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[10186] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/10/31 20:50
   


 戦国時代。そう呼ばれる時代がある。
 古くは、古代中華帝国において、大国晋が、韓、魏、趙の三国に分裂してより、秦帝国が中華統一を果たすまでの期間――いわゆる春秋戦国時代、その後半を指す言葉であった。
 秦による統一によって戦国の時代は終わりを告げる。それ以後、中華帝国は幾たびも戦乱の雲に覆われることになるが、戦国という言葉が現れることはなかった。
 それは、一つの時代を象徴する言語として、歴史に刻まれることとなったのである。


 その春秋戦国の世より幾星霜。
 歴史に刻まれ、過去を表す言語となった戦国の名は、中華帝国ではなく、その東に浮かぶとある島国にて、再び歴史に現出する。
 応仁の大乱に端を発し、明応の政変にて顕在化した、日本未曾有の激動の時代。後に戦国時代と呼ばれることになる、乱世を指す言葉として。


 応仁の大乱、そして明応の政変を語れば、どれだけの言葉を費やすことになるか知れない。
 言えることは、この二つの大乱において、足利幕府の威信が大きく損なわれたこと。決して喪失したわけではなかったが、大乱以前のそれと比べれば、その影響力の減退は目を覆わんばかりのものがあった。
 そしてもう一つ。中央権力たる幕府の失墜と共に、幕府に拠らない新しい秩序を構築する動きが、各地に現れてきたことである。


 中央権力たる幕府の衰退が、地方勢力の伸張を招くことは自明の理であった。それは同時に、幕府朝廷の無為無策により、旱魃による飢饉、野盗による略奪、幕府の威光を笠にきた領主による過酷な収奪等、苛政の下で喘ぐ民衆の切なる願いを背景としたものであり、またそれゆえにこそ、その願いを受けた者たちの力は、増大の一途をたどることになるのである。
 曰く。英雄とは、ただ優れた力を持つ者に非ず。其は、民の願いを具現する者である。



 時は戦国、常夜の時代。
 血と死が転がり、涙、襟を濡らすが日常たる無情の世。
 その闇の中を英雄たちは駆け抜ける。
 熱く、激しく、猛々しく。それ以上に、華やかに。
 戦国の名を、再び過去の時代へと押しやるために。




◆◆  



 越後国、春日山城。
 先の越後守護代、長尾為景の時代に、元々、この地にあった山砦を大規模に改修して出来た城であり、以来、長尾氏の居城として、越後の政治の中枢ともなっている。
 守護代とは、その名の如く越後守護の代理という意味である。そして、越後守護、上杉定実は、春日山城にほど近い館に居を構えている。
 にも関わらず、どうして守護代の居城が政治の中枢になるのか。その答えは――
「これがいわゆる下克上の世というわけか」
 城の一室。
 眼下に広がる、初夏の春日山の光景に視線を向けながら、俺はひとりごちた。




 下克上。戦国時代を語るには、もはや不可分の関係と言っても良い言葉であろう。
 下の身分の者が、上の身分の者に歯向かい、ついには実力でその座を逐うことであり、その代名詞として、北条早雲や、斎藤道三らの名前が挙がる。
 この二人は、ほとんど徒手空拳の身から、一国の主にまで成り上がった稀有な例だが、そこまで派手なものではなくても、似たような事例は、日本中いたるところに存在する。
 各国守護の下にありながら、力を蓄え、ついには守護を放逐して、戦国の世に名乗りを挙げた者――それはたとえば出雲の尼子経久であり、尾張の織田信秀であり、そして越後の長尾為景である。
 これらの人々の名前は、本やゲーム、映画やテレビなどで人々の耳に馴染んだ名前だと思う。少なくとも、俺はその名を良く知っているし、子供の頃には、彼らや、少し後の織田信長、徳川家康、武田信玄、上杉謙信らの本を読み漁ったものである。きっかけは、信長の野望というゲームだったかな。


 そう。これらの人を俺は知っていた。知っていたが、それはあくまで本やゲームを媒介にしてのこと。決して、目の前で言葉をかわしたり、ましてや矛を交えたりするような意味ではありえなかった。
 ――ありえない筈であった、のだが。
「何故だか、こうして、矛を交えているわけだ」
 人気のなくなった春日山城の天守閣にあって、俺はここ最近で癖になってしまったため息を再び吐いた。吐くたびに幸運が逃げていくというのなら、多分、今の俺の幸運値はゼロを通り過ぎてマイナスに達していることだろう。それも、地獄の上層に届きかねないレベルで。


 だが、それも致し方ないことだろう。
 俺の視線の先には、今、まさに城内に突入しようとしている敵軍の旗が見える。
 その中でも、一際、高々と掲げられる旗に記されるは、ただ一文字『毘』。
 言わずとしれた、戦国時代最強を謳われる越後の竜、上杉謙信の旗印である。
 確認するが、城に篭る守り手は俺。攻め手は謙信である。まあ、まだ今の時点では長尾景虎だが、そこは大した問題ではない。若いとはいえ、その将略は、前年の黒田氏謀反の際にもはっきりと示されている。
 問題なのは、あの謙信に攻められる立場になっている俺のことである。
 城門から城内にかけて、もう守備兵は残っていない。さして時間をかけることなく、謙信はここまでやってくるだろう。
 俺を殺しに。
「……ため息を吐くくらい、許されるよな、これ……」
 言いながら、またしてもため息を吐く。
 どうして、こんなことになったのか。すでにあらゆる準備を終え、することのなくなった俺の思いは、自然、過去へと遡っていった。



 
 

 唐突だが、この俺、天城颯馬(あまぎ そうま)はこの世界の住人ではない。
 このことを口にすると、十人中十人の人が、顔に笑みを浮かべて遠ざかっていってしまうのだが、事実だから他に言い様がない。
 年齢は19。性別は男。特技はどこでも寝られること。趣味は歴史の文献を漁ること。
 昨今、あちらこちらの大学で、文学部の予算が縮小されたり、廃止の憂き目を見ているが、うちの大学も、その例にもれず、文学部の肩身は狭い。
 もっとも、俺にとっては、あまり関係がないことでもある。
 別に就職の架け橋として大学を選んだわけではなく、好きな読書を、心行くまで堪能できる環境を求めて入った大学だ。俺が卒業するまでの間、文学部が存続してくれる以上のことは期待していない。
 とはいえ、現実は世知辛いもので、苦労の末にようやく入試をパスしたものの、学費やら生活費やらを捻出し、同時に単位を取得するために最低限必要な講義も受けなければならない。
 やれバイトだ、やれ講義だと駆け回っているうちに、最初の一年は過ぎてしまったような気がする。
 さすがに二年目からは、一年目より要領が良くなりはしたが、それでも想像していたよりも大学生活というものは大変なんだなあ、などといささか当てが外れていたところだった。
 

 それでも、サークルや合コンといったものに血道をあげる友人たちを尻目に、一人、のんびりとキャンパスライフを楽しんでいたおれは、大学二年の春、両親の墓参りをするために郷里の新潟に戻った。
 墓参りといっても、実家はすでになく、親戚縁者も皆無であり、墓前に花を添え、無事の近況を報告するだけのものである。
 その帰途、春日山城址に足を向けたのは、気まぐれに類するものだった。
 冬の寒気は去り、しかし夏の暑熱が訪れていない、一年でもっとも過ごしやすい季節の一つ。春日山を包む緑は、朝日に照り映えるように輝き、青々とした煌きが山全体を包みこむようにみえた。


 山の頂きから、緑萌えるその景色に、飽く事なく見入っていたおれの耳に、不意に、澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
 まだ朝早い時刻である。俺のような物好きが、他にもいるのかと周囲を見渡してみたが、俺以外の人影は見当たらない。
 はて、と首を捻ったおれの耳に、再度、鈴の音が聞こえてきた。
 何かに導かれるように、おれは鈴の音が響いてきたと思われる方向へと足を向ける。
 そして、ほどなくして、おれは復元された毘沙門堂の前に立っていた。


 簡素な造りの毘沙門堂の近くには、由来を記した立て札が設置されている。
 名所旧跡には良くあることだが、しかし、本堂にも、その立て札にも、鈴らしき物は見当たらなかった。
 あの音は、一体、どこから聞こえてきたのか。
 おれがそう考えた時、シャリン、と一際強く、三度、鈴の音が鳴った。先の二回よりも、はるかにはっきりとしたそれは、間違いなく何者かが意志をもって鳴らした音であると思われた。


 おれは、その音が聞こえてきた本堂に視線を向ける。本堂といっても、容易く全体を把握できる小ささであり、その内側を覗くことも出来るが、そこには当然のように人などいない。
 後から思えば、ちょっとしたホラー体験だったのだが、その時は別にそういった恐怖は感じなかった。おれが鈍感だ、というわけではなく、その手の出来事に共通した寒気や不気味さが少しもなかったからである。
 むしろ、朝靄けぶる毘沙門堂から鳴り響く鈴の音は、これから何か素敵なことが始まるのではないかという、いささか気恥ずかしい期待を、おれに抱かせたほどであった。
 ……まあ、それは単なる気のせいだったわけだが、ともあれ、おれは導かれるように本堂の中へ足を踏み入れ、そして。


 ――戦国の世に、やってきたのである。



◆◆



 最初は、何が何だかわからなかった。
 時間が経っても、やはり何が何だかわからなかった。
 状況がある程度把握できたのは、一体、何日経ってからだっただろうか。
 そこに到るまでのことは、涙なしには語れない。だが、男の苦労話なんぞ、語ってもあんまり面白くないだろうから割愛する。とりあえず、異世界に行った人間が、遭遇しそうな状況をそのまんま思い浮かべてくれれば、多分、現実に俺に起きたことと、そうそう大差はないと思う。


 異世界。今、俺はそう言った。
 繰り返すが、俺がやってきたのは戦国の世。それは、とある人物と、短い旅の道連れになった時、この地の守護が上杉氏であり、守護代の長尾氏が実権を握っていると聞いた時に知った事実である。
 その一方で、この戦国時代は、俺の知る戦国時代とは、はっきりと異なる部分があった。それゆえ、ここは過去の世界ではなく、異世界であると俺は表現したのである。
 端的に言うと、女性の地位が高いのである。聞けば、守護代の長尾晴景、景虎は姉妹であるというし、隣国の守護職、武田晴信もまた、年若き女性であるという。それ以外にも、色々と差異があることは、後になるに従って明らかになっていくのだが、それは後述しよう。


 女性の大名の存在。それは、俺が知る戦国の世を変えてしまうに、十分すぎるファクターであろう。
 そも、戦国時代、女性の地位はきわめて低く、その名前すら伝えられていない場合がほとんどであった。
 だが、もし、女性が男性と同等とまでいかなくても、それに迫る立場を獲得していたとするならば。
 単純に、男性と女性が同じ比率だとすると、俺の知る戦国時代は、全体の半分の人間が闇に埋もれていた計算になる。しかし、女性の地位に光があてられたと仮定すると、歴史を動かす人の力は二倍になる。政治、軍事、経済、芸術、思想、その他、おおよそ人間が関わる事象における可能性は、格段に伸びることになるのだ。その力は、容易く俺の知る歴史を変えるに足るものであるだろう。



 もっとも、良いことばかりではないのも、また当然である。男のくせに。女のくせに。そういった感情的な対立は不可避であり、それが騒乱の引き金になることさえあるからだ。
 そして、越後の国においても、それは例外ではなかった。先の守護代、長尾為景が没して後、後を継いだ長尾晴景の施政に反発する豪族の多くは、女性である晴景を侮り、その統制に服しようとはしなかったのである。
 越後の政情は、いまだ発火には至っていなかったが、しかし、火種は確実に燻っていた。
 そして、そんな不穏な空気が、民衆に影響を及ぼすことは必然であったのだろう。
 農民たちの視線は険しく、旅人に対する扱いは極めて高圧的なものとなっていたのである。出処不明、目的地不明、おまけに(彼らの目から見れば)奇妙な衣服をまとい、わけのわからない言葉を口にする俺のような人間が現れるには、まさに最悪の時期であったといえる。


 目を血走らせ、武器を持った農民たちに追われていた当初、おれの寝床は森の肥溜めであった。鼻の曲がるような異臭さえ我慢できれば、かなり安全だとわかったからである。誰も好き好んで、夜に肥溜めにやってきたりはしないのだ。どこでも寝られるという、非生産的な特技を、はじめて誇りに思えた瞬間であった。
 それはさておき、農民とは話さえままならず、大きな街に行こうとしても、各所に設置された関所で足止めされる。それどころか、他国の密偵ではないかと疑われたことも、一度や二度ではない。
 自分で言うのもいやらしいが、苦学生だったおれは、一日二日の絶食であれば何とかなる。幾度も経験したことだからだ。
 しかし、まともな物が食べられない日が一週間以上続けば、さすがにつらかった。このままでは、本気で飢え死にしかねん、と一念発起した俺は、市が立つとの噂を耳にしたことを思い出し、財布にたまたま入っていた真新しい一〇円銅貨を試してみることにしたのである。


 怪しまれたら、即逃げよう、と思っていたのだが、意外にも、これに高値がついた。実際、よく磨かれた銅貨は、光沢を放っており、貧しい農民の目には金銀と変わらぬ輝きを放っているように見えたのかもしれない。
 言葉を飾るまでもなく詐欺みたいなものだったが、そこはもう目をつぶることにした。正直、空腹でお花畑が見える状況だったのだから、勘弁して下さい。
 代価としてもらった銭で、市で売られていた果物を貪るように腹に入れ、ようやく人心地ついた俺だったが、同時に、周囲から注がれる奇妙にねとつく視線に気がついていた。すでに、服はこのあたりの農家の軒先から失敬した粗末なものに着替えており、見た目には不審に思われないだろう。肥溜めの匂いも、川で洗い流しておいたし。


 となると、やはり先の銅貨が原因としか考えられなかった。気がつけば、見るからに人相の悪い男たちが、数人、徐々に俺との距離を詰めつつあった。これはまずい、と判断した俺は、食べかけの果物を二つ三つ懐に入れると、素早くその場を立ち去ろうとする。すでに逃げ足だけはかなりのものになっていた俺だったが、久しぶりの食事を終え、身体がこれまでの疲労に対する休養を強硬に要求して止まず、思うように足を動かすことさえ出来なかった。
 結果。財布は渡すまいと抵抗した俺は、身包みはがされた挙句、抵抗の代償として、路上で殴打される羽目になる。
 この時代、農民は兵士でもある。その腕力は、軟弱な現代人が及ぶものではない。ましてや複数の男たちに囲まれては、我が身を守ることさえ出来はしない。おれは頭といわず、身体といわず、小突かれ、蹴飛ばされ、泥だらけになって地面に倒れこんでしまった。
 薄れかけた意識の外からは「殺す」「奴隷」「邪魔」「お宝」等、どう考えても暗い未来しか浮かばない単語ばかりが飛び込んでくる。



 だが。俺が意識を手放そうとする、まさにその寸前、それらの声が一変し、何やら慌しい雰囲気が伝わってくる。
 「無礼者」「守護代」「馬前」「下民」といった、さきほどとは別の意味で不穏な言葉が飛び交う。
 それらの声を聞きながら、ついに意識を手放したおれの耳に、一際大きな声で、こんな言葉が響いた。


「長尾晴景」と。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/14 21:27



「ほほう、天城颯馬、か。下民にしては、大層な名じゃの」
 そう言って、畏まる俺に向け、気だるげな視線を向ける女性。
 華美な衣装に、派手な装身具が、不思議と良く似合う人だった。つまり、日ごろからそれらの物を身に着けることの出来る身分の人である、ということであろう。
 年の頃は二〇代後半くらいだろうか。だが、濃い化粧のせいで、そのあたりは判然とせず、もっと若いようにも見えるし、あるいは三〇を越えている言われても、納得してしまうかもしれない。
 この女性、容姿を見れば秀麗と言ってもよいのだが、どこか頽廃とした雰囲気を感じさせるのは、酒に毒され、諸事の動作ににじみ出る物憂げな様子のせいであったろう。
 眼を啓き、正装すれば、辺りを払う気品さえ感じさせると思われるのだが、惜しいことだ。向こうにしてみれば、余計なお世話以外の何物でもないだろうが。


 この人物、名を長尾晴景という。
 越後守護代――すなわち、名のみの存在となった越後守護に優る、この国の支配者である。
 もっとも、その施政は、外見から推して知るべし。
 自身を飾り立てるのみならず、その配下や居城にも際限なく金銀を注ぎ込み、それをもって自身の権勢を誇る為人(ひととなり)である。
 越後は領内に、佐渡の金山や、豊穣の越後平野を抱えており、また長尾家は、晴景の父、長尾為景の代には隣国の越中にまで領土を持つほどの大家でもあった。
 そのため、春日山の府庫に蓄えられた財貨はかなりの量にのぼる。だが、それは決して無限の富ではありえない。浪費するだけで、見返りのない投資を続ければ、やがて底が見えてくるのは自明のことであったろう。


 そこで浪費を改めれば、まだ取り返しはついたかもしれないが、晴景はなおも益のない浪費を続けていく。いまや、長尾家の領民は、晴景の過度な浪費癖を補うための過酷な収奪に喘ぎ、その怨嗟の声は、膝元である春日山の城下にまで満ちつつあった。
 そんな晴景であるが、父、為景の後を継いだ当初は、決して評判は悪くなかった。有能ではあったが、苛烈な気性で恐れられた為景と違い、晴景は国人衆にも礼儀を失わず、人心に留意し、父とは異なる、人望によって成り立つ守護代の道を歩くかに見えたのである。
 だが、武を尊ぶ長尾家にあって、温和さは軟弱さととらえられ、穏健な判断は優柔不断なものと断じられるようになっていく。晴景が女性であることへの、偏見や侮蔑も、そこには少なからず混ざっていたのであろう。
 いつか、守護代である長尾家の統制力は、越後国内で減少の一途をたどるようになり、それは更なる事態を呼ぶ。
 為景時代からの家臣であり、晴景の側近といわれていた黒滝城主、黒田秀忠の謀反である。


 当初、黒田氏の謀反は早期に決着がつくものと思われていた。衰えたりとはいえ、長尾家は越後守護代として、越後全土に影響力を有している。
 一方の黒田氏は、たかだか一城の主であるに過ぎぬ。その手勢も限られており、討伐に赴いた長尾軍の勝利は確実と思われていたのだが――結果を言えば、討伐に赴いた長尾軍は大敗を喫してしまう。
 この戦いにおいて、知略に優れる黒田秀忠はいくつもの策を施しており、それは間違いなく戦を有利に傾けたが、実のところ、その細工がなくとも、長尾軍は敗退していたであろう。その理由は、ただ一人の敵将に求められる。
 柿崎和泉守景家。
 越後随一の豪傑と謳われ、また文にも明るいと評判のこの猛将の突撃の前に、長尾軍は緒戦から散々に蹴散らされてしまったのである。
 とはいえ、緒戦は、所詮、緒戦に過ぎない。腰をすえて反撃をすれば、挽回の余地は残っていたであろう。だが、この時代、守護、ないし守護代といえど、絶対の君主ではない。各地の豪族の、いうなれば旗頭として相対的に頂点に立っているのであり、指揮権は統一されていない。
 そこをいかに束ねるか。それこそ、軍総帥の器量の見せ所といえるのだが、生憎、晴景にその力量はなく、また諸将もそんな晴景のことを知っているため、柿崎勢に蹴散らされるや、各隊が各々、勝手に判断し、行動し、長尾軍は四分五裂の状態に陥ってしまった。
 この好機を見逃す黒田勢ではなく、本隊を動かして長尾軍に痛撃を与え、これにより長尾軍の敗北が確定する。


 城に逃げ帰った晴景は、堅城と名高い春日山城に篭り、報復の軍を起こそうともしない。
 この晴景の醜態を目の当たりにした国人の心は、以前にもまして春日山を離れてしまい、黒田氏に誼を通じる者は後をたたない有様であった。
 だが、その状況を知りながら、そこから目を逸らすように、なおも無益な蕩尽を続ける晴景。
 春日山の命運は、もはや尽きたと、国人のみならず、直属の家臣たちでさえ、そう思い始めた時である。


 一つの知らせが、春日山に。そして越後全土に轟きわたった。
 ――黒滝城、陥落。城主、黒田秀忠、自刃。


 それは、誰もが予期せぬ知らせであった。
 それはそうだろう。守護代の軍勢を撃破し、意気軒昂たる黒田勢が、ほとんど一瞬にして敗亡するなど、誰が考えようか。
 あまりの驚愕に言葉を失った越後の武者たちは、ようやく言葉を回復すると、皆、異口同音に、城を陥とした将の名前を訊ね――そして、一つの名前を脳裏に刻み込むことになる。


 越後栃尾城主、長尾景虎の名を。



◆◆



「なるほど、そんな状況なんですか」
 俺はそういって、下男の一人に礼を言った。
 長尾景虎という名を口にしたその下男の顔には、隠しきれない敬慕の色が浮かんでいる。
 今や、景虎様は、衰退著しい春日山長尾家にとって、希望そのものとなっているようだった。謀反を起こした宿敵を、鮮やかに制してのけた手腕は水際立ったものであり、彼らの期待は至極、当然のものであるといえる。
 たとえそれが、若干二〇歳に満たない乙女であるとしても。いや、乙女であるから、なお更に。
 長尾景虎の声望は、いまや越後国内を覆わんとしている状況であった。 


 だが、無論、この現状を面白く思わない者もいる。
 その筆頭が、実の姉である晴景様であるというのが、何とも皮肉な現実だった。
 晴景様自身が、有利な状況から一転、完膚なきまでに叩き潰された相手に対して、妹である景虎様が、いとも簡単に勝利したとあっては、姉としても、守護代としても、面目丸つぶれである。その現実を許容できるだけの度量を、残念ながら晴景様は持ってはいなかった。
「このままだと、姉妹対決になりかねない、か」
 俺は郷土の歴史にさほど精通しているわけではないが、それでも晴景様と景虎様が家督をめぐって争ったということは知っている。このままだと、それはこの世界でも繰り返されることになりそうだった。
 そのことは、正直、どうでも良い。もっと正確に言えば、どうでも良かった――つい先日までは。


 あの日。
 荒くれ者たちに暴行を受けていた俺を助けてくれ、更には城で手当てまでしてくれたのは、晴景様であった。まあ、本人曰く「気紛れじゃ」とのことだが、たとえそうであったとしても、命を救われた事実にいささかのかわりもない。
 しかも、晴景様は俺に仕事と、住む場所さえ提供してくれた。たとえ怪我が治ったとしても、あのままの状況が続けば、遠からず命を失っていたに違いなく、二重の意味で、晴景様は俺の命の恩人であると言える。
 今の俺は、春日山に居を置く、晴景様の御伽衆(相談役)の一人である。大きな声ではいえないが、暗君と名高い晴景様が、どうしてここまでの大盤振る舞いをしたのやら、正直、俺にはさっぱりわからんかった。
 あるいは、ひそかにこういったことをして、人材を集めていたりするのだろうか、と思って周囲の人に聞いてみたが、そんなことは未だかつてなかったという。
「わからん」
 俺は首をひねるしかなかった。


 とはいえ、肥溜めの近くで寝泊りしていたことを考えれば、今の環境は天国に等しい。それを与えてくれた晴景様には、どれだけ感謝してもしきれない。
 俺は、さほど義理堅い性格ではないが、しかし、命を救ってもらった恩を、仇で返すほどに薄情な人間ではないつもりだから、何とかして妹君である景虎様との衝突を回避しようと務めた。
 御伽衆は、いわば相談役であるが、当然ながら、俺のような新参の、それも農民出(ということにしている)が国政に携わる枢機に参画できる筈もない。せいぜい、晴景様の無聊を慰める話をするくらいである。
 それも、別に毎日呼ばれるわけではない。御伽衆は俺のほかにもたくさんいたし、その中には軍略や政治を説く者たちもいて、俺などは下っ端の、そのまた下っ端程度の認識をされているに違いない。


 それでも、呼ばれた時は、一ヶ月近くに及んだ逃走劇を面白おかしく話して聞かせる一方で、出来る限りのことをした。
 晴景様の行状を改めてもらおうと、頭を捻って風諌(直諌などしようものなら、下手すると俺の首が飛んでしまいそうなので)の辞を呈し、また、景虎様との関係を良くすることが、春日山長尾家の安泰の道であるとも説いた。
 そもそも、景虎様が黒滝城を陥としたのは、まぎれもなく姉である晴景様の為であり、その功績を嫉んで敵にまわしてしまうより、晴景様手ずから景虎様を褒め、今後の奮闘を期待すると伝え、姉妹で手をとりあって事に当たった方が良いに決まっている。
 そうすれば、情に厚く、義を尊ぶと噂の景虎様のこと、喜んで姉君のために刀を振るってくれるだろう。
 そもそも、守護代たる身に、武将としての力量は不可欠なものではない。無論、あるにこしたことはないが、戦は景虎様に任せ、その成果を政治に活かすよう努めることも一つの見識であろう。そうすれば、自然、晴景様の権威は増していくだろうし、越後国内の統一は、ほどなく果たされるのではないか。


 そのように晴景様に説いたのは、俺一人ではない。
 それどころか、心ある家臣たちのほとんどは、連日のように晴景様に、そのように進言していたのである。
 だが、晴景様は、その進言を取り上げようとはしなかった。それどころか、進言がされるたびに、眉間に皺を寄せ、不快さをあらわにするようになり、遂にはそれを口にしようとした者の顔に酒盃を投げつけることまでしたのである。
 ――ちなみに、投げつけられたのは、俺なわけだが。額がぱっくりと割れて、洒落にならないくらい、血が出てきて焦りましたよ、ええ。
 城の御典医さんに治療してもらい、事なきを得たので、やれやれと胸をなでおろし――翌日、また同じことを口にしたら、晴景様は唖然とした様子であった。
「普通、そこまでやられれば、口を噤もうとするものじゃろうに……」
 とは、半ば呆れた様子の、晴景様の台詞である。


 晴景様は、決して暴虐の性質ではなく、俺の意見に対しても、この一件以降、申し訳なさも手伝ったのか、多少は耳を傾けてくれるようになった。
 とはいえ、晴景様の行状が急速に改まることはなく、家臣や国人たちの心は、それまでと変わらず、春日山を離れ、栃尾に寄せられていく。
 その現状が、またいっそう、晴景様の守護代たるの自尊心を刺激して止まず、晴景様の勘気は、城内、城外、あるいは家臣や領民、国人を問わず、いたるところで爆発し、人心はますます晴景様から離れ……負の連鎖は、もはやとどめようがないように思われた。


 そして、俺が春日山に来てから一月あまり。決定的事件が起きてしまう。
 黒滝城陥落後、長尾家の配下に戻った柿崎景家が、春日山長尾家の当主である晴景の器量不足に愛想を尽かし、栃尾城主長尾景虎の配下につくことを宣言したのである。
 この挙によって、それまで水面下で行われていた諸勢力の動きが、一気に越後各地で表面化する。
 それまで、景虎様の人望がいかに厚かろうと、栃尾が、春日山に従う臣下の立場であることは間違いない事実であった。景虎様も、晴景様の妹である以前に、家臣として忠節を尽くさねばならない立場だった。
 だが、柿崎の宣言は、景虎様が晴景様の臣下の立場にはなく、家督を争いえる対等の立場であるとの認識を生み、その認識は瞬く間に越後全土に広がっていく。
 景虎様自身がそう宣言したわけではないにも関わらず、柿崎の宣言は、栃尾城が独立を宣言したに等しい効果を生んだのである。


 当然、その報を聞いた晴景様は激怒した。傍にいた俺の背筋が、思わず震えるほどの深甚とした怒りの表情を浮かべた晴景様は、ただちに栃尾城に使者を出し、景虎様を詰問するために呼びつけようとする。
 だが、柿崎の動きは、春日山側の予測をはるかに越えるものであった。
 自身の宣言が、十分に越後国内に浸透したと判断した柿崎は、正式に栃尾城に臣従を告げる使者を出すと、その使者が戻らぬうちに、居城である柿崎城から春日山に向けて、軍を発したのである。
 おそらく、使者が戻ってからでは、景虎様から何らかの掣肘がくわえられることを予期していたのだろう。あるいは、すでに秘密裏に双方の城の間で使者が往復していたのかもしれない。


 柿崎の離反、栃尾臣従、そして春日山への進軍。
 間をおかずに打ち続く凶報は、ただでさえ揺れ動いていた春日山長尾家の人心を崩すには、充分すぎるものであったようだ。
 それまで、落ち目であると知りながらも、春日山に従っていた者たちの多くが、晴景様を見限った。
 攻め寄せるのは、猛将柿崎景家。そして、間違いなく、栃尾城の長尾景虎も出てくるだろうと思われたからである。
 いずれか片方だけでも手に負えないというのに、この両者が攻め寄せて来るとなれば、命大事、御家大事の者たちが逃げ出すのは、むしろ当然のことであったろう。
 迫り来る柿崎勢に対抗するため、晴景様は越後各地の国人衆に動員を命じたが、ただちに春日山に参上しようとする者は一人としていなかった。
 ほとんどの者たちが領内の防備などを理由に参戦を拒否し、中には使者を捕らえて栃尾城に突き出す者さえ存在した。それも、少なからず。
 もはや、守護代の権威など、笑い話の種にしかなりえない状況となっていたのである。  


 結局、春日山がかき集めた兵力はわずか五百。それも、小者や下男まで含めた上でのことである。
 名のある将は一人としておらず、総指揮を委ねるべき者を探すことさえ至難であった。
 晴景様自らが出るしかないと思われたが、先の戦いで柿崎勢の勇猛に蹴散らされた記憶が生々しい晴景様は、自ら出陣しようとはせず、御前で開かれた軍議(と称しえるものならば)は、初手からつまずくことになった。



◆◆




「えーいッ! 柿崎はおらずとも、斎藤はどうした。本庄、色部、北条らは何故来んのじゃッ! 守護代たる身を軽んじおって、戦が終わりし後は、ただではおかぬぞッ!」
 晴景の怒声が軍議の間に響き渡ると、皆、平伏して一言も発することが出来なかった。
 だが、それも仕方のないことだろう。この場にいる武士は、中堅以下の身分の者たちばかり。常であれば、軍議に参加できるような身分ではないのである。
 だが、越後国内で名を知られた武将の多くが静観ないし敵方へ回ってしまった為、晴景はやむをえず、現在、城にいる武士たちの中で、位が上の者をかき集めたのである。
 そこまでなりふりかまわずに軍議を開いた晴景だが、その場に集った者たちを見て、さすがに寂寥を感じざるを得なかった。はっきり言って、ほとんど見覚えがない顔ばかりなのだ。つい先年までは、晴景と顔を合わせることさえ出来ない程度の武士たちしか、今の春日山には残っていないという事実の、それは厳然たる証左であった。


「――まあ、良い。だれぞ、意見はないのか。愚かしくも守護代たる妾に逆らい、攻め寄せてくる謀反人どもを血祭りにあげるのじゃ。今、手柄を立てれば、地位も恩賞も望みのままよ。名を上げ、家名を高めるまたとない好機じゃぞ」
 晴景は武士たちの功名心を鼓舞しようと試みるが、誰も意見を出そうとはしなかった。隣の者と視線をあわせ、力なく視線を落とす者たちばかりである。
 攻め寄せる柿崎の先手は三百。数の上では春日山が上回るが、兵の質を見れば、違いは歴然としている。
 数々の戦で、負けを知らぬ柿崎の黒備え。先の戦でも、数にして五倍を越える長尾軍を蹴散らした、勇猛なること無比との評価を持つ歴戦の騎馬隊なのである。
 その柿崎の精鋭を相手にするのは、小者たちに武器を持たせて、ようやくつくりあげた五百の軍。文字通りの烏合の衆で、越後最強の部隊に、どのように手向かえるというのか。
 武士たちが言葉が出ないのは、ある意味で彼らが最低限の現状認識が出来るだけの力量を有することの証明でもあったろう。勝ち目などない、と彼らはわかっていたのである。そして、それでもなお、春日山に居残ったということに、彼らの守護代への忠節が感じられる筈であった。


 しかし、晴景はそこまで察することが出来ない。
 こんな時でも、丁寧に施された化粧で、晴景の顔はあでやかに彩られていたが、それは苛立たしげに唇を噛む晴景の表情を隠しおおせることまでは出来ないようであった。
 不甲斐ない配下への憤りと、迫る破滅への足音に心身を両側から圧迫され、晴景は苦しげに息を吐く。
 自身で出陣は出来ぬ。配下に任せることも出来ぬ。妹に降伏することなど、なお出来ぬ。
 追い詰められた心が悲鳴を上げ、晴景はその音に耐えかね、再度、配下に向けて叱声を放とうとしたのだが。


 ふと。
 この場にあって、諦観もなく。動揺もせず。泰然と座る者の姿が、その眼に映し出された。
 その者の額に生々しく残る傷跡が、晴景に、その名を思い起こさせる。


 ――天城、颯馬。


 知らず、晴景はその名を口にしていた。



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/19 23:19


 越後、栃尾城。
 この城は、元々、豪族の一人である本庄氏の居城であった。
 だが、現当主実乃(さねより)は、守護代の妹である長尾景虎の器量を見抜き、またその将来に越後の平和という自身の夢を重ね合わせた末に、城主の座を景虎に譲り渡す。
 先年、長尾家に謀反を起こした黒田秀忠を討った戦においても、本庄勢は、景虎軍の主力の一つとして、功績を挙げており、実乃自身、直江、宇佐美といった景虎直属の家臣たちに並ぶ信頼を受けていたのである。


 その栃尾城、最上階に位置する城主の間。
 今、そこには、城主である景虎を筆頭に、四人の人物が座り込み、現在の越後の状況について意見を交し合っていた。
 上座に座るのは、無論、城主である長尾景虎である。
 蒼を基調とした衣服は、晴景の華美なそれとは対照的に、清潔さと質素さを旨としたものであった。無論、材料自体は高価なものであったが、景虎自身の清冽な性格とあいまって、見る者に澄んだ印象を与える。
 景虎は、眼前の越後国内の地図に視線を落としたまま、先刻から身動ぎ一つせず、何事か考えにふけっている様子であった。


 その景虎の隣に座し、声を高めているのは、越後与坂城主、直江兼続である。
 兼続は、元の姓を樋口といい、幼い頃から景虎の近習として仕えてきた経歴を持つ。兼続は、女性ながらに文武に優れた才能を見せ、景虎の側近として名を知られるようになるのだが、その兼続の聡明さを一際愛したのが、先の直江家当主であった。
 跡継ぎのいなかった当主は、主君である為景、そして景虎に請い、兼続を養子として直江家に迎え、当主の座を譲り渡そうとする。
 だが、この人事に最も難色を示したのは、為景でも景虎でもなく、当の兼続であった。兼続の希望は、一国一城の主ではなく、あくまでも景虎に仕えることであり、城主として与坂城におさまることに、激しい反対を唱えたのである。
 直江家としては、当主が示した無類の好意を足蹴にされたに等しかったのだが、兼続の主君に対する実直さは、無骨者の多い越後武士にとって、むしろ好ましいものに思えたらしい。
 結局、先の当主が隠居の身ながら、これまでどおり城主としての勤めを果たし、兼続は景虎の側近として仕えるという形で落ち着いたのである。


 その兼続の隣。落ち着いた面差しで、天守の向こうに広がる越後の梅雨空を眺めている女性の名を、宇佐美定満という。
 本庄実乃と並ぶ景虎の軍学の師であり、琵琶島城主宇佐美家の当主であり――そして、かつては春日山長尾家に敵対する立場でもあった。
 景虎の父、為景は越後守護代として勢威を振るっていたが、主家にあたる上杉氏の当主を、二度に渡り弑逆した梟雄としての一面を持つ。
 定満は、その振る舞いに対して、敢然と異を唱え、何年にも渡って為景と抗争を繰り広げ、一時は為景をして、佐渡に逃げ出さざるをえない状況にまで追い詰めたこともあった。
 この勝利によって、越後は平穏に戻ると思われたのだが、定満の廉直さは、為景にのみ向けられたわけではなく、自身が担いだ上杉家の当主にも向けられた。
 長尾家を追い落としたことで、増長しはじめていた当主に対し、再三、苦言を呈した定満は、次第に上杉氏からも疎まれるようになっていく。その過程には、佐渡の為景の策略も含まれていたと思われる。
 結局、為景は佐渡から舞い戻り、上杉氏と宇佐美氏との間隙を衝いて勢力を回復するのだが、その後も定満は、為景に屈することなく戦い続けた。
 最終的に、現越後守護職、上杉定実が仲介の労をとったことで、春日山長尾家最大の敵であった宇佐美家は、その矛を収めることになるのだが、その報を聞いた為景の顔には、隠しきれない安堵が、ありありと浮かんでいたという。


 そのこともあって、宇佐美定満の名は、越後国内では大きな影響力を持つ。
 為景との抗争で、定満の将略が優れていることは誰の眼にも明らかとなったが、一方で、内政の手腕も水際立ったものであった。
 居城である琵琶島城をはじめとした領内は治安も良く、領民の信望も厚い。
 文にも、武にも優れた、越後屈指の名将。それが宇佐美定満に対する、人々の評価であった。


 為景と同年代で争っていたという事実からも明らかなように、この場にいる四人の中で、定満は最も年配者であり、本人もそれを否定することはない。
 にも関わらず、定満の外見は、良いところ景虎の姉くらいの年頃にしか見えなかった。それどころか、時に兼続と同年代だと思われることさえあって、兼続の自尊心を、そこはかとなく傷つけることもあったりする。無論、定満本人に、そんなつもりは欠片もないのだが。、
 今もまた、どこか茫洋とした眼差しで、空に視線を向ける定満の顔には、童女のような無心さが感じられ、年齢を感じさせない雰囲気をかもし出していた。
 ――ちなみに、服はごく普通のものである。


 
 最後の一人。先年まで、この城の城主であった本庄実乃は、越後武士として、一角の者であるとの自負こそ持っていたが、視野の広さにおいて、他の三人に遠く及ばぬ自分を承知していたゆえに、こういった軍議の場では、聞き手にまわることがほとんどであった。
 一見、何の役にも立っていないように見えるが、景虎の実乃に対する信頼は厚い。
 実乃は、景虎にとって、他者が自分をどのように見ているのか。それを映す鏡に等しいからである。
 『毘』の旗を掲げ、戦場を疾駆する景虎は、その信仰する毘沙門天の化身と呼ばれ、恐れられていた。人ならざる存在である、と半ば本気で信じられているほどに、景虎の戦の才は卓絶しているのである。
 側近の兼続や、定満もまた、景虎ほどではないにしても、その才腕は図抜けたものだ。
 だが、それゆえにこそ、配下の者たちが景虎たちについていくことは容易ではなかった。彼女らが、どれだけ神速に軍を動かそうと、機略を縦横に振るおうと、従うべき兵士がいなければ、孤軍独闘に終始してしまう。
 それゆえ、実乃の常識的な意見や、判断は、景虎にとって貴重なものなのである。
 他者がどのように考えているのか。それを知り、用兵策戦の参考にする。その上で、栃尾勢の戦い方を決めていく。
 それが、栃尾城における軍議の習わしであった。



◆◆



「柿崎めッ。景虎様のご心痛も知らず、勝手なことを! これでは我らが春日山に宣戦布告したも同然ではないかッ!」
 兼続は強い調子で膝を叩きつつ、柿崎の独走に苛立ちを見せる。
 景虎らは、姉である晴景のために黒田秀忠を討ち取った。それは、ほぼ完璧な結果を出すことが出来たのだが、あまりに圧倒的な戦果ゆえに、守護代である晴景の疑心を刺激してしまい、春日山と栃尾の間に不穏な空気を生んでしまった。
 そのことを、景虎が表情にこそ出さないが、苦にしていることを察している兼続にとって、今回の柿崎の独走は、暴走に類するものに映ったのである。


 その兼続の見解に、首をかしげて見せたのは、宇佐美定満であった。
 定満は兼続よりも柿崎との付き合いが長い。かつて、為景と戦ったときには、同じ戦場で見えたこともある。
 それゆえ、柿崎に対する考察は、兼続のそれより、一段深い。
 定満が口を開く。
「……柿崎は、見かけほど単純じゃない。景虎様が、春日山と戦いたくないと思っていることにも、気づいている筈」
「ならば、なおのこと、状況をかき回すような真似は控えるべきでしょう。今、動けば、守護代がどう思うかなど、わかりきっているでしょうにッ」


 兼続の反論に、宇佐美は己の推測を述べた。
「……叱咤、のつもりかも」
 それを聞き、兼続は怪訝そうに眉を寄せる。
「叱咤とは、柿崎から景虎様への、ということでしょうか、宇佐美殿?」
「ええ。柿崎は、良くも悪くも越後の武士。その目には、景虎様が、守護代殿と血を分けた姉妹ゆえ、戦いを厭うていると映ったのでしょう。そして、それは柿崎にとって、惰弱と見えた」
 一言一言、確かめるようにゆっくりと、定満は言葉をつむいでいく。
「その心を諌め、景虎様を否応なく春日山との戦いの舞台に引っ張り上げる。今回のそれは、そのための行動。今の状況では、私たちと春日山との対立を解くことは難しい。いずれ、景虎様は決断しなければならなかった。でも、それは他の人から見れば、叛逆に他ならない。だから、柿崎は、先んじてそれを行った。景虎様に対して恩を売る為、そして越後国内での主導権を握る為。一つの石で、二羽の鳥を、というわけ」


 定満の言葉に、兼続は咄嗟に反論することが出来なかった。
 事実、兼続もまた、春日山との戦いは不可避であると考えていたからである。さらに兼続は、越後の行く末を考えるならば、これ以上、春日山から人心が離れる前に、景虎が当主として立つべきであるとさえ考えていた。
 だが、同時に、主である景虎が、主君であり、姉である晴景に弓引くことを肯うような人物ではないことも理解していた。
 それゆえ、今回、柿崎の侵攻の第一報を耳にした瞬間、好機と思わなかったといえば、嘘になってしまうかもしれない。


 実乃が、髭をひねりつつ、困惑したように口を開いた。
「柿崎殿の思惑が、定満殿の申される通りだとすると、それは功を奏したとしか言いようがありませんぞ。城の将兵の多くが、景虎様が決起するのを、今か今かと待ちかねておる始末。それは、城下の民も同様でござる。実を言えば、それがし、すでに幾度となく、下の者から、景虎様のご決断を仰ぐよう、せっつかれておりますので」
 景虎が春日山長尾家の主となれば、当然、その配下の将兵も、恩恵に浴することになるだろう。
 また、そういった損得勘定を抜きにしても、現在の越後国内の状況は、不穏きわまりなく、このままでは隣国の侵入を招くであろうことは、火を見るより明らかであった。
 そのような事態になる前に、景虎は決起すべきというのが、景虎の周囲にいる大部分の者たちの総意なのである。





 沈黙が、軍議の間に流れる。
 兼続、宇佐美、そして実乃の視線が、彼らの主に向けられる。
 その視線の先で、景虎はしずかに目を閉ざしていた。
 天守の間に、やや強い風が吹き込んでくる。
 見れば、栃尾の空を覆う雲の動きが早まっている。まもなく、雨が振るかもしれない。


 正義を掲げ、天道を歩まんとする景虎。その志を、景虎は元服よりこの方、一時たりと揺るがせにしたことはない。
 だが、同時に、自らの歩む道が、万民の理解を得られぬものであることも、景虎は承知していた。
 人間とは、容易に欲望を切り離せぬもの。毘沙門天への信仰で己を律している景虎であっても、時に欲と感情に己を見失いそうになることはある。
 まして、拠るべき信仰を持たぬ者たちが、どれだけ己が欲にのまれて進退を誤り、身を滅ぼしてきたか。幼い頃から越後の動乱を目の当たりにしてきた景虎は、それを誰よりも良く知っていたのである。


 それゆえ、景虎は研鑽を積み、自らを鍛えると同時に、常に、他者の目に自分がどのように映っているのか、留意する必要があったのである。
 修験者であれば、自分ひとりのことを考えれば事足りよう。
 されど、越後の戦乱を、そして、日ノ本の戦乱を憂い、乱麻のごとき世を正すことを念願とする景虎は、欲望に飽かせて戦いを繰り返す、強欲な諸国の武者たちをも従えなければならない。
 そのためには、ただ戦に勝てば良いというものではなかった。
 景虎は知らしめねばならなかったのだ。越後に、そして日ノ本全体に。


 この乱れた世にも、守るべき秩序はあるのだと。
 それは手を伸ばせば届くところにあるのだと。
 そして、それを守る為には、特別な覚悟など何も要らぬ。胸奥のためらいを払いのけ、ただ、一歩を踏み込む、それだけで世は変わるのだと。
 

 己が欲望にのまれた者が、声高に叫んだところで、誰もそのような言葉、信用するまい。
 ゆえに、景虎は研鑽を積む。望む未来を得るために。
 ゆえに、景虎は心を研ぎ澄ませる。破邪の心を、乱世を切り裂く刃となすために。
 その清冽な決意と、たゆまぬ志こそが、長尾景虎の神武の源泉。
 欲心にあかせて、主君に歯向かった愚か者などが、かなう道理がある筈もなかった。





 そして、そんな景虎であればこそ、今の状況は難しかった。
 起てば、主君に逆らう謀反人。我が姉に背いた人非人。その罪深さは、自ら討った黒田にまさる。
 だが、起たねば、家臣と領民の期待を裏切り、越後の戦乱を放置した愚者に堕す。
 この後に起こるであろう戦乱に踏みにじられる人の数を思えば、今の状況を捨て置くことが、どれだけの罪になるのか、景虎には痛いほどに分かっていたのである。
 兼続らの視線の先にある景虎の顔は、落ち着いて見えたが、その内心が、どれだけ苦悶に満ちているかを察せない者は、この場にいない。
 だが、栃尾長尾勢がどう動くのか。その決断を下すことが出来るのもまた、景虎をおいて他にいない。
 それゆえ、言うべき意見を言い終わると、兼続、定満、実乃の三人は、決断を促すように景虎を見つめることしか出来なかったのである。
 それが、主君にとって、どれだけ辛い決断であるのかを知りつつも、そうする以外になかったのであった。



 沈黙は、それからしばしの間、続く。
 それを破ったのは、景虎ではなかった。
 天守の間に上ってきた景虎配下の武士の一人が、報告をもたらしたのである。
「申し上げますッ! 春日山城に篭る守護代様の軍勢が動いたとの報告がございましたッ」
「なんと?! まことか?」
 応じた実乃の声には、率直な驚きが込められていた。


 春日山勢の総数が、千にはるかに届かない寡兵であることは、すでに軒猿と呼ばれる忍びたちの働きで、栃尾方は掴んでいた。
 一方、攻め寄せるのは、音に聞こえた柿崎の黒備え三〇〇騎。そして、その背後には千に近い足軽たちが続いている。惰弱な晴景が篭城策を選ぶであろうことは、誰もが予測するところであった。
 事実、実乃のみならず、兼続と定満もまた、そのように考えていたのである。
 しかし、晴景はそんな予測を裏切り、出戦したという。



 報告はなおも続いた。
「春日山勢は、関川を越えて進軍し、侵攻する柿崎勢を強襲ッ! 善戦するも、およそ一刻後、これに敗北したとのことでございます。敗兵は、散り散りになって春日山城を目指しているとのことですが、柿崎勢はこれに猛追を仕掛けており、壊滅は時間の問題かとッ!」


 
 その報告に、誰よりも早く反応した者がいる。 
「――敗兵が、春日山に向かっている。そう言ったか?」
 その声は、危急を告げる報告を前にして、落ち着きを失っていなかった。
 清流のように、心に染み入る声音は、栃尾城主、長尾景虎のものである。
 主君の問いに、報告に来た配下が、かしこまってこたえた。
「はッ。春日山の軍は、態勢を立て直した柿崎の黒備えに一蹴された後、算を乱して城へ向けて敗走しているとのことですが……」
 主君の問いの真意を解しかねて、その兵は、かすかに怪訝そうな顔をする。
 だが、景虎はその答えで、何事かを悟ったようで、小さく頷くと、報告の労を謝した。
「そうか、ご苦労だった――兼続」
「は、はい」
「栃尾全軍に出撃の用意を。ただちに春日山へ向けて進軍を開始する」
「ぎ、御意にございます」
 主君の命令に頷きながらも、兼続もまた戸惑いを覚えていた。先刻から、逡巡し続けていた景虎が、どうして突然に決断を下すことが出来たのか。
 勝者の尻馬に乗るような景虎ではない。あるいは、勝利した柿崎が、春日山城の晴景の身に危害を加えることを恐れたのだろうか。


 それにしては、と兼続は内心で首を傾げる。兼続は、長年、景虎に近侍してきた身である。落ち着いた表情の奥で、景虎が何を考えているか、おおよそのところを察することはできた。今の景虎からは、姉の身を案じる焦燥も、柿崎の暴走に対する憤りも感じられないのだ。
 ここで口を開いたのは、実乃である。
「景虎様。この出陣、春日山の守護代殿をお助けするため、ということでよろしいのでしょうか?」
 景虎の性格を知悉している実乃は、兼続と同じように、景虎が柿崎の勝利に追随しようとしているとは考えなかった。
 となれば、目的はただ一つ。勝勢に乗った柿崎勢を抑えることであろうと判断したのである。  


 だが、景虎は、実乃の言葉に、首を横に振って見せた。
 兼続と実乃が、景虎の真意を解しかねて、顔を見合わせる。
 兼続が口を開いた。
「あの、景虎様。では、此度の出陣の目的は何なのでしょうか?」
 配下の問いに、景虎は面差しをわずかに傾けると、定満に問うた。
「――定満は、わかるか?」
「……柿崎の、救援」
 迷う様子もなく、そう答える定満。
 そして、景虎は、今度は首を縦に振ったのである。


 だが、兼続と実乃の二人の戸惑いは消えなかった。
 それどころか、何故、勝利をおさめた柿崎を救援する必要があるのかという疑問が付け加えられてしまった。
 そんな二人の様子を見て、景虎は静かに口を開く。
「言うに忍びぬが、今の姉上の軍では、柿崎勢を相手に出戦しても、勝ち目は少ない。だが、篭城したところで形勢は不利になりこそすれ、有利になることはないだろう。であれば、まだ打って出る方が、勝算はある」
「それは、理解できますが。しかし、出戦した春日山勢は、柿崎に敗れたと報告があったではありませんか。もはや、勝敗はついたと思われますが?」
 実乃の疑問はもっともであった。
 だが、景虎はよどみなく、報告の裏にあるものを見抜いていく。
「軒猿が申していただろう。今の春日山の軍は、小者まで駆り集めた烏合の衆だと。実乃、そんな烏合の衆を、柿崎勢を相手とした戦に出せばどうなると思う?」
「……そうですな。戦う前から四散してしまうのが、関の山でございましょう。よほど確固とした勝算を示しでもせぬ限りは」
 景虎は、小さく頷いた。
「そうだ。そして、今回、春日山の軍勢は、四散することなく、関川を越えて柿崎を強襲したという。そして、敗れた後も、城を目指して逃げている、と。戦に勝った柿崎が、春日山めざして追撃してくるのは自明の理。敗れた兵士たちとて、そのことはわきまえているだろう。にも関わらず、彼らは春日山を目指している。そして、春日山に到るために、柿崎は当然、関川を越えねばならぬ」
 この景虎の言葉で、兼続の目に、理解の色が浮かぶ。
 自然と、その口から言葉がもれた。
「この梅雨時、川の水量は増していますね。騎馬の機動力は意味をなさなくなりますが、勝勢に乗った柿崎は、強引に押し渡ろうとするでしょう」
 定満が、兼続の言葉に頷きながら、ここでようやく口を開く。
「……敵の渡渉時、半ば渡るに乗じるは兵法の基本。出戦で稼いだ時間で、川に堰をつくることが出来れば、効果はさらに増す」


 実乃もまた、越後の名のある武者の一人。ここまで説明されれば、戦況の輪郭を把握することは出来る。
 すなわち――
「春日山は、水を用いたわけですな」
「うむ。ただ川を挟んで対陣するだけなら、柿崎とても、それに引っかかることはあるまいが、勝利は酒よりも人を酔わせるもの。春日山を侮りきった柿崎に、この計略は見抜けまい」
 景虎の言葉に深く頷きつつ、しかし兼続はすべての疑問を払拭したわけではなかった。
 その疑問が、兼続の口をついて出る。
「しかし、景虎様。今の春日山に、それだけの軍略を持つ者がいるでしょうか? 晴景様は戦に疎い方です。この窮状にあって、兵士たちを従わせることが出来るかさえ、正直、疑問です。兵士たちに勝算を示して離心を妨げ、実際にその計画通りに兵を動かす。柿崎の勇猛を考えれば、偽りの敗勢が、まことの敗走に変わることも十分にありえるでしょう。それらを克服した上で、奔流の計で柿崎を打ち破るなど、なまなかな将では不可能です。恐れ多いことながら、晴景様にそこまでの力量があるとは思えませんし、今の晴景様の下に、名のある軍配者がいるとも聞こえてきません」
 兼続の言葉に、実乃も、控えめに同意を示した。
 これまでの春日山勢の戦働きを思い返してみても、そこまで鮮やかな戦ぶりを示すとは信じがたい、というのが正直なところである。
 全てが偶然であるとは思わないが、あるいは春日山の無軌道な戦ぶりが、怪我の功名となって現在の戦況を形作った可能性はあるだろう。現状から、春日山勢を過大評価しているのではないか、という疑念を、兼続と実乃は拭えなかった。


 景虎は怒らない。
 兼続たちの見解に、少し困ったように頷いた。
「確かに、その可能性も否定できないな。だが、もしそうならば、先に実乃が申したように、柿崎を止める必要が出てくるだろう。どのみち、春日山には行かねばならないのだ」
 その言葉に異論がある者は、この場にはいなかった。
 皆、景虎に向けて一斉に頭を垂れ、出陣の支度をするために踵を返したのである。





 一人、城主の間に残った景虎は、勢い良く流れる黒雲に視線を投じる。
 視線の先では、黒雲が、現れては流れていく。一瞬もとどまることなきその様は、まるで越後の地に生きる民人たちのようだった。戦乱にあえぎ、田畑を耕すことも出来ず、逃げ惑うことしか出来ない、力なき民たち。
 天道とは、すなわち民が笑顔でいられる世に続く道である。毘沙門天の旗の下、景虎が目指す場所は、今も昔も変わらない。
 荒々しく乱れる天の姿に、景虎は、立ちはだかる障害の大きさを総身に感じていた。
 そして、同時に。


 景虎が目を閉ざすと、風が、雨の匂いを運んできた。おそらく、今夜、天は荒れるだろう。
「嵐は、時節の変わり目に来るものだが……さて、この嵐は、いかなる時を呼ぶのかな」
 時代の変化の匂いを、かすかに感じ取った景虎の口から、小さな呟きがもれたのであった。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/10/21 21:13


 九曜巴の軍旗を掲げ、春日山城を出陣する長尾勢。
 その数は五百。事実上、現在の春日山長尾家が集めうる総兵力である。
 そして。
「天城様、どうぞ、出陣のご命令をッ!」
 俺の傍らで、力みかえって促す女武者。
 名を、小島弥太郎という。後に「鬼小島」として、諸国に恐れられることになる武将である。
 同時に、今は、乙女としては大柄な体躯(十五になってないのに、俺より背が高い)を気にする、年頃の女の子でもあったりする。
 その弥太郎の言葉に頷きながら、俺は晴景様から預かった采配を高々と掲げ、まっすぐに振り下ろす。迫る柿崎勢の精強を考えれば、この出陣の勝算は決して高くなかったのだが、兵士たちは雄雄しい雄たけびをあげて、俺の指揮に応えたのであった。



 この状況に到るまでには、無論、様々な理由が存在する。
 ――いや、まあ、一言で言えば、晴景様に指揮官を押し付けられただけなのだが。
 人を斬ったり、斬られたり。そんな物騒なこととは無縁の俺は、軍議の席で他人事のようにのんびり座っていただけなのだが、晴景様の目には、何やら心中に秘めるものがあるように見えたらしい。
 いきなり名を呼ばれた挙句。
「よし、颯馬、大将はそなたじゃ」
 と言われた時には、目と口で〇を三つ、つくってしまいました。
 これが、通常の軍議であれば、他の面々がこんな適当な決定を認める筈もなかったのだが、運の悪いことに、今回、春日山の軍議に出ていた人々は、元々、身分の低い者たちばかり。守護代たる晴景様の決定に、否やを唱えることが出来る者はいなかったのである。


 当然、俺は抵抗した。
 晴景様には命の恩がある。戦えと言われれば、拒絶は出来ない。だが、俺自身のみならともかく、俺以外の人たちの命まで背負うことなど、出来る筈がないではないか。皆、親もいれば子もいるのだから。
 だが、そんな反論を受け入れる晴景様ではなかった。
「ならば、そちが勝てば良いだけのこと。そうじゃろう、颯馬」
 などと笑って言うと、事は決したとばかりに、とっとと軍議を終わらせてしまったのである。
 残った人たちは、呆然と顔を見合わせるばかりだった。



 とはいえ、いつまでも放心してはいられない。
 晴景様に再考を促す時間もない。柿崎勢は、こうしている間にも、刻一刻と、この城に迫りつつあるのだ。降伏したところで、良くて捕虜の身。悪くすれば斬首である。また、この時代、勝者の略奪暴行は黙認される――というより、当然の権利として考えられている節さえある。城に残る侍女たちや、子供たちがどんな目にあわされるか、想像することは難くなかった。


 俺が、この城に起居するようになって、しばらく経つ。当然、知り合いもいるし、不慣れな俺に優しく接してくれた人もいる。もちろん、気に食わない人間はいたし、追従者と陰口を叩かれたりもしたが、総じて越後の人たちは朴訥で、誠実な好い人たちばかりであった。
 彼らが蹂躙されるところを見るなど、御免こうむりたい。まして、今の俺は、晴景様から春日山防衛の任務を授けられた身。かなわずとも、全力を尽くす義務があるだろう。
 俺は自らにそう言い聞かせ、晴景様から授かった采配を手に、立ち上がったのである。




 そうして、まず俺がやったことは、城の府庫から、ありったけの金を引き出すことである。
 晴景様の蕩尽のために、減少の一途をたどっていたが、未だ春日山城には、それなりの財貨の蓄えが残っていた。
 俺は、その半ばを、集まった兵士たちに配ったのである。
 皆、金銀など、見たこともないような下級の武士や、農民兵たちである。配られた財貨に、目を丸くしていた。
 そんな彼らの前に立って、俺はやや緊張しながら口を開く。
「此度、晴景様より采配をお預かりした天城颯馬と申します。今、各々に配りし財貨は、この危急存亡の危機にあって、なお長尾家の下に参じてくれた皆々の忠勤に対するささやかな褒賞とお考え下され」
 俺の言葉に、ようやく我に返った将兵から、ざわめきが起こりだす。
 だが、俺はそれに頓着せず、さらに先を続けた。
「今、申し上げたように、お配りしたのは、ここに立っている皆々の忠義の念に対しての褒賞。これから始まる戦に関しては、新たに褒賞が与えられます」
 俺は、一呼吸入れた後、再び、口を開く。
「しかし、此度の相手は勇猛名高き柿崎勢。必勝を期して策を練りますが、犠牲は避けられないでしょう。まして、我が身ははじめて采配を預かる若輩者。私などに命を預けられるか、とお考えになる方もおられましょう。それゆえ、これより始まる戦は、志願してくれた方々のみで行う所存です。我が采配に従ってくれるお心をお持ちの方は、お名前を記帳に記していただきたい」
 言いながら、俺は額に冷や汗が流れるのを感じていた。本来、指揮官たる者、将兵に対して必勝の信念を植え付けることが、第一の責務である。
 その意味でいえば、俺が口にしていることは言語道断であろう。


 だが、実績のない人間の大言壮語もまた、みっともないものである、と俺は考える。彼らには、俺に命を預けるに足る理由は存在しない。それゆえ、俺は彼らに理と利を提示する必要があったのである。
「この記帳は、忠義と献身の心を持つ方々の名を知ると同時に、武運つたなく戦場に散ることになった際、残されたご家族への金銀の補償を行う為のものでもあります。勝利すれば、その勲によって更なる褒美を得られるでしょう。しかし、たとえ武運つたなく敗れることになろうとも、皆々の忠義の心を無為にはいたしません。このこと、守護代長尾晴景様の御名にかけて、ここでお約束するものであります」


 俺は言うべきことを言い終わると、小さく息を吐いて、将兵の様子をうかがった。
 ひそやかなざわめきには、信じられぬ、とでも言いたげな驚きと、そして小さな疑念が混ざっているように思えた。
 忠義の心を、金で買う。正直、自分がやっていることは、ろくなものではない。越後の武人たちにとっては、侮辱された、と思われてしまうかもしれない。あるいは、今、配った金銭を手に、春日山城を去られてしまえば、万事窮してしまうだろう。
 もっとも、そうなったら、おとなしく諦めるしかない。晴景様には申し訳ないが、この人選の過ちは、晴景様の最後の失策となってしまうことだろう。


 俺が、そんなことを考えていた時だった。
 一人の若者が、ためらいながらも、俺の前に歩み寄ってきた。
 大柄な体格をした兵士だが、その顔には、まだ幼さが垣間見える。おそらく、俺よりも何歳か年下であろう。
「天城……様」
 その声を聞いて、俺は驚いた。
 若者とばかり思っていたが、その高い声音は、明らかに女性のものだったからである。
 女性兵士は、おずおずと、言葉遣いを気にしてか、一言一言、確かめるように、ゆっくりと口を開いた。
「あの、私、家に家族が、父ちゃんと母ちゃん、あと、弟たち、妹たち、あわせて六人、いるんです。家、貧しくて、それで今回、お城の兵隊の募集に応じただけなんですが。こんなにたくさんのお金、もらっちゃって良いんですか?」
「もちろん。理由はどうあれ、君が、今、ここに立っていることは確かなのだから。遠慮することはないよ」
 相手が年下(多分)の女の子とわかって、俺はやや口調をくだけたものにした。
 良くみれば、重たげな甲冑を身に着けているにも関わらず、少女の様子に苦しげなものはなく、軽々と甲冑を着こなしているように見える。かなりの膂力の持ち主と思われた。
「で、では、今度の戦、頑張れば、もっとご褒美、もらえますか?」
 少女を安心させるために、その問いに、力強く頷いてみせる。
 今は、女の子を戦わせるということの是非はおいておく。周囲の将兵は、俺の一挙手一投足を観察しているだろう。目の前の少女一人安心させられなくて、どうして他の者たちに示しがつこうか。


 俺の答えに、少女は、満面に笑みを浮かべながら、最後の問いを、俺に向けた。
「あの、もし、私が死んじゃっても、父ちゃんたちのところにお金は届くんですよね? 弟や妹が、ひもじい思いをすることは、ないんですよね?」
「約束するよ。もっとも、君が死ぬということは、春日山の軍勢が敗れるということで、その時には俺も生きてはいないだろうけど。勇敢に戦った者たちには、相応の報いがなければならない。そのこと、晴景様にきちんとお願いしてあるから」
 ただ、と俺は少女の左の腕を、そっと叩いた。
「君のご家族は、死んだ君に金をもらうより、生きた君に会うことの方を喜ぶと思う。私も出来る限り、勝利のために力を尽くす。君も、勝利し、そして生き延びられるように、力を尽くしてくれ」
「……は、はいィッ!!」
 俺の手が身体に触れるや、少女は電気に触れたかのように、ビクッと身体を振るわせると、直立不動の態勢をとった。
 あまりの反応ぶりに、俺が小さく苦笑すると、それを見て取った少女は、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。


「……じゃ、じゃあ、その、名前を」
 少女が言うと、俺の後ろに控えていた城の祐筆が心得たように、少女に名を問うた。
「こ、小島弥太郎といいます」
 名を聞くや、祐筆は見事な達筆で、少女――小島弥太郎の名を記していく。
 その傍らで、俺は目を点にしていた。
 戦国時代、鬼と呼ばれる武将たちが幾名か存在する。
 有名なところで、鬼島津こと島津義弘。鬼柴田こと柴田勝家。鬼道雪こと立花道雪などである。
 いずれも優れた武威の持ち主であり、その存在を諸国に恐れられた武将たちである。そして、上杉家にも一人、鬼と呼ばれた武将がいた。
 その者の名こそ小島弥太郎。鬼小島と呼ばれた、上杉謙信の忠臣である。
 もっとも、他の鬼武将と異なり、小島弥太郎は、実在を疑う説もあるくらい、資料にとぼしい人物なのだが――何の因果か、その鬼小島さんが、目の前にいらっしゃるのですよ。しかも、純朴で好感の持てる女の子の姿で。
 いや、まあ、晴景様も景虎様も女性の世の中だから、不思議というほどのことでもないのだが、やはり、驚くべきことではあった。



 弥太郎の名を記入し終わると、俺と、弥太郎の会話を、固唾を呑んで聞いていた将兵たちが、弥太郎の行動に促されるように、我も我もと殺到してきた。
 それを見て、俺は思わず、ほうっとため息を吐く。どうやら、最初の難関は突破できたようであった。
 ちなみに、俺のため息癖は、このあたりからついていくことになるのだが、この時の俺には、さすがにそこまではわからなかったのである。



◆◆



 かくて、春日山城を出た長尾軍。
 放っていた斥候から、柿崎勢の現在位置を知るや、俺は越後国内の地図を睨み、一つの川に目をつける。
 春日山城の東を流れる関川である。
 騎馬隊を用いるの利は、その機動力にある。そして、水はその機動力を妨げるもの。俺が関川に目をつけたのは、むしろ当然のことであった。
 時期は、梅雨。川の水量も大きく増加していることだろう。川辺に布陣すると同時に、川の上流を堰き止め、渡河をする柿崎勢を押し流す。
 陳腐な計略といわれそうだが、陳腐とは良く使われるからであり、良く使われるということは、それだけ成功例が多いということなのである――正直に言えば、他に何の策も思い浮かばなかっただけだが。長尾軍の士気は、決して低くないが、しかし、だからといって柿崎勢と互角に戦えるわけではない。


 そうして、関川にたどり着いた俺たちだったが、俺の策戦は、初手からつまずいた。
 騎馬三百、足軽一千に及ぶ柿崎軍のうち、柿崎景家自ら率いる騎馬隊が、足軽を置き去りにしながら、春日山に急接近しつつあったからである。
 このままでは、半刻もしないうちに、川向こうに敵の姿が現れるだろう。水計をほどこす暇もない。それに、今更ではあるが、柿崎は歴戦の将である。俺の見え透いた水計などにひっかかってくれるだろうか。
 戦の素人である俺が考え付いたということは、他の誰でも考えられるということ。たとえ柿崎が気づかずとも、その配下に人がいないわけではない。
 何より、このままでは堰を築く暇がない。道具類だけは、城内、城外からかき集めてきたが、致命的に時間が足りなかった。





 全軍を二手に分ける。
 俺はそう決断すると、一隊は堰作りに。一隊は柿崎隊への強襲にあてることにした。
 無論、俺は堰作りにまわる――わけには、いかんかった。
 柿崎隊への強襲は、正直、決死隊に等しい。向こうは騎馬。こっちは徒歩。向こうは精鋭。こっちは烏合の衆。勝算なんぞ立てようがない。何とか時間を稼ぎ、何とか逃げ出し、何とか敵を誘き寄せる。口に出しこそしなかったが、そんなはなはだ冴えない策戦しか胸中には浮かばなかった。
 だからこそ、俺が前面に出ねば、かろうじて保たれている長尾勢の士気は潰えさってしまうだろう。


「ああ、胃が痛い……」
 なるべく精鋭を、ということで兵士たちを峻別しながら、俺は腹のあたりをおさえた。この年で、胃に潰瘍とか、本気で勘弁してもらいたいものだが、このままだと洒落になりそうもない気がする今日この頃である。
「だ、大丈夫、です! 天城様は、私が、お守りしますからッ!」
 俺の隣では「頑張りますッ!」と全身で叫んでいる弥太郎がいる。その目の中に、焔が踊る様さえ見えるような気がした。
 弥太郎が抱え持つ槍は、俺より背が高い弥太郎、その身長よりも更に高い。2.5メートルくらいありそうな長槍だった。
 弥太郎は、その長槍を、自由自在に操る。正直、俺は弥太郎を連れて行くつもりはなく、その膂力を、堰作りに活かしてもらうつもりだったのだが、あまりに弥太郎が切なげに訴えてくるので、先刻、ためしに振るってみてもらったのだ。
 そして、唖然とした。その場にいた強襲部隊の実質的な指揮官である一番の古参兵さえ、感嘆の念を禁じえない様子の、見事な槍捌きだったのである。その場に居合わせた者が、皆、見とれてしまうほどであった。
 かくて、小島弥太郎は自力で、自分の役割を獲得したのである。
 俺としては、自分より年下の女の子に武器を振るわせるのは、気が進まないことおびただしいのだが、これはもうどうしようもないと割り切るしかなかった。それどころか、鬼小島の存在は、長尾軍にとって、かすかな勝利への灯火でさえあるのかもしれない。


 隊を分け終えると、俺は強襲部隊を率いて、ただちに関川を渡った。
 予想通り、先日来の雨で、川の水かさはかなり増している。川の水は濁り、その底が見えない危険な状態であった。
 それでも、何とか、脱落者なしで渡河に成功したのだが、作戦通りに事が進めば、俺たちは柿崎勢を誘き寄せ、この川に戻ってくることになる。
 堰作りが上手くいけば、水量は減っているだろうが、上手くいかなかった場合、今よりも水勢、水量が増した川を素早く渡らなければならなくなる。
 それを恐れた俺は、十名ほどの兵士に命じて、付近から軽舟を集めさせることにした。舟同士を繋ぎ合わせ、臨時の橋にするためである。
 本来なら、堰作りの部隊から人を出すべきだったのだが、渡ってから思い至ったのだから仕方ない。
 俺は貴重な戦力を割いて、いざという時に備えることにした。




 そして、いよいよ本番である。
 付近の地理に詳しい兵士から、騎馬隊が通るであろう道筋を教えてもらい、林の近くに身を潜めて、あらかじめ、これでもか、と罠を作っておいた。落とし穴はもちろん、待ち伏せ用の縄も念入りに用意した。騎馬が通る寸前、伏せていた兵士たちが、縄を引っ張り、馬の足をからめとるのである。
 そして、敵が混乱したところを見計らって、一気に襲い掛かる。それが大雑把な計画であった。
 兵士たちには三人一組で、敵の騎馬一頭に当たるように言い渡した。狙うのは、主に馬である。敵を討ち果たすのではなく、機動力を奪うことに重点を置くためだ。もっとも、ろくに訓練をしていない寄せ集めの将兵であるから、計画通りには進まないだろうが、やらないよりはましであろう。
 敵の首をとることは避けることも徹底させた。首級をあげたところで、手柄にはしない、といっておいたので、こちらは多分、大丈夫だろう。


 それらの準備が完了するのと、遠方より馬蹄の轟きが響いてくるのは、ほぼ同時であった。
 俺たちは、慌てて近くの木陰に身を隠す。
 まさか、春日山の軍がここまで出ているとは思ってもいないのだろう。柿崎勢は、罠を警戒する様子も見せず、一直線にこちらへ向かってくる。
 音に聞こえた柿崎の黒備え。その重厚な迫力は、こうやって身を潜めているだけでも、直接肌を刺すように感じられてならなかった。
 知らず、采配を握る手が震えを帯びた。




 ふと。
 その手に暖かい感触があった。
 柿崎勢が向かってくる方向しか見ていなかった俺は、慌てて隣に視線を向ける。
 すると、そこにいた弥太郎が、俺を力づけるように、にこりと笑みを浮かべた。
 弥太郎が、これまで戦場に出たことがあるかどうかは知らない。だが、弥太郎の様子を見れば、決して戦に慣れているわけではないだろうし、近づきつつある柿崎勢の脅威を感じていないわけでもないだろう。
 それでも、弥太郎は笑みを浮かべたのだ。
 それは、凄惨な戦場には似つかわしくない、可憐な乙女のそれであり、何より、俺を力づけるためのものであることは明々白々であった。


 俺は、弥太郎に頷いてみせると、丹田に力を込めた。
 女の子を戦場に駆り立てた挙句、その子に力づけられるなど、情けないにもほどがある。たとえ虚勢であろうとも、戦場に立ったからには、揺ぎ無く立っていなければなるまい。
 そう考え、両眼に力を込めた俺の耳に、甲高い馬の嘶きと、悲鳴が聞こえてきた。
 柿崎勢の先頭が、罠にかかったのであろう。
 そして、その後続の騎馬隊もまた、突然の事態を避けようもなく、次々に落馬し、あるいは道を外れて、馬を御すことに必死になっている。


 ――それは、逃すことが出来ない隙。


 すっくと立ち上がる俺。
 もう一度、丹田に力を込めると、高々と采配を掲げ。
 そして、勢い良く振り下ろす。


「全軍、かかれィッ!!」
 俺の号令に応じ、弥太郎を先頭とした長尾勢が、柿崎勢にその牙を剥く。
 乱戦の始まりであった。  
    



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/19 12:10
   

 血と泥が混じりあい、地面を赤黒く染め上げていく。
 その上では、長尾、柿崎両軍の兵士が、自らを鼓舞する雄たけびをあげながら、相手に斬りかかり、突きかかり、組み付いていった。
 敵の絶鳴と、味方の悲鳴、そして脚を斬られた馬の悲痛な嘶きが交互に耳朶を打つ戦場のただ中。
 そこで、この凄惨な戦闘を演出した俺は、歯を食いしばって、眼前の光景から目を離さないように、己を叱咤しなければならなかった。


 足といわず、手といわず、全身の震えがおさまらない。
 指揮官として、戦場の把握に務めるべき立場の俺は、乱戦に飛び込むわけにはいかなかったが、たとえ飛び込んだとしても、何の役にも立てず、斬り伏せられてしまったであろう。
 敵意と殺意のぶつかりあい。殺さなければ、殺されるという戦場の理を、総身で感じ取り、その凄まじさに、正直、怯みを覚えていた。
 今、敵兵が俺に斬りかかってきたら、踵を返して逃げ出してしまうかもしれん。ここまでの戦の指揮は、正直、どこか物語の中にでもいるような心地で、既知の知識に頼りながらやってきたのだが、実際に戦場を――殺し合いを前にすると、そんな悠長なことは言っていられなかった。
 むき出しの敵意と殺意が応酬される戦場。それは、字面を追うだけでは、到底理解できないものであった。



 もっとも。
 実際、戦場に立ちながら、そこまで考えていたわけでもない。後から思えば、こう感じていたのだろう、ということである。
 この時は、死にたくない、という気持ちが何よりも優先されていたのだ。物思いにふける暇などなく、懸命に兵を指揮し、鼓舞し、何とか生き延びようと必死だった。 
 そんな俺の眼前で、戦況は徐々に一つの方向に向かっていく。
 一時の混乱から立ち直れば、やはり柿崎勢は強かった。長尾軍の兵士たちは、俺の指示通り、一対一の状況に持ち込まれないように、連携しながら戦っていたのだが、落馬した敵兵も、ただ討たれるのを待ってはいなかった。
 一箇所に集まって守りを固め、こちらの攻勢が途切れるや反撃に出る。さらに、落馬から免れた後続の騎馬武者が、集団で突っ込んでくるようになると、戦況は目に見えて、こちらの不利に傾いていった。



◆◆



「しくじった、か……」
 俺は采配を握りつつ、思わず天を仰いだ。
 長尾軍は、まだ何とか持ちこたえてはいたが、すでに柿崎勢は態勢を立て直してしまっている。落馬した兵士と、騎馬兵が連携を保ち、攻守をきっちり分けつつ、こちらに出血を強いてくるのだ。
 これ以上の戦闘の続行は避けるべきであったが、今、踵を返したところで、敵は整然と追撃をかけてくるだろう。そうなれば、徒歩の兵士が、騎馬の足にかなうわけもなく、後背から急襲されて、殲滅されてしまうのは明らかだった。


 おそらく、撤退の唯一の機会は、敵が態勢を立て直す、その寸前だったのだろう。
 あの時に退却の命令を下していれば、俺たちは後方に退くことが出来ていたに違いない。だが、すでにその機は去り、再び返らぬ。
 だからといって、次の機会を悠長に待つことは出来ない。俺の視線の先に、一際雄偉な体格をした敵兵の姿がある。
 高々と翻るは「蕪(かぶ)」の紋――後に、上杉家の先陣に幾度となく翻り、諸国の大名たちを恐怖せしめたという柿崎景家の旗印である。
 であれば、あれこそ敵将である柿崎景家、その人なのだろう。
 遠めからでも明らかなほどの旺盛な精気を放ち、戦場にたって、俺の百分の一も動揺していない、毅然たる武将の姿。
 越後七郡にかなう者なし、との評も頷くに足りる勇姿であった。


 ただ、その心中は、外見ほど泰然としていないのではないか、と俺は考えた。
 あちらにしてみれば、春日山の弱兵に痛撃された事実は、自らの武功に瑕がついたことを意味する。しかも、被害を受けたのは、自慢の黒備え三百騎である。景家は、内心、腸が怒りで煮えくり返っているのではあるまいか。というか、そうであってほしい。柿崎ほどの猛将に、冷静に追い詰められてしまえば、俺たちなぞ手もなくひねられてしまうだけだ。


 その意味でも、ここで俺たちが敗れてしまうと、柿崎に落ち着きを与えてしまう。
 弱兵に痛撃され、反撃もままならずに逃げられる。柿崎を挑発するためには、それしかない。
 ゆえに、ここは退く。被害は甚大なものになるだろうが、それ以外に手段はなかった。
 判断の機をあやまったことに歯噛みしながら、俺が命令を下そうとした時だった。
 戦場に、高らかな乙女の名乗りが響き渡った。


「やあ、そこにいるは、敵将柿崎和泉殿とお見受けする。天城が臣、小島弥太郎がお相手いたします。いざ、尋常に勝負されたしッ!」
 そう言うと、弥太郎は隆々と槍をしごいて、柿崎勢に突きつける。
 戦場において、武功を示すために名乗りを挙げるのはめずらしいことではない。
 だが、弥太郎は体格こそ優れていたが、その高い声は男性のそれと聞き違う筈もなく、柿崎勢からは、驚きと、そして女兵士の無謀さを嘲笑う声が沸き起こった。



 これまで、弥太郎の膂力が戦場で目立たなかったのは、弥太郎が周囲の援護に力を割いていたからである。おそらく、戦に先立つ俺の言葉を、忠実に実行してくれていたのだろう。
 周囲の戦いの様子に目を配り、不利な味方を見つければ、ただちに駆けつけて、その豪槍で救い出す。弥太郎が、自身で討ち取った兵士こそ少なかったが、彼女に救われた兵士は五人や十人ではあるまい。
 そんな弥太郎の突然の示威行動に、俺は驚きを隠せなかったのだが。
「天城殿、急ぎ、撤退の下知を」
 俺にそう促したのは、実質的な部隊指揮を任せていた古参の兵士である。弥太郎の武芸に太鼓判を押した人物でもあった。


 しかし、と口にしかけて、俺は危うくそれを思いとどまった。
 弥太郎の行動。眼前の兵士の提言。その意味するところは、俺にもわかった。ここで俺が要らぬ反論で時を費やせば、再び機を失ってしまう。過ちを繰り返す、それこそが過ちなのだ、とは誰の言葉であったか。
 わずかの逡巡。短い時ながら、かつてここまで感情を滾らせた記憶は、俺にはない。
 感情は、その命令を拒絶する。理性は、その命令を肯定する。決断の苦しみが、物理的な圧迫感さえともなって、俺の全身にのしかかってくる。


 それでも。
「――全軍、弥太郎を殿(しんがり)として、撤退せよッ!」
 しなければいけないことは、俺にもわかっていた。



◆◆



「女子を囮として、退くか。春日山の指揮官は、越後武士の誇りさえない輩のようだな」
 柿崎景家は、慌しく退却していく敵兵を見やって、そうひとりごちた。
 もっとも、それは景家なりの、内心の憤懣を吐き出すための言動であった。
 自慢の精鋭は、予期せぬ襲撃で少なからぬ打撃を受け、馬にも大きな被害が出た。おそらく、先頭近くの五十ほどは、物の役に立つまい。
 数知れぬ戦いで、勇猛の名を高めてきた景家は、蟷螂の斧に傷つけられた苦みをかみ締めているところだったのである。


 こうなれば、せめて襲撃してきた敵兵を血祭りにあげ、屈辱を雪ぐしかないと思い定めたところに、あの女武者の登場である。
 これが実力なき者の大言壮語であれば、蹴散らして押し通り、その身体に思い知らせてやるところなのだが――
「う、うわああッ?!」
「ひ、な、なんだ、こいつはッ!」
「ええい、ばか者ども、女子一人に、何をてこずっているのか。柿崎隊の勇名を汚すつもりかッ!」
「し、しかし……がはッ!」
 また一人。馬上から、地面に叩き落される柿崎隊の兵士。
 女武者――小島弥太郎、とかいったその女の持つ長槍が一閃する都度、柿崎隊は、負傷者の数を増やしていった。
 通常、馬上と徒歩では、馬上の方がはるかに有利なのは言うまでもない。
 刀で斬りかかるには、互いの位置関係上、無理が生じる。槍で突こうにも、下から突き上げるより、上から突き下ろす方が、威力も精度も上なのは自明である。
 まして、騎馬兵の真価は、その機動力にある。人馬一体となった突進は、人間の身体を容易に蹴散らしてしまう。これまでに、刀槍を交える以前に、柿崎勢の馬蹄に蹴散らされた足軽の数は、千や二千ではきくまい。


 だが、その騎馬の有利も、弥太郎の長槍と、膂力の前には意味をなさないようであった。
 大の大人でも扱いに苦慮しそうな長槍を、弥太郎はまるで小枝のように軽々と扱い、馬上の武者を叩き落とし、それがかなわなければ、馬の首を強打して、馬自体を叩き伏せる。
 弥太郎が名乗りをあげた当初、嘲笑を浮かべていた柿崎勢であったが、今や侮蔑の念は完全に拭い去られ、弥太郎の暴風のごとき戦いぶりに一歩二歩とあとずさる者さえいる有様であった。
 だが。
「たわけッ! 戦いに怖じて、どうして柿崎の兵を名乗るつもりかッ!」
 景家は、あとずさった兵士を手ずから一刀の下に斬り捨てた。
 悲鳴をあげる間もなく、落馬したその兵士は、地面に落ちたとき、すでに事切れていた。甲冑ごと身体を切り裂かれたその兵士の亡骸は、弥太郎に劣らぬ景家の膂力を示してあまりあった。


「女ごときに退くような臆病者などいらぬ。一人で戦えぬなら囲んでつぶせい。槍で戦えぬなら、弓で射殺せ。さもなくば、我らが突進の馬蹄にかけてしまえばよい」
 そういいながら、柿崎は刀をしまうと、今度は己が自慢の名槍を抱え込み、馬上で一閃させた。
「越後全土に、臆病者の恥を晒すことなど許さぬ。いかなる大敵が道を阻もうと、敵の喉笛食いちぎってでも、前に進め。退いて相手の勇を称える必要なぞありはせん。卑劣とのそしりを受けようと、勝利をもぎとることこそ、柿崎のあり方よッ! そのためにこそ、貴様らには高い禄を食ませているのだッ! いざ、奮い立て、柿崎が猛者たちよッ!!」
 景家の檄に、周囲の兵士たちは見る見るうちに奮い立っていった。
 この将あるかぎり、柿崎勢の越後最強たる地位は揺ぎ無し。
 その確信が、弥太郎に対する怯みを、完全に駆逐する。彼らは次々に得物を掲げると、高らかに喊声をあげた。
 



 柿崎勢が、完全に立ち直る様を、弥太郎は眼前で確かめる羽目になった。
 懸命に押し隠してはいるが、すでにその息は、かなり荒くなっている。
 他者の目には、傍若無人な活躍ぶりに見えたかもしれないが、精強な柿崎軍の兵士を相手にするのは弥太郎といえど容易ではなかったのである。
 まして、弥太郎にとって、ここまでの乱戦ははじめての経験である。弥太郎の武芸に感心してくれた件の古参兵に命じられるままに、名乗りをあげて柿崎勢と対したまでは良かったが、このままではじきに力尽きてしまうだろう。
「……でも、天城様が逃げ延びられたから、よかった、かな」
 見れば、すでに部隊のほとんどは戦場を離脱しつつある。
 だが、恩義ある指揮官や、他の将兵が完全に戦場から逃れるまで、あともう少し、時間を稼ぎたい。
 そのためには命を賭け――否、命を捨てなければならないだろう。目の前の柿崎勢を見る弥太郎には、それがわかった。
 無論、弥太郎は死にたくなんかない。だが、味方が生き残るためなのだから、その死は無駄ではない。
 それにたとえ死んだとしても、遺された家族には、たくさんのお金が渡る。それを思えば、未練も多少は薄くなった。


 弥太郎は、出陣前に家に戻った時のことを思い起こす。
 出陣に先立ってもらったお金を持って返ったら、弥太郎の父と母はひっくり返ってしまった。母などは、弥太郎が何やらいけない道に入り込んでしまったのではないかと、真顔で心配してきたほどだった。
 その誤解はすぐには解けなかった。天城から渡された褒賞は、貧しい農家にとっては、それくらい、ありえない額だったのである。
 結局、弥太郎以外の志願兵たちからも、同様の話を聞き、ようやく両親は納得してくれた。その両親の感激の顔と、久方ぶりに腹いっぱいのご飯を食べられると知った弟妹たちの笑顔を胸裏に描き、弥太郎は残った力を振り絞る。
「ごめんね、父ちゃん、母ちゃん、みんな」
 死屍の帰還になることは、申し訳ないと思う。それでも、逃げようとは思わない自分自身の心を、弥太郎は誇りに思うことが出来た。



 かくて、覚悟を定めた小島弥太郎は、柿崎勢の前に一人、立ちはだかる。
 その持てる力の限りを尽くして、柿崎勢を食い止めるために。
 春日山長尾家の勝利に必要な、ほんの一時の時間を稼ぐために。




 だが。
「いやいや、それはわしらの任よ。お主のような小娘に任せるわけにはいかんでな」
「え、え?」
 突然、背後からかけられた声に、弥太郎が驚いて振り返る。
 そこには、弥太郎に指示を出した年嵩の兵士と、彼のほかに数名の兵士が居残っていた。
 いずれも、顔といわず、身体といわず、無数の傷跡が残る、歴戦の兵たちである。
 その彼らは、弥太郎に言った。早く逃げろ、と。
「で、でも、あの、それじゃあ、長さんたちが……」
 戸惑いながらも、兵士たちの身を心配する弥太郎に、兵士は、その精神の骨太さを感じさせるおおらかな笑みを浮かべた。
「よう柿崎勢を食い止めてくれたの。だが、ここよりはわしらの出番。ろくに戦場を知らぬ娘っ子では辛かろうでな」
 古参兵は、周囲の仲間たちと顔を見合わせる。皆、不思議と穏やかな顔をしていた。
 それでも、まだ踏ん切りがつかない様子の弥太郎に、最後に古参兵はこう言った。
「お主はまだ若い。これからの春日山に必要なのは、お主や、あの天城殿のような若き力であろう――お主らの力で、守護代様を救うて差し上げてくれい」


 短い言葉の中に、弥太郎が、思わず身体を震わせるほどの強い意思がにじみ出ていた。
 この人たちは、決して退くまい。弥太郎のような少女でさえ、そう感じ取れてしまうほどに、鮮鋭な決意が、そこにはあった。
「……わ、わ、わかりましたッ。あの、ご、ご武運を、お祈りしていますッ!」
「うむ、達者でな。天城殿にも、そう伝えてくれい」
「か、必ずッ!!」
 弥太郎は、しっかりと頷くと、踵を返した。
 もう、後ろを振り返ることはない。一度、相手の言葉を肯った以上、未練を見せるのは、相手の決意への侮辱にほかならぬ。そのことを、わかっていたからであった。





「さてさて、先代様のご恩に、かような形で報いることが出来ようとは。なかなかに人生とは面白い」
「んだな。これで、あの世で先代様にあっても、申し開きは出来るじゃろ」
「まあ、先代様なら、かえってあちらから謝って来られるかもしれんがの。後を継いだ守護代様の出来の悪さに」
「いやいや、はっきりと申すことよ」
「もうじき世を去る身じゃ。この程度のことは、許していただきたいのう」
 その場に残った兵士たちは、のんびりとそんなことを口にして、大きく笑い声をあげた。
 だが、その表情も、柿崎勢が動きはじめると、瞬く間に研ぎ澄まされていく。
 名にしおう越後の精兵、彼らは疑いなく、その一角を占める者たちであった。


 柿崎勢の馬蹄の轟きにも、彼らは動じる様子を見せない。
「さて、今生の別れだな。酒なしとはさびしいが、戦場で散れるは本望よ」
「うむ。相手も越後最強たる柿崎勢。我らが死に花を咲かせるに、不足なき相手じゃ」
「おうとも。春日山にも、咲く花はあったのだと、先代様にお伝えしよう――では、ゆこうぞッ!!」
 応、と彼らは刀を、槍を掲げて、高らかに雄たけびをあげる。


 そして、彼らは、殺到してくる無傷の柿崎勢二百に、正面から挑みかかっていった――
 




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/19 23:19

 
「……来たか」
 遠雷の轟きの如き馬蹄を耳にして、俺は小さく呟いた。
 俺や弥太郎を含めた襲撃部隊が、用意していた軽舟をつなげた橋を使って、関川を渡り終えて、しばらく経ってからのことである。
 この柿崎の追撃速度からいって、東岸でまごまごしていれば、敵に捕捉されていた可能性がある。橋を用意するように命じておいた自分の判断が正しかったことを知り、俺は安堵の息を吐いた。


 だが、安堵ばかりしてはいられない。最も重大な堰作りに関しては、どうやら上手く運ばなかったようだ。いまだ、関川の水量は多く、勢いは激しい。勢いに乗る柿崎勢といえど、現状の関川を強引に渡河することにためらいを覚えてしまうだろう。
 このあたりの舟は、すでに先の橋作りでかき集めてあったから、これから柿崎が同じことをしようとしても、すぐには無理である。
 とはいえ、時間さえかければ、仮の橋をつくることは可能であろうし、何より騎馬の機動力を駆使すれば、渡河地点を移すことはたやすい筈だ。川の上流を渡られ、そちらから攻められてしまえば、今の長尾軍では苦戦は免れない。


「――だからといって、退くことなんて、出来ないけどな」
 俺は戦況を分析しながら、がりがりと頭を掻く。
 先刻、弥太郎から聞いた言葉が、脳裏をよぎる。
「守護代様を頼む」
 それが、俺たちを逃がすため、時間を稼いでくれた越後の勇士たちの最後の願い。その言葉に背くことは許されない。


 そして、その言葉を俺に伝えた弥太郎の、ぼろぼろになった甲冑姿を思い起こす。
 少なからぬ痛手を与えたとはいえ、柿崎の黒備えは、まだ半数以上が健在である。当然、逃げる俺たちを急追してきたに違いない。
 徒歩で逃げる俺たちと、追撃部隊の足の差は誰の目にも明らかであったが、結果的に俺たちは追撃をかわしきった。
 そして、関川を渡る寸前、ようやく合流してきた弥太郎の痛々しい姿を見て、俺はそれが天の与えた幸運などではなく、一人の少女の献身による結果であったことを知ったのである。


 その弥太郎は、負傷と何より疲労がはなはだしく、すでに春日山に退却させている。先の襲撃で、戦えないほどの手傷を負った者たちも同様である。
 あくまで戦うと言い張る彼らに対し、俺は笑みさえ浮かべながら言ってきかせた。


「その傷では戦えないだろう。皆がここで出来ることは何もないが、春日山にはある。そちらをやってほしいから、帰ってもらうんだよ」
「それは、あの、何でしょうか、天城様?」
 弥太郎が口惜しげに問いかける。
 多分、俺がおためごかしを言っていると思っているのだろう。
 実際、その通りではあった。戦場で誇り高く死ぬのは、あの人たちだけで十分。そんな死に場所を与えるくらいなら、生きて帰らせた方が良い。たとえ、彼らがそれを望まないとしても、俺が嫌なのだ。この気持ちは、おためごかし以外の何物でもないだろう。
 だが、晴景様より采配を託されたのは俺である。指揮官には、従ってもらおう。
「勝利した後は、宴がつきものだろう。帰ってから準備するのは面倒だからな。先に帰って、準備しといてくれ。そうそう、晴景様が先に酒樽を空にしないように注意してくれ。これは重大きわまりない任務だ。よろしくたのむぞ、小島弥太郎殿ッ!」
「は、はいィッ! ……って、え? はあ……え、あの、天城様、ええッ?!」
 俺の言葉に反射的に返事をしつつ、そのあまりの内容に目を白黒させる弥太郎。傷の痛みも、戦の疲労も、一時的に吹き飛んでしまったらしい。
 そんな弥太郎を見て、周囲の兵士たちからも、楽しげな笑い声が沸き起こる。それが自分に向けられていることを知り、さらに弥太郎は顔を赤くする。俺よりも大柄な体躯が、穴があったら入りたいとばかりに縮こまっている姿は、どこか微笑を誘われる愛らしさがあった。



 結局、俺は弥太郎をだしにして、兵士たちを納得させた。彼らと別れた先刻の光景を思い起こし、俺は口の端を吊り上げた。負けられない理由というのは、探せば結構あるものだ。
 その時。
「申し上げますッ! 対岸に蕪の旗印ッ! 柿崎和泉の軍勢ですッ」
 兵士の報告に、俺は視線を対岸へと向けた。報告のとおり、一度、目の当たりにした蕪の旗印が翩翻と風になびいている。
 一方の俺が掲げるのは長尾家の九曜巴。両家の家紋が、関川をはさんで対峙する。
 柿崎勢は、先の戦いの死傷者をのぞいた、およそ二百騎。こちらは、人数だけは同じ足軽二百人である。堰作りに出していた兵士たちは、俺たちが関川につくや呼び戻す使者を出したのだが、柿崎の追撃が急すぎて、間に合わなかったのだ。


 まさに、戦端が開かれようとする寸前、それまで曇天に包まれていた上空から、梅雨空を割って、暖かい日の光が両軍に向かって降り注いだ。
 一際強い風が、彼方から吹き付けてくる。その風の動きに押され、上空で滞っていた薄い雨雲が一時的に移動を余儀なくされたらしい。
 あるいは、上流の方では、もっと早くから天候が回復していたのかもしれない。見れば、先刻まで荒れていた川面が、いつのまにか、随分と穏やかな流れになっている。これならば、強引に渡河を試みても良いのではないか。そう考えてしまうくらいに。


 そして。


「全軍、突撃せよッ! 春日山の弱兵どもに、身の程を知らしめるのだッ!!」
 柿崎景家の、吠え猛る号令が、こちらにまで響き渡ってくる。 
 その号令に従い、柿崎勢は馬をあおって、一斉に河中に馬ごと飛び込んできた。
 水深は、馬の胴体が沈みきるには、やや足りないといったところだ。当然、騎馬の機動力は減殺され、身軽に動くことは出来ない。
「放てェッ!!」
 俺の号令と共に、柿崎勢に向けて、猛然と弓を射掛ける長尾軍。
 弓弦の音が連鎖し、矢羽が宙を裂く音が響き渡る。矢の雨は、渡河中の柿崎勢に容赦なく襲い掛かっていった。


 だが、当然、柿崎勢もその程度は予期していたようだった。
 馬上の武者たちは、兜を深くかぶり、小手をかざして矢を退ける。さらに柿崎勢は、馬体にも鉄甲を装着しており、鉄甲の隙間にでも当たらないかぎり、弓撃の効果は出なかったのである。
 矢の雨の中、粛々と川を渡ってくる柿崎の黒備え。それは、敵軍にとっては、息の詰まるような光景であり、事実、俺たちは少しずつではあるが、柿崎勢の武威に押されたように、後退しつつあった。
 やがて。
 先頭の数騎が、対岸に到着する。川面から、水しぶきと共に馬体があらわになり、彼らはたちまちのうちに戦闘態勢を整えていく。はや、勝敗は決したか、と考える者さえいたかもしれない。


 次々に川から姿を現す柿崎勢。俺の眼前で、彼らの数は三〇騎を越そうとしていた。
 彼らの後方を見れば、柿崎景家率いる本隊もいよいよ川面に侵入しようとしているようだった。
 頃はよし。
 俺はそう判断し、後方の兵士の一人に命令を下した。
「狼煙をあげろッ」
 即座に、兵士は命令に従い、関川の川岸に狼煙があがる。
 それを確認するや、俺は再び敵兵に向き直り、その場にいる兵士全てに届けとばかりに、声を張り上げた。
「我が策、成れりッ!!」
 その声に応じて、退きつつあった長尾勢の足が止まる。
「天も照覧あれッ、謀反人を討ち果たすべく、長尾晴景が軍が、ここに正義の鉄槌を下すッ! 全員、弓を捨て、槍を取れッ、柿崎勢を迎え撃つッ!!」
 穏やかになった川面は、自然の賜物なのか、あるいはようやく堰が完成したからなのか。こたえは俺自身にもわからない。
 だが、もし勝機があるとしたら、ここしかない、と俺は判断した。このまま敗走してしまえば、計が発動したころには、敵は全軍が渡河を終えているかもしれない。この川岸で、敵を食い止め、計略の実効性を確実なものにする必要があったのである。


 そして、そんな俺の叫びに、真っ先に応じたのは――
「応ッ! 小島弥太郎、参るッ!」
 そう言って、俺のすぐ傍らを駆け抜けていったのは、春日山に向かっている筈の弥太郎であった。なんでここにいる。
「……ええと……ええい、まあ良いやッ!! 全員、弥太郎に続けェッ!!」
 次の瞬間。
 迷いなく、躊躇なく、敵兵に踊りかかっていく弥太郎の姿と、俺の号令の下、長尾軍から爆発するような喊声があがったのであった。




◆◆




 柿崎景家にとって、今回の戦は、戦と呼ぶにも値しないものである筈だった。
 景家は、騒乱の絶えない越後の現状を憂いていた。これは偽りではない。景家は、戦に臨む際の昂揚感を愛していたが、だからといって戦狂いというわけではない。領内の整備や、治安の維持など、人並みに領主としての政務もとっている。
 そんな柿崎は、このまま越後の戦乱が長引けば、他国の勢力の侵入を招くは必定であると考えていた。何より、守護代たる晴景の惰弱と愚昧が、景家には気に食わなかったということもある。だからこそ、先年の黒田秀忠の謀反にも与したのである。
 だが、黒田は新鋭の長尾景虎に敗れ、黒滝城は陥落してしまう。
 その黒田家に与し、長尾家と敵対した柿崎は、本来であれば家を取り潰されてもおかしくはなかったが、柿崎の図抜けた戦働きを惜しんだ晴景は、柿崎に寛大な処遇を与え、ほとんど無傷で長尾家の下に戻ることを許したのである。
 それは、ただ甘いというだけではない。下手に処罰を加えて、柿崎に再び叛乱を起こされることを、晴景は恐れたのである。


 だが、この守護代の寛大な処遇にも、柿崎は苦々しい思いを禁じえなかった。我がことながら、謀反に与した人間を、易々と麾下に加えてどうするというのか。謀反の罪さえ許されるとあらば、今後、春日山の律令に従う者は一人もいなくなるのは明白なことではないか、と。
 そう考えた柿崎は、越後の勢力の変化を見据え、誰が勝者となりえるかを考えた。そして、柿崎が選んだのは、栃尾城の長尾景虎である。
 景虎が黒田を攻めた際、自らの居城にいた景家は、景虎と直接矛を交えることはなかったが、あとで伝え聞いた景虎の見事な戦ぶりには感心しきりだったのである。
 自分よりはるかに年少、しかも女子の身でありながら、見事なものよと考えていた景家は、越後と自らの将来を景虎に委ねようと考え、秘密裏に使者を出した。


 幾度かの使者の往復の末、景家は自室で考え込む。
 それとなくすすめた春日山への謀反を、景虎ははっきりと拒絶してきたのである。
 長尾景虎の為人が、噂よりもさらに厄介なものであるらしいとわかった景家は、酒盃をあおりながら、考えに沈んだ。
 義を重んじ、不正を憎むのは結構なことだが、大名ともなれば、奇麗事ばかり言ってはいられない。時に清濁あわせ飲む器量が必要となることもあろう。
 だが、今の景虎は、若年ゆえに理想に引っ張られているらしい。あるいは、本人の元々の性質が、そうなのかもしれないが、いずれにせよ、このままでは景虎はあくまで春日山にしたがって、越後の戦乱を治めるという立場を崩すまい。
 だが、それは柿崎にとって、あまりに歯がゆいことであった。このまま、春日山の恣意に任せていては、越後は遠からず立ち行かなくなるだろうことは明らかではないか。
 他人の目にどう映るか知らず、景家は景家なりに、越後の将来を考えていたのである。


 結果、景家は強引に長尾景虎を舞台に上げるために動き出し――その策謀は成功したかと思われた。
 今や、春日山と栃尾は、明確な宣言こそないが、戦闘状態になったと言って良い。後は、実際に戦火を交えるだけで、事は終わる。
 景虎の不興は免れないだろうが、その景虎とて、景家の勲功を無視することは出来ないだろう。柿崎家は、越後の雄なる一族となり、当主である自分の武名はさらに高まるに違いない。それこそ、景家が望む越後の未来であった。


 景家にとって、この戦いは、そこに到るための雑事に等しい。
 春日山の弱兵ごとき、蹴散らすことは造作もない。
 そう考えていた柿崎家当主にとって、今回の春日山勢の戦い方は、苛立ちを禁じえないものであった。
 まさか、相手に倍する軍に向かって、川を越えて進軍してくるとは。しかも、稚拙な罠をまじえた奇襲にしてやられた挙句、その敵を取り逃がしてしまったことは、景家の自尊心を突き崩すには十分すぎる出来事であった。
 そして、景家の苛立ちはそれだけにとどまらない。
 今、景家の右の腕には血止めの布が巻かれている。殿をつとめた春日山勢の雑兵の槍につけられた傷だった。その兵士は、柿崎自らの手で斬り捨てたが、雑兵に手傷を負わされた不快さは拭いがたい。
 将として、してやられ。武人として、してやられ。
 自らの武に絶対の自信を持つ景家にとって、目を覆わんばかりの失態が続いていたのである。




 それゆえ、この戦いでは、何としてもこしゃくな春日山勢を打ち砕く。
 その一念が、あるいは景家の判断に微妙な曇りをもたらしてしまったのかもしれない。
 常の柿崎和泉守景家であれば、ここまで策を用いて来た敵と戦うにあたって、当然、水を用いた策を警戒したであろう。
 だが、眼前の川の水量と水勢を見て、押し渡れると判断した景家は、一気に敵に肉薄することを決断してしまう。もっとも、その決断には、下手に逡巡して、再び敵に策を弄する時間を与えることを避けるという意味合いもあったであろうが、しかし、柿崎が奔騰する戦意を抑え切れなかったことは事実であった。


 とはいえ。
 これまでも、柿崎勢は策を弄する敵の軍勢を、力で押し破ってきた実績がある。柿崎が越後国内で恐れる策士といえば、宇佐美定満ただ一人。それ以外の小物など、柿崎勢の猛勇をもってすれば、こしゃくな策ごと踏み潰してやるという自負と自信が、景家にはあり、それは今日この時まで、確かな戦績に支えられた事実であった。
 自ら、川の半ばまでたどり着いた景家は、春日山勢が最後の反撃に出てきた姿をとらえ、にやりと笑った。
 春日山勢が、ここで柿崎勢を食い止めようとするからには、もはや春日山までの道のりに罠がないことは明らかだ。すなわち、眼前の敵兵を殲滅すれば、春日山城は、景家の掌のうちにあるということである。
「はっははッ、先代が生きていた頃は、まさか春日山を陥とす日が来ようとは思わなんだがな。くだらぬ悪あがきをしたこと、悔いながら地獄に落ちるが良い、長尾晴景ッ!」
 景家の怒号を聞いた馬廻りの兵士たちが、主の檄に応じて声を高めた、まさにその瞬間。


 それまで、川向こうの敵兵の姿のみを捉えていた柿崎の視界に、ようやく、その敵兵の後方で立ち上る不審な煙をとらえた。
「狼煙……か?」
 知らず。
 柿崎の声が低くなる。体を浸す川の水温によらない寒気が、柿崎の身体を震わせた。
 あれは、何を知らせる狼煙なのか。
 柿崎勢の襲来か? しかし、そんなもの、とっくに斥候で把握しているだろう。
 では、援軍を求める知らせだろうか? 否、今の春日山に従うような酔狂な国人がいる筈はない。
 ならば、あれは何だ……?


 そして――まるで遠雷の轟くにも似た、身体を震撼させるこの轟音は、何処から響いてくるのだッ?!


「か、景家様ッ!? み、水です、上流より、水がッ!!」
「ぬゥッ?!」
 配下の者が指差した先。陽光に照らされた白い波頭が先を競うように連なり、下流に向けて押し寄せてきつつある。それが、堰きとめられていた川水を解放してつくりだした人為的な海嘯であることを、景家は瞬時に悟った。
「――奔流の計かッ! おのれ、こしゃくなッ!!」
 景家は一声叫ぶや、愛馬をあおって脚を速めようとする。だが、今、景家がいるのは川の中央。もっとも水深が深いところでもある。川面から首だけを出した状態では、いかに駿馬といえど、速度をあげられる筈がない。それは、柿崎勢の最精鋭である景家の馬廻りの者たちも同様であった。
 そして、そんな彼らに向け、容赦なく波濤は襲い掛かっていく。辞世の句を読むことさえ許さずに。


「おのれ、馬鹿な、何故、俺がこんなところでッ――?!」


 越後七郡随一の武勇を誇り、生きてあれば隣国の大名を震撼させ、遠く九州にまでその武名を伝えたに違いない稀代の猛将、柿崎和泉守景家。
 そんな、ありえた筈の可能性を、轟然たる響きと共に海嘯が飲み干していく。
 時間にすれば、ほんの数秒。
 波濤が過ぎ去りし後、景家の姿も、またその側近であった馬廻りの精鋭の姿も、関川の川面から姿を消していた。
 あとに残るのは、ただ滔々と流れる関川の河水のみであった……





 やがて、川岸から、ようやく状況を理解した長尾軍の歓喜の雄たけびが響き渡る。
 一方の柿崎軍は、眼前の光景の意味が、今もって理解できず、呆けたようにその場に立ち尽くすだけであった…… 
   



◆◆




「何とか、勝った、か……」
 俺は戦いの後始末を眺めながら、ほうっとため息を吐いた。
 俺の視線の先では、まだ呆然自失から立ち直れない柿崎の黒備えの武者たちが、捕虜として捕らえられている。
 主である柿崎景家を失った後の彼らは、反撃の素振りさえ見せず、呆然としたままだった。
 それだけを見ても、いかに景家が配下の士心を得ていたかがわかる。
 その景家を、この地で討ち取ってしまったことに、俺はいくらかの危惧を覚えずにはいられなかった。なんと言っても、俺はこの時代にあって、異分子であることは間違いない。
 歴史に名を残すような武将を、こんな早い段階で退場させてしまえば、この後の展開に大きな影響を及ぼさずにはおくまい。
「まあ、自分の命には代えられないんだけどな」
 胸にきざした不安に、俺はあえて蓋をする。実際、だからといって、逃げるとか、自分が討たれるとかいう選択を選ぶことも出来ないのだ。やるべきことをやって、それに成功した。今は、そう考えていれば良い。それが許されるくらいの働きは、して見せた筈だ。
「――ま、ほとんど弥太郎たちのお手柄なわけだが」
「は、はい? 何でしょう、天城様?」
 突然、俺の口から自分の名前が出たので、弥太郎はびっくりしたようだ。


 弥太郎は、その顔といわず、身体といわず、血止めの布から赤い染みが浮かび上がっており、今回の一連の戦で、弥太郎がどれだけ奮戦したかは、その姿を見れば一目瞭然であった。
 その弥太郎の頭、は無理だったので、二の腕を軽く叩く。
「なに、弥太郎のお陰で助かった、ありがとうと言いたかっただけだよ」
「ふえッ?! と、とと、とんでもないですッ、私は、ただ天城様の家臣として、その命令に従っただけでして、そんな、お褒めいただくようなことは、何にも――ッ?!」
 俺が褒めると、瞬時に頬を赤くして縮こまる鬼小島さん。いかん、この子の反応を楽しんでいる自分がいる。自重、自重。
 とはいえ、弥太郎自身、これだけの規模の戦で、敵味方、多くの死に触れたのだ。平静ではいられまい。どれだけ大柄でも、この子の心は、少女のものだ。表面上ではあっても、普段どおりの振る舞いをすることで、傷ついた心を癒す役に立てれば良いのだが。


 ところで。
「――いつから、俺の家臣になったの? 晴景様の家臣、の間違いかい?」
「え゛、い、いえ、そんなこと言いましったけ?」
 なんだか妙な声をもらす弥太郎。ついでに、語尾も変だった。
 まあ、かりそめとはいえ、鬼小島弥太郎の上で采配をふるったのは、俺としては名誉なことだが、晴景様が聞いたら、機嫌を悪くするだろうから、あまり間違えないように。
 俺がそう言うと、弥太郎は顔を紅潮させたまま、コクコクと素直に頷いた。




 この頃には、堰作りに向かっていた半数とも合流し、勢ぞろいした長尾勢は、意気揚々と春日山城へ凱旋するために歩を進めていた。
 いずれの顔も明るく、誇らしい表情ばかりだった。
 それも無理からぬことであろう。相手は、越後最強とも謳われる柿崎景家。ほとんど勝ち目などなかった筈の戦で、その景家を討ち取る大功をたてたのであるから。
 この勝利が越後に知れ渡れば、失墜していた春日山の権威も戻る筈。晴景様の虚栄心も、幾分かは満たされよう。
 それに、今回、栃尾城の景虎様との間に直接の戦火は交えていないから、お二人を和解させることは、不可能ではあるまい。
 何とか、晴景様と景虎様の仲を回復させ、姉妹で越後の戦乱に当たるという体制を築きあげたかった。
 そして、晴景様を説得することは、少なくとも柿崎勢と矛を交えるよりも容易い筈。この戦いを経て、俺はそんな余裕も持てるようになっていたのである。




 この時。俺は気づいていなかった。
 柿崎景家を討ち取ったことにより、俺自身の価値が、これまでとは大きく変貌していることに。
 越後随一の猛将を討ち取った者、それすなわち真の越後随一の将である。そんな風に目されることになる自分の立場に。
 そして、そんな配下を抱えた晴景様が、目の上の瘤たる景虎様に対して、どのような態度をとるのかは明白である。にも関わらず、この時の俺は、まだお二人が手を携える越後の姿を夢見ていたのである……
 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/20 10:58


「も、申し上げますッ!」
 進軍を続ける栃尾城の軍勢。その先頭を駆ける長尾景虎の眼前で、一人の斥候が息せき切ってあらわれるや、驚くべき報告をもたらした。
 その報告を聞くや、景虎の後ろに控えていた本庄実乃が、思わず、といった様子で声を高めた。
「か、柿崎殿が討たれたとッ?! 弟の弥三郎殿ではなく、当主の和泉守殿がか?!」
「は、はいッ! 柿崎勢は、春日山の東、関川のほとりで春日山勢と激突。渡河の最中に、春日山がほどこした水計に巻き込まれたとのこと。柿崎殿はじめ、幾人もの名のある将たちが押し流され、川辺に屍を晒したとのことでございますッ!」
「……なんと」
 実乃は絶句した。時に敵として、時に味方として。幾度も戦場で見えたことのある相手である。ことさら親しい間柄ではなかったとはいえ、その死を聞けば平静ではいられなかった。


 しかし、実乃の主君である景虎は、小さく頷いたのみで、それ以上、柿崎の死について問おうとはしなかった。
 景虎が問うたのは、別のことである。
「して、春日山勢は、戦に勝利した後、どのように動いたのだ? 春日山へ退いたか、柿崎へ討手を遣わしたか」
「は。降伏した柿崎勢を捕虜とし、春日山へ引き返したとのことです。」
「ふむ……」
 兵士の報告を聞き、景虎は考えをまとめるように、一瞬、視線を空に向けた。


 やがて、景虎は側近の直江兼続に呼びかける。
「兼続」
「はッ」
「進路を、柿崎城へ。敗兵を収容しつつ、柿崎城に入る。まだ応諾したわけでないとはいえ、柿崎は正式に臣従の礼をとってきた。討たれたとあらば、その後の混乱は収めねばなるまい」
「御意にございます」


 次いで、景虎は本庄実乃に命じる。
「実乃は、このまま春日山へ。姉上の勝利を寿ぐと共に、栃尾は春日山に弓引くつもりがないことを説明してさしあげてくれ。我らが柿崎城に入るのも、自分の勢力を肥え太らせるためではない。姉上のお指図があれば、いつでも栃尾に引き上げる心算である、とな」」
「はッ、承知仕りました」


 そして、最後に景虎は、一人残った宇佐美に問う眼差しを向けた。
「定満」
「うん?」
「……柿崎景家を討ち取ったとあれば、春日山に心を寄せる国人衆も出てこよう。さすれば、姉上のこと、柿崎を徹底的に叩こうとすると見るが、定満はどう考える?」
「……うん、多分、そうなるね」
 景虎の軍略の師である定満は、小さく頷いた。表情が気遣わしげになっているのは、景虎の言わんとしていることを、すでに察した為か。
 景虎は、晴景の指図に従う。今、実乃に言ったとおりに。だが、もし晴景が、力づくで柿崎家を従えようとした場合、当然、柿崎家は景虎を頼るであろう。
 晴景の軍律は、とてもほめられたものではなく、残された家臣や領民がどのような目に遭うかを想像するのは難くない。そして、そうとわかって、柿崎家を見捨てられる景虎ではなかった。


 柿崎景家は、その死後もなお、長尾の姉妹の仲を裂く要因となり続ける。そのことに、定満は、あの猛将の執念にも似たものを感じた。
 そして、長尾景虎がどれだけ他者に仕えるには向かない為人なのかということを、改めて実感する。より正確に言えば、他者というよりは、長尾晴景のような人物に仕えるには、というべきか。
 たとえ今回の柿崎の件が決着しようと、いずれまた、こういった事態は起きてしまうだろう。その度に、景虎は苦悩することになる。そのことに、宇佐美は、やりきれない思いを抱く。
 景虎の生き方は、この乱世にあって、貫くには難いもの。されど、昂然と胸を張ってしかるべき誇り高い生き方でもある。また、景虎もそうして乱世を治めることを念願としているのだが。
 現状は、そんな景虎の心を嘲笑うかのように、政略が入り乱れ、人として家臣として、貫き通す義さえ定かならぬ状況が続いている。
 表情にこそ出さないが、苦悩する景虎の胸中を思って、定満は気遣わしげにまなじりを下げた。


「景虎様」
「う、む。どうした、定満?」
 定満は、景虎の頭に手を寄せ、優しい手つきで、漆黒の髪を撫でる。幼い景虎に、かつてそうしていたように。
「む? さ、定満?」
 戸惑ったような、だが同時にどこかほっとしたような顔で、景虎が定満を見る。
「ん。こうすれば、落ち着くかな、と思って。景虎様の苦しみは、この戦乱の世にあって、とても尊いもの。姉上様とのことは、お辛いとは思うけど、それでも、きっと報われる日は来る」
 頑張れ、とは言えない。景虎はもう十分すぎるくらい頑張っているのだから。
 しっかり、とも言えない。景虎はこれ以上ないくらいにしっかりやっているのだから。
 言葉というのは、案外、不自由なものだ。だから、宇佐美は慈しむように、景虎の髪を撫で続けたのである。少しでも、景虎の心を癒せれば、そう思って。


「――ありがとう、定満。そなたの芳心、伝わってくる。心配ばかりかけて、すまないな」
「手のかかる子ほど、可愛いもの。気にしない」
 その定満の言葉に、めずらしく景虎は破顔する。
「はは、定満にかかっては、私はまだやんちゃな女童のようだな」
 そういって、しばしの間、景虎は笑い続けた。
 やがて、その笑いがおさまったとき、景虎の顔は、先刻よりも少しだけ、重荷を下ろしたものになっていたかもしれない。


 その景虎の口から、進発の号令が発せられ、栃尾長尾勢は、整然と行軍を再開するのだった。






 柿崎城主、柿崎和泉守景家、討死。
 その報は、越後の朝野を瞬く間に駆け抜ける。
 突然の知らせ、また猛将と言えば、真っ先に名を挙げられる柿崎の敗死は、民と兵とを問わず、越後の民人に大きな驚きを与えた。
 何より人々を驚かせたのが、柿崎を討ち取ったのが、春日山の守護代長尾晴景の軍勢であった、という事実である。
 守護代とはいえ、春日山長尾家が、落日の時を迎えつつあるのは周知のこと。それゆえ、今回の召集令にも、ほとんどの国人が応じなかったのである。
 にも関わらず、晴景は自身の手勢だけで、柿崎景家を打ち破った。それも、音に聞こえた柿崎の黒備えが全滅の憂き目を見るほどの大敗である。
 春日山に見切りをつけていた国人衆の多くが、その知らせに戦慄する。彼らは、慌てて春日山に使者を出し、勝利を祝うと共に、召集の遅参を詫びる言葉を並べ、自身が春日山に忠勤を誓う者であることを述べ立てたのである。
 当然、申し開きには欠かせない金品宝物の類をこれでもか、と持参した上でのことで、連日、そんな使者たちに相次いで美辞麗句を浴びせられた越後守護代、長尾晴景の自尊心は、久方ぶりの充足を味わっているところであった。


 
 だが。
 一時は消沈の底をさまよっていた晴景の自尊心は、日々、浴びせられる甘言の数々に、急速に肥大化させられてしまったらしい。
 一日、晴景の口から語られた言葉に、柿崎撃破の功臣、天城颯馬は、唖然とすることになる。


◆◆


「……な、何と仰いましたか、晴景様?」
「む、颯馬よ。主君の言葉を聞き逃すとは、臣下にあるまじき失態ぞ。二度といわぬから良くきけい――これより、我が軍の総力を挙げて、栃尾の景虎を追討するのじゃッ!」
 昂然と胸を張って、そう宣言する晴景様。その目は爛々と輝き、それが酒による妄言ではないことを、はっきりと示している。
 だが、だからこそ余計に性質が悪い。
 はっきりと最悪の展開を明示され、思わず俺は呻き声をあげていた。


 どうして、このような事態に至ってしまったのか。
 その端緒となったのは、柿崎城である。
 当主である景家を失った柿崎城は、自失から回復すると、すぐに次の問題につきあたった。景家の後継者を誰にするか、という問題である。
 柿崎は精力の旺盛な男だったらしく、その子供は両手にあまる数であり、また弟の弥三郎を担ぐ者たちも、家内では強い力を持っていた。
 景家はいまだ若く、自分が死ぬことなど考えもしていなかったのであろう。当然のように後継者について明示していなかった為、その死後、家中が混乱するのはむしろ当然であったかもしれない。
 だが、この混乱は大火に発展する前に、景虎様によって押さえつけられる。
 栃尾勢を率いた景虎様は、敗兵を収容しつつ柿崎城に入ると、ただちに不穏な動きを見せていた者たちを拘禁してしまう。この電光石火の行動に機先を制され、柿崎城は瞬く間に景虎様の治下に入ったのである。


 時を同じくして、景虎様は側近の一人である本庄実乃を春日山に遣わして、今回の勝利を祝い、また栃尾が春日山に対して弓を引く心算がないことを繰り返し申し述べた。
 はじめは疑わしげに実乃の話を聞いていた晴景様だったが、話が柿崎城のことに及び、その仕置きを晴景様に委ねることを景虎様が願っている、との言葉を聞き、満足そうに頷いて見せた。
 この時まで、お二人の仲は良い方向に向かっていたのである。少なくとも俺はそう考え、安堵の息を吐いていた。


 だが、つい先刻。
 柿崎城の受け取りに出向いた晴景様の軍勢が、なんと景虎様の軍勢に急襲され、敗北するという事態が発生する。


 この報に接した時、俺は、春日山城で、今後の越後国内の動きをどう始末するべきかを話し合っていた。ちなみに、軍議の席には、柿崎撃破後、再び晴景様の麾下に参じてきた名のある諸将が連なっていたのだが、俺は何故だか彼らの上座、晴景様の隣の席に座していたりする。
 いつの間にやら、俺は春日山長尾家の懐刀という、ひっくり返ってしまいそうな評判と共に、諸将の上に立たされていたのである。
 俺のような若造への処遇としては、抜擢も抜擢、大抜擢であり、常であれば猛然と反対意見が述べ立てられていたであろう。だが、この場にいる国人たちは皆、落ち目の春日山に一度は見切りをつけたという引け目がある。
 いたし方なかったからとはいえ、あくまで春日山に従い、柿崎を撃破するという功績をたてた俺にけちをつければ、その声は即座に自分に返ってくることになる。それゆえ、苦々しい表情ながらも、集まった諸将は俺が上座に立つことに異議を唱えなかったのである。


 もっとも、全ての国人衆に敵視されていたわけではない。晴景様には不満があっても、あくまで守護代に忠節を尽くした俺に対して好意的に接してくれる人たちは少なくなかった。
 その筆頭は、赤田城主、斎藤朝信である。後に「越後の鍾馗」と呼ばれる、あの斎藤朝信である。ちなみに男性でした。
 元々、朝信は長尾家の争いに関しては中立を保ち、晴景様、景虎様、いずれとも等距離を保っていた。それが何故、今になって春日山に出向いてきたのかというと。
「なに、落ち目の春日山に義理立てして、無謀な戦に従った挙句、あの景家殿を討ち取ったる天城なる者、いかなる将や、と興味を覚えてな」
 そういって、呵呵大笑する朝信は、無骨な外見の下に、広い度量を備えた人物であると感じられた。


 
 ともあれ、集まった国人衆の数を見れば、晴景様が当面の危機を脱したことは確かである。
 そう思って、安堵のため息を吐いていた俺にとって、柿崎城の件は晴天の霹靂であった。
 まさか、景虎様が、このような詐謀を弄するとは思えない。あるいは誤報か。誤報でないにしても、何者かの策略かもしれない。
 そう考え、うろたえているであろう晴景様の顔に視線を向けた俺は。


 そこに、微笑を浮かべる主君の顔を、見つけてしまった。


 俺の凝然とした視線に気づいたのだろう。晴景様は即座に表情を改めた為、俺がその表情を見たのは、一瞬の半分にも満たない刹那である。
 だが、晴景様の表情は、表現しがたい悪寒と共に、俺の脳裏に刻まれた。
 その表情は、必然的に俺を一つの推測に導いていく。
 青い顔で考え込む俺の近くでは、景虎様の奇襲に際し、春日山勢は断固として応戦すべしとして軍議の結論が出てしまっていた。 


 そして、冒頭の晴景様の声につながる。
 そして、晴景様の命令はそれだけにとどまらなかった。
「颯馬、お主が総大将じゃ。越後一の猛将たる柿崎を討ちとりし、そなたの武威を、卑劣なる景虎めに知らしめてやるのじゃッ!!」
「――ッ、し、しかし、晴景様。まだ真に景虎様の策謀なのかも判然としておりません。柿崎家の暴走によるものやも知れませぬし、短慮は禁物かと」
「何を言いやるかッ。越後守護代たる身をたばかろうとする者に猶予を与えてなんとするッ! 元々、景虎めは柿崎と組んで、この晴景に歯向かった身。頼みにしていた景家がそちに討ち取られた為、方針をかえて詐謀を弄したに決まっておるわッ」
 晴景様の言葉には一理あった。たしかに表面上だけを見れば、そういう見方も成り立とう。先に春日山を訪れた本庄実乃は、その意図を糊塗するための偽りの使者であった、と見ることも出来なくはない。
 事実、晴景の言葉に同意する国人もちらほらと見受けられた。


 だが。
 彼らは、先の晴景様の表情を見てはいまい。
 俺は、心に巣食った疑念を払うことが出来ずにいた。
 あの長尾景虎と戦う、ということへの恐怖もある。だが、それ以上に――
 逡巡する俺に、晴景様がそっと近づき、耳元でささやきかける。
「……颯馬よ。景虎と戦うを厭うというのであれば、それも良い。じゃが、そのような自侭な行いをする者の頼みを、私が受け容れる理由もあるまいて?」
 その奇妙に甘い声と、白粉の匂いに、俺はめまいを覚えた。
 晴景様の言う、俺の頼みとは、先の戦で大功を立てた弥太郎らを士分に取り立てるというものである。それを反故にしようか、と晴景様は言っているのだ。
 約束していた金銭の褒美と共に、そのことを伝えた時の弥太郎たちの感激の表情を思い起こす。みなの顔を失望にかえることはしたくなかった。
 何より。
「もとより、この身は晴景様に一命を救われた身です。命令とあらば、否やはありません」
「ふふ、よう言うた、颯馬。では、改めて命じる。春日山勢の采配をそなたに預ける。不遜にも、守護代に逆らおうとするおろかな妹の首級を、我が前に持ってくるが良いッ!」
 晴景様の喜悦の声に、俺は奇妙に重く感じる頭を、床にこすりつけた。
「……かしこまりまして、ございます」


 命令を承った俺は、顔を上げて晴景様の顔を見る。
 ――ふと。
 違和感を覚えた。
「――?」
 何故か、晴景様の顔が、奇妙に青白く見えたのだ。
 化粧のせいかとも思ったが、しかし、何かが違う。
 俺の怪訝そうな視線に気づいたのだろう。晴景様が睨むように俺を見て、ついと席を立ち上がってしまったため、それ以上は観察することが出来なかったのだが。
「……何なんだ、一体?」
 奇妙な胸騒ぎを覚えながらも、俺はなす術なく、その場に座り込むことしか出来なかった――



◆◆


 燻る疑念。見え隠れする謀略と、妄念の陰。
 それらの果てに、越後国内の騒乱における最大の戦いの幕が開かれる。
 矛を交えるは、越後守護代長尾晴景。その妹、栃尾城主長尾景虎。
 血を分けた姉妹の死闘は、越後の大地を血と屍で覆い尽くす凄惨なものとなるであろうと思われ、民と兵とを問わず、越後の人々は恐怖に身を竦ませることになる。

 

 だが、しかし。



 ああ、誰が知ろう。
 これが、後の戦乱の世に、鮮やかなる軌跡を刻みつけた『蒼き聖将』上杉謙信と、その股肱の臣たる天城颯馬が、その生涯でただ一度。ただ一度だけぶつかり合った戦となることを。
 戦国乱世を風靡せしめた両者の激突の前では、いかなる妄念も色あせる。
 それは、規模としては越後一国におさまる小さなものながら、はるか後代に到るまで、越後の人々が誇りを以って語り伝えた、戦絵巻の妙なる一つ。


 かくて。
 常夜の時代を切り開く、一筋の曙光となる戦いの火蓋は、切って落とされた。


 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/25 00:53

 栃尾城、城主の間。
 今、そこには城主である長尾景虎をはじめとし、直江兼続、宇佐美定満、本庄実乃らの側近たちが、越後国内の地図を前に座り込んでいた。
 いずれの顔も、等しく翳りを帯びている。つい先刻、春日山城からの使者が城に訪れ、景虎に対し、宣戦布告を行ったからであった。


 中でも、直江兼続の顔色は、一際悪かった。柿崎城引渡しの際に生じた、一連の騒動。その場に居合わせた栃尾方の総責任者が兼続だったからである。
 だが、この場にいる者たちは、誰一人として兼続を責めるような真似はしなかった。
 事実、兼続は責められるに足る過ちはおかしていない。柿崎景家配下の人心を安定させ、守護代に降るをいさぎよしとしない強行派を処断し、城内を隅々まで掃き清め、春日山勢を迎え入れたのである。
 当初、景虎が案じていたように、晴景方が柿崎城を攻め落とそうとせず、平和裏に城を受け取ることを受諾したこともあり、柿崎の叛乱はこれ以上の血を見ることなく、終結するかと思われた。
 だが。


「真に、申し訳のしようもありません」
 兼続が、もう何度目のことか、景虎に対し頭を下げる。
 それに対し、景虎は、これまで通り、首を横に振って応じる。
「よい。弥三郎が激発したこと、兼続に何の咎もないことは明らかだろう」
「いえ。景虎様がおられた時からおとなしくしていたとはいえ、万全を期すならば、奴めも拘束しておくべきでありました。まさか、景時が手勢を率いて春日山に挑みかかるとはッ」
 景家の弟、弥三郎景時は、兄ほどではないにしても、越後国内では屈指の剛勇の士として知られている。その景時が、おとなしく景虎に従い、春日山への臣従に対しても異を唱えなかったことに、兼続は不審を抱くべきであった。
 兼続が、晴景方の要請に応じて、手勢のほとんどを栃尾に返していたこともまずかった。柿崎の激発を抑えようにも、兵が足らなかったのである。
 景時以外の柿崎勢にとっても、景時の行動は慮外の出来事であったようだが、咄嗟にどう行動すべきか判断もつかず、結局、景時は城を受け取りにきた春日山勢を追い返し、さらには兼続ら栃尾勢さえ退けて、柿崎城の城主としておさまったのである。


 春日山の長尾晴景は、この柿崎の暴挙を景虎の謀略と断定し、栃尾に対して宣戦布告を行った。
 柿崎景家を失った景虎が、陰謀をたくらみ、春日山勢の勢力を殺ごうと画策したのだ、という晴景の言葉が、まことしやかに越後の国中で囁かれる。
 義に厚く、忠を尊ぶという、景虎の清廉な評判に、汚物をなすりつけるような噂が、春日山の諜者によって広められていることは明らかであった。そして、その口実を与える失態をしてしまったのが自分であることに、兼続は自責の念を覚えずにはいられなかったのである。
 ――たとえそれが、春日山の策略である可能性が、高かったとしても。



 景虎は、もう一度、兼続に向かって口を開いた。
「よい、兼続。そう自分を責めるな。姉上がここまで我が身を憎んでいた以上、たとえ柿崎の件がなくとも、いずれ何がしかの問責を受けていたであろう」
 春日山にいる晴景の、景虎排除の意思は、もはや明白である。
 実の姉から、心底疎まれていたことを認めた景虎はわずかに俯き、さびしげな表情を浮かべた。
 その姿を、兼続たちは言葉をかけることも出来ず、ただ見つめることしか出来ぬ。
 だが、景虎はすぐに顔をあげ、臣下にそれ以上の気遣いをさせなかった。


 顔を上げた景虎の顔に、たちまちのうちに清冽な戦意が漲ってくる。
 姉との戦を避ける術があるなら、最後までその可能性を模索する。だが、もはや戦うことでしか姉と交われぬのならば、全力を以って戦うのみ。
 景虎の勝利が早ければ早いほど、流れる血は少なくなろう。
 すっくと立ち上がった景虎の口から、長尾家に仕える忍集団の名前がこぼれる。
「――軒猿(のきざる)」
「……ここに」
 景虎の言葉に、部屋の外から呟くような返答が帰ってきた。
「春日山の総兵力は」
「集まった国人衆の数からして、おおよそ六千。斎藤朝信も、此度は春日山に参じております」
 その軒猿の報告を聞いた景虎や、兼続たちの顔に、緊張の色が浮かぶ。
 柿崎景家に優るとも劣らぬ勇猛な武将である。これまでは、国内での争乱に対して、中立の立場を堅持していたのだが……
「斎藤殿が春日山に参じたとなると、これは一筋縄ではいきませぬな」
 実乃が右手で髭を捻りつつ、左手で頭を掻く。仕方ないこととはいえ、敵も味方も顔見知りばかりであり、やりにくいことこの上ない戦いとなりそうであった。


 兼続、定満も、実乃と同じ表情で苦い顔をする。
 そんな中、景虎は自らが戦うこととなる敵将の名を尋ねた。
 そして、返ってきた答えは――


「天城、颯馬ですか。柿崎を討ち取ったという男ですね」
 兼続の言葉に、定満が小さく頷く。
「油断しちゃ、駄目だね」
「それはもちろんです。ですが、宇佐美殿、そこまで警戒するような相手なのでしょうか。聞けば、晴景様が農民から引き立てた者だとのこと。兵法を学んでいるかさえ、怪しいものです。柿崎を討ち取ったのも怪我勝ちやも知れません」
 兼続の言葉に、定満は首を傾げてみせる。
「……怪我勝ちで討ち取れるほど、柿崎は弱くないよ。それに、柿崎を討ち取った時の動き、無駄も多いけど、きちんと理にかなってる。ちゃんと軍学を修めているかはわらかないけど、多分、素人じゃない」
 実乃もまた、宇佐美の言葉に賛意を示す。
 いずれも、柿崎の剛勇を知ればこそ、なまじな策で、あの突進を止めることは不可能であることを理解していたのである。


 本当は、兼続とて、その程度のことはわかっていた。天城とやらの将略が、なかなかのものであるということも。
 しかし。
 天城が春日山の将であるならば、今回の謀略もまた天城の頭脳から出た公算が高い。
 兼続自身はともかく、主君である景虎の尊厳に泥を塗るような真似をした人物に高い評価を与えることは難しかったのである。


 だが、景虎の側近たる身で、感情に振り回されることは許されない。
 誰よりも、主君である景虎が、苦しい胸の内を押し隠して戦っているのだ。それを支えずして、どうして長尾景虎の臣下を称せるのか。
 兼続は自らを叱咤し、胸中の感情のわだかまりを掃き清めていった。




 
「――天城、颯馬」
 景虎は、敵将の名を口にする。
「天の城に、風の馬、か。雅な名だな」
 その声は小さく、兼続が怪訝そうに問いかける。
「景虎様、何か?」
「――いや、なんでもない」
 景虎は頭を振ると、埒もない思いを振り払う。
 これから戦う敵将として、その名を脳裏に刻みつけ。
 越後の竜は、迫り来る戦に備え、毘沙門天に祈りを捧げるために、毘沙門堂へと歩を進めたのである。



◆◆



 長尾晴景、長尾景虎。
 両軍が最初に戦火を交えたのは、越後与板城である。
 すなわち、直江兼続を当主とする直江家の居城であった。


 春日山長尾軍は、大動員をかけ、六千の兵力を整えるや、関川を渡って柿崎城に向かう。
 晴景軍の指揮官である天城颯馬は、まず、これを下して、関川以東の地を狙う橋頭堡にする心算であった。
 だが、新たに柿崎城主となっていた弥三郎景時は「かねての約束どおり」と晴景軍にあっさりと降伏し、所領の安堵を要求する。
 当然、天城はそのような話は知らなかった。だが、発端となった出来事のことを考えれば、柿崎と春日山の間で、何らかの密約があったことは察せられた。そして、それを行ったのが、誰であるかも。


 天城は多くの時間を要さず、決断する。柿崎景時を捕らえ、無用の戦火を招いた罪で即座に処断したのだ。
 約束が違う、とわめこうとする景時の口を縛り、柿崎城内で刑を執行した天城は、景家の長男である晴家を新たな柿崎城主として認め、幼い晴家の後見人には、実直で知られる家臣を選び出した。
 全てが、春日山の長尾晴景の名をもって行われ、決定された。この裁定により、柿崎家の後継争いは、ひとまず収まったのである。


 柿崎城の仕置きを終えると、天城は密使を坂戸城に遣わした後、斎藤朝信を先手として、日本海を左に望みながら北上。直江家の居城である越後与板城に攻めかかる。
 与板城は、直江家の先代当主が城を守っているが、主力の多くが、兼続にしたがって栃尾城に詰めているため、晴景軍の総攻撃にあえば、落城は免れないかと思われた。


 だが、軒猿の働きによって晴景軍の動きを正確に掴んでいた景虎の軍勢は、この時、すでに与板城を指呼の間にとらえていた。
 その兵力は、およそ四千。栃尾勢の、ほぼ全戦力にあたる数である。
 与板城外で対峙する晴景軍と、景虎軍。ここに、両軍ははじめて正面から矛を交えるかに思われた。


 だが、晴景軍を率いる天城颯馬は、景虎と正面から野戦で勝敗を決する心算はなかった。
 陣を堅くするだけで、晴景軍は動く様子を見せない。
 一方の景虎軍は、当初の目的である与板城の救援を成し遂げ、将兵の士気は上がっていた。与板城の兵力を加えれば、景虎軍は四千五百を越える。晴景軍六千とは、まだ大きな隔たりがあるが、与板城という拠点を抱える景虎軍の方が有利であるのは言うまでもない。
 ここで晴景軍を破れば、形勢は一気に景虎方へ傾くだろう。そう考えていた矢先、栃尾城から息せき切って急使があらわれた。
 その報告を聞いた景虎軍の諸将は、うめき声をもらした。


 栃尾城の南にある一つの城。
 その名を坂戸城という。先代守護代、長尾為景の弟である長尾房長と、その子である長尾政景の居城である。
 その坂戸城から、栃尾城に向けて、数千の兵力が進軍しつつあるという、それは知らせであった。


 
 長尾房長・政景父子は、今回の春日山長尾家の当主を巡る争いについては不干渉を貫いていた。
 その血筋から、自らその座を望むことも出来た房長であるが、これといった主張を行うことはなく、領土の統治と、周辺豪族との関係を厚くすることに手を砕き、情勢を静観してきたのである。
 その房長が動いた。しかも、晴景方として。
 無論、これは天城の指示による。晴景には子がいない。晴景亡き後の守護代職を、政景にするという誓紙を、出陣前に、晴景からもらっており、それを示すことで坂戸城を味方に抱き込んだのである。


 この坂戸長尾家の動きは、景虎側にとっては、大きな驚きであった。父房長、子政景、いずれも勇猛をうたわれる武将である。栃尾城に残るのは、宇佐美定満率いる五百のみ。一刻も早く救援に赴かねば、景虎軍は居城を失ってしまうだろう。
 だが、ここで景虎が軍を返せば、晴景軍は猛追を仕掛けてくるのは必至。退却戦が困難を極めることは常識であり、それは景虎にとってもかわらなかった。


 だが、天城の動きは景虎軍が予想だにしないものだった。なんと、与板城から数里、引き下がったのである。天城が、栃尾の動きを知らない筈はなく、また、景虎側の退却を予測していない筈はない。しかるに、天城は退いた。それだけ離れてしまえば、後ろから追撃をかけるのも容易ではないというのに。
 敵軍の思惑をいぶかしみながらも、景虎軍は栃尾城に向けて退却を開始した。晴景軍は追撃の構えを見せたものの、景虎軍の神速をもってすれば、晴景軍に捕捉される前に逃げ切ることは、十分に可能であり、また事実、景虎軍はこの退却において一兵も失わなかったのである。


 もっとも、景虎は全軍を退かせたわけではない。景虎軍がいなくなれば、与板城を失うのもまた自明。それゆえ、景虎は、兼続に千人の兵を付け、与板城に残らせた。
 最初から城の守備についていた直江家の兵が五百であるから、残るのは千五百人。六千に及ぶ大軍を相手どるには苦しい数だが、兼続であればやってのけるだろうと景虎は判断したのである。



 だが、晴景軍の動きは、またしても景虎側の予測に反する。栃尾へ退く景虎軍の後背を見送ると、悠々と与板城から引き上げを開始したのだ。
 といっても、完全に退却したわけではない。一日あれば、与板城を急襲できる距離を保ったまま、滞陣したのである。
 結果、直江兼続は与板城から身動きがとれなくなる。
 兼続までが栃尾城に退けば、天城が軍を返してくることは明白であったからだ。
 兼続は敵の思惑を悟って歯噛みしつつ、しかし打つべき手を見出せずにいた。



 これと同じことが、栃尾城にも起きていた。
 景虎の軍が近づくや、坂戸勢は栃尾城から退き、一定の距離を保つ。景虎が出撃すれば退き、景虎が別方面へ動こうとすれば、栃尾城に攻め寄せる。
 景虎が総力を挙げてかかれば、坂戸勢を打ち破ることは不可能ではなかったが、そうすれば与板城の晴景軍が動くのは明らかであった為、景虎は容易に動くことが出来なくなってしまったのである。



 今や、晴景方の狙いは明らかであった。
 戦線を膠着させること。
 兵力的に優位に立つ晴景軍は、与板城と栃尾城に、景虎軍の主力を封じ込めると、数百から千の軍勢を小出しにして、景虎方に味方する地域を次々と攻略していく。
 時に、この攻略軍は、栃尾城から雷発した長尾景虎率いる少数の精鋭部隊に捕捉され、散々に蹴散らされはしたが、一度や二度の敗北で、晴景方の優位は変わらない。
 むしろ、坂戸長尾家を味方につけた晴景方には、柿崎撃破後にも増して、味方となる国人衆が集まってきており、両軍の兵力差は開く一方であった。 
 天城は新たに加わった国人衆の軍勢で、失った兵力の手当てをし、あるいは新たに彼らを組織して攻略部隊をつくるなどして、景虎側への圧力を強めていったのである。




 後に、天城はこの戦いのことを「劉邦が、項羽と戦うかの如く」と表現した。
 西楚の覇王項羽の戦場における強さは圧倒的であり、戦えば必ず負けるとわかった劉邦は、項羽と戦場で矛を交えようとはせず、広大な包囲網をつくりあげて、項羽を奔命に疲れさせ、最終的に垓下の戦いで、項羽を葬るに到る。
 それを模した、と天城は言ったのである。
 天城が、いかに野戦における長尾景虎を恐れ、また警戒していたかが如実にわかる例え方であるが、形勢が天城の意図する方向に向かいつつあるのも確かであった。


 だが。
 一向に勝負を決しようとしない天城の戦いぶりに、晴景方の諸将は、徐々に不満を募らせつつあった。戦術家として景虎と戦える筈もないと考えた天城は、この時、戦略家として景虎と対峙していたのだが、そこまで思いを及ばせることが出来たのは、敵味方、あわせても精々数名たらず。
 将兵の大多数を占めるのは、眼前の戦闘の勝利こそ、戦の勝利に繋がると考える者たちであり、その彼らの目から見れば、晴景方は、景虎の部隊に負け続けているようにしか見えない。
 越後の国を俯瞰すれば、景虎方はゆっくりと包囲され、徐々にではあるが、押し込まれつつあったのだが、地表では、連勝で沸き立っているのは景虎軍であり、晴景軍はやや意気阻喪している観があった。


 そして、何より、項羽と景虎の違いは、その配下の智者の存在であった。
 この戦を、楚漢争覇戦に例えるなら、最も重要なのは越後中部から北部にかけて勢力を持つ北部地方の国人衆の動向である、彼らは、斉の韓信に匹敵する存在であった。つまり、彼らがどちらにつくかによって、最終的な勝者が決まるということである。
 新発田、平林、鳥坂らの諸城に居を構える彼らには、当然、天城も使者を遣わしていた。
 だが、天城よりもはるかに早く、彼らに手を入れていた者が、景虎軍に存在した。
 ――その者の名は、宇佐美定満。
 かつて、長尾為景をして「あやつに負けぬためには、戦わぬことだ」と嘆息せしめた、越後随一の智者である。
 定満は、すでに、春日山と栃尾の間で不穏な空気が漂っていた時期から、彼らに対して幾度も使者を出し、彼らの心をしっかりとつかまえていたのである。



◆◆



 越後北部の国人衆が、景虎方につき、一斉に動き出したことを知った俺は、深くため息を吐く。俺がどれだけ策を講じようと、すでに最後の切り札は景虎様の手元にあったことを悟ったのだ。
「予想してなかったわけじゃないが、やっぱり先を越されてたか」
 越後の北には、たとえば坂戸の長尾房長のような、数千の兵力を抱える大身の者はいないが、皆、それぞれに数百から千近い人数を抱えている者たちばかり。
 景虎方は、そんな彼らを束ねることに成功したらしい。おそらくは、宇佐美定満の仕業であろうが、南下してくる北部の国人衆の兵力は、五千に達しようかという大軍であった。
 これで、こちらと、あちらの兵力はほぼ互角。
 これまでのように、兵力差を利した戦い方は、もう不可能である。


「まあ、このままでも、行き詰っていたかもしれないがな」
 俺はそういって、苦笑した。
 軍中からは、俺のことを景虎様から逃げ回る臆病者との評も聞こえてきている。そして、それは完全に事実であった。
 やはり野戦においては、景虎様は比類なき強さを誇る。一度、遠目にその姿を見たが、自ら先頭を馬で駆り、恐ろしいほど鮮やかにこちらの部隊を切り崩していく様は、なるほど、毘沙門天の化身という評判も頷けるものであった。
 正直なところ、微塵も勝てる気がしなかった。軍神、戦神の化身など、噂は色々聞いていたが、正しく噂に違わぬ強さ――というか、あの景虎様を見れば、噂の方がまだ控えめな表現だったのだと思える。
 さすがは越後の竜、上杉謙信。柿崎景家を討ち取ったからといって、調子にのって、いくら謙信でも若年ならば、抑えることくらいは出来るかも、などと考えていたつい先日までの自分が恥ずかしすぎる。


 とはいえ。
「だからといって、逃げ出すわけにはいかないからなあ」
 俺はため息を吐きつつ、髪の毛をかき回す。なんかこの台詞を言う都度、死の淵に近づいているような気がしてならない。気のせいであることを願いたいところなのだが。
 越後を二分する抗争に発展した以上、今回の戦いで敗北すれば、晴景様は死罪に処されるだろう。たとえ景虎様がためらったところで、他の国人衆が許さないだろうし、越後の民も、晴景様の死を望む筈。
 その願いをはねつけることは、景虎様でも出来ないに違いない。
 つまるところ、晴景様を助けるには、勝つしかないのである。
 あの、長尾景虎に勝つしか。文字通りの意味で、命を懸けて。


 北部国人衆の参戦により、今や、越後全土がこの戦いに巻き込まれたことになる。
 これ以上、戦が長引けば、当然、軍資の費えは嵩み、民の生活にも好ましからぬ影響が出てくるだろう。
 早く決着をつけなければ。
 おそらく、景虎様はそう考える筈だ。元々、あまり気の長い方ではないとも聞くし。
 そしてこの戦の場合、決着とはすなわち、晴景様もしくは景虎様が相手方に降伏すること、あるいは、その首級を奪われることに他ならない。どの城を陥とそうが、どの地を奪おうが、この戦に関しては決定打になり得まい。
 その意味でいえば、たとえ大将である俺が討ち取られたとしても、代わりに誰かが采配を委ねられるだけだ。おそらく、景虎様は俺の首級に興味はないだろう。


 だが、晴景様は春日山城に篭って動こうとしない。むしろ、動かれても困るから、その動きを抑えていたのは俺なのだが、しかし、そろそろ動いてもらう時が来たのかもしれない。
 俺は、癖になりつつあるため息を吐きながら、諸将を集めるように命じた。
 北部国人衆が景虎様と合流するまえに、素早く退却しなければならない。
 目指す先は越後国北条城。後年の地名では柏崎というこの城と、その傍らでそびえたつ米山を封鎖すれば、春日山城へと到る街道を完全に遮断することが出来るのである。


 ――つまりそれは。
 ――たとえ、春日山城を空同然にしても、問題がないということ。


 そして晴景方の全兵力をここに集中すれば、景虎軍が大挙して押し寄せようとも、かなりの長期にわたり、防戦することが可能となる。
 それはすなわち、早期決着を望んでいるであろう景虎様にとって、きわめて望ましくない戦況が現出することになるのである。



 空の春日山。容易に突破できぬ米山、北条城の守り。
 この二つを前にして、景虎様がどう動くか。あとは――
「賭け、だな。まあ、勝っても負けても、俺には配当は入ってこないけど」
 言って、俺は思わず天を仰ぐ。
 一体、どうしてこんなことになったのだか。
 ただの大学生であったほんの数月前のことを思い出しながら、俺は両の頬を思い切り叩く。
 それは、ともすれば怯みそうになる自分の心に、活を入れる為だった。



◆◆



「叔父上が、兵を退いた?」
 配下の報告に、景虎はわずかに眉を動かした。
 その兵の報告によれば、栃尾城に執拗に張り付いていた坂戸長尾軍が、一斉に坂戸城へ向けて退却を始めたという。
 さらに、時を同じくして、与板城の兼続からも、春日山勢が一斉に退却を始めたことを知らせてきた。
 それは蝗のように各地に散った晴景方の小部隊も同様であり、皆、一斉に米山方面へ退却を開始したという。
 北部の国人衆の参戦が、その引き金になったことは明らかであった。


「……持久戦、かな?」
 その場にいた定満が、自信なさげに首を傾げる。
 今回の戦において、最大の勲功をたてた定満だが、それを誇る素振りも見せない。春日山勢の動きを見て、思うところを述べてみたようだ。
 その定満の意見は、景虎にも頷けるものだった。
 米山は、景虎軍が春日山城へ行くためにはどうしても通らねばならない道である。
 あの地を封鎖されれば、後は海を越えて敵の後背にまわりこむか、もしくは迂回して山を越えるかしかないだろう。
 とはいえ、海を越えるにも船が足りないし、山を進むにしても糧食に不安が残る。何より、敵に悟られてしまえば、敵地の真っ只中で孤立することになってしまう、一か八かの危険な試みだ。
 それらを避けるには、敵の思惑どおり、真正面から北条城と米山を突破するしかない。だが、そうすれば、敵と味方とを問わず、越後の民の血が大量に流れることになるだろう。
 いずれも、景虎が望む天道とは程遠いものばかりだった。


「……だが、今は止まっている場合ではない」
 景虎の言葉に、宇佐美が頷いて賛意を示す。
「うん。まずは兼続と合流して、春日山の動きを見極める。そこから、どう動くかを決めるのが最善」
「わかった。ただ、叔父上が坂戸城に戻ったというなら、米山の封鎖には加わらないつもりだろう。念のためだ、この城には、実乃を残していく」
「それで良いと思う。景虎様と私で、動かせるだけの兵を連れて、北条に向かう」
 城内を歩きながら、景虎と定満は瞬く間に行軍の計画を立てていく。
 この両者が、栃尾城の城門を出るまで、半刻を要さなかった。




 そして。
 北条城城外で兼続と合流した景虎たちは、晴景方の手によって厳重な防備を施された米山を見て、その突破が容易でないことを知る。
 そして、春日山勢が、ほぼすべての戦力を、この地に集結させていることも。


 それを聞き、景虎の目に、名刀が陽光を反射したかのような、鋭利な光がはしる。
 その視線が向いたのは、米山の南。黒姫山。
 道らしい道がなく、熟練した猟師でもなければ、道を見つけることさえ容易ではない。ましてや、山を越えて、西の頚城平野に出るのは至難と言って良い。
 それらを承知してなお、景虎の視線は、その山から離れることはなかった。
 否。
 景虎は、すでに山など見ていない。
 その視線が見据えるのは、眼前の山嶺を抜け、そのはるか先、頚城平野にその偉容を示す越後守護代の居城、春日山城であった。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/25 00:53


 柿崎城へ侵攻を開始した日から、まださほど時が経ったわけではない。
 だが、俺は眼前の春日山の光景を、懐かしく感じている自分に気づき、小さく笑った。
 梅雨が去って間もないこの時期、存分に水分を吸収した草木の成長は目を瞠るほどで、萌え出る芳醇な自然の息吹が、春日山の内外に満ち満ちているように感じられる。
 そんな包み込むような暖かい空気の中、俺は春日山城に帰還した。
 従うのは、弥太郎のほか、十名ばかり。いずれも、今回の戦から、俺の直属の部下となった者たちである。俺が春日山に帰還したことを知るのは、彼らをのぞけば、ほんの数名だけであった。ほとんどの晴景様方の諸将は、俺が北条城にいると思っているだろうし、当然、それは敵である景虎様陣営も同様であろう。


 前触れもなく帰城した俺の姿を見て、留守居の者たちは、驚きのあまり、口をぽかんと開けてみせた。中には、慌てて逃げ支度を始める者もいる。前線で敵軍と戦っている大将が、ほとんど単身で駆け戻ってきたのだ。なにやら不測の事態が生じたと思われても仕方のないことであった。
 俺は彼らに落ち着くように言い諭してから、晴景様の下に伺候しようと歩を進めかけた。
 だが、その矢先、俺の帰還の報告を聞いた晴景様が、奥から姿を現し、開口一番、こうのたまったのである。
「退却の命令を下した覚えはないが――颯馬、ぬし、ここで何をしておるのじゃ。景虎めの首、持ち帰れと命じた筈じゃぞ」
 近づく晴景様から、伽羅香の匂いが漂ってくる。晴景様の青白い顔とあいまって、おれは、城内の清新な初夏の空気が、たちまちのうちに物憂いものに染め替えられていく錯覚を覚えた。


 そんな晴景様に、俺は跪いて独断で帰還したことの許しを請うた。
 だが、決して目的もなく帰って来たわけではないことも申し添える。むしろ、これは俺の中では最後の仕上げに等しい。
 春日山城への帰還は、景虎様を討ち、晴景様に勝利を捧げるための、最終幕なのである。
 俺がそう言うと、晴景様は、目を瞠って、跪く俺の姿にじっと視線を注いできた。
 やがて。
「無論、詳しく聞かせてくれるのであろうな?」
「御意にございます。しかし、この策は秘中の秘。できますれば、お人払いの上で、お話したいと存じます」
「……ふむ、よかろう。きやれ、私の部屋で話を聞こうぞ」
「御意……って、はッ?! 晴景様のお部屋ですかッ?!」
 慌てる俺を見て、晴景様の目に、どこか楽しげな光が踊ったように見えた。
 そして、晴景様はにこりと笑って口を開く。
「まさか、拒否はいたすまいなあ、颯馬?」
「……か、かしこまりましてございます」
 その晴景様の笑みの圧力に押されるように、俺は頭を垂れた――




 晴景様の私室に入った俺は、正直なところ、意外さを禁じえなかった。
 さぞや豪奢な造りをしているのだろうとの予測とは正反対に、黄金玉箔の類も、高価な調度品も置かれていない部屋――質素と言っても良いくらいの佇まいであった。
 唯一とも言える贅沢は、部屋の中央にある香炉から漂う伽羅香の薫りぐらいだろう。


 部屋の中央に座した晴景様は、そんな俺の様子を見て、してやったりと言わんばかりの表情で楽しげに笑う。その顔を彩るのは、相変わらずの艶麗な化粧だが、その声はどこか童女のように澄んだ響きを帯びて、俺の耳に響いた。
 その笑いが一段落すると、晴景様は表情を改め、口を開く。
「さて、颯馬よ。驚いたお主の顔も堪能できたことゆえ、本題に入ろうか」
 その視線に、刃のように硬質な光を宿しながら、晴景様は言葉を続ける。
「ここならば、聞き耳をたてる者はおらぬ。景虎の耳に入ることもなかろうよ。そなたの秘策とやら、開陳せよ」
「御意。では――」
 俺は命令どおり、これまで自分の胸の中にしまいこんできた策を晴景様に説明していく。
 それは、正直なところ、策と言えるほどに煮詰まったものではなかったかもしれない。
 会ったこともない景虎様の気性に、すべての成否がかかっているのだ。もし、景虎様が、俺の予測どおりに動かなかった場合。あるいは、おれの予測の上を行かれてしまった場合。この策は呆気なく粉砕されてしまうだろう。


 だが、晴景様が俺の策を採ってくれるのならば、たとえ失敗したとしても、失われるのは俺一人の命だけ。それは、成功によってもたらされる果実の旨みを思えば、賭けるに値する代償であろう。
 そんなことを考えながら、俺は策の全容を晴景様に説明し終えたのである。





◆◆





 俺は、春日山城の最上層、天守の間で小さく笑った。
 今回の策を話し終えた時の晴景様の顔を思い出したからである。
 それは驚きと疑念が幾重にも絡まりあった、なんとも珍妙な表情だった。笑いを堪えるのに、腹筋を総動員しなければならなかったくらいに。ぽかんとした晴景様の顔は、思ったよりもずっと若く見えた。無論、御本人には口が裂けてもいえないことだったが。


 それが、ほんの数日前のことである。
 策戦の了承をもらった俺は、晴景様に、ただちに米山ないし北条城に出向くように申し上げた。グズグズしていては、景虎様に機先を制される恐れがあったからである。
 だが、晴景様はその点に関しては、俺の言うことを聞いてくれなかった。
 俺は安全上の理由にはじまり、策が成功した際の効果的な立ち回りなどから考えて、晴景様は米山の陣営におられるのが最善なのだと説いたのだが、結局、首を縦に振ってもらうことは出来ず、晴景様は春日山城を離れると、越後守護の上杉定実様の邸に出向かれてしまった。
 守護職とはいえ、実権がない定実様だから、当然、固有の武力を持っている筈もなく、その邸の防備はきわめて薄い。俺が連れてきた弥太郎たちと、元々の警備兵だけでは、まとまった数の敵に襲われたらひとたまりもあるまい。
 だが、結局、晴景様は我を通し、定実様の邸で、俺の策戦の成否を見定めることとなった。定実様自身は、野心的な方ではなく、先代為景様の傀儡たる立場に甘んじ、今代の晴景様の失政に対しても、諌めの言葉こそ発したが、それに乗じて実権を取り戻そうという動きはしなかった。それに、その奥方は晴景様、景虎様の異腹の姉君であり、晴景様たちとも縁が深い。それゆえ、定実様たちが、この期に乗じようとする危険は少ないであろうが、今は戦国の世。不穏な動きがどこで起こるとも限らないのである。


 そういって、用心を説いた俺だったが、やはり晴景様を説得することは出来なかった。
 これ以上、時間をかければ策自体に差し障りが生じる可能性が出てきたため、俺はいたし方なく、晴景様に弥太郎たちを護衛につけて、上杉邸まで送らせた。弥太郎は、俺と共に春日山城に残りたいと言ったのだが、そこはきっぱりと拒絶し、晴景様を守るように厳命する。
 今回ばかりは、関川の時のような命令違反は許さない、と断言する俺に、弥太郎は力なく首を縦に振るしかなかったのである――涙目の美少女に見下ろされる、というのはなかなかにない経験だった。色々な意味で胸が痛んだが、ここは心を鬼にして、追い出すように弥太郎たちを上杉邸へと向かわせた。



 そうして、晴景様と、弥太郎たちが密かに春日山城を出て、ほどなく。
 春日山城に急使が駆け込んできた。
 動転しきった様子の兵士は、報告を聞きに俺が姿を見せるや、叫ぶように告げたのである。
「頚城平野に、忽然と『毘』の旗印があらわれた」と。
 わずかに城に残った家臣の口から、驚愕の声が漏れる。その旗印が誰のものであるか、その場にいる全員が一瞬で悟ったのである。
 長尾景虎。
 だが、頚城平野に、彼の人物が姿を現すには、米山の守りを突破しなければならない筈。だが、いまだその知らせは来ていないし、この短時日にあの堅陣を突き崩すのは、いかに軍神といえど不可能である。一体、どこから現れたのか。
 だが、春日山城に真相を求めて、思い悩んでいる暇はなかった。頚城平野に姿を現した数百騎の景虎軍は、風を切って進軍を開始。まっすぐにこの城へ向けて突進してきているからであった……






 ――俺は、眼下の景虎様の軍勢を見据えながら、ここに到るまでの軌跡を思い起こし、もう何度目のことか、深いため息を吐いた。
 すでに城中の人は、兵であれ、誰であれ、城外へと逃がしてある。新参の俺の説得に耳を貸さず、先代様のご恩に報じるため、あくまで城に残って戦おうとする者たちもいたが、そういう連中は、すでに景虎様の鋭鋒の前に突き崩されていた。
 せめて、彼らの命だけは無事であるように、と願いながら、俺は城内に戻る。
 事、ここに到り、為すべきことは、ただ待つことだけ。
 そして、その先、策戦が成功しようと、失敗しようと、俺自身の命運は、すでに定まっているのである。


 にも関わらず。
 不思議と俺は落ち着いていた。恐怖も、後悔も、ないわけではなかったが、それ以上に、為すべきことを為したという充足感がある。
 それは、あるいは自己満足に類するただの錯覚なのかもしれないが――それでも、最後に自分の心に残った想いが、胸を張れるものであったことに、俺は確かな喜びを感じていた。


 そして。
 階下から響いてくる幾つもの足音が、耳に飛び込んできた。
 無人に等しい城内の様子に、困惑の声があがっているのが、ここまで聞こえてくる。
 それらが、俺のいる天守の間に向かうまで、さほど長い時はかからなかった。


 ふと空に視線を向ければ、いつのまにか黒々とした雨雲が、春日山を覆うように沸き起こりつつある。陽光が遮られ、春日山城に翳が差す。
 そんな天候の変化に気をとられているうちに、敵軍は随分近づいていたらしい。足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
 ただ、少し意外だったのは、こちらに向かって来る足音が、思いのほか静かであったことだ。先刻まで城内を荒々しく踏みしだいていた武者たちのそれとは一線を画する、落ち着いた足取り。


「――来られたか」
 そんな俺の呟きに応じるように、その人物が視界に入ってきた。



◆◆



 それは、景虎軍にとって、あまりにも容易い戦いだった。
 米山の南、黒姫山を突破し、頚城平野へ。
 無謀ともいえる、この山越えにあたったのは、厳選した騎兵五百。そして、見事山越えを成し遂げ、頚城平野にその姿を見せたのは、当初の半分にも満たない二百騎のみであった。
 だが、この二百騎は、景虎軍の精髄ともいえる、精鋭中の精鋭である。
 景虎の号令一下、一路、春日山城へと疾駆する彼らの勢いは、鬼神すらその身を避けるであろう凄まじさであった。その進路を遮ろうとした者たちは、ことごとくその馬蹄に踏みにじられ、慌てふためいて逃げ出す羽目になる。


 破竹の勢い。
 その言葉のままに春日山城に押し寄せた景虎軍は、ここでも圧倒的な強さを見せ、堅城として名高い春日山城の大手門を、その鋭鋒で突き破る。その勢いは、二の丸、三の丸でも続いた。
 だが、このあたりで、一路、本丸へと突き進む景虎軍の将兵の顔に、疑問の色が浮かびはじめた。
 春日山の軍勢のほとんどは、米山の守りにまわされている筈であり、この奇襲が成功したのは当然のことである。軍神長尾景虎率いる精鋭にかかれば、春日山城とて陥落させることは出来る筈であり、事実、今、自分たちはその勝利の中途までたどり着いた。
 全ては策戦通り。勝利までは、あと一押し。その筈なのだが――


「……脆すぎる。いや、脆いというより、兵士自体、ほとんどいないのか?」
 軍勢の先頭を駆ける景虎の横で、兼続が呟くように言った。
 春日山勢が少ないことは予測していた通りであったが、それにしても少なすぎるように思われた。これでは、ほとんど無人に等しいのではないか。
 兼続は疑問を覚えつつも、先頭をひた走る景虎に遅れまいと、馬の脚をさらに速める。
 だが、本丸に入るや、兼続は疑問を確信に変えた。変えざるを得なかった。
「本丸まで、ほとんど無人とは……」
 兼続の隣で、定満も、小さく首を傾げる。しかし、口に出した言葉は更なる進撃である。
「罠、だとは思うけど。でも、行くしかないね」
 ここまで来て、姿さえ見えない罠に恐れをなして逃げ出すなど、武人の風上にもおけない所業である。そんなことをすれば、景虎の名誉は地に落ちる。


 もとより、退くつもりのなかった景虎は、ためらう様子もなく城内に足を踏み入れていった。
 兼続は慌てて景虎の先に立ち、罠や伏兵を警戒し、定満は景虎の背後を固める。
 そうやって、本丸を制圧していく景虎たちであったが、やはり、状況は依然として変わらない。時折、晴景方の兵とおぼしき者たちが名乗りをあげて挑みかかってくるが、それも精々十に満たぬ数である。景虎たちの手にかかれば、斬り捨てるまでもなく、取り押さえることが可能であった。
 だが、捕まった彼らは、頑として口を割ろうとせず、城内の様子が謎のままであることに変わりはない。
「……答えを見出すには、上まで行くしかないみたいだね」
 定満の言葉に、景虎は小さく、しかしはっきりと頷いた。
 上――春日山城天守の間。この戦いにおける最後の敵が、待っている筈の場所である。




 そして。
 景虎たちは、天守の間で、甲冑すら身に着けず、一人佇む者のところまでたどり着く。
 交錯する両者の視線。
 一方は予期した相手をそこに見出し。
 一方は予期せぬ相手をそこに見出した。
 越後の支配権を巡る争いは、今、佳境を迎えつつある。


 口を開いたのは、この状況を現出した者であった。


◆◆ 
 

 俺は、景虎様を遠目に見たことがある。
 それゆえ、現れたのが景虎様であることは、すぐにわかった。
 だが、たとえ今まで見たことがなかったとしても、一目でそれと分かったであろう。
 その眼差しから溢れる、奔流のような戦意。手に握られている刀は、あの名刀小豆長光か。
 俺と景虎様の間の距離など、景虎様にしてみれば、ないも同然であろう。景虎様がその気になった次の瞬間、俺は瞬く間に切り伏せられているに違いない。


 敵意でもなく、殺意でもなく、ただ圧倒的なまでの戦意。
 俺が刀を持っていないのは、正直、丸腰を誇示して、少しでも時間を稼ぐための姑息な策だったのだが、たとえ刀を持っていたとしても、一合と打ち合うことはかなうまい。そう感じざるを得ないだけの力量差が、俺と目の前の相手の間には存在するのである。
 後方の二人とも、似たような格の差を感じはするが、目の前の相手は別格であり、そしてそんな人物が、越後国内に二人といよう筈もない。
 俺は、自然と声を出していた。


「春日山城主、長尾晴景様が臣、天城颯馬と申します。栃尾城主、長尾景虎様とお見受けいたしますが、如何?」
 俺の問いに、目の前の人物は小さく頷きを返してきた。
「いかにも。私が景虎だ。天城颯馬――なるほど、噂に違わぬ人物のようだな」
 そう言って、景虎様は、いきなり刀を鞘に納めた。
 景虎様の後方にいた女武将が、驚きの声をあげる。彼女に負けず劣らず、俺も驚いたが。
「正直、適すべくもないとはいえ、一応、俺――いえ、私は貴方様の敵なのですが、刀を納めるとは、どのような所存なのですか?」
 俺の言葉に、景虎様はわずかに怪訝そうな表情をする。
「そなたは、噂に違わぬ人物だ、と言ったであろう。であれば、ここで刀を突きつける意味もあるまい」
「そもそも、噂とは何です? いや、失礼しました。成り上がりとか、晴景様の腰巾着とかいう噂ならば良く耳にするのですが、景虎様のところにまでそんな噂が流れているのですか?」
 いささか情けなくなって、俺がそう言うと、景虎様はそんな俺を見て、かすかに頬をほころばせた。
「その噂は初めて耳にしたな。私が聞いたのは、そなたが春日山随一の忠臣であるということ。その政戦両略は侮れぬということ。この二つだけだ」
「……いや、それは、なんというか、お耳汚しを……」
 思わず頭を抱える俺。全身を脱力感が襲う。
 よりにもよって、景虎様の口から、忠臣だの、侮れぬなど言われると、羞恥心が刺激されてならない。どう考えても、過大評価だった。


 思わず頭を抱える俺の姿を見て、景虎様はさきほどよりもはっきりと、顔を笑みの形に崩した。
 どこか和やかな空気が流れたようにも思われたが、それは幻想。
 景虎様はどうか知らないが、俺にとって、今こそが、この戦における最重要の局面なのである。
 それを知ってか知らずか――否、おそらくは知りながら、それでも景虎様の口調には焦りの色は露ほどもない。山裾から湧き出した清流のように、清らかで床しい(ゆかしい)言葉が、俺の耳朶に触れてくる。
「忠臣たるそなたが、ここにいるのだ。姉上は、最早、春日山にはおられぬのだろう?」
「はい、私から進言し、春日山を離れていただきました」
 そうか、と景虎様は呟く。
 そして。
「であれば、私の行動は予測されていたのだろう。そなたの策からは、最早逃れられぬということだ」
「……気がついておられたのですか?」
「いや、悟ったのは、そなたの名を聞いた時――いや、ここにきて、そなたの姿を見た時、だな。いずれにせよ、手遅れになってからだ」
 景虎様の言葉は、どこか感心したような響きさえ帯びて、おれの耳に響いた。
 否。それどころか。
「何故、嬉しそうな顔をなさるのですか。俺は、貴方を殺そうとしているのに」
 そう。
 景虎様は、俺が仕掛けた罠が容易ならぬものであるとわかっているだろうに、嬉しげに微笑んでいるのである。それは、この場面ではあまりにも似つかわしくないものだった。
 激昂した景虎様が、躍りかかってくることさえ予想していた俺にとってはなおさらだ。


「確かに、今は戦の最中であったな。すまない。だが、嬉しかったのは本当だ。そなたが噂どおりの人物であってくれたことが、私には嬉しい。姉上の配下に、そなたほどの武将がいてくれたことが、喜ばしくてならないのだ」
 それは、姉である晴景様が、守護代として認められていたことを意味する。
 そのことを、俺を見て確信したのだと微笑む景虎様の顔に、俺は不覚にも見とれてしまった。
 それも仕方ないことだろう。ここまで、自分以外の誰かのために喜べる人など、俺は見たことがなかったからだ。それも、今まさに自分の命が危険にさらされている状況で。
 なんという方なのか、この人は。



 俺は、深いため息を吐いた。
 今さら。
 本当に今さらではあるが。
 もし晴景様が、景虎様と和解し、姉妹が手を携えることが出来ていたのなら、越後統一など、簡単に成し遂げられていただろうに。
 長尾家の姉妹の名は、越後どころか、北陸、関東、あるいは京をはるかにこえて、遠く九州の地まで鳴り響いていただろうに。


 ――だが、もう遅い。
 お二人の争いは、最早、決着をつけるべき段階にまで来てしまっている。
 決着とは、すなわちどちらかの死。そして、俺が仕えるのは、長尾晴景様である。
 ゆえに。
「長尾、景虎様」
 本当は、様付けするべきではなかった。
 相手は、晴景様の妹君であるとはいえ、敵には違いないのである。
 だが、そんな理屈は、今の俺にとって風の前の塵に等しい。胸奥から沸き出でる敬意を止めぬままに、俺は景虎様に告げる。
「お命、頂戴いたします」


 俺の、その言葉が発されるのを、まるで待っていたかのように、階下から景虎様の部下の悲鳴じみた報告が轟いた。
「火、火です。城内の各所より、火がッ?!」
 同時に、もうもうとたちこめる煙が、階下より出口を求めて、天守の間に押し寄せて来る。
 天守の間は、たちまち騒然とし始めた。



◆◆



「おのれ、誰が城に火を放てと命じたか、粗忽者がッ!」
「誰も火を放った者はおりません。城に残っていた者たちもことごとく捕らえております。いぶかしいことですが、自然に火が出たとしか」
「馬鹿な、そんなことがあるものかッ!?」
「詮索は後にせいッ! まずは火を消すのだッ!」
「で、ですが、火のまわりが早すぎますッ! それに、火が出たのは一箇所や二箇所ではありませんぞッ! さらに階下からも煙があがってきております」
「いかん、このままでは逃げ道を失うぞッ?! 皆、早急に城外へ逃れるのじゃ」
「だ、駄目です、すでに到るところから火と煙がッ?!」


 兼続が、うめくように口を開く。
「春日山城もろとも、私たちを葬るつもりか」
 その言葉を聞いた天城は、あっさりと頷いて見せた。
「いかにも。城内の燭台に仕掛けを施しておいたのですが、うまくいったようですね。こればかりは、あらかじめ試してみるというわけにもいかなかったので、少しばかり心配でした」
「――このままでは、貴様とて逃れられぬのだぞ。自らも焼け死ぬつもりか?!」
「そうならざるをえないでしょう。私の命と、景虎様はじめ、越後屈指の勇将である皆様の命とでは、引き換えになどなりませんが、それは諦めていただきたい」
 そういって苦笑する天城の姿に、兼続は慄然としたものを覚え、背筋を奮わせた。
 わかったのだ。
 春日山城が無人に等しかった理由。
 天城が、一人で城内に残っていた理由。
 そして、そんな天城を前にして、景虎が刀を納めた理由。
 その全てが。


 言葉を失った兼続にかわるように、定満が口を開いた。
「……別に、あなたがここに残る必要はなかった筈。どうして?」
 晴景と共に逃げ、春日山城もろとも景虎を葬ればよかったではないか。そう問われた天城は、小さく肩をすくめた。
「私なりのけじめ、ですかね。命の恩には、命をかけて報いる。命を奪う敵には、命をかけて立ち向かう。自分がたてた策の結果を、安全な場所で、ただ見守るようなことはしたくなかった。それに――」
 天城は、少しの間、景虎や兼続、定満の顔を見渡した。
「俺がここで奪うかもしれない可能性は、あまりに大きすぎる。遠くでその結果を待つ緊張感に耐え切れるとは思えなかったんです」
 それゆえ、目の前で全てを確かめるためにここに残ったのだと告げる天城に、定満はどこか感心したように頷いた。
「『武人は剣で人を刺し、軍師は舌で人を刺す。策をたてる者、まずこれを銘記すべし』」
「……それは?」
 天城が不思議そうに問いかける。
「遠く唐から伝わる書物の一節。颯馬は、それをすでに知っているんだね」
「は、はあ……」


 今、まさに火刑によって景虎たちを葬ろうとしている筈の天城に対し、定満の様子は普段とほとんど変わらない。
 無論、天城は普段の定満の様子など知る由もないが、その茫洋とした雰囲気は、とても殺し合いの只中にいるものとは思えなかったに違いない。



◆◆



 そして。
「姉上への恩義に報いるために、命を賭して戦ってくれたのか」
 景虎様はゆっくりと俺に向かって歩を進ませる。
 刀は納めているとはいえ、景虎様ほどの腕前であれば、抜き打ちの一撃で、俺など簡単に屠れよう。
 俺は覚悟を決め、ゆっくりと頷いた。
「では、そなたに言わねばならないことがある」
 気がつけば、景虎様は、俺のすぐ前にまでやってきていた。
 青を基調とした衣装と甲冑。幾人もの兵を斬り捨ててきたであろうに、血糊一つ見当たらない。
 凛とした佇まいと、流れるような隙のない動作。
 ただ眼前に立っているだけだというのに、思わず跪いてしまいそうな気格が感じられる。格が違う、というのは、正しくこのような時に使われるべきなのかも知れぬ。
 香るような清冽さを総身に纏わせながら、景虎様は俺に向かって口を開いた。


「ありがとう。妹として、あなたの忠義の心に、心からの感謝を捧げます。あなたのような人が、姉上の傍にいてくれて、本当に良かった」


 ――その言葉に、俺は何と返せばよかったのだろう。
 栃尾城主としてではなく、長尾晴景の妹として、俺に礼を言う景虎様の言葉に、俺は言葉を失ってしまう。
 迫り来る煙と炎さえ、今の俺には遠い。
 まさしく、役者が違う。こんな方に、俺が勝てる筈はなかった。
 何よりも。
 誰よりも。
「天が、許す筈がないよな。こんな方が、こんなところで倒れることを」


 その俺の言葉に応じるように。
 突如、凄まじい大音響が響き渡った。
 春日山を切り裂くように、巨大な落雷が天と地を一瞬で駆け抜けたのである。
 時ならぬ雷鳴は、戻り梅雨を告げる兆しであったのか。
 間もなく、春日山から頚城平野へ、頚城平野から越後全土へ。大粒の雨が降り始めた。
 風はほとんどなく、ただ滝のような雨が降り注ぐ。
 雨はたちまち春日山城を覆いつくし、あふれ出る火の手を瞬く間に遮っていく。炎も煙も、自然の力の前には、ただただ無力。


 降り注ぐ雨と、彼方の空に視線を向けた俺は、もう何度目のことか、深く息を吐いた。
 だが、それは先行きを憂うため息ではない。この人たちの命を奪わずに済んだという、安堵の吐息であった。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/07 18:36


 春日山城の戦いは、終わった。
 先代守護代・為景が築いた春日山城は、その威勢を知らしめる建造物である以上に、何よりも戦のために築かれた城であった。
 そして、俺がいた天守は、その最終防衛線とも言うべき場所。城内を見渡し、また城外を遠望でき、敵味方の配置が瞬時に把握できるように建てられている。
 その天守から城内の様子を見てみると、俺の仕掛けた火計の影響であろう、まだ雨の中、煙が立ち昇っている場所も見られたが、それでもほどなく鎮火されることになろう。
 人と自然と、双方の手によって。時ならぬ豪雨は、動揺する将兵の心を鎮める役割も果たしたのかもしれない。


 そして、冷静になった景虎様率いる精鋭部隊に、俺一人が太刀打ちできるわけもなく。
 ここに、春日山城は、景虎様の手によって奪取されたのである。
 同時に、それは俺の命運が尽きたことを意味した。越後を真っ二つに分かった敵方の総指揮官であれば、その末路は火を見るより明らかなこと――と、おれは思っていたのだが。
「――縄でがんじがらめにされるのはもちろん、その場で首を刎ねられる覚悟もしていたんだけどな」
 俺は困惑しつつ、城内の一室で座り込んでいた。室内には俺一人しかいない。さすがに襖の向こうには見張りの兵士がいたが、それとてあくび混じりの適当なもので、逃げ出そうと思えば、決して不可能ではなかっただろう。


 とはいえ、俺はそうするつもりには、どうしてもなれなかった。
 これが厳重な警戒下に置かれた後ならば、まだそう思えたかもしれないが、ここまで身軽な状態で軟禁(と呼べるかも怪しいものだが)されると、相手の礼に応えなければ、という意識が先に立つ。
 景虎様は、敗北を認めた俺が、今さら逃げ出そうとするとは思っていないのだろう。そうでもなければ、今の状況に納得いく説明がつけられない。その信を裏切る真似はしたくなかった。


 それに、仮に俺が逃げたとしても、晴景様と合流することは出来ないだろう。
 春日山城陥落の知らせは、すぐにも晴景様のところに届けられるだろうし、そうすれば、晴景様は米山に向かわれる筈である。
 春日山城を制圧した景虎様の軍勢は、錬度こそ高いが、数は三百にも満たない程度で、城を押さえるだけで手一杯であろう。上杉邸から米山まで、晴景様の身が危険に晒される可能性は少なく、また多少の危地に陥ったところで、弥太郎がいれば、切り抜けることは難しくない。おそらく、晴景様は米山まで無事に着かれることだろう。


 では、晴景様が米山にたどり着くことは、越後の争乱の継続を意味するのか。
 答えは、おそらく否。
 春日山城を景虎様が押さえたことで、米山、北条城の晴景軍は孤立し、前後を景虎軍に封じられてしまった。春日山城奪還に動けば、後背から追撃を受ける。仮に他の城、たとえば栃尾城などを奪おうと動けば、米山の守りを自ら捨て、野戦で勝敗を決する必要に迫られる。正直なところ、晴景様では、その統御は難しいだろう。威勢が回復しつつあるとはいえ、本拠地を陥落された守護代の命令に、他の国人衆が従うかもわからない。まして、晴景様が動けば、春日山城にいる景虎様も当然動く。神速の進軍をもって、晴景様の軍勢の後背を衝くであろう。
 そして、それは仮に俺が春日山城を逃げ出し、米山に赴いたところでかわりはないのである。


 さらには、兵糧の問題もある。北条城にはかなりの備蓄があるが、五千をはるかにこえる軍勢を、何ヶ月にも渡って支えられるだけの量は、さすがにない。もっとも、それは景虎様の方とて同じことだろうが、いずれにせよ、対峙する両軍は動かざるをえなくなる。そして、どちらに動くにしても、晴景様が圧倒的に不利な状況に置かれることは、前述したとおりである。
 事実上、すでにこの戦いは終わったと言えるのだ。


 無論、その戦況をつくってしまったのは、俺の責任である。晴景様や、その配下の将兵には申し開きのしようもない。他人事のように論評出来る立場ではないのだが、しかし、他にすることもなかったりする。
「さて、どうしたものか」
 腕組みして、首を捻る。
 とはいえ、勝敗はほぼ定まり、俺自身は捕虜という立場上、行動の自由なんぞない。景虎様の方から何か言って来るのを待つしかないのだが。
 そう思っていると、思いがけないことに、俺の言葉に反応があった。
「――もちろん、この国の兵火を鎮めるために、力を尽くしてもらうつもりだ」
 襖が開かれ、心地よい初夏の風が室内に吹き込んできた。
 入ってきた人物を見て、俺は慌てて頭を下げる。景虎様御本人であったからだ。
 その背後には、先刻、天守の間で景虎様の後ろに付きしたがっていた二人の女性の姿がある。
 おそらく、この二人が直江兼続と、宇佐美定満の二人なのだろう。
 直江の方は、射るように鋭い眼差しでこちらを見据えているのに対し、宇佐美の方は、どこかとらえどころのない煙るような眼差しであった。俺を警戒しているのか、あるいは取るに足らないと考えているのか、その程度のことさえ読み取ることが出来ない。


 だが、今はそんな人物観察よりも気にするべき事があった。
「――兵火を鎮めると仰いましても、敗軍の将に何をお望みなのですか、景虎様」
 俺は戸惑いを覚え、反問する。
 景虎様ほどの方であれば、勝利の天秤がいずれに傾いたかはわかっておられよう。
 春日山城を奪われたことを知れば、米山、北条の晴景様の軍勢は必ず動揺をきたす。たとえ晴景様が合流しようとも、時をかければ、血を見ることなく戦を終わらせることは可能である。
 今、向背定かならぬ俺を動かす危険を冒す必要は、特にないと思うのだが……


 俺の思惑を察したのか、景虎様は小さく頭を振った。
「戦に関してではない――そなたには、姉上の下に赴いてもらいたいのだ」
 そう言う景虎様の顔が、わずかに翳りを帯びた。
 その言葉と、表情を見て、景虎様の言わんとするところは大体察することが出来た。
 俺は困惑して、口を開く。
「晴景様は、私の言うことを素直に聞き入れて下さる方ではありません。降伏であれ、和平であれ、おそらく首を横に振られるかと思います」


 若輩の身で、大将に抜擢された為、越後国内では、俺が晴景様の信頼厚い重臣である、と思われている節があった。
 実際、それはあながち誤りというわけではないかもしれない。
 柿崎と戦う際に、城の府庫を開いて財宝を兵士たちに分け与えたことや、その戦で功を立てた弥太郎らを士分に取り立てた時などは、晴景様は俺の具申をほぼそのまま受け容れてくれたからである。
 だが、逆に、晴景様自身の意向に反する意見を述べた時は、確実に俺の意見は棄却された。景虎様との友好を望んだ俺の意見を一蹴したことも、これに当たる。
 そして、景虎様が俺に望むであろうことは、おそらく晴景様の意に沿わぬことであり、俺がいくら申し上げようとも、晴景様が首を縦に振ることはないだろう。
 何より、俺が景虎様の使者として、晴景様の前に赴いたら、物も言わさず裏切り者として処断されてしまうに決まっていた。


 だが、俺がそう言うと、景虎様は再び頭を振り、澄んだ眼差しで俺を見つめた。
「降伏や和平を求めるわけではない。ただ、姉上と向き合って話がしたいのだ。何故、姉上が私を疎むのかが、私にはわからない。誤解があるのならば、それを解かねばならないし、もし、この身に至らぬ所があるのならば改めもしよう。いずれにせよ、姉上の口から、真実を聞きたいのだ」
 今さらではあるかもしれないが、と景虎様はわずかに面差しを伏せた。


 確かに、景虎様の言うとおり、本来なら話し合いは戦に先立って行われるべきであったかもしれない。 しかし、柿崎を破り、昔年の勢威を取り戻して意気軒昂であった晴景様は、まず間違いなく景虎様との話し合いに応じようとはしなかっただろう。それは、小細工を弄して柿崎景時を操り、景虎様との間に戦端を開いた事実からも瞭然としていた。
 もっとも、その件に関しては明確な証拠があるわけではない。しかし、出陣に先立つ晴景様の様子、そして柿崎城で目の当たりにした景時の言動。その二つを見比べれば、この推測に間違いはあるまい。そう判断したからこそ、俺はあの時点で景時を処断したのである。後々、この真実を知る景時が、晴景様の災いとなると判断してのことであった。
 とはいえ、景時の処断に躊躇がなかったわけではない。しかし、当主である景家の死後、柿崎城の混乱を最小限で鎮めた景虎様の恩を足蹴にするような男は、春日山には不要である。降ったところで、いつ後ろから刺されるかわかったものではないし、景時の随身を許せば、景虎様との和解の機会がますますなくなってしまうという危惧もあった。


 ともあれ、晴景様の、景虎様への憎しみは隠れようもない。このまま戦を続ければ、お二人が姉妹として言葉を交わす機会はめぐってこないだろう。あったとしても、それは勝者と敗者という形でのものとなり、景虎様が望むものとはなりえまい。
 それゆえ、お二人が姉妹として語ることが出来る機会は、今しかなかったのである。晴景様の慢心が崩れ、しかし、表面的にはいまだ戦況は定かならずと見られている今しか。


 そして、それは俺にとって願ってもないことだった。このまま戦況が推移すれば、晴景様の敗北と死は免れない。無論、話し合いの結末によっては、同じ事態が待っているし、仮に和睦が成ったとしても、晴景様の立場が苦しいものであることにかわりはないだろう。だがそれでも、陰謀をもって妹を除こうとした挙句、返り討ちにあったという醜名を残すより、はるかにましな決着ではないか。


 そう考えた俺が、景虎様に諾の答えを返そうとした時である。
「申し上げます!」
 景虎様たちを捜していたのだろう。息をきらせた様子の栃尾の家臣の声が、部屋の外から聞こえてきた。
「どうした、何事だ?」
 直江兼続の声が鋭さを帯びる。
 落城間もない春日山城である。おまけに景虎様方は人数が少ない。何か変事が起きる可能性は少なからずあり、兼続はそれを警戒したのであろう。
 確かに、兵士の報告は変事を告げるものであった。
 だが、それは兼続が予期していたものとは全く別のものでもあった。
 すなわち、兵士はこう告げたのである。
「う、上杉定実様よりの使者がお越しでございます! 早急に景虎様にお会いしたい、とのことですが、いかがいたしましょうかッ?!」


 兼続が景虎様に視線を投じると、景虎様は即座に頷きを返した。
「天守にご案内せよ。すぐに参る」
 兼続はそういうと、やや急かせるような口調で景虎様を促す。
「景虎様、参りましょう。この話は後ほど、改めて――」
 そう言いながらも、兼続は明らかに気が進まない様子である。どうやら、俺は兼続に相当警戒されているらしい。当たり前といえば当たり前だが。
 しかし、上杉からの使者というのは少し気になった。晴景様のことと無縁であるとは思えない。
 定実様は穏やかな為人だと聞くし、晴景様には弥太郎たちがついているから、滅多なことはないと思うのだが……
 俺がそんなことを考えたときだった。


「……天城様、あ、天城様はどこですかッ?!」
「へ?」
 遠くから響いてくる声に、俺は思わず間抜けな呟きをもらしてしまう。今まさに脳裏に思い浮かべていた人の声だったからだ。
「あーまーぎーさーまーッ!!」
 そして段々と近づいてくる声。その合間に、なにやら騒々しい物音が響いてくるのは、どうも道を遮ろうとしている景虎様の家臣を、その都度、吹き飛ばしているからであるらしい。
 ちなみに、今、春日山にいる景虎様の家臣は、黒姫山走破を成し遂げた精兵である。その彼らを容易くはねのけるとは、さすがは弥太郎とでも言うべきか。
「……って、ちょっとまてぃッ?!」
 のんびり感心している場合ではなかった。このままだと、弥太郎は処罰の対象になってしまいかねなかった。


 そう考え、弥太郎を止めるために俺が腰を浮かせかけると、それを見咎めた兼続が素早く刀を抜き、俺の首筋に刃を突きつけた。
「動くな。この期に及んで、脱走など出来ると思うか」
「……ぐ」
 そんなつもりはない、と抗弁したいところなのだが、兼続は本気で刃を突きつけてきている。下手なことを言おうものなら、即座に首を切り裂かれてしまうだろう。
 額に冷や汗を滲ませる俺と、そんな俺を冷たい視線で見据える兼続。
 緊迫した状況に、景虎様がやや戸惑ったように割って入ろうとする。
「待て、兼続、刃を……」
 だが、その言葉が終わらないうちに、この小さな争乱の元凶となった人物が部屋に達してしまった。


「ま、待たれよ、天城殿はご無事であるゆえ……って、ぬああっ?!」
「ええい、人の話を聞かんか、馬鹿者め! 守護様からの御使者とはいえ、これ以上の無礼は……」
「どいてくださいッ!!」
「だから話を聞けというに――がふッ」
「お、おい、しっかりしろッ?! 駄目だ、完全に白目むいてるぞ」
「ほ、ほんとに女子か、こやつ?」
「むう、古の巴御前もかくや、というような女傑よな……」
「貴様が平家物語を愛読しているのは知っているが、今は感涙を流す状況ではないぞ?!」


 ……などと、どこか緊張感にかけるやりとりと、いやに軽快な破壊音が連鎖する中、とうとう襖が開かれる。
「天城様ッ?!」
 そして、弥太郎は室内の状況を見てしまう。
 俺の姿を見た弥太郎は表情に安堵の色を浮かべたが、すぐに俺が置かれた状況に気づいてしまった。
 そう、首筋に刃を突きつけられた、俺の状況に。
 やばい、と全身の毛を総毛だたせた俺は、慌てて口を開く。
「弥太郎、早ま――」
 早まるな、と言いたかった。
 だが、言い終えぬうちに、弥太郎は爆発する。
「お……お……おまえらーーーッ!!」


 弾かれたように突進してくる弥太郎。
 武器こそ持っていなかったが、弥太郎の膂力をもってすれば、そんなものは障害にはなりえないだろう。
 だが、ここにいるのは、景虎様をはじめ、いずれも一城の主である。彼女たちを傷つけてしまえば、勘違いでした、ごめんなさいでは済まされない。
 首筋に擬された刃のことも忘れ、俺が思わず前に出ようとした、その瞬間。


 ふわり、と柔らかい青色の風が、俺の鼻先をくすぐった。


「景虎様ッ?!」
 俺に向けていた刃を、弥太郎に向けなおそうとしていた兼続が、驚きの声をあげる。  
 景虎様が、激発した弥太郎の前にその身を晒したのである。
「――ッ!」
 相手が誰かはわからずとも、自分の邪魔をしようとしていることは弥太郎にもわかったのであろう。その目に、怒りの色を加えながら、弥太郎は景虎様に躍りかかり――


「まっすぐな、良い目だ」
 どこか楽しげにさえ聞こえる景虎様の声。右手を軽く前に突き出した形の景虎様は、弥太郎の勢いに抗しきれず、弾き飛ばされるかに思われたのだが。
「……え?」
 次の瞬間、弥太郎の戸惑ったような声が、室内にこだました。
 景虎様は、たいした力を入れた様子もないのに、弥太郎の突進を、右手一本で押さえ込んでしまったのである。
 否、押さえ込んだというよりは、勢いをかき消したとでも言おうか。それほど、景虎様の動きは自然であり、弥太郎の身体の重心を見抜いて、的確にそこを衝いていたのである。
「う、ううッ!」
 弥太郎も、何とか抗おうとしている様子だったが、弥太郎の身体が動く都度、景虎様もまた、揺れ動く重心に合わせて手を動かし、弥太郎の動きを塞き止める。
 それはあたかも、猛り立つ猫を、虎が微笑みまじりにいなしているかのようで、両者の間に厳然とした実力差が横たわっていることが、武芸には素人の俺の目にもはっきりと映し出されていた。


 そして。
「う、わああッ?!」
 景虎様の手首が翻ったと思った途端、まるで曲芸のように、弥太郎の身体が浮かび上がり、空中で一回点してから、畳に叩きつけられた。
 受身を取る暇もあらばこそ。
 弥太郎は強い衝撃に目をまわし、その口からは――
「……きゅう」
 実にわかりやすい気絶の声がもれていた。


 俺は思わず脱力しつつ、この状況をどうやって誤魔化そうかと頭を抱える。
 弥太郎の登場で、それまでの張り詰めた空気が雲散霧消してしまった気がしないでもないが、顔を真っ赤にしている兼続あたりは何とかしないとまずかろう。
 もっとも、景虎様の顔を見るかぎり、あまり怒ってはいないようだが。
 そんなことを考えながら、気絶した弥太郎の顔に視線を向けていた俺だったが、実のところ、事態は思った以上に急を要するものであった。
 目を覚ました弥太郎の口から語られたのは、晴景様の身に起きた変事であったからだ。





「姉上が、倒れられたッ?!」
 景虎様が、思わず、と言った様子で声を高めた。
 だが、それは俺も同様である。声こそ出さなかったが、身体がぐらりと揺れたことを自覚する。おそらく、兼続らも同様であろう。
 俺たちの視線を一身に受け、弥太郎は畳に頭をこすりつけるようにしながら、知らせを繰り返した。
「は、はいッ。守護代様は、守護様のお邸で過ごしておられたのですが、過日、突然、苦しみ出され、衣服が紅で染まるほどの血を吐かれたのです」
 幸い、その場には定実様の奥方――つまり、晴景様と景虎様の姉に当たる方がいて、すぐに典医を呼んでくれたので、ほどなく晴景様は意識を取り戻したという。


 だが、意識は戻ったものの、晴景様はその後も喀血が続き、食事も咽喉を通らず、わずか数日で驚くほどにやせ衰えてしまったらしい。それでも、意識はかろうじて保っているのだが、典医に言わせれば、いつ意識を失ってもおかしくない状況とのことだった。
 そして、典医はさらにこう続けたという。
 次に意識を失えば、おそらく、再び目覚めることはありますまい、と。



 俺の目に強い光が宿り、知らず、床に頭をこすりつける弥太郎の頭をにらみつけていた。
 その俺の怒りは覚悟していたのか、弥太郎はこれ以上下げられない頭を、さらに下げようとするかのように小さく身動ぎする。
 その口のあたりから、くぐもった声がもれ出てきた。
「……すぐに、天城様にお知らせしようとしたんですけど、守護代様はそれには及ばないと仰られて。春日山の決着がつくまで知らせることはまかりならん、と」
「……そうか」
 弥太郎の声に、俺は小さく頭を振る。
 俺が晴景様の病篤きを知れば、戦を止める為に動くことは晴景様にはわかっていたのだろう。
 自らの命が、旦夕に迫っているかもしれないというこの状況で、それでもなお景虎様に勝利したかったのだろうか。そこに何の意味があるのかは、俺にはわからないのだが……



 考え込む俺の耳朶を震わせたのは、景虎様の落ち着いた声音だった。
「小島弥太郎と申したな」
「は、はいッ、小島弥太郎貞興と申しますッ! あ、天城様の配下で、あの、その、か、景虎様とは存ぜず、先刻の無礼、まことに、まことに申し訳ございませんでしたッ!!」
 景虎様の呼びかけに、弥太郎が軽いパニックを起こしている。
 それはまあ、目を覚ました途端、襲い掛かった相手が景虎様だと知らされれば、動揺せざるをえないだろう。死罪どころか、一族郎党皆殺しにあったところで不思議ではない無礼なのだから。
 だが、景虎様は、そんな弥太郎の狼狽を一顧だにせず、あっさりと許してしまった。
「過ぎたことは良い。主を想っての行動だったのであれば、なおのことだ。それより、そなたが定実様の御使者として参った用件は、姉上の病状を知らせるためだけではないのだろう?」


 景虎様の穏やか声音は、聞く者の心を落ち着かせる効能があるのかもしれない。
 慌てふためいていた弥太郎は、景虎様の言葉にしっかりと頷いて見せた。
「は、はい。守護様からのお言伝でございます。長尾景虎様を、早急に上杉邸にお連れせよ、と。それと、これは守護様からではなく、守護代様からの命令ですが、天城様も、急ぎ上杉邸に来るようにとのことです!」
 弥太郎の言葉の意外さに俺は目を瞬いたが、拒否など出来る筈もない。
 それは景虎様も同じであったようで、一瞬、俺と景虎様の視線が絡まりあった。それはすぐに離れたが、続く景虎様の言葉は、俺の予想どおりのものだった。
「承知した――兼続、定満、供をせよ。春日山城の守備は、新発田に任せる」
「はいッ」
「うん」
 二人が頷くのを確認してから、景虎様の視線が、今度ははっきりと俺の方に向けられる。
「天城殿も同道してもらうが、異存はないか?」
「無論です」
 俺は短く承諾の返事をする。
 この時、俺の胸中には、得体の知れない感情が渦巻いていた。
 それは不安と言えば不安であるし、恐怖といえば恐怖であったかもしれない。だが、最も大きなものは、予感であった。
 何かが終わるという、確信にも似た予感。
 何かが始まるという、確信にも似た予感。 
 相反する予感に胸を騒がせながら、俺は景虎様の後尾について、上杉邸に馬を走らせるのだった。




 ――弥太郎の馬に乗り、その身体にしがみつきながら。
「お前、馬に乗れないのか?」
「ええ、まあ」
 心底、呆れたような兼続の視線を避けるため、俺は眼差しを遠く頚城平野の彼方に向けるのだった……

 

 
 
◆◆




 越後守護上杉定実の邸は、春日山城の北、直江津の外れにある。春日山の庭先と言っても良い場所であり、四方には春日山城の有力な家臣の邸宅が軒を連ねる。
 一見したところ、越後守護たる身を守るためのものに見えるが、逆に言えば、その守護を取り囲んで身動きとれないようにしているとも映る。
 そして、この地に、主筋にあたる上杉定実の邸を築いた長尾為景、その後を継いだ晴景様の思惑は後者であった。
 定実が不穏な動きを見せれば、たちまちのうちに包囲の鉄檻が築かれ、逃げ場のない状況に置かれるというわけである。


 もっとも、晴景様の勢威に翳りが生じるにつれ、定実が置かれる状況も変化しつつあった。実力こそなかったが、越後国内では、いまだ守護である上杉氏の名は浅からぬ影響力を有している。大義名分を欲する者たちは、ひそかに定実に使者を出し、春日山の頸木から逃れるよう促していたようだ。
 しかし、定実はそういった言葉に首を縦に振ることなく、春日山長尾家の下に居続けた。それは、妻のことを慮ったからでもあろうし、越後を覆う戦乱の雲を払うためには、晴景、景虎の二人を和解させることが必要であると考えてもいたからだろう。


 そして今、その定実の希望どおり、長尾家の姉妹は対面の時を迎えようとしていた。この話し合い次第では、これ以上の流血なく、越後の戦火を鎮めることもかなうであろう。
 だが、上杉邸に集った者たちの顔に、笑顔はない。
 俺や弥太郎のように晴景様に仕える者たちはもちろんのこと、景虎様や、直江、宇佐美といった栃尾方の家臣たちも同様であった。


 ――晴景様の容態が、思った以上に悪化していることが、奥方の口から明らかにされたのである。
「……典医の話では、もって後二日。おそらくは、今夜が峠であろう、と」
「――ッ」
 思わずうめき声をあげそうになり、俺はあやういところで、その声を押し殺した。
 弥太郎から聞いてはいたが、改めて他人の口から同じことを聞かされると、重みが違う。決して弥太郎の言葉を疑っていたわけではないのだが、それでも、どこかでそうであることを願っていたのだ。
 だが、そのはかない願いは、奥方の言葉で霧消した。


 奥歯をかみ締める俺の耳に、越後守護たる方の声が聞こえてきた。
「景虎よ」
「はい」
「此度の戦のこと、今後の越後のこと、語るべきことは山ほどあれど、何より優先すべきは命尽きんとする晴景の願いをかなえることであろう。そなたは、病室に行くが良い。晴景たっての願いだ。そなたと、そして――」
 定実の眼差しが、まっすぐに俺に向けられ、俺は戸惑いながらも平伏した。
「天城、と申すはそちじゃな?」
「は、はい」
「そなたも景虎と共に行くが良い。景虎とそちの二人に、話したいことがあるとのことゆえな」
「おれ、いえ、私がですか? しかし……」
 姉妹の今生の別れになるかもしれないというのに、俺のような余所者がその場にいて良いのだろうか。
 そう考えて、躊躇する俺を促したのは、当の景虎様であった。
「天城殿」
 ただ俺の名だけを呼んで、こちらを見つめてくる景虎様。
 今回のことは、景虎様にとって、俺とおなじく寝耳に水の事態である筈。その眼差しがかすかに揺れているのは、景虎様の内心の動揺をあらわしてのことなのだろうか。
「……御意」
 俺は小さくため息を吐きながら頷いた。
 返事を聞くと、景虎様は、姉である奥方の後に立って歩き出し、俺はその後ろに続いた。一瞬、兼続の鋭い視線を横顔に感じたが、晴景様の病室に入るや、すぐにそのことは脳裏から消えてしまった。
 それくらい、晴景様の様子は、俺に驚愕をもたらしたのである。





 先刻まで、かすかに西の地平を照らしていた残照は、すでに夜の闇に駆逐され、邸の上空には星々が、己が光輝を競い合うように、その光を地上に投げかけていた。
 だが、そんな星月の煌きも、この部屋の中を照らすことは出来ない。
 四隅に置かれた燭台の、揺らめく灯火によって闇の中に映し出された晴景様の姿に、俺は声も出なかった。
「……遅い、ぞ、二人とも。危うく、間に合わなんだかと、思うたわ」
 そう言って笑う晴景様の顔は、俺がはじめて見るものだった。
 顔の造作が変わったわけではない。たしかに、短時日でかなり痩せてしまったようだが、それだけならば、俺はここまで驚いたりはしなかった。
 常に晴景様の顔を覆っていた化粧が、完全に拭われている。無論、それは病状の身であれば当然のことなのだが、しかし――
「……どうした、颯馬よ、まるで幽鬼にでもおうたような顔をしておるぞ?」
「……は、晴景様……」
 その、病的なまでに白い晴景様の顔を見て、俺はようやく悟った。
 何故、晴景様がいつもあのように厚い化粧をしていたのか、その理由を。
「……一体、いつから……」
 問いかける俺の声は、はっきりと震えていた。
 対して晴景様の声は、いつもの張りこそなかったが、少しも乱れていない。
「そなたを拾う、一年ほど前からかのう。正直、よう覚えとらんわ」
 典医にも見せておらなんだゆえな。
 そう言って、声を出して笑おうとした晴景様が、そこで咳き込んだ。ただそれだけで、晴景様の口元と、押さえた手には紅色の汚れがついてしまっている。
「晴景、無理をしてはいけません」
 黙って座っていた奥方が、その血をそっと拭いとる。声には力がなかったが、その動作に戸惑いはない。おそらく、もう何度もこうしているのだろう。晴景様の病状は、そこまでたどり着いてしまっているということだった。


「――姉上」
 景虎様が、ためらいがちに口を開く。
 晴景様が口にした言葉の意味を、正確に悟ったのだろう。ただでさえ、越後の国人衆から侮られがちであった晴景様だ。そこに病弱という評判がつけば、事態がどう転ぶかは明らかであったろう。
 妹の景虎様が、武勇、人望、健康、いずれにも問題がないなら尚更だ。
 そんな景虎様の様子を、晴景様はじっと見つめた。
 そのお二人の様子を見ていると、この二人が血の繋がった姉妹であることが良くわかる――そう言えれば良かったのだが、しかし。
(似ていない、な)
 俺は心中でそう呟いた。晴景様が病の身であるということを考慮しても、やはりこのお二人は似ていない。顔の造作もそうだが、それ以上に、その身に纏う気格、あるいはにじみ出る風格、ただそこにいるだけで人を惹き付ける力において、晴景様は景虎様に遠く及ばない。
 晴景様が劣っているというわけではない。ただ、景虎様があまりに抜きん出てしまっているのだ。
 景虎様と並ぶことが出来る人間など、越後の国中を探しても、二人といまい。全国津々浦々まで捜し求めて、ようやく数名、いるかどうかといったところか。
 それも当然であろう。景虎様は、この後、数百年、否、おそらく日本の歴史が絶えるその時まで語り継がれるであろう蓋世の英雄なのだから。



「……まこと、目障りであったよ、景虎、おぬしのことが。おぬしの才が」
 晴景様は、はっきりとそう言った。
 景虎様の顔が強張るのが、俺の目にもわかった。
「私は十も年の違うお主と、常に比べられた。家臣どもは口にせずとも、皆、心の中でこう申しておったよ。私がそなたに優るのは先に生まれたという一事のみ。どうして、そなたが先に生まれなかったのか。そうすれば、何も問題などなかったのに、とな」
 晴景様は、一度、言葉を切って、息を吸い込み、再び口を開いた。
「何故、おぬしのような者が、私の妹なのだと幾度思ったか知れぬ。幼き頃から数えれば、幾百どころか、幾千に到るやもしれぬなあ」
 長年、鬱積してきた負の想念。晴景様は、それを、今際の際に、相手の心に塗り込んでしまおうというのだろうか。
 もし、そうなのだとしたら、俺はこの時、無礼とわかっていても、口を差し挟んでしまっただろう。景虎様のため、というわけではない。生涯の最後を、そんな呪いじみた言動で終わらせてしまうような惨めな生を、晴景様に送ってほしくなかったからだ。


 しかし。
 景虎様への鬱屈を口にする晴景様の顔は、不思議なほどに綺麗だった。
 いや、綺麗というのは臣下の欲目かもしれない。しかし、少なくとも、厭わしいものを感じることはなかった。
 それは多分、俺の気のせいではなかったのだろう。
 当の景虎様もまた、当初の強張った表情を変え、戸惑ったように姉の顔を窺うようになっていたからだ。
 おずおずと。そう表現してもあながち誤りとは言えないだろう景虎様の様子だった。
 そんな景虎様に向かい、晴景様は、はっきりと微笑みかけた。
「つまるところ、私がそなたを疎んじた理由は、妬みと嫉みじゃよ――それが知りたかったのだろう、妹よ」
 びくり、と景虎様の肩が動いた。
 信じられない言葉を聞いたかのように、景虎様は両の目を瞠る。
「――あ、姉上」


 晴景様の独白は、なおも続いた。
「私が優るのは、先に生まれたということのみじゃ。ならば、守護代の地位を失えば、私には何も残らぬことになろう。妹に何一つかなわぬ愚かな姉。そんなものになるつもりはなかった」
 だからこそ、晴景は守護代の地位に固執した。父とは異なる道を歩んだのは、それが守護代を保つために、自分が出来る最善のことだと思ったからだ。
 だが。
「今は戦乱の世。何よりも尊ばれるは武勇であり、将略じゃ。私がどれだけ努力しようと、兵はそなたを望む。私がどれだけ越後のために行動しようと、民はそなたを称える。いつか、気持ちが萎えてしもうたのだよ。所詮、天に愛されし者に、私ごときがかなう筈はない、とな。しかし――」
 ここで、はじめて晴景様の声に無念の思いが滲み出た。こらえきれない激情が、その片鱗を見せる。
「しかし、ならば何ゆえに天は最初にそちを産み落とさなかったのじゃ? 妹が、姉に及ばぬは道理。そちが先に生まれておれば、私がここまで思い悩むこともなかったであろうにッ」


 景虎様の顔に、沈痛な表情が浮かぶ。
 晴景様の口にしていることは、言いがかりに等しい。景虎様の才も、生まれも、景虎様自身が望んで与えられたものではない。その才を花開かせたは、景虎様自身の努力であったにしても、それを責められる謂れはないだろう。
 この場に兼続がいれば、舌鋒鋭く、そう晴景様を非難したに違いない。
 だが、晴景様自身も、自分が理に合わないことをしているという自覚はあるようだった。
 次の瞬間、その顔に浮かんだのは、みずからを嘲る、苦い笑いであった。


「妹を妬む姉など、醜いものよ。それがわかるゆえに、己が厭わしい。そして、その原因であるそなたが、なおのことわずらわしうてならなくなった。その矢先に、この身が病に侵されたと知った……」
 晴景様は、その時のことを思い出したのか、瞼を伏せた。眉間には、何かに耐えるように深いしわが寄っている。
「思ったのじゃよ――このままでは死ねぬ、と。何でも良い。せめて何か一つ、そなたに優る何かを示さなければ、私が生まれた意味さえ、そなたによって消されてしまうじゃろう、とな」




 晴景様の声が、陰々と室内にこだまする。
 兄弟姉妹のいない俺には、妹を妬む晴景様の気持ちは理解できないだろう。姉を慕う景虎様の思いも、理解できないだろう。
 それでも、このお二人が、すれ違いの果てに恨みを残しての別離を迎えるなど、決して認めるわけにはいかない。そう思えた。
 だが、この場にあって、俺は余所者であり、部外者である。何万言を費やしても、晴景様の心に巣食った虚ろを満たせる筈はない。
 俺がそう思い、力なく面を伏せようとした時だった。


「その妄念を祓うてくれたは、颯馬、お主であったのよ」


「……え?」
 思わぬ言葉に、俺はきょとんとしてしまう。
 そんな俺の呆けた顔を見て、晴景様はくすくすと、童女のような笑みをもらした。
「いつぞやも申したが、そなたを春日山への帰途で拾うたは気紛れよ。じゃが――」
 晴景様はそこで言葉を切ると、今度は景虎様に視線を向けた。
「景虎、そちの配下に、主君の癇癪で額を断ち割られたにも関わらず、その主君のために、死ぬと決まりきった戦場に赴く愚か者はおるか? いや、おそらくおるであろう。越後の武士は、頑固者ばかりゆえな。じゃが、その相手が越後七郡でかなう者なしと言われる柿崎であれば――そして、その柿崎を敗死せしめるほどの将略を蓄えた者であれば、どうじゃ?」
「――おります。我が配下の直江兼続、宇佐美定満、この二人ならば、姉上の仰った条件をも越えましょう」
 迷うことなく断言する景虎様。
 それに対し、晴景様もまた満足げに頷いて見せた。
「良き配下を持っておる。では、その二人に加え、越後で最も勇猛名高き、かの長尾景虎を相手とし、越後全土を視野に入れ、戦を操ることが出来る将器を持つ者、という条件であればどうじゃ」
 晴景様は、何だかとても嬉しそうだった。それに影響されたのか、こたえる景虎様も、少し緊張を解いた顔つきだった。
「おりますまい。残念ながら」
 

「そうであろう。うむ、そんな人間が、そうそういるものではない。しかもそやつ、戦局が膠着したと見るや、即座に方針を変更し、敵の総帥の気性と戦略を見抜き、本城に招き寄せ、城と、自らの命さえ贄として、敵将を劫火の中に葬ろうとしたのじゃ。そんなうつけが、そこらにごろごろしておる筈がないわ。のう、颯馬もそう思わんか」
「は、はあ、まあ」
 何と応じたものか、俺は講じはてて、はきつかない返答をしてしまう。
 普段であれば、晴景様は皮肉の一つも言ってくるものだが、今は聞き流してくれたようだった。
 ――あるいは、そんなことに言葉を費やす余裕が、すでになくなりつつあったのかもしれない。


「うつけじゃ。うつけじゃが……臣下として越後に、否、日ノ本に出しても恥ずかしからぬうつけでもある――颯馬よ」
「は、はい」
「どうじゃ、そのうつけ、いまだ私に忠誠を誓っていると思うか?」
「誓っておりましょう」
「私は、そのうつけが忠誠を捧げるに相応しい主君であると思うか?」
「万人にとってどうかは存じませぬが、命を救われた彼のものにとっては、疑いなくただ一人の主君であったかと推察します」


「景虎」
「はッ」
「そなたの配下に、そのうつけを越える者はおるかの?」
「残念ながら、おりません」
「では、私はそなたの全ての配下に優る者を、召抱えていることになるな」
「そうなりましょう」
「つまり――私は、その一点で、そなたを越えたのじゃ」
「はい」


 

 言い終えるや、晴景様は俺と景虎様を、枕元に呼び寄せた。
 ためらいながらも、左右に分かれる形で俺たちは晴景様の傍らに座す。
 晴景様は口を開いたが、その声からは少しずつ生気が喪われつつあった。俺が思わずそう思ってしまうくらい、儚い響きを帯びつつあるのだ。
「颯馬」
「はい」
「我が妄念は、祓われた。じゃが、そうすると、一つ、心残りが出来てしまうことに気づいたのじゃ」
 力のない言葉を受け、俺も自然と声を低めてしまう。
 囁くように問いかけた。
「心残りとは、何でございましょうか?」
「ただ一人の妹に、姉らしいことを何一つしてやらなんだ。そのことじゃ」
 その言葉に、晴景様の頭を挟んで向かい側にいる景虎様の顔がかすかに揺れた。
 それに気づいたのかどうか。晴景様はさらに言葉を続けた。
「とはいえ、何を残したところで意味はなかろう。妹は、景虎は、すべての点で私に優っておるからな。守護代の地位といえど、私が譲らずとも、景虎は自分の力と徳で手に入れるじゃろう。であれば、私が譲ってやれるのは、私が持つ中でたった一つ、妹に優るもの。それしかあるまい」
「……御意」
 晴景様の言わんとするところに思い至った俺は、一瞬、戸惑ったが、すぐに深々と頭を下げる。



「景虎」
「はい、姉上」
「颯馬と戦ったお主のことじゃ。すでに颯馬を知ること、私よりはるかに優るであろう。私の下であっても、これだけの功績をたてた颯馬じゃ。そなたの下であれば、どれだけ雄飛することになるか」
 晴景様がそう言って、景虎様の目を見つめる。景虎様もまた、晴景様の顔を見た。
 おそらく、二人がこんなに近くでお互いの顔を見るのは、物心ついて以来、はじめてのことなのではないか。
「颯馬の力は、そなたの望みを果たすための強き力となり、颯馬の心は、暗夜を示す灯火となりて、そなたの天道を照らすであろう。これが、そなたのために何一つしてやらなんだ姉の、最後の芳心じゃ」
「……ありがたく頂戴いたします、姉上」
 景虎様の目に、小さな雫が生まれた。



 晴景様の、枯れ木のような手が俺の手を掴み、もう片方の手が景虎様の手を掴む。
 晴景様は、それを自らの顔の上に持ってきた。
 必然的に触れ合う、俺と景虎様の手。
 その手ははじめ、戸惑ったように動きを止め――しかし、やがてぎこちないながらに、ゆびを絡ませ、互いにしっかりと握り締め合う。



 その様子をじっと見詰めていた晴景様は、満足したように頷くと、ゆっくりと瞼を閉ざす。
 ――そして、その瞼が開かれることは、二度となかったのである。

  



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/07 18:30


 日本海に接する越後から南に下ると、山緑深き信濃の国にたどりつく。
 信濃は国土こそ大きいものの、山並みが幾重にも重なり、複雑な地形を形作っており、その天険を利して幾人もの小領主が覇を競っている状態であった。
 信濃の領主としては、北信濃の村上氏、高梨氏、南信濃の小笠原氏、木曽氏らの名が知られていたが、いずれも群小の勢力の中で相対的に優位を保っているに過ぎず、信濃全土を統べるだけの器量才幹を有する者は、長く現れなかったのである。


 だが、近年、長きにわたって不変であった信濃の勢力図に、大きな変化が起こりつつあった。
 それは、戦乱の世にあって他国の有為転変を横目で眺めながら、それでも地の利を信じて、安穏と胡坐をかいていた信濃の国人衆にとっては予期せぬ事態であったろう。
 変化の源は、信濃の南東に位置する甲斐の国。
 代々、この地の守護職を務める甲斐武田氏は、新羅三郎義光を祖とする清和源氏の嫡流にあたる由緒正しき武門の家柄である。
 そして、現在、その甲斐武田氏を率いる者の名を、武田晴信という。
 晴信は、まだ齢二〇に満たぬ年若き女性の身ながら、卓越した政戦両略の持ち主であり、圧政をしいていた父・信虎を追放して守護職につくや、たちまちのうちに領内を掌握する。そして、晴信、信虎の抗争を好機として攻め込んできた信濃の諏訪氏、小笠原氏の連合軍を、甲斐国内に誘い込んだ後、その退路を封鎖し、連合軍を殲滅するや、時をおかずに信濃に侵攻の矛先を向ける。
 当主と、軍の主力を失っていた諏訪氏は、この武田の侵攻になす術なく屈服する。父・信虎が念願としていた信濃進出をいとも容易くなしとげた晴信は、さらに余勢をかって小笠原氏の居城・林城へ侵攻、これをも陥落させる。
 信濃守護職である小笠原家当主長時は、かろうじて城からの脱出に成功するも、従う家臣もなく、一人、北信濃の村上氏を頼って落ち延びねばならなかった。
 かりそめにも、一国の守護職である小笠原氏の居城に侵攻した武田の暴挙に対し、信濃のほとんどの国人衆は憤激し、同時に武田のあまりに鮮やかな勝いぶりに脅威を覚える。
 その怒りと怯えが、村上氏を中心とした信濃国人衆の団結へとつながり、ここに信濃の地を巡る甲斐武田氏と、連合した信濃の国人衆との戦いが幕を開けることになったのである。


 だが、その戦いはあっさりと勝敗がついてしまう。信濃側の完敗という形で。
 元々、武田氏は強兵で知られている。くわえて、当主の晴信の武威は信濃の山野で安穏としていた者たちが、容易に対抗しえるものではなかった。
 武田軍は、信濃の国人衆の必死の抵抗を、虎が卵を踏み砕くが如く粉砕し、次々にその領土を広げていく。
 当初、南北両信への侵攻を行っていた武田軍であったが、南信濃の木曽氏が晴信に降伏したことにより、その戦力を北へ集中させることが可能となった。
 それまで、押されながらも、かろうじて武田軍の侵攻を食い止めてきた村上、高梨らの信濃連合軍は、圧力を増した武田軍の猛攻の前に敗北を重ね、ついには盟主である村上義清の居城である葛尾城さえ武田軍の掌中に帰してしまう。
 当主義清はかろうじて城から逃れ、残兵を率いて北へ北へと転戦している最中であったが、その滅亡は時間の問題であると思われた。


 その村上軍を、ゆっくりと、しかし着実に追い詰めつつあるのは、当主武田晴信自らが率いる一万二千の大軍である。
 晴信は、今回の出陣によって、信濃を巡る村上氏らとの攻防に終止符を打つ心算であり、その晴信の決意を示すかのように、軍中には、武田家の文武の精髄ともいうべき武将たちが勢ぞろいしていた。


◆◆


「――そうですか。義清は旭山城へ篭りましたか」
 報告を聞き、武田晴信は手に持った軍配を小さく揺らした。
 その晴信の眼前で、志願して物見に赴いた人物がかしこまって告げる。
「御意にございます。敵勢の内訳は騎馬二百、徒歩三千。されど武士は一人もなしと見受けました。御館様、なにとぞ、私めに先鋒をお命じ下さいませ。信濃の腑抜けどもに、武田の武威を、そして我が六文銭の恐怖を知らしめてやりとう存じます」
 そういって跪く女性の名は真田幸村。当主である晴信ほどではないにせよ、若く、小柄な体躯の持ち主である。外見だけを見れば、この可憐な少女が戦場で槍働きなど出来る筈がないと多くの者が言うであろう。
 しかし。
 地獄の渡し賃たる六文銭の旗印を高々と掲げながら、この少女が戦場を駆ける時、敵味方全ての将兵は、そこに迅雷の輝きを目の当たりにする。長大な槍を縦横無尽に振り回し、幸村が敵陣に突っ込むや、周囲にはたちまち鮮血の雨が降り注ぐ。その勇猛な戦ぶりは、智将、猛将が列座する武田家にあって、なお畏敬の対象となりえるものであった。
 武田家の象徴ともいうべき言葉、風林火山。しかし、この場にいる将は六名である。その理由は、元となった孫氏の兵法書を読むことで明らかとなる。
「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」
 すなわち、この場の六名が体現するは風林火陰山雷。
 そして、真田幸村こそ雷の将として、武田家の武を象徴する将の一人なのである。


 そして、この場にはもう一人、先陣を駆けて不敗を誇る猛将がいる。
「あいや、待たれよ。先鋒は武人の栄誉、いかに真田殿とて、そう易々と譲って差し上げるわけには参らぬ」
 精悍な目鼻立ちが印象的な人物が、幸村の請願に待ったをかける。
 町を歩けば、娘たちが黄色い歓声をあげるであろうこの人物、名を馬場美濃守信春という。武田家にあって、火の名を与えられた猛将であり、常に兵士の先頭に立って敵中に突撃する勇敢さから「不死身の鬼美濃」とも渾名される。
 武田家の先手大将といえば、真田か馬場か、というのが通例であり、負けん気の強い幸村とは犬猿の仲――と思われがちだが、実のところ、この二人、毎度のように先鋒を争っているにも関わらず、あまり険悪な間柄というわけではなかった。
 二人が互いの武を認め合っている、ということもあるのだが、最たる理由はそこではなかった。


「しかし、信春よ。おぬし、良いかげん、その兜、なんとかならぬのか?」
 そう口にしたのは、それまで黙して幸村の報告に聞き入っていた壮年の男性である。
 山県三郎兵衛昌景。その性、沈着冷静にして、およそ物に動じるということがなく、「不動」の名を冠する武将である。つかさどるのは、当然のように山の一文字。
 武田家の武将の首座に位置する宿将から指摘をうけ、信春は恐縮したように頭を下げた。
「お目汚しとなるのであれば、申し訳ございませぬ。しかし、それがし、この兜こそ、武田騎馬軍団の魂を象徴するものと自負しておりますッ!!」
 そう叫ぶ信春の背後に、一瞬、燃え盛る炎が見えたのは、信春の気迫のなせる業であったのか。
 その信春がかぶるのは、兜といいつつ、一見したところ、馬の首から上を剥製にした代物にしか見えぬ。
 もし、この場に越後のとある人物がいれば、その者はこう問いかけたであろう。
 「着ぐるみですか、それ?」と。


「わ、私は、良いと思いますけど。その兜をかぶって戦場を駆ける、馬場様のお姿、すごいと思います」
 どこかおどおどとした様子で口を開いたのは、春日虎綱である。
 元々、晴信の近習の一人であったのだが、その才能を愛でた晴信の引き立てもあって、武田家の武将の頂点にまで昇りつめた逸材である。だが、本人はそれを分不相応なものと感じているようで、その発言や行動も控えめであり、時に消極的ですらあった。
 静林の将と目されているが、現在のところ、それは皮肉な意味で虎綱に相応しいものとなっているのである。
「では、春日殿も馬場殿にならって、同じ兜をつけられたら如何かな」
 幸村がそっけない口調で言い放つ。
 同姓の将とはいえ、虎綱の消極的な態度と、おどおどとした話し振りは、幸村にとって相手の評価を下げるに十分なことであるらしい。その口調には先達である虎綱への礼儀や敬意といったものは感じられなった。
 くわえて言えば、幸村が信春に対し、敵愾心を抱かない理由もここにある。要するに、馬の着ぐるみを着た男と真面目に言い争い、同程度の人物だと周囲に思われてしまうのを避けているのである。
 幸村が心底から尊敬しているのは、武田晴信ただ一人。山県や、他の諸将に対しても、時に敬意を欠く幸村であった。


「ふふ、真田殿、春日殿をあまり困らせるものではありませんよ」
 幸村の言葉に、顔を真っ赤にして俯いてしまった虎綱に助け舟を出したのは、内藤昌秀。
 風をつかさどる神速の用兵家である。本人もそれを誇りとしており、戦場にあっても鎧甲冑を身に着けず、風のような機動力で相手を撹乱する戦を得意とする。また、その機動力を活かし、長距離を駆け抜けて相手に奇襲をかける手際も水際立ったものであった。
 昌秀は内政にも手堅い手腕を有し、そちらの方面では優れた力量を発揮する虎綱とは良好な仲を保っている。もっとも、それはあくまで同僚としてのもので、男女間のそれではない。昌秀が興味を持つのは、自分のみであった。



「それは失礼、かような戯言を真に受けられるとは思いませんでしたので」
 昌秀の軽い咎めに対しても、幸村は心のこもらない謝罪をしたのみである。
 もっとも、幸村の不遜な物言いに対して、昌秀らは気色ばむ様子もない。幸村のこの態度は、今に始まったことではないのである。
 そんな周囲の空気も知らぬげに、幸村は再度、主君への請願を試みようとする。
「御館様――」
「幸村、仮にそなたに先鋒を委ねたとしましょう。城に篭った敵に対し、そなたはどう戦うつもりですか?」
 晴信の問いに、幸村は勇んで応える。
「無論、城に篭りし臆病者どもなどおそるるに足りません。取り囲んで強硬に揉みたて、数日を経ずして城を陥としてご覧にいれましょう」


 その言葉に、晴信は小さく首を横に振る。
「若いですね、幸村。勝敗が定まった戦で、城攻めを行い、あえて味方を傷つける理由がどこにありますか。将とはただ敵を殲滅すれば良いというものではない。味方を生かし、敵を活かす方法を模索することを忘れてはなりません」
「は、はい、申し訳ありません」
 主の言葉に、幸村は愧色を浮かべて平伏した。
 だがそれは、晴信の言葉を噛み砕いて理解した、というよりは、ただ晴信に自分の考えを否定されたという一事のみしか見ずに行ったものであると、他の諸将には感じられた。


 ここで昌景が口を開いた。
 幸村へ向けたものではなく、この場でただ一人、未だ口を開いていない者への呼びかけのためである。
「勘助、お主はどう考える?」
「……そうさな」
 深い思慮を感じさせる、重々しい声を発したのは、山本勘助晴幸。
 昌景と同じく、先代から武田家に仕えた古参の将であり、文武、いずれの方面においても優れた手腕を有している。だが、普段は軍議の場でも積極的に発言しようとせず、諸将の話の行く末を見据えているのが常であった。
 誤った結論に達しそうであれば、二言三言、話し合いに口を出し、路線を変更させる。当然、その功績は目立たないが、武田家のこれまでの発展の多くが、その勘助の思慮によって支えられていることは、当主である晴信自身を含め、多くの者が認めるところであった。
 陰の武将として、これ以上の適任はあるまいと思える人物、それが山本勘助なのである。
 勘助の戦における取り組み方は、完勝はかえって禍根を残すと考え、六分、よくて七分の勝ちを理想とする。当然ながら、幸村のように直情的な将とは考え方が合わないのが常であり、ここでもほどほどで退却すべしとの意見が出されるかと思われた。


 しかし。
「御館様のお考え、まことにごもっとも。しかし、それがし、此度に限っては真田殿の提案に賛成いたす。ここは多少の犠牲を覚悟してでも、旭山城を陥落させるべきかと」
 予期せぬ勘助の発言に、昌景の眉が動き、他の諸将も驚きをあらわにする。それは当の幸村も同様であった。幸村は、またいつものように、勘助がはきつかぬ結論を口にするものとばかり思っていたのである。
 晴信もまた、わずかに訝しげに目を細めたが、すぐに勘助の意中を察したようであった。
 その口が開かれ、勘助の発言の裏にあるものを、みなに見やすいように光の中へと持ち出す。
「城を包囲すれば、犠牲少なくして勝ちを拾いえる。だが、それでは不都合が生じるということですね――越後に放った諜者からの報告、届いたのですか?」
「御意、つい先刻、届きましてございます」
 勘助の言葉に、昌景が呆れたように口を開く。
「ならば早く申せばよかろうに」
「申し訳ござらん。いささか予想外の報告であったので、真偽を確認していたのでござる」
 そういって勘助が手を掲げると、それに応えるように陣営の上から鳥が飛び込んできた。鳥は恐れる風もなく、勘助の掲げた手に止まる。その足には、小さな文が結ばれていた。


 勘助はその文にざっと目を通すと、晴信の前にかしこまり、報告を行う。
「越後における争乱、はや静まったとのことでございます。春日山において、守護上杉定実の下に越後の国人衆が集い、越後は新しい統治体制の下、すでに動き始めておる由」
「――ほう」
 勘助の報告を聞き、晴信の目に鋭い光がはしった。


「し、しかし、越後は今、二つに分かれて争い合っていた筈では……?」
 虎綱が心もとない様子で、首を傾げる。幾人かの将が、虎綱に同意するように頷いた。
 北信濃の国人衆の中には、越後と深い関わりを持つ者も少なくない。旭山に篭る将の一人である高梨氏などは、春日山長尾家と縁戚関係にある。それゆえ、北信を巡る抗争に、越後が介入してくる可能性は少なくないと考えられていたのである。
 それゆえ、武田家はかなり早い段階から越後に諜者を放っており、当然、今回の越後における内乱の発生もすでに察知していた。
 今回、晴信が一万を越える大動員を行ったのは、越後の内乱に乗じ、一挙に信濃の領有権を固めてしまおうという思惑が含まれていたのである。


 もっとも、高梨と長尾家の間柄であれば、おそらくすでに援軍を求める使者は、幾度も春日山に達していた筈である。それでも春日山が動かなかったのは、長尾家にそれだけの余裕がなかったからか、あるいは高梨家の求めに応じるつもりが最初からなかったのか、いずれかであろうと思われた。
 そして、そのいずれであっても、武田家にとっては好都合。越後が動かないということは、最早、武田の信濃攻略を防ぎえる勢力はどこにも存在しないことを意味するからである。
 それでもなお、慎重を期して、万を越える軍勢を動員するあたりに、晴信の用兵家としての細心さを見て取ることが出来た。



 万端の準備を整えて北信濃に侵攻を開始した武田軍の下に、越後国内の争いの激化が伝えられたのは先日のこと。守護代長尾晴景と、その妹景虎の争いは越後を二分する規模に発展し、どちらが勝とうとも、しばらくは他国に手を出す余力は残らないと考えられていた。
 だが。
 その越後の内乱が、はや終わってしまったと勘助は口にする。一体、何事が起こったのか。
「勘助、説明なさい」
「御意。報告によりますれば――」


 勘助の口から語られる越後国内の争いの顛末。
 戦とは、互いの兵力を正面からぶつけあうことと信じる者たちが多数を占める中で、越後で繰り広げられたそれは、明らかに毛色が違っていた。少なくとも、この場にいる者たちはそれを感じ取ることが出来たのである。
「ほう、まるで唐の戦でも聞くようだな。越後守護代の長尾晴景、暗愚との噂があったが、爪を隠した鷹であったのか」
 昌景があごの髭を撫でながら、感心したように言う。
「私としては、山越えで春日山城に達した長尾景虎殿の用兵に関心がありますね。神速の名をかけて、競ってみたいものです」
 昌秀はくすりと微笑んだが、その目には意外に真剣な輝きが宿っていた。


 さらに勘助の説明は続く。
 中でも諸将を驚かせたのが、新たな越後の統治体制の首座に座った者の名が出た時であった。
 越後守護上杉定実。そして越後守護代長尾政景。
 たまりかねたように、幸村が口を開く。
「しかし、長尾晴景の居城を陥とし、その晴景が病で倒れたというのなら、妹の景虎とやらが新たな守護代として越後を支配するのが当然でしょう。何故、ここで実権を失った守護がしゃしゃり出てくるのですか? あまつさえ、守護代の地位さえ他者に譲るとは」
 その質問に、勘助が低い声で答える。
「いずれも景虎自らが出馬を請うたらしゅうござる。若年の身をはばかったのか、あるいはこれ以上、守護代の地位をめぐる争いが長引かぬようにとの思慮か。いずれにせよ、実質的な勝者である景虎が、勝者の権利を手放し、なおかつ一歩も二歩も引き下がった為に、他の国人衆も口を封じられた形で、上杉定実殿の復権を認めざるをえなかった由。この行いにより、景虎の越後での声望はいやが上にも高まっておるようで、その人望は越後の朝野を覆いつくす勢いだとか」


 勘助の報告に、晴信は薄い笑みを浮かべた。だが、それは心温まる類のものではなく、見る者に刃物の煌きを感じさせるものであった。
「守護代の名より、国民の声望という実を取りましたか。計算の上か、あるいはただの律義者か。前者であれば、この晴信の遊戯相手くらいは務まりそうですが、そこはどう見ます、勘助?」
「おそらくは後者かと」
 主君の問いに、勘助はあっさりと言い切った。
「景虎は元々神仏に信仰厚く、みずからを毘沙門天に重ねている由。その性向は、濁りなき清流の如し。配下の将兵、越後の国民、みな景虎を指して軍神と称え、その性情に心服する者は数え切れぬとのこと」
 与板の直江、琵琶島の宇佐美、栃尾の本庄らが心魂を傾けてこれを補佐しており、今回の戦の勝利によって、表面上はどうあれ、景虎の権威はほぼ確立されたと見て間違いない。それが勘助の意見であった。


 晴信はゆっくりと頷く。
「そうですか。ただの律儀者であれば、損得を考えず、信濃の国人衆に加担しかねませんね」
「御意。旭山の信濃勢に、越後の兵が加わるとなると、少しばかり厄介でござる。旭山以南の支配権を固める意味でも、ここは信濃の地に、もう一楔うっておくべきと存ずる」
 勘助の言葉に、武田の誇る精鋭たちの首が一斉に縦に振られた。
 元々、戦って負けを知らぬ武田軍にあって、先頭を駆け続ける武将たちである。普段の性向の違いはあれど、必要な時、必要な場所で発揮する資質の高さは、信濃の国人衆の追随を許すものではなかった。


 晴信はそんな家臣たちを頼もしげに見渡す。
 晴信と、その父信虎が甲斐の主権をかけて争った、いわゆる『躑躅ヶ崎の乱』において、晴信は重臣であり守り役でもあった板垣信方、昌景の兄である飯富虎昌、軍略の師であった甘利虎泰、夜叉美濃と他国にまで武名を轟かせた原虎胤らの宿将たちをことごとく失うに至る。
 このほかにも、父、娘いずれに付いたかを問わず、武田家は数多くの有能な家臣を失い、その人的資源は壊滅的ともいえる打撃を受けた。武田家の歴史に血文字を以って記される悪夢にも似た出来事、それが躑躅ヶ崎の乱なのである。


 その躑躅ヶ崎の乱から、まだ数年しか経っていない。
 にも関わらず、これだけの将をそろえた晴信の眼力、度量、人材収拾に費やした熱意、いずれも見事としか言いようがなかったであろう。
 その誇るべき家臣たちを前に、武田家第十九代当主は、涼やかな声で命令を発する。
「馬場信春、真田幸村。二人は先鋒となって旭山城に到る道を確保、しかる後、我が本隊の到着を待って総攻めを行いなさい。幸村、抜け駆けはなりませんよ」
「はッ!」
「承知いたしました!」


「山県昌景、春日虎綱。昌景は右翼、虎綱は左翼を指揮し、旭山城を取り囲みなさい。馬場、真田の両隊が攻撃を開始するのを合図に、二人も城攻めに加わるのです」
「承知」
「か、かしこまりました」


「勘助は私と共に本営の指揮をとりなさい」
「御意のままに……」
「内藤昌秀。そちは直属の部隊を率いて、敵の退路を扼しなさい。前方と左右から攻め立てれば、敵が後ろに退くは必定。逃走する敵をことごとく討ち取るのです」
「御意、我が神速の用兵をもってすれば、容易いことでございます」
 昌秀の言葉に、晴信は小さく頷いて見せた。
「期待していますよ。ただし――」
「は?」
「誰でも良い、敵将一人は見逃しなさい」


