い! その驕り、完膚なきまでに打ち砕いてくれる!」



◆◆◆



 やはり、飛ぶのは好きだ。
 風が好きだし、身を切るような寒さも好きだ。少々頽廃的だが、気を抜けば命を落とすという状況も悪くない。千雨は白い大きな菱形を背中に三対展開していた。杖があればそれを使った方がいいし、こういうオプションなしでの飛行魔法も存在するが、それは総じて維持が難しい。この羽は傍から見ると激しく恥ずかしいが、大きな魔力と引き換えにある程度の制御を自働してくれる優れた魔法だった。

「んー、んっ」

 文字通り羽を伸ばし、千雨は冷たい空気を口一杯吸い込んで熱い息に変えて吐き出した。現金なもので、胸の中のもやもやが一層されているのがわかった。
 開き直りだが。
 開き直らなきゃいけなかったのだろう。そうしてしまえば胸はすっとする。
 やりたいことがある。
 やらなければいけないことがある。
 やりたくないことも……勿論ある。
 だが、何よりまず。とりあえず。

「悪は――幸福ではならない」

 不文律。それをエヴァンジェリンはシステムと呼んだ。システムに抗うと考える千雨をただの愚か者だとも言った。
 確かにそうだ。笑いながら他人の子供を殺した男が、自分の子供とキャッチボールしながらニコニコ笑ってたら誰だって蹴りをいれたくなる。悪の定義がどうとか、幸福の定義がどうとかではない。それは自然なことのはずだ。

「けどな。一個ルールを越えたんだぜ、私は。ならもう一個くらい許してもらう」

 エヴァンジェリンも、葉加瀬も。それに超も。
 悪だが。幸せを選ばないことを決めているが。なら私が。

「ぶん殴ってでも、幸せに引きずり込んでやる。一人残らず……3-A全員、悪でもなんでも一人残らずだ」

 私はいい。自分からそれを選ばないようにしよう。エヴァンジェリンに殺されたくはないから。だが、悪だからといって人が幸せであるように願うのが阻害される義理もない。

「悪いな。私は長谷川千雨なんだ。だから、我が侭にいかせてもらうぜ、エヴァンジェリン」

 ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル。なんとなくだが、どうせモニターしてるであろう超鈴音が初めて驚いたような気がした。

「歯ぁ、食い縛れ――魔法の射手(サギタ・マギカ)雷の一矢(フルグラティオー)」

 神速と呼ばれた魔法使いがいた。足が速かった。杖を抜くのも早かった。詠唱も早かった。物足りなかった神速は、かつての担任教師を頼り、一つの魔法を改良させた。ついに魔法すら早くなった。
 千雨の覚えている限り、神を冠したのは新世界の姫と並び、彼女くらいのものだ。ちなみに属していた教会勢力からは総すかんだったのだが。
 人に無理やり開発させておいて、自分専用と言いふらし、ついには代名詞とまでなった魔法。魔法の射手。

「瞬(アウケレレット)」

 マッハを超える規格外の魔法の射手が軌跡だけ残した。



◆◆◆



 エヴァンジェリン.A.K.マクダウェルは魔法使い流儀で言うと、「大砲」である。
 後衛(魔法使い)と中衛(魔法剣士)の差は近距離戦術を得ているかではない。魔法剣士が近寄るならば、魔法使いは遠ざかる技術が必要とされる。「魔女の鉄槌」以降極度に近代化され定型化された魔法戦闘技術はエヴァンジェリンなどの「立派な魔法使い」レベルの魔法使いを除けば専門化し、スナイパーはその中の一部門として確立している。
 龍宮真名。
 エヴァンジェリンのクラスメートのスナイパーであるが、用いる術理は魔法ではなく機械。しかしそれは単に弾丸を使うか魔法を使うかの差しかない。立派な魔法使いに至る技量の持ち主だからこそありとあらゆるレンジに対応できるが、元は小隊規模でのスナイパーとして育ったはずだった。

 スナイパーは、魔法世界においては一発必殺ではない。風潮として攻撃よりも防御の魔法の進化が促されてきたこの百年。一撃必殺の「大砲」は極一部の限られた才能にだけ許され、スナイパーはとにかくダメージを当てることであり、結界を砕くことであり、またスナイパーを見つけることがその全てであった。


