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[31274] WHITE ALBUM 2 -Eine Liebe in Wien- (R-15)
Name: 火輪◆a698bdad ID:af70b2b1
Date: 2012/02/27 03:57



 - ご注意 -

 この作品には、WHITE ALBUM 2 の本編及び、かずさエンドのネタバレが含まれています。

 序章から終章を未プレイ且つ、ネタバレを避けたい方は、終了されてからどうぞ。

 また本作中には、少々痛い表現や、本編からの引用が含まれています。

 なお。この物語は、本編とは一切関係ない「もしも」の展開を妄想したものです。

 あくまでも架空の物語である事をご了承下さい。



 ◇ ◇ ◇



 冬が終わる 君のいない春が来る

 春希によるかずさのための雪菜ゲーでした。どうしてこうなっちゃったんでしょうねえ。
 もっとも、未練の残るエンディングや、とんがったお話が大好きな私には御褒美もいいとこでしたけど。
 ちなみに副題の-Eine Liebe in Wien-(ウィーンの恋人たち)は、ディートマー・グリーザーの著書です。



 更新履歴

 2012/01/22 前編を投稿
 2012/01/24 後編と前書きを投稿して誤字修正
 2012/02/23 おまけ前編を投稿して誤字修正
 2012/02/27 おまけ後編を投稿して誤字修正してXXX板からその他板へ移動





[31274] 前編
Name: 火輪◆a698bdad ID:f15796a0
Date: 2012/02/27 03:58



 ◇ ◇ ◇



 ふと思い、機内から窓の外を、見るでもなく眺める。

 かけがえのないひとを、無惨に傷つけて、悲嘆を背負わせ追いやった地を。

 かけがえのないひとを、奈落に突き落としてでも、往こうと決めた地を。

 幾つもの裏切りを重ね、幾人も傷つけ、その果てに選び取った終着の地を。



「…春希、そろそろ」

「ああ…」

 体を浮遊感が包み、胃の腑が違和感を訴えて暫し。ランディングギアが滑走路に触れる。
 空へ飛ばした心と意識を着陸と同時に頭と身体に呼び戻し、左手の温もりをそっと握り締める。
 無言で優しく握り返してくるのは、細く美しい、しかし独特の堅さを感じる、鍵盤を叩くための指。

 強い制動でシートから飛び出そうとする身体をベルトが拘束する。
 あの国から弾き出された自分たちを受け止めてくれた、などという錯覚を覚え、その発想を恥じて唇を噛んだ。

 機内のアナウンスに従ってシートベルトを外す。繋いだ手は離さないままに。
 スーツにタイツに靴までも、上から下まで赤一色の、オーストリア航空のフライトアテンダントが乗客の誘導を始めた。

 俺たちは手を取り合って、地上へ降りた鉄の鳥を後にする。
 新天地に一歩目を踏み出した時、弱く脆い自分から、強く逞しい自分に変わらんと誓いを新たにして。

「行こうか、かずさ」

「うん」

 ────俺とかずさは、歩みと鼓動のリズムを合わせて、罪の旅路を踏みしめていく。





 WHITE ALBUM 2 -Eine Liebe in Wien-





 3月23日。太陽が沈み往く時の流れに、8時間弱ほど逆らって飛んだ12時間。
 ウィーン国際空港に降り立った時、世界は黄昏色に包まれようとしていた。
 空港の、機能的だが無機質な滑走路も、茜に染まるだけで、哀愁を孕んだ情感を醸し出す。

「俺の荷物、無事に届いてるかな」

「そんなこと、行けば…帰れば、わかるだろ」

「…ああ、そうだな。帰れば…わかるよな」

 そう。これからは、このウィーンの郊外に居を構える、冬馬邸が俺の帰る場所。
 俺が「帰る」と表現するのは、そこ以外には、もはや無い。
 二度と戻らないと決めた故国ではなく、これからの人生を共に過ごす、かずさの家こそ俺の帰る場所。
 飛行機に持ち込めない大きなものや、持てても嵩張るものは、一足早く送ってある。

「じゃ…帰ろう、か」

「うん、帰ろ」

 髪と肌の色が様々な雑踏を避けながら、ことさらゆっくりと進む。
 かずさはゲートから出た後、待ち構えていたように密着すると、ひと時も離れる事はなかった。
 俺の左腕をかき抱いて離れず、肩に頬を摺り寄せて、周囲に憚ることなく二人(おれたち)の関係を主張した。

 それを俺が咎めようはずがない。望まないはずもない。
 あの国を出るまでは、この国に着くまでは、愛を育むのを我慢するという誓いはすでに果たしたのだから。
 あとは二人で巣に帰り、燻らせた心の熾火に身体という薪をくべ、燃え上がるだけなのだから。

「春希…ん、はぁ」

「ん…かずさ」

 しかし、急ぎも慌てもせず。移動にタクシーは使わなかった。
 空港のターミナルでリムジンバスの到着を待つ間、互いの顔に吐息を浴びせ合う。
 かずさは見せつけたがっている。二人が寄り添えることを、触れ合うことに誰の許しもいらないことを、世界に。

 そのまま真っ直ぐ帰るでもなく、適当に降りて漫ろ歩く。
 中世の趣きを所々に残す世界遺産の都市を、バスを使い、トラムを利用し、地下鉄に乗り、無秩序にぶらつく。

 日が沈みかけ、街に夕闇が迫る時間帯、交通機関もだいぶ混み合ってきた。
 改めて路面電車に乗り、ようやっと帰路につく。たっぷり1時間は使っただろうか。

 …迂遠な真似をしているな、という自覚はある。それも、二重の意味で。
 空いている座席は無いので、二人寄り添って立ったまま、他愛ない会話で間を繋ぐ。

「…うん、これで大体、交通機関は把握できたかな」

「散々歩かせやがって…あたしだってこんなにうろついたことないぞ」

「悪かったよ。でも、お母さんのオフィスに行くのは明日だし、今日の内に移動手段は知っておくべきだろ?」

「っ………お、お前の時間はあたしの時間でもあるんだぞ。勝手に食い潰すな」

 今こいつ、曜子さんを「お母さん」って呼んだことに反応しかけたな。まあ、半分くらい狙ったのは確かだけど。
 半分はポーズであろう愚痴をこぼしながら、柳眉を寄せて不満げに見上げてくる。
 その不満を伝える手段が、くっついたままの俺の左腕に、何度も顔を擦り付けるというのもどうなのか。

 ………本当はわかっていた。かずさが早く帰りたがっていることを。
 三ヶ月の間、触れ合ったことこそ幾度となくあったものの、愛を確かめる行為は、一度きりのキスだけ。
 求め合いたい欲求をもどかしさと一緒に抑え込むのも、いい加減限界にきている。

 ………俺だって思っている。かずさと早くひとつに溶け合いたいと。
 あの第二音楽室で、五年ぶりに触れた唇の温もりを、俺を求めて火照る肌を、思うが侭に貪りたいと。
 明日から始まる二人の日々を戦い抜くために、今日という残り少ない時間すべてを費やして。

「もう、いいんだろ? あとは………帰るだけだよな?」

「ああ、帰ろう………って、をい」

 かずさが俺のコートの前を開け、潜り込んで抱きついてくる。
 厚い上着越しの接触では満足できなくなったのか、甘えん坊の虫が目覚めてしまったのか。
 俺の視界の左端から動かなかった艶やかな黒髪は、今は正面に回って動かない。
 荷物ほっぽり出すなよ。置き引きとかに遭ったらどうすんだよ。

「すぅ…はぁ…」

「っ………う…」

 シャツの襟元に熱い吐息を浴びせられ、くすぐったさに身悶えする。
 早朝の満員電車ほど混み合っているわけではないし、周囲には一人分以上のスペースはある。
 俺は僅かな羞恥に耐えつつ、足でかずさの荷物を挟み込みながら、甘えすぎる恋人を許容する男になって…

「すぅぅ…はぁぁ…」

「っ………おい…」

 …そしてかずさは、俺との間に空間が隔てられていること自体を嫌うように、より窮屈な距離を求める。
 もはや深呼吸と言っても差し支えないくらいに、俺の首筋の空気を吸い込んでは吐き出す。

 安心しきった様子で俺の首筋に顔を埋め、脳まで痺れそうな甘い吐息を浴びせてくる。
 一瞬、俺の中から糖分だけ吸収してるんじゃないかなんて馬鹿なことを考えてしまった。

「すぅぅぅ…はぁぁぁ………」

「っ………おい、かずさ」

 その幸せそうに蕩けた表情が妙に蠱惑的で、卑しい欲望が背筋を走る。
 このままでは俺の中の色々な何かが参ってしまいそうだ。何か軽口をひねり出して誤魔化さないと…

「………樹液を吸うカブトムシみたいだな。髪も格好も黒いし」

「うるさい。いっつもフラフラしてるお前が樹のわけあるか」

「………ああ、そうだな。でも」

「あ………ん」

 潜り込んできたかずさはそのままに、開かれたコートを閉じて包み込む。
 その上からしっかりと抱きしめて、他の乗客から見えないようにして、かずさの首筋に顔を埋めて囁く。

「もう、根は張った。びくともしないさ」

「………うん」

 ………二人とも、感じている。後ろめたさが、消せずに残っているってことを。
 三ヶ月の間、触れ合うことを互いに戒めて、意固地な誓いを果たした今でも。
 もう、いいんだよ、と。抑えこんでいた想いの丈を、存分に交わし合ってもいい段階になったのに。
 
 いざ求め合わんとしても、どこか臆病なままの二人………無理もない、よな。
 壊してしまったものの価値を、その大きさを、どうしようもなく理解しているから。



 ◇ ◇ ◇



 日は完全に沈み、西の空だけがうっすらと明るさを残している夜の入り口。
 ウィーン郊外の冬馬邸に到着しても、俺たちの間に会話は少なかった。

 右手には荷物を、左手にはかずさを抱えたまま歩き出す。
 鉄の柵と立派な庭木に囲まれた正面の庭を抜け、重い扉を開き、玄関ホールに入る。

「なあ…」

「…ん?」

「あたしの部屋、で…いいよな?」

「…ああ、いいよ。よくないわけ、ないだろ」

 愁いと戸惑いのブレンドに、角砂糖四個分の甘さを溶かし込んだような誘(いざな)いの声。
 欲望が、さらに滾る。ここで押し倒してしまいたい。今すぐかずさを貪りたい。

 だけどそれはしたくない。してはいけない。
 かずさに逃げ込むような抱き方だけはできない。

 たくさんの大事な者と決別したあの夜、一度だけかずさに溺れそうになったことを思い出す。
 あの時の二の舞はごめんだから。五年前の二の舞はもっとごめんだから。
 俺は、かずさを護り、かずさを慈しみ、かずさを癒すために、ここまで来たんだから。

 袖を引く手だけはそのままに、身を離したかずさが俺を先導する。
 前を歩くかずさの髪から甘やかな空気が俺へと流れてくる。

 いたたまれない気持ちを無理矢理御するため、周囲へ目を逸らす。
 バロック調の装飾を施された壁に、絵画やクリスタルのランプが飾られている。
 天井からは刺繍入りのカーテンが垂れ、王宮様式のアートテーブルやチェア。
 そんな、別世界のような廊下を進み、かずさの私室の前に着いた。

「開ける、ぞ」

「…ん」

 五年間、気が遠くなるほど遠回りし。
 今日という日を迎えても、迂遠な真似を繰り返し。
 ついに辿り着いた二人の世界。

 正直、俺もかずさも、身体と心の昂ぶりを持て余している。
 お互いに、もうこの先の事しか考えられないのに、しかし心は臆病なまま。
 もう、なんの遠慮も必要ないはずなのに。

 かずさが震える手で部屋の扉を開け、照明のスイッチを入れる。
 暗がりで急に灯った明かりに、二人揃って目を眇める。
 が、どう導こうかと、どう進もうかと迷う、心までは照らされないまま。

 そして部屋を見渡すと………

「んなっ…!?」

「…春希?」



 ………散らかり放題の光景が、目に入ってしまった。



「な、なあ、どうしたんだよ、春………」

「………るぞ」

「え?」

「片付けるぞ! 掃除するぞ! っていうかお前も手伝えかずさ!!」

「は、はあっ!? な、なんだよそれ! 散々期待させといて!!」

「いいから手伝え! …ああもう! 気を揉んでたのが馬鹿みたいだ!」

「わけわかんないぞお前! って、お、おい…!」

 ………台無しだ。いろんな意味で。
 俺って奴は、こいつという奴は………

「…ほんっと変わんないのな、お前!」

「こっちの台詞だ馬鹿野郎! 神経質! 仕切り屋!」

 ………俺たちという奴は、なんだってこんな時にまでこうなんだ。
 かっこ悪い自分を持ち出さなきゃ、この空気を払拭できないなんて、な。



 ◇ ◇ ◇



 まだ夜中と言うには早い時間なのをいいことに、家中の電気をつけてどたばたと動き出す。
 旧式とはいえまだまだ現役のでかい掃除機を引っ張り込み、ついでにバケツと雑巾も持ち込む。

「ハウスキーパーさんがいるんじゃなかったのかよ!」

「あたしと母さんの部屋は断ってたんだよ!」

「なんだそりゃ!? 一番お願いしなきゃいけないところだろうが!!」

「どういう意味だよ!? あ、おい! ドレッサー勝手に開けるな!」

 着もしないのに、その辺に放り投げられていた服をかき集め、かずさに確認を取りながらクローゼットに仕舞う。
 もちろん綺麗に畳ませるか、ちゃんとハンガーにかけさせる。っていうかこいつ、基本脱ぎ散らかしかよ…!
 ああ、もう、下着まで…! くそ、知るか! 文句なんか言わせない。

「お前なあ! なんでオートクチュールのドレスが座布団がわりになってるんだよ馬鹿!!」

「あたしのだからあたしの勝手だろ!? お前はいちいち細かいんだよ!」

「なんでティーセット出しっぱなしなんだよ! ロイヤルアルバートのいいやつじゃないか!!」

「ロンドン公演に行った時に母さんがもらってきて、勝手に置いてったんだよ!!」

 やいのやいのと憎まれ口を叩き合い、とにかく手足をせっせと動かす。
 隙を見ては手を止めようとするかずさを叱り飛ばし、指示を出し………

 ………でも、こっそりと懐かしい空気に口元を緩ませてしまう俺がいる。
 ああ、そうだった。あの頃は、こいつとは、こんな感じの日々があった。
 あんな風に、ささやかだけど、小さな幸せだけを感じていられた時はもう、戻っては来ない。

 ある程度掃除が終わり、ついでに荷物の確認を済ませ、一息つくことにした。
 汗をかいたことを言い訳に、かずさをシャワーに行かせた。というか、半分強制した。

 ………ごく自然に、言えただろうか?
 不自然に、声が上擦っていたりしなかっただろうか?