 その晴信の言葉に対する反応は二つに分かれた。
 意味を解しかねて怪訝な顔をする者。その深慮を悟り、しずかに頷く者。
 晴信はさらに言葉を続けた。
「景虎とやらが勘助の言うとおりの人柄であれば、助けを求める者の頼みをむげにすることはないでしょう。であれば、必ずやこの信濃に兵を発する筈。我らと越後はいささかの怨恨もない。その我らに兵を向けるは、越後勢の侵略にほかならず、近い将来、越後に兵を入れるための良い口実となるでしょう」
 かつて、躑躅ヶ崎の乱で信濃勢の侵攻を誘った時のように、とは口に出さぬ。
 だが、ここまで語れば、晴信の意図は六将には明らかであった。
 無論、かつて甲斐に侵入した信濃勢と、今回、信濃の国主らの復権を志す景虎の侵入は同じ視点では語れない。だが、戦の名分など形だけのもので十分なのだ。勝利と、その後の支配を間違えなければ、正義など後からいくらでもついてくるのだから。
 武田家の諸将は、自分たちの主君の視線が、信濃にとどまらず、すでに遠く越後まで視野に入れていることを悟り、畏敬の念も新たに、等しく頭を垂れる。
 ここに、真紅の騎馬帝に率いられた武田軍団は、信濃統一に向けた最後の戦いに踏み出すことになるのである。


 ――それは、信濃の国が武田の四つ割菱によって埋め尽くされる前日のこと。
 その馬蹄の轟きは、遠からず、隣国の越後に届くことになるであろうと思われた。



◆◆



 天頂に浮かぶ満月の光が、春日山の山野を黄金色に染める時刻。
 俺は中庭の縁石に腰を下ろし、一人、酒盃を傾けていた。
 この時代では、俺は立派な成人年齢なので、誰に咎められることもない。正直、酒はあまり好きではないのだが、このままだと気が昂ぶって寝られそうもなかったのだ。
 その原因は言うまでもなく、晴景様亡き後、越後の国中を覆った大騒動であった。


 越後守護代・長尾晴景、逝去。
 その知らせは、ただちに越後全土に伝えられた。
 越後の覇権を巡って争っていた当事者の一方の死は、味方はもちろん、敵の立場であった者たちにも強い衝撃を与えた。
 米山、北条城で対峙していた両軍は騒然とした空気に包まれたが、景虎様と、一応は主将の立場にある俺と、双方からの休戦命令を受け、互いに刀をひくこととなった。
 彼ら国人衆は、その兵力のほとんどを所領に帰すと、自身は馬廻りを引き連れて春日山城へと向かった。
 越後守護・上杉定実の名によって発された召集令に応じる為である。


 そして布告される上杉定実の復権と、坂戸城の長尾政景の守護代就任。
 これには、生々しい焼け跡を残す春日山城の大広間に集った者たち、誰一人として声も出ず、大広間はしわぶきの音一つない静寂に包まれた。
 それも仕方のないことであろう。誰もが勝者である景虎様の守護代就任を予想していたであろうから。
 あるいは慧眼の持ち主なら、景虎様の性格から推して、上杉定実の復権は予測していたかもしれない。だが、たとえそうであったとしても、長尾政景の守護代就任は誰にとっても予想外であっただろう。
 実際、誰よりも早くその旨を告げられた当の政景さえ、坂戸城でしばしの間、茫然自失となったと、後に笑いながら話してくれたくらいだったのだ。



 万人を驚愕させたであろうこの人事、実のところ、責任のほとんどは俺にある。
 というのも、政景を守護代に、という案はもとをたどれば、俺が晴景様に勧めたものだからである。
 景虎様との戦いを有利に運ぶため、俺は晴景様に頼んで、晴景様亡き後、守護代職を政景に譲るという誓紙を書いてもらい、それを用いて坂戸城を味方に引っ張り込んだ。
 今思えば、晴景様に対して何という提案をしてしまったかと後悔の臍を噛む思いである。だが、あの時は晴景様の病のことに気がついておらず、また景虎様に打ち勝つためには、何としても坂戸城を中心とした南越後の豪族の協力が必要だったとしか言いようがない。
 無論、これは晴景様側と坂戸城側との誓約であり、今や実質上の越後国主となった景虎様にとっては顧慮する必要のないものである。
 だが、晴景様が逝去されてから、上杉の御館様の御前で行われた会議の席で、俺の口からこのことを聞いた景虎様は、迷う素振りも見せず、守護代職に政景を推したのである。


 これには俺の方が驚いた。
 正直なところ、俺は今回の戦で、勝敗がどちらに転ぼうと命を失うであろうと思っていたので、今後のことについてはほとんど考えが及んでいなかった。
 だが、晴景様の最後の言葉を聞き、それに頷いた以上、果たすべき責務は山のように眼前に積もっている。そして、今後の越後のことを考えれば、まず最初に考慮すべきが坂戸城の扱いであることは明らかであった。
 虚実定かならぬ戦乱の世、同盟、盟約が破られるのはめずらしいことではない。だが、誓紙をもって取り交わした約定を破棄すれば、その者の名誉は著しく損なわれる。まして、それが俺のものであればともかく、今は亡き主の名誉が汚されるとあれば、万難を排してでもその事態を回避しなければならぬ。
 そのために、単身、坂戸城に乗り込んで、事をわけて説得するか、あるいは別の手段をとるか。
 そんな風に考えていた俺にとって、景虎様の反応は完全に予想外だったのである。



 だが、俺の当惑とは裏腹に、政景の守護代就任はあっさりと受け容れられてしまった。当然のように兼続あたりからは、かなり露骨に文句を言われたのだが、それでも最終的には兼続も政景の就任に賛成した。
 これは、無論、景虎様が守護代に就いた場合、坂戸城がそれに従わない可能性が大である為である。これ以上、越後国内における争乱を長引かせたくないのは、定実様、景虎様ともに共通の願いであった。
 それに、元々、房長・政景父子の力量には定評がある。二人が定実様の下に参じれば、南越後の豪族らもそれに追随するであろうし、政景には守護代の地位を担うだけの才略もあるであろう。越後の地から戦の火種を一掃するために最適な人事という面で見れば、政景の守護代任命は至当であるといえた。


 しかし、さすがにこれでは景虎様があまりにも報われない。
 百歩ゆずって景虎様自身は良いとしても、景虎様に従った家臣、国人、将兵らにとっては我慢ならないことであろう。勝った筈の自分たちが何一つ得られず、敗れた筈の側に、栄誉と地位が与えられるのであるから。
 だが、俺がそのことを気にすると、兼続はふっと鼻で笑っていった。
「見損なうな。景虎様はじめ我ら栃尾勢は、金や領土のために戦をしたわけではない。越後の地が平穏であれるのならば、手柄などいくらでもくれてやる。無論、将兵には相応の褒賞を与えなければならないが、その程度の財貨は栃尾城の府庫に蓄えてあるゆえ、お前が気にすることではない」
 その兼続の言葉に、景虎様と定満も当然のような顔をして頷くものだから、俺は片手で顔を覆ってため息を吐いてしまった。
 なんというか、出来た人たちだ。俺のせいで守護代へと到る雄飛の道が閉ざされたというのに、その視線には越後の平和しか映っていないと見える。
 彼女らの傍にいると、自分の卑小さがしみじみと感じられて、いたたまれない気持ちになってしまうほどであった。



 ともあれ、逡巡している暇はなかった。
 時が経過すれば、他にも野心を抱く者が出てきてしまうかもしれない。かりそめであっても、当面の支配体制を固める必要があったのである。
 かくて、上杉定実の復権と、長尾政景の守護代就任が越後全土に布告されるに到る。
 無論、それだけで越後がなべて平和になるわけではない。
 戦は、始めるのは簡単だが、終わらせることは難しい。まして、禍根を残さぬようにという条件をつければ、その煩雑さは戦をしている時の比ではなかった。
 その一つ一つを描写すると、やたら分厚い報告書が完成してしまうので割愛する。
 ただ、この嵐のような作業のお陰で、俺自身、晴景様の死に打ちのめされる暇がなかったという事実は挙げておくべきかもしれない。
 悲しみはいまだ胸を去らないが、それでも立ち止まっている暇はない。晴景様に後を託された身として、衆目になさけない姿を晒すわけにはいかないのである。
 くわえて、俺の失態の尻拭いをする形になった景虎様たちへの手前もある。それゆえ、俺は寸暇も惜しんで戦後処理にあたり、今日、ようやくそれに一応の区切りをつけることが出来たのである。




「さて、これからどうなることか」
 なめるように杯に口をつけながら、俺はひとりごちる。 
 今現在、春日山城には、守護上杉定実、守護代長尾政景、栃尾城主長尾景虎の三名の有力者たちが集っている。
 これは今回の混乱を最小限に抑えるためにも必要だからであったが、やがて春日山城主を誰にするかが問題となってくるだろう。一旦、火事にあった建物は危険だと訴える者たちもおり、あるいは越後の中枢が、春日山から他に移される可能性もないわけではない。
 考えるほどに、俺が越後の地に与えてしまった影響の大きさを自覚してしまい、知らずため息が口をついて出た。


 すると。
「天城殿、か?」
 そんな涼やかな声が、俺の耳朶を振るわせた。
 見れば、俺と同じように酒盃を提げた人物が一人、こちらに向かってちかづいてくる。
「これは、景虎様」
 俺は慌てて立ち上がると、丁寧に頭を下げた。
 晴景様の遺言により、俺は景虎様の配下に加わった。だが、景虎様は姉の配下であった俺に配慮をしてくれているのか、天城殿と丁寧に呼びかけてくれる。
 その待遇も、配下というよりは客将のようで、行動や発言の裁量も、かなりの部分、俺の手に委ねられている。はっきりいって、破格の扱いであった。
「今宵の月は、いつにもまして見事だな。天城殿もそうは思わないか?」
「は、さよう、ですか?」
 月など見てもいなかった俺は、景虎様の言葉に促されるように夜空を仰ぎ見て。
 そして。
「うわぁ………」
 思わず、子供のような感嘆の声をもらしていた。


 景虎様の言うとおり、夜空に浮かぶ月と、そしてその月を囲むように散らばる銀鎖の星々が、信じがたいほどに空を満たしていた。
 夜空というのは、本当はこんなにも輝いているものなのかと思わせる、圧倒的な光景。
 思えば、この世界に来てから、まともに星を見ることなどほとんどなかったような気がする。今だとて、景虎様に会わねば、ため息を吐いて地面を見つめることしかしていなかっただろう。


 声もなく空に見入る俺と、その横に腰掛ける景虎様。
 俺は無礼があってはならないと、場所を移ろうとしたが、景虎様は軽く手をあげ、それには及ばないと無言で制した。
 戸惑いながらも、再び縁石に腰を下ろす俺。さすがに主君の真横で平然と酒を口にするほど豪胆ではなく、景虎様も口を開かないので、あたりには静寂が満ちていく。
 居心地が悪いわけではなかったが、この雰囲気をどうしたものかと首を捻った時、やや唐突に、景虎様が口を開いた。
「天城殿」
 その声に応じて隣を見れば、どこか困ったような顔で、俺を見つめる景虎様の姿があった。
「は、何か?」
「うむ、その、だな……一つ頼みがある」
 そう言うと、景虎様はぽつりと呟くように言った。


 姉上のことを聞かせてくれまいか、と。


 聞けば、景虎様は晴景様の日常の起居のことをほとんど知らないらしい。
 幼少の頃、林泉寺に預けられて以来、共に暮らすこともなかったから、当然といえば当然の話である。
 ほんの一時ではあったが、ようやく触れ合えた姉のことを良く知りたいと願うのも、妹としては当然の話であるかもしれない。
 ためらいがちであるのは、主君を失ったばかりの俺の心情をかき乱してしまうのではないか、と配慮してくださっているのだろう。
 俺に否やはなかったが。
「は、はい、それはかまいません、が……」
 返答は、困惑した、はきつかないものになってしまう。 
 理由は――まあ、率直にいって、ろくなことが言えないからである。
 晴景様は、俺にとっては命の恩人であり、また様々な意味で力量を買ってくれた主君だが、常の仕事ぶりに関しては、惰弱、暗君という世間の評判を肯定するものばかりであった。正直に口にして良いものかどうか。
 かといって、おためごかしを口にしても、景虎様のことだ、即座に見抜いてしまうだろう。


 その困惑に気づいたのか、景虎様は俺にむかって頷いてみせる。
「私に気を遣わず、正直に教えてほしい。今更私がそれを知って、何ができるというわけでもないが、ただ、傍にいた天城殿の目から見て、姉上がどのような人物であったのかを知っておきたいのだ」
 妹として。後を継ぐ者として。
 その真摯な眼差しに見つめられては、謝絶など出来る筈もない。
「――承知いたしました。私が晴景様に拾われてからのことしか話せませんが」
 そう断ってから、俺はゆっくりと口を開いた。   


 食い入るように俺の話に聞き入る景虎様の様子は、どこか子供っぽささえ感じてしまうくらい、一心不乱であった。
 繰り返すが、俺の知る晴景様の日常や仕事ぶりは、正直、褒められたものではなかった。今思えば、それも病に犯された身と、内心の懊悩を抱えてのことだとわかるのだが、だからといって越後の国民に多大な負担を強いた政事を肯定できる筈もない。俺たち家臣の不甲斐なさも手伝って、春日山の乱れた政治は、ついに糾されることなく終わってしまった。
 よって、俺の話はかなりの部分、晴景様と自身への非難ともとれる内容になってしまったのだが、景虎様はただ無心に聞き入り、一度も言葉を差し挟むことはしなかったのである。



 およそ半刻も語り続けたであろうか。
 俺が語るべきことを語り終えるのを待っていたかのように、中庭に第三者の声が響きわたった。
「景虎様、ここにいらっしゃったのですか。お部屋におられないので案じておりました」
「兼続か。すまない、心配をかけたようだな」
 姿を現したのは直江兼続であった。
 兼続は、景虎様の横に俺が座っているのを見ると、む、という感じで眉をしかめた。それを見て、俺はあさっての方向に視線をそらせつつ、ぽりぽりとこめかみを掻く。
 「私はお前のことが嫌いだ」と断言された初めての対面からこちら、どうもこの人には苦手意識が働いてしまう。
 とはいえ、苦手なだけで、憎しみや嫌悪を抱いているわけではない。むしろ、一途に景虎様に忠誠を捧げる兼続の姿には、尊敬の念さえ覚えているくらいである。


 だが、それも一方的なもののようで――
「天城殿もいたのか。早く寝ないと、明日の仕事に差し支えるぞ。貴殿の分はたっぷりと用意してあるゆえな」
 いっそさわやかなくらいの笑みで退場を促す兼続を見て、俺は苦笑せざるをえなかった。


 とはいえ、兼続の言うとおり、夜も大分ふけてきた。今なら部屋に戻っても眠れないということはないだろう。
 俺は縁石から腰をあげると、景虎様に向けて口を開く。
「では、景虎様。無礼な言い様があったかもしれませんが、私がお話できることはこのくらいです。お役に立てたでしょうか」
「ああ、ありがとう。姉上のこと、多少なりともわかることが出来たように思う」
 そっと胸の上に手を置いた景虎様は、そう言った後、感心したように俺の方を見て、言葉を続けた。
「天城殿は話をするのが上手だな。手に取るように情景が伝わってくる。姉上のお伽衆であったのも、その能を愛でられてのことだったのか?」
「さて、どちらかといえば、いかに晴景様の勘気に触れずに願意を伝えるべきかの研鑽を積んだお陰であるように思います」
 その言葉を聞いた景虎様は、一瞬、笑うべきかどうか悩んだようであったが、すぐに微笑を浮かべて、俺を見た。
「そうか。もしよければ、いずれ、姉上のこと以外の話も聞かせてくれ」
 景虎様の言葉に、俺はかしこまって頭を下げる。
「私の拙い話をご所望であれば、いつなりとお聞かせいたしますよ」


 俺はそう言ってから、小さく笑った。
「さて、そろそろ直江殿の顔が恐ろしくなってきましたので、私は失礼させていただきます」
「うむ、兼続を怒らせると大変だからな。それが賢明だろう」
「な、何が賢明だというのですか、景虎様! 天城殿も、私をだしにするのはやめてもらおうッ!」
 がー、と気炎を吐く兼続を見て、俺と景虎様はくすりと微笑み合った。
 それを見て、さらに声を高める兼続。


 夜の春日山城に起きた時ならぬ騒ぎを、空の星月が、興味深そうに見守っていた……


◆◆


 これより数日後。春日山城に一頭の早馬が駆け込んでくる。
 それは、武田の侵攻により、信濃の国人衆が壊滅の憂き目にあったとの知らせであった。
 さらに早馬は、越後と信濃の国境に、少数の護衛に守られた村上義清があらわれ、春日山への道案内を願っていることをあわせて伝えてきた。


 ――信濃の地を巡り、武田、長尾の両軍が激突する刻は、すぐそこまで迫りつつあったのである。
 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/26 01:11
「……語るべきことは多々あれど、まずはお礼を申し上げます。敗残の身たるこの身を受け入れてくれた越後の厚情、この義清、終生忘れはいたしません……」
 そういって、その女性――村上義清は深々と頭を下げた。
 信濃葛尾城主にして、北信連合を率いて精強な武田軍と戦い続けた勇将は、またしてもというべきか女性だった。
 腰まで伸びた髪は青みを帯びて黒く輝き、冷たささえ感じさせる冴え冴えとした美貌は見る者の言葉を奪う。
 信濃の国人衆は、武田の侵略が始まるまでは互いに争いあっていた間柄。そんな国人衆を束ね、まがりなりにも武田軍とわたりあってきた義清がただものである筈はなかったが、しかしそれにしても、こんなに美人だったとは。なんというか、人間ではなく、妖精だの精霊だのを見ているような気分になってしまう、どこか幻想的な美貌だった。
 聞けば他の国人衆は男ばかりだったというし、義清の体つきは一見したところ華奢で、体力があるようには見えない。連合を維持するのは相当辛かったのではあるまいか。


(いや、そんなことはないか)
 俺は自分の考えを、自分で否定する。
 考えてみれば、景虎様だとて、見かけと武将としての力量が一致しているわけではない。義清もまた外見とは関わり無く、秀でた力量を有する武将なのだろう。
 そんなことを考えている間にも、春日山城の軍議の間では、義清による北信濃における武田軍との戦いが語られていった。
 義清はあまり喋るのが得意ではないようで、所々で言葉を止め、考え込むように口を閉ざしては、再び口を開くということを繰り返している。
 多くの配下と同志を討たれたのだ。口惜しくないわけがない。だが、義清の口調からはそういった恨みや憎しみを感じなかった。
 義清が薄情である、というわけではない。非凡な意思の力で、無念を押さえつけているのだということを、この場にいる者すべてが察していた。




「さて……」
 義清から武田侵略のあらましを聞き終えた越後側は、義清とその配下に部屋を与えて休んでもらい、その間に今後の方針をたてることとなった。
 城主の席に座るのは、無論、越後守護上杉定実である。
 傀儡であったとはいえ、長い間、守護職を務めてきただけあって、その姿には人の上に立つ者の風格が漂っていた。髪にも髭にも白いものが目立ってきているが、それは定実様の威厳を高めることはあっても、落とすことはないだろう。
 定実様は万事に物腰の柔らかい方であり、侍女や警備の兵士などにも丁寧に対応する。それは多分にこれまでの立場から培われたものであろうが、城中の将兵や侍女たちにはかなり好評であった。


 もっとも、定実様がいかに風格ある守護であるといっても、今、この場にいる者からみれば、いささか物足りなさを覚えてしまうだろう。
 それは定実様の責任ではない。単に、定実様の左右に座す二人の人物の格が違いすぎるのである。
 一人は言わずとしれた景虎様。
 そして、もう一人は――


「甲斐の武田晴信。信濃からの噂はよく聞いていたけど、こんなに早く来るとはね。まあ越後での争いが終わった後っていうのがせめてもの救いか」
 越後坂戸城主長尾房長の長女にして、現越後守護代長尾政景。
 その政景様は薄い紅茶色の髪を揺らし、気難しい顔で腕組みをした。
 本人的には深刻さを示したいのかもしれないが、見た目が小娘な政景様がそれをやると、なんだか中高生くらいの子供が無理して大人ぶっているようで、ちょっと微笑ましかったりする。
 聞けば、政景様は景虎様より一年早い生まれだそうだが、お二人の成長具合を見比べると、どうしても首を傾げてしまう。特に胸とか腰あたりが……
「颯馬、何か言ったッ?!」
「は、は?! 何も言ってませんが」
「……じー」
「い、いや、睨まれても困るんですが。本当に何も言ってませんって」
「じゃあ、訂正。何か心の中で思ったでしょ。あんたの視線、おもいっきりあたしと景虎の身体に向いてた気がするんだけど」
「いや、なんというか、世の不条理を嘆くといいますか、神の気紛れにため息を吐くといいますか、そんな感じです」
「どうしてそういう感想があたしたちの身体を見て出てく……」
 政景様の声がぴたりと止まった。
 何か思い当たる節があったようで、その唇がひくひくと揺れた。
「今、あんたに対して殺意を覚えたわ」
「いわれなき害意に対して、この天城颯馬、断固として抗議いたしたく」
「守護代権限で却下」
「横暴なッ!」
「うっさいッ! 乙女をはずかしめて、ただで済むと思うなッ!」


 ぎゃあぎゃあとわめき始めたおれたちを見て、定実様がため息を吐き、景虎様はくすりと微笑んだ。
 控えていた定満はこくりこくりと船をこぎ、そしてわなわなと身体を震わせていた兼続は、ついに耐えかねたのか、無言で拳を振り上げ――
「ッ痛?!」
「いいかげんにせんか、ばか者ッ! 政景様は守護代の重職にあられる御身、本来ならば貴様ごときが抗弁することはおろか、口をきくことさえ憚らねばならんのだぞッ! あまつさえ景虎様の御身体に邪欲に満ちた視線を向けるなど言語道断!」
 手加減なしの兼続の拳を受けたおれは、言葉を返すことも出来ず痛みにもだえるしかなかった。
 唐突に口論を中断された政景は、どこかつまらなそうに口を閉ざす。
 一方の兼続は、どうやらまだまだ言い足りない様子で、さらに口を開こうとしたが、それに先んじて景虎様が穏やかに仲裁の言葉を投げかけた。
「兼続、そう憤ることもあるまい。天城殿と政景様のやり取りはいつものことだろう」
「こ、これがいつものことというのが、そもそもおかしいのですッ! 景虎様も景虎様です。天城殿の不心得な行いに対し、罰の一つもお与えにならないから、こやつが調子に乗ってしまうのでしょうッ!」
「む、今日の兼続は血気盛んだな。だが、年頃の男性が女性の身体に興味を持つのは自然なことだと定満も言っていたぞ。まあ、私のような武張った者を見ても、何の興味もわかないとは思うが」
 その言葉に、政景が思わず口をはさむ。
「……いや、それあんたが言うと、あたしの立場が……」
「おや、政景様、何か?」
 心底不思議そうに首を傾げる景虎様に、政景がつまらなそうに「なんでもないわよ」と口にした。
「お二人とも、ですから問題はそこではなく、ですねッ!」
 兼続が拳を振り上げ、俺の非を高らかにならそうとした途端、別人の声が軍議の間に響き渡った。


「……これから越後を窺ってくるに違いない武田家への対策をどうするか、ですね」


 いつのまにか。
 船をこいでいた筈の定満は、おいしそうに茶をすすりながら、あっさりと軍議の方向を修正してしまったのである。
 同時に頷いた俺たちを前に、兼続は一人、振り上げた拳を下ろす場所を見つけられず、身体を震わせることに――
「って、痛ッ?!」
 やたら良い音がして、兼続の拳骨がもう一回ふってきて、俺はもうしばらくの間、痛みに震える羽目になってしまった。

 

◆◆


 
「――さて、颯馬の貴い犠牲の下、ようやく軍議を進められることになったのだが……」
「いや、生きてます、定実様」
「黙ってお聞きしろ、ばか者ッ!」
 再びやりあいかけた俺と兼続を見て、定実様は薄く笑ってこう言った。
「――二人とも、さすがにこれ以上は控えよ」
「は、ははッ!」
 その笑顔に、何か底知れない畏怖を感じた俺たちは慌てて頭を下げるのだった。



 長年の傀儡の座からようやく脱した守護上杉定実。
 戦に敗れ、大きな勲功なくその座についた守護代長尾政景。
 そして実質上の勝者であるにも関わらず、いかなる地位も望まなかった長尾景虎。
 新しい越後の統治体制において重きをなす者たちの間には、明らかな隔たりがあり、その内心には猜疑と戸惑いが渦巻いているに違いない――そんな風に考えている者の数は少なくないだろう。
 そして、その者たちがこの軍議の光景を見れば、おそらく口と目で三つの〇を形作るに違いない。
 かくいう俺も、なんでこんな風になってしまうのかが今ひとつわからないのだが……まあこれも皆々の人徳の賜物でもあろうか。


「武田家に対して、どのように対するべきか。定満はどう考えておる?」
 定実様の言葉に、定満はゆっくりと言葉を発した。
「武田家への対応は、義清様をどのようにお迎えするかによると思う。ただ身柄を受け容れるのか、それとも信濃の地を取り戻すのか。後者であれば、武田家とは戦うしかない。そして多分、義清様は次の時にその援助を求めてくる筈」
 定満の言葉に、政景様が肩をすくめた。
「そうね、義清が所領を奪われて泣き寝入りするような奴だったら、武田の侵攻に刃向かうわけもないわ。信濃の所領を取り戻すために全力を尽くすは当然。そして、越後にその援助を求めるのも当然、か。その求めを受け容れれば、越後は新羅三郎義光以来の名家である甲斐武田氏を敵にまわすことになるわけだけど――ううん、義清を受け容れた時点で、もう敵に回しているようなものね」


 政景様の言葉に、おれははっと表情を改めた。
 武田家は信州攻略の名分を、躑躅ヶ崎の乱において信濃勢が甲斐に攻め込んだことへの報復であるとしている。これは事実に即するもので、だからこそ名分たりえているのだが、実のところ、信虎時代には甲斐の方から信濃へ幾度も兵をむけており、非が全面的に信濃勢にあるわけではない。
 無論、晴信はそのことを知った上で信濃勢の侵略を声高に非難し、自軍の侵攻に正義の飾りをつけているのだろう。その理屈に異を唱えることは出来るが、しかし武田家の武威に抗することができない以上、それは負け犬の遠吠えに等しく、他家にも民にも説得力をもたないのだ。
 そんな武田晴信であれば、越後の地を欲すれば、当然また適当な理由を見繕ってくるであろう。
 否、その理由は、今まさに春日山城にやってきたばかりであることに、政景様の言葉で、ようやく俺は思い至ったのである。


「義清様は、武田家からの宣戦布告というわけですか……」
 俺の呟きに応じたのは景虎様だった。
「そうだな。越後が義清様の求めに応じれば、当然、信濃に兵を進めることになる。それをもって越後の侵略と位置づけ、来る戦いに名分を添えようというつもりだろう」
「なるほど。仮に越後が義清様の求めに応じなければ、武田の信州経略を邪魔する者はおらず、民心を安定させて武田の支配を根付かせることが出来る。いずれに転んでも、武田家にとって損はない、というわけですね」
 俺は感心したように頷いた。


 ここまで頭が働くようになったのは、先日来、内政に関しても鬼のような数の案件を処理しつづけていたおかげであろうか。
 俺はこれまで、一つの物事を進める時、その道筋が成功と失敗に分かれているのは当然だと思っていたが、真の巧者はいずれにおいても利を得るように動くのである。そのことを、景虎様や兼続、定満、政景らの行動を見ていて思い知った。
 無論、万事が万事、そううまくいくわけではないにせよ、そういう視点を持てたことは大きな収穫だった。


 そして、その視点で今回の武田家を見た時、そこにあったのは圧倒的なまでの自負であった。
 おそらく武田晴信の目に、越後上杉家はほとんど映っていないのではないか、と俺は思う。
 晴信は彼我の力量、国力、情勢などを鑑みて、その上で義清を越後に追い立てたのだろう――越後がどのように動こうと、武田家はそこから利益を掴み取ることが出来ると確信して。
 傲慢と紙一重の、しかしそれは確かな実力に裏付けられた自信であり自負。
 自家の力、自身の力、家臣の力、それらを完璧に把握した上で、晴信は越後に向けてこう言っているのだ。


 好きなように動け、と。
 どのように動いてもかまわない、その全ては私の掌の上なのだから、と。


「……ふん、大した自信だこと。越後もなめられたものね」
 俺と同じことを考えたのだろう。政景様が小さくはき捨てた。
 だが、すぐに表情を改め、言葉を続ける。
「颯馬は、義清殿が武田家からの宣戦布告と言ったけど、そうだとすると和睦や友好の道は探るだけ無駄ね。向こうはすでにやる気だってことだし」
 景虎様は何事か考えながら瞑目していたが、政景様の言葉に首を縦に振って賛同の意を示す。
「政景様の仰るとおりです。信濃での戦いを終えたばかりの武田が越後に兵を入れるとは思えませんが、しかし国境の防備が手薄と見れば、どう出るかは不分明です。義清様のお言葉を聞く限り、武田晴信の政戦両略、おそるべきものがございますゆえ」
 そして、景虎様は定実様に向かって頭を下げた。
「お願いしたき儀がございます。栃尾の兵をもって国境の守備を固めるご許可をいただきたく」
 定実様が驚いたように目を瞠る。
「む、景虎みずから行くと申すのか?」
「御意。武田家に対して、越後を侵さば相応の報いがあることを示すべきかと存じます。それに、かの孫子の旗印というものを、一度、この目で見てみたく思いまする」
 景虎様の言葉に、政景様が口をはさむ。
「あ、それなら私も――」
「駄目です」
「即答ッ?!」
 景虎様に一蹴され、愕然とする政景様。どっちが守護代なんだろうか。
「政景様が春日山城を離れてしまえば、人心が動揺してしまいましょう。今の越後はまだまだ不安定です。守護、守護代、いずれも安易に動くべきではございますまい」
「む、そう言われると返す言葉もないけど……景虎、まさか自分が好き勝手動けるように、責任の重い役目を私に押し付けたわけじゃないでしょうね?」
 その言葉を受け、つっと景虎様の視線がかすかに泳ぐのが見えたのは……たぶん、気のせいだろう。うん、多分。


「……ご許可いただけましょうか、御館様」
「無視ッ?!」
「よかろう、長尾景虎、ただちに信州との国境を固め、武田の野心を掣肘せよ」
「御館様までッ!」
「承知仕りました。定満、兼続、それに天城殿も同行してもらえるか?」
「うん、わかった」
「承知いたしました」
「お供いたします」
「あんたたちもかッ?! というか、春日山の政務を私と御館様の二人で何とかしろと?! って、こら待ちなさい、無言で席を立つな、背を向けるな、あの量の仕事を二人でどうしろっていうのよッ!!」


 後ろの方から何やら甲高い叫びが聞こえてくるが、気のせいだろう、うむ。
 俺が頷いていると、めずらしく兼続の方から話しかけてきた。
「……天城殿、一つ問いたいのだが」
「なにか?」
「晴景様がいらした時、春日山の軍議はこのような形だったのか?」
「まさか。もっと重々しいものでしたよ」
「……やっぱりそうよね」
 はぁ、と何やらしみじみとしたため息を吐く兼続。
 一方の俺はというと、色々な意味で口をはさめる立場ではなかったので、苦笑を浮かべながら頬を掻くことしか出来なかった。



◆◆



 信濃旭山城。
 今回の遠征で新たに武田の領土となった北信濃各地の事後処理を終えた武田晴信は、旭山城の城主の間で、今、手元の書状に目を落としていた。
 短くも激しかった城攻めの爪痕が各処に残る旭山城であったが、すでに武田家に刃向かう輩は城内のどこにもいない。
 彼らはいずれも冥府に旅立ったか、あるいは城外に逃れ北へと向かったのである。もっとも、そのほとんどは、やはり冥府への道を辿ることになったのだが。


「御館様、先刻より熱心にその書状をご覧になられているようですが」
 主君の傍近くに侍る真田幸村が訝しげに問いかけた。
 前述したように、すでに城内に武田家に敵対する勢力は存在しない。
 晴信は北信濃の民心がある程度落ち着くのを待って甲斐へと戻るつもりであり、諸将へも遠征の疲れを癒すように命じている。それゆえ、幸村が晴信の護衛をする必要はないのだが、幸村は、落城まもない城では何が起きるかわからない、と主張して晴信の傍から離れようとはしなかった。


「越後の内乱の詳細を記したものです。さきほど、勘助が持ってきたところを、あなたも見ていたでしょう、幸村」
「は、はい。ですが、他国の内乱などに何故御館様がさように熱心になられるのかと、それが気になりまして」
「熱心? 幸村の目には、私はそのように映ったのですか?」
「はい――も、もし誤りであったのなら、申し訳ございませんッ」
 幸村はそういって頭を下げようとする。
 主君である晴信は、配下であれ誰であれ、他者に己の内心に立ち入られることを極端に嫌う。そのことにようやく思い至り、己の失態に顔から血の気が引く思いだった。
 だが、一方の晴信はくすりと微笑むだけで、特に気を悪くした様子は見せない。
 常にない主の様子に、幸村は戸惑いを隠せなかった。


「熱心……そうなのかもしれません。あるいは良き敵手と出会えるかもしれないと思い、心浮き立つ思いがあるのは否定できませんね」
「良き敵手、でございますか。御館様とまともに戦いえる相手などいるとは思えません。まして越後などに」
 迷いなく断言する幸村に、晴信はやや厳しい視線を向ける。
「幸村」
「は、はいッ」
「己の武に自信を持つのは良い。武田の強を自負するのも良い。けれど、それと他者を侮ることはまったく別のものです。侮りは慢心を生み、慢心は隙を生じさせます。隙があらば、童子でさえ大人を破ることもできましょう。獅子は兎を狩るにも全力を尽くすといいます。真の武将とは獅子の如き武士を指すのです。そして、私は凡百の武士千人よりも、真の武士一人をこそ配下に得たいと思っているのです」
 晴信は一度言葉を切ると、手に持っていた軍配で幸村の肩をとんと叩いた。
「私の期待、裏切らないでくださいね、真田幸村」
「は、ははッ! 浅慮を申しました、お許しくださいませ!」
「わかれば良い」
 満足そうに微笑む晴信に、平伏していた幸村は思い切ったように問いを向けた。


「御館様、一つ、お聞きしたいことがございます」
「なんでしょう?」
「御館様はこの城を攻める前に山本殿に尋ねておられました。越後の長尾景虎が、越後の実権を他者に譲りわたしたのは、計算か、それとも律儀からか。もし計算の上であれば、遊戯の相手くらいは務まるかもしれない、と」
 幸村の言葉に、晴信は頷いてみせる。
「ええ、確かに言いましたね」
「しかし、山本殿は律儀からだと申されておりました。であれば、此度の越後内乱における実質的な勝者である長尾景虎でさえ、御館様にとっては遊戯の相手にすらなりえぬということではないのでしょうか。一体、何者が好敵手となると仰せなのでしょう?」
 晴信は幸村の問いに対し、ふむ、と頷きながら、軍配で口元を覆い隠す。
 そして、おもむろに口を開いた。


「幸村、たしかに私は景虎とやらが計算づくで進退を行ったのであれば、遊戯の相手になるといいました。遊戯とは命をかけることなき童(わらべ)の遊び。すなわち、景虎がその程度の小癪な策略を用いるのならば、越後との戦い、武田の家の命運を賭す必要のないつまらぬものになるだろうということを言いたかったのです」
「そ、そうだったのですかッ?! では、景虎が心底から動いたのだとすれば――」
「ええ、清流の如き、と勘助はいったけれど、人は汚泥のごとき乱世にあって、心の内で清く正しき義を求めるもの。景虎が越後でそれを体現しているのだとすれば、越後との戦、長引くことになるかもしれません」
「し、しかし、御館様が景虎めに劣るとは思いませんッ」
 幸村の真剣な眼差しを受け、晴信はすこし面映そうであった。
「その言葉は嬉しく思います。けれど私のそれは計算づくです。心から正義や道理を遵守しているわけではない。必要とあれば計略も策略も私は用います。それはこの戦乱の世にあって当然のことと思っていますし、また事実そうなのですが――」
 晴信は続けてこう言った。
 もし、景虎がその戦乱の理に真っ向から刃向かおうとするのであれば、私よりも景虎の方に魅力をおぼえる者は少なくないでしょう、と。


 幸村は憤然と首を左右に振った。
「そ、そのようなことはッ」
「あるのですよ」
 対して、晴信は冷静そのものといった様子で、言葉を続けた。
「さきほども申しましたが、人は心底では清純なものを求めます。私と景虎、人としていずれが清く正しいかなど計るまでもない。そのようなお人よし、この乱世で家を保てる筈もなく、群雄割拠する世に生き残れる筈もなしと考えていましたが、現に景虎は私の前に立ちはだかろうとしている。人として清純なものを抱えながら、乱世を風靡せしめるほどの才を内包しているのだとすれば、長尾景虎、恐るべき相手になるでしょう。この私と、武田の家の命運を賭さなければ勝利がおぼつかないほどのね」
 そう言うと、しかし、晴信は落ち着きを失わぬままに微笑みを浮かべた。
「無論、負ける心算などかけらもありませんが。幸村とて同じでしょう?」
「も、もちろんですッ、景虎めがどれだけの武を誇ろうと、この真田幸村、断じて退きはいたしません」
「頼りにしていますよ。あなただけではない、山県、馬場、内藤、春日、山本らの五将、そして彼らに次ぐ二十将、さらにはその配下にいたるまで、武田の精鋭が力を合わせれば、かなわざる者などこの日ノ本のどこにもいないでしょう」
「御意にございますッ!」




 幸村が退出し、一人になった晴信は手に持っていた書状にもう一度、目を向ける。
 そこには、先の報告にはなかった越後内戦の詳細が綴られていた。
 幸村に語ったことに偽りはない。長尾景虎への警戒は、晴信の心に確かにある。
 だが、幸村に語らなかったこともあった。
 それは。
「……長尾晴景が将の一人、天城颯馬。猛将柿崎を水計で葬り、長尾景虎をして春日山城に誘導せしめ、城郭と、自身もろとも焼き滅ぼさんとする、ですか」
 一時は滅亡寸前にまで追い込まれていた春日山長尾家を立て直した若き将。
 その出自は農民であるとも、流れの軍配者であるとも言われており、越後国内では随分と評判が高いらしい。その功績を見れば当然とも言えることだが、しかし、その派手な勲功よりも晴信が注目したのは、越後内戦における天城の戦ぶりであった。
 長尾景虎の鋭鋒を避けながら、大兵力の利を活かして、真綿で首をしめるかのように栃尾勢を追い詰めていった戦ぶりは、日ノ本ではほとんど見ることのないものだ。


 最終的には配下の無理解と、与えられた権限の限界が枷となって失敗に終わり、春日山城もろとも敵将を討つという博打じみた奇策にはしらざるをえなかったようだが、もしはじめから天城に戦場のみならず、戦そのものを構築する権限を委ねていれば、あるいは長尾景虎は今頃栃尾城で篭城している最中であったかもしれぬ。
「幸村にはまだその凄みはわからぬでしょうから、あえて言いませんでしたが――面白いですね。昌景も言っていましたが、まるで唐の戦でも聞くようです」
 与えられた戦場で力を振るえる将は数多い。だが、自らの手で戦場を構築できる将のなんと少ないことか。武田家にあっては、晴信を除けば、山県、山本の「両山」くらいであろう。
 その将が敵にいる。
 しかも、長尾晴景が死んだ後は景虎に仕えているという。
 長尾景虎の武威と、天城颯馬の戦略。その二つがかみ合わさった時のことを考えると、晴信は身体の震えをおさえることが出来なかった。
 恐怖である筈はない。それは、かつてなき敵手があらわれたことへの歓喜に他ならぬ。


「すぐに逢えるでしょう。待っていますよ、我が宿敵となるであろう者たちよ。はや国境を固めねば我が旗が越後へ到ること、気づかぬそなたたちではないでしょう?」
 誰一人いない室内で、軍配を握りながら、武田晴信は小さく笑みを浮かべた。
 花咲くような少女の笑みは、同時に来るべき戦いを待ち望む戦神の微笑でもあったのである。 

 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/26 01:10


 軍議において景虎様の信越国境への出陣が決定され、翌日、俺たちは五千の大軍を率いて春日山城を発った――というわけにはいかなかった。
 この時代、兵士のほとんどは農民であり、彼らを集め、編成し、軍勢に組み込むにはそれなりの時間と手間を必要とするのである。
 その上、越後はつい先日まで激しい内戦が繰り広げられていた。ようやく内戦が終わり、家に帰ってほっとしているであろう農民たちを、休む間もなく戦に駆りだせば、間違いなく越後の新政権の評判は下がってしまうだろう。
 御家の危急存亡の時ならば仕方ないが、今のところ、戦火は越後に及んでいない。強引な動員は避けるのが賢明というものであった。


 そんなわけで、今回、景虎様に従った兵の数は一千と少ない。そのほとんどが景虎様直属の栃尾勢、定満直属の琵琶島勢、兼続直属の与板勢、というように各自の手勢であったためである。
 ちなみに、俺にも手勢はいる。十名に満たない数だったが、精強さではそこらの隊に負けないだろう。なにせあの鬼小島がいるのだからな。
 俺としては、弥太郎ほどの武芸の持ち主であれば、御館様の下で将として活躍できるのではと思うのだが、弥太郎自身が頑として受け付けなかったのである。
 あくまで俺の配下で、と望む弥太郎。鬼小島ほどの剛勇の将にそこまで慕われて嬉しくない筈がない。まして、今の弥太郎は可憐な乙女であるのだから尚更だ。
 というわけで弥太郎と、そして柿崎戦後に晴景様に士分に取り立ててもらった者たちは、引き続き俺の配下にとどまっているのである。彼らも俺に恩を感じているらしい。実に律儀な人たちばかりな越後の国であった。


 ちなみに、彼らの俸給は当然、俺が払わなければならない。もっとも、俺の懐が痛むほどではない。
 何故かといえば。
 今の俺の俸禄は景虎様から出ているわけだが、実はこれ、結構な額だったりする。まがりなりにも春日山の総指揮をとっていたせいもあるのか、重臣なみの俸禄を頂いているのだ。それゆえ、弥太郎たちの俸禄を払っても十分お釣りが来るのだった。
 前歴はどうあれ、景虎様の配下としては新参の俺に対して、破格ともいえる好待遇であったから、他の家臣たちの嫉視は免れないだろうなと、俺は半ば覚悟していた。
 しかし、どうも思った以上に俺の評判は越後国内で広がっているらしい。むしろ、これからよろしくお願いしたいとたずねてくる人たちの数に面食らったほどである。無論、俺に対して好意的な人ばかりではなかったが、その彼らにしたところで不穏な言動をするでもなく「この若造の評判、まことかどうかしっかと見定めてくれよう」みたいな態度なので、かえって拍子抜けしてしまったほどだった。


 兼続に言わせると、景虎様の人徳の賜物であるらしい。他の家なら、こうはならないだろうということだった。
 それは事実ではあろうが、しかし越後の人々のこういった竹を割ったような気性はとても好感が持てる。彼らを失望させないように努力せねばなるまい。




 ともあれ、上杉軍は千の軍勢を率いて春日山城を発った。数の上では信濃の武田軍に遠く及ばないが、もし武田が信濃のみならず、越後にも兵をいれる心算であれば、越後全土に動員令を下すことになるだろう。その準備は定実様と政景様によって整えられる予定である。
 そして、箕冠(みかぶり)城の大熊朝秀ら、道中の諸将にはすでに早馬が遣わされているので、武田軍と接触する頃には、上杉軍の数は倍近くにまで増えているだろうと思われた。



◆◆



 俺がこの地に来て数月。止むに止まれず、軍略だの指揮統率だのといった仕事を任され、そういった経験は嫌と言うほど積むことが出来た。なにせあの上杉謙信と戦って生き延びたのだ。経験値が三万くらいはいったと考えても良いのではなかろうか。我ながらよくわからん表現だが、心情的にはそんな感じである。
 だが一方で、個人の身体能力や技能はさしたる成長を見せていない。具体的に言えば、刀を振るったり、槍を振り回したり、馬に乗ったりといった武芸全般に関してである。
 貧乏学生だった俺は、健康こそ資本とごく自然に理解していたので、体力にはそれなりに自信があった。自分で自分のことを清貧といってはさすがに笑われてしまうだろうが、少なくとも贅沢におぼれるようなことはなかったから、結構身体も引き締まっていると思う。


 だが、それはあくまで平成の日本を基準にした上でのこと。
 この越後の国にあって、俺がすごして来た環境なぞ贅沢も良いところで、俺の体力だの膂力だのは一般的な兵士のレベルで見てもお話にならないものだった。
 だからこそこれまでも、いざ実戦という段階では俺はほとんど役に立っていない。柿崎との戦でも、その後の景虎様との戦いでも、実戦においては弥太郎の方がよほど勝敗を左右する働きをしているのである。
 これは将としての威厳云々以前に、男としてかなり情けない。弥太郎や、あるいは景虎様のように、などとは言わないが、せめて戦場で己の身を守れるくらいには強くなりたかった。
 しかし、これまでは鍛えようにも忙しくてそんなことをしている暇がなく、定実様が守護になり、越後の統治体制が大幅にかわって、ようやく身軽になれたと思ったのだが、景虎様の配下の一人として、なんだかんだで政務や軍務と縁が切れない。
 結局、いまだに刀も振るえず、馬にも乗れない始末である。
 必然的に、この信越国境への出陣も他人の馬に乗るという情けない様を晒すことになってしまった。



 時間も暇も、待っているだけでは来ないのは、平成の世も戦国の世もかわらぬらしい。であれば、みずからつくらねばならないのは当然のこと。
 というわけで、折角の機会なので、弥太郎の背で馬に揺られながら、乗馬のコツなぞを教えてもらおうとしたのだが――
「うー、教えてさしあげるのは良いんですけど……」
 何故そこで露骨に残念そうな顔をするのか、鬼小島。
 素人に物を教えるのが面倒だというなら無理強いするつもりはないのだが、しかし、弥太郎の性格からしてそういうことではないだろう。それに残念そうな表情を浮かべる理由にも繋がらない。一体、なんだというのだろう?
 俺が不思議そうに弥太郎の背中に問いかけると、弥太郎は正面を向きながら(つまり俺に顔を向けないまま)ぼそぼそと何やら呟いた。
「も、もちろん面倒だなんて思いませんが、ただ、その、天城様が馬に乗れるようになってしまうと、もう背にお乗せできなくなってしまうのが……」
「む、すまない、よく聞こえなかったんだが?」
「なな、なんでもないですッ。コツですね、コツ。えっと、そうですね、まずは馬の身体の洗い方からお教えいたしますッ」
 うってかわって声を高め、饒舌に語りだす弥太郎。
 俺は少し呆気にとられて、その背を見つめていたが、すぐに我に返ると、弥太郎の言葉を一字一句忘れないように頭に叩き込んでいった。


 弥太郎の言わんとすることを総括すると、馬には誠意をもって接すべし、ということになる。
 馬は道具ではなく生き物であり、もっと言えば草食性の大人しい動物である。それを人間の都合で戦場にまで引っ張り出す以上、それが当然のことだと弥太郎は主張する。
 その意見が他の人たちにどのように評価されるのかは俺にはわからなかったが、しかし、この馬の弥太郎への懐き方を見れば、弥太郎の言葉が決して間違いでないことは明らかであった。
 もっとも、弥太郎を慕う分、俺には何やら意趣があるのか、時々、激しい動きで俺を振り落とそうとしたり(弥太郎が落ちるような動きは決してしない)、あるいは休息中に俺を蹴飛ばそうとしてきたりする。
 その都度、弥太郎にしかられているのだが、他のことは素直に言うことを聞く馬も、この件に関してはなかなか弥太郎の言葉を聞こうとしなかった。その眼差しには『ご主人さまから離れろ、こんにゃろう』みたいな敵意というか戦意というか、そんな感じのものがありありと感じられた。
 うむ、実に主人想いの良馬である。


 無論というべきか、たかが数日の道中、多少コツを聞いたくらいで乗馬に習熟できる筈はない。しかし、今後のことを考えれば、弥太郎の馬への接し方をつぶさに観察できたのは、結構大きいだろうと思う。
 春日山に戻ったら、何とか乗馬を覚えようと俺は決意する。
 ――もっとも、しばらくは春日山で留守番させられている政景様の怨念に付き合わねばなるまいが。


 そのことを考えると、この際、ついでに武芸についても習っておこうと思い立った。
 だが、これは弥太郎に言下に拒絶されてしまう。
「必要ありません」
 真顔で断言された。なにゆえ。
「天城様が自分で刀や槍を振るう必要はないです。私がいる限り、天城様には指一本触れさせませんからッ」
「い、いや、しかし自分の身くらいは守れるようになりたいんだが……」
「私では、お役目を果たせないとお思いなんですか……?」 
 いや、そこで潤んだ眼差しは反則だろう、弥太郎。見上げられるのではなく、見下ろされるというのがまた困る。
 大きい身体をしゅんと縮こまらせている弥太郎に、俺はやや大げさに声を高めて言葉を発した。
「そ、そんなことはないッ。うん、弥太郎がいれば万事、安心だ。俺は采配のことだけ考えていれば良いわけだなッ」
 すると、弥太郎はぱあっと花が咲くような笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「は、はい、そのとおりです、天城様ッ」
「うむ、任せたぞ、小島弥太郎貞興!」
「御意ッ!」



 たまたま近くで休んでいた兼続が呆れたように口を開いた。
「……何を真顔で恥ずかしい話をしているのだ、お前たちは」
「――言わないでください」
 遠くに視線を向ける俺。
 何がはずかしいのだろう、と首を傾げる弥太郎。
 急を要する行軍の筈なのに、どこか緊張感がない上杉軍であった。 
 だが、それは一時のこと。
 信濃との国境が近づくにつれ、皆の顔は厳しく引き締まり、無駄口を叩く者はいなくなる。
 すでに国境周辺の領主らも合流し、上杉軍の兵力は千をはるかに越え、じきに二千に達するであろう勢いであった。


 やがて、その上杉軍の下に急報が届けられた。
 信越国境に、真紅の騎馬軍団が姿を現したことを、報告は告げた。
 数はこちらと同じ二千。掲げる軍旗は『四つ割菱』と『孫子四如』。
 甲斐の武田晴信の軍勢に間違いないと思われた。





◆◆





 俺は思わず息をのんでいた。
 二千もの人間が集っているとは信じられないほどの静粛さ。
 その掲げる軍旗の如く、静林を体現するは、燃え上がるように赤一色に染め上げられた甲斐武田家の軍勢である。
 時折あがる馬の嘶きをのぞけば、武田軍からはしわぶきの音一つ聞こえてこない。
 にも関わらず、その軍勢からは底知れない威圧感が感じられてならなかった。
 陳腐な例えだが、それは正しく嵐の前の静けさ。今は、静かに佇んでいるだけの武田軍は、しかし、一度、将の号令が下るや、堰を破った激流さながらの勢いで敵軍を蹴散らし、飲み干し、押し流してしまうのだろう。
 相対する敵軍が、そう確信してしまうほどに今の武田軍の鋭気は研ぎ澄まされていた――ただ向かい合う、それだけのことでさえ容易ではないと感じてしまうほどに。


 されど、敵がかの甲斐武田家の軍勢ならば、こちらは越後上杉家の精鋭である。
 そして、それを率いる将は長尾景虎。越後方の将も、そして兵も、眼前に武田の最精鋭を前にして、怯む様子など微塵も見せぬ。
 掲げる『上杉笹』と『毘』の旗は、新生越後国の初陣を祝福するかのように誇らしく風に翻っている。
 それを見て、俺はいつのまにか敵軍に呑まれかけていた自分に気づき、両の頬を叩いて気合を入れた。
 俺はあの上杉謙信と戦ったのである。武田信玄と向き合ったところで、恐れる必要はないではないか。そう自分に言い聞かせながら。



 互いの顔を見て取れるほどの距離に近づいた時、武田上杉両軍の指揮官は手を挙げて全軍を停止させた。
 そして、互いに陣頭に馬を進める。
 景虎様の姿の向こうに、武田晴信と思われる人物が現れ、俺の視界にもその姿が映った。


 腰まで伸びた髪が、初夏の日の光を浴びて鮮やかに照り映える。
 女性であることは噂で聞き知っていたが、思った以上に若い。むしろ幼いとさえ思えた。俺の感覚で言えば中学生か、下手をすると小学生にさえ見えてしまう。
 だが、外見ほどこの人物の真価を知る上で不要な要素はないだろう。
 その内心の奥深さを示すように、少女の顔にはいかなる表情も浮かんでいなかったが、それは決して無表情であることを意味しない。
 俺は初めて知る。
 世の中には、ただその眼光だけで他者を圧することが出来る者がいるのだと。
 表情をつくらぬことで、相手に畏怖の思いを呼び起こすことが出来る者がいるのだと。


 自然、心身が震えた。景虎様の清冽さを目の当たりにした時と同じように。
 武田晴信――景虎様と同様に、歴史に不滅の名を刻み込むことになる虎将の姿が、そこにあった。




 
「――『上杉笹』に『毘』の旗印、貴女が長尾景虎ですか。聞けば越後一国の内紛を治めたそうですね。ひとまず祝辞を述べておくとしましょうか」
 晴信の口から明瞭な声が流れ出る。
 澄んだ乙女の声は、しかし内心の深遠をあらわすかのように奇妙な奥深さがあった。
 おもわず背筋を震わせた俺の耳に、応える景虎様の声が響く。
「いかにも、私が長尾景虎です。その威風、貴殿こそ甲州武田家の総帥たる武田晴信殿とお見受けいたしますが、相違ありませんか」
「ええ、私が武田晴信です」
 そう応えると、晴信は、さて、と口を開く。
「挨拶は互いにこの程度で良いでしょう。わざわざ我が国境に物々しき武者たちを引き連れて現れた理由、聞かせてもらいましょうか」


 あでやかに言い放った晴信の言葉に、景虎様が柳眉を逆立てる。
「我が国、と仰られたか。武田家は甲斐守護職であって、信濃が御身の領土となったとは初耳です。信濃の国人衆を次々と力で放逐したゆえに、信濃は我が領土であると仰るのであれば、理非を弁えぬも甚だしいでしょう。栄誉ある甲斐源氏棟梁の言葉とも思えませぬ」
「長尾家は守護にあらず、守護代に過ぎません。その娘ごときが、守護の何たるかを私に説くとは笑止ですね。私に物を説くのであれば、せめて同格の身になってから口を開いてほしいものです」
 景虎様の語気を容易く受け流した形の晴信であったが、景虎様はなおも言葉をとめない。
「守護であれ守護代であれ、あるいは庶民であれ、世に人として守るべき道理があることに違いはありますまい。甲斐源氏を統べる御身には、天下に平和と繁栄をもたらす責務がおありの筈。その御身が、力もて奪うことを正当化してしまえば、世は乱れ、人は禽獣とかわりなき存在となりはてましょう。貴君は、かかる末世をお望みであられるのかッ」


 景虎様の激しい言葉は、奔流となって晴信へと向かう。
 並の人物であれば、言葉を失って立ち尽くすほどの迫力であったが、さすがに晴信は凡人ではなかった。あっさりと、こう言い返したのである。
「これは異なことを聞くものです。力もて奪うことを正当化せぬ貴女は、どのようにして越後の兵乱を治めたというのです?」
「――兵は不詳の器なり、故に有道の者は処らず、やむを得ずして之を用うれば、恬淡を上と為す、勝ちて美とせず――越後の兵乱を鎮めるために兵を用いたことは否定しませぬ。ですが、私は貴君のように我欲に従って他者の地を奪ったわけではない」


 景虎様の言葉に、晴信の顔はかすかに顔をしかめた。
「ふん、道家の文言で己が正義を飾り立てるのですか。私が信濃で行ったように兵を殺し、将を討ち、他者の地と位を奪いながら、自ら退いてみせれば全ての罪が浄化されるとでも? 貴女は勝ちに伴う利を捨てたと、みずからの無私を誇っているようですが、勝者には利だけでなく責務も生じることを知らないのですか」
 責務、という言葉は先の景虎様の糾弾にかけたのだろう。晴信は語気強く続けた。
「付き従った配下、打ち倒した敵将、そして戦で苦しんだ自国と他国の民――勝者にはそれら全てに報いる責務があります。利と共にその責務すら放り捨て、他者に労を強いているのが今の貴女です。自らを無私の者と任ずるのは結構ですが、私はそのように無責任な輩と語るべき言葉は持ちあわせていません。他人に責務を問う前に、己が身を振り返って見るがよいッ」


 徐々に。
 それまで変化を見せなかった晴信の口調が檄しつつあった。
 景虎様はめずらしくはじめから感情を昂ぶらせていたのだが、あるいは晴信も同様であったのかもしれない。景虎様との違いは、それを押し隠すか、面に現すかの違いでしかなかったのだろう。


 さらにいくつかの言葉の応酬が続くうちに、いつか二人の言葉から地位職責に関わる装飾が剥がれ落ち、ただ武田晴信として、長尾景虎として、互いに向けて言葉を突きつけるようになっていた。
「それだけの見識を持ちながら、何故いたずらに世を乱す真似をする。その野心こそが戦国の世を招いた淵源なのだと何故気づかないッ?!」
「私は貴女と違い、自らの分を知るというだけのことです。この身は高野の聖にあらず、理想と念仏を唱えて国が富むのならばそうしましょう。けれど、この戦国の闇はそんなものでは拓けはしないッ」


 晴信の身体が、膨れ上がるように大きくなった。思わず俺がそう錯覚してしまったほどに、今の晴信からは圧倒的なまでの覇気が感じられた。
「甲斐源氏の棟梁として、私は私のやり方で民を守り、家を守り、天下を守る! 実利なき天道と、自身の正義に酔いしれる愚か者ごときが、よくも臆面もなく私の前で源氏の名を持ち出せたものです」
 そういうや、晴信は唐突に馬首をかえした。
 そして、首だけを景虎様に向けて言い放つ。
「これ以上の問答は無益でしょう。私を承伏させたければ、戦で従わせるのですね。貴女の言う不詳の器とやらを行使すれば良いだけのことです――簡単なものでしょう、軍神殿?」


 揶揄とも、問いかけとも知れない晴信の言葉に、景虎様は勁烈な眼差しを向けることで応えた。
 一瞬、両者の視線がぶつかりあい、中空で飛び散る火花が見えたように思えたのは、俺の気のせいであったかもしれない。


 だが。
「全軍、退きます」
「全軍、退くぞ」
 同時に命令を下し、互いに馬首を返した両雄の声に、底知れない威圧と苛立ちを感じたのは、決して気のせいではなかった。





 ――これが、後に終生の好敵手として知られることになる長尾景虎と、武田晴信の初めての邂逅となる。
 その場に立ち会えた者にとっては、歴史の一舞台を目の当たりに出来たという意味で幸運なことといえたかもしれない。少なくとも、後世の歴史家でそれをうらやまぬ者はないだろう。
 しかしながら、俺はもちろんのこと、定満や兼続でさえも、自らの幸運に感謝するよりも先に、両雄の鬼気迫るやり取りの余波を浴びたせいで、矛を交える前から心身に疲労を覚え、立っていることさえ容易ではない有様だった。
 だが、武田軍相手に隙を見せることなどできる筈もない。景虎様率いる上杉勢は、疲労を訴える心身を叱咤しながら、整然と退却を開始する。
 春日山から発した上杉軍に比べ、武田軍は旭山城からこの場所までさしたる距離はない。武田晴信が何の策も用意していないとは考えられなかったからである。くわえて、眼前に見えた二千の軍勢が、武田軍の全てである筈もない。
 信濃を制覇した武田軍が、将兵の疲労を無視して越後に踏み入るような真似をするとは思えなかったが、それでも隙を見せれば敵の牙はこちらの咽喉に届くだろう。武田軍が、それほどの相手であるということは、この短い時間ではっきりと越後の将兵すべての心に刻み込まれていた。




◆◆




 一方。
「ほう、見事な退き際よな」
 山県昌景は、退却していく上杉軍の陣列を遠くに見ながら、感心したように頷いた。
「うむ、内藤殿には隙あらば敵の後背を扼すように伝えておいたのだが……これでは難しいか」
 山本勘助も昌景と同意見であるというように低く呟いた。
 実のところ、武田軍はこの時兵力の多くを旭山城に残しており、国境まで出ていた兵力はこの場の二千と、山裾に待機させている内藤昌秀の騎馬隊五百のみであった。
 武田軍が北信濃攻略に動員した兵は一万を越えるが、村上義清らの激しい抵抗もあって、将兵の疲労はかなり激しい。そしてそれは、この場にいる軍勢も含めての話であった。
 疲労した将兵を大勢連れてきては、いざ戦となった時、思わぬ不覚をとりかねない。そう考えた武田軍は精鋭のみを率いてこの場まで出てきたのである。



 陣に戻った晴信はどこか不機嫌そうに軍配を手の中で弄んでいる。
 晴信がここまで感情をあらわにするのは滅多にないことである。虎綱などはおろおろとしていたが、若いながらに尋常ならざる自制力を持つ晴信は、いつまでも自分の感情に拘泥することはなかった。
 やがて晴信の口から、いつもの恬淡とした声が発される。
「あわよくば越後まで。そう考えていましたが、やはり越後上杉家、一筋縄ではいきませんね。今の段階でまともに矛を交えれば、こちらの苦戦は免れないでしょう」
 勘助が頷いて賛意をあらわした。
「然り。ここは欲を出さず、甲斐に戻り兵を休息させるべきかと。兵たちからも、帰国を望む声が出始めておりまする」
「わかりました。越後も内乱を終えたばかり、しばらくは大兵を催す余裕はないでしょう。ここは退きます」


 主君の言葉を聞き、昌景は視線を僚将に向けた。
 幸村や信春が一戦を望んで声を挙げるかもしれぬと考えたのだが、二人ともにめずらしく押し黙ったままである。その顔色の悪さは、先の晴信と景虎のやり取りの気に充てられたためか。
 それでも、二人の年齢を考えれば、声を漏らさなかっただけ見事といえる。昌景はそう思う。
 昌景や勘助にしたところで、何の影響も受けていないわけではない。先の両雄の対峙は、周囲にそれだけの威圧感を与えていたのである。武田の誇る六将であっても、その影響を免れることは出来なかった。


(御館様に匹敵するほどの覇気、か。まさか先代のほかにそのような者がいようとはな)
 あの敵将の姿から、ふと、そんな考えが思い浮かんだ。
 もっとも、景虎のそれと、武田家の先代信虎のそれとは全く意を異にする。
 景虎と晴信は、全く違うように見えて、その底に似通ったものを感じさせるが、信虎は全くの対極であった。
 かつての主君の姿を思い浮かべた昌景は、しかし、すぐに頭を振ってその姿を脳裏から追い払う。
 先代のことを考えれば、必然的に躑躅ヶ崎の乱のことが思い出されてしまう。
 山の将、山県昌景であっても、あの大乱を思い出すのは気が萎えることであったからだ。


 そんな昌景の耳に、晴信の声が届く。
「昌秀にも退却の使者を出してください。旭山城の守備は、虎綱、あなたに任せます」
「ぎょ、御意にございます」
「葛尾城は昌秀に。あなたたち二人であれば、北信濃を治めることも容易いでしょう。村上らの残党と越後の動向に注意を怠らぬように」
「承知いたしましたッ、か、必ず、ご期待に沿ってみせます」
「期待していますよ。では、他の者は手勢を率いて甲斐に戻る準備を」
 晴信の言葉に、武田の諸将は一斉に頭を垂れる。


 かくて、武田家と上杉家のはじめての対峙は、一雫の血も流されることなく終わる。
 だが、それが今後の平穏を約束するものではないことは、武田、上杉を問わず、全ての者が承知するところであった。 





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/30 13:48



 信越国境における武田軍との対峙が無血で終わって数日。
 国境の危険が完全に去ったことを確認した上で、景虎様率いる上杉軍は春日山城への帰途についた。無論、この地の領主たちには厳重な警戒と防備を命じた上でのことである。
 景虎様と武田晴信との舌戦が物別れで終わった以上、いずれ両軍は必ずぶつかる。問題はその時期だが、越後は内乱で、甲斐は信濃制圧で、すでに万を越える動員を行った後であることを考えれば、早期に両軍が衝突する可能性は少ないだろう。大規模な動員のためには農繁期を避ける必要もある。
 それらのことを考え合わせると、次の戦はおそらく晩秋、収穫が終わった後のこととなるであろう。


 春日山城に戻った景虎様は、甲冑を脱ぐ間も惜しんで定実様の下に赴き、国境での報告を行った。
 ――武田との戦、不可避なり。
 その報告を聞いた定実様の顔は強張り、留守居役を押し付けられて不機嫌そうな顔をしていた政景様も表情を改めた。
 越後上杉家にとって、容易ならぬ敵が出現したことを悟ったのである。



 政景様が腕を組みながら、口を開いた。
「景虎がそう言うのなら、武田の野心、疑う必要はないか。ならばこちらも、心置きなく義清殿に合力できるというもの。いや、武田の国力を考えれば、私たちが義清殿に助力するというより、正式に対武田の盟約を結ぶべきかしら」
 上杉家が越後一国を鎮めたばかりであるのに対し、武田家は代々守護職として甲斐を統治し、そして今は信濃のほぼ全土を手中に収めている。単純に国力を比較すれば、おそらく向こうに軍配があがるだろう。
 その武田家に対抗するためには、味方は一人でも多い方が良い。その為には、上杉家が村上家の上に立って助力してやる、という関係ではなく、対等の相手として盟約を結んだ方が良い、と政景は言ったのである。


 極端な話、義清が上杉家を恃むに足りずと考えれば、武田に降って、その下で村上家を再興するという選択肢もあるのである――無論、これは義清の為人(ひととなり)や、武田がそれを受け容れる可能性というものを完全に無視した仮定の話であるが、それでも互いの立場に上下を設けるよりは対等の相手として手を結ぶという案は賛同に足るものであった。
 もっとも、この案に誰より早く反対の意思表示をしたのは、当の義清であった。政景の言葉に首を横に振って、義清は口を開く。
「……私は武田に敗れ、貴家の情けにすがって、この城で起居する身。合力していただけるだけでも感謝しています。この上、上杉家と対等の立場に立って盟約を結びたいなどと考えれば、神仏も私の傲慢をお許しにならないでしょう」
 静かに、しかし確かな意思の強さを感じさせる声で、義清は淡々と言葉をつむいでいく。
「武田の精強は誰よりも知っています。信濃の所領を回復することが、どれだけの難事かも。ゆえに、今は貴家の手足となって働き、その難事に挑むことこそ私のただ一つの望みです」


 義清の申し出は、とても武田の侵攻に抗った人物とは思えない謙譲に満ちていた。それだけ村上義清という人物は、淳良なものを内に秘めているのだろう。
 当然のように、この場にいる諸将は皆、義清に好感を持った。
 そして、そんな越後側の好意は義清にも感じ取れたのだろう。春日山城に来て以来、ずっと張り詰めた表情をしていた義清の顔がかすかにほころんだ。
 越後側と義清との距離が少しだけ、だが確実に縮まる。
 時をかければ、この距離をさらに縮めることも可能だろう。その後の軍議が一層活発になったのは言うまでもないことであった。

 

 その後も軍議は続く。
 武田との衝突の時期については、晩秋と全員の予測が一致したが、武田家が裏をかいてくる可能性は低くない。なにせ相手はあの武田晴信なのである。警戒しすぎるということはないだろう。
 とはいえ、外の大敵ばかりに気を取られているわけにはいかない事情もある。
 上杉家は越後の内乱を鎮めたばかり。表立った反抗は今のところまだないが、それでも人心が一つにまとまっているとは言いがたい状況である。
 武田の侵攻が秋以降になるのであれば、それまでに国内体制を磐石なものにしておきたい。さもなければ武田家の――いや、晴信の鋭利な策謀の刃が、いつこちらの背に突き立てられるか知れたものではなかった。
 この場合、人心の安定とは要するに新しい越後の統治体制が揺ぎ無いことを民衆や国人衆に証明することである。定実様、政景様、景虎様の御三方が、心底から力を合わせていることを知れば、国内でそれに刃向かう力と気概を有する者などいる筈がないのである。
 


 無論、その間、武田側の動きを放置しておくわけにはいかない。
 また、対武田の戦略を練る必要もある。
 景虎様、政景様が国内に専念する以上、武田家に対抗出来るのは定満をおいて他になし。
 これこそ順当というべき人事であった――筈なのだが。
 越後一の智者は、俺がそれを口にする前に、のんびりとこう言い放ってくれやがったのである。


「じゃあ、武田との戦は颯馬に任せるね」と。



「……はい? あの、宇佐美殿、今なんと?」
「じゃあ、武田との戦は颯馬に任せるね」
 律儀にもう一度同じことを、同じ口調で繰り返してくれた定満。
 どうやら聞き間違いではなかったようだが、俺は首を傾げざるをえない。
「宇佐美殿、あの、冗談、ですよね?」
「至極真面目」
「はあ、そうですか――って、なんで俺ッ?! あ、いや、私がそんな大役をッ?!」
 思わず声が上ずってしまった。いかになんでも荷が勝ちすぎるだろう?!
 慌てふためく俺を見て、しかし、定満はこともなげに口を開く。
「……何事も経験だよ、颯馬」
「あ、いや、他のことならともかく、武田相手に俺が戦略を練るというのは……」
 越後の国運を賭けた武田との戦いの絵図を描く。その役を任されるということは、将としてこれ以上ない名誉であると言えたが、しかし、さすがにはいわかりましたとはいえなかった。武田晴信を間近で見た後であれば、なおのことだ。
 しかし、見る限り定満は本人が言うとおり真面目そのものである。
 俺は咄嗟に反対をしてくれるであろう兼続に視線を向けたが、なんとも微妙な表情の兼続についっと視線をそらされてしまった。その顔は、困惑する俺を楽しんでいるようにも見えたし、あるいは不満を無理やり押さえ込んで不機嫌になっているようにも見えた。
 何なんだ、この状況、と思いながらも、俺はなおも抗弁しようとする。
 ここは定満よりも、上位者である景虎様に反対してもらう方が良いと考えた俺は、視界に景虎様の表情をとらえ、その涼やかで濁りのない眼差しが自分に向けられていることに気づき、咽喉まで出掛かっていた反駁の言葉をのみこんでしまった。
 ――そこにあったのは、あまりにも明瞭な信頼の眼差しであったからである。




 ――今際の際に、晴景様から託された言葉が胸奥に甦る。
 そう。俺は越後の聖将の傍らにあらねばならない。それが今は亡き主君との約定である。
 しかし、その資格は座して得られるものではない。
 俺はそのことをわかっているつもりだった。
 だが、つもりではいけないのだ。
 そも、武田家と戦うことを拒絶して、どうして景虎様の助けになれようか。
 他の誰が知らずとも、俺だけは知っていたというのに、いざとなればこの様である。それなりにこの地で経験を積んできたつもりだったが、やはり、人格というのは一朝一夕に成長するものではないらしい。


 しかし、遅ればせながらではあっても、気づくことが出来たのは我ながら上出来である。まあ、ほとんど景虎様のお陰ではあるが、ともあれ、ここで俺がとるべき行動は一つしかない。
 正直、自信はないし、不安も尽きないが、それでもこの任から逃がれることは、今日まで積み上げてきたものを自ら捨て去ることに等しい。
(信頼には誠実で、だよな。親父にどやされるところだった)
 内心で、亡き父親の言葉を反芻しながら、俺は一同に向けて頭を下げる。
 定満の要請を受け容れることを表明するためであった。




◆◆




 武田家に勝つ。
 言葉にするのは簡単だが、実際にそれをなすのは至難の業であることは言うまでもない。
 晴信自身の力はもとより、その配下には勇将智将がずらりと並び、一朝一夕には抜くべくもない偉容を誇っているのである。
 山本勘助、山県昌景、真田幸村、内藤昌秀、馬場信春、春日虎綱と並べただけで、もう勘弁してもらいたい気分で一杯である。当然、その下にも小山田やら木曽やら聞き覚えのある名前が目白押しで、彼らが誠心誠意、武田という家に忠誠を尽くしているのだから、これを打ち破るのは容易なことではない。
 だが、そこを何とかするのが俺に課せられた役割である。武田に勝つことは簡単ではないが、武田に勝ちやすい戦況をつくることは不可能ではない。より正確に言えば、武田と互角以上に戦うことの出来る条件を整えること、まずそこから考えるべきであった。


 そのために、俺は武田に関する情報を義清から教えてもらった。武田の情報を知るに、義清以上の者はいない。
 だが、義清の口から武田家に関する情報や人名を聞いていくうちに、少なくない数の疑問が浮かんできてしまう。
 たとえば、この時期、飯富政景が山県姓を名乗っていること。真田家の当主が幸村であることなどである。
 昌景の兄である飯富虎昌や、幸村の祖父幸隆、父昌幸らはどこに言ったのか。その疑問の答えを聞き、俺は驚きを隠すことが出来なかった。



「躑躅ヶ崎の乱、か。やっぱり俺の知っている歴史とは違うんだな」
 夜半、春日山城の自室の襖を開け、縁側で月を見上げながら、俺は小さく呟いた。
 史実では、晴信は北信濃の村上家と激戦を重ね、戸石城攻めでは手痛い敗北を喫している。いわゆる『戸石崩れ』である。
 だが、この地ではその戦いはなかったらしい。義清は善戦敢闘したものの、ついに武田に対して勝利をおさめることは出来なかったと言っていた。
 その代わり、というべきか、武田家は先代信虎と晴信の代替わりに際し、多量の血を流す内乱を経験している。
 甲斐全土を巻き込んだその大乱を、人々は『躑躅ヶ崎の乱』と呼び習わしているそうだ。


 武田の誇る多くの将がこの戦いで散ったらしい。飯富虎昌や板垣信方、真田幸隆らもその中に含まれる。
 もっとも、それだけの内乱を経たにも関わらず、内乱終結後、間をおかずに攻め寄せてきた信濃勢を殲滅し、信濃進出を成し遂げた挙句、現在の精強の家臣団の原型を形成してのけた晴信こそ恐るべきといえた――この世界の晴信は、すでにして後年の信玄レベルの心身を備えているのかもしれない。


 そんな晴信と戦い、勝利しなければならないのだから、俺の責任は重大である。
 とりあえず、実際の戦場における陣立て等の戦術面は、武田を良く知る義清に全面的に委ねた。決して丸投げしたわけではないのであしからず。
 俺が考えたのは、戦場での進退ではなく、戦略的に武田家に対抗する方法である。
 具体的には、対武田の包囲網を築けないか、ということだった。
 

 甲斐、信濃の周囲の有力大名といえば相模の北条と駿河の今川、関東管領である上野の山内上杉氏、美濃の斉藤道三というところである。飛騨や三河は群小の勢力が争っている状況で、他国を攻めるような力はない。
 これらの勢力と結び、武田家を包囲すれば、いかに武田家が強大であっても勝利することは出来る。
 だが、それは難しいと言わざるを得ない。
 まず、躑躅ヶ崎の乱において晴信側に立った駿河の今川は、当然、それ以後武田家と友好関係を保っており、こちらの話に聞く耳を持つまい。
 この時代、まだ後年の三国同盟は結ばれておらず、相模の北条家に関しては、越後側に抱き込むことも不可能ではない。しかし、北条家の目はもっぱら関東に注がれている。その上、今川家と北条家は同盟を結んでおり、上洛を目論む今川家からは両家に対して積極的な働きかけがなされているらしい。
 となれば、遠く越後からの呼びかけに、北条氏康が応える可能性は極めて低いだろう。
 上野の山内上杉家に関しては、北条の執拗な攻勢に苦しめられており、他国を攻めるより先に自国を守らなければならない状況である。
 斉藤道三に関しては、特に武田家と険悪な間柄というわけではない。美濃と信濃は木曽山脈をはさんで地理的に隔絶されていることもあり、こちらが使者を出したところで色よい返事は期待できないだろう。


 つまるところ、武田家包囲網を築くことは至難の業ということである。
 たまたま四方の情勢が、武田家に対して有利に働いている――そう考えるのは無理があった。間違いなく、武田晴信は四囲の情勢を全て考慮した上で越後に刃を向けたのであろう。
 孫子の兵法は外交と情報に重きを置く。三国同盟が成立するのも、そう遠い先の話ではないと思われた。
 敵ながら見事なものと感心せざるをえなかったが、しかし感心してばかりはいられない。武田家包囲網を築くことが無理ならば、次に取り組むべきは、逆に武田側に越後包囲網を布かれないようにすることである。


 越後の周囲には越中、信濃、上野、出羽、陸奥などがあるのだが、武田家と違い、上杉家はそのいずれとも友好関係を築いていない。
 ことに先々代の為景時代、越中に攻め込んでこれを領土に組み込み、また関東管領の血筋に連なる越後守護を放逐したこともあって、この二国と越後はきわめて険悪な間柄となってしまっている。もっとも、上野に関しては、前述の理由で越後に手を出す余裕はないだろうが。
 出羽に関しても、最も有力な大名である最上家の当主が幼少であることもあって、国内がまとまりきれていないので越後に手を出すことはないと判断できる。
 だが、陸奥の蘆名氏は英明な当主盛氏を中心として良くまとまり、隙あらば越後を侵そうとしているらしい。陸奥との国境では頻繁に蘆名方の兵士の姿が見かけられるとのことだった。


 注意すべきは、越中と陸奥。武田が誘いの手を向ければ、おそらく両者は兵を動かす。
 そして、実はもう一つ注意すべき勢力がある。それは春日山の北、日本海を越えた先にある孤島、佐渡島を領地とする本間氏の存在であった。


 かつて、宇佐美定満によって越後を追い出された為景は、佐渡に逃れ、本間氏の協力のもとで勢力を回復させた。そのため、佐渡本間氏は、春日山長尾家の配下であるという意識が薄く、対等の同盟者であると考えている節がある。
 日本海という天然の防壁を有し、佐渡金山という金鉱脈を抱えた佐渡本間氏の力は、越後の国人衆の中でも際立って高い。くわえて、日本海を越えて上越、中越、下越のいずれにも兵を派遣することができるという点も、本間氏を警戒する理由の一つに挙げられるだろう。
 晴景様が城主であった頃、俺は一度として春日山城で本間氏の姿を見かけたことがない。何より、先の定実様の越後守護就任の儀に、佐渡本間氏は代人を遣わしただけだったことが、俺の中の疑念を確かなものとした。




「――しかし、こうやってみると、国内は固まっていないわ、四方は敵だらけだわ、散々な状況だな」
 越後の統一が遅れたというよりは、武田の侵攻が早すぎたせいであろうが、それにしても難儀なことに変わりはない。
 政景様の言葉ではないが、越後の内乱が終わった後で本当に良かった。もし晴景様在世中に武田が北信濃への侵攻を開始していたら、下手すると、前に景虎様、後ろに晴信とかいう洒落にならない状況になっていた可能性さえあるのだから。


 ともあれ、はっきりしたことが一つだけある。
 武田家と戦うためには、今の越後は隙だらけだということ。
 晴信はその隙を見逃すような愚将ではなく、必ず外交で越後を包囲してくるだろう。
 それを防ぐためには、どう動くべきか。



 ――俺がそのことを考えようとした時、不意に、聞きなれない音色が耳に飛び込んできた。
  
  
 

◆◆




 耳に馴染みのない音色は、しかしどこか心の琴線に触れるものだった。
 しばし、俺は考えることを止め、ただ聞こえてくる音曲に耳を澄ませる。
 時に高く、時に低く、よどみなく流れる音色。
 平成の世で、絶えず街中で流れているような騒がしさは少しも無く、人の心に染み入るように穏やかで優しい曲調。
 そよ風に頬をなぜられているような、そんな心地よさと同時に、どうしてか寂しさを――郷愁を誘われる音の連なりに、知らず、俺は聞きほれていた。


 これまで、城内で歌舞音曲の類を耳にしたことは幾度もあるが、こんな澄んだ音色は初めて聞いたように思う。さぞ名のある奏者なのだろう。俺たちが国境に出ていた間に、定実様か政景様が召抱えたのかもしれない。
 どんな人物なのか気になった俺は縁側から立ち上がる。
 演奏の邪魔をしないようにこっそりと音が聞こえてくる方向に足を向けた俺は、やがて俺と同じように縁側で、無心に琵琶を奏でる人物の姿を見つけ出す。


 だが、その人物は、俺が初めて見る人ではなかった。
 俺の気配に気づいたのか、音が途絶え、奏者がこちらを見やって口を開いた。
「どうしたのだ、天城殿?」
 不思議そうに問いかけてくる人物は、誰あろう景虎様その人であった。 






 景虎様に促され、並んで縁側に座った俺は、景虎様が抱える古びた琵琶に目を向けた。
 古びた、というのは俺の主観であり、おそらくは名のある名器なのだろう。
 そんな俺の内心を読んだように、景虎様が言葉を発した。
「朝嵐という。これを奏でていると、心気が静まるのでな――む、もしや眠りを妨げてしまったか? だとしたら済まない」
「いえ、考えに詰まっていた時でしたから、良い音色を聞かせていただけて、かえってありがたいくらいです。まさか景虎様が弾かれているとは思いませんでしたが」
 俺がそういうと、景虎様はくすりと微笑むと琵琶をかきならしてみせる。
 すると、その音に誘われるように、暖かな夜風が吹き付けてきた。薫風。春日山の緑の息吹を豊潤に含んだ風が、俺と景虎様の髪をそよがせる。
 互いに無言でありながら、決して気詰まりではない空間に浸っていると、不意に景虎様が口を開いた。


「武田、晴信」
 景虎様の口からその名がこぼれでた時、俺は驚きを覚えなかった。なんとなく、景虎様がその名を口にするような気がしていたのかもしれない。
 景虎様は言った。朝嵐を奏でると、心気が静まる、と。
 常に自分を見失わず、何事にも平常心をもって臨まれる景虎様が、心を昂ぶらせる相手は限られていた。


「率直に聞きたい。天城殿は彼の者をどう見た?」
 景虎様の問いを受け、俺は考えをまとめながら、ゆっくりと口を開いた。
「一言で言えば、大器、でしょうか。とても俺より若いとは思えませんでした」
 義清に聞いた話では、晴信は俺よりもずっと若い。政景様のように、外見だけ幼いというわけではなく、あの見た目は年相応のものだった。
 逆に言えば、あの年で、あれだけの覇気と知識と口舌の刃を持っているということになる。どれだけの才能を持ち、研鑽を積めば、それが可能になるのだろう。俺には想像もつかなかった。


「……大器、か」
 俺の言葉を聞いた景虎様が、その意味を吟味するように口の中で呟く。
「はい。乱世を終わらせる確かな覚悟と、そこに到る道筋が、おそらく晴信殿には見えているのでしょう。迷いのないあの口ぶりから、そう感じました――残念です」
「む、残念とは?」
 訝しげに問う景虎様に、俺は内心の思いを率直に吐露した。
「乱世を終わらせるという覚悟は、景虎様も晴信殿も寸毫も変わりありません。しかし、そこに到るための道が、お二人の間ではあまりに違う。景虎様の天道、晴信殿の覇道、お二人の道は天下を統べるその時まで交わることはないでしょう。それが残念に思えるのです」
 もし越後と甲斐が手を携えることが出来たならば、おそらく戦国の終結は十年、いや二十年は早まるに違いない。だが、それが現実になる可能性は、おそらくないだろう。
 戦国の偉人である二人の人物を目の当たりにした今の俺には、そのことがとても残念に思えたのである。


 そんな俺の内心を、景虎様は察したのだろう。どこか困ったような顔で、俺の顔を見つめた。
 やがて、ゆっくりとその唇が開かれる。
「確かに、晴信殿の言わんとすることはわからないではない。策謀と欲望が横行するこの乱れた世の中にあって、私の望む天道がどれだけ儚いものかもわかっているつもりだ」
 しかし、と景虎様は続けた。
「私にはこの道しか選べない。この大義を欠いて、拠るべきものを私は持っていないのだ……」
 

 景虎様の述懐は、めずらしく語尾に力が入っていなかった。あるいは晴信の論難に、景虎様なりに思うところがあったのかもしれない。
 それに対し、俺が言えることなど一つしかない。
「はい、景虎様はそれで良いのだと、私は思います」
 その言葉に、景虎様が目をまんまるにする。俺の言葉がよほど意外だったのだろうか?
 めずらしく表情をはっきりとあらわした景虎様の顔は、年相応の女性のものであった。その景虎様に向かって、俺はなおも口を開く。
「天道と言い、覇道と呼ぶ。どちらが正しいかなんてわかりませんが、どちらを選ぶかと問われれば、私は景虎様の掲げる天道を選びます。その先に、戦乱の終結があるのだと信じます。それは多分、私に限った話ではなく、直江殿や宇佐美殿、それに他のたくさんの人たちも同様でしょう」
 奇麗事とか、偽善とか、口さがない者たちは言うだろうが、言わせておけば良い。
 いみじくも景虎様自身が言われたように、景虎様の考えは万人に支持されるものではない。むしろほとんどの者に受け容れられないと考えた方が良いだろう。
 それでも――
「千里の道も一歩から。千年生きる将軍杉にも、苗木の時はあったのです。大切なのは、景虎様が胸を張って歩き続けていくことなのだと思いますよ」
 景虎様の覚悟も、積み重ねてきた研鑽も、いずれ必ず報われる時が来る。歴史を知るからこその言葉であったが、たとえその知識がなかったとしても、俺は同じことを言っただろう。
 我ながら偉そうなことを、と思わないでもないが、それが偽りのない俺の真情であった。
「――風雪に耐え、越後の、いや、天下の民が仰ぎ見るほどの大樹になるか否か、すべてはこれからと、そういうことなのだな」
 俺の言葉を聞き、景虎様は呟くように言った。






 しばしの間、沈黙があたりを包み込む。
 やがて、景虎様が俺に問う眼差しを俺に向け、口を開いた。
「天城殿はどのような拠りどころをもってこの乱世に立ち向かっているのか、聞かせてもらって良いか?」
「拠りどころ、ですか……うーん」
「む、すまない、いささかぶしつけであったか」
「いえ、別にそんなことはないのですが、ただ、あまり胸を張れる理由ではないんで……」
 そう言ってから、俺は景虎様の問いに対する答えを胸の中で整理する。
 乱世に立ち向かう理由と景虎様は言ったが、正直、そこまで確たるものは俺にはない。なにしろ望んでこの地に来たわけではないのだから。
 しかし、ただ状況に流されてここにいるわけでもない。そのあたりを言葉にするのは気恥ずかしいのだが、今も俺を見つめる景虎様の眼差しに抵抗できず、俺はゆっくりと口を開いた。


「――命の恩には命をもって報い、信頼には誠実をもって応える」
 俺の言葉に、景虎様が小さく頷く。
「良い言葉だ……それは、何かの教えなのか?」
「教えと申しますか、幼い頃、口をすっぱくした父に叩き込まれた言葉です。今の私の拠りどころは、この言葉なんです」
 視線を夜空に向け、星月の明かりに目を細めながら、俺は言葉を続けた。
「私は望んで越後に来たわけではありません。晴景様に仕えていた理由は、ひとえに命を救っていただいた恩に報いるためでした。春日山にいれば、とりあえず衣食住の心配はしないで済むという打算はありましたが、乱世を終わらせたいという強い想いを持っていたわけではないのです」
 天道を駆ける景虎様に比すれば、我ながら小さいものだとため息が出そうになる。
 だが、景虎様は特に表情をかえることなく、俺の言葉に耳を傾けてくれていた。


 以前晴景様につけられた額の傷にそっと手をあてながら、俺は話を続ける。
「晴景様の信と、弥太郎や多くの兵士たちの奮戦のお陰で、私は春日山の将として名を知られるようになりました。でも、正直、天下のことなど見てはいなかったのですよ。ただ、晴景様と春日山の皆が平和に過ごせれば良いと、俺が考えていたのはその程度のことです」
 だが、そうこうするうちに事態は最悪の方向へ――晴景様と景虎様の対決へと移ってしまった。
 結果、俺は越後の半分を指揮し、景虎様と矛を交え、そして。



『私が譲ってやれるのは、私が持つ中でたった一つ、妹に優るもの。それしかあるまい』
『颯馬の力は、そなたの望みを果たすための強き力となり、颯馬の心は、暗夜を示す灯火となりて、そなたの天道を照らすであろう。これが、そなたのために何一つしてやらなんだ姉の、最後の芳心じゃ』



 転機というものがあったのだとすれば、その一つは晴景様の最後の言葉を聞いたあの時だろう。
 晴景様に誘われ、景虎様と手を握り合い、そして俺の主君が長尾景虎となったあの時。
「――私は晴景様が誇る将であり続けなければなりません。そして、景虎様を支えるだけの器を持たなければならない」
 だが、晴景様に対する想いだけで景虎様に仕えているわけではない。
 無論、敗軍の将たる身を無条件で受け容れ、厚遇してくれる景虎様には報いきれない恩があるが、それだけでもない。
 俺はそのことを口にし、さらにこう言った。
「恩や信義を別にして、私自身、景虎様の力になりたいと、そう考えているのです。この身に降り積もる名声を虚名と知ればこそ、それを真のものにすべく努力し、およばずながら、その天道を駆ける一助となりたい、と」


 晴景様の恩に報いる。景虎様の信義に応える。それらは俺にとって当然のことだ。それがこれまで春日山にとどまっていた俺の拠りどころでもあった。
 だが、今の俺にはそれ以外の気持ちもある。
 長尾景虎という人の力になりたい、という気持ち。恩や信義を抜きにして、ただこの人の力になりたいという願い。
 元々、その気持ちは俺の中でたゆたっていた。しかし、はっきりと自覚したのは武田家と対峙した後のことだ。


 俺はこれまで、ある意味で晴景様の遺言にすがって春日山にいた。
 長尾景虎……上杉謙信。歴史に不滅の名を刻むような人物に、俺などの力が必要とも思えなかったからだ。晴景様に言われたから――そう言えば、俺が景虎様の傍にいる理由になったのである。
 だが、武田晴信と対峙し、言葉と心を昂ぶらせ、琵琶を奏でる景虎様を見て、俺はようやく気づいた。俺の前にいる景虎様が、俺の知る上杉謙信という英雄ではないことを。いずれはそこに辿りつくにしても、今はまだその道の途上にいる人なのだということを。
 多分、これがもう一つの転機。
 もちろん、今のままでも景虎様は凡人の遠く及ばない場所を駆け続けているわけだが、それでも、努力と研鑽次第で、俺が景虎様の力になることも可能だろう。


 歴史上の人物だからといって、なんでもかんでも出来る超人ではない。そんな当たり前のことに、ようやく俺は気づくことが出来たのである。





 ――俺の言葉を聞いた景虎様は、何やらびっくりしたようにこちらを見つめるばかり。
  我ながらこっぱずかしいことを言った自覚はあったので、俺はその視線を見返すことも出来ず、そっぽを向くしかなかった。多分、顔中、真っ赤になっていることだろう。ああ、恥ずかしい。
 だが、それでも言葉を改めようとは思わない自分が、少し嬉しかったりもした。


「……天城殿」
「は、はい」
「これを」
 そう言って、景虎様が懐から取り出したのは扇(おうぎ)だった。
 突然、扇を差し出され、俺は思わず恥ずかしさも忘れて、扇と景虎様の顔を見比べてしまった。
「あの、これは?」
「そなたの芳心への、感謝の気持ち、だな」
 この時代、扇は風をあおぐという役割のほかに、儀礼や贈答用の道具としても用いられていた。またいつも持ち歩く物であることから、それを他者に与えるということは、それだけの信頼を意味すると考えられ、扇の贈答は武士の間では格別な意味を持つ。
 そのことを思い出した俺は、口にしかけた謝絶の言葉を寸前で押しとどめた。
 主君からの贈り物をつきかえすなど非礼きわまりない。兼続あたりに知られたら、脳天を叩き割られかねん。もっとも、景虎様の扇をいただいたと知られれば、それはそれでまずいような気もするのだが、それは考えないようにしよう。 


「あ、ありがとうございます。謹んで――って、おぅわッ?!」
 畏まって扇を受け取ろうとした途端、俺の口から悲鳴じみた声がもれた。
 手に感じた重さが予想外だったのである。
 思わず床に落としてしまいそうになったが、何とかその寸前に掴み取ることに成功する。
 しかし、両手で持ってなお、ずしりと重みを感じさせるとか、一体この扇、何なんだろうか。
 その俺の疑問に、景虎様はやや慌てたように答えた。
「す、すまぬ。それは鉄扇なのだ。かなりの重さゆえ、扱いには気をつけてくれ」
「あ、なるほど、そうだったんですか」
 俺は納得して頷いた。
 鉄扇――文字通り、鉄で出来た扇である。場所をとらず、持ち運びも容易なことから、護身具として用いられることもあるという。
 鉄扇なら、この重さも頷ける。
 とはいえ、それでも重い。しばらく持っていたら、手がしびれてきてしまいそうだった。


 扇を開いてみると、その中央に長尾家の九曜巴が刻まれている。
 家紋が刻まれた扇が、そう何本もあるとは思えない。どうしてまた、急にこのようなものを景虎様は授けてくれたのだろうか。
 だが、景虎様はそれ以上説明しようとはせず、再び琵琶をかきならした。
「……今一度、奏でたい気分だな。天城殿は……」
「そうそう、景虎様、その『天城殿』というのはそろそろやめにいたしませんか」
「む、何ゆえだ?」
 訝しげな景虎様に、俺は頬をかきながら答えた。
「私は景虎様の臣下ですし、景虎様がそうおよびになると、直江殿などもそう呼ばざるをえないので、いかにもいやそうな顔をされるんですよ。天城、もしくは颯馬と呼び捨てで結構ですので」
「ふむ……姉上の下から来てもらったのだから、問題ないとは思うのだが。天城殿が気になるというのであれば、改めることにしよう」
 そう言って、景虎様は琵琶を抱えたまま、小さく首をかしげ、やがて俺の名を口にした。
「では、颯馬、と。今後はそう呼ぶことにしよう。それで良いか?」
「はい、お願いいたします」
 俺が頷くと、景虎様も小さく頷きをかえし、そしておもむろに琵琶を奏ではじめた。


 その音色に耳をくすぐらせながら、俺はゆっくり瞼を閉ざす。
 先刻までは色々と張り詰めていた心が、いつのまにか穏やかさと余裕を取り戻しつつある。
 今ならば、武田に対抗する策を考え付くことも出来そうな気がした。
 とはいえ、折角の景虎様の琵琶を聞き逃す法はない。武田のことを考えるのは、この演奏が終わった後で十分である筈だった。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:03

「……ふむ、佐渡の情報でございますか」
 俺の前に座る初老の男性は、顎の髭をこするように指でもみながら、うろんげな視線をこちらに向けてくる。
 だが、返答は案外すんなりとしたものだった。
「もとより、景虎様の御依頼とあらば否やはございませぬ。ただちに人数を派遣いたしますが、期間はいかほどいただけるのか?」
「出来る限り早く、ということでお願いしたい。佐渡の心底次第で、とりえる策が異なってきてしまうので」
 俺の言葉に、男性はもともと細い目をさらに細めた。糸のような目から、針のような眼光が俺の顔に突き刺さる。
 その鋭すぎる眼光を、しかし俺は真っ向から見返した。
 しばしの間、沈黙がその場に満ちる。
 やがて、男性は再び口を開いた。
「忍も万能ではござらん。無理を通すのであれば、相応の代償を頂くが、用意はおありか?」
「はい、もっとも相場を知らないので、これでよいものかわかりませんが」
 そう言って、俺は懐から持ってきた金を取り出す。
 ずしりと重い手ごたえも当然のこと。何せこれまでの俺の俸禄の残りをほぼ全てかき集めてきたのだから。


 男性はその袋を受け取り、中を確認すると、なんともいえない渋面をつくった。
 足りなかったか、と冷や汗をかくが、どうもそうではないらしい。
「天城殿、貴殿、我らに佐渡の本間を暗殺しろとでも仰せか。そうでなければ、これはさすがに多すぎまするぞ」
「い、いや、もちろん情報を得るだけで十分です。このようなことを聞くのはお恥ずかしいのですが、いくらぐらい用意すればよかったのでしょう?」
「この半分の半分の、そのまた半分の半分、というところでしょうかな。それも長尾家に限ってのことで、他家はもっと安く我ら忍を使っていることでしょう」


 この時代、忍といっても、後年の誇張されたイメージのそれではない。
 炎を巻き起こしたり、身体を幾つにも分けたり、あるいは見上げるような高さの壁を手掛かりなしで飛び上がったりといった芸当は出来ないのである。
 無論、常日頃鍛えた心身はそこらの人間に比するべくもない域に達しているが、あくまでそれは人として可能な範囲の強さである。漫画やテレビのような忍は、それこそ空想の中にしかいないらしい。少し残念かも。
 それはともかく、情報を収集する場合にも、商人や虚無僧として各地を歩き、民との会話や物品の売れ行きからその地の情勢を推し量るのが主であるらしい。時には城内に忍び込む場合もあるらしいが、敵に見つかればまず間違いなく命がなくなってしまう危険な賭けであるため、よほどのことがない限り、そこまで踏み込むことはないそうだ。
 城に忍びこむとなれば、当然、里の中でも優れた者が行うため、これを失うことは里にとって大きな損失になってしまうのである。


「ことに我ら軒猿(のきざる)は数があまり多くはござらんでな。無理は慎まねばならんのです」
 男性――忍集団・軒猿の首領であるその人物は、そういって小さく笑った。
 すると、先刻までの尖った雰囲気が一変し、好々爺と形容できそうな人の好い顔になる。
 忍者の棟梁というくらいだから、強面で、常に殺気を撒き散らしているような人物を想像していたのだが、えらく想像とかけはなれた人だった。
 もっとも、笑いながらも、その視線の鋭さはいささかも変わらないあたり、その気になれば笑顔で人の首を切ることも出来るのかもしれない。





 軒猿は長尾家の忍びではあるが、正式な家臣というわけではない。
 普段は土地を耕し、作物を育てる生活をしており、農民と大差はないのである。
 そして、忍としての力が必要になった時、必要に応じて雇われる。つまり、軒猿は俺のように禄を食んでいるわけではない。その党首には、多くの忍を養っていく経営者としての才覚も求められるのである。
 忍者は、その特殊性ゆえに敵が多く、味方から猜疑の目を向けられることも少なくない。身分としても武士より劣るものとして扱われ、日陰者として蔑まれる、そんな忍の集団を統率することがいかに困難であるかは言をまたないだろう。
 笑顔で人を斬れるかもしれない、と俺はいったが、冷静に考えれば、そのくらいの人物でなければ軒猿はとうの昔に滅ぼされていたのかもしれない。


 その後、いくつかのやり取りをした後、俺は差し出した金はそのままに軒猿の里を辞去した。
 今後、彼らの協力は不可欠であったから、その挨拶もかねてということで、向こうにも納得してもらっている。
 それに、弥太郎たちの俸禄分以外、ろくに使い道もない金だから、手放したところで痛くもないしな。
「ひとまずこれで佐渡は良し、と。越中は親不知(おやしらず)の道を塞げば大丈夫だろうって話だったが、やはり一度は見ておくべきか」
 軒猿の里から春日山城に戻る道すがら、俺はひとりごちる。弥太郎たちは武芸の修練に勤しんでいるため、声をかけてこなかったのである。
 まだ馬に乗れない俺は、当然徒歩で城に戻ることになるのだが、本格的な夏を間近に控え、頸木平野は鮮やかな緑で彩られつつある。ぽかぽかとした陽気に、ついつい俺の足取りも軽くなっていた。


 と、その時だった。
「――春日山の重臣が供も従えず、腰に大小も差さずに一人歩きとは。無用心に過ぎます」
 そんな声が背後から聞こえてきた。
 気配など微塵も感じていなかった俺は、大慌てで後ろを振り返る。
 すると、そこには見たことのない女性――というより、少女がいた。
 黒髪を耳の後ろあたりでばっさりと切り揃えた小柄な少女は、目線を上げて俺の顔に視線を注いでいる。その漆黒の眼差しの鋭さは、とても子供のものとは思えなかった。
 どこか怒りの空気さえまとわせながら、睨むようにこちらを見据える少女を前に、俺はわけもわからず立ち尽くすことしか出来なかった。



◆◆



 時をわずかに遡る。


 天城が退出してからしばらく、軒猿の長は無言で何やら考え込んでいたが、しばらくすると室内の影になっている空間に向けて、声を発する。
「段蔵」
 ――すると、それに応えるように、今の今まで誰もいなかったと思われていた空間から、宙からにじみ出るように一人の少女の姿が浮かび上がってきた。
「こちらに」
 跪く少女に、長は短い問いを向けた。
「どう見た?」
「所詮、噂は噂に過ぎぬ、と。景虎様と並び称されるには、明らかに役者不足でありましょう」
「そうだな、それはその通りだが……」
 少女の言葉に、長は頷いてみせたが、その肯定にはどこか戸惑いが含まれていることを、敏感に少女は察した。


「あの男、何か気になることでもございましたか」
 警戒心のかけらもない、取るに足らない男。実際、もし少女がその気になっていれば、簡単に命を奪うことが出来たであろう。そもそも、武士が大小も差さずに出歩くなど論外ではないか。
「うむ、確かに命を奪うは容易かったであろう。しかし、そうすればこの里は越後中を敵にまわし、遠からず滅びるであろうな。あの者の内実がどうであれ、越後に知れ渡った名声は真のものだ」
 長の言葉に、少女は小さく頷いた。
「はい、それは否定いたしませぬ。あくまで私が申し上げたのは、あの者個人に関する見解でございます。わずかに付け加えるならば、少なくとも他の武士と違い、吝嗇という欠点はないようですね」
 天城が置いていった金銭の袋を見て、少女はすこしだけ鋭さを緩めてそう言った。
 忍び働きでの収入があるとはいえ、軒猿の里は貧しい。山がちな里の土地では食物もあまり育たず、食料庫はほとんど常に空の状態であった。


 これは軒猿の里に限った話ではない。頸木平野や越後平野のように豊かな土地を持っている者たちはともかく、越後の民の多くは懸命に今日を生きているのが現状である。
 また、それだからこそ、かつて柿崎戦に先立ち、天城がおしげもなく城の庫を開いた際、ほとんど勝ち目がないにも関わらず、数百人もの兵士が海のものとも山のものとも知れなかった天城の下にとどまったのである。彼らにとって、その金は、自分のみならず、家族を救える額だったのだ。
 軒猿は、そんな兵士たちほど純朴ではなかったが、それでも天城の気前の良さと無欲さを認めるだけの度量は持っている。忍者がおしなべて狷介であるわけではなかった。
「こちらを城に呼び出さず、自らの足で里まで来たことも評価できる。忍を見下さぬという一点では、景虎様と同じ御仁のようだ」
 もっとも、忍の恐ろしさを知った上でそう接する景虎と、それを知らない天城を同列に並べることに意味があるかは疑問だが、少なくともこちらが敵愾心を抱く理由は今のところ見当たらない。
「落日の守護代を盛り立て、柿崎景家を討ち取り、長尾景虎と対等に戦った、春日山の今正成、か。一度会いたいとは思うていたが、まさかこのように早く会うことが出来るとはな」


 正成とは、言うまでもなく南北朝の動乱の際、南朝側に与して最後まで戦い抜いた智勇兼備の名将、楠木正成を指している。
 この時代、正成はいまだ朝敵とされており、公的には大逆の罪人のままだったが、当の敵手であった足利尊氏が正成に敬意を抱いていたように、その忠誠と報われぬ最後は、尊崇の念と共に人々の心に深く根ざしていた。
 そして、その正成の再来が天城である、との評がこの時期出始めていたのである。
 天城が聞いたら驚きのあまりひっくり返ったに相違ないが、しかし、長尾晴景という暗愚な主君に忠誠を尽くし、決して屈しようとしなかった天城の行動は、それほどに越後の人々に賞賛されていたのである。


 ――だが、物事には常に裏の面がある。


「晴景殿の悪政を助長したとて、天城殿を狙う者も少なくない」
「はい。あの警戒心の無さでは、いずれ命を落とすやもしれませぬ」
 長の言葉に頷きを返しながら、少女の表情に小さく理解の灯がともる。長の言わんとしていることが、ようやくわかったのである。
「里のためにも、気前の好い客を逃さぬことは必要であろう」
「……そうかもしれませぬ」
「くわえて、このまま時を経れば、景虎様やあの者の周囲には多くの人と物があつまっていくじゃろう。我ら以外の、より大きな忍の集団が配下に加わることもあるやもしれぬ。そうなっては我らは金も糧も得られず、この貧しい土地を耕し、汲々として生きていくしかなくなろう」
「はい」
 長は大きく息を吸ってから、結論を口にした。
「それを避けるために、今、行動する。景虎様はともかく、今の天城殿はまだ新参。評判こそ高いが、頼りになる味方は数えるほどしかおるまい。ここでしっかと手を結んでおけば、後々まで我らに益するであろうよ」
「……逆に天城がつまずけば、里に被害が及んでしまいますが」
「そうならぬための我らよ。かりに我らの言葉が届かぬならば、その時は見限れば良い」


 長の言葉に、少女は小さく頷いた。
 もとより、それはこれまでの里のやり方となんらかわらない。
 どれだけ優れた忍の技をふるったところで、米も野菜も出来はしない。技を金にするためには、買い手が不可欠であり、そして忍の技を買えるだけの金を持つ人物が忍の里を訪ねてくることなど滅多にない。
 であれば、こちらから技量を提供して、買い手を見つける必要があるのである。景虎との縁も、そのようにして結ばれたのだ。  
 ならば、天城にわずかでも見所があるのなら、こちらの価値を教えてやるというのも一つの手段であろうか。少女はそう考えた。 



 そして、少女の予測どおり、長の命が下される。
「加藤段蔵」
「はッ」
「汝に命じる。天城颯馬の配下となりて、彼の者を助け、軒猿の価値を知らしめよ。忍を下賎と考える武士どもに、我らの力を知らしめるのだ」
「承知仕りました」
 少女――加藤段蔵は深く頭を下げる。
 と、次の瞬間、段蔵の姿が掻き消えるように見えなくなる。部屋の中のどこをさがしても、その姿を見つけることは出来なかった。


 自分の目すら欺きかねない早業に、長は小さく唸った。
「さすがは我が孫、『飛び加藤』の名は伊達ではないな――さて、今正成殿は我が孫を使いこなすことが出来るかな。まあ、出来るとしてもさぞてこずるであろう」
 そう言ってくつくつと笑う長の顔は、忍の棟梁としてのそれではなく、どこか温かみを感じさせる祖父のそれである。
 人前では決して見せない、長のもう一つの顔であった。





◆◆




「弱い! もっと両脚で強く馬体をはさみなさい。脚の力が弱いから、そうも簡単に振り落とされるのですッ」
「あ、はい、わかりました!」
 景虎様の許可を得て、越中との国境へ向かう道すがら。
 俺は何故だか段蔵の叱咤を浴びながら、全身傷だらけになっていた。
 どうしてこうなった?
「何をぼうっとしているのですか、のんびりしている時間などないでしょうッ」
「す、すみません?!」
 少しでも気を抜くと、小柄な少女から火のような叱咤が迸るため、考え事一つゆっくりと出来はしない。
 いや、本当にどうしてこうなったんだろう?




 軒猿の里から派遣された加藤段蔵という名の少女が、俺の配下となったのはつい先日のこと。
 俺が承知したというより、少女の舌鋒の鋭さに承知させられてしまったと言った方が良いかもしれん。
 初めて会った瞬間から、武士としての心得不足をこれでもかとばかりに責め立てられ、俺は反論も出来ずに佇むしかなかった。
 濁流のように押し寄せる言葉におぼれそうになりながら、俺はなんとか説明した。
 刀術にも心得がなく、かえって刀が邪魔になるということを。
 そうしたら、段蔵は口を閉ざし、しみじみと一言仰いました。
「……これは、一から鍛えなおさないと」


 ――この時、俺と段蔵の関係が決まってしまったような気がしなくもない今日この頃である。
 
 



 ぼろぼろになっている俺を見かねたのか、弥太郎が口を開いた。
「あ、あの段蔵、そろそろ一休みしたらどうかな。ほら、天城様も疲れているだろうし……」
 おそるおそる、という感じで助け船を出す弥太郎。しかし。
「弥太郎」
「は、はひッ?!」
 段蔵の視線に、弥太郎は背筋を伸ばして返事をする。
 小柄な段蔵が大柄な弥太郎を見ると、文字通り「見上げる」格好になるのだが、この場合、背の高さは立場の違いにいささかの影響も及ぼさなかった。
「まもなく戦が始まるというこの時期、将たる者が馬のひとつも御せずに、どうして軍を御すことが出来るのですか。これが平時であれば、あなたの背に乗って移動するのも良いでしょう。しかし、戦場にあってそのように悠長な真似は出来ません。武士とは戦場にあって敵の首を討つ者です。あなたとて背に主を負って戦場にあれば、本気を出すことは出来ないでしょう?」
「う、は、はい、出せないです……」
「であれば、なんとしても天城様には此度の偵察任務に要する十日の往来で、馬を御せるようになっていただきます。それに、仮にも私の主たる人が、戦場で馬に乗れぬ醜態をさらすなどと、そんなことを許すわけにはいきません。それは仕える我らの恥でもあるでしょう」
「そそ、そうかもしれない、けど、そのやっぱり限度ってあるんじゃないかな、と」
「ええ、ですから限界を越さないように気をつけていますよ。かりそめにも主人なのですから、当然のことです」
「そ、そうなんだ……」


 それ以上の抗弁は無理だったのか、それとも段蔵の言葉に理を認めたのか、弥太郎は口を閉ざし、俺は助け船があえなく撃沈されたことを悟らざるをえなかった。
 とはいえ、段蔵の言葉に理を認めたのは俺も同じである。まあ、これまでの教練というか特訓というか、とにかく問答無用な馬術の修練に気遣いをもって臨んでいたというのは、ちょっと信じられなかったりするのだが。
「――何か異論がおありですか、天城様」
「いえッ、何一つありません」
「よろしい。では続きです」
「サー、イエッサー!」
「? 今、なんといったのですか?」
「はい、わかりました、と」
「とてもそうは聞こえなかったのですが……まあ良いです。では行きますよ。次はあちらに見える木の根元まで、馬を駆けさせてください。鐙と手綱に頼りすぎないように気をつけて」


 ――かくして、加藤先生の馬術教室は、日が落ちるまで続いたのである。





 で、その夜。
 とある寺の一つに宿を求めた俺たち(俺、弥太郎、段蔵他、俺の直属の九名)は、翌日の道中に備えて鋭気を養っていた。
 あらかじめ使者を出しておいた為、寺の方では夕餉のほかに酒の準備もしてくれていたので、ほとんどはそちらに参加している。
 しかし、全身の傷がうずく俺はとてもではないが酒なんぞ飲めないので、早々に退散することにした。


 ろくな娯楽がないこの世界では、夜は早く寝るしかないのだが、それでもさすがにまだ床に入るのは早い時間である。ついでに言えば、馬から落ちたり、蹴飛ばされた身体の傷や、段蔵に叱責されたり、軽蔑の眼差しで見られた心の傷が痛んで、床に入っても眠れそうになかった――まあ、後半は冗談だが。
 そんなわけで、ただぼうっと縁側で空を見つめていた俺だったが。
「こんなところにいましたか。酒は武士の嗜みでしょうに、酒席から逃げるとは」
 そちらを見て、俺は思わず、げ、と言いそうになってしまった。段蔵と、その後ろには弥太郎もいる。
 俺の顔をみた段蔵はかすかに目を細め、腰に両手を当てて胸を張ってみせる。
「何か言いたいことがおありのようですね。どうぞ遠慮なさらずに。謹んでお聞きいたしますよ、主様」
「イエ、ナンニモ」
「……天城様、なんか目が虚ろですけど」
「気のせいですよ、ハハハ」


 元気一杯であることをアピールしたつもりなのだが、二人から何か痛ましいものを見るような目で見られてしまいました。





 しばらく後、俺はあてがわれた寝室で、二人に服をはぎとられていた――こう書くと誤解を招きそうだが、お子様にも優しい内容である。
 俺の傷を気遣って、二人して傷薬を持って来てくれたのだ。
 段蔵にいきなり「服を脱いでください」とか言われた時にはどうしようかと思ったもんである。


「天城様、ここ、痛くありませんか?」
「ん、だいじょうゥッ、ぐ!」
「あ、わわ、すみません、もうちょっと優しく塗りますね」
「弥太郎、この薬はしっかりと塗り込まないと効果が十全に発揮されません。もっとこう力を込めて塗るのです」
「あいたたッ?! ちょ、まてまて、もう少し手加減を」
「聞く耳もちません」
「待っ……ぬわーーッ?!」
「あ、天城様、あまぎさまーッ?!」


 と、まあそんな感じの治療であった。軒猿御用達の傷薬は確かに効き目があったようで、傷口から発する熱と痛みが、短時間でおどろくほど薄れていた。
 当然ながら、完治には時間がかかるだろうが、少なくとも夜中に傷でうなされることはないだろう。
「でも、段蔵、もうすこし優しく出来ないの?」
「十分優しくしています、弥太郎。里の者が今の私を見たら、驚くに違いないほどに」
「……そうなんだ」
「そうなんです」
 痛みはおさまったものの、つい先刻までの治療の疲労(?)で声も出せずに寝具に身体を横たえている俺の耳に、弥太郎と段蔵の会話が聞こえてくる。


 互いに性格が違う二人のこと、同僚としてうまくやれるだろうか、と心配していたのだが、どうやらそれは杞憂であったらしい。
 体格も性格も正反対な二人だが、それゆえにこそ互いに惹かれるものがあったのかもしれない。
 弥太郎の力量は言うまでもないが、段蔵にしてもかなりの力の持ち主である。共に行動するようになってまだ数日だが、馬術の腕はもとより、刀の腕もかなりのものだった。目立たぬことを命題としながら、いざ発見された時は多対一の状況を覆さなければならない忍として、あらゆる技量を学び続けているのだろう。
 二人は、短い間に互いの力量を認め合ったのだろう。段蔵が弥太郎に向ける言葉は、時に無愛想ではあったが、俺に向けられるそれとは比べ物にならないほど穏やかなものであった。





 小島弥太郎貞興と加藤段蔵。
 この凸凹コンビを配下にした俺は、多分、恐ろしく運が良い。それも、諸国の大名が涎をたらすレベルで。
 だが、その運の良さにあぐらをかいている暇はない。二人に暇乞いをされることがないよう、俺自身も精進を重ねなければなるまい。それは結果として、景虎様の助けにもなっていくだろう。


 対武田家の戦略を練り、一方で部下たちに教練でしごかれるという、色々な意味で大変な俺の四ヶ月がこうして幕を開けたのである。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/04 01:04


 越後新発田城、城外。
 陸奥の蘆名軍侵入の報告を受け、春日山城から急行してきた景虎様率いる上杉軍は、春日山から引き連れてきた軍勢と、新発田城と周辺の領主たちの軍勢をあわせ、三千に達しようとしていた。
 侵入してきた蘆名軍はおおよそ二千との情報がすでに届いている。率いる将は、蘆名盛氏本人ではなく、重臣の一人であるらしい。
 数の上でも、率いる将の力でも、上杉軍が優位に立ったと見て良いだろう。


 蘆名軍の侵入はおそらく様子見であろう。武田の示唆を受けたにしては、時期が早すぎる。
 おそらく、村上義清が越後に逃れ、上杉と武田が信濃で対峙したこと等の情報を掴み、あわよくば越後の一部を占領せんとしたのではないか。
 しかし、仮にそのとおりだとしても、二千の軍勢を甘く見ることは出来ない。それに蘆名家はこちらの対応が遅れれば、本格的に越後の地を侵して来る心算であろう。


 この戦いは、定実様が春日山城主になられてから、はじめて越後国に踏み込まれての戦いとなる。ここで手間取ってしまうと、上杉家おそるるに足らずと、周辺諸国のみならず越後の国人衆の間にも不穏な空気が漂うことになりかねない。
 速やかに一戦し、速やかに追い返すべし。
 春日山城での軍議は衆議一決し、再び景虎様が軍を率いることになったのである。


 ……また留守番となった政景様は、半ば本気で守護代になったことを後悔している様子だった。
 政景様の嘆きは、武を誇りとする将としては最もなことなのだろうが、蘆名の侵入に呼応する勢力がいないとは限らず、最悪の場合、武田の侵攻を誘発する危険さえある。その時に備えるため、守護代には春日山城をしっかりと固めてもらわねばならなかったのだ。
 だが、この時期、蘆名が侵入してきたことは、かえって上杉家にとって有利に働くかもしれない。俺はそうも考えていた。政景様の活躍の場が出来るかもしれないとも。
 もっとも、それは軒猿の報告次第なので、誰にも言わなかったのだが。



 
「オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ……」
 毘沙門天の真言を紡ぐ景虎様の言葉が、出陣を控えた上杉軍の将兵を包み込むように広がっていく。
 出陣前、士気を高めるために主将が将兵を鼓舞するのは戦時の習いである。
 神仏に祈りを捧げたり、あるいは自軍の正義を謳いあげたりと、その方法は様々であろうが、命をかけて戦にのぞむ将兵から怖気を取り払い、勇気を奮い立たせるのは、将として当然のことであった。
「……天道は我にあり、地の大略も我にあり、人成す和も我にあり……」
 そして、景虎様は出陣前に勧請を行うことを常としていた。
 軍神、毘沙門天の化身と自他ともに任ずる景虎様のそれは、将兵が高らかに鬨の声をあげるような景気の良いものではない。
 数千の軍勢が集結しているとは信じがたいほどの静謐な空間。将兵は粛然と佇み、頭を垂れる。
 その将兵の真摯な姿勢に応えるように、景虎様の声が一際高くなった。


「毘沙門天よ……我に来たれッ!」


 その瞬間。
 神仏と縁の薄い俺でさえ、背筋を震わせるほどの『何か』がこの場に満ちた。
 神気、霊気、覇気、闘気、なんでもよい。ともかく何かの気が景虎様を中心として、あたり一面を奔流となって駆け巡ったのである。
 神降ろし。
 真に景虎様の身体に毘沙門天が降りたのだと、この場にいるほとんどの者が信じたであろう。
 心身に心地よい緊張が走り、同時に不退転の戦意が身の奥より滾々とわきあがってくる。
「毘沙門天は我と共にあり、我を阻む者なし――我の進むところ、すなわち天道であるッ!」
 信越国境に向かう時とあわせて、俺が景虎様の出陣の儀に立ち会ったのはこれが二度目である。
 だが、何度目であろうが関係ない。景虎様の下に集った将兵は、二度が二十度であろうとも、この方の下で戦えることを喜び、また誇りとして、全精力をもって戦に臨むであろう。
 自らが正義であると、景虎様が駆けるその先にこそ天意はあるのだと、そう信じて。


「――全軍、進撃ッ!」


 景虎様が小豆長光を振り下ろすや、上杉軍はそれまでの森厳とした様相を一変させ、天地を震わす喊声をあげながら、進軍を開始する。彼らは戦意を抑え切れない様子で、各々の得物を高々と掲げ、喊声が尽きることはなかった。
 思わず俺はこれからぶつかる蘆名軍が気の毒に思えてしまった。それほどに、上杉軍の勇壮な士気は圧倒的だったのである。



◆◆



 この時、越後領に進軍してきた蘆名方の将は、金上盛備(かながみ もりはる)である。
 金上は若いながらに政治、軍事ともにそつのない能力を有し、蘆名盛氏の信頼も厚く、蘆名家有数の武将として他国にも知られた人物であった。
 その金上が陸奥の強兵を率いてきたのだから、この軍を破ることは容易ではないと蘆名家では考えていたであろう。
 また、それは事実そのとおりだった――相手が、景虎様でさえなかったならば。


 蘆名家と金上にとっては、手痛い教訓となったであろう。
 景虎様率いる上杉軍は、新発田城を発するや、一路、国境付近で布陣していた蘆名の陣に向かい、これを捕捉するとまっすぐに襲い掛かっていった。
 景虎様自らが先陣に立って蘆名の軍に斬りいるや、上杉家の精鋭は喊声をあげてそれに続き、たちまち蘆名軍に大穴を開けていく。
 そこに後続の上杉軍が刀と槍をもって突撃してくると、驚き慌てた蘆名軍は成す術もなく、それに蹴散らされるしかなかった。
 こんな、怒竜が火を吐きながら暴れまわるにも似た猛攻を受けるのは、蘆名軍にとってはじめての経験だったに違いない。
 結局、半刻も経たずに陣容を突き崩された蘆名軍はほうほうの態で陸奥へと退きあげを開始する。
 これを追い討てば、敵を全滅させることも出来たであろうが、景虎様は蘆名軍を追わず、敵が去るにまかせた。
 これにより、上杉軍は蘆名軍の侵攻を退け、新発田城一帯の領土を守りぬくことに成功したのである。





 景虎様は強い。
 それはわかりきっていたことだった。なにしろ、俺はその景虎様と戦った身である。正面きって野戦で戦ったことはないにせよ、その武威は身に染みている。
 それゆえ、景虎様の配下となって、その下で戦うことが出来る今の境遇には、思わず安堵で胸をなでおろしてしまう。
 景虎様の軍と戦うなんて、一生に一度で十分すぎる。今更だが、良く生き残れたもんである。



 しかし、同時に味方だからこそ気づく問題点もあった。
 すなわち。
「――主将が強い、というのも考えものか」
 今回の戦、俺は三百ほどの兵を率いて後詰を務めていた。上杉軍全体の流れがもっとも良く見える位置なのだが、その俺の目から見ると、今日の上杉軍は強さは比類が無いものだったが、問題がないわけではなかった。


 その一つは、景虎様の強さが突出しているため、上杉軍全体が景虎様に依存してしまう傾向にあることである。
 景虎様の武勇を間近で見ていれば、血の滾りが抑えきれないことはわかるのだが、皆が皆、景虎様に追随しようとするものだから、軍としての連携を欠いてしまったのである。
 今回のような力と力のぶつかり合いの戦であれば、さほど問題にはなるまい。だが、戦の規模が大きくなっていけば、無視できない問題に発展してしまうかもしれない。


 たとえば武田が相手であれば、おそらく伏兵や別働隊を用いて景虎様の部隊と後陣を分断しようと計るに違いなく、今日のような戦を繰り返せば、敵の思う壺にはまる可能性が高い。
 それを防ぐためには、景虎様の突進に呼応して、それぞれの部隊が連動して動き、軍としての虚をつくらないようにする必要がある。つまり全軍が一斉に突撃するのではなく、景虎様の左右後方で陣形を保ち、敵に乗じる隙を与えないようにしなければならない。
 今日の戦でそれが出来ていたのは、兼続と定満くらいのものだった。他の部隊――つまり、新発田城や周辺の国人衆の部隊は、景虎様の突撃の尻馬に乗って暴れただけで、あれでは軍として機能したとは言いがたい。


 今日に関しては、一応俺が部隊を動かして後方を支え、敵に分断されるような隙は見せなかった。それに、敵は景虎様に追いまくられていたので、こちらを痛撃するような真似は不可能であったろう。
 結果論でいえば、俺が動く必要はなかったし、新発田らの行動も勢いに乗じた好判断という見方も出来る。しかし、いつもいつも、こううまく行くとは思えない。
 今のうちから、何かしら対策を考えておくべきではないだろうか。




「たしかにお前の言うことは一理あるが……」
 本陣で兼続と話をした際、そのことを口にすると、兼続は腕組みしつつ答えてくれた。
「景虎様の神速の用兵に呼応するには、一朝一夕では無理だ。とくに今日の戦、新発田たちの兵は臨時に集めた農民たちが主力だったから尚更な。むしろ、私はお前が追随してこれたことの方が驚き――って、どうしてそこで目を丸くする?」
「……い、いえ、なんか今、直江殿の口からありえない言葉を聞いたような気がしたんですが」
 もしかして褒めてますか、とおそるおそる聞いたら、なんかため息をつかれました。
「いかに嫌いと公言した相手とはいえ、才を示せば認めるし、功をたてれば褒めもする。あまり見くびってくれるな」
 そう言った兼続は、何事かに気づいたように俺をじっと見つめてきた。


 ちょうど良い機会だから言っておこう。
 兼続はそう言うと、手近にあった石の上に座り、俺にもならうように促した。
 俺がわけもわからず、兼続の指示に従って腰を下ろすと、兼続はゆっくりと口を開く。
 そして、思いがけない言葉を発した。
「まず、お前に詫びなければならない。いつぞや、春日山城で言った、お前が嫌いだとの言葉、その何割かは撤回しよう。不快な思いをさせてすまなかったな」
「は、はあ……いや、不快などではなかったので、それは構わないのですが、どうしてまた急に?」
 不思議に思って、俺は問いを返す。
 実際、俺は兼続の言葉に不快さは感じていなかった。もちろん、嫌いだといわれて喜びはしなかったが、そもそも晴景様の直臣であり、兼続が絶対の忠誠を捧げる景虎様をあわや焼き殺す寸前までいった俺を、兼続が嫌い警戒するのは当然のことだった。
 むしろ、あっさり俺を配下にした景虎様が稀有なだけであって、兼続の反応は至極まっとうなものであろう。陰口を叩かれるより、面と向かってそう言ってくれた方が、逆にすっきりするというものである。


 今日の戦で、俺は確かに兼続の言うとおり、上杉軍が、軍としてのまとまりを欠くことがないように行動したが、それは後陣で兵を小器用に動かしただけで、戦闘で活躍したというわけではない。今日の戦で俺の評価を下げた者も少なくあるまい。
 兼続が目立たない俺の行動を評価してくれたのは素直に嬉しいが、しかしただそれだけでこれまでの疑念を払う兼続ではないだろう。
 不思議がる俺に、兼続はどこか気まずそうな表情で言葉を続けた。
「景虎様の下についてからこれまで、お前の行動は景虎様への誠心に満ちていた。今の話でもそれは明らかだからな、それを認めたというのが一つ。それと、もう一つ、先の景虎様と晴景様の戦いの時のことなのだが……」


 兼続の話が、思わぬところに触れてきたので、俺は少し緊張しながら耳を澄ませた。
 俺の耳朶に、兼続の憂いを残した声が響いてくる。
「戦いの契機となった、柿崎城のことだ。景家がお前に討ち取られて後、弟の弥三郎が景虎様の名代であった私を放逐し、春日山の軍に攻撃を仕掛けた」
「――はい、もちろんおぼえています」
「結果として、弥三郎は両軍共に追い返したわけだが、晴景様はこれを栃尾の謀略と断定し、開戦の理由とした」
「……はい」
 俺は頷くことしか出来ぬ。それ以外の言葉は、ここにいない方を誹謗することになりかねないからである。


「率直に言えば、私はあれをお前の策略だと考えていた。あの時、景家は景虎様に従うことを宣言した後だった。その景家が討ち取られた後なれば、それが勢力を挽回しようとした景虎様の謀略であるとの決め付けも、それなりの説得力を持つ。無論、景虎様をじかに知る者であれば欺かれよう筈もないが、景虎様を噂でしか知らぬ者たちはその限りではないからな」
 兼続の言葉に、俺は否定も肯定もしない。
 しかし、晴景様の宣戦布告が一定の理解を得られたことは事実である。つまり、あれが景虎様の謀略であるという晴景様の主張を、是とした者が少なからずいたのである。本心からそれを信じたかどうかは別としても。


「私自身がしてやられたことはともかく、天道を歩む景虎様に汚泥をなすりつけるがごとき真似をした者を認められる筈がない。そのことで、お前を見る目が曇っていたのは遺憾ながら事実だ。かりにお前がそんな輩であれば、人の深奥を見抜く目を持っておられる景虎様が、お前を受け容れる筈などないというのに、そんな簡単なことにさえ、私は気づくことが出来なかったのだ」
 情けない話だ、と兼続は自嘲するように小さく口元を歪めた。


 別に情けない話ではない。主君の足りないところを補佐するのが臣下の役割なのだから、兼続の懸念は当然のことだ。柿崎城の件にしたところで、たしかに俺が裏で糸を引いていると思われても仕方ない面はある。
 俺とても証拠があるわけではないが、弥三郎の行動を裏で操っていた者はいたのだろう。無論、俺はそれに一切関わっていないが、しかし兼続にそう告げることも出来ない。俺が関わっていないと言ってしまえば、必然的にその謀略が誰によって為されたものであるかがわかってしまうからである。



 黙して語らぬ俺の顔を、兼続はじっと見つめてくる。
 その眼差しは、彼女の主君のそれを思わせる真っ直ぐなものだった。
(似ているんだな、この二人は)
 自然、そんな考えが脳裏に浮かぶ。
 主君とその側近だから、というのではない。いや、無論それもあるのだろうが、それ以前に景虎様と兼続は、人としてとてもよく似た心を持っているのだろうと思う。
 天道とか、正義とか、言葉は色々あるが、多くの人が尊いと思い、しかしそれを掲げて生きるには難しい――そんなものを、この二人は掲げて歩こうとする人たちなのだ。
 仮にこの二人がまったく違う場所で生をうけたとしても、二人は今と同じように、その道を駆けているのではないか。俺はそんな風に思った。


「――やはり、お前を登用した景虎様の目は、確かだったのだな」
 俺の目に何を見たのか、兼続は改めてそう口にすると、小さく微笑んだ。
 他意のない、素直な笑み。多分それは、俺がはじめてみる兼続の本当の笑顔だったのだろう。不覚にも見惚れそうになり、慌てて視線をそらす。
 ついでに話も逸らそうと思い、俺はどうして急に疑いが解けたのかを聞いてみることにした。
 兼続は答えて曰く。
「別に特別な何かがあったわけじゃない。これまでのお前の行動を見ていれば、私が疑っていたような策を弄する人間ではないことくらいはわかる。それに――」


 兼続はやや呆れたような視線を俺の身体に――正確に言えば、顔や衣服の隙間からのぞく血止めの布に視線を向けた。
 今の俺は、ほぼ全身傷だらけである。理由は、まあ、不恰好ながらかろうじて馬を御している俺の姿が物語っているだろう。
「ふ、随分としごかれたようだな?」
「……………………ええ、まあ」
「……すまん、聞くまでもなかったな」
 段蔵の特訓を思い起こし、どんよりとした視線を返した俺を見て、兼続は軽く頭を下げて詫びをいれてくるが、その顔は明らかに笑いをこらえていた。口元がひくひくしてるし。こんにゃろう。



 ともあれ、兼続と虚心で向き合えるようになれたことは、俺にとっても喜ばしいことである。
 俺はそう思い、ほっと安堵の息を吐こうとした。
 したのだが。
 兼続はにこりと笑ってこう付け足して来たのである。
「その努力と此度の戦ぶりを見て、いつまでも疑いを抱くような狭量な人間にはなりたくないのでな。ゆえに詫びをいれさせてもらった次第だ、済まなかったな――『颯馬』」


 お気になさらず、と応えようとした俺は、最後の兼続の言葉にびしりと身体を硬直させた。
 見れば、兼続は満面の笑みを浮かべていたが、しかし目だけは笑っていなかったりする。
「随分と景虎様と親しくなったようだな。いつのまに景虎様に名を呼ばれるようになったのやら。それに、その帯に差している鉄扇、つい先日まで景虎様の懐にあった物と同じに見えるのだが」
 ずい、と一歩近づいてくる直江兼続。
 ずざ、と一歩あとずさる天城颯馬(俺)。
 景虎様に全身全霊で仕える兼続のことだ。どうやら疑いを解いてくれたとはいえ、新参の俺が無用に主君に近づくことを快くは思うまい。くわえて、どうも兼続は俺に限らず、男性が景虎様に近づくことに強い警戒心を抱いている節がある。こう、世間知らずな妹を、世間の男どもの毒牙から頑張って守ろうとしているお姉さんみたいな感じである。


「さ、さて、私はこの辺で失礼しま――」
 そのことを思い出した俺は、今の俺の立場が、兼続の警戒網のど真ん中に位置することに気づき、素早く身を翻してこの場から逃れようとする――が。
「なに、そう急く必要もあるまい」
 がしり、と右肩に置かれる兼続の手。
 女性らしい細腕の筈なのに、つかまれた俺の肩はみしみしと嫌な音できしんでいる。
「い、いたたたッ、な、直江殿、何やら私と直江殿の間には誤解があると思うのですよ?!」
「そうか、ではその誤解を解こうではないか。なに、時間はたっぷりとある。とっくりと語りあうとしようぞ。それに、私のことは兼続で良いぞ。私もお前のことを『颯馬』と呼ばせてもらうからな。景虎様と同じように『颯馬』と。無論かまうまい、『颯馬』?」
「は、はい、かまわないんですが、名を呼ぶ時に、なにか異様な迫力を感じるのは私の気のせいなのでしょうかッ? あと、肩を掴む腕の力が、名前呼ぶ毎に強くなってる気がするいたたたッ?!」
「さて、ではいこうか。なに、景虎様とのやりとりを一言一句、片言隻語ももらさず語れば良いだけだ。そうそう、私でさえ下賜されたことのない扇を譲りうけた一部始終も語ってもらおうか。簡単なことであろう」


 私でさえ、という語句に俺はついいらぬことを問うてしまう。
「羨ましいんですか――って、いだだだッ、か、兼続殿、耳はやめッ?!」
 無言で肩を掴んでいた手を放した兼続は、無造作に俺の耳を掴むと、思いっきり引っ張ってきた。
「口は災いの元というぞ。気をつけろ、颯馬」
「骨身に刻んで忘れませんので、手を放してくださいッ」
「髪をつかまれた方が良いならそうするが」
「……ぜひ耳でお願いいたします」
「うん、では行こうか」


 俺の悲鳴も抗議もどこ吹く風か。
 結局、兼続に引きずられるようにして連行された俺は、ほぼ一刻に渡る説教の末に、俺たちの姿が見えず、様子を見に来た景虎様の仲裁でようやく解放されたのだった……




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/07 01:02

 俺は硯から筆を取ると、目の前の紙に向かって頭に思い描いたことを書き連ねていく。
 俺の知る未来の知識が活かせないものかと考えてのことである。先の蘆名との一戦で気づいた、現在の上杉軍の問題点を改善する意味でも、これは必要なことである筈だった。


 一つ、兵農分離。
 農民兵を廃し、上杉軍を職業兵のみで構成する案である。
 農繁期を気にする必要がなくなり、また農民たちにとっても、いつ戦で徴兵されるかと戦々恐々する必要がなくなるため、農政面から見ても良い効果が期待できるだろう。
 だが、同時に農民たちの武装解除を進めねばならず、これがどれだけ困難なことかは後年の豊臣秀吉の刀狩りを見ても明らかであった。
 武士階級以外の武装解除とは、すなわち彼らが武士に反抗するための手段を取り上げて、武士による支配を強化することでもある。唯々諾々とそれに従うほどに、この時代の農民たちは弱くはないのである。


 また、軍隊とは何一つ生み出さず、消費するだけの存在である。
 軍を職業兵のみで構成すれば、錬度の面では大いに効果をあげられるだろうが、肥大した軍を支える財力も膨大なものとなるだろう。それを避けようとすれば兵力を減らすしかないが、その程度の兵力では四方の国境を守り抜くことはきわめて難しい。
 少数精鋭といえば聞こえは良いが、どれだけ良く訓練された精兵でも、数に優る農民兵に撃破された例は枚挙に暇がないのである。
 兵農分離を進めるためには、まずこれらの問題をクリアしなければならない。
 そして、それは現段階においてはほぼ不可能と言って良い。というわけで、いきなり兵農分離は無理という結論に達する。



 俺は書いたばかりの四文字に、大きくバツの印をつけた。
 しばし考え込んだ末、次の四文字を書き込んでみる。
 すなわち、攻守分離。
 これは外征のための兵と、国防のための兵を分かつ案である。他国に攻め込まれた場合、その地の国人衆がこれに当たる。その下には近在から徴兵された農民兵が従う。これは従来どおりであるが、外征に出る場合、彼らを使役することを止めるのである。
 では、誰が出るのかといえば、当然、それは上杉家直属の常備軍を組織して、これを受け持つのだ。
 ただし、これもまた少数精鋭とならざるを得ないだろう。現在の上杉家の直轄領は晴景様の旧領がほとんどであるが、これは越後全土の石高が五十万石だとすれば、十万石を越える程度しかない。
 晴景様は守護代などといっても、あくまで国人衆の中で相対的に優位な立場であったに過ぎず、後年の大名たちのように明確に主君と臣下が分けられていたわけではなかったのである。


 当然、これは現在の上杉家にも適用される。
 もっとも、景虎様の栃尾、政景様の上田などを含めれば軽く二十万石は越えるから、晴景様の時代よりはよほど立場が強い。しかし、それでも越後全体の半分にも満たないのが実情である。
 さらにうがった見方をすれば、その有利を確保するために、定実様は景虎様と政景様に遠慮しなければならない。もし守護の座にいるのが我の強い人物であれば、政景様や景虎様との間で、何らかの悶着を起こしてもおかしくはないのである。
 現守護の定実様は無理を忌み、越後の平和を重んじる立派な人物だから、そのような愚行に走ることはないだろうが、人とは変わるものだ。それに、定実様は変わらなかったとしても、配下の者が騒ぎ立てる可能性もあるだろう。
 そういった不安定な状況を打破するためにも、上杉家自体の力を強める必要がある。越後に散在する国人衆を否応なく従えられるほどの勢力があれば、無用な騒ぎを起こす者もいなくなるだろう。


 上杉家の力を強めること、すなわち。 
 中央集権。
 攻守分離の下に、新たにその文字を書き加える。
 武将たちへの褒賞は、基本的に土地である。だが、今後もそれを続けていくと、いつまでも上杉家は国人衆の旗頭的な立場から抜け出すことが出来ないことになる。これまで、ずっとそうであったように、だ。
 それを避けるためには、まず外征に極力余計な国人衆を連れて行かず、さらに戦で手柄をたてた上杉家の直属軍に与える褒賞を土地ではなく、金銭と地位にするのである。
 軍兵は上杉家が抱え、いざ戦という時に、地位に応じて配下に兵を指揮させるという形であれば、土地と人民は上杉家が押さえることになるため、配下が主家を上回る力をつけるという事態は起こりにくくなるだろう。
 また、部下に土地を与えるにしても、子飼の臣下に与えるのであれば、他の国人衆に土地を与えるよりも自家の戦力として計算できるに違いない。


 しかし、このやり方も兵力の動員数が大幅に減じるという問題はそのまま残る。それを補うために、直轄領内の農民兵を徴募するという手もあるが、それでも増やせる数は知れたものだ。
 くわえて、少数の軍は精鋭であるからこそ意味があるのであり、それに農民兵を加えて質を落とすくらいならば、余計な小細工などせず、はじめから他の国人衆を動員した方がよほどましであろう。


 これを解決するための案として俺が考え付いたのは傭兵――すなわち金で兵を雇うことである。
 別にこれは浪人でも、あるいは農家の次男三男でもかまわない。金銭を報酬として兵を集めれば、たとえ勝利して領土を得たとしても、土地を配下に与える必要はなくなる。
 兵などは必要な時に、必要なだけいれば良い。あらかじめ契約期間を切っておけば、上杉家の負担も最小限で済むだろう。見所がある者がいれば召抱えれば良い。


 この案であれば、戦を厭う農民たちは喜び、同時に戦いを望む者たちにも反感は抱かれないだろう。国人衆にしても、戦で兵力と財力を食いつぶすことがなくなれば万々歳である筈だ。
 ただ、やはり問題というものは存在する。すなわち――
「金がいくらあっても足りないな、これじゃあ」
 常備軍を養う金。傭兵を集める金。武器や糧食、また戦に勝利したときの褒賞など、俺の構想を実現するためには、春日山城の金蔵が幾つあっても十分とは言えないだけの富が必要となる。
 地獄の沙汰もなんとやら。金銭が物事を決める上で重要な役割を果たすのは、戦国も平成の世も変わらぬ真理であるらしい。当然といえば当然なんだが、数奇な体験をしている最中にしては世知辛いことである。


 
 そして最後に、俺は紙の上に一番大きな文字を書き記した。
 富国強兵。
 国を富ませ、兵を強くする。使い古された言葉は、しかし同時に真理を示す言葉でもあるらしい。
 いや、真理を示すからこそ、陳腐と思えるくらいに古来から用いられてきたのだろう。
 だが、これとてもバランスをとる必要がある。
 国を富ませるといっても、堺のように金儲けに狂奔した挙句、武力で押しつぶされては元も子もない。
 兵を強くするいっても、軍隊を肥大化させ、軍事大国となった末に内側から崩壊するようでは本末転倒である。 


 いずれにも偏らず、いずれも軽視せず、越後という国を育て上げていく。
 言葉にすれば簡単だが、これがどれだけ難しいことかは語るまでもない。それでも、この戦国の世を生き抜くためには、それが必要にして不可欠なのである。
 前途の遼遠さを思い、俺は深くため息を吐く。
 改めて眼前の紙を見やると、そこには「兵農分離」「攻守分離」「中央集権」「富国強兵」なる四字熟語が散乱している。我がことながら、実にとりとめがない。今のままでは愚者の妄想と何ら変わらないだろう。
 景虎様に上申するためには、もっと考えを煮詰めなければならない。そう考えた俺は、おもいきり伸びをした後、凝った両肩を自分の手でもみほぐす。近頃はこうして筆を取ることが多いため、肩のあたりから、ごりごりとした異音が聞こえてくる。
 この年で肩凝りとか嫌すぎる。どのみち、この軍制案は次の戦には間に合わないのだから、今の時期に根をつめすぎる必要はないだろう。


 そう考えた俺は、視線を城の中庭に向けた。
 先ごろまでは若々しい緑で彩られていた中庭の木々は、秋の足音が近づくにつれ、その身を紅く染めつつある。間もなく、春日山全体が燃えるような緋色に包まれ、城下の田は黄金色の稲穂によって満たされることになるだろう。
 紅く染まる木々の色は、越後中の人々が待ち望む収穫の季節の訪れを告げるものだった。


 そして、同時に、新たな戦いの始まりを告げる烽火の色でもあった。


 越後軍の先鋒となる義清は、すでに信濃に潜入した頃であろう。
 俺は最近ようやく手に馴染んできた鉄扇を取り出すと、音を立ててそれを開いた。
 すると、そこに刻まれた九曜巴の家紋が視界に入ってくる。
 定満の助言を受けながら俺が考案し、定実様、景虎様、政景様、兼続らと討議の末に採用された、対武田の戦略。それが、いよいよ現実のものとなる日が近づいているのだ。
 いくつかの修正を経た上で皆の承認を得たとはいえ、その根本はまぎれもなく俺の案である。


「武田信玄と戦略を競う、か。これも得がたい経験、と言うべきなのかな?」
 景虎様――上杉謙信と矛を交え、今また武田信玄に戦いを挑む。
 どちらも、一介の大学生にとっては大それたことに違いない。それを自覚する俺は、しかし、かつて景虎様と対峙した時と違い、不思議なほどに落ち着いていた。
 それは敵が信玄といえど、味方に景虎様がいれば何とかなるという楽観ゆえか。
 あるいは、手に持つ鉄扇が示す景虎様の信頼を感じているゆえか。
 それとも――歴史に名を刻む英傑たちと、同じ舞台にたつ。俺はそんな奇跡を受け入れ、そして喜んでいるのかもしれない。この戦乱の世にあって、人の死と不幸は、平成の世よりもずっと身近にある。それはつまり、俺程度の力でも、救うことが出来る人がたくさんいるということではないのか、と。
(……なんとも手前勝手な戦う理由だ)
 脳裏を横切る、今際の際の両親の顔。
 砕けるほどに強く、奥歯をかみ締めながら、俺はその光景を追い払う。
 今はまだ、早い。そう自分に言い聞かせながら。




「――天城様、景虎様がお呼びです」
「……わかった、ありがとう、弥太郎」
 部下の知らせを聞き、俺は開いていた鉄扇を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
 甲冑をまとわず、刀も差さないままに、俺が襖を開けると、そこには弥太郎と、そして無言で佇む段蔵の姿があった。
 いくぞ、と声をかけることもしない。俺が歩き出すと、二人はすぐその後についてきてくれた。
 間もなく訪れる収穫に先立ち、俺たちは春日山城を離れることが決まっていた。
 向かう先は、日本海に浮かぶ孤島・佐渡島。
 ここ数月、幾度も練り直した戦略を、ようやく机上から現実へ移す刻が来たのである。



◆◆



 佐渡本間氏の惣領である雑太城主本間有泰は、長年の心労でほとんど白一色となった頭を、力なく抱えていた。
 その前に座するのは一族の有力者である本間貞兼。河原田城城主にして、今や惣領である有泰を凌ぐ権勢を手中にした野心家である。有泰とは異なり、未だ黒々とした色艶を発する髪に手をあてながら、貞兼はこともなげに口を開く。
「何も悩む必要はござるまい。元々、我らは春日山の同盟者。臣下の誓いをしたわけではない。同盟は結び、そして破るもの。為景とていくつもの盟約を破棄していたではござらんか。別にわれらが躊躇する理由はござるまい」
 その貞兼の言葉を聞き「左様、左様」と頷くのは羽茂城主である本間左馬助である。
 河原田城の貞兼と提携し、佐渡における権勢を河原田本間氏と二分する人物でもある。


 貞兼と左馬助が手を組み、有泰を傀儡としている。
 今の佐渡の情勢は、要するにこの一行が全てであった。
 だが、農民たちの重税に対する抗議や反抗こそあれ、貞兼と左馬助らの権勢が確立されてから小康状態を保ってきた佐渡の平穏は、今大きく揺らごうとしていた。
 佐渡本間氏にとっての宿願、越後進出が現実味を帯びてきたと確信させる情報が、海を越えてきたからである。


 有泰は重い口を開き、血気に逸る一族を何とかおしとどめようとする。
「かつての内乱で、我らは為景殿と定実様をお助けし、お二人が越後に返り咲く一助となった。それゆえにこの佐渡の地を任され、今日までその地位は揺らいでおらぬ。そして定実様が守護職に復権なさったからには、今後も揺らぐことはないであろう。何故、今、危険を冒してまで越後に兵を向けねばならんのだ」
 だが、その有泰の言葉に、貞兼は鼻をならして答えた。
「そもそもそれが気に入らぬのでござるよ。守護職に返り咲いた定実殿は、かつての我らの功に何も報いてくださらぬ。佐渡の安堵、などと言ったところで、我らは鎌倉の昔よりこの地を守護してきた者でござる。それは褒美などといえたものではござるまい」
 貞兼の言葉に追随するように、左馬助も口を開く。
「左様、左様。此度の戦で名をあげた小娘どもとて、かつて我らが彼奴らの父親を助けておらねば、そもそもこの世に生をうけることさえ出来なんだではありませぬか。であれば、越後の地の半分も差出し、我らに礼を申すべきところ。しかるに、春日山への不参を理由に譴責の使者を向けてくるとは増長も極まるというものでござる」


 貞兼は慎重論を唱える有泰に向けて冷笑を向ける。
「なに、惣領殿は雑太城で佐渡の地に睨みをきかせていただければよろしい。戦は我らがやりましょうぞ」
「本間家の力では、集められる兵は二千にも満たぬ。その程度で越後側に勝てると思っておるのか? まして敵は軍神と名高い景虎殿じゃぞ。先の蘆名殿との一戦で、苦もなく陸奥の強兵をやぶってのけたことを知らぬわけではあるまい」
「無論、存じておりますよ。確かに惣領殿の仰るとおり、我らが集められる兵力は、農民どもをかき集めても二千が精々でござろう。しかし、金鉱脈の開発のおかげで、我らの金蔵には唸るほどの金が貯えてござる。これをばらまけば、越後の国人衆を味方につけることも難しくはござるまい。武器も兵糧もしっかとたくわえてありもうす」
「左様、左様。それに我らが動いたところで、景虎は出て来れませぬでな。惣領殿の心配は無用ですぞ」


 左馬助の言葉に、有泰は困惑の表情を浮かべた。
 その顔を見て、左馬助は揶揄するように口を開いた。
「おや、惣領殿は上杉家が収穫を前に信濃を急襲したことをご存じない? すでに一族郎党を率いた村上義清は、北信濃の飯山城を攻め落とし、そこに篭ったそうでござる」
「なんと?!」
 有泰の驚きに、左馬助のみならず貞兼の顔にも嘲弄が浮かんだ。
「この程度の情報も掴めず、軽挙を慎めとは笑止ではありませんかな、惣領殿。武田と上杉の激突がついに、と今や町民たちの間でさえ話題になっておるというのに」
 貞兼の皮肉に、有泰は苦渋の表情を浮かべて押し黙るしかない。
 雑太城主とはいえ、周囲はすべて貞兼らの息のかかった者たちで固められている。そのような情報が有泰の耳に届く筈もなかった。当然、貞兼も左馬助も、それを承知の上で言っているのである。



 その有泰に向けて、貞兼は一枚の書状を、懐から取り出してみせた。
「申し忘れておりましたが、実はこのような書状が先日、私のもとに届きまして」
「……誰からのものだ?」
「甲斐守護職、武田晴信殿」
 その名を聞いて、有泰は息をのむ。
 そして、眼前の二人による佐渡本間氏の命運を賭した博打じみた戦が、最早とめられないことを悟った。
 顔色を失った惣領を見て、貞兼は心地よさげに笑う。
「内容は語るまでもありますまい。武田との戦の最中、上杉の背後を衝けば、晴信殿が越後を制した暁には、越後国内より十万石を賜るとの墨付きでござる」
「無論、我らが切り取った領土はそれに含まれぬとの気前の良いお言葉。清貧を旨とする辛気臭い軍神どのではこうはいきますまいよ」
「いかさま。その軍神も信濃に遠出中とあらば、春日山から援軍が来るとしても、おそらくは上田の小娘。我らの力をもってすれば容易く打ち破れよう」
「左様、左様。佐渡は長年、越後の者らに搾り取られてきましたからなあ。恨みは骨髄に徹しております。此度の戦で、先達の無念、見事晴らしてご覧にいれましょうぞ」


 互いに笑いあいながら、野心と驕慢を露にする貞兼と左馬助。
 彼ら二人の主筋にあたる有泰は、ただ黙然とその笑いを見ていることしか出来ない。
 有泰には、二人の作戦を否定するだけの情報も、識見もない。あるいは二人の言うとおり、これは本間家にとって稀有の好機なのかもしれないとも思う。
 だが、その可能性に思いを致しつつも、しかし、有泰の胸奥には黒雲が湧き上がっていた。
 鎌倉より数百年、佐渡の地を支配し続けてきた本間家の栄光の光を閉ざす、厚く重い黒雲が。
 



◆◆



  
「ふんふんふ~ん♪」
 鼻歌なんぞ歌いながら、上機嫌な政景様の横で、俺は正直倒れる寸前であった。
 情けない話だが、今も弥太郎に支えられて何とか立っているくらいである。
 そんな俺の様子にようやく気づいたのか、政景様は長く伸びた紅茶色の髪をかきあげながら口を開く。
「まったく情けないわね、ほんの数刻、舟に乗ってただけじゃないの」
「……そ、そうなんですが……うえっぷ」
「返事もできないほど弱ってるのはわかったから、とっとと横になって休んでなさい。戦はこれからなんでしょう、軍師殿?」
「は、はい、すみません……げふ」
「……というか、ほんとに大丈夫?」
 からかい甲斐のない俺に不満そうな顔をしながら、それでもこちらを案じてくれる政景様に対し、俺は目線を合わせることさえ出来なかった。というより、あわせたくなかった。多分、今の俺、死んだ魚のような目になってるだろうからなあ……


 
 なんということはない。
 単に越後から佐渡に渡ってきただけなんだが――だけなのだが。
 まさか、この時代の舟がこれほど揺れるとは。船酔いには強い方だと思っていたのだが、科学満載の高速船と、人力オンリーの軍船がこれほど違う乗り物だとは思わなかったデス。
 越後と佐渡の間に広がる日本海が、佐渡の独立にとってどれだけ貴重な防壁であるかが良くわかる。
 もっとも、政景様率いる佐渡征討軍二百は、数月間に渡って潜伏していた軒猿らの先導と、佐渡国内の協力者によって、敵の迎撃を受けることなく、赤泊の海岸に上陸することが出来ていた。


 この協力者、赤泊城主の本間氏(ややこしいが、佐渡には本間を名乗る家が十以上もある)の家臣で藍原正弦(あいはら せいげん)という。この地の領主の一人に藍原家があるが、遠祖は知らず、現代の領主とは関わりのない身の上であるらしい。
 佐渡でも力の強い羽茂本間家に従う赤泊本間家は、他家に比べて耕作できる土地が少なく、石高は千石にも及ばない。そのため、領主の贅沢に費やすための金銭は、民への重税という形でまかなわれていた。
 ただでさえ豊かとはいえない土地柄で、領主の贅沢のために重税を課され、農民たちの負担は言語に絶するものであったようだ。
 正弦はこの現状を憂えていたのだが、自分ひとりでは如何ともしがたいと唇をかみ締める日々を送っていたのである。


 その彼に目をつけたのが、佐渡に潜入し、この地の情報を集めていた軒猿であった。
 正弦は実直な人物で、かりそめにも主と呼んだ人物を裏切ることにはためらわざるを得なかった。が、このままの状況が続けば、遠からず赤泊領内に餓死者が出るであろうことは間違いなく、それ以前に農民たちの怒りが爆発してしまうことは明らかだった。
 一揆が起これば、正弦は先頭に立って、食うにも困る貧しい農民たちと戦わねばならなくなる。
 たとえ正弦がいなくても、農民たちに勝算がある筈もない。一揆に失敗した農民やその家族がどのような目にあわされるか――それを考えたとき、正弦は心のうちで覚悟を決めたのである。




 かくて、軒猿と正弦、そして近辺の農民たちの協力により、俺たちは赤泊海岸に上陸した。
 上陸後、しばらくは陸にあがった河童同然であった俺も、夜になる頃には何とか体調は回復していたので、天幕に寝転がりながら、これからの行動をざっと追うことにする。


 佐渡討伐。
 俺が武田と対峙する前に、それに踏み切ったのは、軒猿から送られてきた一通の報告書を読んだ時である。そこには、佐渡の現在の勢力状況や人物関係の他に、蘆名勢侵入の際、有力領主の幾人かが、それに乗じる気配を示したことが記されていたのである。
 蘆名の侵入で妄動するような連中ならば、武田からの示唆があれば、まず間違いなく動くだろう。いずれ折を見て、などと言ってはいられなくなってしまった。


 秘すべき信濃の戦況が、人の口の端にのぼるようになったのは、無論、俺が軒猿に命じたためである。噂を広めるに、忍以上のものはいない。
 その為にこそ、収穫より以前に、義清に蜂起してもらったのである。
 偽りの情報は、いつそれが見破られるかわからないという危険が伴うが、真実の情報であれば、こちらが細工をするまでもなく勝手に広がっていく。その噂が広まれば、間違いなく佐渡の野心家たちは動き出すだろう。それは蘆名侵入の折の反応を見ても明らかであった。
 ――そこを叩く。
 武田との戦いに備え、後顧の憂いをなくす。そして、佐渡の鉱脈を上杉家のものとする一石二鳥の作戦である。富国強兵をなすためにも財力の充実は必要不可欠である。佐渡の鉱脈は、上杉家の府庫をおおいに潤してくれるだろう。



 問題は佐渡よりもむしろ信濃にあった。
 佐渡の動きを促すために蜂起を早めてもらった信濃の戦況は、予断を許さないものになるだろう。
 だが、この点、俺はあまり心配してはいなかった。
 現在、北信濃を統べる武田軍は、旭山城の春日虎綱と、葛尾城の内藤昌秀の二人が統べている。いずれも軍を指揮する能力はもとより、内治の手腕にも長けた者たちである。だからこそ、収穫前のこの時期、占領間もない信濃の地で、大兵を催すことはないだろう。
 甲斐の晴信とて、まだ動員を完了している筈もない。つまり、早々に武田の大軍が飯山城を取り囲む、という戦況は、高い確率で起こらないと判断できるのである。
 仮に二将が直属の兵のみを率いて飯山城の義清を討とうとすれば、その時は国境に待機している景虎様の軍で一気に旭山城を襲ってもらう。城を陥とすことは出来なくても、飯山城の武田軍を動揺させることは出来るだろうし、彼らが旭山城に退こうとすれば、その退き際を義清に追い討ってもらえば、勝利をつかむことは難しくない。
 また、武田軍が動かなければ、それはそれでかまわない。その間に佐渡の征討を終わらせ、収穫が完了した後、改めて兵を徴募し、信濃の地に赴けば良いのである。
 
 


「さて、机上の計算は、現実でどうなるのかな」
 俺は一人、床の上でしずかに呟く。
 決して政景様の強さを疑うわけではないが、こちらは上杉軍二百に、軒猿が三十人ほど。農民たちを兵に加えれば、もうすこし数を増やせるが、政景様はあっさりとその案を蹴飛ばした。自分たちだけで十分ということであろう。
 だが、質で優る軍が、数で押しつぶされることはめずらしくない。
 佐渡討伐のための試金石ともいうべき、赤泊城攻略戦。これにてこずると、折角つくった優位がふいになり、佐渡を従わせるために必要な時間は膨大なものとなる。


 間もなく始まる戦は、絶対に負けることが許されない戦となるだろう。
 そう思った俺は、その言葉のあまりの無意味さに思わず苦笑してしまった。
「負けても良い戦なんて、それこそ許されないよな」
 頬を強く叩くと、胸にわだかまった不快感を無理やりに押し込め、俺は立ちあがる。
 これ以上のんびりとしていることは、さすがに出来なかった。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/07 01:01


 赤泊城、陥落。
 本間軍と上杉軍は数の上では互角であるが、あちらは城にたてこもっている。正面から戦えば、苦戦は免れないと思われていたが、協力者である藍原正弦と軒猿の手引きによって、夜襲を敢行した上杉軍が目にしたものは、幽鬼でも見るような驚愕の眼差しと、予期せぬ敵襲に慌てふためく赤泊本間軍の姿であった。
「手応えなさすぎね」
「まったくこちらの軍の動きに気づいていませんでしたから。藍原殿と、軒猿の手柄ですね」
 政景様の呆れまじりの言葉に、ようやく船酔いから復活した俺が言葉を添える。
「うん、こっちの被害は?」
「死者三人、重傷八人、軽傷は二十人ばかり、といったところです。さすがは上田長尾の精鋭ですね、城攻めをしたとは思えない被害の少なさです」
「当然よ、私が手塩にかけて育てた兵たちですからね」
 もっと褒めろ、とばかりに無い胸を張る政景様であった。


 実際、政景様の軍は強かった。
 敵が不意をつかれて混乱していたことを差し引いても、政景様以外でこれほど速やかに赤泊城を陥とすことが出来る武将は、越後でも一握りだろう。
 元々、上田坂戸城の長尾房長は、為景の一族の中でも出色の豪将であった。当然、その配下の将兵も精鋭として知られている。
 そして、その房長の娘である政景様は、ただしく父の血を受け継ぐ驍将であった。
 刀をとっては敵兵を寄せ付けず、兵を指揮しては付け入る隙を見せず、逆に的確に敵の防備の弱いところを見抜いて敵陣を切り裂いていく。
 襲撃あるをまったく予期していなかった赤泊の兵は、政景様の武威に一矢報いることさえ出来ず、城を捨てて逃げ出そうとしたが、そこを待ち構えていた俺と軒猿たちに一網打尽にされた。城主をはじめ、主だった重臣たちはことごとく上杉軍の捕虜となっている。
 政景様の率いる軍勢は、景虎様ほどではないにせよ、それに迫る武威であるといって良いだろう。もう一つ付け加えるならば、政景様は相手が強ければ強いほど、兵の数が多ければ多いほど、その実力をより高く発揮していく型なのかもしれない。
 敵のもろさに不満げな顔をしている政景様を見ていると、そう思えてしまう。いずれにせよ、今回の敵が、政景様の相手をつとめるには役者不足であったことは否めない事実であるようだった。


 ――『今回の敵』とは、赤泊城の敵だけではない。赤泊城を含む、佐渡島を統べる勢力すべてを指す言葉である。
 赤泊城を陥落させれば、佐渡の事実上の支配者である本間貞兼と、左馬助が動き出す。わずか二百の上杉勢では苦戦は免れない――おそらく、今回の戦の協力者である藍原正弦などはそんな風に考えているのだろう。勝利したというのに、彼の表情は硬い。
 だが、しかし。
 赤泊城を陥とされた時点で、否、俺たちが妨害なく佐渡に上陸できた時点で、すでに今回の戦の勝敗は決していた。その事実に、間もなく正弦は気づくだろう。



「赤田城(越後領、斎藤朝信の居城)に使者を出す……というか、もう出してるわよね?」
 政景様の言葉には、俺ではなく段蔵がこたえた。
「はい。夜襲がはじまって、すぐに」
 言葉少なにこたえる段蔵。緒戦ですでに勝利を確信したということであろう。
「良い判断ね。朝信であれば、佐渡上陸まで時間はかけないでしょう。朝信の上陸を待って、佐渡制圧にとりかかり――」
 言いかけた政景様が、言葉を止めた。俺が挙手したからである。
「颯馬、何か考えがあるの?」
「はい」
 俺は頷いて、地図上の一点を指差した。周囲の視線が、俺の指先に注がれる。
 羽茂城。本間貞兼と並ぶ実力者、本間左馬助の居城である。
 俺はその城を指して、口を開いた。
「斎藤殿を待っていては勝機を逸します。このまま全軍をもって羽茂城を陥落させるべきかと」




「……お待ちくだされ」
 唐突にも思える俺の提案に、慌てたように口を開いたのは藍原正弦であった。
 一見すると三十路の半ばを過ぎたようにも見える正弦の実際の年齢は、実のところ三十をわずかに過ぎた程度。老け込んで見えるのは、赤泊の領民や佐渡の今後を憂えてきた心労によるものである。
 今や表情の一部にもなってしまった眉間のしわを深くしながら、正弦は俺にむかって口を開いた。
「羽茂城の城兵はおおよそ八百。現在の上杉軍では、城を陥落させることは難しいでしょう。上田の殿の仰るとおり、援軍を待つべきかと存ずる。羽茂本間家は、当家ほど甘くはございませんぞ」
 その言葉に、俺はあっさりと頷いてみせる。
 そして言った。
「だからこそ、早目に潰しておく必要があるのです。羽茂が赤泊の落城を知らない今こそ、その好機と考えます。この城からの使者と偽って城内に入ることは、さほど難しくはござるまい」
 この城の庫の金の半分ももって、ご機嫌伺いに来たとでも言えば羽茂城は喜んで城門を開いてこちらを迎え入れるだろう。


 正弦は俺の言葉を吟味するように、しばしの間、目を閉じる。
「……確かに。当家は羽茂城にしたがっておりましたゆえ、不自然ではありませんな。しかし、この城はいかがなさるおつもりか?」
「放棄します」
 またしてもあっさりと言う俺に、正弦は目を丸くした。
「放棄……捨てるということでござるか。しかし、それでは……」
「より正確に言えば、しばらく放っておく、ということです。何も城を手にいれたら、必ずそこに兵を入れて持ち城にしなければならないというわけではありません」
 賊や落ち武者に悪用されないように焼き払おうかとも考えたが、火を放てばその煙から羽茂家に情報が伝わってしまう可能性もある。
 城の金の残り半分と、兵糧のすべては赤泊の民に配り、怪我人の面倒を見てもらう。ついでに捕虜たちの面倒もお願いしてしまおうか。


 城は四方の城門、すべてを開け放っておいておこう。平然と門を開けておけば、逆に入りにくいと感じるだろう。それも長い間ではない。斎藤勢が来るまでのわずかな間である。
 その間に組織だった軍が赤泊城を占領するような事態は、まず起こらないだろう。唯一考えられるとすれば、逃げ散った兵士たちが取って返してくることだが、金も兵糧もない城に敗兵がたてこもったところで脅威になる筈がない。


 俺の説明を聞き、正弦は小さく唸った。そして、それ以上反論しようとはしなかった。
 政景様も、その計画に頷いて賛意を示す。
「よし、颯馬の策でいこう」
「御意。将兵には無理を強いることになってしまいますが……」
「ふふん、私の麾下に、この程度で根を上げるような軟弱な奴はいないわ。で、この地は誰に任せる?」
「それは当然、藍原殿にお願いしたいと……」
 そう口にしかけた俺に、正弦は首を横に振ってみせた。
「藍原殿?」
 意外におもって問いかけると、正弦はまっすぐにこちらを見た。
「拙者は羽茂城の者たちにも、それなりに名を知られております。城内に入るにはうってつけでしょう。他の者を使えば、城門で遮られる恐れもございますゆえ」
「その申し出はありがたいですが、赤泊のことはどうなさるおつもりですか」
「殿のまつりごとに不満と不安を抱いていたのは拙者だけではござらんでな。此度も幾人もの同志が協力してくれたのです。彼らにこの地の差配を任せて問題はないと心得る」
「なるほど……」
 自信に満ちた正弦の言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。
 だが、特に問題はないと判断し、決断を仰ぐために政景様に視線を向ける。
 すると、政景様も俺と同じ判断をしたのだろう。即座に正弦の進言を受けいれた。


「さて、じゃあ使者は正弦と、颯馬、あんたにやってもらいましょう。貞興と段蔵がいれば、滅多なことはないでしょう」
「御意」
 政景様の言葉に頷き、頭を下げる。
 段蔵も無言でそれにならったが、ただ一人、ここまで無言で座っていただけの弥太郎は、政景様の口から唐突に自分の名前が出たことに驚いてしまったらしい。
「が、がんばりますッ!」
 と大声をあげ、驚いたような呆れたような周囲の視線に気づき、今度は顔を真っ赤にして深々と頭を下げ――下げすぎて、がつんと、やたら良い音がした。
「……大丈夫か、弥太郎?」
 あまりに良い音だったので、俺がおそるおそる尋ねると「だ、大丈夫です……うう、いたいよう」と弥太郎の湿った声が返ってきた。
 場違いな(と当人は思っている)軍議に出され、ずっと緊張しっぱなしだったのだろう。ようやく終わると思った途端の呼びかけに、なんとか保ち続けていた緊張の糸が切れてしまったようだった。


 政景様はそんな弥太郎を、しばし無言で見ていたが、やがて耐えかねたようにぷっと吹き出すと、その口からは押さえきれない笑い声がこぼれだした。
「く、くく、や、やっぱり貞興は面白いわね。元々そうだったのか、颯馬に仕えたからそうなったのか、どっちだと思う、段蔵?」
「朱に交われば、と申します、守護代様」
「つまり、原因は颯馬ということね」
「御意」
 あっさり頷く段蔵。多少はかばってもらいたいもんである。
 そんな俺の内心を読んだのか、段蔵はぼそっと呟いた。
「否定できない事実ですから」
「そんなことは……」
「ない、と断言できますか?」
「――できません」
 しゅんと俯く俺の隣で、政景様がころころと笑いながら、段蔵にこんなことを口走る。
「つまり、あんたもいずれは赤くなるということね」
「ありえません」
 間髪いれずとはこのことか。
 そう驚愕するくらい、一瞬の間すら置かず、段蔵が政景様に反駁した。
 だが、政景様はそ知らぬ顔で続ける。
「それはそれで見てみたい気もするわ」
「断じてありえません」
「こう、頬をあからめる段蔵とか」
 政景様の言葉に、思わずその姿を想像してしまった俺は、怖気で背筋がふるえるのを感じた。
 見れば、弥太郎や正弦も似たような顔をしている。
「天地がひっくりかえろうとありえません――それはそれとして、そこで妙な顔をしている三人。お話がありますので、軍議が終わっても帰らぬように」
 段蔵の言葉に、俺は手で顔を覆い、弥太郎は小さく悲鳴をあげ、正弦は渋柿を口にしたような渋面になる。
 そして、その状況をつくりだした政景様は、そんな俺たちの様子を見て、さらに笑い声を高めるのだった。



◆◆ 



 信濃飯山城。
 旭山城の北東に位置するこの城は、険阻な山中に建設された山城である。城の東側は断崖で遮られているため、城を攻めるためには北、西、南の三方しかなく、そのいずれも険しい山道を走破する必要があった。
 道はほぼ一本道――つまりは城からの見晴らしが良く、城兵は用意していた丸太や巨石を落として城攻めの兵士たちを追い払うことが出来るようになっている。
 飯山城は城としての規模こそ小さいが、これを陥落させるためには数倍の兵力を要する難攻の拠点であった。他の信濃の城の多くがそうであるように。この天険ゆえに、長年、信濃を統一する勢力はうまれることはなかったのである。


 村上義清率いる北信濃勢五百が、この難攻の飯山城を陥落させることが出来たのは、地理に精通していたこともさることながら、武田側の守備軍がきわめて少なかったからであった。
 しかも、そのほとんどが、先の信濃制圧戦で、善戦の末に降伏した信濃の国人たちであった。彼らは致し方なく武田家に降伏したものの、心底から武田に従っていたわけではない。時至らば、との思いは彼らの胸中にずっとたゆたっていたのである。
 その為、忽然とあらわれた義清の軍旗を見るや、彼らは抵抗のための武器をとるより早く、歓呼の声をあげ、城門を開いて義清を迎え入れたのである。
 武田側の指揮官は、いつのまにかその姿を消していた。


 こうして義清の手に落ちた飯山城は、遠からず来襲するであろう武田軍に対抗するため、防戦の準備に追われることになった。
 武田軍の脅威は、全員が骨身に染みている。城の天険に頼るだけのこれまでの戦い方では、再び敗北の恥辱を舐めることになってしまうだろう。武田家は独自の城攻め方法を持っており、もっとも信濃勢に恐れられたのは、甲州金山などの鉱山事業において優れた掘削技術を実践している金堀衆を、山城の水を絶つために用いる手法であった。
 いかに武勇に優れた将兵が、防備の固い山城に篭ろうとも、水が無ければ抵抗のしようがない。
 時には何里も離れた場所から地中を掘り進んでくる金堀衆に対抗する術はない。水が絶たれてしまえば、あとは城を離れて野戦で勝敗を決するしかないのだが、そうすれば満を持して待ちかまえる武田の騎馬隊に一蹴されてしまうという寸法である。


 そのため、特に水の確保は絶対に欠かせない。過去の経験からそれを知悉していた義清は、越後から百を越える樽を城内に運びこみ、これを土蔵に保管した。無論、そのすべてに満々と水を湛えた上でのことである。
 さらには臨時に貯水池をつくり、そこに水を貯えるなど、長期の篭城に備えるための作業を大急ぎで進めていった。


 一方で義清は、北信濃各地に潜伏している旧臣に向けて書状を出し、飯山城奪還の成功を知らせ、士気高揚をはかった。
 長尾景虎、直江兼続の後詰があるとはいえ、景虎は箕冠城以南には進んでこない。これは今回の出兵計画に沿ったもので、間もなく動くであろう武田軍の第一波を支えるのは、義清の役割なのである。
 義清が飯山城に武田軍をひきつけ、景虎はその武田軍の動きを見た上で、旭山城を襲撃する。これで城を陥とせれば良し。仮に陥とせなかったとしても、飯山城に攻め寄せた部隊は後背を絶たれることで動揺し、退却するであろう。そうすれば義清はその後背を追い討ち、景虎と挟撃して武田軍を撃滅する。
 もし、このとき旭山城が陥ちていなかったとしても、主力が潰え去れば、守備兵もそれ以上の抵抗は無益であると悟るであろう。
 すなわち、義清が飯山城を保持することが、今回の作戦計画の要となるのである。そのためにも、兵力は多ければ多いほど良いし、可能であれば北信濃各地で国人衆が蜂起し、甲斐から発する武田の本隊の到着を遅らせてくれれば言うことはない。
 無論、そこまでうまく事が運ぶことは万に一つであろうが、旧領奪回の好機を知らせておけば、武田に降った者たちを揺さぶることも出来るだろうと義清は考えたのである。




 だが、と義清はその類まれな美貌を曇らせる。腰にながれた黒髪が陽光を照らして、一際映える。
 周囲の兵士たちが憧憬の眼差しを注ぐ中、義清は一人、今回の戦に思いをおよばせていた。
 すでに計画通り、飯山城の防備は着々と固められつつある。諜者の報告によれば、旭山の春日、葛尾の内藤の二将の動きも慌しくなっており、まもなく飯山城奪還の兵が押し寄せてくるであろうということであった。
 今頃は佐渡の地でも、甲越開戦の報は広められ、長尾政景、天城颯馬の二将による佐渡平定戦が始まっているだろう。


 全ては作戦通り。義清は胸中でそう呟いた。
 後は春日、内藤の二将を飯山城にひき付け、箕冠の長尾景虎と挟撃して殲滅し、旭山城を奪回する。
 旭山城を陥とせば、景虎と兼続、そして義清はそこに立てこもり、間もなく甲斐の大軍を引き連れてくるであろう武田晴信と対峙する。
 この頃になれば、越後での収穫はほぼ終わっているだろう。収穫後の動員については、守護職である定実と宇佐美定満の二人に任せているので問題はない。
 動員を終えた後、定満と、そして佐渡の平定を終えていれば、政景と颯馬らが越後の大軍を率いて信越国境を越える。
 武田晴信との決戦は、旭山城近郊になるであろう。


 全ては作戦通り。
 義清は再び胸中で呟く。
 そう、作戦通りなのだ。
「あまりにも、うまく運びすぎている」
 そう思ってしまうのは、武田に敗れ続けた我が身をかばうためなのだろうか。
 根が真面目な義清は、そんな風にも考え、腕組みしながら首を傾げてしまう。
 あの天城なる若者が考案した作戦は、対武田というには、あまりに作戦領域が広い。信越国境だけでなく、北の佐渡や西の越中、そして東の蘆名家にまで視野が及んでいた。にも関わらず、それぞれの作戦には無理がなく、堅実とさえいえる内容なのである。
 東西の敵には当地の国人衆を充てて防備を固め、南北の敵には春日山の主力を差し向ける。それぞれの軍を孤立させることなく連動させ、かりにいずれかの一軍が敗れても、その後ろには必ず後詰がいるのである。
 それは飯山城の義清であれば、箕冠城の景虎、兼続であり、佐渡の政景、颯馬であれば赤田の斎藤朝信であり、西の国境であれば春日山の定満であった。東の蘆名に関しても、すでに坂戸城の長尾房長が新発田城の後詰に動いている。
 

 作戦といえば、どこに軍を進め、どこで戦い、どこの城を攻めるのか。そういった事だと考えていた義清にとっては、天城のそれは作戦というにはいささか範囲が広すぎるように思われた。逆にいえば、それぞれの戦場においてどのように勝利を得るのか、といった視点が欠けているのである。天城の立場でいえば、対武田戦をどのように勝利に導くのか。飯山城をどう守り、旭山城をどう陥とすのかという計画は不可欠のものだろう。
 だが、天城は義清がそれを控えめに指摘すると、あっさりと笑って言ったものだった。
「信濃の驍将、村上義清様がおられるのです、私程度の浅知恵で邪魔をするのは憚られますよ。義清様が今の計画に沿って戦術を考えてくだされば、それで結構です。景虎様といかに呼吸をあわせて軍を進退させるかが鍵になるでしょうから、互いの連絡だけは欠かさないようにしてください。私が言えることはそれだけです」


 そう言った天城は、その言葉どおり、本来は天城の権限であった権利を丸ごと義清に投げ渡し、自身はその補佐にまわった。水を保管する樽を集めたのも、天城の仕事の一つである。
「不思議な人だ」
 義清はそう思う。そもそも、戦に甲冑もまとわず、刀も差さずに出るという一事だけでも奇矯極まりない。だが、ただの変人だというわけでもないらしい。かつて長尾晴景に仕えていた頃、越後内乱の一方を指揮して、長尾景虎と渡り合った話は、越後ではつとに有名である。
 机上で作戦を弄ぶ類の人物は、あまり好きになれない義清であるが、天城は春日山城において、自身もろとも景虎を葬り去ろうとしたというから、ただの軍配者きどりの臆病者ではないことだけは確かである。
 しかし、平常の天城を見ていると、我が身を賭して主君の敵を葬り去ろうとした苛烈な人物とは到底思えなかった。天城が部下に叱咤される姿を見たのも一再ではない。今度のように、亡命の将である自分の下で進んで働こうとする行動も、天城の地位と越後における立場を考えれば十分に奇異なものと言える。
 それゆえ、義清の天城への評価は「不思議な人」の一語に尽きたのである。




 義清は思考がそれかけていることに気づき、頭を振った。
 義清は思う。自分があれほど苦戦した武田家が、こうも簡単に天城の掌で踊らされることがありえるのだろうか、と。
 天城の軍略の才を否定しているわけではない。だが、義清はそれ以上に武田晴信の軍略の冴えを警戒していたのだ。否、恐れていた、と言い換えた方が良いかもしれない。あの甲斐の虎は、それだけ巨大な敵将であった。
 収穫期前の攻勢は、甲斐の虚を衝いたと信じている者は多いだろう。だが、義清は、あの武田晴信がこうも簡単に虚を衝かれるとは信じられないでいた。虚実陰陽の使い分けに長じること、晴信以上の者はいない。それゆえにこそ、甲斐はこの短期間であれほど巨大な勢力に成長したのである。


 奇妙なまでの確信が、義清の胸中に育まれつつあった。
 武田晴信は必ず来る、と。
 越後の先制を許し、慌てて甲斐で兵士を徴募し、こちらが旭山城を陥としてからようやく姿を現す。そんな無様を晒す人間では断じてない。
 それは、幾度も晴信と手ずから矛を交えた義清の、偽らざる本音であった。




 ――そして、その義清の考えは、数日を経ずして現実のものとなる。
 ただし、飯山城に現れたのは、春日虎綱、内藤昌秀らの北信濃を治める二人であった。その兵力はおおよそ五千。これは上杉側の予測を大きく越える数字であったが、飯山城への敵襲は作戦通りのこと。こちらに大兵を投じたからには、旭山城の防備はそれだけ薄くなっていることだろう。
 後は彼らの後背を景虎、兼続の精鋭が襲う。その筈であった。
 だが、そうはならなかった。
 箕冠城を発し、電撃的に信越国境を突破して旭山城を目指す景虎たちの前に、重厚な布陣を布いた甲州武田騎馬軍団が立ちはだかったからである。


 その陣頭に掲げられる旗印は『四つ割菱』と『孫子四如』、そしてその陣頭で上杉軍を睥睨するは、小柄な体躯から、上杉全軍を包み込まんばかりの覇気を奔騰させる一人の少女。
「――どれほどの策を講じようと、全ては私の手の中です」
 嫣然一笑、高々と軍配を掲げた武田晴信は、すでに動員を完了した甲州軍団八千に対し、突撃の命令を下す。
 対する景虎の軍勢は、三千あまり。農民兵を含まない分、質的には上杉側が優っていたかもしれないが、不意を衝こうとしたにも関わらず、不意を衝かれたことで、兵のみならず、それを率いる将たちの胸にも動揺は及んでいた。
 数に劣り、士気に劣る。武田晴信と、長尾景虎の二度目の対峙、そして初めて矛を交える戦は、景虎にとってあまりに不利な状況で始まったのである。
 
 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/11 01:35

 武田家が情報収集に力をいれはじめたのは、それほど古い話ではない。
 武田晴信が甲斐守護職に就いてから――すなわち、まだほんの数年しか経っていないのである。にも関わらず、陰将山本勘助の統括する甲州忍の数は、信虎時代の五倍を越え、そう遠くないうちに十倍に達するものと思われた。
 孫子の情報戦略を高い精度で実現するため、自軍の諜報部門を強化する必要を認めた晴信は、惜しげもなく資金と人材をつぎ込んだ。その成果が「三ツ者」と呼ばれる現甲州忍たちなのである。
 三ツ者とは、相見(諜報)・見方(謀略)・目付(自軍の監視)の三つを主な任務としたゆえの呼び名であり、晴信は彼らを縦横に駆使して情報を集め、幾多の戦を勝利に導いてきたのである。また、甲斐および信濃の統治を磐石ならしめるためにも、それらの情報は存分に活用されていた。


 彼らの多くは商人や僧侶などに身をやつし、諸国を廻って種々の情報を甲斐の国にもたらした。越後内乱の詳細を掴んだのも彼らの仕事の一つである。
 そして今回、武田家が越後上杉家の早期出兵を読み切ったのは、やはり彼らが掴んできた『極秘情報』のお陰――ではなかった。


 諸国に諜者を放っているのは甲斐ばかりではない。当然、諸国は諜者を排しようとするし、その目をあざむき、情報を隠匿するために細心の注意を払っている。
 そういった種々の妨害、撹乱を見抜き、その上で真実を掴みとれるほどの忍の達者は数少ないし、真実と信じていたものが偽物であることもめずらしくはない。
 武田家は多数の忍を抱え、多くの情報をかき集めていたが、それらは玉石混交、なまじ数が多いゆえにそこから玉を見抜くことは並大抵のことではなかった。
 誤った情報を信じて策を練れば、数多の将兵の命が虚しく失われてしまう。真実を見抜いたとしても、それが偽りでないかと逡巡すれば、好機を逸してしまう。
 諜報とは、すなわち収拾と分析の果て無き繰り返しであり、それ一つで何もかもが明らかになる『極秘情報』などという便利な代物が、そうそうそこらに転がっている筈はなかったのである。


 今回もまた同じである。越後側の計略全てを記した極秘情報などというものはなく、晴信は幾十、幾百もの情報をかき集め、時に矛盾し、時に偽りを孕むそれらを丹念に分析し、越後の戦略を読み切ったのである。
 ただ、今回の戦に関して、晴信はあらかじめ一つの布石を打っており、それが越後の早期出兵を見抜く助けになったのは事実であった。
 その布石の名は村上義清。北信濃の国人連合を率いて武田家に抵抗し続けた手強い敵将。そして先の旭山城攻略戦において、晴信が故意に越後へ逃した一人の武将である。



 といっても、別に義清が武田に通じているわけではない。そもそも、越後に逃げたのが義清であったことも単なる偶然なのだから。
 晴信は、信濃の将を一人だけ逃がすように追撃部隊を率いた内藤に命じた。それがたまさか義清であったに過ぎないのである。
 晴信が北信濃の武将を逃したのは、越後の長尾景虎が旧領奪還を願うその人物の願いを聞き届けるだろうことを見越してのことであった。北信濃を取り返すためには、当然、景虎も信濃に踏み込んでこなければならない。晴信はそれをもって対越後戦の大義名分とする心算だったのである。
 そして、もう一つの狙い。
 越後に逃れた武将は、旧領奪還の戦に際し、上杉軍と歩調を合わせて兵を出す。これは当然のことである。
 そして北信濃の武将が、旧領奪還に際し、旧臣やかつての領地の者たちの協力を得ようとすること。これも当然のことであった。かつて村上家に仕えながら、主家を守ることが出来ず、心ならずも武田家に屈した者たちは少なくない。彼らは旧主の使いがやってくれば、諸手をあげて歓迎するに決まっていた。


 ――それはつまり。
 武田家は、わざわざ越後に多数の諜者を放たずとも、上杉家の動きを察知することが出来るということ。


 事実、晴信は信濃の降伏した者たちの動きから、越後側がかなり早い時期に動き出す心算であることを見抜いたのである。
 無論、彼らとて、旧主からの使いが来るや、いきなり兵を集めたり、兵糧を買い漁ったりといったわかりやすい真似はしなかった。
 義清の使者を迎えた者たちの多くは、武田家からの疑いの眼差しを避けるために職務に精励し、あるいは訓練に精を出し、忠勤に励んだ。武田の統治を受け入れたかに見せ掛け、近く行われるであろう信濃奪還作戦を悟らせまいとしたのである。
 剛毅木訥な信濃武者たちは、そうすることで武田の疑いをかわすことが出来ると信じていたのであろう。
 だが、腹の探り合いにかけて、武田晴信に優る者は信濃にいない。ある時期を境に、信濃の降将たちが従順になったという報告を受けた晴信は、影で信濃と越後を往来する義清の使者を捕らえるまでもなく、その動きを予測してのけたのである。


 村上義清が動く気配を示したのならば、越後もまたそれに続く。その前提の上で、越後の地を眺め渡せば、それまでは見えにくかった物も見えてくる。三ツ者が掴んできた越後の情報、その玉と石の区別をつけることも容易となる。
 ただ、それは例えるならば、百の中の十を見つける試みが、七十の中の十を見つける試みに変じるようなもの。難度は下がっても、難事であることに変わりはない。
 だが、それをこともなげに成し遂げてしまうことこそ、武田晴信の謀将としての凄みであった。
 武田家が、晴信の代になって未だ負け戦を知らぬ理由の一つが、この時代にあって信じがたいほどに高度な情報の運用にある。そしてそれは、ただ忍を多く抱え、情報をかき集めれば為しえるというような簡単なことではない。
 集められた数多の情報を、精確に選り出し、詳細に分析し、確実に活用する――それあってこそ、はじめて武田騎馬軍団、常勝の基は築かれるのである。


 彼を知り、己を知らば百戦してあやうからず。


 孫子の兵法にあって、あまりに有名なその一節。
 武田晴信こそは、その言葉を体現する日ノ本でも稀有の武将なのである。





 その晴信に優るとも劣らぬ才を持つ山本勘助が、常に主君に的確な助言を与えているのであるから、他国は戦慄を禁じえないであろう。
 もっとも、その真の恐ろしさを知る者は、この時、まださほど多くはなかった。戦の勝利とは、戦場の槍働きの先にあると考える者たちが、未だ大部分だったからである。
 ともあれ、武田家は無数に寄り集まった情報の山の中から、越後側が秘匿していた早期出兵計画を完璧ともいえる精度で見抜いてのけた。
 敵が奇襲をかける心算であれば、こちらはそれに乗ったふりをして、相手に痛撃を与えてやれば良い。そうすれば人的な被害はもとより、敵の士気に大きな打撃を与えられる。心をへし折ってやれば、いかな越後の精兵といえどその実力を発揮しえる筈がなかった。
 その方針の下、越後側の戦略に対抗して、武田家はひそやかに動きはじめたのである……



◆◆ 



 そして今。
 信濃へと侵攻してきた上杉軍の主力を捉えた武田晴信は、自身が率いる武田騎馬軍団の主力を叩きつける。
 馬場信春、真田幸村の二人を先鋒とする武田軍は、一路、旭山城を目指す上杉軍を待ち伏せ、これを強襲。緒戦において少なからぬ痛手を敵に与えることに成功した。


 武田軍の本陣にあって、晴信はじっと戦況を見つめていた。
 もたらされる報告は、全てが武田軍の優勢を伝えるものであり、本陣に詰めた武将たちは、戦線から伝令がやってくる都度、その勝報に歓喜の声をあげ、僚将たちと笑いあった。
 すでに勝ち戦気分の将兵は、この勝利に自身も一花添えたいと、次々に晴信に出撃の許可を請うてきた。
 ――そして、彼らは気づく。
 自分たちの主君の顔に浮かぶ表情が、自分たちのそれとは異なるものであることに。
 軍配を握る姿は開戦時と同じ。だが、その表情に浮かぶのは、開戦時と同じ笑みではない。決して、勝利を確信した余裕からくる笑みではなかった。




「昌景」
「はッ」
 晴信は臣下の首座に座る人物――山の将たる山県昌景に声をかけた。
 その声は、通り名のごとく落ち着いたもので、勝利に浮かれる周囲の者たちとは一線を画するものだった。
 その昌景に、晴信は短い問いを向ける。
「どう見ます、敵の動き」
「ふむ、一時はこちらの術中に落ちたと見えたが、思いのほか立ち直りが早いですな。まるで――」
「まるで、ここで武田が現れるのがわかっていたかのよう。そちの言いたいのはそんなところですか」
 主君の問いに、昌景はあっさりと首を縦に振った。
「御意。もっとも、完璧に見抜いていた、というわけでもなさそうですな。もしそうならば、緒戦の兵士の混乱の説明がつきませぬ。あるいは敵はよほどに訓練された精鋭で、こちらの奇襲の衝撃から、将兵ともに即座に立ち直ったとも考えられますかな」
「敵の将兵、ことごとく昌景のような胆力の持ち主であれば、それもありえるでしょう。だが、それこそありえません。であれば、少なくとも敵の将帥はこちらの奇襲を予期していたと見るべきでしょう」
 晴信はそう言いながらも、すでに緒戦の混乱から立ち直り、貝のように固く防備を固める敵陣を、鋭い眼差しで見据えた。
 すでに戦は、当初のような一方的な戦況ではない。依然、武田の優勢は続いているが、それはいつひっくり返されてもおかしくないほどの僅かな差であった。否、戦場によっては上杉軍が勢いを盛り返しているところさえあるようだった。


 戦場に毅然と翻る旗に記されるは『毘』の一文字。
 遠目にも鮮やかな蒼き将帥が疾駆するや、武田の堅陣は脆くも崩れ、左右に難敵を避けてしまう。臆病風に吹かれて逃げているわけではない。ただ敵のあたるべからざる勢いに、望まぬ後退を強いられているのである。
「……長尾、景虎」
 晴信の口から忌々しげな声が漏れた。
 その総帥の後ろに続くのは、越後の最精鋭たる景虎直属の騎馬隊である。錬度において、晴信の馬廻り衆にも匹敵する部隊の攻勢を受け、武田軍はなだれをうって後退を始めていた。
 このまま手をこまねいていれば、あの方面の部隊は遠からず潰走させられてしまうであろう。


「昌景ッ」
「御意。それがしが参りましょう」
「そちが、ではありません。そちも、ですよ」
 晴信の言葉に、昌景はめずらしく驚いたように目を見開いた。
「御館様も出られるのか。確かに長尾の兵は手強いが」
「そちであれば景虎と対等に対峙することはできるでしょう。ですが、ここまでの兵力差があって、結局、戦は五分でした、などとなれば武田の武威に傷がつきます。今日ばかりは六分、七分の勝ちで満足するわけにはいかないのです」


 晴信が率いる武田軍は八千。これは無論、農民兵まで動員した上での数である。
 もっとも、総力を挙げての動員ではない。
 現在の武田家の所領は甲斐全土と、信濃のほぼ全域に及ぶ。先ごろ、北信濃を制圧した際に晴信が動員した兵力は甲斐と南信濃を併せて一万二千。これに北信濃を加えた今、武田家の動員可能兵力は無理せず一万五、六千。多少の無理をすれば軽く二万を越える動員が可能となっている。
 今回、晴信が集めた兵力は自身の率いる八千と、飯山城に向けた五千をあわせて一万三千ほど。武田家の最大動員兵力を大きく下回ったのは、無論、収穫前の民心に配慮した為である。もっとも、配慮したとはいっても万を越える壮丁を集めたのだから、収穫に影響が出ない筈はなく、ことに占領間もない北信濃での武田家への不満は大きく高まった。
 だが、晴信は眉一つ動かさず、徴兵を決行する。
 晴信は民心に配慮はしたが、民衆の望みに振り回されることはなかった。必要と認めれば、領主の強権を発動させることにためらう武田晴信ではない。
 そのため、武田家の中にも、晴信の強引な行動に不満を抱く者がいないわけではなかったのである。


 もっとも、近臣である真田幸村などは、晴信の行動の裏には、一時、民に苦難を強いることになろうとも、長期的に見れば、それが甲信のためになると信ずればこそとの信念があると承知している。
 くどくどと言い訳がましいことを述べ立てる晴信ではなかったから、言葉にして確認したわけではなかったが、この幸村の考えに同調する者は数多い。また、そうでなくては、武田家の強固な家臣団を維持できる筈もなかった。
 実際、今期の年貢に関しては様々な利便がはかられることが決まっていた。それによる不備には、甲斐黒川鉱山からの収益が充てられることになるであろう。




 ともあれ、現段階において、武田の兵力は上杉軍を圧している。
 それは民にも家にも少なからぬ労苦を強いた上でつくりあげた優勢である。
 ここで上杉家の主力たる長尾景虎を討つ。
 景虎本人を討ち取るまでに至らずとも、その部隊を撃破しておかねば、労苦を強いた者たちに何の顔(かんばせ)あって見えよう。それでは常勝を謳われる武田軍団の武名が廃るというものであった。
 昌景はめずらしく血気に逸る主君を見て、諌めの言葉を発する。
「御館様、あえて申しあげるが、今の御館様は匹夫の勇に駆られておりますぞ。長尾を討つ、それは良い。だが、何も御館様が前面に出る必要はござるまい。こんな時のための臣下でありましょうぞ」
 主君を押しとどめながら、昌景は自らと、そしてこの場に控える他の諸将を指し示す。
 先刻まで優勢を確信して笑いあっていた彼らも、晴信と昌景の会話に耳を傾けているうちに得心するものがあったのだろう。今は表情を引き締め、昌景の言葉に賛同するように晴信に強い視線を向けていた。


 晴信が押し黙ったままでいると、さらに昌景は言葉を紡ぐ。
「多兵の利を駆使して続けざまに押し込めば、何、軍神といえど人でござる。必ず崩れましょうぞ。ご命令を、御館様」
 跪く昌景に、晴信は小さな小さなため息を吐いた。
「――重臣筆頭にそこまで言われては、自重しないわけにはいかないでしょう。山殿は意外に口が達者なのですね」
「おや、御館様はご存知ないようだ。木々の声、風のざわめき、川のせせらぎ。言葉はなくとも、山は案外と多弁なものですぞ」
「ふ、そうでしたね」
 くすり、と。
 一瞬だけ、柔和に微笑んだ晴信は、すぐにその顔に将帥としての威厳を宿らせ、厳然と命じた。
「山県昌景に命じる。本隊を率い、上杉軍を討ちなさい。自らを軍神と称する不遜な輩に、武田軍の恐ろしさを刻み付けるのです」
「お任せあれ、時はかかりませぬ」
 昌景は深々と頭を下げて命令を受領するや、次の瞬間には踵を返して天幕の外へ向かう。
 他の家臣も次々にそれにならい、間もなく、武田本陣から二千を越える騎馬武者が一斉に鬨の声をあげて上杉勢に向かって突き進んでいった。




◆◆




「景虎様、武田本陣から騎馬隊多数、接近中です。数、おおよそ二千ッ!」
 混戦の中、直江兼続は先を駆ける景虎の背に声をかける。
 武田軍の待ち伏せを受けてからこちら、戦い通しだったこともあり、そろそろ景虎の軍も限界が近いと兼続は見ていた。
 景虎の武勇に引っ張られる形で、この場では優勢を維持しているが、それとていつまでも続くものではあるまい。いくら軍神と称えられていようと、景虎は一人の女性なのだから。


 兼続の声に、景虎はすぐに反応した。無心に戦場を駆けているように見えて、敵と味方とを問わず、あらゆる場所に目が向いている景虎のこと、おそらく敵の本陣から増援が出たことも、自分より先に気づいていたのだろうと兼続は思った。
 景虎は、ついさっきまでの猛勇が嘘であるかのように穏やかな口調で言った。
「敵の本隊だな」
「はい。そろそろ潮時かと」
「うむ。晴信がいるならば、一当てしても良いかと思うが……」
 やや残念そうな景虎の声に、兼続はきっぱりと首を横に振った。
「一応言っておきますけど、駄目ですよ、景虎様」
「ああ、わかっている。これ以上は兵士たちがもたないだろう。兵をまとめて退くぞ」
「御意ッ」


 景虎と兼続は、直属の部隊を率いて殿軍を務め、猛追を仕掛けてきた山県勢との間に激戦を繰り広げながら、それでも最終的にはほぼ全軍を退却させることに成功する。
 今回の戦で景虎軍の死傷者は全軍の二割近くに及んだが、彼我の兵力、待ち伏せを受けたという条件を考慮すれば、むしろこの程度で済んで御の字というところであったかもしれない。
 ようやく敵勢を追い払った上杉軍は山を背に布陣し、負傷者の治療や、重傷者の後送などを行い、同時に後方の箕冠城に戦況を早馬で伝えた。


 そうして戦の後始末をする一方、今後の戦闘に向けての準備も進められた。
 夜半、景虎の天幕で兼続は口を開く。
「武田が出てきた以上、颯馬の策は御破算なのですから、ここからは景虎様が公言の責任をとっていただかねばなりませんね」
 今回の戦に先立つ軍議での発言を持ち出され、景虎は小さく笑った。もっとも、それは軍議の発言とは関わりない微笑だったが、兼続はそれとわからず、首を傾げて問いかけた。
「どうしたのですか、景虎様?」
「いや、兼続が颯馬のことを『颯馬』と呼ぶ日が来るとは思わなかったのでな。少し嬉しくなった」
「そ、そんなことは今はどうでもいいでしょうッ。ともかく、今後のことですッ!」
 かすかに頬を赤らめた兼続に、景虎は笑いをおさめて頷いてみせる。
「わかっている。もっと兵を連れて行けという颯馬に、三千で十分、といったのは私だからな。兼続の言うとおり、大言の責任はとる」
「わ、私は大言とは言っておりません! 景虎様であれば、この程度の兵力差、はねかえすことは出来るとわかっておりますゆえ」
「ありがとう、兼続。その信頼には是非とも応えねばならないな。この程度で音を上げては、佐渡にいる颯馬にも申し訳が立たない」
 景虎の言葉に、兼続はやや不本意そうな表情で口を開く。
「景虎様は、随分とその、そう――ではない、天城のことを気にかけるのですね?」
「無理に天城などという必要はなかろう――だが、そうだな、兼続の言うとおり、確かに私は颯馬を気にかけているのだろう」


 自身の内面に問いかけるように瞼を閉ざす景虎に対し、兼続は少なからずためらいを見せた末に口を開いた。
「それは、何故、なのでしょうか?」
 その兼続の問いに、景虎は戦場に似つかわしくない穏やかな表情で笑ってみせた。
「颯馬は、姉上から譲り受けた臣だ。颯馬に無様を晒すことは、姉上に無様を晒すに等しいこと。颯馬の前では常に誇れる自分でありたいのだ。それが一つ。後一つは、そう、兼続と同じだな。私が天道を歩く助けとなりたい……そう言ってくれた颯馬の芳心に報いたい。なればこそ、恥ずべき姿は見せられぬのだ」
「そう、ですか……」
 景虎の答えが、半ば案じ、半ば恐れていた答えではなかったことに、兼続はほっと安堵の息をもらす。
 もっとも、すぐに自身のそんな感情を恥じて、慌てて首を左右に振って邪念を払う兼続であった。


「兼続?」
 訝しげに問いかける景虎に、兼続は慌てて首を左右に振る。
「な、なんでもありません。そうですね、私としても、佐渡の颯馬に役立たずだと思われるのは心外です。ここはなんとしても颯馬に先達の力を示してみせましょう。少なくとも、国境に奴らを釘付けにする程度の働きはしてみせます」
「ほう、兼続がそこまで断言するとはめずらしい」
 目を丸くする景虎に、兼続はやや頬を赤らめた。自分らしくない広言だということは、言われずともわかっていたからである。
「頼りない軍師を助けるのも将たる者の務め。それ以上の意味はありませんッ」
「ふふ、そういうことにしておこうか」
「しておくとかではなく、事実そのとおりなんですッ」
 めずらしく主君に対し、がーと吼える兼続に、景虎は小さく噴出した。
「颯馬が来てから、兼続は随分と感情を面に出すようになったな。それだけ余計な力が抜けているということなのだろう。うむ、良いことだな」
「景虎様、良い加減に颯馬の奴を引き合いに出すのはおやめくださいッ!」


 ますます頬を紅潮させる兼続に暖かい眼差しを注ぎながら、景虎は本来ならばこの場にいた筈のもう一人の配下のことを思い起こす。
 春日山城での軍議において、今回の戦略案を披露した天城は、続けてこう述べた。
『――この策の通りに戦を進めることが出来れば、武田と五分以上の戦が出来るでしょう。しかし、晴信殿をはじめとする武田の将たちが、素直に私の掌で踊るとも考えにくいのも事実です』
 天城はそう言うと、地図上の飯山城を指し示し、自分の策が見抜かれた場合の武田の動きを予測する。
『かりに、私の策が見抜かれた場合、飯山城は武田領に孤立してしまいます。さすれば、箕冠に詰める後詰の部隊はこれを救援するために向かわざるをえません。見殺しにすれば、上杉家の武名は地に落ち、以後、当家を信頼する者はいなくなってしまうでしょうから。もしやすると、先の戦で義清殿を簡単に越後に逃がしたのは、このためかもしれませんね』
 武田軍は、上杉軍の増援を満を持して待ち構え、これを殲滅しようとするだろう。後詰部隊は武田にこちらの狙いを察知されないようにするためにも、精々数千しか動かせない。武田がそれ以上の兵力を動員すれば、苦戦は免れないだろう。


 天城は言葉を続ける。
『もし箕冠の部隊が破れれば、我らはさらに増援を出さざるをえません。それも、時をかければ飯山城が陥落してしまう恐れがある以上、越後で兵力の集中を待つ時間はなく、兵力を逐次、投入していかなければなりません』
 そして小出しにされた増援は、武田軍にことごとく潰される。それはあたかも、巣を襲うスズメ蜂に、単身で挑み続ける蜜蜂の如くであろう。
『武田家にとって、いわば飯山城はまたたび。その匂いに惹かれた上杉という名の猫を討ち果たし、越後という鯛を取ろうとする可能性は捨て切れません』
 それゆえ、今回の戦において、最も重要なのは箕冠の部隊である、と天城は言う。
 もし上杉の作戦通りに事が進んだ場合、この部隊は旭山城を強襲し、かつ間もなく現れる武田の本隊と対峙しなければならない。
 もし天城が恐れる事態になった場合も、おそらく自軍を大きく上回る敵の精鋭部隊と長期間にわたって対峙する必要が生じる。この方面の部隊が破れれば、上杉軍はなし崩し的に敗亡への道を歩みかねないのである。
   
  
 衆目の一致するところ、箕冠に駐留する部隊を率いる者は、長尾景虎しかいなかった。
 その下に直江兼続が従ったのも当然である。
 だが、自身がそう望んだにも関わらず、天城颯馬はこの部隊ではなく、佐渡の制圧を命じられた。
 上杉全軍を動かす策をたてた以上、もっとも危険な戦場に立つことを当然と考えていた天城は、この命令に驚くが、実のところ、さして意外な人事というわけではなかった。
 佐渡制圧も十分に困難が予想される戦であり、政景を補佐する人材が必要となるのは当然のこと。そして、現状、春日山城でもっとも政景と馬が合っているのは天城だったりするのである。
『さて、じゃあ思う存分、颯馬をこきつかってあげましょうか!』
『……お手柔らかにお願いします』
 からからと笑う政景と、その政景の言葉に、深いため息を吐きながら応える颯馬の顔を見て、景虎は佐渡制圧の成功に、はや確信に近い思いを抱いたものであった。




 今、戦は、天城が恐れていた事態となってしまった。
 景虎は思う。
 おそらく、颯馬はこれを半ば予期していたのだろう、と。
 だからこそ、あれほどこちらの部隊に身をおきたいと願ったのだろう。それは、颯馬の責任感のなせる業であろうが、しかし、それだけではないことに、景虎は感づいていた。
 具体的な言葉で表すことは難しいが、あの青年の別の一面――己が生死を埒外に置いているあの危うさが、景虎にかすかな危惧を抱かせたのだ。
 武田に策を見破られた場合、あの青年は我が身を犠牲としても勝利を掴もうとするのではないか。そう、かつて春日山城で自身もろとも景虎を焼き殺そうとした時のように。


 天城を佐渡に置いたのは、政景の補佐の為。それは間違いない。しかし、それが理由の全てではなく、颯馬の行動への危惧が含まれていることを、誰に指摘されるまでもなく景虎は気づいていた。
 もっとも、この時の景虎の考えは、危惧以上のものではない。言い換えれば、漠然とした不安のようなものだったのである――景虎が、佐渡の戦における詳細を知るまでは。


 後に、景虎の不安がはっきりとした形を得て、その胸に根を下ろすことになる切っ掛けとなる戦いが、今、佐渡の地で行われようとしていた。





◆◆





 佐渡島雑太城外国府川。
 上杉軍と、本間氏を中心とした佐渡の国人衆の軍は、国府川を挟んで向かい合っていた。
 この時、羽茂城を奇襲で陥落させていた上杉軍は、佐渡の南端を制圧しており、越後からの援軍を迎え入れていた。斎藤朝信を主力としたその数はおおよそ一千二百ほど。これに政景が率いてきた二百と、さらに佐渡の一部国人衆を加えた上杉軍の総兵力はおよそ千八百。
 対する本間軍の兵力は、佐渡の中部および北部の国人衆を中心としておよそ三千に達していた。これは本間氏の動員能力を越えた兵力であり、河原田城主本間貞兼は、少年や老人までも徴兵して、その数を可能としたのであった。


 今、その農民兵は最前線に置かれて上杉軍と向かい合っている。そのほとんどが、刀も槍も持たず、農具で武装している有様であったが、逃亡する気配は見せていなかった。あるいは、見せることが出来なかったといった方が正確か。
 彼らの後ろには本間氏を中心とした佐渡の国人衆たちが刀や槍、弓を連ねて陣を布いており、それが督戦の意味を持つ布陣であることは誰の目にも明らかだったからである。



 なりふり構わずに勝利を求めた本間貞兼と、その隣に座す本間左馬助の二人の顔には、常の余裕はすでにない。
 赤泊城の陥落、そして羽茂城の落城。
 惣領たる本間有泰を強引に肯わせ、上杉への叛旗を翻した、まさにその直後に続けざまに知らされた凶報への驚愕は、いまだ冷めやっていなかったのである。
 ことに居城を失った左馬助は、落ち着かない様子で目線を絶えず左右に向け、ときおり歯軋りの音をたてては、周囲の者に気味悪がられていた。だが、左馬助はその視線に気づく心の余裕はなかったし、かりに気づいたとしても、同じことをしていたであろう。それほどに今の左馬助は平常心を失っていたのだ。


 だが、それは貞兼にしても大してかわらない。
 無論、貞兼はいずれ越後側の侵入を招くことを予測はしていた。だが、それは少なくとも今回の武田との戦が終わった後の出来事であり、上杉勢の侵入に備える時間はまだまだ残っている筈だったのである。
 むしろ貞兼は、こちらからどのように侵攻するべきか、そればかりを考えていた。
 だが、上杉軍は想像を絶する速さで佐渡に踏み込んできた。まるで、本間家が上杉に叛旗を翻すことを、その時期さえもわかっていたかのように。



 だが、一度敵を前にすれば、戦う以外にない。今更、白旗を掲げても手遅れであろうし、上杉軍といっても、全軍挙げて攻め込んできたわけでもない。兵力数からいえば、こちらが圧倒的に優勢なのである。
 そう判断し、一応の落ち着きを取り戻した貞兼は、全軍に進撃を命じる。今はともかく眼前の上杉勢を蹴散らし、佐渡から上杉の旗を一掃することが先決であると判断したのである。
 かくて、農民を壁として前面に押したてた本間軍は、国府川を渡って対岸の上杉軍へと突撃を開始したのである。そこには陣形らしきものはなく、ただ農民と国人衆の部隊が大雑把に分けられているだけであった。
 国人衆はそれぞれの手勢を率いながら、しかしすぐに渡河をしようとはしなかった。前軍の農民たちが上杉勢を少しでも消耗させるのを待つつもりであると思われた。




 対する上杉軍は、この時、部隊を三つに分けていた。
 すなわち本隊八百を政景が率い、左翼に斎藤朝信の五百を配置し、右翼には天城颯馬の五百が陣取っていた。
 当初、政景は魚鱗陣を敷き、みずから先陣となって敵軍を真っ二つに分断してやるつもりであった。
 だが、敵の前軍が少年と老人の軍であると知り、あっさりと作戦を変更する。
 みずから壁となって敵の攻勢を受け止め、その間に左右の部隊で敵を押し包む鶴翼の陣を敷いたのである。
 無論、政景の狙いは敵の前軍をあしらいつつ引き寄せ、その間に斎藤、天城の二将を以って敵の後軍――佐渡の国人衆の部隊を攻めさせることにあった。
 前後の部隊を分断すれば、農民たちは死を賭してまで戦い続けようとはしないだろうとの政景の読みに、左右の二将は一も二もなく頷き、政景の作戦案を諒としたのである。




 かくて日の出と共に始まった戦は、佐渡の命運を決する一大決戦であり、容易に決着はつかないものと思われた――より正確に言えば、本間側の諸将はそう考えていた。
 彼らは自分たちが何処の軍と対峙しているのかを、この期に及んで理解していなかったと言える。
 退却すれば殺されるとわかっている農民たちは、死に物狂いで眼前の政景部隊に襲い掛かる。刀どころか木製の農具を持つ者さえいる敵部隊に対し、政景は適度にあしらいながらも徐々に陣列を下げ、河岸から離れていった。
 その進退は巧妙を極め、対岸で戦況を窺っていた本間軍は、政景の部隊が農民たちの勢いに徐々に押されていると信じ込んだ。


 農民ごときに押される軍など恐るるに足らず。奇襲ではなく、正面から対峙すれば、兵力の多い方が勝つのが戦というものである。
 そう考えた佐渡の国人衆は、喊声と共に次々と国府川に足を踏み入れ、一斉に渡河にとりかかった。
 その様子を、右翼にあって黙然と眺めていた天城颯馬は、武田軍の山県昌景を師とするようにじっと軍を動かさずにいたが、本間軍の半ば以上が渡河をはたしたことを確認するや、たちまち采配を揮って麾下の全軍に攻撃を命じた。
 時を同じくして、左軍の斎藤朝信も部隊を動かし、上杉軍の両翼は何の打ち合わせもないままに、瞬く間に挟撃態勢を築き上げ、河岸の本間軍に襲いかかっていったのである。




 
◆◆




 馬上、鎧甲冑を身に着けずに戦場の只中を進む俺の姿は、やはりというべきか、敵味方双方の注目の的であった。
 俺が手に持っているのは刀でも槍でもなく、ただの鉄の扇である。言うまでもないが、馬に跨ったままこれを振るったところで、敵兵を討ち取るどころか、傷をつけることさえ出来はしない。
 ただ配下の兵士に指示する際に指揮棒の代わりに用いているだけである。
 これが部隊の一番奥で指揮をしているだけなら、ここまで目立ちはしなかっただろう。だが、今、俺がいるのは部隊のほぼ最前線であり、周囲には敵兵が群れをなしていたりする。
 彼らは俺の姿を見つけると、一様に驚きの表情を浮かべた後、何事かに思い当たった様子で血走った目を向けてきた。


 今もまた一人、俺に気づいた敵将がいた。
「敵将、天城颯馬だ! 戦場に甲冑もなしとは気が狂うたか! 弓兵、構えッ、手柄首ぞ、討ち取れェッ!」
 絶叫と共にその武将が命令を下すと、配下の兵はそれにしたがって一斉に弓を構え、次の瞬間、片手に余る数の矢が俺に向かって射放たれる。
 討ち取った、と敵将は思っただろう。だが。


 轟、と。


 唸りをあげた豪槍が一閃するや、俺の身体に突き立つ筈だった矢は、すべて宙空でへし折られ、力なく地面に落ちていく。
 弥太郎の槍働きであった。
「天城様に手出しはさせませんッ」
「く、小癪な女めが。かまわん、続けて射よ! 天城を討ち取れば、上杉は大打撃を被る。貞兼様も喜ばれようぞッ!」
 
   
 佐渡の地にまで知れ渡っている虚名の大きさに、俺は思わず苦笑をもらす。俺を討ち取ったところで、上杉が大打撃を受ける筈がないというに、一体噂はどれだけ膨れ上がっているのやら。
 だが、俺の苦笑を、当の相手は別の意味にとったらしい。
 怒りを露にしながら、馬をあおった。どうやら部下に任せてはおけないと判断したようだ。
「本間貞兼が臣、氏家半兵衛、天城颯馬、その首、頂戴いた――ぐァッ!」
 今まさに駆け出そうとした氏家某は、突如奇怪な絶叫をあげ、咽喉をおさえながら落馬した。
 俺の視界に映った鈍い輝きは、敵将の咽喉を貫いた小刀であったのか。
 将の死に動揺しながらも、弓に矢を番えようとした兵士たちは、次の瞬間、使い慣れた弓から受ける奇妙な感触に戸惑いの声をあげ、そしていつのまにか全ての弦が断ち切られていることを知る。
 姿は見えないが、段蔵の仕業であろうと思われた。


 同じようなことが、先刻から幾度繰り返されたか、正直数えるのも面倒なほどだ。
 だが、これこそ俺の狙いでもある。敵の目を自身に惹き付け、敵の動きを誘導する。俺に注意を惹けば、その隙を衝くのは容易いことだ。そのためにこそ、弥太郎たちの反対を押し切って無防備な姿で戦場に出てきているのである。
 上杉軍の大軍師、長尾晴景股肱の忠臣、長尾景虎が三顧の礼をもって迎えた懐刀などなど、越後の国では、俺の名はいつのまにやらえらく大きく膨れ上がっていた。その理由は無論、先の越後内乱なのだが、中でも春日山城で、鎧甲冑をまとわず、丸腰で景虎様と対し、城ごと焼き払おうとしたくだりは大きな評判となっているそうな。


 逆に言えば。
 鎧甲冑まとわずに、丸腰で戦場に出れば皆が気づくのだ。
 あれこそ、天城颯馬である、と。


 そして、俺の虚名が大きいがゆえに、敵は俺の存在を無視できない。同時に、味方は俺を守るために奮起してくれるという寸法である。
 俺が前面に出るだけで、敵の注意を引き、味方の士気を高めることが出来るのだ。多少の危険など考慮するにも値しないだろう。
 とはいえ、刀も矢も、俺にだけ向けられるわけではない。当然、俺の周囲の将兵にも危険はおよんでしまう。俺個人に限定したとしても、鉄扇一本ですべての脅威を排除することが出来ない以上、今のように弥太郎たちに守ってもらう場面が出来てしまう。
 戦場でそれがどれだけの負担になるかくらい、俺にもわかる。それゆえ、弥太郎や段蔵ら俺の麾下の者たちには、甲冑を着てくれという彼らの請願を退けた際、思うところを正直に口にして、不満があれば他の将のところに移れるよう取り計らうことを約束したのだが。


「そ、そういう意味で言ったんじゃありませんッ!」
 と弥太郎には顔を真っ赤にして怒られ、正座させられ。
「……」
 と段蔵には無言で非難と呆れの視線を向けられ、素でへこんだ。
 他の者たちの反応も大体二人と大差なく、俺は改めていつのまにやら良臣を配下にしている自分の運の良さをしみじみとかみ締めたのである。



 ともあれ、俺はその存在を陣頭で誇示しつつ、麾下の兵を指揮して本間軍を押し込んでいった。
 相手も必死なのだろうが、正直、柿崎景家や長尾景虎と戦ってきた俺は、本間軍に一向に脅威をおぼえない。
 俺と斎藤朝信で左右から本間軍をもみたてている間に、農民兵たちを降伏させた政景様が満を持してあらわれ、上杉軍は三方より本間軍を押し包み、これを撃砕することに成功する。
 激戦になると思われた国府川の合戦は、日の出に始まり、日が中天に達する頃、すでに決着がついていたのである。





◆◆




 勝敗がついた戦場で、上杉軍の将たちは一堂に会し、互いの健闘を称え合うと、すぐに今後の動きに話題を移した。
 最初に口を開いたのは政景様である。
「これで終わり、というわけには行かないようね」
「御意。敵の本隊は対岸で高みの見物をしておったようですからな」
 斎藤朝信が、かすかに表情を強張らせながら口にする。本間軍の戦い方が気に入らなかったのだろう。もっとも、それは朝信に限った話ではなく、政景様にしても、俺にしても、同じ心境であった。
「報告によれば、敵は雑太城に入りました。後方の河原田城と連絡を密にしているようで、まだ抗戦するつもりなのかもしれません」
 俺の報告を聞き、政景様は鼻をならす。
「ふん、往生際の悪い連中だこと。これだけ叩かれて、まだ力の差がわからないのかしらね」
 朝信が同意するように頷いた。とはいえ、朝信には本間家への理解もある。
「長年、佐渡を支配してきた者たちですからな。そう簡単に負けを認めるわけにはいかぬのでしょう。彼奴らにとって、佐渡は父祖の地でありますゆえ」


 その朝信の台詞を聞き、俺はふと危惧を覚えた。
「颯馬、どうしたの、難しい顔して?」
「いえ、今の斎藤殿のお言葉で思い至ったことがあるのですが」
 俺の言葉に、朝信が興味深そうな視線を向けてきた。
 思えばここにいる三人は、先の内乱時、同じ陣営に立った三人である。不思議な縁であるといえるかもしれない。
 ともあれ、俺は自分の推測を口にすることにした。
「父祖の地を奪われないためにどうするか。連中が上杉家の力を見損なっているのであれば、また戦を仕掛けてくるでしょう。ですが、もしすでに奴らが自分たちに勝ち目がないと悟っているとしたら、取れる手段は――」
「降伏、ですな」
「はい。それしかありません」
 俺は朝信の言葉に頷いてみせる。
 政景様が首を傾げた。
「堂々と叛旗を翻したんだもの、今更、頭を下げたところで許されないことくらいわかっているんじゃないかしら?」
「わかっているでしょうね――だから、生贄を用意しているのかもしれません」


 一瞬。朝信と政景様の目に、紫電が走った。
「――本間の惣領、有泰は雑太城にいる。なるほど、そのための雑太城ね」
「ふむ。子供と老人を戦に連れ出すやり方を見るに、十分ありえる話ですな。これは急ぐ必要がある」
 俺の危惧を正しく察した二人は、たちまち表情に鋭気を宿した。
 政景様は鋭い視線を俺に向け、口を開いた。
「颯馬、策は?」
「主力を雑太城を迂回して河原田城へ。堂々と進軍して、敵にそのことを見せ付けてやりましょう。敵将本間貞兼、居城よりも、主筋の人物を守るような人物ではありません。おそらく、可能な限り早く兵を率いて河原田城へ戻るでしょう。それを確認した後、我が軍は雑太城を包囲します」
 俺は一つ息を吐いてから、さらに説明を続けた。
「軒猿からの報告によれば、本間有泰殿は道理を心得た人物であるとのことです。それが真であれば、雑太城ではこれ以上の血は流れないでしょう。後は有泰殿の話を聞いて、今後の対応を定めるのがよろしいかと」
 仮に有泰が敵にまわるとしても、その時は討ち取るべき首が一つ増えるだけで、こちらの作戦が大きく変わるわけではない。


 もっとも、いずれにせよ貞兼がおとなしく上杉に従うとは思えず、奴に河原田城に篭られると要らぬ時と兵を費やすことになる。出来れば佐渡平定に時間をかけたくない俺は、雑太城奪還の準備を進める一方で、退去する貞兼の軍勢を捕捉し、可能であればこれを撃滅するため、段蔵に一働きしてもらうことにした。
 その俺の案を聞いた政景様は軽やかに頷くと、勢い良く立ち上がり、部隊を指揮するために歩を進めた。
 俺と朝信はすぐさまその後ろに続く。
 佐渡平定に到る最後の一山が、目前に迫りつつあった。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/11 01:33

  
 本間有泰は、居城を包囲する上杉軍の陣容を見下ろし、深いため息を吐いた。
 有泰の視界に映る上杉軍は、その厳正な軍紀を示すように、規律正しく動き回り、こちらを侮る声一つあげない。
 一族の貞兼がほとんどの兵を連れて城を出てから数日。残った兵たちも次々と城から逃亡離散しており、今や雑太城の兵力は百程度しかなかった。城から逃げ出し、その足で上杉軍の陣地に駆け込んだ者も少なくないであろうから、城内に兵がほとんどいないことは、すでに上杉軍の将兵も承知していよう。
 目前に勝ち戦を控え、にも関わらず粛然とした陣容を崩さない上杉軍の精強さを、有泰はため息なしに見つめることはできなかったのである。
「……まさしく精鋭。本間家では勝ちを得られる筈もなかったか」
 一族の貞兼は、最悪の場合、有泰に罪を着せ、佐渡における本間氏の命脈を保とうと画策している様子だったが、有泰はすでに本間の家の命運が絶たれたことを承知していた。
 今回、先手先手と踏み込んできた上杉の動きから、佐渡の内情はかなり深部まで上杉方に漏れていたことは明らかである。その一事こそが、佐渡支配を目論む上杉の内心を如実に示している。有泰はそう考えていた。


 元々、佐渡の金鉱脈はどの勢力にとっても垂涎の的である。上杉が動くのも、ある意味で当然のこと。それゆえに本間家は慎重に動かねばならなかったのだが……
「今さら言っても詮無きことか」
 有泰はそう呟き、そして眼下の敵陣から馬を歩ませてくる者の姿に気がついた。
 その人物に目を向けた有泰は、目を瞠る。
 そして、すぐに近づいてくる者が何者であるかを知った。
 戦場にあって、寸鉄帯びぬその姿は、今や佐渡の軍勢にとっても畏敬の対象となりつつある人物――天城颯馬のものであった。



 
◆◆



「和睦、ですか?」
 眼前の雑太城主、本間有泰は、俺の目には白髪の目立つ初老の人物に映ったが、段蔵によればまだ五十歳に達していない年齢だという。
 一族の本間貞兼、左馬助という有力者の傀儡とされていたという話はすでに聞き知っていたが、よほどに心労の積もる生活だったのだろうと思われた。
 その有泰は、俺の持ち出した書状を見て、意外そうに目を瞠っている。俺のことを、降伏ないし切腹を求める使者であると考えていたのだろう。


 もちろん、和睦といっても戦はほぼこちらの勝利に終わりつつあるのだから、頂くものは頂く。これが景虎様であれば、おそらく有泰を復権させ、以後上杉家に忠誠を尽くすよう言い諭して、佐渡から兵を退いただろうが、俺も、そしてこの方面の責任者である政景様も、景虎様よりは欲深いのだ。というか、景虎様ほど無欲な武将なんぞ、日本中捜しても、精々一人二人しか見つからないだろう。
 それはさておき、上杉軍の要求として突きつけたのは、言うまでも無く佐渡の鉱脈である。発掘中の鉱山はもちろん、鉱脈があると思われる場所は余さず上杉の直轄領とする。そして、金を運ぶ道として国府川下流にある真野港の割譲を求めた。
 代わりに雑太城はもちろん、すでに上杉軍が占領している赤泊、羽茂の南部一帯は本間氏に返還する。今、政景様と朝信が河原田勢に追撃をかけているから、間もなくそちらの決着もつくだろう。首尾よく河原田城を陥としたとしても、それも本間家に返還することを確約する。
 その条件を聞き、有泰は思わず、という感じで疑問を口にした。


「それがしどもにとっては有難い寛大な条件でござるが、何ゆえにこのような和睦を持ちかけなさるのか。このまま河原田城を陥落させれば、佐渡全域が上杉の旗の下になびくは火を見るより明らかでござろう」
「――そして、佐渡奪還を目論む本間家の残党によって、例年のように謀反が起きることになるわけです。鎌倉以来数百年、佐渡を統治してきた本間家の影響力は、おそらくこちらが考える以上のものがあるでしょうから」
 今回、こちらに協力してくれた藍原正弦や、その同志たちも、貞兼や左馬助の横暴に対しては刃を向けたが、本間家の支配そのものを否定していたわけではない。
 おそらく、佐渡の国人衆や武士、あるいは農民たちを含めて、そういった心境は共通のものではないかと俺は考えたのである。
 もちろん、それだけが佐渡の大部分を本間家に戻す理由ではない。俺が政景様たちに説いた主な理由は、上杉が佐渡全域を直轄地にしようとした場合、相応の資金と人材を佐渡につぎ込まねばならず、正直、そんな力を割く余裕は、今の上杉家にはまだない、ということであった。


 本間家に佐渡の統治を委ねれば、戦の後始末も、今後の統治に関しても、言葉は悪いが、有泰らに責任をおしつけられる。その分、早くに兵を越後に戻すことも出来るだろう。もちろん、有泰の統治が固まるまでは幾らかの兵を残しておかねばならないから、全軍を引き上げるというわけにはいかないだろうが。
 表面的に見れば、上杉家が今回の戦で得るのは鉱脈と港だけで、農地も城も物にできていない。だが、佐渡金山の利益は、今後の上杉家にとって必要不可欠なものである。今回の戦で上杉家が支払った人と物の犠牲が報われることは疑いない。
 ついでに言えば、惣領である有泰殿を傀儡に仕立て上げていた二人を討ったといえば、国内にも国外にも聞こえが良いし、景虎様の掲げる天道にも沿う行いとなるだろう。
 まあ、代わりに金山掠め取ったと言われると一言もないので、そこは小ずるい交渉を行う俺だった。


「ただし、この案を通すには条件があります」
「……ふむ、察するに、鉱脈と真野の港は、こちらから上杉家に献上するという形をとる、ということですかな」
「――話が早くて助かります。金蔵を引き渡す形となった有泰様は、佐渡各地から非難されることになりましょうが……」
「ここまでの大敗、一族郎党皆殺しにされることさえ有り得たのです。本間の名跡を残すどころか、所領のほとんどを返還して下さる上杉家の恩情を思えば、その程度の非難、顧慮するにも及ばぬでしょう」
 あっさりと頷く有泰に、俺は少し拍子抜けしていた。正直、もっと強硬に反対されるかと思っていたのだ。そう来られたら、現在の戦の優勢を盾に押し通すつもりだったが、有泰本人がそう口にしてくれたことは上杉家にとっても有難いことである。
 今後の佐渡各地の鉱山開発や金採掘に際し、本間家の協力は様々な意味で不可欠であり、その領主が物の分かった人であるに越したことはないのである。


 だが、さすがは佐渡一国を統べる本間家の惣領というべきか。
 有泰はただこちらの言い分をのむだけの人物ではなかった。
「代わりに、というわけではありませぬが、こちらからも一つ要望を申し上げてもよろしいか?」
「はい、それはもちろんですが……」
 はて、何のことだろう、と首をひねった俺に、有泰は思いがけないことを言ってきた。
「河原田城の貞兼と左馬助。あの二人の命を、救ってやっていただきたい。そして、かなうならば、元の城に返してやっていただけまいか」
「……なんと仰る?」
 俺は思わず相手の顔を、穴のあくほどじっと見つめてしまった。
 命を救う程度ならば、まだ同じ一族の者をあわれんで、とも考えられるが、二人を元の城に返せば、これまでと何ら変わらぬ状況が続くだけではないか。
 言葉にするよりも雄弁にそう語る俺の眼差しを受け、有泰は穏やかに笑ってみせた。
「元来、あの者らは自身の智勇を誇り、佐渡を支配してきたのですが、此度の戦で、おのれが井の中の蛙であることを思い知ったことでしょう。ああ見えて、身の程はわきまえた者たちです。おそらく助命を確約してやれば、抗戦を思いとどまることでしょう。まして変わらず河原田城と羽茂城の支配を認めてやれば、城門を開くことに、ためらうことはありますまいて」
 そう言う有泰の笑みに、俺はそれまでとは異なる奥深いものを感じ取る。
 そして、その感覚は正しかった。続けて有泰はこう言ったのである。
「――さすれば、上杉軍が佐渡に居残り、あれらの残党の動きを警戒する必要もなくなるでしょう。定実様も、皆様の帰りを首を長くして待っておられましょうしな」


「……確かに、仰るとおりかと」
 俺は小さく笑って頷いた。
 信越国境のことを考えれば、この地の争いは一刻も早く終わらせたい。当初、佐渡の地に残す筈だった斎藤勢を対武田にまわせれば、思わぬ戦力増強となる。
 そのあたりの機微を察し、早期に戦の決着をつけるべく条件を出した有泰に、俺は一家の惣領としての凄みを、はじめて総身で感じ取っていた。
 上杉に対しては、早期の決着を持ちかけ、戦後の後始末一切を引き受けることで好意を得られる。それは同時に、上杉軍に佐渡の地から早々に退去してもらうことにも繋がる。上杉家が佐渡の地に残れば、やはりなにがしかの介入は避けられないであろうから、有泰は未然にそれを避けたとも考えられた。
 貞兼、左馬助に対しては、今回の敗戦の責を問い、さらに助命の恩を着せることで優位に立てるという計算であろうか。
 河原田城での戦いがなくなれば、敵味方双方の使者は大きく減じ、領主として佐渡の民を守ることにもつながる。しかも、戦での被害における補償や、それによって上杉家や、それに従う有泰に向けられる筈だった害意は未然に消滅する。


 有泰の主張が、今の上杉軍にとって有難いことは確かである。だが、有泰がそこまで考えた上で、貞兼らの助命を口にしたのだとすれば――いや、仮定ではない。有泰は越後側が決着を急いでいることを察している。
 この人物、侮れぬ。
 やりようによっては、貞兼と左馬助を押さえ込んだ上で佐渡の地を専断し、再び上杉に叛くことさえ出来るのである。


 そんな俺の危惧を見抜いたのか、有泰は皺深い顔に笑みを浮かべ、俺に提案をしてきた。
「河原田城への使いは、それがしが引き受け申そう」
「――ありがたいお言葉です。ただちに、政景様に許可をあおぎます」
 自ら命の危険を冒すと口にする有泰に、俺は自身の疑いを恥じて、すぐさま立ち上がった。
 すでに段蔵と軒猿に命じて、政景様と朝信の部隊を先導させている。急がないと、彼らのことだ。あっさりと貞兼たちを撃退し、河原田城を陥としてしまうことだろう。
 この時ばかりは、貞兼と左馬助の逃げ足が早からんことを願う俺であった。





 この日より十数日後。
 本間家惣領、本間有泰並びに貞兼、左馬助らは、有泰の居城である雑太城にて、越後守護代長尾政景に対し、正式に降伏する。
 降伏の条件は、向後上杉家に忠勤を尽くし、軍役、労役を果たすことであり、寸土の領土すら要求しない稀有なものであった。この案は本間氏や、佐渡の国人衆に大きな安堵を以って迎えられる。
 本間有泰は、この席で上杉軍に対し、本間家が所有していた鉱脈と、国府川下流の真野港を割譲し、今回の戦における不始末の侘びと、今後の忠勤を誓う。これに不満を抱く者は少なくなかったが、上杉軍が稀有な恩情をもって佐渡に対した以上、これに異議を唱えれば、その上杉の恩情そのものが覆される可能性があるとあって、表立って反対を唱える者はいなかった。



 雑太城の有泰の下には、藍原正弦をはじめ、今回の戦で上杉側に与した心ある将兵が集い、その勢力は散々な敗戦を経験した貞兼、左馬助を凌駕するものとなる。
 これを見て、長尾政景は、これ以上の上杉軍の駐留は、かえって佐渡側の警戒と反発をまねくと判断。鉱脈と真野港の割譲については、武田との戦が終わってから細部を詰めることとし、当面のところは有泰に属するものとした上で、全軍を越後に戻す決定を下す。


 かくて、上杉家の佐渡征討戦は、予期せぬ速さと結果をもって終結するに到る。
 寸土も得られぬ勝利。この遠征をそう嘲笑う者たちは、この後、春日山上杉家が、目を瞠る勢いで勢力を拡大させていくことを未だ知らない。
 人よりも、土地よりも、金を愛するか。そう上杉軍を蔑む者は、この後、上杉家の政治と軍事が急速に充実するその基に、その金が大きく寄与する事実に思い至っていない。


 ――後に多くの史家は断言する。
 佐渡金山を得たこの遠征をもって、上杉家は戦国大名への道の一歩を踏み出したのだ、と。

 


◆◆




 今日もまた、押し寄せる武田勢を押し返した。


 もし、村上義清が日記をつけているとしたら、その一行が三十日以上の長きに渡って帳面を埋めたことであろう。
 飯山城に押し寄せた武田勢五千は、文字通り、蟻のはいでる隙間もないほどの重厚な陣容をもって城を取り囲み、昼夜を問わず激しい攻撃を加え続けた。
 この方面の武田軍の武将は内藤昌秀と春日虎綱である。
 機動力に真価を発揮する風の将と、晴信に見出されながら、いまだ十全に実力を開花したとは言いがたい林の将。
 城攻めには向かないと思われがちな二人だが、その包囲攻撃は城に立てこもった義清の軍勢を確実に追い詰めていった。
 昌秀は城に押し寄せる部隊を大きく三つに分け、攻撃を加える部隊、それを援護する部隊、そして休息をとる部隊を交互に入れ替え、村上勢に息つく暇を与えない。視界が悪く、道も狭い山間の城攻めである。味方同士で部隊を交代することさえ容易ではなかったが、風の将はこういった速さにも長じており、兵力展開をほとんど混乱なく繰り返し、村上勢を驚嘆させた。
 一方の虎綱は、金堀衆を用いて敵の水源を絶ち、周辺の木々を切り取って内藤隊の展開を助け、城内に矢文を送って降伏を促すなど、打てる手を手抜かりなく打ち続けた。
 これは時に内藤勢の猛攻にまさる効果を発揮し、村上勢を苦しめることになる。



 だが、義清と、義清の率いる五百の信濃勢は、この武田軍の攻勢に耐え続け、未だ城門を破られてはいなかった。
 その奮戦は、武田の二将さえ称賛せずにはいられないもので、昌秀などはかつて義清を越後に逃がしたことを半ば本気で後悔したほどである。
 とはいえ、それは逆に言えば、敵を称賛できるほどに武田軍には余裕があったということでもある。
 なるほど、確かに義清らの奮戦は目覚しいものがある。水を絶って十日以上経つにも関わらず、未だ城兵の戦意が衰えないところをみると、そちらの備えもしてあるのだろう。
 だが、どれだけ敵が抗おうと、彼我の兵力差は圧倒的である。昼夜を分かたず攻め続けているため、城兵の体力、気力もそろそろ限界に達するに違いない。
 何より、篭城策の前提条件である外からの援軍がいつまでも到着しないことで、城内の士気は大きく揺れ動いていた。そのことを、慧敏な二将は察していたのである。




「……遅い! 景虎殿はいつになったら旭山城に攻めかかるのだ!」
 義清配下の将の一人楽巌寺雅方(がくがんじ まさかた)が、苛立たしげに床を叩く。
 義清配下の精鋭の一人として、村上家のみならず、他国にも名を知られた男であったが、さすがに一ヶ月以上もの間、敵軍の攻撃に晒され続け、苛立ちを押さえることが出来ない様子だった。
 軍議の席についた者の多くが、雅方に同調して、動きの遅い上杉勢に非難の矛先を向ける。
 作戦通りならば、今頃、背後を衝かれた武田勢はとうに退却している筈。しかるに、飯山城を攻囲する武田軍は退く気配さえ見せていないのだから、諸将がいらだつのも無理のないことであった。


「義清様、もしや我らは上杉にたばか――」
 謀られた、と口にしようとした雅方だったが、義清のたしなめる眼差しに気付き、慌てて口を閉じた。
 一ヶ月に渡る防戦で、義清とて疲弊しているだろう。否、大将である義清こそが、もっとも心身に疲労を抱えている筈である。
 にも関わらず、義清は常の静けさを崩さず、軍議の席においても取り乱した様子など欠片も見せぬ。
 その切れ長の目でじっと見つめられれば、義清の美貌をある程度見慣れている直臣たちでさえ、息をのんで見とれてしまう。そして、そんな当主に苛立ちをぶつけようとした自分を恥じるのであった。


「私たちの役割は、この城を保ちつづけることです。確かに上杉の軍略に齟齬が生じたのは間違いないでしょうが、その役割が変更されたわけではない。それに、あまり口にしたくはないけれど、武田に裏をかかれるのは初めてのことではないでしょう。この程度の苦難で、国も城も、領土も失って助けを求めた私たちを、暖かく迎え入れてくれた越後を責めるような真似をすれば、私たちの方こそ恩知らずと罵られてしまうでしょう」
「……その通りでございますな。由無いことを口にしました。お許しくださいませ」
 雅方は、義清の言葉に粛然と頭を下げた。
 義清はそれに頷いてみせたが、すぐに言葉を紡ぎ、部下の心が自嘲に流れないように配慮を示した。
「此度の戦は私たちの旧領奪回が目的であることを忘れないようにしなさい。武田は私たちの敵であり、上杉は私たちの味方。その上で、いかにすれば武田に勝てるのかを問うのが軍議の目的ですから」
「御意にございます」
 雅方はより深く頭を垂れ、他の諸将はそれにならった。


