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[20613] 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/09/12 16:55

 ・帰ってきました! 



 ・アニメを見ていたら如何しても書きたくなったので、流行に便乗して、学園黙示録HOTDの二次創作です。原作も読みました。

 ・頭の中で有る程度の流れを決めて有りますが、基本は勢いで書いています。
 ・一応、チートな話……かもしれません。

 ・楽しんで頂ければ幸いです。








 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第一話 『Spring of the “Tyrant”』








 僕の世界は、白かった。


 僕が持っている記憶の一番初めが、白だった。

 白い天井。白い壁。白い床。白い部屋。身を包む衣服も白。横たわる寝台も白。申し訳程度に置かれた机も白。空気の色が白だと錯覚する程に、部屋の中には何も無く、そして自分の色も白かった。

 時折に、部屋を訪れる人間も、白だ。上から下まで、白い服に身を包み、顔を隠す様に口を覆い、頭の先から足の先まで、体を白色で覆っていない事は無かった。けれども、その布の下には、キチンと色が有る事も、僕は知っていた。

 僕と違って、白い服の下には肌色や、黒や、赤といった色が隠れている事を知っていた。

 僕には、色が無い。

 唯一に僕と交流を持つ、面倒を見てくれる、一人の看護婦さんの話では、僕は「あるびの」と言うらしい。元々に色が無い人間で、その話を聞いた時、

 (ああ、だから僕の体は、髪まで白いのか)

 と、何処か人事の様に感じた事を覚えている。




     ●




 それは、まるで巨人だった。

 緩慢に、しかし重厚に。大地を踏みしめる様に、確実に歩いていた。

 周囲に点在する、無数の亡者を気にも留めず、無数の返り血の中に、佇んでいた。




     ●




 僕は何時も、寝ている。上から下まで白い世界の中で、起きているのかも寝ているのかも良く解らない状態だ。夢なのか、そうでないのか、体を横にしているからだろうか。さっぱり解らない。

 何時も大抵に、目が覚めて最初に気が付くのは、腕に刺さった針と、針に繋がった管と、その上に釣らされた液体の袋だ。一体これが何なのか。袋には何も書いておらず、自分の体の中に何かが流れ込む光景を見る事しか出来ない。

 体を動かそうにも、僕の体は動かない事が多い。何かで動かない様にされているのでは無く、本当に動かない。寝台から身を起こす事だけは出来るけれども、地面に両足を着いた事は、何時だったのだろう。なんとなく、昔は歩いた記憶が有り、地面の感触を知っている気がするのだけれど、今の僕は違う。この白い世界での生活が始まってから、僕は歩いた事は無い。

 看護婦さんの話では、僕は大きな事故に巻き込まれ、背中と腰の骨を悪くしたそうだ。だから、体を動かす事が出来ないのだという。その時に僕が思った事は、一つだ。

 (走る、って、何だろうか?)

 看護婦さんの話を聞くと、如何やら歩く以上の事らしい。けれど僕は、歩く事も出来ないし、覚えていない。ほんの少しだけ興味が出ただけだ。勿論、動けない僕には何の意味も無い感傷だった。




 袋に入った液体が終わると、僕は自然に眠くなる。自分の体が、そう言う性質なのかもしれない。そして、眠っている間に、多分、誰かが僕の世話をするのだろう。何故かと言えば、次に目を覚ました時、腕の針は抜けて絆創膏が貼られているからだ。そして、布団とシーツも変えられ、また真っ白な世界に成る。

 僕の体は、直ぐに汚れる、らしい。眠っている間だから良く知らないが、起きている時に、看護婦さんがそう言っていた事を覚えている。だから、毎日僕が眠っている間に、体を洗って着替えさせているそうだ。なんとなく、有難うございます、と言ったら驚く様な顔をされた。

 僕がそんな事を言うとは思っていなかったのだろうか。僕には記憶が無いが、知識が無い訳ではない。確か、『何かされたら有難うと言いなさい』、と、言われたのだ。多分、僕の親なのだろうが、その顔は解らないし、声も覚えていない。知識として残っているだけだ。

 消えそうな過去の残滓に、縋りついているだけだ。




     ●




 目の前に居る一体を、腕で退かす様に払う。

 路傍の石を退かす様な、その挙動は小さかった。

 しかし、まるで車に激突したかのように、宙を舞った。

 一直線に、傍らの石壁に頭から激突し、動かなくなった。




     ●




 僕がこんな生活をしているのは、小さい頃からだ。具体的な年齢は覚えていないけれど、幼稚園だか保育園だかに通って、この容姿で虐められた記憶が、曖昧だが持っている。けれど、何と言ったか、あの小学生が背負う黒と赤の鞄……ランドセル? と言う物は、記憶に無い。

 ある時期からプツリと記憶が途切れ、次に記憶に有るのは、この寝台で寝ている所だ。『昔の記憶』は、既に曖昧だ。幾つかの、微かな記憶と、(恐らく)両親に躾けられた内容。簡単な会話は出来るけれども、難しい言葉の意味は解らない。

 話し相手になる看護婦さんが、ひらがなと、カタカナ。数字。そして、簡単な漢字の練習本を、持って来てくれた。だから、小学生位の漢字ならば扱える。数字も分かる。僕が勉強をする事を、他の人は良く思っていなかったようだ。けれど、看護婦さんが無理に要求を通したらしい。

 起きている時間は長く無かったけれども、起きている間の暇潰しに、これ以上無い物が出来た。頭は良い方だったようで、吸収は早かった。けれど、娯楽の提供は許されず、本も読めなかった。仕方なく、小学生の使う教科書を読んで、理解に努めているだけだった。

 一人での勉強はつまらない。それを読み取ったのか、看護婦さんが、時々、僕の相手をしてくれていた。彼女は僕の面倒を見る以外に、僕の話し相手でもあった。決して口数が多く無かったけれど、彼女の話から僕は、自分の白い世界以外を想像していた。

 勉強以外での、最低限の知識を得たのは、彼女のお陰だった。勿論、最低限も最低限で……例えば、病院の外はどんな季節だとか。病院の周りがどんな事になっているとか。看護婦さんの友達の話とか。そんな、話ばかりだったけれど、その話を聞いて僕は、過去の自分の記憶を、僅かに思い出していた。




 表向き、僕は重病で、隔離病棟にいる事に成っていた、らしい。病院というシステムの、詳しい事を知る筈も無い僕は、それを『他の人とは違う部屋にいる』事だと理解していた。それが随分と違う事を知ったのは、随分と後の事だ。

 僕の白い世界は、常に一カ所だけが透明だった。向こう側に何が有るのかも分からない。けれど、恐らく、看護婦さん以外で部屋に入って来る白い人達が、僕を見ているのだろうな、と何と無く思った。

 彼らが入って来る時、ほんの一瞬だが、出入り口から部屋の外が見えて、その奥に機械が有った。赤色とか黄色、緑色に光るランプと一緒に、動いていて、僕を見ている様だった。だからきっと、看護婦さん以外で僕を見る人達が、同じ様に見ていると思ったのだ。

 その事を看護婦さんに聞いてみたら、やっぱり驚いた様な顔をして、何かを言いたそうに口を開いて、けれども、何も言わずに部屋を出て行った。目が泣きそうな眼をしていた。だから僕は、其れを境に、看護婦さんに、僕の居る場所や、置かれている事に着いて聴く事を止めた。

 なんとなく、看護婦さんだけは、悲しませてはいけない様な気がしたからだ。
 僕の白い世界の中で、彼女だけが、多分、僕に感情を持ってくれていた。




     ●




 白い怪物は、ゆっくりと歩く。

 まるで何かを探すかのように、誰かを探すかのように、周囲に目を向けて。

 探す物の居場所が解っているのだろうか。

 足取りは不安定だが、確実に、真っ直ぐと。

 その足を、山上の学園に向けながら進んでいく。




     ●




 “その時”に、何が起きたのか、僕は良く覚えていない。

 ただ、何時もと同じ様に、白い世界で、起きたり寝ていたりを繰り返す筈の日常には、成らなかった。



 最初は、何も音が聞こえなかった。元々、僕の部屋は音が響かない造りだったからだ。防音で、外からでは、余程大きな音で無いと、聞こえない造りになっていた。だから、解らなかった。

 けれど、音が大きく成り、白い部屋の中に居ても聞こえるほどに、誰かが叫ぶ音が聞こえた。叫ぶ音。鳴き声。悲鳴。怒鳴り声と、喚く声。壁を隔てていても聞こえる声に、何か事件が起きたのだろうな、と思った。

 それは、遠くから徐々に近寄って来た。まるで、人から人に移って行くように、僕の部屋の近くまで、やって来ていた。此処に至って、僕でも、何か凄く大変な事が起きたのだと解ったが、如何する事も出来ない。寝台から動けず、体力も無い。普通に歩く感覚ですら覚えていない僕に、何も出来る筈がないのだ。

 部屋の外で何が起きているのかは全く分からず、僕は待つしか出来なかった。

 何時もと同じ位の時間に成っても、誰もやって来なかった。

 何時もならば、僅かな食事と一緒に出される薬を呑み、液体を入れられ眠りに落ちる筈なのに、何もならなかった。

 寝台の横には、一台の車椅子が置かれている。置かれているだけで、今迄使われた事は無い。申し訳程度に、誰かが間違ってこの部屋を見た時に、言い逃れが出来るだけの見せかけだと、看護婦さんは言っていた。

 (……乗れば、移動が出来るのだろうか?)

 そう考えて、無理だな、と思った。

 寝台から車椅子まで歩くのも、今の僕には難しい。体を起こす事は、頑張れば自分で出来る。けれど、畳まれた車椅子を広げ、その上に移動し、自分で部屋から出る事は、不可能だ。

 仕方がない、と思った。

 ずっと白い世界の中にいて、ただ呆ける様に過ごしていた。

 僕は、このまま死んでも、何も感じなかった。

 そもそも僕には、生きていると言う事が理解出来無かった。

 幼い頃は、確かに生きていたのだろう。けれど、記憶と共に、両親と共に、体の自由と共に、その実感を失った。外に出る事も無く、ただ毎日毎日、白い世界の中で時間を潰す僕は、生の意味を再度、手に入れて居なかった。

 だから、僕はこのまま、誰にも気が付かれずに放っておかれるのならば、其れでも良いと、思っていた。

 静かに朽ち果てて行くのも、悪くは無いと思っていた。

 けれど。

 「……大丈夫、ね?」

 時間は其れほど経過していなかった。隙を伺っていたのかもしれない。

 そう言って、僕の部屋の中に、入って来た人が居たのだ。

 白い筈の服に、赤い斑点を付けて、顔にも血を浴びていたから、一瞬、誰だか分らなかった。

 「逃げるよ、×××」

 けれども、声と、僕への態度で、分かった。

 息を切らして、やつれた顔で。

 僕の世話をしていた看護婦さんは、そう言った。




     ●




 一体の怪物は、悠然と歩く。

 立ちふさがる異形を障害として排除し、まるで進軍するかのように。

 今尚も悲鳴が上がる学園を目指し、確実に迫って行く。

 絶叫と悲鳴の充ちた街を。

 燃える車の脇を。

 桜吹雪の舞う坂道を。

 そして群がる死者達を押しのけて。




     ●




 僕の世界は白かった。
 けれど、外の世界は赤かった。

 そう思った。

 「大きな音に注意して」

 そう言って、僕を車椅子に乗せ換え、静かに彼女は部屋の扉を開けた。そして、目に入って来たのが、赤い壁と赤い床だった。否、本当は白い筈の壁や床が、赤く塗り替えられていた。

 その光景に、僕だけでなく、看護婦さんも息を呑むが、其のまま意を決した様に、車椅子を押す。赤い床は濡れて滑り易く、看護婦さんは苦労していた。僕に出来る事と言えば、初めて見るに近い、病院の中の光景を観察するだけだ。

 (何が? あったのか?)

 看護婦さんは足音を消し、周囲を伺いながら押して行く。その目には緊張が浮かび、額からは汗が流れていた。唾を呑みこむ喉の音まで聞こえてきそうだった。

 僕は、病院の中は賑やかなのだと思っていた。それは間違っていたらしい。少なくとも今は、この病院の中で大きな音を経てる者はいない。居なくなってしまった。

 「……っ……×××、絶対に、声を出さないで」

 何か、この惨劇を引き起こした者を見つけたのだろうか。車椅子を止め、廊下の端の柱の陰に寄せ、身を低くして、静かに、看護婦さんは耳に囁いた。

 「声を出したら、貴方も私も、死ぬわ。……絶対に、黙って」

 そう小さく、まるで注射針の様に鋭く、言葉を言う。

 僕は病室内では非常に聴き分けが良く、特にこの看護婦さんの、こんな口調の時には、絶対に従うべきだと言う事を経験で知っていた。それが、良かったのだろう。

 廊下の向こうから歩いて来た、僕の病室に良く来ていた、気に食わない感じの医者を見た。
 その喉に大きな穴を開け、肩が抉られ、白衣を血に染めた、まるで死体の様な格好の、医者を。

 「――――」

 驚いた。悲鳴を上げる訳ではない。こんな状態でも、人間は歩いて行動が出来るのかと、思った。医者と言う存在は、体を悪い部分を治したり、取り除いたりすると聴いた事が有る。だから、僕はずっと病院の中で暮らしているのだと思っていた。

 でも違った。医者は、多少体がおかしく成っても、自分の体を治して動けるらしい。

 「…………」

 看護婦さんは、胸のポケットから小さなコインを出した。十円玉、と言うやつだ。それを、静かに振り被った手で、静かに、遠くへと投げる。僕と看護婦さんが居る柱から、かなり離れた場所だ。コインが、床に落ちる。濡れていない場所に狙って落とされたコインは、甲高い音を立てた。

 「――――、ォ」

 呻き声をあげて、医者がそちらを向く。そして、コインの方にと歩いて行く。
 柱の陰の僕達が、見えなかったのかもしれない。コインの方面を向いた医者は、其のままゆっくりと歩き、遠ざかって行く。背を向ける医者の背中は、やっぱり真っ赤だった。

 「……よし」

 小さく呟いた看護婦さんは、其のまま僕の車椅子を押して、気が付かれない様に、廊下を渡った。そして、角を曲がり、そのまま素早い足取りで今の場所を離れて行く。
 数分程静かに、誰とも会わずに歩き、出口のすぐ傍に来た事で安心したのだろう。

 小さな安堵の息を背中に感じた。






 それが、悪かったのかもしれない。






 何の音が原因だったのか。

 次の瞬間には。

 同じ様に、真っ赤に染まった、別の看護婦と医者が。

 僕と彼女に、襲い掛かっていた。




     ●




 それは、まるで巨人にも似ていた。

 泰山と歩く足は巨木の様に、膨れ上がった筋肉は鋼の様に。

 各所が隆起した体。その身を破った骨。硬質化した爪。

 亡者の腕を容易く払いのけ、繰り出される牙を変色した肌が防ぎ、僅かに追った怪我も修復される。

 古代西洋の彫像のように堂々とした、しかし嫌悪感を呼ぶ巨体の体中に走った傷跡は、固く塞がり、盛り上がる。

 唇の無い、醜悪な顔から、まるで咆哮の様に、吐息が漏れる。

 炯炯と、獣よりも遥かに獰猛な光と、同時に理性を灯した瞳が、標的を探す様に観察する。

 何処で手に入れたのか、その身を丈夫そうな衣服で包み、音に集まる《奴ら》を路傍の石の様に薙ぎ払い、戦車の様に容赦無く、道を突き進む。

 唯一、人間だった名残の白髪が、その頭部に残るだけ。


 それは、今尚も足掻く生者にしてみれば、正に、悪夢の象徴の様な、怪物だった。




     ●




 其処から先は、覚えていない。

 確かに、喉や頭に噛みつかれ、痛みと共に意識を失った筈だった。

 けれど、僕は生きていた。




 最初に、目を開けて見えたのは、苦しそうに息を吐いて、汚れの少ない廊下に座りこみ、壁に寄り掛かる、看護婦さんだった。

 「……やっぱり、そうか」

 体が勝手に動いた。物凄く簡単だった。今迄の苦労は夢かの様に、容易く動いたのだ。僕が身を起こすと、彼女は、そんな風に、諦めた様な顔で、呟いた。

 「アレが、脳と神経で、肉体の支配をするのならば……骨盤や脊髄に異常が有っても、動く」

 何を言っているのか、解らなかった。

 視界の片隅に、車椅子が転がっている。そして、同じ様に地面に、先程噛みついて来た、真っ赤な色の医者や看護婦が、倒れている。何れも頭を潰され、動かない。看護婦さんが、潰したのだろうか。

 廊下を見れば、新しい赤色が周囲に散っていて――――。



 ――――其処で気が付いた。



 僕はその時、両足で、立っていたのだ。
 動かないと思っていた足が、動いている。



 「まして、事故の怪我は完治していた。精神的なショックと、思い込み。そして、決して外に出そうとしなかった連中のせいで、動けた筈の体も動かせないままだった。……そんな理屈は、通じる筈がない、と」

 ごほ、と咳をしながら、看護婦さんは言う。咳と一緒に、血が出た。

 心配だった。彼女に近寄ろうと、一歩、足を前に出す。

 途端に、上手く歩けず、転んだ。ぐらり、と重心が傾き、其のまま前に倒れてしまった。立ちあがったのは無意識だったのかもしれない。歩く感覚は、久しぶりすぎて、体が覚えていない。
 ドスン、と音を経て、それでも、彼女に寄ろうと、腕を使って前に進む。声を出そうとするが、出せない。其処で僕は、両腕も、否、全身も、今迄と違っている事に、気が付いた。

 「――×××、には、見えないな」

 体を動かそうと、苦しんでいる僕に対して、彼女は一人で、自分を責める様に、言う。

 「病院に隔離された理由。……事故で運ばれて、以来、ずっと病院の御荷物だ。費用の代わりに、治験と投薬の実験台。薬の効果を見極める為に処方された、法律ギリギリの投薬だった。――その影響か、何時しか異常に、薬の効果が出無くなって……どんどん、実験が過激になって」

 悲しそうに、自分を責める様に。

 「そして、何の偶然か。噛まれた影響で、突然変異か、化学反応か、それとも肉体の暴走か……」

 僕の方を見て、呟いた。

 「まるきり、……改造、人間だ」

 僕には、その意味が、解らなかった。
 改造とは、何かを、より格好良く変える事だと、思っていた。小さい頃のヒーロー番組ではそうだった。あるいは、より強くする為に、悪の博士が行う事か。
 どちらにしても、自分がどれ程に異常で、どれ程に怪物的な状態なのかを、知らなかった。

 強く成る事が良い事ではないかと、単純に思った。

 「――――帰って来て、両親の話を聞いて。八方手を尽くして見つけて。看護婦として入り込んで。機会を伺っていて……。そして今だ。混乱に乗じて……逃げ出そうと、思ったが。……此処で、終わり」

 諦めたように、静かに目を瞑った。

 「――――悲しい、が――、」

 静かに、看護婦さんは、天井を仰ぐ。

 そのまま、僕の方を、見る。

 何も感情を映さない、全てが終わったと言う様な、疲れた顔。

 その顔を、過去に、何処かで見た事が有る様な、気がして。




 何故か、彼女を抱きしめていた。




 そして――――――。




     ●




 白い髪の怪物は、太い指を動かす。身に纏った、巨大な野戦服の様な、上半身を覆う服のポケットから出たのは、写真だ。ゴソリ、と言う音と共に、開かれる。

 写真を見る赤い瞳と、かつては色の無い、珍しいだけの指の肌が、今では異常さと異形さを示している。

 「……見つ、k、タ」

 ボソリ、と冥府から響く様な低い声で、彼は告げた。

 「アレ、が……」

 彼に理性が有る事を知った看護婦は、残された時間で、僅かだが言葉を言った。



 『私の友人に、お前を託す』と、そう語った。

 財布から写真を取り出し、『この彼女達に会え』と、そう告げた。



 「探、しタ、相テ……」

 その真意を、彼は知らない。語るよりも早く、彼女が事切れたからだ。

 しかし、彼女は確かに、彼に幾つもの指針を、与えて行った。

 これから、彼がするべき事。

 これから、彼が目指すべき場所。

 これから、彼が出会う困難に対する激励。

 そして、最後に一言の、感謝と愛情の籠った、有難うの言葉。




 彼はまだ、何も知らない。

 けれども、その口調に、するべき事が有る事だけは、理解した。

 だから、看護婦の言葉の通りに、動いた。




 病院を抜け。

 荒らされた店から丈夫そうな衣服を奪い。

 渡された写真を大切に仕舞い。

 暴れる亡者も、襲い掛かる暴徒も、関係無く退かして突き進み。

 坂道を登り、周囲の障害を薙ぎ払い。

 彼女が此処にいる筈、という言葉を信じて。

 まるで『追跡者』の様に。




 写真に写っていたのは、三人の女性だ。一人は、彼にこの写真を渡した看護婦。もう一人が黒髪の、鋭い眼の女性。最後の一人が金髪の、優しそうな女性。

 その最後の一人の一人を、視界の中に、確かに。

 「見つ、k、タ……」




 今にも、生徒達と学園を脱出しようと動く、鞠川静香という女性を。














 と言う訳で、周囲から思いっきり誤解される主人公な話。
 そして強い代わりに、強さ以外の人間的な要素を、どんどん手放して行く中で頑張る話です。

 『追跡者(ネメシス)』そのまま。触手はまだ、有りません。外見はタイラントっぽいかな……。
 只管に追って来るだけです。でも、《奴ら》の噛みつきは愚か、大口径の銃だって効果が有りません。肉体が異常に頑丈で、まだ不慣れですが超スペック。毒島先輩with日本刀でも無理です。車で撥ねても効果なし。ロケットランチャーも回避可能。無双可能なチートですね。

 どこからどう見ても、まず味方には扱われない事を除けば、ですが。


 書きたいシーンが有るので、無駄を省いて、テンポ良く続けたいです。
 でも、他の作品を何とかしないとなあ……。



[20613] 第二話 『Escape from the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/07/26 11:17


 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』
 第二話 『Escape from the “Tyrant”』






 丘の上に、一つの学園が有った。

 街の権力者と密接に関わる理事長が、潤沢に資金を投入し、広大な敷地と設備を兼ね備えた、裕福な学校は――日々の生活を過ごし、日々を送り、学生生活を満喫するには、十分だった。
 顧問の揃った部活動、教養豊かな教師人による勉学、固いが厳し過ぎない規律に、有る程度の自由な恋愛――青春に明け暮れ、楽しい高校時代を過ごすには、相応しい学校だった。

 “十分だった”、“相応しかった”。

 ――――そう、全ては過去形だ。

 入りこんだ《奴ら》に教師が齧られ、齧られた教師が《奴ら》に成り、鼠算的に被害は拡大した。

 常識的な対応は、常識的だったからこそ初動の遅れを産み、パニックを生み出した。無理も無い。警察に連絡する事、保険医を呼ぶ事、門の前にいる不審者を“捕まえる”事。それらは、どれも世間一般での正しい対処方法だったのだから。

 ただし、常識は、何の役にも立たない緊急事態だったと言うだけの話。
 常識は足枷にしか成らず、論理や理屈が一切に通用しないのが《奴ら》だったというだけの話。

 出来るだけ穏便に解決を図ろうと言う、この国特有の性質だったからこそ、最初で被害を止める事が出来なかった。

 仮に初動の段階で、学園を完全封鎖し、徹底した行動を取る事が出来れば、籠城もあるいは、可能だったのかもしれないが――――しかし、意味の無い仮定だろう。

 結果として悲鳴が連鎖し、状況の把握も出来ないまま混乱が誘発され、その混乱の中、一握りの人間を除いて、皆、成す術無く喰われ、死して《奴ら》と同じ場所に堕ちて行った。




 「部活遠征用のマイクロバスはどうだ? あれなら全員が乗れるだろう」

 「あ、バス有りますよ。無事です」

 「それは良いけれど……それから、如何するの?」

 「まず家族の無事を確かめます。それから、安全な場所を探して、何処かに避難しましょう」

 「警察や自衛隊も動いている筈。……災害時みたいに、避難所とか」

 「……待って。――――見て、皆」




 あるいは、この街だけならば。
 仮にもう少し範囲を広げたとして、この周辺地域だけならば。
 もっと極論を言えば、この『日本』という国家だけならば、まだ、この状況に対して何かしらの手の打ちようは有ったのかもしれない。

 しかし『地域流行(エンデミック)』や『流行(エピデミック)』では無く『世界的大流行(パンデミック』の時点で、世界は既に手遅れの状態だった。

 米国大統領がホワイトハウスを破棄し、モスクワと通信が途絶し、北京が大火に見舞われ、パリやローマで民衆が暴走し、世界の名立たる大都市に、今この学校で起きている事と同じ現象が発生していた。

 フェイズ6を軽く凌駕した――――WHO(世界保健機構)の“最悪”を超えた大災害に、辛うじて抗えているのは、海を挟み、同時に初動が早かった英国だけだった(因みに、これに関して『王立国境騎士団』なる秘密組織が動いたと言う流言飛語があったりするが、此処では関係が無いので割愛する)。

 軍隊が出撃し、絨毯爆撃が始まり、戦術核が使用され、其れが各国の戦争の火種になるまで、もう時間の猶予は無いも同然だった。




 「大丈夫そうな場所……有るわよ、ね?」

 「無いわね。――――パンデミックよ? インフルエンザの脅威は知っているでしょう? スペイン風邪なんか、世界中で死者五千万人を超えたのよ?」

 「病気と違って、死んだ奴らは動いて襲ってくるよ……?」

 「黒死病みたいに、感染すべき人間が居なくなっても、この拡大は止まらない、って事よね。――――あ、二十日位、放っておけば、腐るかもしれないかも」

 「不確かだな。医学では語れん。……何れにせよ、何時までも此処にいる訳には行くまい。家族の無事を確かめた後、何処に逃げ込むかが重要だ」




 『動く死体』を目にした時、何よりもその被害を拡大させる原因は、生きている人間に有る。

 第一に、今まで生きていた相手が、周囲と同じ様に亡者と成り、襲い掛かるという現実を認める事が出来るかどうか。
 第二に、知人・友人・家族・恋人――――誰でも良いが、兎に角、『この人だけは、きっと大丈夫だ』という、命を賭すには余りにも不確かな希望を、手放す事が出来るかどうか。
 第三に、動く彼らを相手に、容赦無く、躊躇わず、『自分の命の為に』彼らを廃し、全力で足掻く事が出来るかどうか。

 世間一般に置いて、其れが出来る人間は多く無い。大抵は何処かに、引っかかる。そして、その代償に自分の命を差し出し、より大きな被害を生み出す事に成る。

 仮に条件をクリアし、最初の被害からは逃れる事が出来たとして、其処から先を、生き延びる事が出来るとは、限らない。
 内部不協和。一時の気の迷いによる衝動的な行動。人情と非情の取り違え。常に推移する状況を捉えた的確な判断。多くの障害を越え、生き延びると言う確固たる意志を、保ち続けられるか。

 該当する者など、数えるほどだ。数百人に一人もいないだろう。それが当然なのだ。常に生き残る為に最適な判断を下せ、助けを求める息有る者を身捨て、冷静沈着に行動出来る者など、まず居ない。

 しかし、否、だからこそ――――か。

 それが実行できた時、その個体は大きな力を発揮する。
 全てに該当する人間は存在せずとも、その内の『幾つかの要素を持った人間』が集まれば、其れで形に成る。唯の無意味な集団が、集団以上の力を発揮出来るようになる。

 彼らは、まさにそんな集団だった。




 「好き勝手に行動しては生き延びれまい。チームを組むのだ。協力して、この学園から脱出する」

 「経路は? どうするの?」

 「駐車場に一番近いのは、正面玄関よ」

 「出来る限り、生き残りを拾っていこう」




 そして彼らは、動きだした。

 何よりも、この地獄から生き残る為に。




     ●




 (少し、は、マ、シ)

 自分の肉体の変化に伴って、『彼』の衣服は唯の布と化していた。羞恥心を持っていた『彼』は、既に店員が逃走し、荒らされた一軒のブティックから適当な服を身繕った。着るまでに四苦八苦し、途中で異形と化した店員に襲われたが、如何にか、衣服を身に付けた。

 丈夫で、頑丈そうで、体格に有った衣服を選んだ。血と共に床に散らばっていた雑誌のあるページに、ハリウッド映画の宣伝広告が挟まれており、其処には体格の良い俳優がスタイリッシュに銃を構える光景が有った。だから、其れを参考に身に付けた衣服が、まるで『彼』の異形を引き立てる様な格好になってしまったのは、仕方が無かったのかもしれない。

 (格好、良イ?)

 上半身を包む厚手の黒皮服に、複数のポケットが付いた厚手のズボン。登山や野戦に使えそうな固く重い靴。入りきらない両袖は爪と骨で破けている。まるでプロテクターで覆った様な格好だ。

 両腕は白と赤、紫の斑に変色し、嘗ての肌の美しさを見る事は出来ない。それなりに整っていた顔も、肌が消え、剥き出しの唇と傷跡で醜悪だ。白髪も返り血で赤く塗り替えられている。

 体格の良さを利用した、威圧感を兼ね備えた衣服。その衣服だけは“まとも”で、その中身が余りにも不釣り合いだった。

 否、ある意味では釣り合っていた。目の前の邪魔する者を拗ねて壊し、只管に一途に行動する――。
 まるで、暴君を形にした様な存在感を、示していたのだから。




 『彼』は、辛うじて歩く事には慣れた。慣れたと言うよりも、自分のかつての感覚と繋がったと言うべきだろう。幼い頃に大地に立っていた感覚を、もう一回、把握して、歩行能力を完成させた。

 無論、歩く事しか、今は出来ない。何かに乗る事は愚か。泳ぐ事も走る事も出来ない。

 (でも、……行け、ル)

 しかし、歩くだけでも、何も問題は無かった。

 『丘の、上の。……藤美、学園に……っ。私の、友達が、いるか、ら。――――彼女に、合いなさい』

 その言葉と写真を受け取り、かつて×××と呼ばれていた『彼』が、藤美学園に到達したのは、学校での騒動が始まってから、大凡、三時間程後の事だ。

 学園は丘の上に築かれていた。距離と相まって、学園敷地内への《奴ら》の侵入も、そして『彼』の到着も、市街地よりも遥かに遅かった。

 悲鳴と逃走に惹き付けられる亡者達を尻目に、市街地での被害拡大と混乱に紛れて『彼』は動いた。誰も『彼』に注目する事は無かった。そんな余裕を誰も持たず、逃げるか暴れるか、だけだったからだ。

 歩く事には、自分の肉体感覚の同調作用も合ったのだろう。坂を登る頃には既に重心が安定し、ぎこちなかった上半身の動きも随分と滑らかに成った。無論、その身体能力を引き出すには至らず、動かせるだけの状態だったが――それでも、嘗ての不自由な肉体は一新されていた。

 学園まで、病院から数キロの道程が有った。嘗てならば、百メートルを歩く事すら困難だった。しかし、最早『彼』は病院で寝たきりの患者では無い。淡々と足を進め、途中に塞がる障害を、まるで害虫のように駆除して、結果として汗一つ掻かずに『彼』は目的地に到達する。

 桜並木を抜けると、其処には優雅な佇まいの校舎が見えた。

 春と言う季節を感じさせる穏やかな風と、その中に混ざる血の匂いが不釣り合いだ。

 (……ここ、カ)

 誰かが閉めたのだろうか。それとも、元々開いていなかったのか。学園入口の格子は鎖されていた。洒落た紋様を鋼鉄製で描いた門の向こうには、学生服に身を包んだままの《奴ら》が犇めいている。

 逃げ出す事も出来ず、彼らの餌食に成った学生達の数は、百人や二百人では収まらない。校庭や校舎の中にも並んでいるのだろう。元々人が少なかった駐車場には、数が少ない。
 見える範囲では、この門から、玄関前まで、只管に亡者達が並んでいる。

 (で、も、……行ク)

 しかし、その程度の群れで『彼』の侵入を防げるはずが、なかった。




 『彼』は唯、自分に告げられた言葉を守る為に。
 その鉄門に対して、指をかけた。




     ●




 その音は、静かに行動していた彼らにも届いた。

 全員の動きが、一瞬停止する。

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 全員、者音に対して敏感になっていた。音さえ立てなければ、大抵の危険はやり過ごせる事を既に学んでいる。無言のまま、互いに目配せをした。一行の中心となって歩く六人では無い。そして、背後から付いてくる、途中で合流した生存者達でも無い。

 一向の先陣に立って歩いていた毒島冴子が、素早く周囲を見回した。行動中の面子が発した音では無い事を確認出来た以上、他の発生源が有るのは当たり前だ。
 しかし、廊下にも、近場の教室にも、音を生み出す原因は無い。この近辺から発せられた音では無かった事に、全員の緊張が和らぐ。直ぐに襲われる心配はなさそうだ。

 「……何、この音?」

 宮本麗が小声で発した疑問は、全員に共通していただろう。
 響いて来た音は、まるで金属を鳴らす様な、高く響き渡る音だった。

 「……何処から?」

 “だった”では無い。今も響き続けている。ガシャン、か。バキャン、か。耳障りな、高い音だ。硝子の割れる音では無い。むしろもっと固い、金属を打ち鳴らすか、銅板を捻り折る様な、音。屋上の金属網を揺らした時に。出るガチャガチャとした音が、重く、固くなった様な音だ。

 校庭や、校舎外にいた《奴ら》が音に反応している。だらりと首を向け、名状し難い呻き声と共に、足を引き摺って歩く姿が、眼下に見えている。

 「校門の方ね。――――此処からじゃ見えないわ」

 しかし、音の発生源は見えない。窓から様子を伺った高城沙耶が告げた。正門が建物の陰に隠れている。音の発生源を見るには、正面玄関まで出て様子を伺うしかないだろう。

 「生存者、でしょうか?」

 「……多分、違うわ」

 平野コータの疑問に、冷静に周囲を伺いながら、彼女は答える。

 「悲鳴も叫び声も聞こえないのに、音だけが響いている。……今、生きている人間ならば、こんな事はしない筈よ。だから多分、何か別の物だと思う。何かを契機に鉄格子に腕が絡まって、その衝撃で発生した音に《奴ら》が引き付けられての繰り返しが続いているとか」

 「……どっちにしろ、良い機会だ」

 高城の言葉が終わったと同時に、再度、剣士は言った。

 「《奴ら》が門の方を向いている今の内に逃げよう。校舎内さえ気を付ければ、多少の音を立てても発見され難い。……音が消えさえ、しなければな」

 逆に言えば、移動中に音が消えたら、其処からは速度の勝負だ。相手が此方に気が付き、追い付くよりも早く、その場を離れる必要が有る。校門は見えないが、駐車場は視界に入っている。見える範囲には《奴ら》の影はまばらだった。

 「行こう」

 全員を、小室孝が促した。
 それに同意して、全員が再度、静かに、しかし速度を若干上げて歩き始める。

 玄関は直ぐそこに迫っていた。






 この時、彼らが校門の前にいる相手を目視出来なかった事は幸いだった。

 甲高い、金属を響かせる音を生み出していた『モノ』を見れば、間違い無く、行動意欲が減っただろう。意識を焦らせ、余分な失敗を引き起こし、貴重な時間を無駄にしたに違いない。否、ひょっとしたら、この校舎から外に出る作戦すらも、立て直していたかもしれない。

 事実、別校舎から、彼らの脱出に便乗しようと画策していた『三年生のとあるグループ』は、門の前にいる相手を見て、時間を失った。彼らが得たのは恐怖と躊躇。そして、校舎の外に出る事への、戸惑いだったのだ。例え、他者に便乗した方が間違い無く命の危険は少ない事を理解していても尚、今にも内部に侵入しようとする怪物を見たと言う衝撃が、行動に“慎重さ”を生み出す事に成ったのである。




 明らかに周囲の倍はある巨体で、まるで支配するかのような格好だった。




 鋼鉄で編まれた校門に対して、獣の様な指を、格子に絡ませる。

 太い腕は、腕に縋りつく《奴ら》も、噛みつく牙も、リミッターの外れた怪力も、全てを意味が無いと言う様に、そのまま門へと剛力を込める。

 ゴボリ、と異常な音と共に、肩周りの筋肉が膨れ上がり、一層に膨張した格好になる。

 そして、一瞬の後。

 ガギャンッ! と言う金属音と共に、鉄格子が、“壊れた”。

 曲がるのでも、歪むのでもない。常識外れの力で、門を構成する鉄棒が、引き千切られた。

 自分の体を入れるだけの隙間を生み出す為にだろう。無理やり、門を構成する格子を、しかし確実に破壊していく。縦棒も横棒も、強制的に折られ、退かされる。幾本かは外れ、幾本かは耐え切れずに折れ、既に、小学生ならば通り抜けられそうな穴が生まれていた。

 一撃一撃で、容易く、簡単に。

 自分の周囲にいる亡者達を、紙かハリボテかと言う様に、完全に無視をしながら。

 まるで鋼鉄が、実が飴細工だったとでも以下のように、容易く門を破壊しながら。

 中に入ろうとする、怪物が、其処には居た。






 「……何だよ、アレ……」

 別校舎の別グループから遅れる事、数分後。

 「何なんだよ、アレは……っ!」

 玄関前にて、一行も、その光景を見ていた。
 喉から絞り出す様な、渇いた、引き攣った声で、そう叫んでいた。
 それは、この場にいる全員の代弁をしていたに違いない。



 校門の前に、怪物が居た。



 宮本麗は鉄棒を、高城沙耶と鞠川静香は鞄を、背後から来た一般生徒達は護身用の武器を、其々取り落とした。毒島冴子と平野コータですら、武器を取り落としこそしなかったが、同じ様に言葉を失っていた。

 毒島冴子を除いた女性陣は青ざめ、口元を押さえている。《奴ら》とは違った、別の怖さが有った。生理的な嫌悪感を引き起こす気味悪さと、生物的な気色の悪さ。他者を圧倒する存在感が有った。

 《奴ら》が周囲には居ない。各人の道具が落下した音も、門の前から響く音に比較すれば、小さい物だ。だから、困惑した声も、周囲の注目を集めるには不足だったのが、幸いと言えば幸いだろうか。

 ――――玄関を、無事に通れたと思ったら……っ!

 慎重に進み、玄関前の扉を開けた。外から響く金属音に、《奴ら》が全員引き付けられていたから、苦労は無かった。《奴ら》の誰もが外に向かった後、鍵を開け、扉を開き、全員で駐車場を目指して走る予定だった。



 しかし――――その目論見は、簡単に、頓挫した。



 いや、頓挫をしている訳ではない。実行までに時間が懸かっているだけだ。



 校門の前に。
 《奴ら》よりも遥かに、此方に威圧感と、恐怖を与える、まるで巨人の様な生物が、見えた。

 上半身と下半身に、まるで戦争に行くかのような服を纏い。
 二メートルを軽く超える巨体は、鋼の様な、変色した筋肉に包まれ。
 それ自体が武器にも成りそうな巨大な掌には、鋭い爪と、付き出た骨を有し。
 皮膚を失った顔の中に、瞳が爛々と光っていた。

 この絶望が始まってから初めて見る、《奴ら》以外の怪物に、全員の思考が麻痺をしていた。

 いや、《奴ら》はまだ、人間の形をしていた。けれど、怪物は違ったのだ。
 外見から既に、人間以外の何かに、成っていた。

 理性では動くべきだと理解出来るのに、肉体は動く事が出来なかった。
 逃げ出す絶好の機会である事すら、頭の中で固まってしまった。

 《奴ら》の様な、唯の怪物とは違う。明らかに、他とは一線を画す存在感と、行動力を有していた。

 ――――ガキャン! と、鉄の格子が、更に強引に、千切れる。

 その音と共に、ついに、正門には大きな穴が開いた。
 付き出た邪魔な鉄棒を握力で捻じ曲げ、怪物が通り抜けるのに丁度良い、入りやすい様な、歪な円穴が、出来た。

 そして。
 其処に至って。
 グシャッ――――と、目の前にいた一体を踏みつぶし、蹴り飛ばし、中に入った光景を見て。

 ようやく。
 ようやっと。

 あの怪物が、門を破って入り込んで来る事。
 そして恐らく、此方を見ているという事実を認識して。



 「――――――っ――全員! 走れ!」



 理性に、肉体が、追い付いた。



 「走るんだ! 早く! ――――走れ!」



 小室孝と、毒島冴子の声に、全員が我に返った。
 誰よりも早く駈け出したのは、声を上げた孝本人だった。




     ●




 バスに到達するまでの間に《奴ら》は居なかった。不幸中の幸いと言う奴だろう。あの怪物が、全てを引き付けていた。恐らく歩いても、容易く移動が出来たに違いない。

 怪物が門に穴を開けた事で、響いていた金属音は消えた。金属音が消え、静寂が戻った後に、小室君が叫んだ事で《奴ら》が反応を見せたが、全力で走る私達に追いつける程、足は速く無かった。

 それでも、全員が必死に走ったのは、あの異形が其れほどに、凄まじかったからだろう。

 嫌悪感を呼ぶ容貌。ホラー映画やパニック映画から抜け出して来た様な格好。そして、破壊と暴力の権化のような印象を持った巨漢。木刀で立ち向かうには無謀だ。私ですら出来れば逃げたい。

 先頭を彼に任せ、宮本君に鞠川校医を任せ、校舎から共に逃げ出した生徒達の殿に着く様に、私は場所を変える。走りながら速度を調節し、念の為に背後を見ながら、遅れないように。




 視界の中で、怪物が、学校の敷地内に入った。



 幸いにも、あの怪物と自分達の間には、百では効かない、嘗ての同級生達がいる。此方に間に合うとは思えない。それでも、足を緩める者はほとんどいなかったが。

 バスまでの距離は、精々が数百メートル。たかが数百だが、されど数百だ。私や職員室で出会ったメンバーは、まだ心の何処かに適応能力が有るが、一般生徒には地獄のように長い距離だったに違いない。

 「……っぐう!?」

 目の前を走っていた男子が倒れる。そのまま地面を滑り、足首を抑えて蹲る。突然に全力で走ったせいで、何処かを痛めたのだろう。自力で起き上がる気配が無い。感情が焦り過ぎたのだろう。

 「落ち付け! まだ《奴ら》との距離は有る! 立てるか?」

 素早く近寄って、助け起こす。苦痛に呻いているが、私の言葉で僅かに安心したのだろう。脂汗を流しながらも片足で立ちあがる。彼の前を走っていた女生徒が、「卓蔵!」と、名前を呼びながら駆けより、肩を貸して、支えながらバスへと向かっていく。

 如何やら大丈夫そうだ、と安心し、再度、背後を振り返る。




 そして、私は、その光景を見た。




 巨人が、《奴ら》を蹂躙していた。

 門から入った怪物が、《奴ら》に囲まれていた。まるで飢えた魚が、投げ入れられた巨大な餌に群がる様に、怪物に迫っていたのだ。無論、数が数だ。数百の内、五十程度は此方に迫っている。だが、残りの二百と数十が、あの怪物へと襲い掛かっていた。

 《奴ら》は、今迄と同じ様に、リミッターが外れた怪力でしがみ付き、相手を地面に引き倒し、噛みつこうとしていた。そう、“していた”のだ。しようと思って、出来ていなかった。大木を倒そうと奮戦する蟻にしか見えなかった。

 群がる《奴ら》の一体の頭を、掴み、其のまま引き剥がす。

 体重八十キロは有りそうな、体格の良い男子の体だった。それを、其のまま掴み上げ、右腕で軽々と持ち上げ、周囲にいる《奴ら》に、叩きつける。

 骨と肉がぶつかる音と共に、血と脳漿が噴き出すのが見えた。男子の体は二人の元女生徒を巻き込み、下に敷き潰した。男子の頭部は、握力で潰されている。

 それと並行して、周囲を振り払う様な左腕が、噛みついたままの一体ごと、宙を舞い、側面にいた幾人かを薙ぎ倒した。剥き出しの肌に傷は無く、噛みついていた一体は勢いに口が外れ、そのまま宙を飛んで地面に落下した。

 それはまるで、暴風雨に巻き込まれ、容易く宙を舞う人間を見ている様な、気分だった。

 災害と言う存在が具現化したら、きっとあんな怪物かもしれないと、場違いな事に考えてしまった。

 ゆっくりと、緩慢に、怪物が前に進む。

 周囲を取り囲む《奴ら》は、一種の防波堤の用ですらあった。それも、生きた欲望の防波堤だ。しかし、その防波堤を軽々と壊し、大災害の様に崩しながら、怪物は一歩、前に進む。

 重戦車を彷彿とさせる、機械仕掛けの兵器のように、目の前にいる《奴ら》を弾き飛ばし、前に。

 既に武器の一種と成っている鋭き爪と、異常発達した両腕で、周囲を握り潰し、引き裂き、前に。

 何者も、邪魔する者はいないとでも、示すかのように。

 自分に向かって殺到する、数十の亡者を、其のまま押し返した。

 唯、一歩、前に出る。それだけだ。そして、周囲に《奴ら》を取り囲まれていて、其れがどれ程に有り得ない事なのか。

 その小さな一歩は、群がる中の何体かに、限界以上の加重を与えた。怪物に向かう《奴ら》と、怪物が気にせず進む圧力に挟まれ、その身体を屈し、潰される者が続出する。

 その亡骸を踏みつぶし、巨人は前へと進む。

 まるで、何かを探すかのように。



 ――――アレは。



 その光景は、余りにも周囲と隔絶していた。脅威である筈の《奴ら》が、まるで雑兵にしか見えなかった。私も一対一ならば苦戦するとは言えないレベルに有るが、私とも、全く違う生物だった。

 《奴ら》と、あの怪物は、どんな関係なのか、其れは不明だ。明らかに他とは違う怪物で有る事しか分からない。だが、敷地内に入った怪物を見て、確信した事が有る。



 ――――アレは、強い。



 私が木刀で屠った《奴ら》とは、全く違う。根本的に違う。握る掌に汗が滲んだ。最も冷静でいる自覚と、同時、雑魚を屠る快楽を得ている私でも、渡り合う事は出来ないと確信していた。頭の中に有った高揚感に、氷柱が突き刺さった。

 アレは、まさに異形だ。怪物だ。決して弱者では無い。むしろ、破滅的に、圧倒的に、強い生命体だ。

 この世界の終末に相応しい、災厄を形にした様な、化物だった。

 「毒島先輩! 全員、乗りました! 早く!」

 その声で、現実に引き戻される。見れば、小室君が顔を見せている。
 バスの手前で止まっていた私が意識を引き戻すと、此方に向かって来る《奴ら》も、随分と近くなっていた。素早く目の前のタラップを上がり、扉を閉める。そのまま、一番手近な席に着く。

 「行きます!」

 既にエンジンは温まっている。
 鞠川校医の声と共に、踏みこまれたアクセルに、バスが急発進した。




     ●




 車体が加速する。回転数が上がった動力音に《奴ら》が惹かれている。だが、車の方が圧倒的に早い。進行方向を遮る学生だったモノの間を抜け、正門へと。

 正門から僅かに離れた位置に怪物が居る。このバスの音に惹かれた《奴ら》が、先程駐車していた周辺にいる。怪物と《奴ら》の隙間に上手く車体を入れれば、其のまま勢いで突っ走れるかもしれない。

 握ったハンドルが湿っぽい。緊張しているのだ。幾ら大人でも、医者として死体を見た経験が有っても、元々神経が太い方でも、この学園に赴任した時に幾つかの決意を持っていても。

 怖い物は、怖い。

 マニュアル車は不慣れだ。仕組みは理解していても、乗りなれたコペン程には扱えない。けれど、そんな泣き言を、言っていられない。今現在、この中で運転が出来るのは自分だけで、唯一の大人なのだ。戦力として役に立たない事は、鞠川静香は、誰よりも自分で承知している。

 「……人間じゃない」

 言い聞かせる。自分は大人で、教師だ。背後の生徒達を守る義務が有る。医者として死者を悼む以上に、生者を救う義務が有る。覚悟を決めなければ、誰も助からない。

 「もう、人間じゃ、ない!」

 叫んだ。誰かに悪態を付く様な叫び声だった。そのまま、駐車場周りにいた亡者を、撥ね飛ばす。まるでボーリングの玉がピンを転がす様に、人間の体を弾き飛ばす。

 その時。

 音に、怪物が、動いた。音に反応したのか? それとも、バスに興味を持ったのか? それは不明だ。けれど、確かに怪物はバスの方向を見た。バスと、その中にいる人間達を観察しようとした。まだ距離が有る中で、確かにその視界が、此方を向いたのだ。

 そして。



 ――      ォ――――



 怪物が、“咆えた”。
 まるで怪獣か、野生の獣か。自分が目的の物を見つけた時の、雄叫びを、上げた。
 バスの中に有っても、乗客達に、何かを見た様に。



 ――ミ   k   ――――



 それが、人間の言葉に聞こえたのは、きっと錯覚に違いない。人間の声量では無く、出せる音域では無く、何よりも人間には持ち得ない質量を感じさせる咆哮だったのだから。

 そして、怪物は、前に出る。

 獲物に向かって一直線に進む獣の様に、先程までは緩慢に動いていただけだった筈の動きが、途端に変わる。亡者達を振り払い、速度は余り変化が無いが、まるで目的を持ったかのように、前にと進んだ。
 《奴ら》が獲物に群がる様な、しかし遥かに野性的な動きで、標的へと進むように。

 何処か? 何を見たのか? それは、運転席にいた彼女だったからこそ悟れた。怪物が足を向けたのは、このバスの進行方向。正門へと至る道路の真ん中。そして、捉えた獲物は。


 ――――自分だ。




 その巨人は。
 窓越しに、自分を見て。
 確かに、視線を交差させて、笑った。




 「~~~~!!」

 その瞬間、頭の中に有ったのは、何よりも恐怖だ。しかし、このまま突撃する恐怖では無い。撥ねる事よりも、目の前にいる怪物に対する恐怖感が、勝った。

 だから、足を、より強く踏み込んだ。

 急激な加速に車体が揺れる。それを驚異的なハンドル捌きで受け流し、緩慢に此方に向かって歩く怪物に対して、一直線に向かっていく。背後で生徒達が息を呑んでいる。
 容赦など無い。自分が見上げる程の巨体で、常軌を逸脱した怪物が、まるで悪魔の様に、得物を捉えたかのように、唇の無い口で、歯をむき出しに、嗤いかけられた。その恐ろしさに比較すれば。

 「――――そこ、を――――ッ!」

 《奴ら》は既に人間では無い。人間の形をした動く怪物だ。けれど、視界の前、門に至る道の、進行方向に立ち塞がる暴君は“それ以上”の存在だ。心に言い聞かせる暇も無く、其れを悟った。だから。

 「退きな、さ――――、い――――……ッ!」



 そのまま、巨人を撥ね飛ばした。



 ドン! という鈍い音と共に、巨体が宙を舞う。

 幾ら相手が大きくとも、加速したバスの直撃だ。巨体は一直線に宙を飛んだ。自分が開けた門の穴のすぐ傍に背中から激突する。そして其のまま、ズルズルと重力に惹かれて落下し、依り懸かる様に両足を“地面に着く”。

 一瞬、その状況が分からなかった。けれど、視界の中。再度、両足で動く相手を見て理解する。
 倒れてすらいない。そう、着地をしたのだ。まるで門で衝撃を受け止めたかのように。撥ねられ、背中から門にぶつかったにも拘らず、そして門に大きな凹みが生まれているにも関わらず、撥ね飛ばされた怪物に、大きなダメージが無い事に、戦慄した。それは自分だけでは無いだろう。

 「ちょ、嘘、でしょう!?」

 状況把握に努めていた高城沙耶が叫ぶ。自分だって叫びたい。けれど、そんな余裕は無かった。ギリ、と歯を噛み締め、震える体に激励を発して、そのまま、更に加速する。相手が生きていようが死んでいようが、最早、自分達の逃走経路は、目の前の門しか無い。止まれば終わった。唯一の逃走経路が、其処だった。

 「――――――――!!」

 再度の追突まで、二秒も無かった。傍から見ていれば、バスが巨人を吹き飛ばし、其のまま門に挟みこむように突撃した光景しか見えなかっただろう。乗っていたからこそ、相手の状態が見えた光景だった。

 ダン! ダガッ! ドガッ! と、断続して、校門前にいた、嘗ての人間達を撥ね飛ばす。吹き飛ばす程に加速しなければ、何れ相手を踏みつけて横転だ。それは終わりを意味している。だから勢いを殺さない。一切の速度を緩めず、一直線に、門へと突き進む。

 まるで砲弾の様に駆けるバスは。

 「――――――!!」

 そのまま、門と怪物に、突貫した。






 法定速度を大幅に無視して加速したバスは、既に疲労を蓄積させていた門を、撓ませ、鍵を破壊し、幾本かの格子を叩き割り、そして強引に叩き開けた。
 弾かれた様に開いた門は、其のまま、車体を僅かに空中に浮かせ、敷地外へと放り出す。

 門とバスに挟まれた巨人の体が、フロント一面に映った。
 人間からは懸け離れた容貌の巨体と、肌を失ったオゾマシイ容貌と、付き出た骨や歯や筋肉や、頭部に残った白髪と、まるで悪鬼の如き眼光が、画面一杯に広がった。誰かが息を呑む。誰かが悲鳴を上げる。運転手だって同じ反応をしたかった。する暇が無かっただけだ。

 視界を席巻した異形は、一瞬の後に、離れて行く。

 門を抉じ開けたバスの勢いに、其のまま体を慣性で飛ばされ、道路へと落下する。しかし、其れを見る余裕は無い。着地に僅かに車体が揺らぐ。傾き、側面の車輪が浮く。
 だが、倒れる事は、なかった。

 制動とタイヤの向きを絶妙に操作し、そのまま車体を横滑りさせ、今吹き飛ばした巨人の目の前で、九十度の方向転換をする。路面と擦れたタイヤの音。懸かる遠心力で何人かが椅子から投げ出される。
 それでも、車体は倒れなかった。

 後輪を地面に付け、側面からの勢いを殺し、受け止め、直線運動に転化して、一気に坂を下る。




 バスと、その乗客達は、親しんだ学園から。
 そして、何故か自分達を捉えた、怪物からの逃走に成功したのである。




     ●




 それから、数分の後。



 大の字に成って転がる『彼』の指が、ピクリ、と動いた。ほぼ同時に、唸り声の様な呼吸の音が戻る。

 『彼』は、地面に転がっている。けれど、勿論、死んではいなかった。体に襲った衝撃。そして揺れた意識を回復させるまで、多少の時間を必要としていただけだ。バスに二回も撥ねられたのだが、その影響は、全く見えない。
 異常なほどに頑丈で、現実離れした、身体能力だった。

 (……いた、い)

 痛覚は死んでいない。ただ、非常に鈍くなっている。修復能力も凄まじい。何本か骨が折れ、多少の血も出たようだが、寝転んでいた五分十分で、その怪我は完治していた。驚異的なまでの生命活動だった。
 むくり、と上半身を起こす。腹筋だけの動きだったが、容易くやってのける。《奴ら》には決して不可能な動きだった。

 顔面からバスに追突したせいだろうか。来た服が汚れてしまった。しかし、破けていない。着続けても問題は無い。丈夫そうな服を選んで来た甲斐が有った。

 (……い、た)

 痛いのではない。確かに、居た。見つけた。学園の中にいると言う、写真に映った女性を発見した。小型のバスを運転していた彼女は、間違い無く、語られた友人であり、鞠川静香と言う女性だった。
 《奴ら》から逃げる途中で、自分には気が付けず、そしてバスを止める事も出来なかったようだが、其れでも、自分の存在は見えただろう。自分が彼女を発見し、硝子越しに確認した様に。

 バスは、桜並木を抜け、坂を下り、既に消えていた。しかし、追跡は、可能だ。

 (追いかけ、よう)

 両足は動く。立ちふさがる障害は、簡単に壊せる。何も心配は無いし、支障は無い。
 『彼』は、立ち上がり、再度自分に群がり始めた亡者を無視して、歩き始める。

 幼い『彼』の頭の中に有るのは、相手を追うと言う、ただ其れだけだった。




 無人の荒野を行くが如くの歩みが、既に人間で無い事を、『彼』が知る筈も無い。


















 ファーストコンタクトは、バスに轢かれました。

 さり気無く、モブの死亡フラグをぶち折った主人公。恋人と一緒に食われたタオルの彼とかね。
 まあ、主人公の今回一番の功績は、結果として紫藤グループを、バスに同乗させ無かった事です。でも、これで死んでくれる様な人では無いので。……ま、その内に、出てきます。あの人は。

 ではまた次回。



[20613] 第三話 『Running of the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/07/28 23:53
 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第三話 『Running of the “Tyrant”』






 僕の世界は白かった。



 僕が感じ取れる世界の殆ど全てが、色に例えると白かった。

 視界の中に入って来る色は白だけ。頭の先から爪先まで。僕の中での白以外の色は、血の色が目立つ両目だけだったと思う。部屋の中に限れば、稀に他の色が有った。けれど、それらは僕の物では無かった。誰かに渡されただけの物だった。僕が色の付いた世界を知ったのは、外に出てからの事だったのだ。

 耳に響いてくる色も白だけだった。何も音が存在しない、静かな世界が多くを占めていた。冷たく硬い機械の音や、感情を感じさせない大人の言葉が大半だった。唯一、看護婦さん―──―いや、お姉ちゃんとの、少ない会話だけ。その時だけ白色は変化したのだ。

 僕が触れる物は、全てが白のイメージをそのまま形にした物だった。布団。シーツ。寝台。腕に繋がれたチューブ。どれもスベスベで、ツルツルだった。綺麗な事は綺麗だったが、何処か感情の無い、ただ決まりというだけの印象を受けた。例外と言えば、腕や指の間に指される、液体を流し込む為の銀色の針くらいだろうか。刺さる瞬間は殆ど見ていないが、自分の感じる唯一の「痛み」が、其処には有った。

 食事を取った感覚は少ない。多分、注射と一緒に栄養を取っていたのだと思う。起きている時に、お姉ちゃんが、こっそりと氷砂糖を舐めさせてくれたり、缶詰の果物を幾つか食べさせてくれる事は有ったが、彼女以外で僕が何かを口にする時と言えば、毎日のように水と一緒に出される薬を呑むだけだった。そして、お姉ちゃんのその行動も、歓迎されていなかったのだろう。その頻度が、少なく成って行った事を覚えている。



 そんな僕の感覚の中で、一番、感じていたのが、匂いだった。



 とても良く覚えている。起きている時の習慣だったからだ。

 何も触れない。何も動かせない。何も口に出来ない。殆ど何も聞こえない。そんな世界にいる僕を、少しでも楽しませようと、お姉ちゃんは毎日毎日、違う香水を付けていた。本当は、香水もいけなかったのだと思う。だから、匂いを抑えた、優しい感じの香水だったけれど──――それでも、僕の為に、毎日、特別な香水を付けてくれていた。

 話をしたり、簡単な勉強をしたり、その時、その都度、僕は、その香りを感じ取っていた。シトラス。ラベンダー。バラ。ジャスミン。スズラン。ベルガモット。バニラ。白檀。それらが、どんな花なのか。どんな植物なのか。僕には解らない。僕が知っていたのは、バラやバニラなど、少しの名前だけだ。お姉ちゃんも、植物には詳しく無かったから、説明が出来た事は少なかった。

 けれど、毎日毎日、僕が唯一、楽しみにしていた彼女との会話の際に、その優しい匂いを求めていた。

 死ぬ寸前まで、お姉ちゃんからは確かに、優しい、暖かい匂いが有った。金属の錆びた様な、血の匂いで覆われていたけれども、其れでも確かに、僕の鼻は感じ取っていた。病院で寝ていた時よりも、もっとずっと沢山の匂いを、受け取っていた。
 儚げな、微かな匂いを、お姉ちゃんが死ぬまで、感じ取っていた。




 だから、誰かを追い掛ける事は、遥かに、簡単だった。




     ●




 (……こっチ、かな)

 体中が、とても鋭敏に成っていた。勿論、鋭敏と言う単語も、敏感になっている理由も、『彼』は良く解らない。けれど、意識を集中して“感じ取ろう”、と思うと、周囲の様子が、とても細かく分かった。それを不思議だと深く考える事も無く、『彼』は動いている。

 都合の良い体だと、第三者が『彼』を知っていれば、語ったに違いない。視覚も、触覚も、聴覚も、そして彼が追跡に使用している嗅覚も、『彼』が望んだ時だけ、異常に鋭く変化した。肉体の変化に伴い、体内の神経系統が異常発達している事は間違いが無い。

 『彼』の体は、まだ市街地に有った。地理に疎い『彼』は、出発した病院の近くに戻って来ていた事に気が付かなかったが、学園から随分と離れた事は分かっていた。坂道を下り、何故か《奴ら》に襲撃されていないコンビニ横を通り過ぎ、普通の人間の歩行とほぼ同じ速度で移動をしていた。

 勿論、『彼』に縋りついた《奴ら》は、まるで破かれる蜘蛛の巣の如く、悉くが活動停止に追い込まれていた。学園から、今、彼がいる所まで。ほぼ転々と、足跡を辿る様に、人体パーツが落下している。仮に背後を付ける者がいたとしたら、決して見逃さない、これ以上無い目印になるだろう。

 (……ココ、を。――左?)

