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[29095] 不死の子猫に祝福を(エヴァ主人公・本編再構成)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/07/31 22:59
この物語はもしもナギとエヴァの関係が生々しいところまで進んでいたらという本編の設定改変ものです。
尚、以下のことに気を付けていただけると幸いです。

1.オリ主、オリキャラは一切登場しません。

2.原作におけるラブコメ的な雰囲気はおよそ皆無です。

3.エヴァの経歴が変わったことで、細かな設定の変更や登場しない原作キャラクターなどが何人かいます。

それでは、よろしくお願いします。





あの日、奴は私に誓った。

「まあ、心配すんなって。お前が卒業するころにはまた帰ってくるからさ」

奴は確かにそう言った。
あのいけ好かない顔にニヤけた笑みを浮かべながら、さも当然のように。
奴は言ったのだ、迎えに来ると。
絶対に私の元に帰ってくると。
だから、私も信じたのだ。
他ならぬ奴の言葉だったから。
この世で私が最もいけ好かなくて、この世で私が最も愛したあの男の言葉だったからこそ、私はもう一度『人の言葉』を信じたのだ。
それなのに……。

「光に生きてみろ。そしたらその時お前の呪いも解いてやる」

奴はこの言葉を最期に永劫私の元に戻ってくることはなかった。
幾日も幾日も奴が私を迎えに来ることを頑なに信じ、卒業を過ぎ、期日を過ぎようともひたすらに待ち焦がれていたというのに。
奴は……ナギは二度と私に姿を見せることなく、この世を去った。
死因は分からない。
誰に聞いても答えてはくれず、また誰もその答えを持ち得はしなかったから。
だが、そんなことはもはや私にとってはどうでもよかった。
ナギに裏切られた。
そんな一念ばかりが私の心の中で暴れ狂い、奴へと向かう感情が現実に対する私の眼をひたすらに盲目にしていったからだ。

初めは何かの戯言なのだと思った。
恐らく無意識の内に私自身ナギの奴が死ぬはずがないと心の中で思い込んでしまっていたのだろう。
だが、奴は戻らなかった。
約束の期日から一年が経ち、二年が経ち、やがてそうした月日が幾重と積み上げられようとナギは私の元に帰ってきてはくれなかった。
約束したというのに。
迎えに来てくれると信じて待っていたというのに。
ナギは……奴はあっさりと私の心を踏みにじり、死んでいったのだ。

初めに沸いた感情は怒りだった。
幾年も人のことを待たせておいて何を勝手に一人で死んでしまうのだ、というのが半分。
そしてもう半分は迎えに来るという約束を違えたのが許せないというやり場のないものだった。
登校地獄のことはまだいい。
卒業を迎えた当日に来なかったこともまだ致し方ないと思えもする。
だが、私に淡い期待と夢を持たせて尚、その想いを踏みにじられる事だけはどうしても許容することは出来なかった。

私は奴に身も心も……私の持てるすべてを奉げた。
だが奴は私に何も応えてくれはしなかった。
何時もはぐらかすか逃げてばかりで、ちっとも私の話に取り合ってはくれなかった。
でも、あの時だけは違った。
奴と別れる間際に交わしたあのやり取りの時だけは、奴もしっかりと私の気持ちを受け止めてくれていたように見えたのだ。
だから私はおとなしく待ち続けた。
何時の日も何時の日も奴のことを想いながら、幾つもの月を越えて待ち続けたのだ。
奴の言った『光』に身を窶しながら……。

だが、それを奴は踏みにじった。
元よりふざけた男だとは思っていたが、少なくとも奴は自分が抱いた女の情を汲み取ることのできない人間ではないと信じていた。
それなのに……奴は私の心も、情も、想いも何もかもを否定し、あまつさえ裏切ったのだ。
この光という名の檻に、私だけを置き去りにして。
それが……それだけが、私はどうしても許せず、幾度も幾度も奴を思い出しては心の中で罵倒し、そして辺りにあった物にも者にも皆須らく当たって散らした。
目元からあふれ出る『涙(かんじょう)』に自分ですら気づかないまま……。

次に湧いた感情は悲しみだった。
もう何をしても奴は戻ってこない。
自分の愛した男はもう二度と私のことを振り返っても、迎えに来てもくれはしない。
私は永劫この薄暗い『光』の中に囚われたまま悠久の孤独を生きて行かねばならない。
暴れに暴れた果てに、そう悟った私にはもうただただ悲しみに暮れることしか出来なかった。

数百年の刻を経て、ようやく自分が心を赦し、愛せる男を手に入れられたのだと思っていた。
私のことを畏怖もせず、蔑みも哀れみもせず、ただ一人の女としてみてくれる男にようやく出会えたのだとも思っていた。
そして何よりも、私はもう一人でいなくてもいいのだと本気で信じていた。
けれど、そうした刹那の幸せは呆気ないほど簡単に私の両手から零れ落ちた。
600年前のあの時と同じように。
私が人の身から化け物へと変わったあの時のように。
刹那に掴んだ幸福の情景は、脆くも私の前から消え失せ果てたのだ。
まるで私自身の犯した過去が女に生きようとした今の私を嘲るように。

そして、そうした激情と悲哀を超えて、最後に残ったのは喪失感と虚無感だった。
私がナギと出会い、奴と時間を共有するようになってから今に至るまで私はただ奴の事だけを想い、そして奴の存在だけを希望として生きながらえてきた。
だが、もうナギは死んだ。
私が愛し、身も心も奉げた男はもうこの世にはいないのだ。
ならば、これから先私は一体何を支えに生きて行けばいいのだろう。
生涯でただ一人、自分を愛してくれるかもしれなかった男に裏切られた私は一体何に縋って生きて行けばいいというのだろう。
涙も枯れ、怒りも消え失せ、ただただ絶望の念に飲まれるしかなかった私の思考がそんな疑問に行きつくまで、そう多くの時間は掛からなかった。

「生きる意味など……ない……」

疑問の答えは、自分でも驚くほどにあっさりと口元から零れ落ちた。
そう、もはや私の生きる意味などない。
ナギという希望が欠落した果ての未来など、私にとっては生ける地獄と同じだ。
私はもう誰からも恐れられたくなんかない。
誰かから命を狙われることも。
誰かに恨まれ蔑まれることも。
誰かを不幸にすることも。
私は……もう真っ平御免だった。
そして奴がいなくなった今、またあの得体の知れない怨嗟が渦巻く世界の中で生きて行かねばならないというのなら─────私はもう生にしがみ付いていたくなどなかった。

「もう、疲れた……」

私はきっと長く生き過ぎたのだろう。
その所為で多くの人間から恨まれることにもなって、また多くの人間の命を奪うことにもなった。
今を思えば、どこか適当なところで区切りをつけて死んでおけばよかったのかもしれない。
そうすれば誰かに愛される喜びを知ることもなく誰も彼も恨みながら死ねたはずだ。
愛する者を失った悲しみも、信じていた者に裏切られる苦痛も感じることなく、ただ自らに仇なす者を恨み、自らの生涯を恨みながら死んでいくことが出来たはずだ。
でも、私は奴に出会ってしまった。
悪の魔法使いでも闇の福音でもなく、ただの女として私を扱ってくれたあの男に。
それが恐らく、私にとっての最大の幸福であり、最大の不幸だったのだろう。
好きだった男に殉じて迎えるなどという最期を泣き笑いしながら受け入れてしまうくらいには……。

「待っていろ、ナギ。私も今……そっちにいく……」

故に、私は自らの手にナイフを取った。
心の臓腑に一突きもすれば忽ち絶命することの叶う、純銀製のナイフだ。
そしてそれを私は躊躇なく自らに向かって翻し、そして力いっぱい自身の胸にその刃を突き立てた。
手元から零れ落ちる流血と共に薄れる意識のなかで、最後まで奴のことを追い求めながら。
きっと、その時の私の表情は笑っていたのだと思う。
例え地の果てに逃げても絶対に追いかけてやる。
そんな何時だかに言った言葉の通りに、私は愛する男を追って生涯に幕を下ろすことが叶ったのだから。

それが1993年。
今から10年ほど前のこと。
私ことエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルがあらゆる意味での『死』を迎えた日の出来事だ。
これは、そんな私の物語。
闇の福音でもなく、悪の魔法使いでもない。
好きな男の背を追い続け、そして掴むことの出来ない『星』を追い続けた哀れな女の物語だ……。






[29095] 1話「憂い」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/07/31 00:19
2002年、12月。
その日は、例日にも増して酷く寒い一日だった。
芝生や土には霜が降り、窓の外からも乾いた木枯しの風音が時折音を立てて唸りをあげる。
何時もならば鬱屈とした気持ちが先行し、己の家から出ることを自らの身体が自然と拒否するようなそんな初冬も後半に差し掛かり始めたある日のことだ。

その日、私は珍しく自らの通う学校の教室の中にいた。
時刻は既に夕刻。
それも教室に誰も残っていないような放課後の事だ。
何時もの私ならば早々にこんな忌まわしい場所からは立ち去って、さっさと家に帰っているところだろう。
別段この街の何処にいようと何が変わる訳でもないが、それでも一人になれるだけ多少なりと気楽ではある。
それに、この如何とも許容しがたい子供の学び舎特有の甘ったるい空気から解放されるだけまだ幾分かマシというものだ。

しかし、今日だけは多少事情が違った。
勿論自ら好き好んで居残ったわけじゃない。
呼び出されたのだ。
他でもない、このクラスの『担任』に。
いや……言い換えるのなら、『ここ数年まともに口も利かなかった古い知り合いに』と言った方がまだ幾分か適当なのだろうか。
まぁ、何でもいいしどうだっていい。
珍しいこともあったものだと思ったから、気紛れに呼び出しに応じてやったというただそれだけのこと。
本当にただ、それだけのことだ。

「……遅い」

だが、そんな私の気紛れにも多少なりと限度というものがあった。
何分私は誰かに待たされるのが嫌いな性質だ。
それなりに誠意を見せるなら多少なりとなら待ってやらないこともないが、それでも相手が指定してきたはずの刻限を超えてまで待ってやるほど寛容でもない。
故に、今のこの現状にしたってそうだ。
待ち合わせ相手から指定された時間はとうに過ぎているにも関わらず、私はいまだ誰もいない学校の誰もいない教室で一人待ちぼうけ。
これで苛々するな、という方が酷な話というものだろう。

「ふん、無駄足だったか……」

指定された時間はとっくに過ぎたというのに姿を見せるどころか、言伝の一つも寄越すこともしない。
なんともふざけた話だった。
何か事情があるにしろ、それならばそれで一報を入れるのが筋というものだろうに。
それが他人にことの道理を教える立場の人間ならば尚更というものだろう。
私は内心そんな風に呆れながら、溜め息交じりに踵を返し、教室の外へと歩を踏み出し始めていく。
初めは何事かと思ったが、これほどまでに私のことを舐め腐るというのだから恐らくそうたいした用事でもないのだろう。
ならば何時までも私が待っていてやる道理も義理もない。
そう判断したからだ。

だが、今日の私は生憎と運が悪かった。
と言うのも、私がそのまま立ち去ろうとドアノブに手を掛けたのと同時に、もう反対側のドアからこの教室に呼び出した張本人がさして悪びれた様子もなく入ってきてしまったからだ。
何とタイミングの悪いことだ。
思わず私は内心もう一度ため息をつきたいような衝動に駆られてしまった。
しかし一応体裁だけは取繕わないと格好もつかないし、どの道あちらのペースに引き込まれて有耶無耶にされるのがオチだ。
せめて恨み言の一つや二つ行ってやらねば気が済まない。
そう思い立った私は即座に自分の顔に仏頂面を張り付けて、「遅れて、すまない。あはは……」などと戯けた事を抜かしている男へと間髪入れずに悪態をつくのだった。

「随分と遅いじゃないか。えぇ、タカミチ?」

「いやはや、どうにも職員会議が長引いてしまってね。どうしても席を外せなかったんだ。遅れたのは本当にすまないと思っているよ」

「そうか。てっきり私は小娘に尻でも追いかけられていたのから遅れたのかと思っていたのだが……」

「相変わらず辛辣だね、君も」

私がそう言葉を投げると男─────私の古い知人である高畑・T・タカミチはばつの悪そうに顔をひきつらせながらも、やはり笑顔は崩すことなくそう切り返してきた。
けれど、私はそんなタカミチの台詞をまともに取り合うことはしない。
半分はそういわれても仕方がない行為を犯した罰として。
もう半分は実際に普段から尻を追いかけられているという自業自得な面を暗に批難してのことだ。
もう彼是こいつとは数年以上業務的なやり取り以外の会話をすることを避け、お互いに距離を置いていたが、それでも担任と生徒という関係を二年も続けていれば嫌でもお互いに普段の素行というものは目についてくる。

特にここ最近はうちのクラスの名も憶えていない女子生徒─────確か神楽田なんとかとかそんな名前だったような気がする─────に変に懐かれたのか何時もことあるごとにラブコールを受けているのが目に入るようになってきた。
こんな唐変木に惚れ込む物好きというのもなかなかに珍しい話だが、一応相手は女子中学生だ。
道徳的にも倫理的にもあまり関心出来た話ではないし、満更嫌そうでないこいつの面も見ているこっちにとっては不愉快極まりないというものだ。
尤も、こちらとしてはこういう風に久方ぶりに話をするときにいいからかいネタにもなるから一概に『そういった』ことを忌避するわけでもないのだが。
私は内心そんな風に思いながら、さらに追い打ちをかけるべく、二の句を先ほどの言葉に次ぎだしていくのだった。

「まぁ、いいさ。手を出すも出さないもお前の裁量しだいだからな。けれど避妊だけはしっかりしておけよ? うっかりガキでも孕ませたらそれこそ、『こと』だからな。くくっ……」

「はぁ……。君がここ数年僕のことをどういう目で見てきたかよーく分かったよ。実は内心、問題になれとか思っていたりしないかい?」

「そっちの方が面白そうだからな。なに、気にするな。こっちに余計な火の手を回さなければ私は応援するぞ? というよりもむしろヤッてしまえ。あれだぞ? 所詮は13、14の生娘だ。多少強引に迫れば嫌とは言わんだろ」

「おっと、その手には乗らないよ。生憎僕は堅実な恋愛が好きなんだ。彼女からの好意は嬉しいけど、君と違ってあの年頃の子の恋は移り変わるのが早い。所詮、中学生の恋なんていうのは一過性の流行病みたいなものなんだ。それに僕も感情で恋が出来るほど若くもないしね。生徒と教師の立場を乗り越えた恋なんてTVドラマの仲だけで十分さ」

からかいの末にタカミチの口から出てきたのは、そんな何処かのマニュアルにそっくりそのまま書いてあるかのような酷くつまらない答えだった。
とは言え、私が「ヤッてしまえ」と口にした時は幾らか動揺したように顔を赤らめていたことからもその実未だ先の台詞とかみ合っていない初心な面も持ち合わせているようではあったのだが。
まあ、いずれにせよ私から見ればこの世に生きる大概の人間は皆、年端もいかぬ若造だ。
そんな私の前で偉そうに自らの年齢を引き合いに出してものを語るなど愚行以外の何物でもありはしない。
これが酒の席ならば、あと一時間はねちねちと煽ってやりたいところだ。

だが、タカミチの奴も態々こんなくだらない話をするために私のことを呼びつけた訳ではないのだろう。
それはこの教室の四方の隅に張られた人払いの結界と、数年という月日の中で形成されたお互いの距離の壁を越えて対話を求めてきたという姿勢からも伺うことが出来る。
では、一体何が目的なのだ。
そんな考えが張り付いた笑みの裏で幾度も過り、そして早いところ本題に入るべきだという思考が三つ四つとからかいの言葉を吐こうとしていた私の口を噤ませた。
久方ぶりにタカミチをからかう楽しみがなくなるのは正直惜しいが、どうにも今のこいつからはきな臭い気配がする。
これは早々に真意を問いただしておくのが吉というものだろう。
そう結論に至った私の顔から笑みが消え、口調が元の冷めたものに変わるまでそう多くの時間は要さなかった。

「で? 久方ぶりに呼びつけたかと思えばいったい私に何の用だ? まさか単なる馬鹿話に華を咲かしに来たわけじゃあるまいに」

「手厳しいね。もう本題に入らないといけないかい?」

「私も暇ではないからな。それに、わざわざ人払いまで使ってるんだ。これで警戒するな、という方が無理な話ではないか?」

「確かに。それもそうだ」

そう言って、タカミチは私の言葉にあっけらかんと笑って首を縦に振った。
どうやら暗に私の想像している通りのことを話しに来たという事らしい。
そう思うと、私は何だかとてつもない憂鬱と脱力が己の心から湧き上がるのを感じた。
まあ、呼び出された時点でなんとなくは気が付いていたのだ。
こいつが何か面倒を私に多い被せる腹積もりなのだ、という事くらいは。
でなければ、ここ数年続いた不干渉の禁を破ってまでこいつが私に接触する義理などあるまい。

けれども、それが分かっていて尚こうして話し合いの場に応じてやったのは偏にこいつが単なる中継人でしかないと初めから何となく気が付いていたからだ。
所詮、タカミチは上からの命令を聞いて体よく動くスピーカー。
本人にどういう意図があるのかは存じないが、どうせ私と接触を図るには接点のない人間よりかはいいだろうとかそんな理由から『爺』に選ばれて遣いに出されたというのが大よそのシナリオだろう。
つまりこいつに何を言っても無駄でしかないし、文句を言おうにも私が直接『爺』に言ってやるほかない。
それを承知しているからこそ、こいつもここまでふざけた態度でいられるのだろう。
まったくもって忌々しいことこの上ない。
私は己の心の巣食う感情があからさまに不機嫌なものに変わっていくのを感じながら、先の台詞に二の句を続けるタカミチの言葉に耳を傾けるのだった。

「じゃあ率直に言わせてもらうよ、エヴァ。君の力が借りたい。そう学園長からお達しが出た」

「……爺が?」

「あぁ。僕はそれを君に伝えるよう頼まれたんだ。知れた人間の言葉なら多少彼奴も聞く耳をもつじゃろう、ってね。まったく損な役所だよ」

「だろうな。同情するよ。共感はせんがな」

タカミチから返ってきた答えは案の定私の想像した通りのものだった。
私の招集と助力の要請。
この街に身を置いてからもう幾度となく聞かされた言葉だ。
どうやらあの爺も未だに耄碌したという訳ではない、ということらしい。
今になっても尚諦めることのないその姿勢だけは称賛にも値するものだと私は思った
だが、私の答えは今も昔も変わることなどない。
恐らくタカミチをそれが分かっていたのだろう。
その顔に浮かんでいる何処か諦めを滲ませた苦笑いが何よりの証拠だった。

「─────断る」

故に、私もタカミチの想像している通りの言葉でその頼みを切って捨てた。
何処の誰に幾度頼まれようと同じことだ。
私はもう二度と魔法には関わらないし、行使することもしない。
14年前に自らそう決めて、以降今に至るまで一度もその禁を破りはしなかった。
やつが光に生きろと私に言ったあの日から、魔法使いエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは死んだのだ。
今ここにいるのは多少他の者よりも道理に聡い異国の小娘でしかない。
そんな私にあの爺もお前も何を期待するというのだ。
結局、それが私の答えのすべてだった。

「もはや私はお前たちとは袂を別った人間だ。14年前にそう決めて、今となってもそれは変わらん。私はな、ただの『一般人』なんだよタカミチ。これ以上私をそっちの都合で振り回すな。爺にもそう伝えておけ」

そう、今の私はただのしがない一般人。
この終わることのない三年間を永劫繰り返すだけの虜囚でしかない。
まだナギが存命していた内は希望もあった。
奴が私の元に帰ってきたらまた元あったように魔を追及するものとして活動し、奴の傍で共にあることを夢見てもいた。
だが、その望みも9年前に絶たれて消えた。
もはや私に魔の道へと再び戻る理由も意思もありはしないのだ。