 この時、義清は自身の言葉に、内心で頭を振っていた。
 はっきりいって、ここから態勢を挽回し、武田軍を追い払うことなぞ出来る筈がないのである。勇将として名高い義清ではあるが、ここまで追い詰めれた戦をひっくり返す策など想像も出来ない。
 それでも、総大将がそんな弱気を見せることは許されぬ。
 こんなとき、冷たく取り澄ましているように見える自分の容姿は便利なもの、と義清はこっそりと呟いていた。
 配下にも、領民にも、そしてかつて信濃国人衆を率いていたときには、各地の城主からも、賛嘆された自身の美貌に対し、義清はその程度の評価しかしていなかったのである。





 何の実りもないままに軍議を終わらせた義清は、城壁の上に立って、暮れなずむ夕焼け空を見つめていた。
 間もなく夜襲組の武田軍が攻めかかってくる頃合である。敵が部隊を入れ替えるために要する、ほんのわずかな時間を利用して、義清は城の外に思いを馳せた。


 後詰である景虎が、義清ら信濃勢を見捨てるような人物ではないことは疑いない。その上で未だ援軍が到着していないということは、つまり。
「晴信に先手を打たれたということですね」
 かすかに面差しを伏せ、自身の悪い予感が的中してしまったことを、義清は改めて確信する。
 武将としては細心で、時に慎重居士とさえ称し得る晴信のこと、一度動いたのならば、はっきりと勝算を立てた上でのことに違いない。
 いかに景虎とはいえ、武田の重厚な陣容を打ち破ることは容易ではあるまい。一度兵を発した武田の強さと粘りは、誰よりも義清が思い知らされている。


 こちらに五千近い兵が攻め寄せている以上、景虎に向かったのは最低でも五千以上、おそらくは万に近い数であろう。景虎の三千では、武田軍を打ち破るどころか、逆に越後に踏み込まれないようにするのが精一杯か。
 そう考えれば、いまだに攻め寄せる武田軍が、退く気配さえ見せずに戦い続けていることも納得できる。後顧の憂いがないのならば、それが当然であろう。
 このままでは、景虎は敗れ、この城は落ちる。それは避けられない結末であろう。このままならば。


 だが、と義清は周囲の山並みに視線を向けた。
 すでに秋が色濃く感じられる色合いに染まった信濃の天険を見て、義清は最後に残った勝算に全てを賭ける。
 義清がこの城に立てこもって一ヶ月以上。すでに収穫の時期は到来している。
 当然、春日山城では収穫を終えた後、大規模な動員をかけて大軍を徴集している筈である。
 景虎が戦線を保つことが出来ているのならば、その援軍を得た上で、逆襲に転じる心算に違いない。そうすれば、この城を取り囲む武田軍も必ず動く。
 その時こそが、義清にとって、眼前の戦に勝利する唯一無二の勝機であろうと思われた。



    
 
 そこまで考えた時、ふと、義清の耳に鳥の鳴き声が響いた。
 何の鳥かはわからないが、おそらく番なのだろう。夕焼け空の広がる城の上空を仲良く飛び回った後、ゆっくりと飯山城の山麓に下りていく。


 ――その光景を見た義清の眼差しに、不意に鋭い光がよぎった。


 その光を消さないままに、武田の旗指物が乱立する山麓に視線を据える。静かな――鳥が舞い降りるほどに静かな、その陣容。
「……しまったッ」
 思わず、義清の口から呻きがもれる。思えば、神速を誇る内藤勢が、未だに攻め寄せてきていないではないか。
 常の義清であれば、敵陣の兵気を見過ごすなどありえぬが、やはり長きに渡る篭城に心身が疲労していたのかもしれない。


「雅方」
「は、どうなさいました、義清様?」
「武田が兵を退いた」
「な、なんですとッ?!」
 義清の言葉に、雅方は慌てたように視線を麓に向ける。
 確かに妙に静かな気はするが、と雅方は首を傾げた。義清ほどの戦術眼を持たない雅方には、義清ほど確たる断言はできかねた。
 しかし、これまで義清がこの種の言葉を発し、誤ったことはない。それを知る雅方は口を開き、追撃の可否を問う。
「追いまするか? 先刻まで戦っていたのです、さほど遠くへは行っておりますまい。ただ、こちらの兵の疲労が気がかりですが」
 その雅方の言葉に、義清は小さく頷いた。
「そうだな。それに内藤であれば、こちらを誘き寄せ、迂回して城への帰路を絶つことも出来るだろう。ゆえに、雅方はここで様子を見よ。私は馬廻り衆を率いて、追撃をかける」
 あっさりと言う義清に、雅方はとんでもないとばかりに、大仰に首を左右に振った。
「なりませんッ! それでは役割が逆でございましょう。先刻の義清様のお言葉を借りれば、此度の目的は旧領奪回、そして将は義清様で、我らはその臣です。危険を冒すは我らの役目でござろう」
「……む」
 雅方の言葉に、義清はわずかに言いよどんだ。
 内藤、春日の退却は偽りではないと、義清の武将としての勘は告げている。いつもであればそれに従う義清だが、ついさきほど、その勘が鈍ったことを自覚したばかりとあって、雅方の進言にも理を感じてしまったのである。


 だが、義清の逡巡はそこで終わった。
「も、申し上げますッ! 麓より騎馬が一騎、近づいております。掲げるのは――上杉の旗?!」
 戸惑いを隠せない報告が届けられたからである。
 見れば、たしかに城門に向かって疾駆する騎馬が義清の眼にも映っていた。背負うのは上杉の旗印、これも間違いない。
「何事?」
 思わず呟く義清。
 武田軍の急な退却と、ほとんど時を同じく到着した上杉の使者。
 その意味するものがわからなかった義清は、足早に城壁を降り、城門に向かう。わからないのであれば、やってくる使者に訊ねれば良い。
 吉報か、それとも凶報か。
(あるいは、そのどちらも内包するか)
 そんなことを考えながら使者を迎えた義清は、使者の口から語られた事実に、つかの間、声を失うことになる。村上義清ともあろう者が、一瞬とはいえ忘我の状態になるほどに、その知らせは意外なものであった。
 すなわち、使者はこう告げたのである。



 武田、上杉両軍の和睦成立。
 京洛よりの使者の名は細川藤孝様、同幽斎様。
 仲介された方の御名は、足利幕府第十三代将軍、足利義輝様――




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/13 21:45


 京都の将軍、足利義輝からの命令により、上杉軍が武田軍と和睦したのは、両軍が信越国境で向かい合い、間もなく激突する寸前であった。
 この頃、佐渡の地から大急ぎで戻ってきた政景様の軍と、定実様、定満らの徴募した四千の兵は景虎様の軍との合流を済ませていた。春日山軍の兵力が五千を割っているのは、陸奥の蘆名と、越中の椎名らが兵を動かす気配を示していたからで、少なからぬ兵力をそちらに割かざるを得なかったからである。
 当然、この両者に対抗する軍勢は当初から配置されていたのだが、思ったよりも大規模に動きそうだったのだ。武田の示唆があったことは疑うべくもなかった。


 ともあれ、俺たちの援軍をあわせた信越国境の上杉軍は、八千の大兵力となった計算になる。
 すでに景虎様率いる軍も、幾度も武田側と矛を交え、三千を大きく割っていたから、正確には七千数百
というべきか。
 一方の武田軍は、こちらも八千弱。数の上ではほぼ互角である。敵の奇襲を凌ぎきり、上杉軍が合流できたことを考えれば、戦術的にはこちらが優っていたといっても良いかもしれない。
 もっとも、武田軍は飯山城に五千近い大軍を向けているとのことで、城にこもっている兵力が千にも満たない義清の苦戦は必至であった。今日明日にも城が陥ちても何ら不思議はなく、また仮に義清が持ちこたえてくれたとしても、すでに城兵に戦う力はほとんど残っていないだろうから、武田が千ほども残して、残りの四千の兵力を戻したとしても、戦力比はあっさりと引き離されてしまうだろう。
 備えはしてあるとはいえ、越中と陸奥の国境での戦いも決して楽観できる状況ではない。
 かなう限り早くに東西の戦線に援軍を送る必要があったのだが、そのためには総合的な戦力で優る武田軍を撃破しなければならず、それが簡単に出来る相手ではないことは、誰もが承知していた。
 むしろ、そんな焦りを抱えて戦えば、その隙を衝かれてこちらが敗北してしまうだろう。


 焦らず、されど腰を据えて戦うことは出来ず、戦力に優る敵を撃破する。
 ――将軍家からの使者が到着したのは、ちょうど上杉軍がそんな命題に苦慮していた時だったのである。


◆◆


 上杉軍の陣営に訪れた使者の名は細川幽斎。
 武田軍の陣営に訪れた使者の名は細川藤孝。
 あれ、同じ人? と俺は首をひねったのだが、聞けば双子の姉妹であるらしい。最近、元の戦国時代の知識が足枷になっているような気がしないでもない俺である。
 この時、足利将軍家がこの信越国境の戦を調停するために使者を発したのは、無論、理由がある。
 将軍権力の失墜は周知のことであり、それは現在の争乱絶え間ない全国を見れば誰の目にも明らかであろう。
 だが同時に、将軍という名の持つ影響力の全てが失われたわけではない。ことに京から離れるほどにその傾向は強くなっていく。
 一国一城を力で奪うだけではただの成り上がり、下克上で終わるが、そこに将軍ないし天皇の勅許が下りれば、その者は正式な国主であり城主として認められると考える者は多い。事実、不正な手段で権力の座に就いた者の多くは、多額の献金と共に京に使者を送り、官位を望み、あるいは国主として任命してくれるよう依頼するのである。
 また、戦が長引いた場合の調停を金銭で依頼する場合も多く、こういった収入が現在の将軍家の主な財源となっているのである。


 しかし、今回の場合、上杉家から使者が発ったという事実はない。確かめたわけではないが、武田家も同様であろう。武田家にしてみれば、現在、一時的に五分の形勢となっているが、前述したとおり、それをひっくり返すことはさほど難しくはない。わざわざ多額の金品を献上してまで、将軍の名を利用する理由がないのである。
 では、上杉家はどうか。
 これは、武田家とは別の意味で、その理由がない。
 別の意味とはすなわち、今回の戦に至った理由――村上家の旧領奪回である。そのためには、むしろ将軍家の調停は有害となってしまうのだ。


 その理由とは。
 どう考えても和睦のためには両軍の領土認定が不可欠である。そして、武田が村上旧領を手放す理由がない。少なくとも、現在武田家が占領している旭山城までの領有権を主張するに違いなく、それは将軍家にとっても不当とは映るまい。
 城も領土も、武力で奪い合うのが戦乱の世。まして武田家が信濃に進出した理由は、甲斐の内乱につけこんだ信濃国人衆の侵略に対抗した為という名分がある。
 その侵略に抗戦して信濃に進出し、侵略された信濃の国人衆が他の国人衆に助けを求めたため、信濃全域への征服に発展した。結果、武田は力で信濃を手に入れたのだから、将軍家としては武田の領有権の主張をはねつける理由がないのである。また、はねつければ、武田が和睦に応じる理由がない。
 無論、和睦に応じないことを理由に、武田の不義をならすことも出来るが、今回の調停はおそらく将軍家がなんらかの意思を以って介入してきたこと。武田の主張はほぼ認められることは間違いなかった。
 そして、将軍家が武田の主張を認めた場合、村上家の旧領奪回という大義は失われる。これから先、信濃に踏み込めば、それは『将軍家が認めた信濃武田領』への侵略とみなされるのである。


 言うまでもなく、景虎様は将軍家に逆らうことはしないだろう。それは政景様や定実様も同様である。
 だからこそ、下手をすれば村上家と上杉家との仲を切り裂く結果となりかねないこの調停、上杉家にとっては様々な意味で無私できない意味を持つものとなったのである。 
 
 
 緊張した表情で使者の言葉を待つ上杉の首脳陣。
 だが、驚いたことに、使者としてあらわれた細川幽斎はこの上杉の事情をほぼ正確に把握していた。
 その上で、将軍家が武田家に示した条件は驚くべきものだった――良い意味と、悪い意味と、両方の意味で。



 

「――犀川以北、ですか?」
 長期の篭城の後だというのに、そのことを感じさせない義清の姿に、俺は驚きつつも頭を垂れた。
 場所は信濃飯山城。とりいそぎ和睦成立の使者を遣わしたすぐ後、俺も弥太郎たちを連れて飯山城へ向かったのである。
 詳しい経緯を村上軍に知らせることが一つ。
 そしてもう一つは、上杉軍が武田と正式に和睦を結ぶため、義清らの同意を得るためでもあった。


 その使者が何故、俺なのかといえば、こういうとき、非常に使い勝手が良いからである。
 春日山城にいる定実様は無論のこと、政景様や景虎様は簡単に軍から離れられない。一方、俺は実質的に軍を率いていないので、身軽に動けるのである。
 もっとも、ただそれだけの条件で言えば、他にもあてはまる者は無数にいる。俺が選ばれた主な理由は、俺の名が、越後のみならず、他国にもかなり知れ渡っており(と自分で言うのも面映いのだが)、越後側の誠意を相手に認めてもらえるからである。
 つまるところ「あの天城殿みずから足を運んでくれるとは」と思ってもらえる……というのが定満の説明なのだが……本当なのだろうか??
 俺の虚名が随分広まっていることは認めざるをえないのだが、外交にまで影響を及ぼすとは今ひとつ信じがたい。まあ、どのみち、命じられたら出ざるをえないのだが。


 義清は、俺の報告を一通り聞き終えると、首を傾げつつ確認をとってきた。
「……まことに晴信が、この和睦案、受け容れたのですか?」
「はい。将軍家の御使者に確認をとりました。間違いなく、武田家はこの案を受け入れ、旭山城から兵を退くとのことです」
 ざわり、と周囲の村上家の家臣がどよめいた。その当主である義清の顔にも当惑の影がちらついている。
 そして、彼らの表情は俺にも共感できるものだった。なにせ幽斎殿の話を聞いたとき、ほぼ同じ反応を俺や政景様たちも返したからである。
 地図を見れば明らかなように、犀川以北とは、飯山城から旭山城へ到る北信濃の穀物地帯である。武田は現在確保している旭山城ごと、それを越後に、というより村上家に返還するという将軍家案を受け容れたというのだ。
 これが武田家が戦で敗北寸前だとかいうならまだしも、現在の戦況は良くいって五分。むしろ長期的に見れば、武田家の方が有利とさえ言える。
 この状況で晴信が兵を退くどころか、旭山城まで明け渡すとあっては、容易に信じられないのは当然のことであった。


「無論、それだけではありません。和睦が成立した暁には、武田家には従五位下信濃守の官位官職が与えられるとのことです。事実上、犀川以南は武田領として公認されることになり、村上家の旧領奪回の試みは、これ以後、武田領への侵略という形にならざるを得なくなります」
 俺がそれを口にすると、家臣の中から強面の武将が口を挟んできた。確か楽巌寺雅方といったかな、この人は。
「それでは筋が通るまい。将軍家は武田の侵略を正当と認められるのかッ?!」
「……そうですね。認めるおつもりでしょう。というより、すでに官位官職の件まで手を打っているということは、すでに認めているということでもあります」
「馬鹿なッ! そのようなふざけたことをぬかす公方などに、どうして我らが従わねば――」
 楽巌寺が拳を振り上げ、激昂しようとする、その寸前。
「雅方」
 義清の口から、鋭い制止の声が飛んだ。
「し、しかし、義清様。かような裁定、我らに従ういわれなどッ」
「雅方、口を慎みなさい。公方様に対し、異議を唱えるさえ不敬であるに、誹謗を行うなど逆臣の行い。あなたは村上家を滅ぼすつもりですか」
「い、いや、そのようなことはありませぬが、しかし……」
 義清の言葉に、楽巌寺は口こそ閉ざしたが、その顔にはありありと今回の調停に対する不満の色を浮かべていた。そしてそれは、将軍家や武田家のみに向けられるものではなかった。


 一ヶ月以上に渡る武田家の猛攻に孤立無援で耐え忍び、ようやく訪れた上杉の使者が、この裏切りともいえる報告をもたらしたことを、楽巌寺ははっきりと非難していたのである。
「……武田家が信濃守ということは、上杉家は越後守でも――」
「雅方!」
 楽巌寺の口から皮肉が出ようとした直後、義清の口から勁烈な叱咤が迸った。
 村上家の諸将のみならず、俺までが背筋を正してしまうほどの威厳の篭った一喝である。
 粛然とした場に、打って変わって物静かな義清の声が流れていく。
「村上家の将たる者が、婦女子のごとき物言いをするでない。もとより、私たちの力だけでは、この飯山城一つ保持しえぬところであったのは明白。犀川以北が戻ってくるというのであれば、これすべて上杉家の助力あってのこと。あなたとて、それがわからないわけではないでしょう」
 諭すように、また力づけるように楽巌寺に語りかける義清の姿は、穏やかな中にも反論を許さぬ勁さと、頷かざるを得ない説得力にあふれたものだった。


 楽巌寺が項垂れるように、首を縦に振ったのを見て、義清はかすかに憂いを込めた瞳で俺に向き直る。
「天城殿、部下の非礼は私がお詫びいたします。どうか今の言は聞かなかったことにしてもらえませんか?」
 俺は小さく、無礼にならない程度に肩をすくめてみせる。
「――さて、楽巌寺殿は何か言われたのですか? 佐渡から帰って休む暇もなかったもので、少しぼうっとしておりました。こちらこそ無礼をお許しいただかねばなりません」
 義清の笑みは、感謝というよりは、あまりにも陳腐な俺の言い分に対する苦笑だったのかもしれない。とはいえ、他に良い言い訳もなかったのだから仕方が無い、と割り切ることにする。
「礼を言います」
「何を仰せになりますか。むしろ私たち上杉家は皆様に詫びねばなりません。私は村上家の同意を得るために来たと申し上げながら、その実、事後承諾に等しいのですから」


 上杉家はすでに将軍家案を受け容れることに、ほぼ決まっている。仮に村上家が反対、ないしは譲歩を求めて異議を申し立てようと、上杉家がそれを支持することはない。
 なぜなら、それをすれば間違いなく武田は、こちらに和睦の意思なしと判断して即座に戦端を開くだろう。武田が大幅な譲歩をもって将軍家案を受け容れたことは明瞭。一方の上杉・村上陣営がそれを理解せずに我が利を申し立てれば、将軍家の心証は一挙に武田側に傾くに決まっている。
 そして、武田が戦端を開いたこともやむなしと判断するだろう。将軍家の調停に異を唱えたのは事実なのだから。
 つまり、上杉家はもう調停案に首を縦に振るしかないのである。村上家がどう判断しようとも、それはかわらない。
 多分、武田はこのあたりの葛藤まで見越しているのだろうと思う。ここで村上が意地を張れば、すぐにも兵を北上させる心算だろう。それに対し、上杉家は容喙できない。村上家が武田家に滅ぼされるところを、黙ってみているしかないのである。
 俺が使者に選ばれた理由はここにもある。
 つまり、政景様の言葉を借りれば――
「あんたの口八丁手八丁で何とかしなさいッ」
 となる。ここで義清らが異議を唱えたとき、それを覆すことが、秘められたもう一つの役割であった。


 そんなわけで、俺は密かに緊張していたのだが、案に相違して――あるいは予想通りというべきか、義清はあっさりとこう言ったのである。
「上杉家が将軍家の調停を拒めないのは当然のこと。天城殿、戦の始まる前にも言いましたが、すでに我らは上杉家と命運を共にする心算でいます。ゆえに、我らが調停を拒まないのも当然のことです。ただ――」
 義清はここで小さく首を傾げてみせた。
「武田の狙いが不分明なのが気にかかります。官位官職といいましたが、今の将軍家であれば、金品を積めばそれを得るのは難しくない。あの晴信が、ただ将軍家の調停だからという理由だけで、今現在の領土を城ごと手放すとは思えないのです」
「はい、仰るとおりです。将軍家の話には続きがあります。武田の譲歩は、そこにも絡んでくるのです」
 俺の言葉に、義清だけでなく、周囲の家臣団も耳をそばだてる。将軍家の話とあれば、誰も無関心ではいられない。
 そして、俺の話が将軍家の目的に踏みこんでいくにつれ、飯山城の軍議の間には、驚愕とも感嘆ともつかない声が沸き起こっていったのである。



◆◆



 上洛令。
 それが、足利将軍家から、上杉、武田両家に下された勅命であった。
 上洛とは、言うまでもなく京へ上ること。だが、無論、将軍家は定実様と晴信の二人にただ京へ来いと命じたわけではない。
 上杉と武田、東国でも強兵と名高い両家の兵をもって都に入れという、これは命令であった。
 現在、足利将軍家は京都山城を支配しているものの、その実態は近畿一帯に強い勢力を誇る三好・松永の傀儡という身分である。
 第十三代将軍、足利義輝はそれら権臣に頭をおさえつけられ、京の統治ですらままならぬ状況に置かれているらしい。また、今回のような調停や和睦の斡旋に関しても、全面的に三好らの意見が反映されており、全国を統治運営し、日ノ本を平和ならしめるという足利幕府の権能は、まったくもって機能していない状態であった。


 義輝はこの状況に危機感を覚え、有力な地方勢力を京に招いて、三好一党を牽制してもらうことを思いついたという。そのためには、まず何よりも三好らに対抗できるほどに強く、そして将軍家への忠誠を持っている家を見つけねばならなかった。
 これが昨今の情勢では意外なほどに難しい。強いだけの家、忠誠をつくしてくれる家、いずれか一つだけなら数多あるが、その二つを兼備した家は日本全土を見回してもなかなか見つからない。
 そんな義輝の目が、上杉と武田に注がれるのは当然のことであった。両家とも強さという点では東国でも抜きん出ている。では二番目、すなわち将軍家への忠誠心はどの程度のものなのか。京に上ってもらい、三好らと結託してしまったなどということになったら、足利義輝の名は稀代の愚か者として残ってしまうだろう。
 それゆえに、義輝は慎重を期していたのである。


 そして、機会はほどなく訪れる。義輝直属の忍が、両家に激突の兆しありと報告してきたのである。
 これを受け、義輝は側近の細川姉妹を極秘に信越国境に派遣する。宮廷の中の影響力では、まだ将軍家が図抜けている。官位官職に関しては問題ない。
 あとは両家が将軍家の調停案にどのような反応を示すのかが問題となる。
 義輝の命を受け、姉妹は双方の陣営を探り、現状を調査し終えると、それを鳥をつかって義輝に知らせた。
 放たれた鷹は知らせをもって信濃から京都に飛び続け、義輝の返書をもって今度は京都から信濃にはせ戻る。実は今回の戦での一番の功労者はこの鷹であったやもしれぬ。
 そして姉妹は義輝の返書を手に、使者として両陣営の門を叩いたのであった。





 実のところ、当初の義輝案において、村上の領域は犀川以北ではなく、飯山城と野尻湖を結んだ線より北、という範囲だった。北信濃の、さらに北の隅とでも言うべき小領である。
 だが、武田軍の勢いを聞けば、いかな義輝とて犀川以北などという案は出せない。義清らにせよ、北信濃領内に自領を得られれば最低限の満足は得られるだろうとの考えであった。
 そして、上杉軍は北国路を、武田軍は美濃路を通っての上洛を命じようと義輝は考えていたのである。当然、道々の領主には自身から手紙を書き与え、領内の通過を命じるのである。細川姉妹が両軍の陣頭に立つのだから、上杉と武田の謀略ではないかという諸侯の疑いを消すことは可能であろうと考えたのである。
 だが、これに武田が反対した。今、美濃を治めるのは油売りの身から一国一城の主になりおおせた斎藤道三である。奇略縦横のこの人物が、領内に武田勢の通過を認めるとは考えがたいと主張した。
 だが、美濃路を通らないとなると、後は東海路しかないのだが、こちらはこちらで問題がある。現在、尾張の織田信長と、駿遠三の参加国にまたがる領土を持つ『東海一の弓取り』たる今川義元は、激しく矛を交えている。そして、武田家は今川と同盟を結んでいる家である。
 尾張の織田信長が、武田軍の領内通過を容易く認めるとは思えなかった。くわえて、うつけと評判の信長であれば、どのような狼藉を働いてくるかわかったものではない、というのが晴信の考えであった。


 武田軍に使いしたのは細川藤孝であるが、藤孝にとっても晴信の言は首肯しえるものであった。少なくとも、絶対に大丈夫と断言する根拠を持っていなかった。
 しかし、美濃路も駄目、東海路も駄目とすると、武田軍の上洛の道は閉ざされてしまうことに――
 そこまで藤孝が考えた時、晴信は薄い笑みを浮かべながら、こう言ったのである。
「ゆえに、我が軍も北にまわしましょう」と。


 北。上杉軍と同じ北陸路。
 無論、そこを通るためには武田軍は北信濃の村上領はもちろん、越後春日山城周辺を通り、越中へと進軍することになる。上洛のための精鋭を引きつれ、つい先ごろまでの敵国の居城近くまで踏み込ませろ、と晴信は要求したことになる。
 これには藤孝も慌てた。いくらなんでも、そのような要求を上杉側が呑むはずはない。武田軍が矛をさかしまに春日山城に攻めかかり、同時に信濃の武田軍が動けば、上杉軍は一日で滅亡の危機を迎えることになるからである。
 だが、今回の上洛は将軍家の命運がかかったものである。上杉、武田を動かすために、義輝は三好・松永の輩を通しておらず、これが表ざたになれば、傀儡である義輝の立場が危うくなるのは明らかであった。
 それほどの危険を推してまで義輝が動いているのだ。義輝に絶対の忠誠を誓う細川姉妹は、何としても両家を動かさなければならない。
 しかし、この武田案はどう考えも無理である。藤孝の懊悩に、しかし、晴信はこう提案してきたのである。
「あなたが何を懸念しているか。そして上杉が何を恐れるかはわかっています。それゆえ、私がそのような背信を行わぬという確たる証を示しましょう。我が武田の所領は、ここ――犀川以南とします」
 晴信が指し示した地図を見て、藤孝は一瞬唖然とする。
 晴信は、義輝が武田領と認めた領土の多くを村上に譲りわたし、それをもって自身が決して将軍の上洛令を反故とせぬことの証とする、と申し出てきたのである。


 この武田の提案を、上杉は拒否できなかった。それは上洛を望む将軍家を蔑ろにすることであり、より多くの領土を返還される村上家に対して無礼になるからだ。
 かくて、上杉、武田両家の和睦は成立する。
 それは同時に上杉、武田混成軍の上洛という、前代未聞の一事の始まりともなるのであった。

 
    



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/15 23:23


 おそらく、今、この場にいる人々は心の底から思い知っていることだろう。
 両者の視線が空中で音をたてて衝突する、とか。
 二人が向かい合う、ただそれだけで、宙空で火花が散った、とか。
 そういった装飾過多な表現が、しかし過不足なくあてはまる状況というのが、この世にはあるのだ、と。


 長尾景虎と武田晴信。
 この二人が黙然と向かい合っているこの場に居合わせることが出来たのは、果たして幸運なのか不運なのか。いずれにせよ、得がたい機会であることにかわりはないが、感謝する気にはなれそうもなかった。
 俺は二人の間に存在する、物理的に見えてしまいかねない鬼気迫る緊迫感に冷や汗を流しながら、半ば現実逃避にそんなことを考えていた。情けないというなかれ。多分、この場にいる九割以上は俺と同じ心境であろうから。



 最寄の寺の一室を借り受け、将軍家よりの使者、細川藤孝ならびに幽斎の立会いの下で行われた、上杉、武田両家の和睦会談。
 本来ならば、この席には定実様が来なければならなかったのだが、定実様は春日山城で後方を固めているため、すぐには国境まで出てこられない。必然的に、守護代である政景様が上杉側の代表となり、景虎様がその傍らに控える形となった。
 上杉側からその旨を伝えられた武田家はそれを諒とした。その回答の早さに、おそらく晴信本人は姿を現さず、代理の者が姿を現すであろうと俺たちは予測した。  
 上杉側の代表が、当主の定実様ならばともかく、家格的に劣る長尾家の者たちでは、甲斐源氏の正嫡を誇りとする晴信がわざわざ出向くとは思えなかったからである。


 だが、その予測に反し、晴信はみずから会談の場に現れた。
 そして、細川姉妹の口上に黙々と聞き入り、示された和睦の文書に花押を押す。そして、政景様もまったく同じ動作を繰り返す。
 この間、両者、一切無言。
 ただ細川姉妹の言葉だけが淡々とあたりの空気を振るわせるだけであった。




 とはいえ、これは別におかしなことではない。
 上杉・村上軍と武田軍は、つい先日まで矛を交えていた間柄である。さすがに村上家の面々はこの場にいなかったが、互いに、相手に肉親や戦友を殺された者は少なくない。和睦が成立したからといって、酒を飲んで高歌放吟できる豪胆な者ばかりではないのである。
 もっとも、これがただの和睦の場であれば、それでも問題はなかった。露骨にいってしまえば、どうせすぐにまた戦端を開くに違いないのである。この場だけ耐え忍べば、このなんとも言いがたい空気から抜け出すことは出来る筈だった。
 だが、問題なのは、この和睦の場は、同時に、これよりほどなくして行われる上洛軍編成のための話し合いの場でもあったのである。
 刃を交えていた間柄であったからこそ、誤解を生じないためにも細部は煮詰めておかねばならない。上洛の途中に同士討ちでも演じようものなら、三好の一党に嘲笑されるだけではすまないであろう。
 

 とは言うものの。
 正式に和睦の調印が為された後、さて上洛に関する話しあいを、という段階に入ると、細川姉妹が、互いに言葉を探しあぐねた様子で視線をかわしあっていた。
 声こそ発しないが、二人の心中は我がことのように良くわかる。
 つまり――どうしろっていうんだ、この空気。まさかこの空気のまま京まで上る心算なのか、と。




 ただ、それは心配のしすぎであろう。
 計算高い武田が、誠心から上洛を肯ったとは思えない。間違いなく、この上洛に利を見たから賛同したのであろう。
 であれば、将帥に関しても、おそらくは他の将――重臣である六将か、あるいはその下の二十将を立てるものと推測して問題あるまい。
 そして、それは上杉家もかわらない。
 越後の国は、今、守護職が国を離れられるほど安定しているわけではない。
 必然的に上杉家の軍は景虎様が率いることになる。このことはすでに上杉軍内では決まっていることであった。
 無論、景虎様自身の熱望もこの決定に大きく寄与していたが、やはり大本は、守護と守護代が何ヶ月も国を離れることを、越後の情勢が許さないという点に求められる。
 実際、越中の椎名はすでに動きをやめているが、陸奥の蘆名はまだ積極的に動く気勢を示しているため、この会談が終われば、政景様はそちらに向かうことになっているのである。



 そうなると気になるのは、どうして晴信みずからこの場に出てきたのか、ということである。こちらが守護不在なのだから、武田側が代理の者を遣わしても大きな問題にはならない。あるいは、将軍家に対して武田の誠心を無言で示すつもりであろうか。
 あるいは越後側の人間を、自らの目で確かめたいとでも思ったのかもしれない。いずれにせよ、用件は済んだであろうから、晴信がこの場にいる理由はなくなったと考えられる。
 実際、ようやく口を開いた晴信の第一声は、次のようなものだった。
「……それでは、私はこれで失礼させていただきましょう。将軍家の御使者には申し伝えてありましたが、武田軍三千、率いる将は春日虎綱です。上洛に関することは、虎綱に一任してありますゆえ、何かあれば虎綱に話して下さい。とはいえ」
 晴信の口元に、刃のように薄い笑みが浮かぶ。
「言うまでもありませんが、武田軍は独立した行動をとらせていただきます。たとえ行軍を共にする相手であろうと、命令に従う義務はありません。それはお忘れなきよう」
 その不敵な言葉に、上杉側から反論があがった。
 言うまでもなく、景虎様である……なんだか雷鳴の轟きが聞こえた気がするのはきっと気のせいです。



「――勝手に戦い、勝手に進む。それでは二つの家が協同で兵を進める意味がないでしょう。将軍殿下がそのような雑軍をお望みとは思えません」
「おや、では軍神殿は我が軍の麾下に入ってくださるのですか。それは心強いですね」
 揶揄するように微笑む晴信に、景虎様の表情がかすかに強張る。
 だが、景虎様の口が開かれる寸前、さらに晴信は言葉を紡いでいた。
「もしそうでないのなら、武田に上杉の下につけ、といっていることになりますが、こちらがそのような提案、飲む筈もないでしょう。どのみち平行線なのですよ、指揮権の統一に関しては。であれば、余計な軋轢を生むような議論などせぬが良い。双方が自由に行動し、最低限の連絡だけを欠かさぬようにしておけばそれで構わぬでしょう。無論、将軍家の意向に従うという前提の上で、ね」
 それを聞き、一瞬、景虎様の口が「しかし」という形に動きかけた。
 だが、晴信の言葉に理があると感じたのだろう。その言葉が音となって出ることはなかった。



「虎綱」
「は、はい」
 晴信の声に従い、進み出てきた武将は春日虎綱。
 武田家の静林の将として、その名は越後にもつとに聞こえている。もっとも、山県や山本、あるいは馬場や真田といった面々と比べれば、与しやすい相手だとも思われているのだが。
 とはいえ、内政にも軍事にも手堅い手腕を有し、その弓の腕前は甲信越でも屈指のものだ。油断して良い相手ではないし、まして舐めてかかったりすれば、命をもって過ちを償うことになるであろう。


 短めにそろえられた黒髪、整った要望ながら化粧気のない顔、飾り気のない格好……改めてこうして肉眼でその姿を見ると、なんというか、随分と頼りない――もとい影の薄い――もとい控えめな感じの人である。
 これがあの『逃げ弾正』かと思えば少し拍子抜けした観は否めないが、同時にかなりほっとしたのも事実である。この人なら、上洛で行軍を共にしても、少なくとも今のような空気は生まないだろう。ただその一点だけで、俺としては大歓迎したい気分で一杯である。
 ――はッ?! まさか、上杉側にそう思わせることこそ、晴信の深慮遠謀。そのためにここまで来て、この刺々しい雰囲気をつくりだしたのか。おそるべし甲斐の虎。多分ちがうけど。





 ともあれ、虎綱と越後側との顔合わせも済んだところで、晴信は退出していく――筈だった、のだが。
 何故だか、俺は晴信に見下ろされていた。あと、睨まれていた。
 いや、多分、相手は睨んでいるつもりはないのだろう。ただ観察の視線を走らせているだけなのだろうが、その視線を受けている身としては、緊張せずにはいられない。
 そう。退出する筈だった武田晴信殿は、何を思ったかスタスタと俺の前にまで歩を進めてきたのである。


 右手を腰に当て、座ったままの俺を傲然と見下ろす晴信。
 これは何か口にするべきか。いや、しかし。
 などと内心慌てふためいていた俺の耳に、晴信の声がすべりこんでくる。
「そなたが天城颯馬、ですか?」
「は……? あ、いえ、はい、私が天城颯馬でございます、晴信様」
 慌てて畏まる俺。
 対する晴信は、相変わらず、鋭い視線を俺に注ぎ続けている。なにやら解剖されているような気がしてきて、居心地の悪いことおびただしい。


 その戸惑いを隠し切れず、表情に浮かべてしまいそうになった刹那、晴信が口を開き、俺に問いを向けてきた。
 射るような眼差しが、俺の両眼を見据える。わずかな誤魔化しも許さないとの意思は、言葉によらずともはっきりと伝わってきた。
「此度、上杉の背を刺すために用意していた刃は、時が至らぬうちにすべて取り払われていました……そなたの仕業ですね」
 その問いに、俺が答えを返そうと口を開きかけるが、晴信は俺の答えなど求めていないかのように、言葉を続けていく。あるいは今の発言、問いではなく、ただの確認であったのかもしれない。


「越後上杉家の懐刀。農民からの成り上がりとも、流れの軍配者ともいわれるが、長尾晴景に召抱えられる前の氏素性を真に知る者はいないときく。此度の越後の包囲網、これを見抜き、破るなどただの農民には決してなしえぬ業。戦場で采配を揮うだけの小才子でも同じことです。しかし、そなたは見抜き、こちらの網を食い破り、あまつさえそれを利用して佐渡を押さえてのけた――」
 晴信の言葉が、静かに周囲に響き渡る。
 突然の晴信の行動に、この場にいる人々の視線はこちらに集中してしまっている。自然、晴信の言葉は多くの人の耳に届き、今や俺を見つめる視線は十や二十ではきかなくなっている。
 武田家のみならず、将軍家の使者までいるこの場所で、偽りを口にすることは出来ないし、あまりにあからさまな遁辞を構えれば、上杉家に恥をかかせることにもなりかねぬ。
 この状況を、おそらくは意図的につくりあげたのであろう晴信は、これでもかとばかりに俺の逃げ道を塞いだ上で、静かに俺に問うた。



「――そなた、何者です?」



 その問いを晴信が口にした瞬間、不意に俺は両肩に鉛でも乗せたような重圧を感じた。
 晴信がかすかに本気になった証でもあろうか。
 正しく絶体絶命……と言いたいところなのだが。






「今、申し上げましたよ」 
 あいにくと、どんなに凄まれても、答えは一つしかなかったりするのである。
「私の名は天城颯馬です。この日ノ本の国で生まれ育った私は、それ以外の名も、氏素性も持ち合わせておりません」
 その俺の答えに、晴信はかすかに目を細めた。
「なるほど、では質問をかえましょう。その知、その采配、いずれで学び、修めたものですか」
「書物を読み、戦場を駆けて」
 晴信の視線の圧力に抗しながら、俺は出来るかぎり涼やかさを装って簡潔に答える。
 まあ、嘘ではないしな。いつ、どこで、何を読んだのか、とか聞かれるとまずかったりするのだが。 



 しばし、無言で交差する俺と晴信の視線。
 押しつぶされそうな威圧感を総身に感じるが、しかし一方で、こうやって間近で接すると、案外と晴信が小柄な人物であることに気付く。ついでに言うと、えらく美人であることにも。
 年齢的に言えば、美人というよりは美少女といった方が良いのだろうが、後五年もすれば国色と称えられることうけあいであった。まあ女性と縁遠い俺の保証なんぞ、何の役にも立たないであろうけれども、な。



◆◆



(……ふむ)
 晴信は内心で首を傾げていた。
 目の前の男の心底が、今ひとつ読みきれない。上杉家の人間が、つい先刻まで敵であった武田の当主と向き合っているのだ。少なからぬ怒りや憎しみがあってしかるべきと思うのだが、天城からはそういった類の感情が窺えない。
 また、今も別の場所からこちらを見据える長尾景虎のように、戦意を叩きつけてくるわけでもない。
 こちらの威を感じてはいるが、そこに畏怖や脅威を覚えているわけでもないようだ。
 そんな天城を見ていて、晴信はふと思う。
 あるいは自分は、何か根本的な勘違いをしているのではないか、と。上杉家の懐刀が何者であるのか、その器を見極めようと考えていたのだが、今、目の前にいる人物を見極めるためには、その視点は何の役にも立たないのかもしれぬ。


 そう考えた晴信の脳裏に、ほんの数日前の出来事がよみがえった……







「御館様、お話がございます」
 上杉との和睦、そして上洛。
 武田軍の諸将にとっても予想しえない事態が続き、武田軍内部にも少なからざる混乱が起きていた。
 反対、忠告、危惧、疑問、様々な形をとった問いが晴信に向けて発されたが、それらはことごとく晴信の予想したものであって、武田家としての決定が覆ることはなかったのである。
 すでに時刻は夜。武田軍は煌々と篝火を焚きながら、夜営の準備を行っていた。上杉・村上両軍との和睦がなったとはいえ、北信濃はつい先ごろまで敵領であった土地。何事が起こるかわからないのである。
 そんな陣営の影を縫うようにして、晴信の下に山本勘助が現れたのは、月が天頂で半月の形をとり、地上の山野に薄明りを投げかけていた時刻であった。


「どうしました、勘助。此度の件、そちには今さら説明する必要はないと思いますが」
「御意。ですが確かめたいことがございまする。それゆえ、参り申した」
 晴信はわずかに首を傾げた後、小さく頷くと勘助を自らの天幕の内に導いた。
 あたりには護衛役を務める兵士が詰めているが、天幕の中には晴信以外誰もいない。勘助は呟くように口を開いた。
「……自陣とはいえ、天幕内に御館様一人だけというのは望ましくないのですがな」
「このくらいは目こぼしして下さい。四六時中、人の目に晒されていては息が詰まる。ただでさえここ数日、口吻を尖らせた者たちに昼夜を問わず押しかけられているのです」
「ふむ、しかしその者たちも武田のことを思えばこその行動。それだけ武田家を、御館様を思う心篤き者たちが多いということでしょう」
 晴信はそれを聞くや、軽く軍配を手甲で叩く。高く澄んだ音が天幕内に響き渡った後、晴信は軍配を口元にあてた。
「わかっています。だからこそ、懇切丁寧に話をした後、お帰り願っているのですよ」


 軍配に隠された口元が尖っているのを知るのは晴信本人だけである。
 武田家を思う心篤きがゆえに、此度の決定の意味がわからぬ自らの思慮の無さをさらけ出している――そのことに気付かない家臣たちへの不満が、晴信にはないわけではなかったのである。
 だが、すぐに晴信は口を開き、その感情を伏せた。
「して、勘助。まさかそちまで皆と同じことを申すつもりではないでしょう。話とは何ですか?」
 主君の問いに、勘助は深く頷くと、ゆっくりと口を開いた。



 武田・上杉両軍による上洛。
 だが、無論のこと晴信は、ただかしこまって将軍の命を奉じたわけではない。そこに利用すべきものがあったからこそ、あえて本来は領土と出来た筈の犀川以北の地を削ってまで将軍に従う格好をとったのである。
 晴信は美濃路を進むという将軍の案に異を唱えたが、実のところ、武田の全力を挙げれば、美濃、南近江を通って山城に達することは可能であると考えていた。たとえ斎藤や六角、佐々木などが抵抗しても、である。
 ただし、それはあくまで上洛の可否という意味でのこと。美濃や南近江を保持するだけの力は、今の武田にはない。一時的な占領は出来るだろうが、甲斐信濃のように武田家の領土とするには、まだまだ時期尚早であった。
 これは上洛を志す同盟国の今川義元への配慮もある。今、下手に西へ伸びれば、今川家との関係が穏やかならざるものに変じてしまうだろう。


 そしてもう一つ、晴信が西への伸張に慎重な姿勢を示すのは駿河の東、甲斐の南東に位置する相模の北条家の存在を警戒しているからであった。
 北条家第三代当主氏康は、稀世の名君と謳われ、民衆の信望が極めて厚く、また戦も非常に巧みであるという。否、実際、幾度か矛を交えている晴信は、北条家の力を伝聞によらず承知していた。
 その一族には『地黄八幡』で知られる闘将北条綱成や、あるいは北条家の祖である早雲の時代から北条家を支え続ける北条幻庵などといった有力な武将たちが多い。また、その配下にも有能な者たちがずらりと居並んでいる。聞けば北条幻庵などは、齢五十をはるかに越えているにも関わらず、その外見は早雲時代の如く若いままだとの風説さえあるそうな。
 その真偽はさておき、北条家と武田家は現時点で友好関係を築けていない。
 今川家の太原雪斎の提唱する三国同盟は水面下で徐々に進められているが、正式な締結までには今しばらくかかるだろう。今の時点で、今川、北条、双方の警戒や野心を刺激するのは得策ではなかった。


 では、今川、北条への配慮のために将軍家を拒絶するかとなると、それはまた別の話。
 権威は衰えたりといえど、将軍はやはり将軍であるし、幕府はやはり幕府である。
 つまるところ、晴信にとって上洛とは選れて(すぐれて)政治的、戦略的な面が強く、ことに今回の上洛はその色が濃い。
 それは逆に言えば、他に優先すべき事柄があれば、そちらを優先して構わないという程度の意味でもある。
 そして今の晴信には、上洛より優先すべき事柄がいくらもあった。
 甲信の地、ことに占領まもない北信濃の地を磐石ならしめること。
 越後、上野、あるいは美濃、飛騨といった地域に侵攻するために、今川、北条と結んで後顧の憂いを絶っておくこと。
 また、今回の強引な徴兵による臣民の不満も沈静化させねばならない。
 将軍の思いつきと勢いだけの上洛に、武田家の命運を賭す心算などかけらもない晴信であった。
 それゆえ、上洛軍を統べるのは晴信ではない。では、何者を以って、武田軍三千の将兵を統帥せしめるのか。その答えは――


「虎綱では不安ですか?」
「御意。いささか春日殿にとっては荷が勝ちすぎるのでは、と思われまする」
 武田軍を統べる六将が一人、静林の将、春日虎綱。
 晴信は上洛する武田軍三千を統べる将に、その春日虎綱を据えたのである。
 無論、意図あっての登用である。
「此度の上洛で必要なのは、上杉と適切な距離を保ち、北陸路における折衝をこなし、都において武田の武威を高からしめること。信春、幸村では上杉と諍いを起こす可能性が高いでしょうし、戦や武功に目が行き過ぎてしまう。そちや昌景であれば問題なく務められるでしょうが、この上洛で武田の両山を動かす心算は、私にはありません。であれば、残るは虎綱と昌秀です。昌秀でも問題はありませんし、もっと言えば、現状、虎綱よりは確実に結果を出してくれるでしょうが――」
「――されど、それではわざわざ三千もの兵を割く理由には弱い、というところですかな」


 勘助の言葉に、晴信は小さく頷く。
「ええ。正直、この時期に上洛したとて、我らも上杉も雪がとければ帰国しなければなりません。その後、将軍は、これまで以上に三好・松永らに圧迫されることになる。此度の上洛、結局将軍みずからの首を絞める結果に終わることでしょう。それを承知していないのか、あるいは承知していても、もう地方大名の力を借りねば京すら保持できぬのか、それはわかりませんが……」
 晴信は言葉を続けた。
「けれど、武田家にとってはどちらでも良い。将軍の命を奉じて上洛したという事実は今後の武田にとって大きな意味を持ちます。今川家は良い顔をせぬでしょうが、たかが数千の兵が、数月、京にとどまるだけのこと、しかもそれが将軍の命によるものだといえば、不満を表に出すことはないでしょう」
 それだけではない。
 信濃から春日山での詳細な地理を知ることができれば、今後の越後との戦いで大きな利益となる。くわえて、北陸における布石を打つことも可能。京にのぼれば、最近、西国よりの噂に聞く鉄砲なる物を手に入れることも出来るだろう。


 そこまで言って、晴信は、ただし、と付け加えた。
「その程度の利であれば、三千の兵力を数月、将軍に貸そうとは思いません。三千の兵。三千の兵糧。三千の武具。三千の兵士と、その数倍の家族らの不安と不満。これらを賭すために、もっと大きな見返りを望む私は欲張りなのでしょうか?」


 それこそが、晴信をして春日虎綱を主将とした人事の目的であった。
 未だ自身の力を信じきれず、その才を身の底深く沈めたままの林の将。
 おそらく、今のままの虎綱でも、他国から見れば十分に有能であり、将としての役割を果たしていると映るだろう。
 だが、と晴信は思う。
 今の虎綱は、まだ蛹。これを羽化させるために、晴信はこれまで目立たぬながら手を尽くしてきたが、未だ虎綱は己の殻を破るには至っていない。
 であれば、この上洛という一大事において、虎綱に全権を委ねてみるのも一興。前述したとおり、この上洛に失敗したところで、晴信にとっては大した痛手ではない。それに虎綱であれば、軍事にせよ政治にせよ、あるいは外交にせよ、無様な真似は晒すまい。
 晴信にとってはともかく、武田家にとって、また武田の多くの臣にとっては重要と目されている此度の上洛で、虎綱が一皮むけてくれれば、三千の兵力を投じた価値はあったと言えるであろう。




 勘助はそんな晴信の考えを理解していた。そして、それゆえにここに来た。
 この偉大な、けれど年若い主君に、欠けているところを補うために。
「逆に、春日殿をより萎縮させる結果となることもありえましょう。此度、春日殿が背負うは三千の兵の命だけではありませぬ。将軍殿下の勅命を果たさざれば、武田の家名は地に堕ちてしまいもうす。それは将として、兵の命を預かるとはまた異なる重圧でござろう。少なくとも、春日殿はそう考え、自身を追い詰めるに相違ござらぬ」
 勘助はなおも言葉を続ける。
「まして春日殿は、日ごろ御館様のご期待に沿えぬ自身に悩んでおられる様子。その春日殿にあえて更なる重荷を担がせることは、御館様がお考えになられているよりも、はるかに危険な賭けであると、それがし申し上げておきまする。過ぎた権能は、時に良からぬ結果を招くもの。それだけは、ご承知おきくだされい」


 勘助の進言に、晴信はやや当惑したように、目を瞬かせた。
 進言の含意に気付かない晴信ではない。
 成否を問わず、経験を積ませるというのならば、重圧を感じているであろう虎綱にせめて一言、晴信自身の口から言葉をかけておくべきであろう。勘助はそう促しているのである。
 しかし、と晴信は思う。
 それを口にすれば、なるほど、虎綱の心の強張りは解れるであろうが、それでは大任を与えた意味が薄れてしまわないか。
 だが、勘助は、晴信のやり方では、虎綱に要らぬ重圧をかけることになると言っている。それは晴信にとって思いがけない指摘であった。


 晴信は将として、また国主として優れた稟質を有し、文武双全の才を併せ持つ。臣下への目配りも怠ったことはない。そんな晴信であるからこそ、現在の武田家の重厚な陣容を築くことが出来たのである。
 だが、そんな晴信だからこそわからないこともある。
 元々、晴信は臣下を大切にはしても、過大な期待をかけることは滅多にない。その臣下の限界を冷静に見極め、仕事を与え、地位を授け、武田家の力としてきた。その限界を見誤った例はほとんどなく、晴信に見出された者たちは、この主君が自分以上に自分を知ってくれていると、忠誠を新たにするのが常であった。
 虎綱への期待にしても、晴信は決して過大な期待をしているつもりはなかった。晴信の目に、虎綱は今回の上洛を仕切れるだけの才は十分にあると映る。あと少しの自信があれば虎綱自身もそれに気付く筈。その自信は、上洛時の経験を積み重ねることで獲得することが出来るであろうと晴信は考えていたのである。


 晴信にとって、苦難は打ち破るもの。試練は乗り越えるものであった。それらは自身をより大きく飛躍させる糧である。ましてや晴信が認め、見出した虎綱であれば、よもやそれに足をとられることはあるまい。そう考える晴信は、勘助に指摘されるまで、ついに気づけなかった。
 主君の期待に応えられない自身への失望、己の才を花開かせることの出来ない焦燥。
 挫折を知らぬ天才にとって、知識として蓄えることは出来ても、決して実感することの出来ない、虎綱の胸に巣食うそれらを、自身が後押ししているという事実に、である……








「晴信様、どうかなさいましたか?」
 黙然としている自分を訝ったのか、天城が声をかけてくる。
 どうやら少し考えに耽ってしまったらしい。晴信は頭を振った。
「なんでもありません。聞きたいことは聞けました。礼を言います。それでは、いずれまた」
 戦場にて会いましょう。内心でそう続けながら、晴信は踵を返す。
 そうして、天城に背を向けて歩きながら、晴信は奇妙な着想が、胸奥に育まれていることを知る。


 天城颯馬と、春日虎綱。性格も立場も異なる二人。だが、晴信が心底を見抜けなかったという一点で、共通する点を持つ二人。
 上杉の将にして、将ならざる心を持つ天城であれば、あるいは虎綱の心を良い方向に変えることも出来るかもしれない。
 何故だか一瞬、そんなことを考えてしまった自分に、晴信は気付き――そして、すぐさま一笑に付した。
「……ふ、我がことながら、埒もないことを」
 先日の勘助の言が、それだけ堪えているのかもしれない。奇妙な思いつきの理由を、そこに求めた晴信は、その足で会談の場となっていた寺から出る。



 遠く甲斐への帰路をたどりはじめた晴信が、今日の日のことを思い出すのは、これより数ヶ月後のこととなる。

 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/19 08:03


 長尾景虎率いる上杉軍五千。
 春日虎綱率いる武田軍三千。
 合わせて八千に及ぶ上洛軍の進軍は、周囲の危惧をよそに迅速を極めた。
 この軍が越中の国に入った時、いまだ紅葉が散っていなかったことからも、それは明らかである。
 この速やかな行軍を可能とした理由としては、両軍が騎馬部隊を主体として編成されている事実の他に、両家が冬の到来を恐れたことが挙げられる。
 上洛をうたって、北陸地方で豪雪に閉じ込められてしまうなど、笑い話にもなりはしない。それゆえ、北信濃から越後、越後から越中へと到る道を進む上洛軍の進軍速度は、他国を瞠目させるに値するものとなったのである。


 親不知子不知の難所を通り抜けると、越中の有力者である神保氏や椎名氏の出迎えを受けた。上杉軍は、彼らとつい先日まで刃を交えていたこともあり、緊張を隠せなかった。もちろん、それは向こうも同様であったろう。
 元々、越中と越後には、為景よりも前、為景の父能影の代にまで遡る因縁が存在する。
 かつて能景は、越中の地で、国人衆と一向一揆によって討ち取られたのである。
 当然、その後を継いだ為景は、越中と一向宗を敵視した。為景は越後国内で地盤を固めると、越中に侵略の矛先を向け、幾度かの戦の後、越中東部を長尾領とすることに成功する。
 これにより、長尾家の武名は北陸全土に響き渡ったのだが――それも長くは続かなかった。


 為景の侵略に脅威を覚えた越中の国人衆と、為景の一向一揆禁止令に反発した一向宗は再び手を組み、協同で越中の長尾領に大挙して攻め込んできたのだ。
 この戦いは、圧倒的な戦力差から為景が敗れ、結局、この戦で受けた傷が元で、およそ一年後、為景は越後の地で没することになるのである。
 景虎様にとって、越中はいわば父の仇であった。もっとも、戦での生き死には武将の常。実際、景虎様が越中に対してどのような感情を抱いているかは、俺にはわからない。少なくとも、表立って景虎様が越中征伐を口にしたことは、一度もないことだけは確かである。
 仮に、父の仇を討つとの思いが景虎様の胸にたゆたっているとしても、将軍家からの命に従っている現在、私怨を持ち出して事を構えることは許されない。まあ、それ以前に、景虎様が私怨で軍を動かすなど想像も出来ないが。
 ともあれ、馬上、静謐さを崩さない景虎様に倣うように、上杉軍は粛然と軍を進めるのであった。


 一方、越中の者たちにとっても事態は簡単ではない。国人衆の警戒心もそうだが、何より問題なのは一向宗徒であった。信者の多い越中において、一向宗禁止令を出した長尾家は仏敵に等しいのである。
 現状、越後守護は上杉氏であり、禁止令は有名無実化されているが、それでも一向宗徒の、長尾家に対する敵愾心は覆いがたい。
 今回、将軍家から本願寺に対して上洛への協力要請がなされており、本願寺側はそれを受け入れており、北陸各地へその旨の通達はなされている筈、と幽斎は語る。しかし、それでも門徒の暴発を警戒する必要があるのだから、どれだけ長尾家が一向宗から目の仇にされているかがうかがえよう。
 これは後々厄介なことになる前に、何か手をうっておくべきかもしれない。


 しかし、と俺は首をひねる。
 宗教絡みの対立に、俺のような無宗教の人間が手を出すと、余計に事態を悪化させてしまう可能性が高い。俺は、盆も、クリスマスも、正月も違和感なく受け入れる現代日本人であるからして、この時代の宗教がどれだけ人の心に根ざしているのか、なかなかに理解しがたいところがあるのだ。
 ともあれ、この地に長く留まることは避けるべきであった。
 上杉軍にせよ、武田軍にせよ、道中の兵糧、薬、武具に馬具などの他に、将軍家への献物や、道々の大名たちへの贈答品などでかなりの大荷物を抱えていたのだが、両軍はそれを感じさせないすばらしい進軍速度で越中の地を横断、まもなく越中と加賀の国境へと到達したのである。





 国境の彼方に遠ざかる神保らの軍勢を遠くにのぞみつつ、越中の地を後にした俺は、ぽつりと呟いた。
「――念のために段蔵に頼んで、越中各地に軒猿を放ってもらったのは、当然の用心というものだよな、うん。後ろから追い討ちかけられるかもしれんわけだし」
 すると、同じくぽつりと隣の段蔵がこたえる。
「そうですね。そのついでに越中の地理を事細かに調べて地図をつくるのも、当然の用心というものですね。越後に入った武田も同じようなことをしてましたし、さすがは天城様、腹黒さは甲斐の虎殿と良い勝負です」
「……これを褒めてもらってると思えれば、人生、幸せに生きられるかもしれないなあ」
「何を遠い目をしているのですか。あと、一応言っておくと、私は褒めていますよ。もっとも天城様がとられた措置を、景虎様や直江様がお知りになればどう思われるかまでは保証いたしかねます」
「さいですか」
 などと語り合う俺と段蔵。
 隣では、俺と段蔵の話についていけない弥太郎が、先刻から首を傾げっぱなしであった。
 そんな風にいつもの調子で馬を歩ませていた俺たちであったが。


「あ、あの、そういうお話は、出来れば私がいないところでして頂きたいのですが……」
 と、傍らから、控えめな声があがる。
 澄んだ声音は耳に心地よいが、語尾が消えてしまいそうになるのが玉に瑕である。
 その人物――春日虎綱は、どこかこわごわとした様子で、俺たちと馬を並べながら、自らの主君への誹謗じみた言葉に反応していた。
「――む、確かに晴信様が腹黒いなどと言うのは問題発言ですね。言ったのは段蔵ですが」
「反論もせずに私の見解を受け入れておいて、無関係を主張しても説得力がありません。付け加えれば、今も申したように、私の言う『腹黒い』は『細心さを失わない』という意味での褒め言葉です」
「つまり、問題は何もないということか。良かったですね、春日殿」
「は、はい、そうですね……って、あれ?」
 なにやら首を傾げる虎綱であったが、あまり深く考えられるとまずいので、俺は話をそらして、この話題をやりすごすことにした。虎綱の人の好さがありがたく感じる今日この頃である。




 しかし、どうして俺は武田の将と馬首を並べて行軍しているのだろう?
「……村上殿への使者になった時と同じ理由に決まっているではありませんか。良いように使われている
だけです」
 きっぱりと断言する段蔵。言ってることは正しいのだが、もう少し柔らかい言葉遣いでお願いしたい。
「それだけ、颯馬様が景虎様に信頼されている証ということですねッ」
 嬉しそうに言う弥太郎。ようやく理解できる話になったという安堵の他に、主である俺が、景虎様に重用されていることを誇りに思っていることが、その笑顔からありありと感じられた。
 く、わかってはいるが、なんて良い子だろう。この素直さ、段蔵に半分でも良いからわけてあげたいもんである――そう思って段蔵の方を向いたのだが。
「……何か?」
 氷のような目線で撃墜されました。
「いえ、何でもありません」
 即座に降伏する俺。
 段蔵は、ふん、という感じで顔を背けたのだが、その後になにやらぼそぼそと呟いている。
「……佐渡では、私に可愛げは似つかわしくないというようなことを言っていたではありませんか」


「段蔵、何か言ったか?」
「何も申しておりません。ええ、何も」
「……そ、そうか」
 微妙に不機嫌そうな段蔵に、俺と弥太郎は顔を見合わせ、首を傾げるばかりであった。
 そして、そんな俺たちを見て、こちらも首を傾げていた虎綱の口から、不意に嘆声がこぼれた。


 その声に促されるように、虎綱の視線の先をたどった俺たちの口から、虎綱と同じような感嘆の声が同時にあがる。
 俺たちの進むはるか前方、寒風吹きすさぶ加賀国の北の地に、その偉容は存在した。
 北陸における一向宗最大の拠点である尾山御坊(おやまごぼう)。
 北陸一向一揆の策源地にして、本願寺の北の要。近づくにつれて明らかになる規模と堅固さは、凡百の城をはるかに凌ぐ。
 ここを陥とすには、万を越える軍勢をもってしても、年を越す月日を必要とするだろうと確信させる城構えであり、これだけの規模の城を築ける一向宗という勢力の強大さを、無言のうちに他国に知らしめているようであった。
 将軍家先導の軍とはいえ、一向宗側も警戒しているのだろう。上洛軍は尾山御坊に近づくことを許されず、城のはるか手前で道をかえることを要求された。
 そのため、俺が見ることが出来たのは、遠目の光景だけであったが、それでも尾山御坊の強大さと壮麗さは、一向宗ならびに一向一揆というものに対する俺の考えを、大きく変える切っ掛けとなった。この時代の一向一揆の恐ろしさは承知しているつもりであったが、それは強国の大名程度の認識だった。
 だが、こうして遠目にでも、その強大を目の当たりにすると、これまでの俺の考えがいかに浅はかなかなものであったかがわかる。
 いずれ、上杉軍が北陸に踏み込む日が来るだろうが、それは北陸の大名や国人衆との戦いではなく、一向宗との戦いになるに違いない。
 この時、俺は彼方で行われる死闘を、はっきりと予感していた。




◆◆




 城を出た加賀の守護大名冨樫晴貞は、城外の林に足を踏み入れると、枯れ草を踏み分けながら目的地へ向かって歩きだした。
 憂いを帯びてかすかに濡れた眼差しが、晴貞に年齢に似合わない艶を与えている。
 もっとも、当の晴貞はそんなことに気付きもせず、やや面差しを伏せながら歩き続けるばかりであった。
 母親譲りの端整な容姿は、幾分幼さが残るものの、十分に人目を惹くものである。そして、この容姿ゆえに、かつての乱で晴貞は命を長らえることが出来たのも事実。しかし、それを承知してなお、晴貞にとって、自身の容姿は好ましいものではありえなかった。


 仮にも大名である身が、城を抜け出ても、ろくに騒ぎにもならないことこそ、晴貞の加賀での立場を明確に示している。
 兄の死によって、加賀の守護大名冨樫氏の当主として立って、およそ三年。一向宗の傀儡たる立場はいささかも変わりなく、周囲から向けられる軽侮の視線は、晴貞にとってもはや当然のものと感じるまでになっていたのである。
 

 枯れ草の降り積もる林は、どこか物寂しげな雰囲気が漂っている。
 しかし、空から降り注ぐ陽光が道をはっきりと示してくれるせいであろう、静かではあったが、それは心を澄ませ、落ち着きを与えてくれる類の静けさであった。
 枯れゆく草木に自身の境遇を重ねつつも、晴貞はそんな静寂を愛でるように、静かに息を吐く。
「ああ……ほっとします……」
 そう呟く晴貞の表情は城にいる時よりもずっと明るいものであった。
 時折、林の中を駆け抜ける風が冷たく肌をさすが、それでも城内の陰鬱とした空気に比べれば、比較にならないほどに心地良い。


 不意に、晴貞の前に二匹の獣が、木々の間を割って躍り出る。
 驚いた晴貞は悲鳴をあげかけたが、こちらを見る二対の視線を見て、慌てて口を手で覆った。
 冬篭り前の準備でもしていたのだろうか。そこにいたのは、おそらくは親子と思われる二頭の狐であった。
 晴貞が狐に驚いたように、狐の親子も晴貞の姿に驚いたらしい。親狐は、戸惑ったように数回、首を左右に振ると、晴貞の様子を窺うように軽く尻尾を振った。すると、それを見た子狐が、親の仕草を真似するように、親の後ろで同じように尻尾をぱたぱたと振り出した。
「……あはは、ほら、おいで……」
 その姿を見て、思わず晴貞の口から笑いがこぼれる。物は試し、とばかり手まねきをしてみると、親子の狐は戸惑ったように動きを止めた。それを見て、晴貞は懐に持っていた胡桃の実を掌にのせる。
 だが、野生の狐がそうそう人に近づく筈もない。それと悟った晴貞は、なるべく狐たちを驚かせないように、そっと前方の地面に胡桃を置くと、しずかにあとずさる。
 そうして、晴貞が木々の合間に身体を隠すと、ようやく安心したのか、狐たちは晴貞が置いた胡桃の実を口にくわえた。


 それを見た晴貞が思わず、嬉しくて両手を叩いてしまう。
 すると、その音に驚いたように、狐たちは来た時と同様にすばやく木々の間を縫って、晴貞の前から駆け去ってしまった。その口に胡桃をくわえながら。
「あぁ……」
 残念そうな声を漏らした晴貞は、狐たちが消えた木々の隙間を窺ってみるが、すでにあの親子の姿はどこを探しても見つけることは出来なかった。



 予期せぬ出会いが、翳っていた晴貞の心を幾分か軽くしてくれたのかもしれない。晴貞の足取りは先刻よりも、ずっと軽いものとなっていた。
 やがて、晴貞は林を抜け、小高い丘の上に出る。一際広い景色が、眼前に浮かび上がった。
 加賀の穀倉庫とも言うべき肥沃な田園地帯を彼方に眺めながら、晴貞はゆっくりと地面に腰を下ろす。
 外出用に、目立たない小袖に打掛を羽織ってはきたが、その衣装は庶民が数ヶ月、遊んで暮らせるだけの価値があるものだ。土や枯れ草で汚してしまえば、後で城の女中たちにひどく叱られるであろうが、晴貞は、今だけはそんなことを気にしたくはなかった。
 しかし、一度想起すれば、次々と嫌なことばかりが思い浮かぶ。
 日々の城での生活を思い起こしながら、晴貞の口からは知らずため息がこぼれでた。
「いつまで、続くのでしょう……いつになったら、終わるのでしょうか……」
 この、煉獄のような日々は。
 呟き、晴貞は力なく面差しを伏せるのであった。




 晴貞の父が一向宗に敗れた後、加賀の国は一向宗徒の国と化した。守護大名とは名ばかりで、国の実権を握るのは尾山御坊の本願寺勢力であり、そしてその息のかかった家臣たちである。
 今、城では、将軍家から要請を受けた上杉、武田軍で編成される上洛軍をどのように迎え入れるかについて、最後の確認が行われているところであったが、その場に晴貞は呼ばれていない。おそらく、応接も重臣たちが行い、晴貞はただただ頭を低く下げていろとでも言われるのだろう。
 これは、別に珍しいことではない。年貢にしても、兵役にしても、国の大事に関わる席に呼ばれたことなど、晴貞は一度もないのだから。


 もっとも、だからこそ重臣たちの目を縫って、こうやって城を出てくることが出来たのだから、不満を言っては罰が当たるというものかもしれない。
 もとより、晴貞の命は、一向宗からの独立を目論んだ兄の泰俊が返り討ちに遭った際、一緒に奪われていた筈のものである。それがここまで長らえることが出来たのは、冨樫家の重臣たちの口添え、力添えあってのことだ。その一事だけでも、晴貞は彼らに逆らうことが出来ない。
 その代償が、耐え難いほどの汚辱と引き換えであったとしても……
 手首につけられた縄の痕に目を向け、晴貞は唇を噛むことしか出来なかった。



 と、その時。
 晴貞の背後の梢が鳴り、はっと晴貞が振り返ると、そこには数名の男たちの姿があった。
 一瞬、野武士や野盗の類かと晴貞は考えたのだが、そこにいたのは、大小を差した武士たちであった。 晴貞は彼らの顔に見覚えがあり、現れた者たちが、いずれも冨樫家の家臣であることを知った。
 ――そして、それゆえに、晴貞の顔に浮かぶ絶望と悲嘆の色は、より深まったのである。







「おお、やっと見つけましたぞ、晴貞様。我らに黙って城を抜け出られるとは、無用心きわまりますな」
「左様、加賀の国は我ら家臣がしっかと押さえておりますが、野武士や盗賊の類はどこにでも沸いて出ますからな。ご用心あってしかるべしでござるよ」
 そういって、ずかずかと歩み寄ってくる家臣たちの姿に、晴貞は一瞬、息をのんで後ずさろうとしたが、大の男から逃げられる筈もない。それに、底意はどうあれ、男たちの言っていることは正しいことであったから、晴貞は深く頭を下げて謝辞を呈した。
「ご、ごめんなさい。外の空気が吸いたくなったのです。ご足労をかけてしまい、申し訳ありませんでした」


 ――それは、主君が臣下に向けるべき言葉ではなかった。下げられた頭も、地につかんばかりである。もし、この場に第三者がいれば、晴貞が男たちの主君であるとはとても思えなかったであろう。むしろ、卑屈に頭を下げる晴貞の方をこそ、下女(下働きの女性)だとでも思ったかもしれない。
 一方の男たちは、主君にあるまじき晴貞の謝罪を平然と受け入れ、口から嘲笑を吐き出した。
「まったく。これから将軍家の上洛軍をいかに迎え入れるかの評定じゃというのに、迷惑なことでござるよ。国を治める晴貞様の苦労を、丸ごと肩代わりしておるのですから、せめて迷惑はかけないようにお願いしたい」
「は、はい、申し訳ありません」
「ほう。では向後一切、城から出るのはやめていただけるのか?」
 家臣の問いに、晴貞は咄嗟に言葉に詰まる。
 この散策は晴貞にとって唯一とも言って良い心休まる時。城内でもそれなりに自由に行動できるが、他者の目を窺うそれは、安息の対極に位置するものであった。


 そんな晴貞のためらいを悟ったのだろう。家臣の一人が呆れた顔を隠さずに口を開く。
「まったく何がご不満なのやら。野には戦や飢えで死んだ者がいくらでもいるというに。晴貞様はただ城にいれば衣食住、全てを約束されている守護職なのですぞ。晴貞様の立場に立ちたいと願う者はいくらでもおりましょうに、その座から逃れようとなさるとは」
「……け、決して、逃げようとしているわけでは、ありません。ですが……」
「ほう、『ですが?』――何なのですかな?」
 威圧するように、目をいからせた男の視線に、晴貞が対抗できる筈もなかった。
 うなだれるように、再度、晴貞は深々と頭を下げる。
「…………何でも、ありません。申し訳ありません。以後、慎みます……」
「ふむ、左様か? 我らは晴貞様の臣下なれば、主君の意には出来るかぎり沿う心算でござったが、晴貞様が構わぬと仰せであれば問題はないということでござるな」
「ッ……は、はい」
 なぶるような家臣たちの物言いに、しかし、晴貞はただただ頭を下げることしか出来ない。
 だが、男たちはその言動ですら物足りないのか、なお晴貞を解放しようとはしなかった。


「しかし、さきほどから申し訳ないと仰ってばかりですな。まさかと思いますが、そう言って頭を下げれば なにをしても許されると思っておいでなのか?」
「そのようなこと……思ってはおりません……」
「いやいや、口ではなんとでも言えましょう。現にさきほどから、そう言っているばかりで、重大な評定をなげうってここまでやってきた我らに対し、いかなる誠意も見せては下さらぬではありませんか」
 口元を曲げて言い放つ家臣の姿に、晴貞は怯えるような視線を向ける。


 晴貞は女性らしく小柄な体格である。美貌の主君に憂いまじりに見上げられた家臣たちの顔に、にやけた笑みが浮かぶ。
 一人が晴貞の身体に好色そうな視線を向け、陋劣としか言いようのない表情を浮かべる。
「くっく、やはり口で言い聞かせるのも限界がございますか。それほど城を離れる心が捨てられぬとあらば、我らも相応の手段をとらざるを得ませんな。やはり、城に縛り付けておくが得策でござろうか。のう、みなの衆」
 その言葉に、家臣たちはまるで鏡に映したように同じ笑みを浮かべた。
 それを見て、晴貞はとっさに手首の傷跡を押さえ、あとずさる。手首だけでなく、全身に刻まれた縄目の跡が、先日来の汚辱を否が応でも晴貞に思い出させる。
 身体の痛みと……男たちの下卑た笑い声と、その両方を。


 それでも、すでに晴貞に逃げ場はない。
 否、元々、逃げ場など、加賀のどこにもなかったのだ。この散策でさえ、鳥かごの自由に過ぎぬ。家臣たちにしてみれば、晴貞を長く正気に留めおくための処置に過ぎないのだろう。
「……あ、ああ……」
 だからこそ、晴貞は目を伏せる。
 現実を拒むわけでも、狂気に逃げるわけでもない。ただただ、諦めるために。
 そして、晴貞がそうすることを知り尽くしている家臣たちが、無造作に手を伸ばし、晴貞の服を掴み取ろうとする――正に、その寸前。



 がさり、と再び背後で梢の鳴る音。
 驚いた家臣たちが振り向いてみると――そこには二匹の狐が睨むように男たちを見据えていた。
「なんだ、狐か。人前に出てくるとはめずらしいな」
「畜生どもなど放っておけ。狸なら鍋にでもしてくれようが、狐なぞ骨ばかりで美味くはないわ」
「しかし、我らを見ても逃げようとはせぬぞ」
「邪魔だ、追い散らせ」
 年嵩の一人が命じると、心得た者が刀を大げさに振り回して、狐たちを追い払おうとする。
 用心深い野生の獣だ。それだけでさっさと逃げ出すものと思われたが、驚いたことに狐たちはわずかにあとずさるだけで、この場を離れようとはしなかった。
「ち、面倒な奴らだ」
 刀を振り回していた男が、苛立たしげに吐き捨てると、足音あらく狐たちに近寄っていく。もう示威ではなく、狐たちを切り殺すつもりであることは明らかだった。


 それと悟った晴貞は、慌ててそれを止めようとする。
 現れた狐が、先刻の狐であることが、晴貞にはわかったのである。
「あ、や、やめ……」
 だが、そんな晴貞の行動は、男たちの一人が、その前を塞ぐだけであっさりと止められてしまった。
「おっと。何をなさる……と、あの畜生どもをかばうおつもりか。お優しいこと。さすがは加賀の守護大名様。その慈悲、禽獣にいたる、とでも宣伝しておきましょうか」
「では、その狐どもの前で、我らの労をいたわっていただきましょうかな。畜生どもにさえ情けをかけられるのです。我ら家臣にかけられぬ道理はございますまい」
 家臣の笑いに囲まれ、進むもならず、退くもならず、晴貞はただ怯え竦む。
 その晴貞の耳に、悲痛な声が届く。
 そちらを見やれば、晴貞の家臣に切られた親狐が、苦悶するように地面に身体をこすりつけながら、それでも逃げようとせずに、自身の敵をじっと見据えている。
(駄目……逃げて……)
 もはや声すら出ない晴貞は、心中で呼びかけるしか出来ない。そして、その声さえ届かないことを、晴貞は知っていた。


 これまでも、ずっとそうであったから。
 今後もずっとそうである、といつのまにか晴貞は思い込まされていたのである。


 そんな呪いじみた考えを確信させるかのように、居丈高な声があたり一帯に響き渡った。
「はん、てめえら畜生が、人間様にかなうわけあるか。さっさとくたばりやがれッ!」




 高々と振りかざされた刀。刃が陽光を反射し、その輝きを目の当たりにした晴貞の脳裏に、不吉な光景がよみがえる。


 ――目の前で兄の首が飛ぶのを見たのは、冬を間近に控えた、この時期だった……


 どれだけ刃を止めようと思っても、晴貞にはとめられぬ。
 振り下ろされた刃の下で、血煙をあげながら宙を飛んだ兄の恨めしげな顔が、瞼の裏にくっきりと……
(……いや……いやッ)
 そう思いながらも、それでも立ち上がれない自分の情けなさに、晴貞は歯噛みする。絶望のあまり流れた涙で、視界が翳る。
 せめてものこと、伸ばした手の先で、晴貞の心を軽くしてくれた小さな恩人たちの命が、今――






 不意に聞こえる声。
「畜生は、人間様にはかなわない。その通りだな。まあ――」
 声が途切れたと思った瞬間、数条の閃光が横切り、刀を振り上げていた家臣を襲う。
 一本ではない。あわせて三本。二本が両肘を射抜き、もう一本は右の足を地面に縫いとめていた。
 一瞬、何が起きたのかわからず、目を丸くしていた男は、腕と足から伝わる激痛に、たまらず悲鳴をあげた。
「ひ、が、ああああッ?!」
 だが、苦痛を紛らわすために暴れようとしても、手はつかえず、足も動かぬ。全身を貫く激痛に、ただ耐えることしか出来ない。




 そして、三度、梢が鳴る。
 現れたのは、今度は晴貞がこれまで見たことのない人たちだった。
 その先頭に立つ人物が、ゆっくりと口を開いた。
「――この場合、畜生というのは、人の心を持たない貴様らのことなわけだが」
 そう言って、その若者は小さく笑った――否、嘲笑った。
  



◆◆




「むしろ恥を知るという意味で、そこな狐の方が人間らしいというべきですね」
 虎綱の口調に殺意がこもるのを、俺は初めて聞いた。
 それほどに、今の虎綱は怒っているのだろう。
 そして、それは虎綱だけではない。
「…………」
「…………」
 弥太郎と段蔵は、二人とも沈黙している。無論、臆したわけでも、緊張しているわけでもない。
 弥太郎は怒りのあまり声も出ないのであり、段蔵は口を開く必要を認めていないからである。これから殺す相手と話すことなぞ何もない、とその手の短刀が何よりも雄弁に物語っていた。


 正直なところ、状況の全てを掴んでいるわけではない。
 というか、城へ向かう道すがら、休息していた俺たちの前に突然、親子狐が現れ、その後を追ってきたらこの場にたどり着いたというだけであった――子狐の可愛さにほだされた弥太郎の行動力の賜物とも言う。
 俺がついてきたのは、まあ気分転換の散策にはなるだろうと思ったからであるし、段蔵はそんな俺の護衛、そして虎綱は、多分その場の勢いではないか。少なくとも、こちらから同行を願ったわけではなかった。
 どういった状況であるかは、きれぎれに聞こえてきた会話から察している。この状況に遭遇してみれば、虎綱の弓の存在は心強かった。
 もっとも、虎綱の出番は最初だけで終わってしまったが。


「ち、何者だ、貴様らッ?!」
 そういって次々と刀を抜き放つ男たちは、次の瞬間、驚愕する。
 ためらうことなく突っ込んだ弥太郎の姿は、すでに彼らの眼前にあったからだ。弥太郎が持っていた大槍を一閃させるや、甲冑もまとっていない男たちは、数人まとめて吹き飛ばされる。
 局地的台風の勢力圏内に入っていなかった幸運な者たちは、実のところ、より不幸な運命が待っていた。これも音もなく近づいた段蔵が、無造作に、しかし容赦なく男たちの膝頭を蹴り砕き、地面をなめさせていったのである。
 俺の配下としてはもちろん、越後国内を見渡しても、この二人ほどの力量の持ち主は少ない。若い女性一人を、よってたかっていたぶるような下衆どもが対抗できる筈もなかった。
 逃げようとする者たちも、虎綱の弓の威力の前に立ちすくむことしか出来ず、間もなく弥太郎か段蔵にやられてしまう。
 十名たらずの男たち全てが地面を這うまで、かかった時間は、さて何分だったか。秒で数えた方が早いかもしれん。


 その間、俺は苦しげにのたうつ狐の下に歩み寄り、手当てしていた。荒事で出番がないのはわかりきっていたし、傷薬も完備していたからである。主に段蔵対策で。まあ、最近はあまり使わずに済むようになってはいたのだが。
 軒猿御用達の薬とはいえ、狐にも効くのかどうかはわからなかったが、多分、害にはなるまいと判断して、親狐の傷に塗ってみる。逃げないのか、それとも傷のせいで逃げられないのかはわからないが、親狐は俺が近くに寄っても動こうとせず、傷口に触れてもそれはかわらなかった。
 さすがに傷口に深く薬を塗り込めようとした時には暴れられたが(気持ちはとてもよくわかる)、それでも何とか治療を終えると、何やら小さく鳴き声をあげ、素早く駆け去ってしまった。子狐もその後に続こうとして、少しだけ足を止め、振り返る仕草を見せる。だが、それも一瞬。親狐と同じように走り去る。
 そして、その頃には、とうに男たちは弥太郎たちに制圧されていたのであった。





「き、貴様ら、我らにこのような真似をして、ただで済むと思っているのかッ?!」
 弥太郎に叩き伏せられた男の一人が、痛みをこらえながら怒号を発する。
 その顔は、たとえるならば屈辱と憎悪の二重奏。
 しかし、こちら側は誰一人として恐れる様子を見せない。それどころか、その声さえ聞こえない様子で、弥太郎たちは地面に座り込んだ女性の下に駆け寄っていた。
 必然的に、俺が相手を務めなければならず、仕方なしに口を開く。
「その言葉はそっくり返す。先刻の様子を見るかぎり、罪に問われるのは俺たちではなく、お前たちだろうに」
「浪人風情が、なめた口を叩くな! 我らは加賀の冨樫家の正式な家臣ぞ。見ておれ、貴様ら一人残らず地面に這い蹲らせ、慈悲を請わせるまで痛めつけてくれる!」
「言葉というのは便利だな。口では何とでもいえる。精々、想像の中では勝ち誇っていろ――どうせ、明日までは続かぬ」


 少しも動じない俺の姿に、男たちは一瞬だが、やや意外そうな顔をのぞかせた。
 一国の重臣に危害を加えることの意味を知らない者がいるとは思っていなかったようだ。
「ふん、偽りだとでも思っているらしいが、すぐにほえ面かかせてやろう。その時になって後悔しても遅いぞ。そこの女どもを、貴様の眼前で縛り上げ、吊るし上げて――があッ?!」
 その言葉を言い終えないうちに、男は左の頬の強い衝撃を受け、たまらず悲鳴をあげてのけぞった。


「――言葉は便利だが」
 俺は男を殴り飛ばした拳についた血を地面に払い落とし、内心で深く安堵していた。思わず鉄扇で殴り飛ばしてしまいそうになったが、咄嗟に拳に切り替えたのは、我ながら上出来。景虎様に頂いたものに、こんな奴らの血をつけることなど許されぬ。
 そんなことを考えながら、半ば無意識に言葉を続けた。
「使えば相応の責任を伴う。相手を罵るからには、報復は覚悟しているのだろう」
「き、貴様、ただではすまさんぞ……ッ」
「無論。俺とて、ただで済ますつもりはないよ」
「たとえどこに逃げようと、加賀の全てを挙げて追い詰めてやるぞ。どこの誰だか知らぬが、貴様ごとき若造や、小娘どもが逃げ切れると思うなよ」
 その男の言葉に、周囲で倒れている者たちが同意するように頷き、敵愾心に満ちた視線を向けてくる。反省や悔悟とは無縁の眼差しであり、態度であった。


 まあ、それが出来る人間ならば、そもそもこの場にはいないだろう。俺はそう思いながら、弥太郎たちに介抱されている女性に視線を転じる。
 そこでは、乱れた衣服の先からのぞく手に刻まれた縄目の跡に気付いた段蔵がそれを指摘し、女性は声もなく面差しを伏せているところだった。
 こちらを振り向いた段蔵の視線と、俺の視線が交錯する。


 俺は、むしろ軽いくらいの調子で男に話しかけた。
「『どこの誰だか知らぬが』か。明日を迎えられない者たちに名乗る名に、どういう意味があるかはしらないが、冥土の土産にでも覚えておけ。上杉軍が一人、天城颯馬だ」
「上杉……? というと、今回の上洛軍の一員か、貴様?!」
 驚いたように男たちは声を高め……そして、居丈高に責め立てて来る。
「上洛軍は、加賀の国で騒ぎを起こさぬ約定であった筈。貴様らのしたことは、あきらかにその約定を違えておる。すぐにも将軍殿下や貴様らの将に連絡し、獄門に下してもらうゆえ、覚悟しておれッ!」
「阿呆」
 俺は一々相手をするのが面倒で、相手の主張を一言で斬って捨てた。


 面倒そうな俺の言葉に、相手は顔を引きつらせた。
「な、なんだとッ?!」
「先刻からの貴様らの言、どこをとっても家臣の言葉ではない。守護の冨樫晴貞様に対する不義不忠、それだけ見ても明らかである。言うまでもないが、守護職は将軍殿下が任命された尊貴な御方。その方を蔑ろにするのは、将軍殿下を蔑ろにすることであり、晴貞様を辱めることは、将軍殿下を辱めること。貴様は忠孝を知らず、それをなした。罰されるべきはどちらかなど、誰が見ても明らかだろう。まして――」
 俺は視線を女性――冨樫晴貞に向けた。男たちの呼びかける声を聞いた時から、大体の構造は理解している。加賀は一向宗徒の国。守護が傀儡であることは予想がついていた。
 だが、さすがにここまで陰鬱な状況であるとは思っていなかったが。
「その守護様に危害を加えようとした以上、申し開きの余地があると思うな。将軍家より依頼を受け、日ノ本にあるべき秩序を取り戻すべく進軍する我らが、かような理不尽を前にして黙っていると思ってもらっては困る」


 その身で償え、と。そう告げる俺の姿を見る男たちの視線に、徐々に理解と恐怖の色がまざりはじめた。
 冨樫家の臣であるという立場は、これまで男たちにとって錦の御旗に等しいものであった。しかし、今、その強みが処罰される最大の理由となる。
 何よりも決定的だったのが、晴貞の存在をこちらに知られていることである。晴貞がいなければ、どれも知らぬ存ぜぬで押し通すことも出来ただろうが、晴貞に対する態度を知られてしまった以上、それも不可能である。
 眼前の冨樫の家臣たちの姿を見ながら、俺はこれから赴く城の実情を改めて思い知り、小さくため息を吐いた。
 越後では出会う人皆、美点を持った人たちばかりであり、こういう感情を抱くことはあまりなかったのだが、この加賀の国ではそうはいかないようだ。
 そのことが、はっきりと確信できたゆえの、ため息であった。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/20 11:45


 俺が手を差し出すと、おそらくは無意識なのだろう、晴貞が身を強張らせたのがわかった。
 それを見て、俺は胸の奥に鋭い痛みをおぼえる。無論、晴貞に怒りを覚えたわけではない。俺の――というよりも、男性の、というべきか――何気ない仕草一つで、身体が竦んでしまうような日々を、この女性が送っていたことに対する遣る瀬無さと、それを与え続けた者たちへの怒りのためであった。
 家臣たちの態度を見れば、晴貞が常日頃から軽んじられていたことは明らかであった。晴貞の怯えぶりを見れば、多分、それ以外にも辛いことが多々あったことも察せられる。
 そして、そんな毎日を送っていれば、周囲の家臣のみならず男性そのものに対する警戒や嫌悪が育まれることは必然であったのだろう。
 そう思った俺は、晴貞に差し出した手を中途で引き戻したのである。


 俺の行動を見て、晴貞は自分が咄嗟に俺を避けたことにようやく気付いたのだろう。慌てたように弁明を口にする。
「……あ、す、すみません。せっかく、助けていただいたのに、失礼なことを……」
「いえ、御気になさらずに。ご無事であることを確認したかっただけですので」
 俺はそう言うと、わずかにあとずさった格好の晴貞に笑貌を見せると、それと悟られないように距離を開けた。
 晴貞が戸惑うような顔をしているのは、そんな俺の動きに気付いたわけではなく、状況を説明するべきかどうかを考えているためだろう。
 確かに順序としてはそれが一番であろう。俺たちがとった行動が間違いないことを確かめる意味でも、事情を聞くことは必要なことであった。


 とはいえ、何も根掘り葉掘り問いただす必要はないし、たとえ必要があったとしても、するつもりは俺にはない。
「一つだけ、確認させていただきたいのですが」
 晴貞はわずかに濡れた眼差しで、俺の顔を見上げる。どこか不安げな色が見えるのは、俺の問いが核心に触れることを恐れているためだろうか。
「――加賀守護職、冨樫晴貞様であらせられますか?」
「は、はい、私が、冨樫晴貞です」
「さようでございますか」
 頷いた俺が口を閉ざすのを見て、晴貞は不思議そうな顔で首を傾げる。
「あの、お聞きになりたいことはそれだけなのですか?」
「はい。それだけは確かめなければならなかったので。あなたが冨樫様御本人だとわかれば、問題のほとんどは解決します。ともあれ、ここでは場所が悪いですね。我らが陣までお越しいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
 なるべく晴貞に負担を与えないように、胸中の怒りを抑えながら申し出た俺の言葉に、晴貞はぽかんと口を開ける。
 多分、俺が事細かに事情を問いただすとでも思っていたのだろう。


 だが――俺は周囲を見渡す。段蔵からの知らせを受けた兵たちが、晴貞の家臣たちを縛り上げ、引き立てている最中である。要らぬことを言わないように、その口はしっかりと猿轡をかませてあった。
 この状況で人の心の傷に塩水を塗り込めるような趣味は俺にはない。それに、晴貞が本人であることを確認できれば、後はこれから晴貞がどう動くかを確認すれば事は済む。しかし、その決断を、今してもらう必要はないのであった。


 晴貞は思わぬ俺の提案に驚いていた様子だが、すぐにこくこくと頷き――そして、すぐに表情を曇らせる。
「……あ、でも、城に戻らないと、皆様にご迷惑が……」
「かかりません。それでは春日殿、晴貞様を陣営までお連れいただけますか。私は景虎様に知らせて参りますので」
 晴貞の異論を一蹴すると、俺は虎綱に声をかける。
 今の晴貞の心境を考えれば、多分、傍に誰かいた方が良いであろうし、それなら男性より女性の方が良いに決まっていた。
 その役割は、虎綱でなくとも、弥太郎や段蔵であれば問題ないと思う。思うが、この二人だと、一国の守護を相手にするには一抹の不安が残る。弥太郎は緊張的な意味で、段蔵は性格的な意味で。
「……え?」
 思わぬ俺の返答に、つかの間、晴貞は呆気にとられたように固まってしまう。
 一方の虎綱は、こちらも戸惑いを残しながらも、しっかりと頷いてみせた。
「お任せください。武田の陣にお連れしてよろしいのですね?」
「はい。多分、その方が色々と良いと思いますから」
 その言葉に、虎綱は不思議そうな表情を浮かべたが、俺が弥太郎と段蔵の方――より正確に言うと、段蔵に視線を向けたのを見て、何事かに気付いたように慌てて頷いた。
 段蔵の性格では、晴貞のような受身の人はあまり好かないだろう。そして多分、そういった態度に、晴貞は聡い筈であった。
「わ、わかりました。晴貞様が落ち着かれるまで、責任をもって私がお守りいたします」
「お願いいたします。晴貞様、また後ほど――っと、そうそう、もう一つだけ、お訊ねいたしますが」
「……は、はい、なんでしょうか?」
「京への旅に、興味はおありですか?」



◆◆



 上杉軍本陣。小松城に赴く準備をしていた景虎様に時間をもらい、俺は先刻の一件を報告した。
 全てを聞き終えた景虎様の顔に、あからさまではないにせよ、怒りの色が浮かんでいる。憶測を交えず、事実だけを申し上げたのだが、聡い景虎様は晴貞の境遇に気付いてしまったようだった。
「颯馬の話はわかった――で、どうするつもりだ?」
 景虎様の問いに、俺は困惑して問いを投げ返す。
「どうする、とは?」
「颯馬のことだ、報告して私の指示を仰ぐ――など悠長なことはすまい。どう動けば良いか、すでに考えてあるのだろう」
 俺は景虎様の指摘に、ついと視線をそらせてしまう。
「えーと……わかりますか?」
「わからいでか」
 景虎様がくすりと笑うと、えもいわれぬ香気が俺の鼻先をくすぐった。
「颯馬は、自分がいつもとかわらないつもりのようだが、言葉の端々に怒りが滲み出ていたからな。無論、私とてそのような悪辣な輩を許すつもりはない。しかし――」
 わずかに言いよどむ様子を見せた景虎様に対し、俺は心得たように頷いた。
「承知しております。上洛に支障をきたすような真似はいたしません。上洛軍の兵力を損じることもないでしょう。ただ、陣中に山と積まれた黄金の一部を、使わせていただきたいのです」


 俺の案を聞いた景虎様は、迷う様子もなく、あっさりと首を縦に振る。
「わかった。すぐに伝えておこう。必要な分だけ使うがいい」
 ただし、と景虎様は続ける。
「兼続と、それから定満にはきちんと話を通しておいてくれ。特に兼続だな。黙って策を進めると、また私が怒られる。『景虎様は颯馬に甘い』とな」
 それを聞き、うぐ、と思わず変な声が俺の口から出てしまった。きっとその後で兼続は俺のところに来て、上杉家の臣下の心構えを、懇々と説き聞かせてくれるに違いない――あれはもう、二度と御免である。
「……か、かしこまりました」
 そう答える俺の声は、我ながら固かった。






 まずは定満から、と定満の部隊に赴いた俺だったが、たまさかそこには兼続の姿もあった。越後からこちら、強行軍が続き、将兵にも疲労の色が目立つようになっている。そのことについて話し合っていたらしい。
 ちょうど良いので、俺は二人に時間をもらい、晴貞のことについて説明し、それに関わることで黄金が必要となることを説明し、持ち出しの許可を求めた。
 定満にせよ、兼続にせよ、景虎様が許したと言えば首を横に振る筈はない。それがわかっていたから、俺は景虎様の許可を得ていることは口にしなかった。虎の威を借る狐のように思われるのは御免である。とくに、この二人からは。


「――む、まあ話はわかった。だが」
 俺の話を聞いた兼続は、やや表情を厳しくした。
「そこまでして、加賀の事情に口を差し挟む必要はあるのか? 無論、晴貞様の境遇は哀れと思うし、お力になりたいとも感じるが、今、我らは将軍家の命により上洛をしている最中だ。下手をすれば加賀を敵にまわすような行動は慎むべきだろう」
 それに、と兼続は言葉を続ける。
「仮にお前の策が図に当たったとしても、晴貞様の権威が戻るわけではない。上洛軍に加わるという名目で一時、加賀から逃げられたとしても、京より戻れば、また虜囚の日々が続くことになろう。晴貞様の立場を変えるためには、誰よりも晴貞様御自身が変わらなければならない。私たちが余計な手出しをすれば、かえって事態を悪化させることになりかねんぞ」


 兼続の言葉は厳しくはあるが、正論であった。
 不遇から脱するために、何よりも必要なのはその本人の強い意志。周囲がどれだけ騒ごうと、本人が動かなければ、何一つ変わらないままに終わってしまうだろう。
 苦難を凌ぎ、試練を越える。晴貞の、その意思があって、はじめて状況は変化するのだと兼続は言う。それはその通りであった。
 だが――



「……颯馬は、優しいね」
『は?』
 次の瞬間、その場で発された声は、俺のものでも、兼続のものでもなかった。定満が唐突に口を開いたのである。俺と兼続の口から同じ言葉がもれ、訝しげな視線が定満に向けられた。
 俺たちの視線を受け止めながら、定満は小さく笑う。結上げられた艶やかな黒髪が、篝火の炎を照らして一際映える。
 相変わらず、と俺は思う。
 綺麗な方だな、と。
 その経歴を考えれば、優に四十代を越えていると思われる定満だったが、見た目は三十代の、それも前半と言っても、異論は出ないのではないか。そう思わせる若々しさだった。
 しかも、定満の場合、どれだけ激しい戦の後でも、あるいは春日山城の執務室に積み重なった、山のような政務を終わらせた後でも、いささかも容貌に変化が出ないのである。激しい戦の後などでは、時に兼続の方が年上に見えることもないわけでは――
 などと考えていたら、尋常でない視線を感じ、おそるおそるそちらを向く。
 そこには、刃の如き鋭い視線を俺に浴びせる兼続の姿があった。背筋に冷たいものが這い登るのを感じた俺は、慌てて内心の不穏な考えを心中から追い払う。




 それはさておき、定満が口にしたのは、何のことだろう。問いを口にしかけると、先んじて定満がゆったりとした様子で続きを口にした。
「日の光を浴びて咲く花もあれば、日陰でひっそりと咲く花もある。私はまだお目にかかっていないけど、多分、晴貞様は後者?」
「そう、ですね。俺も、いえ、私もそれほど親しく話をさせてもらったわけではないのですが、おそらく」
 憂愁と、どこか諦観の漂った晴貞の姿を思い起こし、俺はためらいながらも、定満の言葉に頷いてみせた。
「ん。上杉は景虎様や政景様、それに兼続たちもみんな日の光を浴びるお花だから。晴貞様にとっては、ちょっと居辛い場所だろうね。だから、春日殿に託したのでしょう」
「や、そこまで考えていたわけではないんです。ただ……」
「ただ?」
「――そうですね、景虎様や兼続殿と共にいるよりは、春日殿の陣にいた方が良いと、何となく思ったんです。あの二人、どこか似ているような気がして」
 別に景虎様や兼続が、晴貞に悪意を持つとか思ったわけではない。ただ二人の廉直な為人は、時に傍らにいる人に重圧を与えてしまうことがある。本人たちが意識するしないに関わらず、である。


 俺はその胸中の不安をはっきりと言葉に出来なかったのだが、定満の言は剴切であった。
 日向で咲く花と、日陰で咲く花。その違いは花の良し悪しではなく、ただ性質の違いである。並べて飾ることに意味はなく、そして多分、両方の花にとっても良くないことなのではないだろうか。俺が感じた違和感は、そういうことだったのだろう。


 まあ、虎綱や晴貞が本当に日陰の花かどうかは定かではない。まだ日の光に慣れていないだけかもしれないが、それでも今の時点で、景虎様や兼続の鋭気に触れるのは、晴貞にはかえって負担だろうとは思うのである。
 そんな風に俺と定満が話をしていると、兼続が、どこか憮然とした顔で口をはさんできた。
「……何やらお二人の話を聞いていると、私が気遣いの一つも出来ない無作法な女に聞こえるのですが。先の言葉とて、本心から言ったわけではありませんよ」
「ん、私は兼続が優しい子なのは知ってる。颯馬も知ってる。さっきの兼続が、上杉の立場を代弁することで注意を促したこともわかってる。ね、颯馬」
「もちろんですよ。ただ……」
「……ただ、何なのだ、颯馬?」
「い、いえ、何でもありません、はい」


 兼続の優しさは無論知っている。だが、同時に俺は、その秘める激しさも良く知っていた。
 晴貞を上杉陣内につれてこなかった理由の一つにそれがある。
 だが、それを兼続に言えるわけがなかった。兼続が、晴貞の身体の傷に気付こうものなら、問答無用で小松城に攻めかかりかねないと危惧したのだ、などと。
 それに、兼続がそう行動しようとした時、俺には止められる自信がなかったのだ――兼続を、ではない。その兼続に追随したくなる自分の気持ちを、である。





 ともあれ、兼続と定満の許可を得た俺は、武田の陣営に赴き、そこで虎綱と話し合って、小松城での対応について打ち合わせを行った。上杉と武田、両軍の許可を得た上でないと、説得力がなくなってしまう。
 晴貞は疲労が溜まっていたのか、虎綱に陣営に誘われるや、すぐに眠ってしまったらしい。緊張の糸が解けてしまったのかもしれない、と虎綱は呟いていた。
「――天城殿の策に異存はないのですが」
 虎綱は真摯な眼差しで俺を見つめる。そこには晴貞を案じる気持ちがはっきりと現れていた。
「京に晴貞様をお連れすることを重臣たちが肯うでしょうか?」
「そこを頷かせるのが私の役目です。お任せください」
 自信ありげな俺の声に、虎綱はほっと安堵したように息を吐いた。そして、めずらしく、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふふ、御館様が恐れるほどの智者がそう言って下さるなら、安心できます」
「……誰が、誰を、何ですって?」
「御館様が、天城様を、恐れている、ですよ?」
「ありえん」
 つい素で返してしまい、慌てて言いつくろう。
「あ、いや、それはありえないでしょう。あの晴信様が俺ごときを。景虎様を恐れるというのなら、わかりますが」
「ん、そうですね。正確に言えば、景虎様の下にいる天城様を、ということでしょうか。ですが、御館様が、越後の蛟竜が、雲を得てしまったのかもしれない、とそう仰っておられたのは確かなことですよ」
「竜に雲……雲は竜に従い、風は虎に従う、でしたか」
「はい、易経の一節です。やはり、天城殿はご存知でしたか」
「……む? もしや試されていましたか、今?」
「い、いえ、たた試すなんてそんなことしてませんッ」
 否定しながらも、虎綱の白皙の頬が紅く染まっていく。別に試されたのはかまわないのだが、動揺がこんなに表情に出るようで、これから先、虎綱はやっていけるのだろうか、とそちらの方が心配になってしまう。


「あ、と、ところでですね」
 頬を染めたまま、虎綱はいささかわざとらしく話をかえようとする。
 俺は内心で苦笑しながら、頷いて先をうながした。
「やはり、晴貞様は城へ行っていただくべきでしょうか。ご気分が優れない様子だったので……」
「……無理もないことですね」
 おそらくは恐縮しながら床に伏せているであろう晴貞を、たとえ一時的であるにせよ、あの城に帰すのは避けたかった。
「晴貞様自身がおられずとも、問題はないでしょう。ただ、晴貞様に近しい人たちを城内に置き去りにするわけにもいきません。そこだけ確認しないと――」
 俺が言いかけると、虎綱が目を伏せながら、首を横に振った。
「……ここに来るまでに確認したのですが、そういった方は一人もおられないそうで……ご親族の方や、親しかった方々は、皆、晴貞様の兄君が亡くなられた時に連座させられたそうです」
「……そうですか」
 俺と虎綱の顔に浮かんでいた表情は、とてもよく似通っていたであろう。


 将軍家の御為に、上洛軍に加わる。その大義名分をもって加賀から逃げることは、すでに晴貞に伝えてある。その道中に連れて行きたい人がいない、ということは、文字通りの意味で、晴貞が小松城内で孤立無援であったことを意味する。
 聞けば、晴貞様は俺より二つ、年下らしい。加賀で守護の冨樫泰俊が死んだのは三年前というから、それこそ俺の感覚で言えば、中学生の女の子が、誰一人助けてくれる者もいない城中で、兄を殺した者と、その配下に囲まれて暮らしてきたことになる――三年間も。


 いったい、どれほどの苦しみや辛さを味わってきたのか。それを思えば、胸を細刃で切り裂かれるような痛みを覚えてしまう。
 しかし、それとて実際に晴貞が受けたものにくらべれば、万分の一にも満たないものであるに違いなく、俺はいつの間にか両の拳をきつく握り締めている自分に気付いた。
「――ともあれ、それならば遠慮する必要はない、ということでもあります。晴貞様は武田の陣で休んでいてもらって結構です。私はこれから小松城に赴きます。春日殿にもついてきてもらうつもりだったのですが、晴貞様が目覚められた時に春日殿がおられないと、晴貞様も不安に思われるでしょう。城内での折衝については、お任せいただけましょうか?」
「もちろんです。どうか、晴貞様の悪夢を、終わらせて差し上げてください。私からも、お願いいたします」
 そういう虎綱の顔にも、声にも真情が溢れており、この女性が短い間に晴貞に深い思い入れを抱いたであろうことが、はっきりと伝わってきた。
 当然、返す言葉など一つしかない。俺はしっかりと虎綱に頷いてみせたのである。



◆◆



 加賀小松城。
 城では、晴貞と件の家臣たちの行方がわからず、大騒ぎであったらしい。将軍家先導の上洛軍を迎え入れるに際し、かりそめにも守護職である身が不在とあっては鼎の軽重を問われるというものだから、彼らが慌てふためいたのは当然といえた。
 そんなところに、上杉の使者である俺が姿を現し、さらには小松城の家臣を縄目にかけて連れてきたことものだから、城内の混乱はさらに深まってしまったようだった。


 当然の如く、家臣たちを解放するようにと求められたが、俺は頑としてそれを拒否した。
 解放するとしても、それは使者としての役割を果たした後のことであると主張し、城内に入れるよう要求したのである。
 俺の要求に、城側が良い顔をしなかったのは当然であったろう。
 だが、こちらの背後には上杉、武田両軍と、将軍家の威光がちらついている。彼らは歯軋りしつつも、俺たちを迎え入れるしかなかったのである。
 そうして、小松城の広間に招じ入れられた俺と弥太郎らを出迎えたのは、憤懣やるかたないといった様子の、城の重臣たちであった。
 彼らの同僚が、俺たちに引きずられるように連れてこられたのだから、その怒りが冷めよう筈もない。
 その後ろに一際大きな荷物が運びこまれていることにも、ほとんどの者たちは気付かなかったであろう。



 こちらが座るのを待つのももどかしく、居丈高な声が彼らの口から飛び出してきた。
「使者殿、これ以上の無体は、いかな将軍家の口ぞえあれど看過できませぬぞ。早急にその者たちを解放していただきたいッ!」
 居並ぶ冨樫の家臣たちの面上から殺気が立ち上る。中には刀の柄に手をかけている者さえいる様子であった。
 ――だが。
「まず、ご報告申し上げる。貴殿らの主である冨樫晴貞様は、無事に我らが陣におられます」
「な、なに?」
「晴貞様はお一人で城を出られ、ここに居並ぶ下郎どもに理不尽な目に遭わされる寸前でありましたが、不幸中の幸い、たまさか我らがそこに通りがかり、晴貞様をお助け申し上げ、陣中にお連れした次第にござる」
 怒号など聞かなかったかのように語りだした俺に、相手は戸惑ったように視線をかわしあっている。中には苛立たしげに口を開こうとしている者もいたが、俺は先んじてそれを制する。


「ここにいる者どもは――」
 そういって、後ろで傷の痛みにあえぐ者たちを指し示す。
「その際、あろうことか自分たちは小松城の家臣であるなどと偽りを申しました。無論、そんなことがあろう筈はございません。忠義に篤く、勇猛名高い加賀侍に、かような下衆どもがいる筈はありませんから。ただ、我らはこの加賀の地を通らせてもらう身でありますゆえ、万一にも間違いがあってはなりません。それゆえ、見苦しいとは存じましたが、この者どもを城中に入れさせてもらったのでござる」
 さて、と俺はややあざとい仕草で、周囲を見渡した。
「列座の方の中で、この野盗どもに見覚えのある方はおられようか? 恥を知る者なら、か弱い少女一人を、よってたかって傷つけようとするなどありえない。誇りを持つ者なら、それを黙って見過ごすなどありえない。この場に、この下衆めらと関わりを持つ者は、まさかおりますまいな?」
 一息ついてから、すぐにまた口を開く。向こうに反論の隙は与えない。
「無論、わかっております。このような問いを、貴殿らに向けることさえ失礼なことなのだということは。しかし、先ほども申しましたとおり、上洛の一行が、加賀の侍と名乗った者を処刑したなどと知られれば、要らぬ争乱の種になりかねませぬ。それゆえ、このような無礼な問いを行わせてもらった次第。どうか我らが無礼、寛大な心をもってお許しください」


 立て板に水。
 そう形容できる勢いでまくしたてる俺に対し、ようやくその意図を察した城側の連中の顔が大きく歪む。
 だが、俺の後ろにいる者たちを城の家臣だと認めれば、男たちの罪科もまとめて引き受けなければならない。
 野盗が城主を襲ったというのなら、縛り首にすれば済む。だが、家臣が城主を襲ったとなれば、それだけでは済まされない。より正確に言えば、外部の人間にそれを知られてしまった以上、そのままにはしておけない。残る手段は、目撃した者を消してしまうか、知らぬ存ぜぬで突っぱねるか。
 前者は、上洛軍八千と将軍家を敵にまわすことになるため、よほどの覚悟がなければ不可能である。
 とはいえやむなく後者を選ぼうとしても、すんなりとはいかない。それは言うまでもなく同輩を見捨てることになるし、城には彼らの一族も少なくないだろう。仮に、他の重臣連中がやむなしとして彼らを見捨てようとしても、必ず一族の者たちが反対し、混乱が起きてしまうに違いない。


 ただ、あまり連中を追い詰め、自暴自棄に走られても面倒である。
 最悪、本願寺を恃んでこちらに敵対してくる可能性もあるからだ。それゆえ、俺はここであえて妥協する。より正確に言えば、妥協と見せた、今後の布石を打つ。
 すなわち、押し黙る彼らにむけて、俺は次のように述べ立てたのである。
「――やはり、こやつら、冨樫家には関わりない匪賊でありましたか」
 納得したように頷くと、後方からくぐもった抗議の声があがる。もっとも、猿轡から発されるそれは、意味をなして聞こえてくることはない。
「往生際が悪い輩でござるな。ところで――こやつらの処分はこちらで行いましょうか?」
 その俺の問いに、飛びつくように重臣の一人が答えた。
「た、他国の方にわが国の罪人を裁いてもらう必要はござらぬ。聞けば、確かに万死に値するけしからぬ輩のようでござる。我らの手で処断いたすゆえ、お引渡しいただきたい」


 その言葉に、はっとその男の意図に気づいた者たちが同意するように大きく頷く。おそらくは、こちらが捕らえた者たちの一族なり、親族なのだろう。確認する必要もないことであった。
 俺はもったいつけるように腕組みをしてみせる。
「確かに貴殿らに引き渡すが道理にもかなっておりますな――おお、そういえば、申し忘れておりましたが」
「な、なんでござる?」
「保護した晴貞様の件でございます。こちらをまず最初に申し上げるべきでござったな。失礼いたした」
 実は、と俺はわずかに声を高めた。
「晴貞様は、此度の上洛令と、それに従った上杉家と武田家の忠義に深い感銘を受けられ、自らもその一員になりたいと仰せになられております。無論、私どもは一度、城にお戻りになられ、配下の方々と相談の上で決めていただくように申し上げたのですが――」


 ――主君思いの臣たちであるゆえ、京に上ることなど許してはもらえない、と晴貞様は案じていらっしゃいましてな。
 ――確かに我らも守護である定実様や晴信様が直接上洛軍に加わっているわけではござらぬゆえ、貴殿らの心配は理解できまする。
 ――しかし。
 ――晴貞様のお話を聞くかぎり、京へ上って将軍家のお役に立ちたいという心はまことに見上げたもの。また、加賀を離れ、広く世情を知って見聞を広めたいという願いもまことに真摯なものとお見受けいたしました。
 ――ここは、ぜひとも小松城の方々のご理解、ご協力を賜りたいものと考え、晴貞様の代わりにお願いをさせていただく次第にございます。 


 一節を終えるごとに声を強める。
 一節を終えるごとに声を高める。
 最後には、最早、大喝しているに等しい語調になっていたことだろう。
 言外に告げている。頷かないのならば、後ろの者どもは渡さない、と。このためだけに、生かしておいてやったのだから、と。


 しんと静まりかえった室内には、しわぶきの音一つ聞こえない。
 彼らは迷っているのだろう。
 傀儡であった晴貞を上洛軍に引き渡したところで、彼らの心は痛まないし、権勢が失われるわけでもない。晴貞自身に忠誠を誓っているわけではないのだから、それが当然である。
 だが、晴貞の存在は加賀にとって――というより、この城にとって危険なものとなりえた。
 これまで晴貞を食い物にしてきた者たちにしてみれば、いつ晴貞がそれを理由として報復に来るかわからないという恐怖がある。無論、晴貞一人ならば一笑に付せるが、上杉、武田、あるいは将軍家がその後ろにつけば、厄介なことになってしまうだろう。
 晴貞自身がそれを望まなかったとしても、晴貞を擁する勢力にはそれが可能なのである。さらに言えば、傀儡とはいえ正式な加賀守護職である晴貞のこと、小松城だけでなく、加賀の国そのものを得るための名分にもなりえるのである。
 そんな人物を他国に去らせば、本願寺から処罰をされる可能性さえ考えられた。
 


 重臣たちも、それぞれに立場が異なる。晴貞を手放し、同輩を救うべきと考える者もいれば、同輩など見捨てて晴貞を取り返すべきと考える者もいる。
 また、同じ考えを持っている者同士でも、そこに至った理由は様々に異なる。理である者もいれば、利である者もいようし、考えたくはないが色欲である者さえいるのだろう。
 いずれにせよ、彼らが統一した見解を出すには無理がある。所詮は本願寺の後援を背景に、好き勝手に我が世の春を謳歌していた者たちばかり、咄嗟の判断力など期待は出来ない。そして、時がかかれば、彼らの誰かが暴走する可能性が高く、一度暴走すれば、もう理性的な判断が出来る余地などなくなるだろう。加賀の大地に、血潮が降り注ぐ事態になりかねぬ。


 それゆえ――
「無論、守護職が他国に去ってしまえば、皆様の苦難は筆舌につくしがたいものになるでしょう。その苦難を軽くし、また労う意味で、このような贈り物を用意しております」
 それゆえ、俺は万人に共通する利を提示する。
 捕らえられた男たちの後ろに置いてある荷を指し示すと、はじめてその存在に気付いた者たちが、訝しげな顔を見合わせた。
 俺が弥太郎に頷いてみせると、心得た弥太郎は四つならんだ荷物、その内の一つにかけられていた布を取り払う。
 すると。


「おおッ?!」
「な、なん……と」
 押し殺した驚愕の声が、どよめきとなって室内を埋め尽くす。
 それほどまでに、山と積まれた黄金は、見る者の目を惹きつけずにはおかなかった。
「こ、これは、一体?」
「上洛軍より、貴殿らへの贈り物、というところでござる。越後は佐渡の鉱山より採掘された黄金を延べ棒にしたものです」
「む、む。これを我らに下さると申すか? そちらの荷も、もしや同じものでござるか?」
「左様です。この程度では、守護不在の不自由を償うに足るかどうかはわかりませぬが、少なくとも何かの足しにはなりましょう」
 だが、その俺の言葉を聞いている者はほとんどいないようだった。
 皆、目は黄金に釘付けになり、唾を飲み込むばかりであったから。


(これでは、答えを聞くまでもない、か)
 そんな彼らの様子を見て、俺は内心でため息を吐く。
 思ったとおりに事が進みそうなのは良いのだが、内心、忸怩たるものがある。
 何故だろう、と考えてみれば、答えは明らかであった。
 こんなやり方が、景虎様の天道に沿うものである筈がない。人の欲につけこむということは、要するにそういう欲目が自分にもあるからこそ出来ること。景虎様や兼続であれば、もっと別のやり方があったのだろう。
 そう考えると、目の前の冨樫家の家臣たちと自分とが、同列の人間であるように思えて、遣る瀬無く感じてしまう俺であった―― 
 




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/21 16:09

 加賀の国を南に縦断する上洛軍。
 その中ほどで馬を進ませつつ、俺は思案顔を浮かべていた。
 小松城での交渉は成功し、晴貞は正式に上洛軍の一員として迎えられた。実は上洛軍で一番身分が高いのだが、率いる兵力が一兵もないので、実権はないに等しい。まあ晴貞本人も、軍事に口出ししようなどとは露思っていないだろう。
 交渉の結果を伝えに行った時の晴貞の唖然とした表情と、その一瞬後にくしゃくしゃに歪められた顔を思い出す。今回の件では思うところが色々あったが、それでも喜んでくれた人が、確実に一人はいるのだから、決して意味のないことではなかったのだろう。
 感極まって、傍らの虎綱に抱きつき、大声で泣き出した晴貞様の姿を見ながら、俺は安堵で胸をなでおろしたのであった。


 とはいえ、やはりわだかまりは残っていたのだろう。
 それが表情にあらわれ、俺の馬の轡をとる弥太郎に気付かれてしまった。
「あの、颯馬様、難しそうな顔をされて、どうしたんですか?」
「ん、少し考えごとをしてた」
 晴貞様の自由は、一時のことである。上洛が終われば、加賀に帰らなければならず、そうすれば元の木阿弥であろう。もっとも、そちらに関しては手はいくらでもある。たとえば名誉の戦死をしてもらうとか、突然の病で亡くなられたとか、晴貞が帰る必要のない理由をこしらえれば良い。
 ただ、そうすれば晴貞は守護としての地位と立場を失い、一庶民になることを意味する。正直、晴貞が世間の荒波に放り出されて、一人で生きていけるとは思えない。少なくとも、当分の間は誰かが傍らについている必要があるだろう。
 だが、このご時世、見返りもなしに人一人の面倒を見てくれるような酔狂な人間はそうそういないだろうし、ついでに言えば晴貞の器量を見ればよからぬたくらみを持つ輩がすり寄ってくるかもしれない。
 上杉家、あるいは武田家で匿えば、そういった問題は霧消するが、別の問題が生まれてしまう。
 一つは守護職でなくなった晴貞を、定実様ないし晴信が受け入れるかどうかである。そして、これにも関わることだが、もう一つ。晴貞様の存在そのものが、他国の猜疑を呼んでしまうという点が挙げられる。


 加賀守護として数年を過ごしている晴貞の容姿を知る者は、かなりの数にのぼる。たとえ素性を隠して上杉家なり武田家なりですごしていようと、どんな拍子で正体が露見しないものでもない。そして、一度露見してしまえば、今度は隠していたこと自体が厄介事の種になる。すなわち、晴貞の存在を利して、加賀をうかがう野心がある、と判断されてしまうのである。そうなれば、本願寺との関係も険悪なものとなり、一向宗との敵対という事態にまで発展する可能性があるのだ。
 定実様も、そしておそらくは晴信も、人としての情は持っているが、守護ともなれば、そういった可能性も考慮して事を決していかなければならない。晴貞を受け入れるということは、そういった危険を自家に取り込むということを意味する。そして、見返りとなる利益は無いに等しい。
 もう少し深読みすれば、上杉、武田、どちらが晴貞を引き受けるにしても、俺と虎綱がその事実を知っている時点で、互いの家の弱みを握った形になってしまうのである。


「……考えれば考えるほど厄介だ」
 俺がため息を吐くと、話の内容にやや怯んだ様子の弥太郎だったが、何とか俺を元気づけようと、おおげさに声を高め、拳を振りかざす。
「う、そういったことはお役に立てませんけど……で、でも、そのやっぱり颯馬様はすごいですッ。さっき会った晴貞様、とっても嬉しそうに笑ってました。私にも丁寧に頭を下げてくれて、助けてくれてありがとうって仰ってくれました――って、わ、私、守護様に頭なんか下げさせてよかったんでしょうかッ?!」
 自分の言葉に、自分で顔を青くする弥太郎。
 俺は馬上から手を伸ばして、おろおろしている弥太郎の頭をぽんぽんと叩いてやった。弥太郎は徒歩なのだが、背が高いので、手を伸ばせば普通に頭に届くのである。
 ふと見れば、兜をかぶっていない弥太郎の髪は、胸のあたりまで伸びてきている。初めて会った頃に比べると、随分長くなったものだ。
「ふあ?! あ、あの、颯馬様?」
「晴貞様の感謝の気持ちだ。素直に受け取っておいて良いと思うぞ。弥太郎にそんな恐縮される方が、多分、晴貞様は悲しむと思う」
「そ、そうでしょうか……うーん、わ、わかりました、気にしないようにします」
「ああ、そうしてくれ」


 それで話は終わりかと思ったが、どうやらまだ弥太郎は問いたいことがあるらしい。
 というか、不満に思っていることがある様子。少し頬を膨らせているし。なんだなんだ?
「……どうした、弥太郎?」
「うう、言おうか言うまいか、ちょっと悩んでたんですが」
「ん?」
「あ、あのッ」
 弥太郎は真剣な表情で、馬上の俺の顔を見上げる。そして、強い口調で問いただしてきた。
「晴貞様をひどい目に遭わせた連中、あのまんまにしておいて良いんですかッ?! 放っておいたら、また晴貞様にひどいことするんじゃないですかッ?!」
「……ああ、するだろうなあ。あの手の輩は、恨みは忘れず、反省はしないって手合いばかりだし」
「だったらッ!」
 俺の言葉に、弥太郎は手を振りかざし、さらに意見を述べ立てようとする。
 だが。


「弥太郎、やめなさい」
 冷静な声が、俺と弥太郎の間に割って入ってくる。俺の隣で馬を歩ませていた段蔵であった。
「でもッ。段蔵は晴貞様が心配じゃないのですか?」
「ええ、心配はしておりません」
 あっさりと断言する段蔵。
 予想外の答えに、弥太郎が目を丸くする。
 だが、弥太郎の目に浮かぶ感情が、呆然から義憤へと変わる前に段蔵は言葉を付け足した。
「――勘違いしないように。心配しないのではなく、心配する必要がない。そう言っているだけです」
「へ?」
 さらに目を丸くする弥太郎。しかし、女の子がその言葉遣いはどうかと思うぞ、うん。
 それと段蔵、わざとらしく俺に呆れた視線を向けるのは止めるように。
「――向けさせているのは誰ですか。どうせあの連中に報いがいくように策をほどこしておられるのでしょう?」
「さて、何のことやら。俺はいささかもやましいことなんてしてないぞ。その証拠に、今回は軒猿に何の指示も出していないだろ?」
「確かに。こちらの人手不足を慮っていただいて感謝しております。越中からまとまった人数が戻るまではいま少しかかりそうです」
「こき使って申し訳ない」
「いえ、それが忍の仕事ですから――で、話を戻しますと。弥太郎」
「は、はい?」
「あなたは、私より天城様にお仕えしている期間は長いのでしょう。この方が、あの手の輩を無罪放免するような、温和な君子だと思っているのですか?」
「う、それは思いませんけど。颯馬様、お優しそうに見えて、時折怖いと思うこともありますし――って、ひぁッ?! だ、段蔵、何を言わせるんですかッ!」


 何気に衝撃的な弥太郎の言葉に、俺が地味にへこんでいると、段蔵が動揺なぞかけらもない声で続けていく。
「あなたの不満を解消するためです。さて、温和な君子などではなく、実は弥太郎ほどの勇士にさえ恐怖を覚えさせる腹黒策士の天城様ですが――」
「言ってないッ! そこまでは言ってないよッ!!」
「――そんな天城様ですが、さて」
 すっぱりと段蔵に無視され、よよと泣き崩れる弥太郎であった。たまに思うが、君たち面白いな。


「そんな方が、女性一人を大勢でなぶるような輩を放っておくはずがないでしょう。どうせ何かしら思い知らせる策を練っているに決まっています。多分、私たちが考えるよりずっとえげつなくて――そして、効果的な策を、ね」
 そういって、小さく笑う段蔵。
「だから、私は晴貞様の今後については、特に心配していないと言ったのですよ。得心できましたか、弥太郎?」
「……うう、得心はできたけど、納得はいかないのは段蔵のせいだよ」
「弥太郎にあわせていると、話が終わるのが長引きますので」
 さらりとトドメを刺された弥太郎の背に哀愁を感じたのは、多分気のせいだろう、うん。


「それで主殿。どのような思惑を秘めておられるのか、教えてはいただけないのですか?」
「あいにく、もったいぶって開陳するような策は仕掛けてないぞ。込み入った策を仕掛ける暇がなかったのは、段蔵だって知っているだろうに」
「それはつまり、込み入っていない単純な策なら施したということですね」
「……まあ、否定はしない。かなり運任せ、というより成り行き任せだけどな」
 俺は肩をすくめつつ、白状する。実際、策などと言えるようなものではないのだが、段蔵はどうしても気になるらしい。情報を収集する忍の性というやつなのだろうか。
 ともあれ、別に強いて隠す必要もないものなので、俺は簡単に説明することにした。


「色と欲に凝り固まった連中に、目の眩むほどの黄金を与えた。さて、仲良く分け合ってめでたしめでたしとなると思うか、弥太郎?」
「え、あの、私だったら、家が貧しい人にゆずりますけど……」
「だろうなあ。が、この場合、弥太郎みたいに優しくて欲の少ない人はいないからな。まあ普通に考えれば、取り分で揉めるだろう。見たところ、連中をまとめあげているような大物はいないようだったからな」
 どんぐりの背比べ、というやつである。大方、本願寺はあえてそういった連中を城につけているのだろう。下手に有能な者を置けば、晴貞を担いで冨樫家の勢力を広げられたり、あるいは独立されてしまう危険が大きいと考えたのかもしれない。
 城の中には、弥太郎たちに痛めつけられて憤懣やる方ない連中も含まれている。彼らが持つ俺たちへの憎悪は紛れも無いもので、必然的に上洛軍への対応についても紛糾するだろうことは疑いない。
 今の小松城は様々な対立の火種が燻っている状態である。少し煽るだけで、たちまち城のどこかに着火するだろうと思われた。


 だが。
「景虎様の許可もなく、そこまでするわけにはいかない。上杉が謀略を用いて国を乱したなどと知られたら、景虎様の天道を、俺の手で汚すことになってしまうから。だから、今はこれが精一杯の報復だ。連中が勝手に同士討ちしてくれれば御の字だな」
 俺がそう言うと、弥太郎は納得したように、だがどこか残念そうな、複雑な顔で頷いた。
 そして、段蔵はというと。
「――なぜため息を吐かれるのでしょう、段蔵さん?」
「いえ、中々に底を見せてくれない人だな、と思いまして。やっぱり、天城様は腹黒いお方です」
「別に嘘はついてないぞ?」
「けれど、本当の狙いも口にしていない――そう見ましたが、如何?」
「――鋭いな、本当に」
「観察力と注意力、この二つに秀でることこそ忍の精華。主の憂い一つ察せないようでは忍失格です」
 その言葉に、俺は観念せざるをえなかった。


「まあ、あれだ。朝倉への手土産だ。以上」


「ッ!」
 段蔵が、かすかに息をのむ音がした。
「……なるほど、大聖寺ですか。確かに、それならば……しかし越前の情報など、どこで。軒猿は動かしていないのに」
「ふっふ、俺には奥の手が幾つもあるのだよ――というのは冗談だが。朝倉が一向宗と険悪な間柄なのは、別に秘密でもなんでもない。争奪の焦点になっているのが大聖寺だというのも、加賀に少し詳しい者はみんな知っていることだ」
 小松城が疑心暗鬼の巣窟になれば、大聖寺城は孤立する。朝倉家が大聖寺城を欲するのであれば、この情報はなかなかに貴重だろう。さらに言えば、大聖寺城を陥とした朝倉軍が北進すれば、小松城はたやすく陥落するだろう。朝倉家は加賀南部を所領に加え、そして晴貞は帰るべき城を失う、という寸法である。
「まあ、そこまで上手くいくとは思わないし、景虎様が他国の戦争に介入するような真似を許してくださるとも思えないが、手札を持っている分には構わないだろう」
 そう言いつつも、晴貞のことさえ、そんな風に策略のピースに加えている自分に、少々本気で嫌気が差しはじめている今日このごろである。



◆◆



「うう、また私のわからない会話になってるよ……」
 私って学がないからなー、としょぼんとうつむく弥太郎に、段蔵は澄ました顔で口を開く。
「弥太郎は、それで良いのですよ。私のような者ばかりが傍にいれば、天城様の気が休まる暇がなくなってしまう。今だって、私が追求していなければ、天城様は余計なことを口にしないで済んだのです。けれど、私はそれと知っていても確認しなければ気がすまないのです。忍としても、私自身の性分としても」
 だから、と段蔵は言う。
 弥太郎のように、心根の優しい者が天城の傍にいることは必要なのだ、と。
「そ、そうなのかな?」
「そうなのです。私に私の役割があるように、弥太郎には弥太郎の役割があります。自分を卑下する必要はありませんよ――とはいえ」


 きらりと光る、段蔵の目。
「学を身に付ける分には、むしろ奨励したいくらいです。学を身に付けた程度で、弥太郎の心根が変わるわけではありませんしね。最近は天城様も随分と手がかからなくなってきてますし、ここは一つ、私が弥太郎に読み書きの手ほどきをしてあげましょう」
「え゛?」
「どうしました、蛙が踏まれたような声を出して?」
「い、いえ、でも段蔵も忙しいでしょうし、これ以上、余計な手間をかけるわけにはいかないと思うんです」
 そう言って、二歩、三歩とあとずさる弥太郎。
 段蔵の、天城への馬術教練を目の当たりにしている弥太郎にとって、段蔵の手ほどきは命を賭す荒行に等しい。遠慮したいというのが正直なところである。
 だが。
「無論、無理にとは言いませんが」
「そ、そうですか、うん、大丈夫です。段蔵に迷惑をかけないように、自分で頑張りますから――」
「しかし、天城様も、自分の一の部下が読み書きできないとなると、色々と不自由になるかもしれませんね」


 ぴくり、と弥太郎の肩が震えた。一の部下あたりで。
 そんな弥太郎を視界の隅におさめながら、段蔵はさらに続ける。
「天城颯馬の配下として、勇猛名高き鬼小島弥太郎が、文武に秀でた名将に成長することが出来たなら、天城様もさぞ鼻が高いことでしょう。きっと史書にも明記されるでしょうね――あの天城颯馬の股肱の臣、その名は鬼小島弥太郎貞興である、と」


「――今日からよろしくお願いします、師匠」
「いきなり師匠ですかッ?!」
 予測をこえた弥太郎の反応のよさに、さすがに段蔵は少し驚いたようだったが、すぐにくすりと笑うと頷いた。
「言うまでもありませんが、びしばしといきますので、覚悟しておいて下さいね」
「はい。万の軍勢に突撃するつもりでいかせていただきます」
 おおげさにも聞こえる弥太郎の言葉だったが、段蔵は眼前の少女が嘘偽りを口にしないことを良く知っている。つまり、今の台詞は弥太郎の本気の覚悟ということである。
(……これは、むしろ私の方の覚悟が足りなかったかもしれませんね)
 そんなことを思いつつ、段蔵はどこか満足げに顔をほころばせるのであった。

 


◆◆




 越前一乗谷城。
「で、では義景様は上洛には加わらないと仰せでございますかッ?!」
 鳥居景近は愕然とした様子で確認をとる。
 上杉、武田、さらに加賀の冨樫の軍が加わったと噂される上洛軍。
 将軍足利義輝は、北陸各地の大名たちに上洛軍への便宜をはかることを求めると共に、その参加を促していた。
 朝倉家に仕える景近にとって、それは自身の武名を高める絶好の機会が到来することを意味しており、上洛軍の到来を今や遅しと待ちわびていたのである。
 まさか、当主である義景が、上洛に否と言うとは予想していなかった。


「うむ。戦は飽いた。北近江の浅井も、ようよう国内を統一したようじゃし、これで当面の敵は加賀の一向宗のみじゃ。そちらは宗滴に一任しておるゆえ問題あるまい。ようやっと越前の地から戦火が遠ざかったのじゃ。あえて将軍の誘いに乗って、火中の栗を拾うには及ぶまい」
「し、しかし、将軍殿下みずからが書状を認められた要請を、拒絶なされば、当家の武名が地に堕ちてしまいますぞ」
 景近は、主君を翻意させようと言い募るが、義景は顔色一つかえず、景近の言を聞き流すだけであった。
 さらに口を開こうとした景近の耳に、傍らから鋭い叱責が浴びせられる。
「たわけ、貴様ごとき若造が、朝倉家の当主に対して異議を唱えるなぞ百年早いわ」
 そう言ったのは朝倉景鏡。
 朝倉家の一門衆筆頭であり、主君義景に次ぐ権力を有している人物である。
「し、しかし……」
「黙れ。そもそも、貴様は誰の許しを得て我らの前に膝を進めているのか。貴様の意見なぞ誰も求めておらん。さっさと末席で控えているが良い」


「ぐ……」
 景鏡の傍若無人な言い様に、景近の頬が怒りで赤くなったが、相手は義景に次ぐ権勢を誇る人物である。下手に逆らえば、命が危なかった。
 くわえて、若く実績のない景近は、軍議の度にすすんで意見を述べているが、それがとりあげられることは滅多になく、たまに取り入れられたとしても、その功績は他の家臣のものとなるのが常であった。
 そういった境遇にあるため、忍耐心だけは鍛えられている。
 景鏡の言に怒りを覚えながらも、何とか自制心を発揮し、景近は末席に下がっていった。


 それを嘲笑で見送った景鏡は、主君に向き直り、口を開く。
「さて、殿の方針が非戦と決まれば、あとの雑事は我らの仕事でござる。殿にはゆっくりとお休みくだされい。小少将が待っておりまするぞ」
 溺愛する側妾の名を出された義景は、だらしなく顔を歪めつつ、ためらう様子もなく立ち上がる。
「うむ、では後は景鏡に任せよう。頼んだぞ」
「御意。お任せくださいませ」


 そうして義景が立ち去れば、後の軍議を仕切るのは景鏡しかいない。
 家臣たちもこの状況に慣れきっており、特に異論を差し挟もうとする者はいなかった。
 否、正確に言えば、先刻の鳥居景近をはじめとして、義景の決定や景鏡の態度に不満を持っている者はいたが、いずれも身分が低い者ばかりで、軍議の席で堂々と発言できるだけの地位職責を持っている者たちは、ことごとく景鏡の与党であった。
 ――そう。ただ一人を除いて。


「上洛に不参加を告げる使者には――そうさな、宗滴に行ってもらおうか。守護も守護代も不在の上洛軍と聞く。一族の末端のお主が赴いたところで、文句は言われまいよ」
 景鏡が示した者は、重臣の居並ぶ列の最後列にいた。
 朝倉教景。先代朝倉家当主の後継者として育てられるが、先代が死去した時、わずか四歳であったため、当主の地位は義景に渡り、教景は龍興寺という寺に入る。仏門に入って、世俗との関わりを絶ったのは、無論、次代の後継者争いを未然に防ぐためであった。この時、法名を授かり、以後「宗滴」を名乗るようになる。
 数年前、朝倉家は北近江の同盟国、浅井家の内乱に巻き込まれて兵力を失い、この機を見計らって攻め込んできた加賀の一向宗らの敵勢に国内深く攻め込まれ、一時は一乗谷も危ないと思われた。
 その御家の危機を知り、龍興寺から駆けつけた宗滴は、不利な戦況にも動じない毅然とした態度と卓越した統率力をもって敵勢を撃退、朝倉家滅亡の危機を救ってのける。
 以後、義景は宗滴を重用し、軍事となると、真っ先に宗滴に諮問するようになっていたのである。


 だが、戦に倦んだ義景が政務から離れ、景鏡に実権が集まるようになると、この一門衆筆頭の男は、宗滴の存在をはっきりと敵視しはじめた。宗滴は武将としての清廉さと、女性としての鮮麗さをあわせもち、特に民や兵、あるいは下級の武将たちからの人望が厚い。
 次代の当主就任を目論む景鏡にとって、宗滴が目の上の瘤であることは、万人の目に明らかだった。
 宗滴自身は、己が職責を、将として兵を率いることに限定させている節があり、政務に携わろうとすることは決してなかったのだが、景鏡の目には宗滴が要注意人物として映っているらしかった。


 宗滴は景鏡の要請に対し、短く返答を告げた。
「――承知」
 景鏡は口元に笑みを張り付かせたまま、そんな宗滴に嘲弄まじりに話しかけた。
「ふん、ついでに加賀を落としてきてもかまわんぞ。そなたに攻略を任せて早一年近く。いまだ加賀の寸土さえ得ていないのだ。わざわざ龍興寺から戻ってきたと知った時は、どれだけ成長したのかと期待したものだが、知れたものであったな。なんなら、再び寺に戻ってもらってもかまわんのだぞ」
 景鏡の露骨な挑発に、しかし、宗滴と呼ばれた女性は顔の筋一つ動かさず、平然と受け流す。


 だが、宗滴自身はともかく、宗滴に期待と信頼を寄せる下級武将たちは景鏡の暴言に、一瞬、騒然となった。景鏡の一瞥を受けて、すぐに静まりかえりはしたが、それでもその表情に反感がないと誰にいえよう。
 彼らは、宗滴が加賀侵攻の命を受けたことを知っていた。そして、宗滴がろくな兵も物資も与えられずにいることも。
 宗滴の才能と人望を目障りに思う何者かが、敵の手を借りて宗滴の抹殺をはかっている。そうとしか思えない露骨なやり方は、しかし、一年の長きに渡って続けられているのである。
 ただその一事だけを見ても、朝倉家の病根の深さは誰の目にも明らかであった。






 景鏡が軍議を解散させた後、鳥居景近は城の一室で宗滴と向かい合って座っていた。
 といっても、別に景近は宗滴と格別親しいわけではない。自らの才能を誇り、またそれを天下に示すことを望む景近にとって、現在の宗滴の態度――朝倉家の有力な一族でありながら、景鏡の頤使に甘んじている態度は、覇気のない、情けないものとして映っており、尊敬の対象にはなりえない。
 だが、朝倉家の重臣たちの中で、唯一、まともに景近の話を聞いてくれるのは宗滴だけであり、今回の上洛における朝倉家の決断が間違っていることを滔々と述べ立てたのである。
 そして、朝倉家の武威を高めるために、ぜひとも義景たちを説得してほしいと詰め寄った。
 だが。


「――景近」
「は」
「そなた、政略と戦略、戦術の違いがわかるか?」
 突然の宗滴の問いに、景近は肝心の問いをはぐらかされたように感じ、不機嫌さを滲ませた声で応じた。
「無論、存じております」
「そうか。では、我ら武将はそのいずれを任されているものと考えている?」
「いずれと言って……戦いに関すること全てでしょう。であれば、そんな区々たる差異を気にしてもしょうがないのではありませんか。そんな言葉遊びよりも、実際にどう行動するか――」
 そこまで言いかけて、景近は驚いて言葉を止めた。宗滴が腰を上げたからである。
「宗滴様?」
「残念ながら、今のそなたと語りあったところで意味はないようだ。己が職責さえ理解できていないそなたには、私が何を言っても届かぬであろう。だが、そなたが間違っていると断じているわけでもない。おそらく、今の朝倉を変えるためには、そなたのような行動も意味を持つのであろう。ただ、それは私には出来ぬこと。この身は将として、与えられた戦場で全力を尽くすのみだ」
 立ち上がり、そう言う宗滴の姿からは、朝倉宗家に連なる者としての確かな威厳が感じられ、景近は言葉を失う。


 そうして、立ち去る宗滴の後姿を見ながら、景近は腹立たしさをおぼえていた。
 あれだけの才腕が己にあれば、とそう思ってしまう。否、自分とて、宗滴ほどではなくとも、それに迫る程度の才能はある。景近はそう自負している。だが、それを発揮する術がない。場所がない。時がない。
 上洛軍の一員となって、手柄を立てれば、才能を振るえる場所も増えるだろう。そう期待していただけに失望は深く、重臣を問い詰めるような真似までしてしまった。
 幸い、宗滴はさして問題にした様子もなかったが、だからといって景近を認めてくれたわけでもあるまい。結局のところ、これからも景近は周囲の無理解と、自身への焦燥を抱えながら生きていくしかない。それがいつまで続くのか、と考えると、前途の遼遠さに目が眩む思いがする景近であった。 





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/21 16:08


 しんと静まり返った室内に、茶を立てる音が心地よく響く。
 景虎様はじめ、兼続や虎綱らは落ち着いた眼差しで、部屋の主の流れるような作法に見入っていた。そこには少なからず感嘆の色が窺える。彼らの目から見ても、この部屋の主――朝倉宗滴の茶の手並みは見事の一語に尽きるのだろうと思われた。


 もっとも、皆が皆、その手並みに見惚れていたわけではない。
 茶の湯の作法なんて欠片も知らない俺は、内心で慌てまくっていた。
 あれか、飲む前に茶碗を三回、まわすんだっけ? 右にか、左にか、そもそも三回で合っていたっけ??
 越後にいた時に茶を飲むことはあったが、こういった格式ばったのみ方をしたことはなかった。当然というか、そのための作法は学んでいないし、元の世界で茶道をやっていたという事実もない。
 かくて俺は、下座に座りながら、だらだらと汗を流す羽目になっているのである。


 そして、そんな不審な客の様子に気付かない部屋の主ではなかった。
「――天城殿」
「は、はいッ?!」
 こうなったら、景虎様たちの様子を仔細に観察し、それを真似るしかないと覚悟を決めたところに、突然名指しで呼ばれたため、俺は不自然に声を高めてしまった。
 一瞬で周囲から視線が集中し、俺はますます汗だくになってしまう。
「冬の近づく今、茶室は冷える。そのため、暖をとっていたのだが、いささかそれが過ぎていたようです。申し訳ない」
「い、いえ、結構なお手前、ではない、暖かさでちょうど良いです、はい」
「そうですか? しかし、さきほどから幾度も汗を拭われているようにお見受けするが……」
「や、それは、ですね――」


 なんと誤魔化そうか、と思案したが、宗滴の深みのある眼差しにじっと見つめられると、そういった誤魔化しがとても失礼なことのように思えてしまい、俺は言葉に詰まった。
 そもそも、なんで義景が当主のこの時代、宗滴がこんな若いのか。それも定満のように若く見える、というわけではなく、実際に若いらしい。景虎様と同年だとか。なんでも当主継承時、幼子であった為、寺に預けられていたのだそうだが、宗滴がこの若さで朝倉家にいるとなると、今後の近畿の展開、かなり違ってくるのではあるまいか。
 そして例のごとく女性だった。これはもういまさらなんで気にならん。それもどんなもんかと思うのだが、慣れだな、きっと。


 実のところ、はじめに会った時は凛々しい甲冑姿だったので、随分綺麗な男だな、としか思っていなかった。
 しかし、名前を聞いて驚き、さらに甲冑を脱いだ宗滴の姿を見た俺は、質素な衣服の上から、女性らしい身体の起伏をはっきりと確認して、もう一度驚いた。まあ、言葉を飾らずに言うと、宗滴はとてもスタイルが良かった、ということである――自分で言っててなんだが、なんかすごい違和感を感じる言葉である。宗滴というと、俺の中では上野の長野業正と並ぶ戦国老将の双璧なのだが、その宗滴が、切れ長の眼差しが印象的な美人さんだとか、一体どうなっているのやら。
 ……まさかとは思うが、長野業正も若い美人だったりするのだろうか。あなおそろしや。


「おい、颯馬、何をぼうっとしているッ」
 兼続の低く抑えた声に、はっと我に返る俺。見れば宗滴はいまだにじっと俺の様子をうかがっている。いかんいかん、現実逃避の思考にふけっている場合ではなかった。
 俺は慌てて宗滴に頭を下げる。
「実のところ」
「うむ?」
「……作法がわからないので、焦っていただけです」
 誤魔化したところで、どうせすぐにぼろが出るだけだから、と正直に話す。
 最初からそうしておけば良かったと思わないでもない。
 唐突な俺の告白を聞き、兼続が思わず、といった感じで声を高めた。
「な、なに、そうなのか?!」
「はあ、そうです、兼続殿」
「ば、ばか者、それならそうと何故言わん。茶と酒は武人の嗜みだぞ。景虎様に仕える身が知らんではすまされん。知らないのならば、先に教えておいたものを」
「い、いや、越後でそういった機会がなかったもので。こういう場があるとは……」
「そういえば、颯馬はそういった席には無縁だったな。てっきり、晴景様から教えをうけているものとばかり思っていたが……」
 呟くように言う兼続。きけば、晴景様はその道にかなり秀でていたらしい。もっとも、俺はそういった教えを受けたことは一度もないし、茶の席に呼ばれたこともなかった。多分、あの頃の晴景様は、茶の湯どころではなかったのだろう。


 ともあれ、要らぬ心配をかけたことを詫びる俺に、宗滴は小さく頭を振ってみせる。
「茶の湯などと言っても、私のそれは道を云々するものではない。寛いで喫していただければ、喜び、これにすぐるはなし。かしこまる必要はござらぬ、天城殿」
「恐縮です」
 そう言って、あからさまにほっと安堵する俺を見て、宗滴は口の端に笑みを浮かべた。
 兼続はどこか呆れたように、虎綱は口元を手で押さえて笑いを堪えている。
 そして、景虎様は――
「颯馬は幸せ者だぞ。はじめての茶で、九十九髪茄子(つくもなす)が用いられるのだから」
「九十九髪茄子?」
「天下に名高い茶器のことだ。正直なところ、さきほどから眼が離せぬ」
 そう言って、景虎様が見つめる先には、茶を入れるための容器らしきものが置かれていた。


 漆塗りの胴体部が、室内の微細な灯火を映しだし、陰影に富んだ色彩を見せている。
 俺にこの手の物の善し悪しなぞわかる筈もないが、それでもこれが得難い一品であることは理解できないこともなかった。
 ――まあ、多分、景虎様の言葉がなければ、何の変哲もない小型の壷にしか見えんかっただろうが。そういえば、松永久秀が抱えて爆死したというのはこれだったかな……あ、いや、あれは平蜘蛛だった。


 そんなことを考えながら、俺は宗滴が点ててくれた茶を、助言どおり肩肘はらずに飲むことにする。
 とはいえ、まさか普通に茶碗をとって一気に飲み干す、なんてことは出来ない。景虎様たちの様子を真似し、右手で茶碗を抱え、左手に乗せ、軽くおしいただいた後、ふところまわし(時計まわり)に二度まわし――などという作法を不器用になぞった。傍からみると、ずいぶん滑稽な動きだったのではと思うが、気にしてはいけない。まあ、兼続が厳しい顔をしてたので、あとでこってり叩き込まれることになるだろう、多分。






 俺たちは上洛を急ぐ身であり、朝倉家は上洛に参加しないことを明言している。
 それゆえ、本来なら、越前でのんびりとしているのは双方にとって好ましくないのだが、宗滴の人柄が俺たちをこの地に惹き付けた。
 決して多弁な人ではないし、表情が豊かというわけでもないのだが、何故かこの人の傍らにいると落ち着けるのである。武将としての宗滴は、厳しい軍紀で将兵をまとめあげ、自ら陣頭に立って敵軍を蹴散らす勇猛果敢な将であるとのことだが、平常の宗滴からそういった戦働きを連想することは、なかなかに困難なことであったろう。


 誰かに似ている、などと考える必要もない。宗滴は、景虎様ととても良く似ているのだ。姿形ではなく、その在り方そのものが。俺たちが居心地の良さを感じるのも、当然といえば当然のことであった。
 ただ、似た人柄であっても、否、だからこそ反発する人も少なくない。自分に似た人だからといって、好感ばかり抱けるわけではないのである。
 しかし、景虎様と宗滴の二人に関しては、これは当てはまらなかった。
 あまり口数の多い二人ではないから、延々と語り合ったりするわけではないが、互いに通じるものがあるのだろう。今は武将らしく戦談義に花を咲かせているわけだが、二人は昨日今日はじめて会ったとは到底思えないほどに、良く話が合っていた。


 そして、その場で宗滴から、俺はとある質問を受けた。
「政略と戦略、そして戦術の違い、ですか?」
 俺は、腕組みしつつ次のように答えた。
「そうですね、誰と戦うかを決める段階が政略で、どうやって目的を達するかを考える段階が戦略で、実際に戦場で敵と矛を交える段階が戦術、と。そんなところでしょうか。かなり大雑把ですが」
 それをきいた宗滴の口から小さく、ほう、と声がもれた。
「天城殿は、兵書を読まれるのか?」
「読んだ物もある、という程度です。それにしたところで、六韜三略、四書五経を読破したわけではないので、誇れるようなものではありませんが」
「運用の妙は一心に存すという。兵書をどれだけ読もうとも、掴めぬ者は何も掴めぬ。しかし、そなたは感得するものがあったのだろう」
 宗滴は覗き込むように俺をじっと見つめる。眼をそらすことも出来ず、しばし見詰め合う俺と宗滴。やがて、宗滴はゆっくりと視線をはずし、景虎様に向き直って、どこかしみじみとした調子で口を開いた。
「――景虎様は、良い臣を持たれた。羨ましく存ずる」
「宗滴殿ほどの方に、我が臣をそこまで高く評価していただけるとは光栄です」
 景虎様は俺の方を向き、茶目っ気まじりに片目をつぶってみせる。
「颯馬、大変な栄誉だぞ。これで無様な指揮をしようものなら、宗滴殿の言を否定することに繋がってしまうからな。さあ、大変だ」
「……景虎様、なんか面白がってませんか?」
「さて、何のことやら」
 明らかに楽しそうな表情を浮かべた景虎様。多分、俺がほめられたのを喜んでくれているのだろうが――し、しかし。
 見れば、宗滴の穏やかな視線が俺に注がれている。
 名高い二人の名将に同時に見つめられ、俺は妙な気恥ずかしさを感じて、視線をあさっての方向にそらせることしか出来なかったのである。




 思わぬ楽しい時間は、だが、それゆえに風のように過ぎ去ってしまう。
 俺たちは京へ、そして宗滴はこれから出陣する予定であるという。どこへ、とは言わなかったから目的地はわからないが、おそらくは加賀の一向宗相手の戦であろう。
 親しくなったとはいえ、他国の人間に軍機密をあっさりともらすような真似を、公私の別をわきまえた宗滴がする筈はなかった。
 だが、その宗滴が、目的地を明言しなかったにせよ、これから合戦があると告げてくれたのは、どうしてか。
 それはおそらく、朝倉家の一員として、上洛のために守護不在の加賀へ侵入しようとする詐謀じみた戦に対して、自分が出来る範囲でけじめをつけてくれたのだと思われた。


『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』


 宗滴の言葉として有名な一節である。
 勝利こそが武将の本義。計略も武略も、勝利のための要諦ではあるが、しかし宗滴は、勝つために何をしても良いと言ったわけではない。守るべき一線というものは、厳然として宗滴の中に存在しているのであろう。


 ただ、今回の場合、俺にしてみれば朝倉家の加賀攻めは諸手をあげて歓迎したい気分である。ただ、戦に赴くにしては、宗滴が率いる軍兵の数が少ないのが気になるのだが。あるいは国境付近で合流する予定なのだろうか。
 いずれにせよ、立場上、口にはできないが、宗滴に勝ってもらいたいというのが、まぎれもない俺の本心である。
 そのためには、件の一事を宗滴に伝えたいところなのだが、しかし、これを言うと、俺は晴貞を上洛軍に迎え入れておきながら、その本拠を壊滅させようとする策謀家に堕してしまう。それを否定するためには、晴貞の事情を伝えなければならないのだが、晴貞の許可なくそんなことを他者に知らせるのは、別の意味で外道であろう。
 宗滴が守るべき一線を守りながら、俺たちに礼を尽くしてくれたように、ここは俺も宗滴に習うべきであろうと思われた。
 そうして悩んだ末に、俺はあまりにも有名な言葉を口にする。
「敵を知り、味方を知れば百戦してあやうからずと申します」
「む?」
「どうか、情報の収拾を密になさいますように」
 案外、敵が勝手に混乱している可能性もなきにしもあらずです、とは言いたくても言えないが、あの朝倉宗滴であってみれば、孤立した大聖寺城を陥とすことは難しいことではあるまい。
 この時、朝倉家の内情をくわしく知らなかった俺は、そんな風に考えていたのである。


 まさか、宗滴がろくに兵も兵糧も与えられず、加賀の地に攻め込むことを強いられているなど想像できる筈がない。
 宗滴は史実のように、朝倉家の軍略を司っている大物だと、俺は思い込んでいたのである。
 宗滴にとってみれば、俺の指摘は唐突で、しかもいまさらな観が拭えなかっただろう。敵地に踏み込む際、くわしい情報を集めるのは当然のことであるのだから。
 だが、宗滴はそんなことは口にせず、俺の助言に丁寧に礼を述べ、麾下の将兵を連れて、俺たちと道を違える。
 質実な武将らしく、景虎様と宗滴の別れの挨拶は、互いの武功を祈るだけの簡素なものであった。
 離れいく宗滴の後ろ姿に、一瞬、不吉な影を感じたのは、おそらく俺の気のせいであったのだろう。



 ――かくて、この後、加賀で行われる『大聖寺城の戦い』は、俺たちの上洛とは別の物語となるのである……





 ――などと書くと大げさだが、実際のところ、宗滴の大勝利だったそうだ。俺が感じた不吉な影は、ほんとにただの気のせいであったらしい。申し訳ない。
 宗滴の軍を寡兵と侮った大聖寺の軍勢は、城を出て朝倉勢と対峙したものの、宗滴はわずかな手勢を縦横に駆使して、これを撃滅、大聖寺城に押し寄せる。
 城側は最も近い小松城に援軍を求め、篭城戦に移るが、頼みの援軍は一向に来ず、結局宗滴の手で城は陥とされてしまう。
 この敗報を受け、尾山御坊の本願寺勢は、大規模な大聖寺奪還の軍を起こす。
 公称三十万。誇張はあるだろうが、たとえ実数がその十分の一だとしても、おそるべき大軍であった。
 この大軍の猛攻にさらされた宗滴は、しかし慌てる様子もなく、大聖寺城に拠って防戦する。その守城指揮は完璧で、一向宗の大軍は手も足も出ずに退却するしかなかったらしい。
 ここに、朝倉家は加賀の地に橋頭堡を得て、その武名を飛躍的に高めることになる。実際の指揮官である朝倉宗滴の名は、その美貌と武功があいまって『奇跡の麗将』として各地に伝えられていくことになるのである……
 



◆◆




 一方、越前を通り過ぎた上洛軍は、いよいよ山城の国の手前までやってきていた。
 北近江? とくべつ語るようなことは何もなかった。ええ、まったくありませんでした。
 浅井長政は普通の男武将だったしな。まあ、その部下が少々普通ではなかったが……


 俺はふと浅井長政と対面した時のことを思い起こす。
 というか、その席で、いきなり襖をあけて飛び出してきた三人の武将のことを思い起こす。出来れば忘れたいが、色々な意味で忘れられん。
 

 その三人は、唐突にあらわれ、高らかにこう叫んだのである。
 状況を詳細に示すために(というか、形容するのが面倒なので)台本形式で記そう。


 仮面をつけた三人、飛び出す。

雨森弥兵衛「浅井の闇は、俺が祓うッ!」
海北綱親「浅井の敵は、俺が屠るッ!」
赤尾清綱「浅井の明日は、俺が築くッ!」

 三人、ここでポーズ。

雨「人呼んで、浅井一号!」
海「人呼んで、浅井二号!」
赤「人呼んで、浅井ぶいす――」
 
颯「はい、お帰りはあちらです」


 ぴしゃりと襖が閉じる音。幕が下りる。

 その後、音声だけが流れる。

景「そ、颯馬、良いのか?」
颯「良いんですッ! 景虎様は見てはいけません」
景「そ、そうか、わかった。颯馬が言うなら、そのとおりなのだろう」
颯「ええ、そうですとも。長政様もそう思われますよね?」
長「………………ああ」


 終。


 ――ほら、何もなかった。誰が何と言おうと、何もなかったのである。

 
 

◆◆



 かくて、ようやくたどり着く。
 山城の国――京の地へ。
 戦らしい戦もなく、ここまで来られたため、上洛軍の兵力は八千のままである。将軍にとっては頼もしい戦力がやってきたことになるだろう。
 だが、その一方で、この軍勢を歓迎しない者たちがいることも当然のことであった。すでに上洛軍の情報は、随分前から京中に知れ渡っていたらしい。つまりは、邪魔したい者たちにとって、準備する期間は十分にあったということである。


 京の地に入る俺たちの前に立ちはだかったおおよそ三千の軍勢。
 掲げる旗印は『三階菱』――近畿、四国にまたがる大勢力を有し、将軍家を傀儡とする大家、三好家の家紋である。
 両軍の間に、瞬く間に緊張がはしる。特に将軍家の使者である細川姉妹の顔は険しい。ここに三好家が現れたことの意味を、二人ほど良く知る者はいない。


 だが、そんな中、俺は訝しさを隠せずにいた。
 三好軍三千の先頭に立っている人物が、あまりに場違いだったからである。華美な衣装を身に付けているが、ほとんど子供と言って良い小柄な体格の、あれは女の子ではないのか。
 両軍の距離が近づくにつれ、俺は自分の見立てに間違いがないことを確信する。
 一方で、細川姉妹の敵意はふくれあがるばかり。それも、明らかにあの少女に向けられたものである。
 細川姉妹が、あの少女のことを良く知っていること、そして激しく敵視していることは誰の眼にも明らかであった。


 怒り、戸惑い、警戒、不審――八千の軍勢の視線を総身に浴びながら、しかし少女は眉一つ動かさず、穏やかに笑んで見せる。
 子供のように無邪気な、蕩けるような笑み。同時に、少女の立ち居振る舞いは都の者らしい気品が溢れ、さらに見る者によっては不意に背筋を撫でられるような、奇妙な色艶を感じる者さえいた。
 本来、並存する筈のないそれらを、しかし、少女は一身に修めている。その一事だけをとっても、眼前の少女がただものでないことは明らかであった。


 一体、何者、と内心で身構える俺の声が聞こえたかのように、少女の艶やかな唇が開かれた。
 透き通るような、けれどどこか甘さを感じさせる声があたりに響きわたる。
「ようこそいらっしゃいました、上杉家、武田家の皆様。そして冨樫家の主様。殿下の招請に応え、はるか東国の地より、この京に参られし皆様の忠誠、感じ入るばかりにございます」
 そう言って、少女が優雅に礼をする。ただそれだけの動作なのに、こぼれるような気品が見る者の目を奪う。


 ――そうして、少女は己が名を口にする。


「私の名は、松永久秀。公方様の命により、皆様の京での案内役を務めさせていただく者にございます」


 にっこりと微笑みながら……





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/22 00:44


 京の目前で松永久秀と出会ってから三日。
 俺たちは未だ京の町に入ることが出来ずにいた。
 久秀の説明によれば、上杉、武田らの軍勢が京を焼き払うのではとの流言があり、それを恐れた一部の町人や将兵が洛内の各処で不穏な動きを見せているらしい。
 万一にも、それらのせいで両軍に被害が出ては、あらぬ諍いの種になりかねないため、彼らを説得ないし排除するための時間をいただきたいというのが、久秀の言い分であった。


 一応、筋は通っている。あえて偽りと決めつける理由も証拠も、こちらにはない。景虎様と虎綱は、久秀の申し出た十日の猶予を、五日に区切った上で待機を了承したのである。
 そんな両軍の前で、まるで京への道を塞ぐかのように陣を構えるのが、三好軍三千の兵であった。
 見たところ、鎧武者の数は極端に少なく、ほとんどは農民を駆り立てた兵士たちであると思われた。武器甲冑は貧弱なもので、軍装も統一されておらず、とてものこと畿内を制した三好の軍勢とは思えない。
 中でも将兵の笑いを誘ったのが、三好軍が抱える武具のみすぼらしさであった。ことにその中でも『細い筒の形をした、棒状の鉄の武具』に関しては、目新しさこそあったが、刀にしては刃がなく、槍にしては穂先がなく、どうやら鉄を棒状にした打撃武器だと思われたが、扱う兵士たちの慎重な手つきを見ていると、耐久力はさほどでもないようで、あれでは物の役に立つまい、と将兵はおおいに笑ったものであった。
 しかも、その武器を持つ者が百人近くいるとなれば、三好家の武威を疑う者が出るのは避けられなかった。


 そんな周囲の声を他所に、俺は三好家の軍勢を見ながら低く呟いた。
「なるほど、まずは三好家の武力を思い知らせて、機先を制するつもりか」
「颯馬様、どうかしましたか?」
「ん、弥太郎、少し頼んで良いか」
「あ、はい、なんなりと」
 ごにょごにょと弥太郎の耳元でやってほしいことを伝えると、弥太郎は不思議そうな顔をした。俺がどうしてそんなことを言うのかがわからなかったのだろう。だが、特に反問もせず、言われたことを実行するために走り去る弥太郎。その弥太郎の背を見送るのももどかしく、俺は景虎様の陣に向かった。その次は武田軍の虎綱のところにも行かねばならないので、急ぐ必要があったのである。




 そうして、期限である五日目。
 それまで動きのなかった三好軍に慌しい動きが起きた。
 上杉、武田の両軍は何事かと緊張を高める。
 すると、三好軍から久秀があらわれ、呆れた表情を隠さずに状況を説明した。
 なんでも、一部の強硬派が久秀らの説得を受け入れず、武力で上洛軍を追い払おうと京都から出て、こちらに向かっている最中なのだという。数はおおよそ三百というところらしい。
「こちらに向かっている軍勢は、細川家の手勢でね。勝ち目なんて無いに決まっているのだけど、連中は将軍家に対して無礼な行いばかりしてきたものだから、あなたたちが洛中に入って公方様にお会いになると、自分たちが誅殺されると思い込んでいるみたいなの。こちらの説得にも耳を貸さなくて、処遇に困っていたんだけど、まさか真正面から突撃してくるなんてね」
 身の程知らずも甚だしい、と久秀は頭を振ってみせる。


「身に降りかかる火の粉は払わねばならん。蹴散らすが、構わんな?」
 景虎様が念のために確認をとる。しかし、それに対し久秀はもう一度、頭を振ってみせた。
「いいえ、長尾様。こちらが軍を配備していたのは、こういう事態に備えるためなの。こちらの不始末は、こちらの手で片付るから、手出しをせずに見ていて下さいますか。それをお願いしに、ここまで来たんです」
「ふむ。ならば我らは手を出すまい。だが、こちらに被害が及ぶと判断した場合、勝手にやらせてもらうぞ」
「御意のままに」


 景虎様に向かって完璧な礼をしてみせた久秀は、すぐに部下に合図を送る。すると、その部下は三好軍に見える位置まで駆けて行き、大きく紅の旗を振ってみせた。
 それが合図だったのだろう。三好軍はそれまでの混乱が嘘のように整然と展開をはじめ、瞬く間に鶴翼の陣に似た陣形をつくりあげた。
 ただ、通常の鶴翼と異なるのは、中央部隊がもっとも陣容が薄いことであった。精々二百程度しかおらず、これでは敵が中央突破を図った場合、止めることが出来ないのではないかと思われた。
 三好軍が突破されれば、当然、次に標的となるのはその後ろに陣を布く上杉軍である。
 それと承知している景虎様が合図を送ると、たちまち上杉軍も動き出す。


 上杉軍が動き出すのを見ていた久秀は、てっきり迎撃の態勢をとるだけかと思っていた。しかし、上杉軍と、そして武田軍は久秀が予想していたものとは異なる動きをする。


「……ふーん。そう来るか」
 久秀がくすりと微笑んだ。
 久秀の眼前で、上杉軍と、そしてやや離れたところで陣を構えている武田軍は、皆一斉に馬を下りたのである。騎馬部隊が主力である両軍が、どうして戦闘を間近に控え、馬を下りるのか。
 犀利な久秀の頭脳は一瞬にして、その答えを導き出した。
 それは久秀にとって、目論みの一つが崩れたことを意味していたが、もともと相手の力量を試す意味合いが強かった策なので、外れたところで問題はない。
「ま、いいでしょ。とりあえず鉄砲の威力を田舎侍たちに教えておきましょうか」
 その久秀の言葉を引き金にしたように、戦闘は劇的な変化をとげる。
 次の瞬間、喚声をあげて突進してくる細川の部隊に向けて、三好軍の中央部隊から、天地をつんざくような轟音が響き渡ったのである。


 そのあまりの凄まじさに、遠からぬ場所で聞いていた上杉、武田軍の将兵たちは慌てて耳を塞がねばならなかった。そして、そんな人間以上に動揺を露にしたのは、突然の轟音にさらされた馬たちだった。
 良く訓練された軍馬であっても、こんな轟音を耳にした経験がある筈はない。それも続けざまに何度も何度も耳朶を打たれるのだ。元は臆病な草食動物である馬が、落ち着いていられる筈はなく、各処で馬の甲高い嘶きがあがり、暴れる馬が続出した。
 しかし。
 景虎の合図に従い、ほとんどの武者たちが馬から下りていたことが幸いした。
 彼らは叫喚する愛馬をすぐになだめにかかり、結果として混乱は思ったよりも大きくならずに済んだのである。
 もし、騎乗したままであったら、幾人もの武者たちが馬から振り落とされ、暴れる馬たちで陣中は大混乱に陥っていたかもしれない。



 そんな上杉陣内にあって、絶対の自信をもって馬から下りなかった者が数名いる。そのうちの一人が口を開いた。
「――なるほど、あれが噂に聞く鉄砲というものか」
「御意。私も噂でしか聞いたことがありませんでしたが、威力もさることながら、この音が厄介ですね。騎馬部隊が思うように動かせなくなってしまう」
「うむ、颯馬の進言どおり、耳には詰め物をしておいたが、馬にそれは難しいであろうしな。馬が怯えずにすむように工夫しなければならないか」
「はい、それがよろしいかと。いずれ、馬たちも慣れてくれるかもしれませんが、一朝一夕には無理でしょうから」
 俺と景虎様はそんなことを話し合いながら、久秀が戻ってくるのを待つ。
 ようやく、京に入る日がやってきそうであった。





 そうして、景虎様の傍から離れた時、不意に。
 俺は鼻に異臭を感じた。遠く洛中から吹き付けてくる風に、今まで嗅いだことのない臭いを感じたからである。
「――なんだ?」
 何かが腐ったかのような生臭さ。なぜか悪寒が背筋を貫くのを感じ、俺は臭いの元となっているであろう京の町がある方角に視線を向ける。
 ふと気付いてまわりを見れば、俺と同じように異臭に気付いた者たちがそこかしこで見て取れた。
 となると、俺の気のせいというわけではないのだろう。
 その時、俺を呼ぶ弥太郎の声が聞こえたので、俺はそちらに向けて馬首を返す。しばらくすると臭いを感じることはなくなったが、何故かこの出来事は、俺の脳裏に刻まれて、離れようとはしなかったのである。



◆◆



 とりあえず、将軍の第一印象は――
「小さい……」
「可愛い……」
「こ、こら、何を言ってるのだ、二人とも。将軍殿下を前に小さいだの可愛いだのと?!」
 順番に、俺、定満、兼続の発言である。
 しかし、聞こえないように小さく呟いた俺や定満と違い、兼続の声は間違いなく将軍の耳に届いたであろう。その証拠に、謁見の間に座る将軍が、ひくひくと口元を歪ませているではないか。
 俺と定満がじとっとした目で兼続を見ると、兼続はやや怯んだように視線をそらせた。
「わ、私のせい、なのか……?」
 同時に頷く俺と定満。
 向こうでは、景虎様と話をしていた将軍が、やや声をひきつらせている真っ最中だった。


「……景虎、愉快な部下を持っているのう」
「――は、その、大変、失礼をいたしまして、申し訳ございませぬ」
 景虎様が困惑もあらわに頭を下げ、顔を蒼白にした兼続が慌ててそれにならう。
 頭を下げる主従の姿を見ながら、将軍は言葉を続ける。
「本来ならば、余への侮辱と判断し、天誅を加えてくれるところじゃが――」
 将軍はそう言うと、くるくると巻かれた髪を揺らしながら、からっとした笑い声をあげた。
「遠く越後より参ってくれたそなたらに、そのような真似をすれば、将軍たるの器量を疑われよう。此度はさし許す。感謝せいよ、はっはっは」
 その言葉に、兼続はほうっと安堵の息を吐くのだった。


「長尾景虎ッ」
「ははッ!」
「春日虎綱ッ」
「はいッ!」
「此度の上洛、真に大儀! 上杉、武田両家の将軍家への忠誠と、天下を思う義心、この足利義輝、決して忘れぬぞ」
「ありがたき幸せに存じます。主君定実の名代として、殿下の刀となりて、京にて将軍家に仇なす者どもをことごとく討ち払うでありましょう」
「あ、ありがたき幸せ。我が主、武田晴信に成り代わり、京にて将軍殿下の御為に懸命に働く所存です。なにとぞご信頼あって、諸事、御命じ下さいますよう」
 上杉家と武田家の代表者が深々と頭を垂れ、背後に控えていた家臣たちがそれにならう。
 無論、これで終わりではない。この後、宮中における催しやら宴やらが目白押しになっており、一日二日は一連の歓迎の行事で潰れるであろうと思われた。
 この行き届いた準備は久秀の手になるもので、どうやら俺たちを洛外で待たせていた時、その詰めの作業も平行して行っていたらしい。


 京は越後とは違う。そういった宮中との折衝や、公家との付き合いも必要となることは理解できる。
 が、そちらの方面に関しては俺は無知も良いところである。公家たちはそういった行儀作法に通じ、武家に指導して金をとったりもしているので、細かい差異を指摘してはこちらを笑いものにしようとすると聞く。
 越前では、宗滴のおかげで俺の無教養は問題にされなかったが、あれから兼続にそれなりに知識や作法を詰め込まれたとはいえ、本職の公家たちに通じるとは到底思えない。そして、俺がしくじる度に、越後上杉家の格が下がっていくとなれば、取れる方法は一つしかない。
「――つまり、三十六計、逃げるが上策なり、というわけだ」
 かくて、俺の姿は洛外に待機している上杉軍中に移っていたのである。


 無論、ただ逃げ出したわけではない。景虎様、兼続、定満ら指揮官たちが軒並み宮中に入ってしまった為、残った軍勢を率いる者が必要なのである。もっとも、上杉にせよ武田にせよ、軍紀は厳正に保たれており、指揮官が不在だからといって、乱暴狼藉にはしるような輩は滅多にいないが、なにしろここは京の都、甲信越の田舎とは誘惑の数も質も違う。しっかりとその辺は引き締めておく必要があったのである。
 問題は、俺が誘惑に負けたらどうしようか、という点なのだが――
「その時は弥太郎に力ずくで引き戻してもらいますので」
「がんばりますッ」
 段蔵と弥太郎の二人がいるので、そちらの心配もなさそうであった……




「とはいえ、あれも禁止、これも禁止では兵の士気に影響するしな……」
 夜半。
 三好家にあてがわれた邸の一室で、俺は今後の対応を考えていた。
 上杉軍、武田軍、両軍あわせて八千の大軍であるから、その全員に目配りするなど不可能である。戦らしい戦こそなかったが、越後や甲斐の地からはるばるここまで命がけでやってきたのだ。ようやくたどり着いた京の都でくつろぎたい――露骨に言えば、京の綺麗な女性を抱きたいと考えるのは、まあ当然といえば当然であるし、それを軍紀で押さえつければかならず不満は出てくるだろう。
 ゆっくり眠りたい、美味いものを食いたい、良い女を抱きたいと考えるのは、男として自然の欲求である。京にとどまるのが一日二日であればともかく、これからどれだけ滞在するかも判然としていない。おそらくは数ヶ月間の長きに渡るに違いなく、その間ずっと、そういった欲望を断ち切り、誘惑を退けろなぞと将兵に言える筈がなかった。


 であれば、適度に発散させる必要が出てくるのである。そして、このあたりの手配はやはり男である俺の仕事であろう。
 それに、と俺は頭上を見上げる。
 俺はこうやって屋根の下でゆっくりと休めるが、上洛軍の大半は外で夜営を余儀なくされている。恵まれている者でも、寺の講堂あたりで雑魚寝である。これも早急に対策を考えないと、不満の種になるだろう。
 最悪の場合、不衛生で疫病が発生する可能性さえ否定できない。無論、食料や水の確保はそれ以上に不可欠である。
 他国の町に、何ヶ月も滞在するとなれば、現地でやるべきことはいくらでもあった。略奪暴行が一件でも起きれば、上洛軍の美名はたちまち醜名に変じてしまうだろう。そんな事態は断じて避けなければならない。
 さらに注意すべきは、そういった事態を意図的に引き起こそうとする者がいることである。
 誰か、などと考える必要もないだろう。この上洛軍を邪魔に思う者など、畿内には掃いて捨てるほどいるのだから。
 そういった者たちの蠢動も未然に防がなければならない。
 段蔵に頼んで軒猿に動いてもらってはいるが、軒猿はこの上洛行でもっとも働いてもらっている者たちであり、当然、人数も限られているから、あまり無茶は頼めない。
 そのあたりの人材に渡りをつけようにも、俺にそんな人脈があるわけがない。


「一番良いのが、京に詳しい人に協力してもらうことなんだが……」
 それでいて三好家に隔意を持ち、上杉・武田に好意的な人材、とそこまで考えて、俺は苦笑する。
「そんな都合の良い人がいるわけないか――」
 と、その時。
「あら、格好の人材がいるのに、もう諦めちゃうの。残念」
「なッ?!」
 突然、すぐ近くから発せられた声に、俺は思わず声をあげてしまった。
 襖のすぐ外から聞こえる魅惑的な声。咄嗟に懐から鉄扇を取り出し、勢いよく襖を開ける。
 すると、室内の畳の上に、月明かりが小柄な人影を映し出した。
 その影を作り出している人物は――
「松永、久秀殿……」
「こんばんは、上杉の軍師さん。今宵は綺麗な月よ、部屋に閉じこもって考えに耽るのはもったいないわ」
 そう言って、三好家の屋台骨を支える稀代の謀将は、くすりと、童女のように無垢な笑みを浮かべた。その瞳の奥に、怜悧な意思をのぞかせながら……







「どうやってここへ……って、普通に訊ねて来られただけですか」
「そういうこと。洛中のことで早急に話があるっていったら、門衛の人、こんな時間なのにあっさり通してくれたわ。そうそう、寝不足だったのか、案内についてきてくれた人は途中の廊下で寝ちゃってるけど」
「……まあ、その程度で風邪をひくような上杉の兵ではありませんが。何用ですか、それこそこんな時間に、松永殿がお一人でお越しになるとは」
 俺がそう言うと、久秀はためらう様子もなく、俺に背を向け、縁側に腰を下ろす。そうして、自分の隣の位置を二回、軽く叩いてみせた。
 早くこっちに来なさいと促すように。


 相手の意図が読めず、俺はとりあえず言われたとおりにすることにした。松永久秀といえば、俺の中で謀殺の代名詞だが、景虎様ならば知らず、俺のような小者を討つために自ら足を運んだりはしないだろう。
 内心でそんなことを考えている俺の耳に、久秀の柔らかい声音がこだまする。
「あんまり良い月だったから、興が乗ったの。久秀の策を見抜いた男がどんな奴なのか見てみたいなって」
「策、ですか?」
 俺は首をかしげ、それが昼間の鉄砲の一件だと思い至った。
「鉄砲の威力は存分に発揮されたでしょう。細川軍三百が、あんなに短時間で皆殺しにされたんですから。皆、驚いていましたよ」
「でも、あなたがいなければ、もっと両軍は混乱してたでしょ。全軍を馬から下ろして、耳に詰め物をするよう指示したのはあなたって聞いたわ。越後みたいな田舎の侍が、どうして鉄砲のことを知っていたか気になるの。ようやく堺に少量入るようになったばかりの新しい技術よ。まかりまちがっても、越後になんて行く筈がないじゃない。これから技術が普及していけばともかく、今の時点ではね」


 おれは用意していた言い訳を口にする。
「それは、少し前に堺に行ったことがあって、その時に見聞したのですよ」
「ふーん、そっか。じゃあ堺を支配する会合衆は何人いる?」
「は、はい?」
「その時の会合衆の代表の名前は? 堺の町は何個の区画に分けられてる? そもそも鉄砲は堺の重要な機密で、久秀たちにさえ簡単には売らないくらいなんだけど、一体どこで見聞きしたの?」
「……む、えーとですね」
 思わず言葉に詰まった俺に、しかし、久秀は手をひらひらと振ってみせる。
「でもまあ、それは良いわ。あんたが鉄砲を知っていたという事実に違いはないわけだし。それだけでどのくらいの脅威かはわかるもの」
「……は、はあ、そうですか」
 唐突に追求を断念した久秀に、俺は思わず目を点にする。
 だが、もちろん久秀の話はそれだけではおわらなかった。
 ――というより、むしろ久秀としてはこちらが本題だったのかもしんない。


 すなわち、いきなり久秀はこう言い出したのである。
「そんなことよりッ!」
 いきなり声を高めた久秀が、ぐいっと顔を俺に近づける。
 すると、必然的に久秀の秀麗な顔が、俺の目の前までやってくることになる。かすかに薫る芳香に、一瞬、めまいに似たものを感じてしまった。
 だが、久秀はこちらの動揺など知ったことかと言わんばかりに口を開く。
「あんた、あの朝倉の頑固者が持っている九十九髪茄子を見たってほんと?」
「頑固者って……ああ、宗滴殿ですか。ええ、見ましたけど、それがなにくぉわッ?!」
 いきなり久秀の両手が俺の胸元に伸びたと思った途端、勢いよくしめあげられました。
「教えなさい、どんな形してた?! 色は?! 艶はッ?! 茶は何だったの、味はどうだったの、いいえそもそも九十九髪茄子がどうしてあんな奴の手にあるのッ?!!」
「ぐお、が、い、いや、そんな仔細に観察したわけではな……ぐ、ないので」
「なんですってッ?!」
 切れ切れの俺の答えを聞いて、怒髪天を衝く久秀。
 どうでも良いが――いや、あんまり良くないが、人格変わりすぎてないか、松永弾正殿?
「く、こんな物の価値もわからないような奴が、九十九髪茄子を見るなんて――というか、師の遺品だからといって、久秀が譲れといっても譲らず、貸すことはおろか見せることさえ拒否したくせに、なんでこんな奴らに――屈辱だわ」
「なにかえらいことを言われてるような気がするのですが……」
 久秀は呟いているだけのつもりだろうが、こうもすぐそばに顔があると、当然そんな呟きも全部耳に入ってしまう。おまけに、久秀からは何ともいえない良い香りが漂ってくるわ、密着しているから、女の子の柔らかい身体の感触が感じられるわで、絶賛動揺中の俺だった。とりあえず離してほしいが、今、下手に口をさしはさむと薮蛇だと勘が告げているので、ここは我慢する。
 ……決して、この状態をもうすこし楽しみたいなどと思ったわけではない。



 額に汗をにじませつつ、俺が身動ぎせずにいること数分。
 ようやく落ち着いたのか、久秀が俺の襟元を掴んでいた手を放し、ささっと身体をどかせた。
 そして、まるで何事もなかったかのように澄ました声でこんなことを仰った。
「取引しましょう、天城颯馬」
「は、はあ?」
「あの頑固者が初対面の人間に九十九髪茄子を見せるとは、よほどにあなたたちは気に入られたのでしょう。その縁で、九十九髪茄子を久秀に譲らせるの。無論、代価はいくらでも払うわ」
「い、いや、しかしそれは……」
 俺は宗滴の顔を思い浮かべる。
 今きけば、あの茶器は宗滴の師の遺品だという。あの義理堅い宗滴が、他者に譲ることを肯うとは到底思えなかった。
「無論、あなたにも相応の便宜をはかりましょう。上洛中の上杉、武田両軍への完璧な援助と、莫大な恩賞に栄誉。朝廷より高位の官職を授けられるよう手もうちましょう。悪い話ではないと思うけど?」
「確かに、その見返りは魅力的ですが」
「なら――」
「しかし、お断りいたします」
 きっぱりと言い切る俺に、久秀は一瞬、押し黙り、しばし後、その目に胡乱(うろん)な輝きを宿しつつ、俺をじっと見据える。
「何故、と聞いても良い?」
「宗滴殿が師の遺品を、金品や地位を理由に譲るとは思えませんし、譲るように説得するのもしたくないので。成果が見込めない契約を結ぶのは、詐欺以外の何物でもないでしょう」
「……なるほど、ね。少しは話が通じるかと思ったけど、主君が主君なら、配下も配下ということ?」
「あ、それは嬉しい評価ですね」
「別に褒めてるわけじゃないわよ。よくわかんないやつね、あんた」
 ふん、と言いたげに顔をそむけた久秀は、すっくと立ち上がると挨拶もなしに背を向け、立ち去ろうとする。


 だが、不意に立ち止まると、久秀はこちらを見ずに言葉だけ送ってよこした。
「暇つぶしにはなったから、一つだけ土産を置いていくわ。洛中の大通りのすぐ東に鶴屋という遊女屋がある。久秀からの紹介といえば、悪いようにはしないでしょ」
「……かたじけない」
「それと、そこにいる忍に、もう少し殺気をおさえるように言っておくことね。京の闇は、越後よりもずっと深いわよ」
 それだけ言うと、久秀は今度こそ俺の前から姿を消した。
 正確に言えば、俺たちの前から、であるが。






「――だそうだ」
 一人になった俺が声をあげると、どこからか別人の声がかえってきた。
「まだまだ修行不足のようです。申し訳ありません」 
「段蔵が修行不足なら、俺はどう形容されるべきなんだろうな。それはともかく、どこまで本気だったと思う?」
 俺の問いに答えが返るまで、わずかな間があった。
「……おそらく、ほとんど天城様の為人を知るための演技だと思います。ただ、九十九髪茄子への執着は、偽りには聞こえませんでしたが」
「ああ、段蔵もそう思ったか。えらい迫力だったからなあ。よっぽど茶器に目がないんだな」
「そのようです。松永弾正といえど人の子ですか。ところで――」
「ん、どうした?」


 やや段蔵の声の調子が変わったので、俺は注意深く聞き取るために耳をすませた。だが。
「その茶器の話の後、いやに長い間、くっついていましたね、久秀殿と」
「……キノセイダロウ」
「次の質問に他意はないので、正直にお答えください」
「……ナンデショウ?」
「もしかして、主様は小さな女の子が趣味なのですか?」
「直球だな、おい」
「重要なことですので、確認が必要です。主君の過ちを正すのも臣下の勤めなれば」
「勝手に人を変態にしないでくれ。俺の女性の好みはいたって普通だ。一般的だ。常識の範囲内だ。わかったか?」
「主様の主張は理解しました」
「……今気付いたが、段蔵が俺のことを主様と呼ぶときは、大抵きついこと言うときだな」
「諫言は耳に痛いものです」
「証拠なき疑いは諫言とは言わん」
「といっても、主様に仕えてからこちら、身辺に女性の気配を感じたことが一度もないのですから、疑いが生じるのもやむないことかと」


 などと言い合っているうちに、いつか京都の夜は更けていく。
 俺はふと大事なことに気付いた。
「そういえば、弥太郎はどうしたんだ?」
「……あ」


 おそらくは久秀に香薬でもかがされたのだろう。すぴー、と健康そうな寝息をたてながら、弥太郎は俺の部屋の近くの廊下でぐっすりと寝こけていたのである。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/22 20:38


「あ、天城様。いらっしゃいませ」
 武田の陣中を訪れた俺を出迎えてくれた晴貞の顔からは、出会った時に張り付いていた憂いの色が綺麗に剥がれ落ちていた。
 にこりと微笑むその顔を見て、俺はほっと安堵の息を吐く。晴貞の状況を知るだけに、安易に様子を見に来られなったのだが、どうやら虎綱はとてもうまくやってくれたようであった。
 くわえていうと、武田の将兵にも歓迎されているらしく、その証拠に、さっきから俺の首筋にちりちりと視線を感じて仕方ない。こう「俺たちの姫様に何しにきやがったこんちくしょう」的な怨念がありありと感じられる視線が。
 上洛中、虎綱を訊ねて来た時も似たようなものだったが、確実に圧力を増しつつある。どこのファンクラブだ、貴様ら。


「天城様、どうかなさいました?」
「あ、すみません、ちょっと考え事を……ところで、虎……ではない、春日殿はいらっしゃいますか?」
「さきほど、陣中の見回りに行かれましたが、おそらくじきに戻ってこられると思います。あ、今、飲み物を持ってきますので」
 そういってそそくさと立ち去る晴貞。
 一応、加賀守護で、つまり上洛軍で一番偉い人なのだが……まあ、晴貞自身、すすんでやっているようなのでよしとしよう。
 晴貞は、一兵も引き連れていない身で公方様にお目通りするのははばかりがある、と言って義輝には謁見していない。当然、宮中での行事も不参加である。加賀守護としてそういった場へ出れば、相応の義務を果たさなければならず、今の自分にそれは無理であることがわかっているのだろう。底意地の悪い公家(少し偏見あり)への抵抗もあるのかもしれない。


 かくて、虎綱が戻るまでの間、俺は晴貞とのんびりお茶なんぞ飲んですごした。
 俺も晴貞も口数が多い方ではないので、賑やかで話題が絶えない席、というわけにはいかなかったのだが、話が途切れても、双方、お茶をすすってほっと一息つき、互いに顔を見合わせて微笑をかわし、そして再びどちらかが口を開く、という感じで、気詰まりさを感じることはなかった。
 虎綱から様子を聞いてはいたし、時々は会っていたのだから、晴貞が元気を取り戻しつつあったのは知っていたが、こうしてきちんと差し向かいで話すのは久しぶりである。眼前の晴貞に、加賀の地で感じた憂愁は見受けられず、上洛行に半ば強引に連れてきたのは間違いではなかった、と俺は内心で安堵した。
 もっとも。
(この短期間で、何もかも忘れるなんて無理だろうけどな)
 俺は胸中に浮かんだ苦い思いを、お茶を飲んで、もう一度奥底に押し戻す。心の傷を癒す方法なぞ、時間が解決するのを待つことくらいしか、俺は知らなかったから。




 しばらくすると虎綱が戻ってきたので、俺は先日、久秀から聞いた鶴屋のことを話そうとして。
 はたと言葉を止めた。
「――天城殿、どうなさいました?」
 突然黙り込んだ俺を見て、虎綱が不思議そうに首を傾げる。
 当初は遠慮がちで、俺に対する警戒、というよりも緊張を隠せずにいた虎綱だったが、上洛行を共にしたことが功を奏したのだろう、いつの間にか気兼ねなく話が出来るようになっていた。
 特に加賀を過ぎてから、だろうか。虎綱の背がしゃっきりと伸びたように感じ始めたのは。
 晴貞が虎綱に守られ、かわっていっているように。
 虎綱も晴貞を守ることで、これまでは気付き得なかった何かを、感得することが出来たのかもしれない。


 あるいは、それほど難しい話ではないのかもしれぬ。
 二人とも控えめな性格で、他人への気遣いをしすぎるくらいにしてしまう人たちだから、苦労性の女性同士、話が合っただけかもしれない。話の合う友達がいるかいないかは、結構、その人の為人に大きな影響を及ぼすであろうから。




(そして俺は、そんな二人を前に、遊女がどうこうとか言い出そうとしているわけか)
 ありえん。なんだ、その空気読めなさは。無神経ってレベルじゃねーぞ、俺。
 絶句してしまった俺を、案じるように見つめる二対の視線が余計に焦りを加速する。
 久秀紹介の鶴屋さんとの話し合い、上杉だけで勝手にするわけにもいかないのでここまでやってきたわけだが、冷静に考えるまでもなく、そんな話を虎綱にするとか恥ずかしすぎる。
 まあ、虎綱もれっきとした武田の武将なのだから、そういった方面も承知しているとは思う。それよりも、こんな話を晴貞の前でする方が問題だ。もはや人間失格レベルである。
「どう切り出したものだろう?」
『?』
 呆然と呟く俺に、虎綱と晴貞は顔を見合わせ、同時に首を傾げるのであった。




 ――結果だけ記すと、何とかなった。
 晴貞にお茶のお代わりを頼み、晴貞が席をはずしているわずかの間に虎綱にざっと状況を説明したのである。
 案の定、頬を染める虎綱にいたく羞恥心を刺激されるも、そこは気合で気にしないように務めた。
 そうして、虎綱に命じられた武田の将の一人と連れ立って鶴屋に行った俺は、この問題に一応のケリをつけたのである。




 だが、本当の問題はこの後にやってきた。




 この日、京では強い風が吹き荒れていた。
 すでに季節は冬。鶴屋からの帰路、身を突き刺すような寒風にたえながら、俺は自陣に向かっていた。場所が場所なだけに、弥太郎たちには別の用件を頼んで遠ざけている。
 不意に、俺は踏み出しかけた足を急停止させた。
 異様な臭気を感じたのだ。
 はじめて、というわけではなかった。確か、京に入った日、同じような臭気を感じはしなかったか。そういえば、あれも風が強い日であったような気がする。


「……なんだ、この臭いは」
 顔をしかめながら呟いた俺に、たまたま傍らを通りかかった職人風の男が声をかけてくる。
「おや、京は初めてですかな、旦那」
「はあ、そうですが。どうしておわかりに?」
「なに、京で暮らす者が、この臭いを知らないなんてことはありえませんので」
 なるほど、と頷いた俺はついでに尋ねてみる。
「この臭い、一体何なんですか。何かが腐ったような、妙に気分の悪くなる臭いですが」
「それは、しかたありませんでしょう」
 俺の感想に、男は苦笑もせずに頷き。
 そして、言った。


「人間の屍が腐れ落ちる臭いですからな。腐った臭いがするのも、気分が悪くなるのも、当然のことですよ」


「……何?」
「ですから、屍が腐る臭いなのですよ、これは」
 思わず低声で問い返した俺に、男はあっさりと答えた。あっさりと答えられるくらいには、京の町では当然の認識となっているのだと思われた。
 さらに男は話を続ける。
「このあたりは三好様のお陰で大分ましになりましたが、少し洛外に行けば、死体の散乱していた一昔前の京の姿がそのまま残っておりますよ。ことに今日のように風が強い日は、遠方からも空気が流れ込んできますのでな。京を知らぬ人たちは、戸惑ってしまいましょう――おっと、それでは私はこれで。お侍様、もし鎧刀の研ぎが必要であれば、表通りにある私の店をご利用くださいまし」
 そういって、その男は妙に足早に立ち去ってしまった。何か約束でもあったのだろう。
 だが、俺は後半の方はほとんど聞いていなかった。


 応仁の乱以降、京は権力の中心地として幾度も戦火にさらされてきた。それは今の時代でも変わらない。当然、死者の数も、地方とは比べ物にならない数なのだろう。それは想像するに難くない。


 ――では、その死者はどのように葬られているのだろうか?



◆◆



「そんなもん、放り捨てられてるに決まってるだろ。あんた、東から来たとかっていうお侍か? ちょっと町外れの林とか藪とか見てみろよ。腐りかけから、完全に骨になった奴らまで、いくらでも揃ってるから」
 まあ、今から行くところに比べたら、町はずれだって天国みたいなもんだけどね。
 道案内に雇ったその子供は吐き捨てるようにそう言うのだった。




 すでに日は稜線の彼方に沈み、西の空がかすかに茜色に染まっているのみで、京の上空は夜の闇に包まれつつあった。
 その闇の中を、俺が松明を掲げながら歩いている理由は、昼間の男の話を、この目で確認するためだった。
 本当なら日が出ている間に行きたかったのだが、兵同士の諍いやら陳情やらで時間をとられてしまい、こんな遅くなってしまったのである。


 京の町は、中心部から離れるにつれ、その荒廃の色を濃くしていった。それに比例して、治安も悪くなっているようだ。そこかしこの物陰から、物騒な視線が注がれているのが、はっきりと感じ取れる。
 時折、すれ違う人々も、剣呑な眼差しを向けてくるだけなら良いほうで、時には刃物をちらつかせながら、凄まれることもあった。
 治安が悪いことは予想していたので、浮かないようになるべく粗末な服を着てきたのだが、やはりそれでもこのあたりの住民との違いは歴然としているようだった。
 弥太郎や段蔵がいれば、この手の輩を恐れる必要はないのだが、あいにく二人は勉強中なので、今は俺一人しかいない。というか、わざわざそれを見計らって出てきたのだが。言えば反対されるに決まっていたし。


(思いっきり裏目に出たな、これは)
 荒事になれば面倒なことになるだろうし、かといって金を出せば、おそらくこの先、ずっと同じことをして通っていかねばならなくなる。さすがにそんな無駄な出費はできん。


 さて、どうしよう、と俺が考えていた時、突然、物陰から幾つもの石つぶてが放たれ、目の前の男たちの顔に襲いかかった。 
 男たちが両手で顔をかばってうろたえている隙に、俺の手を引っ張って、その場から逃げさせてくれたのが、今、俺の前を不機嫌そうに歩いている少年だった。
 聞けば、少年はこのあたりの親なし子たちの親分格の一人だそうで、あの石つぶては子分たちのものだったらしい。礼を言いたいところだったが、子分たちはすでに隠れ家に戻っているそうだ。
「あんたがひどい奴じゃないって保証はないしな」
 とは少年の言である。金を持ってそうな人間に恩を売れる好機だと思って手を出しはしたものの、当の本人が恩を恩と感じる人間かどうかはわからない。だから、自分一人で交渉したのだと少年は言った。
「なるほど、もっともだ」
 窮地を救ってもらったのは確かだし、と俺は懐から何枚かの銀子を取り出す。ぶっちゃけ、今持っている全財産だったりする。
 俺は金がなくても食う物や寝る場所に困るわけではないが、目の前の少年の服は見るからにぼろぼろで、身体も痩せ細って見える。おそらく、さきほど助けてくれた子分たちも似たような境遇なのだろう。
 であれば、どちらに金が必要かなど比べるまでもない。


 少年は俺の手からむしりとるように金をもぎ取ったが、その金額を確認して声を失っていた。
 だが、すぐに睨むように俺を見据えて口を開く。
「おい、あんた。何か用があってこんなところまで来たんだろ?」
「ああ、そうだが」
「じゃあ、おれが案内してやる。あんたみたいな田舎者丸出しの奴がこの辺をうろうろしてたら、あっというまに穴の毛までむしりとられるぞ」
「――一応いっておくが、追加の謝礼は出せないぞ。それで全部だから」
「わかってらあ。もらった金の分の働きくらいはしてやるって意味だ。察しろ、馬鹿」
 何故か怒られた。
 とはいえ、相手の好意は十分に感じ取れたので、俺はその少年の言葉に甘えることにしたのである。

 

 やがて、町外れを抜けると、いよいよあたりは暗闇に包まれていった。
 すでに人家はなく、聞こえるのは俺と少年――岩鶴と名乗った――の足音と、時折吹く風に、草木がさびしげに揺れる音だけである。
 いつか、上空は雲に覆われ、星月の光は遮られて地上に届かない。手に持った松明に照らされ、地面に移った俺の影も、心細げに揺れていた。
 だが、何よりも異様なのは――


「――もうじきだよ」
 岩鶴が低く押し殺した声で告げる。口と鼻に薄汚れた手ぬぐいを当てているからだ。
 その理由は、もはや物理的な圧迫感さえ伴って、あたり一面を覆う悪臭にあった。悪臭と言っても色々あるが、これは正直例えようもない。
 見れば、治安の悪い洛外を、俺を連れて恐れ気も無く歩いてきた岩鶴でさえ、薄ら寒い表情を隠しきれていなかった。
 いつか、俺たちは互いに足を止めていた。そして、それを見計らったかのように風が止む。
 そうして訪れる、耳が痛くなるような静寂。
 その静寂の中、俺は――


「……なんだ、これは……?」
 何かの物音を聞いた。彼方の暗闇から、地面を震わせて伝わってくる、これは――無音の悲鳴。
「……怨念だって、寺の坊さんは言ってた。亡者になった人たちが、苦しんでる声なんだって」
 何を馬鹿な、と笑うことは出来なかった。
 この耐え難い悪臭をさえ意識の彼方に追いやってしまいそうな、底知れぬ静寂。
 ただ立っているだけで、全身の力を振り絞らなければならない、命無きがゆえの静謐。  


 黙りこんでしまった俺の姿を見て、岩鶴はやや急かすように促してきた。
「ほら、満足しただろ。来る途中でも言ったけど、ここは生きてる奴が来て良い場所じゃないんだよ。東国の侍なら、ここに家族が眠ってるってわけでもないんだろ?」
「……そうだな。ここは、やはりそういう場所なのか?」
「そういうって……あ、ああ、そうだよ。家族や親しい人が死んだら、墓くらいつくるだろ。ここにいるのは、疫病で全滅した家族とか、戦で死んだ遠国の兵士たちとか、そういった人たちばかりだよ――って、おい、あんたッ?!」


 岩鶴の声を背中ごしに聞きながら、俺はゆっくりと歩を進めた。
 最早瘴気の息に達した腐臭の中を歩き続けること、しばし。
 上空を覆っていた雲が割れ、月明かりが暗闇を割いて、俺の眼前を照らし出す。


 そこにあるは、命を失った人の果て。文字通りの屍山にして、血ではなく腐肉が流れる末世の具現。
 百や二百では遥かに足らず。
 千や二千ですら届かない。
 幾重にも連なるその山嶺を織り成すは、万をも越える数の死屍。
 そう。この全てが。
(土ではなく、骸で出来ているのか……)
 声もなく眼前の光景に魅入りながら、俺は胸中でそう呟くのだった。




◆◆




 古来より、京に上った遠国の軍隊は少なくない。勝利して京に残った者もいれば、敗れて京を去った者もいる。そして、敗れた者の敗因のほとんどは、略奪と暴行で人心を失い、軍の統制を失った末の自滅に近いものであった。
 旭将軍木曽義仲の例をあげるまでもなく、京に上った軍隊がもっとも気をつけなければならないことは、軍紀を保ち、人心を得ることにある。
 その点、上杉、武田両軍はさすがというべき統制を発揮し、京に入って数日、略奪も暴行も起こすことはなかった。
 都の人々は安堵の息を吐き、自然、両軍を好意的に見ることになり、そういった人々の態度が将兵の気持ちを高め、また奮い立たせ――といったように、良い循環が兵士と民の間に出来つつあったのである。


 とはいえ、入京してまだ半月も経っていない。何かの拍子で、評価が逆転しないものでもなかった。
 それゆえ、両軍の指揮官は、ここが節所と、将兵に引き続き軍紀を厳正に保つよう指示を下していた。
 そんなある日、上杉と武田の両軍が大きく動いた。
 この時期、京の内外の防備は三好家の軍勢が行っているため、上洛軍はいまだ役目もなく、日々の訓練や、あるいは仮設の陣所を立てることに専念していた。
 その上洛軍が突然動いたのだ。三好軍の指揮官たちは、慌てて警戒態勢をとるように命じた。彼らがついに強攻策に出たのかと考えたのである。
 もっとも、この三好軍の動きは、松永久秀の命令によってただちに押さえられ、上洛軍に武器を向けた将兵は処罰を受けることになる。


 そうして、三好軍と、京の人々が不安げに見守る中、両軍が何を始めたのかといえば、洛外で放置されている死屍の葬送であった。
 兵士たちが林や藪の中に入り、散乱した死屍を地に埋め、僧侶たちが念仏を唱えて冥福を祈るに至って、上洛軍の真意に気付いた人々の口から歓声があがったのは当然のことであったろう。
 応仁の乱よりこの方、京を治めた勢力は幾つもあるが、放置された死者の葬送から始めた軍など、一つとしてなかった。現在、京を支配するのは将軍家であり、それを傀儡とする三好家であったが、この両家も同様である。
 しかるに、遠国から来た田舎侍たちが、寒風吹きすさぶ洛外で、盛大に篝火を焚きながら、死者たちを弔ってくれているのである。両軍の人気が爆発的に高まるのは必然のことであった。


 上洛軍はこの時、京中の寺社に少なからぬ金銭を献じていた。また、屍毒に対処するための医薬品や、あるいは体調を崩した者のために洛中の医者にも協力を依頼していた。当然、篝火を焚くのも無料ではない。それらに費やした資金はかなりの額にのぼった。
 どれくらいかというと、余裕をもって用意していた上洛のための軍資の余剰分を、ほぼ全て使い果たす計算になるくらいである。
 この凄まじいまでの出費にためらい、反対の声を挙げた者は少なくない。だが、上杉軍長尾景虎、武田軍春日虎綱の両将は迷うことなく諾を与える。
 後にそのことを知った人々は、この二将軍の仁慈の心に、惜しみなき賛辞を送ることになるのである。



 長年の戦乱で荒廃していた京の都の暗部である。八千の軍勢が総出であたったところで、半月や一月で祓うことはできない。それでも、京で初雪が降った年の瀬までに、都の大分部から死臭が消えたことは、疑いなく両軍と、そしてそれに協力した京の人々の努力の成果であったろう。
 もっとも、洛外のさらに遠方にある死屍の山に関しては、ほとんど手付かずのままであったから、風が強い日には、これまでのように死臭が流れ込んでくることもあった。
 しかし、それも以前に比べればほとんど意識にのぼらない程度であり、上洛軍への都の人々の感謝の心にいささかの影響を与えるものでもなかったのである。



 新年を迎えるにあたり、上洛軍はそれぞれの陣屋でくつろいでいた。
 買い求めたり、あるいは京の人々から寄せられた酒の樽を開けては飲み干し、開けては飲み干し、連日のように宴は続く。
 気の滅入る仕事を数十日に渡って続けてきたのだ、その程度のことは当然であると将兵は考えていたし、事実その通りでもあったろう。
 指揮官たちも、町の人々に迷惑をかけない限りは、多少羽目をはずしたところで大目に見るよう、暗黙裡に了解していたのである。
 当然、三好軍の動向に関しては注意を払っていたが、洛中の松永久秀も、また畿内の三好軍も動く様子はなく、どうやら穏やかな新年を迎えられそうであると、多くの人々は安堵していた。



 だが、その中に、天城颯馬の姿はなかった。 
  
   

◆◆



「そういえば、兼続」
「は、何でしょう、景虎様」
「最近、颯馬の姿を見ないが、何か知っているか?」
 主君の問いを受け、兼続は同輩の姿を思い浮かべた。確かに、ここ最近、その姿を見ていない。
 ただ、それは別に不思議なことではなかった。
 景虎や兼続はその立場上、将軍の傍近くに近侍しており、ほとんどを二条御所の中ですごしている。
 一方の天城は、洛中の上杉軍内部での諸事を引き受けているため、自然、両者が顔をあわせる機会は限られる。つけくわえていえば、天城は明らかに御所を――というよりも、礼儀作法にうるさい場所を避けているから、余計に機会は少ないのだ。


「件の葬送のことで顔をあわせて以来ですから、かれこれ半月近くになりますね。おそらくそちらにかかりきりなのではありませんか?」
「そうか。死者を送るは大切な役目とはいえ、颯馬たちの役割は辛く厳しいものだろう。私も手助けが出来れば良かったのだが」
 表情を翳らせる景虎に、兼続は自身も似たような表情になりながら、口惜しそうに言う。
「仕方のないことでしょう。疫病を御所に持ち込まれては困るとの公家の言い分、たしかに一理ありますから。それに、将軍殿下の御身をお守りするためにも、景虎様はここにいて頂かねばなりません。颯馬たちも、そのことは理解してくれているでしょう」
「……うむ。将兵にも厚く報いてやらずばなるまい」
「そちらも颯馬は承知しているでしょう。なんでも、松永殿から助言を得たとか言っていましたから」
 そういった後、兼続はやや意地悪く笑う。
「まあ、具体的に何の助言を受けていたのかは言っていませんでしたけどね。後でそのあたりも追求してやります」
「ふふ、相変わらず兼続は颯馬に厳しいな。多分、颯馬のことだ。松永殿に遊女の世話でもしてもらったのだろう。兵にとっては重大な問題だし、颯馬はそういう点に聡いからな」


 ぶふ、と兼続の口から妙な声がもれた。
「ちょ、か、景虎様?!」
「な、なんだ、兼続、いきなり大声を出してはびっくりするではないか」
「ゆ、遊女とか、いきなり仰るからですッ! 一体どこでそんなことをお聞きになったんですか! はッ?! まさか颯馬の奴ですかッ、おのれ颯馬!」
「ま、待て、兼続。いきなり太刀に手を伸ばすな。颯馬ではない。栃尾で軍略を学んでいた時、定満や実乃に言われたのだ。長期の遠征の時に注意すべき事柄の一つとしてな」
「あ、そう、でしたか」
 景虎の言葉に、兼続は納得して太刀から手を放した。
 定満にせよ、栃尾城主の本庄実乃にせよ、兼続から見れば大のつく先達である。また、その教えも的確なものであろうから、文句を言うことはできないのだが、景虎の口から遊女がどうこうとか出ると、どうしても違和感が消せない。景虎にはそういった面を知らずに、綺麗なままでいてほしいと願うのは、自分の勝手な感情である、と承知してはいるのだが。



 そんな風に上杉家の主従が語らっていた時である。
 従者の声がかかり、目どおりを願っている者がいる、と告げてきた。
 兼続が名を問うと、従者はこう言った。
「天城様配下の小島貞興殿と、加藤段蔵殿のお二人です」
「すぐ通せ」
「はい」
 景虎が命じると、兼続が小さく笑った。
「噂をすれば影、ですか」
「うむ。だが、あの二人だけで颯馬がいないというのが気になる」
「大方、まだ御所嫌いが直っていないだけでは?」
 だが、兼続の言葉にも、景虎は表情を緩めない。何事か感じ取っているのか。
 こういう時の景虎の神がかった鋭さを知っている兼続は、やや浮ついていた気持ちを慌てて引き締める。
 そして、兼続は現れた二人の様子を見て、景虎の危惧が的を射ていたことを悟った。





「と、と……突然の、ほ、訪も……んぐ、う、うう」
「弥太郎、私が申し上げます」
 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、景虎に挨拶をしようとする弥太郎に、段蔵が短く告げる。
 弥太郎は頷いて、わずかに膝を戻したが、その涙が止まる様子はなかった。
 景虎にせよ、兼続にせよ、弥太郎のことは良く知っているし、言葉をかわしたことも幾度もある。
 少女とは思えぬ膂力と、優れた武芸と、そして愚直なまでの忠誠心を併せ持った天城颯馬の側近。兼続などは、当初は天城同様、弥太郎にもあまり良い感情を持っていなかったが、その為人を知るにつれ好意を篤くしていき、今ではどうしてこの少女が颯馬に仕えているのか、と冗談まじりに惜しむ声を放っているほどであった。


 その少女が、ここまで人目をはばからずに涙を流すなど、どう考えても吉報ではない。
 その隣に座す加藤段蔵は、弥太郎と違って冷静に見えるが、それでも景虎の目は、段蔵の手のかすかな震えをとらえていた。
「――突然の訪問、まことに申し訳ありません。実は景虎様にお願いしたき儀があり、参りました次第」
「願い、とは?」
「京の町の外れに、死屍が折り重なって積まれている場所がございます。ご存知でいらっしゃいますか」
「うむ。葬りきれない死者たちを集めている場所があることは、殿下より伺っている」
「その場所の一つに、お出でいただきたいのでございます。このようなことを、景虎様にお願いするは万死に値すると承知しておりますが、何卒、何卒お聞き届けくださいますよう、伏してお願い申し上げます」
 そういって深々と頭を下げる段蔵。後ろに下がった弥太郎も、泣き顔のままそれに追随した。


 死体が山と積もれた不浄の場所に来てくれなどという願いを、景虎はともかく、兼続が肯う筈がない。
 だが、この時、兼続は口をはさまなかった。景虎の真摯な表情が、それを許さなかったと言っても良い。
「一つ聞く」
 景虎の鋭い声に、段蔵は平伏したまま応える。
「は」
「それは颯馬の願いか。それとも、そちら二人の願いか」
「私ども二人の願いにございます。ただ、天城様に関わることであるのは確かでございます」


 その言葉を聞いて、景虎はすっくと立ち上がった。
「出よう――兼続」
「御意。すぐに馬をひいてまいります」
 御所を叩き出されてもおかしくない願いを、迷う素振りも見せずに頷いてくれた景虎たちの姿に、弥太郎は畳に額を打ち付けるように何度も頭を下げる。
「あ、ありがとう、ございます。ありがとうございますッ!」
「泣くことはない。弥太郎も、段蔵も、そして颯馬も、私にとっては大切な臣だ。そなたらの願いをはねつける理由なぞ、日ノ本のどこを探してもあろう筈もない」
「……感謝いたします、景虎様。兼続様」
 段蔵の声に、立ち去りかけていた兼続が笑みを含んだ声で応じた。
「別に私に感謝する必要はないのだがな。景虎様がいかれるところ、お供するのが私の任だ。そんなことより、二人も急げよ。私と景虎様の先導をするのは大変だぞ」
「御意――弥太郎、戻ります」
「あ、は、はいッ!」



 この日、京の都を歩いていた人々は幸運であったかもしれない。
 大地を蹴りつける馬蹄の音。文字通りの疾風となって駆け抜ける四つの騎影は、越後上杉軍において最精鋭と称するべき者たちであったから。
 その神技ともいえる馬術の一端なりと目にすることが出来たことは、末代までの語り草となるであろう。
 ――もっとも。
「……なんじゃ、ありゃあ」
 呆然と騎馬が駆け去った方角を見送る者たちは、自分たちが目にしたのが誰であるかさえ気付くことが出来なかったのだが。





 そうして、景虎たちがたどり着いたところは、段蔵の話していたとおり、京に幾つもある死屍の野の一つであった。場所が場所だけに、誰一人いないと思われたのだが、景虎たちの馬蹄の音を聞き、幾人かの子供たちが駆け寄ってくるではないか。
「どうしてこのようなところに童がいるのだ?」
 景虎の訝しげな問いに、弥太郎が慌てて答える。
「す、すみません、近づかないように言っているのですが、その……」
「天城様に恩があるとかで、こうしていつも様子を見てくれているのですが――岩鶴、弟妹たちは連れてくるなと言ったでしょう」
 段蔵は、後半を駆け寄ってきた子供たちの中で一番年上とおぼしき少年に向けていた。
「仕方ねえだろ。皆、あいつのことが心配でしょうがねえんだよ。おれだって、こんなところで野垂れ死にされたら、寝覚めが悪くて仕方ねえよ」
 少年はそう言いつつ、景虎と兼続に胡乱げな視線を向ける。
「この人たちが、あいつの殿様かい?」
「そうだ。だが、紹介している暇はない、天城様は?」
「……いつもんとこで、いつもどおりにしてるよ」
 その時、少年の顔に浮かび上がった表情を、景虎ははっきりと見た。
 恐怖という名の、感情を。




 そうして。
「あ、あれ、か、景虎様ッ?! うわ、兼続殿まで?! ど、どうしてこんなところにッ?!」
 景虎たちは、天城のいるところにやってくる。
 見たかぎりでは、別に怪我をした様子もなく、健康を害した風にも見えぬ。
 弥太郎たちの様子から、よほど差し迫った危難に見舞われたものと思い込んでいた兼続は、呆れたように口を開きかけるが、その隙をぬって口腔内に入り込んでくる死臭を感じ取り、慌てて口元をおさえた。
 あまりに濃度の濃い死臭は、舌に感覚を感じさせるほどであったのだ。


 そんな中、天城は一人、地を掘り、積み重なった死屍の山から手近な死屍を抱え、掘った穴に埋葬し、そしてまた土を掘る。その作業を繰り返していた。
 それは上洛軍が京周辺で行っていたことと全く同じこと。何一つ特別なことではない。
 完全に白骨化した死体もあれば、腐乱した屍もある。あるいは、ここ最近うち捨てられたのであろう真新しい骸も少なくない。
 そういった屍を、一つ一つ丁寧に埋葬していく。さすがに一人一つの墓をつくるだけの余力はないので、大きめの穴に幾人もの屍を埋めるようにしていたが、それでも出来る限り丁重に扱うようにしていた。
 ある程度、片付いたら、今度は僧を呼んで念仏を唱えてもらわねばなりませんね、と。
 景虎に何をしているのかを問われた天城は、景虎たちが見慣れた顔でそう答えたのである。



 景虎も、そして兼続も、言葉を失っていた。
 弥太郎のすすり泣く声と、そして幼い子供たちの押し殺した泣き声だけがあたりに響く。
 彼女らに目を向けた天城は、困ったように頬をかこうとして――その手についた蛆虫に気付き、服の裾で拭い去る――汚らしい染みで覆われた、死臭の染みこんだ服の裾で。
「だから弥太郎、ここには来るなと言ってるだろうが。それに岩鶴も、子供たち連れてくるな。怖がってるじゃないか」
「だ、だって、こ、こんな颯馬様、ほ、放っておけるわけ、ないじゃ、ないですか……」
「む、無理やり連れてきてるわけじゃねえ。こいつらが来るってきかないんだよ。俺たちが心配なら、あんたがさっさとその作業をやめれば良いじゃねえか」
 二人の反応に、天城は小さくため息を吐いた。おそらく、ずっと同じ言葉の繰り返しなのだろう。
「だから、別に俺は無理はしてないって。ここにいる人たちを全部、俺一人で何とかしようと思ってるわけでもない。放っておけないから、俺が出来る範囲で、出来ることをしてるだけだ。そんな泣くほど心配することじゃない」
「――そう思っているのは、主様だけです。屍の山に埋もれ、腐肉の中で動き、死臭を吸って過ごし、それが何でもないことだと、そう言えることが――それを、本当に当たり前だと思っていることが……」
 段蔵の語尾がかすれた。弥太郎のように、涙を流しているわけではなかったが、その言葉に込められた感情は、弥太郎のそれに劣るものではなかっただろう。



 景虎は、その一部始終を聞き、全ての事情を察した。
 弥太郎たちが、どうして自身をここに連れてきたのか、その理由も。
 もはやそうする以外、天城を引き戻す術がなかったのだ。
「――颯馬」
「はい。景虎様にまで迷惑をかけてすみません。ですが、仕事に支障はないようにしてますので……」
「そうか。そこまで気を配っていてくれたのだな。だが、それならお前を思う配下の心にも、気を配ってやるべきではないか」
 一歩、景虎が歩を進めた。
 それを見て、天城は慌てて両手を振る。何かが――あまり口にしたくない何かが、その手から飛び散った。
「あ、景虎様、近づかない方が良いです。言うまでもないと思いますが、すごい臭いになっちゃってるでしょうから」
「で、あろうな。この場にいるだけで、さすがの私も怯んでしまいそうだ。命を懸けて戦場を駆けることには恐れはないが、この場の瘴気は耐え難い。もうここは、冥府の底に繋がっているのやもしれぬな」
 さらに一歩、歩を進める。
「そうかもしれませんね。けれど、だからといってこのままにはしておけません」
「その心根、主として誇りに思う。いつからやっている? 幾人弔った?」
 景虎は、その歩みを止めない。
「そうですね、半月前くらいからです。町の方が一段落ついてからですから。数は、三百人くらいでしょうか。骨ばかりの人もいたから、正確にはわかりませんが」
「……そうか」
 少しずつ。少しずつ、景虎の足が早まっていく。


「まあ、一万が九千七百になったところで、大した違いはないのかもしれませんけどね」
 寂しげに屍の山を見上げ、どこか照れたように呟くその姿は、景虎の良く知る天城颯馬の姿であった。
 春日山城でも、戦場でも、この京の都でも、見慣れた姿。ここにいる天城は、何一つ普段と変わらない。
 山と積まれた死者を前に、心を凍らせて作業をしているわけではない。
 ただ当たり前のように、自分が出来る最善のことをやろうとしているだけだった。


 かつて、晴景に勝利をもたらすために、春日山城ごと、自らを焼き尽くそうとしたように。
 かつて、佐渡の地で、上杉軍に勝利をもたらすために、甲冑をまとわず敵陣に攻め入ったように。
 ――この大馬鹿者は、当たり前のように、目的の達成に『自分自身』を含めていないだけだったのだ。


「って、景虎様、だから近づかない方が良いと申し上げ――」
 天城が慌てて退こうとしたときには、景虎の手は天城の身体に届いていた。
 その手に感じるぬめりが何なのかなど、今の景虎にとっては考えるに値しない些事であった。
 両の手を天城の頬に当て、景虎はまじまじと天城の顔を覗き込む。
 突然の景虎の行動に、天城は目を丸くするばかりであった。
 そんな天城に向かって、景虎は哀しげに囁いた。
「違うな」
「は、はい?」
「そなたは『自分自身』を勘定に入れていないわけではない。ただ――」


 ただ――呆れるほどに、自分自身の価値が低いだけなのだ。大切な目的のためならば、いつうち捨てても構わぬと、本気でそう考えるくらいに。


 景虎の言葉に、天城はかすかに息をのみ、そして面差しを伏せた。
 それだけで、景虎にはわかった。目の前の青年が、そのことを自覚しているのだと。自覚した上で、それでも改めずに行動しているのだと。




 そのことが――何故だか、むしょうに腹立たしかった。




「兼続ッ!!」
 景虎の口から、滅多に聞けない本気の怒号が迸る。
「は、ははッ!」
「急ぎ、陣に戻って湯を沸かしておけ! 三百人分の穢れを払い落とせるだけの量をだッ!」
「しょ、承知!」
 あの兼続が、反論すらなしえなかった。景虎の鋭気に背中を押されるように、兼続は来た時に優るすばらしい勢いで、この場を後にする。


「段蔵ッ!!」
「ははッ」
 平静を装ってはいたが、段蔵の内心は驚きに満ちていた。景虎がここまで感情をあらわにしているところを、段蔵は話に聞いたことさえなかったからだ。
「京で一番の名医を陣にお連れするのだ、礼金は言い値で良い! ありったけの薬を持参するように伝えよッ!!」
「御意ッ!」
 その命令に否やを唱える理由はない。段蔵はすぐさま馬上の人となり、京の町に馳せ戻る。これで、ここ最近感じていた、胸をしめつけるような心労からようやく解放されると確信して。


「弥太郎!」
「は、はは、はひッ!」
「この大馬鹿者を連れ帰る。手を貸せ」
「かか、かしこまりましたァッ!」
 景虎の鋭気を真っ向から受け、背筋をぴんと伸ばした格好のまま、弥太郎は飛ぶような勢いで天城と景虎の元に駆け寄っていく。死臭も、怨念も、もう何も感じられなかった。
 弥太郎は思う。
 そういった不浄のものは、景虎の天地を震わせる怒気で消し飛んでしまったのかもしれない、と。



 そうして、景虎と弥太郎に引きずられるように戻ってきた天城を迎えたのは、居残っていた子供たちであった。
 皆、景虎の怒号を聞き、雷神でも仰ぎ見るような尊敬と、そしてほんの少しの畏怖をこめて景虎たちを見つめている。
 年長の岩鶴と名乗った少年も同様で、直立不動の姿勢で固まっていた。
 そんな彼らに、景虎はうってかわって穏やかな声をかける。
「皆々、心配をかけてすまなかったな。この者はもう大丈夫だ。ここにやってこようとしても、力づくで引き止めるゆえな」
 その言葉を聞き、子供たちの間から小さな歓声があがる。
「岩鶴、と申したか?」
「はは、はい、岩鶴です。え、えっと、か、景虎様」
「ふ、そう硬くなるな――といっても、無理かな。すまぬ、君や弟妹たちを怖がらせてしまった」
「い、いえ、そんな……」
 うつむく少年に、景虎は優しい眼差しを向け、少年たちにとって思わぬ提案をする。
「もし良ければ上杉の陣に来ないか。我が臣を気遣い、見守ってくれた恩人たちに礼を言いたい。君たちさえ良ければ、ずっと居てくれても構わない」
「あ、え、あの、それって……は、はい、あの、お世話になります! お前たちも良いよな?」
「うんッ!」
「わー、颯馬の兄ちゃんと一緒に遊べるの?」
「ご飯たくさん食べれるー」
 わーい、と天城や景虎たちに群がる子供たち。
「こ、こらお前たち、お行儀よくしなさい!」
「構わない。子供は元気なのが一番だからな」
 そういって、微笑みかける景虎の姿を見て、岩鶴は真っ赤な顔でうつむいた。



 大分風向きが変わったと判断したのだろう。
 それまで、景虎の怒号に完全に肝を潰していた天城がおそるおそる口を開く。
「……あの、ところでどうして景虎様は怒っていたのですか?」
「それは正確ではないな、颯馬」
「は?」
「怒っていた、ではない。怒っているのだ。今もまだ」
 そう言う景虎の横顔は、怒っているといいつつ、どこか哀しげに見え、天城はそれ以上の問いを口にすることが出来なかったのである。
  

 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/23 19:22


 深々と降り積もる雪が、緑深き高野の山々を白く白く染めていく。山間に湧き出した霧が、まるで雲のように眼下に広がる山並みを包み込み、まるで天上から見下ろしているかのごとき錯覚を抱かせる。
 耳が痛くなるほどの静寂は、京での出来事を彷彿とさせるものだったが、今、俺の眼前にある景色は、怨念だの恐怖だのとは全く無縁のものである。
 ただ、生命の気配が感じられない静けさは、それがどれほど明媚な光景であったとしても、人の心に寂しさを生じさせるものであるらしい。
 今、世界に自分一人しかいないのだという認識は、どうしたところで、人恋しさを呼び起こす――


「颯馬」
 そんな俺の耳に、景虎様の声が飛び込んでくる。
 その声で我に返った俺は、似合わぬ思索から解放され、ようやく現在の状況を思い起こす。
 この場所は高野の山嶺の一角。京での出来事から一月あまり。
 俺は一人の同行者と共に、仏教の聖地として知られる高野山を訪れていたのである。
「颯馬?」
 そして、ここで景虎様がいるということは――まあ、語るまでもないだろう。
 要するに二人でここまでやってきた、ということである。
「……どうしてこうなった?」
 呟いたところで、答えが返ってくるわけはないと承知してはいても、俺はそう言わずにはおれなかった。
 そして、そんな俺を、景虎様は小首を傾げて眺めるのであった。




 そもそもの原因は、やはり京での俺の勝手な行動にあるのだろう。
 確かに、傍から見れば、俺の行動はおかしくなったと思われても仕方ない面はあっただろう。俺とても、あれを何の感慨もなくやっていたわけではない。正直、他にやるべきことがあれば、そちらに傾注したかった。
 だが、京の情勢は平穏そのもので、上洛軍と京の民との間にも目立った揉め事は起きていない。例の遊女さんたちの件も特に問題はなく、将兵から深刻な陳情もあがってはいない。
 最も警戒すべき三好家の動きも、拍子抜けするほど何もなく、また京のみならず近畿一円でも戦はほとんど起きていなかった。おそらくは上洛軍を刺激することのないよう、久秀あたりが周到に動いているものと思われたが、まさかそのことで文句を言うわけにもいかない。
 結果、やるべき事は何かと考えると、手をつけられなかった範囲の葬送を済ませること、という結論に達したのである。
 

 とはいえ、元々あの光景を目の当たりにした時から、いずれやるべき事として考えてはいたから、かえってこの空白期間はちょうど良いと思ったことも事実であるが。親父なら間違いなくそうしてただろうしな。
 しかし、そのあたりのことは説明しづらいし、説明したところで納得できるものでもないだろう。
 中心部から外れていたとしても、京の町中ならば将兵を動かす理由もつくれるが、町から離れた場所ではそれも難しい。ついでにいうと、金銭的にもきつい。もっと言うと、ただでさえ気が滅入るような作業を、これ以上続けろと将兵に命じるのも気が引ける。京での疫病の発生を未然に防ぎ、町中の死臭を取り除くといった必要性と緊急性があるならばともかく、実質的に放っておいても害はない場所であればなおさらだ。
 屍毒で将兵の間に疫病が発生でもしたら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。
 その点、俺一人なら、まあ最悪でも――などと、一応、俺なりに色々考えてやったことなのだが、これがかなり不評だった。
 正直なところ、弥太郎に諌められたり、段蔵に怒られるだろうな程度のことは覚悟していたのだが、まさか弥太郎に泣かれたり、景虎様に怒られたりとか、予想外すぎた。
 そして、町に戻ってからそう言ったら、今度は本当に段蔵に怒られた。しかも何故かそれに兼続まで加わった。かと思えば怒りがぶりかえしてきたらしい景虎様もやってきた。おまけになぜか岩鶴にまで文句を言われた。なんだ、このコンボは。


 ともあれ、上杉陣営に戻った俺は、あらゆる意味で二度と着られないであろう服を脱がされ(すぐに焼却処分された)、そのまま湯殿に直行を命じられた。
 ちなみにこの時代、風呂とは普通、蒸し風呂を指し、湯殿というのが湯船に水を満たす、俺の知っている風呂の方を指す。
 言うまでもないが、湯殿の方が水と薪を要する点で贅沢であり、滅多に使用されることはない。というか、そもそも湯殿がある場所の方がめずらしいくらいである。
 上杉軍の宿舎にそれがあるのは将軍家の配慮のおかげなのだろう。その湯殿を使えるとなれば、これはある意味で幸運……とか一瞬でも思ってしまった自分に、俺はすぐにため息を吐くことになる。
 湯殿で俺を待っていたのは、越後上杉軍の精鋭たち――一応誤解のないようにいっておくと、筋骨たくましい男兵士――であった。
 そこからはもう、お湯を浴びせられる→全力で身体を拭かれる→お湯を浴びせられる→全力で身体を拭かれるの繰り返し。久々の水風呂を堪能どころの話ではなかった。まあ、かなり不衛生な状態であったのは確かだから、仕方のないことではあったのだが、これは絶対に風呂ではない。食器洗い器に放り込まれた食器の気分がわかるとか、なんて斬新な体験なのだろうか。


 で、その入浴(?)が終わった後は、渋い壮年の医者に治療をしてもらった。無駄口は一切叩かず、必要なことだけを聞き取り、てきぱきと診察し、身体のあちこちに膏薬らしいものを塗りこんでもらい、あっさりと治療は終わった。
 水際立った手際で、迷う素振りも見せない様子は、さぞ名のある医者なのだろう。そう俺は感心していたのだが、名前を聞いてひっくりかえりそうになった。曲直瀬道三だった。
 さすが段蔵と言うべきなのかもしれんが、天皇陛下まで治療した名医を連れて来るとか、無茶しすぎである。礼を言って頭を下げるだけで精一杯だった。


 そうして、ようやく景虎様たちの元に戻った俺は、ここでもひっくり返りそうになった。というか、ひっくり返った。えらく綺麗な女の子がいるなと思い、名を聞いたら脛をけとばされたのである。
 で、その子は一言ぽつりと。
「岩鶴だよ」
「……誰だって?」
「おれは岩鶴だっていったんだ、馬鹿!」
 ――はっきりいって、景虎様の怒声を間近で聞いたときと同じくらいびっくりしました、はい。
 その後、景虎様に心底不思議そうに「気付いていなかったのか?」と聞かれ、地味に落ち込んだ。景虎様は一目見て気付いたらしい。兼続も同様。弥太郎や段蔵は、何回か会った後にちゃんと気付いたとか。
 知らぬは俺ばかりであったらしい。しかし、あの口調と、あの小汚い、もといあまり清潔でない格好から、どうやって女の子だと見抜けというのか。いつ会っても、顔は泥だらけだったしあ……
「あんなところで、私は女の子ですなんて格好してたら、どんな目に遭うかくらい馬鹿でもわかるだろ」
 ――返す言葉もなかった。



 この後も色々あったのだが、ともあれ、俺は通常の軍務に戻ることになった。
 もっとも、絶えず監視の目が傍らについていたが。弥太郎とか、段蔵とか、岩鶴とか。この三人がいないと、岩鶴の小さな子分たちも動員された。そこまでするか。
 まあ、この子分たちを連れて武田家の陣に行くと、虎綱や晴貞が大喜びするので、あまり問題はなかったりする。しかし、子分経由で俺の行動が伝わり、虎綱に問い詰められたり、晴貞に涙目で諌められたりしたのは参った。あと、どう誤解されたのか、俺が晴貞を泣かせたという噂が武田軍に広がり、将兵有志から詰問状が届けられた。意味わからん。 



 そんなこんなで、年末年始が過ぎ、京の町や、上杉、武田両軍にも常の落ち着きが戻った頃、景虎様が唐突に言ったのである。
「これから高野山に行って来る」
 日本仏教の聖地、高野山。
 俺は宗教にはあまり詳しくないが、景虎様が崇める毘沙門天が仏教の武神であることくらいは知っている。であれば、景虎様が高野山に行きたいと願うのも不思議ではないだろう。
 そんな風に思ったのだが。
「供は、颯馬、お前に頼む」
「承知しました…………って、私のほかには誰が?」
「今回は半ば私用だからな。あまり大勢は動かせん」
「……つまり、私だけですか?!」
「うん、そういうことになる」
 くすりと微笑むと、片目を瞑る景虎様。
 色々言いたいことはあったが、その仕草一つですべて消し飛んでしまった俺であった。



◆◆



 上杉軍を統べる立場の景虎様が京を離れるのが簡単でなかったことは言うまでもない。
 だが、思いのほかすんなりと京を出立することが出来たのは、どうも以前から――少なくとも昨年から考え、そのための準備をぬかりなく整えていたからではないかと思われた。
 実際、絶対に猛反対すると思っていた兼続も、壮絶な仏頂面ながら了承していたし、将軍家の方の許可もとっていたあたり、この推測を否定する根拠はどこにもなかった。


 京から南へ下り、久秀の所領である大和を通り、紀伊の国に入る。
 目だった事件がなかったのは、主に久秀にもらった手形のお陰であろう。くわえて、三好家の統治、ことに松永領の治安の良さは驚くべきものがあった。町を歩いてもごみ一つ落ちておらず、街道は整備され、城の近くにいたっては道の両脇に木々が植えられてあり、松永久秀という人物が、ただ陰謀に淫する類の策士とは一線を画する人物であることがまざまざと感じ取れた。
 これには景虎様も深く感嘆し、謀将と名高い久秀の評価を、一部改めたようであった。
 あるいは久秀が手形を出してくれたのは、このあたりの狙いもあったのかもしれぬ。「久秀が案内しようか?」という提案を言下に謝絶した時の、小さく唇を尖らせた久秀の姿を思い起こしながら、俺はそんな風にも考えていた。
 まあ、俺がそう思うことさえ、全て久秀の計算どおりなのかもしれないが――しかし、ここまで策謀の多い人物としての名前が広がると、本心からの行動でさえ作為ありと思われてしまうのだな、としみじみ思う。智略縦横の名が広がることは、良いことばかりではなさそうだ。
 だからといって、実は久秀がものすごく素直で誠実な為人だった、などという展開はありえんだろうけれども。




 かくて高野山に入った景虎様と俺は、すぐに高僧たちの出迎えを受けた。
 先触れの使者を遣わしていたし、多大な寄進も行っていたからだろう。高野の僧たちの対応は丁重の一語に尽きた。もっとも、彼らもまさかたった二人だけでやってくるとは思っていなかったようだが、さすがに高徳の僧が集う場所、そういった驚きを微塵も面に出さず、恭しく俺たちを迎え入れてくれたのである。


 高野山は真言宗を開いた空海が、布教の拠点を置いた場所である。厳粛な雰囲気に包まれた山門をくぐり、金剛峯寺の壮麗な社を目にすれば、宗教的感動とは無縁の俺でさえ、心洗われる思いがする。
 あたりを見回せば、いかにも修行を積んだと思われるお坊さんが、森然と祈りを捧げていたり、一方でやたらと強面、全身傷だらけなお坊さんが、薙刀もって歩いていたりした。
 これは、この時期、諸国の大名の掣肘を退けるために、高野山が僧兵という武力を蓄えていたためである。政治と宗教が密接に関わってしまうのは、一向宗の例を見るまでもなく、今の時世では当然のことであるらしい。


 俺と景虎様が案内されたのは、寺社仏閣が立ち並ぶ霊山のさらに奥、一般の巡礼者や僧侶たちが立ち入ることの出来ない区画にある部屋だった。
 おそらくは、最上級の客を迎えるための部屋なのだろう。山麓の賑やかな声はここまで届かず、深々と静まり返った高野の山々を、はるかに見晴かすことの出来る眺望は、言葉を失わせるに足る絶景であった。
 この景色を見ることが出来ただけでも、ここに来た甲斐はあった。本気でそう思ったほど、俺は目の前の景色に見入ってしまったのである。





 ――とはいえ、そろそろ本題に入らねばならないだろう。
 突然の景虎様の行動と、それにまつわる周囲の動きが、俺に関わっていることくらいは察しがつく。
 正直なところ、別に隠し立てをするつもりはなかったから、京で聞いてくれても問題はなかった。
 しかし、京でも、そして二人きりの道中でも、景虎様は俺の行動に関して何一つ言及しなかった。ならばこちらから説明すべきかとも思ったが、それもあまり気が進まなかった。


 何故といって、景虎様は俺の行動の根底にあるものを、すでに見抜いているからである。それは、あの時の言葉から明らかであった。
 俺がそこに至った理由は、俺の境遇と密接に関わることなのだが、しかし、平成の世なら知らず、この戦国の世にあって、俺の境遇など不幸というにも値しないもの。別に不幸自慢をしたいわけではないが、ただ、俺より過酷な境遇で、俺より誠実に、逞しく生きている人たちに、自分の過去にこんなことがあって、こうなってしまいました、などというのはひどく気恥ずかしいものだった。


 それに、と俺は思う。
 平和な世の中で二十年近くを生きてきた俺の感覚は、景虎様たちには理解しえないだろう。
 だからといって、あちらの人間に理解できるとも思わないが。大体、俺自身、自分の全てを把握しているわけではないのだ。
 そんなことを考えていた俺に、景虎様が静かに声をかけてきた。
 その真摯な眼差しを見て、俺は、時が来たことを悟ったのである。




◆◆



  
 まず言っておくべきは、俺の周りにいた人たちは、良い人たちばかりだった、ということである。
 親父の座右の銘は『命の恩には命をもって応え、信頼には誠実をもって報いる』というものであった。医者でも政治家でもないくせに、人助けをほとんど趣味にしていた親父らしい言葉である。
 それが高じて、結婚を前に財産ほとんど盗まれるとかいう笑えない事態になったそうだから、ある意味病気かもしれん。
 そして、青くなって詫びる親父に、にこりと笑って結婚した母さんは、そんな親父にまさる傑物だったに違いない。
 長じて聞いた話では、結婚式で親父は汗だく、母親は笑顔、そして母方の祖父母は壮絶な仏頂面であったとのことだった。まあ、それを教えてくれた祖母は、今では良い思い出だと笑っていたのだが。


 そうして、そんな両親の間に生まれた俺は、忙しい両親の下で寂しい幼年期を送った――とか言えると暗い過去が出来上がるのだが、そんなことはなかった。客観的に見ても、うちの両親は親として及第点に達していただろうし、俺自身、寂しさを感じた記憶は残っていない。
 どちらか片方が留守にしていても、どちらか片方が家にいてくれたし、どうしても両親が居られない時は、俺も一緒に連れて出かけてくれたもんである。祖父母とはあまり折り合いがよくなかったから、幼い息子に寂しい思いをさせないように、二人ともとても気を遣ってくれていたのだろう。
 そうして、そんな両親の背を見て育ったのだ。俺自身、二人に似てしまうのは避けられないことだった。
 要領こそよくなかったが、懸命に大勢の人を助け、そして慕われる父を子供心に誇りに思っていたし、そんな父を支える綺麗な母は、子供の頃の俺にとって自慢の種であった。怒らせると父親より怖かったので、恐怖の対象になる時も少なくなかったが、それは措く。


 ともあれ、誇れる両親の下で、自分で言うのもなんだが、健やかに育った俺に、転機は突然に訪れた。
 その日――暖冬が叫ばれる昨今ではめずらしく、十二月にもならないというのに雪が積もった日。
 高校からの帰り道、俺は両親との待ち合わせ場所に急いでいた。
 朝から降っていた雪は昼前に止んでいたが、降り積もった雪が陽光によって溶け出し、道路はかなりすべりやすくなっていたから、俺は慎重に一歩一歩確かめるように歩を進めていた。
 その分、いつもより大きく時間がかかってしまうだろうことはわかっていたから、約束の時間に間に合うように学校を出たのだが、それでも足りなかったようだ。
 この分だと遅刻してしまう、と俺は焦って、やや足を速めた。
 うちの両親、約束を破ることに関しては二人とも厳しかったのだ。
「待たされる人のことを考えれば、遅刻なんて出来る筈がない」というのが親父の言い分であり、母さんは、微笑みながら、夕飯のメインを取り上げてしまうのが常だった。抗議するとその他のおかずも消え、ご飯だけが残る。勘弁してください。


 だが、たかが数分といえど、遅刻は遅刻であり、約束を破ったことに違いはない。それゆえ、俺は覚悟を決めて携帯を手にとった。連絡くらいはいれておかねばと思い、母親の方の番号を選択する。
 呼び出し音がなること数回。向こうが通話ボタンを押した音がした、その途端。
 遠くから、耳をつんざくような凄まじい擦過音が響き渡り、わずかに遅れて、妙に重苦しい破砕音を、俺は聞いた。
 天候を甘く見て、チェーンもつけずにスピードを出した車がいたのだろう。
 俺はそう思った。
 遠くに見える駅前の広場から、悲鳴のような声が聞こえる。どうやらその馬鹿なドライバーは、よりにもよって駅前の広場に突っ込んだらしい。
「きゅ、救急車だ、救急車!」
「どこの馬鹿だ、ちくしょうッ!」
「いってえ、いてえよ、くそ、いてえよッ!!」
 助けを求める声、痛みを訴える声、事態を収拾しようとする声、様々な声が聞こえてくる。その声が、俺の推測を確信にかえた。
 何が起きたかはわかった。
 だが、わからないこともある。
 破砕音や、甲高い悲鳴はともかく。
 どうして、現場にいる人たちの声が、こうもはっきりと聞き取れるのか。
 その理由が、俺にはわからなかったのだ。
 耳元から携帯を離した俺は、そこから聞こえてくる事故現場の阿鼻叫喚を、どこかぼんやりとしながら聞き入っていた。
 正気にかえったのは、そこから小さく俺の名を呼ぶ声がしてからであった……