 両腕で、右と左が、どちらだったか。確か、鉛筆を握るのが右で、注射針を指されるのが左だった筈だ。漢字の教科書の読み方が、右から左へ、だった。そんな風に当たりを付けて、彼は右を見た。上空から見ると、彼が北から南に歩いており、バスが向かった方向は東なので、確かに当たっている。

 地面の中と、空気の中。その両方に感じられる『自分の匂い』を、嗅ぎ取り、彼は体の向きを変えた。

 (……遠、イ?)

 ぼんやりと、そう『彼』は思った。随分と、匂いが薄れていた。大雑把な芳香しか感じ取れない。方向も適当だ。周囲は幾つもの血の匂いと、雑多な匂いに包まれている。その中で嗅ぎ分け、捉え、追いかけるのは並大抵の事では無い。

 最も、その“並大抵ではない”事が、難易度が高いだけで、不可能ではない事が『彼』の異常さを示していた。
 『彼』は、自分の行動が、人間には不可能な事だと、知らなかった。




 『彼』は、各地で蠢く《奴ら》と異なる、人間でも《奴ら》でも無い、別の独特の“臭気”を、捉え、追跡していた。狩猟犬や警察・国家機構の特殊捜査犬には劣るが、其れでも遥かに優れた嗅覚だった。

 どんな臭気、あるいは芳香だったのか?

 ……例えばそれは、学園内で撥ねられた時、バスに着いた僅かな血痕と、接触による『彼』の移り香だった。加えて、硝子越しでは有ったが、激突した瞬間に、確かに捉えた鞠川静香の仄かな芳香。あるいはバスに乗っていた幾人かの体臭や、バスが内包していた空気までもが、『彼』の知覚範囲にあった。

 多くの複雑に混ざりあった香りを『彼』の嗅覚は探り当て、後を追い掛けていた。動きは決して早くは無い。未だ、歩行しか出来ていない。しかし、確実に、目指す『彼女』こと、姉の語った友人・鞠川静香に、迫っていた。

 無論、バスに乗車した誰もが。『彼』が、其れほどにまで非常識な行動を可能にするポテンシャルを有し、そして実行し、追跡する怪物である、とまでは。全く、微塵も、想像していなかった。




     ●




 お姉ちゃん────僕を病院から運び出した看護婦さんは、僕の姉だったらしい。らしい、と言う理由は、自分の記憶の中には、彼女の存在がいないからだ。もしかしたら血の繋がっていない姉だったのかもしれないし、本当に姉弟だったのかもしれない。本当は何も関係が無かもしれない。でも、もう確かめる事が出来ない事だけが、確実な事だった。

 『知らなくて……、当然、ね。……貴方は、貴方のお母さんの、お腹の中に、いたから』

 そう語っていた。彼女は、僕の両親と仲が悪かったのかもしれない。言葉の端々に、そんな雰囲気が見え隠れしていた。でも僕は、彼女の事を、お姉ちゃんと呼ぶ事にする。看護婦さん、というのも、なんだか彼女に悪い気がした。本当の関係が分からなくても、あの病院の中で、僕の面倒を見てくれて、僕の世話をしてくれて、僕に声を懸けてくれた彼女は、確かに僕のお姉ちゃんだった。

 『──――もう、私に出来る、事は、……無い、けれど』

 苦しそうな声だった。息を吸って、吐くだけで、本当に大変そうだった。それでも、お姉ちゃんは、僕に、絞り出すような声で、言葉を伝えてくれた。それは、僕のこれからの指針で、幾つかの情報だった。

 『丘の、上の。……藤美、学園に……っ。私の、友達が、いるか、ら。────彼女に、会いなさい』

 一通りの説明を終わらせた後で、最後に、お姉ちゃんは僕にそう言った。

 震える手で、自分の胸元から財布を取り出して、僕に手渡した。財布を持った事は初めてだった。想像していたよりも重く、お金が入っている事も分かった。そして、お札と小銭と、カードの入れ場所と、少し別の所に、一枚の写真が挟み込まれていた。

 この人達に会いに行けば良いのだろうか。そう考えた僕に、小さく、お姉ちゃんは微笑んだ。僕には、その笑顔の意味は分からない。けれど、白い世界にいた僕が見た事の無い顔だった。お姉ちゃんが僕に見せた事の無い、全然、楽しく無い、むしろ悲しい、胸が苦しく成る笑顔だった。

 『……大事な、頼、れる――。友だ、ち、で……。きっと、――──ぁたし、の、』

 お姉ちゃんは、それが限界だったのだろう。ゴホゴホ、と、咳き込み、口から血を吐いて、胸を掻く様に、体を折り曲げる。背中が壁から離れて、すぐ傍に居た僕の体に倒れ込む。病院の時とは逆に、僕が、お姉ちゃんを抱える格好になった。

 『……×××。……────』

 その時にはもう、目が見えていなかった。何処を向いているのか解らない、辛うじて開いているだけの眼で僕を見て、体の変化で破けたズボンを指先で抓んで、震える体で、それでも囁く様に、言ってくれた。ようやっと聴き取れるだけの大きさだったが、残った体力全てを総動員して、僕に言ってくれた。




 有難う。

 愛しているわ。




 それが、僕がお姉ちゃんから聴いた、最後の言葉だった。




     ●




 (これ、ハ)

 『彼』がいるのは、市街地の途中だ。街の中心部に、随分と近い。其処で『彼』は、姉の友人を追い、東へと向かう道で、幾台もの車が事故を引き起こしている光景を見ていた。トンネルを塞ぐように横倒しに成った大型高速バス。その腹に、頭から突っ込んだ乗用車。道路に重なる自動車は殆どが焦げている。

 何台かの車が走っていたが、トラブルで横転したバスに続けざまに衝突し、再度の火災を発生させた────そんな光景を想像する事は簡単だった。動けなくなった車を捨て、素早く逃亡した何人かの落とし物が、車の近くに散らばっている。

 『彼』は、車に近寄った。既に、燃料に引火し、燃え上がった痕跡だけだ。黒い車体と、割れた硝子。溶けて飴状に成った座席。運転席に突っ伏す塊は、運転手だろう。足が挟まり、逃げる事も出来ず、其のまま煙に巻かれて事切れたらしい。苦悶の表情を浮かべていた。

 バスの周辺には、他にも倒れた人間が転がっている。『彼』に判別は出来なかったが、この中の大半は、筋組織の崩壊で行動不可能に追い込まれた《奴ら》だった。バスが横転した後も動いて得物を求めていたが、しかし余りにも燃焼が激しくて肉体が保てなかったのだ。

 倒れる死体は、バスの乗客だった。《奴ら》に噛まれた人間を、誰かが収容してしまったのだ。狭い密室は、密閉されていれば強い。しかし、一回内部に敵が入り込むと、あっさりと崩壊する。大多数の為に、死が確定しているとはいえ、生きて悲鳴と懇願を上げる相手を身捨てると言う行為が、どれ程に困難かを示す、格好の証拠だった。

 (……アッチに、曲がっタ?)

 ゆっくりと、周囲を見回す。太陽が沈み、ぼんやりとした街灯の灯りに照らされる中、家々だけに、光が無い。道路を照らす街灯だけが、虚無的な切なさと、街の異常さを感じさせている。

 バスと乗用車で、道路が塞がれていた。しかし『彼』が追い掛けるバスは、この事故から逃れていた。道路を越え、もう一回左に曲がり、進んでいる。少しだけトンネル前で泊まっていた様だが、誰もバスから下りて居ない事を、香りの濃度と分散具合から、『彼』は感じ取っていた。

 周囲に人影は無かった。《奴ら》は、音の成る方向へと移動している。はっきりとした音ではないが、街の外れ、隣町に至る道からは、音が響いていた。人間であっても、聞き分ける事こそ不可能だが、確かに聞こえる音。

 まるで、祭囃子の音や、催し物の音が、遥かに遠い場所からでも“何かをしているな”と聴き取れる事と同じだった。生者が逃げる為の音であり、秩序立った避難を実行しようと奮戦する警察の音であり、周囲を顧みず強引に進む民衆であり、一向に進まない車の渋滞であり、そして背後から徐々に迫る《奴ら》に、貪り食われ、帰依していく悲鳴と抵抗の音の集合だった。

 (────?)

 ふと。その音に混じって、小さな、別の音を聞いた。彼で無ければ聞こえなかっただろう。

 ガタッ────と何かが動く様な、微かな物音。まるで木箱の中に入れた内容物が、衝撃でずれた音に似ていた。そして、聞こえて来る、呻く様な鳴き声も、一緒だった。『彼』が音を捉えた事と同じ様に、事故を逃れていた《奴ら》が、『彼』と同様に反応を向けたようだった。

 (……何処、カラ?)

 視界の中に《奴ら》の姿が無い。音を発する様な物も、視界には映っていない。何処かに隠れているのか? と『彼』は考えた。勿論、相手を捉えるなどと言う思考は無い。子供がしている“かくれんぼ”で、物音に意識を集中させて、誰かを探しているのと同じレベルでしか無かった。

 ゆっくりと『彼』は歩く。現場から距離を取り、周辺の建物を覗く。真っ直ぐに伸びた、今迄、歩いて来た道路沿いには建物が少ない。しかし、バスが走って行った方向には、幾つか家が点在している。人間ならば注意を払いながら進むのだが、その理屈は『彼』に通用しない。ごく普通に歩き、順番に顔を出して行く。

 「──――っ!」

 とある一件に入った時、悲鳴が聞こえた。押し殺す様な、今にも泣き出しそうな悲鳴だった。今度こそ確実だった。音は家の中では無い。正面から首を傾けて、家を見上げる。既に鍵が壊れ、扉が開かれ、窓が割られ、序に言えば車も無い。逃げ出したのか、それとも襲われたのか。どちらにしても、家の中に生きた人間がいる様子は無かった。

 (……なら、バ)

 ぐる、と首を動かして視界に映ったのは、足だ。人間では無く、太股を食いちぎられた無残な下半身が見えた。その足はバタバタ、と動き、上半身を奥に進めようと足掻いている。しかし、肩が邪魔で進めていない。其れだけ見れば間抜けな格好だった。

 あったのは、犬小屋だった。唯の犬小屋では無い。レトリバーやハスキー、秋田犬といった、大型犬の為の犬小屋だ。余り広く無い庭に鎮座する小屋は、頑丈な木造りで、見るからに高級だった。その入口から頭を突っ込み、奥に居る“生きた人間”を求めて、一体の亡者が動いていたのだ。悲鳴と泣き声は、此処が発生源だった。

 《奴ら》の頭は、嵌ったままで動けない状態だった。頭を突っ込み、しかし奥に居る人間に噛みつく事も、また頭を抜く事も出来無くなっていた。何故かと言えば、その頭にはヘルメットが被った状態のままだったからだ。恐らく生前はバイクに乗っていたのではないだろうか。

 (……取りあえ、ズ)

 この一体は、バスの衝突音で引き付けられ、燃える音でトンネル内を進み、暫くの後に、中で停滞していた。しかし、その後の追突事故の騒音で出口まで進んだのだ。そして、走る人間の音を捉え、バスとトンネルの隙間を抜けて、事故現場までやって来た。しかし、やって来たものの、フルフェイスのヘルメットが邪魔をして、全く口が使用出来ない。やっと得物の居場所を発見したと思ったら、今度は頭が抜けない。そんな、緊急時で無ければお茶目と言える亡者だった。

 勿論、そんな背景を『彼』が理解出来る筈も無い。頭が抜けない一体が、奥に居る人間を食べようとしている。中の誰かが、出られなくて困っている。その事実を、把握する。

 (出して、あげ、よう)




 そして『彼』は実行した。




     ●




 『×××。……人を閉じ込める事は、本当に、悪い事だと思うんだ』

 病室で、昔、お姉ちゃんはそう言ってくれた。

 『自分で動かない事は悪い事じゃない。動けない事も、決して悪い事じゃない。でも、動ける人間を、動きたくても動かせない状態にする事は、最悪だと思う』

 その言葉は、多分、僕に向けられた言葉だったのだと思う。僕の白い世界を、お姉ちゃんは、何とか変えたかったのだろう。外に出してあげたかったのかもしれない。でも、出来なかった。だから、勉強道具や、少しの甘い物や、香水で、色を付けようとした。

 最後には、お姉ちゃんは頑張って、大騒ぎの隙を付く形で、自分の命まで失ってしまったけれど、僕を外に出してくれた。




 だから、僕も、同じ様にしようと思った。




 頭が抜けないで動いている、変な色の人間を引っ張って、退かす。出入り口を塞ぐ事はいけない事だ。中の人間が困っている。変な色の相手は、既に死んでいる事を、僕は知っているので、少し力を込めた。

 僕が、色で人間の見分けが付く事を知った時、お姉ちゃんは、少し驚いた後で、今の自分の色をした人間は助けて、自分の色が変わった時は、その人間は気にせずに倒して良いと、────そう教えてくれた。死んだ人間は動かないと思っていたけれど、違ったらしい。技術の進歩なのだろうか。

 外見とか、血の量とかでは、良く分からない。でも、僕は色で違いが分かる。だから、変な色の相手だけ、ずっと倒して来た。僕は子供の頃、蟻を潰す事も嫌っていた気がするけれど(雨が降る、とお母さんに言われたのだったっけ?)、お姉ちゃんは『変な色のは……、枯れ木、や、雑草だと、思って良いよ』────そう言ってくれた。だから、気にしないで、ずっと退かして来た。草よりも面倒だったけれど、何回も地面から抜く必要が無いのは、楽だった。

 足を掴んで、強引に、死んでいる人を引っ張る。思い切り握ると、腐っていたのかも知れない。簡単に足が、ボキャ、と嫌な音を立てて千切れてしまった。仕方がないから、腰を掴んで、思い切り引く。すると相手はあっさりと外れた。其のまま僕に噛みついて来たけれど、全然痛くない。取りあえず、その辺に捨てる。

 そして僕は、中を覗きこんだ。

 「……────、い、やああああああ!!」

 悲鳴が上がった。中に居たのは、小さな女の子が、僕を見て高い声で泣いたのだ。如何してか、と思うと、僕の右手は、さっきの死体の足を握ったままだった。血も流れている。確かにこれは、怖いだろう。僕でも想像出来る。羽も取れていない、羽と血が付いた鶏の脚は、少し不気味だ。人に会うのに、これはいけない。

 その足を捨てて、もう一回、中を覗く。僕は、お姉ちゃんや、僕を見る大人の人以外に、他の人を見た記憶が少ない。運と昔に、少しだけ誰かにあった気もするけれど、曖昧で、顔も覚えていない。でも、多分、可愛い、という言葉が似合う女の子、だと思う。なんとなく、だけれど。

 そのまま、僕は、泣いている子に、手を伸ばす。

 「いやああああ! 助けて! お父さん――! お母さん――――!! 助けてえええええ──!」

 うわーん、と、物凄く泣いてしまった。すっかり怯えている。ずっとこんな小さな建物の中に居て、しかも外には死んだ人が貼りついていたのだ。その上、死んだ人間に食べられそうな状態だった。さぞかし怖かったに違いない。

 さっきまでは泣いていなかった事を考えると……きっと、ずっと泣きたかったのだろう。死んでも動く人を呼ぶ事が怖くて、我慢していたのだと思う。その怖かった反動が、目の前に僕が出たお陰で、行き成り、来たのだ。

 腕を伸ばして、女の子を掴もうとするが、僕の肩が引っ掛かってしまった。腕は入りきらない。ゆっくりと指を延ばして、成るべく優しく女の子の足を掴む。僕の白とは違う、お姉ちゃんの様な、健康そうな白い足だ。痛くしない様に掴んで引っ張る。

 「――――ぁ」

 反対側の壁に張り付く様な女の子だったけれど、足を掴まれた瞬間に、カクッ、と力を抜いてしまった。見れば、目を閉じている。きっと疲れが出て、そして泣いた事で、眠ってしまったのだ。僕も、病院では、疲れると直ぐに寝てしまった。同じ事なのだろう。

 そのまま、静かに小屋から出す。入口が少し狭かったので、少し無理やりだったが、屋根を外して、体を抱え上げた。成るべく丁寧に、お姉ちゃんが僕を抱く様に、腰の下に手を入れて、持ち上げる。とても軽い。そして、暖かい。

 (……いや)

 ──――腰の辺りが、確かに、暖かかった。濡れた、じんわりとした感じだ。……ずっと寝たきりだった僕には、覚えが有る。考えてみれば、あの狭い小屋の中には、トイレも無かった。緊張が解けたと同時に、耐え切れなくなってしまったのだろう。

 このまま女の子を放っておく訳にはいかない。手も洗いたかった。




 取りあえず、目の前の、鍵が壊れたままの家の中に、お邪魔する事にした。




     ●




 少女が気絶したのも当然だった。色々と限界だったのだ。



 少女は両親と共に車に乗って逃げていた。しかし、直ぐ隣を走る車の中に《奴ら》に噛まれた人間がいたのだ。トンネルの前で、隣の車はハンドルを切り損ねた。そして、少女の乗っていた車に接触した。連続する後部座席に乗っていた少女だけが、事故の被害を受け無かった。車から放り出され、事故の音を聞きつけて此方に動き出した《奴ら》から、逃げる余裕が有った。

 けれど、少女はまだ幼かった。例えば彼女の友人である、希里ありすという少女の様に、運動能力が抜群に高ければ、頑張れば逃げられたのだろう。しかし、彼女はインドア派で、運動は全然に出来なかった。まして、周囲には走る以外の方法も無かった。そして運の悪い事に、《奴ら》は多方向から襲い掛かっていた。

 だから、彼女は隠れたのだ。隠れるしか出来なかった。既に住人が消えた家の、門の傍に置かれた大きな犬小屋の中に身を顰めた。毛だらけで、獣臭かったが、我慢をした。その内に、悲鳴と絶叫と、《奴ら》の唸り声。そして、後に続いて衝突した車の炎上が終わった。少女にしてみれば長かったが、実際は一時間も無かった。そして息を殺し、必死で隠れた少女に気が付く事も無く、遠くから響く人間の音に導かれ、《奴ら》は移動して行った。――──唯、一体を、除いてだ。

 それが、フルフェイスヘルメットの一体だった。トンネルの向こうから移動して来た亡者は、周囲に遅れて動いていた。その一体が、彼女に目を付けた。黙っていれば、やり過ごせたのだが、少女に其れを要求するのは酷だろう。車の両親は既に無く、亡者と成って移動をしていた。そして、どうしようもない、何も出来ない無力な少女の、小屋の中での鳴き声を、聞き付けた。

 少女の鳴き声に躊躇するような存在ではない。むしろ嬉々として、得物を発見した様に、小屋へと顔を突っ込んだ。ヘルメットのお陰で抜けなくなっただけでなく、そもそも噛み付きすらもまともに出来なかったのは、御愁傷様とした言い様がないだろう。それでも、カチカチと、まるでカスタネットのように歯を噛み合わせる音は、少女にとって、非常に恐ろしかった。

 『彼』が到達したのは、それから大凡、一時間程度、後の事だった。その頃には、少女は有る程度、心を落ち着かせていた。目の前の死体は馬鹿な事に動けない。出る事は出来ないが、襲われる事も無い。小屋の中には、恐らくペット用のだろうが、ボトルに入った水道水と、幾つかのビーフジャーキーがあった。少女自身も、水筒とお菓子を持っていた。直ぐに死ぬ危険は、無かったのだ。

 だから、小屋に着いていた窓から、外を覗いていた。何か、自分を助けてくれる存在が居ないかと、淡い期待を持って。

 そして、何回か、様子を伺った時に、悲鳴を上げたのだ。




 彼女が見たのは、目の前の動く死体より、遥かに恐ろしい、異形の怪物だったのだから。




 それは確かに、彼女を助けてくれる希望だった。しかし同時に、彼女がその事実を知らなかった事を除外すれば、の話でもあった。怪物は、実に鋭く少女の悲鳴を聞き付け、辿る様に小屋の前に到達し、一体の亡者を足を千切って引き摺り出し、其の醜悪な顔で少女を捉え、明らかに人間では有り得ない掌で足を掴んだのだから。

 それを希望だと知るには余りにも無理が有った。少女が泣き叫んでも、助けを求めても、全く意味が無かった。そして心の中を絶望が閉め、同時に諦めが去来し、限界を越えた彼女は意識を速やかに遮断したのだ。至極当然で、少女で無くとも同じ反応したに違いないだろう。

 しかし、希望は希望だったのだ。少女は其処で死ななかった。放り出される事も無かった。『彼』は少女に危害を加える事は無かった。『彼』が動いた動機は、純粋に、姉に言われた言葉を、成るべく守ろうとしただけだったからだ。

 暫しの後、気を失った少女が目を開けた時。




 目の前には、静かに座る怪物と、下着があった。




     ●




 僕は、果たして、どんな風に行動したら良いのか、良く分からなかったのが、正直な所だった。



 玄関は窮屈だったが、頑張った。なるべく優しく、眠ってしまった女の子を抱えて、家の中に入った後、誰もいない事を確認して奥の部屋のベッドに寝かせた。その後で、家の中から、綺麗そうな下着を漁って来た。箪笥を幾つか壊してしまったが、構わないだろう。誰もいなかったし、多分、二度と帰って来る事は無い。とある部屋に、女の子が履くには丁度良い感じの、妙に布地が少ない下着が有ったので、其れをベッドの横に置いておいた。一緒にあった、良く分からない道具は捨てて置いた。

 其処で、如何しようか、と困ってしまったのだ。そんな僕の頭に浮かんだのは、やっぱりお姉ちゃんだ。看護婦と言う仕事を真似してみた。お姉ちゃんは、僕が目を覚ます時は、大抵、僕の傍に居た。僕が目を覚ますと、声を懸けて来て、その後で行動をしていた。僕が起きる機会を、ずっと計っていたのかも知れない。だから、同じ様にする事にした。

 「……う」

 そう小さく声を出しながら、女の子が目を覚ましたのは、余り遅く無かった。建物に入って、時計の長い針が半分くらい動いた位……確か、三十分、と読んだ筈、だ。また勉強しなければならない。そう思って、様子を見る。
 目を開けた女の子は、自分が何処に居るのか、良く分かっていない様子だった。頭を振りながら、体を起こす。その後で、僕を見る。そして、固まった。

 「──――…………」

 凄くゆっくりと、女の子の表情が変わって行った。最初は、僕に気が付かなかった様で、固まっていた。次が、段々と顔が青くなった。その後は、何も言う事が出来ない、と言う様子で壁に下がった。何がそんなに怯えているのだろう。怖い夢でも見たのかもしれない。

 部屋の中には彼女を怖がらせる物は何も無い。死んだ人間も排除しておいた。いや、良く見れば僕の体に血が付いている。この汚れが気に成ったのかもしれない。僕は余り気に成らないし、むしろ色が付いている事が嬉しい事だった。でも、この女の子には迷惑だったかもしれない。

 「ひ」

 僕がゆっくりと立ち上がった事を見て、喉の奥に張り付いた様な声を出す。ぎゅ、っと眼を瞑り、今迄自分に掛かっていた毛布を握り締め、体を丸めてしまった。如何したのかな、と思いながら僕は、近くに置いてあった桶を取った。

 僕が寝ている時、お姉ちゃんは体を拭いてくれていたらしい。知ったのは、偶々に目が覚めている時に、世話をして貰った時だ。白いタオルと、暖かいお湯が入った洗面器で、体を拭いてくれていた。その時は任せっぱなしだったけれど、今の僕は自分で出来る。

 水の溜まった洗面器に、干されていたタオルを付ける。それで、服に着いたままの血の痕跡を消す。上手く消えない。時間が経ってしまったからだろうか。悪戦苦闘しながら服の汚れを落とし、別のタオルを絞って、女の子に投げる。序に、探しておいた下着と、服も投げる。

 「…………え」

 何が、そんなに戸惑っているのか。僕には全く解らなかったが、僕の行動を見て、何故か女の子は、暫く目を白黒させた。その後で迷う様に、僅かに震えながらも、手を伸ばす。
 彼女が息を整え、冷静さを得たのは、其処から更に、三十分位後の事だった。






 巨人がいる。大きさは少女の倍。人間の生み出した明かりよりも、遥かに物騒な灯を抱える目。嘗て人だった名残は頭髪にしか見えない。分厚い、異常な質感の肌に覆われた顔は、直視に耐えない醜悪さだ。発達した体を服に包み、静かに座っていなければ、少女は其のまま、もう一回気絶していたかもしれない。

 しかし、巨人は微動だにしなかった。巨大な岩の様に鎮座していた。だから、目を覚ました少女は、僅かに心の中で余裕を持った。もしかしたら、この目の前の怪物は、自分を殺さないかも知れない。

 それが、もう少し安定したのは、自分に濡れたタオルと、下着が投げられた時だ。そう言えば、掴まれた時に……と、顔を赤くして、怖かったが、受け取る。震える自分に、怪物は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと体の向きを変えてくれた。着替えを見るつもりは無い、と言う行動だったのだろう。

 (……良い人?)

 勿論、会話をした訳ではない。しかし『見かけで人を判断してはいけません』と、彼女は学校で教えられている。自分に対して何もしない。襲う怪物から助けてくれた。それらを組み合わせて、彼女は思った。

 今が非常時で、彼女の精神が不安定だったからこそ。

 (……良い人、かもしれない)

 そう思った。そう思わなければやっていられなかった。

 彼女がまだ小学生で、女子だった事が、良い方向に出たのかもしれない。例えば、彼女が好きな話は『美女と野獣』だったし、夢見るお年頃らしく、ピンチに成った時に助けに来てくれる王子様を夢想してもいた。その王子様にしては余りにも外見がアレだったが、其れでも、襲われず、助けてくれたと言う部分に、少女は安心感を得た。

 「……あの。──――私の言っている事、解り、ますか?」

 だから、声を懸けたのだ。






 僕は会話が苦手だ。病院でも、お姉ちゃん以外の人と話した事が無い。だから、独り言は時々、言うけれど、他の人との会話が下手なのだ。だから、相手が無視している事もあったけれど、病院であった他の大人の人達とは、口を聞いた事すら無い。お姉ちゃんは『恥ずかしがり屋ね』と言っていた。

 だから、助けた女の子が、自分から声を懸けてくれたのは助かった。何を言って良いのか解らなくて困っていたからだ。心の中までは見えないけれど、体は無事に見える。確かめられる訳ではないけれど。

 「……あの?」

 不安そうな顔に成った。何を言っているのかは分かる。上手く交流が出来ないが、黙っているのも悪いで、取りあえず、首を動かすだけに留める。喉の感じも昔と違うのだ。発声練習をした方が良いのかもしれない。そうやって僕が、言葉が分かっている事を肯定すると、安心したように少女は肩の力を抜いた。

 「――──有難う、ございました」

 少女は、まず、助けてくれて有難うと言った。あのまま放っておいたら、彼女はきっと、近い内に死んでいた。助けられて良かったと思う。僕が静かに頷くと、彼女は其のまま色々な事を話す。

 自分の名前。年齢。小屋の中に逃げ込んだ背景。余計な情報も有ったけれど、僕は静かに聞いていた。きっと彼女は、親も死んでしまったお陰で不安だったのだ。僕も病院で同じ体験をして、その際にお姉ちゃんが同じ様に、じっと聞いてくれた。そのお陰で、楽になった事が有る。だから、邪魔をしなかった。

 「……それで、あの」

 これから、如何するんですか? と彼女は聞いた。何でも、田舎の山奥にお爺ちゃんとお婆ちゃんが住んでいて、家族と一緒に、其処に逃げる最中で、事故を起こしたらしい。事故を起こしたのは隣の車で、其処に運悪く巻き込まれてしまい────更に運の悪い事に、彼女だけが助かったのだ。僕が助けた事は、運の良かったのか、悪かったのか、其れは判断が出来ないけれど、彼女が生きている事は事実だった。

 「行ク、当テ、ハ?」

 ゆっくりと、はっきりと話す。病院を出て以来、誰かに話しかける最初の言葉にしては、変な単語だった。昔より低く、自分で聴いていても耳障りな声だ。喉が悪いのだろうか。やっぱり、口を閉じるか、声を出す練習をするかした方が良いかもしれない。あとは、喉飴とか、夜寝る時に暖かい布団を掛けるとか。

 「……無いです。でも、此処に居るのも、怖いし」

 そう彼女は言って、俯く。車と一緒に死んだ両親を思い出したのだろうか。涙目になってしまった。僕は両親を殆ど覚えていないので、今一、良く分からないけれど……。多分、お姉ちゃんが死んだ時に感じた以上の悲しみを、持っているのだろう。ぐすぐす、と鼻を鳴らす彼女に、取りあえず、ベッドの横に置いてあったティッシュ箱を渡した。握力が強いせいで、少し潰れてしまったが。

 「……有難う、ございます。――──それで」

 十分ほどの後で、彼女は言った。泣きながら、必死に考えをまとめたのだろう。僕に、頭を下げる。

 「街まで、送って行って下さい」






 その頼みを、『彼』は了承した。街の方向は? と、『彼』が何とかして伝えた所、鞠川静香の向かった先と同じだったからだ。少女の中の良い友達がいて、彼女に会う事にする、と彼女は言った。

 小学校の同級生で、一緒に遊ぶだけでなく、家族ぐるみで世話をしていたらしい。その友達に会えば、多分、助けてくれます、と説明をした。多分、とか恐らく、では無い。確信を持って語っていた。だから、其れならば、と『彼』は頷いたのだ。同時に進めても、何も問題は無い。

 『彼』の返答に、少女は、安心したように笑った。本当に安心したのだろう。少なくともこれで、市街地までは、《奴ら》の餌食に成る可能性は極端に減少したのだ。これ以上無いボディーガードを得た気持ちになった。

 「行きま、しょう」

 引き攣った様な笑顔は、見る者が見れば不安定だった事に気が付いただろう。目の前の異常な怪物に縋り、友人に会う事を心の支えとして、ようやっと少女の精神は保たれていた。そして其れを『彼』が知る筈も無い。

 家の中から食料を持ちだし、少女の持てる程度に纏めて、家を出る。道路には《奴ら》の影は無い。表に居る連中は移動しているのだろう。音さえ立てなければ、襲われる心配は少なかった。

 既に、太陽が随分と傾いていた。『彼』が学園を出て、既に三時間以上。春とはいえ、日が沈むまでに、二時間も無い。世界の現状に不釣り合いなほどに、夕焼けが輝いている。明日も晴れるだろう。

 「それで、ね。その、お友達は」

 大事に保管してあったのだろう。写真を『彼』に見せながら、春の青空と同じ様な笑顔で、少女は語った。其れを静かに『彼』は聞いている。仲良く並ぶ二つの影が、夕日で長く伸びている。一層に明るく輝く街灯の下で、少女は、誰もが逃げ出す暴君に、微笑んでいる。



 それは、現実では決して有り得ない光景だった。



 『彼』の存在も、『彼』に頼るしかない不安定な少女も、常軌を逸脱していた。
 既に世界が終っている事を知っている者にとっては、両者共に、化物にしか見えなかった。


 だからこそ。










 猛スピードで走るマイクロバスは、二人を撥ね飛ばした。




     ●




 「ちょ……っ。先生──!?」

 「落ち着きなさい。――冷静に考えてみなさい。あんな怪物と一緒に居る少女が、普通な存在とでも?」

 「――──でも」

 「思い出して下さい。学校の皆を殺した相手が、自分達と殆ど変らなかった事を」

 「…………それ、は」

 「私だって、あんな可愛らしい女の子を攻撃するのは嫌でした。しかし、──仕方が、無かった」

 「…………」

 「私には義務が有ります。……教師として! 貴方達を守らなければいけないと言う義務が! 貴方達を助け、無事に生き延ばし、率いるリーダーであると言う役目が有るのです! とても悲しい。とても辛い。しかし、……貴方達を守る為ならば、少しの犠牲は、仕方が有りません」

 「……でも」

 「では貴方が助けに行けましたか? 其れにです。仮に、例え出来たとしても、させません。――今、こんな時、こんな状況だからこそ、私達は一致団結しなければいけないのです。勝手な行動は規範を乱し、規範が乱れれば被害が出ます。ならば、勝手な行動をさせる訳にはいかないのです!」

 「――先生。其処まで、私達の事を……?」

 「そうです。だから、私を信じて下さい……。貴方達は絶対に助かります。助けて、みせますから」



 紫藤浩一は、そう言って歪んだ笑みを浮かべた。




     ●




 何よりも少女にとっての不運は、『彼』と共に居た事だ。
 助けを求めた相手と、共に有った事が、彼女の命運を分けていた。




 バスが彼らを見つけたのは偶然だった。しかし、学園から市街地へと向かう経路は、大抵の人間にとって共通していたから、決してあり得ない偶然では無かっただろう。誰もが知る道が存在したからこそ、その道中では混乱によって事故が多発し、渋滞を引き起こしていたのだから。

 『彼』が姉の友人を追う為に辿るルート。隙を付いて学校から脱出した、残された生存者を乗せた“もう一台のバス”のルート。その両方が交わるのは、決して変では無かった。

 そして、道路を曲がったばかりのバスは、少女と佇む怪物を見た時、既に方向を変える事も、ハンドルを操作して回避する事もしなかった。否、避け無かったからこそ、逆にバスは彼らに向かって加速した。




 バン! という鈍い音と共に、二人の体が飛んだ。

 まるで、サッカーボールを蹴って、刎ね飛ばすかのように。




 『彼』の体は低く飛び、そのまま道路の脇へ投げ出される。其れだけで済んだ。学園で轢かれた時よりもダメージが少ない程だった。直ぐに、起き上がる。そして、見たのだ。

 『彼』と一緒に居た少女は違った。『彼』と反対の方向。道路の対岸に、幼い小柄な体の、上半身と頭部を赤く染め、そのまま近場のコンクリートブロックに後頭部から叩き付けられた。グシャリ、と言う音と共に何かが潰れる音がして、地面に倒れた。そのまま動かなくなった。

 まるで蛇口を捻る様に地面に鉄臭い赤色が広がった。着替えた衣服も、拭いた肌も、そして彼女が見せようとしていた友人の写真も、纏めて赤い水溜りに沈んでいった。

 (…………!)

 法定速度以上で突き進むバスは、『彼』と、少女の二人を、障害物の様に撥ね、道から退かし、其のまま直進した。それは、何よりも『彼』の脅威を知っているからこその、行動だった。学園で、『彼』の化物ぶりを熟知していたからこその、容赦のない、攻撃だった。



 バスの運転手。藤美学園の教師・紫藤浩一の言葉は、確かに正論で、筋が通っていた。



 回避が出来ない以上、容赦無く攻撃するしかない。まして《奴ら》が跋扈し、人を襲う中で、怪物が傍らに立つ少女を、人間と判断する事の方が難しい。

 そして《奴ら》という存在に対して車で攻撃をした事は、鞠川静香も同様だ。外見が生徒だろうと、大人だろうと、老人だろうと、そして小学生の少女だろうと、其処で躊躇えば自分の命が無いのだ。

 況や、其処で怪物だけに衝突させ、少女を助けだすと言う思考回路に至れる者はいない。いや、仮にバスの運転手が鞠川静香ならば、実行したかも知れないが、運転していたのでは彼女では無く、足手纏いを切り捨てる男だ。

 総合して言うのならば、紫藤浩一の行動は、確かに乱暴では有ったが、この緊急事態では決して間違ってはいなかったし、むしろ生徒達を守る為には非常に正しい選択だった。本性では腹黒く、己の為に動く男だったが、客観的に見ては――納得させるだけの要素が有った。

 (……あ、ア)

 しかし、納得するのは、バスの乗客だけだ。
 『彼』が、そんな理論を、知る筈も無い。




 だから、動いた。




 生きた人間を撥ねる事が悪い事だと、『彼』は知っている。自分は大きな怪我がないから良い。けれど、あの女の子を撥ねた事。そして、撥ねても止まらずに、バスの背を向けて走り去って行く事。それを把握して、思った。

 (追いかけ、ヨウ)

 意識の中にあった事は、感情とすれば、疑問と、義憤だろう。病院で生きていた『彼』は、詳しい法律以前に、知識も多くを知らない。しかし、警察とか、名前が長い『警察みたいな物』が有る事は知っていた。加えて、大人は悪い事をしない事が普通だとも思っていた。犯罪をしたら捕まることが当たり前だと思っていた。だから、彼は思ったのだ。

 (────どうしテ、酷い事ヲ)

 『彼』は心の中にある、良く分からない感情は其のままに、考えた。

 まず、捕まえて、救急車を呼ぶ。次に、運転していた眼鏡の男に、御免なさい、と謝らせなければいけない。次に。警察を呼んで逮捕して貰う。その後で、女の子の御葬式をする。その為にも、あのバスを捕まえる必要がある事を──勿論、これほどに理論立ててではなく、こんな単語ではなく、もっと簡単な子供の思考で、雑然に『彼』は考えた。

 単純に言えば、自分で理由も解らない感情に、駆られていた。もっと直接に言えば、怒っていた。理屈も解らず、自分の気に入らない事に怒り、対象に向かって走るのは、子供も同じだ。

 (……早イ)

 だから、後を追おうと思った。しかし、全然、追い付けない。自分の速さでは、走るバスには追いつけない。止まる様子も無い。彼は歩きで、向こうは道路交通法を大幅に無視して動いている。このままで、追い付ける筈がない。

 そう、追い付けない。

 『彼』の今の、現状では、決して、あの走るバスには、追い付けない。

 (……ナラ、バ)

 『彼』は、心の中で動く、理解しきれない感情のままに、思った。

 ならば、どうする?

 追い付ければ、良い。

 あのバスを、追いかけるだけの、速力を、得れば良い。

 短い時間で良い。まだ視界に映る、あの車に、追いすがるだけの瞬発力を得れば良い。










 そして、異形の肉体は、真価を発揮した。










 ────   、  ォ!──

 血に塗れた路面の上で、大きな咆哮を上げる巨体が有った。

 二メートルを優に超え、頑強な肉体と、丈夫な衣装と、武器に変質した爪と骨を抱えた異形の怪物が、獣の遠吠えや、他者を委縮させる雄叫びの様に、唇の無い口を開いて、鋭い歯を剥き、虚空に吼えた。

 その中に、感情が隠されている事には、誰もが気が付かない。尚も生きる者は全て、この世ならざる怪物の、猛る鳴き声に、体と心を震わせて身を縮めるだけだった。

 ────  ォォォ    オオ  !──

 やがて、異形の巨人は、視線を前に向ける。その視界に映る物は、たった今、怪物を撥ね飛ばした大型車だ。既に遠ざかり始めている。だが、撥ね飛ばした衝撃で僅かに速度が落ちている。

 ゆっくりと、両足を動かす。その歩みは遅い。しかし亀の様な鈍重さは無い。像や獅子の様な、巨大さ故に緩慢に見える動きはむしろ、決して一定の速度を崩さない、無駄の無い行動だった。

 しかし、其れでも尚、走るマイクロバスの方が、圧倒的に早い。時速に換算して四十キロ以上は出ているだろう。歩くだけの怪物には、決して追い付けない速度だ。人間が持ちうる最高時速は、国際的な短距離走の選手でも精々が、時速三十七キロ。百メートルも走れば限界だ。しかし、この怪物は、違った。

 彼らに追突で減衰したバスが『絶対に追い付けない距離』まで、遠ざかるまで。有した数秒の時間。その僅かの時間に、怪物は、動いた。

 ──── ォオォオ、オオ オォオ !!──

 数時間前、丘の上の学園で、同じ様にバスに轢かれた時よりも、進化した事を示すように。

 より強く、より確実に、標的を追い詰める事を可能にするかのように。

 まるで、野生の獣が、獲物に対して瞬間的に、力を爆発させるように。

 既に人間ではないと言う、格好の証明に成るかのように。




 砲弾の様に、加速した。




 歩んでいた両足と、包まれた靴が、地面を掴み、地面を蹴り飛ばす。

 走るのではない。一歩で、思い切り地面を蹴り、その勢いで加速をした。それは、地面を疾走して相手を追い詰めるチーターの動きでは無く、刹那の動きで標的を餌にする爬虫類や虫の動きに近かった。

 ────m    !──

 人間よりも遥かに重厚な唸り声をあげ、怪物はバスの背に、喰らいついた。
 数十キロで走るバスに、飛び付く様に。

 ────マ   t !──

 その言葉は、まるで、待て、と、叫ぶように聞こえた。

 バスの乗客たちは、立ち上がった怪物に対して、油断を得ていた。彼らは学園で怪物を見て、その為に小室孝ら、他学生達と一緒に脱出する事は出来なかったが、その分だけ情報を得ていた。その動きが鈍いと言う事も。非常に肉体は丈夫だが、車などで突貫すれば多少のダメージは受けると言う事も。そして先行したバスの誰かを、狙っていると言う事も──――信頼する教師の話から聴いて、安心していた。



 それは、確かに間違いではない。

 否。“その瞬間まで”は、間違いでは無かったと言う方が、正しい。



 怪物が常識で語れない事を知っていても尚、その怪物が『素早く動けない』と断言した言葉に、何の根拠も無かった事に、気が付けなかった。それは、未だに常識に生きていた事と、教師の言葉を鵜呑みにし過ぎた故の、弊害だったのかもしれない。




 巨体が跳んだ。

 自分を撥ねた相手を許さないと言うかのように、天高く口を開いて、冥府の底から響く様な声を上げて。

 そして、まるで弾丸か、一個の重機関の様に、自分達を猛追した。




 誰もが目を疑った。

 「――っ!」

 その息の音は、誰が発したものか。

 「まじ、かよ」

 その呟きは、誰が語ったものか。




 地獄からの、冥府に誘う死者が追い掛けて来る。

 異形の暴君が、怒りを露わに、異常な速度で、突撃して来る。

 自分達を捉えるかの様に腕を広げ、喰らうかのように歯を剥き、真っ赤な瞳を向けながら。

 追い掛け、飛びかかって来る。




 「先生! ヤバイ!」

 一早く、危険だと理解した一人の生徒が、速度を上げる様に言う。その言葉は、運転席の紫藤の耳に届いた。しかし、その時には既に相手は、接触する寸前だった。其処に至るまで、誰もが目を疑い、動けなかったと言うべきか。その言葉が言えただけマシだった。

 刹那の後に、ドン!────という音と共に、バスが揺れた。まさに車に背後から追突されたのと、同じ衝撃だった。椅子が揺れ、誰かが投げ出され、そして背後の窓ガラスに放射状の細かい罅が入った。車体の後部に巨大な凹みが生まれた。後部座席の生徒が中央通路に飛んだ。

 背後からの衝撃に強かったお陰で、バスは僅かに蛇行しただけで前進を続ける。しかし、その背後には、彼らにとっては最悪以外の何物でもない怪物が、張り付いていた。

 「……ちょ!」

 見れば、車体にしがみ付く様な格好の怪物がいた。罅の入った窓を割り、バスの車体を掴んでいる。白く、斑に変色し、血の赤と肉の赤を示す太い指に、窓枠が捉えられる。そのまま、もう片方の腕を、車体に取りつかせようとし────。

 「――ちいっ!」




 ────突然に、バスが左に曲がった。




 タイヤが地面を噛み、摩擦でゴムの焼ける匂いと、擦れる音を発する。同時、生徒が遠心力と慣性で左に飛ぶが、運転席の紫藤は一切の躊躇をしなかった。生徒達の命すらもその瞬間には放っていた。だからこそ出来た、咄嗟の判断だった。

 「全員、捕まっていなさい!」

 形式として忠告だけは促し、後は必至に運転に集中する。文字通りに必死だ。命が懸かっている。額に浮かぶ汗が冷たく、そのくせ心臓の鼓動だけは激しかった。

 紫藤は、生徒達と同じ光景を見ていた。運転席から背後を除き、追い付かれる寸前まで呆然としていた。だが、彼は確かに、適応能力は高かったのだ。その異常事態に対処を取れた。使い方を間違えているだけで、彼は確かに有能だった。故に、相手の加速を見て、己の中の、“剛力だが鈍重な怪物”という認識を、追い付かれるまでの一瞬で塗り替えていた。

 (……っく、まさか……!)

 心の中の罵倒や悪態は、怪物に追われている事にでは無い。まして、生徒達の危険についてでは絶対に無い。彼自身の身の危険に対する、言葉だった。

 追い付かれたら、自分こそが危険であると言う事を、本能的に理解していた。

 己の保身に敏感だからこそ、あの怪物が自分を狙っている事を悟っていた。

 あの怪物が、自分の行動に対して、怒りにも似た感情を持って追い掛けている事を、知った。

 「……っ」

 必死に冷静さを保つ。予定では、あの少女を撥ねた事を利用して、車内の、生徒から自分への評価を高め、結束を利用して、生き延びる算段だったのだが。

 (……こんな所で!)

 ギリ、と歯を噛み締める。それは、数時間前に鞠川静香が見せたのと同じ様相だ。しかし、その心の中にあった物は違う。正反対だった。彼女は皆を生かす為に怪物から逃れる事を考え、彼は己を生かす為に逃れる事を考えた。だからこそ、一切の手加減をせず、この状況を切り抜ける事だけを、考え────焦れる思考の中でアクセルを踏み、自分の持つスキルを、最大限に使用する。

 (こんな、ふざけた相手に……!)

 自分の乗りまわす高級車と同じ要領で、車の後部を大きく振る。後輪の軌道を固定し、前輪を廻し、車体に指を懸けた怪物を引き剥がす。背後に乗る生徒達の様子は無視だ。生きてこの場を脱しなければ、「今は」無事な人間も、危険に違いないのだから、後で幾らでも言い訳が効く。

 そのまま、強引に車体を右に傾ける。否、傾ける以上に、方向を変える。幾ら非常に強い握力を有していても、唐突な方向転換には、相当な負担が懸かる。相手が人間離れしていても、手の構造がそうなっている事は間違い無い。

 (私が──! 死ぬはずが……っ! こんな所で死んで良い筈が、無い!)

 追い掛ける怪物は、確かに異形だった。だが、人間の抱える狂気に比較すれば、そして紫藤浩一という人間の内面に比較すれば、其れは何と軽い事か。

 執念に近かった。自分自身の矜持と、鬱屈され歪んだ精神と、異常事態の中で発揮される本心とが混ざり合い、普段以上の運転能力を引き出した。恐らく、同じ事は二度と出来ないだろう。其れほどに神が懸かった、奇跡的な操作だった。



 だから、成功した。



 バスの枠を掴んでいた怪物の腕は、相手の効き腕は、右だった。その指が窓枠を捉え、自分の肉体をバスに運ぼうとしていた。両腕で掴まれたら振り落とせない。だから、右腕を引き剥がす為に左へ曲がった。取りつかれ、足の鈍っていたバスを、加速させる。振られた勢いで巨体が横に流れる。両足は地面に擦れているのだろう。左腕も車体に届いていない。そして、最も巨体を、バスの枠を掴む掌を支える親指が、外れかけている。

 「────離れ、な、さい!」

 自分への激励と共に叫んだ。普段の冷徹さを引き剥がし、自分の生への欲望を表に見せながら、運転席左のバックミラーで確認した紫藤は、再度の左転換する。車体を大きく振り、扇型を描く様に、怪物を外に外す。そして。




 怪物が吹き飛ぶ光景を見た。




 車体を捉えた右腕を、紫藤は運転で外していた。強引な方向転換に、ついに指が外れたのだ。ずるり、と指が外れると同時に、バスの上昇した速度に、怪物は放られた。地面を滑空する様に宙を飛び、一軒の家に直撃する。背中から突っ込んで行った。その勢いに壁に罅が入り、立ち昇る砂煙で体が覆い隠される。

 濛々と立ち昇る煙の中、巨体に、パラパラと降り懸かるのは、壁の粉だろうか。バスに引き摺られ、衣服と肌が擦れた、巨大な下半身と足が見える。投げ出されて動かない体は、一見すれば死体に酷似していた。

 しかし、恐らく死んでいない事を、紫藤は知っていた。鞠川静香の運転するバスに轢かれても尚、数分の後に体を起こし、バスを追い掛けて行った光景を目撃している。加速を緩めず直進し、ある程度の距離を取ったら、二回、三回と、経路の特定を防ぐ為に角を曲がる。




 怪物は、今度は、追いかけて来なかった。




     ●




 少し、気を失っていたのだろうか。

 (……痛、イ)

 十数秒の後。一分もたっていない。学校前に頭をぶつけたお陰で、頭蓋骨がより頑丈になっていた。そして、気を失った事で、頭に上った血も下がっていた。冷静に、と言い聞かせる。衝動が治まり、既に追い掛ける気分では、なくなっていた。

 (……落ち付、コウ?)