 何をやっているんだか…これじゃまるで、初めて同士の学生カップルみたいだ。
 まあ、あながち間違いでもない気はする。これはある意味初めてをやり直しているようなものだから。
 そんなことを考えながら、入れ違いに、俺もバスルームを借りて、一日の汚れを洗い落とす。

「ふう…さっぱりした」

「早速くつろぎやがって…」

 スウェットに着替え、平静を装って部屋に戻る。
 エアコンを入れておいたおかげで、室内はかなり暖かくなっていた。

「なんで着いて早々、掃除なんてやってんだあたし………」

「誰のせいだよ………クタクタなのに余計に疲れさせやがって………」

 下着にシャツ一枚という艶かしい姿のかずさを努めて視界から逸らす。まあ今さらって気がしないでもないけど…
 高級そうな、柔らかで毛の長いボアカーペットに腰を下ろす。値段など最早考えたくもない。
 しかし一切頓着せず、熱いシャワーで火照った身体を投げ出した。かずさが………

「あたしのせいじゃない。細かくて神経質で、お節介で几帳面な誰かのせいだ」

「俺だけのせいじゃない、ずぼらで大雑把で、物臭で面倒臭がりな誰かのせいでもある」

 ………こんな風に寄って来て、一緒に座ってくれることを期待して。
 大の字に寝転がった俺の傍に、シルクのショーツに包まれた尻が降りてきた。
 初めて旧冬馬邸で泊まったあの日の翌朝、風呂上りに同じ格好で鉢合わせて、蹴っ飛ばされたのが懐かしい。

「………呆れた。阿呆らしい。馬鹿みたい」

「おおむね同意するが、お前が言うのは釈然としない」

 あの頃の空気が、懐かしい雰囲気が、距離感を縮めただけで戻ってきたような錯覚。
 そう、錯覚だ。今はもうあの頃より強く強く繋がっている。あの頃の比じゃない。



 これは、咎人の絆だ。

 一つの愛のために、大罪を犯した者同士の絆だ。

 大切な人たちの、怒りと憎悪の上にしか成り立たない幸せの絆だ。



「でも、それでもさ」

「あ…! ぁ………」

 そっぽを向いていたかずさに手を伸ばし、ぐいと引き倒して頭を抱え込んだ。
 一瞬聞こえた嬌声はあえて聞こえなかったフリを決め込む。

「きっとこれからは、こんな風にやっていくんだろうな、俺たち」

 洗い髪に顔を埋めながら優しく語り掛け、シャツごしの背中を、下着に包まれた柔い肉を撫でる。
 心からの愛を込めて。そっと、そっと、かずさの緊張を解きほぐす。

「………うん。そう、だな。きっと…そうなんだな」

 陶然たる面持ちで、ささやくような応(いら)えを零したかずさは、抵抗らしい抵抗も無く。
 これでいい。たぶんこいつはまだ、自分から俺を求められない。
 最後の最後で躊躇する気弱さは、俺がこいつに植え付けてしまった呪いだ。

「ん、ぁ…春希?」

「どうした…? かずさ」

 おとがいに手を添え、その濡れた瞳と唇を俺の顔の前まで誘い込む。
 もちろん抵抗なんて無い。どころか、途中から自分で顔を寄せてきた。
 きっとそれが、今のかずさの精一杯。ここから先は俺が導く。

「なぁ、春希? お前、ここにいるんだよな? あたし今、お前に抱かれてるんだよな?」

「そうだ。いくらでも確かめろ…俺が、ここにいるってこと。お前を…抱きしめてるってこと」

「ぁ、ん…む」

 おずおずと唇を寄せてきたかずさを、まずは舌先で迎えてやる。
 ゆっくりと、しかし何度も、柔らかな粘膜をねぶり、薄い唇を開かせる。
 そうしてやっと、中からピンクの舌が顔を覗かせた。

「んぁ、れる…ちゅ、ふぅぅ…んっ、ちゅる…ぷ、は、ぁ…」

 ざらついた真っ赤な肉を二枚、摺り合わせ、こすりつけ、絡ませ合う。
 まだまだ拙い舌使いに、しかし俺は焦ることもなく、かずさの動きが慣れてくるまで繰り返す。
 流れ落ちる透明な滴を啜り、自分のものと混ぜ合わせて送り返し、それをまた含ませて。
 俺がこいつに教え込む。甘え方も、溺れ方も、愛し方も、何も考えずに出来るようになるまで。

「ん、ぷはぁ………、触れ合えなかった…っ! 五年間、お前の幻にしか会えなかったっ……!」

「いるよ…かずさ。俺はここにいるよ。幻なんかじゃない、本物の、俺だ。ん…む、ぅ」

「んんん~っ!? ん、く…ぅぅぅん………っ!」

 寂寥と慨嘆の言葉が漏れ出る前に、急いで唇を塞いだ。
 優しく、隙間無く、緩く開けたまま、動かせるのは二枚の舌だけになるように。
 左手で頭を抱えながら、空いた右手は遊ばせることなく背を撫でる。
 触れ合わせた唇は離さないまま、互いに必死で舌を味わい続ける。

「あむ…ぷ、は、やっと会えたときは、もうお前は雪菜のものになってて…! もう、あたしが触れてもいい男じゃなくなってて!」

「今はもう、お前のものだ。お前だけのものだ。これからは………お前が好きにしていいものだ」

「よこせよ…お前、を………くれよっ…! 欲しいよぉ………春希ぃ………っ!」

「もうやったぞ? 俺を全部………それこそ、俺を形作っていたものを全部、だ」

「ぅ………ぅぇ、ぅえええっ…ぃぇっ…春希ぃ…はるきぃ…っ、ごめん、許してぇ…」

「………かずさ」

「春希ぃ…っ! んん、むぅっ」

 寝転がる俺にとうとう覆い被さり、頬を掴んで唇を押し付ける。枕、用意するんだったな…
 それこそ一片の遠慮も無く、舌を差し込んでくる。顔中に舌を這わせてくる。
 その間、俺はかずさの求めるとおりに舌で応え、あやすように優しく髪を梳いてやる。

「許して…春希ぃっ………許さないで…雪菜ぁ………っ春希、許して、許さないで、春希ぃ………っ!」

「許さない。許せない。だから…お前は俺と、離れるなっ………許さないから、離れるなっ…! かずさぁっ…!」

 許すも許さないも、罪を犯したのは俺であって、お前は俺に唆(そそのか)されただけだよ。
 裏切ったのも、裏切らせたのも、全部全部。俺と言う悪魔に踊らされて、罪の果実を口にしただけだよ。

 だけど、甘いだろう? この果実は。
 俺という樹が、甘党のお前のために実らせた果実だ。
 お前と俺が実らせた罪の果実は、とてもとても甘いだろう?

「あっ!? …あ、あぁぁ、んぁう、はぁぁぁ…っ、ぁぁん、っっっぁぁっ!」

 不意打ちに、右手を下着の中へ潜らせた。尻を滑って向かった先は、泣き濡れる壷の中心。
 ほぼ予想通りだったとはいえ、凄まじい濡れ方に一瞬指を止めかけた。
 が、俺の指は止まるそぶりなど微塵も見せず、勝手に動いて勝手に侵入し、勝手にかずさを高めていく。
 気付けば左手もシャツの内側に侵入し、いつの間にかブラのホックを外している。
 舌も、かずさが求めるままに休まず動き、独立した三つの手順を同時に進めていく。

「ぁあ…う、うん、うんっ! んぅーっ!」

 そして、かずさも。貪られながら、俺のスウェットパンツを下着ごと脱がそうとする。
 でも脱がし切るには手が届かなくて、だからってキスはやめたくなくて、ついに足で引っ掛けてずり下ろした。

「んっ…ぷ、はぁ………足癖の悪い奴」

「ぅるさい…! やめんな! んぷ、ちゅ、れる……むぅぅぅ!」

 そりゃそうだよな…我慢できないよな。お前も、俺も。
 この国に着いてから、この時のことばっかり考えて、なのに日が沈むまでおあずけさせちゃったもんな。
 もう…一瞬だって、我慢なんかできっこないよな。する必要…無いんだもんな。

「………っ!」

「んむぅぁっ!? ………ぁ…っ」

 息継ぎに唇を離した一瞬を狙って、きつく抱きしめたまま転がり、互いの上下を入れ替えた。
 さっきとは逆に、俺がかずさに覆い被さる。少しだけ違うのは、キスを一旦やめたこと。
 そして、かずさの足が俺の腰に巻きつき、濡れて滾ったお互いの中心と中心が、むき出しのまま触れ合っていること。

「ん、はぁ…っ、いい、ぁっ…ぅあ、ん、いい、もっと、ぃぃ、はぁぁぁっ…っ!」

 シルクの檻から開放されて上向いた双丘を、両手で包み、努めて優しく揉み上げて。
 五年前に見たときよりも更に大きくなっているそれの、柔らかさを堪能しつつ。
 怒張した俺自身と、火傷しそうなくらい熱い蜜と粘膜を緩くこすらせながら、じわじわと。

「ぅ…ぅえええっ…うぇっ…春希ぃ……嬉しぃ…っ、嬉しいよぉ…っ」

「っ………く」

 かずさの両目から、とうとう滴が溢れて落ちた。
 その量は見る間に増え続け、止め処なく流れ落ち、長く艶やかな髪に吸い込まれていく。
 嬉しいのか? 嬉しいだけなのか、かずさ? 本当はそれだけじゃないんだろ?
 それだけじゃないことも、俺はわかってしまう。言葉どおりに受け取れないよ…

「ん…かずさ」

「ぁぅ…っ…春希ぃ…っ」

 目元に口づけて、流れる涙を口に含む。塩辛い………塩辛いなぁ、かずさ。
 その間にも、手と腰は休ませない。こういうことが、今の俺にはできてしまう。

 お前にはわかってしまうんだ。どうして俺にできるのか。
 俺がどうしてこんなに慣れているのか。どうして優しくできるのか。



 ◇ ◇ ◇



『相変わらず楽しそうに歌う奴だよな…
 そこは全然変わってなかった』

『…なんて、簡単に言うべきじゃないよな。
 だって、取り戻すまで三年かかったんだもんな』

『あの、輝いてる雪菜の陰に、
 三年分の泣いてる雪菜が隠れてるんだよな』

『そう思ったらさ…
 あの、笑ってる雪菜が嬉しくて、
 けれど、心が痛くなった』



 ◇ ◇ ◇



 だってお前は知ってるから。俺が、話して聞かせたから。

 俺が三年傷つけて、そして二年愛した時間のことを、教えたから。
 俺がお前を慈しむ手練の向こうに、雪菜を見てしまうんだろう?
 俺が積み重ねて、愛欲と悦びの海で、溺れ合っていた雪菜が。
 俺が裏切り、お前に裏切らせた、悲哀に打ちひしがれる、雪菜が。
 お前がまだ大好きなままの、不倶戴天の敵になってしまった、雪菜が。

「お前っ…ヘタクソじゃなくなっちゃったなぁ………うまくなっちゃったんだなぁ…っ」

「…っ、よせ、よ」

 ………わかってたさ。だって、雪菜を裏切った日から一ヶ月、ずっと予想していたから。
 最後の最後で躊躇してしまう、小心者でビビリのお前が、雪菜の名前を出してしまうことくらい。

「あたし………お前に、抱かれるっ…たびに、思い出しちゃうんだなぁっ…!」

「よせ、って……言ってるのに……っ!」

 ………わかってたさ。だって、お前と抱き合える日を一ヶ月、ずっと夢想していたから。
 お前に引きずられて、この時だけは思い出すまいとしても、雪菜を思い浮かべてしまうことくらい。

「あたしたち…もう、さ………雪菜を抜きには…繋がれなく、なっちゃったんだ、なあっ…!」

「だからっ………かずさっ…もう、よせ…っ!」

「あたし、それでも………お前が欲しいからっ………お前がいないの、嫌だから…っ!
 きっと、何度だって、雪菜を裏切って、お前を欲しがるに、決まってるんだよっ…」

 …あとはもう、繋がるだけ。踏み込むだけだ。
 手を休め、腰を休め、喋る舌を休ませて、かずさを強く抱きしめる。
 お互いの傷をえぐりながらの愛撫で、お互いに完全に準備が整ってしまった…