「まぁ、正直君ならそう言うだろうと思っていたよ」

「当たり前だ。何度あの爺にこの命を弄ばれたと思っている? その恨み、私は忘れた訳ではないぞ?」

「……あくまで個人的な感想だけど、君はもっと自分の命を尊ぶべきだと思うけどね。僕は」

「ふざけろ。いらん世話だ」

砂糖菓子のように甘ったるい戯言を平然と言ってのけるタカミチに、私は舌打ちをしながらそう吐き捨てた。
自らの命を尊ぶ理由など、私にはない。
所詮この身は死ぬべき時に死に損なった者のそれ。
9年前、奴に殉じようと自らの胸にナイフを突き刺したその瞬間から、私は生ける屍も同然なのだ。
目的もなく、また縋るべきものもない。
欲しかったものは全て取りこぼし、持っていたものも全て奪われ踏みにじられた。
私にはもう、何もない。
何一つ、微塵の欠片一つ残されてはいないのだ。
にも拘らず、この街の御節介共は揃いも揃って私に生を押し付ける。
誰一人として私の死を許容してなどくれない。
それはある意味、誰かに恨まれ殺されるよりもずっと残酷なことなのだと私は思わずにはいられなかった。

「貴様らは傲慢だよ。お前も、爺も、爺の取り巻きも皆そうだ。9年前、素直に私を死なせてくれればよかったんだ……。なのに、貴様らは寄ってたかって私を生かした。どうあっても私を死なせてはくれなかった。そんな貴様らが、私は憎いよ……」

「そう思われても仕方がないとは思ってる」

「嘘だな。貴様らは所詮自己満足の塊だ。己が満足出来さえすれば他人の想いなど容易に踏みにじるじゃないか!」

「……それでも僕らは教師だ。自ら命を絶つ生徒を放っておくことなんて出来ないよ」

あまりの忌々しさに思わず声を荒げてしまう私と、相変わらずマニュアル通りの台詞しか口にしないタカミチ。
何というか、心の底から不愉快だと私は思った。
死にたい時に死なせてはくれず、愛した者へと殉じることも頭ごなしに否定して土足で人の心にずけずけと入り込んでくる。
そんなこいつらの善なる傲慢さが私にはどうにも不愉快で堪らなかった。
9年前、ナギに殉ずることを邪魔されてからずっと……ずっと……。

「ちッ……要件はそれだけか、タカミチ? ならば私は帰らせてもらうぞ。不愉快だ」

そう言って私は無理やり会話を切り、その場から逃げるようにタカミチに背を向け、歩を進め始める。
こいつと話していても何の益もない、そう判断したからだ。
魔の道からも手を引き、その法を探求する者共とも縁を切り、ようやく手に入れた部外者の領域だ。
それを犯されることは即ち不利益を被ることに他ならない。
ならば、もはやこの話はここまでだ。
それが私の偽りざらぬ本音であり、また言い分のすべてだった。
だが──────────────

「─────待ってくれ。エヴァ」

ピタリと止まる足。
それは私が再び扉の戸に手を掛けそのまま退出しようとしたのと、奴の声が耳に届いたのとで殆ど同じタイミングでのことだった
別段、私はタカミチに何を言われようと考えを改める気などなかった。
無論話を聞いてやる気もなかったし、それ以外の雑談を交わす気も全くありはしなかった。
だというのに、何故か私はタカミチの口から発せられたただ事ならざる重々しい声色に思わず足を止めてしまったのだ。
何故だかこいつの話をどうしても聞かなくちゃいけないような、そんな気がして……。

「もう一つ、君に伝えておくべきことがある」

「……なんだ?」

「さっきの話とは別件で学園長が君と内密に話がしたいそうだ。君にも大きく関わることだと聞いている。よかったら、帰り際にでも訪ねてあげてはもらえないかい?」

「気が向けば、な」

そう短いやり取りを交わし、私たちは今度こそ元あったように無言の内に互いの日常へと回帰していく。
思えば、その言葉を聞いたこの時からすべてが狂い始めていたのだと私は思う。
聞いておかなければよかったとは思う。
もしも此処で無視が出来たのなら私は真実など知らず、ただ緩やかに狂うことが叶ったのだろうから。
けれど、現実はそうはならなかった。
愚かにも私は、タカミチの言葉に耳を貸してしまった。
そしてあまつさえ、多少なりと興味を抱いてしまった。
故にそれが、私の最大の過ちにして、最大の悲劇。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの二度目の崩落の始まりだった。





エヴァンジェリンが去った後の教室。
そこでは一人の男が口元に咥えた煙草を燻らせながら、ただ何をするでもなく夕暮れに染まる茜色の空を見上げていた。
その顔に浮かべるのは嘆きなのか憂いなのか。
それは恐らく当人である彼からしても窺い知ることなどできはしないことだろう。

「まったく……酷いことだ……」

そう言って、男は独り誰もいない虚空にそっと紫煙を吐き捨てる。
自らの胸の内に募る言いようのない鬱屈さを溜め息に交えて同時に吐き出しながら。
男は先の彼女のことを想い、そして憂う。
この先彼女が背負うであろう、大きな悲しみを容易に想像できるが故に。
そしてまた、そんな彼女に自分がしてやれることなど何もないと知っているが故に。
男はただただ、今になっても尚彼女の胸に巣食う男に向かって愚痴を吐き捨てるのだった。

「正直、恨みますよナギさん。あなたって人はどこまでも……」

無論その愚痴は誰に届くわけでもない。
けれども男はそれを知っていて尚、二の句を告げる。
その言葉に込められた感情は怒りか、それとも憤りか。
或いは……嫉妬だったのか。
男はこの時、心の底から嘗ての憧れの英雄を憎み蔑んだ。

「酷い……御人だ……っ!」

そうして、ここでもまた一つ新たな悲劇が生まれていく。
誰に望まれるわけでもなく、ただ流されるように。
男、高畑・T・タカミチもまた歪に捻じ曲がった運命の歯車へと組み込まれていくのだった。
当の本人も気が付かぬまま。
ゆるやかに……ゆるやかに……。




[29095] 2話「裏切り」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/08/09 01:56
私はナギを愛していた。
けれど、思えば奴は私の事を一度も「愛してる」とは言ってくれなかった。
何故だろう─────その答えは私にはわからない。
確かに奴は私の事を好いてくれていたのだとは思う。
でなければ、こんな貧相な体の化け物など抱いてすら貰えなかっただろう。
幾多、幾千の血で塗れたこんな薄汚い女の身体など誰も好き好んで抱くはずもない。
そう考えれば奴は優しかったし、温かかった。
ナギに抱かれている時はとても幸せに感じたし、確かな絆を奴との間に感じもした。
でも、やはり奴は私に向かって愛を囁いてはくれなかった。
ただ一度も。
最期に死に別れるその瞬間ですら。
ナギは私の事をいとおしいとは言ってはくれなかった。
こんなにも私は奴の事を想い慕っていたというのに……。

だから時々、私は不意にこんな風に思ってしまうことがある。
もしかしたらナギは初めから私のことなど愛してはいなかったのではないか、と。
無論、私自身はそんなことはないと否定したかった。
私は奴に何もかもを奉げたように、またナギも私の事を愛してくれていたのだと自分に言い聞かせたかった。
でも、そんな証拠はこの世の何処にもありはしなかった。
せめて私と奴との間に子供でもいればまだ話は変わっていたことだろう。
けれど私とナギとの間に子供はいない。
齢10のまま時を止めてしまったこの身では子供を孕むことは叶わなかったからだ。

それを知った時、私は大そう落胆もしたし、絶望もした。
だが、奴ならば……この身が化け物であることを知りながらも尚私を好いてくれたナギならばこんな私でも受け止めてくれると信じていた。
でも、奴は何も言わないまま私の前から姿を消し、そして死んでいった。
私との愛を肯定も否定もしないまま、ただ独りそのうちに抱えた真実をも巻き添えにして。
故にあれから十数年以上経った今でも尚、私のこの疑心暗鬼が晴れることはない。
幾ら私がナギをことを信じていても、死人は何も語ってはくれないのだから。

故に私は思ってしまう。
もはや叶わぬ夢だと分かっていても─────あり得ぬことだと解っていても尚希ってしまうのだ。
ナギとの子供が欲しかったと。
奴の子供を産みたかったと。
『闇の福音』も『千の呪文の男』もなく、お互いの過去など捨てて、二人で幸せな家庭を築きたかったと。
そんなナギとの夢物語を今でも、私は……。







タカミチと別れた後、私は奴に言われた通り、私を呼びつけた張本人がいるであろう場所へと向かって歩を進めていた。
学園長室─────あの糞爺が年中腰を据えている忌々しい部屋だ。
確かに私はもうあの爺とは彼是何年も直接顔をあわせてはいない。
だが、タカミチの話を聞く限りだと恐らくはあの恍けた性格は今も当時と変わらず健在だという事なのだろう。
どうせあのふざけた爺の事だ。
今此処で逃げたところで、何れはしれっとした顔で私の前に現れるに決まっている。
結局、後でも先でも通る道は変わりはしないのだ。
だったら多少我慢してでも面倒は先に片づけておくという方がまだ幾分か利口な判断というものだろう。
尤も、だからといって爺と顔をあわせたくないという気持ちに変わりなどないのだが……。

「まったく、どいつもこいつも勝手なことばかり抜かしおって……。これでまだ下らぬ用向きで私を振り回すようならいい加減私にも考えがあるぞ」

タカミチとのこともあってか、久方ぶりに不機嫌な方へと傾いていく己の感情を思わず言葉として吐露してしまう私。
言っても仕方のないことだというのは分かっているし、無論爺たちにも言い分があるのも承知してはいる。
600万ドルもの賞金がその生死を問わず掛かっている私の事をナギの頼みがあったとは言えここまで匿ってくれていることには感謝もしているし、私とて無論多少なりと恩を感じないわけでもない。
ここ十数年、誰一人も殺めることなく、尚且つ一度として魔法を使わずに平和に過ごしてこれたのは間違いなくこの街の魔法使いどものおかげだ。
それは確かに間違ってはいない。

だが、それと『これ』とは話が別だ。
あの爺がもう一度私の力を欲するのは分からんでもないし、本来ならそれだけの対価を払ってやらねばならんほどの庇護を受けてきたのだという自覚はある。
けれども、既に私は魔法に関するありとあらゆる事を捨て去った身だ。
もう二度と魔法に関わる気もなければ、それを扱う者達に組する気も毛頭ない。
9年前にナギが死んだとき、私は確かに爺たちの目の前でそう宣言し、奴らもそれを承諾したはずなのだ。

にも拘らず、奴らは今日再びその境を越えて私に接触を図ってきた。
幾らあの爺が昔から人の言う事をまともに聞かない奴であったとは言っても、これでは通る道理も通らないし、明確な協定違反にも抵触する。
まぁ、だからと言って今の私に出来ることなど奴らの目の前でもう一度この身に刃を突き立ててやること位しかないのだが、それでも舐められるよりは幾分かマシというものだろう。
無理やりでも私の事を引き込もうというのなら私は何時でも自ら命を絶つ覚悟がある。
それを爺が承知しているのかしていないのかは定かではないが、くだらない用向きで私の領域に足を踏み入れたのならばそれ相応の対応は覚悟して貰うほかない。
私は心の内側でそんな風なことを考えながら、目の前に聳え立つこの学園の中でも一頭に重々しい雰囲気を放つ扉のノブに手を掛け、二度三度とノックして声を掛けながらその中へと入っていくのだった。

「爺、私だ。入るぞ?」

返答は、ない。
というよりも向こうが呼び出したのだから、こっちが爺の都合など考えてやるまでもないという事で有無を言わせず部屋の中へと入りこんでやったのだ。
あまり好ましい相手ではないとはいえ、久方ぶりに会う知人にこんな態度を取るのもどうなのかと最初は思ったが、よくよく考えれば相手はあの爺だ。
今更礼儀がどうだとか作法がどうだとか気にするような性質でもないだろうし、態々こっちが気を使ってやる道理もない。
それに爺にはこっちが立腹しているのだという事を伝える必要もあるのだ。
こちらの意図を明確に示すためにも下手な態度で臨むのは好ましいことじゃない。
そういった意味を込めての行動だった。
尤もこの部屋の主である糞爺にはそんな私の思いは通じはしなかったようではあるのだが……。

「フォッ、フォ……。久しいのぉ、エヴァンジェリン。9年ぶりじゃというのにそっちはちっとも変わらんのぉ」

目元を吊り上げ、いぶかしそうな眼差しを投げる私を前に、その爺は15年前に初めて顔をあわせた時と同じように飄々とした翁顔で笑って見せた。
近衛近右衛門─────この学園を統括する理事の長であり、極東の島国であるこの国の東半分の魔法使いどもをその傘下に置いている喰えない男だ。
その実力は好々爺然とした見た目とは裏腹に今を生きる魔法使いの中でも最上位級に数えられ、下手をすれば最盛期の私とナギとが肩を並べて挑んでも叶わないほどの能力を有していると聞く。
今は老いが原因なのか自ら動くことは殆どなくなったというが、それでも尚今の地位に身を置いているという事はその能力は未だ健在という事なのだろう。
その性質上、真正面から立ち向かうことは絶対にしてはならない魔法使い。
それがこの爺の『周り』からの評価だ。

とは言え、この爺の性格を知る者となるとその評価も大きく変わってくる。
それは例えばタカミチであったり、一部の『裏』の事情に関わる生徒や教師であったり、この爺とただならぬ縁のあるナギやその取り巻き性質であったり、私のような者からすればのことだ。
人をからかうことを人生最大の娯楽としていて、誰がどう文句を言えども聞く耳など持たないといった具合にのらりくらりとそれらを躱して日々を過ごす傍迷惑な糞爺。
それがこうして私の目で恍けた顔で笑みを浮かべ、気怠そうな様子で椅子に腰を掛けている者の正体だった。

きっとその実態を知れば誰もが幻滅することだろう。
実際この爺の本性を知った大半の者はその破天荒ぶりに落胆し、揚句その尻拭いにあっちへこっちへと走り回る日々を送っているのだと聞く。
きっと過去にこの爺の本性を知って尚肩を落とさなかったのはナギくらいのものだろう。
彼奴もこの爺と性格は似たようなものだし、歳を超えた同類を見つけたとはしゃぐ姿が容易に目に浮かぶ。
尤もそんな男を愛してしまった私が言えたことでもないのかもしれないが─────まあ、其処は言わないのが華というものだ。
ともあれ、この爺もナギと同じように只人と同じ感性で捉えることはまず不可能なのだという事に変わりはないのだから。

「ふん、いけしゃあしゃあとよくも言う。私はヴァンパイアだぞ? たかが9年で何が変わる訳もあるまい。尤も、私から言わせれば貴様も同じほど変わらんように見えるがな、爺。生きていたとは驚きだ。さっさとくたばれ」

「ぬぅ……相も変わらず辛辣じゃのぉ、お主は。この老体にその手の冗談は荷が重いというに」

「冗談に聞こえたか? そっちこそ相変わらず幸せな頭をしているようだな、爺。その洋梨のような面、一度かち割って中身を見てみたいものだよ」

「物騒じゃのぅ。老い先短い老人にそうキツいこと言わんでもええじゃろうに……」

何が老い先短い老人だ。
私は喉元まで出かかったそんな言葉をグッとこらえ、心の中で再び吐き捨てる。
一聞したかぎりではただの他愛ない言葉のようにも思えるが、こっちは人間のように老いることすらままならない身の上なのだ。
それを分かった上で尚、この腐れ爺はこうも私を挑発するような言葉ばかりを吐いてくる。
だからこの爺の事は昔から気に食わない。
私がこの爺に恩を感じていても、決して相容れようと思わない最大の理由がそれだ。

もしも私がもっと違う人生を歩んでいればこうも顔をあわせるたびに苛立つことはなかったのかもしれない。
元よりナギに抱かれてなどなければ。
未だ私が闇の福音としての名を引きずっていたのであれば。
まだこの身が闇と魔道のそれに身を窶していたのであれば─────あぁ、確かにこの爺や他の魔法使いと肩を並べることもあったことだろう。
だが、それはあくまでもそうなり得たかもしれない『仮定』の話。
今やこの身は拙い一般人であり、他者に対して無害な者であろうと誓った者のそれだ。
故にこの者達との共同歩調は絶対にありえない。
日の元に照らされた『表』と陰に包まれた『裏』とは絶対に交わってはならないのだから。

「それで? 態々9年ぶりにわざわざ私をこの場に呼びつけたのは何が目的だ、爺? なるべく簡潔に、出来るだけ無駄口を叩かずさっさと吐け」

「やれやれ、久方ぶりに相見えたというのにつれないのぅ……。本題に入る前に雑談の一つや二つ交わしたところで罰は当たるまいに」

「戯け。それに何の意義がある? 何の意味がある? 何の益がある? 何もないだろう、つまりは『そういう』事だ」

「必要以上に儂等と関わりを持つのは好ましくない、か。まあ、それもよかろう。元よりそういう取り決めであった訳だしの。いやはや、すっかり失念しておったわい」

何を白々しい。
からからと口元だけを吊り上げて笑う爺を他所に、内心私はそう思わずにはいられなかった。
本来ならこうして顔をあわせることはおろか、魔法などという言葉を口にすることすら私にとっては億劫なのだ。
また昔と同じように血みどろの戦いの待つ闇の方へと身体が引かれてしまう様な気がするから。
私はもう誰も傷つけたくはないし、誰も殺したくなどないのだ。
それ故に私はそんな恐怖から逃れるために魔の道に身を置く者達と袂を別ち、以降9年ずっと只人と同じように過ごしてきたのだ。
それを分かっているくせに、この爺はのうのうと先ほどのような台詞を言ってのける。
本当、性根の腐り具合と無神経さに掛けては大した爺だと私は改めて思った。

「ならば、単刀直入に言わせてもらうとするかのぅ……。エヴァンジェリン、お主を此処に呼んだのは他でもない。この場でお主にどうしても伝えておかねばならぬことがあるからじゃ」

「なに……? 私に魔法使いに戻れと命じるために呼び出したのではないのか?」

「無論それもある─────と、言いたいところじゃがどの道みなまで云われんでも儂とてお主の答えは分かっておるわい。今より話すことはそれとはまた別の話じゃよ。尤も、お主にとってはあまり良い話ではないのかもしれんがの」

爺はそう言って皺だらけの顔から笑みを消し、一転して真面目な顔つきを取繕ってそう私に言葉を投げた。
何処か二の句を告げたくないとでも言わんばかりに勿体ぶったような態度を見せながら、かすかに声を震わせて。
正直に言えば、そんな爺の態度を私は意外に思った。
何時も人を小馬鹿にしたようなあの独特の雰囲気も伏せ、組織人としての狡猾さすら捨てている今の爺のこの対応。
何というか、それは凡そこの爺にしてみれば『らしくない』ことだったからだ。
だが、物珍しいこともあったものだと一笑するには─────どうにも嫌な予感が付きまとってならなかった。
恐らく爺が口にした『私にとってあまりよくない話』というフレーズが耳に残っていたという事もあったのだろう。
しかし、それ以前に私は何となくその態度の変化から悟ったのだ。
人が何時もの態度を急に変えて真面目な顔つきになった時。
それは偏にその人間の心境に余裕がない証拠なのだと長年の経験から知っているが故に。
私は如何にも自身の内に芽生えた一筋の不安を拭うことは出来なかったのだった。

「何だ? 何か私に不都合なことでもあるというのか?」

「然り。とは言え、別段お主を害そうなどと考えている輩がおるとかそういう事ではないがの。まあ、或いはそれよりも悪しきことだと言えるのかもしれんが……」

「随分と勿体ぶるな、爺。そんなに私に言ってまずいことなのか?」

「……正直に言ってしまえば、お主にとっては最悪の事じゃろうて。今まではあくまでお主の精神衛生を考えて皆お主には黙っておったんじゃが……もはや隠し立てるにも限界が来た。じゃから、事を荒げる前にお主にははっきりと事実を告げておこうと思うての」

そう述べた後に、爺は続けて「本当は今も言わん方がええとは思うんじゃがのぅ……」と何処か気まずそうに二の句を告げた。
爺の態度から察するに、今から私に対して口にしなければならないことは余程都合の悪いことなのだろう。
そうでもなければこの爺がこうまで話の合間に予防線を張ることなどないはずだ。
そして、それ故に私は自身の胸の内で燻り始めた不安の陰りがいっそう濃いものへと変わっていくのを感じていた。
その理由はいたって単純にして明快。
では私にとって爺がこうも口に出すのを渋るような『都合の悪い』こととは一体何なのだ、という疑問に己の思考が行き着いたからだ。