 最近、頭を打ってばかりだな、と思いながら『彼』は身を起こす。激突した家は、しっかりと鍵を懸け、カーテンや窓も閉められていた。しかし、中に生きた人間の空気は無い。多分、中には亡者しかいないだろう。壁を壊した事を謝る事も出来ないな、と『彼』は考えて、仕方なく道路に出た。

 バスは既に見えない。勿論、匂いを辿って追跡する事は可能だった。しかし、『彼』は立ち上がると、足の向きを変える。あのバスを追う事よりも、先に会うべき人間がいる事を思い出したのだ。勿論、それは、姉の言葉に言われた鞠川静香でもあるのだが、其れ以外に、もう一人。

 グ、と足に力を込める。歩くよりも、足で地面を押す感覚で動かすと、一気に体が動いた。重戦車のように、巨大な体が前進する。バスに追いつこうと意識が望んだ結果、肉体が、歩くよりも遥かに早い移動方法を本能的に習得していた。

 走ると言うよりも突撃する。両足を動かすのではなく、片足で思い切り踏み切って前に突き進む。そんな表現の方が正しかったが、何れにせよ、歩く以上の力を得た事は確かだった。欠点と言えば、曲がる事と止まる事を、未だ習得していない事だろうか。

 (……早イ、な)

 『彼』は移動する。今迄は歩いて十歩は懸かる距離を、この方法ならば一回で移動が可能だった。傍から見ていれば、巨人のくせに、たった一歩で十メートル近くも地面を滑るように移動する、と言う────非常識な光景なのだが、其れには気が付かない。そのまま、淡々と体を運んで行く。

 バスに引き摺られた距離は意外と長かった。しかし『彼』は、簡単に、先程に自分が轢かれた場所まで戻って来た。途中、何回か転んだり、自分の下半身の衣服が酷い事になっていたりで狼狽している光景が有ったが、其れを見る者は、残念な事にいない。到達自体は、自分の匂いが濃い家を目指せば良いので楽な物だ。






 そして、先程の家の前の道路には、赤い血だまりと、その中で動かない少女が有る。変わる事無く、彼女の死を、伝えている。涙を流す程、悲しくは無い。しかし、可哀想だと、本心から思った。

 『彼』が彼女の為に、アレ以上の何かを出来た筈も無い。仮に轢かれずとも、『彼』と共に有る事は少女には危険だっただろう。一緒に田舎に逃げる事も不可能だ。両親と同じ様に、《奴ら》に成らずに死ねたのが、せめてもの救いだったのかもしれない。

 (……ええ、ト)

 遥か昔に見た様な気がする、誰かの葬式では、確か、顔に布を懸けていた。先程に入った建物から、白い布を持って来る。既に冷たく成り始めた少女の体を抱え上げ、なるべく優しく包む。固い爪でシーツが破けてしまったが、其れでもきちんと包み揚げる。

 (……天国ニ)

 行けますように、と願いながら、作業をする。シーツに包んだ遺体をなるべく優しく、家の中に寝かせる。玄関の下駄箱の上、水を湛えた花瓶から、花を持って来て添える。あり合わせの形式だったが、一応、弔いの形には成ったのではないだろうか。そう言い聞かせて『彼』は軽く手を合わせた。異形が手を合わせると言う光景が、今の現実と同じで、余りにも不自然だった。

 (……この後、ハ)

 入って来た時と同じ様に、玄関を窮屈に通り抜けながら、道路に出る。そして、広がる血溜まりの中から、一枚の写真を拾い上げた。『友達なの』────そう言っていた事を、思い出す。写真には、何かの行事なのだろうか。仲良く並んで笑っている少女と、その友達がいる。

 病院から外に出た記憶が殆ど無い『彼』には、縁の無い光景だった。しかし、二人共に楽しそうな顔をしていた。撮ったのは、きっと、どちらかの両親だったに違いない。今は亡き、つい先日までは有った、平穏と言う世界を移す様な写真だった。

 姉の言葉に従って、友人だと言う鞠川静香を追う事が、『彼』の一番の目的だ。しかし、もしも途中で彼女と接触できたら、この写真を渡してあげた方が良いかもしれない。『彼』自身が、姉から、友人達と映っている写真を渡されていたからこそ、そう考えた。

 (……鞠川さん、ヲ)

 追おう、と思った。顔しか解らない、今でも生きているかどうかも不明な少女より、取りあえず追える相手を追うべきだと判断したのだ。運が良ければ、写真の少女に会えるかもしれない。

 自分と少女を轢いたバスを追う事を、忘れた訳では無い。それでも執拗に追いかけて行って、鞠川静香に接触が出来無くなる事の方が、困る気がしていた。既に、追うべき匂いも大分に薄れている。急いで追いかけた方が良いかも知れない。『彼』の考えを露わすと、そうなる。

 写真の裏には、黒いマジックでこう書かれていた。



 『運動会の時、ありすちゃんと』



 (ありす……カ)

 その名前を、頭の中で反芻し、『彼』はその身を動かす。




 太陽が、沈もうとしていた。


















 今回の見せ場は、やってる事も言ってる事も、この緊急時では割と正論、でも本性は自己保身の塊で周囲を全て利用する悪党・紫藤浩一でした。性格さえ曲がって無ければ完璧なんですがね。あの人。

 走る、(と言うか突撃?)能力を得ました。一直線にしか進めませんが、ますます『追跡者(ネメシス)』っぽくなりました。標的を見つけた途端に、此方の名前を呟きながら突撃してきます。瞬間最高時速は、時速五十キロ弱。車と同じくらい。方向転換に難が有ります。時々転びます。
 外見イメージですが、実はネメシスより、『スーパータイラントT-103型』が一番近いかもしれません。骨は出ていても、触手とかも「まだ」無くて、肘から先と衣裳が、ネメシスっぽく黒。だから髪の毛も残っていて、人間だった頃のアルビノの名残で(血の色が浮き出て)赤目。こんなのに追い掛けられりゃ、そりゃ逃げるよ。

 まあ、戦闘力はチートですが、でも“それ以外”の部分で作者から虐められるのが、この主人公です。人間の欲望や狂気や悪意や策謀に勝つのは、(精神的に)幼い主人公には並大抵じゃありません。もっと頑張って貰いましょう。

 ではまた次回。(7月28日投稿)



[20613] 第四話 『Democracy and the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/09/14 22:37

 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』



 第四話 『Democracy and the “Tyrant”』






 それは、唐突だった。

 (……?)

 『彼』は、その時、当然の様に、膝を付いていた。

 何が起きたのか『彼』も理解していなかった。

 その肉体が、異常を発していた。




     ●




 太陽が落ちる数刻ほど前。夕焼けに照らされる中で、一台のバスが停車していた。中型のマイクロバスだ。白い車体に、緑文字で『藤美高等学園』と書かれている。運転席で休憩しているのは学園保険医・鞠川静香であり、バスに同乗しているのは学園から逃げ出した生徒達だ。

 生徒の数は五人だ。小室孝、宮本麗、毒島冴子、平野コータ、高城沙耶。未だに気力は健在だった。平野コータに至っては、この状況下でぐっすりと眠っている。軟弱そうに見えて、かなり豪胆なのだろう。

 「……街に、素直に入れない、か」

 フロントから周囲を伺い、眼鏡を治しながら高城沙耶が言った。バスが停車しているのは、市街地中心部へと向かう、道路だった。其処に留まり、進む気配を見せない。マイクロバスの前にも後ろにも車が止まり、一向に進まないのだ。大渋滞に巻き込まれていた。

 「一時間で一キロ。……このままでは夜が明けても街に入れるか如何か」

 バスの外では、遠くから警官が叫ぶ声が聞こえて来る。絶対に外に出ないようにと言う、警告だ。車の外部に動く《奴ら》を、警察の幾人かが撃っている。音に惹かれているとはいえ、未だ大群では無く、そして自動車を破壊できるほどの強さも無い。恐怖に負けて扉を開きさえしなければ、そうそうに被害を受ける事は無いのだ。……最も、その辛抱が何時まで出来るのかは、不明だが。

 目の前に常識外の怪物がいて、其れが襲い掛かって来る。その恐怖に耐えかねて、誰かが自動車を強引に進ませたら、それで終わる。事故で道路が塞がり、連鎖的に強引な動きが増え、秩序は崩壊する。今はまだ、警察などの国家機関が機能しているから良い。だが、人工約百万人の床主でこれだ。白昼の大都会やオフィス街での被害はこれ以上に違いなく、政府機能が停止するのも時間の問題だろう。

 「そう言う意味では、先に他の生徒達を下ろしたのは、正解だったな。……言い方は悪いが、足手纏いがいなくて済む。意思決定もスムーズだ」

 此処に居る六人は、ある意味、覚悟が決まっている。幸運か不運か。彼女達には“こういう事態”への適正が有った。組み上げられたチームのバランスも良かった。常に冷静さを見せる毒島冴子。参謀役の高城沙耶。保険医で成人女性の鞠川静香。兵器の扱いと応用力に長ける平野コータ。どんな仕事もそつなくこなせるサポート役の宮本麗。そして一行の精神的支柱で、自然と全員を引っ張る小室孝。

 「そうね」

 才媛も頷く。一時間前までは同乗していた人間も、既にいない。勿論、見捨てたのでは無い。彼ら自身が下りる事を望み、彼女達を説得したのだ。





 簡単に、経緯を説明しよう。


 学園から一緒に逃亡した生徒は、彼女達以外にも六人いた(その中には首からタオルを掛けた青年と恋人がいたりもした)。学園を出る前までは、生きる事に集中していたが、バスに無事に到達し、出発して一息入れた後に、『其処から先』の問題を考える事に成ったのだ。安心した途端に、それ以上を望むという、人間が都合の良い生き物という証明だった。

 ただ、幸いな事に、険悪な雰囲気には成らなかった。第一に、バスに乗る前に、小室孝達一向は“一緒に来るか?”と訊ねていた。第二に、彼らがいなかったら自分達は死んでいた。それを、彼らは良く自覚していた。

 更には、何故か襲われていないコンビニが有って、駐車場で僅かな休憩を取る事も出来た。だから、冷静に、多少は感情的にも成ったが、話し合いが開けたのだ。『話し合い、自分達で考える事が出来た』――――その点だけでも、数時間の後に坂を下って来る、思考を放棄した生徒達よりは良い状況だったのだ。

 話し合いには二つの勢力が有った。このままバスに乗って逃げるか。それとも何処かに隠れるか。前者は、悲観的に物事を考える現実主義。後者は、この状況を災害と捉え、自然に終息するまで耐える諦観主義だった。前者はハイリスクハイリターン。後者は、安全性と引き換えにタイムリミットが有る。どちらの主張も間違っていない。いや、どちらも危険で、どちらが“マシ”か、という負の方向の選択だ。

 余り時間を掛けると《奴ら》が学校から下って来る。だから、取った時間は僅か十五分。議長は毒島冴子が務め、高城沙耶が逐一、メリット、デメリットを示した。そして喧々囂々の議論の末に、辛うじて互いに落とし所を見つけたのだ。




 「あの、私の家が、あるんです」

 全寮制の学園とはいえ、丘の下に家を持つ生徒もいる。例えば小室孝の友人“だった”今村という男子もそうだった。地方から生徒が集まって来る名門ならば、同地域の生徒も志望して当然だ。そんな女子の一人が、意見を出した。

 「自分で言うのも何ですが、大きくて、残りたい人達を受け入れる余裕は有ります」

 そう言ったのは有瀬智江という少女だった。高城が学年主席ならば、彼女は学年二位。その割に性格は温厚で、容姿も平凡の領域。その分、異性よりも同性に好かれるタイプだったと言うだろうか。此処だけの話だが、藤美学園で何かと比較されるのがこの一年生の二人で有り、『女王の高城・王女の有瀬』と呼ばれる程に名を知られているのだが……まあ、其れは置いておこう。

 「扉も頑丈で、塀と門も有ります。窓も枠が小さめなので、籠城には持って来い……ですけれど」

 「けれど?」

 目上の先輩に促されて、彼女は語った。有瀬智江は、運動能力は最悪的だが、高城沙耶に匹敵する頭脳が有る。今の状況を正しく理解した上での、問題点を流暢に、説明する。

 「受け入れて、その先で内部分裂が有ると……困ります。拠点の価値は半減しますし、協力が出来無くなります。何より、自分勝手に成る。そうなれば、個人だけで無くて全員が危険ですから」

 「正論ね」

 珍しい事に高城沙耶が同意をした。己が一位ならば文句は無く、高城に比較して色々と劣っている有瀬だが、その頭が自分と同程度と言う事は知っている。そして認めている。何せこの二人、有瀬がミスさえしなければ同率一位なのだ。彼女の天然さが治る事は無いので、多分この先、一生結果は変化しないのだが――それでも、品格や人格、性格に、個人の能力が左右されない事を彼女は知っている。

 「仮に、有瀬の言葉の通りに行動するとして。其処から先は籠城組だけの問題に成る。私達は動くから助けに行けないし、途中で死ぬ……つもりは無いけれど、絶対は無い。だから、その上で決めなさい。心に刻み込んで、他者を容認して、でも自分で行動しないと……どの道、その内に死ぬわ」

 この発言の通り、移動組の筆頭ともいうべき存在が、高城沙耶だった。というのも、彼女はまず間違いなく、実家が無事であり、被害を受けていない事を確信していた。『絶対に安全な拠点』に行く為に、現実的な思考の元、リスクを負って行動する。それが彼女の今の行動原理だった。徹底したリアリストだった。

 「ええと。……食糧的にも、少しは余裕が有ります。お父さんの趣味で自家発電も可能です。今、小室君たちが手に入れている食糧も合わせれば、多分、相当、大丈夫です。――でも。いえ、“だからこそ”……我慢の為所を間違える人は、困ります」

 我慢をしない、では無く、為所を間違える、と彼女は語る。発散できる部分と抑制できる部分を取り違える事さえなければ良い。言いかえれば、抑える時に抑えれば、良い。

 「――――そうだな」

 ふむ、と同意の声を示して、毒島冴子は窓の外を見る。其処では、手早く動く二人と、バスの周りで顔を動かす一人がいる。コンビニの駐車場で忙しなく、彼らは動いているのだ。

 この話し合いの間に、小室孝や平野コータ、宮本麗の三人が何をしていたかと言えば、緊急避難的な犯罪だった。十五人の人間が一週間は生きられるだけの食糧確保に励んでいた。

 具体的には、協力してコンビニから必要物資を手に入れていた。ペットボトルを箱ごと。インスタント食品やレトルト品を山ほど。栄養ゼリーや軽食。電池や衣類。まだ痛んでいない食料品までたっぷりと、この先に備えて入手した。普段ならば学園生徒が良く使用するコンビニは、生徒達に備えて大量に入荷されていたが、しかし《奴ら》に成ってしまった為に備蓄が大量にあったのだ。

 勿論、最初は料金を払うつもりだった。財布も鞠川先生から預かって来た。しかし、カウンターに居た店主・才門は何も反応を示さなかった。ただ、其の虚ろな目で、何も言わず、佇むだけだったのだ。彼は既に此方の声を聞こえない、何が有ったのかは不明だが、精神的に壊れてしまった状態に、平野が気が付き――――心の中で謝りながらも、商品を出来る限り、持ちだしたのだった。

 お陰で、バスの全員がペットボトルを手元に、おにぎりや総裁パンを確保している。バスの空席は次々と埋まっている。荷物の運搬をしているのが小室孝で、運搬戦力外(と自分で言った)平野コータはコンビニの周辺警戒。宮本麗は確保した分のリスト作成だった。

 何回も言うが、緊急避難が適応される状況下で有り、更に言えば告発する事は誰もせず、そしてこの先誰も責めないだろう行動だが、れっきとした犯罪である。彼らもまた、確かに状況に馴染んでいた。

 否。もっと言うのならば、この状況を楽しみ始めてすらいたのだが……それは、今は置いておこう。

 「――――さて、有瀬君はこう言っているが、君たちはどうする?」

 この話を聞いても尚、籠城する者だけが、有瀬君と共に行けば良い。そう、彼女は付け加えた、

 結果として六人全員が納得して籠城を決めたが――――果たして、彼らが如何なって行くのかは不明だ。彼らを有瀬宅に降ろし(本当に大きな家だった)、食料を分配した。節制をすれば、中で一週間――――否、内部の備蓄食糧も含めて、一月は生きられるだろう。後は、無益な騒動を彼女達が引き起こさない事を祈るだけである。






 このような経緯を経て、小室孝ら六人は、他の生存者たちと別れ、バスで移動をしていた。

 勿論、『彼』の様な化物が後を追っている事を知っていれば、そんな回り道をする余裕は無かっただろう。しかし“その時点での”彼らの情報を纏めれば、途中で停滞していても何も支障が無かった事も事実だ。第一に、本当に生きているかどうかも知らなかった。勿論、あの程度で死ぬとは思っていなかったが、同時に第二の理由として、彼らの後、数時間の途に脱出を敢行した紫藤の認識の通り、怪物は鈍重で有り、例え追われても歩きにしかならないと――――彼女達は思っていた。そして、バスの速度を考えれば、逆にルートを長くすることで、追跡に時間を掛けさせると言う思惑も有った。

 例え相手が動いていても、距離を詰めるには時間が懸かる。それを期待しての事だったが……しかし、現在は渋滞に巻き込まれ、ご覧の有様である。

 「さっきの」

 キュ、とイオン飲料のキャップを閉めた宮本麗が、口を開く。

 「――――学園に居た“アレ”は、何だったんだろう?」

 「……さてね」

 軍事関係ならば平野コータに劣るとはいえ、この場の誰よりも博識で有る高城は、やはり冷静な態度を崩さないままに応える。その変化の無い、常に同じ態度は時にして他者の神経を傷つけるが、幸いな事に、このバスの中でそれを気にする者はいない。学園内と、学園を出立しての時間。決して長くは無かったが、非常事態故に、誰もが彼女の精神を許容していた。

 毒島冴子や鞠川静香と並び、常に変化しない態度は、他者からしてみれば非情に有り難い。少し何か動揺しても、誰かが冷静で居るという安心感が、結果的に動揺を防ぐ。何より高城沙耶の頭脳は、一向に非常に有益だった。

 「私にも解らないわ。情報が少なすぎるし」

 その言葉に、全員が頭の中に、異形の巨体を持った怪物を思い浮かべたのだろう。自然と沈黙が下りる。考え込み、思い出して呻く吐息。脳裏に蘇る存在感が反芻され、意識を別の場所に向ければ、耳に入るのは未だに眠る平野コータの寝息に、外から途絶える事の無い、銃声と車の警笛に、誰かの悲鳴だ。

 「――――あの怪物が、この場に現れない事を、祈ろう」

 あの暴君が自分達に、そもそも“どうやって追い付くのか”から始まり、追跡される可能性を低いと思っているが……此方が動けない以上、差を詰められる可能性は十分にある。そして、仮にこんな場所に姿を見せたら、間違い無くパニックが発生する。そして、パニックは《奴ら》を呼ぶ。今の維持された秩序も長く持たない事を、此処に居る面々は理解しているが、其れでも長いに越した事は無いのだ。

 一同が向けた視界の先。窓の外には闇が落ちている。

 日の出が今ほどに待ち遠しい事は、彼らの人生の中で、一度たりとも無かった。




     ●




 少し、時間を巻き戻す。



 少女を弔った『彼』は、日が落ちる中、落日に相応しい光景の中を、動いていた。

 『彼』は、高速での移動能力を有した。残念な事に、有した『原因』である、もう一台のバスを追う事は現状無理だが、元々の目的である姉の友人・鞠川静香を追跡する事は可能だった。彼の発達した嗅覚は、かなり遠くにだが、確かに辿って行ける芳香を感じ取っていたし、吹いてくる風の中にも同じ匂いが含まれている事を悟っていた。しかし『彼』は、高速での移動能力を、使っていない。

 何故かと言えば。

 (……何処カ、服ヲ)

 これ以上の衣服の損壊は、彼の羞恥心が許さなかった。因みに『彼』は過去の事故で下半身不随に成った際、骨盤に非常に大きなダメージを受け、とうの昔に生殖機能を失っているのだが(排泄機能は辛うじて無事だった)、其れでも羞恥の概念は持っている。そして、同じ様な状況に追い込まれる事に成る突撃能力を、極力使用を避けようと思っていた。

 紫藤浩一に轢かれたのではない。もっと別の被害によって、その衣服がボロボロになっている。これは誰かが彼に攻撃した訳ではない。家に籠っている生存者は、彼の姿を見た途端、生きている人間の三割は気絶し、六割は恐れ慄き硬直し、残りの二割は息を殺して立ち去るのを切望していた。攻撃する度胸が有るならば、とうに避難をするか、あるいは無謀と取り違えて異形と化している。

 この状態は、彼が原因だった。

 (……明るク成るマデ、歩キ)

 疾走能力。及び、短時間での突撃能力を手に入れた『彼』は、早速、其れを使用して鞠川静香を追おうと思った。思って、実行した。実行したのだ。確かに習得した能力は非常に高速移動を可能にし、先の覚醒時程に早くは無かったが、其れでも時速四十キロは出ただろう。しかし、追おうと思って実行して、直ぐに頓挫した。その理由は、彼の歩んで来た道中を見れば、良く分かる。

 途中の電信柱が折れ、窓が割られた車が陥没し、コンクリートブロック塀が崩れ、そして、良く良く見れば、その全てが曲がり角にあり、序に『彼』の着ていた衣服の切れ端が見つかるだろう。




 走れたのは良いが、猪突猛進しか出来なかったのだ。




 『彼』の疾走能力は確かに速い。しかし、走れたとしても“曲がれる”程に己の身体能力を把握出来ておらず、序に言えば足の動かし方や運び方も全然駄目だった。止まる事にだって苦労した。車は急に止まれない、ではないが、急に止まれる身体能力を有していても、そもそも走った記憶すら怪しいのだから仕方が無い。歩く事には如何にか慣れた『彼』でも、陸上選手は愚か、中学生のランニングフォームにすら到達していないのだ。そんな状態で、過分な速度を出しても、制御出来る筈が無かったのである。

 (ゆっくリ、行こウ)

 ゴフウ、とまるで熊か獅子か、大きな獣の様な吐息を吐きだして、歩く。その足取りは妙にぎこちなく、慎重だ。数歩歩いて周囲を見回し、再度歩き始めると言う、非常に緩慢な動きになっている。挙動だけ見れば、普通の人間の歩行よりも遅いだろう。一歩一歩が大きいので、差し引き、時速二キロか三キロと言った所だろう。

 もう一つ。実を言えば、今の『彼』には、普通に歩くと言う事が出来ない。走るか、これほどに遅いかのどちらかだ。何故に『彼』がこれ程までに、行軍を遅くしているのかと言えば。

 (……暗イノ、嫌ダ)

 忘れてはいけない。例え図体がでかくても『彼』は精神的には幼いのだ。単純であり、純粋であるともいえる。真夜中にトイレに行くのが怖かったように。長居をした友達の家から、星の無い夕方遅くに、家に帰る事が不安だったように。誰にでも一人で行動する心細さを味わった経験が有るだろう。『彼』が今まさに体験している感覚は、それと同じだった。

 『彼』は、例えその身が非常に頑丈で、故に絶対に安全だと理解していても、歩みを遅くした。――――有体に言えば、暗い中に出歩く事が、怖かったのである。だから、街灯を見つつ、明かりから明かりへ歩く様に、徐々に進んでいた。

 いっその事、一気に走れれば不安も消えるのだが、前述したように『彼』は走っても止まれない。曲がれない。序に、そろそろ衣服も限界だ。これ以上破くと裸で歩く事に成る。勿論、既に人間の肉体から逸脱している『彼』の場合、猥褻物陳列罪等に接触する筈も無く、そもそも現状では普通の人間でも取り締まる事は難しい。だから、挙動不審な動きをしているだけなのだが、外見が外見である。

 『彼』の内面が見えれば、少しは周囲からの嫌悪の眼も薄れるのだろうが、悲しい事に『彼』が出会う相手は死人だけであり、そして目撃される光景は《奴ら》相手に剛力を振う異形の姿だった。この先理解される可能性は、限りなく低いだろう。そして『彼』は、其処に考え付いていない。

 (……速ク、日が昇ッテ、欲しイ)

 『彼』は、果たして朝日とはどんな物なのか。きっと温かく、美しい色をしているのだろうと思い浮かべ、暗がりに少しだけ怯えながら、ゆっくりと道路を歩いて行く。

 目指す相手に追い付くまでには、まだ時間が懸かりそうだが……。

 (……ン?)

 鋭い嗅覚が、一つの匂いを嗅ぎつけた。それは、明らかに自分が追うバスの強い匂いであり、しかし風に運ばれて来る匂いとは違う方向から届いて来る。何処かで一回停止して、回り道をした匂いを、感じ取ったのだ。

 (……行ってミヨウ)

 どうせ夜は長いのだ。少しくらい時間が懸かっても問題は無いだろう。病院で寝ているだけだった『彼』にしてみれば、例え怯えていても、明かりの下を動くのならば何も問題は無い。深夜の病院の様な、何も見えない闇が怖いだけであり、そして歩みの先には未だに機能を止めていない街灯が並んでいる。

 巨体を震わせ、追跡者は体の向かう先を修正した。




     ●




 「映画やゲームならアレよね。大抵が、この大災害を生み出した黒幕たちに投入された、実験的な生物兵器――とか、そんな扱いよ。……勿論、私は違うと思うけど」

 成す事も無く、只管に時間を持て余している。限られた平穏である事を理解していても、しかし使い様の無い時間は、消化するのが難しいのだ。音を産む訳にはいかない。外に出てもいけない。退屈を凌ぐ道具が有れば、その代わりに生きる為に必要な道具を持つ。一向に進まないバスの中で彼らに出来る事と言えば、交代で休息を取るか、あるいはなるべく建設的な雑談をするかだ。

 この場合の建設的な話、とは、即ち学園で見たあの化物についての話である。本当に建設的かどうかは微妙だが、少なくとも大体の方針が決定し、話すべき内容を話してしまった後の残りの会話としては、丁度良かった。

 「と、言いますと?」

 「メリットが無い」

 目を覚ました平野コータの言葉を、高城沙耶は一蹴する。何かにつけて邪険に扱っている様に見えるが、彼女は誰に対してもこんな態度である。むしろ、こんな態度でも平野の能力は認めているのだ。中々、伝わり難いが……まあ、平野自身も気にしていないので、これ以上言うのは野暮と言うものだろう。

 「仮に。あの怪物が人為的に生み出された存在だとする。とすると、この現状も……《奴ら》が発生した背景に、その人間の意志が関わっていると言う事よ。これが例えば、床主だけだとか。あるいは日本だけだとか。そんな理由ならば、他の政治的、経済的、その他多くの勢力からの攻撃と考えられなくも無い。でも、実際は違う。合衆国はホワイトハウスを破棄しているし、ロシアは政府機能が壊滅も同然。パリ、ローマ、北京、東京まで被害にあっている。情報が少ないけれど、多分、アフリカや南アメリカ、オセアニア、東ヨーロッパからアジアまで。流石に南極と国際宇宙ステーションは大丈夫だろうけれど……全域に渡って発生しているわ。……それをして、何か意味が有る? 下手をすれば……いえ、間違い無く、生み出した自分達も死ぬわよ」

 そして、今は無事な各地域の人間達も、何れ間違いなく、限界は訪れる。真綿に首を絞められるように、徐々に徐々に、緩慢に死に誘われるのだ。国際宇宙ステーションだって、補給物資が届かなければ脱出不可能な檻にしかならない。

 「それにね。こうなってしまった今、言っても仕方がないけれど、そもそも前提条件が有り得ないのよ。全世界で同時多発的に。世界各国・日本全国の大都市に発生だもの。テロじゃ無理よ。――――仮に実行したとしてね。……凄い単純な点から行くわよ? ――――そうね、まあ日本だったら霞ヶ関と国会を抑えれば、組織の性質上、何とかなるでしょう。自己判断で動けないから。でも、例えばアメリカで発生して、東西南北にどれくらいの広さが有ると思ってるの? 広いと言う事は《奴ら》に成る人間も多いけれど、同時に被害が広がるにも時間が必要って事よ。……その間に情報が共有され、国際世論は大荒れに荒れるとしても、何処かで必ず、止められる。――――それこそ、未だに機能を保持しているイギリスみたいにね」

 「だから、人為的な線は有り得ない、と」

 「まあ、例えば。……そうね。自分も含めた人間達を、完璧に全滅させる事を計画した『とあるテロ的な集団』が《奴ら》になるウィルス的な何かを産んで、己を最初の発生源として世界各国に散ったとしましょう。大都会の街中で発生。その人物は隣人を噛み、騒然とする中でネズミ算式に増えて行く。東京の日中のど真ん中だとして。――――で? 世界各国の名立たる大都市で同じ事をする為には、どれだけの労力が必要よ? 千人じゃ効かないわよ?」

 少し想像してみれば良い。例えば、そんな事件が有ったとする。騒然とする中で、日本人は一斉に逃げだすだろう。直ぐに警察が駆けつける。勿論事情を理解出来る筈も無く、警告している間に被害が増える。だが、駆け付けた警察官が取り押さえられずに噛まれ、感染し、被害を広げたとして、東京の住人は百万人では効かないのだ。その間に警察の応援が駆けつける。何回か繰り返した後で、やっと拘束・説得が無意味で無駄で何の価値も無いと覚り、噛まれた人間が後を追うと理解出来たとする。

 「そこで、それ以上に動き難いのが日本と言う国家の情けない部分だけれど、其れは置いておくわ。だからこそ、日本はある程度平和なのだしね。……自分の保身を考えれば相手を射殺出来ないし、そもそも事件が本当かどうか、本庁が確かめる。その間に被害が増える。……でも、例え最悪を突き進んでも、何処かで情報が伝わるわ。それこそ、私達が学園で見た番組みたいに」

 何とか収めようとして、収められずに被害を拡大させるのが日本だ。だから、日本と言う国家を壊滅させるだけならば、困難だが、確率も低いが、不可能では無い(不可能ではないと言うだけの話だ)。おそらく自衛隊の出動に慎重になっている間、対策会議の間、そしてこの期に及んで政治的な駆け引きをしている間に、国会に感染者が入り込み、警備が破られ、そのまま責任者が死んでほったらかしだ。命令が無い以上動ける組織は少ない。国家公務員が動けなければ、それで日本は終わると言っても良い。仮に国家が潰れるとしたら、きっとそうなるだろう。

 「まあ、頭を潰す事も、噛まれたらお終いと言う事も、何も理解出来ない人間がいたら、そいつは無能以外の何物でもないわ。現実を直視できない相手は、むしろ今後には邪魔。直視して、対策を打てる人間が居ないのならば――――残念な事に、自分の身は自分で守るしか無いけれど」

 高城沙耶はそう付け加える。幸いな事に、今現在は静かに眠って休憩している毒島冴子と宮本麗も含め、このバスの中の全員が現実を理解出来ていた。後は、世界の首脳陣に同じ才能を要求するだけである。勿論、大分……いや、相当に難しい、だろうが。

 「それでも。……世界を滅ぼすのは並大抵の事じゃないわ。《奴ら》が音に反応するとはいえ、知能が残っていない愚昧な存在なのよ? 内紛さえ起きなければ人間の敵じゃない」

 そう。例え其処まで言っても、人間を滅ぼす事は不可能だ。小国の幾つかは消滅し、機能を失い、巨大国家・先進国でも大被害が出るかもしれないが、それでも不可能に近い。

 奴らの何よりの脅威は、数と、現実的な理性に攻撃を与える所なのだから。
 容赦無く相手を倒し得るかと言う部分なのだから。

 「さて、話を戻すわね?」

 仮に本州を壊滅させるだけでも、東京・埼玉・神奈川・千葉・静岡・名古屋・大阪・京都・広島などの大都市群の複数個所くらいは、発生源として必要だろう。其処で同時に発生しても、北海道と九州・四国、ましてアメリカ軍がいる沖縄には中々入り込めない。《奴ら》が到達するより早く、間違い無く封鎖される。

 まして、政府首脳陣は真っ先に安全な洋上へ避難するだろう。

 「隔離可能な内部でも安全ではないと言うならば、それは隔離よりも早く内部で発生すると言う事よ。故に、人為的な感染では無い。人間を媒介にして拡散しても、人間が生み出したと言うよりは、自然的な現象の方が、まだ“感染数”という観点や、世界的流行と言う意味では、納得が行くわよね」

 それこそ、数時間前に語った、インフルエンザやコレラ、黒死病のように。地球上の何処かで生み出された《奴ら》になる「原因」が大量に、貿易風等に乗って世界に運ばれた……と考えれば、まだ納得は行く。人口密集地帯にウィルスが広がれば、集合数的に感染者も増える。大都市に被害が行くのも当然だ。過密地域が文化の中心部なのだから、国家も其れだけ揺らぎ易い。

 そんな説明の後に、高城は話を『怪物』へシフトさせる。

 「そして、この原因が――――突然変異的に生み出された、地球上の『病気』の一種ならば。同じ理由で、被害者にも影響が出る。勿論、非常に低い確率で、だけれどね。――――超、大雑把な計算だけど、午後の時点で埼玉の被害者が一万人強。今の時間迄で三倍になったとして、約五万人。人口密集地帯の埼玉は人口が約七百万人だから、被害が増えたとして、……大目に見積もって、百人に一人が《奴ら》。――これを無理やりに人口密度や地方都市の被害レベルを無視した上で、日本全国に一律と考えて、日本国民は一億四千万人は居ないから、……百万人の《奴ら》がいる、としましょう。……百万人に一人くらいならば、何かしら、体が突然変異しても、有り得無くは無いわ。……まあ、確率的にはね」

 確率的には、と言う部分を強調する。相変わらず一向に進まないバスの中、理屈っぽい話が続いているが、誰も止めようとはしない。静かに聴くに値する情報だったし、現状を整理する事にもなっていた。高城の話し方が上手いせいか、興味をそそられ、聞く事に意識を向ける事が出来る。

 「と言うことは、別の理由で、有り得ないってことか?」

 先程からずっと黙っていた小室孝が、口を開く。彼に寄りかかる様に宮本麗が眠っている為、大きく動く事も出来ないのだ。注意を払い、自然と小さな声で、そう返した。

 「勿論。確率的には低いけれど、もっと低い。……生物学的にね」

 再度、彼女は頷いた。




     ●




 その頃。

 (……別れ、タ?)

 とある一件の邸宅の前で、急に匂いが分散した事を『彼』は悟っていた。大きな屋敷だ。頑丈な門と、丈夫な石塀で囲われ、屋根の上には発電装置も付いている。しかし、庭は小さい。いや、面積は広いのだが、空いた空間にプレハブ小屋が置かれ、半開きの扉の奥には色々な工具が見える。どうやったのか、その内の一つが玄関へと続く街路の上に動かされており、重量級の機械が鎮座している。その奥の玄関は頑なに閉ざされていた。

 外に出る為には、二階の窓から屋根を伝い、プレハブ小屋の上を歩くのだろう。そしてプレハブ小屋の屋根を伝えば、隣家からかなり遠くまで動く事が出来る。防御だけでなく、いざとなったら脱出までも想定されていた。中に居る人間は、相当に優秀で、しかも内部には相当の数がいるのだろう。邸宅内部から人の気配がしていた。

 しかし、求める匂いはしない。バスがこの辺りに滞在していたのは確かだろうが、如何やらこの場で何人かを下ろし、立ち去ったらしい。その辺に重なっている死体は、かつて《奴ら》だったようだ。何れも頭部を破壊されて、動く様子は無い。物音が少ないせいも有って、相変わらず『彼』の周囲には数体が纏わり付くが、既にこれを排除する事にも慣れていた。

 (……鞠川、サン、ハ)

 この場に居ない。バスを運転していたのが彼女で、そしてバスが無い。故に彼女は此処に居ない。思考の流れは簡単だが、論理的だった。『彼』は知識こそ無いが、決して愚鈍でも、まして馬鹿でも無い。

 この場に標的がいないのならば、長居をする必要は無い。そう判断をした。

 仮にまともな教育を受けていたら、両親の才能を受け継いで、姉以上に立派に育っていたのだろうが、その事実を知る者は、既に数が少なかった。まして『彼』の現状を知っている者は皆無。『彼』自身が自覚している筈も無い。

 (なら良い、ヤ)

 門を一回見上げ、内部に居る人間が動いている事を知って、体の向きを変える。夜遅くに訪問しては迷惑だと言う事は、微かな情報として有していた。そのまま、家から立ち去る様に、歩き出す。






 夜闇の中、明滅する街灯の下を、緩慢に歩く異形の巨人。暗闇の中に爛々と浮かび上がる業火の如き眼光。鬼もかくやと言う程の肉体が、赤黒い筋肉と、白と紫の斑に混ざって街灯に照らされている。未だ春だと言うのに、その口元から漏れる息は蒸気の様に白く、鋭い歯が鈍く輝いている。

 ザシャ、と歩く音が聞こえる。辛うじて原型を留める靴と、先端を突き破った既に武器にも見える足爪が、アスファルトを擦る。一歩一歩は決して早く無い。だが只管、愚直なまでに、淡々と一定の速度で歩む姿は、まるで狩人……否、狩人の性能を有した機械のようだ。

 ザシャッ────。

 コフウ、と吐息が漏れる。喉の奥から響く鳴き声は、怪獣の様な重低音だ。一流のオペラ歌手でも出す事が不可能な、人間の声帯域を越えた声。それは既に声では無い。獣の唸り声だ。仮に咆哮を上げたら、その音は周囲一帯に響き渡り、生きている人間の背筋を凍りつかせるだろう。

 ザシャッ────。

 その歩く音に引き寄せられた亡者が、何処からか姿を見せて襲い掛かるが、其れを玩具の様に壊して、何処かを見たまま、ゆっくりと歩いて行く。異形の眼の先には何も無い、邪魔する者は何も無いと、行動で示すかのように。
 後にはただ、周囲に叩きつけられ、潰された格好の死体が散乱するだけである。
 未だ、室内の灯りこそ消えているが、人間が潜む住宅街の中に、こんな怪物が歩いている事こそが、この世界の現状を示していた。

 ザシャッ────。

 邸宅の中に居た住人達――――即ち、藤美学園の生存者にして、バスから降りた有瀬智江と他の五人のメンバーは、その光景に緊張を一瞬だけ緩め、しかし『彼』が視界から消えるまで固唾を呑んで見守っていたのだが、これは本編と関係ない。この先、彼女達が出て来るとしたら、この邸宅が壊滅した後か、それとも彼女達が助かった時であろう。敢えて何かを言うのならば、厄介事を引き起こせる程、自分で行動出来る人間が居なかった事が、幸いだったと言う事だろうか。

 ザシャッ────。

 その音は、徐々に、小さく成って行く。音を聞いていた誰もが、心の中に安堵感が広がり、肩で大きく息をして緊張と共に吐き出す事を、抑えられなかっただろう。邸宅の中ではボウガンを構えた男子がいたのだが、彼は腰を抜かして座り込んでしまった。

 こうして『彼』は、屋敷の前から立ち去ろうとして。

 ふと、己の左腕に思い切り噛みつく口が有る事に気が付いた。

 見れば、頭だけに成った亡者が、顎の力だけで喰らいついているのだ。其れほどに痛くは無いが、歯を肌に食い込ませている。簡単に抜ける様子は無い。最も、相手も『彼』の腕を噛み千切れるほどの力が無いから、ぶら下がっている様な状態なのだが。

 (……ジャマ、)

 邪魔だった。右腕で、顔を鷲掴む様に握り、圧倒的な握力で相手の頭蓋を粉砕しながら、強引に引き剥がす。腕の肉も一緒に持って行かれたが、気にしない。どうせ、直ぐに治るのだ。

 体の怪我は、大した被害を受けていない。『彼』の肉体に被害を与えられるほど相手が強くは無いと言う事。それ以上に、『彼』の肉体の生命力が異常だった事が、その理由だった。

 しかし。






 ────唐突に、その歩みが、止まった。





 ガクリ、と、『彼』の体の重心が、崩れたのだ。




     ●




 「一応、前提条件ね。生物学的に言えば、突然変異という現象自体は、かなり普通よ?」

 「……そうなのか?」

 「ええ。これは多分、鞠川先生の方が詳しいけれど……」

 小室の疑問に応えるべく口を開いた高城だったが、運転席の教師は大学病院から派遣された保険医だ。専門家の居る前で大きな口を叩けない程、柔な性格はしていないが、彼女の邪魔をしても不味い。運転にミスでも産まれたら、それで運命は尽きるのだ。

 「良いわよ? ずっと運転しているのも大変だから……。気分転換になるわ」

 その高城の内心を読み取ったのだろう。ミラー越しに彼女達を眺めていた鞠川静香が、そう言った。意外と思慮深く、意外と気を使える彼女だが、別に遠慮をした訳でもない。実際、ずっとハンドルを握っていても面倒なのだ。肩が凝るし(その豊満すぎる胸の影響も有るのだが)、疲労が溜まる。どちらにせよ、気分を変えたかった。

 「高城さんの説明で、不足したら、補うわ」

 そう言って微笑する。大人の貫録だ。

 「そう。――――じゃ、始めるけれど。……まず、突然変異という現象は、生物の体内ではかなり多い。より正確には、生物の肉体を構成する細胞の中ではね。生物の授業で習った様に、生物細胞は自己増殖する。母親の胎内では受精卵。つまり一個。それが二個になって二個が四個になって。……倍々に増えて行って、最終的には自分達の体を構成する。今の私達の体内でも同じ事が起きている。だから、当然、不良品が中には有るのよ。上手く分裂出来無かった細胞。活動中に何か故障が有って未完成に成った細胞。外部からの影響で異常が発生した細胞ってね。――――例えば赤子の場合はそれが顕著で、ベトナム戦争の枯葉剤から、妊婦の飲酒まで、発生する原因は多々あったりする」

 ま、其れは生まれて来る子供の場合、と話を一回区切り、発展させていく。学年主席の形容詞は伊達では無いのだ。口調が非常に明確だった。両腕での動作も加わり、解りやすい。

 「同様に、今の私達にも同じ事が起きている。大抵は、役立たずとして体の中で崩れて、他に吸収されちゃうけれど、そうならない時も有るの。それが変異した細胞ね。……凄く大雑把に言えば、喉のポリープや各部位に出来る悪性腫瘍。そしてガン細胞だって細胞分裂の過程で発生した異常細胞なのよ。だから、変異自体は変じゃない。……本当に異常なのは」

 其処で一回、言葉を切って、強調する様に彼女は語る。

 「その突然変異が、あの怪物を産んだと言う事。元々の人間が、どんなのだったかは不明だけれど、変化して、しかも人間以上の出力を得る。これは、純粋な発生確立以上に、低いと言えるわ。だって体の“一部”じゃなくて、“全身”が変異している。放射能を浴びたって、ああは成らないわ」

 「でも、実際には居るんだろ?」

 小室の言葉に、だから面倒なのよ、と彼女は言った。有り得無いと言うのならば、今のこの現状だって普通では有り得ない。この世界の終焉が有り得る以上、あの怪物も認めざるを得ないのだ。

 「実際、アレはいる。それも、まるでこの環境に適応するかのようにね。――――噛まれて突然変異した。仮にそうだとしても、其処から先にメリットを見出すのは無理よ。……小室だって噛まれたいとは思わないでしょ? そもそも噛まれて変異するなんて思わない。更に言えば、――――仮に。体に、“そんな特殊な性質”が有ったら、普通は逆に、より早く《奴ら》に成るか、あるいは強い毒性を持つ方向に変化するのが当たり前でしょ? 生命体の目的として動いているかは不明だけど、《奴ら》は他者を噛んで広げていく。ならば、例えば、あの『怪物』が、噛まれた結果に適応して変異をしたならば、……それこそ、もっと『突き詰めた』様な状態の方が相応しいのよ。巨大な口だけの怪物に成るかもしれない。植物みたいなね。あるいは、空気感染を可能にするかもしれない。あるいは、もっと人間を速く腐敗させる猛毒を有するかもしれない。――――何れにせよ、生物として進化するならば、《奴ら》“以上”の力の為に変化する事に成るわけ。より効率的な増殖と感染の為にね。……でも、あの巨人は違う。違っているのよ。あの怪物が噛まれて変異して、其れで肉体が巨大化して、巨人に成った理由は、何処にあるのよ? いっちゃ悪いけど、あれ、既に別の生物よ?」

 其処までを言って、彼女は自分の分のボトルに口を付けた。話しっぱなしで喉が渇いたのだろう。喉を鳴らして飲むが、途中で口を話し、呑み過ぎないように注意を払う。この辺りは流石、適応力が有った。

 「言い代えましょう。あの怪物は《奴ら》に噛まれて変異をした。これが事実でも、其れが即ち《奴ら》にとってのメリットには成らない。何故ならば、感染する為の手段が低下しているから。爪で引っ掻かれたらお終い、だったとしても、だったら二足歩行の意味がないわよね? そしてそもそも、普通はそんな変異は有り得ない。日本全国で一人、いるかいないかの現象だって言う事も有る。《奴ら》の特性とは全く違うだけでなく、変異が全身へ見られてもいる。――――矛盾する様だけれど、あの怪物に限っては、人間が影響していると思いたいわね」

 そんな偶然が、この床主で発生したとは考えにくいし、と付け加えた。しかしその理論では、先程の人為的な現象という世界的流行と矛盾するのだ。勿論、全てが誰かに演出された物だと言う可能性が無い訳ではない。しかし、非常に低い事に違いは無い。

 「何れにせよ……。あの怪物は、多分、この《奴ら》と“直接には”関係が無いわ。多分、むしろ被害者だと思う。その被害者の『後』が、異常なだけで。……そして、多分、そんな存在は、普通じゃない。肉体的にも、異常な性質を持っている筈ね」

 ゆっくりとバスが動く。前に僅かに開いた空間に進んだのだ。高城の話を聞いて、僅かに鞠川静香は眉を顰めたが、何かを言うつもりは無いのだろう。何か、目元に疑問か、回想をする意志を示すだけだった。彼女の言葉に琴線に触れる物でもあったのだろうか。

 「……つまり?」

 生物の授業をさぼったせいで理解が及ばず、大部分を静かに聴く事しか出来ない小室だったが、結論の幾つかを示されたので、先を促した。要するにアレは特別で、《奴ら》の味方ではなさそうで(此方の味方と言う訳でもないが)、何か偶然以下の、しかし偶然では有り得ない結果によって発生した、と言う事だ。

 「つまり、あの怪物は、異常だらけ、ってこと。性質も、行動も、変異の法則もね。……多分、あの凄いグロテスクな肉体にも、何か異常な部分が有る筈よ」

 窓の外で、今尚も動いている怪物を幻視し、一連の話を収縮させるように、高城は言う。其れが正解であると知る筈も無い、何の気なしな、思いついた様な簡潔な一言だった。




 「今頃、体の何処かが、限界で悲鳴を上げてても、全然変じゃないわね」




     ●




 ――――ズシャ、リ……。

 (何、ガ?)

 ふらり、と重心が揺らいだと思ったら、途端に体が重く成った。今迄の疲労が突然に降りかかった様な感触だった。自分の身に何が有ったのか。『彼』は全く理解出来ない。ただ、響いていた足音が止まった事は解る。自分の足だ。それが、急に鈍く成ったのだ。

 先程までは、何の変哲も無く動いていた。体の何処にも怪我は無い。攻撃を受けた様子も無い。しかし、妙に体が重い。重いだけでなく、力が入らないのだ。嘗ての病院で寝ていた時の様に。

 (……何、ガ?)

 会ったのだろうか。『彼』の今迄生きて来た体験の中で、かなり有り得ない現象だった。否。遥か昔に体験しているのだが、自覚出来ていなかった。肩が重く、膝が重く、胸部と腹部に違和感が有る。カチカチ、と剥き出しの歯が成った。明らかに体に異常が発生している。

 先程まで、『彼』がこの肉体に変化してからは、全く支障が無かった体の、初めての不調だった。

 (……動、コウ)

 そう思って、立ち上がる。肉体が重く、動かしにくく、徐々に調子が悪く成っている。しかし同時に、妙に感覚が鋭敏になっていた。特に嗅覚。先程までは普通に悟れた鞠川静香の芳香が、今は強い香水並みだった。

 足取りは遅々として進まず、歩くのにも苦労した頃と同じ程に移動速度が遅かった。体の何かが変だった。その理由は解らない。何より寝たきりの『彼』には未経験だった。しかし、動く事は出来る様で、ふらふらと今迄以上に上半身を動かしながら、『彼』は奥へと進んでいく。

 (――――辛、イ)

 声に成らない呻きを出す。苦しいのではない。何か、体の中から衝動を感じていた。それが、辛いとか苦しいとか言う感情で示されるのだ。苦痛では有るが、痛みは無い。苦行では有るが、動けるのだ。感覚が妙に鋭敏に成り、特に嗅覚が鋭く成り、同時に感情がささくれ立って来る。




 「―― オ     g     イ   ――――」




 口から自然に出た鳴き声の意味を『彼』は理解していなかった。

 その身に起きている変化を理解出来ないまま、『彼』は標的を追って動いて行った。




 気が付けば、東の空が僅かに白んでいた。












 復活! やっと帰ってきました!

 学業の一環とはいえ、40日も投稿出来ないのは、本当に辛かったです。
 これから、バシバシ更新します。
 取りあえず、此れと『境界~』を完結させて、円卓ギアスと、ネギまでしょうか。


 今回は繋ぎ。『起承転結』で言えば、起と承の間です。言いかえれば、高城の説明ターンでした。この先これ以上に多くを、彼女が語る事は、多分無いです。

 主人公の身に一体何が起きたのかは次回。でも、理由が分かったら分かったで、また結果として災厄が降り懸かります。最近、強い奴に効果的なダメージを与える方法を考えてばかりだな。それが無ければチートって詰まらないけれど。

 有瀬智江は、六巻最後の設定集から頂きました。高城沙耶を嫌味じゃ無くて、庶民的にカリカチュアした感じ。この先に出て来るかどうかは、未定です。頑張って生き延びて欲しいですね。

 ではまた次回。

 (9月12日投稿)





[20613] 第五話 『Street of the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/09/14 23:43
 ※注意! 今回、これでもかと言う位に化物です。人によっては非常に嫌悪感を得る可能性が有るので、ご注意ください。










『彼』の嗅覚が、捉えた物が有った。

 それは酷く本能を刺激する、匂いだった。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』



 第五話 『Street of the “Tyrant”』






 世界中で同じ現象が起こっていた。

 それは、洋上の空港でも、変わらない。

 『――――床主管制塔。こちら089便。離陸準備完了した』

 『――――089便。こちら床主管制塔。滑走路端で待機せよ。……我々には、問題が生じている』

 機長とパイロットが管制塔と会話をしている中、滑走路上の亡者を狙い撃つ女性がいる。

 バスン! バズッ! バスン! バズッ! と連続して放たれた銃弾が、何れも一撃で標的の頭部を吹き飛ばす。銃声が響くが、亡者の群れが彼女達へ向かうより早く、狙いを変えた銃口を向けられ、全てが排除される。空港内の一角には、其処だけ大量の屍が転がっていた。

 「風良し。進路上に障害物は無し。……射撃許可、確認」

 言葉とほぼ同時に、ドイツ製7,62ミリ口径の狙撃銃が再度、火を吹いた。穏やかな風を弾丸が切り裂き、滑走路上の一体の頭部を貫通する。警察用で射程が短いとはいえ、彼女の手に掛かれば、障害物の無い平地だ。屠る事は容易く出来る。

 「ヒット」

 相方の言葉に、頷く。狙撃者は、相手を狙い撃つ為に、スコープを覗く。それはつまり視野が狭くなると言う事だ。広い視野の確保と、効率良い標的の排除。そして狙撃者の周辺警戒を怠る事が無い、息の合った相方がいなければ、優秀な狙撃者といえど十分に力を発揮する事は出来ない。

 「此方へ向かう対象は沈黙。……狙撃先を変えます。対象を滑走路上へ」

 「オーケイ。――――次、行くわよ」

 再度、スコープを覗く。朝から打ち続けているが、弾丸は、未だ相当数が有る。勿論、手持ちが尽きる前に帰還する必要があるし、全ての弾丸を消費しても全員の始末は不可能だが、それでも安心感が違う。

 手に感じる重さは、慣れた感触だ。ボルトアクション式ライフル――――つまり、銃身を引いて弾丸を再装填する必要のある従来のライフルと違い、彼女の使用するPSG-1は、弾丸が自動で装填される仕組みになっている。本来ならば狙撃銃には向かない筈だが、内部構造の改造と複雑な制御の元、軍用G3として使用される程に狙撃機能が高い。

 優秀な武器に優秀な人材。両方が揃っているからこそ、障害物を容易く排除する事が可能になっている。

 「……見覚えのある顔ね」

 スコープを覗いて、南リカは言った。

 社会現象にまでなったドラマの、主役を演じていた男性が見えていた。中高年のご婦人方に大人気だった、韓国の美形俳優だ。死して既に異形と化していても、生前の面影が有った。下手に原型を留めている分、今の世界をまざまざと見せつけられる。

 「床主に公演に来ていた俳優ですね。……避難途中に関係者から感染したんでしょう」

 「私が殺した事を知ったら、お隣の国は怒るかしらね?」

 「怒る程に秩序が回復出来るとは思えませんがね。今の所、イギリス以外は何処もヤバイです。そのイギリスだって、何時まで平和か見当もつきません」

 なるほど、と言葉を返して、引き金を引く。頭部を穿った弾丸の影響で、その顔が一瞬だけ笑みの様に歪む。そして、其のまま倒れ伏す。死者に対しての感慨を抱くよりも先に、そのまま滑走路上の亡者を一掃する。

 「お見事」

 「如何ってことないわ。この程度で音をあげてちゃ、全国五指の名が泣くわよ」

 「確かに、そうですね」

 相棒(バディ)の田島との遣り取りをしながら、よっこらせ、と腰を上げる。一日中、只管に引金を引き続けていたせいで、腰も肩も胸も凝っていた。胸のプロテクターをずらし、肩を伸ばして、風を受ける。こんな状態だと言うのに、風も空も嫌になる位に良い天気だった。

 「にしても、まさか洋上の空港まで発生するとは……。船でしか来られない筈だってのにな。要人や技術者、あるいはその家族の中に、紛れていたんかね?」

 同じ様に緊張を解いたのだろう。先程までの公人としてではなく、素の口調になって田島は言った。

 「でしょうね。――――化物の被害が増える原因は其処。逆に言えば、人間が情を持たなければ、駆逐は簡単よ。野生の獣みたく『過去はどうであれ、今は自分に害を与える存在』を見放す事が出来ないから、拡大する。拡大して連鎖的に悲劇が繰り返される。……私も例には漏れないわ」

 「……と言うと?」

 「――――私だって、理性で理解出来ても、感情で理解出来ない……そんな相手だっているわ」

 幾ら安全を掴み取るだけの実力が有り、人材がいるとは言っても限界はある。今はまだ良いが、弾丸も無限ではない。ゲームのマグナムでは無いのだ。洋上の空港だから亡者の流入が無いとはいえ、殲滅するのは非常に困難だろう。

 限界を迎えての逃亡か、要人救出に駆り出されるか。それとも空港内に有る程度の安全を確保した上での、補給物資の調達か。何れにせよ、期を見て街に向かう事は、必須事項だった。リカとて床主に未練を覚えている。

 「男でもいるのか?」

 「……そんなんじゃないわ」

 否定と言うよりも、懐古に近いのだろうか。軽く肩を竦めて、懐かしそうな口調で語る。今でも一月に何回かは顔を合わせる間柄だが、この緊急時に置いて、あの平穏が酷く輝いて見えた。

 「大事な相手がいるのよ。大事な親友が二人。――――今頃、何処で何をしてるのか……」

 頭に浮かぶのは、二人の顔だった。部屋の掃除をしてくれる優しい医者の顔と、事有るごとに自分に協力してくれる国家公務員の顔だ。二人とも簡単に死ぬような人間では無い。きっと何処かで生きている事を、彼女は信じていた。いや、信じていたかった。

 彼女達が生きているのならば、南リカも生きていなければならない。

 そんな風に、思うのだ。






 リカの胸元には、一枚の写真が入っている。

 古くは無い。数年前に撮った物だ。少しだけ色が落ちているが、未だに鮮明な写真は、其々が進路を決めた後の写真だった。絶えず、と言えるほど、リカは写真を携帯している。勿論、ペラで持っているのでは無く、丁寧に畳んで財布の御開に同封してあった。学生時代から仲が良かった彼女達だ。勿論、当時の記念写真も大事に取ってある。リカと同じ様に、親友達も大切に保管している事だろう。

 映っているのは三人の女性だ。


 南リカ。

 鞠川静香。

 棟形鏡。






 最後の一人が、既に亡い事を、南リカは知らない。




     ●




 日の昇る中を、一体の異形が歩いている。

 春の快い日、と聞いて誰もが思い浮かべる、色鮮やかな世界の中を、唯ゆっくりと歩くのは、『彼』だ。青い空と白い雲。鮮烈な花と、舞い踊る蝶々。心が安らぐ暖かな日。そんな中を動く異形の怪物は、しかし、何処か億劫そうに見えるのは、何故だろうか。

 周囲に人気は無い。小さな商店街だ。閉じられたシャッター。引っ繰り返ったポリバケツ。地面に広がる血の池に、一本だけ落ちている、指輪の着いた薬指。野良猫が鳴き、ゴミを漁り、何処かに駆けて行く。其れを追う者も、見送る者も、誰も居ない。

 異常だった。周囲は不気味なほどに静まり返っている。人間の姿も、亡者の姿も見えない。ほんの僅か、身を潜めて様子を伺う視線が有る。しかし、其れを無視できる程に『彼』は憔悴していた。

 体調の不良、では無い。心身ともに到って健康だ。確かに動きは緩慢で、その性根が未発達である事、長い病院生活で己の肉体を把握出来ていない事、それらが合わさり、本来のポテンシャルに程遠いだけだ。しかし、彼の体は不調を訴えている。

 昨晩からこんな調子だった。昨晩、『彼』がバスのルートを追跡し、途中で亡者の群れを蹴散らして以来だ。其れまでは何の支障も無く肉体の修復が可能で、鈍重とはいえ確実に行動出来た。

 しかし今は違う。体の動きが呪い。関節が錆びついた様な、筋肉が硬直した様な、体の中に倦怠感が支配している。そのくせ、味覚・嗅覚などの感覚器官は鋭い。通り過ぎた家の中に、恐らく大人の女性と事もが二人、隠れている事を把握する。しかし、意識がそちらに引き寄せられもしない。

 (……何、ダロウ?)