「ただ、春希が欲しいってだけでぇ…っ、何度だって、お前にお前を捨てさせるん────」

「────聞け、かずさ」

 これ以上は言わせない、と、決意を込めてかずさを見つめる。
 俺の強い口調が意外だったのか、かずさは驚いたような顔で黙りこくった。

「はる………き…?」

 いや、そりゃまあ、毅然として揺るがない北原春希なんて、自分でもないわーって思うけどさ。
 そんなに驚かれるなんてちょっと傷つくというか、なんというか………って、もういいや。



「俺は、最低の男だ。誰より好きだったひとを、幸せの頂点から不幸のどん底に叩き落した男だ」



 今の俺は、昔の恋人を想って泣きむせぶ、弱い北原春希とも決別したんだ。

 新天地で、今の恋人を命がけで護り抜く、強い男になるって決意したんだ。

 お前が言ってくれた言葉を、信じて頑張る北原春希なんだ。



「それまで吐いた言葉をすべて嘘に塗り替えて、大切な友人と、温かい家庭を、最低の方法で裏切った男だ」



 お前は言ってくれた。みんなを不幸にして手に入れた幸せだけど、世界一幸せだって。

 今の悲しみや、辛さや、後ろめたさは、どんな嬉しさや、楽しさや、前向きな気持ちでも絶対に和らげることはできない。

 だけど、今のこの幸福感は、どんな悲しみや、辛さや、後ろめたさでも絶対に消すことはできないって、お前は言ってくれた。



「人生の先輩たちに受けた恩を仇で返して、みんなみんな打ち捨てて、それでも………お前だけを欲しがった男だ」



 ぐいと抱き寄せて、額と額をくっつけて、濡れた瞳を見つめて、目を逸らさないで。
 お前の心に届くように。お前の目に映る俺に言い聞かせるように。
 最低の男の、汚く醜い本性を、受け取ってくれ。



 ◇ ◇ ◇



『ずるいよね、春希くん』

『あなたは…何年経ってもわたしに嘘をつき続けるんだね』

『忘れられるはずのない思い出を、
 忘れてしまったかのように嘘で塗り固めて、
 ずっと、自分を殺して生きてくつもりだったんだね』

『ただ…わたしのためだけに』



 ◇ ◇ ◇



『わたしは…もうちょっとだけここにいる』

『だから、ここでさようなら。
 …ね?』

『だから、たとえどんな大きな傷だって、
 いつか、塞がるよ』

『それじゃあね、春希くん…』



 ◇ ◇ ◇



「かずさ、お前を愛してる」   『お幸せ、に』



 その一言は、なんの抵抗も無く、なんの迷いも感じずに溢れ出た。
 字面通りに、含めた意味も無く、行間を読むだのもありはしない。

「お前のことを五年間、ずっと変わらず、愛し続けてた」

「ぁ…」

 それこそ心は僅かも揺らがず、かといって無感情にというわけじゃない。
 悲しさも辛さも関係ない、当前のようにあった、五年間眠らせてきただけの真実だから。

「お前がずっと欲しかった。お前と同じに欲してた」

「ぁ、ぁ…」

 新しく好きになった人を、五年かけてお前と同じくらい好きになった。
 そして、五年ぶりにお前に会って、昔よりもっともっと好きになった。
 正しさも信頼も友情も人道も家族も、それに近しい人たちよりも、愛した。

「何よりも、誰よりも、お前だけいれば、俺の幸せは揺るがない。だから────」

 俺に任せろ。お前との小さな世界を護り抜くから。
 俺がお前と世界を繋ぎ、未来を紡いでみせるから。

「────悲しみや、辛さや、後ろめたさの向こう側で、俺と、幸せになってくれ」

「はる、き………春希ぃ」

 かずさの泣き顔がくしゃりと歪む。ああ、俺はやっぱり、お前を泣かせることしかできないのか。
 できれば、嬉し泣きの笑顔が見たかったんだけどな。そう、あの時………

「春希………春希ぃ、はるきぃ」

「笑ってくれよ…かずさ」

 ………お前が五年ぶりにヘルパーだった柴田さんに会って、何も出来なかったと謝られて泣かれて。
 で、お前ももらい泣きして、だけど笑顔で抱き締めた、あの時の泣き笑い。
 俺はさ、泣かせたことはあっても泣いた笑顔を見たことは無かったから。
 そしてこれから先も見ることはないだろうなって思って、あの人に嫉妬したんだぞ?

「春希ぃ…っ! 春希春希、はるきぃ~~~っ!!」

「やっぱ、無理か。畜生、悔しいな………」

 ああ、もう待てない。お前が欲しい。お前が愛しい。
 泣かれたままなのは辛いけど、その向こうに幸せがあるなら。

「いくぞ、かずさ」

「うんっ………」

 五年前から続く、二度目の愛の契約を果たそう。
 病める時も、健やかなる時も、死が、ふたりをわかつまで────



 ◇ ◇ ◇





[31274] 後編
Name: 火輪◆a698bdad ID:f15796a0
Date: 2012/02/27 03:58



 ◇ ◇ ◇



「………」

「………」

 広いバスルームに、これまた大きいバスタブが置かれ、その熱気で浴室は白く煙っている。
 俺とかずさはものも言わず、熱い湯に二人で浸かっていた。
 曜子さんの趣味か、日本人の性か、いずれかは知らないが、風呂があるのは喜ばしい。
 
「………今、何時かな。どっかに時計ないか?」

「…ん、そこにある………うわ、いつの間に日付変わったんだろ…」

 かずさは俺の胸に背中を預け、俺の肩を枕にぐったりと脱力している。
 時折首をひねって俺のほうを向き、背中越しにキスをねだってくる以外はほとんど動かない。
 正直、後頭部が鎖骨に当たってちょっと痛い。でも、絶頂の余韻に浸っているかずさのために我慢する。
 心地良い気だるさを感じているのは俺も同じ。何しろ先ほど、湯船の中で一回してしまったばかりだ。

「帰ってきたの、何時だったっけ。っていうか、一息ついたの何時だったっけ」

「知るか。今のあたしは時間の感覚が狂ってるんだ…お前にいじめられすぎて」

「………ごめん、自制が利かなくて」

 我ながら呆れるが、あれからずっとかずさを抱き続けて今に至る。
 調子に乗りすぎたというか、やりすぎたというか、頑張りすぎたというか…
 たしか到着が日没で18時ごろだから、そこから掃除でプラス1時間。で、今が午前0時…うえ。
 かずさは五年ぶりで、しかも俺との一回しか経験がなかったっていうのに、なんて無茶を…

「いいよ、あたしは。だって…身体中で幸せ感じられたから………あっ」

「? どうした?」

「お前の…こぼれてきた」

「そ、そうか…」

 体内から、その…俺のアレが漏れてきたようだ。
 何回出したか、実はまったく覚えていない。記憶が曖昧なのは俺も同じだった。

「………えへへ」

「~っ!」

 淫靡な光景のはずなのに、かずさは恥ずかしがることもなく、それを見ながら嫣然と微笑む。
 童女のように無邪気な喜悦を浮かべながら、娼婦の媚態さながらの色香に満ちて。
 そのアンバランスな調和を目にして、またしても滾りと昂ぶりが俺の中心に満ちていく。
 一ヶ月以上禁欲生活を過ごしたとはいえ、俺、こんなに節操無かったのか…

「…また、大きくなった」

「い、いや、これは体が言う事聞かなくてだな…」

「いいよ、別に。悪い気なんかしないし、さ」

 そりゃバレるよな、この状態じゃ。こっちだって、かずさの尾てい骨に当たってるのわかるくらいだし。
 いい加減おとなしくなれよ、俺…もっと労らなきゃいけないのに。
 まあ、かずさが満足そうなのがせめてもの救いだけど。

 散々勿体つけてようやく繋がれた俺たちは、というか俺は、早漏の謗りを免れない真似をやらかした。
 直前まであったはずの余裕をかずさの体内に吸い取られてしまったかのように、あっという間に果ててしまった。
 だけど、そんな俺すら愛しいと言わんばかりに、かずさは悦びに呆けた笑顔で恍惚としていたりした。

 そんな表情を目の当たりにした俺の愚息は、一度暴発したにもかかわらず、より奮起して。
 それでかえって、残っていた強張りや変な義務感が緊張と共に抜け落ちて、続けざまに二度目以降へと突入した。

「なあ…春希」

「…ん?」

「あたし、もう駄目人間だ…しかも、それでいいや、とか思ってる…」

 貫くたびに嬌声をあげて悶えるかずさに、興奮が大きくなっていって。
 次第にかずさも慣れていって、加速度的に強まっていった快感に二人で溺れて。
 黙って役目を待ち続けるベッドを尻目に、高そうなカーペットを台無しにした。

「こうしていられるなら………こんなに幸せなら、人として駄目でも、全然構わない、なんてさ」

「…そりゃ、駄目人間だな」

「堕ちてく自分がさ、愛しいんだ。お前と一緒に堕落していく自分が……愛おしいなんて思っちゃってる」

「まあ、堕落しちゃったしな……色んな意味で」

 気付いた俺がやっとベッドに移動しようとして、だけどかずさはしがみついて離れなくて。
 仕方ないから繋がったまま抱えて運び、スプリングの弾力に身を預けた瞬間に再開して。
 何度も達し、かずさも何度も届かせて、獣みたいに我を忘れて導き合った。

「………好きだ。愛してる。夢みたいだ」

「話の前後が繋がってないぞ…まぁ、俺もだ」

 望まれるままに、すべてかずさの中に吐き出して、求められるままに、一度も抜かなくて。
 腰の周りが体液で大変なことになった頃、やっぱり抱えたままバスルームに赴き、ここでも始めてしまって。
 ペースと回数が異常なほどだった。何も考えてなかった。互いの存在しか考えてなかった。

「なら言葉にして言えよ。っていうか、言ってくれよ…浸りたいから」

「………好きだ。愛してる。ずっと、忘れられなかった」

「うん……あむ、ちゅ……」

 首を傾けて、かずさが俺の顎を甘く噛み、キスをねだってくる。
 慣れない動きで舌もいい加減疲れているだろうに、それでもまだ足りないか。

「もう、お前はひとりぼっちじゃない。これからは、俺がお前の傍にいる」

「………そっか、じゃ、ふたりぼっちだな」

「言葉は間違ってるけど、意味合いは間違ってないな。まぁ、それはいいとして…」

 のぼせる前にいい加減上がらないと。明日は朝一でオフィスへ行かなきゃならない。
 明日からに備えて体調を整えるために、しっかり寝て疲れを取っておかないと。
 …まあ、予定外の疲労も蓄積してしまったわけだし。反省。

「そろそろ上がって寝よう。明日からは、やることが山ほどある」

「…もうちょっといいじゃないか。明日だってゆっくり出ればいいし」

「駄目。本当なら到着した足でそのままオフィスに行くべきだったんだし」

「いきなり重要な仕事があるわけでもないだろ? 忙しくなるのだってまだ…」

「忙殺される前にって、半日でもオフをくれたお母さんの気遣い、無下にはできないよ」

「むぅ………わかった」

 むくれるなよ、これくらいで…とはいえ、素直に頷いてくれたし、突っ込むのはやめておこう。
 こいつもなんだかんだ言ったところで理解してくれてるんだ。
 明日からの俺は、正真正銘の真剣勝負だって。らしくない素直さが、そのことを無言で語っている。

 二人揃ってバスタブから出る。ざあっと音を立てて、長い髪から流れる湯が俺の体に滴り落ちる。
 本当に、切るのが面倒だから伸ばしていただなんて、とても信じられない。

「ほら、バスタオル」

「おう、ありが………って、なんで離さないんだよ」

 今度は何のつもりだ、このお姫様は。
 さては、さっき素直だったのは何か企んでいたからか?
 …うん、困った事に、すごく納得できてしまった。

「拭いて」

「………は?」

 こいつは何を…いや、え? 拭いてって、え? そういう意味?

「…お前を?」

「あたしを」

「…拭けと? 俺に?」

「そう。拭いて」

 この我が侭娘め…ここで久々に自己中モード入りやがりますか。
 相変わらず、睨んだ時の目つきの悪さと理不尽な傲慢さは他の追随を許さない奴。

「お前ね…」

「…拭いて!」

 おにぎり食わせた時と同じパターンか…態度で怒って内心甘えたいってあれ。
 これほっとくと項垂れたり拗ねたり泣いたりするんだろうなあ。
 仕方ない。是非も無し。俺はもう抗う術が無い。よし、自己弁護終了。

「はいはい…承りましたよ」

「ん…」

 いかにも不承不承、といったポーズを作って、かずさの背中に回る。
 まずは頭から。俺もお気に入りの、この長く艶やかな髪からいこう。
 かずさに少し顎を上げさせて、念入りに、しかし優しく水分を拭き取る。

 ある程度水気を落としてから、一度背中を拭き、再度髪を拭く。
 とにかく気を遣うな、これは。仕上げは流石に自分でやらせよう。

 そして、顔の周りから首へ。当てるくらいの強さでそっと。
 次は、そうだな…腕にいくか。右と左、丁寧に、強くこすり過ぎないように…と。

「よし。腕上げろ。腋の下も拭くから」

「…ん…ぅ」

 両手を上げるついでに、拭いた髪を持ち上げさせる。これだけ長いとたしかに大変だろう。
 腕の付け根の内側のくぼみにタオルをあてがい、そっと上下に動かす。
 こいつ、体毛薄いな…って、何を変態じみたこと考えてるんだ俺は。

 さて、お次は胴回り。もうだいぶ水滴は落ちてるから、撫で付けるだけで済むだろう。
 タオルを開いて手のひらにのせ、わき腹から乳房まで巻くように当てる。
 その上から両手で、まさぐるようにして拭いていく。と、いうか…

「は、ぁ…んぅ、っ…あぁ…っ、ん、あぅ…」

「…っ」

 …このボリュームのある乳房を拭くには、揉むようにして撫でざるを得ないわけで。
 結果的に愛撫のようになってしまうのであって、つまり不可抗力であって…

「はぁぁっ…っ! あ、ぁぁ、ぅん、ひあ…っ! んぅぅぅ~っ!」

 続いて下腹部、臀部、陰部といけば、こうなるのは避けられないわけで…
 決して俺のせいではなく、女性の神秘と小宇宙の成せる必然で…
 って、し、しっかりしろ、俺! あの時一度は無事にやり遂げたじゃないか、俺!