先ほど爺は私の精神衛生を考えて、と言った。
正直余計なお世話だともとっさに思ったが、どうも私はこの物言いに引っかかるものを憶えていた。
確かに私はナギの悲報を耳にしたのを機に一時期自暴自棄になっていたこともあった。
ことあるたびに自らの命を絶とうと躍起になり、それを毎度魔法使いどもに阻止されて、そしてまた毎晩のように浴びるように酒を煽っては死ねないこの身を嘆いてすすり泣く。
そんな日々が約一年、そして今のように何もかも諦めてひっそりと生きることを定めるのに約三年。
随分と長くかかったとは思う。
けれど、それほど多くの時間を費やさなければナギを失った悲しみを収めることは私には不可能だったのだ。
奴の事をこの世の誰よりも、心から愛し慕っていたが故に……。

だが、それならば何故爺は今更になって私の精神衛生などという言葉を使ったのだろうか。
ナギとただならぬ交流を持ち、私とナギとの関係を知る爺ならば分かっているはずだというのに。
私にとってナギを失うこと以上の悲しみなどこの世に存在しないのだということくらい。
これ以上私に失うものなどありはしないのだ。
過去を捨て、魔法を捨て、必然的に愛した男にも先立たれたこの身にはもう何も残されてはいないのだから。
それこそ、嘗てナギが私の事を愛してくれたのだと信じるだけの想いの残滓以外には─────そこまで思考が及んだ瞬間、私は悍ましい一つの『可能性』が己の内で形成されていくのを悟った。

「初めに言うておこう。すまんかった……。じゃが、心して聞いてくれ、エヴァンジェリン」

その時、私にはこの爺の言葉の一つ一つが妙に聡明に聞こえていた。
理由は分からない。
だが、頭の内に思い浮かんだ在り得て欲しくない可能性にその言葉がまるでスライドガラスをすり合わせるかのようにピタリと当て嵌まっていくのだ。
まるでさも、その可能性が真実であるというかのように。

馬鹿馬鹿しい。
本当はそう言って否定したかった。
だって─────そう、だってもしもその可能性が現実のものであるとすればこれ以上に残酷なことはないからだ。
私は過去に己の出自も捨て、人としての生涯も捨て、幸福に生きることの夢すら捨てた。
そうすることでしか明日を生きることは叶わなかったから。
それ故に、今の私には何もない。
ただナギと過ごしたあの一年……600余年の月日を経てようやく手に入れた蜜月の記憶以外に私に有する者など何もないのだ。

無論、それはいい。
今更否定のし様もないし、私自身否定できるものではない。
何もかも失い尽くした私ことエヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェルはそうやって嘗ての奴が私を愛してくれたのだという可能性に縋る他に自身の心をこの世につなぎとめる術を持たないのだ。
だが、もしも私が思い描いている可能性が正しいのだとすればこうも考えられるのではないだろうか。
そんな幸せだった頃を記憶を拠所に目的無き生を貪る私にとっての最悪。
それは偏に、そんな記憶の残滓すらも簒奪され、穢されることではないのかと……。

「再来月、儂らはこの学園に一人の者を教師として迎え入れることになっておる。無論その者は儂らと同じ魔法使いでの。学校を卒業したばかりの見習いなんじゃよ。今回の事に関しては『立派な魔法使い』になるための修行の一環なんじゃが……その者─────いや、その子はちと厄介な事情を抱えていての」

爺の言葉が次第に頭から遠くなっていく。
それだけ私が己の考えに神経を割いてしまっているという事なのだろう。
今の私には爺の言葉の一つ一つを理解できるだけの余裕など残されてはいなかった。
在り得ないと断じたかった己の内に秘めた可能性が次第に色濃く私の心を蝕んでいくのを悟ってしまったが故に。
どれだけ自分の記憶を弄って考えてもその可能性を否定できるだけの要素を見つけることが叶わないが故に。
記憶の傍らで笑うナギの笑顔が次第にぼやけて行くのを感じてしまったが故に。
今の私にはもはや、自らが思い描いた可能性を否定することさえ叶わなかった。
私が思いつく限りで最悪と評することすら生ぬるい、とある一つの悍ましい可能性を。

「確かにその子は才気溢れる天才と言われておる。まあ、当然と言えば当然じゃろう。何せ魔法学校を僅か齢10で卒業するばかりか、主席にすらなったのじゃからな。じゃがそれ故に幼さも目立ち、またそんな彼を利用せんと企む悪漢共も多いと聞く」

嫌だ、考えたくない。
私は思わず頭を掻き毟りたくなる衝動に必死になって耐えながら、自分の内で何度も何度も己の考えは気の迷いから生まれたまやかしだと言い聞かせた。
だが、どうあっても─────どう抗っても否定しきれない部分が脳裏にチラついて離れてくれないのだ。

私はナギを信じたかった。
自分がそうであったように、ナギもまた私の事を愛してくれていたのだと信じたかった。
だが、仮に『そう』であるのならばあの時の……十四年前にナギの取った行動にも辻褄が合う。
私をこの学園と言う名の檻に閉じ込め、放り出した動機にも納得がいってしまう。
無論、理解などしたくはなかった。
だけど幾ら思考を捻じ曲げ、斜めに構えてみても最終的にはどうあってもそうした考えに行きついてしまうのだ。
もはや逃げ場などないのだと遅れてやってきた真実が私の事を嘲り笑うかのように……。

「無論、ただの天才ならここまで外敵を作ることもなかったじゃろう。じゃが、その子は生まれながらに背負ってしまったのじゃ。英雄としての宿命を。英雄にならねばならぬ業を……。それ故にその子の血を欲する者も、抹殺したいと願うものも数多におる訳じゃ。何せその子は─────」

止めろ、止めてくれ。
爺が言葉を噤んだ瞬間、私はそう叫びたかった。
だが、出来なかった。
あまりの事に喉が震え、うまく声を出すことも何かを考えることもままならないのだ。
恐怖故に。
爺が口にする言葉がもしかすれば己の理性をも決壊させるかもしれないという恐怖を悟った故に。
私は生まれて初めて身を凍らせるような恐怖を感じ、身を固めてしまっていたのだ。

しかし、それでも尚一度動き出した歯車は止まらない。
そうだったのかもしれないという私の憶測はやがて確信へと変わり、私が長年拠所としてきた幻想は脆くも崩れさり、そのまま宙へと四散する。
決壊が、止まらない。
否、もはや私にはどうあっても止められはしなかった。
真実を知ってしまったために。
もしかしたらナギもそうであったのかもしれないと長年信じ続けた思いを根本から否定されてしまったが為に。
私にはもう自身の心が砕けて散るのを止めることは出来なかった。

故にこの時私は思った。
鉄槌が下されたのだと。
爺の一言……ただその一言の真実をもってして、私の幻想は、想いは、記憶は─────皆須く粉微塵に砕かれ消えたのだと。
そして、私は悟った。
悟らざるを得なかった。
私が片時も愛してやまなかったあの男は、私のことなど愛してはいなかったのだということを。

「他でもない、英雄ナギ・スプリングフィールドの息子なのじゃからの」

そう爺が口にした瞬間、私は自身の頭の中が真っ白に塗り潰されていく感じた。





[29095] 3話「嘆き」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/08/17 23:56
この世に生を受けてから600余年。
私はその多くの時を誰の温もりも知らずに生きてきた。
親の愛情も。
恋人からの熱情も。
心を赦した物との友情も。
何もかも、私は知らなかった。
だって私は何時いかなる時も一人だったから。
誰もこんな─────『化け物』の私なんて受け止めてくれはしなかったから。

ある所では人の血を貪る悪魔だと罵られ、石を投げつけられることもあった。
ただ私はそこに留まりたかっただけなのに。
ある所では魔女と呼ばれ、宗教家から目の敵にされたこともあった。
ただほんの少しの平穏が欲しかっただけなのに。
そしてまたある所では、他人から裏切られて危うく火炙りにされかけたこともあった。
ただ受け入れて欲しかっただけなのに。
皆が皆、私の事を化け物だと罵り、刃を向ける。
男も、女も、子供も、老人も、只人も、魔法使いも……その誰もが須く私の敵だった。
この身が呪われた身体であったばかりに。

故に私は何時でも独りだった。
何時の日も、何時の世も私は誰の傍らにも寄り添う事は叶わなかったのだ。
だから私は誰の温もりも知らなかった。
だって、知る由もなかったのだから。
優しく声を掛けて貰ったことも。
誰かにぎゅっ、と抱きしめられたことも。
意中の者と口付けを交わしたことさえ、私にはただ一度もない。
永劫にも思える時を居場所なく彷徨い歩くほか生きる術を持たなかった私にとってみれば、そうした優しい情景たちは決して手の届くことのない空想の産物でしかなかったのだ。

けれども、私は出会った。
そんな悠久の時を超えて、奴に出会うことが叶ったのだ。
こんな化け物の私でも正面から受け止めてくれる、そんな男に。
無論、魅かれるのは早かった。
肉体を求めるのも、心を欲したのも。
この男の傍らにありたいと心からそう思うのに然程時間は掛からなかった。
だって長年追い求め、夢想したモノの全てが奴には備わっていたのだから。
恐らく世界でただ一人、この男だけが私を女として見てくれると信じさせてくれる温かさを奴は─────ナギは有していたのだから。

だから、私は心からナギの事を愛した。
子供が出来なくてもいい。
再び世界から恨まれても構わない。
ただこの男と……ナギと共にあれさえすれば他には何もいらないと本気でそう思った。
そしてまた奴も、私の事を欲してくれた。
其処に行きつくまで幾度となく右往左往としたけれど、最後は私の思いを受け止めてくれたのだ。

嬉しかった。
誰からも愛されたことなどなかったから。
楽しかった。
それまでの人生がまるで嘘だったように毎日が輝いたから。
幸せだった。
愛した者の温もりがすぐ傍らにあると確かに感じることが出来たから。
あの時の私たちの心は、確かに繋がっていた筈だった。

でも、奴は私を捨てた。
そう信じたくはなかったけれど、真実ナギは私の事を檻に閉じ込め、そして逃げたのだ。
私の果たせなかった己が子を孕める女の元に。
奴は私の事が邪魔だったのだろうか。
分からない。
解りたくもない。
でも、きっと真相はそうだったのだろう。
私が愛を求める傍らで奴は私の事を鬱陶しいと思っていたんだ。
その心の内側に別の女の影を忍ばせていたのだろうから。
奴は初めから私のことなど欠片も愛してくれてなどいなかったのだ……。







爺から真実を告げられた後、私は逃げ去るように学園長室を飛び出した。
その際、二、三爺と言葉を交わしたような気もするが正直自分が何を言ったかなど憶えていない。
気が動転していてそれどころではなかったのだ。
14年の月日が流れ、ナギの悲報から9年の歳月がたった今知らされた本当の現実。
それを何の覚悟無く受け入れるには私の心はあまりにも脆かった。

ずっと信じていたのだ。
ナギが私の事を愛してくれていたんだって。
そんな願望だけを頼りにこの14年間、私はただ奴の事だけを想って生きてきた。
けれど、私は裏切られた。
知ってしまったのだ。
知りたくもなかった真実を。
そして理解させられてしまったのだ。
所詮ナギもまた私を受け止めてくれなどしなかったんだって。
それ故にもはや私には夢に逃避することも、奴との幻想に縋る事さえままならない。
今の私には、もう何処にも逃げ場所などありはしなかった。

「ぅ……げぇ……」

ぴちゃり、ぴちゃりとまた口元から吐瀉物が零れて落ちる。
もう胃の中は空っぽだというのにそれでも吐き気が止まらないのだ。
爺の元を飛び出して、家に逃げ帰ってからはずっとこんな調子。
ただ酒を飲むのトイレで吐き出すのを私は繰り返してばかりいる。
何時もならもう止めようと理性がストッパーになっていてくれたことだろう。
だけど、もはや私にはそんなことを考えている余裕すらない。
ただ飲んで、ただ吐き出す。
へべれけに酔ってこうでもしなければ、私は己の正気を保つ自信がなかった。

「ぅぅ……ぁ…っ……」

ずりずりと地面を手で床を這い私はまた元の場所へと戻っていく。
酒が欲しかった。
時間の感覚が分からなくなるほど酔っ払い、胃液すら吐きつくしてもまだ私の思考は酒を飲むことを求めるのだ。
そうでもしないと私は今にも自らこの身体を引き裂いてしまいたくなるから。
この世のなにもかもを呪いたくなってしまうから。
傍らにあるもの全てを手当たり次第に壊したくなってしまいそうになるから。
私は自らの激情を抑える為に、酒によって狂うのだ。
ほんの少しだけでも胸で疼く悲しみを忘れたいが為に。

「うっ……! ぁぁ……」

こみ上げる吐き気を押し留め、私は手探りで床に転がるあまたの酒瓶から中身のあるものを探して回る。
時折割れた硝子の破片で手の内が裂かれるのを何度か感じたがもはやそんな事は微塵も気にならなかった。
血塗れの手でワインの酒瓶を引っ掴み、そして一気に呷る。
すると途端に喉が焼け付くように熱くなり、また意識が現実から遠ざかっていく。
何もかも忘れたかった。
今日告げられたことも、このふざけた現実も。
全部、忘れてしまいたかった。
けれど、それはどうあっても叶ってはくれそうになかった。
だってもう記憶の中の奴は私に微笑んではくれないから。
ナギは私のことなんて愛してくれてなどいなかったと知ってしまったから。
私はもう何処へ逃げることも、何に縋る事も出来はしないのだ。

「んくっ……んっ……」

喉を鳴らし、只管に私は自身の意の中へと何の価値も無くなった柘榴色のアルコールを流し込んでいく。
70年物のブルゴーニュ産ヴィンテージワイン。
ナギが私の元へと帰って来たときの為に大事に取って置いた極上物だ。
普段口にしている安物とは違う。
光に生きろというナギの言い分に従い、慣れない内職とアルバイトを繰り返して貯めた金でやっと購入した思い入れの深い一品なのだ。
それ故にナギの悲報を聞いて自棄になった時も奴との絆の証として飲まずに今までずっと保管し続けてきた。
けれどもう、そんなことを気にする必要もない。
ナギとの絆なんて全部私の思い過ごしに過ぎなかったのだから。
愛も、優しさも、温もりも全部私の妄想から生まれた幻でしかなかったのだから。
本当に馬鹿馬鹿しくてたまらない─────それこそ、思わず泣いてしまいそうになるほどに。

「くそ……ひくひょう……!」

酒を飲み終え、空き瓶をそこ等へと放り捨てながら私は思わずそう悪態をついた。
呂律など回るはずもない。
けれども、そんな舌足らずな言葉を代弁するかのように私の頬には自然と大粒の涙が伝っていた。
酷く悔しかった。
ナギに裏切られた事も勿論そうだし、何処の誰とも知れない他の女が奴の心を奪っていったのかと思うと腸が煮えくり返りそうになる。
でも、それ以上に私は子供を残すことの出来ない己自身が何よりも悔しかった。
この身体さえ全うな女のそれならばきっと私はナギのことを繋ぎ止めておく事も出来たはずなのだろうから。
きっとこの身が色香に溢れたものであったなら奴の心は私から離れることはなかったのだろうから。
私は何よりも、幼子の姿のまま成長できないこの身体を嘆きたくて堪らなかった。

「ぅぅ……ぐすっ……。なんでだよぉ……そんなに自分の子供が産める女がよかったのか? だから私のことは捨てたのか? なぁ、ナギぃ……」

朦朧とした意識の中で私は記憶の中の奴にそう言葉を投げる。
返事などない。
けれども答えは結局一つなのだろう。
真実ナギが私をこの学園へと鎖をつけて放り出し、他の女と子を成したということは。
奴は結局、私なんかよりも後ろ暗さのない普通の女の方がよかったのだ。
きっと私を抱いた理由だって同情か何かだったのだろう。
下手をすれば単純に体のいい女としてしか見ていなかったのかもしれない。
無論その是非は定かではないけれど、もはや私にはそうとしか思えなかった。
今まで何気なく感じながらも見ない振りをしていた疑問のすべてに説明がついてしまう故に。

「……私にはお前の女たる資格などなかったのか?」

違うと思いたかった。
けれど現実は残酷にもすでに真実を告げている。
奴は子を孕めない私よりも己が産める女を選んだ。
自身が平穏を与える側にいるよりも、誰かに平穏を与えてもらうことを選んだのだ。
そう考えれば確かに私は奴にとって重荷だったのかもしれない。
私は何時もナギから何かを与えられてばかりで何も返してやれはしなかった。
奴に寄り添って欲しい物を求めてばかりで、結局何一つあいつが欲しがっていた物を与えてやることは叶わなかった。
そう思うとある意味あいつが私を捨て、他の女の下へと走ったというのも当然のことなのかもしれなかった。

ナギは常日頃から言っていた。
英雄になんてならなければよかったと。
何処にでもありふれているような平穏の中で生きたかったと。
もしも叶うのならば魔法のことなど忘れ、好いた女と子供でも作ってひっそりと暮らしたいと。
まるで弱音を吐く子供のように何度も何度も私に語って聞かせてくれた。
きっと奴のことを噂でしか知らないような者にとって見れば信じがたい言動なのかもしれない。
けれども、奴の本質は回りの人間が思っているような屈強な者のそれではなかった。
むしろその逆。
奴はその破天荒な性格の裏に子供のような繊細さを併せ持った男だったのだ。

奴は何時も雁字搦めだった。
世間に、味方に、敵に─────そして何より『千の呪文の男』という自らの英雄像に縛られ、満足に本音を語ることも許されず自らの意思に関係なく戦い続ける。
逃げられなかったのだ、ナギは。
一個人が背負うにはあまりにも巨大な期待とそれに比例して付き纏う憎悪の視線から。
自らが成した功績と犯した罪に奴は足を取られ、奴は後にも先にも足を踏み出せなくなってしまったのだ。
それ故に奴は何時も恐怖していた。
次第に他人の意思に沿って動くだけの殺人機械へと変わろうとしていく己自身のことを。
まるで母から罰を受けることを恐れ震える童のように「怖くて怖くて堪らない……」と弱音を吐いていたのだ。

だからこそなのだろう。
私が奴に本当の意味で惚れたのは。
境遇に関する共感だとか、同じような罪の意識に対する同情も勿論あったのかもしれない。
けれども、その根本にあったのはこの男を傍らで支えてあげたいという純粋な想いだった。
きっとこのまま一人で走り続ければナギは何れ壊れてしまう。
そうなる前に誰かが奴の拠り所となってナギという一個人を認めてやらねば、ナギは本当に英雄という名の心無い大量虐殺者に成り下がってしまいかねない。
そう危惧が故に私は決めた。
私がナギを拠り所として求めるように、私もナギの巣となって奴のことを受け止めてやろうと。
少しでもナギの心を癒せる拠り所として我が身を差し出そうと。
ナギの女となることで我が身を奴の平穏の証としようと、そう決意した時私は気がついたのだ。
己が心底ナギに惚れ込んでいたのだということに。

だが、現実はどうだ。
確かに奴は私の想いを汲んで私を頼ってくれたし、抱いてくれもした。
けれども、結局私は何一つ奴の心の隙間を満たしてやることは出来なかった。
女として母性も魅力のない童女の身体。
巣の役を担うにはあまりにも他者の愛を知らな過ぎた過去。
そして子供を孕むことも出来ない不完全な我が胎。
そうした一つ一つが積み重なって、それでもなお私は奴の温もりを求めるばかりで─────結局、私はその器ではなかったということだ。
だから見限られ、捨てられた。
幾ら言い訳を重ねても、その現実は覆しようがない真実なのだ。
それが例え、どれだけ残酷な物であったとしても。

「重荷、だったのか……私は? お前にとって私はただの荷物でしかなかったのか? 教えてくれよぉ、ナギ……ナギぃ……」

その答えをくれる者は何処にもいない。
口元から漏れた疑問の声はただ中を漂い四散するのみだ。
丁度私のナギへの想いがそうであったように。
消えていく。
何もかもが。
寸分の欠片も、僅かな余韻すら残さずに。
ただただ立ち昇り、そしてただただ風化し崩れ去っていく。
私の声はもう、誰にも届かない。