「ちぃっ……!」

 オコジョフラ……まで言ったところでエヴァンジェリンは目の前を飛んだオコジョを手先で弾き飛ばし、魔法の射手の軌道に乗せた。あんぎゃああああ! と叫んでオコジョがどこかにすっ飛んでいく。
 慌てて殴りかかってきた明日菜の拳を掻い潜り、横目でネギの位置取りを確認しながら無詠唱でエヴァンジェリンは19矢の魔法の射手をばら撒くように放った。追尾能力の限界まで追わせれば、理屈の上では二三本がスナイパーに到達するはずだ。だが散るより前に、あの異常に早い魔法の射手がぶつかってきて、小爆発を起こす。それ一つにエヴァの一本分の威力すらないだろう。だが逸らし、追尾能力を失わせる程度のことはできていた。

「クっ! ……厄介な術者めっ!」

 それ一つには張りなおしたエヴァンジェリンの障壁を貫くほどの威力もない。だがそれから気を逸らせばすぐさま真祖にすらダメージを与える強力な魔法が飛んでくるのはわかっていた。無論、それとて真祖のバイタリティから見ればごく小さいもの。これが殺し合いだったなら無視して力づくで捻じ伏せたろうが、これはそういうものではなかった。
 エヴァンジェリンは本気になる気はないし、そうすればネギを含めて命が危険だ。そしてエヴァンジェリンに対して学園側の総攻撃が始まる。どうせこの場面を学園長はどこかでモニターしているのだろうし。
 ここは、エヴァは誰よりも遥かな上位にある存在として振舞うしかない。方法は任されたが、エヴァはネギの越えられない壁となれと言われていた。

「迎え撃て!(コンクラー・プーグネント)」
「氷爆(ニウィス・カースス)」

 壁のように地面からそり立った氷柱が中級精霊を遮り、中和しあう。エヴァンジェリンは軽い足取りで距離を取り、しつこく飛んできた魔法の射手を片手で握りつぶした。
 仕切りなおし――。明日菜が慌ててネギの傍に駆け寄り、肩で息するネギは毅然と杖を構えている。茶々丸はまだ戻ってきてはいない。膠着の入りかけ……打破するなら、このタイミングだろう。

「ん――? おいぼーや。貴様ら仮契約は結んでないのか?」

 ネギの顔が歪み、エヴァンジェリンはそういえばとさっき飛んで行ったオコジョを思い出した。見れば、よろよろとした足取りでオコジョが橋桁から戻ってきていた。時間を稼いで、そうするつもりではあったのか。

「成程な。……だとよ、どうする?」

 視線を向けた瞬間、遠くから魔力光が発された。だが先ほどの魔法の射手とは比べ物にならないほどゆっくりとした足取りの「雷の暴風」。貫通力を重視した構成にアレンジしてあるのだろうか、それはエヴァンジェリンの本気だったら容易く飲み干せたろう。
 ネギが明日菜の手を引いて、背を向けた。エヴァが歯を剥く。

「いいぞ……所詮貴様はその程度だが、その程度ができるなら十分評価に値するさ」

 時間稼ぎに利用されるだけ――。遠いところからスナイパーに徹する千雨にもそれくらいは解っているだろう。苦虫を噛み潰したような顔になっているかもしれない。だがその割り切り方に敬意を表し、エヴァンジェリンは避けることもかき消すこともしなかった。
 地に足を張り、片手を突き出す。その小さな突き出した手と、よく引き絞られた雷の暴風がぶつかった。
 エヴァンジェリンは哄笑した。思いのよく練られた一撃だ。数えるのもバカらしい数張った障壁の一枚が破れ、エヴァンジェリンは僅かに体を後ろにそらした。だがそれだけだった。光も音も止み、エヴァには千雨の呆然とした顔が簡単に脳裏に浮かんだ。