 ――結論から言えば、親父と母さんはこの事故が原因でなくなった。全身打撲、腹部臓器の損傷、出血多量、そういった説明がされたが、ほとんど覚えていない。
 だが、奇跡的というべきか、二人はなくなる直前までかろうじて意識を保っていた。両親ときちんと別れを済ませることが出来た点で、俺は他の被害者の家族よりも幸運だったのだろう。
 多分、二人とも、自分が長くないことを承知していたに違いない。余計なことはほとんど言わず、俺のこれからについてのみ、苦しげな息をはきながら話してくれた。
 そうして最後に、先に逝くことを謝り、俺のこれからの幸せを祈りながら、親父と母さんは、ほとんど同時に息を引き取った。
 最後の最後まで、誇るべき親だった二人の亡骸にすがり、俺は物心ついてからはじめて、人目をはばからずに号泣したのである。
 そして、心に決めた。
 この両親が生きていれば、助けたであろう人を助けようと。為せたであろうことを為していこうと――





 高校生ともなれば、自分の面倒くらい自分一人で見ることが出来る。
 だが、だからといって一人暮らしが許されるわけではない。俺がよくても、世間がそれを許さない。
 そして、俺を引き取ることの出来る家族は、母方の祖父母しかいなかった。親父の方は、天涯孤独であったらしい。あるいはそれだからこそ、あれだけ人との絆を大切にしていたのかもしれない、などと俺はぼんやりと考えたものだった。
 元々折り合いの悪かった祖父母だったから、俺は正直なところ、厄介者扱いされることを覚悟していた。まあ、全財産を他人にかすめとられるような男に、大事な一人娘をとられたのだ。祖父母の嘆きと、素直になれない感情もわからないではなかったから。


 だが、これは二人に対して、はなはだしい侮辱であった。否、母さんに対する侮辱でさえあったかもしれない。あの母さんを育てあげた祖父母が、そんな小さい器の持ち主である筈がなかったのだ。
 親父へのわだかまりがあったのは間違いないようだが、少なくとも、両親を失った孫に対してきつく当たるようなことは一切なかった。
 これで、引き取られた家で冷遇されたとかいうなら、グレたり、非行に走ったりと悲劇のヒーローを演じることも出来たかもしれないが、厳しくも甘い祖父と、優しく甘い祖母との暮らしは、悲劇に淫するよりもずっと楽しかった。
 二人が俺を気遣ってくれているのがわかるからこそ、両親の死の影を感じさせてはならない。何より、そんなみっともない真似をすれば、親父と母さんの価値まで引き下げてしまう。
 そう考えた俺は、意識して背筋を伸ばし、日々の生活を送り――やがて、意識しなくても背筋を伸ばせている自分に気付いたのである。


 そうして、両親の死後、つつがなく高校生活を送り、大学入学を決めた俺を見て、安心するように祖父が、そして祖母が他界した。
 これは事故などではなく、寿命によるものだったが、それで寂しさが拭えるものでもない。
 これで天城家は俺一人になってしまったのだな、と祖父母の葬式を終えてから、俺はようやくそのことに気付き、遺影に向かって落涙したのである。
 



 家を処分したのは、大学から遠いということもあったが、祖父母との会話が息づいている家の中にいるのが苦しかったという点が大きい。今思えば、祖父母が俺を家に引き取ったのも、両親との思い出が残った家で暮らすことが、あまり良い影響を及ぼさないと考えたのかもしれない。今となっては確かめようがないことだが。
 元々、たいして大きな家でもない(爺ちゃん、ごめん)し、こういうときにありがちな親類縁者がしゃしゃり出てくることもなく、俺は大学で紹介されたアパートに移り住み、新しい生活を始めることになった。
 考えてみれば、両親の死から、祖父母の死まで三年あまり。この短い間に、親族と呼べる人たちをまとめて失ってしまったわけだが、せめてもの救いは、俺がある程度の年齢に達していたということか。これが幼年期であれば、かなり深刻な影響が出てもおかしくなかっただろう。


 ともあれ、大学に入った俺は、将来のことにも目をむけなければならなかった。
 親父や母さんが生きていれば、助けられたであろう人を助け、為せたであろうことを為すという気持ちは揺らがなかったが、あいにく人間は志だけでは食っていけない。
 歴史や文学の方面で職が得られれば言うことはないが、それも簡単にはいかないだろう。そう思いながら、しかし、俺は焦らなかった。爺ちゃんがよく言っていた言葉がある。
「千里の道も一歩から。将軍杉にも苗木の時はあったのだ。焦ったところで、良いことなんぞ何もないわい」と。
 その言葉を全面的に信奉している俺は、大学生活の大半を本の渉猟に充てようと決めた。知識を蓄えることは、全ての基礎になるであろうから。



 そうして一年あまり。
 転機は――天機は訪れたのである。





◆◆



 

 日はいつか完全に没しており、あたりには風にそよぐ草木の音と、地を駆ける枯葉の音だけが木霊していた。
 ここで働いている小姓が、しずかに灯火に油を足して、一礼して去っていく。
 俺は視界の端でその姿をとらえつつ、黙して聞き入る景虎様に告げる。
「以上が、越後に来るまでの私の軌跡です、景虎様――」
 言うまでも無いが、景虎様に全てを伝えたわけではない。特に携帯とか言ったところで理解は難しいだろうし、まして異なる世界と来た日には、俺自身説明できない。
 だから、口にしたのは俺があの行動に至った理由と、そして景虎様が口にした言葉への答えだった。
 自分自身の価値が低い、というあの言葉は、否定しておかねばならない。そんな筈は、ないのだから。
 たしかに、時に命を捨てて物事に望む時はあった。春日山城で景虎様を討とうとしたときのように。
 だが、勝利を得るためにはそれしかなかったから、そうしただけである。決して、命を粗末に扱ったわけではない。


 景虎様の口が、ゆっくりと開かれる。
「颯馬」
「はい」
「颯馬は、ご両親の死に、責任を感じているのか? だから、お二人の志を継ごうとしているのか?」
 その言葉に、俺は首を横に振る。
 正直に言うと、責任を感じていないといえば嘘になる。
 あの時、遅刻しなければ。あの時、携帯を使わなければ。あるいは別の結果が出ていたのかもしれないと、そう思ってしまうから。
 だが、それはほかならぬ両親から否定された。祖父母からも否定された。二人の死に罪ある者がいるとしても、それは俺ではない、と。だから、その死に引きずられてくれるな、と。


「――子供の私が言うのもなんですが、私の両親はすごい人でした。権力だの財力だのがあるわけではなかったですが、それでもたくさんの人たちに慕われて、いつも笑顔で過ごしていました。親父は――ではない、父は、ただでさえ年がら年中七難八苦に襲われているような人でしたし、母もその後始末で大変だった筈なのに、家から笑い声が絶えたことはなかったです」
 もちろん、二人とて人間だ。落ち込むことも、あるいは意見が違って喧嘩したりもしていたのだろう。だが、そういった面を子供に見せることはなかった。ただそれだけでも、すばらしい親だと、俺は断言できる。
「今の私より何倍も経験があって、知識があって、そして心が強かった。もし、あの二人が生きていて、今の私の立場にいれば、私とはくらべものにならないくらい、景虎様のお役に立っていたことでしょう」
 無論、すばらしい親=優れた武将というわけではないが、最低でも俺と同程度以上のことは出来ただろう。
 もしかしたら、親父なら、晴景様に勝利をもたらせたかもしれないとも思う。母さんも一緒にいれば、間違いなく春日山城を焼くような状況には持ち込まなかっただろう。
 さすがにこれは口にしなかったが、それでも俺の脳裏にはそんな考えがよぎった。


 景虎様は俺の言葉を肯定も否定もせず、静かに先を促した。
「子が、親を継ぐは当然のことだと、そんな風に真面目に考えているわけではありませんが、私自身、望んでいるのです。両親が生きてあれば、救えたであろう人を救いたい。為しえたであろうことを為し遂げたいと。私が誰かを救えれば。私が何かを為しえれば。それは、俺が生きた意味はあったということの、確かな証明になるでしょう? それは、俺を生み育ててくれた両親が、生きた価値と意味をも証明することになると思うのです。そうして、祖父母のそれをも」
 俺はほっと息を吐き、そして言った。


「――それが、天城の家でただ一人生き残った私の務めだと、そう思うのです」


 時代がかった考え方だと、自分でも思う。他人に言ったところで肩をすくめられる類の考え方だし、実際、高校でも大学でも、俺と話の合う奴は少なかった。
 だが、家族のことを知るのは、もう俺一人しかいない。もちろん、両親の友人知人は覚えているだろうし、何かの拍子に話に出ることもあるだろう。だが、家族の平生を知る者は、俺しかいない。彼らが誇るに足る人生をおくったのだと証明する者も、俺しかいない。


 ――だから、示したかった。天城の家の者はみな、誇るに足る人生を歩んだのだと。歩んでいるのだと。


 そして、そんな俺に出会えてよかったと、そう思ってくれる人が、たとえ一人でもいたならば。
 それは俺を育んでくれた全ての人に対する、何にも優る餞になるのではないか。


 そんなことを考えながら、俺は景虎様に微笑みかける。
「だからこそ、死に急ぐ心算はありません。俺が命を軽んじることは、俺を育ててくれた全ての人たちへの侮辱だからです。だから、あの時、景虎様が口にしたことは――」





「――そうやって、ずっと自分を偽り続けてきたのだな、颯馬は」





 その声は、やけに大きく、俺の耳に響いた。
 笑みが凍りつく。
 俺は戸惑いながら、景虎様に問うた。
「……え? 今、なんと?」
「哀れだ、と。そう言ったのだよ、天城颯馬。そなたの生き方が。そして、そなたを育んできた者たちが」


 正直なところ。
 俺自身について、何を言われようと構わなかった。自分でも、少なからず自覚はあったからだ。
 だが、家族を哀れまれることだけは我慢ならなかった。
 たとえ、哀れみの目線を向けるのが、景虎様だったとしても。




◆◆




「そなたの話は、わからぬところも多かったが」
 景虎は、表情を消した天城に向けて、言葉を発する。こんな表情で天城に見られたことは、かつてない。それはまぎれもない怒りであった。
「それでも、そなたの故郷が、平和で豊かであったことはわかる。戦の影もなく、税で苦しめられることもない、そんなすばらしい場所だったのだろう」
「……そうですね。すばらしいかどうかは、多少疑問の余地がありますが、戦のない、平和な場所でしたよ」
 何かをこらえるような、低く押さえた天城の声。
 だが、それに怯む景虎ではない。あるいは、ここで天城と道を分かたれることになるかもしれないが、それでも、このまま放っておけば、遠からず天城は破滅するだろう。そのことがわかっていて、黙っていることなど出来る筈がなかった。


「――そんなことよりも、どういうことですか。俺の家族が、哀れだというのは」
 いかに主君とはいえ、許せぬことがある、と。景虎は天城があえて言葉にしなかった声ならぬ声を聞いた気がした。
 その声からは、景虎への敬意が失われつつあった。
「そのままの意味だ。そなたが死に囚われぬようにと、おそらくは最後の力を振り絞ったのであろうに、そなたは未だ囚われたまま。それどころか、そのことに気付きもせず、冥府への道を今も歩み続けている。これを哀れと言わず、なんと言えば良い?」
「――ッ」
 ぎり、と。天城が奥歯を噛み締める。
「だから、言ったでしょう。俺は親父たちに言われて――」
「そうだ、言われて、心に蓋をしたな。父君の志を継ぐという決意で、さらにその上に蓋をした。己が父君と母君を殺したのだという罪の意識を、胸奥に押し込めるために」


 もっと早くにこの話を聞いていたら、もっと早くに気付けただろう。
 景虎は天城の生い立ちに、何がしかの戦の影があるものと思っていた。そうでなければ、この若さであれだけの巧妙な戦略を練ることも、容赦のない指揮を揮うことも出来ないだろうからである。
 しかし、それを確認することは、天城の心を抉ることになりかねぬ。姉である晴景への無私の態度を見れば、信頼に値する人物であることは明らかだったから、それ以上を確認する必要はないとも思っていた。
 時が来れば、話をする機会もあろう。その考えに疑問を抱いたのは、佐渡での戦の詳細を聞いた時。
 甲冑もまとわぬ平服のまま、本間の軍勢に突っ込んだという天城。それを聞いたとき、危惧は形となり、このまま放っておいて良いのかと己に問うた。
 そして今回の件。
 景虎ははっきりと確信した。
 天城の胸に巣食う、底知れぬ虚ろの存在を。
 



「戦とは……」
 口を開いた景虎を、天城は訝しげに見つめる。
 だが、それに構わず、景虎は続けた。
「戦とは、殺し合いだ。己が望むものを得るために、他者が望むものを踏みにじる修羅の業。それゆえにこそ古人は兵を不祥の器とし、それを用いることに幾重にも枷を設けた。だが、それでも戦は絶えぬ。罪なき民を巻き込み、大名たちは望むままに兵を集め、他国を攻め、日ノ本は長きに渡る戦乱の雲に覆われている」


 そんな修羅の業に、何処かは知らねど、平和で豊かな遠国からやってきた者が巻き込まれた。
 奇妙な縁にて長尾晴景に仕え、その信を得て、越後随一の猛将を討ち、数千の兵を率いて景虎の前に立ちはだかる。そうして、その大軍を縦横に駆使し、真っ向から矛を交え、ついには居城と自らの命を焼き尽くしてまで、勝利を得ようとした。
 全ては、命を救われた主のために。
 それは、越後の者であれば、知らぬ者とてない天城颯馬の戦絵巻。
 だが、しかし。
「――どうして、ためらいなく戦が出来た? どうして、ためらいなく人を殺せたのだ? さきほどの言を聞けば、そなたは自らの手を血に染めたことさえなかったであろうに。殺さなければ殺されるところであったということはあろう。だが、そなたは戦のためとはいえ、刃を収めた者も討ち果たした。柿崎の弥三郎を討った時のようにだ」
「……ッ」
「いや、ためらいはしたかも知れぬ。苦しみもしたかも知れぬ。だが、そなたは刀を振るった。父君の志に従い、姉上の恩に命をかけて報いてくれたのであろう。それでも、たとえ戦うべき理由があったとしても、はじめて戦の采配をとった者が、はじめて人を殺そうという者が、あそこまで決然と振舞えるものではない。戦らしい戦をしたこともないものが、そう振舞えるのだとしたら、その者は天性の戦人(いくさにん)か、あるいは――すでに、人を殺した罪を知る者以外にないだろう」


 天城の身体が、ぐらりと揺れる。
 その目に、かすかな惑乱の色が浮かぶ。
「つまりは、そういうことだ。そなたは、父君と母君の死の責任を感じている。いや、自分が殺したと、殺したようなものなのだと思い続けていた。親殺しは大罪だ。その大罪を背負い続けてきたそなたにとって、見も知らぬ敵兵を討つ痛みなど、大したものではないだろう。まして、そなたは父君の志を背負って戦っているのだと、そう思い込んでいたから、なおさらだ」
「ち、ちが……」
「違わぬよ。無論、そなたがさきほど言った言葉が、全て偽りだなどと言うつもりはない。だが、その裏に二親の血を浴びたそなたがいるのも確かなのだ。もう一人のそなたは、今や幾千の血潮を浴びて、幾万の怨嗟の声を受けて、泣いているのではないか……もう、終わりにしたいと」


 父の志を継ぎ、天城家のために、今は亡き家族のために戦う。
 そんな輝かしい決意の裏で、全身を血泥に染めて虚ろに佇む天城の姿が、景虎には見える。
 それは多分、天城の二親が亡くなったその時に生まれた、良心に刺さる鋭い棘。親を殺したという罪の意識。
 誰かがそれに触れていれば、天城自身ももっと早くに気付けただろうが、皮肉にも、家族の優しさが、その存在を気付かせなかった。
 もしも、そのまま平穏に生きていたのならば、あるいは気付かずに一生を終えることも出来たかもしれない。
 だが、天城は戦に巻き込まれてしまった。
 そして、抜かれることのなかった棘は、人を殺すという行為に伴う心身の痛みを鈍磨させた。
 すでに親を殺したのだ。その上で他人を、しかも自分の命を狙う敵を殺したところで、何ほどのことがあるものか、と。


 そして、一度他者の血を浴びてしまえば、もう気付くことはできない。
 天城は、人を殺すことが、耐えられないほどの痛みではないと、そう判断し、己の名分のままに策を練り、采配を揮い、幾十、幾百、幾千もの血潮を浴びる。
 その奥底で虚ろに佇む自分の姿に気付かぬままに。


「だが――少しずつ、しかし確実に、それは影響を及ぼしていたのだろう。そなたは、自分自身の価値を低く見積もってなどいないと言いたいだろうが、真にそうか? 春日山城で私と対峙した時。佐渡の地で本間軍と矛を交えた時。そして京で死屍の山に埋もれていた時。そなたは本当に、自分自身の命に優る価値を、その果てに見据えていたのか? 命を賭しても為さねばならないことは、確かにあるだろう。だが、それは為すべきことを全て為した後に、はじめて選ぶことができるもの。春日山で、佐渡で、そして京で、そなたは本当に為すべきことを為したか。その上で、己が命を懸けたか。よく考えてみるが良い。答えは、そなた自身が一番良く知っている筈だ」


「う、あ……」
 今や、天城の顔は蒼白を通り越して、土気色だった。
 すぐにも倒れてしまいかねない天城の痛々しい様子に、景虎は目をそらしそうになる。言葉を止めそうになる。
 だが、すぐに丹田に力を込め、己の弱気を振り払った。
 闇は払われねばならない。
 穢れは祓われねばならない。
 それがどれだけ辛くとも。どれだけ苦しくとも。
 このためにがこそ、景虎はここまで来たのだから。宮中の政務も、軍務も、全て後顧の憂いの無いように仕上げた上で。高野山に来るまで間があいてしまったのは、そのためだった。



「か、かげ……お、おれ、は……」
 両の腕で、自分の身体を抱き抱えるように竦む天城。
 その身体は瘧(おこり)にかかったように震えがとまらなかった。
 景虎の剣勢は、天城が閉ざしていた心の蓋を、両断することに成功したのだ。
 だが、それは必然的にもう一つの事態を呼び起こす。
 すなわち、これまでは耐えられていると思っていた戦の罪業が、まとめて天城に襲い掛かろうとしているのだ。それだけではない。京の地で行っていた死者の葬送すら、常人では耐えられるものではない。半月もの間、天城が一人でさらされ続けた怨嗟と怨念が、その心を腐食させていく。
「あ、うあ、ああ…………あ?」
 その責め苦に、一人で耐え切れるほどに、人の心は強くはない。


 だから。


「……颯馬」
「……か、景虎、様?」
 穢れに飲み込まれかけていた天城は、暖かく、柔らかな感触を総身に感じて、きつく閉ざしていた目を見開き、間近に――本当にすぐ近くに、景虎の姿を見て、息をのんだ。
「な、何を……なさって?」
「今の私は颯馬の主ではない。その心を慮る一人の女だ。そのように堅苦しい言葉を使わずとも良い」
「あ、え?」
「すまぬな。心に、土足で踏み込むような真似をしてしまって。許してくれとはとても言えぬが、ただわかってはほしい。私も、京で留守を守ってくれている兼続も、定満も、そして颯馬の配下の者も。あの子供たちもそうだ。颯馬に、元気でいてほしいのだ。いなくなってほしくないのだ」
 そういって、強く抱きすくめられ、天城は小さく声をもらす。
 痛みではなく、その対極の感情ゆえに。
「ここは御仏の聖地。そなたの穢れを祓うに、ここ以上の場所はない。吐き出してくれ。そなたの胸に巣食った何もかもを。この長尾景虎、全身全霊をもって受け止めてみせよう。一日で無理ならば、二日かければ良い。二日で無理なら、三日かければ良い。幾日でも付き合おう。だから――」



 どうか、本当の颯馬に戻ってくれ。



 その言葉を最後に、天城の意識は静かに闇に落ちていった……





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/24 14:36


 およそ一月後。
 景虎様と共に京に戻った俺は、おそるおそる陣屋に顔を出す。
 心配もかけたし、迷惑もかけてしまった。正直、どんな顔して皆に会えば良いのやらわからん。
「往生際が悪いな、颯馬。心配をかけたなら、きちんと頭を下げて詫びるべきだろう」
「それはその通りなんですが、うー、そこまで持っていくのはどうすべきかと悩んでいるのです」
「ふふ、上杉の誇る軍師殿の手並み、しかと拝見させてもらおうか」
「……思いっきり楽しそうに聞こえるんですが、景虎様?」
 情けない顔で後ろを振り返ると、思ったとおり微笑む景虎様の姿があった。
 その顔を見ると、勝手に頬が赤くなってしまうのは、高野山での出来事ゆえだった――いい年して、女性の胸に顔を埋めて大泣きするとかありえん。
 お陰で、色々なことに気付くことが出来たし、心も軽くもなったし、気持ちよかったし……って、待て待て。ますます頬が赤くなるから後半の回想は禁止だ。


 と、俺が一人でおたおたしていた時だった。
 とんとんと後ろから肩を叩かれた――訂正、がんがんと肩をぶたれた――再訂正、何やら硬く細長いものが、肩を押さえつけつつ、俺の顔のすぐ横を通過していった。刀だった。一応、鞘はついてたが。
 端的に言うと、後ろから鞘に入ったままの刀を、首筋に擬されたのである。
 反射的に背筋を伸ばして直立不動、しかる後、ブリキの人形みたいな動きでゆっくりと振り返る。
 そこには。
「帰ったか、颯馬」
 花のような笑みを浮かべた兼続様がいらっしゃいました。
 一応つけくわえると、目は全然わらってませんでした。


「兼続、今戻った」
「お帰りなさいませ、景虎様。一日千秋の思いでお待ちしておりました」
 ありありと安堵の表情を浮かべながら、兼続が頭を下げる。
「大げさだな、私が京を出てから一月にもならないであろうに」
「遠征軍の大将が、自軍から一月も離れることなど、本来あってはならないことなのですよ。幸い、さしたる大事は起こりませんでしたが、これは結果論です。以後はお慎みください」
「ん、すまなかった。兼続の言うとおり、なるべく控えることにしよう」
 景虎様が言うと、兼続はじろりと俺の方を睨んだ。
「――聞くまでもないが、これだけ景虎様に時間をとらせたのだ。まさか、まだグズグズしているわけではあるまいな? であればその性根、私がじきじきに叩きなおしてやるが」
「い、いえ、遠慮しておきます。もう景虎様にお手間をとらせるような醜態は晒しませんので、その点はご安心ください」


 俺が慌ててそう言うと、すぐ後ろから景虎様の口から爆弾発言が飛び出す。
「む、そうなると二人で旅に出るのは今回かぎりか。それも少し寂しい気がするな」
「か、景虎様ッ、な、何を?!」
 兼続は驚きのあまり目を丸くし。
 そして、俺に鋭い視線を向ける。例えるならば、そう、人を殺せそうなほどに鋭い視線を。
「……おのれ天城颯馬、貴様、景虎様に何をしたッ?!」
「はッ?! 今の流れで何で俺に矛先が向くんですか?!」
「ええい、問答無用ッ!」
「いや意味わかんないんですけどッ?!」
 何やらよくわからない理由で兼続の逆鱗に触れた俺は、とりあえず首筋に擬された刀から逃れようと動きかけるが、さすがに直江兼続、巧みに重心を移動させ、簡単には逃がしてくれない。


 だが、しかし。
「――なッ?!」
 短く、だが鋭く鞘に拳を当て、一瞬、鞘の力点をずらすと、俺はその一瞬を逃さず素早く体を入れ替える。
 俺のその鮮やかな手並みを見て、兼続は驚きを隠せない。
「男子、三日会わざれば刮目してこれを見よ。甘いですよ、兼続殿」
「ほう、少しは身体の使い方がましになったようだな」
「ふっふ、景虎様に散々稽古をつけてもらいましたからね。京を発つ前の私と同じではありませんよ」
 ちょっと調子に乗ってみた俺に、兼続はしばし憮然としていたが、やがて小さく笑みを浮かべた。
「そうか、なら私が注意を促すまでもないな」
「――はい?」
 何のことだ、と俺の顔に疑問符が浮かんだ瞬間だった。
「そうまさまーッ!!!」
 ちょうど死角になっていた方向から、弥太郎の手加減なしの体当たりをくらい、俺の身体は思いっきり突き飛ばされてしまった。
 もうちょっと丁寧に述べると、弥太郎に首っ玉にかじりつかれ、相撲でいうあびせ倒しを喰らう格好になったのである。



 げふごふげふげふ、と受身も取れずに地面に叩きつけられた俺は、壮絶に咳き込んでいたが、加害者である弥太郎はまったくもって自分のやったことに気がついていなかった。
「颯馬様颯馬様そうまさまー」
 と、俺の首筋にしがみついたまま、涙交じりに俺の名前を連呼しているからである。
 その顔を見れば、文句など言える筈もなく、むしろ滾々と自責の念が湧き上がってくる。
「ごふ……た、ただいま、弥太郎。心配かけてごめんな」
「うう、い、いいえ、そんな謝ってもらうことじゃないです。でも、うう、やっと声聞けたよぉ……」
 ……なんかその言葉を聞いてじーんときた。
 こう、自分が愛されていると感じる心地よさとでも言うべきか。同時に、こんな良い娘に泣くほど心配かけていたことを思い出し、さきほどの自責感が五倍増した。


 すると、どこか小ばかにするような口調で、声がかけられる。
「真昼間からなにやってんだ。そういうのは暗くなってから、部屋の中でするもんだろ」
 これが男の口から出るなら問題はないのだが、見た目綺麗な女の子の口から出ると、尋常でない違和感を感じてしまう。
「岩鶴、女の子がそういうこと言うものではありません」
「大人がそういうことを子供たちの前でやるよりましだろ」
「別に色恋沙汰で抱き合ってるわけじゃないんだが」
「へー、じゃあそれは上杉軍特有の戦稽古か何かか?」
 皮肉たっぷりに言ってくる岩鶴。なんか少し見ない間にさらに口が悪くなってるな。あるいは、女の子の格好をしているから、その差異でそう感じてしまうのだろうか。
 そんなことを考えつつ、俺はようやっと落ち着いてきた弥太郎を促して立ち上がる。
 すると。


「――主様、お楽しみのところ、大変申し訳ないのですが」
「ををッ?!」
 立ち上がった途端、また死角から声がした。今度はあびせ倒しはくらわなかったが、段蔵の氷の眼光と声音は、身体ではなく心を切り裂く効果を持っている。ちなみに、何故か段蔵は抱えきれないほどの書類の束を持っていた。
「だ、段蔵か、びっくりさせないでくれ」
「申し訳ありません。男子三日会わざれば、と聞こえてきたものですから、今の主様ならこの程度の気配は読んでくださるものと信じていたのですが」
「――返す言葉もございません」
「一度口にした言葉には責任が伴います。お気をつけください」
 きわめて冷静にそう言った後、段蔵は小さく頭を下げた。
「とりあえず、お帰りなさいませ。どうやら――」
 そういって、わずかに声を和らげ、俺の顔をじっと見つめる。
「問題は解決したようですね。さすがは景虎様です」
「ん、そうだな。段蔵にも心配をかけて悪かった」
「心配などしていませんが、迷惑は被りました。よって、これから償っていただきます。主様に拒否権はありませんのでよろしく」


 まあ、迷惑をかけたのは事実だし、と言いかけた俺に、段蔵は持っていた山のような紙の束を「ではこれを」と押し付けてくる。
 慌てて抱えなおしながら、俺はおそるおそる口を開いた。
「あの、段蔵。これは?」
「ここ一月ほどでたまった軒猿の報告書です。全て目を通しておいてください。今日中です。それと、新たな指示が必要なものを優先的にお願いします。すでに皆、今やおそしと命令を待っている状態ですのでよろしくお願いします」
「…………了解しました」
「あと三つ、山がありますので、後ほど部屋にお持ちします」
「…………それも今日中ですか?」
「答える必要がありますか?」
「…………鬼」
 ぼそりと呟いた俺を見て、段蔵の目がきらりと光った。ような気がした。
「何か仰いましたか一ヶ月近く仕事をためた主様そのせいで派生した厄介事を寝る間も惜しんで処理した私に対し何か仰りたいことがあるならお聞きしましょう主様」
 句読点を一切つけない段蔵の話し方に、俺は全身冷や汗まみれになった。
「はっは、もちろん鬼のように働いて、部下の献身に報いずばなるまい、と気合をいれたに決まっているではありませんか。さあ、仕事だ仕事ッ!」


「よええ奴」
 ぼそりと呟く岩鶴の声が胸に痛かった……



◆◆


 およそ一月後。
 上洛軍の京滞在は、順調すぎるほど順調であった。
 入京初日の細川軍の暴走以来、一度も兵火は起こっておらず、それは畿内を眺めても同様のことが言えた。
 これは畿内、四国を治める三好家が、ほぼ全面的に軍事的な対外活動を停止させていることによる。
 それは冬の只中であるという季節的な面もあるであろうが、将軍義輝の下に、実質的な武力となる軍隊が控えていることが、大きな要因となっていることは明らかであり、京のみならず、畿内各地でも上洛軍の評判はまずまずであった。なにより、略奪や暴行を行わないという一事だけで、民衆にとっては手を挙げて歓迎すべき理由になるのである。


 もっとも、三好軍が上杉、武田両家の武威に竦んでいると考えるのは浅慮というものであろう。
 上洛軍はたかだか八千。それに対し、三好家は畿内だけで三万近く。四国からの援軍も併せれば、五万に届こうかという動員能力を誇り、当然ながら地の利も有している。鉄砲という新兵器も持っている。
 戦端を開けば、最後に勝つのは三好軍であることは明らかであった。だが、戦えば大きな被害を被ることも確実であり、さらに将軍家の威名をもって三好家の周辺大名に決起を促されでもしたら、厄介なことになる可能性が高い。
 それゆえ、三好家は動こうにも動けなかった。上洛軍という武力を握った義輝が目だった動きを見せていないという警戒もあったであろう。三好家が動くのを待っている、とそう考えたのである。



 
 実際はどうかというと。
 義輝は三好家が軍を動かした場合に備えてはいた。そして、その事態が起こることを期待もしていた。そうなれば、将軍家への謀反として、堂々と三好長慶を討てるのである。三好家の領土は広大だが、それゆえに敵も多い。各地で三好家に敵対する大名に使者をつかわし、彼らを決起させれば、三好家は兵力を分散せざるを得なくなるだろう。
 だが、義輝は、長慶が軽挙妄動しない人物であることも承知していた。仮に長慶が動こうとしても、松永久秀などが制止するであろうことも。
 ゆえに、義輝の狙いは軍事的な動乱を引き起こすことではない。三好家の掣肘のない状態で、将軍家としての政務を行うこと。ただそれだけで十分だったのである。
「他人の兵力を借りねば、まともに政務一つ見ることが出来ぬというのも、情けない話じゃがな」
 久々に会った義輝は、俺や景虎様に向かって、そうぼやきながら、山のような書類の束を次々と片付けていた。


 これまでは三好家に専断されていた京の政治機能の半ばは義輝の手に戻りつつある。
 そこから得た金銭で兵を雇い、自身の武力を蓄える。いずれ上洛軍が帰国するのは確かなのだから、時間を無駄には出来ぬ。
 義輝とその家臣たちは、ここ二月ほどというもの、他の大名に頼らない将軍家独自の権力を少しでも取り戻すため、精力的に駆け回っていたのである。


「して、殿下。此度の御用向きはなんでございましょうか?」
「うむ、実はそちに引き合わせたい者がおってな。景虎が京を留守にしていた時に寺から戻ってきておったのじゃ」
 筆を置いた義輝は、景虎様にそう言うと、控えていた細川藤孝に呼びかける。
「藤孝、あやつを呼んできてくれ」
「かしこまりました」
 藤孝がかしこまって立ち去る。
 将軍家主従の会話を聞いていた景虎様が、義輝に問いを向けた。
「寺と仰いますと、僧籍の方でございますか?」
「うむ。僧籍といえば、僧籍じゃな。余と母を同じくする妹じゃ。存じておろうが、将軍家は、嗣子でない子は跡目争いを起こさぬように寺に入れられる。まあ、そこから還俗する者も少なくないのじゃがな」
「妹様、でございますか。御名前は、なんと仰られるのでしょう?」
「足利……っと、当の本人が来たようじゃな。幽斎」
「御意」
 義輝の呼びかけに従い、細川幽斎が部屋の内側から襖を開く。
 そこには、藤孝に先導された尼僧姿の少女が、恭しく跪いていた。


 足利義秋――僧名を覚慶。
 切れ長の双眸は夜闇の色、見る者を引きずりこむような深みを帯びて瞬いている。
 伸びた鼻筋に形良く整った唇、白皙の頬、とこう並べ立てていくといかにも陳腐な表現ばかりになってしまうが、一言で言えばとても綺麗な人だった。
 ただその性質は、義輝が陽だとすれば、義秋は陰とでも言うべきか、どこかほの暗いものを感じさせるように、俺には思えた。ただ、足利義秋――義昭といえば、将軍家屈指の策謀家というイメージが強いので、それに影響されてしまっているかもしれないのだが。
「覚慶と申す。見知り置いてくだされ、上杉の方」
「長尾景虎と申します。お会いできて嬉しゅうございます」
 互いに挨拶を交わすと、義輝を交えて和やかに話が始まる。
 といっても、もっぱら話すのは義輝、答えるのは景虎様で、義秋は話を向けられない限り、ひっそりと微笑みながら口を閉ざしているだけだった。


 口を閉ざしているといえば、俺も同様である。
 というのも、俺は将軍家から見ると陪臣(部下の部下)にあたり、直接将軍と話をするというのは甚だしい無礼にあたるのだ。よって、景虎様のはるか後ろで黙って佇んでいるしかないのである。
 普段、この位置にいるのは兼続なのだが、今日は愛宕山に詣でているため、俺が代わりを命じられている。そのお陰でまた一人、歴史の主役の顔を見ることが出来たので感謝しなければ。


 話を漏れ聞くに、この義秋様は剣の方での義輝の弟子の一人だそうで、腕も相当なものであるらしい。剣聖将軍のお墨付きとあらば、さぞ大したものなのだろう。当然、学識も優れているそうだから、文武双全というべきか。ちなみに二刀流の使い手らしい。独自に工夫して編み出したそうだが、今では義輝も舌を巻くほどだとか。
 無論というべきか、義輝の剣の腕も凄まじく、景虎様をして「天稟の君」と感嘆せしめるほどである。その義輝に迫る腕を持つ義秋。すごいな、この将軍姉妹。三好家くらい独力で突き崩してしまいそうだ。


 もっとも、性格な方は大分ことなるようで、気さくな義輝と異なり、気位も相当高いようだ。景虎様への呼び方にしても、将軍家の家臣である越後守護の、そのまた家臣――つまるところ陪臣扱いしていることは明らかであった。
 景虎様は定実様に全権を委任されているから、御所や宮中では守護相当の扱いを受けているのだが、義秋にとっては部下の部下に過ぎないようである。


 正直なところを言えば、あまり関わりたくない人物である。
 もっとも、僧籍にあるから、関わろうとしても関われないのだが。
 三好や松永の将軍暗殺が実行されれば、歴史の表舞台に出ることになる人だが、果たしてこの世界ではどうなるのか。
 景虎様を通じて警告を、と考えたこともあるのだが、証拠もなしにそんなことを口にすれば讒言になってしまう。実際、三好長慶や松永久秀がそこまでやるつもりか、いつ実行するのかと問われれば、俺も返答に窮するしかなく、説得力なぞ持ち得ない。
 長慶はともかく、久秀とはそれなりの回数会っているのだが、あんまり梟雄という感じは受けないのである。容姿に欺かれていると言われれば、それまでなのだが。
 くわえていえば、三好家が将軍家に対し、忠義の念を持っていないことは万人の目に明らかであり、義輝とて、彼らの害意はとうに承知しているだろう。それは今回の上洛令を見てもわかる。


 つまりは、俺の口出しは無用、というより有害だという結論に至り、俺は口を噤むことにしたのである。
 下手なことを口にして、畿内の動乱の引き金を引いてしまうことを、何よりも俺は恐れた。出来うれば、上洛軍を損なうことなく、帰路に着きたかったのである。

 
◆◆
 

 およそ一月後。
「ん、それは久秀も同感」
 見ほれるような流暢な動作で、こくっと茶をのんでから、松永久秀は頷いてみせた。
 無論、久秀が同意したのは、暗殺云々のところではなく、上洛軍を損なわずに帰路に着きたいという点である。
 では、なんでそんな話を久秀としているのかというと。
 どうも俺は久秀に目を付けられたらしく、時折茶席に呼ばれるようになった。で、まあこの時代、茶席はある意味で密談場でもあったので、少し突っ込んだ話も出るのである。
 ……招かれた当初は、毒殺されんじゃないかと本気で焦ったのは内緒だ。


「と、いうわけで、さっさと越後に帰ってくれない?」
「はい、わかりました――という権限が私にないのはご存知でしょうに」
「そう? あんたが景虎に言えば、考慮くらいはしてくれそうだけど。将兵に里心がついている、とか理由は色々あるでしょう。畿内の戦に巻き込まれたくないって思うなら、そろそろ潮時だと思うわ」
「巻き込まれたくないと思っているのは事実ですが、だからといって何もせずに帰りたいと願ってるわけでもないですよ」
 何より、景虎様は当面の敵である三好家の勢力を、少なくとも山城からは退けたいと考えているのだ。俺もまたその考えに沿って動くのは当然である。


 もっとも、眼前の少女が微塵も隙を見せてくれないため、それもままならないのだが。
 いっそ謀略でも仕掛けてくれば、と思う。
 こちらから戦を仕掛ける名分になってくれるのだが、当然のように久秀はそれも承知している。
「企んで見抜かれたら、久秀が景虎や虎綱の相手をしないといけなくなるじゃない。久秀、戦で勝ち負けを決めるのは好きじゃないの。戦を仕掛けるなら、完全に勝算が立ってからよ」
「戦わずして勝つ、ですか。それは立派な見識だと思います」
「でしょう? で、今回は動かないことに決めたの。どうせ半年も経たずにあなたたちは帰っちゃうんだもの。誠心誠意おもてなしして、気持ちよく帰ってもらえば、それで良いのよ」
 ――そうすれば、畿内は、再び三好家と久秀の天下となる、というわけか。
 確かにそれは一つの戦略的勝利ではあるのだろうが、気になることもある。
「どうしてそれを私に仰るのです? 上杉の人間に手の内を明かしても良いことは何もないでしょうに」
「景虎や直江には言わないわよ。宇佐美も、茫洋としてるように見えて、少し危ないかな? でも、あんたなら大丈夫でしょう。景虎の天道に染まっていないあんたなら、ね」


 嫣然と微笑まれ、おもわずぞくりとした。
 しかし、そこは気合で顔には出さん。
「さて、何のことです?」
「あら、とぼけちゃって。こうやって久秀と何度も会ってれば、猜疑の目で見られるのも承知してるでしょうに。こりずに招きに応じてる時点で、あんたが上杉家でやろうとしてることはわかっちゃうわ。どうせ、このことだって景虎には言わないのでしょ?」
 挑発するような久秀の言葉に、俺は小さく笑って首を傾げてみせた。
「それはどうでしょうか」


 あら、というように久秀の目がかすかに細まる。
 そうして、久秀が口を開きかけた時だった。
 やや慌てた様子で、久秀の家臣が茶室の戸を叩き、上杉軍からの急使が来たことを告げたのである。
 何事か、と俺は久秀と思わず目を見合わせたのだが、その答えはすぐに急使の口から聞くことが出来た。



 先刻、遠く越後から政景の使者が駆け込んできたという。
 越後で何事が起こったのか、と緊張する俺。使者の顔を見るに、どう考えても吉報ではない。
 果たして、それは凶報であった。
 きわめつけの、と言ってもよいくらいの。


 越後守護職上杉定実様が倒れたのである。
 
  

◆◆



 その頃。
 駿河国善徳寺。
 その一室で静かに向かい合う者たちがいた。この場にいるのは、三家。すなわち――
 甲斐武田家。
 駿河今川家。
 相模北条家。
 いずれも、東国中に名を知られた有力な家であり、その当主たる武田晴信、今川義元、北条氏康は、いずれも文武双全の名将として名高い。
 その三家の大名たちが、一堂に会する。それは本来ならばありえないことであった。盟約を結ぶにしても、何も大名本人が出向く必要はなく、重臣を派遣するのが常であったからだ。
 だが、三者はここまで出向いた。三国同盟の提唱者である今川義元は当然としても、武田、北条の両家がそれを承諾したのは、両家ともに、この盟約がもたらすであろう変化を望んだからであった。


「……まずは、はるばるのお越しに感謝いたしまする、晴信様、氏康様」
 深みのある、人生の年輪を感じさせる落ち着いた声音は、今川軍の大軍師太原雪斎のものである。
 齢すでに五十を越えていながら、その立ち居振る舞いはいささかの乱れもなく、言語は明晰そのものである。今川の軍師として、その名は海道全域に知られている雪斎であるが、白一色となった髪と眉が、この大軍師が歩んできた道のりが、決して平坦なものではなかったことを示していたであろう。
 この三国同盟を武田、北条の両家に持ちかけたのは今川家であったが、それを実現にまでこぎつけた功績は、ひとえに雪斎の手に帰せられることを、この場の諸将は承知していた。。


 その雪斎に、晴信は淡い笑みで答えた。
「どういたしまして、雪斎和尚。しかし、感謝の必要はありません。此度の盟約に我が武田の益を感ずればこそ参じたのです。私にそう確信させるに至った和尚の手腕、実に見事でした」
 その晴信の言葉に、北条家の主も続けて頷いた。


「そうですね。晴信殿の申されるとおりです。この盟約は東国の秩序を一変させるに足るもの、来ないという選択肢を選べる筈もありません。もちろん、それにこぎつけた和尚の誠実も、私がここに足を運んだ大きな理由の一つです」
 関東の雄、北条家当主、北条氏康。
 灯火の明りを受けて輝く黒髪は、まるで黒真珠のような光沢を放ち、氏康の端整な容姿をより一層引き立てる――筈なのだが。
 今、氏康はその髪を肩のあたりでばっさりと切り落とし、無造作に頭の後ろで一つに結わえているだけの格好であった。
 この暴挙(?)が、相模の農民、兵士、老若男女、身分の上下を問わずに「惜しい」とため息をつかせるという被害を発生させていることを、後ろに控える北条綱成は知っている。
 おまけに、自らの容姿に無頓着な氏康は、綱成や近習が注意しなければ、ろくに化粧もせず、衣装も選ばずに政務をとり、家臣に会い、時に城下にまで出て行ってしまう。
 今の氏康は、その黒髪の魅力を半分がた放り捨てている点を除けば、生来の容姿を存分に輝かせているのだが、これとて綱成たちの必死の努力の賜物なのである。


「姉者は、政務好きもほどほどにして、もっと自分のことを心配せねば」
 繰り返される綱成のぼやきに、氏康はぱちりと開いた眼を嬉しげに瞬かせ、次のように答えるのが常だった。
「うん、そうだね。気をつけます。綱成たちに迷惑かけてばっかりではいけませんよね」
「――と姉者がいって、実行された例がないような気がするのは気のせいでしょうか。どうせ政務の時間になれば、何もかも忘れて没頭されてしまうのでしょう?」
「あ、あはは、今回は大丈夫です。多分、きっと」
「はあ……政務に関しては完璧といって差し支えないのに、どうして自分自身のことに関しては、こうもだらしなくなるのか」
「う……いつも感謝してます、綱成」
「そうして、しおらしげにそう言われたら、許さざるをえないではありませんか。まったく、おずるい」
 そう言いつつも、甲斐甲斐しく姉の世話を焼く綱成であった。
 ただ、時折自分の年齢を考えると、ため息が出てしまうが。
(……私、まだ二十歳にもなってないんだけど、なんでこんな所帯じみてるんだろう?)

 

 などという綱成の悩みを、無論、雪斎は知らない。いや、もしかしたら今川家の諜報網で知っているかもしれないが、それを表情には出さない。
 氏康の言葉に、雪斎は丁寧に頭を下げた。
「恐縮でございます」
 そうして、最後に口を開いたのは、その雪斎の主君であり、三国同盟を提唱した今川家当主、今川義元であった。
「ご両所にここまで足労いただいたことは、まこと感謝の極み。この義元、幾重にも礼を申さねばなりませんな」
 三人の中で、ただ一人だけの男性である義元が、口元を扇で隠しながら高らかに笑う。
 男としても大柄な義元と並ぶと、晴信はもちろん、氏康さえ子供のように見えてしまうかもしれない。
 だが、その大柄な体躯から感じるのは、無骨な猛々しさ、騒々しさではなかった。
 義元の仕草一つ一つが、香るような雅に満ち、涼やかな男気を見る者に感じさせる。京文化に耽溺した大名や武士はどこにでもいるものだが、京文化を内に修め、それを体現出来るほどの教養を持つ者は数えるほどしかいまい。
 そして、今川義元は間違いなくその中の一人であった。
 「天下を娶る色男」と自称する義元だが、なるほど、相対してみれば、それはあながち自惚れというわけではない、と晴信も氏康も感じ取っていたのである。



 この時、善徳寺の盟約の場にいたのは、今川家は義元と雪斎、北条家は氏康と綱成、そして武田家は晴信のみだった。
 すでに盟約の詳細は詰められており、あとは互いに誓紙を取り交わせば、三国同盟は成る。
 通常、盟約の締結は、婚姻ないし人質の交換とあわさるものなのだが、雪斎はこの盟約に関しては、あえてそれらを口にしなかった。
 東国に名を知られた大名家の当主たちである。信義を疑うがごとき真似をする必要などないでしょう、というのが雪斎の主張であった。


 無論、これをそのままの意味で受け取るのは人が好すぎるというものであろう。
 晴信が見るところ、雪斎はこの盟約締結における三家それぞれの利益が、当分の間続くことを見越し、あえて人質を用いないようにしたのだと思われた。
 同盟を、誓紙の取り交わしのみをもって為そうという今川家の大度に異議を唱えれば、晴信にせよ、氏康にせよ、義元よりも器の小さいものとみなされる。少なくとも、今川家ではそうとらえ、今後に利用しようとするだろう。
 逆に言えば、人質がいようがいまいが、三国同盟に利益を見るかぎり、盟約を破棄する者がいる筈もなく、また利益がなくなり、盟約の続行に価値なしと判断すれば、人質の有無で行動を左右するような柔弱者は三家にはいない、と雪斎は判断したことになる。


 そんなことを考えながら、晴信は誓紙をとりかわしたのだが、その直後、義元が不思議そうな顔で訊ねてきた。
「しかし、晴信殿。お一人とは大胆ですな、かの六将の一人なりと会えるかと思って楽しみにしておったのだが」
「――それはあてをはずしてしまってすみません。今は皆、手を放せない案件を抱えていまして、この場には私一人で十分と判断したのです」
「たしかに、晴信殿ほどの方だ、そこらの曲者にかなう筈はないか――手を放せぬ案件というと、やはり、信濃制圧の準備ですかな?」
 義元の目が、一瞬光を強めたのを、晴信は視界の端でとらえながら、あっさりと頷いた。
「ええ、間もなく京に向かわせた軍勢を戻します。将軍家仲介の和睦も、そこで終わりますから。この盟約が間に合って良かった」
「なるほどな、そういえば上洛は武田家に先んじられてしまったことになるか。ふはは、東国で一番乗りはわししかおらぬと思うておったのだが、まことに残念だ」
「ふふ、上洛と言っても、三千の軍を、数月、京に置いているだけのこと。京の一城とて支配しているわけではありません。義元殿の上洛がなれば、それこそ真の意味での一番乗りであること、万人の目に明らかでありましょう」
 互いににこやかに話し合っているようにみえて、その端々に刃の気配が入り混じってしまうのは、戦国の雄なる者同士の必然というべきであったかもしれない。


「将軍家直々のご命令とあらば、晴信様が兵を遣わされたは当然のこと。かなうならば、現在の京の情勢、戻られた方から聞かせていただきたいものです」
 穏やかに両者の間に割って入ったのは雪斎であった。
「――そうですね、今川家には当主就任の際から力を借りています。上杉との戦の後でよろしければ、京に遣わした将を駿河に向かわせましょう」
 晴信がそう言うと、雪斎と義元は同時に頷いてみせた。


 すると。
「あの、晴信殿、よろしいでしょうか?」
「なんでしょう、氏康殿。何かお聞きになりたいことでも?」
「はい、越後の長尾家の、いえ、今は上杉家でしたか。かの家について少々お聞きしたく思います。我らこれより関東に踏み込みますが、関東管領が越後を頼る可能性がありますので」
「たしか、現関東管領は、姓こそ同じですが、越後とは仇同士のはずでは? それでもあえて越後を頼ると?」
 晴信の問いに、氏康と綱成は顔を見合わせた。
 次に口を開いたのは綱成の方である。
「たしかに仰るとおりなのですが、関東管領上杉憲政、はっきりいって柔弱にして無能。何をするやらよめないところがあります。たとえ仇にあたる家であろうと、自らの身が危ないと思えば、平気で関東管領の家柄を振りかざして助けを求めるでしょう。かつて、関東管領の処罰とうそぶいて、奇襲同然に我らが本拠にせめてきたように」
 唇をかみ締める綱成を見て、晴信はわずかに考えに沈む。
 そうして、すぐに結論を出した。
「確かに、あまり芳しい噂を聞く方ではありませんね――よろしいでしょう。あるいは越後の兵力を分散させることが出来るかもしれません。さすれば、両家にとって益となりますね」
 その言葉に、氏康と綱成は同時に頷いた。


 越後上杉家にとって、受難の季節が訪れようとしていたのである。






◆◆



 三家が善徳寺を出る時。
 晴信は、今川家の主に問いを向けた。
「ところで……あの者は、駿府でどうしていますか?」
「む、あの者?」
 一瞬、義元が誰のことか、と不思議そうな顔をする。
 すぐに答えたのは、その隣にいた雪斎であった。
「我らの庇護の下、お健やかに過ごされておられまする。かつて鋭かった牙も、駿府の甘露に丸くなっているように見受けます」
「お、信虎殿のことであったか。いや、すまぬすまぬ。雪斎の言うとおり、このごろはすっかり丸くなっておってな。氏真も『武田の翁』と呼んで慕っておるぞ」
 二人の言葉を聞き、晴信はにこりと笑って頷いた。
「そうですか、それは何よりです」
「うむ、今度、家臣の一人でも遣わされよ。以前の信虎殿を知る者が良いな。あまりの変わり様に驚くことであろうよ」
 そういって、呵呵と笑う義元に、晴信はもう一度、小さく呟いた。


「……そうですか」


 その声に秘された感情に、眼前の二人は気づかない。
 あの今川義元と、太原雪斎の洞察力ですら及ばぬほどに、その感情は深く、深く秘されていたからである……





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/25 20:18


 越後守護職上杉定実はお飾りだと言う者がいる。それも少なからず。
 実際、武田との戦や、今回の上洛のように、兵を率いるのは景虎様でなければ政景様であるし、定実様は後方である春日山城から動いていない。それをもって、定実様が形だけの守護だという者がいることは理解できる。
 なぜなら、俺も似たようなことを考えていたからだ。かつて、景虎様と晴景様の内乱が終結した後、はっきりいって、全然意図していなかった現在の越後の三頭体制が出来上がった時、俺は定実様は形式的な首座であり、実際の権力は景虎様と政景様が握ることを予想したものである。


 いや、この予測はある意味で外れてはいない。実戦力は当然のように景虎様と政景様が抱えている。
 しかし、お二人は例えるならば越後という名の車の両輪。しっかりとした車体がなければ、同じ方向に駆けることは難しい。車輪一つでも走ることは出来るだろうが、それでは運べる物も安定感も大違いだ。
 定実様が春日山城にあってこそ、景虎様も、政景様も存分に働くことが出来る。しかも定実様の場合、単なる神輿ではなく、内政でも堅実な手腕を有している。それは、春日山のみならず、越後各地の静穏さを見れば誰の目にも明らかであろう。


 成立したばかりの権力体制だ。今は、民心を安定させ、国人衆から不安を取り除き、国内を安定させるべき時であった。
 そして、定実様はそれを堅実にやってのけた。元々守護という立場があり、景虎様、政景様の武威が背後にあったとはいえ、定実様の内政手腕を否定する要素はどこにもない。
 多分、誰よりもそれを知るのは、景虎さまたちである。だからこそ、お二人は定実様に対して礼を欠くことなく、常に敬意をもって接していたのだろうから。


 たとえば甲斐の武田家などのように、絶対的な主君がいる家からすれば、越後のそれはずいぶん脆いと思われるであろう。
 実際、この奇跡のような権力体制が成立しているのは、定実様、景虎様、政景様の個人的資質に支えられている面が大きく、お三方以外の人間をこの関係にあてはめれば、あっさり瓦解してもおかしくはないのだ。
 だが、現実を見れば、越後上杉家は北陸の地で毅然と存立している。国内を見るかぎり、将来は知らず、当分の間は越後は安泰であろうと俺は勝手に考えていた。
 ゆえに、問題は外の勢力であり、そこさえ何とかすれば、越後の民は平穏に過ごすことが出来る――その筈だった。  


 定実様は四十半ば。景虎様や政景様よりはるかに年を召している計算だが、世間的な基準から見れば、まだ老人と呼ぶ年齢ではない。それゆえ、定実様の後継者に関しては、まだ話しあったことさえなかった。
 定実様に実子がいない以上、本来ならば真っ先に決めておくべき事柄ではあったのだが、何分、内外の情勢が慌しくてそれどころではなかったということもある。
 それに、後継者を定めるとなると、景虎様と政景様……というより、その下にいる者たちが不穏な動きをする可能性が高かった。一応つつがなく越後の新体制は始まっていたが、配下の者たちの胸には不満はたゆたっているだろうからである。
 数年経って、越後の国内が内乱の影響から脱したら、その時あらためて次代の守護職について考える、というのが俺たちの暗黙の了解であった。


 だが、その定実様が倒れた。しかも容態はきわめて重く、ほとんど危篤状態であるという。
 それは京の上杉軍を震撼させるに足る凶報であった。
 守護職が倒れたというだけではない。景虎様が京の地にいる以上、越後の諸事はすべて政景様がつかさどることになる。これは守護代だから当然としても、俺が案じたのは後継者に関してであった。
 定実様のことだから、後継者に関して何かしら指示を残すとは思うが、一度、それが政景様の手に握られてから公示されると、必ずそれに疑義をはさむ連中が出てくるだろう。国人衆からも、そして景虎様の配下からも。
 これまでは定実様という緩衝役がいたればこそ、長尾景虎、長尾政景という卓越した二人の将は無理なく共存することが出来たのだが、今、不可欠の筈のその役割が空位になり、天秤は支えを失って地におちる。
 つまりは――再現だ。かつて晴景様と景虎様が争ったように。今度は景虎様と政景様が争うことになる。
 たとえ二人がそれを望まなかったとしても、配下のおさまりがつかぬ。下手をすれば、国人衆たちの離反すら招きかねない。
 南に武田、東に蘆名、そして西には越中の豪族たちが虎視眈々と越後を狙う中、国内の分裂を招けばどうなるか。それは火を見るより明らかであった。



 上杉、武田両軍帰国す。
 その報は京のみならず畿内を瞬く間に席巻した。
 そして朝廷の公家から、畿内の国人、大名にいたるまで、それはもう山のような引止め要請があった。
 いずれ去ることは理解していても、それが現実となれば受け入れがたい、というところだろうか。
 まあ、中には引きとめを口にしながら、内心にこにこと笑っている茶器集めが趣味の女の子もいたりしたのだが。


 景虎様とて、今少しの間は京にいたかったに違いない。
 だが、主君であり、そして幼少の頃から世話になった恩人ともいうべき定実様が病の床についたと聞いて、京にとどまり続けることは出来なかった。
 ならば景虎様のみ越後へ戻れば良い、とかぬかすあほうな公家もいたらしいが、これは高野山の時とは意味がまったく違う。今回、越後に戻れば、再び京に戻るまで何ヶ月かかるかわからない。下手をすれば年単位になる。その間、上洛軍をずっと京に縛り付けておくなど論外である。
 兵といっても、彼らは親も子もいる人間なのだ。ましてこの時代、自分の国を離れることへの抵抗は、俺には想像も出来ないほど深いだろう。そんな彼らを、すでに半年近く京にとどめ続けている。当然、里心は肥大の一途を辿っており、先の見えない遠征に不満の声も高くなりはじめていた。
 定実様の知らせがなくとも、そろそろ限界だったのである。


 それでも、おそらく将軍である義輝が強く望めば、景虎様はそれに従ったかもしれない。
 だが、ちんまい将軍は実に物の道理をわきまえた人だった。
「むう、そうか。ならば仕方ないのう。もう少し時間があれば、良い土産を渡すことが出来たのじゃが、まあそれは越後に戻ってからでも届けることができるじゃろう」
 そういった後、室町幕府第十三代将軍、足利義輝は威厳を湛えた声で、かしこまる景虎様に告げた。
「長尾景虎。長きに渡る京での奉公、真に大儀であった。誠が翳る戦乱の世にあって、そなたの忠義は、都を、否、日ノ本すべてをあまねく照らしわたしたことであろう。そなたのような臣下を持てたことは、将軍たる身の栄誉というものじゃ。心より礼を言う」
「身に過ぎた賛辞、ま、まことにかたじけなく存じます。この身は京を離れますが、我が忠義は常に殿下のもとにございます。東国の戦を終わらせました後、必ずや殿下の力となるべく、この京の地に戻って参りますゆえ、どうかそれまで、お健やかにあられますよう、この景虎、伏してお願い申し上げまする」
「うむ、よう言うてくれた。じゃが――」
「は?」
「じゃが、それだと余がいかにも無能な将軍のようでおもしろうないのう。景虎が戻ってくる折には、畿内ことごとく斬り従えた上で、近江路まで出迎えてやらずばなるまい」
 義輝は楽しげに笑うと、なんでもないことのように付け加えた。
「――ゆえに、そちも上洛を焦る必要はないぞ。じっくりと越後に腰をすえ、周辺を斬り従え、万全の準備を整えてからやってきてくれい。東を従えたそなたと、中央を治める余が力を合わせれば、この日ノ本の戦乱、半ばは終わったようなものであろう」
「――御意。お言葉、肝に銘じて忘れませぬ」
「うむ。では景虎、達者でな。いずれまた会おうぞ」
「ははッ!」
 深々と平伏する景虎様と、それにならう俺。


 これで謁見は終了、と思われた時。
「おお、そうじゃ、颯馬」
「……………………は?」
 突然の義輝の呼びかけに、俺はしばし固まってしまった。
 いきなり名をよばれたこともそうだし、どうして俺の名を知っているのかという疑問もあった。そして何の用件があったのかも気になる。そういったもの全てふくめての「は?」であった。
 無論、すぐに無礼に気付いて謝罪したが。
「――ッ、し、失礼しました。何でございましょうか?!」
「うむ、やっと話せたのう。幽斎や藤孝から上洛路における活躍は聞いておるぞ。その話を聞くのを楽しみにしておったのじゃが、そちはほとんど御所に来ぬので、機会がなくてなあ」
「お、恐れ入ります。儀礼などとんと心得ぬ無学者でありまして」
「にしては、それなりに様になっておるではないか。誰ぞに習ったのか?」
「………………はい」
 間が空いたのは、高野山から帰った後の、兼続の虐め――もとい特訓を思い出したからである。
 ちょうど良い機会だから、と口では言っていたが、俺がしくじる度に痛烈な一撃や一言が飛んでくるあたり、絶対に何か別の意図があったにちがいない。なんか既視感を感じたのはきっと気のせいだ、うん。


 ともあれ、主役としてはともかく、景虎様の添え物としてならば、かろうじて格好がつく程度にはなった。まあそれだって見る者が見れば、ぎこちなさ丸出しなのだが。
「以前、一度機会はあったのだが、あの時は義秋がおったからのう。あれであやつ、儀礼だの身分の上下などにはうるさいのでな。そちと話すことができなんだ。此度はもう無理じゃが、次に上洛してきた時には色々と話を聞かせてくれい。そなた、なかなかの策士だと聞いておる。楽しみにしておるぞ」
「は、ははッ! かしこまりましてございます」
 そう言って深々と頭を下げる俺。
 からりとした笑いを浮かべる義輝が、なぜだかつい先刻よりも近くに見えた気がした。



 ……もっとも、この約束はついに果たされることなく終わるのだが。



◆◆



 上杉軍が去るからといって、武田軍が去る必要はない。
 だが、武田軍は三千。あえて京に留まったところで、これまでのような抑止力は期待できない。
 そう判断した春日虎綱は、自軍も退却の命令を下し、かくて、上洛軍八千は慌しく京を離れることになる。
 それに伴う影響は様々な方面に及び、少なからず混乱を起こしたが、これはどうしようもなかった。
 ただ、それにも関わらず、京を離れるとき、どこから現れたのか、何千という民衆が道の両端に並び、涙ながらに惜別の声を送ってくれたのは、将と兵とを問わず、上洛軍全員にとって何よりの栄誉というべきであったろう。



 問題は帰路にあった。
 来た道を辿ることが出来ればよかったのだが、この時期、大聖寺の戦いの余波は加賀全土に及んでおり、その真っ只中を通り抜けることは危険を通り越して無謀というべきであった。戦に巻き込まれるかもしれないということと、もう一つ、晴貞のことがある。
 すでに両軍は加賀の地で幾度も激突を繰り返しており、そのほとんどは朝倉軍の勝利に終わっていた。実のところ、晴貞の居城である小松城も宗滴によってとっくの昔に陥とされている。すでに加賀の南半は朝倉家の領土となっているため、元の家臣たちが晴貞の帰還を要請してくることはないだろう。
 だが、一向宗側が、名分欲しさに晴貞の身柄を要求しないという保証はない。そして、それは朝倉家にしても同様であった。
 名のみの存在であるとはいえ、加賀守護である晴貞の存在は、加賀支配を目論む者たちにとっては無視できない要素となるのである。


 とはいえ、それはある程度わかっていたこと。
 帰国が近づいたら、晴貞の意思を確認した上で偽りの病死の報告でも届けようと思っていた。戦死ならともかく、病死ならば文句のつけようもないだろうし、つけられたところでしらを切れば良い。それに向こうにしたところで、晴貞が亡くなれば、新たな守護を立てることも出来るのだから、さほど深く追求はするまい。
 が、前述したように小松城はすでに陥落し、帰国もかなり慌しく決まったため、そこらへんが全く手付かずのままなのである。
 一応、虎綱に確認したところ、京にいる間、加賀からの使者は一切やってこなかったそうだから、まず問題はないと思うが、それでも出来れば加賀は通りたくないというのが本音である。件の連中が、私怨で襲い掛かってこないものでもないしな。


 北陸路を通らないとなると、後は美濃から信濃ないしは飛騨を通って越中に出る、くらいしかないのだが、実は美濃も現在、かなり雲行きが怪しくなっている。美濃も、というよりは東海地方全体が、というべきであろうか。
 今川家の動きが、かつてないほどに活発になりつつある、というのが久秀が教えてくれた情報である。義元が動くということは、後顧の憂いがなくなったということ。あるいはその目処が立ったということ。それはつまり三国同盟の締結が現実となりつつあるのであり、それは必然的に武田の北進が本格化することを意味する。そのあたりの警告の意味で、わざわざ俺に教えてくれたのだろう。まあ、いつもの「さっさとかえれ」が品をかえたにすぎない。
 ともあれ、その情報は色々な意味で見過ごせない。いよいよ今川義元の上洛が近づいているのだとすれば、その進路にあたる尾張、美濃の勢力は、神経を尖らせているだろう。そこに今川の同盟国である武田家と、その共同軍である上杉家が、道を貸してくれなどと言ったところで、美濃の蝮は頷くまい。

 
 であれば、後はもう海路しかない。
 若狭から越中までは航路があるため、加賀を通らずに済むのである。ならなんで行きはこれにしなかったのかといえば、上洛があまりに急に決まった為、船の準備が間に合わなかったのである。冬の日本海を大軍で渡ることへの危惧もあった。
 将軍家の協力もあって、若狭の一色家、越前の朝倉家の協力は得られることになっている。あとは周辺の漁村から舟をかき集めて必要数を確保し、越中まで、可能であれば越後まで戻る。舟の数が足りなければ、軍を分ければ良いだろう。俺はそう考えていた。正直、軍を分けるのはしたくないが、今の状況ではやむをえない。


 だが、これは杞憂に終わった。朝倉家、というよりも多分これは宗滴の計らいなのだろうが、帰途についた俺たちが港まで来たとき、そこにはえらい数の軍船が浮かんでいたのである。
 聞けば、将軍家からの使者が一乗谷を訪れ、上洛軍への協力を命じた際、面倒がった義景と景鏡が、また宗滴に押し付けたらしい。加賀の戦場を任せている相手にさらなる重荷を押し付ける。実にあほうな、しかし今回に限って言えば良い仕事だ、その二人。下手にお前らにやる気を出された日には、この眼前の光景はなかっただろう。
 というのも、加賀から離れることが出来なかった宗滴は、一計を案じ、丹後水軍に協力を要請してくれたのである。
 越中までの航路があることからもわかるとおり、若狭は、西は山陰から東は東北に到る日本海交易の一大拠点であった。莫大な利益を生むこの海運を支える一つの力が水軍――露骨に言えば海賊である。
 一口に海賊といっても、他船舶を攻撃し、略奪をことにする者ばかりではない。武装した舟をもって航路を守り、通行料を徴収する海の大名ともいうべき者たちがおり、丹後水軍はそういった勢力の一つであった。まあ、従わない船や、通行料を払わない船には相応の報いを与えるので、やっぱり海賊には違いないのだが。


 ともあれ、宗滴は彼らを動かし、必要量の船を確保してくれたのである。当然、相応の金銭を要求されたが、偉大なるは佐渡の金、かろうじて足りた。というか、これで底を尽きた。後はもう、何も厄介事が起きないよう祈るばかりである。








 大地を照らす陽光はすでに春のぬくもりを満々と湛え、遠く飛騨の高山から心地良い涼風が吹きつけてくる。出立したときは秋深い季節であった筈なのに、と俺はどこか懐かしい気分であたりの景色を見渡し、そして、この景色を懐かしいと思っている自分にわずかに驚いた。
 だが、あるいはそれも当然のことかもしれない。まもなく季節は春から夏へと変わりゆく。それはすなわち、俺がこの地にきて、もうじき一年が経とうとしていることを意味する。
 越後から京へ向かって、おおよそ半年。
 俺たちは、越後の地に帰って来たのである。




◆◆




 越後への帰国。
 それは同時に一つの別れを意味した。それはただの別れではない。次に会うときは敵同士、殺し合いを演じることになるであろう哀しい別れであった――のだが。


「まあ、元々わかりきっていたことなわけだし、ここはからっと別れるべきではないかと」
「……ふふ、何となく、そう仰るのでは、と思っていました」
 俺の言葉に、虎綱は寂しげに、しかしどこか吹っ切ったように微笑む。
 予想外に良好な関係を築けたとはいえ、虎綱は武田家が誇る六将の一。上杉と武田が敵対する限り、遠からず戦場でぶつかり合わねばならない間柄である。
 無論、虎綱とてそれは承知しているだろう。昨日の敵は今日の友、しかしてその友も明日になれば敵に変ずるのが乱世の理、今さらそれを虎綱に説くほど俺は厚顔ではなかった。
 ただし、だからといってその敵を憎まねばならない道理はない。この上洛での縁が、いずれ上杉と武田を結ぶ絆となる可能性とてないわけではない。
 というより、この時点で、俺はそれを利用するつもり満々であった。誰にも口にはしなかったが。


「私が言うまでもないと思いますが、どうか御身体にお気をつけて。そして、晴貞様のこと、よろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます。天城殿こそ、御身体に気をつけてくださいね。今の天城殿なら、もう京でのようなことはしないとは思いますが、今度晴貞様を泣かせたら、多分私の部下、越後まで行っちゃいますからね?」
「微笑みながら怖いこと言わないでください……」
 春日冨樫ファンクラブの皆さんが、少し離れたところから、物凄い良い笑顔で俺と虎綱を見守っている。なんか今にも親指向けてきそうな感じだ。その表情は一言でいうと「あばよ!」という感じだろうか。
 無論、俺と彼らの間でいつのまにか友情が育まれていたわけではない。単に俺が、虎綱と晴貞の二人と会えなくなるのが嬉しくて仕方ないのだと思われた。
 今、こうして話しているのを見守っているのは、彼ら的には武士の情けなのだろう。末期の酒みたいな感じで、最後だから許してやろうという感情がありありだった。
 ふん、いずれその勝ち誇った笑みを打ち砕いてやろう。三国同盟の先にある出来事を知る俺だからこそ紡げる未来があるのだふんざまあみろやーいやーい――と、目線だけで伝えてやった。



 結局、晴貞様は武田家に身を寄せることになった。
 景虎様は、晴貞様が望むなら上杉家で匿えるように計らってくれるといってくれたのだが、虎綱と晴貞自身が武田家を選んだのならば、あえてこちらがそれに反対することは出来ないし、またその必要もない。
 越後と甲斐、どちらが加賀に近いのか。それを考えれば、晴貞がどちらにいた方が良いか、答えはすぐに出るのである。
「天城様、本当に、本当にありがとうございました」
 そう言って深々と頭を下げる晴貞。もう礼は言ってもらったから、と何度も言っているのだが、なかなか聞き入れてくれない。これだけ率直に感謝の感情を向けられると照れくさくて仕方ないのだ。
 結果、やや無愛想な返事になってしまった。
「ん、晴貞様もお元気で」
「はい、天城様も、どうかご壮健で。またお会いできる日を楽しみにしておりますッ」
 すでに上杉家と武田家の敵対関係を、晴貞は知っている。その上で笑顔でそう言うのは、多分、晴貞なりの気遣いであり、希望の表明なのだと思われた。
 言霊、という言葉がある。口から発された言葉には霊力が宿る。ならば、再会を約束すれば、それは現実となる――少なくとも、それを導く一助にはなってくれる筈、そう考えたのかもしれない。
 ならば、答えなど考えるまでもない。
「はい、私も楽しみにしております」
 俺の答えに、晴貞は花開くような笑みを浮かべたのであった。




 かくて、武田軍は、一部の上杉軍に先導されて南へと去っていった。上杉軍がついていったのは、北信濃で村上家ともめないようにである。ここまできて、最後の最後でしくじっては意味がない。
 そうして、俺は最後の仕事にとりかかる。
 はじめて越後にやってきた者たちに住居をあてがうという仕事を。





 一に一を足せば二になる。当然である。
 二に二を足せば四になる。これも当然である。
 四に四を――って、さすがにしつこいか。ともあれ、数字を足せば解が出る。
 しかし、である。
 子供であると、そうはいかない。四に四を足すと、何故か騒がしさが二十くらいになった。


 はじめこそ互いに遠慮というか、警戒というか、ともかく様子を見ていた子供たちであったが、打ち解けてみれば、最初のぎこちなさは嘘のように綺麗さっぱり消え去っていた。
 ここは越後春日山城郊外の村の一角にある弥太郎の家である。
 そこに、京から連れてきた岩鶴たちを連れて行ったのは、岩鶴の弟妹たちの面倒を見てもらうためであった。
 はじめは城で面倒を見るつもりだった。「よかったら来ないか」と誘ったのは俺だから当然である。と思ったら、なんでも景虎様が先に誘っていたそうだが、いずれにせよ幼子たちを越後まで連れてきた以上、相応の義務が発生するのは当然である。
 だが、彼らと仲良くなった弥太郎が家に連れて行きたいと言い出したのだ。
 曰く、子供には親がいた方が良い、と。
 それは反論の余地のない意見であった。城で面倒を見れば、衣食住には不自由しないが、常に面倒を見てくれる人がいるわけではない。もちろん、下働きの人や、侍女の人たちはいるが、彼女らとて働いている身であり、いつも面倒をみてくれるわけではない。


 岩鶴は、当然自分で面倒を見るつもりではあるのだが、岩鶴とてまだまだ子供である。それに、岩鶴本人は景虎様にとても憧れているようで、多分、その下で働きたいと願うだろうと俺は考えていた。
 なにせ景虎様の前に出ると、顔を真っ赤にして、普段の乱暴な口調が嘘のように、必死に丁寧に話し始めるのだから、わかりやすいことこの上ない。
 景虎様も岩鶴の利発さや優しさは気に入っているようだから、岩鶴が望めば否とは言わないだろう。
 だが、当然そうなれば、時間のほとんどはそちらにとられる。弟妹たちの面倒を見ている暇はなくなってしまうに違いない。


 というわけで、弥太郎の提案は渡りに舟だったのだが、いきなり四人の子供を連れて行けば、弥太郎の家に迷惑がかかる。俺も、そして岩鶴もその点を気にしたのだが――
「なーにをいってるんです。こんな可愛い子らが家族にふえて、迷惑に思う筈ないですよっ」
 弥太郎の母上は、呵呵大笑するとばんばんと俺の背を叩いた。日ごろの農作業と子育てで鍛えたであろうふとい(失礼)二の腕に叩かれ、危うく俺は前につんのめりそうになった。きっと、弥太郎はこの母上の剛力を受け継いだのだろう。間違いない。
「か、母ちゃん、し、失礼だよ、天城様だよ颯馬様だよ叩いちゃ駄目だよ!」
 俺が家までついていくと聞いて、弥太郎は必死に拒否していたのだが、さすがにこれは人任せには出来ない。俺の口から頼むのが筋というものだ。そう言って半ば無理やりついてきたのである。
 弥太郎は、それまで一言も口を聞かずに顔を真っ赤にして俯いていた。聞けば、粗末な我が家を俺に見られたくなかったのだとか。んなもん気にする必要は欠片もないのだが。
 見ているだけで暖かい笑みが浮かぶ最高の家ではないか。


 弥太郎の父上も快諾してくれた。陽気な母上とは対照的に物静かな方だったが、子供たちを見る目はとても優しく、一目で信頼に足る方だと確信できた。まあ弥太郎を育てたご両親なのだ、そんなことは今さら言うまでもないことではあった。
 で、子供たちがくんずほぐれつ、壮絶な寝相で静かになった後。
 俺はそのご両親に深々と頭を下げられてしまった。明らかに立場が逆だった。


「あ、いや、頭を下げるのはこちらの方ですから、どうか顔をあげてください」
「何をおっしゃいますか。うちの娘がこれまで生き伸びてこられたのも、おそれおおくもお侍の下の下の方に席をいただけたのも、皆、天城様のお陰。戦の度にあの子が持ってくるお金のおかげで、どれだけ私たちが救われたか、とてもとても言葉にはできません」
「……そのとおりです。うちだけではない。皆、そう申しております」
 母上に続き、父上までそんなことを仰った。
 皆、というのは、このあたりに俺の直属の家臣がいるからである。柿崎戦の際、顔見知りの方がやりやすいだろうと知り合い同士で隊を組ませたので、結構、皆、家が近いらしい。
「それは弥太郎たちが命がけで戦ったからこそ。別に私のお陰というわけでは……」
「いいえ、この前、隣村の知り合いに聞きましたよ。普通の兵隊さんは、そんな大金もらってないって。士分にとりたててもらったにしても、法外だってえらく羨ましがられてしまいました」
「弥太郎はそれだけの働きをしてくれています。こちらの方こそ、その、娘さんに……」
 人殺しをさせて、と口にしかけて、慌てて止める。そのあたりのことに関して、俺とこの人たちとの認識はかなりずれているだろう。それに、俺はそれを承知した上で弥太郎を戦わせているのだ。ここでそれを口に出して得をするのは『謝罪はした』という免罪符を得て、罪悪感が和らぐ俺だけである。さすがにそんなみっともない真似はしたくなかった。


 私が、いえいえ私が、みたいなやりとりを何度か繰り返した挙句、根負けしたのは俺の方だった。素直に感謝を受け取り、頭を下げる。駄目だ、この母上、いろんな意味で勝てる気がしない。
 などと思っていたら。
「――ところで、一つお聞きしたいのですが」
「なんでしょう?」
「あの、奥様はいらっしゃるのでしょうか?」
 ぶふ、と隣で弥太郎が飲んでた水を吹いた。
 そちらを気にしつつ、一応、母上にこたえる。
「いえ、いませんが」
 その瞬間、目の前の母上の目に、なんか星みたいなのが煌いた気がした。
「あの、それでしたら、うちの――」
「わあわあわあッ!!! 母ちゃん、何いいだす気ッ?!」
「これ、子供らが起きてしまうでしょう、もうちょっと声を低めなさい――なにって、天城様におまえをもらって――」
「やっぱり言わないでいいッ! ていうか言うな!」
「まあ!」
 と、驚いたように口に手をあてる母上。多分、娘が「言うな!」なんて言ったことに驚いたのだろう。というより、俺が驚いた。普段の弥太郎なら、母親に向かって口にするような言葉ではないのだが、どうしたのだろう。


 一方、母上はそんなこちらの困惑に気付かず、なにやら嬉しそうに夫に向かって話しかける。
「言うな、ということはとうとう覚悟を決めたのね。あんた、とうとうあの子、自分の口から言う気になったみたいですよ。まったく、いつも家では頬を染めて褒めちぎっているのに、お慕いしているの一言さえ言っていないなんて歯がゆい子ね、なんて思ってましたが、やっぱり子供は成長していくものなんですね」
「……父親としては少々複雑だが。めでたい」
「わーーーー、何さらりと言ってるだ、母ちゃんッ?!! あと父ちゃんも嫁入り前の娘見るみたいな寂しげな目はやめてッ?!」
「安心おし。うちは知ってのとおり裕福じゃないけど、親戚縁者はたんといる。あんたの嫁入りに恥をかかせたりはしないから」
「……む。ただ、武家の作法がわからん」
「あ、そういえばそうだね。やっぱりあんたとあたしの時みたいなわけにはいかないんだろうねえ……ああ、そうそう、たしか柏崎の平六が手柄たてて足軽頭になった後、武士の娘さん娶ったって言ってたね。どんなもんだったか聞いてみよう」
「……だが、天城様は越後に知らぬ者とてない御方。足軽頭の婚儀で参考になるかどうか。そもそも今は士分とはいえ、農民の娘を正室に迎えてくれというのは、虫が良すぎるだろう」
「んー、そうだねえ。まあ弥太郎は正室でも側室でも気にしないだろうけど、やっぱり景虎様の許可とかもいるんだろうねえ。そのへんどうなんだい、弥太郎?」
 母親に問いを向けられた弥太郎だったが、多分答えるのは無理だろう。なにせ顔から首から耳から真っ赤なのだから。穴があったら入りたい、ないなら自分で作っちゃる、と言わんばかりである。


 さすがに弥太郎が気の毒になり、俺は頬をかきながら口を開く。
「あー、その。お話はありがたいんですが……」
「あ、ありがッ?!」
 弥太郎の頭から湯気が立ち上った、ような気がした。
 あ、まず。もしやとどめさしてしまったか? とはいえ、言うべきことは言っておこう。このままだと、一ヶ月後くらいに祝言あげてる未来が確定してしまう。
「近く、越後は大きな戦に巻き込まれます」
「なるほど、だから早めにお世継ぎがほしいと。そこに目をつけるとはさすがは私の子」
 いえ違います、母上。
「あ、いえ、そうではなく、それゆえしばらくは婚儀とかそういったことに割く時間がないのです」
「はいはい、大丈夫です。うちの子はみてのとおり身体だけは立派なもんです。すこしの時間ですぐに子を宿してくれるでしょうよ」
 だから違いますって、母上。あとさっきから黙ってる岩鶴の顔が、弥太郎におとらず真っ赤になってますから、表現にきをつけて。
「ですから、このお話はもう少し時間が経ってから――」
「わかりました」
「えッ?!」
 思わず驚いてしまった。今までの流れでわかってくれたのか。
「確かにもう夜も遅いですし……婚儀の詳細はまた明日、あらためてということで」
 がくっと崩れ落ちる俺。その俺の耳に、ぶち、と何かが切れた音がした。多分これは、堪忍袋とかそういった類だ。無論、俺のではない。それは――


「……い」
「い? どうしたんだい、弥太郎?」
「いいかげんにして、ばかあちゃんッ!!!」
「まあ、親に向かってばかとはなんですか」
「ばかはばかだもんッ! ばかああッ!!」
 そう言って、すばらしい勢いで外に飛び出していく弥太郎。
「これ弥太郎、こんな時間に外に出ると風邪を引きますよ、もどってらっしゃい」
 そしてあくまで平静を崩さないまま、草鞋をはいてそれを追う母上。


 そして残される俺たち。
 どうしたものか、と考えるが、やはり弥太郎を追うべきだろう。春日山周辺に盗賊が出るとも思えないし、かりに出たとしても弥太郎なら滅多なことはないだろうが、それでも万一ということもある。
 そう思って俺が立ち上がろうとする寸前、弥太郎の父上が手をあげて俺を制した。
「どうされました?」
「……四半刻ばかり、近くの野山をかけまわれば戻ってくるでしょう。天城様が追われるまでもありません」
「は、はあ……あの、こんなことがしょっちゅう?」
「……娘があなたさまにお仕えする前は、日常茶飯事でした」
 ……なんだか、色々と弥太郎の少女離れした力の源がわかった一日だった。



「な、なあ、颯馬」
 この時、はじめて岩鶴が口を開いた。まだ少々顔が赤かったが。
「どうした?」
「あのさ、俺たち、もしかしてみんな弥太郎みたいに強くなれるのか、ここにいると」
「……無理だ、と断言できないところがおそろしい」
 もしそうだとしたら、稀有な人材である。景虎様にお願いして、なんとしても召抱えてもらわねばなるまい。半ば本気でそんなことを考えながら、俺はやっぱり弥太郎を迎えに出るために立ち上がるのだった。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/26 13:45


 越後守護職、上杉定実様が亡くなられたのは、上洛軍が京を発つ前のことであった。
 後から聞いた話によれば、最初に定実様が体調を崩されたのが昨年の初冬のこと。
 つまり、上洛軍が出立してから、間もなくのことであった。気分が優れぬといって床に就いた定実様は、数日、止まぬ咳に苦しんだ。はじめはただの風邪かと思われたのだが、十日経っても直らず、半月経つ頃には高熱が発生した。やがて、その咳に血が混ざるに至って、定実様が何らかの病に犯されていると判断した政景様は、上洛軍を率いる景虎様に知らせようとした。
 だが、この時点で、まだ定実様は意識があり、景虎様に使者を遣わすことを断固として許さなかったという。
「今、知らせれば、あの律義者のこと、必ず帰ってきてしまう」というのがその理由であった。
 主君に強く言われては、政景様としても強いて使者を出すわけにもいかない。
 それに、定実様の容態も大分回復しつつあるように見えたので、その点も思いとどまった一因であったらしい。


 実際、この後ほどなくして定実様は床を払い、政務に復帰する。
 だが、あるいは、この時の床払いが早すぎたのかもしれない。定実様の病は完全には癒えておらず、時折、咳き込んでは少量の血を吐くようになった。
 もっとも、これは政景様も後から奥方に聞いたことで、この時、それを知っていたのは当の定実様だけであったそうだ。おおよそ二ヵ月後、偶然そのことを知った定実様の奥方も、定実様を問い詰めて聞くまで、まったく気づいていなかったそうである。
 それほどまでに定実様が病に犯されたことを秘しておられたことには、無論理由がある。
 越後は、ただでさえ景虎様と五千の兵が不在なのだ。この上当主が病に倒れたと知られれば、またも他勢力が妄動を始めるだろう。越後守護職として、再び国内が兵火に包まれてしまう事態を、定実様は何よりも恐れたのであろう。


 しかし、無理をすれば、病魔の進行を早めてしまうのは必然であった。
 ある日、春日山城で政景様ら重臣たちと政事について話し合っていた定実は、不意に咳き込み始めたと思った途端、目の前の畳が朱に染まるほどの大量の血を吐き、倒れたのである。
 奥方から話を聞いた政景様は、顔面を蒼白にしつつも、素早く必要な手筈を整え、一方で京へ急使を出した。
 これが、京に急使が来るまでの流れである。





 血を吐いて倒れられた定実様は、意識を取り戻すことなく、二日後に亡くなられたそうだ。
 つまり、急使が京に着いた段階で、もうすでに身罷られていたのである。
 帰途、それを知らされた景虎様の落胆は相当に深いものであったが、それでも軍将として、気落ちした面を将兵に欠片も見せないあたりは流石と言えた。
 もちろん、俺にとっても定実様は主君である。接点が少なかったので、あまり話をかわしたことはなかったが、それでも穏やかで誠実な人柄には敬愛の念を抱いていたから、寂寞の思いは拭えなかった。俺と政景様の言い合いを、苦笑しつつなだめてくれた定実様の顔を思い起こし、俺は一人、弔いの杯を掲げたのである。


 しかし、嘆いてばかりはいられない。今後の越後を考える上で、定実様の存在がどれだけ重要であったかは言を俟たない(またない)。その定実様が亡くなられたのだ。越後を兵火の巷にしないためにも、行動は素早く、的確に、なおかつ慎重に行わねばならない。俺は緊張しつつ、そう考えていた。
 すでに定実様の御身体は寺に葬られ、その死は越後全土に知れ渡っている。これは倒れた状況が状況であった為、秘す暇もなく瞬く間に情報が伝わってしまったからである。これはいたし方ないことであったろう。
 問題は葬儀の喪主を誰が務めるかにあった。
 喪主を務めること、それすなわち次代の越後政権の首座に座る者である。これはすべての人々の共通の認識であった。
 政景様が野心家であれば、景虎様が越後につかないうちにさっさと葬儀を行ってしまっただろう。だが、政景様は景虎様の帰還を待って、喪主を決めることを明言し、実際そのとおりにしてしまった。おそらく、否、間違いなく配下や、政景様に近しい国人衆からは猛烈な反対があったであろうが、政景様は彼らに対し、ついに首を縦に振らなかったのである。


 これを聞いた俺は、多少、安堵した。
 政景様が野心にのまれ、独断で葬儀を終わらせて、強引に越後の主権を握るかもしれないという予測を、俺はわずかだが抱いていたのである。後でそう言ったら蹴られたが。
 ともあれ、少なくとも政景様が景虎様ぬきで事を決しようとしていないという事実は、内乱を恐れていた俺には朗報であった。
 二人が協調できるのであれば、越後守護長尾政景、守護代長尾景虎あるいはその逆でもかまわない。景虎様自身は、政景様の下につくことに不満を持つことはないだろうから、これは案外、あっさりと片がつくかも、などと俺は考えていたのである。


 ……甘かった。めちゃめちゃ甘かった。
 帰着してすぐに行われた春日山城での喪主決定の話し合いは、大荒れに荒れたのである。まさしく竜虎相打つ。景虎様と政景様は、互いに一歩も引かず、周囲の家臣(俺含む)たちは口をはさむことも出来ず、ただおろおろするしかなかった。
 結局、二刻ばかり続いた話し合いでも決着はつかず、景虎様はめずらしく憮然とした表情を隠さずに毘沙門堂に篭ってしまい、別件で会いにいった俺を歓迎してくれた政景様も、この件に関しては取り付く島もない有様。
 どうしたもんかと頭を抱えていると、何故だか他の人たちが俺に仲裁を頼んでくる。無理ですと言っても聞いてくれん。ここは天城殿に出ていただくしか、などとおためごかしを言ってくるが、その内心は明らかだった。誰も今の二人の間には立ちたくないのである。当然、俺もだ。
 これが一人二人なら適当にあしらっていればよかったが、なにしろひきもきらずにやってくる。さすがに俺も根を上げた。


 弥太郎の家に行ったのは、もちろん俺の口から岩鶴たちのことをきちんと頼みたかったというのもあるのだが、それ以外に城内にいたくなかったという事情もあったりするのである。



◆◆



「なるほど、それで今日はこちらに逃げていらした、と?」
「否定はしませんが、上洛の間の働きに礼を言うため、というのが主な理由です」
 軒猿の里を訪れた俺は、なにやら呆れたような顔の長にそう言って、持ってきた金を渡す。
 ちなみに、これを城の庫から出す許可をもらうために政景様に会いに行ったのである。俺の顔を見た政景様は、ついさきほどの荒れた様子が嘘のように上洛の苦労をねぎらってくれたし、軒猿の里に持っていく金に関しては俺の裁量で、と言ってくれた。
 だが、やはり先刻の話し合いに触れると、たちまち眉間に雷雲が発生してしまう。俺は慌てて逃げ出さざるをえなかったのである。


 そんなことを思い出していると、長は俺が持ってきた金を確認し、軽く頭を振った。 
「……また法外な。天城殿、気前が良いのは結構なことですが、人は慣れるものでござる。あまりいつもいつも大金をばらまいていると、配下はそれを当たり前と思うようになってしまいますぞ」
「軒猿の情報がなければ、事を処すことさえおぼつかなかった例はいくらもあります。それは今回の上洛に限った話ではありませんので、これは過大ではなく、至当な額だと思っていますよ」
「――ふむ」
 長は俺の顔をじっと見る。一瞬、こちらが怯んでしまいそうなほどに真剣なものだった。
 何事かと首を傾げたが、結局、長はそれ以上、このことでは何も口にしなかった。


「段蔵」
「は」
「……ようやってくれておるようじゃな」
 長の言葉に、段蔵は深々と頭を下げる。
 それを見て、長は不意に何事かに気付いたような顔をした。
「む、髪を伸ばしておるのか?」
 そう言われて、俺は反射的に頭を下げている段蔵に目を向ける。
 出会ったときは耳の後ろあたりでばっさりと切られていた髪は、たしかに今は首のあたりまで伸びていた。
 といっても、適当に伸ばしているというわけではなく、きちんと髪先をそろえているあたり、段蔵なりに思うところがあってやっていることなのだろう。
 答える前に、一拍の間を置いてから、段蔵の口が開かれる。
「……切るに足る任務がありませんでしたので」
 忍として活動する場合、長い髪は邪魔になる。髪留めなり頭巾なり使うにしても、それは余分な重さとなり、一瞬の隙が死に直結しかねない忍にとっては邪魔以外の何物でもなかった。
 それゆえ、これまで段蔵は基本的に髪を短くしていたのだが、俺に仕えてからこの方、そういった影で動くような任務はほとんどなかったので、わざわざ髪を切る必要がなかった、とそう段蔵は言うのである。


 確かに、俺に馬術を教えてくれたり、弥太郎に文字を教えてくれたり、あるいは各地に放った軒猿の動きを統括してくれたりといったことで、髪を切る必要はあるまい。段蔵のことだから、必要もないのにわざわざ切る手間をかける時間がもったいないということなのだろう。
 俺はそう納得したのだが、何故だか長は一瞬笑いをこらえる表情になった。すぐに元に戻ったが。
「さてさて、軒猿屈指の使い手に、忍働きをさせぬとは、天城殿も酔狂なことですな」
「そう、でしょうか? たしかに段蔵には忍として働いてもらうのが、本領を発揮できるという意味で段蔵にとっても良いのかもしれませんが」
 俺は申し訳なく思いつつ、正直なところを言う。
「今、段蔵に傍からいなくなられると、他のことが軒並み止まってしまうんですよね。むしろそちらの方が困ってしまうので」
 忍として必要だったからなのだろうが、段蔵は基本的にあらゆることに精通しているので、諸事、危うげなく片付けてしまうのである。
 おまけに前述したように技量を授けてもらっている身でもある。忍として外に出すなんてもったいない、というのが本音であった。


 とはいえ、それは明らかに俺に仕える主旨から外れているというのなら、やはり考え直した方が良いのだろう。これまで段蔵はそういった不満や意見を口にすることはなかったから、俺はそれに甘えていた面は確かにあるのである。
 だが。
「なに、問題などありませぬよ。忍が影にいなければならぬという道理もなし。お傍でお役に立てるなら、何なりと用いてくだされ。段蔵とて、それに否やを唱えたりはいたしませぬ。のう?」
 長の言葉に、段蔵は迷う様子もなく頷いてみせる。
 それを見て、俺は内心ほっとした。段蔵なみに有能な側役を探すのは、多分武田家に勝つことに匹敵する難事であろうと考えていたからだった。それに、馬術の師を失うのも困るのである。


「しかし、此度の城での景虎様と政景様の騒ぎといい、忍を側役として用いる天城殿といい、やはり上杉家は珍妙な家でござるな」
 その表現に、俺はつい吹き出してしまった。
「珍妙、ですか。言いえて妙な表現ですね」
 城でのことを長が知っているのは不思議には思わなかった。おそらく、昨日のうちに里に戻った段蔵から聞いたか、あるいは別の情報源が城内にあるのだろう。
 それに、実のところ城下でも結構話題になっているのである。


 景虎様と政景様が、互いに喪主の座を『譲り合って』口論になった、という事実は。


 ――俺の危惧は、とことん的外れだった。その一言に尽きる。
 二人の言い分を聞いている最中、俺は本気ではずかしくなって、真っ赤になって俯くことしか出来なかったものである。
 実のところ、定実様は遺言を残しており、そこにはいくつかの事柄が記されていたのだが、もっとも重要な部分は、景虎様を定実様の養子とし、越後守護職を継がせる心算であった、という部分であった。
 だが、と定実様は遺言で続ける。
 どうやら自分はそれを為すことが出来そうもない。よって、自分が亡くなった後、跡継ぎのいない上杉家を景虎様に継がせる、と。それは当然、守護の座も継がせるということに他ならない。


 定実様としては、越後の情勢がいま少し落ち着いてから、ゆっくりと根回しをした上で切り出す心算だったのだろう。だが、自身の病を知った定実様は自分にその時が来ないことを悟り、遺言という形でその意思を伝えたのである。
 春日山城に戻り、そのことを政景様と遺言状から知った景虎様は、しばし呆然とし、すぐに辞退する旨を告げた。
 守護無き後は、守護代がその後を継ぐべき。それが景虎様の考えであり、ここで自分が守護代である政景様を飛び越えて守護になどなれば、要らぬ混乱が起きる、と主張したのである。無論、名門である上杉家の名跡を自分が継ぐことへの遠慮もあったのだと思われた。
 一方の政景様の主張は、これは簡単であった。主君である定実様の意思を継ぐことこそ臣下たる者の務め。ましてや遺言である。これを履行しないことは、天下に春日山の恥をさらすに等しい、と。


 率直なところ、どちらにも理があると俺は思った。なにより、二人とも自ら引いて、相手を立てようとしている。だからこそ、どちらに意見が傾こうが、これから先の越後の混乱は最小限で済むだろう。そんな風に思っていたのだが――なんか途中から二人とも感情的になってきたのである。


「――ですから! なにも上杉の名跡を継ぐのは私でなくとも構わぬでしょう。政景殿が守護になれば、私は全力でこれを補佐いたします。さすれば越後は平穏、定実様もご安心なされる筈です」
「――だから! そうならそうと、御館様はきちんと遺言に記される筈だって言ってるでしょ。それがないってことは、つまり御館様は景虎に後のことを託したの。その意思を、あんたは私にふみにじれというの?」
「く、で、ですが、長幼の序からみても、現在の立場からいっても、次に越後を統べるべきは政景殿をおいて他におりません。守護代たる身をさしおいて私が守護になれば、また国内に不穏な動きが」
「ふん、そんなもんあたしが一言言えば吹き飛ぶわよ。越後守護代長尾政景、越後守護上杉景虎の臣として忠節を誓いますってね」
「上杉景虎などと、そのような恐れ多いッ」
「そもそも、あたしが守護代になったのはあんたが身を引いたお陰でしょう。だったら、今度はあたしが身を引くのが当然。これで貸し借りなしってことじゃない」
「貸しや借りなどということでは――これは一国の大事です、やはりここは私などより……」
「ああ、もう往生際の悪いッ!」


 ここで政景様は乱暴に髪をかきむしってから、びしィッと音が出そうな勢いで景虎様を指出した。
 その勢いに、明らかに怯む景虎様。なんか新鮮な光景だった。
「景虎、言っておくけど」
「は、はい」
「今度も私を守護職にまつりあげて、自分はその下で自由に戦に行こうだなんて、許さないからね!」
「??」
 目を丸くする景虎様。明らかに予期しないことを言われて戸惑っている。
 というか、政景様の言葉を聞いている皆が同じ状態だった。俺は、まあ、何となく政景様の言わんとしていることが理解できたので、苦笑いを浮かべるにとどめたが。
「ただでさえ守護代守護代守護代って理由つけられて身軽に動けなくて面倒だってのに、この上守護? 冗談じゃないわ。自慢じゃないけど、あたしは御館様のように春日山城でじっと後方を支えているなんて真似、やれるけどやりたくないわッ!」
 何気に問題発言の政景様だった。やれるけどやりたくないって、単なるわがままだろう。
 だが、勢いにおされている景虎様はそこに気付かなかったらしい。あるいは気付いていても指摘できなかったのかもしんない。
「今回の上洛だって、出来ることなら行きたかったのに! 越後の片隅であたしが蘆名の田夫野人どもと戦っている間、あんたたちは京の都で華々しく戦っていたんでしょう。公方様ともじかに話したり、朝廷の公家と連歌の会を設けたりしたのよね?」
「はい、それはいたしました、が」
「その頃、あたしは蘆名の田夫野人どもと作り笑顔うかべて和議を結び、さすがは越後守護代お綺麗ですなとかため息が出るほど陳腐な褒め言葉きかされていたわけ。さあ、あんただったらどっちをとるの、景虎ッ?!」
 よっぽど蘆名が気に入らなかったらしく、田夫野人を連呼する政景様であった。
 一方の景虎様は、もうおずおずと、と形容したくなるような感じで、それでも上杉継承は最後まで肯わず、結局、また後日あらためて、という話になったのである。




 まあ、その後日、というのは今日の夕刻なのだが。
 当初は朝から始める予定だったのだが、定実様の奥方が夕刻に到着するので、それにあわせて、ということになったのである。 
「守護の座を欲して争う話は諸国に無数にあれど、守護の座を譲り合って争う話など聞いた例もありませぬ。武田などが聞けばどう思うことでしょうな」
「呆れて、その後、鼻で笑いそうですね。戦乱を治めると言いながら、守護の権力を欲さない景虎様を、晴信は理解できないでしょうから」
 長はそれを聞き、わずかに目をみはる。
「――天城殿は、おわかりになられるのか?」
「出来る、といえば嘘になります。私ならば、間違いなく守護の座を得ようとしますからね。定実様と、政景様の後押しがあればなおのことです。そこで頷けない清廉さが、将相としての景虎様の弱点で、そして多分、長所でもあるのでしょう」
「ほう、長所、ですか。なにゆえ、と問うてもよろしいですかな?」
 俺は小さく笑い、そして胸中で温めている景虎様の説得案を確認しながら、こう言った。


「そんな景虎様を何とかお助けせねば、と奮起する家臣がいる。それも大勢の。つまりはそういうことですよ」

 


 
◆◆◆





 駿河、駿府城。
 駿遠三、三カ国の太守にして「海道一の弓取り」と称えられる今川家当主義元の居城。
 今、この地には各地から集められた兵と物資とが恐るべき勢いで集結しつつあった。
 この地に集まった兵力は二万。だが、敵地である尾張織田領に踏み込む頃には想定される総兵力は三万五千。これに北条と武田の援軍を加えれば、四万を越える大軍となる。
 これだけの大軍を支えるには尋常でない量の物資を必要とするが、東海地方の豊沃な美田と、駿河、遠江の良港を抱える今川家の府庫には兵糧も金銀も山と積まれており、四万の大軍を長期間、他国に留めておくことが可能であった。
 無論、これらの準備は一朝一夕で整えられたわけではない。いずれかならず行われる今川家にとっての悲願――すなわち上洛のために、今川家の将兵が、長年、積み重ねてきた努力と精勤の結実であった。


 そして今、駿府の城では上洛前の最後の軍議が行われていた。
 といっても、最初にあたる尾張攻略に関しては、もうほぼすべての準備が整っている。ゆえにこの軍議は、最終確認以上の意味を持たない。
 それでも、この場に集った今川家の諸将は、緊張と、そして興奮を隠せずにいた。彼らは、知らず身のうちから湧き出る戦意を抑えきれず、たえずそわそわと動き、あるいは周囲の僚将と互いの武運を祈りあったりしていた。
 その中で、一際勁烈な声が軍議の間に響く。
 今川家の主、今川義元である。
 義元は、眼前で頭を垂れる一人の将に向かって命令を発した。


「松平元康」
「はい」
「此度の上洛、先鋒はその方ぞ。三河岡崎の精鋭を率い、尾張の国境を塞ぐ城塞を破砕せよ。我が軍が清洲へ至る道を開く重大な任である」
「重任をお授けいただき、ありがたく存じます。仰せのごとく、我ら岡崎勢、鬼神となりて織田信長の防備を打ち砕いてご覧にいれまする」
 そう答える声は、しかし野太い声が響くこの場にあっては明らかに異質であった。
 それも道理。松平元康は、見目麗しい少女であるのだから。
 周囲に居並ぶ歴戦の今川武将たちと比べれば、一回りも二まわりも小柄な身体。整った容姿にいまだに残る幼さが、この年若い少女の可憐さを引き立てる。つぶらな瞳にじっと見つめられれば、誰もが手を差し出したくなる焦燥に駆られよう。
 だがしかし。
 この松平元康、決して容姿を売りとする類の将ではなかった。
 その小柄な身体に詰め込まれたのは、媚びでもなく、阿諛(あゆ)でもなし。それはしなやかにして、決して折れぬ自尊の心。弱小勢力である三河岡崎城の後継として、幾度も人質として他国に出され、多くの嘲りをうけながら、決して卑下することなく前を見続けたその強き心の価値を知る者は、しかし、今川家には一握りしかいなかった。
 だが、元康にとって幸運なことに、その一握りの者たちは、ことごとく今川家の枢要に携わる者たちだったのである。


 今川義元もその一人。元康の強さを知る義元は、その声に誠実を込めて告げた。
「以前よりの約定、果たす時が参ったな。尾張制圧と共に、岡崎城の主はそちとなる。無論、岡崎勢は今川家にあって屈指の精鋭、すぐに帰城を許すことは出来ぬが、近江路まで達すれば、京へ入る目処もつこう。さすれば、そちを岡崎城に戻すことも出来ようぞ」
 その言葉を聞き、元康は昂ぶる感情に頬を染めて、深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉です。必ずやご期待に沿う働きをいたしますことを、ここで誓わせていただきます」
「ふっふ、そなたの鋭鋒、真っ先に受ける織田のうつけが哀れになるのう。そういえば、そなたは織田家にも一時、人質として入っていたと聞くが、思うところはないのか。信長と近しい年であれば、面識の一つもあるのであろう?」
「いえ、遠目に信長殿の姿をお見かけしたことはございますが、親しく言葉をかわしたことはございません。それに、織田に人質としていたのは、ほんの数月だけでしたから」
「うむ、あの時はそちの師である雪斎が、織田の血族と引き換えにそちを解放したのであったか」
 義元は、一足早く三河に発たせた雪斎の顔を思い浮かべながら、そう言った。
「御意にございます。雪斎和尚には、どれだけ感謝しても足りません。もちろん、義元様にも。私や、岡崎城の皆が今日あるは、すべて今川家のご恩あってのこと。この元康、その恩、終生忘れることはございません」


 元康の言葉に、義元は破顔した。
「はっは、そういってくれるとありがたいな。氏真もそちにはぜひとも柱石になってもらいたいと言っておった。年も近く、同じ女子ということもある。そちにはながく氏真を支えていってもらいたい」
「身にあまるお言葉、恐縮です。この身がどれだけ氏真様のお役に立てるかわかりませんが、精一杯頑張らせて――」
 とそこまで元康が口にしかけたときのこと。
 なにやら慌しい音が響いてきたと思ったら、勢いよく軍議の間に姿を現した者がいた。
 それは――


「なんじゃ、どうした氏真。そのように息をきらせて、しかも甲冑までまとうておるとは。この前買ってやた京染めの衣装、気に入らなかったのか?」
「武人たるもの、女々しき衣装などに袖を通すものではございません。幾度も申し上げているでしょう、父上」
 そう言って憮然とした顔をするのは、今川家の後継者である今川氏真である。
 義元の妻の美貌をそのまま受け継いだかのような端麗な容姿の持ち主で、化粧をして着飾れば、さぞやすばらしい艶姿を披露することになる、と思われているのだが。
 あいにく、当の本人はそういった女性らしいことに一切興味がなく、父親が買い与えた衣装だの化粧だの髪飾りだのは、ことごとく氏真の手の上を通り抜けて、周囲の家臣や、善行をおこなった農民たちへの褒美に消えていた。
 無論、義元はそれを知っているのだが、かえって物に執着しない氏真を誉めそやし、けれども娘を着飾らせたいという夢を断ち切ることもできず、相変わらず装飾品を買い与えることを繰り返す毎日であった。
 もっとも、それは逆に見れば、氏真の人望を高めることに大きく寄与していることになる。物離れがよい氏真は家臣にも領民にも評判がすこぶる良く、また尚武の精神をもって鍛錬に励む姿は、将兵にとって尊敬の対象となるに十分であった。
 皮肉にも、当人にとっては悩みの種である小柄な体格(当人としては父のように大柄な体躯が欲しくて仕方ない)も、彼女の人気をあおるのに一役買っているのである。


 今回の上洛では、氏真は駿府の留守居役となっている。氏真本人は、父と共に征路につくことを望んでやまなかったのだが、娘を溺愛する義元がそれを肯う筈もなかった。
 一時はしぶしぶ納得した氏真だったが、みずからの友である元康が先鋒を務めると聞き、たまらずこの場に現れたのである。
「父上、元康も私と同じ女子、背格好とて大きな違いはございません。その元康が先鋒という大任を授かっているのに、どうして私が駿府で留守番をしていなければならないのです?」
「む、それは、だな」
 突然、家臣の前に出てきて、滔々と不満を述べ立てる氏真に、義元は困惑した顔をする。本来、このような場所での無用な差し出口は一喝して退けるべきなのだが、氏真相手に義元がそれを出来ないことは、この場にいる全ての家臣たちが了解するところであった。
 自然、彼らの視線は氏真のすぐ後ろに佇む者に向けられる。


 それは白髪の老人だった。より正確に言えば、老人のようにしか見えない男性だった。
 その理由は、大柄な体格をすぼめるようにしていることと、目じりや頬に刻まれた深い皺、そして何より生気の薄い枯れたような眼差しが、見る者に年齢以上の老いを印象付けるからであった。
 男は、困惑もあらわに、父に問いを向ける氏真に向かって口を開く。
「わ、若君、ここは軍議の間ですぞ、お父上も困ってらっしゃる」
「武田の翁、それは承知しておる。しかし、私は父上と共に戦いたいのだ。留守居なんて嫌だ!」
「留守居もまた大切なお役目。進んでばかりいて、後ろの我が家を奪われた者は、古今の歴史にたくさんおりまする。若君ならばご承知でしょう」
「武田と北条とは盟約を結んだのであろう。敵などどこにもおらんではないか」
「結んだ盟約が必ず守られるならば、このような乱世にはなっておりますまい。上洛されるお父上方が後顧の憂いなく戦えるようにすること、この大切なお役目、氏真様以外の誰に出来るのですか?」
「なら、武田の翁がおれば良い。翁も我が今川の一族であることに違いはないのであろう」
 その氏真の言葉に、男――武田信虎は、気弱げな笑みをもらす。
「そのようなことをすれば、武田家の破約を招くだけのことでござる。甲斐にいる娘は、私を殺しにやってくるでしょう。盟約など関係なく」
 かつての甲斐国での乱を知る氏真は、はっとした顔で、すぐに詫びの言葉を口にする。
「あ、す、すまん、翁。心無いことを申した、許せ」
「なんの、お気になさいますな。ともあれ、この場はさがりましょうぞ。皆様の邪魔になっておりまする」
 そういわれ、氏真は小さくうめく。まだ言いたいことはいくらもあったのだろう。
 だが、ここで信虎の言葉をはねつけることが氏真には出来なかった。先の失言が、心根の優しい氏真に、信虎の言葉に頷くという動作をとらせたのである。
 それを見て、明らかにほっとした空気が軍議の間に流れた。



 再開された軍議は、その後、間もなく終わり、後は上洛軍の進発を待つばかりとなる。
 今川、織田、松平にとっての。武田、上杉、北条にとっての。そして、ついには日本という国にとっての。
 転機となる戦いが、幕を開けたのである。
 
 




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/26 23:35


 越後守護職上杉景虎。
 その誕生にこぎつけるまでに、俺や兼続がどれだけ苦労したかは、まあ言わぬが花であろう。個人的には意固地になった景虎様という、やたらめずらしいものが見れたので、あまり苦労したとも思っていないし。
 ともあれ、時間を置いて開かれた話し合いでは、定実様の奥方であり、景虎様の異腹の姉君であられる方も加わって昨日の続きを話し合ったのだが、二人とも喪主になることはともかく、その後の守護職就任には難色を示し続けた。
 理由は昨日と変わらず、当然のように話し合いも停滞せざるをえない。
 しかしながら、景虎様にしても、政景様にしても、今はこのことに時間をかけるべきではないということもわかっていた。
 甲駿相の三国同盟の成立が何を意味するか、それがわからない者は、この場にはいない。
 それゆえ、一国も早く国内を固め、定実様の死による混乱を最小限にしなければならない。
 それはわかっている。わかっているが、だからといって二人とも、では自分が、と手を挙げることも出来かねたのである。


 俺も、正直なところ悩まないわけではなかった。景虎様、政景様のいずれが守護に向いているか。
 たとえば政景様が守護になれば、景虎様は軍事方面に集中できるという利点がある。政治や外交などから解放されれば、景虎様の巨大な軍事的才能は、その実力を存分に発揮できるだろう。まあ露骨にいうと面倒なことは政景様に委ねるということで、政景様もこれを避けようとしているのであろうが。
 ただこの場合、当然だが上杉家の基本的な方針は政景様の手に委ねられる。そして、政景様が、景虎様の天道に従う謂れも無くなる。無論、裏切りや苛政などをよしとする政景様ではないが、もしそれがどうしても必要だと考えれば、政景様は迷うまい。清濁あわせのみ、その責任は我が身で果たす。統治者としての深みという意味では、政景様は景虎様に優るだろう。
 景虎様のそれは、凡人には清冽すぎるのだ。そして、世を動かすのは多数の凡人なのである。景虎様の天道を歩かないという意味では、俺も凡人の列に並ぶことになろう。



 景虎様を守護にすえた場合の問題はほぼ同様。ただ、おそらくだが、俺と政景様の負担は今より倍増する。影でせっせと働くことが多くなるだろう。景虎様の天道では補えない部分が、一国の政ともなればいくらでも出てくるであろうから。当然、その隙を埋めるのは守護代である政景様で、その補佐が俺、という感じになるだろうか。
 あるいは政景様のことだから、なんか俺に適当な役職を押し付けて「守護代権限で任せた」とか言いかねん――自分で言っていて思ったのだが、そうなったらまずくないか、俺?


 などと埒もないことを考えながら、結局のところ、俺は景虎様を説得していた。
 といっても、言うべきことはすでにほとんど誰かしらの口から発されている。そして、景虎様とて自身が折れるべきこともわかっているだろう。定実様の遺言、政景様の芳心、そして軍神たる身にかかる人々の期待がわからぬお方ではない。
 ゆえに、俺がしたことは、景虎様の心に引っかかっているであろう最後の棘を抜いただけである。
 すなわち――


「……政景殿の子を、私の、上杉の養子に?」
「はい。無論、まだ先の話ですが、政景様にお子が出来たら、その子を景虎様の養子として上杉家を継がせたらいかがかと。さすれば、政景様が春日山上杉家に捧げたものは、すべて坂戸長尾家にかえってくることになります。政景様の配下の方々の不満も薄れましょう」
「む……」
 景虎様が考え込むように腕組みをする。
 首を傾げたのは政景様の方だった。政景様が何か口に仕掛けるが、俺は意味ありげな視線を送り、景虎様に視線を転じると、どうやら意図を汲んでくれたようで、ぽんと手を叩いてみせた。
「なるほど、それならうるさい連中を納得させる手間も省けるわね。でも、颯馬は良いの?」
「……はい?」
 なんでそこで俺に確認をとるのだろう?
「だって、あんたと景虎の子が守護職になる機会を棒に振ることになるじゃない」


 ――咳き込んだのは、俺と景虎様、ほとんど同時であった。
 景虎様が目を丸くして不思議そうに問う。
「政景殿?」
 一方の俺は、顔を赤くして難詰する。
「な、何の話ですか、それは、政景様?!」
 政景様は声を低めて、周囲の人だけに聞こえるようにこんなことを言いやがりました。
「ふっふ、聞いてるわよ。なんでも高野山であんなことやこんなことしてたんだって? 御仏の聖地でなんて大胆な。あ、景虎、そろそろお腹が大きく……」
『なりませんッ!!』
 またも息がぴったり合う俺と景虎様だった。さすがにここまで言われれば、景虎様も政景様が言わんとしていることに気付いたらしい。頬がかすかに赤くなっている。
 しかし、全然俺の意図伝わってないな、政景様に。
 定実様の奥方も「あらまあ」となにやら嬉しそうに両手をぱちんとあわせている。
 いや、その反応もどうかと思いますが、奥方様。


 俺の養子云々の提案は、景虎様が抱えている政景様への気遣いをなくすため、あとついでに政景様配下の者たちの不満を多少なりとも和らげるためのものだった。正直、前者に関しては全然必要ない気もするが、景虎様としてはやはり位階を飛び越えるのは抵抗があるのだろう。このあたり、やはり秩序を重んじる気持ちが篤い人なのだな、としみじみと思う。
 ゆえに、そのあたりをなだめることが出来れば、景虎様も首を縦に振ってくれると思っていたのだが、なんか話が妙な方向に進みかけて焦った。
 ――結論を言えば、最終的に景虎様は頷いてくれた。件の養子案も込みで。
 ただしその後、しばらく微妙に気まずい空気が俺と景虎様の間に漂ったのは、多分気のせいではなかっただろう――おのれ、長尾政景、おぼえておれよ、と一人恨み言を呟く俺であった。


 だが、そんな戯言も、すぐに脳裏から吹き飛んだ。
 遠く関東の地から一つの知らせが飛び込んできたのである。
 それは関東の覇権を欲した相模の北条氏康が、ついに上野の関東管領山内上杉家に対し、全面的な攻勢を仕掛けたことを告げるものであった。



◆◆



 三国同盟の締結により、後顧の憂いを絶った北条氏康は、この時、二万の大軍を率いて小田原城を出陣。各地からの援軍を吸収しつつ、武蔵国忍城(おしじょう)の成田長泰を急襲する。
 山内上杉家に属する成田長泰は勇猛なことで知られ、また忍城も堅城として知られていた。だが彼我の圧倒的な兵力差の前では、多少の武勇など意味を持たない。
 また、この時の攻め手は『相模の獅子』あるいは『相模の黒真珠』(恥ずかしいです、と本人は苦笑している)たる北条氏康本人であり、その麾下には北条勢の中核たる五備えが勢ぞろいしていた。
 赤備えたる北条綱高。白備えたる遠山景綱。青備えたる笠原美作守。黒備えたる多目氏聡。そして『地黄八幡』黄備え、北条綱成である。
 兵数、士気、錬度、そのすべてにおいて北条勢は成田勢を圧倒しており、成田勢は篭城以外の選択肢を持てなかった。


 忍城からの急報を受けた上杉憲政は、当初、常のごとく物憂げに報告を聞き流していたのだが、敵将が北条氏康だと聞くと、目の色を変えた。
 そして、今回こそ宿敵北条家を撃滅せんと各地に檄を飛ばし、北条家に優る大軍を召集したのである。その数は三万をこえるものと思われた。
 かくて名将長野業正を先陣とした山内上杉軍は、忍城を包囲する北条勢を撃滅すべく、平井城から南下して、武蔵の国に入ったのである。


 忍者衆「風魔」の諜報によって、この敵の動きを察知した氏康は、城の包囲を各地からの援軍に委ね、直属の二万のみを率いて山内上杉軍を迎え撃つために布陣する。
 かくて、広大肥沃な関東平野の一画において、関東の覇権をかけた戦いが始まる、かと思われた。
 だがこの時、すでに山内上杉軍は大きな狼狽の中にいた。憲政の召集に応じて各地から駆けつけた軍勢の半数以上が、両軍が対峙する戦場の外縁部にとどまり、日和見の姿勢を見せていたのである。この為、実質的には北条軍二万、山内上杉軍一万三千が対峙している格好となっていた。
 そして、さらに事態は悪化する。
 氏康の関東北上と時を同じくして、甲斐の武田晴信が六千の兵力を率いて西上野に侵攻を開始したのである。
 北条家にのみ注意を払っていた上野の諸城は、この武田軍の侵攻を防ぐことが出来ず、援軍を待つ間もなく次々と陥落していった。
 その進撃速度を見て、このままでは北条家と対峙している間に、居城である平井城が危ういと判断した上杉憲政は、宿将である長野業正を西上野防衛に戻す決断を下す。
 業正の居城箕輪城は西上野の要衝であり、業正自身も歴戦の武将として知られた人物であるから、この人事は間違いではなかった。


 だが、決して正解とはいえなかった。なぜなら、業正が軍を離れれば、北条家の精鋭とまともに戦いえる武将など、山内上杉軍にはほとんどいなかったからである。
 北条勢の容易ならざるを知る業正は、主君である憲政に対し、西上野の兵力を平井城に集中させ、自身はこの決戦に参加すべきと進言した。西上野は捨てろ、と言明したのである。さもなくばこの決戦には勝てず、この決戦に敗れれば、北条家の勢威が関東を席巻するのは間違いない。
 だが、憲政はただ平井城を守れ、西上野を守れと命じるだけであった。そもそも、戦が始まれば周囲の援軍が北条勢の後背を衝くだろうから、敗北するなどありえない、というのが憲政の考えだったので、業正の進言が通らなかったのは当然といえば当然だった。
 周辺に展開している関東の諸勢力が、関東管領である自身と、相模の一大名とを秤にかけているなど想像さえしていない主君に、業正は内心で深々とため息を吐くしかなかったのである。
 そして内心である決意を固めるのだった。



 北条家を打ち破り、相模の黒真珠を我が腕で撫抱してくれる、と豪語する上杉憲政は、追い払うように業正を箕輪城に戻すと、あふれんばかりの自信をもって北条勢との決戦に望む。
 その軍は、しかし、ほとんど一瞬で敗れ去った。
 あまりのもろさに、日和見をしていた者たちが呆気にとられたほどであった。
 彼らは優勢の側を見届けてから、勝者の尻馬に乗るつもりだったのだが、こうまであっさり勝敗がついてしまうとは夢にも思っていなかったのである。
 この戦いは、関東の古い権威の崩壊と、新しい秩序の確立を告げる、これ以上ない狼煙となったのである。



 この敗北を見て、忍城の成田長泰は降伏。さらに山内上杉家の召集された諸勢力も、たちまちのうちに旗幟をかえて北条家の膝下に跪いた。
 これらの軍を加えた北条氏康は、彼らの罪をとがめることなく、さらに軍を北へ進める。
 氏康は、この遠征において山内上杉家の息の根を止めるつもりだったのである。そして、氏康が上野侵攻の先鋒に命じたのは、先ごろ降伏した者たちであった。
 当然、彼らは新しい主家に忠誠を示すべく懸命に奮闘する。このあたりの老獪さは、相模の黒真珠ならぬ相模の獅子の面目躍如というものであったろう。
 後にこれを聞いた小田原城留守居の北条幻庵は「ますます妾の若い頃に似てきておるなあ」と氏康の成長に目を細めることになる。



 ともあれ、北条勢の北進は苛烈をきわめ、山内上杉家の諸城は、虎が卵を踏むかのごとく容易く砕かれていき、たちまちのうちに平井城は重囲の中に置かれることになったのである。
 この時、平井城を囲む北条勢は四万を優に越える大軍勢となっており、関東管領山内上杉家の命運は、ここに絶たれたと誰もが考えていた。



◆◆ 



 その頃、北条家の友軍である武田軍は西上野の要衝たる箕輪城で、名将長野業正と対峙しているところであった。


「さすがは音にきこえし長野業正。見事なものです」
 武田晴信はそう言って、彼方に見える箕輪城と、その城に攻めかかる武田軍の攻防の様を楽しむように眺めていた。
 その晴信の傍らには、武田六将が一人、真田幸村が槍をもって控えている。
 だが、今回の上野侵攻にあって、幸村の槍はただの一度も敵兵の血に濡れたことはなかった。
 その幸村に、晴信はからかうように声をかけた。
「おや、幸村、どうしました。そのように不服そうな顔をして。私の護衛は退屈ですか?」
「……い、いえ、決してそのような。御館様をお守りするのも重要な役目でございますれば」
「それにしては上野に入ってからというもの、憮然とした表情を隠しきれていませんね。将たるもの、そう易々と内心をあらわにしては指揮に差し障りが生じますよ」
「は、申し訳ございませんッ」
 畏まる幸村に、晴信はくすりと微笑んでみせた。
 武田家の一番槍たる真田幸村が、一度も敵と矛を交えていないのだ。不服に思わない筈はない。それは晴信も重々承知していた。
 だが、これも戦に先立つ軍議で決まったことである。
 幸村の慢心を戒める意味でも、これは良い機会、と晴信は考えていた。


 晴信はあらためて箕輪城の攻防に視線を向ける。
 相変わらず見事な守りを見せる長野業正の軍が遠目に見える。そして――長野業正をして、全力を出さねばならないほどに見事な攻めを見せている自軍も見ることが出来た。
 その陣頭で兵士たちを指揮するのは、武田家が誇る六将が一、静林の将たる春日虎綱であった。






 上洛から戻った虎綱を出迎えた晴信は、虎綱に数日の休養を与え、疲労を癒した後に出仕するように伝えるつもりであった。すでに虎綱からは上洛時における詳細な報告が届けられている。そこには冨樫晴貞のことも、そして越後守護上杉定実が死去したことも記されていた。
 だが、虎綱は望んで即日に出仕する。虎綱もまた、自身が不在であった半年の間の出来事を知りたかったのである。そして、自身の報告を聞いた武田家がどう動くつもりなのかも。


「では、春日殿は村上への侵攻は反対すると? 越後の守護が死した今こそまたとない好機であることは明白、まさかとは思いますが、情にほだされたわけではないでしょうね?」
 幸村の言葉に、虎綱はゆっくりと頭を振る。その前には信濃から上野に渡る地図が置かれていた。
 三国同盟において、北条との共同作戦を約した晴信は、西上野侵攻の計画をたてていたのだが、虎綱からの報告で上杉定実の死を知ったことで、北信濃制圧も可能と考え、諸将に意見を求めていたのである。
 元来、二方面に同時に敵を抱えることは兵家としてもっとも避けるべきことだが、今回の場合、この二国は一つは他国との戦闘中、一つはごくわずかの所領しか持たぬ小勢力であるから、同時に敵にまわしたところで問題はない。
 ただ、村上家に侵攻を開始すれば、必ず上杉が出てくるであろう。それゆえ、当初は村上家は侵攻計画に入っていなかったのである。
 だが、越後が守護職を失ったのであれば、すぐには出兵できぬであろうし、兵を出すとしても、それほど大規模の軍は無理だろう。それゆえ、幸村は今を絶好の好機と表現したのである。


 しかし。
「……たしかに上杉定実殿は亡くなりました。けれど、その死後、すぐに兵を出せないとは限りません。私の判断を申し上げるのならば、村上領への侵攻は、上杉の大軍を引き出すものと考えます」
 幸村がかすかに顔をしかめ、口を開こうとする。
 だが、それに先んじた者がいた。山県昌景である。
「ほう。その根拠は?」
 その問いに、虎綱はわずかに首を傾げる。
「上杉軍を率いる将帥の為人、でしょうか」
「なるほど、たしかに上杉の者を知ること、今の春日にまさる者はおらん。それは長尾景虎のことか?」
「はい」
「うむ。だが、景虎が望んだとしても、他の者たちはどうか。たとえ守護代長尾政景のことは、お主とてよく知るまい。守護代が反対すれば、景虎とて自侭に兵を出すわけにもいくまい」
 昌景の問いに、虎綱はあっさりと頷いてみせる。
「仰るとおりです。しかし、政景殿は景虎殿以上に気性の激しい方と聞き及びます。喪中を狙うがごとき戦のやりようを黙って見ているとも思えないのです」
 その虎綱の返答を聞き、昌景は精悍な顔に微笑を刻む。
 問いの内容自体に大した意味はない。ただ虎綱が怯むことなく反論したという事実を確認したがゆえの微笑だった。


 ここで晴信がどこか厳しい調子で口をはさむ。
「では虎綱。そなたならば此度、どのように兵を動かしますか。申してみなさい」
「は、はい。私であれば、村上領は攻めません」
 幸村があざけるように口を開く。
「上杉が出てくるから、か。武田の将にあるまじき物言いですな」
「幸村」
「は、はい、御館様」
「私は虎綱に問うています。今は口を噤みなさい」
「ぎ、御意にございます」
 幸村が顔を赤くして引き下がると、それを確認した虎綱は言葉を続ける。
「かりそめにも将軍家仲介で和睦をした相手です。こちらから戦端を開けば、あれはまた武田の策謀であったのだと思われてしまうでしょう。そうすれば、今回の上洛での名声にも翳りが出てしまいます。それよりも、北条家と共同で上野を攻め、関東管領を追い詰めるべきだと」
「関東管領を追い詰め、北条に恩を売り、西上野に所領を得る、ということですか?」
「はい。北条、武田の両軍に攻められた関東管領は、関東に居る所なく、逃れられる場所は北の越後のみ。景虎様たちの人柄であれば、必ずや関東管領を受け入れるでしょう。そして遠からず上野に兵を出します。北条と上杉が戦火を交えれば――」
「北条の盟友として、堂々と上杉と対峙することが出来る、というわけですか」
「御意。上杉軍の主力は上野にまわっているでしょうから、越後にはあまり多くの兵はいないでしょう。北条家との盟約のためという名分で越後へ向かえば、当然、信濃の村上家はその道を塞ぎます。これと戦うことは、盟約にそった当然の行動。信濃の民も納得するのではないでしょうか」


 長い説明を終え、虎綱は小さく息を吐いた。
 その虎綱を見やる晴信の顔には、隠し切れない微笑が浮かんでいた。それに気付いた虎綱は、慌てた様子でかしこまる。
「あ、あの、御館様、何か無礼をいたしましたでしょうか?」
「ふふ、いえ、何でもありません。しかし――虎綱、ずいぶんと物言いが滑らかになりましたね」
「そ、そうでしょうか? あ、あんまり自分では感じないのですが……」
 ここで内藤昌秀が口を開く。
「いえ、実は私も先刻より驚いていました。京までの道のりが良い経験になったのでしょう」
「うむ、まあ褒められるのが苦手なのはかわっておらんようだがな」
 わはは、と大笑する昌景に、虎綱は小さくなって俯いてしまう。
「昌景。せっかく咲いた花をつむような無粋はおやめなさい」
「おっと、これは失礼、御館様。春日殿、他意はないゆえ、許されよ」
「は、はい……」


 室内に、しばし和やかな空気が流れる。
 だが、改めて口を開いた晴信の口調は、あまり穏やかなものではなかった。
「虎綱」
「は、はい」
「後日にしようと思っていましたが、ちょうど良い、今、問うておきましょう。何のことかはわかりますね?」
「はい、晴貞様の、ことでしょうか?」
 晴信は頷いた。
「そうです。詳細は書状で読みましたし、ここにいる皆も知っています。しかし、実権無き身とはいえ、仮にも一国の守護。頼られたから、はいそうですと受け入れるわけにはいきません。冨樫晴貞を匿うことで武田家が被る不利益、これを上回る何らかの利を提示してもらわねばなりません。しかし、そなたの報告を読むかぎり、晴貞本人はさほど将として優れているわけでもない様子。そこで――」
「お、御館様ッ!」
 晴信の言葉を中途で遮り、虎綱は深く頭を下げた。
 主君の言葉を遮るという無礼はわかっていたが、言わずにはおれなかった。
「晴貞様の分まで、私が必ず働いてみせます。何事かあれば、私が責任をもって対処いたします。ですから、なにとぞ、我が家に迎えることをお許しくださいッ、お願いいたしますッ!」


 虎綱にとっては、文字通り一世一代の訴願であったが、返ってきたのは無限とも思える沈黙であった。
 虎綱は、自分の両手が震えを帯びているのを自覚する。今、当主の席に座る晴信が、その目に冷たい怒りを湛えて自分を見ているように思えてならない。
 その口から辛辣な叱咤が飛び出せば、これ以上、反論することは出来ないだろうことが、虎綱は自分ではっきりとわかってしまった。


「そういえば……」
 晴信の口から言葉がもれた時、虎綱は思わずびくりと肩を震わせてしまった。
「は、はい」
「武田の家は、若狭の国にもあるそうですね?」
「は?」
 あまりにも予想外の言葉をかけられ、虎綱は一瞬ぽかんとしてしまったが、慌ててかしこまった。
「は、はい。そう聞いています。その家の方とはお会いできませんでしたが」
「そうですか。遠く安芸の国にも武田という名の守護がいると聞いたこともあります。きっとその中には晴信と名乗る者もいるのでしょうね」
「はい、そうかもしれません、が……」
「であれば」
 戸惑いをあらわにする虎綱に、晴信は小さく微笑む。
「加賀守護と同じ名前を名乗る者がいたところで、何の不思議もないことでしょう。そなたが勘違いして連れてきたのも、やむをえないことだったのでしょうね」


「…………あ」
 はっと何かに気付いた虎綱が、再び深く頭を下げる。
「は、はい、申し訳ありませんでした」
「何が申し訳ないのです、虎綱?」
「はい。加賀守護の方と同じ名前の方を、本人と間違って連れてきてしまったことですッ」
「そうですか。とはいえ、連れてきてしまった以上、あなたは責任をとらねばなりません。向後、その方が甲斐の国にとどまることを望む限り、お世話はすべてあなたがするのですよ」
「御意にございますッ」
「ただ、勘違いをする者がいないとも限りません。そして、それが戦の火種にならぬ保証もない。その時、そなたがそれに対処できるだけの実力を蓄えているのかどうか、それを次の戦で計らせてもらいます。京より戻ったばかりでつらいとは思いますが、良いですね」
「かしこまりました。春日虎綱、誓って御館様に勝利を捧げてご覧に入れますッ!」


 そう言う春日虎綱の言葉は、これまで武田家の誰もが聞いたことのない力と張りに満ちたものであった。



◆◆



 そうして、春日虎綱を先鋒とした武田軍六千は、北条勢と歩調をあわせて上野に侵攻。虎綱の采配は堅実を極め、大兵の利を活かしながら着実に城を陥としていった。
 一城でもしくじれば、先鋒を交代するとしていた真田幸村が、未だに敵に槍をつけていない事実が、その見事さを雄弁に物語っていたであろう。
 晴信は隣に立つ幸村を見る。どこか憮然とした、同時にどこか悔しげな顔をしていた。
「幸村、他者の力を認める度量も優れた将には欠かせぬもの。これだけの実績を示す虎綱を、まだ認められませんか?」
「い、いえ、決して私は春日殿を認めていないわけでは……ただ、その、なんと申しますか、この戦だけでは……」
「まあ、そちと虎綱では中々に気性が合うというわけにもいかぬのはわかります。けれど、過ぎた感情は将器を拡げる妨げになります。意地を張るのもほどほどにするように」
「は、はい、かしこまりました」
「よろしい。ああ、それと一つだけ」
 晴信は自身の天幕に戻りながら、背後の幸村に声をかける。
「将と一口に言っても、様々な特徴があります。陣頭を駆けて兵を鼓舞する者もいれば、采配をふるって兵を奮い立たせる者もいるでしょう。そのどちらかが優れているというわけではありません。他者のそれを無理に真似する必要はありませんよ」
 その言葉に、幸村はしばし立ち止まり。
 そしてすぐに晴信の真意を察して、頭を垂れた。
「……あ……ぎ、御意にございますッ」
   

 このしばし後、武田軍は箕輪城から兵を退かせ、これを遠巻きに囲んだ。
 北条勢の大勝、そして平井城陥落の報が伝わってきたからである。上杉憲政は生死不明とのことだったが、それは晴信にとって確認する必要のないことであった。
 事態がここまでくれば、強攻して無理に箕輪城を攻め落とす必要はない。
「さて、あれだけ見事な指揮を見せたのです。まさか主君を逃がす手立て一つ考えず、自分の城にこもっていたわけではないでしょう、長野業正」


 そして、と晴信は心中で呟く。
 今この状況で、頼るべき相手が誰なのか、それを知らぬ筈もないでしょう、と。



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/30 20:54

 尾張国境、丸根の砦。
 無数の矢が飛び交い、刀と槍が絡み合う合戦の場にあって、織田軍の守備兵は寡兵よく砦を守備していた。砦櫓の上に立ち、弓矢で次々と敵を射抜いていた兵の一人は、背おった矢筒の中から矢を抜き放ち、射抜くべき敵兵を探して眼下を見下ろす。
 夜半から降り続いた雨に地面はぬかるみ、攻め寄せる敵軍の中には踏ん張りきれずに横転する者がそこかしこで見て取れた。そんな間抜けな敵兵に、弓矢の狙いをつけるが、しかしすぐにそれは無理だと悟らざるをえなかった。
 まるで津波のように押し寄せる敵の大軍を前に、いちいち狙いをつけている暇などなかったのである。
 射れば当たる。そう考えたその兵は無造作に弓を引き絞り、そして――次の瞬間、飛来した何かに首筋を射抜かれる。致命傷であった。
 その死の間際、その兵は面をかぶった奇妙な人影を目にした気がしたのだが……すぐにその意識は闇の中に落ちていったのである。


「押すでござる! 敵は寡兵、城に篭るしかない臆病者どもに、我ら三河勢を止めることはできもうさん!」
 地上では、それまでかろうじて互角の形勢を維持していた織田軍が、敵――三河勢の中からおどりでた長大な槍を縦横に振り回す女将軍によって、たちまちのうちに蹴散らされつつあった。
「三河松平家が家臣、本多平八郎忠勝、推参! 雑兵になど用はなし、この蜻蛉斬りと渡りあおうという剛の者はおらぬのでござるか!」
 忠勝がそう言うや、さらに勢いを増す名槍蜻蛉斬り。刀で受ければ刀ごと弾き飛ばされ、槍で止めれば柄ごとへしおられ、鎧や兜はあたかも紙で出来た玩具のよう。
 織田の将兵に、この人為的竜巻を止める術はなく、なだれをうって後退せざるをえなかった。その顔には先夜からの防戦の疲労と、忠勝の剛勇への怖れがはっきりと感じられた。


 そして、攻め手の大将は、この好機を見逃すような愚者ではなかった。
「皆、忠勝に続くのです! 全軍、突撃ッ!!」
 松平元康は総攻撃の命令と共に、最後の余剰兵力であった自身直属の部隊を戦場に投入、これにより三河勢はさらにその勢いを増し、織田勢を押し込んでいった。
 これまで懸命に砦を支えてきた織田方の守将佐久間盛重は、三河勢の猛攻をこれ以上持ちこたえることは無理と判断し、全軍に退却の命令を下そうとする。
 だが、その姿を忠勝の視界にとらえられてしまったのが、盛重の生涯最後の不運であった。
「織田家の名ある将とお見受けする。拙者、松平元康が臣、本田忠勝。その首、頂戴つかまつる!」
「ち、女子が戦場に出るなど無粋なり。着飾って城の奥で歌でも詠んでおれ!」
「あいにくそれがし、戦以外何も知らぬ無粋者でござるゆえ、ご忠告は聞きもうさぬッ!」  
 盛重はこの戦ではじめて、忠勝の蜻蛉斬りを五度、防いでみせた。あるいは万全の体調であれば、もっと凌ぐことも出来たであろう。
 だが、その背に受けた矢は、すでに取り返しのつかぬ傷を盛重に負わせていたのである。
 五度目の衝突の際、ようやくそれに気付いた忠勝が、はっと息をのむが、盛重はさして気にする様子もなく、あっさりと言った。
「見事。さあ首をとって手柄とせよ。わしは織田上総介が臣、佐久間大学盛重じゃ」
「何か言い残すことはござるか」
「おう、ならば先の言葉、信長様には言わずにおいてくれ。我が主も女子であったわ」
 そういって呵呵と笑うと、盛重はしずかに目を閉じた。
「……御免」
 そう言うや、忠勝の刀が一条の閃光を発し、次の瞬間、盛重の首は放物線を描いて宙を飛んだ。




 織田勢を砦から追い払い、丸根砦を占拠した元康は、ただちに本陣の義元に勝利の報告を送り、砦の復旧にとりかかった。
 丸根と鷲津は織田方の重要な拠点である。いつ信長の軍勢が奪還しに来るとも限らなかった。
 もっとも――
「半蔵によれば、織田軍は清洲から動いていないとのことですが……篭城するつもりかな」
「う、せ、拙者には何とも……」
「……」
 元康の問いに、戦はともかく考えることは苦手な忠勝は狼狽、いつも無口な半蔵はわずかに首を傾げるだけで応える。
 元康もまた、今の状況では、その答えは出せない。であれば、やはり備えはしっかりしておくべきだろう。元康はそう結論づけた。 


 その作業の途中、ふと思い立った元康は、砦櫓の一つに駆け寄り、そこによじ登ると、彼方まで広がる尾張の大地に視線を向ける。
 かつて、今川家に人質として向かう筈だった元康は、織田方の謀略によって一時この地に捕らえられていたことがある。
 かといって、別に尾張の誰かに恨みを持っているわけではない。さして礼遇されたわけではないにせよ、惨く扱われたわけでもないのである。
 だから、今ここにのぼって尾張の景色を見たいと思ったのは、単純な懐かしさと、そしてこれから向かうであろう土地への好奇心であった。
「こっちが岡崎、あっちが清洲。その先が美濃、近江、そして京、かあ。どんなところなのかな。どんな景色があって、どんな物があって、どんな人が住んでいるんだろう。ああ、戦なんかじゃなくて、普通に旅していけたら良いのになあ」
 ぽつりと呟くように言う元康。
 父が亡くなってから数年。父祖以来の城は、今は今川家の支配下に置かれている。義元や雪斎のおかげで織田家などの敵に奪われることはなかったにせよ、やはり他家の支配下にあるということは様々な重荷を領民に背負わせることになる。ことに三河勢の団結と粘り、そして勇猛さは東海地方でも名高いため、戦となれば前線に出ることが当たり前の状態になっていた。
 おそらくこれは、元康が城主に復帰したところでかわりはしないだろう。それでも、元康が戻ってくることを心の支えにして頑張ってくれている岡崎の農民や将兵のためにも、元康はなんとしても今回の上洛で武功をたて、義元から岡崎城を返してもらわなくてはならなかった。
 これまで散っていった多くの家臣たちのために。そして、元康自身の夢のために。



 そしてしばし後。
 今川軍から使者がやってきたと聞き、砦内に迎え入れた元康は、その人物の顔を見てぽかんと口を開けてしまった。
「せ、雪斎和尚?? ど、どうしてこんなところに?! 義元様の本陣にいらっしゃった筈では……」
「なに、我が愛弟子の戦果を確認しようと思うてな」
 戦帷子をまとった雪斎はそう言うと、元康に促されるままに腰を下ろした。
 その動きは滑らかで、年による衰えを微塵も感じさせない。雪斎は一見すると、線の細い文官のように見えるが、その実、日ごろの鍛錬を怠っておらず、老人とは思えぬ引き締まった体躯をしていることを知る者はあまり多くない。
 太原雪斎といえば今川家の大軍師として名高いが、元康から見れば、雪斎は軍師ではなく、まぎれもなく武将、それも歴戦不敗の名将であった。
 


「上総殿は相変わらず清洲から動いておらぬ。報告では木下某という者が、戦に先立ち、このあたりでも大量の米や野菜を買い占め、篭城のためと申しておったそうだが、ちと尾張のうつけと呼ばれる者にしては動きが素直すぎる」
 雪斎の言葉に、元康は背筋を伸ばして聞き入る。
 その智、情報の収集から思考の展開、すべてが元康にとっての教本であった。
「地の利は敵にある。ゆえに織田軍の動きには注意が必要だが……しかし、敵を警戒するばかりで、こちらが動かぬは愚の骨頂。このような時は戦の常道に沿って兵を動かすべきであろう。元康殿、敵地に踏み込んだ際、注意すべきことは何であろう?」
「はい。兵力の分散を避けること。糧道を確保すること。情報の収集を怠らぬこと。あとは、ええと……」
 懸命に考え込む弟子を、雪斎は暖かい眼差しで見守る。雪斎はこれまで多くの者たちに学問の手ほどきをし、兵法を教授してきたが、元康はその中でも出色の人材であった。
 ありふれた表現だが、教えたことを吸収する早さは、砂地に水を撒くにも似て、しかもどれだけ撒いても水が溢れる様子が少しもない。駿府で雪斎の教えを受けていた当時の元康の様子は、他の子弟たちとは異なり、懸命とも必死とも言えるものだった。
 それが、三河の地を取り戻し、自らの夢を叶えるための当然の努力だと、後に雪斎は元康自身の口からきかされた。


 自らの夢――この戦乱の世を鎮めること。


 今川家の大軍師を前に、怯むことなくそう言い切る幼子を目の当たりにした時、雪斎は落雷に撃たれたような衝撃を覚えたものであった。そして元康に教えを授ける度に、その思いが嘘偽りないものであることを悟る。
 義元に松平家へ岡崎城を返還するよう願い出たのは、愛弟子に対する感情だけではない。このまま岡崎城を今川家が治め続ければ、いずれ主家である今川家に対し、元康が反感を抱く時が必ずやってくるだろう。その
時、雪斎が生きていれば良いが、もしすでに墓の下にいた場合、元康と同世代の若者たちでは相手にもならぬ。
 否、正直なところ、成長した元康は、雪斎の予測を軽々と越え、雪斎に優る兵略家になっているのではないかとさえ思っていた。
 そんな人物を敵に回すのは愚かなこと。こちらが誠意をもって遇すれば、元康はそれを必ず感じ取り、今川家に対して好意を抱いてくれるだろう。少なくとも敵対するような真似はしないに違いない。
 そうつげる雪斎に対し、義元は「女童一人に大げさよな」と笑いつつ、しかし雪斎の言をなおざりにすることはしなかった。
 元康が長じて戦に出て、相応の手柄をたてたなら必ず岡崎城を返還することを約束し、さらには娘の氏真にも引き合わせた。氏真もまた幼いながらに努力を怠らぬ傑物であり、雪斎にとっても良い教え子である。この二人が友情を通い合わせてくれれば、今川家は、たとえ雪斎と義元が亡くなっても、その勢威を翳らせることはないだろう、と雪斎は考えていたのである。



 そして今。
 すべては今川家にとって良い方向に進んでいる。かつて雪斎が胸に描いたとおりに。
 だが、ここで元康に討ち死にでもされては、松平家は無論のこと、今川家の将来にも影が落ちる。
 そう思い、義元の許可をとって、年甲斐もなく元康と同じ先陣に出てきたのだが、丸根砦を陥とした様子を見るに(直属の精鋭つれてこっそり見ていた)どうやら自分の杞憂であったらしい、と雪斎は考えていた。
 同時にふと思う。
 子のない雪斎にとっては、元康は孫にも等しい愛弟子である。その弟子可愛さで、いい年をして前線を駆け回っている自分は、もしかしたらかなり滑稽なのかもしれん、と。
 だが、それを改めようとは、何故か少しも思わない今川家の大軍師であった。





 とはいえ、もちろんただ弟子可愛さのためだけに動き続けているわけではない。
 雪斎は織田信長の動きが気にかかっていたのである。
 あまりにも静か過ぎる、と。
 今川家と織田家の戦力差は隔絶している。篭城を選ぶことは不自然ではないし、むしろそのことに疑惑を抱く者など雪斎の他にはほとんどいない。
 だが、雪斎は織田信長という人物が、常識はずれの行動をたびたび起こしていることを知っていた。領民からさえ「うつけ」などと呼ばれる奇抜な人物だが、それを伝え聞いた雪斎は、その行動の端々に信長という人物の尋常ならざる思考を感じていた。
 それは一言で言えば便利の追求。因習、慣習を蹴飛ばして、ただ己が良いと思う方向に物事を押し進めていく破天荒。
 凡才のそれはうつけで済むが、天才のそれは時に変革への端緒となる。
 そして、雪斎の目に、信長は後者と映った。なぜならば、ただのうつけが、今川家の勢力に対抗し尾張半国を統べることなど出来はしないからである。



 ゆえに、雪斎は主君義元に対しても油断を厳禁とした。
 どれだけ信長が優れた才能を持っていようとも、彼我の戦力比がこれだけ離れていれば、手の打ちようはほとんどない。
 今川家はあくまで堂々と、油断なく、正攻法で押し進んで行けばよい。
 もっとも警戒するべきは、地の利を持つ敵の奇襲であったから、その備えは怠らず、間違っても奇襲に適した窪地などに陣を止めてはならない。雪斎は全軍にそう訓示し、義元もそれはもっともと頷いていた。
 ゆえに、ここまでの今川軍の動きは実に整然と、また悠然としたものであり、鬼神の目をもってしても、付け入る隙は見出せなかったに違いない。



 元康が首を傾げた。
「織田軍が動かないのは、そのためではないのですか?」
「うむ。確かにそう考えるのが妥当なのだろうが、な。どうも腑に落ちぬ。この程度でのまれる織田信長なのか、と」
「ふふ、雪斎和尚は信長殿を高く評価しておられるのですね」
 元康の笑みに、雪斎は苦笑した。年をとってからというもの、世俗の権勢よりも、優れた才能に惹かれるようになったことは、雪斎自身、自覚せざるをえないところであった。 
「たしかに、一度、じかに言葉をかわしてみたいものだとは思っておる。出来うれば、我が今川に従ってくれれば良いのだが……」
 おそらく無理であろう、とは元康の耳ではなく、心で聞き取った雪斎の嘆きであった。


「ともあれ、上総殿の反応を見るためにも前線に出てきたのだが、主要の砦二つを陥とされても、清洲ではほとんど動きがないようだ」
 信長の戦才に確信を抱いている雪斎だが、さすがにここまで攻め込まれながら、なおも静まり返っている清洲の様子には訝しさを感じていた。
 居竦まっているわけではない。これは機を見計らっている静まり方であった。
 だが、その機とは何なのかが雪斎にさえ見えてこない。奇襲を考えているのかとも考えたが、今川勢が奇襲に備えて進軍していることは織田軍とてわかっていよう。油断などどこにもない。
 時機を見計らって出陣するにしても、丸根砦を元康が陥とし、鷲津砦が朝比奈泰朝の手に落ちた今、清洲への道を遮る要害はない。このままでは織田軍が動くよりも早く、今川の先鋒が清洲に達してしまうであろう。それがわからぬ信長ではあるまい。
 では、一体、信長は何を待っているのか。



 雪斎の顔にたゆたう感情を、あえて名づけるのならば不審であろう。
 此度の戦の詳細を、敵味方を問わず鮮明に描き出す雪斎の脳裏の軍略図にあって、たった一つ、墨に塗りつぶされたように見えぬ箇所。そこを見極めるために、黒点を注視すればするほどに、雪斎の胸中からは何故ともしれぬ不吉な予感があふれ出る。
 はたして、これは本当に織田信長がもたらすものなのか。雪斎はそのことに確信がもてずにいたのである。


 そして、元康は。
 滅多に見ることのない師の表情に、何故だか背筋に悪寒がはしるのを感じていた。






 明けて翌日。
 丸根の砦に急使がやってくる。
 雪斎と元康のもとに届いた情報は二つ。
 夜半、織田信長みずから率いる清洲の精鋭が一路、城を出て国境付近に向かったこと。
 それは城下の家臣たちが集う暇すらなき神速の行軍で、さすがの雪斎麾下の諜者も完全に行方を見失ってしまい、やむなく織田軍出撃の報告だけをもって戻ってきたのである。
 そしてもう一つ。
 今川軍の本隊を率いる今川義元が、全軍を尾張桶狭間に展開。ここに陣を据えたという。桶狭間は山間に位置する窪地であり、雪斎が決して留まるなと全軍に訓示した地形でもあった。
 それを聞いた雪斎は目を瞠る。
 海道一の弓取りたる義元であれば、自身がどれだけの死地にいるかなど、誰に言われずとも承知していように。
「――何ゆえに義元様がその地に陣を布かれたかはわかるか? 大高城まではさほどの距離もない。にもかかわらず、義元様が桶狭間に兵をとめざるをえない理由があったのであろう?」
「御意に、ございます……」
 駆けつけたばかりで、整わない息の間から押し出すように、急使は告げる。
「氏真様が……」
「なに?」
「え?」
 予期せぬ人名に、雪斎だけでなく、元康の口からも驚きの声があがる。
「氏真様が、駿府城を飛び出し、この地まで……参られたために……」

   
 急使の弱弱しい声は、しかし、雪斎たちの耳に落雷さながらの轟音をともなって響き渡ったのである。




◆◆


 少し時を遡る。



 悠々たる舞。朗々たる声。
 尾張平野を照らす灼熱の陽光さえ、この気迫の前では木洩れ日か。
 己のほかに誰一人とて見る者のない一室で、織田信長はただ無心に舞っていた。


 人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか


 舞うほどに意識が研ぎ澄まされ、澄んだ意識がさらに舞を高みに押し上げる。
 信長の長い髪が踊るように宙にひらめき、豊麗な肢体が熱を帯びて床を蹴る。
 迫り来る今川の大軍も、眼前に迫った決戦も、今この時は些事となる。
 その胸中に思い描くは、はるか彼方の天下のみ。
 篭城降伏を唱える家臣たちには口にも出さぬその悲願、今川ごときに邪魔などさせぬ。



「信長様」
「む、光秀か」
「御意」
 信長が敦盛を舞い終えるのを見計らったかのように、外から控えめに呼びかける声がする。
 襖を開くと、そこには明智光秀の姿があった。刀術、槍術、火縄鉄砲の扱いから、軍略、政略に到るまで通じぬ物はないという英才は、端麗な顔立ちと白皙の肌をあわせもつ麗人であった。
 その眼差しに浮かぶのは、信長と、信長の抱く志への絶対的な忠誠のみ。いまだ織田家に仕えて日は浅いが、信長の志を理解すること、光秀に優る者は織田家にはいない――いや、一人だけいるか、と信長は小さく笑う。
「信長様?」
「なんでもない。それより、なんぞ知らせがあったのであろう?」
「は。例の輩から、また知らせが参りました。それによれば、丸根を攻めるは松平元康、鷲津を攻めるは朝比奈泰朝。いずれも兵力は三千を越える、と」
「そうか――もたぬな」
「御意。砦に篭るは三百足らず。無理でしょう」
「で、光秀のことじゃ。知らせを鵜呑みにしたわけではあるまい。確認はしたのだろう」
「は。この知らせに間違いはございません。ですが……」
 光秀の顔が、かすかに曇る。その危惧を悟った信長は、薄く笑った。
「わかっておる。正体も明かさぬ者の知らせをもとに動いたりはせんよ。しかし、こうまで正確な情報を送るとなると、今川の中枢にいる者だということになるか」
「はい。ただ、狙いが奈辺にあるのか判然といたしません。次に密使が来たおり、後をつけさせましょうか?」
「よい、放っておけ」
 信長の言葉に、光秀は少し驚いた。他者に踊らされるのを何よりも嫌う信長のこと、何かしら考えがあるのだろうとは思ったが、それでもつい問いを口にしてしまう。
「よろしいのですか?」
「かまわん。この信長が相手の用意した盤面で素直に踊ると向こうが思っているのなら、いずれ思い知らせてやるだけのこと。どのみち、今のわしらにはやるべきことが山積みなのじゃ。顔も知らぬ相手の思惑を忖度するなど無益なことよ」
「承知いたしました。ですが万一にもこちらの動きがもれることがないよう、注意は払っておきます」
「うむ」


 光秀の言葉に、信長は頷きでこたえ、遠く東の方角を見据える。
 恐るべき勢いで殺到する今川家の大軍は、いまだ影さえ見えぬ。しかし、ほどなく尾張はその猛威に飲み込まれよう。
 それはずっと以前よりわかりきっていたことだった。


 そしてもう一つわかっていることがある。
 その大波に耐えきって、そこで初めて始まるのである。
 ――自分の、織田信長の、天下布武への道が。



  
◆◆




 山内上杉家にあって、三国同盟の締結が、北条勢の大攻勢の予兆であることを悟った者は少なくない。
 長野業正もまたその一人である。
 必然的に彼らは主君憲政に対し、防備の強化ならびに周辺諸国との協調を説いた。
 関東管領とはいえ、昔日の勢いはすでにない。北条家の猛攻を受ければ支えきれないであろうことは、誰の目にも明らかであった。
 それゆえ、諸国の援軍、ことに北の越後との友好は山内上杉家にとって焦眉の急だったのである。
 かりに越後上杉家が北条方につけば、山内上杉家の命運は絶たれたも同然であった。


 だが、彼らの多くが予測していたように、上杉憲政はこれを聞き入れず、北条家何するものぞと嘯くばかりだった。まして積年の仇敵である越後と手を組むなど聞き入れる筈もなく、多くの者たちは自分の家を生き残らせるために奔走するようになる。
 その中にあって、長野業正はあくまで主家存続のために手を打ち続けた。粘り強く主君を説得するかたわら、密かに越後に使者を遣わし、同盟の可否を探り、さらには平井城が敵の重囲に陥った場合を想定し、主君が落ち延びる道を用意する。
 最悪の場合、上野を失ったとしても、関東管領上杉氏の血脈を絶やさなければそれで良い。業正はそう考えたのである。


 元来、業正は武将であって文官ではない。こういった影働きは得意とするところではなく、結局北条、武田両家に先手を打たれ「最悪の場合」は現実となってしまう。
 それでも燃え落ちる平井城から、憲政がかろうじて脱出できたのも、そして越後へと落ち延びることが出来たのも、業正のお陰であるといえるだろう。
 だが、憲政が人が変わったように大人しくなったことは、あるいは業正ではなく、北条家のお陰であると言えるかもしれない。
 平井城が陥落してよりこちら、憲政は言葉すくなに縮こまり、家臣たちが何を言ってもただ頷くだけで、以前のように倣岸に反対を唱えたり、あるいは自身の権威をひけらかすようなことはしなかったのである。
 燃え落ちる居城の姿が、よほどに憲政の心をうちのめしたのだろう。
 関東管領の城が陥落する。そんなありえない筈の出来事が、現実となってしまったのである。これまではどれだけ敗れても、城に戻れば家臣たちは跪き、宴で憂さを散ずることが出来た。そうして、敗北の傷を癒すことが出来た。
 だが、今やその城がないのである。憲政の放心は、ある意味で当然のことであったのかもしれない。


 家臣たちはそんな憲政の急激な変化に戸惑ったが、しかし越後を頼るのであれば、今の憲政の方が良いと思ったのは確かであった。
 常のような態度をとられた日には、どれだけ相手が友好的であっても怒らせずにはいないであろう。今の憲政であれば、仇敵ともいえる越後上杉家も、哀れみを抱いてくれるかもしれない。


 だが、上杉憲政の脱出を知った北条勢はすぐさま追っ手をかけてきた。
 憲政が逃げ込むとすれば、箕輪城か、あるいは北の越後しかない。箕輪城に逃げ込んだのならば、改めて城を陥とせば済むが、越後に逃げ込まれては後々厄介なことになる。
 上杉憲政に遺恨を抱く北条綱成は、自身の黄備えを動員し、猛追を仕掛けた。憲政の側近たちは何とかこれを凌ごうとするが、北条家の最精鋭とまともにぶつかれる者などどこにもいない。ただ後ろを見ずに必死に逃げることしか出来ず、北条勢はただひたすらに追い続けた。
 この分であれば、越後国境のかなり手前で追いつける。そう綱成が確信した瞬間だった。
 彼方にとらえた憲政の姿が、不意に見えなくなる。
 草莽から姿を現した兵士たちが、北条勢の行く手を遮ったからだった。


「何者か、貴様ら!」
 問いつつ、しかし綱成は答えなど気にしていなかった。
 誰であれ、関東管領の与党であろう。蹴散らす以外の選択肢がある筈はなかった。
 しかし。
「越後守護上杉景虎が臣、天城颯馬」
 姿を現した敵の将は甲冑すらまとわぬ姿のまま、綱成の前に姿を現し、恐怖の色すら見せずに告げた。
「主君の命により、関東管領殿をお助けいたす。北条家の方々におかれては、ただちに兵を退かれるがよろしかろう――無論」
 そういって、天城と名乗った将が音高く鉄扇を広げると、まるでそれに呼応したかのように、次々と上杉軍の将兵があらわれる。
 それを見て、綱成は自らが罠にはまったことを悟った。


「我が上杉の力、その身で確かめたいとお望みであれば、お相手いたす。お選びあれ」
  




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/27 21:13
 
 本文中に残酷表現(性描写含む)があります。
 そういった表現に嫌悪感を抱かれる方は、天城の関東編が終わり「しかし」と書かれた以降の本編はご覧にならないようにしてください。
 一応判別しやすいように、空欄は大きくとってあります。



◆◆◆



 先刻まで晴れ渡っていた空は、群がり起こる黒雲に覆われつつあった。
 吹き付ける風には濃厚な湿気が含まれ、稜線の彼方には稲光さえ見て取れる。
 太原雪斎は今川軍の本陣目指して馬を疾駆させながら、間もなく嵐がやってくることを確信し、かすかに頭を振る。
 天は織田に味方するか。
 脳裏によぎったその思いを振り払うためであった。


「――義元様」
「お、おお、雪斎、戻ったか。すまぬ、このような……」
「経緯は使者より聞いておりまする。しかし、氏真様はどうやってここまで……」
 その問いを口に仕掛けた雪斎は、申し訳なさそうに地にひれ伏す男の姿に気付き、口を閉ざした。
「信虎殿か、氏真様を駿府よりお連れしたのは」
「も、申し訳ござらぬ。氏真様が、なんとしてもお父上と共に戦いたいと仰せになり、お止めすることができませんなんだ」
「そ、そうなのだ。まさかそこまで思いつめておったとはわしも思い及ばず、氏真には済まぬことをしてしもうた」
 信虎の言葉に、義元は両の目を拭う。
 駿府城を抜け出した氏真の行動は将帥として許せるものではないが、父である義元を思ってくれる心には感激しきり、というところなのだろう。


 雪斎は一度だけ小さく頭を振ると、当の氏真の姿を探す。
 だが、いつもは「師よ、師よ」と自分を慕ってくれる氏真はどこにも見えない。
 雪斎の視線に気付いた信虎が、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「若君であれば、義元様の天幕におられますぞ。実は先夜より体調を崩され、熱が下がらず……」
「……そのような状態の氏真様を、この戦場の只中まで連れてこられたというのか?」
「は、その、それがしもおとめはしたのですが、ならば一人で行く、と病の床から出て行こうとなされて……それに、このあたりの田舎町に腕の良い医者などそうそうおらず。であれば、義元様の陣までお連れして、典医に診てもらった方がよいと判断したのでござる」
 信虎の言い分に、義元は何度も頷く。
「うむ、氏真の病を氏素性も知れぬ町医者に診せるなどとんでもないわ。典医によれば、蓄積した疲労のせいであろうとのことゆえ、数日、ゆっくりと休めばすぐにも治るであろう」
 その義元に、雪斎は静かに口を開く。
「義元様、そのように悠長なことを仰っている場合ではございませぬ。ここが兵法で言う死地にあたられること、お分かりでしょう」
「う、うむ、それはわかっておるが……ようやく休めた氏真をすぐにも動かすのは忍びない。せめて今宵一晩なりと、ゆっくり休ませてやりたいのだ」
「今、申し上げました。悠長なことを仰っている場合ではござらぬ、と」


 雪斎の言葉に何かを悟ったのか、義元が、親ではなく将としての顔になる。
 その義元に向け、雪斎は告げた。
「尾張の織田信長、直属の精鋭を率い、清洲を出た由にございます。いずこに向かったかまではつかめませぬが、間違いなく狙いは義元様の御首級でありましょう。織田には忍、野武士の類も多いと聞きまする。我らが桶狭間にいることが敵に知られれば、間違いなく襲って参りましょう。早急に陣を動かさねば、今川の将兵、皆、敵国の土と化してしまいまするぞ」
 さすがに氏真大事の義元といえど、この雪斎の言葉には反駁することが出来なかった。
 それに野外の天幕よりも、大高城の中の方が良く休めるであろう。


「で、ではそれがし、若君の様子を見て参りましょう」
 信虎は一言断ると、義元の天幕に歩み去る。
 義元がその後に続こうとした、その矢先。
 義元の頬に大粒の雨滴が弾け、それは瞬く間に周囲にも降り注いできた。
 やがて、あたりはまるで夜のような暗がりに包まれ、滝のような豪雨が降り注ぐ。
 急激な天候の変化に、今川軍の各処から慌てたような声が沸きおこり、しばし騒然とした空気が陣営全体を包み込んだ。


「まずいな。この豪雨の中、軍を動かすのは危なかろう」
 義元の言葉に、雪斎も頷かざるをえなかった。
「そうですな。少なくともこの雨が止むまでは動かぬ方がよろしかろう。しかし、奇襲への備えはしておくべきでござる」
「この雨に、この暗さだ。織田の軍とて動くこともままなるまいし、我が軍の位置を知ることも容易ではあるまいと思うが」
「備えあれば憂いなしと申します。兵には苦労をかけますが、万に一つも間違いがあってはなりますまい。まして、ここには動けぬ氏真様がおられるのですから」
「そ、そうだな、そのとおりだ。早急に歩哨をたてて警戒にあたらせよう」
「御意。では――」


 雪斎の指揮の下、突然の豪雨に混乱していた今川軍は、それでも少しずつ静まり、落ち着きを取り戻していく。
 雨の中を警戒にあてられた兵士たちは愚痴を禁じ得なかったが、織田軍の奇襲の恐れがあると聞かされれば否やはない。
 この雨とてそれほど長く降っているとは思われず、雨がおさまり次第、大高城へ出発することが出来るのだから、と兵士たちは自分たちを慰めつつ周囲の警戒にあたったのである。


「うあ、まるで滝じゃな、こりゃあ」
「通り雨だろうが、しっかし、こんな雨じゃあ敵も動けねえんじゃねえか。しかも相手は尾張のうつけ殿だろ?」
「そうそう。今頃、清洲で雷におびえて震えとるんでねえか」
「ばか、太原様が来る可能性があるといっとるんじゃ。んなわけねえだよ」
「んだな、太原様に従っておれば、生きて国に帰ることも出来るってもんよ」
「おお、また始まったぞ。茂介の、国に帰りたい、が。ぺっぴんの嫁さん置いてきたことが、そんなに心残りかよ」
「おお、心残りよ。悪いか」
「お、からかわれすぎて、開き直りおったぞこやつ」


 一際若い男性を囲み、周囲の男たちが笑い声をあげた、その時。 
「まあ、あまり騒ぐと侍に文句言われるじゃろ、きちんと――」
 そこまで言いかけ、唐突にその男は跪き、地面に倒れこんだ。
「おい、どうした。こんなところで寝たら……って、おい、大丈夫かッ?!」
 倒れた男を抱え起こそうとした者が、その手にぬるりとついた鮮血に気付き、声を高めた。
 血はすぐに雨で拭い去られていったが、背中から胸に抜けた矢は消えようがない。
「な、て、敵しゅ――ぎあああッ!」
「お、おい、くそ、なんだ、誰だよ畜生!」
「馬鹿! 早く身を低くしろ、兜をかぶらねえか、そんでもって敵だ敵だ大声で騒げ!」
「ひ、ひい、わ、わかった」


 だが、そのような暇は与えられなかった。
 暗闇の中から馬蹄の轟きが聞こえてきた。そう思った途端、彼らの前にはたちまち数十、数百の軍勢が姿を現したからである。
 その旗印は『五つ木瓜』。尾張織田家の家紋である。
 そして、その戦闘に立って今まさに今川軍に突入していく女性こそ――


「狙うは今川義元の首一つ、他の首など褒美にはならん。ただ義元の首級だけが今日の手柄ぞ!」
 これまでひたすら静粛に今川本陣に近づいていた織田軍は、今こそその枷から放たれ、暗闇を裂いて猛々しい雄たけびをあげながら、今川軍に突入していく。
 そんな彼らの先頭に立った織田信長は、高々と愛刀を掲げた後、それをまっすぐに敵陣に向けて振り下ろした。
「全軍、かかれェッ!!」
 天を衝く喊声が、それに応じた。



◆◆



 速い。
 織田軍の襲撃を知った雪斎は、小さく驚嘆した。そして疑念を確信へと高めた。
 清洲から桶狭間までの距離を考えれば、雨中を裂いて現れた織田の軍勢が、この場所を知っていたのは明らかであった。
 今川軍とて斥候も物見も出している。その網をことごとく潜りぬけ、進軍予定にもなかった桶狭間への滞陣を見抜き、嵐の中を迷うことなく進撃する――それはもう戦の天才などではなく、自暴自棄の暴走である。
 だが、おそらく信長は、それをするに足る何かを――今川軍の動きを知る何かを得たのであろう。


 だが、今はそのことに思いを及ばせている場合ではなかった。
 織田の逞兵は凄まじい勢いで今川軍を蹂躙しつつあり、将が声をからして落ち着くように叫んでも、闇と雨音と織田軍の喊声におびえた兵たちは逃げ惑うばかり。中には味方同士斬り合う者さえいた。
 雪斎は自身の直属の兵と、本営近くにいた兵力を何とか手元でまとめると、盛大に篝火を焚くように命じる。
 無論、外はいまだ大粒の雨が尽きることなく降っている。戸惑う兵に対し、雪斎はあるだけの油を投じて火を絶やさぬように告げた。
「まずは闇を払う。兵を集めよ。しかる後、陣を組んで織田軍を迎え撃つ」
 織田軍の勢いからすれば、ほどなくここまで踏み込んでくるだろう。間に合うかどうかは三分七分というところか。


「雪斎」
「義元様は氏真様を連れて後方へお退きあれ。この場は拙僧が引き受けもうそう」
「しかし、織田のうつけなどに――」
「急がれよ。たとえここで敗れようと義元様と氏真様がおられれば、いくらでも挽回できるのです。ですが、たとえ全軍が無事でも、お二人がおられねば今川家は立ち行きませぬ」
「む……」
 義元が黙り込むと、その後ろからやや遠慮がちな声が割り込んできた。
 氏真を背負った信虎であった。
「義元様、ここは雪斎殿の申されるとおりにするがよろしいかと存ずる。時遅れれば、織田の軍が乱入して参りましょう」
「信虎殿……」
「ご安心くだされ、雪斎殿。これ、このように氏真様はそれがしがしっかとお守りいたしておりますゆえ。心置きなく、織田軍と戦ってくだされ」
 そう言うと、信虎はいつもの気弱げな顔で、小さく笑った。
「それがし、かようなことでしかお役に立てませぬでな。それとも、このような形でも今川家のご恩に報いることが出来るのは幸運と申すべきでござろうか」


 雪斎の視線と、信虎の視線がつかの間、重なり合う。
 不意に。
 雪斎の全身を、悪寒が襲った。
 目の前にいる男の眼差しの奥。気弱げな眼差しのその奥に、何かが見えた気がした。何故かそれが、脳裏の戦略図を汚していた黒い染みと一致する。
 咄嗟に、雪斎は口を開こうとし――
「義元さ――」
「おお、もう織田勢の喊声がここまで響いてくる。猶予はありませぬな。義元様、若君の容態も心配でござるし、ここにこれ以上とどまれば、雪斎殿のお志を無にしてしまうことになりましょう、急ぎ退きましょうぞ。どうもまたお熱が上がっているように思われまする」
「お、おお、そうじゃな。すまぬ、雪斎、ここは任せたぞ。だが、死んではならぬ。良いな、死んではならぬぞ」
 雪斎は主君に口を開きかけたが、信虎の言うとおり、すでに織田軍の喊声ははっきりと雪斎の下まで届くほど近づいている。
 これ以上ここに留まれば、今川軍は指揮をする者もないままに織田軍に踏み潰され、義元や氏真たちも逃げられずに首をはねられるのは明らかだった。
 義元に注意を促そうにも――雪斎の視線が、信虎に向けられる。信虎はその視線に気付くと、見慣れた微笑を浮かべ、そして背中に負った氏真を背負いなおす。ただそれだけの動作が、雪斎の口を封じ込める。


「――義元様」
「なんじゃ、末期の願いなど聞かぬぞ。まだわしにはそちの力が必要なのだから」
「御意にござる。されど一言だけ、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすと申します。ご油断が禁物であることは此度のことでおわかりになられたでございましょう。その獅子とて一匹の虫で倒れることもございます。過ちを繰り返さぬように、それだけは申しておきますぞ」
「うむ、肝に銘じよう」
「御意。それではお行き下され」




 鬼神の如き強さで暴れまわる織田勢の前に、寡兵で壁をつくりながら、雪斎は義元たちが去った方角に一度だけ目を向けた。
 ここで雪斎が織田軍を食い止めねば、間違いなく義元たちは首を切られるだろう。
 だが、食い止めたところで――もう遅いかもしれぬ。
 あの狂気に、誰一人気付けなかった時点で、今川家は滅びに瀕していたのだろう。
 可能性があるとしたら、ただちに織田軍を打ち破り、義元たちの後を追うことだが――迫り来る織田勢の叫喚が、そのわずかな可能性すら黒く塗りつぶす。
「この身はすでに老残、命を惜しむつもりはない。されど主家に巣食いし害虫を叩き潰すためにも、ここで散るわけにはいかぬ。上総殿、我が全てをもってお相手させていただこう」






 しばし後。
「織田上総介が家臣、明智光秀。今川軍太原雪斎殿とお見受けいたす。我が主の夢をかなえるため、その首級、頂戴させていただく」
「ぐ、ぬ。見事、じゃが、すまぬがこの皺首、そうですかと差し上げるわけには参らぬでな」
「ならば降伏めされよ。その傷では、もはやこれ以上戦えますまい」
「ふふ、お心、ありがたいが、織田軍を、この先に通すわけにはいきもうさぬ」
「……ならば、やはりその首級、いただくことになります」
「それがそなたの務めであり、夢なのであろう――遠慮は要らぬ。参られよ」
 そう口にしつつ、雪斎は尾張に踏み込んだままの愛弟子に、胸中で語りかけた。
 届く筈はないと、思いながら。強く。


 元康殿。面倒事ばかりを残して逝くは師として恥ずべきことなれど、どうか頼む。
 そなたの友を、救うてやってくれ――


 緋色の雨が、桶狭間の地に降った。
 



◆◆




「我が上杉の力、その身で確かめたいとお望みであれば、お相手いたす。お選びあれ――だって、く、ぷく、く」
「――勝手に真似して、勝手にうけないでくださいよ、政景様」
「いやいや、颯馬があんまり格好良くてね。く、くく、ああ、お腹痛い」
 蹴飛ばしてやろうか、ほんとに。
 俺は憮然とした表情で、さっきから一人で笑いまくっている政景様を睨む。
 すると、なにやら顔を赤くして俺を見ている弥太郎に気付いた。
「どうした、弥太郎?」
「…………へ? あ、い、いえ、何でもないないでございます」
 明らかに変な話し方だが、両の頬をおさえて顔をそむける弥太郎は、特にそれ以上、俺には何も言わなかった。ただ「うわー、うわー、うわー」となにやらずっと呟いている。なんかのお呪いだろうか。


 俺が馬を下りると、すぐに段蔵が話しかけてくる。
「それでいかがでしたか、着込みの具合は」
「ん、やっぱり重いな。けど、それ以外に気になるところはなかったな」
「そうですか。重さは着ているうちに慣れるでしょう。戦の時だけでなく、普段からも身に付けておくべきと進言いたします」
 着込みとは、簡単に言えば服の下に着る防具である。鎖帷子(くさりかたびら)と言えば想像しやすいかもしれない。
 防刃に優れ、甲冑などよりもはるかに動きやすい。何より良いのが、これまでの俺と外見上はかわらずに見える点である。甲冑をまとわずに指揮をする、という俺の噂はそれなりに役に立つので、出来ればそのイメージは損ないたくなかったのだ。


 これまでのように、無防備に戦場に出ることは避けなければならない。だが、積み重なった虚名は利用したい。そんな虫の良いことを考えた俺は、段蔵に相談してみたのである。
 身軽に動く、となるとやはり忍の方がそういった知識は豊富だろうと考えたのだ。
 すると段蔵は深く深くため息を吐き「そういったことはもっと早く言ってください」と言って席をたつや、たちまちのうちに何着もの着込みを持ってきたのである。サイズもぴったりだった。時折、段蔵の用意の良さに戦慄せざるを得ない俺である。


 ともあれ、俺は今回の上野出兵に先立ち、いつもよりも入念に準備をした。
 さすがにこれまでどおりの戦い方をしたら、景虎様ほか皆様に申し訳が立たん。段蔵はいつもどおりだったが、弥太郎がにこにこしてたのは、多分そういった俺の変化に気付いたからなのだろう。
 長野業正からの使者によって、上野まで出てきた上杉軍であったが、正直、この出兵に俺は消極的だった。
 上杉憲政を保護すれば、必然的に北条家を敵にまわさざるをえず、両軍が戦う度に関東まで出て行かなければならない。それは上杉家の軍事費を大きく圧迫することになるからである。
 おまけに当の上杉憲政に関しては、悪い噂ばかりで、しかもそれがほとんど事実であるらしい。こちらが援軍を出しても、関東管領を助けるのは当然だと嘯いて、感謝一つしそうもない。
 いっそ北条家と結んで攻め潰した方が世の為、人の為ではなかろうか、とさすがに口には出さなかったが、俺はそんなことを考えたほどだった。


 しかし、当然といえば当然ながら、将軍家の命令で喜んで上洛した景虎様が、関東管領からの要請に応えないわけがない。
 実際、要請は家老である長野業正からのもので、正式に関東管領家から出されたものではなかったが、北条勢が大軍を派遣しているのは事実であり、景虎様は上野との国境に援軍を送り込むことを決定したのである。


 この指揮官に真っ先に名乗りを挙げたのが政景様であったのは予想どおりであった。
 景虎様は自分が出るといったのだが、政景様はにやりと一言「あんた守護でしょ」と。
 結局、この一言で軍配は政景様にあがり、上杉軍五千は上野との国境まで出てきたのである。兵数をやや抑え目にしたのは、北条家と矛を交えることで、武田家が信濃方面で三国同盟を理由に兵を動かす可能性があったからである。
 一応、村上家にもその可能性は伝えておいたので、奇襲を喰らうようなことはないだろう。


 たかだか五千程度では北条家の大軍とまともに戦える筈もないが、かといって越後全軍をあげて関東に踏み出せるほど、国内も落ち着いていない。
 正直、景虎様の守護職就任に関する国人衆の反応さえ不分明なのである。
 だが、晴景様の時もそうだったが、こうもいつもいつも国人衆の反応を気にしなければいけないあたりは、やはり今後の課題であろう。守護は越後の国主であって、国人衆の旗頭ではない。そう断言できるだけの勢威をどのように築くかを模索しなければなるまい。
 そうでないと、これから先、何かと不都合が出てくるだろう。ただでさえ越後は冬は豪雪に包まれて動きがとれないという不利があるのだから。


 が、まずは目の前のことを片付けるのが先である。
 俺たちは上野の国境に着くや、情報を集め、山内上杉家と北条家との戦いの趨勢を把握する。業正も書状でそれとなく触れていたが、思ったとおりこてんばんにのされているらしい。
 というより、もう勝負はついていたようだ。これでいっそ上杉憲政が北条家に捕らえられていれば、と期待した俺だったが、よりにもよって平井城から逃れてこちらに向かって逃げている最中だという。
 しかも追っているのが北条綱成である。いきなり氏康の片腕か。
 だが、逆に言えばこれは好機。ここで綱成を討ち取れば、今後の展開、かなり楽になるであろうと思われた。


 もういちいち驚くつもりもないが、綱成も女の子だった。綺麗な黒髪と、額にまいた黄色い鉢巻、あと鎧越しでもわかるくらい大きい胸が特徴の。
 三番目に関しては、別にじっと見たりしたわけではないのだが、ちらりと視線をはしらせたのは気付かれたらしい。
 なんか真っ赤になって怒られた。戦の最中にふしだらだ、とか。
 こっちは、伏兵を仕掛け、格好つけてみた後だけに、すこし呆気にとられてしまった。そんな俺に気付いたのだろう。向こうも、そんなことを言っている場合ではないと気付いたのか、顔は真っ赤にしたまま、しかしもっていた槍を構え直す。それを見た弥太郎が、俺の前に馬を立て、同じく槍を振りかぶる。


 両軍の間に(やっと)緊張がはしったが、そうこうしている間に憲政たちの姿は後方の政景様の陣の中に消えており、もう追撃も困難だと悟ったか、綱成は口惜しげな顔をすると、兵に退却を命じた。
 追撃しようかと思わないわけではなかったが、綱成の退き際には隙がなく、ぶつかればこちらも相応の出血を覚悟しなければならないと思われた。憲政の救出という任務は果たしたし、ついでに言えば綱成の為人にちょっと和んでしまった俺は、今日のところはこれでよしとすることにしたのである。
 この後、箕輪城の救援に行くことを考えれば、今の時点で大きな損耗をするわけにもいかなかったという理由もある。


 箕輪城の救援に関しては、業正の書状には一字たりとも記されていなかったが、これから関東で北条家と戦わなければいけない上杉家にとって、長野業正ならびに長野家の力は絶対に必要であった。個人的に言えば、長野業正本人にはぜひとも会ってみたい。
 かくて、箕輪城を巡る諸勢力の戦いが始まる――かと思われた。
 

 しかし。
 






◆◆◆







 今川義元は目を開けた。
 いつの間に眠りについたのか、記憶さえ定かではない。 
 桶狭間の戦いで織田軍から逃れ、後方の陣を目指していたのは覚えているのだが、その後、どうしたのであったか。
 奇妙に濁った意識が、思考の集中を妨げる。さきほどから絶え間なく耳に飛び込んでくる呻き声は何なのか。
 味方の陣地には着いたのだろうか。しかし、それにしては周囲に人の気配が少ないようだが……


「お目覚めですか、義元様」
 その声に促されるように、義元は視線を上げる。
 呼びかける声に聞き覚えはあったが、それが誰の声であったかすら意識に上らなかった。
 しかし。
 視界にその光景が飛び込んだ瞬間、義元の意識は一気に覚醒へと到る。
 それも当然であったろう。
 愛する娘が、半裸同然の状態で、手足を縛られ、床に転がされているのだから。


「氏真ッ?!!」
 父の呼びかけに応えるように、氏真はうめき声をあげるが、その口には球状の何かが詰め込まれ、口から漏れるのは呻きとよだれだけである。
 娘のあまりに無残な姿を見て、義元は弾けるように駆け寄ろうとするが、その時、ようやく自身が柱に縛り付けられている状態であることを知る。
 咆哮をあげながら、その縛めを解こうと抗う義元であったが、よほどに巧妙に結んであるのか、縛めはわずかも緩まない。ただ一つ自由な口を使って、縄を噛み切ろうとするが、それもかなわない。
 そんな義元の足掻きを見て、氏真のすぐ近くに座っていた男――はじめに声をかけた男は、控え目な笑い声をあげた。
「義元様、常の優雅さが台無しですぞ。海道一の弓取りともあろう御方が、いささか情けないと申し上げざるをえませぬ」
「き、貴様、どういうつもりだ!」
「はて、どういうつもり、とは。この状況で私が何を考えているのか、本気でわからないと仰る?」
「当たり前だ! これまで長く面倒を見てきた我らに何の遺恨があって、このような真似をする――」
 義元は、大声で相手の名を叫んだ。


「武田信虎ッ!!」


 普段ならば、義元の一喝を受け、悄然と平伏するであろう信虎は、しかし、すこし戸惑ったような顔をするだけだった。
 それは、義元が見慣れた信虎の姿であったが、だからこそ、この異常な状況には似つかわしくなかった。
「困りましたな。どうも私と義元様の間には、誤解があるようで」
「誤解だとッ?! わしを縛り、娘をはずかしめ、我らに対して尚も忠誠を誓っているとでも言うつもりか?!」
「それ、そこが誤解なのですよ、義元様」
「なんだと?」
「そもそも、いつ私が義元様たちに忠誠を誓ったのですかな?」
 信虎はそう言うと、近くで横たわる氏真の身体を丁寧に抱きかかえ、自分の膝の上に座らせた。幼かった頃の氏真を、そうやってあやしたように。
「やめろ、貴様ごとき下郎が、氏真に触るな!」
「ふむ、元とはいえ甲斐守護たる私を下郎とは、なかなかにきついですな。とはいえ、義元様が取り乱されるのもわかりもうす。戦で全身傷だらけの私と違って、氏真様は綺麗な肌をしておられる。奥方様もとても美しゅうござったが――」
 そう言いながら、信虎は露になっている氏真の肩に舌をはわせた。
 氏真の口から悲鳴のような声がもれたが、口に詰められた異物によって、それは声になることはなかった。


 一方、義元はすでに半狂乱になっている。溺愛している一粒種の娘である。いずれしかるべき家から立派な婿を迎え、天下にならびなき豪奢な祝言を行うつもりであった。氏真が、どれだけ美々しい姿を披露してくれるものか、と将来に空想をたくましくしていた自慢の娘の肌が、枯れ果てた老人に蹂躙されているのだ。正気でいられるものか。
「信虎、貴様ァッ!!」
 義元の狂態を楽しむように、氏真の肌を楽しんでいた信虎は、しばらく後、口元を歪めて、くつくつと低い笑い声を発した。
「ふむ、やはり女子の肌は良い。これに触れておると、ついつい昔に戻ってしまうわ」
「な、なに?」
 その声に、義元は不意に気付く。
 いつか、信虎の顔に不敵な笑みが浮かんでいることに。それに伴い、いつも信虎の顔を覆っていた気弱げな微笑が、跡形もなく消えている。縮こまっていた身体も、背筋は伸び、義元に劣らぬ体躯を見せ付けている。
 そこにいるのは、野望や野心を捨てた枯れた老人などではなかった。旺盛な精気を漂わせ、見る者に威圧感さえ与える屈強な武将であった。


「さて、積年にわたる恨みじゃ。もう少し楽しみたいところだが、そなたらはあくまで前座でな。あまり時間もかけていられん」
 そういって信虎は膝の上の氏真を、ためらいもなく突き飛ばし、立ち上がる。
 手足を縛られている氏真は、顔をかばうことも出来ず、頭から床に叩きつけられる。
「氏真ッ!!」
「んー、んーーーッ!」
 すぐ近くにいる父に、氏真は涙に濡れた顔を向ける。その目には、自分が何故このような目にあっているのか、あの優しい武田の翁はどこにいったのか、そんな疑念が渦巻いているようだった。
 そして――助けてください、と父に訴えていた。
「ま、待っておれ、すぐにその戒めを解いてやるッ!」
 吼えるように身体を無茶苦茶に動かすが、一体どのような技術なのか、相変わらず、義元を縛る戒めは微動だにしない。
 信虎を怒鳴りつけようとした義元は、そこで思わず息をのむ。信虎が、まとっていた衣服を脱ぎ捨てていたからであった。


 義元の口から出た言葉は、いっそ静かといってよかったかもしれない。
「……信虎、貴様、何をしておる……?」
「見てわからぬか。服を脱いでおるのだ」
「違うッ! 何をしようとしておるのだ、貴様、まさかッ!?」
 狼狽して声を高める父の姿に、氏真は先刻にもまさる恐怖と不安で全身が震えるのを感じた。なんとか首を捻って、後ろの信虎の姿を見ようと試み、そしてそこに裸身の男を見つけ、甲高い呻き声をあげる。
「うるさい親娘だのう。男が女子の前で服を脱げば、することなど一つしかなかろうに」
 義元は絶句し、そして狂ったようにわめきだす。
「やめろ、やめぬか、貴様、自分が何をしようとしておるのか、わかっておるのかッ?! そのような真似をすれば、今川家は永遠にそなたの敵となるのだぞ!!」


 義元の絶叫にうるさげに顔をしかめていた信虎であったが、義元の最後の言葉に興味をそそられたように考え込む。
「ふむ、今川家が永遠に敵になる、か。それは嬉しくないのう」
 義元はそれを聞き、がばっと顔を上げ、まくしたてる。
「そうだ、そうであろう。ならばはやくこの縄を解け、娘を自由にしろ、そなたの罪は問わずにいてやる。許しがたいところだが一度だけは許してやる。だから早くこの縄を――」
「だが、心配はあるまい」
 そう言うと、信虎は再び膝の上に氏真を抱え上げた。
 氏真は生々しい男の身体の感触に半狂乱となるが、信虎は手馴れた様子でその反抗を封じ込める。


「わしは甲斐にいた頃より、多くの女子を抱き、汚し、壊してきた。土臭い農民も、口うるさい武士も、抹香くさい尼も、お高くとまった公家も、そして小ざかしい実の娘もじゃ――まあ、最後は途中で邪魔されたがの。ゆえに氏真のごとき生娘を手懐けるのにさして時間はいらんわ」
「信虎…………ッ」
「最も邪魔な雪斎は死んだ。貴様はここで死ぬ。残った氏真はわしの物じゃ。ほれ、今川家がわしの敵になる理由はないじゃろう」
「信虎……ッ」
「安心せよ、貴様にはずいぶん長く世話になった。礼に娘が犯される様をたっぷりと見せ付けてやろう。それと、そうさな、この猿轡ははずしてやろうか。やはり娘の悲鳴は聞きたいであろう」
「信虎ッ!!」
「しかし心配なのは生娘がわしに耐えられるかじゃが――まあ壊れたら壊れたで、人形がわりに駿府城に置いておけばよいか。どうじゃ、安心したか、海道一の弓取りである今川義元様? 天下を娶る色男にしては、冴えない最後じゃがのう」
「――信虎アアアアアッ!!!!」


 絶叫だけが、虚しく山間に消えた。











 数刻後。
 小屋の外に気配を感じた信虎は、布地一枚の格好のまま、外に出た。
 そこには、信虎が甲斐の時代から抱えている家臣が平伏していた。
「どうであった」
「は。戦は織田軍の勝利。ですが今川義元の行方が知れぬことで、状況は今後どちらにでも傾くでしょう。織田、今川の両軍が互いに牽制し合いながら、義元の行方を捜し続けております」
「そうか。では、これを、何と申したか、あの木下とかいう奴に渡しておけ」
 そういって信虎がどさりと放り投げたのは、ちょうど人の頭がすっぽり包めるほどの布であった。
「御意」
「義元の首をとったとあらば、かなりの手柄じゃ。今後、何かあったときにはまた手蔓になってくれよう」
「……御館様、あの木下なる者、此度こそ協力しましたが、主君への忠誠は確か。あまりあてにされない方がよろしいかと」
「かまわん。どのみち尾張なんぞに用はない。いずれ役に立てば良いという程度のことよ」
「かしこまりました。では、ただちにこれを木下殿へ」
「うむ。おう、そうだ、随分と汚らしいものなのでな。主君に渡す前にきちんと清めておけと言うておけ」
「……御意にございます」


 家臣が立ち去ると、信虎は気だるげな顔で二度、三度と首をまわした。
 その脳裏には、先刻までの狂宴が刻まれているが、信虎は眉一つ動かさない。義元に言明したように、信虎にとって、これは目的のための手段に過ぎぬ。
 だが、長年の雌伏がようやく終わったのだと思えば、感慨もあった。
「ふん、休息にしては長すぎたが、まあ良かろう。この身に滾る熱は、全て余すところなく、そなたにくれてやれば良いのだから」


 そう言って、信虎は東の方角に目を向ける。今は木々に邪魔されて視界に入らないが、そちらの方角には富士の山が悠然と聳え立っている筈であった。
 そして、その麓の国こそ、信虎がかつて統べていた国。これから統べるべき国。
 今、その国を治めている者も、国同様に信虎が支配するべき者であった。 


「ふ、ふふ、くく、くあっははははッ!! 聞こえておるか、晴信! 待っておれよ、この父が、再びそなたの前に立つ日をな!! もう、すぐそこまで迫っておるぞ、備えておけよ、待ち受けておれよ、その全てを打ち砕いて貴様の前に立つ日が、わしは待ち遠しくて仕方ないぞ!!」


 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/09/30 21:30


 今川義元、桶狭間にて死す。
 その報は瞬く間に周辺諸国へ、次いで東国全土へ響き渡る。
 駿甲相三国同盟の締結によって形作られようとしていた秩序は音を立てて崩れ落ち、東国の情勢は再び混沌に包まれていった。
 今川家、武田家、北条家の当面の敵であった者たちは、この事態を歓迎するよりも先に呆然としてしまう。駿遠三の三国を領有する今川家が、そして海道一の弓取りと名高い義元が、尾張半国程度の領土しか持たない織田信長に敗れるなど誰が想像するだろう。ましてや、義元自身が戦死するなど予測できるはずがないではないか。
 同盟の一角が崩れたのだ。三国同盟が正常に機能するとは考えられない。武田にせよ、北条にせよ、しばらくの間は様子を見るために兵を動かさないだろう。無論、今川家は言うまでもない。多くの者がそのように考えた。
 三国同盟に敵対する者たちにとって、それは朗報であったが、それでもなお彼らは喜ぶことを忘れたように静まりかえる。
 今川家が倒れたことで情勢が変化することはわかる。だが、どのように変化していくのか。その行き着く先を見据えることが、誰一人として出来なかったからである。


 

 駿河駿府城。
 今川家の居城であるこの城は、今回の上洛においておそらく最も混乱した城であったろう。その混乱はすでに桶狭間の前から始まっていた。
 事の起こりは義元の息女であり、今川家の後継者である氏真が秘密裏に城を抜け出したことであった。
 元々、氏真が上洛に加わることを望んでいたのは衆知の事実。それは結局、義元によって退けられ、氏真は駿府城に残ることになったのだが、しばらくは不機嫌そのものの様子で、臣下の誰もが声をかけることをためらうほどであった。
 その氏真が鷹狩に出ると言い出したとき、氏真の補佐を任されていた葛山氏元らの重臣は一斉に反対した。
 女性の身ながら尚武の気性を持つ氏真のこと、父義元の後を追っていくつもりであると考えたからである。


 だが氏真は不機嫌そうな顔は隠さぬままに、駿府城の東――すなわち上洛とは反対の方角に向かうことを告げ、ただの気晴らし以上の意味はないとして、半ば無理やり重臣たちの了承を取り付けた。
 重臣たちにしても、これ以上、氏真の機嫌を損ねることはしたくない。氏真は主君の息女であり、いずれは彼らの上に立つ身、無用な軋轢を避けようとするのは当然の処世術であった。また、駿府の留守居として氏真がやるべき政務は少なくない。このまま氏真が機嫌を損じた状態が続くと、民政にまで影響が出てしまうのである。
 かくて一日。氏真の命により鷹狩が行われることとなった。当初、氏真が望んだような規模は、上洛中のために不可能となったが、それでも少なくない人数を動員したため、城内はその準備でごった返すことになる。
 ――その準備の隙を縫うように、一人の翁と、その孫娘と思しき二人組が、ひっそりと駿府城の西門をくぐった。そのことに重臣たちが気付いたのは、翌日のことであった。


 この時、留守居のまとめ役であった葛山氏元は、すぐに氏真を引き戻すための人数を派遣したが、義元の本陣に使者を出すことはなかった。失態を糊塗する意図もあったが、氏真が城を出て一日たらず、すぐにも見つかるであろうと楽観していたことが主な理由であった。
 かくて、この一件は義元の耳に入らずに終わる。
 そして氏真の行方も杳として知れなかったのである。


 一日が過ぎ、二日が経ち……重臣たちは一向に届かぬ氏真発見の報告に顔を青くすることになる。氏真が無事に義元の本陣に着いたならばまだ良い。いや、それとても義元の叱責は免れないが、それ以上にもし万一、道中で氏真の身に何事かあれば、義元の怒りは雷挺となって留守居の者たちを打ち据えるであろう。
 そう恐れる彼らの下に届いたのは、しかし、全く予期せぬ更なる凶報であった。


 嵐を抜けて現れた織田の逞兵の奇襲を受け、今川軍本陣は壊滅。今川家の柱石、太原雪斎が討死したという報告に、誰もが度肝を抜かれた。さらに主君である義元の生死は確認できず、その他の部隊も大混乱に陥っているという。
 あまりの驚愕に誰もが口を閉ざす中、続けて第二報を携えた急使が息せき切って現れ、叫ぶように告げたのである。
「今川義元様、討死」と。
 首級を挙げたは織田の木下某という足軽であり、その首級は綺麗に髪を撫で付けられた上で、織田軍の陣頭に掲げられながら、清洲城へ運ばれたという。


 その知らせを聞き、重臣たちの口からはくぐもった声が漏れ、彼らは呆然とした顔を見合わせるしかなかった。だが、敵方の偽報、あるいは誤報の可能性もある。戦場の情報はとかく混乱しがちであり、戦死や討死の報が誤りであることはめずらしいことではない。
 しかし、そのわずかな重臣たちの希望を絶つように、その後もひきもきらずやってくる使者は全て同一の報告を行い、これを聞いた家臣たちは、彼らの主が討ち取られたという事実を信じざるを得なかったのである。


 本来、このような情報は秘されるべきであったのだが、すでに尾張から逃げ戻った将兵の口から、今川敗北、義元戦死の報は民百姓の口に膾炙するほどに広まってしまっており、いまさら緘口令を布いたところで、事実の隠蔽は不可能であった。
 そうして、駿府城が民と兵とを問わず大混乱に陥り、重臣たちが今後の対応策について激論を交わしているとき。


 駿府城に「氏真帰還」の報告が飛び込んできたのである――



◆◆



 今川家の諸将の中で、駿河への帰還がもっとも遅くなったのは朝比奈泰朝と岡部元信の二人であった。
 これにはれっきとした理由がある。
 この二人と、さらにもう一人、松平元康は、義元戦死の報を聞いて愕然としたものの、その後は決して恐慌に陥ることなく部隊を統率し、敗兵を吸収しつつ三河国境まで引き上げたのである。
 元康は丸根砦、泰朝は鷲津砦、元信は鳴海城と、三人とも最前線にいた為に、織田勢の追撃や落ち武者狩りの農民たちの妨害は激しく、退却は困難をきわめたが、彼らは兵士の動揺を静めつつ、ついに三河への退却に成功する。
 ことに岡部元信は、守備していた鳴海城を無血で明け渡す条件として、信長に主君義元の首の引渡しを要求、これを織田家から譲り受けた上での退却であったから、その勇気と思慮は敵将である信長ですら賞賛の声をあげたほどであった。


 いずれにせよ、この三人がいなければ、今川家の被害はさらに甚大なものとなっていたであろう。そのことに疑いの余地はなく、敗軍の中にも三名は面目をほどこすことになる。
 さらに三将は、勝利に勢いづいた織田軍の三河への侵入を食い止めるために、しばしの間、三河に留まる。その間、義元の首級は丁重に駿府に送り届け、自分たちは勢いに乗って押し寄せるであろう織田軍に、せめて一矢報いんものと考えたのである。だが、信長は尾張内部の掌握を優先したのか、三河へは兵を入れようとせず、これを確認した朝比奈と岡部の両将は駿府への帰路につく。


 元康が三河に残ったのは、引き続き織田家の警戒にあたるためもあったが、なにより岡崎城へ戻ることを元康自身が切望したからでもあった。
 朝比奈にせよ、岡部にせよ、亡き義元と雪斎が元康と約定を交わしたことは聞き知っている。今回の戦に先立つ軍議でもその話は義元自身の口から出ていたし、元康と三河勢がどれだけ今川家のために苦闘したかも目の当たりにしている。なにより、ここで元康を無理やり駿府まで引き戻すような真似をすれば、元康自身はともかく、配下の将兵が暴発するであろうことを、彼らは察し、むしろ進んで岡崎城に戻るように薦めたのである。
 これは松平家の離反を防ぐためと同時に、今後起こるであろう三河国人衆の今川家からの離反に備える意味もあった。元々、元康は雪斎の弟子であり、氏真とも良好な関係を築いている。その元康に岡崎城を委ねれば、今後も今川家のために働いてくれるであろうと彼らは考えたのである。



 この時、朝比奈、岡部の両将が率いていた兵はおおよそ八千あまり。
 桶狭間以後、三々五々に尾張から逃げ帰り、所領に戻った将兵は、駿河、遠江、三河をあわせておよそ一万五千ほどである。
 すなわち、三万五千に及んだ今川軍のうち、実に一万以上の兵が、桶狭間の戦いで失われたことになるのである。
 無論、その全員が戦死したわけではない。織田軍に降伏した者もいるだろう。今川家の圧力に屈していた各地の国人たちの中には、自城に戻っても今川家に使者を出さず、周囲の情勢を見極めようとする者も少なくなかった。無論、自立を目論んでのことである。
 だが、そのいずれであれ、今川家の戦力が失われたという意味で差異はない。
 今川軍は、実に全軍の三分の一を失ったのである。


 この深刻な被害は、しかし、今後さらに加速していくことが予測された。桶狭間の敗戦、主君である義元と今川家の柱石であった雪斎の死は、時を経るごとに今川家の影響力を減衰させるに違いなかった。
 それを最小限に抑えるためには、一刻も早く後継者である氏真を中心として、今川家がいまだ健在であることを周辺諸国に、そして領内に知らしめねばならない。
 幸い、氏真は女性の身ながら文武に優れた才を示し、その気性も凛然としたものがある。群臣がこれをしっかと補佐し、盛り立てていけば、往時に迫る繁栄を築くことは不可能ではあるまい。
 道中、泰朝と元信はそう語り合いながら、駿府城へと帰り着く。かなたに義元が築いた偉容が見えたとき、兵士たちの口から歓声とも悲鳴ともつかない声があふれ出た。
 さすがに二人は無言を貫いたが、しかしつい数十日前には同じ道を威風堂々と西への征路についたというのに、今や敗残者として東への帰路についている自分たちの姿を思うにつけ、胸奥をこがす屈辱の炎は尽きることはなく、奥歯をかみ締める以外、二人に出来ることはなかったのである。
 無論、泰朝、元信ともに「次は負けぬ」との決意があったのは言うまでもない。
 今川家が名実ともに立ち直るためには、織田信長との再戦は不可避である。その時こそ、この無念を晴らしてくれよう、二人はそう考えながら、駿府城の城門をくぐったのである。


 ――そして、彼らは自分たちを出迎えるように立ち並ぶ生首の列を目の当たりにし、凍りつくことになる。
 戦場での戦働きを生業としている両将である。生首をみて怯むほど惰弱ではない。彼らが息をのんだ理由は、並んだ首級のほとんどが、今川家の家臣、すなわち彼らの同輩だったからであった。留守居役の葛山氏元までいるではないか。
 しかも首級は葛山の奥方や、あるいはまだ幼い童たちのものまで並べられている。その数は十や二十ではない。一体、何事が起こったのか。しばし呆然とした泰朝と元信は、次の瞬間、顔を見合わせて城へと馬を駆けさせたのである。



◆◆



「……あの者たちは、今川家にそむき、織田家に内通しようとした。ゆえに、これを誅したのである。得心したか?」
 氏真の平坦な口調が、駿府城の広間に陰々と響き渡る。
 帰還した泰朝と元信は、ただちに氏真の下まで案内された。そこには氏真とその護衛、さらにはごく少数の家臣だけが二人の帰還を待っていた。
 泰朝と元信は敗軍の罪を謝し、義元らを守れなかったことを、畳に額を擦り付けるように氏真に詫びたのだが、それに対して氏真は沈黙で応えた。
 だが、言葉はなくとも、その蝋のように白い顔が、氏真の傷心を如実に示しているのだろう。泰朝と元信はこの時、そう考えたのである。
 そんな氏真に更なる負担をかけるのは気が進まなかったが、それでも城門付近の晒された首に関しては、問わないわけにはいかなかった。
 そして、氏真の口から出たその答えに、二人は言葉を失う。あまりにも普段の氏真とかけはなれた言葉だったからだ。
   

 二人の知る氏真は、女子ながらに凛とした気概を持つ武人であった。無論、今はまだ戦を知らぬ青二才に過ぎぬ。だが、経験を積み、その才能を開花させていけば、やがては父義元に優るとも劣らぬ名将になるであろうと、今川家の宿将たちは、皆、氏真に期待をかけていたのである――氏真を溺愛するのは、なにも義元一人だけではなかったのだ。
 だが。
 今、眼前にいるのは、本当にあの氏真なのか。
 父や師を失った傷心はもちろんあろう。それが容易に立ち直れないものであることもわかる。だが、それにしても、この空虚な言辞は何なのか。気落ちしているとか、狼狽しているとか、そういうこととは根本的に違う。
 今の氏真の言葉には、何もない――からっぽなのである。


 そしてそれは、氏真に限った話ではなかった。周囲の重臣たちは、そんな氏真に不審の目を向けることもなく、ただ黙って座すばかり。その中には泰朝や元信が懇意にしている者たちもいたが、そんな彼らも、二人と目線を合わせることを避けるように視線をさまよわせるか、あるいは瞼を閉ざして黙り込んでいるばかりなのである。
「し、しかし、葛山殿らが内通したという確たる証拠があったのでござるか?」
 しぼり出すような泰朝の問いに、氏真はゆっくりと頷いた。
「……あった。織田に服従を約した誓紙がな。ゆえに、一族ことごとく誅したのだ」
 泰朝が小さくうめき、今度は元信が口を開く。
「なんと……しかしその書状は何処から出てきたのでしょうか。あるいは織田の反間の計である可能性も――」
「……元信。うぬも、私に刃向かうのか?」
「なッ?!」
 その氏真の言葉に、元信は絶句した。
 そして、自分に向けられた氏真のあまりに空虚な眼窩をまともに覗き込み、思わず膝をあげかけた。
 これは断じて自分が知る氏真ではない。あの若が、こんな虚ろな目をするなど、ありえない、と。
「氏真様、一体、何が――」


 だが、その元信の動きに素早く反応した兵士たちが、たちまち元信と氏真の間を槍衾で遮った。
「どかぬか、貴様ら」
「どきませぬ。お座りくだされ、元信殿。それ以上近づけば、氏真様に危害を加えると判断し、誅殺いたします」
 義元の側近の一人であったその男の顔を、元信は知っていた。身分は低かったが、その武勇を買われて義元の傍仕えに上がった男である。義元の信頼も厚く、氏真の剣の相手を務めていたこともあった筈だ。
「……今の氏真様は明らかに正気ではおられぬ。それがわからぬそなたではなかろう」
「――口を慎まれよ。今川家当主たる方を指して、正気ではないなどと。いくら岡部様が義元様の首級を取り戻した功臣といえど、処罰は免れませぬぞ」
「話にならぬ。そなたといい、他の者たちといい、なぜこのように静まっていられるのだ。今、氏真様をこのままにしておけば、今川の家は滅亡よりもなおひどい末路を辿ることになるのだぞッ!!」

 
 その声に応えたのは、その兵士ではなかった。
「然り、よな。なかなかよう物が見えておるではないか、岡部元信」
 そういって悠揚迫らぬ態度で姿を表した人物を見て、声をあげたのは元信ではなく泰朝であった。
「そ、そなた武田の隠居ではないか。今は今川家の大事を決める時。どうしてこのような場におるのか」
「それはな、わしが義元様のご遺言で氏真様の後見をすることになったからよ。ついでに申せば、すでにわしの所領はそなたを越えておるのだぞ、朝比奈よ。その言葉遣いは無礼であろう」
「な、なにを馬鹿なことを。実の娘に追放され、捨扶持目当てに殿や若にへつらうことしか出来ぬ輩が。気でも狂うたか」
 泰朝の悪口に、その男――信虎は、泰朝ではなく氏真に声をかけた。
「氏真」
「……はい」
「どうじゃ。わしに対してこのような雑言をぬかす家臣は、今川の家に必要かのう?」
「…………いえ」
「では、主君として、この者をどういたす?」
 その言葉に応えるように、氏真がゆっくりと立ち上がる。
 どこか人形めいたぎこちない動きで前に出ると、兵士たちは素早く左右に分かれ、氏真に対して道を開けた。
 そうして、事の次第がわからず呆然としている泰朝の前に立った氏真は、すらりと腰から刀を抜いた。それが、義元の持っていた名刀「宗三左文字」であることを、泰朝と、隣で顔を青ざめさせていた元信の二人は気付いた。


「……泰朝」
「は、ははッ」
「……信虎は、我が忠臣。今川家の柱石なり。その言葉、我が言葉と等しく、信虎に逆らうことは、私に逆らうことと同じである」
「な、なんとッ?!」
「ゆえに……信虎に対する雑言は、私に対する雑言となる。ひれ伏し、詫びよ。しからざれば、その罪はそなたの妻子に及ぶ」
「う、氏真様……」
「な、なんという……」


 泰朝と元信は氏真の言葉に呆然とし、広間にはくつくつと笑う信虎の声だけが響いていく。
「だ、そうだが。どうする、朝比奈家の主よ。それと岡部もじゃ。刃向かいたければ刃向かってかまわんぞ。貴様らの首が落ち、妻子が死に、その領土がわしのものになるだけじゃからの」
「……信虎、貴様、一体、氏真様に何をしたのだ」
 元信の低く押し殺した声は、激甚な殺気をともなって信虎に突き刺さる。並の兵ならば、その眼光を受けただけで魂まで凍りつかせたであろうその視線を、しかし信虎は苦もなく受け止めてみせる。
「なに、義元様の遺言に従い、可愛がってやっただけじゃよ。のう、氏真様」
「……はい」
「偽言を吐くなッ。あの氏真様が、ここまで……」
「おう、たしかに偽りであったわ。正確に言えば、義元様と共に可愛がってやった、と言うべきであったかの」
「……どういう意味だ、それは?」
「おかしなことを言う。そなたがわざわざ織田から取り戻したのだろうに。ふふ、あの首級を見て、思いつきでやってみたのだが、案外、氏真様も興じてくれたわ。まだ泣き叫ぶ力が残っておったとは意外じゃった」
「さっきから……何を言っているのだ、お前はッ?!」
「しつこいの。そんなに気になるならば、氏真様に聞いてみよ。そなたがわざわざ織田家から取り戻した首級の前で、一体、何をされたのか、と」


 信虎がそう口にした瞬間だった。
 氏真が唐突に両の耳を押さえ、座り込んだのである。
 そして。
「いやだ……いやだあッ! やめて、もうやめて、もう父上の前で、私をはずかしめるのはやめてええええッ!!」
 狂ったように泣き喚き、目を閉ざし、耳を押さえて暴れる氏真。
 世界の全てを拒絶するようなその様に、歴戦の武将たちが悪寒を抑えることが出来なかった。



 信虎がすっと後退する。
 すると、一瞬前まで信虎がいた空間を、空気さえ両断する勢いで白刃が切り裂いた。
 元信が抜き打ちに切りかかったのである。
「ほう、それが答えか」
「――下郎めが。今川家の混乱を前に、その野心をさらけ出したか」
「ふむ、怒り狂うかと思うたに、案外と冷静じゃな。やはり、そなたは手駒とするか」
「たわけ、誰が貴様などに従うか。世迷言もほどほどにするがいい。貴様をなで斬りにして、義元様の無念と、氏真様が受けた恥辱のせめて十分の一でも晴らしてやろう――覚悟せよ」


 元信の弾劾に、しかし信虎は嘲笑で応じた。
「ふん、だが所詮は武勇のみか。周りを見てみよ。そなたと同じ心根の持ち主などどこにもおらんぞ」
 信虎がそう言う間にも、元信と信虎の間に護衛の兵士たちが人垣をつくっていく。泣き喚く氏真を放って。
 そして、この場の重臣たちも、同じであった。誰一人、氏真を救おうとする者も、あるいは信虎に怒りをぶつける者もいなかったのである。
 元信がかすかにうめき、泰朝が大声で同輩を罵った。
「そ、そなたら、何故、立たぬ! それでも今川の武士なのか!」
 だが、その怒声を受けても、皆、やはり反応を示さない。正確に言えば、拳を握り締め、あるいはうなだれるという反応はしているが、信虎に刃を向ける者は皆無であった。


 それを見て、元信は何事かに気付いたように、はっと息をのんだ。
「……まさか、信虎、貴様……」
 元信の内心を察し、信虎は口元を歪めた。
「うむ、こやつらの妻子眷属は我が手の中よ。悪党は悪党らしく、というわけじゃ」
「……人質、というわけか」
「そうじゃよ。だが安心せよ、何も牢に閉じ込めているわけではない。皆、わしの家臣がつきっきりで守っておるわ。まあ、場所はそれぞればらばらじゃがな。わしに従っている限り、危害は加えぬ。無論、刃向かってもかまわんぞ。さすればそやつを殺し、領地を奪うだけじゃ。その場合、とらえた人質は、わしの部下に褒美でくれてやることにしておるゆえ、案外、無傷で解放されるかもしれんぞ」
 自らの言葉をかけらも信じていないことを隠そうともせず、信虎はそう言って嘲るように笑った。


 元信は呻き、泰朝は呆然とした。
 彼らもまた、今川の臣下として義元に人質を預けている。何より、尾張から戻るまで数十日が経過している。駿府に残った一族が、今どこにいるのか、誰の下にいるのか、容易に予測がついた。ついてしまった。
 信虎はにやりと、自らが言ったように、悪党らしい倣岸な笑みを浮かべて口を開いた。


「――で、そなたらはどうする?」




◆◆




 三河松平家の居城、岡崎城。
 城自体の規模は、今川家の駿府城とは比べ物にならぬ小ささであるが、その城を支える家臣団を眺め渡せば、あの太原雪斎をさえ感嘆させた忠実にして勇猛なる三河武士団がずらりと居並んでいる。
 松平元康を頂点とする松平家の陣容は、壮観と称するに足るものであったろう。
 だが今。
 その松平家家臣団は、驚愕と困惑をあらわにしていた。
 はるばる駿府から届けられた情報は、それほどに衝撃を与えるものだったのである。


「……葛山に、関口に、井伊。いずれも駿河、遠江に名の通った家柄、それを九族ことごとく、女子供まで刑戮するとは。氏真様は気が触れられたのか?」
「わからん。先代までの功臣が新たな代で没落する例はめずらしくない。くわえて、義元様が戦死されたことで、今川家の勢力が衰えるであろうことは誰もが考えるところだ。あるいはそのあたりを見越して先手を打ったのかもしれぬが、それにしてはろくな証拠もなく、ただ信長に通じたとて族滅するなど、これでは他の家臣が動揺するだろうに」
「ふん、義元も雪斎も死んだことで、自棄になったのではないか。構わぬではないか。所詮、今川は長年我ら松平家の主君を掠め取っていた敵に過ぎぬ。駿河で殺しあってくれるなら、むしろ好都合。我らはその間に三河を押さえてしまえば良い」
「ふむ、重次の言うこと、一理ある。だが、こうなると元康様が上洛の先手に任じられたことは不幸中の幸いであったな。元康様が人質で駿府にいたらと思うとぞっとするわ」
「おお、それはまことに。ならば、今、我らの元に主が戻ったは稀有な幸運、天の与えた機会であろう。この際、駿府の狂将殿とは縁を切る好機ではないかな」


 松平家の家臣が抱く今川家への感情は複雑なものがある。
 元々、松平家は東の今川と西の織田家の間で、独立を維持するために困苦を強いられてきた。この二者を同時に敵にまわせば、松平家などあっという間に滅びてしまうだろう。どれだけ勇猛な家臣団がいようとも、国力が違うのである。
 それゆえ、時の松平家当主は、細心の注意を払って両家の間を渡り歩き、時に織田と結び、時に今川と手を組んで、たくみに勢力を伸ばしていった。
 先代広忠が、まだ幼い元康を今川に人質に出したのも、小勢力である松平家を保つための策であり、同時にもし松平家が織田家に滅ぼされようと、元康が駿府にいれば、今川の力で再興がなるという深慮もあった。
 元康にとっても、あるいは松平家にとっても不運なことに、この深慮は広忠の死をもって現実となり、岡崎城には長い冬が訪れることになるのである。


 松平家にとっては、元康を扶育し、松平家の名跡を絶やさなかったことに関して、今川家には恩がある。
 だがそれは逆に言えば、長年主君を人質にとられ、今川家に酷使されていたということでもある。
 ことに年配の者は後者の見方をする者が多く、彼ら重臣たちの意見が幅を利かせるこの軍議の空気が、今川憎しに染まるのは、ある意味で当然のことであった。


 一方、元康や、元康の側近である若者たちは、重臣たちほど今川家に対して敵対心を抱いているわけではなかった。無論、腹立たしい思いをしたことは一度や二度ではないが、京文化を吸収し、今川家の力で栄えた駿府城での暮らしは、元康たちに三河の田舎では決して得られない経験を授けてくれた。それは感謝するに足ることであった。
 さらに元康は、雪斎の弟子として多くを学ばせてもらい、氏真とは友人と呼べる仲であり、さらに義元にも様々な面で便宜をはかってもらった恩がある。
 それゆえ、今回の知らせで最も心を痛めたのは元康であり、同時に最も違和感を覚えたのも元康であった。
 氏真の為人を知る元康にとって、今回の氏真の行動は大きな謎に包まれていた。
 そう考えるに至った原因は一つ。元康は桶狭間の戦場に氏真が現れたことを知っている数少ない人間の一人なのである。もしそれを知らねば、あるいは家臣たちのように、父や師の死による狂気の一言で片付けてしまったかもしれない。


 だが。
 義元から命じられた留守居役を放り出し、桶狭間の戦場に現れ、結果として信長の奇襲を助け、さらにその後いつのまにか駿府城に戻り、後継者として粛清の刃を振るう。
 常の氏真を知る者にとって、それは不可解どころの話ではない。明らかに異常であった。そして、そうである以上、そこにはそれを引き起こす何らかの因子が存在していると考えるべきであった。
 丸根の砦で別れた時の雪斎の顔を、元康は思い起こす。
 あの時、師は何かを言いかけ、その途中で口を噤んで、結局こう言った。
『元康殿。貴殿は貴殿が信じる道を歩いてゆかれよ』と。
 突然の言葉に目をぱちくりさせた元康の顔を見て、雪斎はめずらしく照れたように笑っていた。
 だが、あるいは師はあの時、予感していたのかもしれない。あれが、永別の言葉となることを。



 雪斎の言葉を思い起こし――否、仮に雪斎が何一つ告げずに去っていたとしても、元康は同じことをしたであろう。氏真の豹変の裏にあるものを、突き止めなければならない。
「――半蔵」
「……は」
 今川に叛するにせよ、あるいは当面今川に従って織田家と敵対するにせよ、いずれにせよ軍備の拡充は必須である。当面、そちらを重視し、外交に関しては今しばらく様子を見る。
 軍議で決まったことはそれだけだったが、元康は直感的に駿府の真相を探るのが容易でないことを予感していた。通常の密偵を幾人出そうとも、おそらく駿府城の闇は見抜けまい。
 それを見極めることが出来る者を、元康は一人しか知らなかった。
「駿府への潜入、お願いできますか?」
「……はい」
 半蔵が答えたのはただ一言。
 今の駿府にわだかまる闇の大きさに気付かない半蔵ではない。にも関わらず、ためらいなく主君の命令に頷いてくれた。
 そして、その誠実に気付かない元康ではなかった。


 この主従の間にこれ以上の言葉は必要なく。
 遠くから、風が木々を揺らす音が響く。その音が消えないうちに、半蔵の姿は元康の前から消えていたのである。

 

◆◆



 桶狭間の戦いは、関東での戦況にも影響を与えずにはおかなかった。
 当初、箕輪城の救援に赴いた長尾政景率いる上杉軍五千は、城内の長野軍と連携し、武田・北条連合軍の包囲を切り崩そうと計った。
 この時、城内の長野軍は二千。上杉軍と合わせて七千弱。
 一方、城を取り囲む北条軍の軍勢は関東の諸将を含めて三万四千。これに武田軍六千を加えて四万。
 双方の戦力差は歴然であり、正面から戦えば、上杉方の勝機はない。
 それを証明するかのように、箕輪城に迫った越後上杉軍は、城を取り囲む北条勢に手を出すことが出来ず、後方で進軍を停止してしまう。
 これに対応するように武田軍は攻囲を解き、箕輪城を望む小高い丘陵に陣を布いた。その丘は、箕輪城と上杉軍の中間に位置し、どちらへも対応がとれる巧妙な布陣であった。
 この武田軍の展開により、上杉軍の動きは大きな制限を受けることになり、もはや箕輪城の陥落は避けようがないかに思われた。


 武力によって箕輪城の包囲を打ち破ることが難しいと判断した上杉軍は、兵の損耗を嫌ったのか、一戦も交えることなく、馬首を北へ転じる。箕輪城の西を流れる榛名白川の流れにそって北の琴平山まで退き、そこに陣を布いたのである。
 箕輪城攻略を目的とする北条軍は、上杉軍が去るに任せてもよかったのだが、北条綱成は一度の邂逅で越後上杉軍の容易ならざるを感じ取っており、氏康に追撃の許可をもらうと、北条綱高、笠原美作守らと共にこれを猛追した。
 まさか北条軍が追ってくるとは思っていなかったのだろう。上杉軍は慌てふためき、琴平山の陣さえ放棄して、さらに北、鷹ノ巣山へと退却していく。よほど慌てていたのか、琴平山の麓には、兵糧や武器甲冑といった物資が山と積まれた状態であった。


 五色備えの一角、青備えを率いる笠原美作守などは、これを機に上杉軍を撃滅すべしと唱え、更なる追撃を主張したが、赤備えの北条綱高、ならびに黄備えの綱成はこれに反対した。
 今回、上杉軍の行動からは噂に聞く精強な越後兵の片鱗さえ感じとれない。兵糧や武器まで置き捨てて逃げていくその姿は、臆病というよりも、なにがしかの作為を感じさせたのである。
 上杉方の伏兵にあやうく危地に落とされかけた綱成は、僚将らに自重を呼びかけた。調子にのって上杉軍を追撃すれば、手痛い反撃をくらう危険がある。ここは欲張らずに氏康の下へ引き返すべきであろう、と。
 はじめから綱成に同調していた綱高はもちろん、笠原にしても、そこまで言われて、なお退却する上杉軍に不審を感じないような凡将ではない。
 結局、北条軍は、上杉軍が残していった物資を残らず鹵獲し、箕輪城へと引き返す。遠征中の北条軍にとって、上杉軍の残した物資は大変ありがたいものだったのである。



 そして、退却する北条軍の後方では――
 三々五々、まとまりなく退却を続けていた上杉軍の各部隊は、鷹ノ巣山へ到着するや、北条軍の来襲を恐れるように、木を切り倒して柵をつくり、険阻な山の地形を利用した陣をつくりあげていく。
 多くの旗指物を掲げ、北条の大軍に怖じる心を少しでも鎮めようとする様は、傍から見れば滑稽に見えたかもしれない。事実、綱成らが放った斥候や風魔衆は、上杉軍が必死に鷹ノ巣山を要塞化しようとしている姿を見て、憫笑を誘われたほどであった。
 だが、その夜半。
 夜襲を恐れるように、篝火を赤々と灯した陣の反対側。暗い闇夜に紛れるように集った時、上杉軍の将兵は、その表情を一変させていた。
 整然と陣形を組み、迫る戦いに怖じる様子など欠片も見せぬ。音に聞こえた越後の精兵の姿がそこにあった。


 北条軍が箕輪城へ退きつつあるという情報は、すでに上杉軍の下に届いている。その情報をもとに、上杉軍が向かったのは、南ではなく――東であった。
 上杉軍は少数の兵士だけを鷹ノ巣山の陣に残すと、主力をもって関東平野を東へ走る。そして利根川を渡河すると、今度こそ進路を南へと向けた。
 より正確に言えば、利根川の東に位置する箕輪城の支城である厩橋城へと、その矛先を向けたのである。



 箕輪城の支城である厩橋城は当然、長野家の持ち城であったが、この時すでに北条方の手で陥落していた。
 だが、いまだ城壁や城門はその攻防での損壊がなおっておらず、城主である多目氏総は、自身の手勢と周囲の農民たちを動員して修復している真っ最中であった。
 北条家の主力である五色備えの一、黒備えを任されるだけあり、多目は油断とは縁のない慎重な武将であり、氏康の部下の中でも知略の人と目されていたのだが、その多目の眼力をもってしても、箕輪城の北に去った筈の上杉軍が、暁闇を裂いて来襲してくることは予測できなかったのである。


 上杉軍、天城颯馬の考案した大規模な迂回攻撃はほぼ完璧な成果を示し、北条軍はたちまちのうちに混乱の渦に叩き込まれた。
 その混乱に乗じて全軍を叩き付けた上杉軍の猛攻の前に厩橋城はあえなく落城、再びその城主が変更されることとなったのである。


 厩橋城を奪取した上杉軍はここに拠点をすえると、関東管領を保護したことを大々的に宣言し、いまだ関東管領家に味方している者たちに集結を呼びかける。その一方で城の修復を急ぎつつ、二千ほどの兵力を動かし、今度は南の金山城に攻めかかったのである。
 金山城主由良成繁は、北条家に従って箕輪城の攻囲に加わっていたが、この報告を受けて急遽攻囲陣から脱し、自城に逃げ帰ることになる。


 これにより、関東、とくに上野の東部に所領を持つ国人衆の間には深刻な動揺が広がり、北条家から離脱する者たちが相次いだ。
 直接に包囲を破らずとも、後方をかき乱せば、北条軍の本隊はともかく他の関東の国人衆は動揺するだろう。そう考えた天城の策は的を射た形となった。
 無論これは、長野業正が指揮するかぎり、何万の軍が攻め寄せても箕輪城が陥落しないという前提の上での作戦であった。




 上杉軍による撹乱を受けた北条氏康は、武田軍とさらに五千の自軍を残して箕輪城の攻囲を続けつつ、残余の兵力をもって、上杉軍の策源地となっている厩橋城の奪回に自ら乗り出した。
 この時、北条軍は関東勢をあわせておおよそ二万三千。一方の上杉軍の総兵力は五千たらずであり、関東管領家に味方する者たちが徐々に集まりつつあるとはいえ、いまだその兵力は一千に満たない。城の修復もまだ終わってはおらず、氏康自身が指揮する北条勢とまともにぶつかれば、上杉軍の苦戦は免れないものと思われた。



 だが、両軍がいよいよぶつかろうとした、まさにその時。遠く東海地方から、今川義元戦死の報告が届いたのである。




 この報告を聞いた北条氏康は、ただちに全軍を停止させ、考えに沈む。
 義元の死は三国同盟の根幹を揺るがすものになる。これを知った関東の諸将の向背も定かならず、下手をすれば上野の地で孤立する恐れさえあった。
 そう考えた氏康は決断を下す。箕輪城の攻囲を解き、全軍を平井城に戻したのである。これにともなって武田軍も西上野の松井田城に春日虎綱を置いた後に信濃の地へと退き、ここに箕輪城の危機は去った。


 武田が松井田城を確保したように、北条氏康も占領した上野のすべての地を捨てるつもりはなかった。氏康は、平井城を中心とした地域を北条家の所領とするため、太田資正に一万の兵をつけて平井城主に任命すると、残余の兵を率いて相模の小田原城へと退いたのである。
 ――この好機を上杉、長野の両軍が見過ごす理由はない。この二つの軍と、そして北条家が南に去ったことにより、新たに上杉方に参集した他家の軍勢を合わせ、八千を越える軍勢に膨れ上がった上杉軍は、太田資正の篭る平井城を陥落させるべく動き出したのである……





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/10/04 16:59

「此度の上杉家の救援、まことに感謝の念に堪えませぬ。心より御礼申し上げる」
 そう言って下げられた頭は、雪のように白い頭髪で覆われ、その顔に刻まれた深い皺は、戦乱の世を卓抜と生き抜いてきた名将の歴史を記す年輪であった。
 その目は蒼穹を仰ぎみるような深みを帯びて見る者を惹きつけ、その体躯は老いたりといえど頑健そのもの。そんな矍鑠(かくしゃく)たるこの翁こそ、上野にその人ありと知られた上州の黄斑(虎のこと)長野信濃守業正その人であった。
 業正殿は、実は俺がほとんど初めて出会った、俺の知る歴史どおりの人物であった。要するにご老人だったのである。男の。


 無論、その年齢や性別だけでなく、能力もまた俺の知る長野業正と同じ、というよりそれ以上なのかもしれない。
 武田と北条に加え、関東の勢力まで加わった大軍を、寡兵よく撃退するなど常人が為せる業ではなかった。
 俺は、眼前の業正殿のように、長い時を生き、その中で自分を磨き上げてきたことがはっきりとわかるご老人には尊敬の念を禁じ得ない。このあたり、わずか数年ではあったが、厳しくも暖かく育ててくれた祖父の影響が強いのかもしれない。
 祖父や業正殿のように、自然に敬意を抱ける人物に出会えるのは素直に嬉しいことであった。




 現在、上野は様々な勢力が入り乱れる混沌とした状況になっている。
 松井田城以西は武田家が、平井城以南は北条家が、そして箕輪城から厩橋城にかけて長野家が勢力を保持している。簡単に言えば西は武田、南は北条、中央および北は長野家すなわち山内上杉家、そして東は山内上杉家に従う家、北条家に従う家がほぼ半々といったところであった。
 もっとも、箕輪城にしても厩橋城にしても、今回の戦で大きな被害を受けており、再度北条家ないし武田家が侵攻してきた場合、これに対抗することが出来るかどうかは五分五分といったところである。
 それゆえ、桶狭間の戦の影響で両家が遠征できない今こそ、千載一遇の好機なのである。とくに平井城を陥落させれば、南部および東部の国人衆のほとんごはこちらに靡くだろう。
 逆に平井城を陥とせなければ、北条家は外交と調略によってじわじわと勢力を広げてくるに違いない。過去はともかく、現在、関東における北条家の勢威が、山内上杉家のそれを上回っていることは誰の目にも明らかなのである。


 そんなわけで、初対面の挨拶もそこそこに、上杉家と長野家の諸将は軍議を開き、平井城攻撃の作戦を練ることになった。
 ちなみに、上杉憲政は越後へ逃れているので、この場にはおらず、実質的には越後守護代である政景様が総大将ということになる。人をからかうのが好きという悪癖を持つ政景様だが、無論、礼儀はきちんと弁えている。はるか年配の業正殿に対し、きちんと礼儀を守って接していた。
 業正殿も業正殿で、自身の名声や武名を誇るような真似は微塵もせず、主導権をこちらに渡しつつ、しかし指摘すべきことはきちんと指摘する。
 両軍の軍議は停滞の気配さえなく、驚くほどすみやかに進んでいった。


 とはいえ、実のところ、それほど選択肢は多くない。
 北条勢が平井城を陥としてから、まださほどの日にちは経っていない。おそらく平井城の城郭は、俺たちが厩橋城を攻めた時のように、まだ補修の最中であろう。
 つまり、持久戦などという悠長なことをしていては、敵の防備が固まるばかりということである。くわえて、速戦を選ばなければならない理由は他にもあった。
 まず一つは、前述したように、時をかければ北条が態勢を立て直してしまうということ。
 もう一つは、兵糧が心もとないということであった。それは何故かといえば、上杉軍が琴平山にわざと兵糧を置きすて、退却に真実味を持たせようとしたからであり、つまりは俺のせいだった。
 長野軍はといえば、篭城を耐え切った箕輪城に、備蓄の余裕があろう筈もない。
 よって、上杉・長野の両軍にとって、食糧事情は結構深刻なのである。もしもの場合、越後の景虎様に補給を頼むという手段があるが、これは本当に最後の手段である。なにせ越後とて物資が溢れているわけではないのだ。
 新たに参集してきた国人衆に供出を命じるという手段もないわけではなかった。北条方についたことの謝意という名目で命じれば、応じる者もいるだろう。
 だが、これをするとこちらの兵糧事情を北条方に知られてしまう可能性がある。上野の国人衆も、北条方との手蔓を完全に切ったとは思えず、上杉側が敗北した時のために、情報を流す程度の真似はしていると考えるべきであった。



 そんなわけで、種々の条件が重なりあって、俺たちは可及的速やかに平井城を陥落させなければならないのである。
 上杉軍は先の戦での傷病兵を除いても、まだ五千にかろうじて届く。
 業正殿の軍はおおよそ二千。だが、度重なる戦で将兵はかなり疲弊しており、全軍を平井城に向けることは不可能だった。それに松井田城の武田や、上野の他の城が動かないという保証はない。箕輪城、厩橋城、ともに最低限の兵力を込めておかねばならず、結果として、長野軍が動員できる兵力は千を大きく割り、五百程度ということに決まったのである。


 兵数だけを見れば、わずか五百である。援軍である越後上杉家が五千もの兵を出していることに比すれば、明らかに少ない。しかも、業正自身は篭城の後始末や後方の整備のために箕輪城に残るとあっては、上杉軍としては、その消極性に口を開かずにはおれないところであったろう。
 だが、上杉軍の中で、業正殿を非難した者は一人としていなかった。
 何故ならば、長野軍は、兵は少なくとも、それを率いる将が尋常の人物ではなかったからである。




 その人物の名は大胡秀綱(おおご ひでつな)。
 長野業正に付き従う箕輪家臣団の中にあって、上野国一本槍、つまり上野において最も勇猛果敢なる者として認められた人物であり、先の篭城戦においても抜群の功績をあげた稀代の武人であった。
 業正殿の信頼厚く、将兵からもひたむきな憧憬の眼差しを向けられるこの人物の武名は疑う余地のないところであった。無論、俺も疑ったりはしなかった。というより、多分、上杉軍の中で、俺ほどこの友軍を頼もしく思っている者はいないと断言しても良いくらいである。


 大胡秀綱は、これより後、姓を変えるであろう。そのことを俺は知っている。その姓とは上泉。
 すなわち、この眼前の人物こそ、後に『剣聖』と謳われることになる上泉信綱その人であった――
 あったのだが。
 この剣聖、またしても女性であった。しかも、多分、俺と大して変わらない年頃に見える。ただそれは大人びた風貌と、寡黙な為人のせいで、実際は一つ二つ年下かもしれないが。
 実のところ、業正殿が紹介するまでもなく、その姿には気付いていた。多分、俺だけではなく、他の上杉の諸将も気付いていただろう。
 真っ直ぐに腰まで伸びた黒髪と、涼しげな双眸。伸びた鼻筋と、その強い意志を示すかのように引き結ばれた唇。すらりとした体躯は鍛え上げられた剣士のそれだが、同時に女性らしい丸みを帯び、傍らに立つと薫るような芳香が鼻先をくすぐる。 
 優れた剣士にして、たおやかな佳人。
 俺は、佳人、という単語がここまで自然と思い浮かぶ人に出会ったのは初めてであった。



 実のところ、秀綱の名を聞くまでは、俺はこの二人、親子か、祖父と孫ではないかと思っていた。顔かたちは正直全然似ていないのだが、その透き通るような眼差しがとてもよく似通っていたからである。
 少し年が離れすぎているが、かりに夫婦だと言われたところで納得したかもしれない――あくまで名を聞くまでは、であったが。
 無論というべきか、長野業正と大胡秀綱の二人は、血縁でも夫婦でもなく、主君と臣下の関係であった。とはいえ、業正殿の秀綱への信頼は一族へのそれに匹敵するほどであり、俺たちにも次のように力説したのである。
「この秀綱、見かけはかようなたおやめであるが、その武勇は上野に並ぶ者なしと、それがしが保証いたしまする。上杉の方々の足を引っ張るようなことは決してありますまい」
 穏やかに、しかし力強く断言する業正殿。
 当然、上杉家の中に、業正殿に疑義を差し挟むような者はいなかった。業正殿の言葉を信頼したということもあるし、そもそも越後は守護と守護代、二人ながらに美人で、戦が強い。その上に「尋常でなく」と付けてもよいくらいに。
 だからして、大胡秀綱の実力を、その外見や性別だけで判断するような者が上杉軍にいる筈はなかったのである。



 かくて、上杉軍五千、長野軍五百、そして上野の国人衆二千五百で形成される軍勢は、平井城へ向けて南下を開始する。
 業正は後方にあって、箕輪、厩橋両城の線を確保しつつ、城と街道の防備を固め、兵を集め、各地に使者を派遣して味方を増やし、武器糧食をかき集めるという八面六臂の活動でそれを支える。
 後顧に憂いを持たない上杉軍は、数こそ万に満たないが、見る者が見ればその鋭鋒を感じ取り、背を震わせたに違いない。
 この精強な軍勢の接近を、平井城ではどのように迎え撃とうというのだろうか。
 


◆◆



 上杉軍の攻略目標である平井城を守るは、北条軍太田資正率いる一万の関東勢である。関東管領家の居城であった平井城は、その規模といい、防備の固さといい、上野の他の城とは一線を画している。北条勢が攻め込んだおり、上杉憲政が毅然と指揮をとっていれば、ああも易々と陥落することはなかったに違いない。
 そして、今、城に篭る太田資正は、憲政とは比べるべくもない優秀な人物である。かの大田道灌の子孫にして、武蔵国の扇谷上杉家の重臣であり、主家が北条勢に滅ぼされた際も、自城である岩付城に立てこもって最後まで善戦した。
 しかし、その善戦は結局報われることはなく、扇谷上杉家は滅亡してしまう。
 主家が滅亡した後も、資正は岩付城に拠って北条家と戦い、降ることを潔しとしなかったが、度重なる北条氏康の説得と、さらには強大な北条家に抗い続けることで、配下や領民に与えるであろう苦難を考え、遂に開城を決意する。
 北条家の軍門にくだった資正は、自ら頭を丸め、死に装束をまとい、北条氏康の前に跪いたのである。


 この忠臣の降伏は、北条氏康をおおいに喜ばせた。
 跪く資正に、氏康は親しく手をとって立ち上がらせると、ただちに北条家の重臣として迎えることを約し、資正にそのまま岩付城の主として、今後は北条家の支えとなるよう命じたのである。
 疑う素振りも、迷う素振りも見せない氏康の度量の大きさを目の当たりにした資正は、内心でため息を吐いた。
 この人物と、扇谷上杉家の当主では、はっきりいって器が違いすぎる。扇谷上杉家が勝ち得る要素がまるで見当たらないのだ。しかも、氏康はまだ若く、今後、さらに大きな存在となる可能性を秘めている。
 成長した暁には、関東を――否、東国全土を席巻する英主が誕生するであろう。そこまで考えた資正は、その未来を半ば確信している自分に気付き、みずからが採るべき道をはっきりと見極めたのであった。
 かくて、岩付城主太田資正は、北条家の関東経営にとって欠かせない人物として、北条家の傘下に加わったのである。 
 