 本当に、『彼』は理解できていなかった。無理も無い。只管に寝ていた彼にしてみれば、その『行動』を取っていた記憶は殆ど無かったのだ。普段の寝ている最中に全ては終わっていた。病院で管理される以前の事は既に霞みと成っている。

 苦しい、辛い、そんな感覚が感じられる。何処かが悪いのではない。それは衝動であり、あるいは言いかえるならば欲求と言う言葉に成る。

 『彼』は、知識として知っていても、しかし、其れを行動として理解しては居なかった。過去に感じた感覚を反芻しても尚、その『衝動』を満たす方法を、己の理性で把握出来ていなかった。そして何より、『彼』は己の仲の、その衝動が何であるのかを、実感として感じるには、経験が少な過ぎた。




 その『衝動』は『食欲』と言う。




 彼が知る由も無い事だが、病院で寝ていた頃の食事は、悲惨以外の何物でもなかった。常に点滴から栄養を注入され、薬と共に出される僅かな流動食を嚥下するだけ。食事とは一種の楽しみである筈が、『彼』にとっては作業ですら無かった。己で食事をする記憶すらも、数えられない程に、少なかった。

 『彼』の『お姉ちゃん』こと、棟形鏡。彼女が、その状態を改善しようとしなかった訳ではない。しかし改善する事は出来なかったのだ。味覚を楽しませる事が出来ないと言う事実も又、せめて嗅覚だけでも、という思いと成って、香水を使用するという形に現れた。

 身体の真価を発揮する事。《奴ら》を蹂躙する事。僅かな傷を修復する事。標的に向かい追跡を行う事。唯でさえエネルギー摂取量が少量だった『彼』の肉体は、今は巨人程の大きさに成っている。全てを賄える筈がない。そのエネルギーを消費しきっていたのだ。

 故に、体が空腹を、訴えていた。

 食料を摂取し、肉体を稼働させる餌を、要求していた。

 (……う、ア)

 飢餓状態に陥ると性格が豹変する。それは、哺乳動物の本能だ。幸いだった事に、『彼』の精神は豹変できるほどに成熟していない。否、もっと正確に言えば……そもそも己の感情すらも知りきれていない。辛うじて喜怒哀楽と、僅かな感情が存在するだけなのだ。だから意識は、普段と変化は少なかった。

 この感覚を如何にかしたい。この衝動を抑え込みたい。そんな事を、脳内で求めただけだ。其処に『彼』の考えは無く、まして人間に対する悪意を初めとする、他者を害する感情は一切存在しなかった。

 しかし。

 飢餓状態を解消する為に、性格以上に変化した物が有った。

 それは、昨日の夕刻。自分と共に居た少女を撥ねたバスを追撃した時に、肉体が疾走能力を手にした様に。




 その肉体が、変化した。




 『彼』のその身は、何処まで異常であるのか、『彼』自身も把握していない。そもそも考えも及ばない。良く言えば真っ直ぐに。悪く言えば、盲目的に、己の役目を全うしようと動くだけだからだ。

 より直接的に言い換えるのならば、その身は、彼の想いに則した行動を取れる様に――――変化する。

 其処の『彼』の意志が何であろうと、求める事を実行するように、その身が変化をする。

 既に太陽は随分と高く昇っていた。真夜中に休まず歩き、太陽が昇った後は僅かに速度が上がっていたお陰だろう。迂回した道中も含め、両足で移動した距離は三十キロ以上に成る。そして、渋滞に巻き込まれたマイクロバスとの距離を、確実に詰めていた。小さな商店街を通り過ぎ、混乱の市内に足を踏み入れるまで、もう後二時間も、懸からなかった。




 誰もがその事実を知る事無く。

 そして体は、標的を捉えて動き出す。




     ●




 路肩にマイクロバスが止まっていた。

 傍らを車が通り抜ける。随分と速度を出していたが、如何やら車体は無事らしく、中には生者が乗っていた。随分と血走った眼のまま、彼女達に目を向ける事無く、街を抜けようと躍起になって加速する。

 そして暫く先で大きなブレーキ音と共に、蛇行した。視界の先に進んだ乗用車は、街の大通りに入り、発生したままの、暴動を起こす民衆の幾人かを撥ね、そのまま突っ切って行く。遠目に見える光景は、通り抜けた自動車に向けて銃を向ける男性だった。

 「あのまま進めば、無事じゃ済まなかったわね」

 銃声。バスの中に居ても聞こえる音に、彼女は顔を僅かに顰めた。今の一発で、また誰かが倒れたに違いない。倒し倒され、狂乱と混乱に踊らされ、昨日前までの秩序など既に崩壊し始めている。幾らバスとは言え、そんな中を進んで被害を受けるのは確実だろう。市街地に入らずに待機して正解だった。

 運が良かった、のだろう。昨晩、緩慢に進んでいたマイクロバスは、太陽が昇った時には未だ市街地にあった。嫌味なほどに快い太陽は、街の中央部から立ち昇る、火災以上の噴煙をバスの面々に伝えてくれたのだ。不味い気がする、とバスを道路脇に止め、危険を覚悟で様子を伺いに行ったのは毒島冴子だった。

 数分の後に帰還した彼女から伝えられた情報は、簡潔に言えば、こうなる。

 『酷い。誰も彼も同じだ。頭に血が上っている。……人間同士で殺し合って、血と死体の山だよ』

 その口調が余りにも冷静だったからだろうか。最初は懐疑的に成らざるを得なかった他の面々も、バスに帰還した後で、携帯電話に撮影された画像を見せられれば、受け入れざるを得なかった。否、より強く実感したと言うのだろうか。

 世界は既に壊れ始めている。
 世界は既に終わり始めている。

 そんな中を通り抜けるのはリスクが高い。しかし何本か道を抜けた先には、今度は渋滞が待っている。闇雲に行動しても益は無い。故に、バスを停車させ、今後の方針を話し合っている。

 「でも、ずっとここに居る訳にも行かないよね」

 「そうだな」

 逐一、窓から様子を伺い、《奴ら》の姿が無いかを確認する宮本麗に、出入り口傍の個人席に座る毒島冴子が同意した。誰かがバスを奪うとも限らないし、《奴ら》に追い付かれるのも時間の問題だ。ストレスも溜まるし、体をしっかりと休める事も出来ない。移動の必要性が有り、しかし手段や経路も不明確だ。女子にしては異常に鋭い眼光を沙耶に向け、彼女は訊ねた。

 「高城。この中では一番、君が優れた戦略眼を持っているだろう。其処で、一番に君に訊くが……。君が一番良いと考える、今後の計画は何だ?」

 学年主席の少女は、暫く目を瞑り、数十秒の後、極力、客観的な視点で語り始めた。
 「――――安全で、快適な場所の確保。でも、これは飽く迄も、出来る限りね。最悪、音さえ経てなければ、今日の夜はこのバスの中で一晩を過ごせるわ。《奴ら》は視界が効かないから、此処に潜んでいれば襲われない。……でも、寝心地は悪い。見張りは必要だから、全員の疲労回復も難しい。朝起きた時に取り囲まれている可能性もある。それに、敵は《奴ら》だけじゃない。人間もいるわ。……安全性を考えれば、堅牢な拠点が、必要」

 「ふむ……」

 バスは喧騒が届く位置にある。何かの拍子に襲撃を受ける可能性は有った。勿論、自衛手段を有しているが、この期に及んで人間に襲われるのは、正直、勘弁して欲しい。毒島冴子“単体”ならば何も問題が無い。むしろ襲い掛かる相手を嬉々として殴り付けるが、他の生徒を危険に晒すわけにもいかない。

 個人の力では、生きるのに限界がある事を、彼女は知っている。

 「平野君。君は?」

 「僕も高城さんと同じ意見です。バスは移動には便利ですが、籠城には向いていません。この人数じゃ守りきるのも難しい。――――今は良いですが、特に夜中は危険ですし」

 確かにな、と毒島冴子は考える。彼女の意見も同じだった。視線を向ければ、小室孝と宮本麗も、なるほど、確かに、と頷いている。彼らも同じ意見だったようだ。

 ずっと運転をしていた鞠川静香は当然だが、疲労が重なってもいる。何処かに拠点を確保し、明日まで――――最悪、明日の朝日が昇るまでの七・八時間の期間だけでも良いから、休憩をした方が良いだろう。無論、バスは確保しておいたままの方が良い。きっと何処かで役に立つ。

 「……誰か、良い場所を知らないか? 私はこの辺りの地理には疎くてな」

 そう言って見回すと、各自が考える表情に成った。高城沙耶、小室孝、宮本麗の三者は、確かにこの土地で育っている。しかし、何れも川の向こうだ。川の向こうに渡れればいいのだが、目の前の大通りは戦場に通じているし、交通規制から生まれた渋滞も続いている。時間を懸ければ今日中に中心部に入れるかもしれない。しかし、入れなかったら――――今晩も、バスの中での一泊を覚悟する必要が有るのだ。

 ならば、今の内に拠点を確保して、その上で行動をするべきなのだ。

 「あ、それなら」

 運転席から顔を出した鞠川静香が手を挙げた。

 「私の御友達の家が有るの。川沿いのメゾネットなんだけど、見晴らし良いし、近くにコンビニも有るし、なんか大きな車も置いてあるから、バスも止められるかもしれない。――――後」

 其処まで語って、全員に視線を向けて、小声に成った。人目を憚る様な口調だ。自然と、全員が何か、と意識を向ける。

 「言おうと思ってた事なんだけどね。お友達ね、空港の警備をしてるんだけど……警察の、特殊部隊員なの。それで何時も忙しくていないから、私が掃除とかしているんだけど……」

 「校医。それは今、必要な事か?」

 「うん。此処の中の方が良いから。聴いてね? ……それで、大きな声で言えない話なんだけど。……ある時に頑丈な金庫を見つけたのよ。鍵が懸かった。で、何かな、って思って、後で話を聞いたら……なんでも、こっそりパーツを輸入して……組みたてた、らしいわ」

 「何がだ? 鞠川校医?」

 「輸入した、……銃」

 途端に、全員の表情が険しく成った。声を顰める理由も分かった。大きな声で言える内容では無い。持ち主が特殊部隊と言う事は、扱いには慣れているのだろうが、しかし法律に違反している可能性は高い。

 しかし、同時に酷く魅力的な提案でも有った。建物は確認した後でも変えられるが、重火器を手に入れられる機会はそうそう無い。死亡した警官から銃を奪うか、あるいはクレー射撃や狩猟用の銃を手に入れるかだ。

 拳銃。武器と聞かれて誰もが思い浮かべる、簡単にして効果的な武器。無論、音を発すれば《奴ら》に気が付かれる。しかし、銃と聞いてその有効性を知らない物は、現代の高校生にはいない。

 「詳しくは、判りますか?」

 平野コータの質問の勢いに少し驚いた様な顔をした鞠川静香だったが、その視線に押される様に、ええと、と思い出そうとする。顎に指を当て、考える格好のまま、十秒ほど。

 「名前は分かんないけど……話からすると、マシンガンみたいなのと、ショットガンみたいなのは、有るみたい。銃弾も有るようだし、使えるんじゃないかしら。リカ……あ、お友達ね? は、『違法だから秘密にして置いてね?』って言ってたし」

 「――――決まりだ。まずは其処に行こう」

 銃、つまりは強力な武器が入手できると聞いて、小室孝が言った。全員の視線が向けられる中、普段の迷う空気から一歩抜けた雰囲気で、全員を促す。

 有る程度の情報が出揃った後、方針を決定するのは自然と彼の仕事に成っていた。彼の性質がそうだと言う事も有るが、毒島冴子も高城沙耶も、敢えて決定を避けている。仮に彼女達が話題を振り、彼女が決定権を有しているとなれば、チームが分断する可能性が有る事を理解しているのだ。無論、其れは口には出さない。

 「先生。その家は此処から近いですか?」

 「ええ。……そうね。車で十分、懸からないわね」

 「今から移動しよう。取りあえず其処で休憩をする。……この辺は、まだ若干、安全に余裕が有る。上手く行けば、今日を丸一日、有効に使える。暫くしたら橋周辺の様子を見に行けるだろうし、なるべく音を経てない様に動けば、多少の行動も出来る。――――細かい事は、行ってから考えよう」

 やる事は多い。御別橋から先に入る事が可能なのかどうか。今現在の状況が如何なっているのか。電気が通っている内に確保出来るものは確保する必要があるし、鞠川静香の言葉が本当ならば銃の確保という問題も有る。其々の親兄弟の救出に、安全な場所の確認。とても無駄に過ごす余裕は無い。

 「……ええ。そうね」

 小室の言葉を頭の中で検討し、高城沙耶も頷く。毒島、平野、宮本と全員が納得し、鞠川静香もまた、頷いた。動く方針が定まった以上、時間が大切だと言う事は誰もが理解出来ている。切られていたエンジンが掛けられる。周囲に《奴ら》がいない事を確認し、タイミングを見計らって車が発進する。

 そうしてマイクロバスは進路を変え、南リカの家へと向かって行った。




 『彼』がその場所に到達する、僅か一時間前の事だった。




     ●




 僕の持っている写真には、三人の女の人が映っている。一人はお姉ちゃんで、一人は、今僕が追いかけている、お友達のお医者さん。最後の一人は、健康そうな体の、癖のある髪を持った人だ。

 此れは、僕がまだ白い世界で過ごしていた頃の話だけれど、お姉ちゃんは、この人達の事に着いて、色々と話してくれた。勿論、その時は、話している相手が誰であるのかを知らないでいたし、女の人なのかも不明だった。唯、お姉ちゃんの友達で、大事な相手だと言う事だけしか分からないでいた。

 『もしも貴方が外に出る事が出来たら、貴方もきっと、友達が出来るわ』

 何時だったのか。お姉ちゃんはそんな風に言ってくれた事が有る。

 『友達』。……正直に言えば、僕には良く分からない言葉だ。寝たきりになる前に、そんな関係の相手が居た様な気がしなくもない。けれど、両親の顔だって既に覚えていない、過去を失った僕にしてみれば、『友達』と言う存在は架空の産物でしか無かった。

 儚げな、朧気な、幼稚園か保育園に通っていた記憶はある。真っ白な容姿だったせいで、夏に出歩く事も、屋外プールで水泳をする事も出来なかった。そして、変わった容姿が原因で、虐められてもいた。けれども、其れが自分だと言う感覚が無いのだ。

 まるで、他人の記憶を覗き見ている感覚しか存在しない。他人の記憶を外側から眺め、知識として集積しているだけにしか、感じる事が出来ない。僕の中に有る、僕の物だと実感が出来る記憶は、お姉ちゃんと過ごした、あの白い世界の中だった。

 『……大丈夫。貴方は、未来も過去も、ちゃんと持っているから』

 僕の言葉に、お姉ちゃんはそう答えた。

 『貴方は忘れているだけ。貴方は――昔から、凄く利発で、賢い子だったから。きっと、何時か貴方は思い出すわ。……今の貴方はこんな状態だけれど、何時の日か。外に出て、世界を見れば。……きっと。――――私と違って、ね』

 だから、何も不安に成らなくて良いわ、と言ってくれた。『今』しか存在しない僕を、抱きしめてくれた。徐々に、徐々に、終盤になればなるほどに、お姉ちゃんと関わる時間が減って行ったけれども、それでも僕は不満を持つ事は無かったし、お姉ちゃんに心配を懸けるつもりも無かったのだ。

 お姉ちゃんの最後の言葉は、一体どんな意味だったのだろう。僕には解らない。その時のお姉ちゃんは、僕を見る瞳の中に、言い様の無い感情を浮かべていた。僕に対する、愛情の籠った優しい、けれども悲しい瞳では無かったと思う。むしろ、自分に対して何かを思っている様な、そんな表情だった。

 『あの二人はね、とても良い連中よ。……私に全幅の信頼を、絶大な信用を、寄せてくれる。勿論、私も同じ様に、同じだけの感情を返すつもり。でも、中々、難しくてね』

 その時の言葉は、意外と頭の中に残っている。僕は身体的な意味で動けない、動く事が出来ない立場だったが、お姉ちゃんはその立ち位置故に――動く事が難しい、そう語った。

 僕は、お姉ちゃんが一体何をしているのか、本当の所は知らなかった。そしてそもそも、“本当に看護婦さんなのかな?”と思った事も有る。けれど、僕は訊ねた事は無い。何か余計な事を言う事が不味い事だと、僕は幼心に理解していたし、其れにお姉ちゃんが何者で有っても、僕には関係が無かった。僕に愛情を持ってくれていたのだから、其れだけで良かったからだ。

 『――――昔から、自分の思う通りに行動したくても、行動出来ない事が多かった。だから、私は家を出たの。……自分の為に。自分自身で、自分の思う通りに行動して、結果を掴む為にね』

 そう言ったお姉ちゃんの眼は、とても遠い所を見ていた。何を見ていたのか。何を思っていたのか。その心の中を、結局、お姉ちゃんが僕に語ってくれる事は無かった。最後の最後の時。死んでいる人間に襲われて、死ぬ寸前に成りながらも彼らを全滅させて、眼を覚ました僕に言ってくれた事だけが、お姉ちゃんの数少ない、はっきりとした内心だった。

 だから、お姉ちゃんの真意は、僕は理解出来ない。

 けれども、お姉ちゃんは僕を愛してくれていたし、僕の為に動いてくれていた。お姉ちゃんの本音は見えないけれども、僕敵も曖昧だけれども、其れでも心の根元は、僕の為だった。それは、理屈や言葉で無く、感覚で理解が出来る。

 だから僕は、お姉ちゃんの言葉の通り、写真に映っていた鞠川静香という医者のお姉さんを、追いかけるのだ。

 それに、お姉ちゃんの言葉は覚えている。病院内での、起きて寝るを繰り返すだけの生活の中で、お姉ちゃんの会話だけは、耳と脳にしっかりと、多くが残っているのだ。忘れてしまった事よりも覚えている事の方が多い。

 お姉ちゃんは、女の友達二人の事を語った最後に、こう言ってくれた。






 『覚えておいてね、×××。……人を動かすのは、自分自身の意志と言う事を。己が望めば、世界はいくらでも形を変えると言う事を。形を変え、可能性を広げ、己の望む未来を引き寄せるのは、何時だって自分にしか出来ない事だと言う事を』






 その言葉の意味を本当に理解するには、今はまだ『彼』は幼すぎた。

 しかし、その言葉は―――――『今』“直接的な意味”として、形に成った。

 彼が無意識の内に、本能として望んだ行動が、発生したのだから。




     ●




 その刹那の瞬間を視認出来た人間は居なかった。

 昆虫を蛙や爬虫類が捕食する一瞬か、身を顰めた魚が餌に食いつく一瞬か。人間には不可能な、野生の生命体だからこそ可能な、その動き。人間が視認するには不可能な速度で行われた行動。それは。

 ただ、結果だけを、示した。

 しかし、その結果だけで、何が発生したのかは、誰もが理解が出来た。

 音とすれば、それはガショ、と言う音だったのだろう。新鮮な果実を丸ごと齧った時の様な音だ。鰐や鮫の様な、巨大な顎を持つ動物が、相手を噛み砕く様な音よりも、静かな音だ。もっと鋭利な刃物で、抵抗をモノともせずに噛み裂いた、あるいは切りながら砕いた、そんな表現が相応しい音だった。

 誰もが、息を呑む事しか出来なかった。

 己の眼を疑い、脳裏に絶望を浮かべ、恐怖に委縮する事しか出来なかった。




 有ったのは、顎だ。

 巨大な蛇か、古代の首長竜、それらから眼を省いた様な、顎だけが、有った。

 その顎は、そして繋げている首は、数メートルの長さに生え、宙に蠢いていた。




 音は、意外なほどに大きく響いた。その場で音を発する原因、即ち生きた人間の誰もが、音を発する事を止めていた。聞こえるのは、無線の先からの通信声と、動き続ける自動車のエンジン音位だ。泣き声すらも停止した。

 鋭利な音に《奴ら》の進路が変わる。全てではないが、有る程度の数が引き寄せられる。音の発生源へと向きを変えた。その先に居たのは、一体の巨漢だ。体長は二メートルを軽く越え、全身が斑に変色し、頭部に僅かな白髪を残した、異形の怪物。

 悪鬼の如き眼光。唇の無い口。発達し膨張した胴体からは、爪と骨が組み合わさった凶器を生やす腕と、ズボンの名残を留めた足。そして。




 顎を有する捕食器官が、怪物の背中から生えていた。




 顎の中に生え揃うのは、不揃いな、しかし鋭利な歯だった。顎の力もさることながら、対象を容易く咀嚼する為の開閉度に、いざとなったら丸呑みを可能にするだけの伸縮性を叶えた、食物摂取に関する利点を全て兼ね備えた口蓋が、其処には有った。

 それは、固まった人間達を尻目に、再度、餌を捕食する。先程と違い、優雅に、悠々と。まるで泳ぐ蛇の様に空中で身をくねらせた大蛇は、ガショ! っと、今度も勢い良く顎を閉じ、餌を口の中で切り裂き、ごくり、という音が響きそうな嚥下し、蠕動運動が開始され、怪物に吸収していく。

 同時に、怪物の背後でも。側面でも。一度に複数の音と共に、対象が捕獲され、齧り取られる。顎は一つでは無かった。両肩から生えるその数は、大小を合わせて十は超えていただろう。まるで別の腕を生やしたかのように、『彼』の肩から生まれ出ていた。




 足を失った一体は、よたよた、とよろめき、やがて重心を崩し、地面に倒れ伏した。千切れた足から血が流れ、周囲に池を造って行く。その赤黒い液体が周囲に広がる中、再度、口蓋が開く。

 捕食されたのは、《奴ら》だった。


 
 
 その光景は、余りにも。未だに現実にしがみ付く人間にとっても、既に異常な世界に変わってしまったと理解している筈の者にとっても、余りにもかけ離れ過ぎていた。

 死んだ死体が動いて人間を襲う。それ以上に、その死者を捕食する怪物がいる。それも、一目で怪物と理解出来る容貌の、余りにも有り得ない格好の、悪夢の様な形を取って。

 空を滑る様に飛んだ数本の触手は、今尚も動く《奴ら》に牙を付き立て、行動不能へ追い込んでいく。その速度は、空腹の人間の前に食事を置いた時のような勢いを感じさせる様に。

 同時に、一撃が致命傷で有るかの様に、食い千切るという行動で、確実に亡者の数を淘汰しながら。




 その中心に『追跡者』を置きながら。




 無論『彼』には人間を襲っている感覚は無い。異形の怪物にしてみれば、死んだ人間は殺しても良い物でしか無い。何よりも『死んだ人間』を、如何して『食してはいけない』のかを、知らなかった。

 普通の人間の思考ならば、そんな事は考える事が出来無い。いや、それ以前に、同種族を食す行為は、本能的に忌避すべき行為だと大抵の動物は知っている。無論、『彼』が人間の身ならば、その理屈は通用したのだろう。知識で知っていなくとも、本能的に避けていた、筈だった。

 しかし、今の『彼』は、“意識を除き”全てが人間とはかけ離れている。仮に、真っ当に育った人間が『この状態』に成っていたのならば、理性で肉体を操り、亡者への捕食行動を禁じる事が可能だったかもしれない。しかし、その意識すら、余りにも多くが欠如しすぎていた。

 そして何より、最も重要な点として――――その『肉体』が、亡者達を欲していた。

 故に、本能と衝動で変化したその異形の身は、最も己が必須とする対象を、捕獲した。

 《奴ら》が人間を襲う様に、『彼』の肉体は――――『彼』の意識がなんであれ、《奴ら》を餌と定めたのだ。




 巨体が震えた。その枯渇したエネルギーが、補給された事への、肉体の歓喜の躍動だった。

 干乾びたスポンジに水が吸収される様に、春の到来と共に草木が一斉に開花する様に、その身体の不調が解消され、生命体として万全の活動を再開する。


 「――――          !!」


 それは、背筋を凍らせる怪物の遠吠えだった。それは、喜びを示す喜悦の叫び声だった。それは、己が不調が改善された事への安堵の吐息だった。そして其れは、硬直した人間を動かす合図だった。




 ぐぢゃっ――! っと言う音と共に、己の体に群がる亡者を薙ぎ払った。

 一メートルを越えるだろう肩腕が、変形してその身体を突き破った骨と爪、その両者を武器として、取り囲む異形の怪物を、強引に、力任せに、振り抜き――吹っ飛ばす!

 まるで野球のボールをバットで引っ叩いた時の様に、その勢いに肉体が潰れ、首が外れ、精肉店の店頭に並ぶ挽肉の様に成りながら、巨体の半径一メートル内の《奴ら》が、飛び散った。

 最早、武器は両腕だけでは無い。その振う剛力を補う様に、細い触手が対象を排除して行く。

 怪物たちが宙を舞う。吹き飛ぶように待った死者は、そのまま“川の中に”落下する。

 完全に、戻っていた。病院の管理棟で生み出された時よりも、遥かに強く。遥かに恐ろしく。エネルギーを回復したその身体が、本来のポテンシャルを発揮し始めていた。

 この場が、仮に数時間前に居た――――あるいは、昨日に居た学園の様な場所だったのならば、周囲の亡者を一掃出来たに違いない。怪物を回復させるエネルギーこそが標的なのだから、《奴ら》が消滅しない限り、永遠と戦い続ける事が可能だった。




 だが、何よりも、この状態に置いて、『彼』にとって最悪だった事。

 それは。




 今の一連の行動が発生したのは、白昼の人混みで有った事。



 その場所は、警察が封鎖した橋の真正面で有った事。



 そして、その姿が、テレビカメラで生放映されていた事だった。










 銃声と悲鳴が響いた。
















 これ、表現的に、年齢制限必要かなあ……。

 『追跡者』に捕食能力と消化器官が追加されました。《奴ら》を倒し、不足したエネルギーを《奴ら》から摂取し、更に動く。食料の心配はありません。生命体の単体では最強。多分、人間が絶滅しても寿命(多分、数百年以上は確実)まで生きられます。でもこの話では何の意味も有りません。

 もう一つ。何回も言う様に、主人公に悪気は有りません。体が勝手に動いているだけです。

 皆様の予想通り、前話の体調不良は、空腹(という状態も理解出来てませんでしたが)によるエネルギー切れです。叫び声は「オナカガスイタ」でした。しかし、何より、エネルギー補給方法が、これ以上無く不味かった。一応、フォロー出来る理屈はあるんですが……。

 華麗なるテレビデビューを飾った主人公ですが、この先ますます酷い目に会うでしょう。最強の代価です。超無双シーンは次回か、次次回です。もう少しだけ耐えて下さい。

 さて、『お姉ちゃん』。やっと出た名前は、棟形鏡(むなかた・かがみ)と言います。この人は物語のキーパーソンです。色々と伏線も有るので、期待していてくれると嬉しいです。

 ではまた次回。

 (9月14日投稿)



[20613] 第六話 『In the night of the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/11/12 22:06
 何に対して、衝動を向けるのだろう。
 栄養補給の為の餌としてか。
 理解が及ばない相手を排除する為か。

 それとも、復讐者の名の通り――――目的等、存在しないのか。

 ネメシス。
 その意味を《復讐者》。

 暴君にして災害、暴風雨にして最強固体。
 そして、何よりも『追跡者』。


 その事実は、主人公らに、情報として襲い掛かった。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第六話 『In the night of the “Tyrant”』






 「どうだ、様子は?」

 「変わらないよ、小室。……あの怪物の影響で、封鎖が強引に解かれて、それきりだ」

 南リカの邸宅。川沿いのメゾネットの中で、二人の男子高校生が会話をしていた。片方は双眼鏡を手に大橋の様子を伺い、もう片方は室内からベランダ越しに外を見ている。
 小室孝と平野コータだ。ベランダの椅子の上に陣取り、ペットボトルに狙撃銃を携えている小太りの少年が平野コータ。室内から声を懸けたのが、小室孝。両者共に、壊滅した藤美学園の生き残りであり、そして共に生き残る為に協力し合うチームの一員だった。

 「女性陣は?」

 今度は、平野が訊ねた。既に最低限の一通り、すべき仕事は終え、ローテーションを組んで交代に休息を取る時間に成っている。今現在の見張りは男子二人で有り、残った四人の女性達は、宮本・高城ペアが睡眠時間、毒島・鞠川ペアが自由時間だ。

 「麗と高城は寝てるよ。……休息したくても出来る状態じゃない、って言ってたけれど、疲労が溜まってたんだな。鞠川先生はさっき見つけた手紙を読んで、毒島先輩は明日以降のお弁当を作ってるよ」

 「手紙。……ああ、家主の部屋で、銃と一緒に見つけたアレ?」

 「ああ。何でも先生の友達が残していったみたいだ。随分、真剣な顔で読んでて、話しかけられる状態じゃない。……平野。変化は無い、って言ったな」

 その言葉に、再度、彼は、ああ、と頷く。SR-25風アーマーライト狙撃銃が、肯定の言葉と共に揺れた。

 「……相変わらず、床主大橋は沈黙さ。幸か不幸か、封鎖は解かれたから、生者は通り抜ける事が可能だけど。――――誰も近寄ろうとしない。警察だって撤退して、今は御別橋方面で体勢を立て直してる。それも、相当におざなりに、ね」

 逃走した警察官も結構な数。拳銃を持った同僚と居れば、少しは安全だと考えた連中が中心みたい。――――そう付け加えて、彼は再度、双眼鏡を通して数百メートル先の、既に人気の無くなった大橋の方を見た。

 鉄筋コンクリートを基盤に、アスファルトで舗装された橋自体は、平穏だった二日前と変わる事無く、其処に存在している。だが、今、この大橋を渡る者は皆無だろう。そもそも渡れる状態では無いからだ。
 床主大橋は、廃墟と化している。
 橋が廃墟と化す、そんな表現は変だろう。しかし、その言葉が大橋の状態に相応しいのだ。新しかった筈の大橋は、まるで戦争の後の様相を示している。

 立ち上がる黒煙。鼻に着く揮発したガソリンの臭気。小さく燻る赤黒い炎は、死体を焼いている。風にたなびくその隙間に見えるのは、フロントガラスの割れた自動車だ。放射状に割れた硝子と、割られた窓。飛び散った破片に付着したのは、血痕。今尚も滴り落ちる血が、焦げたアスファルトに広がって池を造っている。衝突で折れた欄干。折った原因は、玉つき事故を起こした自動車で、重なった自動車の幾台かは、既に河川に落下して無残な残骸を晒している。

 そして、そのどれもに。全ての場所に。人間だった物の破片と、千切れた肉片。破けた衣服に、散乱した雑貨。そして、既に動かない死体を、見る事が出来た。《奴ら》なのか生者だったのか、判断は不可能だ。

 良く見れば、自動車の隙間は存在する。その間を縫って、大橋を横断する事は可能だろう。無論、車が通り抜けられるだけの感覚は無い。徒歩で、ならば多少苦労するだろうが、橋を通過する事は行える。事実、平野コータは既に何回か、大橋を通り抜ける集団を目撃していた。
 その顔は皆、一様に恐れ、必死に――全速力で通過していった。何かに追われている訳ではない。周囲に《奴ら》の姿が有る訳でもない。ただ、大橋を通過する事を、恐れている様に、駆け抜けて行った。

 そして、其れは間違いではない。

 「……アイツは」

 「さてね。少なくとも、視界には入って来ない。――――あのまま流されたとも思えない、けれど」

 二人の脳裏に、あの怪物の姿が蘇った。

 まるで地獄か冥界か、あるいは墓場から蘇ったかのような異形。人間の面影は、既に直立歩行と頭部の髪、そして申し訳程度の衣服だけにしか、見る事が出来なかった。目も、鼻も、口も、両腕も、両足も、胴体も、全てが別の存在にしか見えなかった巨大な化物。

 幼い子供が想像する、悪夢の中の怪物。凶暴で残虐な巨人。そのイメージに、亡者と獣と悪魔を組み合わせた様な、圧倒的なまでの存在感と生命体としての格を与えられた『暴君(タイラント)』。






 大橋の上に、その姿は無い。

 川面に、姿を消していた。






 南リカの家の周辺も、決して安全だった訳ではない。既に《奴ら》の姿は見えていたし、出入り口の周辺に存在した者達は、小室達一向の音を聞き付けて動き出していた。しかし、一先ずは休息が可能な――――堅牢な拠点が目の前に存在して、物怖じする彼らでは無かったのだ。

 より安全な場所。より安心して今後に備える事が出来る場所。その為に、彼らは、世界の終末が始まって初めて、自分達から《奴ら》に喧嘩を打った。目的の為に、全力で攻めに出た。其れを行えるほどに、彼らは変化をしていた。いや、元々己等が内に抱えていた物を、抑制されずに発散出来る様になった結果かも知れない。

 学園所有のマイクロバスで道路に屯していた《奴ら》へと突貫し、出入り口前に車体でバリケードを築く様に横付けし、既に《奴ら》と化していた近隣の住民を殲滅し、内部に保有していた全てを運び込んだ。バス自体は道路に止めっぱなしだが、いざとなったらいつでも発進が出来る様に、なっている。

 ともあれ、彼ら六人は、南リカ――――鞠川静香の親友にして、警察特殊部隊の隊員たる、彼女の家に辿り着き、一息を入れる事が出来た。

 情報を得ようとテレビを付けたのは、決して不自然な流れでは無かっただろう。学園で見た時と同じ様に、相変わらず世界各国、日本全国で崩壊が終了している事をより強く実感した。チャンネルを適当に変え、折よく、大橋の対岸から衛星中継をしている番組に接続した。勿論、その時は未だ、渋滞と徐々に増えて行く《奴ら》の数の増加を伝えているだけだ。

 『全員で呆けている訳にもいくまい。……休息と、今後の予定を行おう』

 全員が動きだしたのは、やはり、こんな時に話題を出す毒島冴子の言葉によってだった。やる事は山ほどあったのだ。バスから降ろした多くの物を再度、纏める事。周辺の警戒を絶やさないまま、ハマーの中に幾つかの物資を搭載しておく事。食事と風呂もそうだ。南リカの違法な私物を拝借する事に、今後の移動プランを経てる事。

 そんな事をしている間に、時間はあっという間に浪費された。一通りの目処が付き、全員が気を抜く事が出来る様になったのは邸宅到着から数時間は後の事だ。リビングに集合し、二時間ずつ交代で休憩をしようと言う事に成った時。

 床主大橋から、咆哮と、銃声と、絶叫を聞いた。
 今迄以上に大きな、まるで悪魔を眼にした時の様な悲鳴だった。




 そして、彼らは、点けっ放しにしていたテレビ画面から、事実を知る。

 即ち――――自分達が学園で盛大に轢き飛ばした怪物が、自分達のすぐ傍にまで迫って来ていたと言う事を。




     ●




 その瞬間。

 発生した事を一言で示すのならば、即ち“狂乱”だった。

 辛うじて維持されていた秩序と、安全権を求めて移動する人々と、襲い掛かる亡者達の全てが、一斉に、騒乱の渦に巻き込まれた。

 渦中に有る存在は、異形。
 既存のどんな生物よりも優れた、しかし常識外の巨体を持つ、怪物。

 逃げ惑う人々。悲鳴を上げる住人。それを追う亡者。動けぬ民衆。混乱を鎮める警察。鳴き声、怒声、悲鳴、僅かに聞こえる冷静な声をかき消し、焦燥へと引き摺りこんでいく。
 僅かに聞こえる発砲音は、恐怖に駆られた若い警官の物。隣に居た上司が直ぐに止めさせるが、放たれた銃弾は《奴ら》のみならず、一般民衆に被害を与えて行った。それが混乱に拍車を懸け、己を守る警察官に攻撃されたと言う事実のみが、さらなる暴動へ発展させる。

 ガシュ、ガショ、ガッシャ、と、肩口から伸びた食腕で食事を終えた蛇が、その身を休ませようとして。

 混乱が加速度的に広まり、人々が狂騒に駆られる中、泰山と聳える化物は。



 万全に戻った腕を、ふるった。



 片方の、辛うじて人間の原型を留めていた腕。
 肥大化し、類人猿よりも分厚い皮と、血で真っ黒に変色した爪と肌を宿す、片腕が、ただ、奮われる。



 そして、周囲を薙ぎ払った。



 精々が、半径一メートル。己の体が邪魔し、片側のみが効果範囲内。しかし。
 その空間内の全ては、排除されていた。
 排除か。削除か。消去か。何れの表現でも同じだろう。彼が奮った左腕の範囲内に有った全てが、強引に、強制的に、除かれていた。
 格闘ゲームで言う、ただの単純な一押し。一つのコマンドを叩くだけの単調な動き。腰回りから、子供が腕を回す様に、大きく、――――振り抜く。
 フルスイング。
 格好も何もない、ただの児戯にも似た、一撃。

 それだけで。

 轟、と空気が震え。
 軌道上に有った亡者は、そのまま叩き潰されて、宙を舞う。
 肉が潰れる音。骨が砕ける音。四肢が千切れる音。体液と血液が散乱し、肉体は原型を留めない。

 「――――――ォ」

 口が開いた。どんな獰猛な生物ですらも退ける炯々と光る眼光と、人間の名残を留めるだけの造形の中、唇を失った醜い口蓋が、開き、そして。

 「――――           !!」

 吼えた。オオ、と空気が震える。其れは鳴き声。獣の声。猛獣の咆哮。悪魔の、冥府の底から響く叫び。
 人間には出せぬ領域の重低音は、その一瞬で混乱を“止め”、そして動いたのは《奴ら》だけだった。

 背筋を奮わせ、凍り付き、恐怖で失神や失禁をする人間の中、連中だけが、動いた。
 隙を逃さず得物を手にする者がいる。喰われて絶望する者と、気を失って喰われた運の良い者と、その中を縫い、封鎖を抜けだした要領の良い人間と、落日の光景の中、生へと縋りつく人間がいる。

 そして、人間の意志を持たない者だけが、変わらない。

 再度。



 ――――グッシャアアァ! と、人間の形をした何かが、空を舞った。



 人間大の、人間の重量を持った物も、簡単に飛ぶのだと言う事実が、この時、鮮明に映った。
 屍の群れ。車を越え、倒れた人間を越え、固まる生者に牙を付き立て、しかし、より目立つ悪鬼へと、死者が殺到する。既に秩序など、何処かに消えていた。

 辛うじて保たれた社会行動を叩き潰し、『追跡者』は睥睨する。
 視界に入る物の多くは、色の違う人間。
 何とかして足掻いている人間は、必死な形相の、しかし、まだ問題の無い、人間。

 「    !!」

 何を、言ったのだろう。其れを知る者は居ない。唯一つ、確実だった事は。

 『彼』は、周囲が、邪魔だった。

 肩口から生えた捕食器官は役目を終えて消えている。満腹の体に、満ち足りた活力は発散場所を求めている。新たな既に体に戻され、彼が持つのは、両方の腕のみ。

 けれども、それで十分だった。
 たった二本の腕が有れば、これ以上無く、完膚なきまでに、役目を果たす事が出来る事を、彼は今迄の行動で学習していた。

 ギジリ、と。
 左手が、目の前に有る頭を掴み、其れをそのまま、“引っこ抜く”。
 顔を包みこむ掌が、握力で頭蓋を砕きながら、数十キロは有るだろう成人男性の体を持ち上げ。
 其れを武器として、周囲の《奴ら》へ叩きつける!

 ドグチャッ! と、音が響いた。

 壊れた人形の様な形で投げられた体。その頭部はドロリと何かを飛ばしながら他の一体の顔面を陥没させ、その胴体が周囲を巻き込み、絡まった脚と腕は行動を阻害させる。

 右腕が、延ばされた。

 有る場所は白く、有る場所は灰色く、そして有る場所はどす黒い、骨と爪と皮と肉の塊の、それ自体が兵器か切り札にも見える、その腕が、下がる。
 弓の弦が引き絞られる様に、肩周りが撓み、腕が絞られ、ただ純粋な、思い切り腕を振り抜くという行為のみが完遂されようと、下がった武器は。

 そして、放たれる。



 車が、舞った。



 重量弾が直撃してもこうはならないだろう音と共に。
 比喩では無い。殴られた先の自動車。何時変形したのか、腕を守る手甲の如き骨と、金属の如き剛腕と、唯の単純な馬鹿力で、拳の着弾先の自動車が、跳んだ。

 軋みながら持ちあがった車体は、非常識なほどに軽々と踊る。

 フロントガラスが放射状に割れ、細かく飛び散り、バンパーと前輪とホイールと扉と運転席を纏めて陥没させ、まるでクレーターの如き痕跡を残しながら、大重量が持ち上がり、虚空を舞う。
 それは、奇跡的に生者を殺める事無く、ヘッドランプを外縁として回りながら、地面に接触する事無く吹っ飛び、《奴ら》と、激突先の欄干を纏めて叩き潰しながら、橋を越える。
 金属製の欄干と、アスファルトと、車の表面塗装と、衝撃で飛び散った小さな破片を煌めかせながら。

 自動車は、河に堕ちた。
 流れる川へと、その身をダイブさせて行った。

 ズン、と腹に響く音と共に、衝撃が伝わる。
 数百キロを超える自動車すらも、唯の障害でしか無い。
 それも、貯めの入った腕の一振りで場所を譲る程度の物でしか無い。
 全てが、力づくで退かされる。
 僅か、たったの四発の腕の動きで、其れを周囲に知らしめた。



 理解が出来ないのは、音に惹かれる《奴ら》だけだった。



 今尚も、対処を取れるほどに優秀な人間がいた事は、幸か不幸か。

 一発。

 纏わり付く数十の亡者が、纏めて、まるで雑草でも引き抜かれるかの様に、根こそぎ排除される。

 一撃。

 大橋に有った、乗り捨てられた自動車が、転がって死者を潰して行く。

 一振り。

 恐慌に陥った生者を止める事は、封鎖していた警察官にも、到底、不可能だった。

 一奮い。

 逃亡する一般市民の中、逃げ惑う民の流れを押し留める事は、無駄でしかない事を、幾人かが悟る。

 蟻か、羽虫か、砂の小山か、塵芥か、仁王立ちのまま、唯、排除する。
 稼働する異質な肉体を、思う存分に、使用しながら。

 殴り、殴り、投げ飛ばし、振り払い、殴り、殴って、ふっ飛ばし、殴り、殴り、引き抜き、打ち払い、薙ぎ払い、殴って、殴って、殴って、殴りまくった。

 圧政を引く皇帝か、弾圧を繰り返す政府が、無辜の市民に重圧を懸ける様に。
 グシャッ! ドッキャッ! グギャ! と、断続する音の全てが、破壊を示していた。

 世が世でなければ、国家が着目するだろう程の、戦闘力を示しながら。
 大橋を征服するかのように、『暴君』は君臨した。



 ――そして。



 気が付けば、亡者は一掃されていた。
 ただ、先程までは存在した痕跡を、其処彼処に残すだけ。大橋へと来訪した《奴ら》と、音を聞き付けた《奴ら》と、占めて数百体。それらが、完膚なきまでに、排除されていた。
 遠くから戦いの喧騒を聞き付け、押し寄せる死者は確実にやってくるだろう。しかし、今は、何も見えない。もう数時間の猶予は有るに違いない。

 転がった自動車からガソリンが漏れているのか。ポタリ、と何処かで水が滴る音が響いた。まともな嗅覚を持っていれば、気分が悪くなる様な匂いだろう。死者の匂い。血の匂い。液体燃料の匂い。

 『彼』は別に、生者へ攻撃するつもりは無かった。ただし、其れを他者に理解させるには、彼の外見は恐ろしすぎ、彼の行動は恐怖でしか無く、そして被害に有った全てが《奴ら》だった事に気が付ける人間は、誰もいなかったという事実に尽きる。

 テレビカメラが写したのは、圧倒的な暴力を持って暴れる、災害と言う名の怪物でしかなかった。
 難を逃れる事に成功した人間が見たのは、異常を越えた異常の証明でしかなかった。



 ――――銃声が響く。



 遠くから様子を伺っていた、橋を封鎖していた警察官の一人が、『彼』へと発砲したのだ。
 既に撤退をしていたのだろう。大橋に見えるのは『彼』一人。生者も死者も、周囲には何もない。有るのは、車から漏れた液体と、所々で散乱しているパーツだけだ。横転した自動車は火花を散らし、優雅な橋の外観は無残な状態になっている。

 その中で屹立する化物へ、発砲した者がいたとして、如何して責められようか。

 無論、彼らとて十分に理解していただろう。銃を向け、攻撃を加えると言う事は、『彼』が自分達へとその腕を向ける可能性が有ると言う事を、判らなかった筈が無い。
 しかし先んじた。其れは、あのまま目の前の異形が何もせずに帰る筈が無い、というある意味当然の思考と、そして大橋の環境を十分に知った上での、発砲だった。

 断続的に響く銃声。遠く響く音は、遥かな《奴ら》を呼び寄せる餌になろうだろう。しかし、後の脅威よりも目先の危機。あの化物が自分たちへ向かってきたら、止める術がない以上――遠くからの銃撃で倒すと言う選択肢以外は、無かったのだ。

 勝算は、皆無では無かった。

 何故ならば、大橋は、普通ならば決して立ち入る事の出来ない、危険な状態に成っていたからだ。
 架橋には罅が走り、欄干は圧し折れ、地面には――――漏れだした多量のガソリンが、撒かれている。
 空気中に気化して、飽和する程に。






 銃弾は自動車に命中し、僅かな火花と共に、小さな炎を起こした。
 そして焔は、数キロ先まで響く、花火の様な大音量と共に、爆発を引き起こした。






 長く人間社会と常識を知らない『彼』が、ガソリンが危険な物だと知っている筈が無かった。
 ただ、立ち昇る紅蓮の炎に目を奪われ、同時に感じる猛烈な熱風に、身を屈めるだけだった。顔を覆い、太い腕で上半身を反射的に守る。

 (…………熱、イ!)

 その熱さを耐える事は、不可能ではなかったのだろう。しかし、持ち前の判断力は、耐えるよりも確実に安全な、炎から逃亡する方法を、その脳裏に生み出していた。
 すぐ傍。真下に、河が流れている。

 (……あの中、ナラ……!)