「ひぁ…ぁ…ぅん…は…春希ぃ…」

「…っ! お、終わった、ぞ…」

 よし、もう一安心だ! 足を拭いたら終了だ! もう敏感な部位は無い!
 耐え抜いたぞ俺! 俺耐え抜いた! 終わりは終了! 言葉おかしいけど気にしない。

「はぁ…はぁ…ぅぁ…」

「ほ、ほら、終わったぞ。もう濡れてるとこないぞ。さて、俺も…」

「…はるきぃ」

「うぉ、と…!」

 何かに耐えられなくなったかずさが、こっちを向いてしなだれかかってきた。
 …何かって何だろう。本当はわかってるけど考えたらいけない気がする。

「まだ、濡れてるとこ、ある…」

「い、いや、もう終わった…」

「まだ、濡れてる…」

「終わっ…」

「春希…」

 無事に終わった。残さず拭いた。なのにこいつはまだ濡れてると言い張って。
 とうとう俺に抱きついて、耳元にそっと唇を寄せて…

「ここも…また、濡れてる…」

 まだ? また? …また。も。も?

「濡れてるよ…春希」

 …終わっていた。俺のかずさも、かずさの俺も。
 我慢するのも、お互いの理性も。本能と欲望で、終了だった。



 ◇ ◇ ◇



「………喉、渇いたな。なんかあるか?」

「ワッサーあるぞ。普通のとガス入りの。ビールもあるけど」

「ビールはやめとく。ガス入りくれ」

「じゃ、あたしビールにしよ」

 性懲りも無くまたもやらかした俺とかずさは、入浴時間を30分延長して漸く上がった。
 今度こそさっぱりしたところで、二人とも腹に何も入れていないことに気付き、こうして冷蔵庫を漁っていた。

「「………けふ」」

 炭酸入りミネラルウォーターとビールの違いはあるものの、変なことで綺麗にユニゾンする。
 それがなんだかおかしくて、互いに顔を見合わせて、くつくつと小声で笑い合う。
 こんな小さな幸せが、今はこんなに愛おしい。

「クラッカーしかない。いいか?」

「もらう。あ、俺にもジャムくれ」

「待ってろ………ほい」

「…お前はジャムでクラッカーを食うんじゃなくて、クラッカーでジャムを食うんだな」

 さくさくと音をたて、二人でささやかすぎる晩餐を楽しむ。
 盛ったジャムの量は明らかに差があるけど、感じている幸せに差は無くて。

 買い置きのクラッカーをワインジャムひと瓶ごと平らげたあとは洗面所で歯を磨く。
 今日はトラベルセットだけど、その内ちゃんとしたやつを買ってこよう。

 そして二人連れ立ってかずさの部屋へ。
 かずさは裸のまま抱き合って寝たいようだったけど、三月のウィーンはまだまだ寒い。
 エアコンを入れてあるとはいえ、新生活二日目から風邪など引きたくないので却下。

 俺はさっさとスウェットに着替えてしまった。
 かずさも渋々だが下着を身に付け、さっきのようにシャツを着た。
 …さっきと違う? そのちょっと大きめのシャツは誰の…危険信号。忘れろ俺。

「今から寝れば5時間は眠れるな…時差ボケ修正にはちょうど良かった」

「…何時に起きるつもりだよ?」

 ようやくベッドで横になった俺の隣に、当たり前のようにかずさが寄り添う。
 厚い布団を肩までかけさせ、かずさを包む。俺はこいつの抱き枕。

「もちろん6時半。俺の通常サイクルがこれなんだから諦めろ」

「で、あたしも起こすのか?」

「寝ててもいいぞ。俺は朝市で食材買って来るけど」

「いいよ、起きるから…朝飯なら食堂街に行けばいいだろ。あたしも行くよ」

「なら、そうするか。亭主の好きな赤烏帽子じゃないけど…」

 …ふと横を見て、茶化そうとした口を閉じた。かずさは目も閉じずに俺を見ていた。
 いつものような、お前寝る気ないのか、なんて野暮な突っ込みも喉の奥で留まる。

「…どうした?」

「………」

「…かずさ?」

 射干玉(ぬばたま)の瞳は真っ直ぐに俺を見つめ、現(うつつ)に夢見るような表情で。
 でも、見ているこっちが不安になるくらい真剣で。文字通りに、夢中で。

「あたしの部屋のベッドに………春希が寝てる。そしてあたしが一緒に寝てる」

「………」

「あたしがずっと夢見てた…叶いっこない願いが、叶ってる…」

「…うん」

「あたしが喋って…春希が相槌打って…」

「……叶ってるな」

「一度くらいこっちに来てくれないかな…なんて、思ったこともあって…」

「…っ、それは」

「…あったのか? お前も」

 話の前後が繋がらない、不意打ちな問いかけに動揺して。
 行こうとしたに決まってるだろ、なんて、いきおいそう答えかけて…
 結局、続く言葉を飲み込んだ。



 ◇ ◇ ◇



『冬休みの間に目標額を達成したいんです。
 貯金と合わせて20万用意しないと』

『20万って…
 ヨーロッパにでも行くつもりか?』

『よくわかりましたね。
 スペイン、イタリア、フランス8日間の旅です』

『…正解を引き当てておいてなんだけど、
 どんだけブルジョアな卒業旅行だよ』



 ◇ ◇ ◇



 思い出すのは、あの誰かさんみたいにお節介な後輩。
 鋭いはずの彼女でも、結局気付かなかった。
 当然だ。あの時の彼女は何も知らなかったから。

 よくわかりましたね、って返されたとき、一瞬ぎくっとして。
 必死に平静を装って騙しきった俺の態度に、気付くことはなかった。



 卒業までに20万なら、普通、一人暮らしの軍資金? 中古でマイカー探し?
 春までに大金が必要な状況、他に推測できる理由はいくらでもあるのに。

 20万と聞いて、ヨーロッパ行きがいきなり出てきた俺の発想の不自然さには、気付かなかった。
 動機は違えど、同じことをしようとしていた時期が俺にもあったってことには、気付かなかった。



「春希…?」

「…いや、なんでもないよ」

 言えないし、言ったところで意味は無い。
 結果を言えば、俺は結局行かなかったんだから。
 かずさの願いを叶えてあげられなかったんだから。

 …結果が、すべてなんだから。

 動機や過程なんて、苦悩や懊悩なんて…何の価値も無い。
 そこにどんな理由があったとしても、どれだけ熟考したうえでの結論でも。
 その結論に巻き込まれた人たちにとっては、塵芥(ちりあくた)に等しいものだ。

 …過程で、酌量されるべきじゃないんだ。

 仕事だってそうだ。求められるのは結果が全て。
 ミスやトラブルなんて、あって当たり前のものであるが故に、計画はそれを予め盛り込んでおくべきだ。
 どれほど途中が素晴らしかろうが、誠実であろうが。結果が酷ければ途中など評価するに値しない。

 それが人と社会における不文律であって…どれほど無念に思っても、容易には覆らない事実だから。

「…っ、く」

「春希…? どうしたんだ…?」

 俺への評価は変わらない。
 俺は飲み込まなければならない。
 俺こそは最低最悪の人間なんだって。

 ただ、俺以外の人には、逆であってほしい。

 あそこまで傷ついて、あそこまで耐え抜いた雪菜は。
 長年見守ってくれて、ずっと助けてくれた友人は。
 傍でずっと支えていた、温かい家族は。

 俺が踏みにじった人たちには、逆であってほしい。

 ここに至った過程こそ、考慮されてほしい。
 最低の結果を押し付けられたあの人たちには、過程でこそ評価されるべきだ。
 俺という悪魔に弄ばれた、あの温かい人たちこそは、これから先に幸せになってほしい…!



 どうか、どうか…! 異国の神よ、どうか!
 その為の試練をすべて俺に課して下さい! 俺に罰を下さい!
 俺はそれをこそ糧にして、生きていくから…! 俺以外のすべての人に祝福を…!



「………ふざけるな。春希の罪は…半分だ」

「っ!?」

 …なんて、俺が、吐き気を催すほど醜い、独り善がりなことを考えていたことを、見抜かれた。
 自分よりも、誰よりも、幸せであって欲しいと願っている、こいつに。

「やっぱ当たりか…痛いんだよ、お前。本当に誰でも…誰よりも、自分を追い込むんだな」

「っ、かずさ、俺は」

「喋るな馬鹿野郎。この唐変木。これは、この罪は…あたしとお前で犯した罪だ」

 いつのまにかその瞳には、こいつらしくもない強い光が宿っていて。
 体が、腕が、絡まる足が、俺を包むかずさのすべてが、俺の心を糾弾する。

「どんな事情や、理由があっても、あたしとお前の罪は等価だ。
 とてつもなく重いこの罪は、二人で犯したからこそ、こんなに重いんだ。
 辛くて、苦しくて、後ろめたい…二人で一緒に背負うべきものなんだ。」

 俺たち二人は共犯だと。教唆者は正犯者と同じだと。
 どちらがどちらか、わからないけど、どちらが先かもわからないけど。
 卵が先か、鶏が先かなんて、もうどうだっていい。

「………想像だけで…なに言ってんだよ、馬鹿。テレパシーでも使えるのか?」

「馬鹿って言うな。あたしがお前のものだからって…好き放題に扱うな」

「………っ」

「調子に乗るな、馬鹿。お前だってもう、あたしのものなんだから、な」

 肩に乗せていた頭を、俺の顔の前まで持ち上げて、かずさは、ぺろり、と、真っ赤な舌で頬を舐める。
 吸い付く音を何度も響かせて、頬に、唇に、瞼の上に、口付けの雨を降らせる。
 いつの間にか苦しげに歪んでいたらしい俺の顔に、繰り返し。

「ん…むぅぅ、ぁん…」

「あ、む…ぅぅ」

「ぷぁ、はぁ………なあ、春希」

 このキスは、契約だ。絶対的で、恒久的な契約だ。
 どんなに確かな誓約書よりも効力の強い、悪魔的な拘束力を持った空手形だ。

「お前があたしの心を護ってくれるように。
 あたしもお前の心を護ってやれるんだ、ってさ」

 ああ、そうだ。そうだった。
 そこは履き違えてはいけなかった。目を逸らしてはいけなかった。
 かずさを愛するなら、かずさの罪も愛さなければいけなかった。

「これくらいの自負なら…持たせてくれたって、いいだろ?」

「………うん。そうだな。そう、だよな」

 こいつを形作るすべてを愛する。すべてひっくるめて愛する。
 俺と一緒に歩んでいく、こいつの罪深さも愛するんだ。
 それこそを認めなければいけない。



 俺が一人で背負っちゃいけないんだ。

 かずさにも一緒に背負ってもらわなければいけないんだ。

 俺たちは、互いを頼りに歩いていくんだから、だから。だから………



「やっと納得したか、杓子定規」

「俺が悪かったよ…いや、お前も、悪かったよ」

「そうだ。あたしも悪いんだ。くく…あは…あははっ」

「…なんだよ、いきなり笑い出して」

「だってお前っ、くふ…はははっ、謝っといて、俺が悪くてお前も悪かったって、意味わかんないっ…くくっ」

 俺はもう自分ひとりで抱え込んだりしない。
 辛さや苦しさを自分の中に閉じ込めて誤魔化さない。
 俺だけの罪だなんて引きこもって、自分に逃げたりしない。

「ちぇ、ほっとけよ。もう寝るぞ」

「あはははは…はは…く、苦し」

「いつまでもツボってんじゃねーよ!」

 ああ、こいつが愛しい。世界の誰よりも。
 ああ、ふたりは罪深い。世界の誰よりも。
 ああ、世界で誰より愛深き、いと醜き咎人の恋人。

「おやすみ…はるき」

「おやすみ…かずさ」

 この日から続く、永久なるの愛の契約を果たそう。
 喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも。
 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り。

 愛し、慈しみ、護り、護られ。

 願わくは、死が二人を分かつまで────



 - DAS ENDE -





[31274] おまけ前編
Name: 火輪◆a698bdad ID:f15796a0
Date: 2012/02/27 03:53


 ◇ ◇ ◇



 幽かな意識の中、これは夢だと唐突に気付いた。

 肌を突き刺すような冷たい夜気の中、白い花弁が幾つも舞っている。

 俺が伸ばした左手の先に朧に見えるのは、誰かの右手。
 触れそうで、触れ合えなくて、触れたかと思った瞬間、幻のようにすり抜けた。
 一度は求め合った繋がり。俺が拒絶した繋がり。その手の主は、俺が誰より傷つけたひと。

 決して忘れてはいけない記憶。
 どれほどの月日が過ぎようと、忘れてしまうことのできない記憶。
 応援してくれた人たちがいた。大切な友人がいた。
 そして他にも、背中を押してくれた温かな人たちが、連続的に浮かんでくる。



 ずぼらでいい加減で、物臭でだらしのない、でも少しミステリアスなあいつがいた。
 そんなところはかずさに似ているくせに、女を感じさせない奴だった。
 あいつの真意が那辺にあるのかは、結局わからないままだった。