 その資正にしても、今回の戦いの顛末は予想外といわざるを得なかった。
 今川家の敗北は予測不可能であったから仕方ないにしても、問題はそこに到るまでに、わずか五千の上杉勢にいいように翻弄されていたことであった。
 あれがなければ、おそらく桶狭間の報告が来るまでに、箕輪城を無力化することが出来ていたに違いないのである。
「越後の長尾政景、か。氏康様や綱成殿もそうだが、どうして女将軍とはああも手ごわいのであろうか。ううむ、わしが妻に勝てぬ以上、これは考えるまでもないことなのか?」
 坊主頭の資正はそんなことを呟きつつ、城門の櫓に立って北の方角を見据えた。
 資正は三十半ば。まさに男盛りと言って良い年齢であり、充実した胆知の持ち主である。
 斥候が持ち帰ってきた報告によれば、上杉軍は上野の国人衆をくわえて八千あまり。
 一方の資正は一万の兵を有し、しかも平井城という巨大な拠点が活用できるという絶大な利点がある。もっとも、城の修復はまだ完全に終了したわけではないので、篭城に際しては注意が必要であった。
 とはいえ、資正は篭城で敵を迎え撃つ心算などかけらもなかったので、その注意の必要はなかったのだが。


 平井城内に備蓄された武器糧食は溢れんばかりであり、領民も上杉憲政の贅沢を支える苛政から解放されて北条家に協力的である。くわえて、一口に関東勢といっても、この城に篭っているのは、資正にとっては気心のしれた武蔵の国人衆が中心であり、烏合の衆では断じてない。
 ゆえに、平井城に篭れば、やがて敵は城を攻めあぐねて退却するに違いない――もし、資正がそんな判断を下す将ならば、北条氏康が資正に平井城を任せることはなかったであろう。
 篭城が卑怯、臆病ということではない。篭城も一つの戦術である。だが、現在の彼我の情勢を鑑みた場合、篭城は下策であり、資正もまたそれを承知していたのだ。
 かくて、資正は一千の兵を守備兵として城に残し、残りの全軍を率いて打って出たのである。




 ――北条勢、城を出て平井城の北の平地に陣を構える。
 その報を受けた時、上杉軍内部で、天城颯馬は小さく笑った。
 もしや資正が篭城を選ぶのでは、というわずかな危惧が綺麗に消し飛んだからである。
 平井城の堅固な守りを考えれば。そして攻め手が兵糧に不安を抱えていることを察知されていれば、それは決してありえない話ではないと天城は考えていた。


 しかし、実のところ、そこまで心配する必要はなかったのかもしれない。兵力で上杉軍に優る北条軍が平井城に立てこもれば、それは北条軍は上杉軍に野戦で勝つ力がないと大声で喧伝するようなもの。たとえそれで上杉軍を退けたところで、それは勝利とは程遠い。関東の国人衆に、北条軍の武威の限界を知らせるようなものである。そんな下策を、あの太田資正が採る筈はなかった。
「これで、心おきなく戦える」
 北条にしてみれば、先の厩橋城の戦いは策で敗れただけのこと。正面から戦えば負けはしないというのが北条家に従う武士たちの心底であろう。
 しかし策であれ何であれ、これ以上の後退は、長年慰撫してきた武蔵はともかく、上野の地における劣勢を決定づけることになりかねない。それは北条家の関東制圧にとって好ましからぬ事態であるに違いない。
 だからこそ北条氏康は信頼する太田資正に平井城を委ねたのであろう。逆に言えば、ここで資正を打ち破れば、上野の地から北条勢を駆逐できるということでもあった。


 かくして両軍は上野の地で激突するのである。



◆◆



 済々と立ち並ぶ北条家の家紋『三つ鱗』と、敵本陣に翻る『太田桔梗』。
 北条軍九千の旺盛な士気を示すように、敵の動きは乱れなく整然としており、時折わきおこる喊声には戦意が充満していた。
 その陣形は横一列。あえて言うならば、中央の本隊より左右両翼がわずかに前に出ているので、鶴翼の陣といっても良いかもしれない。
 兵力は段蔵の見立てによれば、中央に四千、左右に二千五百と均等に分けられているようだった。正攻法といって、これほどの正攻法はない。そして、だからこそ小手先の戦術で打ち破ることは困難であると思い知る。


「――と言いつつ、しっかり奇策を用いているように思うのですが?」
「気のせいだと思うぞ」
 段蔵の指摘に、俺はやや視線を泳がせつつ、無難にそう答えておいた。
 だが、実際は段蔵の指摘の方が多数の賛同を得るであろう。
 北条軍に対する上杉軍の陣形は、正攻法の対極に位置するものにしか見えなかった。
 その陣形は雁行陣。しかも中央と左右両翼の兵力比は滅茶苦茶であった。


 天上から俯瞰すると、上杉軍の中でもっとも敵陣に突出している左翼部隊は、上杉軍四千。その上杉軍の右手後方、すなわち中央部隊に関東勢二千五百がひしめく。そしてその関東勢のさらに右手後方、右翼部隊には大胡秀綱率いる長野軍の精鋭五百が控えており、遊軍として上杉軍の騎馬部隊一千騎が後陣に位置している。
 確かにこの布陣を見る限り、上杉軍がまた何やら策を弄していると思われても仕方のないところであった。


 だが、実のところ、この部隊配置には深い意味はない。
 所詮、こちらは寄せ集めの連合軍であり、兵力を均等に配置したところで速やかな進退は望むべくもないだろう。であれば中途半端に軍を束ねるよりも、はじめから軍を分かち、それぞれの軍が動きやすいように配置しておいた方が、結果として整然と行動することが出来るのではないか。俺はそう考えたのである。


 だが、そんな俺の言葉に、意外にも段蔵は首を横に振った。長くなった黒髪がかすかに揺れる。
「そちらのことではなく。天城様が左翼の指揮をとり、政景様が騎馬部隊の指揮をとっているというあたりです――まさか、また死にたがりの病気が出たのですか?」
 段蔵の射るような視線を頬に感じながら、俺はゆっくりと頭を振った。
 なるほど、どうも先ほどから段蔵の表情が硬いと思っていたが、それを案じてくれていたのか。
「安心してくれ……と俺が言っても、あまり説得力ないか。けど、我が身を犠牲にして勝とうなんて思ってないからな。勝つために、これが最善と判断しただけだ」
 その言葉を聞き、段蔵がどういう表情を浮かべたのかは、彼方の敵陣を見据えたままの俺にはわからなかった。わかったのは、頬に感じる視線の圧力が徐々に消えていったことだけである。
「……そうですか。ならば、私は御身の采配に従うだけです。今度の敵は、佐渡の本間とはわけが違います。ご油断されぬように」
「承知した。段蔵の方もよろしく頼むぞ」
「戦場での影働きも、忍の生業です。お任せください」
 そういった後、段蔵はためらうように言葉を切ってから、低声で続けた。
「……弥太郎も、私もお傍にいないのです。くれぐれも無茶は慎んでください」


 その言葉を聞いた俺は、敵陣に向けていた視線を戻し、傍らの段蔵に向けた。段蔵がやや怯んだように声を高める。
「な、なんですか。どうせまた私には似合わないとお思い……」
「ありがとうな」
「にな、な、あの……」
 憮然とした表情になりかけた段蔵に、俺が素直に感謝の言葉を述べると、段蔵はめずらしくかすかに頬を赤くして口を何度か開閉させた。
 うむ、弥太郎ならともかく、段蔵がこんな表情をするとはめずらしい。普段の怜悧な印象がかげり、年頃の少女の顔が覗いたような気がした。まあ、一瞬の夢であったわけだが。
「――どうも、最近の天城様は言動が読みにくいです。私をからかっているわけではないことはわかっているのですが」
 今度こそ憮然とした顔で文句を言う段蔵を可愛いと思ったことは、口に出さない方が良いのだろうな、うん。
「もちろん、いたって真面目だぞ。許してもらえるなら、頭を撫でてやりたいくらいに感謝してる」
「弥太郎なら喜びそうですが。私はご遠慮させていただきます」
「それは残念」


 俺がそう言うと、段蔵は半ば呆れ、半ば安堵したように小さく苦笑をもらす。
 そして、近づく開戦の気配を察し、手勢に指示を下しながら、その去り際に真摯な眼差しを俺に向けた。
「……どうしても、というのであれば、勝利の暁に。ですから必ずご無事でいてください。天城様を失えば、これまでの軒猿の献身、ことごとく意味をなくしてしまいますので」
「わかってるさ。段蔵も気をつけて。無理をするな、というのはそれこそ無理な話だが、互いに無事でまた会おう」
「御意」
 深く頭を下げた後、段蔵は配下の兵と共に姿を消した。




 すでに弥太郎は部隊を率いるために前線に赴いている。今、俺の周囲には見慣れた顔は一つもない。
 あるのは、政景様から託された四千人の大軍、それを指揮する重みと、そしてどこか心地良い緊張感であった。
 その俺の耳に、前線からの報告が飛び込んでくる。
「申し上げます! 前方より敵右翼部隊が進撃を開始いたしました。敵将は太田資正が一族、康資と思われます!」
 その伝令の報告どおり、前方から濛々と土煙が立ち上り、喊声がこちらに向けて殺到してこようとしている。
 段蔵が言ったように、この戦は、佐渡で本間勢と戦ったときとは何もかもが桁違いに異なっている。
 互いの兵力数も、敵の手ごわさも、この戦が及ぼす影響も、何もかも。
 だが、それゆえにこそ――



「上杉全軍に告げる」
 俺の声が左翼部隊の上を広がっていく。さして声を張り上げる必要もない。それほどに、戦を目前に控えた上杉の精鋭たちはしんと静まりかえっていたのである。
「この戦の勝利は、上杉に寸土さえもたらさぬ。我らが勝ち取りしもの、これすべて、上野の民が奪われしものなれば、正当なる所有者たちに返すが当然のことであるゆえに」
 遠くから響く北条軍の喊声が、わずかずつ高まっていく。
 だが、それでも上杉軍は動かない。
「それをもって戦うべき意味が失われると、わずかなりと感じる者は、ただちにこの場から去るが良い。我ら上杉が戦うは、勝利を貪るためにあらず。我らはただ、主君上杉景虎様の駆ける天道を祓い清めんがため、その刀槍を揮い、敵を討つのだ」
 懐から取り出した鉄扇を、そっと開く。そこにあるのは、上杉の家紋ではなく、長尾家の家紋『九曜巴』であるが、掲げる旗印がかわろうと、その先に見据える景虎様の志は、寸毫も揺らぐことはない。
 この戦は、その志を関東の地に知らしめる第一歩。その先頭に自分が立つことの歓喜と誇りを、何と言い表すべきか。胸奥から湧き上がる感情の高波を、俺は、声に乗せていった。


「景虎様の天道が指し示すは、すなわちこの戦乱の終結なり。我らは関東の地にその天道を知らしめる第一陣、毘沙門天が剣の切っ先であると知れ! その尊き心こそが我らに軍神の加護をもたらそうッ!」
 あらかじめ考えていたわけでもないのに、あふれ出るように沸き出するこの激語は何なのか。不思議に思いながらも、俺はただ心の命じるままに声を張り上げていった。
 その声と共に、それまで静かであった湖面がうねるように、上杉軍から押し込められていた戦意が解き放たれていく。
 最早、北条勢の喊声は聞こえない。周囲から沸き起こる上杉軍の喊声がすべてを掻き消したゆえに。


「天道を行く我ら上杉が武を、坂東武者に知らしめよ! 最強なるは我ら上杉であることを、関東すべてに知らしめよ! 関東を斬り従える上杉が先陣たるの誇りをもって、北条軍を撃滅するのだ!!」
 高々と鉄扇を掲げる。
 周囲の将兵から立ち上る溢れるほどの闘気が、物理的な圧力さえともなって、俺の背中を後押しする。
 俺は、まっすぐに鉄扇を振り下ろし、天に届けとばかりに声高く命じた。
「全軍、突撃ッ!!」
 その俺の声さえ飲み込むような大喊声が、戦場を圧した。




◆◆




 上杉軍が喊声を挙げて前進を開始する。
 だが、北条軍とて歴戦の精鋭、その程度で怯むような脆弱さは持っていない。
「射よッ!」
「ッてェッ!」
 矢頃に近づくや、ほぼ同時に双方の陣地から敵陣に向けて雨のような矢が降り注ぐ。
 騎兵は身を低くして篭手を翳し、足軽は陣笠を盾代わりにして、ひたすらに敵陣へと突き進む。降り注ぐ矢に幾人もの兵士が苦痛の声と共に倒れたが、敵も味方も彼らに構っている暇はなかった。矢が三度放たれた頃には、両軍は、敵兵の顔を目視できるほどの距離まで近づいていたからである。


 そして、ここまでが両軍が互角であった刹那の時間となる。
 ここより、上杉軍の猛攻撃が開始された。
 その先陣を切ったのは、上杉軍の小島弥太郎であった。
「ああああッ!!」
 弥太郎の大槍が一閃する都度、北条勢はまとめて数人が弾き飛ばされた。これが屈強な体躯の男の仕業であれば、敵はその剛勇に驚きつつも、混乱することはなかったであろう。
 実際、当初はその大柄な体躯と、鎧甲冑に包まれている姿のため、北条勢は弥太郎が男であると信じて疑わなかった。
 だが、その声や身体つき、そして決定的となったのが、乱戦の中で兜を弾かれた弥太郎の素顔があらわになったことであった。そこには汗と泥でよごれながら、なお柔らかさを失わない少女の顔があったのである。
 今の今まで、弥太郎のことを上杉の大剛の武士と思い込んでいた北条軍は、あまりの意外さに、戦の最中にも関わらず呆然としてしまった。


 もっとも、当の弥太郎はそこまで気が廻るほど冷静に戦っているわけではなかった。乱戦の最中、北条軍の将兵の動きが止まったことも、好機としか見えず、遠慮など一切なしに柄を用いてかなたに吹っ飛ばしてしまう。
 後ろに続く兵士たちは顔を見合わせて、低声で語り合った。
(お前、人が空飛ぶところ見たことあるか?)
(あるわけねえだろ――今この目で見るまでは、な)
(うむ、しかも縦に回転しとらんかったか?)
(さすがは上杉の今巴様じゃあ)
(相変わらずの平家物語好きじゃの、そなた……)
(天城様のお傍にいる時は、あんなにしとやかなのになあ)
(始まる前から散る恋というのも哀れよな)
(やかましいッ)
 何気に余裕のある後続の兵士たちであった。


 逆に言えば、それだけ弥太郎の剛勇が衆を圧していた、ということでもあった。
 当初、弥太郎は天城の傍から離れ、前線に赴くことに難色を示していた。忠義に厚い弥太郎のこと、はっきりと反対を唱えたわけではなかったが、それでも出来ればこれまで通り、天城の傍らで控えていたと目顔で訴えたのである。
 だが、天城はそれを承知しつつ、弥太郎を説得した。
 この戦において、天城は自ら名乗り出て左翼部隊を率いることになった。後方で戦を支えるのではなく、前線で矢石の雨にさらされることを望んだのである。
 それは天城なりの熟慮の結果であり、そして名乗り出た以上は勝算があった。その勝算を現実にするためには、弥太郎の武勇が前線で発揮されることが必要不可欠だったのである。


 天城に滾々と諭されれば、弥太郎は首を横に振ることは出来ない。
 それでも、京での出来事を知る弥太郎は、天城の身辺の警護が薄くなることに一抹の不安を隠せなかった。
 だが。
『天道を行く我ら上杉が武を、坂東武者に知らしめよ! 最強なるは我ら上杉であることを、関東すべてに知らしめよ! 関東を斬り従える上杉が先陣たるの誇りをもって、北条軍を撃滅するのだ!』
 凛冽たる気概をもって将兵を鼓舞する天城の声に、弥太郎もまた深く感じ入るしかなかった。
 全軍に向けた突撃の号令が、何故か弥太郎に向けられたように思えたのは、さすがに気のせいであったろうが。
 それでも弥太郎はかつてないほどの心身の昂ぶりを覚え、その全てを眼前の北条勢にぶつけていったのである。この猛威に対抗しえる者が、そこらにいる筈もない。北条の右翼部隊は弥太郎を先頭とした上杉軍の猛攻を受け、開戦から半刻も経たないうちに、壊乱の兆しを見せ始めたのである。



 並の軍ならば、これを皮切りに一気に崩れたかもしれない。
 だが、さすがに北条軍は精強であり、太田資正は優れた将であった。
 資正は右翼が押され気味であると見るや、ただちに中軍から一千の援軍を差し向け、これを援護させると同時に、左翼に対して攻勢を指示する。
 寡少な敵右翼部隊を突き破り、その勢いで敵中軍を衝けば、必ず中軍は動揺する。そこを資正が全力で攻勢に出れば、元々まとまりのない上野の国人衆は支えきることは出来ないだろう。しかるのち、こちらに深く踏み込んだ敵の左翼を前後から押し包んで殲滅する。
 それが資正の考えであった。
 かくて、主将の命令を受けた北条軍右翼部隊は猛然と攻勢に出る。その数は二千五百。
 迎え撃つは長野軍大胡秀綱が率いるわずか五百の軍勢である。この勝敗はすぐにもついてしまうかと思われた。




   
 接敵した当初、大胡秀綱は五百の兵力を巧みに統御し、数に優る敵軍と互角の戦いを演じた。
 だが、五倍近い兵力差がある以上、いかに秀綱がすぐれた武将でも、完全に敵の攻勢を食い止めることは難しい。北条軍は長野軍の頑強な抵抗を力ずくで破砕していき、ついに秀綱は自身、敵と刃を交えなければならなくなる。
 軍将がみずから剣を交えるなど、それだけで負け戦は確定的であると言って良い。
 ――だが、今回の場合に限り、それは誤りとなる。


 秀綱の刀が左右に閃く都度、必ず鮮血が舞った。
「ぐあッ?!」
「くァッ!」
 秀綱に槍を向ければ柄ごと腕が断ち切られ、刀を交えれば本人ですら気付かないうちに首が飛んだ。
「あああ、腕が、腕がああッ」
「あ……?」
 秀綱の近習たちは主の動きを邪魔しないように周囲を開け、その援護に全力を注ぐ。
 戦場の只中にぽっかりと出来た空間に押し寄せる北条勢は、しかし誰一人として秀綱の前に立つことすらままならぬ。
 荒れ狂う撃斬の旋風は、それに立ちふさがる代償にその者の命を要求し、留まる気配さえみられない。
 たちまちのうちに積み重なる北条勢の死屍の山。秀綱は刀の切れ味が鈍るや、従者から新たな刀を取り、それでも間に合わなくなると、遂には戦っている敵の武器さえ奪い、なおも北条勢を屠り続けた。


 今や敵の血潮を全身に浴びた秀綱は、地獄の羅刹もかくやというような凄惨な姿であったが、それでもなお秀綱の持つ秀麗さは少しも失われない。むしろ、戦場の只中で戦う真紅の武神の姿は、まるで舞っているかのように人々の目には映り、北条勢は魅入られたかのように立ち尽くす。
 古来、武闘とはすなわち舞踏であったという。今の秀綱の姿は、あるいはこの証左とさえなり得たかもしれなかった。




 いつか北条軍の右翼部隊は完全にその勢いを断たれ、長野軍、というより秀綱一人の前に前進を止められてしまった。
 だが、秀綱とて人間である。一人で万人を討てるわけではない。時を置けば北条勢もそのことに気付き、数と飛び道具をもって長野勢を力ずくで押しつぶしたであろう。
 しかし、北条勢が見せた致命的な隙を、戦に長けた越後の守護代が見逃す筈はなかった。
 太田資正が数に優る左翼部隊を前進させることは分かりきっていたこと。突出し、秀綱の前に停止を余儀なくされた部隊は、その無防備な横腹を長尾政景率いる騎馬部隊に痛撃され、たちまちのうちに乱れたった。
 そこに秀綱率いる長野軍が、槍先をそろえて突きかかり、さらに北条勢に出血を強いた。


 その戦況を遠望した太田資正はかすかに表情を強張らせたが、その顔も部下に気付かれる前に消え、沈着さを保ったまま、資正は考える。
 すぐにも左翼に援軍を派遣したいところだが、そうすると今度は中軍の陣容が薄くなる。すでに右翼に援軍を出したばかり。この上、左翼に援軍を出し、中軍を破られるような事態を招けば、太田資正の名は愚将の代名詞と成り果てよう。
 ここはむしろ中軍を前進させ、敵の中軍を叩き、しかる後に両翼を援護するべきか。そう考えた資正は、左翼を先に動かしたことをわずかに悔いた。むしろ中軍と左翼を同時に前進させ、歩調をあわせて敵軍に挑むべきであった。そうすればここまでの混乱を招くことはなかったであろうに。
 長野軍を寡兵と侮った、太田資正の致命的な失策。
 だが、それはある意味で仕方のないことであったとも言える。まさか大胡秀綱の武勇が孤軍よく五倍の敵を食い止めるほどのものであるなどと誰が思おうか。むしろ秀綱が持ちこたえることを前提として作戦を組んだ上杉軍天城颯馬の異常なまでの眼力をこそ、人々は不審に思うべきであったかもしれぬ。


 だが、成功した作戦は全てを肯定する。
 遅ればせながら資正が中軍を動かそうとした時には、すでに天城率いる上杉軍は正面の敵部隊を撃破していたのである。
 不利な情勢に陥りながら、それでも善戦していた北条軍の太田康資がどうして急に崩れたったのか。
 康資は上杉軍の攻勢を必死で食い止めながら、敵の勢いを支えている者の姿を見出す。激しい戦場の只中に、平服をまとい、手に持つ扇で兵士を指揮する敵の武将、天城颯馬。
 並外れた指揮、というわけではなかった。康資が知るところの北条氏康や綱成に比すれば凡庸とさえ言える。だが、味方の隙を繕い、敵の隙を見逃さない堅実な指揮は、兵力に優るというただ一つの条件を加えただけで、厄介きわまりないものになる。
 それでも敵将が天城一人であれば、その攻勢に耐えしのぐことくらいは出来たであろう。
 だが、上杉の先頭で荒れ狂う鬼小島の武勇が、康資にただ耐えることさえ許さなかったのだ。弥太郎については、兵を指揮しているわけではなく、個人的な武勇を存分に発揮しているだけであったが、弥太郎の前進によって生じた空隙は天城によってすぐに上杉軍で埋められ、決して弥太郎を孤立させることはなかった。
 それを確認し――否、天城を信じきった弥太郎は後ろを振り返ることさえなく、さらに前進し、北条勢を押し込んでいく。そうして出来た空隙を瞬く間に天城が埋める。
 単純なまでの繰り返し。だが、単純であるがゆえに、挽回の策もまた限られる。これを何とかするためには、弥太郎を討つか、あるいは天城の軍を足止めするか。だが、それが出来ないからこそ北条軍は押され続けているのである。


 そして、押されに押された太田康資は徐々に本隊を後退させざるを得なくなる。
 このままでは敵の勢いに押し切られる。そう考えた康資は、ついに決断を下す。自身の本隊を投入し、かなたに見える天城の本陣を打ち崩す。天城さえ討ち取れば、弥太郎の勇など匹夫の勇に過ぎず、押し包んで討ち取れる筈であった。逆に弥太郎を討とうとして不用意に軍を動かせば、その間隙を天城は見逃さないであろう。
 かくて康資は本隊の指揮を腹心に委ね、自身は本陣にどっかりと腰を下ろす。
 総大将は軽々しく動かぬもの。だが、結果から言えば、この時、康資は自身で援軍の指揮をとるべきであった。
 本隊を動かしたことで、必然的に薄くなる本営。上杉軍に押されて布陣したこの場は、康資が元々本陣を置いていた場所に比すれば無防備といってもよい。それでも、戦場からはまだ遠く離れており、本陣に突っ込んでくる上杉軍の姿もない。それゆえ、康資は警戒を怠った。あるいは劣勢を挽回するためにそれどころではなかったということもあろう。
 まさか、はじめからこの戦況を予測し、このあたりに康資が本陣を置くと判断して兵を伏せていた者がいるとは夢にも思わなかったに違いない。
 だが、彼らはいた。その数はさほど多くなく、精々が三十人程度であったが、今、一時的に空に近くなった本営を急襲するには十分すぎる数であった。


「て、敵襲ッ! 後背より敵襲です!」
「なんだとッ?!」
 その報を受け、慌てて康資が振り返った時には、影のように本陣に近づいた上杉の一隊は目前にまで迫っていたのである。
 気がつけば康資の身体は地面に組み伏せられ、その咽喉元に短刀が突きつけられていた。
「警告は一度だけです。降伏しなさい」
 その声に、康資は驚く。あきらかに少女の声であったからだ。見れば康資の半分にも満たないような小柄な敵兵であった。
 だが、驚きはしても、その言葉に応じるつもりなどかけらもない。
「断る」
「……そうですか。では」
 相手の手に力がこもる。その一瞬の隙になんとか相手を突き放そうと康資はもがいた。互いの体格差を考えれば、決して不可能なことではない筈なのだが、康資を組み伏せる少女の身体は、なぜかぴくりとも動かなかった。
 そして、そこまで考えたところで、康資は首筋にかつてない冷たい感触を覚え――その意識は急速に薄れていった。
 遠ざかっていく意識を奇妙に感じながら、康資は小さく問いかけていた。
「……名は、名は何と言う?」
 その声は血の泡がまじり、ひどく聞きとりにくかったが、上杉の将は静かに返答した。
「……天城颯馬が家臣、加藤段蔵」
 その声が聞こえたのかどうか。太田康資はかすかに表情を歪ませたが、それが皮肉を言わんとしたためか、あるいは笑みを浮かべかけて顔の筋肉がうまく動かなかったのか。
 その答えは、すぐに永遠に失われた。


「上杉の旗印を掲げなさい。それでこの戦は終わりです」
「はッ!」
 段蔵は軒猿の一人に命じる。本陣に敵の旗印があがる。その意味は、すぐに戦場全体に広がることになろう。油断なく周囲を見渡しながら、段蔵はそう考え。そして、その段蔵の答えは、すぐに現実となったのである。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/10/04 18:31

 北条家臣太田康資の討死により、右翼部隊の指揮系統は失われた。彼らは上杉軍の攻撃に対して必死に応戦するものの、それは個々の武勇を発揮するにとどまり、部隊として局面を打開するだけの力を持つことができなかったのである。
 善戦しつつも上杉軍の圧力に押され、徐々に後退していく北条軍。そんな中、兵の一人がついに、敵に背を向けて逃走に移る。
 それが契機となった。
 残った者たちもなだれをうって退却を始め、それはたちまち右翼のすべてに伝染していったのである。


 一方、北条軍の左翼も、この時上杉軍の長尾政景と、長野軍の大胡秀綱の挟撃によって散々に打ち崩されており、敗勢は明らかとなっていた。
 この両翼の不利を遠望した資正は、しかしどちらへも援軍を差し向けることが出来なかった。すでに勢いに乗った敵の中軍が猛然と資正の部隊に接近してきていたからである。左右両翼の優勢を見た上野の国人衆は、この戦の勝利を確信したのであろう。その突進は、ここまでの逡巡が嘘のように力と覇気に溢れたものであった。
 この時、資正の手元にはまだ三千の兵がいる。
 敵軍は二千五百。数の上では互角以上の戦いが出来るであろう。
 だが、両翼が破られた以上、敵が中軍の資正を包囲してくるのは当然である。 
 自軍に倍する敵軍に包囲されて、なお勝ちを得られると考えるほど資正は傲慢ではなかった。
 であれば、とれる手段は一つ、後退しかない。勝勢に乗った敵を前にして、退却することがどれだけの難事であるか知らない資正ではない。
 だが、資正は平然と襲い掛かる上野衆の前に立ちはだかり、時に激しい逆撃を行いながら、平井城へ向けて退いていく。
 敗勢の中でも高々と軍旗を掲げているのは、敗兵を収容するためであったのだろう。実際、少なからぬ兵が北条家と太田家の旗を目印に逃げ込んできたのである。資正はそれらの者たちを受け入れつつ、油断なく後方を、特に敵の上杉軍と長野軍の動向を注視した。
 上野国人衆だけならばどうとでもなるが、敵両翼のどちらか一方に横撃されれば苦戦は免れない。まして二方向から攻め込まれた日には、いかに資正であって首を洗う準備が必要になるだろうからであった。


 当然、そのことは上杉軍、長野軍共にわかっていた。
 しかし勝利を得たとはいえ、正面から北条家の精鋭と矛を交えた被害と疲労は少なくない。
 特に長野軍は一時的にとはいえ、自軍の五倍の敵兵を相手にしたため、勝敗が確定する頃には心身に重い疲労がのしかかり、立っていることさえ出来ずに座りこむ者が続出していた。
 その長野軍に比べれば幾分ましであるとはいえ、上杉軍の将兵とて余裕があるわけではない。
 それでも勝利の余勢を駆って、資正の中軍を攻撃することは不可能ではなかっただろう。上杉軍は敵将である太田康資を討ったとはいえ、総大将である太田資正は本隊と共に未だ健在であった。これに平井城に篭られれば厄介な事態になることは目に見えていたから、資正が平井城に帰着するまでに殲滅すべしと唱える上杉の諸将も少なくなかったのである。


 しかし、上杉軍を指揮する長尾政景と天城颯馬は追撃をかけなかった。
 囲師をめぐらすなかれ。
 包囲された北条勢は脱出するために死兵となって立ち向かってくるだろう。そうなれば最終的に勝利を得られるにしても、こちらの損害は避けられない。
 平井城を巡る攻防において、この戦は戦局の終盤に位置するであろう。だが、視界を広げ、これから始まる関東での北条家との戦いの中で見据えなおしてみれば、いまだ緒戦に過ぎない。すでに敵軍を討ち破り、上杉家の武威を示した上は、敵を全滅させるために無理をする必要もない。相手が北条氏康であればともかく、太田資正は良将といえど、北条家の数多いる重臣の一人に過ぎないのだから。
 そう考えた上杉軍は、上野国人衆らにも追撃を控えるように伝え、綺麗に兵をまとめて引き上げたのである。



◆◆



 負傷者の治療、戦死者の埋葬、進軍を再開するにあたって、被害が大きい部隊は編成を組み替える必要もある。勝った勝ったと喜んでばかりもいられないのである。
 とはいえ、上杉方の将兵の顔は勝利の喜びに満ちたものであり、北条家何するものぞと意気軒昂な叫びが各処からあがっていた。
 そんな声に耳をくすぐらせながら、俺は敵味方の死者が並べられている場所に一人佇んでいた。
 敵の死者と味方の死者とを問わず、その様子は俺の目には異様なものに映る。なにしろ、多くの屍には鼻や耳、中には首自体がない者さえいるのだから。


 戦での手柄を示す最もわかりやすい手段は、相手の首級をあげることである。だが、乱戦の中で討ち取った敵兵の首を一々とっていては自分の方が討たれてしまう。あるいは、武士ならばともかく、足軽の首などはたいした手柄と見てもらえないため、鼻や耳をそぎとって、これで手柄を評価するのが一般的なのである。
 俺の前に並ぶ死屍の異様さの原因は、そのためであった。もっとも、上杉軍においては、武将の首級ならばともかく、鼻や耳で手柄を競わせることはしていない。ゆえに、この死者たちは長野軍か、あるいは上野の国人衆の部隊とぶつかった将兵なのだろう。


 間もなく、この死者たちは鎧兜をはぎとられ、身一つで地面に埋められることになる。近くの寺から僧を呼んであるとはいえ、念仏一つですべての無念が晴れるわけではあるまい。
 ここで横たわっている者たちの一人一人に、一体どれだけの可能性が眠っていたのか。皆、親がいて、子がいて、妻がいて、守るべき誇りを抱えていたであろうに、たった一度の戦が、本来かけがえのない筈のそれらをことごとく刈り取ってしまった。
 それはつまり、この戦を望み、采配を揮った俺もまた、その罪業の一端を担わなければならないということでもある。
 もっとも、それを自覚したところで、これからも俺が多くの戦に出る心算である以上、自己満足以上のものにはなりえまい。だが、勝利の影に広がるこの寂寞とした光景から目をそむけてはならない。それは多分、景虎様の下で戦う将として、何よりも先にわきまえておかねばならない覚悟である筈だった。


 ふと、背後に気配を感じた。
 弥太郎か、あるいは段蔵か、と思いながら振り返った俺は、そこで思いもよらない人物の顔を見出し、咄嗟に言葉に詰まってしまった。
「……ここで他者と会うとは驚きました」
 あまり驚いてもいない様子ながら、そう言って姿を現したのは大胡秀綱であった。
 戦の後に姿を見かけたときは、敵兵の血で全身を染め上げた格好だったのだが、今はすでに箕輪城で会った時のような落ち着いた面差しを取り戻している。
 戦場の両端に位置していた為、俺は自分の目で秀綱の奮戦を見たわけではないのだが、その凄まじさは政景様の口から聞かされている。
 もっとも、政景様の語る真紅の武神とやらと、目の前の女性を結びつけるには相当の想像力を必要とするのだが。
  

 ともあれ、秀綱と長野勢には、戦が推移していく中で、もっとも危険な場所を受け持ってもらった。
 あそこで長野勢が持ちこたえてくれなければ、ここまで綺麗に勝つことは出来なかっただろう。政景様がいたから、右翼が壊滅するようなことにはならなかったにしても、それは長野勢の奮戦の価値を低めるものではない。
 そう考え、俺が改めて礼を述べると、秀綱はゆっくりと首を横に振った。
「この戦は、本来、私たち関東管領の家臣が行うべきものでした。頭を下げるべきは私たちであって、あなた方ではありません」
 秀綱が頭を下げると、その後を追うように黒髪が滝のように宙をすべり落ちていく。
 知らず、その様子に目を奪われていた俺は、慌てて両の頬を叩いて正気にかえる。
 そんな俺の姿を、頭を上げた秀綱が、不思議そうに首を傾げて見つめていた。



 その後、秀綱は幾十、幾百とも知れぬ戦死者の列に向かって、しばし瞑目していた。
 それが死者を悼むためなのか、あるいは己が手にかけた者たちへの礼儀なのかはわからないが、いずれにせよ先刻の言葉から察するに、戦が終わった後、いつも秀綱はこうしているのだろうと思われた。
 声をかけるなど論外であるが、さりとてこの場でとどまってじっと見ているのも非礼であろう。そう考えた俺が、なるべく足音を殺してこの場から立ち去ろうと動きかけた途端、秀綱の瞼が開かれた。そして、秀綱は死者たちに向かって何事か口にしてから、俺の方へ振り返り、言った。
「――少し、時間をもらえますか?」





 燦燦たる陽光が、彼方まで広がる田園地帯を照らしだす。
 関東平野の豊穣さをあらわす景色を眼下に見ながら、俺と秀綱は今後の展望に関して話し合っていた。
 元々、秀綱は業正殿の全権代理であるから、軍議の席にも出ている。それゆえ、わざわざ差し向かいで話す必要もないのだが、軍議の席には他の上野の諸将などもいるため、自然と話せる内容も限られてしまう。秀綱はそういった俺のためらいを汲み取ってくれていたらしい。
 ともあれ、秀綱が信頼できる人物なのは間違いない。実のところ、今後の上野の秩序を考えた場合、このまま戦を進めていくと、色々と微妙な問題が生じてくるため、そのあたりのことを腹蔵なく話し合うことが出来れば、俺としてもありがたいのである。


 一番の問題は山内上杉家に関する扱いだった。
 平井城を陥落させ、上杉憲政を上野に呼び戻すのは当然としても、越後上杉家が主力となってそれを行ってしまえば、上野の人心は越後上杉家に寄せられ、山内上杉家に関してはこれまでどおりのままである。それは北条家も同様であろう。
 つまり恐れるべきは上杉軍のみと思われてしまい、遠征が終わって俺たちが越後へ戻れば、またぞろ上野各地で不穏な動きが起きてくるだろうということであった。
 そのあたりを未然に防ぐためにも、平井城攻略に関しては、越後上杉家ではなく、山内上杉家が主力となって行うべきであった。この場合、それは長野軍になるわけだが、たとえばこれで長野軍が城を陥とすという大功をたてた場合、今度は上野に戻った憲政が、長野家に対して不審を抱いてしまいかねないのである。
 直接に憲政と話した政景様の言葉によれば、関東管領上杉憲政、ずいぶんとおとなしく、言葉すくなになっていたらしい。少なくとも噂に聞くような倣岸さは影を潜めていたそうな。
 だが、それはおそらく北条家の猛攻撃に晒されたことによる一時的な虚脱であろう。時を置けば、元の為人に戻るだろうし、そうなれば戦に敗れ、他国に逃げ延びていた自身の不甲斐なさを誤魔化すために、勲功をあげた家臣への態度が厳しくなるであろうと思われるのだ。


 要するに、俺は平井城攻略は長野家に一番乗りしてもらうつもりなのだが、そうすると、業正殿や秀綱は主君である憲政の目の仇にされかねないのである。
 かといって越後上杉家がすべての功を掻っ攫ってしまえば、それはそれで、上杉家が退いた後の上野に不安要素を残す。
 そのあたりをどうしたものか、と考えているわけだが――何故か、秀綱がぽかんとした顔でこちらを見ている。これがかなり稀少なことだと知ったのは、もう少し後のこと。俺は不思議に思って口を開いた。
「どうかしましたか、鳩が豆鉄砲を食らったような……」
 そこまで言って、自分で首を傾げた。この言い回し、この時代で通じるのだろうか?
 だが、秀綱は俺の言いたいことを察したらしく、頭を振ると、小さく苦笑をもらした。
「どのように平井城を攻略すべきかを問おうと思ったのですが、あなたはもうその後のことを考えているのですね」
「あ、いや、たしかに少し気が早すぎたかもしれません。もちろん、平井城を軽く見ているわけではないのですが、この手の話をする機会はあまりないと思いまして」
「たしかに、そうですが。しかし、気にする必要はないと思いますよ。業正様の武名はもとより上野にあって屈指。その高名を忌んだ関東管領殿とは、度々悶着が起きているのです」


 確かに考えてみれば秀綱の言うとおりであった。上州の黄斑と渾名される勇将を配下として抱え、虚心でいられるような憲政であれば、これほどの悪評が世に流れたりはしなかったであろう。
 無論秀綱は、これまでそうだったからといって、全てを業正殿に任せておけば良い、と無責任に言っているわけではない。
 ただ援軍の将たる俺が、山内上杉家の内部事情にまで考えを及ばせて、それで戦の矛先を鈍らせるようなことがあれば、その方がよほど問題となる。そのあたりのことまで含めての「気にする必要はない」という言葉なのだろう。あるいは俺のような若造が、業正殿ほど世慣れた方の今後を案じていることの慢心を、それとなく諌めてくれたのかもしれない。



 顔から火が出るとはこのことか、たしかにちょっと思い上がってたかもしれん。
 ここは平井城攻略に集中するとしよう。今後のことは、城を陥としてから考えていけば良い。先走っていた思考を引き戻し、落ち着きを取り戻した俺を見て、なんだか秀綱が微笑んでいるように見える。
 むう、なんか恥ずかしい。秀綱に他意はないのだろうが、同級生に子供扱いされた感じが、こうひしひしと……!



 まあ、それはさておき。
 平井城攻略に関しては、実のところさほど心配してはいない俺だった。
 先の戦いで、こちらは野戦でほぼ完勝している。無論、きわどい場面は幾度もあったが、結果として数に優る北条軍を蹴散らしたといっても良いだろう。
 この勝利は、いまだ日和見を続ける関東の諸将に大きな影響を与えるであろう。ことに今回の北条氏康の忍城急襲に始まる遠征によって北条家に従った家々の中からは、この戦の結果を聞いて上杉方に馳せ参じる者が続出するだろう。
 くわえて、元々北条家に従っていた者たちの間にも動揺は広がる筈だ。彼らの多くは北条家に忠誠を誓っているわけではなく、北条家が強勢であるゆえに、その下にとどまって自家の存続と発展をはかっているに過ぎない。北条家の勢いが弱まれば、その麾下から脱することに躊躇することはないだろう。
 もっとも、これは北条家にとどまらず、山内上杉家や、越後上杉家にも共通するところである。景虎様個人に忠誠を誓う者たちは、全体からみれば一握りにすぎず、その他の者たちは自分や、家の利益のために動いているのである。
 当然、主家が期待どおりの動きをしないようであれば、それに不服従という形をとることもある。
 ことに名実共に景虎様が守護となった越後は、これから国内の動きに注意する必要があるだろう。景虎様の天道が、万人に受け入れられるものではないことは明らかであり、利を求める者たちにとってはむしろ邪魔にさえなりかねない。重臣級の家臣たちが幾度も背反している史実を知る身には、これからの越後は国外と同じくらい国内に気を配らねばならなかった。
 かといって、それも過ぎれば、陰惨な空気が越後全土に漂うことになるだろう。なかなかに難しい問題であった。


 と、少し話がそれたが、今後、こちらに付く国人衆は間違いなく増える。
 後方で動いている業正殿は、国の内外に幾十もの使者を出しているに違いなく、今回の勝利はその説得の効果を大いに高めることになるだろう。
 そう考えたからこそ、無理に北条軍を追撃しなかったのである。間もなく各地からやってくるであろう援軍を待って平井城に攻め寄せる。北条軍は今回の戦で大きな痛手を受けたし、配下の者たちも動揺しているだろうから、長きに渡る篭城に耐えられるとは思えない。 
 問題は、こちらも兵糧の面で同様な点であるが、すでに北条軍に当初の勢いはなく、上野の国人衆が長野家を中心としてまとまれば、俺たちは越後に引き上げてもかまわないだろう。業正殿ならば、国人衆をまとめることもお手の物だろうし、敵将が太田資正であろうと問題はないと思われた。


 

 俺と秀綱がそういったことを話し合っていると――正確に言えば、俺が話し、秀綱は時折頷くだけだったが――一向に戻ってこない俺を心配したのか、弥太郎たちが探しに来てくれた。
 俺を見て露骨に安堵の表情を見せるあたり、どうも弥太郎は京での俺のことが、かなり深くまで心に根ざしてしまっているらしい。今さらながら、申し訳ないことをしてしまった。
「――そう思うなら、余計な心配をかけないでほしいものです」
「そうですそうです。そ、その、大胡様とお話があるのであれば、せめて一言なりと伝えてからにしてくれれば」
 段蔵と、そしてめずらしく弥太郎も唇を尖らせて文句を言ってくるところを見るに、本当に心配させてしまったらしい。
「う、すまなかった」
「……本当に反省してますか?」
 ぐいっと顔を近づけてくる弥太郎。潤んだ目を間近に見てしまえば、首を縦に振る以外に選べる動作などないに決まっていた。
「もちろんだ――もちろんです。今後は気をつけます、はい」
「ならば良し、です」
 そう言って弥太郎がようやく顔を離してくれた。


 一方の俺はというと、多分、今、鏡を見ると頬が赤くなっているに違いない。可愛い女の子に、いきなり息がかかるほど顔を近づけられたのだ。健康な男としてはむしろ当然の反応ではあるまいか。今のは不意打ちであった。やるな、弥太郎、とか我ながらよくわからんことを考えていると。
「接吻はお済みですか、二人とも」
 段蔵が、いきなり妙なことを言い出した。
 それを聞いた弥太郎は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに今の自分がとった行動を思い返したのだろう、瞬時に耳たぶまで真っ赤に染め上げた。
「あ、あ、いあ、今のは、そその、接吻とか、そういうのじゃあッ」
「冗談です」
「ふあ?! だ、段蔵、ひどいよッ!」
 羞恥か憤慨かはわからないが、頬を赤らめて怒る弥太郎に、段蔵は淡々と指摘する。
「弥太郎、他家の方がいるのです。臣下が主をとがめるような真似をすれば、天城様のみならず上杉の家の軍紀が軽んじられてしまいます。気持ちはわかりますが、今のはやりすぎです」
「あ……」
 段蔵の視線が秀綱に向けられると、その意を悟った弥太郎の顔から赤みが急速に消えていった。自分の失態に気付き、どうしようどうしようとうろたえる弥太郎。


 俺は照れ、弥太郎は慌て、段蔵は冷静。なんだかよくわからないこの場の状況を収めたのは、銀の鈴を振るような秀綱の澄んだ笑い声だった。
 笑い声といっても、くすりと微笑むだけのものだったが、秀綱の顔に浮かんだ楽しげな微笑は、思わず魅入ってしまうほどに温雅なものであった。
「越後は義を重んじる。村上家を再興し、将軍家をお守りし、今また関東管領の家を救わんとする行動から、その評が誤りでないことは理解したつもりでしたが。ふふ、その臣下の方々がこんなに、そう、温かい方たちだとは思いませんでした」
 秀綱の言葉に、真っ先に応じたのは段蔵である。
「お言葉を返すようですが、私どもは上杉にあっても稀少な君臣であると思いますが。おもに主が」
 だから参考にはならない、と口にする段蔵。
「間違いなく褒めてないな、その言い方は」
「無論です」
「断言しちゃ駄目だよ、段蔵?! あ、あの大胡様、颯馬様は、そのすごい良い方で、あの、私、心から尊敬しておりますですッ!」
「……」
 黙り込む俺を見て、段蔵がぽつりと一言。
「天城様。私も弥太郎のように内心を吐露いたしましょうか?」
「……勘弁してください」
「え、え、私、なんか変なこと言いましたか、颯馬様??」
 返答の代わりに弥太郎の頭をぽんと撫でると、弥太郎はわけが分からないと言いたげに目を白黒させながら、それでも嬉しげに頬を緩めていた。



 そんな俺たちを見て、くすくすと笑う秀綱。うあ、なんかすごい恥ずかしいのだが。
 この剣聖さん、仕草の一つ一つに華があり、目を惹かれずにはおれない。そういったところは、景虎様と似ているかもしれなかった。
 そうして慌てた俺が、とりあえず何か言わねばと口を開こうとした時、兵の一人が慌てた様子であらわれ、政景様が俺を呼んでいることを告げた。どうやら越後から急使が来たらしい。


 たちまち場の空気は一変し、俺はすぐに本陣に向かって大股で歩きはじめる。
 景虎様が越後守護になってまださほど時は経っていない。しかも今は遠征の最中である。どのような変事が起きても不思議ではなかった。
 俺は起こりえる事態を胸中で並べ立てながら政景様の下へ赴き――そこで上杉と武田が北信濃で矛を交えたことを知らされたのである。





◆◆




 上杉と武田の両家が激突した端緒は、意外にも村上家にあった。
 飯山城主楽巌寺雅方が、西上野より撤退してきた武田軍に強襲を仕掛けたのである。
 これは無論、旭山城の村上義清の許可を得ない独行であった。今川家の敗退と、武田軍の上野からの撤退を知った雅方は、これを千載一遇の好機と見た。斥候によれば、武田軍はよほど慌てて退いてきたのか、部隊間の統制さえとれていない様子で、皆、われ先にと甲斐へと向かっているらしい。
 常の武田軍を知る者にとって、その醜態は考えにくいものであり、当然、罠の存在に思い至ったであろう。
 だが、海道一と謳われた今川義元の戦死の報は、村上家の将兵にさえ強い衝撃を与えた。同盟相手である武田晴信が動揺することは、ありえない話ではない。雅方はそう考えたのである。


 この時、雅方は、今川の同盟相手である武田家とほぼ同時期に、村上家にまで義元戦死の報が流れていることに対して不審を覚えるべきであった。あまりに情報の伝達が早すぎるのである。まして、武田家が混乱しながらひたすら甲斐を目指していると聞けば、その情報源を確認してしかるべきであったろう。
 だが、雅方は伝え聞く情報から、それをありえることだと判断し、自身が出した斥候の報告が同一のものであったことから、当初伝わってきた情報の出所を確認せずに出陣してしまう。
 雅方は、旭山城の義清に対して後詰を要請する使者を出すと、かき集めた兵力をねこそぎ率いて北信濃を進軍していった。
 元々、北信濃の領主であった村上家である。起伏に富んだ信濃の山々を進む術は心得ていた。それゆえ、甲斐への帰路を急ぐ武田軍を捕捉したことに対して、なお雅方は疑念を覚えなかったのである。
 あまりに都合が良すぎる展開に懸念を示す家臣がいないわけではなかったが、武田晴信を討つ好機に目を眩ませている雅方は、その意見を採り上げることはなかった……





 楽巌寺雅方、戦死。飯山城、陥落。
 この二つの報告を受け取った時、村上義清は小さくため息を吐いただけであったという。
 臣下を大切にする義清が、重臣の死を聞いて動揺することがなかったのは、雅方からの後詰要請の使者を迎えて以来、ずっと覚悟していたことだったからである。
「――雅方ともあろう者が。義元殿の戦死が、判断を歪ませてしまいましたか」
 退路を急ぐ武田晴信に急襲を仕掛けた雅方。しかし武田軍は村上軍の攻撃を受けるや、瞬く間に態勢を整え、整然と陣列を組んで反撃に転じた。数に優る武田軍に取り囲まれた雅方は、全身を矢で貫かれて討死したという。雅方配下の将兵の多くは主将に殉じ、残るは武田の旗に屈した。


 晴信は飯山勢を討ち破るや、北信濃の内藤昌秀に飯山城の奪取を命じる。これを受けた昌秀はただちに進撃を開始、ほとんど空となっていた飯山城を容易く制圧してのけると、ただちに越後との国境を固め、上杉、村上両家を分断したのである。
 これを受け、武田軍は村上義清の居城である旭山城へと一斉に進軍を開始した。晴信は東から、甲斐と南信濃からの援兵を束ねた山県、馬場の両将は南西から、それぞれ村上領内に侵攻し、少数の村上勢を瞬く間に撃破し、旭山城を重囲に置くことに成功するのである。


 あまりにあっけない村上家の敗退だが、北信濃の一部を領するだけの現在の村上家では、義清がどれだけ智勇の限りをつくしても、万を越える武田の大軍を相手にすることが出来る筈もなく、いたしかたのないところであったろう。
 すでに北への道を封じられている以上、城を捨てて越後へ落ちることも出来ない。
 くわえて、越後では長尾景虎が上杉家を継いで守護になったばかり。国内も安定しているわけではあるまい。ここで義清が助けを求めれば、あの景虎のこと、必ず救援に来てくれるであろうが、後背の越後で何が起こるか不分明である。また、武田がそれに思い至らない筈もない。
 また義清にも武将としての意地がある。一年にも満たない間に、二度までも城を捨てて他国に落ち延びるなど到底堪えられることではなかった。


 かくて村上義清は旭山城に立てこもり、武田軍の猛攻を北信濃で食い止めることを選択する。
 義清の抗戦が長引けば長引くほど、越後国内も落ち着きを取り戻すだろう。
 将兵を激励しながら、義清がそう考えていた、ちょうどその頃。




 信越国境を封鎖する武田軍内藤昌秀の軍は、突然の夜襲を受けて乱れ立っていた。
 昌秀は驚き騒ぐ配下を落ち着かせようと指示を与え続けたが、敵軍はそれを上回る勢いで猛攻を仕掛けてくる。
 予期せぬ奇襲の前に、苦戦を余儀なくされた昌秀の目が、敵が陣頭に掲げる旗印をとらえた。
「『毘』の一文字……やはり長尾、いえ上杉景虎ですか。ふふ、まさかこの私が奇襲をかけるのではなく、かけられるとは。見事というしかありませんね」
 信濃の戦況を聞いてから兵を集めたにしては、姿を現すのが早すぎる。おそらく直属の兵のみで春日山城から駆けつけ、強襲してきたのだろう。
 そうであれば、上杉軍の疲労は相当なものであろうし、兵数自体もさして多くはあるまい。
 だが、それを知らしめたところで、浮き足立った味方が立ち直ることは不可能であることも、昌秀にはわかっていた。
「退却は美しくありませんが、それを恐れて兵を無益に死なせ続けるは、美しくないだけでなく、醜悪です。ここは素直に敗北を認めて退きましょう。再戦の機会はすぐに来るでしょうからね」


 この後、内藤昌秀は敗兵をまとめつつ、自ら殿軍をつとめて国境から退き、飯山城に入った。その指揮に隙はなく、ともすれば逆撃に転じる気配さえ示しながら、ついに上杉景虎の追撃を退けたのである。
 この時、景虎に十分な兵力があれば内藤勢を覆滅することも出来たであろうが、昌秀の読みどおり、この時点で上杉軍は大兵を擁しておらず、国境の封鎖を解いた後は、越後各地からの援軍を待つ態勢をとったのである。




 一方、昌秀からの敗報を受けた晴信は、旭山城の包囲を山県昌景に委ね、自身は真田幸村、馬場信春を引き連れ、北へと馬首を向けた。飯山城外で内藤昌秀と合流し、その兵力はおおよそ八千。
 対する上杉軍は、この時、上杉景虎、直江兼続、斎藤朝信を中心とした六千弱。
 上杉勢の兵力が少ないのは、長尾政景が関東に出陣しているからであり、武田勢は上野に春日虎綱、甲斐に山本勘助、そして旭山城に山県昌景と、それぞれの方面に兵力を割いているためであった。
 この時点でもう一つ両軍に共通していたことは、いずれも後背に不安を抱えていたことである。武田軍は言うまでもなく、今川義元死後の駿河の情勢が不透明であり、上杉家は景虎が守護になって間もなく、国内の国人衆の動向に一抹の不安を残していた。
 結果として、上杉景虎と武田晴信という名将同士の三度目の対峙となったこの戦いは、双方ともに大きな動きを見せることなく、数度の衝突の末に互いに兵を退くことになる。


 無論、互いに何も得ることなく引き下がったわけではない。これは上杉、武田の両軍が泥沼の死闘に引きずり込まれることを恐れた村上義清が、みずから旭山城を明け渡したことによる停戦だった。
 これにより、村上家は将軍の調停で得た飯山城と旭山城を二つながらに失い、再び北信濃の地から撤退を余儀なくされる。ここに信濃は名実ともに武田晴信のものとなるのである。
 その代わり、武田晴信は城を落ちる村上勢に対して手出しをせぬことを言明。村上勢は再び上杉家の麾下に加わり、以後は忠実な配下として活躍することになる。
 



 武田晴信は領土を得て兵を退き、上杉景虎が人を得て兵を退いた頃、遠く関東の地でも争いに決着がついていた。
 新たに参集した上野の軍勢六千を束ねた長野業正は、先行していた八千の軍勢と合流して太田資正が立てこもる平井城を攻囲。野戦での敗退や、その後の離脱者などで太田資正の率いる兵力は六千近くにまで減っており、その士気は決して高くなかった。また城郭自体の損傷も軽視できず、攻城軍の猛攻に対して太田資正は苦戦を余儀なくされる。
 それでも守城の利を活かして善戦する太田資正だったが、攻城軍、ことに疲労の少ない援軍を率いた長野業正の猛撃は精妙を極め、資正の堅陣を次々と打ち砕いていった。
 老体に甲冑をまとい、みずから前線で采配を揮う業正の姿に、援軍のみならず、上杉軍ら先発していた軍も奮い立ち、半月の間に三の丸は陥落、そしてほどなく二の丸も攻め手側の手におち、ついに北条軍は本丸に追い詰められた。


 長野業正は、本丸に立てこもる太田資正に対して降伏を勧告するも、資正はこれを拒否。
 すると業正はこれまでの戦で捕虜となっていた北条の将兵を集めると、彼らを解き放ちながら口を開いた。
「北条家への忠誠を、抗戦をもって示したそなたらに敬意を表し、ここで解き放つことにいたす。本丸に戻ろうと、武蔵の国へ退こうと、進退は随意にせよ。本丸に篭ったそなたらの同胞にもそう伝えるがよい。我らはこれより兵を退き、東と南の門は開けておく」
 ただし、と業正は続けた。
「一日後、全ての門は閉ざされるであろう。その後、城内に残った者の行く先は黄泉のみである。このこと、しかと資正殿に伝えてくれぃ」



 そういうと、長野業正は言葉どおり城から兵を引き上げ、さらに十里以上も離れた位置に布陣してしまう。
 これには上杉軍のみならず、上野の諸将も驚いたが、業正麾下の大胡秀綱などは、業正の行動に慣れていたためか、特に動じる風もなく、翌日の城内の様子に思いを馳せているようであった。

 

 あけて翌日。
 城へ踏み込んだ将兵が見た者は、塵一つ残さずに清められている本丸の姿であった……

 
 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/10/05 00:20

 関東の始末がついてから一月あまり。
 春日山城に戻った俺たちは未だその後始末に奔走していた。
 一番の問題となったのは、関東管領上杉憲政が上野の平井城に戻ることを拒否したことであった。
 景虎様はじめ、政景様や兼続、さらには遠く上野からやってきた業正殿までが説得にあたったのだが、憲政は決して頷こうとはしなかったのである。
 なにやら春日山城で、客人として暮らすことの気楽さに目覚めてしまったらしい。春日山城にいる限り、関東管領として敬われることはあっても、耳触りな諫言を聞く必要はなく、面倒な政事には携わらずに済み、何より戦に巻き込まれる恐れがない。仮に北条が憲政の命を狙ってきたとしても、上野で業正が、その業正が敗れても越後の上杉が戦ってくれるのだから、こんなに安全で快適な場所はないだろう。
 憲政がそう考えていることが、俺にはありありとわかってしまった。


 何考えてんだこのあほう、という内心はとりあえず飲み込み、俺も一応憲政を説得するために部屋を訪ねたりしたのだが、一目見て諦めた。
 年の頃は三十代半ばといったところか。関東管領として君臨していただけあって、挙措動作は礼に適い、品格のようなものも感じられる。かつては連日の宴と暴飲暴食で膨らんでいた容姿も、平井落ち以来の危難のせいであろうか、顎のあたりがすっきりとして、公家の人間のように風雅な美々しさが見て取れた――一応言っておくが、俺の台詞ではない。侍女たちのうわさ話を小耳に挟んだだけである。
 俺の目には、地位に伴う責任を放棄したくせに、地位と権限に恋々としている小人にしか見えなかった。このたわけのどこらへんに『風雅な美々しさ』を感じるのだろう。素でわからん。


 この男が、景虎様や政景様より上位としての振る舞いをするなど、業腹も良いところである。もし平然とそんな真似をしようものなら、俺は全力を挙げて憲政を春日山から追い放とうと画策したであろう。
 だが、幸いというか何というか、憲政も立場は弁えているようで、越後の国内事情には関わろうとはしなかった。いや、立場をわきまえてというより、そういうことが面倒で平井城に戻ることを拒否したのだから、わざわざ春日山で携わる筈はなかったか。どのみち、こんな輩が景虎様と同じ城で起居しているだけで、十分腹が立つのだが。


 とはいえ、厄介なことに、憲政に上野に戻られるのも、それはそれで困るのである。現在、上野は業正殿が平井城代として治めているため、北条家も容易に付け入る隙がない。
 だが、憲政が平井城に戻れば、おそらくは再び北条の侵入を招き、平井城は陥落してしまうだろう。それでは元の木阿弥である。
 春日山城にはいらない。上野には帰せない。となれば、どこか春日山に近いところに憲政の為の邸でも建ててやって、そこに押し込めておくのが最良であろう。
 俺が新邸のことを口にすると、憲政はえらく喜んで景虎様への口利きを頼んできた。邸の造詣がどうだの、庭園がどうだのと熱い口調で語られたが、九分九厘聞き流す。
 後で景虎様と話をすると、景虎様はやや苦笑いしながら「面倒をかけた」と低声で謝ってきた。やはり景虎様も、憲政の扱いには苦慮していたらしい。景虎様の性格上、関東管領を邪険に扱ったり、非難したりは到底できないだろうから、さぞ困っていたのだろう。まったく、業正殿はよくこの関東管領をこれまで盛り立てて来たものである。改めて上州の虎殿を尊敬する俺であった。




 憲政の扱いが一段落した後も、問題事は山積していた。
 その中でも最大の問題がやってきたのは、憲政の新邸建設が着工して間もなくのこと。
 越後の与板城から直江景綱殿が春日山城へやってきたのである。
 といっても、兼続の義父にして、現当主にかわって与板城を切り盛りしている人物に対して、俺が隔意を抱いているわけではない。そもそもまともに顔をあわせたことがないのだから、遺恨が発生する理由がなかった。
 もっとも、かつての内乱時、俺が与板城に攻め寄せたことがあるから、向こうには俺を恨む理由があっても不思議ではないが、今回の来訪はそういったこととは一切無関係であった。


 越後上杉家の主要な収入源に、青苧座(あおそざ)というものがある。
 簡単に言えば、青苧の生産から輸送、販売までを一手に握った商人組合、というところであろうか。
 では青苧とは何かといえば、衣類の原料となる植物の一種であり、青苧からつくられた麻布は武士であれ庶民であれ、ごくごく一般的な衣類と言って良い。俺が今来ている服もそれである。
 つまりは、それだけ身分の上下を問わず需要があるということだが、越後はこの青苧の生産量が他国に比べて抜きん出て高く、これを青苧座を通して京などで売りさばき、莫大な利益を得ているのである。
 これは晴景様や景虎様の父の代以前からのことで、越後にとって青苧は重要な産物なのである。


 当然、直江家の治める与板付近でも青苧の栽培は積極的に行われている。だが、ここで一つ問題となるのが、京で――ということはつまり日ノ本で最も強い影響力を持つのが京にある天王寺青苧座である、ということであった。
 座というものをものすごい簡潔に説明すると、商人たちが特定の物品を扱う特権を朝廷、公家、寺社などから授かって結成する組合である。当然、本所と呼ばれる許可元は、商人たちから莫大な献金を受け取るのである。ちなみに青苧については京の三条西家が本所であるらしい。
 当然、座を結成した商人たちは費用以上の収入を得んがために精力的に活動する。青苧についても、越後まで出向いて買占めを行ったりするのだが、京の商人が越後まで赴けば、当然、越後の商人たちと諍いが発生する。とはいえ、座によって京の商人の権利は保証されているわけだから、地元商人たちに勝ち目はなく、長年にわたって苦渋の涙をのんでいる状況であった。


 青苧の収入と、青苧座からの献金は、上杉家の重要な収入源である。だが、だからといって地元商人の不遇をそのまま放置すれば、今度は彼らの協力が得られなくなってしまう。国内が乱れている時であればまだしも、ある程度の平穏が回復した今、商人たちからの突き上げがまたぞろ出始めてきた。そのあたりのことを話し合うために、景綱は春日山城へ出向いてきたのである。
 もちろん、可愛い跡取りに久々に会いたいという思惑もたっぷりあったであろうが。
 兼続にあって相好を崩している景綱殿を見るに、むしろ青苧座の方がついでの用事ではないか、と思ったりする俺であった。


 だが、それだけならば仲の良い父娘の様子を見て微笑んでいるだけで済んだであろう。
 ところが、景綱殿は第三の用事を抱えていたのである。
「ところで、天城殿」
「はッ」
 景綱殿は隠居の身とはいえ、実質上の与板城主、目上の大身である。かしこまって頭を下げる。
 あるいは昔日の罪をならされるか、と覚悟したのだが、その口から出た言葉は俺の全く予期しないものだった。
 すなわち景綱殿はこう言ったのである。
「兼続の婿に来ぬか?」



 俺と兼続の口から同時に発された驚愕の声が、春日山城を揺らした。



◆◆  



「馬子にも衣装という言葉がありましたね」
「それは新手の介錯依頼と解して良いのだな?」
 刀があったら間違いなく抜き放っていたであろう笑顔の兼続。
 一方、その兼続の姿から、さきほどから視線が離せない俺は、またしても思ったことをそのまま口にしてしまう。
「はじめてのこういう席で、緊張して混乱している男の戯言だと思ってください」
「ば、ばかもの、普通に照れるな! 私だって恥ずかしいんだぞッ」
 そういう兼続は、どこの公家の姫君かというような華やかな衣装のまま、自身も恥ずかしげに頬を染めた。
 きめ細かにほどこされた化粧で、今の兼続は正直、絶世の美人にしか見えない。いや、無論、普段の兼続も十分に綺麗なのだが、何というか質が違うというか、女は化けるというか、ともかくまさかこんな兼続を拝める日が来ようとは、思ってもいなかった。
「――我が人生に悔いなし」
 俺がからかっているわけではなく、本当に戸惑っていることを察したのだろう。兼続は艶姿のまま、くすりと微笑んだ。
「――ふむ、この衣装を着るとこんなに颯馬が戸惑うなら、これからはこちらを着ることにしようか」
「ごめんなさいゆるしてください」
 なにかもう自分でもよくわからないままに頭を下げたくなった。どうしてこうなったんだろうか。



 その後、ようやく落ち着きを取り戻した俺は、兼続に問いを投げかけた。
 そもそもどうして兼続がこのような席に姿を現したのか。俺はてっきり言下に断るものとばかり思っていたのだが。
「義父上には、恩がある」
 その問いに兼続はゆっくりと茶をすすりながら答えた。ううむ、服がかわると、こうも印象がかわるものなのか。今の兼続は本当にどこぞの姫君のようにしか見えなかった。
「本来、私は直江家の当主として与板城の政務をみなければならない。宇佐美殿が、景虎様にお仕えしながら、琵琶島城の政務をみているようにだ。だが、私はそれらをすべて義父上に委ね、自身は景虎様のお傍に侍り続けている」
 本来ならば、こんな人間が直江家の当主を名乗るなど許されない、と兼続は言う。
「だが、義父上も家臣たちも、私のわがままを許し、したいようにさせてくれている。知っていると思うが、私は義父上と血のつながりはないし、与板で生まれ育ったわけでもない。そんな私に、ここまでの厚意を示してくれているのだ。よほどのことでもない限り、義父上のお頼みを断ることは出来ん」
 たとえそれがお前との見合いであってもな、と兼続は肩をすくめる。
 その一瞬だけ、姫ではなく、いつもの兼続の姿が重なり、俺は何故かほっとしてしまった。


「お前こそよく応じたものだ。てっきり、お断りする、と義父上に申し上げるものだとばかり思っていたぞ。私のような無骨者のところに婿に来る気などなかろうに、どういうつもりなんだ?」
「あー、断る隙などなかったということもありますが……」
 俺が言うと、兼続もその意を悟って苦笑した。何せ、景綱殿が春日山を訪れたのは昨日のこと。そして今日、すでにこの席が設えてあった。景綱殿のこの行動、神速といわずして何と言おう。
 ついでに言うと、景綱の電光石火の行動に対し、景虎様も何がなにやらわからないうちに承諾させられてしまったそうな。あとでこっそり教えてもらった。
『だが、兼続と颯馬が結ばれるのであれば、私にとっても嬉しいことだ。颯馬にその気があるなら、是非真剣に考えてみて欲しい』 
 そういった景虎様の顔を思い起こし、俺は少しほろ苦い気分になる。もっとも、そういう方だということはとっくにわかっていたのだが。
 それに兼続は少々誤解している。


「本当に婿に行く気がないのなら、さすがにお断りしてましたよ」
 茶を噴く直江家当主。しかしさっきから茶ばっかりのんでるな、兼続。
 ごほごほと咳き込んだ末、兼続は目を丸くしてこちらを見た。
「その言葉だけ聞くと、直江家に婿入りする意思があるように聞こえるぞ、颯馬」
「あ、いや、そんなつもりはないですが」
「そ、そうだろう。なら紛らわしいことを――」
「直江家ではなく、兼続殿と、その、そういう仲になるならむしろ嬉しい、ということですが――って、ぬお?!」
 何故に突然、茶菓子を投げるか、直江兼続ッ?!


「――颯馬」
「釈明があるならお聞きしましょう」
 突然の投擲の。
「つまり、お前は私をからかっていると考えて良いのだな」
「心外です。私はいたって真面目ですが」
「ふん、真面目に私と夫婦になっても良いなどと言う男がいるものか」
「……言った後、肩を落とすくらいなら言わなければ――って、をを?!」
 今日の茶菓子はよく空を飛ぶ。雅なるかな。


 ともあれ、このままでは話が進まない。いや、進めば進むで困るような気がするが、ともあれこれ以上茶菓子を無駄にするのは、つくった職人さんに申し訳ない。
 それに、兼続の今の顔は、あまり見ていて嬉しいものではなかった。
 互いに落ち着くために茶をすすった後、俺はなるべくわかりやすく自分の考えを述べた。
「まず言っておきますが、この話をまがりなりにも受けた理由の一つは、兼続殿と、あれです、夫婦になるという話が現実になったとしても、喜びこそすれ、悔いなどないからですよ」
 無論、兼続をくどくために受けたわけではないし、正直、そんな結論に達する可能性は万に一つもないと思っている。まず間違いなく、景綱殿の先走りであろう。
 だが、その万に一つがありえたとしても、俺は別に後悔したりはしないだろう。兼続の為人も、容姿も、十分すぎるほどに俺にはもったいないものなのだし。
 それに、眼前の艶姿を見る限り、普通に惚れてしまいそうな気がしないでもなかった。
 これだけの器量の女性が、婿のなりてがないとか本気で考えているなら、随分と泣く男どもが出ることだろう。春日山城の内外に、兼続に憧れている男など掃いて捨てるほどいるのだから。


 その俺の言葉を、兼続は一刀で両断してのける。
「そんなわけがあるか」
「いやいや、兼続殿は自分をわかってらっしゃらない」
「ふん、おだてても無駄だぞ」
「なんであれだけ憧れの眼差し受けていて気付かんのですか、鈍いにもほどがある」
「き、きさまに言われる筋合いはないッ」
 穏やかに話そうと思っているのだが、なんでか二人とも言葉が激しくなってしまう。だが、決して刺々しい雰囲気になるわけではない。むしろ何となく落ち着いてくる気分である。口げんかしながら落ち着くというのも妙な話だが、しかし、兼続とのこういった遣り取りは湿った悪意とは無縁であり、いってみれば子供同士の口げんかみたいなものだった。
 なるほど、こういった腹蔵のない素直な意見の遣り取りが、俺には心地良く感じられるのだろう。そして、そんな兼続の為人に惹かれてもいるのだろう。そう思った。




 昼過ぎに始まったこの見合い。気付けば外は茜色に染まっていた。どれだけしゃべっていたのだか。
「まあ、だからといって婿入りが決まるわけではないわけで」
「当たり前だ、ばか者!」
 その後も似たような遣り取りを繰り返し、結局、双方ともに疲れてしまった為、今は一時休戦中であった。できれば今後とも続く同盟を結びたいところである。
 俺がそんなことを考えていると、不意に兼続がこれまでとは異なる口調で問いかけてきた。
「しかし、颯馬、お前、京でなにやら良からぬ道を学んできたわけではなかろうな。いやに口がうまくなっている気がするのだが」
「いや、そんなものは学んでいませんが……?」
「む。すると生来の才能が花開きつつあるのか。しかし、そうなると今後、景虎様に近づかせないようにしなければ……いや、しかし景虎様が肯わんか、ううむ……」
 なにやらぶつぶつ言っているが、良くきこえん。聞いておきながら無視するとか、何の嫌がらせか。
 一人憤慨していると、なにやら吹っ切ったような表情で兼続が口を開いた。
「ともあれ、この件は破談ということで構わんな。以前のように、お前自身のことを嫌っているというわけではないが、私も、景虎様に心惹かれている者を婿に迎えるほど酔狂ではないのだ」
「……あー、と。もしかしてばれてましたか?」
「ばれていないと思っているのなら、お前はまず表情を繕うことから覚えるべきだな。まあ、景虎様に惹かれている者など、将と兵と民とを問わず数え切れん。それが不敬にあたるというわけではないが。しかし、想いの成就を望むのなら、お前はこれから先、ずっと苦しむことになるぞ」


 その声に含まれた真摯さに気付き、俺は兼続の顔を見た。外から差し込む夕暮れの紅い陽光が兼続の頬を染め、思わず息をのむほどの鮮麗さを醸し出していた。
 俺はしずかに口を開いた。
「……もしかして、そのことを気にして、この場に付き合ってくれたのですか?」
「それがすべて、というわけではないがな。いずれ近いうちに話さねばとは思っていた」
「そうですか。多分……はい、多分、そのことはわかっています。ですが、気にしていただいていたことに関しては、御礼を申し上げる」
「似合わんことをするな。別にお前の気持ちを慮って言ったわけではない。ただ、強い想いは、時に人を変えてしまう。良い方向にかわるのであれば良いが、往々にして人は悪しき方向にこそ変わっていってしまうからな。今のお前は、もはや越後上杉家にとって欠かせぬ者だ。そのお前と、景虎様との間に隙が生じるような事態は避けなければならん」
 それだけだ、と言って俺から視線を逸らした兼続。
 その頬の赤みが、夕陽によるものであると思った俺は、そのことを少しだけ残念に思った。






 これで見合いは終了、ということになると思ったが、夜の酒肴も用意してあるとのことだから、頂くことにした。しかし、一体景綱殿はどのあたりまで想定して用意を整えていたのだろう。まさか隣の部屋に布団がならべてあったりしないだろうな。
 そんなことを考えていると、兼続が関東の戦果の褒美だといって酌をしてくれるという。思わず目と口で三つの○をつくったらはたかれた。いや、これが普通の反応です、兼続殿。
 とはいえ、兼続の様子からして、聞きたいことを大体察した俺は、素直にお酌してもらうことにした。
 その後、しばらく、互いの酒盃を干す音だけが室内に響いた。
 室外から差し込んでいた夕陽もいつか消え、侍女が舘内の燭台に火を灯していく。


 外からの涼しげな風に誘われるように、俺と兼続は縁側に腰掛け、ささやかな酒宴を続けた。
 いつぞや、春日山城で景虎様を交えた三人で空を見上げた時は、煌々と満月が輝いていたものだが、今はか細い三日月が彼方に浮かんでいるだけだった。
 やがて、無言の酒宴に終止符を打ったのは、俺の声だった。
「……景虎様からは、何か?」
「……聞いてはいない。話すべきことならば、景虎様は話してくださるだろう。だから、景虎様が口になさらぬということは、あえて話すだけの意味はないということ。そう考え、私もお前に問わなかった。正直なところ、それは今も変わらぬ。お前が語りたくないのならば――高野山でのこと、強いて聞くつもりはない」
「そうですか。ならば――」
 俺はそう言って、兼続に深く頭を下げた。
「私からお願いいたします。聞いていただけましょうか、直江兼続殿」
 兼続が頷くのを待って、俺はゆっくり語り始めた。
 京で狂態を晒した後、高野山で気付きえた、俺の罪業を。
 





 兼続に話そうと思ったことは、俺の過去のことに関してではない。
 それは景虎様のお陰で、自分の中で決着が着いている。正確に言えば、自分の過去とどう向かい合っていくべきかの覚悟は定まっている。それを得々と語ったところで誰の共感も呼べはしないだろう。
 だが、そこに到ることが出来た理由は語らねばならない。といっても、それは景虎様への思慕という、ある意味単純なもので、その気持ちはとうの昔に兼続に看破されたものであった。
 だが、単純ではあっても、それは嘘でも偽りでもない。荒れる俺を沈めた景虎様の、褥の中で眠る顔を間近で見た時の想いは、今なおこの胸に在り続けている。


 自分自身と向かい合った後、なおも戦うことを選んだ理由の一つはそれであった。もちろん、他にも色々とあるが、最も大きな理由は景虎様への想いである。それが忠誠なのか、恋情なのか、もう一歩踏み込んで愛情なのか、それは正直わからなかったが、それでも天道を駆ける景虎様の力になりたいという想いは揺らがなかった。
 ――そして、同時に気付いたことがあった。気付かなければ良かった、と心底思ってしまったもう一つの本心。
 俺と景虎様を決定的に分かつモノ。
 それは。




「……俺は、戦を楽しんでいました」
 静かに本心を紡ぎだす。
 人を殺すことが楽しいわけではない。戦で苦しむ人を見て楽しむわけではない。さすがに自分はそこまで外道ではないと信じたい。
 俺が楽しんでいたのは、戦によって得られる成果の方だった。
「俺の知識が、戦の勝利に貢献できるという事実が嬉しかった。俺の力が、景虎様のお役に立てるという事実を喜びました。自覚したのは高野山からですが、多分、晴景様にお仕えしていた頃から、心のどこかで、自分が歴史を動かしているという快感を楽しんでいました」
 俺の言葉に、兼続は無言であった。
 だが、おそらく今この時になって、この話を切り出してきたということは、今回の関東遠征における俺の積極性に、兼続は何かを感じとっていたのだろう。
 確かに俺は、今回からかわった。意識して、意図して、戦に関わると決めた。無論、死に急ぐためではなく、景虎様の天道を祓い清めるために。そして、そうしたいと願う自分自身のために、である。


 しかし。


「どれだけ繕っても、俺の本心はかわりません。兵を楽しむ者は滅び、勝ちを利とする者は辱められるとは孫子の言葉ですが、俺はこれにあたります。今回の関東の戦で、はっきりとわかりました。俺はこの時代で戦うことを楽しんでいる。優れた将と知略を競わせることが、勇猛な将と戦い、勝利することが、俺は――」



 楽しくて、仕方なかったのだ。



「――景虎様は言っていました。兵は不祥の器であり、やむをえずして用いるものである、と。なのに、俺はその不祥の器を楽しんで扱ってしまっている。戦わなければならないから戦うのではなく、戦うことそのものに楽しみを見出してしまっているのです」
 これほどに、景虎様にとって忌むべき考えはないだろう。むしろこれは、景虎様が宿敵とする者に相通じる考えであろう。
 ゆえに。
 いつか……そう遠くないいつか、俺と景虎様の道は分かたれるのではないか。
 俺は、そんな気がしてならなかった。




「……何故、それを私に話した?」
「景虎様はお優しいですから。もし、私が道を踏み外したとしても、ためらわれるかもしれません。ですが、兼続殿なら、天道に害為す者を討ち取るに躊躇はありますまい?」
「――ふん。ならば、今、貴様を討つという手段もあるのだがな」
「そう判断されるのならば、どうぞ。兼続殿に討たれるならば、諦めもつくというものです」



 俺の言葉に、兼続は深々と息を吐いた。
 そして、ものすごく嫌そうな顔で俺を見るや、両の手でいきなり頬をつねってくる、
「むあ?!」
「いいか、一度しか言わないからよく聞け」
「ふぁい」
「――この大ばか者がッ!!」
 兼続の両手に強い力がこもる。だが、抗議の声をあげることは出来なかった。兼続の真摯な眼差しが、それを許さなかった。


「そのようなことになれば、景虎様が悲しまれる! 道を間違いそうだ、などと言っている暇があるならば、死ぬほど精進しろ! 戦を楽しむ心が許せぬならば、心を磨いて要らぬ部分をそぎ落とせ! それらを為した上で、それでもどうしても変われぬのならば――貴様が戦を楽しみ、景虎様の天道の前に立ち塞がる男に堕したのならば、その時は、貴様が望むように私が介錯してやろう。だが、良いか、そのような結末は誰も望んでおらぬ。景虎様も、貴様も――そして私もだッ」


 それを決して忘れるな。
 兼続はそう言うと、無言で盃を出すように促す。導かれるように差し出した俺の盃の上に、溢れるほどの酒が注がれる。
 結局、その後、俺も兼続も、一言もかわすことなく、ただ酒盃をあおり続けたのであった。






[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:07
 駿府城、郊外。
 今、そこには今川家の誇る精鋭が集い、今川氏真の命令を今や遅しと待ち受けていた。
 だが、他国の出陣の儀と異なり、猛々しい喊声や、勇壮な鬨の声を挙げる者は一人もいない。数千もの将兵が集まっているとは思えないほど、しんと静まり返る駿河の地に、彼らの主君である今川氏真がその姿を現す。
 その途端、その場のすべての将兵が、見えざる手で押さえつけられたかのように頭を垂れ、その場に跪いた。


 今川氏真は、今川家の歴戦の将兵からすれば、若輩の小娘に過ぎぬ。その小柄な体躯からは、彼女の父義元の威厳の半分すら感じ取れず、経験した戦場はそれこそ十分の一にも満たぬであろう。
 年若き乙女である氏真が、父の後を継ぎ、武門の復活を果たさんとするその志は見上げたものであるが、今の氏真ではまだまだ力不足。そのことは誰の目にも明らかであるように思われた。
 その事実をもって氏真を侮った者もいれば、その氏真の未熟を支え、先走りを制することこそ補佐の臣の務めであると考える者もいた。
 だが、今、彼らはいずれも自らの心得違いに気付いていた。気付かされていた。
 桶狭間の敗北から、数月。いまや今川氏真は『駿府の狂将』としての名を東国各地に響かせていたからである。



 主君今川義元の戦死と、今川家の柱石であった太原雪斎の戦死は、今川家の根幹を揺るがす激震となり、駿河、遠江、三河の国人衆は、新たな時代の到来を予感し、それぞれの胸に野心の炎を滾らせた。
 これまで不遇を囲っていた者たちにとっては予期せぬ挽回の好機であり、これまで義元の下で栄華を味わっていた者にとっては不意の暗転である。彼らはそれぞれに考え、行動し、自らの利益を得ようと画策した。各々の思惑が交錯し、今川家の内外は不穏な空気に包まれていく。
 そんな中、今川氏真は駿河今川家第十代当主に就任したのである。父義元が望んだ、空前の規模での就任の儀を行う余裕などあろう筈もなく、それでも現在の今川家がなしえる限りの盛大な儀が取り行われた。
 だが、今川家の直臣はともかく、これまで今川に従ってきた各地の国人衆の姿はそこにはなかった。その一事だけでも、今川家の勢力の衰退は明らかといえた。


 義元亡き後、衰亡の途上にある今川家をいかにして復興させていくのか。
 それが今川氏真の当面の指針であろうと誰もが考え、そしてそれは間違ってはいなかった。ただ人々が思い違いをしていたのは、そのために氏真がとった手段であった。
 粛清による独裁。
 重臣であった葛山氏元をはじめとし、名家である井伊家、関口家が相次いで族滅の憂き目を見た。氏真は彼らの所領を直臣に与え、事実上の直轄領とする。この時期、各国の守護が、豪族たちの旗頭的な存在であり、絶対的な統制権を持っていないことは衆知の事実であるが、氏真はわずかでも非違を唱える者たちを次々と血祭りに上げ、昂然と駿河の地に君臨したのである。
 その氏真の行いに対し、必死に諫言した者は幾人もいた。ことに亡き太原雪斎の薫陶をうけた者たちは、この主君の暴虐を押し留めようと必死に言を挙げたが、氏真の耳に彼らの言葉は届かない。
 諫言した者の多くが殺され、あるいは衆人の中で見せしめとして鞭打たれ、半死半生の態で追放されるに至り、駿河で氏真を押しとどめる者はいなくなる。家臣たちは氏真の顔を見ずに、蹲ってその足元の地面を見るようになり――氏真の目に浮かんだ虚ろな眼差しに気付く者はいなくなった。
 そして、時を同じくして、三河から戻った朝比奈泰朝と岡部元信の二人――今川家にあって武の中核と目されていたこの二人が氏真に屈服したことで、駿河における氏真の覇権は確立されるのである。



 駿河を掌握した氏真は、兵制の改革にも着手する。
 もっとも、さして複雑なものではない。徴兵した兵を五人一組にまとめ、伍と称する。この伍を今川軍の基本単位としたのである。
 これは遠く大陸の秦帝国の兵制を援用したものであったが、秦帝国と同様に軍法は苛酷なまでに厳格を極めた。
 伍にあっては必ず決められた数の敵兵の首級を挙げることが義務付けられ、これを果たせなかった伍は、すべての者が処罰された。当人たちだけではない。郷里の家族さえ、その処罰を受けなければならなかったのである。
 また、伍のうちの一人が逃亡すれば、その罪は他の四人が被らねばならず、また伍すべてが逃亡すれば、その処罰は当然のように彼らの家族に及んだ。


 ここでいう処罰において、もっとも軽い刑は斬首であった。ではそれよりも重い刑とは何を意味するのか。それは言を俟たないだろう。
 この厳法によって統制された今川軍がその威を発揮したのは、間もなく起こった遠江国人衆の叛乱においてである。
 遠江曳馬城主飯尾連竜をはじめとし、二股城の松井氏、犬居城の天野氏らが起こした、いわゆる『遠州錯乱』は、氏真の強硬で無慈悲な統治に反感と危惧を抱いた遠江の国人衆が起こした、突発的な叛乱であった。
 この切っ掛けとなったのは、遠江の名門である井伊家の粛清であったとされている。飯尾らは、やがては氏真の刃が自分たち他の遠江国人衆に向けられるであろうことを予期し、今川家の機先を制そうと試みたのである。

 
 今川家に刃向かえば、敗北後に何がもたらされるかは明らかである。そもそも、たとえ他家であったとしても、主家に刃を向けてただで済む道理はない。
 自らを生かし、自家を保つためには勝つしかないのだ。現在の今川家に対する不満と反感は他の国人衆たちも等しく共有するところであり、戦が長引けば駿河内部の混乱も期待できる。連竜たちはそう考え、ろくな準備期間もなしに挙兵した。
 勝算はあったのだ――今川家とじかに矛を交える、その時までは。


 自身と家族の首筋に刃を突きつけられた形の今川兵は、遠江の国人衆が唖然となるほどの勢いで敵陣を食い破った。出陣に先立ち、逃亡をはかった兵と、連なる伍と、その家族が衆人環視の中で処刑された。その光景が目に焼きついている今川兵たちは、あの惨劇が自分たちの上に訪れることを避けるためにも、死戦するしかなかったのである。
 たちまちのうちに二股城、犬居城は陥落した。抗戦した者、降伏した者、あるいは裏切って味方に斬りかかった者、これらはすべて等しく今川兵に蹂躙され、この二城は人血をもって赤く染め上げられたのである。
 曳馬城に立て篭もった飯尾連竜は、悲鳴をあげて周囲の国人衆に助けを求めたが、それに応える家は皆無であった。それどころか、一度切り結べば和睦も降伏も認めぬ新たな今川家の指針を理解した者たちは、我勝ちにと今川家の陣営に赴き、その歓心を得るために、すすんで曳馬城を攻撃してきたのである。
 結局、曳馬城は十日ももたずに陥落した。飯尾連竜は妻子をみずから手にかけた後、切腹するが、これは考えうる中で、最も賢明な身の処し方であっただろう。連竜の一族、重臣ら、生きて捕らえられた者たちの処刑場は、阿鼻叫喚の渦に包まれたのだから。



 
 『遠州錯乱』によって示された今川軍の強さは、内外を問わず聞いた者たちを股慄させた。
 そんな中、今川氏真は遠江、三河の国人衆に対し、駿府への出頭を命じる。
 服従か、死か。いずれか選べ。
 その氏真の意を嫌でも悟らざるをえなかった国人衆たちの間では、混乱と動揺が渦を巻いたが、結局、ほとんどの国人衆は今川家の膝下に跪くことを選ぶ。遠州錯乱において発揮された今川家の猛威が、それ以外の道を選ばせなかったのである。
 ここに、今川氏真の勢力は三河にまで及び、わずか数月のうちに父義元をさえ上回る権勢をもって、駿遠三の三ヶ国に君臨することになった――たとえそれが、恐怖政治という名の砂上の楼閣であったとしても。



◆◆



 駿府城、城主の居室。
「まずは、これで良しというところじゃな」
 無表情に座る氏真の隣にあって、信虎は臣下にあるまじき傲然とした態度で座していた。
 背筋を伸ばし、顔中に覇気を漲らせたその様は、この部屋の主である氏真とは比べるべくもない存在感をかもし出し、かつての気弱げな姿は微塵も感じられない。
 かつて今川義元が起居していたこの部屋は、駿府城の主の部屋――すなわち駿河の支配者にして、海道にその名を轟かせる今川家の支配者の部屋なのである。そして、現在のこの部屋の主が、虚ろに宙を見つめる氏真と、強靭な意志を滾らせて室内を睥睨する信虎のいずれであるかなど考えるまでもないだろう。室内で平伏している者たちのほとんども、信虎をこそ主として従う者たちであった。


 この部屋で這い蹲る者たちの多くは、かつて花倉の乱において義元に敵対した今川良真に仕えていた者たちである。良真、出家後の名は恵深。今川義元の庶兄であり、第九代当主の座を巡って、義元と激しく争った人物である。
 今川家の分裂は、当然のように家臣たちの分裂も招き、両派は互いに鎬を削りあったが、最終的には雪斎らが擁する義元が勝利し、今川家を継いだ。
 義元と雪斎は、恵深についた国人衆らについては、主要人物のみを討つにとどめ、あえて深く追求しようとはしなかった。これは恵深派に慈悲をかけたという面もあるが、それ以上に恵深派をことごとく処断してしまえば、駿河の統治が成り立たなくなるという事実が義元らに強硬策をとらせなかったのである。
 また、義元にせよ雪斎にせよ、首謀者亡き後の恵深派などは、いかようにも宥め、懐柔する自信があったのである。
 そして、その思惑どおり、恵深派は義元の統治に組み込まれ、その下で新たな一歩を踏み出すことになる。


 だが、当然といえば当然ながら、恵深に与した者たちは、義元配下にあって重要な職を得ることは出来ず、政治であれ軍事であれ、あるいは外交であれ経済であれ、ことごとく裏方にまわらざるを得なかった。
 義元を擁した、他の重臣たちにしてみれば、自分たちが命がけで当主につけた義元の下で、どうして謀反人たちに甘い蜜を吸わせてやらねばならぬのか、というところであったろう。太原雪斎などは、出来るかぎり恵深派の中からも人物を選んで登用するように心がけていたのだが、それにも限度というものがある。
 義元の統治が続く限り、彼らの状況が変わることはなく、そして義元が未だ壮年である以上、その期間はこれから先、ずっと続いていくに違いない。
 ならば、と彼らが目につけたのが義元の後継者である氏真である。今のうちから氏真に取り入っておけば、氏真が当主に就いた際、自分たちも復権することが出来るのである。
 だが、当然のように、氏真の周囲には義元の重臣たちが次代にも権力を維持すべく、十重二十重の壁をつくり、他者が寄り付く隙間などあろう筈がなかった。
 一体、どうすれば良いのか。途方にくれる恵深派の視界に、一人の人物が浮かび上がる。
 娘に追放されたという汚名のために重臣たちからは軽侮の目を向けられ、しかしその気弱げな態度から警戒はされていない者。にも関わらず、氏真の信頼を勝ち得ている者……



 かくて、信虎と恵深派の結びつきは生まれる。
 もっとも、信虎にしてみれば、目の前で平伏するのは自身の言うことを聞くだけの人形に過ぎなかったが。
 とはいえ、人形とて操る者次第では人に優る動きを見せることもあろう。族滅した重臣たちから召し上げた所領を惜しげもなく分け与えながら、信虎は巧妙に彼らを動かし、今川家の勢力を広めていったのである。
 このまま進めれば、やがて尾張の織田と接触することになるだろう。義元の仇討ちという意味では、氏真にとって避けては通れない相手である。
 だが、無論のこと、信虎は織田家になど用はなかった。いずれ桶狭間の貸しは回収するにしても、それは本命を終わらせた後のことである。


 信虎は無造作に手を伸ばすと、傍らの氏真の髪を撫でる。
 びくり、と氏真の身体が大きく揺れるが、口に出しては氏真は何も言わなかった。信虎の方を見ることもしない。ただ、その眼が張り裂けそうに見開かれただけである。
 その様子を心地良げに眺めていた信虎は、前触れもなく氏真をかき抱く。
 それでも氏真は声もなく、ただ縮こまっているだけであった。臣下にあるまじき信虎の行動に、だが誰一人として激昂する者はいない。
 信虎は、部屋の隅で平伏する二人に目をとめ、嘲りもあらわにさらに氏真を強く抱きすくめる。
 その口から、喘ぐような悲鳴がかすかにもれた。
 その二人――朝比奈泰朝と岡部元信は、いずれも頭を垂れたまま、顔を上げようとしない。意味ありげに笑う信虎に対し、反論もしない。自らにその資格はないのだと、その姿が無言のままに語っていた。それでもかすかに震える肩に、二人の心底を垣間見ることが出来たかもしれない。 


 二人の様子を見た信虎は、小さく鼻をならす。計画が順調に進むのは結構だが、時には意想外のことが起きてもらわねば興趣に欠ける。こんなことであれば、義元なり雪斎なりを生かしておいた方が良かったかもしれぬ。
 信虎はそんなことを半ば本気で考えつつ、鷹揚に氏真の身体を押しのけると、今後のことに思いを及ばせる。
 北条家にはすでに氏真の名で使者を出した。後はその返答を待って、越後へ使いを向かわせれば、内陸の地である甲斐を締め上げる準備は整う。
 実のところ、そのような外交の細工をせず、今川軍を率いて直接に甲斐に赴いた方が、目的を遂げる近道であることはわかっている。だが、ここまで時間をかけたのだ。いま少し手間をかけて、晴信を料理してやるのも楽しかろう。
 将として戦で屈服させ、武士として力で屈服させ、最後に残った心を人として辱める。それくらいやってやらずば、長い間離れ離れになっていた愛娘に申し訳が立つまい。
 遠からず訪れるであろうその時を想像し、信虎がくつくつと笑い声をこぼした、そのときだった。


 信虎の視界の端で、灯火が揺れた。


 その瞬間、信虎の手が信じがたい速さで懐に伸ばされ、そこから抜かれた鋭利な刃が灯火を映して鈍い輝きを放つ。
 信虎の手から放たれた刃は宙を駆け、襖を切り裂き、廊下へ飛び出した。と、次の瞬間、押し殺した声と共に床を蹴る音がした。奇妙に軽いその音が消えようとした瞬間、信虎の身体は虎のようなしなやかさで室外に躍り出る。
 その間、ほんの数秒。室内の者たちが、指一本動かすことさえ出来ない間の出来事であった。


 ようやく遅ればせながら家臣たちが騒ぎ始める。
「な、何事でございますかッ?!」
「忍じゃ。追え」
 信虎は転がっていた己の小刀を拾い上げ、そこについた血糊をなめとる。
 それを見た家臣たちは、信虎の言葉の意味を理解して、さらに騒然となる。現在の今川家において、この席のことは秘中の秘。外に漏れれば、身の破滅であることは全員が承知するところであった。
「な、なんとッ?! 承知いたしました、ただちにッ!」


 今川の家臣たちが慌しく立ち去った後、信虎の背後に静かに立った者がいる。
 甲斐時代から信虎に仕え続けている数少ない家臣、出浦盛清である。甲州忍を率い、信虎の暗躍を支えてきた手練の忍は、今、はっきりと顔を青ざめさせていた。
「手落ちよな、盛清」
「――面目次第もございませぬ。我らもただちに追いますれば、忍び込んだ曲者、決して逃がしませぬ」
「当然じゃ。相手は手負いの忍一人。逃せばそちの首はないものと思え」
「御意」
 その言葉と共に、盛清の気配が瞬く間に消えうせる。
 周囲を囲む甲州忍たちも追っ手に加わったのだろう。部屋を取り囲んでいた気配が消えていた。


 小刀を投じた際の感触は、決して浅いものではなかった。城の最奥まで忍び込む手練とはいえ、駿府城から出ることはまず不可能であろう――だが、仮に逃げおおせたところで一向にかまわぬ。忍の一人二人に乱される計図ではないことに、信虎は自信を持っていた。
 だが、そう思いながらも、一人、部屋に戻った信虎はどこか楽しげに薄い笑いを浮かべる。
「……だが、ふむ。案外、これが蟻の一穴になるやも知れぬか」
 今川氏真の豹変と、今川家の強勢は多くの者たちの耳目を引き付けずにはおかない。その裏に信虎の存在があると知られれば、つけ込む隙はいくらでも見出せよう。もっとも、甲斐攻めの準備が整いつつある今、隙をつくだけの時間はほとんど残っておらず、また、情報を知った者にそれを活かすだけの力量があるとも限らないのだが。
「そちとしては、そうなってほしいであろうの、氏真?」
「……はい」
 ぼんやりと、宙を見つめつつ、それでも信虎の言葉に答えをかえす氏真を見て、その笑みが深くなる。 
「ふふ、愛い奴よ。義元の愛育がためか、雪斎の薫陶がためか。まだわしを楽しませてくれるか。あの二人も、冥府でさぞや満足しておろうよ。ただ一つ、その様をこの目で見れぬことが惜しくはあるな」
 そういって、信虎は再び氏真を抱き寄せる。
 抵抗せず、ただ身体を強張らせる氏真に無骨な手を這わせながら、信虎は低い笑声を放つのであった。



◆◆



 岡崎城では、城主元康の居室に集められた重臣たちが黙然と座り込んでいた。
 それは、隆盛を誇る駿河今川家の影で何が行われていたのかを知ったゆえに。
 それは、彼らが主君と仰ぐ少女の、深甚とした怒りに撃たれたゆえに。
 岡崎城で白日の下にさらけ出された今川家の裏面は、三河の片隅にある小城の主従を、乱世の只中に放り込む契機となるようであった。


「――みなが今川家をどのように見ているのかはわかっているつもりです。祖父清康、父広忠以来、松平の家は、今川家を時に敵とし、また時に服従して延命を図ってきました。今川家との戦いで親兄弟を失った者もいます。今川家の命により、苛酷な戦場に送り込まれ、辛酸を舐めてきた者もいます。その今川家に降りかかった此度の危難、好機と思う者がいることも、わたしは十分承知していますし、それを翻せということもできません」
 元々、小柄な体躯の元康である。長きに渡る戦塵で鍛えられた三河武士たちの前に立てば、あまりにはかなく、頼りなく映ってしまうのはいたし方ないことであった。
 だが。
 桶狭間の戦いからこちら、松平家はかなり表立って軍備を拡充してきた。なにしろ織田家の来襲に備えるという大義名分がある。兵を集め、武器を整え、兵糧を蓄え、西三河を中心に織田家に従う勢力や、自立を目論む領主らを攻伐し、その地盤を着々と固めていたのである。
 だが、これも過ぎれば織田家や今川家の警戒を誘うであろう。松平に自立の意思ありと悟られぬよう今川家の影に隠れつつ、しかし、今川家が掌を返したとしても、それに対抗することがかなうだけの力を得ること。
 綱渡りのような、そんな松平家の運営を、元康はこれ以上ない形で実行してみせたのである。その手腕は水際立ったもので、武骨者の多い松平の家臣たちは、そんな元康の姿を唖然として見ることしか出来なかったのである。


 それゆえ、岡崎城に元康を侮る者は存在しない。否、かりに元康が領主として無能な人間であったとしても、元康を非難し、嘲るような者は岡崎城にはいなかったであろう。そのような心根の者たちは、とうの昔に松平家を離れているのである。
 長年の苦難を耐えしのぎ、迎えた主が、小柄な体躯の中にはちきれんばかりの才と志を満たしていることを知った家臣たちは、その目に涙を浮かべた。松平家に忠節を尽くした年月を労苦などと思ったことはなかったが、それでも元康の成長を見れば、すべて報われたと思えたからである。
 穏やかで、真っ直ぐで、人の心の機微に聡い名君は。
 一方で、好奇心が強くて、新しいものに手を出しては失敗し、その度にあせあせと慌てながら方々に頭を下げ、最後にはしゅんと俯き自分の力量の無さを嘆く、そんな放っておけない女の子でもあった。
 三河武士たちが元康を見る眼差しからは、主君への忠節と共に、我が子や我が孫を見るような親愛の情がひたひたと感じられたであろう。


 その松平の家臣たちが、今、主君の顔を満足に見ることすら出来ない。
 それほどまでに、元康の目にはしる雷光は激しく猛り狂っていたのである。
「――それでも、私はみなに頼みます。私は、今川家には恩がある。人質として駿府にいた間、辛いこともたくさんありましたが、それと同じくらいたくさんのものを得ることが出来ました。雪斎様に学問を学び、義元様には人質としては望外な待遇を与えてもらい、そして……氏真様とは学友として、共に学び、磨きあってきたのです」
 そこまで語った元康は、ここできつく唇をかみ締めた。
「その友が……氏真様が、かような目に遭っていると知って、黙っていることなど出来ません。今は戦国の世、謀略も、閨房の術もまた一つの戦であることは承知していますが、それでも氏真様と、義元様の……そして、我が師の尊厳を踏みにじられて、三河でじっとしていることは出来ないのです」


 元康は、頭を垂れた。家臣たちに向かって。


「――けれど、私の力だけでは、何も出来ません。お願いします。みなの力を貸してください。今川家を仇とする者がいることを、いえ、誰もがそう思っていることを承知した上で、お願いします――今川家を喰らい尽くそうとする、駿府の狂王を、私と共に討って下さい」




 静寂が、あたりを包み込む。
 それを破ったのは、この場に集まった者たちの中で、もっとも年配の家臣であった。
「――まさか、我ら松平の主が、今川を救うなどと仰る日が来ようとは思わなんだ。まこと有為転変とはよういったものよ」
 本多作左衛門重次。主君なき松平家臣団を長年にわたって率いてきた重臣筆頭である。その性格は剛毅にして果断、武芸に優れる一方で、柔軟さを併せ持ち、政務に関しても見事な手腕を誇る。
 この人物なくして、松平家の存続はありえなかったであろうと誰もが口を揃える。その発言力は岡崎帰還間もない元康を上回るほどであった。
 無論、元康への忠誠は誰にも負けぬ重次のこと、元康と対立するような立場をとることはなかったが、しかし、今川家に関しては、長年、主君をかどわかされていたとの思いが強く、元康帰還後は一貫して対立姿勢を取り続けていた。
 それゆえ、重次が今回の件に否定的な立場をとることは明白であり、元康はまずこの筆頭重臣を説得しなければならなかったのである。
 だが、しかし。


「爺……」
 元康が口を開きかけたとき、その口を塞ぐように重次はぶっきらぼうに言ったのだ。
「じゃが、元康様。ちとお言葉が違いますな」
「え?」
「御身は岡崎城の主。松平家、ただお一人の主君であらせられる。その主君が、何故に我ら家臣に『頼む』などと仰るのか。元康様は、ただ、命じれば良いのです。『我に従い、駿河の下郎を討て』と。この場にいる誰一人、その命令を拒む者などおりませぬ」
 元康の口が、小さく開かれた。
 かつて、戦で片目を失った重次は、一つしかない眼を元康に向け、武骨な顔に精悍な笑みを浮かべて言った。
「たしかに我らは今川家に恨みがございますが、今の元康様のお姿の幾ばくかが今川家のお陰であると申されるならば、我らにも、今川家に報いるべき恩があると申せましょう。何より、年端もいかぬ女子を食い物にして、一国を私せんなどとする輩を野放しにしておき、あまつさえ松平がその麾下に入るなどありえぬことでござる」
 その重次の言葉に、他の家臣たちも次々と賛同の声をあげ、あたりには活気と、そして誇りに満ちた騒々しさが満ち満ちていく。
 元康は、そんな眼前の光景に、瞳が潤むのをとめることが出来なかったし、また止めようとも思わなかった。





 しばし後、落ち着きを取り戻した松平の主従は具体的な対策について話し合う。
 真っ先に言を挙げたのは、三河の家臣団の中で随一の智者と目される本多正信であった。
「――現在、今川は、いえ、信虎は、と申すべきでしょうな。信虎は駿河、遠江、三河の一部を併せ、二万近い軍を集めることが出来るでしょう。桶狭間の戦いで大打撃を受け、その後の混乱で国内が荒れたとはいえ、やはり今川家は今川家であります。それに比して、我らは西三河の一部を領有するのみ。今川家と戦う場合、当然、西への備えは残さなければなりません。その上で東に向けられる兵力は、無理しても三千に届くかどうかといったところでしょう。二万と三千では勝算があろう筈はござらぬ」


 軍議の席に広げられた地図を見て、正信は甲斐の国を指差す。
「半蔵の報告によれば、信虎は甲斐に執心しているとのこと。おそらく相模の北条と、越後の上杉を語らって、三方より袋叩きにする心算なのでしょう。理想を言えば、我ら松平家は、まず信虎の情報をもって武田と盟約を結び、その上で北条、上杉らを味方に引き込むことが出来れば、今川家を追い詰めることもかなうでしょう。ですが、我らはその三家いずれとも格別親しい付き合いがあるわけでもなし、おまけに三河一国も掌握していない弱小勢力です。信虎のことを伝えたところで、三家ともまともにとりあってはくれますまい。あるいは北条や上杉などは、信虎の思惑を承知した上で、駿河と手を組む可能性もないわけではありません」
 敵の敵は味方である。信虎の行動に関しても、見る者が見れば、むしろ乱世の梟雄とでも思うかもしれない。


 ともあれ、松平家のみで事を成すことが難しい以上、他国を語らうことは欠かせない要件である。そのためには、他国が聞く耳を持つ程度の勢力を持たなければならない。正信はそう主張した。
「ここはまず信虎が甲斐に攻め込むのを待ち、その隙に我らは三河を制圧いたしましょう。三河一国を制することがかなえば、他の勢力も松平家の言葉を聞いてくれるでしょう。少なくとも門前払いをされることはありますまい。甲斐の武田晴信は音に聞こえた名将、三方から囲まれたところで、そう簡単に屈することはありますまいし、三河制圧は可能と判断いたします。三河を制圧した後は、東の戦況を注視しつつ、今川家を包囲するように臨機応変に処していくべきであると愚考します」


 正信の言葉を聞き、多くの家臣たちは頷くことで賛同の意を表した。
 今の状況で松平家がいたずらに騒げば、信虎の岡崎侵攻を招きかねない。他国の様子を窺いながら、松平家の勢力を広げ、その上で信虎に戦いを挑む。定石といってもよい案であった。
 だが。
 元康は正信の案に、首を横に振る。
 正信は驚いたように元康の顔を見る。
「元康様、何か見過ごした点がございましたか?」
「いいえ、正信の案は正しいです。今の松平家の力を考えれば、それ以外に採るべき策はありません。常の戦であれば、ためらいなく頷いたでしょう」
「は、ではなにゆえに?」
 正信の訝しげな声に、元康は奇妙な焦燥を感じさせる声で答えた。
「これは、私の勘のようなものです。だから、みなを納得させることは難しいと思うのですが……」 


 そう前置きしてから、元康は言った。
「武田信虎という男に、先手を与えてはならない。強くそう思うのです。あの狂王のとる手段は、多分、常人では予測がつかない。何を目的としているのか、何を得ようとしているのか。今の駿府のやり方では、一時強勢を誇ったとしても、長くは続かないのは明らかなのに、あえて恐怖によって国を統べ、民を支配している。あれに先手を許す限り、私たちはそれに振り回されることしか出来なくなってしまうでしょう。あの男に勝つためには、常に先手を取ること。先手を取り続け、あの男の思惑に乗せられないことが、何より肝要であると、私はそう思うのです」


 本多重次が、難しい顔で腕組みをする。
「たしかに、それも一つの手。しかし、今の我らが駿府の先手を取るのは容易なことではありませんぞ。具体的にはどうなさるおつもりですかな?」
「――まずは、旅に出ます」
「は?」
 元康の唐突な言葉に、重次だけでなく、正信ら他の家臣たちも呆気にとられた顔をした。
「た、旅とは、いずこに? 甲斐の武田家のもとにですか?」
 考えられるとすればそこしかない。だが、何も元康自身が行く必要はない。正信は反対のための言辞を練りながら、一応確認のために問いかけたが、またも元康は家臣たちの予測をはずす答えを返した。
「甲斐ではありません。いえ、最終的には甲斐へ行きますが、その前に、越後へ参ります」
「越後、ですか?」
「はい。甲斐の晴信殿がどのように動くにせよ、後背の越後の動きは無関係ではない。此度のこと、越後の上杉殿にお知らせし、今川に与する危険性を説き、武田に協力してもらうようお願いするつもりです」
「お、お待ちくだされ。武田と上杉といえば、北信濃をめぐって幾度も矛を交えた間柄でござる。此度のこと、上杉からしてみれば、三国同盟が崩れ、武田を討つ絶好の機会が到来したとしか映らぬでしょう。三河の一国人の言葉を、上杉家が聞くとは思えませぬッ」


 切迫した正信の反論に、元康は、わかっています、と頷いてみせた。
「けれど、武田の先手を打つにはこれしかありません。越後の上杉景虎殿は、村上家を再興し、将軍家の求めに応じて上洛し、先だっては関東管領殿を守るために関東まで出陣したとか。しかも、そのすべてに見返りを求めなかったと聞き及びます。こちらが誠心誠意お話すれば、少なくとも聞く耳は持ってくれるでしょう」
「た、たしかに景虎殿は、今や巷では聖将と渾名されていると聞き及びます。可能性はございましょうが、しかし、元康様みずから越後まで赴かれるなど危険でございましょう。代わりの者を遣わすべきです。それがし、命令とあらばただちにたちますゆえ」
「ありがとう、正信。でも、今回は私の勝手を許してください。私自身が越後へ参ります」
「し、かし――」
 なおも反論しかけた正信を、重次が制した。
「よせ、正信」
「しかし、重次様。道中、元康様に万一のことがありましたら、我ら松平家は――」
「終わるであろうな。だが、松平家の主君が決断したことじゃ。我らは黙って従えばよい。それに、忠勝と半蔵がいれば、そこらの無頼者など相手にもなるまい」
「それは、その通りでしょうが、しかし……」
「よせというておる――元康様、それも身のうちから生じる声ゆえですかな?」
「ええ、そうです、爺。越後へ行くべきだと、すぐに発つべきだと、誰かが胸のうちで急かすのです――今ならば、間に合うと――そんな気がするのです」
 その元康の声に、真摯な響きを感じ取った重次は重々しく頷いて見せた。
「ならば、ゆかれませ。なに、十年以上の長きにわたり、我ら松平家は元康様のお帰りを待ち続けていたのです。たかが一月や二月、これまでの先の見えぬ年月に比べればなにほどのことがございましょう、のう皆々、そうではないか」


 その重次の呼びかけに、松平家の家臣の声が唱和する。
 両の手を胸にあて、ほっと安堵の息を吐きながら、家臣たちの声を聞いていた元康は、不意に奇妙な物音に耳朶を震わせた。
「……鈴?」
 そう呟いた元康の声は、誰の耳にも届かず。
 元康が聞いた小さな物音は、その後、一度も聞こえてくることはなかった……





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:13
 越後春日山城は北陸、関東、信濃、さらには遠く京にまでその驍雄を轟かせる越後守護上杉景虎の居城である。
 毘沙門天を篤く信仰し、その戦いぶりは軍神と渾名され、また私欲なき戦の数々から、近年では聖将とも呼ばれる上杉景虎は、しかし、その華やかな武勇伝とは裏腹に、日常での生活は質素をきわめ、内政面においても倹約を旨とし、無用な贅沢を好まなかった。
 清貧に甘んじる、といえば立派に聞こえるかもしれないが、実のところ景虎のそれは半ば以上、生来の性格であったから、他者にそれを称えられても景虎は目を瞬かせるだけであったりする。
 とはいえ、守護たる身でそれが過ぎれば、国の経済の流れを滞らせる原因ともなりかねぬ。景虎を支持する越後の商人たちは、そのあたりを気にかけ、様々な品や物を持ち込んで景虎の興味を惹こうと試みるのだが、それらはことごとく空振りに終わっていた。


 もっとも、景虎は自身を律することにかけてはこの上なく厳しいが、その厳しさを臣や民に強要することはない。無論、理由のない奢侈や享楽は戒めるものの、その者の身代に見合う程度の贅沢を行ったところで、それをとがめだてする景虎ではなかった。
 それゆえ、商人たちの心配はやや行き過ぎたものとも見えるのだが、実際、景虎麾下の者の多くは、主に心酔するあまり、その質素さまで似通ってしまい、遠く京まで名を轟かせる大家にしては、上杉家領内に落ちる金は目だって少ない。
 もちろん、その分は城の府庫に詰まっており、いざ有事の際に用いられるのだから、決して今の在り方が間違っているわけではないのだが、もうすこし金を落として経済を活発にしてもらえんものか、と考えるのが商人というものであった。
 ゆえに、越後商人たちは、春日山城の倹約という名の鉄壁の牙城をどう打ち崩すべきか、日夜思案顔を重ねていたりするのである。



 そんな上の姿勢のせいであろうか。越後の国は、他国に轟く名声に比して、どの城も、町も、華美や豪奢とは縁が無かった。
 居城である春日山城にしたところで、一見しただけでは、京はもちろんのこと、朝倉の一乗谷城や、斎藤の稲葉山城、あるいは北条の小田原城、今川の駿府城、織田の清洲城などの方がよほど発展しているように映るに違いない。春日山以外の城であればなおのことである。
 しかし、慧眼の主なら気付くであろう。
 越後に生きる者たち――貧しい身なりの農民。ふるぼけた甲冑と槍を携えて歩く足軽。裾の短い衣服を着た乙女は、その髪を彩る飾りも質素そのものである。衣服にせよ、武具にせよ、汚くよごれているわけではないにせよ、その古さは覆うべくもなかった。身近な物であっても、簡単に新調するなど越後の民には出来ないのである。
 だが、しかし。
 彼らは決して卑屈に腰を曲げてはないなかった。その眼差しはただ前を向き、その歩調はゆっくりではあっても、しっかりと大地に足をつけたものであった。
 彼ら自身、意識してはいなかったかもしれないが、それは少なくとも数年前までの越後国内では見られなかった光景なのである。


 戦におびえ、税に苦しみ、将来に憂いをしか見出せなかった越後の国民は、今、確かにかわりつつあった。 それは自らが仕える主君の驍雄を誇りとすればこそ。自らを治める領主の英明を信じるからこそ、彼らは戦乱の世を憂うことをやめ、その胸中から迷いは霧散する。
 その迷いなき歩みをもたらすことが、どれだけの奇跡であるのか。そのことを松平元康は越後に入った当日に思い知らされていた。
 否、越後だけではない。道中、信濃を通った時も元康は同じものを感じていた。
 元康は考える。
 武田と上杉。この両家に比すれば、今の松平家は取るに足らぬ。
 家の大きさが、ではない。家が、臣民に与える誇りが、桁違いなのである。


「すごいな、すごいね、うん、すごい」
 すごいを連発する元康に対して、同行の二名は戸惑いを面上にあらわしたまま、どう返答したものかと顔を見合わせる。
 一人は、何がすごいのかよくわからなかったからで、もう一人は言葉を口にすることに慣れていなかったからである。
 前者――表情を厳しく引き締めながら、大槍を担いで元康に従っている本多忠勝。
 後者――鍛え上げられた痩身と端整な容姿の持ち主ながら、三河を出立して以来、いまだに素顔をさらす戸惑いを隠しきれないでいる服部半蔵。
 身分を隠しての道中であったから、忠勝は常のように凛々しい武者姿ではなく、半蔵も普段は決してはずさない面を取っていることから、よほど親しい者でもない限り、今の三人を見て、岡崎城の主従であると見抜くことは至難であるに違いない。


 ことに半蔵の素顔を知る者は片手で足りる。半蔵はいつものように影から元康たちを守るつもりでいたのだが、駿府城に忍び込んだ際の手傷がいまだ完全に癒えていなかった。そのため、元康は半蔵に対して岡崎城での留守居を命じようとしたのだが、これには半蔵が頑として頷かなかった。直接の敵国ではないとはいえ、主君みずから他領に潜入するのである。その帰りを漫然と待つことなど、忠義に篤い半蔵に出来る筈がなかったのである。
 それならば、と元康が出した妥協案が、忍としてでなく、従者としてついてくるならば同行を認める、というものだった。忍としてついてこさせると、半蔵は自分の目の届かないところで無茶をするに決まっているが、従者としてなら押さえられる、と元康は考えたのである。


 半蔵は元康と同行するために、仕方なしにこれを了承するのだが、そうなれば忍の面をいつまでもつけているわけにもいかない。そんな人間が供にいたら、主の境遇を詮索してくれと大声で喧伝するようなものである。
 よって、素顔を晒して街道を歩くという、実に慣れない経験をしながら、半蔵は越後までの道中を潜り抜けてきたのであった。
 一人は好奇心たっぷりにきょろきょろとあたりを見回し、一人は周囲の者を威圧するように長大な槍を担ぎ、一人はなにやら落ち着かなげに、それでもあたりの気配に神経を配っている。なんとも珍妙な一行であるといえた。
 しかも、元康にしても、忠勝にしても、半蔵にしても、見た目だけで言えば若く、美しい乙女たちである。それぞれに印象は異なるにしても、その前提は共通している。それゆえ、この一行が行く先々で人々の注目を集めたのは致し方ないことだった。
 実のところ、元康や忠勝はともかく、半蔵はそのことに気付いていたから、なるべく自分たちが目立たないように工夫しようとはしたのである。
 だが、さすがの半蔵といえど、元康の好奇心を抑える術や、忠勝の持つ長大な蜻蛉斬りを隠す術は持っていなかったのだ。
 もっとも、その半蔵も、自分自身が周囲の注目を集める一因になっていることには気付いていなかったりする。
 実になんとも似たもの同士の松平一党であった。




 信越国境を越え、越後に入った元康たちは越後の穀倉庫の一つでもある頚城平野を抜け、春日山城を目指す。
 越後国内の治安は良く、大した騒動に巻き込まれることもなく、元康たちはやがて彼方に春日山城の偉容を目の当たりにすることになるのだが、その城に近づくにつれ、高歌放吟する者たちと幾人もすれ違い、元康は首を傾げた。
 いまだ日は高いというのに、明らかに酔っているとわかる者たちがそこかしこにいるのである。その数は城に近づくにつれ、増えていく一方であった。
 ここまでの道中から想像していた越後の人々の気性からは考えられない有様に、元康のみならず、忠勝や半蔵も訝しさを禁じえなかった。しかも、なにやら春日山の城下町からは笛や太鼓の音まで聞こえてくるではないか。
 夏祭りでも行われているのだろうか。だが、それにしては人々の浮かれ騒ぐ姿が、ただ事ではないように思えるのだ。
 そして、そんな疑問をいつまでも抱えておける元康ではなく、近くを通りがかった足軽風の男に声をかけ、この騒ぎの理由を訊ねてみる。
 すると、その男は元康の可憐さにほだされたか、あるいは元々おしゃべりな性質であったのか、得々と事情を語りだした。


 すなわち――先日、京の将軍家から上杉家に使者が訪れ、景虎が先代定実の後を継いで春日山上杉家の当主となること、および越後守護職を継承することが正式に認められたのである。
 さらに朝廷からは、景虎に対し、正五位下弾正少弼に任じる旨の勅令が下された。景虎の父為景は従五位下信濃守であったし、姉晴景も弾正台に任じられていたことから、これらの知らせは景虎が越後の支配者であることを、朝廷と幕府が正式に承認したことを意味するのである。
 さらに、吉報はそれだけにとどまらなかった。
 将軍足利義輝は、先の上洛での勲功や、周辺諸国の秩序をまもるべく戦い続けている景虎を称え、自らの一字である『輝』の字を与えたのである。
 ゆえに、今、越後守護の任に就いている者は、上杉景虎ではありえなかった。


「我らが御館様は、今や上杉弾正少弼輝虎様というわけだ。これが祝わずにいられようか、酒も踊りも、まだまだこれからよ。あんたらも旅の人なら、良いところにきなすった。なんでも今日の夕には輝虎様が町に足をお運びになるということだったから、運がよければお姿を拝見することが出来るかもしれんぞ」
 男は元康にそう言うと、あぶなっかしい足取りで立ち去っていってしまった。これからの祭りに備えて、家で一眠りでもしようということなのだろう。



「上杉弾正少弼輝虎殿、でござるか。将軍家より直々に名を与えられるとは、さすがは越後の聖将殿でござる」
 忠勝は感じ入ったように何度も頷く。同じ武に生きる者として、伝え聞く輝虎の驍雄を耳にし、敬意を抱かずにはいられない忠勝であった。
「……しかし、だとすると、少々……」
 一方、半蔵は声に困惑を滲ませて低く呟いた。春日山城が、この輝虎の栄誉で沸き立っているのであれば、使者としての任務に支障をきたすのではないかと考えたのだ。


 たしかに、道行く人々の浮かれ具合を見ていると、春日山城の賑やかさを察すことは出来る。この騒々しい空気の中、元康たちが「三河岡崎城からの使者だ」と口にしても、おそらく城兵は取り合ってくれないだろう。それどころか祭りの騒ぎに乗じ、輝虎に会おうとする悪戯扱いされかねなかった。
 無論、元康は松平家の花押を押した輝虎への正式な書状を携えている。そもそも城主の元康自身が使者なのだから、それは心配のしすぎかもしれない。ただ、これまでの道中でも明らかなとおり、三人の秀麗な外見が事態をややこしくしかねないのである。
 城の枢要に携わる者まで話が届いてくれれば良いのだが、おそらくその前で元康の来訪は偽りと判断されてしまうのではないか。松平家の花押の正否を、東海地方なら知らず、越後の者たちが知っているとも思えなかった。


 だが、そんな半蔵の心配もどこ吹く風とばかりに、元康は春日山城へ向けて迷うことなく歩を進めていく。
 彼方に見える春日山城が近づくにつれ、すれ違う人の数は目だって増えていった。
 半蔵は元康を守るために慌ててその後を追う。その瞬間、半蔵の右肩に鋭い痛みが走ったが、半蔵はそれを表情にも仕草にもあらわさず、前を行く元康の背を守るために後ろに従う。
「……元康様」
「きっと大丈夫です、半蔵。だってほら見てください、越後の人たちの、この楽しそうな笑顔を」
 元康が改めて指し示すまでもなく、道行く人々の顔からこぼれでる笑みは、忠勝の目にも、半蔵の目にもしっかりと映されていた。


「道とは、民をして上と意を同じくすることだと、師から教わったことがあります」
「孫子、でござるな」
 少しだけ嬉しそうに忠勝が答えた。退屈な兵法の教えを我慢して受けた甲斐があったと思っているのだろう。
 元康はそんな忠勝の顔を見て、小さく微笑んでから言葉を続けた。
「そうです。今回、将軍家から輝虎様に与えられたのは、言ってしまえば輝虎様と、上杉の家に与えられた栄誉であって、民の生活が豊かになるわけではなく、収める年貢が少なくなるわけでもないのです。にも関わらず、これだけの笑顔が溢れている。懸命に今日を生きる民にとって、支配者の栄誉なんて関わり無いことの筈なのに、みんな、輝虎様に与えられた栄誉を我がことのように喜び、寿いでいるのです」
 ――それはつまり、上杉家とその主が、どれだけ民の信望を集めているかということの、何よりの証左である。元康は考える。
「越後の民は、輝虎様の喜びを自分のものとしている。ならば、輝虎様の痛みを自分のものと感じるでしょう。輝虎様の怒りを、我が物として感じることでしょう。他国と矛を交え、敗北を知らぬ越後上杉家の神武の源泉は、きっとここにある」


 すごい、と素直に思った。
 元康は思い出す。岡崎城に戻った時の松平家の家臣たちと、岡崎の民の喜びの涙を。長きに渡って人質として駿河にいた元康だ、民の中にはその姿を知らない者さえいたであろうに、そんなことはかけらも感じさせない感激ぶりであった。
 あの時も、自然と師の教えが頭をよぎった。そして、自分にはもったいないほどの彼らの忠烈に、決して背くまいと心密かに誓ったものだった。
 あの時、元康が胸に思い描いていた未来が、寸毫たがわずに眼前に現出している。
 すごい、と何度も思った。
 そして、元康はこうも思うのだ。越後の国が、こんなにも強く、豊かであれるのならば。
 それを三河の地にもたらすことこそ、自分の役割であるのだと。それが夢物語ではないことを、今、目の前の光景がはっきりと元康に教えてくれているではないか。


「忠勝、半蔵」
「はッ」
「……はい」
 元康は二人を振り返って、にこりと笑った。
「いきましょう。私たちの国は、きっと強くなれる」
 この国に、負けないくらいに。そう言う元康の眩しい笑顔と、揺らぐことなき確信に、自然、二人の配下は頭を垂れていた。



 そして、三河からやってきた一行は春日山城へと入り、そして。
 いきなり騒ぎに巻き込まれるのである。



◆◆



 道を歩けば、隣の人の肩がぶつかるような人ごみは、戦や訓練でもなければ中々お目にかかれないもので、元康たちは三河との差異に目を瞠りながら城への道を歩いていた。
 忠勝を先頭に、元康がその後ろに続き、半蔵が後列にいるのは、人ごみの中から危害を加えようとする者から、元康を守るためである。元康を岡崎城主と知る者が、越後にいるとも思えないが、今川家が元康の動きに気付かないという保証はない。くわえて、これだけの人ごみであれば、不埒者の一人二人いると考えた方が自然であった。
 忠勝は先頭に立って人ごみをかきわけながら、周囲に鋭い視線を放ち、元康には指一本たりと触れさせぬとの気概をあらわにする。その忠勝の武威を感じ取ったのか、自然、元康たちの前に道は開いていた。あるいは忠勝の持つ名槍『蜻蛉斬り』を見て、驚いて道を避けているだけかもしれなかったが。


 しかし、その忠勝も、害意や敵意には敏感であったが、それらを持たずに接近する者を防ぎとめることは出来なかった。
 気がついた時には、いつのまにか一人の女の子が忠勝のすぐ隣を歩いていたのである。まだ精々六歳か七歳くらいであろうか。その女の子は忠勝の視線に気付き、自分も忠勝を見上げると、そこに自分の知らない人の顔を見出して急にあわて始めた。
「あ、あれ、おねえちゃんは?」
 そういってきょろきょろとあたりを見回すが、目当ての人物はいないらしい。
 その子供の顔に急速に暗雲が広がるのを見てとり、忠勝はおおいに慌てた。
 武芸百般、体術から兵法に到るまで通じぬものはない忠勝であったが、その中に泣く子をあやす術は記されていなかったのである。であれば三十六計逃げるに――というわけにもいかぬ。
 結局、忠勝は最も頼りになるであろう人に援軍を求めることにしたのだった。


「もも、も、元康様」
 たとえ一千の軍勢が後背から襲い掛かってこようと、ここまでは動揺するまい、というほどに動揺した忠勝は主君に助けを求める。
 だが、それは無用のことだったようだ。元康は忠勝が口を開く前から動いていたからである。
 しゃがみこみ、女の子の視線と自分の視線をあわせると、元康は泣きだす寸前の子ににこりと微笑みかける。
「こんにちは。私は元康って言うんだけど、お名前はなんていうの?」
 ぐす、と一度鼻をすすりあげてから、その子供は自分の名を口にした。
「そっか。おねえちゃんとはぐれちゃったんだ。でも大丈夫、私たちが一緒に探してあげるから」
「ほ、ほんと?」
「うん、ほんとほんと。じゃあ、おてて繋いで行こうか。どのあたりまでおねえちゃんと一緒だったのかおぼえてる?」
「わかんない、ひとがいっぱいで……」
 俯いてしまった子供に、元康は何やら考え込んでいたが、不意にぽんと両手を叩く。
「そっか、そうだよね……よし、じゃあこっちのお姉ちゃんに肩車してもらおう。上からあなたのおねえちゃんを見つけてくれる?」
 そういって忠勝を見る元康。
 忠勝は元康の意を悟って露骨に狼狽したが、じっと自分を見上げる子供の視線に、あえなく屈することになる。


「わあ……ッ」
 長身の忠勝の肩の上で、一変した視界に歓声をあげる女の子と、万が一にも女の子を肩から落としたりすることのないように、真剣そのものの顔で女の子の両脚をがっしりと抱える忠勝の姿は、見ていてとても微笑ましいものだった。
「おねーちゃん、ちょっといたい」
「あ、あ、申し訳ないでござる……こ、このくらいでよいでござるか??」
「うん、ありがとー」
 先刻の泣きべそはどこに消えたのか、という感じで満面の笑みを浮かべる子供に、忠勝はほっと安堵の息を吐く。ちなみに、蜻蛉斬りは元康の手に渡っていた。
 忠勝は、主君を太刀持ちの小姓のように扱うことに抵抗したのだが、当の元康は「いいからいいから」と気にもしない。
 どのみち、半蔵にはいざという時に備えるために身軽でいてもらわねばならず、元康以外に大槍を持てる者はいなかったのである。


 元康はさして長身ではないし、忠勝のように武芸で鍛えてあるわけでもない。
 松平家を率いる自覚から、人並み以上に武芸の修練に励んでいたが、忠勝が軽々と振り回す蜻蛉斬りも元康にとっては抱え持つだけで精一杯の業物であった。
 そして、えいや、と蜻蛉斬りを抱えて歩く元康の姿に、視線を止めた者がいた。


「これはまた、女子にはもったいない業物よな」
 その声に元康たちが振り向くと、裃を着た侍と、その護衛と思われる数人の男たちが元康らに近づいてくるところであった。
 いずれも人品卑しからず、ことに裃の侍は、おそらく二十を幾つも出ていない若者であったが、彫りの深い深い精悍な顔立ちに横溢な覇気を宿し、見る者にひとかどの人物であろうと確信させるに足る風格の持ち主であった。
「俺は本庄繁長という。どうだ、娘。その槍、俺に譲らぬか」


 男の名乗りに、周囲の人々から歓声とも嘆声ともとれぬ声があがる。
 越後北部を領する国人衆――いわゆる揚北衆(あがきたしゅう)の中にあって、若いながらに抜群の勇猛を謳われる人物である。元々、揚北衆はその歴史や土地柄から独立意識が強く、かつての長尾姉妹による越後内乱においても、容易にいずれかに与そうとはしなかった。
 長尾景虎の軍師であった宇佐美定満がこれを抱き込み、彼ら揚北衆が参戦したことにより、晴景軍の天城颯馬は、戦による勝利を諦めざるをえず、春日山城へと退くことになったのである。


 そういった経緯もあって、揚北衆は現在の春日山に対し、臣礼をとってこそいるが、その命令に対してつねに従順であるというわけではなかった。
 ことに本庄繁長にはその節が濃厚である。自身の武勇に自信を持っているということもあるが、実のところ、繁長にはそれ以外にも春日山へ疑念を抱くれっきとした理由があった。
 繁長の父は、弟と一族の裏切りで死に、父の後を継いだ繁長は、幼い頃からこの裏切り者たちの傀儡とされるという屈辱を舐め続けてきたのである。繁長から見れば裏切り者にあたる叔父たちの後ろ盾となっていたのが、春日山長尾家であった。もっとも、それは為景時代にまで遡る話であり、繁長は数年前、その叔父を切腹に追い込んで実権を取り戻している。
 ゆえに晴景、定実、景虎と続く近年の越後の支配者に対して、繁長は個人的な怨恨を抱えているわけではなかった。だが、春日山城を支配する者たちに対して、虚心でいられるほど達観しているわけでもなかったのである。
 叔父たちの裏切りを許した者の血を継ぐ者たちだ。再びそれを繰り返さないという保証はどこにもない。景虎や政景の気性を知ってはいても、その危惧を消すことができない繁長であった。


 とはいえ、繁長とて時流を知る者。
 越後の現状を見て、あえて景虎改め輝虎に対して隔意を示すなど愚劣の極みであることは承知している。また、同じ武人として、景虎の勇武は尊敬に値するものだとも思っている。
 繁長自身、多少倣岸なところはあるものの、これは若くして名をあげた者にはよくあることだ。家臣の功には篤く報い、民への気配りも忘れず、その城下は良く治まっており、人として、領主として謗られる類の人物ではありなかった。
 ゆえに、今も、元康が辞を低くして、それはできかねる、と一言口にするだけで、多少の悶着はあるにせよ、この場は丸く収まったであろう。


 だが。
 まさに元康が口を開こうとした寸前、それに先んじた者がいた。
「身の丈をわきまえることも、武に生きる者の資質でござる。それが出来ぬ貴殿に、その槍を使いこなすことは出来ぬでござろう」
「ちょ、あの、忠勝ッ?!」
 当たり前のような口調で相手をこき下ろした忠勝に、元康は慌てたが、すでに時遅し、であった。
 忠勝の平坦な口調と、その内容の辛辣さの落差に、一瞬、呆気に取られた繁長であったが、すぐにその意を悟り、たちまち表情を硬くした。
 そして、その繁長よりもさらに憤ったのは、周囲の家臣たちであった。抜刀しかねぬ剣幕で、元康たちに詰め寄ってくる。
「貴様、今、殿になんとぬかしおったッ?!」
「下賎の分際で、しかも女子ごときがわかった風な口を利くでないわ」
「貴様ごとき、繁長様の手にかかれば一合ももたぬ。戯言も大概にせよ、たわけッ!」


 男たちの怒気におびえたのか、肩の上で女の子が身を竦めたことを感じ取り、忠勝は咄嗟に判断に迷う。
 それを怯んだと解釈したのだろう、本庄家の家臣たちは忠勝を無視し、元康が持つ蜻蛉斬りを手にとろうとする。
「貸してみよ。その槍が殿に相応しいかどうか、殿がそれを扱う様を見れば、貴様らとてすぐにわかるであろうよ」
 そういって伸ばされた手は、だが次の瞬間、半蔵の手刀によって打ち据えられる。狼狽と苦痛の声をあげる男と元康の間に無言で割り入った半蔵に対し、繁長の臣たちは、さらに怒りを高めていった。


 険悪な様子を察したのか、いつのまにか両者の周りからは人の流れが絶え、かわりに周囲を取り囲むような人の輪がつくられつつあった。
「なんだ、喧嘩か?」
「いや、なんかあの娘たちに声をかけたお侍が手ひどくはねつけられたらしいぞ」
「ば、ばか、滅多なことを言うでねえ。ありゃあ揚北衆の繁長様じゃぞ」
「つまり、繁長様がふられたっちゅうことか?」
「なんで色事にからめるんだおめえは。あの娘さんがもってる槍を所望した繁長様を、あっちの娘っ子が手ひどく断ったんだと」
「もったいないのう。繁長様なら、言い値で買い取ってくれるじゃろうに」
「いやいや、あの槍はあの娘の親の形見にちがいあるめえ。それじゃあ金で譲れるものじゃねえさ」
「なるほどなあ、そりゃあ道理じゃ」


 いつの間にかあたらしい事実が付加されていたりもしたが、いずれにせよ元康らの姿はたちまちのうちに注目の的になってしまっていた。
 さすがにこれ以上この場にとどまれば面倒なことになる。繁長はそう思ったが、もう少し様子を見ることにした。
 娘たちの無礼に灸を据えたいという思いだけではない。今の今まで槍に目を奪われていた繁長であったが、見れば先刻の無礼な娘も、そして今、家臣に手刀を浴びせた娘も、いずれも並々ならぬ武の持ち主であることに気付いたのである。
 どの程度のものか、と興味がわいたのだ。繁長が連れてきた家臣たちは本庄家中でも有数の剛の者ばかりである。彼らに対する力量を見れば、大体の実力は察しがつくだろうが――繁長はそう考えながらも、みずから歩を進めて前に出る。
 周囲の人垣から、驚愕の声があがった。




 一方、元康はどんどんと進行していく事態に戸惑いを隠せなかった。
 忠勝の肩から下りた女の子は、元康の足にひしっとしがみつき、瞳を潤ませている。その忠勝は、元康から受け取った蜻蛉斬りを無造作に片手で持ちながら、本庄家の家臣たちを威圧するように見据えていた。
 普段ならばそういった忠勝を止めてくれる半蔵も、何故か元康の前から動かない。
 否、それを言うなら、元康が一言、強く忠勝を止めればすむ話ではあったのだ。だが、元康はこの事態に戸惑いながら、一方で冷静に計算を働かせている自分に気付いていた。つまり、ここでの騒ぎで本庄繁長という越後の重臣と関わりを持つことは不利にはならない、という計算である。
 忠勝の武威を誰よりも知る元康である。本庄家の家臣がいかに勇猛であろうと、忠勝には及ばないことを確信していた。繁長もまた遠からず忠勝の力を思い知るであろうし、そうすればそれを手蔓にして、繁長の口利きで輝虎に会う算段をつけることが出来るかもしれない。
 無論、まったく逆に繁長の恨みをかって邪魔されるという可能性もないことはないが、その時はその時だ。半蔵が動かないということは、おそらく元康と同じことを考えているのだろう。


 そこまで考えた時、なんと繁長自身が前に出てきたので、さすがに元康も驚いた。
 忠勝もやや意外そうな表情を見せている。そんな忠勝に、繁長は従者から受け取った槍を構えて見せた。
「我が武が、その大槍に合わぬといった言葉、証明してもらおうか、女子」
「かまわぬが、ここで良いのでござるか。衆人環視の中、城主殿を打ち据えるのは気が咎めるでござる」
「はは、たいした自信よな」
 そう笑った後、繁長は短く呼気を吐き出す。
 その眼差しに戦意を沸き立たせ、愛槍を忠勝に向けた。
「かまわん。女子に遅れをとる本庄繁長ではない」


 一方の忠勝は、あいかわらず構える様子もなく、右手で蜻蛉斬りを地に立たせながら、猛るでもなく言葉を紡いだ。
「武士たるの資格は、ただ武あるのみ。男だの女だの、その前では些細なことでござる――参る」




 周囲の人垣から、かき消すように声が消えた。
 向かい合う繁長と忠勝の視線がぶつかりあい、火花を散らす様が目に見えるようで、隣の人間が唾を飲む音がいやに大きく響く。
 両者はすでに互いにのみ意識を向け、その一挙手一投足に集中しており、両者の間で立ち上る闘気が風塵をまきおこした。
 



 もう自分の制止の声も届かないであろう。元康がそう考えた瞬間、その足元から小さな歓声があがった。
「あ、そうまのおにーちゃんだッ」
「え?」
 突然の声に驚いた元康が、女の子を見ると、さきほどまでかすかに震えていた女の子が、嬉しげに駆け出していき、人垣の間を抜けて姿をあらわした若者に抱きついていった。
 若者は、ばふっと抱きついてくる女の子をしっかりと抱きとめると、困惑と安堵が半ばする表情で、ほっと息を吐いた。
「よかったよかった。どこにいったのかと心配したんだぞ」
「うー、ごめんなしゃい」
 ぐすっと鼻をすすりあげる女の子に、若者は「ま、無事ならそれでよしだ」といって乱暴に女の子の頭を撫でた後、すっと視線をまっすぐに元康に向けた。


「あ……」
 その視線を受け、一瞬、元康は何故か言葉に詰まる。
 元康が声を出せずにいる間に、若者は女の子に手を引かれるように元康の近くまでやってきて、頭を下げながら礼を口にした。
「この子がお世話になったようで。ありがとうございました」
 元康は、口から押し出すようにして、何とか言葉を発した。
「……あ、い、いえ。そんな大したことをしたわけじゃないですし。当然のことをしただけです……」
「そんなことはありません――っと、いや、こんなことを言っている場合ではないようですね。どういう状況かはよくわかりませんが……」
 なんで繁長殿がこんなところで果し合いをしてるんだ、と首をかしげた若者は、元康に女の子を託すと、迷う素振りも見せずに歩き出した。


 向かう先は、対峙する二人の間。
 緊張感漂う両者対峙の場に、こともなげに分けいった若者の姿に、周囲の人垣からは不審そうな声があがる。
 だが、当の忠勝と繁長は、強い集中力で相手を見据えており、近づいてくる無作法者にまで注意が届かなかった。
 すると、若者は懐から取り出した扇を、二人の武人の視線が衝突する空間に差し入れ、音高く開いてみせた。
 互いの顔しか見えないような集中を続けていた忠勝と繁長が、扇によって不意に視界を塞がれ、集中を乱される。
 その時を見計らって、若者は口を開いた。


「双方、そこまで」


 その声に我に返ったように、忠勝と繁長の視線が、若者に向かって注がれた。
 その二人に、若者は続けて声をかける。


「この諍いは、上杉輝虎が臣、天城颯馬が預からせていただく。互いに槍を引かれよ」




 その声を聞いた元康は、はじめて若者の名を知った。
 同じく、若者の名を知った周囲の人垣から、再び声があがる。今度は不審のそれではなく、歓声に近いものであっただろう。それも道理。今や若者の名は、越後に知らぬ者とてないものなのだから。
 無論、三河から来た元康はそうではない。しかし、それも今日までのことだった。


 ――越後の竜の傍らに、瑞雲あり。
 この日、松平元康はそのことを知るのである。
  
 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/10/11 15:39

 上杉弾正少弼輝虎。
 景虎様がその名乗りを許されたことに、春日山城が沸き立ったのは当然のことであった。
 衰えたりといえど、将軍はやはり将軍であり、朝廷は朝廷である。日ノ本を統べる者たちに景虎様改め輝虎様の行いが認められたことは、すなわち輝虎様の天道が認められたということでもあるのだ。
 普段は冷静で、感情を波立たせることのない輝虎様であったが、さすがにこの知らせを受けた時は言葉を失い、その瞳はかすかに潤んでいるように見えた。
 無論、兼続や定満ら、これまで輝虎様を支えてきた者たちも歓喜した。彼女らほどではないにせよ、俺にとっても、輝虎様の行いが天下に認められたことは嬉しく、また感慨深いものであった。晴景様に後事を託されてから一年あまり。まさか晴景様も、この短期間に春日山の名がこんなにも轟くことになるとは思っていなかったに違いない。俺も出来るかぎり働いたつもりだが、京での体たらくもある。さて、晴景様の目に、今の俺はどのようにうつっているのやら。


 ともあれ、京を発つ時、義輝が、後で土産を届けるようなことを言っていたのはこれのことだったのだろう。
 この知らせはすぐさま早馬で越後全土に届けられ、国全体が喜びに沸いた。無論、内心で舌打ちした者もいないわけではなかっただろうが。
 遠方の国人たちは、この機にすこしでも輝虎様らと面識を深めようと、祝い言上のためと称して春日山にやってくる。また各地でも輝虎様の叙任祝いが行われ、羽目をはずしすぎないように、輝虎様が苦笑まじりに注意を促したほどであった。
 ただ、幸いというか、今のところ越後は平穏である。天も輝虎様を祝っているのか、天候もいたって順調で、このままいけば秋の収穫に大きな期待が出来るだろう。農民たちも輝虎様の徳が豊作をもたらすのだと喜び合っていた。
 輝虎様自身も、ここまでほとんど休む間もなく駆け続けてきたのだ。この際、ゆっくりと休んだ方が良いだろうと俺は考えていたのだが。


 あいにくと毘沙門天は信徒に休息を許したまわぬ方のようであった。
 今川家からの使者が越後を訪れたのは、ちょうどそんな折のことだったのである。
 今川氏真から輝虎様に宛てられた書状は、駿河の今川、相模の北条、越後の上杉からなる甲信包囲網結成を呼びかけるものであった。
 これは俺の知る歴史にはなかった出来事だったから、内心で俺はかなり驚いたが、一方で、もしこの同盟が可能ならば、武田家は三国同盟から一転、今度は窮地に追い込まれる側になることは必定であった。
 もちろん、今川家の提案には、問題点が幾つもあった。最も大きな問題は、どうして氏真が三国同盟を破棄し、あまつさえ同盟相手であった武田家を滅ぼそうと考えたのかという点であった。


 この問いに対し、使者は憤りを隠せない様子で、義元死後の駿河、遠江の動乱に、甲斐の武田の手が伸びていた事実を語った。
 領内の叛乱を鎮めていく最中、今川軍は謀反した者たちの居城から、いくつもの書状を押収した。その中に、義元亡き後の今川家併呑を企む武田晴信からの書状が混ざっていたのである。それも一枚や二枚ではない。主君の死に動揺する今川家臣団に対し、武田が同盟の信義を破って調略を仕掛けた明らかな証拠は数十枚に及んだ。
 今川の使者は、その一部を実際に持ってきており、それを見れば、確かに武田家の花押が押された書状に、謀叛を示唆する言辞が踊っている。
「すでに北条家は、これをもって武田家との断交、ならびに甲斐包囲網を承諾しております。上杉家におかれましても、なにとぞ甲斐の梟雄を打ち倒すべくご協力いただきたく」
 そういって今川の使者は深々と頭を垂れたのであった。


 この今川の要請に対し、輝虎様は快諾で応えた――というわけではなかった。
 たしかに晴信であればやりそうなことではある。同盟の相手が、当主の死で混乱している隙に付け込むことも武略の一つではあるし、輝虎様ならば知らず、晴信ならば躊躇する理由はないだろう。
 それゆえ、今川家の使者の言葉には説得力があった。
 だが、輝虎様は返答を保留した。その理由について、今川の使者が退いた後で輝虎様は居並ぶ群臣に向けて一言だけ口にした。「武田晴信らしからぬゆえ」と。


 その言葉に怪訝な顔を浮かべた者は少なくなかった。
 だが、その言わんとするところを理解できた者たちは同時に頷き、主君の見解に賛意を示したのである。
 武田の背信がらしからぬのではない。言ったとおり、晴信はそれが武略であると考えれば、約を違えることもためらわないであろうから。
 そうではなく、そこに到る段階で、武田らしからぬ不手際が目立つのである。
 第一に、花押まで押した極秘の書状が、こうもあっさりと見つかっていること。
 晴信であれば、そのような証拠を安易に残すまい。謀叛を促すならば、密使を派遣してそそのかせば済む話である。要となる人物には、後の保証として書状の一つも渡すかもしれないが、そこまでの人物であれば城を陥とされる際、そういった物を処分する程度の分別を働かせるのではあるまいか。


 第二に時期がおかしい。
 桶狭間の戦いの後、上野から退却した晴信は、その帰途で村上家の奇襲を受け、それに反撃する形で北信濃を制圧した。
 だが、この際の武田家の動きをみるに、晴信は明らかに村上家の襲撃を予期し、むしろそそのかした節すら感じられるのである。今川義元の敗死という凶報をもって、村上家の暴発を誘った晴信の謀略。先の戦いはそう考えて間違いないだろう。
 だが、そうすれば越後が出てくるのは晴信とて承知していた筈である。実際に輝虎様は出陣している。結果として早期に撤兵したとはいえ、それも義清の英断があってこそのもの。あの時点で、信越国境の戦火が長引く可能性は十分にあったのである。
 そんな時期に、わざわざ今川家の内紛をあおるような真似をすればどうなるかがわからぬ晴信ではあるまい。
 元々、義元の死の直後に今川家が混乱するのは自明の理である。その混乱に油を注ぎ、大火とするのは謀略としてありえる話ではあるが、その策が漏れた場合、今川家のみならず北条家さえ敵に回す可能性が高い。もし、信越国境での戦が長引いていた場合、武田家は北と南に大敵を迎えることになり、それは滅亡の危機と称しえるほどに、武田家にとっては危険な形勢であろう。
 二正面作戦などと言えば聞こえは良いが、それは外交上の敗北であり、戦略としては下の下なのである。
 あの晴信がそんな愚策を行うとは、俺にはどうしても思えなかった。そして、それは輝虎様も同様だったわけである。




 しかし、現実に状況は武田討伐に向けて流れ始めていた。
 実際、武田を討つ好機には違いないのである。なにせ晴信は駿河、相模の両国から甲斐を守るために身動きがとれず、上杉軍が総力を挙げて信濃に攻め込めば、たとえ武田の六将が出てきたところで、輝虎様をとどめることは出来まい。
 そして、信濃からの援軍がなければ、晴信は南と東南から侵入してくる今川・北条連合に対抗することは難しいだろう。
 考えれば考えるほどに美味しい状況だ。実際に今川、北条の両家が動き出してから兵を動かせば、上杉家にかかる負担は最小限で済むところも魅力的である。卑劣な謀略を企てた武田家を叩くという意味でも、輝虎様の天道に沿う決断になるであろう。
 それらは多少の疑念を吹き飛ばすに十分な利点であり、上杉家にとって今川家の提案は首を縦に振るにたる申し出であったのだ。


 その申し出に即答を与えたなかった輝虎様の疑念は、将としての見識と、武田晴信と対峙してきた時の経験から来る違和感なのだろう。
 実のところ、俺にも似たような違和感はあった。ただ俺の場合、その違和感が、今回の出来事が自分の知る歴史にはないことから来るものなのか、それとも美味い話には裏があるという使い古された考えに基づくものなのかはわからなかったが。
 とはいえ、しつこいようだが好機は好機であり、上杉家の家臣の中でも武田討つべしとの声は高まる一方であった。此度の将軍家ならびに朝廷からの通達も、天のあたえたもうた時を示すものとして、彼らは宿敵である武田家を掃滅せんと輝虎様に信濃侵攻を連日願い出ているのである。




 俺が弥太郎らと共に城下に出たのはそんな時だった。
 最近、色々と考えることが山積みの状態であった為、たまには城のことを忘れて遊ぶべきと考えたのだ。現実逃避ともいうかもしんないが、それは気にしてはいけないのである。まあ輝虎様たちも後から出てくる予定なので、俺だけ諸々の雑事から逃げるわけではない。
 それに、弥太郎の弟妹や、岩鶴たちと会うのが楽しみだ、という点には嘘偽りはなかった。
 段蔵は駿河、相模の情報を集める手筈を整えるために軒猿の里に戻っており、俺は弥太郎と共に城下に向かったのである。
 とはいえ、八人にも及ぶお子様軍団の指揮統率は困難をきわめ、俺と弥太郎と、そして城下で合流した岩鶴は、周囲の賑わいを見るよりも子供たちの面倒を見ることに追われる有様であった。
 これはこれで楽しいから良いか、などと思っていると、弥太郎が慌てたように周囲を見渡している。妹の一人がいつのまにやらいなくなってしまったらしい。
 皆で呼びかけても返事はなかった。春日山は治安が良いから滅多なことはないだろうが、それでもこれだけの人出があれば、やはり心配せずにはいられない。俺に向かっては、大丈夫ですよ、と言う弥太郎も、顔にかすかに影が差していたから、同じ気持ちなのであろう。


 とりあえず二次遭難を防ぐために子供たちを一箇所に集め、弥太郎と岩鶴に面倒を見てもらうことにすると、俺は人ごみの中を引き返した。
 周囲を見渡しながら、ときおり声を出して呼んでみるが、やはり反応はない。誰かについていってしまったのだろうか。しかし、弥太郎と見間違えるような者など、そうそういないと思うのだが……無論、深い意味はないんだぞ、うん、などと考えていた時、ふと遠くから、なにやら騒ぎが聞こえてきたのである。



◆◆



 対峙する二人――本庄繁長と、凛々しい顔つきの少女――の間にわって入った俺に向かい、繁長が口を開いた。
「天城か。邪魔をしないでもらいたいのだがな」
「そういうわけにもいかんでしょう。というか繁長殿こそ、春日山の城下で何をやってるんですか。兼続殿あたりに知られたらただではすみませんよ?」
「む、それはまずいな……しかし、武士が己の力を否定されて黙っているわけにもいくまい」
 繁長の言葉に、俺は少女の方に目を向ける。
 少女は槍こそ引いていたが、突然あらわれた俺に、なにやら剣呑な眼差しを向けてくる。
 いや、俺にではなく繁長に向けられた視線であるようだった。どうも相当に立腹しているように見える。
 

 そんな俺たちの視線に気付いたのだろう。少女が口を開いた。
「武士の意地とでも言うつもりでござるか? 拙者が主君より拝領した槍を見て、女子には惜しいゆえに譲れなどと無体をふっかけてきておいて、何を口清く。この蜻蛉斬り、そなたのような礼儀知らずに扱えるものではござらぬ」
 物々しい物言いで詰る少女に、繁長と、その家臣たちの顔に怒りが浮かび上がる。
 揚北衆の有力者として春日山城でも礼遇されている本庄繁長である。ここまで直截に非難されるのは、滅多にあることではあるまい。まして相手は繁長よりもはるかに年下と思われる少女なのだから尚更である。
 再び険悪な空気が広まりかけたが、実のところ、俺はそんな繁長たちの様子に構っていることは出来なかった。


「……蜻蛉斬り?」
 少女が口にしたその名を、俺は呟いた。見れば、たしかに少女の持つ槍は素人目にも違いがわかる逸品であった。
 そして、おそらくなまじの武士ならば担ぐことさえ容易ではないその槍を、片手でしっかりと扱う少女。
 ……まさか、とは思う。思うのだが、しかしこの地ではその思い込みこそ足枷になることを、俺はとうの昔に学んでいた。
 だが。俺の思っている通りだとすると、この場でにらみ合いを続けるのは大変によろしくない。今川の使者はまだ春日山城内にいる筈だが、その従者が外に出ていないとも限らないのだ。
「繁長殿、申し訳ないが、先刻申し上げたように、この場は預からせてもらいますぞ」
「ほう。なにやら目の色が変わったな、春日山の軍師殿」
「はい。あるいは上杉の命運に関わるやも知れぬこと。ここは引いてくださいますよう」
「ならん――と言いたいところだが、まあ良かろう。輝虎様の信頼厚いそなたを敵にまわすつもりはないしな」


 輝虎様のくだりを口にするとき、繁長はやや皮肉げな笑みを口元に浮かべたが、槍自体はあっさりと引いてくれた。それを見て、家臣たちが驚いたように口を開く。
「と、殿、よろしいのですか?」
「かまわん。対峙してみてわかったが、あの女子、かなりの使い手。その使い手を侮ることを申したは俺の責よ。それに冷静になってみれば、負ければ無論、勝てば勝ったで本庄繁長の武名に瑕がつこう。女子一人に大人げなく、とな」
「は、それはそうかもしれませぬが、しかし灸をすえる程度のことはいたさねば、我らの怒りが――」
「やめい。天城が預かると申したのだ。任せよ」
「ぎ、御意」
 
 
 家臣たちを説き伏せると、繁長は肩をすくめつつ俺に向き直った。
「と、いうわけだ、天城。後は任せるぞ」
「は。ありがとうございます」
 俺が頭を下げると、繁長は小さく口元を歪め、俺にだけ聞こえるようにそっと呟く。
「礼を言うべきは俺かもしれん。あやつ、おぬしのところの鬼小島に匹敵する使い手とみたぞ。どういう関わりがあるのやらわからぬが、用心は怠らぬようにな」
「承知いたしました」
「それと、だ」
 繁長は声音を元に戻し、軽く俺の胸に右の拳を当てた。
「関東でも信濃でも良い。次に大戦があれば、我ら揚北衆をそちらに充ててくれよ、軍師殿。蘆名の田夫野人どもを相手にするのは、いささか飽いた。せめて独眼竜なり、羽州の狐なりを相手に出来ればまだしもなのだがな」
 独眼竜とは、奥羽で成長著しい伊達家の当主伊達政宗のことである。
 そして羽州の狐とは出羽の有力大名最上義守の一族である最上義光のことだった。
 いずれも、その勢力はいまだ越後に届かないが、その勇猛と才略は東北全土に鳴り響いている。和戦、いずれにしても遠からず上杉家と関わりを持つことになるであろうと思われていた。


 ことに伊達はともかく、最上は越後に隣接する勢力であるだけになおさら注意が必要であった。
 当主義守はまだ幼いながら、優れた政治手腕で最上家の国力を高めてきた。為人も真面目で一生懸命な娘らしく、家臣や領民たちからは深く信頼されているという。一説には親しみが高じて「もがみん」と呼ばれているとかいないとか。輝虎様を「とらちゃん」と呼ぶようなものなので、これは噂だと思うのだが。
 ただ、内治に優れた義守であったが、戦に関しては並の領域を出ず、これまでは目立った勢力の伸張がなかったのである。
 だが、昨今表舞台にたった最上家の一族、最上義光の登場で、出羽の状況は大きな変化を迎えつつあった。当主義守の政治の才を、すべて軍事に傾けたような義光は、最上家に敵対する勢力を次々と撃破し、最上家は旭日の勢いで出羽統一に向かっているのである。
 もっとも、この義光、なにやら病でも抱えているのか、戦場に出ること自体があまり多くないという。だが、戦の指揮をとる際の様子を見る限り、とても病に侵されているとは思えないほど覇気に満ちており、出羽の人々は不思議がっているらしい。
 不思議といえば、そもそも最上義光という人物が、最上家にいたことを知る者はほとんどいないという。もっともこれに関しては、当主である義守が認めているので、最上家内部の事情がからんでいるのであろう。


 ともあれ、最上家、伊達家、さらに蘆名家まで含め、越後北部はいつ戦雲が発生してもおかしくはない状況なのである。そして、それらに対抗する上杉家の主力が、揚北衆。その兵力はそうそう動かすことが出来ないものなのである。
 まあ、そんなことは今さら俺が口にするまでもなく、繁長とて承知しているだろう。だが、どうせ戦うなら雄敵と、と願うのは武士の性というもので、それをたしなめるような真似をすれば良い顔はされまい。
 ゆえに、俺は繁長の請いに笑って頷く。
「承知しました。次は難しいかもしれませんが、その次には希望に添えるようにつとめましょう」
「うむ、頼んだ。それでは、俺はここで失礼しよう……っと、そうだ。そこな女子よ」
 繁長の声がかかり、それまでどこか手持ち無沙汰だった少女がこちらに視線を向けた。
「なんでござるか」
「先刻は心無いことを口にした、許せ」
「は……あ、いや、わかってもらえれば良いのでござるが……」
 唐突に己の非を認めた繁長に、少女は戸惑いながらも謝罪を受け入れる。とすれば、少女もまた言わなければならないことが出来る。
「拙者も、少々頭に血がのぼっておったでござる。無礼の段、平に許されよ」
「うむ、ではお互い様ということだな――俺は本庄繁長という、そなた、名はなんと申す?」
 繁長の問いに、少女が口を開きかけた。


 この時、周囲にはまだ人垣が出来たままで、繁長と少女の言葉は彼らの耳に届く。たとえこの場は収まっても、この騒ぎの噂はすぐに広まるであろう。騒ぎの中心にいた者たちの名は必ず知れ渡る。そして、それはまずい。
「拙者、ほ――」
「ああッ、そうだ、繁長殿!」
 突然の俺の大声に、少女はびっくりして口を閉ざし、繁長も怪訝そうに眉根を寄せる。
「ぬ? ど、どうした天城、突然大声など出して」
「実は東北のことでお聞きしたいことがありまして。近い日、屋敷にお伺いしたいのですが、よろしいでしょうかッ?」
「あ、ああ、それはかまわぬが……」
「そうですか。では明日にでも早速。ではこの場はこれにてッ!」
 しゅた、と手をあげると、俺は唖然としている繁長をその場に残し、少女の手を引っつかむようにして素早く元の場所に戻る。
 そこで、俺たちをはらはらと見守っていた弥太郎の妹と、その妹と同じ格好で心配していたもう一人の少女、さらにすらりとした長身の女性を促して速やかにその場を離れたのである。


「……なんだ、あれは?」
「さ、さあ、なんでございましょう?」
 後に残ったのは、顔中に疑問符を浮かべた繁長とその家臣、さらにせっかくの催しを中途で止められてしまい、すこし――否、かなり残念そうな領民たちだけであった。




◆◆




 城下町の端に、ようやく人気のない場所を見つけた俺は、そこで一息をついた。
 すると、困惑の声もあらわに、先の槍の少女が口を開く。
「その、すまぬがそろそろ離してもらえぬでござるか」
「うおッ、申し訳ない」
 あの場から立ち去る際、少女の手をとったのだが、ずっと掴んだままだったのだ。
 俺が慌てて手を離すと、その少女は俺が掴んでいたあたりをさすり、困った顔で同行者とおぼしき少女に視線を向けた。
 それに応えるように、長い髪を頭の両側でまとめ、それをそのまま垂らした髪形をした少女が口を開く。
「あの、助けて頂き、感謝いたします、えっと、あまぎ、そうま様?」
「天城颯馬と申す。礼は不要ですよ、余計な差し出口をしたことは承知してます。むしろそちらの方には、私の方が謝らねばなりません」
 そういって、俺は槍を持つ少女に頭を下げる。
「女子だからとて、主君より拝領した槍を譲れなどと、上杉家臣としての礼儀を知らぬこと甚だしい。貴殿としては、あの場で屈辱を晴らしたかったと思います。ただ朋輩として申し上げると、本庄殿は決して人柄は悪くはないのです。それが言い訳にもならぬことは承知しておりますが、どうかご寛恕をたまわりたい」


 俺の真摯な謝罪に、少女はどこか気まずげに応じる。
「いえ、先刻も申したように、拙者も少々頭に血がのぼっていたゆえ、あの者ばかりを責めるつもりは毛頭ござらぬ。まして、貴殿には騒ぎを鎮めてもらったのです。そのような頭を下げて頂いては、こちらが恐縮してしまうでござる」
「そう言っていただけると助かります。さすがに、春日山城下で三河の武士が騒ぎを起こしたと知れ渡るのは避けたかったもので」
「たしかにそうでござるな。拙者も――」
 そこまで口にし、ようやく自分が認めてはならないことを認めたことに気付いたのであろう。
 少女は両手で口を覆った。
 隣にいた少女は目を丸くし、やせぎすの女性はほんのわずか、目を細める。
 ただ一人、弥太郎の妹だけがきょとんとしていた。
 ――推測が、確信に変わった瞬間であった。



 少女たちの問う眼差しに、俺は短く答えだけを口にした。
「――今川家からの使者が、春日山城に来ています」
「な、まことでござるか?!」
「はい。彼らの耳に、音に聞こえた本多忠勝殿の名を知らせるわけにはいきませんでしょう」
 俺の口から、名乗っていない筈の自分の名前を聞かされ、少女は心底驚いた顔でこちらを見つめた。
「な、何故拙者の名を。さきほどは名乗らなかったでござるぞ?」
「花も実も兼ね備えた勇士――知っておりますよ」
 そういって小さく笑うと、俺は忠勝の隣に立つ少女に視線を向ける。
「そして、本多殿が付き従っているということは、こちらはとく……っと、今は松平、か。松平元康様でいらっしゃる?」


 俺の問いかけが終わるか終わらないかという間に、疾風のごとく動いた者がいる。
「半蔵ッ、やめなさい」
「……」
 主の言葉を聞いても、半蔵と呼ばれた女性は、俺の首筋に突きつけた刃を引こうとはしなかった。
「そして、こちらは服部半蔵殿か」
 ほんのわずか、刃に込められた力が増すのを、視覚によらず俺は見抜いていた。
 だが、それには構わず話を続ける。元康たちの名前を出したのは、別に予言者の真似事をしたかったからではない。話の主導権を握るためであった。
 本来、北陸の上杉家と関わりが薄い東海地方から、時を同じくしてあらわれた二家の使者。それが全く無関係であるなどとは子供でも思うまい。
 まして今川が駿相越の同盟を提案してくるという意外きわまる展開があった後のことである。義元死後の時期とあらば、松平家はそれこそてんてこ舞いの忙しさである筈。そんな大事な時に、当主みずからが本多忠勝と服部半蔵を率いて他国にやってくるなど、ただ事ではありえない。


 腹の探り合いなどしている暇はないのだ。どのような話かは正直わからないが、速やかに話を聞き、速やかに行動に移らねばならない。だが、先の繁長との接触で、元康たちが上杉家によからぬ印象を持ってしまった可能性は低くない。語るに値せぬ家、などと思われてしまっては、それこそ機を逸しかねない。当主みずからが赴いてまで伝えようとしている情報が重大でない筈はないのだから。
 ゆえに、上杉家への先入観を払拭する意味でも、俺はまず元康たちの度肝を抜く必要があったのである。
 それに上杉家が出す結論が、松平家が望まないものになることは十分にありえること。万一にも両家が敵対する立場になってしまった場合、俺の一言は、上杉家が恐るべき相手であることを、元康たちの心中に植え付けるだろう。
 ――まあ、少しは持っている知識を活用(?)してみたい、と思わなかったわけではないのだが、決してそれだけではないのである。うむ。



 ――ただ、首筋に刃を突きつけられることまで予測したわけではないのだが。
 冷静に考えてみると、たしかに警戒されるよな、と遅ればせながら気付いたが後の祭りである。まあ、元康が半蔵を押さえてくれているから大事はないだろう。
 俺が冷や汗かきつつそんなことを考えていると。
「おにーちゃんをいじめちゃ、だめッ!」
「……ッ」
 弥太郎の妹が、瞳に涙を浮かべながら、半蔵の足元に駆け寄り、じっと見上げてきた。ぴくりと半蔵の身体が震えたのがわかる。
 それでも、なお半蔵は動こうとしなかったので、もう一度、弥太郎の妹が口を開きかける。
 それを押さえたのは、ほかならぬ俺だった。
「大丈夫だから、心配しないでいいよ」
 平静な、いつもの声音が出せたことに、自分で自分を褒めたい気分である。
 それを敏感に悟り、顔なじみの女の子は小さく首を傾げる。
「……ほんと?」
「ああ、ほんとほんと。ですよね、元康様?」
「う、うん、そうだよ、大丈夫だから、泣かないで、ね?」
「うー」
 それでも、刃を引かない半蔵の姿に不安を隠せない様子を見せる弥太郎の妹の姿に、半蔵の口から小さく吐息が漏れた。多分、俺にしか聞こえなかったと思う。
 その後、しばしの逡巡の後、半蔵はようやく俺から離れ、無言で刃をしまう。俺は、我知らず、はうっと安堵の息を吐いていた。





◆◆



 
 春日山城、城主の間。
 今や輝虎様の天道の源であり、清涼の気が満ちるその空間に、今、泥のような、重くぬめった沈黙がわだかまっていた。上杉家では滅多にないことであるが――それも仕方のないことであろう。
 三河からはるばる越後まで訪れた松平元康の口から語られた、駿河今川家の実情。今まさに行われている武田信虎の暗躍。それを、上杉家の君臣は知ってしまったのだから。
「下衆めが……ッ」
 兼続の声が震えを帯び、その場にいた者たちの耳朶を打った。



 輝虎様はしばしの間、無言であった。その輝虎様に、元康は深々と頭を垂れる。
「今は戦国の世です。将兵の血を流して城を取るも、閨房の術をもって国を盗るも、罪深さに差異はないのかもしれません。今川家からの申し出が、御国にとって有益であることも確かかと存じます。三河のような小国の、それもたかが一領主である私の言が取るにたらないであろうことも承知しています。すべて承知した上で、お願いいたします。どうか、私どもに力をお貸しください」
 元康の、小さくも凛と透き通る声が、俺たちの鼓膜を震わせた。
「氏真様は英邁な武人です。海道一の弓取りの後継たるに不足なき御方なんです。こんな……こんな、惨い目に遭い、その心魂が失われれば、麻のごとく乱れた世が、さらに混迷してしまいます。堂々と弓矢をあわせた後の結果ならばともかく、これではあまりにも……」


 そこまでいって、元康は一度、言葉を切った。かすかに震えを帯びてしまった語調を整えるためだろう。
 すっと大きく息を吸う音が聞こえてきた。
 そして、再び紡がれた言葉に、もう震えはない。ただその一事だけで、松平元康が、その小柄な体躯の内に強靭な芯を持っていることは明らかであった。
「――武田信虎なる者は、何も見ていません。この乱世も、乱世にあえぐ民も、何一つ見えていない。見ようともしていない。目の前にあるすべてを利用し、ただ奪い、ただ殺す、戦乱が産み落とした亡霊――ただ己の欲望をかなえんがために戦い続ける狂った王です。その狂王が、もし駿河だけでなく、甲斐までも併呑してしまえば、その欲望はますます燃え盛り、燎原の大火となって東国を焼き尽くそうとするでしょう。今しかないのです、武田信虎を止めるには。そしてそのためには、どうしても越後上杉家の御力が必要なのです。お願いいたします、輝虎様。どうか、御力をお貸しください」


 ――すべてが手遅れになってしまう、その前に。


 元康はそう言って、輝虎様をじっと見つめたのであった。




 輝虎様の口が、ゆっくり開かれた。
「松平、元康殿」
「は、はい」
「貴殿の誠意に、心からの感謝を捧げよう」
「は、はい?」
 何のことか、と元康が目を瞬かせる。
 その元康に、輝虎様はにこりと微笑んでみせた。
「貴殿がみずから春日山に赴いてくれたればこそ、こうも早くお会いすることが出来た。その言葉に嘘偽りがいささかもないことがわかった。貴殿以外の誰が来ても、ここまで素早く決断を下すことは出来なかっただろう。そして、もしかすれば、我が道に、拭えぬ汚点を刻み付ける結果になっていたやもしれませぬ」
 輝虎様の言葉が進むにつれ、元康の顔が徐々に輝いてきた。その様があまりにも鮮やかで、見ているだけで笑みがこぼれそうになる。
「あ、輝虎様。それでは……」
「輝虎、で結構ですよ。さきほど、たかが一領主と仰られていたが、貴殿の乱世を憂う言葉の強さには心打たれずにいられなかった。遠からず、貴殿は我が上杉に匹敵する大家となられよう。そして、その貴殿がそこまで信頼する人物なれば、今川氏真殿もまた戦乱の終結に欠かせぬ人物であられるのでしょう」
 ゆえに、請うのはこちらである、と輝虎様は告げる。
「皆、聞け。駿府の狂王を討ち果たさんとする松平家に対し、我ら上杉家はぜひとも協力せねばならぬと私は考える。異論ある者はいるか?」


「ああ、ごめん輝虎。今、どうやって晴信を口説くか考えてるんで、あたしはその返答要らないよね」と政景様。
「政景様と同じくです。答える必要などありましょうか、駿府の狂王とやらに、輝虎様の天道のなんたるかを思い知らせてやります!」と兼続。
「颯馬、とりあえずお塩たくさん」と定満。
「いや、それよりちゃんと輝虎様に応えませんと、定満殿――とりあえず蓄えていた分と、あとは商人衆にも協力を依頼しないといけませんね」と俺。
「――異論はありません……と最初に答えるのが私なのが不思議ですが」と苦笑しつつ秀綱。


 ちなみに、秀綱は関東戦で共に戦った大胡秀綱のことである。
 長野業正配下の秀綱が、なんで春日山城にいるかというと、これが例の上杉憲政のお陰だったりする。
 つまり憲政の名代である業正の名代、という形である。なお、建前上は上杉憲政の護衛役も兼ねているのだが、実質的には春日山城に詰めっぱなしであった。
 関東管領の威をかざすような秀綱ではなく、軍議の時にも慎ましく座しているだけのことが多かったが、その寡黙な性質と、美貌、さらに類まれなる剣の腕はすでに城中に知れ渡っている。秀綱がいるだけで、どのような会議でも場が引き締まると、重臣たちからの評判も良かったりする。
 ちなみに、時折、輝虎様と秀綱は剣の稽古をするのだが、その様はまさに圧巻の一語。見ているだけで手に汗にぎる激闘の連続で、稽古が終わった後など、参加もしていない俺の方が汗ぐっしょりで疲れ果てているくらいだった。ちなみに、これは俺に限らず、他の政景様や兼続なども俺よりは多少ましであったが、大体は似たようなものである。唯一、定満は普段とあんまし変わらない様子だったが。



 ともあれ、他の者たちからも異論は一切出ず、ここに越後上杉家は正式に松平家の差し出した手を握ることになったのである。
 それは東海、甲信越、関東すべてにまたがる大戦の始まりであり――同時に、俺が上杉輝虎様の下で戦う、最初で最後の戦の始まりでもあった……




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/10/12 15:12


 松平元康の訪問から数日。
 春日山城下には数十にもわたる荷駄が連なり、出立の時を今や遅しと待っていた。
 これすべて塩、塩、塩ばかりである。
 言うまでもなく塩は人間に欠かせぬものであり、国の財政にも深く関わってくる品物であった。多くの国では基本的に専売制をとり、塩の利益を財源としている。
 ゆえに無能な領主は財源に困ると安易に値を吊り上げ、庶民は生きるために必要であるからこれを買わざるを得ない。その国の塩の値段一つで、大方の政情が予測できるほどに、塩は政治と密接に関わっているのである。
 越後は無限の塩水に接する国であるから、塩不足という事態はよほどのことがない限り起こらない。それでもこれだけの量の塩は、決して安易に手放して良いものではなかった。


「しかし、此度は必要なのです。武田家が閉ざした門の閂を外すために」
 輝虎様たちを前に、俺はそう説明した。
 何のことか、と怪訝そうな顔をする者たちから説明を求められ、俺は視線を定満に向けた。そもそも、最初に塩発言をしたのは定満なのである。ならば説明は定満がするのが筋というもの、と思ったが、定満は目を閉ざしてぴくりとも動かない。
 まるで、それは俺の役割なのだと、無言で叱咤するように――


「すー……」
『寝るなッ!』
 俺と兼続の声が同時に発された。
 だが、定満は相変わらず気持ちよさそうに寝息をたてるばかりであった。


「――大分無理をしたようだからな。すまないが、そのままにしてやってくれ」
 輝虎様の声に、俺たちは慌てて頭を下げた。たしかに定満の尽力なくして、ここまで速やかに塩を集めることは出来なかったであろう。無粋な突っ込みはしてはいけない。もうしてしまったが。
 そう考えていると、輝虎様は少しだけ困ったように首を傾げた。
「もっとも、定満がそちらに尽力していたので、私も詳しい話は聞いていないのだ。我らと武田家は犬猿の間柄、たしかに甲信は山国、塩は貴重品であろうが、それだけで晴信がこちらの言い分を聞いてくれるとは思えぬ」
「御意。塩はあくまで閂を外すためのもの。門を開き、晴信殿とまみえ、こちらの言い分を通すはまた別の手が必要になりましょう」
 もっとも、それらはすでに揃っているので、問題はない。
 ただ、どれだけ口を酸っぱくして説いても、上杉全軍の領内通過を晴信が認めるとは思えなかった。
「三千、が限度です。それも状況次第ですが」
「良い。騎馬兵のみをもって編成すれば、信虎追討の一翼は担えよう。だが、具体的にどのように晴信殿を説得するのだ?」
「は、では順を追ってご説明いたします」


 卓上の絵図を指差すと、周囲の諸将の視線が一斉に注がれた。
 詳細といえる地図ではない。大雑把に関東、甲信越、東海の各国の名前が記してあるだけの簡易なものである。
 俺はまず駿河を指差した。
「駿河を押さえた信虎が、相模の北条を抱き込もうとしているのは、おそらく海を断つ為です。輝虎様が仰ったように甲信は山国、塩は他国からの輸入に頼らざるをえません。北の我らと断交している現在、駿河、相模からの塩を断たれれば、甲斐はそれだけで窮地に立たされます」
 俺の言葉に、周囲の諸将が一斉にうなずいた。
「無論、そのようなことは晴信殿とて承知していましょう。それなりに備蓄はあるでしょうし、それに公塩の交易が断たれようと、私塩の交易は続けられる筈。すべての塩をせき止めるというわけにはいきません」
 私塩とは要するに、闇のルート、というやつである。
 ――ならば、今、越後が塩を運んだとて武田に益はないことになりはすまいか。


 無論、そんなことはない。
「平時ならば知らず、海を断たれた甲斐では、私塩の値段は常の何倍もつりあがるでしょう。輸入していた時ほどの量も望めない。塩の供給量が減り、値があがれば、自然、備蓄を吐き出さなくてはならなくなる。さすれば、いかに晴信殿とて塩の値段を上げざるをえず、それは容易に民の不満を招きます。そして、塩が不足すれば将兵の士気も上げようがなくなる。塩なくば戦えぬ、それは甲州騎馬軍団とてかわりありません」
 暴れる囚人の食事から、塩を少なくして大人しくさせるというのはよく聞く手段である。
 あるいは、戦の最中に食す戦陣食には塩分が多く含まれる。それもまた塩の有用性を知悉する先人の智恵なのであろう。塩梅、という言葉もあることだし。


 ともあれ、塩を遮断することは、敵国を動揺させ、将兵の力を大きく引き下げることになるのである。それも時が経てば経つほどに、じわじわと相手を蝕んでいくことになる、なんともいやらしい、しかし有効な策であった。
 そして、それゆえに、定満の言う「お塩たくさん」もまた有効な手段となりえるのである。
 元康の提案だけでは、おそらく晴信は動かない。勢力が小さいから、というわけではない。晴信とて三河武士の勇猛さは知っているだろうし、今川が北へ動いたとき、その横腹を衝かせれば大きな効果を得られよう。
 ゆえに問題はそこではない。松平家が今川家の傘下にあったことが問題なのである。その松平家からの使者に、上杉が口添えしても、これまでの経緯を考えれば晴信は容易に信用は出来まい。むしろ、これも信虎の謀略と捉えられかねないのである。
 ゆえに、塩。
 武田家にとって咽喉から手が出るほど欲するものであり、そして上杉家にとっても決して欠かせぬものを差し出す。それも大量に。
 『敵に塩を送る』というのは美談であるが、定満は知らず、俺のそれは、徹頭徹尾、思惑満載であった。

 
「塩をもって、元康様の言葉と、それを信用する上杉家の行動が偽りでないことを証明します。これがうまく運べば、信虎の狙いが甲斐である以上、晴信殿は元康様の話に乗ってくるでしょう。信虎が北へ進出した際、三河から、たとえ少数であっても横腹を衝くのは効果的です。まして音に聞こえた三河武士とあればなおさらに。さらに越後が動かずにいれば、武田家は主力を南に向けられる。おそらく、ここまでは晴信殿は肯う筈。残る問題は――」
「上杉軍の領内通過をいかにして認めさせるか、ね」
 政景様の言葉に、俺は頷いてみせる。
「甲斐と駿河がぶつかれば、十中七、八まで甲斐の勝ちです。恐怖による統制は脅威ですが、それゆえに脆い側面もある。おそらく晴信殿はそこを衝くでしょう。つまり、わざわざ上杉軍を領内に招く必要がないと判断すると思われます」
「まあ、武田の強さが本物なことは、私たちが一番良くわかってるしね。でもさっきあんた、三千なら武田を説得できるっていってたわよね?」
「御意」
「いやに具体的な数字だとは思ったけど、それはやっぱり上洛の時のことを持ち出すの?」
「はい。上杉は公務のために先日まで敵国であった武田軍に領内を通過させました。それと同じことが出来ないのか、と晴信殿に申します」


 だが、俺の言葉に政景様は、んー、という感じで首をひねった。
「あの晴信のことだから『そうですが、それが何か? 此度のことと上洛のこと、時も違えば状況も違うでしょうに。同じ尺度ではかろうとするあなた方の提案は笑止ですね、おーほっほっほ』とかやるんじゃない?」
 わざわざ晴信の真似までする政景様。ノリノリです。
 だが、それは実に的確な意見であった。
「最後の高笑いはともかく、たしかに晴信殿はそう考えるでしょう。実際、将軍殿下の命令があるわけでなし、上洛時に通したんだから、今度はそちらが通せといったところで、あの甲斐の虎殿は動きますまい」
「ならば、どうする?」
 一転、真剣な眼差しで俺を見る政景様。紅茶色の髪がかすかに揺れた。
 それに対し、俺は短く応える。
「塩をもって武田を説き、甲越の連携をもって北条を説く。この策をもって晴信を説きます」



 諸将の息をのむ音が、室内に木霊した。
 俺は静かに言葉を紡いでいく。
「正直なところ、今回、北条家がどう動くかはまだわかりません。今川の使者はあたかも全面的に今川についたかのように言っていましたが、それにも確たる証拠はなし。すでに決断しているのか、いまだ逡巡しているのかもわかりません。おそらく、信虎は己が花押を押した書状を晴信殿の陰謀の証として示したのでしょうが、北条氏康ともあろう者が、私たちが気付いた疑念に気付かぬ筈もなし。北条家の動向を、今の段階で推察するには無理があります。ゆえに――」
 最悪の状況を考えて、行動する。
 この場合、最悪とは信虎の偽りに、北条が乗ってしまうことではない。
 信虎の偽りを知った上で、北条がそれを利用することであった。


「北条には風魔と呼ばれる忍集団がいるとか。くわえて今川家とは浅からぬ間柄。元康様がしりえたことを、すでに知っている可能性がないわけではありません。そして、その上で武田家を潰そうとする可能性もまた、ないわけではありません。はっきり言えば、今の今川家は狂気にのたうちまわっているだけのこと、時期が来れば手を下さずとも勝手に自壊しますが、武田家はそうではない。晴信の将器と、家臣団の智勇を考えれば、北条にとって真の脅威がいずれなのかはおのずと明らかです。ここで武田を討ち、そして返す刀で今川を、信虎を誅する。北条家がそのように決断していた場合、元康様のお話だけでは、その動きは止められません」


 兼続が、うなるように声を押し出した。
「だが、ここで我らと武田が協力したとわかれば、たとえ北条がすべてを知った上で動いていたとしても、止まらざるをえない。そういうことか」 
「はい。今川は武田に任せ、上杉が全力で関東を衝くことも出来るのです。北の商路が拓けば、駿河、相模が交易を閉ざそうと大勢に影響はでません。すると、北条家はいつ崩れるかわからない今川と手を組みながら、武田、上杉とぶつかることになる。そのような危険な賭けをあえてしなければならないほど、今の北条家は追い詰められていないでしょう」
 俺自身は北条家がすべてを知って動いているとは思っていない。おそらく、今は情報を集めつつ、今川と武田のどちらにつくか、あるいは中立を保つのか、その判断を下す段階であろう。
 ただ、北条家には、五十を越えてなお見た目が二十代とかいう智将がいるそうだし、風魔の存在もある。この機に一挙に東国を支配しようと企てる可能性はないではない。
 だからこそ、それを止められるだけの備えがあることを、こちらは示しておかねばならないのである。


「幸いというべきか、私は関東で北条家の将士と顔をあわせています。北条綱成殿とは言葉もかわしていますし、私が上杉家の人間だということは北条家も疑いますまい。その私が、武田の使者と共に小田原城を訪れれば、甲越の連携は誰の目にも明らかです。それでも北条家を説くのは簡単ではないでしょうが、少なくとも中立を約束させるくらいはしてみせましょう」
 そして、北条家の動きを制すれば――


「甲斐の武田、三河の松平、相模の北条、そして越後の上杉。この四国をもって、今川家を――信虎を完全に包囲する。この戦略図の完成を以って、晴信殿に上杉入国の許可を求めます」


 晴信が甲斐への入国を渋るようであれば、信濃を通って三河へ出て、元康と協力しても良いし、あるいは別途、遠江を衝いても良い。上杉軍の入国は、武田家の襟度を示し、今川家に対して、上杉家が武田家についたことをはっきりと知らしめることができる。上杉軍の存在は色々と役立つのであるる。
 もっとも、そんな小細工などいらないと晴信が考えるほどに戦局が傾いてしまえば、上杉軍の出番はなくなるであろうが、それはそれで構うまい。晴信がそう判断したということは、すでに勝負がついたということなのである。
 ただ、信虎を滅ぼすことは、氏真の危険につながりかねない。そこだけは注意しなければなるまい。




 しんと静まり返った室内で、俺はほっと息を吐きながら、あっけらかんと続けた。
「――と、まあこれが表向きの作戦です」
『は?』
 政景様、兼続、元康他数名の声が重なった。
 ちなみに輝虎様は苦笑、定満はようやく寝ぼけ眼をこすってお目覚めの様子である。その仕草を見る限り、とても四十過ぎてるとは思えん。さきほど北条幻庵のことについてちらっと考えたが、越後にも立派にいましたよ、年齢不詳の智将殿が。
 政景様が髪をかきまわしながら、乱暴に声を出す。
「ちょっと待ちなさい、なに、今ので終わりじゃないの?」
「表向き、と申し上げましたよ、政景様。今までお話したのは、あくまでこちらの都合のみでくみ上げた作戦です。当然、敵は敵の思惑で動くでしょう。こちらが包囲網をつくれば、それを壊そうとする。私たちは西と東に敵を抱えていますし、北条家にしたところで、佐竹や里見と抗争中です。元康様は西の大敵を無視できない。私が信虎であれば、これらの国に使者を出し、こちらが動いたところを後背から衝かせます。それだけでこちらの動きは大幅に制限される。そうすれば、戦局は駿河と甲斐の一騎打ちで決せられます」


 その戦いは、おそらく甲斐が勝つと俺は考えている。先刻述べたように。
 だが、元とはいえ甲斐守護であった信虎の影響力は武田家にも残っていよう。いかに晴信とて易々と今川軍を討ち破れるとは限らない。まして今の今川軍は死兵、何か齟齬が生ずれば、甲斐が飲み込まれる可能性は十分にあるのだ。


 政景様は腕組みし、む、と表情を強張らせた。
「たしかに……で、どうやってそれに対抗するわけ?」
 その問いに対し、俺は視線を宙にさまよわせた。
 にも関わらず、政景様と兼続の目が同時に細くなるのが見えたのは何でなんだろう。
 政景様がにこやかに問う。
「……まさかここまで思わせぶりに語っておいて、策はない、なんて言うんじゃないでしょうね、颯馬?」
「はっはっは」
『笑って誤魔化すなッ!』
 政景様と兼続の怒声が見事なハーモニーを奏でた。



 政景様はともかく(というと怒られそうだが)、智将である兼続に『策がないとは何事』みたいに怒られるのは若干納得がいかないのだが、上杉家における兼続は、いわゆる蕭何や諸葛亮のような内治の能吏である。無論、軍事に向かないというわけでは決してないが、軍事に関しては主に定満が受け持っている。そして、俺はその定満の下で働いている形なので、兼続の叱責も甘んじて受けなければならないのである。
 いや、まあ正式に軍制でそう定められたわけではないのだが、自然とそうなっていたのである。いつからだろう、と考えて思い浮かぶのは、対武田戦で、定満に作戦計画丸投げされたことだった。もしやあのあたりから、定満にはかられていたのだろうか。おそるべし、越後の智将。ますます人外じみてきましたぞ。




 まあ、それはさておき、俺が兼続に説明しようとすると、それに先んじて口を開いたのは輝虎様だった。
「兼続」
「は、はい」
「元康殿が言っていただろう。武田信虎は狂える王、戦乱が産み落とした亡霊だと。そのような者が何を考え、どう動くのかを予測するのは難しかろう。あらかじめ細かい対応を定めれば、敵が予想外の行動に出た場合に混乱しかねん。であれば、かえって策などたてぬ方がよい」
 輝虎様の問う眼差しに、俺はしっかりと頷き、輝虎様の言葉に続く。
「こちらは、あくまで正攻法で相手を封じ込めます。策といえば、これが唯一の策。敵がこれに対抗しようとすれば、その都度それに対応して動きます」
 兼続が小さく息を吐いた。
「む、つまりは臨機応変に対処するしかない、ということだな」
「はい。あるいは、その必要さえないのかもしれませんが……」
「……それはどういう意味だ?」
 兼続の問いに、俺はかぶりを振った。
「いえ、信虎の動きに対応するのは武田家ですから、越後の我が軍があれこれ考える必要はないのでは、と思いまして」
 俺の言葉に、各人の顔に苦笑が浮かぶ。武田家が認めないかぎり、今回、越後はあくまで後方援助に徹するしかないことを思い出したのであろう。
 ただ、少し武田の動きが鈍いのが気にかかるのだが……
「――ともあれ、行動は急ぐべきでしょう。時をかければ、それだけ信虎の思う壺です。輝虎様、ご命令を」


 俺だけでなく、政景様、兼続らが一斉に己が主君を見上げる。
 その視線の先で、越後の聖将は毅然とした姿で、口を開くのであった。
  



◆◆




 そして、甲斐への出立当日。
 俺はいきなり途方に暮れていた。
「……どうなさいました、天城殿?」
 そんな俺に気付いて声をかけてきたのは秀綱だった。この人も、しっかり甲斐への一行に加わっているのである。いや、俺は全然知らなかったのだが、今日になったら加わってたのだ。謎だ。
「とはいえ、秀綱殿だけならば、むしろ頼もしいくらいなんだが」
「?」
 俺の独り言を耳にし、不思議そうに首を傾げる秀綱。何か他に問題があるのか、とでも問いたそうであったが、むしろ問いたいのは俺である。


 そう――あなたの右斜め後方に立つ、露骨に怪しげな虚無僧は誰なのか、と。


 ゆったりとした藍色の法衣は性別を隠し、深い編笠をかぶっているせいで顔は全く見えない。手には尺八、背には袈裟、立ち居振る舞いに不審な点は感じない。これが町や街道ですれ違う分には怪しくはないだろう。
 だがしかし。その虚無僧が上杉軍の一行に混じり、しかも先刻から一言も喋らないとくれば、誰がみても怪しさ満点であった。


 しかし、秀綱はくすりと微笑み、短く俺に保証しただけだった。
「……私たちに害をなす人でないことは確かです。お気になさらないでよろしいかと」
「そういうわけにもいきません――と、言いたいところなのですが」
 俺はふかく、深くため息を吐いた。
「ここで時間をかけるわけにもいきませんし、仕方ありませんね。秀綱殿のご友人ということで説明させてもらいますが、よろしいか?」
「ええ、結構です」
「あえて名前は問いませんが、そちらの方も、よろしいですな?」
 編笠が縦に揺れたのは、承諾したということなのだろう。
 俺はもう一度、ため息を吐いた。





 出発に多少手間取ったが、その後の道程は思ったよりもはかどった。
 季節が盛夏とあって、煎るような日差しが降り注いでくるが、信濃の山嶺から吹き下りてくる風は涼気を運び、重くなりがちな足取りを軽くしてくれる。幸い天候が崩れることもなく、信越国境までは問題なく到着できそうだ。
 問題は、自然よりも人為的なものになりそうであった。
 こちらは先触れの使者を出しているとはいえ、あの武田家が上杉の使者と荷を素通りさせるわけはない。おそらく甲斐の晴信に許可を求めるだろうが、急使を飛ばしたところで往復に要する日数はかなりのものだ。まして、晴信が即答すると決まったわけではない。


「さて、どうなることか」
 馬上、俺が呟くと、近くにいた元康が真剣な眼差しで頷いた。
「そうですね。私と輝虎殿連名の書状とはいえ、今の段階では晴信様がこちらを信じるに足る理由はあまりありませんし」
「はい。ただ駿河で今川家が急速に軍備を整えていることは知っているでしょうから、説得力がないわけではありません。しかし、それゆえに今川の謀略とからめる可能性もある……晴信殿がどう判断するか」
 俺は危惧を示すためにそう言ったのだが、その俺を見る元康は、どこか意外そうな表情をしていた。
「ぬ、どうかされましたか?」
「いえ、ただ、言葉にくらべて、あまり心配なさっている顔には見えなかったもので……まるで、武田がこちらの言い分を聞かないとは思っていらっしゃらないように見受けます」
 気のせいでしょうか、と元康は小首を傾げるのだった。


「――見抜かれてますね、颯馬様。上杉の軍師としては落第かと」
「ぬう。けど一城の主に見抜かれても恥ではないと思うが如何?」
 段蔵の言葉に、俺が何とか言い訳を試みると、元康の傍らにいた忠勝があっさりと言った。
「拙者もそのように見受けたでござるが」
「あ、た、忠勝殿、今はそれを言っては……」
 その忠勝の隣にいた弥太郎が慌てた様子で遮ろうとするが、時すでに遅し。
 俺はがっくりと肩を落とし、慌てた元康に慰められてしまった。


 ちなみに弥太郎と忠勝は、弥太郎の妹を保護した一件で意気投合したのか、随分と仲が良くなっていた。時折、二人は暇を見つけて槍を合わせているが、長大な槍が流麗に絡み合い、弾きあい、激しさと滑らかさが交錯するその様は、見ている者の言葉を奪うに足るものだった。
 考えてみれば、本多忠勝と小島貞興の槍合わせとか、その道の人が見れば泣いて感激する光景なのかもしれん。
 一方、段蔵と半蔵の二人はというと、これは別に何の接点もなく、互いの主の傍に張り付いているだけであった。まあ、段蔵と半蔵が意気投合する光景というのも、なかなか想像が出来ないのだが。
 そんな俺たちの様子を、秀綱や、荷駄を運ぶ将兵たちが笑いながら見物する中、件の虚無僧は一人、尺八を吹きながら遠く信濃の山を見つめ続けているようであった。




 そんなこんなで、大した障害もなく信越国境にたどり着いた上杉家の一行。
 そこで俺たちを出迎えた人物を見て、俺はぽかんと口を開けてしまった。何故といって、あまりに意外な人物だったからである。
 武田六将が一、春日虎綱、その人であった。
「お久しぶりです、天城殿。お元気そうで、何よりです」
「春日殿こそ、お元気そうで……あ、と。何でここに、というのは愚問なのでしょうか?」
「愚問ではないとは思いますが、私は天城殿が驚いた顔を見られて満足ではありますね」
 にこにこと笑う虎綱に、かつての気弱げな面影を探すのは難しい。虎綱を知る弥太郎や段蔵も驚いている様子だった。
 上洛からまだ半年もたっていないが、虎綱はよほどに充実した日々を送っているのだろう。そうでなければ、この笑顔はありえなかった。
 しかも、ただ明るくなっただけではない。虎綱自身が自覚しているかどうかはわからないが、将としての深みが一段――否、二段三段と増している。
 正直、上洛時の虎綱と戦って負けるとは思っていなかったが、今の虎綱と正面から対峙するのは御免被りたかった。箕輪城で武田と矛を交えずに済んだのは幸運であったのかもしれない。


 ともあれ、虎綱の顔を知らない者たちに、武田家が誇る六将の一人だと伝えると、皆びっくりしていた。
 当然である。
 上杉との国境は、武田にとって重要な拠点であろうが、ここに六将を配置するのはさすがに人材の無駄遣いである。つまり、武田家は越後の使者がここに来ることを知っていたことになる。おそらく、誰が来るのかさえ。
 でなくば、西上野にいる筈の虎綱がここで待っている理由はないだろう。


 それにしても、と俺は武田の先読みの裏を推察しようとした俺だったが、その俺の思考を遮るように、虎綱は表情を改めた。
「我が主より、上杉家、ならびに松平家の御使者へのお言葉です」
 そう言って、虎綱が伝えた晴信の言葉は想像していた以上に苛烈なものであった。
 すなわち、晴信はこう言ったのである。


 ――書状に書いてあることしか言うべきことがないのであれば、ただちに引き返されたし。当家は、物につられて他国の軍を引き入れるがごとき真似はせぬ。今川が動きはすでに掴んでおり、その矛先が当家へ向けられていることも承知している。我が甲州武田家は、自国の防衛に他国の兵を欲する弱国にあらず。いらざる手出しは無用である、と。


 その虎綱の言葉に、元康の顔が曇り、忠勝の眉間に雷光が生じた。半蔵は無言であったが、その眼差しは確実に鋭さを増したであろう。
 一方、俺は――ほっと胸をなでおろしていた。
 その表情のまま、口を開く。
「書状に書いてある以上のことがあれば、塩など運んでないで、さっさと話をしにこい。そう受け取りましたが」
 その俺の言葉に、元康たちは驚き、虎綱は微笑した。
「はい。おおむね、それで間違いないかと思います。御館様より、もし皆様が進まれるのであれば、躑躅ヶ崎館までの案内をするように仰せつかっております」
「承知。話が早くて助かります」
「それはこちらも同様です。正直なところ……少々、私も戸惑っているのです。よろしければ、後で天城殿のお考えを聞かせていただきたく」
 虎綱の表情に浮かんだのは、自身が口にした通り、戸惑いと、そしてかすかな不安であったかもしれない
 無論、この時点でその内容までわかるわけはなかったが、どこか以前の虎綱を思わせるその表情に、俺は奇妙に胸が騒ぐのを感じていた。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/10/15 01:16

 甲斐国躑躅ヶ崎館。
 武田家当主・武田信濃守晴信は、上杉、松平両家の使者の口上を聞き終わると、くすりと微笑んだ。
「松平元康殿」
「は、はい」
「今川家の内情を知り、その裏に我が父が暗躍していると知り、わざわざ他国まで語らって来ていただくとは。氏真殿を助けるという目的があるとはいえ、そこまでわが国のために動いてくれたことに、まずは礼を申し上げるべきでしょうね」
 晴信の言葉に、元康はちいさくかぶりを振る。
「仰るとおり、私はただ己が目的のために動いただけのこと、礼を受け取ることは出来ません。しかし、越後の方々は、その私の目的と、駿府の乱を治めんがために無償で動いてくれました」
「なるほど、謝辞であれば上杉に述べよ、というわけですか」
 元康の言葉を先取りし、晴信はさも困ったように首を傾げる。
「しかし、貴殿と異なり、我らと越後は敵同士。そうそうその善意を信じることは出来ないのです。まして、領内に上杉が兵を引き入れるなど、侵略者に道を教えてやるようなもの。かつて、上洛の時、我が軍は越後を通過しましたが、その時とは状況が異なるのです。そうではありませんか――天城颯馬?」


 晴信の視線が、覇気さえともなって、元康の隣に座す俺に向けられる。
 今、この場にいるのは俺と元康のみ。弥太郎たちは別棟で待機させられている。
 一方、武田家はというと――


 晴信の右に座す壮年の男性は、山県昌景。先刻から興味深げにじっと俺たちの様子を眺めやっている。
 その隣に座すは馬場信春。おそらく武田家にあって、最も先が見える武将であろう。なにしろ、戦国時代にコスプレに開眼したのだから――はい、つぎつぎ。
 馬場信春の隣にいるのは風の将、内藤昌秀。俺とおなじく戦場で甲冑をまとわないそうだが、あまり親愛の情はわいてこない。ぶっちゃけ、なよっとした感じが好きになれん。


 かわって晴信の左で瞑目しているのは、山本勘助。皺の深い顔に、重厚な表情を浮かべ、元康の一言一言を吟味するように時折頷いていた。
 その隣にいるのは、春日虎綱である。かしこまった表情で控えているが、こちらを見る眼差しに温かみを感じる。
 そして、その虎綱の隣で、険しい眼差しでこちらを見つめ――否、睨んでいるのが、真田幸村である。虎綱と並ぶ女将軍、六文銭を旗印に武田家の先駆を務める雷の将である。


 その他、武田の二十将も何名か参列しているらしい。文字通り、この場には武田家の文武の精髄が集っていると言って良いであろう。
 誰をとっても一国を支えうる将器である彼らが、一斉にこちらを見据えているのだ。それだけで物凄い重圧である。もし晴信の狙いが、俺を威圧することにあるのなら、その目的は十分に達せられたといってよい。


 ――まあ、だからといって。
「仰るとおりです。援軍の件は取り下げましょう」
 ――主導権を譲るつもりなど、さらさらないのだが。



 俺の言葉に、一瞬、武田の家臣たちからざわめきが起こった。
 一国の使者が、あっさりと要求を引っ込めるとはさすがに予想していなかったのだろう。
 晴信もまた、目を細めて俺を見やる。
「随分あっさりと申しますね。主君の許しも得ずに、使者たる身がそこまで断言してよいのですか?」
「疑念はもっともと存じますが、この天城、輝虎様より、此度の案件に関しては全権を任されております。この地にて見聞したものをもとに、使命を果たすようにとの我が主のお言葉なれば、上杉軍入国の儀を取り下げることに問題はございませぬ」
「――それは、此度の件、上杉軍が出るまでもないと?」
「御意。この時期に武田家の重臣方が躑躅ヶ崎に勢ぞろいしているということは、つまりもうご存知であったのでしょう。今川家のことも、その裏に誰がいるのかも。そして、そのことを知らしめるために、わざわざ猫の手も借りたいほどに忙しいであろう方々をこの場に集めて見せた。もし私がそれに気付かなければ――その程度の人間しかよこさぬ上杉家など頼むに足らず、そう考えて越後にたたき出す心算であられたと推察いたしました。北条家を説くに、上杉がいた方が便利ですが、いなくとも不可能というわけではありませぬゆえ」


 ほう、と感心したように呟いたのは昌景であったか。
 そして、呟いたと思った途端、昌景はゆっくりとその場に立ち上がったのである。
 晴信が訝しげに配下に視線を向ける。
「どうしました、昌景?」
「いや、こけおどしが通じる相手ではなさそうゆえ、もはやここにいる意味もないかと。天城殿が言うように、今は猫の手も借りたいほど。こうして話している時間さえ惜しい。御館様も、要らぬ芝居はほどほどになさるべきかと」
 昌景の言葉に、それまで控えていた幸村の口から鋭い声が飛び出した。
「や、山県殿、いかに重臣筆頭とはいえ、御館様に対し何と無礼な。要らぬ芝居などと――」
「幸村、控えなさい」
「はッ、で、ですが……」
「控えろといっているのです。真田家は序列さえ守れぬ無礼な家柄だと、他家に思われたいのですか」
 その言葉に、幸村はぐっと歯をかみ締めたように見えた。
 鋭い眼差しをこちらに向けた後、しぶしぶという感じで矛を収める。


 晴信の口から、小さく吐息がもれた。
「……確かに、昌景の言うとおりですね。時がないのは事実。塩が不足するであろうことも事実。北条を説くに人が足りないのも事実。少なくとも、そのうちの二つを解決してくれるとあらば、たとえ相手が上杉家であろうと、頭を下げるべきなのでしょう」
 その言葉に、またも幸村が驚きもあらわに腰を上げる。
「お、御館様、それは――」
「幸村」
「は……」
 晴信の一言に、悄然と俯く幸村。なにか見ていて痛々しく感じるほどだった。


 ともあれ、聞かねばならないことが、こちらにも山ほどあるのである。
 何より、武田家の君臣の間にたゆたう焦燥は、俺の予測を越えていた。
 俺はてっきり、各方面の動きに即応できるよう、主力となる六将を躑躅ヶ崎舘へ集め、二十将を各地に配したのだと考えていた。そう考えれば、二十将が数名しかいないのも納得できる。
 だが、どうもそんな状況ではないらしい。
 俺の疑問に気付いたのだろう。晴信は素っ気無く、簡潔に事実だけを述べた。


「つい先刻のこと。今川軍が、駿府城を発ったとの知らせが入ったのです。先鋒は朝比奈泰朝と岡部元信。目的地はここ、甲斐の国だそうです――」



◆◆


 

 躑躅ヶ崎館に与えられた一室に、越後から来た一同は勢ぞろいしていた。
 すなわち、俺、弥太郎、段蔵、秀綱、元康、忠勝、半蔵、虚無僧の八人である。
 晴信からの知らせを開陳すると、まっさきに口を開いたのは、意外にも段蔵であった。  
「――はや動いた。そういうことですか」
 段蔵はそう呟いてから、俺に深々と頭を下げた。駿河、相模に放った軒猿が功を奏さなかったことを詫びたのである。
 とはいえ、元康が来てから、半月も経っていない。当然、軒猿といえどろくに準備も出来ていなかったわけで、段蔵を責めるつもりはない。ないのだが。
 俺はあえて厳しい声を出す。
「過ぎたことはいい。本番は、むしろ、ここからだ。失態を繰り返すな」
「御意」
 これが弥太郎なら、気にするな、で済ませるのだが、忍として誇り高い段蔵にそれをやると、かえって無理しかねないのである。下手をすると今川軍に忍び込むとかしかねないので、ここはきちっと締めておく。段蔵のことだから、直接自分で行こうとするだろうし、そこで信虎と出くわす可能性もないわけではない……む、もうちょっと念を押しておくか。
「――かといって、無理をするなよ。今川軍に忍び込んでも汚名返上にはならないぞ」
「……御意」
 ……今の間を見るに、段蔵、出るつもりでいたな。あぶないあぶない。
 段蔵のことだから、一度はっきりと口にだして止めておけば、あえて出ようとはしないだろう。



 段蔵の次に口を開いたのは、元康だった。
「それだけではありません。晴信様の話では、甲斐と、そして信濃の一部で叛乱が起きたとのことです」
 その情報に、すでに知っている俺を除いた全員が息をのむ。もとい、例の虚無僧さんはどうかわからん。室内でも編笠かぶってるので。当たり前だが、異様に目だっており、武田家の家臣からも露骨に怪しまれているんだが――気付いていないのかしら、てると……げふげふ。
「……あの武田家から、謀反人、ですか?」
 武田家がいかに統制がとれた家臣団を有しているか、幾度も対峙してきた上杉軍は骨身に染みて知っている。弥太郎の驚きは頷けるものであった。
 だが、その問いに元康は首を振る。
「信濃の方は、御家来衆の謀叛ではなく、晴信様に国を奪われた信濃国人衆の蜂起らしいです。規模としてはさして大きくはないらしいですが、叛乱は広範囲にわたっており、鎮圧までにはかなりかかりそうだと」
 元康の言葉に、俺が補足した。
「甲斐の方は、正真正銘、謀叛とのことだ。晴信殿の守役であった板垣信方殿の子息、信憲が手勢を率いて柳沢峠を占拠したらしい。黒川金山に近いから、こちらも早急に鎮圧する必要がある」
「南の駿河、北西の信濃、北東の柳沢峠、敵だらけでござるな。これで相模の北条まで出てきた日には、いかに武田家といえど苦しいでござろう」
 忠勝の言葉に、俺が頷く。
「そう、ここで北条まで参戦されると四方を包囲されることになる。だから、そちらは春日殿と俺でいってくれとのことだ」


 晴信の要求は、俺に北条家への使者となってもらい、元康は三河に帰って西から今川家に攻め上がってほしいというものだった。
 北条家に対して、松平家が同行する理由は薄い。それゆえ、元々、そのつもりではあったが、実際にすでに信虎率いる今川軍が動いているとなると、ことは迅速に運ばなければならない。それこそ今すぐにでも発つべきなのである。
 ただ、それは武田側から首を横に振られた。なんでも今一度話しておきたいことがあるとのことで、俺はもう一度、後で晴信の下に出向かねばならない。そう言ったとき、虚無僧さんの編笠がぴくりと揺れた気がしたが、はて、どうしたのか。
 ただ、この話は上杉に対してであって、松平家に関してはその限りではない。これらの一連の謀叛が、信虎に関わりがあるのは明白であり、その手が三河に伸びていないとは限らない。元康はかなう限り早急に三河に戻って手勢をまとめるつもりであった。


 つまり。
「……ここでお別れですね」
「はい」
 元康の言葉に、俺は小さく頷く。
 わかっていたことではあるが、やはり寂寥の感は拭えない。一緒に行動したのは半月に満たなかったが、元康の為人はとても好ましいものだったし、忠勝の忠義に厚い心と、半蔵の無言の献身には見習うべきところが多かった。
 この主君と、この家臣がいる限り、これからの松平家の隆盛は約束されたようなものである。輝虎様が言っていたように、いずれは上杉に匹敵する大家として、その名はあらわれてくるであろう。
 先の見えぬ乱世にあっては、次に会う時が敵か味方かは定かではなかったが、出来うるならば、共に手を携える未来を望みたい。
 そう言って、俺は元康に手を差し出した。その俺の手をしっかりと握った元康は、勢いよく頷いてみせた。
「私も、そう望みます。お互いがそう思っているのであれば、きっと望んだ未来がつかめますよね」
「はい、きっと」
 俺が言うと、元康は微笑んでもう一度頷いたが、不意に何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。


「そ、そうだ、一つ聞きたいことがあったんでした。天城殿、あの、ですね」
「は、はあ、なんでしょう?」
「その、普段、何を考えていらっしゃるのでしょう?」
「はい?」
 唐突な問いに、目が丸くなった。
 そんな俺の様子を見て、元康は慌てて両手を左右に振る。
「あ、その、何ていうか、天城殿って、まるでなんでもわかってるみたいに見えることがあるんです。春日山城で、今回の戦のことを話している時、そんな気が何度もしました。も、もしかして、信虎がこんなに早く出ることも、予測の一つにあったのでは?」
 その問いに、俺は困惑して、頬をかく。
「なんでまたそう思われました?」
「晴信様からそのことを告げられたとき、私はすごいびっくりしたんです。でも、天城殿はあまり驚いていないように見受けました。だからです」
 真摯な眼差しで、じっとこちらを見上げる元康。


 その真っ直ぐな眼差しに対抗することは難しく、俺は素直に首を縦に振る。
「確かに、来るかもしれないとは思ってました。でも、証拠があってのことではないですよ。それに、俺がそう考えたのは元康様のお言葉があったからです」
 その言葉に、元康はきょとんとした顔をした。
「私の?」
「仰っていたでしょう、『狂王』と。何をするかわからない者が相手なのであれば、あるいは甲斐に対する包囲網を築くように見せながら、問答無用で攻め寄せることもあるかもしれない、と思っていただけです。確たる根拠があったわけでなし、予測と言えるようなものではありません」
 だからこそ、口にはしなかったのである。
 そして、もう一つの問いにも答えておく。
「見たいものだけを見るのではなく、自分にとって都合の悪いことからも目をそらさない。普段から考えているのは、その程度のことです」
 たいして特別なことを言ったつもりはなかったが、俺の言葉に、元康は何度も頷いていた。
「自分の策に溺れないため、ですね」
「もちろん、それもありますが、別のことでも役に立つのですよ」


 俺の言葉に、元康がむむっと顔をしかめる。その言葉の意味するところを掴もうとしたようだが、掴みきれなかったようだった。少し悔しげな様子で、俺に答えを求めてきた。
「あの、それは一体?」
「これも、そんなに難しいことではないんですけどね。こちらが良かれと思ってしたことでも、相手がそう思ってくれるとは限らない。そのことを常に念頭に置いておくんです。民のため、主君のため、家臣のため……私たちの行動は様々な立脚点で成り立っていますが、それが常に相手に届くわけではありません」
 むしろ、真っ直ぐに相手に届くことの方が稀である。だからこそ、相手が望むことを、自分の視点からだけでなく、相手の視点に立って考えることは無駄にはならない。自分にとって都合の悪いことから目を逸らさない、という言葉はそこまで含んでのものであった。
 

 言うは易く、行うは難しという言葉を地で行く話であるのだが、元康はなにやら感銘を受けたように何度も頷いていた。
 民を守るため、戦をなくすため、なすべきことは山ほどある。自分の行いが本当に目的に繋がるものであるのか、自己満足に類するものではないのか、そのあたりを見極めることが出来る為政者は、強い。
 それが出来る為政者は、たとえ一時、自分の行動が非難を浴びようとも、断固として行動できるからである。そういった大名は、かならずその勢力を肥え太らせていくことになる。それはたとえば、武田や上杉のように。そしておそらくは、近い将来の松平のように。
 元康の人徳と熱意に、周到さと決断力まで加われば怖いものなしである。
 素直で、一生懸命で、行動力に溢れていて、それでいて事をなすときには緻密で周到……これから先、元康が『三河の姫狸』とか呼ばれないことを祈っておいた方が良いのかもしれん。
 真剣な眼差しでこちらを見つめる少女を見て、俺はそんなことを考えていた。




◆◆



 
 鎧甲冑を脱いだ姿の晴信は、思った以上に小さかった。幼ささえ感じられる容貌は、戦場で輝虎様と互角以上に渡り合い、舌戦においては凌いだとさえ言える武田晴信と同一人物とは思えない。
 今、何歳なのかはわからないが、父の後を継いだ時は、本当に子供だったのではないか。それが瞬く間に甲斐と信濃を制してのけたというのだから、おそるべきはその才か、あるいは幼いながらにその才を開花させた晴信の練磨なのか。
「――両方に決まってるか」
「何ですか、両方、とは?」
 怪訝そうにこちらを見る晴信に、俺はやや慌てて姿勢を正しながら、なんでもない旨を伝える。
 いきなり晴信の私室に案内され、いささかならず動転している俺であった。



「そのように硬くなる必要はありません。ここに招いたのは、私なりの感謝の証なのですから。褒美とでも思ってもらえば良い」
「褒美、でございますか?」
 武田家に感謝やら褒美やらをいただく覚えはないのだが。逆ならともかく。
 首をかしげていると、晴信は「わからぬならよい」と素っ気無く言って、話題を移してしまった。
「北条へは虎綱を遣わします。今の虎綱ならば外交の任も務められるでしょうし、そなたとの縁を考えれば適任でしょう。未だ北条が兵を出したという報告は届きませんが、そなたらであれば務めを果たせる――そう考えてよろしいですね。そなたはそのためにこそ、甲斐まで参ったのでしょうから」
「御意、微力を尽くします」


 俺の言葉に、晴信はかすかに唇を曲げた。
「微力、ですか。謙遜も過ぎると皮肉になりますよ。越後の内乱を収め、我が策謀を防ぎ、上洛を無血で乗り越え、関東に踏み込んで上杉の武威を輝かせ――それを微力と言われては、幾度もしてやられた身としては腹立たしい」
 晴信の眼光に押されたように俺は頭を下げる。もっともその言葉をそのまま信じるほどに自惚れてはいなかったが。
「私が晴信様の策謀を防いだとしても、それは武田家にとって、やっておいても損はない程度の策でございましょう。事実、武田家の勢力は増えこそすれ、減ってはおりませんし」
 北信濃を制圧し、西上野まで踏み出した今の武田の所領は、間違いなく上杉を上回る。結局のところ、武田家の進出を防ぐことが出来ていない以上、多少の謀略の芽を摘んだくらいで誇ることなど出来はしない。


 だが、晴信はなおも言う。
「その代わり、越後に踏み込むことも許していないでしょうに。そなたや景虎、いえ今は輝虎でしたか、そなたらがはじめから国を拡げることを望んで兵を動かしていれば、あるいは武田家よりも大きな勢力を得ていたやもしれませんよ」
「輝虎様が利に聡い方であれば、たしかにそうであるかもしれません。しかし、その代わり、輝虎様は今も長尾景虎のままでいたことでしょう。ついでに申し上げれば、私自身は、内乱の時に首級をあげられていたに違いありませんよ」
 敵対勢力の将であり、自らを焼き殺そうとした敵将をそのまま召抱える武将なぞ、日ノ本すべてを見渡しても輝虎様くらいしかいなかろう。
 そう言った俺の顔を、晴信が不機嫌そうに見据える。
 不機嫌というよりは、単に呆れているだけかもしれんが。
「ふん、天道を歩みたればこそ、今の上杉があり、それゆえに自分もそこにいるのだと。そういうことですか」
「御意。領土征服に血眼になる輝虎様など想像もできませんが、そんな輝虎様であれば、今の上杉の陣容は揃わなかったことは間違いございません」


 その言葉を聞き、晴信はにこりと蕩けるような笑みを浮かべ、こう言った。
「なるほど。領土征服に血眼になった私がつくりあげた武田家など、天道を歩く上杉にとって、たとえ国力で上回られていても恐るるに足らぬ、とそう申すのですね」


 俺も応じてにやりと笑ってみせた。
「申し上げたいことを汲み取っていただき、何よりでございます」


 その刹那。
「貴様ッ!!」
 雷光の如き速さで、俺の咽喉元に刀が突きつけられた。
 それまでは無言でひたすら耐えていた真田幸村が、今の一言で堪忍袋の緒を切ったのである。





 当然といえば当然だが、武田家の当主が上杉家の家臣と一対一で自室で会うわけはない。話のはじめから幸村はずっと晴信の傍近くに控えていたのである。口出し無用との言いつけでもあったのか、これまではこちらを睨みはしても、口をはさむことはなかったのだが、やはり今のはまずかったか。
「だ、黙って聞いていれば調子に乗りおって! 上杉の家臣づれが御館様に対してなんたる無礼か! その首級で償う覚悟は出来ているのだろうなッ?!」
 女獅子だ。女獅子がおる。
 幸村は、体の大きさだけを言えば、おそらく虎綱よりも小さい。しかしながら、その気迫は烈火のごとく、その眼前に立つと燃え盛る炎を前にしているような威圧感を受けてしまう。
 今の抜刀も、俺程度の腕では残像さえ見えない手練の早業であり、この小柄な少女が武田の誇る雷の将であるという事実を、俺は総身で感じ取っていた。


 もっとも、幸村の気迫を感じ取りはしても、あまり動じているわけではなかった。俺の肝が太い、というわけではない。単に幸村より強い人に稽古をつけてもらっているから、この手の迫力に慣れているだけである。輝虎様とか、秀綱とか。とくに秀綱は、春日山城ではあまりやることがない身なので、暇を見てはよく稽古をつけてもらっているのである。
 ――念のためにいっておくと、別に新陰流を学んでいるわけではない。いや、実はものすごく興味はあったのだ。こう「新陰流奥義『転(まろばし)』……」みたいに呟きつつ、戦場でばったばったと敵を切るシチュエーション、憧れない男がいるだろうか、いや、いない。


 だが、俺がそこまで行きつくには秀綱曰く「……十年くらい?」とのこと。無論、十年というのは、すべての時間を剣の修行につぎ込んだ期間である。ついでに言えば、最後の疑問符に秀綱の心遣いを感じたのは気のせいではあるまい。多分、十年というのはかなり甘く判断した上での数字であろう。本当だったら、秀綱は二十年くらいは必要だと言いたかったのだと思われる。小首傾げてたし。


 そんなわけで、剣豪天城颯馬の夢は無残に潰えたのである。無念。
 とはいえ、せっかく秀綱が春日山城にいるのだからと稽古はつけてもらった。何の稽古かといえば、打たれ稽古である。つまりは、秀綱の剣を、俺の鉄扇で出来るだけ長く防ぎ続けるのだ。戦場で斬りかかられた際の度胸を養うためで、高野山で、輝虎様とした稽古も似たようなものだった。
 秀綱にとっては退屈なことだったと思うのだが、おそるおそる申し出た俺に対し、快く応じてくれたのはありがたかった。
 まあ、わかっていたことだが、輝虎様と秀綱が相手では防ぐ技量は全然あがらなかった。なにせ剣筋が見えないのである。これでどうやってかわせというのか。
 そのかわり、随分打たれ強くはなったし、度胸もついた。軍神と剣聖に比べれば、そこらの将兵など恐るるに足らないのは当然であろう。
 そうして積み上げた鍛錬は、武田家の雷将と対した今も、その効果を十全に発揮してくれているようであった。




 無論、まったく微動だにしないというわけではない。幸村の剣勢には、輝虎様や秀綱のそれには感じなかった殺気が込められており、正直、首筋に刃を突きつけられた瞬間には冷やりとした。
 今もその殺気はいささかも緩んでおらず、晴信の命令一下、俺の胴と頭を分断する気なのは明らかであった。
 すぐに口を開くと、かえって慌てたように映ってしまうであろう。ゆえに、俺は刀を突きつける幸村を前に、なるべく泰然と見えるように目を瞑った。あたかも覚悟は出来ていると告げるように。


 立ち込める静寂に、はじめに焦れたのは幸村であった。
 おそらくは晴信の命令を請うためだろう、主君に呼びかけた。
「御館様……」
 その幸村に応じるように、晴信が口を開いた。
「甲斐源氏の棟梁を侮辱したのです、その首級を差し出す覚悟くらいは出来ているのでしょう、天城? まさかとは思いますが、私が上杉の援助ほしさに、ここであなたを討つことができないと考えているのなら、その傲慢はそなた一人の命では購えませんよ」
 俺はゆっくりと目を開き、晴信の問いに答えた。
「ここで私を討った方が武田家にとっては――いえ、晴信様にとっては事がうまく進む以上、私が無事でいられる保証などありますまい。それがわかっている以上、この身が安全であるなどと考えることはできませんよ。私を討って越後の動きを引き出せば、武田家は必然的に甲斐の防備を薄くせざるをえなくなる。それこそ、信濃や甲斐の叛乱を相手にするより、よほどわかりやすく兵力を分散出来るでしょう」


 その言葉を聞いた瞬間、晴信の目に恒星のような輝きが煌き、その激しさに、俺は一瞬息をのむ。晴信の狙いが俺の推察どおりなら、今の言葉は、武田の戦略の根元をわしづかみにしたようなもの。無言ではいられまい。
 だが、晴信は激発することなく、むしろ奇妙な静けさを保ちながら、俺に問いを向けた。
「……兵力の集中は用兵の鉄則です。それを知らぬそなたではないでしょう。なのに、私があえて兵力を分散しようとしていると?」
「御意。信濃の叛乱にせよ、板垣とやらの蜂起にせよ、これまでの武田を知る者にとってはあまりに不可解。そのような動きを許す武田家ではないでしょう――故意に放置していたのでもないかぎりは」
 緊張に乾いた唇を軽く舐める。ここで答えを誤れば、間違いなく晴信は幸村に俺を斬るよう命じる筈だった。


 剣刃の上を、綱渡りで進むような緊迫感を、しかし少し楽しんでいる自分に、俺は気付いていた。
「時を同じくして起きた叛乱は、疑いなく駿河の謀略です。西北では、信濃国人の叛乱。北東では家臣の謀叛。東南からは北条軍を動かし、南からは今川軍の本隊が進む。四方の敵に対応するためには、武田軍は兵力を分散せざるを得ません。当然、躑躅ヶ崎舘の兵力は少なくなりますが、かといってここを動けば、四方の戦線を統括するのに支障が生じかねないので、晴信様はここに腰をすえることになるでしょう。そして、甲斐国内の地理を知り尽くした敵は、そこを衝く」


 四方に兵火を起こし、敵兵力を分散させた上で、一挙に敵の中枢を衝く。
 使い古された戦術であるが、それゆえに効果的である。
 うまくはまれば、一朝にして国を滅ぼすことがかなうであろう。


「仮に、それが敵の策だとして――」
 晴信の口から出る声は相変わらず静かであったが、先刻までと違い、どこか楽しむような響きが戻りつつあった。
「私が、何故わざわざ敵の策に乗らねばならないのですか。みすみす兵力を分散させれば敵の思う壺、この身を危険にさらしたところで、得るものは大して多くないように思いますが?」
「これが普通の敵であれば、そうでしょう。中央に強襲をかけてくるのは敵の最精鋭でしょうが、それを討つために全滅の危険を侵す必要はありますまい――普通の敵であれば、ですが」
 しかし、今度の相手は間違っても普通ではない。駿府の狂王の狙いが甲斐への復権であることは明らかであり、当然、自らを追放した娘に対して心穏やかではいられまい。伝え聞く信虎の行状を見るに、間違いなく自ら来るだろう。


 逆に、そこを討てば――
「今の今川は、信虎に首筋を押さえつけられ、引きずり回されているだけです。信虎を討ち取りさえすれば、脅威は去る。恐怖による統制は、その首謀者さえ消えれば、たちまち霧消し、後を継ごうとする者などおりません。だが、そのためには確実に信虎に出てきてもらわねばなりません。信濃や甲斐の叛乱だけでは、まだ足りない。こちらが信虎を知るように、信虎もこちら知っているでしょうから。ゆえに、北条の出陣は不可欠、そこに上杉が出ればさらに良い。躑躅ヶ崎の兵力を手薄にしても、信虎は不審には思わないでしょう」
 無論、両家の侵攻による被害は免れないが、信虎を討ち、今川家の策動を押さえれば、和戦、いずれであれ、この両家を止めることは、晴信にとって難しいことではないだろう。
 ゆえに、俺の身が安全だ、などと自惚れる理由はないのである。


 とはいえ、これはあくまで支配者の見方である。民衆にとっては、謀叛であれ、敵国の侵入であれ、迷惑なことにかわりはない。ゆえに、俺は先刻、ここで上杉家を敵にまわすことは、武田家にとってではなく、晴信にとって都合が良い、と述べたのである。
 最良なるは、両国が晴信の思惑を知った上で、偽兵を出してくれることに決まっていた。それを北条に説いてはじめて、晴信にとって俺がここに来た意味が出来るのである。





 俺がそう自分の考えを述べると、晴信は小さく笑った。
 嘲笑ではない。含む物のない、綺麗な笑みだった。
 その表情のまま、晴信は幸村に命じる。
「幸村、刀を引きなさい」
「で、ですが……は、はい、かしこまりました」
 晴信の顔を見て、幸村は戸惑いながらも刀をしまう。
 憮然とした表情を俺に向けているのは、今の話がよくわからなかったからだろうか。


 俺がそんなことを考えていると、晴信の声が耳にすべりこんできた。
「――惜しい。そなた、なぜ長尾などに仕えたのですか。甲斐に来ていれば、その才、より大きく揮うことが出来たでしょうに」
「お言葉、大変ありがたく、また嬉しく存じます。あるいは、選ぶ道が一つ違えば、晴信様にお仕えしていた未来もあったのかもしれません」
 それはそれで面白そうではあるが――正直、その未来に現実感はまるでない。
「しかしながら、私自身、越後に行ったことにいささかも悔いはなく、輝虎様にお仕えしていることに誇りを持っております。国境一つを隔てて、晴信様と陣営を分かつことになったことは残念ではありますが、私は上杉家の下で歩んでいくつもりでございます」


 俺の言葉に、晴信は目を瞬かせてから、やや頬を赤くして口調に険を滲ませた。
「まるで、私があなたを上杉家から引き抜こうとしているかのような物言いですね。いささか無礼であり、自惚れているように聞こえますよ?」
「あ、あの、御館様、今のは私もそう聞こえ……」
「幸村は黙っていなさいッ」
「は、ははッ、申し訳ありません!」
 主君の叱咤に平伏する幸村。なんと言うか、もう少しまわりが見えるようになれば、こんなに晴信に怒られることはないだろうに。同輩であれば忠告したいところだが、上杉の家臣に言われても反発するだけだろう。気になるが、他家のことに無闇に口を挟むことは避けねばなるまい。
 


「ま、まあそれはともかく」
 俺がそんなことを考えていると、晴信はこほんと小さく咳払いしてから、俺に向き直った。
 すると、その表情はたちまちのうちに武田家当主の威厳を帯びる。
 自然、俺は頭を垂れていた。
「上杉が臣、天城颯馬殿」
「はッ」
「我が家臣、春日虎綱と共に北条家へ赴き、かの国の君臣を説伏してもらいたい。そなたのもうした通り、交渉が決裂してもかまわぬが、国と民のことを考えれば協力してもらうが良いのは当然のこと。虎綱とよくはかり、吉報をもたらしてくれることを期待しています」
「承知いたしました。主輝虎になりかわり、必ずやご期待に沿う働きをご覧にいれましょう」
 晴信はやや語調を緩め、言葉を続ける。
「すべてがそなたの双肩にかかっているとは言いません。ですが、そなたに委ねられているものは決して小さくない。ゆめゆめ、それを忘れぬように――頼みましたよ、天城」
「ははッ」
 晴信の言葉に、俺は改めて深々と頭を下げたのであった。 




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:21

 乱世にあって、血の繋がった親子兄弟が争い合うのは、さしてめずらしいことではない。否、むしろ血の繋がりこそが争いの火種となってしまうことの方が多いくらいであったろう。
 今川義元しかり、織田信長しかり、そして輝虎様もまた、内実はどうあれ、姉である晴景様との骨肉の争いに勝利して、越後の実権を握ったことにかわりはないのである。


 そして、そんな骨肉の争いが、かつて甲斐の国でも起こっていた。
 いわゆる、躑躅ヶ崎の乱である。


 それは甲斐武田家がどれだけ長く続いていこうとも、決して忘れられることのない激しい内紛であったとされている。
 巷間で語られるこの乱の概要は、時の当主であった信虎の暴悪な振る舞いに耐えかねた重臣たちが、信虎の娘である晴信を擁して決起し、死闘の末に信虎を駿河へと追放することで決着がついたとされる。
「……それは、決して間違いではないのですが」
 しかし、まったくの事実というわけではない。
 相模への道中、武田家の誇る静林の将たる春日虎綱は、目を伏せつつ、俺にそう言ったのである。





 現在、多くの国がそうであるように、この時代の大名とは国人衆の旗頭的存在であって、後世における主君と臣下のように、主従関係が厳格に分けられているわけではない。それは言い換えれば、家臣が主君に逆らう力を有していたということでもある。
 これは信虎が当主になった甲斐の国も例外ではなく、そして武田家当主となった信虎は、その状況をよしとせず、これを革めるために行動を開始した。


 強硬に権力の集中を押し進める信虎の行動は、必然的に国人衆たちとの溝を深くしていく。中央に権力を集中させるということは、地方の国人衆の既得権を収奪するということなのだから、それは当然といえば当然の流れであったろう。
 国人衆の不満は一日毎に高まっていき、反信虎勢力とでも呼ぶべき陣営が出来上がるまで、さして時間はかからなかった。
 ただ、信虎はそれを見越しており、むしろそれが出来上がるのを待っていた節さえあった。すべての反対勢力を一つにまとめあげてしまえば、後はそれを叩き潰すだけで、一気に甲斐の主権を手にすることが出来る。それが信虎の思惑だったのだろう。


 乱の後、この時期の信虎はすでにして暴君としての姿を露にしていたとの評がたてられるのだが、実際のところ、国を揺るがすほどの悪政を布いていたわけではない。色を漁る傾向こそあったが、英雄、色を好むという言葉もある。信虎の女好きはむしろ英邁な君主としての勲章の一つと考えられ、信虎に期待する者たちは、家臣と領民とを問わず、決して少なくなかったのである。


 躑躅ヶ崎の乱が勃発した当初、有力な重臣たちのほとんどすべてが信虎の敵にまわり、甲斐の半分が信虎の敵になった状態であった。
 だが、一方で信虎の革新性に期待する者たちや、あるいは累代の家同士の勢力争いで没落していた者たちにとっては、信虎の台頭は巻き返しの絶好の機会に映ったのである。信虎はたくみに彼らの勢力を取り込み、たちまちのうちに巨大な勢力を形成することに成功する。
 甲斐の半分が敵にまわったのは事実であった。
 だが、残る半分は信虎のものとなったのである。


 ――そして、甲斐の国における争乱は、激化の一途を辿る。

 

◆◆

 


 板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰、原虎胤、真田幸隆ら、それまでの武田家を支えていた名臣たちの多くが鬼籍に入った躑躅ヶ崎の乱当時、虎綱は晴信の傍仕えとして、まだ幼い主君を守るために懸命に戦っていた。
 信虎の戦いぶりは、そのあまりの猛々しさから勇猛というより狂猛とでも例えるべきもので、その武威に裏打ちされた信虎軍との戦いは苦戦の連続であったらしい。
 この時、晴信軍の事実上の指揮官は板垣信方であり、晴信はあくまで旗頭として担がれている立場であった。 これは当時の晴信の年齢を考えれば当然と言えるだろう。晴信の英明さはすでに家臣たちも承知していたが、まだ十を幾つも出ていないような少女に、父親相手の戦の総指揮が取れるとは誰も思わなかったのだ。
 また、晴信自身の兵も虎綱ら傍仕えの者たちだけと言ってよく、その力は微々たるものであり、たとえ晴信が望んだとしても、重臣たちが年若い主君の号令に従うことはなかったであろう。


 乱が深まるにつれ、状況は晴信方の不利に傾く一方であった。
 先に挙げた重臣は、そのすべてが乱の最中に命を失うに到っている。それは言い換えれば、信虎がほとんど独力で彼らを撃破し、首級を取り、晴信側に大損害を与えていたということ。戦の勢いは圧倒的に信虎側が優勢だったのである。



 そういったことを、虎綱はぽつりぽつりと語ってくれた。
 流暢とは到底いえない語り口であったが、それゆえにその一語一語が重く、しっかりと俺の胸に届いてくる。
「躑躅ヶ崎の乱という名称は……」
 虎綱は地面に眼差しを向けながら、言葉を続ける。
「乱における最後の戦が、躑躅ヶ崎舘で行われたことから付けられています。板垣様はそれに先立つ戦で敵に討ち取られていました。この時、健在であったのは真田幸隆様ただお一人で、その幸隆様も重傷を負われていました。それゆえ、あの戦は晴信様が総指揮をとられた初めての戦だったんです」
 彼我の兵力、勢い、すべてにおいて敵が優る。躑躅ヶ崎舘はその名のごとく、城壁も櫓もないただの舘に過ぎず、防戦の拠点にすることは出来ない。
 この時期、虎綱は別としても、晴信に付従う将兵の多くが、胸に諦観を抱いていたであろうことは容易に想像することが出来た。




 しかし、と虎綱は言う。
 ただ一人、泰然と勝利だけを見据えていた者がいた、と。
「――御館様は、私たちには何も仰りませんでした。けれど、すぐにわかりました。御館様の中に、敗北などないのだということは。御館様には勝算があったのだと思います。けれど……」
 その勝算を口にすることも、晴信はなかったのである。
 晴信は自軍を躑躅ヶ崎館の後背にある要害山城に集結させた。ここは晴信が生まれた城でもあり、躑躅ヶ崎館が敵に攻め込まれた際、抵抗の拠点として機能するようになっているのである。
 晴信はこの城に立て篭もり、押し寄せる信虎軍に対抗しようとするかに見えた。


 実際、信虎軍の猛攻に対し、晴信軍は数日、要害山城に立て篭もって防戦する。
 信虎の陣頭指揮による攻勢が苛烈を極めたとすれば、晴信の直接指揮による防戦は巧妙を窮めた。共に武田の名を冠する二つの軍の激突は要害山の城壁を揺らし、城門を撓ませ、ついには両軍の将兵が疲れ果てて立つことさえ出来なくなるまで続けられたのである。


 結果として、晴信軍は要害山城を守り通したが、城内の死傷者はかなりの数にのぼった。無論、敵にはそれに数倍する被害を与えてはいたが、当の信虎は、要害山の攻囲を解いた後、占領した躑躅ヶ崎館に入って将兵に休養を与えており、再度の攻勢を考えていることは明らかであった。
 対する晴信軍はといえば、頼みの要害山の城壁や城門の損傷はひどく、次の攻撃には到底たえられないであろうと思われた。
 だが、座して滅亡を受け入れるわけにはいかぬ。
 晴信は防戦で消耗の極みに達した心身に喝をいれ、陣頭に立って修復作業にとりかかる。幼いながらに、敵の猛攻を凌ぎきった晴信の将略は、実際にその下で戦った者たちにとっては疑う余地のないところとなっていた。
 晴信軍の将兵は、健気で小柄な、かつ偉大な将帥の下で戦えることに誇りを抱き、疲労に限界を訴える四肢を叱りとばして立ち働く。
 晴信麾下の将兵の多くは、晴信直属ではなく、戦死した板垣や甘利、原などの重臣たちの兵であった。主をなくした彼らは、降伏もならず、逃亡もできずで、いわば選択の余地なく晴信に付き従っていたのであるが、晴信の将器に触れた彼らは、この御館様のためならば、と改めて晴信の麾下で戦うことを誓った。
 それはすなわち、幼き晴信が、全軍の士心を得るに至った、ということを意味する。


 ここに、反撃へ移る準備は整ったのである。


 一日、麾下の主だった武将を集めた晴信は、躑躅ヶ崎館にある信虎への攻勢を指示する。
 しかし、家臣たちにとって、それは無謀を通り越して自殺行為であると映った。たしかに要害山城の内部で晴信の権威は確立されたが、それでも信虎軍と晴信軍の差は二倍や三倍ではない。城壁に拠ってこそ互角に戦うことが出来るのであり、城を出てまともに戦えるとは到底思われなかったのである。
 今は信虎の猛攻を凌ぎ、国内の同志や、あるいは今川、北条らと結んで信虎と対抗するべき。そう訴える家臣に対し、晴信は昂然と眼差しをあげながら口を開いた。


「劣勢の我が軍の前に、敵将がわざわざその身を晒してくれているのです。これを討たずして、どうして勝利が掴めるというのですか。古来より、城に頼って大を為した者などいはしません。頼るのならば、城ではなく『人』をこそ頼るべきなのです。そして、私は、私の麾下にいる『人』は、その数も、その質も、敵に優ることはあっても劣ることはないと考えています」


 あなた方の考えは違うのですか、と軍配で口元を隠して笑う主の姿を前に、居並ぶ家臣たちは声も出ぬ。
 それも道理。彼らは年端もいかぬ幼き主君から問われたのだ――お前たちの力を信じる私は、間違っているのか、と。


 ああ、どうしてその信を裏切れようか。


 わずかな間を置いて、要害山城に湧き上がった喊声は、天に沖する焔となり、その声は躑躅ヶ崎館の信虎の耳にまで届くかと思われた。




◆◆




 かくて、躑躅ヶ崎の乱は、その最終幕へと雪崩れ込み――結果として、晴信軍は勝利した。突入部隊を指揮し、躑躅ヶ崎舘に踏み込んだ晴信軍の勇壮さを、虎綱は今なお昨日のことのように思い出せる。晴信軍の士気は沸点に達しており、その勢いは怒涛の如く――しかし、それでもなお紙一重の勝利であったと、当時のことを思い出し、薄寒そうな顔をしながら、虎綱はそう言った。


 そしてもう一つ、虎綱が今日なお忘れられぬ情景。
 躑躅ヶ崎館を陥とし、信虎軍を討ち破った後、家臣たちの前に現れた晴信の顔。
 冷たく凍り付いて、けれど激しく燃え盛る。氷と炎、そんな矛盾を内包する、あの峻烈な眼差しが、父との争闘によってもたらされたのか、それともそれ以外の何かがあったのか。
 それは虎綱にもわからなかった。晴信が黙して語らぬ以上、問い詰めるようなことも出来なかった。何かよほどのことが起きたのだと、虎綱にわかったのはその程度のことだったのである……