 炎と熱は届かないと、そう判断をした。
 そして、その通りに、行動した。



 そして人々は、衣服と体を燃やしながら、橋から落ちる大柄な怪物を見た。



 そうして。
 爆発が治まった時には、橋は、ただの建造物でしかなかった。戦場の跡地もかくやという状態だった。
 警察達も、彼が飛び降りた光景は目にしている。しかし、揚がって来る様子も無い。

 不審に思ったが、体勢を立て直す為にも怪物に拘泥していられなかった。大橋の拠点は撤退し、別の拠点を構成する必要が有った。新たなる亡者達の接近も直ぐだろう。

 其処から、大凡、一時間。
 未だにその姿は、確認されていない。
 安全な筈だ、という根拠のない結論に落ち着き、そのまま放っておかれている。
 誰もが、アレが死んだとは思っていなかったが、忘れたいと思っていた事も、事実だった。




 『彼』が炎と熱から逃亡する為に飛び込んだ行為で、間違いを上げるのならば。

 泳ぎ方を知らなかったという点に、尽きるだろうか。




     ●




 あの怪物が川面に消えて、もう随分と建つ。
 最初は不安だったが、暫くは大丈夫だろう、というのが、一同の見解だった。

 ふう、と息を吐く。

 空気が陰鬱だった。天気だけは快い。しかし、漂う空気は死臭と焦げた匂い。視界の中に映るのは気色の悪い死者の群れ。唯、人間として生きる事が、薄情な程に難しい。
 まるで落日の風景を見るかのようだ、と毒島冴子は思った。現代に築かれた空中庭園は崩れ落ち、全てを無価値へと変化させていく。この世界に置いて価値が有るのは、己を生かす道具と、己が生きる為の性根。そして己を生かしてくれる人間だ。

 例えばそれは、宮本麗にとっての小室孝の様な存在だ。最も頼りたい時に、己の責任を転嫁して背負ってくれる存在。己の弱さを抱え上げてくれる存在。己にとってのそんな相手は、未だ見つかっていないが、……しかし、彼女には、そんな存在は、いたらしい。
 何が書いてあるのだろうか、と思いながらも、冴子は何も言わずに黙っている。



 彼女の視界の中には、一心不乱に手紙を読む、鞠川静香の姿が有った。



 簡素な椅子の上で、只管に手紙を読んでいる。読み、視界をスクロールし、最下段まで行った所で、もう一度、冒頭に戻る。其れを既に、三、四回は繰り返している。何回も、まるで自分の読んでいる内容が間違いで欲しいと祈る様な態度で、縋る様な空気で、読んでいた。

 手紙は、この邸宅のダイニングテーブルの上に置かれていた。郵送された物では無い。恐らく、置手紙……それも、書き置きという形が一番近いだろう、手紙だった。流石に広告の裏紙と言う事は無かったが、時間の無い中で書き連ねられたのだろう文書は、適当な紙への記述だった。

 何が書いてあるのか、其れを伺い知る事は出来無い。しかしその内容は、決して良い物では無いのだろう。読み進める彼女の顔は険しく、口元を押さえる彼女の顔は歪んでいる。けれども、涙を見せる事すらしない。気丈な態度を保ったまま、彼女は手紙に目を通している。

 「……先生、そろそろ良いだろうか?」

 そろそろ、宮本・高木ペアと交代する時間だった。休息をする為の時間。生存能力を上げる為に、無理やりにでも体を解放し、弛緩させる事が必要だ。言いかえれば、義務だと言っても良い。
 天然な鞠川静香だが、その辺りを理解できていない筈も無く。

 「……ええ」

 そう言って、手紙を畳む。指先が震えている事を、見逃さない。

 「……何が書いて有ったか、尋ねない方が、良さそうだな」

 「――――良いわよ別に。読みたければ、読んでも。……友達からの、遺言、っていうだけの話だから」

 置手紙を“遺言”と言った鞠川静香だった。
 恐らく、この手紙を書いた相手が、既にこの世に居ない事も、きっと何度も己に言い聞かせたのだろう。

 静香に行った彼女の顔に、悲しみと涙が浮かんでいた事実を、冴子は敢えて無視した。






 「……先生も、かなり疲れてたみたいね」

 「無理ないわよ。ずっと運転しっぱなしだもの。――――音楽家やアスリートと一緒ね。集中して行動している最中は良くても、いざ横に成ると疲労が襲ってくる。それに、毒島さんも、口には出さなくても疲れているわ。……無理させても、悪いわよ」

 毒島冴子と鞠川静香。その二人と交代をした宮本麗と高城沙耶は、小声で会話をしながら大広間にいる。
 両者共に、食欲を満たしている。彼女達の机の上には、賞味期限と品質保持期限が近い食料が置かれていた。コンビニから奪った食事の中で、優先順位が低い物から消費しているのだ。惣菜パンに野菜ジュースという取り合わせが基本だった。

 それ以外にも、机の上に置かれている物が有る。

 手紙だ。

 鞠川静香の友人が、このメゾネットを訪れ、態々残して行ったという手紙。
 興味本位と、現実逃避と、好奇心と、情報収集を込めて、中身を彼女達は読んでいた。

 「……良いのよ、別に。本当に読まれたくないのならば、仕舞って自分の懐に隠すべきでしょう? 置いて行ったって事は、読んで欲しい、読んで慰めて欲しい、っていう、鞠川先生の一種の甘えよ。――――無理も無いけどね」

 そういった高城だったが、彼女の琴線に触れる情報は無かった。書き手の名前が引っ掛かった位だ。

 なんでも、この手紙を書いた棟形鏡と言う女性。看護師か医療関係者だったようで、頭も良かったのだろう。《奴ら》に関する考察には目を見張るし、文章の流れも(字は汚いが)彼女の聡明さが読みとれる物だった。

 しかし、目新しい情報は、無かった。

 書かれていたのは、彼女達でも把握している《奴ら》の特性と、自分が誰かを迎えに行く、云々という内容だ。騒動が始まって数時間もしない内に、此処まで《奴ら》を解析したならば、その頭脳は優秀だったに違いないが……恐らく、既に《奴ら》の仲間になっているだろう。意味は無い。

 そう考えていると、小室が部屋に入って来る。女性陣と交代するまで窓際でスタンバイしている平野に促され、小室も又、風呂に入って来たのだ。流石に女性陣の残り湯に体を浸ける勇気は無かったようで、シャワーで済ませたらしいが。

 「調子は?」

 「あ、うん。大丈夫。休めたから」

 「そうか。……何話してたんだ?」

 「別に、大したことじゃないわよ。……鞠川先生と、手紙の話。このメゾネットに隠れないで、自分の為に行動した人の話ね。……気持ちは、判るけれど」

 自分達が何かを言う事は出来ないだろう、と顔に浮かべた高城だった。
 自分達の両親を求めて放浪している身。安全には程遠く、メゾネットに隠れ続ける訳にもいかない。

 出入り口は乗ってきたバスでバリケードの様に封じて有る。ハンヴィーと手荷物に、当座の必需品は仕舞ってある。けれども、確実に生き延びれると、断言も出来ない。

 そんな中で、自分の大事な人間を探しに行く行動は、当然だと思う。
 死ぬ前に一目で良いから会いたい人間は、誰にでもいる物だ。
 三者三様に、今後の行動について、心内で覚悟を確かめた、その時。

 「あ、思い出した」

 ふと、宮本麗が言った。




     ●




 「棟形、って。――――確か、国家公安委員会の、一員だった人だ」

 お父さんの調べていた事件で、名前を聞いた事が有る、と付け加える。
 性格に言えば、幼かった彼女が勝手に父親の書斎に侵入して、其処に有った書類を盗み見ていたのだが、それは置いておこう。

 「公安……?」

 「公安警察とは違うわ。行政組織の事よ」

 小室の訝しむ声に、高城沙耶が口を挟んだ。

 「公安警察は、警察庁警備部の組織。対して国家公安委員会は、警察が正常に機能しているかを監視する、民間から発足された行政組織よ。公安警察は、各組織――例えば警察とか、検察とかからの優秀な人材の出向が多いんだけれど、国家公安委員会は違うの。どちらかと言えば、地方行政や政治に詳しい、地元の名士なんかが付く名誉職的な意味を持っているわね。――――私も思い出したわ」

 棟形、って珍しい苗字だし、と付け加える。
 少なくとも、床主の土地で『棟形』と言う名前から連想される人間は多くない筈だ。
 絶対数の少なさ以上に、有名だった事を、高城は思い出す。

 「ええと……確か、私達が小学生か、もっと小さい頃、ね。その当時の国家公安委員会が、棟形拝(むなかた・おがみ)っていう男だったのよ。先祖代々、っていう程に床主に住んでいた訳じゃないけれど、かなりの“やり手”で、関東地方の行政にも顔が効く、って話だったわ」

 父さんも、意気投合したらしいわ、と付け加える。
 明治期の右翼思想家を地で行く高城家とも仲良く成れる、という辺り、相当に立派な人間だったのだろう。

 「でも、その立派さが仇に成ったらしくてね。国家公安委員会として、真面目に動き過ぎた? って言うのかしら。紫藤の家を始め、周辺地域や地方政治からも厄介者扱いされて、最後は四面楚歌。仕方なく辞任したのよ。まあ、元々資産家だった事も有って、生活に困りはしなかったようだけれど……」

 でも、表舞台に出なくなった事は確かね、と才媛は言う。

 「――――それは判ったけど」

 小室が、口を挟んだ。

 「その棟形さんと、手紙と、どんな関係があるんだ?」

 「さあ? ……でも、全くの無関係でも無いと思うわよ。この手紙の人、棟形の名前に、名前が“鏡”でしょ? 父親が「拝(おがみ)」で、娘が「鏡(かがみ)」だったら、別に不思議じゃないし。直接の親子じゃなくても、親戚か関係者って線は有るわね」

 まあ、唯の偶然で、無関係な関係って線も十分に有るしね、――――と補足して、話しを纏める。

 手紙で結構に盛り上がってしまったが、重要な話では無いのだ。例えば、この『棟形』邸が今尚も存在して、其処に何か役に立つ道具が有る、と言うならば話は別だが、そんな情報は無い。
 この時点では、全ては推測と、其処から発展した社会システムの解説に過ぎないのだから。

 「さ、戻りましょ。今度は私達が見張りをするから。小室、アンタらも少し休みなさい。平野も呼んできて?」

 軽く手を叩き促す高城沙耶に、小室が納得し、そうだな、と動き始める。
 だから、つい、宮本麗は言いそびれてしまっていた。




 「……確か、棟形家は、事故で途絶えた、らしいよ? お父さんが調べてたから、なんか不審な点が有ったんじゃないかなあ。……交通事故だったと思う。運転手と、棟形夫妻は死亡。唯一残ったのは、後部座席で眠っていた、当時小学生にも成らない男の子で……。結局その子も、事故から一週間で体調を崩して、死んじゃったらしい、けれど」



 そんな、瑣末な、しかしもう一人の主人公にとっては、大切な情報を。


 もう時期、一日が終わる。
 新たな試練が、襲い来る夜へと。




     ●




 日が沈んでいく。

 地獄を映し出す太陽は、普段と何も変わる事無く、当然の様に水平線へ姿を隠そうとしていた。
 夜の帳に覆われる世界は、視界を妨げ、地獄を覆い隠す。
 いや、闇夜の中で、より酷い地獄が展開されるだけなのかも知れない。

 そんな、夕刻。
 床主大橋から、十数キロ程離れた、下流の岸辺で。



 「――――着イ、タ」



 ザバア、と水音を立てて。
 『彼』はまるで漂着物の様に、大地へと帰還した。

 その身から、無数の水を滴らせる格好は、御世辞にも水中に適応した生物には見えなかった。……いや、今でも適応出来ているとは言い難い。流される間、辛うじて立ち泳ぎを習得した程度である。

 焼け焦げた衣服が体に張り付き、肌の上の治癒した火傷の後は、一層に醜悪さを齎している。
 顔面の皮は、まだ再生途中なのだろうか。筋肉が露出し、血管が走っている状態。最新鋭のホラーハウスでもお目に掛かれない気色悪さが、其処にはある。

 ザバ、と水を書き分け、歩き難そうに、彼は両足を大地に付ける。

 かなりの距離を流された。
 随分と、遠い。
 日が沈みかける今、走っても明るい内に大橋まで戻れるだろうか?

 ぶるり、と大きく巨体が震え、冷えた体を温めようとシバリングが始まる。
 その猛烈な振動は、衣服の水滴を蒸気として立ち上らせ、体の稼働を始める。



 そうして、再度、自分の追うべき相手の為に、動き始めた。

 目標に到達するのは、夜半の事に、違いない。














 主人公、生物的にチートです。飽く迄も生物学的に超優秀なだけですが、多分、地球上の生物の、肉体を模倣すると言う点で右に出る者はいません。

 感想でご指摘にあった通り、実は赤外線も視認可能です。瞳で感知出来るのは短赤外線で、暗視スコープに活用可能。進化の理由は、精神年齢故に暗がりを怖がっていたので、其れを補う為です。

 熱源探知で死者と生者を見分けていたのは、発達途中のピット器官の方ですね。確実に体の一部なったのは食事の際。盲目の蛇(空腹時に自動で出現します)に併用され、餌をより迅速に見分ける事が可能に成りました。わお。

 ”泳げない“を始め、弱点はまだまだありますが、其れは今後の成長に期待して下さい。

 次回は、原作主人公と主人公との、真夜中の超大暴れです。ありすも出るよ!

 ではまた!

 (11月12日 投稿)



[20613] 第七話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 1/2』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/11/16 01:18
 そう言えば、暗い真夜中に泣いていた時に。
 お姉ちゃんは、手を差し伸べて、助けてくれた。
 滅多に態度の変わらない、けれどもほんの時々怯える僕を、優しく慰めてくれた。
 あの時の温かみは、もう存在しないのだ。


 ――――昔の親と、同じ様に。


 水面の底で、その身を流れに休ませながら、微かに『彼』は、そんな事を思った。
 記憶に残ってもいない、遥か昔の、残滓だった。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第七話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 1/2』






 空気を震わせて進軍する、単体の兵器が有った。


 ――――夜は、嫌だ。

 何もない、何も見えない事を、知ってしまいそうになる。

 ――――闇も、嫌いだ。

 その中に、自分を誘いこんで、逃がさない何かが、住んでいると考えてしまう。
 誰しも有るだろう。真夜中に目を覚まし、寂しさと不安感から温もりを求めた経験が。
 図体に似合わぬ初な幼心を、彼は抱えている。


 轟、と空気が動く。その巨体に空気が押され、暴風が通り過ぎるかのように。
 嵐よりも小さく、破壊力では圧倒的な災害が、直進している。
 人工的では無い、何処か獣臭い有機的な動き。
 濡れた衣服と肌は、体内放射と振動で蒸気を立ち昇らせている。
 牙の向かれた口から漏れる吐息は、白く。
 暗闇に輝く、唯光る瞳は赤く。
 漆黒の怪物は、目的を求め、唯、走る。


 分かった事が有る。
 例えば、効率よく走る為には、右手と右足は同時に出さない方が良い。両足の動きと連動させると同時に、しかし前に出した足の反動を打ち消す様に、反対側の腕を奮うと、走り易いという事実だ。

 まるで亡霊か、悪魔の様に、落日の川沿いを動く影が有る。
 人間には有り得ない巨体を有する、その怪物は、人間の形をしているだけの、何かとしか言いようのない存在だった。
 ザシュ、と巨体の重量で地面が僅かに経込み、その身体を支える様な、巨木の根の様な足の指が、地面に食い込み、足跡を刻んでいく。
 太い、超重量を支える脚が、間接と筋肉と共に前に出され、怪物を大きく前進させていく。
 その速度は、人間を軽く超えていた。


 夜が怖い。闇が怖い。気持ち悪い生物が怖い。
 乱暴はいけない。人間を傷つけてはいけない。約束は守らなくてはいけない。
 漠然とした思いと、幼いが故に純粋な心が、存在する。
 何も知らず、余りに単純すぎるが故の――――行動理念。
 人格は善良だった。しかし、経験と常識と知識が、足らな過ぎた。
 故に、その思いが、他者に通じる事は、なかった。


 全力で走ってはいけない。曲がれない自分がそんな事をすれば、止まれなく成ってしまうから。
 歩いてもいけない。闇夜の中で相手を追って動くと、昨晩と同じ二の轍を踏む事に成ってしまう。
 方向を変える為には体を前に倒し過ぎる事に気を付け、重心のバランスを上手く取れば良い。曲がる方向に体を倒し、遠心力を使う。それでも大変ならば、腕で無理やりに反対側を弾く。
 速度は落ちるが、直進に限定されない動きが出来る。
 完成されたフォームには程遠いが、二足歩行の生物の走り方を、『彼』は自然と習得していた。
 慣性に引っ張られながらも、唯の猪突猛進では無い、滑らかさが其処には有った。

 (……さっき、ハ)

 大橋の近くで、強い臭いを感じ取っていた。
 あの大橋から、其れほど遠くない所に、自分の会うべき相手がいる事を、覚っていた。
 流されてしまった今、戻るまでにどれ程に時間が懸かるだろう。
 日が暮れ、視界が効かなくなる前に、何とかして元の場所に戻ろうとする。

 (早ク)

 急がなければ。急がなければいけない。
 お姉ちゃんの言葉の通り、言われた通り、鞠川静香に出会わなければいけない。
 如何して、合わなければいけないのか、理由は知らない。
 けれども、自分を愛してくれた彼女の頼みならば、それで十分だ。

 (……早ク!)

 何故、急ぐのかも、曖昧だった。
 発達していない感情の、子供だったが故に――――何も考えず、そう行動する。
 その裏に有る理由を、考える事は無い。
 しかし、そう思い、動くだけで――――その身は、より怪物へと、進化する。

 全力では無い。僅かに速度を抑えたまま、『彼』は走る。

 走る。確かに、行動とすれば「走る」だったのだろう。しかし、其れが人間に見えたかと言えば、違う。
 解き放たれた砲弾が飛ぶように。戦車か重機械が進む様に。人間の範囲で一番近い表現を、アメフトかラグビー選手の疾走だろうか。しかし、その身は低く、獣や大型爬虫類の疾走方に近付き始めていた。

 得物を捉える為に獲得された幾体を持つ、俊敏性と攻撃力に優れた化物。
 口の中から覗く牙や舌は、肩口からの捕食器官は、まるでそれ自体が一種の生き物。
 そして、無限の生命力を有する暴君。

 生物災害をモチーフにした、彼の有名なサバイバルホラーゲームならば、きっと、こう呼称されるだろう。

 アレは、ハンターにしてリッカーにしてタイラントだった、と。




 太陽の落ちた、死の蔓延する街へと、暴君は乱入する。




     ●




 終わりから二日目の夜が、訪れる。

 大橋の喧騒は既になく、昼に放送をしていたテレビクルーも姿を消していた。たった一体の異形の出現で、辛うじて維持されていた秩序は雪崩のように消滅し、唯、鈍く光る街灯が並んでいる。
 明滅する光の下には、戦場の如き光景と、その合間合間で蠢く死人が有るだけだ。

 隣の御別橋に集っている警察達も、既に集団を維持したまま自衛行為をする事で精一杯なのだろう。装甲車両とパトカーでバリケードを築き、迫りくる《奴ら》へと対処しているだけだ。一般人に被害も出ない、もとい一般人を気にする余裕も無い。
 時折、必死に亡者から逃げていた市民が、命辛々に助けを求め、内部で介抱される事も有るが、多くを助ける余裕はない筈だった。何れ数の暴力に押し切られるだろうし、守るにも人手がいる。そして、対処する為の絶対数が、少なすぎた。

 秩序は、一回崩壊すると、脆い。
 再度構築する為には、何もかもが、足りない。

 日本全国に点在する警官や自衛隊員が優秀であり、練度が高くとも――――命令系統が混線し、各個撃破されては真価を発揮する事は難しいのだ。大きめの地方都市である床主でもこの惨状。大都会でどんな状況に成っているのか、それを想像する事は容易かった。

 「なあ小室。『地獄の黙示録』、って映画、知ってる?」

 「――――いや。名前をどっかで耳にした位だよ。どんな話なんだ?」

 遠くに小さく見える警察官達を、双眼鏡で覗いた平野コータは、隣にいる小室孝に聞いた。
 その双眼鏡に映る光景は、まさに人間の欠点を示している。

 「ベトナム戦争期を舞台にした話でね。陸軍兵士の主人公は、数多くの功績を立てた軍人だった。彼は妻と離婚して、戦場に戻って来るんだけど、ベトナムで上層部から命令を受けるんだ。軍の命令を破って暴走する、グリーンベレーの大佐を暗殺せよ、って。大佐はカンボジアの奥地に潜んでいる。主人公は大佐の思想を分析しながらも、目的地へと大河を遡行して行く」

 そして、主人公は地獄を見るんだ、と平野は言った。

 「彼が見た物は、狂気だった。戦争によって発生した狂気。集落を己の為にヘリで攻撃する司令官を見る。指揮官不在の状態で、只管に任務を続行に縋りつく兵士を見る。同行した部下達は麻薬に溺れて正気を失っていく。そして主人公も、心の平衡を徐々に崩して行く……」

 ――――現状に似ているだろう? と、平野は言った。

 己の為に周囲を厭わない人々。命令を実行するしか出来ない警察。そして環境に順応し始めた自分達。
 心の均衡こそ崩れていないが、狂気に蝕まれていると否定する事は出来ない。

 「心の均衡を崩した人間は、如何なると思う?」

 「――――如何なる、って」

 暫し考えて、小室は口を開いた。

 「……何かに縋りつく、のか?」

 彼の脳裏には、別に一般に限った話では無い結論が浮かんだ。
 何せ、彼自身が体験しているのだ。親友の死後、自分と共に居る事に過剰に反応し始めている、宮本麗の事を。……それを邪魔だとは、思っていなかったが。

 「正解だよ。……見てみると良い。人間っていう生き物の厄介さが、良く分かる」

 遠く、隣橋の光を目印に。
 ほら、と言って渡された双眼鏡を覗くと、其処に見えたのは――――。

 「……看板と、横断幕?」

 看板と、プラカード。そして横断幕。其れを抱える人々がいた。彼らは何かに取り憑かれた様に一団と成って、警官達へと向かっていく。警察は警告を発しているが、其れを無視しながらだ。
 遠く、何を言っているのかは届かないが、手に持っている品々には、一様に同じ言葉が書かれていた。小さく、遠目なので苦労するが、読む事は出来る。即ち。

 「……政府の陰謀と、殺人病患者の人権侵害を許すな……? ……――馬鹿か、あいつ等は!」

 冷静さを失って思わず怒鳴った声に、道路向こうの《奴ら》が微妙に反応した。慌てて小室は口を押さえて窓から距離を取るが、内心の憤りは消えない。

 「っと。……平野、あいつら!」

 「そ。この現象が政府や国家の陰謀だー、って騒いでる。典型的な左翼的思想って奴。別に右翼も左翼も差別する気はないけどさ。何時でも何処でも居るんだよね、あーゆう設定マニア」

 「……正気かよ」

 吐き出す様に、孝は其れだけを言う。

 「正気さ。正気だからこそ“ああ“してる。彼らにとってね、この事件は「解決されるべき事件」なんだよ。世界各国を見てもそうだけど、この事件は人為的な物じゃない。人為的じゃないってことは、つまり――――例え巻き込まれたとしても、自分は一切悪くない、ってことさ。自分は悪くない。自分に責任はない。悪いのは政府だ。この事件に対処が出来ない国家だ。だから自分達には、解決を願う権利が有る……」

 「……言うだけならば自由で、国家は主張を聞く義務が有るから、ってか」

 「そ。自分達は何も出来ないくせに、何かをしようと言う努力もしない。ただ権利を望むだけさ。何かを望むと、何かを自分から得ようと行動すると――今を、壊してしまう。現実を見ないで、甘い逃避の夢の中に浸っていられる。彼らの頭の中には、現実を認識するっていう感覚はない。自分を誤魔化し、頼ってるだけ。――――別に平和な時ならば、それでも良いんだけどね」

 それが出来る状況にない事を理解できないから、本当に厄介なんだよ、と付け加える。

 左翼的思想の中でも、今、ああして騒ぐのはかなり極端な連中で、まともな感性を持つ者は逃げるか籠城かを選んでいる筈、とも思ってもいるが、それでも彼らに嫌悪を感じざるを得ない。
 小室が取り落とした双眼鏡を拾うと、平野は再度、御別橋を見た。

 ご丁寧な事にシュプレヒコールの団体は、拡声器で騒ぎたてていた。
 警察官達がなるべく騒音を減らそうと努力をしながらも、逃亡して来た市民を守り、《奴ら》と今後へ対処をしているというのに、親切な事だった。徐々に《奴ら》の数が増え始めた事に、警官は諸悪の根源を抑える事にしたのだろう。
 視界の中、一人の警察官が彼らへと動いていき、そして、徐に腰の拳銃を引き抜き、そのまま――――。

 ――――テレビ放映がされていなかった事が、幸いだろうか。

 遠く銃声が響いた事を、目では無く耳で情報として入手して、平野は呟いた。

 「……狂気、か」

 電灯の消えた部屋の中、思う。

 誰も彼も変に成っている。自分もメゾネットの面々も、多分、同じだ。適応している事こそが異常の証明みたいなものだろう。

 人間を捨てる事は簡単で、人間で居続ける事は難しい。
 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 非日常は理性を狂わせる。
 非常識は正気を失わせる。

 それは正しい。けれども、全てが正しい訳ではない。

 手に馴染むアーマーライト狙撃銃と、腰に指した自作の釘打ち機。これを使用する事に。そして人間に向ける事に、困惑を覚えなくなっている。それは、耐性や、慣れではないだろう。
 心に抱える、心の中で封じていた枷が外れた証明だ。

 平野コータだけでは無い。こんな緊急事態だからこそ、個人の中に秘めたる資質は性癖が開花し、発揮される。多かれ少なかれ誰もが有している仮面が、外れているのだ。

 かつて存在した日常など、既に価値はない。
 普通など、何の意味も無い。

 そんな詰まらない事は、世界が平和に成って初めて考えられる。
 穏やかな春の風の中に、粘りつく様な冥府の声と、血に塗れた死臭が混ざっている。必死に逃げる生者が、また一人眼下で喰われていた。彼を見捨てた事を、心は納得している。助ける事の難しさを。
 理屈を自分に言い聞かせて、納得させない限り、自分が死ぬ。

 だが、其れは一歩間違えれば、獣だ。自分以外の全てを見捨てても、尚も生き延びる事に全力を尽くす行動は、生命体としては正しくても、人格を持つ人間の所業からは、外れている。
 利口に生きる事と賢く生きる事と、人間らしく生きる事は、全く別の問題だ。

 自分が何時まで、獣では無い、人間として生きていけるのか。
 誰にも、――――自分にも、分かりはしない。

 「平野」

 「ん?」

 「集合と打ち合わせの時間だ」




     ●




 闇が地獄を覆っている。

 太陽の沈んだ世界の中で、息をしない者の数が、圧倒的に多かった。
 何処からか手に入れた猟銃を撃つ青年がいる。放たれた散弾は何体かを倒し、しかし響く音でそれ以上に誘き寄せ、そのまま中に引き摺りこまれた。
 家の中に逃げ込もうとする人間がいる。だが、日が沈む前に避難できなかった時点で、殆どの命運は尽きていた。生者は家に閉じこもり、死者は外の哀れな得物を追う。

 それは、世界中で起きる、今と成っては有り触れた光景だった。

 各国政府の中枢が辛うじて難を逃れる中、民衆の被害は止まらない。
 あらゆる宗教組織が、この事件を取り上げ、話題に乗せ――――そして議論を呼び起こし、結論が出ないまま、沈黙へと陥って行く。

 希望よりも絶望が支配する世界。
 生者よりも死者が蔓延する世界。
 人間よりも人外が跋扈する世界。

 床主の物語も、所詮は有り触れた一幕に過ぎない。

 だが、それでも。
 それでも、尚、諦めない人間は居る。

 人間を止める事が遥かに簡単な世界で、それでも人間であり続けようとする者達がいる。




 街の中、遠く、音を生む三つの対象が存在した。

 吠えながら駆ける子犬と。
 標的を狙う『追跡者』と。
 娘の手を引く、一人の父親と。

 物語は、川沿いのメゾネットへと集束していく。




     ●




 「出発の準備は終わっているわ。荷物の入れ替えと、ハンヴィーへの積み込みは完了。マイクロバスは――――便利だけど、置いて行くしか無いわね。運転出来る人もいないし。……バリケードの役目を果たしてくれているだけ、マシと思いましょ」

 そう言って、メゾネットの入口を見る高城沙耶。其処には、入口を完璧に塞いでいるマイクロバスが有った。斜めの門に直角に成る様に、道路に斜めに駐車されている。
 ハンヴィーの出入り口も塞ぐ事の無い向きだが、道路を完全に封じている訳では無い。丁度《奴ら》が“一人ずつ”通る隙間だけを空けて有る。停滞を生み出す訳でもなく、集団に襲われる訳でもない形だ。

 「今夜は待機。明日、太陽が昇ったら、各個人の家族の探索へ向かう。最初は一番近い私の家。次が、小室と宮本の家。小室、それで如何?」

 「ああ。其処は、決定で良いと思う」

 暗い室内に、六人が揃っている。そして、明日への確認をしている。指針に決定を出すのは、小室孝だ。彼に方針決定を任せ、許可を求める事は、最早、この場の他の五人にとっての不文律に成りつつあった。

 信頼と暴走への恐怖があったのだろう。
 個人では死ぬかもしれないが、六人で協力すれば助かるかもしれないという、微かな期待と共に。

 睡眠時間を多めにとった鞠川静香の意識は覚醒しているし、宮本麗の体回りには警棒を初め幾つもの武装が纏っている。毒島冴子は木刀に加えて包丁や鐇等を装備しているし、高城沙耶も銃を保持済み。平野コータに至っては銃が己の手足の様だった。

 一通りの銃の扱い方を、小室、宮本、高城の三人は平野から習っていた。空き時間を利用しての講習で、撃ち方を初め、マガジン交換等、練習可能な事は練習をしてある。無論、本当に発砲してはいない。しかし、手元に重火器が有り、扱える武器になっているという事実が有ると無いとでは、安心感が違う。

 日が沈んでから、やっと数時間が経過している。日が昇るまで、あと六時間は必要だろう。昨晩もそうだが、太陽が沈んでいる時間が、妙に長く感じるのだ。

 「……それで、一つ忠告だけれど」

 高城沙耶は、表向きは顔色を変えずに。




 「部外者は見捨てる。……良いわね?」




 冷酷とも言える言葉を告げた。

 部屋の中に、沈黙が下りる。
 こうして灯りを絶っている事実も又、その行動の一環だった。

 灯りは生者を呼び寄せ、生者は亡者を呼び寄せる。事実、この部屋の蛍光に助けを求め、その過程で喰われたのであろう人間もいた。其れだけ必死だったのだ。
 死から遠くへ逃げようと、延ばした手を掴んだ相手は死神だった。その絶望と、苦痛に覆われて群がられて消えて行った人間の目が、未だに脳裏から離れない。
 日が沈み、完全なる闇に覆われる前に気が付いて電灯を落としたが、仮に煌々と灯されていた場合、この家の周りには生者と亡者が大挙して押し寄せていたのだろう。

 そうすれば、間違いなく、この部屋の六人は死んでいた。
 そして、外に犇めく数多の《奴ら》の仲間入りを果たしていただろう。

 現実は非常で、仮定は無意味だった。

 「……他と、同じ様に、か」

 「――――そうよ」

 そう、表情を消したまま、彼女は頷いた。

 「今、生きてる連中は、皆、そうしてるのよ」

 語る彼女自身も、決して十全に納得している訳ではないだろう。逆行の眼鏡と無表情がその証拠だ。しかし、何よりも其れをするべきだと、彼女は理解しているのだ。

 頑丈に扉を施錠し、窓を塞いで家の中で震える者がいる。
 闇夜の中、心許ない武器で、人気のない方へと逃げ続ける者がいる。

 日が暮れた今、どちらが賢いのかを、敢えて比較するまでも無いだろう。

 「我々に、……全てを救う手など無いのだよ、小室君」

 答えを出せない彼に、教える様に毒島冴子が言った。

 「私とて現状を好んではいない。だが、現実は変えられんのだ。この地獄と、それでも生きる為の気概を持ち続ける事を、我々は己に化さねばならん」

 腕を組み、壁に寄りかかる格好の彼女は、勇ましい。腰には木刀。何処からか拝借して来たらしい蛮刀と、包丁やナイフを、重心に偏りが出ないように括りつけている。毅然とした態度も、その冷静さも、この地獄でも生き延びれるであろう風格が有った。しかし、彼女も、気楽では無かった。

 「小室君。君は確かに、昨日と今日の二日間。厳しくとも男らしく私達を引っ張ってきた。其れは間違いが無いし、皆、君に感謝をしている。しかし、今は其れだけでは生き延びる事が出来ないのだ」

 そうだろう、と言い聞かせる様な口調だった。
 無論、小室とて、十二分に理解しているのだ。だが、理解していても歯痒かった。

 学校での態度が良いとは言えなかった小室孝だが、元来の性格は決して悪くない。優先順位を把握し、実行に移す行動力は、チームの中で最も優れていると言っても良いかもしれない。そして、思春期に特有の青さと、必死さと、そして熱を持っている。
 だが、だからこそ、目の前に居て何も出来ない事が、辛かった。

 冷酷な現実に対して、無暗に動く事が出来ない。

 握った拳を奮う事が出来ない事が、苦しかった。
 己の中で、現実を噛み締める事しか出来なかった。
 そして、現実を非情に割り切るには、彼は、若すぎたのだ。

 「……くそっ!」

 小さく、誰に言った訳でもない悪態が、部屋の中に消える。




 遠くで、犬が啼いていた。




     ●




 「      」

 獣よりも深い、亡者よりも強い、呻き声がした。

 異形の悪魔が、遥々と距離を越え、戻ってきたのだ。

 既存というよりも、人工と言った方が納得出来るだろう怪物。
 人知を越えた想像外の、しかし人間にも似た生命体。
 しかし、確かに意志を持っていた『彼』。

 その身体を人目から隠しながら、周囲を睥睨し、そして、視界に入れた。
 己が追うべき、対象を。
 写真の中で見た、その顔に一致する存在を。

 空気を奮わせる、聞く者の心を縛る様な低い声で。
 呟く様に、確かに、名前を呼んだ。




 「――――ア、あr……ハ !  a、ア、――――ォ――――! ――――ア、ァ、リィ……、スゥ……ッ!」




     ●




 「パパ。ママは……?」

 涙目で、自分を見上げる娘の手を引きながら、地獄を駆け抜ける。音を立てない為の小走りだが、相手の脚は遅かった。より人混みの多い橋へと引き付けられているからか、他の理由が有るからか、亡者の数が少ない道路を選び、動いて行く。
 小さな手を、今度こそは離さない様に、しっかりと握りしめながら。

 「ママは、後で会える。――――さ、こっちだ」

 ――――嘘だ。自分でもよく知っている。自分の目の前で死者達の群れの中に消え、そして同じ様に動きだした事を覚えている。脳裏に焼き付いて離れない。余りにも残酷なその光景を、娘に見せない様に、抱え上げ、後ろを振り返らずに逃げるだけで、精一杯だった。

 逃げながら、覚った。
 昨日までの日常は、もはや壊れてしまったのだと言う事を。

 新聞記者として海外へ渡った時に経験した、突如に発生したクーデターや、突発的な凶悪犯罪とは違う、世界という枠組みそのものが、壊れ始めている事を、覚らざるを得なかった。

 ――――私は、一人では無いのだ。

 言い聞かせる。
 自分一人ならば、呆然とするだけだったかもしれない。けれども、自分には娘が一緒に居た。偶然に巡り合えた、手をもう一度取る事が出来た、愛する娘だ。彼女の為にも、父親の自分が呆けている訳に行かなかったのだ。

 逃走の経路で、携帯に連絡が入っていた。仲の良かった隣人からだった。外資系企業に勤める彼は、自分と同じ位の妻と、娘・ありすと同じ年の娘を有していた。だから、気が有ったのだ。彼ら家族は、田舎の実家へと向かい、そのまま人気の少ない場所で籠城する事を選んだらしい。幸運を祈る、と言う文面が最後だった。
 もう二日も前のメールだった。たった二日なのに、酷く、時間が長く感じられた。

 ――――私達も、生きなければ。

 心に誓うが、言うほど簡単では無かった。

 安全な場所を確保しようにも、娘が共にいる身では、簡単な事では無かった。僅かな生存者は皆、扉を閉ざし、余所を当たってくれと追い返される。娘だけでも、と頼んでも、答えが変わる事は無かった。

 何処かに隠れようにも、数少ない安全そうな場所は、既に別集団に占拠されていた。危険を冒して内部に入り込む事も、幼子の手を引く自分では出来なかったのだ。

 自宅は窓が多く籠城には不向きだった。会社は既に死者の巣窟だった。渋滞と混乱で、遠くへ逃げる事も不可能だった。八方塞がり。それでも、必死に行動した。
 父親として、それが娘を守る義務だった。

 しかし、既に太陽が落ちて、二時間は経っている。

 今日の夕刻から、安全な場所を求め彷徨って、三時間。小学生の割には運動神経の良い娘でも、流石に疲労の色が濃い。時々背負ってもいるが、限界は近いだろう。

 ――――何処か。

 安全な場所は、無いだろうか。そう思って、細い路地を動き続ける。虱潰しに行動するしか、残された手段はない。車が有ればよかったのだが、既に手遅れだった。戻っても死ぬだけだ。

 諦めた時が、終わりだ。
 心を必死に振い立たせ、己に鞭を打つ。

 ――――何処か、無いか……!

 そう思って、橋方面に脚を向けた時だ。

 少し離れた道路の途中に、マイクロバスが斜めに止まっている光景を見た。停止されたバスは、誰かが乗っていた証拠だろう。巧みに道路を――――それも、この辺りの路地では一番大きな道路を塞ぐバスは、死者たちの流入を防いでいる。

 ――――近くに。

 人がいる。それも、かなり賢い人間だろう。バスが有ると言う事は、人数も一人では無い筈だ。成人男性の自分は無理でも、娘ならば助けてくれるかもしれない。今迄とは違う、自分でもよく分からない確信を覚えて、彼はそちらに脚を向けて。



 「   ァ   ――――s  !!」



 彼は、声を聞いた。
 絶望を孕んだ、悪鬼の如き、声だった。




     ●




 懐の中に有った写真は二枚。

 大きめの財布と共に仕舞われた、棟形鏡と言う女性の写真。
 可愛らしい写真入れの中に有る、死した少女が、親友と撮った写真だ。

 狩人が、得物を決して逃さぬように。
 『彼』も又、追うべき相手を、忘れる事はない。




     ●




 豪奢な門と頑丈な扉を持つ家を叩いた時だ。

 それは。

 唐突に。




 “其処”に、現れた。




 その刹那――――思考が麻痺をして、体が凍りついた。それは、現実を受け止めていた筈の、希里章であっても、同じだった。娘を周囲から庇う事すらも、思考の外に追い出された。

 異形がいた。
 何処から出現したのかも分からないほど、突然に。

 怪物がいた。
 其れなりに背の高い自分が見上げる程の、数多い亡者達を寄せ集めた様な肉体の。

 大鬼がいた。
 古来より人間が恐れた災害そのものが、顕現したかのようだった。

 悪魔がいた。
 人類を滅ぼすかのような様相の、御伽噺にも登場しない生々しすぎるモノが。

 今日の夕暮れ時まで。身動きが取れなくなった渋滞と、多発する暴徒の襲撃から逃れるために、安全と引き換えに乗り捨ててしまったが――――衛星テレビ付きの自動車に乗っていたから、その時の映像は見ていた。

 昼間の街中、大橋に突如として出現した、巨大な“何か”。

 それは、まさにこの地獄が形に成ったかのような存在だった。
 それが、数の暴力を物ともせずに容易く、生ける屍を屠っていた事を。
 彼らを食し、彼らを蹂躙し、そして姿を河に堕ちて行方を晦ました事を。
 この地獄の中で唯一、自在に行動が可能な、暴君なのだと、言う事を。

 思い出す。
 正真正銘、あの時と同じ。いや、それ以上に醜くなった化物が、今、目の前に居た。

 そして、其れは、此方に意志を向けている。
 その事実を、知ってしまった。

 ――――ああ。

 その瞬間、己の中の何かが、折れた様な気がした。
 必死に耐えていた心が、砕かれた音だったのかもしれない。
 今迄、辛抱していた心が、ついに悲鳴を上げた音だったのかもしれない。

 ――――すまない。

 娘に侘びる言葉は、声に成らなかった。
 死者達だけならば、まだ、何とか、逃げられる可能性が有った。
 けれども、何故かは知らないが、この怪物は、自分達を標的にしている。
 それを、感覚で悟った。
 手にしたレンチが、地面に落下する音が、遠かった。
 自分のズボンの裾にしがみ付く娘の腕を感じ取っても尚、動けない自分がいる。

 ――――助けられそうに、無い。

 命を賭して向かって行っても、相手は微動だにするまい。むしろ簡単に殺すだろう。
 こうして、この場に居るだけで、存在する圧力に押されている状態だ。
 生命体としての、種族としての、格が、位が、違う。
 己の非力を嘆く間もなく、死ぬ。
 其れを、理解した。

 ――――僕は、父親、失格だ。

 蛇に睨まれた蛙の様に、足が竦んで動けない。
 怪物の背後に、レンチの音と扉の音を聞き付けて、亡者達が集まっていた。
 手詰まり。行き止まり。そして、終わり。希里章と、ありすは、既に亡き妻の後を追う事と成る。
 背後に隠した、愛する娘と共に、この場で命を落とす事は、避けられない運命なのだと、その時、彼は覚悟をした。

 ――――いや、あるいは、幸福なのかも、しれない。

 確かにその時、そう思った。一瞬の迷い。走馬灯と共に。
 普段ならば決して思わない、世迷言だった。
 今迄感じた人生の幸福と、数秒の後に来訪する無を受け止めて。
 大事な家族と死ぬ事が出来る。それは、この地獄の中で終わる命の最後の救いなのかもしれない。そう思って。

 怪物が、此方に手を伸ば――。








 その頭の角度が、ドン! と、言う音と共に、曲がった。






 斑模様の髪の名残と、暗闇でも輝き続ける炎の如き瞳と、牙と舌のみを示す口と、浮き上がった血管と筋肉に彩られた顔面が、首を起点に、角度が変わった。
 それは、予期せぬ方向から打撃を喰らい、首が曲がった格好に似ていた。

 殴ったのではない。もっと早くて小さな物が、その頭部を強制的に、弾き飛ばしたのだと、理解するまでに時間が懸かる。

 何が有ったのか、その情報を頭が処理するまで。実際はほんの数秒だったが、まるで永劫。
 モノクロの風景の中、その刹那に全てが停止した。

 そして。

 時間が動きだす。喧騒が戻る。春の空気と冥府の匂い。血と人間と呻く死者達。呼吸すらも止めていた己。そして、自分の背後に居る娘。

 先程門を叩いた家の住人は完璧に外部の推移を無視する事に決めたのだろう。音と気配が消えた家を見た。掌に汗が湧く感覚を知った。乱れた呼吸で酸欠になったようだった。自分を呼ぶ娘の声が、遠くなり――――そして、強引に意識を支え、引き戻す。

 ここで倒れたら千載一遇の生きる機会を失う!
 親と男と人間の意地として、其れだけは避けなければいけない。

 「――――っ!」

 息を飲む彼の目の前で。




 そして、続けて響く、二発目の音。




 完璧な軌道を描き、父親の前で飛来した弾丸は、空中で静止した怪物の腕に直撃し、その威力に僅かに相手が、呻いた。頭部への一撃も相まって、その足が僅かに下がる。

 感覚が戻ると同時に、意志が戻ってきた。先程の己を叱咤し、過去の経験をもとに、状況把握に努める。火事場の馬鹿力。唐突過ぎる展開に、それでも体が息を吹き返す。

 再度、放し掛けていた娘の手を、掴む。

 「パパ!」

 「……今の、は!」

 鈍器で殴った音とは違う。日本では決して聴く事の無い、しかし海外派遣先では耳にしたその音は、紛れもない銃声、それもかなり大口径の、発砲音と、着弾音だった。

 「何処からだ!?」

 それは。

 それは、少し離れた民家のベランダから、放たれた、物だった。






 「平野! 悪い! ――――行って来る!」

 「謝るなよ小室! ……文句は帰って来てからだ!!」

 視界の中に見える巨体に、7,62ミリ弾をぶち込みながら。
 階下に降りるその手には、装填済みのイサカを持ちながら。
 賢くない彼らは、それでも行動を止めなかった。




 「高城。……覚悟を決める事だ。私は決めたぞ?」

 「分かってるっての! 分かる! アレは、……『私達』を、“追って来た”のよ! 学校から! しつこく! 逃げても無駄なんでしょ!? だったら、――――逃げる為にも迎撃するしかないじゃない! ……ああもう! 作戦、考えるわよっ!」

 半ばヤケクソ気味に、しかし何処か素の表情を覗かせて、彼女達は走る。
 四の五の言わずに相手を倒す手段を考えるのだ。


 「嬉しそうね、宮本さん」

 「はい。……嬉しいんです。私達は、まだ、人間だって事が、分かったから、……行きましょう! 脱出の準備を!」




 二回目の接触。

 追われていた実感と、その脅威に怯えながらも。
 生きる為に、そして父娘を救う為に、彼らは『追跡者』に銃を向けた。




 愚かな行動と、人は嗤うかもしれない。
 けれども、人として彼らは、動く事を選んだ。
 それは、誰もが羨む、強さだった。




 夜の激闘の幕が開く。


















 自分等への追跡を防ぐ為には、此処であの化物を倒すしかない。覚悟を決めた孝達だが、怪物の戦闘能力は予想を遥かに超えていた。それでも活路を見出そうと足掻く一向ら。果たして彼らは、『追跡者』を乗り越え、無事に明日の朝日を拝む事が出来るのか!
 スタイリッシュ学園アクションは、後半へ続く!

 ――――なノリですが、このまま行きます。
 さて、盛り上がってまいりました。実は、ここで小室達と主人公がぶつかる事は、最初にプロローグを書いた時から決定済みでした。やっぱり味方に成る前に、一回は本気で激突させないと。
 本当は後半も一緒に投稿するつもりだったのですが、凄く長くなりそうなので分割します。燃える展開に、映える情景描写、文章表現で“危機感”を出すのが大変で……。でも、山場の一つなので頑張ります。

 あ、ありすへの呼び方は『S.T.A.R.S……!』のイメージでお願いします。直接目の前で言われれば、そりゃ怖いって。心も折れるって。
 しかも、ガソリンで燃やされた影響か微妙に進化して、スーパータイラント風ネメシスに、リッカーとハンターの長所が混じりかけです。こんなのゲームにも居ないよ。その内、Gとかになりそうだよ。

 次回、主人公の化物っぷりをお楽しみに。同時に、小室達の活躍もお楽しみに。

 そろそろ、少~しだけ、救いの手を差し伸べてあげようかな……?

 (11月16日 投稿)



[20613] 第八話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 2/2』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/11/21 17:48
 ※今回アクションしか無いですが、両主人公の怪物っぷりをお楽しみください。












 何処かで犬が鳴いている。




 『彼』の耳にもまた、遠くから響く鳴き声が届いていた。

 (……コイヌ、サン?)

 確か、昔――――うんと昔に、犬と接触した記憶が有った。白い世界で寝たきりに成る前だ。広い明るい色の部屋で、大きな犬が、近くに居た気もする。それは、小さな、しかし確かな記憶の断片だった。

 (……み、ズ、で)

 そう、水だ。燃え盛る炎から逃れようと、頭から河に飛び込んだ。そして、そのまま泳げずに流されてしまった。しかし、何かが流れる様なその音が、当の昔に失われた筈の記憶の何かに接触したのだろうか。河に飛びこむ前と、河に飛び込んだ後で、非常に小さくだが、記憶が違っている。

 空気中に漂う気体が一ヶ所に集合し、形を作り出す様な、僅かなモノが存在する。

 その中に、犬が、居た――――気がした。
 気の迷いかもしれないし、勘違いかもしれない。
 それよりも、今は、対象を追う事の方が大切だろう。

 『彼』は今、御別橋を遠目に眺めている。




 唐突に切れる記憶の、白い世界の前の、『彼』が人間として生きていた頃の記憶など、知る者は一握りしかいない。『彼』本人も知らない事が、山の様に有るのだ。だから、無理のない事だった。

 嘗ての『彼』の大きな家には、一匹の大型犬が住んでいた事も、その犬と交流していた事も、その犬が既に亡い事も、知らなくて当たり前だったのだ。
 高く吠える、飼い主を失った一匹の賢い犬の鳴き声で、その記憶の破片が湧き上がったという、唯それだけの話。今は何も関係が無い話なのである。




 (……近、イ)

 戻って来ていた。人間の足では苦しい行程も、大した障害には成らなかった。体温調節と疾走で、再度エネルギーを補給する必要に駆られたが、既に“食事”は終えている。体調は万全だった。

 人目を忍び、闇夜に紛れる怪物は、空気中の匂いから、自分が確実に相手に迫っている事を自覚している。
 地理に疎く、不慣れな世界だ。大凡の位置しか判明していない。しかし、此処まで近ければ、後は順番に探せば良い。

 両足による疾走能力を取得し。
 隠密性に優れる四足歩行も宿し。
 その身は、唯、一直線に歩むだけでは無い。

 数日前までは、歩く事すらもままならなかった身体能力は、最早、生物として最上級のレベルにある。

 単語こそ知らなかったが、その能力は広い。ピット器官と短赤外線視認で、生物の位置は闇夜でも十分に補足できる。嗅上皮と共にヤコブソン器官が進化している。
 自分の体重を爪一つで支える事も可能。自動車を殴り飛ばす剛力に、銃弾や熱への耐性も持っている。

 この終末世界の中で、最も生存に適した生命体と言えるだろう。

 ふと、遠くに、見る。

 (アレ、ハ……!)

 遠く、親に子供を引かれて、歩く少女の姿を。

 (……見ツケタ)

 『彼』は、重厚に大きく唸り、その身を躍らせた。




 「――――ア、あr……ハ !  a、ア、――――ォ――――! ――――ア、ァ、リィ……、スゥ……ッ!」




 あの時、『彼』と共に自動車に轢かれ、命を散らした幼い少女の。
 その友達の姿を。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第八話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 2/2』






 ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! と、リズムを刻む。

 空気を奮わせる鋼鉄の鳴き声だ。七連射。ベランダのストックを視点に、サイトで狙いを付け、動きを止めた相手に、躊躇せずに叩きこむ!
 道路を照らす街灯と、光の漏れる家のみが光源。けれど、それでも十分だ。十字に区切られた視界の中、捕えた巨体に向かって連射。

 音? 銃声? そんな物は後回しだ。他に任せれば良い。

 今の仕事は、あの怪物に鉛玉を叩きこんで、あの親子を助ける事。
 理屈など無かった。自分達を追跡する怪物から隠れる続ける訳にいかないとか、そんな理論は如何でも良い。ただ、小さな女の子を助けるのに理由は必要ない。

 其処まで人間を捨てる気はない。
 其れだけだ。

 「試射もして無いのにヘッドショット、……やっぱ俺って、天才っ!」

 確かにそう、こういう方面に懸けては、天才的なまでの才能を発揮した。
 トリガーハッピーの気分が、分かる。

 手にした狙撃銃の引き金は軽い。弾丸の先に有る命とは比較に成らない位に軽い。軽くて、そのまま調子に乗って乱射してしまいそうになる。
 こんなに心を奮わせる音も、そうは無い。

 最初に二発。その後七発。弾丸を連射出来るのは、残り十一発。頭の中でカウントを止めず、そのまま一気に、叩きこむ!

 ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! ダン! と、響く音は舞踏のステップにも似ている。

 視界の中の異形。その上半身を中心に、全てを直撃。流石にダメージが有るだろう。距離は百メートルも無い。通常ならば半身が消し飛ぶ筈の弾丸の嵐を、それでも怪物は受け止めている。

 威力に押され、反動で体勢が揺らいでいるが、それでも尚、倒れる事すら、無い。
 その身体が、歪に動き、奇妙な踊りを始めているが、生命活動が止まっていない。

 残り四発。更に一発を撃ちながら準備済みに手を伸ばし。

 「ロックン――――ッ!」

 撃ち、傍らに引き寄せ。
 撃ち、手に抱え。
 そのまま空のマガジンを排出して、それが地面に落ちるよりも早く、薬室に一発だけ残った弾を撃ちながら、再度マガジンを送り。

 「――――ロオォォォォォルッ!」

 膝で空マガジンを受け止め、フル補充された7,62ミリを、連射する!

 此処まで注いでも、未だ立ち続ける相手に、テンションを上げなければ立ち向かえる筈が無い。心の中に有る焦りと、其れを押し殺す必死さと、焼けつく様な興奮の中、平野コータは相手を撃ちまくった。

 自分達を追って来た怪物に、叩きこんだ鉛玉の数、大凡、30発。
 其処までを数えた所で、彼は一端、攻撃を止めた。

 「平野!」

 庭に、小室達が出たから。
 マガジンが空に成ったから。
 親子が動きだしたから。
 そして。

 「気を付けて! 奴はまだ動く!」

 相手が、視界から消えたからだ。




     ◇




 外に出た途端、生暖かい風が押し寄せる。死者の風だ。頬に伝う汗の感覚を押し殺して、小室達五人は外に出た。高城沙耶と宮本麗、鞠川静香がバックアップ。小室は、毒島冴子と共に、何とかして親子を助け、あの怪物を足止めする事だ。

 無茶だ、と頭の中で悪魔が囁いている。
 身捨てろよ、と誘惑する其れを振り払って、彼は玄関から左の、奴を見て。

 「居ない……?」

 視界の中に、一瞬前まで確認できていた巨体が、消えている。
 見失う筈が無い。焦りが頭を過る。
 何処だ? 何処に行った? 右でも左でもない。

 「……っ上か!?」

 奴はまだ動く! 平野の声を耳に、目線を上空へ向けるが、その姿は無い。幾ら暗いと言っても、中に有る巨体を見逃す筈はない。しかし、視界の何処にも、相手は居ない。まさか消えた筈は。

 「違う! 小室君! 下がれ!」

 傍らの冴子が叫ぶ。その声に反応して、咄嗟に場所を動けたのは、偶然。紛う事無き隙を見せ、命を拾ったのは、彼女の助言が有ったからだ。
 背後に大きく下がり、視線を右から中央へ。親子から、道路へと向けた瞬間に。

 「下だ!」

 コンクリートとタイルで囲われた家。ハンヴィーに程近い、しかし鍵が懸かったままの門の一角が。




 内側から爆発する様に、砕け散った。




 見えたのは腕。
 家を囲む塀の一角が、巨大な腕に貫かれ、罅と共に雪崩れ、そのまま、何かが、乱入する。何か? 言うまでも無い。あの化物だ。粉塵の中に隠れ、しかし尚も異彩を放つ巨体を隠せない。

 「――――ッ! コイツ、回り込んで……ッ!?」

 僅か数秒で。
 銃で衝撃を受けたが、死角に入り込み。
 そのまま、道路を突っ切って。
 門を潜らずに、庭へ入り込んだ。
 身を低く、突進するかの挙動で。

 ――――なんて、怪物だよ!

 悲鳴は声に成らず、崩れ落ちる塊が落下する音に遮られる。
 爆発した様な打撃は、破片を中に飛ばし、衝撃音と共に、南邸を走り抜ける。
 咄嗟に目元を腕で覆う小室の前、唯の腕の一振りで、防壁を叩き壊した相手。

 数十の弾丸を受けて尚も稼働する不沈艦の如き巨体。眼前で見ると、巨人という言葉もまだ甘いだろう。その異様さに、覚悟はしていたが、体が凍りついた。

 それは、ある種、致命的な隙。
 動こうとするよりも早く、手にしたイサカを構える暇も与えず、死ぬ可能性すらもあった。

 しかし、そうは成らなかった。
 誰もが動きを止める中、唯一人、動いた人間がいたからだ。

 「――――!」

 視界左の黒色。
 毒島冴子だ。




     ◇




 相手の身長は己の倍程。二足歩行で立っているが両腕は太く、類人猿以上。あの場所から、此方へ来たと言う事は、その速力も人間の範疇では無い事は確実。
 しかし、彼女は怯む事無く、一切の怯えを見せず、唯走った。

 空気中に粒子が舞い、視界が効かない。
 足元は不安定で、鼻や耳に埃が付いて鬱陶しい。
 だが、目の前の化物も、多かれ少なかれ、同じ物を抱えている筈だ。外見こそ醜悪だが、眼も耳も鼻も有る。自分らより発達しているかもしれない分、有利も不利も無い。

 風を切り、地面を蹴り、疾風の如くに、彼女は迫る。

 (相手よりも、早く、か……!)

 把握出来たことが有る。あの相手は、所謂“かけっこ”は速い。父娘から自分らに得物を変え、道路を突っ走った、瞬間の行動を見れば十分に分かる。昆虫か爬虫類か、兎に角、二点間の移動は非常識なまでに速い。
 この怪物の疾走。それは、両足で大地を蹴る行動だ。前に運ぶのでは無く、押し出す行動。陸上競技の選手の様に、重心を下げ、その体重を込めた両足で地面を蹴り、変える反発で動いている。だから、放たれた砲弾にも似た挙動を示す。

 しかし、他の各部位は違う。

 彼女の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。




 (全然、“鈍い”ぞ!)




 しかし、遅い。
 児戯にも思えるほどに、体の使い方が成っていない。

 何が遅いのかと言えば、俊敏性だ。
 脚は速い。加速力も有る。だが、腕、肩、腰、首を初めとする、体の各種パーツ。其れを動かす速度が遅い。

 あの図体だから無理も無い。脳から命令が発せられ、神経を通り、筋肉に伝わり、動きだし、結果を出すまでが、長いのだ。
 その大きな体故に。動き始めてから、速度に乗って、終わるまでが、緩慢。人間の、それも体重の軽い女性である己より、遥かに停滞して実行される。

 だから、同時に行動を始めても、先手を取る事は出来る。
 そして、自分を倒そうとする相手が動き始めるよりも早く、彼女は動いていた。

 「――――」

 は、と息を吐き、無駄な緊張を除く。
 一瞬で踏み込む。普段は使用しない、威力重視の体重を乗せる動きだ。此方へ視線が固定されるよりも早く、身を屈める。自分が通り過ぎる場所を目視させ、捉えるその間に懐に入る事を目的とした、流れる様な運動。
 相手が己を見失う隙を生み出す。
 虚空に残る黒髪の流れを置き去りに、肩、肘、手首を曲げる。

 「――――は、」

 呼吸と共に、関節を脱力させ、同時、下半身からの加速力を、前に送り出す。
 裂帛。屈めた体に、全体重が乗っている。

 「――――あああっ!」

 そして、そのまま。




 相手の喉を、突きあげる!