 誰かさんみたいにお節介で、行動力に溢れていて真っ直ぐで、でも真っ直ぐ過ぎる後輩がいた。
 かずさが髪を縛れば、あんな髪型になるだろうか。そういやあの子も猫舌だっけ。
 俺の醜い部分を曝け出してしまったにもかかわらず、俺を認めてくれた。

 教えを受け、頼りにし、尊敬し、戦慄し、でも少しかわいいと思ってしまった上司がいた。
 格好良くて魅力的な女性だった。付属時代のかずさに感じたものと似た何かを抱いたかもしれない。
 抱えた悩みに「わからない」と言ってもらえた時、俺だけがわからないものではないと知って少し救われた。



 なのに全てを台無しにした、抗い難く、許し難い俺のエゴの数々。
 俺の抱えた自己矛盾。最初の裏切り。全てが始まる前のステージが思い出される。

 壁越しのセッションで作り上げた関係。屋上で出会った運命。
 一生に一度有るか無いかという出会いが同時に二回。ギターがそれを呼び寄せてくれた。
 一人だったものが二人になり、別の二人になり、やがて三人になって、観客に喝采をもって受け入れられた。

 めちゃくちゃ楽しかった思い出は、俺がその日に滅茶苦茶にした。

 三人は二人と一人になり、別の二人と一人になり、やがて一人と一人と一人に分かたれた。
 ギターはピアノと触れ合う事ができなくなり、音が消えたのち、歌声も失われた。
 どれほど望んでも、二人と出会う前へと巻き戻すことは叶わない。

 俺が傷つけたのは片方だけじゃなく、二人とも両方だった。
 雪降る夜の街角で一人立ち竦ませるような、手酷い傷つけ方をした。
 明かりの灯らぬ散らかった部屋の中、声を殺して泣き咽ぶくらいに嘆かせた。



 俺の見たことの無い情景が浮かぶ。これも夢ならではだろう。
 ホテルかどこかの窓の向こうに座り込んで、雪の降る夜空を見上げるかずさが見える。
 その雪の中、踏み切りを前に、途方に暮れているような彼女が見える。

 俺が逃げたかずさをホテルに迎えに行った時、ちょうど雪が降っていた。
 さっきまで雪だったんだよ、と言った俺に、ホテルの窓から見てた、と言った。
 ちょうどこんな感じだったんだろうか。そしてその頃、彼女もこんな感じだったんだろうか。

 思い出すのは迎えた結末。海を隔てた別れと、心を隔てた別れ。
 どちらも俺が引き裂いた。二人を繋いだのも俺なら、引き裂いたのも俺だった。



 ステージの上の彼女がスポットライトを浴びて、白い手袋に包まれた左手を天にかざす。

 夜の街角でかずさは一人降り注ぐ粉雪を浴びて、冷たい冬の空に向かって右手を伸ばす。



 俺の右手は、その左手を握った。迷わず、しっかりと。
 降りしきる雪を共に浴び、空に伸ばさずぶら下げたままの、かずさの左手を。

 彼女の手は握れない。眩い世界にはもう、行けない。行かない。
 取るべき左手は天にかざされ、右手は取ろうとしてもすり抜けてしまったから。

 彼女には、二度と触れ合えないから。
 彼女とは、二度と触れ合わないから。
 この手に取って触れ合った、堅くて冷たい指を離さないために。



 ◇ ◇ ◇



 目覚めの感覚と共に、徐々に意識が戻ってくる。
 体と頭が睡眠から覚醒し、俺を現実へと導いた。
 3月24日の朝。起きてまず、目に入ったのは…

「………おはよ」

「………おはよう…っていうか、俺より先に起きてたのか」

 俺の顔を覗き込んでいるかずさの顔だった。
 胸板に回した腕や絡ませた足は寝た時と同じままに、顔だけ浮かせて寝顔を見ていたらしい。
 薄暗い中でも睫毛が確認できるくらいに顔を近づけ、夜色の虹彩に穿たれた黒い瞳が俺をじっと凝視していた。
 何か言いたいような、でも言えないような、なんとも複雑な感情を滲ませた表情で。

「寝てないのか…?」

「寝たよ。で、お前より早く起きただけ」

「本当か?」

「本当だ」

 起きたばかりのせいか、まだ頭の回転が鈍い。
 枕元から手探りで自分の腕時計を探し当てて、顔の前まで持ってくる。
 時刻は6時を回ったばかり…予定より30分も早い目覚めだ。

「お前が言ったことだろ。朝は6時半に起きるって。あたしはそれに従っただけだ」

「言うには言ったが、お前が俺より早起きするとは思わなかった…」

 些かばつが悪い…かずさを少し見くびり過ぎていたかもしれない。
 このぐうたらが、まさか俺より早く起きるとは、文字通り夢にも思わなかった。
 認識を修正するべきだぞ、俺。こいつのことなら何でも知っているなんて自惚れは捨てないと。

「ふふん、ざまあみろ。ぁ、ん…む」

「んぷ…!? ん、ぅ…」

「んっ、んぅっ、んぅぅっ…っはぁ、ちゅる…んん」

「ゅぅ…っぷ、ひゅぅ…ん、ちゅ…」

 得意げに微笑んだのも束の間、かずさは俺に覆い被さって口付けてきた。
 寝ぼけた頭と突然のことで戸惑う俺に構わず舌を差し込んでくる。
 覚えたてのキスで口内を侵食される。先制攻撃というか、牽制の口撃というか。
 本当に覚えが早い。それに、昨夜散々酷使した舌が、よくまだこれだけ動かせるな…

「っぷぅ………はぅ…」

「っはぁ…お前、朝からいきなりだな…」

「あ、いや…おはようのキス?」

「おはようで舌入れるのかお前は」

 それはあまりにも…良すぎるだろ。癖になったらどうする。
 朝からお互い口の周りが大変な事になってしまった。
 手で拭おうとして思いとどまる。ついでに顔を洗えばいいか。

「起きよう。風呂、行くか?」

「ん。行く」

 かずさを伴ってバスルームへ向かう。当たり前のように寄り添って。
 言葉にしなくても、一緒に入るという互いの認識にずれが無いことにやや問題を感じなくはないけれど。
 初春のウィーンの朝は肌寒い。朝風呂は習慣にしてもいいだろう。

 俺がスウェットを脱ぐ横で、かずさが着ていたシャツを脱いで下着姿になる。
 …やっぱりこのシャツ俺のだ。寝る時はあえて追及しなかったが…いつの間に。

 まあ言うまい。倒錯的な嬉しさを隠しつつ、何食わぬ顔でスルーしてトランクスを脱ぐ。
 かずさは既に一糸纏わぬ艶姿を披露している。俺も今さら躊躇うはずも無い。
 昨夜あれほど睦み合ったし、一緒に入浴するという時点でこいつも気にしない…

「………」

「………? どうした?」

 …はずなんだが、かずさは俺の体を見て固まっていた。
 バスルームに入るでもなく、俺の傍を離れないまま、そっぽを向いている。
 白い頬を薄桃色に染めて羞恥に俯いているような…なんか様子がおかしいな。

「…かずさ?」

「…え? あ、うん…いいんだ」

「…? いいって何が…っ、と」

「うん…いいよ…春希。まぁ…嬉しいし。でも、お前さ…」

 しかもくっついてきたよこの甘えん坊。それも全裸で。柔らかいな…こいつ。
 思わず抱き締めてしまう。愛しさが溢れてしまう。心が…満たされていく。
 それを戒める理由は無いし、自重する必要も無い。

 でも、流石に今はやめておこう。今日からの時間は大切に使わなければならない。
 心苦しくはあるけど、この昂ぶりも今は押し留めて………って、ま、まさか!?

「…朝から底無しだな。ゆうべ何度したのか覚えてないぞ」

「こ、これは朝だからだよ!」

「…え?」

 かずさ…朝の男の生理現象は知らなかったんだな………
 って、こら、握るな! 気持ちいいだろ!?



 ◇ ◇ ◇



 シャワーで互いに寝汗を流し、着替えて朝市へ出かける。
 やはりと言うか、まだまだ寒さが厳しい。路面電車の乗り場へ行くまでに、耳や指先が真っ赤になった。
 俺の格好は、シャツにスラックス、ここ数年公私共に活躍している冬用コートと、代わり映えのしないもの。

「洒落っ気の無い奴…」

「…ほっとけ。うう、やっぱ寒いな」

 清潔かつ、だらしなくなければ服装にはあまり拘らないんだよ。
 とはいえ、もう少し防寒対策をしてくるべきだったか…次からはマフラーくらい巻いてこよう。

「お前は一人で温かそうだな…」

「…ほっとけ。ああ、ぬくいぬくい」

 かずさは襟元にファーの付いた厚いダウンジャケットに手袋のおまけつきときている。
 くそ、こいつに準備と先見性で遅れを取るとは、我ながら情けない。

 などと心中で嘆息しつつ、まだ人の少ない電車に乗り込んだ。
 俺が手の中の乗車券を矯めつ眇めつ眺める横で、かずさが窓から朝の街並みを流し見ている。
 時間がゆったりと流れているようなこの感覚は、日本には無かったものだ。

 懐から財布を取り出し、なんとはなしに開いてみる。
 そこから覗くカラフルなユーロ札。片面が国ごとに違う絵柄というユーロ硬貨。

 ボードゲームで使うおもちゃの通貨みたいだ、なんて考えは、きっと俺がまだまだ異邦人である証。
 見慣れない通貨に別世界の街並み。目に映るものすべてが珍しさを覚える光景。
 この国における自分自身というものに、異物感が纏わりついて拭えない。

 心の中で、もう一度そっと嘆息する。事ここに至って、終の棲家を異郷だと感じているなんて…
 慣れるまで、馴染むまで、どの程度の時間が必要なのか、なんて益体も無い想いにふける。

「………」

「…っと」

 そんなことをつらつらと考えていたら、かずさが身を寄せてきた。
 これは…考えてたことバレたかな。相変わらず勘の良い奴…というより、俺が露骨すぎたか?

「…べー」

「…この」

 ちょっとだけ申し訳なく思って目線を送ってみれば、舌を出して見せやがった。
 くそ、茶化された。しかもちょっとかわいいとか思ってしまった。
 とりあえず表情だけむくれて見せておき、そっと抱き寄せて誤魔化してみる。

 どうやらこれはお気に召したようだ。気持ち良さそうに目を細めて、俺の首に鼻をこすりつけてくる。
 俺の誤魔化しに付き合ってくれたかずさに内心だけで礼を言いつつ、目的地で電車を降りた。



 ◇ ◇ ◇



「…へえ、この時間でも賑やかだな」

 かずさを伴って初めて訪れた朝市は、規模もそうだけどまず客足の多さが意外だった。
 通りの両側に軒を連ねた無数の出店には、思ったよりも多くの客が訪れていた。

「あたしもこの時間に来たのは久しぶりだけど、今は特に賑やかなんだ」

「そうなのか?」

「もうすぐ復活祭(イースター)だからな」

「ああ…なるほど、だからか」

 磔刑に処されたイエス・キリストが三日目に復活したことを祝う祝日。
 春分の日の後の、最初の満月の、次の日曜日、という、やや複雑な移動する祭日。
 キリスト教圏ではクリスマスよりも盛り上がるのだとか。
 カトリックの多いオーストリアはウィーンにおいて、年に一度の大きなお祭りだ。

「よその国じゃ復活祭の二日前、御子が処刑された受難の日である『聖金曜日』も祝日なんだけど…
 オーストリアじゃ公式の祝日じゃない。でも、自主休日になってるところは結構あるんだ。
 国立歌劇場、ブルク劇場、あとは…フォルクスオーパーの公演なんかも休みだっけかな」

「へえ、さすがウィーン在住」

「お前もそうだろ。ま、そのうち嫌でも覚えるさ」

 他愛の無い世間話を連ねながら、屋台や食堂の集まる通りに進む。
 ドイツ料理系統の瀟洒なカフェだけでなく、国際色豊かなラインナップだ。
 よくよく見ればイタリアン、中華、タイにベトナム、それに日本食の店まである。
 店の前を通りかかったら、金髪碧眼の中年男性スタッフから「コニチワー!」なんて声をかけられた。

「Hallo!」

 軽く手を上げ、英語のHelloとは綴りの違う、ドイツ式のHalloで軽く挨拶。
 日本人相手の商売もだいぶ慣れている。商売人が逞しいのはどこの国でも同じみたいだ。

「Grus Gott. Zwei」

「Ja!」

 朝食には、かずさの選んだ小さなカフェに入った。
 出迎えてもらった年配の女性店員に二人連れと告げ、適当に席につく。

 グリュースゴットというこの地の挨拶は、神のご加護がありますように、という意味らしい。
 こんなところでも、カトリックの国だということが窺える。

 小さいけど、とても趣きのある温かな雰囲気の店だった。
 ログコテージ風のフロアに明るいランプ、テーブルには色つきアルコールグラスの蝋燭。
 オブジェではない本物の観葉植物の鉢、丸みを帯びたままの木材の支柱が目に優しい。

 客層は、お茶を楽しむ老夫婦、ステッキを椅子に預け、スーツ姿で新聞を広げる老紳士など。
 他には、料理をそっちのけにしながら、一心にスケッチブックにコンテを走らせている若者もいる。
 静かな中に優しい空気の揺蕩(たゆた)うこの空間は、実にかずさの好みっぽい。

「あたしはこれにする」

「どれ? げ…」

「…なんだよ?」

「い、いや、なんでも…俺はこれにしとく」

 かずさは、パンとホットチョコレートに仔牛のシチュー、なんて朝から胸焼けしそうなオーダーをしやがった。
 俺はとても付き合いきれそうにないので、パンの他にはエスプレッソと卵料理をチョイスしておく。