「フン……貴様の願いなどで、私の生き方を変えられると思うなよ」

 サギタ・マギカ。氷の一矢。密度も大きさも千雨とは比較にならない矢が、放たれた。迎撃の早い魔法の射手のことごとくを蹴散らし、手応え。吸血鬼の目で望遠すると、千雨は大学部の研究棟に激突し、その中の一室の中まで転げ入ったようだった。

「だが、それでも願うなら。私はいつまでもここにいる。いつでも掛かって来い」

 その子供染みた願いを鼻で笑い飛ばし、だが慈愛に満ちた表情で肩を竦め、
「リク・ラク ラ・ラック ライラック。氷の精霊1009柱。集い来りて、敵を切り裂け。魔法の射手、連弾、氷の1009矢」
 ただの一柱で千雨を圧倒するに足る氷の矢が無数にエヴァンジェリンの手元に集まった。

「だがこれはお仕置きだ。耐えろよ? 痛いぞ、前のなどよりずっと」

 放つ。光ファイバーのような青い光が、星空の下をパーッと走った。
 ネギと明日菜が、戻ってくる気配がした。エヴァンジェリンは言った。

「さあ、フィナーレだぼーや」



◆◆◆



「いってっ! っクソ、なんつー、バカ魔力してんだあの吸血鬼……」

 瓦礫から体を抜き、千雨は大穴の開いたどこかの研究室の壁から顔を外へ出した。辺りには瓦礫が散乱し、必死に張った障壁も一撃で大幅に削られている。

「あー、クソ……しまんねえなあ。結局、ぼろ負けかよ……」

 笑いたい気分だ。実際顔はにやけていた。八つ当たりにもならなかったが、どうもエヴァンジェリンはそれなりに本気の一撃を撃ってくれたようだった。今の一矢。多分エヴァンジェリンの本気を篭めた一撃だったろう。
 瓦礫を蹴っ飛ばし、千雨は自分の空けた大穴に手をかけ、街を俯瞰した。三階くらいだろうか。今の衝撃で上にいるはずの聡美になにもないといいが。
 まとめた髪が風で揺れる。口に入ってくる髪の毛を手で抑え、千雨は目を細める。

「……未来に戻るのは、後回しだな。もうちょい、がんばってみる」

「歯ぁ、食い縛ってさ」

 どうせ見てるんだろうけど、今のが超に聞かれたと思うとちょっと死にたくなるな。
 だが、まあ。
 千雨は踵を返した。チャムを迎えにいって、今日は帰ろう。ネギ先生も、悔しいが神楽坂と仮契約したみたいだし、なんとかなるだろう――。
 足が凍った。錆びた機械のようなテンポで、もう一度大穴の外を見る。
 凄まじい数の青い光が、流星のように迫ってきていた。

「ちょ、待っ」

 ゴン。
 最初の一本が千雨の額に直撃し、あえなく千雨の意識は閉ざされた。しかし、残る1008矢も少しの遠慮もなく千雨の体に降り注ぐこととなっていた。



◆◆◆



 千雨は、眠っていた。昔懐かしい麻帆良中等部三年の教室。ビデオを止めて、ぐいと葉加瀬は頬を拭った。塩辛い涙が袖を汚した。
 カシオペアは、融通が利かない。愚直なまでに時間だけを移動する。公転や自転だけは修正してくれるのが儲けものだが、しかし千雨の情報を移動させるならその時間に千雨の脳がそこにある必要があった。
 葉加瀬は、昔自分がいた席に戻った。三年ぶりに戻った。
 超がいた。四葉がいた。茶々丸がいて、みんながいた。目を瞑ればすぐにその光景は脳裏に浮かんできた。
 千雨にはまだ言っていないことがある。それを過去に聞くことがあれば、千雨は目的の大半を失うだろう。それを正直に言えば、過去になど千雨は行かなかっただろう。きっと辛い。なのに葉加瀬は千雨に羨望を感じた。

 きっと、楽しい日々だ。
 世界が間違っていることを知って、回りの人々が未来、不幸になることを知って。それでも楽しいだろう。
 何かの奇跡が起きて、千雨が、またそんな日々を作り上げられることを。
 葉加瀬は祈っている。