 速度。質量。衝撃の際の脱力と硬直。全てを兼ね備えた一撃。ゴギャッ! という音と共に、咽喉部に突き刺さる、容赦の無い一撃。
 例え竹刀でも、技量さえ揃えば、防具を付けた成人男性を悶絶させられる。ならば、より固く重い木刀が、全国一位の実力と、伝授された技と共に、“殺意を持って”奮われれば、如何なるか。

 答えは。
 その威力は推して知るべし、か。巨体が押され、背後に下がり、呻き声と共に、確かに苦悶の感情を示す。庭先の怪物が、道路へと一歩、足を下げ、腕を動かして、木刀を掴み取ろうとするほどの物。

 乾坤一擲の、毒島冴子の一撃が、相手を押し返す!

 「――――ふ、やはり、――――打撃は効かないか!」

 却って来た感触は、分厚いゴムの塊を殴った時の様。頑丈な皮と骨に阻まれ、衝撃は吸収され、殆どダメージに成っていないだろう。骨を折れる、とまでは思っていなかったが、余りにも固い。

 ならば。

 「――――骨と共に、肉も絶たせて貰おう!」

 木刀から手を離す。使い慣れた獲物に拘泥せず、目の前の相手への攻撃を優先する為だ。

 刀の下を潜る様に、より懐に深く入り込み、優雅な動きと共に、腹へ脚を当てる。蹴りの効果が無い事は承知の上。真の狙いは、相手の鋼の腹部を足場に、上半身への攻撃を繰り出す事。
 膝を曲げ、壁を駆け上がる動きで脚を上げる。同時、相手の顔が、視界の上を占領。焦点の合わない、光る視線が、自分を捉えきれていない事を、把握する。

 木刀が地面に転がったその時には、宙の彼女の両手には銀の刃が握られていた。

 両腕を交差する動きで、腰元から引き抜かれた輝き。それは、隣家を漁って手に入れた肉切り包丁であり、蛮刀にも似た工具であり、研ぎ澄まされたナイフであった。全てが、南邸での休息時間を利用し、十分に武器として使用出来るレベルで研磨されている。

 「――――ふ」

 己の懐に入り込んだ女性に、手を伸ばし掛けた怪物。迫りくる動きを確認しても尚、動きは変わらない。毒島冴子の眼には、児戯にも似た稚拙な攻撃。己の動きで難なく回避できるレベルだ。

 威力は高い。中れば壊される。だが、中らない攻撃に何の意味が有ろうか!

 「――――は、あッ!」

 空中で鋭く吐かれた呼気と共に、その両腕が、一閃される。
 その刃の群れは、熟練の技量の元、相手の腕に殺到する。

 皮膚を切った程度ではダメージに成らない。そもそも傷つけることだって難しい。大型獣以上の皮膚だ。貫通重視のアーマーライトからの銃撃は兎も角、小口径の警察保有の弾丸では、表面で全て受け止められる。

 だから、皮膚の弱い、関節や臓器が狙いだった。
 指。手首。肘。脇腹。そして首と眼球。

 斬る事では無く、穿つ事。それも相手の駆動を阻害する為の連続した、木刀以上に凶悪な突きが、銀の本流と成って相手に突き刺さる――――!

 「     !」

 流石に瞳を潰されれば痛かったのだろう。巨人が震えた。
 人体の構造的に、関節駆動には限界が有る。己の懐へ潜り込む侍を掴みだそうと、内側に腕を折り曲げていた巨人は、しかし、腕がそれ以上曲がらない事に、戸惑い、動きを更に、遅延させる。

 その隙を付いて、毒島冴子は飛ぶ。
 腹に当てた己の脚を伸ばし、相手を押し返す様に、背後へ大きく跳躍する。
 庭へと舞い戻った彼女の十分に稼いだ時間は、次に繋がる。

 「全員!」

 そして怪物が下がった瞬間には、ベランダでの再装填が終了していた。
 声と、そして銃声が、連続する。

 「――――もう一丁、いきますっ!」

 相手が移動したお陰で、今度は親子に躊躇せずに撃てる。娘を抱えた父親は、ブロック塀を渡ってハンヴィーへ脚を向け、到着点では鞠川静香がエンジンを駆動させていた。

 ダガダガダガダガダガッ! と、断続する銃撃は、彼女のバックと同時に、連射する平野の物。
 見下ろす様な位置で放たれた狙撃銃の弾丸が、相手を抉って行く!

 打撃と違い、貫通に重点が置かれているのが、狙撃銃の特徴だ。例え弾丸が同じでも、連射機能がサブマシンガンに劣っても、射出機能が優秀な分、相手へのダメージが大きい。

 降り注ぐ光速の拳に殴られ、その拳は肉体へ喰い込む威力と速度。一発直撃するごとに相手の顔や胴体が削れ、鈍い音と共に、奇怪に動く。首が下を向き、腕が下を向き、上げる度にまた下へ向かされ、今度はのけぞり、背後に送られ、前に出る動きを防ぐとともに、二十の奇怪なダンスが連続し、同時地面に飛び散るのは雫にも似た黒い血痕だった。
 人体の急所に雨の如く降り注ぐ鋼の群れ。

 「    !」

 ガ、か。ゴ、か。声を荒げ、怪物が確かに怯む。身体のバランスを崩し、威力と共に体も下がった。獣で言うのならば間違いなく、心が動いたが故の行動だった。怪物に何処まで心が有るかは不明だが、しかし最低限の本能は有るだろう。その意志が、普通から、その形が変わる錯覚を見た。

 それは、致命的ともいえる揺らぎ。
 銃弾が止む。再度二十発を灌ぎ込まれたその身の動きは鈍く。

 「スライドを引いて!」

 完全な隙を生みだしたが故に。

 「相手の頭を狙って!」

 避ける事が、出来なかった。

 「撃つ!」

 小室孝の持つ、イサカから吐き出された十二口径の炸裂弾は、その顔面に直撃した。

 「――――、ゴ、ァ、ア、アアアアアアアアアッ!」

 吐き出す様な悲鳴と共に。




 相手が、膝を付く。




     ●




 (……イ、タ……ッ!)

 それは、長らく感じていない、苦痛だった。
 否。こうして外を出歩いてから、初めてと言って良い程の、経験だった。

 学園で轢かれた時は、衝撃を全身で受けていたし、二回に分割されていた。
 少女と共に轢かれた時は、当たり所が良かったせいか、追撃可能なレベルだった。
 倦怠感を初めとする各種欲求故に、調子が悪いだけだった。
 大橋での爆発も、熱さから逃れたが、強引に我慢できない程でもなかった。
 《奴ら》のダメージなど、言うまでも無い。

 (イタ、イ、イタ、イタ、アアアアアア、アアアアアアアアアッ!)

 吼えた。獰猛さよりも、傷を負った獣の鳴き声だった。

 痛い。精神的では無い。別の、肉体の痛み。こんな苦痛を受けるのは、何時以来か。あの白い世界の中の、更に深い真っ白な闇の様な世界の、記憶にすら無い程の世界で、感じた以来ではないか。

 違う。生きたまま、奴らに齧られ、その身が変異した時が、最後だ。その時の事は記憶にない。途中で意識を失い、次に目を覚ました時は、目の前に瀕死の“お姉ちゃん”――棟形鏡が、居た事だけだ。

 だから記憶の中には、今迄の苦痛が、少なすぎた。

 (――――ア、ア、ガア、アアアア、アアアアアアア!)

 苦しむ。体の内側から発せられる、欲求とは違うシグナル。灼熱感と共に体を走る、この響く様な感覚は何だ。
 理解が出来ない。頭が判断を拒否している。

 苦痛に慣れる事は少ない。痛みとは肉体の発する危険信号だからだ。今迄は、その肉体のスペックで、周囲の全ての障害を排除できた。苦痛など大し事では無い。自動車で轢かれた事ですらも、自分自身の怒りに接触する程のダメージには、成っていなかったのだ。

 羽虫程度だったかもしれない。痛覚が鈍っている以上に、その化物染みている体は、大抵の脅威を、抑え込み、殺していた。
 だからこそ。

 「――――――――――ッ!!」

 今、この痛みとは、即ち、危険信号だった。
 ダメージを感じていなかったからこそ、感じた時の衝撃は、通常以上に大きい。
 そして、凡そ意識の上では、殆ど初めてと言っても良い「苦痛」が、その心に、大きく傷を残す。




 沸々と、何か、熱いモノが、心の中に生み出された。




 「           !!」

 『彼』は。
 小室達に、殺意を抱いていた訳ではない。人間を憎む程、彼は世間に精通していないからだ。

 『彼』は。
 鞠川静香に会うという命題を、言われた通りの仕事をこなそうとしただけの、子供だった。

 『彼』は。
 自分の目の前で死んだ少女の友達に、会って写真を渡す事を、ささやかに望んだだけだ。

 しかし、其れが叶わない。
 叶える事が出来ない。

 どうしてだろう。唯、自分は、相手を追っているだけなのに。
 言われた通り、相手に対面したいだけだと言うのに。
 如何にも、成らない。少なくとも、この状態では。

 「     ォ、オオg、rrrr■■!」

 何時だったかと同じだ。己の肉体に掛かる枷が、その意志で外される瞬間だった。

 違った事は、唯一つ。
 『彼』が感じていた――――『彼』本人は、自覚として認識していなかったが、確かに存在した、普段と違う、生まれていた感情。それは。




 余りにも理不尽な、自分に対する攻撃への、怒りだった。
 不条理への子供の様な泣き声だった。




 (痛イ、イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッッッッ――――――!!!)

 視界が、真っ赤に染まっていく。
 思考が、何か別のモノに、塗り潰されて行く。
 単純で幼いが故の、余裕の無い、モノに。

 記憶と、意志と、理性と、衝動と、目的と、原理と、思考と、思惑が、感情と、感情と、感情と、かんじょうと、かんじょうと、かんジョウと、カンジョウと、カンジョウト、カンジョウトカンジョウトカンジョウトカンジョウトカンジョウニ。

 苦痛が、真っ赤に意識を覆い隠して行く。
 全てが覆われ、同時に、蘇る。
 何時か体験した、過去の苦痛だ。

 ――――アタマガ、イタカッタ。

 唐突に、そう思った。

 ――――カラダガ、イタカッタ。

 何故か分からないが、幼い己を、思い出した。

 ――――アノトキモ、タシカ、ソウダ。

 何時だったか。

 ――――クルマニ、ノッテイテ。

 自分を見る二人の大人と、運転する人間がいて。

 ――――オオキナオトト、ショウゲキガ。

 そして。

 ――――ツギガ、シロカッタ。

 其処から、白い世界に、繋がるのだ。

 ――――ソコデハ、ナニモ、ナクテ。

 ずっとずっと、長い時間を、孤独に生きていた。

 ――――デモ、オネエチャンガ、イタ。

 彼女が目の前に来たのは何時だったか。もう、それも記憶にない。

 ――――アノヒト、ニ、イワレタ。

 『私の友達に、鞠川静香に、会いなさい』

 ――――ソウ、イワレタ。

 だから、動く。

 違う。

 それしか、彼自身が動く指針を持っていなかった。
 『彼』の中には、それしか無かった。
 何も目的が無く、言われた通りに動くしか出来ないという事実に。

 気が付かないが故に、彼は何も見えていない。

 周囲が己を、如何見ているかを。
 知らないが故に、何が間違いなのかすらも、分からない。

 (ア、ウ)

 目的だけが有った。

 その為には、目の前の彼らは、邪魔だ。
 殺す気はない。
 けれども、少し、黙っていて欲しい。
 何もしないから、其処で静かに見ていて欲しい。

 思考が、塗りつぶされていく。

 (ナニヲ、シテデモ)

 命は取らない。殺しはしない。
 けれど、其処で、黙って見ている事を、希望する。
 出来ないならば、黙らせる。

 (僕ガ、鞠川先生ヲ、捕まえル、まデ)

 思考と雰囲気が違っている事に、彼も気が付かなかった。
 ただ、相対する彼らだけが、『彼』の怒りの意志だけを、感じ取った。

 (ダマラ、セ)

 記憶に有ったのは、其処までだ。

 「ァ、g、■、a、■――――■■■■■■■■■■■■!!」




 声に成らぬ咆哮が、癇癪にも似た感情で有る事に気が付く相手は、誰一人として、いなかった。




     ●




 高く高く、遠吠えの如き叫び声が、闇夜の虚空に響き渡る。
 雄々しき猛声は《奴ら》を呼び寄せ、そして全てが怪物の糧と成った。

 「……マジ、かよ」

 7,62ミリ弾を五十発。12口径のショットガンを一撃。毒島冴子の殺意の乗った一撃。それら全てを、かなり良好な連携の元、叩きこんだ。人間ならばダース単位で挽肉に成るだろう。
 しかし。

 「    ――――ォ、■」

 怪物は、未だ、沈まない。否。沈まない、程度では無い。

 道路の上で膝を付き、片腕で体を支え、立ち上がろうとする格好。亡者達が集まり、しかし修復の為、全てが生み出された細い蛇に喰われ、齧られ、形を無くす。相当の音量を響かせる仲、未だに死者に囲まれていない理由の一つだ。

 肉体再生の超過で空気が揺らぐ。立ち昇る蒸気に陽炎が生まれる。地面に金属が転がる音は、もしや撃ちこまれた弾丸が回復に押し出されたのか。音を立てて、その身が崩れ、同時に何かに覆われる。

 そして、異形は。
 今迄とは明らかに違う、明確な、咆哮を上げた。

 ビリビリと、空気以上に、魂に震えが走る。何を言っているのかは分からない。だが、目の前の相手の感情が、先程と大きく違った事だけは、確実に理解が出来る。

 「■■■■■■■■■■■■!!」

 空気が逆巻き、渦を巻く様な鳴声の中、相手は目の前で動きを変える。

 それは、メタモルフォーゼ。高速での、昆虫や両生類の変態に似ていた。二足歩行が、四足歩行に。人型が、犬とも猫とも違う、全く別の形態の存在に変態する。幼生の成体への変態や、昆虫の変態にも似た、しかし、最早、進化を早送りで見ている事に近い、変化。

 その人間の形の腕が地面に付き、足の如く、形を変える。ギリギリと肌を突き破り、類人猿の形をしていたモノが、骨の様な、巨大な爪を兼ね備えた蜥蜴の如き指に、変化。今迄の得物が、より危険に成ったような印象。

 四足歩行と共に、その全身も変わる。

 身を追おう筋肉が変質し、膨張し、変色し、より気持ち悪く、グロテスクに。四足歩行の獣に、強引にスライムを同化させ、爬虫類と両生類と哺乳類を組み合わせれば、近く成るだろうか。妙に肌がどす黒く、破けた皮膚の隙間からはぞろりとした筋肉が姿を見せた。

 ビシリ、と背中が割れる。牙にも見える、跳び出した物はもしや肋骨か。脈動する血管に覆われた脊髄回りから生まれ出たのは、食腕にも似た触手。捕食用の盲目の蛇では無い。より性能を突き詰めた、蝶々の口吻か、蝉の口針にも似た、得物。

 首が前に迫り出し、口元が大きく開き、醜悪さを増す存在は、さながら。

 「……第三形態、」

 流石の剣士も、口元を引き攣らせて呟いた。
 通常の二足歩行。食事用の触手形態。そして、今現在、目の前に有る――第三段階。
 怒りか、本能か、何かの影響で、その身が大きく変異したと言う事は。

 「暴走か……!」

 暴走。あるいは、狂戦士。生命維持と目的順守の為に、その身が大きく姿を変えているのだろう。一体、何が狙いなのかはさっぱり不明だが、此方に固執している事は理解出来る。狙いを考える暇も余裕も無い。

 見れば分かる。先程までの人間形態とは違う、野生の獣の気配。山奥で対面した子連れの羆か、鍛錬の最中に出会った野犬の群れか、あるいは己の祖父の本気か。そんな、研ぎ澄まされた、戦闘生物の気配が有る。

 人間以上に、対峙したくない相手だった。

 「……来るぞ!」

 少女が声を張り上げたと同時。




 怪物が、飛び上がった。




     ◇




 誰が想像出来るだろうか。

 数百キロは有ろうかと言う巨体の、四足歩行の怪物が、まさか庭を越えて二階の屋根へ跳躍が可能だと。歩道橋から見下ろしていた筈の怪物が、一気に己の隣に飛び込んで来るレベルと、同じだとすれば、想像が出来るだろうか。

 一直線に飛んだ異形は、砲弾の勢いで屋根を割り、破片を躍らせる。クレーターの如き陥没が足元に確認出来た。速さよりも重さと身体能力が、跳ね上がっている。

 轟! と吼える空気を纏い、屋根の上。支配者の如く君臨する怪物のその様は、まさに黙示録の光景に相応しい。

 キャスター付きの椅子で幸いだった、と言うのが、平野コータの最初の感想だった。ベランダに加わった衝撃に、愛銃ごと投げ出され、部屋の中に投げ込まれる。そして身を起こしながら、本当にキャスター付きで良かったと、心の底から思った。

 床に転がった彼が、身を起こした最初に見た物は。
 首を伸ばし、窓から逆さまに顔を覗かせた、相手の顔面だった。

 人間の顔だった事しか分からない、既に元の形を失った顔。唯一の名残は、頭部に残る髪くらい。幾つもの傷と怪我と火傷と銃撃に曝されたその顔は、《奴ら》以上に不気味で、醜悪だった。

 外から見れば理解が出来ただろう。




 目の前の怪物が、四足状態で南邸の屋根まで一発で飛び乗り。
 そのまま脚を屋根に、壁面に手を置き、天地が引っ繰り返った状態で、己を銃撃した相手を捉えていた事に。




 三メートルの異形が、壁に張り付いていた。脚では無い。蜘蛛か蜥蜴の挙動か、両腕で己の体を壁の僅かな凹凸に引っ掛け、彼を覗きこんでいた。
 相手が、不揃いな牙を向き。

 「  g、ギ、   g、i、iaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」

 絶叫した。

 声は、ノイズに近かった。窓が震え、振動で罅が入る。音が兵器で武器なのだと、知識では理解していた平野だったが、まさかこの身で体験するとはお世辞にも思っていなかった。

 (耳が、壊れ……ッ!)

 ビリビリとした振動に脚が下がる。反射的に塞ごうとした腕を、歯を食いしばって止める。耳を塞ぐとは、ここで銃を撃てない事と同意だ。それは最悪だと、理性で肉体を押さえつける。
 今更だが、確実に分かった。この怪物を相手にする感覚は、ゾンビ物の映画の変異体を参考にするのでは無い。エイリアンかプレデターか、兎に角、常識外を相手にしていると思った方が正しいのだ。少なくとも、今この状況では。

 「――――や、――――ッ!」

 ヤバイ、と全てを言う暇も無い。
 背筋への悪寒は、二日間の経験の賜物か。

 耳の痛みも、片手持ちに成った鉄の塊の事も、考える余裕はなく。
 床に身を投げ出す。投げ出すと言うよりも、自分自身で倒れ込んだ。咄嗟、所の話では無かった。数秒は愚か、一秒も無く、その身を掠める様に、怪物が室内に、跳び込んだ。

 窓枠ごと強引に粉砕し、上下逆さまの怪物は、平野の上を通り過ぎ、そのまま壁に激突。壁に、爪を喰い込ませ、両足を付け、平面に身を保つ。天井と平面の間、角に、頭を下に、“張り付く”。

 蜥蜴を想像させる体勢。しかし、巨体と醜悪さが段違いだ。肉が露出した顔の中、涎と舌が高級テレビに滴り、異臭と共に白い壁が変色する。
 立ち上がった平野は悟った。廊下に逃げる為には奴の横を通り抜けなければならない。蜘蛛の動きのまま壁と天井を四つん這いで徘徊できる化物を相手に、其れは不可能だ。

 如何する!? そう頭に問いかける。必死に生を手繰り寄せる為に、出来る事はなんだ? じりじりと焦げる様な感覚と共に背筋を冷たく汗が濡らす。恐怖のままに動いて、無謀にも死へと歩む衝動が生まれ出る。パニック一歩手前の、心の狂騒。
 相手は、ゆっくりと、体の向きを変える。手にした銃を撃つ心の余裕が有れば、とうに放っていた。回転し、煙すらも上げる頭は、万全の答えを求め、彷徨っている。

 ヤバイ。まじで。

 ――――死ぬ!

 そして。
 ぐりん、と首“だけ”が回転し、立ち上がった自分を、見る。
 それだけで、十分だった。

 「――――!!」

 戦慄。感じた感情は、恐怖だ。精神的では無い。絶対の捕食者に、己が標的にされたと言う、生命の危険。比喩でも何でもなく、大鎌を振り上げた死神を幻視した。怪物の背後に髑髏を見た。

 今度の反射は屈服させる事が出来なかった。
 アーマーライトを連射する。

 二十の弾丸が尽きるまでに、多くの時間は掛からない――――!




     ◇




 飛翔した怪物が、部屋へと殴りこんだ。
 室内から銃声が響き、そして、止む。

 「……っ」

 事態を脳が拒絶する。
 まさか、という思いが心を占めて。

 「平野!」

 瞬間、叫んでいた。唯の弾切れなのか。それとも貴重な命を落としたのか。其れは分からないが。

 「――――生きて」

 「其処を退いてくれ!」

 いるか、と言い切るよりも早く、返される声は、上。一瞬迷い、上を見上げる。
 平野が空中で踊っていた。

 「は? って、――――おおおおお!?」

 仰け反り気味に下がると、目の前に彼が落ちて来る。鍛えてある部分もあるが、体型は丸い。その分、体重も有る。ドスン、という音と共に、落下した。
 地面に落下し、綺麗に回り受け身を取り、転がった後に立ちあがる。無駄に上手かった。眼鏡が土で汚れている事と、衣服の各所に返り血が付いている事を除けば、何も変化はない。怪我すらもしていないようだ。
 直ぐに状況を理解した。

 「お前っ。……まさかベランダから跳んだのか!?」

 「死ぬよりゃマシだよ! それより、奴はまだピンピンしてる!」

 早口で彼は語った。

 運が良いだけだった。あるいは最後までパニックに成らなかった事か。向かい合った状態で、それでも狙って放った弾丸は、相手の口蓋と舌に当たり、バランスを崩させたのだ。そのまま再度、壁を蹴って跳んだ怪物は、今度は台所へ到る壁に着地。しかし、その行動が平野にとって幸いだった。

 怪物の体重と勢いを殺しきれずに、その壁に穴が開いたのだ。

 行動が変化しても体重は変わらない。両爪が壁に喰い込み、上半身を向こう側に突き破り、身動きが取れなくなった僅かな隙を付き、平野は果敢にもベランダから獲物や諸道具を抱えてダイブした。

 「カーテンレールと雨樋掴んで速度落とした、脚も無事、奴は来る! 何か質問はっ!?」

 「……ああ、いや」

 「――――! 玄関を閉めろ!」

 剣幕に押される暇なく、剣士が叫ぶ。いや、叫んだ時には既に彼女は動いていた。
 長い脚を奮い、蹴り飛ばす様に扉を閉じる。

 閉まる寸前、台所の壁から脱出したらしい奴が、此方に向かって懸けて来る光景を見た。おそらく、自分達が一時を過ごした部屋の壁は、無残になっているだろう、と場違いな事を小室は思った。

 巨塊は、見た目以上に知恵が回る。知恵と言うか本能だろう。あのまま空に躍り出るのではない。壁からズルリ、と抜け出た後、階段と室内を駆け抜けて玄関からの襲撃に切り替えたのだ。家の中は廃墟も同じだと、想像だに難くない。

 怪物が、突進する。異常な速度だった。速すぎて、どれくらい速いのかが分からなかった。ただ、廊下を驀進する相手に轢かれたら、致命傷は確実だっただろう。

 寸前、扉が閉じきった。

 そして一瞬後、バキャイィッ! と、扉が撓み、大きく外側に張り出した。蝶番とドアノブが衝撃で一気に外れ、開いた隙間からは奴の吐息が聞こえた。貫いている鈍く輝くモノは、もしや奴の爪か牙か。

 次で完全に破壊されるだろう。抑えようと思って抑えられる攻撃では無い。
 あの速度と身体能力を見ても、逃亡すらさせてくれないだろう。

 「――――拙いな」

 冴子の声を聞いた。彼女ですらもそう理解している。

 視界の端。親子は丁度ハンヴィーへと辿り着き、その身を潜り込ませている。道路と周辺。怪物の修復で減った《奴ら》が再度、集結し始めている中、一人動く宮本麗がいる。地面を這い、安全を確保しつつも高城の指示を受けて走りまわっているのだ。

 ギシ、と扉が軋む。そして、内部に爪が引っ込んだ。玄関周りは怪物が自由に動ける広い空間が無い。恐らく、強引に扉を破る為に、もう一回、突撃するのではないだろうか。確認する事も出来ないが。

 「逃げる方法を探さないと、本気で危ない」

 再度、《奴ら》は集い始めている。排除しても排除しても湧き出る鬱陶しい連中だ。しかし、正直あの怪物に比較すれば怖くない。いや、両方を相手にすると確実に死ぬだろうが。

 「どうやって!?」

 「ハンヴィーしかないけど!」

 この時点で、三人の思考は一致していた。

 先程までは倒せる、と思っていた。だが、今は不可能だ。アレは多分、銃火器では埒が明かない。ロケットランチャーでも持って来ないとまず倒せない。と成れば逃げるしかない。しかし、逃げる方法が思いつかない。

 凄まじい速度でアーマーライトの予備マガジンに銃弾を込め交換する平野も、不慣れな手つきでイサカにリロードした上で弾を込める小室も、木刀を拾い直した冴子も、迎撃する覚悟は持っている。しかし――――。

 一瞬、三人の中に諦観が混じる。命を懸けて足掻く彼らでも、可能不可能の判断は簡単だ。手持ちの怪物に対抗出来る手段が乏しすぎる。ゲームならばナイフ一本で倒せるかもしれないが、現実は非情だ。

 あの親子を救った時から、覚悟は決めていた。しかし、此処で終わるのも――――。

 一瞬の停滞と沈黙を、打ち破った相手がいる。

 「全員、下がりなさい!」

 声がした。放ったのは高城沙耶だった。三人に戦闘を任せ、背後で迎撃用の即席トラップを造っていた彼女だ。恐らく、この短時間で知恵を巡らせ、何とか形にしたのだろうか。
 期待は機敏な反応に現れ、命令実行に体が動く。

 「先輩これそっち! 何処でも良いから引っ掛ける!」

 指示が飛ぶ。同時、飛来する代物が有った。高城の腕が飛ばしたそれは、何かに固定する為のアンカーにも似た道具。何処で見つけたのか、頑丈そうなワイヤーの先に備え付けられた其れを、彼女は掴み取り、振り返り、咄嗟に、隣家の庭先にあった物干し竿の土台に連結させた。

 殆ど同時に、扉が破られた。




     ●




 扉が飛ぶ。

 廊下の奥から、通路壁の破砕を気にせずに突撃された勢いは、頑丈な扉を叩き開け、そのまま地面に転がって行く。その転がりよりも早く、異形はドア枠から外へと躍り出た。

 三人と高城沙耶。その間を暴風の如き異形が、駆け抜け、己の壊した門前に身を晒す。

 道路に飛び出た怪物が、体勢を立て直す。アスファルトに両足を付き、さながら獣や装甲車が方向を転換する様に。腕を支点に、下半身を回し、大地に乱れた傷跡を残しながら。

 そして。




 振り向いたその不気味な肉体を追う様に、夜空の中、何かが飛んでいた。




 怪物が振り向いた瞬間だ。何かが、凄まじい勢いで跳んで来た。土台ごと引っこ抜かれたが故に、ワイヤーの“先”に有った繋がれた物が、勢いのままに向かって来たのだ。

 片方は、洗濯用物干し竿を支える、二十キロ程度のコンクリートブロックと歪曲した鉄パイプ。

 そしてもう一つは。




 ワイヤーに連結された一台の大型バイクだった。




     ●




 怪物にバイクがぶつかった瞬間、高城沙耶は拳を握る。二百キロの機械砲弾は狙い通り、相手に直撃し、勢いのまま相手の体の上に乗る。其れを邪魔そうに振り払う異形は、しかし外しきる事は出来ない。
 両先端に重しを備えた即席の拘束具は、しっかりと相手の片前脚に絡んでいた。

 「――――っし、一つ目成功!」

 メゾネットの一角に停車中だった、既に持ち主不在の代物だ。勝手に走らせても文句は言われまい。既に死んでる筈だし。

 早めにこの家に到達出来た甲斐が有ったと言う物だ。南邸と、隣接する二件。合計三邸宅分のメゾネットを確保できていたのだ。《奴ら》を殲滅した後、内部を調べ、物資の調達をしたのは当然だった。生きた人間の必要な物は、死んだ人間には必要の無いモノばかりだ。
 毒島冴子の造った弁当も、隣家の冷蔵庫から食材を拝借してきていた。ハンヴィーに搭載した品物の中には、今後絶対に必要な物も入っている。それは単純な武器だけでは無い。燃料や、医薬品や、工具や、防具や、折り畳み自転車や、釣り竿や、コンビニでは入手困難な、生活必需品や雑貨品の類だった。

 大型バイクは乗り捨てられていた代物を引っ張ってきただけだが、こんな音の出る移動手段でも、何かと役に立つだろうと確保をしておいて正解だった。今がまさにそうだ。その時はデリック宜しく、宙にすっ飛ばすとは思っていもいなかったが。

 「大型バイクを背負えば、流石に自由には動けない筈……!」

 今、相手には、絡まった末の大型機械が繋がっている。

 怪物的な相手を抑える為には、何よりも、相手の行動を阻害し、その身体能力を発揮させない状況に追い込む必要が有る。その為に彼女が考え付いた一つ目の手段が、重りだった。

 いや、奴の身体能力的に、これでもまだ全然、危険な事に違いはない。だが、例え相手が持ち運べても、頑丈な足枷を付けている事と同じだ。単純に引っ張って動く簡単な事すらも、地面に引き摺ったままでは支障が出る。

 (その一。まずは動きを阻害する……!)

 頭の中で手順を確認した。

 高城沙耶は、何よりも咄嗟の対応が優秀だった。人間形態の時に考えた“倒す方法”は、相手が変態した時に不可能になる。しかし、倒せずとも、逃亡の役に立つ様に、異なる使い方をすれば良い。
 今の自分たちではアレが倒せない。奇しくも三人が悟った時と同じ頃、彼女も悟っていた。そして、倒す為に確保した手段を、「逃げる為」へと変更した。

 そして相手は今、身動きが取れない状態に有る。
 先程までもポテンシャルを発揮出来ない状態に。

 (相手が強いなら、その強さを存分に発揮させなければ良い!)

 正直、相手が二足歩行で動いている状態ならば、困難だった。危険を承知で外に停車しているマイクロバスを足枷にする事も考えた位だ。しかし、幸か不幸か、奴は四足歩行になった。

 二足歩行と四足歩行。野生の獣として見れば、圧倒的に後者の身体能力が脅威となる。事実、異形は天井や壁すらも走破するレベルだった。平野もヤバかった。しかし、その代償として、相手が指し出した物が有ったのだ。




 即ち、腕と掌と指と“知恵”。
 自らの拘束を、瞬時に解放する道具を、奴は手放した。




 二足歩行ならば、カウボーイ宜しく、己の拘束をロープに、先に有る物を武器にする可能性すらあった。だから当初、高城は、悩んだのだ。効果が薄い事を承知で適当に相手に絡めるか、危険を承知で地面にウインチを張り巡らせ相手が自分から絡むのを待つか、あるいは命を賭して相手に巻き付けに行くか。

 (ラッキーよ。ほんと!)

 二番目の策を取ろうと思った時、二足歩行の不利を悟ったのか、ダメージが許容量を超えたのか、タイミング良く奴は四つん這いでの行動に成った。有り得ない跳躍力と、そのオゾマシサに気分が悪くなったが、その好機を逃す気はなかった。
 両手と両足を使用して自分らを追うのならば、攻撃武器は口やそれ以外の部分しか無い。

 ならば、移動手段を不自由にすれば、一気に有利になる。

 だから急遽、策を変更した。
 本当に、一瞬の判断の転換だった。

 家の中だろうが、家の外に居ようが、四足で走って跳ぶならば、適当に縄を引っ掻ければ、勝手にその先に括り付けた重しは後を追って行く。慣性で引き摺られ、速度が高い程に、ぶつかった時の威力も増す。
 奴が突撃したその瞬間に、進行方向にワイヤーを張って両側に重りを置けば、運動力学としてワイヤーは互いに交差し、勝手に絡む!

 ワイヤーの正体は、車庫の中に有った4WD使用の自動車のウインチだ。数百キロを支えるロープは、例え腕が有っても簡単には千切れまい!

 「ま、ホントの狙いは其処じゃないんだけど!」

 一つ目で、相手を拘束し。
 二つ目で、拘束した相手を、より封じる!

 「宮本っ!」

 高城は呼んだ。
 危険を承知で一人動いていた友人を。
 異形が家の中で暴れていた一分間の間に、完璧に仕事を終えた彼女へ指示を出す。




     ◇




 「了解!」

 マイクロバスの屋根の上に宮本麗が乗っている。
 異形が南邸を蹂躙していたその数分間の間で、彼女はバスの上へと身を乗せた。此れもお願い、と渡された分厚い束を使用して、頼まれた仕事も終わらせてある。高城沙耶が何を狙っているのか。それは怪しかったが、しかし彼女を信じて行動した。

 《奴ら》が怪物に捕食され、数が減っていたからこそ、出来た業だ。

 マイクロバスの上。その身を横たえ、サイトを覗く。平野から扱い方は習ってある。
 スプリングフィールド・スーパーマッチ。アーマーライトと同じ7,62ミリ弾を二十発装填した凶器。

 『宮本。あの怪物に炎は効果が薄い。でも、絶対に効果が無い訳じゃない』

 大橋で逃げたのが、その証拠だ、と彼女は語る。毒島冴子が抑え、平野と小室が連射し、奴が変態している間も尚、指示を受けて手を動かしながら、彼女は手早く説明した。

 ガソリンや灯油が爆発する事は滅多に無い。液体が揮発し、一定量の空気と混ざり合い、初めて大きく燃え広がる。密閉空間であった場合で衝撃が発生する。
 大橋での一軒は、破壊された自動車のガソリンが十分に大気中に撹拌され、其処に火花が散って一気に燃え広がったのが正しかったのだ。だから爆発では無く、爆燃という表現が相応しかった。
 けれど、其れを承知で、高城沙耶は指示したのだ。

 『簡単な話。爆発じゃない、燃焼が目的。衝撃はなくても良い。ただ、奴の筋肉や神経伝達に少しでも支障が出れば!』

 あの怪物に爆発は効果が無い。ならば、爆発を狙っても意味が無い。モンスター映画の王道である、体の中から破壊する、という行為は難しいだろう。だから、吹き飛ばすのではない。長時間、高温に晒し、その行動に支障が出せれば、それで良い。

 生物で有る以上、高熱でその身を構成する蛋白質が変化すれば、間違いなく行動が遅くなる。

 「当たりなさい……っ!」

 叫び、撃つ! ここで狙いが外れたら失敗だった。怪物では無い。その周囲で動く、転がったままのバイクと、その積荷へ向けて、連射する!
 バイクに括りつけられていた、ペットボトル。二リットル×四本。その四本に向けて、宮本麗は弾丸を叩きこんだ。

 外れ、外れ、火花を散らし、怪物に当たり、外れ、道路で跳ね、機械を壊し、積荷へ辺り、外れ、内部の「液体」を漏らし、飛び散らせ、外れ、背中に食い込み、火花を散らし――――。

 「――――!」

 バスの上で身を伏せて連射したまま、彼女は見る。
 火花の一つが、弾丸の一つが、確かにバイクと奴に降り注いだ、積荷へと着弾した事を。

 内部に満ちている液体は、ガソリンとコーラを一定比率で混ぜ、鞠川静香の医薬品を加えた代物。それは、界面活性効果を利用した、高城特性の即席エマルジョン爆薬。

 その威力、即席のナパーム弾の如く。
 爆発は、紅蓮の炎が、怪物を包み込む――――!




     ◇




 「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――!!」

 もはや何の生物なのかも不明な悲鳴が、響き渡った。超音波の様な鳴声。ギリ、と歯を噛み締めて堪えながらも把握する。やはりそうだ。あの怪物はタフだが、感覚も鈍いが、決して無痛覚では無い。許容ダメージを越えれば確実に、動きを止める!

 怪物を止める、重りの総重量は約200キロ。燃え盛る中、何処まで動ける。
 衝撃に空気が震え、目元を追おう。だが、怯まなかった。千載一遇のチャンスだ。逃したら終わる。

 予め準備をして置いた――――空き時間で生み出した爆薬に怪物が飲まれても尚、高城の策略は止まらない。

 「まだよ!」

 休憩時間の間。小室と平野。二人が見張りと周辺探索をすると同時に、他の四名も動いていた。生き延びる為の準備は幾らしてもし過ぎる事はないのだ。例の爆薬だって知識と書籍から生み出した代物。危険を覚悟で造った道具だ。

 同じ様に、予め用意をしてあった物は有る。組み合わせ、工夫して道具を生み出す、それは人間の知恵だ。生き延びる為の行動だ。頭脳が六個も揃って、互いに協力可能な状態で――――あんな強い怪物一体に、負けるものか!

 ホースやカラーロープや針金を束ねて生み出した、ハンヴィーに繋がる頑丈な長いロープが有る。
 家の中で怪物が暴れ、平野が奮戦している間、マイクロバスに上る宮本に頼んで結んで貰ったそのロープ。門の前で燃え盛る異形の背後、空中から走り、駐車場へと伸びている。

 「撃って!」

 その指示に、最初に気が付いたのは、平野コータだった。

 「そうか! ……小室! 撃て! 狙いはアイツの背後だ!」

 目視のまま、彼は連射する。怪物では無い。その背後。ロープの繋がった基盤へと。断続的に響く弾丸は、コンクリートを穿ち、疲労を蓄積させていく。

 「――――そういうことかよ!」

 彼も悟った。ガショッ! と再装填された大口径が、火を吹く。ドウッ! という吼える音と共に、燃える怪物と、その背後が、粉砕される。四足歩行で、しかも這っている格好。肉体が燃えて動きが鈍い怪物に着弾し、身体能力を封じている!

 銃声が断続する。亡者を挽肉にする事も容易かっただろう。頭から燃え続ける怪物の血飛沫が跳び、地面を染めていく。平野コータが。宮本麗が。小室孝が。各々、手に持った銃を連発し、さらなる追撃と共に、最後の罠を発動させて行く。

 “本命”に結ばれた各種ロープの束の先は、門前の街灯に通っている。臨時の滑車の役目を果たす街灯から繋がる束の最終地点は、ハンヴィーだ。

 「先生!」

 「了、解!」

 彼女もまた、意図を組み取った。鞠川静香は、掛け声と共に、エンジンをギアに叩きこみ、そのまま一気に発進する。無論、その背後に束の先端が括り付けられているのだ。大した加速は出来ない。

 しかし、それで十分だった。
 ガグン! と急停車する重量車と。

 同時。

 ギシィッ! ――――と、軋む音を聞く。そして。




 燃え続ける怪物の背後。
 電信柱が、倒壊する――――!




 光景は、むしろゆっくりとしていた。

 地面に埋め込まれた部分は、約二メートルから三メートル。宮本麗の手で結ばれた部分は、電柱の上三分の一位の所。束ねられ、無駄に太く長くなった臨時ロープを引くハンヴィーは、ギイギイと軋んだ音を立て、根元へと直撃する弾が轢き倒しを確実な物とする。

 爆発の衝撃から逃れた宮本麗が、庭へと素早く跳び下り、毒島冴子と共に男達の背後を回る中。

 今尚も稼働し、周囲の家に電力を供給している電柱は、音を立てて崩れ落る。
 その前に居た、燃え盛る異形を巻き込みながら。

 「時速二十キロの車が衝突して倒壊する電信柱。ただ倒すだけなら、爆発と銃と牽引で十分。……ええ、流石に潰されるなんて、高望みはしない。でも」

 高城は言う。

 元々、門が破られた時の対処の一つとして想定していたのだ。家のベランダから、対岸に有る電信柱を倒壊させ、《奴ら》の侵入を防ぐ、という。かなり乱暴な方法だったが。
 最大で重さ二トンにもなる電信柱を上から叩きつければ、流石に少しはダメージになるだろう。しかし、相手の怪物っぷりは把握している。幾ら大型バイクで挙動を封じ、エマルジョン爆薬で更に緩慢にさせた所で、都合良く死んでくれるとは思えない。

 それに、電柱を倒す方向だって賭けだ。運よく相手を潰せる筈が無い。それは承知の上。だから潰す事は、目的では無い。
 真の目的は別にある。

 そう――――。




 「感電くらいはして貰うわよ!」




 次の瞬間。
 紫電が宙を走った。それは放電。そして漏電だ。燃えたままのその身へと、欠片と共に降り注いだ送電線が、怪物へと電力を流す。地面に触れ、複数の電線に触れた巨体だ。さぞかし電圧は高いだろう。

 「――――    !!」

 放電音が響く。
 ビグン! と異形が動く。自発的な動きでは無い。人間を初め各種生物の活動が、微量な電気信号から発生しているならば、あの怪物も例には漏れない。そして、肉が露出している状態で、強引に電流を流しこめばどうなるか。

 「 !   g、■ !!   ■!!」

 異形が悲鳴を上げた。間違いなく。声にも成らないダメージが、その身に刻み込まれている。

 その身は、液体爆薬で未だ濡れている。本人の流す血液が有る。そして、体には毒島冴子が打ち込んだ金属の刃が突き刺さっている!
 野生の熊が、電柱に登って感電死したニュースで有名だろう。本人の抵抗が――電圧が大きいほど、流れる電流の威力は跳ね上がる。途切れ途切れの鈍い通電音と共に、痙攣する様な動きで、怪物の挙動が乱れ、水揚げされた魚の如くのた打ち回った。

 しかし、自在に動けない。逃れる事すらも出来ない。電線がその身に絡まり、牽引された重りが阻害し、脱出を封じている。

 地形効果を最大限に生かした、その手法。
 それは、生にしがみ付く人間の底力だろう。
 幾ら身体能力が高かろうが、人間の意志を簡単に倒せると思うな。
 得体の知れない怪物ごときが、世界に抗う生者を打倒できると思うな。

 親子を襲い、南リカの家を蹂躙した異形は、六人の連携の元、有り得ない程の銃弾を叩き込まれ、動きを封じられ、燃やされ、感電された。

 「     ■■!!   g、aaa ――――ッ!!」

 響く悲鳴は、何を言っているのか。
 ただ、苦痛以外の何かを抱えている事だけは、理解が出来た。

 大きく跳びはねた反応を最後に。
 怪物が動かなくなるのは、それから直ぐの事だ。




     ◇




 ドサッ、と言う音がした。腰を落とした高城沙耶だった。

 息が荒い。今に成って緊張が体に伝わり、心臓が興奮を呼び起こした。どっと吹き出る汗に、鉛の様に重くなる身体。折れそうになった膝を抱え、全員が、目の前の事象を呆然として受け入れる。
 風が吹き抜けていく。先程までと同じ、しかし決定的に違う空気だ。感じる臭いはオゾンか。周囲にいる《奴ら》の死臭の籠る、しかし現実感の有る空気だった。

 沈黙がおり、やがて最初に、恐る恐ると声が上がる。

 「やった、のか……?」

 直ぐに声は上がらない。皆、口を開けなかった。
 しかし、さあね、と高城が答えた。よっこらせ、と倦怠感を隠さずに立ち上がる。此方も、かなり疲労が出ていた。肉体よりも精神的な蓄積だろう。

 「アレでも死んでない可能性は、かなり高いわ。――――でも、確認出来る?」

 「……いや」

 出来る筈が無い。電線が切れて漏電しているし、まだ液体爆薬は燃え続けている。動かなくなりはしたが、それでも死んでいる、と判断が出来ないのだ。下手に接近する勇気はない。
 平野が口を挟んだ。

 「今の内だ。行こう。……ここで奴を倒せる確信が無い以上、ここでこれ以上に、余計な無駄弾は使えない。まだ必要になるんだ。――――今なら《奴ら》も多くない。無理矢理でも抜けられる」

 平野のアーマーライトと宮本のスプリングフィールド。両者は共に7,62ミリ弾を使用している。今夜使用した数は、九十発近いだろう。残弾はまだ残っているが、それでも半分近くを消費してしまった。

 何時まで続くか分からない地獄だ。補充の宛が無い以上、使い所を見極めなければいけない。
 命の掛かった場面で出し惜しみはせず、場が変わったら引き摺らない。
 そう言う事だ。

 「そうだな。……行こう。親子を助けると言う本来の目的は達せられたんだ。……玄関右側の塀を越えれば、そのままハンヴィーへ乗り込める。流石に、私も近寄りたくはない」

 木刀を拾い直した毒島冴子が促す。

 一番ハンヴィーに近かった宮本麗が、エンジンを懸けたままの自動車。その背中に繋がっていた、電柱倒壊の功労者たるロープを取り外した。これでしっかりと発進が出来る。

 駆動音に寄せられる亡者もいる。しかしそれらはハンヴィーに搭載していたワイルドキャット・クロスボウで、救出した父親が排除していた。中々の腕前だ。数が少ないお陰で、其れほど苦戦していない。

 あの怪物を退けたお陰だろう。正直、《奴ら》が全く怖くなくなった小室達だった。

 「――――良し。それじゃあ」

 イサカを構え直して、彼は告げる。

 「高城家を目指そう」




 二日目の夜を生き延びた彼らを乗せ、ハンヴィーが夜闇へと消えていく。
 倒れたまま動かない『彼』の指は、それでも緩慢に、生を示している事に、彼らは気が付かなかった。

 二回目の接触は終わった。
 再度、彼らが巡り合うのは、もう少しだけ、後に成る。




 近くで子犬が啼いていた。
















 ネメシス第三形態風の主人公。フルボッコの巻。

 今回、めっちゃ気合い入れました。スタイリッシュ学園アクションの本領発揮でしょうか。作者の本気です。ネメシス大暴れ。主人公達も大暴れ。既に背景の《奴ら》。娘と共に命を拾ったありす父こと、命名・希里章(まれさと・あきら)。

 冴子さんも言っていますが、主人公の弱点は、まだまだこれだけありましたよー、と言う事でもありました。攻撃防御体力生命力はチートでも、技量が零。運動能力と戦闘能力は別モノです。馬鹿ではないが経験不足で罠に引っ掛かる。意志無き《奴ら》や混乱した民衆は蹴散らせても、武装した知恵ある人間の連携を倒すには至らない、と。

 今回一番大変だったのは、如何に主人公を倒すかでした。只管に銃弾を叩きこんで、拘束して、燃やして感電させて、と大きくダメージを与えましたが、正直、小室らには補正が入っているでしょう。殆どゲーム並みです。

 ではまた。
 救いの手は次回です。



[20613] 第九話 『“Tyrant” in the Wonder land』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2010/11/25 12:32
 ずるり、と引き摺る様に脚を動かしながら、ゆっくりと動く影が有る。光に照らされ、一瞬だけ露わになるその姿は、無残な姿で動く怪物だ。その身から流れる体液は、全身を染め上げ、傷口を塞ぐと同時に、周囲に腐臭を撒き散らしている。生ける屍の如き凄惨な状態だった。
 しかし、体を気にする事無く、そう言えば、と『彼』は未だ闇に包まれる街の中、ふと思った。

 (シャシン……)

 大事に仕舞っておいた写真は、一体、何処に行ったのだろう?

 人目を避ける為に、姿を隠したままの『彼』は、ぼんやりとそんな事を思う。

 お姉ちゃんから渡された写真は、財布の様な、厚手の皮の間に挟まれていた。かなり重かった。カードや小銭や紙幣は既に僅かな原型が見えるだけだ。財布が何から出来ているのかは分からなかったが、自分が持ち運んでも大丈夫そうだと、そう思っていた。
 だから、大切に、胸元に仕舞って置いたのだ。

 (……有ル?)

 熱さから逃れる為に川に飛び込んだり、やっと見つけた相手からは銃撃と火焔と電撃を受けたり、と受難続きの『彼』であるが、それでも目的は忘れていない。あの写真が大事な物だとは知っている。
 いや、写真だけでは無い。あの時。

 『これを渡せば、多分、解ってくれるから』

 掠れながらも、苦しげにお姉ちゃんは告げていた、気がする。写真もそうだけれども、写真以外にも――――写真を一枚では無く、入れ物と一緒に入れた理由が、何か有るのだろうか。

 ごそり、と腕を動かして探ると、感触が有る。喰い込み具合からして、火傷や傷が再生する時に癒着して、そのまま体内に潜り込んでいるらしい。

 にちゃ、と治癒しかけの皮膚ごと剥いで、再度、引っ張り出す。




 確かに其処には、写真の入れ物が有った。
 そして、その中にはしっかりと写真が保存されていた。




 もう片方。あの死んだ少女の写真は無い。器の片隅に、その残骸らしい燃え尽きた紙が見えるだけだ。しかし、お姉ちゃんから託された写真は、その器ごと保存されていた。

 そう。
 アレだけの目に有っていながらも、彼の持っていた、お姉ちゃんから預かった方の写真は、燃え尽きていなかったのだ。

 幾ら財布の様な、厚みのある、高級そうな小さな革製の御開に仕舞われていると言ったとしても――――今、尚も、朽ち果てずに残っていたのだ。
 万全に、完全に無事、では無い。黒く焦げ、煤に塗れている。溶けた粒子が表面を覆い、まるで爆撃後の残骸の様だ。しかし。

 (良かっ、タ)

 その“中身”は、何とか支障が無い状態だった。
 御開の写真も、まだ普通に判別が出来る状態に成っている。




 それが、普通は有り得ない現象であるという感覚は、彼の中には無い。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第九話 『“Tyrant” in the Wonder land』





 東の空が白み、地獄に再度太陽が昇っていく。季節も、天気も、自然も、人間以外の全ての動きは普段と変わらない。日頃と同じく流れる河川もまた然り。

 そんな御別川の中州に停車している一台の車が有った。

 高機動多用途装輪車両(HMMWV)。最高時速120キロ以上、6,2L水冷V型八気筒ディーゼルエンジンを搭載した、カスタマイズ性能に優れた汎用軍備車両。アメリカ始め、世界各国で使用される大ヒット四輪車。通称をハンヴィーだ。

 その助手席で座る男性が居る。年齢は30代だろうか。前髪に生えた若白髪を綺麗に整えた、中々の伊達男だ。仕事の出来る家族思いのお父さん、という雰囲気を持っている。

 彼の名は、希里章。数日前までは新聞社に勤めていた会社員だったが、既に職は無い。言うべきする点は、このハンヴィーの中で、唯一の成人男性であると言う部分だろうか。
 最も、自分が一番頼りに成る、とは断言できないのだが。

 静かに息を吐いて、彼は今日……いや、もう昨日か。昨晩の光景を思い出した。

 『助けてくれて、本当に有難う』

 その荷台で、深々と頭を下げたのは、もう六時間以上も前の事だ。屋根や運転席も含め、人数的にはかなり窮屈だが、それでも頭を下げた。

 周りには、高校生の集団がいた。何れも私立藤美学園の制服に身を包んだ若い青年達。男子が二人。女子が三人。運転席に座っているのが教師だろうか。各々に護身用の武器を持っている。彼らが、あの地獄から一時とはいえ、助けてくれたのだ。
 自分と娘を救ってくれた事に、心から感謝した。

 『――――気にしないでください。その……俺達が、好きでやった事です』

 そう言って、口下手では有った物の、代表して答えたのは、小室孝という青年だったか。この六人の中でのリーダー格なのだろう。今は体を横にして眠っている。左腕には宮本麗という美少女が、その身を絡ませていた。若いとは言い事だ、と少し微笑み、回想をする。

 『――――特に。助けた理由が有った訳じゃないんです。……あそこで見捨てる事は可能でした。見捨てる方が賢いと理解してた、位です。でも、それをしたくなかった』

 彼はそう語った。
 語尾が、段々と小さくなって行ったのは、言っている内容が酷いと自覚をしていたからだろう。けれども、本心を語っているのは間違いが無かった。生来の気質として、嘘を付けない体質なのかもしれない。

 『あそこで手を出さなかったら、俺は――――本当に、自分達だけの事しか考えられなくなってしまう。それは嫌だった。自分の命が大事だ、ってことは間違いない。でも、人の為に動けるっていう実感を捨てる事が、嫌でした。だから助けた理由は有りません。信じて貰えないかも、しれませんが』

 『いや。……信じるよ。無理に変な理由を言われるより、遥かに安心出来る』

 そう。変な理由よりも、遥かに人間味のある理由だった。利益や損得では無い、かといって上辺だけの仮面でもない、理屈の無い理由。
 これでも職業柄、人間に会う機会は多かったのだ。人を見る目は有ると自負している。

 若いからか。まだ、自分に自信が持てないのだろう。それでも、選択肢と共に歩む姿には、感心した。

 『損な性格だ、って。よく言われないかい?』

 『――――言われます。付き合いが悪い、とか。空気が読めない、とかも』

 少し困った様に、けれど小さく笑いながら頷いた姿が有ったからこそ――自分は彼らを信じてみる事にしたのだろう。少なくとも、狂気に浸っている訳でもなければ、暴徒化している訳でもない。少々“活動的”ではあるが、無暗な乱暴狼藉を犯す程に倫理観を壊している訳でもない。何より……。

 「――――ん」

 スウスウ、と。静かに、小室と宮本の間で眠る娘を見る。手狭では有るが、暖かいのだろう。小さな娘が安心して休めているらしい。

 幼子は人間の本質を見抜く。小学二年生の娘が信頼していると言う事は――まあ断定は出来ないが、それでもいきなり車から投げ出すような人間ではないだろうし、殺される心配もないだろう。
 だから、普通に提案も飲めた。

 『希里さん。すいませんが、協力して下さい。河川の中州でエンジンを切って、交代で休みながら見張ります。水の中だと自由に動けないようですし、昨日からの増水で水の量も多いので、危険は其れほど無いでしょう』

 ハンヴィーの中にあったクロスボウも、使って下さい、と手渡された。

 『これを武器として貴方に渡すのが、信頼の証拠です』

 上手い方法だった。休息中、自分や娘に何かが有れば、これで抵抗が出来る。しかし、自分が何か不審な動きをすれば、常に起きている彼らの内の二人が、此方に銃を向けるのだ。
 そして。実際に、そんな出来事が発生するという心配は――――正直に言おう。していない。我ながら気楽だと思うが、あの怪物から自分を救ってくれた、そんな経験で、不安と懸念が払拭されている。

 (そう、つまり。運が良かった)

 偶然と幸運のお陰だ、と思う。自分達親子は信頼出来る学生を見つけ、彼らが純粋に助けようと思った相手が、自分達だった。唯それだけの話なのだ。
 今現在。時刻は、午前四時を回った所だ。二時間程起きて、静かに周囲の様子を伺っているが特に何もない。上で見張っている女子二人も、何も言ってこない。

 ハンヴィーの上で見張っている女性二人が、毒島冴子と高城沙耶。

 前者は、女子剣道高校総体の優勝者。地域で話題に成った侍少女。

 後者の高城は――――此方も、聞き覚えのある名前だ。彼は海外出張や国際関係が主として働いていたから、曖昧にしか覚えてはいないが、確か『憂国一心会』という、床主を基盤とする右翼団体のトップが、そんな名前では無かったか。まずは一番近い彼女の家に向かう、とも語っていた。

 無論、家が無事かどうかも……定かではないのだろう。だが、覚悟をした上で、家族の無事を確認しに行こうとしている。その気持ちは良く分かる。自分も、同じ様に行動するに決まっているのだから。

 今日一日を、生き延びられるかは解らない。しかし、少なくとも――――こうして安心して休息が取れる事は、有り難い。
 少なくとも、死ぬまでの時間は、もう少し伸ばせそうだった。




     ●




 太陽が昇る数刻前。己が原因で廃墟と化した御別橋の下に、身を隠す『彼』が居る。

 (……ココナラ、良シ)

 彼の認識では、ふう、と。傍から聞けば、ゴフウ、と。獣の唸り声の如く息を吐きだし、その身を休める。再生と修復、回復まで多少の時間を有するのだ。流石に上手く体が動かない。

 『彼』が此処まで、体を休める理由は二つあった。

 一つ目。それは、高城沙耶のトラップの効果だ。銃傷やダメージ自体は大きくないが、何より相手の策略の狙いが、見事に的中していた。即ち、高熱や高圧電流による筋繊維や神経へのダメージだ。
 生物の肉体を構成する蛋白質は、多少の差は有れど高熱で組織が崩れてしまう。人間が風邪を引いた時に出る熱が、最高でも42、43度程度で、それ以上に上昇しないのはその為だ。『彼』の肉体は、無論、そんなちゃちな温度で支障を受ける事はないが、エマルジョン爆薬の最高燃焼温度は数百度を超える。流石に熱い。

 電流もそうだ。脳からの電気信号で体を動かす以上、例えダメージは少なくとも、その身に電流を流しこめば何処かで被害が出る。RPGで例えるならば、状態異常・火傷&麻痺と言った所だった。体力に問題が無くとも回復までに時間が必要になったと言う事である。

 (……痛クハ、無イ、ケド)

 そう、苦痛は無い。
 しかし、例え状態異常が治っても、回復時間は必要不可欠だったのだろう。

 二つ目。これは、より『彼』の現在の状態に関わる事だが――――今の『彼』は、人間形態に戻っている。

 昨晩、途中から意識が曖昧になっている。朧気な状態で暴れていた事実を、半分程度しか記憶に留めていないのだ。肉体が勝手に暴走した、と言う表現が正しいのだろう。

 致命傷を負った時に肉体が強制的に暴走し、絶大なる回復能力と運動能力を抱えた状態に変態する。その再生能力たるや、昨晩の戦いを顧みれば十二分に把握出来る。そして、命の危機が去った後に、狂気から解放された上で体が元に戻る。実に都合の良い肉体だった。

 ただしその分、体力は使う。死の淵から蘇るエネルギーは尋常ではないのだ。

 こうして大橋の下で、ゆっくりと休息を取る理由も其処に有った。
 『餌』は十分に摂取してある。『彼』の歩いて来た道路の道沿いには、無数の屍が積み重なっているのが、その証明。あとは、時間を懸けて己の体を修復し、再度に動けるようになるまで、この場でじっとしていれば良い。

 (ソレニ、シテモ)

 緩慢に、後頭部を橋脚に寄り掛からせながら『彼』は思った。
 このままじっとしているのは、少し時間の無駄だろうか。休める事に全力を尽くす、それ自体は文句の無い行為だが――――。

 (鞠川サン、ハ。……川ノ、上?)