 頼んでから運ばれてくるまでおよそ15分。これはかなり早い方だという。
 観光客が行くような有名店は30分くらい普通にかかるらしい。

「ここは早いからよく来るんだ。人も少ないし」

「気が短くて人付き合いが苦手で、なのに外食ばっかのお前にはぴったりだな」

「うるさい。黙って食え。あ…なんだよ、いらないってこんなの」

「うるさい。黙って食え。野菜もちゃんと食わないと栄養が偏る」

 サラダボウルを挟んでじゃれあいつつ、食べ終わったころには7時を回っていた。
 慌てて、というほどでもないけど、一服することもなく店を後にする。

 そのまま朝市で食料品を買って歩く。
 基本的には、手間の掛からない食材を買い込んでいく。
 パン、生卵、ソーセージ、ハム、生野菜、果物…こんなところだろう。

「オマチドー!」

「あはは…Danke schon!」

 日本のようにビニール袋ではなく、紙袋で手渡される。ノリとしては、昔ながらの八百屋さんみたいな空気。
 これがまた人情味溢れて心地よい。基本的にキロ売りで、1キロ1ユーロという破格の安さもありがたい。
 おじさんやおばさんが味見するかと勧めてくれるのにも驚いた。

「朝じゃなければもうちょっとぶらついてみたいな、ここ」

「休みにもう一度来ればいいだろ。その時はあたしも行くから」

 品揃えも多く、ヨーロッパのものだけでなく、日本やアラブ系などアジアの食材も扱っている。
 周囲から移り住んできた様々な人種のせいか、食文化は多民族の影響を受けて多種多様だ。
 これなら当分買い物で困る事はなさそうだと安堵した。



 ◇ ◇ ◇



「じゃ…いってきます」

「ん…いってらっしゃい」

 買い物を終え、荷物を置くためだけに帰宅したのが7時半。
 俺はこの足でそのまま、株式会社冬馬曜子オフィス欧州営業事務所へと出勤する。
 そう、ついに初出勤…は、いいんだけど………

「帰りの時間がわかったら、あたしの携帯に電話しろよ」

「ん、事務所からかけるよ」

「昼はお互い勝手に食べていいとして、晩ご飯は一緒に食べるんだからな」

「わかってるって」

「あと…それから…あ、なんなら事務所まで迎えに行くぞ? 連絡くれればその時間に…」

「…心配すんなって」

 …袖を離せかずさ。もう5分以上も玄関でこんなやりとりを繰り返してるぞ俺たち。
 まあ、なかなか離してもらえないことに、俺も若干の嬉しさを感じてしまっているのは確かだけど…
 いつまでもこうしていたら流石に駄目すぎる。ここはかずさに我慢させるところだ。

「…かずさ」 

「あ…っ」

 かずさの袖を掴む手を取り、そっとキスしてみた。一度と言わず二度三度。
 いささかならず気障な真似をしてしまったと自嘲しないでもないが、効果はあった。
 驚いたように目を丸くして、さっきまで袖を離そうとしなかった指がほどけていく。

「お前のために、戦ってくる。送り出してくれ」

「春希…う、ん」

 かずさは呆けたような蕩けたような視線を俺の顔に注ぎつつ、渋々俺を送り出した。

 路面電車に乗りながら、出掛けのかずさの態度に違和感を覚える。
 俺とかずさは最低の裏切りを決意したあの日から、ずっと寝起きを共にしてきた。
 時間にして一ヶ月以上、ふらついた共同生活を送っていた時期も含めれば、二ヶ月以上も。
 その間、こんな風に駄々をこねる事は無かった。でも、今朝は、この変化はなんだろう?

 ほとんど自動的に電車を降り、かずさを想いながら駅前のオフィス街へ歩を進める。
 繋がりたい欲望を互いにずっと我慢した末に、気が狂うくらいに抱き合い、求め合ったゆえの変化だろうか?
 何がかずさをあんなに不安にさせてしまったのかわからない。

「時間切れ、か…頭を切り替えろよ、北原春希」

 考え事をしたままオフィスに着いてしまった。
 やっぱり昨日あちこちぶらついて周辺や交通機関を下見しておいて良かった。
 初日から道に迷いましたなんて言い訳から入るのは御免だったしな。

「さて…行くか!」

 まだ始まってもいない、俺の人生最大の真剣勝負。
 今日はその最初の一歩。気を引き締め、オフィスの入り口を開いた。



 ◇ ◇ ◇



 株式会社冬馬曜子オフィス欧州営業事務所には、二人の女性スタッフが詰めていた。
 フランス系の年配の女性二人組で、曜子さんとの付き合いも深く、しばらくこっちをフォローしてくれるらしい。
 一人が通常業務を担当し、もう一人が俺に付いてくれるという至れり尽くせりの環境。

 ついでに英語、ドイツ語、フランス語の三ヶ国語が通用するスタッフなのもありがたい。
 本当、お母さん…社長には、当分頭が上がりそうにない。

 取得した就労ビザの関係書類その他を事務所に保管させてもらう。
 滞在届、滞在許可証、労働許可証、定住許可証などなど。書類だけでも膨大だ。

 ちなみに、出国、入国、申請、準備などで、日本円にして数十万円が飛んでいった。
 これには基本的な勉強代と、国際法務専門の行政書士への依頼料なども含まれる。
 この辺りに関しても、社長に大いに助けてもらった。時間がかかるビザ取得がたったの三週間で済んだ。

 外国人同化協定に伴う講習の参加日程も、おおよそ決めておかなければならない。
 基礎的なドイツ語能力とオーストリアの知識の習得、ウィーンにおける歴史にも範囲は及ぶ。
 もっとも、大学時代は単位取得王とまで呼ばれた俺だ。なんとしても文句無しの成績を修めてみせる。

 昼前に事務所を出て、外を歩かせてもらった。
 銀行の口座も冬馬家と同じ所に作らせてもらい、携帯電話の購入も世話してもらった。
 …機種がかずさとまったく同じというのは、偶然じゃないよな。
 あ、こっち見て笑ったよこの人。どこまで話してあるんですか社長?

 昼食は外の屋台で買ったホットドッグで早々に済ませ、業務、まずは雑務を叩き込まれる。
 付き合いのある事務所、人の顔と名前、金を流し流される場所も、片っ端から覚えていく。
 さらに、今月末から入るサマータイムについても触れなければならない。
 メモに使っているノートは、この数時間で何十回ページをめくっただろうか。

 これで給料を貰えるというのが申し訳なくて堪らない。
 住む場所も生活費もかずさと折半している俺は、もう恥じ入るしかない立場だ。

 ………情けない事を考えてしまった。女性に貢がせて生活する男をヒモと言うわけだが。
 その女性の母親にすら貢がせているヒモはなんというヒモと呼ぶのだろう、なんて。ああっ…もうっ…!

 とはいえ、これは最初からわかっていたことだ。

 俺がお荷物になることなど、かずさもお母さんも最初から気にしていなかった。
 むしろその先に、ものになった俺が出来上がることを欠片も疑っていなかった。
 そして俺は、そんな二人の期待を裏切る気は最初から持ち合わせていなかった。

「ハルキ、2番に外線よ。社長から」

「はい、2番…え、社長?」

『あ、春希君? どう、うまくやってけそう?』

「おか…社長、こちらでは至れり尽くせりで本当に感謝するばかりで…お体はいいんですか?」

『なによ急に畏まっちゃって。いいから普通に話してよ。そんな仲でもないじゃない?』

「は、はぁ…わかり…ました?」

 だけど…俺は知らなかった。正確には、忘れていたと言うべきか。
 俺が新たに勤めることになった職場の社長は、無茶苦茶なことをする人だってことを。

『ま、いいわ。で、本題なんだけど』

「あ、はい」

『かずさの次の仕事、悪いけどこっちで決めさせてもらったから』

「それはありがとうございます。悪いなんてとんでもありませんよ。で、その仕事というのは?」

『わたしの知り合いがいる小さいオケが今度やるコンサートに飛び入り参加。
 協奏曲のピアノで、二、三曲弾かせてもらえることになったから』

 それに…俺は気付けなかった。正確には、見えていなかったと言うべきか。
 俺の義母は、母親で、親馬鹿で、音楽家の観点でかずさを見られる人だってことを。

『イースターコンサート…復活祭の当日、今月末よ』

「…今月末って、そ、それじゃ準備期間は!?」

『そうねえ』

 俺の慌てぶりに驚いたのか、あまりの急な話で俺の顔色が変わったのか。
 事務所の二人が何事かという視線で俺を見ているが、正直それどころではなかった。

『あと、一週間ね』

 正直、それどころではなかった。
 俺も、かずさも、早速振り回されることになりそうだった。



 ◇ ◇ ◇






[31274] おまけ後編
Name: 火輪◆a698bdad ID:f15796a0
Date: 2012/02/27 03:49


 ◇ ◇ ◇



 昼より肌寒さが増した夜のウィーン郊外。まだ慣れない風景の中、一人帰路につく。
 日本に居た頃に比べてはるかに早い帰宅時間に、新米で見習いという立場を痛感し、歩みを鈍くさせる。

 社長からの電話を受け、メールで送られた詳細をチェックしたあとの事務所は慌しかった。
 突然ねじ込まれた仕事に、あったはずの余裕を吹き飛ばされ、電話に確認に問い合わせにと、目まぐるしく状況が動き出した。

 時間が午後を大きく回っていたこともあり、スタッフの二人は苦労したようだが、まだまだ俺は蚊帳の外。
 電話の応対一つ覚束ない俺には肩身が狭いことこの上なかったし、次々に増える雑用に四苦八苦するのが精一杯。
 二人が「Merde!」だの「Scheisse!」だの「Sit!」だの、三ヶ国語で問題発言をぶっ飛ばしていたのを見ながら縮こまっていた。

 やがて冬馬邸に到着した。敷地内に入る鉄格子の入り口を潜って玄関に向かう。
 外灯は点いているものの、歩き慣れない敷地をおっかなびっくりで進みながら、かずさに電話をかけた。

『春希? 着いたか?』

「ああ、いま着いたところ。鍵開けてくれ」

『わかった。今行くよ』

 扉の向こうから音がして、開くと同時にかずさが顔を出す。
 半開きのまま猫のように滑り込むと、かずさは手を広げて抱え込むように俺を迎えた。

「…おかえり」

「…ただいま」

 待っていたように首に手を廻し、俺の頬をついばむかずさに、同じようにして帰宅を告げる。
 そのままお互いに腰を抱きあってリビングに入った。

「あれ、この晩ご飯…」

「ヘルパーさんが気を利かせてくれたみたいでさ、帰ったら出来てた」

 大きな寸胴鍋からいい匂いを漂わせているのはたっぷりのホワイトシチュー。
 温め直すだけで済むし、二日三日と食べられるのは実にありがたい。
 おまけに、朝買ってきた果物を使ったフルーツサラダも添えてあった。

「助かった。今度直接お礼言わなきゃな」

「挨拶も兼ねて、な」

 くっついたままのかずさが羞恥で頬を朱に染めながら、上目遣いで俺を見る。
 あー…つまりそういうこと? 新しい同居人が男で、どういう関係か、もう知られてるって?

「…じゃ、頂こうか」

「春希、平気な顔してるけど、お前照れてるだろ?」

「うるさいな、悪いかよ」

「悪くなんかない。だからさ、見せろよ、お前の照れてる顔」

 そんなかずさはとりあえず知らん振りで、照れ隠しに一度かずさから離れた。
 高そうな革張りのソファーに鞄を置いて、ネクタイをほどき、ついでに上着も脱ぐ。
 そうしてから、空腹の胃袋と鼻孔をくすぐる香りの漂うテーブルについた。

「いただきます」

「…いただきます。って、毎回言うのかこれ」

「神様への感謝の祈りの方がいいのか? 日々の糧を感謝しますアーメンってやつ」

「やだよ面倒くさい。付き合い以外であんな堅苦しいのやってられるか」

「ならこっちに付き合え。あ、これ、俺の携帯電話。あとで使い方教えてくれ」

「…あたしのと同じ、か」

「ああ。メモリの登録とかまだ慣れてないから」

「…そうか。なら仕方ないな。教えてやるよ」

「何が仕方なくて、何でえらそうなんだよ…」

 野菜たっぷりのホワイトシチューを味わい、パンにつけて楽しみ、果物で口を休める。
 その間はかずさと他愛ない会話を交わす。これだけで、半日分の疲れが癒えていく。

「ふぅ、結構食べたなあ…ご馳走さま」

「あたしもご馳走さま…どうする? 片付けるか?」

「そうしよう。手伝ってくれ。洗った後、どこに片付ければいいか知らないし」

「ん、わかった」

 食事が済むと、二人でキッチンに立ち、皿を洗って片付ける。
 ピアニストの指に火も刃物も使わせる気はないが、これくらいはさせる。
 なにより、こうして並んで一緒にやること自体に、ささやかな幸せを感じられるから。

 片づけが終わった後、一服のため、二人分の飲み物を作る。
 どうせこの後は揃って部屋に引っ込むわけだし、少し多めに作ってポットに入れよう。

「グリューワインでも作ってみようかな。かずさ、赤ワインあるか?」

「あるよ。ちょっと待ってろ…ほら、母さんがもらってきたやつ」

「おう、ダンケ…って、これ高そうだな。ラベル読めるか?」

「ん…? ええっと、シャトー・ムートン・ロートシルト」

「ワインには詳しくないんだよな…ま、美味ければいいか」

「同感。あ、砂糖とシロップ両方入れろよ。オレンジの皮は入れ過ぎないで。あと熱くしすぎないで」

「甘くしたけりゃ後で足せ。熱けりゃ冷ませ。俺も飲むんだぞ」

 かずさにクラッカーの袋とストロベリージャムを一瓶預ける。
 でもこのワイン、ホットワインにしちゃっていいのかな…なんかいいワインっぽいけど。

「先に部屋、行っててもいいぞ」

「んーん。ここで見てる」

「…いいけどな。あ、こら、危ないだろ」

「んー…いいだろ別に。じっとしてるからさ…あむ」

「っっ!? っ、おい、やめろって…」

 鍋を火に掛けてる時に背中に乗ってくるな、この甘えん坊。
 肩に顎を乗せるな。腹とか胸板とか撫で回すな。足を絡めるな。耳たぶ噛むな。
 …なによりも、そんな立派なもん二つも押し付けるな! 形が崩れたらどうする!
 というか、台所に立つ伴侶を後ろから悪戯するってのは、本来男の夢だ!