◆◆◆



 翌日。朝、麻帆良女子中等学園長室。晴天で気分のいい朝。ピチュピチュ小鳥の煩い部屋の中には、しかしどこかどんよりとした空気が篭っていた。
 朝一で呼び出された千雨の他、学園長と瀬流彦。それに千雨に随行してきたチャム。四人なのだが、学園長と瀬流彦は冷や汗を流し、千雨は目を細めて今にも噛み付きそうに学園長の頭頂部を睨んでいた。

「いや、昨日はご苦労じゃったの……大丈夫かの? 全身ミイラなんじゃが……」
「大丈夫です」
「おかげでエヴァンジェリンの暴走も最小限に食い止め……ほ、ホントに大丈夫? 正直、物凄い死に掛けているようにみえるんじゃが」
「大丈夫です」
「と、ところで例の選択じゃが……と、とりあえずちょっとそこに座ったらどうじゃ? 瀬流彦くん、医者をちょっと」
「だから、大丈夫だっつってんだろうがこのチンコ頭ジジィが! なんだその頭は?! スカルファック専門か!? オラ教育委員会に報告してやるから今まで何人のいたいけな中学生にその頭挿入してきたか言ってみやがれオラアアア!」
「ちょ! ピープ音ピープ音! P! 伏せて伏せて!」

 ガーと吼えた千雨であったが、近衛が心配するのも仕方ないと思うほどに全身包帯まみれであった。素肌が出ているのは顔くらいのもので、それにしても額と首には包帯が巻かれている。チャムが甲斐甲斐しく今にも飛び掛りそうな千雨を後ろから抱きかかえているが、本当はそんなに動けるような怪我でもなかった。
 昨夜、エヴァンジェリンは容赦がなかった。1009矢の魔法の射手が好き放題千雨の体を叩きまわり、生命活動に支障をきたすことも後遺症が残ることも傷さえ残らないという神業ながら痛みは全身を駆け巡り、一夜明けたところでようやく千雨は目を覚ましたのだが、少し筋肉を動かすだけで悶絶モノの痛みが走るのに悶絶すればさらに痛みが走るという悪循環に陥ったほどだった。
 結局チャムが全身を包帯で固定し、ようやく痛みはマシになったのだが、それでも動けば痛い。それどころか喋ってるだけで痛いのに呼び出されたせいで痛みは増し、それと共に近衛に対する怒りも絶賛増量中であった。

「……すいません。取り乱しました。痛いんで用件は早く」
「う、うむ。ではまずそちらのお嬢さんのことじゃが」
「生徒のみなさーん! ここに中学生の部屋を盗撮してる変態ジジイがいますよー!」
「わかった! わかったわい! もう仕掛けんから!」

 因みに千雨の部屋に設置された監視機器は昨晩のうちにチャムが処理していた。もうとっくに千雨が只者でないことはバレているので、早々に撤去されることとなり。

「あのー……カメラと盗聴器は返却してくれると嬉しいんじゃが……その、高くての。わかるかの?」

 千雨はにっこりと笑った。
「……」
 笑っただけだった。

「……ま、まあよい。本題に入ろう。例の選択肢じゃが」
「選べるわけねーだろ」
「ほう」
 おちゃらけた雰囲気を一掃して、近衛は笑った。
「意味がわかっとるのかの?」
「敵対する気もないさ」
「内側に入ると?」
「昨日、停電の復旧をチャムに早めさせた。だが、面白い仕掛けを見つけたぜ? 最後の十分の間は、いつ何時でも誰かによって復旧のタイミングを決められる仕掛け。……もちろん、私の従者は優秀だから徹底的にぶっ壊したがな?」
「それを以って君の有用性の証明とするとでも?」
「少なくともネットワークに関しちゃあんたらの誰よりも優秀な自身がある。なあ、雇ってみないか学園長? 今のクラスにいさせてくれればいい。何なら魔法を封じても構わない。安い買い物だろ?」
「……ほう。何が君をそこまで駆り立てるのかの?」
「義理と人情ってところだな」
「フーテンの寅さんみたいな女の子じゃのう」
「うるせえよ! 例えがワリーんだよ!」