 水で嗅覚が上手く働かない。しかし、直前までの匂いを探索するに――あの後、自分から離れて車を河へと乗り入れ、溯上していったのではないだろうか。『彼』の居る辺りから、ぷっつりと匂いが途切れている。空気の中から感じ取ることも不可能ではない、が……。

 (自分、一人ハ、少シ)

 追うのが、大変だと思った。回復してから追い掛けるにしても、このまま追い懸ければ、多分、昨夜の二の舞になってしまうだろう。

 己が、あの先生や、その仲間に嫌われている事は学習した。考えてみれば初対面だった。しっかりと初めましてと挨拶をして、これこれこんな理由で話が有るのですが、と接触しないと失礼だろう。

 お姉ちゃんも、――――いや、お姉ちゃんだったか? 定かではない。が、兎に角。昔、誰かに「礼儀は大切にしなさい」と教えられた。

 健全なコミュニケーションの為には、まず、理解される所から始めないといけないのだ。

 (頑張ロウ……)

 自分が轢かれた時、一緒に死んでしまったあの少女は、理解してくれたのだ。同じ様にやれば、多分、大丈夫だ。

 実際はここまで理性的ではないが、こんな感じの流れで、前向きに考える事にした。言いかえれば、歩けるようになって二日目の夜。三日目の朝に成って、やっと『彼』は学習したのである。

 紳士的に動けば、相手も様子を見るだろう、と。

 最も、己の“容姿”が最大の障害である事は「全く」「微塵も」「欠片も」認識が無かったのだが。

 (……ドウ、シヨウ?)

 『彼』は。
 ここにきて、自分一人では色々と難しい、という事実を認識していた。
 小さく呟き、視界の大半を占める橋の下部と、今尚も暗闇に覆われた空を見上げた、その時だ。

 ふと『彼』の耳に飛び込んで来た声が有った。
 犬の鳴き声。それも、かなり若い子犬と呼んでも遜色ない、声だった。
 声の出所は、すぐ傍で――――。

 「……ソウ、ダ」

 ふと、一つの考えを、思いついた。
 何故かは知らないが、多分“それ”は、出来ると思った。

 四足歩行に変化可能ならば――――同じ同胞として、統率が可能なのではないかと、思ったのだ。




     ●




 現状、地球上で、世界情勢に危機を募らせていた生物は、人間だけだったと言っても良い。

 野生動物は何時もとなんら変化の無い弱肉強食の生活を送っていたし、元々人間社会に関わりなく生きていた昆虫を初めとする各種生命体は、例え屍山血河が築かれようと、同じ様に過ごしている。

 個体数・約七十億。数としては確かに多いかもしれないが、地球上で過去、幾度と無く繰り返されてきた大量絶滅を顧みても、決して珍しい数ではなかったのだろう。星からしてみれば、所詮、太陽の周りを何回か大きく回っている間に片が付く。

 しかし、人間以外にも、被害を被った生物がいた。彼らの手で育てられ、あるいは支配された生物達。それは、飼育される家畜であり、動物園の動物であり、そしてペットだ。

 今はまだ、世界崩壊から二日が経過し、三日目に入る所だから良い。
 しかし、これが一週間、一月と続けば、間違いなく家畜は全滅し、動物園の獣とペットは、餓死か逃亡のどちらかを選択する事と成るだろう。家から出られず干乾びるか、あるいは得物を求めて街中を彷徨うかだ。何れにせよ、生者を追い詰める事は間違いが無かった。

 自由に行動出来る獣は、其れだけで脅威となる。
 何も『彼』のような化物では無くても良い。
 《奴ら》に襲われない生物――――それだけで、メリットは余り有るのだ。




 午前三時。
 声が響いた。

 その声は、背筋を凍らせる咆哮であり、何処か人間が恐れる鳴声だった。怪物の冥府の底から響く様な声とは違った、別の意味で恐ろしい声だった。
 原初。人間がまだ今ほどに文明が発達していなかった頃から、脅威と見做していた声。

 遠く遠く、高く低く、朗々と悠々と。
 崩壊した町の夜に響く声は――狼の如き、“遠吠え”だった。

 ざわり、と。
 空気が、揺らぐ。

 騒ぎを聞き付けた生存者が跳び起き、異常を感じて僅かな隙間から様子を覗き見た程の、騒ぎだった。

 声に重なる様に、何処からか響く鳴き声は、犬の物。
 周囲数キロの範囲内の、飼い犬が、野良犬が、一斉に――――鳴く。
 始まりの声に応える様に、応じる様に、顎を上げて。
 伝播する鳴声は、重なり、波の様に押し寄せ、返されては響いて行く。
 山に隠れ住む野良犬から、床主動物園の狐や狼まで。
 まるで、何か大きな意志か、支配者に鬨の声を上げるかのように。

 応酬は、数分もの間、只管に続き――――そして日が昇った時、太陽が二つの事象を露わにした。




 一つ。昨晩の遠吠えの発生地点は、御別橋の架橋が中心だった事。

 一つ。その御別橋を中心とした、半径一キロ以内の野生動物が――――それこそ、人間と《奴ら》以外のあらゆる生物が、命辛々何かから逃げるかのように、姿を消した事だった。




     ●




 ハンヴィーの屋根の上から、周囲の様子を眺める。

 「うわ、……すっごいわね。流石に」

 高城沙耶は、朝日に照らされた車の様子を見て、声を上げた。

 《奴ら》の群れを思い切り轢いて、その上を乗り越え、しかも結構な時間を走り抜けたからだろう。どす黒い血を初め、車体にはベッタリと河に入るまでの逃走劇の痕跡が残っていた。

 ボンネットから、ナンバープレートと正面ライトを通り、車体下まで。河で現れたお陰か汚れ自体は酷くないが、公道を走っていれば職務質問は免れない程、一目で分かる血の色だ。

 「ああ。……酷いな」

 隣に座る毒島冴子が同意した。彼女が見ている景色は、車体では無く、河の様子だった。
 河の――――ハンヴィーの周りには、水没した死体が漂いながら下流へ流されて行く光景が有る。エンジン音に惹かれた亡者も多かったようだが、此処は河の中腹。中洲の上。昨晩からの雨で増水したお陰で流れは速く、成人男性の腰辺りまで水位が高まっている。

 エンジン音に誘き寄せられるのは良い物の、そのまま行動不能へ陥り、そして溺れる様に漂って行くばかり。水中では自在に動けない《奴ら》の特性も相まって、この中州は一種の聖域となっていた。

 「下流は地獄だろう、多分な」

 「そうね」

 二人には容易に想像が可能だった。河に落とされ、あるいは間抜けにも立ち入り、流された死体の山。それが湾内に所狭しと犇めき合っているのだ。船舶の設泊や海洋生物にも支障が出ているだろう。
 上流へ向かって昇る方向で進路を取った彼女達の考えは、正しかった。

 「――――さて。眼を閉じてても仕方ないわ。皆を起こして先に進みましょ。もう少し上流までは、十分に行けるでしょうし」

 「ああ。……所で、高城。君は犬が好きか?」

 「は? 何よいきなり」

 唐突過ぎる彼女の質問に、状況を呑み込めず、思わず素のままで返す。

 何故、犬。どうして犬? 何か気に成る事でも有ったのか? 余りにも場違いな言葉に、動きが止まり、ついつい呆けてしまい、再度稼働するまでに数分の時間を有した位である。

 「犬? 犬ってアレ? 動物の」

 「そうだが」

 「いや。私は別に、特に犬が好き、って訳じゃないけど……。それが如何したの?」

 「いや。……丁度、右の岸辺を、一匹の犬が走っているのでな」

 え? と思って目線を向けると、確かに其処には一匹の子犬が走っている。吼えてもいない。小柄な体格と良い、まだ暁闇と言っても良い時間帯だと言うのに、良く気が付いた物だ。
 首輪が付いている所を見ると飼い犬。しかし、リードは既に無く、手綱を握るべき人間も見えない。主が死んで、そのまま何処かに逃げ出している、と言う事で良いのだろうか?

 「……確かに犬だけど。――――アレが、如何したの?」

 「いや。――――昨晩も、あの犬を見た気がしてな」

 まあ、別に気にする事の無い、それだけの話だ、と彼女は語り、静かに立ち上がるとハンヴィーの中へ声を懸ける。不安定な足元だが、微塵も揺らがない。昨夜、一番に怪物へ向かって行った事も含め、彼女より戦闘能力に長ける人間も、この状況下ではそうもいないだろう。

 そんな事を考えていると、高城の代わりに、彼女が動いた。ハンヴィーの中に居た彼らを呼んだのだ。

 「さて――――皆。朝だぞ。起きたまえ」

 元々皆、余り眠りは深く無かったのだろう。この状況下では無理も無い。逆にいえば、“眠れない”と言う事より遥かに適応能力が高い証拠でも有る。まあ、熟睡できる平野コータの精神構造は、感心を通り越して呆れるが。
 凛とした彼女の声に、直ぐに、全員が眼を覚ます。

 「あー。……朝か。起きるか。……――――って麗! 近い、近いぞ!」

 眼を空け、身を起こそうと腕を付いた先。小室孝は偶然にも隣で眠っていた宮本麗に接触してしまったらしい。朝っぱらからお熱い事だ。手が何処に触れたのかは見えないが、慌てぶりを見るに、多分胸だろう。狭いとはいえ、隣り合って眠った時点で、慌てるも何もないと思うのだが。
 そもそも、宮本が小室に惹かれている事は、周囲の承知の所だし。

 「……パパ?」

 「ああ。お早う、ありす。……少しは休めたかい?」

 二人の間から身を起こした少女・希里ありすは、助手席の父親に手招きされ、そのまま前に進む。

 ハンヴィーの収容人数は、成人男性六人分。軍事車両故に積載重量は余裕だが、スペース的には余裕も無い。運転席に一人。助手席に一人と半分。屋根の上に一、二人。荷台に三人と荷物で、やっと全員を運搬出来るのだ。言い換えれば、これ以上を積む事は出来ないのである。他を助ける余裕はなかった。

 「先生。運転出来ます?」

 「ん~。……頑張るわあ」

 小室の隣。なるべく身を縮める様に、銃を抱きながら眠っていた平野は、早々と眼を覚まして手を動かし始めている。器用に銃の確認をし、窓から様子を伺い、運転席で眠っていた鞠川静香に訊ねる。

 「無理なら言って下さい。――――希里さん。運転できますよね?」

 「ああ。友人の従軍カメラマンから、一通りにレクチャーを受けた程度だがね」

 「十分です。――――あ、それと先輩。周囲に《奴ら》の姿は?」

 「見える範囲では無いな。――――このように」

 ダン、と軽く屋根を踏み、鈍い音を立てるが、その音を聞いて動く者の反応も無い。
 死体は流されて行くだけだし、中州まで到達出来る亡者もいない。増水がこのまま続くのならば、此処にもう少し留まっても良い程だ。水位が保たれるのは精々が今日までなので、今の内に動くしかない、と既に知っているが。

 「――――少なくとも、僅かならば音を立てても大丈夫そうだ。長い時間は無理だろうがな。何か考えが有るのか?」

 「ええ。勿論」

 彼は、静かに告げる。
 人間にとって重要な、大切な要件だ。

 「朝御飯を食べましょう」




 恐怖に震え怯えながらでも食事が出来る者と、そうでない者の間には明確な差が存在する、と言う。言いかえるのならば、怖がりながらも生を見据えて行動出来る者と、怯える事しか出来ない者の差、という事実を証明しているのだろう。

 彼らの場合は、完膚なきに前者だった。

 本日の朝食、と決められた中から食料を引っ張り出し、分配する。そろそろ危なそうな品が多かった。一日目にコンビニで確保したパンを中心に、パック入りの野菜ジュース。希里親子の分は当然ながら足りなかったが、予備から捻りだす。後でもう一回、荷物整理が必要だろうか。

 しかし、平等に食事を取る。

 バケツで河から水を汲み、半分に切ったペットボトルに、炭と砂利と砂を層にして敷き詰め、上から注ぐ。それだけで飲み水としては不安だが、タオルを濡らして顔を拭くには十分だった。

 無論、音を極力殺している為、余り活発に動く事は出来ない。しかし、強張ったままの体を伸ばし、外の空気を吸い、そして流氷の如き死体で現実を確認する。
 それだけで、随分と頭の働きは違うのだ。

 「あ~。……鬱になるな、この光景」

 「そうだね。一生、お目に掛かりたくない光景では有ったよ」

 それが不可能だ、と言う事は既に十分に理解出来ている。唯の軽口に過ぎないし、互いに過去形だった。正直、動揺も少ないのだ。この先、生きて居る限りは、まず逃れられない景色だろう。

 希里親子も、理解しているのだろう。本来は子供に見せる景色では無い。しかし、章氏は、ありすにしっかりと見せて、言い聞かせていた。

 正しい選択だ、と思う。泣いても喚いても解決しないのだ。大人がいる時は頼れば良い。それは、あのくらい小さな子供の持つ特権だ。けれど、いざという時に、泣いているだけでは何の意味も無い。

 その考えが酷である事は、自分達で良く分かっている。
 それでも、望まなければならないのが、今の世界だった。




 エンジンを駆動させても、音に惹かれる《奴ら》はいなかった。

 これを、幸いと見るか、それとも嵐の前と見るかは、人それぞれだろう。しかし、河を昇っている今は、どちらにせよ、束の間の安息である事に違いはない。全員、いざという時の覚悟は出来ていた。

 河を道として徐々に郊外へと向かって行く車の上から、土手の上を眺める。
 視界の中、果たして生者の家は、どれ程に存在するのか、と思いながら、一つの細い橋の下を通り過ぎた時だ。

 トサ、と屋根の上に落ちて来た者が有った。

 当たり前の話だが、橋の下を通る時は最大限の注意を払っている。上から欄干を乗り越え、ハンヴィーへやって来る《奴ら》が居ないとも限らないからだ。だから、その音に、全員が一瞬、得物を構え。

 「あ、違う! 皆、落ち着いて!」

 屋根の上の宮本麗の言葉に、冷静になる。
 太陽を背に、格好良く橋の上から跳んだのは、亡者では無い。




 一匹の、子犬だった。




 突然の、しかし可愛らしい侵入者に、アリスを初め、一同が盛り上がる。そして、小室孝が気が付いた。

 「ん? お前。……それ」

 あん! と元気良く叫んだ子犬の口から、何かが零れ落ちる。
 賢いこの子犬は、何かを、大事そうに咥えていたのだ。

 「何を、持ってんだ?」

 ハンヴィーの荷台に転がった其れを、彼は拾い上げ、そして。
 目の前に見る“有り得ない筈の物”に、表情を凍らせた。




 「……写真入れ、いや、財布と――――“手紙”……?」




     ●




 偶然、という定義は良く分からない。けれども、良い事なんだ、という事は、なんとなく分かる。

 僕が痺れて動けなくなって、けれども死ぬ危険は減ったからだろう。ぼんやりとした意識が戻った時には、僕は元の体で倒れている格好だった。体を起こすのにも、歩くのにも、大変だった。

 何処へ行こう、と思った僕は、一つの匂いを捉えた。
 それは、南、と書かれた、鞠川さんが居た家の中から漂っていた――お姉ちゃんの、薫りだった。

 (ドウシ、テ……)

 どうして、お姉ちゃんの匂いが、この家からするのだろう?

 不思議に思った僕は、何処かに隠れる前に、家の中を見回る事にした。

 玄関も、壁も、屋根も、窓も、壊れてしまっていて、つまりそれだけ、この建物で大きな戦いが有ったという事なのだろう。ついつい僕も、加減が分からなくて壊してしまった。南さん(で、良いのかな?)に、もしも会えたら、部屋を壊して御免なさい、と謝らなければいけない。

 痺れた脚では歩きにくかったけれど、頑張って僕は、建物の中を確認していった。

 電気は使えなくなっていた。少し考えて、ええと、と思い出す。確か、家の電気は、電信柱を通って、流れているのだ。そして電信柱は、何時間か前に折られてしまった。なるほど、だから使えないのか。

 迷惑だなあ、と、先生と一緒に居た――――学校で一回見た、お兄ちゃんや、お姉ちゃんを思い出す。僕は何歳なのか、はっきり分からないけど、多分、僕より大きいことは確か、だろう。
 こーきょーの物は大切にしないといけません、と教わらなかったのだろうか。

 階段を上って、途中で一回転んで脛を打ってしまったけれど、泣かないで二階へ行く。お姉ちゃんの匂いは、二階から漂っていたからだ。

 大きな穴が開いた壁を見ながら中に入ると、機械が並んでいる。白い世界では見た事の無い物がたくさんだ。ええと――――テレビと、音楽を聞く機械は、分かった。「冷ぞうこ」とかも、戸を空けてみて分かった。僕の知識では、もっと大きかったけれど、きっと小さな「冷ぞうこ」も出来たんだろう。

 科学の進歩、という奴かもしれない。
 そうやって、ぐるぐると部屋の中を回っていると、床の上で、僕は見つけたのだ。




 それは、お姉ちゃんの匂いがする、一枚の手紙だった。




 多分、誰かが読んでいる時に、うっかり落としてしまったのかもしれない。
 漢字が多かったから、中身を全部読めなかった。でも、僕は分かったのだ。

 お姉ちゃんは、あの白い世界。病院の深い世界から助ける前に、この部屋に来て、お友達に手紙を残して行った。
 そして、死んだ人が動くという「緊急事態(よめない。きんきゅう、……?、かな?)」を使って、僕を助けようとした。けれども、その途中で、失敗してしまったのだ。
 そして、死ぬ前に、お姉ちゃんは、僕に、鞠川先生に会う様に、伝えたのだろう。

 (ア、レ……?)

 どうして? と思った。

 お姉ちゃんの言葉の通り、動く事は、やれる。

 でも、どうしてかな、と思った。“何が分からないのか”が“分からない”けれど、頭の中に、消えない謎がある。雲みたいにふわふわした、形が見えない、謎が出た。

 お姉ちゃんは、弟の僕を助けに来てくれた。
 命を落とす前に、僕に「友達の鞠川先生に会え」って言った。
 厚い財布のような、入れ物に入った写真を見せて、これを見せれば良いよ、と言った。

 お姉ちゃんが、僕に言いたかった事は、つまりそう言う事だ。

 (何、ダロウ……?)

 何か、変な気がした。
 違和感、と言う表現は、こんな時に使うのだと思う。
 しかし悲しい事に、考えても分からない。

 時計の針が、だんだんと遅い時間になっていた。子供は早寝早起き、と昔――多分、お母さんか、誰かに言われた。眠くないけれど、何か疲れている。何処かで休もう、と思った。

 仕方が無いから、僕は手紙を持ったまま、南さんの家を出て、ゆっくりと身を隠す所を探す事に、決めた。そして橋の下に、隠れたのだ。




 (……動カナイ)

 全く動けない、訳ではない。しかし、回復まで時間が懸かる。河を昇っている鞠川静香を追うには、少し苦しかった。そこで『彼』は思ったのだ。

 (……手伝ッテ、貰オウ)

 自分で動けないのならば、誰かに動いて貰えば良い。
 実に論理的な思考だが、生憎、この場で『彼』を助けてくれそうな人間はいなかった。
 其処で、思ったのだ。

 (エエト。……ワンワン、カナ?)

 ならば、他の生き物に助けて貰おう、と、

 動物と話をする事は出来ない。人間ならば常識とも言うべき知識である。

 しかし、人間の望む意志を伝え、その意志を組み取って動かす事は出来る。実際、調教師という職業も存在するのだ。賢い野生動物は、主人や仲間、群れの統率者という事実を認識すれば、例え相手が人間でも従順になる。

 無論、生態系的に困難な生物も多い。高度な知性を持つ生物で、役に立つと言えば、類人猿や犬だろう。フェロモンを操れれば、昆虫を支配出来たかもしれないが、今の『彼』に知識は無く、不可能だった。

 兎に角――――『彼』は思ったのだ。




 部屋に落とされていた鞠川先生へ手紙と、『渡しなさい』と言われた写真。

 二つを、目の前の子犬に届けて貰おう、と。

 子供ゆえの、無邪気な発想は、しかし実行が可能だった。




     ●




 「……何だよ、これ」

 思わずそんな声が出てしまった。首輪に、その辺で拾ったゴミっぽい紐で結えられ、その上で子犬に咥えられていた代物を見る。随分と粗雑な結び方だ。途中で落とさなかったのは、この犬が咥えていたからに他ならないだろう。

 品物は二つ。

 一つは、南リカの家に置いてきてしまった手紙。鞠川先生宛だったが、高城沙耶らが読んで、そのまま返しそびれ、怪物の襲撃と共に失ってしまった物だ。
 もう一つは、厚手の、財布の様な、良く分からない物。真っ黒に焦げた表面を持つ謎のアイテム。小銭や紙幣を見るに、財布だったのだろうが……。少なくとも、小室には良く分からない。

 しかし、何故二つがセットなのだろう? まさか誰かが犬に運ばせた、とでもいうのか。

 (……んな馬鹿な)

 直ぐに否定をする。誰が何のために、そんな事をするというのだ。

 仮に―――― 一番、理性的に考えるのならば、手紙の匂いを辿って自分達を追って来たこの子犬が、途中で謎の財布を咥えた、と言う事だ。いや、それでも無理が有るか。しっかり首輪に結ばれていたし。
 思考が堂々巡りに陥ってしまったのは、小室だけでは無かった。

 子犬。
 写真。
 手紙。

 これを繋ぐ鍵は、一体、何なんだろうか? と全員が考える形に成る。別に些細な事だったのだが、河を遡るのは車と鞠川静香の仕事だったし、今の見張りは宮本麗だ。ハンヴィーの荷台で各々が思案に耽ったのも無理はないだろう。

 そんな時だ。

 「あ、……ちょっと貸して」

 高城が口を挟む。その顔色は、もしかして、という色に覆われていた。
 渡された財布(らしき物)を上下左右に眺め、空に透かせながら何かを確認する。

 「これ、……うん。そうね。間違い無い。……皮にセラミック粒子配合と――――中は炭素繊維? おまけに、耐水耐電か。しかも、細工加工済み……無駄に金が懸かってるわね」

 ぶつぶつ、と何かを呟いている。要所要所に聞こえる単語が、不吉だった。
 取りあえず、真っ当な品で無い事は分かるが。

 「あの、高城さん……」

 「何?」

 そこまで確認して、おずおずと懸けられた平野の声に引き戻される。周囲を置いてきぼりにした事を思い出したのだろう。疑問を瞳に浮かべた全員の視線を向けられ、赤くなりつつも、軽く謝った。

 「何か不審な点が? これを知ってるのか?」

 一同を代表して声に出した毒島冴子に、応じる。

 「御免。思い出した。――――ええとね。……不審な点、って訳じゃないけど」

 高城は財布を手に取り。




 「コレ。財布に見えるけど、……財布としても使えるけれど、本来の用途は財布じゃないのよ」




 そんな事を言った。

 「……と、言うと?」

 続けて放たれた言葉も、やはり全員を代表した剣士のもの。
 見張りの宮本麗や、運転席の鞠川静香も、話を聞いている。

 「写真でカモフラージュされてるけれど。――――裏に、秘密の収納スペースがあるの。縦横三センチ四方。厚さは五ミリ前後、かしらね。知らないと、まず大人でも気が付けないわ」

 昔、ウチのママが子供向けの御土産として、似た様な品をブルガリアの博物館で買って来たわ、と話す。子供向けの品だが、多分、今も高城家本邸の何処かに仕舞われているだろう。

 「すっごく単純に言うと――――こっそり何か“小さな物”を持ち運ぶ為の道具なのよ。子供っぽく言うと……スパイ的な意味で」

 スパイ的な意味、と言っても所謂、産業スパイや、国家公務員的な意味だ。過去と違い、昨今のスパイは――――要するに、情報の泥棒と言い代えても良い。情報化社会に適応した工作員だ。
 当たり前だが、入手した情報を手に入れ、それを持ち帰るまでがスパイの仕事である。それと無く対立の社会組織に入り込み、機密情報を入手する。それを流す。大事なのは、データの海に存在する情報を手に入れる方法と、流す方法だ。

 詳しい事は省くが、つまり“そう言う仕事”の為の道具だ、と彼女は語る。
 秘密裏に仕舞われる物は、大体がICの類なのだそうだ。

 「……ただこれは、趣味の為、自前で金払うには過ぎた代物ね。耐火耐熱耐水耐電対衝撃、と五拍子揃った高級品。専門職人に個人注文したレベル。一応、既存の科学技術で十分に実用可能な品物だけど――本気で、一個人が手に入れようと思ったら、云十万は軽く必要かしら?」

 「……は、あ?」

 全員が唖然とする。そりゃそうだろう。目の前に、忘れ物と共に出現した財布は、なにやら訳有りの品。しかも、訳有りどころか劇薬のレベルだったのだ。手元に出現した品が、そんな特殊な物という事実に、固まるのも無理はない。

 というか、余りにも話が飛躍しすぎていた。

 犬。咥えて来た手紙。ここまではまだ良い。しかし、其処に付随した写真。送りつけた相手も、狙いも不明。しかして、写真と一緒に仕舞われていた物は、如何やら重要そうな品。

 関連性が、さっぱり見えてこない。
 この現状において、一体、どれ程に大切な情報だと言うのだ。

 「中身は、無事かしらね……?」

 全員の沈黙を受けたまま、彼女は気にする事無く、指を動かす。
 写真の裏に有る“何か”を探っているのだ。昔の玩具の感覚を思い出し、慎重に手を動かす。やがて高城沙耶は、静かに見えない隙間に指を入れ、内部の物を引っ張り出した。

 それは、銀色の見るからに危なそうな代物だった。




 全長は二センチも無いだろうか。横幅も一センチ弱。厚さは数ミリ。
 全体を金属らしき物質で覆われた小さな道具が、取り出された品物だった。




 「……それは?」

 一体、と尋ねた全員に、示す様に、

 「これはケースよ。保管用の頑丈な奴。二重の器にして、中の保管対象へ万全を期す、って訳。残念ながら。こっちの私は開け方は、知らないけど――――」

 「あ、僕分かります。それなら」

 「だと思ったわ」

 肩を竦め、彼女は平野へ銀色のケースを手渡した。彼ならば解錠の方法を知っているだろう。確認こそしていないが、大体は見当が付いている。所謂、特殊部隊や国家公務員が持つ品だ。アレは。
 軍事マニアの平野ならば、開封方法も知っているだろう。

 運転席の鞠川静香は振りむけないし、屋根の上の宮本麗は顔を下げられない。しかし、全員が手元へ意識を向けている事は間違い無かった。その中で、意外と器用な指使いで、ケースを。

 「――――開きました」

 平野が開封する。
 誰の持ち物かは置いておくとしても。犬に運ばせ、届けさせた品物だ。『本来の運び手』が事情を知っていたかどうかは別としても、あの写真と共に有る事で価値を生み出すモノな事は間違いが無い。

 ならば、その中に、一体、何が入っているのか?

 開いたケースには、絶縁体と電磁波防止機能が組みこまれている。当然の処置ね、と確認しながら、静かに彼女は『中身』を引っ張り出し、全員に見せた。




 「これ。PC用の半導体メモリね。多分、まだデータは無事よ? ――――誰の、どんな危険な情報が入っているのかしらね?」




 余りの展開に、やはり呆気に取られた皆が、再度、首を捻る。
 当たり前だが、場違いすぎる情報に――――誰もが困惑していた。

 全員が気を取り直し、兎に角、高城家に到着してから考えよう、と結論に落ち着く事と成るまで、約五分の時間が必要と成った。




 しかし、実は、この時。
 メモリを手に持ち、言いながら。

 高城沙耶は、その飛び抜けた頭脳によって一つの推論を導き始めていた。

 己れ以外の他の面々を置き去りにしたまま、思考が高速で流れ、仮説を組みたてていた。
 顔には出さない。否。出せなかった。それは、余りにも、有り得ない。同時に、認めたくない推測だったからだ。

 否定をしたかった。しかし、冷静に考えれば、否定できない、推論だった。
 メモリよりも遥かに重要な、これを運び届けた“相手”への、飛躍とも言える推測から導かれた結論だった。



 犬。連想されるのは昨晩の犬の鳴き声。

 写真に映る鞠川静香。繋がるのは写真の入った財布には、黒く焦げた“燃焼”の痕跡。

 手紙。中身は――――病院に家族を救いに行った、鞠川静香の親友であると言う、一人の女性の事。

 その他、幾つかの情報が、パズルのように組み合わさり、形を作る。

 此処まで揃えば、嫌でも連想されるのだ。

 (そうだとしたら……)

 もしも彼女の頭にふと過った、その仮定が正しいのだとすれば。
 余りにも、最悪的なまでに不幸な、その考えが的中しているのだとすれば。

 高城沙耶は、密かに思った。




 昨晩、自分達が接触した「あの怪物」は、もしかして。

 《奴ら》とは違う、確固たる意志と目的を、持っているのかもしれない、と。
















 主人公。平和的な異能・犬との意思疎通能力を習得。『追跡者(ネメシス)』が、ケルベロスを操れるようなもんだと思って下さい。序に、第一・第二・第三段階へのオート変態能力もゲットしました。

 主人公と小室達を繋いだジーク。少し学習した主人公。気が付き始めた一向。凄く裏の有りそうな“お姉ちゃん”こと故・棟形鏡と、二話から引っ張って、やっと回収できた写真(と同封されたメモリの秘密)の伏線。

 これで少しは、良い方向への進化と、その行く先が明るくなった…………なんて事は有りません。

 次回、紫藤先生の輝かしい活躍にご期待下さい。

 そろそろ小室達にも蝶々効果でダメージを与えよっかな……。


(11月24日・投稿)



[20613] 第十話 『The “Tyrant” way home』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/02/07 00:58
 ※久しぶりの更新ですが、今回は紫藤のターン。裏で普通に悪い事しているなーという、原作裏話的な話です。『追跡者』の陰も薄いですが、どうぞ。










 特別な材料は必要ありません。
 誰でも持っている、何処にでも有る物で十分です。



 人間の積み重ねて来た知恵。
 必死に手に入れた技量。
 親族が生み出した権利。
 他者を踏みにじる為の地位。
 要求される社会的立場。
 抑圧から逃れようと手にした知識。
 壊せない檻に封じられた体験。
 負を抱かせた喪失。
 傲慢さに抑圧された精神。
 従順を取り繕う仮面。
 煮詰まり続ける私怨。




 それらを、一つの舞台に投げ入れれば良いのです。




 倫理観が狂い始めた世界に劇場を構築し。
 邪魔されない環境を舞台として。
 自分を信じる人形を役者に。
 疑う無意味な雑魚を観客に。
 歪んだ性根と。
 優しい狂気と。

 そして最後に、スプーン一杯の悪意を加えて演出すれば、それで完璧です。






 カチ、とスイッチが押され、画像が浮かび上がる。
 それは外部の様子を記録した物だ。

 十数分程前まで撮影されていた、御別橋周辺で活動していた警官隊。パトカーの中には保護した民間人が乗せられていて、群がる死者の魔の手から必死に守護すべく奮闘していた光景だ。

 画面に映るその数は、明らかに少ない。死者の数も少ないが、それ以上に、今尚も現場に留まって使命を全うしていた者が、少なかった。
 有る者は己の頭を撃ち抜いて自殺をし、有る者は恐怖に駆られて逃げ出し、有る者は職務よりも私人の感情を優先し、今尚も留まっているのは、家族や身内の心配が無い、留まる事しか無い人々だった。

 彼らも、積極的に活動は出来ない。他の場所に移って行った《奴ら》も多いとはいえ、今尚も周りには数えるのも面倒な程に犇めいている。下手を打って呼び寄せれば数に飲まれる。
 いっその事、逃げれば良かったのだ。しかし、車両に乗せた一般人を含め、周囲には大量輸送に適さない車種ばかり。警官隊を運んで来た護送車は、床主大橋での爆燃で使用不可能。ほうほうの体で何とか形にしているが、砦としては陥落寸前だろう。
 無線は沈黙し、上からの命令は一向に降りて来ない。状況を呑み込めずに唯解決しろと不満を募らせる者も出る。彼らに出来る事と言えば、留まり、何とか場を収める事だけ。しかし解決する筈も無い。

 貴重な人的資源が、時間と共に失われて行く。
 画像は、状況を解決に導く誰かを、求めていた。




 カチ、と画像が変わる。
 次に画面に映ったのは、一台のマイクロバスだ。

 車体には藤美学園と書かれたバスは、軽めに見積もっても二十人以上を搭載できる。上手い具合に周囲に死者の姿は見えなかった。運転席から眼鏡を懸けた身形の良い青年が下りて来ると、彼は警官に向かって、笑顔を向ける。
 会話の後に、警察は彼を驚いた顔で見つめ、そして……やがて頭を下げた。
 青年の合図と共に、バスからは七、八人程の学生が下車する。そして、丁寧な仕草で徒歩のまま、乱す事無く動いて行く。自分達よりも他者を優先する姿は、立派だった。立派すぎて、まるで演出に思えるほどだった。

 画像が代わり、今度はバスの中に、警察で保護されていた人々が乗り込んでいく様子が映る。――――青年は学生達と共に、バスを他の人々に譲ったのだ。
 青年に何かを話し、学生の一人がバスと警官を助ける為に残ってもいる。
 バス一台が有れば、彼らは皆、ここでは無い何処かに避難する事が出来る。安全な場所を探すのは難しくとも、留まる必要はなくなったのだ。移動を選択して当たり前だった。

 彼らは皆、バスを譲ってくれた藤美学園の教師と生徒に、感謝をしている事だろう。
 そして、その選択を取った彼らを、映像は美化している事だろう。




 カチ、と更に映像が切り替わる。
 そして、次に移った物は――――。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第十話『The “Tyrant” way home』






 紫藤浩一は、他人も、そして自分でも共に認める優秀な人間である。

 父親が紫藤一郎という地元出身の代議士である事を差し引いたとしても、評価は変わらない。最高学府を卒業する頭脳。一流には及ばないが高い運動能力。判断力や統率能力も優れている。外面だけ見れば、完璧と言っても差し支えの無い存在だろう。

 しかし、世の中に「完璧」は無い。才色兼備と言っても、表に出ない欠点が存在するのが、当たり前。紫藤浩一も例には漏れなかった。
 彼は確かに優秀だった。問題が有るとすれば、唯一つ。その内心は、余りにも鬱屈しすぎていたと言う事に限るだろうか。

 気の良い信頼のおける青年の仮面を被った、その裏では、煉獄の如き狂気が渦を巻いている。
 人間が持つ、人間だからこそ持てる様な、心が産む澱を、その裡に宿している。
 誰もが持つ負の感情や、囚われる衝動や、緊急時に露わになる本性や――何処までも、人らしい精神が、抱えられている。

 無論、彼も元からそんな性格だった訳ではない。子供の頃は良い子だった、と言う事は簡単だろう。しかし、彼の人格形成に如何なる理由が有ろうとも、今の彼が歪んでいる事は誰にも否定が出来ない。
 彼自身、自分が歪んでいる事は自覚している。
 彼の中に有る感情は、二つだけ。




 己をこうして生み出した紫藤家を終わらせる事。
 そして、その為にはどんな非情な手段でも使用し、生き延びると言う事である。




 『何が悪かったのか』を議論するのは無駄と言う物だ。彼の親かもしれない。彼の出生かもしれない。彼の人間関係かもしれない。あるいは彼自身かもしれない。運命や人生といった概念的な品かもしれない。

 結果として彼は、ある意味、とても正直に行動するようになった。
 現代社会の闇の縮図を、そのまま集めて煮詰めて固めたかのような、本質と成った。
 他者を蹴落とし、甘さを削ぎ取り、他者を裏切り、仮面の裏で全てに興味を無くし、利用し、利用され、権力中枢に食い込みながら、徹底して制御した理性と、途切れる事の無い感情で――――目的を実行に移すようになった。

 そして、世界がこうして終焉を迎えても、彼の性根は変わらない。
 突き詰めて言ってしまえば、それは、他者への悪意と自己保身だった。




 丁度、小室孝一行が河を遡上し、高城沙耶の家へと向かっていた頃の話だ。




 視界に映る光景は、普段ならば目を疑う物だ。

 まさに廃墟、と表現が相応しい。
 重機に解体される途中で放りだされたかのような、半壊したメゾネット。屋根は潰れ、窓は割れ、壁は罅が入り、地面に広がるのは家に繋がる電線だ。丈夫な筈の門は壁から叩き壊され拉げ、外部と地続きになった玄関は空虚な内部空間を晒している。まるで暴風雨の後か。

 (いやいや、これはまた)

 凄い状態だ。道すがら、荒れ果てた家は結構な数を見て来たが、此処まで酷い家も無い。
 どうしてこうなったのか? その答えを導くヒントは、目の前に置かれていた。
 置かれていたというか、放置されていた。

 道路を塞ぐように、一台のマイクロバスが駐車されている。フロントガラスには罅が入り、塗装は焦げて剥げかけている。しかし、多分、まだ動く。……バスに書かれている文字を見るまでも無い。自分達が乗っている物と同じだ。藤美学園保有の、部活遠征に使用される代物だった。
 彼の知る限りでは、このバスを此処まで運転して来れた人間で、該当するのは一人だけ。
 養護教諭・鞠川静香だけだ。

 (……ふむ)

 時計の針を見る。既に太陽が昇った、午前十時前。

 二日前に学園を抜け出し、慎重を期して行動し、途中で何か“邪魔だった怪物”を跳ね飛ばし――――その後、遠回りをしながら安全な場所を探して来た。後部窓ガラスは罅が入って穴が開いたままだし、明らかに事故車として扱われるのに相応しい状態だろう。
 学園下の最寄りのコンビニは、既に自分達が付く前に目ぼしい物は盗られていた。まあ、街中を抜ける最中に多少の食糧は確保して(泥棒して)生徒達に分け与えて有るが、このまま乗り続けるのも不味い。

 この二日間、飴と餌と言葉を利用して牽引してきたが。
 ここらで、もう少し手綱を握らないと、不味い。

 性欲を利用して彼らを操るのは、もう少し先だ。快楽は一種の逃避行動。故に、適当に与えるのでは――――“終わった後に”支障が出る。安全な場所の目星が付くか、あるいは確信が持てるか。

 いざという時に行為の最中だった、では困るのだ。
 自分自身が生き残る為にも、従順な人形は数多く確保しておいた方が良い。

 (利用させて貰いましょうか)

 静かに、考え込む様な態度で、彼は運転席で沈黙する。
 無駄なアイドリングも止めた、完全なる停車だ。生徒達の方も、この二日間で学習している。つまり、音を立ててはいけない。そして、生き延びる為には紫藤先生の邪魔をしてはいけない、だ。

 紫藤浩一は確かに優秀なのだ。
 学園から生徒を脱出させ、食料や雑貨を入手し、二日間の間死の街を彷徨って生き延びている。時には乱暴に、時には慎重に、時には大胆に、出来る限り生存確率を高めつつも行動して来た。南リカの家周辺に辿り着いたのが、小室孝らより丸一日遅かったのも其れが原因だ。
 だからこそ、生徒達も今は大人しく従っている。元々彼が担任だったクラスの生徒達である事もそうだが、彼の持つ手腕や才覚に依存するように――――思考を誘導して来た。

 人間の考えを誘導する事は、実に単純だ。
 緊急事態である事を認識させ、混乱している間に正しく思える指針を示してやる。説得でやる気を出させ、安心感と共に依存心を高める。納得出来るだけの材料と、偽善で心を守ってやることも忘れない。別に思考が逃避しようが構わないのだ。仕方が無かった、と納得させるだけの道具で、心が壊れずに使えれば良い。使えなかったら捨てれば良いのだし。
 手段と、利用方法を、纏める。

 「さて皆さん」

 にこやかな、学園生活で浮かべていた爽やかな笑顔の仮面を被りながら、彼は生徒達に告げた。

 「人助けをしようでは有りませんか」

 その言葉が、此処まで胡散臭く聞こえる男も、そうはいなかった。






 紫藤浩一は、バスを見て確信していたのだ。

 あの怪物。自分達が轢き、跳ね飛ばし、逃走に成功した『障害物』は、少なくとも鞠川静香の運転するバスを追って行ったという事。そして、昨日から今日に掛けての間、あの家の前で、怪物との大きな戦闘が有ったと言う事だ。
 この現状では。学園の鉄門を叩き壊し、速度の乗った車で轢かれても支障なく動ける「化物」以外――――あんな惨状を生み出す事は出来ない。手持ちの携帯電話のテレビ機能で、大橋での中継も視聴していた。異常っぷりは良く、この上なく、把握出来ている。

 直接、視認してもいる。紫藤浩一は、自分の行動を覚えている。名もなき少女と一緒に行動していた『奴』を、彼の運転するバスが躊躇せずに轢いた。あんな化物と一緒に居る時点で、少女が普通の筈が無いと判断をして、実行した。それは別に、其れだけの話。誰に聞いても、常識的だと言うだろう。

 誤算が有るとすれば、怪物の生命力と身体能力。まさか加速したバスに――――跳ね飛ばして速度が落ちていたとはいえ、追い掛け、しがみ付くとは、考えられなかった事だ。しかし、結局それも、振りきれた。

 (そう、つまり)

 「南」と書かれた、既に役目を果たしていない表札を遠目に見て、紫藤は確信した。
 あの怪物は、このバスよりも、鞠川静香らの方を、優先しているのだ。

 怪物を轢いた。これは両方のバスに言える。いや、単純に被害を与えた、という部分ならば紫藤達の方が大きいだろう。何せ“怪しい少女”を巻き込んでいるし、加速と遠心力で引っぺがして適当な外壁に叩き付けてもいる。
 しかし、それでも化物は自分達では無く、もう一台を狙った。怒りこそすれ、執念深く追ってはこなかった。紫藤達がこの二日間で見かけた物と言えば動く亡者と逃げる生者。そして落日世界だけだ。

 これは明らかに、一定以上の知能が有る生物の行動だ。外見からすれば、野生の獣並みに執念深くても良い筈なのだ。しかし、そうではなかった。なぜならば――――『彼』(性別不明だが、多分、男だろう)にとって、自分らより彼らの方が、より重要だったからだ。

 もう一つ。
 『彼』が意識を向けているのはバスでは無い。バスは追跡のヒントではあるが、目的では無いのだ。だからこそ、南家に放置されたバスに、拘泥する事無く、姿を隠している。では、何に意識を向けているのか、と考えれば、自ずと答えは出る。
 その答えは、バスの乗客以外には有り得ないのだ。

 (恐らく……)

 紫藤は、一連の流れを、推測する。

 あの『彼』は、藤美学園に出現した時、狙う相手を定めた。そして、対象を最も高い優先順位に指定した。鞠川静香ら一向の中の“誰か”を追う事にしたのだ。音や匂いを初めとする材料と、学園保有のマイクロバスを負えば、可能だろう。
 その途中、自分らと遭遇し、追いかけても来た。しかし、少なくとも『彼』は怒りや人間の死より、“誰か”を追いかける事の方を優先するのだ。だから、自分達を追ってはこなかった。アレから一回も遭遇していないのがその証拠だ。

 自分達が動いている間、二日間を懸けて『彼』は、目的の相手へ到達した。しかし途中、大橋で大騒ぎを発生させてしまい、その為に――――バスの乗客達に迎撃準備をさせてしまった。細かくは分からないが、高城沙耶、毒島冴子といった、この状況下に頼りになりそうな人材が、鞠川静香と一緒に居る事は、学園で遠目で見えている。
 恐らく、大橋の一連で、彼女達も――――『彼』が、己らを追っている事に気が付いていたのだ。

 そして時間的にはおそらく夜。『彼』と、藤美学園生徒との戦いが発生する。結果は、なんとドロー。圧倒的に不利だと思われたが、しかし結局は引き分けに持ちこまれた。両者共に死ぬ事は無く、また戦場を変えて再戦する事と成るのだろう。
 南家には生徒の死体が転がっている様子はなかった。家を一つ犠牲にして、また事前の準備も含め、かなり手を尽くしたのだろう。倒れない筈の電柱を(電信柱が倒れても、電線で支えられるのが普通だ)倒している事や、焼け焦げたアスファルト、焦げたバイク、悲惨な家の様子からも伺える。

 (ならば、)

 ……生徒達は撤退に成功したと仮定する。一時では有るが怪物を足止め出来たとする。
 地面には、何か大きな物を引き摺った後が有った。それは、惨劇の中心から伸び、道路の真ん中を通り、何処へと続いている。これは十中八九、怪物の足跡だ。歩き方を見るに、怪我か障害を負っている。血の乾き具合から見ても、まだ遠くへは行っていない。

 まだ遠くへ入っていないという事は、自分達が襲われる可能性が若干ながら出現するという事。
 そして、負傷を癒している今ならば、多分、直ぐに行動すれば――逃げ切れるだろうという事だ。

 驚くべき事に、このような思考で、紫藤は昨晩の事件の全貌を、ほぼ、推測し、そして的中させていた。
 そして彼は、最終的に、こう結論付ける。

 (……利用、出来ますね)




     ●




 大橋の下で静かにしていたら、如何やら眠ってしまったらしい。

 そう言えば、白い世界を抜け出した後、殆ど睡眠をとっていなかった。真っ暗な中、一人で寝るのが怖かった、という事も有るけれども、やっぱり温かさが無いと眠れない。体に流し込まれる薬で眠る事も多かったのだろうけど、常にお姉ちゃんの感覚が有ったから、何処か安心していたのだと思う。

 体を休める前に僕が渡した写真と財布を、あの子犬さんは、届けてくれたのだろうか?

 (……届クト、良イナア)

 ついつい頑張って犬の鳴き声を真似したら、思った以上に大きな咆哮が出てしまって、自分でも驚いた。お陰で、夜中だって言うのに、周りの犬は反応するし、迷惑だっただろう。外の世界は良く知らない僕でも、静かな中で大きな声を出すのはいけないだ、と言う事は分かる。

 何故か猫とか、鳥とか、虫とか、そういう生き物が挙って逃げて行ったけれども、一体何故だろうか。

 物真似に反応した犬の皆も、親しく、と言うよりは怖がっている雰囲気だった。あの子犬さんだけは、目の前にいたせいか、逃げる事も無く、頼みを聞いてくれたけれど。

 (……意志ダケハ分カル)

 思った。言葉は通じない。けれど、何を如何して欲しいか、という此方の意志は通じる。相手が、何を求めているかも、なんとなく読みとれる。人間が言葉を操れるように、動物が啼き声を使用する。その仕組みを、取り入れていた。
 犬と会話が出来る時点で、色々と変なのだが、それには気が付かない。

 (ア、デモ……)。

 あの子犬さんは、果たしてしっかり届け物を完遂出来ただろうか。子犬に無理をさせるのは良くなかったかもしれない。途中で落し物をしている可能性もある。はたまた、河に落ちて流された、とか言ったら、困るではないか。

 自分が渡してと頼まれた写真に、子犬さんの命も、危ない。

 頭の中で、一つの光景が浮かんだ。ふらふらの状態で、必死に足を奮って進む子犬だ。まだ若く、小さいのだが、瞳の中に強い意志が浮かんでいる。その子犬が、何処かに向かって一生懸命なのだ。
 目的地はまだ遠く、広がるのは長い道のり。そして助けてくれる者もいない。

 (……泣ケル?)