「お前にとっての私とは一体なんだったんだ……!」

それでも私は叫ぶ。
誰も聞いてはくれはしないのだと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。
ナギにとっての私の価値の是非を。
あいつが何を想い、どうして私を捨て去ったのかを。
最後に別れる間際、奴は何を思って私に光に生きろといったのかを。
私は問いを投げ、それを求める以外に知る術を持ちはしないから。
けれどもう、その答えを与えてくれる者はいない。
ナギは─────私が愛し、またその愛を裏切った者はもうこの世にはいないのだ。
ならばもはや、私のすべき事など一つしかないだろう。

「答えは……ちゃんと聞かせてもらうぞ、ナギ……」

そういって私は傍らに散らばった酒瓶の破片から適当な大きさの物を手に取り、尖った切っ先を喉元へと向ける。
吸血鬼のこの身がこんな硝子片で死に切れるかは分からない。
だが、私は長年他者の血液を摂取してこなかったのだ。
故に全盛期のような生命力はまず望めないといっていい。
加えて、登校地獄の封印のおかげで再生能力も格段に弱まっている。
深々と喉を裂き、血を流せば何れ死に至ることも叶うだろう。
無論、9年前に果たせなかった『ナギの元へと赴く』ことも。

「私はお前を─────」

掌に力を込め、私はその切っ先をほんの少しだけ喉元から離して勢いをつける。
死ぬのならば一瞬がいい。
散々人を殺してきた私が言うのは難だが苦しんで死ぬのは真っ平だ。
逝くのならばなるべく苦しまず、眠るように死にたい。
ならば急所をはずすことは許されないといっても過言ではないだろう。
だったら、どうするか。
それはもはや語るべくもない。
この世に何の未練も残さず、一思いにやるしかない。
そしてもはや私にとってのこの世に対する心残りは唯一つしかなかった。

「─────今でもまだ、愛しているぞ……」

想いを、告げた。
それだけ。
私がこの世に思い残すことはただそれだけだ。
裏切られたのは分かっている。
あいつの心の中に私がいないことだって理解したくはないが納得はした。
だけど、それでも私はまだナギのことが好き。
愛しているんだ、今でも。
どれだけ蔑ろにされても、裏切られても、その想いだけはどうあっても揺らぎはしない。
だから、もはや独り善がりな考えでも構わなかった。
辞世の句に奴への想いを語ることが叶ったのならそれだけで私はもう……。
瞬間、私の手にした硝子片が私の喉を引き裂こうと迫り─────────

「止めるんだ」

その直前で動きを止めた。
正確に言えば私の意志で止めたわけではない。
切っ先を尽きたとうと迫った私の腕をこの場にいるはずのない第三者が掴んで止めたのだ。
驚いた私は不意に私の腕を掴んだものの方へと視線を向ける。
すると、そこにはついこの間顔を合わせた『あいつ』の姿があった。
この学園で爺を除いてもう一人、旧知の仲と呼べる物の姿が……。

「もう一度言うよ。こんな事はもう止すんだ、エヴァ」

高畑・T・タカミチ。
私の元同級生にして、現担任であり、ナギに勝らずとも劣らない功績をあげている男。
そんな彼が私の視界の中で厳しい顔つきのまま私をじっと見つめていた。
9年前とまったく台詞を口にし、あの時から変わらない雰囲気を醸し出しながら。
タカミチはあの時と同じように、私の自殺を止めていた。

「な、ぜ……?」

思わず、私はそう呟いてしまった。
どうしてタカミチが此処にいるのかとか、一体何処から入って来たとか色々と思うところはある。
だけどそれ以上に、何でまた9年前と同じように素直に死なせてくれないのかと私は思わざるを得なかった。
もう十分のはずだろう。
ナギが死に、この世に縋る唯一の拠り所すら簒奪された私のことを庇うのなんて。
なのにどうして、どいつもこいつも私のことをこうもこんなつらい現実の中で生かそうとするのか。
私はそれがどうにも疑問でならなかった。
この現実で生きること以上の苦しみなんてもう私にあるはずなどないと知っているくせに……。
そう思った途端、気がついたときには私は導火線に火がついたようにタカミチへと言葉を捲くし立てていた。

「どうして……どうして止めたんだ!? なんで! なんでだ!? どうして私を素直に死なせてくれない!」

「僕は君の担任だ。それでいてまだ僕は君の友人であると思ってる。生徒としても友人としても目の前で自殺しようとしているのを黙って見過ごせるわけないだろ」

「ふざけるな! お前に私の何が分かる! 何の気も知らないくせに勝手なことをするな!!」

そういって私はタカミチの手を振り払い、思うが侭にタカミチの背広に掴みかかる。
非力な私の力では精々その身体を揺すって言葉をぶつけることくらいしか出来ない。
けれど、何もしないよりはマシだった。
こうして当り散らしてでもいないと私は己の内に溜まった鬱憤を何処にぶつけることも叶わなかったからだ。
不満も、怒りも、激情も……何もかもが自分のうちで暴れて狂わないようにするには正直そうするほか道はなかった。
例えそれが不毛な行いだと頭の内では分かっていても。

「……君がどんな気持ちでいるのかは分かっているつもりだよ。けど─────」

「うるさい! うるさい! うるさい!! お前もどうせ知っていたんだろう!? 知っていて隠していたんだろう!? 奴に……ナギに他の女との子供がいるって。その癖に何をいまさら私に説教か! 知った風な口で偉そうなこと言うな!」

「エヴァ、聞いてくれ。頼むから」

「黙れ! もう、うんざりだ。何かに振り回されるのも、これ以上苦しむのも……。お前には分かるまいよ、タカミチ。好いた男に捨てられて、その上他の女との間に子供が出来ていたなどと聞かされた私の気持ちなどな! いいか、14年だ。私はそれだけ待って、耐えて生きてきた。なのにこの仕打ちはなんだ! それでもまだ私に生きろというのかお前は!? 9年前と同じように!」

一度滾った激情は暴れ狂わんばかりに沸々と煮え滾っていく。
タカミチにこんなことを言っても何も変わらないと理性の内では分かっていても、なお私は当たって叫んだ。
そうしなければ今にも気が狂ってしまいそうだった。
けれど、それは結局アルコールのせいで一時的に高ぶった感情が勢いに任せて身体を振り回しているという虚勢に過ぎない。
その証拠に瞬間的に沸騰した私の意識は解れた糸のように今にもプツンと切れてしまいそうなほど、ぎりぎりまで磨り減っていた。

「死なせてくれ、もう……。いっそ楽になりたいんだ。私には本当に何もないんだよ……。愛も、絆も、初恋の記憶も全部踏み躙られた……。それなのにこれ以上、生きていたくないんだよ……」

きりきりと意識の糸が解れて細くなる。
視界は歪み、耳鳴りは響き、膝は今にも地面についてしまいそうなほど震えてしまう。
恐らく、アルコールを摂取しすぎた代償なのだろう。
弱い10のままのこの身体。
化け物のそれではあるものの、アルコールを分解する力は同じような体躯の少女のそれとまったく換わりはしない。
そんな身の上で自棄酒を呷り過ぎた結果がこれだった。

けれども私はそんな朦朧とする意識の中でもう一言だけタカミチに言葉を継げる。
それは何かを思慮した上で出た物でもなければ勢いに任せて出した物でもない。
『自滅因子(アポトーシス)』の声─────あるいは本能とも呼ぶべき己の意思が死を求めた故のもの。
亡き者を求め、その者の元へと赴く為に必要なそれを欲するがために心のそこから希った、求めの言葉だった。

「死なせて、くれ……」

瞬間、私の身体はその場に崩れ落ち、そこで私の意識はプツンとテレビの電源を落としたかのように真っ黒なそれへと染まった。











[29095] 4話「可能性」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/09/07 16:25

追いかける。
ただ奴の背中を。
只管に、私は追いかける。

「待て……待ってくれ……!」

手を伸ばす。
私をおいて何処かへと消えていこうとする奴へと向かって。
けれども、届かない。
駆け出して引き止めることも、その手で彼に触れることも。
私には叶わない。
ただ出来るのは、鳥篭の中の金糸雀のように奴の名前を呼ぶことだけ。
こちらを振り向こうともせず、黙したまま私の元を去っていく愛しい人の影を求めながら。
私は直向に彼の─────ナギの名を、呼ぶ。

「待って……! お願いだ、ナギ!」

だけど、ナギは振り向いてはくれない。
足を止めることもなければ、何か言葉を掛けてくれることもなく、ただ私から遠ざかって行くだけ。
まるで私になんて欠片も未練がないように。
ナギは私の制止の声も聞かずに歩を踏み続ける。
前へ、前へと。
手も声も届かない、私の知らない何処かへ彼は足を進めるのだ。
その傍らに私の知らない女の影を侍らせながら。

「置いていかないで……」

そんなナギの後姿を見ながら私は呟く。
悲痛めいた弱々しい声色で。
私は彼を求め、自らの心を訴え掛ける。
けれども、ナギは消えていく。
何も語らず、私の元から消えていく。
もはやその心の中に私はいないとでも言わんばかりに。
もはや私など必要ないとでも言わんばかりに……。

「捨てないで……」

親に捨てられた童女のように私は懇願する。
己の寂しさを、傷を、孤独を癒してくれる者を離したくない一心で。
私は形振り構わずそう言葉を投げ掛ける。
彼へ。
初めて私に愛をくれた彼へ。
見っとも無いくらい惨めな台詞を吐いて、私は自らの心を曝け出す。
その様はまるで飼い主に捨てられたくないと鳴いて同情を引く捨て猫のそれに似ていた。
無論、その末路さえも。

「私を……もう、独りにしないで!」

叫ぶ。
今にも消えそうな彼の影に私は声を上げて叫び続ける。
独りは怖いから。
誰に縋る事も、誰に温もりも出来ないなんて悲し過ぎるから。
恐怖と、悲哀と、喪失故に私は去り行く彼の背中に手を伸ばし続ける。
彼の姿が見えなくなっても。
彼の影が消え去っても。
私はそう、きっと今でもナギに手を伸ばし続けるのだ。
子猫のように鳴きながら、今になっても尚……。
瞬間、そこで私の意識はプツンと途切れた。






「──────っ!? ゆ、夢……?」

何時の間に私は床に就いていたのだろう。
そんな疑問を頭に浮かべるまでもなく、私はそんな風な言葉を口にしながら殆ど反射的に身体を起す。
頭が重い。
何処か意識が朦朧としていて、何か考えようとする度にズキリと疼く。
二日酔い。
確証はないけれど、恐らくはそうなのだろう。
不意に頭の片隅を過ぎる靄めいた昨日の記憶が何となくそんな事実を伝えているように私には思えた。

すると、そこで私は頬を何かが伝っているのに気がついた。
不思議に思った私は、何気なしに指でそれをなぞる。
瞬間、指の先が僅かに湿り気を帯びる。
驚いて指を離し、確認してみると勘違いなどではなく確かに私の指の先は濡れていた。
涙。
それが私の頬を伝っていた物の正体。
何故─────そんなことは私にも分からない。
唯一つ、それまで見ていた夢が何処か酷く恐ろしい物だったのだということを除けば……。

「泣いていたのか、私は……?」

何処か意識がはっきりとしない頭で自身の見た夢のことについて考えながら、私はポツリとそう言葉を漏らした。
ナギが私の元から去っていく夢。
それは凡そ私が心から忌避してならない恐怖がそのまま形となった物に他ならなかった。
最愛の者が我が元から遠ざかっていくこと以上の恐怖など私にはない。
何故ならば私という『個』は既に死んでいるから。
誰かから温もりを得ることでしか自分を自分足らしめることすらも叶わない身の上だから。
私は何よりも、ナギの存在の喪失を恐れ、失わないようにと毎日のように願っていた。

けれども、それはあくまでも『過去』の話。
今の私にとってみれば、先の夢は恐怖を通り越して現実に現れた悪夢に他ならない。
何せナギは夢にあったのと同じように我が元を去り、あまつさえ私と成し得なかったことを他の女と成していたのだから。
これで私は本当の意味で何もかも失い、何もかも取り零してしまった。
結局のところ、それが現実。
それが覆しようのない真実なのだ。
恐らく先ほどの夢はそんな現実に打ちのめされた私の心が見せたものだったのだろう。
あくまで何となくではあるのだけど、私にはどうにもそんな風な気がしてならなかった。

「此処は……私の家じゃないな。病院か? 一体どうして……」

とりあえず何かを考えるのは自分が置かれている状況をしっかりと把握してからにしよう。
己の流していた涙の理由を悟り、軽く気落ちしながらも私はふとそう思い立ち、辺りを隈なく見渡していく。
此処が自分の家でないことは一目で分かった。
微かに鼻腔を擽る薬品の匂いと、視界に映る白一色で統一された部屋の内装。
これだけでも此処が私の家の一室でないことは明らかだったからだ。
加えて、よく見れば私が身に纏っている物も制服から薄黄色のパジャマらしき服へと着替えさせられており、右腕には点滴の跡らしき赤い斑点が滲んだガーゼが添えられてもいる。
恐らくは誰かに病院に担ぎ込まれたのだろう。
幾ら二日酔いで頭が回らないとは言えど、そうした結論に私の思考が至るまでそう多くの時間は要さなかった。
尤も─────誰が私を此処に運んできたのか、ということの答えはそれよりも早く頭の内に浮かんでくるのだが。

「……タカミチか。そうだ、私はあの時……」

不意に脳裏を過ぎった腑抜け面と共に私は此処に至るまでの記憶を少しずつ思い起こしていく。
確か私は自棄酒を煽った末にもう一度自殺しようとした所をタカミチに止められて、それで口論になったところで意識を失った。
どうにも記憶が曖昧で上手く思い出せないが恐らくはそれで間違ってないとは思う。
だとすれば、私を此処へと運び込んだのはタカミチの奴なのだろうか。
分からない。
けれども、何となく私には恐らくそうであるのだろうという確証があった。
あのときの状況、奴の性格、そしてタカミチの教師としての立場と責任。
そうした物を一つずつ照らし合わせて鑑みれば、その答えは事実を直接聞くよりも明瞭なものだと言えた。

「また余計なことを……。いや、今更言っても遅いか」

何はともあれ、今は文句を言っていても仕方ないだろう。
心の内では助けられたことを不服に思いながらも、一先ずそう考えた私はとりあえず誰かを呼ぶべきだろうと思い立ち、より細かに辺りを見回していく。
この際医者でも看護師でもなんでもいい。
どうせ私が運び込まれるような病院なのだ。
その関係者も何も知らない一般人であるということはないだろう。
これからどうするべきかはまだ何も決めていないが、それでもこんな病室に押し込まれているよりかはずっといい。
事情を説明してとっととこの薬品臭い建物を出よう─────そう思ったが故の行動だった。

「紛いなりにも此処が病院なら……あった」

そして案の定、ナースコールらしきボタンは枕元の傍にすぐに見つかった。
以前にも自殺しようとした時、病院に担ぎ込まれたことがあったが、どうやら構造的には何処のベッドもそう大きな違いはないということらしい。
これを押せば、今が丑三つ時か余程職務怠慢が横行している病院でもなければ直ぐにも職員が飛んでくることだろう。
それは9年前の入院生活の中でもよく目にしていたし、私自身何度か世話になったこともある。
尤も、吸血鬼のこの身でそう幾度も病院の世話になるというのは本来おかしなことなのかもしれないのだが……。

「─────まぁ、次はそうならんよう『上手くやる』さ」

死のうにも死に切れないこの身の運命を呪いながら私はそう一人言葉を吐きつつ、枕元のボタンをそっと人差し指で押し込んでいく。
瞬間、ボタンの上についた薄緑色のランプに光が灯る。
恐らく、これで誰かしら人を呼ぶことは叶ったことだろう。
後はその人間と適当に渡りを付けてとっとと此処を出ればいいだけのこと。
何一つ問題はありはしないのだ。
そう、何も……。

「また死に損なってしまった、か……」

やる事を終えた私はそこまで思考を及ばせたところで、正面を向き直り、そして盛大にため息を吐いた。
死ぬべき時に死ねなかったのはこれで二度目。
それも前回と比べて今回は本当の意味でナギにも裏切られ、挙句今の私には未来を生きるための希望すら寸分も残されてはいないという有様だ。
その上で尚またこうして自分の意思とは関係なしに命を拾ったとあれば落胆もするというものだろう。
しかも、此処は病院だ。
今更私がどう暴れたところで傷は直ぐに治療されるし、当然のことながら死なせてもくれはしない。
結局のところ、私は逃げられないのだ。
ままならない事だらけのこの世からも、タカミチの押し付けがましい善意からも、そして無論、自らのどうしようもない悪運からも……。

「……次はなるべく簡単に死ねるといいな。もういっそのこと誰かに─────んっ、誰だ?」

誰かに殺してもらった方が楽になるのかもしれないな。
そう口走りそうになったところで私は不意に口を噤んだ。
病室のドア越しに誰かの気配を感じたからだ。
瞬間、二度三度と響くノックの音。
どうやら私が想像していたよりもずっと早く誰かがこの部屋を訪ねてきたという事らしい。
だが、此処でふと私は考える。
幾ら何でも早過ぎはしないか、と。
此処がどれほど優秀な病院であったとしてもナースコールを押してからものの数十秒でスタッフが病人の下へ駆けつけることなど本来は余程のことがない限り不可能なはずだ。
或いはあらかじめ誰かが外で待機していたというのであれば話は別なのかもしれないが─────だとすれば、そんな真似をするような輩は一人しかいないだろう。
私はさっきとは別の意味合いを込めてもう一度ため息を吐き出しながら、有無を言わせずドアを開けて入ってきた人物へと言葉を投げるのだった。

「やぁ、エヴァ。どうやら意識が戻ったみたいだね」

「やはり貴様か、タカミチ……」

想像していたものとまったく同じ腑抜け面が現れたのを機に私は自分の中でいっそう気分が沈んでいくのを感じた。
何せ、よりにもよって今のところ一番会いたくない人間が起きて早々現れたのだ。
これで肩を落とすなという方が無理な話というものだろう。
加えて私の記憶違いでなければ意識を失う直前の私は酒に酔って相当荒れており、その所為で幾度かタカミチに当り散らしてしまってもいる。
長いこと交流を断っていたのもあったか、妙に気まずいのだ。
尤も、あっちの方はそんなこと微塵も気にしてなさそうだが……だからこそ尚嫌なのだ。
こいつは昔からそうだが、私の心境なんて微塵も考慮してはくれはしないのだろうから。

「何の用だ?」

「一応様子見に。彼是丸一日も目を覚まさないもんだから心配でね。でも、元気そうで何よりだ」

「うるさい、余計なお世話だ。とっとと帰れ」

「まあまあ、そう苛立たないでくれ。文句なら後で幾らでも聞くよ。念のためまずは診察を受けてくれ。話はそれからだ」

そう言ってタカミチは話を切り、ニコリと他の生徒にそうするように私に微笑みかける。
誰にでもそうするように。
誰であってもそうするように。
正直に言えば、私はこいつのこうした当たり障りの無い態度が大嫌いだった。
こうしていれば誰からも好かれるだろう。
こうしておけば自分は傷つかなくて済むだろうという心の声が透けて見えるからだ。
きっと今までにこいつが関わってきた大半の人間はそうしたタカミチの出で立ちを快く思ってきたことだろう。
けれども、それはあくまでも万人であって全員じゃない。
時にはそうした当たり障りの無いやり方が知らず知らずのうちに誰かの心を土足で踏み躙ることだってあるのだ。
それこそ、こうして無自覚に笑っているうちに……。

けれども、きっとこいつは何時まで立っても気がつくことは無いだろう。
だってタカミチは紛れも無く善意の塊のような男だから。
私とも、爺とも、ナギとも違う。
本当の意味でタカミチは誰かが苦しんでいるのを見てみぬ振りなど出来ない人間であるが故に、何も考えずに人を救ってしまうのだ。
本当に救っていいのかも、救って欲しいのかも考えずに。
だからこそ、私はこいつのことが鬱陶しくて堪らないのだ。
何せ私がこの世に息衝く限り、私自身に救いが降りてくることは絶対にありえないのだから。
この世で私の心を真に救えるのはナギ・スプリングフィールドただ一人なのだから……。