 近衛はいくらか時間を思案に当てた。だが千雨には勝算があった。
 京都への修学旅行。近衛木乃香という原石が原石のまま西に行くということには、危険が伴う。身辺警護なら刹那がいる。しかし政治的に周囲から埋め立てられた時刹那にできることはない。それを担当する人間が一人は必要だ。それを担うのはこの場にもいる瀬流彦。
 しかし甘い判断に擦り寄ることしかできず、まだ若い瀬流彦には荷が重いだろう。何せ少し前と違い、千雨によって他の組織の介入がありうるような状況にあるからだ。そしてそれを意図的に招いたことを近衛は気づいている。
 マッチポンプ。だがこの旅行は長期的に計画を練られたものだろう。ここでもう一人無理やり魔法先生をねじ込むのがどれだけ難しいか。
 そこで、千雨。元から行くことになっていた生徒の一人が瀬流彦の補佐につけば。況や千雨には瀬流彦にできない判断をできる自覚もあった。
 千雨を、選ばざるを得ない。

「そうじゃのう。……いくつかの誓約書を書いてもらうが、そうするかの」

 千雨は瀬流彦に目をやった。動揺一つしないところを見ると、予めの打ち合わせ通りといったところだろう。

「しかし、野放しにするわけにもいかん。そこで瀬流彦くん」
「はい」
「彼を君の監視役とする。細かいところは若いモン同士に任せるとして、一日一回の報告義務を怠らんことじゃ」
「わかりました」

 糸目の若い教師が、丁寧に千雨に会釈した。千雨はそれをスルーしたが、代わりに背後のチャムがお辞儀した。自動で報告書を作るプログラムを早速組むことにしよう。

「それに、もう一つ。正式に採用するかは、働き次第じゃ。まずは、今度の京都への修学旅行。そこで、君の担任、ネギくんに与えた仕事の補佐を見事こなしてみせい」
「……詳細は聞けるんでしょうね」
「うむ。追って連絡しよう」
「了解」

 千雨は、油を差し忘れたブリキのおもちゃのような挙動で近衛に手を差し出した。近衛が首を小さく傾げる。ぜんぜん可愛くないのでやめてほしい。

「……握手?」
「支度金」
「君、がめついって言われたことは?」
「あんまり。三日に一度くらいじゃないか」
「それ一杯言われとるよ!?」


「それで、いくら入ってたんですか?」
「100万。……大盤振る舞いだな」
「京都での活動費も込みでは?」
「そっちはなくなったら瀬流彦センセにタカればいいだろ」

 それはどうなんだろうと首を傾げるチャムに大金の入った封筒を丸ごと投げて、千雨はコーヒーカップに口をつけた。どういう理屈だ。喉を通る時まで体が痛いぞ。

「まずは、ミニノートとデスクトップを組んでくれ。まほネットから取り寄せて……いやこっちの店に行った方が早いか?」
「紹介もされてないうちに行っても相手にしてもらえないかと」

 魔法世界のコンピューターは旧世界のものとはそもそも根本的に異なる。何より特徴的なのがインプッターで、慣れた人間はキーボードを使わず魔力で入力できる。これを更に習熟するとキーボードを叩くより早く正確な入力が可能となり、千雨も今更ブラインドタッチに戻る気もなかった。
 尤も、代わりに根本的な性能は旧世界のものの方が優れているのだが。

「あと杖も一つ。アンティークの指輪がいいが、それは無理だろうから普通のタクトでいい。それと魔法薬もセットで必要なのピックアップしてくれ。ついでに火薬式の拳銃も欲しいな。いや、これは無理か。魔力式でもいいや」
「流石にお金が足りないと思いますが」
「ああ。金蔓をどっかで捕まえなきゃ拙いな」
「そういう問題でしょうか」
「修学旅行までに間に合うか?」
「ギリギリです。いくつかは無理でしょう」

 やれやれと千雨は溜息をつきかけ、痛みを感じ慌てて息を飲み込んだ。
 結局、治療に行くという名目でエスケープして、二人は学校から程近いところにあるオープンカフェにおさまっていた。学園長は流石に医者を手配するとは言ったのだが、謹んで辞退した。この痛みはエヴァンジェリンのイジめだけではない。呪紋刻印の酷使が影響していることに自覚していた。それを学園に口出しされるのは嫌だった。
 それでも脳内麻薬がドバドバ出ているせいか痛みは引きそうな気配があった。部位を固定していた膝や肘、手首などの包帯は既に緩めている。痛いが、痛みだけなら我慢しがいがある。