「……そして、今回の晴信様の様子は、あの時と酷似しているのです」
 虎綱の顔にこびりつく不安の陰は、遠く躑躅ヶ崎の乱から続くものであるらしい。
 であれば、俺の言葉など気休めにもなるまいが、それでも口を開いてしまったのは、虎綱の危惧と重なるものが、俺の中にもあったからなのだろう。
「敵は父であり、元守護職。甲斐国内で叛乱を起こさせたということは、その影響力はまだまだ武田家に根を張っているということなんでしょう」
 生易しい敵ではない。そう思う。無論、そんなことは俺以上に虎綱は承知していることだろう。
 そして、それゆえに、今回の晴信の作戦に、虎綱は不安を禁じ得ないのかもしれない。


 今回の武田家の作戦の肝は、敵の戦略を逆手にとって、あえて躑躅ヶ崎館の防備を薄くすることで信虎を誘い出し、四方より包囲殲滅することである。
 春日虎綱は北条家へ赴き、内藤昌秀は信濃の叛乱鎮圧へ。山本勘助は黒川金山の防衛に向かい、山県、馬場の両将は北上する今川軍を迎え撃つために南へ向かう。当初、山県は北の上杉家への押さえとなる予定であったのだが、これは上杉の行動によって無用の配慮となった為、南への軍に加わることになったのである。
 躑躅ヶ崎館に残るのは、晴信の他には真田幸村ただ一人。
 晴信と幸村が信虎の攻勢を食い止め、その間に四方に散った諸将が反転、信虎を包囲した後、殲滅する。
 

 この作戦で虎綱が危惧するのは、一時的とはいえ、敵の最精鋭の攻撃を、晴信と幸村が寡兵で凌ぐ状況が現出することである。晴信と幸村であれば、問題はないだろうと考えつつも、信虎の猛威を知る虎綱は、せめて躑躅ヶ崎館ではなく、要害山城へ立て篭もるように晴信に進言した。
 だが、晴信はこの進言を採り上げず、躑躅ヶ崎館から動かなかった。要害山城に篭れば、こちらの意図を察した信虎はあらわれないだろうという晴信の言葉に理を認めつつも、その透徹した眼差しに、虎綱は不安を隠せなかった。
 虎綱の目には、晴信がなぜか進んで信虎の前に肢体をさらけ出しているように見えて仕方なかったのである。それは多分、晴信が口にするように作戦を成功に導くためだけのものではない。


 虎綱がそう考えるに至った理由は一つ。今の晴信は、かつての晴信ではないということである。
 信虎が駿河に追放されてより数年、すでに晴信が築いた勢力は信虎時代とは比較にならぬ広がりを見せており、晴信自身も、その家臣団も、かつて信虎と対峙していた時とは比べるべくもない実力を有している。いかに信虎を討つのが難しいとはいえ、晴信を囮とする必要はない筈なのだ。まして、越後の上杉家が援助を申し出てきた今、最大の懸案であった塩の問題も解決したのだから。


 それでも作戦を変更しない晴信を見て、虎綱は推測を確信にかえた。
 晴信自身が、今回の戦いにおいて、心に何事かを期しているのだと。そして、それはとても危険なことで、だからこそ晴信はその真意を口にしないのではないか。虎綱にはそう思えてならなかったのである。



 
 だが、晴信が実際に何を考えているのかという肝心な点がさっぱり虎綱には見えてこなかったらしい。
 それゆえに、俺に問いを向けたのだろうが、しかし、すまぬ。虎綱がわからんものが、俺にわかる筈もないではないか。
 俺がそう言うと、虎綱はほろ苦い笑みを浮かべ「そうですよね」と頷いた。無茶なことを聞いているという自覚はあったらしい。だからこそ――



「――まあ、推測なら出来ますが」
 そう言う俺の言葉を聞き、虎綱はぽかんと口を開ける。
「え、え?」
「元康様から、信虎のことを聞いて以来、武田家の動きが妙に鈍いというのは、私も考えていました。信虎の危険性を最もわかっているのは武田家の筈。今川の変事の陰に、その存在を疑いもせずにのうのうとしているというのは考えにくい」
 もしや信虎と晴信が通じているのではないかと考えもした。もっとも、それはありえないとすぐに自分で否定したが。
 その理由を問われると、少し困るのだが、なんというか、あの晴信が伝え聞く信虎のような人物と、たとえ一時的なものであれ、手を組むとは思えなかったのである。あるいは、思いたくなかった、と言いかえるべきかもしれない。輝虎様と並び立つほどの敵手が、そんな小物であってほしくはなかったからだ。
 もちろん認めたくないからといって、見ないわけにはいかない。元康に言ったとおり、見たくない現実を見据えることこそ、俺がもっとも注意していることであるのだから。
 それゆえ、俺は晴信と信虎が通じ合っている――それもここ最近のものではなく、ずっと昔……それこそ駿河へ追放されていた時にまで遡る昔から、という選択肢も考慮にいれていた。
 まあ、晴信とじかに会ったことで、この選択肢が霧消したのは幸いであったといえるだろう。


 ともあれ、俺は言葉を続ける。
「様変わりした今川家の背後に、信虎がいる。それに気付きながら、動かないのだとすれば、考えられる可能性は二つだけです」
「二つ、ですか?」
 首を傾げる虎綱に、俺は頷いてみせる。
 それはすなわち――
「一つは、動けないという場合。信虎を恐れ、警戒しているからこそ、迂闊に動くことが出来ないのだとすれば、武田家の動きの鈍さにも一応の説明がつけられます」
 もっともその可能性は極小である。
 あの武田晴信が、敵を恐れ、縮こまっているかもしれないと危惧するのは、輝虎様が信虎の凶行に乗じて領土を拡大しようとするかもしれないと危惧するくらい、説得力に欠ける。


 ゆえに。
「もう一つは、動く必要がない場合です」
 本命はこちらである。
 晴信にとって、信虎の侵攻が必要なことであるとしたら。
 討つために、ではない。それだけなら、虎綱の言うとおり、何も我が身を危険に晒す必要はないのだ。
 それ以外に、信虎を躑躅ヶ崎館へ誘き寄せる目的があるのだとすれば、晴信の動きにも得心が行く。
 問題は、その目的がなんであるか、という点である。


 俺がそれを口にすると、虎綱は固唾をのんで俺の言葉の続きを待った。
「晴信様の目的は――」
「――御館様の目的は?」
 ぐっと身を乗り出す虎綱に、俺は腕組みして、首を傾げてみせた。
「何なのでしょうね?」


 ――おお、真面目な虎綱がこけている。めずらしい光景だ。
「な、何なのでしょうねって、あの、天城殿?」
「いや、実はそれがさっぱりわからないんですよ。春日殿の仰るとおり、ただ勝つだけなら、ここまで危ない橋を渡る必要もなし。石橋を叩いて渡る晴信様が、あえて敵の誘いに乗るだけの価値が、今回の作戦にはあるのでしょうが……」
 むむっと考え込む俺を前に、虎綱は困ったように頬に手をあてる。
「そこが一番肝心なところなのですけれど……」
「面目ない。ただ……晴信殿の傍に残ったのは、真田幸村殿でしたね」
「はい、そうですが。あの、それが何か?」
 虎綱の不思議そうな眼差しに、俺は小さくかぶりを振った。
「いえ、どうして幸村殿が残ったのかな、と思っただけです」
 守勢に徹するというのなら、幸村以外に適任の将がいる筈なのに。
 虎綱によれば、かつて幸村の祖父の幸隆は、重傷の身をかえりみずに晴信と共に信虎を打ち破り、戦の半ばで果てたという。晴信は今回、その因縁に決着をつけようとしているのだろうか。



 そう口にしながらも、俺は前方に視点を据えなおす。
 彼方に見える甲相国境を越えれば、そこはつい先ごろ、矛を交えた北条家の領内である。
 北条の動向次第では、今回の戦、長引くことになるかもしれない。今回の使いをしくじれば、それだけ甲斐の国と晴信にかかる負担が大きくなり、結果として今川家に――そして信虎に利することになるであろう。
 後方の甲斐への憂いはもちろん消せないが、それでも今は前方の相模に集中するべき時。俺はそう考え、そして俺の視線を追った虎綱もまた、それに思い至ったのであろう。不安げな表情を押し隠し、その視線を正面へと向けるのであった。
 
 
  


◆◆







相模小田原城。
 城のみならず、城下町までもすべて城壁で囲んだ、いわゆる総構えの構造を持つ天下屈指の堅城である。
 その城を拠点とし、関東制覇を目論む北条家は、初代北条早雲以来、数十年、伊豆、相模の地を掌握し、今や武蔵の国の大半を領するに至っており、関東管領が越後に逃亡した今、その威権は関東随一といってもよい。
 北条家は初代より主君の英邁さと家臣の智勇によって勢力を伸張させてきたのだが、ことに今代の氏康のそれは瞠目に値した。


 初代早雲の創業、二代目氏綱の蓄積を経た北条家の勢力を、関東全域に及ぶまで雄飛させた現当主氏康の名は、今や関東のみならず東国全土に鳴り響いている。
 正しく旭日昇天と呼ぶに相応しい快進撃を、北条家が成し遂げることが出来た理由の第一は、やはり当主である北条氏康の器局才幹に求められよう。
 戦場にあって退くことを知らぬ勇猛さで『相模の獅子』と畏れられる氏康。しかし、氏康が武勇将略に優れるだけであれば、北条家が関東に覇を唱えるまでには至らなかったかもしれない。
 北条氏康の本領は、外征よりも内治にあった。自身、領内を飛び回るほどに民政を好む氏康によって、北条家の国力は、今代になってこちら、増加というよりも飛躍と称しえる伸びを見せており、周辺の諸勢力を慄然とさせていたのである。



 北条家の特色といってもよい年貢率『四公六民』は他国に比して著しく軽く、それだけで隣国には脅威となる。『五公五民』でさえ名君と呼べる時代である。北条家と境を接する国の民は、伝え聞く氏康の善政を羨み、その民となることを望んでやまなかった。
 民とは、すなわち兵である。北条の施政を羨む兵を率いて北条軍と戦えば、勝敗はおのずから明らかであろう。北条家の破竹の進撃の一つの要因に、敵方の将兵の戦意の低さを挙げることが出来る。
 また、北条家は単純な年貢率以外でも、臨時の労役を撤廃するなど、極力、税の不安定さをなくし、徴収の時期を明確にした。これにより、領民は不安定な税に怯えることがなくなり、結果として安定した税収を確保できるようになったのである。


 それ以外にも、北条家が打ち出した政策は学ぶべきところが多い。
 定期的に検地を実施し、正確な石高を把握することで、民と北条家との中間に位置する国人衆らが年貢のごまかしをすることが出来ないようにしたりもしている。
 当然、国人衆の抵抗は強いが、北条家は敢然とそれを実行し、その支配をいささかも揺るがせていない。
 ただこの一事をもって、北条家が大となりえた理由と言い切ることも出来るであろう。
 それ以外にも、飢饉の際には大幅な減税を行ったり、時に徳政令を出すために家督交代を行うなど(氏綱が氏康に家督を譲った際がこれに当たる)、北条家の内治に傾ける労力は、はっきりと武田、上杉両家を上回る。というより、日ノ本すべてを見渡しても、北条家に伍す国を見出すことは困難であった。


 さらにその家臣団の統制も北条家らしく独創的かつ効果的なものだった。
 いわゆる小田原評定である。
 北条家の鉄の団結を支える制度の一つであり、月に二度開かれる重臣会議のことで、これによって北条家の諸事が決せられるため、武力によらずして国政に携わることができるのである。
 北条家は、初代以来、まったくといってよいほどに直臣や国人衆の叛乱が起きていない。その理由の一つが、この時代にあっては特異ともいえる小田原評定の制度にあることは疑いなかった。
 後年――というか、別の時代では芳しくない意味を付与されてしまう『小田原評定』であるが、この時代にあっては北条家を関東の覇者たらしめる有意な制度の一つであるようだった。





「――これは手ごわい」
 小田原城への道中、北条家の内政の充実ぶりを自分の目で見聞しながら、おれはしみじみと呟いた。
 北条氏康が戦国期随一の民政家と呼ばれていることは知っていたが、その政策の詳しいことまで承知していたわけではない。
 そして今回、実際にそれを目の当たりにした俺は感嘆を禁じ得なかった。俺自身はもちろん、多少の危険をおしても、虚無僧様をここまで同道してきて正解だったようだ。
 年貢の軽減にはじまり、税制の安定と公平を積極的にすすめ、検地によって国人衆の勢力を削ぎ落とし、それらによって生じる家臣団の不満を吸い上げる制度を確立する――まさに上杉家がこれから押し進めていかなければならないことばかりであるからだ。実際にそれが運用されている国を、自分の目で見ることは決して無駄にはならないだろう。



 もちろん、北条家のやり方を、そのまま上杉家にあてはめることは出来ない。地理も、気候も、人の気質も違う国同士なのだからそれは当然である。
 また当てはめようとしたところで、出来るものでもない。北条家が三代に渡って根付かせてきた内政の制度を、輝虎様が国力の蓄積も、政策の継続性もなしに実行したところでうまく機能する筈がないからである。
 年貢の軽減一つとったところで、越後では四公六民では国が成り立たない。佐渡の金山や、青苧の取引などで府庫にそれなりの余裕はあるが、それだけですべてがまかなえるわけではなかった。


 また、そういった収入源を持たない越後の国人衆が年貢の軽減に同意する筈もなく、上杉の直轄領だけでそれを行えば、領民の間で騒ぎが起こるだろう。誰であっても税は安い方が良いに決まっているからだ。
 無論、この時代、土地を移ることは容易ではなく、他領への羨望は、転じて自領主への不満となり、それは瞬く間に越後全土に拡大していくだろう。北条家は三代かけて、それらを解決し、根付かせていったのである。まだ始めてすらいない上杉家との差異は誰の目にも明らかであった。


 ただ、内政、軍事の改革に関しては、あくまで俺が考えているだけであって、輝虎様はもちろん、政景様や兼続、定満らにも話していない。
 まあ、えらそうに改革がどうこう言ったところで、具体的な骨子さえ決まっておらず、四文字熟語を書き散らした程度だったので、使者として北条家に赴くにあたり、そちらの方面の情報も得られれば、というのは、今回の戦略の絵図面を引いたあたりから考えていたことであった。
 もちろん、武田家と北条家との交渉の経過次第では、そんな悠長なことを言ってられないので、あくまで可能であれば、という程度のものだったが。


 なぜこんなことをくだくだしく述べているかというと――虚無僧様の参加は、あくまで俺にとって突発事であった、という一事を銘記しておかねばならないからである。主に越後に残った守護代様への釈明のために。
 決して俺が虚無僧様を外に連れ出すよう企てたわけではないのである。





 
「あの、顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
 俺が越後に置いてきぼりにした人のことを考え、額に冷や汗を滲ませていると、隣にいた女性が心配そうに話しかけてきた。
「あ、はい、大丈夫です」
「本当ですか? なにやら深刻な怯えが見て取れるのですが……」
 はい、とも、いいえ、とも言えない俺であった。


 俺の心配をしてくれているこの女性、北条家から出迎えのために派遣されてきた人物で、北条千代(ちよ)というらしい。名前のとおり北条の一門に連なる身とのことで、北条家の制度を詳しく教えてくれたのは、この千代さんだった。
 ぬばたまの、と形容したくなる綺麗な髪を無造作に頭の後ろで束ね、慎ましやかに、しかしその実、頬がうっすらと赤くなるほどに熱を込めて語る姿が印象的である。なんというか、北条家の国づくりに関して話すだけで幸せです、という感じだった。
 主家への忠誠もあるのだろうが、千代さん本人が民政を好んでいるのだと思われた。どれくらい好んでいるかというと、使者の出迎えという役目に従事していながら、先刻の休憩時「すみません、少し失礼します」と言い置き、収穫で忙しい領民に混じって農作業をしていたくらいに、である。
 案内役たる身が、着物の裾を泥で派手に汚しているのはいかがなものか、と思わないでもないのだが、こちらからすれば、今回の任では最悪の場合、国境で足止めされる可能性もあったので、小田原城まで案内してくれるというのであれば、多少の服の汚れなど無視すべきであろう。
 もっとも、声には出さねど、視線は裾に向いてしまっていたらしく、それに気付いた千代さんは、少し照れたように笑って裾の泥を払っていた。



 そうして、小田原城に向かう途上、千代さんから北条家の制度について詳しく聞いていたわけである。
 そして、聞けば聞くほどに北条家の巨大さがわかってしまい、ため息を吐きたくなる。これほどまでに国内が安定している国と戦うのは遠慮したいのだが、上杉家が関東管領を保護している限り、北条家とは敵対せざるをえない。
 上野でぶつかった時から北条家の強大さはわかっているつもりであったが、こうして相模の国を見ていると、それがいかに底の浅いものであったかがはっきりと理解できてしまうのだ。
 街道は整備され、道端で争う者はなく、相模の田野を彩る黄金色の稲穂は北条家の繁栄を具現化したものであるように、俺の目には映った。


「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る、か。なるほど、あの関東管領では相手にもならないわけだ」
 収穫に従事する領民の誇らしげな笑みを見るともなく見ながら、俺はこらえきれずに再度ため息を吐いた。なんであんな輩のために、こんな強国を敵にしなければならんのか。輝虎様の性格からして仕方ないことではあるのだが、やはり再考してもらいたいものである。



 かなり不穏な呟きだったので、聞かれないように気をつけたつもりだったが、千代さんの耳には届いてしまったらしい。
 その目に驚きとも納得ともとれない、不可思議な表情が浮かんだ。
「この光景を見て、管子の教えが出るのですね。幻庵刀自の仰ったことは、やはり真であったようです」
「幻庵刀自、と仰ると、北条一門の長老と聞き及んでいますが……その方が何か?」
「はい、あなた方の先触れの使者が城に来たおりに。北よりの使いを侮るなかれ、と」


 そういうと、千代は持っていた握り飯をほお張り「美味しいですね、これ」とにこにこと笑った。
 どちらかといえば、上杉の使者はおまけなのだが、と思いつつも俺も持っていた握り飯をほお張る。今さらながらだが、ササニシキもコシヒカリもないこの時代、同じ米とはいえ、俺が食していた米よりも随分と味は劣る。
 だが、塩のみの、この握り飯はやたらと美味い。さすがは冨樫晴貞謹製握り飯である。
 慌しく甲斐を出立する際、虎綱に連れられた晴貞からもらったものである。


 塩が効き過ぎで、形はでこぼこなやつを期待していた(?)のだが、あにはからんや、渡された包みから出てきたのは見事な三角形、塩の効き具合もばっちりだった。後で晴貞に謝らねばならん。
 虎綱に聞いたところ、春日家に身を寄せている晴貞は、自分から望んで家の中の仕事を頑張っているのだそうだ。その成果であるらしい。
 出立時の一時しか、晴貞の顔は見ることが出来なかったのだが、虎綱と同様に、晴貞も加賀ではじめて会った頃より、ずっと明るくなっており、甲斐の国の生活にも溶け込めていることは、その笑みからも明らかだった。再会を喜びつつ、俺はそのことにほっと安堵の息を吐いたものである。
 ――だが、その後ろで殺気を込めて俺を睨む晴貞親衛隊(命名)、お前らはいらん。俺が握り飯を渡されたからといって泣くな、呪うな、刀を抜くな。
 懐の鉄扇を取り出した俺と、背後の親衛隊の間に生じた張り詰めた緊迫感の理由がわからず、晴貞はとまどったようにきょろきょろとあたりを見回すばかりであった。





 ……親衛隊の血の涙を思い出しつつ、俺が握り飯を食べ終え、そろそろ出発しようと考えた時。
 なにやら彼方から物々しい馬蹄の響きが響いてきた。
 見れば、完全武装の騎馬武者がおおよそ十騎、一目散にこちらに向かって来るではないか。
 それを見た弥太郎や段蔵が俺と千代を守るために、前に出る。秀綱と虚無僧様も同様だ。
 ……あれ?
「い、いや、虚無僧様は出たら駄目でしょうが!」
「――護衛の身であれば、当然のこと。くわえていえば、それがしに様など不要でござる」
 奇妙にこもった声で答えが返ってくるのだが、そういうわけにはいかないのである。




 俺たちや虎綱らが慌しく迎撃の準備を整えている間、俺の近くにいた千代は、じっと近づいてくる武者たちを注視しつづけているようだった。間もなく先頭の武者の顔が見えてきたのだが、それを見た千代は慌てたように左右を見回し、こそこそと俺の背の後ろに隠れてしまう。
 どうしたのか、と俺たちが首を傾げている間に、件の騎兵は俺たちの元までやってきていた。
 その人物の顔を見た弥太郎が、驚きの声をあげる。


 黄色の鉢巻を凛々しく締めたその顔は、弥太郎だけではなく、俺の記憶にも新しいものだった。
 その人物が口を開く。
「上野以来、ですね。久方ぶりと申すべきでしょうか、天城殿」
「お久しぶりです、北条綱成殿」
 俺の言葉に、幾人かの口から小さく驚きの声が漏れた。 
 北条軍の主力である五色備えの一角、地黄八幡の北条綱成を知らぬ者はいない。上野の戦で、上杉憲政を追撃してきた綱成を、伏兵で迎え撃ったのは他ならぬ俺なのだが、あの凛然とした武者ぶりは数ヶ月で忘れられるようなものではなかった。
 だが、今の綱成はあの時と異なり、どこか慌てた様子で、かすかに息を荒げているようだ。いや、頬を上気させ、まなじりを吊り上げているところを見るに、慌てているというより、怒っているというべきだろうか。
 やはり関東管領を間にはさんで敵対する上杉家からの使者は、歓迎されざるもののようだ、と俺が思った時。
 綱成の視線が、俺から、俺の背後に隠れている人物に向けられ、それを察した千代の身体がかすかに震えた。




「もし、そこの女性よ。一つ訊ねたいことがあるのだが」
 綱成は実に良い感じの笑顔で、俺の背に隠れる千代に向けて口を開く。
「な、なんでございましょうか、お侍様」
「このあたりで、人を見かけなんだか、と思ってな。お家の大事をよそに、単身、ささっと城下に抜け出してしまった我が主なのだが」
「さ、さあ、私にはわかりかねます、はい」
「ふむ、それは残念だ。まあ我が主の抜け出し癖は今に始まったものではないから、素直に名乗り出てくれれば怒りはしないのだが。ふむ、残念だ」
「……は、はい、そうですね、残念です」
 一瞬、なぜか逡巡する千代であった。
 綱成はなおも言葉を続ける。
「まったく、どこに行かれたのやら。まさか、上杉、武田両家からの使者の出迎えにかこつけて、領民の収穫を手伝いに来たわけでもあるまいになあ」


 上杉、武田両家の出迎えにかこつけて、というと……いや、そもそも綱成の主といえば、一人しかいないと思うのだが。
 俺が首を傾げていると、後ろの千代の口から声がもれる。
「はう……」
「それも供一人つれずに。お陰で私どころか、部下たちまで駆り出される始末。良い加減、ご自分のお身体の大切さをわきまえてもらいたいものだ。そうは思わぬか?」
「そ、そうですね、本当にそう思います」
 千代の同意を得て、綱成の口はさらに滑らかになっていく。
「そうであろう。そうであろう。もう伊豆、相模の大名では済まぬ。関東管領を放逐し、北条家は関東すべてを斬り従える覇道を歩み始めたのだ、今までにましてご自重いただかねばならぬというに。それがいまだにこの有様、実に、実に嘆かわしい。これでは先代様に顔向けできぬ。ああ、なんといってお詫びすれば良いものか」
「あうう……」
 綱成の口からあふれる言葉は滝のよう。何故だか千代は、それに打ち据えられて萎れる一方であった。




 ――いや、まあここまでくれば俺にも察しはついている。ついているので、巻き添えを食わぬように二人の間から身体をどかそうとするのだが、千代が俺の服の裾を掴んで離してくれないため、それもままならない。
 なので逃げるに逃げられず、何故だか一緒に綱成の愚痴だか非難だかわからない言葉の雨を浴びる羽目になる俺であった。
 





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/11/30 22:02


 相模小田原城。
 北条家当主とその家臣団を前にして、俺と虎綱は静かに頭を下げた。
 その俺たちに向け、眼前の当主殿が口を開く。
「ようこそ、我が国へ。京までも名声の響く武田、上杉両家の使者を我が城へ迎えることができ、嬉しく思います」
 大広間へ案内された俺たちの前に、正装をして座っている北条家当主氏康。
 あえて言う必要もない気もするが、その顔は千代と名乗って俺たちを小田原城まで案内してくれた、あの女性であった。
 「千代は幼名ですので、偽っていたわけではないのです」とは、綱成に引っ立てられるように城へ向かっていた最中、こそっと俺の耳元で囁いた氏康の台詞である。


 その氏康を筆頭に、向かって右側が北条綱成をはじめとする五色備えの各将、そして左側が大道寺、松田などの有力な家臣たちが居並ぶ。その陣容は上杉や武田に優るとも劣らない重厚さを示しており、北条家が関東の覇権を握るに相応しい強国であることを無言のうちに俺たちに知らしめていた。


 ただ、彼らの視線は非常に厳しい。当然といえば当然で、現状、今川家に与する形の北条家にとって、武田は昨日の友であっても今日の敵であるし、上杉にいたっては国境で追い返したいくらいであったろう。
 ここからいかにして交渉を成立させるのか。北条家が相手では、武田と上杉の武威で強引に、というわけにもいかない。まずは今川の背後に信虎がいるということを、北条家が承知しているのか否か、そのあたりから確認していかねば、と俺は考えていた――越後を出るまでは。
 だが、すでに信虎が動いている現在、北条家との交渉で時間を費やすことは出来ない。出来るかぎり早急に話をまとめねばならず、そのためには手段を選んではいられなかった。



◆◆




「両家の使者に申し上げる。まず言っておかねばならぬことは、我ら北条家は、貴殿らを信じるに足る根拠を持っておらぬということでござる」
 口火を切ったのは、北条家の重臣松田憲秀。年の頃は四十くらいであろうか。脂ぎった顔を皮肉げに歪めながら、まずは虎綱に対して詰問を開始した。
「ゆえに、まず話を聞く前に誠意を示してもらいたい。武田家は、同盟国の不幸につけこみ、領内に謀叛を示唆する文書を多数ばらまいたとか。これに関しては今川家から証拠の書状も届けられておる。これが事実であれば、信義に背くこと甚だしく、そのような背信常なき国と語り合う何事も当家にはござらぬ」


 続いて、憲秀は俺に向かって、今度はさらに露骨に嘲りを込めて要求を突きつけてきた。
「上杉家に対しては、今さら口にする必要もござらぬな。関東管領の引渡し、上野の譲渡、さらには向後、関東へ一切手出しせぬという確約、これくらいしてもらわねば、貴殿らの言葉、一切我らの耳に入らぬと心得られよ」
 厳しいの一語に尽きる要求であった。無論、それは北条側も承知していよう。あるいはこちらの出方を見るための牽制なのかもしれない。俺たちに向けられた北条家の武将たちの視線が、一際強まったように思われた。


 順序から言えば、虎綱が最初に口を開くべきであった。今回の正使は武田家の使者なのだから。
 しかし――虎綱が、俺を見てそっと頷いた。それをうけて、俺も頷きを返す。この広間に来る前、俺は虎綱に対し、今回の交渉に関しては任せてもらいたい旨を伝えておいたのである。
 時がないという危惧は、虎綱も俺と等しく持つところである。快く頷いてくれたのはその為であろうが、それ以外にも上洛行で手を携えたことが良い方向に働いたお陰もあったかもしれない。
 ともあれ、俺は北条家を説くために口を開いた。




「現在、今川家当主氏真は――」
「む?」
 憲秀の顔が訝しげに歪む。正使である虎綱をさしおいて俺が口を開いたことと、その内容と、双方に対する表情であった。しかし、俺は構わず続ける。
「大身の家臣を粛清し、その領地を自家と、さらに直属の臣に分け与え、権勢を肥え太らせております。確たる証拠なき断罪に対し、氏真を諌める家臣もまた同様の憂き目に会い、氏真の周囲には誹謗と讒言が山をなしている由。駿府城は恐怖と猜疑に満ち、城内は密告を恐れ、しわぶきの音一つ聞こえぬ様相であると聞き及びます」
 それだけではない。
 今川家の新たな軍制は、将兵のみならず、その家族さえ縛るものだ。将兵が逃亡したり、あるいは敵の首級をあげられない時は、伍に連なる将兵の家族すべてが連座させられる。
 また、すでに今川家は年貢の引き上げと、諸々の労役の拡大を決定しており、領民たちは急激な変貌を遂げつつある今川家の苛政に悲鳴をあげている状況であった。


 俺の言葉に、憲秀は小さく鼻を鳴らす。
「ことごとしく何を言うかと思えば――今川家が苛政を行っているから、我らに協力してそれを糾せとでも申すつもりか。今川家の政が様変わりしたことは確かだが、当主が代われば統治の方法も変わる。家臣の粛清も、法制の強化もめずらしいことではあるまい。貴殿らがそれを悪しと断じるのは勝手だが、それを我らに押し付けるのはやめていただこう。ましてや、そんな理由をもって、当家に今川家との盟約の破棄を強いるつもりであるのなら、それは見当違いも甚だしいぞ」
 憲秀の声に、居並ぶ群臣からも賛同の声が沸きあがる。
 だが、当主の席に座る氏康は、俺の言葉に対し、肯定も否定も示さなかった。それは隣に座る綱成も同様である。
 そしてもう一人――氏康らの陰に隠れるように座っている一人の女性もまた、茫洋としてつかみ所のない眼差しをこちらに向けたまま、いかなる感情もあらわにしていなかった。
 外見だけ見れば、氏康や綱成と大差ないように思えるが、こちらの洞察を微塵も許さぬ底深き視線は、むしろ歳月の荒波を越えて来た年配者のそれである。
 もしかすると、この女性が噂に聞く北条一門の長老、北条幻庵であろうか。


 俺はそんなことを考えつつ、さらに口を開く。憲秀に答えるためではない。重臣とはいえ、一家臣を説伏するために言葉を連ねているわけではないのである。
「苛政は虎よりも猛しとか。先代義元殿の統治を知る駿河の民にとって、今の氏真殿の政治は耐えられるものではないでしょう。遠からず、今川領内では叛乱の火の手があがる。私はそう考えます」
 一つ、呼吸を挟み、俺は氏康の顔に視点を据え、はっきりとその名前を口にした。




「――武田信虎の、考えどおりに」


 

 虚を衝かれたのか、あるいは俺が話している相手が自分ではないと気がついたのか、松田憲秀は口を引き結んで無言であった。
 それは他の家臣たちも同様である。
 そんな彼らを前にしながら、俺はなおも淡々と言葉を続けた。
「氏真殿を傀儡とした信虎は、氏真殿の影に隠れて駿遠三の三国に対して苛政を強行して国力を吸い上げ、それをもって甲斐守護職に返り咲く。しかる後、悪政の責をすべて氏真殿に押し付け、それを糾すという名目で東海地方の民心を得る心算でありましょう」


 武田信虎が、いまだ表舞台に出ていない理由の一つは、おそらくこれである。虎綱から、躑躅ヶ崎の乱の詳細を聞いた今、それは俺の中でほぼ確信となっている。
 信虎が、ただ力を信奉するだけではなく、民意と士気にまで考えを至らせることが出来る将器を持っているのであれば、あえて今川家に暴政を行わせ、それを利して甲斐のみならず東海地方までも手中に収めんと画策しているという予測は、さして突飛なものではあるまい。
 すなわち、信虎の行動は、狂気と等量の冷徹な計算に裏打ちされたもの。それがどれだけ厄介なものであるかは言うまでもあるまい。


 そして、俺は思うのだ。
 おそらく北条家はすでにその情報を掴んでいる筈だ、と。

 
 その推測を肯定するように、氏康の口がゆっくりと開かれた。
「武田信虎の名は、風評のいずこにもあらわれてはおりません。仮に氏真殿の背後にその者がいるとして、貴殿は我ら北条がその事実を知っていると断じて話しているように見受けます――腹の探り合いは不要、とそう仰っていると考えてよろしいですか?」
「御意。時があれば、いま少し言葉を連ねるべきなのでしょうが、今はその時が何よりも惜しいのです。私がお尋ねしたいことは一つ。北条家は、武田信虎の行動を奇貨とするか否か。その返答を頂きたいのです」
 淡々と、しかし強い意志を込めた俺の視線と、氏康の視線が宙空で衝突する。



 俺が考えていたのは、北条家が信虎のことを気付いている場合と、いない場合。
 気付いているのであれば、信虎に味方する場合と、味方しない場合。
 味方するにしても、積極的にそれに加担する場合と、甲駿の争いを静観して漁夫の利を得ようとする場合。
 考えられる状況は両手の指に余り、それぞれに対応策を用意はしておいた。
 ただ、これまでの状況から推測して、ある程度わかるところもある。


 北条家が未だ甲斐との交易を閉ざしながら、しかし兵は出さないという中途半端な立場をとり、さらには主君直々に武田の使者を迎えたことで(まあ別の理由もあったみたいだが)、甲斐の晴信と断交するつもりはないと判断できる。
 これは、北条家が今川家の主張を鵜呑みにしていれば出来ない判断であろう。
 あるいは北条家は、事のはじめから、今川家の行動に疑問を抱いていたのかもしれない。


 しかし、同盟国からの要請を、確かな証拠なくして拒絶することは難しい。ことに相手は父親であり当主であった人を失ったばかりの知己である。多少の疑念はあったとしても、氏康が甲斐への制裁の片棒を担いだことは無理からぬことであったろう。しかも今回の場合、花押つきの書状という明白な証拠があったのだからなおさらである。
 ただ、もしかすると氏康が氏真の背後にいる信虎の存在を掴んだのは、これが原因なのかもしれないとも思う。
 ――武田家の花押を用いるは晴信のみ。ゆえにその花押が押された書状は晴信のものである。
 この理屈に矛盾はない。だが、一夜にして当主の座を追放された先代が、自身の花押を有したまま駿河に赴いていたのだとしたら……



 いずれにせよ、氏康らが今川家の背後に暗躍する者の情報を握ったのは、事がある程度進捗してからなのだろう。
 そしてその時、氏康は知った筈だ。
 現在の甲駿の対立は、武田晴信と今川氏真の対立ではない。武田晴信と武田信虎の対立である、と。


 では、信虎の存在を掴んだ後も、何故、北条家は今川家に加担する立場を崩さず、実際は両者の争いを静観しているのか。
 これはおそらく、晴信と信虎の繋がりを警戒しているからであろう。
 すなわち、今回の件、これすべて武田家の父娘による東国制覇の謀略の一貫であることを、北条は疑っているのではないか。
 晴信に会うまで、俺が警戒していたのと同じように。
 そうであった場合、うかつに兵を出せば、北条家は甲斐と駿河の二方向から敵を迎え撃つ形となる。さらに武田が関東の里見、佐竹らを抱き込めば、北条家三代の創業が無に帰する可能性さえ出てくる。それゆえ、北条家は動けなかった。否、動かなかったのだ。


 晴信が信虎と結んでいるにせよ、結んでいないにせよ、必ず北条家と接触してくるだろう。隣国の北条を無視しては何事をなすにも支障が生じるのは明らかであるからだ。
 仮に使者が来なかったとしても問題はない。その事実そのものが、武田の意思をこれ以上なく明快に告げているからである。その時は甲斐と駿河との国境を厳重に固める必要が出てくるであろう。
 武田につくにせよ、今川につくにせよ、あるいは両者を敵にまわすにせよ。北条家が決断を下すべきは、武田の出方確認したとき。小田原の城内では、君臣の間でそう話し合われていたに違いない。





 
 俺が、憲秀の言葉を借りれば「ことごとしく」信虎の思惑を並べ立てたのは、上杉家が大方の事情を把握していることを伝えるためである。そも今川家の現状から推して、信虎が考えているであろうことは容易に予測が立てられるのだから、才知をひけらかしたわけではない。
 風魔衆を擁する北条家が同じ結論に達していないわけはなく、また達していないのであれば、正直北条はその程度なのだと捨て置くことも出来る。まあその可能性はないに等しいだろうが。
 ともあれ、そうすることで、俺は氏康の言うとおり腹の探り合いが不要であることを伝えたのである。
 時が惜しい、と言ったその言葉は、紛れも無い俺の本心であった。


 そんな俺の考えを知ってか知らずか、氏康はなおも問いを重ねてきた。
 軟らかな唇から、端麗な声が紡ぎだされる。
「――その答えをお返しする前に、一つ、聞かせていただきたいことがあります」
「は、なんなりと」
 氏康は俺の顔をじっと見つめてきた。先刻、農民たちと共に収穫作業をしていた時、生気に満ちて煌いていた瞳が、今は深い思慮を映して、俺の胸奥までも見抜こうとしているようであった。
 その眼差しを緩めぬままに、氏康は俺に問いを向ける。
「越後の方が、遠く離れた駿河の乱に関わるのは何のためなのです? 輝虎殿が天道を歩まんとしていることは聞き及んでいますが、今、兵火が巻き起こっているのは駿河だけではありません。いえ、駿河の国民よりも苦しんでいる者たちも数多くいるでしょう。そう、たとえば、加賀の国などは守護職が不在となり、朝倉家の侵攻を受けてこの方、一向宗と朝倉家の間で幾度となく戦が行われ、領民は落ち着いて田畑を耕すことさえ出来ないとか。しかし、上杉家が加賀の乱を治めようとしているとは聞いていません」


 ――はじめて。氏康の眼差しに、鋭利な光が点った。
「輝虎殿が、まことに天道を歩まんとするのであれば、何故に駿河の乱にのみ関わるのか。上杉家が歩まんとする天道とは、何を指し示すものなのか。自らは何一つ明らかにせず、他家にそれを強いることは褒められた行いではないでしょう。我が北条の判断を聞きたいというのであれば、貴殿らの行動の基を詳らかにしてください」
 それを以って、こちらも返答いたしましょう。
 氏康はそう言って、こちらの返事を促すようにかすかに首を傾げたのである。




 氏康の、否、小田原城大広間に集った北条家に連なるすべての者たちの視線が集中する中、俺は力みもせず、自然と言う。
「天道とは――」
 天道とは、人が踏み行うべき正道。戦国時代――夜のように暗いこの時を照らす正義という名のともし火。常夜の時代を切り開く曙光。
 だが、そんなくだくだしい説明など要らぬ。
 俺にとっての天道とは、顔も見たことのない古聖賢の言葉などではなかったから。
 俺は、はっきりと、ここに集ったすべての者たちに聞こえるように声を高める。


「天道とは、すなわち輝虎様が往かれる道、この乱世にあるべき秩序を取り戻し、その下で天下万民が笑顔もて暮らせる世をつくりあげることにございます」



 その言葉に、氏康はかすかに目を見開いた。
 それを視界に捉えながら、俺はなおも言葉を紡ぎ続ける。
「駿河の氏真殿を救わんと欲した一人の少女の願いを、輝虎様は受け入れました。それゆえ、私は甲斐に使いし、またこの小田原城へやって参りました。一方で、加賀からはいかなる者も訪れていない。それゆえ、輝虎様は動いていません」
 ただ事実を述べる俺の耳に、かすかな嘲笑が飛び込んできた。
 憲秀が髭をひねりつつ、口を開く。
「なんともはや、卑小なことを口にするものよ。相手が助けを求めないから、助けない。それがかりそめにも天の道を往くと大言を吐く者のすることか? それでは己が利のために動く者たちと、一体何が違うというのか」


 俺は憲秀の言葉に小さく頷いた。
「然り。天道、正義、真実、これすべて人によって答えがかわる儚き言葉。輝虎様はその儚きを知り、自らの未熟を知ってなおその道を歩んで来られました。そして、これからも歩んでゆかれる。そのことを愚かと哂う者、偽善と謗る者がいようとも、決してその歩みを止めず、その身に毘沙門天を降ろすため、常人では耐えがたき苦行を修め、自らを否定する者さえ守るべきものとして、ただひたすらに」



 静まり返った小田原城の広間に、ただ俺の声だけが響き渡る。
 隣にいる虎綱の視線を頬に感じながら、俺はなおも言葉を続けた。
「天道とは何か。いみじくも貴殿らが仰ったように、我らはすべてを救うことあたわず、ただ差し伸べられた手を掴むのみ。天下万民、なべて救うが天道だというならば、なるほど、輝虎様ならびに我ら越後上杉の臣は天道を歩んではいないでしょう。そしてそれをもって、我らを我利欲得で動く者らと同じだと、貴殿らがそう仰るのであれば、私はこう返させていただく」
 俺は一息置いて、おもむろに言った。


「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」


 そんなことを言う奴らとは語るに足らぬ。俺はそう断言したのである。
「神仏ならぬ我らに、すべての者の思いにすぐる道を見出すことは至難の業です。戦をなくすために戦を繰り返す。この虚しき現実は、何人も否定できぬ事実。されど、その胸に天下泰平の志を持つ者と、持たざる者のそれが等しいと、そのような浅薄の言を弄する輩と語るべき言葉を私は持ち合わせておりません。重ねて問いましょう。北条の御家は――否、北条の君臣は燕雀なりや、鴻鵠なりや」
 俺は憲秀に視線を向け、返答を促す。怒気や客気を込めたつもりはなかったが、何故か憲秀は怯んだように目をそらせた。





 氏康の静かな声が広間に響く。それは思慮深さを湛えた落ち着いたもので、俺の言葉にざわつきかけていた北条家の家臣たちはたちまち静まり返った。
「すべての者の思いにすぐる道などない……人は何かを為そうとする時、必ず誰かと対立してしまう。民のために良かれと思ってしたことでも、国人衆にとっては迷惑極まりないことでしかないように……いえ、民の中でさえそれを喜ばぬ者もいるように。万人を納得させる行いとは、神仏にしかなしえぬことなのかもしれませんね」
 その言葉は、俺に語るというよりは、まるで氏康自身が自戒の念をもらしているかのようであった。
 俺は賛同を示すように、こくりと頷く。
「御意。仮にそんな方策があったとしても、それを実践するのは人間で、どうしたところで齟齬は生じてしまうでしょう……」
 しかし、と俺は氏康の目を見て告げる。
「だからといって、何もしないことが肯定されるわけではありますまい。すべてを一時に為すことは出来ずとも、今、為しうることを続けていけば、いずれすべてを満たす時も参りましょう」
 小田原に来るまでの道中見てきた相模の実り豊かな田園と、民の笑顔を思い出す。
 おそらく相模の国は、日本で最も豊かな国の一つである。
 しかし、北条家とて一朝一夕にそれを為しえたわけではあるまい。初代早雲以来、長き年月積み重ねた成果なくして、あの民の笑顔はありえなかったであろう。


 ならば、どうして輝虎様に出来ないことがあるものか。
 今日明日でかなうことではない。一年、二年で為せるものでもないだろう。
 だが十年、二十年積み重ねていけば。あるいは俺たちの子や孫の代に、輝虎様の夢見たものが、万人の目にあらわれる時が来ないと誰に言えようか。
 俺はその考えを面上に漲らせ、北条の君臣の視線に相対したのである。



◆◆



 とはいえ。
 俺はしんとした広間の只中にあって、内心で小さく付け加える。
 輝虎様の望む、乱世にあるべき秩序――すなわち足利将軍を頂点とした武家社会が旧に復することが、必ずしも万民の安寧に繋がるとは限らなかった。
 歴史に必然というものがあるのならば、それは永遠に栄える国などない、という一事に集約されるだろう。足利将軍家の衰退は、特定の個人の悪意や、あるいは陰謀によるものではないことを、俺は歴史として知っている。
 その果てに起きた織田信長の破壊、豊臣秀吉の台頭、そして徳川家康の統一は日本が近代化を歩む上で不可欠なものであった筈だ。
 上杉謙信や武田信玄が何故天下を取れなかったか、という命題の答えは人によって様々であろうが、その多くに二人の旧態依然の性質があげられるのではないか。
 源氏の血筋を誇りとした武田家。将軍を尊重し、関東管領たるべく遠征を繰り返した上杉家。共に身分や格式に重きを置いた両者に比べ、織田信長はそれらにとらわれずに多くの人材を登用し、比叡山を焼き討ちし、高野聖を殺害し、ついには足利幕府を滅亡においやった。
 その行いは当時の人間にとっては悪逆非道そのものであり、魔王という名は半ば本気で信じられていたのではないだろうか。だが、その織田信長の行動は、当時の腐敗した仏僧や将軍家らを代表とする中世的停滞を破るために必要な行動であったとの評価もある。


 そんな信長の対極に立つ輝虎様が、かりに天下を静穏ならしめたとして、その先にどのような歴史が待っているのだろう。
 輝虎様は後世、足利幕府再興の功臣としてたたえられるのか。
 それとも腐敗した将軍権力にかりそめの息吹を与え、結果として後の発展を大きく滞らせた盲将として名を残すのか。 



(今考えたとて詮無いことではあるんだけどな)
 そもそも、この世界は成り立ちからして俺の知るものとは違うのである。ならばこれから先の乱世の歴史が、俺の知るそれと等しくあらねばならない理由はどこにもない。
 また、同じにしようと思っても出来ることでもない。もし俺が、さかしらぶって歴史の必然を導こうなどとすれば、それこそ毘沙門天に天譴を下されよう。





 このことに思いを及ばせると、俺はきまってあの時のことを思い出す。
 すべての始まりの時――朝靄けぶる春日山の毘沙門堂で鈴の音に導かれたあの時のことを。
 あれからもう一年以上経つが、あの時聞こえてきたあの音が何だったのかはいまだに判然としない。同じ音が聞こえてきたこともない。
 神仏の前に座っても啓示はなく、俺がこの地に来た意味を教え諭してくれる何者も現れない。


(なら――)
 俺は思うのだ。
(どう解釈するのも、俺の自由ということだ)
 自分に都合よく考えておけば良い、と。




 晴景様との出会いも。
 輝虎様に仕えることとなった奇縁も。
 はからずもその輝虎様に心奪われたこともまた、すべては毘沙門天の導きである、と。
 神仏に言葉はなく、その訪れをあらわすは、すなわち清涼なる鈴の音。訪れとは、すなわち音連れに他ならず、俺はあの時、神意の一端を感じ取っていたのかもしれない……





 ――まあ、んなわけないんだが。
 我ながらこっぱずかしい空想を、内心、俺はばっさりと切り捨てる。幼い頃は知らず、長じてからは寺社仏閣に足を運んだことなど数えるほどしかなく、真面目に参拝したことは皆無である俺などに、わざわざ恩恵を授けに来るほど神仏も暇ではないだろう。
 上杉家に仕えてからは、自然と毘沙門天へ祈りを捧げる機会が増えたが、それとて神に祈るというよりは、輝虎様への崇敬の念をあらたにするための文言である。口に出しては言わないが。


 それに、この地に来たのは偶然であっても、この地に来てからの行動は俺が自分の意思で決めたことだ。それによって生じた多くのものの責任を神仏に預けるつもりはないし、神仏が引き受ける道理もないだろう。
 これまでも、そしてこれからも。
 それは変わることなく俺が背負っていくべきものなのである。



   
◆◆





 俺はつかの間、泡沫のように浮かび上がった内心の想いを押し沈め、眼前の氏康を改めて見据えた。
 説得の本番は、むしろここから。
 物思いに耽っている暇はない。
「ただし、今申し上げたはすべて主輝虎の志です。氏康様は『貴殿らの行動の基を詳らかに』と仰られましたが、この使者の心中をも明かすべきでございましょうや?」
 蛇足かとも思ったが、俺はその問いを北条家の主に向けることにした。何故といって、これから説くことは輝虎様の掲げる天道とは似つかぬ『利』を正面に示すものであるからだった。
 俺の問いに、氏康は迷う素振りもなく、首を縦に振る。
「そうですね。関東にも鳴り響く越後上杉家の軍師殿が何によって立たれているのかは知りたく思います」
「されば――」
 俺は大して力むこともなく、口を開いた。


「この身は戦を嗜み、勝利を貪る者。越後上杉の家にあって、もっとも天道より遠い者です」
 その俺の言葉に、氏康は目を瞬かせた。しばし後、その口から出た言葉にはかすかな戸惑いがあったかもしれない。
「天道より遠い、ですか。軍師として、輝虎殿に仕える貴殿が? では、何をもって我らを説かんとされるのでしょう?」
「天道という公理を語れぬ以上、私利を以って説くしか術はございますまい。すなわち――」




 まず一つ目。
「我ら上杉家は、此度の争乱において、武田晴信殿と武田信虎の間にいかなる繋がりもないことを保証いたします。輝虎様はいかなる利益があろうとも、駿府の狂王ごときと手を携える方ではありません」
 これで北条家は、閉ざされていた甲斐との交易を再開できる。海産物の交易が閉ざされたことで、損失を被っていたのは、何も甲斐だけではないのである。


 続いて二つ目。
「仮に我らまで欺かれており、北条家が甲斐と駿河、両国を相手取って戦になるような事態になった場合、我ら越後の軍は、かなう限り北条家の援護をすることをお約束いたします」
 上杉軍が信濃を衝けば、甲斐の晴信は容易に相模に兵を出せなくなる。駿河方面からの侵攻だけであれば、北条家は十分に対応できるだろう。
 俺は晴信の言葉を疑っていないが、その認識を氏康に持てとはいえない。それゆえ、謀略に対する保障が必要となるのである。


 そして三つ目。
「此度、決戦は甲斐の国になりましょう。すでに今川の大軍が国境を越え、おそらく信虎も動き出している筈。逆に言えば、駿河は手薄です。その隙を衝けば、興国寺城を陥とすことも容易かろうと存ずる」
 興国寺城は、かつて北条早雲が領した、北条家ゆかりの地。くわえて興国寺一帯――富士川以東の地は北条家にとって垂涎の的であり、かつて今川、武田との間で度々争奪の対象となっている。氏康がそこを奪えば、今川家ならびに信虎への圧力となり、その動きを封じる一助となるであろう。
 仮に信虎の策が功を奏し、甲斐が併呑されたとしても、興国寺は駿河の咽喉元に突きつけられた刃に等しく、容易に相模への侵攻を許さないに違いない。
 逆に事がこちらの思惑通りに進み、信虎を放逐できた場合、河東の地は向後、北条家が領有することになるのは当然である。さすがに今川家の許可はないが、氏真が復権するにせよ、他者が立つにせよ、武田、北条、上杉の三家からの要請を拒絶することは出来ないであろう。




 俺が提示した三つの利。それは輝虎様がこれまで歩んできた道程があってこそ説得力を持つものであった。
 信濃を逐われた村上義清を助けるために、甲州武田家と矛を交え。
 将軍家からの要請に応じ、数ヶ月もの間、京の治安を守り通し。
 そして、関東管領を救うため、関東に踏み出して北条家と矢石を交えた。
 そこに私利はなく、ただ公理を守らんとする輝虎様の志が満々と満たされている。勝って利を貪らず。輝虎様以外の何人にそれがかなうだろう。上杉家の領土は、いまだ越後国内より一歩も踏み出してはいないのだ。
 信義の面において、晴信でさえ輝虎様の足元にも及ばない。それだけの実績を輝虎様は築き上げているのである。


 とはいえ、利はあくまで利。
 もし使者となったのが輝虎様や兼続であれば、こんな交渉はしないに違いない。
 信虎の謀略を阻み、今川家の危急を救い、東国の兵乱を鎮めるために協力を求めたに違いない。自家の正義を信じ、誠意をもって一途に行動することこそ、上杉家の使者たるに相応しい姿であるだろうし、おそらく輝虎様もそれをこそ望んでいるのではないか。
 結果として、利が生じることはあろう。しかし、はじめから利を持ち出しては、欲得ずくの諸国の外交と何らかわるところがないのではないか――






 そう俺が考えた時だった。
 低い、けれど聞く者の耳に残るような、不思議な声が広間に響いた。
「――主の掲げる天道を奉じず……しかし天道に復らん(かえらん)と欲する。輝虎殿は、奇妙な臣をもたれたものですね」
 そう言ったのは、先刻から、黙って一連のやりとりを聞いていた人物だった。
 群臣の間からこぼれでた言葉の一欠けらが、俺の耳に届いた。
「……刀自」と、その北条の家臣たちは口にしていたのである。
 刀自とは、その家の女主人に対する敬称である。北条家の当主は言うまでもなく氏康であるが、今、声をあげたのは氏康ではない。
 氏康でないにも関わらず、刀自と敬われる人物とくれば、心当たりは一つしかない。
 北条幻庵。初代北条早雲の創業の時代から、北条家を守り続けている重鎮にして、その容色はまるで時が止まったかのように変化を見せないという『相模の永久姫(とわひめ)』であろう。


 その幻庵は、俺の方を見ながらも、それ以上を口にしようとはせず、どこか幽遠な眼差しで俺を見据える。
 かすかに目を細める幻庵の顔は、とても俺の倍、下手すると三倍生きている先達には見えなかった。氏康に優るとも劣らぬ艶麗な黒髪が、広間の灯火を映して照り映える。






 その言葉は何を意味するのか。
 前述したように、俺が真に輝虎様の天道を奉じるのであれば、今川家を救い、信虎の野望を挫くために協力を求めるべきであった。
 しかし、俺は幻庵の言うとおり『天道を奉じず』利を提示して、使いの役目を果たそうとしている。
 輝虎様や兼続であれば利を持ち出すことなく、正面から北条家の君臣を説き伏せることも出来たかもしれない。心底から自身の正義を信じ、誠意をもって説かれれば、誰しも心動かさずにはいられまい。
 だが、それは俺には出来ないことだった。



 それゆえ、俺は北条家に利を示して説こうとしたわけだが、では幻庵の言葉の後半はどういう意味なのか。
 俺の持ち出した利とは、すなわちこれまで輝虎様が築き上げてきた信義あってこそのもの。黄金玉帛をもって相手を誘ったわけではない。
 相手が、こちらの持ち出した利を受け取り、俺の使いが功を奏したならば、それはすなわち輝虎様のこれまでの行いがもたらした成功であると言える。
 すなわち、利を示して行った俺の使いは、天道を奉じていないにも関わらず、結果として輝虎様が天道を往くことと同じ結果を導く。幻庵の言う『天道に復らんとする』とはこれを意味するのであろう。 


 幻庵の言葉を聞き、俺は知らず、口元に苦笑を浮かべていた。
 奇妙といえば確かに奇妙であろう。
 主の天道を理解するならば、はじめから天道に添えば良い。
 主の天道を報じぬのなら、より現実的な利益を示して交渉を有利に進めれば良い。佐渡の黄金のような。
 そのいずれもしない俺は、なんと半端な臣であり、半端な覚悟しか持たぬのか。そう嘲笑されたところで仕方ないのかもしれない。


 だが。 
「北条氏康様に申し上げます」
 俺は頭を垂れ、改めて口を開く。
 口にしたことを何一つ変えず、俺は北条家の主と相対する。
「上杉家が参戦した理由は、今申し述べました通りにございます。私が使者として示すことが出来る利も、これ以上はございませぬ」
 語るべきは語った。願わくば――
「先刻の問いを、今一度繰り返させていただきます。北条家は、此度の動乱、いかように動かれるおつもりでありましょうや」
 短く。しかしはっきりと、俺は問う。
 ――ただ願わくば、信虎追討のために、我らに一臂の力を貸していただきたい。東国の兵火を、これ以上広がらせないために。
 その言葉を内心に秘めながら。






 氏康の口が、ゆっくりと開かれる。
「天城殿」
「は」
「さきほど仰られた三つの利に、もう一つ付け加えていただけますか? 上野と下野と、常陸と安房と。関東各地に遣わした使者を越後に戻し、関東を静穏ならしめる、と」
 上野の山内上杉、下野の宇都宮、常陸の佐竹、安房の里見、いずれも関東の地で北条家に敵対する有力な大名たちである。
「……えー、と。お見通しでしたか」
「それはもちろん」
 氏康はにこりと微笑みながら、こちらが対北条の為に用意していた策をあっさりと見破ってのけた。


 だが、それを口にするということは――
「そして今ひとつ。上杉家の信義に篤きことを見込んで頼みがあります」
「頼み、でございますか?」
 俺が首を捻ると、氏康はこくりと頷く。
「はい。これより我らは甲斐へと赴き、一時とはいえ武田信虎に謀られ、盟友である晴信殿に敵対したことを詫びねばなりません。しかるのち、甲斐と相模の交易を再開させると共に、もう一人の盟友である今川氏真殿を、狂王の頸木より解き放つために協力を願い出るつもりです。その席に、上杉の方も同席していただきたいのです」


 しんと静まり返った小田原城の大広間に、氏康の声が響き渡る。
 ざわめき一つ起こらないところを見ると、もしかしてすでに北条家はとうに決断を済ませていたのだろうか。
 俺がこっそり北条家の家臣の列に視線を走らせると、ちょうどこちらを見ていた松田憲秀とぴたりと視線がぶつかった。
 俺の顔を見て、憲秀が口元を歪ませるように笑む。それは先刻、こちらを詰問していた時と同じ顔の筈なのに、何かが確かに取り除かれていた。


 そんな憲秀の笑みに、俺は苦笑を返すしかなかった。相手を測っているつもりで、実は測られていたのはこちらだったのだと、ここにきてようやく悟ったためであった――





 ふと。
 俺は氏康が怪訝そうな顔で周囲を見回していることに気付く。
「氏康様、どうかなさいましたか?」
 俺の問いに、氏康の隣に控えていた綱成も、氏康の様子に気付いたようだ。
「姉者、いかがなさいました?」
 すると、氏康は小首を傾げながら、こんなことを口にした。


「――綱成、今、鈴の音が聞こえませんでしたか?」




◆◆





 言うまでもないが、北条家の協力が得られたといっても、それですべての問題が解決するわけではない。
 今川家が孤立したことで、戦の勝利はほぼ確定したと言っても良い。信虎がどれだけ足掻こうとも、西の松平、北の武田、東の北条から一斉に攻め立てられれば防ぐ術はないだろう。逆に、信虎がこれを凌ぐほどの将才の持ち主であれば、東国の命運ははや定まったと考えざるをえない、それくらいに情勢はこちらに有利になっているのである。
 しかし、今回の戦で肝要なのは今川家を滅ぼすことではなく、信虎を処断し、氏真を救うことである。追い詰められた信虎が今川家を楯に駿府に篭り、国中を焦土として抗戦しようものなら、敵味方の被害は甚大なものとなる。たとえ最終的に勝利を収め得るにしても、損失は無視できまい。
 また、そうなれば駿府城の氏真も無事にはすまないだろう。そのあたりを考慮すれば、やはり躑躅ヶ崎館に信虎を誘い込むという策がもっとも妥当であると考えられる。


 この見解は上杉、武田、北条の各家とも共通するものであった為、出兵計画は速やかに立てることが出来た。
 一、北条家から武田家に断交の使者を出す。使者は松田憲秀。
 二、憲秀による通告が終了し次第、北条綱成率いる軍勢が甲相国境を越える。
 三、北条勢に対抗するために春日虎綱が国境へ。この時点で躑躅ヶ崎館の兵力は極小となり、敵の襲撃を誘発できる。
 四、躑躅ヶ崎館への襲撃を確認した時点で、甲相国境の両軍は共同して反転する。また、この報告が届き次第、小田原城の氏康は駿河東部へと進攻を開始。
 五、春日勢と綱成勢は躑躅ヶ崎館を経由して甲斐南部の山県、馬場勢と合流、進攻している今川軍を甲斐国外へと駆逐し、東の氏康と歩調をあわせて駿河へと進攻する。


 かなり大雑把な計画だが、詳細を詰める時間もない。
 肝要なのは北条家と武田家が一つの作戦計画を元に動くことである。そんなわけで、一応の計画をつくりあげた俺たちは、急ぎ小田原城を辞し、甲斐への帰途についた。
 かなうなら、もう少し北条家の人たちとは言葉をかわしたかったのだが、それは後日に譲らなければならない。願わくば後日の出会いが、戦場以外でありますように。
 そう言った俺に、氏康は微笑み、しかし言葉を返すことはしなかった。
 関東管領の存在を介した上杉と北条は並び立つことが許されぬ。そして、輝虎様も、氏康も、自身の道を譲るような人ではなく――否、譲れるような浅い想いで戦国の世に生きているわけではない。
 必然的に、俺たちは関東でぶつからざるを得ないのだ。今回、共通の敵を持ち、一時であっても手を携えることが出来たことは稀有な幸運なのである。
 氏康の無言は、何よりも雄弁にその事実を物語っているようであった。



 ――ただ、氏康が浮かべた微笑は、氏康の心情が俺のそれと重なることを意味しているのではないか。希望的観測ながら、俺はそんな風にも思ったのである。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/01 22:01

 
 北条家と締盟して後、ほとんど時を置かず、俺たちは紙くず一つ落ちていない清潔な小田原の街並みを通り抜けて、甲斐へと馬を急がせた。
 甲斐から戦況の変化が報じられたわけではなく、いまだ戦線は膠着しているものと思われたが、それでも自然、馬足は速くなってしまう。
 俺でさえそうなのだ。武田の家臣である虎綱は、もっと気が気でないだろう――そんな風に俺は思っていた。



 一日。北条家が用意してくれた宿で、小田原名物のかまぼこを肴に酒を虎綱と酒を飲んでいた俺は、はっと我に返った。
「なんでこんなにくつろいでいるんだ、俺は?」
「? 休める時に休んでおかないと、強行軍はきついですよ?」
 急に何を言い出すんだろう、とでも言うように虎綱が不思議そうに首を傾げる。
「いや、確かにそれはその通りなんですが、甲斐で戦が始まっているというのに、酒はさすがに……」
「昼間の強行軍の疲れを癒すためのものです。深酒は論外ですが、月を見ながらのささやかな酒肴で私たちを咎める者もいないでしょう」
 微笑みながら酒盃を口にする虎綱は、どこか満ち足りた様子でほぅっと息を吐いた。
 供されたかまぼこと相模の銘酒の組み合わせは、同道している松田憲秀殿いわく「酒好きにはたまらぬ」とのことだったが、確かに塩味の聞いたかまぼこと、この酒の相性は抜群で、あまり酒を嗜まない俺でも、ついつい酒盃を口にする回数が増えてしまいそうだった。



 俺はふと耳をそばだてる。遠くの方から何やら賑やかな騒ぎが伝わってきた。
「弥太郎、張り切っているみたいだな」
 小さく、俺は笑った。
 綱成に招かれた弥太郎が北条武士相手に妙技を披露しているのだろう。
 弥太郎は先の上野合戦で鬼小島の異名を轟かせたわけだが、先刻のこと、明日、国境近くで別れることになっている綱成が、ぜひとも自分の目で鬼と呼ばれる武将の技量を見たいといってきたのである。
 一見、手の内をさらけ出すように思えるが、逆に言えば弥太郎も綱成の武芸を見ることができるわけで、俺は特に弥太郎を止めることはしなかった。俺としても二人の武技の競い合いには興味があったので、ついていくつもりだったのだが、段蔵曰く「颯馬様が来ると、相手が警戒してしまう」とのことで宿に残ることになってしまったのである。
 いつのまにやら、その場にいるだけで他家に警戒されるようになっている自分を喜ぶべきか否か、難しいところであった。




 そんなわけで宿には俺と虎綱、秀綱と虚無僧様が残ることになった。秀綱と虚無僧様は修練の刻限ということで、この場にはいない。
 上杉勢で一人残った俺は、さて寝入るまでの時間をどう使おうか、と頭をひねっていたのだが、そこに虎綱からのお誘いがあったのである。


 両手で酒盃を持ち、それに口付けた虎綱がほぅっと息を吐く。
 かすかに頬を火照らせたその顔には女性の色艶が感じられ、俺はしばし目を奪われた。
 そんな俺の様子に気付いたのだろう。虎綱が不思議そうな顔で、口を開く。
「どうなさいました、天城殿?」
「あ、いや、その……」
 まさか見とれてましたとは言えない。俺はやや慌てて、言葉を紡ぎださなければならなかった。
「随分と落ち着いておられると思いまして、少し気になりました」
 虎綱とて甲斐の戦況が気にならないわけではないだろう。そして、これまでの虎綱であれば、言葉にしないまでも、表情に不安をあらわしていたと思うのだが、今の虎綱からは焦慮が感じられない。
 不利な戦況に動じず、有利な状況に浮かれないのは将としての大切な資質だが、虎綱は短い間にこれを体得したのだろうか。


 俺のそんな疑問を受け、虎綱は少し困ったようにおとがいに手をあてた。
「御館様のように、内心を巧みに統御する術を得たいとは思っていますが、これは一朝一夕にはいかないことです。今とて不安でないと言えば嘘になってしまいますが……」
 かすかに首を傾けつつ、虎綱は続ける。
「もし、私が平然としているように見えるのでしたら、それは多分天城殿のお陰ですね」
「……は、私の、ですか?」
 唐突な言葉に、俺は思わず目を点にする。
 そして、そんな俺の顔を見て、虎綱は楽しそうに微笑むのだった。



 その後は、何となく互いに無言で杯を重ねるだけの時が過ぎた。
 弥太郎たちは未だ帰らず、虚無僧様たちの姿も見かけない。
 時おり遠くから響く笑い声を聞くに、弥太郎たちの方はそのまま酒宴に移行したのかもしれない。
 気まずいわけではないが、何を話すべきかもよくわからない。俺は聞くとはなしに彼方の騒ぎ声に耳を傾けていたのだが、不意に虎綱の声が耳に滑り込んできた。


「私など、四天王はおろか、二十人衆ほどの実力もない……御館様に引き立てていただいた御恩に感謝し、懸命に奉公しながらも、心のどこかでそう思っていました」
 予期しない物言いに驚いた俺は虎綱の横顔に視線を投じる。そこには、夜空に視線を向け、物悲しげな表情を浮かべる虎綱の姿があった。
「智勇胆略、そのいずれも御館様はもちろん他の僚将の足元にも及ばない。春日の家を継いだのは姉上なので、自身の身代もろくになく、御館様と武田の御家にどのように報いていけば良いのかさえ判然とせず……せめて御館様の面目に泥を塗ることだけはしないように。そう思い、務めてきたのです、これまでは」


 心中をぽつぽつと語る虎綱の表情は、はじめて出会った頃――上洛行を共にしていた時の虎綱を想起させた。
 いつも伏目がちで、どこか陰を感じさせたあの頃の虎綱は、こんな寂寞とした思いを内に秘めていたのだろうか。
 虎綱が、躑躅ヶ崎の乱以前から晴信に付き従ってきたことを考えれば、晴信の直臣であった期間は誰よりも長い計算になる。
 人を見る目に長けた晴信が虎綱の力を見出すのは当然すぎるほど当然であったが、当の虎綱はその期待と信頼が、逆に重荷になってしまっていたのかもしれない。
 俺などから見れば、今はもちろん、あの当時の虎綱だとて十分に四天王の名に耐えうると思う。上洛行の際、武田、上杉両軍の間に緊張はあっても揉め事はなかった。それは三千の武田軍を虎綱が過不足なく統御しきった証明でもある。
 上杉軍が、越中、加賀、越前を通って京へ抜ける道程を無血で乗り切ることが出来たのも、虎綱率いる武田軍あってこそ。京に着く前も、着いた後も、武田軍との折衝は、上洛前に危惧していたことが嘘のように速やかかつ穏やかに進んだ。


 それすべて虎綱の為人と能力によるもの。
 つい先日までの敵国との間に諍いを起こさないように将兵を統べるだけでも至難の業なのである。それに加えて京の治安を維持し、朝廷との折衝をこなし、さらには近畿の情報を集めて有事に備える。
 上杉軍が輝虎様、兼続、定満、俺等で行っていたものを、虎綱はほとんど一人でこなしていたのだ。無論、虎綱の麾下に人がいないわけではないにせよ、虎綱の能力を否定することは誰にも出来ないだろう。


 だが、自信とは文字通り自らを信じること。他者がどれだけ信じようと、虎綱自身が自分のことを認めていないのであれば、実績は自信に繋がらない。
 しかし、今の虎綱からは静かな面持ちの中にも、かつては感じることの出来なかった己への信があるように思う。武田家が誇る風林火陰山雷の一字を託されてなお自分を認められなかった女将軍は、何をもって自信を得たのか。
 その答えは――


 再び、虎綱の眼差しが俺の面上に注がれる。その意味するところは明らかで、俺は首を傾げざるをえなかった。
「……俺、あ、いや、私、何かしましたっけ?」
 思わず『俺』などと言ってしまい、慌てて訂正する。そんな俺を見て、虎綱は紅く染まった頬をそのままに、小さく微笑んだ。
「印象的な出来事や、心に残る一言があったというわけではありません。ただ天城殿や輝虎様と見え、言葉をかわすうちに、ふと思ったんです。私は御館様や他の諸将と我が身を比べていましたが、そんな必要はないのかもしれない、と。いえ、自身を琢磨するという意味で不要ではありませんが、それがかなわないからといって、御館様の期待に応えられないということではないのだ、と。雲は竜を導くとも、竜にはなれず。風は虎に従うとも、虎にはなれず。それでも――いえ、だからこそ、飛躍の時、竜は雲を、虎は風を、必要とするのかもしれない。そう思ったのです」


 酒の勢いもあってか、虎綱は熱を込め、こちらに身を寄せつつの熱弁であった。間近に迫った虎綱の顔を見ていると、正直、照れくさくて仕方ない。
「聞いていただいていますか、天城殿?」
 俺の意識があらぬところに逸れたことを察したか、虎綱はすねたような顔をする。
 上洛行を含め、結構虎綱とは長い付き合いになるが、今宵は思いもかけず色々な虎綱を見ることが出来る日のようだった。


 俺が慌てて頷きを返すと、虎綱はさらに言葉を続けた。
「御館様は、私が武田の雄飛に必要な者だとの期待をかけてくださり、『林』の一字さえ授けてくださいました。私は、甲斐の虎を援ける風になるべきであったのです」
 それなのに、と虎綱は表情に陰を滲ませる。
「私は自身を虎と重ね、そう在れない自分を責めるだけで、御館様の期待を裏切り続けてきました。御館様はそんな私を見捨てることなく、事あるごとに諭してくださったのに……いえ、御館様だけではありません。山本様も、山県様も、他の僚将の方々も幾度もずっと気にかけてくれていたのです。晴貞様の境遇を思えば、私のそれは極楽で太平楽を決め込んでいたようなものなのに。おろかな私は周囲の方々の期待さえ重荷に感じてしまっていました――御館様に上洛の命を受けたのは、そんな時だったのです」




 そこから先のことは、俺も知っている。だが正直、俺は虎綱の内心の懊悩に気付いてはいなかったし、ましてやその闇を拓くような言動が出来た筈もない。
 いまだ戸惑いが去らない俺を見て、両の掌を握り締めていた虎綱は、そこでようやっと自分が熱くなっていることに気付いたのか、照れたように頬を赤らめ、腕を下ろした。
 昂ぶった心を宥めるかのように深呼吸した後、虎綱はぽつりと呟く。


「『天道を奉じずして、天道に復らんとする』――」
 それは小田原城で北条幻庵が口にした言葉。
 あの場にいた虎綱は、当然それを知っている。今この時、そのことを持ち出す虎綱の意図に気付いた俺は、小さく肩をすくめて答えを返す。
「……褒められた仕え方ではないと思うのですけどね」
「そうでしょうか? 天下に正道を敷かんとする輝虎様の天道を誰よりも理解し、そして御自身の限界を見極めた人でなければ、長老殿はあのような文言を使うことはなかったでしょう。戦の要諦は『敵を知り、己を知る』ことと孫子は書で著していますが、天城殿は例えるならば『主を知り、己を知る』人です。そんな天城殿だからこそ、越後の竜を導く雲になれるのだと、私はそう思うのです」




 俺の頬が熱くなっているのは、酒のせいではなかった。
 一言で言って、気恥ずかしいことこの上ない。虎綱は世辞を言っているわけではないだろうが、ここまで持ち上げられたことははじめてで、俺はなんと返してよいかわからず、頭をかいて視線を空に向けることしか出来なかった。
 過大評価も良いところだが、虎綱ほどの人物にそう言ってもらえることが嬉しくもある。
 そんなことを考えていた俺の耳に、虎綱は囁くように、しかし凛とした気概を込めてこう言った。



「決めたのです。天城殿が雲となるように、私は風となる。私を見出し、引き立ててくれた御館様の御恩に報いるために、その往く道を祓い清めてみせます。いつか……」


 あなたと戦う日が来ようとも。
 それは、俺の耳ではなく心が聞き取った虎綱の声なき声であった。





 俺は自然と口元がほころぶのを感じた。
 それくらいに、今の虎綱の言葉と表情は、清清しいまでの自信と誇りに満ちていたのだ。
「互いに譲れぬ想いがある以上、いつかぶつからざるを得ない。それが道理だと、わかってはいるつもりですが――」
 俺はおどけたように肩をすくめた。
「このような時は、道理に引っ込んでいてもらいたいと、そう思ってしまいますね」


 俺が茶化すようにそう言ったのは、虎綱と矛を交える未来を想像したくないための遁辞であった。
 だが、思いがけず――あるいは、その逆か。虎綱は笑みで応じたのである。
「ふふ、奇遇ですね。実は私もそう思っていたところです」
 そう言って、ころころと笑う虎綱。
 その声に耳をくすぐられながら、俺は持っていた酒盃を傾け、視線を空に浮かぶ月へと向けるのだった。






◆◆◆




   
  
 秋、今川家臣岡部元信と朝比奈泰朝に率いられた今川軍一万五千は甲駿国境を突破、富士川に沿って北に進路を取り、甲斐国内への進撃を開始する。
 収穫の盛りであるこの時期、万を越える軍勢を催す不利益は述べるまでもないが、今川家当主氏真は、いささかもためらわず、麾下の両将に甲斐の蹂躙を命じたのである。
 苛烈な軍制の下、軍容を一新させた今川軍の侵攻速度は迅速を極め、甲斐南部の国人衆は必死に防戦を試みるも、死を恐れずに突き進んでくる今川軍をとどめることは出来ず、数度の撤退を余儀なくされる。
 武田軍、恐れるに足らず。勢いに乗った今川軍はさらに侵攻を続け、その矛先を甲斐南部の要衝である下山城へ向ける。
 身延山の麓に位置する下山城は、駿河から甲府へといたる最初の関門である。これを突破されてしまえば、他に拠るべき城砦もなく、今川軍は甲府盆地へ侵入してしまうであろう。
 信濃と甲斐に内紛を抱えている現在、躑躅ヶ崎館には真田家の兵と、晴信直属の軍勢しかいない。それゆえ、武田家はなんとしても、下山城で今川家の大軍を防ぐ必要があったのである。
  

 当然、今川軍もそのことは知悉している。今川軍にもたらされた情報によれば、下山城に拠った武田軍はおおよそ三千。篭城の利があるといえど、五倍近い兵力差があれば、これを陥落させることは難しくないであろう。
 そう考え、さらに進軍を続けた今川軍は、しかし下山城へ到る前に、その足を止めなければならなかった。
 彼らの前に整然と陣を据えるは、躑躅ヶ崎より発した甲州騎馬軍団の精鋭七千。
 その陣頭に翻る『丸に花菱』の家紋は、率いる将が山県昌景であることを今川軍に告げていた。
 今川軍一万五千。武田軍七千。数だけを見れば今川軍が圧倒的に有利である。
 だが、兵の質においては、東国のみならず、近畿にまでその名を響かせる甲州騎馬軍団が優るであろうと思われた――これまでは。
 だが、現在の今川軍は、かつての今川軍と性質を異にしている。
 誰よりも早くそれに気付いたのは、敵の猛攻を正面から受ける形となった山県昌景であった。



「死兵、か。志を以って将兵に死を忘れさせるは名将なれど、さて今川殿は名将なりや?」
 敵の先兵を迎え撃った武田軍は、目を血走らせて猛り狂う今川の将兵の勢いに抗しきれず、たちまち第二陣まで押し込まれる。だが、今川軍の猛攻に押されながら、昌景は冷静さを保っていた。兵を指揮し、敵の勢いに逆らわずに中軍を下げつつ、左右両翼から弓矢を浴びせ、敵の勢いを削ごうとする。
 しかし、今川軍先鋒を率いる朝比奈泰朝は多少の損害に構わず、ひたすら中央を突き進み、武田軍を左右に分断しようとはかった。兵力に優る今川軍だからこそ可能な力業である。
「数に劣る敵を更に分断し、それを囲めば勝利はより容易くなる。さすがに今川軍の柱石たる者たちよな。兵力に優ることの利を、ようわかっておる。だが――」
 敵将の意図を悟った昌景は、しかし、不敵な笑みを浮かべ、采配を揮い続ける。
「この山県昌景、御館様より『山』の一字を預かる将。そうやすやすと我が陣を破ることはできぬと心得よ」



 強硬に突破をはかる今川軍に対し、武田軍は山県昌景直属の本隊も参戦し、真っ向から今川軍と競り合いを続けていた。勢いに乗って進軍を続けてきた今川軍であったが、昌景は巧みに弓射と槍撃を反復させ、本陣の突破を許さない。
 その朝比奈勢の苦戦を見て、後陣に控えていた岡部元信は手勢を率い、戦場を迂回するように動き出した。
 後背を扼そうとすれば、精強を誇る武田軍といえど動揺を禁じ得ないだろうと考えたのである。
 だが、元信が軍を動かした主な目的はそちらではなかった。
「ここまで出てきたは弓兵に槍兵――この戦に、武田が誇る騎兵がいないということはあるまい。いずれかに伏せてあるは必定。今のうちにその姿をあらわしてもらおうか」
 今川軍が大きく動けば、武田軍も秘していた兵を出さざるをえまい。元信はそうも考えたのである。



 山県昌景率いる武田軍はおおよそ五千。事前の情報を鑑みれば、伏せている騎兵は多くて二千というところであろう。一方の元信は四千の人数を動かせる。いかに武田の騎馬軍団が精強であろうと、この数の差は如何ともしがたいだろう。
 くわえて、今川軍の最小行動単位である伍の長たちには、武田騎馬軍団と当たる際はまず馬を狙い、その機動力を奪った上で押し包んで討ち取れと命じてあり、その訓練も積んでいる。ここに到るまでの戦で騎馬隊と対峙したこともあり、実戦での経験も重ねていた。
 主力である騎馬軍団を潰せば、武田の将兵も動揺せざるをえない。また、仮に騎兵が不利を悟って動かないならば、それも良し。朝比奈泰朝の部隊と歩調をあわせ、昌景率いる部隊を包囲殲滅した後、身延山に陣取れば、下山城を陥とすことは容易いことである。



 岡部元信の読みは正鵠を射ていた。武田軍は確かに二千弱の騎兵を切り札として伏せており、また主力である騎兵部隊が壊滅すれば、武田軍の士気は大きく下がってしまったことだろう。
 山裾から姿を現した敵騎兵集団を目にした元信は、ただちに麾下の兵に迎撃態勢をとらせ、これを殲滅すべく采配を揮う。否、揮おうとしたのだが。


 ――二千の騎馬が、八千の脚をもって大地を蹴りつけて殺到する。その様を遠望した兵たちの間から動揺が立ち上る。これまで相手としてきた十や二十の騎馬隊とは、文字通り桁違いの迫力だ。兵たちの動揺を見た今川の指揮官は、声を嗄らして落ち着くように叫ぶ。
「落ち着け、伍列を崩すな! 槍先をそろえよ! 敵はこちらの半数にも満たぬ寡兵ぞ、訓練どおり馬を突き、地に落ちた兵を討ち取れば良いのだ! 逃げれば妻子眷族にまで咎が及ぶことを忘れるな!」
 指揮官たちの叱咤を受け、今川の兵士たちは慌てて槍を構え、敵騎兵を迎え撃つ態勢を整える。逃亡は自身のみならず、国許の父母妻子の身まで危険に晒す。今川軍の用いる、恐怖による督戦は確かな効き目をあらわし、腰の引けていた将兵に戦意を注入することに成功していた。あるいは、ここに到るまでの連勝が、今川軍将兵の心底に、甲州武田軍団恐れるに足らずとの自信を植えつけていたのかもしれない。
 後は、多勢で押し包み、敵騎兵を殲滅すれば、この戦の勝利は目前――岡部元信のみならず、今川軍のほとんどの将兵がそう考えた。
 繰り返すが、それは正鵠を射た考えであった。ここで騎馬部隊が破れれば、たとえ山の将が指揮する武田軍であっても、今川軍の猛攻を凌ぎきることは難しかったに違いない。そして、この地で一敗地に塗れれば、下山城は陥落し、甲府へと到る門を、今川軍に献上することになっていたであろう。



 ――だが、それは。
 ――ここで騎馬部隊が破れればの話である。

  

  
 二千を越える騎馬部隊、その先頭を疾駆するは、こと攻勢においては武田騎馬軍団最強を誇る炎の将。
 その身を鎧う緋色の甲冑は、あたかも自身が背負う一文字を具現するかの如く。
 その瞳に爛々たる戦意を湛え、配下の兵を従えて、馬場信春は今川軍へと躍りかかる。
「原虎胤殿より譲り受けたるは『美濃守』。『夜叉美濃』の衣鉢を継ぐは我にあり! 武田が『火』の将、馬場美濃守信春、ここに見参!」
 雨あられと放たれる今川の矢石をものともせず、名乗りを終えたその時には、信春の身体は愛馬と共に今川軍の堅陣の只中にあった。
「おおおおッ!」
 雄たけびと共に、馬上、信春が槍を突き出す都度、その穂先には必ず鮮血が糸を引いた。群がる今川軍の歩卒は信春ではなく、その騎馬に槍を向けて突進を防ごうとするも、それらはすべて小枝のように振り回される信春の槍に叩き伏せられ、あるいは弾き飛ばされていく。
 火の将が進むところ、草も木も皆、朱に伏し、その猛威に恐れをなした敵兵は、なだれをうって後退していったのである。


 馬場信春の勇武は、武田全軍はおろか東国全土を見回しても屈指の域にある。だが、個の武勇のみをもって火の将を拝命できるほどに武田軍の人材の質は低くない。武田晴信が、火の一文字を与えた人物は、衆に優れた個人的武勇をさえ霞ませるほどに、軍将としての資質に恵まれた人物であり、わずか二千とはいえ、その率いる騎馬隊は強かった。
 信春の後に続く部隊は、主将が切り開いた今川軍の堅陣の隙をたちまちのうちに押し広げ、馬首を揃えて猛然と突進する。
 これに対し、今川軍岡部元信は直属の精鋭をもって馬場隊の突進を食い止め、その間に、自軍を扇形に展開して、中央に突っ込んできた敵を包囲しようとはかった。
 だが、信春の鋭鋒は元信の予測を越える鋭さで今川軍を切り裂き、元信の指揮をもってしても陣内の混乱と動揺は抑えきれない。それどころか――


「そこにいるは、今川軍岡部元信殿と見受けたり!」
 槍を構えた信春は、すでに元信を指呼の間に捉えていたのである。
「敵将に一番槍をつけることこそ武士の誉れ。その首級、頂戴いたす!」
 信春の鋭気を真っ向から受け止めながら、元信は余裕をもって莞爾と笑ってみせた。
「これはめずらしや、馬に馬が乗っておるわ。見ろや、者ども。あれが『不死身の鬼美濃』ぞ。まるで童の遊びではないか!」
「この兜こそ、武田騎馬軍団の魂を示すもの。幕僚は知らずとも我は知る。火の名を預かりし馬場美濃守信春、いざ参る!」
「合戦は童の遊びではないこと、その兜をたたっ斬って証明してみせよう。参られよ!」 
 愛馬をあおって突進する信春が突き出した槍は、閃光の如く元信の咽喉元に伸び、その首筋を貫くかと思われた。


 だが、穂先が身体に達する寸前、元信の槍が小さく、しかし鋭く信春の槍の柄を弾き、わずかに穂先が逸れる。
 信春の槍は、元信の首筋に赤い筋をつくったが、ただそれだけであった。最小限の動きで敵の槍を防いだ元信は即座に反撃に転じようとする。
 だが、信春はそうはさせじとすぐさま槍を引き戻し、再び正確に咽喉元を貫こうと槍を繰り出す。この速撃に、反撃に転じようとしていた元信は対応が後れてしまい、のけぞるように身をそらして、かろうじて信春の槍を避けてのけた。
 しかし、それでも信春の攻撃は終わらない。再び引き戻された槍は、先の二撃に優る速さと鋭さをもって敵将に迫り、その穂先はとうとう元信の右の肩口を捉えたのである。
 揺れる馬上、周囲の敵兵を相手にしながらとは到底信じられない、信春、神速の三連突きであった。


 元信の口から、かすかな呻き声が漏れる。咄嗟に身体をひねった為、肩口の傷は致命傷には程遠いが、しかし決して浅くもなかった。槍を持つ右の腕に、痛みと痺れが交互に走る。当分の間、右腕は使い物にならないであろうと思われた。
 一方の信春の口からは、かすかな賛嘆がもれる。傷を負わせることが出来たとはいえ、自慢の連撃で仕留められないとは思わなかったのだ。
 それでも、敵は手負い。今度こそは、と信春が四度、元信に向けて槍を突き出そうとした時、元信の馬廻り衆が両将の間に割って入ってきた。彼らは信春の前に槍衾をつくりあげ、主将を後方へ退かせようとする。
「元信様、お早く!」
「くッ、すまぬ」
「なんの。元信様なくば、今川の復権はなりませぬ。ここは我らが防ぎましょう」
「任せたぞ。だが、死んではならん。命令ぞ、忘れるな」
「御意――しかし、果たせざる時はご容赦をいただきたく」
 そう言うや、元信の側近は矛先を揃えて敵将に向かって挑みかかっていく。その背に負った覚悟を目に焼き付けながら、元信は左手で手綱を操り、馬首を返す。たとえ部下を犠牲にしたと後ろ指さされようと、ここで命を捨てることは、元信には出来なかったのである。


 元信の後退により、武田軍は更に勢いづいて攻勢を押し進める。しかし、今川軍は退きつつも粘り強い戦いを続け、武田軍の突破を許さない。
 乱戦になってしまえば、今川軍の兵力が物を言う。そう判断した信春は手勢をまとめ、部隊ごとに交互に後方へ退く繰り引きの法を以って、ほぼ無傷で戦場から離脱してのける。
 この信春の突進により、今川軍は三百近い死傷者を出したが、武田の伏兵を暴くという元信の狙いは達せられた。さらに、武田軍最強を誇る火の将の突進を防ぎきったという自信をも得た形となり、今川軍は敗勢の中にも少なからぬ成果を掴んだのである。


 これを受け、競り合いを続けていた朝比奈泰朝と山県昌景も、日没を前に、頃合を見計らって兵を退かせる。
 この一連の戦によって、今川軍の進撃は遮られた形となったが、それでも武田軍が今川軍を圧倒するまでには至らず――身延山一帯を主戦場とした両軍の戦は、今しばらく続くものと思われたのであった。






◆◆






 甲斐南部で激戦が繰り広げられていたその頃。
 俺たちは北条の使者松田憲秀と共に躑躅ヶ崎館に戻って来ていた。使者の目的は、武田家に対して正式に盟約を白紙に戻すことを通達するもので、俺たちははからずも三国同盟が崩壊するその瞬間を目の当たりにすることになったのである。
 その数日後、北条綱成率いる六千の軍勢が甲相国境を突破、甲斐国内に侵入を開始する。
 武田家ではこれに対抗するため、四千を越える兵力を東南の上野原城へ篭める。この兵力を率いるのは春日虎綱。虎綱は躑躅ヶ崎館に戻らず、甲相国境の要である上野原城にとどまっていたのだ。
 虎綱を総大将とした四千の軍勢は、上野原城を拠点として迫り来る北条勢に対し防戦を行うことになるであろう。


 山県、馬場は下山城へ。
 内藤は信濃へ。
 山本は黒川金山へ。
 武田の六将はそれぞれ手勢を率いて向かっている。それらに加えて北条家を押さえるために、晴信の直属部隊を含む四千の軍を東南へ派遣したため、さすがの武田軍も兵力が底を尽き、今の躑躅ヶ崎館の兵力は幸村が率いる真田軍一千のみという状況であった。


 自家の軍で晴信を守ることとなった幸村は、ただちに躑躅ヶ崎館の防備を固めると共に、間道という間道に物見を放ち、遠からず現れるであろう敵の別働隊への備えも怠らない。
 まさに水も漏らさぬ布陣――と言いたいところであったが、現在、躑躅ヶ崎館は幸村が予期していなかった混乱に見まわれており、怨敵の出現を今や遅しと待ち構える幸村は苛立ちを禁じえずにいたのである。 




 その幸村の苛立ちの原因は、甲府の町外れにいる百や千ではきかない人数であった。将兵ではない。甲府の住民でもない。着の身着のまま、といった格好で地に座り込んでいる彼らは、今川軍の北上に伴い、甲斐南部から逃れてきた領民たちであった。
 伝え聞く今川軍の狂猛さを恐れたゆえの行動なのだが、実のところ、これは危難を避けたつもりで、より危険な場所に踏み込んでしまったも同然であった。
 無論彼らはそのことを知らない。そして、教え諭してやることもまた出来ない。今回の作戦の全容を知るのは武田軍の中でも一握りのみ。何も知らない家臣や領民に、これから躑躅ヶ崎館が戦場になると話してしまえば、今川方に情報が漏れてしまう可能性があるからだった。


 だからといって、戦乱に怯えた民を見捨てるような真似は、無論出来ぬ。それをすれば武田家の名誉は地に落ち、今川軍に敗れるよりなお悪い事態となることは明らかであった。
 迫りくる今川軍と、姿の見えない信虎に加え、本来は守るべき者たちである民までが、今は武田の動きを阻む要因と化してしまっているのである。 


 

◆◆



「――と、現状はこうなっているのである」
「――誰に何を説明しているのですか、そなたは?」
 不思議そうな顔で晴信に問われ、俺は言葉を濁して頭をかく。
 北条家の断交の使者と共に躑躅ヶ崎館に戻ってきた俺は、大言を吐いた挙句の不首尾を武田の家臣から嘲られることになる――無論、これは敵を欺くには……というやつであるが、元々、晴信の戦略は極秘事項であり、一部の重臣しか知らない。くわえて、報告に際してあらかじめ打ち合わせをしてあったわけでもないから、事情を知る者の中にも、本当に不首尾に終わったのかと考えた者もいるであろう。まして、何も知らなければ尚更である。
 晴信は厳しい顔で俺の報告を聞き終わると、それでも使者の労をねぎらい、館の一室で疲れを癒すようにと口にする。
 それを受け、恐縮して下がる俺の背に、周囲から失望の視線が突き刺さるのがはっきりと感じられた。


「――とはいえ、さすがに晴信様は気付いているだろう、と考えていたら、こうして部屋に足をお運びになった次第。さすがは甲斐の虎と渾名される名将である」
「――だから、誰に何を説明しているのです、そなた?」





 などというやりとりを、のんびりと茶などすすりつつ行っている俺と晴信であった。
 外で目を皿のようにして館の防備を点検している幸村に見つかったら、槍で貫かれそうである。というか、すでに室内の空気からして、平穏とは遠いものになっていたりする。皆、気付かぬふりをしているが、竜虎相打つ状況を目の当たりにすれば、平静ではいられない。
 弥太郎はおろおろと首を左右交互に向けているし、段蔵は我関せずを貫いているように見えて、額に冷や汗うかべているし、秀綱は背筋を伸ばし、瞑想しているかのように先刻から微動だにしない……まさか現実逃避をしているわけではない、ですよね?
 おもわず不安になる俺であった。


 秀綱の真意はさておき、不穏な空気を発しているのはこの三人ではない。では誰なのか。
 答えは簡単である。簡単であるがゆえに、それを口にしてしまえば、最早後戻りはできな――
「ところで」
 俺の思案を遮るように晴信が口を開いた。そして、何でもないことのように、最後の一人――虚無僧様に向けてあっさりと言う。
「良い加減、そのむさくるしい深編笠を取ったらどうです、上杉輝虎?」
 ぴきり、と空気が割れる音を、俺ははじめて耳にしたように思う。





「……人違いでござる、拙者、上杉輝虎などという名ではござらん」
 虚無僧様は低く低く押さえた声で反論する。それを聞いた晴信は舌鋒鋭く追及を行うかと思いきや、あっさりとその言葉に頷いて見せた。
「そうでしたか、それは失礼しました。越後から来た一行があからさまに怪しい者を従えているのは、それを指摘できないほどの身分の者だからだ、と思ったのですが、違うのですね」
「……御意にござる」
「ふむ。確かに現在の越後守護は天道を掲げ、正義を奉じる者。虚無僧の姿格好で間者の真似事をするなど笑止千万にして子供だましなやり方を選ぶわけもない。埒もないことを言いました」


 げふげふ、と咳き込む俺。見えない筈なのに、編笠の奥の虚無僧様の顔がひきつるのが見えた気がした。
 晴信はそんな俺に気遣わしげな視線を向ける。
「おや、天城、風邪ですか? 短い間に越後から相模までの道程を走破するのは、重任を受けた身にはさぞ辛かったことでしょう。ここに輝虎がいればその苦労をねぎらってやるのでしょうが、残念ながらここにそなたの主君はおらず――ふむ、是非もない」
 そういうや、晴信はすっと俺に一歩近寄ると、その手を俺の額に押し当てた。
 しなやかで、ひんやりとした晴信の指の感触と、間近に迫った顔の近さに驚き、俺は思わず身をのけぞらせてしまう。
 思わぬ晴信の行動を目の当たりにし、無音の驚愕が室内に満ちた。


 その空気に気付かぬ筈もあるまいに、晴信は手を離すと、こともなげに口を開く。
「ふむ、熱はないようですね。後ほど典医の徳本に命じて、疲労に効く薬を処方させましょう」
「そ、それはありがたいことでございますが、あの、晴信様?」
「どうしました、さように慌てて。虎綱の言によれば、天城颯馬という男、どのような事態にあっても動揺することなく、たちまちのうちに解決への糸口を見つけてのける胆力と思慮深さを併せ持つ傑物である、とのことでしたが――」
 褒めすぎです、虎綱殿。
 俺は思わず、遠く上野原城にいる虎綱に心中で語りかけてしまった。
「今のそなたは、いささかその評にそぐいませんね」
 くすくすと笑う晴信の声がやたらと近い。香でも焚きこんでいるのか、晴信の身体から、そこはかとなく立ち上る薫香にめまいを覚える俺であった。




 弥太郎があうあうと慌て、段蔵の視線がこころなしか鋭くなり、秀綱が頬に手をあて、そして虚無僧様が膝立ちの姿勢になった瞬間、晴信は何事もなかったかのように俺から離れ、あっさりと話題を変えてしまう――なんかもう、明らかにこちらをからかっている。うあ、虚無僧様、なんか震えてませんか?
 戦々恐々とする俺だったが、当の晴信は澄ましたものである。
「ともあれ、北条への使い、ご苦労でした。やはりそなたに行ってもらったのは正解だったようですね」
 それを聞き、ようやく俺の口は言葉を紡いでくれた。
「恐縮です。そういって頂ければ、越後より参った甲斐もあったというものです」
 晴信はこくりと頷く。
「昌景と信春には力を矯めよと申し付けてあります。あの二人ならば、不自然でない程度に膠着状態をつくることが出来るでしょう。昌秀は信濃に、勘助は黒川に赴き、そして虎綱は上野原で北条軍と対峙する……武田の主力は真田を残してすべて出払いました。後は彼の者が動くのを待つばかりです」
 そう言った後の晴信の行動を見て、俺は思わず息をのむ。


 あの武田晴信が、頭を下げたのだ。


 無論、頭を下げたといっても、平伏したわけではない。わずかに、かすかに、ほんの少し、頭を垂れただけだ。見る者によっては頷いたくらいにしか見えなかったであろう。
 だが、俺は呼吸が止まるかと思うほどに驚いた。まさか、あの誇り高い晴信が、上杉の家臣である俺たちの前で、たとえわずかであっても頭を下げるなど、誰が思い至るというのか。
 俺以外の者たちも、それぞれの性格に応じて驚きをあらわにしていたが、晴信はそんな俺たちの反応に構わず、口を開く。
「ここより先は、我らの任。我が父の業、必ずこの館で断ち切ってみせましょう。そなたらは越後でその報を待ちなさい。そして輝虎に伝えてもらえますか――此度の借りは、近いうちに必ず返す、と」
 驚きさめやらぬ俺であったが、その晴信の言葉には首を横に振った。
「上杉は上杉の思惑で動いただけのこと、輝虎様も武田に貸しをつくったなどとは考えていないでしょう。もし、それでは晴信様の気がすまないというのであれば、一つだけ願いの儀がございます」
「申してみよ」
 晴信は一つ頷くと、俺に先を促す。それをうけ、俺は率直に願いを口にした。


「今しばらく、我らが躑躅ヶ崎館に逗留することをお許しいただきたく」


 その言葉を受け、晴信はかすかに目を細めた。
「――わざわざ危地にいることを望むとは、物好きなことですね。あるいは武田だけでは心もとないと、そういう心算ですか?」
「いえ、此度の戦、武田に敗北はございますまい。そこに疑念を挟むつもりはございません――ただ」
 俺は晴信の顔に視線を注ぐ。小柄な、だがそれでいて巍々とした城壁のように毅然としている少女。甲斐源氏の棟梁にして、甲信の地を制した覇道の主。その視線が向く先は、はたして戦の勝利なのだろうか。
 実のところ、俺はそこに確信を持てずにいる。虎綱とも話したが、晴信は勝利以外の何かを見据えているような気がしてならないのである。


 そして、次に晴信が紡いだ言葉は、そんな俺の考えを肯定するものであった。
「まあ良いでしょう。此度の戦の指揮、明日より幸村に委ねるつもりですから、幸村にもそなたらが館に留まること、伝えておきましょう。言うまでもありませんが、要らぬ騒動を起こさぬように」
 そういって、唖然とする俺たちを尻目に部屋を立ち去る寸前、晴信は虚無僧様を見て、思い出したように――その実、実際はタイミングを計っていたに違いないが――こう問いかけたのである。


「ところで――そなた、輝虎ではないならば、名は何ともうすのですか?」




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/12 12:36

「御館様も酔狂なことを。武田家の浮沈がかかった今この時に、何故貴様らのような輩を館に留めておくのか」
 俺を前にそう吐き捨てるように言ったのは、晴信から躑躅ヶ崎館防衛のみならず、今回の戦の総指揮を委ねられた真田幸村である。
 紫を基調とした質素な戦装束に身を固め、こちらを見据える視線は、物理的な圧迫感さえ感じさせるほどに鋭く、そして警戒心に満ちていた。実際、それと気付かれないようにはしているが、俺たち上杉家の主従の行動には、絶えず真田の忍が目を光らせているのである。
 だが、それを段蔵から知らされた時も、俺は別に驚きはしなかった。つい先日までは互いを宿敵と目していた武田と上杉である。状況が変わったとはいえ、昨日の敵は今日の友と割り切れる者ばかりではないのは当然で、むしろ幸村のように真っ向から感情をぶつけてくれた方がよほどすっきりするというものである。
 嫌いな人間に、お前は嫌いだと言うあたり、案外兼続と幸村は話が合いそうな気もする俺であった。



 俺としても、無用の騒動を起こしたくて留まったわけではない。
 だが、正直なところ、守将が幸村であると知ってからこちら、嫌な予感が脳裏を離れなかった。
 武田の雷将の才を否定するつもりは無論ないが、今回の戦に幸村を充てるのは、かなり賭けの要素が強いのではないか。
 野戦で真っ向から部隊をぶつけあうなら知らず、篭城戦、しかも謀略と策略が入り混じるような戦は、直情径行の幸村が最も不得手とするものであろう。もっとはっきり言えば、幸村では信虎の相手は務まらないのではないかと俺は危惧しているのである。



 とはいえ、そんなことを面と向かって言い放てば、即日甲斐からたたき出されることは明白であった。
 信虎を確実に討つためにも、そんな事態は避けなければならない。まあ上杉軍の将兵がいない以上、俺がいたところで大した力になれるわけでもないのだが、甲府には晴貞もいるのだし、町に被害が出るのを防ぐ手立てくらいは考えることが出来るだろう。
 そして、今のところ最も急を要するのが、件の難民たちであった。
 現在、躑躅ヶ崎館の責任者は幸村であり、この事態に対処する責任も幸村の双肩にかかっている。その事実を示すかのように、晴信は館の中で黙して語らず、幸村がどのように事態を処理するのかをじっと見つめているようであった。
 その主君の様子に気付かない幸村ではない。
 戦に長けるだけが将ではない、と常々晴信から諭されている幸村は、晴信に頼らずにこの状況を収めねばならなかったのである。


 俺たちはその手伝いを買って出たわけだが、案の定というか何と言うか、幸村にけんもほろろに断られてしまった。
 曰く「甲斐の民は武田の臣が守る。余計な手出しは無用」とのこと。それを言われてしまえば、こちらとしても引き下がらざるをえない。たとえばこれが越後での出来事であれば、多分俺も武田の手伝いは遠慮しようとするだろう。そう思えば、幸村の言い分はわからないわけではなかった。


 幸村は口先だけの将ではない。すぐに事態を収拾するために行動に移っていた。
 甲府の豪商の家屋敷や、あるいは寺社などにも命じて、難民の中から女子供老人を優先して建物内に保護するかたわら、甲府の町はずれに仮の住居を作らせて難民の住居とし、当面の混乱を凌ごうとしたのである。
 躑躅ヶ崎館の防備を固め、あるいは周囲に斥候を放ち、信虎らの索敵を行いながら、難民たちへの対処も着実にこなしていく幸村の手腕は水際だったもので、雷将の力量が戦のみに傾くものではないことを証明して余りあった。
 そして幸村らの精励の結果、女子供、老人病人など身体の弱い者たちの収容は驚くほどの短時日で完了を見た。これには俺も素直に脱帽せざるを得ず、俺を含めた上杉家の面々は、武田家を支える人材の厚みを改めて感じ取ることになる。


 とはいえ、すべての問題が解決したわけではない。
 女子供への対応を厚くすれば、薄くなる者たちが出るのは道理である。男たちの多くは仮の住居をたてることも思うように進まず、野ざらしのまま日々を過ごすことを余儀なくされていたのである。結果、体調を崩す者、食べ物を求めて元々の甲府の住人たちとの間に騒動を起こす者までが現れはじめていた。
 甲府の住人にしてみれば、難民は同胞とはいえ厄介者であるには違いない。戦乱を避けて逃げてくるだけならともかく、街中で騒ぎを起こされれば、彼らを疎ましく思う者が出てくるのは当然のことであった。
 かくて、両者の間に好ましからぬ空気が醸成されるまで、長い時間はかからなかったのである。


 住民と難民の間で騒ぎが起きれば真田の軍兵が鎮めにいくのだが、躑躅ヶ崎館の兵にも限りがあり、いつもいつも騒ぎを収められるわけではない。また難民の中には少しでも安全なところを、とでも考えたか、躑躅ヶ崎館の近くにたむろする者まで現れていた。
 今川軍の陰に怯えた彼らは、再三幸村が口にする甲府の町への避難も拒み、どうか自分たちを助けてくれと逆に幸村を拝む始末であった。


 こんな状況で敵の接近を許せば、戦うことさえままならぬ。だからといって、下手に敵軍のことを口にすれば、口から口に噂が伝わり、敵の斥候に悟られてしまう可能性もないわけではない。
 武力だけではなんともならない問題を前にし、幸村はいささかならず解決策を探しあぐねているようだった。
 



 そして――
 性格の悪い俺は、そんな相手の弱みに付け込むことにしたのである。



◆◆




「孫子曰く。暗くて寒くて腹が減ると、人間、ろくなことを考えないものなので、灯と暖と食は絶やさぬようにすべし」
「真顔で嘘を言うのはやめてください。弥太郎が感心してしまうでしょう」
「ええ?! 嘘なんですか?!」
 などというやりとりを段蔵と弥太郎としながら、炊き出しをする。
 傍らにいた秀綱がそれを聞き、微笑みながらこう言ったではないか。
「賢者の言には違いないですね――謙信様」
「……ぐッ」
 それを聞いた俺は思わずうめいてしまう。
 謙信とは誰だ、とはだれも言わなかった。この場にいる者は皆、先夜のことを知っているからである。
 事実、秀綱の隣で深編笠をかぶった姿の虚無僧様は、どこか楽しそうな声で「そうですな」とあっさりと秀綱の声に応じている。
「ううう……」
 俺は頭を抱えたくなったが、そう言っている間にも、粥を求めてやってくる人たちは絶えず、俺たちは口よりも手を動かさなければならなかったのである。




 ――何故に虚無僧様が謙信様になっているのか。
 これには深い理由がある。
 それは先日、晴信が虚無僧様に向けた唐突な問い「そなたの名は何というのか」というそれに、俺が思わずこう言ってしまったことに端を発する。
「その方の名はケンシン殿と申します」と、俺は咄嗟に言ってしまったのである。
 ちなみに、その後にこんなやりとりが続いた。


◆◆


「ほう、ケンシン、ですか。上杉の家臣の中では聞かぬ名ですね。かなりの実力の持ち主と見受けましたが、どのような縁で此度の使いに加わったのです?」
 興味津々という風情で晴信が俺の視線を向けてくる。
 何故だろう、その口元が楽しげに緩んでいるように見えて仕方ないのは。
 とはいえ、答えないわけにはいかない。
「……は。その者、輝虎様と同じく毘沙門天を信奉する武芸者にて、その、類まれなる武芸と軍略の才を持っております。数奇なめぐり合わせによって越後に参られ、此度、我らに力を貸していただいている次第にございます」
「ほう、類まれなる武の才、ですか。例えていえば、刀をとってはそこな剣聖殿に匹敵し、軍を操ればそなたに伍す、というところでしょうか」
 晴信の問いにこたえながら、俺はすらすらと偽りを述べ立てる。むしろ、問いを重ねるごとに口上に磨きがかかった気さえするのは気のせいか。
「前半はその通りにございますが、後半は否と申し上げねばなりますまい。我が旗鼓の才など、ケンシン殿とは比べるべくもない小さきもの。その例えは、猫と虎を比べるに等しいものかと」
「ほう。まさかそのような傑物が無名のままにさすらっていようとは、天下は広い。しかし、それほどの豪の者が何ゆえに編笠で顔を隠すのですか」
「は。実はケンシン殿はとある方と瓜二つの容貌をお持ちでいらっしゃいまして、その、此度の使いでいささか誤解を生じさせかねないと判断し、私がそのようにお願いしたのでございます」
 俺のかなり苦しい言い訳に、晴信は感じ入ったように頷く。
「そうですか。誰に似ているかを問うは非礼にあたりますね。それは仕方ないとして、しかし、それならばあらかじめこちらに一言あってしかるべきではありませんか、天城?」
「御意、礼を失したことは幾重にもお詫びいたします。私も少なからず平常心を欠いていましたようで」
 その後、二、三のやりとりの末、めでたく虚無僧様の名はケンシンと武田家に認知されることになったのである。


◆◆


 ――改めて思い返してみると、全然深い理由ではないな、うん。
 咄嗟のこととはいえ、なんであんなことを言ってしまったのか。晴信はそれ以上の追求はしてこなかったが……さて、内心ではどう思っていたことやら。
 それよりも問題は、あらぬ名を押し付けられる形となった虚無僧様である。俺は晴信が去るや、間髪いれずに頭を下げて許しをこうたが、意外にも当の虚無僧様は「ふむ、なかなかに良い響きですな」と、編笠の奥で微笑の気配を漂わせつつ、あっさりと名乗りを受け入れてくれたのである。
 それどころか。
「ところで天城殿」
「は、はいッ?!」
「拙者、実は悪筆でしてな。天城殿はなかなかに巧みに筆をお使いになるとか。ひとつ拙者の名を書いてみてはもらえまいか。今後、筆の習いに役立てたい」
「……は? あ、な、なるほど、えーと、ですね」
 虚無僧様の言いたいことを察した俺は、しばし悩んだ後、おそるおそる筆を動かして、一つの名を記したのである。
 『謙信』と。




 今明かされる驚きの事実。
 まさかこんなところで上杉謙信が誕生しようとは。




「何か大それたことをしでかした気がしないでもないんだが……」
 しかし、それは気にしないようにしよう。そう、偽名。今回だけの偽名ということで、それ以上の影響など出る筈がないのである、うん。嘘偽りは輝虎様がもっとも嫌うところだが、これも武略の一つ――ではないよなあ、やっぱり。 
「そんなことよりも今は目の前の問題に集中すべきであり急ぎ現状の問題を回避するために策を練らなければならないそうだ一つ案がある幸村に進言してみよう」
「なるほど、少なからず平常心を欠いているのは事実のようですね、颯馬様」
 俺の隣で、段蔵がぼそりと呟くのだった。 






 ともあれ、頻出する避難民の問題に頭を悩ませている幸村に、俺は弥太郎に向けた軽口と似たようなことを申し出たのである。
 はじめ、幸村は自分のやり方の不備を指摘されたと思ったらしく、顔をしかめながら、食料の配給はきちんと行っていると断言した。現在の躑躅ヶ崎館は作戦の一貫として兵力が少なくなっているため、兵糧にはそれなりの余裕があるのだ。
 だが、役人というのは民への施しを必要最小限におさえようとして、結果として問題を生じさせることが少なくない。この場合、実際に量が足りているかどうかが問題なのではなく、民がどう感じるかが問題なのであって、与えすぎくらいでちょうど良いのではなかろうか。
 長期に篭城するのであれば、兵糧を切り詰める必要が出てくるが、今回の場合はそうではない。ここは物惜しみせず気前良く庫を開き、難民の腹を満たして不満を沈静化させるのが得策である。一時凌ぎにしかならないが、信虎が出てくるのはもう間もなくであろうから、それで十分だろう。
 くわえて、あらかじめ甲府の町でやると知らせておけば、館の周囲にいる者たちもそちらに赴くに違いない。


 そう説く俺の意見に幸村が耳を傾けたのは、特に最後の部分をもっともだと考えたためか。
 俺がそんなことを考えていると、段蔵がどこか呆れまじりに口を開いた。
「……それはわかりましたが、どうしてわたしたちが手伝わされているのですか?」
 その段蔵の言葉に、俺はあっさりと答えを返す。
「『お前の発言だ。責任もってやりとげろ』と真田殿に言われたから、かな?」
 まあ、実際は真田軍を炊き出しなどに使いたくなかっただけだろうが。
「なるほど。つまり颯馬様のせいということですね」
「面倒な上役を持ってしまったと諦めるのが得策ではないかと」
「自分で言うあたりに配下への誠意の欠如を感じます」
「はい、すみません。どうか手伝ってくださいませ」
「人の上に立つ者としての威厳が欠けています」
「どうしろと」



 
 段蔵とそんな遣り取りをしつつ、俺は周囲の様子に目を向ける。
 そうすると、視界にとまる者のほとんどが男性であった。これは、女子供老人への対応が滞りなく進んでいる証だろう。幸村は弱い立場の者を優先的に保護しているため、こういった炊き出しに集まる必要がないのである。
 その一方で、男たちへの対応は、お世辞にも手厚いとは言いがたかった。この場にいる者たちの表情からも、怯えや先行きへの不安と共に、自分たちの境遇への不満と怒りを垣間見ることが出来る。
 また、これには他の理由もある。彼らは身を守るために武器や農具を持ってここまで逃げてきたのだが、幸村は彼らからその全てを没収してしまったのである。
 これは敵兵が難民に紛れていることを予測した措置であり、適切なものではあった。また彼らの不満が高まった際、流血沙汰になるような事態を避ける意味でも必要なことであったろう。


 だが、幸村はそういったことを彼らに説くという手間を省き、真田の兵を使って強行してしまった。この幸村の行動はただでさえ不安に苛まれていた難民に対して、拙速に過ぎたのかもしれない。その後の難民たちの様子は、明らかに施政者への反感を感じさせるものであったからだ。
 彼らの説得に要する時間と、信虎の襲撃までの猶予を考えれば、幸村のとった方法も致し方ない面もあるのだが、命からがら逃げ延びてきた人たちはそんなことは知らない。
 そういった諸々の不満を和らげる意味も、この炊き出しにはあったのである。
 




「とはいえ、やはり雰囲気はよろしくないな」
 甲府の町人や、小者らの手を借りて行った炊き出しは、さしたる混乱もなく終わった。
 武家屋敷に残っている武田家の女性陣からも有志を募り、これまでとは量も質も一回り違ったものを用意していただけに人々の評判はなかなかであった。
 しかし、それはあくまでこの場に限ってのこと。粥をもらう場所で暴れたり、文句を言う者は少ないが、場所が違えば、あるいは時が経てば腹の底に押し込めていた不満が首をもたげる者も少なくないだろう。
「所詮は一時しのぎですから。住居にしても、食事にしても、これまでどおりだと、皆わかっています。それに幸村殿をはじめとした真田衆の冷たい視線にも気付いているでしょう」
 段蔵の言葉に、弥太郎が心許なそうに口を開く。
「真田様にお願いして、明日も炊き出しをするわけにはいかないんですか? そうすれば――」
「難しいでしょう。真田殿は今日のことでさえ、あまり良い顔をしていらっしゃいませんでしたから」


 女子供ならいざ知らず、健康な男どもが侵略者に抗うことなく逃げ出し、当然のように領主に庇護を求めるとは何事か。幸村がそんな苦々しい思いを抱いていることは、段蔵や弥太郎も感じているようだった。
 俺たちが感じ取っているくらいなのだ。この場でたむろしている男たちも、自分たちが幸村からそう見られていることを悟っていてもおかしくはない。否、段蔵の言うとおり、多くの者は気付いているだろう。感情を隠晦することのない幸村の性情を俺は好ましいと思うが、今のような事態では悪い方向に働いてしまったようであった。
 これが晴信であれば、たとえ感情を幸村と等しくしようとも、決して内心を表には出さず、男たちにも女子供へ向けるものと同じ顔を示したことであろう。



 俺は上野原城に残った虎綱から晴信のことを頼まれているし、加賀の晴貞のことを受け入れてくれた晴信に、個人的に恩義を感じてもいる。甲府の不穏な空気を払う程度の働きはしたいと思って、この地にとどまった。
 炊き出しもその一貫であったが、しかし、繰り返すがこの炊き出しは問題の先送りに過ぎない。現状のままに時が推移していけば、難民の反感はますます増大してしまうだろう。
 彼らの総数は百や二百ではない。すでにその一部が不安と、そして不満にあかせて躑躅ヶ崎館を囲みつつあるように、事態は刻一刻と悪化しつつある。今でこそ嘆願の形をとっているが、それがかなえられなければ、彼らの不満は為政者への敵意に変ずるかもしれない。最悪、信虎の軍に呼応することもありえよう。



 ただ、幸村はすでに難民らの武器を没収している。もし、難民の中に信虎に呼応しようとする者がいたとしても――あるいは、その息がかかっている者が潜んでいたとしても、武器を取り上げられてしまった今、大した騒ぎを起こすこともできないと思われた。
 あるいはもしかすると、幸村はそこまで考えて先手を打ったのだろうか。だとすると、その威をもってすれば、難民の反感など容易く押さえつけることが出来るかもしれない。
 一時、民の反感を買おうとも、その反感を力づくで押さえつけている間に信虎を討ってしまえば――これもまた立派な問題の解決といえる。生じた反感は、戦が終わってからゆっくりと解きほぐしていけば良い。
「そう考えると、俺が気を回しすぎなのか?」
 そんな風にも考えてしまう俺であった。




 ただ、今回の場合、敵は尋常な人物ではない。
 信虎を指して『狂王』と言った人物――三河の松平元康の顔を、俺は思い浮かべる。
 柔和で、人好きのする笑みを浮かべた少女は、しかし信虎のことを口にする時だけは、人がかわったように厳しい表情を浮かべていた。その元康の口から聞いた駿府の惨状をも思い起こす。
 古来より、難民や無頼者を利用して相手陣営を撹乱する戦術は枚挙に暇がない。武器を持たずとも、農作業で鍛えられた屈強な男たちのこと、いかようにも用い様はあり、その中には唾棄すべき事例も多々含まれている。
 そして、信虎が用いる策が、それに類するものではないと誰に言えるだろうか。


 俺は周囲にそれとなく視線を配る。
 甲府まで逃げ延びた疲労に加え、状況が状況だけに良く眠ることも出来ないのだろう、皆顔色が良くないように映る。苛立たしさを隠し切れていない者もちらほらと見受けられた。
「一応、備えてはおくか。無駄働きになるなら、それはそれで良いことだしな」
 炊き出しの片付けを行いながら、俺はひとりごちると、段蔵と相談するために口を開いた。




◆◆




 そして、その夜。
 「問題は信虎がどう出るかだが……これは考えても仕方ないか」
 晴信から与えられた一室で、燭台の火を見つめながら、俺は一人呟いた。
 今にいたっても、信虎が自身で躑躅ヶ崎館まで出てきたという確報は得られていない。伝え聞く信虎の行状とその性格を考えるに、信虎が出てくるのはほぼ間違いないと思うのだが、それは予測に過ぎない。別の場所に姿を現す可能性もあるし、あるいは駿府城から動いていない可能性さえ否定は出来ぬ。
 だが、口に出したように、それは考えても仕方ないことである。ここまで状況が進んだ以上、信虎が来るものとして動かなければ作戦全体に齟齬が生じてしまう。


 信虎が来るとして、では次に問題となるのが、幸村が信虎を止められるか否かという点であった。
 躑躅ヶ崎館の防備や難民への対応を見る限り、幸村がただ猪突するだけの将でないことは明らかである。だが、信虎のような老獪な人物を相手どる戦において、総大将が年若い幸村では、やはり不安の方が先に立つ。
 これが晴信であれば、年若くはあっても、不安に思うことはなかったであろう。晴信が幸村に総指揮を委ねたことが、果たして結果にどう影響するのか。


 いや、それよりも――
「そもそも、どうして幸村に総指揮を委ねたのかな。まあ、こっちも考えても仕方ないことだけど」
 俺は両手を頭の後ろで組むと、その態勢のままごろりと寝転がる。
 晴信が幸村に対し、躑躅ヶ崎館の守備だけでなく、戦局全体の指揮権さえ委ねた以上、今回の戦における武田軍を総率するのは幸村ということになる。武田の六将が独立した作戦を指揮する権限を委ねられることは珍しくないが、それでも、その規模はそれぞれの方面軍を指揮するのが精々で、今回のように武田全軍を挙げる規模の戦で、晴信以外の者が指揮をするのは稀有な例であろう。
 まして、今回の敵が容易ならざる相手であることを誰よりも知るのは晴信である筈なのに、その指揮を、信頼厚い寵臣とはいえ、年若い幸村に委ねたのはどうしてなのか。
 視界には、燭台の灯火によっておぼろに浮かび上がった天井の梁が映っている。なんとはなしに、それを目でなぞりながら、俺はとりとめのない思考に身を委ねた。




 実のところ、問題は他にもあるのだ。それも焦眉の急とでも言うべきもの――すなわち、遠からず兵火が及ぶであろう躑躅ヶ崎館に、未だ謙信様がいらっしゃるという現実である。
 実のところ、つい先刻も、早く越後に戻るようにと説得はしたのである。武田と北条の施政を己が目で見ることができたのだ。こっそり越後を抜け出したことの意味は、もう十分にある筈だから。
 だが、結局、謙信様は首を縦に振ることはなかった。どうも晴信にからかわれた影響もあるのかもしれん。この話を切り出すと奇妙に機嫌が悪くなる謙信様を見て、俺は首を傾げるばかりであった。


 ただ、どちらに理があるかは誰の目にも明らかなこと。明日になれば謙信様も落ち着かれるだろうし、そうと気付けばいつまでも我を張られる方ではない。説得も容易だろう。
 今日中の説得を断念した俺は、そう考え、一人、用意された部屋に戻ってきたのである。
 まあ、一人といっても、部屋の外では弥太郎が寝具にくるまりながら番をしてくれている。段蔵は昼間の件で少し外に出てもらっており、秀綱と謙信様も、さきほど弥太郎が話しているのが聞こえてきたので、すでに部屋に戻ってきているのだろう。





 後は特にやるべきことがあるわけでもない。段蔵の報告をまって、今日は寝ることにしよう。
 そんなことを考えていた、その時だった。
「……ん?」
 燭台の灯が揺らめき、奇妙に生暖かい風が俺の頬を撫でる。寝転がっていた俺は、上体を起こした。晩秋が過ぎ、冬を迎えつつある甲斐の気候は、一日ごとに厳しさを増している。にも関わらず、外から室内に流れ込んできた風に、俺は冷感を覚えなかったからである。


 胸を騒がせる衝動は、虫の知らせというものか。形の見えない何かに突き動かされるように、立ち上がりかけた俺の耳に、聞きなれた――しかし、甲斐へと使いしてからこちら、あまり聞くことの出来なかった声音が飛び込んできた。
「――颯馬、よいか」
「はッ、けんし……いえ、輝虎様」
 答えるやすぐに襖が開け放たれ、そこに謙信様改め輝虎様の姿を、俺は見出すことになる。
 深編笠をとった輝虎様は、秀麗な容姿を甲斐の外気に晒し、その眼差しに鋭気を湛え、静かに口を開いた。




◆◆





 甲府盆地の南方に武田の四つ割菱の旗印を掲げる一軍が姿を現した、との報告が躑躅ヶ崎館に飛び込んできたのは、それから間もなくのこと。
 その数はおおよそ七百。すべて騎兵であり、一目散にここ躑躅ヶ崎館へ馳せ向かっているという。
 戦力のほとんどを四方の戦場に投じている今この時期、甲斐国内に七百もの騎兵を統べる国人衆がいる筈はない。
 それはつまり――


「……来ましたか」


 躑躅ヶ崎館の奥、当主の間で、武田晴信は小さく、そう呟くのだった。






◆◆






 真田幸村は、その個人的武勇と戦陣における雷挺の如き突破力をもって、武田六将が一、『雷』の将を拝命している。
 真田は、馬場と並ぶ武田軍の武の象徴。だが、真田家が武門として名を上げたのは、当主が幸村になってからのことであり、元々は智をもって知られる家柄だった。
 真田家は信濃の小県の領主であったのだが、幸村の祖父幸隆の父の代に国人衆の勢力争いに敗れた末、甲斐の信虎を頼って落ち延びた。これ以後、真田家は武田家の麾下に名を連ねることになる。


 旧領回復を志す父が病で亡くなった後、後を継いだ幸隆は、信虎にその豊かな智略と明晰な判断力を買われ、累代の家臣たちに劣らぬ処遇を与えられるようになる。父子二代に渡る重恩に感じ入った幸隆は武田家に忠誠を尽くすが、信虎が中央集権を強硬に押し進めるに従い、主従の間に少しずつ不協和音が生じるようになっていった。
 当主である信虎に権力を集めるということは、地方の国人衆の権力を奪うということに他ならない。信虎の麾下にいることは信虎の私臣になるということである。信濃の旧領回復を念願とする幸隆にとって、信虎に忠誠を誓うことは自家の復興を妨げる結果となりかねず、その大いなる矛盾に幸隆は苦慮することになる。
 幸隆だけではない。元々、信虎は名実ともに甲斐の主権者たらんとしていたが、この時期の行動はこれまでとは比べ物にならないほどに急激であり、ある意味で露骨ですらあった。そのため、国内の国人衆の反発は急激に高まっており、甲斐全土に不穏な空気が充満しつつあったのである。


 ――あるいは、それすらも計画通りであったのか。
 破局を防ごうとした幸隆らの尽力も空しく、躑躅ヶ崎の乱は勃発し、結果、信虎は駿河へ追放され、幸隆ら多くの有力者たちは甲斐の地に還っていくことになる。





 躑躅ヶ崎の乱が取り戻しえぬ犠牲の末に終結した後。
 祖父と父の死を、幸村は姉信之と共に真田の領地で聞いた。真田家の大黒柱であった祖父と、後継者であった父を同時に失った真田の姉妹は悲嘆にくれたが、姉妹以上に混乱と恐慌に陥ったのが家臣たちであった。
 元々、信虎に従い続けることに反対を唱えていた者たちは真田家内部にも少なくなかった。躑躅ヶ崎の乱では信虎に敵対したものの、そこに到るまで、信虎の勢力拡大に助力してきたことは否定できない事実であり、一部の家臣たちがその失態をあげつらい、真田家の主権を欲して謀叛を起こそうとしたのである。


 この動きは真田の一族であり重臣でもある矢沢頼綱と信之によって素早く鎮圧されたが、打ち続く混乱による衝撃と、その後の心労が祟ったのか、姉信之は間もなく病床に伏せるようになり、躑躅ヶ崎の乱よりおよそ三月後、とうとう身罷ってしまう。 
 短い間に当主とその跡継ぎ、さらには跡継ぎの嗣子さえ死亡してしまう事態に家臣たちは動揺し、一時は真田家取り潰しの声まであがっていたのである。
 もし、この時、武田家当主となった晴信が、幸村を当主として真田家を存続させるという決断を下さなければ、真田家も、後の『雷』の将も、その名を歴史の片隅に埋もれさせることとなっていたであろう。
 幸村が晴信に絶対的な忠誠を誓う理由の一つが、ここにあった。




 幸村にとって、悪夢にも等しい過去からはや数年。
 真田家を滅亡寸前にまで追いやった過去の悪夢は、再び幸村の前にその姿を現しつつあった。
 だが。
「――すでに、この身はあのときの無力な女童にあらず。真田の軍がここにある限り、貴様らを生きて御館様の前に通すことは、決してない」
 所属不明の騎馬隊発見の報告を受けた幸村は、ただちに自家の手勢を南に配置する。
 躑躅ヶ崎館はその東西を川に挟まれ、後背には要害山城という堅牢な城がそびえたつ。必然的に、敵の侵入は南側に限られているのである。
 真田軍の先手を率いるのは、真田家家臣矢沢頼綱。
 幸隆の弟にあたり、世が世であれば真田家の当主に就いていてもおかしくないこの人物は、しかし自ら進んで幸村に当主の座を譲った無私の人物でもあった。
 晴信以外の人物に対しては倣岸になりがちな幸村であるが、幾重にも恩のあるこの伯父に対しては強く出られない。
 その頼綱に大半の手勢を預けて南に向かわせると、幸村はただちに躑躅ヶ崎館の防備を固める。
 まとまった数の部隊が通れるのは南側だけであるが、少数であれば他方から侵入してくることも可能である。幸村はそれに備えるつもりなのか、少なくなった守備兵を要所に配置しなおすと、自身は館の一室でじっと座していた。
 まるで何かが来るのを待っているかのように。
 身動ぎせずに。




◆◆




 叫喚と共に突進してくる暗灰色の騎馬隊は、まるではじめから命を捨てているかのような猪突ぶりを見せた。騎兵の突進を防ぐ槍衾の只中に躍りこみ、突かれようが斬られようが構わずに、自身が動ける限り周囲の敵兵をなぎ倒そうと暴れまわるのである。
 頼綱が率いる真田家の軍勢は、六文銭の旗印の下、敗北を知らぬ逞兵である。このような無謀な攻撃で陣を突破されるようなことはない。頼綱の指揮の下、冷静に複数の兵で敵を追い詰め、屠っていくのだが、敵軍は一向に怯む様子もなく、同じ突撃を繰り返す。
 血まみれの肉塊となるまで暴れまわって果てていく――そんな常軌を逸した敵の戦いぶりに、真田軍は攻撃の手を緩めることこそしなかったが、その凄惨な有様を目の当たりにして何も感じないわけはなく、次第にその動きを鈍らせていった。


 どれだけの猛撃でも、一度や二度の突撃で綻びを見せる真田軍ではない。しかし、それが三度、四度、五度と繰り返されれば、支えきれない箇所も出てきてしまう。
 そして、この敵兵は狂的な攻勢を繰り返す反面、そういった陣の破れ目を見逃さない狡猾さを併せ持っていた。真田軍の陣の破れ目を的確に衝き、真田軍がそちらを支えようとすれば、手薄になった正面へと攻めかかる。
 両軍が、短いながらも激烈な攻防を繰り返した末、ついに真田軍の堅陣の一画に穴が開き、中陣は敵の攻勢を支えきれずに大きく押し込まれてしまう。
 中陣の動揺は両翼の軍に波及する。このままでは、躑躅ヶ崎館への道を明け渡すことになってしまう――そんな危惧が真田軍の将兵に襲い掛かった時だった。


「我らの偵知の網にかかることなく、甲斐の奥深くまで進攻する機略。猛々しく、巧妙なる用兵の術……やはり、信虎殿か」
 呟きつつ、頼綱は片手をあげた。
 その合図に従い、側近の兵が紅く染め上げた旗を大きく振り回す。
 すると、押し込まれていた真田軍本陣は、さらにその陣を大きく崩す。まるで、ついに敵軍の勢いに抗うことが出来なくなったかのように。
 この真田軍の変化に気付いた敵軍はさらに攻勢を強化し、一挙に突破をはかろうとした。


 その動きに呼応して、真田軍の両翼も動き始めた。勝ち目なしとみて、戦場を離脱するため、ではない。
 両翼の部隊はそれぞれ一部隊を用い、袋の口を閉じるかのように、信虎軍の後背を遮断してのけたのだ。中央突破を成功させるかに見えていた信虎軍は、一転、真田軍に包囲される形となり、それに気付いた信虎軍は鋭鋒をかすかに鈍らせた。
 その瞬間を見計らい、後退を続けていた頼綱の中軍は反転攻勢に踏み切る。この時、一瞬の戦機を正確に掴み取った頼綱の指揮は見事の一語につき、真田家に流れる戦人の血が、幸村一人のものでないことを無言のうちに周囲にしらしめていた。
 陣頭に馬を立てた頼綱の号令を受け、真田軍は槍先を揃えて信虎軍に襲い掛かる。
 乱戦の始まりであった。



 時が経つほどに、戦は混迷を深めていった。
 後背を遮られた信虎軍は、一度はその勢いを減じたものの、逡巡から立ち直るや、前にもまして攻勢を強めていく。
 まるで、左右後方の敵など見えぬと言わんばかりの敵軍の攻勢を前に、頼綱ははからずも、山県昌景と同じ言葉を口にする。
「死兵……か」
 討っても討っても後ろから押し寄せてくる信虎軍を払い続けながらも、その粘性に満ちた戦いぶりに頼綱は悪寒と、そして驚嘆を禁じ得ない。
 ついには頼綱自身が、群がる敵兵を己の刀で斬り伏せる場面まで出るようになり、互いに退くことの出来ない両軍の戦は泥沼の様相を呈し始めた。
「たとえ旧主の軍とはいえ、ここを破らせるわけにはいかぬ」
 懸命に敵の猛攻を食い止めながら、頼綱は独語する。
 今こうしている間にも、敵軍の左右、そして後方から真田軍が出血を強いていた。敵はほぼ全員が前がかりに攻めかかってきており、後背からの攻撃を無防備に受けている状態である。その被害は甚大なもので、すでに当初の七百騎は半数近くに討ち減らされているだろう。最終的な勝者が、数に優る真田軍になることは明白であった。
 だが、それでも、敵の矛先は乱れない。ともすれば、真田軍の咽喉笛を食い破らんと、猛然と反撃を繰り返す。この信虎軍の猛威を前に、頼綱は額に汗を滲ませる。もし敵軍があと五百、否、三百多ければ、あるいは持ちこたえることは出来なかったかもしれない。そんなことさえ考えてしまった。
 あるいは――信虎が直接指揮をとっていれば、現状のままでも敗北は免れなかったであろう。



 そのことに思い至った時、知らず頼綱の口からはため息ともとれる吐息がもれた。
「これほどの乱戦でもまだ姿を見せず。ということは、幸村の申した通りであったのか」
 頼綱の兄である幸隆とその子昌幸の相次ぐ戦死、そして昌幸の子である信之の病死。ここ数年で真田の本家はその数を激減させている。残ったのは、ただ幸村のみであった。
 ここで幸村まで失えば、真田家の再興は永遠の夢となってしまうだろう。血筋だけを見れば、頼綱もまた真田本家の直系であったが、すでに他家を継いだ身である。くわえていえば、頼綱は自分が真田本家の当主の器ではないことを自覚していた。
 小器用なだけの自分は、分家の矢沢家でさえ分不相応であるに、この上、無謀な望みを抱こうとはおもわない――それが頼綱の考えであった。


 それゆえ、頼綱は何としても幸村を守らなければならない。そう考えていたのだが。
「すでにして、それも余計な世話となっておる、か。御館様の薫陶を間近で受けてきたとはいえ、いやはや、見事な成長ぶりよ。兄上に迫る智恵の巡らし方よな」
 信虎が甲斐守護を務めていた時代、幸隆と共にその勇猛を幾度も目の当たりにしていた頼綱は、信虎の恐ろしさを知悉している。
 武芸の面だけで見れば、あるいは幸村の槍術をもってすれば、信虎を討つことも不可能ではないかもしれない。だが、英邁さと狡猾さを併せ持つかの人物のこと、勝てぬとわかればどのような手段でも用いることだろう。 真田家直系の血が絶えるような事態は、何としても避けなければならない。そう考え、先手を志願した頼綱であったが、幸村から作戦の骨子を聞かされ、その読みの深さにひそかに驚嘆した。
 そして、眼前の敵の動きは、まさに幸村の言葉どおりになっている。とすれば――


 頼綱がそこまで考えた時、不意に自陣から悲鳴にも似た声があがる。
 見れば勢いに乗った敵兵が、頼綱の本陣を蹂躙せんと猛々しい叫びと共に突撃してくる。
 頼綱は隆々と槍をしごくと、敵の眼前に馬を立てた。
 躑躅ヶ崎館のことは、当主殿に任せれば良い。頼綱の役割はここで敵軍を食い止めること。ここで頼綱が敗れれば、幸村の策も水泡に帰すであろうから。
 真田が六文銭を、敗北の汚辱に塗れさせるわけにはいかぬ。
 現当主のためにも。そして、先に逝った一族のためにも。


 頼綱は、敵の叫喚を打ち消すように力感に満ちた号令を発する。
「奮い立て、真田が勇士たちよ! 敵は少ない。押し包んで討ち取るのだ! 我らは武田が秘蔵の霹靂ぞ! かような寡勢に陣を破られれば、六文銭の旗印、以後仰ぎ見るを許されぬと心得よ!!」
 そう叫ぶや、頼綱は馬廻り衆を率い、敵兵を蹴散らすべく、猛然と敵軍の只中に踏み入っていくのだった。
 






◆◆






 同じ頃。 
 躑躅ヶ崎館の一画。木立に遮られ、深い闇がわだかまり、侍女や小者でさえ近づくことのない、そんな物陰から、今、幾人もの影が湧き出るように現れていた。
 その中の一人が、眼前の館の景観を無感動に眺めながら声を発した。
「盛清」
「は」
「搦め手門を開き、外の連中を招きいれよ。しかる後、御旗屋の祠廟を押さえるのだ。御旗楯無(みはた たてなし)は、正当な持ち主の元にあるべき宝器よ」
「御意、ただちに」
 闇の一隅から響く声音に向け、信虎は短く付け足す。
「二度は許さぬ。心得ておけ」
「……承知、仕りました」


 声をかけられた男が数名を引き連れて搦め手門に向かって姿を消すと、声をかけた男は自らも動き出す。
 といっても、闇に隠れて様子を窺うことなどしない。足音を潜めるでもなく、堂々と歩を進める。まるで、我が館の庭を歩くにも似た、あまりに平然とした様子に、麾下の者たちの方が不安を隠せない様子であった。
 もっとも、それを口に出す者はいない。また、躑躅ヶ崎館の中から、彼らの不審を咎める声もあがらなかった。
 男は知っていたのだ。有事の際にはどこに兵を集めるか。どう人が動くのか。手薄になるのがどこか。また、それらを鑑みてもっとも容易く目的を果たせる抜け道がどれか。いずれも掌を指すように知悉しているからこそ、逃げ隠れする必要を認めていないのである。


「――とはいえ、それは貴様とて同じことと思うたがな、晴信。こうも容易くわしを入り込ませるとは、ふん、策があるにしても、甘く見すぎであろう。その増上慢には灸をすえてやらずばなるまい」
 その男――先代甲斐守護職・武田信虎は、久方ぶりに訪れたかつての居館に足跡を残しつつ、その頬に猛々しい笑みを浮かべるのだった。




 信虎の浮かべた笑みは、これより先に繰り広げられる陵辱の宴を思い描いたゆえのものであったろう。
「……む?」
 だが。


 その信虎の前に立ちはだかるは紫紺の将。
 その口から発された勁烈な叱咤が、鞭打つような激しさで夜気を震わせた。


「武田が『雷』の将、真田幸村である。招かれざる客人は、たとえそれが先代当主といえど、刃を以って迎え、死をもって送り返すべし。貴様らが御館様の元にたどり着くことなどありえぬと心得よ!」
 闇夜に紛れていた侵入者たちは、その声に驚きを隠せない。彼らは周囲に視線を走らせ、先刻まで自分たちの姿を包み隠していた闇が、いつのまにか敵意を込めて、自分たちを押し包んでいることを悟る。
 そんな中、ただひとり、泰然と動じていなかった信虎は、口元を歪めて、周囲に視線を送った。


 幸村の言葉が終わるや、闇に潜んでいた幸村直属の将兵がその姿を現し、瞬く間に少数の侵入者を包囲していく。
 元々、躑躅ヶ崎館は信虎の居館であった。晴信の代になり、多少手が加わったとはいえ、その構造が大きく変わったわけではない。館の内部に関しては、細部まで信虎に把握されていると見て間違いはないと幸村は考えたのである。
 それはただ館の構造のみならず、有事の際に用いられるべき抜け道や隠し通路なども含めての話だ。そういった家の秘奥は、通常、当主から当主へと代々語り継がれていくものだが、今代の晴信は秘奥の継承を受けておらず、その意味でいえば信虎は晴信よりもはるかに躑躅ヶ崎館を知り尽くしていることになる。
 であれば、それを利用しない筈はない。
 先日来、幸村は館の防備を固めつつ、注意すべき箇所を割り出し、今宵の事態に備え、速やかに兵が動けるように計らっていたのである。


 そして今、幸村がこの場に潜ませていたのは、真田家の文字通り最精鋭である。それはすなわち、武田家の最精鋭ということでもある。その精兵で取り囲んだのだ。闇夜に紛れての襲撃などもはや不可能であり、信虎らの命運ははや尽きたかと思われた。







「……くく」
 信虎の口からもれ出た笑いが、その場の空気をかきみだすまでは。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/06 22:32


 先の甲斐守護職武田信虎。
 その名は真田幸村にとって少なからぬ意味を持つ。主君晴信の実の父であり、幸村にとっても主筋にあたる人物であり。同時に、真田の一族の多くを冥府へと追いやった怨敵でもある。
 もっとも、幸村自身の心情はいささかの乱れもない。信虎が主筋であろうがあるまいが、主君晴信の敵であるというただ一事をもって、それ以外のすべてのしがらみを振り切ることが出来るからであった。
 まして、信虎の狙いが甲斐の奪取と晴信の身命である以上、幸村にとって、信虎はただひたすらに倒すべき敵であるに過ぎぬ。
 これを討ち取ることに躊躇する筈はなかった。


 躑躅ヶ崎館を知悉する敵が、これみよがしに躑躅ヶ崎館の南に姿を現したことで敵の思惑を読み取った幸村は、現れた敵勢に対しては一族の頼綱を差し向け、自身はあえて館内に留まった。
 常に陣頭に立つことを誇りとする幸村に似合わぬ采配であり、頼綱でさえ驚きをあらわにしていたが、晴信から全権を委ねられた自覚と責任が、幸村の思慮を深める結果となったのかもしれない。
 そして、敵は幸村の推測通り、躑躅ヶ崎館にその姿を現した。
 奇襲とは敵の意表を衝いてこそのもの。相手が備えていた時点で、奇襲は奇襲たりえない。
 その筈であったのだが―― 



「何を笑うか、下郎。すでに事やぶれたりと覚悟を決めたか」
 幸村の言葉には刃の煌きが宿っていたが、向けられた相手は、そんな幸村の鋭気をこともなげに振り払う。
「くく、真田の娘、か。祖父以来、主家に忠誠厚きことよな。わざわざの出迎え、ご苦労である」
 それを聞いた途端、幸村の眉が急角度につりあがった。
「戯言を。貴様のような下郎に忠誠を誓った覚えなどない。私の主は武田晴信様ただお一人だ」


 その誇りに満ちた幸村の名乗りを聞いた信虎が、かすかに口元を歪ませる。
 信虎の手が霞むように動いた、そう見えた次の瞬間、幸村は持っていた槍を一閃させる。
 刃と刃がぶつかりあう甲高い音が周囲に響いた。それも一度ではなく、二度。
 だが投擲の勢いが強かったためか、二撃目を完全に止めることが出来ず、幸村の鎧の肩当付近で金属の削れる音が響いた。
「――ちッ?!」
 舌打ちをもらした幸村へ、信虎の声がとぶ。
「ほう、弾いたか。なかなかやる」
 手練の早業で懐剣を投じた信虎は、にやりと笑ってみせた。
「今のは主を下郎呼ばわりした無礼への譴責よ。本来であれば生かしておかぬところだが……貴様の祖父に免じ、此度だけは差し許そう」


 その信虎の言葉のほとんどを幸村は聞いていなかった。
 信虎が当主であった時代、幸村は真田の家にいたために信虎に関する記憶はほとんどない。英明と悪逆と、余人には測り難い方であるとの噂を耳にしていた程度である。
 当時は真田家当主は幸隆であり、後継者である昌幸も健在であったから、信之や幸村が政治に口を出すことはなく、また許されてもいなかったのである。
 かりそめにも晴信の父である。凡庸な人物だと思っていたわけではなかったが、たった今の投擲の業は幸村をして息を飲ませる領域に達していた。


 そんな幸村の驚愕を知ってか知らずか、信虎はさらに言葉を注ぎ足していく。
「たしか信之というたか、貴様の姉は死んだのか?」
 敵将の問いに答えることを、幸村はかすかにためらった。問答無用で目の前の敵を討ち取るべきかと考えたのだが、姉の名が出たことが、幸村の胸中に相手の言葉への興味の一石を投じてしまった。
「亡くなられた。だが、それが貴様に何の関係がある?」
「なるほどのう。信之が死に、何も知らぬ貴様が真田を継いだ、か。大方、それを押し進めたは晴信か? あいもかわらず、万事に粗漏の無い、可愛げのない娘よな」
「貴様如きが御館様の名を軽々しく口にするなッ! なにやら妄言をもって私に疑いを生じさせようとしているようだが、そのような浅薄な言にのせられる真田幸村と思ったかッ!」



 幸村の激語を聞いた信虎は、呆れたように吐き捨てる。
「自惚れるでないわ。幸隆や昌幸ほどの智謀の士であればともかく、貴様ごとき小娘、配下に欲するほど耄碌してはおらぬ。それにしても――」
 再び口元に明確な嘲りを湛え、信虎は独語する。
「かような小娘を重臣として据えるとは、武田の家臣の質も落ちたものよな。年端もいかぬ小娘が主君では、いたしかたなきことか」


 そう言った途端、信虎は左足を半歩下げ、半身の姿勢をとる。
 すると、寸前まで信虎がいた位置を、雷光と化した槍の穂先が貫いた。
 晴信への侮蔑の言葉を耳にした幸村が繰り出した一撃である。
 弾けるような勢いで信虎との間を一瞬で詰めた幸村が、必殺の念を込めて揮った一撃は、しかし信虎がわずかに身体を引くことで虚空を貫くに留まった。


 それでも幸村の動きは止まらない。
「はァッ!」
 気合の声も高らかに、幸村は縦横無尽に槍を揮う。
 これが邸内であれば、槍の長大さはかえって攻撃の妨げになったかもしれない。しかし、中庭であってみれば幸村の動きを妨げるものは何もなく、槍はその破壊力を存分に発揮できる。
 槍と刀では、その間合いが大きく異なる。信虎が腰に差している刀では、幸村の槍の間合いと渡り合うことは難しい。注意を払うべきは先刻の懐剣であるが、それも無限にあるわけではない、と幸村はわずかの間に判断していた。
 猛攻に次ぐ猛攻で、相手に態勢を整える暇を与えなければ、投擲も思うようにはいくまい。先のような不意打ちならばともかく、こうして渡り合っている最中に苦し紛れになされる投擲を避けるのは、幸村にとって造作も無いことであった。



 ここで信虎を討てば、此度の戦はほぼ終わる。
 今川家の諸将は、当主である氏真や家族の身を慮って信虎に協力しただけであろうから、その信虎がいなくなれば、あえて戦い続けようとする者はいまい。
 将が従えば兵はこれに倣う。甲斐に侵攻してきた今川軍一万五千。そして駿河本国の留守居をしている数千の軍勢。それらとの戦いが、目の前の男を討ち取るだけで回避できるのである。
 無論、幸村はそのことを弁えていた。その戦意は今や奔騰せんばかりに昂ぶっている。
「真田幸村が槍、その身で受けよ、武田信虎ッ!」
 幸村渾身の一撃が、空気をすら両断する勢いで信虎の身体に迫った。  



 甲州騎馬軍団を代表する六人の将の一角。雷将の武威が余すことなく込められたその一撃をかわすことなど、たとえ鬼神であっても不可能であったろう。
 信虎とて例外ではない。事実、信虎はその槍をかわすことが出来なかった。
「があッ?!」
 幸村の槍は狙いたがわず敵の眉間を貫き、頭蓋を砕き、脳漿を撒き散らす。


 ――ただし、それは。
「なッ?!」
 幸村は自分がたった今討ち取った相手を見据える。黒髪も豊かな、信虎とは似てもにつかぬ若き兵士を。



 信虎は手近にいた配下の兵の肩口を掴むや、無造作に自らの前に引き寄せたのである。主を援護しようとしていた兵士であったが、この信虎の行動が予測できる筈もなく、驚きを顔に浮かべたまま、雷将の一撃に頭蓋を砕かれ、その生涯を終えることとなった。
 その兵士の死屍が、力を失って崩れ落ちる。その最中、まるですがりつくように、幸村の槍に倒れ掛かったのはおそらく偶然であったのだろう。
 だが、幸村はそれを気にするどころではなかった。驚愕と赫怒に声を震わせる。
「貴様、兵を楯に?!」
「ふん、隙だらけじゃぞ、小娘」
 信虎の行動に激昂した幸村に対し、信虎は嘲りを表情に残したまま、滑るような足取りで幸村との距離を詰める。そうして繰り出された一刀は、空恐ろしいほどの精妙さで幸村の頚動脈を切り裂かんと迫ってくる。
 咄嗟にその一撃を避けようとした幸村だったが、先の兵士の骸が、槍を引き戻そうとする幸村の動作をわずかに妨げた。
 間に合わない。本能的にそう悟った幸村はためらいもせずに槍から手を離すと、身体ごと投げ出すように後方に飛ぶ。
 秒の差さえなく、信虎の刃が、寸前まで幸村の首があった空間を両断した。否、その一閃は幸村の首をかすかにだが捉えていた。鮮血が宙を飛ぶ。



「くッ」
 後方にとびすさった幸村は、腰間の刀を抜き放ち、信虎の追撃に備える。
 だが、信虎は幸村よりも、幸村の取り落とした槍に興味を抱いたらしい。柄を朱に染めた槍に手を伸ばし――
末期の無念もあらわに、いまだ槍を抱え込んだままの配下の死屍を無造作に蹴りはがした。
 それを見た幸村の口から、歯をかみ締める音がもれた。愛槍を奪われた口惜しさか。あるいは人を人とも思わぬ信虎の言動への怒りのためか。


「ふむ、十文字槍か。うぬのような小娘には過ぎた業物よ」
 従来の槍刃に、三日月型の刃を重ねた幸村の十文字槍。それを手にとった信虎は、具合を確かめるように柄を握る力を強めたかと思うと、にわかにそれを幸村に振るう。
 一見、細柄に見える十文字槍だが、その実、内側に鉄芯を埋め込んだ豪槍である。並の兵では真っ直ぐに相手を突くことさえ難しいが、信虎はそれを苦もなく行ってみせたのだ。
 蛇のように、咽喉元に伸びてくる愛槍を見て、幸村はさらに二歩、後ろに退いた。槍と刀で戦う不利は弁えている。信虎の手に槍がある限り、一対一で戦うことは得策ではなかった。
 だが、信虎とて己の有利は承知しており、それを活かそうとしない筈はない。
 双方が次手を繰り出すために動き出そうとした、その時であった。



 幸村の眼前で、信虎がかすかに目を細めた。その視線は敵手である幸村にではなく、幸村の後方、躑躅ヶ崎館に向けられていた。
 それは生死をかけた対峙の最中、致命的とも言える隙であった筈だが、幸村はその隙を衝くことはしなかった。あるいは出来なかった。
 真田の兵の一人が、信虎と同じところに視線を向け、叫んだからである。
「お、御館様ッ?!」
「な、なにッ?!」
 配下の叫びを聞き、幸村は思わず背後を振り返る。
 いつの間に来ていたのだろう。そこには確かに幸村の主君であり、武田家当主である武田晴信の姿があった。
 その晴信は口を引き結んだまま、視線を侵入者たち――なかんずく、父信虎へと向けていた。




◆◆




 信虎の口から、低い笑い声がこぼれ出る。
 それは、心底から楽しげな笑いで――それゆえに、この場ではきわめて異質なものであった。幸村でさえ背筋に冷たいものを感じてしまうほどに。
 だが、次に信虎の口から出た言葉を聞いた幸村は、すぐにその悪寒を忘れさせるほどの激情に囚われる。 
「まこと、真田の家は主君想いよ。のう晴信、そうは思わんか? 幸隆のみならず、その孫までがわしのためにそなたをここまで案内してくれたのだから」
 その言葉を受け、晴信は無言であったが、幸村が口を緘していられる筈はなかった。
「妄言も大概にするがいいッ! 御館様、このような戯言を聞かれてはお耳が汚れますゆえ、奥へ。侵入してきた者たちは、この幸村が片付けます」
 その幸村の激語にも、信虎は眉一つ動かさない。平然と続けた。
「今代の真田当主は礼をわきまえぬのう。晴信、うぬも苦労しておろう。信之というたか、そやつの姉を闇にて殺したこと、今になって後悔しておるのではないか?」




 信虎の狙いが、幸村の心身をかき乱すことにあるのなら、それは成功した。
 あまりにも意想外な信虎の物言いに、幸村は知らず言葉を詰まらせる。
「な、何をわけのわからぬことを。はや狂ったか?」
「その言葉は、そこな我が娘に言うてやるがよい。未だ春も迎えぬ小娘が、我が父と我が家臣を欺いて甲斐の国権を奪い取る。その真実を知る者を暗殺し、何も知らぬ妹に恩を与えて股肱の臣とする――常人にそのようなことがなせようものか。狂っておるというなら、わしなぞよりよほど晴信の方が狂っておるわ」
「だから、さっきから何を言っているのだ、貴様は?!」
 幸村の身体がかすかに沈む。それは虎が獲物を襲う寸前の動作にも似ていた。その口、引き裂いてやるとの気概もあらわに幸村は信虎を睨みつける。


 信虎はそんな幸村の様子を見て、呆れかえった表情を浮かべた。
「なるほど、よう飼いならしたものよ。畜生のごとき盲信ぶりじゃ。わしの言が聞けぬとあらば、貴様の主に問うて見るが良い。わしの言はいかなる意味か、と。まあ答えてくれるとはかぎらんがの」
 信虎の視線が再び我が娘に向けられ、幸村のそれも自然とそちらに向いてしまう。
 幸村は、信虎の言葉をわずかでも信じたわけではない。晴信が父の言を一笑に付し、誅殺を命じれば即座に応じたであろう。むしろ幸村は晴信がそうしてくれることを期待したのである。




 これまで、幸村は幾度となく戦場に立ち、敵の勇士たちと矛を交えてきた。その中には幸村を凌ぐ武技を誇る者もいたし、千変万化する戦場のただ中にあって命の危険を感じたことも一再ではない。だが、そのいずれであっても、今のような得体の知れない悪寒を覚えたことはついぞなかった。
 信虎の口から出る、取るに足らない妄言の数々。これが言辞を弄するだけの人物であれば、幸村は一刀のもとに信虎を切り捨てていたであろう。しかし信虎の武は幸村をさえ心胆寒からしめる域に達しており、あまりに不均衡なその在り方が幸村に戸惑いを与えてくるのだ。
 その戸惑いは、無音で足元に忍び寄る蛇のような不気味さで、幸村の心身に迫り来る。わずかの対峙で武田信虎という人物の異質さに触れた幸村は、眼前の敵の容易ならざるを知った。
 その認識は即座に警戒と、そして必討の念を幸村の内に育む。この男は、ここで討たねばならない。さもなければ、足元の蛇は遠からず武田家すべてを飲み干す大蛇と変ずるであろう、と。
「御館様、ご命令をッ!」
 そう考え、幸村は晴信の命令を請うた。
 幸村にとって、晴信の命令は絶対である。その一言があれば、信虎の言も、胸中を苛む異質の念も振り払うことは容易である筈だった。


  
 だが、晴信は信虎の言葉には答えず、そして幸村の期待にも応えなかった。
 姿を現してからこちら、ただの一言も発せず、侵入者たちへと視線を向けるばかりである。
 敵の首魁を前にしているのだ。常の晴信であれば黙っていよう筈はない。晴信の奇妙な沈黙に、幸村はようやく奇異の念を覚えた。
「御館様?」
 だが、晴信はかわらず無言。かわって口を開いたのは信虎の方であった。
「ふむ、言葉もなし、か。我を失っているわけでもなし。わしを見ても動ぜぬのは流石というてやりたいところだが……」
 晴信の眼差しはまっすぐに信虎らに向けられており、そこに畏怖や惑乱の色はない。父を恐れているわけでもなく、かつての出来事を思い出して震えているわけでもない。そのことは明らかだった。
 であれば、こちらを討つべく動くしかないというのに、晴信は黙ったまま。幸村の言葉にさえ沈黙で応じている。
 信虎の顔に、はじめて苛立たしげな色がちらついた。
「あいもかわらず、童らしからぬやつよの。その取り澄ました目の奥で何を考えておる? かつてこの場で問うて得られなかった答えを、今度こそわしによこすのか?」



 それでも晴信は応えない。
 それを見た信虎はさらに苛立ちを深めるかと思われたが――しかし、信虎の顔から苛立ちが拭うように取り払われた。 
 かつてあまりに強く答えを求めたがために、信虎は千日をこえる臥薪嘗胆の日々を余儀なくされた。それは、忘れ去るには、あまりに長い屈従の日々であった。
 過ちは繰り返さぬ。答えなど、閨の中で聞き出せば良いのだ。今度は何年かかっても――それだけの時間はあるのだから。
 信虎の顔に、嗜虐的な笑みが浮かんだ。
「ふん、まあ良い。今は甲斐を押さえるが先決。何も語らぬのなら、黙ってそこで見ているが良い。自らが築いたものが崩れ落ちていく様をの」
「そのようなこと、この幸村がいる限りさせはしない!」
 晴信はかばうように信虎と対峙する幸村を見て、信虎は嘲りもあらわに、無視し得ない言葉を発した。
「道化よな、うぬも。幸隆とは言わぬ。昌幸でもいれば、とうにわしを討つべく号令をかけていたろうに――まあ、仮にそうしたところで、どのみち結末はかわらぬのだがの」




 その言葉の意味を問うよりも早く。
 幸村の耳に喊声が轟いた。驚くほど近い。
 その喊声をあげている人数は、十や二十ではきかないだろうことを幸村は察した。
 だが、それは幸村にとって十分予測の内にあったことだった。じりじりと信虎の間を詰めながら、幸村は舌鋒鋭く相手の気組みを挫こうとする。
「貴様の手勢、だな。これが来るのを待っていたというならお笑いだ。主君みずから下賎の真似事をする軍だ。正々堂々の挑戦など望むべくもないことはわかっていた。主力を南にまわしている以上、精々百か二百、その程度であろう。闇夜に紛れることもできぬその数で、我ら真田勢が篭る躑躅ヶ崎館を陥とせるとでも思っているのか?」
 その幸村に応えるように、館の外壁に明々と篝火が焚かれ、たちまち館外の闇をはらっていく。真田軍は壁上に展開し、弓に矢を番えて館外の敵に狙いをつける。守備側の素早い対応に、門外から聞こえてくる喊声が小さくなったように思われた。
 さらに幸村は告げる。
「言っておくが、内に侵入した者に期待しても無益だ。侵入者に備えていたのは、私たちだけではない。正門、搦め手門、不浄門……いずれも警戒を厳にしている。すなわち、貴様らの退路はすでにない――たしかに貴様が言うとおり、結末はどう転んでも変わりはしないな、武田信虎ッ!」




◆◆




「……ぺらぺらとようまわる口よ」
 不意に。夜の闇が濃くなったような錯覚に、幸村は囚われた。幸村だけではない。それまで敵の動きから目を離さないようにしていた真田の兵らも、どこかうそ寒そうな顔になっていた。
「武士などより、御伽衆の方がうぬには相応しいようじゃの。此度の件が終われば閨で存分にさえずらせてやるゆえ――少々、黙っておれ」
「ッ、ぐ……」
 信虎の声が変わっていた。より正確に言えば、その言葉に込められる威厳が増していた。
 黙っておれ、と言われた時、幸村ともあろうものが、思わず頭を垂れそうになってしまったのだ。
 圧倒的なまでの支配者の威。
 これと同じものを幸村は知っていた。知らない筈がなかった。それは、主君晴信のものと同質であったからだ。



「とはいえ、多少は認めてやってもよいな。思ったよりも頭がまわる。お陰で要らぬ手間が増えることになったわ。まあ、わしが手を煩わせるわけではなし――わしに背いた愚民どもの罪を罰してやることになるのだから、むしろ手柄とも言えるのかの」
「……なに?」
 信虎の淡々とした物言いに、底知れぬ悪意を覚えた幸村が声をあげる。
 それを見て、信虎は笑った。悪意を結晶化させたような、そんな顔で。
「なに、ここまで防備を固められると、力づくで潰すのも骨であろう? 仕込んでいた手を使わせてもらうぞ。何、たいした策ではない。有象無象の難民どもを利用させてもらう程度の――そうよな、うぬの祖父が聞けば鼻でわらうような拙い策よ」
「く、やはり配下を紛れ込ませていたか。だが、無駄だ。すでにすべての難民の武器は押収してある。用意できるのは戸板に木の棒程度しかないぞ。あるいは民家を襲って農具でも奪うか? 今からそんなことをしている暇がある筈もなし、この状況でどうやって正規の兵士を相手にするつもりだ?」
 潜めていた奥の手を打ち砕く。幸村の言葉は、信虎にとってそうある筈のものであった。
 少なくとも幸村はそう信じ、信虎の意気をわずかなりと阻喪できると確信していた。
 しかし、信虎は幸村の言葉を聞き、むしろ不思議そうにこう訊ねたのである。



「はて。素手の女子供を犯すのに、どうして武器などいるのだ?」



「な……に?」
「今、武田の軍は四方に散っておる。その妻子は甲府の武家屋敷におり、守る者もおるまい。合図を送れば、わしの部下どもはそこに乱入し、手当たり次第に女子供を犯す。阿鼻叫喚の地獄絵図、というやつが出来あがるまで、さして時間はかかるまい。ここからではそれを見ることはできまいが、燃える屋敷と貴様らの家族や子の悲鳴くらいは聞き取ることが出来よう」
 信虎は口元を歪め、楽しげに問いを発する。
「さて、そんな中で音に聞こえた真田勢はこの館の守備に専念できるかの。ふふ、日ごろの錬度が問われる時じゃな、真田幸村?」
「何を……何を言っている、貴様?! 民を兵火から守るのが領主のつとめだろう。かりそめにも甲斐守護を名乗った者が、守るべき民を乱取りに供するというのか?!」
「その守護に背いたのは貴様らであり、今日まで謀叛人を守護と仰ぎ続けていたのも貴様らじゃ。正当な守護である身が、その罪に罰を与えるのは当然のことではないか?」
 揶揄するような信虎の言に、たまらず幸村は激昂した。
「ふざけるなァッ!」
 そして、強い眼差しで信虎の首筋に視線を向け、刀を構えなおす。
「貴様の配下が何人潜んでいるのか知らぬが、そのような暴挙に全員が乗るなどと思うなよ。武田の法は厳格だ。民は皆、そのことを知っているし、貴様の配下が扇動しようとも、それに追随する下衆がそうそう何人もいるものか。大方、その場でほかの者に袋叩きにされて終いとなるに決まっているッ」


 幸村の言葉に構わず、信虎は背後の兵の一人に顎をしゃくって合図を送る。
「そう思うならば、そこで黙ってみておれ。人の良識と理性とやらがどれだけ儚いものかを知る良い機会となろうでな」
 信虎がそう言う間にも、背後の兵士は火矢を二本あわせて弓に番えている。
 それが合図であることは明らかであり、そして幸村には黙ってみている義務などなかった。
「させるかッ!」
 弾けるような勢いで地を蹴って向かって来る幸村に対し、信虎は。
「言ったであろう。黙ってみておれ、と」
 そう言うや、持っていた槍を逆手で持ち直すと、いっそ無造作に幸村に向けて投じたのである。
 幸村は決して油断していたわけではなかった。だが、信虎が、手に入れたはずの優位を、こうもあっさりと手放す所業に出ようとはさすがに予想していなかった。
 幸村自身の前に出る勢いが、信虎の投槍の威力を倍加させる。
「ちィッ?!」
 胸元を貫かんとする十文字槍の穂先から逃れるために幸村は咄嗟に身をよじって地面に倒れこむ。
 だが、直撃こそかろうじて避けたものの、三日月型の脇刃が、身をひねった幸村の脇腹を抉るように通り過ぎた。
「くゥッ!」
 幸村の口から、思わずうめき声がもれる。
 それを見た幸村配下の将兵が動こうとするが、その機先を制して信虎の懐剣が二人の兵士の眉間を貫いた。
 声もなく倒れ付す味方を見て、さすがの真田軍も足を止めてしまう。


 そして。
 一連の攻防は、兵士が番えた矢を放つには、十分すぎるほどの時間を稼いでいた。
 躑躅ヶ崎館の夜空に、二筋の明りが尾を引くように駆けていく。
 



 ――それは始まりであった。
 ――『躑躅ヶ崎の乱』が、本当の意味で終わるための始まりであった。




 だが、それを知る者は口を緘し。
 それを知らぬ者が口を開く。
「少し昔語りをしてやろう」
 地でうめく幸村を見下ろし、そして己の武威で動けない真田勢を見渡してから、信虎は言う。
「うぬの祖父が何をなそうとしたのか。そも躑躅ヶ崎の乱とは何であったのか。その両の耳でしっかと聞き届けい」
 たった今、放った合図が効果を示すまでのわずかな時。それを昔語りで費やそうとする信虎の行動。それは油断であるのか、余裕であるのか、幸村には判然としなかった。
「始まりは、わしが甲斐の守護となって二年が過ぎた頃のことよ――」
 だが、そのいずれであったとしても、今の幸村にその隙を衝くことは出来ず、望むと望まざるとに関わらず、ただ信虎の言葉に耳を傾けることしか出来なかったのである……





◆◆




 

「このまま黙って従っていてどうなるってんだ?! こっちにゃろくな金に食い物もよこさねえ。そりゃ女子供が大事にされるのはわかる。だが、だからといって俺たちが蔑ろにされる理由にはならねえだろうが!」
「たしかに。このまま冬を迎えたら、寒さを凌ぐ場所もなく、凍死するしかない。待っていたって与えられないのは、もうわかっちまった……生き延びたければ、自分たちで奪い取るしかないのかもな」
「そうだ、従っていたって死。逆らったって死。だったら、せめて良い目が見られる方に賭けたいじゃねえか」
 それは不満に耐えかねた者らの悪意の欠片。
 実際に行動に移すことは無論ない。だが、そうでも思わなければやっていけない者たちが、己が怒りを慰めるための放言に過ぎない。
 耳を澄ませば、そんな会話はそこかしこで聞き取ることができ、それゆえにこういった不満の発露は、半ば黙認の状態となっていた。
 真田軍や、あるいは難民たちの暴走を危険視する町の有志たちも、それは同様である。
 一々とがめだてしていては、兵がいくらあっても足りないという理由が一つ。
 もう一つは、下手に彼らを問い詰めて、逆上されては元も子もないという理由であった。


 ゆえに、今日も各処で歪んだ口で語りあう難民たちを、あえてとがめだてしようとする者はいない。
 ゆえに、密やかに囁かれている声が、いつもより数段剣呑なものとなっていることに気付く者もまたいなかった。
「俺たちを助けようともしない武士どもの家屋敷を襲って目に物みせてやるッ!」
「焚き火が熾したけりゃ奴らの家を壊して薪にしろ!」
「寒けりゃ奴らの妻子を好きなだけ抱けばいいッ」
「奴らの家にある金も食いものも、全部奪え。いや、元は全部俺たちの収めた税だ。取り返して何が悪いってんだ!」
 注意して聞いていれば、それらの声をあげている者がごく一部であること。そして、彼らが決して一所にとどまらず、各処で同じ声をあげていることに気付く者もいたかもしれない。
 だが、そんな余裕を持つ者が難民たちの中にいる筈もなく。彼らの言葉は、聞く者の心を深海魚のように回遊していくのだった。その奥底を、かきまわすようにゆっくりと。
 すべての者がその言辞に心を動かされたわけではない。だが、同時にすべての者が毅然と跳ね除けられたわけでもなかったのである。



 かくて深更。
 燻り続けた火は、躑躅ヶ崎館からの合図を受けた男たちの扇動によって燃え上がる。
 進んで扇動にのった者もいれば、周囲の狂熱にあてられた者もいた。彼らに共通するのは、ここに至るまでの不満と、先行きへの不安。
 一度理性を投げ捨ててしまえば、蹂躙への欲望が、人々の獣性に火をつける。
「武田の軍は少ない。そのほとんどは館に篭っている。武家屋敷にいるのは戦えない女子供ばかりだッ」
「まず真田の屋敷を襲え! 俺たちを馬鹿にした挙句、雪の山野にほうり捨てようとした報いを与えてやるんだ」
 その声に内心首を横に振る者もいないわけではなかった。
 だが。蹂躙を口にし、気勢をあげる彼らを制止した一人が、かえって裏切り者呼ばわりされて殴打され、半死半生の態で路傍に投げ出されたところを見て、他の者たちは口をつぐみ、徒党を組まざるを得なくなる。それどころか、どうせ逃げられないのなら、と進んで気勢をあげる者さえ出始めた。


 悪貨は良貨を駆逐する。
 昂ぶった心は容易く感情を奔騰させ、狂気は瞬く間に伝染していった。
 武田の法と理に服し、暴力に怯えて逃げ伸びてきた甲斐の領民は、今や自らが害を与える側となって、より弱き者たちを蹂躙せんと欲し、移動を開始する。それを妨げ、知らせるべき者の姿はいつのまにか消えていたが、それを気にする者はほとんどいなかった。
 今川軍の襲撃に怯えた逃亡の日々と、ようやく逃げ延びた甲府でのずさんな扱いに、誰もが心に澱(よど)みを抱えていた。扇動者たちは、巧みにそこを衝き、抱え込んでいた鬱屈を、暴虐という形で具現させることに成功したように思われた。



 やがて手にありあわせの木片や棒を持って気勢を上げる彼らの前方に、簡素な柵に囲まれた居住区の一画が映し出された。
 武田家に仕える臣たちの家族が住まう武家屋敷である。
 そうと知り、暴徒と化した者たちの口から獣じみた叫喚があがる。
「殺せ、殺せ、殺せェッ!」
「焼き尽くせ、奪いつくせ。相手は女子供だ、邪魔する奴はいないぞ!」
「女がほしければ襲え! 米が食いたければ奪え! 武士どもに俺たちの苦しみを思い知らせてやれッ!!」
 事態に気付いたのか、武家屋敷の方角から何やら慌しい物音が聞こえてくる。だが、すでに遅い。
 これから繰り広げられるであろう陵辱の宴を思い浮かべ、襲撃者たちは口元を歪めて、その場を駆け出していく。
 一度、獣性を発露させた者が理性を取り戻すことは容易ではない。最早、言葉によって彼らを止めることは不可能であり、暴虐の颱風は、抗う術を持たぬ者たちを蹂躙し尽すまで止まらない。




「――?」




 ――その筈であったのに。
 何物をもっても止め難い暴走が、何故か止まった。
 暴徒と化し、醜い凶相に覆われていた者たちの顔に戸惑いが浮かび、怪訝そうに周囲を見回す。
 最初に足を止めた者は誰であったかはわからない。だが、すぐにその数は一人増え、二人増え、三人に増え――いつかこの集団そのものが止まってしまっていた。


 目的は眼前にあるというのに。誰に邪魔をされたわけでもないというのに。
 彼らは自らに問わざるを得なかった。何故、動かぬのか。否、動けぬのか。
 この全身を押さえつけるような無形の威圧は何処から来るのか、と。
 その中の一人が、ふと視線を上に向け、そして悲鳴じみた呻きをもらす。
 その声に驚き、周囲の者たちが同じく視線を天へと向け――そして、同じように言葉を失った。
 

 
 ――彼らの目に、あまりに、空が近かった。



◆◆




 その事実を、彼ら全員が共有するまで、どれだけの時が過ぎたのか。
 凍りついたように動けない彼らの耳に、場に相応しからぬ涼やかな声が響き渡る。


「――今、この時、そなたらは境にいると知れ」


 その声に導かれるように、彼らの視線は武家屋敷の方角に向けられる。
 いつの間に、そこにいたのだろう。武家屋敷へと到る道の半ば。
 夜の闇にあって、なお輝きを失わぬままに、その人物は立っていた。 
「進むか、退くか。それはすなわち人として在るか、獣に堕ちるかの分かれ目である。判断はそなたらの随意。ただし――」
 その人物の目が細まり、佩刀へと手が伸びる。
 ただそれだけで、暴徒らへの圧力が倍加した。呻きにも似た声が、各処で起こる。
「この上杉謙信、鬼畜に対するに、切り捨てる以外の選択肢など持ち合わせておらぬ。そなたらが進むことを選ぶのであれば――すなわち鬼畜に成り下がるのであれば、この道は黄泉比良坂に等しく、そなたらを黄泉へと導くことになるであろう」



 上杉謙信。
 その名で怯んだ者はいない。その名が日の本全土に鳴り響くまでには、なおしばらくの時を要する。
 だが、名を知らなくとも、眼前に立つ女性が、類まれなる武人であることは全員が知った。思い知らされた。ただ一人をもって、百名を越える者たちを相手どり、武威をもって押さえつける。そんなことが出来る者が、並の武人である筈はない。彼らとて戦国の民、戦に出たことは幾度もある。
 この人物に匹敵するだけの将を、彼らは一人しか知らなかった。それは現甲斐守護職である彼らの主――
「お、御館様……」 
 



 不意に、毒々しい叫びが起こった。
「何を怯んでいやがる! どれだけ強い奴だって、数にはかないやしねえ。それが戦ってものだろうが! 囲め囲め、刀でやりあうな、石でも何でも良い、あいつに投げつけろ! 後は何人がかりでも良い、組み伏せてしまえば女一人、何の脅威になるってんだ!」
「そうだそうだ! 見ればえらいべっぴんじゃないか。幸先良し、まずはあいつから血祭りにあげてやれッ!」
 そういって数人の男たちが進み出た。いずれも大した特徴のない面構えであり、どこにでもいそうな農民である。
 だが、その眼差しに込められた毒気は常人の持つものではない。少なくとも、今川家の脅威に怯え、逃げ出してきた者が持つものではない。
 瞬時に判断した謙信が、刀の鯉口を切る。  
 それを見て、進み出た男たちが身構え――身構える、暇さえなく。


「――な?」
 抜き打ちの一閃は、先頭の男の首があった位置を左から右へと通り過ぎ。
「え……?」
 返す刀は、続く男の右肩から左の腰までを、一息に切り裂いた。
 絶命は瞬きのうちのこと。おそらく、二人とも痛みを感じることさえなかったであろう。
 流麗で、それでいて無慈悲なまでの力感に満ちた謙信の攻撃を見て、残りに男たちは相手の力量が予測をはるかに上回っていることにようやく気付く。
 この邪魔者を除き、難民に武家屋敷を襲わせる。計画を狂わせれば、待っているのは信虎による粛清のみ。それゆえにこそ、ためらうことなく進み出たのだが。
「ちィッ!」
 これは、あるいは信虎よりも厄介な相手であるかも知れぬ。そう思った男たちは逃走を試みるが、それもすでに遅かった。
 初撃で二人を葬ったのならば、二撃目で葬るもまた二人。結局、謙信が四度動くまえに、男たちの全ては、死屍を地面に投げ出すことになったのである。
 



◆◆




 その剣筋を追える者さえいる筈はなく。
 謙信の神域の武を目の当たりにし、先刻まで狂熱に浸されていた筈の者たちは、青くなって震えるばかりという有様だった。
 その彼らをさらに青ざめさせる光景が目に入る。武家屋敷の方角から、武装に身を固めた者たちが姿を現したからだ。その数、およそ五十。
 驚くべきは、そのいずれもが女性であったということである。年端もいかない少女もいれば、六十どころか七十に喃喃とするであろう女傑もいた。
 彼女らはいずれも襷をかけ、鉢巻を締めた凛々しい武者ぶりで、その手に持つ薙刀は日ごろの手入れの賜物か、かすかな星の明りをきらびやかに弾き返し、不埒者たちを見据える視線は勁烈の一言。
 心に邪まなものを抱える者たちが、相対しえるものでは断じてなかった。


「――見てのとおり、この甲斐の国に暴力に屈するをよしとする女人は一人もおらぬ。そなたらが進むのであれば、私だけではなく、ここにいる方々、そして屋敷を守る者たちすべてを討たねばならなくなろう。それを承知して、なお進まんと欲する者は、かかってくるがよい」
 謙信の言葉に応じる者がいなかったのは、当然すぎるほど当然のこと。
 狼に煽られ、自らを狼と思い込んでいた羊たちは、今や自分たちが何者であるかをはっきりと思い出していた。
 そして、思い出してしまえば、自分たちが何をしようとしていたのか、それに思い至って顔色をなくすのも当然であったろう。
 今や彼らの顔は死人のそれに近かった。


「人として守るべき法と理を取り戻したのであれば、ただちにここより立ち去れ。甲斐の国における争乱は間もなく終わる。そなたらの苦しみが取り除かれるのも、そう遠い先のことではない。そして今宵のこと、悪夢と片付けることなく、再び同じ過ちを犯すことのないよう心身を練磨せよ。それが出来ねば、いつか我が剣が、そなたらの身命を奪いに行くと知るがよい」
 最後の一語に込められた威圧に、男たちは反射的に背筋を伸ばして畏まる。
 そして謙信の「去れ」の一言に蜘蛛の子を散らすように駆け出していくのであった。 
  



◆◆




「輝と……こほん、謙信様。ありがとうございましたッ」
 そう言って頭を下げたのは、女衆の中心に位置する一人の女性であった。
 慌てて言い直したことからもわかるように、彼女は謙信の正体を知っている者の一人である。何故といって、京に向かう間、そして京に滞在している間、幾度となく見えていたのだから当然のことであったろう。
「それはこちらの申すべきこと。晴貞殿なくば、こうまではやくに武田の方々の協力を仰ぐことは出来なかったことでしょう」
 謙信の前に立つ女性こそ、かつての加賀守護職冨樫晴貞その人である。
 薙刀を持つ手こそやや頼りなかったが、鉢巻を締め、凛々しく振舞う姿からは、かつて容貌に翳を感じさせていた女性の面影は窺えない。
 今もまた不安がる年下の少女たちに柔らかい笑みを向け、もう怖いことは起こらないと伝えているところで、晴貞の笑みを見た少女たちは、たちまち表情から不安を追い払い、その胸にばふっと顔を埋めて甘えている。
 その様子を見て、謙信も思わず表情をほころばせた。


 だが、子供たちから離れ、再び謙信と向かい合った晴貞の顔は晴れやかなものではなかった。
 それは、謙信がこのまま武家屋敷の守備に加わると聞いたためである。
「それはありがたいことなのですけれど、あの、本当に謙信様がここにいらっしゃってよろしいのですか? 私は守護といっても戦の経験はありませんでしたから、くわしいことはわからないのですが、それでもこの戦が容易でないことくらいはわかるつもりです。謙信様ほどの方が、ここに留まるというのは、武田家と上杉家にとって大きな損になるのではありませんか?」
「案ずるには及びませぬ。颯馬が伝えたように、戦の帰趨はほぼ定まっているのです。あとはいかに犠牲を少なくするかということにのみ注意を払えば良い。先刻と同じ連中が他にいないとも限りませぬし、武家屋敷の守備は必要なことなのですよ」
 謙信の言葉に、晴貞は頷く。
 先年までの晴貞であれば、ここで会話を終わらせていたことだろう。あるいは、そもそもこの会話自体成り立っていなかったかもしれない。
 しかし、今の晴貞はなおも続けた。
「犠牲を少なく、というのであれば、なおのこと、謙信様は館に戻ってください。武家屋敷は私たちが守ってみせますから――どうか、天城殿と、晴信様を、助けてあげてください」
「しかし……」
「男の方ほどの力はありませんが、私たちだって大切なものを守ることくらいは出来ます。虎綱の帰る場所を守るのは私の役目、そしてここにいる皆もそれぞれに守るべき場所があって、だからこそ私なんかの言葉に、皆即座に応じてくれたのです。たとえ再びさっきの人たちが襲ってきたとしても、私たちは負けません――絶対に」



 その断定は何の根拠もない戯言であったかもしれない。
 実際に同じ数の敵が襲ってくれば、残った女子供で敵の侵入を防げる可能性はごくわずかであろう。
 だが、謙信は疑わなかった。
 もとより、再来の可能性を考慮しない軍師ではなく、考慮して、手をうたぬ筈もない。敵が再度押し寄せてくる可能性は限りなく低いのである。
 だが万一、敵があらわれたとしても。
 甲府の武家屋敷が、敵の手に落ちることは決してない。謙信は晴貞の一言で確信を得たのである。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/13 18:41


 甲斐の国は四方を山に囲まれた山間の国である。
 自然、その主な産業は山林を資源としたものとなる。それは林業であり、あるいは紙の原料となる楮(こうぞ)・三椏(みつまた)の栽培なども盛んに励行されていた。また金をはじめとした鉱物資源も豊富であり、それらの採掘も甲斐を治める勢力の重要な収入源となっている。
 だが一方で、山国の悲しさ、甲斐は耕地面積が極めて少なく、それが国力の伸張を妨げる大きな要因ともなっていた。
 甲斐の国で耕作に適する土地といえば、ひとつ甲府盆地のみ。そこを除けば、耕作に適する土地はごくごく限られており、また甲府盆地そのものも複数の河川が入り混じり、水害の絶えない土地柄であった。自然、農耕の発展には限界が存在したのである。


 農耕は国の基である。どれだけ多くの金を産出しようと、領民の腹は膨れない。友好国から買い入れるという方法もあったが、この戦乱の世にあって、糧食がどれだけ重要なものかは言うまでもあるまい。
 戦に備えるためにも、飢饉に備えるためにも食料は不可欠であり、よほどの豊作に恵まれでもしないかぎり、他国に多量の食料を売り払うことはありえなかった。
 戦乱の世にあって小勢力であり続けることは、他国に併呑されるのを待つに等しい。
 それを避けたいのであれば、国を大きくする他に術はない。だが、限られた土壌しか持たない甲斐の国は内治によってそれを為すことが出来ぬ。ゆえに、その勢力を広げるためには、外に向かうしか手はなかったのである。




 甲斐守護となった武田信虎が国外へ踏み出したのは、当人の野望は無論あったにせよ、そういった甲斐という国が抱える宿命的な問題も無関係ではなかった。隣国への侵略は、同時に国を保つための手段でもあったのである。
 そして、そうである以上、負けることは許されぬ。そのためには、甲斐が一丸となって敵にあたる必要があり、そのためには守護が従来のように国人衆に左右されるような柔弱な存在でいてはならない。それが信虎の考えであった。
 かくて、信虎は中央への権力の集中に取り掛かる。無論、国人衆の反発は覚悟した上でのことであった。
 
  
 元々、甲斐は国人衆の自立意識が高い国であり、信虎の改革が思うように進まなかったのは、ある意味で予想されたことでもあった。信虎は時に理を説き、時に威を見せつけ、そして時に利を与えながら、これらの反抗を丹念に潰していき、徐々にその力を拡げて行く。
 同時に信虎は隣国の信濃、あるいは駿河の今川、相模の北条らとも進んで干戈を交えた。信濃は群小の国人衆が乱立している状態であり、相対的に武田は強国であった。だが、今川と北条はそうではない。すでに自国をしっかりと治め、他国に矛先を向けるだけの兵と国力を有している家である。
 信虎としても、この両家を敵にまわすことは避けたいところであったが、しかし両家にとって甲斐の金鉱は垂涎の的であり、その野望を挫くためにも、実力をもって両国に『武田侵し難し』と知らしめる必要があった。
 かくて信虎は、両家の機先を制し、戦端を開いたのである。


 隣国すべてを敵にまわす信虎の方策は、必然的に武田家に絶え間ない戦の日々を送らせることとなる。
 信虎の武勇は際立っており、戦は武田家の有利に進められることが多かったが、それらの戦で費やされる財貨、兵糧、人命は膨大なもので、その全てを補うだけの戦果を掴むことは、いかに信虎といえど難しかった。
 度重なる出陣を命じられる国人衆や、領民の口から主君への怨嗟の声があがりはじめたのは必然であった。その声の中に、他家の謀略が混じっていることも、予測してしかるべきであったろう。


 家臣の中にはこの状況を憂慮して信虎を諌める者もいた。しかし、信虎は家臣たちの諫言に耳を貸すことはなく、国内の怨嗟の声に耳を傾けることもなかった。
 信虎は言う。
 甲斐にとって、戦は国を拡げる唯一の道であり、今、矛先を鈍らせれば、遠からず他国の侵略を受けることになるのは明白である。国力に劣る国が、一度、防戦にまわってしまえば挽回は容易ではない。そうならないためには、あくまで先手を取り続ける必要があるのだ、と。
 無論、甲斐一国をもって四方すべてを征服できる筈もなく、今川家と北条家とは和するに越したことはない。
 だが、戦は機先を制した方が有利であるが、講和は最初に口にした方が立場が弱くなる。ここで甲斐が講和を口にすれば、講和せざるをえないほどに国内が苦しいのだと公言するに等しい。
 ゆえに、今は止まらぬ。今後、争いを続けるにせよ、和を選ぶにせよ、それは敵国がそれを口にしてから後に考えるべきことなのである。
 今、国内の民や将兵が苦しんでいるからと態度を軟化させれば、それは数年の後、敵国による甲斐の蹂躙という形で報われることになるであろう――


 智は以って諫を拒むに足る。
 信虎の理路整然とした言い分を覆すことができる者は甲斐にはおらず、諫言を口にした諸将は赤面して引き下がることになる。彼らの多くは、信虎がここまで明確な展開を内包して事にあたっているとは思ってもいなかったのだ。
 かくて、信虎は攻勢を緩めることなく、さらに他国との争いに狂奔していくことになる。


 そして、その信虎の傍らで、犀利な眼差しで状況を俯瞰する人物の姿があった。
 信濃小県郡を領していた真田家当主、真田幸隆である。



◆◆



 真田家の所領である信濃小県郡は、幸隆の父の代に他家に奪われ、真田家は一族をあげて甲斐へ逃れてきた。
 信虎は、真田の一族が幸隆をはじめ優れた人物を多く擁することをすぐに見抜き、これを自分の勢力に取り込むために破格の待遇を与えた。
 すなわち甲府に屋敷を与え、小県郡にかわる領土を信虎の直轄領から割き与え、軍議にも真田家の席を用意したのである。これは板垣や甘利といった武田家譜代の重臣に優るとも劣らぬ厚遇であり、家中には信濃の小領主に過ぎなかった真田家をどうしてこれほどまでに厚遇するのか、との声が流れたほどであった。
 幸隆はこの信虎の厚遇に感激し、全身全霊をもって信虎に仕えることを誓約し、また一族や家臣にも武田の恩を忘れることなかれ、と事あるごとに訓戒するようになる。


 以後、幸隆は信虎の智嚢となって数々の建策を行い、信虎の統治を磐石ならしめんがため、東奔西走することになる。それはすなわち、信虎の政軍両面における行動のほとんどが、幸隆が絵図面を引いたものであったということ。
 信虎は薄い笑みを浮かべながら口を開く。
「どうしてわしが他国との戦をやめなんだか、理解できたか? 他国と戦をすれば、人と物の費えはおびただしく、国内は疲弊する。当然、わしの力も衰えるが、その分は占領した領土から吸い上げれば、何とでもなる。より重要なことは、いずれ敵となる甲斐国内の国人共の勢力を削ぐことが出来るということよ。戦えば戦うほどに連中の家から人と物が失われていく。つまり、遠からず起こる彼奴らとの戦が楽になっていくのだ。諫言なんぞで戦を止める筈もなかろう。それを見抜く者どももおったが、なに、拒むなら拒むで一向にかまわんかったのだ。兵を出さぬと連中が言えば、それは守護に対する叛乱じゃ。討伐の格好の口実になったからの」


 やがて、信虎に従う甲斐の国人衆の間に深刻な不安と、そして不満が広がっていく。
 戦に次ぐ戦。叛乱に次ぐ叛乱。このまま信虎を当主として据え続ければ、止むことのない戦によって、自らの家が滅びに瀕するであろうことは、国人衆にとって火を見るより明らかであった。
 また、その中には、板垣や甘利といった武田家の譜代ともいうべき家々も含まれていた。彼らは武田家の臣であると同時に、それぞれの家の当主であり、自家を守る責務を負っている。このまま武田家の舵取りを信虎の恣意に委ねていては、武田家は遠からず滅亡の秋を迎え、彼らの家は劫火の中に消え去ってしまうであろう。
 武田信虎、除くべし。
 その一念のもと、反信虎勢力が急速に勢いを増していった。
 そして、しばらく後。
 信虎と、その反勢力の間で戦端が開かれ、『躑躅ヶ崎の乱』がその幕を開けた時。
 真田家は、信虎ではなく、その反対陣営に名を連ねていていたのである。


 真田家の悲願は信濃の旧領奪回である。
 だが、中央集権を志す信虎の政策上、功績のあった配下に領土を与えるというこれまでのような恩賞は期待できない。甲斐で真田家に与えられた領土は一族を養うためのものであり、これ以上の所領を信虎が割き与えるとは考えにくかったのである。
 また、この頃には信虎と幸隆の間には政策を実現していく上での対立が浮かび上がりつつあった。正確にいえば、対立というよりは、信虎が幸隆を疎んじはじめた、といった方が事実に近いだろう。幸隆の優れた智謀を高く評価していた信虎だが、身近でその才を示されるほどに、今度はその才知を敵にまわした場合への警戒の念を募らせていったようで、一日、重臣会議の席上、自身の策を信虎に痛烈に面罵され、のみならず顔面を打ち据えられた幸隆は、粛清の危険をまざまざと感じ取り、その身を反信虎勢力に預けたのである――



「――苦肉の策、埋伏の毒。三国の昔より使い古された手ではあるがな。さすがは幸隆というべきか、うまくやりおったよ」
 信虎の口から、その言葉がもれた時、幸村は脇腹の傷口を押さえながら、奥歯を強くかみ締めた。
 傷の痛みは大したものではない。それよりも、信虎の長広舌の方が、幸村の神経をより強く逆撫でする。
「後は言わずともわかろう。幸隆は晴信に与すると見せて、わしに都合の良いように戦況を操ってのけたのよ。板垣、甘利、原、他にもどれだけおったかな、彼奴ら裏切り者どもをわしが誅することが出来たのは、幸隆がそのお膳立てをした為じゃ。最後の詰めで誤らなければ、今頃はわしの重臣として栄華をほしいままにしておったろうにの。そうならなんだことは、真田の小娘、うぬにとっても残念なことであったな」
「だ、誰が、そのようなことを思うかッ、貴様のような者を主君と仰ぐなどおぞましいことこの上ないッ!」


 信虎は幸村の激昂に、薄笑いで応じる。
「おぞましい、か。だが、今貴様が主君と仰ぐ者は、この計略を見抜き、貴様の一族の多くを殺してのけたのじゃぞ。その者の下につくことは肯えるのか?」
 信虎の声音は、どこか楽しげでさえあった。幸村の直ぐな感情に、汚泥を塗りたくるのが楽しくて仕方ないとでも言うように。
 だが、それと悟ってなお幸村は表情を強張らせてしまう。
 当時、幸村はまだ将として戦場に立つことすら許されておらず、真田の屋敷を姉と共に守っていただけだったが、幸隆が信虎から離れたことで、家中に混乱が生じたことは記憶している。その混乱は、躑躅ヶ崎の乱終結後も後をひき、結果として信之の命を縮める一因ともなってしまった。
 もし、あの時、祖父や父が信虎の言う謀計を秘めて動いていたのだとしたら――幸村は直情的ではあるが、物事の本質への理解は速い。信虎の語る状況は、十分に有り得ることと判断できた。
 しかし、もし信虎の言うとおりだとすると――


 信虎の笑みが一段深くなる。
「気付いたな。幸隆が、事破れたりと深傷を負って躑躅ヶ崎館に戻って間もなくであった。晴信の軍が躑躅ヶ崎館に押し寄せてきよったのはな。要害寺山であれだけ痛めつけてやったすぐ後に、寄せ集めの兵どもをあそこまで見事にまとめあげるとは流石に予想できなんだが、それでも戦らしい戦をしたことのない小娘に、わしが負ける筈はなかった――昌幸やうぬらの身を質に、晴信が幸隆に内応の手引きを強いていなければのう」
「な、なにを……」
 幸村の呆然とした声が聞こえぬように、信虎の口は得々と動き続けた。
「卑劣とは言うまい。むしろ、さすがはわしの娘と感心したわ。幸隆は館の門を開けたが、最後の忠誠であったのだろうな、わしを逃がすために討死しおった。事実を知る昌幸も何故かは知らぬが死んだらしいのう。そうして、うぬの姉も死に、晴信の命により、うぬが真田の主となったわけじゃが――どうじゃ、姉の死の前、晴信から薬か、気付けの食べ物でも届けられたのではないか?」


 届けられた。
 半ば呆然としながら、心中で幸村は呟いた。典医の永田徳本が処方したという薬を、姉が君寵に感謝するように押し頂いていたことを思い起こす。
 もっとも、晴信が配下に薬を与えるのはめずらしいことではなかったが……悪意をもって見れば、信之の若すぎる死に、晴信が関与していたという見方も成り立とう。
 そして、信虎の言葉は悪意を混ぜて毒虫と化し、耳から入って幸村の心身をかき乱す。
 信虎の言葉を否定できるだけの材料がない以上、幸村がみずから信虎から注がれる毒をはらうことは出来ない。
 自然、その眼差しは晴信へと向けられた。
 晴信がただ一言『戯言を』というだけで、幸村の迷いは霧散するに違いなかったからである。


 慧敏な晴信のこと、それと悟らぬ筈がない。しかし、その口が開かれることはなかった。
 信虎の言葉が、真実であるゆえに反論することが出来ないのか。
 あるいは、語るにも値しないと切り捨てているだけなのか。
 混乱した幸村には、その区別さえつけられない。今も傷口をおさえる手の間から零れ落ちている血と共に、気力までが幸村から失われつつあるように思われた。


 信虎は、その晴信を見て、かすかに目を細めた。
「ふん、まだ無言か。策を秘めているようにも見えぬが、まあ良い。どの道、晴信、うぬには父にそむいた報いを、その身に刻みつけてやらずばならんのだからな」
 そう言った後、信虎はわすかに怪訝そうに館外の気配を探った。
「……遅いのう。館を制してから、と思っておったのだが……」
 そうして、信虎はもう一度言った。
 『まあ良い』と。




◆◆





 信虎の口から低い笑声がもれた。
 瞬間。
 信虎の態度が豹変する。
「ふ、ふふ、さすがに、これ以上は難しい、か」
 くつくつと笑うその声に、悪寒を覚えたのは、一人幸村だけではなかった。周囲で固唾をのんで状況を見つめる真田の兵、そして信虎の私兵までが、そこに込められた毒気を感じ取って身を震わせる。
 周囲の気温がにわかに数度下がったように思われた。その凍りついた空気の中、信虎はその内に淀んだ暗い感情を迸らせる。
「くく、長かった、長かったぞ、晴信。うぬを組み敷き、犯し、わしのものとする。ふ、ふ、国盗りなぞ、そのついでに過ぎぬが、物事には順序というものがある。うぬが築き上げたもの、そのすべてを否定した上で撫抱してやろうと思っておったのじゃが……くく、くあっははははァッ! もう我慢できぬッ! 晴信、うぬをこうして目の前にしてはなッ!」


 その狂笑を聞いた幸村は、呻きながらも身体を起き上がらせようとする。言葉の内容もさることながら、そこに込められた、向ける対象を押しつぶすかのような狂える気組みに、武人としての本能が反応した。
 信虎という男が、殺さなければこちらが殺される類の相手である、ということはとうに理解していた。だが、その理解でさえ浅いことを、幸村は理屈ではなしに感じ取ったのである。
 皮肉にも、そのことが、幸村を一時的に混乱から立ち直らせた。
 腹の傷など気にしてはいられない。先刻信虎が投じた愛槍を手元に引き寄せ、主君を守るために立ち上がろうとする。
 が。



「のろいわ、たわけ」
 いつのまに近づいていたのか。幸村の眼前に立った信虎は、驚愕をあらわにする幸村の腹を無造作に蹴り上げた。刀を抜く必要もない、と言わんばかりに。いまだ血が止まらぬ傷口をえぐるように。
「くあああッ!」
 たまらず身体を折った幸村だが、それでも槍から手は離さない。のみならず、激痛を堪え、なおも槍を揮おうとした幸村の行動は、武人として称賛に値するものであったろう。
 しかし、そんな態勢で繰り出した一撃では、相手の影さえ捉えることが出来ぬ。
 信虎が冷めた表情で幸村の一撃をかわすと、踏ん張ることが出来ない幸村の身体が、信虎に向かって倒れ掛かる。




 もし、信虎が刀を抜けば、容易く幸村は斬り捨てられていただろう。
 晴信の手が、それとわからないくらいに小さく動き。
 館の影から、ほんのかすかな物音が響いた――誰にも気付かれないくらいにかすかに。




「犬の忠誠よな。ふん、幸隆もあの世で嘆いておろうよ。この程度が真田の後継ぎとあってはな」
 右の手で幸村の首を握った信虎は、腕の力だけで幸村の身体を地面から浮かび上がらせる。
「が……あ」
 呻き声をもらしながら、幸村は信虎の束縛から逃れようとするが、悠然と立つ信虎は巌のごとく揺るがない。なおも腕の力を強め、幸村を縊り殺さんとする。
「……ぁ」
 がたり、という重い音は、幸村が槍を地に落とした音であった。
 


 その音が、真田の兵たちの呪縛を解く。
 主の危機を前に、居竦まっていた者たちは、悪夢から覚めたように武器を構え直し、口々に怒りの声をあげて動き出そうとする。
 それに呼応するように、信虎の私兵もまた動き出す。
 信虎は幸村の身体を地面に叩きつけると、苦痛の声を楽しむかのように腹を踏みつけ、真田の兵を挑発するために、ゆっくりと腰の刀を抜き放った。
「晴信を犯すにも見物人がいると思うて殺さなんだが、いい加減、わずらわしゅうなったわ。部下ともども果てよ、犬」
 信虎が嘲りの表情を浮かべ、言い放った、その時。 


「……ならば六文銭代わりだ、うけとれ」
 幸村の手が、中庭に敷き詰められていた砂利の一片を掴み取り、信虎の右の目に向けて投じた。



 印地――石を投擲に用いる戦闘技術であり、狩りを好む幸村はこれに熟達していた。もっとも、常の戦で用いることはないため、そのことを知る者はほとんどいない。足軽ならば知らず、印地打ちは武士の戦い方に非ず、というのが幸村の考え方であった。
「ぐぬッ?!」
 幸村の投じた礫(つぶて)は正確に信虎の右目を捉え、はじめて信虎の身体がぐらりと揺れる。刀を持たない左の手で右の半面を押さえた信虎の指の隙間から、濁った赤色の筋がいくつも垂れ落ちてくる。


 誰もが、好機、と思った次の瞬間。
「く、ふふ、やるではないか、犬」
 信虎は奇妙に嬉しげに聞こえる声を発し、さらに全身の力を込め、幸村の腹を踏みにじったのである。
「ああああ、ッく、がああああッ?!」
 あまりの激痛に耐えかねた幸村の口から絶叫が迸る。
 身をよじって逃れようとするが、信虎は巧みに足を動かし、幸村が逃れることを許さない。
 その挙句。
「やめじゃ。殺すのはやめじゃ。そちらで転がっておれ。うぬには、死よりも辛きことがあるということ、教え込んでやろう。晴信や、氏真ともどもな」 
 鞠でも蹴るように、信虎は幸村の身体を蹴り飛ばしたのである。
 一見、無造作な動作に見えたが、幸村の身体が宙を飛び、中庭の隅まで転がっていくだけの力がこもっていた。


 武田が誇る六将の一、雷将真田幸村が、襤褸(ぼろ)のように地面に倒れ付す光景など、誰が想像しただろうか。
 戦場における幸村の武勇を誰よりも知る真田の兵たちにとって、その光景は信じ難いものだった。怒りの気持ちさえ、思わず零してしまうほどに。
 だが、呆けたように見守る部下たちの前で、なおも幸村は抵抗の意思をあらわにする。
「ぐ、く……」
 あれだけの暴虐をうけて、なお、真田の当主は意識を手放すことはなかった。口の端から血をこぼしながら、その視線はかわらず信虎へ据えられている。
 その主の姿を見て、奮い立たない者がどこにいようか。
 幸村の視線に気付いたのだろう。信虎は楽しげに哂ってみせた。
「ふん、その顔に汚物をなすりつける時が楽しみであるが、今はこれ以上、うぬの相手はしていられぬわ……ぬ?」


 周囲の真田の兵たちの気配が変わったことに気付いたのだろう。信虎は半面を血で赤く染めながら、壮絶な笑みを浮かべた。その様は、あたかも血に酔っているかのようで、その異様な迫力は歴戦の将兵をすら戦慄させる。
 だが、幸村の気概を見せられた兵たちは動きを止めることはなく、今度こそ両者の間で斬り合いが始まるかと思われた――その時であった。



「――下がりなさい」



 静かな、それでいて威が込められた声が、この場にいる者たちの耳に響き渡る。
 真田の兵の顔から、拭われたように殺気が消えていく。人の上に立つことに慣れた者が発する令は、ただ一語で戦場の理さえ退けるのか。



「ほう、ようやく天の岩戸を開く気になったか――晴信」
 信虎の顔に浮かび上がった感情を、あえて一語であらわすならば、歓喜であったろうか。




◆◆




 信虎は、悠々と歩を進め、晴信の前に立ち、ねぶるような視線を晴信の身体に向ける。
「こうして向かい合ったは、先の戦以来か。ふむ、すこしは女らしゅうなったか」
 言いながら、信虎は己の血で染まった左手で、晴信の頬を撫ぜる。
 息をのむ音が各処からあがった。常の晴信であれば、決して許す筈のない暴挙であったからだ。
 しかし、血化粧を強いられた晴信は、眉一つ動かさず、信虎のなすがままを受け入れていた。
「しかし、母に似てきたのは良いが、生娘臭さは抜けぬな。あの時、おとなしゅうわしに春を捧げておれば、今頃は閨の喜びを身体中に刻み付けることが出来ていたであろうに、惜しいことよ」
 晴信は鎧甲冑を身に付けずにこの場に現われていた。信虎の視線は晴信の胸や腰に向けられ、あまつさえ、その手を伸ばすことさえしたのである。


 言語に絶する、その無礼。
 武田晴信に触れて良いのは、武田晴信が許したものだけである。
 幸村は知っていた。晴信は湯浴みの手入れ一つとっても、他者が身体に触れることを許さない。それは性別も身分も、親疎の差さえ関係なく、すべての相手に共通する。
 それなのに。
「……お、御館様」
 晴信は、信虎の手が、己の身体を蹂躙しようとすることを拒まない。
「……御館様」
 その口が開いたのは、先の一言だけ。
 実の父とはいえ、あれだけの無礼を働かれて黙っているあの人は、本当に自分が尊敬する武田家当主であるのだろうか。
 過ちを知らず、為さざることはなく、常に冷静沈着。
 その気、世を覆い、その力、山を抜く。史書にそう記された古の英雄でさえ、武田晴信の前には膝をつこう。戦国の世を終わらせるは、あの御方の他になし。そう信じて疑わない主君が、今、眼前でありえざる姿を見せている。
 幸村の視線の先で、信虎の左の手が力任せに晴信の上衣を掴み、引きちぎるように剥ぎ取ってしまう。
 月もかげる躑躅ヶ崎館の中庭に、輝くような晴信の肌があらわになり、獣欲をあらわにした信虎が、その身体を覆おうとする。


 何故。
「御館様ッ!」
 どうして。
「御館さまァッ!」
 黙っておられるのですか。
「御館さまァァァァァッ!!!」



 幸村の絶叫に、それでもなお、晴信は応えなかった。







「――さすがに、これ以上は見てられん」





 
「……え?」
 だから、そう応えたのは晴信以外の人で。
「ぬッ?」
 その声にわずかに遅れて、信虎に何やら投げつけたのも晴信以外の人で。
「ち――なんじゃ、これは……ぐ、塩か、これは?!」
 あろうことか、貴重品である塩の塊を投擲し、払いのけようとした信虎に塩を浴びせたのも、晴信以外の人で。




 
「――道化だと、わかってはいても、な」





 そう言って、中庭に姿を見せた者の名を、幸村は知っていた。




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/19 21:25

 ようやく、と言うべきだろうか。
 東国を揺らす動乱の引き金を引いた人物と相対することになった俺は、とりあえず越後から持ってきた塩をぶつけた。
 貴重品である上に、すでに武田家に送った後のものなので後で文句を言われそうだが、すべてが終わってから謝るとしよう。
「ぐ、ぬ、貴様、何者じゃ?!」
 俺が信虎に投じたのは、それこそ何の変哲もない塩の塊である。信虎は咄嗟にそれを払おうとして砕いてしまい、必然的に塩は四散し、信虎の身体に降り注ぐ。そう、幸村に傷つけられた顔の傷口にも。
 傷口に塩を塗りこむ、という表現があるが、なるほど、実際にその立場に立たされた信虎の怒り様は凄まじいものであった。
 もっとも、その信虎の声は、俺にとって遠い。
 俺の視界に映るのは、顔を血で染め、半裸となった晴信と、地面に倒れ、襤褸のようになっている幸村の姿だった。


 怒りを示すことはしない。その資格もない。何しろ俺は、一連の出来事、その全てを見ていたのだから。
 止めることも、庇うこともせず、ただ物陰に隠れていた俺が、どうして信虎を非難できるのか。
 とはいえ。
「さすがに、これ以上は無理だ」
 俺はもう一度繰り返す。
 構えた九曜巴の鉄扇が、俺の感情を映して、かすかに揺れた。



 無事である左の目をも怒りで充血させながら、信虎が闖入者である俺を睨みつける。
「己を道化とわきまえておるなら、黙ってみていればいいものを。うぬ如き若造が、何の故を持ってしゃしゃりでてきおった?」
 そういって、憎悪を滾らせる武田信虎という男、率直に言って思い描いていた通りの人物で、俺は苦々しい思いを禁じ得ない。
 他者を蹂躙することに喜びを覚える人間なんぞろくなものではない。ましてや、今の俺は、ある意味で信虎と同じ立場に立たざるを得ないのだから、なおさら嬉しくない。この地に来て一年と半分ほど。ここまで不本意な立場に立たされたことが、かつてあっただろうか。
 そう考え、あることに思い至った俺の顔に、今度は自然と苦笑が浮かんだ。晴景様に仕え、謙信様と戦っていた時、自身の立場に随分と思うところがあったのだが、今思えば、あの時はあの時で充実していたのだ。それが、こんな時にまざまざと思い出された。


「――何を笑っておる。道化めが」
 憎憎しげな声が、耳を刺す。俺は構えた鉄扇を揺らしながら返答した。
「これは失礼いたしました。貴殿と私と、道化同士が語り合う不毛さに思いを及ばせただけですよ、武田信虎殿」
 信虎の眉が訝しげにゆがむ。
「ほう、わしも道化と申すか?」
「左様、もっとも、あらかじめ道化という役割が振られている分、貴殿は私よりは随分とましな立場ではありましょうが――」
 言いながら、信虎の射るような眼光を感じた俺は、咄嗟に鉄扇を顔の前に広げた。腕に強い衝撃が伝わってくる。足元に落ちたのは信虎が投じた懐剣であろう。
 そうと知りながら、俺は何事もなかったかのように言葉を続けた。
「しかし、それと知らぬ貴殿の姿は、やはりただの道化に過ぎず、場をわきまえずにしゃしゃりでた私と大差はありませぬな」 


 信虎が懐剣を扱うのは、幸村との対峙を見てわかっていたこと。
 幸村でさえ完全には防げなかったのだ。俺がそれを叩き落すなど出来るわけがない。しかし、来るとわかっていれば、致命傷になる部位だけかばっておけば良いのである。
 不意打ちとは少し意味が異なるが、いつ来るともしれない攻撃を防ぐのは、ここ数ヶ月の秀綱との稽古で嫌というほど経験している。多少は慣れようというものだった。
 もっとも、幸村の与えた傷が無ければ、どうなっていたかわかったものではないが。


 信虎の無事な左目が、それとわからないくらいかすかに細まった。
 防いだ俺に驚いたというより、防がれた自分に舌打ちを禁じ得ない様子である。
 そうして、信虎はその不快の源を断ち切るために、無言で進み出る。傲然とこちらを睥睨する姿は、俺など相手にもしていないことを言外に物語っていた。砂利が敷き詰めてある中庭を進んでいるにも関わらず、足音がまったくしない――あたかも、獲物に狙いを定めた肉食獣のごとき歩み。
 一刀のもとに斬り捨てる、その意思もあらわに近づいてくる信虎に対し、俺もまた歩を進めた。
「ほう、みずから首を差し出すとは殊勝じゃの」
 前へと足を踏み出した俺を、信虎が嘲笑う。嘲りながら、滑るような足取りで距離を詰めた信虎は、両の手で、刀を振り上げ――そう見えた次の瞬間には、刃は凶暴な輝きを宿したまま勢い良く振り下ろされていた。
 黙って立っていれば、俺は左の肩から右の腰にかけて、ほとんど身体を両断されていたであろう。そう確信してしまうほどに、片目を失ってなお信虎の斬撃は致命的なものであった。武人としての信虎が、卓越した使い手であることは疑いようがない。




 だが、黙って立っている義理など、俺にはなかった。
 鉄と鉄とが絡み合い、音高くぶつかりあう。
「ほう、やはり鉄扇か。女子でもあるまいに、大の男が妙な武器を使う」
 懐剣を弾かれた時から気付いていたのだろう。鉄扇を用いて斬撃を受け止めた俺の耳に、至近から信虎の囁きが届く。幸村に傷つけられ、俺が塩を浴びせた右目の苦痛、いまだに消えた筈もないだろうに、その声からはすでに影響が感じられない。
 一方で、その信虎に応えるだけの余裕が俺にはなかった。鉄塊を叩きつけるような信虎の強打の衝撃で、腕がしびれ、態勢が大きく崩れている。
「甲冑もまとわず、大小もささず、のこのこと出てくる増上慢。わしを道化と呼んだ先刻の無礼もある。うぬのような輩にはもったいない名誉、わしが手ずから誅してやろう。感謝するが良いわ」


 言うや、信虎の刀が弧を描いて襲い掛かってくる。
 嵐のような斬舞の始まりであった。
 斬る、斬る、切る、払う、突く、斬る、突く、斬る斬る切る。
 息つく間もない攻撃に、俺は反撃に転じることもできず、ひたすら鉄扇で敵の刀を受け止め続ける。耳が焦げてしまいそうな、連鎖する金属音。信虎は一刀一撃が重く、鋭く、防戦に徹していてさえ、その攻撃は俺を傷つけていく。あるいは幸村がつけた傷がなければ、俺はここであっさりと信虎に討ち取られてしまったかもしれない。
「ほう、思ったよりやりおる。ならば……」
 言うや、信虎の刀が魔法のように鮮やかに翻り、左の肩口を狙っていた筈の斬撃が、今度は一転してなぎ払うような横なぐりの一撃に変じて、俺の胴を両断せんと迫ってくる。


「これでどう――なに?」
 避けられない。そう思った俺は信虎の前に無防備に腹を見せたまま、鉄扇を信虎の左目に向かって突き出した。両目を傷つけることが出来れば、相手の脅威は激減する。
 そう考えて繰り出した一撃だが、それでも、信虎の勢いは止まらない。これも当然といえば当然で、どう考えても、俺の鉄扇が信虎に達するより、信虎の一撃で俺が腰斬される方が早いからだ。
 刀が吸い込まれるように俺の胴に達するのを見て、信虎の目には残酷なまでに猛々しい勝利への確信が浮かびあがり――
「ぬッ?!」
 次の瞬間。
 鉄が幾重にも軋るような音と共に、繰り出した刃が俺の肉体に達することなく止められたのを見て、信虎は唸る。
「着込みか、小癪なッ」
 その信虎の目に、俺の鉄扇がまっすぐに突き出され――



「くッ」
 次に呻き声をあげたのは俺だった。
 段蔵手製の着込みで信虎の一撃を防いだとはいえ、その衝撃まで緩和できたわけではない。
 実際、身体が浮き上がり、腹を断ち割られたかと思うような猛烈な一撃で、骨の一本や二本は折れたかもしれない。腹から駆け上ってくる痛みに、俺はたまらず奥歯をかみ締めた。
 そして、必然的に、俺の繰り出した攻撃も正確性を欠き、信虎の左目のすぐ外側を強く突いただけに終わってしまった。
 かすかに頭を揺らした信虎が、舌打ちと共に後退する。
 膝をつきたいほどの痛苦に襲われている俺に、追撃をくわえるだけの余力がある筈もなかった。


 
「着込みとは考えたものよ。じゃが相打ち――というには、少々足らぬな、若造。肋の二、三本は砕けたであろう」
 顔に流れる血を拭いながら、信虎が耳障りな声を発する。
 だが、俺はそれに答えることはなかった。
 着込みを利しての一撃は、武技で劣る俺の唯一の切り札だった。相手に気付かれてしまえば、二度は通じない。一度かぎりの奥の手。
 だが、気付かれてしまった以上、相手は、次は首なり、頭なり、あるいは手足なり、確実に斬れるところを狙ってくるだろう。 
 対する俺に、それを完璧に防げるだけの技量はない。今ので多少なりとも敵の視界を奪えれば、また違う答えが出せたかもしれないが……


 信虎はそんな俺の内心を見抜いているのか、鮮血に染まった半面を歪めた。ただそれだけの表情の変化が凄みを感じさせるのは、信虎の持つ威ゆえなのか。
「とはいえ、わしの身体に触れるをえたは見事よ。おしむらくは運が足りなんだか。さて――」
 そう言って、信虎はこちらに見せ付けるように、刀を大きく一振りして、ゆっくりと告げた。
「――覚悟は良いな」
 血まみれの哄笑と共に、再度、鉄血の嵐が吹き荒れた。
 
   



 上衣が裂け、衝撃が胸を詰まらせる。
 額が真一文字に斬られ、鮮血が飛んだ。
 暴風のように荒れ狂う信虎の斬撃を前に、俺は再び防戦一方に追い込まれる。反撃に移る余裕は微塵もなく、ひたすら防御に徹するが、それでも敵の刀は幾度も俺の身体を捉え、傷を与え続けた。
 そこまでは先刻と同じであったが。
「く、ぐッ」
 脇腹からせりあがってくる痛みに、俺は歯をくいしばって耐えるが、そのために信虎の攻撃に対する意識がわずかに削がれてしまうことは避けられなかった。
 武芸に熟達した信虎が、その隙を見逃す筈はない。振るわれた一撃を、俺は咄嗟に身をのけぞらせるようにかわしたが、完全に避けることは出来なかった。
 左の瞼から、弾けるように血があふれ出した。あと一瞬、避けるのが遅れていれば、眼窩を貫かれていただろう。
 だが、ほっと安堵の息をつく暇もない。傷口から流れ出した血が目に入り、激痛が襲ってきた。
 反射的に左目を閉じ、それ以上の血の流入はかろうじて食い止めたが、腹からの痛みに加え、目からもたえず苦痛が襲ってくる。
 目に関しては、条件は信虎と対等ともいえるが、元々、武芸の腕がかけはなれているのだ。同じ条件で戦えば、勝敗がより明らかになってしまうだけのことだった。
 さらに時が進むにつれ、信虎は刀以外の手段も用いてくるようになった。秘していた懐剣が、鋼のような拳が、丸太のような脚が、俺を冥府に突き落とさんと襲い掛かってくる。
 その全てを避けることなど到底できぬ。
 数秒後とも、数分後とも知れない乱撃の後、腹といわず、目といわず、四肢といわず、全身から伝わってくる痛みに苦悶し、流れ落ちた血で、視界の半ばを紅く染めながら――



 ――しかし、それでも俺は信虎の前に立っていた。
 ――この男の前で、膝を屈さないくらいの意地の持ち合わせはあったから。



◆◆



 鋭い舌打ちの音がした。
「真田の小娘ならばともかく、うぬのような若造、嬲ったところで面白くもない。さっさと地を舐めれば、それ以上苦しまずともよくなろうに」
 刀の峰で、右の肩を叩きながら、信虎は吐き捨てるように言う。
「それとも、待っておれば援軍でも来ると思うておるのか? 無駄よ無駄よ。この躑躅ヶ崎の館、そして甲斐の国の基を開いたのはわしぞ。それを突き崩すのは赤子の手をひねるより容易い。うぬがここで命を代償として時間を稼ごうと、結果は何一つかわらぬわ」
「……その通り」


 答える声は、我ながらおかしいくらいにかすれていた。それでも、俺はあえて口を開く。
「私や貴殿が何をしようと、結果はかわらない。たとえば、そう、貴殿が甲府の町で何やら騒ぎを起こそうと企てたとしても――」
 信虎の眉が、視認できないくらいに小さく動いたことを、俺は何故か確信した。
「……我らがそれを阻止したとしても、結局のところ、何も変わらない。言っただろう、互いに道化、と」
「ならば、そこまで意地を張る必要もあるまいが。道化なら道化らしく、おとなしゅう隅で転がっておれ」
「……あいにくと、そういうわけにもいかない」


 ――オンベイシラマンダヤソワカ、と毘沙門天の真言を胸中で紡ぐ。
 胸中に鮮やかに浮かび上がる主の姿。それだけで、苦痛がわずかに遠ざかった。
「この身は軍神の麾下にあって――」
 鉄扇を握る手に力を込める。
 次に浮かんだのは、刀を正眼に構え、こちらを見据える佳人の姿。
「――剣聖の練成を受けた者。貴殿のごとき不義の輩に、膝を屈するなどありえない」



 俺の言葉に、信虎の顔が訝しげにゆがんだ。
「軍神に、剣聖、じゃと……?」
 だが、すぐに何事かに思い至ったようで、信虎の顔に理解と、そして嘲りの色が浮かんだ。
「なるほど、越後はわしではなく、晴信についた、とそういうわけか。ふん、愚かよな。軍神だの剣聖だのとおだてられた小娘どもと、その麾下に従う玉無しの腑抜けごときが、どうしてわしを止められるものか。何やら小細工を弄して騒擾を食い止めた気でいるようじゃが、くく、良いのか、一手止めただけで安堵していて。わしが次手を用意しておらぬとでも思っておるのか。だとすれば――」
 その思いあがりを悔いることになろう。
 そう言って笑う信虎の両眼は、正視しがたい光を放って、俺を威圧するように猛っていた。





◆◆◆




 決着はついた。
 そのことを男は確信する――半ば、呆然としながら。
 周囲に倒れ付すは、十を越える配下たち。
 この甲府の町を混乱に導き、ことによっては焼き尽くすことさえ辞さぬ任務を帯びた男は、配下たちと共に密やかに蠢動してきた。
 与えられた時間は決して十分とはいえなかったが、それでも今宵の挙には間に合った。また、間に合わねば自身の命が失われるであろうことも、男は承知していた。
 あの鬼人に仕えるということは、そういうことなのだと、武田信虎に仕える者たちは皆、承知していたのだ。 だからこそ、今回もかなう限りの準備をととのえたのであり、実際に難民たちの扇動には成功した。
 先刻――暴徒と化した難民たちの中に潜んだ男は、後は武家屋敷の女子供を踏みにじり、その叫喚をもって躑躅ヶ崎館を陥とすのみ、と小さく哂ってさえいたのである。


 だが、上杉謙信と名乗る女武士によって策謀は水泡に帰し、元々多くなかった男の配下も、少なからぬ人数が失われてしまった。
 男が難民の中に潜んだままであったのは、あの場であれ以上、どう声をあげようとも無意味だと悟った――悟らされてしまったからである。それほどに、あの女の清冽とした気組みは凄まじく、男が醸成した狂気など微塵も残らず破却されてしまったのだ。
 何故、あんな場所に、あんな女が。
 そう歯軋りしながらも、男はなお諦めたわけではなかった。
 初手が防がれたならば、次手を繰り出すまでのこと。なに、燃え上がるのが、武家屋敷から、甲府の街並みにかわるだけのことだ、と男は再び昏い笑みを浮かべる。
 常に保険をかけておくことを当然と考える男は、この時のために各処に潜ませていた配下をかきあつめ、甲斐最大の町を炎で埋めようと命令を下し――


「――ここまで、読みきってしまうのですか……軍師殿を、敵には、したくないものです」  


 そんな声と共に、その場に現われた女性に、目を奪われることとなる。




 一瞬、先刻のあの女かと思ったが、すぐにそうではないことに男は気付く。
 黒髪を結っていたあの女と異なり、目の雨の女性は直ぐに垂らしている。腰まで伸びた髪から立ち上る薫香は、邪気と殺気が入り混じるこの場では明らかに異質であった。
 町人が迷い込んできたのかとも思われたが、しかし、女性の涼しげな双眸に戸惑いはなく、何よりも腰に差した大小と、それをためらいなく抜き放つその動作が、女性の立場を雄弁に物語っていた。
 はっと我に返った男は、素早く、そして断固として命令を下した。
「殺せッ」
 ここで大声で騒がれてしまえば面倒なことになる。
 そう判断したゆえの命令であり、それは男の立場からすれば至当な命令でもあった。
 寡は衆に勝てない。どれほどの武人であれ、これは共通する原則である。もっとも、それを覆す輩に、つい先刻でくわしたばかりなのだが、まさかあのような化け物がそうそういる筈もなかった。少なくとも、男はそう考えた。


 それを油断と責めるのは酷であろう。
 ここは戦場の只中というわけではない。行おうとしているのも、状況によっては用いることなく終わった策である。それに備えるために、達人級の人物を据えておくような軍配者がいるなどと誰が思おうか。
 ましてや――剣聖を、据えるなどと。


「ぐああッ?!」
「か、ああああ、おのれ、女ァァッ!!」
 はじめに襲い掛かった二人は、瞬く間に手首を断ち切られた。重い音と共に、男たちの刀が、柄を握っていた手ごと地面に落ちる。
「手ごわいぞ、甘くみるなッ」
「囲め、押し包んで討ち取れ!」 
「応ッ!」
 いずれも手錬の者らしく、女性の剣技が尋常でないことに気付いたのだろう。
 囲みこんで女性を討ち取ろうとする。二人を無力化しても、いまだ彼我の人数差は隔絶している。すぐに女性は斬り捨てられる、そう思われたのだが。


 あがるのは苦悶と絶鳴。いずれも男たちのものばかり。
 女性の剣技は、ただ相手を斬るだけではない。周囲の敵兵に向け、時に舞うように揺らめき、脅すように閃き、幻惑するように翻る。
 初手で恐るべき実力を見せ付けられた相手は、その動きに惑い、自らが鋭鋒の矢面に立たされることを恐れてためらった。
 その敵の心理をさえ読み取って、女性は相手の連携を寸断し、巧妙に包囲を突き崩していく。何も必ずしも斬り殺す必要はない。首をとらずとも、腕の一本が失われれば、その兵は無力となるのである。
 ことに、この女性は打ち込んできた相手の手首を捉えることが巧みであった。動いた相手に、即座に応じて反撃する――いわゆる後の先である。



 向き合えば必敗、囲めば寸断、致すことかなわず、ただ致されるのみ。
 さして広くもない甲府の町の一隅に、男の配下が倒れ付すまで、かかった時間はごくわずかであった。
 歯軋りの音と共に、男の口からうめくような声がもれる。
「……何者だ、貴様」
「――大胡秀綱」
 静かに耳に届いたその名前に、男はわずかにいぶかしげな表情を浮かべた後、すぐに驚愕をあらわにする。同時に、悪夢にも似たこれまでの剣劇が、はじめて現実のものだと認識できた。
 この相手を前にすれば、それも当然のことだと納得できた。
「大胡、秀綱、だと……? な、何故、剣聖がこんなところにいるのだッ?!」
 だが、驚きに顔を歪める男とは対照的に、秀綱は静かであった。十を越える敵を斬った後とは思えないほどに。
「……甲府の町と、そこに住まう人を守ってほしいと請われたゆえ」
「請われた、だと。何故。貴様は、たしか今、越後にいた筈。越後と武田は不倶戴天。なぜ武田家を守るような真似をする必要があるッ?! 何故、貴様ほどの戦力を躑躅ヶ崎館に置いておかないのだッ?! 何を考えているのだ、貴様らはッ?!」
 男は激怒していた。
 このような暗闇で火付け略奪を妨げるなど、名高き剣聖にとって、あまりにも役不足。暗闇にうごめく者たちにとっては、場違いな闖入者に等しい。人には各々領分というものがあるではないか、と。
 おかしな話だが、男は本気で怒っていたのである。
 自分たちが狼に挑みかかった野良犬だと知って。その役どころを振った、顔も知らぬ何者かに向けて。


 そして、男は不意に、今の今まで考えもしなかったことに思い至った。
「待て……待てッ! 越後にいる貴様がここにいるということは、まさか、謙信とかいったあの女……あの武烈、あの気組み、まさか、あやつは……ッ」
 うなるように声を絞り出す男。
 そんな惑乱する男を見る秀綱の目に浮かんだのは、憐憫であったかもしれない。秀綱の目から見ても、この配置は無茶と映るものであった。まして、それで目的を阻まれれば、呪詛の一つも吐きたくなろう。あらゆる意味で、この男は、あまりにも相手が悪かった。
 だが、秀綱は余計なことを口にすることなく、手に持った刀を振り上げる。
「……罪なき民人を蹂躙しようとした報いは、受けてもらいます――覚悟」
 夜空の明りを映した刀がわずかに煌き――それが、男が見た最後の光景となったのである。





◆◆◆




 
「――思い上がっているつもりはないが」
 俺は信虎の言葉に対し、小さく肩をすくめた。ただそれだけの動作で、全身から締め付けるような痛みが襲ってくる。
 甲府の町には謙信様と、秀綱と、そして段蔵配下の軒猿が数名いる。そちらに関して、心配はしていない。
 心配しなければならないのは、俺自身の方だった。
 さすがに、そろそろ限界だ。時間稼ぎ一つでここまでぼろぼろというのも情けない話だが、ここまでよく頑張った、俺。
 その時間稼ぎにしたところで、晴信にとっては余計なお世話もいいところだとわかってはいるが、そうとしって、それでもよく頑張った、俺。


「……しかし、場違いな道化としては、いいかげん、主役に戻ってきてもらいたいものなんだが――真田、幸村殿?」
 俺は、先刻から声を発していない幸村に向けて呼びかけた。
 視線を向けないのは、信虎に対する警戒のためだったが、正直、次に攻撃をくらえば、たとえ備えたとしても、もう避けることは難しいだろう。
 視線を向けていないため、今、幸村がこちらを見ているのか、うつむいているのか、そもそも意識を保っているのかさえ判然としない。
 それでも、俺は呼びかけを続けた。斬り合いが終わったことで、かえって気が緩んでしまったのか、不意に意識がとぎれそうになる。あまり長いことしゃべってはいられなさそうだった。
「何故、御館様は何も仰ってくれないのか。そんな風に考えているのなら――」
 だから、核心だけを口にする。
 かすかな物音は、はたして誰がたてた音なのだろう。
「それはすべて、真田殿のためですよ。躑躅ヶ崎の乱で起きた出来事、それをあなたが受け入れ、そして自分自身で判断が下せるように。そう考えられたのでしょう」


 幸村の、晴信への心酔ぶりは、傍で見ていても明らかだった。それはそれで美質の一つであり、幸村の忠誠と献身は武田の家臣として相応しいものであったろう。
 だが、それが出来る将は、幸村のほかにも多くいる。武田家のように優れた人材が数多く集う家であれば、その数は決して少なくあるまい。だからこそ、晴信にとって今に不足を覚えない幸村はいささかならず物足りないのだろう。能力の多寡ではなく、拠って立つべき将の格――真田幸村は、もう一段、上にあがれる将であるという確信があればこそ、なおさらにそう思えたに違いない。
 虎綱に聞いた話では、これまでの戦の多くで、実際に矛を交える時を除き、晴信は幸村を傍近くに控えさせていたらしい。これは主君を尊敬する幸村の望みでもあったのだろうが、同時に幸村を教導しようとする晴信の意思でもあったのだろう。
「与えられた戦場で矛を揮うは匹夫でも出来ること。そうではなく、自ら戦場をつくることの出来る、真の意味での将になってほしかった。武田の家を支えることの出来る重臣となってほしかった。けれど、晴信様の答えを己が答えとして受け入れてしまう今の真田殿では、それは難しい」


 そう。簡単に言えば、それは武田晴信とて一人の人間であるとわきまえること。
 主君を絶対視すれば、なるほど、自分で考える必要はなく、ただ主君の言葉を遵守していれば良い。だが、それではもし主君が家の舵取りを誤った時、とりかえしがつかなくなってしまう。
 武田という大舟を誤り無く漕いで行くための、一つの櫂。
 無論、並の配下にそこまでは望まない。並の器量の者にそんなことは望めない。
 だが――
「あなたならば、望めると、そう晴信様は考えられた。けれど、あなたの忠誠と尊崇はあまりに強固で、言葉で教え諭すことは難しい。何故なら、つまるところそれは主君である晴信様を疑うところから始めなければならないからです」


 この考えが確信として浮かび上がったのは、実のところつい先刻のことだ。
 黙然と佇み続ける晴信の姿を見て、そうに違いないと確信した。
 晴信にとって――この戦いは、真田幸村を克目させるための場。おそらく、それ以上の意味を持たない。
 同時に、あまりにも長く暴虐に耐え続ける晴信を見て、もう一つの事実にも俺は気がついたように思えたのだ。
 それは――


「だから、晴信様は口を開かなかった。躑躅ヶ崎の乱で何があったのか、一言でも何かを口にすれば、それがあなたの判断を縛ってしまうからです。晴信様を信じるなら、それも良い。疑いを持つならばそれも良し。万に一つ、信虎を信じ、刃向かってこようとも問題はなかったのでしょう。それが、あなた自身の判断でさえあれば」
 そのためにこそ、晴信は信虎に何をされても動じなかった。おそらく、あの時、俺が動かず……あの場で陵辱の憂き目を見ようとも、晴信はその態度を貫いたであろう。むしろ、その惨劇によって幸村が克目することさえ計算に入れていたのではないか。
 俺には、そう思えてならなかったのだ。




 凍りついたような静寂の中、俺の耳に届いた声は、俺以上にかすれていた。
「……………………ばか、な」
「確かに、馬鹿なことです。俺がここに出なくとも、そんな事になる前に、真田殿は立ち上がったに違いないですから。ですからこれは、俺の馬鹿な推測です。それとしってここにいる俺は、間抜けな道化です。せめて、真田殿が休むための時間を少しでも稼げたのなら、望外の成果といわねばなりませんね。もっとも、道化でいるのもいささか飽いてきたところではあります」
 そう言って、俺は内心の苦悶を押し隠すために、無理やりに笑みを浮かべ、それまで続けていたいささかあざとい口調を平素のものに改め、背後の人物に最後の呼びかけを行った。


 
「真田幸村。まだ寝ていたいなら止めはしないが――この下衆の首、俺がとってしまってかまわんのだな?」





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/27 16:48


 過日のこと。
 真田幸村は、主である武田晴信の口からこんな言葉を聞いた。
「一将、功成りて、万骨枯る……戦世の理は無常なものです」
 耳慣れない言葉を聞き、幸村は首を傾げつつ問いを向ける。
「将の栄達の影には、将兵の死屍がある、ということでございましょうか?」
「ええ、その通りです。斜陽の時を迎えた大唐の詩人が遺したものですよ」
 晴信は手元の書物をめくりながら、幸村に応えた。


「どれだけの功名をうちたてようと、それは無名の兵たちの死を積み重ねて得たものにすぎません。一将の武功のため、万の兵が犠牲となる――真の将とはその理をわきまえ、常日頃から兵を慈しむ者でなければならないのです。それが出来て、はじめて名将たるの資格を得るのですよ」
 その晴信に、幸村は満腔の自信をこめて断言する。
「武田の将兵、一人として御館様のために死ぬことを恐れる者はおりませぬ。我らが死屍の上に御館様の御名が輝くのならば、これに過ぎたるはなし。御館様は、紛れもなく名将であらせられます」
 その幸村の言葉に対し、晴信は深みのある視線を向けることで応えた。


 咎められたわけではない。にも関わらず、主君の視線を受けた幸村は、何故か息がつまるのを感じた。
「あ、あの、御館様、何か無礼を申しましたでしょうか……?」
「……いいえ、幸村の忠誠、嬉しく思いますよ。願わくば――」
「は、はい」
 背筋を真っ直ぐに伸ばし、晴信の一言一句を聞き漏らすまいと身構える幸村に、晴信は小さくため息を吐いた。そして呟くように言う。
「千軍は得易く、一将は求め難し。死んだ馬に五百金を投じることから始めるのに比べれば、名将の器を備えた者を引き上げるなど、大した手間ではありません。遠からず、それに数倍する福をもたらしてくれるのですから」
「……お、御館様?」
 唐突な晴信の物言いに、幸村は戸惑いをあらわにする。
「ふふ、戯言です。気にしないでください」
 そんな幸村の様子をみて、晴信は小さく微笑んだ。
 幸村は顔に疑問符を浮かべつつ、しかし問うべき言葉も見つからず、内心で首を捻るに留まったのであった。



◆◆



 思えば、晴信は常に将とはどうあるべきかを幸村に教え諭してくれていた。
 無論、幸村は主君から向けられる期待に気付いていたし、それに応えるために努めてきたつもりである。自分が無様を晒せば、真田の家名に瑕がつき、主君の顔に泥を塗ることになってしまうのだから、文字通りの意味で懸命であった。
 しかし、この戦そのものが幸村の克目を促すためだけの意味しかないなどと考えてはいなかった。考えるはずはなかった。
 当然である。戦とは、家を挙げての大事。兵の命、民の安寧、家の誇り、それらすべてを賭して行われるものだ。重臣とはいえ、一人の臣下に過ぎない幸村のために戦を引き起こすような真似を、明哲な晴信がなすはずがない。目的の一つに組み込むことはあるかもしれない。しかし、それ自体を目的として戦を行うなど――


(……ありえない)
 胸中でうめき声をあげながら、しかし幸村は言葉とは裏腹に、天城の言葉を半ば以上受け入れている自分に気付いていた。
 何故なら、天城の言葉は、今回の戦における晴信の行動の多くを的確に言い当てているからである。
 幸村も、疑問に思わなかったわけではない。そもそも、武田の命運を決する戦の指揮を幸村に任せ、自身は躑躅ヶ崎館の奥で漫然としているなど、これまでの晴信であれば考えられなかったことだ。
 しかし、幸村は、自身がそれほどの信頼を受けていると考え、感奮して事にあたるだけで、それ以上深く考えようとはしなかった。
 自身に重任を授けてくれたことに感謝し、全力をもってそれに応える。臣下として考えるべきはそこまでで良い。そう言い聞かせて。


(ありえない)
 信虎の口から語られた、乱の詳細。祖父幸隆と、父昌幸が信虎に与して動いていたという言葉。
 それが事実であるか否かは、この際、措こう。確かめようもないことである。
 それに、それが事実であれ、偽りであれ、過ぎたことである。現在の真田家当主は幸村であり、たとえば信虎の言葉が偽りでなかったとしても、今の真田家がかつてと同じ決断を下さなければならない理由はない。
 そして、現在の真田家の決断――幸村の答えは一つしかない。
 確かに幸村は、真田家を取り潰さず、自身に家督を継がせてくれた晴信に恩を感じている。しかし、晴信に忠誠を捧げる理由が、それだけであるはずはなかった。
 采配をとっては万の軍勢を縦横に操り、内治に転ずれば荒れ狂う河川さえ鎮めてのける。人の深奥を見抜く目は幾多の良臣を見出し、家臣を登用して誤ることはない。
 智勇仁義いずれにも欠けることなきその統治を、幸村は、晴信に仕えた決して短くない年月、目の当たりにしてきた。胸中に育まれた忠義と尊崇の大樹は、今や身体の隅々にまで根を張り、真田幸村という一個の人格を根底から支える誇りとなっているのである。


 晴信は以前言っていた。必要であれば、計略も策謀も自分は用いる、と。しかし、それは策謀を弄び、人の誇りを踏みにじることを意味しない。幸村を真田の家督に据えた晴信の狙いが、信虎の言うとおりであったとしても、そこには必ず相応の理由がある。
 これまで、晴信がその真意を秘していたのならば、その理由はただ一つ。幸村が、それを受け入れるだけの器量を持っていなかったからである。主君の期待に、失望をもってしか応えられなかったこれまでの自分を、幸村はこの時はっきりと認識する。
 隣国の主のように、ただ正義のみを追い求めるだけでは乱世は終わらない。清濁併せて飲み干す、衆に優れたその器量――乱世を治める方は、この方を措いて他になし。この方につき従うことこそ、自分の天命であると、そう信じていたはずなのに。
 ……どうして、先刻までの自分は、ああも主君の言葉を欲したのだろう。
 そのことを思うと、血の気を失ったはずの顔が、羞恥で熱くなるのを感じる幸村だった。




 かつての乱の真実など知ったことではない。
 祖父が、父が、姉が、何を考え、どうして散ったのか。そんなことを考えている暇はない。
 あるいは、幸村の主君は、幸村にそこまで考えた上で動ける将になってほしいのかもしれないとも思う。
 しかし、そこまで急に変わることはできない。
 もとより、幸村は自身の資質に『慎重』やら『巧遅』やらを据えてはいない。
 真田幸村という将に、美質というものがあるのだとすれば、それは行動によってのみ示されるものであるはずだった。