それから数時間、私は病院の医師の下で念入りに診察を受けることになった。
初めは二日酔いの所為で少し頭が疼く位で大したことはないと私も渋っていたのだが、タカミチの奴が「万が一のことを考えて受けたほうがいい」と煩いので仕方なく承諾したのだ。
普通に考えればついさっきまで自殺し掛けていた人間に病院の検査を勧めるというのも何処かおかしな話だが、もはや今更気にしたところで仕方が無いという物だろう。
そうして口車に乗せられるがままにCTスキャンやら服薬検査やらを受けていたら、何時の間にか多大な時間を要してしまい、自分に宛がわれていた病室に戻ってくる頃には時計の針が大きく変わる時刻になってしまったいたのだった。

しかも、その結果は陽性。
肝臓がやられてしまっている上に軽度とは言えアルコール依存症の傾向があると診断されてしまった。
おまけに医者の話ではこの身が吸血鬼のそれで無ければ三度は急性アルコール中毒で死んでいたと説教まで受ける始末だ。
その為、少なくとも一ヶ月は飲酒を控えるよう通達され、直ぐに帰れると思っていたのに大事をとって一週間は入院をしなければならないそうだ。
前にも似たようなことがあった所為か病院生活には慣れているとは言うものの、味気ない病院食と薬品の臭いと退屈が充満した病室での生活が待っているのかと思うと今となっても肩が下がる心境だ。
尤も、その一週間家事やバイトから解放されるというのも魅力的ではあるのだが─────今となってはそんな日常のいざこざも如何でもよくなってしまっている。
加えてどうせタカミチのことだから毎日のように見舞いに現れるに決まっている。
また自殺を企てようとも阻止されてしまうのが落ちなのだろうし、今後は退院した後も付き纏ってくる可能性が非常に高い。
そう考えると私は肩を落としてため息をつくほか無かったのだった。

「んっ? どうしたんだい、ため息なんてついて?」

「ため息だってつきたくもなるさ。主にお前の所為でな……。というよりも何でまだ此処にいるんだ、タカミチ!? 用が無いならとっとと帰れといっただろうが!」

「いやいや、用件はあるよ。まぁ、色々とね。君からも話は聞かなきゃいけないし、何より僕が目を離したら君は直ぐにまた死のうとするだろ?」

「ふん、当然だ。隙あらば今すぐにでも死んでやる……。幸い此処は病院だしな。探せば致死毒の一つや二つ調合出来る薬くらいあるだろうさ」

そう言って意地悪く笑みを浮かべてやるとタカミチは困り顔で「勘弁してくれ……」と一言弱音を漏らした。
まぁ、当然といえば当然だろう。
こいつはこれでも教師であり、私の担任だ。
9年前の件も今回の件もあくまで内輪の中で解決出来たからいいようなもので、病院という公の場で生徒が服毒自殺しようとすれば嫌でも他者の目に付く。
そうなればこの学園、ひいては学園経営陣や私の担任であるこいつも新聞やTVといったメディアに必要なまでにたたかれるのは必須だ。
爺の手回しがよければそうもならないのかもしれないが、あの抜けた爺のことだから何処かですっぱ抜かれるのは殆ど確定的だろう。
読んで字の如く、『ささやかな復讐』としてはそれも悪くない。
そう思うと笑みすらこみ上げてくるほどだ。

けれども、恐らく私がそれを実行に移すことは多分無いのだとは思う。
個人的に騒がれるのは好きではないし、出来れば死ぬにしてもひっそりと死にたい。
こうしてタカミチや爺の奴をおちょくってやるのもいいが、それを現実にするにはあまりにも恩知らずという物だ。
例え押し付けがましかろうがなんだろうが善意は善意だ。
そこの所は甘んじて恩として受けいてておくしかないし、下手に理屈を捻じ曲げて恨むというのもお門違いという物だ。
どうせタカミチがお目付け役になるとしても何年も四六時中監視の目を光らせておくというわけにも行かないだろう。
今は出来なくても、何れ機会があればそのときにでも服毒なり自刃なりすればいい。
今まで様々な人間を不幸にしてきたのだ。
死ぬ間際くらい人に迷惑を掛けない死に方を選んでも罰は当たらないという物だろう。
尤も、それが何時になるかは私にもまだはっきりとはしていないのだが……。

「やれやれ。酔いも覚めて少しは落ち着いてくれてるかと思ったけど……どうも僕の思慮が浅かったみたいだね」

「なに、安心しろ。少なくとも次に自殺するときはお前たちには迷惑を掛けないようにやる」

「そういう問題じゃないんだけどなぁ……。まぁ、いいや。とりあえずこれで落ち着いて話が出来るわけだからね。今は多くのことは望まないでおくよ」

「今は、だと? まるで私に先があるような言い草だな、タカミチ。あまりふざけたことを抜かすようだと無理やりにでもこの部屋から追い出すぞ?」

タカミチの何気ない一言に私は思わず額にしわを寄せ、ジトっとした視線で「物騒だなぁ」などと言ってへらへら笑っている男の方を睨み付ける。
今の私には本当の意味で『先』などありはしないのだ。
ナギと再会するという望みは断たれ、その上待ち焦がれた相手は他所で私以外の女を作り、あまつさえ子供すら成していた。
こんな現実を幾つも突きつけられて今更この世に希望がもてる筈も無い。
仮にこれでナギが生きていたというのなら話は別なのかもしれないが、そんな途方も無いことを幻視すればするほど心が辛くなるだけだ。
確かに、妄想やドラッグに逃げれば一時的に渇きを癒すことも出来るのかもしれない。
けれども、そこまでして私はこの世に希望など見出したくは無いのだ。
どれだけ逃避しようとも現実は必ずその尾を引いて私に迫ってくる。
ならばいっそ楽になってしまった方がまだ幾分か幸せという物だろう。
それなのに、この男は未だに私をこの世に縛り付けることばかりを口にして憚らない。
だからこそ嫌なのだ。
こいつと─────タカミチとこうしてずっと顔を突き合わせているのは……。

「貴様、あまり私を不愉快にさせるようであれば本気でたたき出すぞ? 用向きがあるならさっさと話せ。こっちは検査と診断の連続で疲れてるんだ」

「……本当は色々と順を追って話したかったんだけどね。まぁ、今の君にそんな余裕は無いか」

「長い話なのか?」

「簡潔に結論だけ言うならそうでもない。けれど、それでは多分君が納得しないだろうからね。とりあえず、あまり長くないように話す努力はするよ。なるべくね」

タカミチはそうして何事かを語ろうと口を開こうした。
だが、私は慌ててそれに「待て!」と制止を掛け、タカミチの語り口を強引に閉じさせる。
正直な話、爺にしてもそうだがそっちの都合だけで何でもかんでも話を進めて欲しくはなかったからだ。
確かに話すこいつらも多少なりとは辛いのは分かる。
だが、こいつらは何よりもそうした真実を心の準備なしにぽんぽんと告げられるこっちの人間の気など一切度外視して話を切り出し始めるのだ。
別に私とて下手な嘘を重ねて見て見ぬ振りをしてくれと言う訳ではないが、せめて話す前に念を押すくらいのことはして欲しい物だと思わずにはいられない。
故に私はそうしたこいつらの不注意からこれ以上自分が傷つくのを恐れて、あえてタカミチの口を噤ませたのだ。
もしもこいつの口から出る言葉がこれ以上私を蝕む物なのだとすれば、私は今この瞬間にでも自らの喉元に切っ先を突き立てたい衝動に駆られてしまうかもしれないから……。

「……先に聞いておく。それは私にとって良い話なのか? それとも悪い話なのか? 悪いが後者なら私は聞くつもりは無いぞ」

何処か呆然とした風に固まっているタカミチに私はそうはっきりと自分の意思を告げる。
爺の暴露話から始まった今回の一連のことで私も正直心身共に相当参ってしまっているのだ。
勝手な話ではあるのかもしれないが、私もこれ以上悪い話は聞きたくは無い。
そう思うが故に私は此処であらかじめ確認を取っておこうと思ったのだ。
だが、そんな私の言葉にタカミチは何処か困ったような顔を浮かべ、「どう言ったらいいもんかな……」と言葉を濁した。
どうやら一概に悪い話であるというわけではないらしいが、かと言って良い話であるというわけでもないらしい。
何となく歯切れの悪いタカミチの態度からそう察した私はもう一押し念を押す為に、言葉を続けていくのだった。

「なんだ? はっきりどっちなのか言ってみろ、タカミチ。そんなに口篭らなければならんほど悪いことなのか?」

「……いや、別に悪い話って言う訳じゃないんだ。寧ろ君にとってはいい話だとは思う。ただ─────」

「ただ?」

「今の君に不用意に希望を持たせるという意味では或いは悪い話と言えるかも知れない。あくまでも今から僕が口にすることは確証の無い憶測でしかないからね」

そう言って懐に手を伸ばし、煙草の箱を取り出そうとするタカミチ。
だが、そんな彼を私がジト目で見つめていると此処が病院であることを不意に思い出したのかバツの悪そうな顔で取り出しかかったそれをまた元のポケットへと戻した。
なんとも締りの無い男である。
けれども、それ以上に私の興味を引いたのはタカミチが語った曖昧な言葉の内容だった。
良い話ではあるものの、確証が持てない上に不用意な希望を持たせることになる話。
確かに気になるところではある。
一聞した限りでは聞くだけ聞いてやってもまあ罰は当たらないだろう、といった所だろう。
しかし、どうにも私には不用意な希望というフレーズが心の内で引っかかってならなかった。

ナギの不倫と裏切りを知り、十数年という時を経てついに何もかも失いつくした私。
そんな私に希望を持たせるということが本当に可能であると豪語するのであれば、恐らくその内容ナギに関することに他ならないだろう。
だが、タカミチは確証はないと言った。
つまりはぬか喜びである可能性も否めないということだ。
仮にタカミチがこれから口にする話が真実であり、それが私に新しい道を示してくれるというのならほんの少しだけこの世界に留まることを考えなくも無い。
けれども、今の私にはすんなりとそれを受け入れてまた前向きに生きようなどという気概はとてもではないが持てなかった。
もしもぬか喜びでしかなかったと知った時に、また9年前や今回のような絶望を味わうのは私とて真っ平御免なのだ。
確かに一応参考までに話を聞いておくのも吝かではないとは思う。
しかし、それと同時にもしも今後道を定めるというのなら時間が欲しいとも私は思うのだ。
心を落ち着け、自分自身を整理する時間が……。

「この話を聞いてどう判断するかは君の自由だ、エヴァ。信じるならそれでよし。信じないというなら僕はもうこれ以上君に今後一切近寄らないと断言しよう。約束する。何をどう判断し、今後どう動くかも僕は強制はしないし、周りの人間にも絶対にさせない」

「……………」

「けれどね、だからこそ心して聞いて欲しいんだ。もしかしたらこの話は君にとって最後の希望になるかもしれないからね。たださっきも言ったとおり確証はない。あくまでも人伝……しかも情報の信憑性はそれほど上等なものと言えたものじゃない。だからこそよく考え、それから答えを出し欲しいんだ」

「……いいだろう。そこまで言うなら話せ。聞くだけなら、聞いてやってもいい」

幸いなことにタカミチの主張と私が危惧していたことはまるで示し合わせていたかのようにぴったりと合致していた。
それ故に私もほんの少しだけ心の安定を取り戻すことが出来たのだろう。
私はあくまでまた裏切られる可能性があるのを知りながら、今一度タカミチの話を聞くという選択肢を選んだのだった。
無論、今回は話を聞くだけだ。
あくまでも参考程度に、記憶の片隅にでも留めておく程度のこと。
この場では何も考えないし、決めもしない。
幸いなことに少なくとも一週間は病院のベッドの上で物思いに耽るだけの空いた時間が私にはあるのだ。
答えを出すのはあくまでも色々と自身を整理して、ゆっくりと心を静めてからにしよう。
そう方針が定まったが故に私はタカミチの話を受け止めることに決めたのだ。

「もう一度言うけどこれはもしかしたら真っ赤な嘘かもしれないんだ。それでも君は聞くのかい、エヴァ?」

「もしかしたら本当なのかもしれんのだろう? それに勘違いするなよ。あくまで今は聞くだけだ。この場で何もかもを決めるわけでもないし、お前に言われるまでも無く私は好きにやるつもりだ」

「あはは、少しは調子が戻ってきたみたいだね」

「うるさい。前置きはいいからとっとと話すだけ話してとっとと帰れ」

本音半分、照れ隠し半分といった具合で私はそう言って何処か嬉しそうなタカミチの顔から顔を背けた。
確かに私はこいつのことはそこまで好きじゃないし、多分それはこれからもあんまり変わらないとは思う。
だが、何と言うか……こいつのこうした邪気の無いところは実を言うと苦手なだけであまり嫌いでもないのだ。
きっと私自身がこの14年という月日の中で殆ど完全に俗世に染まってしまった所為なのだとは思う。
闇の福音を名乗っていた頃の私だったら多分こうした心のうちでもやもやと渦巻く感情の意味も知らずにただただタカミチに当り散らしていたことだろう。
皮肉なことなのかもしれないが、ナギの言っていた光に生きて見たからこそ分かることもあった。
そればっかりはさすがの私も認めざるを得ないな、と思わずに入られなかった。

「それじゃあ、何処から話そうかな……。あぁ、そうそう。多分もう学園長からは聞いてると思うけど、ナギさんに子供がいることは知ってるだろう? 実は僕、その子とは結構以前から交友があってね。今でもたびたび文通とか交わす仲なんだ」

「なッ!? だっ、だったら何でもっと前もって奴に子供がいると私に教えてくれなかったんだ! 今まで幾らでも言う機会はあっただろ」

「確かに。それは悪かったとは僕も思ってるよ。でも、僕も周りの人間も学園長から君への接触は硬く禁じられていたからね。それに9年前の自殺騒動もあっただろ? そういう事情もあって僕から直接君に事実を告げることは出来なかったんだ。中には真実を知れば君がその子を殺しに掛かるんじゃないか、などと心無いことを言う人間もいたくらいだしね。ある種この話は僕たちの間でもタブー扱いされていたんだよ」

「ふん……そう思われても仕方の無いことをしてきたとは自覚してる。別段今更それを弁解しようとは私も思っちゃいないさ。それで? その子供がどうかしたのか? まさかとは思うがナギは死んだが、そのガキを変わりに差し出すので勘弁してくださいなどと言い出すつもりじゃないだろうな?」

少し考え過ぎだったのかもしれないが、こう立て続けに悪いことが起こっているとそうしたまさかの事態もありえるかもしれない。
何処か薄ら寒い悪寒が背筋に奔るのを感じた私が念のためそうタカミチに問うて見ると彼は一瞬何か珍妙な物でも見るかのように私を一瞥した後、「まさかそんなわけ無いじゃないか」と腹を抱えんばかりの勢いで大笑いし始めてしまった。
何と言うか、そうしたタカミチの様子を見ていると私自身、自分が如何に恥ずかしいことを口走ったのかということを思い知らされるようだった。
幾ら恋人の温もりに餓えているからとは言え、それではあまりにも節操が無さ過ぎるというものだ。
それにそれが私にとっての希望だとタカミチが本気で思っているのなら、わざわざそんなことを口走るまでも無く私が半殺しに掛かってくると悟っていたはずであろう。
あくまでくだらない憶測であるとは言え、私はなんてことを口走ってしまったのだろう。
相変わらず大笑いするタカミチを他所に私は必死になって真っ赤になった自分の顔を隠しながら、ただただタカミチが次の言葉を述べるのを只管に待ち続けるのだった。

「くくっ、いやー……まさかそんな発想があったなんてね。正直僕も考えてもいなかったよ」

「……いっそ殺せ」

「まあまあ、いいじゃないか。人間生きていれば何かしら間違うこともあるさ。という訳で話を元に戻すけど、今回の話の焦点となるのはその子についての事なんだ。おっと、念のため言って置くけどその子はまだ歳も二桁回ったばかりの子供だからね。変な気起こさないでくれよ? 個人的には恋愛の過程で性的関係が発生してしまうのは無理もない事だとは思ってるけど、教師として不順異性交遊は本来取り締まらなきゃならないからね」

「えぇい! 誰がするか、そんなこと!! 話を戻すだのなんだのいっておいて自分から蒸し返すんじゃない、この大うつけ者が!」

まるでこいつと共に過ごした中学時代に戻ったかのように私をからかい始めるタカミチに私はつい素に戻って何時かの日のように声を荒げてしまう。
でも、何となく私はそんなこいつとの掛け合いがそこまで不快であるとは思わなかった。
きっと懐かしいという感情がフィルターになっているというのもあるのだろう。
だけどそれ以上にこんな風に素に戻って誰かと話すのが久方ぶりだというのが大きかったのだろうと私は思う。
実際、此処十数年の中で私が誰かと本心から向き合ったことなど殆ど無かったのだ。
似たような3年間を繰り返すだけの学校生活は基本的に誰とも関わらず、最低限の出席日数をこなしているだけだし、バイト先でも多少付き合いがある時以外は何時も作ったような口調で話してばかりだ。
此処数年で自分より遥かに年下の人間に敬語を使うことも、謝ることにもまったく抵抗は感じなくなってきたが、それはあくまでも平穏な日常を生きる上で無用なトラブルを避ける為のものだ。
こんな風に感情的になって誰かと話をしたのは本当に久方ぶりだが、たまにはこういうのも悪いものではない。
何となく、だけど本心から私はそう思ったのだった。

「……さて、冗談はこのくらいにしておくとしてここからは少し真面目な話をしようか。実のところを言うと僕がその子と交友を持ったのはなにもナギさん子供だからっていう理由だけじゃなくてね。その子には親がいなかったんだ。5年前までは親類の子が面倒を見てくれていたんだけど……込み入った事情もあってそれも続けられなくなってしまってね。代わりに僕が友人兼親代わりをしていたというわけさ」

「親がいない? ナギはともかくとして母親の方はどうしたんだ?」

「それが分からないんだよ。その子が物心つく前にナギさんもその子を生んだ母親も何処へなりと失踪してしまったみたいだからね。DNA鑑定にも母親の方の遺伝子は引っかからなかったし、結局そこは謎のままなんだ。だから僕もその子の母親が今何処でどうしてるのかは知らないよ。まず何処の誰かも分かっていないんだからね」

「なるほど、つまりは捨て子か。子供を作ったのは良いが面倒を見切れなかったと見える。英雄と持て囃されようと所詮はそこが人としての限界だったようだな、ナギ……」

口ではそう悪態をつきながらも、内心私は色々な意味で気落ちするような思いを心の中で抱いてしまっていた。
ナギと共にあったあの一年で私と奴とが語り合った家庭という名の理想。
例え相手は違えども、その認識だけは変わらないと思っていたのに、どうやらナギは私と離れてからは随分と心変わりしてしまったらしかった。
奴はもしも家庭を持つなら戦うことを止め、愛する女と子供と共に何処にでもありふれているような真っ当な家庭築きたいと常日頃から言っていた。
けれども、話を聞いている限り奴は止める事も、隠居して過程を築くこともままならなかったということらしい。
それはある意味私にとって見れば二重、三重の裏切りにも等しいことだ。
だからこそ、私は肩を落とさずに入られなかった。
もしもその女でなく私がナギの傍らに在ることが出来たのであれば、奴をまた残酷な戦いの中へと追い立てることなど誰にもさせなかったと心からそう悔いるが故に……。

「……まぁ、君からすればそうとしか言えないだろうね。正直に言うと、僕もそこは許せないとは思う。殆ど失踪みたいな物だからね。ナギさんにしろ、その子の母親にしろ勝手な物だ。ただナギさんに関してはほんの少しだけ親らしい側面が残っていたみたいだけどね」

「んっ、どういうことだ?」

「あぁ、そうだった。これじゃあ話の順序がまるで逆だ……。それじゃあ、まぁ、話を元に戻して順に説明するとするとしようかな。とは言え、どう説明したら良いもんか……」

そう言ってタカミチは頭を掻きながら、ポツリ、ポツリと少しずつ言葉を重ねて言く。
まるで上手く説明できない物を無理に形作って語り聞かせるように。
彼の口は少しずつ、けれども正確に嘘とも本当ともつかない粗滑稽な物語を紡ぎ始めたのだった。
それこそ、今まで私が背負ってきた絶望が根本から覆されないような、そんな幻想の情景を。