 少し、悲しくなった。頼まなければ良かったと思った。無論、『追跡者』の外見として見れば、想像も不可能な表情だ。二メートルを軽く超える気色悪い巨人が、『フランダースの犬』を見ると泣いてしまう位に純情だとは誰も思うまい。

 『彼』は、悲しいお話は嫌いだった。母親の寝物語の記憶が残っている訳ではないが、何時か誰かに何処かで語られた痕跡は残っている。序に言えば、怖い話はもっと嫌いだった。

 要するに、苦手な物は子供が苦手な物と等しいのだ。そして、性格も純情その物。常識はないが、仮に日常で生きていたら、さぞかし可愛がられただろう人格だった。仮に誰かが、『何よりもお前の外見が怖い』と言い、それを聞き付けたら、ショックの余り、布団の中に引き籠ってしまう。

 (……良シ、起キヨウ)

 兎に角、一度、思ってしまうと気に成って、もう一回眠る気には成らなかった。幾ら春先で温かかったとしてもだ。実は心配性の気も有ったのかもしれない。

 よっこらせ、と体を起こすと、その身体は既に万全に近い状態だった。鞠川静香の匂いを辿る事は難しいが、子犬の匂いは追跡が出来る。そして、街中に多く潜むイヌ科の哺乳類は、自分一人では到底にえられない程の、多くの情報を伝えてくれる。
 別に急ぐ必要も無い。普通に動けば、それで追い付ける。仮に追うのが難しくなったら、また真似をして訊ねれば良いのだ。今度は……そう、ゴミの代わりに死体を漁る烏とか、虫とか、爬虫類に。

 ゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをする。

 それは、寝起きの一動作というよりも、倒した筈の怪物の再復活、とも言うべき光景だった。
 大量の銃弾を叩き込み、失神させた筈の異形が、目の前でもう一回起き上がった様子を想像すれば良い。

 「――――  」

 欠伸をしただけなのだが、如何見ても咆哮だった。

 ゆっくりと体を動かし、暖かな太陽の日差しを浴びて、お散歩気分で橋下から出る。草は若緑。河縁の小花が可愛らしい。今日も穏やかな、白い雲が漂う平和な天気だ。岸辺の花の周りには蝶々が飛んでいる。
 そんな中を、死者と死体が放置されたままになっている事だけを除けば、何も問題が無い光景だった。
 風と共に、春の香りを感じ取る。

 (……ン)

 おや、と思った。吹く風の中には、自然の匂いと血の匂い。更には腐敗した肉の匂いも混ざり、表現し難い薫りの渦を生み出している。しかしその中に、“嗅いだ経験のある”匂いを感じ取った。
 それは、何日か前に嗅いだ、優先順位故に、敢えて追う事を止めていた相手の芳香だった。

 (……アア)

 ふと意識が鋭くなった気分がした。酷く精神を刺激する、理性が解き放たれる様な薫りだ。
 己の血と、道路に広がった血の、拭っても拭いきれない、鉄の匂い。
 先程までの穏やかさを感じたまま、しかし頭の一部が、冷えた様な感覚を得ながら、彼はそちらに足を向ける。

 近い。間違いが無い。




 己と少女を轢いた、あのマイクロバスが傍に有る。




 咆哮に近寄った、生ける屍を退かしながら、彼は静かに――――ゆっくりと、歩き始めた。




     ●




 『彼』が預かり知らぬ所では有るが、『彼』の存在は、衝撃を持って受け入れられていた。

 民放のテレビで、所詮は日本の関東の一角での出来事。確かに情報として伝わったが、放送されたのは唯一、一回だけ。この混乱の中、遠く離れた場所に正確に伝わるまでには時間が懸かる。
 だから、幸いにも――――国家や政府といった機関から、大きく目を付けられていた訳ではない。……今は、“まだ”と言う言葉が付くが。

 しかし、直ぐ傍にいた生者達にとってみれば、何時、自分達に襲い掛かって来るかも分からない、一つの災厄そのものだ。その衝撃は、良くも悪くも、多くの人間に影響を与え、そして少しずつ行動を狂わせていた。
 ますます籠城を決め込む者。自暴自棄に成って心中する者。衝撃に後押しされヤケになって撃って出る者。そして感覚を研ぎ澄ませ、“冷静さ”を得た、数少ない者。

 それは紫藤浩一と共に、学園内から脱出した面々にも言えた。彼が率いる学園生徒の生き残りは七人。保身の為の本能か、目敏く紫藤から離れない事を選んだ夕樹美玖を除くと、残りは六人である。

 六人の中、幸いにも冷静さを得たのは――――。






 「君、良かったのかい?」

 制服に身を包んだ初老の警察官に声をかけられ、山田脩は振り向いた。
 御別橋に辛うじて残っていた生者。警官と僅かな民衆。十人もない集団を纏めているのが、二日間で自二十は老けこんだ様にも見える、この人だった。

 「さっきの皆と、一緒に行かなくて」

 その声は、疲労がにじみ出ているが、優しい。上司は左翼団体を銃殺し、同僚は娘の写真を手に自決し、後輩は逃亡し、それでも職務を遂行していた、根っからの警察官だった。
 彼と共に居るのは、山田少年を除けば僅かだ。警官が一人。女性と子供が二人ずつ。老人が一人。何れも、逃げる気力の無い、この場で動かない事が精一杯の、か弱い民衆たちだった。

 「……はい」

 良いんです、と彼は頷く。

 「なんか、こう……あのバスの中、少し、変だったんです。最初は僕も気が付かなかったんですけど……。宗教、というか。紫藤先生に従わない人は、その内に捨てられるような、そんな気がして」

 「そう、……なのかい?」

 多分、と彼は答える。
 極限状態の緊急事態、とはいっても、紫藤浩一の言動や態度は――何処か、少し変だった。
 脱出したり、あるいは逃亡したり……興奮状態で、まるで熱狂しているかのような状態では、まるで正論の様に感じられた言葉が、一歩冷静になってみると、何かが変に、何かが異常に感じられた。
 それを言わなかったのは、皆、疲れていてストレスが溜まっていたし、喧嘩や口論の原因を生みだして、輪を乱すのも良くないと思ったからだ。

 「それに、良いんです。――――僕は両親を、探しに行きたかったので」

 「……それは」

 山田少年の言葉に、警官は言葉を濁した。勿論、彼らは互いに理解している。この状況で、探し人が無事で有るとは、誰も確信を持って言えない。

 この警察官は幸いにも独身貴族だった。交際していた女性も居ない。両親は亡くなっている。だから仕事に全力で打ち込む事が出来た。そして運良く、こうして生き残っている。
 故に警官は、覚えている。一縷の希望に縋り、結局希望ではなく絶望を得た者の姿を、覚えている。そして、それでも尚――――縋らずにはいられないのが人間だった。
 少年は、とても真っ当な、普通の男子高校生だった。小室孝の天性の行動能力とも、平野コータの特殊な技能とも、あるいは紫藤浩一の変わらぬ狂気とも違う、ごく普通の、一般民衆としての思考であり、行動だ。

 「……良し、分かった。けれどもまずは、この場所から移動しよう。良いかい?」

 話題を変える。これ以上に思索をしても、今は無駄だ。

 窓の外には、数多くの死者が動いている。大橋の騒動も有って、近場に居た数百人の死者は一時的にだが片付けられている。だが、それでも尚、動く《奴ら》の数は余り有った。
 視界に入るだけで大凡、三十。それが途切れる事無く続いている。脚が遅く、各パーツが動けないほどに欠損している物も多いおかげで、まだ突破口を開く事は可能だが―― 一ヶ所に留まっている訳にも、いかない。

 「はい……」

 頷いた山田少年の肩を軽く叩くと、彼は覚悟を決めてエンジンを懸けた。
 鳴り響いた音に、死者達が一斉に顔を此方に向ける。そして、歩み寄り始める。襲われる前に、移動しなければならない。




 彼らがいるのは、嘗て藤美学園の生徒達が乗り、紫藤浩一が運転し、そして今、数少ない警官と市民の乗った――――バスの中だった。






 『人助けをしようでは有りませんか』

 そう言った紫藤の言葉に、何か危ない物を感じ取ったのは、決して山田脩の気のせいでは無い。
 非常に稀有な事に、彼は、紫藤浩一の言動の中の、何か怪しい部分を感じ取った。感じ取る事が出来たのだ。だから、場を見て、時期を呼んで、彼から離れようとした。

 山田脩は、良くも悪くも他人と強調するタイプだった。事を荒立てない。波並を立てない。大多数に付き、意見を同意で返す。典型的で保守的な思考の、良くいる普通の少年だった。その彼が、カリスマ性を持つ紫藤から逃げようと思えたのは、幸運以外の何物でもないだろう。
 仮に、彼が此処で離れなければ、恐らく近い内に、“協調性が無い”という理由の元、死者の中に落とされたに違いない。

 (……そう、これで良いんだ)

 あの紫藤という人間は、確かに凄い。何かは分からないが、兎に角、普通とは違う才能を持っている。危険になって初めて発揮されるカリスマ性が有る。それに惹かれなかったと言えば、嘘だ。

 けれど、本当に――――運が良かった。




 まさか、移動用の車を乗り換える、等と言いだすなんて。




 紫藤が、如何して乗り換えようとしたのかは、彼には分からない。件の教師は『このバスは危ないですから』と言っていたが、何処まで本気か分かった物では無い。

 (……多分、人助けをした事実が、目的なんだ)

 そう思う。非常時に他人を助けたと言う事実を、免罪符にして思考を誘導するのが、多分、目的だった。
 良い事をした自分達は正しい。間違っていない。だから何をしても許される。そう思わせておけば、言葉で自由に動く傀儡の兵隊の出来上がりだ。何時か紫藤に見捨てられたとしても、見捨てられた事を理解する暇も無く、そして最後まで信じて終わっていく。

 あの大橋で暴れた『怪物』を見てから、頭の一部が冷えたのだろう。考えずに従っているだけでは、何れ身内の毒で死ぬ事を、感じ取った。

 『良いですか皆さん! この世界で最も大事なのは、強調と、庇い合い助け合う心です! 外を見なさい。死しても尚、自分勝手に行動する、醜い亡者を! 皆さんは、アレとは違う。いいえ、私が同じには、決してさせません!』

 マイクロバスの中、両手を広げ、まるで教祖の如くに言い放った紫藤浩一に、疑いも持った者は、山田脩以外には、いなかった。
 誰もが目を輝かせて、聴き惚れていた中で、彼は一人――――その言葉の中の異常さに、気が付いた。
 狂騒や混乱が、複数重なったお陰で、逆に冷静になってしまった。

 『このバスは、まだ大勢の人を乗せる事が出来るでしょう。それは私達は、多くを“助ける”事が出来ると言う事に他なりません! ――――さあ皆さん、降りる準備を、しておいて下さい』

 普通の神経をしていたら、変だ、と、そう思えただろう。一見耳触りは良いが、良く聞いて考えれば、論理もかなり怪しい。言っている言動に矛盾が有るし、理性的に聞こえても最善手を出している訳ではない。けれども、バスの中でまともな感性や、神経を持っている者は、もういなかった。

 今迄が今迄過ぎたのだ。学校を脱出して、丸二日。紫藤浩一の言葉や行動で、確かに彼らは此処まで生き延びて来れた。従っていれば。従ってさえいれば、それで全く問題が無いと脳裏に刷り込まれていた。
 彼の勢いと、無駄な演出能力に、皆が籠絡されていた。

 (……怖い)

 正直、そう思った。何かは知らないが、紫藤浩一と共に居ては危ないと覚った。だから、山田脩は、一人、残りたいと告げたのだ。紫藤も止める事はしなかったのは――――多分、邪魔だったのだろう。己に迎合しない人間が、邪魔だったのだ。向こうも。
 だから、山田脩は、彼らから離脱した。

 高校生とはいえ、男手が増える事に警察官も感謝をしてくれた。既に彼には、家の近くまでで良い。乗せて言って欲しいと伝えて有る。
 両親が生きているならば合流する。合流出来ないならば……せめて、生まれ育った家で死にたかった。
 自分は、長生きの機会を不意にしたという意味では、馬鹿だろう。けれど、自分の意志で行動出来た。あの紫藤と言う人間の枠から抜け出せたという面では、賢かったのだ。

 (……家に付いたら、何をしようか)

 ゆっくりと、進み始めたバスの中で、彼はそう見えぬ未来を夢想した。




     ●




 今の世の中で動く事は非常に難しい。

 《奴ら》と呼ばれている、動く死者。オカルテイストに言えばゾンビなる種族は、一対一ならば特に怖くはない。筋力のリミッターが外れていると言っても、基本的に動きは鈍いのだ。武器が有って覚悟が有れば、女子でも簡単に倒す事が出来る。
 《奴ら》最大の脅威は数だ。数とは力であると伝えられる通り。一体でも残っていれば増殖していく怪物の群れ。大量破壊兵器を持って来ないと殲滅出来ない所が、何よりも生ける屍の恐ろしさだろう。

 ……最も、人間にしか適応されない理屈なのだが。

 「――  g、マ」

 ゴシャグシャグチャッ! と、近場のブロック塀に群がる怪物を押し付け、圧殺する。意外と簡単に潰れてしまった。飛び散る骨と内臓と澱んだ血を無視して、『彼』は、随分と良い感じになった体を動かして、周囲を見た。今ので、近い亡者はあらかた片付いている。

 殺人事件現場でもこうはならないだろう血の池を通りながら、その身を前へと動かして行く。その身は真っ赤だが、瞳の意志に揺らぎはなく、歩む足取りはぶれない。




 全身血塗れの、ただゆっくり、しかし確実に歩み寄る、醜悪な『追跡者』。
 『彼』の外見を説明すれば、そうなる。




 歩き始めて、一時間程か。
 ゆっくりと大橋から河上流へ動いていた『彼』だが、妙に道中に《奴ら》が多かった。道すがら始末した連中の数は、二十や五十では効かない。このペースで行けば、一週間もすれば街中の《奴ら》を始末出来るだろう。

 一時間に百体。一日続ければ二千四百体。一週間でなんと一万六千八百体だ。これは不可能でも何でもない。実際、床主市全人口の一パーセントを始末できるポテンシャルを秘めている。
 こうして『彼』がゆっくり歩いている間にも、首元から背中、肩口に生まれた触手が、ガッショガッショとご機嫌に顎を動かして“食事”をしているし、そのお陰で肉体も万全に近い。この世界で、最も自由に生き、自由に生活できるのが『彼』だった。

 ただ、苦労が無い、訳ではない。
 呼吸を殺せないので息が荒い。時々うっかりして側溝に足を踏み外す。足元ばかりを見ていたらカーブミラーに頭をぶつけた事も有った。この『彼』、意外とドジっ子なので有る。

 最初に体を得た時から、結構な時間が経った。以前は出来なかった、歩く事も、走る事も出来る。泳げないでも浮ける。ジャンプも出来るようになった。
 この辺り、不思議な物で。頑張って歩いていた内は、歩く事に集中していたから問題が無かったのだ。しかし今は、余裕が有る分、注意力が散漫になった。あるいは逆に前進に集中しすぎて、思わぬミスを生みだしている。

 要するに子供。半日前に毒島冴子に指摘された通り、体を初め、諸々の使い方がなっていないのだった。
 力技で排除できる《奴ら》には圧倒的だが、技と知恵で戦える人間に不覚を取るのは、だからだった。

 常識を知らなかったのは、幸か不幸か。

 『彼』にとって、一向に学習しない相手など、怖くもなんともない。障害物にもならない。大きく腕を振れば飛んで行くし、思い切り掴めば捻じ切れる。向こうの攻撃は通用しない。しかも、美味しいご飯にもなるのだ。恐れる筈が無い。

 そもそも通常の平和な世界、という概念が、『彼』にはもう怪しい。彼にとっての世界は他者に閉じられていた。だから、死者が闊歩していようが、常識外れだろうが、“知識と比較して異常”だから他者に恐れられる物は、彼には全然怖くない。

 彼が怖いのは、即ち子供が怖がる物だ。暗闇であり、苦痛であり、孤独で有り、親しい相手の消失であり、人からの悪意でもある。誰にでも体験は有るだろう。しかし、記憶を失った彼には無い。残っていても、記録でしかない。実感は失われている。

 仮に、最強の肉体と言う物を得た代価を、『彼』が払うのであれば――――人間ならば経験して来ただろう“それら“になるのかも、しれなかった。






 (……チカイ、ナ)

 クン、と、既に崩れた鼻孔で匂いを感じ取った。爬虫類などが使う「ヤコブソン器官」の働きによるものだが、勿論『彼』にそんな認識はない。嗅げる物は嗅げる。それだけで十分だった。

 自分を轢いたバスが近い。自分の匂いと、あの時一緒だった少女の血の匂いが有る。如何やら、動いていない。遠ざかっていないのだ。しかも、何か音がする。

 (……オソワレテ?)

 襲われているのかもしれない。確かに、自分を轢いて少女を傷つけたあの人達には、怒りを覚えている。けれど、襲われている人を助けないのは、何か違う、と思う。助けてと言われたら、助けてあげるべきなのだ。きっと。

 お姉ちゃんは何時も優しかった。だから僕も優しくした方が良い。中々難しいけれど、分かってくれた人もいたのだ。だから、きっと、……大丈夫だろう。

 『彼』の進む先に《奴ら》が多かったのも当然だった。彼の行く先に追う対象が有って、そして対処が音を発していた。だから、相手に近寄れば近寄る程、亡者の数は多くなる。

 (……アレ、カナ?)

 人一倍背が高い『彼』は、川沿いの大通りの中に有る、一台のマイクロバスを発見した。

 グジャアッ、と藪を掻き分ける様に、群がる死者を押しのけ、前に前にと進んでいく。雑草を引き抜く感覚で千切っては投げ、圧力で斃れた《奴ら》を踏み砕き、戦車の如く突き進む。まさに蹂躙が相応しい光景だが、本人は至って真面目にバスへ近寄っているだけである。
 近寄って、詳細を確認する。

 (……イナイ?)

 ほんの僅かだけしか見ていないけれども、自分を轢いた人達と違う事は、分かる。
 扉の前で斃れる警官も、苦悶の表情を浮かべて死んでいる乗客も、あの時とは違う人達だ。




 ツン、と目や鼻、喉に染みる、嫌な空気がした。

 『彼』が数日前に割った窓はテープで塞がれ、亡者達を誘き寄せる様に、鳴り続ける携帯電話がべったりと一緒に付着していた。

 エンジントラブルか、バスは、既に動いていなかった。




 中の乗客は、既に唯の一人も、生きてはいなかった。




     ●




 「せんせー、実は性格悪い?」

 「何の話ですか、夕樹さん?」

 助手席に座る夕樹美玖に話しかけられ、紫藤は冷静に返した。

 この夕樹美玖という少女。学園内でも何かと不穏な噂が絶えなかった。高校生離れした肉体と美貌を存分に利用し、その身体を捧げて取り巻きを囲い、権力を手にしていた。紫藤は蔑んでいたが、何と教師の中でも籠絡されていた愚図がいたほどだ。
 成績が特別良い訳でも無い、出席日数や内申も問題が有るのに、色々言われつつも、しっかり己の権力を確保している抜け目の無さも有していた。

 「なんとなく思っただけよ。……私と似ている気がしたから」

 「謙遜も甚だしいですよ、夕樹さん。貴方と私では、同じ立場に有る筈が有りません。貴方は生徒。私は教師。皆を率いる立場に有る私を、如何して疑いますか?」

 穏やかな口調だが、紫藤の中には既に、捨てるか、という意識が働いていたりする。
 人形に勝手に動かれては困るのだ。役に立たない奴は、捨てて来る方が良い。現に先程、既に山田脩を下ろしている。下ろす様に仕向けたとも言うのだが。
 降りても良いですよ? と言ったら素直に降りて行った。馬鹿な男子だと思う。

 緊急事態に置いて、役に立たない人間を、簡単に命ごと捨てる事が出来る非情さは確かに大事だ。だが、向ける方向が徹底的に自己に向かっているのが……この紫藤浩一と言う男だった。

 「…………そうね。大丈夫、疑ってるわけじゃないわよ」

 うん、と納得した様子で、彼女は何も言わず、外を向いてしまった。言葉の中に嘘は見られない。紫藤を疑っているのではない。しかし妄信している訳でもなさそうだ。

 注意が必要ですね、と冷静に。あるいは冷酷に考えながら、彼は車を運転して行く。
 バスよりも遥かに駆動音が少ない、他の生徒が乗る後部に、情報発信機材を詰め込んだ、一台の大型車。




 彼らが今乗る車は、テレビ局が保有していた中継車だ。




 昨日の昼は床主大橋で。そして夜以降は御別橋で情報を流していた中継車は、乗り捨てられたように置き去りにされていた。無論、車として十分に使用する事が出来る。
 最後まで職務を全うしたテレビクルーは、ほぼ全員が死亡していた。昨夜のテレビ放送を、最後まで見ていた人間は知っているだろう。放送の最後が、如何なったのかを。

 昼間に出現した怪物の大暴れと、河へと転落した光景。
 夜半に発生した、警察官が騒音を生みだす左翼団体を射殺した光景。
 それに対して発生した暴動と――――大きな音に集まった《奴ら》による甚大な被害。

 テレビカメラが、迫りくる彼らを移し、そしてクルーの悲鳴が響いた所で、カメラが転がって止まった。

 運転はテレビ局のスタッフが行っていた。彼らはまず死んでいる。そして、紫藤が大橋に着目したその時にも、誰一人、中継車を盗んでいない。……だから車は、動くのだ。まさかあの緊急事態に、何時でも車が発進出来るよう、報道人がしていなかったとは思っていなかった。

 警察が乗って来た装甲車があった。四人乗りのコンパクトカーも有った。中型セダンも有った。荷運び中のデコトラもあった。
 けれども、紫藤は此れを選んだのだ。助手席の片方に夕樹美玖が。中継機能を維持している機材が乗った後部に、残った生徒達が乗った。

 車は、《奴ら》の少ない道を選び、進んでいく。マイクロバスより操縦は面倒だが、頑丈で車高が高く、しかも防音性に優れている。かなり優秀な車種だ。

 紫藤浩一は、“乗り換えられれば”中継車でなくても良かったのだ。鍵が付いたままの車の中で(影の薄い、黒上という生徒に言って、しっかり確認を取らせておいた)、様々な用途に使えるから、中継車を選んだだけだ。
 すぐ近くにいるだろう、匂いを辿って来る“あの化物”を捲く為にも、バスを捨てておきたかった。
 おまけに、生徒達に“良い事をした”という錯覚を植え付ける事も出来る。

 「先生、後ろの生徒から質問。――――『積荷の中に有った二リットルボトルの清涼飲料水が、何本か消えてるんだけど、知ってる?』だって」

 「ええ。……知っていますよ」

 紫藤浩一は、笑いながら――――さも親切をしたかのように、“正直に”答えた。

 「バスと一緒に、置いてきてあげました」




 紫藤がバスを引き渡す前にしておいた小細工は、些細な事だ。



 ガソリンの中に清涼飲料水を数リットル混ぜておいたとか。

 後ろのタイヤを少しだけ刃物で傷つけておいたとか。

 音量設定を最大にした携帯電話を、アラームをオンにして割れた窓硝子に張り付けておいたとか。

 不安定なバスの片隅に、封を開けた洗剤と漂白剤をセットで置いておいたとか。




 たったそれだけの、小さな行動である。




 (さて、もう随分と離れましたが……)

 マイクロバスの乗客は長生き出来ないだろう。エンジントラブルと塩素ガス、そして音による《奴ら》の襲撃で死ぬ。まず間違いなくだ。自分から逃げ出した賢い、しかし所詮は小僧でしかない山田少年には、精々哀悼の意を示してやろう。

 紫藤浩一にとっては、生者も死者も関係が無い。己の目的の為に全てを利用する男にとって、怪物の一体や二体、道具と違わない。

 (……後は、折りを見ての、編集と研究ですかね?)

 紫藤浩一が、この中継車を望んだ本当の理由。
 それは、昨晩の映像記録を利用しての、情報の発信と解析だ。

 上手に扱えば、一角千金になるだろう『追跡者』の映像を手に入れる為だった。

 その為だけに、態々、バスに余計な小細工をしたのだ。情報は、独占してこそ価値を持つのだから。




 繰り返し世間に流して、自分の救出や、地位の向上に、使わせて貰いましょう。




 そして、生き延びて、紫藤家を消す。
 心の中で、彼は歪んだ、狂気にも似た笑みを浮かべた。
















 「紫、藤――――――――――ッ!」

 バスから離れた何処かで、その悪意から必死に生き延びた、山田脩が憎悪に駆られて叫んだ事も、知らず。
















 お久しぶりです。

 今回は、本編の裏の御話。原作主人公勢は影一つ見えません。主人公を虐めるのでは無く、普通に他者を殺した紫藤のお話です。もっと非道で残酷な事をさせて、もう少し皆に殺意を湧かせたかったなあ……。第三話並みのインパクトが欲しかったかもしれません。
 この後も、高城家、床主第三小学校と、害悪を撒き散らして、盛大に外道っぷりを見せつけ、最後の最後に死ぬ予定です。それまで紫藤が原因で何人の死者が出るかは、作者にも分かりません。
 でも今回、紫藤死亡フラグが一つ立ちました。

 序に初登場の夕樹美玖。他の紫藤の生徒達と違って彼女も死にそうにありません。要領の良い悪女っていう言葉が似合うかも。原作に色を付けつつ、良い仕事をして貰います。

 さあて、そろそろ主人公に一回、人間に絶望して貰おうかな……。

 次回から、高城家篇に入ります。


 (2011年2月7日 投稿)



[20613] 第十一話 『Does father know the “Tyrant”?』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/08/07 16:44

 鍵盤を叩く事を覚えたのが、何時からだったか、私は覚えていない。

 気が付いたら椅子に座り、ピアノに指を走らせてばかりいた。きっと其れは、音だけが私が感じられる、外の情報だったからだろう。

 私は目が見えない。育ててくれた先生によれば、生まれた時に病気を患って、それで眼が見えなくなったのだという。生後何ヶ月かで視力を失ってしまったから、私は外の世界を見た事が無い。いや、有るのかもしれないけれど、殆ど覚えていない。当たり前だ。

 けれども別に、特別困ってはいなかった。
 確かに眼は見えないけれど、耳は聞こえる。言葉も十分に操れる。足だけは動かないけれど。

 見えないから危険を予知できないけれど、日常生活だけは、本当に困らない。歩道には点字ブロックがあるし、最近は各所に点字が刻まれている。保護者が付いて回っていたけれど、車椅子で動く事も出来た。
 健常者と同じに動く事は出来ないけれども――――私は私なりに、満足していたのだ。




 こんな状況に、なるまでは。




 私は、静かにピアノを弾いている。

 外に出ても何も出来ない。だったらせめて、自分の世界で死にたい。そう思っただけだ。
 鼻に付く焦げ臭い匂いも、直ぐ傍で鳴る炎の音も、そして『置いて行かれた』という事実も、私は演奏で覆い隠す。自分の短い一生を思い浮かべて、その際に得た全てを込める様に。

 (……神様)

 私は、神様を信じていた。自分を保護していた施設は教会だったし、人生が不幸ばかりじゃないと思っていたからだ。けれども――――どうやらその考えは、違っていたらしい。

 「……悲しいな」

 ポツリ、と私は呟く。

 生みの親はいない。育ての親もいない。身内もいない。友人も既にいない。
 私をこの部屋に押し込めた園長先生は、部屋の外で悲鳴を残して倒れて行った。多分死んだだろう。それまで私を面倒見ていた保育士は、狂乱状態で飛び出し、子供を見捨てて逃げて行った。彼女が生き延びられるかどうかは知らない。

 部屋の中には私一人だ。自力での脱出は不可能。非力な私では、園長先生が命懸けで閉じた扉は開けられなかった。仮に火災が発生しなくとも、きっと私は飢え死にだ。
 命を落とす。それ自体は、こんな身体に成ってからずっと考えていた。だから少しは覚悟が有る。でも寂しく静かに。何よりも“何もないままに”死んでいく事が、少しだけ悲しかった。

 「誰でも、良いよ」

 ガラ、と建物の何処かで、何かが崩れる音がする。
 焦げる、嫌な匂いが一層、鼻に付く。
 香りが焦げ臭い。まだ部屋は燃えていない。だけど、時間の問題だ。

 私はもう一回、大きく鍵盤を叩く。

 建物の周りに誰かがいたのか、声を上げた者がいた気がしたけれども――――此方に入っては来ない。いや、来れないのだ。扉は遮蔽物で塞がれている。きっともう、家は随分、燃えている筈だ。見えない私には、分からないけれども、雰囲気でなんとなく分かる。

 「……誰か、来てくれないかなあ」

 返事は、勿論無い。私は静かに息を吐く。分かっている。助けは来ない。嘘か本当か、出歩く様になった死者。動く死体という存在に、齧られずに死ねるだけ、まだマシなのだろうか。




 私の名前は、七崎永海。
 十歳に成ったばかりの、可愛いらしい女の子。
 これから炎と共に消える、盲目の娘だ。




 轟々と燃え盛る建物が有った。
 赤く染まる光は、紅蓮の炎。立ち昇る黒煙に、科学製品と木材が焼ける鼻に付く臭気。
 普段ならばけたたましく鳴る筈のサイレンも、集まる野次馬も、何もない。ただ、燃える音と奏でられる調べに引き寄せられた、動く亡者達がいるだけだ。

 炎は燃える。

 普通の火災ではない。きっと人為的な物だ。液体燃料の異臭。強き焔は、孤児院らしき建物を燃やして行く。近寄る死者が熱で足を壊され、中に入る間も無く倒れて行く程に、勢いが強い。

 その中から、微かに音が鳴っている。何か懐かしい、何処か物哀しい……まるで子守唄にも似た、切々とした旋律。誰かが中で、ピアノを弾いている。




 ふと、耳に届いた調べに。
 『彼』もまた、その音色に耳を傾け――――そして、足を踏み入れた。






 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』
 第十一話『Does father know the “Tyrant”?』






 (なん、ダったっけ?)

 誰しも覚えがあるだろう。ふと耳にした曲。題名も、歌いだしも分からない。けれども旋律だけは耳に残っている。ほら、あの曲……そう思えて、頭の中で響いているが、結局はっきりしない。曖昧なまま消えて行ってしまう。そんな経験だ。

 耳に届く旋律は『彼』に、そんな感覚を与えた。視覚・嗅覚と同様に、聴覚も徐々に鋭く進化しているのだ。その内、超音波も捉えるかもしれなかった。

 さておき、長い病院暮らしでは、音楽など耳にした事が無い。あるのは無機質な電子音だけだ。けれども以前。『彼』が、白い世界に閉じ込められる前の記憶には、音楽が僅かに残っている。

 思い切り高校生達に迎撃されて以降――――そのショックで、頭がバグったのだろうか。
 昔の記憶。白い世界に入る前の記憶が、断片的に戻り始めている。
 何処かで、調べを耳にした事が有った。

 (……マ、あ。今ハ、いイや)

 目の前に燃えている建物がある。施設の名前らしい看板は……読めない。焦げている、燃えているという意味では無く、純粋に『彼』の知識では、読解不可能。そして読めても、それがどんな施設なのかも分からなかっただろう。

 『児童養護施設』という文字を、何処かで違っていれば、『彼』が此処に入っていたかもしれない名前を、彼は読めなかったし、知らなかった。

 建物は大きい。最初にバスに轢かれた時の、高校の建物、半分ほどだ。
 三階建ての色鮮やかな建物だが、今は各所に火が放たれ、窓ガラスからも黒煙が立ち上っている。炎のアーチを築いている正面玄関には、音を経てる靴箱が置かれ、清潔なプラスチックのタイル張りに、不釣り合いな血痕と倒れ伏す死体がある。

 鼻に付く、液体性の可燃物質が漂っている。ガソリンか灯油。鋭い嗅覚の『彼』にはキツイ。きっと暫くは、刺激で麻痺をして、上手く働かないだろう。
 火の勢いは不自然に強かった。不自然な割れ方の窓に、入口近くが荒らされた室内が見える。
 死者意外にも、この建物を襲った者がいたのだ。そして、オマケに火を放って行った。きっと、そう言う事だ。……なんとなく『彼』はそう推測した。直感でだ。

 悲しい音は、今でも中から響いている。

 轟々と立ち上る火の勢いは、大橋で巻き込まれた時に似ていた。弱まる気配は見えない。
 結局アレと、その後の小室孝達との一戦。あれで炎に対する耐性が出来た為か、体は殆ど熱を感じない。今もだ。常人ならば距離を取る位置でも、平然と彼は立っている。耐熱性に加えて、体内で不燃性物質が生み出されているからだろう。
 しかし、人間には熱いだろう。
 なんとなく、察する。

 (……アー、エエ、っと、助ケル?)

 この熱だと、中にいる人は、危ない。

 唇の無い、醜悪な顔が、ぐぎりと動く。
 巨木を支える足が、重厚に動いてゴシャ、と鈍い足音を床に響かせる。
 暴君は中に入る。既に玄関周りは火の海だ。靴も衣服も、既に火に焙られているが、頓着はしなかった。

 (……コノ、音)

 鳴る方に、静かに進んでいく。
 頭が天井に擦りそうになって、慌てて身を屈めながら進む。荒い息の音が、炎の音にかき消される。玄関から廊下に。廊下から建物の奥に。進んでいくと、段々と炎の勢いが弱まっている。ガソリンが巻かれていたのは、外側が中心だ。焔は内部に侵略を始めているが、それでもまだ、少しだけ安全な場所もある。

 見る者が見れば、この建物で発生した大雑把な経緯は、予測が付く。立てこもった建物で人間が襲撃。内部を荒らし、目ぼしい物を奪った後に放火をして去って行ったのだ。
 世界が狂い始めている、まさに証拠の様な建物だった。

 (……死ンダ、人)

 建物を進むと、ゆらりと死者が現れる。体が燃えていない所を見るに、元々ここに住んでいた者だ。ピアノの音に惹かれているが、音源まで到達できていない。

 『彼』の歩く音を聞きつけたのか、近くの開いた扉から、ぞろぞろと亡者が湧いて出る。
 どれも全てが子供。上は高校生くらい、下は幼稚園児まで。無残な顔で、うあー、と呻く子供の《奴ら》は、火よりも大きな音の鳴る方向に――――つまり『彼』の方向に、歩いてくる。

 (……邪マ)

 生前はさぞかし、可愛かったのだろう、幼子の《奴ら》を。
 暴君は、容赦なく叩き潰した。
 そしてそのまま、音の鳴る方に、進んでいく。




 『彼』は、死者の区別が出来ない。

 生きている人間を殺す気は、『彼』の意識としては、無かった。巨体と外見からは全く想像できないが、心は優しいのだ。優しいし、紳士的(表現とすれば、だ)になろうとしているし、礼儀正しい。少なくとも、そうあろうとしている。
 助けてと言われれば助けに行く。生者を傷つけるつもりはない。行動と内面だけで言うならば、この世界で『彼』ほど“普通”の精神状態を持つ者はいないだろう。

 だがしかし。
 『彼』は色々な意味で純粋だった。外の常識も、普通の感性も、全く違うのだ。

 暴君は、死者に抱くものが無い。純粋で子供であるがゆえに、無邪気で残酷だった。
 《奴ら》になってしまった者ならば、誰であろうとも殺しまえる。例え生前が子供でも、美女でも、赤子でも、そんな事は何も関係が無い。《奴ら》は《奴ら》だ。流石に顔見知りを“殺し直す”ことは、抵抗が生まれるかもしれないが、生前の《奴ら》を思わない。人を知らない『彼』にとって、想像が全く及ばなかったのだ。
 亡者は亡者。死者だ。そして、とびきりの餌である。其れを異常だと疑わない。事実さえ確固として有れば良い。小室孝らのように、『もう人間ではない』と言い聞かせて倒しているのではない。最初から、そんな葛藤を考えたこともなかった。

 「――――ガ」

 腕の一振りで、建物を徘徊していた一体を殴り潰した。可愛い桃色の服を着た少女の亡者だったが、それを躊躇すらしない。
 酷いとは思わない。何に比べて酷いのか。“何”が“どう”酷いのかが、彼には分からないから。

 (……ドイ、テ)

 《奴ら》を倒すという行動“それ自体”は間違っていない。しかし行動倫理は、余りにも稚拙で幼稚。そして盲目的だった。

 『彼』は、想像力が不足している。
 『彼』の世界は、非常に閉じられていた。閉じられる前の世界を覚えていなかった。世界が異常でも「まあ、そんなものか」で受け入れてしまう。死者が動く非常識にも、「そうだったの?」で済ませてしまう。悲しい事に、異常も通常も知らないのだから。
 考える力はあっても、人生経験はない。判断力も無ければ、想像力も未熟。いわゆる空想は出来ても「人間の裏」を読むことは出来ない。そもそも、人間を疑うことだって無い。そんな『彼』にとって最も重要なのは、自分を愛した“お姉さん”と、その言葉。あるいは自分に関わった生者の言葉だけ。

 主体性が無いのだ。
 頼まれたから。こうしなさいと言われたから。とどのつまり、命令を受けたから動いている。
 「兵器のような化物」と言われるのも、無理のないことだった。

 『彼』自身が何をしたいのか。『彼』自身が、何のために動いて、こうして存在しているのか。それが想像できない。考えたこともない。実年齢として見れば、第二次性徴すら迎えていないし、そこまで考える心に育っていない。
 子供のような倫理観。子供のような判断基準。知識も思考も子供でしかない。それでいて身体は、この世界で最も優秀な状態だ。歪な状態で、まともな結果が生まれるはずもない。

 『彼』は、子供だ。他人の行動の裏にある真意や目的を伺おうと、思考が向かなくとも当然だった。見るのは事象だけ。それ以外は、直感と感覚で掴むだけ。
 哀れだと、不憫だと、世界がまともならば誰かが言ってくれたのだろうか。

 鞠川静香と希里ありす。彼女達が今どこで何をしているか。彼女を追う為にはどちらに行けば良いか。それは身体能力で把握できる。そして、分かるから追いかける。
 けれども、その「先」が、分からない。



 そもそも『彼』は、彼女達に会って何をするのだろう?



 彼女達の現状も、彼女達の邪魔になるかもしれないということも、邪険に扱われるかもしれないということも、思い浮かべることが出来ない。……最後だけはもっと、丁寧に優しく接しよう、と一発目で盛大に攻撃を受けたから思っていたが、それだけだ。

 『あの少女は、人を見かけで判断してはいけない、と言って自分を恐れなかった。だから、他の人間も同じだ。皆と、僕と、同じだ』

 未熟な、霧で覆われた思考を纏めると、そうなる。
 経験が無い。人間の心が、そんな単純な物ではないことを『彼』は知らない。
 人間と言う存在を、知らない。この世界で、ある意味もっとも子供の心を持っているのが、彼だ。
 純粋であるが故に――迷惑で、災厄的な存在意外の何物でもない。

 「――――オ、オ」

 焔よりも尚大きく響く、『彼』の音に建物内部の亡者が寄り集まる。中には既に服や足が燃え、まともに歩く事も難しそうな者もいる。彼らを払いのけ、時折喰い殺し、たった一人の行軍は続く。
 人間が重機を止めるよりも、尚も圧倒的なまでの馬力差で。
 背後に残る物は、無残な挽肉と、骨や血と混ざりあった塊と、どんな屠殺現場でも此処まで滅茶苦茶ではないだろうと思えるほどに、力技による死体。
 ぐしゃぐしゃぐしゃ、と施設内の《奴ら》を駆逐しながら、『追跡者』は歩く。

 その姿は不吉な程に強く――。
 そしてきっと不幸だった。




     ●




 ならば。

 「……あの、会長」

 「どうした、土井」

 「歌声がします。――――生存者だと思うのですが」

 「なに?」

 周辺を警戒し、特性の車で外を回っていた男たちが、その調べに気が付いた事は、幸か不幸か。




     ●




 息が苦しい。空気が熱い。額に滲む汗が、顎を伝って落ちて行く。バキ、という建物が崩れる音。何処かで破裂する家電製品。割れた窓ガラスから空気が入り、勢いをますます強めて行く。
 見えないから、全ては想像だ。硝子も家電も、そして火すらも私は覚えがない。ただ、形だけは何となくイメージが出来ている。焔は熱くて危ない物。硝子は割れやすくて刺さる物。硝子が割れると、燃える為の酸素が補充されて、より激しく燃える……という話を、何処かで聞いた覚えが有る。

 私はこれでも頭が良い(らしい)。死んだ両親も頭が良かったそうだ。視覚情報が無い分、役に立たない知識の量は自慢できるほど多い。……馬鹿だったら、何も考えず、分からないまま死んでいたのだろうか。その方が、あるいは幸福だったのだろうか。

 ――――指が、もう時期に止まる。

 指が止まった時。それがきっと、私の最後だ。折角だから、死ぬまで指を動かしてみよう。上半身で息をしながら、それでも指を止めない。何故か止めてはいけない気がしていた。

 ガダンと扉の外で大きな音がする。
 亡者の足音よりも、ずっと重い音だ。焔で焼けて、扉の前の遮蔽物が崩れたのだろうか。

 目が見えない私は、その分、耳や肌の感覚が鋭くなった。気配を感じ取れるし、遠く離れた音でも拾えてしまう。その分、施設内での心無い言葉も聞こえていたのは、残念な思い出だけど。
 静かに扉の方向を向く。足元には展示パネルが有るし、位置取りは頭の中に出来ている。ピアノから右を向けば、出入り口の方面だ。防音機能も有している扉は、頑丈で結構重い。鍵もしっかり懸かっている。先も言ったが、園長先生が命懸けで扉の外に重い物でバリケードを築いてくれたから、入って来れない(出れもしないけど)。

 ガダン! と、更に何かが崩れる音がする。ギギィ、という床が軋む音。

 ――――う、そ。

 火事で崩れたのではない。間違いなく、扉の向こうに誰かがいる。……いや、何かかもしれない。
 此処で救援が来ると思えるほど、私は楽観的な人間ではない。目が見えず、足が動かない。それでも悲観的には成らないが、同時に油断は絶対にしない。油断をすれば、即座に車に撥ねられるかもしれない。其れほど、私は――――自分が満足に動けない事を知っている。

 十歳の癖に達観しすぎだろうか。でも、そうなってしまったのだ。何も無い私は、自分で自分を大人にするしかなかった。園長先生曰く『君の家は何時もそうだ』と言っていたから、きっと親の血に違いない。頭の良さも、外見も、才能の代価にも思える不幸も。

 そんな私だ。こんな時に、助けが来るとは思えない。ならば、何だろう。緊張し、身体を強張らせる私は、次なる音を捉えた。ガキャ、と何かが引っかかる音の後に。
 ゆっくりと、扉が開く音がした。




 最初に肌に感じ取ったのは、熱さ。
 吹き付ける熱気と共に姿を現した「それ」の熱だ。燃える廊下を抜け、序にゾンビ達も倒して来た。見えないけれども、きっとそんな感じがした。

 次に感じた物は、威圧感と圧迫感だ。
 思わず指を止めて、頭を上げてしまった私の前に、「それ」は静かにやって来た。静かに、と言うには語弊が有る。足音は重く、火災の焔は強く燃えているし、私は息苦しかったし、「それ」も不気味な呼吸音を響かせていたからだ。
 鈍い挙動。どことなく普通よりも、歩き方は鈍いし、バランスも悪そうだ。

 ズズ、と音を立てて目の前に来た「それ」は、大きかった。座る私の倍以上はあるのではないだろうか。天上に頭を擦りそうな巨体。野生の獣より、もっと獰猛で、もっと危ない、そんなイメージを私に伝えてきた。車よりももっと危険な存在なのだろう。直感的にそう思った。
 けれども、不思議な事に。

 ――――怖く、なかった。

 本当に不思議だ。
 私は、こんな身体だから、人を空気で判断できる才能を持っている。雰囲気や態度、話し方や口調。それらは内容よりも、より確実に私に、その人の内面を教えてくれる。見えないままの私が感じ取れる「それ」の情報は、今迄接触してきたあらゆる人間よりも、恐ろしいのに。
 なぜか、私は――――恐怖を感じなかった。

 「……あなた、は――――ッ」

 息を吸って言葉を発した瞬間に、ゴホゴホと噎せる。しまった。煙が既に部屋にも充満して来ていた。息苦しいし、熱気もかなりの物。よくも普通に今迄生きていた物だ。防音性が高い部屋だったからか。
 身体は弱くないが、劣る部分がある事も自覚している。

 「ゴ、ホ」

 ゲホゲホ、と咳が止まらない。鍵盤が、指が跳ねるとともに音を刻む。何とか普通の呼吸に戻ったのは、不協和音が、より強い焔の音で覆い隠された頃だ。
 その間、私の前にいるらしい『それ』は、静かに待っていた。混乱、困惑、躊躇。私を如何して良いのか、分からない。そんな空気だ。想像出来る外見とは余りにも違う行動に、何故か少し笑いそうになってしまった。実際は、息が苦しくて笑うどころではなかったが。

 「――――■■g、■ア」

 人の声ではない。むしろ獣の声だ。人間の形をしてはいるようだが、外見は随分と違うだろう。
 車椅子の上で身を低くして、煙から逃れる。何とか普通に話が出来る状態に成った私は――。
 私の前にいる『それ』に、声をかけてみた。
 どの道、逃げる事は出来ないのだし。

 「……あなたは、なんで、ここに来たの?」

 「――■■」

 返事は無い。無い……のではないか。きっと上手に言葉を話せないのだ。
 私の周囲には、耳が不自由だった子もいた。言葉を上手に話せない子もいた。そんな子達と交流していたから、なんとなく目の前にいる『それ』の状態も、把握できた。

 「……言葉が、上手に話せないのね。……ねえ、じゃあ、手をつないで下さらない?」

 目が見えていたら、怖がったかもしれない。でも仮定の話だ。見えない私に取って、外見など副次的な産物でしかない。相手がどんなに大きくても、どんなに変な形をしていても、人の心を持っている事は分かる。そして、持っているなら自分から手を差し出そう。
 そうやって私は、自分の世界を今迄築いてきたのだから。

 「――ゴ、■、■■ア」

 静かに前に差し伸べた掌に。
 ゆっくりと『それ』は、触ってくれた。
 固い骨と、分厚い皮膚。鋭い爪。その気になれば私の細い腕など、指の力だけで折れそうな、物を壊すことに特化したような掌だ。でも、私を壊そうとはしなかった。その事実が、やっぱりと私を納得させる。

 「あなたは、優しいのね」

 「■■、ヤ、z、■■……?」

 私の言葉に、『それ』はやっぱり惑うような反応をする。
 今迄、そんな言葉を告げて貰った事がないのかもしれない。だとしても、目の前にいる『それ』――いいや、『この人』は優しく、そして、とっても強いと思う。
 私は告げた。期待と感謝と、そしてほんの少しの打算に心を痛めながら。

 「ねえ。……もし良かったら――私を、運んで下さらない?」




     ●




 燃える建物の中では、女の子が“ぴあの”――黒と白の大きな楽器は、確かそんなような名前だった筈だ――を弾いていた。

 可愛い子だ。小柄で細い、昔の僕みたいな身体つきだけど、もっと健康そう。なんとなく仲間のような物を感じ取った。彼女は両目が閉じられていて、車椅子に乗って、そのまま曲を奏でていた。
 聞き覚えのある、でも何処で聞いたのかが思い出せない曲。昔、僕がまだ元気だった頃に聞いた気がする。そんな曲だ。彼女はそれを演奏している。両目を閉じれば目は見えない。見えない筈なのに、指を動かすと、とても綺麗な音が出る。

 「あなたは、優しいのね」

 静かに近寄って、その女の子と握手をすると、彼女はそんな事を言ってくれた。
 優しい。そんな言葉を言ってくれたのは、お姉ちゃん以来だ。不覚にも、感動してしまった。
 女の子は、目は見えないようだったけれど、きっと他の物で、僕を見てくれたのだろう。

 「ねえ。……もし良かったら――私を、運んで下さらない?」

 静かに微笑んで、そう言ってくれた。
 火が強い。僕はそんなに熱くないけれど、女の子は苦しそうだ。最初に入った時は咳をしたし、今も息苦しいのを我慢しているように思える。なんとなくその顔の中に、僕はお姉ちゃんに似た物を感じ取った。

 何処が、と言える訳ではない。なんとなく、どことなく、この子の顔を見た覚えが有った。
 だから僕は、良いよ、と言おうとして手を差し出して――。




 唐突に、白い煙が周囲を覆った。




 『彼』が見た眼で損をしている事は、言うまでもない事実だ。

 今回も、そうだった。
 燃え盛る建物の中。寂しく曲を鳴らす少女。そこに辿り着いた巨人――――しかも大橋で大暴れをした人類の敵。それらが揃っている状態で、まさか『彼』が少女を助けようと思っていると、誰が考える。誰が何処から見ても、今にも少女を殺そうとする、醜悪な怪物以外の何物でもない。

 同じ状況に成った先日。小室孝ら高校生の一団と、全く同じ認識を周囲に与えてしまった。『彼』は、その責が自分「にも」ある事を理解できていなかった。

 不運の連鎖だ。
 轟々と燃える炎は少女の細い声を消していた。

 そして、『憂国一心会』の一員・土井哲太郎は――――その強い正義感、少々強すぎる気もする正義感ゆえに、目の前の光景を見過ごす事が出来なかった。この場に、先程まで同乗していた会長がいれば、見捨てるべきだと叱責を受けたに違いない。
 少なくとも彼の行動は、『彼』を悪戯に刺激するだけの行動だ。だが、その光景を目にして、動いてしまったのだから、仕方がない。

 「……! させるか!」

 彼は、咄嗟に手近にあった、消火器を噴出させ、部屋に乗り込んだ。
 一瞬にして拡散した白い消火粉末。それは、部屋の中に充満し、視界と喉を覆い尽くす。無論『彼』には微々たるダメージだ。息苦しかった少女への被害の方が大きかったくらいだ。
 だが、視界は確実に塞がれた。闇夜を見通す『彼』の瞳は、赤外線をとらえる事が出来る。だが、燃え盛る建物の中だ。空気が熱せられた状態で、相手を容易く捉えられるはずもない。しかもその時、突然の消火剤に驚いて、素直に目元を覆ってしまった。暴君が行うとシュールだったが。

 初めから視界が塞がれることを覚悟していた土井と、目が見えない少女。彼女達に比較して、『彼』の立ち直りが若干遅れたのも無理が無い。 その隙に、土井は――少女を拾い上げていた。

 車椅子から抱え上げ、巨大だが動きは緩慢な『彼』の懐をすり抜ける。
 そして。

 「じゃあな、化物!」

 言葉と共に、置き土産を一つ、残して行った。




 目が見えない中。必死に手を伸ばしたら、目の前で女の子は攫われてしまった。

 顔や姿形は良く見えなかった。けど、黒い服を着た男の人だったと思う。その人は、素早く女の子を抱え上げて、『彼』の脇を抜けて、白い煙の中を逃げて行った。道中の死んだ人を始末していたから、きっと建物からは逃げられるだろう。
 鼻は余り利いていない。建物には、燃えやすい油の強い匂いが漂っていて、鋭敏な『彼』の嗅覚は機能を一旦停止していた。その尋常ではない身体能力故に、命に危険は無かったが――――嗅覚と赤外線の判断を奪う程度には、火災は激しかった。

 「…………」

 『彼』は、床を見る。男の人は、逃げる寸前に、何かを床に放り投げていった。それは、油紙に包装された塊で、その先端には燃えやすい糸が飛び出ていて、全体としては丸い棒の形だった。

 無論、その存在を『彼』が知っている筈もない。
 土井哲太郎が去り際、置き土産として投げて行ったのは――――高城邸に保管されていた一つの道具。
 いざとなったら体に巻きつけ、特攻し、亡者と共に果てる為の道具だった。

 『彼』の至近距離で、ダイナマイトは破裂した。




     ●




 エンジンを切った車で静かに瞑想をしていた高城壮一郎は、唐突に響いた爆発音に目を向けた。
 建物の奥、派手な音と共に一気に孤児院が崩れ落ちる。土井が、支給したダイナマイトを使ったらしい。

 音が聞こえると言って、彼は車から飛び出して行った。もう30を当に越えている年の癖に、無鉄砲さと熱血さと、勇気と履き違えた無謀さは変わっていない。この状況で助けに行って、それで戻って来れる確証は無い。最も、その勇敢さを――――壮一郎は買っていたのだが。
 立ち昇る煙と、音を立てて崩落していく館を見る。中にいた者は全滅だろう。音に惹かれて集まった死人も、火の中に突入して焼けている。集団火葬場だ。
 一瞬、目を閉じて、部下に車を出せと命令しようとした――その時だった。

 「お待たせして申し訳ありません! 会長!」

 ガチャリ、と扉を空けて、服に焦げ跡を付けた土井が、乗り込んで来た。

 「……生きていたか」

 「は。幸いにも死人の数が少なかったので」

 乗り込んで来た彼の腕には、一人の少女が抱き抱えられている。
 まあ、無謀が偶然、形を成す事もあるだろう。
 生きて帰って来た以上、叱ってやろう。そして人間を救って来た以上、その説教も後回しだ。

 「……その娘か」

 「はい。一人だけ生き延びておりました。……他の子供は、残念ながら」

 「そうか。――――む?」

 壮一郎は、後部座席に丁寧に座らされた少女を見る。
 足が細く、目が開いていない。確証は無いが、恐らく身体に障害を負っている。助けた土井の性根は買うが、はっきり言ってこの状況では足手纏いだ。此処で車から降ろすつもりは無いが――――自宅に運んで以降、面倒を見る事は出来るまい。
 自分の感傷を入れず、純然たる事実のみで、そう判断した。

 「……君は」

 だが、それとは別に。

 「何処かで、会った事が有るか?」

 その娘を、知っているような気がした。

 「会長。車を出します」

 「……ああ」

 考えるのを一回止める。ともあれ今は、周囲を見回っておかなければならない。テレビで放映されたあの『怪物』が近くにいる可能性も十分にあるのだ。腕に自信が有る高城壮一郎と言えど、流石に相手にするのは遠慮したかった。

 黒塗りの車は発進する。背後に燃える孤児院から助け出された、一人の少女を乗客に加えて。

 この時、土井は間違いを犯していた。土井は『何故ダイナマイトを使用したのか』を、直ぐに説明しなかった。
 高城壮一郎は、少女に気を取られ、理由を尋ねる事を失念してしまった。

 仮に説明していれば、高城壮一郎は、間違いなく二人を車に乗せる事はしなかっただろう。二人の命運は尽きていた。だが、様々な理由が重なった結果、土井は『たった今、孤児院の中で、巨人のような怪物と出会った』情報を伝えそびれてしまい、高城は尋ね損ねてしまった。

 どんな人間も完全ではない。必ずミスはある。その一回のミスが、偶然、今回だったと言うだけの話。
 二日後。土井は、再度の蛮勇を奮って失敗。死人に噛まれて連中の仲間入りを果たすこととなる。




 幾つもの偶然が重なった結果。
 少女・七崎永海は――――高城邸にその身を移された。




     ●




 孤児院全焼と、崩落から、一時間。

 「■■■、ア、ガ、■■■g、――ッ!!」

 名状し難い咆哮と共に残骸を払いのけ、焼け跡から『彼』は姿を現した。

 蒸し焼きにされた皮膚は、煤と炭、彼自身の体液で斑模様を構成している。ケロイド状の肌は、今迄以上に見る物に嫌悪感を与えるだろう。そのうち治るとはいえ、余り良い気分ではない。
 別に体に異常は無い。ダイナマイトの爆発と衝撃も回復済みだ。焼けた《奴ら》の何体かは、既に胃の中に納まってしまっている。

 その動きは呪い。身体よりも、心が、何か痛みを発していた。
 頭の中に、少女を掠め取って行った男の言葉が、繰り返されていた。

 『じゃあな、“化物”!』




 幼い『彼』が生まれて初めて受ける、侮蔑の言葉だった。




     ●




 その頃。

 「ねえ、みんな。これは、冗談でも何でもない。本気で、真面目な、話なんだけれど」

 高城沙耶は、河を渡りきる、その前に――――ハンヴィーの中の、皆へと話しかけた。
 小室、宮本、毒島、平野、鞠川、そして希里親子と、子犬。その七人と一体の視線を受けながら、彼女は静かに、そして悲しく張り詰めた様な表情で、言った。




 「もしも、あの怪物に――まともな、人間としての思考回路と、理性が有るかもしれないと言ったら、……どうする?」
















 お待たせしました。
 ネメシス無双は次回にご期待下さい。

 今回は、少女がメインです。ゾンビ世界では足手纏い以外の何物でもない、盲目で車椅子のヒロイン。でも、彼女は主人公がハッピーエンドを迎える為に、絶対に必要な存在。詳しくは次回以降。
 そして、かなりはっきりと正面から化物呼ばわりされる主人公。さあ、ここから「人格」と「心」にダメージが積み重なっていきます。人を傷つける一番の物が、人の悪意であると学ぶまでもう少し。
 小室達に、なんか良い感じのフラグが立っていますが、「持ち上げて落とす」も物語の鉄則でしょう。誰かがもう直に噛まれますし。……まあ、お楽しみに。

 ではまた次回。
 なるべく早くお届けしたいです。


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