 守るべき主君は目の前にいる。
 倒すべき敵は目の前にいる。
 ならば、真田幸村が果たすべき役割は明らかで――




「真田幸村。まだ寝ていたいならば止めはしないが――この下衆の首は、俺がとってしまってかまわんのだな?」




 にも関わらず、その役割を他者の手に委ねるなどと――




(――ありえるものかッ!)
 そんなことは、決してあってはならないことであったのだ。




◆◆




 立っているのも苦しい状況で、言い放つ姿は、我ながら滑稽であったろう。
 俺の視線の先で、信虎が口元を歪めているところを見るに、信虎が俺の長広舌を遮ろうとしなかったのは、最後の足掻きを見るためであったのかもしれない。
 あるいは、先に俺が語った晴信の思惑を聞き、それを砕くことに愉悦を覚えたのか。
 信虎にしてみれば、ここで散々痛めつけた幸村が立ち上がったところで、脅威になるはずもないのだから。


「……つッ」
 胸奥からせりあがってきた痛みと吐き気をこらえかね、ぐらり、と俺の身体が傾いた。
 意地でも膝はつきたくない。その一念だけで、なんとか倒れるのはこらえようとするが、踏ん張りきれなかった身体がたたらを踏む。
 あやうく、後方に倒れこみそうになった俺の身体が――
「……いつから、貴様は私を呼び捨てることが出来るようになったのだ?」
 俺に劣らず苦しそうな、しかしそれでいてどこか張りを感じさせる声と共に、後ろから柔らかく支えられた。
 それが誰なのか。わざわざ後ろを向いて確かめる必要を、俺は認めなかった。


「無礼は、お詫びします。貴殿を発奮させるための……苦肉の策で、ございました」
 途中、咳き込みながらも、俺はそう言った。ひそかに胸をなでおろしたのは内緒である。
 いや、『任せた』とか言われた日にはどうしようかと思っていたのだ。
「……ふん。何なら任せても良い――と言いたいところだが」
 台詞の前半に、ぎくりと身体が揺れる。多分、俺の身体を支えてくれていた人物は、それに気付いたのだろう。発する声が、笑みを含んでわずかに柔らかくなる。 
「あれを討つは私の役目だ。貴様は下がって傷の手当てでもしているが良い」


 そう言ってその人物は――真田幸村は、紫紺の衣を翻らせて、俺の前へと歩を進めた。
 衣は破れ、肌は傷つき、傷口から流れる血潮は今なお地にこぼれている。見る者が、痛ましいと目を伏せても不思議ではない、凄惨なその姿。
 しかし、何故だろう。
 そんな幸村を見ている俺は、痛ましさなど感じない。凄惨などと思わない。
 血と埃に塗れていようとも、その姿は威風辺りを払う。
 月を隠していた厚い雲が晴れ、躑躅ヶ崎館を包むように、天頂より月光が降り注ぐ。
 明度が増した中庭のただ中にあって、真田幸村の姿は燦然と輝いているようにさえ、俺の目には映っていた。



 あるいは。
 俺はようやく、武田の誇る雷の将をこの目で見ることが出来たのかもしれない。





 しかし、そんな真摯な感情に浸っていることを、いつまでも許してくれる相手ではなかった。
 次の瞬間、あざとい拍手の音が中庭に木霊し、俺は反射的に眉をしかめた。拍手の音など誰が打ってもかわりないはずだが、この音には明確な悪意が感じられるように思われてならない。そして、事実その通りでもあったろう。
「……ふむ、なかなかに面白い見物であった。三文芝居にしては、じゃがの」
 そう言うと、信虎は口元に嘲笑を浮かべ、こちらの神経をすり減らすような毒気交じりの声を発する。
「で? 死にぞこないが一人から二人に増えたところで、何がどう変わるのじゃ?」


 確かに信虎の言う通り、俺は無論のこと、幸村も深い傷を負っている。何かが確かに取り除かれたことは間違いないにせよ、それで彼我の形勢が逆転するわけではない。
 信虎の余裕ともとれる態度は、その認識に裏打ちされたものなのだろう。
 無論、違う答えを出す者もいた。 
「何が変わるのかは、その目で確かめろ、下郎」
 言いながら、幸村はさらに前に出ようとする。そこに先刻まで感じられた迷いは微塵もなく、その眼差しはどこまでも真っ直ぐに信虎に――自身で見出した敵に向けられていた。
 信虎が、表情をわずかだが改めたのは、その幸村の変化に気付いたゆえか。


 ぼろぼろの幸村がここまで毅然と地を踏みしめているのだ。
 後は任せました、などと言えようはずもない。さすがにこれ以上戦うのは無理だが。
「……同意」
 俺は一言だけ口にすると、精々余裕ありげにその場で鉄扇を構えてみせる。
 やせ我慢以外の何物でもないが、多少なりとも信虎の注意をこちらに割ければ。そう思ってとった行動だったのだが――


 いつのまにやら、道化の出番は終了していたらしい。
 次の瞬間、その場に響いた静かすぎるほどに静かな声を聞き、俺はそのことを悟る。





 澄明な声と共に、小柄な身体が進み出た。
「――聞くに堪えず。見るに堪えず。そして、語るに足らず。御身はかりそめにも甲斐源氏、武田宗家の血が流れる身、堕ちたとはいえ、守るべき節はあるでしょうに」


 苛烈な眼差し。
 清冽な語調。


「その程度のことすら、忘れ果ててしまわれたのか。我が父とはいえ、是非もない」


 顔に塗られた血化粧などでは、覆うことかなわぬその威厳。
 纏う衣を裂こうとも、傷つけることあたわぬその誇り。



 敵と味方、全ての視線を注がれて――否、先刻現われ出でた月と星の眼差しをも総身に浴びながら。
 武田信濃守晴信は、彼女が主役を務めるべき舞台にその姿を現したのである。      



◆◆



 つかの間の静寂は、弾けるような笑声で破られた。
「くく、ふ、はは、はははははッ!! いつ以来であろうな、晴信よ、うぬがこの身を父と呼ぶのは。わしの種であること、まだ覚えておったのか」
「無論です。忘れる必要もありません。その事実は、私の尊厳を何一つ傷つけることはないのですから」
「たしかにの。甲斐源氏の血を与えてやったこと、感謝されこそすれ、恨まれるいわれはないわ。しかし、父に対するに、うぬの先刻までの態度はほめられたものではないのではないか」
 信虎自身、みずからの行いを棚に上げていることを承知しているのだろう。その顔には薄笑いが浮かんでいた。晴信の反論を予期し――というよりも心待ちにしているといった様子である。
 先刻までの言動を振り返ってみても、信虎が晴信に抱く執着は尋常ならざるものを感じさせた。


 傍で聞いているだけでもそう感じるのだ。実際にその感情をぶつけられている晴信の心中はいかばかりか。
 しかし、信虎の嘲弄に対し、晴信は憤ることなく、平静を保ったまま口を開いた。
「父、父たれば子も子たり。翻って父が父たらざるとき、子が孝養を尽くす必要はないでしょう。親愛の情は無論のこと、たとえそれが軽侮であれ、あるいは憎悪であれ、私と御身が理解しあうことは決してありません。なれば、罵詈を浴びせるも、雑言で報いるも、無益なことでしょう」
 寒風に晒されていた肌を、裂かれた上衣で覆いつつ、そう語る晴信の口調は澄んだ湖面のごとく穏やかで――そして、その穏やかさは、信虎がもっとも望まぬ返答の形であったのだろう。


 信虎の顔が奇妙なゆがみを帯びた。
「……ならば、なにゆえ口を開く? 語りたくないというなら、最後まで黙っていればよかろうに。それにの、言葉によらずとも通じることは出来るのじゃぞ、男と女であればな。そのこと、すぐにうぬにも教えてやろうぞ――日月を忘れるほどに、じっくりと、じゃ」
 下卑た顔で、下卑た言葉を口にし、信虎は心地良さげに笑う。
 人の尊厳に泥を塗ることに、喜びを覚える者の、醜い嘲弄と粘つく視線を浴びせられた晴信の目に、恒星のような煌きが躍った。


 これが、父が娘に言う言葉なのか。悪寒を禁じ得ない濃密な悪意に、俺は知らず背を震わせる。
 そして、俺以上にその嘲りに大きな反応を示したのは、真田幸村であった。
 信虎の無礼な放言を聞いた瞬間、幸村の長い髪がざわりと揺らめき、その口からは鮮烈な叱咤が迸る。
「下郎めがッ!!」
 幸村の声は怒りに満ちていたが、繰り出された斬撃は感情に溺れてはいなかった。
 踏み込みと斬撃。この二つの動作が、まったく同時に行われたとしか見えない神速の一撃は、幸村の技量が余すことなく発揮された会心の一刀でもあった。
 俺が幸村の前に立っていたとすれば、避ける暇もなく体を左右に両断されていたであろう。


 それだけの威と力が込められた一撃を、しかし信虎はかわしてのける。
 それでもさすがに完璧に、とはいかず、その右の腕から鮮血が飛び散った。幸村にこれだけの余力があったことが意外だったのか、信虎は数歩後退する。
 一方の幸村の口からは痛烈な舌打ちの音がもれたが、追い討ちをかけようとしないのは、やはり負傷が響いているせいなのだろう。


「……ほとほと頑丈な奴よ。あれだけ痛めつけてやったのに、まだこれだけ動けるとは。智恵はともかく、武芸では親を越えたか」
 その信虎の言葉に、しかし幸村は反応せず、射るような視線を信虎に注ぎ続けた。
 信虎はいささかわずらわしそうにその視線を払うと、幸村と、そして晴信の方を眺めやる。
 晴信は先刻までと異なり、凛とした戦意を放って信虎に対している。その手に武器はなかったが、不用意に近づけば危険であることを信虎は悟ったようだ。
 最後に、信虎の視線が俺にも向けられたが、脅威とするに足りないとすぐに結論づけたのだろう。その視線がとどまったのはわずかの間だけだった。


 再びにらみ合いが始まるかと思われたのだが、不利を悟ったのか、あるいは別の目論みがあったのか、信虎はさらに数歩下がり、幸村、晴信双方から距離を置く。
 信虎の口から、奇妙に楽しげな声がもれた。
「今宵こそと思うたが……犬と道化のせいで、少々興がそがれたわ。まあ予測しておらなんだわけでもなし、長く愉しめるという点では、この方が望ましくはあるか」
 そして、次にその口から発された言葉は、晴信でも幸村でもなく、はじめてこの場にいる配下に向けられたものであった。その命令はごく短く、そして明確であった。すなわち、信虎はこう言ったのである。
「……わしは退く。うぬらはここで死ね」




 そう言って、実際に身を翻す信虎を見て、幸村は呆気にとられたようだった。
 それも無理からぬことだろう。心術の是非はともかく、信虎が文武に秀でた尋常ならぬ人物であることは間違いない。その信虎が、あれだけ執着を見せていた目的を前にして、いきなり退いてしまったのだから。
「な、ま、待てッ、逃すか!」
 それでも咄嗟に追おうと動きかけた幸村であったが、ここまで凝然としていた信虎配下の兵たちがその前に立ち塞がる。
「このッ」
 強引に押し通ろうと幸村が得物を揮おうとするが、その幸村に制止の声がかかる。晴信の声だった。
「幸村、よい。追うには及びません」
「は! ……は、は? 御館様?」
 勢いよく頷いた後、自分が予期していた言葉とまったく反対の命令であったことに気付いたのだろう。幸村の顔が驚きに染まる。
 だが、のんびりと問答している暇があるわけもなく。
 斬りかかってきた敵兵と刃を交える幸村は、信虎を追う機を逃し、否応なく乱戦に巻き込まれてしまったのである。




◆◆




 短くも激しい戦いが終わった後、中庭に立っているのは武田の当主と真田の将兵、そして上杉の家臣だけになっていた。侵入者たちは一人として武器を捨てず、皆、朱に染まるまで戦い続け、果てていったのである。
 むせかえるような血臭のただ中で、幸村は今度こそ姿を消した信虎を追おうとするが、再度晴信に止められ、困惑を隠せないでいた。
「よいのですよ。目的は果たせました。瑣末なことを気にせず、あなたは早く傷の手当てをなさい。ここであなたを喪うようなことがあれば、それこそ此度の戦が無意味なものになってしまうのですから」
 はからずも、その一言でこの戦における晴信の思惑を知った幸村であったが、それに関しては瞳をわずかに揺らすだけにとどめ、あくまで信虎を討ち取るべきであると主張する。
「し、しかし、御館様、あの者の目論見が判然としないままに取り逃がせば、武田にとって大患となるは必定ではございませんか。是が非でもここで討ち取っておくべきと愚考します」


 その幸村の真摯な提言に、晴信はかすかに目を細め、どこか遠くを見るような眼差しをした。
「お、御館様?」
 何故か、寂寞とした色を浮かべる晴信に、幸村は戸惑ったように声をかける。
 すると、晴信はすぐに常と同じ泰然とした様子を取り戻し、幸村に応えた。
「目論みに関して言えば察しはついています。元々、父の狙いは私を屈服させること。この襲撃はそのための手段に過ぎません。私を虜にするか、それがかなわなくとも当主としての私を貶めることが出来る……そう考えたのでしょう」
「御館様を貶める、でございますか?」
「そうです。勝敗は兵家の常といいますが、それでも少数の兵に本拠地を蹂躙されたとなれば、当主として大いなる恥辱でしょう。まして、家重代の宝器を奪われでもしたら――」
「宝器、と仰いますと――ま、まさかッ?!」
 幸村が青ざめる。晴信の言わんとしていることを察したのだろう。


 幸村は祠廟に真田の手勢を割いていない。
 いるのは祠廟を掃き清める侍女や小者だけであり、武装した敵兵に襲撃されればひとたまりもあるまい。
 敵が館内に入ってくる可能性を承知していたとはいえ、戦術的に何らの価値もない祠廟を守備する必要を幸村は認めず、またそれは間違った判断ではなかっただろう。実質的に兵を割く余裕もなかったのだからなおさらだ。
 しかし信虎の狙いが躑躅ヶ崎館を陥とすことよりも、宝器――甲斐源氏の始祖新羅三郎義光由来の二つの宝器――御旗と楯無に向けられているのだとすれば、幸村の判断は致命的な失策に変じる可能性があった。


 たとえ躑躅ヶ崎館を守りきったとしても、家重代の宝器を奪われたとなれば、武田家の威信は大きく失墜するだろう。四方の大名は武田家を嘲り、軽んじるようになることは必定だった。
 たかが物、ということは出来ない。人が名誉に命を賭すことが当然の時代である。ましてや家の尊厳の象徴ともいうべき品を奪われでもしたら、以後、甲斐源氏武田家の名は侮蔑と嘲笑の代名詞になりかねぬ。
 そのことに気付いて顔を青ざめさせた幸村は、同時にもう一つのことにも思い至る。
「まさか、あやつの長広舌は……」
「時を稼ぐ意味も、あったのでしょうね。無論、己の嗜虐を満足させることを何よりも優先させていたのは間違いないでしょうが」 



 その言葉を聞き、咄嗟に動きかけた幸村に対し、三度、晴信の口から制止の言葉が発された。
「待ちなさい。幸村が行く必要はありません」
「し、しかし、まだ間に合うやもしれませぬ。内の兵が見咎めている可能性もあるかとッ」
「間に合わない、とは言っていません。行く必要がない、とそう言ったのです」
「……は?」
 晴信の言葉の意味がわからず、幸村はぽかんとした顔を見せる。
 対する晴信は、どこか呆れたような、小さな苦笑を浮かべて言った。


 どうやら、この館には頼まれもしない影働きをする数寄者たちがいるようですね、と。




◆◆◆




 時をわずかに遡る。


 搦め手門の厳重な警戒を目にした男は、かすかに目を細めた。
 その男――信虎麾下の忍びである出浦盛清の手勢は片手の数に満たなかったが、館外で待機している信虎の手勢は百を越える。外と内で示し合わせて挟撃すれば、少数の真田の守備兵など簡単に蹴散らすことが出来るはずであった。
 しかし、どうやら事はそう簡単に運ばないようだ。
「……真田め。かように内側を固めているとは、こちらの動き、予期していたのか」
 盛清は小さく舌打ちの音をたてる。
 躑躅ヶ崎館を守備する真田の兵の大半は、南に姿を現した騎馬隊の撃退に向かっている。残っている兵の数は限られており、館外からの襲撃に対応するだけで手一杯であろう。
 盛清が率いているのは直属の忍四名だけであるが、搦め手門を開くには、これでも多すぎるくらいであると盛清は考えていたのである。


 
 だが、盛清の視界に映る搦め手門は煌々と篝火が焚かれ、館外に対する備えはもとより、内側に対しても警戒の目を光らせる徹底振りであった。盛清が闇に潜んで機を窺うことさえ容易ではない。
 信虎から受けた命令は搦め手門の占拠と、祠廟に安置されている御旗楯無の奪取である。無能とみれば、長年仕えた部下であろうと容赦なく処断する信虎の性格を知悉している盛清は、何としても搦め手門を陥とさなければならないのだが……
「急がねばならぬ、か」
 盛清はそう呟くと、盛清は背後の部下たちに合図を送り、あっさりと身を翻した。搦め手門に見切りをつけ、すぐに祠廟へと向かったのである。


 甲斐守護時代から信虎につき従っている盛清らであったが、駿府城において、一度、曲者の侵入と離脱を許して以来、信虎から冷めた眼差しを向けられていることを、彼らは承知していた。
 戦に限らず、情報の収集分析は人を率いる者にとって欠かせないことである。信虎もそれをわきまえているからこそ、これまで忍集団を率いて落ち度のなかった盛清らを生かしておいたのだろうが、それにも限度はある。失敗を二度重ねれば、間違いなく盛清らの首は宙を飛ぶであろう。


 盛清は部下のかすかな動揺をかぎとったが、あえてそれを鎮めようとはしなかった。
 その暇がない、ということもあるし、その必要もないと考えたからである。
 盛清は信虎から今回の襲撃の狙いの全てを聞いているわけではない。もっともそれは盛清に限った話ではなく、他の誰であっても、信虎が内奥をさらけ出すことなど決してないと断言できる。
 それでも、推測することくらいは出来た。
 これまで信虎が執着を示し続けてきたのは、甲斐という土地や、躑躅ヶ崎館という家屋敷ではなく、現当主武田晴信ただ一人。
 この襲撃で晴信を虜にすることが出来ればよし。仮に出来なくても、それは行き着くまでの過程を愉しめるということでもある。
 甲斐源氏、武田家の宝器『御旗』『楯無』。あれを奪えば、当主である晴信の面目は潰れ、武田の家の名誉は甚だしく損なわれる。晴信の心を挫くための有意な一手となるだろう。
 それゆえ、宝器さえ押さえれば、たとえ躑躅ヶ崎館を陥とすことが出来なくても、自分たちが罰されることはあるまい。盛清はそう考えていた。
 


 
 御旗楯無が安置されている祠廟には、それ以外にも武田家の累代に渡る宝物が保管されている。たとえ武田宗家の人間であろうとも滅多に入ることの出来ない武田家の聖域でもあるのだ。
 常は厳重な警戒がなされている場所だが、今、この時に限ってはおそらく警備はかなり薄いと盛清は予測していた。真田とて、この事態の最中、祠廟に何十もの兵士をつけておく余裕はあるまい。祠廟を守って、館を陥とされました、などとなっては本末転倒も良いところだからだ。


 そう予測した盛清であったが、しかし、だからといって油断はしていなかった。
 今の手勢だけで祠廟を押さえるつもりは毛頭ない。
 躑躅ヶ崎館には、信虎や盛清が用いた武田当主秘匿の抜け道以外にも、抜け道は存在する。忍として信虎に仕え、この館で起居していた盛清がそれらについて無知であるはずはなく、配下の多くはそちらから抜けさせていたのである。
 その別働隊には、真っ先に祠廟を押さえるように命じている。
 ことによってはすでに制圧している可能性もあり、その時は別働隊をともなって搦め手門にとって返すか。そんな風に算段を働かせていた盛清の目に、武田家の宝器が眠る祠廟の建物が映し出されようとしていた。




「……一人」
 小さく呟いた盛清は走る速度を緩めず、手で後方の部下に合図を送る。
 祠廟の前にいる兵士は一人。篝火に照らされ、地面に伸びたその人物の影はいやに細長かった。
 その兵士、身長自体は高いのだが、体つきがいやに細く、まとっている鎧甲冑はいかにも重たげである。だが、自分の身長を越える長さの剛槍を抱えて微動だにしていないところを見れば、それなりの腕はあるのだろう。
 もっとも、そうでなくては一人で祠廟の警護を任される筈もない。
 しかし、先行していたはずの配下はどうしたのか。この場に戦闘の痕跡は見受けられず、兵士のもつ槍も血に濡れている様子はない。


 気にはなるが――しかし、拘泥している暇はなかった。
 どれだけの使い手であっても、所詮は一人。始末することは難しくない。
 それでも騒がれれば厄介なことになるし、あるいはもっと内に他の兵士がいないとも限らない。
 ゆえに、一瞬で終わらせる。
 盛清と、背後の忍たちの手に、投擲の刃が光った。
「……ッ」
 声なき声と共に、五つの剣刃が宙を駆ける。
 その刃が、篝火の傍らで佇むその人物に吸い込まれるように消えていくところを見た盛清が、一気に祠廟の中に踏み込もうと更に駆ける速さを増した、その瞬間。


「――はァッ!」
 ただ一息の間に、鉄が弾かれる音が連続した。その数、都合五度。
 盛清の鋭敏な聴覚ははっきりとそれを捉えた。それが意味するものは明らかで――
「曲者めッ!」
 自身に向けて揮われる横なぎの槍の一閃を、かろうじて避けた盛清は驚愕を禁じ得なかった。
 一つは敵の力量。
 完全に不意を衝いたはずの投擲をことごとく弾き飛ばすとは。くわえて、槍が風を裂く音を間近に聞けば、眼前の兵の腕がそれなりどころではないことは明らかだった。見るからに重量のある槍を、この兵士はまるで小枝のように振り回す。膂力一つとってもただ者ではありえない。
 そしてもう一つ。
 篝火に照らされたその尋常ならぬ敵手の顔が、煌くような生気に満ちた少女のそれであったことである。


 真田幸村以外に、このような鬼女がいようとは。
 内心でそう思いながら、盛清はそれを表には出さなかった。盛清は忍である。一対一で勝つのは難しい相手にはそれ相応の対処の仕方がある。正々堂々の一騎打ちをするつもりはなく、どれだけの使い手であろうと、五対一であれば、こちらの勝利は揺るがない。その確信を以って兵士に打ちかかろうとした盛清であったが、その計算はすぐに成り立たなくなる。
「――くッ?!」
「がはッ!」
 暗闇に刃の煌きが躍る。鋭く、二度。
 ただそれだけで、盛清の配下の内、もっとも後方にいた二人が地面に倒れてしまったのである。振り返ってその光景を目の当たりにした盛清らは咄嗟に声も出ない。
 無論、篝火近くにいた兵士の仕業ではない。この場にもう一人の敵が潜んでいた。それはすぐに理解できた。
 だが、闇に紛れることを生業とする忍が、あろうことか背後を取られ、しかもそれに気付くことすら出来なかったのだ。盛清が最も信頼する手練の忍であるにも関わらず、である。


 一瞬の自失。
 だが、それは敵にとって好機以外の何物でもない。 
「……ヤァッ!」
 鋭い掛け声と共に、猛然と穂先が突き出され、盛清の胸を貫かんとする。
 突風の如きその一撃を、盛清は咄嗟に横に飛んでかわす。相手はさらに盛清との距離を詰めようと踏み込んでくるが――
「――ッ!」
 不意に立ち止まると、何もないはずの前方の空間を払うように槍を揮った。すると、奇妙に澄んだ金属音がその場にこだまする。
 攻撃をかわしざま、盛清の口から飛んだ細針が弾かれたのだ。
 それを見た盛清は、目の前の少女が容易ならざる敵だと改めて認識した。
 後背の敵も気になるが、そちらは二人の部下が相手をしている。不意さえ衝かれなければ、そうそうやられることはない――そう考えた盛清が、本格的に眼前の敵に注意を向けようとした、その時。



 それはむしろ柔らかいとさえ言える音だった。
 何かが地面に落ちる音。誰かが地面に崩れる音。あっさりと討たれてしまった、音。



 盛清の全身が総毛立つ。
 もはや物理的な圧迫感さえともなって後背から押し寄せる死の気配に、今度は暗器を用いる暇さえなく、身体を投げ出すようにして、その場から飛んだ。
 間髪をいれず、それまで盛清の首があった空間を、空恐ろしいほどの正確さで横なぎの一閃が通過するところを、盛清は確かに見た。
 その刃が血塗られていることも。刃を揮う者が、槍を持った兵士とさほどかわらぬ娘であることも。



 素早く態勢を立て直した盛清の前に、二人の少女は並んで立つ。
 槍を持った少女は射るような視線を。盛清と同種と思われる少女は凍るような視線を、それぞれ盛清に向けながら。
 二人の腕前は、今の短い攻防で理解できた。素早く視線を走らせれば、地には四人の配下――盛清にとっては最精鋭と言える配下が倒れ付している。
 この状況を理解できない盛清ではなかったが、その口をついて出たのは自身驚いたことに、小さな笑いだった。
「……ふ、いつからこの館は鬼女の棲家になったのだ?」
「戯言を吐く暇があるのなら、辞世の句でも詠みなさい」
 盛清の言葉を、忍とおぼしき少女が一刀両断する。脇差を構えて盛清を見据える眼差しは、時間稼ぎなどさせないと言外に告げていた。


「――さすがは真田、というべきか。この戦況で、祠廟にこれほどの戦力を割くとはな」
 それでも盛清が言葉を続けたのは、別働隊の到着にわずかながら期待をかけた為であった。
 もっとも、今の時点で着いていないということは、おそらくもう生きてはいまいと察してはいたが。真田勢の動きを見るに、今回の信虎側の動きはほとんど読まれていたのであろう。
 だが、あるいは生き残りがいるかもしれぬ。極小の可能性であれ、盛清は賭けるしかなかった。どの道、このままでは手詰まりなのだ。
「しかし、当代の真田当主は武に傾く性質と聞いていたが、搦め手門といい、ここといい、こうも見事にこちらの動きを予見するとはな」
 その言葉には、わずかながら真実の響きがこもっていた。


 しかし。
「一つだけ、訂正しておきましょう。私も、こちらの武者も、真田の麾下ではない」
「なに?」
 怪訝そうな顔は、あながち演技というわけでもなかった。
 そんな盛清に、少女たちは短く名乗りをあげ――それを聞いた盛清の脳裏に、不意に何処かで聞いた囃しの一節がよぎった。


 今正成に股肱あり
 鬼の小島に飛び加藤


「……なるほど、つまり敵は甲斐だけではなかった、ということか」
 奇妙に得心のこもった呟きをもらした盛清は、はっきりと悟る。
 此度の目論見、そのことごとくが潰えたことを。
 



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/30 01:41


 四方が靄に閉ざされた、夢とも現ともしれない闇の中で、俺は腕を組む。
 何となく自分が寝ているということはわかるのだが、そこに至った経緯が思い出せないのだ。何やらいろいろとあったような気がするし、もう少し言えば、これからも色々とあるような気がするのだが。急いでそれに備えないと大変なことになる色々なことが。
 しかし、いくら首をひねってもそれが何なのか思い出せず、ついでに言えば思い出そうとすることさえ億劫に感じてしまう。自分がとても疲れているのだと、それで自覚した。


 不意に鈴の音が鳴った。
 それはとても遠くから響いてきたような気もするし、とても近くで鳴ったようにも思えた。
 少し間を置いて、もう一度。
 時に遠く、時に近く耳朶を震わすこの音には聞き覚えがある。
 あれは確か……春日山城址で――
「……ッ」
 その言葉を思い浮かべた瞬間、それまで覚醒の境界線上でうろちょろしていた意識が、急速に表層に浮かび上がったことを自覚する。
 そして。




 目を覚ました瞬間、さきほどまでの曖昧模糊とした感覚が嘘のように意識が冴え、先刻までの――否、ここ一ヶ月近くの諸々すべてを思い出す。
 自分が寝具に横たわっていることに気付き、とるものもとりあえず起き上がろうと上体を起こし――
「あいったたたッ?!」
 なんか全身を鈍器で殴られたような形容しがたい痛みが襲い掛かってきた為、即座に寝具に逆戻りする俺だった。
「わ、わ、颯馬様、颯馬様ッ?! だ、だ、段蔵、颯馬様起きたよッ」
「見ればわかります。永田殿も命に別状はないと言っていたのですから、目を覚ますのは当然でしょう」
「そ、それはそうなんだけど、やっぱり心配だったし、その……」
 喜びで弾んでいた弥太郎の言葉が、段蔵の冷ややかとも言える返答で尻すぼみになってしまう。


 無論、段蔵の冷ややかさは弥太郎に向けられたものではない。
 弥太郎の様子を見た段蔵は、聞こえよがしにかようなことを仰った。
「本当に弥太郎は心根が優しいですね。私などは、言動を違えて身の程知らずな真似をした挙句、浅からぬ傷を負って倒れた方をそこまで心配することは出来ないのですが。あまつさえ馳せ戻ってみれば、とうに気を失い、他家の典医の手当てを受け、太平楽に眠りこけているのだからなおさらです」
「う、そ、それは……そうだね」
 少なからず同意できる部分があるのか、弥太郎もためらいがちにではあったが頷いていた。


 段蔵の言葉を冷や汗まじりに聞きつつ、俺は状況を整理する。
 意識を手放した瞬間を覚えてはいないが、どうも晴信が口を開き、信虎が退いたあたりで限界が来てしまったようだ。
 その後、武田家の手当てを受けていたところに弥太郎たちが戻ってきて――そして今に至るということらしい。
 で、あればまずは開口一番、言わねばならないことがある。


「……まことに申し訳ございませんでした」
 謙信様や秀綱の姿は見えないが、あの二人に何かあるとは思えないし、仮にあったとしたら、弥太郎たちがここにいることはないだろう。
 そうなると、取り急ぎするべきことは謝罪であった。無茶はしないから、という理由で渋る二人を祠廟に貼り付けておきながら、俺は信虎の前に道化としてのこのこと出て行ってしまったのだから。
 しかし、あいにくとその程度の誠意では相手に通じないようだった。


「かりそめにも人の上に立つ身が、そのように詫びる必要はありませんでしょう。主様がそういう方であることは承知していましたので、あり得るであろう可能性の一つとして、今のような事態も想定しておりました。よって、私ども配下の心配や気苦労など気にかけていただく必要は一切ございません」
 冷然と憮然を混ぜあわせ、憤然をふりかけたような言葉が投げかけられ、俺は思わず天を仰ぎたくなった。横になっているため、すでに形としては天を仰いでいるので不要だったが。
 怒ってる。めちゃめちゃ怒ってる。
 そして、普段ならば助け舟の一つも出してくれるであろう弥太郎も、段蔵の言葉を聞くうちに先夜来の感情が蘇ってきたのか、つんと澄ました顔でこちらを見て――もとい、睨んでいた。
 助け舟なんか出してあげませんよ、と言いたいらしい。
 こっちも段蔵に負けず劣らず怒っていた。


 困り果てる俺だったが、二人の怒りは当然であり、正当なものでもあって、俺はひたすら寛恕を請うしかない。それどころか、二人がここまで俺を心配してくれているのは、主従という立場を越えて、俺のことを思いやってくれているからであって、俺は幾重にも頭があがらない状況なのである。
 二人に誠心誠意謝るのは当然としても、先の京での一件もあり、なまなかなことでは納得してくれないだろう。
「……狂王を相手にする方がよっぽど楽だ」
 俺は内心でため息を吐くしかなかった。




 そう言って、ふと俺はその当人がどうなったのかを知らないことに思い至った。
 誤魔化すためではなく、確認のために口を開く。
「戦況はどうなった?」
 俺の表情と声音から、それが一時凌ぎのための問いではないことを悟ったのだろう。段蔵が常の顔に戻って報告する。
「……信虎は躑躅ヶ崎館を離脱、逃亡。館内に潜入した敵は殲滅され、それを受けて外の兵は散り散りになりました。南方に現われた敵勢も、真田の矢沢頼綱によって撃滅されたとのことですので、事実上、晴信殿の勝利とみてよろしいかと」
「甲府の町の様子は?」
 これに答えたのは弥太郎で、どこか安堵したように胸元をおさえている。
「多少の騒擾は起こったようですが、町のみなさんや、武家屋敷に被害はないと謙信様と秀綱様は仰ってました。それと、真田様も、私たちの働きに感謝すると仰せでした」
 それを聞いて、俺は小さく安堵の息を吐く。それこそ一番気になっていたことだったのだ。


 続いて、俺はこの場にいない人たちについて訊ねると、これもあっさりと返答があった。
「敵が退いたとはいえ、不穏の種が消えたわけではありません。先夜の騒擾が町の人たちに知れ渡れば、難民とのいざこざもありえると、お二人とも甲府の町を見回っておられます。ああ、そうそう――」
 そこまで言って、段蔵はわざと言葉を切り、俺の視線が向くのを待ってさらに続けた。
「お二人から言伝がありました。主殿が目を覚ましたら伝えてくれ、と。秀綱殿より『身の程をわきまえなさい』と」
「う……」
 思わずそう言ったときの秀綱の顔が思い浮かび、俺はだらだらと冷や汗をかいた。
 弥太郎と段蔵から離れた挙句、一人敵前に出た無謀を責められているのは明らかだった。
 どうやら怒っているのは目の前の二人だけではないらしい。
 ということは、やはり謙信様も……
 俺がおどおどと段蔵の様子をうかがうと、段蔵は澄ました顔で、謙信様よりは、と前置きして、こう続けた。
「『少し、頭を冷やそ――』」
「わかった、わかりましたッ!!」
 何故かそれ以上聞くことが出来ず、大声で謙信様からの言伝を遮る俺であった。



◆◆



 その後も幾度か悶着があったが、とりあえず必要なことは聞くことが出来た。
 信虎の行方が知れないこと以外は、大きな問題は見当たらない。幸村の怪我も命に関わるほどではないそうで、ほっと胸をなでおろした。当然、晴信はまったくの無傷である。
 信虎のことに関しては……と考えを先に進めようとした俺だったが、不意に強い眠気に襲われる。
 聞けば、もう昼を大きく過ぎているとのことで、昨夜から今まで、十分すぎるほど寝ていると思うのだが――
 俺が首を捻ると、段蔵が先刻までとは違い、穏やかに口を開いた。
「身体が休みを欲しているのでしょう。命に別状がないとはいえ、颯馬様の怪我は決して軽くはないのです」
 弥太郎も首をぶんぶんと縦に振る。
「もう敵が襲ってくる心配もありませんから、颯馬様はゆっくり休んでください。その間は、私たちがちゃんとお守りいたしますッ」
「それはどうも、と言いたいところなんだが、弥太郎も段蔵も昨夜からろくに寝てないんじゃないか」
 段蔵は俺の言葉にも表情を動かさなかったが、弥太郎は露骨に慌てて、おおげさに首を横に振る。
「そ、そんなことはないです。ちゃんと寝てます、元気一杯です!」
「いや、目の下に隈が出来てるし」
「わわッ!?」
 慌てて目元に手をやる弥太郎と、それを見て深々とため息をはく段蔵。
 お察しのとおり、隈なんて出来ちゃいねえのである。


 段蔵の様子と、俺の澄まし顔を見て、計られたことを悟ったのだろう。弥太郎は頬を真っ赤にして俯いてしまった。
 とはいえ、俺とて別に弥太郎をやりこめるために言辞を弄したわけではない。二人がろくに寝てない理由もわかっている。
「二人の看病のおかげで大分楽になった、ありがとう」
 何よりも先に言うべきであった言葉を今さら口にするあたり、我ながら気が利かない人間である。
「とはいえ、怪我したのは自業自得だからな。そのせいで二人にこれ以上負担をかけるのも申し訳ない。敵の心配がないなら、なおさらだ」
 そう言いながらも、急速に意識が薄れていくのがわかる。どうも思っていたより傷や疲労が身体を身体を蝕んでいたらしい。甲斐や相模まで足を運んだ一連の騒動に、一応の終止符が打てたという安堵感もあったかもしれない。
「……と、いうわけで、しっかり寝ておくように」
 最後にそれだけ言いのこすと、俺は二人の返答を聞かずに眠りの園へと旅立ったのである。
 何やら慌てたような言葉が追いかけてきたが、聞こえない、聞こえない。






 今度は妙な夢を見ることもなく、目覚めは自然に訪れた。
 枕元を見ると、着替えと水瓶が置いてあったが、人の姿はなく、どうやら段蔵も弥太郎も別室で休んでいるらしい。
 咽喉の渇きを覚えた俺は、水瓶から椀に水を注ぐと、それを一気に飲み干した。
 すると、意識がはっきりし、身体の状態にも注意が向くようになる。
 信虎に斬られた傷の痛みは未だ消えてはいないが、それでも大分薄れているように感じた。段蔵が言っていたとおり、決して浅くはない傷である。昨日の今日で痛みがここまで軽減するとは思わなかったが、そこはさすが永田徳本というところなのだろう。


 顔といわず腕といわず身体といわず、膏薬が塗られ布がまきつけてあったが、刀傷がほとんどであったおかげか、身体の動きを制限するような副木はつけられておらず、傷の痛みさえ無視すれば、動き回ることに支障はないと思われた。
 俺は着替えの衣服に腕を通すと、身体の調子を確かめながらゆっくりと立ち上がる。
 襖を開くと、すでに日は落ち、月が中天高く輝いている時刻であることがわかった。館が静まり返っているのは、刻が刻だけに当然というべきだろう。
 そう思った時、不意に寒風が外から吹き込んできたため、俺は今が冬であることを今さらながらに思い出し、慌てて部屋の中にとってかえした。おそらく小姓が定期的に暖をとってくれていたのだろうが、部屋の中はずいぶんと暖かいままであったのだ。


「さて、どうするか」
 日が昇るまで大人しく寝ているべきかとも思うが、ほとんど丸一日寝た後である。目が冴えて寝られそうもなかった。
 何か仕事があればと考えたが、そんなものがあるはずもない。他の人に声をかけるのも、この時間では非常識というものである――と俺が考えた途端であった。
「あ、お目覚めでしたか、失礼いたしました」
 襖が開いたと思ったら、少し慌てた様子の侍女がそう言って頭を下げた。


 聞けばこの侍女が火鉢の火の確認と、部屋の換気をしてくれていたそうな。俺が礼を言って頭を下げると、侍女は最初にぽかんとした後、すぐに慌てて首を左右に振った。
「い、いえ、これが務めですので、そのように頭を下げていただくには及びません」
 そう言った後、侍女は慌てた口調はそのままに言葉を続ける。
「御館様より、目を覚ましたのならば、部屋に来るようにと言付かっております」
 では明日の朝、と俺が答えると侍女は首を横に振って、まだ晴信が政務中である旨を告げたのである。



◆◆



 子の刻、というと深夜0時を過ぎた時刻である。
 草木も眠る丑三つ時、というにはまだ早いが、それでもこの時代の感覚で言えば、誰も彼も寝入っていておかしくない時刻である。にも関わらず、甲斐を治める武田の当主は、未だ政務の処理を続けているところであった。
 だが、さすがにその顔には俺の目から見ても疲れのようなものが感じ取れた。どこがどう、と具体的に指摘は出来ないのだが、強いていうなら俺を見る眼差しにかすかな苛立ちめいたものが感じ取れるのだ。
「……ようやくお目覚めですか。越後の軍師殿はずいぶんと眠りが深いようですね」
「……一言もございません」
 俺は頭を垂れ、晴信の前に畏まった。


 先日と異なり、部屋には晴信以外誰もいない。幸村はもちろん、俺を案内してくれた侍女も晴信によって遠ざけられてしまい、部屋の中にいるのは正真正銘、俺と晴信だけであった。
「まず、礼を言わなければいけませんね。此度の影働き、ご苦労でした」
 やや緊張した俺を前に、晴信はあっさりとそう言った。
「は、恐悦に存じます」
 影働きを褒められるというのも奇妙なものだが、晴信としてはこちらの動きを承知していたと言外に告げているのであろう。どのみち、晴信が気付いていないと思っていたわけでもなし、褒詞は素直に頂いておこう。 


「おかげで甲府の治安は保たれ、我が家の宝器も奪われずにすみました。この身に至ってはそなたの芳心に救われたといえます。さて、私は何をもってそなたたちに報いれば良いのでしょうか」
 晴信の眼差しが深い思慮を込めて俺を見つめる。
 甲府の町を救い、御旗楯無をはじめとした宝物を守り、武田晴信の身を護った。上杉勢が果たしたこれらの役割は、敵将の首級を百あげることに優る功績だといえる。
 晴信の口ぶりからすれば、どのような褒賞が望みであれ、その望みをかなえようという意思が感じとれた。
 俺はわずかに考え込むと、言質を取るように――その実、相手の真意を探るべく口を開く。
「望みはございますが、それを口にすればかなえていただけましょうか」
「甲斐源氏、武田家当主の誇りにかけて」
 間髪をいれずに返ってきた晴信の答えは、俺が求めた以上の保障であり、ゆえに俺は晴信の真意を悟る。


「では、一つだけお教えください。晴信様は、ち……あの男に、その、汚されることを覚悟しておられたのでしょうか?」
「然り」
 そう答える晴信の声に迷いや躊躇いはなく、俺はそれが紛れも無い本心であることを知る。
 同時に、ほうっと息がもれた。ため息なのか、安堵の息なのか、自分でもよくわからなかったが、聞きたいことは聞けたので良しとしよう。


 俺はそれで済んだのだが、一方の晴信は怪訝そうな顔で訊ねてきた。
「それだけ、ですか。望みというのは?」
「はい。お答えいただき、ありがとうございます」
 道化と知りつつ、しゃしゃりでた甲斐があったというものである。
 だが、それでもなお晴信は納得がいかない様子である。さらに言葉を続けた。
「領土であれ、盟約であれ、今ならばいかようにも上杉の望みはかなうというのに。かりに此度の乱で上杉自身が利を得るのが不本意だとしても、今川家の今後といい、松平家の扱いといい、上杉家として武田家に通したい望みはいくらでもあるのではないですか。それらをさしおいてまで望むことが、今の問い一つとは、無欲というにもほどがあるでしょう」


「確かに仰ることはごもっともです」
 晴信の言葉に俺は一応頷いてみせる。
 あくまで一応、だ。何故なら、それらをかなえるための前提条件が、そもそも満たされていないのだから。


「我らのみで町を救い、宝器を守り、御身を護るを得たのだとすれば、たしかにいま少し望みの数は増えたやもしれませんね」


 その言葉を聞いた途端、晴信の眼が、一瞬恒星さながらに煌いたかのように、俺の目には映った。
 しばし、沈黙が室内に満ち、それはどこか呆れたような晴信の声に破られるまで続いた。
「……どこまで、察していましたか?」
「躑躅ヶ崎館と甲府の町を守るのが、真田殿以外にもおられるということは、はじめてこの館に来た時から……あ、いや、あの時はまだ真田殿が抜擢されるより前ですね。正確に申し上げるなら――」
「よい。今のでおおよそわかりました。つまりはほとんど始めから、我が策はそなたに見破られていたということですか」
 晴信の言葉に、俺は大きく首を横に振る。
「それはいささかならず私を買いかぶっておられます。はじめ、私はなんとはない違和感を覚えていたに過ぎません。実際に御身の策の輪郭を捉えることが出来たのは先夜になってからです」


 実のところ、それに思い至っていたせいで、信虎の前に飛び出す機を逸しかけたのだから、気付いたからといって誇れるものではない。まさか、晴信が幸村を克目させるために陵辱されることまで想定しているとは、予想だにしていなかった。
 俺は嘆息まじりに言葉を紡ぐ。
「――陰の将が背後に控えていることは予測していました。しかし、まさか肝心要のご自身の警護の分まで他所にまわすなど、無茶が過ぎましょう」
 知らず、晴信を諌めるような言葉になってしまった。弥太郎や段蔵がこの場にいれば、お前が言うなみたいな目をされただろう。
 晴信は俺の無礼を咎めることはなかった。平静を保ったまま、口を開く。
「仕方ありません。陰将配下の兵は技量こそ優れていますが、数は限られています。甲府の町と、館の抜け道。それだけで手一杯だったのですよ。それとても完璧にはほどとおく、多くの民が飢狼の前に据えられた。そして、私はそうなると知りながら、此度の策を実行に移したのです。我が身を敵の前に晒すことは無論のこと、汚辱をうける程度のこと、覚悟しておくのは当然のことです」
 そう言った後、晴信はくすりと微笑むと、こう付け加えた。
「そのようなことになる前に幸村が克目してくれると考えていたことは確かですが」




 簡潔に言えば。
 今回の武田の布陣、当初からおかしかったのである。
 晴信の戦略自体が、ではない。将の配置が、である。
 南の今川家に山県と馬場を充てる。これは良い。
 西北の信濃国人衆の蜂起に内藤を充てる。これも不思議ではない。信濃の各地で起こった叛乱を短期で鎮めるために、内藤の機動力は有用であろう。
 東の北条に虎綱を充てるのも、外から見て不自然なことではないだろう。
 俺が違和感を覚えたのは最後の一つ。すなわち、北東で起こったという武田家臣、板垣信憲の叛乱であった。


 信憲は手勢を率いて柳沢峠を占拠し、黒川金山を脅かしており、ここに晴信は山本勘助を置いたわけだが――そもそも板垣信憲って誰だ、という話である。父の板垣信方であればともかく、その息子の名前などほとんどの人間が知らないだろう。
 事実、これまで幾たびも武田家と矛を交えてきた上杉家であっても、信憲を知る者は皆無である。つまるところ、その程度の人物に過ぎないということであり、だからこそ故意に晴信が叛乱を見逃し、兵力分散に真実味をつけたのだろう、という推測の基にもなったのである。
 とはいえ、それを考慮したとしても、信憲相手に陰将を用いるのは釣り合い以前の問題ではないかと俺には思えたのだ。


 もっとも、黒川金山という重要な資金源の守り、そして柳沢峠の封鎖が甲斐国内の流通に与える影響を考えれば、ありえない人事というわけでもない。そう考え、最初に感じた違和感をそれ以上掘り下げようとはしなかったのだが、事が進み、幸村が武田軍の総帥となるに及んで、当初の違和感はある一つの推測へと俺を導いていったのである。
 信虎に対するに、若い幸村ではあやうい。俺が感じた危惧を、晴信が感じないはずもない。
 ではどうするか。幸村を援けることが出来るものをつければ良い。それも幸村自身がそれと気付かないくらいに静かに、そして敵手である信虎がそれと悟ることができないほどに巧妙に動ける者であれば言うことはないだろう。


 そうして、晴信の深慮遠謀の輪郭を掴んだと俺は考えた。ここまで晴信の手が及んでいるのであれば、あえて上杉勢がでしゃばる必要はないとも思えたが、いざ戦となれば、どのような不確定要素が忍び寄ってくるか知れたものではない。
 信虎を討つために、打てる手は全て打っておくべきである。武家屋敷には晴貞もいる。何より、民に被害が及ぶかもしれない事態を黙視できる上杉勢ではなかったのだ。
 敵勢の接近を悟った際の謙信様の一言で事は決し、甲府の町は謙信様と秀綱に任せ、館には俺と弥太郎、段蔵が残ったのである。
 弥太郎と段蔵の二人を祠廟に配し、俺自身が晴信の様子を見ていたのは、まさか晴信が自身を汚されることさえ覚悟しているとは思っていなかったからだ。雷将に加え、武田家の当主がいるのだから、おそらく陰将もいるであろう。ゆえに俺が出て行く必要はないと考え、渋る弥太郎と段蔵を説得したのである。
 あにはからんや、俺がいたところが、一番危険なところになろうとは。 


「そこまでわかっているなら、上杉がおらねば犠牲になったであろう者たちの数も予測がつくはず。一人をもって百に及ぶ暴徒を押し返すような真似、輝虎以外の誰に出来るというのです」
「さて、かりに輝と――もとい、謙信様がおらずとも五十を越える烈女烈婦を前にしては、暴徒ごとき、すごすごと引き下がらざるをえなかったのでは、と思いますが」
 あやうく晴信に乗せられそうになるところをぎりぎりで堪え、俺は澄ました顔で答えた。
 武家屋敷でのことは寝る前に弥太郎たちから聞いている。ちなみに謙信様の武烈もさることながら、俺が一番驚いたのは晴貞の言動だった。正直たまげた。本当にそう言ったのかと確認したら、間違いないらしいとのこと。いや、変われば変わるものである。傷が治ったら是非会いに行かずばなるまい。


 その暴徒の件にしても、元々難民たちと甲府の住民の間ではいざこざが起こっており、住民たちが無警戒でいたとも思えない。住民の見張りの一人や二人いて当然であるにも関わらず、暴徒はすんなりと武家屋敷まで近づけた。これはあらかじめ町人たちを遠ざけた者がいるためではないか。当然、下手に手出しする必要がないと知る者が、である。
 祠廟での争いも弥太郎から一部始終を聞いているが、襲撃してきたのが五人とかなり少ない。長らしき者の言からも、もっと多数の人数が入り込んでいたと思われる。それらの姿が見当たらなかったということは答えは一つしかない。
 そのことは先の晴信の言葉からも明らかである。




 まあ、つまるところ、上杉勢がいなかったところで結果は変わらなかったということである。信虎は退けられ、甲府の町が燃え落ちることはなく、躑躅ヶ崎館が陥ちるような事態もなかったに違いない。
 唯一、晴信の身に危難が及んだかもしれないということはあるが、しかし、俺がいなければいないで、幸村は自力でたどり着いただろう。不思議と俺はそう確信できた。
「さて、それはどうでしょう。現に幸村は、我が父の言に動揺を隠せない様子だったではありませんか」
「先の乱で真田家で尋常ならざることが起きたことは、傍で聞いていた私にもはっきりとわかりました。真田殿が動揺したのも無理からぬこと。しかし、そのくらいの荒療治は必要と考えたからこそ、あえて危険とわかりきった人物を招きよせたのでありましょう。事実、真田殿は克目なさいました」
 晴信の目論見――否、期待通りに。道化たる俺が果たした役割など、ほんのわずかなものである。それは厳然たる事実だ。
 これらの状況を踏まえた上で、手柄顔で武田家に要求を突きつけるなど出来るはずがないではないか。
 俺はそう考えていたのである。



◆◆



 俺の考えを聞いた武田の当主は、なお呆れ顔を崩さなかったが、しばし後、何故か深々とため息を吐くと、不意に俺の方に身を乗り出した。
「は、晴信様?」
「動くでない」
「は……」
 何やらわけがわからなかったが、とりあえず言われたとおり動くのを止めた。
 すると、晴信の手が俺の顔に伸び、いつかと同じひやりとした感触が俺を捉えた。
 違うのは一つだけ。前の時は額に置かれた手が、今は頬に置かれている、という点である。
 とはいえ、別につねられるわけでもなく、たださわさわと晴信の指が頬を撫でていく感触が続くばかり。
 やたらとくすぐったいのだが、晴信の顔にふざけている色はない。むしろ、その眼差しはこちらが気圧されるほどに真摯なものだった。


 不意に。
 晴信の口が開いた。
「――そなた、先の乱のこと、知りたいとは思わないのですか」
 信虎の言葉を聞いていた俺である。ことに真田の家の動向と、躑躅ヶ崎館での決戦時、何が起きたのかということ。虎綱でさえ知らなかったこの事実に興味がないと言えば嘘になってしまうだろう。
 だから、俺は正直に胸の内を吐露することにした。
「知りたいですね。そうすることで、御身が楽になるのであれば」
「――それは、どういう意味です?」
「先の乱で何が起きたにせよ、私は武田の家と関わりなき者。その事実を知ったところで、何が変わるわけでもありません。木石に語るよりは、いささか気が晴れるのでは、と」


 晴信が目を瞠る。
 頬に置かれていた手に、かすかに力が入ったように思われた。
 しばらくすると、晴信の手が頬から離れ、俺は思わず息を吐いていた。緊張の挙句、いつのまにか息まで止めていたことに、やっと気付く。


 そんな俺を尻目に、晴信は何やら納得したように頷いていた。
「――なるほど」
「晴信様、あの、何か?」
「いえ、何でもありません。夜分遅くに呼び立ててすみませんでした。もう下がって良いですよ」
「は、はい。かしこまりました」
 何だかわからないが、別に機嫌を損じた風でもない。
 内に溜め込むよりは吐き出した方が楽な場合もある。そう思って口にした言葉だったが、晴信にとっては大きなお世話だったのか、などと考えながら、俺が晴信の部屋を後にしようとした時だった。


「天城」
「はッ」
 晴信の呼びかけに、俺はかしこまって応じる。
 しかし、晴信の口から出た言葉は俺が予想もしていなかった意外なものだった。



「――温泉?」 
 湯治のお誘いだった。  



[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/30 15:57


 信虎は後ろを振り返りもせず、片手で刀を弄びながら、現われた黒装束の男に短く問いかけた。
「盛清、報告せよ」
「……は。御旗楯無、いずれも奪うことあたわず――」
 男が言い終えるよりも早く。
 信虎が持っていた刀を閃かせる。
 童子が戯れに笛を吹いたような、奇妙な音が男の口から漏れたが、それも一瞬。
 直後、重く湿った音と共に地面に何かが落ちた。
「二度は許さぬ。そう言ったはずじゃな」
 そういって、足元に転がってきたそれを、信虎は鞠のように蹴飛ばした。
 粘着質な不快な音と共に転がるそれには、もう目もくれず、信虎は嘯くように声を高めた。
「これだけ主を待たせた挙句、手ぶらとは。まったく、今も昔もわしにはろくな臣がおらん。幸隆くらいかの、惜しいと思える者は」


 言いながら、信虎は立ち上がる。その顔の半面は白布で覆われていたが、足の運びにはいささかの乱れもない。そして、ことごとく策謀が封じられたとはいえ、信虎の滾る精気に翳りはなかった。
「謀略で敗れたならば、あとは力で押し通るのみじゃが、ふむ。上杉まで出張っているとなると、あるいは北条も晴信についているか。いささか厄介なことになったのう」
 そう口にしながら、無事である方の目を爛々と光らせている。この不利な戦況をどう覆すか。それを考えるのが楽しくて仕方ないと言わんばかりであった。


「今川がまだ健在である以上、手の打ちようはある。駿遠の地を焦土と化して抵抗する間に、しゃしゃりでてきた道化どもの後背の敵を動かせば、連中は退かざるを得まい。わしのことが知られた以上、これまで通りというわけにもいかぬじゃろうが――あるいは再び京に詣でる必要があるかもしれぬの」
 考えをまとめつつ、歩を進めていた信虎だったが、あるところまで来た時、ぴたりとその足を止めた。
 甲斐の山間を縫うように南へと続く道の半ば。信虎の視線の先には、その道の脇にある切り株に腰掛けた一人の人物が映し出されていた。
 向こうも信虎が来たことに気付いたのだろう。ゆっくりと、それでいて隙のない動作で信虎の方へ歩み寄ってくる。
 その手はすでに、刀の柄に据えられていた。
「――先の甲斐守護職、武田信虎殿とお見受けする」
 長く伸びた黒髪が、山間を駆け抜ける寒風にたなびいた。
 その眼差しは鋭く、深く、いかなる偽りも虚勢も、この眼光の前では意味をなすまいと見る者に思わせる。
「越後守護職、上杉輝虎である。その首級、東国の安寧のために頂戴いたす。お覚悟あれ」
 鞘から抜き放たれた刃が、陽光を反射して信虎の目を烈しく灼いた。



 自身、刀を抜き放ちながら、信虎は嘲笑を発した。相手の刃の煌きに、得体の知れない怖気を感じた――その事実を拭うために、ことさら毒々しい表情を形作る。
「――道化の主か。くれと言われてくれてやるほど、わしの首は安うないわ。小細工ご苦労なことよな、痴れ者め」
「貴殿と語るべき言葉は持ち合わせておりませぬ。異存あらば、刃もて返されよ」
 対する輝虎は、信虎の言葉に耳を傾けることなく、一気に間合いに踏み込んでくる。
 普段は通る者も少ない間道に、甲高い刃鳴りの音が鳴り響く。
 だが、刃鳴りの音は連鎖しなかった。
「ぐッ?!」
 輝虎の初太刀を受けた信虎が、思わず呻きにも似た声をあげる。
 信虎をして、こらえきれぬほどに重い剣勢であった。
 真田幸村とも互角以上に渡り合った信虎である。先夜来の傷や疲労を差し引いても、凡百の討手に遅れをとるつもりはなかったのだが――
「ちィッ」
 信虎は舌打ちしつつ、咄嗟に後方に大きく飛んだ。初太刀の後、翻った相手の刀が一瞬前まで信虎がいた空間を切り裂いていった。



「ふん、軍神、か。あながち偽りというわけでもないようじゃな」
 皮肉げに口元を歪ませる信虎であったが、輝虎は応える素振りさえ見せず、ただ無心に信虎の首を見据えていた。
 かすかに首筋がざわつくのを自覚しつつ、信虎は内心で、再度舌打ちする。
 万全の体調ならば知らず、今の状態で目の前の相手と斬りあうことは避けたい。だが、言辞で絡めとろうにも、相手がそれに乗ってくる様子はない。武田家に関わる家であればいざ知らず、遠く越後の人間を動揺させる密事を知っているはずもなかった。
 となれば、採れる手段は限られてくる。
 そして、それを採ることをためらう理由は信虎にはなかった。


 信虎の手が、霞むように動いたのは、次の瞬間だった。
 それと気付いたときには、懐剣が抜かれ、そしてつづけざまに輝虎に向かって投じられていた。
 わずかに残っていた手持ちの懐剣を全て投じると、信虎はその結果を見ることなく、身を翻した。道をそれ、山の中に入ってしまえば逃げるのは容易い。仮に輝虎が追ってきても、隙を衝いて逆撃することは難しくない。幼少の頃から甲斐の野山に親しんできた信虎にとって、山の中は我が庭も同様であった。


 だが、あと数歩、というところで、後背から殺到してくる気配に気付く。それが誰のものか、考えるまでもなく明らかだった。
 投じた懐剣を素直に喰らうと考えていたわけではないが、しかし懐剣を弾いた音さえしないとはどういうことか。まさかとは思うが、あの間合いで投じた懐剣、そのことごとくを避けたというのか。
 ありえないはずの事態に舌打ちしつつ、信虎は首をかばって咄嗟に右の腕を掲げた。
 直後。
 右肘のあたりから、焼けた鉄串を押し付けられるかのような激痛と灼熱感が同時に腕を伝って、信虎の脳髄を焼いた。
 並の人間なら、痛みに耐え切れず足を止めたか、少なくとも苦痛の声をもらしただろう。だが、信虎はほとんどそのままの速度を保ち、甲斐の山中に身を投じようとしていた。
 それでもあと一歩足りない。
 輝虎の刃は、今度こそ自分の頸部を断ち切るであろう。信虎は他人事のようにそう判断した。



 しかし。
 結局、信虎はそれ以上、太刀を浴びせられることなく、山中に逃げ込むことに成功する。
 疑問に思ったとしても、それを確かめる暇はなかった。それに、何があったにしても、信虎の命が助かったことに違いはない。
 草木をかきわけ、山野を踏破しながら、信虎は西へと向かった。
 この場に輝虎がいるということは、おそらく南への道はことごとく塞がれているだろう。
 それを避けて駿府に行き着くのは難しい。くわえて、行き着いたところで事態が大きく好転するわけでもない。
 まさか、輝虎が一人、風の導くままに待っていたのだ、などとは考えもしない信虎は、一度態勢を立て直すべきと判断した。
 態勢を立て直し、そして此度、信虎の前に現れた者たち、そのことごとくを踏みにじってくれよう。晴信は無論、越後の輩も同様だ。ことに、あの軍神とやらは、晴信に匹敵する……


「く、くく、駿河を捨てるは少々惜しいが、晴信にせよ軍神にせよ、少なくとも氏真よりは抱き心地も良かろうでな。後の楽しみが増えた、と思っておこうぞ」
 そう言って、くつくつと笑いながら。
 狂える王は、ひたすら西を目指し続けるのであった。







 信虎が去った後。
 輝虎は、自らが斬り捨てた相手の右腕と、そしてもう一つ、両断された胡桃の実に視線を落とす。不意に目の前に投じられたこの木の実がなければ、信虎の逃亡を許すことはなかった。
 輝虎の視線は、この胡桃を投じた人物に向けられる。
 深い皺の刻まれた相貌は、この人物が戦国乱世を長く生き抜いてきたことを物語り、その思慮深き双眸は、今の行いがただの感傷ではないことを告げていた。
 武田家の誇る六将の一。その名は――
「説明願えるのか、山本勘助殿」
「……御意にござる、上杉、輝虎様」
 そう言って、勘助はゆっくりと頭を垂れるのだった。







◆◆◆






 翌日。
 甲斐某所。


 
「………………」
 あまりの心地良さに言葉が出ません。
 しばらくお待ちください。







 そんなわけで湯治中な俺だった。
 武田信玄が温泉に凝っていたのはつとに有名だが、どうやらこちらの晴信も同様であるらしい。
 聞けば晴信直轄の温泉は、甲斐信濃を含めて三桁に達するらしい。もうほとんど独占状態である。
 将兵の傷病治療や、鉱山で働いている者たちの健康維持など目的は様々であるらしいが、これは多分本人の趣味なんだろう。
 幸村によれば『虎の穴』なる温泉施設も各地で建設中だとか。完成したら入浴料をとって他国にも開放するらしい。何事も無駄にしない晴信の目端の鋭さには脱帽である。


 ちなみに俺たちが案内されたのは、そういった賑やかなところではなく、本当に山間にひっそりと建てられた湯治場だった。
 思わず「信玄の隠し湯」という言葉が口をついてしまうくらい閑静な温泉は、驚くほどに居心地が良く、武田側の対応も至れりつくせりであった。
 どうも本当の意味で晴信専用の場所であるらしく、室内の調度や、湯治場の佇まいなどは見事の一語に尽きる。それでいて存在感を主張することなく、くつろげる空間を形作っているのであるから、ここをつくった人はさぞや名の知れた建築家なのだろう、などと思っていたら、なんと差配をしたのは晴信本人だとのことだった。


「さすが、というしかないな……」
 俺は湯船に身体を浮かべつつ、夢心地で呟く。
 この時代、水を張る風呂に入る機会なぞ滅多にない。湯船に浸るこの快感を、言い表す言葉は何かないものだろうか。
 ちなみにここの湯は硫黄臭はなく、こっそりと舐めてみたが味もない。感覚としては普通の風呂に入っているのと変わらないが、それでも俺にとっては十分すぎるほどありがたい饗応と言えた。


 もっとも、そう思っているのは俺だけではないだろう。
 湯治の件を聞いた上杉の皆様、一様に顔をほころばせていらっしゃったし。おかげで俺の行動に対する皆の怒りがかなり緩んだように思われた。
 傷の治療だけでなく、このことまで計算に入れていたのだとしたら、俺はしばらく躑躅ヶ崎館の晴信に足を向けて寝ることが出来そうになかった。


 そう。当の晴信は俺たちに同道しておらず、俺たちを案内してくれたのは真田幸村であった。晴信は躑躅ヶ崎館で事後処理の真っ最中である――というより、対今川の戦はまさにこれからが正念場と言えた。
 信虎の行方は未だに知れないが、間違いなく今川勢と合流するであろうし、そうなれば今度こそあの暴君は今川家の総力を挙げて甲斐に押し寄せてくるだろう。今侵攻中の一万五千だけではなく、おそらく、駿河の氏真を総大将として、駿遠の残存戦力すべてを投入してくるに違いない。
 狂王を追い払ったと喜んでいる暇はないのだが、何故かこの点に関して、晴信の反応は鈍かった。いや、鈍いというよりは、もう見向きもしていないというべきか。あたかも勝負の決した後の碁盤を見るような態度なのである。


 そんな晴信に俺は違和感を禁じ得なかったのだが、それに一応の答えをくれたのは謙信様だった――だった、のだが。
「…………」
 言葉が出ないのは、今度は心地良さゆえではなかった。温泉に浸かっているはずなのに、なんだか寒気をおぼえてしまう。それは自責の念から来ることを俺は知っていた。
 俺が目を覚ました翌朝、俺の行動に釘を刺す謙信様は、その、何と言うかとてもとても――寂しげだったのだ。
 大声で怒鳴られたわけではない。
 呆れたり、あるいは皮肉げに責められたわけでもない。
 俺の行動と、それに至った経緯はすでに幸村あたりから聞いていたのだろう。ただ己の力量をわきまえ、無謀を戒めることに終始する話し方であり、その内容は一も二もなく承伏するしかないものだった。
 だから、問題だったのはその内容ではなく、それを語る謙信様の眼差しで――


「――颯馬」
「……は、はいィッ?!」
 ちょうど謙信様のことを考えていた時、謙信様の声が聞こえてきたので、声が裏返ってしまった。
 少し戸惑ったような声が返ってくる。
「ど、どうかしたのか?」
「は、あの、いえ、少し寝ぼけていたようで、失礼しました」
「そうか。心地良さのあまり長湯しすぎるなよ」
「は、承知いたしましたッ」
 下方から聞こえてくる声に、俺は畏まって応えた。
 別に誰が見ているわけでもないのだが。



 一応述べておくと、謙信様たちと俺の湯殿は隣り合っているわけではない。
 間に木立が挟まっており、そのため会話するとなると、やや声を張り上げねばならないのである。
 これは男湯と女湯を分けているため、ではもちろんない。半ば以上晴信専用の湯治場に、そんな区分は必要あるまい。
 ではまさか混浴か、と俺は一瞬、期た――ごほん、心配したのだが、その心配は無用だった。
 男湯と女湯の区分はなくても、晴信の湯と、他の人たちが使う湯は当然分けられており、この際、それを利用しなさいと晴信が指示があったらしい。
 そんなわけで、俺は恐れ多くも晴信用にあつらわれた湯殿を拝借している次第であった。
 立地としては、こちらの湯が上に位置し、木立を経た下方に謙信様たちが入っている湯があることになる。


 無論、最初は固辞した。
 謙信様たちが上の湯を使い、俺が下の湯を、と申し出たのだが、幸村は首を横に振ったのである。
 仮にも武田の差配する湯治場である。上下の関係を無視したような行いは慎んでもらおう、という言葉に俺は反論できなかった。上杉家当主である輝虎様ならば良いのだが、表向き、今は上杉の協力者である謙信様だから、立場は俺の方が上になってしまうのだ。
 結局、謙信様もさして気になさらなかったので、上の湯は俺が、下の湯は謙信様たちが使うことで落ち着いた。これが他の客でもいれば、意地でも認めなかったが、幸い今利用しているのは俺たちだけなので、謙信様たちの柔肌を他の男に見られるおそれもない――って、俺は何を考えているのだッ?!



 俺は脳裏に浮かびかけた光景を慌てて振り払う。
 これも念のために述べておく。
 上の湯と下の湯。立地的に覗き放題じゃないかと考えることを煩悩といい、実際に確かめることを男のサガという。そして、桃源郷を遮る木立に失望してとぼとぼと湯に浸かること、これをお約束という――はずだった、のだが。
「――何で見えるかな」
 俺は下に聞こえないように、本当に低声で呟いた。
 いや、だってまさか、普通に見える――覗く、とかいうレベルじゃなく――なんて誰も思わんだろう。
 先刻、冗談まじりに下の湯の様子を窺ってみた俺は、視界に映った鮮麗な肌とか、腰に張り付いた艶やかな黒髪とか、健康そうな四肢とか、形の良い――とか、そういったものを数瞬、呆然として見つめた後、転がるように湯船に逆戻りした。冗談ぬきで心臓の鼓動が下まで響き、今の行いがばれてしまうと確信した。それくらい、俺の胸はばくばくと音高く鳴り響いていたのである。


 木立が遮っていたことは確かだった。だが、なんというか絶妙の枝葉の張り具合で、えらく視界が良かったのだ。多分、あれは下から見上げた場合、視界はほとんど遮られているのではなかろうか。でなければ、俺が呆然と見下ろしていたことは、下の方々に確実に気付かれたことだろう。
 なんですか、この湯治場。もしや晴信は湯治場に入っている人たちを見下ろす特殊な趣味でもあるのだろうか。
「颯馬さまー。さっきおっきな水音がしましたけど、大丈夫ですか?」
 弥太郎の声に、俺は平静を保ったまま答える。
「うむ、大丈夫で御座候ふ(ござそうろう)」
 全然保てていなかった。
「は、はい、それなら良かったですけど?」
 弥太郎は少し不思議そうだったが、さすがに今の一言から事の全容を察することは出来なかったようだ。
 ふう、やれやれ。


「天城殿」
「は、はいッ?」
 今度は秀綱ですか?!
「そちらの湯加減はいかがですか?」
「はい、大変に結構です、けど」
 やましいところがあるせいか、秀綱の何気ない問いかけさえ、何か意趣があるのではないかと勘繰ってしまう。これぞ正しく下衆の勘繰り――
「それはよろしゅうございました。刀傷とはいえ、病魔が忍び込めば命に関わることも少なくありません。良く養生なさいますよう」
「はッ、ありがとうございます」
 秀綱の心遣いと、己の小ささに泣きたくなる俺であった。




 ……信虎のことを考えていたはずなのに、なんでこんなみっともないことになっているのだろう。
 俺は自身に喝を入れ、湯殿から離れた。ここにいると、落ち着いて考え事をすることが出来そうもないからだったが、耳ざとくその音を聞きつけた者がいたらしい。
「主様」
「――なんでしょう?」
 段蔵の声と、その呼び方でほぼ内容を察した俺だったが、まさか無視するわけにもいかない。我ながら死にそうな声だった。
「仏の顔も三度、という言葉はご存知ですか?」
「……存じております、はい」
「しかし、仏ならざる俗人は、三度どころか二度も厳しいと思うのです」
「……つまり?」
「次は許しません」
「御意」


 あまぎそうまは にげだした!




[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/02 23:44


 躑躅ヶ崎の乱。
 かつて甲斐を二分したこの戦いは、守護権力の強化をはかる武田信虎と、その謀臣真田幸隆の手になる謀略の仕上げであった。
 幸隆は、衆目に映るように信虎との間に君臣の不和を醸し出し、晴信方に身を投じると、その才略をもって晴信方の国人衆を巧妙に死地に追いやり、信虎の勢力伸張を陰ながら手助けしていく。
 当時、甲斐の国人衆の内には文武に優れた者たちが多くいたが、信虎の猛勇と、真田幸隆の謀略の挟撃を凌ぐことが出来たものはいなかった。結果、信虎は晴信方の重臣を次々と討ち取って勢いを増し、晴信は人的資源に致命傷に近い大打撃を被って敗退を重ねることになる。
 だが、追い詰められた形の晴信方は、それまで反信虎の象徴にとどまっていた武田晴信の直接指揮により信虎の猛攻を防ぎとめ、幸隆の叛心を察知。この謀略を看破し、からくも勝利を得た――


 真田幸村が知った、躑躅ヶ崎の乱の真相――正確に言えば、真相だと言って信虎の口から語られた内容であった。
 そして今、その内容は信虎の娘の口から肯定される。
 語られなかった、ほんのわずかな真実を付け足して。 


◆◆


 その日の朝、真田幸村の顔には、滅多に見ることができない表情がはっきりと浮かんでいた。
 一言でいって、呆気にとられていたのである。
「お、御館様?!」
 ここにいるはずのない人の姿を目の当たりにして。


 武田信虎の奇襲を退けたことで、今川家との戦は佳境を迎えようとしている。
 東部国境でにらみ合いを続けていた春日虎綱の軍と北条綱成の軍は、躑躅ヶ崎館強襲の報を受けた時点で擬態を解き、躑躅ヶ崎館に向かっている。
 この軍は甲府を通って甲斐南部で今川軍と対峙している山県、馬場両将と合流、甲斐に侵攻してきた今川軍とぶつかることになっている。春日らの軍が合流すれば、兵数の上からも今川軍を上回ることになり、撃退することも難しいことではないだろう。
 くわえて、これと時を同じくして、相模からは北条氏康率いる北条軍主力が駿河へと侵攻することになっている。これを知れば、本拠を守るために今川軍は後退せざるを得まい。その退き際を討てば、勝利はより容易になるだろう。今川軍を甲斐国内から追い払った後は、北条軍と歩調をあわせて一気に駿河に侵攻、駿府城を目指すというのが武田、北条両軍の戦略であった。


 ただ、これは今のところあくまで机上の作戦である。分散した兵力を糾合するためには少なからぬ時間を要するし、信虎が駿河に戻れば、なにがしかの手を打ってくるのは間違いない。
 それゆえ、晴信は作戦に齟齬が生じないよう、躑躅ヶ崎館に居残ったはずなのだが。
「何か不測の事態が――」
 と、口にしかけて、幸村は思いとどまった。
 不測の事態が起こったなら、余計に晴信が湯治場に姿を見せるはずがないのである。
 むしろ、逆なのかもしれない、と幸村は考え直す。
 つまり。
「きわめて順調ですよ。そう、少し私が館を抜け出しても問題がないほどには」
 そういって、武田晴信はくすりと微笑んだのである。


 そう言う晴信は供回りの者も片手の指の数ほどしか引き連れていなかった。当然というべきか、先触れの使者もない。
 慌てて饗応の準備を整えようと立ち上がった幸村に、晴信は首を横に振る。
「それは結構です。上杉の者たちに余計な気を遣わせる必要もありません。それに用件はあの者たちではなく、幸村、あなたにあるのです」  
「私に、でございますか?」
 自室に落ち着いた晴信はそう言って、ゆっくりと出された茶をすする。
 一方の幸村は、戸惑いをあらわにして、晴信の顔を見返すばかりであった。
 その幸村に、晴信は穏やかに語りかける。
「かつての乱で、真田家がどのような役割を果たしたのか。今代の真田家当主として、あなたにはそれを知る権利があります。今のあなたならば、話して聞かせても問題はないでしょう。無論、あなたが望まぬのなら、強いてとは申しませんが……どうしますか?」


 晴信の言葉が進むにつれ、幸村の顔からは戸惑いが拭われ、その眼に真摯な光が浮かぶ。
 それを承諾ととった晴信は、ゆっくりと口を開いた。
 



  
「まずはじめに言っておくと、先に我が父が口にした事――幸隆が父に仕えたことも、重用されたことも、謀臣として父の統治に重きをなしたことも、まぎれもない事実です。そして、謀略をもって躑躅ヶ崎の乱を引き起こしたこと、戦の最中に深傷を負ったこと、躑躅ヶ崎館で亡くなったことも。その点で言えば、父の話は付け加える必要のないものでした」
「……はい」
 幸村は小さく、しかし、しっかりと頷いた。
 あの場面で、信虎が安易な偽りを吐く必要はないことは幸村にもわかっていた。それゆえ晴信の言葉も幸村の予測を越えることはなかった。


 だが、晴信の言葉には続きがあった。
「幸村、奇妙に思ったことはありませんか」
「は、奇妙、でございますか。それは何を指して仰っておられるのでしょうか?」
 幸村の問いに、晴信は静かに答えを返す。
「躑躅ヶ崎の乱で、武田は多くの重臣を失いました。板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰、原虎胤、その他数え切れない者が倒れました。その数の多さに、です」
「それは戦ならば有り得ること、と思うのですが」
 幸村は怪訝な顔をする。
 それに対し、晴信はこくりと頷いてみせた。
「そう、戦ならば将兵が倒れるのはむしろ当然です。しかし、今挙げた者たちは、いずれも他家にまで名をとどろかせた猛将であり、智将。信方などは名将と呼ぶべき将器の持ち主でした。そんなつわものたちが、たかだか一つの乱でことごとく討死する。これは奇妙というべきではありませんか?」


 晴信の意図を察し、幸村はやや面差しを下げた。
「それほど、祖父のほどこした策が巧妙であった、ということでしょうか?」
 沈痛な表情を浮かべる幸村に、晴信はあっさりと肯定を返す。
「そう、巧妙でした。あまりにも巧妙すぎて、誰もその真意をうかがえないほどに」
「……真意、でございますか。御館様に味方する者たちを討つため、謀をめぐらす。それは明らかなのでは」
 すでに一度、信虎の口から語られてはいたが、尊敬する祖父や父が、敬愛する晴信に害を為していたという事実に、幸村の声からは自然と力が失われていく。
 堂々と敵対した、というならばまだしも、味方を装って敵に通じるなど、もっとも幸村が忌む所業である。それを真田の先代が行ったという事実は、幸村の肩に重荷となってのしかかる。幸村自身に関わりがないとしても、今代の真田家当主として無関係ではいられないのである。



 ――晴信は、ゆっくりとかぶりを振った。
「父の謀臣として知られていた幸隆が、その父を討つ企てに参加する。幸隆が衆目の前で父に打擲されたことは事実ですが、ただそれだけで他の者たちが疑うことなく同じ陣営に迎え入れるとでも思いますか? むしろそれこそ謀略の証である、と考える者は少なくなかったのですよ」
「し、しかし、実際に祖父が戦の絵図面を引いたと言っておりました。あれは偽りなのですか?」
「いいえ、はじめに言ったとおり、父が言ったことは事実です。実際、あの戦でも、幸隆は事実上の軍師として、我が方の軍勢を縦横に操っていました」
「では、やはり、祖父の目論見は明らかであるように思えるのですが……」
 晴信の言わんとすることについていけず、幸村は声に戸惑いを滲ませる。


「幸隆の建てた策は、いずれも完璧でした。武田の誇る重臣たちが、鵜の目鷹の目で不備を見つけようとしても見つからないほどに。幸隆を疑う者とて、それは認めざるをえない事実だったのですよ。だからこそ、皆、幸隆の策に従って戦ったのです」
 ――そして、多くの者が冥府へと旅立った。完璧だと思われていた策で、どうしてそれだけの犠牲が出たのか。犠牲が出た上で、それでも幸隆の策が受け入れられたのはどうしてか。
 そんな疑問をおぼえた幸村に教え諭すように、晴信はさらに言葉を紡いでいく。
「先の乱は、父を討つか、あるいは捕らえ、私に家督を継がせて、これまで通り国人衆の権益を確保することが、我が方についた者たちの狙いでした。そのための最良の手段は戦場で直接父を討捕することです。ただでさえ、それまでに父が起こした度重なる戦で甲斐は疲弊していましたから、皆、戦が長期に渡ることは避けたかったのです」


 晴信の言葉を聞いた幸村は、胸中でその言葉を噛み砕こうとする。
 総大将を討ち取る。たしかにそれが出来れば、戦はたやすく勝利できるだろう。
 だが、戦場で幾度も敵将を討った幸村なればこそ、それがどれだけ困難なことであるかもまた理解している。
 虎穴に入らずんば虎児を得ずとはいえ、作戦に多少の無理が生じるのは仕方のないことだろう。まして、この例で言えば、虎穴の中に待っているのは虎児などではなく、獰猛な人食い虎なのだからなおさらである。


「深追いし、あるいは逆撃され、多くの者が討たれました。それでも、何故幸隆がかわらず軍略を任されつづけたのか。それは幸隆の策であれば、父を討つことが可能だと、皆がその都度、判断したからです。さきほど完璧といったのはそういう意味でもあります。幸隆が建てた策、そのすべてにおいて、父を討ち取ることが出来る可能性は確かにあったのですよ。策が漏れ、あるいは父に有利なように取り計らっていれば、歴戦の諸将がそれに気付かぬはずもないのです」
「あ、あの、御館様、それはつまり……」
「そうです。幸隆の策は、敵と味方、双方に等分の利があり、等分の危険があった。あの戦で父が討たれていた可能性も、決して低くはなかったのです。ことに信方は、父の首まであとわずかのところまで迫ったと聞きました。幸隆は私の軍師として、最善を尽くしたと言えるでしょう」


 しかし、信虎から見れば逆に映ったことだろう。
 信虎とて幸隆の策の刃が、自身に迫っていたことに気付かなかったわけではあるまいが、それもまた幸隆の策の一環と考えていたと思われる。それだけ、幸隆は信虎の武勇を信頼しているのだ、と。
 晴信はどこか愉快そうに言う。
「我が軍師として最善を尽くすことが、父への忠誠となり、私への忠義ともなる。煮ても焼いても食えないというのは、幸隆のような者たちを指すのでしょう。表裏比興の者、とでも言うべきか」
「は、その、何と申し上げるべきか……申し訳ございません」
 晴信の評価は辛辣ともいうべきものだったが、その表情は楽しげでもあり、幸村はどう受け止め、何と答えるべきかわからず、困惑しきった様子で晴信の前に平伏する。


 幸村は、晴信の言わんとしていることを察した。
 信虎の言葉はいつわりではない。だが、その解釈までが正しいというわけではない。そう言ってくれているのだろう。
 実際に話を聞けば、それが単なる慰めでないことは幸村にも瞭然としている。
 そこまでは理解した幸村だが、では、祖父と父の真意が何処にあったのかという点は、やはり気になった。
 晴信に忠誠を尽くしたのか、それとも信虎の腹心として蠢動していたのか。しかし、その行動からだけでは計ることが出来ず、鬼籍に入った二人に真意を問うことも不可能とあっては答えなど出しようもなかったのである。





 そんな幸村の苦悩を眼前で見つめる晴信は、その内心を察したものの、それ以上、言葉を紡ごうとはしなかった。
 答えを知らないからではない。
 答えを知るからこそであった。


『狂われたのか、父上ッ?!』


 驚愕と焦慮に彩られた、真田昌幸の言葉が、晴信の脳裏によみがえる。
 それは、躑躅ヶ崎の乱の最終章。
 永遠に胸のうちに秘しておかねばならぬ、晴信のみが知る乱の真相であった。




◆◆◆




 躑躅ヶ崎館の各所から響く鬨の声と剣撃の響きも、館の中にあってはまだ遠い。
 しかし、突如門扉が開かれたことで、信虎方は動揺を隠し切れず、逆に晴信方は士気をおおいに高め、喊声をあげて信虎方に斬りかかっていく。
 このまま戦況が推移すれば、遠からず躑躅ヶ崎館は晴信方の手に落ちるだろう。
 だが、この戦いだけでなく、今回の戦全体の趨勢を見れば、まだ両軍は一進一退――否、晴信方の名だたる将帥を討ち取り、連戦連勝している信虎方の勢いが明らかに優っていた。
 たとえ、ここで一度敗北を喫しようと、信虎方がすぐに勢力を盛り返してくることは明らかで、だからこそ、晴信方はこの戦で信虎を討ち取っておかなければならなかった。
 真田昌幸はそう考えていたのである。


 しかし。
 その昌幸の前に立ちはだかるは、昌幸の父幸隆であった。
 すでに信虎は、幸隆によってこの場を離れている。いまだ周囲では戦闘が続いているが、信虎の武勇と躑躅ヶ崎館内外の知識を考えれば、これを捕らえることは至難と言って良い。唯一の機会を潰した父を前に、昌幸は冷静ではいられなかった。
「狂われたか、父上ッ?! この期に及んで信虎殿を逃がすなど!」
「……狂うてはおらぬよ。いや、そのつもりである、と言った方がよいかもしれぬが」
 一方の幸隆は落ち着きを失っていなかった。
 この戦に先立つ戦闘で深傷を負い、顔には血止めの布を巻き、身体の傷が響くのか、その声もわずかにかすれていたが、それでも幸隆が正気を保っていることは、思慮深いその目の輝きを見れば明らかであった。
 昌幸も、そして黙然とこの場に佇む晴信もそう判断せざるをえなかった。


 だからこそ。
 昌幸は理解できなかったのだ。どうして、父が信虎を逃がすような真似をするのか。
「信虎殿を討たずして、この乱は終わりませぬ。父上が旧主を討つことをよしとしかねていたことは承知していましたが、しかし、その葛藤に決着をつけたと申されていたではありませんか。だからこそ、此度の乱、晴信様のもとで戦ってこられたのありましょう?!」
「うむ、葛藤は終いにした」
 凪いだ湖面のごとく、静かな幸隆の声が響く。
「昌幸、わしはひとたび信虎様に真田の家運とわしの命を預けた。信虎様が志を変えられたは事実。だが、だからといって、わしの誓いまでが変わって良い理由にはならぬのだ。君、君たらずとも臣、臣たれ。そのお命を奪うような真似はできぬのじゃよ」


「何を仰っておられるか、わかっておいでかッ! 信虎殿が何をしてこられたか、何をされようとしておられるのか、その全てを、我ら真田は見てきたではありませんか。あまつさえそれに力を貸し、民を傷つけ、兵を酷使し、甲斐に混乱をもたらしてしまった。その罪を贖うために、晴信様に従ったというのにッ」
 昌幸の声は慟哭にも似て、隠し切れない悲哀があふれ出ていた。
「板垣様、飯富様をはじめ、多くの将が我らの策に従って戦い、果てられた。多くの兵が失われた。父上は、皆を欺いておられたのか。私が建てた策にすべて頷いておられたは、今の結果を予期しておられたからか?」
「それは違う、昌幸」
 幸隆ははっきりと首を横に振る。
「そなたが建てた以上の策は、わしにも考え付くことはできなかった。口出しをしなかったのは、する必要がなかったからじゃ。仮にわしがお主にかわって策を建てたとて、今以上に晴信様に利する状況にはならなんだろう」
「ならば、何故、信虎殿を逃がされたッ?! 信虎殿を逃がせば、後日、武田にとって大患となるは必定。是が非でもここで討ち取っておくべきと、あれほど申し上げたはず! 父上もそれに異論は示されなかったはず! 父上は、一体何を考えておられるッ?!!」



 晴信は、ここまで激昂する昌幸を見るのははじめてであった。
 常に冷静にして沈着、若年にしてその才略を重臣たちにも認められ、武田の次代を担う俊英の一人として期待を集める真田昌幸である。
 事実、今回の戦でもその才能を存分に発揮し、信虎との直接戦闘こそ勝利を得ることが出来なかったが、麒麟児の評判を裏切らない活躍を見せてきた。ここまでは。
 だからこそ、今、頬に血涙を流して、父の行動を糾弾する昌幸の姿はあまりに痛々しく、正視に耐えないものと晴信の目には映るのである。



 一方の幸隆は。
「……そうさな。何を、考えているのか。何をしたかったのじゃろうな、わしは」
 信虎を討つわけにはいかぬ。そう言いながら、晴信のために自ら進んで躑躅ヶ崎館に赴き、門扉を開け、しかる後に信虎を逃がした幸隆。
 かつての鋭気と精悍さを失い、言葉すくなに呟くその顔色は、今や死者のそれであり、深く刻まれた皺からは深い憂愁と諦念が滲んでいた。
 その父を見て、昌幸も言葉を失い、時ならぬ沈黙が場に満ちる。
 不意に。
 幸隆の身体が大きく崩れ、膝をつく格好となる。
 咳き込む口を押さえる手からは暗赤色の血がこぼれていた。
 幸隆の傷が開いたことをさとった昌幸が咄嗟に駆け寄ろうとするが、幸隆は片手をあげて、それを制した。


「……晴信、殿」
「言い残すことがあれば聞きましょう」
 幸隆の顔に、死にいく者の翳りを見た晴信は、余計なことは言わず、ただそれだけを口にした。
「……ありがたき幸せ」
 一礼した後、幸隆はゆっくりと口を開いた。
「……信虎様を逃がしたは、わしの独断。昌幸も、無論、他の真田の者も存ぜぬことでござる」
 幸隆の言葉に、晴信は静かに頷く。幸隆は、その言葉が免罪符になることはないと承知していたし、それは晴信も同様であった。だからこそ、晴信は頷く以外に応えようがなかったのであり、幸隆は、晴信が過不足なく自分の言葉を聞いてくれたことを知った。


「……が、あ」
 口からあふれ出る血に、自身の命脈が間もなく絶えることを、幸隆は知った。
 時は少ない。幸隆は、口元を押さえつつ、言葉を続けた。
「……この身は、御身にとって何一つ益することなく。数ならぬ身でこのようなことを申し上げるは不遜なれど……どうか、御身の上に御仏の加護があらんことを。その智仁義勇をもってすれば、武田の家の繁栄は必定、いずれ京洛にまでその名は届き、御身が彼の地を踏む日も参ると存ずる」
 幸隆はそう言って、最後の力を言葉に込めた。


「……彼の地にて、闇は深く澱み、人を引き込みまする……どうか、お忘れ、なきように」


 その言葉の意味が理解できたかと問われれば、晴信はかぶりを振ったであろう。
 だが、ただ覚えておくことなど造作もないことである。
 そして、晴信の返答と、幸隆の身体が地に崩れおちたのはほとんど同時であった。
 昌幸が駆け寄り、幸隆の瞳を覗き込んで、そこにすでに意思の光がないことを確かめる。
 静かに両の眼を閉ざす昌幸。幼い晴信には、その胸中に去来する感情を察する術はない。


 その時、不意に昌幸が動いた。
 瞼を開いたかと思うと、たちまちのうちに晴信との距離を詰め、覆いかぶさるようにのしかかってきたのである。
「なッ?!」
 驚愕の声さえ昌幸の身体に遮られ、晴信は地面に押し倒されてしまう。
 あまりの意外さと、無礼な振る舞いに晴信の目に紫電が走る。
 だが、昌幸を見据えた晴信は、すぐに昌幸が奇行に出た理由を悟った。悟らざるを得なかった。
 晴信の目に映ったのは、誤魔化しようもないほどに深々と昌幸の身体に刺さった矢羽であったからだ。


 舌打ちの音と共に、何者かの気配が消えるのを晴信は感じ取ったが、それに構っている暇はなかった。
 幸隆の傷が致命傷であったことを知る晴信は、すでにその死は覚悟していた。また、幸隆が心に何事か秘めていることも、それとなく察していたため、感情を乱すことなく最後を看取ることが出来た。
 だが、昌幸の死まで予測できたはずがない。この時、晴信ははっきりとうろたえている自分に気付いていた。
 そして、晴信はもう一つの事実に気付く。
 それは、昌幸の顔に笑みが浮かんでいることだった。まるで予期せぬ幸運を得たとでも言うかのようなその笑みに、晴信はますます困惑を深めるのだった。




 今ならば。数年を経て、晴信は思う。
 昌幸の行動に困惑することはなかっただろう、と。
 信虎に謀臣として仕え、事起こると、その信虎を討つために今度は晴信の麾下として采配を揮う。真田家に近しい者たちから見ても、真田の行動は眉をひそめる類のものだ。まして事情を知らぬ者たちからすれば、真田の行動は変節そのものである。
 昌幸が、それを承知していないはずはない。くわえて、結果として昌幸が建てた策で多くの将兵が失われたことも事実である。乱が沈静したとしても、晴信の傍らに侍る昌幸に向けられる視線が険しいものとなることは容易に予測できることであった。


 いや、険しくなるくらいであれば、まだましだろう。
 元々、真田家は信濃の外様である。甲斐の者たちからすれば、自分たちの下にいるべき者が、主君の寵を得て自分たちに指示を下してきたのだから、面白いはずがない。その主君が謀反人として放逐されれば、当然、溜まっていた不満は何らかの形で噴出する。相手は脛に傷を持つ身であり、その手段はいくらでもあるとなれば尚更であった。
 晴信がこれを抑えることは可能だが、そうなれば今度は晴信に対して不満が向けられる。せっかく治まった乱が、また芽吹く可能性さえあるのだ。


 それらの状況を回避する――すなわち主家の安定と、真田家の存立を二つながらに成し遂げる手段はないだろうか。
 一つある――当主と嫡子、双方が討死し、真田家を滅亡の淵に立たせること。
 すなわち真田家を意図的に悲劇の家として、周囲の同情と輿望をかき立てるのである。
 真田家は、家の存続さえ度外視して、主家のために戦った。それは御家大事の戦国の世にあっても、決してめずらしい話ではない。だが、一人は死を賭して敵城の門扉を開き、一人は自らの命に代えて主君の命を助けたとなれば、その忠烈が軽んじられることは決してないに違いない。


 おそらく。
 たとえこの時、命を長らえたとしても、昌幸は遠からず討死していただろう。
 そうして、危機に瀕した真田の家名を晴信が復興せしめることで、武田の家臣は新たな主君が寛厚の君であることを知り、より忠誠を尽くすようになる。
 たとえ自らが討たれようと、残された家や家族は、主君によって守られ、引き立てられる。そのことがはっきりしているのだから、奉公に専心できるのは当然であった。




 正しく、この時の昌幸も同じことを口にした。
 後で確認してわかったことだが、この時の矢には毒が塗られていた。おそらくは想像を絶する苦痛に苛まれながら、それでも昌幸は先刻よりもはるかに落ち着いた様子で、言葉を紡いでいく。
「……真田の家は、反覆常なき詐謀の家……信之と、幸村にそのような汚れた家名を譲るわけには、参りませんでした。父や、私が陥ったような難しい生き方を、娘たちには、してほしくはありませぬ」
 ごぼり、とその口から血を滴らせながら、昌幸は言う。
「……かといって、二人を引き立ててくれとも、申しませぬ。あの二人に、それだけの才があるや否や。親の欲目ほど、あてにならぬものはございませぬし」
 そういって、おそらく昌幸は笑みを浮かべようとしたのだろう。かすかに顔を歪ませた。
 晴信は唇をかみ締めつつ、口から下を血で染めた昌幸の顔を見つめることしか出来ない。致命傷であることは明らかだった。苦痛を終わらせるにしても、その言葉、すべてを聞き終えてからでなければならぬ。


「晴信様……この身を賭して、一つだけ、願いの儀がございます」
「聞き届けましょう」
「ありがたき、幸せ……」
 それは奇しくも、先に幸隆が口にした言葉と同じであった。
 血に染まった唇が、開かれる。
「……どうか。御身が耳にした、我が父の言葉、私の言葉、それを娘たちに伝えないで、いただきたい」
 昌幸の言葉に、喘鳴が混ざり始めた。
 聞き取りにくいはずの言葉を、しかし晴信は一言一句余さず、しっかりと聞き届ける。
「……あれらは、まだ戦場を知りもうさん……なればこそ、新しき真田を、一からつくることが出来ましょう。もし、それが、御身の目にかなうものであれば……その時は、どうか……娘たちを、よろしく、お願いいたします……」



 力なく垂れ落ちる首。崩れ落ちる身体。
 その重みを腕に感じた時、晴信は知る。
 生きていれば、どれだけの偉業を為しえたか。武田晴信の眼力をもってすら測り難い器量を持った武将が、躑躅ヶ崎館のただ中で、今、静かにその生を終えたのだ、と。




◆◆◆




 無論、晴信はそのことを口にはしない。
 今の幸村であれば、受け止めることは出来るとわかってはいたが、それは晴信が口を開いて良い理由にはなりえない。
 幸村が知りたいと欲する答え。かつての真田家の真意。肯定と否定が入り交ざったその事実は、晴信が生涯秘めていかねばならないものであり――そして、晴信は生を終える瞬間まで、その事実を口外することはなかったのである。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/03 14:31


「御館様、お話いただき、ありがとうございました」
 語るべきことを語り終えた晴信に対し、幸村が改めて頭を下げる。
 幸村からすれば、目新しい事実が聞けたわけではない。しかし、晴信がわざわざ人の少ないこの場所まで出向いたことの意味と、その思いやりに気付かない幸村ではなかった。
「礼を言われることではありません。時が至れば、真田の当主には話さねばならないことだったのです」
 そう言って、晴信はゆっくりと茶をすする。


 実のところ、まだすべてが明らかになったわけではない。たとえば、あの時、晴信の命を狙った者は誰なのか。
 信虎配下の忍であろうとは思う。だが、それにしては、信虎が逃亡した後もあの場に居残っていたことに不審が残る。あるいは、偶然あの場に出くわした兵、という可能性もないことはないが、しかし偶然晴信の姿を見つけた兵が、都合よく毒矢を携えているというのは出来すぎではなかろうか。
 そしてもう一つ。晴信がひそかな危惧を抱いている事柄がある。あの乱の後に病を得て亡くなった信之。あれは本当に病死であったのか。
 毒害の可能性は極めて薄いという報告を受けてはいるが、信之の年齢を考えれば、疑いを完全に払拭することが出来ない晴信であった。


 今回の件は、そういった諸々のことを確認する機会でもある。
 すでに勘助が動いており、答えは遠からず出るだろう。あるいは思いもよらない名前が出てくるかもしれない。
 眉根を寄せ、考えにふける晴信。
 その晴信に、幸村が奇妙な質問を放ってきた。
「御館様、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「かまいません。何か気になることがありましたか?」
 躑躅ヶ崎の乱に関してだろう。そう考えた晴信の予想は、しかし、めずらしく外れた。それも予想外の方向に。
 すなわち、幸村はこう問うてきたのである。


「しんげん、とは何を指す言葉なのでしょう?」


 ぱちぱちと瞬きをする晴信、という実にめずらしい光景を幸村は目の当たりにする。
「……『しんげん』ですか。意見を具申する『進言』、厳しくおごそかな様をあらわす『森厳』、格言を意味する『箴言』と、思い浮かぶものは幾つかありますが。それはどのようなときに使われた言葉なのです?」
「は。実は、越後の者たちをこの湯治場に連れてきた時のことなのですが。天城が口にしていたのです。『これがしんげんの隠し湯か』と」
 幸村の言葉を聞き、晴信は「ほう」ともらして、かすかに目を細めた。
「――その言葉だけを聞けば、今、私が挙げたものはいずれも当てはまりませんね。隠し湯、というからには、何者かが意図をもって、この湯治場を隠しているということです。それを考えれば、『しんげん』とはその何者かの名、つまりこの場合でいえば私の事をさすと考えるのが妥当ですが……」
 無論、晴信の名は違う。これまで、そのように名乗ったこともない。


「当人は何と申しているのです?」
 晴信の問いはもっともなものであったが、幸村は慌てたように、視線を左右に揺らした。
「あ、その、それが、本当に呟くような声だったもので。おそらく他の者たちの耳にも届いていないかと思います。問い返そうにも、間違いであったり、当たり前に使われている言葉かも、と考えると……」
 しどろもどろにこたえる幸村を見て、晴信はひそかに頷く。
 なるほど、万一にも道化になってしまうような事態は避けたかった、ということらしい。疑問をほうっておくことを嫌う幸村にしてはめずらしいこと、と晴信は内心おかしかった。


 不意に。
 晴信の目に悪童じみた光が煌いた。幸か不幸か、幸村はそれに気付かず、その後の晴信の台詞も当然のことと受け止めた。
「ふむ。機会があればそれとなく聞いてみることにしましょうか」
 ともあれ、と晴信は続けた。
「せっかくここまで来たのです。今宵くらいはゆっくり湯に浸かりたいものですね」
「はッ。あ、しかし……」
「どうしました?」
「はい。上杉に知らせないとなると、天城をどういたしましょうか。指示された通り、御館様の湯殿を使わせているのですが」
 下手をすると鉢合わせすることになりかねない、と幸村は危惧を示す。
 だが、晴信はあっさりと問題を解決してみせた。
「私が使っているときは、掃除をしているとでも言っておけば良いでしょう。幸村も私に余計な気は遣わず、傷の養生に専念しなさい。あなたの傷とて、決して浅いものではないのですから」
 晴信の気遣いに、幸村は深々と頭を垂れた。



◆◆◆



「月夜の下の露天風呂というのも、また一興」
 湯殿に身を沈めながら、俺は空を見上げる。
 季節は冬。驚くほど澄み渡った星空に浮かぶ黄金色の満月の下、手足を伸ばして温泉に浸かる。こんなに贅沢なことはあるまい。おもわず嘆息がもれてしまう。
「こんなとき、一首詠めれば様になるんだけど……」
 風流を解さない無粋者には無理な話でした。


 冬の山中、時刻は夜である。当然気温は低く、立ち上る湯気は視界を淡く塞ぎとめる。
 ただ、空を眺めることに支障はない。降るような星空と、どこか優しげに煌く月の光に、いつまでも飽くことなく見入っていた俺の耳に。


 コトン、と。
 脱衣場の方から音が聞こえてきた。
 当然といえば当然だが、この湯治場には、少数ではあるが建物の管理をする人たちがいる。
 先刻食した質素な山菜料理も彼らがつくってくれたものだ。洗練とはほど遠い素朴な料理だったが、だからこそ疲れた身体に染みた。
 ちなみに何故か狸の肉が出た。不思議に思って聞いたら幸村の猟果だという。怪我人が何をやってるのか、と呆れ驚いたが、それを調理したのも幸村だと聞いてさらに驚いた。そして、口にしてみて三度驚いた。滅茶苦茶美味かったのだ。
 聞けば狸は随分と調理が難しいとのこと。幸村が食事の場に姿を現さなかったのは、そのためもあったらしい。無論、こちらへの気遣いもあったのだろうが。
 幸村の意外な特技を知った俺は舌鼓をうった後、幸村を探して美味しかったと礼を言ったのだが、何故か怒られた。なにゆえ。


 まあ、それはともかく、誰かが湯殿の掃除にでも来たのだろう。こんな時間に、と思わないでもないが、深く気にすることもあるまい。この湯殿に浸かっていると、浮世のことすべてに楽観をもって臨めそうな気がする俺であった。
 だからこそ。


「失礼いたします。お背中、お流しいたしましょうか、お侍様」


 その声が聞こえてきた時も、あまり慌てずに済んだ。
 ただ、明らかに女性――というか少女の声だったので、少しだけ驚いた。まさか隠し湯に垢かき女がいるとは思わなかったし、それになんとなく声に聞き覚えがあるような気もするのだが。
 だが、確かめようにも湯気が篭った湯殿では、近づかないことには相手の顔もろくに見えない。まあ、それは向こうも同様だろうから、恥ずかしがる必要がないというのも、俺が冷静さを保てた理由の一つではあった。


「いえ、お気遣いなく。このような夜分に、手間をとらせるのも申し訳ないです」
「手間などと、とんでもない。それに、これが私の務めですし、その務めを果たせないとなれば、御館様にお暇を出されてしまいます。お侍様は、二親のない私に、寒風ふきすさぶ山国で独り生きろと仰せになるのでしょうか?」
「――是非背中を流していただきたいと思います、はい」
 さりげない口調で、さらりと辛辣なことを言われた俺は、あっさりと前言を翻す羽目になった。


 そんなわけで湯殿から上がり、少女に背を委ねる。
 温泉で女性に背を流してもらうという状況は想像をたくましくするものではあるが、向こうは仕事でやっているのだから、妙なことを考えてはいけません。
 泡とは違うのだよ、泡とは――などと自分でもよくわからんことを胸中で呟く。
 実際、この人、やたらと垢すりが上手い。先刻、湯に入ったときは、諸々の事情で慌てて逃げ出したから身体をしっかりと洗っていないのだが、それを差し引いても、俺の身体からはおどろくほど垢が出た。
 越後を発って以来、ろくに身体を洗う暇がなかったのは確かだが、さすがにこれはまずい。内心で冷や汗をかきながら、今日からもうすこし気をつけようと心ひそかに誓う俺だった――謙信様に、不潔な男だ、とか忌避の目で見られることだけは避けねばならぬ。



「武士であれば致し方ないことではありますが、もう少し気を配られるべきですね」
「――返す言葉もございません」
 少女の言いたいことを察した俺はがくりとうなだれる。何故か敬語だった。
 とはいえ、手遅れにならないうちに気付かせてくれたこの子には感謝せねば、などと思っていると。
「では、次はこちらを向いてください」
 しごく当然のようにそう言われ、さすがに俺は慌てた。
 いくらなんでも正面から向かい合うのは恥ずかしすぎる。向こうはともかく、俺は手ぬぐいのみの全裸なのだし。
 そんな俺のためらいを予期していたのか、少女の口から「ではそのままでいてください」と言う言葉が出たので、俺はほっと安堵の息を吐き――
「ぬあ?!」
 次の瞬間、背中に柔らかい感触を感じて、全身を硬直させてしまう。
 少女が俺の背中に抱きつく形で、胸に手を伸ばしてきたからである。


「な、な、なにを……」
「こちらを向くのを厭うのであれば、こうするしかないでしょう。是非もない」
「あ、いや、ですが、これは……わあッ?! そこはまずッ」
「じっとしていなさい。大の男がこの程度のことで騒ぐなど見苦しい」
「いや、これは騒いでも仕方ないのではッ?!」
 などという遣り取りをしながらも、俺は背中どころか全身で感じる柔らかい感触に慌てまくっていた。いつか、少女の口調が変わっていることにも気付かないほどに。



 そして、しばらく後。
「……洗われてしまった」
 呆然と呟く俺。
 奇妙な虚脱感に襲われ、ちょっと立つことさえ出来そうにない。
 その俺の隣で、少女がどことなく満足げに頷いている。
「雑作もない……先の戦の礼としては十分でしょう」
「……は?」
 なんだか場にそぐわない台詞を耳にした気がして、俺ははじめてまともに少女の顔を見る。それまでは気恥ずかしさも手伝って、視界の隅に入れるだけにとどめていたのだ。
 そして。


「はッ?! は、はる……のぶ、さま……?」


 何故かそこに、武田晴信の姿を見つけた俺は、絶句することになる。  
 


◆◆



 この時の俺の反応速度は、おそらく歴戦の武人に優るとも劣らなかったであろう。手ぬぐいを掴みとるや、神速をもって湯殿に逃げ込み、晴信の視界から身体を隠すと同時に、視線をあさっての方角に向けて、俺の視界からも晴信を追放した。
「…………」
 ぱくぱくと口を開くが、何の言葉も出てこない。問うべき事柄が多すぎて、何から口にすべきかもわからなかった。


 一方の晴信は、俺の万分の一も動じていなかった。
 それまで身体に纏っていた薄布をとりはらうと(衣擦れの音で想像)、ためらう様子もなく湯殿に近づき、湯を身体に馴染ませてから、湯殿に足を入れ、ゆっくりと全身を浸していったのである――俺のすぐ隣に(間近で聞こえた湯音で想像)。


「……ふう」
 晴信の口から、ため息にも似た声が聞こえる。つまり、そんなかすかな息遣いが聞こえるくらい近くに、晴信は居るのだ。
 晴信の意図が微塵もわからず、俺は身体を強張らせることしか出来ない。自分から離れる、という選択肢は何故か浮かばなかった。


 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
 というか、いつまでもこうしていたら、間違いなく俺が倒れる。いろんな意味で。
 ここは一つ、毅然とした態度で晴信の真意を問うべし。
 俺はそう決意し、ばくばくと鳴る心臓をなだめつつ、口を開きかける。
 一国の守護が、他国からの使者に対し、垢かき女の真似事をした挙句、同じ湯船に身体を浸らせるなど有り得ることではない。
 何か意図があってのことなのは確かだが、その意図がさっぱりわからん。


 だが、俺が口を開こうとした矢先、晴信が口を開いた。
「『しんげん』とは……誰のことなのです?」
「は、はい?」
 一瞬、俺は晴信が何を言っているのかわからず、首を傾げてしまった。
「この湯治場に来たとき、言ったそうですね。『これがしんげんの隠し湯か』と」
 げ、と内心でうめく俺。
 たしかに、そんなことを口走った記憶があった。誰にも聞かれていないと思っていたが……どうやら幸村の耳には届いてしまったようだった。
 俺は内心の焦りを声に出さないように注意しつつ、口を開く。
「さて、真田殿の聞き違いではありませんか。さようなことを申し上げたことは――」
「幸村の名前を出したおぼえはないのですが?」
「あ」
 ……不覚。


「隠す、と言うからには、何者かの意図がなければなりません。この場合、それはこの湯治場を秘している私を指すと考えざるをえませんが、私は『しんげん』などではない」
「……は」
「しかるに、あなたは武田の隠し湯でもなく、晴信の隠し湯でもなく、『しんげん』の隠し湯と口にした――さて、越後の軍師殿」
 すぐ隣で、なにやら楽しげな声が聞こえてくる。
「その真意は奈辺におありなのか、お聞かせいただけますか?」
「……真意といっても、その」
 口がすべっただけです、とは言えない。口からでまかせを言おうにも、相手が晴信とあっては、弥太郎のようにあっさりと誤魔化されてはくれないだろう。まあ、最近は弥太郎も、同僚の影響か、すいぶんと俺に対して手厳しくなりつつあるのだが。


「答えぬとあらば、それでもかまいませんが――」
「は、よろしい、のですか?」
 思わず横を向きそうになり、慌てて視線を元の位置で固定する。
 そんな俺に、晴信は澄ました声で答える。
「ええ。あなたの従者に、いま少し主の清潔さに注意を払うよう助言するにとどめておきましょう」
 ふむ。それはつまり、俺が隣国の国主に身体の垢を拭わせたのだと、皆に知られるということですね。はっはっは。


「――それだけは何卒お許しを」
 湯に顔をつける勢いで、俺は頭を下げる。
 依然、晴信の方を見ることが出来ない俺の耳に、晴信が湯を手で弾く音が響いた。
「さて、私が先ほどのことをついうっかり忘れてしまったとして――しかし、『しんげん』の意味を教えることは出来ぬと、そなたはそう言うつもりなのでしょう?」
「う、それは、あの……」
 それとこれとは話が別、と言いたいところなのだが、晴信はそんなことは百も承知の上で言ってきているのだ。理不尽な脅迫者を前に、道理を説いても無駄であろう。
 どうしたものか、と途方にくれかけた俺だったが、次に晴信が口にした台詞は、俺にとって予想外のものであった。



 すなわち、晴信はこう言ったのだ。
 その名をください、と。



「名を?」
 俺の訝しげな声に、晴信は落ち着いた様子で言葉を紡いでいく。
「そうです。此度、そなたらの助力もあって、躑躅ヶ崎の乱はようやく終わったといえます。まだ、いくつか気になる点はありますが、それも間もなく答えが出るでしょう」
 近くの木立から、草が揺れる音がした。夜行性の動物が餌を求めて動いているのだろうか。
 晴信は気にする素振りを見せずに続ける。
「始まりの終わりか、終わりの始まりか。そのいずれにせよ、武田の家が一つの節目を迎えたことは間違いありません。それは、当主たる私にとっても同様。我が父の縛めから抜け出した今、その父から与えられた名を過去のものとする良い機会でもあるのです」


 晴信は呟くように再び口を開く。
「武田しんげん……不思議と、耳によく馴染む。そなたが何処から引っ張り出してきたかは知りませんが、甲斐源氏、武田家の当主としての威厳を備えた佳良なる名ではありませんか」
「そ、そうでしょう、か?」
「ええ、そうなのです」
 戸惑いをあらわにする俺に、晴信は澄まし顔で返答する。
「それに、宿敵であった越後上杉家、その軍師から名を授かるというのも、また一興。どうです、天城颯馬。私に名を授けるという名誉、その身に担ってはみませんか?」


   
 問いかけの形をとってはいたが、すでに俺は逃げ道を塞がれている。否と言えようはずがないのである。
 ずるい人だ、と思いつつ、しかし嫌悪や反感を抱けないのは、晴信の声がいかにも楽しげであるからだった。多分、今、晴信の顔には悪戯っぽい微笑みが浮かんでいるのだろう。見ることは出来ないが、何故か俺はそう確信できた。


 別に『しんげん』という名の響きが気に入ったのなら、俺の許可などとらずに名乗れば良いと思うのだが、甲斐の御館様は妙なところで律儀というか、子供っぽいところがある方らしい。
 俺は晴信改め信玄に頷いてみせながら、そんなことを考えていた。



 ――甘かった。無茶苦茶甘かった。あの武田信玄が、そんな浅い思惑で動くはずがなかったのだ。
 武田信玄の深慮遠謀を俺が思い知ったのは、翌日のこと。



◆◆◆



「おはようございます、兄上」
『はい?』
 唐突な呼びかけに、俺はもちろん、その場にいた謙信様、秀綱、弥太郎、段蔵は無論、幸村までが声を揃えた。
 無論、というべきか、問題の呼びかけを行ったのは最後の一人、武田信玄だったのだが……


「あの、兄、とは?」
「無論、あなたのことに決まっているではありませんか、我が兄、天城颯馬殿?」
「へ?」
 本気で意味がわからず、俺は目を点にする。
 そんな俺に向けて――というより、多分、この場にいる他の者たちへの説明も兼ねたのだろうが、信玄は昨夜のことを口にした。
「武田家が新たな節目を迎え、それにともなって兄上は私に新しい名乗りを授けてくださった。『武田信玄』という。それは無論おぼえておいででしょう」
「は、はい、それは確かに覚えていますが……」
 幸村が何か変な顔をしていたが、今はそれを確かめている暇はない。


 信玄はさらに言葉を続けた。
「虎綱から聞きました。兄上は大陸の書にも通じていると。では、彼の地の理もご存知のはず。名を授かるということは、すなわち命を授かるも同じこと。ゆえに私は兄上に対し、親に対する子のごとく、君に仕える臣のごとく、身命を懸けなければなりません。さりながら、この身は一国の守護にして、武田の主。常に共にあることも、また臣として兄上に仕えることもかないません」
 だからこそ、と信玄は言う。
「家族をことごとく失った我が身です。せめて御身を兄としてお慕いしたいと願うことは、それほど驚かれるようなことなのでしょうか。兄上は、はや信玄への想いをなくしてしまわれたのでしょうか。それはあまりにひどい仕打ちと申せましょう……」



 顔を伏せた信玄の嘆きが室内にこだまする。
 他の誰一人として動くことが出来なかった。誰もが凍りついたように微動だにしない。
 俺がいちはやく我に返ったのは、何もこの中で一番胆力に優れていたからではない。昨夜の信玄のくだりを知っていた分、他の皆より早く現実に回帰できただけである。
 そして、我に返って真っ先に思ったことは。
(――やられた)
 の一語だった。
 何故、信玄が俺から名を授かるという形に固執したのか、その理由がわかったからだ。


 しかし、その目的がわからない。俺を兄と呼んだところで、別に何の利益もないのだが。強いていえば、俺を窮地に陥れることが出来るが、まさかそんなことのために、ここまで手間を割くほどに信玄は暇ではあるまい。
「それに」
 戸惑いを消せない俺の耳に、信玄の声が響く。
 悲しげに伏せていた顔には、当然だが涙の跡などありゃしねえ。腹立たしいほどに艶々の頬があるだけである。
「私を妹とすることは、御身にとっても少なからぬ益があるのですよ」
「益、とは、何のことで?」
 言葉がぶつ切りなのは、単にまだ冷静さを回復してないせいである。決して、周りの視線に怯えているわけではない。



「今、申しましたとおり、この身が御身に仕えることは出来ません。ですが、兄上の言葉とあれば、耳を傾けることくらいは出来るのです。たとえば、そうですね――」
 晴信はおとがいに手をあて、小さく微笑んだ。
「兄上が心ひそかに志向されておられる、越後と甲斐の同盟。それをわずかなりと、実現に近づけることもかなうかもしれません」
「――ッ」
 思わず、息をのむ。
 俺を見る信玄の眼差しに、真摯な光が浮かんだ。


「越後の上杉と甲斐の武田。この両家がぶつかるは、地理を見ても、また互いの当主の在り方からみても不可避と思われていますし、事実その通りでもあります。これを結びつけることは並大抵のことではない。しかし、逆にそれを為しえれば、東国の勢力図は大きく様変わりするでしょう」
 信玄の言葉に、知らず、その場の者たちは頷いていた。
「越後と甲斐が手を携えれば、北条もそれに加わるは必定。さすれば、北陸、関東、甲信に跨る大勢力がうまれます。上杉は北陸を進み、北条は関東を押さえる。武田は飛騨から美濃へ。そして、此度の戦で勢力を飛躍的に拡大させた東海の松平家を加え、かつての三国同盟ならぬ四国同盟を締結する。これが成れば、他の中小の勢力はいずれかの家に与せざるを得ず、東国に新たな秩序を打ち立てることがかなうでしょう」


 四国同盟。もしそれが実現の日を迎えれば、東国のみならず、日の本の勢力図さえ書き換えることが可能となる。
 北陸路を上杉、美濃路を武田、東海路を松平がそれぞれ進み、その後背を北条家が守る。桶狭間以後、凄まじい勢いで勢力を広げている織田家や、あるいは近畿で猛威を揮う三好家といえど、この進撃を阻止することは出来ないだろう。


 無論、今はすべて絵に描いた餅に過ぎぬ。甲斐と越後の盟約もそうだが、仮に両家が同盟を結んだとしても、上杉家と北条家との間には関東管領の問題が残っているし、武田家と松平家は、これから今川家の処遇や、東海の地を巡って一悶着起きる可能性が捨てきれない。
 そうそう簡単に事は進まないだろう。それは明らかすぎるほどに明らかだった。
 しかし、と俺は思う。
 それを承知してなお挑むだけの価値がある難事であろう、と。



「――ならば、その一歩を踏み込むのは今、この時を措いてないでしょう、兄上」
 にこり、と蕩けるような笑顔を向けられ、俺は進退きわまってしまった。
 晴信に、俺の胸奥の秘策――というか夢想を見抜かれたのは、まあさして驚くことではない。俺のこれまでの言動を見れば、武田家憎しで凝り固まっているわけではないことは瞭然としているだろう。虎綱と晴貞の縁も、この夢想を宿したことと無関係ではない。


 しかし、自分で言うのもなんだが、まだ本当に夢想の域を出ない戦略なのだ。
 はっきりいって、上杉家内部の意見統一も一年や二年では済むまいし、何より輝虎様が肯うかどうかさえわからない。
 実現に移せるのは、五年先か、十年先か。そんな風に考えていた戦略が、信玄の一語でいきなり現実味を帯びてきたことに、俺は戸惑いを覚えた。
 そして、それ以上に、心密かに興奮を覚えていたのである……





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/11 14:43


 湯治とは、端的に言って、温泉に入って傷の治療をすることである。
 そして俺は湯治のためにここにいる。しかるに、来たときよりも疲れ傷ついているのはどうしたことだろう。
 げに不思議なるは甲斐の温泉、人の生気を吸い取るあやかしの湯なるか……
「……遠い目をして、湯に罪をなすりつけないでください」
 心の安寧を保つため、現実から目を背けようとしていた俺を一瞬で正気に引き戻したのは、隣でのんびりと茶をすすっていた黒髪の剣聖殿であった。


 件の信玄の「兄上」発言の後である。
 信玄から親しげに言葉をかけられながらとった食事の味は、正直全然おぼえていない。理由は……察してほしい。
 ともかく、信玄が退出した後、俺は当然のようにその場にいた全員(幸村含む)から質問の嵐を――もとい、詰問の嵐を受け、それはつい先刻まで続いていた。
 ようやく解放され、俺が自分に与えられた部屋で突っ伏していると、そこに秀綱が茶をもってきてくれたのである。
 その気遣いに涙しそうになったのは内緒だ。もっとも、気遣いだけで訪ってくれたわけではないだろう。どのみち、後でこちらか出向かねば、と思っていたからちょうど良かった。


 四国同盟。信玄の口から語られ、俺が心ひそかに暖めていたその策は、秀綱にとって看過できないものであったろう。
 上杉、武田、北条、松平の同盟。それはすなわち、北条家に逐われた関東管領上杉憲政と、上野国箕輪城の長野業正殿をはじめとした関東管領麾下の諸領主の存在を蔑ろにすることだからである――否、もっとはっきりと『裏切り』と称するべきであろう。
 上杉家と北条家が盟約を結ぶためには、関東管領の存在が邪魔になるのは自明の理。
 その上で北条家との締盟を考えていたということは、俺がいずれ関東管領と手を切ることを考えていたことを意味するからである。


 率直に言えば。
 そのこと自体は誤解でもなんでもなく、ただの事実である。俺はこれまで、上杉憲政の存在は邪魔者以外の何者でもないと考えていたし、おそらくは今後もその考えは変わらないだろう。
 権威はあれど柔弱な関東管領山内上杉家と。
 精強にして内治に優れた北条家と。
 いずれと手を組むのが得策であるかなど考えるまでもないだろう。


 だが、それはあくまで俺の考えであって、天道を往く上杉家にとっての答えは異なった。
 天道を奉じず、天道に復るとは幻庵の言葉であったが、それは主家の意向に逆らって好き勝手するという意味ではない。この場合、俺が考えるべきは輝虎様のように誠意をもって関東管領を援けることではなく、どのようにその存在を利用して、関東に上杉の覇権をうち立てるべきかであった。それは結果として、関東における憲政の権威を高めることに繋がるであろう。


 そう考える一方で、やはり憲政さえいなければ、との夢想が件の四国同盟に結実されていたのである。
 とはいえ、俺がひそかに考えているだけならば何の問題もなかったのだが、それが信玄の口から実際に起こりえる未来であると口にされたのは、予想外もいいところであった。
 このことが他国に知られれば、上杉家の信義に関わる問題となってしまう。特に秀綱は、上杉家に協力してくれているとはいえ、長野業正殿の家臣――すなわち関東管領を主君と仰ぐ立場なのだから、心穏やかでいられるはずもないに違いない。


 秀綱のことだから事をわけて説明すれば、四国同盟があくまで俺個人の考えであり、春日山上杉家が憲政に対し、二心をもっていたわけではないことはわかってもらえると思う。
 しかし、事をわけて説明するとなると、俺が関東管領を敵視さえしていることも告げねばならない。俺の本心を秘して弁明したところで、あの澄んだ双眸はたやすく俺の内心を見抜くだろう。
 そうなれば、弁明が弁明でなくなってしまい、より厄介な問題になりかねない。
 ゆえに秀綱との良好な関係に終止符がうたれる可能性が高いとわかっていても、俺は本心を吐露せざるを得なかったのである。


(……まったく、我が妹君は厄介な楔を打ち込んでくれたものだ)
 胸中でため息を吐く俺。
 それゆえに。
「……本当に、羨ましい」
 ぽつりと。
 秀綱がそんな言葉を口にしたのが、俺には意外であった。



◆◆



「羨ましい、ですか?」
 非難か詰問、そのいずれかを予期していた俺は、羨望の言葉を聞いて首を傾げた。
 対して、秀綱はこくりと頷く。腰まで伸びた黒髪が、波打つように揺れた。
「はい。もとより、越後に来てからずっとその思いはあったのですが。先刻の様子を見て、心よりそう思いました」
「先刻の……?」
 俺が信玄に名を授けるに到った詳細を、謙信様と弥太郎、段蔵に問い詰められて白状させられていた。それを見て羨ましいと感じるとは、また面妖な。


 なんとか湯殿での一件はごまかそうとしたのだが、輝虎様相手に嘘いつわりは言えないし、言ったところで見抜かれるに決まっていた。段蔵が傍らにいるのだから尚更だ。
 従って、結局湯殿での一件も一部を除いて白状させられてしまったのである。
 弥太郎は顔を真っ赤にし、幸村は別の意味で顔を真っ赤にし、段蔵は深々とため息を吐き、謙信様は経緯を聞いた後は、なにやら考え込むように無言。
 その後も、何やら空想を逞しくしていた弥太郎が真っ赤になって倒れたり、幸村に果し合いを挑まれたり、段蔵が放つ皮肉の矢を必死になって避けたりと大騒ぎであった。中でも一番怖かったのが、口をへの字に結び、無言で腕組みする謙信様だったりする。秀綱の後は、謙信様に平身低頭しなければならん。


 それはさておき。
 確かにあの時、秀綱は特に何も口にせず、俺たちの様子をじっと見つめていただけだったが、しかしまさか俺を羨んでいるとは思わなかった。
 しかし……どのあたりに羨望する要素があるのか。秀綱も信玄に身体を洗ってもらいたかったのだろうか?
「違います」
 違うようだ。


「――って、別に何も言っていませんが?」
「目は心の鏡といいます。特に天城殿はわかりやすいですし」
「う……」
 俺は咄嗟に秀綱から目をそらしてしまう。いや、決して秀綱と信玄の混浴姿を想像していたわけではないのです、はい。
 そんな俺の様子を見て、くすくすと笑う秀綱。
 俺はますます項垂れるしかない。何と言うか、やはりこの人は苦手――というよりも、敵わないという気にさせられてしまう。
 そんな俺の困惑を見て取ったのか、秀綱は話を先に進める。
 段蔵であれば、ほぼ確実に追撃をかけてくるだろう。このあたりの余裕(?)もまた、俺が秀綱に敵わないと思わせられる理由の一つであった。



 再び口を開いた時、秀綱の表情に微笑はなかったが、その声はどこか優しげに俺の耳に響いた。
「家臣が心から主君に忠節を尽くし、主君は疑うことなくその忠節を受け入れる。それは君臣の在り方として当然であるべきこと。ですが、この戦乱の世にあって、実際にそう在れる君臣はほんの一握りに過ぎません」
 下克上。
 その一字が象徴する、今は戦乱の世。臣が君を弑し、君が臣を逐う時代。
 君臣を問わず、忠節という言葉の上に胡坐をかいていては、自分のみならず、自らの家さえも滅ぼされかねないこの時代、秀綱の言うような君臣の関係は、現実を知らぬ理想であると切り捨てられてもおかしくはなかった。


 だが、秀綱は言う。
 その理想が、目の前にある、と。


「他家の主に名を与え、兄として敬われるあなたを見て、皆、憮然としていましたが……」
 再びくすくすと笑いながら、秀綱は先刻のことを口にする。
 俺が閉口して視線をそらせると、秀綱はなんでもないことのように、次の言葉を口にした。
「――それでも、上杉を去るのかという問いかけは、一度として為されませんでした」
 俺は思わず視線を戻し、秀綱の顔を見つめる。凪いだ湖面のように穏やかで、深みのある眼差しが俺に向けられていた。


 秀綱はゆっくりと言葉を続ける。
「他家の臣を一族扱いするなど、戯れにしても行き過ぎています。まして信玄殿は甲斐源氏の棟梁――その立場の重みを誰よりも理解し、そして誇りとされている御方です。その信玄殿が、天城殿を兄と呼び、あまつさえその意見を等閑(なおざり)にせぬとまで口にされた」
 これは信玄が俺に対し、武田家に相応の席を用意すると言明したに等しく、立派な誘降である――そう考える者は少なくないでしょう。秀綱はそう言うのである。
「にも関わらず、誰一人としてその心配をされていませんでした。段蔵殿はずいぶんと立腹され、きつい物言いになっていましたが、それでもその一事は決して口にはされなかった。疑うとか、信じるとか、そんな言葉さえ使う必要はないくらいに、皆、わかっておられたのですね」


 ――天城颯馬が、上杉を離れるなどありえない。そのことを。


 そう言って俺をみつめる秀綱の眼差しは、本当に優しげで、そしてどこか焦がれるような光があった。
「天城殿たちにとって、それは当然のことなのかもしれません。いえ、当然のことなのでしょう。けれど、他国から見れば、それは羨むしかない君臣の在りようなのです。奇跡に等しいと、私などは思いますよ」
 浮かんだ笑みは、さきほどまでのものとは違い、どこか寂しげに映る。
 報われぬ忠節の念を痛むその顔に、俺は自分がどれだけ恵まれているのか、初めて実感をともなって理解することが出来たように思う。
 おそらく、自分自身のことであれば、秀綱はここまで表情に出すことはなかったであろう。
 落日の関東管領家を支える長野家にあって、随一の武勇を誇る秀綱が誰のために表情を曇らせているのか。あえて確かめる必要を、俺は認めなかった……





◆◆




 その後。
 俺は秀綱に対して四国同盟はあくまで個人の考えであり、これまで一言たりと口外したことはない旨は伝えておいた。
 憲政に関しても、あの御仁を実権から遠ざけられないかを考えたことはあるが、それは関東管領家ならびに長野家を裏切る意図によるものではなく、関東の安寧を保つためにはその方が良いと考えたからだ、とも。
 我ながら言い訳じみた言い方になってしまったと頭を抱える俺に対し、しかし秀綱はあっさりと頷いただけで、追求一つ口にせず、お茶を飲み終えると静かに出て行ってしまったのである。


 そのあまりの呆気なさに、俺は首を傾げることしきりだった。というか何しに来たのだろう、てっきり俺を詰問しに来たのだとばかり思っていたのだが。
 そんなことを考えていると、その夜のこと。
 俺が湯からあがって、部屋で書き物をしているところに、弥太郎と段蔵がやってきた。二人も湯上りらしく、頬は上気したように赤らみ、髪は艶を帯びて灯火を反射している。
 その二人に何気なく昼間のことを訊いてみると、弥太郎はあっさりとこう言った。
「それは大胡様が颯馬様のことを心配していらっしゃったに決まってるじゃないですか」
 何を当然のことを、という感じできょとんと返されてしまった。
「そ、そうなのか?」
「はい。あ、その、でもそれは、すこし私たちのせいでもあるんですけども……」
 もじもじとしながら、弥太郎は申し訳なさそうにこちらを見る。
 件の発言から半日以上、さすがに冷静さを取り戻してくれたようだった。それは大変結構なことなのだが、秀綱がただ俺を心配して来てくれたというのはさすがに違うだろう。
 四国同盟のことに関して、春日山上杉家の真意を質しに来たのは間違いないはず――


「それは主様が勝手に考えていたことだと、大胡様はとうに気づいていらっしゃったのでしょう」
 段蔵が俺の困惑を一蹴する。
 俺は段蔵の言葉を吟味し、考えつつも簡単な言葉に直してみた。
「つまり、真意なんて質す必要もなかったわけか?」
「はい。春日山上杉家の主は輝虎様です。大胡様は輝虎様の為人は良くご存知でいらっしゃる。主様のように他家を蔑ろにするような策謀を秘めるような方ではないと、童子でもわかること。大胡様が察せぬはずがありましょうや」
「……いや、別に蔑ろにしたわけでは」
「おや。関東管領は言うにおよばず、そもそも此度の戦で援けるべき今川家を排除したような案を暖めている方が、どの口でそのような詭弁を弄するのでしょう?」
「……むぐ」
 刃の切っ先を突きつけるにも似た鋭い段蔵の詰問に、俺は一言もなく押し黙る。
 四国同盟に今川家の名前がないこと、すなわちそれは俺が今川家滅亡を既定のこととして考えていたことではないか、と段蔵は言っているのである。




 ……正直なところ。
 今川氏真を助けることと、今川家を援けることは、俺の中で別のこととして認識されている。
 氏真の命を助けることに関しては、松平元康はもちろんのこと、北条氏康も、そして武田信玄も同意している。
 しかし、それは三家が、今川家を存続させることを承知したというわけではなかった。
 ことに実際に侵攻を受けた信玄は、今川家に対して容赦はするまい。それは昨日、信玄自身の口から聞いたことだった。
 信虎の暗躍があったにせよ、今川家が武田家に攻め込んだのは事実であり、その責任は今川家に跳ね返ってくる。すべては信虎の、ひいては武田家のせいだ、などという弁明が通るほど信玄も諸国も甘くない。
 そもそも、信虎の身柄を受け入れたことは、今川家の判断なのである。おそらく義元は、甲斐武田氏との外交の切り札を握るつもりだったのだろう。
 ともあれ、今川家存続の目があるとしたら、他国が駿河を押さえる前に氏真が家中の実権を取り戻す必要があるが、元康の話を聞いたかぎり、氏真が自分の意思を持っているかどうかさえ危うく映るのである。


 だが、実のところそういった状況は四国同盟の件とは関わりがない。
 単純に、俺の知る歴史で今川家が滅びていたから、数に入れていなかっただけである。迂闊なように聞こえるかもしれないが、そこはそれ、はじめから言っているように俺の中では四国同盟はまだ夢想の状態であって、実現に向けて動いているわけではなかった。それゆえ、齟齬が生じるのは当然だったのである。
 ただ、信玄の構想が俺の夢想と一致したということは、信玄が今川家をこのままにしておくつもりはないと考えていることの証左になるであろう。


 だが、まさか段蔵にそこまで言うわけにはいかない。
 そんなわけで、俺は段蔵の物言いに反論することが出来なかったのである。
 俺の逡巡に段蔵がかすかに眉をひそめ、何事か口にしようとした時。
 それに先んじて、なにやら腕組みしていた弥太郎がしみじみと呟いた。
「……わたし、颯馬様にお仕えできて、とても幸せです」
 ――ぐしゃり、と大きな黒い斑点が紙上に刻まれる。ここまで書き連ねていた文章がすべて水泡に帰してしまったのだが、それは些細なことだった。
 目を瞬かせながら、俺は突然の弥太郎の言葉に問いを投げかける。
「どうしたんだ、突然?」
「えと、今までもそう感じてはいたんですけど、大胡様のことを聞いたら、私がとっても恵まれているんだって、急に実感しちゃって」
「ふむ?」
「それで、この気持ちを今のうちに颯馬様にお伝えしないとって思ってッ」


 頬どころか首筋まで真っ赤にそめた弥太郎のあまりに率直な物言いに、俺は弥太郎のように照れることも出来ず、むやみに頭を掻くしかなかった。
 そんな俺たちを見て、横合いから声を発する者がいた。 
「確かに、颯馬様に仕え、ひいては輝虎様にお仕えすることが出来るのですから、大胡様のような苦悩とは無縁でいられます。これは幸せなことでしょう」
 何を思ったか、段蔵までがこんなことを言い出す始末。しかし、段蔵の言葉には弥太郎と違って続きがあった。
「しかし、死にたがりの上に、約定は守らない、考えることは非道、おまけに他家の当主に甘えられて鼻の下を伸ばすような方に仕える苦労を大胡様は知りませんから。その意味では大胡様の方が私たちより幸せであるかもしれません」
「だ、段蔵、それはちょっと……」
「言いすぎだと思うのですか、弥太郎?」
「……あう」
 段蔵に先回りされ、弥太郎は困ったように俯く。それだけで答えを聞いたも同然であった。
 俺は冷や汗をかきながら、ひたすら聞こえない振りをするしかなかった。



 そんな俺を、きつい眼差しで見据えていた段蔵だったが、不意に表情を緩め、小さく嘆息した。
「……まあ、このあたりにしておきましょうか。颯馬様も十分に反省したでしょうし」
「……ええ、それはもう」
 満腔の同意を込めて、俺は深く頷く。
 俺の神妙な顔を見て、段蔵は最後の確認、とばかりに口を開く。
「よいですか。敵将に一騎打ちを挑むなど、将にあるまじきこと。日の本の戦は、唐の戦とは違うのです。その程度のことはわきまえておられると思っていたのですが」
「いや、しかし、あの場ではそうするより他に――」
 俺は反論を口にしようとしたが、段蔵はその隙を与えてくれなかった。というより、下手に反論を口にしたことで、再び段蔵の何かに火をつけてしまったようだ。
 しまった、と思った時には、段蔵の顔が間近にあった。
 湯上りの良い匂いがする、とか考える余裕は一秒の万分の一くらいで脳裏から消え去り、後は朝からの繰り返しが怒涛となって押し寄せてきた。


「そうするより他にない状況を避けるために、私たちが残っていたはずなのですが? その私たちを別の場所に据えたのはどなたでしたでしょうか?」
「……わたくしめにございます」
 畏まってこたえる俺。
 しかし、段蔵の言葉はまだまだ続く。
「真田殿が手傷を負わせてくれていたから、かろうじて命を奪われずに済んだのです。まさか、自分が真っ向から甲斐の狂虎を退けた、などと自惚れてはいらっしゃいませんよね?」
「無論でございます」
「そのお陰で甲斐の主の信を得たとはいえ、これは怪我の功名も良いところ。くわえて見目良い乙女とはいえ、他国の主に甘えられて浮かれるなど言語道断。以後は厳に慎んでいただきます」
「承知仕りましたッ」
「今後、戦の際は必ず私か弥太郎がお傍に控えます。主様に拒否する権利はないと思し召されませ」
「……質問をお許し願いたく」
「なんでしょうか?」
「戦の趨勢によって、どうしても将の数が足りない時はどうすれば?」
「そうならないよう存分に謀って下さいませ。我が主にして、越後の軍師たる方の采配の揮いどころでございましょう」
「……御意」
 もう頷く以外に何一つ出来ない。
 傍らの弥太郎の気遣う視線が一際、胸に染みる俺であった。



 
「そ、そういえば、颯馬様。今、何を書いていらしたんですかッ?!」
 弥太郎がややわざとらしく声をあげたのは、多分、俺を気遣ってのことなのだろう。しかし、その目には少なからず興味の色がたゆたっていた。
 最近、段蔵じきじきの手習いのお陰で、書の方も上達を見せている弥太郎だけに、俺が何を書いていたのか余計に気になったのかもしれない。段蔵も机上の紙に視線を送る。
 もっとも、そこにはさきほど墨をぶちまけてしまった前衛芸術があるだけで、俺が何を書いていたかは、さすがの段蔵でも読み取れないだろう。


 別に隠す必要もなかったので、俺は正直に答えた。
「今後の上杉家が採るべき方策ってところかな」
「方策、ですか?」
「ああ。武田との同盟は、本気で考えるべきだと思うし――って、段蔵、これは昨日の件とは関わりなくだぞ?!」
「わかっています。何を慌てているのですか」
「……いや、あれだけ責められたら、慌てちゃうんじゃないかな……」
「……弥太郎、何かいいましたか?」
「いえいえ、なんにもッ」
 両手をぶんぶんと振る弥太郎であった。


 段蔵が嘆息する。
「話が進みませんね。それで、颯馬様は武田との同盟を皆に諮るつもりなのですか? 信濃の諸将から猛反発を受けるのは確実ですが」
「当然だな。とはいえ、いつまでも武田と矛を交えているわけにもいかないだろう。そろそろ本格的に越後内部のことにも手を着けるべき時期だしな」
 俺の言葉を聞き、弥太郎は首をかしげ、段蔵はかすかに目を見開いた。


 そんな二人に、俺は胸中の方策を語って聞かせる。
「これまでは輝虎様の武威に皆が従うという形で越後はまとまってきた。長尾家であった頃から家政はほとんど変化がない。このまま、今の状況が続くのであれば問題はないんだが、諸国がそれぞれに動き出している今、越後も旧態のままでは遅れをとることになる」
「確かに、北条領内の統治は見事でしたし、武田にしても海を手にいれれば、今以上に国力を伸ばすことは必定。一年、二年はともかく、五年、十年と経てば、国力に大きな差が出ることになるでしょう」
 段蔵の感想に、俺は頷いてみせる。
「だから、動くならば早い方が良い。国づくりは、一朝一夕で出来るものでもないしな」


 国づくりといっても、楽市楽座とか、刀狩りとか、そういった革新的な改革を行おうというのではない。実際に行おうとしても不可能だろう。実力的にという意味ではなく、輝虎様が許可しないだろうからである。
 輝虎様は乱世の平定を志してはいるが、それは織田信長のように旧来の秩序を否定したものではない。
 足利幕府に往時の権勢を取り戻し、尊氏以来の秩序を取り戻すことによって、天下に安寧をもたらす。輝虎様と上杉家は、その考えの下で戦っている。これまでの仕組みを壊すようなやり方を、おそらく輝虎様は受け入れまい。
 俺もまた、そこまでやる必要はないと考えている。
 旧来の形を壊すということは、当然、これまで利益を得ていた者たちを敵にまわすということだ。ただでさえ安定しているとは言い難い越後国内である。国人衆のみならず、民や商人の有力者まで敵にまわすような、動乱の火種をまく必要はないだろう。


「簡単に言えば、北条家の政策の猿真似になるか。あれは良い手本だった」
 俺が言うと、段蔵と、そして弥太郎も深々と頷いた。
 二人とも千代さん改め北条氏康から説明を訊いているのである。
 先刻まで、俺は北条家の諸制度を思い返しつつ、越後にどのように当てはめるかを考え、それを一つ一つ紙に記していた。
 まったく同じことを実施したところで上手くいくはずがない。いつかも考えたように、越後と相模では内治に費やした時と手間が桁違いなのである。
 まずは今の越後で出来ることから始めなければならず、そのためには――などと考えていたところに弥太郎たちがやってきたわけである。



 納得したように弥太郎は何度も頷いていたが、ふと気付いたようにこんな問いを発した。
「でも、なんで紙に書くんですか? 直接お話になれば良いのに」
「……いや、今の状況でそれを言うか、弥太郎?」
「あ……」
 朝からのことを思い出したのか、慌てたように両手で口を塞ぐ弥太郎。
 それを見て、俺は苦笑しつつも別の理由を答えた。
「まあ、直接申し上げられるほどには、まだまとまってなくてな。かといって頭の中で腐らせるのももったいないから、今のうちに記せるところまで記しておこうと思ったんだ。それに、こうしとけば、俺が直接会わなくても、輝虎様に俺の考えを伝えることは出来るだろう」
「な、なるほど、そうですねッ、さすがは颯馬様ッ」
「……いや、そんなおおげさに褒められることではないと思うんだが」
「失言を取り繕うために必死なのです。察してあげなくては」
「段蔵、言っちゃだめッ」


 顔を真っ赤にした弥太郎と、澄ましてそれをからかう段蔵。
 いつか、部屋の空気はいつもと同じ和やかなものに戻っており、形式上は部下である二人の言い合いが、奇妙に耳に心地良い。


 その時。
 不意に、シャリン、と音がした。
 短く、一度。
 まるで何事かを急かすように。


 だが、弥太郎と段蔵の様子に変化はない。 
 俺もまた、変化を悟らせるようなことはしない。
 結局この日、俺の部屋の火は夜遅くまで灯り続けることになる。

  





◆◆◆







 小島弥太郎と、加藤段蔵の二人が、この日のことを思い出すのは、これより数月後。
 天城颯馬の姿が、越後から消え、その部屋から彼女らに宛てた手紙を見つけた日のことであった。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/13 22:36

 冬の一日。めずらしく波穏やかな日本海。
 遠くに佐渡島の島影を見晴かしながら、俺は政景様と共に舟に乗っていた。
 舟といっても、俺一人が手で漕げる小舟で、乗っているのは三人しかいない。
 舳先から順に長尾政景、俺、宇佐美定満の順である。
 政景様に命じられるがままに、舟はずいぶんと沖まで達していた。泳ぎが得手ではない俺にとって、すでに泳いで陸に戻るのは難しい距離となっている。まあ、水練に長じていようとも、冬の日本海を服を着て泳ぐなど、自殺行為以外のなにものでもないだろう……が……



「あの、何か殺気を感じるのは気のせいですか?」
 おそるおそる俺が問いかけると、正面に座っていた政景様が口を開き、そして――
「おほほ、いやですわ、兄上♪ どうして私が兄上に害意を持つなどとお思いですの?」
「………………ぉぇ」
「って、ちょっと待ちなさい! なに、その反応は?! せっかく人が可愛い妹その二を演じてあげたっていうのにッ」
「い、いや、その、ですね。やはり人には向き不向きというものがあるのではないかと思うのですよ……ぅぅ」
「……本気で気持ち悪がってるところが、余計腹立たしいわね、あんた……」
 あまりの違和感にめまいどころか吐き気まで覚えた俺に向かい、政景様がぼそりと呟く。
 いや、だって仕方ないでしょうが。
 あの政景様が『兄上♪』って。
 あの政景様が『兄上♪』って。
 一瞬で全身に鳥肌が立ちましたよッ?!


「……気持ち悪い……」
「って、なんで定満までッ?!」
 俺の後ろから聞こえてくるのは、俺と同じ症状に陥ったと思われる定満の声だった。
 政景様の不満げな叫びは、遠く佐渡まで届くかと思われた。


 

 しばし後。
「と、まあ冗談はさておき」
 平静を装って政景様が俺に向き直る。口の端がひくひく震えているところからも、結構本気で気にしていることが伺えるが、あの悪魔の声を再び耳にしないためにも、俺は全力で政景様から目をそらす。
 気配だけだが、後ろの定満も同様なのだろう。けっこう緊迫した雰囲気が伝わってくるから、多分間違いないと思われる。





 そもそも、どうして俺が政景様たちと舟に乗っているのかというと。
 敵国であった甲斐との交渉、さらには北条家への使い、ひいては今川氏真を傀儡とした武田信虎の排除。
 幾つもの達成困難な目的をもって春日山城を発った俺たちは、しかし、無事に勤めを果たしたと言える。
 無論、まだすべてが終わったわけではない。
 信虎を退けたとはいえ、今川軍はいまだ甲斐侵攻を止めておらず、武田軍と対峙を続けている。三河では松平家が破竹の進撃を続け、三河統一を目前に控えていたが、今川家に従う国人衆らは三河野田城に集結し、決死の抵抗を試みているらしい。同じく今川に従う遠江国人衆が曳馬城からこれを援護しているため、元康も攻めあぐねているとのことだった。


 だが、甲斐南部の戦線へは当初の予定どおり、春日虎綱、北条綱成の軍勢が援軍として向かっている。これに加え、北条軍主力を率いた氏康が相模から駿河に兵を入れれば、今川家は本国を守るために兵を退かざるを得なくなるだろう。
 この報を受ければ、西方の三河、遠江の戦況も好転するものと思われた。
 それゆえ、唯一の不安要素は武田信虎の動向である。輝虎様に片腕を斬り落とされて以後、信虎の行方は杳として知れない。聞けば、武田の陰将山本勘助が動いているとのことだが、この件に関しては信玄も多くを口にしようとはしなかった。
 ただ一言――「彼の者が今川家に戻ることは、もはやないでしょう」と言うにとどまったのである。


 その真意がどこにあるのかはわからない。だが、この期に及んで信玄があの男をかばう理由は見当たらない。信虎という不安要素を排除すれば、今後、戦況が好転していくのはまず間違いない。戦の決着は着いたと見てかまわないだろう。
 それゆえ、俺たちは越後へと帰還することにしたのである。
 ――正直なところ、駿府攻めまでは同道したかったのだが、さすがにこれ以上越後を留守にすることは出来なかった。
 輝虎様や秀綱は言うにおよばず、俺や弥太郎、段蔵も、いまや春日山上杉家にその人ありと知られた将の一。やるべきことはいくらでもあった。それらを肩代わりしているであろうとある人物からの呪詛が、幻聴として聞こえはじめるにいたり、あれ以上武田家に留まり続けるのはいろんな意味で難しかったのである。



 越後に戻るや、俺は春日山城で今回の一件の報告を行い(澄ました顔の輝虎様が神妙に聞き入っているところが微笑ましかった)、南の情勢を事細かに伝えた。すでに書状で一応の報告はしてあったため、さほど長い時はかからずに済んだ。
 一方、俺たちの留守中については、政景様、兼続、定満がうまく立ち回って大した問題は起こらなかったらしい――と思っていたら、上座の方々からこんな言葉が飛んできた。
「まあ、誰かさんたちのお陰で政務を一手に引き受ける羽目になって、あんまりにも量が多いから目の下にくままでつくって頑張ったんだけど、うんうん、そんなことは颯馬たちにしてみれば大した問題とは言えないわよね」
「政景様の仰るとおり。輝虎様不在に乗じようとする不届き者たちに対処するため、夜も昼も緊張を解けずにいた我らの苦労など、敵国に使いした颯馬の苦労とは比べるべくもないのだろう。本当に良くやってくれたな、颯馬」
「……この二人をなだめるのは大変だった」


 にこやかに笑いながら、しかし目に刃の煌きを宿す鬼姫二人。その横に座る定満の顔に、めずらしく疲れが見えた。
 きっと政務を押し付けられて荒れる政景様を必死になだめ、輝虎様不在で寂しさが募りまくっていたであろう兼続を必死に慰めていたのだろう……俺ならきっと倒れているな、うん。


 ――俺は畳に額をこすりつけるように、深く深く頭を下げるのであった。



◆◆



 俺は舟の上で波に揺られながら、政景様に詳細を報告する。
 といっても、公のことはすでに城で話している。政景様が知りたがったのは、それ以外の部分に関してであった。
 たとえば、数日前までいた湯治場での出来事などである。


「――それで、秀綱殿には四国同盟のこと、どう弁明したわけ?」
「弁明といいますか、正直に構想をお話ししました。問題は関東管領という役職ではなく、上杉憲政という人物がその役職にあること。逆に言えば、憲政殿が関東管領職を降りれば、問題のいくつかは解決します。たとえば、嫡子に家督を譲るなどすれば……」
「北条家が遺恨を持っているのは憲政様。その憲政様が当主の座から退けば、話の落とし所は見つけやすいってわけね。もちろん問題はあるにしても」
「御意」
 俺はゆっくりと頷いた。


 俺の知る歴史では、憲政は輝虎様に関東管領職を譲られたわけだが、この地ではどうなるか。憲政の幼い嫡子は存命だし、憲政もまだ老年というほどではない。関東の情勢も随分と異なる。
 里見家は、誰もその姿を知らずと噂されるなぞめいた当主義尭の下、『槍大膳』こと正木時茂らが勇戦して勢力を広げているらしい。他にも佐竹の当主がすでに鬼義重であったりと、俺が知る歴史とは随分と異なっている。まあ、伊達政宗がすでに伊達家の当主であることから、不思議というほどではないのだが。
 ともあれ、越後で安寧をむさぼっている今の憲政の体たらくを見れば、今後、関東管領の威権を復活させんと君子豹変する可能性は皆無(偏見あり)なので、憲政を家督譲渡の方向へ誘導することは不可能ではないだろう。
 当主が代われば政策も変わる。関東管領と北条家が提携する方策も探れるし、そうなれば上杉は関東管領と北条家と、いずれとも手を結べるのである。


「もちろん、そこまではっきりとは申しませんでしたが――」
 秀綱であれば俺の考えはお見通しだろう。困ったように首を傾げていたし。
 それを聞いて、政景様はめずらしく嘆息する。
「業正殿といい、秀綱殿といい、あたら優れた武将だけに、仕え甲斐のない主君をもってしまったことが悔やまれるわね」
 しみじみとした政景様の述懐に、俺はつい頷きそうになる。
 だが。


「同感です、と申し上げたいところですが……」
 かぶりを振った俺を、政景様が怪訝そうに見やる。
 その政景様に向かって、俺は自分の意見を述べた。
「仕え甲斐があるか否かは、その当人しかわからないことです。ただ私見ですが、秀綱殿も、そして多分業正殿も、憲政殿に克目してほしいと思いはしても、憲政殿に仕えたことを悔いてはおられないと思うのです」
 俺のその言葉に、政景様は目を瞬かせる。
 が、不意に何事かに気づいたように、かすかに笑みを浮かべた。
「――なるほど」


 晴景に仕えたかつてのあんたもそうだったわけね。


 政景様の目が優しげにそう問いかけ――俺は深く頭を下げることで、それに応えるのだった。






 しばしの沈黙の後、政景様は気分を切り替えるように、一度、強く手を叩いた。
「さて、じゃあこの話はここまで。次に晴信、じゃない、信玄だっけ。信玄はどう動くつもりなの? 信玄が駿河と氏真をどう扱うか。それ次第で、もう一戦起こる可能性も低くないわよ」
「確かに、仰るとおりです」
 山国である甲斐にとって、豊かな他領を得ることは長年の宿願である。ことに港、海を手に入れることは武田家の悲願といってよい。
 しかし、南の駿河を今川家が、東の相模を北条家が押さえている以上、南と東の海を奪うことは容易ではない。ゆえに武田は両家と同盟を結び、北進を続けた。理由の一つに、越後の海があったことは疑いないだろう。


 だが、信玄は武田、上杉、北条、松平の四国同盟のことを口にした。つまり、わざわざ北の越後を取るまでもなく、南の海を手に入れる目算が立ったのである。上杉との同盟に踏み切れる下地も、そこで形成されたのだろう。
 すなわち、信玄が駿河征服を既定のこととして考えているのは明らかであると政景様は言う。そして俺は、信玄の口からそれが事実であることを聞かされている。
 しかし、これまで傀儡の身であった今川氏真が信玄の駿河制服に抗おうとした場合、問題が生じる。そのことを政景様は指摘しているのである。


「氏真殿が今、どのような状況にあるかは定かではありません。しかし、信虎が姿を消せば、傀儡の立場から解放されることは確かです。そこにいたって、氏真殿が武田と矛を交えようとすれば、状況は予断を許さなくなります」
 もし、氏真が今川家を存続させるために動いた場合、松平元康は今川の側に付く。これは確実である。そして北条氏康も同様だろう。おそらく今川家は河東の地を北条家に割譲することになるだろうが、逆に言えば、その条件さえつければ、北条家は間違いなく今川の側に付く。
 その状況で武田が今川家を滅ぼそうと欲すれば、政景様の言うとおり、新たな戦の呼び水となることは確実であった。


「しかし、その心配は杞憂でしょう」
 あっさりと言い切る俺を見て、政景様は首を傾げた。
「いやに自信たっぷりね。あの晴信――じゃない、信玄が念願の海を前に簡単に思いとどまるとは思えないんだけど」
「……その通りです。しかし、仮に駿河が今川のものとして残ろうと、武田は海を手に入れるのですよ」
 俺の言葉に、政景様の顔に疑問符が浮かぶが、すぐにはっとした顔になる。
「――なるほど、遠州か」
「御意」
 政景様の呟きに、俺ははっきりと頷いてみせた。



「信濃で叛乱が起きて、すでにかなりの時が経っています。信濃に赴いたのは内藤昌秀殿。かつて輝虎様の鋭鋒をかわしきった彼の将であれば、信濃国人衆の叛乱程度、苦もなく鎮めているはずです。しかし、その軍が甲斐に取って返した形跡はありません」
 それは何故か。
 内藤勢が赴くべきは、別の場所であったからだ。
 その場所とは、政景様の口にした通り、遠州――遠江。
「風と謳われた御仁です。躑躅ヶ崎の詳報が伝わった時点で動いていたはず。おそらく、すでに遠江に入っていることでしょう。遠江の今川勢は、西の松平と東の武田、北条の情勢に目を奪われている。北からの急襲に対応できるとは思えません」
 俺の言葉に、政景様が腕組みをしながら、その続きを口にする。
「武田が遠州に入れば、三河の後詰をしている曳馬城の部隊はそちらに向かわざるを得ないわね。そうなれば、後詰がいなくなった三河の今川勢は松平の下に降る、か」
「御意。そして、勝利した元康様は遠江に侵入し、遠江の今川勢は北と西からの挟撃を受けることになります。ただ、おそらく元康様が遠江に入る頃には、戦は終わっていると思いますが」


 先の『遠州錯乱』の影響で、遠江では今川家の支配に否定的な者たちが多い。彼らは、格下であった三河衆の一城主である元康の下につくことに抵抗はあるだろうが、甲斐源氏の棟梁である武田家の侵攻を受ければ、長く抗おうとはしないだろう。
 内治に優れた手腕を発揮する昌秀がそれに気付かないはずはない。おそらく、遠江は瞬く間に武田勢力に飲み込まれることになるであろう。


 遠江は、駿河ほどではないにしても十分に肥沃な土地であり、良港も多い。曳馬城などは西に浜名湖を、東に天竜川を有する水の恵みが豊かな城で、統治者次第で駿府に優る活況を呈することも可能であろう。
 氏真にしても駿河を安堵されれば、それ以上のことは言えまい。松平は三河を。北条は富士川以東の地を得るであろうから、これも同様である。すなわち、武田の遠江支配を否定する勢力はいないということであった。


 そもそも今回の戦の発端が信虎の暗躍にあるとはいえ、戦の責任、その全てを武田家が負わねばならない理由にはならない。
 くわえて言えば、先の乱で信虎が駿河に逃げた折、義元がそれを受け入れた理由の中に、甲斐との外交の切り札を握る思惑があったことは間違いないと思われる。
 その結果として信虎の跳梁を許し、桶狭間の敗北を喫したこと。新たな当主が傀儡とされ、家中の実権を握られたこと。さらにはその命じるがままに、甲斐へと侵攻してきたこと。今川家がこれらの責任を、武田家にありと主張するならば、それは戦乱の世にあって甘ったるいとさえ評し得る見当違いの非難と言える。


 そんなことを考えながら、なおも俺は言葉を続けた。
「無論、遠江を得たからといって、駿河が要らぬというわけではありますまい。しかし海が手に入れば、松平と北条に挟撃を受けかねない危険な賭けをする必要はなくなります。そのような事態になれば、北から我らの侵攻を受ける可能性も低くはありませんし、信玄様はそのことを承知しておられるかと存じます」
 俺がそう言うと、政景様が不意に表情を変えた。
 にやりと(にこりと、ではない)笑って、こう言いやがったのである。


「あら~、さすがに妹のこととなると必死だわね――兄上?」


 ぐふ、と変な声が俺の口からもれた。
 それでも、先刻からいかにもわざとらしく『信玄』の名を強調していたことから、いずれはこう来ると読んでいた俺は、平静を装って応えた。
「……冷静にして偏りのない情報の分析と、それをもとにした見解でござる。他意はござらん」
「はいはい、まあそれはそれとして」
 自分から水を向けておきながら、あっさりと流す政景様。じゃあ言うな、と思ってしまった俺は、きっと悪くない。


 政景様の表情がかすかに翳る。
「問題は、氏真がどんな状況にあるのか、ということね」
「……はい。氏真殿が信虎の傀儡となってから今日まで――」
 正気を保っているのなら。そう言おうとして、俺は咄嗟に口をつぐんだ。
「いえ、信虎がいなくなったことで、ご自分を取り戻されていれば、今川の名跡は保たれましょうが……」
 元々、元康は氏真を救うべく越後までやってきたのだし、上杉家が動いたのも、その元康の請いに応じてのことだった。戦に勝っても、氏真が死んでしまえば俺たちの奔走も意味をなさなくなってしまう。
 元康はもちろん、氏康も、そして信玄も、今、今川家と戦っている者たちの中で、積極的に氏真の身命を縮めようとする者は存在しない。ゆえに注意を払うべきは信虎の残党と、それ以上に信虎の頸木から解き放たれた今川家中の暴走である。
 これを未然に防ぐためには、可能なかぎり速やかに駿府城を制圧するしかないのだが、越後にいる俺たちに出来ることはほとんどない。信玄や元康、氏康らの武運と、氏真の無事を願うことくらいであろう。





 不意に、羽音と共に一羽の海鳥が舳先に舞い降りてきた。
 逃げるでもなく、きょろきょろと海面と、俺たちを交互に見て、しばらくすると、また羽を羽ばたかせて空に舞い上がっていった。向かっていく先には海鳥の群れがいる。どうやら短い迷子であったらしい。
 この闖入者によって、舟上の沈黙が終わりを告げた。
 政景様は、海鳥が飛び去った方向に視線を注ぎながら、小さく呟いた。
「――駿河は遠い。あんたの妹を信じるしかないわね」
「御意。手紙でも書いて送った方が良いですかね」
 暗い空気を嫌った俺が、そう言ってややわざとらしく笑うと、政景様は小さく肩をすくめてみせたのだった。




◆◆




「――さて」
 そろそろ良いか、と考えた俺は、政景様と、そして先刻から黙って俺たちの会話に耳を傾けている定満に向けて問いかけた。
「このようなことを聞くために、わざわざ舟を出したわけではないのでしょう。本題をお聞きしてもよろしいですか、お二方?」
「あら、なんのことか――」
「『なんのことかしら兄上♪』とか言うつもりなら、舟ひっくりかえします」
 ち、と短い舌打ちの音がする。ほんとに言うつもりだったんか、あんた。


「……政景様?」
 俺が押し殺した声で名前を呼ぶと、政景様は降参とでも言うように軽く両手を挙げ――肝心の『本題』を口にした。


 それを聞いた俺は、思わず目を瞬かせ、首を傾げる。
「……冗談、というわけではないんですよね」
「あいにくと、舟を出して、海まで来て冗談を言うほど暇じゃないのよね」
 そう言う政景様の顔は、俺の戸惑いを見て取って、少し愉しげではあったが、虚偽を口にしているようには見えなかった。
 俺は確認の意味も兼ねて、政景様の口から出た一つの単語を口にする。
「……筑前守?」
 俺の言葉を、政景様はあっさりと首肯し、もう一度本題を口にした。
 すなわち――
「そ。それがあんたが授かる官職ってわけ。ついでに言えば、京の許可もある正式なものよ、天城筑前守颯馬殿」




 俺はいっそ静かに口を開く。
「……たしか、筑前守って従五位下にあたると思ったんですが」
 京都で兼続に叩き込まれた知識の中から、官位と官職の関係を思い出しつつ、俺が問うと、政景はあっさりと頷いた。
「ええ、そのとおりね」
「……その任官を朝廷が認めたと仰いましたか?」
「ええ、そう言ったわ」
「……政景様にではなく、俺に、ですよね?」
 くどいくらいの問いかけであったが、三度政景様の首が縦に振られた。


 政景様の様子を見て、それが嘘偽りのない事実であることを悟った俺は、ぽかんと口を開ける。
 それはそうだろう。現在、輝虎様の官位が正五位下、官職が弾正少弼である。従五位下といえば、そのわずか二つ下である。
 しかも、五位以上の官位を持つ者は昇殿を許される、いわゆる貴族に相当する。俺のように若く、門地もなく、しかも氏素性の知れない人間が任官を許されるなど本来なら決してありえないことであった。
 ただ、一つだけそれを可能にする手立てがないわけではないのだが、いや、しかし……


「……いくら朝廷に献金したら、こんな奏上が認められるんです?」
 献金で官位を得るのは決してめずらしくはないが、ここまで異例なことを押し通すとあらば、尋常でない金額が必要になるのではないか。
 おそるおそる問うた俺に、政景様はあっさりと答えた。
「上杉の金蔵が半分くらい空になったわね」
「ちょっと待てィッ?!」
 思わず叫ぶ俺。
「――というのは冗談だけど」
 澄ましてこたえる政景様。
「おいこらッ?!」
「まあ、話半分だと思っておけば良いわよ」
「それでも十分おかしいんですけどッ?!」
 遠く春日山城に届けとばかりに、俺は大きく叫んだ。
 叫ばざるを得なかった。



 これから、越後国内を整備していく上で金がいくらあっても足りないこの時期に、よりによって献金で官位を得るとは。それも輝虎様や政景様ならばともかく、俺のためとか、本気で意味がわからん。
 おそらく先の上洛で上杉家が培った人脈を駆使し、佐渡の黄金を惜しげもなく注ぎ込んだのだろう。そうでもなければ、こんな無茶な奏上が通るはずもない。
 京での細工も含めて、一日二日で出来ることではない。おそらく、俺たちが甲斐に赴いた時から――否、それよりも前から動いていたのではないか。
 それ自体はありがたいことではある。俺の功績に報いるという意味もあるのだろう。だが、官位を得たところで権威や箔付けにはなっても、実質的な益は無いに等しい。
 この人事に費やした金があれば、どれだけ国づくりが進んだことか。それを考え、俺が声を荒げかけた時だった。


「……これはご褒美だけど、ご褒美じゃない」
 その声は、後方から聞こえてきた。
 定満の落ち着いた声音は、混乱しかけていた俺の心を、すっと軽くしてくれた。まあ、それでもまだ落ち着くには程遠いのだが、他人の話に耳を傾ける程度の余裕は出来た。
 その俺に対し、定満はのんびりと話を続ける。
「颯馬も、そろそろ腰を落ち着けてもらわないといけないから」
「そのための官位ですか? けど、越後を出るつもりなんて俺には微塵もありません」
 あるいは、武田家へ赴くと疑われているのだろうか。
 そんな俺の心中を読み取ったのだろう。政景様はあっさりと否定した。
「んなわけないでしょう。あんたが上杉から……というか、輝虎から離れようとするはずないんだから」
「う、ま、まあそのとおりなんですが。けど、じゃあなんで今この時に官位なんて授かったんですか。これから内政の基盤を整えていく上で、金はいくらあっても足りないというのに」
 心底不思議に思って問いかける。すると、政景様は思いのほか真剣な顔で答えを口にした。



「単刀直入に言って、あんたに恩を着せるためよ」
「は? あ、いや、それは俺などのためにここまでしてくださったことは、ありがたいと思ってますが」
「しかも、それをしたのは上杉の金。あんたが考えたとおり、内政に使えばたくさんの実りをもたらしたはずの金よ。つまりは、あんたのために、越後の人たちの大切な金が使われたわけ。あんた一人のために、ね」
 その言葉には、さすがに俺も憮然としてしまった。
「……そうしてくれと頼んだ覚えはないんですが」
「そう。考えたのはあたし、実行したのは定満。正直、輝虎も事後承諾よ。あんたが責任を感じる理由なんてどこにもないけれど――」


 でも、あんたは恩に着る。
 あたしではなく、越後の国と、民に対して。


 政景様は苦笑ともとれる笑みを浮かべつつ、そう俺に告げた。
「ついでに言えば、重荷に思うでしょ。いつか返さないといけない借りが出来たってね。こうしておけば、義理堅いあんたのことだもの、越後を離れることは出来ないでしょ。ううん、たとえ、離れざるを得なくなったとしても、いつかは帰って来る――少なくとも、そう努めるでしょ。これは、そのための楔よ」


 そういうと越後守護代長尾政景は、さあ、反論があったら言ってごらん、と言わんばかりに胸をそらして俺を見据えるのだった。


◆◆


 政景様が何を目的として、今回の任官を画策したかはわかった。だが、やはりわからない。何故――
「何故、俺のためにここまでしたんですか」
 確かに、大きな楔である。ちょっとやそっとでは引き抜くことは出来ないほどに。それは認めるが、しかしこれは明らかにやりすぎである。俺の輝虎様への忠誠は措くにしても、俺という人材にここまでして引きとめるほどの価値があるとは到底――
 と、そこまで考えたとき、不意に定満が囃し歌の一節を口ずさんだ。
「今正成に股肱あり、鬼の小島に飛び加藤」
「瑞雲たなびく春日山、越後の竜が飛ぶは今」
 定満に続いて、政景様も同じような一節を口にする。
 そうして、俺を見る政景様の目は、こちらが怯んでしまいそうなほど真摯な光に満ちたものであった。


「その智勇をもって上杉輝虎、武田晴信と伍し、小島貞興と加藤段蔵という忠勇無双の臣下を得て、国民が主君と並び称するほどの衆望を得た。その智勇、その人望、その名声、いずれもただものではありえない。自覚しなさい、天城颯馬。あなたの身に備わった力は、もはや一臣下としては大きすぎるほどなのだ、と」 
 政景様の言葉に、俺はただ聞き入ることしか出来ぬ。
「そんな人間を、今のままにしておくわけにはいかない。輝虎ならば、信の一字で済ませてしまうでしょうけど、越後守護代として、あたしはそれでは済まさない。今回の晴信の話は、まあ悪戯で済ますことが出来るとしても、これから先、あんたが越後を出ていかざるを得ない時が来ないとは限らないわ。あんた自身が望まないとしても、周囲があんたを除こうとするかもしれない。あるいはあんたの存在が、輝虎のためにならない状況が訪れるかもしれない」


『もし、そんな時が来たとしたら』
 政景様は笑いもせずにあっさりという。
『あんたは、越後を出ていこうとするでしょう』と。


「繰り返すけど、越後守護代として、あたしはそんなことを許すわけにはいかない。許すには、あんたは少し大きくなりすぎてしまったわ。他国に渡れば越後を覆してしまいかねない、そんな奴に楔を打っておくのは当然のことでしょう」
 この際、俺の心情は関係ない、と政景様は言う。
 問題なのは、するかしないかではなく、出来るか出来ないかなのだと。
 それでもなお、俺がこの国を出ていこうとするのなら――


 意味ありげに言葉を切った政景様に向け、俺は恐る恐る問いかける。
「出て行こうとするのなら……?」
「ずんばらりん、よ」
 そう言うや、いつのまにか俺の近くまでにじり寄っていた政景様の手刀が、俺の額を柔らかく叩いてきた。
 思わず目を瞑ってしまった俺の耳に、すぐ近くから政景様の笑い声が響いてくる。
 知らずため息が出た。
「ずんばらりん、ですか」
「そ、ずんばらりん」
 澄ました顔で繰り返す政景様に、俺は苦笑しつつ言った。
「なら、意地でもこの国に留まらないといけませんね」
「そ、意地でも留まりなさい」
 そう言った後、付け加えるように政景様が口にした言葉は、おそらく何気なく口にしただけのものだったのだろう。
 しかし、はからずもその言葉は、それから数年にわたって、俺の胸をたゆたうことになる。



 ――それでも、もしどうしても、この国を離れなければいけなくなったのなら。
 ――その時は、意地でも、帰ってきなさい。






[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/17 21:41

 従五位下、天城筑前守颯馬。
 俺がこの名乗りを許されたことを知った人たちの多くは、俺のことを心底羨ましがった。幕府や朝廷の権威が低下しているとはいえ、それでもその存在は、いまだ人々の心に根付いているのである。
 そして新たな官位、官職を得た俺の上杉家中での立場はがらりと変化した。
 これまでの俺は、先代晴景様の忠臣にして輝虎様の軍師、というように周囲から目されていたが、具体的な地位や領地を授けられたわけではなく、上杉家中の序列の外に佇む、ある意味で気楽な立場であったといえる。
 だが、従五位下といえば、筆頭家老の兼続と同等の官位である。その身にかかる重責は並大抵のものではない。どのくらい大変かといえば――
「つまり、私と同程度の働きくらいは期待しても良いということだな、筑前殿?」
 そう言ってにこにこと笑う兼続に、朝から晩までこき使われるくらいには、大変な地位職責であったのだ――俺に嫉視や反感の視線を向ける人たちよ、代わりたいなら代わってやるぞ、いや本気で。
 床について二刻も経たないうちに日が昇るという生活を、何十日も過ごしてみるが良いッ。



「で、気付けば春の足音が聞こえてくる季節になっているわけで」
「なんだ、やぶからぼうに?」
 俺の呟きに、兼続が怪訝そうな視線を向けてくる。俺は小さくかぶりをふってなんでもない旨を告げ、春日山城の軍議の間に広げられた地図に視線を落とした。
 もっとも軍議はつい先刻終わり、今、この場にいるのは俺と兼続だけである。あたりには先ほどまでの軍議の熱気が、まだたゆたっているように感じられる。今回の軍議の内容は、文字通り、今後の上杉家を左右する内容であったから、それも当然といえば当然であった。


「武田家との盟約、か。まさか、春が来る前にここまで具体的に話を詰めるとは思っていなかったぞ」
 兼続が半ば呆れたように俺に言う。
 俺は肩をすくめて、兼続に返答した。
「のんびりしていられるほど、諸国の情勢は穏やかではないでしょう。やれることは、やっておかなければ」
 そう言う俺の頬は、冬の間に、幾度も甲斐と越後を往復した無茶な旅程によって幾分やつれて見えたかもしれない。弥太郎と段蔵からは「傷もなおりきっていないのに」としばしばお説教されてしまった。
 そういえば、甲斐で再会した虎綱や晴貞にも心配をかけてしまったなあ。


 とはいえ、これは致し方ないことである。なにせ、甲斐と越後――というより、信玄と輝虎様をを橋渡しできる者など、そこらにいるわけがないのだから。俺がその一人である、と自称するのも相当に気恥ずかしいのだが、武田の六将のみならず当主とも面識があるというのは、十分な利点といえる。
 まあ、行けば行ったで、信玄にからかわれ、幸村からはきつくあたられ、疲労困憊になったところを虎綱や晴貞に慰められるという――あれ、あんまり大変じゃないような?


 それはともかく、幸いにも官位という箔付けが出来たので、俺のような若造が使者にたっても、他の武田家の重臣たちに侮られるようなことはなかった。まあ、一部からは呪いじみた殺意を向けられたりしたが。主に晴貞の後ろの方とかから。しかしまあ、気にしなければ、気にならない。精神論万歳、である。



 武田は武田で先の動乱の後始末で大変な状況であった。
 結局、駿河は富士川以東を北条が、以西を武田が治めることになった。
 無論、そこに到るまでには幾つもの問題が存在した。今川家当主氏真は、命こそ助かったものの、他者を拒絶し、信玄や氏康はもとより、駿府に駆けつけた元康にも逢おうとはしなかったそうだ。
 駿府城に入った信玄と氏康の命により、刃物の類は一切周囲から取り除かれていたため、自害は出来ずにいたが、身心ともに深く傷つけられていた氏真は、家臣も近づけず、食をも断ってしまった。
 長きに渡る陵辱で弱りきった身体で、食を断ってしまえば死は手の届くところにやってくる。これまで、氏真が生き抜いてこられたのは、信虎には屈すまいとする意地であったのかもしれない。あるいは、今川家当主としての誇りか。
 だが、その相手が消え、今川家が存立しえなくなった今、氏真は死をもって忌まわしい記憶を葬り去ろうとしたのだろう。事実、そのままの状況が続けば、氏真の死はたやすく現実のものとなっていたであろう。


 だが、現実はそうならなかった。死神の手が氏真の身命に向けて伸ばされようとした時、その手を毅然と払いのけた者がいたのである。
 傷つき、壊れかけていた氏真の身体と心をすくいあげた人物。その名を冨樫晴貞といった。


 武田家の静林の将、春日虎綱は甲斐南部において山県、馬場らと共に今川軍を国外にたたき出した時点で、ひそかに晴貞を陣中に招き入れていた。
 と、言うよりも、晴貞の方から陣中に出向いたという方が正解らしい。今川氏真の境遇を聞き知っていた晴貞が、何かの役に立てればと従軍を志願したのだ。
 言うに忍びないことだが、晴貞もまた、かつては氏真と似たような境遇にあった身である。あるいは日の本すべてを見回しても、これ以上の適任はいなかったかもしれない。



 俺は、知らずため息を吐いていた。
「――奇妙な縁ですね。加賀の国主であった方が、甲斐の国で掛人(かかりゅうど)となり、駿河の国主を死の淵からすくいあげるとは」
 俺の呟きに、兼続が頷いてみせる。もっとも、こちらは若干苦笑気味だったが。
「ああ、そうだな。だが、それ以前に一国の主が国を抜け出し、あまつさえそのまま出奔して他国の世話になる方がよほどありえないことなんだぞ。どこかの誰かさんが謀らなければ、晴貞様が甲斐にいるということ自体、決してなかっただろうさ」
「う、ま、まあ、言われてみればその通りですね」
 確かに、本人の了承を得た上でのこととはいえ、俺が画策しなければ、晴貞が国を出ることはなかったであろう。知らないうちに、俺は奇妙な縁の一端を担っていたようであった。
 兼続が続けて言葉を発する。
「とはいえ、その後の晴貞様の成長は晴貞様ご自身の練磨の賜物。間違っても自分のお陰だなどと自惚れるなよ、筑前殿?」
「言われるまでもありません」
 俺は肩をすくめてそう言った。そんなこと、かけらも思うわけはないのである。


 晴貞の介護の下、少しずつ回復の兆しを見せ始めた氏真であったが、駿河国内にいては、またいつ陰謀の贄に供されるか知れたものではない。そのため、信玄は氏康や元康とはかった上で、氏真を甲斐の国内に招き入れた。甲斐の山野と秘湯が、氏真の傷ついた心身を癒してくれることを願ってのことであった。
 実のところ、その場所がどこなのかは、俺も知らない。甲斐に赴いた時も、氏真の姿は一度として見かけなかったし、虎綱や晴貞、信玄もその話題をあえて口にしようとはしなかった。
 それに、氏真にあったところでかけるべき言葉を、俺は見つけられない。今の氏真に、命が失わずに済んだことを寿ぐことほど残酷なことはないだろう。
 いつか時が氏真の傷を癒し、そして俺との縁が巡り来る日を待つことくらいしか、俺に出来ることはなかったのである。


◆◆


 上洛を志し、京にまで名を轟かせた東海地方の覇者、今川家。
 その滅亡は、瞬く間に東国の諸国に伝えられ、人々は驚愕に声を失うことになる。
 その旧領は武田、北条、松平に分割される結果となり、これによって東国の勢力図は大きく様変わりする。ことに武田家の躍進と、松平家の台頭は特筆に価するもので、今後の諸国の情勢にも少なからぬ影響を及ぼすであろうと思われ、各国は対応と情報の収集に躍起になることとなる。


 当然、それは上杉家も同様であった。
 武田、北条、松平とは協力関係にあったとはいえ、それがあくまで一時的なものであったことは誰もが理解している。武田家、あるいは北条家を敵視する者の中には、むしろ一時的なものにしてしまおうと画策する者さえおり、彼らを抑えるために、俺と兼続は奔走を余儀なくされた。
 ただ、そこまでいかずとも、境を接する他国が強大化していく昨今の情勢を見て、上杉家もそれにならうべきだと考える者たちは決して少なくなかったのである。


 越中侵攻が考案されたのは、そういった情勢を受けてのことであった。
 かつて、越中が長尾家の領土であったこと、そして輝虎様の父が、彼の地での戦傷がもとで他界されたことは事実である。これを討つことは、決して不義にはあたらない。くわえて、北陸は、上杉家が上洛するために押さえておかなければならない土地でもあった。
 こういったことを述べ立てて越中侵攻を唱える者たちと、俺は先刻の軍議で盛大にやりあった。
 越中へ踏み込むのは時期尚早。少なくとも――
「少なくとも二年、出来れば三年は内政に専念すべき、か」
 兼続の言葉は、先の軍議で俺が主張したものであった。
「はい。今回は兵を動かさずに済みましたが、その以前は越後の兵は、京、信濃、関東と遠征続きです。その上、国主が幾度も代わり、国内も安定しているとは言い難い今の情勢で、他国に手を出すなど無謀というものでしょう」


 上杉家は、北条家、武田家と比べて国力の蓄積が少ない――これは晴景様時代の負の遺産でもあるから、俺も他人事のように論評できないのだが、ともあれ国力の蓄積なくして戦を起こせば、たとえ戦に勝てたとしても、勝ち取った領土を長く治めることはできないだろう。
 北条家については幾度も述べてきた。躑躅ヶ崎の乱で大打撃を被った武田家にしても、信玄が国主となって以後、信濃に兵を出す一方で着実に国力を高め、内政の基盤を整えていったのである。
 武田家が内政と外征を平行して行うことが出来たのは、皮肉にも躑躅ヶ崎の乱によって甲斐国内の国人衆の力が激減し、結果として信玄の威光が良く行き届いたからであった。


 当然、今の越後国内は、当時の甲斐のような状況ではない。
 今この時、上杉家が時と金を費やすべきは外に対してではなく、内に向けてである。それは数年の後、かならず上杉家にとって大いなる益となるであろう。


「それに今の段階で越中に踏み込めば、まずまちがいなく一向宗、本願寺との戦になります。これは、正直なところ避けたい」
 この部分は軍議では言わなかったことなので、兼続は怪訝そうな顔を見せた。
「今の段階で、というが、越中に限らず北陸は元々一向宗の勢力が強いところだ。いつ何時、攻め込もうと、彼らとの対立は避けられないと思うが」
「そのとおりです。彼らの厄介なところは、国人衆のみならず、領民の深いところまで宗教が浸透しているということ。たとえ戦で勝ちを収めても、遠からず一揆を起こされて、また兵を出すことを余儀なくされる。ならば、はじめから手に入れようとしなければ良い。持たざることは、時に持つことに優るのです」


 無論、それではいつまで経っても上洛路がふさがれたままになってしまう。
 北陸を制するにおいて、肝要なことは本願寺の有力者と、末端の信徒、すなわち領民とを分断することである。
 そのためにどうするべきか。
 俺の理解では、一向宗とは念仏を唱えることで極楽浄土に往けるという教え(あくまで俺の理解では、である)であり、事実、一向一揆の軍勢は「進者往生極楽 退者無間地獄」「南無阿弥陀仏」の旗を掲げながら、死を恐れずに突き進んでくると聞く。たとえ戦で死んだとて、その後に極楽にいけるのならば、死を恐れる理由など何もない、ということなのだろう。


 また、極楽に行くためにはただ念仏を唱えればよいとする一向宗の教えは、土地の支配者にとっては厄介なものであった。指導者たちは領主の権力を恐れず、信徒らは領主に収める年貢を削っても、寺社への進物は欠かさない。それをとがめれば一揆の軍勢が死を恐れずに向かって来るのだ。これを厄介と言わずして、何と言えば良いのだろう。
 晴景様の先代である為景が一向宗と対立した背景には、こういった事情も存在したのであろう。


 輝虎様が父の轍を踏む必要はない。
 宗教と民衆を切り離すのは、ここまで教えが広がった今、ほぼ不可能であろうし、切り離す必要もない。
 そもそも、念仏を唱えれば極楽に往けるという教えが広く深く受け入れられた理由の一端は、現世における生が、苦しく、辛いものであるからであろう。
 飢饉に疫病、重税に戦、関所に遮られて他国に赴くこともままならず、ただ貧しい土地を耕して生きていくしかない。そんな一生であれば、来世に望みを託したくなるのは当然といえる。


 ならば、その生をより良いものとすることが出来れば――今の世を平穏に生きる場所があるのならば、生に窮して一揆へとはしる者たちの数は減じるであろう。
 無論、それで全てが解決するわけではないが、宗教家ならざる俺が、宗教勢力と矛を交えるためにとれる策は、このくらいしかなかった。
「そのためにも、今は内治に務めるべきかと。最終的には、北条の年貢率である四公六民を、越後でも実現させたい。その政策が、確かな成果として越中へと伝われば、貧困にあえぐ者たちは招かずとも越後へやってくるでしょう――その時が、越中侵攻の機。これに先んじての侵攻は、かえって多くの損耗を招きかねません」


 俺の話を黙って聞いていた兼続が、不意に小さく笑った。
 怪訝に思って眉をひそめると、兼続は「すまない」と言ってから、どこか穏やかな視線を俺に向けてくる。
「指摘すべきところは幾つもあるが、言わんとするところは理解できるな」
「むう……及第点ぎりぎりというところですか?」
「目的に到るための施策が付記されていれば、さらに評価はあがったのだがな」
「それは部屋に置いてきてしまいました」
 それを聞いた兼続が驚いたように目を丸くした。
「ずいぶんと用意がいいな?」
「政務に関しては生きた見本が目の前にいらっしゃいますので。その方を真似てみました」
「おだてても評価はあがらんぞ」
「それは残念」
 そんな言葉をかわしながら、俺たちは軍議の間を出る。


 春日山城の通路を、兼続と並んで歩く。北国の寒気はいまだ厳しいが、それでも外の景色を見れば、近づく春の息吹がそこかしこに感じ取れる。
 曲がり角に突き当たり、俺と兼続はそこで別れる。兼続は輝虎様のもとに。俺は、この後、村上義清のところに行く予定である。信濃の諸将を抑えるために、義清には何かと協力してもらっているのだ。
 そして、俺が兼続に頭を下げ、背を向けて少し後。
 俺の背に向け、兼続の声が聞こえてきた。
「颯馬」
「は?」
 久々に筑前殿ではなく、颯馬と呼ばれたことに驚きながらも、俺が後ろを振り返ると、兼続が感慨深げな眼差しで俺を見つめていた。


「柿崎討死の報を聞き、晴景様の臣としてお前の名を知って、もうじき二年になるか。与坂城で相対したときは、まさかここまでの長い付き合いになるとは考えてもいなかったが……」
 兼続の言葉に、俺は我が事ながら驚きを禁じ得なかった。もう、そんなに時が経ったのか、と。
 兼続はさらに言葉を続けた。
「今の春日山上杉家があるは、無論、輝虎様の勲が第一だ。だが、輝虎様がお前の力を必要とされてきたこと、そしてお前がその期待に応え続けてきたことも、否定できない事実なんだ。腹立たしいことではあるが、それはこれからもかわらないだろう。輝虎様の期待にそむくような真似はしてくれるなよ」



 俺はいささか芝居がかった仕草で深々と頭を下げた。
「――御意にございます。輝虎様と、そして兼続殿の期待に背かぬよう、懸命に努めることを、ここにお誓いいたしましょう」
 予期せぬ俺の反応に、兼続は目を丸くした後、すぐに烈火のごとき形相で食って掛かってきた。
「い、いつ私がお前に期待しているなどと言ったか! 輝虎様の期待にそむくなといっただけだ。私個人としては、貴様に期待などしていない。自惚れるな、馬鹿者!」
 その兼続の激昂を俺はあっさりと受け流す――決して、筑前殿と呼ばれ続けてきた意趣返しではない。
「はっは、照れ屋の筆頭家老様のために、そういうことにしておきましょうか」
「……なるほど。要するにそのそっ首、この場で引き抜いてくれという申し出だと解釈してかまわんな?」
「と、言いつつ頬の赤さを隠し切れない兼続殿であった」
「――きさ、まッ! そこに直れ、颯馬ッ!!」
「承知。しかし、そろそろ輝虎様が待ちくたびれておられるのでは?」
 繰り返すが、決してこれまでの報復などではないのであしからず。
「ぐ、ぬッ……よし、ではこの話は後日、決着をつけるぞ。それで良いな!」
 そう言うや、兼続は俺の返答も待たずに足音荒く、背を向けて立ち去ってしまう。
 俺はその背に向けて、もう一度、頭を下げた。さきほどよりも深く。





◆◆◆





 それから、さらに少しの時が経つ。





 春日山の山中に足を踏み入れた俺は、視界の開けた高台の上に立っていた。
 視界に映るのは、春日山城と府内の街並み、その先にある透き通るような青さを湛える日本海。遠く、佐渡島の島影らしきものも見て取れた。
 城や街並みはまったく異なるにも関わらず、眼前の景色は、俺がやってきた時代のそれと酷似してるように思えた。
 まだ日も出ていない早朝から、険しい山路を登ってきたのだが、息は乱れておらず、疲れもほとんど感じていない。この地にやってきてからこちら、ずいぶんと体力がついたものだ、と俺は小さく肩をすくめ、ほっとため息を吐く。


 ――そろそろ、限界だった。


 今なお、遠くに聞こえる鈴の音が何を意味するのか。それを知りつつも『意地でも』留まり続けてきたのだが、さすがにこれ以上の猶予は許されないようだ。
 いや、誰に許されないのかは、正直、よくわからんのだが。
 しかし、そもそもどうしてこの地に来たのかもよくわからんのだから、今さらそれを不思議に思っても詮無いことなのかもしれない。最近ではそう考えることにしていた。


 手に持った酒を杯に満たす。といっても、自分で飲むためではない。
 晴景様の祥月命日まで、あと一月。今日は月忌――月こそ違え、晴景様が亡くなられた日と同じ日である。
 これは、今は亡き主君に捧げる弔いの杯であった。
 そして――しばしの別れを告げる惜別の杯でもあった。




「颯馬」
 その声が背後から聞こえてきた時、俺は不思議と驚かなかった。
 必要なとき、必要な場所に居ることが出来る才は、戦場に限った話ではない。その程度のことを知らずにいるような、浅い仕え方をしてきたわけではなかったから。
「輝虎様」
 振り返ると、そこには思ったとおり、黒髪を靡かせた主君の姿があった。
 最近、またとみに綺麗になられたような気がする。おかげで、向かい合うと非常に落ち着かない気持ちになってしまって困ったもんである。頬を赤くして主君と対する俺は、周りの目にどう映っているのやら。



 俺がそんなことを考えていると、輝虎様はどこか辛そうな顔で、ゆっくりと口を開く。
「――すまぬ。今日まで越後のために尽くしてくれたそなたに、私はその半分も報いてやることが出来ていない」
 その言葉を聞けば、輝虎様が核心を察しているのは明らかだった。
 言うまでも無いが、俺は輝虎様に何一つ告げていない。自分が消えるかもしれないなどと言えるはずもない。
 だが、輝虎様は俺の仕草やら素振りやらで何かを察してしまったらしい。余人なら知らず、輝虎様であればそれも不思議ではない、と何故か納得してしまう俺であった。


 俺はかぶりを振って主君にこたえる。
「そのお言葉だけで、十分、報われたと思えます。元々、労苦と思っていたわけでもありませんし、それに――」
 とくに意図していたわけではなかったが、俺は自然と笑みを浮かべていたらしい。
 輝虎様が虚を衝かれたように視線をそらせた。東から登る陽光のせいか、その頬がかすかに赤らんで見える。
「本来、決して逢うことの出来なかった人と出会い、言葉をかわし、共に歩くことが出来たのです。これ以上を望めば、罰があたるというものですよ」
 だから、お気になさらずに。
 そういって、俺は輝虎様の憂いを払うために、今度は意識して微笑んでみせるのだった。



 その後、しばらくの間、俺も輝虎様も口を閉ざした。輝虎様と同じ場所にいることに、照れはあっても気詰まりを感じることはない。
 聞こえてくるのは鳥の鳴き声と、さらさらと風にゆれる木立の音。緑の息吹を含む春日山の風の心地良さを総身に感じ、俺は知らず嘆声をもらす。
 だが、そんな俺の感傷を殺ぐかのように、一際強く、別種の音が響き渡る。もう最近では耳に馴染んだ感すらある鈴の音であった。
 同時に、その場に倒れ込んでしまいそうなほどの虚脱感に襲われた俺は、咄嗟に下肢に力を込めることで、かろうじてこらえる。


「――颯馬」
「……は、何でしょうか」
 輝虎様の呼びかけに、俺は平静を装ってこたえた。多分、輝虎様には通じないだろうけれども。
「いつか、聞かせてくれたな。不可思議な音に導かれて、この地に来たのだと」
「御意」
 高野山でのことか、と俺はやや俯く。
 あの場所での出来事は、思い出すだけで恥ずかしい。決して不快な記憶ではなく、むしろその逆なのだが、それでも恥ずかしさは消せるものではなかった。
「あの時も言った。神仏に姿形はなく、その訪れを音によって示すことがある、と。鈴は古来より祭器として用いられるもの。すなわち、その音はなにがしかの神意の顕れかもしれない。ならば、そなたがこの地に来たことは、神仏のお導きであったということ、そして――」


 言葉を押し留めた輝虎様の代わりに、俺は小さく、しかしはっきりと言葉を引きついだ。
「この地を去ることもまた、神意の顕れである。そういうことなのでしょうか」
「……正直、わからん。唐ならばともかく、日の本でそのような話を聞いたことはない。書物にも記されていない」
 その言葉に、俺は小さな引っ掛かりを覚えた。
 それを口に出して確かめる。
「唐ならともかく、と仰いましたか? それは初耳なのですが」
「む、そうだったか。たしか、高野山で口にしたと思ったが……ああ、あの時、颯馬は疲れ果てていたから、私の言葉は届いていなかったのかもしれぬ。そうだ、唐には颯馬と似た境遇の者たちの話が伝わっている。戦乱の時代に現れ、その類まれなる智勇をもって、戦乱の終結に尽力した者。将として、相として、あるいは皇として乱世を終わらせた彼らのことを、彼の地では『御遣い』と呼ぶそうだ。『天の御遣い』と」


 輝虎様の言葉に、俺は思わず目を瞠る。
 まさか、俺と似たような者たちが日本ではなく、他国にいるとは思わなかった。
 さらに輝虎様は言葉を続ける。
「もっとも、いずれも昔日の話。今代の大陸に御遣いが降りてきたとは聞かぬ。その詳しい話を知りようもないのだ」
 その言葉は、単なる推測以上の何かを俺に感じさせた。おそらく輝虎様は、密かに手をまわして調べてくれていたのだろう。これまで、それを口にしなかったのは俺への気遣いゆえか。
 天の御遣いとは、また大仰な名前だが、しかし俺が彼らと源を同じくするか否か、確かめる術がない以上、何を言っても推論にしかならない。
 それに、正直、その答えはどちらでもかまわないと思うのだ。
 俺をこの地に導いたのが神仏だろうが、天だろうが、あるいは単なる偶然だろうが、その何かに感謝する気持ちが薄らぐことはないだろう。


 俺は輝虎様に向かって、一語一語、区切るようにはっきりとそのことを伝えた。
「――感謝しています。本当に心から、感謝しています。俺をこの地に導いてくれた何かに。御身と出会わせてくれた何かに。おかげで、素敵なものを手に入れることが出来ました」
 普段ならば気恥ずかしくて言えたものではない――素敵なんて言葉は。
 が、今なら言える。というか、今、言わなければならない。
 多分、俺の顔は真っ赤になっているとおもうが、輝虎様に妙な自責の念を植えて立ち去るわけにはいかない。ここは気合で突破すべし。
「好きな人のために、命を懸けて戦った。そして、守ることが出来た。その人の命も、志も。ならば、これ以上望むものはありません」


 これは正直なところ嘘である。この戦国の世が終わるのを見届けたかったという思いはあった。というより、戦乱を終わらせてから輝虎様に言いたかった言葉があった。だが、さすがにそれを今言うわけにはいかない。それは輝虎様の心に迷いを植えつけるだけに終わるだろうからである。
 高野の山中で自らに誓った言葉を、自らで破ることはできない。
 ただ、輝虎様は俺のかすかな逡巡に気付いてしまったらしい。
「……颯馬?」
 俺を見る輝虎様の顔は穏やかで、その声音は優しかった。
 隠し事などしてくれるな、とそう言ってくれていた。
 だから、俺はこれから起こるであろう出来事を、あえて楽観と希望と、そして少なからぬ確信をもって包み込む。


「それに、思うのです。いまだ戦乱は終わらず、にも関わらず私がこの地を去らねばならないのならば、それはその必要があるからではないか、と。私が一時、越後を離れることが、日の本の未来のためには必要なことで、それは結果として輝虎様の助けとなることなのではないか、と」
 兼続あたりに聞かれた日には、自惚れにもほどがあると怒られそうな言い草である。あるいは鼻で笑われるだろうか。
 だが、不思議なほどに、そう確信している自分がいるのもまた事実。
 それゆえ――


「どうか私が戻り来るその日まで、ご健勝であらせられますよう。御身と上杉家に危難が迫ることのないよう、今後のこと、かなう限りのことは書き記しておきました。御身に宿る神仏の加護を疑うつもりもございません。されど、御身が人の身であることもまた確かなことでございます。報いを望まぬと言った舌の根も乾かぬうちに、このようなことを口にするのは我ながら情けない限りですが――御身がご無事であることが、私にとって何よりの報いであると、どうかお心に留めておいて下さいませ」



 そう言って、俺は深々と頭を下げた。
 言い切ったという安堵と、言ってしまったという羞恥が混ざりあって、動悸が高まる一方である。
 頭を下げたのは、これ以上、輝虎様に、俺の真っ赤な顔を見られたくなかったからだ。
 それゆえ、俺も輝虎様の顔を見ることが出来ず、この時、輝虎様がどのような顔をしていたのかを知ることは出来なかった。
 知ることが出来たのは、俺の手を柔らかく包み込んだ輝虎様の手の暖かさと、そして――


「心得た。毘沙門天と、我が名にかけて誓おう。また相逢うその日まで、必ずや息災でいよう。颯馬も、誓ってくれるな?」
「――御意。我が名にかけてお誓いいたします」


 輝虎様の言葉と、自身の返答。
 そして、その直後、再び吹き付けてきた春日山の清風。


 ――シャリン、と。
 ――鈴の音が鳴った。
 



 
◆◆





 吹き寄せる風を感じ取り、輝虎は目を閉ざす。
 耳元を通り過ぎていく風と、周囲の木立のざわめき。
 ――不意に失われる、掌の暖かさ。
 ――正面の人物に遮られていたはずの風が、そのまま輝虎の身体に吹き寄せてくる。


 風が通り過ぎた後も、しばらくの間、輝虎はその目を開けようとはしなかった……





◆◆










◆◆◆









 大和国、興福寺。
 藤原鎌足、その子不比等ゆかりの寺院であり、藤原氏と深いつながりを持つ。
 寺と銘打たれてはいたが、鎌倉時代以降、興福寺は事実上の大和国守護であり、固有の武力を有し、応仁の大乱後もその地位が揺らぐことはなかった。
 その勢力の強大さは比叡山延暦寺と並び『南都北嶺』とも称されただけあって、興福寺領内はそこらの国人、大名などとは比較にならぬ大きさと堅固さを有していたのである。


 その興福寺の奥、中枢に近い一画にある室内で、今、一人の男がうずくまるように座っていた。
 灯火に記された影には、片腕が映っていない。男の片腕は、ほとんど根元から斬りおとされていたのだ。そして影からではわからなかったが、男は片目をも失っていた。
 だが、男はそれを苦にする様子を見せない。
 そして、男の前にひっそりと座る尼僧もまた、傷の心配をしようとはしなかった。


「――で、覚慶殿。わしはいつまで待てばよい? 傷もほとんど癒えた。出来ればすぐにでも東に戻りたいのじゃが」
 覚慶、と呼ばれた尼僧は、薄暗い灯火の中、深い夜闇の瞳を細め、嫣然と微笑む。 だが、口を開こうとはしなかった。
 信虎はさらに口を開き、呪詛めいた言葉を吐き出し続ける。
「信玄などと名を改めおって、あの愚か者めが。いずれ近いうちに、わしが与えた名を捨てた無礼を、その身におしえこんでやらずばなるまい」
 それを聞いて、覚慶は小さく哂った。だが、やはり、言葉を発しようとはしなかった。
「これ以上は待てぬ。明日までじゃ。明日になっても動きがなければ、わしはひとりで東に戻り、東国を斬り従え、娘と、小癪な軍神めを我が物としてくれよう。よろしいなッ」


 威迫を込めた信虎の言葉に、しかし覚慶は動じた風もなくゆっくりと首を縦に振る。
 信虎は不快げな顔つきで、酒盃をあおった。
 先刻より、幾度も同じような問答をかわしているため、すでに酒杯は空に近い。
 ふと、信虎の眼差しが邪欲を孕んで、覚慶に注がれる。僧籍にあるというのに、その姿は艶を帯び、その動作の端々に蕩けるような色を感じさせる。信虎の目が、心なしか上気したように赤らんできていた。
 甲斐で敗れてからこちら、色欲に浸る暇がなかったこともある。
 相手が将軍家の血筋であろうと、遠慮をするような信虎ではない。それに――これが初めてというわけでもなかった。


 不意に信虎が無事な方の腕を伸ばし、覚慶の身体をかき抱く。
 信虎が持っていた酒杯から酒が飛び散り、あたりに酒精の匂いが満ちていく。
「わしの性情はとうに承知しておろう。くく、晴信を相手にするほどではないが、将軍の血筋を組み敷くは、なかなかに甘美な心地……」


 ぞくり、と。
 信虎の背に悪寒がはしる。
 視界の隅に刃の煌きを見るやいなや、信虎は咄嗟に覚慶を突き飛ばし、距離を置こうとする。
 ――だが、遅い。
「ぐぬッ?!」
 鈍い音は、ただ一つ残った腕が落ちた音。
 失われた片腕と片目が、信虎の動作を著しく妨げたのは事実である。だが、仮に信虎の五体が満足であったとしても、避けることはできなかったであろう。それほど容易ならざる領域に達していたのだ――覚慶の、足利義秋の力量は。


「おの、れッ、わしを、欺きおったかッ!」
「道化を見るも飽いた。それ以上の理由が必要かえ」
 それが理由だ、と冷たい眼差しが告げていた。そこには、人を斬る痛みも、呵責も、ただの一片もない。その力量と同じほどに、あるいはそれすら越えて、尼僧の性情もまた、容易ならぬ領域に達していたのである。



「わらわの手にかかって果てられるのじゃ、果報というべきぞ」



 絶鳴は、ごく短かった。
 最後に誰の名を口にしたのかも、本人以外、知ることは出来なかった。




◆◆




「……また殺しちゃったの? 生かしておけば使い道なんていくらでもあるのに」
 覚慶が秘めていた小刀を鞘にしまってしばし後。
 部屋に姿を現した一人の少女は、室内の惨状を見て、呆れたようにそう言った。
 血臭のこもった空気に怖じることもなく、半身に返り血を浴びた覚慶を見て眉をひそめるでもない。明らかにこの状況を予想していたと思われた。
 覚慶はその少女を見て、小さく、咽喉を鳴らすように哂った。
「欲しかったのかえ、久秀」
「ううん、久秀はああいうのはいらないわ。思い通りに動かないなんて、駒にもなりはしないもの」


 そう言って、松永久秀は冷やかすように目を細めて、覚慶を見やった。
「で、どうするの? 東国を乱すどころか、なんだかまとまっちゃったみたいだけど」
「構わぬ。道化は十分以上に役割を果たしたゆえ」
「負け惜しみ、というわけじゃあないみたいね。でも、放って置くと、東の勢力が思ったより早く上洛してくるわよ?」
 久秀の言葉に、はじめて覚慶の目に愉しげな光が揺れた。
「上杉と武田の盟約、か。たしかに、あれは少々予想の外であったな。久秀お気に入りの軍師は、まだ健在なのか」
「そのようね。というより、どうも立役者みたい」
 久秀の言葉に、覚慶はほの昏い笑みを浮かべる。
「久秀が気に入るだけあって、中々に面白い若者のようじゃな。だが――今、東国にいるようでは、もう間に合わぬ」


 その言葉に、久秀は覚慶にさえ気付かれないほど、かすかに目を細めた。
 覚慶の言わんとしていることを悟ったのである。
「九国の要に打ち込んだ楔によって、彼の地の三国が融和する術はなくなった。西方より襲い来る海嘯を阻むことは、もはや誰にもできぬ。く、ふふ、九国を飲み込んだ後は、中国、四国、そしてこの京。日の本を日の本たらしめる全てを飲み込むのじゃ。十年もかからぬ。五年も要らぬ。東国より、この波、受け止めることは出来まいよ」
 心底愉しげな哂いは、見る者がぞっとするほどの狂喜に彩られていた。覚慶の容貌が秀麗なだけに、より鮮明に、それは映し出されてしまうのである。


 久秀は内心の思いを綺麗に拭った顔で、小さく肩をすくめてみせた。
「まあ、その方が久秀にとって都合が良いから、いいんだけどね。みんな壊れちゃった方が、つくり直すのも楽だもの」
「たしかにそなたなら、どこでも生きることが出来ようよ」
 覚慶の言葉に、久秀がくすりと笑った。
「ふふ、お褒めいただき光栄に存じますわ、足利義秋様」
「この身は僧籍、俗名で呼ばれる覚えはないのじゃが」
「あら、失礼。久秀、少し気が早かったかしら?」
 いささかならず、わざとらしい久秀のとぼけぶりであったが、対する覚慶の反応は思った以上に激烈であった。
 覚慶の眼差しが、鋭さをまして久秀の顔に突き刺さる。常人ならば、その昏い瞳に飲み込まれかねないほどの鋭気に満ちた視線であった。
 だが、久秀は髪一筋ほどの動揺も示さず、優雅にこうべを垂れて無礼を詫びると、怯む色も見せずに覚慶の部屋から退出したのである。


 その背に、覚慶の声はかからなかった。







 興福寺からの帰途。
 松永久秀は、馬上、夜空を見上げる。
 天文にも通じる久秀であったが、別に星の動きを見ようとしたわけではない。
 その脳裏にあるのは、先刻の覚慶との会話。そして、覚慶には告げなかった一つの報告であった。
 それは東国よりもたらされたもの。
「上杉家臣天城颯馬、その行方、知れず、ね」
 詳細はわからない。というより、上杉家でも掴んではいないらしい。
 久秀の送り込んだ密偵も、取り急ぎ情報を送ってきただけで、出奔なのか、暗殺なのか、それとも何かの策略によるものなのか、何一つわかっていなかった。


「越後の上杉輝虎、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、あとは尾張の織田、三河の松平、あの朝倉の頑固者に、奥州の伊達、最上」
 久秀は指折り、東国の諸将を数え上げていく。
「茶器を見るのも良いけれど、人を観るのはそれに優る楽しみだもの。今川が滅びた今、東国はどうなっていくのかしら」
 そして、その中でも、久秀が特に注視していた人物が、姿を消した。これは少なくとも久秀にとって座視できることではなかった。

 
「京の動きを、颯馬が知っているはずはない。ましてや、西国の動きなんてなおさら。だから、この時期に姿を消したといっても単なる偶然に過ぎない」
 ――そのはず、なんだけど。
 久秀は小さく笑う。
 状況を見れば、西の動きと東の事件が重なりあっているはずはない。にも関わらず、何故だか笑いがこぼれ出る。
 それは決して不快なものではなかった。少なくとも、先刻のものより、ずっと快い。



 結局、久秀は、その後、一度も口を開くことはなかった。
 その脳裏に日の本すべてを映し出しながら、これから来るさらなる乱世を思い描く。
 幼さの滲む容貌に苛烈なまでの意思を漲らせながら、松永久秀はゆっくりと駒を進めるのであった。





[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:81bd195d
Date: 2010/05/09 16:53
 視界を灼きつくす稲光にわずかに遅れ、耳朶を打ち据えるような轟音が響き渡る。
 大友軍本陣からほど近い陣屋から悲鳴にも似た声があがった。
 夜半から大友軍を襲った嵐は、まるで雷神と風神が競って猛り狂っているかのようで、どれほど時が経っても一向に収まる気配を見せない。
 軍律の厳しさにおいては九国一とも言える大友軍の将兵である。敵軍の襲撃であればかくも混乱を見せることはなかったであろうが、時ならぬ自然の猛威の前では、さしもの精鋭も、嵐が過ぎ去るのをただ待つことしか出来ないと思われた。


 だが、現在の戦況は漫然と時を過ごすことを許さぬほどに切迫している。焦りを覚えながら、じりじりと嵐の静まる時を待っている大友軍将兵のもとに、凶報は容赦なく訪れる。
「な、なんと、高橋殿までが離反したと申すのかッ?!」
 大友軍の陣中にあって、驚愕の声をあげる僚将を横目で見やりながら、小野鎮幸(おの しげゆき)は無言で腕組みをして、眉間に皺を寄せる。
 大友軍筑前方面軍の主力である戸次勢。鎮幸はその戸次勢を率いる将の一人である。


 年齢は三十代半ばというところか。彫り深く、精気のあふれる容貌の持ち主で、顔といわず身体といわず無数の戦傷が刻まれており、大友家中でも屈指の猛将として知られている。
 その容貌や言動はときに粗暴に映る時もあるが、見かけだけのことである。兵書に親しみ、政にも長じ、部下を思う心も厚い。豪放磊落な気性は目上からも、また目下の者からも好かれ、近年では智勇兼備の将帥としての令名を確立しつつある人物であった。




「立花殿に続き、高橋殿までが――これも元就公の策ですか。さすがは陶晴賢を打ち破り、大内家を滅ぼし、尼子を圧して中国地方の覇者となっただけはある。『有情の謀将』の名は伊達ではありませんね」
 鎮幸の隣にあって、どこか感心したようにうなずいたのは由比惟信(ゆふ これのぶ)、鎮幸と同じく戸次家の将の一人であり、鎮幸が猛将であるならば惟信は知将と目される。
 年齢は惟信の方が、鎮幸より十以上も若いが、鎮幸曰く「とてもそうは思えん」というほどに思慮に富み、沈着な為人で、その冷静さは彼ら二人の主君からも高く評価されていた。


 豊かな黒髪を無造作に背に流し、惟信が陣中を歩けば、荒くれ者の兵でさえ姿勢を正す。女性らしい優美な曲線を描く肢体は、鎧甲冑を身に着けていても衆目を惹きつけるに足るものだった。
 もっとも、惟信は一度戦場に立つと、鎮幸も顔色ないほどの勇戦を示すことがしばしばあり、その際は日ごろの穏やかさをかなぐり捨てて敵陣を疾駆する。鎮幸などは、その変わり様は幾度見ても慣れることがない、と嘆息することしきりであった。



 鎮幸と惟信の二人を、大友家中では『戸次の双璧』と呼び習わす。
 常は戸次家当主に付き従い、その手足となって動く二人であるが、作戦上、独立した行動をとる際は鎮幸が主将となり、その補佐を惟信が行うというのが戸次勢の通例であった。今のように。


 それまで無言でいた鎮幸が、ここで口を開く。
「高橋殿が離反したということは、岩屋城と宝満城が敵にまわったということだな。我が軍が立花山城に迫りつつあるこの時に、高橋殿が離反したこと、これは偶然ではあるまい」
「ええ、おそらく。このままでは休松城の道雪様との連絡は絶たれ、互いに孤立するは必定です。敵がこの嵐さえ計算に入れていたのだとしたら――いえ、おそらくは計算の内なのでしょうね。高橋勢、立花勢、共に嵐をついて出撃しているものと考えるべきでしょう」
 その惟信の言葉に周囲からざわめきが起き、諸将は動揺した視線をかわしあった。
 この嵐の中、敵勢に挟撃を受けようものなら壊滅は必至である。動揺するな、というのは酷な話であったろう。


「そ、それならば急ぎとって返すべきでは? 我らが主力を率いている今、休松城の兵は少ない。強襲されれば、道雪様とてただではすみませぬぞ」
「この嵐の中、進むことさえ難しいのに、退却などしては、それこそ敵の思う壺であろう。追撃をうければ、戦うことも出来ずに壊滅してしまうわい」
「だからと申して、ここでじっとしているわけにもいくまい。いっそ、急ぎ立花山城を陥とすべきではないか」
「立花山城は筑前の要ともいうべき城。兵力では我が方が勝っているが、しかしあの堅城がそう易々と陥ちるとは思えぬ。城攻めにてこずっている間に、後背を高橋殿の兵に衝かれたらどうする。敗れるとは言わんが、被害は無視できぬものとなるぞ」
「では、どうしろというのだ。このまま手をつかねて漫然と時を過ごせとでも言う気かッ」
 戦の方途を巡り、軍議は喧々諤々の騒ぎに包まれた。
 それらの意見に耳を傾けながら、主将である鎮幸、副将である惟信、共に意見を口にすることはない。
 彼ら二人をもってしても即断できないほどに、戦況は混沌としているのだと思われた。



◆◆



 時は九州筑前をめぐり、大友、龍造寺、毛利、秋月らの諸勢力が激闘を繰り広げている最中である。
 当初、大友軍は戦況を有利に押し進め、立花城、宝満城、岩屋城等の堅城を拠点として勢力を拡大し、商都である博多津を押さえ、筑前全域を制圧するのも時間の問題だと思われていた。


 だが、北九州における大友勢力の伸張に脅威を覚えた中国地方の有力大名毛利元就の参戦によって、戦況は一変する。
 『有情の謀将』とあだ名される元就は、先年大友勢に滅ぼされた秋月文種の子、種実を援助することで大友家の伸張を阻もうとした。
 そして、毛利の助勢を受けた種実は元就の目論見どおり、秋月氏の居城である筑前古処山城を大友軍から奪還したのである。


 この報告を受けた大友フランシス宗麟はただちに軍を派遣する。博多津を擁する筑前は、地理的にも、また経済的にも北九州の要である。これを他家に奪われることの害は言を俟たない。
 先年、足利幕府より九州探題の職を授かった大友家の威信を保つ意味でも、筑前の確保は大友家の至上命題だったのである。


 大友家の威信をかけたこの戦において、大友軍二万を率いることとなったのが、大友家加判衆筆頭、戸次家当主たる人物――すなわち『鬼道雪』こと戸次道雪である。
 遠く東国にまでその武名を響かせる道雪率いる二万の大友軍は、秋月勢の必死の防戦をことごとく粉砕し、たちまち古処山城を重囲の下に置く。
 城内の兵は千に満たず。また、秋月勢が頼りとする毛利の援軍も、道雪の進撃速度があまりに速かったために、いまだ九州にさえたどり着いていなかった。
 この戦は大友家の勝利。誰もがそう考えた時。
 

 ひとつの報告が、大友軍を震撼させる。


 筑前の要、立花山城主立花鑑載が、大友家からの離反を表明したのである。
 立花山城は立花(りっか)城とも呼ばれ、九国最大の商都である博多津を見下ろす山城である。
 北は遠く壱岐島を望み、東の豊前、西の肥前に睨みをきかす、文字通り筑前の要といえる城が敵にまわったのだ。この報を聞いた際の諸将の驚愕は押して知るべしであった。


 また叛旗を翻した立花鑑載という人物が、凡庸な臣下ではなかった。
 立花家は大友家の分家である。大友家は分家の数が多いことで知られ、立花、高橋、戸次、吉弘などの家々が大友家の膝下に居並んでいる。それら分家には、本家と同じく杏葉紋が授けられており、これをもって『同紋衆』と称する。
 同紋衆は大友家の中で大きな権力を有しているが、その中でも、立花家は『西の大友』とも呼ばれる大家、その影響力は大友家当主でさえ無視できないほどに強大なものだった。
 その立花家が叛いたのだ。一報を聞いた宗麟が、顔色を失ったのは当然のことであった。



 秋月家追討の命を受け、古処山城を囲んでいた道雪のもとに、主君宗麟よりの急使が到着したのはまもなくのこと。使者は、立花家追討の命を道雪に伝えた。
 これを受け、道雪はただちに古処山城の攻囲を解き、全軍を二手に分ける。
 道雪は、古処山城の押さえとしてわずか二千の兵を残すのみで、余の全軍を立花山城へと向けた。
 大友軍の猛攻をかろうじて耐え凌いでいた秋月種実に、すでに追撃の余力は残っていないと判断した道雪の決断に、配下の諸将も異論を唱えることはなかった。
 それでも道雪は万全を期し、腹心である鎮幸、惟信らに先陣をゆだね、自身は殿となって休松城に残ったのである。


 休松城はもともと古処山城の出城であった。道雪は緒戦でこの城を陥とし、以後、本営として用いてきた。
 道雪が休松城を選んだのは、古処山城の押さえとしての役割はもちろん、他の筑前国人衆に睨みをきかせる上で、休松城の立地がきわめて都合が良かったからである。それは、立花氏が叛いた後でも同様であるはずだった。


 ――しかし、戦況は一夜にして一変する。


 大友家加判衆の一、立花家に並ぶ大家である高橋氏までが、大友家から離反したのである。
 高橋家が領する宝満、岩屋の両城は、休松城と立花山城を結ぶ道の半ばに位置する。
 つまり、小野鎮幸、由布惟信らの率いる大友軍本隊を通過させた高橋家は、労せずして大友軍の主力と、道雪の本営を分断してしまったことになる。
 高橋家は立花家と同じく同紋衆に名を連ね、立花家に勝るとも劣らぬ威勢を示す大家である。その祖は、遠く大陸にあり、漢王朝を創建した劉氏の流れをくむという異色の名門であり、立花家に続き、高橋家までが叛いたことは、すなわち大友家にとって、両の腕をもがれたに等しい出来事であると思われた。



 しかも、なお凶報は続く。
 後方の休松城にあって、高橋家離反の報を受け取った道雪の元に、東の豊前からの急使が駆け込んできたのだ。
 使者は息せき切って急報を告げ、それを聞いた者たちは等しく背筋を凍らせる。


 ――毛利水軍、豊前に上陸。率いるは毛利元就が頼みとする一族中の勇将吉川元春ならびに小早川隆景。両将は上陸後、速やかに軍を展開し、大友軍の後背に圧力をかけるように進軍を開始せり。


 この毛利の動きに呼応し、それまで大友家に従ってきた筑前の国人衆までが反大友の動きを見せ始め、さらにさらに西方肥前の龍造寺氏までが筑前戦線に大兵力を投入する動きを見せつつあると聞こえてきた。
 戦況は転げ落ちるように大友家に不利なものとなっていったのである。  




◆◆




 筑前休松城。
 反大友の旗幟を明らかにした筑前国人衆の軍勢によって包囲された城中を、戸次道雪はゆっくりと進んでいた。
 道雪が進むにつれ、カタカタと鳴るのは、道雪が身を預ける車椅子の車軸の音である。幼少の頃、雷をその身に受けて以後、道雪は下肢の自由を失ってしまった。自身では城中の移動もままならない道雪に、父の親家が与えたのが、古く漢の時代にうまれたとされるこの車椅子であった。
「城を囲む敵方は八千、御味方は二千。なかなかに厳しい状況になってしまいましたね」
 車椅子を進めながら、道雪は声を発する。
 いささかの緊張もなく、気負いもなく。詩を吟じるような、趣き深い声音であった。



 ――豊後を本拠として、九国最大の勢力を誇る大友家。戸次氏はその大友家の臣であり、同時に庶流のひとつでもあって、代々の当主は加判衆(家老格の重臣)の一角として大友の治世に重きをなしてきた。
 しかし、栄枯盛衰は世の常である。大友氏が他国に勢力を伸ばすにつれ、大友家内部でも新興の者たちが力を揮い始め、戸次氏の先代当主親家の頃には、戸次家の権勢は明らかな衰えを見せていた。


 名門戸次氏も、戦国の世の理にならい、凋落の一途をたどるのみか。
 大友家中で囁かれていたその声は、戸次氏の今代当主が家督を継いだ頃に一際大きくなり、半ば公然と語られるようになっていた。
 その理由は、戸次氏の家督を継いだ戸次親家の娘鑑連(あきつら)にあった。
 若くして戸次氏の当主におさまったこの少女、幼き頃、落雷に遭って両の足を雷神に奪われていたのである。


 家運の傾き甚だしく、勢力減退著しい今この時、人もあろうに、よりにもよって不具の娘に家督を継がせるとは。
 そんな声がそこかしこから聞こえる中、戸次家を継いだ鑑連は、しかし焦りも怒りも見せることなく、むしろ悠然とした面持ちで当主としての道を歩き始めたのである。



 そして、それから数年。
 戸次氏は往時を上回る勢いでその勢力を増大させており、豊後大友家の躍進に不可欠な存在となりおおせていた。
 傾きかけた戸次の家運を建て直し、主家の隆盛をも導いた戸次鑑連の名は九国中に鳴り響き、その勇名を慕う者は数知れず、輿に乗って戦場で采配を揮う姿は凛々しさと猛々しさを兼ね備え、時として雅にさえ映る。そんな鑑連に大友家の将兵は尊敬と憧憬に満ちた視線を送るのであった。


 向かい合う者の内奥を見通してしまいそうな澄んだ眼差しに、穏やかでありながら威を感じさせる佇まい。たおやかな容貌に微笑みを浮かべれば、士卒に末端に至るまで感奮せざるはなく、一度号令を発すれば、その軍勢は怒涛となって敵陣を覆い尽くす。
 それが戸次鑑連という人物であった。その鑑連は、先年、名を改め、戸次鑑連改め戸次道雪と名乗っている。その武威を恐れた周辺諸国は、昨今、道雪を指して『鬼道雪』とよびならわし、他国の将士はその雷名を恐れること甚だしかった。





 すでに休松城が囲まれていることでもわかるとおり、今回の筑前方面における反大友の軍勢は非常に組織だった動きを見せていた。それは敵軍がいかに道雪を脅威としているかの証左ともいえる。
 戸次勢といえば大友軍最強の呼び声高き精鋭部隊。それを率いる戸次道雪の勇名はつとに名高い。これを討ち取ることが出来れば、筑前における大友勢力を駆逐することさえ不可能ではなくなろう。
 あるいは、今回の離反劇の筋書きを書いた者は、自分の命を主目的としているのかもしれない。
 あまりに素早い敵軍の動きをみるにつけ、道雪はそんな推測を胸中で育んでいた。


「道雪様」
 そんなことを考えつつ、廊下を進む道雪に声をかける者がいた。
 そちらを向いた道雪の視界にまずはじめに移ったのは、女子と見間違えるような深みのある黒髪であった。
 一見したところ、柔和な顔立ちで、ともすれば女性に見間違われることも少なくないが、眼前の子供がれっきとした男児であることを道雪は知っている。
 なにしろこの人物、戸次道雪の養子なのだから。


「誾(ぎん)ではありませんか。夜番の後はきちんと休むようにと申し付けていたはずですが」
「申し訳ありません。しかし、敵勢が城を包囲している今この時、のんきに眠ることは難しゅうございます」
 生真面目な表情で、生真面目な返答を返す息子を見て、道雪はたおやかに微笑む。
「ふふ、共に番を勤めていたお人は、今も高いびきの真っ最中だと思いますけれど」
 誾と呼ばれた少年は、かすかに顔をしかめた。
「あいにく、この状況で、ああものんきに横になれる胆力は持ち合わせておりませぬ。道雪様の下で幾度も戦陣に臨みましたが、此度のごとき御味方に不利な戦は初めてでございます。しかるにあの者の悠然たる様子、到底ただの浪人や軍配者とは思われません。やはり、名を質すくらいはしておくべきなのではありませんか?」
 続いて発された言葉は、隔意と警戒で満ち満ちており、誾がその人物をいかに疎んじているかがよくわかる、と道雪はひそかに考えた。


「雲居筑前(くもい ちくぜん)。しっかと名乗っているではありませんか。誾も聞いているでしょう?」
 道雪の言葉に、誾は口をへの字に結ぶ。
「確かに聞いてはおりますが、明らかに偽名ではありませんか。大谷の娘も、彼の御仁の素性を詳しく知らぬと申しておりました」
「いかように名乗ろうと、それはその者の自由。名によって、行いの価値が変わるわけではないでしょう。名乗らぬのか、名乗れぬのか、それはわかりませんが、その言動を見ればおおよその人柄も知れます。私は信頼に足る御仁だと判断しました。そして、その策は採るに値した。ゆえに、大友の軍配を預けたのです」


「――それはその通りでありましょうが……」
 少しためらう素振りを見せた後、少年は意を決したように口を開く。
「しかし、やはり私には、名を秘める者を信用することは難しく――」
「誾」
 言葉の半ばで、道雪の声がその続きを塞き止める。
 声に険があらわれたわけではなかったが、その威に打たれた誾は、はっとして口を噤まざるをえなかった。


「あなたが雲居殿に信を置けないのは承知しています。疑念を質したいというならば、それも良いでしょう。しかし、それを口にするべき時宜はわきまえなさい。府内からこちら、質すだけの時も場所もあったはず。そのときに口を閉ざし、敵が至近に迫った今この時、あえて城内に不和をまくような言動をするは、大友に仕える者にあるまじきこと、我が子といえど看過できません」
 さらに道雪の言葉は続く。
 道雪の眼差しに宿る厳しさ、その中にいたわりが込められていることに、果たして誾は気づいたであろうか。
「大切なものを守る。そのために強くなると決めたのでしょう。ならば、まず何に打ち克つべきか、あなたは重々承知しているはず。しかし、私の目に、今のあなたがそれを為せているとは映りませんよ?」
 森厳とした言葉に、誾は一言もなく俯き、押し黙る。
 省みてみれば、今の発言が現状への不満と苛立ちから発されていたことは明らかであったからだ。


 忽然と大友家の前に現れた、一人の人物。
 誾にとっては遥か遠い超克の対象である鬼道雪の信頼をあっさりと勝ち取り、此度の大戦の絵図面を委ねられた男――雲居筑前。
 描いた戦絵図は精緻にして、無辺。采配をとっては巧妙に兵を指揮し、刀をとっても果敢の一語。
 道雪にからかわれて慌てている姿しか知らず、心ひそかに彼の人物を侮っていた誾の蔑みは、この戦で完膚なきまでに打ち砕かれた。
 否、打ち砕くつもりなど先方にはあるまい。誾の隔意を察しながら、気に掛ける素振りすら見せずに接してきたことからもそれは明らかだった。
 義理の母たる戸次道雪と、姉と慕う吉弘紹運が、なぜ新参者にあれほどの信を置いていたのか。そのことが、ようやく理解できた誾であった。


 ――そして、そのすべてが気に入らぬ。 


 誾が顔を伏せたのは、唇をかみ締める姿を道雪から隠すためだった。だが、それゆえ、誾は自分を見つめる道雪の憂いにも気づくことが出来ず、ひとり、暗く重い気持ちを抱え込んでしまう。
 そんな誾に、道雪が声をかけようとした時だった。
 不意にその場に第三者の声が割って入ってきた。




「……戸次様」
 その声が、低く、くぐもっている理由は簡単だった。
 その人物の顔が白布で覆われていたからである。
 頭部のほぼすべてが布地で覆われており、外気に触れているのは、目と思われる部位のみ。それもかすかに穴が開いている程度で、その中を覗くことは容易ではない。
 かすかに丸みを帯びた身体から女性であることは察しがつくが、背格好は、決して大柄とは言えない誾よりもさらに小柄で、体格だけみれば子供と言っても差し支えないであろう。
 そんな子供が頭巾で顔を覆っているのだ。誾の容姿とは異なる意味で、人目を集めるのは必然といえた。


 もっとも、今、この休松城にいる者で、この少女の名を知らない者はいない。もちろん、道雪も誾も例外ではなかった。
 だが、知ってはいても、抱く感情がそれぞれに異なるのは当然である。道雪が微笑み、誾がかすかに顔をしかめる。その反応は、先に語られていた人物に対するそれと、ほぼ等しい。
 その一事で、二人の内心を推し量ることが出来たであろう。
 ただ、白布を巻いた人物は、そのことに気づかぬのか、あるいは気づきはしても気にしていないのか、これといった素振りを示すことはしなかった。



「これは吉継殿、どうなさったのです?」
 道雪は白頭巾の娘の名を口にした。
 吉継――道雪の父の代に一時、戸次家に仕えていた大谷吉房の娘、大谷吉継の名を。
「……は。父より言伝です」
「雲居殿から、ですか。伺いましょう」
「敵軍の兵気を見るに、城を囲む敵軍が総攻めに出てくるは間もなく。くれぐれもご油断なきように、と」
 その言葉に、道雪は心得たようにゆっくりと頷いたが、誾は不審をあらわに口を開いく。


「何を根拠にそのようなことを申されるのか。立花、高橋両家が反旗を翻し、毛利勢がこの城に迫っている今、あえて筑前衆のみで総攻めを行う理由があるとは思えない。時をかければかけるほどに、彼らは有利になっていくではないか」
「……それゆえに、と父は申していました」
 誾の言葉に、吉継は言葉すくなに答えるが、それは説明と言うにはあまりに短すぎた。
 それに気づかない吉継ではないはずだったが、雲居を父と呼ぶ娘は、あえてそれ以上語ろうとはしない。
 その吉継を見据える誾の目に雷光が煌いたと見えた、その時。


 言葉を発したのは、その二人の様子を見守っていた道雪であった。
 ゆっくりと、聞くものの脳裏に戦況をしみ込ませるかのように柔らかく、明晰な声が、あたりに響く。
「おそらくは元就殿の主導のもと、敵軍は対大友の盟約を結びました。とはいえ、確固たる信頼関係を築くには、少々時が足りません。なにより此度、兵を挙げた秋月家、毛利家、そして……立花鑑連殿、高橋鑑種殿らは、それぞれに望むものが異なります。戦局が押し詰まってきた今、これまでのように、一糸乱れずに兵を動かすことは至難の業でしょう」


 苛立ちをあらわにしていた誾であったが、義理の母の言葉、そしてそこに込められた説得力に、ただ聞き入るしかなくなる。
「中でも、今、城を囲む秋月種実殿の目的は、父を討ち取った私への報復と、そしてそれ以上に秋月の家名を復すること。誾の言うとおり、時間をかければ我らをより不利な状況に追いつめることはできますが、それでは功の大半は立花、高橋の両家、そして毛利家のものとなるは必定です。それでは、たとえ秋月の復興が成ったとしても、戦が終われば、これらの家の下風に立たされることになってしまう。そして、それは種実殿のよしとするところではないでしょう」


 だからこそ、秋月種実は待つという選択肢をとることが出来ない。
 まして、今現在の情勢でも兵力は自軍がはるかに勝るのである。大友軍の分断が成った今、これ以上、時を費やす必要を、秋月種実が認めることはないだろう。
 立花道雪はそう言った。


「――そして、それを知るからこそ、敵の総攻めが間近であると雲居殿は申されたのです。おそらくは今宵が此度の戦の山となりましょう。あなたも、今のうちに英気を養っておきなさい」
「……は、承知いたしました」
 戸次誾は、主にして母たる人物に静かにこうべを垂れる。ゆえに、誾が唇をかみ締めていることを道雪が知りえたのは、視覚ではなく、洞察力によるものであった。



◆◆



 戸次家の母子のもとを離れた大谷吉継は、城内で割り当てられた部屋へと戻る。
 吉継の父は、近畿から九州に下った折、一時的にではあるが戸次家に仕えていた時期がある。ただ、吉継の父は下野して久しく、大谷家と戸次家の主従の関係は途絶えたままである。今の吉継と戸次家には繋がりらしい繋がりはないといってよい。
 ゆえに、今、この休松城で一室を与えられていることが、自分以外の人の力によるものであることは、吉継にもよくわかっていた。
 そして、それがどれほど稀なことであるかということも。


 その人物は、吉継の眼下で寝息をたて、健やかな寝顔をさらしている。それは昨夜、獅子奮迅の戦ぶりを見せた人物とは思えないほどに穏やかで、もっといえばのん気とも言えるくらい緊張感に欠けるものであった。
 幾たびも攻め寄せてきた寄せ手に対し、ひるむことなく持ち場を守りきったその戦いぶりは、数奇な出会いを経て、この人物を父と呼ぶようになった吉継から見ても意外なものと映った。かなりの腕前であろうとは考えていたが、旺盛な覇気をもって敵兵を圧していく戦いぶりは、吉継に己が見る目の無さを思い知らせるものであったのである。


「……ふう」
 とりとめもない思考の波に、自身の疲れを感じ取った吉継は、小さく息を吐くと、座り込んで頭を包む白布を取り外していく。
 顔が崩れる業病。吉継は周囲にその病に冒されていると思われていた。近畿の出である大谷家が、九国までやってきたのはその療養のためである、と。
 だが。


 かすかな布ずれの音と共に、吉継の顔を包んでいた布がはがれ落ちる。
 皮膚の張り、艶、造作、いずれも欠けることのない端整な顔立ちがあらわになる。誰であれ、そこに病の痕跡を見出すことは不可能であったにちがいない。
 それもそのはず。吉継は業病に冒されてはいないのだから。
 しかし、もし、この場に他者がいたとしたら、その者の口からは驚愕と嫌悪の声がほとばしったであろう。


 病に冒されていない吉継が、なぜ病と見紛う姿をとるのか。とらねばならないのか。その理由は、そうしなければ、より強い迫害に晒されるからであった。あるいは、真実、病に冒されているよりもなお。


 その瞳は紅の色。血が滴りし赤の玉。
 流れる髪の色は白。雪山仰ぎ見る如く。


 紅も白も、さして珍しい色ではない。白髪の老婆など探せばいくらでもいるだろう。
 だが、にもかかわらず、吉継のそれは異様であった。その若さゆえか、あるいは瞳の色との相乗ゆえか。吉継の素顔を見た者は、まず息を呑み、驚きに目を瞠り、嫌悪に顔をゆがめるのが常であった。少なくとも、吉継の記憶の中ではそれが普通の人間の反応だったのである。


 吉継の父が九国に下ってきた理由は、異国の知恵がより早く伝わる地を選んだためであった。吉継のそれが病によるものであると考え、異国の医術によって治せぬものかと考えたのだ。同時に、異国の多様な風貌の中にあれば、吉継のそれも違和感のないものとなるのではないかとの期待もあった。
 ――結果として、その期待は最悪の事態をうむことになるのだが、神ならぬ身に、それがわかるはずもなかった。




 ……吉継は小さくかぶりを振った。
 思い出しても、過去が変わるわけではない。
 ただ、それを言えば、今ここに吉継がいることで、何かが変わるわけでもないし、何かの意味があるわけでもないと、そう思う。
 それでも、吉継がこの戦に加わっている理由は――
「……あなたのせい、ということになるのでしょうか」
 そう呟き、吉継は傍らで眠る男の顔に視線を落とし、その頬にそっと触れた。というか、つねった。
 眠りながらも、痛みを感じているのか、なにやらうんうんうなっている義理の父に柔らかい視線を注ぎながら、吉継は口元に小さな微笑を浮かべるのだった……





[10186] 聖将記 ~Fate/stay night~ 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/19 21:57


 ―――その杯を手にした者は、あらゆる願いを実現させる。


 聖杯戦争。
 最高位の聖遺物、聖杯を実現させるための大儀式。


 選ばれるマスターは七人、与えられるサーヴァントも七クラス。


 聖杯は一つきり。
 奇跡を欲するのなら、汝。
 自らの力を以って、最強を証明せよ。



◆◆



 淡く、か細い月明かりの下、黒髪が月を映して、鮮麗な光の海を形作る。記憶と寸分違わぬ姿で、その人は口を開いた。
「――問おう、あなたが私の主君(マスター)か?」
「サーヴァント・セイバー、召還に従い参上した。これより我が刀はあなたと共にあり、あなたの運命は私と共にある」
 懐かしいその人は、しかし、初めて会う眼差しで、俺のことを見つめるのだった。


◆◆
 

 敵うはずのない俺の願いを聞き、神父は笑う――否、哂う。
「かなうはずのない願いをかなえる。それこそが聖杯だ。よろこべ、天城颯馬。君は今、聖杯を手に入れる資格、その七分の一を手に入れたのだから」
 黒髪の神父はどこか愉しげに、そしてどこか悲しげに――
「最後のマスターの参戦を確認した。これより監督役として、第五次聖杯戦争の開幕を宣する。気をつけたまえ、天城颯馬。これより君は殺し、殺される側の人間となる。その身はすでに、マスターなのだから」
 純白の雪原を血で染め上げる戦いの始まりを口にしたのである。


◆◆


「この身に、人であった頃の記憶はもはやないのです。けれど、何故かマスターの顔を見ると胸が温かくなる気がする。マスターが人であった頃の私を知るなど、そんなことはありえないというのに」
「何のために聖杯を求めるか、ですか? それは……聖杯を手に入れたその時に、お話ししましょう。今はただ、我らに仇名す敵を討つのみです」
「ライダー、ランサー、アサシン、キャスター、そして私ことセイバー。すでにキャスターに葬られたアーチャーとバーサーカーを含む七つのクラス、その全てが同時代から召還されるなどありえない。ありえないことが起きたならば、それは奇跡を通り越してもはや必然です。この聖杯戦争は、どこか歪だ」


◆◆


「私の愛馬は凶暴です。あなた程度の守りでは、秒の半分も保たぬことでしょう」
「キャスターに注意せよとは、笑止な申しようですね。どれほどの策を講じようと、すべては私の手の中です。彼の魔術師が何をたくらもうと、それが成就することはないでしょう」
「人は城、人は石垣、人は堀。ゆえに、我が宝具もまた人です。戦国を駆け抜けた風林火陰山雷の勇姿を目の当たりに出来る幸運を、感謝しながら散りなさい」


◆◆


「なんで、殺そうと思えないんだろう、うー」
「私は、会いたいんです。戦って、戦って、頑張って戦っていれば、きっと出会えると思っていた、その人と。私が主と仰いだ、たった一人の御方と、どうしてもお会いしたいんです。たとえ、この身が英霊に――人でないものになったとしても」
「武芸だけでは救えない。想うだけではかなわない。日の本が滅びたあの戦いで、私はそのことを思い知らされたんです。あの悲しみを覆すために、私は聖杯がほしい。だから、とっても嫌だけど、あなたと戦います。私の望みをかなえるために」


◆◆


「隙だらけですね。あなたはすでに戦場のただ中にいるということ、忘れてはいませんか」
「セイバーは気付いていないようですが、私にはわかる。キャスターの罠を見破ったのはあなたですね。人の身でありながら、英霊の策に抗するとは。あなたの智略がそれだけ秀でているということなのか、あるいは――」
「時を越え、理すらもこえて、御身と相対する日が来ようとは。これもまた運命なのでしょうか――主様」


◆◆


「弓兵と狂戦士ならばすでに滅びたぞ。この鉄扇で首を掻き切った俺が言うのだから、間違いあるまい」
「過去を知ってどうする、セイバーのマスター。知ったところで、お前には何も出来ん。過去を変えたいのならば。この狂った戦いを終わらせたいのならば。おとなしく聖杯を差し出すがいい――お前の望みは、それでかなう」
「――ぐ、ぬ……まさか、とは思ったが、貴様か。一つの国、一つの民、一つの文化を砕いただけでは、まだ足りぬか。今度は世界でも砕きたくなったか……」


◆◆



 
 
 自身の知らぬ過去を有するかつての仲間たち。
 何もかもが不確かなままに、聖杯戦争は激化の一途をたどっていく。
 時を越えて対峙する伝説の竜虎。
 振りかざされる剛槍と、闇に煌く刃。
 姿の見えない魔術師と、その掌で果てていくサーヴァントたち。
 混沌と霧迷の闇を切り払い、戦うことを決意する天城。聖杯を得るためではなく、かつては共に戦った友と、今も共に戦う主のために。


◆◆


「その、鉄扇は……」
 はじめて、セイバーの声が、かすかにひび割れたように思う。
 俺との距離、その最後の一歩を詰めたセイバーが、驚愕と納得を織り交ぜた不思議な笑みを浮かべた。
「ずっと不思議でした。私と何の縁もないあなたが、どうして私を召還できたのか」
「やっと、わかった。私という淡く脆い刀を、ずっと守り続けてくれた……颯馬、あなたがわたしの鞘だったのですね」
 その言葉に背を押されるように、俺も一歩を踏み出す。かつて埋められなかった最後の距離。
 ようやく触れ合うことが出来たおれたちは、ただ互いのぬくもりを感じる。
 あまりにも幸せで――あまりにも遅すぎる、一歩だった。


◆◆



「私は幻想種の頂きの名を与えられたもの。そして今、傍らには、この身を守る鞘がある。かつて、御身と戦った時とは異なるのです」
「ふふ、ならば試してみるがよいわ。鞘におさめた刀で、一体何が出来るのかを」
「言われずともッ!」
 あふれ出すは奔流のごとき魔力。竜の名を冠するセイバーの魔力炉は限界を知らぬかのごとく、果て無き力を生み出し続けていく。地面が撓み、空気が揺らぐ。周囲の光景さえ歪ませる濃密な魔力の放出は――
「毘沙門天の、加護ぞある」
 闇を纏った人物に向けて――そして、その先にある聖杯に向けて、一点に収束されていく。
 大気が軋み、鳴動する。あたりには、天が落ちてくるかのような圧迫感が満ち満ちて――
 それは、セイバーの真名解放と共に、迸る。


「懸かり乱れ竜ッ!!」
 


◆◆


 ……外史を書いていたはずなのに、なぜかこんなんができました。
 酔ってないです、はい。消すのももったいないので、投稿してみる。
 懸かり乱れ竜のかっこいいフレーズを募集中です(嘘)


◆◆



[10186] 影将記【戦極姫2発売記念】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/25 23:29
 時は戦国。古き秩序は崩れ去り、しかしながら新しき秩序が確立していない揺動の刻。
 九国最南端に位置する薩摩の国もまた、実力者たちが割拠して覇を競う乱離の相を呈していた。 その薩摩において、最も有力な氏族の名を島津という。
 島津氏は、鎌倉幕府を創建した源頼朝から、薩摩、大隈、日向の三国の守護職に任ぜられたほどの有力御家人であり、鎌倉から遠く離れた九国の地を統べる重臣の一人として権勢を揮っていた。
 しかし、栄枯盛衰の世にあって、権勢を保ち続けることは困難を極める。一時は薩摩、大隈、日向の三国におよんだ島津氏の領域は、戦国時代を迎える頃には薩摩一国を保つことすらおぼつかないほどに減退してしまっていたのである。


 それでも島津家が薩摩において雄なる一族であることに変わりはない。
 ことに先々代島津忠良は『島津家中興の祖』といわれるほどの英主であった。
 家中の法度を整えることで家臣団を纏め上げ、養蚕などの産業を興して財政基盤を築き、明、琉球との貿易を積極的に行うことで得た富を使って、鉄砲などの武器を買い集め、あるいは領内の街道を整備するなど民政にも意を用いることで、国民の声望を集めた。
 そして、その声望を背景として他勢力や、あるいは同じ島津一族の中でも忠良らに敵対する者たちを次々に従えていったのである。時には武威で、時には謀略で、そして時には政略結婚で。 
 諸般の事情で忠良は若くして隠居せざるを得なくなったが、その子貴久もまた父の才を受け継ぐ優れた領主であり、この親子による薩摩統一は間近であると、薩摩に生きる誰しもが考えていた。
 しかし――




「――しかし、薩摩が統一されるためには、なお多くの血が必要となるのである、と」
 四半刻の間、ずっと動かし続けていた筆を止めると、俺は思わずほっと息を吐き、肩を揉み解した。
 島津の歴史を書に記す作業は、決して退屈でも、つまらなくもないが、さすがにずっと卓に向かい続けていると、肩の血が凝り固まってしまう。ついでに言えば、ここから先は俺自身の生い立ちとも無縁ではなく、苦い思いが沸き出るのが押さえられなかったということもあった。


「颯馬、お茶にするー?」
「そうだな。そうするか」
 卓の下から聞こえてきた声に、俺は少し考えた後、同意の頷きを示した。
 ちなみに、俺の使っている卓は書き物には適しているが、人ひとりがその下に隠れ潜むほどの大きさはない。赤子であれば、あるいは隠れることはできるかもしれないが、赤子がしゃべれるはずもなし。
 では、今の言葉はどこから聞こえてきたのか、と言えば――


「さっきから、良い匂いがしてくるからね。家久がお菓子でもつくってくれてるんじゃない?」
 ひょい、という感じで卓の下から顔を出したのは、どことなく愛嬌を秘めた顔の、一匹の猫であった。
 猫は賢い動物ではあるが、しゃべることはない。まあ、言うまでもないことだけど。
 では、何故、この猫はしゃべることが出来るのか。それはこの猫が、知猫と呼ばれる半ば伝説上の存在だからである――らしい。本人(?)談である。いわく、頭の中に過去のご先祖様の記憶が丸ごと残っており、それらのご先祖の記憶から様々な知識を教わり、時に行動の助言を得るのだとか。
 たしかに生まれてこの方、しゃべる猫なんてこのキクゴロー以外に見たことはないので、伝説の存在だと言われても納得できないことはない。もっとも、俺にしてみれば、幼少時からの悪友くらいの感覚しかなかったりする。


「家ちゃんのことだから、俺に気を遣ってくれたかな」
「だね。颯馬は書物を読み書きするときは時間を忘れるから」
 キクゴローとそんなことを話していると、間もなく、襖の向こうから足音が近づき、俺の部屋の前でぴたりと止まった。
「お兄ちゃん、家久だけど。入っても大丈夫かな?」
「ああ、家ちゃんに閉ざす襖は持ってないよ。どうぞー」
「あはは、じゃあお邪魔します、と」
 元気な声とは対照的に、襖を開く動作は淑やかさを感じさせる丁寧なもので、お茶と茶菓子が載った盆を持って入室する動作も、思わず目を惹かれるほど流麗であった。このあたり、祖父と父から教え込まれた行儀作法が、正しく少女の中に息づいていることが俺にもよくわかった。


「作業の進み具合はどう、お兄ちゃん?」
「ん、順調、かな。明日の朝には終わると思うよ」
 俺が言うと、少女――島津家の末姫島津家久は、その円らな瞳を丸くして驚きをあらわす。
「うわ、あの量をもう仕上げちゃったの……って、うわ、卓の上がすごいことになってるよ、お兄ちゃんッ?!」
 その声に促され、改めて自分の卓の上を見てみれば、そこには今日まで書き上げた書物が山と積まれている。確かに、一度崩れると収拾がつかなくなるかもしれない。
 崩れるくらいなら直せば問題ないが、墨の上にでも落ちた日には、何刻分かの作業が無に帰してしまうだろう。あぶないあぶない。


「相変わらず、お兄ちゃんはすごいねー。私じゃ多分、この半分も無理だよ」
 卓の上から下ろした書の量を見て、家久が驚きと呆れを半々にした声で言った。
「そうかな、俺に出来て家ちゃんに出来ないってことはないと思うけど……まあ、単純に俺がこういう作業が好きっていうのもあるのかな」
「んー、ただ好きってだけじゃこれは無理だよー。後で確認するけど、内容の間違いだってきっとないと思う」
 その家久の評に、俺は小さく肩をすくめた。
 書物を記すことに関しては正確無比。
 それがこの俺、天城颯馬に家中で与えられた、ほとんど唯一と言っても良い褒め言葉であった。




 古くは宋の時代に生まれたとされる印刷技術によって、様々な書物が幾百、幾千と刷られ、各地に広がるようになってはいたが、それにも限度というものが存在する。京で書かれた書物が、九国に渡るまでにはそれなりの日数がかかるし、それがさらに南の薩摩に届くまでは、更なる時間を必要とする。
 これが大陸渡来の貴重な兵書ともなれば、かかる時間は無論のこと、たとえそれが偽書であっても十分に有用なものなのである。
 そういった貴重な書物を手に入れ、家中の教育に役立てようという試みをはじめたのは、先々代日新斎様であった。自身、かなりの好学家であった日新斎様は、家中の荒くれ者たちに学問の重要性を説き、自ら教鞭をとって後進の育成に励むことも多かった。
 ことに隠居した後、貴久様が名実ともに島津の当主として認められてからは実務の面から身を引いていたため、暇をもてあましたこともあって、より一層、そちらの方面に力を注がれたものであった。


 ――ちなみに、その日新斎様をして『遠からず出藍の誉れと言われるであろうな』と嘆息せしめた教え子二人のうちの一人は、俺の目の前にいる家久であったりする。
 もう一人は誰かといえば、俺の目の前の大量の書物をつくらせた張本人だったりするのだが……


 話がそれた。
 そういった教育に関して、書物は必要不可欠。俺が書き写した書物や、島津家の歴史を記した書物などは、いずれそういった用の供されることになるのである。
 とはいえ薩摩にも印刷技術は当然ある。それなのに、何故わざわざ俺が手で書き写す必要があるのかと言えば――


『ばか颯馬の唯一の特技ですから、それをとりあげるわけにはいかないでしょう?』
 とは、俺に命じた某三女の弁である――泣くぞ、しまいには。


 心無しか肩を落とした俺を見かねたか、家久が慌てたように口を開く。
「あ、あはは、としねえ、相変わらず容赦ないね……で、でもほら、印刷ってむずかしー漢字とかそのまま写しちゃうじゃない。小さい子供たちには、お兄ちゃんが読みやすいように心がけて書いた本の方がずっと好評だよッ」
 一生懸命、俺を立てようとしてくれる家久の思いやりに、思わずほろりとしそうであった。
 やはり、この子こそ島津の良心。異論は認めない。
 ――まあ、義弘あたりにそういえば『それ以前に、自分より年下の女の子に気遣われる我が身の不甲斐なさを何とかしなさいッ!』とどやされそうであるが。



 ともあれ、家久の淹れてくれたお茶と、お手製の菓子をいただきながら、なにくれとなく話を続ける。
 家久は将来薩摩屈指の美人になること間違いなしの器量良しの女の子であり、その確率を問われれば、おれは迷うことなく十割と断言するだろう。
 共に育ったという贔屓目が、その評価に含まれていることは否定しないが、それだけではない。家久にはすでにその可能性を現実にしている三人の姉がいるのだ。
 すなわち、薩摩国内に知らぬ者とてない『島津の四姫』である。


 その温和の為人をもって個性豊かな妹たちと剛強な薩摩隼人を従える現島津家当主『島津の母』、長女島津義久。
 島津屈指の猛将として、若年にしてすでに薩摩はおろか周辺諸国にまでその名を轟かせる『島津の武威』、次女島津義弘。
 日新斎様をして「長ずれば、わしなど遠く及ばぬ域に達する」と嘆息せしめた『島津の智嚢』、三女島津歳久。ちなみに先の出藍の誉れ云々のもう一人はこちらである。
 そして島津の末姫家久。これまで述べたとおり、直ぐな気性と他者への気遣いを併せ持つ優しさは『島津の良心』と呼ぶに相応しく――同時に、この年齢にして徳、武、智、いずれも三人の姉に迫るものを示す偉器でもある。長ずればどれほどの人物になるのか、日新斎様ではないが、空恐ろしくなる時もあった。


 この四人、その才智はもちろんのこと、美貌をもっても知られており、上二人はすでに適齢期を過ぎ――げふんげふん、適齢期の真っ只中におられる。歳久にしても、婚儀の話が出てもおかしくない年齢に達している。それゆえ、薩摩国内はもとより、他国からも婚姻の申し出が殺到していたりするのである。
 もっとも、当人たちは少しもその気はないようで、先日などは日向の伊東家からの使者があまりにしつこかったため、義弘が文字通り城からたたき出すという一幕もあった。
 実のところ、義久と義弘が今不在なのは、この件も多少影響しているのだが……まあそれは後述しよう。



 そして、現在の薩摩島津家を司る四人のことを親しげに語る俺が何者かというと。
 キクゴローが首をかしげて問いかけてきた。
「何者なのかにゃ?」
「……えーと、なんだろう?」
 一応、俺の父親が日新斎様に仕えており、その死後、後を継ぐ形で俺も島津家の禄を食んでいるので、家臣であるのは間違いない。しかし、家臣というには姫たちとの距離がやたらと短いのは、幼馴染同然に育ってきたゆえである。ただ、そのあたりが君臣の関係にあるまじきこととして、一部の一族から問題視されていたりするのである。
「もっとも、俺自身が大した奴じゃないから、表立っては問題にならないんだけどな」
「芸は身を助けるというけど、無芸も身を助けるんだねー」
 キクゴローが暢気に相槌をうつ。それはそれで情けない話ではあるけどなあ。


 義弘などは、このことにひどく立腹する。義弘自身が俺を責めるのは良いが、他者が俺を責めるのは我慢ならないらしい。ありがたいような、ありがたくないような。どうせなら本人も、もうすこし俺に対して優しくしてほしいのだが。
 そう願望を述べる俺への答え。
「無理だね」とキクゴロー。
「今のままだと無理だねー」と家久。
 俺はがくりとうなだれるしかなかった。


 まあ半分以上冗談である。正直、一族連中からの誹謗なんぞ歳久に詰られる十分の一も応えないから、どうでも良いのである。むしろ、連中を見返すために努力するとか、その方がよっぽど苦行だ。
 そんな俺を見る家久の顔に苦笑が浮かぶ。
「きっとひろねえは、お兄ちゃんのそういったところが我慢できないんだと思うよ。『颯馬が本気を出せば、あんな奴ら、簡単に見返せるのに』って口癖みたいに言ってるもん」
「今度、あいつに買いかぶりという言葉の意味を教えてやらないといけないな」
 そう言って肩をすくめる俺に対し。


 ――家久は不意に奇妙に奥深い笑みを向けてきた。


「……ほんとに、買いかぶりなの、お兄ちゃん?」
 眩めくような家久の笑みは、この時、妖艶ささえ感じさせ、まるで一気に十歳くらい年齢を重ねたように、俺の目には映った。
「……家ちゃん?」
「んー? どうしたの、お兄ちゃん。なんか変な顔してるよ?」
 だが、次の瞬間にはいつもの家久の笑みがそこにあった。一瞬前の奥深い笑みはどこにも見当たらない。
 長時間、字を追いかけ続けていたので、目が少し疲れていたのかもしれない。俺はそう考えて、自分を納得されることにした。




 そう。気付かれているはずはないのである。
 父親から受け継いだ俺の役儀のことを知るのは、貴久様亡き後は日新斎様お一人であるのだから……






[10186] 影将記(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/27 20:18

 獅子城に不穏の動きあり。
 その報告が島津の居城である内城にもたらされた時、ちょうど俺たちは軍議を行っていた。大隈国との国境に出向いていた義久、義弘の二人から、隣国の肝付氏が盛んに兵を集め、薩摩に攻め寄せる気配を示しているという報告がもたらされ、その対策を練っているところだったのである。



 獅子城は薩摩南部に位置する山城で、頴娃(えい)氏という豪族の居城である。頴娃氏は祖先を遡れば島津家に連なる血筋であり、島津の一族と呼んでも差し支えなかったが、実のところ、頴娃氏は隣国の肝付家とも浅からぬ縁を持っていた。むしろ、血の濃さで言えば、こちらとのつながりの方が強いと言えるかもしれない。
 そのため、頴娃氏はこれまでも心底から島津家に従ってきたわけではなく、時に居城の天嶮を頼んで、島津家と矛を交えたこともあった。日新斎様が家督を継がれてからは、おとなしく島津の麾下となっていたのだが、近年、島津家の威勢が衰えるに従って、また反骨の相をあらわにしつつあったのだが――



 九国の南の諸城を記した地図を前に、俺は腕組みしながら考える。
 軍議とはいっても、この場にいるのは俺を除いては二人だけ。
 一人は難しそうな顔で首を傾げている島津家久。
 そして、もう一人は。
「予想どおり、肝付も私たちを潰すのに本腰を入れてきましたね。よほど背後から焚き付けられたと見えます」
 そういって、その少女はかすかに目を細めた。その眼差しには怜悧な輝きが躍り、前後を難敵に挟まれた苦境に臨んで、一かけらの動揺も覚えていないことが瞭然としていた。
 だが、それも道理。前後してもたらされた二つの報告、そのいずれもがこの少女――島津の智嚢たる島津歳久の予測の範囲内であるのだから。



「日向の伊東家が大隈の肝付家をたきつけて、その肝付家が一族筋の獅子城の頴娃(えい)さんをそそのかしたって感じだね。私たちが肝付さんと戦うために大隈との国境に兵を進めたところで、背後を衝くつもりだったのかな」
 家久が右の人差し指を頬にあてながら、敵の動きを推測する。
 それを聞いた歳久はゆっくりと頷き、妹の見解に賛意を示した。
「大方、そんなところでしょう。久ねえと弘ねえが国境に赴いた今、この城も掌の内とでも思ってほくそえんでいるに違いありません」
 浅はかですね、と今回の敵の動きを、歳久は一刀両断してのけた。
 自分の策が図に当たった形なのだが、満足している様子はない。むしろ、この程度の策に謀られるような相手は、自分が智略を競う相手としては役者不足も甚だしいと感じていることが、付き合いの長い俺にははっきりとわかった。


「こちらは、はじめから鵜の目鷹の目で獅子城を見張っているのです。その気配さえ察せないようでは、戦う前から勝敗は見えています」
「んー、それはそうだと思うけど。でも油断は禁物だよ」
 歳久の自信に満ちた言動に、家久が控えめに異見を述べる。
「このままいけば、作戦通り獅子城から敵をおびき出すことは出来ると思うけど、こっちの兵力が少ないのは事実だし。もし、あっちの当主や主要な武将を取り逃がしたら、天嶮に縄張りする獅子城に篭城されちゃう。そうしたら、あの城はそう簡単に陥とせないと思う」
「それは確かにそうです。だからこそ、第一矢で敵の心の臓を射抜かねばなりません。しくじれば、わざわざ弘ねえに頼んで一芝居うってもらった意味がなくなってしまいますから」
「あはは。でも、弘ねえ、伊東さんとこの使者が来た時は本気で怒ってたっぽいよ、作戦とか関係なく」
 その時の姉の鬼武者ぶりを思い起こし、家久はくすくすと邪気のない笑みを浮かべる。
 歳久もまた、はじめてその表情を緩め、小さく肩をすくめた。
「――『しょせんは没落した守護の姫。薩摩一国すら掌握できない貴様らにとって、わしの傍に侍ることが出来るのは無上の幸運であろう』でしたか、あの日向の暴君の口上は。私たちを端女のごとく嬲ろうなどと世迷言を。怒る価値さえない小者とは、ああいう男を指して言うのです」
「そうだねえ。使者の人も、明らかに私たちを見下していたしね。弘ねえが怒ったのも無理ないよ」
「むしろ弘ねえが怒ったことを連中は感謝するべきでしょう。コブや痣をつくっても生きて帰ることが出来たのですから。もし弘ねえがあそこで我慢して、使者があのまま戯言を口にし続けていたら、私がこの手で射殺していたところです」
 完全に本気の表情で断言する歳久。
 もし、あの時の使者がここにいたら震え上がって恐れおののいたに違いない。



 
 まあ、それはともかく、だ。 
「なあ、キクゴロー」
「なに、颯馬?」
「俺がこの軍議にいる意味って何だと思う?」
「颯馬、ボクの頭の中のご先祖様が言っているよ。『人には知らない方が幸せなこともある』って」
「さいですか」
 二人の会話に口を挟むことができない俺は、キクゴローと埒もない囁きを交わして暇を紛らわしていたのだが――
「ばか颯馬、何をこそこそしているのですか。キクゴローも、誇り高き知猫なのですから、ばか颯馬に合わせる必要はありません」
 歳久の鋭い眼差しが俺とキクゴローに注がれ、俺たちは二人して背筋をただす。


 俺を置いて話を進めていたことに思い至った家久が表情を曇らせて口を開く。
「あ、ごめんね、お兄ちゃん。つい話に夢中になっちゃって」
 もう一方の歳久はといえば、そもそもはじめからそれを承知で話を進めていたらしく、微塵も悪びれた様子がない。
「家久、こちらに非がないのに謝る必要などありません。そもそもばか颯馬は、お爺様の名代としてこの席にいるよう申し付けられているのでしょう。意見の一つや二つ、申し述べて当然ではないですか」
「それを言われると一言もないな、歳ちゃん」
「歳ちゃんと呼ばないでください、ばか颯馬ッ」
「ばか颯馬と呼ぶな、と俺も何度も言っているはずだが?」
「事実を指摘しているだけです。それとも、あなたは私を上回る策を練ることができるのですか?」
「それは無理だ」
「……なんでそこで自信満々で即答しますか。まったく」


 はあ、とこれみよがしに深いため息を吐いてみせる歳久。
 俺はなんとか一矢報いようと試みる。
「しかし、俺も事実を指摘しているだけだぞ。歳久は俺より年下だし、昔から歳ちゃんと呼んでただろう。歳久だって小さい頃は俺のことをお兄さ――」
「ばか颯馬、今すぐ黙らないと、口の下にもう一つ穴が開きますよ。それも首の前と後ろの両方に。ああ、でもその方が意見も言いやすくなるかもしれませんね。いつも黙ってばかりのばか颯馬にはちょうど良いかもしれません」
 それはつまり首筋を射抜いてやるということか。はは、まったく歳久も冗談ばかり……冗談……冗談?