「事の発端は五年前、イギリスの片田舎に存在するとある村から始まったんだ。もう大方察しはついてるかもしれないけど、そのナギさんの子供が住んでいる村のことさ。そこは人口もそう大して多くはないし、自然も豊かで僕から見ても平穏の象徴としか思えないようなところだった。けれども、それも今となっては過去のことだ。今ではもう、その村はこの世の何処にも存在してはいない。綺麗さっぱりなくなってしまったんだ」

「……何があった?」

「襲撃さ。無数の悪魔がその村を襲った。誰がそう仕向けたのかは未だに調査中だけどね。けれども、神経が真っ当な人間でないことだけは確かだ。要救助者の三名を除いてその村の住人全員が石に変えられた。女子供から老人間まで一人残らずね。しかも救助された三人のうち一人は足をやられていてね。その翌年には感染症から来る高熱でこの世を去った。ちょうどその人がナギさんの子供─────ネギ君っていうんだけどね。その子の親代わりをした親類の子だったんだ」

「あぁ、さっきの話に出てきた奴か。ということは残る二人の内、一人がナギの子供……ネギとか言ったか? そいつだったという事になるのか?」

私がそう疑問を口にするとタカミチはコクリと一度首を立てに振り、心底残念そうにため息を一つ宙へと漏らした。
きっとこいつのことだから自分がその場にいれば、などと考えてしまっているのだろう。
過ぎたことを何時までも引きずりすぎるのはこいつの悪い癖だ。
善良なる一般市民はおろか、時には悪人をも助ける出すことを目標にしていたタカミチからすれば確かに悔しいことこの上ないのかもしれないが、個人で救える人の数という物には限度がある。
例えどれだけ高名な英雄だろうと賢者だろうと世界中で苦しむ人間を助けることなど不可能なのだ。
こいつもいい大人になったのだからいい加減何処かで妥協という物の覚えれば良いのに。
私は内心そんな場違いな感想を抱きながら、尚話を進めるタカミチへと耳を傾けるのだった。

「そう。確かにネギ君は助かったんだ、幸運なことにね。だけど、おかしいとは思わないかい? 幾ら英雄と呼ばれるナギさんの子供とは言え相手は群れをなした悪魔だ。5歳程度の子供を仕留め損なうことはまずありえないはずだ」

「まぁ、確かにな。相手がナギ本人であったならまだしも、その子供だから生き残るというのはどうにも腑に落ちん話だ。最初からそうなるように誰かが仕組んでいたんじゃないのか?」

「初めは僕もそう思ったんだけどね。だけど、ネギ君の証言によれば一人の魔法使いが自分を庇うように立ち回りながらそれらの悪魔を一つ残らず殲滅したんだそうだ。その証拠にその村の跡地には大規模な攻撃魔法を使った形跡が幾つも残っていた。それは僕も現地に赴いて確認してる」

「だからその子供の言うことが真実だと? はっ、馬鹿馬鹿しい。その子供が幻覚を見せられていたのかもしれないし、もしかしたらその魔法使いとやらが何らかの目的から自作自演のために立ち回った可能性だってあるんじゃないのか? まさかお前、高々五歳程度の子供の証言をすべて鵜呑みにしたわけじゃないんだろうな?」

何となく事の次第に疑問を抱いた私がタカミチにそう問うて見ると、彼は意外にも「確かにそれだけでは有力な証拠にはなりえないかもね」と自信の言葉の説得力のなさを認めた。
てっきりこいつの事だから目撃証言だけでも十分有力な証拠になりうる、とでも言い出すのかと思ったがどうやら流石にそこまで愚かではないという事らしい。
まぁ、タカミチとて長年『立派な魔法使いもどき』のことをやってきたのだ。
幾らなんでも流石に疑い、突き詰めるということは覚えたということらしい。
だが、もしもタカミチがこれ以上に何か有力な証拠を持っているのだとすればそれは一体なんなのだろう。
ふとそんな事を新たに疑問に思った私が改めてタカミチの方へと向き直っていると、彼は懐から一枚の写真を取り出し、それを私へと手渡しながらさらに言葉を続けていくのだった。

「……ネギ君はそうした証言と共にその魔法使いから譲り受けたといってその写真のものを僕に見せてきたんだ。長い間その杖の持ち主と共に在った君ならそれが何であるのか、直ぐに察しがつくんじゃないかな?」

「─────っ!? こっ、これは……この杖はまさか……」

タカミチにそう言われるがままに写真を一瞥した私は思わず驚愕を露にしてしまった。
何せそこには奴が……ナギがどんな事があっても決して手放すことのなかった奴の杖がくっきりと映し出されていたからだ。
見間違えるはずも無い。
あれからもう14年もの月日が流れてしまったが、それでも私の記憶ははっきりとその写真の向こう側にある杖が奴の物であると告げていた。
では、何故これがそんなイギリスの片田舎で見つかるの言うのか。
分からない。
どうあっても私自身の内には答えは見つからないのだ。
だけど、タカミチの先の話を信じるならば話は違う。
もしかしたら、先ほどの話の中で出てきた魔法使いというのは──────────

「そう。もしかしたあり得るかも知れないんだ」

そう言ってタカミチは最後に語る。
まるで念を押すように。
それでいて、確かな確証を持って断言するかのように。
彼は語る。
もしかしたら虚構かもしれないことを。
或いは真実であるかもしれないことを。
タカミチは静かに、だけどはっきりと私へと告げたのだ。
ことの全ての始まりとなる言葉を。

「9年前に死んでしまったと言われていたナギさんが生きている可能性が、ね」

そうタカミチが言葉を放った瞬間、私は自身の中で何かが再び動き出すのを密かに感じた。



[29095] 5話「彷徨」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:bbafff5c
Date: 2011/09/25 00:31
三日。
あれから─────タカミチから新たな真相の可能性を諭されてから実に72時間が経過した頃のこと。
私は未だに病院のベッドの上から動けずにいた。
無論、何も考えていなかったわけじゃない。
色々と悩みもしたし、タカミチが述べたことの是非を葛藤することもあった。
けれども、未だに私は何が正しくて、何が間違っているのか、その答えを導き出すには至っていない。
分からないのだ、私には。
何を信じ、何を疑って掛かれば『正解』なのか。
私には何も、判らない……。

「はぁ……どうすればいいんだろうな、私は?」

ナギが生きているかもしれない。
それは間違いなく私にとっては吉報にも等しい情報だった。
だが、タカミチも言っていた通りその情報はあくまでも『かもしれない』という域を出ない憶測でしかない。
写真上に写っていた杖は確かにナギの物ではあったものの、その子供が証言していたという男が本当にナギであるかどうかも分らないのだ。
もしかしたらナギが死に際に誰かに杖を託していて、自分の息子に渡してくれとでも頼んでいたという可能性もある。
14年の歳月を経てようやく手に入れられるかもしれない希望にあまり冷や水を浴びせるようなことはしたくないが、正直手放しで喜べるほど私もそれほど若くは無かった。

それに例えナギが生きているとして、私はどうすればいいというのだ。
会いに行く、ということまでは容易に想像がつく。
だが、その後は。
十数年も前に自分を捨てた男と顔を合わせて私は一体何をすればいい?

久しぶりだな、と快く挨拶でも交わせば良いのか?
当然そんなことは無理だ、在り得ない。
恐らく顔を合わせた瞬間、私の思考は怒りの赤で一色に染まるのだろうから。
では、何故私を捨てたんだと思い切り罵倒して審議を問い詰めれば良いのか?
否─────多分、私にはそれも出来そうにない。
今までは勝手に想像して、勝手に自己解釈する事である程度事なきを得ていたが、ナギ本人の口からもしも下手な真実が語られるようであれば今度こそ私は正気ではいられなくなるだろう。
詰まる所、私は怖いのだ。
ナギに会えるという希望の裏側で燻っている、本当の真実という彼の心の内が……。

「この十数年で大分臆病になってしまったのだな、私も。よもやナギに会うのが怖いなどと思うようになるとは……」

そう言って、私は今日何度目になるかも分らないため息をそのまま宙へと吐き出してもう一度自身の思考へと意識を没頭させていく。
昔はこんな風に彼を恐怖の対象に思うことなんて唯一度もありはしなかった。
ナギは唯優しくて、温かくて、私の居場所をそのまま人の形にしたような存在でしかなかったからだ。
初めてナギに出会って、命を拾われたときからずっと変わらなかったはずのこの気持ち。
今でもそれには嘘偽りなど微塵も無かったのだと言い切ることが出来る。

けれども、人の気持ちも世の流れも時間と共に結局は移り変わってしまう物だ。
ナギの心がそうであったように。
そして、私の心がそうであるように。
何もかも、昔のままという訳には行かないのだ。
それ故に私は苦しまなければならない。
そう在るべくして今の私は此処でこうしているのだから。
今まで自分の気持ちから目を背け続けていたことのツケが今の現状なのだ。
そこに至るまでの過程や、ナギの生死に関する是非を抜かすにしてもそれだけは甘んじて受け止めるほか無い。
私は心の中で己も知らず知らずの内に歳をとったものだ、とボヤキながら、そうした気分を少しでも紛らわす為に散歩でもしようと思い立ち、もそもそと布団を払いのけてベッドから置きだすのだった。

「……何時までも逃げてばかりはいられない、か。」

ベッドの横に備わっているクローゼットからタカミチが予め用意していたのであろう学校の制服の内の一着を手に取りながら、私はそうポツリと呟きの声を漏らす。
全てを私に語って聞かせてくれたタカミチは去り際に「結論は急がずゆっくり出せばいい」と言ってくれはした。
だが、実質私に残されている時間はそう多い物ではない。
こうして腰を据えて窓の外を眺めながら物思いに耽っていられるのも、恐らくは私がこの病院に入院していられる間だけ。
それが過ぎればまた何事も無かったかのように、私も元あった己の『日常』に戻らなければならないのだ。

己の食い扶持を稼ぐ為に書店とコンビニのバイトを掛け持ちし、無難に家事をこなしながら面白味の薄い学校に赴いては放課後まで机に突っ伏して惰眠を貪るだけの日々。
そんな少し探せば何処にでもありふれているような普通の毎日が今の私が生きる世界の全てだ。
居心地がいいとはお世辞にも言えたものじゃない。
同級生連中は揃いも揃って(一部例外は存在するものの)姦しいことこの上ないし、学年主任である新田は「寝るな」だの「真面目に授業受けろ」だの煩いし、バイト先では常時立ちっぱなしだから足はむくむし、間接は痛むしで総じて碌なもんじゃない。
おまけにナギに同行している間に起きた戦いで従者だった人形のチャチャゼロもそれまでの無茶が祟ってか、事実上死んでしまったから私が家に帰っても誰が出迎えてくれる訳でもないし、料理に洗濯、水仕事に掃除と身の回りのことも全部一人でこなさねばならないのだ。
きっと昔の─────14年前、この学園に来たばかりの私なら今でもこの生活に文句を垂れている事だろう。

だが、私は順応した。
14年という歳月を経て、この街の空気に己の心を溶かし込み、そうした日常が己の『当たり前』になっていく様を受け入れてしまったのだ。
だって、そっちの方が楽だったから。
闇の福音として辺りに恐怖を撒き散らしながらただ一人孤独を享受するよりも、ただの一般人であるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルとして安寧としたこの街の雰囲気に呑まれてしまっていた方が幾分もマシなのだと納得してしまったから。
それ故に、私はそうした人間臭い不平不満を含めた日常を己がものとして受け入れたのだ。
ただ毎日を一生懸命に生きるというただそれだけの事をしてさえいれば、それ以外何も難しいことを考えて悩むことも無かったから……。

そして、そうした日常に戻りさえすれば私はきっと何時もの様に調子に帰って何も考えなくなってしまうのだと思う。
長らくそうして生きてきたから分る。
此処でまた自分の進むべき選択肢を有耶無耶にして引きずれば、知らず知らずの内に私はまた逃避の方向へと歩を進めてしまうことくらい、私にだって容易に想像がつくのだ。
だからこそ、私はもう進むにしろ戻るにしろ逃げるわけには行かない。
もうこれ以上、取り返しのつかない後悔を重ねないためにも。
もうこれ以上、この両手から希望の光を取りこぼさないためにも。
私はもう日常に逃避してはならないのだ。

「それは……分っているつもりなんだけどな。でもだからって─────」

脱ぎ捨てたパジャマを畳んでクローゼットの中へと放り込み、スカートのホックを覚束無い指先で止めながら、それだけポツリと呟いたのを最後に私は病室を後にしていく。
逃げちゃいけない。
それは私だって最初から分っているんだ。
けれども、決められない。
タカミチの言うことを信じて一歩前に進むべきなのか。
それともこれ以上傷つかないためにも後退りして無関係を決め込むべきなのか。
その是非を何度己に問うてみても、答えは結局出せないままなのだ。
きっと傍から見れば今の私は『優柔不断で甘ったれな小娘のそれ』という風に映るだろう。
何せ現状私の前には幾つもの選択肢があり、尚且つ進むべき道を選ぶ権利は他ならぬ私自身に用意されているはずなのだから。
闇の福音であった頃とは違い、一般人と同一の立場に立っている私はありとあらゆる意味で『自由』なのだ。
それでも尚、その選択から目を背け、逃避することはこの上ない傲慢であると言えるだろう。

しかし─────そう、しかしだ。
じゃあ、私は今更何をどうすればいいというのだろう。
別に逃げ出したいわけじゃない。
本当のところを言えば私だってちゃんとナギの口から真実を聞きたい気持ちはあるのだ。
でも、もしも此処で前へと一歩を進めてしまえばもう後には絶対に引くことは出来ない。
今まで自分が甘んじて受け入れ、一度は順応した日常を捨て、また己が忌み嫌った魔の世界へと再び戻らねばなら無くなってしまうのだ。
何も責任を負わずに済んだ一般人から、また人に嫌悪され、罵倒され、蔑まれる『闇の福音』へと。

そうなれば当然の如く、今まで私の存在に目を瞑っていたこの街の魔法使いも無視は出来なくなる。
タカミチや爺はそれでも私を擁護してくれるのかもしれないが、皆が皆物分りのいい連中ばかりという訳ではないのだ。
中にはタカミチの言っていた通り私がナギの息子を逆上して殺すかもしれないなどと勝手に思い込んでいる者や、そうでなくとも闇の福音という名に対して生理的な側面から嫌悪する者だっているかもしれない。
そうなれば今まで保障されていた己の自由も、日常も、平穏も全てが無に帰してしまう。
この14年をかけて構成した私の『光』をまた取りこぼす羽目になってしまうのだ。
他ならぬ、自らの意思で。
それは……果たして正解と言えるのだろうか?

「─────もう、間違えられないんだよ。絶対に」

それだけを最後に呟いたのを機に私はそこでピタリと自問自答を放棄し、考えるのを止めた。
今はもう、これ以上何をどう思慮した所で不毛でしかない。
この三日三晩、幾重にも幾重にも悩みぬけど、結局行き着く答えはそれでしかないのだと不意にそう気がついてしまったが故に事だった。
もう選択から逃げることはしてはならない。
それは分る。
今更皆までいう必要も無いことだ。
その選択を誤ることも、己が判断を違える事も在ってはならない。
それも分っている。
再び闇の福音という悪名に溺れたくなければ、進むにしろ退るにしろ間違った選択肢は選んではならないのだ。
だが、それでは一体この先どう動くことが正解であるというのだろうか。
分らない。
ナギに会いたいという欲だけを勢いにして只管に前へと進むべきなのか、それとも今ある平穏を大事にし、一歩下がったところから波風が収まるのを待つべきなのか。
私にはどちらが正解であるのか、どれほど考えても答えを出すことが出来ないのだ。

故に、不毛であり徒労。
どれだけ考えても答えが出ないのだから、結局のところ幾ら悩んだところでその行為自体には何の意味も在りはしないのだ。
後で決めればいい、明日から頑張ろう、今日のところはこの辺でいいや─────全部甘えだって言うのは承知しているし、今更否定する気もない。
実際今の事態は己の優柔不断さと今まで自分が溜めに溜め込んできたツケが引き起こした自業自得でしかないのだから。
でも、他にどうすることも出来ないのだからやっぱりどうしようもないのもまた事実で……結局私はまた問題を先送りにせざるを得ないのだ。
何せ今の私は力だけで何もかも解決出来た『闇の福音』の頃ほど強い立場の人間ではないのだから。

「……さて、何処に行こうかな? あまり遠出するのは面倒だし、かと言って近場をうろつくだけというのも味気ない。ふむ、どうしたものか」

思考を切り替え、この後何処へ赴こうかと私は徐に薬品の臭いが篭る病棟の通路を闊歩し、傍らで模索を開始する。
いい加減こちらも狭苦しい病室に閉じこもって頭を捻っているだけの生活には飽き飽きしているのだ。
タカミチから掛かり付けの医者にと宛がわれた人間には「決まった時間に決まった量の薬を飲んでくれれば後は好きにしてくれて構わない」とも言われているし、それならば態々部屋に篭りっきりの生活に甘んじる必要もないというものだろう。

とは言え、別段普段からあまり好んで外出する訳でもなければそれほど周りの人間と交友関係がある訳でもない私からすれば突発的に何処に行こうかと考えた所でパッと思いつくような場所は限られてしまう。
それではあまりにも面白味にも欠けるし、普段とやってることが変わらないのだから気分転換としても今一つというものだ。
だが、同時に今の私には歩く以外に移動手段はないし、タクシーやバスを使えば当然金も掛かる。
ただでさえ普段から実入りの少ないシフト制のバイトを掛け持ちしてようやく細々と暮らしていける程度の収入しか得ていないのだから、此処で無駄な出費を嵩ませるのはそれこそ愚策の極みというものだろう。
金を掛けず、尚且つ体力もなるべく使わず程良く暇を潰せる場所を見つける。
何とも俗っぽくて曖昧な目標のように思えるが、それを探し当てるのがとりあえず今の過大だろうと私は何となくそう思った。

「図書館……は駄目だな、遠過ぎる。映画館というのも論外だ。とは言え、そうなると後はコンビニでマガジンでも立ち読みする以外に無いが……むっ、今日は火曜日だったか」

週が変わるたびに愛読している漫画雑誌の発刊日が明日であることをふと思い出した私は目元を押さえ、ただ一言「しまった……」とだけ呟きを漏らした。
あまり行儀がいいとは言えないが、週刊漫画雑誌の立ち読みは金運と縁遠い私の数少ない楽しみなのだ。
本当の所を言えば堂々と購読して自宅でベッドにでも寝転がりながら呼んでいたいところだが、生憎とそれほどうちの家計は裕福じゃない。
精々がバイトが始まる合間に立ち読みする程度が関の山なのだ。
とは言え、先も言ったとおり今日は火曜日─────恐らく先週号はもう何処の店も棚から下げてしまったことだろう。
私はまだ読んでいないというのに……。

「……仕方ない。ジャンプは出たばっかりだろうし、とりあえず後の事はそれだけ読んでから考えるか」

密かに展開が気になっていた漫画の続きを一つ話を飛ばして読まなければならないのかと私はほんの少しだけ気持ちを沈ませながらも、とりあえず月曜日発刊の別の漫画雑誌の方は読めるだろうと気持ちを持ち直し、病院のエントランスの方まで歩を進める。
本当は何時ものようにジャンプ、サンデー、マガジンと纏めて読んでしまいたいが幾ら望んだところで時間は元には戻らないのだ。
これも我が身が拙い一般人であるが故の『ありふれた不幸』であると納得するほか無い。
もっとも、こんな時私に親しい友人でもいれば雑誌の一つや二つ取り置きしてもらうことも出来たのかもしれないが……それは今更言い出したところでどうしようもない。
なにせ向こう十四年ずっと女子中学生を演じ続けているというのに、クラスメイトの名前もまともに覚えてすらいない私なのだ。
今のクラスだって大半の人間は顔と名前が一致しないくらいなのだし、そんな私に交友関係を求めるという方が間違いというものだろう。
まぁ、休み時間だろうと授業中だろうと頻繁に惰眠を貪っている所為で誰かと話す機会そのものを自分から放棄しているのがその最たる原因なのかもしれないが……。

「あー……そういえば何時だかうちのクラスの中国娘が何か持ち掛けてきた時もその所為で有耶無耶にしてしまったんだっけな。人付き合いなぞ面倒だからとクラスの連中とは極力関わらんようにしていたが、今後はもう少し当たり障りの無いよう心がけてみるか」