 などと、戯れ合うことしばし。
 出来たてのホットカクテルを移したポットと、シロップと角砂糖をトレーに乗せ、かずさの部屋へ。
 …というか、少ないとはいえ、俺の私物の一切合切を置いてあるから、俺とかずさの部屋と言うべきか。

「ずず…あち! おい、熱いじゃないか」

「文句言うな。ふーふーとかしてやらないからな」

「…ちぇ」

「舌打ちすんな…って、冷ますためだけにシロップ足すのかよ!?」

 マグカップに注いだ温かいアルコールが、今夜のひと時を彩る小道具。
 お互いに部屋着に着替えて、当たり前のようにベッドの上で寛(くつろ)ぐ。
 もう着替え程度では羞恥を覚えなくなっているのに、そこはかとなく不安を感じてみたり。

「今日はお師匠様…フリューゲル先生のところで弾いてきたんだろ? 何か言われたか?」

「ん…まあ、言われたには言われたんだけど…なんて言えばいいのかな」

「…なんか、褒められたって感じじゃないな。ひょっとして怒られたのか?」

「いや、怒られてはない…と思う。でも、あたしのピアノがさ、変わり過ぎたとは言われた」

 …実を言えば、俺の方には一刻も早くかずさに伝えなければいけないことを抱えたままなんだけど。
 伝える糸口を探る一手目の切り出しから、なにやら気になる話が出てきたな…

「爺さんはさ、あたしのピアノが別人のようになってしまったって驚いてた。
 今までのあたしとは全然音が違ってて、でも前より悪くなっているわけじゃなくて、むしろ格段に良くなってるって」

「…それ、褒められたってことじゃないのか?」

「少しは褒められてると思うけどさ。爺さんからしたら、自分の指導はなんだったのか、って話。
 こんなに変わったら、今までの指導とこれからの指導を、どう摺り合わせりゃいいんだって。
 引退間際でやっかいな悩みを抱えさせおって、なんてさ、愚痴られた感じ?」

「…そう、か」

 かずさの師匠(レーラー)、達人(マイスター)マーティン・フリューゲル。
 現代クラシック音楽界の系譜に必ず出てくる歴史的演奏家で、老齢から今年で引退すると聞いている。
 そんな偉大な人でも、この気まぐれな弟子(シューラー)には手を焼くのか。

「かずさ、実は俺も今日な、事務所から…正確にはお母さんから、言付かってきたことがある」

「え…なに?」

「お前の次の仕事が決まった。社長の知り合いがコンマスやってるオケに飛び入り参加だって。
 ピアノとオーケストラの協奏曲を二、三曲…イースターコンサート、つまり一週間後に」

「………はぁ!?」

 はぁ!? だよなぁ、やっぱり。
 でもな、かずさ…たしかに無茶苦茶な日程だけど、お母さんにも考えがあってのことなんだよ…



 ◇ ◇ ◇



『理由はちゃんとあるのよ? それも複数』

「…聞かせて頂けますか?」

『まずひとつ。せっかくの季節行事を逃す手は無い。土地柄もあるしね。
 二つ。春希君が通常業務の流れを覚えるいい機会になる。一度で覚えろとは言わないけど良い材料になる。
 これで仕事の流れを見て聞いて覚えて。一つのコンサートにどれだけの人間が関わるのかを。
 どこにどうお金が流れて、どれだけの人間と才能と義理が動くのかを。期待してるわよ?』

「は、はぁ、ありがとう、ございます?」

『で…三つ目。他にもあるけど、これが一番重要。今のあの子に、何かを『祝う』ピアノが弾けるのかどうか』

「祝う…ですか?」

『そう。出国直前に、かずさと空港で話したこと思い出してたんだけどね。
 あの子、わたしの問いをはぐらかしたところがあったのかもしれない、って思っちゃって』

「…詳しく、お聞きしても?」

『わたしはあの子にこう言ったの。
 贖罪のための演奏なんてつまんない。やるならとことん色っぽく楽しみなさい、って。
 またあなたのピアノ聞くから、どんどんCD出しなさいって。
 でもね…今思い返してみると、あの子一度も、わかったとか、うんとかはいとか言ってないのよ』

「っ、え…?」

『あの子が追加公演の練習を再開した日にね、音を聞きに行ったら、既にほとんど完成してた。
 重い罰を望んでいるような悲壮感溢れる音で…全然わたしの趣味じゃない音に、変質してた。
 人によってはものすごく惹かれる、精神ごと引きずられかねないような音にね』

「そんな…」

『作れる音の幅は、こなせる仕事の幅に直結する。
 どんなに見事な一面があっても、それだけじゃ近い内に飽きられて、干される。
 それにね…あの子、こうも言ってたの。あんたの望む冬馬かずさになれないかもしれない、って』



 ◇ ◇ ◇



「今のかずさには、そんな音しか作れなくなってるんじゃないかって。
 表現力まで一点特化したような、悲しい完成品になってしまったんじゃないかって」

「………」

「それから、協奏曲でやらせるのも。良くも悪くもソロ屋なお前が、また誰かと音を作れるのかって。
 これからのお前を占う、試金石にするって。ここが…分水嶺なのかもしれない、って…」

 ベッドに腰掛けたまま、いつの間にか俺の手を握ったまま、かずさは一言も返さない。
 俯いたまま何を言うでもなく、無意識にか、俺との距離を消すように身を寄せて。

 かずさが何を思っているのか、今の俺には推し量れない。
 有象無象としか見れない相手と一緒になんかやれない、なんて言わないだろうか。
 あの頃の、母親に見切られたと思っていた昔のように、変にへそを曲げてしまわないだろうか。

『そうなった時には…また、あなたが引っ張ってあげてね』



 社長はそう言って電話を切った。つまり俺は、諌め役としての役割を期待されているわけだ。
 それを不満には思わない。実際、今の俺にはその程度の仕事しかできないのだから…

「不愉快に…思うか? でもな、これは純粋に娘を────」

「わかった。やるよ」

「────想っての愛情からなんだってことお前なら………って、え?」

 …なんて、俺のおこがましくて下種な勘繰りを、かずさは一刀両断してみせた。
 はっきりと、きっぱりと。いっそ清々しいほどに、肯(がえ)んじてみせた。



「かずさ…?」

「なんだよ、その意外そうな顔は。あーあ、あたしって信用ないんだなー。やっぱりやめよっかなー」

「お、おい!?」

「冗談だよ、本気にするな。やるよ…祝いのピアノ、弾いてみせる」

 言いながら俺を見つめるその目には、確かな決意の光が宿って。
 こうと決めたら頑として引かない、本当にかずさらしい輝きに満ちていた。

「春希はこれで仕事を覚えるんだろ? つまり、春希にも必要な経験なんだよな?
 なら、あたしにとっても必要な仕事だ。断る理由なんてありっこない」



 ああ…このかずさはきっとやってみせる。
 俺が…この世の誰より頼もしく感じる時のかずさだ。
 もう…この状態より上なんて無いんじゃないかって思えるような。



「お前がやっていけるようになることを、当面の間は最優先にする。だからさ、弾くよ。
 お前は下らない心配なんかするな。あたしの心配より、自分の心配した方がいいぞ?」

「っ…かずさ…」

「気張れよ、素人マネージャー。あたしが引っ張ってやるからさ」

「………っ、かずさ!」

「あ…っ!」

 この…馬鹿。なんて台詞吐きやがる。
 この…馬鹿。なんて格好つけやがる。

 俺にこれ以上、お前が眩しくて仕方なくするつもりか。
 俺をこれ以上、お前なしじゃいられなくするつもりか。

 お前なんか抱き締めてやる。お前なんか閉じ込めてやる。
 もう一生、俺という鎖に繋いで、どこにも行けなくさせてやる。
 俺という檻の中に護られて、他の所なんか行かなくさせてやる。

「っあぁ…春希…だからさ…春希」

「…なんだ。離してなんかやらないぞ」

「いいよ…いいからさ…春希ぃ」

 俺の目は節穴だ。本当のことなんかいつも見えやしない。
 本当に大切なことほど、ろくろく見せちゃくれやしない。
 ごめん…ごめんなかずさ。誰よりも、俺が信じてやらなきゃいけないのに。
 肝心な時に鈍くて、情けないこと極まりなくて、本当にごめんな。

「あたしのこと…信じてくれよ。かわいがって…くれよ…」

「愛してる、かずさ。お前がもう嫌だって言うまで、全身全霊で愛しまくってやる…!」

 今夜の俺は、野獣もかくやとばかりに荒れ狂うだろう。
 実の母すら気付けなかった、大きく成長したこいつを貪り尽くしてやる。
 俺のためならいくらでもポテンシャルを上げる悲しい芸術品を、愛し尽くしてやる。

「嫌だなんて…一生言うもんか…っ!」

「なら…一生、俺に愛されろ…っ!」

「っは、あぁぅ…っ…はるき…春希ぃ…っ!」

「覚悟しろ…かずさ…っ! かずさ…っ!!」



 ◇ ◇ ◇



 精も根も尽き果てたかずさは、体液に塗れたままの婀娜(あだ)たる肢体をベッドに投げ出していた。
 かろうじて起きてはいるものの、その蕩けきった恍惚の表情から窺うに、意識は朦朧としているようだ。
 連日で、よくもまあお互いに、ここまで貪欲に求め合うことができるものだと呆れざるを得ない。

 俺はそんなかずさの髪を撫でるように梳きながら、枕元の携帯電話を手に取った。
 3月25日、01時30分。この時間なら、むこうは同日、09時30分。もう大丈夫だろう。
 俺はかずさに教えられた通りに登録した番号を呼び出し、通話ボタンを押した。

『お電話ありがとうございます。冬馬曜子オフィス、工藤でございます』

「お疲れ様です、欧州支部の北原です。工藤さん、おはようございます」

『あぁ、北原さん、お疲れ様です。そちらはどうですか?』

「おかげさまで、色々とうまくいきそうです。あ、これが私の携帯電話になります。
 24時間出られますので、事務所で繋がらない時はこちらにおかけ下さい」

『はい、畏まりました。それで、何かありまし…たよねぇ、色々と…』

「ええ、色々と…工藤さんの苦労の一端、垣間見させて頂きました…」

『あ、あはははは…恐縮です…』

「で、本題ですが、実は社長にご許可を頂きたいことが幾つかありまして」

『はい、承り…あの、許可ですか? 質問とか、説明とか、文句とかじゃなく?』

「…最後のひとつは聞こえなかったことにしまして、ええ、許可と…検討して頂きたい案が、幾つか」

 かずさは何も心配いらない。俺と社長の懸念は杞憂に終わった。
 だが、まだだ。これだけで済ませはしない。

 窮地に見えたこの件はしかし、俺たちの好機だった。
 なら、俺の仕事はこれだけでは終わらせない。終わらせてはいけない。
 俺は新米の札が剥がれていない見習いのマネージャーではあるが、足掻く余地はある。

 この機を活かす。北原春希は貪欲なんだ。

 俺に出来る事は他に無いなんて、卑下するのはもうやめだ。
 俺にだって、まだまだやれることがあるはずなんだから。



 ◇ ◇ ◇



 日々は瞬く間に過ぎ去った。

 かずさは一人練習に励む、ことはなく、なんと自ら先方の練習に赴き、そちらで音を合わせた。
 これは欧州スタッフにも、工藤さんにも、そしてもちろん社長にも、驚天動地の大事変に映ったらしい。

「揃いも揃って失礼な…だいたい、合わせる相手がいるんだから当然だろ」

 というのは本人の談だが、自業自得、明々白々、お前が言うかと突っ込みたくもなる。
 そして、急な話ながら、先方の反応も良く、音合わせも問題なしと、身内の不安を吹き飛ばした。

 むこうはウィーンに腰を据えているとは言っても、この界隈では鳴かず飛ばずの弱小オケらしい。
 しかし、冬馬曜子の知己というコンマスの女性は、ほとんど趣味でやっていると豪語する磊落な方だった。
 そして集まっている面子も、昔からの付き合いや、その息子や娘で構成されており、問題も少なかったようだ。
 会場は郊外の小さな教会兼ホールで、神父様も、聖歌隊の子供たちも、皆々近所の付き合いというのも大きかった。

 少し驚いたのは、メンバーの多民族構成だった。
 ヨーロッパの人間だけでなく、黒人やモンゴロイドも多く混じっており、髪の色も肌の色も多様。
 聞けば全員こちらに住んで長いらしく、中にはオーストリア国籍を持っている者や、二重国籍の子もいるという。
 面子に混ざるにあたって、こういう環境だったのは、日本人のかずさにとって幸いの一語に尽きた。

 かずさのコンディションについては、もう言うまでも無い。
 あいつがその気になったら、半人前のギタリストもどきにだって難なく合わせることができる。
 どころか、ぐいぐい引っ張って、どんどん上へと導いてさえみせる奴なんだから。