「ねえ颯馬。歳久、本気みたいだよ?」
 キクゴローの言葉に、俺はかすかに頬をひきつらせる。だが、かりにも妹同然の女の子に迫力負けするなど男児の沽券に関わるというものではないか!
「……みたいだな。だがこの天城颯馬、いかに稀代の切れ者といえど、年少者の脅しに屈するような腑抜けでは――!」
 腑抜けではない、と断言しようとした俺に――歳久は不意ににこりと笑みを向けた。
 突然の笑みと、そこらこぼれでる無色の気迫に、知らず、俺の身体はがたがたと震えだす。
「……どうしました、ばか颯馬?」
「い、いえ、何でもない……です、はい」
「そうですか。ところで、私は小さい頃、あなたのことを何と呼んでいたんでしたっけ?」
「た、たしか呼び捨てだったような気がするな、うん、『颯馬』って」
「ええ、そのとおり。今後は自分の願望に、私の姿を重ね合わせるのは許しません。いいですね、ばか颯馬」
「……は、はい、かしこまりました」
 思わず、ははー、と平伏しそうになる俺であった。



「……情けないにゃあ」
「ほ、ほら、お兄ちゃん元気だして。私はお兄ちゃんの味方だよッ」
「……ありがと、家ちゃん」
 キクゴローはため息まじりに俺を評し、家久は俺を励ますように声をかけてくれた。
 だが、なおも島津の三姫の舌鋒は止まらない。
「家久、あなたや久ねえがいつもいつも甘やかすから、ばか颯馬がいつまで経っても本気を出さないのではありませんか。昨今の情勢をかんがみるに、九国にも激しい嵐が近づいてきているのは明らか。薩摩だけが安寧を保っていられるはずもありません。今の島津の国力では、大友や伊東、それに近頃勢力を強めている竜造寺などの強国に抗うことは難しい。だからこそ、私たちは先手を打って動くことを決めたのでしょう」
 そう言った後、俺を見る歳久の眼差しは相変わらず厳しいままであった。だが、その中に、厳しさ以外の何かが含まれているように思えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。


「……ばか颯馬。あなたにも言っているのですよ、わかっていますか?」
 その問いに対し、もちろん、と答えることは出来た。
 だが、俺はあえてその言葉を口にせず、ただ頷くだけにとどめた。
 そんな俺を見て、歳久はさらに何か口にしかけたが――束の間、逡巡した後、歳久は口を噤む。 これ以上は何を言っても無駄と考えたのか、あるいはそれ以外の理由があったのか。口を閉ざした歳久の顔には、俺の洞察を許すような隙はなく、結局、俺がその答えを知るのは随分と先の話になるのであった。




◆◆



 数日後。
 内城は常以上の熱気と喊声で満ち満ちていた。
 千を越える島津家の主力部隊が、宿敵たる肝付氏との戦のために集まっているのである。
 大隈守護の肝付家が、三千を越える大軍をもって薩摩領内に乱入する気配を示したのが先日のこと。両国の国境には、すでに島津の当主と、鬼と恐れられる猛将が千の兵を率いて滞陣しており、容易に敵の侵入を許すことはないであろうが、敵は三千、一方の味方は千。兵力上の不利は誰の目にも明らかである。
 それゆえ、留守をあずかる島津歳久は、さらに千の兵を援軍として国境に差し向けることにしたのだ。これは現在の島津家が動員できる兵力のほとんど全てであったのだが、兵の集まりが歳久の予想以上に悪く、結局、当初予定していた兵力が揃った頃には、すでに日は西に没しかけていた。
 このまま出陣すれば、間違いなく夜間の行軍となる。しかし、それを避けるためには夜明けまで待たねばならず、そのせいで援軍が遅れては国境が破られる恐れがあった。それゆえ、歳久はすでに夜間に進軍することをすでに決定していた。
 将兵一人につき一つ、松明を渡して、行軍の助けとなるようにし、敵味方の誤認を避けるために合言葉を徹底するなど、準備にも万全を期す。


 それらの準備が終わると、急速に茜色の空を侵食する夜空の下、歳久は将兵の前に立って高らかに声を発した。
「聞け、島津が精鋭よッ! 此度の敵は隣国、大隈の守護肝付家の軍勢である。その将は武に長じるも謀に弱く、その兵は数こそ多いが錬度において我らと比べるべくもない弱兵である。すなわち、この戦に島津が負ける要素はない」
 先刻までの喧騒が嘘のように、しんと静まり返る城内。その静寂を裂いて、歳久の声は、弱冠の乙女とは思えぬ力強さで朗々と響き渡る。
「されど、油断は大敵であり、慢心は敗北を招く。皆の中には肝付との戦で親兄弟を失った者も少なくないだろう。報復を願う者も少なくないだろう。だが、この戦は恨みを晴らすための戦に非ず。主を守り、友を守り、配下を守る戦である。それはすなわち、この島津という家を守るための戦であるということだ」
 歳久の声を聞くうちに、俺は自身の内より滾々と湧き出でる感情を自覚する。ただただ勇壮なその感情を、人は勇気と呼ぶのかもしれない。
「将の令を守れ。友の声に耳を傾けよ。配下の進言を等閑にしてはならない。それを為してはじめて、我らは一つの軍となるのだ。さあ、刀をとれ、槍を掲げろ! 背に弓を負い、矢を揃えろ! 此度の戦は魁(さきがけ)である。島津が起てば、敵すべからず。その事実を九国全てに知らしめるのだッ!」
 歳久が腰の宝刀を抜き放つ。
 その宝刀は城内の篝火を映して、将兵の目に燦然と煌いて見え、否が応にも将兵の興奮を高めていく。
 そして――


「全軍、出撃ッ!!」


 島津歳久の号令にわずかに遅れ、その場にいた将兵の口から発された力強い喊声は、内城の城壁を確かに揺るがしたのであった。 




[10186] 影将記(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/27 20:16


 日はすでに没し、常であれば内城の内外は暗闇に包まれている頃合である。
 しかし、今宵ばかりは夜の闇といえど、その勢力を拡げることは出来ずにいた。
 盛んに焚かれた篝火は闇を払い、将兵が掲げる松明の灯りは、城門から続々とあふれ出て街道を埋め尽くす勢いである。
 その数は千にも達し、彼らが気勢を上げながら城門から出陣していく様は勇壮の一語に尽きた。
 その喊声を聞き、意気盛んな様を遠望すれば、島津家の士気の高さを疑う者はいないであろう。


 ――それは、この光景をいずこかで見ているであろう敵の斥候も同様である。俺はそう考えていた。
「問題は、そいつがきちんと闇夜の中で、松明の灯りから兵数を読み取れる程度に物見に慣れているかどうかだな」
「まあ、それは大丈夫じゃないかな。敵だって馬鹿じゃないんだし、こっちの本拠地を探るのに手は抜かないでしょ」
「そう期待するとしようか」
 傍らのキクゴローと会話を交わしつつ、俺が足を向けたのは、今まさに出陣していく軍勢とはまったく反対の方向であった。


 臆病風に吹かれて逃げ出した――わけでは、もちろんない。
 その証拠に、俺が進む先には二人の姫が待っている。
「ばか颯馬、遅いですよ」
「お兄ちゃん、早く早く」
 歳久と家久が、それぞれ異なる表現で俺を急かす。すでに二人は馬上の人となっており、その身を委ねるは島津家の厩舎から厳選された駿馬である。


 出立の時をいまや遅しと待ち構えている人と馬に、俺は頭を下げると、地を蹴って馬の背に跨った。
 たちまち馬上の人となった俺は改めて周囲を見渡す。
 この場にいるのは俺と歳久、家久の二人のみ。俺たち以外の人影はない。その事実を確かめてから、俺は改めて危惧の念をあらわした。島津宗家の二人の姫が、護衛もなしに城外に出るというのは、やはりまずいのではなかろうか。


 そんな俺に、歳久は嘆息して口を開く。
「まだ言っているのですか。そもそも、私と家久以上に腕の立つ護衛など、島津の家臣にも数えるほどしかいないでしょう。その一人は弘ねえですし、他の者も将としての役目があります。護衛などと役不足も甚だしいというものです」
「そうそう。私と歳ねえがいれば、曲者なんて恐るるに足らずだよ、お兄ちゃん。いざという時は、ちゃんとお兄ちゃんも守ってあげるから安心してね」
 にこにこと微笑む家久に、俺は素直に頭を下げる。何せ、武芸において俺が二人に及ばないのは衆知の事実なのだ。意地を張ろうにも、この二人が相手では意味がない。
 なので、素直にその言葉に甘えておこう。
「ありがと、家ちゃん、その時はよろしく」
「うん、まかせて♪」
 頼もしい妹をもって、俺は幸せだ――などと感慨に耽っていると。


「……妹に守ってあげると言われて、なんで礼を言うのですか。少しは恥じなさい。そもそも、家久の言葉はあなたが私たちに言うべき台詞ではないのですか?」
 苦々しさもあらわに苦言する歳久。
 言われてみれば、なるほど、それも道理。ここは年長者として、良いところを見せるべきか。
 俺は拳を振りかざして、きっぱりと宣言する。
「任せとけ、歳ちゃんと家ちゃんは、俺が我が身にかえても守ってみせるッ!」
 反応は素早かった。ほとんど間髪いれずに歳久が俺の言葉を遮るように声を高めたのだ。
「歳ちゃん言うな! あと、前言は撤回します。あなたほど、今の台詞が似合わない人はいませんでした。私としたことが」
 いつものごとく辛辣な歳久評だった。


 自分で言ったくせに、などと俺がぶちぶち言おうとすると、それを察したのだろう、家久が一足先に口を開いた。
「ほら、歳ねえもお兄ちゃんも、これ以上のんびりしてると皆を待たせちゃうよ。それに、兄妹喧嘩で戦機を逃したなんて知ったら、お爺様が目を三角にして怒りだしちゃう」


 家久が口にした、お爺様、の一言で無意識のうちに背筋を伸ばす俺と歳久。
「……そ、それもそうですね。家久、ついでにばか颯馬、早く行きますよ」
「……かしこまった。重ね重ねありがと、家ちゃん」
「どういたしまして。あたしもお爺様のお説教は遠慮したいからねー」
 あはは、と笑う島津の末姫の言葉に、思わず同意してしまう俺と歳久であった。



◆◆



 そのしばし後。
 俺たちは当初の予定どおり南へと馬首を向けた。
 言うまでもなく、大隈国との国境は正反対である。ついでに言えば、南へ向かったのは俺たちばかりではなかった。


 今回の戦いで島津が用いたのは、策としてはさほど独創的なものではない。
 敵の狙いどおり、北東の国境に大兵を繰り出したように見せかけることで、その実、南で蠢動する敵をおびき出して叩こうというのだ。
 闇夜の中を出陣した兵士たちは、本来、一人につき一本もっている松明を両手に持っている。遠くから見れば、五百の兵が千にも見えることだろう。
 これが小細工に過ぎないことは承知の上だ。闇に紛れてこそ敵の目を誤魔化せるのであり、夜が明ければ島津の兵力はたちまち敵に見破られてしまうだろう。


 だが、それは別にかまわない。元々、敵にこちらの動きを知られるのを、わずかなりとも先に延ばすためだけの細工である。明日の朝まで隠しおおせれば、大成功と言ってよい。わざわざ募兵を手間取らせ、出陣を夜とした甲斐があったというものである。
 

 これで敵の目を大隈との国境に逸らし、残りの五百は密かに南へ向かう。無論、南部で妄動する連中を制するためである。
 とはいえ、ここで堂々と隊伍を組んで進軍しては、間違いなく敵に気付かれる。折角、敵の目を欺いたのだ。俺たちの動きを知られるのは、遅ければ遅いほど良い。
 それゆえ、南へ向かった部隊は隊列を組んで南下したわけではなく、三々五々、将兵を城から送り出し、所定の地に集うように伝えただけであった。その他にはろくな決め事もなかったが、剛毅朴訥な薩摩の兵にとって、細かな指図はかえってその行動を妨げる原因となることが多いから、これで十分なのだ。
 事実、集合を定めた地には、薩摩島津家の誇る五百の軍勢が勢ぞろいしていた。
 将来、島津が勢力を拡げていけば、指揮系統を整備する必要も出てくるだろうが、それは後の課題である。




 
「物見によれば、頴娃勢はすでに城を出て内城に向かっているとのことです。私たちとぶつかるのは、おそらくこのあたりになるでしょう」 
 そういって歳久が地図の一点を指し示す。南薩摩に広がる峻険な山の一つ、内城と敵の居城からはほぼ等距離にある。
「うん、そうだね。敵の数は八百かー、思ったより多いね」
「それだけ、あちらも本気ということでしょう。幸い、まだこちらの動きは気付かれていない。予定どおり奇襲をかけますが、異論はありますか?」
 歳久の問いかけに、家久が首を横に振った。
「家久は承知ということですね。ばか颯馬、あなたは?」
「ぬ、俺か?」
 思わぬ問いかけに、俺は目を瞬いた。あの歳久が作戦行動に関して、俺の意見を聞いてくるとはめずらしいこともあるものである。


「問題ないと思うぞ。こっちの動きが掴まれていない以上、機先を制することが出来るのは確実だからな」
 俺の言葉に、歳久はこくりと頷く。
「二人とも、承知ということですね。では、家久は半数を率いて山腹に潜んでください。敵の主力は素通りさせ、後方の荷駄隊が通ったところでこれを襲撃してもらいます。火を放って敵を撹乱してください」
「うん、了解だよ」
 家久が元気良く頷く。
「私は同じく半数を率い、家久が放った火の手を合図に、敵の主力に奇襲をかけます。家久は荷駄隊を蹴散らしたら、そのまま山道を封鎖し、落ちてくる敵を足止めしてください。私は敵の本隊を打ち破った後、追撃をかけて、敵の残存部隊を家久と共に前後から挟撃します」


 山道は狭く、兵を広く展開させることは難しい。敵の兵力はこちらのほぼ倍だが、山間ではその隊列も間延びせざるを得ず、そこを奇襲すれば勝利は容易いだろう。とはいえ、そんなことは敵もわかっているから、こちらが近くにいるとわかれば用心は欠かさないであろうが――
「そもそも、こっちの動きに気付いていないからな。この時点で七割くらい勝ってるようなもんだ」
「そうだねえ。で、颯馬は何をするの?」
「城で歳久が話しただろ……って、そうか、あの時、お前いなかったな」
 軍議が退屈になったのか、気がついた時にはキクゴローの姿が消えていたことを思い出した。
「そういうこと。で、兵は歳久と家久が率いちゃうんでしょ。颯馬は一人で何するの?」
「近くの農民を集めて偽兵を仕立てろってさ。山の中で何十もの旗を立てれば、敵の動揺はいや増すだろ?」
「なるほど、だれでも出来る楽な仕事だね」
「うん、その通り。はっはっは」
 俺が乾いた笑みを浮かべると、刺々しい声が耳を刺す。


「はっはっは、ではありません。万一、敵に私たちの奇襲が気付かれた場合には、偽兵の存在は敵の士気を挫く一手にもなるのです。油断しないように、かつ完璧にこなすのですよ、ばか颯馬」
「了解だ。まあ大舟に乗ったつもりでお任せあれ」
「泥舟でさえなければ、それ以上の期待はしてませんので安心してください。では家久、私たちは行きますよ」
「りょうかーい。じゃあお兄ちゃん、気をつけて。無事でまた逢おうねッ」
「おう、家ちゃんも気をつけてなー。歳久も怪我しないように」
「ばか颯馬に気遣われるほど堕ちてはいません。余計なお世話ですッ」
「はいはい、わかったわかった」
 相変わらずの歳久に、俺が苦笑しながら答えると、あしらわれた、とでも思ったのか、歳久が頬を紅潮させてぷいっと顔を背けた。
「――ッ! ばか颯馬、戦が終わったらおぼえてなさい」
「承知。首を洗って待っていよう。だから、死ぬなよ?」
「当然です。私を誰だと思っているのですか。この程度の小競り合いで倒れる島津歳久ではありません」


 そう言うと、歳久は馬首を巡らし、麾下の兵と共に山中に消えていった。それにわずかに遅れて家久とその部隊も姿を消す。
 それを見送り、あたりを見回すと、残っているのはキクゴローのほか、二、三の兵のみ。皆、数少ない俺直属の臣である。
 そのことを確認するや、俺は表情を改める。
 さきほどまで緩んでいた頬を引き締め、口元を引き結ぶ。こうすると、キクゴロー曰く「びっくりするほど真面目に見える」らしい。
 しかし、ただこれだけで真面目に見えるとか、歳久らと一緒にいるときの俺は他者にどんな風に見られてるんだろうか。いや、聞くまでもないんだけどな。



 俺が埒もないことを考えてると。
「頭(かしら)、準備は整えてありますぜ。あたりの農民はすでに俺たちに協力を約しています。ただ、頂いた金子は使いきってしまいましたが……」
 恐縮したような配下の言葉に、俺は頷いてみせる。
「構わない。そのために与えた金だ。お前たちは彼らと共に島津の旗を持って山中に隠れていてくれ。火の手を見たら、旗指物を掲げて気勢をあげるように」
 それは要するに、俺が歳久から命じられた任務であった。
「承知しました。しかし、お前たちは、と仰いましたか。頭はどうするおつもりで?」
「あの二人に任せていても問題はないだろうけど、念には念を、だ。敵の様子を探ってくる」
「護衛は――っと、要らぬ問いでしたな」
 そう言うと、男は懐から何やら取り出した。
「これは、このあたりの地形を記したものです。簡略なものですが、なにがしかの役には立つかと」
 そういって渡された地図を俺は一瞥する。
 言葉とは裏腹に、周囲の地形が詳細に記された精緻なものだ。おそらく周囲の農民を靡かせる間にも、自らの足で調べまわってくれたのだろう。
 地の利を得ることこそ勝利の要諦。父の代から天城家に仕えているだけあって、このあたりの周到さは実にありがたい。
「助かる。では、後は任せた」
「ははッ」


 配下の返答を聞くよりも早く、俺はすでに馬を駆けさせていた。歳久や家久の後に続けば、すぐに気付かれてしまう。二人と、二人の部隊に見咎められることなく、敵を指呼の間に捉えなければならない。
 難儀なことではあるが、地図さえあれば不可能なことではあるまい。すでに先ほど地図を見たとき、ここと思しき場所には見当をつけている。
「万一ということもある。こんなところで、島津宗家の血を流すわけにはいかないからな」
「そんなことになれば、日新斎や先代に申し訳が立たないってわけ? その心がけを見せてあげれば、あの子たちも喜ぶだろうにねえ」


 あの子たち、というのが島津の姉妹のことであることは明らかであった。
 キクゴローの口から、この手の言葉を聞くのは何度目になることか。俺は肩をすくめて聞き流した。
「出来ないとわかってることを言うな、キクゴロー。天城は島津の臣にして影、その身命を懸けてただただ主家を守るべし。家訓に背くわけにはいかないし、俺自身、背こうとも思わないさ」
「別に颯馬が表に出たって、あの子たちを守ることはできるでしょ?」
「そうだな。けど、影であればこそ、出来ることはある。島津には敵も多いが、忠義に優れた家臣もたくさんいる。人、各々領分あり、だ」
 俺がそう言うと、背中のキクゴローはそれ以上は口にせず、鼻をならして黙り込む。


 苦笑してかぶりを振ってから、さらに馬の足を速める。
 馬が地を蹴る音だけが周囲に響きわたる中、俺は一路、目的の場所を目指すのだった。
 




[10186] 影将記(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/03/03 00:09


「おのれッ、島津の小娘どもがッ!」
 勝利の確信と共に出陣したはずが、今や手勢のほとんどを失って惨めに落ち延びようとしている。
 頴娃兼堅は、その現実を認めることが出来ずにいた。
 口惜しげに雑言を吐き散らすのは、絶えず湧き上がる屈辱感を押さえかねるゆえである。
 城を出た時は八百を数える将兵を指揮していたはずなのに、今、周囲を見渡せば、従う兵は片手で数えられるほどの数しかいない。改めてそのことを思い知り、兼堅はみずからの凋落ぶりに愕然とせざるを得なかった。



 実のところ、もともと兼堅は頴娃家にあって親島津派として知られていた。島津忠良(日新斎)、貴久の二代に仕え、その信任を受けて頴娃家の勢力拡大に努めてきたのである。
 先代貴久が亡くなった折、兼堅は日新斎の復位を望んだ。島津宗家にはめぼしい男児はおらず、それ以外に選択の余地はないと思えたからだ。
 しかし、実際に島津の当主の座に座ったのは、貴久の長女である島津義久であった。このことが兼堅の逆鱗に触れる。女如きを主として臣従するなど、誇り高き頴娃家の当主には出来かねると考えたのだろう、以後、兼堅は明確な離反の意思を示すことこそしなかったが、明らかに島津家と距離を置くようになったのである。


 この両者の不和は必然的に他勢力の知るところとなり、兼堅の下には隣国大隈の肝付家からの使者がひっきりなしに訪れるようになった。
 肝付家としては、元々自分たちに近しかった頴娃家を、島津の麾下に誘った兼堅個人に対し不審の念を持ってはいたが、島津の後背を扼す意味で獅子城の存在は無視できない。兼堅の前には、その歓心を買うために財貨と甘言が山のように積まれ、ついには島津を討った暁には薩摩南部を与えるとの誓紙まで与えられたことで、兼堅は反島津に与することを決断したのである。


 とはいえ、兼堅としても、この一戦で島津家を滅ぼせると考えていたわけではない。仮に戦況が拮抗し、両者が和睦すれば、最も困難な対場に置かれるのが頴娃家であることは明らかである。
 それゆえ、兼堅としては島津家と肝付家との間で起きた今回の戦では漁夫の利を狙いつつ、慎重に事を進めるつもりであった。
 無論、島津を滅ぼすことが可能であると見たならば、容赦するつもりはない。
 それは、女の分際で島津の家政を我が物顔で取り仕切る姫たちに、現実というものを教えてやるためであり、加えて言えば、孫かわいさで目が眩んでいるとしか思えない日新斎への手痛い諫言のつもりでもあった。


 事実、此度、居城をがら空きにした島津の動きを見た頴娃家の当主は、これを千載一遇の好機と見て出陣した。おそらく内城に残る兵力は二百に満たず、頴娃家の全軍をもってすれば、これを陥とすことは難しくない。そして、島津家の居城を陥とせば、頴娃家は一躍薩摩に覇を唱えることも可能である――そのはずであった。


 しかし、現実は兼堅の目論見をことごとく裏切って進む。
 後方の荷駄隊への襲撃を知った時は、山賊の仕業と信じて疑わなかったが、その部隊が高らかに掲げるのは『丸に十字』の島津の家紋。
 島津軍はこちらの陽動につられて、全戦力を大隈との国境へ貼り付けたはず、と兼堅は愕然としたが、そうしている間にも襲撃者たちは、こちらの後方部隊を壊乱させていく。
 妖術でも使ったか、と舌打ちしつつ、兼堅は全軍に反転を指示する。敵の所属や兵力は不明だが、こちらより多いということは有り得ない。本隊が赴けば、おのずと敵は四散する。そう考えたのである。


 しかし、狭い山道に八百もの兵がひしめきあっているのだ。全軍に指示を伝えることさえ容易ではない。加えて、先鋒部隊は後方の混乱に気付いておらず、今も内城にむけて進軍を続けている最中であった。
 命令に従って引き返す者。状況を知らず進む者。様子を見ようと立ち止まる者。たちまち頴娃勢は混乱し、彼らは互いにぶつかりあって、罵りの声をあげた。
 この時まで、頴娃勢の士気は高く、将兵は勝利の確信を持って意気軒昂であった。それは彼らの当主の必勝の念が、末端まで染みていたからである。
 だが、一刻も早い勝利をと逸るその心が、予期せぬ奇襲に遭って想像以上の混乱を生んでしまう。



 そして。
 まさにその瞬間を見計らい、敵は第二の襲撃をかけてきた。
 混乱の中心、全軍の要たる本陣へ。
 兼堅は咄嗟に迎撃を命じたが、それは混乱を助長することしか出来ず、奇襲部隊は易々と頴娃勢のただ中に突っ込んでくる。
 兼堅が、ようやく自らが策に落ちたことを悟ったのは、この時であった。
 小柄な身体に不敵な表情を浮かべ、本陣に突っ込んでくる姫武将の顔を兼堅は幾度も見たことがあったのである。
 その姫将の名を、島津歳久といった――






「おのれ、島津め、小細工を弄しおって。この屈辱、必ず晴らしてやる! 日新斎殿と先代殿には恩義があったゆえ、命まではとらずにいてやろうと思うたが、最早我慢ならんわッ」
 道さえない山中を、雑兵のように徒歩で踏破していく兼堅。
 すでに味方の部隊は壊滅状態であり、徴兵した農民のほとんどは討ち死するか、あるいは島津家に降伏したであろう。
 頴娃家直属の将兵は、今の兼堅のように山中を抜けて逃がれようとしているが、それも果たして何人が無事に城までたどり着けることか。敵の追撃は激しく、戦況を悟った周辺の農民たちの落ち武者狩りが始まっている気配もある。
 島津が、何としても兼堅の首級を取ろうとしていることは明らかであった。
 

 しかし、その事実は、兼堅にとって不利なことばかりではなかった。
 敵が何としてもこちらの首級を、と考えているのは、こちらが生きていては困る理由が敵にあるからである。
「……つまり、わしが逃げ延びれば、まだ挽回の目はあるということ。肝付殿の軍勢が動いた以上、島津とていつまでもこちらに兵力を張り付かせているわけにもいくまい。城までたどり着けば、再生の時を得ることがかなう。さすれば、いずれ小娘どもに懲罰の鞭をくれてやることもできようよ」
 兼堅がそう呟いた時であった。


 変化は急激だった。不意に目の前の草むらが揺れるや、竹槍が突き出されてきたのだ。
「ぬッ?!」
「殿ッ!」
 兼堅は身を捻るように竹槍を回避すると、配下の兵が慌ててその周囲を固めていく。
 敗残の主従の前にあらわれたのは、粗末な身なりで竹槍や木の農具を構える男たちであった。おそらくはこのあたりの農民たちなのだろう。
「かぶと首だ、逃がすなよ」
「おうさ、島津に引き渡せば、向こう何年かは楽に暮らせるじゃろ」
 じりじりと距離を詰めながら、口々に言い立てる農民たちの姿に腹をたてたのか、兼堅の部下の一人が声高に叫ぶ。
「下民どもがッ、控えろ! 車裂きにされたいのか」


 ――もし、ここが獅子城であれば、侍の一喝を受けて農民たちは言葉もなく平伏したであろう。だが、今この時、どちらの立場が上なのかを彼らは知っていた。
「はん、敗残の落ち武者が何を威張ってるんだか」
「相手にするな。さっさと首級をとっちまおう。他の村の連中がこないとも限らんで」
「そうだな、おら、とっとと死にくされッ!」
 両手に余る数の男たちが一斉に躍りかかって来る。
 それに応じて動き出す頴娃家の兵士たち。
「殿、ここはそれがしらが引き受けまする。はようお逃げくだされィッ!」
「……すまぬ。頼むぞ」
 そう言うや兼堅は身を翻し、駆け出した。
 背後から響く怒声と、それを遮る雄叫びを聞きながら、兼堅は足を止めない。
 徐々に遠ざかる刀争の音。部下たちの献身によって、兼堅はこの場からの離脱を果たすかに見えた。
 だが。



 不意に、兼堅の前方の草むらが大きく揺れた。
 それは兼堅の脳裏に、竹槍が突き出されたつい先刻の光景を否応無しに思い出させるもので、咄嗟に足を止めてしまう。
 その逡巡が、兼堅にとって生涯最後の不覚となった。
 頴娃家の兵はよく敵を食い止めていたが、絶対数が違う以上、どうしても押さえきれない敵が出てきてしまう。一人の若者が、命知らずにも竹槍を両手で構え、混戦を突っ切って兼堅の背後まで迫っていたのだ。


 力任せに突き出された竹槍では、鉄の甲冑は貫けない。だが、穂先は吸い込まれるように甲冑の隙間を縫って、兼堅の右脇腹に深々と突き刺さる。
「……と、殿ッ?!」
 異変に気付いた配下の、悲鳴にも似た声が兼堅の耳朶を震わす。
 彼らは慌てて主のもとに駆けつけようとするが、追いすがる農民たちはそれを許さない。逆に、その無防備な背に次々と竹槍が突き立てられ、たまらず倒れたところを、今度は農具で滅多打ちにされてしまう。
 苦痛の声はすぐに途絶え、しばらくの間、興奮した農民たちの叫びと、肉と骨が潰れる音があたりに響きわたった。


 これは必ずしも残酷さゆえのことではない。農民たちの行動は、恐怖に根ざすものであった。ここで下手に情けをかけ、一人でも逃がしてしまえば、後日、武士たちによって復讐されることを彼らは知っており、だからこそ、確実にその息の根を止めるまで、手を休めるわけにはいかなかったのである。


 ……やがて、落ち着きを取り戻した農民たちは、血と泥に塗れた竹槍を放り出すと、かぶと首である兼堅の周囲に群がり、その首級を奪う。
 かくて、島津家に叛した頴娃兼堅の首級は、農民たちの手によって、島津家のもとにもたらされることになったのである。


 ただ一戦で当主を討ち取られ、その兵力のほとんどを失った頴娃家。
 これ以上の抗戦は不可能であることは万人の目に明らかであり、この戦は島津の勝利で終わるかと思われた。
 しかし――





◆◆◆





 薩摩南部、獅子城。
 天嶮を利して建てられた堅牢な山城はを仰ぎ見つつ、城内へつかわした使者の帰りを待っていた俺たちは、使者が携えてきた城主の返書を見て眉根を寄せる。
「頴娃久虎か。藪をつついて蛇を出してしまったかな」
 俺が小さく嘆息しながら呟くと、家久が頬に人差し指をあてて困ったように首を傾げた。
「うーん、ここまで叩けば、素直に降伏してくれると思ったんだけど」
「破れかぶれになったのか、それとも今の戦況を認識した上で、私たちがこちらに長居できないと踏んだのか。いずれにせよ、厄介なことには違いありませんね」
 歳久もまた、決断の難しさを示すように、しかめ面を隠さなかった。


 先の戦の後、兼堅の首級を確認した俺たちは休むことなく兵を獅子城に進め、獅子城の周辺一帯をたちまちのうちに制圧、すぐさま城に降伏を促す使者を遣わした。これを受け入れれば、兼堅の首級は丁重に送り返すという条件をつけた上でのことである。
 城外で兼堅の首級を晒し、敵の士気を挫くことも出来たのだが、仮にも島津の家臣であった者の首級である。要らぬ敵愾心を買うような方法は避け、死者への敬意を示した方が良いと考えたのだ。
 そんなこちらの厚意を察したか、獅子城は抗戦の不可を悟り、こちらの要求を受諾するかに見えた。しかし、新たに頴娃家の主となった頴娃久虎は、そのために一つの条件を出してきたのである。


『父の首級を島津のご一族自らがお持ちくださいますように』 


 さすれば頴娃家は、島津家の威と情誼に厚いその家風に跪くでありましょう。
 こちらが差し向けた使者に対し、頴娃家の若き当主はそう返答してきたのである。





 頴娃兼堅はいまだ五十路にも達せぬ若さであり、その子である久虎もまたようやく二十歳になるかならぬかであろう。年齢だけ見れば、俺と大してかわらない若者である。当主が健在であったため、後継者たる久虎自身の戦ぶりや為人には、未だ目立った評はたっていない。
 暗愚との噂は流れてきていないが、だからといってその将来を期待するような風評を聞いたこともなかった。そのため、俺はてっきり頴娃久虎なる男、平凡な地方豪族の跡取り息子に過ぎないと考えていたのだが。


 兼堅が討死し、兵力のほとんどを失って、獅子城は混乱の極みに達してもおかしくはない状況であった。にも関わらず、城を訪れた使者が言うには、獅子城内に動揺を示す兆候はなく、新たに当主に立った久虎がしっかりと家中を統御しているように見えたという。
 もしこれが真であれば、その一事だけでも頴娃久虎の尋常ならざる手腕が見て取れる。そして、使者の観察が正鵠を射ていた場合、そんな人物が、城内に入った島津の姫に対してどのような行動をとるのかは計り知れない面がある。豹変して使者を人質に取る挙に出ることもありえよう。


 それゆえ、俺は断固反対の立場をとった――と言いたいのだが、それを口にすることは出来なかった。何故なら。
「降伏すると言う相手に対し、罠を疑って逡巡するなど島津の名折れ。少なくとも敵はそう言いたてるでしょうし、そのことが知られれば、此度の勝利の意義が損なわれることにもなりかねません」
 歳久の言葉どおり、ここでの対応は今回の戦のみならず、今後、島津が他国を相手とした戦に望む際にも影響を与えるであろう。いかに兵略に長けようと、胆力に欠けた臆病者と思われては島津の名がすたるというものだ。
 そのことが、この場にいる者にはわかっていた。それゆえ、歳久は続けてこう言ったのである。


「ここは私が出向くのが得策でしょう。ばか颯馬と家久はこのまま陣に留まり、異変に備えてください」
 あっさりと言い切る歳久に、家久がかぶりを振って答える。
「総大将が使者になるなんて聞いたことないよ、歳ねえ。ここは私が行くべきでしょ」
「私が総大将というのはあくまで名目の上でのこと。実質的には家久、あなたも此度の戦、大将といえる立場にいるのです。使者に赴くに相応しからずというのであれば、私もあなたも似たようなものでしょう」
「それはそうだけど、その理屈で言うなら歳ねえも私も駄目ってことになっちゃうよ。島津の一族っていうのが、私たち二人を指す以上、そんなこと言っていられないでしょう」
 家久の反論に、歳久がさらに口を開いて言い募ろうとする。



 その時、それまで黙っていたキクゴローが、不意に口を開き、こんなことを言った。
「ねえねえ、この場合、乳兄弟っていうのは一族に当たるのかな?」





[10186] 影将記(五) 【完結】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/02 21:11


「なあ、キクゴローさんや」
「なに、颯馬?」
「どうして俺は、島津の家紋がついた服を着て、獅子城の城主の間にいるんだろう?」
「颯馬、ボクの頭の中のご先祖様が言ってるよ。『人生万事、塞翁が馬の如し』ってね」
「……そうか? 今回の場合、人生がどうとかいうより、明らかにどこぞの知猫のせいだと思うんだが」
「へー、悪い知猫もいたもんだね。人を窮地に陥れるなんて、品行方正なボクとは大違いだよ」
 そう言って、顔をくしゃっと歪めて笑う品行方正な知猫様でありました――この野郎めが。


「まあ、それは仕方ないにしても、だ」
「なに、まだなんかあるの?」
「むしろこっちの方が気になる。なんで俺の寸法にぴったりな島津の陣羽織が用意されてたんだ?」
 俺がこの展開を読んで用意していたのなら格好がつくのだが、あいにく、そんな千里眼は持っていない。
 すると、キクゴローはあっけらかんと解答を教えてくれた。
「なんか義久が『もっていってね、多分必要になるからー』って家久に言ったらしいよ」
「久ねえ……なにもんだ、あんた」


 などとキクゴローと言い合っていると、なにやら物々しい甲冑の音が向こうから響いてきた。
 獅子城の城主殿が、ようやく姿を見せてくれたらしい。
 俺は小さく肩をすくめてから、背筋を伸ばし、姿勢を正して敵将を待ちうけた。島津の使者として不足なきように様体を整える。
「……様になってないねえ」
「仕方ないだろ。慣れてないんだから」
 と低声でやりあっていると、俺の正面に甲冑をまとった一人の武将が姿を見せた。


 鷹が羽を広げたかのような凛々しい眉。此方を見すえる視線は寸分の揺らぎもなく、俺の内心を射抜こうとしているようで。
 その身に纏う空気は、若年にして端倪すべからざる精気を感じさせ、眼前の若者が凡者ではないことを言外に示している。
 傍らに太刀持ちの小姓一人を従えただけで姿を現したこの人物こそ、獅子城主、頴娃久虎であると思われた。



 俺はゆっくりと頭を垂れ、敵将に向かって口を開く。
「島津が家臣、天城颯馬と申します」
「獅子城主、頴娃久虎にござる。使者殿には、お役目大儀……と申し上げたいところだが」
 そう言うや、久虎の目が狷介な光を放つ。
「書状にて、島津一族の手により、父の御首、お持ちいただきたいと申し入れたはずでござる。確かに天城殿の陣羽織は島津一族のものと見受けるが、貴殿は自身を家臣と称した。そのまとう物と語る言葉、いずれを信ずればよろしいのでござろうか?」
 久虎の詰問に、俺はゆっくりと顔を上げた。
 そして、力むでもなく、城主の問いに応じる。
「いずれもしかり、と申し上げます」
「いずれも、とは?」
 怪訝な顔をする城主に、俺はさらに説明を続ける。
「この身は島津宗家より一門に等しい扱いを受けております。この羽織を許されたがその証。されど、私が島津の禄を食む臣であることも事実でござる。島津が一門にして、島津が家臣。この天城、並び立たぬ二つを併せ持つ数奇な立場にありますれば、いずれもしかりと申し上げました」


 そう言いながら、俺は眼前の頴娃家当主に観察の視線を走らせる。
 外見から推して、武将としての性質は武に傾くと思われるが、ただそれだけの人物ではないだろう。言動の端々に、豊かな知性がにじみ出ているのが感じ取れた。
 率直に言って、父親より数等上の人物であろうと俺は結論付ける。
 その傍らに座す小姓は、細面の顔の造作が、やや繊弱な印象を与えこそするが、こちらを見る視線にはひた向きな心根の強さが感じられる。個の才腕に加え、良臣を見出す眼力も併有しているとすれば、頴娃久虎という人物、こちらの予測以上に厄介な相手になりかねなかった。


「……うむ、いささか強弁にも聞こえるが、こちらも多くを要求しうる立場ではない。島津家の誠意、確かに確認させていただいた。これより我が頴娃家は、貴家の臣としてお仕えいたしましょう――無論、此度の件、貴家がお許しくださるのであれば、ですが」
「我が島津家は無用の兵火を望みません。貴家がこれまでどおり、当家に忠節を尽くしてくださるのであれば、此度のことでこれ以上の罪を問わぬこと、十字紋に懸けてお約束いたしましょう」
「……寛大な言葉、かたじけのうございます」
 そういってゆっくりと頭を下げる久虎。
 次に発された言葉が、はや主家に対するそれに変じていたことは、その類まれな器量を示す証左でもあったろうか。
「本来であれば、これよりそれがしが内城へ出向いて臣下の礼をとるべきでござるが、父の死によって、家臣も民も落ち着きを失っておりもうす。今、それがしがこの城を離れれば、要らざる騒動が起こる可能性もございますゆえ、義久さまにお目にかかるのは、いま少しお待ちいただきたいのです。よろしいか?」
 頴娃軍の主力は撃ち破ったとはいえ、城内にはまだ少なからぬ兵がいる。久虎の言葉は、彼らを説き伏せるだけの時がほしいということだと解釈できる。


 もっともなこと、と俺は久虎に頷いてみせた。
「承知いたした。宗家にはそのように伝えておきましょう」
「重ね重ねの厚意、かたじけのうござる。服従の証として、この城の府庫に蓄えていた金銀は残らず差し出させていただきます。我が家が起こした不始末の償いにもならぬでしょうが、なにとぞお受け取りいただきたい」
 随分と気前が良い、と久虎の思いもよらない申し出に対し、俺は内心で首を傾げた。あるいは、まだこちらを試しているのだろうか。


 極端な話、頴娃家を滅ぼすのであれば、府庫の金や糧食を持ち出しても問題はない。だが、降伏を受け入れた相手にそれをすれば、生き残った者たちの不満はたちまち第二の叛乱へと変じていくだろう。
 草を刈って根を残すに等しい愚行は、今後の島津の征図に悪しき影響を及ぼしてしまう。それゆえ、俺は久虎の申し出に対し、あっさりと首を横に振った。
「――いえ、金銭は今後の頴娃家にこそ必要なものでしょう。そこまでしていただくには及びません。ただ……」
 俺の返答を聞き、久虎はやや目を細めたが、続く俺の言葉に興味を示す。
「なんでござろう。こちらは敗軍の将ゆえ、大抵のことならばお引き受けいたす」
「ならば、お言葉に甘えて。我ら、明朝に居城へ軍を返します。無論、全軍を挙げて。ゆえに今宵は兵らをゆっくり休ませてやりたいのですが、強行軍を重ねてきまして、糧食に少々不安がござる。くわえて、戦の疲れを忘れさせるに欠かせぬものが不足しておりまして」
 困ったように頭をかく俺を見て、久虎はすぐにぴんと来たようだった。
「なるほど、酒でござるか」
「はい。無論、庫のすべてを、などとは申しませぬ。支障ない範囲で譲っていただければ、と」
「今も申したように、こちらは敗軍。勝者の命令に逆らうことは出来ませぬ。ましてその程度のささやかな願い、どうして逆らったりいたしましょうか。早急に城外の陣へお持ちいたすゆえ、しばし時をいただきたい」
 即断で肯ってくれた久虎に対し、俺は深々と頭を下げるのであった。



◆◆



 島津の使者が退出した後。
 城主の間に残った頴娃久虎は――頴娃久虎と思われていた人物は、呟くように言った。
「――奇妙な使者でしたな」
「そうかい? 間抜けな使者と言い換えるべきだよ。こちらが誘導するまでもなく、わざわざ自分で墓穴を掘ってくれたのだから。天城とやら、噂に違わず、島津宗家の贔屓だけで禄を食んでいる輩らしいね」
 そう言って、口元に笑みを湛えながら立ち上がったのは、太刀を持って久虎の傍らに控えていた小姓であった――正確に言えば、小姓であると天城が考えていた人物であった。
 その人物が立ち上がると、甲冑をまとった方が頭を垂れ、主従はたちまちのうちに逆転する。
 そして、甲冑姿の武者の口から決定的な言葉が発される。
「いかがなさいますか、久虎様」


「ただちに、島津の陣に酒食を供する。勝利に驕って略奪の一つもするかと思っていたが、なかなかどうして、よく軍律が保たれている。けど、酒が入れば箍も外れるだろう。城中の酒をかき集めて送ってやるんだ」
 その言葉で、久虎の側近は、主君の意を察したようであった。
「御意……はやこちらから仕掛けますか?」
「ああ。今すこし島津が勝利に驕った振る舞いをするものと思っていたんだけどな」
 その意味で、島津側の対応は少し意外であった、と頴娃久虎は内心で呟く。


 書状でああ書いて送ったとはいえ、久虎も、まさか宗家の姫がのこのこ来るとは思っていなかった。当然、名代が来るだろうと考えており、その使者の態度次第で今後の対応を定めるつもりであったのだ。
 対応と言っても、むざむざ島津ごときの膝下に跪くつもりは、久虎にはなかった。
 ただ、愚かな父とは異なり、今の頴娃家の力で島津家に抗することが出来ると考えるほどうぬぼれてもいない。
 父は、島津が外交で孤立している今こそ好機、と考えたようだが、実際のところ、対島津の兵を挙げたのは、大隈国の肝付家ただ一つ。それも全力出撃にはほど遠い戦ぶりである。
 この状況で頴娃家が兵を出したところで、島津家の返り討ちに遭うのは目に見えている。久虎はそう父に説いたのだが、居城である内城を空にする島津の動きに、父は我慢が出来なかったのである。


 今となってみれば、それが島津の誘いの隙であることは瞭然としている。
 久虎は敵の小癪さを憎むよりも、父の愚かさに憫笑を禁じ得ない。子としての情がまったくないわけではないが、今回、父が討たれたことに対して感情の揺らぎはほとんどなかった。
「父上は急ぎすぎた。動くとしても、日向の伊東家が兵を動かすまでは、島津に従うふりをしておくべきだったよ」
「は……」
「まあ、今さらいっても詮無いことだけどね。結果として、僕が家督を継ぐことになったわけだから、父上には冥府で頴娃家の隆盛を見守っていてもらうとしよう」
 それも、それほど先のことではない、と久虎は考える。
 謀叛を起こした敵の城に、天城程度の臣を遣わす。それだけで、島津の底は見えたも同然である。そういって、刃のような笑みを浮かべる久虎に、側近は声もなく頭を下げるのであった。


「正直、臥薪嘗胆がしばらく続くものと覚悟していたが、案外、機ははやく巡ってきたね。まさか降伏間もない相手の城近くで、酒と飯を望むとは、ふふ、油断が過ぎるというものだ、天城」
 久虎の嘲りを受け、側近は呟くように応じた。
「彼の者、降伏した相手に対する心遣いは見事であるかと存じましたが」
「そうかな。こちらが死に物狂いで反撃に転じるのを恐れて、寛大さを見せ付けただけだろう。これ以上、この城で時間を費やせば、肝付との戦線が保てなくなるからな。問題は宗家の姫どもが、何か勘付かないかということだけど……」


 主の危惧に対し、側近は自らの意見を述べた。。
「島津が、兵に強行軍を強いたのは確かであると存じますれば、姫君方が何かを察しようと、酒はともかく休養はとらざるを得ますまい。そこを衝けば、十分に勝機はあるかと」
 その側近の言葉に、久虎は頷いて見せる。
 ともあれ、酒食の件は早急に手配しなければならない。
「小者や下男まで含めれば、城中からまだ百や二百は集められる。逃げ帰ってきた連中を含めれば、島津と同程度の兵力は揃えられよう。疲れ果て、酔い騒ぐ島津勢など、一戦で蹴散らしてやる。頴娃家の武威の真髄、思い知らせてやるんだ」


 そう言って笑う久虎こそ、父の兼堅以上に先走っていたと言えるだろう。
 そのことに側近はわずかに危惧を抱いたが、あえて異見を掲げるほどの確信を持っていなかったこと、そして自身の目から見ても、十分に勝機が感じ取ることが出来た為、この時は何も口にすることができなかったのである。



◆◆◆



 そして夜半。
 雲に月の姿が隠された頃合を見計らって、獅子城から頴娃家の軍勢が密かに出陣した。
 目指すは島津軍が本営を置いた山麓である。さすがに城外の野原で夜営するほど無用心ではなかったようだが、と頴娃久虎は嘲るように哂った。
「目と鼻の先に布陣すれば、たいした違いはないだろう」
 峻険な地形が交錯する土地柄ではあるが、頴娃家の将兵にとって、文字通りの意味でこのあたりは庭のようなもの。島津軍に気付かれぬように回り込むことなど造作もないことであった。


 その久虎の自信を裏付けるように、出陣して半刻も経たないうちに、頴娃勢は彼方の山麓に島津軍の夜営の火を確認するに至る。盛大に焚かれた篝火が、島津軍の勝ち戦に浮かれる気持ちを表しているかのように、久虎には思われた。
「殿、物見はそれがしが仕りましょう。しばし、ここでお待ちくださいませ」
 側近の言葉に、久虎はゆっくりとかぶりを振る。
「勝機は我が手の内、ここで時を費やす必要はない。万一にも、敵に気付かれれば厄介なことになってしまう」
「しかし、敵陣が妙に静かであるように思われます。四半刻もかかりませぬゆえ、なにとぞ」
 めずらしく、重ねて命令を請うてくる側近に、しかし久虎は再度かぶりを振った。
「兵は神速を尊ぶという。この期に及んでの逡巡は、勝機を失わせるだけだ。なに、多少の備えがあったところで、それは野盗か敗兵どもに対するもの。まさか僕たちが全軍を挙げて城から突出してくるなどと予測してはいないさ」
 そういって、側近の懸念を切って捨てると、久虎は視界の先に煌々と燃える篝火に鋭い視線を送り込む。
 そして、ゆっくりと右手を上げ――一瞬の後、まっすぐに振り下ろした。

 
「この戦国乱離の世、宋襄の仁は無用であると知るがいい。全軍、突撃せよッ!」


 数百を越える将兵の喊声が、それに続いた。
 先の戦で島津軍に翻弄され、大敗を喫した頴娃勢は、ここが恥の雪ぎ所と、堰を切った濁流の如き勢いで南薩摩の地を駆ける。
 月は厚い雲に閉ざされ、地上を照らす光はない。完全な闇夜の奇襲であるが、目的地ははっきりと視界に映っており、道を違える心配はなかった。
 そして。


「かかれィッ!」
 真っ先に島津軍の陣営に達した部隊の長は、配下の将兵に命じるや、勇を振るって真っ先に敵陣に突入する。
 そこには突然の敵襲に、驚き慌てた島津軍の姿が――
「……なに?」
 知らず、長の口から戸惑いの声がもれた。
 そこには何もなかった。驚愕する敵兵も、眠りこけている敵兵も、それどころか燦然と焚かれている篝火と陣幕以外、何一つとして置かれていなかったのである。   


 長の戸惑いは、すぐに他の将兵も共有することとなった。
 念のため、周囲の陣を調べてみても状況は変わらない。島津の兵どころか、猫の子一匹見つけることは出来なかった。
 ――予期せぬ戦況に、この場にいる将兵は、背筋に冷たい風を感じた。
 どうするべきか、判断にまよった彼らは指揮官に視線を向けるが、その中の誰一人として正しい判断を下すことが出来ない。
 元々、この軍は敗残兵と素人の寄せ集めに等しく、指揮系統もほとんど確立されていない。奇襲の成功を疑いもしなかった主君の失策であったが、仮に予期していたとしても、昨日の今日で軍勢を再編することは、どのみち不可能であったろう。
 ゆえに。
 ほんのわずかとはいえ、頴娃勢はこの場で無為な時間を費やすこととなり、わずかにあった退却の猶予を逃してしまう。


 ――否。そんなものは、はじめからどこにも用意されてはいなかった。


 奇妙な静寂に覆われ、互いに顔を見合わせる頴娃勢。
 まるで、そんな彼らに迫り来る危機を知らせようとでも言うかのように、厚い雲間から月光が差し込み、空となった山麓の陣営と、それを見下ろす山腹を照らし出す。
「あ……」
 最初に気付いたのは誰であったろうか。
 自分たちを見下ろす山腹の斜面。そこに次々とたてられていく丸に十字の家紋。月の光に照らされて、星の如くに輝くは長槍の穂先か、刀身の煌きか。
 そして響くは、幼くも、強い意思を宿した澄んだ声。


「仏の嘘は方便、武門の偽りは武略っていうね。だけど、貫く意地も、守るべき矜持も持たない人と家を、私たち島津は武門とは認めないよ。だから、あなたたちの偽りの降伏は、私たちにとって恥知らずの破約なの――相応の報いを受けてもらうよ」


 最後の一言を聞いた時、頴娃勢すべてが気圧されるものを感じたであろう。
 それは、容赦なき報復戦の狼煙。
 島津が末姫、後に『島津の璧』と称されることになる若すぎる戦極姫は、はやその片鱗を感じさせる威厳をもって、高らかに麾下の将兵に突撃の令を下したのである。



◆◆



 およそ一刻。
 戦況が決するまでにかかった、それが時間。


 絶え間なく空気を要求する身体に苛立ちながら、頴娃久虎は忌々しげに吐き捨てた。
「はあ……はあッ……お、おのれ、島津めッ!」
 周囲を見渡せば、付従う兵士は片手で数えられるほど。城を出るときまでは――正確に言えば、島津の陣に攻め込むまでは確かにあったはずの勝利への確信は、今や粉微塵に砕け散っていた。
 しかも、今なお島津軍の追撃は止む様子を見せない。それどころか、要所要所に兵を配置し、こちらが城へ戻ることを許さない。
 今もまた、前方に槍の穂先が煌くのを見て、知らず久虎の顔が歪みを帯びた。帰路を遮られること、すでに五度。もはや島津側が、獅子城周辺の地理に精通していることは疑うべくもなかった。
「誰が裏切ったんだ、くそッ」
「殿、そのような繰言を申している場合ではありませぬ。こちらへ」
 先刻から、幾度も久虎をまもりつづけている側近は、うめく久虎を別の道へと誘導する。


(とはいえ、どうやって城までお連れすればいい?)
 この様子では間道という間道に島津の兵がいるのではないか、との悲観的な考えを、側近は振り払うことが出来ずにいた。
 さらに言えば、たとえ城に帰り着いたとしても、戦況の挽回はもう不可能だと、側近の冷静な部分が認めていた。
 再度の降伏を受け入れるほど、島津は甘くないであろうし、そもそも武士たる者が、そのような恥知らずな真似が出来るはずもなかった。


 つまるところ、この地にとどまっていては打つ手がない。頴娃家を存続させるのであれば、近隣の豪族のところへ――いや、ここまで叩きのめされている以上、頴娃家よりさらに勢力の小さい豪族が、頴娃家のために島津に刃向かうとは考えにくい。であれば、いっそ大隈の肝付家のもとまで逃げ延び、後日の再興を期すのが得策か、と考えた時だった。
 夜闇さえ切り裂きそうな冷徹な声が、側近の耳朶を打ち据えた。


「この期に及んで、まだ逃げられるとでも思っているのですか。かりそめにも武門を名乗るのであれば、事破れた上は、最後を潔くする程度の気構えを見せてもらいたいものです」


 そう言って、十名ほどの部下を引き連れて現れた姫将を見て、側近はうめくように口を開く。
「島津……歳久殿か」
「いかにも。島津が三女、歳久。頴娃の当主……見苦しい振る舞いをせず、自らその命を絶つのであれば、介錯くらいはしてあげますよ?」
 それを慈悲から来る言葉だと思う者は、敵味方を含め、一人もいなかった。歳久の眼差しは氷のごとく凍てつき、内心で怒り狂っているであろうことは頴娃家の将兵の目にさえ明らかであったからだ。


 戦塵に身を晒した経験が少ない久虎は、咄嗟に歳久の鋭気に抗し得ない。だが、その眼差しが自身に向けられているのを見た側近は、僭越と知りつつ、咄嗟に口を開いていた。
「あいにく、頴娃家の当主として切腹など出来ぬ。だが、追撃から逃れることが難しいのも事実のようだ。島津が姫将よ、我が身柄、この場で貴殿に委ねよう。だが願わくば、配下の者たちは見逃してもらえまいか」
「ここで死ぬか、内城で死ぬかの違いでしかありませんよ。此度の醜行、見逃すほどに私たちは甘くない」
「……致し方ない。これも弓矢とる身の定めであろうから」
 言いつつ、歳久が自分を頴娃久虎だという思い違いをしていることを確信する側近。
 城を訪れた天城の言から、おそらくはそう判断したのだろう。であれば、ここで歳久を説得できれば、安全に久虎を逃がすことができるだろう。側近はそう考えた。


 だが、わずかでもそれを面に出せば、空恐ろしいほどに鋭利な視線を持つ眼前の姫は、たちまちのうちにこちらの内心を見抜くであろう。
 そう思い、つとめて自然な挙措で、頴娃家の当主として振舞う側近の意図を悟ったか、当の久虎は口を噤んだままだ。
 どうかそのままで、と祈るような思いでいた側近の耳に、素っ気無い歳久の言葉が届けられる。
「……当主さえ捕らえれば、雑兵になど用はありません。いいですよ、さっさと私の前から姿を消してください。恥も外聞もなく、背中を向けて逃げ去るのであれば、あえてその哀れな背を追い討つことはしないと誓いましょう。もっとも、下らぬ小細工をするようであれば、容赦などしませんが」
「――かたじけない」
 歳久に一礼すると、側近は周りの者たちに声をかけた。
「皆、聞いたであろう。いたらぬ主であったこと、心より詫びる。はよう逃げるがよい。要らぬことを考えず、ただ無心にな」
 肝付の名を出して示唆しようかと考えたが、そんなことをすれば歳久が黙っていまい。ゆえに側近はつとめて何気ない風を装いつつ、久虎の眼差しをとらえ、小さく頷いてみせた……






 側近以外のすべての頴娃勢が姿を消して、しばし後。
「さて、名を聞きましょうか。頴娃久虎、と名乗る者よ」
 歳久が軽く肩をすくめながら言った言葉の意味を、側近はしばらく気付けなかった。
 だが、その意味するところは明らかすぎるほど明らかで――
「……気付いておられたのか?」
 歳久の洞察力の賜物か、と側近は考えたのだが。
「かりそめにも一城の嗣子であった者が、そう簡単に他家の者に――それもただの使者に過ぎない者に、へりくだることはありえない。あれはかしずくことになれた者の所作であった、と」
 それが誰の言葉であるかは言うまでもなかった。
「……なるほど、とうに見抜かれていたということか」
 そういって苦笑をもらした側近は、しかしすぐに疑問を覚えた、


 その疑問を、声に出して問いかける。
「何故、それがしの偽りを承知の上で、こちらの請いを受け入れたのです?」
「そういえば、あなたと、頴娃の当主を引き離すことが出来るでしょう。もっと簡潔に言えば、私が待っていたのはあなたであって、頴娃の当主ではない。あなたを島津に迎え入れることが出来れば最善、かなわずとも他家に置いておくは島津の征途を妨げると、熱心に主張する者がいましてね。この目で見て、それが過大評価であれば頴娃の当主を捕らえるつもりでしたが、私が見たところ、あながち偽りでもないようですから」
「それは、高い評価をいただけたと喜ぶべきなのでしょうな。しかしながら――」
「言わずとも結構。あなたは頴娃の当主以外に仕えるつもりなどない、その程度のことはわかります」
 それに、と歳久は冷笑を浮かべる。
「私はばか颯馬ほどあなたを評価していない。その身を楯にして主君を逃がすのは結構ですが、偽りの身分をもって結んだ約定を、こちらが律儀に守るとは思っていないでしょう。あなたがはじめから、その名を明らかにして主君を逃がそうとしたのであれば、見逃してあげようかとも思っていましたが――」


 主が主であれば、臣も臣。欺瞞と武略を履き違えるような輩に、かける情けは持っていません。


 そう言うや、歳久の手にはいつのまに抜き放たれたか、一本の刀が抜き放たれていた。
「我ら島津を謀る者には、相応の報いを受けてもらいます。あなたの講じた策では何一つ成せないのだと、思い知りなさい」
 一度は久虎を逃がしたと確信し――しかし実際はとうに見抜かれていた。当然、追っ手はかけられているのだろう。歳久自身が言った。偽りの身分もて結んだ約定は、守るに足らず、と。
 ほんのわずかな安堵は、今や胸を苛む苦悶へと変じている。敗者を嬲るが如き、これが島津のやり方か。小細工を弄したこちらが声高に非難できることではないが……
「……これが、島津のやり方でござるか?」
「いかにも……と言いたいところですが、違います。他の姉妹なら、ここまではしないでしょう。けれど私は、島津歳久は、あなたが主君を守り通したのだと、そんな満足を抱えたまま逝くことなど許さない。己が力と見識の無さに、絶望しながら散りなさい」
「……くッ!」
 怒号と共に振るわれた刀は、空気をさえ両断する勢いで歳久に迫り来る。
 受け止めることさえ困難であろうその一閃を――歳久は巧妙を極める角度で刀を突き出し、受け流す。
 側近の刀は、火花を散らして歳久の顔を照らし出し――そして、傷一つつけることが出来ずにそのすぐ横を滑り落ちていく。
 その表情に浮かんだ絶望は、歳久が刀を翻すと同時に虚無へと落ちていった……




「……歳久様、追撃は?」
「不要です。すでに別の者が動いていますから。その者の首は内城へ持ち帰りなさい」
「は、ははッ!」
 微塵も冷静さを崩さない歳久の言葉に、島津の家臣たちは背に冷や汗を流しながら頷いた。
 この姫が島津の一族で本当に良かった、と彼らは内心で安堵の息を吐いていた。
 武に長じる次女義弘の猛勇を見る度に似たような心境になるのだが、彼らが島津歳久に抱く感情は、義弘のそれとは似て非なる意味を持つ。義弘へのそれには憧憬が込められているが、歳久へのそれは畏敬――否、半ば嫌悪が入り混ざるのだ。それゆえ、将兵の人望という意味では、歳久は姉義弘に及ばない。


 ただ、そのことは歳久自身、承知していることであった。さらに言えば、その状況さえ歳久の思惑通りでもあったのだ。
 だが、それを知る者は島津家の中でも数えるほど。そして、この場にそれを知る者はいない。
 配下の畏怖を込めた視線を平然と受け止めながら、島津の若き智将は友軍と合流するために動き出す。
 その背に向かい、本当の頴娃久虎を追う任を誰に授けたのか、などと問う勇気を持つ者はこの場に一人としておらず。
 ゆえに、本当はそんな者がいないのだという事実は、歳久一人を除き、誰も知ることなく終わる。少なくとも、この時、歳久はそう考えていた……





◆◆◆





 ――俺は構えていた弓を下ろし、去っていく頴娃久虎の背を見送った。
 まだ十分に射程範囲ではあったのだが……
 キクゴローが、のんきな声で話しかけてくる。
「いいの、颯馬?」
「あまり良くはないな」
「宗家に害をなす者は、たとえそれが可能性であっても容赦すべからず、が天城の家訓だもんねえ」
「まあ、それを守ろうとすると、宗家以外の人間、全部を斬らなきゃいけなくなるけどな。ただ、あの手の輩は正直逃がしたくないんだけど……」
 率直に言って、頴娃家が勢力を盛り返す、なんてことはないだろう。だが、あの手の輩は逆恨みすると何をするかわからない。
 一軍を防ぐことは出来ても、どこから飛んでくるかわからない一本の矢を防ぐことは難しい。事実、貴久様は闇討ちで亡くなられたのだ。あの無念を繰り返したくない俺としては、ああいう手合いは逃がしたくないのだが――
「それでも、俺がここで久虎を討つと、歳久の思いを踏みにじることになるだろう」
 影たる役割を自らに課したとはいえ――否、それだからこそ。歳久の行動と、その心を踏みにじることはしたくなかったのだ。


 智略縦横、冷徹無比、酷薄無情。みずからそんな評を求める困り者の妹君は、みずからの悪評さえ策のうちに取り込んでしまう。だが、表面上はどうあれ、最後の一点だけは誠実に履行するあたりが可愛いところでもあるのだ。
 ――まあ、こんなこと本人にいったら、ぶっとばされるか、矢の的にされるかのどちらかだろうけれど。


 そんな俺の内心を知ってか知らずか、キクゴローはあくびまじりに呟いた。
「まったく、人間って面倒だよねえ。それとも、たんに颯馬やお姫様たちが厄介な性分なだけなのかな」
「さて、どうだろうなあ」
 キクゴローに答えつつ、俺は馬首を返す。
 討つべき者を討ち、逃げる者は逃げた以上、これ以上の戦いは不要だろう。各処の間道に配置した配下を集めなければ、と考えながら。







◆◆◆






 二十日ほど後。
 薩摩島津家の居城、内城の一室。
 肝付との和議が成立し、義久と義弘が帰城したことで、久しぶりに一堂に会した島津家の面々と俺。
 互いに離れていた際の戦の動向を報告しあっていたのだが、案の定というか何と言うか、俺の言動に義弘の柳眉は先刻からつり上がりっ放しであった。 


「――と、まあ獅子城討伐はそんな感じだったな」
 歳久、家久と共に、獅子城における最終局面を説明し終えた俺。
 義弘は端整な顔に満面の笑みを浮かべ、妹二人をねぎらった。
「うんうん、歳ちゃんも家ちゃんも頑張ったね」
 しかし、その笑みは、俺に向けられた途端、明らかに感情の温度が変わったように思われた。多分、きのせいではない。
「――で、颯馬、あんたは二人が頑張ってた間、何してたわけ?」
 鬼島津さんの勁烈な眼光を受けた俺は、しごく真面目な表情でこう返した。
「二人の邪魔にならないよう、戦場の端っこで小さくなってましたッ」
「何を当たり前のように情けないこといってんの、あんたはーーッ!!」
 耳をつんざくような義弘の怒号に、俺を含め、歳久、家久はたまらず両の耳を押さえる。


「……やはり、久方ぶりだと効きますね」
「うん……毎日聞いていると耐性できるんだけどねえ」
 こそこそと囁きあう妹二人の間に、それまで黙って話を聞いていた長女義久が口をはさんだ。
「その点、毎日、弘ちゃんに怒られてた私に隙はないのです、えっへん」
 そんないつもとかわらない姉たちの様子に、三女と末妹は、我が家に戻ったのだという実感を得て、ほっとするものを感じながらも、口は勝手に言葉を紡いでいた。
「弘ねえではありませんが、当たり前のように情けないことを言わないでください、久ねえ」
「あー、弘ねえが最初っから不機嫌だった理由、わかっちゃったかも。これはお兄ちゃんには、弘ねえの機嫌を直す尊い犠牲になってもらうべきかなあ」
「うう、私が弘ちゃんに怒られるへまをしてたっていうのは、二人の間では既定の事実なの?」
 その問いに、歳久は呆れ顔、家久は困り顔でそれぞれ応じた。
 

「うう、颯ちゃん、可哀そうなお姉ちゃんを慰めてー」
「いや久ねえ今まさに義弘に胸倉つかまれて振り回されてる俺にどうしろとおおおッ?!」
「大丈夫、颯ちゃんはやれば出来る子なんだからッ」
「いくら久ねえの言葉でも、やる気になっただけで鬼島津の相手をするのは不可能と断言させていただく」
「こら颯馬ァッ! 誰が鬼よ、誰がッ!!」
「今まさに、大の男を女の細腕で振り回してる誰かさん」
「や、やだ、細い腕だなんて……」
「そこで照れるお前の感性がわからないぞ、義弘」
「あーん、颯ちゃん、弘ちゃんも、お姉ちゃんを置いてきぼりにして話を進めないでーッ」


「いい加減にしなさい、ばか颯馬」
「今までの流れとその台詞はどこでつながってるんだ、歳ちゃん」
「歳ちゃん言うな! 要するにあなたがさっさと弘ねえに土下座すれば、すべては丸くおさまるんです」
「と、歳ねえ、さすがにそれは……あれ、別に間違ってないのかな?」
「い、家ちゃん、せめて君だけはそこで納得する子に育たないでくれ。主に俺の命の安全のために」
「はーい、しょうがないなあ、お兄ちゃんは私がいないとてんで駄目なんだから、もう」
「颯馬! いたいけな家ちゃんに、変な刷り込みしないの!」
「刷り込みってなんだ、刷り込みって?! そもそもお前が理不尽な――」
「……理不尽な、何?」
「い、いえ、李夫人を彷彿とさせる義弘の細腕は素晴らしいなあ、と」
「誰ですかそれは。ばかだ、ばかだと思っていましたが、ここまでばかだとは」
「だから、お姉ちゃんを無視しないで、みんなーーッ?!」



 なにやら場の混乱は加速する一方で、蚊帳の外に置かれることにたまりかねた三女と末妹が話に加わったことで、騒ぎは鎮まるどころか、かえって熱を高める始末であった。
 それでも、これがいつものことであるためか、内城の人々はいたって平静な様子である。


 縁側で、室内の騒ぎをよそにのんびりと丸まっていたキクゴローは小さな声で呟いた。
「世はすべて事も無し……」
 その視線は、内城の上空、そのはるか彼方に向けられていた。地平線にかかる黒い線は、彼方で沸き立つ雷雲か。
 それはあたかも遠からず薩摩を襲う嵐を示しているかのようで。


「……ってわけにはいかないんだろうねえ」
 その声は、誰の耳に届くこともなく、宙に溶けた。




◆◆◆




 後年、九国の歴史に不滅の名を刻むこととなる島津の四姉妹、これはその日常の一枚絵。
 九国の、ひいては日の本の戦乱の統一に多大な貢献をなした島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久の名は遠く海の向こうにまで鳴り響き、その活躍は彼の『楊家将演義』と並び、女将軍が活躍する物語として、長く人々に親しまれることとなる。
 そして、その物語の始まりから終わりに至るまで、常に姉妹の影となり日向となって島津家と、四姉妹を支え続けた『島津の影』たる人物もまた、多くの人に称揚されることになるのだが――


「待っちなさい、颯馬ーッ!」
「ばか颯馬、止まりなさい!」
「颯ちゃーん、待ってー」
「お兄ちゃーん」
「断じて待たんッ!」


 ――なるのだが、当の本人たちにとって、そんなことは知ったこっちゃないことであるようだった……





[10186] 鮭将記
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/31 20:47
ifか未来かしらねども



◆◆◆



 出羽国山形城は羽州探題を務める最上氏の居城である。
 羽州とは文字通り出羽国のことであり、隣国の陸奥国を治める役職を奥州探題という。
 すなわち最上家は、東北地方を二分する一方を統べる家柄であり、その勢力は周辺の諸豪族の追随を許さない……と言いたいところなのだが。


「役職が現実に反映されないのが、戦国時代が戦国時代たる所以なのかな」
 城内の各処から響いてくる槌の音に耳を傾けながら、俺はそんなことを呟く。
 現在、山形城では大規模な城の改修作業が行われている真っ最中だった。これは近年、隆盛著しい隣国の伊達家からの侵攻に備えるためなのだが、同時に出羽の他勢力への示威の意味もあった。さらには今現在、最上家は城の補修に全力を注いでいると見せかける意味もあったりする。もっとも最後のはまだ正式に当主の許可を得ていない策ではあったが。
 ともあれ、その一事で明らかなように、羽州探題にあるとはいえ最上家は出羽を掌握しているわけではなかった。正確には、最上家の支配は出羽半国にかろうじて届くだけであった。


 とはいえ、これでも最上家の勢力はかなり回復してきているのだ。
 今代当主最上義守が即位した当初は、本拠地である山形城の確保さえ危うかったそうだから、わずか十年で出羽の半分近くを奪回した義守の手腕は賞賛に値するといえよう。
 もっとも最上家の勢力が盛り返してきたのは――それはつまり当主である義守が実権を握ってから、という意味に通じるのだが――はここ数年のことであった。それまで義守は半ば傀儡として重臣たちの庇護を受ける身だったのである。


 ……こう記すと、いかにも最上家がどこぞの奸臣に牛耳られているように思われそうだが、事実は大きく異なる。最上家の重臣たちは野心をもって家政を取り仕切っていたのではない。むしろ、誠心をもって主家のために立ち働き、最上家の凋落を食い止め続けたのである。
 なにせ家督を継いだ当時、最上家第十代当主は御歳わずか二歳だったのだから、当主としての責務を果たしようもなかったのだ。


 そして、幼君を必死に守り立ててきた最上家臣たちの忠誠と情愛は正しく報われる。
 髪結いの儀を終え、名実ともに最上家当主として立った義守は、隣国の上杉謙信や伊達政宗のような際立った力量こそなかったものの、堅実な内政手腕と誠実な為人で領内の統治に力を発揮し、乱れていた出羽国に確かな一歩を踏み出したのである。



◆◆  


 こうして新たな歩みをはじめた最上家だったが、時は戦国の世、内治に優れるだけでは他者の餌食になるだけだった。ことに最上家を取り巻く状況は過酷を極め、戦備をおろそかにすれば一夜にして滅びを迎えてもおかしくはなかったのである。
 国内に天童や大江といった反最上の国人衆を抱え、国外では独眼竜の異名を持つ伊達政宗が虎視眈々と侵攻の機を窺っている――内憂外患という言葉がぴたりと当てはまる最上家にあっては、戦を厭う義守も刃を用いざるを得ず、幾度も苦闘を繰り返した。
 最上家にとって唯一の救いは、南方に位置する越後の上杉が出羽への野心を見せないことだったが、それとていつ豹変するかわかったものではない。


 そんな状況であるから、義守が当主として立った後も最上家の苦難は尽きることがなかった。それどころか、最上領の安定と繁栄を目の当たりにした他の国人衆は義守の内政手腕を脅威と見て取り、互いに手を結ぶようになった。内治の成果が、かえって外敵を増やす要因になってしまったのは皮肉というしかなかっただろう。


 しかし、である。
 ここでもう一度繰り返すが、前述したように最上家の版図は現在、出羽半国に及ぶ。
 それはつまり、それだけ苦しい状況にありながら、最上家は着実に勢力を広げ、出羽を切り従えていったことを意味する。
 義守が内治のみならず、外征の才能も目覚めさせたから? 否である。
 では、何者が最上家の隆盛を導いたのか。それは――


 と、そんなことを考えていると、不意に俺を呼ぶ声が耳に飛び込んできた。
「あ、兄様!」
 その声の主は、俺の姿を見つけるや小走りに駆け寄ってくる。
 身に着けている飾りや装束は華美でこそないが、一見するだけで高価なものと知れる。いずれも髪結いの儀を終えた成人女性が着るものだが、それを纏う本人はまだ幼さの残る顔立ちをした少女であり、いまひとつ衣装との釣り合いが取れていないように思われる。
 ――いやまあ、もってまわった言い方をしてしまったが、つまり何が言いたいかというと、明らかに着こなせていないのだ。衣装を着ているというよりは、衣装に着られている観があった。
 それはそれで、子供が無理して大人ぶっているようで微笑ましいのだが、本人にそんなことを言おうものなら、その後一両日は口をきいてくれなくなるので、そんな内心はおくびにも出さないけれど。


「これはもがみ……義守様、どうなさいました?」
 どれだけ可愛らしい容姿と格好をしていても、今、俺の眼前にいるのは第十代最上家当主、羽州探題たる御方である。これ以上ないほどに礼儀正しく問いかけた――はずなのだが、何故だかもがみ……義守様は口元をへの字に引き結び、つぶらな瞳にそこはかとなく非難の色を浮かべながら、じぃっと俺を見上げてくる。
「……兄様、今『もがみん』って仰ろうとしてませんでしたか?」
「はっはっは、何を仰るやら。きちんと最上義守様とおよびしたではありませんか」
「そうですか? 『最上』のあとに少し間があったように聞こえたんですけど……」


 ちなみにこのもがみ……義守様は今十三歳。将来は知らず、今は身体つきも年齢相応のもので、身長も小さい。具体的に言うと、もがみんの頭は俺の胸あたりに位置し、彼女が俺の顔を見ようと思ったら上目遣いで見上げるしかないわけで――
「……むー」
 口をきゅっと引き結んで、頬をふくらませつつ見上げてくるもがみん……義守様は、誰がどう見ても可憐で可愛い。どれくらい可愛いかというと、とある事情で援軍に来た俺に対して、何かお礼がしたいと言われたとき、一瞬も迷わずに『おにいちゃんと呼んでください』と口走ってしまったほどに可愛い。


 ――まあ口走った瞬間に周囲にいた家臣や家族から、蹴られる叩かれる蔑みの視線で射抜かれると散々な目に遭わされたわけだが、これはもう我ながら自業自得としか言いようがなかった。しかし、そのおかげで血縁でもなんでもないのに『兄様』と呼んでもらえているのだから、これぞまさに損して得とれの極意といえよう。違うかもしんない。
 

 というわけで、そんな可愛い最上家当主からじっと見つめられている(正確には睨まれている)ため、今も現在進行形で魂がとろけそうなのだが、さすがにここは大人として時と場所を心得るべき場面であろう。
「そ、それはさておき、もがみん……義守様」
「兄様! 今、確実にもがみんて仰いましたよね?!」
「言ってません」
「ぜったいに仰いました! もう、兄様まで私のことを子供扱いするんですね!」
 ぷんぷん、と擬音をつけられそうな感じで怒りをあらわにするもがみん……義守――って最近もうナチュラルに義守のことをもがみんで変換してしまうなあ。いかんいかん。


 お怒りモードの義守だったが、申し訳ないがそんな姿も愛らしいため、怒っても全然怖くないのである。家臣や領民は義守のことを親しみをこめて『もがみん』と呼ぶのだが、本人はこの呼び名を子供っぽいと考えており、呼ぶ人呼ぶ人に訂正を求めているのだが、一向に改まる様子がない。
 今の俺とのやりとりでもわかるように、義守はこれを何とかしようと日夜努力しているのだが、その努力が徒労に終わるだろうことを、俺はなんとはなしに予測していた。
 なにせ呼ぶ人たちに改めるつもりがないのだ。そしてその人たちの気持ちが、なぜか今の俺にはとても良く理解できるからである。


 とはいえ、さすがにこれ以上からかうのも忍びないので、話を先に進めることにしよう。
「ところで義守様、何か私に御用だったのですか?」
 義守はいまだご機嫌ななめな様子だったが、本来の用件を思い出したのか、はっと表情を改めた。
「そ、そうでした。兄様、白寿の姿を見かけませんでしたか? 先日仕立てた衣装をあわせるって言っておいたのに、いなくなっちゃったんです」
「義光様ですか? それなら確か、城の補修を手伝っていましたが……」
「そ、そうなんですか?! もう、白寿ったらッ」


 ちなみに白寿というのは最上義光の幼名である。とはいえ、その名を呼ぶのは義守しかいないのだが。より正確には、義守以外の人物がその名を使うのを義光が許さないのである。
 義守は義光を白寿と呼び、常日頃は傲岸な態度をとる義光も、義守を『母者』と呼んで、その言いつけには決して背かない。こう記すだけであれば特に不思議なこともないのだが、実際に二人を見比べてみた者は首を傾げざるを得なくなる。
 なにせ義守と義光の二人、ほぼ同年齢にしか見えないのである。むしろ態度や身体つきを見れば、義光の方が年上に見えるくらいだった。


 はじめて二人とまみえた時、おれはこう思った。実は義守、幼い外見に反して実年齢は三十歳を越えているのか、と。
 その考えは顔中を真っ赤にした義守に否定されたわけだが、では二人の関係は、と話を進めると義守は言葉に詰まってしまい、義光の方はこちらのことなど眼中にない様子で口を開こうとしない。
 結局、最上家の二人の関係は今もって謎に包まれたままであった。


◆◆


 そんなことを話していると、折りよく話題の主が姿を見せた。
「おい颯馬、さきほどいい忘れたのじゃが、この前話した件はどう……って、なんじゃ、母者もここにおられたのか?」
 居丈高に俺に問いを向けようとしたところで、俺の傍らに佇む義守の姿に気づいた義光がきょとんとした顔をする。
 その顔は義守と瓜二つと言ってよいほどに良く似ている。母娘というより、一卵性の双子と言われた方がよほどしっくり来るだろう。


 ――まあ、あえて違いを探すなら義光の頭に突き出た狐の耳(のような何か)だろうか。
 ――あと、これはあくまでついでに付け足すだけなのが、義光用に仕立てられた衣服には腰のあたりに尻尾(のような何か)を通すための穴が空けられており、今も俺の視界の中でなにやらふさふさとした尻尾(のような何か)がゆれていたりする。


 しかしまあ別に気にするほどのことでもない。世の中には馬の着ぐるみを来た武将もいるし、熊の皮をまとった大名もいる。女性を前にすると狼に変ずる男など珍しくもないし、男性を前に猫をかぶる女性も少なくあるまい。ゆえに狐の耳と尻尾を持つ少女がいたところで、とりたてて騒ぐには及ばないのである――ええい、及ばないといったら及ばないのだ。
「で、そこの朴念仁は何をもだえておるのじゃ。はようわらわの問いに答えい。先日の件はどうなったのじゃ?」
「あ、と失礼。先日の件というと――」
「決まっておる。庄内征服の段取りじゃ。上杉に話を通しておくといったのはそちであろうが」
「ここと春日山の距離を考えていただきたいのですけど。あれ、おとといのことでしょうが」
「たわけ、そこを何とかするのが軍師の腕じゃろう」
「いくら庄内の鮭がほしいからって無茶振りにもほどがあると申し上げたい」


 と、俺と義光が言い合っていると、一人、話についていけない義守が戸惑った声をあげる。
「え、あの兄様、白寿、庄内征服って何のことですか? わ、わたし聞いてない……ですよね?」
「うむ、母者にはまだ話しておらぬな。じゃが心配はいらぬぞよ。大宝寺ごとき、わらわにかかれば俎板の上の鯉も同様。庄内に産する鮭は永く最上の家のものぞ」
 そう言って口元に手をあてながら高笑いする義光と、そのテンションについていけずに肩をすくめる俺、そして事態を把握できずにおろおろする義守、三者三様の姿を城補修のために集められた人足たちが遠くから不思議そうに眺めていた。




[10186] 鮭将記(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/26 14:17


 出羽国尾浦城。
 庄内地方を治める大宝寺家の居城。未だ夜は明けていなかったが、東に広がる奥羽の山嶺が、彼方から昇る陽光を映して黄金色に浮かび上がっており、まもなく尾浦城からも朝陽が望めるようになるだろう。
 それは万人が認める事実だ、と城の主である大宝寺義氏は考える。
 しかし。
 朝陽が山並みの向こうから顔を出すであろうその刻限に至った時、この城がなお大宝寺家の居城であると保証できる者は、羽州広しといえど一人としていないだろう。なにしろ、大宝寺家の主である義氏さえ、それを保証できないのだから。


 どこか呆然と彼方の山並みを眺めている義氏の元に、側近の一人が駆け込んでくる。鎧兜に身を包んだ屈強な体格の若者は、右腕に血止めの布を巻き、左の頬から今なお血を流し続けている。身に付けている甲冑につけられた刀傷の数は、わずかの時間では数えることさえ出来そうにない。
 その姿は誰が見ても満身創痍であり――そして、主君直属の武士がそんな状態であるという一事が、現在の戦況のすべてを物語っていた。


「と、殿、最上勢が本丸に取り付きました! 敵勢の攻勢はすさまじく、無念ではありますが、これ以上の抗戦は……!」
 夜闇を裂いて襲い掛かってきた敵の軍勢の勢いは凄まじく、大宝寺勢は防戦の準備をする暇さえ与えられず、斬りたてられていくだけだった。義氏の元に敵の旗印が伝えられたのは、二の丸が陥落する直前だった。つまりは敵の確認さえまともにできないほどに、大宝寺勢は混乱の極みに達していたのである。
「……やはり、敵将は『羽州の狐』めか?」
「御意。見かけは女童としか見えませぬが、身の丈ほどもある鉄棒を縦横無尽に振り回し、御味方が近づくことも出来ぬ有様にて……また義光麾下の将兵も銀の魚鱗札で一統された具足を身につけ、一糸乱れぬ統制のもとに我が軍を押しやっており、混乱した御味方は成す術なく退却するしかなく……」
 無念そうに唇をかみ締める側近に対し、義氏はいたわりの言葉を向けることも出来ずに黙り込むしかなかった。


 庄内地方は水運に恵まれた奥羽でも有数の豊沃の地である。くわえて日本海有数の港である酒田を支配するこの地を狙う者は枚挙に暇がない。最上をはじめとした出羽の諸豪族はもとより、隣国越後の本庄氏などは、何代にも渡って庄内の征服をもくろんできた。
 近年、越後が上杉家によって統一されてからは、それまでのように露骨に野心を見せることはなくなったものの、だからといって警戒を緩められるほど戦国の世は甘くない。また、いつ上杉が庄内への野心をあらわにするとも知れない以上、越後への警戒を怠ることは出来なかった。


 国の内外に敵を抱えた大宝寺家が、それでも他家の風下に立つことなく独立を保ってこられたのは、やはり庄内地方の豊かさゆえであった。義氏もそのことは理解しており、国内の勢力、とくに最上家の動きには注意を払っていたのである。
 ことに義氏が気にかけたのが『最上八楯』の動向だった。


 最上八楯は天童家、延沢家、楯岡家といった最上の分家で構成される国人衆たちである。
 『最上』八楯という名前から、最上家の麾下であると誤解されそうだが、実際は出羽の国人衆たちが独自に盟約を結んだ武力集団であり、最上家に臣従しているわけではない。事実、その八楯の盟主にあたる天童家は反最上の最右翼といってよいほどに、最上宗家とは険悪な仲だった。
 両者のいさかいは、かつて奥羽と越後を揺るがした『天文の大乱』にまで遡り、一朝一夕の和解は不可能と思われていたのだが――
 ところが近年、最上家の当主である義守は、この難敵との和解を推し進めていた。家臣の危惧や他家の嘲笑など微塵も気にせず、義氏から見れば信じがたい粘り強さをもって宿敵との講和の道を探っており、最近では天童家の当主も義守の熱意と誠意に態度を軟化させつつあるとの噂も聞こえてきていた。


 最上宗家と八楯の和解がなれば、名実ともに出羽最大の勢力となる。そうなれば、現在、八楯に備えて身動きのとれない最上軍の主力は後顧の憂いなく出羽統一に邁進できるようになる。最上軍に八楯の兵力が加われば、大宝寺をはじめとした他勢力に刃向かう術などあろうはずもなかった。
 当然、他家はその動きを妨害すべく使者を縦横に動かしていたし、義氏も出来るかぎりの手は打っていた。その甲斐あってかどうか、天童家はいまだ最上家への敵対の立場を翻すには至っていない。
 とはいえ、いつ天童家が方針を転換するとも知れず、また天童家以外の八楯の中には、すでに最上家に歩み寄っている家もあるとの噂もあった。
 それゆえ、義氏は八楯へも監視の目を付けていたのである。万一にも最上家と八楯が結べば、互いに備える必要はなくなり、兵力に動きが出てくるだろう。
 逆に言えば。
 最上家と八楯の兵力配備に動きがなければ、これまでの状況が続くということでもある。義氏はそう考え、それは決して間違いではないはずだった。


 しかし、現実は義氏の思惑とは異なる結果をもたらしている。
 最上家と八楯、双方の兵力に大きな動きがあったという報告はない。最上家が大規模な徴兵を行ったという報告も。
 であれば、最上家が尾浦城を陥とすほどの兵力を催すことは不可能であるはず。ならば、今まさに攻め寄せている最上軍はどこから沸いて出たのだろうか。


 ――義氏は気づかなかった。
 そも、どうして最上軍は奇襲を行ったのか。敵を圧倒するだけの兵力があれば、そんな小細工は必要ないのである。
 それはつまり、小細工を用いなければならないほど、最上軍の兵力は少なかったことを意味する。
 現在、最上家で進められている軍制改革は、国内の国人衆に頼ることのない、最上家独自の兵団をつくりだすことを主眼としている。隣国上杉家の軍制を参考に築いている新たな最上軍は、しかし今のところまだ二百にも満たない数でしかなかった。これに越後のとある武将の軍を加えた、総勢四百名が尾浦城攻めの全兵力だったのである。
 もし、義氏がそのことを知ることが出来ていたら、戦は異なる結果で終わったかもしれない。単純な兵力比でいえば、大宝寺家が勝っていたのだから。
 しかし、突然の奇襲と、最上・上杉連合勢の精強さに押しまくられた大宝寺勢は最後まで敵の総数に気づくことなく敗退を余儀なくされる。


 尾浦城が朝陽に照らし出された時、城門に翻っていたのは、鮮やかな桜色に染められた『二つ引両』の最上家の家紋であった。




◆◆◆




「ほれ、どうしたのじゃ、まだ戦えるであろう? もっとわらわと遊んでたもれ……」
「おのれ、妖狐めが……ッ」
 尾浦城の一画。すでに大宝寺勢は総退却をはじめており、勝敗は決したといってよい。
 しかし、その中にあって退くを潔しとしない少数の将兵が、最上勢に対して最後の抵抗を試みていた。
 その数はおおよそ十人。対して、周囲を取り囲む最上軍はその十倍に達する。結末は誰が見ても明らかだったが、残った将兵とてもとより死は覚悟の上だった。
 大宝寺家の禄を食んだ身として、主君が逃げきるだけの時を稼ぎ、その後は武士の誇りをもって戦い、散っていこう。そう考えていた彼らは、しかし、今その覚悟を覆すほどの恐怖に全身を掴み取られていた。


 彼らの前には一人の少女が立っていた。その口元には明らかな嘲笑が浮かんでいる。
 兵士たちの決死の覚悟を嘲り、死に花を咲かせようとする行いを嬲るような、歪んだ微笑。
 これが敵将である最上義光であることは兵士たちも気づいていた。『羽州の狐』最上義光の存在を知らない者が奥羽にいるはずもない。
 当然、彼らは死出の旅路を飾るには好き相手、と色めきたったのだが――


「どうしたのじゃ、さきほどまでの勢いがなくなったのう? 必死になればまだまだ戦えようぞ。そなたらの命など塵芥のごときものなれど、せめてわらわの一時の余興となる程度のこともできぬのか?」
 そう嘲る義光の手には軍を指揮するための棒がある。当然ながら、刀や槍のような殺傷力があるはずもないが、義光は戦場において好んで棒を用いた。
 無論、ただの棒ではない。鉄で覆った指揮棒は重量だけで言えば刀の二倍。大の男でさえ振り回すのに苦労するだろうこの鉄棒を、義光は苦も無く片手で扱っていた。
 何故、刀や槍を用いないのか、という問いを受けた時、義光はいかにもつまらなそうにこう答えた。


 ――人間ごときの血で、わが身を汚されとうないだけじゃ。


 敵味方の将兵が生死を賭してぶつかりあう戦場において、そんな台詞が許されるだけの力量を最上義光は有していた。
 それを示すかのように、今も義光の前には五人をこえる兵士が蹲り、立つことさえ出来ずにうめき声をあげている。いずれも義光に斬りかかり、返り討ちにされたのである。あるものは脚を折られ、ある者は胸骨を砕かれ、そしてある者は鉄棒を口の中にねじ込まれた挙句、歯をへしおられた。
 周囲の最上軍は手出しをしていない。すべて義光一人がなしたことだった。


「大口を叩いておきながらこの程度とは……ふん、つまらぬ奴らじゃの。敵の将を前にかかってくる気概もないのであれば、おとなしゅう逃げておればよいものを。まあ、もっとも……」
 そう言いつつ、義光は敵のみならず、味方すら竦ませるような酷薄な笑みを浮かべた。
「あのような暴言を口にしおった貴様らを、いまさら逃がしなどせぬがなあ。容易く死ぬることができるとおもうでないぞ。殺生石の毒は鳥獣を撃ち殺すが、さて、人の身であればどれだけ保つのかのう……?」


 義光が激怒しているのは、今や誰の目にも明らかだった。
 大宝寺軍の兵士は――そして味方である最上軍の将兵も、義光の狐耳と尻尾は『羽州の狐』という異名にちなんだ装束だと考えていた。自らの存在を明らかにするために、奇抜な衣装をまとう傾き者のようなものだ、と。
 だが――あれが衣装であるのなら、どうして風もないのに自然に揺れ動いているのだろう。帯電したように逆立ち、まるでそれ自体が意思を持っているように激しくうごめく尾は、その数さえ増やしていないだろうか? 数え上げれば、それは六、七、八……九。


「化け物め……ッ」
 大宝寺の兵士の一人がうめくように呟く。そう口にすることが、最後の抵抗であるかのように。
 事実、もはや兵士たちは傷の有無に関わらず、その場を一歩も動くことが出来なかった。ただ居竦んで、ゆっくりと近づいてくる死の化生を待つことしか彼らには出来なかったのである。


 義光は血で染まったような紅い眼差しを倒れている兵士に向ける。すでに鉄棒の一撃をくらって脚をへし折られている兵士は、逃げることも、また目をそむけることも出来ない。いっそ気絶することが出来ればよかったのかもしれないが、兵士にはそんな逃避さえ許されなかった。
 無造作に振り上げられた鉄棒は、一瞬の後には無造作に振り下ろされ、自分の身体を打ち据えるのだろう、と兵士は他人事のように考えていた。死に至る殴打は、決してすぐには終わらない。それは眼前の妖狐がはっきりと口にしたことである。


 嬲り殺し。
 おおよそ考え得る中で最悪の死が、自分の頭上に降りかかろうとした、まさにその寸前。


 大宝寺の兵士は耳をつんざくような甲高い叫びを耳にする。
 それは義光と瓜二つの容姿を持った少女の口から発された叫びだった。



◆◆



 顔を真っ赤にして、めずらしく本気で怒っている様子の義守。
 その義守を前に、これもめずらしく拗ねたようにそっぽを向いている義光。
 どうしたもんかとその二人を遠巻きに取り囲む最上勢。
 何が起こったのかと呆然と佇む(もしくは地面に転がっている)大宝寺の兵士たち。
 その情景を前にして、俺は目を瞬かせて、こう呟いた。


「……何事だ、これ?」




 なにやら妙に焦った様子の最上兵に「至急お越しくださいませッ!!」と言われ、戦後処理を周囲に押し付け――もとい、任せて駆けつけて見れば、母娘喧嘩の真っ最中。それも、めずらしく双方が険悪な様子を見せている。
 いや、珍しいというより、ほとんどはじめて見る光景だった。
 ほとんど、と付けたのは過去に一度だけ似たようなところを見たことがあったからだ。はじめて義守と逢ったとき「お兄ちゃんと呼んで」発言をした俺にむかって、義光が鉄棒を振りかざして襲い掛かってきたことがあった。その時にも、たしかこんな空気になったなあ。


「おう、天城殿。なにやら妙なことになっておるなあ」
 横合いからやけにのんびりした声がかけられた。
 そちらを向くと、いかにも好々爺といった感じの初老の男性が立っていた。
「これは氏家様。それがしも今参ったところなのですが、一体何事でしょうか」
「さて、もがみん様があれほどお怒りをあらわにされるのは実にめずらしい。よほどのことがあったのじゃろうが……」
 最上家宿老、氏家定直殿はそう言いつつ、怪訝そうにもう一方の人物に目を向ける。
 その心を察して、俺も疑問を口に出した。
「義光様が、義守様の言うことを素直に聞き入れないのも珍しいですね」
「うむ。そなたを成敗しようとした時以来ではないか」
「……ははは、あの時は無礼を申しました」
「いやなに、もがみん様の魅力にまいる者など珍しくもないでな。まあもっとも、いきなりお兄ちゃんと呼べ、などと口にした剛の者は貴殿くらいじゃが」
 そう言ってからからと定直殿は哄笑した。いかにも人が好さそうな外見に笑い声。そして、実際に定直殿は外見に違わない為人であった。


 無論、ただ人が好いだけの人物ではない。
 定直殿は最上家の宿老であり、義守にとっては親代わりといって良い人物である。幼くして当主の座についた義守を影に日向に守り続け、現在の最上家の基を築き上げた功績は比類が無い。
 当然、最上家における定直殿の信用は絶大であり、発言力もある。もっとも定直殿はよほどのことがない限り、政事や軍議で発言はしない。義守を立て、その発言と決定を忠実に実行することが自分の役割であると考えているのだろう。
 同時に下手に自分が発言して、義守の影響力を殺ぐことを定直殿は危惧しているのだろうと思われた。


 もっとも、何もかもを義守に委ねているというわけではない。必要とあれば、義守の考えに異議を差し挟むこともあった。
 敵味方の将兵の前で、義守と義光が不和を示す今の状況は、どう控えめにみても良い影響をもたらさない。定直殿であれば、この場の収拾をつけることも出来ると思われるのだが、定直殿は当然のように俺にその役割を振ってきた。
「わしは義光様に嫌われておるでな」
「それはそれがしも同様です」
 基本的に義光は人間嫌いなのだが、とくに義守の近くにいる人物を毛嫌いする傾向があるのだ。老若男女を問わず、である。
「老骨に争いごとは堪えるのじゃよ」
「ついさきほどまで、勇ましく先陣で指揮をとっておられたではありませんか」
 長く続く出羽の動乱を生き抜いてきた宿将である定直殿は、実はけっこう熱血老人だった。
「これからはお前たちの時代だ」
「いきなり格好良い台詞を言って誤魔化そうとしても無駄です」

 
 そんなことを言い合っている間にも、母娘の言い合いはとどまるところを知らなかった。
 どうやら義光が過度に示した残忍さを、義守がとがめだてしているようだが……
「――これは、そろそろ止めた方が良さそうですね」
「うむ。将兵の方はわしがまとめておこう」
「お願いします」
 短く相談をまとめると、俺と定直殿はそれぞれ違う方向に向けて歩きだす。
 騒乱の渦中に足を踏み入れた俺の姿に、当然のように周囲が気づいた。いつもは敵愾心まじりの視線が、今に限ってはすがるように感じられるのは、多分気のせいではあるまい。
 そんな俺の姿に、当の二人が気づくまで時間はかからなかった。



◆◆



「あ、に、兄様……」
 目じりに今にもこぼれそうな雫を浮かべた義守の涙声を聞いた瞬間、背筋に電流はしる――が、今はそんな場合ではないので、鋼の意思でそれをねじふせ、二人の間に割り込んだ。
「……なんじゃ、朴念仁か」
「白寿! また兄様をそんな風に呼んで……!」
「ふん、母者はいつもそやつの味方じゃ。わらわが邪魔なら言うてくれい。すぐにここから立ち去るわ。それともわらわなぞ永久にいなくなった方が母者も安心できるかのう?」
「白寿ッ!!」
 義守の本気の怒声。
 しかし、いつもならば一も二もなく従う義光は、ふん、とばかりにそっぽを向く。
 そんな義光に、義守は悲しげな視線を向けている。どうしてわかってくれないのだろう、という内心の嘆きが目に見えるようだった。


 そんな二人を目の当たりにした俺は、知らず笑みを浮かべていた。
 愛想笑いではない。無論、嘲ったわけでも、窮したわけでもない。自然にこぼれでた笑みだった。
 そして、そんな俺を見咎めたのは、他者に笑われることが大嫌いな義光だった。
「……何をわろうておる、人間」
 義光の背から、ゆらりと殺気が立ち上った――そんな光景を幻視した。それほどに、義光の声には濃厚な殺気が漂っており、返答次第では本気で俺の命を奪いに来るだろうと確信する。


 この地に来たばかりの頃なら――と、一瞬夢想する。一言もなく震え上がり、それどころかこの場から逃げ去っていたかもしれない。
 しかし、今の俺にしてみれば義光の殺気は可愛いものだった。なんとなれば、すねた子供の癇癪に以外の何物でもないと思えたから。
 とはいえ、それをそのまま口にすれば本気で殺されかねん。さすがに最上義光と正面からやりあって勝てるとは考えていない。負けないように粘ることくらいは出来るかもしれんが、そんな必要もないだろう。


「いや、これは失礼しました。義光様があまりにも羨ましかったもので」
「……なに?」
 俺の言葉に、義光が眉をひそめる。どんな言葉を予測していたにせよ、俺の言葉はその外にあったらしい。
 義守の方も、俺の言葉の意味がわからずきょとんとしている。
「本気で怒れるのは、本気で想っているからこそ。母を亡くした私は、もう母を想うことも、仲違いして喧嘩することも出来ません。それが出来る義光殿が、本当に羨ましいです」
 俺の言葉を聴いた義光は一瞬戸惑ったように眼差しを揺らしたが、こじれた感情はすぐに冷然とした感情を面に浮かび上がらせた。


 俺に向けて、侮蔑まじりに何かを口にしようとした義光。
 その機先を制して、俺はさらに言葉を続ける。
「最上家に参って、まださほどの時が経ったわけではありません。それでも、気づいたことはあります。たとえば、義光様は義守様以外になんら関心を持たれていないこととか」
「……ふん、何を当然のことを。母者以外の人間なぞどうなろうと知ったことか。最上の家だとて、母者にとって大切だから戦っているだけのこと、愛着など微塵もないわ」
 その義光の言葉に、義守が悲しげな顔で口を開きかけたが、俺は目顔でそれを制する。幸い、義守は気づいてくれたようで、開きかけた口をとざした。


「そんな義光様が、実にめずらしく本気で怒っておられる。さきほども申し上げた。本気で怒るは、本気で想うゆえ、と。であれば、義光様が何ゆえにかような振る舞いをなされたのかも推測が出来まする――義守様のことを、悪く言われたのでしょう」
 疑問符を付ける必要もない。推測、という言葉を使ったが、他に可能性はないと断言できる。
 俺の言葉に、義光が言葉を詰まらせる。妖艶さを漂わせていても、このあたり、義光は結構子供っぽくてわかりやすい。そんなことを言ったら例の鉄棒のフルスイングを食らいそうなので、決して口にはしないけれども。


「では、そんな母親想いの義光様にお説教その一です」
「……なんじゃと?」
「出会って数月のそれがしごときが気づくのです。義守様が気づかぬとお考えか?」
「……ぬ?」
 その指摘が予想外だったのか、義光の視線が義守に向けられる。
 幼さの残る顔に浮かんだ表情は、俺の言葉の正否を義光に教えてくれるだろう。


 多分、義光は母を想っての行動を母に制されたゆえにへそを曲げたのだろう。
 しかし、実際は義守は義光の怒りにも、その理由にも気づいていたはずだ。
 問題なのは人間嫌いの義光にとって至極まっとうな行動だったそれが、義守にとっては酷薄に過ぎたことであろう。
 自分を想っての行動だとしても――否、そうであればなおさらに、義光にそんな酷いことをしてほしくなかった。だから、義守は声を高めて咎めたに違いない。


 もっと言えば。
 義光の着物を仕立てる時などもそうだが、義守が義光にもっと普通の女の子らしく過ごしてほしいと願っているのは明らかだった。だから、いくら母と呼んでくれる自分のためとはいえ、今回のように酷薄な考えが浮かんでしまう義光の為人を、義守は糺しかったのではないか。
 最上義光は最上家の武威の源泉である。そうでなくとも、この戦国の世で、一国の将である義光に普通の女の子のようになってほしいという願いには無理がある。その程度のことは義守とてわかっていないはずはない。それでも、それを承知してなお義守がそう行動した理由は、ひとえに娘への愛情ゆえだろう。
 その直ぐな愛情を向けられている当人が、それに気づかないはずはない。
 事実、義光はいつの間にか常の義光に戻りつつある。さきほどまでは何故か複数に見えた尻尾も、元の数に戻っているところを見るに、義守の行動の理由に義光はようやく思い至ったようであった。
 


 頭を冷やした義光は、急に落ちつかなげに身動ぎしはじめる。自分が母に対してとった態度を今更ながらに思い返し、うろたえている様子であった。
 すると、それを見てとった定直殿らがこれ幸いと大宝寺軍の将兵を引き起こし、連れ出していった。機を見るに敏な最上軍である。
 そんな周囲の様子など気にも留めず、義光は母の機嫌を窺うようにちらちらと視線を向けつつ、おそるおそる口を開く。
「は、母者……その……じゃな」
「……白寿」
 対照的に義守は落ち着いた声だった。いや、落ち着いたというよりは感情を感じさせない凪のような声音だった。
 普段怒らない人ほど本気で怒ったときは怖いというが、今の義守がそんな感じなのだろうか。
 不穏な気配を感じ取った義光が、ほとんど涙目になって身体を縮こまらせている。


 さすがに哀れに思った俺は助け舟を出そうと試みる。なに、義光ならともかく義守ならなだめることも出来るだろう――
「義守様、ここは――」
「兄様は黙っていてください」
「失礼いたしましたッ」
 ごめんなさい、無理でした。というか、さっきの乱心義光に優るとも劣らない迫力である。さすがは最上家当主、その威厳は俺ごときが太刀打ちできるものではなかった。


「白寿」
 一人でがくがくと震えている俺をよそに、ゆっくりと歩を進める義守。
 義光は母の迫力に威圧されたのか、今や正座して叱責を待ち受けている。
 そして、そんな義光の前に立った義守は、小さな右の拳を握り締め、


 ――義光の額をこつん、と打った。


 打った、というよりはほとんど触れたような感じで、義光は何が起きたのかわからない様子で、目を瞬かせている。
 そんな義光に対し、義守は両手に腰をあてて胸をそらせる。母親の威厳というやつを示したいのだと思われたが……いや、これ以上は言うまい。


「白寿、反省した?」
「う、うむ。反省したぞ、母者」
「じゃあ母様の言いたいことはわかったよね?」
「む、無論じゃ」
 ならばよし、という感じで頷く義守。それを見て、目に見えてほっとする義光。
「なら、お説教その二はここで終わりにします。それと……」
「なな、なんじゃ、母者」
 まだ何か叱責されることをしたか、と慌てる義光を、義守はふわりと両手を広げて包み込んだ。
「母様のために怒ってくれて、ありがとう。白寿は優しい子だね」
「……母者」


 義守に抱きしめられた義光が、その胸の中でおずおずと母を見上げ、ぐすりと鼻をすする。
 その光景に周囲からは感極まったような泣き声があがった。無論、それは一部始終を固唾を呑んで見守っていた最上家の皆さんのものである。
 ふむ、これで――
「一件落着、じゃな」
 その声は、いつのまにか俺の傍らに戻ってきていた定直殿のものだった。
「……まあいろいろと言いたいことはありますがね」
 他家の臣に危険だけ押し付けて、まとめに顔を出す宿将ってどうなのよ、とか。
「でもまあ義守様と義光様の仲がこじれずに済んで良かったです」
 この二人ならありえないとは思うが、天正最上の乱なんぞ起こしてはならないのだ。隣国の安定という意味でも、それ以外の意味でも。


 尾浦城は陥ち、庄内地方に大きな楔を打つことは出来た。あとは大宝寺城などの支城を陥として、庄内の支配権を固めるだけだ。今回は他の国人衆を動かしていないので、基本的にすべて最上宗家の直轄領に出来るのである。
「しかし、半ばは天城殿の手勢、すなわち上杉の兵なのじゃが、本当に見返りは必要ないのか?」
「隣国の政情が安定することは上杉にとっても重要なのですよ。まして信頼のおける盟友を得られるならば、これ以上のものはございません。見返りというなら、領土や城などより、そちらの方がはるかに大きな見返りと申せましょう」


 無論、上杉は単純な親切心だけで兵を出したのではない。
 近畿、北陸における政情が混迷を極めている現在、上杉家は全力でそちらに対処しなければならない。そんな状況で最上という盟友を得ることの利益は口にするまでもないだろう。
 そして最上家の存在は、近年、急激に勢力を広げている奥州の伊達政宗に対する備えにも繋がるのである。
 露骨にいえば、最上家の存在は上杉の北の楯なのだ。


 ――まあ定直殿ほどの方であれば察しはついているだろう。あるいは先の伊達家の山形侵攻に際し、上杉家に援軍を求める使者を出したのは、そのあたりも計算に入れた上で上杉は断らないと判断したからかもしれない。
「――ともあれ、最上家が庄内を制したと知られれば、出羽の内外で大きな動きが起こるでしょう。羽州統一に向けて、いよいよ正念場というところでございましょう」
「うむ。まあ、もがみん様を当主に仰ぐことを定めた日から今日まで、わしにとっては毎日が正念場であったゆえ、さして何がかわるというわけでもないがのう」


 俺と定直殿が、そんなことを小声で言い合っていると、不意に義守が不思議そうな声で義光に問いを向けた。
 いわく、なんであれほどまでに激怒していたのか、と。
 確かに戦場で敵将を嘲るなどめずらしくもないことである。義光自身はもちろん、義守に関する悪口を浴びせられたのが初めてであるとは思えない。
 しかし、義光があそこまで深甚な怒りを示したのはかつてない。よほどひどいことを言われたのか、と義守は考えたのだろう。
 義光は言いづらそうにしていたが、義守の無言の懇願に負けて結局口を開くことになった。


「……はじめはの、連中を皆殺しにしようと思っておったのじゃ。じゃが母者が以前、敵でも味方でも、人死には少ない方が良いと言っておったゆえ……降伏せよというてみた。するとあやつら、身の程知らずにもわらわを嘲り、わらわのような妖しも、それを操る売女の末路も知れたものじゃと。今日、勝っても明日には身ぐるみはがされ、母娘ともども磔にされるが関の山、精々一夜の勝利を寿いでいるが良いなどとぬかしおって……!」


 ――なるほど、それでか。
 まあ大宝寺の兵にしてみれば、奇襲をくらって成す術もなく敗れた挙句、居丈高に降伏しろと呼びかけられれば、雑言の一つも吐きたくなるだろう。それはわからないでもない。
 ……わからないでもないのだが。やはりもう少し言葉を選ぶべきではあったかもしれない。特に可憐で可愛く、純朴で健気なもがみんに対して売女はないだろう、売女は。


 俺はぽつりと呟いた。
「……こちらは数が少ないこともあって、追撃は控えようかと思っていましたが……ふむ。今後のことを考えれば、ここは徹底的に大宝寺軍を撃滅しておくべきかもしれません」
 俺の呟きに、傍らの定直殿も頷いてみせる。
「うむ、ここは念には念を入れて殲滅しておくべき局面じゃろう」
「ですね。ここは必滅を期して、一気にたたみかけましょう」
「さようさよう、滅殺あるのみじゃ」
 俺と定直殿、そしていつのまにか周囲に集まっていた最上の将兵は同時に踵を返すと、城の外に向かって歩き出す。


 一糸乱れぬその行軍を、義守は戸惑いもあらわに見送っていた。
「あ、あれ……? 爺、兄様、それに皆さんもどこに?」
「母者が気にすることはなかろう、ほうっておけばそのうち帰ってこようぞ」
「そ、そうなの、白寿?」
「うむ、放っておけば良い。それより母者、もう少しこのままでいさせてたもれ……」



◆◆◆



 この後、最上・上杉連合軍は大宝寺軍に対して猛追を行い多大なる戦果をあげる。一連の追撃戦で、大宝寺軍が失った兵力は、総兵力の七割に達する。
 大宝寺家には、大宝寺城をはじめとした幾つかの支城が残されており、それぞれの城には留守居の将兵が残されていたが、何故だか猛り来るって攻め寄せてくる最上・上杉連合軍に対しては抗戦する術も気力もなく、次々に降伏を余儀なくされていく。
 最上軍が庄内の大宝寺領全域を制圧するのは、尾浦城が陥落した、わずか十日後のことであった……





[10186] 鮭将記(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/31 20:43


このSSの半分はネタで出来ています
ネタ元 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 『最上義光』




◆◆◆





 尾浦城をわずか四百の軍勢で陥落させ、さらには大宝寺義氏を討って瞬く間に庄内を制圧した最上軍の鮮やかな侵攻は、瞬く間に出羽国の内外に広まっていった。
 大宝寺家は出羽国人衆の中でも雄なる一つ。その勢力が一朝に滅び去ったのである。それも実質的に五百にも満たない軍勢によって。
 はじめは報告の真偽を疑った国人衆――ことに最上八楯をはじめとした、現在の最上家に敵対的な立場を貫いてきた国人衆たちは、その報告が真実であると知るや表情を凍らせ、対応に苦慮することになる。


 一方の最上軍は、といえば。 
 最上義守は庄内地方を自領に組み込むため、当面の間、尾浦城を拠点としていた。
 武力での制圧は終わったものの、大宝寺家恩顧の旧臣たちの叛乱に備え、同時に酒田港をはじめとした新領地の統治の詳細を詰める――そんなあれやこれやは一朝一夕では終わらないためである。山形城に戻ることも出来なくはなかったが、征服間もない領土であるため、危急の際に備えるのは当然の用心であったろう。
 また、最上家の庄内制圧が知れ渡ってからこちら、尾浦城には出羽の内外を問わず幾人もの大名や国人衆の使者が訪れ、最上義守や氏家定直などは内治に外交にとてんてこ舞いの状況に陥っていた。


 ……だがその一方で、そういった騒動とは無縁の者たちもいる。それはたとえば、尾浦城の一画でこそこそとうごめいている狐耳の少女と、それに付き従う軍師であったりした。




◆◆◆




「軍師よ、鮭の集まり具合はどうじゃ」
「は、順調でござる。やはり最上家は無類の鮭好きであると噂をばらまいたのが功を奏したようで、新しい領主の歓心を買いたい者たちから献上される鮭は、今や蔵一つに収まりきらぬほどになっております」
「見事な知略じゃ、ほめてつかわすぞ」
「有難きお言葉」
「当然、今日の夕餉も鮭尽くしで決まりじゃろうな?」
「申すまでもなきこと。すでに庄内各地に高札を立て、破格の報酬で集めた料理人たちが仕込みにとりかかっておりまする」


 その言葉に喜色を浮かべた少女は、しかしすぐに表情に憂いを見せた。
「返す返すも見事な策じゃ……しかしのう、颯馬」
「いかがなさいました、義光様?」
「わらわのために要らぬ出費を強いるのは、出来れば避けたいのじゃ。今の最上は金がいくらあっても足りぬじゃろ?」
「ご心配めさるな。これでもそれがし、上杉においてそれなりの地位を有しております。料理人の十や二十、新たに雇い入れたところで懐は痛みませぬ」
「おお……颯馬よ、わらわは今はじめて母者以外の人間に感謝の念をおぼえたぞよ」


 
「恐れ入ります――そういえば義光様」
「なんじゃ?」
「先刻、その料理人たちから義守様と義光様にお出しする膳の味見を頼まれまして……なんでも鮭を秘伝の味噌に漬け込み、それを焼き上げるのだとか。義守様や義光様の口にあうかどうかを確認してほしいとのことでござった。少々、席をはずしてもよろしゅうございましょうや?」
「待て、颯馬よッ」
「は、いかがなさいました?」
「それはつまり、美味な鮭を、わらわよりも母者よりも先におぬしが口にする、ということではないのか?!」
「む、確かにそうとも申せましょう。したが毒見役も兼ねておりますゆえ、なにとぞご容赦たまわりたく」
「ええい、ならん、ならんぞ。この地に産する鮭はすべからくわらわの口に入らねばならぬのじゃッ。たとえ軍師といえど、この律を曲げることは許されぬッ!」
「かしこまりました。ならば義光様もご一緒に食される、ということでご納得いただけませぬか? 無論、料理人たちには身分を伏せたままで。それゆえ、たとえ味が気に入らなかったとしても、お怒りはしずめていただかねばなりませぬが」
「ふむ、それならば良かろう。母者の膳を守るも娘であるわらわの務め。少々待っておれ。頭巾を取ってくるゆえ……」


 そう言って義光が踵を返そうとした、その途端。
 とたとた、といやに軽い足音が廊下の向こうから一直線に義光たちの方に向かってくる。
 それに気づいた義光は、喜色に満ちていた顔色を一変させた。
「む、いかん、この足音は母者――!」
「義光様、ここはそれがしが! 急ぎ退かれよ!」
「く、すまぬ颯馬。そなたの犠牲は忘れぬぞッ」
 そう言って立ち去りかけた義光だったが、迫り来る足音は思った以上に早く襲来した。そうせざるを得ないほどの憤りを感じていたのかもしんない。


「ああー、こんなところにいたんですね、白寿! 兄様!!」
 小さな最上家当主は、逃げ腰になっている俺たちを視界に捉えるや、常は優しげな表情を浮かべる相貌に、紛れもない怒りを滲ませながら駆け寄ってきたのである……



◆◆◆



「――つまり、二人して遊んでいたんですね?」
 二人して正座しながら、これまでの状況を説明申し上げたら、義守様は一言で総括してくださった。
「い、いや、母者。わらわはこの上なく真剣に今夜の鮭尽くしに思いを馳せておったのじゃ」
「さようでございます。途中から、ちと悪ふざけに走ったのは否定できませんが……」
 義光と俺の抗弁など聞く耳持たぬ、と言いたげに義守はむすっと俺たちを見下ろしている――というか、よく考えたら抗弁でもなんでもないわけで、義守が怒りをしずめる理由になるはずもなかった。


「昼から姿が見えないと思ったら、こんな隅っこで二人きりで。わたしも爺も猫の手も借りたいほど忙しかったんですよ?」
「しかしじゃの、わらわは戦うことしか出来ぬで、母者たちを手伝おうとしても何も出来ぬのじゃ……こっちの軍師と違って」
 容易に義守の怒りが静まらぬと見て取ったのか、義光が掌を翻して俺を生贄に差し出そうとする。く、さすがは羽州の狐、侮れん。だが、俺もだまってやられるほど甘くはないのだッ。
「それがしは上杉家の者ですので、内政や外交に関してはあまり口出しせぬ方がよろしいのです……こっちのご息女と違って」
「む、颯馬、貴様、わらわを贄にするつもりか?!」
「ふ、笑止。最初にそれがしを見捨てたのは義光様でしょう!」
「だまりゃ! ついさきほどは己に構わず先にゆけというたではないかッ! それに、そもそもおぬしが鮭でわらわを釣ったから、こんなことになったのであろうッ」
「それがしとて好きで釣ったわけではござらぬ。そもそも、鮭はまだか鮭はどうした鮭はいずこじゃ、とそれがしの耳元で念仏のごとく囁き続けたのは義光様でしょうが! 鮭好きもほどほどになさいませッ」
「……言うたな、颯馬。言うてはならんことを言うたなッ! 鮭に何の罪があろうぞ。己の不徳と無能を鮭のせいにするなど、なんと見下げ果てた男じゃ!」
「然り、たしかに鮭に罪はございませぬ。罪あるとすれば、鮭を好むあまり己が責務を放擲した義光様でありましょうぞッ」



「――よう言うた。そこまで言うたからには覚悟は出来ておろうッ!」
 そう叫びつつ、鉄棒を振りかざす義光。
「この天城筑前、覚悟もなく言辞は弄しませぬッ!」
 応じて俺は懐から鉄扇を取り出してみせる。



 そして、俺と義光が互いに構えをとり、いざ激突せんと足を踏み出しかけた、その途端。
「いい加減にしなさい、二人ともッ!」
 義守の拳が同時に俺と義光の脳天を直撃した。




「そもそもなんで兄様が厨房の差配までしてるんですか、他にやるべきお仕事はいくらでもありますよねッ」
 義守の言葉は正論で、俺は一言もなく頭を下げるしかなかった。
 義光はそんな俺を小気味良さそうに眺めている。
「くふ、良い気味じゃな、そう――」
「……はーくーじゅー」
「は、母者、どうしてそのように鬼のような形相をされておられるのじゃ?!」
「皆さんが働いているのに、どうして白寿だけが遊んでいるのッ! やらなきゃいけないことがあるのは、白寿も同じなんですからね。これ以上、だだをこねるなら、今日は白寿だけ鮭抜きご飯にしてもらいますッ!」
「はうあッ?! 母者、そんな殺生なッ」
「それが嫌ならちゃんと働くのッ。この前も言ったけど、これまでみたいに戦うだけじゃだめですからね。爺には言っておいたから、白寿もきちんとお仕事が出来るようになりなさい。働かざるもの、食べるべからずです。特に鮭ッ」
「わ、わかった、わかったゆえ、鮭抜きだけは勘弁してたもれーッ」
 そう言うや、義光はすごい勢いで走り去った。
 これ以上、余計なことを口にすると、本当に鮭が食べられなくなると思ったのかもしれない。


「ん、これで白寿は大丈夫そうですね――兄様は、まだ何か仰ることがおありですか?」
「謹んで、誠心誠意、身を粉にして働かせていただきます」
「はい、結構です」
  


◆◆



 というわけで、夜半である。
 件の鮭尽くしは大変美味であったが、生憎と仕事は今になっても終わっていない。
 まあ戦で本当に大変なのは、始まる前でも、戦っている最中でもなく、終わった後であるのは重々承知していた。
 なら最初から働けと言われそうだが、なにしろ最上の家臣ではない身としては、どこまで手を付けて良いかわからなかったのだ。上杉の方が大家であるため、そのあたりは微妙な問題をはらむのである。先刻、義守に言ったことは決してその場かぎりの言い訳ではなかった。


 しかし、そんな俺の配慮は無用のものであったらしく、渡されたのは兵力の配備や年貢の徴収などの一国の施政に関わる重要な案件ばかり。無論、決定ではなく、俺の意見を付記してほしいという感じのものだったが、それでも他家に仕える俺が関わっていいのかしらと首を傾げざるをえない。もっとも、その一方で信頼に感謝する自分がいるのも確かであった。
 ともあれ、遠慮が無用とわかれば、後は能力の限りを尽くすだけである。それにこの手の仕事は決して嫌いではなかった。



 そして、気づけば月が中天にかかる時刻になっていたのである。



「……ふぁ……」
 妙に気の抜けた義守の声が耳朶を揺らす。
 そちらを見れば、眠そうに目を瞬かせた義守が一生懸命に机と向かい合っていた。
「義守様、そろそろ筆を置かれては?」
 ちなみに、この問いかけは本日五度目である。
 その度に義守は「もう少し」と言い続けてきた。だが、さすがにそろそろ限界だろうと思われる。まあ、もっとも――
「でも、あと少し……」
 義守が、俺が予期していたのとまったく同じ台詞を口にしたので、俺は思わず苦笑してしまった。
「明日以降も時間はあるのですから、根をつめすぎてはいけませんよ。まだ風呂にも入っていないのでしょう? 女の子として、風呂抜きはどうかと思いますが」
 個人的に言えば、別に風呂の有無など気にもしないが、こうでも言わないと義守の「あと少し」は日付が変わるまで続いてしまいそうだったのだ――しかし冷静に考えて見ると、これ、思いっきりセクハラではなかろーか?


「う……も、もしかして何かにおいます?」
 密かに思い悩む俺をよそに、義守はなにやら焦ったように自分の身体を見下ろしている。
「い、いえ、そんなことは全然さっぱりないんですが、ほら、あれです。あまり遅くなると、眠気に負けて湯船の中でおぼれてしまうかも、と心配になって……」
 俺は慌てて口早にそう言った。
 こう言えば、おそらく『そこまで子供じゃありませんッ』といういつもの言葉がかえってくるだろう。そうすれば、失言を有耶無耶に出来る、と一瞬で計算したのだが――


 あにはからんや、もがみん様は頬どころか首すじまで真っ赤にそめてこう仰っいました。
「に、兄様、も、もしかして昨日見てたんですかッ?!」
「そう来るか?!」
 思わず正面から叫び返してしまいました。
 その後、あくまで口からでまかせを言っただけだと納得してもらうまで、少し時間がかかってしまったのは不可抗力であると信じたかった。

  



 
 義守を風呂へと送り出した後、俺は残っていた案件に筆を走らせた。
 庄内を制したことによる最も大きな利益は鮭の独占――ではなく、酒田港の奪取である。
 この利を上手く活かせれば、最上家の財政をおおいに潤すことが可能となるだろう。今回の戦でおおいに武功を誇った義守直属の軍勢――銀魚鱗札の甲冑と、桜染めの軍旗で統一した親衛隊は、ゆくゆくは最上軍の主力となるべき軍勢であり、その拡充のためには潤沢な資金が不可欠であった。
「なるべく早く有力な商人たちと顔をあわせておくべきだろうなあ。とはいえ、いまだに向こうが出向いてこないってことは、こっちを警戒しているか軽んじてるか、どっちかだろうし」
 どうしたものか、と俺は床に寝転がりながら、今後のことに思いを及ばせる。まあ海千山千の商人たちとのやりとりは、定直殿あたりに丸投げすれば良いだろう。こういう時こそ生きるのが年の功である――多分。


 そうすると、あと考えるべきは何だろうか。
 今、風呂に入っているもがみんの裸身に思いを馳せるのも悪くはないが、さすがにここで風呂場に赴くほどの蛮勇は持っていない。なので妙な期待はせぬが良い。
「……もう寝るか」
 自分の思考に疲労を感じ取り、俺は小さくあくびする。
 そうしておもむろに立ち上がると、軽く肩をまわしながら障子を開け――


「……は?」


 そこに、薄布を巻いた(つまりは半裸の)義守を見つけ、俺は目を瞬かせた。





◆◆◆




 あ、ありのまま(以下略










 結論だけ言えば、湯殿でゴキブリが出たそうな。 




「……だからといって、未婚の女性が半裸で駆け回るというのもどうかと思うのですよ」
 時間が時間だけに、すでに侍女や小姓には下がって休むように伝えてあったため、誰にも見られずに済んだのは不幸中の幸いと言えるだろう。
 ここが山形城であれば、下がれと言われても、義守が働いている以上誰かしら傍についていただろうが、幸か不幸かここは尾浦城だった。


 黒の使者(サイズ特大)と出会った義守は、悲鳴をあげることさえ出来ずにその場を駆け出し、部屋まで戻ってきた、という顛末らしい。それを聞き出すまでに、またさらに時間がかかってしまった。
『ご、ごめんなさい……』
 湯殿の壁を通して、力ない声が返ってくる。いまだ驚きがさめやらない――だけでなく、俺に半裸を見られたことがかなりショックだったらしい。我に返った義守が悲鳴をあげかけたので、俺は慌ててその口を手で押さえ込まねばならなかった。
 この時代の女性からすれば、ほとんど全裸を見られたようなものだから、義守の動揺も仕方ないとは思うが、さすがにあの状況で他の人間に踏み込まれたら、俺の命が危ない。義光が昼間の定直殿の特訓で疲れ果て、とうの昔に寝ていることを感謝せずにはいられなかった。


 とりあえず義守には俺の上着を着せ、湯殿に戻ってみたものの、すでに件の油虫は姿を消した後だった。
 もう大丈夫だとは思うが、またいつどこから出てくるか知れたものではない。義守のすがるような眼差しに屈した俺は、一応ひととおりあたりを確認することにした。
 結果、一応問題はないだろうという結論に達したのだが、義守はどうしても気になるらしかった。そもそも山に取り囲まれた出羽の国では、別に油虫などめずらしくも何ともないのだが――まあだからといって慣れるというものでもないのかな。
 ともあれ、いつまでも油虫を探し続けるわけにもいかない。それにいい加減、義守の身体も冷えてしまっているだろうし、このままではそれこそ風邪をひいてしまいかねない。




 ……そうして義守を説得した結果が、今のこの状況である。
『に、兄様、いらっしゃいます、よね……?』
「はい、ここに」
 風呂には入りたい。けど、一人は嫌。
 なら俺がすぐ近くで控えていれば良い――と、まあそんな結論になったわけだが。
 それこそ侍女なり義光なり、誰か女性を連れてくれば済むと思うのだが、義守としてはこんなことで迷惑をかけたくないとのことだった。
 なら俺は良いのか、とは思っても口にしない程度の分別は持っている。
「……まあ、怯えた妹をほうっておくわけにもいかないからな」
 俺はそう呟いて自分を納得させることにしたのである。





 すでに秋も深い山国である。日が落ちれば、気温は驚くほどに急激に下がってくる。
 さすがにまだ雪が降るほどではないが、夜が更けるにつれ、寒気はますます厳しくなってきていた。
 まさかこんな状況になるとは思わなかったから、今の俺は火鉢の置かれた政務部屋と同じ服装なわけで、必然的に――
「くしゅッ!」
 小さくクシャミが出てしまう。
 慌てて口をおさえたが、あたりが静まりかえっているため、些細な音でもよく通ってしまう。
『兄様……あの、お寒いですか?』
「ああ、大丈夫ですよ」
 俺はそう言って小さく笑った。寒くない、とは言わない。実際、結構冷えるのだ。とはいえ、それを口にしたところで義守に気を遣わせるだけである。中途半端に湯からあがらせて、義守が湯冷めでもしたら、それこそ大事である。
 義守の身体は義守だけのものではないのだ。あの小さな身体には、最上家と、それに連なる多くの人々の命と未来がかかっているのである。
 ゆえに、こんなところで、わずかなりと損なってよいものではない。代わりに明日、俺が体調を崩したところで安い代償だろう。もっとも、そんなことになれば誰よりも義守が気にしてしまうから、俺もこの後は身体を暖めて、なるべく早く床に就かねばなるまい。
 そんな風に考えていると――


『……あの、兄様』
「ん、どうかされました?」
『あの、ですね……』
「はい?」
『よろしければ、なんですけど……あの、兄様が体調を崩されては大変ですし、だから、その……』
「はい??」
 義守の言わんとしていることがわからず、俺は首を傾げる。
 すると、しばしの沈黙の後、意を決した義守の硬い声音が俺の耳に届いた。


『………………一緒に入りませんか?』
「……なん……だと?」
 




◆◆



 と、驚いてはみたものの。
 俺もそれなりに年をくっている。十以上も年の離れた女の子の肌を見たからといっていまさら興奮することもなく、欲望をおさえる必要もなかった。
 それよりも、自分から言い出したことなのに照れまくっているもがみんの慌てぶりに吹き出しそうになるのを堪える方がよほど大変だったとさ。



 
「……ふ……あ、ぁ……」
 俺の手が動く都度、なんかやたらと艶かしい声をあげる義守。
 字だけで記すと、何してんだこの野郎と思われそうだが、単に髪を洗っているだけである。
 普段は結い上げている義守の髪は、おろすと腰どころか膝下にまで届くため、これを一人で洗うのはなかなかに大変だろう、などと考えながら手を動かす。
「に、兄様、なんでこんなに髪を洗うの上手なんですか……?」
 心地よげに目を閉じていた義守が、不思議そうな声で問いかけてきた。
「妹に仕込まれました」
 問いに応じつつ、俺は義守の髪を傷めないように丹念に洗い流していく。一応、視界には瑞々しい少女の肢体も映っているのだが、今、この時は完全に思考から切り離されていた。
 『女子の髪は、その一本一本が絹糸に優る価値がある』とは何事も完璧主義の妹様からの有難い教えであり、それを手の中におさめている以上、邪まな想像など入り込む余地はないのである。
 自慢ではないが、今やこっちの方面でも金をとれる自信がある――かりそめにも一国の将として、それもどんなものかと思わないでもないが。


 俺が真剣に髪に意識を集中しているとわかったのだろう。はじめこそ羞恥に耐えかね、俺の視界からなんとか肌を隠そうとあたふたしていた義守も、今は大人しく身を任せていた。
 それでも、やはり落ち着くにはほどとおい心境であるらしく、俺の邪魔にならないように気をつけつつも、ちらちらと後ろを窺う仕草を見せるあたりが実に可愛いらしい。
 そんな義守の気を紛らわせるために、こちらから話題を向けることにする。
 ただ互いの立場や状況から、いささか殺伐な話題になってしまったあたりは不可抗力であろう。


「新しい軍装、評判は上々のようです」
 俺が口にしたのは、今回の最上軍が用いた銀魚鱗札の甲冑と、桜染めの軍旗のことである。
 これまでの最上軍は統一した軍装というのを用いてはいなかった。そんな手間をかけるだけの費用はなく、時間もなく、くわえて言えばあえてそうするだけの利点もないと考えられていたからである。
 しかし、近年になって勢力を拡大させている大名の多くが、自家の力を強めるために軍制改革に力を入れ、同時に自家の武威を際立たせるために特徴的な軍装を用いるようになっていることも事実だった。
 有名なところでは武田の赤備え、北条の五色備え、あるいは隣国伊達の黒備えなどである。
 

 最上家は旧くからの軍制を改め、戦国大名への第一歩を踏み出したところ。その覚悟と決意を示すため、これぞ最上軍、という特徴を持たせることは、一に外への示威となり、二に内の結束を固めるための役に立つ。
 ちなみに軍旗に使っている桜染めの布地は、山形城と、その周辺の桜の木を使用したものである。桜染めの布地はそうそう目にするものではなく、どうせなら特産にして交易を、などとこっそり皮算用をしていたのだが、聞けば桜染めといっても用いるのは花びらではなく桜の枝であり、しかもどの枝でも良いというわけでもないらしい。要するに桜の木をたくさん植えれば、それで量産が可能になるものではない、ということである。残念。


 一方の甲冑の方だが、こちらの配色についてはとある人物の強い希望でこうなった。
 黒や赤といった色彩と異なり、銀色の甲冑というのはかなり珍しい。少なくとも「銀備え」なる兵団を有している大名家を俺は知らない。何故といって、銀の色彩を出すには、銀箔を用いたり、胴部分を磨きあげたりと、手間も費用も桁違いにかかるためである。
 現状では、兵力そのものが少ないからまだ余裕はあるが、これから兵を増やすに連れ、最上家の軍事費は増大の一途を辿ることだろう。
 おれも一応は銀色を主張する人物――義光のことだが――に注意を促したのだが、聞く耳をもってもらえなかった。


 そうしてうまれた新たな最上の軍装だが、今、口にしたとおり、思いの外将兵に評判が良い。
「なんといっても綺麗で、おまけに目立ちますからね。この甲冑をまとって恥ずかしい戦いはできぬと、皆が奮いたっているそうです」
「それは良かったです。白寿はどうしてもあの色が良いって駄々を捏ねてましたけど、そこまで考えていたのかな……?」
「……う」
 義守の声に、俺は思わず押し黙る。
 当然、その不自然な沈黙は、義守の不審を誘った。
「兄様、どうかなさいました?」
「い、いえ別に何でもないです、はい」
 上ずった俺の声に、義守は不思議そうに首を傾げようとするが――髪を洗う俺の邪魔をしないように、慌ててその動きを途中で止めた。




 ふう、危ない危ない。
 まさか義光が銀備えにこだわった理由が別にあり、しかもそれは俺が吹き込んだものだ、などと知られたら大変だ。いや、具体的な実害があるわけではないが、だからといって知られて良いわけではない――最上家の軍装を決める発端となったのが俺の冗談だったのだ、などと。






 以下、回想である。


『黒は論外じゃ。伊達の鬼姫どもと同じ装いなど、耐えられるものではないわ』
『そうすると、あとは赤、青、白、黄……金や銀の甲冑もありますが、値が張りますからね。軍将だけでなく、麾下の将兵まで同じ装いにするのであれば、避けた方が無難かもしれません。もっとも銀に関しては延沢の銀山がありますから、他国よりは揃えやすいでしょうが……』
 俺はそう言ったが、実際は延沢銀山は最上八楯の一つである延沢家が確保している。将来は知らず、現時点においては敵の領土であったから、最上家は銀山の恩恵を受けることは出来ない。
 だが、そこはそれ、ここで最上家が銀備えを実際に用いれば、あれやこれやと敵陣営に不和をもたらす一手になりえるのである。


 俺の内心を察したか、義光は呆れたように低く笑う。
『まったく、ようもそう次々と悪知恵が湧いて出るのう。わらわとそち、腹を断ち割って、どちらがより中身が黒いのかを確かめてみたいわ』
『それはご勘弁を。ただ、銀備えに関して言えば義光様にとっても佳良な装いなのですよ?』
『なに? それはどういう意味じゃ』
『ふふ、銀の甲冑をまとって敵城を攻め上る最上の精鋭は、たとえて言えば己が責務を果たさんと川を遡る鮭のごとく――』
『決定じゃ』
『……は?』
『考えてみれば、軍旗の桜染めも、鮭の肉を思わせる甘美な色合いじゃ。これに銀備えの甲冑を併せれば、あれぞ最上の鮭備えと近隣の者どもも震え上がるであろうよッ、颯馬よくぞ申してくれたッ!!』
『お褒めにあずかり恐縮……って、鮭備え?』
『こうしてはおれぬ。早速母者に申して、今日のうちにも取り掛からねばッ』


 以上、回想終了。



 後に最上家の人々は誇らしげに語る。 
 武田に赤備えがあるように。
 伊達に黒備えがあるように。
 最上に鮭備えあり、と。


「それはねーわ」
「兄様??」




◆◆




 埒も無いことを話しているうちに洗髪終了。
 一仕事終えた充実感にひたりつつ、今度は自分の身体の汚れを落とす。
 一方の義守は自分で身体を洗い、今は湯船につかっている。物理的に俺の視線を遮断できた安心感からか、先刻よりもやや落ち着いた様子で、あれやこれやと問いを放ってきた。


 中でも義守が聞きたがったのが、件の妹様の話である。
 別に隠す必要もないので、印象的なエピソードなどを話して聞かせていたのだが、その途中で不意に義守がこんなことを言ってきた。
「……その方が、ちょっと羨ましいです」
「なんでまた?」
 義守の呟きに不思議に思って問い返す。すると義守は微妙に俺から視線をそらしつつ――
「だって、兄様が遠慮してないのがわかりますから……そういう意味でいえば、白寿も羨ましいんですけどね」
 そう言って、義守は小さく頬を膨らませる。
「昼間も二人で仲良さそうでしたもんね。わたしも爺もてんてこ舞いだったのに」
「それについては重ね重ねお詫びいたします……」
 あれを仲が良いと形容して良いものかどうかはわからんかったが。そう言って謝る俺の顔をみて、義守はくすくすと笑った。


「そういえば兄様、最初から白寿のことを良く知っていましたよね? 鮭が大好き、とか」
 義守が言うのは、俺が最上家への救援に赴くため、はじめて山形城を訪れたときの話だろう。俺は、これでもか、というくらいの鮭を献上用に持ってきていたのである。
 無論、それは義光の狷介な性格を噂で聞いていた俺が、義光を懐柔するために用意したものだった。あの時点では、鮭好きという話は俺の耳に入っていなかったのだが、まあ駄目で元々、と用意しておいたのである。かりに好物でなかったとしても、兵糧の足しにするだけだから、こちらは別に損をしないし。
 結果として、この案は大成功だった。その成果が、俺と義光の今の関係に繋がるのである。


 とはいえ、歴史知識から義光の好物を推測した、などとは言えないので、義守の問いには口をにごして答える。
「情報収集はすべての基本ですので、その成果ですね。それに遠慮してないという意味なら、義守様にだってしてませんよ?」
「そ、そうですか? でも……」
「というか、遠慮してたら一緒に風呂はいって髪を洗ったりはしませんでしょう?」
「はうッ?!」
 我ながら説得力に満ちた台詞である。義守も反論の余地がないようだ。


「そ、それじゃあ、ですね」
 しばしの沈黙の後、義守はなにやら思い切った様子で口を開く。両の手は顔の前で力強く握られていた。
「ここ、今度、わ、わ、わ……」
「義守様、まずは深呼吸からはじめましょう」
「は、はいッ」
 そういって本当に深呼吸するもがみん。ああ、なにをしても癒される。なんだこの可愛い生き物は。


「そ、それではあらためまして」
「はい、どうぞ」
「今度、私と一緒に雪見をしませんかッ?! 山形の城から、千歳山がとても綺麗に見える場所があるんですッ」
 それは喜んで――と一も二もなく応じようとしたが、ふとあることを思いついた。
「それは是非ともお招きにあずかりたいですが、千歳山を見るというからには、それにちなみたいところですね」
「千歳山にちなむ、ですか?」
 不思議そうな顔をする義守に、俺はにやりと笑ってみせる。
「千歳山の名前の由来となった阿古耶姫は、詩歌管弦のいずれにも通じた姫だったとか。ここは義守様から詩歌で誘ってほしいものです。氏家様から、最近の義守様はそちらの方もがんばって学んでおられるとうかがっていますよ?」
「そ、それは、たしかにそうですけど、まだ誰かに聞いてもらえるようなものじゃ……も、もう爺ったらッ」
 思いもよらない提案だったのだろう。先刻にもまして慌てる義守に俺はもう一度笑みを向けた。
「雪が降るまで、まだしばらくはありましょう。義守様の奮起に期待しております」
「うぅぅ……精進します……」


 その後、義守はああでもない、こうでもないと詩歌の作成に頭を悩ませていたので、ろくに会話もせずに風呂は終了となった。 
 俺は内心でしくじったと苦笑しながらも、一生懸命な様子のもがみんを見て密かに思う。
 これは雪見の会までに、出来るかぎり出羽の情勢をまとめておかねばならないな、と。





[10186] 鮭将記(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/04/10 23:45
 出羽国 山形城


 庄内地方の雄 大宝寺義氏を討って領土を広げた最上義守は、しばらくは尾浦城に留まって政務を執ったが、状況が落ち着くのを見て、ほどなく山形城に引き上げた。
 今回の庄内侵攻は形としては最上家の侵略に他ならないのだが、領民の抵抗が思ったより少なかったのは『悪屋形』とも称される義氏の乱脈な政治ぶりによるところが大きかったであろう。
 義氏当人は決して暗愚な為人ではなかったが、四方の強敵と対等に渡り合うために、領民に重税を課し、城の改築に使役し、度重なる戦に徴発し――そういった数々の行動によって、領民の不満は蓄積していったのだろうと思われた。


 一方の最上家の施政はといえば、こちらは当主最上義守、重臣氏家定直をはじめとして、徹底した富国豊民を貫いている。庄内の人々にとって、支配者が大宝寺から最上にかわったことに無論わだかまりはあるにせよ、生活の安定という一点では後者がはるかに勝る。あえて最上の支配に抗って、大宝寺を再興したところで、待っているのは塗炭の苦しみであると思えば、自然反抗の気持ちも薄らぐというものであった。


 これは、これまでの義守の施政が正しく報われた一つの好例といえるだろう。
 しかし、義守の施政がまったく問題がない、というわけではなかった。
 愛民は煩わさるべきなり――孫子の言葉である。
 兵を率いる者にとって、過度に領民を労わることは敗亡に繋がる一因となる、というような意味となるのだが、事実、かつての最上家は内治に優れた実績を積み上げながらも、防衛と外征に脆さを持ち、家職である羽州探題を勝手に他家に名乗られるほどに逼迫していた時期もあったのである。


 武将として。あるいは領主として。
 戦国の世にある以上、非情な決断を下さなければならない事態はいくらでもやってくる。
 その時々において、最上義守はその心根の優しさゆえに、正しくも苛烈な選択肢を選ぶことが出来なかった。
 それは人としては疑いようのない義守の美点であったが、戦国大名としては疑いようのない義守の欠点であったろう。
 義守の愛民の心は最上家を支える確かな中心であったが、その一方で発展を妨げる一因ともなってしまっていたのである。




 しかし。
 ある時、そんな状況を一変させる人物が最上家に現れる。
 羽州の狐、あるいは近年では出羽の驍将とも謳われる最上義光である。
 この人物に関してはあまりに謎が多い。当主である義守は最上の一族であると内外に説明し、実際に二人の容姿は姉妹であるかのごとくに似ているのだが、これまでその名を知る者は最上家中にさえ一人としていなかったのである。


 最上家の家臣はその素性をいぶかしんだが、当主である義守が無条件で受け容れている以上、家臣たる身が差し出口を叩くのもはばかられた。
 また義光が、義守の内治の才を、すべて外征の才につぎ込んだかのように智勇に優れた武将であることが明らかになるにつれ、最上家の人々も自然とその存在を受け容れるようになっていったのである。


 もっとも、当の義光は現れた当初から権高な為人を崩さず、家中の者たちなど眼中にないと言わんばかりの態度を貫いていたから、この周囲の態度の変化もどこ吹く風、という感じではあった。
 その態度が当主である義守に及べば、最上家中は一丸となって、義光を追い出しにかかったであろうが、傲岸という言葉を具現化したようなこの少女、どういうものか義守に対してだけは従順であった。
 「母狐を慕う子狐のよう」と義光の態度を形容したのは重臣筆頭の氏家定直であるが、事実、義守と義光の関係は姉妹ではなく母娘のそれであったろう。
 そして、この母娘の存在が、最上家を更なる隆盛へと導く端緒となるのである。 




◆◆◆




「――というわけで、温泉に行きましょう」
「………………は? あの、兄様、今のお話と温泉がどう繋がってるんですか??」
 唖然とした様子で、顔中に疑問符を浮かべる義守に対し、俺はしごく真面目な顔で応じた。
「率直に申し上げますと、最近、義光様が不機嫌で怖いです」
「……えーと、まだちょっと温泉に繋がらないです……たしかに白寿はここのところご機嫌ななめですけど……?」
「義光様が不機嫌なのは、義守様と話す時間が少ないからです」
「……やっぱりそうですよね。わかってるんですけど、でも政(まつりごと)を滞らせるわけにはいかないし……」


 うつむきつつ、はぅっと息を吐くもがみん。
 庄内を征服したことで生じた種々の問題――誰に治めさせるのか、守備の兵はどうするのか、今年の年貢は免ずるべきか、といったことに対し、案を出すのは家臣や俺でも出来るが、決定を下すのは義守しかいない。
 また最上家が領土を拡げたことで、国内の国人衆や隣国の動きも活発になってきている。ことに伊達家は明らかに今回の最上の行動に刺激を受けている様子で、すでに近隣に動員をかけたという噂まで流れてきていた。
 もっとも、これは謀略の類だったようで、実際に伊達が兵を動かしている事実はなかったのだが、それでも奥州中の目が最上家に注がれているのは間違いない。
 なまじ優れた内政の才能を持つゆえに、義守の目にはやるべきことが山積しているのがはっきりと見て取れてしまうのだろう。わずかな息抜きさえ許されない――みずからそう思い込んでしまうほどに。


「で、その煽りをくらって母君との会話がめっきり減ってしまった義光様がえらい不機嫌なので、ここはなんとかなだめて差し上げないといけません」
「だから温泉、ですか? でも、今は――」
「これは懇願でも請願でも満願でも祈願でも依願でも志願でも訴願でもなく、城中の人々の総意を受けた切願です。いえ、もうこうなったら行けという命令ととってもらっても結構。私たちの――ええい、もうおためごかしはやめましょう。私の心と身体を助けると思って、是非是非、温泉へ行ってくださいませッ」
 そういって深々と頭を下げる俺。
 正直、あの妖気ただよう義光をなだめつつ日々を過ごすとか、もう本気で勘弁していただきたい。というか最上家の方々、一番きつい役目を他家の俺に丸投げってどういうことよ。とくに「お主に任せるッ」とかいって仕事に逃げた重臣筆頭殿には言いたいことが山のようにある。まあ、あちらはあちらで大変だということはわかっているのだが。
 越後といい、豊後といい、出羽といい、どうしてこう重臣筆頭にはいい性格をした人ばかりがそろうのか、まったく。



 俺の真摯な願いにうたれたのか、単にいい年して涙を流しかねない俺の態度にドン引きしたのかは定かではなかったが、義守はなにやらあたふたしつつも、首を縦に振ってくれた。
 よし、みっしょんこんぷりーと。
 あとはこれを尻尾が七本くらいに増えてる義光に告げて、一刻も早く城から出ていって――もとい、旅立ってもらおう。場所は定直殿に決めてもらったし、供回りの人も選定してもらっている(これくらいはやってくれ、と強いた)。
 義守、義光がいない山形城を守るのは定直殿で、俺はその下でこき使われることになるだろうが、今の義光の傍らで諸事に気を配ることに比べたら、どれだけ気楽な任務か知れない。
 おれはそう思い、深々と安堵の息を吐くのだった。




◆◆◆




 出羽国 高湯温泉(蔵王温泉)


「ええい、遅いわ、颯馬! はようせぬかッ」
「人にこれでもかとばかりに荷物を背負わせておいて、何を仰いますか!」
「だまりゃッ! とくにそちを選んでわらわと母者の供として連れて来てやったのじゃ、感謝して当然、文句を言うなぞなんと罰当たりな奴じゃ。荷物持ちくらい喜んで務めてみせよッ」
「それはまあ、ただの荷物持ちくらいなら文句を言ったりはしませんが、明らかに重過ぎるでしょう特に義光様の荷は?! いったい何を入れれば葛篭がこんなに重くなるんですかッ!」
「何といって、わらわの食膳に上る鮭を、これでもか、とつめこんでおいただけじゃぞ」
「……悲しいくらいに予想どおりの答えをありがとうございます……」
「ああ、それとわらわの指揮棒を二、三本、適当につめておいたわ」
「ちょっと待てぃッ?! もう完璧に嫌がらせですよね、それ?!」
「さて、なんのことかのう? 将たる者、いざという時に備えて兵糧と武具に意を用いるのは当然の心得ではないかえ? 定直もそう言うておったぞ」


 俺の非難の声をどこ吹く風と聞き流し、笑い飛ばす義光。
 その笑いには明らかな俺への意趣が感じられたが、その顔を見れば、先日までの不機嫌さは微塵も感じられない。温泉行きが決まるまでは、冗談抜きで前髪で表情が見えなかったからなあ……今、こちらに流し目をくれながら、口元に嘲笑をたたえる義光でも可愛く思えてしまうから困ったものだ。


 険悪なんだか、じゃれているのだか、当事者たちにもよくわからない俺と義光のやりとり。
 それに後ろから口を出してくる人物がいた。無論、義守のことなのだが――
「……は、白寿、に、に、兄様に、しつれいなことを、いっちゃだめ、でしょ……」
 なんとも蚊の鳴くような声だった。
 やたらと言葉が途切れているのは、そのつど、ぜえぜえはあはあと息継ぎをしているからである。
 定直殿によれば、これから行く温泉は最上家累代の秘湯であるとのことだが、場所がかなり険しいところにあり(だからこそ他者が近寄らないのだろうが)馬が使えないのである。よって俺たちは途中から徒歩で山を登っているのだが、元々体力に乏しい義守にはかなりの苦行になっているようだった。


 無論、俺も義光も手を貸そうとはしたのだが、義守は頑固に首を横に振るばかり。これを機に少しでも体力をつけたいとのことだった。みずからが武才に欠けていることは義守も十分に承知しているだろうが、それでも練磨を怠る理由にはならない、と考えているのだろう。義守は兵法の他にも弓や馬などの修練は欠かさなかった――成果のほどは別としても。
 今回のことも、その延長なのだろうと思われた。


 まあ、そこまでおおげなさに考える必要はないかもしれない。これまで義守は城内で政務に専念せざるを得なかった。だが、そんな生活を続けていれば、若いとはいえ身体が萎えてしまう。
 こうして外に出た上は、身体を存分に使うのはむしろ望ましいことだろう。俺はそう考えて義守の奮闘を見守り、喜び浮かれる義光を適当にいなしていたのである。
 ……いつの間にか同行者に俺が含まれている理由については深く考えなかった。
 



 そうして半刻あまり。
 ようやっと到着した湯治場は実に玄妙なる佇まいを見せていた。
 年月という名の風雪に耐え、今日まで続く歴史をしのばせる(口語的に言うとぼろっちい)建物を管理するのは一組の無口な老夫婦――だと思われる二人だった。
 思われる、というのは、彼らは義守を見て一礼しただけで、俺には視線一つ向けなかったので、そこらへんが判然としなかったのである。声どころか顔すら見ていないので、あるいは兄妹なのかもしれない。
 背を丸めて歩く姿から、二人ともそれなりにお年を召しておられると見受けるが、動作は機敏ではないにしても危うげがなく、義守に対しては確かな敬意を向けているのが感じられた。


「陰気な者どもじゃの」
 年長者に対する敬意も何もない発言は、やはりというか義光のものであった。
 義光は鼻をならし、聞こえよがしに言ったのだが、二人はぴくりとも反応しない。それを聞いて眉をつりあげたのは義守の方である。
「白寿ッ、失礼なことを言わないの! ……ごめんなさい、おじいさん、おばあさん」


 義守は義光を叱った後、すぐにそう言って二人に詫びたが、当の二人はかすかに首を左右に振るのみで、義光の方を見ようともしない。それを見た義光が、相手にされていないと悟って柳眉を逆立てるが、その口が開かれるより早く部屋にたどり着いたのは幸いであった――と言いたいところなのだが、ついたらついたで別の問題が浮かび上がってしまった。


「なぜわらわが颯馬と同じ部屋で寝起きせねばならぬのじゃッ?!」
 激怒する義光だが、これはまあ仕方ないだろう。義光でなくとも怒るところだ。
 だがこの湯治場、客室は実質一部屋だけで、管理人が寝起きする部屋をのぞけば、後は物置同然の部屋が一つきりしかないのである。


 ならば自分と母が同室になれば良い、という義光の主張は当然のものであったが、それに対してはじめて老夫婦の一人――男性の方が口を開いた。
「……この部屋は、最上様のご一族のために用意してある部屋です」
 その声は低かったが、聞く者の耳に響く重みを持った声だった。耳を澄まさずとも、十分に聞き取れる。
「母者の娘たるわらわが、一族ではないとぬかすかッ」
「……最上様のご一族に物の怪がいるとは聞いておりませぬゆえ」


 淡々とした指摘。
 だが、それを耳にした瞬間、ふっと周囲の空気が冷えたような錯覚が俺を襲った。
「……ほう」
 その冷気を発した主が、俺の傍らにいる少女であることは、誰の目にも明らかだった。
 その目が、先刻、俺に向けていたものとは明らかに種類の異なる冷たい輝きに満たされる――ぞっとするような酷薄な色。
 義光の手には、いつの間にか件の鉄の指揮棒がしっかと握られていた。
 

 俺がその手を押さえるのと、義守が両者の間に割ってはいるのはほぼ同時だった。
 義守は、俺が義光の手を押さえているのを確認するや、すぐに老人に向かって口を開く。
「あの、おじいさん、白寿は私の子です。れっきとした、最上の一族なんです。だから、そういう言い方はやめてください、お願いします」
 そう言ってぺこりと頭を下げる義守を、老人は奇妙に静かな面持ちで見つめていた。その後ろの妻も同様の眼差しである。それは侮蔑ではなかったが、納得でもない。それ以外の何かであった。


 しばしの後。
 老夫婦はゆっくりと頭を下げると、特に何を口にするでもなくその場を立ち去った。
 後に残された俺と義守、そして今なお怒りさめやらぬ義光の間に、どこかきまずい沈黙が生じたのはいたし方のないことであったろう。  
 そして、俺がこの湯治に対して覚えたいやな予感も、たぶん気のせいではないに違いなかった。

 




[10186] 鮭将記(五) 4/10投稿分
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/04/10 23:40


 颯馬、と静かな呼びかけに続き。
「わらわは断じてそなたと閨を共にしたりはせぬからなッ」
 びしィ、と音が出そうな勢いで義光が俺に指を突きつけてくる。その眼差しは射るような鋭さを帯びて、まっすぐに俺を貫いていた。
 驍将最上義光、必殺の眼光である。その威圧と恐怖は万人を竦ませるに足るものであったろう。
 ――ただし。
「義光様、無心に鮭をほおばりながら仰ることではありますまい」
「白寿、お行儀悪いですよ」
 右手で忙しく鮭をつまみつつ、左手で俺を指差す義光に対し、俺が半眼でそれを指摘し、義守が、め、という感じで叱ると、その眼光もたちまち緩んでしまったのだが。




 湯治場にたどりついてしばらく後、稜線に日が落ちて、周囲は瞬く間に暗闇に包まれていった。
 あたりには家らしい家もなく、湯治場から漏れる明かりが夜の山中に建物を浮かび上がらせる。湯治場の中も決して灯火で満たされているわけではなく、最低限の明かりだけが灯されている状態であった。
 ……まあ率直に言って、ちょっと不気味である。管理する老夫婦への印象とあいまって、妙な想像をしてしまいそうになる。夜中に刃物を研ぐ音が聞こえてくる感じの。


 もっとも、義守の部屋は中央の囲炉裏に火がくべられ、十分に暖が取れている状態になっていた。これは俺たちの到着前から準備していなければ出来ないことだから、あの夫婦が最上一族に対して心遣いをしていることは確かだろう。
 一方、お供(俺)の部屋にはそういった気遣いは一切なく、掃除もおざなりな状態だった。別に障子の桟に指をすべらせたわけではないが、室内を見れば一目瞭然なのだ。
 それやこれやが重なって、義光の不満が再び食事時に噴出したのであろうと思われた。


 しかし、である。
「そもそも、仮にも一国の姫君である義光様と、他国の臣であるそれがしが閨を同じく出来るわけがありますまい。義守様と義光様はこの部屋で眠られればよろしいかと」
 あの夫婦も、義守の言うことであれば特に文句を言ったりはしないだろう。こうして三人が一緒の部屋で食事していても、特に何も言ってこないしな。
 そんな俺の説得力に満ちた台詞に、しかし、義光は嘲るような言葉を返してきた。
「ふん、そんなことを言いつつ、わらわのような化け物と同じ場所にいたくないだけではないのかえ?」


 その言葉に義守が驚いたように箸を止める。そして、すぐに血相を変えて何事か口にしかけたが、その言葉が発されるより早く、俺はからからと笑い声をあげた。
 義光の目がすぅっと細まった。
「何がおかしいのじゃ?」
「いや、失礼。しかし義光様と共にいたくないのでしたら、それがし、とうに越後に帰っておりますよ」
 俺は昨日今日、出羽に入国したわけではない。それを知る義光は、むっと口を噤み、苛立たしげにそっぽを向く。


 明らかに普段と様子の異なる義光の態度を見て、義守が不安げに口を開く。
「……白寿、さっきからどうしたの?」
「――別にどうもしていないぞえ。母者、わらわは先に湯につこうてくる。本当なら母者と共に入りたいのじゃが、この男が邪まな欲望に駆られる恐れがあるゆえ、母者が湯におる間は、わらわが見張っておらねばならぬでな」
 義光はそういうと、義守の返事も待たずにさっさと席を立ってしまった。





「ご、ごめんなさい、兄様。白寿が失礼なことを言ってッ」
「お気になさらずに、あの程度の軽口はいつものことですよ。ただ、確かに義光様の様子が少しおかしいですね」
 俺の言葉に、義守はこくりと頷いてみせる。
「兄様もそう思いますか?」
「はい」


 先の夫婦の化け物発言で機嫌を損じた面はあるだろうが、それ以前に、そもそも今回の湯治に俺の同行を許したことからして腑に落ちなかったのだ。
 義守以外の人間を嫌う義光が、家臣の随行を拒絶したのは理解できる。実際、義光の力をもってすれば、たとえ十人の賊に囲まれたところで楽に義守を守りきれるだろうし、だからこそ家臣たちは不承不承ながらも肯ったのであるが、ならば何故俺の同行は許したのか。


 俺は最上家の家臣より義光と近しい位置にいる――そう思っている者は、最上家中に少なくない。実際、俺は結構義光と行動を共にしたりしているが、しかし、それは俺と義光との間に個人的な親しみが育まれているからではない。
 義光からすれば、俺はよくいって召使とか下僕とか、その程度の存在でしかあるまい。主に鮭関係の。
 実際、今回も俺の務めは鮭の持ち運びだったわけで、それゆえに同行を許したと考えればさして不自然ではないが、義守と二人きりでの湯治にあえて他者を同行させる必要はなかったはずなのだ。鮭など、あらかじめ運ばせておけば済む話なのだし。


 正直なところ、今まではそこまで真剣に考えていたわけではなかったのだが、改めて振り返ってみると、諸事に義光らしからぬところが目につく。義守が心配するのも無理のないことだった。
 だが。
 俺はあえて楽観を声に包んで口を開く。
「まあ、たぶんそこまで深刻なことではないと思いますよ」
「そ、そうですか? でも、あんな白寿は初めてで……」
 不安をぬぐえない様子の義守に、俺は床の一点を指し示す。
 そこには綺麗に空になった膳が置かれていた。無論、立ち去った義光のものである。ちなみに料理したのは先刻の夫婦で、さすがに城で出るような夕餉には程遠かったが、持ち込んだ鮭自体が良いものであったこともあって、十分に美味かった。


「なんのかんのと言いつつ、しっかり鮭は食べているようですし」
 あ、という感じで義守は目を丸くする。義光を案じるあまり、目の前の膳さえ目に入っていなかったらしい。
「好きなものを食べる元気があるのであれば、大抵のことは乗り越えられますよ。とくに義光様のような方であれば、ね」
「……そうだといいんですけど」
「義守様も、そう沈んだ顔をなされてばかりではいけませんよ。城の皆が今回のことを言い出したのは、あなた様に休んでいただくためでもあるんですから」


 俺がそう口にすると、義守は困ったように首を傾げた。
「やっぱり、そうなんですか?」
「はい。定直殿などは本気で心配してらっしゃいましたよ。もちろん、義光様のことも決して口実ではありませんが」
「うー、爺から見れば、まだまだだとはわかってるつもりですけど、そんな心配されちゃうほど頼りないんでしょうか、わたし?」
 不安げに此方を見上げる瞳を見て、俺は小さく肩をすくめた。
「俺から見ても、明らかに義守様は働きすぎでしたよ。まあその原因の一端を担った俺が言うのもおかしな話かもしれませんけど」
 義守の過重労働は、明らかに庄内征服が原因だしなあ。
「そんなことはないです。いずれ、庄内には兵をいれる必要がありましたから。協力してくれた兄様と上杉様にはとても感謝しています」
「最上家の勢力が伸びれば、その分、越後の北部は安定します。それがしどもにも目的あってのこと、礼を仰る必要はありませんよ――と、まあ生臭い話はやめておきましょうか。せっかくの温泉ですし、義守様も入ってこられては? 義光様もお喜びになるでしょう」
「あ、そうですね。じゃあお言葉に甘えて――」
 そこまでいって、義守ははたと口を噤んだ。その頬がちょっと赤らんでいる。


「どうされました?」
「……あの、兄様もご一緒に?」
「……はい?」
 突然の問いに、俺はぽかんと口をあけるしかなかった。
 ややあって我にかえった俺は、慌てて声を押し出す。
「もしやさきほどの義光様の言葉を真に受けてはいませんよね? こっそりのぞきに行ったりはしませんからご安心を」
「い、いえ、そういうことじゃなくて、ですね。あの、この前、髪を洗ってもらったのがとても気持ちよかったので、出来れば――」
「ぬ、そういうことなら喜んで――――と言いたいところですが、やめておきましょう」
 その誘いに、劣情とは無縁に純粋に心が動きかけたが、俺はあやういところで思いとどまった。
 このまま湯殿に赴けば、間違いなく今宵の湯は朱に染まる。主に俺の血で。


 その旨を説明すると、義守も、ああそうか、という感じで了承した。
 そして、自分がかなり大胆な提案をしたことにようやく気づいたらしい。もがみん様は首筋まで真っ赤にそめて、俺の前から駆け去ってしまわれましたとさ。
 ともあれ、これでこの湯治場に来た折に感じた死亡フラグ的な嫌な予感は回避できたと見てよかろう。俺はそう思い、ほっと安堵の息を吐いた。


 だが。
 問題はその夜にやってきたのである。




◆◆◆




 夜半。
 不意に目が覚めたのは、刃物を研ぐ音が聞こえてきたから――ではなかった。
 そうではなく声が聞こえてきたのだ。おいで、おいで、と。
「……大してかわらんな、おい」
 思わず呟いてしまったが、事実は事実である。
 俺は枕元に置いておいた刀に手をのばしかけたが、この狭い湯治場では刀はかえって邪魔になると判断し、鉄扇のみを携えて部屋を出た。
 淡い月明かりだけが屋内を照らし出し、声はなおも俺を誘い続けている。
 俺は特に恐れるでもなく、声がする方に歩き出す。足を踏み出すたびに床がしなる音が響き、たまーにめきめきと嫌な感触が伝わってくるので、慌てて足を引っ込めなければならなかった。


 そうしてやってきたのが湯殿であった。
 山奥の秘湯すなわち露天風呂である。男湯と女湯に分けられているはずもなく男女兼用であった為、先刻、義守と義光が部屋に戻った後に浸からせて貰ったが、いやあ出羽の雄大な山並みの中で風呂に入るとか贅沢すぎる。思わず長湯して倒れそうになってしまいましたよ。
 朝になったら、義守たちと鉢合わせしないようにもう一度入ろう、と心に決めていたので、別にこの時間に入ったところで問題はない――ないのだが、先客がいるとなるとさすがに話はかわってくるだろう。


 その女性、年の頃なら十七、八くらいだろうか。
 長い睫毛に切れ長の双眸、すっと通った鼻梁、形の良い唇はわずかに開き、滴り落ちるような媚を含んで此方をうかがっている。
 その身体を覆っているのはごく薄い白布のみで、息をのむほどに艶やかな女性の肢体が、立ち込める湯煙の中に浮かび上がっていた。
 当然(というと怒られそうだが)義守でもなければ、義守と似ている義光でもない。
 あえて俺の知己の中で、もっともこの女性に似ている人物を挙げるとするなら、松永久秀だろうか。仕草や表情から零れる気品と色気が、どこかあの人物と似通っているように思われた。
 が、無論、この場にいるのは久秀ではありえない。畿内の戦乱がますます深まっている今、あの謀将がこんなところにいるわけはない。そもそも顔は全然似てないし。
 女性が自分の近くに来るように手招きするので、素直に頷いた俺は服を脱いで言われるとおりにした。


 一応断っておくと、進んでそうしたわけではない。体が勝手に動いたので仕方なかったのだ。


 というわけでやむを得ぬ(ここ重要)理由で、見たこともない美女に背中を流してもらうことになった俺だが、そろそろ問いの一つくらいはしてみても良いだろう。
 俺は相手に背を向けながら、素直に訊いてみることにした。
「――で、義光様。なにやってんですか?」
「………………ほ、ほほほ、何を仰っているのですか、お侍様。わ、わたしは藻女(みずくめ)と申すただの女子で……」
「もう一度訊きますが、なにやってんですか、義光様?」
「…………ちッ」
 後ろから短い舌打ちの音が響くや、何やら怪しげな気配が渦巻き、それがおさまるや、どこかふてくされた義光の声が、俺の耳に飛び込んできた。
「……いつから気づいておったのじゃ? 耳も尾も隠しておったというに」
「いつからと言われれば、城を出る時から、と答えるしかありませんね」
「なに?」
「いや、義光様が俺を供に加えることに文句を言わなかったあたりで、多分、何かするつもりなんだろうなあ、と思っていたので」
「……ほほう。つまり颯馬、おぬしはわらわの芝居を、内心で嘲りながら見ておった、ということかえ?」
「義光様を嘲るなどとんでもない。それがしはただ、腹を抱えて笑うのを懸命に堪えていただけでござる」
「むしろそちらの方が腹立たしいわ、たわけッ!」




 で、その後。
「……ふん、なるほど。母者が褒めるだけのことは……あ、あるのう」
「恐縮です」
 俺は義光の髪を洗いながら、真面目くさって礼を言う。
 義光の言葉からわかると思うが、義守の髪を洗った件は本人の口から義光に伝わっており、ならばわらわも、ということになったのである。自分から言い出しておきながら、当初はぶつくさ文句ばかり言っていた義光だったが、途中からは素直に俺の言うとおりに頭を傾けたりもしてくれた――いや、狐耳があるあたりを洗うコツが掴めなくて苦労したが、これでもう大丈夫。これがゲームならば『特技:狐耳の洗い方をマスターしました!』とか出たことであろう。
 ……これだけ汎用性に欠ける特技も珍しいなあ。


 などと考えていた俺は、この際とばかりにかねてからの懸案――というか念願を口に出してみることにした。
「ところで義光様」
「……ふぅ、なんじゃ?」
「……こっちの尾の方も洗って良いですか?」
 山形城にいる時から、あのふさふさ感(今は水で濡れているが)は、こう、俺の琴線に触れて仕方なかったのである。
 さすがにいつもの義光に正面きって頼むことは出来なかったが、今こそ好機到来。
 もっとも、義光の逆鱗に触れる可能性もあったので、少し及び腰であったことは否定しない。


 すると、義光は不意に肩越しに振り返り、まじまじと俺を見つめた。
 ちなみに、狐耳云々でわかるとおり、義光はとうにいつもの姿に戻っている。義守にそっくりな――それでいてどこか憂いを帯びた眼差しにじっと見つめられ、俺は口を噤まざるをえなかった。
 髪を伝って、水が義光の頬をすべりおちていく。その様が、俺の目に不思議なほどになまめかしく映った。その俺の視界の中で、義光の口が小さく開かれる。
「……颯馬、おぬし、気味が悪いとは思わぬのか?」
「確かに、管理している方々といい、建物といい、この湯治場は少し不思議な場所ですね。まあ気味が悪い、というのは言い過ぎだとしても――」


「颯馬」
 義光が強い口調で俺の言葉を遮った。
「――ごまかすでない。わらわのことじゃ。このような耳と尾を持った物の怪が、恐ろしゅうはないのか? 厭わしゅうはないのか?」
 何かと思えば、と俺は苦笑して応じた。
「先刻も申し上げましたでしょうに。義光様が恐ろしく、厭わしいならば、とうに越後へ戻っている、と」
「それは上杉のため、母者のためであろうが」
「……ふむ。確かにそうとも申せますか」
 俺は小さく頷いた。少なくとも、義光のために出羽にいるわけではない。それは確かであるが――
「ならば、証明いたしましょう。それがしが義光様をいささかも厭わしく思っておらぬことを」
 そのふさふさの尻尾を洗うことでッ!


 何の関係があるのじゃ、と柳眉を逆立てた義光に睨まれたが、俺はやってみればわかる、の一点張りで話を押し通した。
 ……いや、まあ正直に言うと、その場の勢いで突っ走ってしまっただけで、特に何か考えあって口にしたわけではない。
 とはいえ、今になってそんなことを言い出した義光の内心も何となく察せられたので、ことさらごまかしを口にしたわけでもないのである。


 そのあたりの心情が態度に現れたためか、義光は訝しげに俺を睨み、よくわからん奴じゃなとぶつぶつ言った後、ぷいと前を向いてしまった。好きにせよ、ということだろう。
 そうして、俺は義光の尾を洗うことになったわけだが。
「――ええい、だから触るなというにッ」
「しかし、触らないと洗えませぬぞ」
「くすぐったいのじゃ、たわけ!」
「ふむ、ではこんな感じでいかがでしょう?」
「……む……ふむ、まあその力加減なら……」
「うーむ、髪に劣らぬしなやかさと艶やかさ。これは洗い甲斐がある。そういえばいつぞや尻尾が増えてましたけど、やっぱり九本くらいになるんですか?」
 俺は大宝寺家を討った尾浦城の戦いを思い出して訊ねてみた。
「……ぬ? ま、まあその気になればの」
「ほほう。なんでしたら全部洗いましょうか? しまいっぱなしだと汚れますでしょう?」
「別に汚れたりしておらぬわッ! わらわの尾は洗う必要もないくらい艶々じゃッ!」


 ――などと義光と言い合いながらも、俺は休むことなく手を動かす。
 うむ、これは髪を洗うのとはまた違う感覚。新たな世界が見えてくる――かもしれん。
「……颯馬」
「は、くすぐったかったですか?」
「九本、などというからには、とうに気づいておろう、わらわの正体に」
 それは問いかけというよりは、ただの確認であった。
 俺に背を向ける義光がどんな表情をしているかはわからなかったが、少なくともその声はいつもの義光のものである。
 だから、俺も普通に返すことにした。
「それはまあ、見当くらいはつけていますが」
「であれば、何ゆえ動かぬ? 上杉は天道とやらを重んじておるのじゃろう。かつて一国を覆さんと欲した邪悪な妖狐を放って置く理由はなんじゃ?」
「それは確かにそのような物の怪がいれば討たずにはおかぬところですが――それがしの知己に邪悪な妖狐などおりませぬよ」
 そこまで口にして、俺は小さく笑った。
「鮭が大好きな狐耳の少女なら、心当たりがないではありませんけれども、ね」


 ぴく、と義光の肩が揺れる。
 それを目の端でとらえながら、俺は内心で考える。
 そもそも、人に恐れられたくないのならば耳も尾も隠せば良い。それが不可能でないことは、ついさっき俺がこの目で確認した。
 しかし、そうした場合、何かのはずみで義守以外の最上家の人々に正体がばれてしまう可能性がある。義光はそれを恐れたのだろう。
 恐れたといっても、義光に向けられる恐怖と嫌悪の目を、ではない、多分、義光はそんなものは歯牙にもかけないだろう。
 恐ろしいのは義守に向けられる非難と、義光の排除を求める声である。義光をかばえばかばうほどに義守の立場は苦しくなっていく。正体が判明してから、いくら義光に害意はないと弁明しても多くの人は聞く耳をもとうとしないだろう。隠していた、という事実が説得力をなくしてしまうからである。


 義守が自分の意思で義光を排除するなどありえないが、最上家の当主という立場が義守の望みを阻む可能性は少なからずあるだろう。義光は権謀術数の渦巻く宮中のことを良く知るゆえに、その可能性にも早々に思い至っていたのではないか。
 これらの面倒ごとを避けるために一番良いのは、義光が義守の傍から離れることだ。しかし、そんなことは義光自身が耐えられない。
 だから、義光ははじめから正体を隠さなかった。無論、それはそれで騒動の種になることは間違いないが、少なくとも隠し事をしているという弱みを握られることはない。
 なによりも、過程はどうあれ、どうせ捨てられるのであれば早い方が傷は浅くて済む――義光はそう考えたのではないだろうか。


 母の愛情に甘えたい。母に捨てられたくない。でも、万一の時のために心を守るものがほしい。
 それらの答えが、多分、今の義光の姿なのだ、と俺には思われてならなかった。
 ――無論、すべては俺の勝手な推測であり、口外したことも、口外するつもりもなかったけれど。




 それからしばらく後。
 ただお湯の音だけが木霊する湯殿に、義光の低い声が響いた。
「……昔の話じゃ」
「は」
 義光の声に、俺はしずかに相槌を打つ。
「一人の捨て子がおった。まあ捨て子といっても、実際は人間ではなく狐だったのじゃがな。その狐は人に追われておった。別に悪事を働いたわけではない。しかし、人間は自分たちに理解できぬものをやれ妖しだ、やれ鬼だと狩り立てるのが大好きじゃでな。狐はそんな人間どもに追い立てられ、死ぬ寸前じゃった。追っ手はなんとか振り切ったが、狐の姿を晒せば肉として食われるか、服として毛皮を剥がれるかのいずれかじゃ。残ったすべての力で人の姿を保っていたが、もう足は一歩も動かぬ。これでしまいか、と狐が思ったとき、その場に一組の夫婦が通りがかったのじゃ」


 その夫婦は倒れている少女を見て、すぐに家につれて帰った。
 懸命の手当ての末に、少女はなんとか命を拾い、少女は子供に恵まれない夫婦の子として育てられることとなった。
 しかし、それから間もなく、ふとしたはずみで少女の正体が狐であることが夫婦にばれてしまう。
 狐はまた追い立てられるのかと恐怖したが、夫婦はそんな狐に微笑みを向け、しっかりと抱きしめてこう言ったのだという。お前は私たちの子供だよ、と。


 わずかに肩を震わせ、声をとぎらせていた義光が、不意に口を開いた。
「……颯馬、背を向けい」
「は?」
「背を向けろ、というておる。髪と尾の礼じゃ。わらわが背を流してやるぞえ。この姿となって以来、母者以外の人間にこんなことをしてやるなぞ初めてのこと、光栄に思うが良い」
 そう言う義光に、俺は素直に従った。
 多分、義光は今の自分の姿を後ろから観察されるのが嫌だったのだろう。そのことがわかったからである。

  



[10186] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2018/06/24 00:17
※現在「小説家になろう」にて聖将記の改訂版を発表しております
※なろうでの作者名は「玉兎」になります

※別個にお知らせの記事をつくろうとしたのですが「英文のみの投稿はうけつけておりません」と出てしまうため、既存の記事でお知らせする形になりました



「や、やああぁぁぁ……」
 気合の声、というにはいささかならず迫力が足らない掛け声と共に、繊弱な容姿の少年が打ちかかってくる。
 稽古がはじまっておよそ半刻あまり。未だ少年の木刀は俺の身体に一度たりとも触れておらず、反対に俺の木刀は容赦なく少年を打ち据えている。そのため、少年の姿は控えめにいってもぼろぼろだった。


 それでも諦める素振りすら見せないこの幼馴染の姿勢は見上げたものだ、とお世辞ではなくそう思う。日頃、貧弱な体格や自信のない言動から、家臣や領民からひそかに『姫若子』――お姫様みたいな若殿――などと囁かれてはいるものの、時折垣間見せる心性の強さは、疑いなく土佐七雄の一、長宗我部家の跡継ぎたるに相応しいものであろう。
 ただ――
(惜しむらくは、この熱意がさっぱり実力に反映されないことなんだよなあ……)
 振り下ろされた木刀をこともなげにはじき返しながら、俺は胸中でそう呟いた。




 俺の視線の先にいる少年の名を長宗我部元親という。いずれは長宗我部家当主となるであろう人物である。
 しかし、その外見は柔和を通り越して繊細ですらあった。初対面で、元親の性別を見分けるのはなかなかに難しいことだろう。
 稽古の邪魔にならないように頭の後ろで結わえている黒髪は、ほどけば長く膝元まで伸びている。これが見事な漆黒で、城の女中衆が冗談まじりに嫉妬の言葉を口にするほどだった。
 女と見まがう端整な顔立ち。その円らな瞳に浮かぶ玉のような雫は、先刻からの打突の痛みゆえか、それとも自らの無力を嘆くゆえだろうか。
 そして、これまた城の女中衆が冗談まじりに嫉視する白磁の肌には、そこかしこに赤い痣が浮かびあがっていた。


 これだけ痛めつけられ、なお向かってくる気概は称賛に足るものだ。
 だがあいにくと、俺と元親の力量差は気概だけで覆せるものではなかった。俺が長宗我部家随一の使い手である、というわけでは無論ない。たんに元親が弱すぎるのである。
 剣筋を乱したまま、再び闇雲に打ちかかって来る元親に対し、俺は無造作に一歩前へ踏み込み、相手の力を利して鳩尾部分に木刀を突き立てる。
「――が、ぁッ?!」
 苦痛の呻きを宙に残したまま、元親の身体は比喩ではなく宙を飛んだ。
 凍りついたような数秒の後、元親は地面に打ち付けられ、それでもなお勢いは止まらず、そのまま後ろに転がっていく。
 三度、転がった後、ようやく元親の身体はとまったが、立ち上がることはおろか、顔をあげることさえできず、その口からはひゅうひゅうとか細い呼吸の音が漏れるのみであった。


 一応、胴具をつけた上での稽古とはいえ、鳩尾部分への衝撃は相当の苦痛だろう。くわえて、胴具はあくまで万一に備えて着ているだけで、先刻からの稽古では俺は遠慮も容赦も一切せず、胴以外の部位を幾度も打ち据えている。下手すると骨の一本も折れているかもしれない。
 実のところ、周囲の見物人たちから俺に向けられる視線は、すでに非難や危惧を通り越して殺意に近いものに変じており、幾人かが刀の柄に手をかけているのが見てとれた。
 とはいえ、彼らが面と向かって俺を詰問してくることはない。なぜといって、これは元親自身が望んだものだからだ。この稽古が終わる条件は三つ。元親が俺から一本取るか、それとも元親が「参った」と口にするか、あるいは時間切れになるか、だった。このいずれかにならない限り、この稽古は終わらないのである。




 今日に関して言えば、俺は岡豊城に泊まる予定なので、時間切れはない。したがって、まだしばらくは稽古を続けねばならないと考えていたのだが。
「まったく、懲りないわね、元親も」
 その声が周囲の人垣を割って飛び込んできたとき、正直、俺はほっとした。無論、表情には出さないように注意したが。


 その人物――久武家の息女である久武親直は、やや釣り目がちな顔に呆れた表情を浮かべ、元親に声をかけた。
「あんた、これで無様に地面に転がったの、何度目よ? いい加減、颯馬から一本とるだなんて諦めたら?」
「…………う、ち、チカちゃん」
 その声を聞き、元親はふらつきながらもかろうじて立ち上がった。ようやく痛みが引いた、というのもあるだろうが、好きな娘の前で格好悪いところを見られたくなかったのだろう。
 もっともそんな男の意地に感心するような親直でないことを、俺はよく知っていた。元親同様、親直とも幼い頃からの馴染みなのである。


「まったく情けないったらないわね。かなわないにしても、せめて一度くらいは意地を見せてみなさいよ。いい年した男がやられっぱなしで恥ずかしくないわけ? 今のあんたに比べたら、案山子の方がまだ役に立つわよ」
「……う、ぅ……」
 親直の言葉に、元親は反論することも出来ずに押し黙るだけだった。
 相変わらず元親には容赦がない、と俺は苦笑する。これでも侍女や小姓らに優しい言葉をかけたりする一面もあるのだが――まあ、いつもというわけではないんだけど。


 親直はやや釣り目がちながら、まず秀麗といってよい容姿の持ち主であり、当人もそれを自覚して振舞っている。勝気な表情が良く似合う美少女の存在は、女っけの少ない長宗我部家における紅一点として、家中の人気をほしいままにできる――はずだった。実際、それなりに若衆からはちやほやされているようだ。
 しかし、長宗我部家には親直を越える人気の持ち主がおり、親直がどれだけ頑張っても一番になることは出来なかった。
 自分の容姿に自信を持つ親直にとって、これは屈辱である。しかも、その相手が同性ですらないとあっては尚更だ。


 まあ要するに元親の人気に及ばないから嫉妬してるのである。なんというか、実に大人気ない。
 とはいえ、親直が元親に対してひねくれた対応をしてしまうのもわからないではない。
 男のくせに自分より人気があり、その上、当の元親が自分に好意を向けてくるのである。意地の悪い言動も、多少は理解できようというものだった。


 とはいえ。
「ほれ、部外者は黙って見学してろ、親直」
 好きな娘に悪し様に罵られるのは稽古の範疇に入らないだろう。俺は割り込んできた親直に下がるように口にした。
 すると親直は自分がのけ者にされたことに腹を立てたようで、不機嫌そうに俺を睨みつけてきた。
「なに、まだ元親のこと苛め足りないわけ? こんな女みたいなやつを苛めて喜ぶなんて、うちの兄貴とは反対方向に変な奴ね、あんたも」
「勝手に人を変態扱いすな。まだ稽古が終わってないってだけだ。元親はまだ一本とってないし、参ったとも言ってないからな」
 そう言って俺は元親に向かって木刀を構えた。


 本音を言えば、さっきの一撃で気絶させるつもりだったのだが、度重なる稽古の成果なのだろうか、どうも最近の元親は、徐々にではあるが打たれ強くなっている気がする。
 少なくとも、この稽古をはじめたばかりの頃の元親ならば、とうの昔に意識を手放していただろう。
 そして、意識がある以上、元親は決して参ったとは言わないことを俺は知っていた。
 女子と見まがう繊弱な容姿や、おどおどとはきつかない態度などから誤解されがちだが、元親はひとたびこうと決めたら、意地でもそれを貫こうとする芯の強さを持っている。それは、今の元親の姿を見れば明らかだろう――などと俺が考えた時だった。




「このようなところで何を騒いでおる?」
 そんな声と共に姿を現したのは俺たちが良く知る人物だった。ついでに言えば、ついさきほど口にしていた人物でもある。
 俺より頭一つ高い長身、思慮の深さを感じさせる理知的な眼差し、端整でありながら男らしさを湛える容貌は家中随一との呼び声も高く、城の女中衆の憧憬の視線を一身に集める人物である。
 その姿に気づいた見物人(男)の中には、あからさまに顔をしかめる者もいた。それも結構な数。
 この涼しげな色男が、金も力もないならまだ世の男(俺含む)にとって慰めがあるのだが、あいにく天は寵愛する人間には二物も三物も与えるようで、若くして久武家の家督を継ぎ、文武両道、長宗我部家当主の信頼厚い重臣だというのだから、まったく世に平等などありえないということが良くわかる。


 久武親信――それがこの青年の名前である。その姓からわかるように、親直の兄でもあった。
 で、世の不平等を具現化したようなこの青年、実のところ、一つ困った欠点があった。いや、欠点と言っては言いすぎかもしれないが、少なくとも美点や長所にはなりえないだろう。
 俺がしかめ面でそう考えていると、親信が俺に気づいたようで、かすかに眉をひそめた。
「む、颯馬ではないか……ということは、まさか……も、元親様ッ?!」
 俺を捉えた視線は、即座に少し離れたところにいる元親を捕捉したようだった。端整な顔立ちが面白いほどに豹変し、その身体は瞬く間に(そうとしか見えなかった)元親の傍らに姿を現す。


「も、元親様、体中傷だらけではございませんか、なんとおいたわしい……玉のような肌が打ち身で赤く腫れ上がっておりますぞッ! く、元親様にこのような無礼を働くのは――」
 そう言うや、親信の鋭い眼差しが射るように俺に向けられる。
「ええい、颯馬、また貴様かッ?!」
 それは詰問というよりは断定であった。だから俺は頷くかわりに軽く肩をすくめることで応じる。
 すると、それを見た親信が顔を怒りで朱に染めた。
 親信の口から叱声がほとばしる寸前、それまで口を閉ざしていた元親が苦しげに声を押し出す。
「ち、親信、颯馬は悪くないよ、ぼ、ぼくが手加減しないでって頼んだんだから……」
「常のことゆえ、それは承知しておりもうす。されどこの親信、元親様の御身を第一とする臣として、言わずにはおれぬのですッ」


 きっぱりと断言すると、親信は顔の朱をそのままに、俺をびしっと指差して告げた。
「元親様は土佐の至宝。いかに貴様が元親様の竹馬の友とはいえ、なんということをしてくれたのか?! 白磁の肌に走る痛々しい赤い傷、うちしおれたそのお顔、今なお苦痛の吐息をこぼすそのお姿は望んだとて見られるものではないぞ、本当によくやった、颯馬ッ!」
「褒められた?!」
 訂正。親信が顔を赤くしていたのは、単に傷だらけの元親に興奮していただけらしい。この変態め。





 もっとも、と俺は深いため息を吐いて思う。
 親信のこれは今に始まったことではないし、さらに言えば親信だけが特別というわけでもなかった。姫武将がめずらしくない昨今とはいえ、衆道が廃れたというわけでもないのである――いや、それでも親信ほど行き過ぎた者は確かに少ないのだけどな。
 俺はそちらの方面にはかけらも興味がないので、元親に血道を上げる連中の気持ちはさっぱり理解できんが、元親人気は実は城の侍衆だけにとどまらず、城下の男たちにまでおよんでいた。
 土佐の長宗我部家が誇る剛武の将兵『一領具足』――これは半農半武の武装した農民集団なのだが、彼らなどは元親が使っていた、あるいは身につけていた物などをまるで天からの贈り物のように尊び、肌身離さず持ち歩くような者ばかりだった。
 以前、とある戦で大将首をとった一領具足の兵士に対し、当主である国親様が褒美として士分に取り立てようとしたら、その兵士が「それはいいから元親様の服をください」と言ったのは有名な話である。
 これでいいのか長宗我部。



 まあ確かに元親は男とは信じられないほど色白だし、たおやかだし、妙に保護欲を誘う為人である。また、上下を問わない家中の元親への情愛が、長宗我部家の一助となっていることも否定できない事実なのだが……
 だからといって、元親愛用の筆や脇差あるいは髪留め、はては演習で着ていた鎧下(ようは肌着)などが高額で取引されている現状はどんなもんかと思うのである。


 ちなみに彼らの間に出回る品々の幾つかは、俺の懐具合を豊かにしてくれたが、それはまた別の話である――いや、もちろん肌着を売り払ったのは俺ではないですが。
 





◆◆◆






 かつて、土佐は流刑地の一つであったという。
 視線を北に転じれば、この国を塞ぐかのように広がる峻険な四国山脈が広がり、反対に南の方角を眺めれば、うってかわって広々とした大海が視界に飛び込んでくる。
 あまりにも広すぎて、彼方へ踏み出そうなどという考えさえ浮かばない広漠とした波濤の連なりを眺めていると、この地で埋もれていった人たちの悲哀が、わずかではあるが感じ取れるような気がした。


 過去、この地に流されてきた者たちの諦観と寂寞を今に伝える陸の孤島。
 だが、そんな土佐にも時代の潮流は確実に押し寄せていた。
 元来、この国は国司の一条氏によって統治されていたのだが、それはほとんど名目だけのことで、実際は幾つかの有力な国人衆が権力を握っている状態であった。
 この国人衆を『土佐七雄』と呼び、彼らは現在進行形で土佐の覇権をめぐってぶつかりあっている。
 その中でも、近年目覚しい躍進を遂げているのが七雄の一つ、長宗我部家であった。
 その当主――『野の虎』と渾名される武略をもって土佐統一へと邁進する方の名を長宗我部国親こそ、今現在の俺の主君であった。



 ただ、主君とはいっても、我が天城家は名前こそ立派だが(遠祖は地位の高い流刑人とかいう話だが証拠はない)一握りの土地さえ持たない小作人であり、城の中の出来事などはるか天上の世界のそれに等しいものでしかないはずだった。
 士分ですらなかった天城家が、どうして国親様の嫡子である元親と竹馬の友などと呼ばれるようになったのか。そこには当然、様々な理由や紆余曲折があるのだが、あえて一言で言えば……




「姉さんが玉の輿に乗った、というあたりか」
「どうした、颯馬、唐突に?」
 不思議そうな声を向けられ、俺ははっと我に返る。
 気がつけば、周囲から幾つもの奇異の視線が向けられていた。それらの視線の主は、吉田孝頼、同重俊兄弟や福留親政、そして先刻ひと悶着あった久武親信など、いずれも長宗我部家の重臣ばかりである。 
 そんな彼らを従えるのは強面(こわもて)の顔、強面の髭、強面の声、強面の身体――と、なんでもかんでも強面と付ければ形容できてしまう我が主君、長宗我部国親様である。どうやったらこの人物から元親ができるのか、俺はいまだに首をひねりたくなる。
 ちなみに長宗我部家には姫武将というやつはおらず、今のように重臣たちを集めると、きわめて男くさくなる。親直? あれは重臣ではないので除外。それに親直がいても、場がぎすぎすすることはあっても、華やぐことはないだろう――本人に聞かれたらひっかかれそうだが。
 隣国の伊予の河野家や、あるいは阿波、讃岐を統べる三好家などは、将どころか当主が女性であるというが、どういう風に国を治めているのか、興味は尽きない俺だった。


 ともあれ、俺は慌てて頭を下げ、国親様に詫びた。
「申し訳ございません、少々酒が過ぎましたようで」
「ふむ、香宗我部の名代殿は、まだ酔うほど飲んではおらんと思うがの」
 そう言うと国親様はぐわっはっは、と豪快に笑った。
 こういった場に出ても、俺は自分の身分や出自をわきまえて基本的には何も口にしないことにしている。が、そんな俺に対して「香宗我部の名代殿はどう思う?」などとしつこく話しかけ、俺が困じはてるのを見て楽しむのが国親様の悪癖の一つだった。えらい迷惑な話である。
 とはいえ、それも俺に期待をしてくれているゆえとわかるため、感謝もしているのだが。



◆◆



 では、なんで俺が香宗我部家――土佐七雄の一たる名家の名代として、こんな場にいるのかというと。
 簡単に言えば、香宗我部の先代である通長様の後妻として、俺の姉が見初められたのである。
 通長様は世の人いわく「武事を構え、戦備に怠りなく、動作は礼にかない、政治は筋を通し、領民は大いに安んじた」というほどの優れた人物だったが、なにしろ通長様と姉さんの年の差は三十を越え、おまけにこちらはただの農民である。話が来たときはこれから一体どうなるんだ、と俺は幼心に戦々恐々としたものだった。


 幼少のこととて俺は詳しいことは知らなかったが、まあひととおりの混乱はあったようである。それでも子宝こそ恵まれなかったが、今なお姉さんと通長様の仲はきわめて良い――というか、良すぎるほどで、俺を含めて香宗我部家の家人たちが目のやり場に困ることも多々あった。
 まあそれはともかく、子がいないといっても、それは姉さんとの間でのこと。通長様には前妻との間に設けたれっきとした嫡子がおり、その嫡子にも子供がいたから、跡継ぎでもめる要素は皆無だった。
 そして実際、通長様の跡は嫡男の親秀様が継がれ、つつがなく代替わりは済んだ――と思われた。



 香宗我部家の悲劇の発端となったのは、親秀様の嫡子である秀義様が戦死されたことである。
 当時、香宗我部家は東を安芸家に、西を長宗我部家に挟まれる形で、両家と抗争を繰り広げていた。
 当初、香宗我部家は東の安芸家に対して優勢に戦局を進めていたのだが、秀義様が討ち死にされたことで戦局は瞬く間に悪化してしまう。もっともこの時は通長様自身が出馬し、また通長様の次子――つまりは親秀様の弟である秀通様を親秀様の養子とすることで、家中の動揺を最小限に抑えることに成功、さらに長宗我部家と和睦を結ぶことで当面の危機は脱したかに思われた。


 問題が起こったのはその後である。
 和睦を結んだとはいえ、長宗我部家の勢力伸張はとどまるところを知らず、遠からず香宗我部家にも臣従を強いてくることは疑いないと考えた親秀様は、それに先んじてみずから長宗我部家の麾下に加わろうとした。
 元々、両氏は名前からもわかるように浅からぬ関係がある。親秀様の行動は、彼我の状況を鑑みれば、一概に否定できるものではなかった。問題は臣従そのものではなく、臣従にともなう要請にあった。親秀様は跡継ぎとして、国親様の長男である元親を望んだのである。


 これには親秀様なりの思慮もあったのだろうと思う。
 当時(というか今もなのだが)元親は繊弱な為人のため『姫若子』などと呼ばれ、武士としては到底物の役に立たないと思われていた。国親様もそのことを気に病んでおり、元親の弟である親貞、親泰らの方に期待をかけている節があった。
 だが、元親はれっきとした長子。長子をさしおいて、弟を立てようとすれば必ず家中が割れるだろう――国親様がそう案じていると察した親秀様は、そこを衝いて元親を香宗我部家の後継者に請うたのである。
 一に長宗我部との結びつきを強め、二に国親様に恩を売る。ひいては元親が去った跡の長宗我部家を継ぐであろう親貞(はまだ幼いため、その側近)にも良い印象を与えることが出来る。親秀様なりに会心の策であったのかもしれない。



 だが、当然のごとく、この案はすんなりと運ばなかった。
 なにより養子となった秀通様が大反対したのである。これはまあ、当然といえば当然のことだろう。
 今、思い出しても、あの頃の家中は尋常な雰囲気ではなく、通長様は一時的に俺と姉さんを遠方に隠したほどである。それほど険悪な空気だったのだ。
 その後も幾つかの出来事が相次いだのだが、要は骨肉相食む戦いの連続だった。直接的な継承権など持たない俺や姉さんにまで危険が迫ったといえば、どの程度の混乱だったかは察することが出来るのではないだろうか。


 結論だけを言えば、秀通様は兄であり、義父である親秀様に討たれ、その親秀様は騒擾に乗じて攻め込んできた安芸国虎に討ち取られた。
 近隣に敵を抱えた上で同士討ちしてれば、この結末は必然か。当主を失った香宗我部家を支えられるのはもはや隠居した通長様しかおらず、通長様は老骨に鞭打って安芸国虎と対峙する。さらに臣従を条件として長宗我部家に援軍を請い、かろうじて敵の撃退に成功したのである……



◆◆



 その後、しばらくは政治と軍事の第一線で働き続けていた通長様だったが、さすがに近年では寄る年波に勝てず(本人談)、外戚の俺にいろいろと押し付けてくるようになっていた。
 ちなみにこの前はとうとうこんなことを言い出した。
『なんだったら颯馬、わしの養子になって我が家を継いでくれぬか? 香宗我部颯馬、うむ、雅に香る好き名ではないか』
『あら素敵、「香」宗我部に「香る」をかけてらっしゃるのね』
『うむ、良き出来であろう』
『はい、さすがはお前さま。わたくし、惚れ直してしまいます』
『ふはは、これでお前にほれられたのは百五十九回目だな』
『目指せ二百回ですわ』
『なんの、三百どころか四百、五百と重ねようぞ』
『はい、お前さま……ぽ』


『……駄目だこいつら、早くなんとかしないと』




 誰がどの台詞を言ったのか、一々言う必要も感じない。それでも一応いっておくと、俺の台詞は最後だけで、あとは通長様と姉さんの会話だ。もうすこし年を考えろ、おしどり夫婦めがッ。
 まあ、それはさておき。
 さすがに香宗我部を継ぐなど出来ないが(俺の意思、というより家中が納得しないだろう)老いた義兄に労を強いるのも忍びない。そんなわけで俺は国親様いうところの「香宗我部の名代殿」として、この場にいるわけである。


 酒が出ているところからもわかるだろうが、今日のところは差し迫った話はなかった。一条館の困ったさん(一条パウロのこと、詳細はそのうちに)の対応と、安芸、本山といった国内の敵対勢力の動向、そして三好、河野といった他国の状況を確認しただけである。
 もっともこれだって十分に重要な事柄ではあった。
 国内に関して言えば、安芸家はともかく本山家は長宗我部家を凌駕する勢力を保持しており、当主の茂宗は土佐随一の傑物とも言われている。もっとも今は一条家と対立しているため、こちら側に構っている暇はないようで、ここ数年、両家の関係は穏やかなものであった――互いに刃を秘して笑顔を向ける関係を穏やかと評してよいものならば、だが。


 国外に目を向ければ、問題はより大きくなる。ことに三好家は近畿で猛烈な勢いで勢力を広めているだけに注意を怠ることができない。阿波の三好義賢は政戦両略に通じる驍将である上に、噂に聞く謀将松永久秀などがこちらに目を向ければ、今の土佐などかき回し放題だろうから。 
 まあ近畿に比べれば、土佐は魅力に乏しい土地だから、わざわざこちらに目を向けることもないとは思うが、だからといって警戒を解いてよいものではないのである。



 ただ幸い、いずれの勢力にも大きな動きはないようなので、その点は一安心というところか。
 ならば、俺としては問題はあと一つ――国親様の酒癖の悪さをいかにして凌ぐか、ということだった。
 酒を飲んだ国親様の行動は、いつも大体同じものとなる。
 最初は機嫌よく鯨飲し、配下の日ごろの働きをねぎらったり、あるいは俺にするように誰彼問わずにからかったりする。このあたりは、いかにも豪胆な国親様らしいのだが、そのうち段々言葉数が少なくなっていくと要注意となる。
 なぜといって、国親様はここから一気に愚痴、絡み、泣き言を並べ立てる厄介きわまりない酔っ払いになり果てるのだ。


 その語る内容は主に今後――とくに自分が死んだ後の長宗我部家を案じるものであった。国親様はまだ五十前の年齢だし、世継ぎには元親がいる。死後を案じるには時期尚早だと思うが、国親様の目には、元親ははなはだ頼りなく映っているようで、家臣たちの前でその将来を案じることが度々あった。
 かつて香宗我部家で騒乱が起きた再、親秀様がそこに付け入ろうとしたように、こういった言動は一国の安寧にひびを入れかねない。そのため通長様をはじめ他の重臣たちからは、人前での世継ぎに関する放言は慎むように幾度も進言しているのだが、国親様は素面の時はともかく、酒が入ると自制がきかなくなってしまうようだった。




「……で、颯馬よ。元親に稽古をつけてくれているそうだが、少しはものになりそうか?」
 国親様が、とろんとした目つきで問いを向けてくる。ぬ、回想している間に、結構酒が進んでいたらしい。
「ち、父上ッ」
 国親様の隣にいた元親が慌てたように制止をうながすが、それで気を変える国親様ではなかった。
 ちなみに世継ぎとして元親はこの場に座っているが、俺に輪をかけて発言は少ない。また発言を求めようとする者もほとんどいない。


 それはともかく、主君の問いとあれば正直にお答え申し上げねばなるまい。 
「武芸の面で申し上げれば、全く成果はございません」
「……ぅぅ」
 正直な俺の答えに、国親様は露骨に悲しそうな表情をし、元親は力なくうなだれている。すまないとは思うが、実際、それ以外に答えようがないのである。
「まったく、誰に似たのやら。まあ武がからっきしであっても文に優れている分、まだしもじゃがなあ」


 嘆息にも似たその国親様の慨嘆に、別の場所から応じる声があがった。
「……将たるもの、必ずしも武に長じている必要はござらぬ。向かぬものを強いるより、適したものを伸ばす方がよろしいのではござらんか」
 重臣の一人、吉田孝頼である。国親様の懐刀として、長宗我部家ではいわゆる軍師の役割をしている。 
 そしてもう一人。
「さよう。戦場にて刀槍を振るうは我ら家臣の役目でありましょうッ!」
 そういって大笑したのは福留親政である。
 この人物、長宗我部家随一の豪傑として広く知られており、国親様より感状を受け取った回数は数しれず、過去、ひとつの戦場で敵兵二十人以上を一人で斬り捨てたこともある。
 実際、俺はその戦場にいたのだが、鬼武将というのはこういう人のことかと思い、この人物が敵でなかったことを天に感謝したほどだった。


 実はこの二人、家中でも元親に好意的な方なのだが、それでも元親が武士として役に立たないという点は否定していない。
 元親の家中における人望は前述したとおりだが、さすがにこの場にいる重臣たちの中には元親に熱をあげているような者は(一人を除いて)おらず、この話題になるといささか空気が微妙になる。
 やはり戦場で命をかける将兵としては、武に長じた大将を頭に戴きたいというのが正直なところなのだろう。まして昨今の土佐は戦が絶えない動乱真っ只中にあるのだから尚更だ。


 そして空気が微妙になる理由がもう一つ。
 国親様が昨今稟質を見せ始めている次男親貞、三男親泰に期待をかけているのを知る者たちが、ここぞとばかりに追従を口にし始めるのである。
 今もまた、二、三の家臣が口を開いて親泰らへの賛辞を述べ立てている。
 たしかに、まだ十にもならぬとはいえ、親貞や親泰は将来が楽しみになる子供たちである。元親との兄弟仲も良く、その賛辞のすべてが追従であるとは言いたくない。
 しかし意図しようがしまいが、弟たちへの賞賛は必然的に元親への誹謗に繋がる。ことにこんな場で意図せずにその手の発言をするやつは少数だろう。


(こうなるから、名代なんぞ嫌なんだけどなあ)
 俺はうんざりした気分が顔に出ないよう注意しつつ、酒盃をあおる。さすがに城で扱っているだけあって家にある酒より良い品なのだが、楽しく酔える雰囲気ではないため味が半減している。
 まあそれでも元親に比べれば、断然ましだろう。そちらを見れば、いつものように黙然と俯いたまま弁解も反論もしない。元親は下戸というわけではないが、ほとんど酒を嗜まないので、俺のように酒を飲んでやりすごすこともできず、時が来るまでじっと耐えるしかないのである。


 こういった態度がまた柔弱だの何だのと陰口を叩かれる原因になっているのだが、そうと知っていても俺は助け舟を出すことができない。
 俺がここにいるのは、あくまで香宗我部の名代としてであり、俺の発言は家の発言となる。ここで下手に元親をかばおうとすると、香宗我部家が元親に取り入ろうとしているだの何だのと邪推されてしまう。それでなくても、過去、香宗我部家は元親を跡継ぎに、という話を持ち出しているだけに、発言一つでも慎重にならざるを得ない。俺のことはさておくとしても、通長様や香宗我部の家臣、ひいては領民にまで害が及びかねないのである。



 こういう時、真っ先に元親を擁護しそうな久武親信が、先刻からずっと黙っているのも俺と同じような理由なのだろう――と思ったが。
 日陰の花のようにひっそりと座り込む元親を陶然と眺めている様を見るに、単に恥辱にたえる元親に夢中なだけかもしれん。元親が助けてといえば即座に行動するだろうが、そうでなければいつまでも元親を見続けていそうだった。ある意味で純粋な奴である。


 俺としてはいささか忸怩たるものがあるのだが、かといって別にそのことで元親から薄情だと責められたり、あるいは自身をかばってほしいといったことを言われたことは一度もない。元親は、こういう家臣たちの発言は自分の不徳のいたすところだと甘受しており、よほど礼を失した発言があったとしても騒ぎ立てることはないのである。
 俺が名代として岡豊城に来るようになってからまだ何年も経っていない。元親は俺の何倍もの時間、この場所に居続けているわけで、俺などはこのあたりが元親の真価だと思うのだが、生憎と同じ見解を持っている人は見当たらなかった――


「……颯馬よ」
「は?」
 不意に話しかけられ、俺は我にかえる。
 見れば親貞の勇敢さを讃えていた重臣の一人が、なにやら意味ありげに俺を見ていた。


 前後の話を聞き流していた俺が目を瞬かせていると、その重臣はじれたように先を続けた。
「どうだ、元親様だけでなく、親貞様にも武芸の手ほどきをしては? 通長殿の薫陶を受けたそなたの教えであれば、親貞様も得るところは多かろう」
 そういうと、重臣は酒盃を呷ってからなおも続ける。
「あるいは元親様は筆のことに専念していただき、親貞様の教えに専心するも良いかもしれんな。さきほどそなたが申した言葉を聞けば、このまま元親様を鍛え続けたところで御家のために益するところはないであろうしな。そうすれば元親様はいらぬ怪我をなさる心配はなくなるし、そなたも親貞様の御信頼を得られる。良いことづくめではないか」
 語尾を笑いで彩ったのは、酒の席での冗談だとでも言いたいのか。だが、その目を見れば、今の言葉が真実冗談なのかどうかは子供でもわかるだろう。


 当然、俺も理解した。
 というより、直接、間接を問わず、この手の誘いは結構頻繁にあるのだ。
 長宗我部家に臣従したとはいえ、香宗我部家は土佐七雄の一。かつての混乱で影響力は大分薄れたとはいえ、それでも凡百の家に優ること遙かである。
 当然のように腹に一物ある連中がほうって置くはずがない。ことに――何度も言うが――香宗我部家はかつて元親を跡継ぎに迎えようとした経緯があるため、野心のある家と思われがちなのである。


 重臣の言葉を聞いた元親がはっとしたように顔をあげ、俺の方を見る。自分のことはともかく、それに他者が巻き込まれることを、元親は極端に嫌っているのだ。
 こちらを見る元親の頬にはしる傷は昼間の稽古でついたものだろう。それでも元親の鮮麗な容姿(男の顔を形容する言葉じゃないような気もするが)はいささかも損なわれていない。そんな元親の不安げにゆれる黒い瞳を見ていると、まるでその中に吸い込まれてしまうような、そんな錯覚に陥りそうになる。
 まったく、と俺は内心でため息を吐いた。
(男だからいいようなものの……これが女だったら確実に惚れてるぞ)
 そして一国の姫君を娶るため、農民から名だたる武士を目指す俺の立志伝が始まっていた――かもしれない。
 
 

 まあ元親は男だからして、そんな心配は不要。今は重臣の方に応じねば。
「それがしの武芸など知れたものです。親貞様のご年齢なれば、下手にそれがしのような者が相手をすれば、後々よからぬ影響が出るかもしれません。親貞様が衆に優れた方ならば、なおのこと師は慎重に選んだ方がよろしいでしょう」
「そこまで大仰に考えることもあるまい。ただの稽古ではないか。それに親貞様はいずれ御館様の虎の名を継ぐ猛将となられることは必定、その師とあらばそなたも鼻が高いのではないか?」
「はは、これはご冗談を」
 俺が失笑すると、重臣は気色ばんでこちらを睨みつけてきた。
 それを見て、俺はさらに言葉を続ける。 
「虎は何ゆえ強いのか。それは虎が虎であるゆえに、でございましょう。なれば誰が育てたかなど些細なこと、それを我が手柄として誇るなど小人の業でござろうよ」


 その俺の言葉を聞いた重臣が鼻白んだように口を閉ざす。
 すると、次に口を開いたのは国親様だった。とはいえ、それは半ば独り言のようなものだったのかもしれない。
「……虎は虎であるがゆえに強し、か。なるほどの。虎の子は必ず虎、したが人は必ずしもそうではない。位人臣を極めた者とて、寿命と世継ぎは思いのままにならぬもの。一生とはままならぬものよな、、颯馬」
「御意にございます。しかし――」
「しかし? なんだ、意味ありげに言葉を切るのう?」
「仰せのとおり、鳶が鷹を生むこともあれば、逆に虎から猫が生まれることがあるのも人というもの。それは確かでございましょうが……」
 そう言いつつ、俺は元親に視線を向ける。
 俺の言葉が自分を指すことに気づいたのだろう。その顔が曇り、俺を見る目に深い悲哀が宿る――その寸前。


「――しかし、幼き虎と猫の区別をつけられる慧眼の者が、世にどれだけおりましょうや。まして人は虎と異なり、成長できる生き物なれば、晩年になって才が花開く者とて珍しいものではございません。それがし、虎の児を見ぬく慧敏さは持ち合わせておりませぬが、さりとて虎を猫と侮る愚者に堕したくはございませぬゆえ、無用の言辞を弄さぬことにしております」








◆◆◆








 長宗我部国親は酒宴が果てた後も、城の一室で月を肴に酒盃を掲げていた。
 その傍らには二つの人影がある。一人は腹心の吉田孝頼。もう一人は――
 国親は、その人物に向けてからからと笑ってみせた。
「颯馬のやつも、なかなか言うようになりおった。これも翁の教育の賜物か?」
「さて、それはどうでござろう?」
 そう言って首をかしげて見せたのは、本来ここにいるはずのない人物――香宗我部通長だった。国親が密かに岡豊城に招き寄せていたのである。
「あれでは先に口を開いた者を侮辱したも同然。いらぬ恨みをかうは、褒められたものではなかろうと存ずる」
 通長は首を振りつつ、そう口にする。


 すると、それまで黙って国親と通長の会話に耳を傾けていた孝頼が、ここでようやく口を開いた。
「……若殿を侮られ黙っておれなかった、というところでござろう」
「ふむ、幼き頃よりの馴染みとはいえ、あの姫若子に何を見出してくれたのか。まさか恋情でもあるまいが」
 国親の呟きに、通長は低声で笑った。
「殿がそれをあやつに告げれば、面白いことになりますぞ」
「……同時に久武が暴れそうですな」
「そして若子が二人の間でおろおろする、か。ふむ、目に見えるようだ」


 三人はそんな会話を交わしつつ、かわるがわる酒盃を呷る。
 岡豊城にはかつて見事な楠があったのだが、とある事情ですでに切り倒されていた。そのほかに城で目を楽しませるような景観といえば、頭上に広がる星空か、彼方に広がる大海の二択しかないのだが、さすがにそれだけでは味気ない。
 そんなわけでこの三人、若い者たちを肴に酒を飲んでいるのである。  





 やがてひそやかな酒宴も終わりを迎えようかという頃、国親が不意にこんなことを口にした。
「ところで翁よ、香宗我部は颯馬に継がせるのか?」
「それがしは出来ればそうしたいのですが、先ごろ切り出したところ、一笑に付されましてな。どうしたものかと妻と相談しているところでござる」
「くはは、継ぎたい者など掃いて捨てるほどおろうに、継がせたい者にその気はなしか。まこと、この世はままならぬことばかりよな」
 そういって笑う国親を、通長はやや目を細めて見やった。何気ない風を装っていても、これが国親が自分を呼んだ本題だと察したのだ。


「しかし殿、何故にそのようなことを問いなさる?」
「なに、元親を押し付けようというのではないさ。むしろ逆か。いっそ親貞か親泰を香宗我部に譲れば、元親の周りの雑音も多少おさまるのでは、とな。それについて、翁の意向を聞こうと思ったのだ。無論、翁の意が颯馬にあるなら、強いるつもりなどないぞ?」
「そういうことでござるか。しかし……」
 通長はそこで言葉を切ると、傍らの孝頼と視線をあわせた。国親の言い方が、まるで元親に当主の座を譲るための準備のようだったからだ。


 しかし、国親が元親の繊弱さを危惧し、世継ぎの座を弟のいずれかに出来ないものかと悩んでいるのは周知の事実。その迷いが家中の混乱を醸成しているため、彼ら二人も事あるごとに諌めているのだが、国親はその場では頷きつつも、迷いそのものを消すには至っていなかったはずなのだ。
 それがここにきて、急に元親に当主の座を譲ろうとしているかのようなことを口にする。長宗我部家でも屈指の智者たちにとって、座視できる事態ではなかった。


 二人の知恵袋の姿を見た国親は、彼らの言いたいことを察したのだろう。次にその口から出た言葉は、半ばため息に近かった。
「わしはそなたらや、あるいは颯馬ほどに元親の才を信じきれぬ。いや、才を信じぬ、というよりは、あの優しすぎる為人が案じられてならぬと言ったほうが良いか。あれは容姿だけでなく、人柄さえ母の生き写しよ。この戦国の世を生き延びるには、あまりにも頼りない……」 
 だが、と国親は続けた。
「そうも言っておられぬことになりそうでな」
「……何事かございましたのか?」
「先日、諜者より知らせが参った。本山と一条との間で講和が成立しそうだとのことだ」


 なんでもないことのように告げる国親だったが、その言葉は通長と孝頼、二人の老練な武将の顔色を変えさせるに足る重みを持っていた。
「……これほどに早いとは。一条は伊予や豊後の助勢も得ていたはずですが?」
「伊予には毛利が矛先を向け、豊後は国内でなにやら揉め事が起きたようだな。いずれも土佐の内乱に関わっている余裕はなかろうよ」
「なるほど、これも本山茂宗殿の策の一環ですか。無論、講和と申しても対等のそれではございますまい?」
 通長の問いに、国親は当然のように頷く。
「であろうな。さすがに和議の詳細まではまだつかめておらんが、一条は領土が半減で済めば御の字ではないか」
「……これで本山は後顧の憂いなく、東に目を向けることが出来ますか。となれば例の件を蒸し返してくるのは必定」
「うむ、明日、使者がおとずれても不思議ではあるまいよ」
 



 今を遡ること一年前。本山家から長宗我部家に使者がやってきたことがあった。
 それは本山茂宗の息女と元親を娶わせ、両家の仲をより親密にしたい、という友好の使者だったのだが、これを鵜呑みにするようでは戦国の世を生き延びることはできない。
 しかも娶わせるといっても、本山家の息女が輿入れするのではなく、元親を本山家の居城である朝倉城に婿入りさせるというもので――要は長宗我部家に従属を強い、人質を要求してきたのである。


 当時のことを思い出し、国親は思い切り唇をゆがめた。
「おとといきやがれ、と使者を蹴飛ばしてやりたかったがなあ」
「それをすれば即日開戦ですからな。むしろ、向こうはそれをこそ狙ったのでしょうし」
 あの時の国親の憤激を思い起こし、通長は苦笑する。
 結局、当時はあれやこれやと言を左右しつつ、一条らに働きかけて本山家の狙いをそらすことに成功した。その上で徐々に勢力を広げ、やがて必ず訪れるであろう再度の侵攻に備えてきたのだが。


「まさか一年ももたぬとは、さすがは本山茂宗といったところか。ともあれ、再び元親を婿に請われたとき、それを断る口実が必要だろう。あれを他家にやったりしたら良くて傀儡、悪くて毒殺、いずれにせよ、ろくなものではない」
「……たしかに、ほどなく宗家を継ぐ者を婿にとは申しますまいが、それでは弟君らは?」
「うむ、それで香宗我部の翁を呼んだのよ。一人を、形だけでも良い、香宗我部に預け、もう一人は……そうだな、吉良家を継がせるのも手か」


 ――国親の言葉に、通長は奇妙にゆっくりとした口調で問いを向ける。
「殿、今更申すまでもござらぬが、吉良家は土佐の名族なれど、すでに本山に滅ぼされて久しく、茂宗殿の嫡子茂達殿が名跡を継がれておりまする。長宗我部が跡目を継ぐなどと口にすれば――」
 それこそ即座に戦端が開かれるだろう。通長の見立てでは、今の長宗我部家の力では、本山家と本格的にぶつかれば七割方敗北する。その分析は国親や孝頼のそれと大差はなかった。だが、それと承知してなお国親は頷いて見せた。
「いずれはぶつからねばならぬ相手だ。これ以上、時をおいたとしても、こちらが力をつける以上の勢いで敵は勢力を拡大させてしまう」
「……たしかに本山が一条を降した以上、時を経れば経るほどに不利になるのは当家でございますな」


 そう考えれば、今こそ長宗我部家にとって本山と矛を交える最良の時なのだ、という国親の考えはあながち間違いではない。無論、不利は否めないにしても。智者二人もそう考えた。
 それを見て、国親はあらためて口を開く。
「無論、本山の使者が来ていない以上、今のは机上の案だ。だが、遠からずそうなるであろうことも事実。二人ともそれを承知しておいてくれい」


 主君の言葉に、二人は同時に頭を下げた。彼方より響く兵火の音を総身で感じ取りながら。

 


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