ふとクラスメイトの話題繋がりで何年か前の出来事を頭の内に思い起こしながら、私は誰に言うでもなく己の中でひっそりとそう決心を固めた。
あれは今から一年かそこら前─────私が通算五回目の始業式を終えてからそう日も経たない頃のことだ。
海外からの留学生だとかいう色が白い方の中国娘(名前は知らない)とオタクっぽい眼鏡の娘(同じく名前が分らない)が二人して私の元に「機械仕掛けの従者が欲しくないか?」と訪ねてきたのだ。
今考えて見れば恐らくはあの二人は恐らく魔の道を知っている裏の人間だったのだろう。
何故かは分らないが私が闇の福音と呼ばれていた魔女の正体であることも知っていたみたいだし、その事をしきりに思わせぶりな口調に滲ませて何やら語っていたから多分間違いない。
だが、生憎と私はその日の前日を殆ど丸一日バイトで潰しており、おまけにその晩仕事の開放感をそのまま引きずったテンションで晩酌を呷っていた所為もあってか、心身共に完全にダウンしてしまっていたのだ。
おかげであっちが必死に悪役面作って話しているのも殆ど右から左に流してしまっていたし、結局私自身内容もまったく理解しないまま「興味ないから他所をあたれ」と一蹴して「眠いから話はこれまでだ」と一方的に会話を途絶させてしまった……と、私は記憶している。

今考えると後から話だけでももう一度聞きに行ってやればよかったのかもしれないが、その後はそいつらからちょっかい掛けられる事も無かったし、結局魔の道のことは私には関係の無いことだと結局私は有耶無耶のまま考えることを止めてしまったのだ。
一体何処で私のことを嗅ぎ付けたのかは分らないが、連中も迂闊もいいところだろう。
もしも私が昔のまま悪い魔法使いを続けていたらどうなっていたことやら─────いや、或いはナギとの関係が今と違うものであったのなら暇潰しにとその機械仕掛け従者とやらの話に耳を傾けていたのかもしれない。
とは言え、今更そんな過程の話をしていてもどうしようもないというものだろう。
今此処にある私こそがエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルなのだ。
『もしも○○が■■だったら』などという例え話になんて何の価値もありはしない。
闇の福音は14年前に死に、今の私はその残滓。
それ以上でもなければそれ以下でもなく、結局突き詰めればその現実こそが世の全てでしかないのだから。
もっとも、そいつらが提供してくれるかもしれなかったのが私の代わりに生活費を稼いでくれて、尚且つ掃除や洗濯もこなしてくれる家政婦従者だったというのならそれはそれで悔やまれる物なのかもしれないが……。

「……まぁ、そんな都合のいい奴がいる訳も無いか」

我ながら馬鹿なことを考えたもんだと私は自嘲気味にため息をつきながら、やれやれといった具合に自分の意識を夢想への逃避から無理やり現実に引き戻す。
この不況の世に何の見返りも求めずに誰かに奉仕するなんてそんな阿呆の極みのような人間なんて早々いるわけないし、仮にそういう風なプログラムを内蔵したロボットを作った所でその製作者に集られるというのが世の常だ。
上手い話の裏には絶対にその役得に見合った対価が必ずある。
そう考えると無意識とは言え、私の取った選択もそう悪い物ではなかったのかもしれない。
何せ今の私の給金では家政婦のバイトだって雇うことは叶わないのだ。
よく思慮もしないまま契約を結んで後になって物を渡されてから莫大な請求を吹っかけられるなんて事例は世の中何処にでも転がってるものだし、幾ら便利とは言え流石に私もこんな身の上で借金をしてまで欲しいとは思わないし、思えない。
結局の所どう抗った所で私は地に足のつく所から己に出来ることだけをこなすしかないと言う事だ。
それこそ今の己に相応しい分相応をしっかりと見定めた上で。

「最近どうもつまらん事で頭を悩ますことが多くなったな、私も。歳の所為なのかもしれんなぁ……」

600余年も生きてきて何を今更と自分でも思ってしまうくらいの間の抜けた台詞を口から吐き出しながら、私はもう一度「はぁ……」と肩を落として宙にため息を吐いた。
ナギのことで心労が溜まっているのもそうなのかもしれないが、このところ私は自分でも明確に自覚できるくらい精神的に老け込んでしまったように思うことが多々ある。
ため息の回数は十数年前と比べると格段に増えたし、何をやるにも覇気が沸かないというかやる気が出ないことも多くなった。
それに最近は心なしか身嗜みに関しても最低限のこと意外は昔と比べても然程気を使わなくなったという気がしないでもない。
流石に今更自分を若者扱いする気はこれっぽっちもないが、一応女学生として周りに溶け込んでいる以上、流石にこれ以上の低落は禁物というものだろう。
例え幾つになろうと私とて女だ。
周囲の人間から婆臭いなどと思われるような事があれば、ナギの件がなくても自殺ものだ。
まぁ、とは言っても見た目が10歳前後の頃から変わらないだけ、うちのクラスの老け顔の娘(名前はこれまた存じない)よりはまだ幾分かマシなのかもしれないが……。

「何とも嫌なものだな、肉体を取り残して精神だけが老いて行くというのも。まぁ、肉体諸共老いていれば今頃私は婆さん─────いや、普通なら風化して骨も残らんのか? それはそれで我慢ならんが……」

人並みに生きて分相応に朽ちるのを羨むのがいいのか。
それとも子供が産めずとも永遠の若さという只人が決して到達することの叶わない領域に己が身があることを嘆く一方で歓喜すればいいのか。
果たしてそのどちらが正しいのかは私自身はっきりとした区切りはつけられないが、少なくとも老いてよぼよぼになる悲しみを知らずに済んだという点に関してだけはこの身に感謝こそすれど恨む理由は何処にもないと素直に私も評価を下すことが出来る。
何せそのおかげでナギに出会えたのだ。
そればっかりは吸血鬼である我が身の殆ど唯一の役得だと思う。
もっともその反面に生じたデメリットの所為で何重苦にも及ぶ災厄を引き起こしてしまっている身としては、間違っても我が身が吸血鬼であることを喜ぶべきではないとは思うのだが。

「……行く前にコーヒーでも買っていくか」

先ほどから『つまらない』事ばかりを思慮する頭をコンビニに赴く前に切り替えようと、私は急遽進路を変え、自動ドアを潜る前に傍らにあった自動販売機の方へと足を伸ばす。
このところ物を考えるということが無かった所為か、どうにも私は要らない事ばかりを考え過ぎてしまう傾向にあるようだ。
きっと今まで目を瞑ってきた諸々が今回の一件の所為で意識の表面上に浮かび上がってきてしまっているのだろう。
普段ならどうでもいいと切り捨てていたものまでもが気に掛かる。
正直に言えば、それはあまりいい傾向であるとは言いがたかった。
ただでさえナギが生きているかもしれないという事で、今後の自分の歩む道を決める問答をここ数日繰り返しているのだ。
これ以上疑問を抱えるのは精神的な衛生面から見てもあまりいいことじゃない。
それ故に私は無理にでもそうした疑問を思考の埒外に置こうと、それまでの疑問とはまったく関係の無い別の所に意識を移したのだ。

それに今は12月。
病院の中は暖房が行き届いているから良いものの、外は一歩でも足を踏み出せばたちまち身を凍えさせるような気温なのだ。
待合室に設置された液晶モニターに映された天気予報を伝えるアナウンサーも「今年は例年に比べ酷く冷え込むでしょう」などと言っているし、きっと今日もそれは例外ではないのだろう。
現にそれは病院に出入りする人間が皆思い思いにマフラーを巻いたり、カーディガンを着込んだりしていることからも簡単に窺い知れるものだった。
幾ら私が吸血鬼であるとは言えど、冬の寒さには抗えないし、生憎と私は他の者のように外行きの防寒着を一着たりと着込んでもいない。
このまま出て行っても外でただ寒い思いをするというのが落ちというものだ。
それ故に買った缶コーヒーをポケットにでも入れて懐炉代わりにしようという考えが私の頭のうちに浮かんだのはそれほど不自然なことではなかった。
だが────────────────────

「えぇと、小銭……小銭……っ!?」

「うわっ!? すっ、すみません。大丈夫ですか?」

そんな他愛もないことをぼーっと考えていたのが悪いのか。
はたまた財布から小銭を探すために余所見をしていたのが原因なのか。
注意が散漫になっていた私は前から向かってくる人間の存在にも気付かずにそのままぶつかってしまい、その場に財布の中身をばらけさせてしまったのだった。
今の私が何時もと変わらぬ心持であったのならばこんな事も無かったのだろうし、近づいてくる人間に気付かぬほど意識を裂くこともなかったことだろう。
だが、悲しいかな現実は御覧の有様であり、今更自分の中でどう言い訳をしようと私が注意を欠いていたという現実には何の変わりも無い。
幾ら普段よりも周りが見えていなかったからと言って、こんな事で些細なミスを頻発しているようでは情けないことこの上ないという物だろう。
私は心の中でそんな風に思いながら、急いでぶつかった相手に対して謝罪の言葉を述べ、地面に散らばった硬貨を拾い集め始めるのだった。

「あぁ、大丈夫。私の方こそ余所見をしていたみたいだ。こちらこそ、すまない」

「いえ、そんな……。あっ! ウチも小銭拾うの手伝います」

「ありがとう。助かる」

急なことだった故、顔は確認していないがその声色や態度から私がぶつかった相手は年頃の若い娘であったようだった。
話す言葉も若干訛ったイントネーションをしているし、恐らくは大阪だとか京都だとかそこらへんの生まれなのだろう。
まぁ、何はともあれこのささくれた時代には物珍しい礼節を弁えた娘だと私は思った。
中には人にぶつかっておいても謝るどころか舌打ち一つ残して、足早にその場から去っていってしまう人間だって現実にいるのだ。
そんな心無い人間もいる中で、こうやって自分の非を素直に認めて相手を労われるというのはなかなかに立派という物だろう。
もっとも、言わせる人に言わせれば「昔はその手の若者がいるがいるのは当たり前」なのだそうだが……それは今更言わずもがなだ。
600年生きてきて私が言えることは、何時の日も何時の世も礼儀正しい人間もいれば、礼儀のなってない人間もいて、特に権利ばかりを主張をする後者の人間は後になって「昔は良かった」などと懐古主義に奔り易いという事くらいなのだから。

「本当にすみません……」

「いや、お互い怪我がなかっただけいいさ。病院にいるのに更に怪我を増やしたのでは笑い話にもならんしな」

「そう言うてくれるとウチも助かります……ってあれ? もしかせんでもエヴァちゃんやんか。うちのクラスの」

「ん?」

傍らに落ちていた最後の硬貨を拾い上げた所で私は突然娘からそう声を掛けられ、驚いて顔を上げる。
私の名前を知っていること。
そして娘が「うちのクラス」という単語を口にしたことが私の意識を掻き立てたのだろう。
その時の私はきっと傍からみれば何時も以上に間抜けに見えたことに違いはなかった。
何せ、普段柄人の顔と名前をあまり正確に覚えない私にとって見れば、いきなり知り合いのように話しかけられてもどう対処も出来ないのだ。
果たして目の前の彼女は誰だったのか。
私はうろ覚えの記憶の中から必死になってその答えを探しながら、二の句を告げていくのだった。

「お前は、確か……」

日本人にしては色素の薄い髪。
何処か赤み掛かった色をした瞳。
そして、線が細く全体的にスレンダーな印象を思わせる成長期の少女特有の華奢な身体。
それが私から見た『彼女』の全体的な印象だった。
姿を見かけたことはある。
そして珍しいことに私はその名前も確か知っていた。
ただ魔法関係でもなければ、特にこれといった実力者であるという訳でもなく、単にうちのクラスでは物珍しく一年の半ば辺りから不登校で、一時期実家に帰っていたという事が印象に残っているというただそれだけのことだ。
名前は確か────────────────────

「……和泉、亜子」

そう名前を呟いた瞬間、薄色髪の彼女はニコリと微笑んだ。





・あとがき
この物語の最初の犠牲者、降臨



[29095] 6話「迷人」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:bbafff5c
Date: 2011/10/07 14:53
偶然にも自分が入院している病院で和泉と出くわした私は、その後殆どなし崩し的に彼女と行動を共にすることとなった。
別段、特に深い意図などがあった訳ではない。
単に他にこれといって優先的に行わなければならないことも無かったし、和泉から「此処であったのも何かの縁やし、一緒にスタバでも行かへん?」と誘われた為、無碍に断るのも悪いだろうと思い、承諾したというただそれだけのことだ。
正直な所を言えば私はそれほど彼女と親しい仲であるという訳でもないし、スター
バックスのコーヒーは一番小さいショートサイズでも300円近くするから財布的にもあまり好ましくは無いのだが、これも偏に『付き合い』というものだろう。
周囲の人間と波風立てぬよう生きるには例え相手の事を快く思っていようと無かろうと、時には席を共にしなければならない場合もある。
私自身は別に和泉のことを別に好いても嫌ってもいないからその理屈がこの状況に当てはまるのかどうかは分からないが、詰まる所はそういうことだ。

「いやー、でもエヴァちゃんがウチの名前憶えててくれたとは思わんかったわ。正直ウチ、クラスの中でも影薄いし、てっきり忘れられてるかと思うてたんよ」

「んっ? あぁ、まぁな。と言うより、傍目から見たら私ってそんなに人の名前覚えていなさそうに思われてるのか?」

「う~ん、どうなんやろ? ほら、エヴァちゃんって基本授業中も休み時間もみんな寝てもうてるやん? だから心なしか近寄りがたいかなぁ、雰囲気は無いとは言えんかなぁ……。それにエヴァちゃん、前にまき絵のこと素で“堀江由子”っていう名前だと勘違いしてずっとそう呼んでた時期もあったし、他の皆も多分よう憶えとるやろうから他の人らも大体皆同じ何やない?」

「そうなのか……。まぁ、自業自得と言えばそれまでなのかもしれんがな」

和泉の話に私は当たり障りの無いような相槌を打ちながら、手にしたカップをそっと口元へと傾け、砂糖とミルクでキャラメル色に染まったコーヒーをほんの少しだけ啜った。
実の所、彼女のあげている名前や出来事の半分以上が記憶にないとは口が裂けても言えないが、こうやって話が通じているふりをするというのも他者との友好関係を保つためには必要な措置であるというものだろう。
例えこちらに身に覚えが無くても、それっぽいように振舞っておけばとりあえずお互いの関係に角が立つこともないのだから。
個人に嫌われた者は集団から疎まれ、集団から疎まれた物は確実に孤立する。
流石に私とて二十歳と生きていない小娘たちが抱いた悪意程度に呑まれるほど軟ではないと自負しているが、それでも友好的な関係を築くに越した事はないというものだ。
幾つ歳を重ねようと、幾つもの恨み言を聞かされようと、人から嫌われるということだけは慣れることなどありはしないのだから。

「あっ、そういえばエヴァちゃん病院で何しとったん? この所学校も休んでたみたいやし、どっか悪い所でもあるん?」

「えっ? あー……ちょっと持病の方が再発してな。今回のは特にキツイもんだから大事をとってこの一週間ばかり入院することになったんだ。とは言っても、四日後には退院だがな」

「入院!? その、何と言うか……お大事にな」

「ありがとう。まぁ、終業式までには出張れるよう努めるさ。幸い、持病の方は薬を定期的に飲んでおけば収まりが付く程度の物だしな」

よくもまあこれだけの出任せをべらべらと語れるものだと、私はそう自分自身に呆れながら、なるべく表情も自然体にと心がけ、心底心配そうな和泉へと微笑みかける。
こうやって嘘を重ねて、本気で心配してくれている相手の気持ちを踏み躙るのは悪いことなのだ、という気持ちは無論ある。
散々悪党だの魔女だの呼ばれてきた私だが、誰かを騙すということに何の罪悪感も感じないというわけではないのだ。
だが、だからと言って昔自分を捨てた男に裏切られて二度目の自殺未遂を犯した挙句、自棄酒の煽りすぎで肝臓悪くしたなどと素直に言える筈もない。
これがまだ親しい友人同士だったら話は別なのかもしれないが、正直の所和泉と私との間柄はそう深いものじゃないし、お互いに全てを曝け出して語り合うほどの信用があるわけでもないのだ。
心配してくれるのは素直に嬉しいし、そんな彼女に真摯な姿勢を嘘塗れの戯言で片付けるのは心苦しいが、時には割り切るというのも必要なことだろう。
私は和泉に向ける笑顔の裏側で内心そんな風に思いながら、和泉との会話を続けていくのだった。

「大事がいならええんやけど……。ウチ、一応保険委員やし、もしも学校で体調悪うなったら遠慮せんと早めに申し出るようにな」

「その時がきたらそうさせて貰うよ。色々と気を使わせて悪いな」

「ええって、ええって。ウチらクラスメイト同士やん。困ったときはお互い様って奴やんか」

「あははっ、そう言ってくれると助かる。世話になるときはよろしく頼むよ」

和泉に態度を合わせ、歳相応の少女のように振舞いながらも私は心の中で思考を巡らせていく。
クラスメイト同士は助け合うのが当たり前。
私も彼是14年ほど女子中学生を演じ続けているが、ついぞそんな風に思ったことも思われたことも無かった。
いや、或いはそう思える土壌はあったのにも拘らず、そうした人付き合いから私自身逃げていただけなのかもしれない。
無論、学生の身の上で自身の食費や生活費を稼ぐのに躍起になって周りが見えていなかったというのもあるのかもしれない。
三年間同じだった人間の顔と名前をまともに憶えなかったのもそうだ。
自分のことばかりに気を割くあまり、周りの物や者が見えなくなって、それで次第に興味が無いと自分に言い聞かせるようになって─────結局はその悪循環。
意識していたのか無意識の内だったのかどうかは分らないが、結局の所それが現状に至る経緯であり原因だ。
多分、だからなのだろう。
和泉のこうした無垢な好意が私にはどうにもこそばゆく感じてならなかった。

「しっかし、こうやってエヴァちゃんと面と向かって話すのってウチ、始めてかもしれへんなぁ。一緒のクラスになってもうすぐ二年近くになるのに」

「……私もあまり人付き合いが得意な方ではないからな。生活費稼ぐために放課後もバイトがあるから部活動とかにも参加してないし、まあ当然と言えば当然だろう」

「ふ~ん、エヴァちゃんバイトなんかしとるんか。何か意外やな。何かこうエヴァちゃんっていいんちょ達みたいに高嶺の花っぽい雰囲気あるし、生活困ってなさそうな感じやとばかり思ってたんやけど……」

「それは単なる偏見だ。正直言って私もそう余裕のある身の上じゃない。仕事二つ掛け持ちして週に最低四日ペースで働き詰めないと食いっぱぐれる身分の人間さ、私なんて。何せ学生の就労時間は原則的に多くても六時間を越えられないからな」

「エヴァちゃん二つもバイト掛け持ちしてるん!? へー、見かけによらず苦労してるんやなぁ。あっ、だから何時も机に突っ伏して寝てるんか。何か納得」

何処か衝撃的だとでも言わんばかりに驚きの声を上げる和泉に、私は「この不景気なご時勢だ。無理を押してでも働かないと後が辛くなる」と心からの本音を漏らした。
あまり他人に自分のことを多くは語らない私だが、何となくこの時は久しぶりに誰かと面と向かって話す機会を持った所為で、色々と心の箍が外れてしまっていたのだろう。
その後も私は和泉に幾つかの愚痴を漏らし、そして心に溜まった鬱憤を吐き出した。
本当はこんなに無理してまで働きたくなんてないこと。
同じ職について長いからって店長や同僚から常人よりも多く仕事を押し付けられて心身的に参っていること。
本当は接客業になんて向いていないのに無理して笑顔を作るのが酷く疲れること。
その他エトセトラ、エトセトラ……不満なんぞ一度あげれば際限など無い。
ありとあらゆる事を私は和泉へとぶちまけた。
そして和泉もまた、そんな私の話を呆れ半分ではあったものの真面目に聞いてはくれた。
不平、不満、不平等。
きっと私の漏らした数多の愚痴の中に彼女も幾つか思う所があったのだろう。
諸々の愚痴を私が言い終えた後も、彼女は変わらず笑顔もままだった。