 合同練習は順調に進み、弾かせてもらうことが決まった二曲も、難なく完成させたようだ。

 そして、イースターコンサート当日。
 かずさの準備は…すべての準備は、万全に整っていた。



「おい…春希」

「うん、そのドレス、よく似合ってるぞ。やっぱりお前は黒が映えるな」

「…とりあえずありがとう。で、それは置いといて…」

「十一曲のうち、たった二曲だ。気楽に行って、楽しんでこいよ」

「露骨に誤魔化しやがって…あれ、母さんの仕業か? お前の仕業か?」

「…さて、なんのことやら」

 聖歌隊の子供たちのアヴェ・マリアを舞台袖で聞きながら、かずさは客席を見て溜息をついた。
 そんなかずさを相手に、俺は空々しくとぼけて見せていた。



 …聴衆には、ウィーンに在住する、冬馬曜子の友人という友人が何人も混じっている。
 もちろん、そのほとんどは、この地で活躍している現役の音楽家たちだった。

 そして、予定があって来れない本人に頼まれ、代理として、配偶者や親兄弟が来ていたりもする。
 その方々も音楽の道に名を刻む人たちばかり。その目当てが、かずさのピアノだと俺は知っている。



「…どんな手を使えば、あんな錚々(そうそう)たる顔ぶれ集められるんだよ。
 誰も彼も、こんな小さなコンサートに来るような人じゃないぞ…?」

「さりげなく先方に失礼なことを言うな。祝日を利用して、親交を深めてるだけじゃないのか?」

 白々しくあさっての方を向く俺は、当然のこと真相を知っている。
 事実だけを言えば、今ここに来ている音楽の名家たちに、声をかけたのは確かに俺だ。

 別に、来てくれと懇願したわけではないし、何かしてくれと頼んでもいない。
 それに、俺が声をかけた人全員が来てくれているわけでもなかった。
 あの方々は、自主的に集まってくれただけに過ぎないんだから。



 ◇ ◇ ◇



「お初にお目にかかります。お噂はかねがね。本日は冬馬の代理として参りました」

「恐縮です。まだまだ言葉も覚束ない未熟者でして、ご無礼がありましたら、どうかご寛恕下さい」

「私は日本で冬馬とといくつか仕事を同じくしまして、その縁でこのような役目を仰せつかっております」

「あはは…お察しの通り、彼女の無茶苦茶に巻き込まれまして、なんの因果かこのようなことに」

「はい…実を言えば、弊社の冬馬曜子は病状が重く、此度の仕事につきましても、些かならず不安の種がありまして」

「それというのも、娘である冬馬かずさのピアノについて、色々と複雑な評価を受けておりまして…」

「はい。皆様が仰るには、彼女のピアノが劇的に変わった、と言うより、変質してしまったと…」

「そのことで、フリューゲル先生も大変悩まれているそうなのです」

「ええ、かのマーティン・フリューゲル先生でございます。今年で引退というのに、最後の弟子がこんなことに、と」

「決して悪くなったということではないそうです。むしろ急激に伸びたと。ですが、あまりにも…」

「はい…そういった次第で、動けぬ身の社長は、そのことを気に病んでおりまして」

「普段の彼女、昔の彼女を知っておられる方々は、皆揃って『そんな曜子は初めてだ』と」

「私自身は元々この世界の人間ではありませんので、こうして冬馬の手足としてしか動けないのが歯痒く…」

「ありがとうございます。弊社社長からは以上です。お忙しい中、お時間を頂きましてありがとうございました」

「はい。今後どのようなことになろうとも、冬馬親子の一助にと、精励する所存でございます」

「痛み入ります…これは私の個人的なお願いとなりますが、まだ会話が可能な内に、ご連絡のひとつも頂ければ幸いです」

「はい。微力を尽くします。本日は…ありがとうございました」



 ◇ ◇ ◇



 誓って言おう。嘘は一片も無い。事実そのものだ。
 ただ、ことさら大袈裟に、不安を煽るように、興味を引くようにデコレーションしただけだ。
 そして、この一週間、四十件くらいそんなペテン…もとい、営業に回っただけだ。

 拙いドイツ語を補強してくれたうえ、俺の顔と名前を運んでくれた事務所のスタッフには感謝しきりだ。
 極東の地で捕まえた、畑違いの青二才を使わなければならないほどの手詰まり、という演出が大切だったし。

 ことの始まりは、俺が日本オフィスにかけた一本の電話。
 冬馬曜子と親交が深く、かつ今までにかずさの演奏を聞いたことがある知人を片っ端から教えてもらう。
 そして彼らの興味を引くために、一芝居打ってみたいと、親ばか社長に許可を願った。

 弊社社長には「後でバレても、てへ、ゴメンね? で済ませてみせるわ」とのありがたいお言葉を頂いてある。



 タチの悪い詐欺…じゃなくて、悪意の無い悪戯の内容はおおよそ三つ。

 まず、かずさのピアノが劇的に変わったこと。
 次に、高名なフリューゲル先生が頭を悩ませたということ。
 そして、重い病に伏して動けない曜子がそのことを気に病んでいるということ。

 これらを吹き込む狙いは以下の通り。

 俺が関係者の顔と人となりを覚える。
 俺の顔と名前、そして役どころを関係各位に知ってもらう。
 かずさの変わりように興味を持ち、新しい仕事を振ってもらえることを期待する。
 曜子さんの知人を集める事で周囲の注目を集め、コンサート自体の興行的成功と収益の上昇を狙う。

 別に大したことはやっていない。
 新米社員として、足を使って宣伝と広報をしただけだ。

 俺は俺のできることで…今の北原春希に可能な限りで、最大効果を目指しただけだ。



 ◇ ◇ ◇



「複数の仕事に対しても絶大なキャパシティを発揮し、並列計画、並列処理を臨機応変にこなす。
 一石で三鳥四鳥と求める仕事への貪欲さを持つ。行動力も抜群の、マルチタスクの申し子。
 アンサンブルの編集長は、彼を…春希君を、そう評価してたわね」

「ベタ褒めですね…」

「ちょっと大袈裟ねぇなんて思ってたけど、フタを開けてみたらその通りだったわ」

「北原さん、やれそうですね。思った以上に」

「当然よ。かずさが惚れて、わたしが見込んだ義子(むすこ)だもの」

「…そういうのも、惚気って言うんでしょうか」

「いいじゃない別に。頼りになるに越した事はないでしょ?
 わたしの無茶に、新たなメリットをプラスしてやってのけようとする………彼、いいわ。
 美代ちゃん、随時サポートお願いね? そのうち、わたし以上の無茶するかもしれないから」

「うう…せっかく同じ苦労を分かち合える仲間ができたと思ったのにぃ…」



 ◇ ◇ ◇



 今の俺はもう、ふらついた心とあやふやな態度で右往左往していた、付属時代の俺じゃない。

 俺はこれまでの人生で、多くの人と共に歩み、多くの人のお世話になって、今日までを生きてきた。
 その中で、積ませてもらった経験と叩き込まれた知識、注いでもらった愛情が、俺の中で息づいている。

 俺のこれからの人生は、多くの人を踏み躙り、多くの人の想いに逆らって、その果てに求めたもの。
 その中で、新たな世界と畑の違う仕事へと、俺の持てる限りを全て注ぎ込んで、ただ一人のために歩む。

 俺は最低でいい。人間の最底辺で構わない。
 自らの望みのためには手段を選ばない、唾棄されるべきエゴイスト。
 それこそが北原春希の本性。そして、これからの俺のルーツとなるのだから。



「勝手にハードル上げやがって…どうせお前も一枚噛んでるんだろ?」

「ご想像にお任せします、とだけ言っておこうか。それより…いけるか?」

 少年たちの美声による聖歌が終わり、客席から拍手が鳴り始めた。
 いよいよ次がかずさの出番となる。俺の仕事はここまで。ここからは、かずさの仕事だ。

「誰に言ってるんだ、馬鹿。大丈夫だって」

 俺たちが仕掛けた小細工など、少しも気にせず、気負いもせず、かずさは颯爽とステージへ向かう。
 そうか。大丈夫なんだな。久々に聞いたよ…一片の疑いもなく信じられる、お前の大丈夫は。

 俺が言わせた大丈夫って言葉には…まだ、苦い記憶が多いけど。
 俺が口にした大丈夫って言葉には…ただ、重い罪科が滲むけど。

 きっと、今この時から、疑いなく大丈夫って言えることを積み重ねていこう。
 そして、今この時から、辛く苦しく悲しいのに幸せという罪を重ねていこう。

 いけ、かずさ。俺たち二人の小さな世界を、大きな世界に見せびらかしてやろうぜ。

 舞台袖で一人密かに決意する。
 お前のピアノを観客として聞くことは一生ないだろうけど。
 お前のピアノを観客に届けることで感じられる幸せに浸る。

 いけ、かずさ。俺にはもう、このコンサートは大成功するって心から確信しているから。



 ◇ ◇ ◇



「じゃ、乾杯」

「何に乾杯?」

「そうだな…大いなる父の愛し給うた御子の復活と、初仕事の大成功に」

「うっわ、気障ったらしい…キモいぞお前」

「言ってろ馬鹿。まぁ…乾杯」

「ん…乾杯」

 きぃん、と、安物のグラスが甲高い音を立てて触れ合う。
 俺とかずさは大成功に終わったコンサートと復活祭を祝う食事会を、ワイン片手にそっと抜け出していた。
 会場を出た俺たちは、どちらかが言い出すでもなく、自然とコンサートホールに向かった。

 こうして客席から見てみると、このホールは教会を意識して作られていることがわかる。
 正面上部に磔刑に処された御子の像。天使の描かれたステンドグラス。
 重厚な外観でありながら明るさを感じさせ、ドーム状の天井にも見事な宗教画が描かれている。

 俺たちが手にしているこのワインは、裏切りの使徒が口にした物となんら変わらないものかもしれない。
 そうだとしても、俺たちはそれにこそ幸せがあるとの傲慢な主張のもと、こうして愛を育んでいくのだろう。

「なぁ、ステージ、立ってみないか?」

「おい、いいのかよ。曲がりなりにもそこは楽師たちの聖域であって、俺なんかが立っていいものじゃ…」

「いいから来い。誰もいないんだし、こんな日まで堅物にならなくたっていいだろ」

「…知らないからな、まったく」

 かずさのピアノは…それはもう、素晴らしいなんて陳腐な言葉しか出てこないくらいに凄かった。
 全ての曲目が終わり、最後に神へのお祈りを観客を含めて全員で行った後、かずさのもとには人だかりが出来ていた。
 聖歌隊の子供たちに振り回され、コンマスの女性に握手を求められて真っ赤になり、百面相を見せつつ困惑しきりだった。

 曜子さんの友人たちも、態度こそ様々だったが、おおよそ好感触と言えるだろう。
 苦言を呈する人、褒め称える人、目尻に涙を湛えた人と、かずさの狼狽ぶりは見ていて笑えてしまった。
 それでも決して悪評は無く、むしろ一目置いてくれたようにさえ見えた。

「社長にいい報告ができそうでなによりだ。凄かったぞ、かずさ」

「当然だ。でも…気分がいいからもっと褒めろ」

「ああ、褒めるさ。凄いぞ。偉いぞ。抱き締めて頭とか撫でたくなるくらい」

「あたしは犬か。まぁ…似たような扱いされてるけどさ」

「嫌か?」

「まさか。だから早くご褒美よこせ」

「おっ、と…ワインこぼすなよ。この礼服一着しかないんだから」

 誰もいないステージの上で、かずさが俺の胸に寄り添ってきた。
 アルコールと髪の香りに、痺れにも似た感覚が俺の体に走る。
 御子にお叱りを受けてしまうかもな。神聖な場所でいちゃつくんじゃありません、なんて。

「今日のピアノは、さ…神様に感謝しながら、弾いたんだ」

「…感謝、か。どんな?」

「あたしとお前を会わせてくれて…ありがとうございます、って」

「…それは、俺も感謝しなきゃな」

「祝いのピアノって…実はあんまりピンとこなくてさ。なら、感謝ならどうかな、って」

 かずさの頬と俺の頬が触れ合う。自然、互いの言葉は互いのすぐ耳元で聞こえる。
 まるで、聖なる場所で卑しい秘め事をしているような背徳感を覚える。
 というか実際、あんまり間違っている気がしなかったりするけど。

「綺麗に嵌ったよ。祝いの日に感謝のピアノ。ほとんど苦労しなかった」

「流石だよ、お前…これからの心配が一気に消えて無くなった」

「無いさ…心配なんて。あたしがいて…お前がいれば、心配なんて無い。幸せしか…ないさ」

「かずさ…」

「愛してる、春希」

 だけど神さま、あと少しだけ、この卑しき恋人たちに、愛を語り合う時を下さいませんか。
 だから御子様、あと少しだけ、この罪深き咎人二人に、時と慈悲をお与え下さいませんか。

 御前(おんまえ)にて、今日この時をお祝い致します。
 我ら二人、許しは請いません。ただ、我らが共に生きる、春を…希(こいねが)わせ給え。

「俺もだ、かずさ。愛してる」

 かずさと世界は俺が繋ぐ。
 かずさの未来は俺が紡ぐ。

 ただ只管(ひたすら)に感じるかずさの求める幸せ。今そっと触れ合わせた唇の温もり。
 ただこれのみを糧として、俺はお前を護る強さを得られる。

 俺にも信じる神がいる。尽きせぬ愛を注げる人がいる。

 俺はいつでも、心の中でも、その名を呼ぼう。
 かずさ…かずさ。



 - DAS ENDE -





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