「妙なところで会うな、長谷川千雨」
「あ?」
 首を捻ろうとして回らず、仕方なしに千雨は全身で方向を変えた。笑い顔。
「よお、エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル」
 魔王が、従者と共にそこに立っていた。

 お互い、よく似た従者を背後に侍らせて、向かい合って座る。千雨はにやにやと笑った。

「負けたらしいな、エヴァンジェリン」
「ふん……貴様が余計なことをしなければ私の勝ちだったさ」
「いやあれはあんたの勝手だろう」

 昨夜、千雨がエヴァンジェリンを消耗させたとしたら、それは最後の魔法の射手の大盤振る舞いに他ならない。1009矢の量はかのエヴァンジェリンをもってしても尋常な量ではないだろう。次に茶々丸を拘束したこと。最後にネギと明日菜の仮契約の時間を稼いだこと。
 実際、千雨がしたことなどそんなものだった。

「で、どうだよ? 600歳下のガキに負ける気持ち。いやー、私まだ14だからなー。生後二ヶ月の赤ん坊に負ける感じか? 想像もできないが、死にたくなるだろうなー」
「よし、ここで貴様を殺してやろう」
「待てっ! 冗談だよバカ! 目赤くすんなよ!」
「貴様の冗談はくだらん!」

 鼻を鳴らして、エヴァンジェリンはティーカップに手をつけた。苦々しく顔をゆがめて、千雨はコーヒーを一気に呷った。喉が焼けるような熱さで流れ込んでいく。

「チャム、帰るぞ。修学旅行の準備がある」
「はい、マスター」

 立ち上がった千雨に、エヴァンジェリンは視線を向けなかった。代わりに茶々丸が千雨とチャムに深々とお辞儀した。

「ではまた、お姉さま」
「はい。またお会いしましょう、お姉さま」

 千雨は顔を引きつらせてチャムと茶々丸を交互に見たが、一度溜息。痛みに苦悶しながらチャムに体を支えられ、エヴァンジェリンに背を向けた。だが足は進まなかった。今度はエヴァンジェリンが物憂げに溜息をつく。

「……いつでも来い」
「……」
「打ち砕かれたかったらな」
「次は、ニンニクを山ほど用意しておく」
「そうしろ」

 どたどたと騒がしい足音に千雨もエヴァンジェリンも視線を向ける。ネギと明日菜が駆け寄ってきていた。千雨は構わずその横を通り過ぎようとして、

「長谷川さん!」

 千雨はそっとネギの唇を指先でつっ突いた。

「大したことねーよ。あと、神楽坂に八つ当たりして悪かったって謝っといてくれ」

 すぐ目の前にいる明日菜が変な顔をして、少しだけ千雨は微笑むとチャムと連れ立って歩き出した。



 桜通り。変わらず散り始めた桜の雨。一片が風の抵抗を受け、容易く地面を捕まえることもなくじっと空中に浮かんでいる。風が強い。腕が上がらない千雨の代わりに、チャムが舞い上がりそうになった千雨の髪を押さえた。
 暖かい、柔らかい麻帆良の風。それは刹那的で、どこまでも美しく、千雨の好みだった。
 全ての目的がなくなっても、これだけでも守る価値はあるとさえ思った。

 前から、ロングコートを纏ったお団子二つの女が顔を伏せながら歩いてきた。口元には僅かな笑みが浮かんでいる。千雨は呼応するように無理やり微笑んだ。視線は交わされない。クラスメートだが碌に話したこともないのだし。それは最後まで。
 お互い、互いに気づかないようにすれ違って。

「制服が似合ってないヨ、年増」
「その余裕、面の皮ごと引っぺがしてやるよ火星ダコ」

 そのまま、振り返ることもなかった。
 体の違和感は、もうない。



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長くなったから二つに分割しました!
多分、次回は幕間


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