「何て言うかまぁ、エヴァちゃんも大変なんやねぇ……。正直こうも愚痴溜め込んでるとは思うてもみんかったわ」

「愚痴を吐けるほど親しい友人や知人もいないんでな。偶に誰かと語らうとついつい憂さ話を聞かせてしまう性質なんだ、私は。すまない、迷惑だったか?」

「ううん、そんな事無いって。ちょっと意外やったけど、正直エヴァちゃんのこと色々知れてウチも面白かったしな。ウチで良ければまた何時でも相談乗ったるさかい、あんまエヴァちゃんも根の方詰めんようにな。ウチら学生は身体が資本なんやから、ストレス溜め込んで体調崩してしもうたら元も子もないってもんやし」

「ははっ……情けない限りだがその通りだな。ありがとう和泉、色々吐き出したら私も少し楽になった」

それは、紛れも無く本心から毀れた言葉だった。
無論ナギの生死云々といった根本的な部分に答えを見出せない以上、心労が積もっていくことには変わりないが、それでも心に嵩んだ重荷が少しだけ軽くなったことに相違はない。
この時、私は本当に心の底から少し楽に慣れたのだと、そう思ってしまったのだ。
それこそ、未だに心の内で燻っている“愚痴”を全て和泉に吐き出してしまいたくなる衝動に駆られるくらいに。
だが、そこで私は続けざまにナギのことを語ろうとする口をぎゅっと噤み、喉元まで出掛かった言葉の数々を必死になって自分の内へと再び押し戻していく。
幾らなんでもこれ以上彼女に私のことを背負わせるのは道理が合わないと冷え切った理性が煮え立つ溶岩のように湧き上がる衝動を抑制したからだ。

元より私達の間には親交と呼ばれるほど深い関係があるわけでもないし、別に和泉には私の何もかもを背負う義理も義務も無い。
言うなれば単なるクラスメイトであり、今こうやって顔を合わせてコーヒー啜っているのだって偶然が産んだ『付き合い』の延長でしかないのだ。
そんな何も知らない和泉に私のごたごたにまで付き合わせるというのはあまりにも自分勝手が過ぎるというものだろう。
和泉の気持ちはありがたいが、これ以上甘えを見せると自分が自分でいられなくなってしまうような気がする。
ふと、何となくそう悟った私は気分変えにもう一度コーヒーのカップを口元で傾け、何か会話の内容を変えられる話題が無い物かと思考を巡らせるのだった。

「ところで和泉、最近そっちの方はどうなんだ?」

「んっ? どうってなにが?」

「いやまぁ、他の連中の事とか変わった事とか色々だ。どうせうちのクラスの連中の事だ。冬休みも間近だし、何か一つくらい話題に上がるようなことをやらかしたんじゃないかと思ってな」

「う~ん、そう言われてもなぁ……。多分、何時も通りなんとちゃう? よう分らんけど」

何気なく話題を持ちかけたのも束の間、私はどうにも不自然な和泉の返し言葉に思わず眉を顰めることになった。
彼女は私と違い真面目な学生だったと記憶しているし、一時期実家に戻っていた期間を除けば殆ど学校で顔を見かけなかったことは無い部類の人間に当たるはず。
もっとも、私の記憶も曖昧なものだし、どこまで信用できたものかは定かでないが、それでも和泉の言葉の節々が不自然であることくらいは容易に察することが出来た。
普通、真っ当に学校に通っているような奴が「多分」だとか「よく分らないけど」などといった憶測染みた言葉を多用するのは何処かおかしいということくらいは……。

そして、そこでふと私は続けざまに今日が何曜日であるのかを思い出した。
火曜日、ということは当然のことながら今日は平日だ。
しかも病院を出た時間から今まで二人で寛いだ時間を単純に計算してみても、本来六限まである授業が終わる時刻には至ってはいない。
もしかしたら何かの振り替えで半ドンになったのかも分らないが、それならそれで事前に通告があるだろうし、そんな話を私は聞いた憶えはない。
それによくよく考えてみれば何故和泉はあの病院にいたのだろうか。
見た所外傷がある訳でもなさそうだし、かと言って私のように『中身』の方がやられているという風にもとても見えない。
ならば、一体彼女はあんな時間にあんな場所で何をしていたというのだろう。
不意に何か只ならぬモノを感じた私は、どうにもそれが気に掛かり、あまり先のことを考えることもしないまま和泉にその疑問をやんわりと投げ掛けたのだった。
それがある種、彼女の抱える『爆弾』であるとも知らずに。

「分らない?」

「うん、分らん。ここ数日だけやけど、ウチな……ちょっとだけ学校の方休ませてもろうてるんよ。だから、エヴァちゃんが知らんようなことはウチも分らんかなーって。あっ、一応言うとくけどサボりやないからな!」

「……こんな所で私と一緒にダベっているようではサボりとそう変わらないのではないか?」

「えーっ、全然ちゃうって。ちゃんと高畑先生の方には休学届けも出してあるし、ちゃんと受理されてんねんもん。まぁ、結果的にはエヴァちゃんの言う通りなのかもしれへんけど……」

何処か誤魔化すような笑みを浮かべながらそう言葉を濁す和泉。
きっと彼女も今の現状に少なからず思う所があるのだろう。
言葉が続くにつれて段々とその声色が小さくなっていく所からも、それは何となく窺い知る事が出来た。
まあ、無理もないことなのだとは思う。
何せ彼女は問題児だらけのうちのクラスでもしごく『真っ当』な感性を持つ人間に属する人間なのだ。
他の人間が必死になって勉強しているのに自分だけこうしてのんびりしているのが後ろめたいとでも思っているのだろう。
幾ら自分に非がないとは言えど、何の関係も無いはずの私に態々釈明の言葉を入れる所からもそれは窺い知ることが出来た。

だが、それ故に私はますます気に掛かった。
そんな彼女が数日も学校を休まなければならないような事情とはいったいなんなのか、と。
無論、不必要な詮索をする人間は誰からも好かれないというのは私だって分っているし、あまり不用意に他者の心の領域に踏み込むのは無粋であるとも私自身思ってはいる。
本来だったらここらで話を切り上げるのは筋というものなのだろう。
けれども、私がそうした諸々の事情を承知の上で更なる一歩を踏み出そうと思ったのは偏に彼女が嘗て不登校児であったことを知っていたからなのだろう。
流石にうちのクラスでイジメがあるとは思えないが、それでも相応に彼女が何か薄暗い事情を抱えていることくらいは私にだって何となく分る。
とは言っても、別段そこまで心配しているという訳でもないし、そうする義理も無いのだが……まあ、散々愚痴を聞かせてしまった手前、このまま私が一方的にもたれかかるというのも目覚めが悪いというものだ。
亀の甲より年の功とも言うし、もしも何か彼女がトラブルを抱えているのだとしたら助言くらいはしてやろう。
そう思ったが故に、私はもう一歩だけ和泉との心の距離を詰めることに決めたのだった。

「……なぁ、和泉。そう言えば貴様なんで病院なんかにいたんだ? 見た限りだと顔色もいいし、具合が悪いようにも見えないが?」

「えっ……?」

「あっ、いや……何となく気になってな。別に他意はないから気に障るようなら聞き流してくれて構わないぞ」

一応フォローを入れてはおいたものの、私にそう言葉を掛けられた和泉は明らかに同様していた。
何というか、損な奴なのだと思う。
元々の性根が真っ直ぐだったのが幸か不幸か、彼女は何処までも『馬鹿正直』なのだ。
よく言えば正直者、悪く言えば御人好しとでも言った所だろうか。
きっと他人に嘘を吐いたことも、嘘を吐かれて裏切られた事も無いに違いないのだろうと私は半場確証染みたものを感じながらそう思った。

そしてそれ故にあまりに危うく、あまりに脆いのだとも私は感じた。
別段純粋培養で育った人間がいることに対して、それが悪いというわけじゃない。
泥水啜ってようやく生きられる人間もいれば、汚いものなんて何も直視しなくても生きていける人間だっている。
私も彼是六つの世紀末を越えて今に至るが、何時の日も何時の世も格差、不平等なんていうのはごく当然で当たり前のものなのだ。

だが、そうした世の中で唯一悪であると断言できるものがある。
それは誰かに付け入る隙を与えてしまうという不注意だ。
心の荒んだ者は満たされている者の幸せに容易にその手を伸ばし、そして泥沼に引きずるように幸福を簒奪し、その身を奈落の底へと引きずり込む。
そうやって騙され地獄を見させられてきた者達を私は幾らでもこの目で目の当たりにしてきた。
それ故に何となく分ってしまうのだ。
このまま進めば彼女はそう遠からぬ内に絶対誰かに漬け込まれてしまうのだろう、ということが……。

「やっぱり、話し辛いことなのか?」

「別に、そういう訳やないねんけど……」

「んっ?」

「……あんま他人様に聞かせて愉快な話でもないかなーって。多分話しても湿っぽくなってしまうだけやろうし、愚痴にするんにしてもエヴァちゃんのが前向いとるんに対してウチのはきっと後ろ向いてまうと思うんよ。エヴァちゃんも嫌やろ? そんな話つまらん話聞かされるんわ」

そう言って和泉は自分のカップを手にとって、自分の紅茶を傾けながら力ない目配せを私に向けながら、同意を求めるような仕草をとった。
一連の言動や動作を見る限り、それは遠回しにあまり詮索しないで欲しいという合図だったのだろう。
黙したまま紅茶を啜る和泉の表情は、先ほどまでのそれと比べて何処と無く暗いもののように私の眼には映っていた。
だが、それと同時に私はその表情からこうも読み取れるような気がしたのだ。
語りたい気持ちはあるけれど、本当にそれをこの人に語っていいものなのか、と。
何故そんな風な印象を私が抱かされたのかは正直私も良く分らないというほか無い。
でも、一つだけ確証を持って言うのであれば彼女は酷く似ているような気がしたのだ。
他ならぬ、嘗ての私自身に……。

一種のシンパシー。
或いは既知感とでも言えば適当なのだろうか。
まあ、前口上は何でもいいし、どうでもいい。
ただ確かに言えるのは私が和泉の表情を良く『存じて』いて、その果てにはどんな事が待ち受けているのかということを魂に刻み付けられる値でよく知っているというただそれだけのことだ。
世の人に聞けば真におかしな事であると言われても無理もない話しなのかもしれない。
何せ齢600を超えた人外の化生である私が二十歳も超えぬ小娘に共感を抱くというのだから、笑い話もいいところだ。
だがまぁ、その当人たる私からしてみればそう悪い気はしなかった。
本来なら額に皺を寄せてしかるべきな筈なのに、『どういうわけか』そうは思えなかったのだ。
きっとそれは……そう、恐らく私と彼女の間に生まれたデジャブが真のそれであるのならば─────十中八九、あの表情が手の内から零れ落ちた『男』を思い起こすそれだろうと踏んだが故に。
瞬間、私はそこで自分の中に蠢く思考の歯車がカチャリと音を立てて噛み合うのを感じた。

「私は……そう嫌でもないがな、別に」

「へっ!? いや、何でなん? 本当にしょーもないことやし、聞いて気分ええ事でもないんよ?」

「あぁ、ちょっと出過ぎた物言いだったか? まあ、其処は素直に詫びるよ。すまない。だがな、和泉。その、なんだ……そんな風に思いつめたような顔でそんな風に言われても説得力無いぞ、正直言って」

変に言葉を取り繕って話を脱線させるのもアレだろうからとストレートに私がそう言ってやると、和泉は「嘘やん!」などと言いながら目に見えて慌てふためいていた。
恐らく、本人はあれでも自分の心を隠していたつもりだったのだろう。
その取り乱しっぷりときたら、それはもう度肝を抜かれたと言わんばかりの有様だった。
まあ、私でなくとも傍から見ればその表情からは何処か只ならぬものを感じ取ることなど誰であろうと容易であるのだろうし、悪意を持ったものに漬け込まれればそれこそ『コト』に発展してもなんら不思議ではないのだろうが、ある意味此処まで分り易いと一週回って逆に賞賛モノと言っても過言ではないだろう。
無知は確かに罪なのかもしれないが、それ故の無垢はいっそ蠱惑的なまでに初心で美しいものなのだから。
それこそ、そんな彼女の純真さに思わず嫉妬すら覚えてしまいそうになるほどに……。

「えっと、その……エヴァちゃん。出来れば正直に答えてくれるとありがたいんやけど、ウチそんな酷い顔しとった?」

「酷いというほどではないが、まあ傍から見たら誰でも気がつく程度にはな。明らかに無理を押してるという感じが駄々漏れだ。まあ、お節介がてらに忠告しておくと、貴様に隠し事は多分向いてないと思うぞ和泉。それでは余計に周りを不安にさせるだけだ」

「うー……気をつけてた筈やねんけどなぁ」

「寧ろ逆効果だ、馬鹿者。今回は気がついたのが私だったからいいものを、そのままだと何れ誰かに付け入られるぞ? 良きにしろ悪きにしろ、な」

本人はこれで一生懸命だから尚性質が悪いと思いながら、苦笑いを浮かべつつ私がそう言ってやると、和泉は何処か考え込むような表情を浮かべながらただ一言「厳しいなぁ……」と弱々しく言葉を漏らした。
多分、以前にも私以外の誰かに似たようなことで窘められた経験があるのだろう。
何処か悟ったように考え込むその顔には微妙に見え隠れする程度ではあるものの、何処か納得できないと言う不満もあるように私には見えた。
とは言え、だからと言ってその程度で目くじらを立てるほど私も心の狭い女じゃない。
寧ろ相手は年頃の娘っ子なのだ。
程度の加減はどうあれ、反骨心があることはそれほど悪しきことじゃない。
それをバネに彼女が精進するかどうかはまた別問題としても、そういうところは見ていて私も清々しい。

そして、それならば尚のこと見て見ぬふりはしかねるというものだ。
どれだけ強靭なバネであろうが金属疲労が嵩めば朽ちるのは道理だし、陰気に曝され続ければ錆付きもする。
飛躍する以前に根本が折れてしまってはそれこそ本末転倒というものだろう。
老婆心という奴ではないが、私とてそうした理屈の上に立たされ苦しむ者を前に無視を決め込めんで傍観に徹していられるほど性根は腐っていないと自負している。
義理と言えるほど大した誼みではないにせよ、目の前で分水嶺に立たされている若者がいるのならば、お節介程度にでも背中を押してやると言うのが年長者としての責務というものだ。
根を詰めるべき時には詰め、力を抜ける時は適度に抜く。
その匙加減を知らぬと言うのならば、なんて事はない。
私の愚痴を聞いてくれた分の駄賃程度には力になってやろう。
詰まる所は、そういうことだ。

「別に私はそこまでゴシップ好きでもないし、正直本音を言えば然程貴様の事情にも興味は無い。だがな、和泉……。一応これでも私は見知った人間が頭を抱えているのに無視を決め込むほど情の薄い人間ではないぞ?」

「エヴァちゃん……」

「もっとも、無理強いをするつもりは毛頭ないがな。心底嫌なら無視してくれても構わんし、私もどうでも細事だったと先の事は忘れよう。ただ、同じ組で勉学の席を同じくする者としてこれだけは言っておくぞ和泉」

其処で私は一旦、己の言葉を区切り、ほんの少しだけ『年上』としての自分の顔を作って見せる。
柄ではない─────それは何より私自身が一番良く分っていた。
生まれてこの方碌でもない生き様を曝し、千人に疎まれ、万人に恨まれた己が他人に説教を出来る身分でないことくらい私とて元から弁えているつもりだ。
幾ら魔道から身を引き、過去を捨て、自己を善の存在として世に置こうと尽力した所で私の犯してきた罪科は消えはしない。
表面をどれだけ取り繕った所で、その根本が邪悪なソレであることは何ら代わりなど無いのだ。
だが、それでも私は和泉に対して言葉を掛ける。
先に失うモノの悲しみを知った者として。
そして、失ってからの日々を永きに渡って過ごした者として。
私にはこれから苦しむのであろう彼女に対して何かしらその目を前に向けてやれるような事を言ってやる責務があるのだと、何となく……そう思ってしまうが故に。

「一人で何でも背負い込むな。個人で苦悩して立つ瀬もあれば、誰かに重荷を押し付けて初めて立つ瀬だってある。私で不足なら貴様の友人にでも……ほら、ちょっと根暗っぽい黒髪ポニーテールとかバスケやってる娘とかいるだろう? あいつらにでもその荷、預けてしまえ。自分自身に潰されてしまう前に、な」

そう語ったのを最後に、私もはや説教臭いことは何も言うまいと心に誓った。
私が掛けてやれる言葉は全て吐きつくしたと、そう確かに感じたからだ。
理屈はどうあれ、最後に道を定めるのは私ではなく他ならぬ和泉本人。
彼女が私の言葉を聞いても尚、自らの業を一人で背負うことを是とするならば、またそれも良しというものだ。
他人の道は他人の道。
どれだけ気持ちを同調させようと我の道と交わることなど永劫に在り得ないのだから、私が彼是ととやかく言う資格などありはしない。
それが弁えているからこそ、私は自らの口を閉ざし、彼女の答えを待つことにしたのだった。
彼女の……和泉亜子の答えは────────────────────

「─────あはっ」

刹那、小鳥が囀るかのような笑声が私の鼓膜を揺さぶった。
それは間違いなく目の前でうつむく彼女のものに他ならない。
そう、彼女は笑っていた。
今までの寂しげなそれとも、愛想笑いとも違う……そんな不思議な笑みを浮かべて。
思えばそれはありとあらゆる柵を取っ払った彼女の本当の気持ちであったのかもしれない。
何というか、私もあまり語彙がそう多いわけでもないから何とも表現がしにくいのだが、その笑みは何処か憑き物が落ちたようなモノであったように見えたのだ。
少なくとも、その後続いた彼女の言葉を耳にした私にとっては。

「あっはははは。いやー、何て言えばええやろ……かなわんなぁ、エヴァちゃんには。散々一人で悩んでたんが何か馬鹿らしくなってしもうたわ」

「……和泉」

「あーぁ、何でなんかなぁ。もう少し、後1年早くエヴァちゃんに相談出来ておけば『コト』はもっと手早く済んだかもしれへんのに……。まぁ、今更言うてても仕方ないことなんやろうけど」

言葉の通り、何だか悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しいといった様子でため息を吐く和泉。
その実、内心では色々と複雑な思いを抱えているのだろう。
吐き出す言葉や態度とは裏腹に、それを必死になって自分の中で納得させようとしているところからもそれは良く分る。
話す覚悟は決めたが、どう一線を越えるかが分らない。
まあ、恐らく内心はそういった様子であるのだろう。
とは言え、別段だからといって私はどうであるという訳でもなかった。
彼女がそう決めたのなら、私が其処に口を挟む道理も無い。
所詮私は受身であり、聞き手なのだ。
自分から首を突っ込んだものが他人にとやかく言うほど野暮なことも無いというものだろう。
和泉のその言葉の裏に、例えどんな意図があったのだとしても……。

「……ほんまはエヴァちゃんの言う通り、裕奈なアキラに相談するんが正しいのかもしれへんけど、ちょっとそれはまだ無理そうなんよ。知られるのが恥ずかしいって言うのもあるねんけど、それ以上にウチ自身話すんがちょっと怖くてな。だからエヴァちゃん。あんまり交流なかった手前こんな風に言うのもおかしいのかもしれへんけど、ちょっとだけウチのつまらん愚痴につきあってくれへんかな?」

「無論だ。始めに話を持ちかけたのは他ならぬ私だしな。自分から言い出したことだ。その責はしっかり全うさせてもらうさ」

「ありがとう。あっ、でも此処じゃあ周りの他人の目もあるし……。うーん、そうやなぁ。もしエヴァちゃんがよければちょっと広場の方にでも行かへん? 何か屋台でも出てたらウチが奢ったるから」

「付き合おう。どうせ貴様と出会ったのだって散歩に出ようと思っていた矢先だしな。この際一人でも二人でも変わりはあるまい」

そうして私と和泉は互いに必要最低限の言葉を交わしあいながら、残ったカップの中身を啜って、二人同時に席を立った。





あとがき
ピコーン! エヴァ様と亜子の間に友情フラグが立ちました。



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